角川e文庫
唇に微笑心に拳銃 前編
[#地から2字上げ]大藪春彦
目 次
魔性の瞳
出 社
表の顔
素顔の片鱗
小手調べ
腕だめし
盗 聴
誘 惑
山荘の夜
|眩《まばゆ》い陽光
密 談
出張セールス
弾 頭
実 験
決 行
ひそやかな乾杯
待 つ
処 理
後始末
待ち伏せ
脅 迫
魔性の瞳
南の海は荒れ狂っていた。
灰色の|牙《きば》を|剥《む》いた|猛《たけ》|々《だけ》しい波の高さは十メーターに近く、豪雨をともなった強風は刻々と向きを変えた。
|飛《ひ》|沫《まつ》に包まれた四十五フィートの真っ白な外洋クルーザーが、地獄のような波の谷間に|叩《たた》きつけられては、再び波の頂上に持ちあげられ、文字通り、木の葉のように|翻《ほん》|弄《ろう》されていた。
潮と雨で|濡《ぬ》れた小さなストーム・ジブやリーフして縮めたメインスルは、今にも|千《ち》|切《ぎ》れそうになり、張りつめられたハリヤードと共に無気味な|唸《うな》りをあげている。マストは折れそうに|歪《ゆが》み、|艇体《ハル》は今にも分解しそうだ。
春とはいえ、小笠原諸島をはるかあとにし、八丈をかわして日本本土に近づいてくる今、骨も凍るほどの寒さであった。
そのクルーザーの名は“ニンフ二世”といった。クルーたちは、ただ一人を残して|船室《キャビン》のなかに逃げこんでいた。
風雨にさらされるコックピットでは、救命ベルトをつけた二十九歳の若林誠が、大自然の猛威と闘っていた。
スーツ式の救命衣をつけていても、波と雨は容赦なく|襟《えり》や|袖《そで》などから体に流れこんでくる。重い|舵柄《テイラー》を握る指の内側は、|蝋《ろう》のように白くなっていた。
クルー・カットにした柔らかな髪から、しずくが垂れ落ちている。陽焼けした顔は|蒼《あお》ざめている。
弱さと|脆《もろ》さと頼りなさを感じさせるほど、若々しくハンサムな顔であった。
しかし、奥深い|瞳《ひとみ》には、少々の苦難にはたじろぎそうもない、不屈の光りが宿っていた。ビロードのような|眉《まゆ》や、濃く長い|睫《まつげ》に水玉が鈍く光る。
大きく傾くクルーザーが横波に叩きつけられないように、片手で|舵《かじ》と帆を操りながら、若林は片手のバケツで、コックピットにたまってくる水をかいだす。
風向きが突然変り、ジャイブした|帆桁《ブ ー ム》が若林の頭をかすめると半回転した。バケツを放りだした若林は、素早くロープを|調節《シ ー ト》する。
もう、五十時間近くに|亘《わた》って、若林は一睡もせずに、このコックピットで一人で|頑《がん》|張《ば》っているのだ。
海が荒れはじめたのは八十時間ほど前からであった。
はじめは|嵐《あらし》と闘う気力と体力を持っていた四人の大学生のクルーは、三十時間ほどでスタミナが尽き、今は吐くものも胃になくなって、キャビンの中で死人同然となり、艇の激しい動揺ごとに、壁や|戸《と》|棚《だな》などに叩きつけられている。
だが、大学がスト中で、帰港がのびても一向に構わぬ彼等とちがって、サラリーマンである若林は、一刻も早く|小《こ》|網《あ》|代《じろ》のフリートに|戻《もど》らねばならなかった。
去年からためて作った二十日の有給休暇と、給料から引かれるのを覚悟でもらった五日の、合計二十五日の休みの期間は、あと二日で切れるからだ。
小笠原父島で、クルーザーの回送を若林たちに任せて下艇し、チャーターした軽飛行機でグアム島空港に廻り、日航機でさっさと帰国してしまった、|持ち主《オーナー》の杉山にも、この春嵐の|辛《つら》さを味わわせてやりたい。
杉山は、かつて都内の七、八か所に映画館を持っていて、映画が不振になるとさっさとそれをボーリング場に切り替えて荒|稼《かせ》ぎをしている男だ。
ヨットは豪華車とちがって、税務署に目をつけられることがないし、材料費と造船所の人件費が年々値上がりするために、中古になっても造ったときの値段より大して値引きせずに売れるので、趣味と実益を兼ねて、五年前からヨット・オーナーになったのだ。
若林が杉山のヨットのクルーになったのは、杉山がヨットの専門誌に出した、クルー募集の広告を見てからであった。三年前のことだ。
その広告には、交通費を支給し、小網代にある別荘も、杉山が使わないときにはクルーが使ってもいい、と書かれてあった。
若林は、高校と大学時代にヨットの経験があった。だから、杉山のクルーの一人として採用してもらい、彼のクルーザーや別荘を、マンモス・バーやボーリング場などで知りあった女たちと寝る舞台に、こっそりと使わせてもらっていた……。
今度の小笠原往復の、クルージングは、杉山の計画では、平均時速二ノットとしても、行きに十日、父島での遊びと休養に五日、それに帰りの十日の二十五日を使えばたっぷり余裕がある|筈《はず》であった。
だが、現実は計算通りにいかず、小笠原父島へあと二百キロというところで、五日にわたって無風状態が続いた上、予備を用意してこなかったディーゼル・エンジンのクランク・シャフトが折れてしまって、機走も出来ずに漂ったのだ。
エンジンは父島で直したが、皮肉なことに帰路につくと追っ手の順風が吹きまくり、スピンネーカーに風をはらんだクルーザーは、十ノット近いフル・スピードで本州に向った。だが、その順風は、やがて嵐に変ったわけだ。
高波に持ちあげられたクルーザーが波の谷間に引きずりおろされるときは、故障して墜落するエレヴェーターにでもしがみついているときのような気分であった。
胃のなかに、固いしこりが出来て解けない。だが若林は、体力を|保《も》たせるために、背後にあってとっくに氷が無くなったアイス・ボックスからクジラの|大和《 やまと》煮の一ポンド|罐《かん》を取りだした。
罐を|膝《ひざ》にはさみ、|錆《さ》びてきたシーナイフを突きたてて、一気に|蓋《ふた》を切り開いた。
手づかみで大和煮を口に押しこみ、無理やりに胃に送りこむ。お茶のかわりに、犬のように舌を突きだして雨水を受けた。
そうしながらも、視線を三方に配っている。暗礁や浮き島にぶつからないように、深い|海《かい》|溝《こう》にクルーザーを廻してあるから、見張りをするにも、だいぶ気楽だが、流木には気をつけねばならない。貨物船から転げ落ちた大木などがぶつかってきたら、クルーザーは一たまりもない。
嵐がおさまりはじめたのは、その日の夕方近くなってからであった。
三本の命綱で艇尾のパルピットに体を縛った若林は、艇尾から|尻《しり》を突きだして腸を軽くし、さらに頑張り続ける。
夜になった。風と雨はやみ、星がきらめく。ただ、うねりだけは|凄《すさ》まじい。そんなうねりを、まともに横から受けると、重いバラスト・キールをつけたクルーザーとて、横転はまぬがれない。もっとも、横転しても、復元はするだろうが。
レモンを|噛《かじ》りながら、若林はまだ頑張り続けた。体温で乾いた潮水が、|眉《まゆ》や|不精髭《ぶしょうひげ》の上で結晶となる。
眠らないことには慣れてはいるが、若林は自分の体力が限界に近づいてきているのを知っていた。
徹夜に慣れているのは、高校時代には二十四時間営業の二輪車のチューン・アップ・ショップ、大学時代は陸送屋のアルバイトをして稼いだからだ。
だが、夜が|更《ふ》けてくると、体の筋肉は痛みを通りこして硬直してきた。ときどき、黒々とした浮き島が目の前に迫ってくる幻覚を見る。
その若林が、ついにうとうとしはじめたのは、うねりがかなり弱まってきた午前五時頃であった。うとうとしながらも、握っている|舵柄《テイラー》を無意識のうちに動かす。
顔に当る|朝《あさ》|陽《ひ》で若林は目を覚ました。うねりは、三メーターほどの高さに衰えている。硬直した体は、しばらくのあいだは動かそうとしても動けなかった。
やっと立ち上がった若林は、救命ベルトを外し、船室のハッチを開く。|嘔《おう》|吐《と》物と、マリーン・トイレから逆流した汚物の|臭《にお》いで、若林の口に黄水がこみあげてきた。
船室は、波で砕かれたガラス窓からの浸水をくいとめるために、窓にベニアの盲板を打ちつけてあった。
その薄暗い船室のなかのあらゆる品物は転がり、四人の大学生は、中央部の左右のメイン・バースにはさまった、水びたしの木の床に重なるようにしてのびていた。
若林は口のなかにたまった黄水を、勢いよく海に吐いた。
「起きろ。もう大丈夫だ。替ってくれ」
と、うしろにのばした右足でティラーを動かしながら言う。
「済みません……申しわけない……胃がひっくりかえってしまったようになって……」
大学生たちは、|呻《うめ》きながら上体を起した。みんな打撲傷を負っているらしく、体を動かすごとに小さな悲鳴を漏らす。
やっとコックピットに出てきた島田という学生に舵を替ってもらい、若林は|濡《ぬ》れきった救命衣やデニムの服やゴム・ズボンなどを脱いだ。
しみ通った雨水と潮水で下着もずぶ濡れだ。若林は素っ裸になった。
服をつけているときからは、絶対に想像も出来ないほどたくましい体格であった。|臍《へそ》からつながったジャングルのあたりの女殺しの凶器も、怪奇なほど|節《ふし》くれだって堂々としている。
キャビンに入った若林は、エンジン・ルームの横の狭いキャンヴァス・バースにもぐりこんだ。毛布をかぶると、たちまち死のような眠りに入る。
クルーザーが|油壷《あぶらつぼ》の隣りの小網代の港に近づいたのは、夜が更けてからであった。ふらふらしながらも、学生たちはキャビンを掃除していた。
若林は、十数時間のぶっ続けの眠りで体力を回復していた。濡れかたが一番少ない、ウールのスウェーターとズボンをつける。
入り口の魚網を避けてクルーザーが港に入ると、無電で連絡をとってあったオーナーの杉山が船外機エンジン付きのボートで迎えに来た。
クルーザーが所定の位置に|錨《いかり》を降ろすと、杉山はクルーたちに見向きもせずに、携帯用サーチ・ライトで自分の財産の損害程度を調べる。
杉山の別荘は、港の南側にあって、テラスから突きだしたボート用の|桟《さん》|橋《ばし》が海にのびていた。
半時間ほどかかってクルーザーの甲板を水洗いしたり、私物をまとめたりした若林たちは、テンダー・ボートをこいだり、杉山のモーター・ボートに乗せてもらったりして別荘に移った。
別荘の前の入江は浅く、泳げない者でも|溺《おぼ》れないようになっている。桟橋から背後に丘を控えた二階建ての|瀟洒《しょうしゃ》な建物に入ると、杉山の三号目の女の|知《とも》|子《こ》が、酒の用意をしていた。
髪を腰のあたりまで垂らした、好色そうな顔付きの女だ。体のほうも|熟《う》れきっていそうだ。杉山が経営しているボーリング場の一軒で働いていたのを、杉山が囲って青山のマンションに住まわせている。
「まあ、ともかく、船が無事でよかった。あの程度の壊れかたなら、どうってことはない。みんな、今夜はここで泊っていけよ」
杉山は言った。五十二、三の、小柄だが|精《せい》|悍《かん》な感じの男だ。目付きに、成りあがりもの特有の|傲《ごう》|慢《まん》さがある。
「みんな、ゆっくりしていけよ。|俺《おれ》は明日から、また仕事だから……明日と言っても、もう今日になってしまったが――」
若林はクルーたちに言い、
「済みません。シャワーを使わせていただけますか?」
と杉山に言う。
「ああ、いいとも」
氷の入ったグラスにオールド・パーのスコッチを知子から注がれながら杉山は言った。クルーたちにも同じ|壜《びん》から注ごうとする知子を、
「|勿《もっ》|体《たい》ない。若い者には国産で上等だ」
と、|叱《しか》る。
若林はサロンの横にあるバス・ルームに入った。潮気でねばねばする髪や体をよく洗った。それから、|火傷《 やけど》しそうに熱い湯と冷水を交互に浴びて身を引きしめる。
若林は、別荘とクルーザーの|合《あい》|鍵《かぎ》を作って持っている。杉山が留守のとき、この別荘に連れこんだ女たちのことを想いだす。この浴室でもよくふざけたものだ。
遊んだ女たちに、若林は決して本名を名乗らなかったし、住所も教えなかった。この別荘やクルーザーが自分のもののように女たちには言ってあった……。
浴室から出た若林の皮膚は|冴《さ》えて、青春が|匂《にお》うようであった。知子が触れなば落ちんといった|風《ふ》|情《ぜい》で、
「軽くいかが?」
と、声を掛ける。
「じゃあ、ちょっとだけ」
若林はテーブルについた。
「君は、まあ、船を無事に運んでくれた責任者だから、スコッチを|奢《おご》ってやろう」
早いピッチでグラスを|空《あ》けていた杉山が、舌がもつれかかった声で言った。
「どうも……」
若林は、表面は謙虚な笑いを浮かべた。
スコッチを若林のグラスに注ぎながら、知子は、食べてしまいたい、といいたげな眼付きで若林を見つめた。
若林は濃く長い|睫《まつげ》を伏せて、気弱そうな微笑を浮かべていた。グラスが満たされると、不意に深い憂いを含んでいるかのような瞳を挙げて知子を見つめ返す。
女の子宮と母性にもろに訴えるたぐいの視線であった。知子は思わず壜を落しそうになってから、壜を若林の前に置いて、自分の席に戻る。
若林は、ダブルより多く入ったオン・ザ・ロックスをひと息に飲んだ。二杯目を注ぎ、今度は落ち着いて飲む。
久しぶりのアルコールなので、珍しく胃が熱くなってきた。それと共に、まだ少し残っていた胃のしこりがほぐれてくる。
三杯目のグラスに口をつけた頃から、若林は猛然と食欲が出てきた。ロースト・ビーフや鶏の丸焼きをむさぼり食う。
学生クルーたちも、杉山も、かなり酔ってきていた。クルーたちはそれぞれが、若林を盗み見ながら、シケのなかで、自分だけはしっかりしていた、とホラを吹きあう。
そして杉山は、暴風雨が“ニンフ二世”の帰路のコースを直撃したと気象ニュースで聞いたときには、二千万の財産が海の|藻《も》|屑《くず》と消えるのかとヤケ酒を飲んだが、あの嵐を乗り越えて|還《かえ》ってきたのは、やはり金をかけた船だけある……と、言っていたが、
「どうだ、みんな。この知子をどう思う? いい女だろう? 俺に|惚《ほ》れきってやがってな。激しくて激しくてかなわんよ。今夜はみんな、耳に|栓《せん》をして寝ろよ」
と、笑う。
クルーたちを今夜この別荘に泊めるのは、普通の遊びの刺激に飽きた杉山が、クルーたちに|覗《のぞ》き|見《み》させながら、知子を味わおうとしているのであろう。
長いクルーザーの禁欲生活で暴発点に近づいている学生クルーたちは、ギラギラした視線で知子を|撫《な》でまわし、活字には出来ぬ言葉を口走った。
「そういうわけだ。お前たちも、こんな|蜜《みつ》|壷《つぼ》のようないい女を手に入れようと思ったら、俺のように稼いで、億と名がつく|金《かね》を手に入れることだな」
杉山はだらしない笑いを浮かべた。
「あんた、やめてよ」
知子は杉山の|腿《もも》をつねった。
杉山はその知子を引き寄せ、スカートの奥に手を突っこんだ。
「どうだ、みんな? こいつに絞められたら、お前ら若造は三十秒と|保《も》たないぜ。ところが俺は、朝までこいつをのたうたせるんだ」
と、パンティを引き降ろしにかかる。
若林は立ち上がった。背を真っすぐにすると、一メーター八十の長身だ。
「じゃあ、みなさん。僕はこれで……」
と、現世を超然として見えるほどの|爽《さわ》やかな笑顔を見せる。
出 社
杉山の別荘を出て波打ち際の岩の上を若林が歩くと、無数のアカテガニが逃げまどった。左手のフリートにはクルーザーの群れの影が揺れ、対岸のシーボニア・ハーバーのクラブ・ハウスの灯が意外な近さに見える。
若林は、丘の上に向けて、急な斜面の細道を軽々と足を運んだ。永いあいだヨットの狭いコックピットで過ごしたのに、|膝《ひざ》のバネは弱っていない。
新緑の雑木林を抜け、丘の上に立つと、柔らかな風が髪や|頬《ほお》をなぶった。
|畠《はたけ》を|潰《つぶ》して作った車置き場には、杉山の白いポンティアックGTOがボディ・パネルやメッキを光らせていた。
その横に、傷だらけで|錆《さび》だらけの若林のスズキ・フロンテ三六〇があった。外から見て、ちょっと普通のとちがっているのは、太いラディアル・タイアだけだ。タイアだけには傷がない。ソーセージ型の排気膨張管は、後部のエンジン・フードのなかに隠れ、細くすぼまった三本の排気管の先端部だけが|覗《のぞ》いている。
前窓ガラスに積もった|土埃《つちぼこり》をチリ紙で|拭《ぬぐ》った若林は、バケット・シートに坐りこんで、エンジン・スウィッチにキーを入れる。
スウィッチをオンにすると、電磁式燃料ポンプがごく薄い混合油を三個のデルオルト・キャブに送りこむ音が聞える。
アクセルを二、三度深く踏んでから放し、クラッチを踏んでミッションの抵抗をとってやってから、若林はスターターを廻した。
五秒ほどスターターを廻すと、爆発音に近い音をたててエンジンが掛かった。はじめの爆発音が消えると、二サイクルのハイ・チューン・エンジン独特のヒューンという排気音に変った。
スモール・ライトをつけると、ダッシュ・ボードの下に隠すようにしたタコ・メーターの針が二千回転のあたりで震えているのが見える。その横には水温計もついていた。
|崖《がけ》から真っさかさまに転落したポンコツを五万円で買ってきて、ファクトリー・チューンのやつのように三気筒空冷エンジンを水冷式に自分で改造したのだ。
給油方式も、分離給油と、ごく薄い混合油の併用にしてある。無論、ミッションやクラッチやサスペンションなども強化してある。車重は四百キロを切った。
タバコを一本灰にしてから、三点式ベルトを締めた若林はスタートさせた。九千回転で五十馬力以上を出すようにしてあるにかかわらず、四千五百回転以上から有効なトルクが出る。
夏になると熟れきったスイカが転がる畠のなかの道を抜け、|三《み》|戸《と》|浜《はま》のバス停のあたりに出た若林の車は、やがて曲りくねった三浦半島の山道をフル・スロットルで飛ばした。ギアの選択と|逆ハンドル《カウンター・ステア》で、きついコーナーも楽々と廻っていく。
疲労は完全に消えていた。まだまだ、俺の体力は黄金時代を維持している……と、若林はニヤリと笑った。
若林は長野の|伊《い》|那《な》の農家の出身だ。山国である若林の故郷の村は畠が狭く、村人は|樵《きこり》や炭焼きなどの山仕事や狩猟で主な生計を立てていた。
小学生になった若林は、十キロも離れた隣りの村にある分教場への行き帰りに、祖父から借りた黒色火薬と|真鍮薬莢《しんちゅうやっきょう》を使用する三十二番の単発銃でヤマドリやキジや池のカモやウサギなどを|射《う》って、家族のオカズを作るようになった。赤犬を連れてだ。
駐在所など無い村だから、銃刀法も狩猟法も関係なかった。
ともかく、外したら一家の|蛋《たん》|白《ぱく》源が不足するから、若林は必死であった。必死なだけに上達も早く、自分の背丈より長い旧式村田銃を、自分の体の一部のように意思のままに操ることが出来るまでには三年もかからなかった。それに、弾薬代の問題もあったから、滅多なことでは外すわけにはいかなかった。
カモの沖射ちなどのときには一日五百発もブッ放す都会のハンターとちがって、山村の猟師にとっては、一発一発が貴重なのだ。
無論、弾薬代とはいっても、雷管はカンシャク玉で代用出来るし、真鍮薬莢は|味《み》|噌《そ》汁で煮て錆を落せば半永久的に使える。
散弾にしても、鉛の板を切って板で丸めて作るし、黒色火薬は硝石七割五分、|硫《い》|黄《おう》一割、それに木炭の粉一割五分を混ぜると作れる。コロス―毛塞―は新聞紙で代用出来た。
だから、一発の単価は市販の無煙火薬の装弾の五分の一もかからなかった。それでいて、一発一発がひどく貴重だということは、若林が生まれた村が、いかに現金収入にとぼしかったか想像出来るだろう。
若林は二人兄弟の弟であった。父は伐採の作業中に杉の木の下敷きになって背骨を砕かれ、ほとんど寝たきりの毎日であった。
だから、母と若林より三歳年上の兄が畠仕事をし、腰が曲ってしまった祖父が炭を焼き、若林が猟をしたり|岩《いわ》|魚《な》を捕えたりして生きてきたわけだ。
小学三年になってから、若林ははじめて飛びたちのキジを射った。それまでは、タマを|無《む》|駄《だ》にしないために、木の枝にとまっていたり、ボサの下にすくんでいたり、あるいは|這《は》って逃げる|獲《え》|物《もの》だけを|狙《ねら》っていたのだが、その日のキジはあまりにも射ちやすい飛びかたをしたからだ。
偶然のせいか、おびただしい黒煙が薄れたとき、そのキジは羽毛を散らして落ちていた。若林はその日から飛鳥射ちに夢中になった。
無論、飛鳥は一発必中というわけにはいかなかった。
そのかわり、|揚《あ》げ|鳥《どり》や|竦《すく》み|鳥《どり》と比較にならぬほど発砲のチャンスは増えた。
はじめの頃は、三発に一羽の割りでしか落せなかった。何しろ、三十六インチの長銃身の村田銃は小学生の若林が軽々と振りまわすには重荷であった。
しかし、弾薬代のことで文句を言い続けていた父も、若林が小学五年生になり、普通の大人に近い背丈になって、飛鳥を狙って九割の打率を示すようになると、文句をつけるどころか、町からやってくるブローカーに余った獲物を売りはじめた。
中学の分教場に若林が進学した頃、父は死に、ずっと若林が使っていた赤犬は老いぼれた。
だが若林は、獲物を売った金でセッターと|甲《か》|斐《い》犬の雑種のよく働く犬を買っただけでなく、通学用のバイクを買ったほど猟で稼いだ。
無免許ではあったが、そのバイクに側車をつけて、祖父が焼いた炭を町に売りに行くのにも使った。仲買人に炭を渡すより、町の人間に直接売ったほうが、はるかに金になる。獲物にしてもそうであった。
中学二年になった若林は、鳥やウサギやリスやテンやキツネやタヌキなどの小物に百発百中になった腕を見こまれて、村の大人たちの大物猟隊への加入を許された。
若林の村の大物猟隊は若林に輪をかけた無法者ぞろいであった。毛皮の質が悪くて高く売れないから、夏だけは猟をやらなかったが、あとは法で定められた猟期など無視して、保護獣になっているカモシカや|牝《めす》|鹿《しか》まで|獲《と》りまくった。
一回の出猟に最低一週間はかけ、野宿しながら彼等以外には|誰《だれ》も入ってこない深山で獣を追うのだから、法律など|怖《こわ》くないわけだ。
彼等との最初の共猟で春の|出《で》|熊《ぐま》を雪が溶けかけた山に追ったときには――、左右の指に予備の弾薬を二発ずつはさんで、単発の村田銃を自動銃のように連射出来るようになっていた若林とて、恐怖を覚えなかったわけではなかった。
しかし、五日の追跡のあと、待ち伏せていた百五十キロの月の輪グマが|咆《ほう》|哮《こう》と共に立ち上がって襲いかかってこようとするのに出くわしたとき、無意識のうちにブッ放した五発の丸ダマが全部命中して、そいつの首から上を|綺《き》|麗《れい》に吹っとばしてしまったことが若林に自信を植えつけた。
それからの若林は大グマに対しても、ただの一発で勝負をつけるようになった。クマの胃、すなわち|胆《たん》|嚢《のう》の陰干ししたやつは、昔から|金《きん》と同じ値で売れるし、毛皮の値も馬鹿にならない。
したがって、大物猟隊は鉄砲を鳴らすと必ず獲物を倒す若林を大事にした。
中学を卒業した若林は職業猟師として生きることにした。高校に進学することは断念して、もっぱら銃で稼いだ。村の小娘たちは、若林に夢中であった。
その若林の運命が思いもかけぬ方角に向っていったのは、中学を卒業した年の冬に、東京から金持ちのハンターが村を訪れたことによってであった。
そのハンターの名は森越といった。品川で大きな自動車修理工場を経営していた。森越は若林たちの猟隊に大金を払って加入させてもらい、三十年の猟歴のうちではじめての、鹿を三頭一日で仕止める、という猟果をあげた。
夢中になった森越は、仕事を放っぽりだして、若林たちの村を毎週のように訪れるようになった。
森越が派手にばらまく札束を目当てに、猟隊は森越の|待場《タ ツ マ》にクマやイノシシや鹿を廻してやり、森越が外すと、森越の二発目の銃声にかぶせるようにして若林が射って獲物を倒し、さも森越が倒したように見せかけてご|機《き》|嫌《げん》をうかがった。
しかし、森越も馬鹿ではなかった。だから翌年の春の猟期が終ったとき、若林の祖父と母に百万円の仕度金を積んで、若林を東京の自宅に連れて帰った。
森越の狙いは、各地の猟場に荷背負いという名目で若林を連れていき、自分が外した獲物をひそかに若林に倒させて、さも自分が名射手であるかのように振るまいたい、ということであった。
若林が十八歳に達したら、四輪の自動車の免許をとらせて、自分の運転手としても使おう、という気もあった。
その森越が金を出してくれて、若林は品川にある夜間高校に入った。森越は猟期外の趣味としてヨットのクルージングの趣味を持っていたから、若林は森越を通じて、ヨットを覚えたのだ。
上京してから二年間は楽しかった。しかし、森越が狩猟とヨットに血道をあげている間に会社は乗っ取られてしまい、森越の家から出る羽目になった若林の運命のコースは再び大きく変った……。
第三京浜を金切り声をあげて百四十キロ平均で走った若林の軽四輪は、多摩堤通りのガタガタ道を飛ばし、左折して、北多摩郡に当る|狛《こま》|江《え》町に入る。
そのあたりまでくると、人家は少なくなり、雑木林や|溜《ため》|池《いけ》が残っている。若林は、|宿河原《しゅくがわら》の湿地帯に近い、崩れかけの|土《ど》|塀《べい》の破れかけの|樫《かし》の門を持った四十坪ほどの敷地の家の前で一度車を|停《と》めた。
ガタガタの門を開き、雑草だらけの庭のなかに車を突っこむ。わずか十二、三坪ほどの建物も、ひどいあばら家だ。
借家であった。持ち主は都心のマンションに住んでいる。若林がそこを借りたのは、家賃が安いためと、まわりの人家からかなり離れているためだ。そのかわり、暖かくなると、湿地から襲ってくる|藪《やぶ》|蚊《か》に悩まされる。
門を閉じた若林は、自分で作った木の|扉《とびら》のガレージに、スズキ三六〇の改造車を仕舞った。棚には、使い古した工具が一杯に並んでいる。
ガレージの地下には、ガソリンやオイルのドラム|罐《かん》が埋めてある。左側の壁に寄せて、ホンダCL九〇のモトクロッサーが立ててあった。
ガレージを出た若林は、家のなかに入った。狭い台所と|風《ふ》|呂《ろ》場、それに六畳の居間と十二畳ほどの洋式の寝室だけだ。
寝室の三分の一ほどは、工作机や工具棚が占領している。ベッドは大きいが粗末だ。そして、ベッドの足|許《もと》のほうに、耐火ガラスの|覗《のぞ》き窓がついた銃ロッカーがあった。
そのなかには、正規の許可をもらった五丁の猟銃が入っていた。二丁は散弾銃、三丁はライフルだ。
寝室で素っ裸になった若林は、色|褪《あ》せた腰の下まであるスポーツ・シャツをつけた。台所に入り、冷蔵庫から冷やしたウオツカの|壜《びん》を取りだし、鼻をつまんで壜の五分の一ほどをラッパ飲みする。
寝室に戻り、目覚し時計を午前七時半に合わせてからベッドにもぐりこむ。電灯を消す。
じっと|瞼《まぶた》を閉じていると、鈍い酔いが眠気を誘った。若林は脈打ってきた男根を|弄《もてあそ》びはじめたが、幻想のセックスを終えることなく、眠りの国に引きずりこまれる。
夜が明けた。目覚しに起された若林は、手早く|髭《ひげ》を|剃《そ》り、冷水摩擦をすると、ワイシャツに地味なネクタイをつけた。背広も地味な灰色のやつをつけ、歩いて小田急和泉多摩川駅に向う。
駅で電車を待つあいだに、売店で牛乳とドーナッツを買って胃におさめる。朝刊を買って、満員電車に無理やりに乗りこむ。
乗客のほとんどは、若林と同じサラリーマンであった。出勤の途中で、みんなくたびれきった表情をしている。押しつぶされそうになって悲鳴をあげるサラリー・ガールもいる。
皆よりも抜きんでて背が高い若林は、細長くたたんだ朝刊に目を通した。
成城学園で急行に乗り換える。混み具合はさらに激しく、さすがの若林も新聞を読むどころではなかった。
だから、若林は、新宿までの時間を利用して、いつものように腰のバネを失わせないための鍛練をした。つまり、電車がカーヴで大きく横に揺れるごとに倒れてくる乗客たちの体重を腰の力ではじき返すのだ。
|渾《こん》|身《しん》の力をこめて十数人の体重の圧力に耐えると、若林は首の筋肉までふくれあがり、顔は紅潮する。
新宿でおびただしい人波と共に吐きだされた若林は、西口広場を横切って、副都心、ビジネス・センター計画地のほうに歩く。
今は中央公園になっている、淀橋浄水場跡のビル街予定地との境いの広い新道の手前に、生命保険の大会社のビルが並んでいる。
その奥に、東洋ニュー・ハウスというネオン塔が立った七階建てのビルがある。
屋上には、数軒の|洒《しゃ》|落《れ》たプレハブの家屋が展示されてあった。
東洋ニュー・ハウスは、鉄と非鉄金属の両方を作っている東洋全金属の子会社だ。
プレハブ住宅、すなわち東洋全金属の工場で作った建物の各部を住宅現場に運んで組み立てれば建ちあがるプレ・ファブリケーティッド・ハウスを売っているのが東洋ニュー・ハウスだ。
東洋全金属がプレハブ業界に進出した理由は、多角経営ということもあるが、自分のところの子会社の東洋鉄工や東洋軽金属や東洋電機の、鉄骨やアルミ・サッシや電気製品を、プレハブ住宅にふんだんに使わせて、それらの製品を卸し値ではなく小売値で売って利益をあげることにあった。
若林は、東洋ニュー・ハウスの営業第二課員……個人客用のプレハブ住宅のセールスマンだ。固定給だが、売りあげにしたがってボーナスがちがってくる。
表の顔
営業第二課の部屋はビルの三階にある。
エレヴェーターを使わずに階段を歩いてその部屋に入った若林誠は、前着していた数人の同僚に、にこやかに|挨《あい》|拶《さつ》した。
三階のほとんど全部を使った広い部屋だ。壁に|貼《は》られた大きなグラフ用紙に、各課員の営業成績が書きこまれている。
四十数人いる課員のなかで、若林は今年度にはいってから、ほとんどの月の成績がベスト|三《スリー》内にあるが、先月の成績がガクンと落ちこんでいるのは、その月の大半を休んでクルージングで過ごしたからだ。今月の成績グラフは、まだ書きこまれていない。
「どうだった、海は?」
松井という男が声を掛けてきた。
「まあ、久しぶりにのんびり出来たよ。でも、ぼけてしまって、しばらくは仕事が手につきそうにない。すっかり怠けグセがついてしまったらしい」
若林は答えて、自分のデスクについた。|鍵《かぎ》で|抽《ひき》|出《だ》しの鍵を解いて、顧客名簿を出す。小さな机だが、営業課員と名はついても実質はセールスマンである若林たちは、ほとんどの仕事をオフィス外でするから、大きな机は必要ない。
「君が骨休みしている間に、君が|口《く》|説《ど》いてた客のうちの四件ほどと契約にこぎつけた。悪く思うなよ」
斎藤という年かさの男が、得意そうな表情で言った。
「それはお芽でとう。リベートをもらいたいところですな」
若林は邪気のない表情で言った。
「勘弁してくれよ。こっちは君とちがって家族持ちなんだから」
斎藤は言った。
若林は、すでに契約済みになった家に押しかける愚を避けるために、一応、どことどこが話がまとまったかを斎藤から聞いておいた。
やがて、課員たちが続々と出社してくる。五分の一ほどが女性だ。陽焼けして潮の匂いが漂ってくるような若林の、魅惑の微笑を横目で盗み見る。
九時に、部課長会議に出席していた犬飼課長が、営業第二課の部屋に戻ってきた。部下たちを集め、十数分間にわたってハッパをかける。
プレハブというと、工事現場の飯場の建物のような粗末なものを想像しがちだが、個人住宅用のやつは見てくれがいい。特に内部は|洒《しゃ》|落《れ》ている。
工事期間にしても、二か月近くかかるし、東洋ニュー・ハウスの場合は、スタンダード仕様でも坪十万、デラックス仕様で坪十三万もする。
それに、室内照明具は定価に含まれているが、屋外の給排水や屋内外のガス工事、それに屋外配線工事や浄化|槽《そう》の工事費などは定価に含まれない。
そこにもってきて、各モデルで満足する客はほとんどいないから、追加変更工事費で定価の二割や三割高にはすぐにふくれあがる。
そこを、定価のほかにはほとんど金がかからないように客に錯覚させて契約にこぎつけるのがセールスマンの腕なのだ。
課長は、あとで客とトラブルが起っても会社で責任をとるから、ともかく一件でも多く契約を取ってこい、とハッパを掛けたあと、席に戻る部下たちのなかから若林を呼びとめた。
「あんまり休みが長いんで、会社をやめたのかと思ったよ、君」
と、言う。銀ブチの眼鏡を掛け、髪を|撫《な》でつけた四十二、三の男だ。|唇《くち》では笑っても、冷たい目は笑わない。
「済みません。でも、予定通りに出社しましたので、会社に迷惑は掛けなかったと思いますが……」
若林は言った。
「それは分っている。ともかく、君がうらやましいよ。でも、まあ、今日からは力一杯働いて、成績を|挽《ばん》|回《かい》することだな」
課長はソッポを向いた。
課員たちは、四階の建築申請事務課や五階の設計変更部に向ったり、屋上や都内の数か所にあるモデル・ハウスに向ったり、セールスに向ったりした。住宅ローンの手続きのために銀行に向う者もいる。
若林は、アタッシェ・ケースに名簿と一杯のカタログを詰めて、セールスに出た。
若林の客になるのは、北多摩や南多摩に土地を買った者であった。そのうちでも、府中の法務局に、買った土地の登記をした人々であった。
プレハブ住宅を売るのは難しい。行き当りばったりの飛びこみでは非常に能率が悪い。金持ちそうな家で口説こうとすると、別荘用は別にして、馬鹿にするな、と怒鳴られ、アパートの住人に売りこもうとすると、土地も無いのにどこに建てるのだ、と玄関払いをくらわされる。
そこで若林が考えたのは、登記所で土地台帳を閲覧してから、土地を買った人の名前と住所を知り、彼等に当ってみることであった。
しかし、閲覧するには一件ごとに料金を払わねばならないし、それよりも困ったことは、登記された土地の正確な番地を一件ごとに申し出ないことには閲覧させてくれないことであった。
都内や東京周辺の無数の不動産業者に金を払って、誰がどの土地を買ったかを教えてもらえばいいのだろうが、現実にそんなことをしたら毎月の経費が月給の何十倍にもなってしまう。
そこで若林は、府中の登記所につとめているオールド・ミスの関野|雅《まさ》|子《こ》に|狙《ねら》いをつけた。三年ほど前のことだ。
当時三十三歳であった雅子は、二十二歳のときに、親が結婚を許さぬ旧家の息子を相手に、山のなかで睡眠薬心中を図った。
しかし、薬の飲みすぎで彼女の意識が戻ったとき、相手の男の姿は無かった。男は、睡眠薬を飲んだふりをしておいて、雅子が眠りこんだあいだに逃げだしたのだ。
雅子はそれから、男を信じない女になった。燃える体は指や器具で|鎮《しず》め、言い寄ってくる男たちを冷たくはねつけた。
横浜生れの雅子は、先祖に白人の血がまぎれこんだのではないか、と思えるほど彫りの深い顔と、見事な|肢《し》|体《たい》を持っていた。だから、男たちが何とかモノにしようと争ったのも無理はない。
しかし、エキゾチックな|容《よう》|貌《ぼう》を持つ雅子だけに、|老《ふ》けが目立つようになるのも早かった。三十を過ぎると、顔の|小《こ》|皺《じわ》は化粧ではどうしても隠せなくなった。男たちはその雅子を敬遠するようになった。
そんなころ、若林は雅子に近づいたのだ。
若林は、なけなしの金をはたいて興信所に雅子の過去を調べさせた上に、雅子が毎週土曜の午後は立川のボーリング場で過ごすことを知っていた。雅子は|国《くに》|立《たち》のアパートに住んでいた。
だから若林は、立川のボーリング場で、土曜の午後、網を張っていたのだ。
入神の演技に支えられた若林の|爽《さわ》やかな微笑に雅子は警戒心を次第に解いていった。若林はあせらなかった。
そして若林は、五度目にボーリング場であったあと、雅子をアパートに送っていって強引に貫いたのだ。
熟れきっている雅子は、はじめは猛烈に抵抗したが、やがて本能に敗れて、気が狂ったように若林をむさぼった。そのときは、翌日の昼過ぎまで若林は雅子を狂喜させてやった。
雅子を通じて、府中登記所に登記される土地取得者の名簿を手に入れることが出来るようになるまでには、長い時間はかからなかった。
そのために若林の仕事ははかどった。若林は仕事のほうは適当にやっておいて、勤務中に余った時間を、射撃練習や|拳《けん》|法《ぽう》の|稽《けい》|古《こ》などに使った。
若林には、サラリーマンで一生を送る気は毛頭ないのだ。それかといって、出世して重役になりたいなどとも思わない。若林の野望はもっともっと大きく、そして暗く|歪《ゆが》んでいる。
雅子とはずっと続いている。雅子の助けがなければ体を鍛える余暇が出来ないからだが、年の差から結婚のことは口にしないまでも、若林の体に|溺《おぼ》れきってすがりついてくる雅子のことは少々重荷になってきた……。
若林は今日は、東横沿線に住んでいる者で北多摩や南多摩に土地を買った人々に当ってみることにした。
国電で渋谷に廻り、東横線に乗り換えた。
まず代官山で降りる。名簿と照らしあわせながら訪ねて歩く。大邸宅の持ち主や広い土地を買った者は投資用と見て避け、借家風の家やマンションやアパートなどに住んでいる連中を訪れた。
土地を買っただけで精一杯で、まだ何年かは建てる予定がないというところもあれば、多摩に建てる家には一生のあいだ住むことになるだろうから、プレハブでは|嫌《いや》だ、という者もいた。
それに、若林を応対するのはみなが主婦だから、主人と相談してみなければ、どうにもならない、という者が多かった。
みんな、ドアを開かずにインターフォーンで問答するのだから、若林はカタログを郵便受けに突っこんで退散しなければならなかった。
だが、そんなことで若林はガッカリはしない。契約が毎日まとまったりするわけはないからだ。
スーパー・マーケットで特売のソーセージを一キロと野菜ジュースの|大《おお》|罐《かん》を買い、それを児童小公園に運んで、ベンチで昼食をとった。歩いて中目黒に向う。
ドアを開けてくれたのは、中目黒に着いてから、二軒目の賃貸しマンションに来たときであった。
そこの七階のフラットに住む森川という表札がかかったドア|脇《わき》のインターフォーンで用件を言うと、すぐにドアが開いた、というわけだ。
ドアを開いたのは四十近い|肥《ふと》った女であった。和服姿だ。狭いが家具や|絨毯《じゅうたん》は豪華な応接室に通された若林は、白豚のようなその女を職業的な微笑と共にときどき見つめながら、
「……工期は普通の半分で、大工たちの茶菓に心をわずらわせる必要はございません。それに、普通お|家《うち》をお建てになるときは、建築費だけでなくて設計料や付帯設備費などが二割も余計にかかるものですが、その点わたくしたちの東洋ニュー・ハウスは、お家が建ち次第、すぐにその場でお住いになるのに必要な、光熱、|厨房《ちゅうぼう》、風呂、照明、配線、換気、給湯……などの設備が、一さい定価に含まれておりますので……」
と、カタログを|拡《ひろ》げ、声に暖かみを加えて説明していく。
女は説明を|上《うわ》の空で聞きながら、涼し気な眼許の若林の顔をうっとりと見つめている。
カモだ。ときどき若林は、こういった女に出くわす。そして、こういう女は、たいていが、|亭《てい》|主《しゅ》を説得してくれるのだ。
若林の説明に熱がこもった。一息ついて、
「ところで、失礼ですが、もしお気に召しましたら、ご予算のほうは、いかほど……?」
と尋ねる。
「そうね……でも、主人と相談してみる前に、モデル・ハウスを見せてもらえる?」
あとで知ったのでは、千津子というその女は言った。
「|勿《もち》|論《ろん》ですとも。済みませんが、お電話を拝借出来ますか? 車を呼びますので」
腰を浮かしながら若林は尋ねた。
こういう場合は、会社と契約しているハイヤーを使ってもいいことになっている。
「散らかってるのよ。ちょっとだけお待ちになってね」
千津子は立ち上がった。一生懸命に出っぱった腹を引っこめようと努力しながら隣りの居間に消える。
若林はタバコに火をつけた。ひっそりと吸いながら、かしこまった態度で待つ。
だいぶ待たせた千津子は厚化粧し、指に二カラットのダイアを光らせていた。和服も外出用のものに着替えている。
居間も家具に|金《かね》がかかっている。その部屋にある電話で渋谷のハイヤーの営業所に若林が連絡をとっている間に、千津子は紅茶を入れて応接室に運んだ。
若林が応接室に戻ると、千津子は彼をソファに坐らせ、自分は|膝《ひざ》を寄せてその横に腰を降ろした。ブランデーが入った紅茶を若林に勧め、カタログを手にすると、
「これは、どういう意味?」
などと言いながら若林に体を押しつけてくる。
香水が強すぎるのは、発情している年増の|牝《めす》の強烈な匂いをごまかすためらしい。
ハイヤーがやってくるまでのあいだ、若林はウブな青年がドギマギしている役をこなしきって、千津子を喜ばせてやった。
車のなかでも、カーヴで揺れるごとに、千津子は若林に体を押しつけた。|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に若林の腕を|掴《つか》んで、そのたくましさに|呻《うめ》く。
青山高樹町にあるモデル・ハウスは、客の駐車に便利なように裏通りにあった。七十坪の敷地と延べ三十二坪の二階建てだ。
今週はそこの案内係を担当している同僚の伊東の愛想笑いに迎えられ、若林は千津子を連れて屋内に入った。
千津子は若林に案内されて二階に登ると、若林の腕にぶらさがるようにした。
「気に入ったわ。主人を口説いてみるわ。大丈夫よ、うちの|亭《ひ》|主《と》は養子だから」
と|囁《ささや》く。
「よろしくお願いします」
「そのかわり、今夜、お食事に付きあってくれる?」
「ご主人もご一緒ですか?」
「冗談じゃないわ……主人は今夜は出張で大阪よ」
千津子は若林の手をとって|頬《ほお》に当てた。
「…………」
「じゃあ、七時に自由ヶ丘の駅前の“レナ”という喫茶店で待っているわ」
「困ります……」
「お食事だけなら、困ることないでしょう? じゃあ、きっとよ。来なかったら、あなたとは二度と会わないわ」
千津子は|喘《あえ》ぐように言った。
|階《し》|下《た》に降りて三十分ほどねばってから、千津子は若林が待たせておいたハイヤーで帰っていった。若林はうんざりとして|溜《ため》|息《いき》をついた。
若林はタクシーと電車で今度は祐天寺まで行き、四十軒ほどまわった。そのうちの五軒に上って東洋ニュー・ハウスについて説明し、二人に主人と相談しておくと言わせることが出来た。
夕暮れが近づいた。若林は課長に電話を入れてから、電車を乗り換えて|狛《こま》|江《え》の借家に戻る。
風呂に入って|髭《ひげ》を当った若林は、ドレッシーな背広に着替えて家を出ると、しばらく歩いてから空車のタクシーを見つけて乗りこむ。
内ポケットには、超小型のワイヤー・レコーダーと、高感度フィルムを|装《そう》|填《てん》したセルフ・タイマー付きのライター型カメラをしのばせてあった。
素顔の片鱗
四時間後、若林と森川夫人の千津子は、横浜寄りにある綱島のホテルの一室にいた。
ナイト・クラブ形式になっている中華街の大飯店でスタミナをつけた上にダンスで刺激された千津子は、酔っ払った振りをして、無理やりに若林をそのホテルに誘いこんだのだ。
部屋に入った千津子は、|灯《あか》りを薄暗くし、よく|弾《はず》むダブル・ベッドに体を投げた。和服の|裾《すそ》を乱し、それだけは自信を持っているらしい、真っ白い脚を|覗《のぞ》かせる。
眠りこんだ振りをしながら薄目を開いて観察する千津子の前で、若林はわざと困惑したウブな青年の表情を作ってみせた。
それから浴室の狭い脱衣所で裸になる。服をつけていたときから一変して|獰《どう》|猛《もう》な正体を|剥《む》きだしにしたその体は、体重計に乗ってみると、八十五キロを示した。
したがって、|浴《よく》|槽《そう》に身を沈めると、大量に湯があふれ出る。ベッドのほうからは、千津子が帯を解く音が聞えてきた。
やがて、バス・タオルで腹部を覆った千津子が浴室に入ってきた。覆っていても、下腹に脂肪がつきすぎていることは隠せない。
立ち上がった若林の裸身を見て、千津子は信じられないものを見たかのように、口をぽかんと開いて立ちすくんだ。
それから千津子は、若林に武者ぶりついてくる。じらされ続けていたので、|洪《こう》|水《ずい》のようになっていた。
それに触れて、一と月近く禁欲してきた若林の凶器は脈打ってきた。
千津子を軽々と抱きあげてから沈める。首に両腕を|捲《ま》きつけて|呻《うめ》く千津子と共に、再び浴槽のなかに腰を降ろした……。
三十分後、千津子に合わせて、若林は|溜《た》まりきっていたものを吐きだした。しかし、それは序盤戦にすぎず、戦場をベッドに移して第二ラウンドを開始した。
若林は、ベッドの近くの|椅《い》|子《す》に掛けた背広の内ポケットの超小型ワイヤー・レコーダーのスウィッチを入れてあった。長時間の録音が出来るそのワイヤー・レコーダーは、|譫《うわ》|言《ごと》を口走る千津子の声をとらえる。
そして若林は、部屋の灯りを明るくしていた。サイド・テーブルに置かれた広角レンズ付きのライター型カメラのためだ。
高感度フィルムを装填したそのセルフ・タイマー付きカメラは、トランジスターと豆粒のようなモーターの力で、自動的にフィルムを捲きあげるようになっている。五分に一度の割りでシャッターが降りるように若林はそのカメラをセットしてあった。
市販品では、これほど精巧なライター型カメラは売っていない。若林が自分で組み立てたものであった。デュポンの銀張りに似せてある。
それから二時間後、|爛《ただ》れたようになった千津子は死に近い|痙《けい》|攣《れん》と共にダウンした。
起き上がった若林は、ライター型カメラを背広の内ポケットに仕舞うと、それと型はそっくりの本物のライターをサイド・テーブルに置く。
浴室に入り、シャワーを長いあいだ浴びて千津子の匂いを消した。服をつけ、眠いために|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な帳場の女に電話でタクシーを呼んでもらう。朝までの二人の宿泊料は、すでに千津子が前金で払ってあった。
やってきたタクシーのリア・シートに深く腰を降ろした若林は、タバコに火をつけた。まだ第三京浜も東名も出来てなかった頃、自分でチューン・アップした二輪車の試運転で、この中原街道を深夜よくブッ飛ばしたことを想いだす。
会社を乗っ取られた森越の家から出た若林は、五反田にある二輪車のチューン・アップ・ショップに職を見つけた。若林が夜間高校の三年になった頃であった。“マッハ・ワン”という二十四時間営業のそのスピード・ショップは|二《ツー》サイクル車も|四《フォー》サイクル車も扱い、ロードレースやモトクロスに出場するアマチュアたちのメッカであった。
若林は部品倉庫の屋根裏の二畳に寝泊まりし、午後二時から四時までと、夜間高校の授業が終って工場に戻ってくる午後十時から午前三時までを働いた。
そこで丸二年働いて私立大学の法学部に進学するまでに、若林はエンジンのチューン・アップに関しては一と通りのことを完全にマスターしていた。
大学の法科を|択《えら》んだのは、世の中には支配する階級と支配される階級があり、法律は支配する者たちの都合がいいように作ってあり、権力を持った者を守るために適用されるのだ、ということに気付いていたからだ。
皆が貧しい山国から東京に出てきた若林にとっては、富める者と|虐《しいた》げられた者との対照が大きく感じられた。権力につながった連中は、どんな悪事を働いたところで罰は受けない。
下積み階級の俺がのしあがるには、バレることなく法を破るか、巧みに法網をかいくぐって大金を|掴《つか》むほかない。そのためには、やはり法律を知っておかないとならない、と若林は考えたから、法科を択んだのだ。
大学に入ると、“マッハ・ワン”の工場をやめ、日産系の陸送屋のアルバイトで生活を支えた。
当時は現在のようにトレーラー陸送や、専用海送船が発達してなかったから、裸トラックやバスを遠方に運ぶと、いい金になった。そして、帰りの汽車賃はキセルで浮かした。
月の三分の一を働き、残りを授業や射撃部やヨット部のクラブ活動などに当てることが出来た。若林は、くすぶり続けている暗い野望を爆発させる日にそなえて、体と頭を鍛えておくことに専念したわけだ。
大学を卒業した若林が今の営業の仕事を択んだのも、社のデスクにへばりついている必要がなく、収入さえ犠牲にすれば、自分のための時間を作れるからであった。社には毎朝顔を出さねばならないが、セールスに廻ると言って外に出れば、何をやっていても会社には分りにくいようになっている。
プレハブ販売会社には、セールスマンが、建築申請の際の役所とのトラブルや土地販売業者と客との|揉《も》め|事《ごと》に一々専門家と共に立ち会って話をつけたり、客が設計変更を言ってくるごとに足を運ぶ良心的なところもあるが、若林の勤めている東洋ニュー・ハウスは、セールスが契約を取ってくると、そのあとは社内の各専門部に任せてしまうから、若林にとっては好都合であった……。
タクシーをわざと和泉多摩川の駅の近くで捨て、若林は借りている家まで歩いた。住んでいるところを、なるべく他人に知られたくないからだ。
|淋《さび》しい道だが夜空には星が明るく、初夏の風は優しかった。
|宿河原《しゅくがわら》の湿地帯に近い家に入った若林は、背広をコットン・シャツやジーパンと替えると、居間の押入れの半分を改造して暗室にしたなかで、ライター型カメラから取り出したマイクロ・フィルムを現像し、引きのばして焼き付けたりする作業にとりかかった。
水洗いした三十枚近いブローニー判の印画紙が乾くまでのあいだ、若林は寝室に移って、工作机の|抽《ひき》|出《だ》しから、十個ほどのシリンダー錠を取り出した。
それらの錠のロックを、先端を細いヘラのように|潰《つぶ》して|鉤《かぎ》型に曲げた二本の針金で解くトレーニングをする。
みんな、三十秒もかからずに解けた。若林は今度は、ありあわせのヘア・ピンを使って、それらのシリンダー錠のロックを解く|稽《けい》|古《こ》をした。ヘア・ピンだと、どれも一分以上かかる。
電灯をつけた押入れの暗室に戻ってみると三十枚近い写真はみんな乾いていた。どれも粒子は少々荒れているが、若林をむさぼっている千津子の姿が鮮かに再現されていた。
それらをビニール袋に入れて、壁に|嵌《は》めこみにしたロッカーに仕舞う。ネガも仕舞った。
現像装置や液などを片付け、手を洗った若林はベッドにもぐりこんだ。目覚し時計を起床時間に合わせると、ぐっすりと眠りこむ。
三時間半ほど眠っただけで目覚しが鳴ったが、短い睡眠に慣れている若林は、|髭《ひげ》を|剃《そ》っている間に目の充血が去った。勤勉なサラリーマンの仮面に戻った若林は、電車の駅に向う。
出社した若林はセールスに出た。
千津子のところには、わざと寄らない。少しのあいだ冷却期間を置いたほうがスムーズに契約にもっていけるし、千津子が契約を拒否出来なくなる写真と録音テープを持っているから、安心できる。
昨日、主人と話をしておく、と言っていた祐天寺の主婦のうちの一人が、主人が帰宅してくつろぐ夜の八時にもう一度来てみてくれ、と言った。
若林は祐天寺から|鷹《たか》|番《ばん》町にかけて午前中歩き、午後は成城にある|拳《けん》|法《ぽう》の道場で汗を流した。
若林は、地面に立てた三寸角の松材を手刀でへし折ることが出来るまでになっていた。足を使えば、|一《いっ》|寸《すん》の厚さの鋳鉄板を|蹴《け》り破ることが出来る。
無論、大学に入って、拳法を習いはじめた頃は、一寸角の角材を手刀でへし折るだけでも大変であった。手がミットのように|腫《は》れあがった上に、内臓まで痛めたこともあるし、蹴りの稽古で、足の|爪《つめ》はみんな潰れてしまっている。
道場では人体実験は許されないから、若林はしばしば、多摩川の河原などで、野良犬を相手にして打撃力の実験を行った。手刀で|肋《ろっ》|骨《こつ》をへし折って心臓を掴みだすことぐらいは簡単に出来るようになっている。要は圧縮しておいたエネルギーを瞬間的に爆発させることだ。
TV映画の貸しスタジオが多いために新しい盛り場の様相を呈しはじめた祖師谷大蔵のサウナで汗を落し、焼肉屋で夕食を済ませてから、約束してあった祐天寺のアパートに住む竹田という一家のドアを午後八時きっちりに|叩《たた》いた。
入ったところがすぐに居間兼客間で、畳の上に置いたソファ・ベッドで主人の竹田がゴルフのクラブを|磨《みが》いていた。四十近いロイド眼鏡の男だ。
二時間後、期待が持てそうな返事を竹田からもらった若林は、電車とタクシーで帰宅した。
建物の前に置いてある、風雨にさらされて分解しそうな|籐《とう》|椅《い》|子《す》から、幽霊のように|蒼《あお》|白《じろ》い顔の女が立ち上がった。|痩《や》せて背が高い。大きな紙袋を籐椅子に置く。
「やあ、帰ったよ」
若林は|薄《うす》|闇《やみ》のなかで白い歯をきらめかせた。
「ひどいわ。心配したのよ。海から戻ったら、すぐに連絡してくれると思ったのに」
女は体をぶつけてきた。府中の登記所に勤めている関野雅子であった。薄闇では顔の|小《こ》|皺《じわ》が隠されて、昔の|美《び》|貌《ぼう》が|甦《よみがえ》っていた。
「ごめんごめん。すぐに電話しようと思ったんだが、電話すると会いたくなるからね。会う前に、たまっている仕事を片付けておこうと思ったんだ」
優しく雅子を左手で抱き、額や髪に|唇《くちびる》を当てながら若林は|囁《ささや》いた。右手は、提げたアタッシェ・ケースでふさがっている。
若林の息が耳の孔に吹きこまれ、甘い唇が|耳《みみ》|朶《たぶ》に触れると、雅子は軽く身震いした。のびあがって両腕を若林の首に廻し、唇をぶつけてくる。
唇を受けとめた若林はアタッシェ・ケースを放りだした。右手で雅子の腰を引き寄せ、左手で髪を掴むと唇やそのまわりを、自分の唇を|痙《けい》|攣《れん》させながらさまよわせ、それから舌を深く使う。
子宮を|掻《か》きまわされるような気分になった雅子は、|喘《あえ》ぎながら坐りこみそうになった。
若林は唇を合わせたまま、左手だけで軽々とその雅子を抱きあげた。右手でポケットから家の|鍵《かぎ》を取り出す。
雅子を抱いたまま、身をかがめてアタッシェ・ケースを拾いあげた。さらに籐椅子から紙袋を右手で抱えあげた。
家に入った若林は、雅子をベッドに横たえた。荷物を工作机に置く。ベッドの雅子にかぶさって軽く雅子の唇を|噛《か》みながら、舌と唇を巧みに駆使した。
唇を離すと、|唾《だ》|液《えき》の筋が銀色の糸のように輝いた。すでにキスだけではじめの爆発を行った雅子は、
「わたしのことが|嫌《いや》になったのでなかったのね……」
と、喘ぐ。
「馬鹿なことを言うなよ」
若林は雅子を|剥《は》いだ。
二重にはいていたパンティはどうしようもなくなっている。雅子の体のほうは衰えてなかった。
二時間後、雅子はよろめきながら立ち上がり、若林のコットン・シャツをダブダブにまとうと、紙袋から用意してきたスキヤキの材料を取りだして料理にかかった。|尻《しり》から下は裸だ。
ベッドでビールをラッパ飲みしている若林に、
「これ、先月の登記者の名簿よ」
と、紙袋の底から取りだした手帳を渡す。
「いつも済まない」
腰も覆わないまま、若林は微笑と共に手帳を受け取った。まだ硬い。
「小笠原の女のひとの味はどうだったの?」
台所からガス・コンロを引っぱってきて鉄ナベを掛けた雅子は尋ねた。
「女どころか、危く死にそこなったよ」
若林は航海の模様を簡単にしゃべった。
「そうだったの……邪推したりして、ごめんなさい」
千津子のことを知らない雅子は|呟《つぶや》いた。
それから二人は抱きあいながらスキヤキを食った。雅子はワイン、若林はウイスキーの水割りを飲む。
前から後ろから、それに互いちがいにとスタンスを変えて雅子を|悶《もん》|絶《ぜつ》させてやってから若林もぐっすり眠った。
朝になって雅子をタクシーで府中に送った。自分はそのタクシーで新宿の会社に向う。内ポケットには、千津子とのベッド・シーンの写真やワイヤー・テープなどが入っていた。
十時過ぎに千津子のマンションを訪れた。
「ひどい|男《ひと》ね。お別れのキスもしてくれないで、一人で帰ってしまうなんて!」
若林を居間に引き入れた千津子はしなだれかかってきた。
「ご主人は?」
「大丈夫よ、もう会社に行ったわ」
若林の胸にもたれながら千津子は言った。期待に小鼻がひろがっている。
「どこの会社なんです?」
「東都汽船の人事部長よ。わたしのパパがあの会社の重役なの」
「そうですか」
「プレハブの話は無かったことにして。もう少ししたら、パパが七部屋のマンションを買ってくれることになっているの。そのかわり、ときどき会ってくれたら、お小遣いには困らないようにしてあげるわ。あなたを知ったら、うちの主人なんか男のうちに入らないわ」
「待ってください――」
千津子の手を押しのけた若林は言った。
「今朝、社に出てみると、差出し人の名が無い郵便が僕あてに届いていました。開いてみると、こんなものが入っていたんです」
と、内ポケットから、数枚の写真を取りだして千津子に渡す。
小手調べ
千津子は、自分と若林がからみあった写真を一枚一枚、じっくりと見つめた。平静な表情をよそおっているらしく、|頬《ほお》の筋肉がかすかに|痙《けい》|攣《れん》していた。
テーブルの上に数枚の写真を放りだした千津子はタバコに火をつけ、煙を天井に向けて吹きあげた。
「この写真を撮って、あなたに送りつけてきたやつが、わたしから|強《ゆ》|請《す》ろうと計画しているのなら当てが外れるわ。さっきも言ったように、うちの|主《ひ》|人《と》はわたしやパパに頭が上がらないの。あなたとの浮気を知られたところで、どうってことはないわ」
と、言う。
「それを聞いて一安心しました」
若林は呟いてみせた。
「あなた、気が弱いのね。それで、写真を送ってきたやつは、何と言ってるの」
「写真が入っていた封筒に手紙は入ってませんでしたがね。会社でその郵便を受け取ってから少しして、僕のところに電話が掛かってきました」
若林は|眉《まゆ》を寄せ、もっともらしい苦悩の表情で言った。
「どんな|奴《やつ》?」
千津子は若林の右腕を掴んだ。
「電話ですから声で見当をつけたんですが、中年の男のようでした。ドスがきいた声で……」
「何て言ったの?」
「東洋ニュー・ハウスは色仕掛けで契約をとるのか? この写真を業界誌にばらまいたら、掲載を中止させるための広告料がどれぐらい東洋ニュー・ハウスにかかってくるか分るか?……と、言うんです」
「…………」
「僕はクビになってもいいが、それにしても、ほかの会社に移ろうとしても、懲戒免職させられたんではろくでもない会社にしか行けない」
「わたしが生活の面倒を見てあげてもいいわ」
「いや、僕はヒモになりたくない」
「ヒモだなんて……」
「あいつはこういってきました――百万円ださなかったら、写真を僕の上役たちや業界誌の全部に送りつける。二人の|睦《むつ》|言《ごと》もテープにとってあるんだ。ただし、百万円だしたら、写真もネガもテープも渡してやる。安いもんだろう……だって」
「どうして写真を撮ったり、テープに録音したりが出来たのか知ら。あのホテルもグルになっているんだわ」
「そうかも知らない」
若林は唇を|歪《ゆが》めてみせた。
「でも、警察に訴えることは出来ないわね。表|沙《ざ》|汰《た》になったら、あなたが困るもの」
千津子は若林の腕を|揉《も》むようにしながら言った。
「そうなんだ。それに奥さんだって嫌でしょう? 奥さんのお父さんも、このことが表沙汰になったら、奥さんのご主人に頭があがらなくなるし……」
「分ったわ。それで、百万円を払ったら、本当にそれで済むのか知ら? 何回も何回も|強《ゆ》|請《す》られたんではかなわない」
「僕がちゃんと話をつけますよ。場合によっては、半殺しの目に会わせてやってもいい。ともかく、ネガも受け取らないことには安心できません」
若林は|虚《こ》|空《くう》を|睨《にら》みつけながら言った。
「あなたに、百万円の都合はつけられる?」
「…………」
若林はガックリと首を垂れてみせた。
「わたしにしても一度に百万円となると大変だわ」
「弱りました」
「でも、何とか出来ないこともないかも知れないわ。その人は、今度は、いつ連絡してくる、と言っているの?」
「明日の朝なんです」
「出来るだけ交渉を引きのばしておいて……その間に、何とか都合をつけてみるわ」
「済みません。ご迷惑かけてしまって」
「他人行儀は嫌よ。そうと決まったら楽しまないと」
千津子は若林の首に腕を|捲《ま》きつけた。
「とても、そんな気分には……」
若林は弱々しい微笑を浮かべて首を振った。
「|駄《だ》|目《め》ね、そんな弱気では。今は求人難の時代よ。いざとなったら、うちのパパの会社に世話してあげてもいいのよ」
「…………」
「さあ、元気を出して! それとも、もうわたしに飽きがきたの?」
「とんでもない」
若林は小肥りの千津子を軽々と抱えあげた。寝室のドアを蹴り開いて運びこむ。
寝室も洋室であった。大きなダブル・ベッドが置いてある。千津子の亭主の目を盗むスリルに軽く興奮した若林は、千津子を乱暴にベッドに放りだして帯に手を掛ける。勢いよく帯を引っぱると、ベッドの上を転げる千津子の|裾《すそ》がまくれ、色気があふれる白い脚が|剥《む》きだしになった。憂愁の騎士といった表情を崩さずに、若林は千津子の|腿《もも》の内側に唇を寄せる。
それから一週間が過ぎた。
|恐喝《きょうかつ》者に渡すという名目で千津子から百万円を捲きあげた若林は、恐喝者から取り戻したということにして、写真のネガやワイヤー・テープなどを千津子の目の前で焼いた。
実を言うと、若林にとって、女を金庫がわりとしたケースは、千津子がはじめてではなかった。
これまでに、二十数人の女から金を出させている。そうでないことには、給料とボーナスだけでは、週に数万円の弾薬代をひねりだすことは出来ない。散弾は一発四十円以下だが、マグナム・ライフル実包だと、ファクトリー・ロッドは一発三百円、自分で|手詰め《ハンド・ロッド》しても一発百円近くはかかる。
女を|騙《だま》した、という感覚は若林には無かった。欲求不満に|喘《あえ》いでいる女に、つかの間とはいえ、甘美な夢を見させてやったのだ。
だが、調子にのって何度も金を捲きあげていたのでは、あやしまれて警察沙汰になってしまう。
それかと言って、いつまでも千津子にサーヴィスする気はさらさら無かった。
そこで若林は、千津子から受け取った翌々日、千津子と会う前に、会社にいる亭主の森川に電話を入れた。ハンカチをくわえて声を変え、
「お宅と同じマンションに住んでいるものですがね……いえ、名前は勘弁してください。恨まれたくないから……ともかく、お宅の奥さんは、このところ毎日のように、セールスマン風の若い男を引っぱりこんでいるようですよ。今日もきっと男がやって来るにちがいない。嫌なことでしょうが、ご自分の目で確めてみては?」
と言っておいた。
それからかなりの時間を潰してから、若林は千津子のマンションを訪れた。マンションの一階にある本屋で、森川がエレヴェーターのほうを監視しているのが見えた。
森川は四十七、八の、髪が薄く貧相な小男であった。若林は、森川が人事部長をしている東都汽船に用がある振りをして訪れてみて、森川の顔を覚えてあった。
セールス用のアタッシェ・ケースを提げた若林が自動式のエレヴェーターに乗りこむと、森川は階段を上りはじめた。
七階に昇り、七〇三号に入った若林を迎えた千津子は、昼間だというのに、透けて見えるネグリジェをつけていた。
ちょうど昼食時であった。千津子は若林をダイニング・キッチンに案内し、ワインと蒸した若鳥二羽とチーズ・サンドを出した。
玄関のドアの外で息を殺しているにちがいない森川を想像しながら、若林は千津子と冷したボルドーの白のグラスを合わせ、千津子の体を熱っぽい視線で|愛《あい》|撫《ぶ》しながら、蒸し鳥をラー油とカラシを落した|醤油《しょうゆ》の|小《こ》|皿《ざら》につけて食った。
千津子はすでに昼食を済ましたらしく、ワインをすぐにコニャックに切り替えた。目のまわりが桃色となり、|瞳《ひとみ》は|霞《かすみ》がかかったようになって|濡《ぬ》れ、|腿《もも》を無意識のうちにこすり合わせている。
そのとき若林は、玄関のドアの錠のロックが外されるかすかな音を聞いた。しかし、表情は変えずに鳥肉を頬ばった。居間を通った森川がダイニング・キッチンに踏みこんできた。顔色は黄色っぽく蒼ざめ、顔じゅうの筋肉が面白いほど|痙《けい》|攣《れん》していた。
千津子は|狼《ろう》|狽《ばい》の表情を隠せなかった。
「な、何をしてるんだ!」
森川は震え声で怒鳴った。
「何もしてないわ。落ち着いてよ」
立ち上がりながら千津子は叫び返した。
「な、何だ、その格好は? 言いわけは聞きたくない」
森川は泣きだしそうな表情になった。
「済みません、僕が悪いんです」
ナプキンで指を|拭《ぬぐ》った若林は言った。
「泥棒|猫《ねこ》め! よくも……」
「誤解されては困ります。僕はただ、昼食を食う間が無かったので、奥様が同情されて……」
若林は気弱そうな微笑を浮かべて答えた。
「この野郎!」
小柄な森川は若林に殴りかかってきた。
若林は殴り返さなかった。そんなことをしたら森川は死んでしまう。だから若林は、森川の腕をとらえて|捩《ねじ》りあげ、
「落ち着いてください。僕はここに来たのは、はじめてなんですよ。そうでしょう。奥さま?」
と、言う。
「そ、そうよ」
千津子はあわてて答えた。
「本当か? 本当なんだな」
森川は無理やりにでも、そう信じたいようであった。
「本当ですとも。誤解を招かないように、二度とここにはお邪魔しませんからご勘弁を。では奥さま、ごちそうさまでした」
若林は森川の腕を放し、優雅に一礼した。
初夏が訪れたが、天候は不順であった。急に真夏のように暑くなったかと思うと、冬に逆戻りしたりする。
若林がクルーをやっているクルーザーのオーナーの杉山が経営しているボーリング場のチェーンは、いずれも地名の下に、ダイナミック・レーンという名がついていた。例えば新宿ダイナミック・レーンといった具合だ。
本店は青山通りから首都高速の高樹町ランプに抜ける通りにあり、そこには経理本部も置かれてある。
チェーンの八つのボーリング場は、二十一時間営業だ。つまり、午前四時から六時までの二時間と、午後三時から四時までを掃除や床磨きや機械の整備などに当てるわけだ。
早朝の休み時間に、本店の現金輸送車が各チェーンを廻って、売り上げを集金して廻ることになっている。集められた現金や小切手は、経理部で脱税用に表帳簿と裏帳簿に違った金額が記入され、銀行が開く時間まで大金庫に仕舞われる。
その日の未明――冷たい雨が降りしきる街を、トヨタのマスターラインのライトヴァンを改造したダイナミック・レーンの現送車が、目黒支店から本店に向っていた。
あとの支店の集金もすべて終り、現ナマや小切手はジュラルミンのケースに詰められて現送車の荷室にケーブル錠で縛りつけられてある。
現送車には四人の男が乗っている。
運転手と、警備係りを兼ねた助手、それに二人の現送係りだ。現送係りもガードマン上りで、護身術や逮捕術を身につけている。
運転台と、二人の現送係りがいる荷室のあいだには、鉄格子と防弾ガラスの仕切りがついていた。荷室の窓にも鉄格子と金網が張られ、テール・ゲートの窓は防弾ガラスになっている。
そして、荷室のすべての窓にはカーテンが降ろされ、外から|覗《のぞ》きこまれないようになっている。
鉄格子をはさんで運転席と背中あわせになっている現送係りのシートの右側には、運転席との通話装置がついていた。閉めきった防弾ガラスのために、普通の方法では運転台と荷室の通話が出来ないからだ。
現送係りのシートの前の床に置かれたジュラルミンのケースは、全部で七個であった。七つの支店の売り上げが、それぞれのケースに仕舞われる。
それぞれのジュラルミン・ケースは、床に固定された航空ケーブルが特殊鋼の|把《と》っ|手《て》を通されて、丸型の錠に|鍵《かぎ》を掛けられていた。
ケーブル錠のキーと、ジュラルミン・ケースの|蓋《ふた》のキーは、万一の事態の発生にそなえて、現送車の連中は所持してない。各支店と本店にしか無いのだ。
いま、|膝《ひざ》の上で特殊硬化ゴム製の警棒を|弄《もてあそ》んでいた助手席の警備係りは、ダッシュ・ボードの下の無線通信機のマイクを取り上げた。スウィッチ・ボタンを押し、
「こちら、ダイナミック・レーン一号車……応答願います。どうぞ」
と、言ってスウィッチ・ボタンを放した。|剽悍《ひょうかん》な表情のたくましい若者だ。
無線機が雑音をたて、それから、
「こちら、ダイナミック・レーン本部。どうぞ」
と、言ってきた。
「ただ今、八幡通りの並木橋を通過したところです。現在のところ異状ありません、どうぞ……」
警備係りはマイクに言った。
「了解。ご苦労さん、気をつけて」
本部からの応答は切れた。
警備係りは、マイクをダッシュの下の掛け金に戻し、タバコに火をつけて満足気に煙を吐きだした。
今日も何事もなく終るに決っている。仕事が終ったら、深夜喫茶のウェイトレスをしている女をアパートに連れて帰って、ゆっくり楽しむのだ。
時速四十キロで、ゆっくり慎重に現送車を走らせている中年の運転手も、夜勤があけてからのことを考えていた。夕方までヘラの|釣《つり》|堀《ぼり》で過ごし、それから一杯やってから女房にサーヴィスし、ぐっすり眠るのだ。
荷室の二人の現送係りも、仕事あけの楽しみのことを考えていた。これまで何年も、この現送車を襲おうなどという馬鹿な奴は出てこなかったのだ。今日だけ例外というわけではないだろう……。
しかし、その現送車の後方百メーターのあたりを、一台の小型トラックがつけてきていた。
運転している男は、工事用のヘルメットをかぶり、薄汚れたタオルで顔の半分を覆っていた。ヘルメットに、スモークド・グラスの|防塵眼鏡《ゴ ッ グ ル》を引き上げている。薄いゴム手袋をつけている。若林であった。
腕だめし
若林がハンドルを握って現金輸送車を尾行している小型トラックは盗品であった。半月ほど前に、埼玉県で盗んだものだ。
むろん、ナンバー・プレートは、自分で作った偽造品に付け替えている。そして、ダッシュ・ボードの下には、秋葉原のジャンク屋十数軒から部品を買い集めて組み立てた無線受信器と、電波妨害装置がついていた。
無線機のダイアルはダイナミック・レーンの現送車の波長に合わせてあった。妨害装置もだ。
ゴム手袋をはめた左手を軽くハンドルにそえた若林は、右手で、工事用ヘルメットの上に引きあげていた防塵眼鏡を目の上に引き降ろした。
助手席の床には、ダンボールの箱がある。
助手席の上にかかった毛布をはぐると銃身を二本の鉄パイプで作り、機関部は鋼鉄を削って作った、手製の水平二連散弾銃がシート・ベルトに縛りつけられているのが見えた。
銃身はひどく短くて、わずか三十センチほどだ。安全装置がついてないから、引き金は銃自体の重さの約三倍の重さの力が加えられないと引けないようになっている。
十二番径のその散弾銃も、若林が自分で作ったものだ。|秩《ちち》|父《ぶ》の山奥で試射してみて、発射した途端にブッ壊れるようなことはないことを確めてある。
現送車と、それを尾行する小型トラックは、高速道路三号線の下の通りに近づいていた。そこで若林は、無線妨害装置のスウィッチを入れると共に、いすゞエルフの小型トラックのギアを三速にシフトダウンすると共に、思いきりアクセルを踏みこんだ。
ディーゼル・エンジンだから急激な加速は望むべくもなかったが、それでも現送車がゆっくり走っているので、たちまち追いついた。
追い越した若林は、急ハンドルで現送車の前に廻りこんだ。現送車が急ブレーキを踏み、雨に濡れた路面にタイアを滑らされて尻を振るのが、小型トラックのバック・ミラーに写った。
若林は右の|靴《くつ》|先《さき》でブレーキを踏みながら、ギアをニュートラルにした。靴の|踵《かかと》でアクセルを踏んで空ぶかししながら、ギアを強引にローにぶちこむ。
左足はクラッチを踏んだままだ。その左足を乱暴に放すと、突んのめりそうなエンジン・ブレーキがかかる。
計算通り、現送車は若林の小型トラックに追突した。大したことはなかったがそれでも現送車のヘッド・ライトは飛び散り、フロント・グリルは大きく|歪《ゆが》む。
小型トラック荷台の後部も歪んだ。
しかし、衝撃を予知し、シートから滑り落ちるようにしてシートの|背もたれ《バック・レスト》に後頭部をつけていた若林は、ムチ打ち症になる心配をせずに済んだ。ギアをニュートラルに戻して、ハンド・ブレーキを掛ける。
手に握ると脅迫行為になるというわけからか、警棒を腰に|吊《つ》った警備係りの助手が、現送車から降りた。顔に怒気があらわれている。
運転係りは、無線のマイクを|掴《つか》んでしゃべっているが、雑音だけしか受信器に入ってこないので|苛《いら》|々《いら》している。
若林は助手席のシート・ベルトを外し、手製の散弾銃を手にしていた。素早く銃を折り、二発の五号散弾を二本の銃身の後端の薬室に|装《そう》|填《てん》すると、銃を閉じた。
そいつを腰だめにして運転台から跳び降りた。ちょうどその前に来た警備係りが、|罵《ば》|声《せい》をあげながら腰の警棒を抜いた。
「動くな!」
若林は汚れたタオルの覆面の下から、鋭い声を掛けた。
「ふざけるな!」
警備係りは、特殊硬化ゴム製の警棒を横なぐりに叩きつけた。
|豹《ひょう》のように跳びじさった若林はその打撃を避けた。雨中の夜明け前で、道を通る車はないが、まだ銃声をたてることは避けたかった。銃声はパトカーを呼ぶ。
だから若林は、空ぶりして泳いだ警備係りの首筋に、強烈な左の手刀を放った。充分に腰を回転させる。
吹っ飛んだ警備係りは、濡れたアスファルトの上を、背中を下にして七、八メーター滑った。
頭や首は不自然にねじれ、首筋のうしろ側の皮膚を、折れた|頸《けい》|椎《つい》が突き破って露出している。
若林は、その男が死の|痙《けい》|攣《れん》を完了するのを待ってはいなかった。素早く走って現送車の運転台に向う。散弾銃は、ゴム手袋が裂けた左手に持ち替えていた。
運転手は無線のマイクを放りだし、開かれていた助手席のドアのほうに体と手をのばしていた。
その助手席のドアが閉じられる寸前に若林はドアに跳びついた。|把《と》っ|手《て》を引っぱる。体重をかけた。
内側からドアにしがみついていた運転係りは、ドアが外側に開かれたために引きずられ、頭から路面に転げ落ちた。
若林は、そいつの|顎《あご》を蹴り砕いて意識を失わせた。運転台のなかにもぐりこみ無線のマイクを掛け金に戻す。
運転台のうしろの荷室のなかを、鉄格子と防弾ガラス越しに|覗《のぞ》いてみると、二人の現送係りはジュラルミン・ケースの上に覆いかぶさるようにして、顔を隠した若林を睨みつけていた。二人とも、顔面は|蒼《そう》|白《はく》さを通りこして、黄色っぽくなっている。
若林は、荷室のテール・ゲートは、内側から開かないかぎり、外側からは鍵を使っても開くことが出来ないことを、幾度かの尾行によって知っていた。
だから若林は、運転台にある、荷室との通話装置を使って、
「|大人《 おとな》しく出てこい。出てきたら手荒なことはしない。約束しよう」
「馬鹿な。|誰《だれ》がそんな約束を信じるもんか。この荷室は絶対に破ることが出来ないようになっている。|諦《あきら》めて逃げろ」
現送係りの一人が叫んだ。通話装置を伝わって若林に聞える。
「そうか、二人とも死にたいんだな? 待ってろよ。いま、通気孔から青酸ガスを送りこんでやるからな」
若林は覆面の下で冷酷な笑いを走らせた。
作業服の左側のポケットから、茶色の分厚い|小《こ》|壜《びん》を取りだした。ガラス製の|栓《せん》は、スコッチ・テープで何重にも押えられている。
「この中身が何だか分るか? 教えてやる。青酸石灰だ。空気に触れると、空気中の水分を吸収して、簡単に青酸ガスを出すんだ」
若林は言った。
「ハッタリはよせ」
「そうか? そんなに死にたいんなら、思い通りにさせてやる」
若林は言った。運転台から出る。
現金や小切手などを詰めたジュラルミン・ケースが七個置かれている荷室は、あまりにも密閉しすぎると、二人の現送係りが呼吸困難におちいる|怖《おそ》れがある。
そのため、荷室のテール・ゲートに、空気の取り入れ孔と、空気抜きの孔がある。小さな孔だ。
若林は、息をとめて小壜の栓を抜いた。なかに入っていた粉末を、空気取り入れ孔に|挿《さ》しこんだ。
本物の青酸石灰だ。静岡のミカン栽培業者がカイガラムシの駆除のために倉庫に仕舞ってあったのを盗みだしたものだ。
あまり大量の有毒ガスが発生したのではあとの作業が困難になるから、小壜の三分の一ほどで、若林は青酸石灰を荷室に流しこむのをやめた。
壜に栓をし、スコッチ・テープを掛ける。そいつをポケットに戻し、死体となった警備係りと気絶している運転係りを現送車の運転台に運びこむ。こうなったら、生き残りの証人がいたのでは不安でたまらないから、運転係りを|蹴《け》り殺した。
小型トラックの運転台に戻り、助手席の床のダンボール箱を開いた。そこには小型ボンベのアクア・ラングと、|発《はっ》|泡《ぽう》スチロールのなかに詰められて保護されていたガラス壜があった。
アクア・ラングの圧縮空気のボンベを背負い、マウス・ピースをくわえた若林が現送車のうしろに廻ると、テール・ゲートが開き、現送係りの一人が転がり出た。
|喉《のど》や胸を掻きむしっている。口や鼻からは血が混った桃色の汗を吹きだし、眼球は|眼《がん》|窩《か》からとびだしそうになっていた。
その男は、濡れた路面に倒れた。芋虫のように少し|這《は》ってから力尽きる。
「手間をとらせやがって……」
心のなかで呟いた若林は、開かれたテール・ゲートから荷室のなかを覗きこんだ。無論、青酸ガスを吸いこまないために、アクア・ラングで呼吸している。
もう一人の現送係りは、もう荷室のなかで動けなかった。呼吸もとまっている。若林は路面で絶命した現送係りを荷室の奥に放りこんだ。
自分も、荷室のなかに移った。左手に持った壜のガラス栓を抜く。中身は濃硫酸であった。
ジュラルミンのケースを荷室の床に縛りつけている航空用ケーブルに濃硫酸をぶっかけていく。煙をあげてケーブルは|腐蝕《ふしょく》されはじめた。
七個のジュラルミン・ケース全部のケーブルに濃硫酸をかけ終る。それからケーブルを蹴ると、濃硫酸で腐蝕されたあたりで切断された。
若林は七個のジュラルミン・ケースを素早く二個ずつ小型トラックの荷台に移した。移し終えたジュラルミン・ケースの上に、キャンヴァス・シートをかぶせる。
それから五分後、若林は麻布広尾町の高級住宅街の裏通りで小型トラックを停めた。
アクア・ラングを外す。背中に背負っていたボンベもだ。作業服にしみついた青酸ガスのかすかな|臭《にお》いを|嗅《か》いだ。
アクア・ラングをダンボールのなかに仕舞った。一度車から降り、青酸石灰の壜と、濃硫酸の壜を、どこかのお屋敷の|塀《へい》の内側の|竹《たけ》|藪《やぶ》に投げ捨てた。
再びヘルメットとゴッグル、それに汚れたタオルで顔を隠した若林は、裏通りを|択《えら》んで多摩川のほうに車を向けた。無線受信器のダイアルは、警視庁のパトカーと一斉指令室の交信波長に合わせる。
とうとう、人を殺してしまった。しかも一度に四人もだ。しかし、悪いのは|俺《おれ》でなく、逆襲してきた警備係りなのだ。奴が大人しく言いなりになっていたら皆殺しにせずに済ませたのに……と、若林は自分に言い聞かせる。
ともかく、もうあとには引き返せないのだ。|賽《さい》は投げられたわけだ。これからは何人殺そうと、死刑になることには変りがない。
そう思うと、若林はかえって落ち着いてきた。停年のときの退職金の勘定をしながら細く長く生きようとしても、日本が戦争に捲きこまれて核弾頭を射ちこまれたら、しがみついていたけち臭い社会は消え|失《う》せるのだ。
だから俺は短くともいいから太く生きることにしたのだ。秩序も心の安らぎも|糞《くそ》くらえだ……と、若林は唇を動かさずに呟く。
ダッシュ・ボードの下の無線が、襲われた現金輸送車と四つの死体を発見したと叫ぶパトカーの報告を傍受したのは、小型トラックが多摩堤通りに出たときであった。
一斉指令室は、環状電車線内を流している全パトカーに現場に急行するように命じると共に、環状線外の全パトカーは主要街道の都外への出口、すなわち多摩川や荒川にある各橋や、川口と府中を結ぶ線上に非常線検問所をもうけるように、と指令した。
しかし、まだ犯人――すなわち若林――が、いすゞエルフの小型トラックで逃げていることは、捜査側には分ってないらしい。
若林はマスクの下で薄く笑い、スピード違反でパトカーに目をつけられないようにスムーズに車を走らせる。
やがて小型トラックは、北多摩郡の|狛《こま》|江《え》に近い、宿河原の湿地帯の|脇《わき》にある借家の荒れた庭に入った。
木造のガレージの脇に、スズキ三六〇の改造車を出してある。若林はそのガレージのなかに小型トラックを突っこんだ。
車から降りて|扉《とびら》を閉じ、裸電灯をつける。荷台のキャンヴァス・シートをはぐって、七つのジュラルミン・ケースを|剥《む》きだしにした。
ヘルメットやゴッグルやタオルの覆面を外す。頬はかすかに紅潮し、瞳はキラキラ光っていた。
荷台に登り、二本の針金で錠を解いていく。ゴム手袋をつけているために指先の感覚が鈍っているとはいえ、一個の錠のロックを解くのに一分もかからなかった。
はじめのジュラルミン・ケースには現金が二百万ほど入っていた。一万円札は少なく、五千円札や千円札が多い。
七つのジュラルミン・ケースの中身の現金を全部集めても、千三百万ほどにしかならなかった。あと三百万ほど小切手があるが、それは焼却しないことには足がつく。
若林は低く|罵《ののし》った。四人も殺して、たった千三百万では引きあわない。
それでいて、これから先は、死に神に追いつかれる時まで、心が安らぐことはないのだ。
だが、こんな仕事は腕だめしにしかすぎないのだ。今に世界中の富を俺の懐に|捩《ね》じこんでやる。今日の仕事は、自分にルビコンの河を渡る踏ん切りをつけさせるためのものだ……そう自分に言い聞かせた若林の唇には甘美な微笑が浮かんできた。涼し気な瞳にも、夢見るような趣きが漂った。
荷台から降り、ガレージの|隅《すみ》に積んであるドラム|罐《かん》数本を軽々と移動させる。中身はガソリンやオイルだ。
ドラム罐を動かしたあとに、重さ八十キロはある鉄板が横たえられていた。若林は一気にそれを引き起して、壁に立てかける。
そのあとに、地下室への出入り口が姿を現わした。千津子から捲きあげた金の一部は、この地下室を作るためのセメント代に化けている。
|棚《たな》にあった麻袋に、ジュラルミン・ケースから出した札束を詰めた若林は、それをかついで、地下室へのコンクリートの階段を降りていく。
降りきると、ドアの前で電灯のスウィッチを入れる。鉄骨入りのコンクリートで作った分厚いドアにはダイアル錠がついていた。
ダイアルを合わせてから、キーのかわりに針金をダイアル錠と併用になっている鍵孔に差しこみ、そちらのほうのロックも解く。
ドアを開くと、そこは幅十メーター、奥行き十メーターほどの広い地下室だ。簡易べッドや小型旋盤や工作机、それにロッカーなども置かれている。右横についたドアは、|母《おも》|屋《や》の寝室とつながったトンネルの入り口だ。
盗 聴
地下室のロッカーを開いて札束を詰めた麻袋を仕舞った若林は、その部屋から、小型トラックにもともと付いていた埼玉県のナンバー・プレートを持ってガレージに戻った。
まだゴム手袋は外していない。ガレージの棚から工具を取り、小型トラックから偽造ナンバー・プレートを外して、本物の埼玉県のものを付け替えた。
小型トラックのダッシュ・ボードの下につけていた無線受信器と電波妨害装置やアンテナなども外した。アクア・ラングや手製の散弾銃なども降ろす。
庭に出て、小型のゴミ焼却炉で小切手類を焼いた。その灰は粉々にして地面に埋める。それから、寝室に戻った。
寝室にも、無線受信器が置かれていた。ダイアルはパトカーの一斉指令室の波長に合わせてある。
そのスウィッチを入れた若林は、身につけているものをすべて脱いだ。浴室のドアを開け放し、無線を傍受しながら、ガス式の瞬間湯沸かしで熱せられたシャワーを浴び、|髭《ひげ》を|剃《そ》った。
一斉指令室と各パトカーの受信から、捜査の情況が手にとるように分った。背広をつけた若林は、腕時計を覗いてみて、まだ出勤時間には少し時間があることを知った。
トマト・ジュースの大罐をドンブリに受けて塩を振り、一気に飲む。それから、昨夜作っておいたロースト・ビーフを五センチほどの厚さに切ったやつ二枚と玉ネギのスライスを四枚のパンにはさんでむさぼり食った。
多摩川にかかっている各橋には非常線が張られているが、川の堤はパトロールされていないことが無線によって分っている。
朝食を終えた若林は濃い色のサン・グラスを掛け、手には絹の手袋をつけた。職業用のアタッシェ・ケースを提げてガレージに戻った。雨はやんでいた。
小型トラックを運転して、近くの多摩川の土手に乗りあげた若林は、絹のスカーフで顔を覆った。乾いた河原に車を降ろす。
雑草のあいだを、自然に出来た地道が走っていた。下流の二子玉川のほうに向けて四キロほど動かしてから、若林は小型トラックを停めた。
スカーフを顔から外し、|埃《ほこり》を払ってポケットに仕舞った。車を捨て、二子玉川の駅まで歩く。手袋を外した。
二子橋の手前では車がジュズつなぎになっていた。橋の|袂《たもと》の検問所で|塞《せき》|止《と》められているのだ。停められた車は、トランクまで開かれて調べられている。
若林が新宿西口にある東洋ニュー・ハウスに着いたときは、出勤時間より五分前であった。
営業第二課の部屋に入った若林は、同僚たちににこやかに|会釈《えしゃく》すると、自分のデスクにつく。
ラジオやTVで、ダイナミック・レーンの現金輸送車が襲われたことはすでに伝えられたらしく、同僚のうち数人が、そのことを話題にしていた。
「たった千何百万を奪うために四人も殺しちまったとはな。犯人は殺人狂じゃないのか?」
「あれだけの殺しをやったところを見ると、単独犯でなくて複数犯にちがいないって言ってたぜ。複数犯なら、分け前は大したことないな」
「分け前の不満から仲間割れして、案外早く捕まるかも知れないな」
「そうだろう。仲間同士で殺しあいをおっぱじめるかも知れない」
「派手に金を使って足がつくこともあるだろう。いくら大したことがない金だと言ったって、俺たちが一生かかっても、|蓄《た》めることが出来ない額だ」
「俺も、たまには派手に札ビラを切ってみたいよ。俺のような安サラリーマンを馬鹿にするホステスの|頬《ほ》っぺたを札束で引っぱたいてみたいもんだ」
などと言う。
若林は書類を調べる振りをして、彼等の会話を盗み聴きした。捜査側が複数犯と思いちがいをしてくれたら助かるのだが……と、心のなかで|呟《つぶや》いた。
始業時間がきた。課長がまた全員を集め、闘志なき者は去れ、とハッパを掛ける。
課長のお説教が終ると、課員たちは散っていった。若林はセールスに出る振りをして、宿河原の家に戻った。
無線受信器とトランジスター・ラジオとポータブルTVのスウィッチを入れる。
古ぼけてはいるが頭の上の高さまで背もたれがのびて坐り心地がいい|肘《ひじ》掛け|椅《い》|子《す》に体を沈めた。アルコール分がほとんどないルート・ビアーで|喉《のど》を湿し、サラミ・ソーセージをかじりながら捜査の情況を|掴《つか》もうとする。
一時間ほどたってから、荷台に空になったジュラルミン・ケースを積んだまま河原に放りだしておいた小型トラックが発見されたことが、警察無線によって分った。
あわただしく、指令と応答の声が無線に乗って飛び交う。さっそく、小型トラックが発見された付近の聞きこみが命じられた。
一方、ラジオやTVは、奪われた約千三百万円の現金のうち約半額の紙幣が、ダイナミック・レーンのチェーンの各支店でナンバーを控えられていることが判明した、と伝えた。そして、判明した紙幣ナンバーは市中銀行に通知された、とも伝える。
それを聞いて、若林の顔が|硬《こわ》ばった。
もし、報道されたことが事実だとしたら、若林が奪った紙幣は“|熱い金《ホット・マネー》”であって、|迂《う》|闊《かつ》に使うことは出来ない。足がつくからだ。
しかし、若林が奪った金は|通し《シリアル》ナンバーではなかった。それに、一斉指令室とパトカーの交信を聞いていても、奪われた金のナンバーが控えられていた、という様子は無い。
若林は、疑惑の念に包まれた。
もし、奪われた紙幣が通しナンバーであって、奪われたほうでナンバーを控えてあった場合には、犯人を追いつめるために、捜査当局は幾つかの方法をとる。
例えば、判明している通しナンバーをマスコミに発表して、犯人が使いたくても使えないようにする。犯人はヤケクソになって馬脚をあらわすことがある。
マスコミには発表せずに、各銀行や信用金庫や大口商店だけにひそかに通知することもある。犯人は、通しナンバーの控えがとられてなかったものと思って大っぴらに使い、通報によって捕まる。
また通しナンバーのリストの一部だけを発表し、残りは控えをとってなかったということにして犯人を|罠《わな》にかけることもある……。
だが、今度の場合はちがう。大体、通しナンバーの紙幣は、二組や三組はあるかも知らないが、全体の半分もあるわけはないのだ。銀行からおろした新札ならともかく、ボーリングをやりに来た雑多な客たちから吐きださせた紙幣が通しナンバーである|筈《はず》はない。
とすると、通しナンバーでない何千万もの紙幣のナンバーを支店で一々記録したというのはおかしな話だ。そんな筈はあるまい。
何らかの|狙《ねら》いを持って、捜査側が虚偽の発表をしたと考えるのが妥当のようだ。
ともかく、しばらくは、奪った金を使わないで様子を見ることにする。まさかそこまではやってないだろうが、支店の経理係りの手で、肉眼では見えない放射性塗料が目じるしとして塗りつけられていることだってありうる。
考えこんでいた若林は、そのとき聞えた警察無線を聴いて顔色を変えた。
「こちら、警視××号……捜査一課の村田警部補です。犯行に使われたと思われる小型トラックが乗り捨てられていた現場から三百メートルほど離れたところに住んでいて、農業をやっている大場という人物から重要な聞きこみを得ることが出来ました。
今朝七時半頃、その人物――大場秋夫といって五十二歳です――が、犬を連れて多摩川堤を散歩していたところ、例の小型トラックから降りて歩き去った男を目撃した、ということです。
かなり離れていたし、大して気にもとめなかったので、よくは覚えてないようですが、長身の若い男で、地味な背広をつけ、平べったい小さなカバンを提げていたようです。顔ははっきり見ていないが、もう一度会ったらその男だと指摘できるだろう、と言っています」
と、報告したのだ。
小型トラックを離れるときに目撃者がいたとは若林は気づかなかった。丈の高い雑草か|灌《かん》|木《ぼく》にさえぎられて、大場という男と犬を見落したのであろう。
出来ることなら、いますぐにでも大場の口を永遠に閉ざしてやりたい。自分の暗い素顔を見た者は、一人でも生かしてはおけない。
しかし、その大場は刑事たちに取りまかれているだろう。自分がいま近づいたりしたら、灯火に跳びこむ羽虫のようになってしまう……若林は歯ぎしりした。|爽《さわ》やかな顔付きはどこかに消え、陰惨な表情になっている。
その大場は、TVの昼のニュース・ショーにフィルムで登場した。
襲われた現金輸送車や乗り捨てられた小型トラックがブラウン管に映しだされたあと、土地を売って新築したらしい成金趣味の豪邸の応接室で、どうやっても背広が似合わぬ|禿《は》げ頭の大場は、得意満面でしゃべった。
大体、目撃者の証言というものは当てにならないものだ。
犯罪学の講師が観衆を前にして、目撃者がいかに当てにならないか、と説いている最中に、サクラの暴漢に講壇をわめきながら駆け抜けさせ、観衆に見たままのことをしゃべらせた有名な実験がある。
そのとき観衆は、暴漢の顔つきから髪の長さから背丈や肉付き、それに着ているものからわめいた言葉から、みんながてんでんに食いちがう証言をしたのは当然として、暴漢は女であったとか、異人種であったとか証言する者まで出てきたのだ。
大場も証人の例にもれず、ぼんやりと見たことと暗示が一緒くたになり、小型トラックから降りたのは、|相撲《 すもう》取りのような巨漢で、恐ろしく凶暴な顔つきをしていて、大型のボストン・バッグを軽々と提げていた、と言った。そして、小型トラックのなかには、ほかに二人ほど仲間らしい男が乗っていたが、人相はよく見えなかったとも言う。トラックに残っていた二人……というくだりは、TVで犯人複数説が何度もくり返されていることを聞いて、暗示を受けたのであろう。
若林は大場がしゃべっていることを聞いて一安心した。だが、大場が犯人のモンタージュ写真作りに協力することになった、と聞いて、再び不安が頭をもちあげてくる……。
夕方、若林はセールスから戻った振りをして社に顔を出した。社を出ると、再び家に帰る。
さらに一時間後、偽造ナンバー・プレートをつけたホンダCL九〇のモトクロッサーに乗った若林は家を出た。
ジャンパーと木綿のズボンをつけている。マスク付きのヘルメットと、薄いスモークをかけた偏光レンズ入りのゴッグルをつけている。
またがった二輪モトクロッサーのスクランブル・タイアは目だたぬように、普通タイアに替えてある。排気管も、メガフォーンを消音器付きの市街地走行用に替えてあった。
もう外は夜であった。大場の自宅がある世田谷鎌田町に入った若林は、一軒のスーパーマーケットの前にある公衆電話のボックスに入った。
絹の手袋をつけた指で、会社の電話帳で調べておいた大場の自宅にダイアルを廻す。
「どなた?」
ギスギスした中年女の声が出た。
「週刊東都の編集部の者です。例の件について、ご主人にインターヴューさせていただきたいのですが」
若林は言った。マスクのせいで声が変っている。
「駄目です」
「お願いしますよ。お会いできないのなら電話だけでもいいんです。ちょっと呼んでくださいよ」
「いないものはしようがないでしょう?」
「と、おっしゃいますと」
「いま、S署よ。犯人のモンタージュ写真を作るのに協力しに行っているの。むこうに電話してみたら?」
「分りました。どうも……」
若林は電話を切った。
三時間後、ベンツ二五〇を運転した大場はS署を出た。土地の値上りのおかげで|畠《はたけ》を一反売れば、ロールス・ロイスだって二台は買える。テレヴィに出るほどの名士になったのだから、次はロールス・ロイスを買って運転手を|傭《やと》うことにしよう、と大場は思った。
その大場が運転するベンツを、若林の二輪が尾行していた。多摩堤通りからそれて淋しい道に入ったベンツの窓に、ジャンパーのポケットから出した石を投げる。まわりに人影は無い。ベンツの後窓にヒビが走った。急ブレーキを掛けた大場は怒気をあらわにして車から降りた。
そのときには、二輪のスピードをゆるめた若林は、左|袖《そで》に隠してあった手製の|錐《すい》|刀《とう》を抜いていた。大場の横をかすめ過ぎながら錐刀で背中から心臓を|抉《えぐ》る。錐刀を心臓から抜いた。
走り去る若林の二輪のバック・ミラーに、崩れ折れる大場の姿があった。横道にそれた若林は、左袖の下につけた革の|鞘《さや》に錐刀を仕舞う……。
大場が何者かによって、心臓を刺されて、即死に近い死にかたをしたことが、深夜になってラジオやTVで報道された。
同時に、大場が作成に協力した、現送車襲撃の容疑者のモンタージュ写真も発表されたが、若林にはほとんど似てなかった。
二日後の土曜の昼すぎ、会社を出た若林は、公衆電話を使って、杉山のセーリング・クルーザー“ニンフ二世”のクルーたちと連絡をとろうとした。
大学生のクルーたちのうちの半数ほどと連絡がとれた。若林は、
「杉山さんのボーリング場がひどい目に会ったんだってな。いそがしくて災難見舞いにも行けなかったが、今日あたり一緒に行ってみないと……」
と、言う。一人だけで杉山のところに行けばあやしまれるかも知れないからだ。
「そうですね。ご|機《き》|嫌《げん》うかがいしておかないと……」
クルーたちは言った。
若林は杉山に連絡をとろうとした。何回かほうぼうに電話したあと、杉山を池袋の支店で捕まえたが、杉山は、
「いまはいそがしくて、会ってる暇は無い。心配するな、ヨットを売りとばしたりしないから。ただ注意しておくが、俺がヨットを持ってることを誰にもしゃべるなよ。税務署が怖いからな」
と、言う。若林を疑っている様子は無い。
誘 惑
杉山と会えないのでは、若林が奪った杉山のボーリング場のチェーン店の売上げ金の半分ほどの紙幣のナンバーは控えられていた、という発表が本当かどうかを確めることは難しい。
もし発表が|嘘《うそ》だとすれば、何が狙いで嘘の発表をしたのかを知りたくとも出来ない。
ともかく若林は、クルーたちに、杉山を訪問することを取り消す電話を掛けた。
電車に乗りこんだ若林は、杉山が夢中になっている三号目の女の|知《とも》|子《こ》なら、杉山の真意を知っているのではないか……と、思いついた。
偶然に知子と会った振りをして|尋《き》きだせたらいいのだが、それにはどうしようと考えた。
杉山が知子を住まわせているマンションがどこなのかは、若林は知っている。数か月前のことであったが、杉山が酔っ払い運転で捕まったあと、免許停止をくっていたとき、若林は小網代のホーム・ポートから杉山のポンティアックGTOを運転して、杉山と知子を知子のマンションに運んだことがある。
跳びこみのセールスで偶然に知子にぶつかったことにしよう……と、若林は考えていた。
下り電車を降り、上りに乗り替えた。新宿駅の地下ターミナル広場でタクシーに乗り、四谷若葉町にある知子のマンションの近くに着いた。
しかし、知子のフラットの番号は分らない。この前、杉山と知子を運んだとき、玄関ロビーには住人の名札掛けも、郵便受けもついていなかったことを思いだす。郵便は、管理人が一括して受け取るか各フラットごとに配達されるのであろう。
もし、あとの場合だと、各フラットに名札が出ている筈だ。若林は、臨機応変でいくことにして、若葉メイゾンというそのマンションに入った。
突き当りに二つのエレヴェーターが見える玄関ロビーに入る。水商売の女が多く住んでいるので、警備員は出入りの者を一々うるさくとがめだてしない。
エレヴェーターを見たとき、杉山と知子がそれを使うのを若林は見たことを思いだした。上から調べていくことにして若林は自動エレヴェーターで、最上階の七階に昇った。
七階の廊下に出る。果して、番号が書かれた各フラットの玄関のドアには名札も出ている。
知子のフラットは五階にあった。廊下で立ちどまった若林は、プレハブ・ハウスのカタログや契約書の見本などが入ったアタッシェ・ケースから、洗面用具入れの小さなバッグを取り出した。
そのなかから、オー・デ・コロンをしませたガーゼを出し、顔や首筋などの|埃《ほこり》を|拭《ぬぐ》った。
知子のフラットのインターフォーンのブザーを押すと、|苛《いら》|々《いら》したような彼女の声が聞えてきた。
「どなた?」
「東洋ニュー・ハウスの者でございます。お住いのご相談をうけたまわらせて頂きたいと存じまして」
「いま、いそがしいの。あとにして」
トーキング・スウィッチが切れた。
若林は再びコール・ボタンを押した。
「さっき言ったことが聞えなかったの? 警備員を呼ぶわよ」
知子は怒りの声を出した。
「僕です。“ニンフ二世”の若林です。あなたはもしか……」
若林は口ごもってみせた。
「まあ……気がつかないでご免なさい。いま開けるわ」
知子は、あわてた声で答えた。
やがてドアが開く、知子は|素《す》|肌《はだ》に直接つけているらしい厚手のコットン・シャツとスラックス姿であった。
「済みません。まさか知子さんのお宅とは知らなかったもので……声をお聞きして気がつき、つい……」
若林は恥ずかしそうな微笑を浮かべた。
「入って。お茶でも入れるわ。一休みしていってもいいんでしょう?」
知子は上気した顔で言った。
「有難う。今日は土曜だし、もう商売は打ち切りです」
玄関に入った若林は、うしろ手でドアを閉じた。
「じゃあ、ちょうどよかったわ。迷惑でしょうけど、運転をお願いしようかな……」
若林に身を寄せた知子は、ドアにロックし、チェーンを掛ける。|淫《いん》|蕩《とう》な|匂《にお》いの香水が若林の鼻をくすぐった。
「どこかにお出かけですか?」
「ええ……まず、こっちに来てお掛けになってよ」
知子は若林を、応接室兼居間に案内した。イタリーのツーラの|山《や》|羊《ぎ》革で作った家具は、見るからに金がかかっていた。
「素晴しいお住いですね」
「皮肉を言わないで」
知子は横を向いた。杉山から金を出してもらっていることを皮肉られた、と思ったのかも知れない。
「皮肉だなんて、とんでもない。僕の|侘《わ》び住いとつい|較《くら》べてみてしまって」
若林は頭を|掻《か》いてみせた。
「いいのよ。怒ったりしないわ。コーヒーと紅茶とどっちがいいか知ら?」
「紅茶をお願いします」
「他人行儀な言葉遣いはやめて、お願い……」
「はい、はい」
若林は笑いながら答えた。
知子は、ヒップをうねらせながら台所に消えた。若林がタバコを一本灰にしたとき、盆を持って戻ってきた。
ソファで若林と並んで腰を降ろす。紅茶にはコニャックが落してあった。
「杉山さんのボーリング場が大変な目にあったんですってね」
カップを手にした若林は言った。
「あの|男《ひと》は|儲《もう》けすぎているから、大したことではないわよ。それよりも、税務署対策が心配らしいわ。あのとき、現金輸送車が奪われたお金のことにしても、実際の金額を正直に言ったらいいものか、それとも何分の一かに減らして言ったほうがいいのか、随分考えたらしいけど……」
「あの日の売り上げ金が明らかになると税務署に申告してある年間売り上げ高が嘘だってことが分ってしまう、と心配したんですか?」
若林は言った。
「そういうことよ。でも、あの日の売り上げ高をごまかしたら、犯人が捕まったときに困ったことになるから、と考えて仕方なく本当の金額を言ったそうよ」
「じゃあ、あの事件のあと、杉山さんとお会いになったわけですね……いや、個人的なことを|尋《き》いたりしてご免なさい」
「構わないわ。一度だけ会ったわ。でもこのマンションをわたしに買ってやったことを知られて、贈与税をとられたのではかなわないから、しばらくは会わないようにしよう、ってあの|男《ひと》は言うの。わたしのほうも、あの男と会わないで済むほうが楽しいけど」
知子は笑った。
「そんなこと言うんじゃありませんよ」
「何を言おうと勝手でしょう? 本当なんだから――」
知子は怒ったように言い、表情を柔らげて、
「これから、伊豆の山荘に行って、二、三日のんびりしてこよう、と準備してたの。でも、電車で行くのは面倒だし、車は免許取りたてでしょう? 運転してくれたら本当に助かるわ」
知子はにじり寄ってきた。
「いいですよ、どうせ暇だから」
「ただ、暇だから、というだけ?」
「僕を困らせないでください」
若林は|俯《うつ》|向《む》いた。
「可愛いわ、その横顔。大丈夫よ、杉山にはあなたと一緒に行ったなんて絶対に言わないから、待っててね。すぐに仕度してくるわ」
知子は浮き浮きとした様子で立った。
伊豆の山荘というのも、杉山の持ち物なのであろう。そちらに着いたら、ゆっくり、杉山が考えているらしいことを尋きだすことにする。
寝室に消えた知子はやがて、重そうなトランクを提げて出てきた。ミニ・スカートとブラウス姿となっている。左手には小さなバッグを提げている。
「持ちましょう」
歩み寄った若林はトランクを受け取った。軽々と提げる。
「車は地下の駐車場よ。グリーンのポルシェなの。カッコいいから買ってもらったけど、わたしの手に負えないわ」
知子は言った。
二人は自動エレヴェーターで地下まで降りる。二人きりの|函《はこ》のなかで、知子は若林の腕に|掴《つか》まり、若林はわざと照れ臭そうな表情を浮かべた。
地下駐車場にある知子の車は、ポルシェの九一一Eであった。数か所をぶつけて修理したらしく、塗装の光沢がムラになっている。
知子から渡されたキーで、左ハンドルのその車の運転席のドアを開いた。内側から助手席のドアを開くと、補助席というのがふさわしい後部座席の背もたれを前に倒して平べったい荷室を作る。今は表――上側――になった背もたれの裏側は、革バンドで荷物を固定できるようになっている。
若林はそこにトランクを縛りつけた。助手席に知子が乗ると、若林はシートを動かしてドライヴィング・ポジションを決め、イグニッションに差しこんだキーを廻し、スウィッチ・オンにする。
燃料ポンプの音を聞きながら少し待ち、スターターを廻す。
“E”はドイツ語で燃料噴射を意味する。九一一系には、中低速トルクを向上さすためと高回転でのパワー・アップ、それとアメリカの排気ガス規制を満足させるため、それにひどかったプラグのカーボン|堆《たい》|積《せき》を防ぐために、|感知子《センサー》によって混合気をコントロールする、定時マニフォールド式の燃料噴射装置を数年前から採用している。その装置は理想的な筈であるが、現実にはエンジンの掛りが悪くなる、という欠点を持っている。
その上、知子がひどいエンジンの使いかたをしたためか、スターターを廻しても、なかなかエンジンは掛からなかった。
ギアをニュートラルにしただけでなく、クラッチを踏んでミッションの抵抗を弱めてやると、やっとエンジンは掛かったが、アイドリングはひどくムラで、アクセルを踏んで千五百回転以上に保ってやらないとエンストしたがる。
知子が五速や四速のギアでノロノロ運転をしたためにプラグがカーボンでくすぶってしまったのだろう。
発走させた若林は、街なかではギアをせいぜい二速までしかシフト・アップさせず、エンジンを高回転に保った。
そのために、玉川通りの三軒茶屋を過ぎた頃には、くすぶっていたプラグのカーボンはかなり燃えて消え、加速しようとしてもうしろに引き戻されるような感じは無くなっていた。
東名に入ると、若林は飛ばした。横風を巧みにハンドルで修正しながら二百以上を出す。
「怖いわ。ゆっくり行って」
エンジンとギアの騒音のなかで知子は叫んだ。
「…………」
若林はアクセルをゆるめた。
それからは制限速度を少し越えるだけのスピードで静かに走らせる。
「やっぱし、このほうがムードが出ていいわ」
知子は呟いた。
「まだ聞いてなかったけど、伊豆のどのあたりです?」
「湯ヶ野よ。まだ|鮎《あゆ》は駄目でも、ヤマベなら釣れるわ」
「いいな」
「ねえ、あなたのことを聞かせて。今の仕事に満足?」
「サラリーマンなら、誰でも現状から跳びだす夢を持っているでしょう。でも、僕は|諦《あきら》めました。ヨットと車……趣味の世界で自分を生かしたほうが無難のようです」
若林は言った。
「射撃や猟もやっているんでしょう?」
「どうして知っているんです?」
驚いた若林は、思わず強くハンドルを握りしめた。
「だって、ときどき、ヨットで海に出ているとき、カモが飛んでいるのを見かけると、あなたは無意識にでしょうけど、銃砲を構えて射つような|真《ま》|似《ね》をするんですもの」
「気がつかなかったな……そうなんです。射撃もやっているんですが、|弾《たま》|代《だい》が高くて、ほとんど練習にはいかれませんよ」
若林は苦笑いしてみせた。
「わたしにも射撃を教えて」
「え?」
「だって、射撃の練習場でなら、あなたと毎週でも会えるじゃない」
「弱りましたね」
「積極的な女は|嫌《きら》い?」
「でも……」
「杉山のことなんか、どうだっていいわ。本当のことを言いましょうか。あの|男《ひと》、自分だけ勝手に満足すると、グウグウ寝ちゃうの」
「それは、それは……」
「あなたはちがうわね? そんなにハンサムで弱々しげな表の顔をしていても、本当は強いんだわ」
知子は若林の右肩に頭をもたれさせた。
「買いかぶられては恥ずかしい」
「テストしてあげるわ、今夜」
「…………」
「冗談よ。でも、好き。食べたいほど好きよ」
知子は若林の首筋に腕を捲き、唇を寄せてきた。
「本気にしますよ」
「こっちも本気だわ。今夜、泊ってくれないのなら心中しちゃうから」
知子は若林と唇を合わせながら右手をのばしてハンドルを握った。ハンドルを振りまわそうとする。アクセルに掛けている若林の右足を踏もうとする。
バック・ミラーで後続車が近づいていないことを確めた若林は、強い力でハンドルを左に切り、待避車線に車を寄せた。
エンジン・スウィッチをオフにして、キーを抜き取り、フット・ブレーキを踏む。エンジンがとまったポルシェは、知子がいくらアクセルを踏みこんでも、スピードが落ちていった。
車が停止したとき、若林は緊急時の|四《フォー》ウェイ・フラッシャーを点滅させて追突を防ぐようにし、サイド・ブレーキを掛けると、知子に向き直った。
「僕のことを、そんなに想っていてくれるの?」
「目茶目茶に好きよ」
早くも|濡《ぬ》れたような|瞳《ひとみ》になった知子は若林に体をぶっつけてきた。
山荘の夜
知子を受けとめた若林は、その腰に右腕を廻して引き寄せた。右横の走行車線を通る車は、みんな百キロ以上出しているので、二人が乗ったポルシェのなかをろくろく見もしない。
二人の唇はぶつかった。若林は唇を|痙《けい》|攣《れん》させながら、歯は軽く|咬《か》み、舌は知子の口のなかで引っかきまわす。
子宮を引っかきまわされたようになった知子は、|眉《み》|間《けん》に深い立て|皺《じわ》を寄せて|呻《うめ》いた。若林が舌を引っこめると、今度は知子が舌を差し入れてくる。
二人は交互に舌を駆使した。知子の|牝《めす》の匂いが車内にこもる。助手席のレヴァーに左手をのばした若林は、その|背もたれ《バック・レスト》をうしろにリクライニングさせた。
ちょっとのあいだだけ、二人の唇は離れた。知子は固く|瞼《まぶた》を閉じている。若林は、自分の運転席のバック・レストもリクラインさせた。
再び二人の唇は合った。乗りだした若林の分厚い胸で、知子の硬く張った乳房は|潰《つぶ》されそうになる。
知子は左手で若林のさらさらとした髪を掻きむしり、右手は若林の左手をとって、ミニ・スカートのあいだに誘導した。知子はどうしようもないほど熱く濡れきっていた……。
一時間ほどたってから、若林はのろのろと身づくろいした。シフト・レヴァーにぶっつけた脚が少々痛む。
満ち足りた表情でぐったりしている知子の形のいい脚もアザだらけであった。リクライニング・シートで二本のタバコに火をつけた若林は、目を閉じている知子の唇に一本差しこんでやる。
そのとき、黄色いランプを点滅させたJAFのロード・サーヴィス車が、二人のいるポルシェのうしろに停まった。
ツナギを着た一人が降りてきて、若林側の車窓をノックし、
「故障ですか?」
と、声を掛ける。
「ご苦労さん。もう直しましたよ。いま出るところです」
若林は笑った。
「それはどうも――」
言いかけていた男は、床に落ちている知子のパンティを見て、
「困るな。ここはホテルじゃないんですからね。追突でもされたら、どうするんです」
と、言って、サーヴィス・カーに戻った。
若林は、背後の補助席に縛りつけた知子のトランクを開いた。華やかな色彩の|洪《こう》|水《ずい》のなかから新しいパンティを一枚取り出した。
まだ停まっているサーヴィス・カーを|睨《にら》みつける。その車が発進すると、知子は高々と足をあげてパンティをつけた。バック・レストを起し、
「溶けそうだったわ。まだ|痺《しび》れてるわ。やっぱしあなたは、わたしが想像してた通りね」
と、流し目をくれる。
「大丈夫、脚は痛まない?」
エンジンを掛けた若林は優しく尋ねた。
知子は|膝《ひざ》のアザを|撫《な》でた。
「今は痺れてて感じないわ。でも、明日は痛むでしょうね。明日も痛みを感じないようにして」
「欲張りだな」
若林は笑った。
「そうよ。何回でも欲しいわ」
知子はシフト・レヴァーにかけた若林の右手に自分の掌を重ねた。
緊急避難用|四《フォー》ウェイ・フラッシャーのスウィッチを切った若林は、ルームとフェンダーのミラーで後方から来る車が無いことを確めた。
知子にハンド・ブレーキを外してもらい、クラッチを滑らせて急発進させた。セカンドで百を越えたところで走行車線に戻り、ギアを五速に入れて、のんびりと走らせる。
厚木で東名を降り、新しく出来たバイパスの小田原―厚木道路を抜け、小田原で食料や飲料をしこたま買いこむと、霧の箱根で軽い食事をとった。
伊豆スカイラインに入ると霧は消えた。若林はタイアから煙を吐かせて、コーナリングを楽しむ。悲鳴をあげていた知子も、若林の腕が分って、悲鳴を|嬌声《きょうせい》に変えた。
海沿いの東伊豆有料道路で日が暮れた。ときどき、|接《せっ》|吻《ぷん》を交しながら、若林は再び静かに車を走らせる。
今井浜で舗装道路を右に折れ、|天《あま》|城《ぎ》のほうに向う悪路に入った。河津川沿いだ。
佐ヶ野で下田街道にぶつかると、道はかなりよくなった。山荘は――無論、持ち主は杉山の――、湯ヶ野に近く、河津川に流れこむ清流沿いに二キロほど林道を登ったところにあった。
まわりには、ほかの人家は見えない。近くの滝の音が耳につく。深山の感じがした。
若林は、車に入っていた工具箱からホイール・レンチを出し、それで、バンガロー風の窓に打ちつけてある板を外した。その間に、知子はドアを開いて|屋《な》|内《か》に入り、電気掃除機に|埃《ほこり》を吸わせた。
車から知子のトランクや、小田原で買った食料や飲み物などを取り出して抱え、若林もなかに入る。
その山荘の建物には、渓谷を見おろす広いヴェランダがついている。屋内は、大きな暖炉がついた二十五坪ほどの居間兼ダイニング・キッチンと、三つの寝室だ。
知子が電気掃除機を使っている間に、若林は高床式のヴェランダの下に積んであった|薪《まき》を一抱え運びこんで、暖炉に火を起した。大物猟のときによく野宿したから、火を起すのは上手だ。
知子は寝室の一つの掃除をはじめた。若林は電気冷蔵庫を開いてみて、ビールやウイスキーなどが、凍りそうに冷えているのを知った。夏に放りこんだままらしいスイカが割れている。
冷蔵庫から大量の氷とホワイト・ホースの|壜《びん》を取り出して暖炉の近くのテーブルに運んだ。フライパンと|金《かな》|串《ぐし》を井戸水で洗う。バケツに一杯の水も|汲《く》んできた。
温泉から風呂にパイプで引きこまれている湯を|浴《よく》|槽《そう》に満たした知子が暖炉のほうに戻ってきたとき、若林は暖炉のグリルにフライパンを置いて、ホタテ貝のバター焼きを作っているところであった。
「いい匂い……でも、料理はわたしの仕事だわ。あなたは温泉につかって」
知子は言った。
「自炊で慣れてるんだ。じゃあ、先に入ってくるから、こいつで一杯やっててくれ」
若林はフライパンを火から降ろして立ち上がった。
寝室のあいだにある広い浴室では、タイルの床に温泉から引いた湯があふれて流れていた。ガラス窓の向うに天城の山々が重なって見える。
若林が湯につかってしばらくして、腰のあたりをタオルで覆った知子が入ってきた。小麦色を帯びた皮膚は、湯気のせいと、張りきった肌のためにバラ色に見える。
乳房は谷間の蔭が|蒼《あお》みを帯びて見えるほど大きくプリプリしていた。|太《ふと》|腿《もも》はぴっちりとして左右のあいだに|隙《すき》|間《ま》が無く、|膝頭《ひざがしら》にかけて、素晴しいカーヴを描いて細くなっている。
「こっちを見ないで……」
知子は|囁《ささや》き、若林に背を向けて|蹲《うずくま》った。洗い場の|蛇《じゃ》|口《ぐち》から受けた湯で、タオルをはぐったあたりを入念に洗う。
若林は笑いながら、その知子に、手で|掬《すく》った湯をひっかけた。知子も笑いながら振り向く。もう前を隠していない。
浴槽に入ってきた知子を若林は捕まえようとした。広い浴槽のなかを、知子は若林に湯をひっかけながら逃げまわる。
しぶきをあげて若林は追った。すぐには捕まえないように加減して知子を楽しませてやる。
捕まえた知子を引き寄せると、乳房を通じて心臓の鼓動が伝わってきた。耳に唇を寄せながら若林は、
「こんなところを杉山さんに見られたら、殺されちまうぜ」
と言った。
「あっさり殺されてしまうことないわ。こっちが反対に殺したらいいのよ」
知子は言った。
「え?」
若林の表情が硬くなった。
「冗談よ。あの|男《ひと》に見つかりっこないわ。見つかったところで、わたし、あの男の持ち物じゃあるまいし……そんなこと心配するのはやめましょうよ。わたしたち、二人とも若いんだわ。のびのびと楽しまないと」
「そうだな。君はこんなにも素晴しいし」
「あなたも素敵よ。この|凄《すご》い体……」
知子は両手で掴もうとしても足らない太さの若林の腕に軽く歯を当てた。再び体をぶっつけてくる……。湯のなかでも知子は津波に|攫《さら》われたが、若林は食後のために残しておいた。知子を軽々と抱きあげて、暖炉の前に戻る。
長いあいだ湯に包まれていたためと激しい運動、それに暖炉の熱で、裸でいても寒くはない。
新しく薪を大量に暖炉に放りこんだ若林は、その薪に火が移ると、|熾《おき》|火《び》を|脇《わき》に寄せた。熾火で|串《くし》に刺した肉を|炙《あぶ》る。
「あなたが世間に見せているのは、仮りの姿だって感じが、ますます強くなってきたわ」
と知子が呟いたのは明けがた近くになってからであった。ベッドでだ。
「そんなことないよ」
目の下に|隈《くま》が出来た知子の髪をくわえながら、若林は答えた。いささか、くたびれている。
「いいえ、そうだわ。あなたは、一生をサラリーマンで終る気はないでしょう?」
「どうだろうな」
「杉山のようにつまらない|男《ひと》が腐るほどお金を持っていて……世のなかは、ままならないものね」
|俯《うつ》|向《む》いてタバコをさぐりながら知子は言った。
若林はそっと、何人かの血を吸った自分の右手を見た。軽い|溜《ため》|息《いき》をついて、
「しようがないさ。それよりも、杉山さんの話で思いだしたんだが、現金輸送車から強盗に奪われた金は、通しナンバーの紙幣ではないから、ナンバーを控えられてない筈なのに、なんであんな発表をしたんだろう?」
と本題にさりげなく入った。
「奪われたお札の半分ほどは、ナンバーの控えをとってあった、ということ?」
火をつけたタバコを二、三服吸ってから、|仰《あお》|向《む》けになっている若林の唇に差しこみながら、知子は言った。
「そうなんだ。あれは本当のことなのかな?」
くわえたタバコの煙と共に若林は、わざとだるそうな声を出した。
「あれは|嘘《うそ》なのよ。警察に頼まれて、ああいうことにしたのよ。でも、どうして、そんなことを覚えているの?」
「別に……ただ、ちょっとおかしいな、と思ったもんで」
若林も俯向けになり、タバコの灰を灰皿に落した。
「あのことはね、犯人が何人かいたら仲間割れさせようとして、ああいうふうに発表したそうよ。だって、どれを使ったら安全か分らないお金の強奪計画を立てたやつは、残りの連中に恨まれるでしょう? それに、どうせ半分のお札のナンバーは分ってないんだから、と言って分け前を使おうとするやつと、それでは足がつく、と言って止めようとするやつが|喧《けん》|嘩《か》になることだってあるでしょう? もし、射ちあいでもはじめたら、一ぺんで捕まるわね」
知子は笑った。
「なんだ。そういうことだったのか」
肩の重荷が降りた気持で、若林はつい浮き浮きとした声で言った。
「それに、せっかくお金が手に入っても、犯人たちは使えないので、また次の犯行を重ねるかも知れないわ。次にどこかで事件を起したら、そのときこそ捕まえると言ってるそうよ……あの|男《ひと》の話では」
若林の表情を盗み見ながら知子は呟いた。
「そうだったのか」
若林は灰皿でタバコを|揉《も》み消した。表情を見られないように、知子の体をこちら向きにさせて乳房の谷間に顔を埋める。
知子はその若林の髪に指を|捲《ま》きつけた。
「わたし、こんな想像をしてみたの。あなたが一人で、あの|男《ひと》の会社の現金輸送車を襲う場面よ。迫力があったでしょうね」
「馬鹿なこと……を」
若林は息が一瞬とまった。
「怒らないで、ただの空想なんだから」
「…………」
「あなたは|豹変《ひょうへん》したのよ、|大人《 おとな》しい人生に|諦《あきら》めきったような羊の皮を脱ぎ捨てて、豹の正体を現わしたんだわ。想像しただけでまた変な気分になってきたわ」
と、夢見るような瞳で|呟《つぶや》き、若林に脚を捲きつける。
「僕には、そんな度胸も実力もないよ」
「でも、あなただって夢見たことはあるでしょう? 一生好きなことをして暮してお釣りがくるほどの大金を掴んで会社に辞表を|叩《たた》きつけ、仲間にもお金にもわずらわされずに、クルーザーで南の島々や地中海を廻ったり、アラスカで|大《おお》|熊《くま》やカリブーを射ったり、アフリカでライオンや象を射ったり……その夢の場面にわたしも登場させてもらえたら最高だけど」
「それはね。僕だって若いんだ。青春の大半をただ月給をもらうために浪費したくはない。こうやっていま君と一緒にいるときのような、人生を本当に生きているという実感を味わえる時は、馬鹿げた仕事に食われる時間の、何百分の一、いや何千分の一の時間でしかないんだ。そうやって年をとっていっても、停年となったときのわずかな退職金まで分っているんではな」
硬くなってきた乳房を|弄《もてあそ》びながら若林は呟いた。
「あなたの月給の十倍は、杉山は一日で|稼《かせ》いでいるわ。脱税でよ。|口《く》|惜《や》しいと思わない?」
若林の手の動きがとまった。
「わたしは口惜しいわ。マンションの続き部屋と車と月に十万の手当てと引き替えに、わたしは若さをあの|男《ひと》に|捧《ささ》げたのよ。他人の前でハーレムの女奴隷扱いにされても我慢してないといけないの。もう、あの下品なヒキガエルには我慢出来ないわ」
「杉山さんのことを、そんなふうに言うもんじゃない」
「本当にそう思ってるの?」
知子は上体を起して、上から若林を覗きおろした。
|眩《まばゆ》い陽光
若林は上になっている知子を見つめ返した。
その瞳の光りが次第に強くなってくる。しかし、ふっと気弱そうな仮面の表情に戻って瞳の光りを消し、
「どういう意味なんだ?」
と呟く。
「どういう意味って?……言った通りの意味よ。もう、あんなヒキガエルにわたしの青春を捧げていることに我慢できなくなったの」
「…………」
「あなたは、本当は杉山のことをどう思っているの、って|尋《き》いてるのよ」
知子は休止している若林のものを花弁で奮いたたせようとしながら言った。
「…………」
若林は|瞼《まぶた》を閉じた。
「ねえ、言って。わたしを信用してくれないの? わたし、告げ口するような女じゃないわ」
知子はじれったそうに催促した。
「じゃあ言おう。何とも思ってないさ。あいつのクルーザーに乗りたいから頭をさげているだけだ。もっとも、脱税しているにしても、あれだけ金を持っている奴を見たら、うらやましいとは思うがね」
若林は呟いた。
「脱税したお金を隠してある場所が分ったら?」
と体を落した知子は、若林に乳房を押しつけ、首筋に唇を当てるようにして言った。
「分るのか?」
「分ったらどうするの? あいつは、たとえ奪われたところで、表|沙《ざ》|汰《た》には出来ないわ。脱税がバレて、重加算税や懲罰金をかけられたら、破産してしまうもの」
「…………」
「今はどこに隠してあるか、よくは分らないわ。大体の見当はついてても。でも、あなたが本気でやる気があるなら、そう長くかからない間に、あいつの口から聞きだしてみせるわ」
若林の首筋を舌で軽く突つきながら知子は|囁《ささや》いた。
若林は再び|甦《よみがえ》ってきた。瞼を閉じたままで、
「夢の話をしよう。その夢で、もし僕が杉山の脱税金を手に入れたとしたら、君はどうしたい? どこに行きたい?」
「スウィスの銀行にお金を預けておいて、パリやローマで暮したいわ。|勿《もち》|論《ろん》、あなたと一緒に……でも、あなた、向うのブロンドにうつつを抜かして、わたしを放ったらかしにしては|嫌《いや》よ」
知子は若林の頬を軽くつねった。
「たまの浮気も駄目?」
「それは仕方ないわ。でも、病気には気をつけてね」
「君こそ、ラテン系の色男に夢中になるんじゃないかい?」
「そうしたら、|妬《や》いてくれる?」
「ああ」
「もっと、夢のゲームを続けましょうよ。杉山の脱税金が手に入ったとして、それを海外に持ちだすにはどうすればいいの?」
体をずらせて迎えながら知子は言った。
「何億という現ナマだとかさばる。そのままでは、とてもじゃないが、飛行機に乗せられない。税関でバレてしまう」
ゆっくりとリズムをとりながら若林は言った。
「秘密を守ってくれるスウィスの銀行の日本支店を紹介してくれるひとがいたらいいんだけど……こっちで振り込んでおいて、国外で使えたらいいわね」
「…………」
「そうだ、ヨットがいいわ。ヨットのなかに隠して、国外に持ちだすのよ」
「そいつはいい。だけど、ちゃんとパスポートとヴィザを取ってからでないと、向うに着いてから上陸出来ない。上陸したら捕まる」
「パスポートとヴィザをとったらいいわ。あなた、まさかいま関税法違反で執行猶予じゃないでしょうね? だったら、一週間かそこらで許可がおりる筈よ」
早くも息を乱しながら知子は言った。
「だけど、クルーザーで国外に向うときだって、パスポートに出国のスタンプを押してもらわねばならないわけだ。クルーザーには隠し場所が多いからハーバーに出張してきた税関吏の目はごまかせても、新聞や雑誌やTVなどの記者が押しかけてきて派手に書きたてたり、フィルムを廻したりしたら、杉山に知られてしまう。もっとも、杉山の“ニンフ二世”は使えないから、別のクルーザーを手に入れるわけだが、クルーザーで太平洋を渡るというのでマスコミの話題になったりしたら、税務署に目をつけられる」
「日本に帰ってこなかったらいいんだわ」
「そういうわけだ。それに出港のときも、一番近くの外国、そうだな、沖縄経由でタイワンにでも行くという表向きの発表をしたら、記事にはならないだろう。珍らしいことじゃないから」
若林は言った。
「そうだわ、それがいいわ」
「じゃあ、夢の話は一時休止だ」
若林は知子の腰をぐっと引き寄せた。瞳はギラギラ光っている。
月曜日から、再び若林の表の生活がはじまった。朝礼の時間、犬飼課長は、
「今週の目標は、一日の訪問先を百軒にひろげることだ。五時に一たん帰社してから、その日一日の訪問先のデータを書きこんだレポートを作って提出してくれ。そのレポートをもとに、私や係長と最も効果的なセールス計画を検討してから、見こみがある客に夜討ちをかけるんだ。したがって、今週の売り上げノルマは、一人につき二軒だ。日曜も出社して、屋上で坐禅を組む。催眠術の先生もお呼びしてあるから、日曜も必ず出社するように」
と、言う。
「催眠術といいますと?」
課員の一人が尋ねた。
「君たちの潜在能力を呼びさまし、セールス根性をみずから盛りあがらせるためだ。やる気を起させるには催眠術が一番いい。君たちは能力がありながら、せっかくの能力を充分に発揮していないんだからな。こっちが自信を持って売りこめば、客は必ず買ってくれる。商品の良し悪しなど関係ない」
「しかし、一週に二つの契約を取れとは無茶じゃないですか? 車ならともかく、家ですからね」
「何を言っとるんだね。成せば成る、という真理を忘れたのか? やる気がない奴は、一生下積みで金にピーピーして終るんだ。これから皆で“|俺《おれ》はやるぞ!”と、合唱しよう……さあ、一、二、三――」
課長は両足を踏んばり、それから右足を一歩踏みだして両手をあげ、
「俺はやるぞ!」
と絶叫した。
「俺はやるぞ!」
課員たちは課長の真似をした。
若林は馬鹿馬鹿しさをこらえながら、みなのやる通りにした。ヘドを吐きたい。
「三百六十五日、二十四時間勤務を心に念じろ!」
「そうだ!」
「バイタリティのある男になろう!」
「そうだ!」
「じゃあ、もう一回“俺はやるぞ。売って売って売りまくるぞ!”と合唱」
こういう具合で、その週ははじまったわけだ。
あれから、現送車襲撃事件の捜査のほうは、はかばかしい進展を見せてないようであった。そして若林は、知子が自分の犯行について、何らかの確証を握っているのではないか、と思い悩んでいた。
知子が確証を握っている筈は無いが、この前に彼女が言ったことは気になる。それに、杉山が脱税した金の隠し場所や金額も。
だが、針のムシロに坐っているような状態でありながらも、土曜までに若林は二件の契約をとってノルマを果した。
土曜も夜まで働かされ、新宿のヤキトリ屋で一杯やってから借家に帰ってみると、また府中の登記所に勤めている雅子が庭の|籐《とう》|椅《い》|子《す》で待っていた。
「五時間も待ったわ」
と、立ち上がる。
「済まない。来てると知らなかったんで。今週は毎日、夜まで働かされたんだ。明日は日曜なのに、朝早くから出社して、坐禅を組まされ、催眠術をかけられるんだ。|嫌《いや》になったよ」
若林は雅子を抱き寄せながら言った。
「本当?」
「会社に電話してみてごらん。ノルマを達成しなかった連中が、今の時間でも、まだ反省会をやらされているから」
「セールスの仕事って厳しいのね」
「まあ、売ったら収入になって返ってくるからな。今夜もゆっくり出来ないけど、久しぶりに君を可愛がるぐらいの時間はあるよ」
「精がつくものを買ってきたわ。今夜は飛びきり分厚いビフテキよ」
籐椅子の上に置いた買い物の紙袋を示した雅子は若林にもたれかかった。
「電報!」
と、バイクに乗った電報局員がやってきたのは、ワインでステーキを食い終えた若林が、膝の上に乗せた雅子を|愛《あい》|撫《ぶ》しているときであった。
「何だろうな?」
と、呟いた若林は、目がとろんとしている雅子をベッドに運び、ズボンのベルトをつけると玄関に出る。
電報は知子からのものであった。
話したいことがあるから、明日、小網代の別荘に来てくれ、という意味のものであった。若林はライターの炎で、その電報の紙を焼き捨てた。
寝室に入ると、スリップ一枚の雅子が半身を起した。
「何だったの?」
「会社からだ。明日は時間を早めて、朝の六時半から坐禅をはじめることになった、というんだ」
若林は肩をすくめた。
「ひどいわね。そんなところ、やめてしまったら?」
「しようがないさ。どの会社に移っても、今は猛烈社員が期待されているようだから、役員にでもならないかぎり、しごき抜かれるだろう」
服を脱ぎながら若林は言った。
「そういうことじゃなくて、独立するのよ。独立して、代理店を経営したら?」
「先だつものが無いんじゃあね」
「わたしがためてきたお金を廻してあげるわ。少しだけど……」
「有難う。でも、いいんだ。そこまでは君の世話にならないよ。好意だけを、有難く頂いておく。うれしいよ」
若林は雅子にかぶさった。
翌朝六時、まだ眠気がさめない雅子を、チューン・アップしたスズキ・フロンテの軽四輪で|国《くに》|立《たち》のアパートに送った若林は、新宿に向けて飛ばした。日曜の早朝だから|空《す》いている。
新宿駅の近くに、旅行者や深夜働く者を目当てに、二十四時間やっているサウナ風呂がある。
そこの売店で新しいパンツとTシャツを買った若林は、サウナの熱気で汗と共に雅子の匂いを落した。マッサージを受ける。
サウナに付属している仮眠用の個室を三時間借り、ぐっすりと眠る。
係りの者に起され、顔を洗うと、輝くばかりにハンサムな若林の顔が鏡から見つめ返していた。
外に出ると、太陽がギラギラしていた。狂った陽気が続く年で、春なのに冬と真夏が交代でやってくるのだ。
車の窓を開け放した若林は、第三京浜に向う。郊外にドライヴする白ナンバーで道は混んでいたが、軽四輪の強みで、空いている左端をすり抜けていくから、平均スピードを高くとれた。道の左端に駐車している車があっても、加速のよさと小柄なボディを利して、安全に右にかわす。
横浜新道を抜け、江の島で海水パンツを買った。三崎街道に出ると、陽の光りを|撥《は》ね返す右手の海と、何十隻ものヨットの帆が散らばっている。
丘の上の畠を|潰《つぶ》した杉山家の駐車場には、知子のポルシェがとまっていた。またどこかをぶつけたらしく、フェンダーが引っこんでいる。
その横に自分の車を置いた若林は、サン・グラスを拭い、|小《こ》|径《みち》を通って丘から入江のほうに降りていった。トカゲが素早く小径を横切る。
テラスとボート用の|桟《さん》|橋《ばし》が海にのびた杉山の別荘は、あいだにある小さな|岬《みさき》にさえぎられて、町寄りに|錨泊《びょうはく》している“ニンフ二世”からは見えない。別荘の前の入江は浅くて、バラスト・キールが深いクルーザーが入ってこれないのだ。
大地からの照り返しで、上着を脱いで|肘《ひじ》に掛けている若林は汗ばんできた。
丘を降りると、左手の別荘が目に入る。ビキニ姿の知子が、やはりサン・グラスをかけ、ロッキング・チェィアーに腰を降ろしていた。
入江の海面からの照り返しで、知子の顔や体にさざ波がたっているように見える。若林は、足音に驚いて逃げようとするアカテガニを捕まえ、それをテラスに向けて投げた。
小さなカニは、知子の近くに落ちた。
それで気付いた知子は、近づく若林に振り向いた。ポーズをとって立つ。
岩畳から降り、波打ち際のそばを通った若林は、|靴《くつ》を脱ぎ、|梯《はし》|子《ご》を身軽に駆け登って広いテラスに着いた。
「やあ、話って?」
と、つとめてほがらかそうに言う。
「あとでゆっくり。悪い話じゃないわ。それより、あなたも脱がない? 日曜でしょう? のんびりするのよ」
知子は言った。
「|喉《のど》が渇いたな」
「いま用意するわ。ビール? コーラ?」
「ビールがいい」
若林はテラスから、開け放たれたフランス窓を通って、船のムードを出しているサロンに入った。
素っ裸になり、海水パンツをつける。冷蔵庫を開けている知子に、
「でも、こんなところをクルーの連中に見られたら、何と言われるだろうな?」
と、呟く。
「大丈夫よ。あのクルーザーは朝早く出ていったわ。大島に行くんですって」
「大島なら、あの連中の腕でも大丈夫だろう」
若林は、テラスに出ると、知子が坐っていたロッキング・チェィアーの横に、もう一つの揺り椅子を寄せた。サイド・テーブルにタバコやライターを置く。
裸の肌に陽が暖かい。サン・グラスを掛けていても、海面の無数の小さな光りが|眩《まぶし》いほどだ。
よく冷えて|罐《かん》の肌が汗をかいているビールを数個と、キャヴィアのカナッペを知子が運んできた。二人の椅子のあいだのサイド・テーブルに置く。
若林は二本の罐に孔をあけた。一つを横に腰を降ろした知子に持たせ、罐をカチンと合わせる。
一気に飲み干して口の|泡《あわ》を拭い、二個目に口をつける。
「これでこそ人間にふさわしい生活だな。生きていると言える」
と、呟き、今ごろは会社のビルの屋上で気違いじみたシゴキを受けている同僚たちの姿を想像する。
密 談
陽はますます強くなり、海は体がだるく|痺《しび》れてくるほどゆらめいた。
「泳ぎましょうよ」
罐ビールを置いた知子が立ち上がった。サン・グラスを外す。
若林もサン・グラスを外して立ち上がった。肌は陽に|炙《あぶ》られて軽く赤みがかっている。
専用の桟橋の下は浅い。水は腰の上までしかない。水面近くは暖かいが、底のほうはまだ冷たい。
その入江を、対岸の小さな岬に向けて、ビキニ姿の知子は泳いだ。若林に捕まえてもらいたい、と言いたげな|媚《び》|態《たい》を見せながら、全身がくねった。
若林は一度浅い水の中に|蹲《うずくま》り、胸までつかってから、力強いストロークで泳ぎはじめた。桟橋から百メーターほど離れた対岸の岬との中間の一番深いあたり――と、言っても、やっと首の下にとどくぐらいだが――で、知子に追いつく。
知子の下をくぐって前に廻りこみ、浮上すると知子のほうに向きを変えた。知子を抱きしめ、唇を合わせると、水中に引きずりこむ。
その海水はあまり汚れてないので、水中で青白い色に変化した知子の|肢《し》|体《たい》の暴れるさまがよく見える。
知子の息が続かなくなる頃を見はからって、若林は放してやる。勢いあまった知子は、腰の近くまで水上に跳びだした。
若林はまだ潜ったまま、息を吸った知子の足首を引っぱった。知子は|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な悲鳴をたてる。そんなことをしながら、ふざけあって泳いでいる間に、二人は入江の奥深くに来た。そこには、海に転がった幾つかの大きな岩に囲まれて、どの別荘からも|覗《のぞ》きこまれない場所があった。
そこは、腰の上までの深さであった。二人は底の小石に足をついて立つ。
さっきのふざけあいでそそられていたらしく、知子はビキニを取り去って岩の上に投げた。
知子の|海《かい》|藻《そう》が水中で揺れるのが見えた。知子は若林の胸に唇を当て、海水パンツを降ろそうとしながら、
「乱暴にして……目茶苦茶にして……」
と、|呻《うめ》くように言う。
陽に背を焼かれながら、若林は足を踏んばり、知子の欲望に|応《こた》えてやった。後の門に指を差しこむ。
知子はスリルに味付けされ、急激に頂点に達した。背をのけぞらせ、したたかに水を呑む。
知子が|溺《おぼ》れないように、若林は抱き起した。若林はまだ終っていない。
水を吐いた知子は、乾いた岩畳の上にぐったりと仰向けになる。若林は、激しいピッチで五分ほど泳いで、まだ硬いあたりを|鎮《しず》めた。夜にそなえて、スタミナを保存しておかねばならない。
別荘に戻り、ビールとチキン・サンドの昼食をとったあと、二人はテラスの|陽《ひ》|蔭《かげ》に二つのキャンヴァス・ベッドを引っぱりだして午睡した。
肌寒さを感じて若林は目を覚ました。もう太陽は大きく傾いている。湾に出ていたゴイサギの群れが、別荘の裏手の丘の|断《だん》|崖《がい》に生えた木々に戻ってきている。
知子はもう起きて、夕食の仕度をしていた。キャンヴァス・ベッドを畳み、浴室に入る若林に、とろけるような流し目を送った。
浴室で熱いシャワーを浴びた若林は、ズボンとシャツをつけた。冷蔵庫からレモン・ジュースの|壜《びん》を出し、テラスのロッキング・チェィアーに戻る。
落日であった。海は鈍い血の色に染まり、対岸の湾口に近いシーボニア・クラブのハーバーにつながれているクルーザーの群れのマストの影が|海《うみ》|蛇《へび》のようにのたくっている。
知子が近づき、タバコに火をつけた若林の肩に手を置いた。
「どう、こんな生活をずっと続けてみたくない?」
と、言う。
「いいな。借りものの別荘でないところで」
若林は呟いた。
「今に出来るわよ」
知子は|謎《なぞ》めいた言葉を残して再び台所に消えた。
若林は落日から|夕《ゆう》|闇《やみ》へと移っていく海を飽かずに|眺《なが》めていた。外洋で、クルーザーのコックピットから眺める海と空の色彩の変化もいいが、こうやってくつろぎながら眺めるのもいいものだ。
会社の同僚たちは、今頃はシゴキから解放されただろうか、と考える。俺は明日出社したら、特訓に無断欠席した言いわけをしゃべらねばならない。会社など、いつでも辞めてやることは出来るのだが、一応表の顔をつくろっておかねばならない。
湾口に、セールを力無く垂らした一隻のクルーザーが戻ってきた。早朝出港した“ニンフ二世”ならまずい、と思ったが、夕闇のなかにも見えるセールの色から、ほかの船と分る。
“ニンフ二世”は、今夜は大島泊りなのであろう。そうだと、クルーたちが、この別荘にシャワーを借りに来ることは無い。今夜はゆっくり知子を愛撫して、彼女の本心を|尋《き》きだしたい。
若林が眠っている間に、先に起きた知子はポルシェを飛ばして、三崎の市場で新鮮な魚を仕込んできてあったらしい。
夕食には魚のタタキや刺し身、それに貝類やエビ類が豊富に並んだ。若林はウイスキーの水割り、知子はマンハッタンを飲んだ。
長い時間をかけた食事が終ると、知子は電灯を消し、ステレオを掛けた。二人はテラスに出て、月光のもとでスローでムーディな曲に合わせて踊る。
踊ると言っても、ほとんど足の位置は変えず、密着させた頬と胸と腰をこすりあわせるだけだ。
五、六曲踊ると知子は、
「もう我慢できなくなってきたわ……」
と|喘《あえ》ぎ、若林のズボンのチャックに手を掛ける。
若林は、その知子を抱きあげ、月光の鈍い反射のなかで、二階の寝室に運んだ。
それから三時間ほどたった。若林をはさんだまままどろんでいた知子は、|溜《ため》|息《いき》と共に目を覚ました。
充分に午睡をとったので、若林は目が|冴《さ》えていた。
月光がその顔に深い|翳《かげ》を落している。
「タフね。また、しっかりしてきているわ――」
知子は体内に感じる若林に感嘆したあと、
「また、夢の話をはじめましょうよ」
と、切りだした。
「ああ、待っていたんだ」
若林は答えた。
「あれから杉山と会ったわ」
「どうだった?」
「ベロベロに酔わしてから、散々じらせてやったわ。早くわたしを抱きたい一心で、あいつ、ベラベラしゃべったわ。もっとも、|呂《ろ》|律《れつ》が回らないときもあったけど」
低く笑いながら知子は言った。
「それで?」
脈打つものをはじきあげながら若林はうながした。
「あいつ、隠し財産は、現金だけでも六億を越すって威張っていたわ。だから、現金輸送車から奪われた金なんて、たいして惜しくないって」
「隠し金はどこにあるのか分ったのか?」
「ええ。あいつの言ったことが本当なら……」
「じらさないで言ってくれ」
若林は|瞳《ひとみ》を光らせた。
「本当に知りたい?」
知子は若林の瞳を見つめた。
「…………」
若林は見つめ返した。
「知ったら、どうするの? もう、夢の話は終りよ。現実の話をしましょう」
「君が僕にやってもらいたい、と望んでいる行動をとる。期待は裏切らない積りだ」
若林は|圧《お》し殺したような声で言った。
「とうとう、本心を打ち明けてくれたわね。うれしいわ」
「そのかわり、君が|囮《おとり》だったら殺す。ナイフも|拳銃《けんじゅう》も無くとも、|素《す》|手《で》でだって首をへし折ることは簡単だ」
知子から抜いた若林は|俯《うつ》|向《む》けになった。手をのばし、クリスタル・ガラスの水差しを取りあげた。
左手で水差しの胴を握り、右手でそれの首をひねる。ふくれあがった肩と腕の筋肉がちょっとだけ|痙《けい》|攣《れん》したが、次の瞬間、水差しの首は切れ目をつけておいたアンプルのそれのようにへし折れた。
首が折れた水差しをサイド・テーブルに戻した若林は、|枕許《まくらもと》の近くに飛び散ったガラスの破片をベッドから払い落した。
知子はかすかに身震いした。
「囮だなんて……わたしはわたし自身のために……いいえ、わたし自身とあなたのためだけに、今度のことを考えついたんだわ。ひどいわ」
「もしもの話なんだ」
「それより、いざお金が手に入ったら、あなた、わたしが邪魔になるのでないの? 邪魔者は消せ、なんてことになっちゃ|嫌《いや》よ」
「馬鹿なことは考えるなよ」
「信じているわ」
「僕もだ」
「杉山は脱税して貯めたお金を、奥さんの実家に隠してあるのよ。あいつは税務署の調査に弱いからって、銀行を信用してないもの」
知子は言った。
若林はタバコに火をつけた。深く煙を吸ってから、知子の口に吸い口を移し、
「奴の女房の実家はどこにあるんだ?」
と、吐きだす煙と共に尋ねる。
「新潟よ。|直《なお》|江《え》|津《つ》の近くの村だわ。昔は大地主だったそうよ。農地解放で田んぼの大部分は取りあげられたと言ってたわ。でも、山林は残っているし、残った田んぼは養魚場にして|鯉《こい》を飼っているから、生活には全然困らないようね」
知子は言った。
「直江津の近くというと?」
「こっちから行くと、高田から右にずっと入っていったところ、|中《なか》|頸《くび》|城《き》郡の|三《み》|輪《わ》村だわ」
「豪雪地帯だな」
「知ってるの?」
「毎月とっている猟の雑誌に、あのあたりのことがよく載る。割りと有名なキジとウサギの猟場だ。もっとも有名になったのは近頃で、有名になってからはハンターが殺到して、あんまり|獲《と》れなくなったらしい」
若林は答えた。半分も吸わないタバコを灰皿で|揉《も》み消して仰向けになる。
「そうなの? あの奥さんの実家には、六人の兄弟がいるわ。みんな子供もいるわけだけど、一つの家に住んでいて、冬になると鉄砲ばかり射っているということだわ」
「六家族が一つの家に住んでいるのか?」
若林はビロードのような|眉《まゆ》を|吊《つ》りあげた。
「ええ。それを聞いても、いかに大きな家か分るでしょう?」
「アパートみたいなもんだな」
「杉山は戦前、直江津の映画館でマネージャーをやっていたのよ。映画を見に来た奥さんに目をつけ、大地主の娘ということを知ると、無理やりに手ごめにして、東京に|駈《か》け落ちしたの。三年で奥さんの実家の怒りは下火になったわ。それを待っていた杉山は、奥さんと子供を連れて奥さんの実家に|詫《わ》びを入れに行ったの。帰りには、当時のお金で何十万ももらって、それで上野に広い土地を買って映画館を建てたのが成功のはじまりよ。戦災で映画館は焼けたけど、土地は消えるわけはなかったから……」
「そうか」
「杉山の隠し金は、奥さんの実家の地下にあるの。地下が金庫室になっていて、その|鍵《かぎ》は奥さんが肌身離さず持っていて、ダイアル錠の組み合せ番号は杉山だけが知っているの。金庫室のダイアル錠の工事をした錠前屋は、十年も前に死んでしまったそうよ。実家の連中は|勿《もち》|論《ろん》、ダイアル錠の組み合せ番号も知らないし、なかにいくら隠されているのかも知ってないわ」
「なるほど……」
「ダイアルの組み合せ番号だけは、どうしてもあいつはしゃべらなかったわ。でも、金庫室の|扉《とびら》はダイナマイトで吹っ飛ばすという手もあるんでしょう?」
知子は言った。
「そんな手荒な手法は最後の手段だ」
「あの実家は、杉山から毎月五万の手当てをもらっていて、地下の金庫室に降りる部屋には、年がら年じゅう、交代で三人ずつ六つの家族のうちの|誰《だれ》かが見張りをしているそうよ。鉄砲を持って……」
「分った。それで、その実家というのは、近所の家と離れているのか」
「ええ。それに、すぐ裏が、あそこの家が持っている山だって……」
「なるほど。電話はあるのか」
「さあ」
「一度じっくり調べてみてくる。あわてることは無い。あのあたりは、田んぼの|苗《なわ》|代《しろ》を荒すカモや植林を荒すウサギをやっつけるという目的で害鳥駆除や害獣駆除の許可をよくもらって、猟期外でもキジ射ちをやることがあるんだ。そんなときには、男たちは猟に夢中になって、みんなで家を|空《あ》けてしまうかも知れない」
「…………」
「六億となると、たとえそれがみんな一万円札でも、八十キロもの重さになる。金庫室をうまく開くことが出来たとしても、手早く現ナマを運びだすにはどうやったらいいのかということも考えなければ……ともかく、一度現地に行ってみる」
若林は言った。
「顔を覚えられないようにね」
「分ってるさ」
「これから、あなたと、どうやって連絡をとったらいいの? 話がこう決まってみると、大っぴらに会うのが急に怖くなってきたわ」
「用心するに越したことはない」
「しばらくは会えないか知ら?」
「そのほうがいいだろう」
「じゃあ、朝まで愛して」
知子はしがみついてきた。
「ちょっと待ってくれ。連絡のとりかただ。僕のところに電話は無い。それかと言って、会社に電話してこられたらまずい」
「あなたのほうから、毎日電話してよ。うちのところは、電話は直通になっているの。杉山が、マンションの交換台を通すのは|嫌《いや》だ、といって……」
「毎日だとまずい。市外電話でなかったら、どこから掛かってきたかは電話局に記録されてないらしいが……用があるときだけ電話する。僕と君の偽名を決めておいて、君が僕に用があるときには、地下鉄の四谷駅の伝言板に書くか、会社の近くの中央公園にポルシェで来てくれ。社に僕がいるときには、僕のデスクからあの公園が見えるんだ。どうしても待てない緊急の用があるときには、社に偽名を使って電話してきてもいいし、会社の名で僕の借家に電報を打ってくれてもいいが……」
若林は言った。
出張セールス
朝が来た。
鳥の声に混って、まだ薄暗いのに出港する釣り船の焼玉エンジンの音が、気だるげに海面を伝ってくる。
二時間ほどしか眠っていない若林は一度目を覚ましたが、焼玉エンジンの音を聞いているうちに、睡魔に|瞼《まぶた》を優しく撫でられた。
再び眠りこもうとしたが、サラリーマンの習性で、ハッと目を|醒《さ》ます。無意識にサイド・テーブルのタバコをくわえて火をつけた。
充分に閉じてなかったカーテンの|隙《すき》|間《ま》から漏れてくる灰色の明りのなかで、素っ裸の体の腰のあたりだけを毛布で覆って眠りこけている知子が見える。
昨日の陽気が嘘のように寒い。若林は、鳥肌をたてている知子の体を毛布で覆ってやり、ベッドから降りた。
素足で階段を降りる。昨夜の|宴《うたげ》の跡がそのままになっているサロンを横切り、浴室に入ると、冷たいシャワーを浴びて眠気を拭い去った。
それから、熱い湯と冷水を交互に浴びながら|髭《ひげ》をそる。浴室から出ると、軽く身震いしながら寝室に戻り、服をつける。
知子が薄く目を開いた。
「もう行ってしまうの?」
と、呟く。
「別れはつらいが、会社を休んだら、あとで困ることになるかも知れない。打ち合わせたことは忘れてないから安心してくれ」
「元気でね」
「じゃあ、しばらくの辛抱だ」
若林は知子の顔に軽く唇をつけた。
外に出ると、新鮮なオゾンを胸一杯に吸いこむ。今日は晴れにはならないらしく、雲が低く、太陽はまだ顔を出さない。
丘の上に|駐《と》めてあったスズキ軽四輪のチューン・アップ車に乗りこんだ若林は、チョークを一杯に引いてからエンジンを掛けた。水冷式に改造してあるから、水温計が動きはじめるまで、二千五百回転に保って待つ。
カー・ラジオのスウィッチを入れる。朝のニュースをやっていた。若林がやった現金輸送車襲撃と、大場殺しの捜査情況も伝えられたが、はかばかしい進展はしてないらしい。
ラジオを消した若林は発車させた。
新宿に着いたのは、八時半頃であった。中央公園の駐車禁止でない場所に車を駐めた若林は、社の近くの喫茶店でモーニング・サーヴィスで半熟卵とトーストがついたコーヒーを飲みながら、昨日の欠勤届けを書く。
出社してみると、まだ始業時間には二十分ほどあるのに、係長もデスクについていた。若林は神妙な表情で欠勤届けを差しだし、
「ここに書いてあるように、一昨日、用があって神奈川の親類を訪ねたところ、シメサバが古くなっていたらしく猛烈な食当りにかかりましてね。やむなく昨日は休ませていただきました」
と、言う。
「電話ででも連絡できたろう?」
係長は冷たい目で言った。
「何しろ、山の中で電話も無く……」
「電報だって打てた筈だ」
「郵便局まで遠いので、そこまで行ってもらうのが気の毒で……課長さんによろしくとりなしてください」
「しようがない。これからは気をつけてくれ。昨日は実に有意義な特訓だったのに残念だ」
係長は言った。
若林は自分の小さなデスクについた。まわりの同僚に、
「どうだった?」
と、小声で尋ねてみる。
「迷いが吹っ切れたようだ」
と、言って、欠席した若林を|憐《あわ》れみの視線で見る者もあったし、
「俺は居眠りばかりしてたよ。会社は労働基準法を何と思っとるんだろうな」
と唇を|歪《ゆが》める者もあった。
翌々日、セールスに出る筈の若林は、渋谷のレンタ・カー会社で、白いマツダ・コスモのスポーツを借りた。
|中《なか》|仙《せん》|道《どう》を新潟のほうに向けて吹っ飛ばす。ミッションのシンクロにガタがきている車であるが、|二《ツー》サイクルのような排気音をたてて空ぶかしさせながらダブル・クラッチを踏み、ダンプやトラックを右から左からツバメのように抜いて、平均速度を高く保った。
|碓《うす》|氷《い》峠ではカーヴ・ミラーを覗きながら、黒煙を吐いて|喘《あえ》ぎながらつながっているトラックの群れを強引に抜く。軽井沢を過ぎると、道はガラ空きになった。
渋谷を出てから三時間少々で高田市に着いたのだから、瞬間時速はしばしば百八十キロを越えたことになる。
静かな城下町高田は、上杉謙信ブームで、観光バスから団体客が吐きだされ、騒々しい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》になっていた。
だがそれは、|他《よ》|国《そ》|者《もの》が目立たない、ということだから、若林にとっては都合がいい。
コスモを裏通りに捨てた若林は、無料駐車場から目立たぬ旧型コロナを盗んで発車させた。新潟ナンバーだ。
街を抜けると、ますます田園の風景が車窓にひろがっていった。広々とした|田《た》|畠《はた》と森、それになだらかな山……人影はたまにしか見えない。舗装してない地道だ。
幾つかの川を渡り、高田を出てから十四、五キロで三輪村に入る。村役場に尋ねてみるまでもなく、杉山の妻の実家の川野家はすぐに分った。
背後に低い山のつらなりを背負うようにし、街道から二キロほど引っこんだあたりに、一辺が三百メーターほどもあるナマコ|塀《べい》に囲まれているのがその屋敷だ。
屋敷の右側は二キロ四方ほどもある鯉の養魚池だ。番小屋が建っている。屋敷の左側は自家用の畠で、前方は田んぼだ。
若林はボストン・バッグのなかに、プレハブ建築のカタログではなく、ライマン製のライフル実包の手詰め器具一式と雷管と火薬と空|薬莢《やっきょう》、それに弾頭を詰めこんでいた。ダイスも、日本で一番普及している三〇―二〇、三〇―〇六、それに三〇八口径のものを用意してある。指紋を残さぬように軍手をつけていた。
門をくぐろうとすると、門番小屋から、若い男が跳びだしてきた。両手をひろげてコロナの前に立ちふさがる。|精《せい》|悍《かん》な感じの二十二、三の若者だ。
「何の用だ? あんた、誰なんだ?」
と、いう意味のことを土地言葉で尋ねる。停めた車から降りた若林は、頭をさげた。
「富山の鉄砲店の出張セールスです。お宅には鉄砲ブチが多いと聞いたんでね」
と、笑いながら言った。
「ほう? 何を持ってきた?」
若者は、たちまち興味を示した。
「ライフルを使ってますか?」
「一番上と二番目の兄貴がな。俺も欲しいんだが……」
「タマが高いでしょう? 一発何円で買ってるんです?」
尋ねながら、若林はさり気なくまわりを見廻した。
数千坪の庭の突き当りに、百五十坪は越える|母《おも》|屋《や》が建っている。そして、左右の塀に寄って、離れが六軒建っている。離れとはいっても、それぞれが五十坪以上ある。そのほかに、広い|納《な》|屋《や》や車置き場なども見える。庭では、十数人の子供が遊んでいた。
「ああ、一発百三十円から百五十円ちゅうところかな。|高《たけ》えんで、鉄砲は買っても、タマ代が|勿《もっ》|体《たい》ねえ。あんたなら、いくらで売ってくれるんだ?」
若林は尋ねた。
「口径は?」
「|〇《マル》|六《ロク》だ、二人とも……。もとは、アメちゃんの兵隊から安く買えたが、軍用弾じゃ当ってもクマに逃げられることが多くてな。その軍用弾も、この頃は取り締りがうるさいらしくて廻ってこねえ」
「そうでしょう、そうでしょう。駐留軍人もこのあたりにはほとんどいなくなりましたからね」
言いながら若林は、裏塀は無く、母屋の裏が持ち山につながっていることを確めた。電話線は街道のほうからのびてきている。
「〇六のタマをいくらで売る気だ?」
「|三〇―〇六《サーティ・オー・シックス》ね。タマを売ってあげるより、もっといいものを売りましょう。しかも、市価の三分の二の額です。実は、うちの店は近いうちに本物の鉄砲火薬を扱うのをやめて、モデル・ガンとファッションの店に転業するんでね。半値で同業者に引き取ってもらうより、三分の二の値でお客さんに買ってもらうほうがお互いに|得《とく》だってわけで、こうやって出張販売に廻ってるんですよ」
「…………?」
「今日、持ってきたのは、ライフルの手詰め器具です。ハンド・ロッドのことは御存知でしょう?」
若林は言った。
「話には聞いとるが、見たことはねえ」
「道具さえあれば、散弾の手詰めより簡単ですよ。薬莢さえ捨てないでおけば、一発五十円そこそこで出来ます。散弾だって、舶来装弾ならもっとしますよ」
「早く見せてくれよ」
若者は目を輝かせ、じれったそうに言った。
「ここで立ち話は何ですので……」
「分った、分った。|屋《な》|内《か》へ入ってもらおう。車に乗せてくれや」
「どうぞ」
若林は助手席のドアを開いた。
若者は、若林がゆっくり動かす車のホーンを押えて、庭で遊んでいる子供たちを追い散らした。
母屋の前で車を|駐《と》めた若林は、ボストン・バッグを提げて降りた。母屋は、かつての庄屋屋敷のような構えだ。
「立派なもんですな」
若林はほめた。
「だだっ広いばかりで、冬になると寒くていけねえよ。一番上の兄貴一家が住んでるんだが、|隙《すき》|間《ま》風で高血圧になりそうだ、と言っている」
ゴム|長《なが》|靴《ぐつ》を脱いで式台に上りながら若者は言った。
若林は靴を脱いで上った。
長くて折れ曲がった廊下を、若者は奥のほうに案内していった。廊下も杉板の天井も黒光りしている。使ってない部屋がほとんどらしい。
裏の|築《つき》|山《やま》と池を眺めるに一番いい位置にある部屋の前に来ると、
「|大《おお》|兄《あん》ちゃん」
と、声を掛けて、若者は|猫《ねこ》|間《ま》障子を開いた。
三十畳ほどある板張りの床の部屋であった。中央の|囲《い》|炉《ろ》|裡《り》のそばで、アグラをかいた|膝《ひざ》の上に水平二連の散弾銃を乗せていた五十近い男が、|曖《あい》|昧《まい》な笑いを浮かべる。|髭《ひげ》づらだ。
その近くでは、十八、九の青年が仰向けになり、村田銃の銃床を|枕《まくら》にして、男性週刊誌を読みふけっていた。
「どうした、六朗?」
五十男は、炉にかかった鉄ビンの湯を|急須《きゅうす》に注ぎながら言った。弾帯をつけている。
正座して頭をさげながら、若林は奥の壁を見ていた。その壁の腰の上までの高さは戸棚で、そこから上には、川野一族のものらしい銃が集められている。
七丁の散弾銃に混ってスプリングフィールドの軍用改造と、|M《エム》|1《ワン》ガーランドの軍用改造のライフルがあった。
「富山の北国銃砲店の者で……」
若林は言った。
六朗と呼ばれた若者は、若林が何を売りに来たのかを伝えた。
「なるほど……まず、見せてくれや」
茶を注いだ湯呑みを差しだしながら、長兄は言った。息子らしい若者も体を起す。
「火の近くでは危いので」
若林は少し炭火が埋められている炉からさがり、ボストン・バッグの中身を出した。
三〇―〇六と三〇八口径の兼用のシェル・ホールダーをつけたラムとハンドルをすでに装着したハーター製のプレス本体……各種のライマン製のダイス……雷管室や薬莢口のバリを削り取るリーマー……雷管こめ用のプライミング・アームのセット……潤滑用のポマードのようなオイルやスタンプに使うときのようなオイル用パッド……薬莢長ゲージ……火薬バカリやジョウゴ[#「ジョウゴ」に傍点]……火薬を入れた薬莢を立てておくためのプラスチックのブロック……のびた薬莢の首を削り縮めるためのトリマー……竹のピンセット……それに国産のラージ・ライフル用TK三〇〇雷管の箱とやはり国産のNY五〇〇の火薬|罐《かん》……一番安いスピアーの百八十グレインの弾頭箱などだ。
この手詰め器具は、何年か前に米兵から安く買ったものだ。自分用にはライマンのターレット型とRCBSのO型の精巧なものを残してある。
器用な手つきでプレス本体に雷管こめのプライミング・アームのセットを取り付けながら、若林は部屋を見廻した。この部屋のどこかに、地下の金庫室への秘密の入り口がある筈だ。
「空薬莢はありますか? 無かったら、こっちも用意はしてますが……」
ボストン・バッグの底から、数種の空薬莢が入ったプラスチック・ケースを取りだしながら若林は言った。
「ある、ある。いつか役に立つと思って、とっておいたんだ――」
長兄は、水平二連を折って二発の散弾を抜き、それを弾帯に戻してから立ち上がった。奥の戸棚のほうに歩きながら、
「さっそく、詰めかたを教えてくれや。買うか買わねえかは、出来あがりを見てからにするだ」
と、言った。
「分りました。でもね。このプレスを操作するときには、全身の体重を掛けるぐらい力が要るんです。発射で変形した|真鍮《しんちゅう》の薬莢を|拡《ひろ》げたり絞りこんだりするためにね。だから、プレスを取り付けるのに、しっかりした台が要ります。ヤワな台なら割れてしまう。見たところ、その戸棚は分厚い|樫《かし》で出来ていて、プレスを取り付けるのに絶好のようです。ボルトを通す孔があいても構わないなら、その戸棚に取り付けたいんですが――」
若林は言った。
「そんなこと言って、取り付けてしまったら、こっちが買わねえことには済まなくなるのを|狙《ねら》ってるんだろう?――」
長兄は言ったが、
「まあ、いいだろう。その機械を買わなくとも、ボルトの孔は、うまくふさいでゴマかせる」
と、言った。
若林はボストン・バッグとプレスを持って戸棚のところに行った。左右に引く形式になっている戸棚の二枚の扉を外す。
戸棚の上の板は外から見たところでは、奥行き五十センチほどだが、扉を外して下側からみると、奥行きは一メーターを越えていた。戸棚も、それだけ奥深いというわけだ。
戸棚の上にプレスを置き、猟具や散弾などが仕舞われている戸棚を下から見上げてボルト孔の位置を決める振りをしながら、若林は戸棚の内側の板壁を観察する。
この戸棚のどこかに、地下への入り口の扉が隠されている気がする。
弾 頭
すぐには、戸棚のなかの隠し扉がどこについているのか分らなかった。
若林は、用意してきた懐中電灯をつけた。装弾器のプレスのボルト孔の位置を決める振りをしながら、さらに|仔《し》|細《さい》に戸棚のなかを調べる。
分った。
戸棚の奥の羽目板の壁自体が横にずれるようになっているのだ。浮かんできた薄笑いを殺した若林は、立ち上がって、装弾機プレスの土台のボルト孔から、細いマジックインキを通して、戸棚の上板にしるしをつけた。
プレスを横にずらし、上板についたしるしに、ボストン・バッグから取り出した木工用のドリルで孔をあけた。
プレスをボルトで固定し、プレスに、重いハンドルを取りつけた。そのプレス本体から離して、|薬莢《やっきょう》トリマーを上板に|釘《くぎ》づけする。
さらに離して、火薬メージャーをネジ止めし、その近くに火薬バカリとトリックラーを置いた。薬莢の潤滑パッドにリサイジング・オイルをチューブから絞りだしながら、
「空薬莢はどれぐらいとっておいてあるでしょうね。足りないなら、私が持ってきたやつを使ってもらってもいいが」
と、言う。
「役に立つとは思わなかっただが、捨てるのは|勿《もっ》|体《たい》ねえんで、拾っておいた」
川野家の長兄は、戸棚のなかから、三百発ほどの空薬莢が入った箱を取り出した。レミントンとウィンチェスターの空薬莢のほかに、米軍用のも混っている。
薬莢の首が変形してしまっているのは、|M《エム》|1《ワン》改造ライフルで射ったために、排莢時に受け筒にぶつかって出来た傷だ。
「こんなになったのでも、この機械を使えば大丈夫ですよ」
若林はプレスのハンドルをさげ、ピストンとその上についたシェル・ホールダーを一杯に上昇させた。
上のダイス・ホールダーに、雷管抜きと薬莢整形の役をする、リサイジング・ダイ――ディキャンピング・ダイともいう――をねじこむ。
そのダイの下端がシェル・ホールダーの上端に当ったところで、ダイをリングで固定する。
リサイジング・パッドの上に、|空《から》|拭《ぶ》きした空薬莢を転がす。薬莢を逆さにして、その口を軽くパッドのオイルに押しつけた。
「注意してもらいたいのは、薬莢の首や肩のテーパーに、オイルをつけないことです。それと、オイルをつけすぎないこと。そうでないと、薬莢の肩に|凹《くぼ》みが出来ます」
と説明し、ハンドルを上げて、ピストンとシェル・ホールダーを下げた。ホールダーの薬莢をくわえさせ、ハンドルを力をこめて一杯にさげる。他人から見れば楽々と押しているように見えるが――。
薬莢はダイのなかにもぐりこみ、脱けた雷管が落ちてきた。ピストンをさげ、整形された薬莢を若林は拭った。
その薬莢は新品のようになっていた。
「射撃競技で精密さの要求されるときには、雷管室の掃除が必要ですが、猟用ならその必要はありません。ただ、こいつのような軍用普通薬莢は、軍用|競技《マ ッ チ》用や、ウィンやレミンのとちがって、機関銃で射っても雷管がゆるまないように、雷管室のまわりに、クリンプがついています。今のように使用済みの雷管を抜いても、クリンプのバリが残るので、リーマーでこそぎ取ってやらないと、新しい雷管は入りません」
と、若林は、雷管室にプライマー・リーマーを差しこんで廻した。バリは真鍮の破片となってこそぎ取られた。
「射撃競技用なら、雷管の伝火孔の太さを|揃《そろ》えないとならないが、猟用では、そこまで神経質になることはありません。それよりも大事なのは、薬莢の首が発射とリサイズごとにのびるのでこのトリマーかヤスリで削ってやることです」
若林は、薬莢長ゲージに薬莢を当ててみて、のびすぎている薬莢の首を適正な長さにトリマーで削った。薬莢口をリーマーでこそいで、バリを取ると共に、弾頭が|挿入《そうにゅう》しやすくする。
「分った、分った。早く火薬とタマを詰めてみてくれ」
六朗がせかせた。
「この百八十グレイン弾だと、NY五〇〇の火薬を使った場合、五十グレインの火薬で充分すぎるほどです。射撃競技用だと四十五グレイン前後ですからね」
若林はスピアーの百八十グレイン・ラウンド・ノーズのダムダム弾頭の百個入りの箱を開きながら言った。
「だが、その前に雷管をこめないとね。でも、ターレット式のプレスなら、いちいちダイスを外さなくても雷管がこめられるが、これだと、そうもいきませんのでね。まず、二十個ほど、空薬莢を|整形《リサイズ》しましょう」
「|俺《おれ》にやらせてくれ」
六朗が言った。
「どうぞ、どうぞ」
若林は横にのいた。
六朗は|渾《こん》|身《しん》の力をこめて、空薬莢のリサイズをはじめた。オイルをつけすぎて薬莢を|凹《へこ》ませたこともあったが、次第にコツを覚えてくる。続けざまに四十本ほど整形し、雷管室や首もトリムした。
若林はプレスからリサイジング・ダイを外した。シェル・ホールダーに脱管と整形を終えた空薬莢をくわえさせ、ピストンを上げると、プライミング・アームのスリーヴに竹のピンセットではさんだ雷管に裏返しにして入れた。そいつを、シェル・ホールダーの裏に押し当ててプレスのハンドルを押しさげると、カチンと音をたてて、雷管は薬莢の|尻《しり》の雷管室に挿入された。
六朗が、整形した、残りの薬莢に雷管を|嵌《は》めた。火薬メージャーを火薬バカリを使って調節して、一回ごとに五十グレインの火薬が落ちてくるようにする。
その火薬を|漏《ろう》|斗《と》で薬莢に詰めた若林は、シーティング・ダイをプレスに付け、弾頭をはめこんだ。
「これで出来上りです。弾倉付きの自動|装《そう》|填《てん》式のマグナム・ライフルやチューブ弾倉のレヴァー・アクションですと、発射の反動で弾頭がグラグラしないように、クリンプといって薬莢の口を弾頭にくいこませる必要がありますが、そのときは、シーティング・ダイを正規の位置から四分の一回転ほど下にねじこめばいいんです。この弾頭には、薬莢の口がくいこむクリンプ用の|溝《みぞ》がついてないから出来ませんが、もっとも、この弾頭だって、クリンプしなくとも、三〇―〇六級の自動銃になら使えますがね」
若林は言った。
「じゃあ、さっそくここで実験してみるか」
長兄が言った。
「ここで実験って?」
若林は、いささか|度《ど》|胆《ぎも》を抜かれながら尋ねた。
「決ってるじゃねえか。ブッ放してみるのさ」
「ここからですか?」
「ああ」
「そんなことしたら、警察が……」
「馬鹿言うんじゃねえ。一番近くの駐在所まで二里も離れてるんだ。それにさ、|誰《だれ》かが鉄砲の音を聞いたって、俺たちがいつも養魚場にやってくるカラスやミサゴを追っ払うためにブッ放すのを聞き慣れてるから、誰も警察に知らせたりはしないさ」
長兄はニヤニヤ笑いながらいうと、壁にかかっているインターフォーンの一番から五番まであるボタンを次々と押し、
「これから、ライフルの試射をおっぱじめるが、驚くじゃねえぞ」
と、屋敷内や養魚場にいるらしい弟たちに言った。
それから、M1改造ライフルを持ち、廊下に出た。廊下のガラス戸を開く。六朗が廊下から降りて、ちょっとのあいだ姿を消していたが、空き|罐《かん》を五個ほど抱えて、池をへだてた築山のほうに姿を現わした。
空き罐を築山にある、丸木を切った腰掛けの上に並べ、六朗は長兄たちのほうに戻ってきた。罐と廊下の距離は三十メーターほどだ。
長兄は、八発入りのクリップに装填し、無造作に立ち射ちの構えをとった。ブッ放す。
|轟《ごう》|音《おん》と衝撃波で、天井から|埃《ほこり》と|煤《すす》が舞い落ちた。はじき出された空薬莢が障子に当る。
初弾は低くそれた。二発目と三発目は高くそれたが、四発目が罐の一つを貫いた。八発射ち終るまでに、長兄は三発を命中させた。
「お見事……これなら、三町ぐらい離れたクマだって一発で仕止められますよ」
若林は|誉《ほ》めた。誉めながら、こんな調子で自分を狙われたりしたのでは、かなわない、と思う。
銃を降ろした長兄は、興奮しきった表情になっていた。
「今度はお前がブッてみろ――」
と、末弟の六朗に銃を渡し、若林には、
「買った。いくらだ」
と、|吠《ほ》えるように言う。
「弾頭と雷管を二百個ずつつけて六万円。それに火薬を二罐つけます。店で買ったら十万近くとられます」
若林は言った。
「高い」
「でも、一度買っておけば、一生使えるんですから安いもんだと思いますがね」
「五万にしろ」
「仕方ない。泣きましょう」
若林は答えた。
六朗が射ちはじめる。八発のうち二発を罐に当てた。長兄は残りの四発を射って、そのうちの二発を命中させ、頬をゆるませっ放しにしている。
「火薬譲受許可証を貸してください。雷管と火薬を売ったというしるしに、うちの店のハンコを押さないと……」
五万円を現金で受け取った若林は言った。
「そんなもの持ってねえ」
予想したように、長兄はあっさり言った。
「困りました。それでは、売った私も処罰を受ける」
「心配すんなって」
「いや……そう言われても」
「俺たちは口が固いんだ」
「でも、世の中にはスパイのような奴がいますからね。これまで、ライフルのタマを買っていたのはどの店で?」
「高田の大正銃砲だけどよ」
「例えば、その大正銃砲です。あなたにライフル実包を高く売りつけることが出来なくなって、密告するかも知れませんよ」
「奴ならやりかねんな。でも、あいつにこの装弾機のことをしゃべらなかったらいいんだろう? いや、奴だけでなく、ほかの誰にも……」
長兄は言った。
「約束出来ますか?」
若林は言った。
「|勿《もち》|論《ろん》」
「じゃあ、雷管だけはこっそり売ってあげましょう。ただし、火薬は返してもらいます。お宅には、散弾用の無煙火薬がありますね」
「ああ、二十キロぐらいたまってるかな」
戸棚のほうに視線をやりながら長兄は答えた。
「散弾用の火薬でもそいつに使えるのですよ」
若林は言った。
「本当か?」
兄弟は狂喜した。
「誰か、散弾用の火薬はライフルに使えないって言った者がいるんですか?」
「さあ、ライフルの手詰めなんて、このあたりでやってる者はいねえんで……」
「散弾用の火薬は燃焼速度が早いんでね。ですから、四十五グレインにして使ってみてください。反動が少々強くなるだけで、命中にはかわりありませんよ」
若林は言った。
|大《おお》|嘘《うそ》だ。嘘というより|奸《かん》|計《けい》だ。
散弾用や|拳銃《けんじゅう》用の急燃性無煙火薬を、三〇―〇六のようなボットル・ネック――|壜《びん》のように首がすぼまっている薬莢――のケースに使えるのは、正規のライフル用火薬の十分の一ぐらいに減量して、五十メーター以内の近距離射撃をやるときだけだ。
三〇―〇六のケースに、散弾用無煙火薬を四十五グレインも詰めたら、それは火薬でなく爆薬になってしまう。銃が破壊されるぐらいでは済まされない。
だが、火薬の知識がない兄弟は、若林の言うことを信じたようだ。
「火薬はそれでいいとして、雷管と弾頭はここにあるのを使ってしまったらどうすべえな?」
「ご心配なく。ひと月後に、アフター・サーヴィスに、またここにお邪魔します。そのとき、弾頭と雷管を千個ずつ持ってきましょう」
若林は言った。
「待ってるからな」
「その装弾機でこわれるとしたら、雷管抜きのピンが折れることぐらいでしょう。釘で代用してもいいが、一番いいのは、十六分の一インチのドリルの|芯《しん》|棒《ぼう》をヤスリで切って使うことです。どうも、有り難うございました」
若林は立ち上がった。
「まあ、ゆっくりしていけよ」
「ほかに廻るところがありますので。それでは、また一と月後に……」
若林は言った。
門を出ても、若林は指紋を残さぬための軍手を脱がなかった。一里ほど離れた丘の中腹に車を停め、川野家の屋敷のほうを双眼鏡で|覗《のぞ》く。
ダイナマイトが爆発するような|轟《ごう》|音《おん》が屋敷のほうから伝わってきたのは、三十分ほどたってからであった。
一発ではなく、一瞬の間を置いて二発だ。
さっそく散弾用火薬を使って手詰めした三〇―〇六ライフル実包を、長兄と末弟が、M1ライフルとスプリングフィールド改造ライフルで同時に試射してみたのであろう。
冷たい笑いを浮かべた若林は、双眼鏡に当てた|瞳《ひとみ》を凝らした。屋敷は大騒ぎになっている。若林は車にエンジンを掛け、高田に向けて飛ばした。
高田で盗んだ車を捨て、レンタ・カーのマツダ・コスモに乗り替える。コスモを渋谷のレンタ・カー会社に返し、タクシーで会社に戻る。
もうほかの会社はみんな終業しているが、午後八時だというのに、まだ東洋ニュー・ハウスはやっていた。
「もうちょっとで契約に持っていけそうなところがあったのでねばったのですが、残念でした」
若林は課長に言った。
「私が一緒に行こう。夜討ちを掛けるんだ」
課長は言った。
「お気持は有り難いんですが、敵さんは、ドライヴに出かけてしまったので」
若林は肩をすくめた。
翌日、やはりセールスに出るべき筈の若林は、チューン・アップしたスズキ軽四輪を秩父の深山に乗り入れた。
途中の農家で買ってきた|山《や》|羊《ぎ》を、四本の足を縛って、後部座席に押しこんである。
道が途切れたところで車から降り、銃ケースを肩に|吊《つ》った。足から外したロープを首に|捲《ま》いて山羊を引っぱり、百メーターほど離れた木にロープをくくりつけた。
ライフルをケースから出す。ヒグマに最適で、象射ちにでも使える、ウィンチェスターM七〇の〇・三三八マグナム・ライフルだ。
ポケットのプラスチックの箱から弾薬を取り出す。ショート・マグナムだから、薬莢は馬鹿でかくないが、火薬が多量に入るように薬莢の肩のテーパーが鋭い。
そして、その実包には、〇・三三八マグナムに普通使われる二五〇グレイン弾のものとちがって、百十グレインの、ほんの小さな弾頭がついていた。火薬量は、九十グレインに増してある。二百発も射てば銃身がオシャカになってしまうほどの、恐ろしいほどの超高速弾を若林は手詰めにしたのだ。
実 験
若林は、ウィンチェスターM七〇のライフルに〇・三三八マグナムを三発弾倉に押しこんだ。百十グレインの超軽量弾頭は、薬莢の首の先でひどく小さく見えた。
軍用スリングを左腕に捲いた若林は、薬室にも一発|装《そう》|填《てん》した。弾倉上端の実包を親指で押えつけて遊底に引っかけられないようにし、遊底を閉じた。
その銃の照準器は、夜間射撃に有利なように、|棒《ポ》|照《ス》|星《ト》と谷型照門の、いわゆるオープン・サイトをつけていた。射撃競技用のリング照星と小さな直径の孔照門のピープ・サイトでは、夜はまったく使えない。
照準鏡のスコープ・サイトにしても、無倍率からせいぜい二倍半までの低倍率のものなら夜も使えないことは無いが、スコープというやつは、よほどマウントとリングがしっかりしてないと、一発ごとに反動からくるゆるみで着弾点が移動する。マグナム・ライフルではその欠点がいちじるしい。
若林がいま使っているやつは、照星にも照門にも|蛍《けい》|光《こう》塗料を塗ってあった。照門は、フィンランドのサコー用のものを改造した遊標式で、上下修正は遊標をずらすことにより、左右調整は、ネジを廻すことによって行なうようになっていた。
遊標は|一《ひと》|刻《きざ》みごとに百メーターで三センチ、左右の調節ノブは一クリックごとに百メーターで二センチ弾着が移動するようになっていた。射撃競技の精密射撃に使うためのものではないから、実用上はそれで充分すぎるぐらいだ。
銃ケースのポケットから、若林はアルミ製のフィルム罐を出した。|蓋《ふた》を開くと、進物用の飲料や食料などの壜や罐などの下によく詰められている|発《はっ》|泡《ぽう》スチロールが、フィルム罐に押しこまれてあった。
左手に銃を持ったまま、若林は右手のライターの火を、その発泡スチロールに移した。|煤《すす》と炎を吐きだしながら、白い発泡スチロールは見る間に縮んでいく。
フィルム罐の底で、茶色いドロドロとした|水《みず》|飴《あめ》のようになった発泡スチロールは、実におびただしい煤を発生させた。
若林は、罐から昇ってくる煤の流れに左手の銃を裏返しにして当てた。照星と照門の夜光塗料はたちまち真っ黒にいぶされ、銃身にも煤がついて、陽光を反射する銃身の輝きは消える。
罐に蓋をして消火した若林は、百メーターほど先につないだ山羊の左側約五メーターの松の幹の節に向けて、ウィンチェスター・ボルト・アクションで|膝《ひざ》|射《う》ちの構えをとった。
陽は右上にある。と、いうことは、陽を受けたほうの照星の右上方が、煤で反射止めをしているのにもかかわらず、虚像を作って、実際よりも右上に見えているということになる。
そして風は、右側からの和風が吹いてきている。膝射ちの構えを解いた若林は、枯れ草を千切って立ち上がる。枯れ草を丸めその右手を前にのばした。
枯れ草を放すと、風に運ばれて、左側三十度ちょっとのあたりに落ちた。
風速の算出は、吹き流しや警戒旗などが無くても、新聞紙や乾草などを柔らかく丸めたものが落ちた角度を八で割ることによって秒速メーターが出てくる。
だから、今は約三十度を八で割って、右からの風が秒速四メーターほどで吹いているというわけだ。
火薬量が大きいために弾速は一秒につき千五百メーター近いから飛行時間は短いとはいえ、百十グレインの超軽量弾頭のために真横からの秒速四メーター程度の和風でも、百メーター離れて四センチ近く流される筈だ。
そこにもってきて、右上からの光線に|眩《げん》|惑《わく》されて、着弾点は左下の八時方向に三センチはそれるであろうから、左右修正だけで、六センチ近くが必要になる。若林は調節ノブを二クリック廻し、照門を右に移動させた。
高さは、この前に射場で合わせたときには二百五十グレイン弾を使ったのだから、上からの光線も加わって、今日の百十グレイン弾ではかなり高くに着弾することが予想される。
高さの修正は一発目の着弾を見てからのことにし、若林はスリングを|上膊《じょうはく》部できつく締めた。再び膝射ちの構えをとる。体重は折り敷いた右脚にかけている。
山羊はのんびりと草を食っていた。
若林はその左側の松の幹の節に狙いをつけた。照門のなかに見いだした照星頂を照門の高さに合わせ、照星と照門のあいだの|隙《すき》|間《ま》を正しく合わせる。
それから、瞳の焦点を照星だけに合わせた。目標の松の節は、ぼおっと|霞《かす》む。それがオープン・サイトを使っての命中のコツだ。
見いだしが正しければ、少々狙いが狂っていても、狙いの誤差は距離が離れても変らないが、見いだしの誤差は、遠くになるほど大きくなる。
吐いた息をとめて、若林は引き金を静かに落した。|蹴《け》とばされたような反動と共に、マグナムの|轟《ごう》|音《おん》が山々に反響する。一瞬、目の先が真っ白になった。
着弾は松の節から真上に三十センチほどのところについた。監的用のスコープを使わなくとも、着弾点ははっきり分った。
恐ろしいまでの高速で射ちだされた百十グレインのスパイツァー・ソフト・ポイントの|尖《せん》|頭《とう》ダムダム弾は、完全な見せかけの爆発を起し、松の幹に直径二十センチほどの大きな孔をあけたからだ。見せかけの爆発と言ったのは、ライフル弾頭に|炸《さく》|薬《やく》が入っているわけはないからだ。だが、爆発に近いほど弾頭は炸裂し幹にあいた孔からは煙まで出ている。
山羊は衝撃波を受けて横倒しになっていたが、立ち上がると、必死に逃げようとする。足をつながれているので再び倒れた。
遊底を引いて空薬莢を抜いた若林は、照門の遊標をうしろに十刻み分引いて照門を下げた。
弾倉上端の実包を薬室に移し、再び引き金を絞る。
今度は狙ったところに着弾した。木片が飛び散り、直径六十センチ近いその松は、第二発目の炸裂孔のあたりから上が、後方の雑木をへし折りながら倒れる。土煙があがった。
山羊は、恐怖で気が狂ったようにあがいていた。若林は、立ち上がった山羊が岩の前に来たとき、その胸に、横から三発目を|叩《たた》きこんだ。
山羊は文字通り真っ二つに千切れた。胸のあたりから、上半身と下半身に裂けて血煙に包まれている。
銃を地面に置いた若林は、山羊の|残《ざん》|骸《がい》のほうに歩いた。
近づいてみると、二つに千切れた山羊はグシャグシャになった臓物をあたりにぶちまけていた。
その背後の岩を調べても、山羊の体を貫通してから当った|弾《だん》|痕《こん》は見当らない。銃弾は、山羊の体のなかで粉々になってしまったのであろう。
と、言うことは、発射弾についた|銃腔《じゅうこう》のライフル・マークから、使用された銃を割りだそうとしても、発射弾自体の痕跡も見当らないから無理だ、ということになる。
つまり、その銃と超軽量弾の組み合せを使って人を殺しても、発射弾のライフル・マークから足がつくようなことはない、ということだ。
銃を置いてあるところに戻った若林は、地面に落ちている空薬莢をポケットに仕舞った。安全装置を掛けたその銃とケースを持ち、風下に移った。そのとき太陽は雲に隠れた。
曇ったために照星の虚像が消えたから、照門を一刻み下げると共に、横風の影響と照星のまやかしのふくらみが消えたことを計算して、照門を五クリック左に戻し、山羊の顔に第四弾を放った。
命中だ。山羊の顔は粉々になる。もう実験を続ける必要はなくなったから、銃をケースに仕舞って、道が途切れるところに駐めてあるスズキ・フロンテの軽四輪のなかに戻った。
バッグから、分厚いチーズとボロニア・ソーセージとピックルスをはさんだダグウッド・サンドウィッチを取り出し、見せかけには似ぬ|頑丈《がんじょう》な|顎《あご》でゆっくりと|噛《か》んだ……。
午後になって都内に戻った若林は、四谷にある図書館に入った。そこは、全国のローカル新聞を集めているので有名であった。
偽造した偽名の身分証明書を使って入館した若林は、新潟のローカル新聞数紙の|綴《と》じこみを閲覧した。
川野家で起ったことは、昨日の夕刊と、空送されてきたらしい今日の朝刊に載っていた。
散弾用火薬をライフルに使った、ダイナマイト装弾ともいうべき実包で、川野家の長兄は、吹っ飛んだスプリングフィールド改造ライフルの遊底に顔の半分を砕かれて死に、末弟は|炸《さく》|裂《れつ》したM1改造ライフルの銃身に左手を千切られて重態となり、高田市の救急病院にかつぎこまれた、という。
県警は、兄弟にライフルの手詰め機械を売りつけた富山の北国銃砲店の男を捜しているが、富山に同名の店はあっても該当する人物は同店に存在しないことが分った、と書かれてあった。
若林は、川野家で軍手を脱がず、したがって指紋を残さなかった用心深さを自分が持っていたことを誇りに思った。兄弟に装弾機を売りつけた人物は、とりあえず無許可で雷管を売った火薬類取締法違反の疑いで手配された、と新聞に書かれている。
図書館を出た若林は、近くの公衆電話で、若葉メイゾンの知子の部屋に電話を入れた。
「どなた?」
知子が応じた。
「僕だ。近くに来ている。もとの赤坂離宮の前の通りで会おう」
若林は言った。
「わたしも、連絡をとろうとしてたところよ。車で行くわ」
知子は答えた。
「僕はいつもの車だ」
若林は電話を切った。知子と約束した場所にスズキの軽四輪を廻す。そのあたり一帯は駐車可になっているので、渋滞して走りにくい昼間は休んで夜になってからの一発を|狙《ねら》っているタクシーの運転手達が、車窓から足を突きだして眠っていた。
そして待つほどのこともなく、知子のポルシェがバック・ミラーに写った。若林は知子に合図し、一番空いたあたりに軽四輪を廻した。
その近くに、知子のポルシェが停まった。車を降りた若林は、知人があたりにいないことを確める。車でセールスしている連中もよくここで仕事をさぼって昼寝していることがあるから、用心しないとならない。
若林はポルシェの助手席にもぐりこんだ。
「|淋《さび》しかったわ」
知子はしがみついてきた。
「会いたかったよ。だけど、もし知ってる連中に見られたら困る。用心したほうがいい」
若林は知子の髪を|撫《な》でながら|呟《つぶや》いた。
「新潟のことは杉山から聞いたわ。やったのは、あなたね?」
知子は|囁《ささや》いた。上体を起す。
「何のことだろう?」
「わたしにまで用心深くすることはないでしょう? 杉山の奥さんの実家の二人が、鉄砲の暴発でひどい目に会ったことよ」
「杉山は何て言ってた?」
「タマを詰める機械を売りに行ったのはあなたでしょう?」
「だから?」
「杉山は、|勿《もち》|論《ろん》、あなたの|仕《し》|業《わざ》だとは気がついてないわ。どこかの欲の皮が突っぱった鉄砲ブローカーが、インチキの手詰め機械をあの一家に売りつけたもの、と思ってるわ」
知子は若林に指をからませながら囁いた。
「そうか。ともかく、あれで川野一家はライフルが使えなくなった。散弾なら、何とか防ぐ手がある。アメ横に行ったら防弾チョッキでも売ってるんだ。米軍規格のやつを」
若林はニヤリと笑った。
「いつ金庫を襲うの? 金庫の開けかたは考えついたの?」
若林の手をスカートの奥に誘導しながら、知子は囁いた。若林がびしょ|濡《ぬ》れになっている|腿《もも》の奥を愛撫しながら、
「ホトボリが冷めるのを待つ。今は、川野の屋敷には刑事が張りこんでいるかも知れないからな」
と、囁いた。
「かえって、こうやったほうが、わたしの顔を誰にも見られなくて済むわ――」
知子は若林の腿のあいだに顔を伏せた。チャックを開いて|頬《ほお》|張《ば》りながら、聞きとりにくい声で、
「杉山もそう言ってたわ、張りこんでるんですって」
と、|呻《うめ》くように言う。
若林も愛撫を続けながら、
「金庫を開く方法も考えついた。ちょっと手荒だが、どうせ川野家の男衆と射ちあって銃声をたてないとならないだろうから……」
と、呟く。
「向うの様子は、また杉山からうまく|尋《き》きだすわ」
知子は|喘《あえ》ぎ、若林の指をはさんでほとばしらせた。その熱い感触に、若林も知子の口のなかに注ぐ……。
一時間後、若林は|御《お》|徒《かち》|町《まち》から上野間のガード下を中心にしているアメ横にいた。モデル・ガンと各国の軍用衣服を主に扱っている中田商店で、米軍用の防弾チョッキを五着買った。ある雑誌社に頼まれて、効力をテストするのだ、と言う。
だが、その効力は、かつて読んだアメリカの銃砲専門誌の実験記事で分っている。大口径ライフル弾をストップさせるわけにはいかないが、二十二口径リム・ファイア弾や低速の拳銃弾には充分に効果がある。と、いうことは、大粒散弾を射たれても防ぐ力がある、ということだ。
その夜、自宅に戻った若林は、五着の防弾チョッキのうちの三枚で、防弾ズボンと、チョッキの|袖《そで》、それに、目のあたりだけを残して頭や顔や首をすっぽりと覆う|頭《ず》|巾《きん》を縫った。
決行のときは、上体の防弾チョッキは二枚重ねに着ることにする。眼は、散弾が当ってもヒビが入るだけの、レイ・バンの射撃用眼鏡で保護することにする。
決 行
それから、一と月ほどが過ぎた。
月曜が祝日で前日の日曜と続いた連休を、若林は決行の時に|択《えら》んだ。
東洋ニュー・ハウスは、その連休を、|那《な》|須《す》にある寮で社員の特訓に当てることにしていた。社員を幾つかのグループに分けて各部屋に閉じこめ、丸二日間、そこから一歩も出さずに、互いの批判をさせあう、というのだ。
若林は、|郷《く》|里《に》にいる兄の子が事故死したことにして、休暇願いを出した。
「そういう、くだらん義理にいちいち付きあったりしないのが、我が社の猛烈精神なのだ。それとも、郷里に帰ったとき、うちのプレハブを売る算段でもあるのかね?」
課長は冷たく言った。
架空のことではあったが、さすがに若林は|肚《はら》に|据《す》えかねた。|瞳《ひとみ》がすっと細まり、|唇《くちびる》のまわりは白っぽくなり、肩のあたりから殺気がゆらめきたった。はじめて、会社の人間に見せた暗い若林の素顔であった。
「あの子は、私が弟のように可愛がっていた子だ」
と、|圧《お》し殺したような声で言う。心のなかでは、課長は、なぶり殺しにしても飽きたらない野郎だ、と思う。
「分った。仕方ないから休暇を認めよう。しかし、そんな人間的な弱さを克服するところに、特訓の意義があるんだが」
課長は肩をすくめた。
土曜の昼過ぎ、退社した若林は、青山墓地の近くに駐車している屋根付きのジープを盗んだ。エンジンとバッテリーを直結して動かしたそいつを借家のガレージに運びこむ。
作業服に替え、ナンバー・プレートを偽造のものに付け替えた。エンジン・ナンバーのうちの4を電気グラインダーで削って1にする。ほかの1を鋳鉄で肉盛りして、4に替えた。
それから、イグニッション・スウィッチをジープのダッシュ・ボードから外して秘密の地下室に入った。
それに合う雄型を柔らかな鉛で作り、キー・カッターを使って、鋼鉄製の|合《あい》|鍵《かぎ》を作った。
印刷機を使って偽造してあった車検証に、偽造ナンバー・プレートと、変造したエンジン・ナンバーに合わせた数字を印刷した。
それを持ってガレージに戻り、土建会社の社名を書きこんであるボディを、スプレーの塗装で消した。高周波の乾燥灯を当てる。
それが乾くまでのあいだに、若林は二子玉川の近くで、旧型のスカイラインGTAを盗んできた。
それもガレージに運びこむ。先を|潰《つぶ》して|鉤《かぎ》型に曲げた針金でトランク室を開いてみると、そいつが、後部シートのうしろに背負っているのは、予想したように、スタンダードの五十リッター入りの小さなガソリン・タンクであった。
若林は、キャンヴァスで覆ってあった、大きなガソリン・タンクを引っぱりだした。そいつは旧GTBのレース用の九十九リッター入りのタンクを改造したものであった。
そのタンクは、堅川のジャンク屋で買ってきたものだ。そいつの前の下側をのばして、後部座席の下にもはみでるようになっている。うしろも少しのばしていた。
だから、そいつを満タンにすれば二百リッターほどガソリンが入るようになっている。タンクをあまり、トランク室のほうにのばさなかったのは、そうすると、トランク室の床の|窪《くぼ》みに埋めるスペア・タイアの出し入れが出来なくなるからだ。スペア・タイアを後部座席に積めばその問題は解決出来るが、それでは検問を受けたときに目立ってしまう。
その巨大なガソリン・タンクのなかには仕切りがしてあって、底のほうに六十リッターだけガソリンが入るようになっていた。
東京から高田までは三百キロほどであるから、六十リッターあればガソリンに余裕を残して帰ってこられる。
ガソリン・タンクのあとの部分は空っぽにしておき、川野家の金庫から奪った杉山の隠し金を詰めこむようにしてある。
もとのタンクは後部シートを外して、若林は二百リッター入りのタンクをつけた。現ナマは、後部シートを一度外してから、タンクにつけた窓を開いて入れることにしてある。
さらに若林は、車の床を酸素バーナーで焼き切り、床の下にウィンチェスター〇・三三八と実包を隠せるロッカー部分を溶接した。フロア・カーペットやゴム・マットをかぶせると、車内を覗きこんでもその存在は分らない。
床の下にロッカー部分が突きだすのはやむをえないが、旧GTAは地上高は大して低いほうではないから、少々の悪路では腹をこするようなことはない筈だ。それに、路面をこするのは、どうせデフだから、助手席の床の下につけた隠し物入れは大して関係ない。
そのGTAもナンバー・プレートを付け替え、エンジン・ナンバーを変えた。もとの車検証を焼き捨て、偽造した車検証をダッシュ・ボードの下の棚につける。
それから、ドアのものを兼ねたエンジン・キーと、トランクの鍵、それにグローヴ・ボックスの鍵を作った。グローヴ・ボックスに車検証を移す。
夜中になってから、ジャンパーとフラノのズボン姿の若林は、ジープに乗って新潟県に向った。
偽造運転免許証を身につけ、軍手をつけている。|目《ま》|深《ぶか》にかぶったウエスタン・ハットとマスクで顔を覆っている。
荷台には、|牽《けん》|引《いん》用のロープやスコップやテコやナタなどが積まれていた。三十リッター入りのガソリンの予備罐二本も積まれている。
深夜の|中《なか》|仙《せん》|道《どう》は空いていた。|碓《うす》|氷《い》ではトラックの群れがつながっていたが、そこを抜けると、ジープでも平均百キロで飛ばせた。
長野をバイパスを通って抜け、高田で右折した。川野家の屋敷がある三輪村を通り抜け、川野家の屋敷の裏山のうしろ側にジープを廻す。
裏山のさらにうしろは、低い山々のつらなりだ。若林は、その山々の入り口のけもの道に、四輪駆動にしたジープを強引に乗り入れた。
ジープでも通れないところは、ナタで木を切り倒し、ロープでジープと結んで引っぱって|脇《わき》にどけたり、テコとスコップを使って岩を動かしたりする。雑木をへし折りながら、ジープは数時間後、低い山々のつらなりを乗り越えて、|松《まつ》|代《しろ》寄りの砂利道に降りた。
夜明けであった。若林はジープをUターンさせ、いま来たけもの道を戻りはじめた。一度通れるようにした道であるから、今度は大した苦労をすることもなく、川野家の裏山のうしろ側にまで戻ることが出来た。
裏山からは屋敷の様子がよく見えた。広い屋敷の|塀《へい》は三方にしかなく、隣接している裏山との境いには塀がないからなおさらだ。
知子の話では、ライフルの暴発事故で川野家の長兄と末弟が死傷してから半月ぐらいは、刑事が張りこんでいたが、いまは張り込みを解いている、ということだ。
若林はジープに予備罐の二本の中身を使って満タンにすると、茂みのなかに突っこみ、方向転換させた。ナタで切った雑木をかぶせた。
裏山の道を廻り村道に出る。道に、普通車は避けて通れるが、中型トラック以上だと通れない間隔に岩を転がしておき、道ばたの茂みのなかに|蹲《うずくま》って待った。濃いサン・グラスを付けている。
数台の軽乗用やライトヴァンが通りすぎたあと、ホロ付きの八トントラックが松代のほうからやってきた。
急ブレーキを掛けて停まる。助手が跳び降り、悪態をつきながら、全身の力で岩をどかそうとする。
だが、抜群の体力を持つ若林なら一人で扱えた岩でも、助手一人の手にはおえかねた。運転手が降りてきて手伝う。
二人が夢中になっている間に、若林はホロが張られた荷台のなかにもぐりこんだ。荷台には、乾燥シイタケのダンボールの箱が積まれている。
若林はその|隙《すき》|間《ま》にもぐりこんだ。やがてトラックは走りだす。
三、四十分ほどして、トラックは|市《まち》に入った。直江津らしい。チャンスをうかがっていた若林は、トラックが横断歩道の赤信号で停まり、後続の車の無いときを見計らって荷台から跳び降りた。
運転台のバック・ミラーやフェンダー・ミラーの死角を択んでトラックから遠ざかる。やがて駅に着いた若林は、上野行きの急行に乗りこんだ。
汽車では、弁当を食ったあとは、ほとんど眠って過ごした。隠してあるジープが山仕事の農夫や|樵《きこり》に発見されないように祈る。
家に戻った若林は、GTAの後部シートと助手席のシートの裏側にチャックをつけ、なかの詰め物を捨てて、そこにも札束を詰められるようにした。
午後四時、若林はGTAのフロアの下の隠し物入れに、夏掛けのフトンに包んだウィンチェスターM七〇の〇・三三八マグナム口径のボルト・アクション・ライフルと、百十グレインの超高速弾五十発と二百五十グレインの|鉄《てつ》|芯《しん》|弾《だん》百二十五発をポケットに入れたズックの弾帯を仕舞う。
トランク室には、巨大なリュック・サックを入れた。そのなかには、登山|靴《ぐつ》、防弾服や防弾ズボン二組、防弾|頭《ず》|巾《きん》、防弾手袋、硬化焼き入れしたレンズの射撃用眼鏡、それに、やはり散弾が当ってもヒビが入る程度の強化プラスチック製の面覆いがついたレース用の宇宙飛行士型ヘルメットなどが入っている。
GTAを駆った若林は、北国街道を三国峠越えをして、六日町で左折した。ジープに積んである予備ガソリンが盗まれている場合にそなえて、後部座席の床には二十リッター入りポリ・タンクを二本積んであった。
六日町から十日町を横切り、松代の町を斜めに突っこんで裏山に向った。山のなかを、GTAで登れるところまで行き、そこで何回もハンドルを切り返して、車首を下りのほうに向けた。
トランク室を開き、リュックから登山靴を出してはき替えた。
助手席のゴム・マットやカーペットをはぐり、隠し物入れの|蓋《ふた》を開いた。腰にズックの弾帯を捲き、ライフルを左肩に|吊《つ》る。
後部シートの背もたれのネジをゆるめておいてから、大きなリュックを背負った。車のドアやトランクに錠を掛け、ジープで通ったことのあるけもの道を登りはじめた。
|鎌《かま》のような三日月が出ていた。林のなかで、ときどき、野ウサギやタヌキの眼玉が光る。
ジープを隠してあるところに着いたのは、午前三時近くであった。歩きはじめてから、五時間以上かかったことになる。
坐りこんだ若林は、作業服のポケットからチーズと乾し肉とレモンを取り出し、樹にもたれてそれを食った。レモンは皮ごと食う。
それから若林は、ジープにかぶせておいた雑木をのけた。ガソリンの予備罐は盗まれてなかった。GTAで運んできたポリ・タンクは無駄になったが、慎重を期すに越したことは無い。
若林はリュックを開いた。体からライフルと弾帯を外しておき、シャツの上に二着の防弾服をつけた。ズボンの上から防弾ズボンをつける。
防弾頭巾の上から、バンドで留めるように改造した射撃眼鏡をつけ、さらに面覆いがついたヘルメットをかぶった。ホックで留める。
弾帯をつけてから、リュックを背負う。ライフルの弾倉と|薬莢《やっきょう》と百十グレイン弾を|装《そう》|填《てん》してから防弾手袋をつけた。弾帯に懐中電灯を引っかける。
ライフルの照準と照門は、|蛍《けい》|光《こう》塗料を|煤《すす》でいぶしたままであった。そのマグナム・ライフルを片手に軽々と持った若林は、裏山をそっと降りていった。
池がある築山のこちら側にたどりついたとき、いきなり向うの母屋の雨戸が開いた。屋内は、光りを背にすることを警戒して、電灯がつけられてない。そして、ぼんやりした人影が、
「誰だ!」
と、叫んだ。
無論、若林は返事をしなかった。
築山の岩蔭に|蹲《うずくま》り、防弾服の|袖《そで》でそっと照星と照門の煤を|拭《ぬぐ》った。風はほとんど無い。
螢光が鈍く光る。相手の男は、
「誰だ、出てこい! 出てこないと、ブッ放すぞ」
と、わめいた。
若林は待った。相手の男――川野家の誰か――は、いきなり散弾銃をブッ放した。銃口から火炎がほとばしり、若林の左の上のほうの|栗《くり》の木の枝が数本へし折れる。
|鹿《しか》用の大粒散弾を使っているらしい。
屋敷のなかが大騒ぎになる物音が聞えた。だが若林はまだ待った。相手が|勢《せい》|揃《ぞろ》いしたところを一挙に片付けないと面倒なことになる。
「駐在に電話してくれ」
散弾銃をブッ放した男はうしろを振り向いてわめいた。
若林は、電話線のあたりの電柱を狙って、ライフルの引き金を慎重に絞った。
山々は銃声に震え、電柱の先端近くが砕け散った。電話線は切れて垂れさがる。廊下の男は、素早く伏せた若林のあたりに向けて、自動散弾銃を乱射した。
弾倉に補弾しながら、若林は横に逃げた。跳弾が防弾服にくいこんだ。廊下からは九丁の散弾銃が乱射をはじめた。
これで川野家に残っている銃は|揃《そろ》ったわけだ。|膝《ひざ》|射《う》ちの構えをとった若林は、彼等を一秒に一人の割りで片付けていった。ときどき、大粒散弾を受けてよろめく。
十個の空薬莢を拾って防弾服のポケットに仕舞った若林は立ち上がった。ヘルメットもその面覆いの左眼の上のあたりも、散弾でヒビだらけだ。
防弾服や防弾手袋にも、数十個の散弾がくいこんでいる。弾倉に補弾した若林は築山を出ると、池を廻って廊下に近づいた。倒れている人間の形をしたものに射ちこむ。
ヘルメットを脱いで廊下に置き、懐中電灯をつけた。ヤギで実験したときのような無惨な死体が散らばっている。
胴や首が千切れているから|咄《とっ》|嗟《さ》には分らないが、九人とも死体になったのは確実のようだ。
若林は転がっている散弾銃の機関部をライフル弾で破壊した。銃を飾ってあった下の戸棚を開き、そこに入っているものを放りだす。
戸棚の奥の羽目板は、推定していた通りに横にずれ、地下室への入り口と階段が姿を現わした。若林は階段を降りる。
コンクリート造りの地下室の壁に、高さ二メーター、幅一メーター半の大金庫が埋めこまれていた。ダイアル錠が見える。
若林は、〇・三三八マグナム・ライフルに二百五十グレインの鉄芯弾を装填した。床に置いた懐中電灯で金庫を照らしておき、錠のあたりに銃口を近づけて引き金を絞る。
強烈な衝撃波のはね返りで、一発ごとに若林は|尻《しり》|餅《もち》をつきそうになる。もともとは装甲車の被甲を貫くように作られた硬い鉄芯弾は、金庫の外張りの鋼鉄板や銅板を砕きながら、粉々になって燃え尽きる。はね返った破片が防弾服にくいこんだ。
ひそやかな乾杯
激しい衝撃波と|轟《ごう》|音《おん》で若林の頭は|痺《しび》れかけた。しかし若林は、ほとんど機械的に、ウィンチェスター〇・三三八マグナムの遊底を操作しながら、大金庫の錠のあたりに次々に二百五十グレインの鉄芯弾を射ちこんだ。
青紫の火花をあげて装甲部分が燃えながらも、硬鉄の弾芯は金庫の分厚い装甲と防火壁を貫いた。
金庫の|扉《とびら》に内蔵されていた特殊鋼鉄板のラッチが十数発被弾し、大きくひん曲った。若林は、同じところを狙ってさらに一発射つ。
ラッチは吹っ飛んだ。銃を置いた若林は、金庫の扉のレヴァーにぶらさがるようにした。歯の根が浮くような|軋《きし》み音をたてて金庫の大きな扉は開いた。
金庫のなかは、札束と国債の山であった。白い歯をきらめかせた若林は、防弾服の背から超大型のリュックを外した。
用心のために左手でライフルを持ち、右手で札束を|掴《つか》んでリュックのなかに放りこむ。処分すれば足がつくおそれが多い国債には手をつけず、現ナマだけをリュックに放りこんでいく。みんな一万円札だ。
リュックに八分目ほど札束は詰まった。若林はそれを背負う。重い。八十キロはある。若林はリュックの口をバンドで閉じた。
散らばっている空薬莢を拾ってポケットに仕舞い、リュックを背負うと、背骨が少々悲鳴をあげた。若林はライフルを床に立てて、|杖《つえ》がわりにし、顔をゆがめて立ち上がった。
一度立ち上がると、リュックの重さはさして気にならぬ|凄《すさ》まじい若林の体力であった。床に置いてある懐中電灯の後端を上から軽く|蹴《け》り、床を離れて跳びあがったその懐中電灯を左手で受けとめる。
ライフルを右手で腰だめにし、左手の懐中電灯は消灯して地下室から出た。戸棚の奥の隠し出入り口をくぐり抜けるときにはかなり苦労した。リュックがつかえてしまうからだ。
ともかく、鉄砲を飾ってあった部屋に出た若林は耳を澄ます。銃声のためにまだ鳴っている耳に、幾つもの分家からの女の悲鳴や子供の泣き声が聞える。
死体をまたぎ越えて縁側から降りた若林は、縁側に置いてあったヘルメットをかぶった。裏山に向って、ジグザグを描いて走る。とても、自分の体重よりも重いものを背負っているとは信じられぬほどのスピードであった。
遠くから、半鐘の音が伝わってきた、若林は手負いの|熊《くま》のようなスピードできつい登り坂を走り続ける。
ジープを置いているところにたどりついた若林は汗まみれであった。リュックとライフルを助手席に置いて素早く安全ベルトで縛りつける。
面覆いにも散弾によるヒビが入って視界を悪くしているヘルメットを脱いで、うしろの床に落す。
エンジン・スウィッチを入れ、チョークを引いて、左足で床のスターター・ボタンを踏むと、騒音を発してエンジンはかかった。
チョークを引いたまま若林は四輪駆動で発進させた。道とはいえぬ岩だらけの地面を、跳ねとびながらジープは進む。ジープかマウンテン・バギーでなければ絶対に走ることの出来ない急|勾《こう》|配《ばい》の連続だ。ジープでさえもときどき腹をこする。
防弾頭巾の口覆いを外した若林は、強い握力を持つ右手で激しく突きあげてくるハンドルを押えながら、左手でタバコに火をつけた。|貪《むさぼ》るように煙を吸いこむ。土煙が口のなかに粘りついた。
スカイライン旧GTAを|駐《と》めてある松代寄りの山中に着いた若林は、防弾頭巾や防弾服を脱ぐと、近くを流れている岩清水で口をすすぎ、顔を洗った。
GTAの特製のガソリン・タンクにリュックから出した札束を押しこんだ。助手席の床につけた隠し物入れに、夏掛けのフトンにくるんでウィンチェスターM七〇の〇・三三八マグナムと弾帯を仕舞う。
防弾服のポケットから取り出した空薬莢もだ。空薬莢には、それぞれの銃の固有の撃針の|打《だ》|痕《こん》やエキストラクターの引っかき傷が残る。
脱いだ防弾服やヘルメットなどをGTAの助手席に置く。ジープに積んであった三十リッター入りの予備罐二本のガソリンをGTAのガソリン・タンクの本物の部分に満たした。
GTAを発進させる。一キロほど林道を降りたところで、左手の|崖《がけ》に、自然に出来た、かなりの広さの|洞《どう》|窟《くつ》のような横穴の近くにGTAを停める。
その横穴は、下調べのときに目をつけておいたのだ。
車から降りた若林は、その横穴のなかに、ヘルメットや防弾服などの証拠品を置き、後部座席に積んであった二十リッター入りポリ・タンクの中身のガソリンをぶっかける。空になったポリ・タンクもガソリンの池に捨てた。
枯れ葉がついた木の枝にガソリンをつけ、横穴の上に出てから防弾服などを積んであるあたりに放りこむ。
はじめは、ガソリンの池はチョロチョロとしか燃えなかったが、やがて、爆風のような音をたてて激しく燃えあがった。
あまりにも激しい燃焼のために酸素が足りなくなると下火になり、横穴に新しい空気が流れこんでくると再び激しく燃えあがる。それをくり返した。
炎は、横穴の外にはほとんど吹きださなかった。したがって、里のほうからは炎は見えないだろう。
|溜《ため》|息《いき》をついた作業服姿の若林は再び車に乗りこんだ。町に向けて再び車を走らせる。
北国街道で一度検問を受けたが、若林は、みずからトランクまで開いてみせて通りすぎることが出来た。
東京に着いたのは、昼近くであった。スピード違反でパトカーに追っかけられないように慎重に走らせたのだ。
借家のガレージに車を突っこんだ若林は、扉を閉じると、ガレージの|隅《すみ》に積んであるドラム罐数本を移動させた。
そのあとに姿を現わした八十キロの重さの鉄板を引き起こして壁に立てかける。秘密の地下室への出入り口が姿を現わした。
大きく両手をひろげて深呼吸した若林は、GTAの後部シートのバック・レストを外した。
姿を現わした特製のガソリン・タンクの前部の隠し|蓋《ぶた》を外し、札束を次々に|掴《つか》みだした。ガレージの床にひろげたキャンヴァス・シートの上に投げる。
札束の山をキャンヴァス・シートで包み、地下室に運び降ろした。一度上に戻って、車のシートのバック・レストを元通りにネジ留めした。
地下室に戻り、裸電灯の下で紙幣を数える。一束が三百万円ずつであることが分ったら、あとの勘定は早かった。
総額は六億一千二百万にのぼった。しかも、杉山はボーリング場チェーン店に入ってくる日銭のなかから抜きとっていったらしく、続きナンバーの紙幣はほとんどない。
使えばすぐに足がつくかも知れない|熱い金《ホット・マネー》ではなく、使っても大丈夫なクール・マネーなのだ。狂喜した若林は、札束の山の上に身を投げて転げまわった。
しばらくして冷静さを取り戻し、ロッカーに札束を詰めこむ。肩で強く扉を押さないと閉まらないほど、ロッカーは札束で一杯になった。
ガレージに上り、助手席の床の隠し物入れから、ライフルや弾帯を取り出そうとする。そのとき、表門が開かれる音がして、足音が庭に入ってくるのを聞いた。
若林は化石したようになった。動かない。動けない、といったほうが正確であろう。
足音はガレージの前を通って家の玄関に向った。ブザーの音が聞える。しばらくして、
「誠さん!……いないの?」
と、叫ぶ雅子の声がした。
しばらく雅子と会っていないので、耐えきれなくなった雅子が押しかけてきたのだ。
若林は、いまは雅子に見られたくなかった。ガレージを開くと盗品のGTAを雅子に見つけられる。
それを見たら、雅子はどうしてその車がそこにあるのかを尋ねるだろう。
会社のガレージからはみだした車を預かっているのだ、と説明すればいいが、万が一、若林が捜査陣に目をつけられ、雅子に聞きこみが行なわれたとき、雅子がGTAのことをしゃべったりしたのでは大変なことになる。そこから、すべてが崩壊することだってありうる。
だが、反面では、ここで雅子に自分の姿を確認させておけば、アリバイの証人として使えるかも知れない。無論、犯行時刻からはだいぶたってしまっているが、ここで平静な姿を見られたら有利だ。
立ちすくんでいた若林は、ゆっくりと足音をたてないようにして、地下室のうしろのほうに後退しはじめた。
地下トンネルを通って寝室の下に来ると、隠し蓋を細心の注意を払って開く。そこから寝室に出ると蓋を閉じ、シャツとステテコ姿で玄関のドアを開いた。
雅子は、いつものように、玄関の前に置いた古ぼけた|籐《とう》|椅《い》|子《す》に腰を降ろして若林を待っていた。
若林は眠そうな笑顔を浮かべた。
「やあ、来てくれたの? 居眠りしていたらしくて、気がつかなかった。ご免、ご免……」
と、言う。
「また留守なのかと思って淋しかったわ」
紙袋を置いた雅子は立ち上がった。若林にもたれかかる。
二人は家のなかに入った。
「このところ、シゴキが厳しくてね。会いたい会いたい、と思いながらも時間が作れなくて……今日のようにやっと時間が|空《あ》くと、外に出るのが面倒になって……」
若林は呟いた。
「疲れてるのね。分るわ……怒っちゃいやよ。前にも言ったように、独立して代理店を開いたら?」
「うん。考えさせてくれ、僕は会社に|雑《ぞう》|巾《きん》のように絞られて、用がなくなればボロ切れのように捨てられたくないからな」
コーヒー沸かしを火にかけながら若林は答えた。
「本気になって考えてね」
「有り難う」
若林は雅子の髪に唇をつけた。
杉山のボーリング場の現金輸送車から奪った金……杉山の隠し金庫から奪った金……それを使って大きな買い物をするためには、合法的に|稼《かせ》いだという証拠――無論、架空であっても税務署を納得させるだけの――があれば鬼に金棒だ。
それには、代理店を作って、架空利益を計上していくのも一方法だ。問題は代理店を設立する資金だが、その資金を雅子が出してくれる、というのだ。雅子には出してくれた資金の十倍の金を払って、あとで別れよう。
二人は昼食を終えたあとベッド・インした。飢えきっていた雅子に二時間がかりでさいなまれて、果てると共に若林は泥のような眠りにおちた。
目を覚ましたとき、雅子の姿はなかった。テーブルに料理が並べられ、その上に新聞紙がかぶせられて、マジックインキを使って雅子の字で、
「ひどく疲れているようなので、一人でゆっくり休ませてあげるわ。夕食は用意しておきました。スープはガスに火をつけただけで大丈夫……愛してるわ」
と、書かれてあった。
再びベッドに横になった若林は、知子をどうすべきかについて考えた。
知子に調子を合わせておいたが、若林はまだ海外に脱出する気はない。六億円の稼ぎはまだ序の口だ。もっともっと稼ぎまくって、どこかの島を買い占め、そこに自分のための王国をブッ建てるのだ。
知子を殺せば問題は一気に片付く。しかし、若林には知子を殺すことは出来なかった。
思い悩んだ若林は、シャワーを浴びて頭をはっきりさせようとした。
浴室を出ると、重い頭は少し軽くなった。それと共に、まだ片付けが残っていることを思いだした。
再び作業服をつけた若林は、地下トンネルを通ってガレージに移った。GTAの隠し物入れの蓋を外し、銃と弾帯を寝室の銃ロッカーに戻した。
再びガレージに戻り、地下への出入り口の鉄板とドラム罐を元通りにした。寝室に戻り、ウィンチェスターを銃ロッカーから出すと、洗い矢の先に白布を|捲《ま》きつけ、ニトロ・ソルヴェントの|銃腔《じゅうこう》清掃油をたっぷりと含ませる。
銃から遊底を抜き、洗い矢を銃腔に通す。銃腔の火薬カスや弾頭のギルテッド・メタルのカスが充分に浮きでるには時間がかかるから、銃口を床に敷いたボロ切れに当てて、銃を逆さに立てかけておく。遊底もニトロ・ソルヴェントで清掃した。
化学洗剤入りの|磨《みが》き粉を使って浴室で手を洗った。寝室と食堂を兼ねた部屋のテーブルから新聞紙をのける。コールド・ビーフとポテト・サラダ、それに|若《わか》|鶏《どり》の蒸し物が置かれている。スープの空き|皿《ざら》にはパンが載っていた。
午後九時近い。若林はガス・レンジに載っている野菜スープの|鍋《なべ》に火を当て、新しいコットン・シャツとスラックスに着替えた。
スープが温まるあいだに、ダブル・グラスにスコッチを注ぎ、一人だけで乾杯の|真《ま》|似《ね》ごとをしてから、一気に胃に放りこんだ。三杯目を飲んだとき、胃が燃えはじめた。
もっともっと飲みたかったが、突発事態が起ったときにそなえて我慢する。スープを飲みはじめた。
コールド・ビーフの塊りにナイフを入れたとき、門が秘めやかに開く音を若林は耳にした。若林はベッドのサイド・テーブルの|抽《ひき》|出《だ》しから、刃渡り十センチほどの小さな飛びだしナイフを取り出した。それをズボンのポケットに入れて玄関に向った。
玄関の|覗《のぞ》き窓の覆いを横にずらせた。そこから覗く。カーフのハーフ・コートとパンタロン姿の知子が玄関に向ってくるところであった。
知子が声を掛ける前に、若林は玄関のドアを開いた。驚きの表情を見せた知子を引っぱりこみ、ドアを素早く閉じると、
「駄目じゃないか、いまここに来たら」
と、|圧《お》し殺したような声で言った。
「連絡がなかったので、心配で気が狂いそうになったの。ご免なさい。許してね。でも、ポルシェには乗らないで、タクシーで駅の近くまできて、それから歩いたから、わたしたちの関係が分ることはないと思うわ」
知子は口早に|囁《ささや》いた。
「その格好で歩いたら、なお目立つ」
「怒らないで……歩いていて、誰とも会わなかったわ」
知子は背をのばし、若林の首に両腕を捲きつけた。
待 つ
「怒ってはいないさ……それより、よくここが分ったな」
知子の腰に腕を廻した若林は言った。
「前に一度、そっとこの近くまで来たことがあったの。|愛《いと》しいあなたが、どんなところに住んでいるのかを知りたくて」
知子は若林の胸に顔を埋めた。
「ちょうど飯をくっているところだ。君も一緒にどう?」
「何か胸がつまって食欲が無いの。お給仕するわ」
知子は囁いた。
二人は、寝室と食堂を兼ねた部屋に入った。知子は好奇心に満ちた目で見廻す。テーブルについた若林は、
「飲む?」
とスコッチの|壜《びん》を取り上げた。
「乾杯しましょう」
冷蔵庫を開いて氷皿を取りだしながら知子は言った。
「|乾杯《チェリオ》」
「|乾杯《サルート》」
やがて二人はグラスを合わせた。グラスの半分ほどを一気に飲んだ知子は、
「全部でいくらだったの?」
と、|妖《あや》しいほどに光る|瞳《ひとみ》で若林を見つめながら尋ねた。
「六億とちょっとだ」
若林は答えた。
「とうとう、夢が現実になったのね。その現実を、この目でしっかり確かめたいわ」
知子は溜息をついた。
「あとで、好きなだけ見せてあげるよ」
「心臓がおかしくなってきたわ……杉山は気が狂ってしまったみたいよ」
「気の毒にな」
若林はグラスを一気に空けた。知子が氷と水と共に二杯目のスコッチを注ぎ、
「|自《じ》|業《ごう》自得よ。脱税でたくわえた六億円を奪われました、というわけにいかないので、口惜しさのはけ口が無くなって気が狂ってしまったんだわ」
と、言う。
「…………」
若林は肩をすくめ、コールド・ビーフの厚切れを口に押しこんだ。
「アルコールが入ったら食欲が出てきたようだわ。それに、あなたの顔を見て安心したせいもあるのかしら……あたしもいただいていい?」
「|勿《もち》|論《ろん》だよ。ナイフやフォークは、流し台の|抽《ひき》|出《だ》しに入っている。皿はそっちの戸棚だ」
若林は|目《め》|線《せん》で示しながら言った。コールド・ビーフと若鶏の蒸しものを切り分ける。
知子は二杯目の水割りを早いピッチで空けた。三杯目に口をつけながら、料理にも手をつける。
若林はアルコールはやめて、もっぱら食った。サラダを食い終えるとタバコに火をつける。
「ホトボリがさめるまでに、どのくらいかかるかしら?」
知子が自問するように尋ねた。
「少なくとも半年はかかるだろうな」
「半年も?」
「ああ。用心するに越したことはない」
「だって、杉山が奪われたお金が六億以上もだってことは警察には分ってないのよ」
「しかし、死人が出た。やむをえなかったことだが、九つの死体を作ってしまった」
若林は首を垂れた。
「その鉄砲でなのね?」
知子は、ニトロ・ソルヴェントを銃腔に含ませ、銃口を下にして銃ロッカーに立てかけてあるウィンチェスター〇・三三八マグナムのライフルを指さした。
「もうソルヴェント・オイルが|効《き》いてきた頃だろう」
立ち上がった若林は、洗い矢の先に白布を巻きつけ、薬室側から銃腔に通してこすった。
抜きだしてみると、白布は真っ黒に汚れ、弾頭からこすりとられていた被甲のギルテッド・メタルの黄色い金属粉がこびりついていた。
五枚目の白布で、やっと汚れがつかなくなった。電灯に銃腔をすかして見た若林は、まだ薬室の先のライフル|起《き》|綫《せん》部にまだ|焼損《エロージョン》が起ってないことに安心した。銃腔に|防錆《ぼうしょう》油をスプレーする。
抜いてあった遊底をレシーヴァーに戻した。ボルトを第一段目まで倒して引き金を絞る。引き金は逆鉤から外れたが、ボルトを充分に倒してないから撃針はほとんど動かない。
それからゆっくりとボルトを一杯に倒す。撃針はゆっくりとのびて痛まない。その銃を若林は銃ロッカーに仕舞った。鍵をかける。
再び浴室で手を洗う。若林が浴室から出てくると、知子が、
「お金を置いてあるところに案内して」
と、囁いた。
「いいとも」
若林は百二十リッター入りの重い電気冷蔵庫を横にずらせた。その下に現われた床の隠し|蓋《ぶた》を持ち上げる。秘密のトンネルヘの入り口が暗い口を開いた。
まず自分が階段を降りて、トンネルの電灯をつける。
「おいで」
と、優しく知子を呼ぶ。
「スリル満点ね」
階段を降りた知子は、|喘《あえ》ぐように言った。
トンネルの先に、ガレージの下の地下室の鉄製の扉がある。若林は鍵でその扉を開いた。秘密の室にも電灯をつけ、
「あのなかだ」
と、金属製ロッカーを指さした。
「開けて!」
興奮しきった表情で知子は叫んだ。
「声が高い」
若林は唇に指を当ててから、金庫のように|頑丈《がんじょう》なロッカーの前に立った。背中で、知子の視線からダイアル錠を隠し、ダイアルを合わせた。
ロックが解けた。若林が|把《と》っ|手《て》を廻して引くと、ロッカーの分厚い扉が開き、おびただしい札束がぶちまけられた。
「|凄《すご》い……凄いわ!」
知子は|呻《うめ》くように言った。札束の上に身を投げ、札束を手当り次第に掴んで|接《せっ》|吻《ぷん》する。狂喜のあまり性欲まで|昂《こう》|進《しん》したらしく、パンタロンの|腿《もも》の内側のヒダのあたりが|濡《ぬ》れてきた。
若林も札束の上に横になり、知子と並んだ。
知子が若林にしがみつき、狂ったように接吻を浴びせてきた。若林のスラックスのジッパーに手を掛ける。
若林は、|蹴《け》とばすようにしてスラックスとパンツを脱いだ。知子も、もがくような動作で素っ裸になった。
熱しきっている知子に前奏は|要《い》らなかった。札束の上で二人が溶けあうと、知子はたちまち波にさらわれはじめた。雅子と寝てから数時間ほどしかたってないので若林は鈍感になっている。だが硬度は衰えず、容赦なく攻めたてる。
狂態のかぎりを尽す知子の顔は札束に埋まりそうになった。ついに知子が|悶《もん》|絶《ぜつ》する寸前、若林もゴール・インした。
そのまま二人はちょっとのあいだ眠った。しばらくして抜いた若林は、スラックスのポケットから出したティッシュ・ペーパーで、知子からこぼれそうになるものを拭った。札束についたものから血液型を知られたくないからだ。立ち上がって服を身につける。
知子も目を開いた。|朦《もう》|朧《ろう》とした眼付きだ。パンティを引き寄せて覆いながら、
「あのまま死んでしまうのではないかと思ったわ」
と、かすれた声で呟く。
「俺もだ――」
若林は調子を合わせ、
「札束はどうする? しばらくは、ここに隠しておくのが無難だと思うんだが」
と、言う。
「そうね」
「君が分け前を自分の手に握っておきたいというんなら無理に反対はしないが、杉山と君の関係から、君が調べられたとき、分け前が発見されたらまずいだろう」
若林は言った。
「あなたとわたしは一心同体よ。あなたが持っていて」
知子は下着をつけながら言った。
そのあと、二人で札束をロッカーに戻す。扉を肩で押した若林に知子は、
「わたしにだけ、ダイアル錠の組み合せ番号を教えてくれない」
と、甘えた声で言った。
「うん。教えたいが、万一のことがあるから」
若林は呟いた。
「万一のこと? わたしが、こっそりここに忍びこんで運びだす、とでも言うの?」
知子の血相が変った。
「ちがう、ちがうよ。俺の言ってることはね。もし君がタチの悪い奴に捕まえられて拷問を受けたときを心配しているんだ。知ってるとしゃべってしまうが、知らなければしゃべれない」
「分ったわ。でも、そんなことが起るかしら?」
「絶対に起らないとは言えないな。ハゲタカのような連中がいるからな。もっとも、俺たちも、杉山から見ればハゲタカだ。杉山は俺たちがやったとは知ってないだろうが……」
若林は言った。
「今晩は泊めてね」
「ああ。こんな夜中に動いたりしたら目をつけられるし……。さあ、部屋に戻ろう」
若林は知子の手を引いた。
寝室に戻った。知子は若林にしがみつき、
「何だか、急に怖くてたまらなくなってきたわ。もっと飲んでいいかしら?」
と、言う。
「酔っぱらって大きな声をださないように気をつけてくれよ」
「いいわ。あなたもまた飲まない?」
「ちょっとなら付きあおう。飯を食ったあとだから、あんまり飲みたくはないが」
若林は答えた。
「いいものをあげましょうか?」
若林から離れた知子は、ハンドバッグからシガレット・ケースを取り出した。プラチナと小粒のダイアをちりばめたそのケースを開く。
なかには、セイラムのハッカ・タバコが入っていた。いや、巻き紙だけがグリーンの文字のセイラムで、タバコの葉は緑茶のようにグリーンがかっている。
「|大麻タバコ《マ リ フ ァ ナ》だな?」
若林は|眉《まゆ》を吊りあげた。
「そうよ。チャオよ、吸ってみない?」
「どこで手に入れた?」
「|売《バイ》|人《ニン》がボーリング場やスナックを廻っているのよ」
一本をくわえて火をつけた知子は言った。
「いつから吸っているんだ?」
若林の|頬《ほお》にグリグリが出来た。
「そんなにならないわ。こわい顔をしないで。ヘロインやコカインとちがって、習慣性が無いから、吸わないでおこうと思ったら我慢できるから、命をちぢめることはないわ。吸わないでいられるってことは、これまで、あなたの前で吸ったことがなかったことでも分るでしょう?……」
「…………」
「試してみて。今夜は特別のお祝いよ」
若林の|膝《ひざ》に乗った知子は、マリファナの吸い口を若林の唇に差した。
若林は吸ってみた。線香臭い。ヨモギにも似た匂いだ。
「まずい」
「すぐに慣れるわよ」
知子は言い、今度は自分が吸った。再び若林に吸わせる。
二本目を吸い終った頃、知子の|瞳《ひとみ》は|霞《かすみ》がかかったようになってきた。唇は濡れて光り、好色にまくれあがる。
若林のほうは、途中で少し吐き気がしたが、それを通りこすと、急に気持よく酔ったような気分になってきた。知子が素晴しく|綺《き》|麗《れい》に見えてくる。
「ああ……また感じてきたわ」
知子は若林のコットン・シャツの胸をひろげ、|腋《わき》の下に鼻を差しこみながら囁いた。軽く|噛《か》む。
「俺も酔っぱらってきたようだ」
「いつまでも愛して」
知子は若林の耳に唇を移し、耳の孔に舌を差しこんだ。快感に軽く身震いした若林は、知子を強く抱きしめる。
二十分後、二人はベッドに移っていた。|涸《か》れ果てている筈なのに若林は信じられぬほど勇猛であった。
一時間たっても若林は|猛《たけ》|々《だけ》しかった。この世のものとも思えぬ快感がずっと続いていながらまだ果てない。
知子のほうも燃え狂っていた。シーツは|洪《こう》|水《ずい》のようになっている。はじめは声をたてまいと若林の肩に噛みついていたが、やがて無駄な努力はやめたようだ。断末魔のような声を漏らす。
そのとき若林の頭の隅にわずかに残っていた理性は、玄関に忍び寄る足音を聞きわけた。
頭を振って、意識をはっきりさせようとする。
「やめないで!」
知子は叫んだ。
若林の顔に冷酷な素顔が戻ってきた。
機械的なモーションを続けながら、右手をベッドから垂らしたズボンのポケットをさぐる。飛びだしナイフを取り上げた。
そのナイフを枕の下に隠したとき、玄関の錠に|鍵《かぎ》が差しこまれる音がした。若林は体を移し、知子を背後から抱いた。つまり、自分は右腕を上にして、背中を壁に向け、顔を玄関側に向けたのだ。知子を|楯《たて》にした形にし、右手には、飛びだしナイフを握っていた。
処 理
忍びやかな足音は寝室に近づいてきた。
知子を背後から抱いた若林は、飛びだしナイフのラッチ・ボタンに親指を掛けて待った。まだ知子を突きあげている。
寝室の扉が勢いよく開かれた。水中銃を構えた三十歳ぐらいの男が踏みこんできた。もみあげを長くのばし、浅黒い顔に|凄《すご》|味《み》が|効《き》いた色男だ。
「動くな!」
その男は鋭く声をかけた。
その瞬間、若林はラッチ・ボタンを押し、飛びだしナイフの刃を|閃《ひらめ》かせた。そのナイフを、男の胸を|狙《ねら》って投げる。
手首のスナップが充分に効かされ、信じられぬようなスピードでナイフは飛んだ。銀色の刃がチカッと光る。だが、相手の男の動きも早かった。体を沈める。だが、|泡《あわ》をくらって、鋭いモリの穂先がついた水中銃を暴発させた。
火薬を使わない水中銃であるから、発射音は小さい。炭酸ガスのボンベを利用しているタイプらしく、筒からガスが噴出した。
モリは、若林が楯にしていた知子の胸に深く突き刺さった。知子は|痙《けい》|攣《れん》する。悲鳴を漏らさないように、若林は知子の口を押えた。
そして、相手の男は、体を沈めたために、|喉《のど》を若林のナイフに貫かれる結果になった。切っ先は首のうしろに抜け、|柄《え》まで喉にくいこむ。
水中銃を放りだしたその男は、両膝をついた。祈りのときのように上体を前に傾けながら、両手でナイフの柄を|掴《つか》んで引き抜こうとしていた。
若林は残忍な笑いを浮かべていた。|苦《く》|悶《もん》する知子が内部まで痙攣させるために、若林は我慢出来ずに注ぎこむ。
|闖入者《ちんにゅうしゃ》は、喉からナイフを抜くことが出来ずに横転した。若林は知子を放して立ち上がる。素っ裸のままだ。
知子を貫いたモリは心臓側ではなく、右胸に刺さっていた。水中銃は、やはりよく見てみると、炭酸ガス利用式のやつだ。男が背負った矢筒には、五本の予備のモリが入れてあった。
若林は戸棚のなかから、二メーター四方もある大きなビニールの布を取り出した。それをひろげ、その上に男を転がす。ポケットをさぐり、運転免許証から|真《さな》|田《だ》という名と分る。
返り血を浴びないように、ビニールの一部で真田の顔を覆い、その下で喉に刺さったナイフを抜き取った。
噴出した血がビニールに当り、シャワーの飛沫が当ったときのような音をたてた。傷口から呼吸の|泡《あわ》が漏れる。
若林はビニールをはぐると、ナイフを浴室に放りこんだ。ライターの炎で、真田の右耳を|炙《あぶ》る。
真田は悲鳴をあげようとしたが、声帯をやられているので、大きな声にはならなかった。若林は今度は左耳を炙り、
「どうして、すぐに俺を|殺《や》らなかった? いきなり俺を水中銃で射ったら、あんたの|企《たくら》みは成功してたかも知れないのに」
と、|嘲《あざ》|笑《わら》う。
「もし……|金《かね》の……隠し場所を……知子が貴様から|尋《き》きだしてなかったら……貴様が死んだのでは……金を……手にすることが出来ない……」
真田は切断された声帯からおびただしい|気《き》|泡《ほう》と血を漏らしながら、やっと聞きとれる声で呻いた。
「そうか……あんたは知子の男だったのか」
若林は無表情に言った。しかし、頬がかすかに痙攣している。
「残……念……」
「俺の|獲《え》|物《もの》を横取りする積りだったのに、こんなことになって気の毒だとは思うがな」
「…………」
「仲間はいるのか」
「お、俺を……殺したら……仲間が……必ず……貴様に……|復讐《ふくしゅう》……」
真田はやっと声を出すと、死の痙攣にとらえられた。
「ふざけるな。もっと苦しんでから死ね」
若林は指で真田の右の眼球をえぐり、引っぱりだす。あまりの苦痛に、死にかけていた真田はもがいた。
しかし、やがて真田はライターが顔を炙っても、腕をへし折っても、反応を示さなくなった。
若林は死体にツバを吐いてから、ベッドの知子のほうに移った。右肺をモリに貫かれている知子はまだくたばってはいない。だが、死が近づいてきていることを知って、恐怖のあまり小便を垂れ流している。
「物が言えるか?」
若林はベッドのそばの|椅《い》|子《す》に馬乗りになった。タバコをくわえ、ゆっくりと火をつけると、煙を知子の顔に吹きつけた。
|咳《せ》きこんだ知子は、血の塊りを吐いた。
「た、助けて、救急車を……」
と、|呻《うめ》く。まさに、蚊が鳴くような声であった。
「君の色男はくたばったぜ」
若林は知子に暗い瞳を据えて呟いた。
「助けて、死にたくない……」
「説明してもらおうか。聞いたところで、どうってことはないがな」
「わ、わたしが愛しているのは、あなただけよ」
「笑わせるな。だが、まあ、いい。続けろ」
若林は言った。
「真田は、|大麻《マリファナ》を|餌《えさ》にしてわたしに近づいたの。あなたと愛しあうことになった一年ほど前……」
「それで?」
「わたしは、マリファナの魅力から逃れられなくなった。真田がいないことには、マリファナを手に入れることが出来ない……」
「今度の仕事は真田がそそのかしたのか? 俺をロボットとして使おうとしたんだな?」
若林は唇を|歪《ゆが》めた。
「…………」
「それとも、俺をロボットとして使おうと計画したのは君のほうか?」
「ち、ちがうわ。あの|男《ひと》よ……許して」
知子は再び血を咳きこんだ。
「そして、俺に危い仕事をやらせておいて、俺を消して、金をお前と色男が手にする……という筋書きか。俺を|舐《な》めたのがお前たちの失敗だ。可哀そうに」
「助けて……わたしは反対したのよ。わたしを死なさないで! 六億ものお金を目の前にして死ぬなんて|嫌《いや》……」
知子は発狂しそうな表情になってきた。
「真田の仲間というのは? 真田の商売は何なんだ? マリファナの|売《バイ》|人《ニン》だけで食ってたのか?」
若林は尋ねた。
「あ、あの|男《ひと》は青山で、潜水用具の店と喫茶店をやっているの」
「やっていた、と言ってもらいたいな。奴はくたばったんだ」
若林は笑った。目は笑っていない。
「“アクア・マリーン”という店……気が向いたときだけ潜水の仕事をして、あとはブラブラしながら楽で大金になる|儲《もう》けのタネを捜してた友達が五、六人いたわ」
知子は声を絞りだした。ベッドはもう血に染まっている。
「その連中は、今夜、この近くに来てるのか?」
若林は瞳を据えた。
「き、来てないわ。何もしないあいつらに、みすみす分け前をやる必要はないと思って呼ばなかったの」
「そうかい? 真田は、仲間が俺に復讐すると言っていた。どういう意味だ?」
若林は二本目のタバコをチェーン・スモークした。
「…………」
知子は答えなかった。
「言ってくれ。言ってくれたら、病院の前まで運んでやる。こんなところに救急車を呼ぶわけにはいかないがな」
若林は優しさをよそおった声で言った。
「…………」
知子は|瞼《まぶた》を閉じた。
「さあ、言ってくれ」
「…………」
「頼む」
「…………」
「言うんだ! 言いたくないなら、なぶり殺してやる」
沈痛な趣きさえ|湛《たた》えていた若林の顔が急変し、凶暴な素顔が|剥《む》きだしになった。ライターの炎を知子の顔に近づける。
「やめて! 顔だけはやめて……どうせ死ぬにしても、焼けただれた顔を|誰《だれ》にも見せたくない……」
知子はもがいた。
「じゃあ、しゃべるんだな」
「万一の場合にそなえて、仲間たちのうちで一番親しい男に置き手紙を残してくる、とか言ってたわ。厳重に封をして、もし三日たっても戻ってこなかったらその男に渡すようにと言いおいて……」
「奴が一番親しくしていたのは誰なんだ? 手紙はどこに置いてきたんだ」
若林は、口早に尋ねた。|苛《いら》だった表情だ。
「一番親しくしていたのは……」
言いかけた知子は、急に息をつまらせた。大きく|痙《けい》|攣《れん》すると、ガックリと首を垂れた。
「まだ死ぬんじゃない。もっと尋ねたいことがあるんだ」
若林は知子を乱暴に揺すった。
だが、すでに痙攣をとめた知子は身じろぎもしなかった。瞼を引っくり返してみると、眼は完全に焦点を失っている。心臓に触れてみたが、その動きを感じることは出来なかった……。
「畜生」
|罵《ののし》った若林は、知子の死体を浴室に運んだ。タイルの床に放りだし、ビニールでくるんだ真田の死体も浴室に運んだ。
このあたりは、下水道がないので、汚水は地面に吸いこませるようになっている。だから、大量の血が流れても、ドブに血が浮くことは無い。
若林は、真田の死体を裸にさせた。潜水で鍛えているらしく筋肉はしまっている。毛深かった。
|蛇《じゃ》|口《ぐち》からホースをつないだ水道の水を出しっ放しにし、若林は真田の喉の傷を横にナイフで切り開いた。
|浴《よく》|槽《そう》のフチに立ち、六十五キロほどの真田の死体の右足を左手で軽々と持って吊りさげた。
喉の切り口から、おびただしい血が流れ出た。若林は、その真田の体を、右手のホースで洗う。血で染まった水はタイルを流れ、排水孔に吸いこまれていく。
真田の両手首の動脈を切った。|太《ふと》|腿《もも》の動脈も切って放血する。流れる血がなくなると、タイルの上に死体を仰向けに置き、足でよく踏んで血を絞りだす。
まるで、|熊《くま》やイノシシやシカを射ちとめたときに行う放血作業のようであった。すべての感情を押し殺した無表情さで若林はその作業を行なう。
ビニールも洗うと、次いで若林は知子の死体も同様にして放血した。放血によって腐敗のスピードは弱められる。
知子の場合は、奥も洗浄して若林が残した血液型の手がかりになるものを流し去る。
危険を冒してでも、死体を捨てに行かねばならないことを若林は知っていた。大量のドライ・アイスでもあればいいが、そうでない今、たとえ内臓を抜いても、二つの死体は一日でたまらぬほどの悪臭を放つだろう。内臓を抜いたところで、それを捨てに行かねばならぬ。
若林は自分の体についた血も洗い去り、素早く作業服をつけると、玄関からガレージに歩いた。手袋をつけている。
ガレージの扉を鍵で開く。なかにはスズキ・フロンテ三六〇のチューン・アップ車と、盗品の旧プリンスGTA、それにホンダCL九〇の二輪モトクロッサーがある。
若林は、ホンダを簡単に分解して、GTAの後部座席に積みこめるようにした。実際に積みこみ、トランク室からスペア・タイアを外した。
玄関にバックで旧GTAを廻し、特製のガソリン・タンクで狭まったトランクの奥に、知子と真田の死体を押しこんだ。突っかえると、容赦なく骨をへし折る。
無理やりに二つの死体を詰めこんだ若林はトランク室の|蓋《ふた》を閉じた。血で汚れたベッドのシーツや寝台ブトン、それに知子と真田が着ていたものを、分解した二輪を入れた後部座席に突っこんだ。
それから、釣り道具のケースに、|釣《つ》り|竿《ざお》などと共に、現金輸送車を襲ったときに使った手製の水平二連散弾銃――銃身はわずか三十センチほどしかない――と、一号散弾がつまった十二番の実包五十発ほどを入れる。実包はズック袋に入れた上で、釣り道具のケースとポケットに入れる。
スコップとツルハシとナタと共にその釣りケースを助手席に入れた。釣りケースにはズックのバケツも入っている。
それらを積みこんだGTAを駆り、|登戸《のぼりと》橋を使って多摩川を渡った。杉山の隠し金庫が襲われたのは新潟での出来ごとであるから、登戸橋にまでは非常線は張られてない。
世田谷―町田街道を、パトカーに目をつけられないように、若林は|大人《 おとな》しく走らせた。一台のパトカーが前方から近づいてきて、若林は緊張したが、そのパトカーは、あっさりとすれちがった。
町田までの道のりが、ヤケに長く感じられた。町田の端を突っ切り、八王子と横浜を結ぶ国道十六号を右折し、|淵《ふち》|野《の》|辺《べ》で左折した。
|相模《 さがみ》川を渡って愛川に入ると、もう、パトカーに|尾《つ》|行《け》られはしまいかとビクビクすることはなくなった。丹沢の|裾《すそ》の、まったくの|田舎《 いなか》だ。
それから約三十分後、若林は八百メーター級の山の林道を、車で登れる限度まで行った。そこで二つの死体を、寝台ブトンにくるみ、ロープで縛る。その上から血に汚れたシーツでくるむ。
上半身裸になった若林は、重い包みをかついだ。スコップとツルハシとナタをもう一本のロープを使って、首から吊る。
イノシシのように体で邪魔になる|灌《かん》|木《ぼく》の枝をへし折りながら、若林は奥に奥にと進んでいく。足にまつわりつく|蔓《つる》はナタでブッタ切った。
やがて、落ち葉が積もった|窪《くぼ》|地《ち》のなかに三トンほどの重さの岩が転がっているのが見えた。かなり平べったい岩だ。
その横に死体の包みとツルハシとスコップを置いた若林は、ナタを手にして、さらに深く山に分け入った。テコに使えそうなカシの若木を見つけ、出来るだけ音をたてないようにしてナタで切り倒しはじめる。
後始末
若林は、切り倒したカシの若木の枝をナタで払い、|梢《こずえ》のあたりを切り捨てた。それをかついで、死体の包みを置いた大きな岩のほうに戻ってくる。無論、指紋を残さないように軍手をつけている。
若木とはいえ、直径は二十センチを越え、長さは七メーター近いから、まわりの樹々の幹にぶつかって、若林はしばしばよろめいた。
苦労しながら、やっと岩のそばにそのカシの丸太を置いた。続いて若林は、林道のほうから、八十キロほどの岩を三度に分けて三つ運んできた。
かなり平べったい三トンほどの岩の手前側の下の地面を、ツルハシとスコップを使って、カシの丸太の先を充分に差しこめる程度に掘った。
その手前に八十キロほどの岩を二つ重ねて置いた。掘ったところに丸太を突っこみ、手前のほうの二つの岩をテコの支点とした。丸太のこちらの端の下のあたりに、八十キロほどの岩を一つ置く。
斜めに立った形になった丸太のこちらの端にジャンプしてぶらさがる。若林の体重を受けて、テコの丸太はさがり、大きな岩は持ちあげられた。
地面に押しつけた丸太のこちら側の端の上に八十キロほどの岩を載せる。テコの丸太はかなりしないながらも、大岩を持ちあげたまま動かなくなる。
若林は、寝台ブトンとシーツにくるんであった知子と真田の死体を、大きな岩と地面の|隙《すき》|間《ま》に押しこんだ。
丸太のこちら側に載せてある岩を蹴り外す。勢いよく丸太は跳ねあがり、大岩は死体を|潰《つぶ》してもとの位置に落ちた。
若林は|渾《こん》|身《しん》の力をこめて、大岩の下から丸太を抜いた。掘った土をできるだけ元に戻して踏み固める。
ツルハシやナタやスコップを|蔓《つる》|草《くさ》で丸太にしばりつけ、丸太をかついでくだっていく。途中で、ひどくカヤが深く茂っている窪地を見つけ、そこにツルハシなどを外した丸太を捨てた。
盗品のGTAに積み戻したツルハシとスコップを、林道をくだりながら谷に捨てた。ナタは、手製の散弾銃を隠した釣り道具のケースに入れる。真田と知子の着けていたものは、相模川の流れに捨てた。
GTAから、淵野辺の分譲地で降りた。偽造ナンバー・プレートを外し、釣り道具のケースに仕舞った。
その車の後部座席に、大ざっぱに分解して、積んであったホンダCL九〇の二輪モトクロッサーを組み立てる。
まだ夜は明けてなかった。釣り道具のケースを背負った若林は、二輪を飛ばし、宿河原の借家に戻っていく。
相模川や多摩川などの釣り場が多い地帯なので、交番の前を通ってもあやしまれはしなかった。
家に戻った若林は、まだ真田の水中銃を始末してなかったことに気付いた。仕方なく若林は、水中銃やモリなどをへし曲げてから地下の工作室にある小型溶鉱炉で溶かす。発射ガスもヴァルヴを押してボンベから抜き、ボンベを溶かした。
その頃には夜が明けかけていた。シャワーを浴び、ジャンパーとスラックスをつけた若林は、スズキ・フロンテ三六〇のチューン・アップ車に乗りこむ。小さなフロントのトランク・ルームには、背広やワイシャツなどを詰めた小型スーツ・ケースを入れた。
今日は月曜だが、祝日なので、社員特訓に加わることを拒否した若林は、人並みに、会社に関係なく一日を過ごすことが出来る。
しかし、今日じゅうにやり終えねばならぬことに手間がかかりすぎて、家に戻る間もなく、明日の出社の時刻が迫った場合のことを考えて、背広を用意したのだ。
若林が車を駐めたのは、四谷若葉町にある知子の、若葉メイゾンから三百メーターほど離れた、駐車禁止ではない裏通りであった。
車から降りた若林は、薄いゴム手袋をつける。ジャンパーの内ポケットには、重い電池式の強力な磁石が垂れさがっていた。
若葉メイゾンの裏側を歩く若林は、ラバー・ソールの|靴《くつ》のせいで、ほとんど足音をたてなかった。
そのマンションの非常階段を若林はそっと登っていく。東の空はすでに白んでいた。
知子のフラットがある五階の非常階段に来ると、若林は内ポケットから電池式の磁石を出した。何万回もコイルが捲かれているその磁石は、短時間だけだが、強烈な力を発揮する。無論、若林が自分で作ったものだ。
若林は、そいつの先端を非常扉の、内側に掛け金がついているあたりに当てた。掛け金なので、扉には|鍵《かぎ》|孔《あな》がなく、普通の手段では内側からでないと掛け金を外すことはできないのだ。
若林はスウィッチを入れた。磁力が通じ、磁石の鉄棒の先端はスチール製のドアに吸いつけられる。ちょっとやそっとの力では、引き離すことができないほどの磁力であった。
若林はその磁石の先で、非常扉の外側に沿って、半円を描くようにした。ドアの内側の掛け金も、磁石の動きにつれて動いている筈だ。
若林がスウィッチを切ると、外れていた掛け金が、カタンと音をたてた。|把《と》っ|手《て》がついていない非常扉に再び磁石を当て、スウィッチを入れて引っぱる。
非常扉は開いた。
磁石のスウィッチを切った若林は、それを内ポケットに戻し、五階の廊下に身を潜りこませた。非常扉の内側から掛け金を掛ける。
そのマンションには、水商売の住人が多いから、夜が明けはじめている今は、やっと眠りに落ちた者が大半なのであろう。目覚めて、早朝の散歩のために廊下に出てくるような者は見当らない。
若林は知子のフラットの玄関の錠を先端を|潰《つぶ》した二本の針金で開いた。なかに入り、ゴム手袋をつけた手で電灯のスウィッチを入れる。
金がかかった調度で飾られていた筈だが、それらはみんな消えていた。生活していくのに最低限必要な家具や食器などだけが残っている。
高飛びにそなえて、知子は売り払ってしまったのであろう。頬をかすかに|痙《けい》|攣《れん》させた若林は、知子が彼女と若林を関係づけるものを何か残してないだろうか、と戸棚や残された三面鏡の|抽《ひき》|出《だ》しなどを捜しはじめる。
発見したのは、電話帳のなかのあるページにあった。下巻の“わ”の最初のページに、若林の住所が書きこんである。
そこだけを破ったのでは目立つから、若林は電話帳ごと持ち帰ることにした。上巻も持ち帰ったほうがいいだろう。
それからさらに半時間ほど捜したが、自分と知子を関係づけるものは発見できなかった。住所録はとっくに知子が処分したらしく見当らない。これでは、“アクア・マリーン”の潜水クラブの連中の名が分らない。
上下二巻の電話帳を持って非常階段から出た若林は、青山にある“アクア・マリーン”に向った。磁石は車のうしろの床に置く。出るときに外した非常扉の掛け金は、磁石を使って掛け戻しておいた。
その店は南青山にあった。神宮前と霞町のあいだのあたりだ。小さなビルの一階が喫茶店で、二階と三階が潜水具の店、そして四階が住居になっているらしかった。喫茶店の横に階段がつき、表からも二階に直接登れるようになっている。
すでに夜は明けていた。七時過ぎだ。しかし、喫茶店の営業時間は午前十一時から午後十一時、潜水具の店のほうは午前十時から午後九時まで、と看板に出ているように、喫茶店はシャッターを降ろし、二階についた潜水具店用の入り口のドアにもシャッターが降りている。
露地を通って若林は裏に廻ってみた。小さなそのビルの地階は客用の駐車場になっていて、そこにもシャッターが降り、シャッターの横にはくぐり戸が閉じられている。
朝が早いし休日なので、裏通りに人影は見当らなかった。若林は、ガレージの出入り口の横のくぐり戸の錠を、用意してきた針金を使って解いた。
くぐり戸の内側に入り、懐中電灯を照らす。
急なくだり傾斜の通路の先に、七、八台駐められる地下駐車場があった。今は潜水具の店の名を書いたフォードのステーション・ワゴンが一台置かれている。駐車場の右側に、一階に向うためのドアと、二階に向うためのドアが別々についている。
若林はまず一階の喫茶店に入った。店の左右の壁には巨大な|水《すい》|槽《そう》が|嵌《は》めこまれていて、さまざまな熱帯魚が泳いでいる。
そのビルが経営の危機に|瀕《ひん》していることは、カウンターの奥の額をはぐってみると、その下の壁に税務署の差し押えの赤札が|貼《は》られていることで分った。喫茶店の経営者の名義は真田ではなく、吉川光夫という男の名義になっている。
カウンターの裏や狭い更衣室を捜してみたが、真田が仲間に残したらしい書置きは見当らない。若林は二階に移った。
潜水具をディスプレイした二階の壁には、何枚もの写真が貼られてあった。真田一人で、カリブ海やオーストラリア沖などで巨大な獲物が吊るされたそばに立っている写真もあれば、仲間たちとクエやカンパチなどの獲物を持ち上げている写真もある。
若林は、写真に写っている真田の仲間たちの顔を覚えこんだ。そして、倉庫と事務室とクラブのサロンになっている三階に登った若林は“アクア・マリーン・クラブ”の名簿を見つけてポケットに収める。うまい具合に顔写真入りであった。
二階にも三階にも、目立たぬ場所に差し押えの札が貼られてあった。
四階は、やはり真田の住居であった。そこでは、冷蔵庫にもテレヴィにも金庫にも赤札が貼られてある。
袋戸棚にあった何冊ものアルバムをめくっていた若林は、二年ほど前と思われる頃からの写真から、数枚がはがされていることを発見した。
おそらく、それは知子の写真か、真田と知子が一緒に写っているものであろう。
真田が書いた置き手紙というのは、誰かが預かっているらしく、とうとう発見できなかった。
半時間がかりで金庫のダイアルを合わせてみたが、なかは借金の証文ばかりであった。寝台のマットの縫い目をほぐしてみると、マリファナの刻みの一ポンド包みが出てくる。
その包みを自分のポケットのなかに移し、若林はビルを出た。表通りに出ると、出勤してきた従業員らしい若い男が、二階への階段を登っていくのが見える。
もう少し手間どっていたら、その若者と|鉢《はち》合わせするところだった……と若林は|溜《ため》|息《いき》をついた。
やはり、その若者は従業員であった。シャッターの下端をコンクリートの土台に固定した|南京錠《なんきんじょう》を解いてシャッターを|捲《ま》きあげ、ガラス戸をやはり錠で開いて潜水具の店のなかに消える。
若林は渋谷のビジネス・ホテルに偽名を使って部屋をとり、夕方まで泥のように眠った。
ホテルから出ると、青山墓地の|脇《わき》に駐めておいたスズキの軽四輪が盗まれてないことを確めてから、霞町の中華料理店で簡単な夕食をとる。
それから、腹ごなしを兼ねて“アクア・マリーン”の店に歩いた。まだ開いている二階の潜水具の店に入った。
店員は二人であった。朝方、若林が見た若者と、四十近いがたくましい番頭だ。客の姿は見えないが、三階のクラブのサロンのほうから話し声が聞える。
二人は飾ってある器具をもっともらしく|眺《なが》めて廻る若林を、投げやりな態度で放置していた。
若林は番頭に向い、
「おたくがご主人?」
と尋ねた。
「いや。私は支配人で……主人に何かご用で……?」
番頭は言った。
「別に……足ビレはどのメーカーが一番いいだろうね?」
「どこでも似たようなものですよ」
「じゃあ、あれをもらおう」
若林は、ダイヴァーの人形がはいているフィンを示した。
「合うのがありますかな」
番頭は|呟《つぶや》き、若い店員に|顎《あご》をしゃくった。若い店員は、四階から各サイズのフィンを持ってきた。若林は自分に合ったサイズのフィンを買って店を出た。近くの飲食店のポリ・バケツにそれを捨て、店を見張ることができる位置にある“ポニー”という喫茶店の窓ぎわに腰を降ろした。コーヒー・カップをゆっくり口に運びながら待つ。
九時少し前に、三、四人の男が連れだって潜水具の店から出てきた。歩道に立ちどまって話をしている。
彼等は“アクア・マリーン・クラブ”の連中であった。
少しの間を置いて、二台の自家用車が彼等の前に停まった。運転している二人もクラブ員だ。店の駐車場に置いてあった車を廻してきたのであろう。
歩道の連中は、二台の車に分乗した。二台の車は走り去る。
やがて、潜水具の店の|灯《あか》りが消えた。若林は、百円札を二つレジに伝票と共に放りだし、
「釣りはいらない」
と、言い捨てて表に出る。
番頭と若い店員が二階の扉を閉め、シャッターを降ろしているところであった。鍵は若い店員が持ち、二人は青山一丁目の地下鉄の駅のほうに歩く。
若林は尾行した。駅では、とりあえず七十円区間の切符を買う。二人が乗った電車に身を滑りこませ、二人と顔を合わせないように気を配る。
二人は、渋谷で降りた。若い店員は井の頭線のほうに歩き、番頭のほうは東横線に乗った。
百円区間の切符を買った若林は、番頭が乗った電車にやっとのことで間に合った。番頭は、多摩川を渡った新丸子で降りた。
若林は、二百メーターほどの間隔をとって尾行した。番頭は、新興住宅街にある、小ぢんまりとした建て売り住宅のなかに消えた。
電柱の蔭に立ちどまってそれを見守った若林は、空き地に移り、駐車している小型トラックの蔭に立って考えこんだ。番頭に家族がいれば面倒だが、何とかして番頭をおびきだすのだ。色々と聴きたいことがある。
待ち伏せ
番頭には、先ほど店で顔を見られているから、セールスに跳びこんだ、という口実は|効《き》かない。
だから若林は、古典的な電報という手を使うことにした。空き地から出る。
路上に置かれているバイクを見つけたのは五分もたたないうちであった。ホンダ・カブのそのチェンジ・ペダルを踏んでニュートラルにし、静かに押して二百メーターほど行く。無論、指紋を残さぬように手袋をつけていた。
若林はタバコの銀紙でバッテリーとイグニッションを直結にした。ライト・カヴァーの上にニュートラル・ランプがついて、電流が通じたことが分る。
キック・ペダルを蹴ってエンジンに生命をかよわせた若林は、無灯火のまま走らせた。途中、手放しで走らせながら、大判のチェックのハンカチで覆面する。
わざと低いギアでエンジンの回転をあげて、若林は番頭の家の前に着いた。近頃の電報配達人は、みんなバイクを使うからだ。
十五坪ほどの小住宅の家には門がなかった。電話線も入ってない。菊川と表札が出ている。いきなり玄関だ。バイクから降りた若林は、
「電報!」
と、叫んで、玄関のドアを|叩《たた》いた。
屋内で物音がし、やがて玄関のドアのノブが廻される音がした。ドアが開かれ、スポーツ・シャツとよれよれのズボンをはいた番頭の菊川が、
「ご苦労さん……」
と、言いながらドアを開いた。
そのときには、覆面姿の若林は、ドアの横に身を寄せていた。
「どこへいったのかな?」
と、呟きながら玄関から出てきた菊川の首筋に、強烈な手刀を叩きこむ。
首の骨が折れない程度にだ。菊川は背中に巨大なハンマーの打撃を受けたかのように突んのめった。若林はドアを閉じる。
意識を失っている菊川を、|俯《うつ》|向《む》けにさせたまま、バイクの荷台に横に乗せた。腹が荷台に乗った菊川の手と足は、バイクの横に垂れさがった。
若林はそのバイクを駆って、多摩川に近い雑木林のなかに乗り入れた。菊川を荷台から降ろし、荷台についていた細いロープで縛った。
俯向けにさせたまま、両手を背後に縛り、両脚もうしろに折り曲げて縛り、さらに両手首と両足首も一緒に縛って、身動きできなくする。
|尾《び》|てい[#「てい」は「骨」+「低のにんべんをとったもの」Unicode="#9AB6"]《てい》|骨《こつ》を軽く蹴ってやると、菊川は|呻《うめ》き声を漏らした。徐々に意識を取り戻す。
「聞えるか?」
若林は菊川の背に声をかけた。口のなかにライターを含んで声を変えている。
「き、貴様は誰だ?」
菊川は呻いた。
「誰でもいい。質問に答えてくれ。答えたら、命は助けてやる」
若林は言った。
「何でもしゃべる。俺は英雄になって死ぬなんて、真っぴらだ」
「あんたは、真田から何か預からなかったか?」
「封をした手紙を預かった」
「やっぱし、そうか! そいつは、いま、どこにある?」
「ない」
「ないだって?」
「そうだ。松島さんに渡した」
「本当か?」
若林の表情が殺気を帯びてきた。松島というのは、真田の潜水仲間だ。
「社長は、自分が三日間姿を見せなかったら、あの手紙を松島さんに渡すように、と言われていた。だけど、今日、どこに電話してみても社長と連絡が取れなかったので、つい手紙のことを松島さんにしゃべってしまった。そしたら、松島さんは、どうせ自分に渡る手紙なら、いま渡してくれてもいいだろう……と、言ったんで……」
「そうか? 手紙の内容について、松島は何か言ってたか?」
「何か重要なことが書かれてあったらしい。クラブの幹事たちと、ひそひそ相談していた。だけど、私は知りたくもなかった。面倒なことに捲きこまれるのは|嫌《いや》だから」
「そうか。相談してた連中は誰と誰なんだ?」
若林は尋ねた。
「佐藤さん……二宮さん……野田さん……石山さん……それに、武島さん」
「そうか。奴等はあんたの店が閉まると、|揃《そろ》ってどっかに行ったな? どこに行ったのか分るか?」
「知らない」
番頭は呟いた。
「本当に知らないのか?」
「どこかのホテルに集まるとか言ったけど、ホテルの名前までは分らない。本当だ」
「思いだすんだ」
「無理だ」
「よし、分った。あんたは、いまあったことをみんな忘れてくれ」
「忘れる」
「奥さんや子供はいるのか?」
「ああ」
「奥さんには、電報は真田からの呼びだしだった、とでも言っておくんだ。真田は、バクチの借金のことでヤクザに追われていて、店のことについて駅前の喫茶店で話をしていた、とでも言っておけ」
「分った」
「余計なことは絶対にしゃべるな。いまあったことを誰にでもしゃべったことが分ったら、まずあんたの子供を殺す。それから、奥さんを犯す」
「やめてくれ!」
「そんな目に会いたくなかったら、余計なことはしゃべらないことだな」
若林は言った。
「分った。あんたのことは、誰にもしゃべらない」
菊川は言った。
「それでこそ男だ。口が固くないと男じゃない。口がちょいとすべったばっかりに、家族や友達を死なせてしまった連中を俺は何人も知っている」
「…………」
「じゃあ、ロープを解いてやるから、決してうしろを振り向くな。振り向いたら、あんたは死ぬ。俺は|拳銃《けんじゅう》を持ってるんだ」
若林は、パーカーの万年筆の、金属製のキャップを菊川の首に突きつけた。
首を縮めた菊川は、小さな悲鳴を漏らした。
「分った。射たないでくれ……」
と、泣きそうな声で哀願する。
万年筆を仕舞った若林は、飛びだしナイフの刃を起した。菊川を縛ってあった細いロープを切断した。
「さあ行け。振りかえらずにな」
若林は命じた。
「あ、安心させておいて、うしろから射つ気じゃないだろうな」
立ち上がりながら菊川は|喘《あえ》いだ。
「心配するな。殺す気なら、もう殺してしまっている」
若林は言った。
菊川は、おそるおそる、といった感じで遠ざかりはじめた。三十メーターほど若林から離れると、夢中になって走りだす。
若林はバイクにまたがった。雑木林を抜け、菊川が去ったのと反対のほうにバイクで遠ざかる……。
約一時間後、途中で盗品のバイクを捨てた若林は、歩いて自分の借家に近づいた。家から百メーターほどになると足音を殺す。
表の門から入らず、崩れかけの|土《ど》|塀《べい》の横に廻って様子をうかがう。家に忍びこんでいる者はいないようだが、念のためにジャンプして、土塀の上に手を掛け、体を引きあげる。
そろそろと土塀の内側に体を降ろし、膝のクッションを最大限に利用して庭にそっと足をつけた。
ナイフを抜き、建物のまわりをそっと一周してみる。建物のなかに、人の気配はなかった。
|安《あん》|堵《ど》の溜息をついた若林は、玄関から|屋《な》|内《か》に入った。
部屋は荒されてなかった。百二十リッター入りの重い電気冷蔵庫を横にずらせてから、その下に現われた床の隠し|蓋《ぶた》を持ち上げ、秘密のトンネルを通って地下室に降りてみる。
地下室も荒されてなかった。
だが若林は、地下の金庫にある六億を越す現ナマを、できるだけ早くほかに移す必要を痛感した。それに、寝室のガン・ロッカーにある五丁の散弾銃やライフルを、せめて今日、明日じゅうだけでも地下に隠したほうがいい、と考えた。真田の仲間に銃を奪われたりしたら面倒なことになる。
寝室兼食堂兼居間に上った若林は、耐火ガラスの扉がついたガン・ロッカーを開き、なかの銃や弾薬を地下のロッカーに移した。
手製の散弾銃だけは、いざというときには役立てねばならないので、ベッドの横の羽目板をはぐり、その奥の土壁をえぐった|窪《くぼ》みに隠しておいた。
ベッドのマットレスの上に予備の寝台ブトンとシーツを敷き、若林は服をつけたまま寝転がった。タバコを次々にチェーン・スモークする。喉が痛くなってきた。
真田の仲間であった佐藤たちは、真田が|遺《のこ》した手紙を読んで、どうやって若林から金を捲きあげようかと協議しているのであろう。
そいつらにくれてやる金は一文もない。奴等を皆殺しにするにはどうしたらいいだろうか、と若林は考えた。
しばらくして若林は起き上がった。
電車に乗って新宿に出る。そこからタクシーに乗って、青山墓地の脇に行った。若林のスズキ・フロンテ三六〇は盗まれてなかった。
若林は墓地の近くのマンションに、真田の仲間の一人であった野田が住んでいることを頭に置いていた。
野田は、“アクア・マリーン・クラブ”の名簿では二十八歳だ。独身と書かれてあった。若林は、野田の部屋に忍びこんで待ち伏せし、彼等の計画を吐かせることにする。
そのマンションは、西洋の城を模したものであった。若林は、ロビーを見張っているガードマンが小用でトイレに消えた|隙《すき》をうかがってマンションのなかに忍びこむ。
階段には分厚いフェルトが張られているから、足音を殺す必要はなかった。若林は三階にある野田のフラットの玄関のドアの前に立つ。廊下には分厚いカーペットが敷かれてあった。
先端を潰して|鉤《かぎ》型に曲げた二本の針金を使い、若林はドアのロックを解いた。そっとドアを細目に開き、|室《な》|内《か》に体を滑りこませる。後手でドアを閉じると共に、ロック・ボタンを押す。
カーテンの向うは鈍い灯がついた居間であった。アクア・ダイヴィングの道具や、野田が仕止めた巨大な魚の魚拓や|剥《はく》|製《せい》などが飾ってある。
若林は、寝室らしい奥の部屋のドアを開いた。
薄暗いなかから、香水の匂いが若林の鼻をくすぐると共に、
「あんた?」
と、ハスキーな女の声が掛かった。
ダブル・ベッドで、髪の長い女が半身を起すのが見えた。若林は、うしろ手で寝室のドアを閉じた。素早く大判のハンカチで覆面する。
「遅かったのね。どこで浮気してたのよ?」
と、とがめながら、女はベッド・サイドのスタンドのスウィッチを入れた。スタンドの|傘《かさ》の色は、レモン・イエローだ。
入ってきたのが野田でないことを知って、女は悲鳴をあげようとした。二十一、二だが、セックスの体験が深そうな顔と体つきだ。
「わめいたら殺す。|大人《 おとな》しくしてれば助けてやる。俺が用があるのは野田のほうで、あんたには用がない」
若林は静かに言った。
女は、|拳《こぶし》を口のなかに突っこんで悲鳴を|圧《お》し殺そうとしていた。
身につけているのは、黒いレースのネグリジェだけらしい。谷間が|蒼《あお》く|翳《かげ》るほど巨大な乳房が、ネグリジェから透けて見えた。
若林は、素早くその女に近づいた。ベッドに腰を降ろして見つめる。女は震えはじめた。
「名前は?」
と尋ねる。
口のなかから拳を抜いた女は、しばらく|喉《のど》ばかりが動くだけで声が出なかった。しばらくして、
「弓子……乱暴しないで……」
と、やっと声になった。
「弓子か。野田のスケというわけか。しばらくここで、野田を待たせてもらうぜ」
若林は冷たく言った。
弓子は寝台から転げ落ち、|這《は》って逃げようとした。
やはり弓子は何もはいてなかった。しかも、ミニ型のネグリジェだ。異様なほど花弁が発達した秘部が、うしろから丸見えになる。
若林は|狙《ねら》い澄ましてそこを|蹴《け》った。|靴《くつ》先が内部にめりこむ。弓のように反った弓子は、あまりの苦痛のために悲鳴をあげることも出来ずに意識を失う。
若林はネグリジェを裂き、それで裸にした弓子の体を縛った。|猿《さる》グツワも|噛《か》ませる。
その弓子をベッドの奥の床に放りだし、自分は靴をはいたままベッドに仰向けになって野田を待ったが、思いついて、居間から圧縮ガス利用の水中銃と矢筒を持ってきた。
モリを水中銃にセットする。再びベッドに転がった。足音が玄関の前に立ちどまり、|鍵《かぎ》|束《たば》が鳴ったのが午前四時頃であった。ドアのロックが解かれる音がする。
若林はスタンドの灯を消していた。ベッドから降り、居間との境いのドアの横に立つ。水中銃を持ってだ。
口笛を吹きながら野田が入ってきた。
「起きろ、弓子」
と、声を掛ける。長身の、いかにも遊び人風の男だ。
その野田を一たんやりすごしておいて、若林は背に水中銃のモリの穂先を突きつけた。
「こっちを向くな、死にたくなかったらな」
と、圧し殺した声で命じる。
「ふざけるな!」
野田は警告を無視して|掴《つか》みかかってきた。
若林は、野田がすぐには死なないように、右の肺にモリを射ちこんだ。野田が悲鳴をあげないように口を殴りつけて歯を数本吹っ飛ばす。
脅 迫
それでも、仰向けに倒れた野田は悲鳴をあげようとした。
若林は、歯が飛んだその口に右の靴先を突っこませた。悲鳴を潰し殺された野田は、若林の右足首を掴もうとした。
だが、右腕は右肺に突き刺さった水中銃のモリに邪魔されて途中でとまった。若林は、水中銃で、野田の左腕を思いきり殴りつけた。
水中銃はひん曲ったが、野田の左腕も|痺《しび》れて動かなくなった。
「あがいても|無《む》|駄《だ》だ。いや、無駄どころか、傷が深くなるぜ」
若林は言って、野田の口から靴先を外した。靴についた血と|唾《だ》|液《えき》を、野田の服にこすって|拭《ぬぐ》う。
野田は、血まみれの口から血の塊りを吐きだすと、右手でモリを肺から抜こうとした。しかし、傷のまわりが収縮している上に、モリの逆鉤が肺を引き裂くために、苦痛に耐えかねて意識を失った。
手袋をつけたまま、若林は浴室からバケツに水をくんできた。その水を、自分にかからないようにベッドの上に登ってから、野田にブッ掛けた。
身震いしながら野田は意識を取り戻した。ベッドの向うでは、縛られ、猿グツワを噛まされた弓子が身をよじっている。秘部が紫色に|腫《は》れあがっていた。
焦点が定まった|瞳《ひとみ》を大判のハンカチで覆面した若林に向けた野田は、先ほどまでの捨てばちな蛮勇を消失していた。
「助けてくれ……お願いだ……あるだけの金をやるから」
と、|呻《うめ》く。
「金はいらん」
若林は言った。
「じゃあ、女か? 弓子をやる。自由に犯してくれ」
野田は|喘《あえ》いだ。
「金でも女でもない。今夜、どんな話しあいをしたんだ。松島たちと!」
「じゃあ、あんたが若林か!」
野田の震えが大きくなった。
「松島は、真田の手紙について、何と言っていた?」
「あ、あんたが、でっかい仕事をやってのけたから、その金をごっそり|頂戴《ちょうだい》する算段だが、もし失敗したときには、俺たちがかわりにやってくれ、と書いてあった」
「…………」
「あんたの住所も勤め先も、ちゃんと書いてあった……苦しい……救急車を呼んでくれ。こんな目に会うんだったら、夢を追うんじゃなかった」
野田は発狂しそうな表情で喘いだ。
「松島たちと、どんな相談をした?」
若林はベッドに腰を降ろして尋ねた。
「言ったら、救急車を呼んでくれるか? 助けてくれたら、あんたのことはしゃべらないと約束する。水中銃を手入れ中に、あやまって暴発させてこの通りになった、と消防署員や医者に言う」
「分った。約束しよう」
「あんたから、どうやって六億の金を絞り取るかの相談だ。あんたを捕まえて、金の隠し場所を吐かせようという案も出たが、あんたが|拳銃《けんじゅう》でも持っていたことには逆にやられてしまう。だから、三日ぐらいのあいだ、あんたの会社に電話したり、家の郵便受けに脅迫の手紙を入れたりして、まず神経戦でいこうということになった。半分の分け前をよこさないと、警察に密告する……といって」
「そうか。どこで相談してたんだ?」
「赤坂のホテル・プリンセスの部屋を借りてだ」
「松島もホテルを出たのか?」
「出た」
「じゃあ、自宅へ帰ったな?」
「帰らないだろう。デートの約束をしている女を待たせてあるから、そっちのホテルにいそがないと……と、言ってた」
「どこだ、そのホテルは?」
若林の声が鋭くなった。
「知らない」
「そうか、死にたいのか?」
「本当に知らないんだ。あいつは、絶えず新しい女とよろしくやっている。それだのに、いちいちどこのホテルでやるのか、と馬鹿馬鹿しくて|尋《き》けるか」
野田は顔を歪めた。
「なるほどな。奴は独身か?」
「そうだ。俺たち仲間は、みんな独身だ。カカアがいる奴は一人もいない」
「みんな、女と適当にやっているというわけか」
「…………」
「あんたたちは、甘い計画をたてたとき、俺が逆襲してくると考えなかったのか?」
若林は言った。
「考えたさ……だから……」
野田はそこで口をつぐんだ。
「だから、どうしたんだ?」
「早く救急車を呼んでくれ!」
「しゃべってからだ」
若林はタバコに火をつけた。
「俺たちは、水中撮影の仕事の手伝いで時々外国に行く。松島は、行くごとに拳銃を買ってきた。もう、五、六丁たまってる筈だ。明日、会ったら俺にも一丁貸してくれることになっていた」
野田は呻いた。
「奴と、どこで会うことになっている?」
「“アクア・マリーン・クラブ”で明日、いや、もう今日か……の、午後一時にだ」
野田は、右胸に突き刺さっているモリを恐怖に耐えかねている目で盗み見ながら言った。
「よし、分った。これから救急車を呼んでやる。心配するな」
若林は言った。仰向けになっている野田の上体を起してやる。
野田は溜息をついた。その途端、全身の体重を乗せた若林の右の手刀が、背後から野田の首筋に|叩《たた》きつけられた。
若林の右手も軽く|痺《しび》れたが、|頸《けい》|椎《つい》をへし折られた野田は横倒しになって|痙《けい》|攣《れん》して、死への|途《みち》をたどっていく。
若林はベッドの向うの弓子のほうに移った。
|猿《さる》グツワを噛まされていて声を出すことが出来ない弓子は、転がりながら逃げようとした。
「俺を恨んでくれるなよ。野田と付き合ったあんたが悪かったものと|諦《あきら》めてくれ」
若林は呟き、弓子の首を腕で絞めた。頸椎をねじ折る。おびただしい小水をぶちまけながら、弓子も野田のあとを追うことになった。
若林は、|灰《はい》|皿《ざら》に突っこんであった自分のタバコの|吸《すい》|殻《がら》をポケットに仕舞った。壁に作りつけとなっている大きな、ワード・ローブの扉を開く。
そのなかは、野田の服と女の服が半分ぐらい入っていた。若林は、二つの死体とひん曲った水中銃をワード・ローブのなかに押しこむと扉を閉じる。
落し物はなかっただろうかと部屋を見おろした若林は、|絨毯《じゅうたん》に吸いこまれている野田の血の上にクッションを三つほど置いて隠した。
電灯を消し、廊下に面したドアを細目に開けて、廊下の様子をうかがう。廊下は無人であった。
ハンカチの覆面を外した若林は、自動錠のロック・ボタンを内側から押しておいて廊下に出た。ドアをうしろ手に閉じる。
廊下の左の端に非常扉があった。ドライヴァーもついた七徳ナイフで、その扉の横の警報器の|蓋《ふた》を外した若林は、なかの配線を切り、蓋を元通りにした。
|閂《かんぬき》を外しても、電線を切ってあるので非常ベルは鳴らない。非常扉を開くと風が吹きこんできて、柔らかな若林の髪をなぶる。
非常階段の上の小さなテラスに出た若林は、外側からナイフの刃で内側の閂を持ちあげておいてドアを閉じていった。
閉まる寸前に、素早くナイフを|隙《すき》|間《ま》から抜く。内側で、閂が掛け金にはまりこむ音が聞えた。
陽はまだ出てないが、夜はしりぞき、薄明るさが押し寄せてきていた。若林は足音を殺して、そっと非常階段を降りていく……。
半時間後、若林はスズキ・フロンテ三六〇を、東横線都立大学駅前の近くのガード沿いの一方通行路に駐めた。
ガードをくぐり、高級住宅が並んでいる平町の丘を歩いて登る。松島の家は、荒れてはいるが、三百坪ほどの敷地を持った屋敷であった。洋館だ。
若林は、ジャンプして大谷石の|塀《へい》の上に手を掛けると、塀の上に身を軽々と移した。庭に跳び降りる。|膝《ひざ》のクッションを最大限に利用してショックを柔らげた。
庭もほとんど手入れしてなかった。建物には、玄関の灯だけがついている。若林は、植え込みから植え込みの蔭を|択《えら》びながら建物に近づいた。
そのとき、|唸《うな》り声と共に、疾風のように一匹のボクサー犬が襲ってきた。歯を|剥《む》きだして苦笑いした若林は、そいつの|眉《み》|間《けん》にストレートを叩きつけた。
一声悲鳴をあげながら十メーターほど吹っ飛ばされたボクサー犬は、横倒しになって四|肢《し》を突っぱらせて|痙《けい》|攣《れん》する。
犬の悲鳴を聞きつけて近所の人々が起きだしてこないだろうか……と、若林は五分間ほど動かなかった。
それから、ゆっくりと犬に近づく。両方の眼の眼球が飛びだしてドロッと垂れさがったボクサー犬は完全に死んでいた。もう、|蟻《あり》が集まりかけていた。
若林は、|灌《かん》|木《ぼく》の茂みのなかにその|死《し》|骸《がい》を放りこんだ。薄笑いを浮かべている。
ガタガタの窓ガラスを外して、若林は建物のなかに入りこんだ。松島が一人で住んでいるらしく、使ってない部屋が多かった。若林は、拳銃がどこかに隠されてないか、と捜しはじめる。
しかし、八時半過ぎまで捜しても、拳銃は出てこなかった。
一度会社に顔を出しておかないとまずいので、若林は捜索を一時中断した。裏の|潜《くぐ》り|戸《ど》に足をかけて塀を乗り越え、スズキを飛ばして新宿に向う。
中央公園で車に積んであった背広に替え、始業時間ぎりぎりに東洋ニュー・ハウスの営業第二課の部屋に跳びこんだ。
例によって、犬飼課長が部下たちに訓辞を垂れかけているところであった。入ってきた若林を冷たい目で見て、
「よっぽど|田舎《 いなか》の居心地がよかったようだな?」
と、唇を|歪《ゆが》める。
若林は返事をしなかった。会社を辞めて、犬飼との関係が完全に切れた頃、なぶり殺しにしてやることにする。
犬飼は若林から視線を外し、
「君たち、我々管理職の目が節穴だと思ってたら大きな間違いだよ。君たちのなかには、お客さんから内装や外装や付帯工事などの追加注文を受けたとき、会社を通さずに業者に直接発注し、お客さんからは水増し料金を取った上に、業者からのリベートを取っている者がいる。誰だか名前は言わないが反省してもらおう。今度またやったら、懲戒免職にする。分ったな? 懲戒免職となったら、退職金は出ないんだ。目先の欲に駆られるよりも、将来のことを考えるんだ」
と、言う。七、八人の課員が視線を伏せた。
そのあと、セールスに廻ると言って会社を出た若林は、再び松島の屋敷に忍びこんだ。だが、昼まで捜しても、拳銃は出てこなかった。
どこか、ほかの家か庭石の下に隠してあるかも知れない。松島も戻ってこない。十二時半までいて諦めた若林は、駅前のグリルでステーキを一ポンドとジャガイモの空揚げを食った。本当は三ポンドほど肉を食いたいところだが、そんなことをすれば目立ちすぎるから、別の店で鶏の丸焼きを平らげる。
南青山にある“アクア・マリーン”の店に向った。その店のビルと通りをへだてて向いあった貸しビルに入り、通りに面した三階のトイレに入る。
“アクア・マリーン”の三階のクラブ・ルームが見えるかと思ったが、カーテンが邪魔になって駄目であった。
貸しビルを出た若林は、“アクア・マリーン”のビルの裏に廻って、その駐車場を横目で見て通り過ぎる。
昨夜松島たちが使っていた車は見当らなかった。若林は不吉な予感を覚えて自分の家に向って車を飛ばした。
家は荒されていた。松島たちが引っかきまわしたらしい。若林は夢中で地下室への秘密の通路を調べてみたが、彼等もそれには気がつかなかったらしい。壁の羽目板の裏の|窪《くぼ》みに隠した手製の散弾銃も無事であった。
だが、切り裂かれたベッドの上に、左手でマジックを使って書きなぐったらしい書面があった。
「会社に何度も電話したが連絡がとれなかった。今夜九時、渋谷警察の前の“ラドンナ”という喫茶店の前に立ってろ。そうでないと、貴様がやったことをサツにたれこむからな」
と、書かれている。
若林は鼻で笑うと、その書面を裂いてガス・レンジで燃やした。フトンやマットレスを切り裂かれたベッドに仰向けになり、松島たちを一まとめに片付ける方法を考えはじめる。
二十分ほどして、一つの考えがまとまった。若林はスズキ三六〇に乗って家を出る。
何十軒もの薬局を廻り、塩素酸カリの無色透明の結晶、黄色い二酸化ヒソの粉末をあやしまれない程度の量ずつ買い集めた。全体で三十キロに達する。
若林はまた、何キロもの砂糖をスーパー・マーケットで買い、金物屋で鉄パイプを何本も買った。絵の具屋で粘土も買った。
それから、秋葉原のジャンク屋に寄って、リモート・コントロールのスウィッチ・ボックスと幾つもの受感部品を買った。
会社には、プレハブを買ってくれる脈がある未亡人にドライヴに誘われたから、終業時間までには会社に戻れない、と電話を入れ、多摩川の近くの自宅に移る。
秘密の地下室に買ってきたものを運びこんだ。それから、旋盤を使って、簡単な撃発装置を幾つも作る。
その装置の孔に火薬を満たして口をパラフィンで|栓《せん》をしたマグナム・ライフル用の|薬莢《やっきょう》を差しこみ、リモコン装置の働きでモーターが廻って、松葉バネを押えていた撃針が外れるように作ったのだ。
それから若林は、粘土で先端を閉じた鉄パイプに、砂糖と塩素酸カリと二酸化ヒソを混ぜたものを詰めこむ。この混合物には、ダイナマイトのような爆発力があるのだ。作業を続ける若林の表情は、エンジニアやメカニックのように|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》だ。
午後九時近く。
渋谷の夜は、まだはじまったばかしのようであった。
駅に近く、首都高速道路が上を走っている通りと、渋谷橋のほうに向う明治通りにはさまれた形になった渋谷警察署のあたりも人が多かった。署と明治通りをへだてた喫茶店“ラドンナ”は、ある証券会社のビルの地下にあった。
その入り口前の近くで、たくましい体格の男がビルの壁にもたれ、ときどき腕時計を|覗《のぞ》きながら、|苛《いら》|立《だ》った表情をしている。
“アクア・マリーン・クラブ”のヴェテランの一人である松島だ。年は三十五、六。陽焼けして引きしまった顔を持っているが、目に卑しい|翳《かげ》りがある。右手を背広のポケットに突っこんでいた。
松島はゆったりとした上着をつけていた。署から出てくる制服警官や私服刑事を見ると無意識に視線をそらすのは、背広の|腋《わき》の下にショルダー・ホルスターを吊り、そこにコルト三十八口径スーパーの自動拳銃をブチこんでいるからだ。
九時きっかりに、背が高い美しい男が松島に近づいてきた。若林だ。身につけている武器は、ナイフと、先端に重りをつけたしなやかな革を輪に捲いたものだけであった。
「松島さんですね?」
若林はひそやかに声を掛けた。松島は驚いたようであった。実物の若林が、こんなに|優男《やさおとこ》だとは想像もしなかったのであろう。背広をつけた若林は、一見したところ、細っそりと見えるほどだ。
「き、貴様が若林か?」
松島は|呻《うめ》いた。右手をポケットから出す。
若林は|頷《うなず》いた。
喫茶店のガラス戸から見張っていたらしく、佐藤と二宮と石山、それに武島が歩道に登ってきた。みんな、肩を怒らせている。
「|拳銃《 ハジキ》を持ってるな?」
松島は若林にカマをかけた。
若林は男たちがみんな拳銃をひそかに携帯していることを見抜いていた。だから、そのことを逆に利用し、
「ああ。一対五では素手ではかなわぬからな。もっとも、警察署の前で射ちあうほど俺は馬鹿じゃない」
と、言った。
「そう思って、ここに貴様を呼んだのさ。ここなら、いきなり貴様がブッ放すことはあるまい、と思ってな」
二宮が言った。インドの貧民のように|痩《や》せた男だ。色は真っ黒だ。
「あんたたちもハジキを持ってるな?」
若林は言った。
「ああ。貴様のような殺人狂と素手で話は出来ねえ。取り引きの話に移る前に|尋《き》きたいことがある。野田をどうかしたんだな? 野田と連絡を取ろうとしたが、どうしても取れねえんだ。奴のマンションに行ってみたが、ドアは閉まっている。まさか、貴様、|殺《や》ったんじゃないだろうな?」
松島が若林を|睨《にら》みつけながら言った。
「|殺《や》ったなんて、とんでもない――」
若林は平然と言った。
「|殺《や》るどころか、あいつは俺から一億もむしり取って行った。今朝のことだ」
「何だって!」
皆は口を|痴《ち》|呆《ほう》のように開いた。
「奴は、真田の親友として、また“アクア・マリーン・クラブ”の代表として、と言って俺のところにやってきた。そして、一億の口止め料を要求したんだ。俺は泣く泣く払った。一億で何もかも丸く収まる、と奴が言うからだ。ところが、セールスの仕事から帰ってみると、あんたたちの置き手紙があった。俺はびっくりしてここにやってきたんだ。一億で話がついた筈なのに、いったいあんたたちは、俺からいくら捲きあげたら済む気か確めに来たんだ」
若林は、|咄《とっ》|嗟《さ》に考えついたセリフを口にした。
「|嘘《うそ》をつくな! 奴が一人で貴様のところに押しかけたなんて」
「一人じゃなかった。表の車に、女を待たせてあった。もし俺が奴を殺そうとしたら、女がすぐに警察に駆けこむことになっているのだ、と言って、玄関の外で俺を|恐喝《きょうかつ》しやがった」
「畜生、野田の野郎、俺たちを出し抜いて一億を手に入れてから、弓子とトンズラしちまったんじゃねえか? ふてえ野郎だ」
佐藤が言った。目が窪み、骨ばった顔つきをしている。
「奴ならやりそうなことだ」
|固《かた》|肥《ぶと》りの石山が呻いた。
「みんな、あわてるな。こんな奴の言うことを全部信用するわけにはいかねえ」
松島がたしなめた。
「俺を信用しないのはあんたたちの勝手だ。だけど、一つだけ言っておく。俺はあんたたちに呼びつけられても、ここに来る必要はちっともなかったんだ。あんたたちがサツに|密告《サ》しても、俺が今夜にでも外国に逃げたんでは、どうしようもないだろう?」
若林は言った。
「あんな大金をどうやって国外に持ちだせる?」
松島が噛みつくように言った。
「何だ、その顔は! 署の連中が、|喧《けん》|嘩《か》でもはじめるんじゃないかと思ってこっちを見てるぜ。笑うんだ。和気あいあいに見せかけるんだ」
唇だけで笑いながら若林は言った。
「…………」
男たちは無理やりに、|硬《こわ》ばった笑いを作った。
「あの|金《かね》を国外に持ちだす件については、俺が脳ミソを絞り抜いて考えついたうまい手があるんだ。どんな手だかは、口が腐っても言えねえけどな」
若林は不意に、笑いをふてぶてしいものに変えた。抜き射ちされるのかと思って、男たちが思わず一、二歩|退《さが》ったほどの|凄《すさ》まじい笑いであった。
「じゃ、どうして逃げねえんだ?」
松島がやっと言い返した。
「次の大仕事を計画しているからだ。その仕事を|諦《あきら》めることが出来たら、日本にオサラバということになるんだが」
「…………」
「あんたたちはいくら欲しいんだ? あんたたちがあんまり強欲なことを言うんじゃあ、俺は今夜にでも日本を出る。もうパス・ポートも、入国する国のヴィザもとってあるんだ」
「どうやって国を出る? 俺たちがサツに|密告《サ》したら、空港は緊急手配されるぜ」
「日本から出るのに、空を使うだけとはかぎらねえだろう。それに、パス・ポートの出国のスタンプは偽造できる」
若林はニヤリと笑った。
「密航する気か?」
佐藤が言った。
「さあな。ともかく、あんたらの条件を出してくれ」
「ちょっと待ってくれ。相談するから」
「相談するんなら、俺から見えるところでしろ」
「分った。あんたは、ここらをブラブラしていてくれ」
松島は言った。
「早く決めるんだ」
若林は答えた。ぶらぶらと歩きだす。
松島たちは、|額《ひたい》を集めて密談をはじめた。十数分後、若林を手まねきする。若林は歩み寄った。
「一人五千万ずつ、つまり二億五千万頂戴したい。そのかわり、それからあとは、あんたのことを誰かに|尋《き》かれても、見たことも聞いたこともない、と誓う。|勿《もち》|論《ろん》、それからあとは二度と金を要求しない。俺たちだって命が大事だからな」
松島が言った。
「野田に一億円とられて、俺には五億しか残ってない。そのうちから二億五千万払うとなると、俺には|稼《かせ》いだ金の半分しか残らないわけだ。とうてい、そんな取り引きには応じられねえよ」
はじめっから、松島たちに一|文《もん》の金もくれてやる気は毛頭なかったが、彼等を|罠《わな》におびき寄せるためには、あんまりあっさりと要求を呑んだのでは、かえって警戒される。
「待ってくれ。それでは、まとめて二億じゃどうだ」
「…………」
「二億だ。それが|嫌《いや》なら、これから、みんなでそこの渋谷署に駆け込む。俺たちに向けてハジキをブッ放したら、貴様のタマは、署のなかに飛びこむことになる。貴様は全署員を相手にする度胸があるか? いや署員だけでない。警察庁全体を相手にすることになるんだ」
松島は唇を歪めた。
「勝手にしろ。署に跳びこんだら、まず逮捕されるのはあんたたちだ。ハジキを身につけてるんだからな」
若林は鼻を鳴らしてみせた。
「たとえパクられても、俺たちは最悪の場合で、一、二年くらいこむだけだ。だけど、貴様はそうはいかねえ。今までに何人殺した? ともかく、貴様は死刑になるほかない。二億は、貴様の生命の保障料としたら安いもんじゃないか」
松島は言った。
「分った。二億を払う」
「そうか、そうか……じゃあ、午前零時に、またここで会おう。そのとき、俺たちは真田の遺書を持ってくる。貴様がここに持ってくる二億と引き替えに渡してやる」
松島は物欲に|瞳《ひとみ》を黄色っぽく輝かせた。
「いや、ここでは渡せない」
若林は言った。
「どうしてだ?」
「色々わけがあるが、一つには金は俺の家に置いてない。隠してあるところからここに運ぶのは俺はお断りだ」
「家のどこかに隠してあるんだろう? 野田には一億渡した、というじゃねえか」
武島が言った。
「奴に一億たかられてから、別の場所に移したんだ」
「畜生、それで俺たちが家さがししたとき、金が出てこなかったのか」
石山が呟いた。
「一足遅くてお気の毒だったな」
若林はせせら笑った。
「じゃあ、隠した場所に案内しろ」
松島が言った。
「馬鹿なことを言うな。そんなところに案内したら、あんたたちが俺をうしろからズドンとやって、残った五億全部を持っていくだろう。何しろ一対五だ。俺のほうが絶対に不利だ。俺はみすみす死を|択《えら》びたくはねえよ」
「俺たちは貴様を殺したりはしねえ。真田の|仇《かたき》を討つために貴様をブッ殺したといえばカッコいいが、俺たちは英雄になる気はねえんだ。金さえ手に入ったら文句ねえ」
「だからさ、二億が手に入るとなると、あとの三億も欲しくなる。目の前にあったらな。それより、二億だけしか目の前になかったら諦めがつくんじゃねえのか」
若林は言った。タバコをスポーツ・シャツの胸ポケットから抜こうと右手を動かす。若林が拳銃を抜くと思ったのか、男たちは、あわてて|腋《わき》の下や|尻《しり》ポケットに手を走らせようとした。そこに拳銃を隠しているのだ。
ゆっくりタバコを抜いた若林は、ビクついている彼等の死に顔を想像して楽しみながら、そいつを口にくわえてライターの火を移す。男たちは溜息をつき、松島が、
「じゃあ、貴様はどうしたらいい、と思ってるんだ」
と、若林の表情をうかがう。
「橋本から|津《つ》|久《く》|井《い》湖の城山ダムに向ってくれ。ダムの手前、谷ヶ原というところから、斜めに右に分れる道がある。ダムの北側に廻る道だ」
若林は言った。
「分った。俺はあのあたりに、ヤマドリ射ちに二、三度行ったことがある」
石山が言った。
「じゃあ、麦久保というところを知ってるな。左のほうに中沢の小学校や中学校がある」
「想いだした」
「麦久保の村を過ぎて、車が入れる幅の林道が尽きるあたりで取り引きしよう。林道が尽きるあたりは、ちょっとした野生芝の広場になっていて、車をUターンさせることができるし、五台ぐらいの車を|駐《と》めることもできる」
「ああ。そうだったな」
石山は|頷《うなず》いた。
「俺はあそこから、ずっと甲州街道寄りの山のなかに|金《かね》を埋めてあるんだ。どこだかは、はっきり言うわけにはいかないがな。そこで二億を掘りだして、リュックに入れて、あんたたちが待っているところまで歩いて運んでくる」
「時刻は?」
「午前三時」
「約束を破るなよ。午前三時までに貴様が待ち合せの場所にやってこなかったら、サツにたれこむからな。どんな船にもぐりこんでも発見されるぜ」
松島が言った。
……………………
午前三時近く、松島をはじめとする五人の男たちは、二台の車に分乗して、若林が指示した、山のなかの林道の突き当りのちょっとした広場で待っていた。そこから先は、|灌《かん》|木《ぼく》と杉林と、イノシシやウサギなどがつけたけもの道だ。
左手のかなり下方に津久井の湖面が銀色に光っているのが見える。拳銃を手にした男たちはときどき身震いする。|肌《はだ》寒いことは確かだし、男たちは武者震いだといっているが、恐怖のためであろう。
「奴から|射《う》ってこないかぎり、こっちからは射つなよ。生かしておいて、残りの三億もじわじわと捲き上げてやるんだ」
松島が言った。
四時が過ぎた。松島が、
「野郎、|騙《だま》しやがったな」
と呻いたとき、右手五十メーターほどの林の中から、
「こっちだ。金はかついできたが、足をくじいて動けない」
と、叫ぶ若林の声が聞えた。
男たちはライトをつけた車から跳びだした。拳銃を振りまわしながら、若林の声がしたほうに、灌木を体でへし折りながら駆けだした。
若林は、右手に、アンテナをのばしたリモコン発信器のボックスを持って、岩蔭に|蹲《うずくま》っていた。シャベルやウィンチェスター〇・三三八マグナムのライフルを近くに置いてシートをかぶせている。耳|栓《せん》をしていた。
男たちは一団となって広場から二十メーターほどのところまで出た。そこまで来たとき、若林はニヤリと笑ってリモコンのスウィッチを入れる。
男たちの|足《あし》|許《もと》の土中で、引き金の役を果すモーターが電波誘導されて廻り、撃針が外れて雷管を叩き、数十キロの手製爆弾が一瞬にして爆発した。
土塊と共に、火柱が吹きあがり、それには男たちの肉片が混った。若林は素早くシート・カヴァーをかぶって落下してくる土砂や肉片を避けながら、あとでひっそりと飲む孤独な祝杯の味を想像していた。
耳栓をしていても、爆発の衝撃波と|轟《ごう》|音《おん》で若林の耳は鳴っていた。
かぶったキャンヴァス・シートの下で耳栓を外した若林は、念のために〇・三三八マグナムのライフルを掴んだ。
それを右手に持ち、左手でキャンヴァス・シートを押しのける。その上に落下してきた土砂や木の枝がこぼれ落ちた。
爆発の跡は、浅い|擂《すり》|鉢《ばち》状になっていた。灌木は吹っ飛ばされている。そして、“アクア・マリーン・クラブ”の五人の男たちは、血と|煤《すす》にまみれたボロ|雑《ぞう》|巾《きん》のようになっていた。
いや、一人だけは何とか原形をとどめている。右足は足首から先が千切れかけ、顔は煤だらけだが、まだ死んではいない。
松島であった。もがいている。発狂寸前の表情であった。
冷たい薄笑いを浮かべて若林はその松島に近づいた。|臑《すね》の近くまであるハンティング・ブーツをはいているから、爆発で柔らかくなった地面に|踵《かかと》の上までめりこんでも苦にならない。ウィンチェスターM七〇マグナム・ライフルを軽々と持っている。
「ち、畜生……騙しやがったな!」
仰向けに倒れた松島は、若林を見上げて呻いた。松島だけ死ななかったのは、爆発点から一番離れていたからであろう。
「|恐喝《きょうかつ》者が騙されたんでは、サマにならねえな。どうだい、気分は?」
若林はふてぶてしい表情で言った。
「畜生――」
松島は再び呻いたが、哀れっぽい声で、
「助けてくれ。俺が悪かった」
と、両手を合わせようとする。だが、爆発で飛んだ鉄パイプの破片が両腕にくいこんでいるので自由にならない。
「どこが悪かったんだ?」
若林はからかった。
「欲をかいたのが悪かったんだ。助けてくれ。助けてくれたら、一生恩に着る」
「じゃあ、考えてみよう。その前に|尋《き》きたいことがある」
「何でも尋いてくれ。俺は死にたくない。何でもしゃべる!」
「あんたは、俺のことを何か書き|遺《のこ》してないか?」
「病院に運んでくれ。そしたら、そこで教える」
「なるほど? ところで、ゆっくり料理してやる前に、真田の遺書を|頂戴《ちょうだい》するぜ」
若林は言うと、松島の両腕をライフルの銃身で殴りつけた。松島は絶叫をあげた。
若林は、簡単に松島が死なないように、千切れかけた右足首の上を、ポケットから出した細いロープできつく縛った。
噴出していた血がとまる。若林は、松島のズタズタになった背広をはぐった。血まみれのワイシャツの腋の下に|空《から》のホルスターが見える。松島が握っていたP38ワルサーの自動拳銃は、三メーターほど右手の土のなかに半ば埋まっていた。
松島の背広の左側の内ポケットをさぐって、真田の遺書を見つけようとした若林は、タバコの箱を少し大きくしたようなサイズの金属とプラスチック製のものに触れてそいつを引っぱりだす。
電池式のテープ・レコーダーであった。いや、長時間録音可能なワイヤー・レコーダーだ。ワイヤーのリールがまだ廻っている。
「なるほど! こいつはあとでゆっくり聴かせてもらおう」
若林は呟き、さらに内ポケットをさぐる。真田の遺書は、右側の内ポケットから出てきた。
そいつをワイヤー・レコーダーと共に自分のハンター服のポケットに突っこんだ若林は、松島のほかのポケットもさぐった。
二つの弾薬サックに、松島は二百発も用意していた。素人がはじめて大物狩りをするときには出来るだけ弾薬を沢山持っていかないと不安であるように、松島も射ちあいになったときにそなえて、弾薬でポケットをふくらませていたのだ。
十万円ほど入った財布と運転免許証、それにイニシアルが刻まれたデュポンの金のライターも若林は奪った。
「殺すな。死にたくない。俺は死にたくないんだ!」
松島は|呻《うめ》いた。
「あわてるな。貴様が何を録音したのか聞いてみよう」
若林は奪ったワイヤー・レコーダーを取り出し、巻き戻しのスウィッチを入れた。リールの回転が止まると、再生のスウィッチを入れる。
予想した通りに、そいつは、若林と“アクア・マリーン・クラブ”の連中との会話を録音してあった。渋谷署の前で、若林と松島が、
「拳銃を持ってるな?」
と、尋ねたところから録音がはじまった。
「こいつはいいものを手に入れた。録音機を用意してたのはあんただけか? ほかの連中の死体のポケットを調べたらすぐに分ることだがな」
再び巻き戻してから、消去スウィッチを入れた若林は尋ねた。
「俺だけだ……」
松島は呻いた。
「じゃあ、さっきの質問に戻ろう。おや、おや、あんたの顔色は|蒼《そう》|白《はく》さを通りこして黄色くなってるぜ。この月明りでも分るぐらいだから、相当にひどいな。早く輸血しないとあんたも仲間と一緒に地獄に行っちまうぜ」
若林は笑った。
「言う。万一の場合にそなえて、俺はあんたが杉山の六億を奪った犯人だということや殺人鬼だということを書いた封書を同封した手紙を俺の弁護士に出しておいた。もし、明後日の夜の九時までに俺から電話が無かったら、なかに入っている封書を破って内容を読んでくれ、と弁護士に書いた……」
「その万一の事が起ったわけだ。それにしても、殺人鬼とはひでえもんだな――」
若林は、偶然にも松島が生き残ったために、自分の運命を決する重要なことを知りえたことについて悪の神に感謝しながら、
「いつ、その手紙を出したんだ?」
と、尋ねた。
「ここに向けて出発する前だ。速達だ」
松島は|喘《あえ》いだ。
「弁護士の名前は?」
「田辺だ。田辺一夫弁護士……」
「どこに住んでいる? 事務所はどこだ?」
「奥さんと別れたんで、今は事務所に住んでいる。銀座六丁目のオノダ・ビルの七階だ」
「ほかの連中はどうした?」
「聞いていない。万一のことを考えて手を打っておいたのは俺だけだろう。あんたは俺を生かしておかないと大変なことになるんだ」
「なるほどな。あんたを生かしておいて弁護士に電話させたほうが得策なようだな」
「そうなんだ。俺から電話があったら、同封した手紙は焼き捨てるようにと田辺先生に書いておいたんだ」
「そうか。待ってろ。あと片付けが済んだら手当てしてやる」
若林は言った。
死体を調べて歩く。四つの死体のポケットから、百五十発ほどの九ミリ・ルーガー実包、それに百発ほどの三十二口径――七・六五ミリ――オートマチック実包を奪う。
三十分ほどかけて、はるかに飛んでいたり、ほとんど土中に埋まっていたりした四人の拳銃を奪った。
二丁がワルサーP38と同じ九ミリ・ルーガー弾を使用するタイプの自動拳銃で、あと二丁が、三十二口径オートマチックと、モーゼルHSCだ。遊底被いが|歪《ゆが》んでいたり、|銃把《じゅうは》のプラスチックや木が割れたりしているが、修理すれば使える。
若林は、それらを一まとめにし、薬莢と弾倉から実包を抜いてから、尻ポケットに突っこんであった麻袋に入れて腰に吊るした。
発破工事がこのあたりに多く、爆発音に慣れているのか、里の村の人々が様子を見に来たりはしなかった。
若林は、|残《ざん》|骸《がい》のような死体を一か所に引きずってきて並べる。それから、松島の様子を見に行った。舌打ちする。松島は死んでいた。出血多量でショック死したのだ。あるいは、内臓に深く負傷していたのかも知れなかった。
しばらく下唇を噛んでいた若林は、気を取り直し、五つの死体を彼等が乗ってきた二台の車のうちのフォード・ギャラクシーに積みこんだ。自動ミッション付きだ。
ライフルと平べったい石を持って、その車の運転席に乗りこんだ。ライフルと石を助手席の床に置いてエンジンを掛ける。無論、若林ははじめから薄い手袋をつけて指紋を残さないようにしていた。
軽いパワー・ハンドルを水車のように廻してターンさせた。幅が広いアメ車には特に狭く感じられる林道をくだっていく。
里の村に入るのを避け、途中で右側の間道に入った。タイアを時々路肩からはみださせながら津久井湖の裏側の道路に降りた。
遠くから見ると銀色に光る湖面も、近づいてみると濁っている。若林は、かねて調べてあったガード・レールの切れ目がある場所に車を近づけた。
かつて、冬の雪のとき、滑ったトラックがそのガード・レールを突き破って湖に転落して以来、切断されたガード・レールはまだ修理されてないのだ。切れたガード・レールの十数メーター下が湖面であった。深い。
若林は、ガード・レールの切れ目から五十メーターほど斜めうしろの位置に、ハンドルを真っすぐ切れ目に向けたフォードを停めた。軽い下りだ。自動ミッションのセレクターをバックに入れると、エンジンの高目のアイドリング回転と道路の|勾《こう》|配《ばい》がつり合って車は動かない。
ライフルと石を持って車から降りた若林は、細いロープでハンドルを固定した。セレクターをLに入れる。
車はずるずると前進しはじめる。若林はアクセルの上に石を置くと、運転席のドアを外側から閉じる。
石でアクセルを押しさげられたエンジンは|唸《うな》り、少しの時間のずれがあってからフォードは加速した。たちまちスピードを増し、ガード・レールの切れ目を目がけて突っこんでいった。
加速中なので、首を持ちあげるようにして空中に飛びだす。十メーター近く飛んでからフロントを下にして落下した。少しの間をあけて激しい水音と共にあがった飛沫が見えた。
若林は、ガード・レールの切れ目に走り寄った。眼下の水面が激しく|渦《うず》|巻《ま》いている。渦が小さくなると、|気《き》|泡《ほう》やオイルが浮きあがってくるのが見えた。
水が濁り、水深が大きいので、水位が低くならないかぎり沈んだ車に気がつく者はいないだろう。浮かんだオイルやガソリンは流れていく。
若林は徒歩で、もう一台の車――ロヴァー二〇〇〇TCであった――が駐まっているところまで戻った。
それに、キャンヴァス・シートやライフルやシャベルなどを積む。その車を運転して津久井湖の裏に降り、湖に沿って相模川の上流のほうに走らせる。
東の空が明るくなってきた。若林は湖が川に変ったあたりで右手の山のほうの林道に車を突っこんだ。内臓が引っくりかえりそうな悪路だ。狭い。
若林が着いたのは、甲州街道寄りの雑木林であった。そこに、自分のスズキ・フロンテ三六〇が駐めてある。
スズキに乗り替え、急坂を登ると甲州街道に入ったときに夜が明けた。すでに血と泥にまみれた手袋を脱いでいた若林は、東京に向けて、チューン・アップしたエンジンの|甲《かん》|高《だか》い排気音を響かせながら軽四輪を走らせる。どうやって、松島が送った手紙が弁護士の手に渡らないようにすべきか……と、考えていた。
和泉多摩川から遠くない自宅に戻った若林はぐったりと疲れていた。しかし、気力を振りしぼって、|血《けっ》|痕《こん》がついた猟服や手袋などを庭の焼却炉で焼く。
それらが灰になる間に、ライフルや、奪った五丁の拳銃や実包などを地下室に隠した。松島のライターは、甲州街道を走るとき、谷間に投げ捨ててあった。
猟服などが灰になるのを見届けた若林は、三十分だけ眠ることにした。目覚しを合わせ、ベッドに倒れこむと、そのまま意識を失う……。
目覚しのベルの音が鳴っている。若林は不屈の意思力で跳び起きた。よろめきながら浴室に入ると、冷たいシャワーを頭から浴びた。身震いする若林の頭ははっきりしてくる。
|髭《ひげ》を|剃《そ》る前に、コーヒー・ポットにモーニング・カップ一杯の水とグレイン・コーヒーを大サジ五杯分入れてガス火に掛ける。
浴室から出るとコーヒーは煮えたぎっていた。若林はドロドロするほど濃いコーヒーをストレートで飲みながら髪や頭や体を|拭《ぬぐ》う。
どうせ会社には遅刻するのは分っていたが、ともかく顔を出さないとならない。無断欠勤したのでは、何をやったのかあやしまれる。欠勤したことは記録に残り、今日のアリバイを調べられたときに窮地におちいる。
だが、通勤急行が停まる成城まで車で駆けつけたせいで、若林は遅刻せずに済んだ。会社のトイレの鏡の前に立った若林は、乱れた髪を直した。
始業時間が来た。例のごとく課員たちにハッパを掛けた課長は、そのあと若林を呼んだ。
「どうなった、昨日の女の客は?」
と、|嫌《いや》らしく笑う。
「いやあ、面目ない。いいように振りまわされちまいまして……ドライヴや食事のときまでは調子よくいったんですが、そのあとホテルの一緒の部屋に泊ろうという誘いを断ったところ、急にうちのハウスは買いたくない、とゴネはじめまして」
声をひそめた若林は頭を|掻《か》いてみせた。
「じゃあ君、|据《す》え|膳《ぜん》を食わなかったのか!」
「ええ。東洋ニュー・ハウスは、男メカケの|真《ま》|似《ね》までして契約を取る、なんてほかの会社の奴等に言われたくないもんで……」
「馬鹿者! 何と言われようが、実績は実績だ」
課長は怒鳴った。内勤の女性社員たちが振り向く。
「分りました。以後気をつけます」
若林は頭をさげた。
セールス用のアタッシェ・ケースを持った若林は、しかし、それを新宿駅地下のコイン・ロッカーに預けた。地下街で女物のストッキングと小さなハサミを買うと、地下鉄で銀座に向う。
オノダ・ビルは、銀座六丁目にある。新橋寄りだ。松坂屋デパートや神戸銀行などがある表通りから、二本目の裏通りに入ったところにある。
その貸しビルは小ぢんまりとしていた。細長い七階建てだ。主に、地方に本社がある中規模のメーカーの東京支社が借りている。
田辺弁護士事務所はその最上階にある。エレヴェーターを使わずに階段を使って七階まで登った若林は、七階を占領している田辺の事務所がまだ閉まっているのを見た。
エレヴェーター・ハウスの反対側に、屋上に続くらしい階段があるのも見える。若林はその狭い階段を登り、閉じられている鉄製のドアのノブを試してみた。
無論、指紋を残さぬように薄い手袋をはめている。ノブは動かなかった。
だが若林は、先端を|潰《つぶ》して|鉤《かぎ》型に曲げた針金を財布から取り出して|鍵《かぎ》孔に差しこんだ。一分足らずでロックを解く。
そのドアを開いて外に出る。やはり屋上であった。三十坪そこそこだ。金網がまわりに張ってある。
若林は、うしろ手にドアを閉じた。屋上を一周する。
ビルの周辺は、大通りをのぞいてすべて一方通行路だ。したがって、軽三輪やスクーターに乗ってやってくる速達の配達員は、松坂屋の横から昭和通りのほうに向い、途中で右に折れてオノダ・ビルに近づくほかない。
したがって、松坂屋の横の通りを中心にして見張っていれば、速達の配達員がオノダ・ビルにやってくるのはすぐに分るわけだ。
若林は、換気モーター小屋の壁に背をもたれさせ、タバコを吸いながら見張った。|吸《す》い|殻《がら》の|唾《だ》|液《えき》から血液型が分らないように、吸い殻はタバコの箱の銀紙に包んでポケットに仕舞う。
赤いスクーターに乗った速達の配達員の姿が見えたのは、午前九時半頃であった。立ち上がった若林は、二重にした女物のストッキングを頭からかぶって顔を隠した。そのストッキングには、目のあたりに、すでに小さなハサミで孔をあけてある。
配達員がオノダ・ビルに入るのを見届け、若林は七階のドアを細目に開いて待った。エレヴェーターの指示針を見つめる。針は七階に向けて止まらずに廻る。
若林は階段を七階に降りた。エレヴェーター・ハウスの横に身をひそめる。大きなカバンを肩から吊った郵便局の配達員が、エレヴェーターを降りると、ひそんでいる若林に気付かずに、田辺弁護士事務所と書かれたドアのほうに歩いた。
若林は背後から襲った。右の手刀を配達員の首筋に|叩《たた》きつける。崩れ折れるその男を左手で抱きかかえ、エレヴェーター・ハウスの横に運んだ。
その男は死んでいなかった。気絶しているだけだ。若林はあわただしい手付きでカバンのなかをさぐった。
誰かがコール・ボタンを押したらしくエレヴェーターが降りていく音がした。若林はあわてる。
だが、すぐに目的のものは見つかった。田辺に|宛《あ》てた松島の分厚い封書だ。
それを自分の背広の内ポケットにねじこんだ若林は、関係のない速達も五、六通、ズボンのポケットに突っこむ。
覆面と手袋を外すと、階段を使って降りていく。うまい具合に誰とも顔を合わさずにビルを出た若林は、雑踏にまぎれこんだ。新橋駅に姿を現わす。
駅のトイレの大のほうに閉じこもり、封書を開いてみる。田辺弁護士に宛てた手紙と、内封されている、若林の犯行をあばいた文書が出てきた。
若林は、それを少しずつライターの火で燃やし、灰を水洗で流した。|溜《ため》|息《いき》をつき、今度は自分の用を足しながら、深々とタバコを吸った……。
それから、渋谷にある不動産の周旋屋を廻った。金さえ払ってくれたら、役所の証明書類は一さい必要としない、というマンションが青山六丁目にあった。
午後に契約することにして、若林は山村という偽名で手付けを払い、タクシーで多摩川に近い借家に戻る。
午後二時に起きることにして目覚しを合わせ、ベッドにブッ倒れてぐっすりと眠りこむ。
夢も見なかった。
目覚しのベルで起される。四時間にも満たない眠りであったが、頭はすっきりしていた。体の痛みも去っている。
マンションの保証金や前払いの部屋代や家具を買うために要る金などを持った若林は、顔を洗って渋谷に戻った。
そのマンションは十二階建てであった。七階にある、3LDKのフラットを若林が借りたのだ。駐車場を利用するためには月に一万円ずつ徴収される。
当座の生活に必要な家具を買いこんだ若林は、一台の目だたぬネズミ色の小型トラックを三軒茶屋の近くで盗んだ。
その車を借家のガレージに運びこみ、ナンバー・プレートや車検証などを偽造のものと取り替える。工作用のゴム粘土で型をとってエンジン・キーを作る。
[#改ページ]
角川e文庫
唇に微笑心に拳銃 後編
[#地から2字上げ]大藪春彦
目 次
雌 伏
再び闘いのジャングルに
予 行
検 問
不 覚
逆 襲
同 志
地下の国
パーティ
照 準
次の計画
設計図
倉 庫
マゾヒスト
エーテル
ニュース
|人《ひと》|身《み》|御《ご》|供《くう》
偵 察
基 地
グリーン・アイランド
改 造
陥 穽
大バクチ
虐殺パーティ
楽 園
雌 伏
それから一年がたった。
八か月ほど前に若林は東洋ニュー・ハウスを|辞《や》めて独立した。都下調布市に、東洋ニュー・ハウスの代理店を開いていた。
事務所を借りる金や、代理店の権利を得るための保証金、それに回転資金などは、主に関野雅子が出した。
雅子は府中の登記所を辞め、代理店の事務を引き受けるようになった。登記所のかつての同僚たちに小遣いをやって、土地を買って登記した連中のことを調べてもらっているから、辞めても若林が困ることは無い。
もっとも、若林にとっては、あくせく働く経済的理由は無いのだ。六億数千万の金は青山のマンションに隠してある。
しかし、何か表向きの職業で|儲《もう》けていることにしないと、税務署の目がきびしいし、家どころか車さえも自由に買えない。代理店を開く費用を雅子に出してもらったのも、資金源を税務署に追及され、それが発端となって過去の犯行がバレないようにするためであった。
新しく買ったセドリックのライトヴァンを足にして、若林はいそがしく表向きの商売のために飛びまわった。
商売は順調であった。それに、代理店ともなると、たとえば二百万のプレハブを売れば、マージンや販売奨励金や建築業者などからのリベートなどで、五十万は儲かる。今さらながら、本社の営業課でセールスをやらされていたときに会社からいかに搾取されていたかが分った。
雅子は利益を隠して赤字の表帳簿をつけることを主張したが、若林は業者からのリベートと販売奨励金をのぞいては表帳簿をつけることを主張した。
脱税がバレたとき大変なことになる、というのが若林の言い草であるが、事実は、二人の代理店が儲けていることを税務署に知ってもらいたいからであった。
合法的に儲けたことが明らかになれば――そして、たっぷり税金を払えば――少々大きな買いものをしても疑われない。
雅子は|国《くに》|立《たち》のアパートを引き払い、和泉多摩川に近い若林の借家に移ってきた。
若林と一心同体だという思いの強い雅子は、はじめの頃は夜になると、若林を|熾《し》|烈《れつ》に求めていたが、安心感からか、半年ほどで、それほどは激しくなくなった。そして体には丸みがついている。
若林はときどき、青山に借りたマンションで一人きりでぼんやりとして過ごし、息抜きの時間とした。
そのマンションには、盗んだ小型トラックで、八十キロの重さのロッカーを運びこんであった。そのなかは、無論、札束の山だ。
実は若林は、東洋ニュー・ハウスを辞めて独立する前に、もう一つの犯罪を犯していたのだ。
金を奪うためではない。戸籍を他人から奪ったのだ。
犠牲者は、東洋ニュー・ハウスの同僚で、広島出身の松井実という男であった。年は若林と同じ二十九歳であった。
松井は小学校低学年のとき、学童集団疎開で|田舎《 いなか》の寺に預けられた。その間に広島に原爆が投下され、肉親全員を失ったのだ。
肉親が無い松井は、金だけが人生だと割り切っているようであった。だから若林が、月給十万と、歩合は三割で、新しく作る代理店で働いてくれないか、と口をかけると、さっそく跳びついてきた。
無論、若林は、自分が独立して代理店を作ることは、事が|公《おおやけ》になる時点までは絶対に会社に内緒のことだから、誰にもしゃべらないでくれ、と|釘《くぎ》をさすことを忘れなかった。
松井は、若林の要求に応じて、戸籍謄本から住民票まで提出した。
若林は、いよいよ代理店を開業する一と月ほど前になって、松井に百万の仕度金を渡し、代理店発足の仕事を手伝ってもらうために会社を辞めてくれと言った。
松井は会社を辞め、わずかながら退職金を握った。若林は、その松井を青山六丁目のマンションに引っ越しさせ、そこに住民登録もさせた。そのマンションの客間を改造して代理店の事務所にするが、代理店を開業しても、寝室や居間は使ってくれてもいい、と松井に言った。
マンションに移った松井は有頂天になった。若林はその松井をくびり殺し、印鑑を奪った。松井のサインは、すでにコピーにとって何度も何度も書きかたを真似し、すらすらとそっくりのサインが出来るようになった。
そうやって若林は、二つの戸籍を持つことになった。松井の死体は|丹《たん》|沢《ざわ》の山中に運び、硫酸で処理しておいた。
若林はマンションの管理人や、周旋した不動産屋に、
「実は別れた女から追っかけられていて、住所を知られたくないんでやむなく偽名を使っていたが、女との関係も円満に解決したんで、契約書の名前を、僕の本名の松井実に書き替えてもらいたいんだ。手数料ぐらいは出すよ」
と、言った。
「あなたのようなハンサムなら女に追っかけられても無理ないですな。分りました。書き替えましょう。いや、ときどきあなたのような立場のお客さんがいらっしゃるんですよ……」
不動産屋は好色な笑いを浮かべたのであった……。
年が改り、決算期が来たとき、若林と雅子の代理店は申告利益だけでも一千万を越えていた。雅子は今は体の欲望よりも、金銭への欲望のほうが強まっていた。
「どうだろう? 二人だけでやってたんでは、税金でガッポリいかれてしまう。それよりも、もっと経費で落せるように、セールスマンや事務員を|傭《やと》ったら? 君は経理だけに専念して」
ある夜、雅子とおだやかに体を交えながら若林は言った。
「わたしも、そのことを考えているの」
「僕は疲れたよ。確かに金は入るが、いそがしさはサラリーマン時代と変らない。それと神経の使い通しだし」
若林は呟いた。
「あなたは骨休みしてくれていいわ。わたしが店をしっかり守りますから」
雅子はゆっくり動かしながら言った。
「どうだろう? 人を傭ったら、株式会社にしたら? 本当は君に社長になってもらいたいところだが、それでは業者から|舐《な》められるから、僕が社長で君が専務ということでは?」
「いいわね。さっそく、明日から会社設立の手続きをはじめましょう。誰か弁護士さんを捜してきて」
狂喜した雅子は動きを早めた。
もともとの若林の計算では、雅子に三千万ほどの手切れ金を与えて別れる積りであったが、今の雅子は代理店の仕事に夢中になっていて、別れてくれなどと言ったら大騒ぎになるだろう。
それかと言って、店を雅子にくれてやって自分が身を引いたのでは、合法的に金を増やした、という証明を作れない。
だから若林は、代理店を雅子に任せて、自分は好きなことをやる時間を持とう、という考えに変ったのだ。
「ねえ、お願い――」
激しい動きを見せながら、雅子は言った。
「絶対にこんなお願いをしまいと決心してたんだけど、どうしても我慢出来なくなったの……結婚して!………結婚してくれたら、あなたがどんなに若い|娘《こ》と遊んでも、わたし我慢するわ。わたしはもう若くはない。自分でも知ってるんですもの」
「君以外には目もくれないさ。でも、結婚しよう」
若林は|咄《とっ》|嗟《さ》に決心を固めた。結婚してやったら、雅子は安心して、若林の自由を束縛しなくなるだろう。
「本当!」
|喘《あえ》いだ雅子は、一度目の熱いものをほとばしらせた。
「ああ。そのかわり、僕に射撃や猟やヨットに行く時間をくれるね?」
「|勿《もち》|論《ろん》だわ!」
「じゃあ、さっそく明日にでも届けを出して、新婚旅行にでも|発《た》つか?」
「旅行なんて必要ないわ。それより、わたしの実家で|披《ひ》|露《ろう》宴を開いて! あなたと結婚したことを、みんなに見せつけてやりたいのよ」
雅子は叫ぶように言った。かつて、恋した男と睡眠薬心中を図り、薬を飲んだ振りをしたその男に逃げられたときに|嘲笑《ちょうしょう》した友人たちに見せつけてやろう、と言うのだろう。
雅子の実家は、横浜の|本《ほん》|牧《もく》で小さいが本式のレストランをやっていた。戸籍謄本を見てすでに分っていたことだが、彼女の母の父はイギリス人の船員であった。だが、彼女は、まるっきり西欧人のようであった。
そのレストランで、二日のあいだ一般客を締めだして祝宴が張られた。若林のほうからは信州で農業と炭焼きをやっている兄が出席し、わけも分らずに皆に頭をさげていた。
それから半月後、代理店は株式会社になり、株は若林と雅子が分配した。女事務員と三人のセールスマンを傭う。
初め、若林はセールスマンたちに付きそって三か月ほどのあいだ実地教育して仕事を覚えさせた。
代理店は、順調に営業成績をあげ続けていった。若林は事務所の近くに八百万で一軒の家を買い、中古の二十四・五フィートのJ・O・Gクルーザーを百五十万で買った。
再び闘いのジャングルに
次に若林がやったのは、松井実の名義で三鷹の天文台跡と調布飛行場のあいだにある雑木林のなかの家を買ったことであった。
|生《い》け|垣《がき》に囲まれたその土地は四十坪に満たなかった。家も小さくて十二、三坪だが、レンガ造りのその建物は古いとはいえ、しっかりしている。
買った金額は五百万そこそこだから、税務署から購入資金を追及されても、言いわけは出来る。若林は、消した松井が青山に運びこんであった、東洋ニュー・ハウス時代の給料や退職金の明細書をその家に移して、税務署の追及を受けたときの用意をした。
庭にプレハブのガレージを作って、盗んだナンバーに替えた小型トラックを入れる。毎日、三、四時間ずつをかけて、建物の下に秘密の地下を作っていく。掘りだした土は、小型トラックを使って、いたるところにある造地現場に捨てた。その小型トラックで、セメントや鉄骨を運びこむ。
三か月ほどかかって出来たのは、見せかけの三畳ほどの地下室と、それとトンネルで結んだ本物の地下室だ。
見せかけの地下室には、作りつけの洋服ダンスの床を横にずらせて入るようになっている。そこは、もし発見されたときにそなえて、さまざまなブドウ酒を買い入れて酒倉にした。
その見せかけの地下室から本物の地下室に続くトンネルの扉は、壁全体が回転するようになっていた。電灯のコードのなかに仕込んだ配線のスウィッチを切らないことには、壁の横の電磁式マグネットが回転壁の内側にくいこんでいて、五人や十人の力では壁は動かないようになっている。
その奥の本物の地下室に、若林は一時青山のマンションに移してあった六億数千万の札束が詰めこまれたロッカーを隠した。
多摩川に近い|宿河原《しゅくがわら》の借家も、雅子には引き払った、と称しながら若林はまだ残してあった。
一つの理由は、その借家の地下に掘ってある秘密の部屋がもし家主や新しい借家人に発見されたときに困った立場になることを考えたためであり、さらにもう一つの理由は、次の犯行のあと、そこに逃げこむためだ。
したがって若林は、本名のほうでは、調布の代理店の近くに買って、結婚した雅子と一緒に住んでいる持ち家、宿河原の借家、それに松井名義の青山のマンションと三鷹の持ち家の四つを使い分けていた。
次の|荒《あら》|稼《かせ》ぎのための投資であるから無駄ではない。
若林は、次の犯行目標を、菱和銀行町田本店から日銀本店に送られる還流現金に絞っていた。
還流現金とは、定期的に市中銀行の保管金が日銀に送られ、そこで一週間ほど保管されている間に、偽札の有無を調べられたり、すり切れて余命が短くなったりした紙幣が新しいものと取り替えられ、市中銀行に送り返されるものだ。
紙幣だけでなく、硬貨もチェックされる。日銀に市中銀行から一日に約二百五十億円の割りで持ちこまれ、そのうちの約三分の一、すなわち硬貨をのぞいても七十億ほどは日銀の本店扱いだ。
菱和銀行本店がある町田市は造地と建設ブームに|湧《わ》きたつ相模平野の中心部にあるだけに、銀行を外から見ているだけでも活気に|溢《あふ》れていることが分った。
胴巻きを札束でふくらませた土建屋や土地成金、カバンに小切手や手形を詰めこんだ大手建設業者たちの車が銀行の駐車場にいそがしく出入りする。
ヨットでクルージングに出ると雅子に言ってしばしば代理店の仕事を休んだ若林は、小田急線新原町田駅近くに建つ菱和銀行町田本店と、商店街をへだてて建っているデパートの屋上で、かなりの時間を過ごす日々をくり返した。
その屋上からは、銀行に出入りする行員や客、それに車の様子が手にとるように分った。そして、銀行の現金輸送車を何度もそっと尾行しているうちに、そいつが一度、町田街道を通って|鶴《つる》|間《ま》の横浜インターチェンジから東名高速に乗り、東京インターで降りると、渋谷から首都高速を使って日銀本店に吸いこまれるのを見たのだ。
北廻りの世田谷―町田街道を避けて、東名を現金輸送車が使ったのは、大団地が町田周辺に続々と出来たために、にっちもさっちもいかなくなった細い世田谷―町田街道では、能率がひどく悪い上に、絶えず|一《いっ》|寸《すん》刻みをやっている間に襲われる危険性があると計算したからであろう。
日銀に入ったその現送車を見ても、その時には若林は、還流現金のことに気付いてはいなかった。
はじめの考えでは、景気がよさそうな菱和銀行の現送車が支店を往復する際を襲えば、多額の現ナマを|頂戴《ちょうだい》できる、と考えていただけだからだ。都内の銀行の現送車では、襲ったとしても、車のラッシュで逃げるときに困る。
還流現金のことに考えが及んだのは、町田のデパートの屋上のベンチで、日銀を扱った文庫本を読んでいるときであった。
そこに還流現金のことが書かれてあった。一般に流通している紙幣だから、還流現金は無論通しナンバーではない。市中銀行にしても、日銀に送る際にいちいち紙幣のナンバーを記録しておくわけではない。
そんなことをすれば、手間が大変だからだ。記録専門の行員を二人も三人も|傭《やと》っていたのでは、合理化をやかましく言っている銀行の方針にそむくことにもなる。
通しナンバーでもなく、紙幣のナンバーはいちいち控えられてない、ということは、使えば足がつく|怖《おそ》れがある“|熱い札束《ホット・マネー》”ではなく、自由に使える“|涼しい金《クール・マネー》”である、ということだ。
だから若林は、菱和銀行から日銀に送られる還流現金に|的《まと》を絞ることにした。あの時、銀行のなかから行員たちの手で専用駐車場の現送車に積まれたジュラルミンの大箱は十個以上あったから、かなりの額になるであろう……。
再び晩秋がめぐってきた。
土曜日であった。菱和銀行町田本店の|出《すい》|納《とう》課員多田三郎は、森野にある実家に一度戻ってから派手な背広に着替え、フォード・ムスタングを運転して新宿に出た。年は二十六歳だ。
多田は、森野の大地主の息子だ。父親は土地の半分ほどを公団や分譲業者に売ってすでに五億以上の現ナマを手にし、一億ほどを息子たちと遊びに使ってからは、残った金を菱和銀行に預け、八王子と横浜を結ぶ国道一二九号沿いにある自分の土地の一つにガソリン・スタンドとドライヴ・インを建てて、店の赤字を銀行利子のうちの何分の一かで補充している。ドライヴ・インは長兄、ガソリン・スタンドは次男が社長になっている。
高校を出てから遊ぶことしか能が無かった三郎が、菱和銀行に就職できたのは、父親の預金のせいであった。それに、銀行側としては、金銭の事故が起ったときには、連帯保証人の父親にすぐに弁償させることができると計算したわけだ。
三郎は、就職など真っ平であったが、いつまでもブラブラしていたんでは遺産を分けてやらないぞ、と父親におどかされ、将来遺産を使って事業をはじめる際にも、銀行で金銭の流通に関することをよく覚えておくと共に、市のお|偉《えら》がたと顔見知りになっておいたほうが有利だ、と説得されて、仕方なく銀行員になったのだ。
当時すでに月に五十万の小遣いをもらっていた三郎は、はじめは預金勧誘の外勤に廻されたが、すぐにアタマにきて客とケンカをはじめる始末なので、出納課に移った。すでに三年がたつ。
三郎は土曜の夕方から日曜の深夜までを徹底的に遊ぶ。町田では銀行員という立場上、羽目を外すことが出来ないから、もっぱら新宿や渋谷に遠征した。たまには銀座にも出るが、無理にイキがってみせるので、銀座では肩がこる。
歌舞伎町の有料駐車場にムスタングを突っこんだ多田三郎は、五、六軒のバーを飲み歩き、最後の店で気に入った淳子という二十一、二のホステスがトイレに立ったとき、追っかけていって洗面所で三枚の一万円札を差しだした。
退廃的な感じの淳子は、じっとその紙幣を見つめていたが、
「いいわ。あと一時間ほどしたら、裏の通りの“ルマン”という喫茶店で待っていて」
と、三万円を取り上げ、スカートをまくってガーターに差しこむ。色気たっぷりな|太《ふと》|腿《もも》であった。
その淳子とは、浅草でエロ・ショーを見てから上野のホテルで寝た。夜明け近くまでに三度交わり、日曜は昼から二人で大井のオート・レース場に行き、差し引き四万円ほど勝った。
夜は四谷にある淳子のアパートで二度交わり、いま多田は、森野の実家にムスタングで向っている。飲んでいるので、かえって慎重に運転している。
森野の交差点を過ぎたムスタングは、国道一二九号に向う途中で右側に材木置き場がある手前で右折した。
もうそこから実家までは交番が無い。多田は、車に乗ったときから押えていた酔いが再び廻りはじめたのを覚えた。午前二時近い。
右側が|畠《はたけ》で、そのかなり向うに市営住宅、左側が雑木林になっているところにさしかかった多田は、林のなかから人間が倒れてきたのをへッド・ライトのなかに見て、|罵《ののし》りながら急ブレーキを踏んだ。
ゆっくり走らせているので、車の尻は大きく振られたが、ともかく、その人間を|轢《ひ》かずに停まることが出来た。
再び酔ってきた目を見開いて、多田はムスタングから降りる。そのときになって、人間に見えたものは、ふくらませたゴム人形にシャツとズボンをはかせたものにすぎないことに気付いた。
「|誰《だれ》だ、|悪《いた》|戯《ずら》しやがったのは!」
車輪に踏み固められた地道を、よろよろとゴム人形に近づきながら、多田は罵った。
人形ばかり見つめる多田の酔眼には、雑木林から足音もたてずに出てきて、ムスタングのうしろに廻った男に気付かなかった。
その長身の男は、女物のストッキングを二重に頭からかぶっていた。若林であった。
ラバー・ソールの|靴《くつ》をはき、手袋をつけた右手に牛乳ビンのような革袋に砂と鉛の|芯《しん》を詰めた殴打用の凶器ブラック・ジャックを握った若林は、人形を|蹴《け》とばそうとしている多田の背後に忍び寄った。
酔ってはいても、ヘッド・ライトで拡大された影で、多田は背後の男に気付いた。振り向こうとする。
だが遅かった。
若林は多田の肩口にブラック・ジャックを斜めに振りおろした。首の骨が折れて死んでしまわないように手加減してだ。
手加減はしても、打撃は強烈であった。内臓や腰に激痛が走った多田は、悲鳴をあげることも出来ずに崩れ折れた。
素早く、しかし静かに車に向った若林はライトを消した。気絶している多田の体を助手席に押しこんだ。
それから、人形を拾いあげ、シャツとズボンを脱がせて空気を抜く。ゴム人形は、ポケットに収まる小ささに縮んだ。
雑木林のなかからロープとタオルで作った|猿《さる》グツワを持ってきた若林は、多田の体を縛り、猿グツワを|噛《か》ませた。林からは、日本酒が入ったポリエチレンの水筒を持ってくる。
エンジン・スウィッチから|鍵《かぎ》|束《たば》を抜き、トランク室を開く。そのなかに多田の体を押しこんで|蓋《ふた》を閉じた若林は、そのムスタングをスタートさせた。
遊び人の多田にふさわしく、そのムスタングは低速でも楽なV8エンジンとオートマチック・ミッションの組み合せだ。
少し行って左に折れ、多田の実家の近くを避けた若林は、車を走らせながら、ナイロン・ストッキングの覆面を脱いだ。
二十分ほどしてムスタングが着いたのは、|淵《ふち》|野《の》|辺《べ》寄りにある小山田の、通称、戦車道路であった。旧陸軍や防衛庁が戦車の走行テストに使っていたその地道は、まわりが丘と雑木林で、家は一軒も見当らない。
夏は有名な|強《ごう》|姦《かん》地帯だ。その近くの町のグレン隊の連中が、娘たちを車に乗せて戦車道路に連れてきて、車内や雑木林のなかで犯すのだ。娘たちはいくら泣き叫ぼうが、その声は人家に達しないし、薄気味悪がって、夜はその道路に近づく土地の人はいない。
戦車道路の真ん中あたりで、若林は林のなかに車を突っこませた。エンジンを切ると、虫のすだく声がうるさいほどだ。夏が過ぎた今は、チンピラどもの車は戦車道路に入ってこない。
ライトを消した若林は、タバコを深々と吸った。吸い殻をポケットに仕舞うと、車から降りてトランクの|蓋《ふた》を開く。
多田は意識を取り戻して身をよじっていた。若林は、六十キロほどの体重のその多田のズボンのベルトに手を掛けると、軽々と吊りあげて、落ち葉の地面に放りだした。
ナイフを抜く。多田は白眼を|剥《む》いて再び気絶しかかったが、ナイフで猿グツワを切断されると、
「助けてくれ……金ならくれてやる! 車だってやるから助けてくれ」
と悲鳴をあげた。
「悲鳴をあげても、誰も聞く者はいない。だけど、俺はその金切り声を聞くと背中に|虫《むし》|酸《ず》が走るんでな、思わず、|喉《のど》を|掻《か》っ切りたくなる気持を押えるのに苦労するんだ」
若林は静かに言った。かえって無気味さが強調される静かな声であった。
「貴様……あんたは誰なんだ? 俺に何の恨みがあるんだ?」
多田は|呻《うめ》いた。震えが、|膝《ひざ》のほうから|這《は》いあがってくる。
「恨みはない」
若林は何の感情もあらわさぬ声で言った。
「あ、あんたは、俺が寝たどこかの女のヒモか? 乱暴はよしてくれ。金で話をつけさせてくれ」
多田は歯を鳴らしはじめた。
「カンちがいするなよ。俺が欲しいのは情報だ。貴様が勤めている銀行のな」
若林は答えた。
予 行
「情、情報だって?」
酔いが|醒《さ》めはてたような多田は|喘《あえ》いだ。縛られたまま落ち葉の上に|仰《あお》|向《む》けになっている。
「そうだ――」
若林は静かに言った。
「貴様は菱和銀行町田本店の出納課員。仕事にはさっぱり熱意が無くとも、町田本店から日銀に送られる還流現金のことはよく知っているだろう?」
「そ、そんなことを知りたいのか?」
多田は体の力を抜いたようだ。
「ああ。毎月、定期的に日銀に送られるんだろう?」
若林は言った。
「…………」
「しゃべりたくないんなら、まず貴様の指を一本ずつ切り落していく。貴様が銀行に忠義だてをするのは似合わねえぜ」
若林は冷笑した。
「…………」
多田は再び|怯《おび》えきった表情になった。
「|勿《もち》|論《ろん》、そのあとは、貴様が金の力で女と楽しんできたところをブッタ切る。貴様の一番の楽しみを永遠に味わえなくなるわけだ。オカマにでも転向するか?」
「やめてくれ!」
多田は悲鳴をあげた。
「じゃあ、しゃべるんだな。ただし、貴様は人質としてしばらく俺のところに閉じこめておくから、|嘘《うそ》をついたことが分ったらブッ殺す」
若林は言った。
「頼む。俺……僕がしゃべったと誰にも言わないと約束してくれ。約束してください。お願いします」
多田は|呻《うめ》いた。両手を自由に動かすことが出来たら、手を合わせて拝んだことであろう。
「約束する。決して誰にもしゃべらぬと約束しよう。そんなことをするほど俺は素人じゃない」
「でも、もし捕まったとき……」
「ふざけるな。俺は捕まらん。捕まったとしても、何もしゃべらずに脱獄してみせる。時間を|稼《かせ》ごうとしても無駄だ。夜明けには、まだ何時間もある。さあ、しゃべってもらおう」
若林は唇を|歪《ゆが》めた。
「うちの店の場合、還流現金は、毎月二十五日に日銀に送られます。二十五日が日曜や祭日だったら二十四日に……」
「そうか。店を現送車が出発するのは何時と決っている?」
「九時半です。ラッシュ・アワーを過ぎた……」
多田は喘いだ。
「現金の額は?」
「決ってませんが、大体、三十億程度です。一万円札から硬貨まで入れて……」
「そのうち、五百円以上の紙幣でいくらぐらいになる?」
「え?」
「額だ」
「五百円札以上なら、二十五億ぐらいです」
「そうか。現送車には、どんな防犯装置がついている?」
若林は尋ねた。
「まず、無線装置です。本社と電波で結んだ……」
「それから?」
「スウィッチを入れると、ひどくでかいサイレンが鳴ります。断続的に……」
「それから?」
「荷室の窓は防弾ガラスです。窓ガラスの内側に鉄|格《ごう》|子《し》と金網が張ってあります。現金が積みこまれる荷室は、運転席とは完全に独立していて、そのパネルは、厚さ三ミリの鋼鉄を三枚|貼《は》りあわせたものです。ピストルのタマなどはじき返す、と課長が言ってました」
「…………」
「襲われたら、荷室のテール・ゲートの時限ロックを働かせると、最大二十四時間はどうやってもそこだけが出入り口になっているテール・ゲートを開くことが出来ません。二十四時間以上も開かないで済まそうとしたら、また時限ロックのダイアルを廻せばいいんです」
「そんなに閉じこもっても、荷室のガードマンたちは窒息死しないのか?」
「ガードマン? ああ、警備係りの連中のことですか? 大丈夫です。荷室のなかには、酸素マスクと酸素ボンベが用意されてますから。水とインスタント食料と、大小便をたくわえておくビニール袋も」
「そうか……」
「現金を詰めこんだジュラルミン箱は、ケーブル錠で、|頑丈《がんじょう》に補強した荷室の床に縛りつけられていて、その鍵はうちの本店と日銀にしか無いんです。ジュラルミン・ケースの鍵も……」
多田はしゃべった。
「そうか」
「しゃべったんだから助けてください」
「ああ、|褒《ほう》|美《び》に酒をふるまってやろう。遠慮なく飲んでくれ」
立ち上がった若林は、ムスタングのなかから、日本酒が入ったポリエチレンの水筒を取りあげた。
水筒の|栓《せん》を抜き、多田のそばに|蹲《うずくま》る。
「な、何をする気だ。やめてくれ!」
多田はわめいた。
「毒は入ってない。この通りだ」
若林は特級の甘口の日本酒を水筒から一口飲んだ。
「さあ、飲んでくれ」
と、片手で肩を|掴《つか》んで、多田の上半身を引き起こした。
「|嫌《いや》だ!」
「いいから、いいから」
若林は、歯をくいしばっている多田の両|頬《ほお》の奥歯の上を、万力のような左手で強くはさんだ。抵抗する犬に薬を飲ますときの要領だ。
抵抗も|虚《むな》しく、多田の口は開いた。若林はその口に水筒の首を|捩《ね》じこんだ。
三分の一ほどは服にこぼしたが、若林はあとの三分の二の二リッターほどを無理やりに胃に送りこんだ。
若林が左手を放すと、仰向けに転がった多田は、胃のなかのアルコールを吐こうと試みた。
両手が自由になるのなら指を|喉《のど》に突っこんで吐くことが出来るが、縛られていたのではそうはいかない。
それに、遊び人の多田は酒に強い。自然に吐くことは不可能であった。
無論、若林は指紋を残さぬように手袋をつけている。
ポリエチレンの水筒に、縛った多田の両手の指紋をつけて、ムスタングの助手席に放りこむ。
そのとき多田は全身をくねらせて、|笹《ささ》の茂みに|這《は》い寄った。
若林は多田が何をしようとしているのかすぐに分った。笹の葉で喉を刺激して吐こうというのだ。
すぐにその多田に追いついた若林は、仰向けに引っくり返し、|眉《み》|間《けん》にナイフの切っ先を近づけた。多田の両の|瞳《ひとみ》は|鼻梁《びりょう》に寄り、それからくるっと|瞼《まぶた》の裏に隠れた。
気絶したのだ。若林はタバコを吸いながら待つ。吸い殻は、|唾《だ》|液《えき》から血液型が分らないようにポケットのなかに仕舞う。
多田が再び意識を取り戻したのは二十分ほどたってからであった。すでに血液にアルコールが多量に残っていたところに、約一升ほどの日本酒が急激に胃に入ったために、多田は泥酔の兆候を見せていた。
「畜生、分ったぞ。俺を泥酔運転に見せかけて事故死させる気だな?」
と、わめく。
その通りだ、と心のなかで|呟《つぶや》きながら若林は、
「まあ、まあ、気を楽に持てよ」
と、なだめる。
「畜生、事故死に見せかけて俺の口を閉じさせようとしてるんだな。殺してやる。|呪《のろ》い殺してやる!」
多田はわめいた。
それから半時間ほど多田はわめき続けた。そして、ロレツが廻らぬ口で、
「さっさと殺しやがれ!」
と、呻くと、高イビキをかきはじめた。
こうなったら、どんな目に会わせても多田は目を覚まさぬであろう。若林は多田を縛っているロープをナイフで切断した。
その多田の体を、ムスタング・ハードトップのトランクの上に寝かせ、服についた枯れ葉やその|屑《くず》を払い落した。
カミナリのようなイビキをかいている多田を助手席に乗せ、車を林から出した。
半時間後、主要道路を避けて田舎道ばかりムスタングを走らせた若林は、橋本の近くの小高い丘の中腹でその車を停めていた。下には国道一六号線が走っている。
自分は車から降り、意識不明の多田を運転席に坐らせている。エンジンはかけたままで、自動ミッションのレヴァーは|R《バック》に入れている。
丸太のように重くなった多田の右足をアクセルの上に置いているので、エンジンの回転は上り、バックに入った自動ミッションの流体クラッチのスリップで釣り合いがとれて、車は動かない。
若林は右手の八王子寄りのゆるやかなカーヴの奥を見渡せる位置にいた。やがて、長距離トラックの群れが、編隊を組んでやってくる。深夜なので八十キロ以上で、地響きをたててやってくる。
タイミングを計算し、若林はムスタングの自動ミッションのギアを|D《ドライヴ》に入れた。発進の一瞬の|時間的《タイム・》|ズ《ラ》|レ《グ》を利用して跳びのき、|叩《たた》きつけるように運転席のドアを閉じる。
|土埃《つちぼこり》を後輪で|捲《ま》きあげて、ムスタングは国道一六号に向けてくだっていった。そのとき、丘に頂点から先を隠されたカーヴを廻って十トントラックの群れがやってきた。
ムスタングは先頭のトラックの横腹に激突し、フロントをグシャグシャにされて丘にはねとばされた。はね返ってくるところに、先頭から三台目のトラックがのしあげた。二台目のトラックは、先頭のトラックに追突している。
|灌《かん》|木《ぼく》の蔭に身をひそめて、若林はその惨事を見つめていた。三台目のトラックに踏み|潰《つぶ》されたムスタングから血が流れだすのを見とどけてから、若林は山道を走って橋本のほうに向う。そこの広くて、車を置いておいてもだれもあやしむ者はない、二十四時間営業のドライヴ・インの駐車場に、若林はトラックを駐めてあった……。
多田の事故死の記事は、翌日の新聞のローカル・ページに出ていた。死体の血液中から多量のアルコールが発見されたために、泥酔して運転を誤ったもの、とされていた。
多摩川に近い宿河原のアジトの一つでそれを読んだ若林は、壁に突きさして黒く塗った押しピンの頭に、ウィンチェスター〇・三三八マグナム・ライフルの|狙《ねら》いをつけるトレーニングを再開した。
このところ、少しでもひまがあるとやっているのだ。右|利《き》きの若林が、左の肩に銃床をつけて狙う練習をやっている。
はじめは右眼をつぶってやっていたが、それではなかなか慣れないことはすぐ分った。人間の眼には支配眼というものがあって、普通は右利きの者は右眼、左利きの者は左眼で主に見ている。
その証拠に、例えば、両眼のあいだの前方数十センチのところに自分の指でもたててみて、はじめは両眼を開いてその指を見つめておく。
それから、左の眼を閉じたとすると、右利きの者なら、指の位置は不動に見える筈だ。だが、右眼を閉じれば、実際は動かさないのに指は右に動いて見える筈だ。
したがって右利きの人が両眼のあいだの前方に指を立てておいて、右と左の眼を交互に閉じれば、指のイメージは真ん中から右側、右側から真ん中へと、パッパッと位置を変える。
これが左利きだと、左眼が支配眼になるから、右利きの場合と反対になる。
何百人かに一人の割りで実際には存在するのだが、もし、右利きなのに左眼が支配眼であったり、左利きなのに右眼が支配眼であったりしたら、その人は射撃のときに非常に不利になる。
もし支配眼が反対の左眼にあるとし、その人が右利きなら、ライフルで固定標的を狙うときでも非常に意識して支配眼の左眼を固く閉じ、右眼のもともと弱い視力までぼけさせてしまうし、両眼を開いてないと距離感やスピード感が狂ってしまう移動標的になるとますます困ってしまう。
|散弾銃《ショット・ガン》による飛鳥やクレー射撃となるとお手上げになってしまうから、そんなときには右利きでも、思いきって左の肩に銃床をつけたほうがいい。左利きの人が右眼が支配眼なら右肩につけて|射《う》つべきだ。
ライフルにしろ散弾銃にしろ、両眼を開いて射つほうが片眼をつぶるよりも命中するからだ。正常な支配眼を持っている人なら、両眼射撃のほうがうまくいく。
右利きなのに支配眼が左眼、左利きなのに右眼が支配眼の人で、普通と反対の肩付けをどうしても出来ない人は、肩付けを反対にして、支配眼に眼隠しをするほかない……。
右利きの若林なのに、左眼が支配眼というわけではなかった。次の犯行のとき、どうしても左肩に銃床を肩付けし、左頬に銃床を頬付けしてマグナム・ライフルを発射する必要から、若林は左射ちの練習をしているのだ。
正常な支配眼の持ち主であるから、若林は左肩に構えても、右眼をつぶるとひどくギゴチない。
そこで若林は、右眼に真っ黒で光を通さぬ眼隠しをつけたゴッグルをつけて左射ちの練習をはじめたのであった。
そいつは|効《き》いた。移動標的にはまだ実験していないから自信がないが、すでに固定標的に対しては自然なスタンスで左射ちの構えがとれるようになっていた。
次の二十五日にはまだ十数日残っている。
翌日、散弾銃とウィン〇・三三八マグナムのライフルを持った若林は、ある射撃場に行った。
はじめに、ライフルの照準合せをする。
右眼に眼隠しをし、左射ちでだ。右射ちで照準を合わせてあったから、照準が合ってくるまでには十発ほどを必要とした。使った実包は、例の百十グレイン弾頭とデュポン四三五○の九十グレイン|薬莢《やっきょう》の、|凄《すさ》まじい高速弾だ。タイアに当ったら燃え尽きる筈だ。
それから、スキート射場が空いているときを見はからって、やはり右眼に眼隠しをし、左射ちでクレーを射つ。使ったフランキーの自動散弾銃は、銃床の左側を削って頬に合わせてあった。
続けてクレーを粉々とするには、五十発近くを必要とした。だがそれによって若林は、左射ちで移動的に命中させるときの|狙《そ》|点《てん》が分ってきた。ライフルで射つ場合には弾速がひどく早いから、散弾のときの狙い越しを縮めればいい。
検 問
決行の日、若林はすべての準備をととのえたあと、第三京浜を横浜の保土谷インターチェンジで降り、国道一六号を東名高速の横浜インターに向った。
ナンバー・プレートを偽造のものに付け替えた、左ハンドルの、オースチン一八〇〇セダンの中古車に乗っている。
その車は、よほどのカー・マニアでなければ振り向きもしないほど地味だ。性能もとりたてて言うほどのことはない。ただ、取りえは、ミニ・クーパーと同じように、フロント・エンジン、フロント・ドライヴのエンジンをミッションと一体にして横置きに配置したため、ボンネットが短く、したがって客室とトランクが広いことだ。その座席に、若林は畳んだキャンヴァス・カヴァーを置いてあった。
朝のラッシュ・アワーであった。しかし、八王子と横浜を結ぶ国道一六号は、朝は横浜に向う車が多いから、八王子側に向う若林の車の車線はさして混んでない。
町田の街の手前の横浜インターで、そのオースチンはランプ・ウエイを東名に登った。ゲートでカードを受け取ると、東京のほうに向う。
三車線と路肩を合わせて、片側だけで十五メーター近い。その三車線の左端を、若林は八十キロでゆっくりと走った。それ以上スピードを落すと、かえって目立ってしまう。
東京インターから十五キロの位置にある港北パーキング・エリアの駐車場で車を停めた。上り車線にいつでも跳びだせるように車首を向けている。
サーヴィス・エリアとちがって、パーキング・エリアに売店があるところは少ない。しかし、ここはスナックまである。だが、いま熱いコーヒーを飲みたいと若林は思っても、顔を覚えられる危険を犯すわけにはいかなかった。
かわりに若林は、タバコを深々と吸う。薄いゴム手袋をつけていた。濃いサン・グラスを掛けている。深いポケットが幾つもついた作業服姿だ。灰色のウエスタン・ハットを|目《ま》|深《ぶか》にかぶっている。
待っている間に、通勤ラッシュは終った。先ほどまではガラガラであった下り車線にはかえって車が増えたが、上り車線はひどく|空《す》いてくる。
九時半が過ぎた。若林は上着の下の腰にズックの弾倉帯を捲いた。そいつは、米軍の|M《エム》|1《ワン》ライフル用のやつを改造したもので、十個のポケットがついている。右側の五個のポケットには百十グレイン弾頭の超高速弾、左側の五個のポケットには、ゾウやサイを射つときの二百五十グレインの重く硬い|鉄《てつ》|芯《しん》弾頭の実包が、それぞれ八発ずつ入っている。口径は〇・三三八マグナムだ。
若林は三角窓のないサイド・ウインドウを一杯に降ろした。灰皿にたまった吸い殻をはじきとばして捨てる。
十時が近づいた。見覚えのある菱和銀行町田本店の現金輸送車が見えてきた。無論、上り車線を走ってくる。
エンジンを掛けっ放しにしていた若林は、サン・グラスをポケットに仕舞い、左のレンズを素通し、右のレンズを光線が通らぬように黒いテープで貼り|潰《つぶ》したゴッグルを掛けた。オースチン一八〇〇セダンを発進させる。
落ち着いた積りだが、やはり気がたっているからアクセルを踏みこみ、駆動輪の前タイアが空転して悲鳴をあげる。フル・スロットルで本線上に車を出して、一キロほど走った若林は、現金輸送車に追いつきかけたことを知った。アクセルをゆるめる。
そのときには若林は、右手をうしろにのばし、キャンヴァス・シートをはぐって、ゴルフ・バッグから銃床が突きだしたウィンチェスターM七〇の〇・三三八マグナム・ライフルを助手席に移していた。
そのライフルには、弾倉に三発|装《そう》|填《てん》してあった。百十グレイン弾頭の超軽量超高速弾のほうをだ。
現金輸送車は、時速百キロほどで走っていた。鋼鉄パネルの荷室がついた小型トラックだ。防弾ガラスと鉄格子と金網に|護《まも》られた荷室の窓には、今は薄いカーテンまでが内側に降ろされている。
その現送車は、長い無線のアンテナを立てていた。屋根の上には、緊急の場合、覆面パトカーのように赤い回転灯がせりあがってくるようになっているようだ。
その現送車と三百メーターほどの距離を保って走りながら、若林はハンドルから両手を離した。前輪駆動だから、アクセルを適当に踏んでいるかぎり、手放しでもふらつかない。
現送車からは見えないようにしてライフルをゴルフ・バッグから抜き、ボルト・ハンドルを操作して遊底を動かし、薬室に一発実包を送りこんだ。一応安全装置は掛けるが、暴発しないように右手で銃を支え、左手は再びハンドルに添える。再び右手をのばして、ダッシュ・ボードの下に|据《す》えてある、電波妨害装置のスウィッチを入れる。
現送車は、国道二四六号をまたぐ|荏《え》|田《だ》バス・ストップに近づいていた。本線から引っこんだバス・ストップに今は東名バスの姿はない。バスを待つ客の姿も見当らない。
一度中央の追い越し車線に出て、再び左ハンドルから手放しした若林は、運転席の左の車窓からライフルを突きだした。
左肩に銃床を肩付けし、窓|枠《わく》に乗せた右腕の上に銃の前床を乗せる。ライマンの孔照門と照星に現送車の左後輪をとらえて引き金を絞る。
強烈な反動と共に銃は跳ねあがった。オースチンはよろめく。若林は素早くボルトを操作した。熱い空薬莢が運転席の床に転がる。
だが、二発目を射つ必要もなく、現送車の左後輪のタイアは|炸《バー》|裂《スト》して粉々になっていた。|剥《む》きだしになった鉄製のホイールが接地し火花を散らした。
ぐっと大きく左に傾いた現送車は、スピンを起し、バス・ストップのエリアに跳びこんだ。スポーツ・カーやGTならスピンで終ったか知らないが、腰高な現送車だから、たまらずに横転する。
下になった左側の荷室の鋼板と滑り止め舗装とが摩擦の火花を散らせながら、一段と高くなった待合所のコンクリートにぶつかった現送車は、五メーターほどはねとばされて停まった。
運転台の車窓は防弾ガラスでないから|微《み》|塵《じん》に砕けている。そして、上になった右側の運転席のドアが衝撃でもげそうになって開く。
若林はオースチンのハンドルに右手を添えて急ブレーキをかけた。尻を振りながらもスピードが落ちる。五十キロまでスピードが落ちたとき、若林は左にハンドルを切ってバス・ストップにオースチンを突っこませた。横転した現送車の後方十メーターのあたりに車を停めた。
右眼を隠したゴッグルを外し、別のゴッグルを掛ける。そいつは両方ともレンズが濃いブラウンであった。
ヘルメットをかぶり、スカーフで目から下を覆う。そうすると、人相はさっぱり分らなくなった。
素早くライフルのマイクロ・ピープ・サイトの修正ノブを右射ち用に戻しながら若林はオースチンから降りた。
本線を走ってくる車は、ちょっとスピードをゆるめただけで通り過ぎた。
若林は現送車の運転席に跳びあがった。まだその車のエンジンは廻っている。ファンがラジエーターを|噛《か》んでいるらしい異音をたてていた。
運転席と助手席の男は、下側になった助手席側の路面に――窓ガラスが砕けたために――重なっていた。ガラスの破片で顔じゅうを裂かれている。意識を失っている。
運転台から跳び降りた若林は、荷室のうしろに廻った。割れない防弾ガラスと鉄格子と金網と、まくれた薄いカーテン越しになかを|覗《のぞ》いてみる。
三人の警備係りは下になって荷室左側のパネルでのびている。そして、十数個のジュラルミン・ケースは、右側に立った床にケーブル錠で縛りつけられたまま、ずり落ちてはいない。
若林はテール・ゲートのロック部分から五メーターほど離れてマグナム・ライフルを腰だめでブッ放した。
はね返ってきた衝撃波で|尻《しり》|餅《もち》をつきそうになる。テール・ゲートのロック部分の鍵孔の近くから紫色の炎がほとばしった。砕けた弾頭の破片も燃える。
百十グレインの軽い超高速弾でロック装置を砕くことが出来なかったら、重い二百五十グレイン弾を使おうと若林は考えていたのだ。
しかし、三ミリの鋼板を三枚貼り合わせたテール・ゲートのパネルは百十グレイン弾一発で大穴があく。三〇―〇六の被甲弾でも一センチの鋼板を貫くから、その倍の装薬量の〇・三三八マグナム百十グレイン弾頭なら当然のことかも知れなかった。
穴のまわりの鋼は、熱で桃色に光った。若林は続けざまに五発射った。
ロック装置は完全に破壊され、テール・ゲートの左側は自分の重みで開いた。若林はジュラルミンのケースを床に縛りつけているケーブル錠を次々に射ち砕いていった。
明らかに硬貨が詰められていると思われる重みのやつをのぞいた十個のジュラルミン・ケースを、オースチン一八〇〇のトランク室や後部座席に移す。
後部座席や、前輪駆動のためにプロペラ・シャフトのトンネルがない平べったいその床に積んだジュラルミン・ケースの上にはキャンヴァス・シートをかぶせた。
ライフルの弾倉に補弾し、オースチンを発車させる。ライフルは拾った空薬莢と共に、助手席の床のゴルフ・バッグに突っこんでおいた。
バス・ストップを抜ける。激しい銃声に驚き、路肩に寄せて立ちどまっていた数台の自家用車が、そのオースチンを追おうとした。
若林はアクセルを放し、クラッチを踏み、ハンドルを鋭く切りながら、ハンド・ブレーキを引いた。
オースチンは計算通りにスピンし、追ってくる数台の車のほうを向けて停まった。タイアから吹きあげる煙のなかで、若林は車から跳びだし、マグナム・ライフルを連射した。
八台ほどの車は、ラジエーターを貫かれ、エンジンを暴発させられて面白いようにスピンした。たがいにぶつかりあい、さしも広い道幅一杯にひろがって炎をあげる。
若林は車に戻る前に、近くにある非常電話を射ち砕いた。空薬莢を拾ってから車に戻ると、フル・アクセルでバックさせながら、ハンドルを鋭く切ってハンド・ブレーキを引く。
くるっと廻ったオースチンは再び東京側に車首を向けた。ギアをセカンドに叩きこんだ若林は|遁《とん》|走《そう》に移った。
だが、三キロも行かないうちに川崎インター、さらにすぐ先には東京料金所がある。
若林は川崎インターの料金所に降りた。ゲートの係員は、事件が起ったことをまだ知らないらしい。通行券と共に百五十円を若林が払うと、何も言わずに通してくれる。
一般路に抜けた若林は、左折して|登戸《のぼりと》へ向う道を少し走ると、ふたたび左折した。未舗装の道を丘陵地帯に入っていく……。
半時間後、若林は|柿《かき》|生《お》の奥の雑木林のなかで、用意してあったトヨタ・スタウトのパネル・バンの横にオースチンを|駐《と》めた。
相模|味《み》|噌《そ》と横腹やテール・ゲートに書かれたパネル・バンの荷室を開く。なかには、味噌の四斗ダルが一杯に積みあげている。そのほかに、|発《はっ》|泡《ぽう》スチロールの箱もあった。
若林はその箱を取り出した。開くと、なかには、クッションにはさまれて、硫酸の大ビンが入っている。
オースチンからジュラルミン・ケースを降ろし、その錠を硫酸で焼き切っていった。おびただしい札束が姿を現わす。
若林はその札束を、パネル・バンの助手席に積んであったビニール袋に五十キロほどずつ詰め替えていった。
それから、味噌のタルを降ろす。三十タルほどあった。みんな、|蓋《ふた》がきっちりとは閉まってない。
上半身裸になった若林は、工具を使って、並べた味噌の蓋を開いていった。みんな、どのタルも味噌は三分の二ほどしか入っていない。
若林は、最初のタルの近くに、札束のビニール包みを近づけた。ミソのなかに両腕を突っこんでいたが、力をこめて持ち上げる。
木の|鍋《なべ》|蓋《ぶた》のような中蓋が十キロほどの味噌を乗せて持ち上がった。その下の味噌とのあいだにビニール袋を落し、若林は中蓋を降ろす。
なかに札束の包みをはさんだ味噌は、タルの上縁の近くまでとどいた。
そのようにして、若林は札束のビニール包みを次々と味噌ダルのなかに隠していった。
近くの小川で腕を洗ってから、タルに本物の蓋をかぶせ、開かないように叩きこむ。それらのタルをパネル・バンの荷台に積み戻す。
荷台の一番奥に出来た|隙《すき》|間《ま》に、ゴルフ・バッグに入れたライフルや弾倉帯、それに犯行に使った作業服などと共に、ヘルメットやゴッグルなども隠し、若林は相模味噌のマークが胸に入ったジャンパーを着けた。
そのパネル・バンを運転して、町田街道に降りる。多摩川に近づくと、稲田警察のはるかこちら側まで車がつながり、|一《いっ》|寸《すん》刻みのノロノロ運転をしていた。
橋のところで検問が行なわれているにちがいない。白バイが行き|交《か》っていた。
検問は、|和泉《 いずみ》多摩川橋の手前で行なわれていた。一時間半ほどたってからやっと若林が調べられる番になった。
「もう、アタマにきちゃったな。一体何が起ったんです」
若林は噛みついてみせた。
「まあ、まあ……ちょっとした事件が起ってね。運転免許証と車検証を見せてもらおうか」
中年の警官が言った。
若林はふてくさった表情で言われた通りにした。二つとも偽造品だが、本物とまったくちがわないほど精巧なものだ。
「じゃあ、ご苦労だが、荷台の|扉《とびら》を開けてもらおう」
警官は言った。
若林は|腋《わき》の下を冷たい汗が流れるのを覚えた。だが、タバコをくわえて運転台から降りる。
不 覚
荷台のうしろに廻りかけた若林を、
「待ちなさい」
と、検問の警官の一人が呼び止めた。
「…………?」
若林は足をとめた。
中年の警官は若林に近づくと左|袖《そで》を|掴《つか》まえた。
「何をするんです?」
殴り倒したい衝動をこらえながら若林は言った。
「調べさせてもらうよ」
その警官は若林のジャンパーのポケットに手を突っこんだ。
若林は犯行時と服を替えた自分の用心深さを誇りに思った。今はポケットのなかに、犯行と関係を持つものは何も入ってない。
警官は若林のポケットを調べて失望し、それでは荷室を開くように、と若林に命じた。若林はキー・カッターを使って作ってあった合鍵で、パネル・バンの荷台のテール・ゲートを開いた。
おびただしい味噌の四斗ダルが積まれているのが見える。若林は、
「これをみんな降ろさないと|駄《だ》|目《め》ですか?」
と、うんざりした口調で言った。
「もう結構、行っていい」
警官もうんざりした口調で言った。手を振る。若林はテール・ゲートを閉じた。警官は捜査済みというしるしらしい記号を色チョークでそのパネル・バンの左右の横腹に書いた。
多摩川を渡ったその小型トラックは、やがて宿河原の借家――アジトの一つ――の外観は粗末なガレージのなかに突っこんだ。
エンジンを切ると、のびやかな笑いが、邪悪な魂を隠しているとは思えない顔にゆっくりとひろがっていく。
運転台で首を振って骨をポキンと鳴らす。肩がこっているのが分る。タバコをくわえて深々と吸った。
運転台から降りると、荷台を開き、なかに現ナマのビニール袋を詰めこんだ味噌ダルを次々と降ろしていった。
再び上半身裸になる。味噌ダルを上下逆さに引っくり返し、上になった底蓋を工具で開き、味噌のなかに手を突っこんでビニール袋に包んだ札束を取り出した。
その包みをガレージの床に積んでおき、タルに底蓋を叩き戻した。札束を抜いたタルを荷台のなかに積み直す。
それから、ガレージの洗い場で水道の|蛇《じゃ》|口《ぐち》をひねり、味噌がこびりついたビニール袋を一つ一つ洗っていく。
ビニール袋を洗い終えた若林は、ガレージの右|隅《すみ》に積んであった、ガソリンやオイルを満たしたドラム|罐《かん》を移動させる。
その下から現われた、重さ八十キロはある鉄板を一気に引き起こして壁に立てかける。その下から、地下室への出入り口が暗い口を開いた。
懐中電灯を点灯して口にくわえ、両手に抱えられるだけのビニール袋を持って若林は地下に降りていった。コンクリートの階段を降りきると、一度荷物を降ろした。
目の前に鉄骨入りのコンクリート製のドアがある。壁のスウィッチを入れた若林は、ダイアル錠を合わせた。キーをダイアル錠の真ん中についた錠孔に差しこんでひねる。
これで完全にロックは解けたわけだ。重いドアを、|把《と》っ|手《て》にぶらさがるようにして開いた若林は、ビニール包みを秘密の地下室に運びこんだ。地下室の電灯もつける。
地下室の巨大なロッカーを、ダイアル錠を合わせて開いた。ビニール包みをナイフで切り裂き、一万円札はロッカーの下段の|棚《たな》、五千円札は中段、千円札や五百円札や百円札などに分けて入れる。
|安《あん》|堵《ど》感と、その作業に熱中していたため、若林ともあろう者が、忍び寄ってきた人の気配に気付かなかった。
若林の|足《あし》|許《もと》に、ガツンと音をたてて何かがドアのほうから放りこまれた。
瞬間、そいつが|手榴弾《てりゅうだん》ではないかという思いが頭に|閃《ひらめ》き、若林は心臓が|喉《のど》からせりだしてきそうになるのを覚えた。
目の隅に、コンクリートのドアが勢いよく閉じられるのが見える。そして床に落ちたものは、|微《み》|塵《じん》に砕けた。ガラス製だ。
そいつのなかに入っていた液体が床にひろがる。強い刺激性の悪臭が鼻を襲い、若林は一瞬クラッときた。
若林は息をとめた。
ロッカーのなかに入っていた手製の散弾銃――銃身を長さ三十センチの二本の鉄パイプで作り、機関部は鋼鉄を削りだして作ったやつだ――と散弾の三号実包を十発ほど素早く掴みだす。
散弾銃にはすでに|装《そう》|填《てん》されていた。上半身裸の若林は、ズボンのポケットにバラの散弾実包を突っこむと、ロッカーのドアを閉じ、ダイアルを廻して開かないようにした。
出入り口のコンクリートのドアに左肩から体当りする。ロックされていたらしくドアはびくともせず、反対に若林ははねとばされた。
「畜生……」
息をとめているので、声にならぬ|罵《ば》|声《せい》を口のなかで殺した若林は、寝室兼ダイニング・キッチンへの抜け道に走った。
その頃には、床に流れた液体は薄煙をあげて揮発し、地下室に充満しはじめていた。若林はトンネルの先にある鉄製の扉のノブを廻そうとした。
だが、向う側で誰かが押えているらしい。ノブは廻らなかった。
若林は|渾《こん》|身《しん》の力をこめた。ノブは少しずつ廻り、ドアの向うから、金属がこすれる音が聞える。パイプ・レンチか何かで、ドアの向う側のノブを押えているのであろう。
若林の|額《ひたい》に青筋が立ち、首の筋肉は破裂しそうにふくれあがった。
ノブがねじ切れた。勢いあまった若林は床に|片《かた》|膝《ひざ》をついた。そこで息をとめていることに耐えきれなくなり、ついに息を吸ってしまった。目の前が暗くなっていく……。
夢を見ているようであった。海中で大きなクロダイをモリで突き、浮上しようと思っても、頭上にはびっしりと金網が張ってあってどうにもならない。息が切れてくる。
そのとき、急激な冷たさを感じて、若林はハッと頭を起した。無理やりに目を開く。周囲の様子が鈍くぼけて、ぐるぐると廻っている。
だが、やがて若林の|瞳《ひとみ》の焦点は定まってきた。
目の前に、四人の男が立っている。そして上半身が裸のまま若林は、コンクリートの床に固定された鉄の|椅《い》|子《す》にロープで縛りつけられていた。
目の前の、長身でシャープな顔だちを持った三十男が、バケツの水を若林の顔にブッかけた。
若林は口に垂れてくる水を|舐《な》めた。地下室のようであるが、若林のアジトの地下室ではない。
男たちの後部でコークスを燃料としたストーヴが燃えていた。ストーヴが真っ赤に焼けている。それには、数本の|火《ひ》|掻《か》き棒が突っこまれてあった。
まだくたばっていない以上は、何とかして逆襲するチャンスがあるだろう……と、考えながら、若林は不敵な眼付きで男たちを見廻した。
頭が割れるように痛むが、気絶するときに吸ったガスの副作用であろう。そのことは気にとめないようにする。
左端の男は五十近かった。腹が少々たるんでいるし、背も低い。顔は音楽家か画家によく見られるタイプであった。髪に白いものが多く混っている。その右側の男は、先ほどバケツの水を若林にぶっかけた男だ。
さらに右隣りは、ラテン系を想わせる美男子であった。体つきもスマートだ。年は二十六、七のようであった。
そして、右端に、荒削りの意志が強そうな顔と鋼鉄製のように|頑強《がんきょう》そうな体つきの男がいる。年は三十五、六だ。
「気分はどうだね。若林君?」
左端の一番年をくった男が品のいい笑いを浮かべて尋ねた。
「どうして俺の名前を知っているんだ? ああ、宿河原の家の表札を見たからか?」
若林は|呻《うめ》いた。
「そう言われると、身も蓋もなくなるな。|鹿《しか》を追う猟師は山を見ず……とはよく言ったものだ。君は、私たちにずっと尾行されていることに気付かなかったのか」
「ずっとだって?」
若林は|唸《うな》った。
「二十四時間じゅうというわけではない。我々も、菱和銀行町田本店から日銀に送られる還流現金を|狙《ねら》っていたんだ。そしたら君もあの銀行の現送車を狙っていることが分った。そこで我々は君のアジトを突きとめて、君が我々のかわりに奮闘して現ナマを持ってきてくれるのを待ったわけだ」
五十男は言った。
パイプを取り出し、ポウチからダンヒル・マイ・ミクスチュアらしいきざみをパイプに詰めた。
「畜生……それじゃあ貴様たちは|追《お》い|剥《は》ぎの上前をはねるのが商売か?」
若林は呻いた。
「顔に似合わず口が悪いな……そういうわけではない。いつもは我々自身で仕事をやるが、今回は君のお手並み拝見ときたわけだ」
「…………」
「ロッカーのダイアル錠の組み合せ番号を言ってもらいたい。あのなかに、現送車から|頂戴《ちょうだい》してきた金の一部が入っている筈だ。残りは我々が君に無断で借用したがな」
男はパイプにデュポンのライターで火をつけた。紫煙を吐く。
「断る」
若林は吐きだすように言った。
「あんなロッカーを焼き切るのに大した手間はかからないし、私はダイアルの魔術師とかバンク・アーチストとか呼ばれる人間だ。焼き切るような乱暴なことはやらなくとも、この指と聴診器さえあれば、十分もかからずにダイアルを合わせてみせる」
「じゃあ、自分のやりかたでやってみたらいいだろう」
若林は唇を|歪《ゆが》めた。
「あの地下室は換気が悪い。まだガスが残っているから、出来るだけ手早く開きたいのだ。それには、ダイアル番号を教えてもらうことが一番手っとり早い」
「…………」
「さあ、さあ、意地を張らないでくれ。私は何ごとも穏やかにコトを運ぶほうが性に合っているんでね。君が拷問にかけられるのを見るのは好ましくないんだよ」
ゆっくりとパイプを吸いながら男は言った。
「笑わすなよ」
若林は|呟《つぶや》いた。
「じゃあ仕方ない」
男は、隣りの、先ほど若林に水をぶっかけた男に|顎《あご》をしゃくった。
鋭い眼付きをしたその男は|頷《うなず》いた。ポケットから分厚い革手袋を取り出し、若林に見せつけるようにしてゆっくりと、右手にはめた。
燃えさかっているコークス・ストーヴに近づく。そこに突っこまれている火掻き捧を取り上げた。
その火掻き棒は、先端から三分の一ほどまでが白熱して輝いていた。真ん中あたりは真っ赤だ。握った革手袋が薄煙をたてる。
その男は、バケツに残っていた水を、右手の火掻き棒の握りに近い部分に垂らした。
|濛《もう》|々《もう》と湯気が吹きあがるが、火掻き棒の先端は白熱の光りを失わない。その男は左手の空になったバケツを放りだし、火掻き棒を前にのばして若林に近づいてきた。
「さあどうしてもしゃべってもらうぜ。あんたも、穴だらけの体になりたくはないだろうからな」
と|圧《お》し殺したような声で言うと、火掻き棒の先端部をゆっくりと若林の|眉《み》|間《けん》に近づける。
顔じゅう、体じゅうから|脂汗《あぶらあせ》を吹きだしながら、若林は必死に顔をそらせた。|眉《まゆ》が焦げて火葬場のような悪臭をたてる。
逆 襲
「さあ、どこまで|頑《がん》|張《ば》ることが出来るかな? 楽しみだぜ」
若林の目の前の、眼付きの鋭い男は薄く笑った。
だが、若林にはその薄笑いは見えない。必死に顔をそらせて、顔に突きつけられた|灼熱《しゃくねつ》の火掻き棒から、何とか逃れようと、かなわぬ努力を続けている。
顔から吹きだした汗が湯気になった。もう眉だけでなく、|睫《まつげ》も焦げてチリチリになっている。だが若林は、
「しゃべるもんか」
と呻いた。
「おやおや――」
初老の音楽家タイプの男が、くゆらせているパイプの煙と共に口をはさんだ。
「頑張るのはいいが、私には君のそのハンサムな顔が無惨に変形するのを見るのは耐えられないね」
「…………」
若林は全身に力をこめた。固定された鉄の椅子に若林を縛りつけたロープがきしむ。若林の皮膚はすりむけた。
若林の目の前の男は、コークス・ストーヴに差しこまれている、火掻き棒をさらに熱いやつと取り替えに行った。
戻ってくると、新しい火掻き棒の先端を、若林の下腹部に近づける。ズボンが煙をあげはじめた。
「分った。やめろ――」
自分がまだ失禁しないことにかすかな誇りを覚えながら、若林は吐きだすように言った。
「ロッカーのダイアル錠の組み合せ番号を言ってやる」
「顔よりも下のほうが大事か。じゃあ、言ってもらおう」
火掻き棒を若林の|股《こ》|間《かん》から離しながら眼付きの鋭い男は言った。
「言ってやる。だけど、その前に教えてくれ、ここはどこだ? どこの地下室なんだ?」
若林は男根と|睾《こう》|丸《がん》が|火傷《 やけど》で|腫《は》れあがってくるのを感じながら尋ねた。
「質問しているのはこっちのほうだ」
男は唇を歪めた。
「そう威張るなよ」
「君のアジトのすぐ近くさ。さあ、ダイアル番号を教えてもらおう」
音楽家のような、リーダー格の男が言った。
「右に八十一を四回……それから左に七十二を三回……さらに右に四十三を二回……そして二十四を左に一回だ」
時間稼ぎのために若林は|嘘《うそ》をついた。
ロッカーのなかに残してある紙幣を横取りされるのが惜しいからだけではない。彼等はそれを奪えば、用がなくなった若林の命も奪うことは充分に考えられるからだ。
「なるほど。もう一度くりかえしてくれたまえ」
「何度でも言う」
若林はさっき言った組み合せ番号を再び言った。
「よし、分った。ところで、我々は君のことを少しばかり調べてみた。だが、君の目的は何なのか分らん」
「目的というと?」
若林は焼け焦がされた眉を吊りあげた。|瞼《まぶた》は腫れあがっている。
「君がやった仕事は、さっきの菱和銀行の現送車だけじゃあるまい? ほかにも、大仕事をしている筈だ」
「…………」
「そうやって稼いだ金で何をする気だ? 最終目的は何なんだ?」
「俺がやったのは、菱和の現送車だけだ。ただ、金が欲しくてやっただけのことだ」
若林は、ゆっくりと頭を横に振った。
「そうじゃないだろう。誰だって金は欲しい。しかし、金は欲しくても、一生|贅《ぜい》|沢《たく》に食っていけるだけの金を作ったら、あとはもう冒険はしないものだ」
「…………」
「君の夢を話してもらいたい。何か大きな夢がある筈だ。そのために|生命《 いのち》を|的《まと》にして、荒仕事をやっているんだろう?」
「買いかぶられては迷惑だ。俺はただ、ホトボリが冷めたら面白おかしく遊び暮すために、今度の仕事をやっただけだ」
若林は唇を歪めた。
「若林君、自己紹介しよう――」
音楽家タイプの男は言った。
「私は|桂木《かつらぎ》という。桂木昇だ。それから、こちらは正岡君……」
と、火掻き棒で若林を痛めつけた男を紹介し、さらにあとの二人も紹介する。右側にいるラテン系の男は|狩《か》|野《のう》、右端の鋼鉄のような男は|黒《くろ》|須《す》だそうだ。
紹介されても、若林は唸り声を漏らすだけしか出来なかった。桂木は、
「我々は一致した大きな目的のもとに荒仕事をやっている。君の能力には、まだまだ未熟とはいえ、我々をかなり満足させるものがある。君にも我々の仲間になってもらいたいものだ」
と言った。
「何なんだ、その目的というのは?」
若林は呻いた。
「あとでゆっくり話そう。君の大目的を聞いてからな。だが、その前に、君の隠しロッカーを開いてくる」
桂木は言った。
「|綺《き》|麗《れい》ごとを言ったって、あんたたちは、やっぱし、|盗賊鴎《とうぞくかもめ》のような商売じゃないか」
若林は呟いた。
「まあ、何とでも言え」
桂木は苦笑いした。狩野と黒須を連れて地下室を出ていく。
残った正岡は、椅子に馬乗りになり、二本のタバコに火をつけた。手をのばして一本を若林の唇に差しこみ、
「さっきのことは悪く思うなよ。あんたが、拷問にあったとき、どれだけ|怯《おび》えるかのテストをしてみただけだからな。俺は、やりたくてやったわけじゃない」
と、言う。
両手を使えない若林は、くわえタバコの煙をむさぼり吸った。短くなったタバコを吹き捨て、
「喉がかわいて仕方ない。俺に謝る気があるんなら、水をくんできてくれ」
と、呻いた。
「お安い御用だ」
タバコを捨て、若林の吸い殻と共に踏みにじった正岡は、空のバケツを提げて階段を登っていった。
それを待って、若林は肺一杯に空気を吸いこみながら、上体の筋肉をふくらませる。|凄《すさ》まじい筋肉が正体を現わした。
異様な音をたてて、胸の上のロープが切れた。その勢いで、腹の上のロープがほどける。
上体を起しながら、若林は背後で縛られている両手首に|渾《こん》|身《しん》の力をこめた。そいつは切れなかったが、のびてゆるむ。
若林は、ゆるんだロープから両手を抜きだした。まだ|痺《しび》れがかなり残っている指先で、あわただしく、両脚を床に固定してあるロープを解きはじめた。
いつ正岡が降りてくるかと、気が気でない。だが、階段に正岡の足音が聞えない間に、若林は両足も自由にすることが出来た。
|溜《ため》|息《いき》をつく余裕もなく、若林はコークス・ストーヴに突進した。そこに突っこまれている火掻き棒のうちの一本を取り上げる。
熱かった。手の皮が焦げそうだ。先端は白熱している。若林はロープの一本を適当な長さに火掻き棒の先端で焼き切り、そいつを握りの部分に|捲《ま》いた。
それで、苦痛を感じないで握ることが出来るようになった。|裸足《 はだし》で上半身裸の若林は、ほとんど音をたてずに階段に向かって走った。
階段はコンクリートで出来ていた。登りきったところに狭いタタキのようなところがあり、その先にドアがついている。ドアは鋼鉄製だ。
若林はそのドアの横に身を寄せて待った。
待つほどのこともなく、正岡の足音がドアに近づいてきた。ドアが無造作に開かれる。
地下室に若林が見当らないことを知ったためらしく、正岡は小さな叫びをあげた。そのとき跳びだした若林は、正岡の眉間に、火掻き棒の灼熱した先端を近づけた。
右手に水を入れたバケツを提げている正岡は、|拳銃《けんじゅう》を隠してはいるだろうが、|咄《とっ》|嗟《さ》にそれを抜き射ちすることは出来ない。
「バケツをゆっくりと足許に置け」
若林は|圧《お》し殺したような声で命じた。
正岡は|茫《ぼう》|然《ぜん》とした表情をしていた。反射的に顔をそらせながら、
「やめろ、俺はあんたと争う気はない」
と、呻く。
「いいから、バケツを降ろして、両手を首のうしろで組め。ゆっくりとだ」
若林は命じた。
「分った」
正岡は、命じられた通りに、ゆっくりと身をかがめ、バケツをタタキの上に置いた。だが、上体を起しざま素早くうしろに跳ぶ。右手は|蛇《へび》の|鎌《かま》|首《くび》のように|閃《ひらめ》いて、|腋《わき》の下のホルスターから拳銃を抜こうとした。
若林は、その右腕に、フェンシングの剣のように火掻き棒を突きだした。灼熱した先端は、|袖《そで》を焼き貫き、正岡の腕の筋肉にくいこむ。
絶叫をはりあげた正岡は、苦痛に顔を歪めながら、抜きかけた拳銃を落した。火掻き棒を引いた若林は、左の手刀をその正岡の首筋に叩きつけた。
正岡は、地面に叩きつけられた|蛙《かえる》のように突んのめった。タタキの上で四|肢《し》を|痙《けい》|攣《れん》させる。
若林は正岡の拳銃を左手で拾った。ベレッタ・ピューマの三十二口径オートマチックの、スマートな拳銃であった。
弾倉を抜いてみると、弾倉には七発つまっていた。遊底を開いてみると、薬室の実包が|抽《ひ》き|出《だ》されて跳びだす。
若林は、その実包を薬室に戻して遊底を閉じ、弾倉は|銃把《じゅうは》の弾倉室に戻した。その拳銃を自分のズボンのベルトに差しこみ、左手に火掻き棒を持ち替えて、右手で正岡を抱えた。
階段を降りる。再び階段の上まで戻ってドアを閉じ、バケツを持って降りた。火掻き棒をコークス・ストーヴのなかに戻す。
気絶している正岡の体をさぐる。畳んだ西洋カミソリを発見して、それを自分のズボンのポケットに移す。タバコも失敬し、そいつにストーヴで火をつけて、煙を深く吸いこんだ。
意識を回復してきたらしく正岡は身じろぎした。若林は、その背を|蹴《け》った。苦痛の呻きを漏らして正岡は目を開いた。
その瞳の焦点が合ってくるのを待って、若林は声を掛けた。
「これで、おあいこだぜ。文句があるならかかってこい。相手になってやる」
「畜生……」
正岡は腋の下のホルスターをさぐった。拳銃を奪われているのを知ると、西洋カミソリが入っていた上着の右ポケットをさぐった。それも奪われていることを知って顔をさらに引きつらせる。
若林は笑った。
立ち上がった正岡は、若林に襲いかかってきた。だが、負傷している右腕は、ひどくスピードに欠ける。
若林は、わざと右手を背中のうしろに廻して使えないようにし、左手だけで応戦した。
威力が欠けた正岡の右のフックを|脇《わき》|腹《ばら》に受けながら、突き刺すような左のストレートを正岡の|顎《あご》に放った。
若林の左の|拳《こぶし》はすりむけたが、まともにチンにくらった正岡は、数万ヴォルトの高圧電流に感電したかのように|痙《けい》|攣《れん》しながら膝をついた。
|俯《うつ》|向《む》けに倒れ、それから|仰《あお》|向《む》けに転がって痙攣を続ける。胸のあたりに膝が引きつけられた両脚は、コムラ返しを起しているかのようであった。
若林は正岡の体に、バケツの水を半分ほどブッかけた。自分はバケツを持ち上げて水を飲む。
水をかけたぐらいでは正岡は気絶から|醒《さ》めなかった。若林は、焼けた火掻き棒で正岡の左の小指の皮膚を焼いた。
正岡は再び意識を取り戻した。苦労して上半身を起すと、頭を振った。
「まだ、やるか?」
若林は声をかけた。
「分った。俺の負けだ」
正岡は呻いた。
「ここはどこだ?」
若林は尋ねた。
「あんたのアジトと二百メーターと離れてない、俺たちの隠れ家の一つだ」
「そうか? |階《う》|上《え》は何になっている?」
「普通の家だ」
「桂木が、あんたたちのリーダーなんだな?」
「そうだ。一番年上だし……」
「あんたたちの最終目標は何なんだ?」
「…………」
「さっきは俺がしゃべらされる番だったが、今は逆だ。口を割らす方法はいくらでもある」
若林は、火掻き棒を正岡の|喉《のど》に近づけた。
「分った……俺たちは、俺たちだけの楽園をブッ建てようと思ってるんだ。そこでは、俺たちは神であり法律であり、いかなる快楽をむさぼっても邪魔されない」
「ほう? どこに作るんだ?」
「まだ決ってはいない。だけど、ともかく、その楽園を作るには|莫《ばく》|大《だい》な金が要る。十億や二十億では追いつかない」
正岡は呟いた。
「そうか。俺も、そんな楽園を夢想してみることがある」
若林は笑顔を浮かべた。
「あんたを同志にしよう、と桂木さんが言われた言葉に嘘はない。確かにあんたは、腕も度胸も満点だ。頭のほうも切れるらしい」
「…………」
「どうやってロープを解いた? 俺にはどう考えても分らない。椅子が動くのなら、ストーヴまで縛られたまま移っていって、ストーヴでロープを焼き切った、ということが分るんだが」
「まだ、手のうちをさらすわけにはいかないさ。あんたは、またしばらく眠ってくれ。桂木たちが戻ってきたときに騒がないようにな」
若林は右の手刀を正岡の耳の上に叩きつけた。
三度目の気絶をした正岡の上半身を裸にさせ、さっきまで自分が縛られた鉄椅子の上に坐らせた。|千《ち》|切《ぎ》れたロープを拾い、あたかも、階段の上からは、若林自身が縛られているように正岡を縛る。
同 志
それから若林は階段を登った。鋼鉄のドアを開こうとする。
そのとき、あわただしい足音が階上から聞えてきた。正岡から奪ったベレッタ・ピューマの撃鉄を親指で起した若林は、ドアが開かれたときにその蔭になる位置に体を移動させて待った。
ドアが開かれ、黒須を先頭にして、狩野と桂木が地下室に向けてなだれこんできた。
「だましたな!」
と、黒須が階段を降りながら叫ぶ。
しかし、そこで三人の男は椅子に縛りつけられているのが若林でないことに気付く。泡をくらって、腋の下や、背広の|裾《すそ》で隠した腰のホルスターに収めた拳銃に利き腕を走らせた。
「動くな!」
彼等の背後から、若林は鋭く命じた。
男たちは化石したようになった。若林は、
「ハジキから手を放せ。そうでないと射ち殺す」
と、命じた。
信じられない、といった表情で、桂木がゆっくりと若林のほうに振り向いた。|仁《に》|王《おう》立ちになった若林の手にベレッタ・ピューマが握られているのを見て、大きく息を吐きだしながら、
「分った」
と、|呟《つぶや》く。
それを聞いて、狩野と黒須も、渋々ながら、ホルスターの拳銃から手を放した。
「よし、みんな、両手を首のうしろで組むんだ」
若林は命じた。
「乱暴するのはよしてくれたまえ。私たちは君を仲間として迎えようとしてたんだから」
桂木が言った。
「両手を首のうしろに組め、といってるんだ」
若林は静かだが、かえって無気味さが強調された声で言った。
男たちは命令にしたがった。
「よし、階段を降りろ。ゆっくりとだ」
若林は言った。
三人が階段を降りると、若林は三人を床の上に、大の字の形に俯向けに|腹《はら》|這《ば》いにさせた。
そして、三人のうしろに立ち、
「まず桂木、あんたから左手を使って拳銃を取り出せ。ゆっくりとだ。出したら、壁のほうに転がすんだ」
と言った。
「待ってくれ……正岡を殺したのか?」
桂木は若林にかわって半裸で椅子に縛りつけられている仲間のことを尋ねた。
「殺しはしない。気絶しているだけだ」
若林は残忍な笑いを浮かべた。
桂木は右|肘《ひじ》で上体を支え、左手で拳銃を取り出した。若林がその頭に銃口を向けていることを感じとり、溜息をついてその拳銃を壁のほうに放りだす。
固い音をたててその拳銃は壁のほうに滑っていった。繊細な指に似合う、口径二十五の婦人用のようなブローニング・オートマチックだ。銃把にラデンをちりばめている。平たく小さかった。
「次は黒須、あんたの番だ」
若林は言った。
「射ってみろ。たとえ|蜂《はち》の巣にされたところで、俺は射ち返してやる。貴様の喉を噛み裂いてやる」
見るからにタフそうな黒須は呻いた。
「よしたほうがいい、俺にさからうのはな。俺はもう何人も殺しているんだ。自分が死ぬ覚悟はできている」
若林は、|物《もの》|憂《う》げにさえ聞える口調で言った。
いきなりベレッタ・ピューマの引き金を絞る。壁に当った三十二口径弾は、コンクリートの破片を散らしながら跳弾になった。無気味な唸りをあげて階段のほうに跳ねた。
「言う通りにしたほうがいい、黒須」
桂木が言った。
「畜生……」
黒須は腰のホルスターから左手でワルサーP38を抜いて壁のほうに投げた。
次はラテン系のような色男の狩野の番であった。コルト・パイソンの三五七マグナムのリヴォルヴァーを捨てる。
「よし、みんな腹這いになったまま、うしろに|退《さが》れ」
若林は命じた。
三人は言われた通りにした。鉄の椅子に縛られている正岡が意識を取り戻してもがく。
若林は階段側を廻って、腹這いになっている三人の前に出た。
三丁の拳銃を拾いあげ、それぞれからタマを抜いた。それから三丁の拳銃を分解して捨てる。米国射撃協会の機関誌である“アメリカン・ライフルマン”のほかに、“ハンド・ロッド・マガジン”や“ガンズ・アンド・アンモ”等の銃砲専門誌を毎月定期購読している若林にとっては、はじめて実物を見ることが出来た拳銃でも分解することは易しかった。
「さてと、あんたたちの|素姓《すじょう》を聞かせてもらおうか」
壁を背にして立った若林は言った。
「言ったように、私の専門は金庫だ。特に銀行の金庫だ。バンク・アーチストと言われているのが私の商売だ」
桂木は呟いた。
「俺の地下室のチャチなロッカーのダイアル錠を解くこともできないくせに、バンク・アーチストとは聞いてあきれるぜ」
若林は笑った。
「そうかね? あのロッカーはさっき開けた」
「本当か? 本当なら、何であんなにあわてて戻ってきたんだ?」
「あんたにだまされたことが|肚《はら》に据えかねたからだ。ロッカーから出した現ナマは、いま、車のトランクに入れてある。あんたが私たちをペテンにかけたことから、あんたが時間稼ぎをやって何かをたくらんでいる、と気付いて、ダイアル・ロックを合わせてロッカーを開いて現ナマを取り出すと、いそいでここに戻ってきたんだ。案の定だった。どうやってロープから脱けだした」
桂木は呻いた。
「ロープが腐ってたんだろう」
若林はニヤリと笑った。
「そんな筈はない」
「どうでもいい。本当にあんたが俺のロッカーのダイアル・ロックを解いたのなら、本当の組み合せ番号を言ってみろ」
若林は命じた。
「ちょっと待ってくれ。いま思いだすから――」
桂木は|瞼《まぶた》を閉じた。二分ほどしてから目を開き、
「まず右に七十一を四回……それから左に……」
と、しゃべる。
その組み合せの番号は合っていた。若林は|頷《うなず》き、
「なるほど。あんたがダイアルの魔術師というのは本当のようだな」
と、呟く。
「ああ。あの地下室にはまだガスが残っていたから、防毒マスクをつけ、ゴム手袋をつけてダイアルに取りくんだが、君が言った組み合せ番号が嘘と分ってから、十五分もかからずに合わせることが出来た。防毒マスクで聴覚がさまたげられ、ゴム手袋で指先の感覚が鈍らされても十五分だ。コンディションがよかったら三分もかからなかったろう」
桂木は言った。
「分った。大した自信家だな。それで、あとの連中は、どこで見つけてきたんだ?」
若林は尋ねた。
「みんな、かつてC・I・Aで働いていた。破壊工作員としてな。私は三年ほど前、C・I・Aで働いていた黒須君たちに捕まった。そして拷問を受けて、C・I・Aのために一仕事することを約束した。
少々の拷問を受けても|音《ね》をあげることはない自信はあったが、私の|生命《 いのち》ともいうべき右の人差し指を|潰《つぶ》されそうになったとき、私は屈服するよりほかなかった。
仕事は、ソ連大使館に忍びこんで、大金庫を開き、機密書類をマイクロ・フィルムにおさめることだった。
私は成功した。しかし、C・I・Aが一回だけの仕事で私を釈放してくれるわけはない。何回か黒須君たちと付き合っているうちに、私の夢に共鳴してくれた」
「…………」
「だから、私たちは一緒になってC・I・Aの|軛《くびき》から脱出したんだ。黒須君たちは、特殊能力を身につけているから、私たちは協力しあって、半年に一度ずつ、夢の実現に必要な金を手に入れる仕事をやってきた」
桂木は言った。
「例えば?」
「それは言えない」
「じゃあ、右手の人差し指を焼き切られてもか? うまい具合に、まだストーヴの火は消えてない。火掻き棒も冷めてない」
若林はニヤリと笑った。
「…………」
「もっと手っとり早いのは、あんたの左指をこの拳銃で吹っ飛ばすことだ。照準合せを兼ねてな。三発も試射したら、正確な照準修正値が分るだろう――」
若林は右手のベレッタ・ピューマの照門と照星を合わせ、桂木の左手に狙いをつけた。
「左の指を吹っ飛ばしてから、いよいよ右の人差し指を吹っ飛ばす」
と、言う。
「よしてくれ。どうせ君は我々の仲間になってもらうんだ。だから、いましゃべっても同じことだ」
桂木は呟いた。
「じゃあ、言ってもらおうか?」
若林は催促した。
「富国銀行横浜支店の金庫から七億、東洋銀行の現送車から五億、大海銀行の倉庫から四億七千万、協殖銀行の現送車から三億五千万、三星銀行の金庫から十三億といったところだ。一番の大仕事は、住和銀行の大金庫から二十五億を頂戴したことだ。もっとも、三星と住和の件は、銀行が信用問題になるというので、公表されることを|揉《も》み消したが……」
桂木は言った。
「…………」
若林は唸った。
「さあ、もういいだろう。自由にさせてくれ。君を同志として迎えたいんだ。そうすれば、もっともっと大仕事ができる」
「俺は一匹|狼《おおかみ》だ」
「だが、一匹狼には限界がある」
「五人になれば限界はなくなる、というのか?」
「そこまでは言わない。しかし、仕事が楽になることは確かだ」
「あんたたちの夢とは何なんだ? さっき正岡から聞いたことは聞いたが……」
若林は用心しながら、コンクリートの床の上に腰を降ろした。
「我々だけのための楽園を作るのだ。そこでは我々が法律だ。我々はハーレムに君臨し、毎日を悦楽の追求のためについやすんだ。ストイックな楽しみが求めたかったら、我々だけが利用できる猟場で過ごすのもいい」
「どこにその楽園を作る?」
「適当な孤島を物色中だ。だが、その前に、莫大な資金を手に入れなければ」
桂木は言った。
「じゃあ、俺があんたたちの仲間になったら、|稼《かせ》ぎはみんな、その夢のような目的のために吐きださないとならないのか?」
若林は唇を|歪《ゆが》めた。
「いや。そういうわけではない。一仕事すれば、その三分の二を夢の実現のためにとっておき、残りの三分の一は分配する」
「皆が同じ率でか?」
「そうだ。チーム・ワークを保つには、平等に分配するのが一番いい」
「俺はいま引き金を絞れば、あんたたちを皆殺しにすることができる」
「分っているよ。だけど、私は|賭《か》けたんだ。君が我々の同志となることのほうに」
桂木は言った。
「俺が菱和銀行から頂戴した金はどうなる? もし俺があんたたちの仲間になったとしたら?」
若林は尋ねた。
「三分の二を寄付してもらう。あとの三分の一は君に返す」
「そんなに割りの合わないことでは断る。じゃあ、みんな念仏でもとなえておけ」
若林は冷たく言い捨てた。桂木の頭を狙って発砲しようとする。
「待て……待ってくれ!」
若林が冗談で引き金を引くのではないことを知った桂木は、一瞬にして大粒の汗を顔のすべての毛穴から吹きださせた。
「あの金だけは例外としよう。君一人で手に入れた金だから、すべて君に戻す。みんな、どうだろうか?」
と黒須たちの意見を求めた。
黒須たちは、唸り声で、仕方ないといった意見を示した。
「みんなも賛成してくれている。あの金は君に戻す」
桂木は呻いた。
「それなら話は別だ。仲間になろう。ただし、俺に仕返ししようとするときには、何度も考え直してみることだな」
「分っている」
「じゃあ……」
若林はベレッタに撃鉄安全を掛け、ズボンのベルトに差しこんだ。立ち上がった。
三人の男もゆっくりと立ち上がった。狩野がポケットからナイフを出して、椅子に正岡を縛りつけてあるロープを切断した。
黒須は、分解されて床に落ちている三丁の拳銃の部品を集めて組み立てた。桂木は若林に握手を求め、
「それでは、上で君の加盟の祝いをやろう」
と笑う。
「この組織に名前はあるのか?」
若林は尋ねた。
「一応、チーム・パラダイスという名称になっている」
「俺の金は?」
「大半はこのアジトの金庫、残りはまだ車のなかだ。心配するな。我々は仲間を裏切るようなことはしない」
桂木は言った。
狩野が隣りの部屋から、若林のシャツと上着を持ってきた。若林はそれを着る。
一行は地下室から一階に登った。洋式だがあまり広くない建物だ。しかし、壁の厚さは、窓のあたりから見て、一メーターはあるコンクリートだ。庭は広く、高い木でまわりの家々から|覗《のぞ》きこまれないようになっている。
窓がない食堂に五人は集った。大きな円卓に、ブドウ酒とチーズが置かれる。五人は着席した。
地下の国
桂木が立ち上がって五人のグラスにブドウ酒を注いだ。
「それでは若林君の加盟式を行なう」
と再び着席してグラスを手にした。若林たちもグラスを持った。
「我々は鉄の団結で結ばれる。たとえ官憲に捕まっても、決して組織のことをしゃべらないと誓うな?」
桂木は若林に向けて言った。
「誓う」
若林は答えた。
「拷問を受けても、仲間を売らないと誓うな?」
「誓う」
「目的のためには自我を殺すと誓うな」
「誓う」
「よし、これで君は我々の正式の仲間だ」
桂木はグラスを挙げた。
五人はグラスを合わせた。一気に飲み干す。渋味があるボルドーであった。
チーズをかじりながら五人は三本のボルドーを飲み干した。
「それでは車のトランクにある現ナマをこっちの金庫に移そう。約束通り、みんな君の金だ。次の獲物からはちがうがな」
桂木が言った。
「分った。だが、俺の気持は変った」
「何?」
黒須が血相を変えた。
「誤解するなよ。今度の俺の稼ぎの三分の一を皆に提供する。ボーナスと思って分けてくれ」
若林は|爽《さわ》やかな笑いを浮かべた。
「本当か?」
黒須は浅黒い顔を赤らめた。
「なぜ、俺が|嘘《うそ》をつかねばならん?」
「分ったよ。ここは、素直に礼を言っておく」
黒須は頭をさげた。
金庫室は地下にあった。若林が先ほど拷問を受けた部屋の隣りであった。一行は建物を出て、ガレージにあるセドリックのトランクから、札束の入ったズック袋を持って金庫室に入った。
建物は、内側は|頑丈《がんじょう》なコンクリート造りだが、外側は木造で偽装してあった。金庫室は、八畳ぐらいの広さで、鋼鉄製の扉は三十センチほどの厚さがあり、油圧で開閉するようになっていた。
その金庫室のなかに、高さ二メーター、幅一メーターほどの金庫と、三つのロッカーがあった。
桂木が金庫の扉を開く。そこから出したおびただしい札束と、ズック袋の紙幣を、一同は勘定しはじめた。
かなりの時間がかかった。合計して二十三億四千二百三十七万五千五百円であった。それが、若林が菱和銀行町田本店から奪った還流現金だ。五百円札以上でだ。
若林は、そのうちから一万円札や五千円札で八億円を別に分けた。
「これを進呈する。四人で分けてくれ」
と、言う。
「さすがだ。気に入った。あんたに痛めつけられたことは二億の分け前で完全に帳消しにしよう」
顔を揉みながら正岡が言った。
「じゃあ、遠慮なく頂戴する。君は残りの金を隠し場所に運びたまえ。我々は仲間となった君を尾行するような汚い|真《ま》|似《ね》はしないから……出来たら、三時間後にここに戻ってきてくれ。我々の本拠に案内するから」
桂木が言った。
「じゃあ、三時間後に……車を貸してくれるか?」
若林は尋ねた。
「いいとも。それだけ量が大きいと、普通の車では途中で検問に会った場合に危い。小型タンク・ローリーを、近くの別のアジトから運ばせる」
桂木が言った。
「タンク・ローリー?」
若林は眉を吊りあげた。
「そう。タンク・ローリーだ。タンクのなかが二重になっていて、仕切りの下に現金、上に本物の石油を入れるようになっているんだ。上の|蓋《ふた》を開いても、石油しか見えない。我々はいつもそのタンク・ローリーで獲物を運ぶんだ」
「素晴しい」
若林は笑った。
「ついでに、石油会社の作業服も持ってくることにしよう。黒須君、頼んだぜ。君の分け前は、この金庫に一時保管しておく。我々のと一緒にな」
桂木が言った。
「じゃあ」
黒須は金庫室を出ていった。
男たちは、八億を二億ずつに分けはじめた。若林は麻袋をもらって、自分に残された約十五億五千万を、一億五千万ぐらいずつの包みにする。
半時間ほどたってから、黒須が戻ってきた。
「着替えてくれ」
と、ペガサス石油のマークが入った作業服一式を若林に差しだした。
それを身につけた若林は、ベレッタ・ピューマをズボンの尻ポケットに突っこんだ。今度は庭からでなく、トンネルと階段を通ってガレージに向う。五人とも、左右の手に、若林の取り分の紙幣が詰まった麻袋をさげていた。
ガレージは広い。裸電灯に照らされたそのガレージのなかに、セドリックと並んで小型タンク・ローリーが置いてあった。
ペガサス石油のマークが入っている。普通のタンク・ローリーが一万リッター前後の積載能力があるのに対して四千リッター積みだ。したがって、狭い道にも入っていける。
黒須たちは、|楕《だ》|円《えん》形のタンクの後部の左側のネジを工具を使って外した。その後部の薄い鋼板は横開き型のアルミ・パネル車のテール・ゲートのように横に開いた。
そして、タンクを上下に仕切っている分厚い隔壁が見える。上には本物の石油タンクが見え、下はフォーム・ラバーを張った|空《くう》|洞《どう》になっている。
若林は唸った。
「なるほど。これなら分りっこないな」
「そういうことだ」
男たちは、紙幣が入った麻袋を、タンクの下の空洞のなかに放りこんだ。タンクのうしろを閉じてボルト締めにする。
これで、外観は、ただの小型タンク・ローリーとしか見えなくなった。黒須は運転台に登り、車検証を取り出して、
「こいつをよく読んでおいて、検問に引っかかったときにまごつかないようにしないとな。あんたの運転免許証は、ポケットに入っているだろう? 偽造のやつが……」
と、ニヤリと笑う。
「ああ。うまい具合に大型と特殊車の偽造免許証だから、どんな車でも運転できる」
若林はポケットの免許証入れをさぐりながら答えた。黒須から車のキーと車検証を受け取る。
車検証の重要事項を暗記してから若林は小型タンク・ローリーに乗りこんだ。エンジンを掛け、スウィッチ類の配置を|憶《おぼ》えてから、クラッチを踏んだまま、各ギアに入れてみる。
ガレージの戸が開いた。黒須が裏庭の門を開く。若林はゆっくりと発車させた。
気絶している間にかなりの時間がたったらしく、もう夕暮れであった。若林はタンク・ローリーを、調布飛行場に近い、松井実の名義で買ってあるほうの隠れ家に向けた。
うまい具合に検問に引っかからなかった。それに隠れ家は雑木林のなかにあるから、不審気な眼で見られることもなしに、隠れ家のプレハブのガレージにタンク・ローリーを突っこんだ。
母屋の建物下に作った秘密の地下室のロッカーに十五億を越える現ナマを移し終えたときには、午後六時を過ぎていた。
もし桂木たちが若林を仲間に加えたのが|罠《わな》で、この隠れ家を突きとめるためだとしても、秘密の地下室を捜し当てるのが一仕事だし、捜し当てたとしても、地下室の鉄筋コンクリート製の扉の電磁式マグネットのロック・スウィッチを発見できないだろう……。
一時間後、タンク・ローリーを運転した若林は、桂木たちが待っている、チーム・パラダイスの隠れ家の一つに戻った。
「それでは、私たちの本拠を案内しよう。服を替えたらいい」
桂木が言った。
若林は、石油会社の作業服を、先ほどあてがわれた背広に替えた。ポケットの中身や拳銃などを移す。
一同は、若林がいない間に運びこんだらしいポンティアックGTOに乗りこんだ。色男の狩野が豪快に運転する。
着いたのは、青山の表参道に面した八階建てのビル駐車場であった。そのビルは石黒ビルといった。
「石黒というのは、私の偽名の一つだ。つまり、このビルは我々が所有しているのだ。それに、我々は、新東邦商事という会社をこのビルの一階から二階までに持っていて、主に“ロングリューブ”という名の自動車用オイル添加剤や特殊グリースを輸入している。大いに|儲《もう》かっていることになっているし、実際にも儲かっているから、そこから我々の手に表向き合法的に入る金は大きい。君も専務の一人にする。それだと、少々値が張った買い物をしたところで、税務署に目をつけられないで済む」
ガレージのなかで桂木は言った。
「三階から上は、誰かに貸してあるんですか?」
若林は尋ねた。
「我々の住居だ。各階に一人ずつ住んでいる。ちょうど六階が空いているから、あそこを君に提供しよう」
桂木は言った。
ポンティアックは、地下のガレージのなかで、特にシャッターで仕切られている駐車スペースの一つに入った。
そこで一同は降りた。横についたドアを押し開き、桂木を先頭にして階段を地下二階に降りていった。
地下二階にあるボイラー室の大きなマンホールの蓋は、壁についたスウィッチを引くと開いた。そこからも、下に階段が続いている。
一行は、斜め下に続く階段を降りていった。ところどころに豆ランプがついている。生暖かい風が下から吹きあげてくる。
階段は長かった。百メーターほど歩いたとき、目の前に、|錆《さ》びかけた鉄の扉が立ちふさがっていた。
「ここは、戦時中、海軍が本土決戦にそなえて作った秘密司令部の一つなんだ」
立ちどまった桂木は説明した。
「そう言えば、帝都高速道路営団が地下鉄九号の建設工事中に、霞が関で、こんなような海軍の“地下|要《よう》|塞《さい》”の跡を発見したことがあったな」
若林は呟いた。
「そう、一年ほど前のことだったかな。五百キロ爆弾の直撃に耐えられるように作られたやつが発見された。だけど、ここは、五百キロ爆弾なんてケチなものでなく、原爆の直撃にも耐えられるように作られたんだ」
黒須が言った。
「どうやって作ったかと言うと、やはりここも霞が関と同じように、まわりに高い|塀《へい》を張りめぐらせて人目を避け、地下を深く掘っておいて、一階ずつ建物を沈めていったんだ。全部で四階ある。|潜《せん》|函《かん》式というやりかたで作ったんだ」
正岡が言った。
「側壁の厚さは五メーター、天井板は三メーターだ。この地下建物の下階には排水や換気や発電設備を置き、なかの二、三階は事務室やサロンにし、上階は将官の宿舎にしたんだ」
狩野が言う。
「この秘密を知っていたのは私だけだった。工事に駆りだされた朝鮮人たちは、口封じのために皆殺しにされ、工事の指揮をとった将官たちは南方に飛ばされて海のモクズと消えた。私がここを知っていたのは、私の父が海軍省にいて、ここの設営隊長をしていたからだ。アッツで父は戦死したが、うちにここの秘密を書いた日記を残してあった」
桂木は言った。
ドアを開ける。裸電灯に照らされた通路が見え、その十メーターほど奥にまた鉄の扉があった。扉には|覗《のぞ》き窓がついている。
扉はさらに三つあった。道路の脇には、コンクリートの支柱が並んでいる。最後の扉を開くと、|蛍《けい》|光《こう》灯に照らされた明るい廊下が見えた。
その左右には、船室のような感じの個室が並んでいた。
「ここが四階だ。地下から七十メーターの深さだ。だから、上にはよそのビルが建っているが、この地下のことなど、ビルの持ち主も住んでる連中も、全然知っちゃいない。ここを私が発見したときはひどい荒れようだったが、仲間たちと、一億近くをかけて修理改築したんだ」
桂木は言った。
「各階の広さは?」
「それぞれが五百坪ずつだ――」
桂木は答え、それから好色な笑いを浮かべて、
「三階のサロンで宴会をはじめよう。奴隷の女たちが待っている」
と言った。
「奴隷の女?」
若林は|眉《まゆ》を|吊《つ》りあげた。
「そうだ。|誘《ゆう》|拐《かい》してきた娘たちだ。二十人いる。二階は彼女たちの宿舎になっている。彼女たちは、我々がどこかの島に楽園をぶったてる時が来るまでは、この地下から出ることは出来ないんだ。彼女たちが反乱を起さないように、拳銃はここに置いていってくれ。これを君の地下の宿舎にする」
桂木は、廊下の真ん中ほどに面した部屋のドアを開いた。二十畳ほどの部屋で、ベッドやロッカーやシャワー・ルームや洗面台などがついている。
若林は素直にそのロッカーに拳銃を仕舞い、ロッカーの|鍵《かぎ》をポケットに仕舞った。
その最上階から三階に降りるまでには、ダイアル錠がついた三つの鋼鉄製の扉があった。最後の扉を開くと、まばゆいほどの太陽光線が目を射る。人工の太陽光だ。
そこは、人工の芝生と池と雑木林になっていた。ビキニ・スタイルの娘たちが、池のほとりで|薪《まき》を盛大に燃やし、バーベキューの用意をしている。
パーティ
娘たちは京娘からエチオピアの黒人まで、さまざまな民族であった。したがって、肌の色がちがうように、髪の色も黒髪からプラチナ・ブロンドに及び、|瞳《ひとみ》の色も灰色から空色にまで及んでいる。
ただ共通しているのは、みんながそれぞれの民族特有の美しさをそなえていることであった。入ってきた若林たちを見て、ある者は花のような、ある者は|翳《かげ》りを帯びた笑顔を見せる。
若林は感嘆の口笛を吹いた。
「こいつは|凄《すげ》えや。よりどり見どりというところですな」
「そう、我々の共有物だから、気に入ったら|誰《だれ》と寝てもいい。彼女たちはみんな日本語がしゃべれるようになっている」
桂木が言った。
その人工太陽で明るい地下サロンは、空気は|爽《さわ》やかに乾燥してはいたが、服をつけていると暑かった。
桂木から先に背広を脱ぎ、パンツ一枚になる。腹が突きだしている。ほかの男たちもパンツ一枚になった。
若林もそれにならった。拷問を受けた|火傷《 やけど》で|腫《は》れあがった男根と|睾《こう》|丸《がん》が、熱を持って|疼《うず》いている。若林に逆襲されて右腕に焼けた火掻き棒を突きたてられた正岡は、その傷を包帯で覆っていた。
人工池のほとりでバーベキューの用意をしていた娘たちのうち四、五人が、男たちが脱いだ服をやはり植樹した雑木林のなかの丸太小屋のなかに片付けた。
男たちは|焚《た》き|火《び》を囲んで芝生に立った。娘たちのうちの一人のロシア系の雄大な腰をした――カリーナという名とあとで分った――が|革《かわ》|靴《ぐつ》を脱ぎ、スコップで|熾《おき》|火《び》になりかけている焚き火を|脇《わき》にどけた。
焚き火のあとの赤く焼けた幾つもの石をどけると、その下から黒焦げになったバナナの葉が姿を現わした。カリーナは、アナベルというバリ島出身らしいコーヒー色のタヒチ娘と共に、火傷しないように池の水で|濡《ぬ》らした革手袋をつけ、何重ものバナナの葉をはがした。
バナナの葉に包まれて蒸し焼きになっていた三頭の豚と一頭の|仔《こ》|牛《うし》、それに三十羽の鶏と百羽近いウズラやピーマンやジャガイモやマスなどが湯気を吹きあげた。
豚と仔牛をのぞいた料理を、まだ赤い石の上に並べ、二人の娘は穴の脇にY字型の支柱を数本立てた。
穴のなかに熾火を戻し、バケツに五杯ほどの炭をその上にかぶせる。蒸し焼きになっていた三頭の豚と一頭の仔牛を鉄棒で貫き、支柱に渡した。
その間に、ほかの娘たちは、小屋から灰や氷や木や食器などを運んできた。太陽灯は徐々に暗くなっていく。
香ばしい香りが充満した。熱く焼けた石の上に置かれた鳥から|脂《あぶら》がはぜた。若林は、口のなかが|唾《つば》で一杯になる。
「酒は何にする?」
男たちが火を囲んで腰を降ろすと、桂木が若林に尋ねた。
「まず強いやつで胃を|活《かっ》|発《ぱつ》にさせよう。ウオツカを頂戴する」
若林は答えた。
フランシーヌという、灰色がかった金髪と暗い海色の瞳を持った娘が、銀のバケツで冷やしてあったストリーピナのウオツカの|栓《せん》を抜いた。グラスに透明な液体を満たして若林に差しだす。
フランシーヌは細っそりとした体つきであったが、乳房はビキニのブラジャーを突き破りそうであった。静脈が透けて見えるほど色は白い。
桂木たちもそれぞれの好みのアルコールのグラスを手にした。娘たちも男たちのあいだに腰を降ろしてグラスを持つ。
よく冷えたウオツカなので、若林のグラスはたちまち露を結んだ。
「じゃあ、改めて乾杯」
桂木がグラスを挙げた。
「チェリオ!」
「スコール!」
若林はグラス一杯のウオツカを一と息に飲み干した。一瞬吐き気がするが、それが鎮まると胃が燃え、猛然と食欲が強まる。
太陽灯は消え、天井に埋めこまれた人工の星がまたたいた。熾火の上に置かれた炭に火が移り、パチパチとはぜながら赤くなっていく。
その上に掛けられた豚や仔牛に、アナベルが、バケツに入ったタレを|刷《は》|毛《け》で塗った。
焼けた石の上に並べられた鳥に焦げ目がついてきた。それを引っくり返していたエルザというドイツ系の娘が、皆の|皿《さら》に配った。
「娘たちを紹介しよう」
二杯目のマルティーニのグラスを手にした桂木が言った。爽やかで優しく繊細な顔とアンバランスなほどたくましい|体《たい》|躯《く》を持つ若林を見つめて、いかにも好色そうなイタリー娘のアンジェラなど、唇を半開きにして、ヨダレを垂らしそうになった。
若林はウオツカをたて続けに大きなグラスで三杯飲み、それから水がわりのワインを飲みながら、鶏やウズラをむさぼり食う。
それらは、|腱《けん》を使って縫いあわせた腹のなかに、香料をたっぷり使った詰め物がしてあった。炭火の上に、|炙《あぶ》られる仔牛や豚の脂やタレが落ちて香ばしい匂いをまきちらし、ますます食欲をそそる。
四時間にわたって一同は、飲み、かつ食った。その間に、娘たちを指でからかう。若林の下腹部の火傷の苦痛は|痺《しび》れて感じなくなっている。
「例のやつを持ってこい。俺の服の内ポケットに入っている」
桂木がスウェーデン娘のイングリッドに命じた。
すでにかなり酔っていた娘たちは歓声をあげた。イングリッドは、大きなシガレット・ケースを持ってきた。
「マリファナだ。よかったら、君も吸ったら?」
桂木はそのシガレット・ケースを開きながら言った。
「習慣性は弱い」
黒須が口をはさんだ。
「俺も、偶然に手に入れたが、まだ一度しか試してない。今夜だけならいいだろう。お祝いだからな」
若林は答えた。
百本入りの大きなシガレット・ケースから、桂木は茶色い紙で巻いた緑色のマリファナ・タバコを取り出し皆に配った。
知子から勧められて一度マリファナを吸ったことがあるから、若林は今度は吐き気を覚えなかった。二本目をもらって吸い続けると、快感が忍び寄ってくるのを覚える。
その若林がフランシーヌを抱えて雑木林に運ぶと、アンジェラとイングリッドが追ってきた。
「わたしが先よ」
「早く可愛がって!」
と、せがむ。
乱交パーティは丸三日にわたって続けられた。腹がへると丸焼きの残りを食い、正気に戻りそうになると、アルコールと、桂木が新しく運んできたマリファナの煙を体に収める。
その三日のうちに、若林は、二十人の娘全部と交わった。テクニックが一番すぐれているのは中国娘のアイリーン、味が一番いいのはエチオピア・ニグロのカーラであった。カーラの女性は、まるでそこが別個の生き物のように激動する……。
「さあ、祭りは終った」
と、言う桂木の声を聞いた頃には、若林もグロッキーであった。ほかの連中も夢遊病者のようになっている。
男たちは、地下の二階の宿舎に移る。個室のベッドにもぐりこんだ若林は、死んだように眠りこむ。夢のなかで、娘たちの裸身が、しつこく迫ってくる。
ドアがノックされて目を覚ます。
「よく眠ったようだな。二十四時間眠りっ放しのようだった。一時間後に食堂に集ってくれ」
狩野がドアの外から声を掛けた。
「分った」
若林は|唸《うな》るように答えた。
まだ眠り足らないが、無理やりに体をベッドからはがした。よろめくようにしてシャワー・ルームに入り、タイルの床におびただしく放尿しながら熱いシャワーを浴びた。
熱い湯と冷たい水のシャワーを交互に浴びると眠気が去った。頭がはっきりしてくる。かなりのびた無精|髭《ひげ》を|剃《そ》り、服をつけて、地下上階の真ん中にある食堂に行く。
そこには、まだ桂木と狩野しか集ってなかった。ブラック・コーヒーを飲んでいるうちに、正岡と黒須も集ってくる。
「これから、社員たちに君を紹介する。分っているだろうとは思うけど、出来るだけ紳士的にふるまってもらいたい。社員たちは、我々経営者が裏の素顔を持っていることに気付いてない」
桂木が若林に言った。
「分りました。努力してみましょう」
若林は肩をすくめた。
一同は、地上の石黒ビルに移った。“ロングリューブ”という名の、高速ドライヴィングやレース用のオイル添加剤や特殊グリースを輸入して|卸《おろ》している新東邦商事は、明るいアメリカ風の事務所だ。一階が営業の大部屋となっていて、二階が会議室や重役室や経理課や輸入課、それと地下のガレージとベルト・コンヴェアで結ばれた広い倉庫だ。
ロングリューブのシンボルであるアメリカ白尾|鷲《わし》のワッペンを背中や|袖《そで》につけたブレザー・コートをつけた社員たちは、青年層が多かった。キビキビと働いている。ひっきりなしに注文の電話が鳴った。この会社は、一人に一台ずつ車が与えられ、営業が運送もやる。
桂木たちが入っていくと、社員たちは笑顔で目礼した。
「みんな、ご苦労さん。仕事の手をとめずに聞いてくれ。我が社はこのたび、この若林君を役員として迎えることにした。非常勤の専務だが、銀行や役所関係に顔が広いので、色々と相談にのってもらうことになっている」
桂木が言った。社員たちは頭を軽くさげた。桂木は一人一人のデスクに若林を連れて歩く。営業部員の半分近くは、いまは納品に出かけている。
一階の営業での紹介が済むと、二階の倉庫や経理や輸入などの部屋に連れていかれた。それから、桂木たちは会議室に入る。
そこに、会社の顧問弁護士が呼ばれ、株主総会で若林が役員に選任された、という議事録を桂木に見せた。たんまりと礼をもらって帰っていく。
次に会社の部課長が会議室に呼ばれ、仕事の状況が|尋《き》かれた。順調のようだ。
それから若林は、空いている六階に案内された。そこが、若林に提供されたのだ。六階だけでも百五十坪を越すから、若林一人では使いきれない。
その日の夕方、若林は久しぶりに調布の家に戻った。雅子はまだ、家の近くにある東洋ニュー・ハウスの専務として、事務所で|頑《がん》|張《ば》っているらしい。
夜になっても雅子は帰ってこなかった。雅子を驚かせてやろうと思って、玄関の靴を|下《げ》|駄《た》箱に仕舞った若林は、奥の寝室の灯だけをつけ、そこでうとうとしていた。
腹がへって目を覚ます。インスタント・ラーメンでも作ろうか、と立ち上がりかけた若林は、門の外に車が停まる音を聞いて苦笑いし、フトンの上に坐る。
門が開き、足音が玄関に近づいた。一人ではなく、男と女の靴音だ。男の靴音は玄関の少し前で止まり、女の――聞き覚えのある雅子の――靴音が玄関を鍵で開いて入ってくる。
「大丈夫よ、吉夫さん。帰ってないわ。心配しないで入ってよ」
雅子の声は酔っていた。
「じゃあ、遠慮なく……見つかったら見つかったときのことだ。あいつだって、奥さんがいないことには会社がどうにもならないことを知っているから、強いことを言えないだろう。スリルがあって、今夜は大ハッスル出来そうですよ。朝まで寝かせないから……」
男が笑いながら言うのが若林に聞えた。若林と雅子がやっているプレハブ代理店のセールスマンのうちで最も営業成績がいい古木という男の声であった。古木も酔っている。
若林の顔が|硬《こわ》ばり、|頬《ほお》にはグリグリができた。唇のまわりが白くなる。
「|嫌《いや》あね……でも、あの|男《ひと》がわたしを放ったらかしにしたのが悪いんだわ」
含み笑いする雅子の声が聞えた。
玄関の扉が閉じた。抱きあって激しく唇を吸いあう二人のたてる音が若林に聞えた。
「待って……」
と、雅子が|喘《あえ》ぐのは、古木が直接行為を求めてきたからであろう。
二人は、もつれあって茶の間に入ってきた。その奥の寝室に灯がついているのを知って、雅子が息を呑むのが分った。
若林は、居間との境いの|襖《ふすま》を開いた。
雅子と、大学時代に柔道部の主将をしていたのが自慢の大柄な古木は、酔いも|醒《さ》めはてたといった表情で抱きあっていた。古木は二十八歳だ。いつもは、ふてぶてしいほど生活力たくましい顔付きをしている。
「二人とも、何か言ったらどうだ? さっきは威勢のいいことを言ってたな?」
若林はかすれた声を出した。
「あ、あなたにも責任があるわ! わたしだって|生《なま》|身《み》の女よ。ずっと放ったらかしにしたあなたが悪いのよ」
|蒼《そう》|白《はく》な顔で雅子が叫んだ。中年肥りのきざしが体に現われていた。
「だから、貴様は同情したと言うのか」
若林は古木に向けて吐きだすように言った。
「悪いか?」
古木は震えながらも肩を怒らせた。
「俺の顔によくも泥を塗ってくれたな? 覚悟は出来てると思うが」
「あんたなんかいなくたって会社は立派にやっていけるのよ」
雅子は叫んだ。
「お前がその気なら別れてやる。会社もこの家もくれてやる」
「会社もこの家も、わたしの資金があったから出来たのよ」
雅子はわめいた。
「俺が雅子と別れたら、雅子と一緒になるのか?」
若林は古木に尋ねた。
「ああ。俺が専務となる」
「そいつはお芽出とう。欲にからんだ似合いの夫婦になるだろう。貴様に結婚祝いをやっておこう。飛びきりこたえるやつをな。こっちに来い」
若林は寝室に|退《さが》った。
「やる気か? |怪《け》|我《が》しても訴えたりするなよ」
古木は体ごとぶつかってきた。
照 準
若林は体を斜めに開いて、頭から体当りしてきた古木を避けた。泳いだ古木の|尻《しり》を|蹴《け》とばす。
|尾《び》|てい[#「てい」は「骨」+「低のにんべんをとったもの」Unicode="#9AB6"]《てい》|骨《こつ》にヒビが入った古木は、畳の上に突んのめった。部屋が揺らぐ。
「やりやがったな……」
血相が変っている古木は、苦痛の|呻《うめ》きと共に立ち上がった。よろめいたが体勢をたて直し、若林を|掴《つか》もうとした。
若林は残忍な笑いを浮かべた。右の手刀を古木の肩に|叩《たた》きおろした。体重が乗った一撃であった。
古木は頭の上に転落してきたダンプ・カーを受けとめようとした者のように畳の上に叩きつけられた。肩の肉は|潰《つぶ》れ、鎖骨は砕かれている。全身を|痙《けい》|攣《れん》させる。
「やめて、お願い!」
雅子が若林にしがみついてきた。
「うるさい」
若林は雅子を突きとばした。
吹っとばされた雅子は隣室との境いの|襖《ふすま》に背をぶっつけた。襖と一緒に仰向けにひっくり返る。両足を跳ねあげた。
若林は冷酷な表情で、痙攣している古木を見おろした。|襟《えり》|首《くび》を左手で掴み上体を起させる。古木は|朦《もう》|朧《ろう》とした表情であった。
その古木を仰向けにひっくり返し、若林は下腹部に右足を乗せた。全重を掛けながら踏みにじりはじめる。
「許してくれ!――」
古木はわめいた。涙があふれ出る。
「許して、許してください……」
「怪我しても訴えたりしないだろうな、と念を押したのはどっちのほうだったかな?」
若林は冷やかな笑いを浮かべた。
「お願いします。二度と……二度と大きな口を叩きませんから」
古木は歯を鳴らせた。ズボンの前が黒々と|濡《ぬ》れてくる。
「だらしのない野郎だ。貴様のようなクズをこれ以上痛めつけても、胸クソが悪くなるだけだ」
若林は古木から離れた。
「あ、有り難う……許してくださって有り難う」
古木は|喘《あえ》ぐと意識を失った。
若林は、腰が抜けたようになっている雅子のほうを向いた。|狙《そ》|撃《げき》兵のような冷やかな目で見つめる。
「許して!」
雅子も震えはじめた。
「さっきは偉そうなことを言ったな? 欲ぼけすると、女はそんなに変るのか」
若林は|苦《にが》い声を出した。
「許して……心にもないことが、つい口から出てしまったのよ」
雅子は畳の上に両手を突いた。
「どうでもいい。君の本心が分った以上、俺はもう君とは一緒に生活できない。明日、離婚届けを出そう」
「待って!」
「うるさい。会社もこの家もくれてやる。それで文句はないだろう?」
「…………」
「じゃ、夜が明けたら、十時にまたここに来る。君は弁護士を呼んでおいたらいい。そのほうが、手続きがスムーズにいく」
若林は言い捨てた。
その夜、若林は、調布飛行場に近い松井実名義で買ってある隠れ家で寝た。もう、雅子には何の感情も持ってない。かえって、さっぱりとした思いであった。そして、隠れ家の地下の倉庫には二十億を越す現ナマが|唸《うな》っている。
夜が明けた。ぐっすりと眠った若林は、約束の十時に、調布の家に着いた。古木の姿はなく、かわって、代理店の顧問弁護士をやっている、老練な弁護士倉持が、笑いを|噛《か》み殺した表情で雅子と共に待っていた。手数料の計算でもしているのだろう。
だが倉持は、口先では、
「困ったことになったな。奥さんは反省していることだし、話しあいの余地がないわけはない筈だ。考え直してくれないかね」
と、若林に言う。
「お言葉には感謝しますが、僕はシコリを残したまま雅子と生活するわけにはいかない。こう見えても、僕は誇りを捨てたら男のクズだと思っているんでね」
若林は言った。
「やっぱり駄目か……ところで、別れるとなると会社からこの家から、みんな奥さんに贈与する、というのは本気かね」
倉持は尋ねた。
「ええ、銃をのぞいてね……代理店の株も、|勿《もち》|論《ろん》、渡しますよ」
若林は答えた。
「あなた、それでどうやって生活していくの?」
雅子が泣きそうな表情で尋ねた。
「何とかなるさ。俺には友達がある。だけど、仕事が見つかるまでの生活費をくれるというのなら有り難く|頂戴《ちょうだい》する」
若林は答えた。はした金を受け取ったところでどうってことはないが、一|文《もん》なしで家を出たということになれば、弁護士が一番不思議がるであろう。
結局、若林は代理店の持ち株を雅子に譲渡した、ということで二百万の金を受け取ることになった。
その翌日に、離婚のすべての手続きは完了した。二百万の現ナマをポケットに入れ、正規に許可を受けてあるライフルや散弾銃をタクシーに積んだ若林は、
「じゃあ、達者でな。今度会っても他人の顔をしてくれ」
と、雅子に言い捨て、あとも振り返らずにタクシーで調布を離れた。
そんなことはないと思うが、万が一にでも雅子が興信所を使って若林の行くえを掴もうとしていたら面倒だから、新宿でそのタクシーを降りた。
別のタクシーに乗り、それを渋谷で乗り替えた。そして、青山の表参道に面した石黒ビルの前で降りる。
ケースに入れた数丁の銃を抱えた若林は、地下のガレージからエレヴェーターで六階に昇った。
六階全部が若林に与えられている。若林は六階のフラットの玄関をキーで開いて入ると、広々とした応接室や居間や書斎などを通り抜け、まだ飾り|棚《だな》とロッカーだけがある銃器室に入った。
そのガン・ルームだけでも和室にすれば三十畳ほどの広さがあった。ロッカーにライフルや散弾銃や装弾機などを仕舞った若林は、|天《てん》|蓋《がい》付きのダブル・ベッドが置かれた寝室に入った。
七階に住んでいる桂木にダイアルを廻す。しばらく呼び出し音が続いたあと、
「私だ」
と、答える桂木の声が聞えた。
「若林だ。女房と別れた。六階に住むようになったからよろしく」
若林は言った。
「それは、それは……一人では不便だろう。家政婦でも雇いたまえ」
「分った。用事は?」
「今のところない。次の仕事にとりかかるまで、のんびりしていたまえ。それから、例の女たちに用があるときは、また電話してくれたら案内しよう」
「分った」
「じゃあ、自由な生活を楽しみたまえ」
桂木は電話を切った。
その日の午後は、銃砲の許可証の住所変更届けをはじめ、移転にともなう役所への届け出で潰された。
翌日は、買いもので一日を潰した。普段の足として、B・M・W二〇〇二|TI《テイー・アイ》の右ハンドルを買う。家具も色々と買った。渋谷の家政婦協会から、若いメイドを廻してもらう。毎日、午前十時から午後七時までの契約だ。
それから一週間ほどは、若林は毎晩赤坂や六本木のクラブに出没して、女たちとべッドを共にした。
だが|虚《むな》しかった。五千発ほどの口径三〇八の百五十グレイン弾頭と四十二グレインのNY五〇〇火薬の組み合せを手詰めした若林は、その弾薬と、サコー・フォレスターのヘヴィ・バレルのボルト・アクション・ライフルを持って小網代の港に向った。
そこのフリートのブイに、中古のやつを買った二十四・五フィートのクルーザーがつないである。“ディアボロ”つまり悪魔という名をつけてあった。
久しぶりの小網代であった。杉山のものであった大型クルーザー“ニンフ二世”は、若林の小型クルーザーから二百メーターほど離れた位置で揺れているが、杉山が発狂したあと人手に渡ったらしく、“ネプチューン”という名になっていた。
晩秋であったが、|湘南《しょうなん》の緑は紅葉が遅い。その緑の森から飛びたったゴイサギが無数に舞っていた。
一日を、食料や水の積み込みやエンジンの整備や帆の点検についやした若林は、翌朝になって機走で港を出た。湾の入り口の定置網をかすめると帆を張る。
目的地は、特にどこといってなかった。ただ、目的地を持たぬクルージングは精神の張りを失わせるし、そうかといってシングル・ハンドでは夜のウォッチを長く続けられないから、暗礁を避けて、北緯三十度、東経百五十度の交差点まで行ってから引き返すことにする。往復約二千キロの航海だ。
一か月にわたるその航海のあいだ、若林は波と風と雨と闘い、あるいは波間に|空《あ》き|罐《かん》を漂わせてサコーのセミ・ターゲット・ライフルで|狙《そ》|撃《げき》する練習をやった。
|鮫《さめ》のいない海域では、クルーザーを自動操縦させておいて泳ぐ。
|嵐《あらし》が続いて今にも船体が分解しそうになるとき、あるいは風がそよとも吹かずに船が動かないとき、若林は何のためにこんな馬鹿げた苦労をみずから求めたのであろう、と考えることがあったが、長いあいだ人間の顔を見ないで過ごせるだけでも楽しかった。
帰港したとき、日本はすでに冬であった。|褐色《かっしょく》に陽焼けした若林は、そうでなくとも|凄《すさ》まじく発達した筋肉がさらにたくましさを増していた。
生きて帰れたことを、海の神、陽の神に感謝した若林は、潮風でバンパーやホイールが|錆《さ》びたB・M・Wを運転して、石黒ビルに戻った。顔じゅう|髭《ひげ》だらけであった。
夜で、家政婦はもう帰ってしまっている時間であった。もし彼女が入ってきた若林を見たら、強盗かと思って一一〇番でもしかねないほど若林は薄汚れている。
だが、風呂につかり、髭を剃り、コジキのもののようになった髪を自分でレザー・カットすると、若林の顔に見せかけの甘い|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が|甦《よみがえ》った。
部屋は集中暖房式だから暖かい。裸の腰にバス・タオルを|捲《ま》いた若林が、大きな冷蔵庫を開いて、よく冷えたビールを取り出したとき、インターフォーンのチャイムが鳴った。
若林は、食堂にもあるインターフォーンのトーキング・ボタンを押した。
「どなた?」
と尋ねる。
「やあ、お帰り。入ってもいいかね?」
桂木の声がインターフォーンを通じて尋ねた。
「いま開ける」
若林は、バス・タオルを捲いただけの姿で、幾つもの部屋を通って玄関に近づいた。ドアを開くと、桂木のほかに、同志の面々が|揃《そろ》っていた。
「ずいぶんと長かったな。遭難したのではないかと思った」
桂木は室内に入ると言った。
「アメリカかヨーロッパに逃走したと思ったんじゃないですか?」
若林は笑った。陽焼けが濃いから歯が真っ白にきらめく。
「あと一週間も帰りが遅かったらそう思ったかも知れないぜ」
狩野も笑いながら言った。
若林は四人の男を食堂に連れていった。それぞれの好みのアルコール飲料を出す。アワビの水煮の一ポンド罐を素早く五個開いて、ツマミとして出した。
自分はビールをラッパ飲みする。久しぶりのアルコール分なので、いつもなら水のようなビールでも効いてくる。
しばらく航海の話が続いた。一区切りついたところで、若林は、
「次の仕事の照準は定まった?」
と、尋ねる。
「まあな。暮れのボーナスを銀行から頂戴しようと思っている」
桂木は答えた。
「なるほど……要求額は?」
若林は冗談めかして尋ねた。
「五十億だよ、最低要求額は」
「どの銀行です?」
ビールの効き目が薄れてきたので、ジンと交互に飲みながら若林は尋ねた。
「大海銀行立川支店だ。十二月八日の月曜日が、あの銀行と取り引きしている大企業のうち、明治特殊機工とパブリック電気と昭和自動車の三つのボーナス日と分った」
「…………」
「その三社の立川工場だけで、従業員は七万人を越す。一人のボーナスが十五万と見ても全体で百億以上だ。しかし、臨時雇いや見習工もかなりいるから、あまりボーナスの恩恵をこうむらない彼等の分を計算しても、最低五十億は固い」
黒須が言った。
「銀行に、そのボーナス分の現ナマが本店から送られてくるのは月曜ですか?」
「いや。月曜では、月曜に払うのに間に合わない。銀行はサーヴィスとして、お客の大会社の従業員のボーナスを、社の支払い明細書と突き合わせて仕分けして、それぞれの封筒に入れるんだ」
今度は正岡が言った。
「なるほど……」
「だから、五十億から百億と思われるボーナスは、土曜の夕方に本店から立川支店に送られてくる。土曜の夜は大金庫で札束は眠る。そして翌日の日曜日、行員たちは休日を返上して出勤して来て、他人のボーナスを仕分けして、何万という封筒に入れるんだ。|勿《もち》|論《ろん》、封筒に受け取る連中の名前を書く仕事もあるがな」
桂木はニヤリと笑った。
次の計画
「なるほど……大海銀行立川支店の内部事情がよく分りましたね。どうやって調べたんです?」
若林はジンを|喉《のど》に放りこみ、すぐにビールをチェーサーして口直しをした。
「それは、私があの銀行の大口預金者だからだ。二年前から計画を立て、立川に一軒家を買って、すでに億を越す金を大海銀行立川支店に預けている。だから、当り前の話だが、あの銀行の支店長はじめ行員たちと親しくなった。行員たちは、酒の席になると、色々なことをしゃべってくれるよ」
桂木は言った。
「銀行の金が奪われたところで、銀行が破産するわけはないし……預金のほうは安全、というわけですな」
若林は言った。
「そうだよ。銀行は保険に入っているし、契約した保険会社は会社で、世界中の保険会社と再保険契約を結んでいるから、五十億や百億の損失があっても、実際の損害は大したことがない」
正岡が言った。
「それで、決行の段取りは? ボーナスがあの銀行のなかにあるときに襲うんですか? それとも、現金輸送車を襲うんですか?」
若林は尋ねた。
「現金輸送車は、ボーナスを支払う、明治特殊機工とパブリック電気と昭和自動車の三か所に向けて分散する。三台を一時に襲うのは無理だ」
桂木が言った。
「だろう、とこっちも思っていましたよ。土曜の夕方から日曜の夜にかけて、ボーナスがあの銀行のなかにあるあいだに狙わないって手は無いですしね」
「そうなんだよ。ただし、本当は土曜の夜、ボーナスがあの銀行の大金庫室で眠っているときに襲えば一番静かに仕事が出来るんだが、一番の難問の時限ロックという問題がある。だから、土曜の夜は不可能だ」
桂木は肩をすくめた。
「あの銀行の大金庫室の時限ロックも、一度合わせてしまうと、時間が来るまではどうやってもロックが解けないタイプなんですか?」
若林は尋ねた。
「そうらしい。この前、台風で立川一帯が三時間ほど停電した翌日、銀行が始業しても大金庫室の時限ロックがいつもより三時間後でないと開けることが出来なくなって、預金をおろしに来た客に散々文句を言われた、とあそこの行員が言ってたからな」
「なるほど。それではどうしようもない。それで、あの銀行の内部の、正確な見取り図は出来ているんですか?」
「そのことなんだ。私はあの金庫の貸し金庫を利用しているから、大金庫室が、どこにあるかは分っている。しかし、今度の計画では、我々は土曜の夜にあの銀行に忍びこみ、どこかに隠れておいて、日曜になって、休日返上で出行してきた行員たちがパブリック電気などのボーナスを仕分けしている現場を襲うことになったんだ。そのためには、あの銀行の|隅《すみ》|々《ずみ》までくわしく知っておく必要がある」
桂木はパイプにバルカン・ソブラニーを詰めながら言った。
「ちょっと待った。ボーナスを仕分けるとき、警官は立ち会うんですか?」
若林は言った。
「いや。行員の話だと、三部屋に分れて、それぞれの部屋で、おのおのの会社のボーナスをその社の経理部員が仕分けするのを行員たちが手伝う、という形になるらしい。警官は呼ばずに、銀行と契約している東洋警備というガードマン会社の連中に警備を任せる、とのことらしい」
正岡が言った。
「そのガードマンたちは、土曜日の夕方から銀行に泊りこむんですか?」
若林は尋ねた。
「それが分らんのだよ。銀行にやってくるガードマンの数もまだ分らん。まだ、決行には一と月以上ある。その間に、はっきりしたことが分ってくるさ」
「…………」
「とりあえずは、あの銀行の見取り図を手に入れなければな……うまい具合に、あの銀行を設計したのが|誰《だれ》なのか分った。四谷に事務所を持つ、青江という設計士だ。明日にでも、君と黒須君とで青江を襲い、あの銀行の設計図のコピーを出させるんだ」
桂木は言った。
それから二時間ほどして、桂木たちは去った。
かなり酔っぱらった若林は、素っ裸でベッドに転がりこむ。目を閉じても、海の波やうねりがちらついた。
翌日は、午後三時すぎまで若林は眠った。起きると、眠りすぎで体がだるいほどであった。熱い湯と冷水のシャワーを交互に浴びて、若林は体をしゃんとさせた。腰にバス・タオルを捲いただけの姿で食堂に行くと、朝昼兼用の食事を並べていた、通いの若いメイドが顔を赤らめる。
「やあ、久しぶりだな。ますます|綺《き》|麗《れい》になった」
秋子というメイドに、邪悪な内心の|翳《かげ》りをまったく見せぬ輝くばかりの笑顔を向け、若林は食卓についた。
秋子は十九歳であった。小柄だが、充分に|熟《う》れた感じだ。軽く上向きになった鼻が可愛い。
その秋子は、バス・タオルからはみだしている若林の凶器を盗み見て、さらに赤くなった。
「航海はいかがでしたの?」
と、尋ねる。
「|淋《さび》しかったよ。君のような可愛い子ちゃんと一緒だったら楽しかったのにな」
若林は笑い、割られたグレープ・フルーツにブランデーをたらしてスプーンで|掬《すく》う。
若林は冗談で笑ったのだが、秋子のほうは本気に受け取ったらしい。
「本当?」
と、両手で胸を押えた。
「そうだよ」
若林はスプーンを口に運びながら答えた。
「こんなに広いところに一人で住んでらっしゃるなんて……お仕事は何をしてるの?」
秋子はキラキラと|瞳《ひとみ》を光らせながら尋ねた。
「商売か? 下の会社の専務だ。資本を出しているので、毎日は働かなくてもいいんだ」
若林はもっともらしく答えた。
「素敵ね。働かなくてもいいなんて」
「たまには働くさ。働くときには、まとめて働くんだ……トーストが焦げちゃうぜ」
若林はトースターを|顎《あご》で示しながら言った。
秋子は、あわててトースターからパンを跳びださせた。それにバターを塗ると、若林の前の皿に置く。
それから、いきなり|膝《ひざ》をついた。若林のたくましい腕に取りすがり、
「結婚してくれなくともいいの。ここに住まわせて」
と、|喘《あえ》ぐように言う。|腿《もも》に唇を|這《は》わせる。
若林はあわてた。
「済まん。俺は、その……女を愛することが出来ない体なんだ。見かけは一人前か知らないが、イノシシ猟をやっているとき、ここを|牙《きば》にかけられてしまって……整形手術で傷跡は消えたが、機能のほうが……」
と、口ごもる。せっかく女からの自由を取り戻したのに、また縛られるのは真っぴらだ。
「|嘘《うそ》よ、嘘よ――」
秋子は若林の腰のバス・タオルをはぐった。
「もし、本当だとしても、わたしが直してあげる」
と、若林の凶器を口一杯に|頬《ほお》ばった。
年に似あわず秋子は巧みであった。一と月の航海で、禁欲生活をしいられていた――無論、夢精は何度かあったが――若林は、|凄《すさ》まじいまでの自制力で不随意筋をコントロールした。
秋子は|啜《すす》り泣きのような声を漏らしながら、口や舌だけでなく両手を使って若林を奮いたたせようとする。
若林は、大海銀行立川支店のことを想像してみて、本能に敗れようとする誘惑と闘った。
秋子は薄く涙を浮かべながら若林から離れた。だが、|諦《あきら》めたわけではなかった。
若林を見つめながら、ゆっくりと脱いでいく。若林は、わざと沈痛な表情を浮かべて、自分がインポである、と秋子に思いこませるように努めた。
じらせる動作で脱いでいった秋子は、ブラジャーとパンティだけとなった。官能的な体つきだ。パンティは、熱く濡らしたもので透けている。
秋子はブラジャーを外した。上向きに反った乳房の先のツボミは硬くふくれている。パンティも取った秋子は、再び若林に近寄ると、その手を取って立ち上がらせた。若林は鼻血が出そうになっていたが、コントロールは失ってなかった。
若林を隣室の|椅《い》|子《す》のところに連れてきた秋子は、若林を抱いて、自分から寝椅子に転がる。
|仰《あお》|向《む》けにさせた若林のものを、秋子は両の乳房で|揉《も》んだ。目をつぶったら本能に敗れることを知っているから、若林は天井を|睨《にら》みつけている。
まだ若林が反応を示さないのを見た秋子は、若林の耳に熱い息を吹きこみながら、若林の手をとって、どうしようもなくなっている|蜜《みつ》|壺《つぼ》に誘導した。
若林の背に、さざ波が走る。思わず目をつぶって、本能に身をまかせようとした。
そのとき、電話のベルが鳴った。
「出ないで! じっとしていて」
秋子は喘いだ。
だが、電話は|執《しつ》|拗《よう》に鳴り続けた。
若林は秋子から逃れて立ち上がった。電話に歩く。秋子は両手で顔を覆って食堂に走った。
電話は桂木からであった。
「やあ、目が覚めたかね。青江を襲う件について、最終的な打ち合せをしたいんだが」
と、言った。
「分った。メシを食ったら、すぐにそっちに行く」
「いそがなくともいいがね。こっちで食事しながら話しあってもいいんだよ」
「有り難う。だけど、いまこっちで食事中だから、コーヒーを用意しておいてもらおうか」
若林は答えて電話を切った。
食堂に戻ってみると、秋子は身仕度を終えていた。
「さようなら。もう、二度とお会い出来ないわ」
と、|呟《つぶや》いて、走るように玄関に向う。
「さよなら――」
若林も呟き、秋子が玄関を出てドアを閉じると、
「億万長者の奥さんになれなくて気の毒だったな」
と、付け加える。
食卓に戻ると、意志力が消えて猛然となってくる。|牝《めす》|馬《うま》でも相手にできそうだ。コールド・ビーフとトーストと半熟卵を早いスピードで平らげると、浴室に駆けこむ。
たった十こすり半でおびただしく放出した。
再びシャワーを浴び、入念に洗った若林は、服をつけて七階に登った。
桂木は七階を占領している。立派な調度があった。ほとんどすべてが、十五世紀から十八世紀にかけてのフランスやイタリーの家具を使っていた。
シャンデリアが輝く食堂で、桂木のほかに黒須も狩野も正岡も集り、葉巻をふかしながら、コーヒーの大きなカップを手にしていた。
「どうしたんだね、君のところのメイドが泣きながら帰っていくのを狩野君が見たと言うんだが……」
桂木が尋ねた。
「いや、実は……」
若林は説明した。
「|勿《もっ》|体《たい》ないことをしたな。あの|娘《こ》なら、まずあんたが味見してから、下のハーレムに廻してくれたらよかったのに」
美男の狩野がふてぶてしい表情で言った。
「そうだとも、あの|娘《こ》が行方不明になったなどと家政婦協会が騒いでも、みんなで口裏を合わせればうまくごまかせたろうさ」
正岡が言った。
「なるほど」
若林は、男たちのしたたかな神経に頭をさげた……。
その夜、若林と黒須は、正岡が盗んできたトヨタ・センチュリーに乗って、都下町田市の玉川学園町に向った。
大海銀行立川支店を設計した青江は、老妻と別居して、玉川学園の丘の上に、かつては自分の秘書をしていた幸子という女と、御殿のような家を構えているのだ。
女中は二人使っているが、いずれも住みこみにはさせず、通いにさせて、夜になると若い幸子と誰にはばかることもなく痴戯にふけっている、とのことであった。
世田谷―町田街道を進んだセンチュリーは、町田市に入って丘陵地帯を抜けるとT字路を左に折れた。
やがてY字路に来る。右に行けば、原町田に出る。センチュリーは、左の道をとった。
小田急の玉川学園前駅に向う道に出る。左側は再び丘陵地帯になった。ベッド・タウンと化したそのあたりは、丘の上にも、マッチ箱のような家が並んでいる。
そのなかにあって、高いコンクリート|塀《べい》を張りめぐらせた一軒の大邸宅が目立った。地元の土地成金の家ではなく、青江の|妾宅《しょうたく》だ。
設計図
静かなことだけが取りえのトヨタ・センチュリーは、左側の丘を静々と登っていった。細い道の左右の、マッチ箱のような家々から、|団《だん》|欒《らん》の灯がこぼれ、|T《テレ》|V《ヴイ》のドタバタ・コメディを見て笑いあう声が漏れてくる。
若林は、自分がルビコンの河を渡らずにサラリーマンとして一生を終ることに甘んじていたら、やはり彼等と同じように、マッチ箱のような家に住み、狭い芝生の庭でゴルフのクラブを振りまわし、満員電車に押しこめられて、会社とマイ・ホームを往復する毎日を過ごすことになったであろう……と、ふてぶてしい笑いを浮かべた。
「どうしたんだ?」
ハンドルを握る黒須が、助手席の若林に尋ねた。
「いや、何でもないがね。こういうマイ・ホームを見て考えてみてたんだ。男に|倖《しあわ》せなんてあるもんだろうか? あったとしても、続くもんだろうか?」
若林は呟いた。
「おかしなことを言うなよ、あんたらしくもない。俺たちには闘いのあいだの息抜きはあっても、倖せなんてありっこない。そんな倖せなんて錯覚がもしあったとしても、錯覚が長続きする筈は無い」
黒須は言った。
坂の登りは急になった。舗装してなかったら、雨の日には後輪がスリップして立ち往生するほどの登りだ。
オートマチックのセンチュリーのセレクターをLに固定させた黒須はハーフ・アクセルで排気音を殺した。
坂を登りきると、台地になった。そこはまだ造地はされているが、空き地が多い。七十メーターほど行ったところに、建築設計士青江の妾宅の高いコンクリート塀があった。
セレクターを|N《ニユートラル》とした黒須は、その塀に惰力でセンチュリーを寄せた。エンジンを切り、通行人がいないのを確める。
それから、ルーム・ランプがドアを開いたとき自動的に点灯しないようにスウィッチを切っておき、運転席のドアを静かに開いた。
黒須に続いて、若林も車から降りた。二人とも、|靴《くつ》|音《おと》をたてないようにラバー・ソールのバックスキンの靴をはき、腰にロープや色々の小道具を入れたズック袋を吊している。無論、薄い手袋をつけていた。
並んでたつと、若林のほうが背が高かったが、黒須のほうがはるかにたくましく見える。|着《き》|痩《や》せして見える若林は一見ほっそりとさえ見え、甘い見せかけの|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を漂わせた顔が、その印象に拍車をかけている。
二人は、黒須が先になって、エンジン・フードを伝って車の屋根に登った。コンクリート塀の上に登った黒須は、大きなアルミ型の|鉤《かぎ》――ビニールで覆われていた――を塀に引っかけ、鉤に結ばれたロープを塀の内側に垂らした。
そのロープに上半身の体重をかけ、塀の内側に足を突っぱって黒須が庭のなかに降りる。それに続いて庭に降りた若林は、ロープを巧みに一振りし、鉤を塀から外した。鉤とロープを丸めて捲きつけ、黒須に渡す。黒須はそれをズック・サックのなかに仕舞った。
庭は広かった。五百坪はあるだろう。巧みに造園されているので、実際以上に広く感じられる。
だが、池あり|築《つき》|山《やま》あり、ちょっとした雑木林ありというその造園のせいで、建物に忍び寄ることも楽であった。|掩《えん》|護《ご》物が無数にあるからだ。
建物は、鉄筋の二階建てであった。二人の女中も住み込みもさせずにわざと通いにさせ、家は|妾《めかけ》と青江が二人だけで過ごすには、あまりに大きすぎるほどだ。
若林と黒須は、右手に消音装置をつけた|拳銃《けんじゅう》を握っていた。掩護物に巧みに体を隠しながら建物に近づく。
建物は、すべてブラインドが降りていたが、暖炉の煙突から薄い煙が流れているから、なかに人がいることが分る。
二人は、応接室のところにたどりついた。耳を当ててみる。応接室に人の気配は無い。
黒須が腰のズック袋から、ガラス・カッターと強力なガム・テープの一巻きを取り出した。ガム・テープの一部を窓ガラスに|貼《は》っておき、その周囲の直径三十センチほどにカッターで切れ目を入れた。
切れ目の内側のガラスを平手で軽く|叩《たた》く。そのガラスはポコッとはがれたが、ガム・テープに引っぱられているので、床に落ちて派手に割れる音をたてるようなことはなかった。
黒須はガム・テープのロールを二、三十センチほど|剥《む》いて、ぶらさがったガラスを少し降ろし、窓に出来た空間から手を差しこめるようにした。
ガム・テープのロール側を切り、そいつを|窓《まど》|枠《わく》に貼りつけておき、窓ガラスに出来た空間から左手を入れて、ロックを解いた。
窓を開く。応接室にもぐりこんだ。ブラインドをはぐって若林を手招きする。若林も応接室に入った。|贅《ぜい》|沢《たく》な応接室であった。
|絨毯《じゅうたん》は本物のペルシャで、椅子や机はすべてツーラの|山《や》|羊《ぎ》皮張りだ。
「派手に脱税してやがるんだな」
黒須が若林の耳に|囁《ささや》いた。
「まったくだ」
若林は|頷《うなず》いた。
二人は足音を殺して廊下に出た。四十坪ほどの一階に人の気配は無かったが、一応一階の全部の部屋を調べてまわった。地下のボイラー室もだ。
それから二階に|這《は》い登る。暖炉があると|覚《おぼ》しい部屋のドアに耳をくっつけてみると激しい物音がしていた。
ニヤリと笑いあった二人は、ポケットから|狼《おおかみ》に似せた覆面を出してつけた。若林はドアのノブをそっと試してみる。
|鍵《かぎ》はかかってなかった。ノブを廻しきった若林は、そっとドアを押し開いていった。細目に開いたドアの|隙《すき》|間《ま》から、なかに身を滑りこませる。
電灯は消してあったが、大きな暖炉で燃えあがる|白《しら》|樺《かば》の赤紫の炎が、その二十畳ほどの洋室を鈍く照らしている。
そこは、言ってみれば、部屋全体がベッドになっていた。暖炉の前と横の、火の粉が飛んでくるあたりと|薪《まき》を積んであるあたりをのぞいて、床一面に分厚く毛皮が敷きつめられている。
そして、三方の壁と天井が鏡張りになっていた。その部屋で、初老の青江は、|肋《ろっ》|骨《こつ》が浮きだした裸身を四つん這いにさせ、口には革の|紐《ひも》をくわえさせられていた。
青江の背中には、裸の体に金属と革で出来た貞操帯をつけ、ナチスばりの長靴をはいた、妾の幸子がまたがり、ムチを振りあげていた。貞操帯には|鞘《さや》におさめたナイフを吊っていた。
幸子は大柄であった。一メーター七十の背丈はあることだろう。バストは一メーター近い。興奮に桃色に染まった体の中心に、貞操帯から黒々とした|翳《かげ》りがはみだしていた。
幸子は、女王のように|驕《おご》りたかぶった表情をしていた。年は二十三歳ぐらいだ。そして、尻がムチ打たれてミミズ|腫《ば》れになりながら、銀髪の青江は馬のように長いものをのばしていた。ただし、硬度において不足している。
口に青江がくわえている革紐は手づなの積りらしい。幸子は左手に握ったその手づなを乱暴に引っぱって青江の顔を反りかえらせ、
「さあ走るんだ」
と、男言葉で命じる。
|痩《や》せこけているのに、青江は腹だけは突きだしていた。その腹を波打たせながら、手づなの隙間から、
「女王様、勘弁して」
と、気味悪い女の声色で|喘《あえ》ぐ。
「ええい、勘弁せぬ。お前の腹の下のものが邪魔なのだろう。切り取って身軽にしてやる」
幸子は腰からナイフを抜いた。刃がつけてないナマクラだと若林にはすぐに分ったが、ニッケル・メッキしているのでよく光る。
「あっ、許して、許してください。女王様……」
青江は巧みな恐怖の表情で|呻《うめ》いた。四つん這いで走りはじめる。痛めつけられている自分の姿を鏡で確め、マゾヒストとしての満足感を深めようとした。
鏡には、狼の顔の覆面をつけ、手に消音装置付きの拳銃を持って立っている若林と黒須の姿が写っていた。
青江は、幻を見ているのでないかと駆けるのをやめて顔を振った。
「何をしてるんだ。言うことを聞かぬと、本当にチョン切るぞ!」
幸子が怒鳴った。青江に教育されて本物のサディストになっているらしい幸子は、責めに夢中になっていて、若林たちに気付かぬらしい。
そのとき、若林が声をかけた。
「俺たちがブッタ切ってやる。こいつは本物のゾリンゲンだ。よく切れるぜ」
と、刃渡り十二センチの飛びだしナイフを左手で示し、ボタンを押して青紫色の刃を飛びださせた。
「…………」
青江は、形容しがたいほどの悲鳴を絞りだした。
背中の幸子を振り落して立ち上がる。窓のほうに向けて走った。
振り落された幸子は、両|腿《もも》を大きく開いて仰向けに倒れた。貞操帯に、小水用の小孔がついているのが見える。
青江は、カーテンをはぐり、ブラインドをはねのけようとした。若林は、
「血迷うなよ。窓から落ちたら、あんたのような御老体は一コロだぜ」
と、|嘲笑《ちょうしょう》する。
それを聞いて、青江はいま自分は二階にいるのだ、ということを思いだしたようであった。
全身を震わせながら、崩れるように坐りこむ。一方、跳ね起きた幸子は、両手で握った短剣を前にのばし、ドアのほうに向って突っこんできた。
若林は、
「馬鹿」
と、笑いながら幸子に足払いを掛けた。
幸子は前のめりに吹っ飛んだ。倒れる幸子の左腕を黒須が|蹴《け》とばす。短剣を放りだした幸子は、顔から毛皮を敷かれた床に突っこんだ。部屋が軽く揺らぐ。
黒須は、貞操帯がはめられた幸子の中心部をご|丁《てい》|寧《ねい》に蹴とばした。幸子は仰向けに転がると、両膝を|顎《あご》の下に引きつけて|痙《けい》|攣《れん》する。すぐに意識を失った。鼻が|潰《つぶ》れて出血している。
「こっちを向くんだ――」
若林は窓ぎわで坐りこんでいる青江に声をかけ、
「どうやら、この部屋の防音装置はしっかりしているようだから、いくらあんたが悲鳴をあげたところで、俺たちは余計な神経を使わないで済む、というわけだ」
と言う。
「助けてくれ……金なら、持ってるだけ出すから、命だけは助けてくれ」
青江は若林たちのほうに体を廻した。縮んだとはいえ、|逸《いち》|物《もつ》はでかい。白人のようなフニャマラだからだ。
「|端《はし》た金に用は無い」
若林は言った。
「じゃあ……じゃあ、何が欲しいんだ」
「大海銀行立川支店の設計図だ」
「…………」
「本当に貴様のセックスをブッタ切られたいのか? 貴様のマゾ根性を満足させてやろう」
若林は、ゾリンゲンの飛びだしナイフを|閃《ひらめ》かせながら青江に近づいた。
「助けてくれ!………」
心臓が|喉《のど》からせりだしてくる表情になり、青江は前を押えて転げまわった。マゾやサドのプレイにはルールがあって、そのルールのなかで疑似恐怖を楽しんでいた青江は、本物の恐怖に当面して、濁った小水をおびただしくほとばしらせる。
「設計図を出せば助けてやる、と言ってるんだ」
若林は冷たく言った。
「出します。差しあげます。でも、ここには無い!」
青江は呻いた。
「そんなことぐらいは分っている。どこだ? 事務所か?」
「事務所ではなくて、八王子に借りている倉庫です。案内します。私でないと、あそこに保管してある|厖《ぼう》|大《だい》な量の設計図のなかから、大海銀行の設計図を探しだすことは無理だ。だから、私を殺さないでください」
青江は手を合わせた。
「よし、分った。服をつけろ」
若林は命じた。ナイフを仕舞う。
「…………」
責江はヨダレを垂らしながら、ふらふら立ち上がった。壁の鏡の一つを開く。その奥がワード・ローブになっていた。
ワイシャツの一枚で、小便に濡れた体を|拭《ふ》いた青江は、別のワイシャツをつけた。ズボンや背広などもつける。
「こいつは俺が見張っている。女を始末してきてくれ」
若林は黒須に言った。
「始末? 幸子をどうする気だ!」
青江はヒステリックにわめいた。
「心配するな。地下室に閉じこめておく、という意味だ。意識を取り戻してから暴れないように縛らせてもらうがな」
若林は言った。
「|嘘《うそ》だ、信用できない。殺す気だ!」
責江は呻いた。顔は青く|歪《ゆが》んでいる。
「あんたに信用してもらいたいとは思ってはいないよ。じゃあ、お望み通りに、この女を殺す。やってくれ」
若林は黒須に向けて言った。
黒須は覆面の下でニヤリと笑ったようであった。
「ただ殺したんでは面白くねえ。それに、死体が誰だか分らねえようにしておいて、どこかの山に放りだしておけばアシがつかなくて都合がいい。うまい具合に、この暖炉の火はよく燃えてるな。こいつで、この女の顔と指を焼き潰す。人相と指紋が消えたんでは、誰の死体だか分らなくなる」
と、気絶している幸子の髪を|掴《つか》んで、おびただしい|熾《おき》|火《び》の上で|白《しら》|樺《かば》が燃えている暖炉に近づけた。近くに寄っただけでも、耐えきれぬほどの熱気だ。
倉 庫
白樺が燃えさかる暖炉に近づけられた幸子の顔は、たちまち火ぶくれしてくる。髪や|眉《まゆ》などがチリチリ縮れた。
「やめろ。やめてくれ!」
青江は、気絶している幸子を掴んでいる黒須に殴りかかった。
「年寄りの冷や水はよしたほうがいいぜ」
黒須と同様に狼の顔の覆面をつけている若林は、青江の|襟《えり》を背後から掴むと、軽々と吊りあげた。青江は手足をバタバタさせてもがく。
黒須も、気絶から覚めかけた幸子を暖炉から二メーターほど離れた場所に放りだした。
「分ったろう? 女を殺そうと思ったら俺たちは思った通りにやれるんだ」
と、青江に言う。
「わ、分った。もう、これ以上乱暴はしないでくれ」
ワイシャツのカラーで喉を絞められた格好になった青江は|呻《うめ》き声をやっと漏らすことが出来た。
若林は、その青江を、床の毛皮の上に降ろした。そのとき幸子が意識を取り戻した。
幸子がまずやったのは、部屋の三方についている鏡で、自分の顔がどうなったかを知ろうとしたことであった。
鼻が潰れ、顔の皮膚は赤く|腫《は》れ、髪や眉が縮れた自分の顔を見て、
「畜生……」
と、|嗄《しわが》れた声を出した幸子は黒須に掴みかかってきた。素っ裸に貞操帯という姿のままだ。
「品がない女だな」
覆面の下でニヤニヤ笑いながら、黒須はわざとあとじさった。幸子はいきなり暖炉に走り寄り、火がついている|薪《まき》を握った。
「|頭《ず》のぼせるな」
若林は暖炉にかがみこんだ幸子が上体を起さない前にその尻を蹴った。おびただしい|熾《おき》|火《び》と燃えさかっている薪のなかに上体を突っこんだ幸子は、顔や胸をバーベキューにされて|悶《もん》|絶《ぜつ》する。悪臭がひろがる。
それを見ていた青江は、物も言わずに気絶して倒れた。若林は、
「俺たちに手むかいやがったらこんなになるんだ」
と、|呟《つぶや》き、腹をナイフで裂いてから、幸子の体全体を大きな暖炉のなかに押しこんだ。その上に、暖炉の横に積んであった薪を放りこむ。
三時間後、暖炉のまわりに積んであった薪は尽きたが、幸子は骨までボロボロになっていた。部屋は火事場のように熱くなっているが、気絶から覚めて腰を抜かしたままの青江は冷水につかっているかのように震え続けていた。
黒須が、鼻歌をうたいながら、幸子の骨を|火《ひ》|掻《か》き棒で砕いた。窓を開いて空気を入れ替える。
青江は、大声を出して助けを求める気力も失っていた。若林は、その青江に、
「幸子程度の女なら、捜せばいくらでも見つかるさ。この家に住まわせてやる、と言って口説いたら|一《いち》コロでオーケイするだろうよ。だけど、あんた自身が死んじまったんではつまらねえだろう? 俺たちがどんな男か分ったか」
と、言う。
「な、何でも言われた通りにします。命だけは助けてください」
青江は四つん這いになって頭をさげた。
「分ったらいいんだ。まあ、落ち着け。気を楽に持つんだ」
「そんなこと言われても……」
「気持が落ち着いたら、通いの女中に電話するんだ。ヨーロッパの建築デザイン賞をもらった通知が来たんで、急にこれから幸子とパリに向けて|発《た》つ。帰国するのは一月に入ってからの予定なので、それまでここには通わないでもいい。帰国のはっきりした日時は、ヨーロッパから国際電話を入れる。十一月と十二月分の給料と暮れのボーナスは、建築事務所に預けておいた。明日、二か月分をまとめて事務所の者がそっちに現金書留で送るように手配しておいたから……と言うんだ」
「な、何の積りだ? 私がこの世から消えても、女中たちがそのことに気付かないようにさせようというのか」
青江は死人のような顔色になっていた。
「殺す気なら、そんな手間は掛けない。来年まで俺たちの別荘にご|逗留《とうりゅう》願うんだ。来年になったら自由の身にしてやる。何なら、サドの女を付けてやってもいいぜ」
「本当か?」
青江の瞳に、かすかに生気が|甦《よみがえ》った。
「ぴったりのドイツ娘がいる。あの|娘《こ》にナチスの長靴をはかせて|鞭《むち》を振りまわさせたら似合うだろうな」
「体つきは?」
「骨太のグラマーだ」
「髪や目の色は?」
「プラチナ・ブロンドに青灰色の瞳だ」
「ああ、夢が実現する! 私の夢は、そんな女性に思いきり侮辱を受けることだった。その女性に|鞭《むち》打たれ、聖水を顔に浴せられるさまを想像しただけで気が変になってきた」
マゾヒストの青江は、ポッと顔を上気させ、ズボンのチャックを降ろした。
「我慢してろ。夜が明けるまでには本物に対面させてやるからさ。それよりも、女中に電話しろ。女中は二人いたな」
若林は言った。
「うまい具合に、どっちのとこにも電話がある。済みません、起してください。腰が抜けてしまって」
青江は言った。チャックを引き上げる。
黒須が立ち上がらせた。青江はよろめいたが、すぐにしっかりした腰付きになる。
二階の電話は、隣りの本当の寝室のほうに置いてあった。こっちのほうには、ツウィン・べッドが置かれている。
ダイアルを廻す青江の表情も、しばらくして、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に電話に出た女中の家人に、
「あ……夜分済みません。おそれ入りますが、安子君を呼んでください――」
と言う声も浮き浮きとしていた。青江のような異常性欲者は、適合する相手と変態行為にふけることが出来ることがよほどの楽しみらしい。
安子という女中に、若林に命じられた通りの内容を言った青江は、節子という女中の家にも電話した。
その間に、黒須は建物のなかに侵入するときガラス切りで破った窓ガラスを庭に捨ててきた。
青江は、節子にも電話を終えた。戻ってきた黒須と見張っていた若林は、青江に財布や運転免許証や鍵束などを身につけさせた。
一行は庭にあるガレージに入った。そこには、青江のポンティアック・グランプリと、幸子のヴォルヴォ一八〇〇Sがある。
「大した|稼《かせ》ぎようだな、あんたは? まともに税金を払ってるのかい?」
黒須が覆面の下で唇を歪めた。
「そ、そんなことは関係ないでしょう」
青江は呟いた。ポンティアックのトランク室に、腰のズック袋から出したロープや|猿《さる》グツワで縛った青江を入れる。もともとアメ車はスプリングが柔かい上に、トランク・ルームの床には、ヴォルヴォの後部座席から外した、スプリング付きのシート・クッションを敷いておいたから、青江の体は痛まないであろう。
青江が借りている八王子の倉庫の正確な場所は、すでに聞きだしてあった。若林と黒須は、狼の顔を形どった覆面を脱ぎ、ポンティアックに乗りこむ。若林が運転した。
車のトランクのなかというものは、案外に通気がいいものだ。その証拠に、内部温度が非常に高まる夏でさえなかったら、猟犬も半日やそこらトランクに入れて運んでも、そうバテるようなことはない。そのかわり、客席の音は、後部座席の背もたれと車体との隙間を通じてトランク・ルームにはよく聞えるから、若林たちは余計な口はきかなかった。
八王子と横浜を結ぶ国道一六号――進駐軍時代の名ごりで、行政道路と呼ばれることもある東京環状線――を、若林はスムーズに速くポンテを走らせた。深夜だ。
町田の横を抜け、御殿峠をくだって八王子の街に入っていく。目ざす倉庫は、中央高速道のインターチェンジから車で二分ほどの|畠《はたけ》のなかにあった。
低い塀に囲まれた三万坪ほどの敷地のなかに、窓がほとんど無い倉庫が百|棟《むね》ほど建っている。
その倉庫の一郭の横側に来たとき、若林は車を停め、再び覆面をかぶってトランクの|蓋《ふた》を開いた。
青江のロープや猿グツワを解き、
「降りてくれ。体は痛くなかったろう」
と、言う。
「心細かった」
青江はトランク・ルームから降りた。
「もうジタバタしないだろうが、一応警告しておく。俺たちの素顔を決して見るなよ。こいつの鉛をくらいたくなかったらな」
若林は、消音器付きのベレッタ・ルーガーの三十二口径自動拳銃を示した。
「分っている。うしろを振り向いたりはしない」
青江は言った。無意識にであろうが、トランク・ルームの蓋を閉じる。
やはり覆面をつけた黒須は、後部座席に移っていた。衝撃脱離式のバック・ミラーを平手で叩いて外してパーセル・ボックスに入れ、サイド・ミラーには、畠の土をなすってあった。
青江を運転席に坐らせた若林は、うしろのシートに黒須と並んで坐った。二人は覆面を外し、ズック袋も腰から外して床に置いた。
「じゃあ、しっかり頼むぜ。そうだ、ドイツ娘の名前を教えておこう。エルザというんだ」
若林は青江に言った。
「エルザちゃん、ですね」
青江は含み笑いをした。ポンテをスタートさせる。オートマチック・ミッションだから発進はスムーズそのものだ。
ポンテは、夜も開いているかわりにコンクリートの土台がついた移動式の“一時停止”の標識が出た正門に近づいた。
正門の左横に守衛の詰所があり、二人の夜勤の守衛が将棋を差していた。二人とも、警察か自衛隊を停年退職した感じの六十男であった。
ポンテは標識の前で停まった。二人の守衛が出てきた。
「これは、これは所長さん。夜中なのに大変ですね」
一人が愛想笑いを浮かべて言った。
「急に必要になった資料があってね。うしろの二人は、新入りの所員だ」
青江は言った。
「よろしく」
二人の守衛は若林たちに挙手の礼をした。若林たちは目礼を返した。
「じゃあ、鍵を借りるよ」
青江は開いた車窓から手を突きだした。
「ちょっと待ってください」
守衛の一人が、詰所から十五号倉庫B扉と書かれた木札がついた大きな鍵を持ってきた。それを受け取った青江は、もう一人の守衛が標識を横にどかせると共に、構内に車を乗り入れた。
十五号倉庫は、ほかの倉庫の蔭になって、正門や裏門の守衛の詰所からは見えない位置にあった。長さ五十メーターほどの建物だ。巨大な扉が五つついている。
その倉庫の左から二番目の扉の前で青江は車を停めた。二人を見ないようにして降りる。再び覆面をかぶった若林たちも降りた。
扉の錠を守衛から受け取った鍵で外し、扉の脇のボタンを青江は押した。大きなドアは二つに分れて開いた。
その奥は、五つに分れた部屋の共用のコンクリートの廊下で、手押し車が何台か放りだされてあった。天井は、無論どんなに背が高いトラックでも楽に出入りできる高さがある。
廊下の奥に部屋の扉があった。青江はその錠を、車や家などの鍵束のキーの一つで開いた。
電灯をつける。幅十メーター、奥行き二十メーターほどのその倉庫部屋に、スチール・ロッカーが並んでいた。
ロッカーの一つを若林が試してみると、錠はかかってなかった。そのことについて青江に尋ねてみると、
「他人が盗んだって価値が無いからな。設計図なんて……もっとも、君たちはちがうらしいが……この横なんか神田の出版社が借りて返本を積んであるが、あれだって盗んでも販売ルートを知らないとどうしようもない。販売ルートにゾッキ本として叩き売ったら、誰が盗んだかバレてしまうし。まあ、火災と水害よけだよ」
と、答えた。
各ロッカーの|抽《ひき》|出《だ》しには、記号を書いたラベルが貼ってあった。
青江は立ちどまってちょっとのあいだ考えていた。一番奥の左から三つ目のロッカーを開き、膝の高さの大きな抽出しを開いた。
「やっぱりここだった」
と、呟く。
その抽出しには、大海銀行立川支店の、数百枚に及ぶ詳細な設計図が入っていた。廊下にポンテを突っこませた黒須が廊下から手押し車を押してくる。
その手押し車に設計図は積まれた。廊下に押しだされ、ポンテのトランク・ルームに移された。右側のサイド・ミラーの土が拭われる。
青江が運転し、また覆面を外した若林たちがうしろに乗ったポンテは、守衛たちの挙手の礼に見送られて外に出た。八王子インターから、中央高速を調布に向う。バック・ミラーを外されているので、青江は左側車線をゆっくり走らせた。
だが、深夜なので空いているから、調布に着くまでにあまり時間はかからなかった。
調布で中央道を降りた青江は、
「これから、どこに向ったらいいんだろうか?」
と、尋ねる。
若林と黒須は顔を見合わせた。期せずしてニヤリと笑い、ウインクを交わす。
どうせ青江は死なねばならない運命にあるのだ。だから、青江にチーム・パラダイスの本拠を知られたところで、どうということは無い。
それよりも青江に死の前の倒錯した快楽をたっぷり味わわせてやるのだ。それをサカナに一杯飲むのも一興だ。
「青山に行ってくれ。もう俺たちの顔を見てもいいぜ」
黒須が言った。
マゾヒスト
「待った」
若林が口をはさんだ。
「どうしたんだ?」
黒須が太い|眉《まゆ》を吊りあげた。
「一度町田に戻らないと……俺たちの車を持って帰らなければ」
若林は言った。
「そうだった、そうだった。つい、うっかりしてた。あんたの|妾《めかけ》の家に寄ってくれ」
黒須は、ポンティアック・グランプリのハンドルを握っている青江に言った。
「分りました」
青江は呟いた。
調布から|鶴《つる》|川《かわ》街道に入る。曲りくねった山道を慎重にハンドルを切りながら青江は、
「エルザちゃんのことを、もっとくわしく話してくださいませんでしょうか?」
と、ヨダレを垂らしそうな表情で言った。
若林と黒須は誇張を交えてエルザのことをしゃべり、青江に大きな楽しみを持たせて、交番や警察署に車を横付けされないようにした。
青江はエルザのことを聞きながら、オートマチック・ミッションのために遊んでいる左手で、緊張した自分のものを|弄《もてあそ》んでいた。
やがてポンテは、玉川学園の丘の上にある妾宅に着いた。黒須が青江と共にポンテに残り、塀の外に駐めてあったトヨタ・センチュリーには若林が乗りこむ。
センチュリーが先導する格好になって、二台の車は走りだした。若林は世田谷―町田街道を多摩川の登戸橋の手前の稲田警察署前で右折し、川崎街道を国道二四六の|溝《みぞ》ノ口のほうに向けた。
広い新道が出来ていた。走りやすい。この頃は、世田谷―町田街道は深夜と早朝をのぞいて殺人的な混みかただし、その混雑を避けて甲州街道に逃げたところで結果は同じことだから、町田と東京を往復するときにはこの道を利用しよう、と思う。そうでなければ東名だ。
二四六と交差する近くだけが未完成なので、一度多摩川堤に出てから二子橋を渡る。それからは真っすぐ行けば青山だ。東名と結ぶ首都高速と玉電の地下鉄化工事のせいで夕方はニッチもサッチもいかない玉川通りも、裏通りに逃げなくても、深夜の今の時間だと空ききっていた。途中で若林は桂木に電話を入れ、暗号を使って報告する。
センチュリーは、青山の石黒ビルの地下駐車場に滑りこんだ。ポンティアックはそれに習ったが、黒須に指図されて、青江は駐車場内に特別に作られているシャッター付きの保管庫のなかにポンテを入れた。
二分後、一行は地下の秘密基地に続く階段を降りていた。青江は興奮で軽く身を震わせながら、
「素晴しい。都心にこんなところがあったとは……」
と、|呻《うめ》くようにくり返している。
幾つもの|鉄《てっ》|扉《ぴ》を通り抜け、居住区に入る。そのなかの食堂で桂木たちが待っていた。
「いらっしゃい。お待ちしてましたよ」
桂木は青江に笑顔を向けた。
「エ、エルザは?」
青江は上ずった声を出した。
「そう、ガツガツしないでも、ちゃんと世話して差しあげますよ。その前に、まず一杯どうです?」
桂木はにこやかに言った。
「コニャックをもらいましょう。年がいもなく、取り乱してしまってお恥ずかしい」
青江は恐縮した。
美男の狩野が、ナポレオンのコニャックの|壜《びん》と、分厚く切ったフォア・グラ数枚を乗せた皿を持ってきた。着席した青江の前に置く。
桂木たちは、すでに食前酒のカクテルを飲みはじめていた。若林は、キャンヴァス・シートに包んで背負ってきた大海銀行立川支店の設計図を桂木の前に置いた。
「有り難う――」
立ち上がった桂木は若林と黒須に軽く頭をさげ、キャンヴァス・シートの包みを解くと、
「分らないところがあったら教えていただきますからね」
と、青江に|猫《ねこ》|撫《な》で声を出す。
青江は、残っている理性を|麻《ま》|痺《ひ》させようとしてか、コニャックを早いピッチで飲みまくっていた。アルコールで|喉《のど》が痛むと、フォア・グラを食って喉を柔らげる。
チューリップ・グラスにたっぷり三杯のコニャックを飲むと、青江はそれをまわしてきた。
「じゃあ、ご案内しましょうかな」
桂木が言った。
若林と黒須は、地下の私室に武器を置いてくる。青江を取り囲むようにした一行は、地下三階のサロンの横の小部屋――と、言っても二十畳ほどの広さがある洋室だが――に青江を連れこむ。
一面が鏡張りのその部屋には、床には分厚い|絨毯《じゅうたん》が敷かれ、特大のダブル・ベッドが置かれてあった。食料と飲み物が詰められた大きな冷蔵庫がある。そして、洋式便器が置かれたバス・ルームには、ドアがついてなかった。
正岡がサロンから、ドイツ娘のエルザを連れてきた。
白い炎をあげて燃えたつようなプラチナ・ブロンドのエルザは、一メーター七十五センチは背丈があった。筋肉質だ。いかにもゲルマンらしい彫りが深い顔付きをしている。
ナチス親衛隊の制帽を頭に乗せたそのエルザは、上半身には何もまとわず、巨大な乳房を誇らしげに突きだしていた。
腰から下には、幅広い革ベルトで締めたナチスの乗馬ズボンをはき、ピカピカ光る長靴をはいている。右手には|鞭《むち》、左手には|革《かわ》|紐《ひも》の束を持っている。
「エルザだ。日本語が分る」
桂木は濁った|瞳《ひとみ》を輝かせた青江に言った。
「早く、早く、二人きりにさせてください」
青江は|膝《ひざ》をついた。
「分ったよ。じゃあ、ごゆっくり」
若林たちはその部屋を出た。ドアに外から|鍵《かぎ》を掛ける。
それから一行は、パンツ一枚の姿になって隣りの大サロン――人工の芝生と池と雑木林のハーレム――に入った。待ち構えていた世界の各人種の二十人近い奴隷の娘たちが、|嬌声《きょうせい》をあげて走り寄ってきた。池のほとりでは、すでに丸焼きの|仔《こ》|牛《うし》が、かぐわしい匂いをたてて|脂《あぶら》をしたたらせている。
「まあ、待て、待て――」
桂木がニヤニヤ笑いながら娘たちに言った。
「これから、面白いショーを見せてやる。演技ではない本物のショーだ」
と、サロンの右側の壁のほうに歩いた。
人工の雑木林に隠された形になったその壁は|岩《いわ》|肌《はだ》を模したものであった。桂木が壁についたボタンを押すと、左右十メーターほどの幅に壁が油圧で開かれた。
そのあとにガラスが姿を現わした。ガラスの向うは、青江とエルザが入っている部屋だ。青江がもがくようにして服を脱いでいるところであった。
娘たちが生ツバを飲む音が聞えた。桂木は若林に、
「向うの部屋の、こっち側の壁が鏡張りになっていたろう。精巧なマジック・ミラーなんだ。分厚いから、こっちの音は向うに聞えない」
と、説明し、もう一つのスウィッチを入れる。
隠しマイクで、青江とエルザの部屋の音が聞えてきた。桂木は娘たちに、
「早く酒と料理を持ってこい。そうでないと、いいとこが見られなくなるぜ」
と、言って雑木林のなかに坐りこむ。
娘たちは走った。桂木はマリファナ・タバコを詰めた木箱を開き、若林たちに数本ずつ配る。箱には、娘たち用に、まだ数十本が残っている。
マジック・ミラーの向うでは、|肋《ろっ》|骨《こつ》が浮いた貧弱な体に不似合いな馬なみのものを怒張させた青江が、誇らしげに立ったエルザの前で|蹲《ひざまず》き、
「ああ、女王様、どのようにすれば、この|下僕《 しもべ》が女王様を満足させて差しあげることが出来るでしょうか?」
と、手を合わせている。
「|穢《きたな》らしい。寄るな!」
エルザはべッドに革紐を放りだすと、長靴で床を鳴らして|威《い》|嚇《かく》しながら、右手の鞭を振りあげた。
「お許しください、お許しを……」
技巧的な悲鳴をあげながら、青江は|叱《しか》られた犬のように仰向けに転がった。犬そっくりに手足を縮める。ちがうのは、エルザの振りあげた右腕の|腋《わき》の下の|豊饒《ほうじょう》な金色の毛を、ヨダレを垂らさんばかりの表情で盗み見ていることだ。
若林たちは、マリファナ・タバコを吸いながらそれを見物していた。娘たちが、酒や|炙《あぶ》り肉などを持って、急いで戻ってくる。男たちに寄りそって坐った。桂木が彼女たちにもマリファナを配る。
マジック・ミラーの向うでは、エルザに鞭打たれながら、青江が悦楽の声をあげていた。
「乗馬ズボンを脱いで、神聖な奥どころを、この下僕の舌で、もっと清めさせてください」
と、哀願する。
「ならぬ!」
エルザは鋭いヒールがついた長靴で|這《は》いながら逃げる青江を踏みにじりはじめた。それがマゾヒストの青江にとっては、とてつもないほどの快楽であるようであった。潜在していたサディストの本性を呼びさまされたエルザのほうも夢中になっていく。
桂木たちは、マリファナを吸い、アルコールを飲み、炙り肉をくらい、両側に付いた女たちを指でからかいながら見物を続けた。それだけでなく、膝に抱えた女を背後から攻めている。
若林は、左手に中国娘のアイリーン、右手にパリ娘のフランシーヌをからかいながら、膝のあいだにエチオピア・ニグロのカーラを潜めていた。
カーラの女性は、腰を使わなくても、それ自体が別個の生き物のように|蠕《ぜん》|動《どう》し収縮をくり返す。カーラは縮れた頭をのけぞらせ、ピンク色に濡れた口を開いてすすり泣く。
マジック・ミラーの向うでは、我慢できなくなった青江が、何度も何度も殴られたり突き飛ばされたりしながら、エルザの乗馬ズボンのベルトを外すのに成功した。
エルザはべッドに腰を降ろした。その脚に抱きついた青江は、長靴を|舐《な》めまわす。
「ビールを持っておいで」
エルザは青江に命じた。
「承知しました、女王様」
青江は冷蔵庫から数本のビールを持ってきた。
エルザは、ゆっくりと両方の長靴を脱いだ。左右の長靴に一本ずつビールを注ぎ、
「さあ、お飲み。そしたら、望みをかなえてあげよう」
と、命じる。
「ああ、何たる幸せ」
青江は|嬉《き》|々《き》として二つの長靴のビールを飲み干した。エルザも、尿意をもよおさせるためか、あるいは興奮で喉がカラカラになったためか、ビールを|壜《びん》からラッパ飲みする。
「どうか、どうか……」
両方の長靴を空にした青江は、エルザの素足の指をしゃぶりながら|喘《あえ》いだ。
「望みをかなえてやろう」
エルザは立ち上がった。乗馬ズボンを脱ぐ。その下には、何もはいていない。|剥《む》きだしにされた金毛も|豊饒《ほうじょう》だ。|股《また》のあたりまで、体液で濡れ光っていた。
「…………」
悲鳴のような喜びの声をたてた青江は、床の上に再び寝転がった。
エルザは、ゆっくりと長靴をはき、再び|鞭《むち》を握った。
「またがって……それから聖水を!」
青江は喘いだ。
エルザは、仰向けになった青江の顔を長靴ではさむようにして立った。青江は見つめながら、したたり落ちるエルザのエキスを舐めた。もう、暴発寸前だ。
エルザはゆっくりとまたがった。青江の顔に黄金水をほとばしらせる。それを夢中で飲みながら青江は暴発した……。
ぐったりとなった青江の|肛《こう》|門《もん》にビール壜を突きたてて刺激したエルザは、次から次に、文字にするのをはばかられる方法で青江を責め抜いた。無論、浣腸液も冷蔵車から持ちだす。
朝方近くまでそれを見物しながら娘たちと交わった若林たちは眠りこむ。接しても漏らさなかった桂木だけが起きていて、午前十時がくると、グロッキーになっている青江を食堂に連れていき、
「さあ、この二つの現金書留に、女中二人の住所と名前を書いてくれ。それから、あんたの設計事務所に電話を入れて、急用ができて、これからヨーロッパに飛ぶ。いまは、羽田で、まさに飛行機に乗りこもうとする寸前だ。一と月ほどしたら、向うの大きな国際会議会館の設計の契約をとってくることになっているが、ほかの連中に知られたら、ヤッカミから妨害を受けるかも分らぬから、内緒にしておいてくれ……と言うんだ」
と、青江に命じる。テーブルには、羽田の騒音を録音したテープとレコードまで用意してあった。
骨抜きになった青江は、命じられた通りにした。
部屋に戻ると、眠っているエルザの下腹に鼻を埋めて眠りこむ。
翌日、桂木は大海銀行立川支店の設計図で、専門的すぎてよく分らぬ個所を青江に説明を求めた。
その夜も青江はエルザと痴戯にふけった。しかし、その夜のエルザは、青江を責め殺すようにと、ひそかに命じられていた。
全身を革紐で縛られ、マジック・ミラーの向うで桂木たちが覗いているとも知らずに悦楽の声をあげていた青江は、エルザが本気になって鞭を叩きつけてくるのを知って、恐怖の悲鳴を絞りだした。
「助けてくれ! やめてくれ。ヘルプ、ヘルプ!」
とわめきながら、芋虫のように転がって逃れようとする。
しかし、大柄で筋肉質のエルザは、並みの男よりも力が強かった。金髪の赤鬼のような|形相《ぎょうそう》になると、途方もなく興奮してしたたらせながら鞭を振るい続ける。前日までとちがって、その鞭には幾つもの結び目がつけられていた。
たちまち青江の皮膚が裂け、肉が破れた。血まみれになった青江の顔を続けざまに殴打すると両眼は|潰《つぶ》れた。
二時間後に青江は死んだ。坐りこんだエルザは、肩で|喘《あえ》ぎながらビール|壜《びん》で自分を鎮めようとした。その様子を見ていた大広間の娘たちは、気が狂ったようになって男たちに迫ってきた。
エーテル
青江の死体は、|小《こ》|網《あ》|代《じろ》をホーム・ポートにしている若林のクルーザー“ディアボロ”に運びこまれた。
死体と一緒に、ガソリン・エンジンを動力とするディスポーザーも積みこまれた。クルーザーに乗ったのは、若林と黒須と正岡だ。
朝早く出港したクルーザーは、強い波と風に|揉《も》まれながら、翌日の昼頃には、三宅島の東方百キロほどの海上に出ていた。
そこで、タックを繰り返しながら同じ場所を廻って、風波が鎮まるのを待つ。
三時頃になって一時的に海は|凪《な》いだ。
パンツ一枚になった若林たちは帆を|縮め《 リーフ》ると、ドッグ・ハウス上に予備の救命ボートをふくらませる。素っ裸の死体を、その救命ボートのなかで、ハンティング・ナイフとナタを使って大ざっぱにバラした。
救命ボートのなかには、おびただしい血が溜った。男たちはサイド・デッキにディスポーザーを据えつけ、そのエンジンを掛ける。
ディスポーザーに、バラした死体を次々に放りこんだ。鋭いディスポーザーの歯は、死体の肉だけでなく骨も|挽《ひ》き砕いて海のなかに吐きだした。
若林たちは、死体処理を終えると、ディスポーザーを海に捨てた。血が溜った救命ボートにガソリンを注いで海に降ろし、火をつけた発煙筒を何本も投げこんだ。
海上を漂うゴムの救命ボートのガソリンに火が移る。三十分後、そのボートは焼けただれ沈んでいった。
血に染まったパンツを捨て、ポリタンクの水で体を洗った若林たちはコーデュロイのズボンをはき、タートル・ネックのスウェーターをつけると、キャビンのなかでスコッチをラッパ飲みした……。
それから一と月近くがたった。十二月に入っている。
大海銀行立川支店は、市内の|曙《あけぼの》町一丁目にある。立川駅から所沢のほうに向う道路と、基地の南側を通って青梅のほうに向う道路が交差する近くにあった。
基地の近くの繁華街だ。しかし、銀行の南側の通路はグリーン・ベルトが市営の無料駐車場になっているので、車で来た客も、銀行の専用駐車場が満車になっていても、駐車場所に困るようなことはない。
十二月六日、土曜日。その日は空っ風が吹きまくっていた。
大海銀行立川支店から五百メーターほど離れた、基地の飛行場寄りのところに、桂木が犯行用に用意した家がある。
建物は安物だが地所は三百坪ほどある。その庭には大きなガレージがあった。土曜、桂木を頭とするチーム・パラダイスの面々は、その家の居間で、思い思いの格好で体を休めていた。
狩野の姿だけが見えないのは、銀行の向いにある喫茶店で、本店の現金輸送車の到着を見張っているのだ。
男たちは緊張していた。口が重い。アルコールは避け、コーヒーを飲んでいた。ときどき、電話の受話器のほうに視線を光らせる。
電話が鳴ったのは、もうあたりが薄暗くなった四時半頃であった。桂木が素早く受話器を取り上げる。
「分った――」
と言って電話を切ると、若林たちに、
「狩野からだ。現送車が着いたそうだ。いつもの定期便のライトヴァンでなく、アルミ・パネルの荷台がついたトラックだそうだ」
と報告する。
「じゃあ、やっぱしボーナスを運んで来たんですな?」
正岡が呟いた。
「そういうことだろう。五十億か百億か……明日が楽しみだな」
黒須が言った。
それから二時間ほどして狩野が戻ってきた。
「支店長をはじめ、行員たちは夜勤の守衛を残してみんな帰った。銀行に残っているのは、守衛とプロのガードマン連中だけになったわけだ」
と、報告する。
桂木が食事をテーブルに置いた。食事といっても乾し肉と水だけだ。銀行にもぐりこんだら、明日の十時過ぎまで大便の要求をこらえないとならぬから、植物性の繊維物はみんな昨日から食ってない。
午後八時、一同はシャッターが降りたガレージに、地下のトンネルを通って移った。
広いガレージの左側に三台の車が駐められてある。一台は、アルミ・パネルの荷台を持った四トントラックだ。
右側の棚に、ウエット・スーツや酸素ラングの潜水具、それに薄いゴムの手袋などが並んでいた。
桂木をのぞく四人の男たちは、素っ裸になり、それぞれが両面スキンのセパレート式ウエットのスーツをつけた。ただし、足にヒレはつけずに、ゴム長靴をはく。
それから、レギュレーターとマウス・ピースがパイプでつながった十二リッター・シングルの酸素ボンベを背負う。
だが、彼等が背負ったボンベはただ外から見たのではダブルだ。もう一本のボンベのなかには麻酔用のエーテルが詰まっている。
若林たちは、ウエイト・ベルトを締める腰の上の位置に、幅広な革ベルトをつけた。その革ベルトにフックで、消音器をつけた拳銃、それに大きなズック袋を吊るす。手には薄いゴム手袋をつける。
「じゃあ、しっかり頼んだぜ。出発前に、もう一度時計を合わせてみよう」
桂木は腕時計をはめた左手首を皆の前に突きだした。
皆は腕時計の秒針まで合わせた。強化ガラスが前についたマスクをつける。まだマウス・ピースはくわえない。
桂木がテコを使い、|足《あし》|許《もと》にある百キロの|鉄《てつ》|蓋《ぶた》を持ちあげて横にずらせた。
黒須を先頭にし、蓋が開いたマンホールのなかにもぐりこんだ。長靴をはいた桂木もだ。
マンホールは、垂直にでなく斜めに掘られてあった。だから、歩きながら降りることが出来る。
降りたところで、横に向ってゆるい下りのトンネルになっている。高さは二メーターほどだから、立って歩ける。先頭の黒須は懐中電灯で照らしていた。
そこを五メーターほど歩くと、|煉《れん》|瓦《が》壁にぶつかった。その壁のなかの縦横一メーターほどの部分には、一つ一つの煉瓦に金環が差しこまれてあった。
黒須はゴム手袋の上に軍手をつけ、真ん中の煉瓦を引き抜いてトンネルの床に置いた。次々にほかの煉瓦も引き抜いていく。下水の流れる音が聞えた。
煉瓦壁に一メーター四方の穴があいた。黒須はこちら向きになり、トンネルに|腹《はら》|這《ば》いになると、足から先にその穴の向うに降りた。若林たちも続く。
下水道であった。高さ三メーター、幅四メーターほどの立派なものだ。下水の水深は十センチほどであった。
立川空軍基地から多摩川の横のドブ川に汚水を捨てるために作られた下水道だ。底から一メーターほどの高さまではコンクリート壁で、そこから上は煉瓦壁になっていた。
そのなかを歩いていくと、ところどころで、下水管や支流から汚水が流れ落ちていた。今は、日本人も、この下水道を利用できるのだ。
五百メーターほど歩いたところで、黒須は右側についた支流を登った。支流は、高さは二メーターほどだが、幅は一メーターそこそこだ。無論、若林たちは黒須に続く。
その支流を三十メーターほど行くと、左側に土の肌が|剥《む》きだしになったトンネルが掘られてあった。
若林たちが掘ったものだ。高さも幅も一メーターぐらいだ。一行は、這ってそのトンネルを進む。
十五メーターほどでトンネルは行き止まりになり、そのかわりに高さは一メーター半、広さは三畳ほどになっていた。そして、頑丈な|樫《かし》の木に乗せられた大きなオイル・ジャッキがそのあたりにだけあるコンクリートの天井の一メーター四方の切れ目のなかの部分を支えるような格好をしている。
中腰になった若林は、ボンベやマスクなどを外し、ジャッキのクランクを廻しはじめた。たっぷりグリースを|効《き》かせてあるので、摩擦音をたてない。
ジャッキの心棒はのび、天井の一メーター四方ほどの部分がまわりから離れて持ちあげられていった。鈍い光りが漏れてくる。
そのコンクリートが一メーター半ほど持ちあがったところで若林はジャッキのクランクから手を外した。
男たちは、一度台に乗ってから、頭上の空間を通って天井に這いあがる。
しかし、それは天井ではなかった。大海銀行立川支店の建物の地下二階の、滅多に使われることは無い資料室の床なのだ。桂木だけが登ってこなかった。下から手をのばして、若林たちと無言で握手を交わす。それからジャッキを静かに下げていく。空間はふさがった。
資料室は二十畳ほどの広さであった。ロッカーが数列並んでいる。ドアの|隙《すき》|間《ま》から、廊下の光りが漏れていた。
若林たちは腰から外したズック袋を|枕《まくら》にして寝転んだ。断熱効果が大きく保温力が強いスポンジ状のネオプレーンが材質であるウエット・スーツをつけていると、冷たいコンクリートの床の上にじかに寝転んでも寒くはなかった。
男たちは、タバコを吸いたい欲望をこらえながらそこで夜を明かした。ガードマンたちがほぼ二時間置きに廊下をパトロールするが、資料室の扉を開くことはなかった。
夜明け前の一番眠たい時間は|辛《つら》かった。眠りこんでイビキでもかいたのでは、これまでに準備にかけた時間と労働が|無《む》|駄《だ》になってしまうから、若林たちは監視しあって、誰も眠りこまないようにした。
地下なので光りの変化からは分らないが、時計の上では夜明けがきた。
男たちは、ズック袋から取り出したスポンジに小便を吸いこませ、匂いが発散しないようにそいつをビニール袋で包む。
八時半を過ぎると廊下が活気づいてきた。地下二階には更衣室もあるのだ。
九時半、若林たちは行動にそなえて身仕度する。寝転ぶために外してあった酸素とエーテルのボンベを再び背負い、小便を吸わせたスポンジを包んだビニール袋をズック袋に仕舞う。ズック袋は再び腰に吊った。
潜水用のマスクを再びつけ、いつでもマウス・ピースをくわえられるようにした。そして十時ジャストに、黒須が、すでに桂木が作ってあった合鍵で資料室のドアを細目に開いた。
男たちは地下二階の廊下に出た。隣りのセントラル・ヒーティングのオイル・ヒーター・ルームに入り、巨大なヒーターの炎を止める。それからマウス・ピースをくわえて酸素ラング呼吸に切り替えると、麻酔エーテルのボンベの弁を開いた。銀行と警察署を結んだ非常ベルの電線や電話線は、九時五十分から十時までのあいだに、電気工夫に化けた桂木が切断してある筈だ。
シューシューと音をたてて放出されるエーテルの音を聞きつけたガードマン二人が、大金庫室がある地下一階から駆け降りてきた。
だが彼等は、階段を降りきったとき、すでに麻酔エーテルに酔って意識が|朦《もう》|朧《ろう》としていた。泳ぐように両手を振り、上体をゆらめかせて四、五歩地下二階の廊下を歩くと、ゆっくりと崩れ折れる。仰向けに転がり、イビキをかきはじめた。
若林達はエーテルのボンベのヴァルヴを開いたまま地下一階に登っていった。
地下一階の大金庫の大きな円型の金属製の扉は開けっ放しになっていた。大金庫室と廊下をはさんだ三つの大部屋では、銀行員が手伝い、明治特殊機工とパブリック電気と昭和自動車の経理部員たちが、社の従業員のボーナスを、それぞれの封筒に仕分けしていた。一部屋につき、四人ずつの、東洋警備のガードマンたちが戸口に立っている。
しかし、銀行の建物じゅうに充満しはじめた麻酔エーテルの気化物を吸って、地下一階の連中もフラフラしていた。
若林たちが近づくと、ガードマンたちは襲いかかろうという動作を見せはしたが、すぐに崩れ折れる。
行員や三社の経理部員たちも、次々に倒れはじめた。黒須たち三人をそこに残し、若林は一階に登った。
一階には、支店長と銀行側の守衛と、三つの会社の運転手と現金輸送車の運転手がいたが、彼等も眠りこけていた。背中から外したエーテルのボンベを床に置き、若林は腰のズック袋から取り出したロープで、支店長たちを縛った。
裏の通用口を開いて、構内の駐車場に出た。そこには三台の現金輸送車と、行員たちが乗ってきた私物の車、三つの会社の車、それに銀行の公用車など三十台以上が|駐《と》まっている。
若林は通用門に向けて歩いた。銀行の駐車場は塀に囲まれているし、そこを見おろす格好になっている隣りのビルは日曜で無人だから、若林は落ち着いて行動できた。
車輛用の通用門の錠を、守衛から奪った鍵で解いた。その門を細目に開く。
三分ほど待ったとき、桂木が運転する四トン積みの、アルミ・パネルのトラックが近づいてきた。
桂木はハンティングを|目《ま》|深《ぶか》にかぶり、サン・グラスを掛け、大きなマスクをつけ、マフラーを頬の高さにまで捲いて顔を隠していた。
若林は門を開く。桂木が運転するトラックが構内に入ってくると、素早く門を閉じ、鍵を掛ける。
建物の通用口にトラックを寄せるだけの通路は空いていた。建物から漏れたエーテルでクラッときたらしく、桂木は運転台で、あわてて潜水用のマスクをつけ、酸素ボンベを背負ってマウス・ピースをくわえる。
その桂木にオーケイのサインを出し、若林は建物のなかに戻った。地下一階に降りる。
黒須たちは、銀行内の現金運搬用の手押し車に、現ナマを積みこんでいるところであった。五台の手押し車の荷台からたちまち札束があふれる。
結局、五台の手押し車で二十往復しないことには、現ナマも桂木が運転してきたトラックのアルミ・パネルの荷台に積み終ることは出来なかった。
全部が一万円というわけではなく、五千円札、千円札、五百円札、それに百円札も多いからだ。
硬貨は重いので奪わない。遺留品を残さないように気をつけ、若林たちは紙幣の山が積まれたトラックの荷台にもぐりこんだ。桂木は通用門のところまで来て、はじめて酸素ラングを外し、来るときと同じようにして顔を隠す。
ニュース
アルミ・パネルの荷台を持った四トン積みトラックから降りた桂木は、銀行の通用門を細目に開いた。
まだ夕食の用意の買い物の時間ではないので、外の通りにはあまり人影は無かった。銀行の建物のなかの麻酔エーテルは、建物の最上階にたまっているのか、あるいは換気孔を通って空に消えていっているのか、通りを歩く人々がエーテルに酔ったような気配はない。
桂木は大きく通用門を開いて四トントラックを表に出した。誰も注目している者はいないようだ。門を閉じてから、桂木は再びトラックを動かす。
交通パトカーに捕まらないように、それかと言ってあんまりノロノロして、ほかの車のドライヴァーに、邪魔なトラックであったと記憶されないように、桂木は交通の流れを乱さないスピードで走った。追いこしたがる車をフェンダー・ミラーでとらえると、すぐに左に寄る。
基地の正面ゲートの前で右折し、米兵向けのバーが尽きると官庁の建物と自動車の代理店が並んでいる|錦《にしき》大通りを甲州街道の日野橋ロータリーに向う。
甲州街道を通った四トントラックは、料金所で係員に桂木の顔を見られないように中央高速道を避け、都心のほうに向う。
日曜の昼間だし、上りなので、いつもは車があふれんばかりの甲州街道も空いている。桂木はダッシュ・ボードの下に|据《す》え、短波の波長を警視庁のパトカー指令室のものに合わせて無線機のスウィッチを入れているが、大海銀行立川支店に事件が発生した、という交信はまだ聞えない。
四トントラックが着いたのは、青山の表参道に面した石黒ビルの前であった。日曜なので、ガレージの入り口のシャッターは閉じている。
桂木は、助手席に置いてあったリモコンのスウィッチを入れ、トラックに乗ったままガレージのシャッターを電動で開いた。
営業用のライトヴァン十数台と桂木たちの私用車数台が|駐《と》まっている地下の広いガレージで、やはり運転台に乗ったまま、リモコンでシャッターを閉じる。
アルミ・パネルの荷台のテール・ゲートが開き、作業服に着替えた若林たちが跳び降りた。
若林は、ガレージのなかで特に壁とシャッターで仕切られている駐車スペースのシャッターを開く。四トントラックは、そのなかにゆっくりと入ってくる。
幾つも幾つものキャンヴァス袋に詰められてあったおびただしい紙幣を、深い地下基地に運ぶのが一仕事であった。
紙幣は基地の食堂の床の上で数えられはじめた。ビルの屋上に立てたアンテナにつないだ無線機が、警視庁一斉指令室とパトカーのあいだの交信を傍受している。
「こちら一斉指令室――」
と、無線機のスピーカーがわめきたてたのは、紙幣を数えはじめてから三十分ほどたってからであった。
「全パトカーに告げる。大海銀行立川支店が襲われ、約九十億の紙幣が奪われるという事件が発生した。北多摩地方を|警《けい》|邏《ら》中のパトカーは、ただちに現場に急行せよ。ほかのパトカーは、各署と協力して、主要街道に非常線を張り、検問を実施してもらいたい。犯人たちが逃走に使った車種やプレート・ナンバーはまだ判明しない。少々の人権侵害行為があってもいいから、通行中の車をすべて停車させて徹底的に調べてもらいたい。どうぞ」
「了解。警視××号車。ただちに現場に急行します」
「了解。警視×号車。ただちに所轄署に急行します」
興奮した応答が飛び|交《か》った。
「やっと分ったんだな――」
桂木が上|機《き》|嫌《げん》な笑いを浮かべながら言った。
「ここまで俺たちがたどり着いた以上はもう大丈夫だ。遺留品を残さなかったろうな?」
「その心配はない。それより、四トントラックのナンバー・プレートを別のに付け替えたほうがいいんじゃないかな」
黒須が言った。
「どうせ盗んだ車だ。下手にナンバー・プレートを付け替えるよりも、バラバラに分解してこの地下に運び降ろそう」
若林が言った。
「賛成だな。それに、私たちが|頂戴《ちょうだい》した金がいくらかは、いまここで一々数えなくとも、銀行が発表してくれる」
桂木が言った。
一同は、数えかけのおびただしい紙幣をそのままにし、四トントラックを隠した先ほどの駐車スペースに戻った。手押し車に、さまざまな工具を乗せてだ。
その四トントラックの無線機のアースを屋上のアンテナからつながっているアースとつなぎ、警視庁の動きを教えてもらいながら、男たちは電動カッターや電動スパナーなどを使って、四トントラックを裸シャシーにしていく。運転台やアルミ・パネルの荷台などは電気ノコギリや酸素溶接器などで切り刻んで基地に運びこむ。
シャシーを切断したり、エンジンやミッションなどを五人で運べる重さに切り分けたりする作業は骨が折れた。
しかし、夜の十時頃には、コンクリートの床に落ちているオイルや軽油の洗い残りをのぞいて、そこに四トントラックがあった形跡は消滅した。
男たちは、無線機だけでなく、トランジスター・ラジオやTVも使って、一般向けの放送も視聴していた。
街は大騒ぎになっているらしい。検問でどの街道も身動きがとれなくなっているのは当然として、すべての局が、ニュースだけでなく、座談会や街頭インタビューなどで大海銀行の事件をひっきりなしに扱っていた。
若林たちが奪った正確な金額が発表されたのは、ハーレムに入る前に一同がシャンペーンで乾杯しているときであった。ラジオの臨時ニュースが、
「……被害額は、九十一億二千七百万円と判明しました。日本においては、史上最大の強盗事件です。なお、犯人たちの目星はいぜんとしてついておりません……」
と、興奮しきったアナウンサーの声を送ってくる。
「ブラボ―!」
「チェリオ!」
若林たちは再びグラスを合わせた。
「そうだ面白いことを考えついた――」
桂木が叫んだ。
「奪った紙幣を、みんなハーレムに運ぼう。紙幣の山の上で娘たちと交わるんだ」
「悪趣味だが、たまには変った楽しみもまんざらじゃない。今夜は、何と言ってもお祝いだからな」
若林は言った。五台の手押し車で、奪ってきたすべての紙幣は地下基地の三階にあるハーレムに何回にも分けて運ばれた。
|饗宴《きょうえん》の準備を終えたあと、すでにマリファナを渡されていたハーレムの娘たちは酔っていた。若林たちはトランジスター・TVや、無線機もハーレムに運びこむ。
素っ裸になり、人工の池で体を洗った若林たちは、|仔《こ》|牛《うし》や仔豚などが脂をしたたらせている|熾《おき》|火《び》を囲んで坐った。
運びこまれたおびただしい紙幣は、人工の芝生でも、火から相当に離された場所に六畳敷きほどの広さに積まれた。一万円札だけでなく、小額紙幣では百円札まであるから、そんなに|嵩《かさ》ばるのだ。
若林たちは娘たちを指でからかいながら痛飲した。真っ先に酔っ払った狩野が、好色そのもののイタリー娘のアンジェラとスウェーデン娘のイングリッドを両脇に抱えて紙幣の山に倒れこむ。
ほかの男たちも、それぞれ相手と共に倒れこんだ。|炙《あぶ》り|肉《にく》を飽食してスタミナをつけた若林は、あぶれた娘たちに、
「みんな、束になってかかってこい。まとめて面倒見てやるぜ」
と、マリファナ・タバコをくわえたまま不敵な笑いを見せた。娘たちは悲鳴にも似た期待の声をあげ、若林を争って取っくみあいの|喧《けん》|嘩《か》をはじめる。
翌日の昼近くまでに若林は十五人の女を天国に運んでやった。その間に三度しか放出しなかったから体が|保《も》ったようなものだ。六階の私室に戻って眠りこける。
ぐっすり眠ってから食堂に行ってみると、年のせいか二人の娘を相手にしただけで私室に引っこんでいた桂木が、コニャックを|舐《な》め、|煙草《 たばこ》をふかしながらTVを見ていた。
「やあ……黒須たちは?」
冷蔵庫からよく冷えたビールを出しながら若林は尋ねた。
「目覚めては可愛がり、可愛がっては眠り……というとこらしいな」
桂木は答えた。
「その後、捜査のほうは?」
ビールをラッパ飲みしながら若林は尋ねた。強い酒で|痺《しび》れた胃には、ときどきビールやワインのように弱い酒を飲むと、吸収がいいせいか効き目がある。
「捜査状況か? あれから大して進展しているわけではない――」
桂木は答えた。
「ただ、あの銀行と通りをへだてた斜め向いにある文房具屋のオヤジが、犯行があった頃に、銀行から出ていく冷蔵庫のような中型トラックを見た、と証言した。冷蔵庫のような、というのはアルミ・パネルの荷台がついた私たちの車のことだろう。もっともそのオヤジは、ナンバー・プレートも、運転していた者の人相も分らない、と言っている。当り前だろうな。あの通りは幅が四、五十メーターあるから」
「それに、あんたは顔を隠していたからな」
若林は|呟《つぶや》いた。
「いま銀行側の連中や捜査側が一番不思議がっているのは、君たちがどこから忍びこんだのか、と言うことだ」
「じゃあ、地下の資料室の床からとは気付いてないわけですな?」
「そういうわけ……だから、銀行を警備していた二十人近いガードマンたちの何人かが買収されて犯人たち――私たちのことだな――をこっそりと引き入れたのじゃないか、と調べられているらしい」
「そいつはお気の毒だが、こっちには有り難い話だ。しかし、あの資料室が下水道とつながっていることは、そのうちにバレてしまうでしょうな」
一抱えほどあるスモークド・ソーセージをナイフで削って口に運びながら若林は言った。
「その頃には、私の立川の家から例の下水道をつないだトンネルの出入り口はコンクリートでカチカチに固められてしまうさ。トンネルの向うの下水道の隠し扉がわりの|煉《れん》|瓦《が》壁は、速乾性のセメントでトンネル側から塗り固め、その煉瓦は動かないようになっている。うしろにトンネルがあるのでないかと、下水道のほうから叩いて調べてみても、トンネルの下水道寄りのほうは土でふさいであるから大丈夫なんだ」
「――――」
「それに、君たちにはまだ言ってなかったが、ほかにも細工をしてあるんだ」
「ほう?」
若林は|噛《か》むのをちょっとやめた。
「例の下水道が立川米空軍基地につながっていることは君も知っているだろう? もともとはあの下水道は基地の専用だったんだからな」
桂木は、今にも落ちそうになった葉巻の長い灰を見つめながら不敵に微笑した。
「それで?」
「私は下水道を通って基地の下にもぐりこんだ。そして、基地のなかの補給倉庫の底に向けて、もっともらしくそこからトンネルを掘っておいた。倉庫の床には薬品を使って、人が楽にくぐり抜けられるぐらいの穴をあけておいた」
「なかなか、やりますね」
「その倉庫にはボイルド・チキンの|罐《かん》|詰《づ》めが入った大きなダンボール箱が積まれているから、床にあけた穴は倉庫のほうからは見えない。しかし、あの倉庫に出入りできる者が罐詰めのダンボール箱を脇にどかしたら穴は見える。もっとも、トンネル側からならダンボール箱に関係なく、すぐに見えるがね」
桂木は言った。葉巻の灰が落ちる。
「つまり、基地のなかの誰かが、罐詰めのダンボール箱をどかして、その床の穴とトンネルを通って下水道に降りることは不可能でない、と見せかけたんですね」
「そう。捜査の目を基地のほうにそらせるためにな」
「基地の捜査となると、日本の警察は苦労するでしょう」
若林は呟いた。
「|勿《もち》|論《ろん》だ。知っての通りに、私にはそれが|狙《ねら》いなんだ」
「これで、ますます俺たちは安全圏内にいるという実感が|湧《わ》いてきた」
若林は笑った。
そのとき偶然にも、ラジオの臨時ニュースのアナウンサーが、
「九十二億円を強奪された大海銀行立川支店の事件を調べている警視庁特別捜査本部は、銀行の地下二階の資料室のコンクリートの床に隠し|蓋《ぶた》が切ってあるのを発見し、パワー・カッターでその床を掘ったところ、資料室の下にトンネルがつけられていることが分りました。
床を切って作られた隠し蓋は大型のジャッキで支えられており、トンネルは下水道につながっていました。
その下水道をたどっていったところ、別のトンネルを発見し、そのトンネルは立川基地内のK18補給倉庫の中に続いていました。
警視庁は犯人たちは基地で働いている米兵か日本人労務者と断定し、米国関東地区空軍憲兵隊ならびに米国太平洋空軍特別犯罪調査部に共同捜査を申しこみました。
犯人のグループが立川基地に関係があると分った以上、逮捕は時間の問題と見られますが、第一線刑事たちのなかには、これまでの例からして米軍側が全面的に捜査に協力してくれるものかどうかを危ぶむ者もいます。
なお、麻酔エーテルで|昏《こん》|酔《すい》していた銀行関係者は順調に回復しかかっており、一度は絶望と思われていたガードマンの本間伸夫さんも危機を脱しました……」
と、放送する。
|人《ひと》|身《み》|御《ご》|供《くう》
それから四か月が過ぎた。春の|息《い》|吹《ぶ》きが感じられる季節になった。
若林たちチーム・パラダイスの男たちは、週日は新東邦商事に顔を出し、週末はそれぞれの好みのスポーツを楽しみながら、大海銀行立川支店で起した事件の捜査状況をマスコミを通じて知ろうとしていた。
しかし、そのなかでも桂木は、大海銀行立川支店の大口預金者であるから、マスコミによって報道されないことも、行員たちの口から聞き取っていた。
捜査のほうは事件が起きてから二か月ほどで完全にデッド・ロックに乗りあげていた。トンネルの出口が発見された立川基地内のK18補給倉庫の見廻りの衛兵たちはかなり突っこんで調べられたが、犯行に関係しているという証拠は全然|掴《つか》めなかったのだ。
そして皮肉なことに、捜査の副収穫として、彼等が倉庫の警備用に支給されている十二番の散弾銃用のバック・ショット――発砲しても倉庫のなかの品物をなるべく痛めないで済むように、倉庫番の衛兵は、直径八・四ミリの鉛球を九粒詰めたOOバックという|鹿《しか》ダマを使用することになっている。特に火薬庫などだと、貫通力が大きなライフルを使用したら、|庫《な》|内《か》の火薬が爆発する|怖《おそ》れがあるから、絶対に散弾銃でないとならない――の装弾を、みんながグルになって大量に日本の銃砲店に横流ししていたことがバレた。
彼等の顔写真は、一緒に逮捕された買い手の銃砲店主、店主が転売した相手の新宿の暴力団幹部などと一緒にTVや新聞などに出た。
彼等が逮捕されてから三週間後に保釈された、というニュースを聞いたとき、若林は桂木たちに言った。
「こういうのはどうだろう? 保釈で出てきた衛兵の一人を片付け、そいつの死体のまわりに大海銀行から頂戴したうちの紙幣を何十枚か散らばせておくんだ」
「紙幣ナンバーが割れてたら、捜査の連中はそいつが銀行から奪った金の分け前について仲間と一揉めして殺された、と思ってくれるんだが……」
桂木が言った。
「紙幣のナンバーが記録されてなかったのは俺たちにとっては幸運だが、不便なこともあるんだな。頂戴した九十億円以上のうちの一部分だけナンバーが控えられてたら、若林が言った手を使うのに」
黒須が呟いた。
「じゃあ、地面に偽の自供書を書かすんだ」
若林は言った。
「と、言うと?」
「まず、犠牲者の兵隊を見つけることが先決問題だが――」
若林は計画をしゃべった……。
ハワイ生れの日系三世のハロルド・マツダ元空軍少尉は不機嫌であった。元少尉というのは、今は少尉の階級を|剥《はく》|奪《だつ》され新兵扱いにされたからだ。
二十七歳のハロルドは、三世にありがちの国籍不明のような顔を持っていた。頭は角刈りに近いクルー・カットだ。皮膚の色は|黄褐色《おうかっしょく》に近い。
体のほうは米人として中肉中背だが、尻がキュッと持ちあがり、胴は締まって外人的な骨格だ。腹が出たら女にもてない、というわけで、好きなお茶|漬《づ》けを食うのは週に一回だけと決めてあるからだ。毎日ステーキやハンバーグで育ってくると、日本人種の体格も米人に似てくるらしい。
ハロルドの祖父は和歌山県からの移民であった。父の代になってから、働いて働いて働き抜いた|甲《か》|斐《い》があってかなりの大きさの花屋を経営して毎日の金には困らなくなったが、ハロルドは十一人兄妹のうちの二番目の子だから、成人してからは実家から一セントの援助も期待できない。
ホノルルの夜間大学を出たハロルドは空軍を志願した。そして、二年間ハワイの空軍基地で働いたあと、三年前に立川基地に転属になったのだ。給料はその当時で月給に直すと三百ドルぐらいであった。
一ドルは百円ぐらいの価値しかないのに公定は三百六十円だから、国籍は米人であるハロルドにとって日本は天国であった。日本にいる間にガッチリと金をためてハワイに戻ったらアルバイトに父の花屋の支店を出そうと計画したハロルドは、二年前に基地の食料倉庫の衛兵の主任になると共に、部下たちと計って、バック・ショットや拳銃弾を大量に横流しして、給料外の金を作っていたのだ。
だが、バック・ショットの横流しはバレてしまい、やっと保釈で出てくると少尉の階級章ははぎ取られてしまい、今は見習いコックとしてジャガイモの皮|剥《む》きばかしさせられている。
ピストルの実包を横流ししたことも、いつバレるか分らない。ただ救いは、なかが|空《くう》|洞《どう》になって、ねじると首が外れるようになっている仏像のなかに隠してあった、横流しで|儲《もう》けた日本円を発見されなかったことだけだ。
日本円のままにしておいたのは、軍票に替えると、横流し防止のために軍票は時々予告なしにまったく新しいデザインのものに切り替えられ、たった一日のうちに新しい軍票に替えないと今までの軍票は無効になるからだ。
おまけに、交換に持ちこむ軍票が規定額以上だと、一枚一枚サインさせられた上に、それをどうやって誰から手に入れたかが調べられる。
ドルに替えようにも、二百ドル以上は所持が禁じられている。したがって軍の銀行に預けたら、給料以上の預金がどうして出来たのかとあやしまれる。
だからハロルドは、日本を出るときに、隠しておいた日本円を|闇《やみ》ドルに替えて持ちだす予定であった。
しかし憲兵隊や空軍特別犯罪調査部は自分に目をつけているから、帰国の際には徹底的に調べられるだろうし、大体が帰国できるどころでなく、裁判が終ったら――罰金か執行猶予で済む筈だから――ヴェトナムの最前線に送られる可能性が強かった。
したがって、これまで金をためることが一番の生き|甲《が》|斐《い》であったハロルドは、そんな人生に|嫌《いや》|気《け》がさしてきた。
だから、仏像に隠した日本円を持ち出しては、金曜から日曜の夜にかけてハロルドは安キャバレーを飲み歩き、安い女を買っている。
保釈で出てから一と月ほどたった土曜のある夜、ハロルドは所沢のオサワリ・キャバレーで遊び、気に入った女と店内で値段の交渉を済ませた。
その女の源氏名はエミと言った。エミはハロルドに、先に店を出て待っていてくれ、と“ボニー”という終夜営業の喫茶店を教えた。
その店はオサワリ・キャバレーから五百メーターほど離れたところにあった。中古のフォード・フェアレーンを運転したハロルドは、その喫茶店に入る。
薄暗い店内でコーヒーを飲みながら待つ。半時間ほど待ったハロルドは|苛《いら》|々《いら》とした表情で腕時計を|覗《のぞ》いた。
そのハロルドの前にハンサムな男が立った。
「失礼、エミは急にメンスになりましてね。あなたに悪いから、友達のアパートに連れていってくれ、と私に言うんです。エミはその|娘《こ》に話をつけてあるそうです」
と、達者な英語で|囁《ささや》く。チーム・パラダイスの狩野であった。
「君は誰だ?」
ハワイの大学で日本語を習ったので、ハロルドは日本語をかなり正確にしゃべることができるが、自分がアメリカ人であることをほかの席にいる連中に誇示したくて、英語で尋ねた。
「エミのボーイフレンドですがね。アルバイトに、アメリカさんにナイス・ガールを紹介する商売もやってます」
狩野はわざと下品に笑った。
「そうか……で、金は?」
「ご心配なく、エミと同じ料金でいいそうです……こんなところでこういう話はどうも……車で待っていてくれませんか」
狩野は口早に囁いた。
「オーケイ」
ハロルドは席を立った。
狩野は席につき、レモン・スカッシュをボーイに頼んだ。注文の品がくると一気に飲み干す。絹手袋をつけたままであった。
狩野が表に出てハロルドのフォードに近づくと、苛だったハロルドは助手席のドアを大きく開いて、狩野を引きずりこんだ。
「美人か、替りの娘は?」
と尋ねる。
「|勿《もち》|論《ろん》です。エミよりも、顔も体もいい。リエという名です。もし、リエに会ってみて気に入らなかったら、サーヴィスに、タダでもっとほかの|娘《こ》を紹介しましょう」
狩野は言った。
「まあ、いい。ともかく案内してくれ」
ハロルドは乾いた唇を舐めながら言った。
「町外れのアパートに住んでるんです、リエは。私が運転しましょう」
狩野は言った。
「じゃあ」
ハロルドは助手席に体をずらせた。一度車から降りた狩野は、うしろを廻ってから運転席に乗りこんだ。
静かにフォードを発車させる。ハロルドはケントを勧めながら、
「君は|ポン引き《バ イ ラ ー》というわけだな」
と、狩野に言う。
「いや、そうではなく、お客さんと女のあいだにトラブルが起きることを防ぐのを商売にしてるんですよ。日米親善のためにね」
狩野はぬけぬけと言った。
フォードは|入《いる》|間《ま》市のほうに向っていた。町並みを外れると舗装路から外れる。まわりは|畠《はたけ》と雑木林だ。
その地道を少し行くと、狩野はゆっくりブレーキを踏んだ。
「確かこの道の先のアパートだと思ったんだが……」
と、左手でポケットから手帳を取り出した。それを開け、ルームライトをつけて、もっともらしく住所録を見る振りをする。
ハロルドはその手帳を覗きこもうとした。その途端に狩野の右手が|閃《ひらめ》く。右手には、殴打用の凶器ブラック・ジャックが握られていた。
鈍いが重い音をたてて、ブラック・ジャックはハロルドの頭に叩きつけられた。
ハロルドは狩野の右膝の上に突っ伏すようにして|昏《こん》|倒《とう》した。狩野はもう一度殴りつけてからルーム・ランプを消す。
近くの雑木林から二人の男が出てきた。黒須と正岡だ。フォードの後部のシートに乗りこむ。その二人も、指紋を残さないように絹手袋をつけていた。
男たちは待った。待つほどもなく、パッシング・ライトを点滅させて一台のクラウンがフォードのうしろに近づいた。
乗っているのは若林だ。先ほどまで、ハロルドがいたオサワリ・キャバレーでハロルドと背中あわせの席に坐り、ハロルドとエミの交渉を盗み聞きして、かなり離れた席にいた狩野とトイレで他人同士が顔を合わせたような表情を作りながら会い、エミとハロルドのことを狩野に伝えたのだ。
ハロルドがキャバレーを出たあと若林は、エミを指名して自分の席に招き、俺が君と寝たいから、と言ってハロルドの約束をエミがひそかに破るように仕向けた。
エミとしては、金をいくら|貢《みつ》いでも惜しくないほどの魅力がある若林が、寝てくれた上に一万円も払ってくれる、というのでは、ハロルドとの約束のことなんか頭から吹っ飛んでしまった。
エミとキャバレーの裏口近くで落ち合った若林は、しかし、急に大事な用を思いだしたから勘弁してくれ、とエミに一万円札を渡して置いてけぼりにし、|駐《と》めてあったクラウンに乗ってここにやってきたのだ。
そのクラウンは盗品であった。ナンバー・プレートと車検証を偽造品に替えてある。
近づいてきた若林のクラウンに、狩野がハンドルを握ったフォードは、緊急避難用の|四方向指示灯《フォーウェイ・フラッシャー》を五秒間ほど点滅させて、万事オーケイのサインを出した。
フォーウエイ・フラッシャーの点滅をやめたフォードは、今度は活発に走りだす。三十メーターほどの間隔を置いて若林のクラウンがあとを追った。
二台の車は奥多摩に向った。ハロルドが気絶から覚めそうになるごとに、うしろの座席の黒須が上体を乗りだしてブラック・ジャックで殴りつける。
一時間ほどのち、二台の車は小河内ダムから御前山に向う林道に入った。その先には一軒の家もなく、この深夜では、すれちがう車は一台も無い。
二キロほど林道を登ったところに、ちょっとした広場があった。二台の車はそこに駐まった。
黒須たちがハロルドを運び降ろした。林のなかを五、六十メーター歩く。若林も一緒であった。
分厚く積もった落ち葉の上にハロルドは寝かされた。ポケットが調べられる。ハロルドは武器を身につけてなかった。ポケットから取り出された運転免許証や軍籍証明書などは奪われた。
それから、狩野がハロルドの顔や体を|蹴《け》とばしはじめた。|頬《ほお》|骨《ぼね》が砕け、|肋《ろっ》|骨《こつ》がへし折れる音がした。|呻《うめ》き声を漏らしてハロルドが意識を回復した。
「助けてくれ……何をするんだ!」
と、日本語でわめく。発狂しそうな眼付きになっていた。
「|俯《うつ》|向《む》けになれ」
狩野が命じた。
「わたし、あなたに何も悪いことしてない! どうして、わたしをこんなひどい目にあわせる!」
ハロルドは|喘《あえ》いだ。
「言われた通りにしないと殺す」
若林がショルダー・ホルスターから、二十二口径のハイスタンダード・スーパーマチックを抜いた。照星を削り落したその銃身にジュースの罐ほどある消音器を|捩《ね》じ付ける。
「やめてくれ!」
ハロルドは思わず慣れた米語で叫んだが、恐怖に|痺《しび》れたように動けない。
若林は、そのハロルドの左の|耳《みみ》|朶《たぶ》を|射《う》ち抜いた。広々とした林のなかでは、消音器に殺された銃声は実に小さい。
悲鳴をあげたハロルドは、|呪《じゅ》|縛《ばく》から解かれたように俯向けになった。耳から血がしたたり落ちる。
「さあ、|這《は》うんだ。|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に落ち葉を|掻《か》き乱しながらな」
若林は命じた。
偵 察
ハロルド・マツダは、落ち葉が重なった地面を必死に這った。犬のように舌を突きだして|喘《あえ》いでいる。
若林たちは、そのハロルドの斜めうしろを付いて歩いた。ハロルドの耳朶から垂れる血が、掻き乱された落ち葉にしたたり落ちる。
百メーターほどハロルドが這ったところで、若林は、
「よし、そこでストップしろ」
と、命じた。
「射たないで……射たないでくれ……理由も分らずに射たれるなんて不合理だ」
ハロルドは米語で呻いた。
「理屈は聞きたくない。落ち葉を掻き分けて、地面にこう書くんだ。“仲間が裏切って俺の分け前を奪った”とな」
若林は、かなり達者な英語で言った。
「|嫌《いや》だ。何のことだか分らんが、そんなことを俺に書かせてから殺す気だろう?」
ハロルドは半身を起した。わめく。
「大きな声をたてるなよ」
若林は消音器付きのハイスタンダード・スーパーマチックで、ハロルドの右の耳朶も射ち抜いた。空|薬莢《やっきょう》が地面に落ちないように、ハンカチで遊底の上を包みながら射つ。
「ああ、神よ!」
ハロルドは落ち葉の上に再び突っ伏した。苦しまぎれに地面を掻きむしる。
「今度でかい声を出したら、口のなかに射ちこんでやる。さあ書くんだ。“仲間が裏切って俺の分け前を奪った”と……」
若林は木彫りの面のように無表情であった。
「書いたら射たない。約束する」
狩野が|猫《ねこ》|撫《な》で声で言った。
「|嘘《うそ》だ……信用できない……お前たちは俺を殺す積りだ」
「そうじゃない。しばらくのあいだ、あんたの体を俺たちの家に閉じこめておくだけだ。閉じこめる、と言っても、家のなかでは自由にさせる。酒も女もあてがってやる。マリファナだってあるぜ」
若林が言った。
「本当か?――」
ハロルドは一瞬生気を取り戻したようであったが、
「嘘だ。だまされるもんか!」
と、呻く。
「そんなに俺たちが信用できないんなら、いま射ち殺してやる。神に祈るんだな」
若林は冷たく言った。
「待ってくれ。射たないでくれ。言われた通りにする」
ハロルドは全身を震わせた。
「じゃあ、書くんだ」
「わ、分った」
ハロルドは、近くの地面から落ち葉を五十センチ四方ほどのけた。湿った土が現われる。そこにハロルドは|爪《つめ》を立て、若林に命じられた通りの言葉を米語で書いた。
「ご苦労だった」
言うと同時に、若林はハロルドの後頭部に射ちこんだ。消音器でエネルギーを弱められている上に、威力の小さな二十二口径のリム・ファイア弾であるから、ハロルドは即死はしない。
|苦《く》|悶《もん》の表情でのたうつ。若林は目をつぶるようにして、弾倉の残弾をハロルドの頭や背中に射ちこんだ。
|延《えん》|髄《ずい》に一発くらわせたら、タマの威力が弱くても即死させることが出来るが、それではハロルドが重傷を負いながら這って逃げ、死にぎわの言葉を地面に文字にしてから命が尽きた、という細工が無効になってしまう。
五分以上も苦しんだあげくにハロルドは死んだ。空になったハイスタンダードに|装《そう》|填《てん》した若林は、苦い表情で、
「どうも、あと味が悪いな」
と、|呟《つぶや》く。
「気にするなよ。俺たちの大きな目的をとげるためには|人《ひと》|身《み》|御《ご》|供《くう》が必要なんだ」
黒須が言った。
一同は、はじめにハロルドを射った地点に戻っていった。そこに若林は、ハンカチのなかに回収してあった十個の空薬莢を捨てる。無論、若林も絹手袋をつけて指紋が残らないようにしていた。
林を抜けて車のほうに戻りながら、若林と正岡は、内ポケットに入れてあった紙幣――大海銀行から奪ったもののうちのほんの一部――をばらまく。
ハロルドのフォード・フェアレーンはイグニッション・スウィッチにキーを差しこんだまま放置し、男たちはクラウンに乗りこんで現場を遠ざかっていく……。
その夜、若林は心のなかのしこりを溶き流そうとするかのように、アルコールとマリファナに酔い、ハーレムの女たちを次々に抱いた。発射は不可能であった。
翌日、ぐったりとして泥のような眠りをむさぼった若林は、夜になってから目を覚ました。
気分はよくなかった。しかし、冷蔵庫から取り出したウイスキーを、ときどき|咳《せ》きこんで吐き戻しそうになりながらラッパ飲みしているうちに、二日酔いも混った|虚《むな》しさが消えていく。
ドアがノックされた。
「起きたのかい? そうだったら食堂に来ないか?」
と、狩野が声を掛けた。
地下の食堂には桂木をはじめとするチーム・パラダイスの面々が集っていた。
「何を飲む?」
と、桂木が若林に尋ねる。
「スコッチのオン・ザ・ロックス。それに、腹がへってきたから、誰かステーキを焼いてくれないかな。七百グラムぐらいでいい」
若林は言った。
「ステーキは話が終ってからにしてくれよ――」
桂木は言い、
「サツは私たちの細工に引っかかった」
と、ハロルドの死体が発見され、ハロルドが書き|遺《のこ》した地面の文章からハロルドが九十二億強奪事件の犯人の一人であると目されるようになり、金の分配にトラブルが起って仲間に消された、と断定されたと言う。死体があった雑木林から発見された百万円ほどの紙幣は、ハロルドに渡すために仲間が持ってきた分け前の一部であって、分け前についてゴネたハロルドを殺してしまった彼の仲間が、あわてて逃げる際に落したのであろう……と、推測された。
したがって、大海銀行立川支店で発生した九十二億強奪事件の捜査は振りだしに戻り、再び立川基地関係者を徹底的に洗い直すことになったのだそうだ。
そんな具合で、チーム・パラダイスが約九十二億の現ナマを手に入れてから四か月が過ぎていった。
三月も末に近づいたある日、チーム・パラダイスの面々は、若林が買い替えた三十六フィートのクルーザー“ディアボロ二世”で八丈島までのちょっとしたクルージングを楽しんだ。
そのレーシング・クルーザーは、花草流の家元草野光月の娘であり、花草流の跡目をつぐことを約束されている草野瞳の夫である秋山が金にあかせて造ったものだ。
旧軍のパイロットであった秋山が、復員して数年たってから瞳と結婚したとき、花草流はまだ小さな小さな流派にすぎなかった。
しかし、|辣《らつ》|腕《わん》の光月は当時の進駐車の高官の女房たちに前衛華道を教えたのをキッカケとして今では花草流を三大華道の一つにのし上げた。ほかの家元と同じに稼ぎは荒っぽく、弟子たちは教材の花一本買うにしても、光月がリベートをとっている花屋からでないと買えないようになっている。
ほかの家元と同じように、光月は男好きする顔だちを持った娘の瞳をスターとして売りだし、TVやラジオにも絶えず出演させた。
光月のトンネル会社の名目上の社長になった秋山は瞳の“蔭の|亭《てい》|主《しゅ》”として、マスコミ上に顔を出すことは一さい許されなかった。だから週刊誌や婦人雑誌などのグラビアで瞳の家庭生活が扱われても、瞳が子供たちと一緒のところは撮らせても、亭主の秋山と一緒のところは撮らせなかった。
“蔭の男”である秋山は、女と趣味に生き|甲《が》|斐《い》を見つけようとした。ガン・ブームの頃は道楽で銃砲店まで経営し、珍しいライフル銃を次々に輸入して射場に出かけたものだが、ピストル取り締りの大作戦にその店も引っかかって閉店を余儀なくされた。
銃への興味が薄れた秋山はヨットに凝りだした。そして一昨年、秋山は“日本で作り得るベストの海洋レーシング・クルーザー”を造り、世界の強豪が一堂に会するオーストラリアのシドニー・ホバート・レースで好成績を上げて、“蔭の男”のコンプレックスを一気に吹き飛ばそうという熱望を押えきれなくなった。
日本の最高のデザイナー・グループに設計から造船所の選定から|艤《ぎ》|装《そう》品の選択までを任せた秋山は、いくら金がかかってもいいから、と言った。
ヨット・デザイナーたちは有頂天になった。日本製は船体だけで、あとはビス一本にいたるまで、世界の最高品が空輸された。
例えばアルミ・マスト関係では英国のスパー・ライト、ウインチやクリートなどは、米国のバリエントやマリニウム、十三セットのセールは英国のフードといった具合だ。
そして、クルーには、スキッパーに日本のレーシング・クルーザー界の実力者であり、洋画会社の宣伝部長や米国雑誌の日本版のPR部長などを転々とした小野をはじめとして五人のヴェテランを|傭《やと》った。
途方もない金をかけたレーシング・クルーザーが日本にも誕生した、というニュースはチームのPRマンも兼ねたスキッパーの小野の力もあって、たちまち日本中のヨットマンのあいだにひろがった。
“ヴァガボンド”と名づけられたそのクルーザーが進水してから約半年のあいだ、海洋スポーツやヨットの各専門誌は毎月秋山がラダー・ホイールを握っているレーサーの詳細な写真をグラビアに載せ、秋山とデザイナーとクルーたちの座談会が連載された。
ついに秋山は“蔭の男”から陽が当る場所に躍り出たのだ。無論秋山は、湯水のようにそのレーサーに使った金が、女房の瞳と義父の光月から引きだしたものと言うわけはなかった。それどころか、自分が瞳の亭主であることも、マスコミにはひた隠しにしていた。
“ヴァガボンド”は、クリスマスから正月四日にかけて行なわれたシドニー・ホバート・レースで好成績をあげ、秋山は栄光に包まれた。
しかし、その秋山に国税庁が目をつけていた。かねてから花草流家元のあくどい荒稼ぎぶりを|内《ない》|偵《てい》していた国税庁は、“ヴァガボンド”のオーナーが秋山であることを知ると、そこに光月の脱税を摘発するための突破口を見つけた。
申告されている秋山の収入では数億円をかけたと伝えられる“ヴァガボンド”を造船できるわけがないからだ。
結局、花草流家元の光月は過去三年間の脱税七億円を認め、その税金や重加算税、それに特別区民税などで十億円ほどを払わねばならなくなった。
“ヴァガボンド”は一千万で叩き売られ、それをチーム・パラダイスの新東邦商事グループが買い入れたという形にして若林の手に移り、“ディアボロ二世”という名に替えられたわけだ。
そのレーシング・クルーザーは、モーター・クルーザーのような|舵《だ》|輪《りん》を採用していたが、鋭いギア比のためにロック・ツー・ロックがわずか〇・八回転だ。重量をミッド・シップに集中したために安定は素晴しく、エンジンとスピンネーカーの両方を使って二十ノット以上を出しても、危険なほどのピッチングは起さない。
だが、桂木たちが気に入ったのは、レーシング・クルーザーでありながら居住性が優れていることであった。電気冷蔵庫も、狭いながらもシャワー・ルームもついている。
自動|操《そう》|舵《だ》にしたそのクルーザーが大島沖を過ぎた頃、アイス・キューブを放りこんだコニャックを舐めていた桂木が言った。
「そろそろ、次の標的を決めないとな」
「何を考えてるんです」
若林は尋ねた。
「武器だ。もっと武器を手に入れるんだよ。拳銃やライフル程度ではなく、もっと強力な武器を大量に……」
桂木は言った。
「いいでしょう。どこから手に入れるんです? 自衛隊からですかね?」
「その通りだ」
「射ちあいを覚悟しないとなりませんな」
若林はレーダーを見つめながら呟いた。
「最悪の場合にはね。だけども、何とか射ちあいをしないでスマートに武器弾薬を手に入れる方法を、みんなで考えてみることにしないか?」
桂木は言った。
それから五日が過ぎた。
陸上自衛隊第二武器補給処は横須賀にある。土浦の第一武器補給処とちがって、航空機や車輛や化学器材などは扱ってないが、火器や弾薬などはそこでも調達し、保管し、整備して、各地区補給処を通じて各部隊へ必要品を送っている。
横須賀に作られたのは、有事において、鉄道や道路が寸断されたときにそなえ、海上輸送のルートがなければ大変なことになる、という理由からであった。
その第二武器補給処は、東京湾に出っぱった楠ヶ浦町のなかにある。出島のようなその半島は大半が二千万坪を超える米海軍基地によって占領されているが、日本人街や漁港も残っている。
しかし、二百万坪の第二武器補給処は、新しく作られた高い塀をはさんで、米海軍基地の東側と接していた。
つまり、部分返還になった米海軍の兵器庫や弾薬庫を、陸上自衛隊がほとんどそのまま利用しているのだ。
その横須賀の町に、若林と黒須が向っていた。まだ午前中だ。SSSのエンブレムを外した目だたぬブルーバードに乗っている。神奈川ナンバーだ。
第三京浜から出ると横浜の浅間下の大交差点で右折し、洪福寺で左折する。大カーヴの陸橋を渡って直進し、ガタガタの市電道を黄金町駅のガードをくぐって浦舟町に突き当る。
そこで右折し、掘割川のドブ川を渡って左折すると、横須賀街道に合流する。二人ともサラリーマン風の服装であった。
磯子、杉田、富岡と過ぎ、幾つものトンネルをくぐってから陸橋を登ると、左手前に浦賀ドック、前方に横須賀の街が見えてくる。
基 地
左手に米海軍横須賀基地、右手に米兵相手の店がつながる大通りを、エンブレムを外してまったく目立たないようにしたブルーバード|S《スリ》|S《ー・》|S《エス》はゆっくりと走った。盗品だ。偽造ナンバーを付け、エンジン・ナンバーを打ち替えてある。
まだ午前中なので、街は活気を見せてない。基地の金網が|途《と》|切《ぎ》れたあたりで、ハンドルを握る若林は左にハンドルを切った。
楠ヶ浦だ。丘のあいだの曲りくねった道を登っていく。右手に女学院や三笠園などが見える。その向うの海は、陽はきらめいているのに、灰色に汚れている。左側は無論広大な米海軍基地だ。
丘を降りたブルは、港町に入った。小さな不動産屋の前で停まる。二人は車から降り、ガラスに貼ったビラで奥がみえにくい店舗のなかに入った。
スプリングがへたったソファに体を沈め、強度の近眼鏡をかけた六十近い男が、左手に持った新聞に眼鏡をくっつけるようにしていた。右手には湯呑みを持っている。
|禿《は》げかけたその男は、入ってきた二人にバセドー氏病患者のようにとびだした目を向けた。
「新聞広告を見て来たんですが、この近くに貸し家があるとか……」
黒須が言った。
「まあ、どうぞ」
オヤジは途端に愛想よくなり、ソファから立ち上がった。二人にソファを勧め、自分は古ぼけたデスクの横の回転|椅《い》|子《す》に腰を降ろす。
「見てよかったら借りたいんだが、一度現物を見せてくれませんか?」
若林が言った。
「いいですとも。ご案内しましょう。借りるのは、お二人で?」
不動産屋のオヤジは尋ねた。
「そう。二人とも、まだ独身です。静岡から戸塚の会社へ転勤になったんですがね。静岡の会社の寮にいたときにはいつも海を見ていたので、海が見えないと|淋《さび》しくて」
黒須が言った。
「なるほど、なるほど……横須賀線をお使いになると、戸塚まではここからすぐですよ」
「そうらしいですね」
「ああ、車でおいでなんですな?」
「通勤には電車と思ってますがね」
「失礼ですが、どこの会社です?」
「二人とも、ミリオン電気のデザイン課なんですよ。デザインのほうなんで、会社には週二回出ればいいんです」
若林は言った。
「気楽でうらやましいですな」
オヤジは本気にしているようだ。
「気楽だなんて、とんでもない。寝ても覚めても新しい電気製品のデザインのことばかし頭にあるんですよ。アイデアが浮かばないと一日じゅう散歩したり酒を飲んだり……やっと考えがまとまって会社に案を提出しても、採用されるのは十回に一回ぐらいですからね。|嫌《いや》になっちまいますよ」
黒須は言った。こう言っておけば、陸上自衛隊第二武器補給処を偵察するために歩きまわっても、不自然に思われない。
不動産屋のオヤジは、午後にならないとアルバイトの運転手が来ない、と言うので、若林はオヤジをブルに乗せた。
その貸し家は、第二武器補給処とその専用|埠《ふ》|頭《とう》を見おろすことが出来る小高い丘の上にあった。
偶然ではない。すでに桂木たちが前日調べてあったのだ。
潮風で|土埃《つちぼこり》がたたないように、庭一面に芝が植えられた小住宅であった。庭には車が十台ぐらい|駐《と》められる。建物は上下で二十数坪の二階建てだ。
「ここに住んでた人の持ち家なんですがね。急に大阪に転勤になってしまって……しかし、いつまたこっちの本社に戻されるか分らないんで、契約は二年ごとにして欲しいんです。|勿《もち》|論《ろん》、そんなことは家主の勝手だから、契約更新料なんかは払わないでいいんです。敷金も割安になってますよ」
不動産屋は二人の顔色を|窺《うかが》った。
家主の委任状を持っているそのオヤジと、若林と黒須が契約を交わした。無論二人は、偽名を使う。旧住所の住民票にしろ、戸籍抄本にしろ、求められれば偽造書類をいつでも差し出せるように用意してあった。
二人は、偽名や、住んでいることになっている戸塚の電気メーカーの寮の住所を書く際には、練習を重ねてもともとの筆跡とは全然似なくした字で書く。
敷金や家賃や不動産屋への手数料は現金で払った。家賃は月に三万円であった。
午後は横須賀の市内でレンタルの小型トラックを借り、家具や寝具や簡単な台所用具や飲食物を市内の店で買って借家に運びこんだ。
借りた小型トラックを業者に返し、借家に戻って家具の配置を終えると、若林と黒須は二階の小さなサン・ルームに、スコッチと氷とメキシコ・アワビの五ポンドの|大《おお》|罐《かん》を持って登った。
もう夜になっていた。二人は灯を消し、ロッキング・チェィアーに腰を降ろした。グラスに注いだスコッチにたっぷりと氷を入れる。
「これからの仕事が大成功するように、まず乾杯しよう」
黒須がグラスを差しあげた。
「チェリオ」
若林はグラスを合わせた。
丘の上に建ったその家のサン・ルームのガラス窓越しに、三百メーターほど向うから、二百万坪の自衛隊第二武器補給処がひろがっているのが見える。
窓が一つもない、カマボコ型のコンクリートの建物は、地下にある弾薬庫の上屋だ。武器庫は四角な建物で、|磨《す》りガラスの小さな窓がついている。
補給処の一番奥に点在する弾薬庫の上屋は十|棟《むね》、中間あたりに並んだ武器庫は三十近くあった。武器庫の真ん中に広い修理工場がある。
正門寄りに、司令部の建物を中心に大食堂や講堂やPXなどが放射状に建てられ、それを取り囲むようにして、営舎が十棟ほど建っている。
正門の近くは車輛置き場だ。大型トラックやウェーポン・キャリアなどが三百台近く置かれているほか、営内班のマイ・カーが百台ほど見える。
正門やあと三方の門の警戒は厳重で、六四式自動ライフルに着剣した衛兵が四人ずつ|立哨《りっしょう》している。各倉庫ごとに二人ずつの衛兵が見張り、パトロールのジープが五台、構内を巡回している。要所要所に、サイレンと強力なサーチ・ライトをそなえた監視塔が立てられ、そこにも二人ずつ詰めている。
その補給処の向うは、米海軍基地だ。サン・ルームからは一部分しか見えないが、基地内のボーリング場や劇場、それに丘の上にある第七艦隊司令官の邸宅などが見える。
これもサン・ルームからは見えないが、若林たちが借りた家の北側の窓から見える自衛隊第二武器補給処の専用埠頭には、艦船のドックまで付属していた。大型LSTが十隻収容されている。借家の東側を少し行くと岩だらけの|断《だん》|崖《がい》だ。
はじめの一杯を一気に胃に流しこんだ若林は、ポーカー・テーブルから視野が広い海軍型の大型双眼鏡を取り上げた。倍率は十倍だ。それを使って武器補給処の構内を|眺《なが》めながら、
「あれだけ警戒が厳重なところから、ごっそり武器を頂戴するとなると、今度こそ死を覚悟しないとならないだろうな」
と呟く。
「まあ、飲めよ。そのうち、何回も相談しあっているうちに、いい考えが浮かぶだろうさ。大仕事なんだ。あわてることはない」
黒須は言った。
双眼鏡をおろした若林は、|相《あい》|槌《づち》を打ち、二杯目をグラスに注ぐ。クラクションが小さく鳴り、|木《もく》|柵《さく》の門を開け放した芝生の庭に、狩野が運転し、桂木と正岡を乗せたポンティアックGTOが滑りこんできた……。
翌日から、若林と黒須は、借家を本拠地にし、横須賀の夜の町を飲み歩き、武器補給処に勤めている自衛隊員たちに酒を|奢《おご》っては情報を聞きだした。隊員たちが滅多に行けない、高級クラブにも連れていく。
第二武器補給処に勤めている隊員は約八百人であることが分った。
そのうちの三分の二ほどが独身で、構内の営舎に住んでいる。妻帯者の半分ほどが営舎に住み、あとの半分は横須賀近辺の借家やアパートに住んでいる。
そのほか、補給処には民間の兵器メーカーの技師が五十人ほど、修理兵の技術指導に通ってきている。
補給処の所長は、定年があと二年後に迫っている野村という陸将補で、陸将になれば陸将補で終るよりも定年が三年延期されるが、その望みは薄いらしい。陸将の定年は五十八歳だ。
そのためかも知れないが、野村は徹底したマイ・ホーム主義で、四十近くなってから生れた末娘と、兵器メーカーの課長をしている長男の孫たちを盲愛している、という。
若林たちが横須賀に移ってきてから二た月ほどたった初夏の一夜、チーム・パラダイスの面々は再び全員集合し、借家の応接室で話しあった。
「あの補給処のなかには、八十九ミリ・ロケット発射筒が七百と、バズーカ・ロケット自体が三万発、七十五ミリと六十ミリの無反動砲が合わせて三百門で、その砲弾が四万発、高射砲や高射機関砲五十門にその砲弾二十万発、迫撃砲と|榴弾《りゅうだん》砲が百五十門に砲弾十万発、六二式や五十口径ブローニングなどの機関銃が二千丁に実包千二百万発、自動ライフル十万丁に実包七千万発、拳銃三万丁に実包一千万発、それに大物として、百五十五ミリ・キャノン砲十門と砲弾五百発、三百ミリの三十型地対地ロケット四基とそのロケット弾百発、対戦車誘導弾MAT二門とそのロケット五十発、さらには地対空誘導弾のマッハ|3《スリー》のミサイル・ホーク三基とそのミサイル九十発……といったところが、平時に保管されているらしい」
若林は言った。
「よほど目標を絞らないと、運びだすだけでも大変だ。とてもじゃないが、俺たち全員でやっても、どうにもならぬ」
黒須が言った。
「万が一の場合として、全部を運びだしたとしても、格納しておく場所がない。小銃や機関銃は別として、あとのものは俺たちの地下基地に運び入れること自体がむつかしい」
若林は言った。
「まったく、君たちが言う通りだ――」
桂木は認め、
「計画を根本的に、検討し直さなければならなくなったようだ。まず、奪った兵器を隠す場所を捜さないと……」
と言う。
「島を買おう。島民はみんな離島してしまったんで、東京都が一億で売りに出している島があるじゃないか。緑島だ。三宅島の西方約百キロのところにある……」
正岡が言った。
「そうなんだ――」
と呟いた桂木は若林と黒須に向い、
「君たちにはまだ話してなかったが、離島の掘りだし物があるんだ。位置は正岡君が言った通りだ。東西約九キロ、南北約五キロの緑島だ。まわりは漁場だが、土地は|痩《や》せ、水は雨水を頼るほかない。それに、島の八割が山なんだ。しかし、山にはジャングルのように樹が茂っているところを見ると、深くボーリングすれば地下水が噴きだすことは間違いない」
と言う。
「港はあるんですか?」
若林は尋ねた。
「あるけども、ハシケぐらいしか着けることが出来ないお粗末なものだ。しかし、山の一部を切り崩した岩を利用して、防波堤と立派な港を作ればいい」
「…………」
「それに、緑島には海底につながった大きな|洞《どう》|窟《くつ》がある。入り口はハシケしか入れないぐらい狭いが、なかは軍艦だって何隻も収容できるほど広いし深い。洞窟の天井も高い。おまけに、その洞窟はゆるくカーヴしているから、入り口から奥は|覗《のぞ》けない」
「そいつはいい。その洞窟の入り口を一度ひろげて、大型船がなかに入れるようにし、コンクリートで岩を固めて、もとの狭さの入り口をつけた扉をつけたらいいじゃないかな?」
若林は言った。
「そうすれば、自衛隊から奪った兵器は直接船に積みこんで、船ごとその洞窟のなかに隠せる」
桂木が言った。
「そういうことです」
「じゃあ、あの島を買うことに賛成してくれるんだな? 黒須君は?」
「いいと思いますな。新東邦観光開発という会社でも作って、そこで買うことにすればいいでしょう」
「賛成してくれて有り難い。さっそく、観光会社をでっち上げよう。名目は、自然美を可能なかぎりそこなわずに観光客が快適に過ごせる設備を作る、ということにすれば、都はあの緑島を払い下げてくれるだろう。何しろ、さっき正岡君が言ったように、あの島は無人島化してしまったんだから」
「払い下げを受け、地上の主な建築物さえ建ててしまったら、新東邦観光開発は資金が続かずに倒産した、ということにすればいい」
「そういうわけだ。だけどあの島に楽園を作る工事にとりかかるのは、まだ、あとのことだ。その前に、洞窟だけに手をつけよう。これが緑島の写真だ」
桂木は内ポケットから分厚い事務用封筒を取り出した。中身をテーブルにぶちまける。
数十枚の写真であった。ほとんどがカラーだ。空中から撮った|俯《ふ》|瞰《かん》写真を含めて、すべて緑島が写されている。
グリーン・アイランド
黒須と正岡と狩野の三人は、軽飛行機だけでなく、ヘリの操縦免許を持っていた。
ある一日、チーム・パラダイスの面々は、航空機のレンタル会社から、シコルスキーS五八のヘリを三日契約で借りた。
黒須の操縦で、最大出力千五百馬力以上のエンジンを|唸《うな》らせ、激しくローター・ブレードを回転させて、早朝の調布を飛びたつ。高度を四百メーターに上げ、時速百七十キロほどで巡航する。
たちまち海上に出たヘリは、三宅島の西方約百キロ、静岡の南方約百キロに位置する緑島に向った。
東京からは直線距離にして二百五十キロだ。海上自衛隊では対潜|哨戒《しょうかい》機、海上保安庁では救難用に使っているほどの機種だから、東京と緑島を往復しても、そのシコルスキーは充分に燃料に余裕がある。
大島の上空をかすめ、|利《と》|島《しま》や新島や式根島や|神《こう》|津《づ》島などを左眼下に遠く見ながら、離陸してから約一時間半後、ヘリは緑島の上空にきた。
晴れた日であった。朝陽を受けて、島のまわりの海はコバルト・ブルーに輝いている。
島のまわりはグリーンを帯びている。そして緑島は――その名のごとく、南側と東側の海岸沿いの平地をのぞいて、緑のジャングルに覆われている、島の約八割を占める山々は険しかった。川は一つも見えない。北側と西側は|断《だん》|崖《がい》絶壁になっている。
|桟《さん》|橋《ばし》の名残りが見えるのは島の東側の海岸で、南側の海岸は岩だらけだ。サンゴ礁がかなり先までのびている。
ヘリは高度を下げていった。
その無人島の東側の平地に点在している、崩れかけや、すでに崩れてしまった廃屋が三十軒ほどよく見えてくる。海岸線の砂浜から三十メーターほど引っこんだあたりから山にかけては、かつては|畠《はたけ》だったらしく、今は雑草が茂っている。
|砂《さ》|塵《じん》を捲きあげて、ヘリはかつて桟橋であった近くに着陸した。バッグに入れてあったナタと拳銃とハンティング・ナイフを腰に|吊《つ》り、革の|長《なが》|靴《ぐつ》をはいて、五人の男はヘリから降りた。
暑い。真夏のようであった。しかし、意外に乾燥している。若林は、ジャングル・ハットをかぶり、作業服の内ポケットにマムシの血清の注射液と注射器を収めた金属ケースが入っていることを認める。
ヘリが起した砂塵はおさまっていた。深呼吸した若林は、ぶらぶらと桟橋跡まで歩いてみる。
澄みきった水のなかで、さまざまな魚が泳いでいた。崩れかけた|石《いし》|垣《がき》の|隙《すき》|間《ま》から五十センチほどのイセエビが跳ね出る。
「見ろよ。食い物には困らないぜ」
若林は水中を指しながら言った。
「本当だ。|獲《と》る者がなくなったんで、すっかり増えたんだろうな」
桂木が言った。
それから男たちは廃屋を調べて歩いた。放棄されたナベやカマはほとんど|錆《さ》びついているが、なかには使用可能なものもかなりある。オノやノコギリなどの大工道具もあった。
そして、おびただしいヤシガニが物蔭にひそんでいた。夜になると|餌《えさ》を求めて出歩くのだ。ハサミをひろげると三十センチはあるそれらヤシガニを食えば、ふつうの人なら三匹で腹一杯になるだろう。
そう言えば、この緑島が無人島化した理由の一つに、ヤシガニによる畠の作物の被害があげられている。
ヤシガニというと樹に登ってヤシの実をハサミで切り落すように思われるが、事実は熟したヤシの実が落ちて割れたやつの中身を食う。だが、ヤシよりも大好物がサツマイモであって、畠の土を掘って芋を荒すのだ。
雑草だらけになった畠のなかに男たちが足を踏み入れると、大正時代に本州から、連れてきて放鳥したというキジの子孫が、落雷のような羽音をたてて群鳥となって飛びだし、林のほうに一直線に消えていく。
南海岸に着くまでに、七、八羽から二十羽に及ぶキジの群鳥が三十群れほど飛びだした。コジュケイともなれば、何万羽いるのか数えきれない。
若林は興奮で顔をほてらせていた。
「決めた。誰が何んといおうとも、この島を買う。みんなが買わないんなら、俺一人で買う」
と、凶悪な犯罪を行なうときの不敵な冷静さなど、完全にどこかに消えている。
ヤシの木が並んだ岩だらけの南海岸に来た一行は、岩から岩へと跳び移りながら、サンゴ礁のほうに向った。途中の岩にはウニやカキがびっしりとくっついている。
ちょうど干潮時であった。売り物にはならない、鈍い色のサンゴの台地が海岸から三十キロほど先まで海面から姿を現わし、そこにもウニがびっしりとつき、重さ一キロから三キロほどの海ガニが右往左往している。
水たまりでは小魚が逃れようとしていた。イセエビも無数だ。
そのサンゴ礁の向うの海を、体長一メーターほどのシマアジの何百万匹という大群が、海面上に盛りあがるようにしてゆっくり泳いでいる。干潮によってサンゴ礁から逃げだした小魚を|狙《ねら》っているのだ。
不思議なことに、カモメはいなかった。まだ、サメの姿も見えない。
イセエビや海ガニをそれぞれが十匹ぐらいずつ捕えて上着に包み、海岸に戻る。それらの獲物を大量の|海《かい》|藻《そう》で包み、砂浜に埋めると、その上に流木を小山のように積んで火をつけた。
蒸し焼きができる間に、ジャングルの探険に出かける。しかし、それは想像以上に大変であった。
ジャングルは、亜熱帯樹と本州から移した|喬木《きょうぼく》や|灌《かん》|木《ぼく》が密生している。それはいいのだが、林道や|杣《そま》|道《みち》がすっかり太い|蔓《つる》や小竹でさえぎられているので、百メーターをナタを振るって進むだけでも半時間ほどかかる。
しかし、やっと百五十メーターほど進んだところで林道を横切っているケモノ道が見つかった。そのまわりの木の幹や枝についている獣毛を手にとってみて、若林は、
「野ブタとシカだ。野ブタがいるところを見ると、ジャングルのどこかに|溜《たま》り水がある筈だ。奴等は溜り水がある泥池でヌタうちしないと、ダニで参ってしまうんだから」
という。
やがて、ケモノ道がいたるところに現われてきた。長い尾を|曳《ひ》いて、アカヤマドリの群れが飛びあがる。でっかい七面鳥が飛びだしたときには、桂木が腰を抜かしそうになった。
今は、一行はケモノ道を歩いているので、歩くのは先ほどよりずっと楽だ。腹の高さから下に蔓はない。
|蛇《へび》が少ないのは、ノブタの餌にされるためであろう。そして、ノブタの大群を見たのは、ジャングルのなかで自然の山火事によって焼かれたらしい一万坪ほどの|窪《くぼ》|地《ち》に近づいたときであった。
イバラが多いその窪地の一番低いあたりに、二千坪ほどの沼があった。アシが踏み倒されたその沼のまわりは、動物の足跡だらけだった。
そして、三百頭近い野ブタの大群が、沼の泥地を転げまわってヌタを打っている。毛皮に泥をこすりつけて、ダニを窒息死させるのだ。窪地と林の境いでそれを見つけた男たちは、一|斉《せい》に足をとめた。
野生化して、イノシシのように|牙《きば》がのびた野ブタたちは、騒々しい鼻息をたてながら、気持よさそうにしている。
若林は、携帯してきた四四マグナムのS・W拳銃をホルスターから抜いた。風下に|這《は》いながら廻りこんでいく。
だが、蔓やイバラでどうしても音が出る。若林は岩の上に拳銃を握った両手首を、一番大きな奴に慎重に狙いをつけた。
距離は約二百メーター、拳銃には遠すぎる距離だ。若林は狙った野ブタの背中の上に狙いをつけ、撃鉄を親指で起して軽くした引き金を絞った。
爆発音にも似たマグナム拳銃の発射音が島に反響し、狙われた野ブタは一メーターほど跳びあがってから横倒しになる。泥水をはねあげてもがく。
ほかの野ブタたちは、ちょっとのあいだキョトンとしていたが、桂木たちが乱射をはじめると、地響きをたてて逃げはじめた。
若林もその群れの一番濃いあたりに速射をはじめる。
弾倉が尽きた若林は、激しい反動に手首が軽く|痺《しび》れたことを感じながら、ゆっくりと立ち上がる。
はじめの一番巨大な奴を含めて、四頭の野ブタが転がっていた。みんな即死はしてなく、何とか立ち上がろうともがいている。
「倒したのは倒したが、どうやって運ぶ?」
狩猟のスリルに顔に汗を一杯かいた黒須が上ずった声を出した。
「ヘリで運ぶしかないだろう。はじめの奴は百五十キロは優にあるぜ」
若林も上ずった声で応じた。
シリンダー弾倉を左横に開き、|排莢子桿《はいきょうしかん》をうしろに押して六個の空薬莢を抜き、ポケットから|掴《つか》みだした実包を|装《そう》|填《てん》する。
「とどめを刺すのは俺に任せてくれ」
ハンティング・ナイフを抜いた黒須が言った。若林と共に、イバラのなかを沼の泥地に近づいていく。
しかし、ナイフでトドメを刺すといっても、慣れてない黒須にとっては大仕事であった。牙に|太《ふと》|腿《もも》をさされそうになり、泥のなかに転がって逃れる。
そこで若林が自分のハンティングを抜いた。トドメを刺す手本を見せてやる。
野ブタのうしろ足を掴み、腹の下からナイフを廻して、|腹《ふく》|腔《こう》から心臓にナイフを剌してえぐるのだ。
たちまち泥地は血の池になる。くたばった野ブタを乾いたところまで引きずるのがまた大仕事であった。
そこで、ロープで野ブタを木に吊るし、腹を割って内臓を取り去る。強烈な悪臭に、桂木は|喘《ぜん》|息《そく》の発作に似た状態におちいり、背を丸めて|咳《せ》きこみながら、黄水を吐く。
四頭の処理を終えた頃には、すでに陽が半分ほど傾いていた。それ以後の探険は明日に廻すことにし、男たちは海岸に向けて引き返しはじめる。
ヘリで四頭の野ブタを運んできたのはもう夕暮れであった。ヘリは、エビやカニを蒸し焼きにしている近くに戻る。
桂木をのぞく若林たちは野ブタを海に|浸《つ》けて洗った。本来なら、臭いとはいえ内臓もうまいのだが、桂木があまり気持悪がるので、泥地に捨ててきてある。
洗い終えた野ブタを海に浸けたまま、若林たちは|焚《た》き|火《び》のそばに行った。
ヘリから出した酒の用意をした桂木がテントを張り、砂のなかから海藻に包まれた蒸し焼き料理を掘りだしはじめている。
カラカラに乾いて塩の結晶がびっしりとついた海藻を開くと、エビやカニが真っ赤に蒸されて湯気をたてていた。
男たちは昼間の陽光と盛大な焚き火の熱で暖かい砂地に腰を降ろし、エビやカニの|殻《から》を素手で|剥《む》いて頬ばりながら、ラムやウオツカを痛飲した。
|喉《のど》が渇くと、まだ青いヤシの実を拳銃で射ち落し、そのジュースを飲む。テントの中に敷いたエア・マットの上に倒れ、毛布をかぶって、ぐっすりと眠りこんだ。
夜中にザワザワという無気味な音を聞いて若林は目を覚ました。拳銃を|掴《つか》んでテントから跳びだす。
おびただしいヤシガニが、男たちが食い残したものをあさっているのが月光のもとに見えた。
まだ酔いが残っている頭を振りながら、若林は海のなかに浸してある四頭の野ブタのほうに行ってみた。
それにも、真っ黒にヤシガニがたかっている。舌打ちをした若林はノコギリで山の木を小山のように|挽《ひ》き出し、それにガソリンで火をつけた。
充分に火が廻ったところで、野ブタを海から力まかせに引きあげ、ヤシガニをまつわりつかせたまま火の上に投げる。それからテントに戻って、また眠る。
朝遅く若林が目を覚ますと、桂木たちはテントを出ていた。|熾《おき》|火《び》になった焚き火の山で黒焦げになっている野ブタを不思議そうに眺めている。
「お早う……」
若林は昨夜のことを説明した。
表面は黒焦げになっていたが、四頭とも野ブタは、皮から三センチほど下はこんがりと焼けていた。
その肉をナイフで切り分けながら塩をつけてつまみ食いして朝食をした男たちは、大ざっぱに切り分けた焼き肉を海水に浸けてから、ヤシの木に吊るす。夜までには乾し肉が出来ていることであろう。
ポケットに昼食分の肉を突っこんだ男たちは、再び探険に出た。昨日、ナタで道を作ってあるので歩くペースは早い。
沼のところに出ると、捨ててあった野ブタの内臓は完全に消えていた。生き残った野ブタの群れに食われたのであろう。そして、水を飲んでいたシカの百頭ほどの群れがあわてて逃げていく。
一番高い山の頂上近くには、野生化した|山《や》|羊《ぎ》の群れが点々と見えた。その山の中腹を廻った男たちは、北側の|断《だん》|崖《がい》の上に出る。
断崖の上から海面までは五十メーター以上あった。一と所、海水が|轟《ごう》|々《ごう》と音をたて、|渦《うず》を巻いている。
そこに、洞窟の出入り口があった。ザイルとハーケンに命を托し、若林と狩野は断崖を洞窟の出入り口まで降りてみる。
入り口は狭いが、その洞窟のなかは広かった。高さも高い。入り口だけは潮風が激しいが、携帯してきたスポット・ライトでなかを照らしてみると、奥は|淀《よど》んだように流れはゆるやかだ。
そして、洞窟は、ゆるやかなカーヴを描いていた。だから、三百メーターほど奥までは見えるが、それから奥は壁の岩にさえぎられて見えない。
次の日、ホヴァリングしたヘリからゴムボートを降ろし、それに乗った若林と狩野は、洞窟の奥をさぐってみた。
一キロほど先で洞窟はやっと行きどまりになっている。そこでは、幅二キロ、高さ百メーターほどの大きな自然プールになり、突き当りまでは水が来てなく、砂地と岩場になっている。この洞窟をドックに造り変えるには絶好の足場だ。プールの上は、島で一番高い山になっているのであろう。
改 造
島での三日目は釣りをしたり、海に潜って魚をスピヤ・ガンで仕止めたりして、のんびりと夕方まで過ごした。
|獲《と》った|石《いし》|鯛《だい》やシマアジやエビなどをチャーターしてあったシコルスキーS五八のヘリに大量に乗せて、チーム・パラダイスの面々が調布空港に着いたのは、すでに夕暮れであった。
石黒ビルの地下王国に戻った一行は、新鮮な獲物でバーベキュー・パーティを開き、ハーレムの女たちと交わった。
チーム・パラダイスが作った新東邦観光会社が都から緑島を一億円で正式に払いさげを受けたのは、それから一週間後であった。
それから三週間後、正岡だけを石黒ビルに残して、桂木と若林と狩野は、船で再び緑島に向った。黒須は、横須賀に借りた家にいる。
若林たちが乗った船は、観光船では無かった。チャーターした工事船の編隊のうちの一隻だ。
三十隻の工事船の編隊には、おびただしい建築資材と五十人の技師と二千名を越える労務者が乗っていた。
石黒ビルの地下|要《よう》|塞《さい》を建築した神谷という建設業者の会社の連中だ。神谷は、請け負い仕事をするときには、普段の三倍の金を請求するかわりに、秘密は守る。その会社の技師や労務者にしても、よその会社の倍は給料をもらっているから、余計な口はきかない。
緑島の旧桟橋のあたりは、水深の関係で一隻がそれぞれ三万トンを越す工事船が近づくことが出来なかったから、まず桟橋に向けて航路の下の海底を掘りさげる工事からはじまった。
それが出来ると、十万トン級の巨船でも接岸できる桟橋が建設された。
一方では、会社のなかでも特に口が固い連中が五百人ほど選ばれ、島の北側にある洞窟の入り口をひろげて五万トン級の艦船さえ楽に出入りできる工事を行なった。
その工事が終ると、洞窟の奥の直径二キロほどの巨大な自然のプールをドックとヘリの発着所に作り変える大仕事が行なわれた。
次には、洞窟の入り口を、工事前と同じ狭さに見せかける扉が作られる。コンクリートと岩で固めて、自然の岩壁そっくりにした重さ二百トンのその壁は、油圧によって操作される。
桟橋を作った連中は島の上に移り、南海岸のサンゴ礁が見える位置に地下十階、地上五階のホテル風のビルを建てた。洞窟の奥のドックとそのホテルの地下は、トンネルで結ばれる。どうせ工事をはじめるからには、洞窟だけでなくほかの主要な工事もついでにやってしまおうということになったのだ。
ビルの地下やトンネルを掘っているとき、その島には地下水が豊富なことが分った。噴出する地下水は洞窟に流れこむまでに、一度地下の貯水池にたくわえられ、そこから第二貯水池に急激な落差で落されて、水力発電所のタービンを廻すようにされた。
島の山も数十か所がボーリングされた。ジャングルを流れる川を作る水を得るためのボーリングであったが、一か所からは石油が噴出したのは計算外の幸運であった。
しかもその石油は、そのままディーゼル・エンジンを作動させることが出来るほどの純度を持っているから、島の外から重油を運びこまなくとも、船の燃料には不自由しない。もっとも、航空機のジェット・エンジンやタービン・エンジンにも使うことが出来るように、ジャングルのなかに、樹木でカモフラージュをされた石油の精製工場が作られたが……。
そして、山岳地帯に湧き出た水は何本もの細い流れとなって、島のジャングルの中央部にある十万坪ほどの窪地に流れこんだ。
イノシシがヌタ場にし、シカが水飲み場にしている小さな沼がある窪地は、一と月もすると水をたたえたかなり大きな沼になる。
その沼に一度せきとめられた水は、桟橋の近くの海に向けて、幅十メーターほどの流れとなるように、曲りくねった川が掘られた。
川からは、無数の枝のように、狭いクリークを分れさせる。流れを好まぬ魚を繁殖させたり、小動物の水飲み場とさせるためだ。
一年の工期と百億の工費をかけた緑島の大ざっぱな改造工事が終ると、若林は自腹を切って、さまざまな鳥や草食動物や肉食動物をそれぞれ五|番《つがい》ずつその島に放つ。
シカだけでも、ヘラジカ、エゾシカ、アカシカ、タイワンジカといった具合だ。肉食動物は、草食動物が繁殖しすぎて自滅しないように、ピューマとジャガーとチータを輸入する。それらは、|虎《とら》やヒグマとちがって、食人癖が無い。
小動物が殖えすぎて若木が全滅してしまわないために、イタチ科の小さな殺し屋を何種類も島に放つ。
沼には数万トンの丸麦を捨てておいたためそれが腐敗し、微生物によって分解されたあとは、藻や水草やアシなどが繁茂した。
冬になると、シベリヤや満州からおびただしいカモやシギ類が飛んできて、その沼やクリークにとどまる。
若林は、沼や川やクリークに十トンほどの淡水魚を本州や沖繩などから船で運んできて移した。数年とたたぬうちに大繁殖することであろう。
そうなれば、鳥やケモノの猟、海での魚漁のほかに、沼や川やクリークでの釣りや網も楽しめるというわけだ。
無論、若林たちとて、一年以上のあいだ緑島にばかりいたわけではない。
交代で東京に戻り、表向きの商売である新東邦商事で、社員たちの報告を受けたり、指示を与えたり、横須賀で|頑《がん》|張《ば》っている黒須と連絡をとったりする。
若林は、横須賀に黒須と共同で借りた家の近所の人々に不在をあやしまれないようにその借家にもたびたび顔を出し、商店街で買い物をする姿を見せたりもした。
島と本州を往復するのに、若林は帆とエンジンを併用したクルーザーの“ディアボロ二世”を使う。一方では、在京中は調布、横須賀にいるときは藤沢で、軽飛行機の操縦を正規に習う。
緑島の改造がまずは一段落した頃、チーム・パラダイスの面々は横須賀の借家に集り、三百メーターほど先にひろがる陸上自衛隊第二武器補給処を眺めながら、灯を消したサン・ルームで協議したものであった。
「あれだけ大量の武器弾薬をあそこから奪うには――」
若林は言った。
「どう考えても、俺たち五人でただ実力行使しただけでは無理だ。あそこの所長や幹部たちを利用しないと」
「所長の野村陸将補は、あと一年ぐらいで定年退職だ。買収に応じる可能性はある」
黒須が言った。
「もし買収に応じないなら、奴が盲愛している末娘や孫たちを|誘《ゆう》|拐《かい》して身柄と引き替えに取り引きする、という手もある」
正岡が言った。
「野村の家には女中がいる。女房が神経痛で長いこと寝たり起きたりの毎日だし、可愛い末娘には嫁入りにそなえての|稽《けい》|古《こ》事を色々とやらせているんで、女中が必要なんだ」
若林は言った。
「それがどうした? 野村はその女中に手をつけてるのか」
狩野が尋ねた。
「どうもそうらしいんだ。まだ証拠は掴んでないがな……あの女中を使って、野村を麻薬中毒にさせるんだ。麻薬欲しさに、こっちの言うことを何でも聞くようにさせるんだ」
若林は言った。
「どうやって女中をこっちの|思《おも》|惑《わく》通りに動かす?」
桂木が口を開いた。
「そこは、色男の狩野の出番だ。あの|娘《こ》を骨抜きにしてしまうんだ」
若林はニヤリと笑った。
「美人なのか?」
「美人であろうがブスであろうが、任務のためには|真《ま》|面《じ》|目《め》に|口《く》|説《ど》いてもらわないとな」
「|他《ひ》|人《と》|事《ごと》だと思いやがって、この……」
狩野は若林を殴る|真《ま》|似《ね》をした。
「本当のことを言うと、なかなかの美人なんだ。色気もあるし、体もいい。脳のほうはちょっと弱いが、そんなことは女として欠点にはならない。|強《し》いて欠点といえば、郷里の越後|訛《なま》りが抜けないくらいだが、まあ、それも|愛嬌《あいきょう》だ」
と、若林は、黒須に|顎《あご》をしゃくる。
「この|娘《こ》だ。名前は河島順子」
黒須はポケットから二つの封筒を取りだし、そのうちの一つから数枚の写真を出した。
盗み撮りしたスナップ写真だ。カラーもあれば白黒もある。買い物カゴを抱えたのもあれば、休日にめかしこんで外出している時のもある。
順子は二十歳ぐらいであった。雪の新潟の三条で育っただけに、色は抜けるように白い。髪は|漆《しっ》|黒《こく》だが、顔は白人の血が混ったようにエキゾチックだ。大柄なグラマーだ。
「これなら、俺のほうが口説きたいぐらいだ」
黒須は言った。
狩野は食欲をそそられたらしい。だが、
「じゃあ、腕を振るってみるかな。ところで、野村の末娘というのはどうだい?」
と、|眉《まゆ》を挙げる。
「二人ともモノにしちまうってのか?」
笑いながら黒須は、もう一つの封筒から、野村の末娘の志津子の写真を数枚取りだした。
志津子のほうは、小柄で細っそりとしていた。日本的な美人だ。確かに気品のようなものがある。
「二人とも、俺が頂くぜ。ところで、娘を俺の体で喜ばせてから、どうするんだ?」
狩野は尋ねた。
「だから言ったろう? 順子を使って、野村の食事に味の素がわりにヘロインをぶちかませ、野村を徐々に麻薬中毒にさせる。志津子を口説いたら、誘拐劇がやりやすくなる」
若林は言った。
野村の自宅は|逗《ず》|子《し》にある。桜山トンネルに近い丘の上にあって、逗子海岸から鐙宿の葉山マリーナにかけても見おろすことが出来た。
入ろうと思えば横須賀市内に官舎はあるのだが、横須賀と逗子は横須賀線を使えばすぐの時間だ。
ただ、逗子駅からバスで桜山トンネルの近くで降り、丘の上に登って自宅に帰るときには足腰がつらいことがあるが、カゼ気味の時には所長用の公用車で送り迎えさせるから助かる。
その家は、妻の実家が三十数年前に結婚祝いに買ってくれたもので、当時は地価がひどく安かったから、敷地は千坪ほどある。その庭の植木を手入れすることと、末娘の志津子の婿になる候補者を慎重に|択《えら》ぶことと、東京に住んでいる長男の孫が遊びに来たときに相手をすることが野村の大きな楽しみであった。
もう一つの楽しみは女中の順子であった。夜になると、順子の部屋に忍んでいくのだ。
病弱の妻は二人の関係を黙認していた。野村には、もう順子に子を産ませる力がないことを知っているためかもしれない。
中学を卒業してすぐに野村家に住み込んだ順子と野村がはじめて体を交えたのは、一年半ほど前のことであった。
寝つけなくて夜の庭を散歩しながら下手な俳句をひねっていた白髪の野村は、女中部屋の窓が開いているのを見て、好奇心に駆られて忍び寄った。
薄暗い豆電気がついたその四畳半の部屋で、スリップ一枚の順子が眠りこけていた。ブラジャーはつけてなく、パンティも脱ぎ捨てられている。
見事に発育した順子の裸身と、|腿《もも》の奥を見て、野村陸将補の頭に血が上った。
喉はカラカラになり、目がかすむ。そして、ここ三、四年のあいだ一度も硬くならなかったところが脈打ちはじめた。
順子は薄く汗をかいていた。無意識に、茂みの奥を|愛《あい》|撫《ぶ》する。
それを見て野村の頭は|痺《しび》れ、クラクラとしてきた。半ば無意識のうちに、ユカタをはぐり、六尺フンドシを外した。
そのとき順子は寝返りを打ち、|蜜《みつ》に|濡《ぬ》れた花弁が野村のほうを向く、新鮮な色であった。
野村は夢遊病者のように窓を乗り越えた。無言のまま順子に近づく。
|灼熱《しゃくねつ》したものに貫かれるとき、順子は目を覚まし、野村を突きとばそうとしながら声をあげようとした。
野村は必死に順子の口を押えた。
「頼む……悪いようにはしない……将来の面倒を見させてくれ……約束する」
と|耳《みみ》|許《もと》で|喘《あえ》ぐ。
「|嫌《いや》……|嫌《いや》……」
押えられた口からかすかな声を漏らし、順子は野村を跳ね返そうとした。だが、野村の腰は、順子の両|腿《もも》のあいだにあった。
「お願いだ……家内も許してくれる筈だ……君を不幸にはさせない」
野村は喘ぎ続けた。
順子の抵抗は弱まった。やがて、野村を迎え、苦痛の|呻《うめ》きを漏らす……。
それから、二人の関係がはじまったわけだ。野村は、交際費をごまかして浮かせた金で毎月二万ずつ給料のほかに順子に払い、毎夜のように順子の部屋に忍んでくる。
しかし、野村が|雄《お》|々《お》しかったのは、はじめの一週間ほどだけであった。それからあとは、気持ばかしあせっても硬直することは滅多になく、そんな状態になっても、三分と続かなかった。
したがって野村は、順子を手や舌や器具でばかし愛撫するようになった。だから、チーム・パラダイスが順子の誘惑作戦を決めたときには、ヘビの生殺しのような目に会っている順子は、欲求不満の塊りだと言えた。
その順子は毎週日曜は休みをもらっていた。
その日、順子が九時すぎに起きたとき、野村やその家族はまだ眠っているようであった。シャワーを浴び、トーストと紅茶をとった順子は、入念に化粧して屋敷を出る。
バスを待つあいだも、駅で電車を待つあいだも、若い男がモーションをかけてくるが、順子は相手にしなかった。体は|疼《うず》いても、彼等に刻印を押されてしまったのでは、野村が遺言状のなかに彼女の名を加えておくという約束が取り消される|怖《おそ》れが多分にある。
農業をやっている順子の実家は楽ではない。一反の田を売れば何千万にもなる東京近郊の農家とちがって、冬は一面が雪に埋もれる順子の実家では、父は冬には|出《で》|稼《かせ》ぎの労務者として越後を出、妹や弟たちのために順子は毎月一万ずつ実家に仕送りしている。
陥 穽
横浜に出た順子は、駅の近くのデパートに入った。高級品の売り場をじっくりと見て廻る。
その順子を、彼女にさとられないように、コンチネンタル調のスーツに身を固めた狩野が偵察していた。逗子駅で待ち伏せていて尾行してきたのだ。
順子がそのデパートに入るとすぐに、狩野は横浜で待っている若林に電話を入れた。もし順子が東京に出たとすれば、東京で待っている黒須に電話を入れることになっていた。
化粧品売り場を|覗《のぞ》いている順子を見張っている狩野に若林が近づいてきた。
「車を廻してきたぜ。いまは駐車場に置いてあるが、スペア・キーを使ってこのデパートの玄関の近くに寄せておく」
と、|囁《ささや》き、|鍵《かぎ》|束《たば》を渡す。|頷《うなず》いた狩野から離れた。
順子はやがて、ウインドウ・ショッピングだけでデパートを出た。その少しあとに続いて狩野も出る。
デパートの玄関近くに|駐《と》めたB・M・W二八〇〇CSの|脇《わき》に若林が立っていた。店から出てきた狩野を目で招く。
狩野はその|贅《ぜい》|沢《たく》で|瀟洒《しょうしゃ》なクーペの運転席についた。エンジンはまだ冷えてないから、キーの一ひねりですぐに掛かった。
順子はタクシーを呼びとめていた。そのタクシーが順子を乗せて走りだすと狩野はあとをつける。あいだに二、三台の車をはさんでだ。
順子がタクシーを降りたのは、元町の商店街の入り口近くであった。狩野は脇道に突っこませて車を駐め、順子を足で|尾《つ》|行《け》る。
|洒《しゃ》|落《れ》た輸入品が並べられた店々のショー・ウインドウを覗いて歩いていた順子の足が、ダイアでまわりを飾ったローレックスの婦人用時計の前で動かなくなった。
その時計のボディ自体はプラチナだ。値段は九十万とついている。順子はそっと|溜《ため》|息《いき》をついた。
その横に狩野が立った。
順子はガラスに映った狩野のラテン系を想わす浅黒い美男ぶりに視線を移す。だが再び視線はローレックスに戻る。
狩野はすぐに順子が何を欲しがっているかを知った。
「失礼します。お嬢さん」
と、|呟《つぶや》くように言う。
「…………?」
順子は狩野を見て警戒する表情になった。
「僕の我がままを聞いてくださいますか?」
「…………?」
「あの時計はあなたにこそふさわしい。あなたの美しい手首にぜひつけさせてください」
「な、何をおっしゃるの?」
「いらっしゃい」
狩野はそっと順子に腕を廻した。
「人を呼ぶわよ!」
順子は抵抗したが、狩野は構わずにその時計店に連れて入った。|揉《も》み手する店主に、時計を注文する。
順子は|茫《ぼう》|然《ぜん》としていた。調整した時計を店主が持ってくると、
「僕を悲しませないでください」
と、順子に押しつけ、無造作に百万円の束を内ポケットから掴みだして店に払った。
店を出ると狩野は、
「これから何をしたい? 何でもご希望にそわせてもらいますよ」
と言う。
「これを頂くわけにはいかないわ」
順子は無意識のうちにしっかり両手で握っていた時計の包みを、あわてて狩野に突きだした。
「それだけは御希望にそうわけにはいきません」
「なぜ? なぜなの? 見も知らぬわたしにこんなことをしてくださるの?」
興奮して、順子は越後|訛《なま》りになった。
「あなたが美しいからですよ。僕の気まぐれと思ってください」
狩野は名刺を差しだした。
そこには、日本で一、二を争う電機メーカー三星電機の販売本社と、その社長の姓を上にくっつけた偽名が印刷されていた。電話と事務所の所在地は、新東邦商事のものだ。肩書きは社長秘書室長となっている。
「オヤジの秘書ということになっています」
狩野は社長が自分の父親であることを|匂《にお》わせた。
印刷物なら簡単に信用するのが人間の習性だ。順子の顔や体から警戒心が急激に消えていくのが分った。
「まあ、あの三星電機の……」
と赤くなる。
「失礼とは思いましたが、あなたがデパートを出てから車で追っかけたんです。あなたこそ、僕が夢にまで見ていた女性だ。このチャンスを逃したら、僕は一生のあいだ後悔すると……ぜひお名前を聞かせて下さい」
狩野はキザなセリフを抜け抜けと言った。
順子は名乗った。
狩野は近くの小さなイタリアン・レストランを借り切り、豪勢な昼食を順子ととった。キャンティに酔った順子をB・M・Wに乗せ、港が見えるマリーン・ホテルの貴賓室に連れこむことは簡単であった。
飢えきっていた順子は、狩野の若々しい体とテクニックに朝方まで|翻《ほん》|弄《ろう》されて骨抜きになった。捨てないで……捨てないで……と喘ぎながらしがみつく。
それから一と月がたった。
すでに順子は狩野からマリファナを吸わされ、夢心地のうちに野村との関係を赤裸々にしゃべっていた。
そこで狩野は順子にヘロインの粉末を渡し、これは野村に性欲を失わせる薬だが、もし野村に見つかったら精力剤だというように、といって、そのヘロインを毎朝晩の野村の食事に混ぜさせていた。
もともとの計画では野村の娘の志津子の体を奪うのも狩野の役であったが、あまりにも順子が狩野に夢中になっているので、その役は若林に廻された。
若林は志津子が通っている横浜の外人教会付属の英仏語会話学校に目をつけ、そこで学ぶことになった。
デザイナーであり、留学のために英語やフランス語の会話を習うのだ、という触れこみの若林は、志津子に警戒心を起させなかった。
知りあってから二週間目の金曜日に、若林は志津子をスカイラインGTRに乗せて逗子に送りながら、
「日曜日に、僕のクルーザーに乗ってみませんか? お友だちを一緒に連れてきてもいいですよ。どうせ日帰りですから、湾内かそこらしかクルージングできませんが……|勿《もち》|論《ろん》、責任を持って送り迎えはさせていただきます」
と誘う。
「あなたの方は何人いらっしゃるの?」
少し考えてから志津子は尋ねた。
「あなたが連れてくる女性の数に釣りあうようにします……そうだ、僕のホーム・ポートまでは逗子からすぐだ。|小《こ》|網《あ》|代《じろ》ですから。今日、見るだけ見てみませんか」
若林は言った。
「そうさせていただこうか知ら」
志津子は呟いた。
若林は葉山のほうに車首を向けた。スピードをあげる。フェアレディZ四三二用の太いホイールと一八五×一四のラディアルに替えたタイアは、曲りくねった道でもよく踏んばった。
強烈な加速とスポーツ・カーに劣らぬロード・ホールディングを利して、GTRはたちまち武山を過ぎて三浦に向う。
カーヴでは昼間の公道を早く走るときの鉄則通りにアウト・イン・イン、――すなわちアウトに一度寄ってからコーナーの内側の先を狙い、アウトにふくれずにイン・コースに沿って抜けていくが、薄くて|炸《バー》|裂《スト》しやすいラディアルのサイド・ウォールが縁石や舗装の路肩との違い段に当らないように、ギリギリのイン・コーナーは避けた。
初夏であった。夕暮れにはまだ間がある。丘のあいだの曲りくねった登り道を、ディーゼルの真っ黒な煙を吐き喘ぎながら行くトラックの群れを一気に若林は抜く。
引橋の先で右折し、|油壷《あぶらつぼ》に向う道に入る。しばらく行くと右手は小網代だ。右折し、登りのときはパワーが弱い車だと苦労するほどきつい坂道を下っていく。
坂道は狭かった。すれちがいが出来ないほどだ。下りきると、左手の旅館のところで右に折れる。
岸には漁船やボートが引き揚げられ、湾内にはさまざまなクルーザーが|錨《いかり》を降ろしている。
若林は、テンダー・ボートのオールや船外機エンジンを保管してもらっている漁師の家の横に車を駐めた。
「待っててください」
と志津子に声をかけて車から降りた。
「これから|出港《で》るのかね?」
漁師のオカミさんが若林に尋ねた。
「ああ、夜中までには帰ってくるが、もし帰らなくても心配しないでくれ」
チップを渡しながら若林はウインクした。
オカミさんは小型の船外機エンジンと混合油のタンクを提げて車に近づいたが、車から出た志津子には|挨《あい》|拶《さつ》しただけで、余計なことはしゃべらなかった。
若林は車のドアに|鍵《かぎ》を掛けなかった。エンジン・キーを左に一杯に廻して抜いてステアリング・ロックを掛けてあるし、車検証はトランク・ルームのなかに仕舞ってあるからドアに鍵を掛けなくとも大丈夫だが、志津子は若林がドアに鍵を掛けなかったことだけしか知らないので、クルーザーからすぐに戻ってくることと思って安心したようだ。
オカミは砂地に引き揚げられている若林の“ディアボロ二世”用の十五フィートのテンダー・ボートに四馬力の船外機エンジンをつけ、タンクを連結させた。
「そっちの桟橋で待っててください」
靴と靴下を脱いでボートに放りこみながら|爽《さわ》やかな微笑を浮かべた若林は志津子に言った。
コロを使って海水にボートを押し出し、跳び乗ると、フライ・ホイールのベルトを引いてエンジンを掛ける。その船外機についたスクリューを海中に降ろし、ボートをゆっくり桟橋に向けた。
志津子は、潮風に髪をなぶらせながら、簡単な桟橋の上に立っていた。小柄だが均整がとれた体つきだ。深呼吸してオゾンを吸いこんでいる。
桟橋に若林はボートをつけた。桟橋は海面から一メーターほど上にあるので、ボートの中で立ち上がってその支柱にボートを捲きつけた若林は、志津子を見上げる格好になった。
スカートの奥の|腿《もも》は色気にあふれていた。若林は両手を差し出し、
「さあ」
と誘う。
「恥ずかしいわ」
志津子はスカートを押えた。
「目をつぶっていますから」
若林は自分のほうも恥ずかしがっている見せかけで答えた。目をつぶる。
「危いわ。目を開いて」
志津子は若林に身を預けた。若林は軽々と志津子を受けとめた。揺れるボートのバランスをとりながら、抱きかかえた志津子の体の感触を楽しむ。
覗きおろす若林と見上げる志津子の|瞳《ひとみ》が結ばれた。志津子の頬から耳にかけてが濃いピンク色に染まる。
若林はそっと志津子をボートに降ろした。ロープを解いて自分も腰を降ろし、ボートを再びスタートさせながら、
「滑ったら危いから、靴は脱いでおいたほうがいいですよ」
と言う。
テンダー・ボートは|碇《てい》|泊《はく》しているクルーザーの群れを縫って“ディアボロ二世”に近づいた。小魚が海面から跳ねあがる。若林は自分のクルーザーがどれであるかを志津子に教えた。
「あれなの? 最高だわ!」
湘南育ちの志津子には、抜群に|精《せい》|悍《かん》な三十六フィートのオーシャン・レーシング・クルーザーの価値が分ったようであった。
そっとそのクルーザーにボートをつけた若林は、ブイへの|繋《けい》|索《さく》の一本とクルーザー自体にボートのロープを結び、二人の靴をクルーザーに移してから、パルピットに手を掛けて身軽にクルーザーに移った。志津子を引きあげる。
キーを使ってキャビンのフードを開いた若林は、キャビンに入るとクルーザーの二百馬力ガソリン・エンジンをアイドリングさせて充電させながら換気ファンを廻す。
蒸れていた空気がキャビンから吐きだされた頃を見はからって、志津子を呼び入れた。電気冷蔵庫からコーラを出して|栓《せん》を抜き、テーブルを引きだしてその上に置く。
志津子はシャワー・ルームまでついたキャビンのなかを珍しそうに観察していた。
「どうぞ、ゆっくりしていてください。僕は外側を点検してゆきますから」
若林はキャビンを出た。
四つのブイにつないである繋索を外し、|錨《いかり》をクランクを使って素早く引きあげる。まだ、ミッドシーズンではないので、近くのクルーザーに人影は無い。
コック・ピットに腰を降ろした若林はギアを入れると、スロットルを引いた。|舵《だ》|輪《りん》を握る。
志津子は、|狼《ろう》|狽《ばい》を隠せぬ顔を出した。若林は、
「帆を上げずに、ちょっとだけこのあたりを廻ってみましょう」
と、笑う。志津子はキャビンのなかに引っこんだ。
だが、クルーザーの群れのあいだを抜け出ると、若林はスロットルを一杯に引いた。モーター・クルーザーそのもののようなスピードで、“ディアボロ二世”は湾口に定置されている魚網の隙間に突っこんでいく。
「どこに行く気なの?」
志津子が|怯《おび》えた顔を見せた。
「二人きりになれる広い海の上に」
若林はニヤリと笑った。
「だましたのね!」
志津子は叫んだ。
「どんな大声を出しても、僕のほかは聞く者はない。君が好きだ」
定置網を抜けた若林はスピードをゆるめた。十キロほど沖に出たところで船を漂わせる。大きな陽が沈みかけ、海を血の色に染めている。
艇灯とマスト灯をつけて他船に衝突されないようにした。若林がキャビンに入っていくと、志津子は台所から出した包丁を構えていた。
若林は冷蔵庫からよく冷えたビールを出してラッパ飲みする。志津子が気をゆるめた隙に、その|壜《びん》で包丁を|叩《たた》き落した。
「乱暴したら自殺するわ!」
と|喘《あえ》ぐ志津子を抱き寄せる。熱っぽく愛を|囁《ささや》きながら耳に息を吹きこみ、手で|腿《もも》を|愛《あい》|撫《ぶ》しながら硬くなったものを押しつけていると、志津子はとめどもなく|濡《ぬ》らし、立っていられないほどになった。
その志津子をオーナー用のダブル・べッドに横たえ、裸に|剥《む》く。唇を蜜があふれるあたりに寄せていくと、志津子は、
「自殺する……自殺……」
と、|譫《うわ》|言《ごと》のようにくり返しながら、若林の頭を抱え、|膝《ひざ》を大きくゆるめる。
大バクチ
志津子は、はじめてであった。
とめどもなく濡らしながらも、若林が侵入すると、苦痛の叫びを押えることが出来ずに、身を|悶《もだ》えながら突き飛ばそうとする。
だが若林は容赦しなかった。充分に沈める。志津子は鮮血のなかで若林の肩に|噛《か》みつく。
刻印式が終ったとき、志津子は半ば意識を失っていた。快感のためにではない。優しく|拭《ぬぐ》ってやってから毛布を掛けた若林は、軽く揺れるクルーザーのなかで、分厚くボロニア・ソーセージをはさんだサンドウィッチを作った。
それをかじりながら、電気冷蔵庫で冷やしてあったホワイト・ホースのスコッチをラッパ飲みした。腰にはバス・タオルを捲いただけなので重油のヒーターをつける。
外はもう夜であった。再び立ち上がった若林は、シャワーを浴びてから、ラフなスウェーターとジーパンをつけ、また飲みはじめる。アワビの|罐《かん》|詰《づ》めを開いた。
やがて、オーナー用のダブル・ベットに|仰臥《ぎょうが》して|瞼《まぶた》を閉じている志津子の頬を涙の粒が伝った。ベッドの脇に膝をついた若林は、その涙を吸う。
志津子は目を開いた。もう泣いてはいない。
「好きだからこうなったんだ。シャワーを浴びる?」
若林は優しく言った。
「…………」
志津子はかすかに笑って|頷《うなず》いた。その志津子を軽々と抱くとシャワー・ルームに運んだ。シャワー・ルームの前の更衣用の仕切りには、自分のパジャマを置いた。ベッドのシーツを取り替える。
シャワーを浴びて出てきた小柄な志津子は、ダブダブのパジャマの上下の|袖《そで》や|裾《すそ》を何重にも折り返していた。
「可愛い」
若林は抱きしめた。今度は志津子のほうから唇を求めてくる。|船《ハ》|体《ル》を叩く波の音だけが聞える。
朝までに若林は志津子と五度交わった。もう志津子は苦痛を覚えぬようになったようだ。夜明けから昼すぎまでぐっすり眠ったあと再び抱きあうと、今度は志津子は明らかに奥深い快楽の|片《へん》|鱗《りん》を味わうまでになったようであった。
夕方になってクルーザーをフリートのブイにつけた若林は、志津子をGTRで逗子の家の近くまで送っていく。
それから三日間、若林はわざと志津子の通っている横浜の英仏会話学校を休んだ。四日目になって出てみると、|窶《やつ》れた志津子が、すっと若林に寄ってきた。
「どうなさったの?」
と囁くように言う。瞳が|潤《うる》んでくる。
「ごめん。カゼひいちまってね。君にうつしたら困るから休んでたんだ」
若林は言った。
その日も志津子を送りながら、小網代のフリートのクルーザーに寄った。禁断の実の味を覚えていた志津子は浅ましいほど激しく反応する。
その後、若林は小網代のシーボニア・ヨット・クラブのマンションを買った。そこを舞台に、週に二度ほどの割りで志津子は若林の体に|溺《おぼ》れた……。
一方、狩野の女になった女中の順子は、志津子の父の野村陸将補に、食事に混ぜて、せっせとヘロインを食わせていた。
野村が次第にヘロインにむしばまれていき、ヘロインが入った食事を終ってから三時間もするといらいらするようになると、狩野は、野村が家にいるとき愛用しているパイプのタバコの刻みにヘロインの粉を混ぜるようにと指示した。
知らずにヘロインを体に吸収しているうちにがっくりと野村の性欲がおとろえたために、夜もしばしば狩野に会えるようになった順子は、狩野の言うがままに動いた。
ヘロイン入りのパイプ・タバコを常用するようになった野村は、陸上自衛隊第二武器補給所長としての勤めから戻ってくると、夕食もそこそこに、一人きりで部屋に引きこもり、うとうととしては目覚めるとパイプを引き寄せ、桃源境をさまようようになった。
|溺《でき》|愛《あい》していた娘の志津子や息子の孫たちへの関心も薄らいだようだ。順子の部屋に忍んでくることもなくなる。
その頃を見計らって、狩野は一時的に、野村のパイプ・タバコ――イギリス物のバルカン・ソブラニーとアメリカ物のボンド・ストリートを自分で混ぜたものを野村は好んだ――にヘロインを混入させることを順子にやめさせた。
ヘロインが断たれてから二日目に野村は気が狂ったようになった。
自分を快楽の国に連れていってくれていたのがヘロインであることをとっくに知っていたらしく、腹をくだしたと称して勤めを休んだ野村は順子を広い|東屋《あずまや》に呼び、
「君だろう、パイプ・タバコに白い粉を混ぜたのは?」
と詰問する。
「知らないわ」
順子は|怯《おび》えた表情で首を振った。
「|嘘《うそ》をつけ! よこせ、あとはどこに隠してるんだ、あの白い粉を!」
野村は順子の首を絞めようとした。いつもとは人相が一変している。
「やめて! いつも売ってくれる人と連絡がとれないのよ」
順子は狩野に教えられた通りのセリフを口にした。あの薬がヘロインだということも打ち明けられているが、狩野に夢中の順子は狩野に盲従であった。
「やっぱし、あれはお前の仕業だったんだな? 私をヘロイン中毒にさせて、どうしようという|魂《こん》|胆《たん》だった?」
野村は|呻《うめ》いた。
「ヘロインですって? 何をおっしゃるの?」
順子は驚いたふりをした。
「とぼけるな! 貴様は私のパイプ・タバコにヘロインを混ぜた」
「ヘロインだなんて知らなかったわ。精力剤だといって買わされてたの……|旦《だん》|那《な》様がちっとも本当には可愛がってくださらないんで……でも、済みませんでした。二度とあんな薬なんか買わないわ。許して……」
順子は土下座した。
「待て。待ってくれ!……そんな意味じゃないんだ。あれが欲しいんだ。あれが無いと、私はこの通りにどうかなってしまうんだ。体じゅうが引き裂けそうだし、息も苦しい。頼む、何とかして手に入れてくれ」
順子を立たせた野村は、その腿にしがみついて哀願した。
「…………」
「私はどうせ来年は定年退職だ。退職金は入るし、この屋敷を抵当に入れて銀行から金を借りても、寝たっきりの女房は気がつくまい。この屋敷をカタに借りた金があれば、薬代は私が死ぬときまで何とか続くだろう。借りた金を銀行に預金すれば、借金の利子もだいぶ助かるだろうし……だから、私がヘロイン代は出す。私は、あの薬が無いことには、どうしようもない体になったんだ。君にも責任がある」
と、順子の下腹部に|不精髭《ぶしょうひげ》をはやした頬をこすりつける。
「でも、お屋敷を抵当に入れてしまったら、わたしにくださる遺産はどうなるの?」
「それは退職金のうちから前払いする。頼む順子、薬を手に入れてくれ」
野村陸将補は、恥も何も無くなっていた。
「何とかして、いつも売ってくれてる人に連絡をとってみるわ。お部屋を暗くし、休んどいてくださいね」
順子は野村を助け起こした。
一時間後、順子に手引きされた狩野は、身だしなみがいいセールスマンといった格好で裏門から逗子の野村の屋敷の庭に入った。濃いサン・グラスを掛け、東屋のベンチに腰を降ろし、タバコをふかしながら待つ。アタッシェ・ケースをテーブルに置いていた。
順子に手を引かれて、脂汗を浮かべた野村がやってきた。和服の着流しだ。テーブルをはさんで狩野と向いあったベンチに腰を降ろすと、
「き、君か……」
と呻く。
順子は母屋のほうに去った。
「だいぶお苦しそうですね。仕入れに神戸に出かけてましてご迷感おかけしました」
狩野は笑った。
「貴様……いや、君……どうして順子を知ったんだ?」
野村は呻いた。
「あの|女《ひと》が、ある精神分析の医者のところを訪れて、悩みを打ち明けてたのを、ちょうど薬の配達に来ていた私が偶然に聞いてしまったんですよ。私はこれでも、表の商売は、ある一流の医薬メーカーの販売促進部員でしてね」
「精神分析? 悩み?」
「ええ。あなたの愛しかたが中途半端なんで、あの|女《ひと》は|悶《もだ》えてたんですよ……でも、そんなことは今はどうでもいいでしょう。どうなんです。薬は欲しくないんですか? 欲しくないんなら退散しますよ」
狩野は立ち上がりかけた。
「待ってくれ。買う。いくらだ?」
野村はあわてた。
「一グラム五万円が相場ですがね。うちは良心的に、グラム二万円で取り引き願っています。タバコに混ぜて吸うような無駄なことをしないで、蒸留水で溶いて静脈注射すれば、一回に〇・〇二グラム、一日に〇・一グラムで充分ですよ。うちのは、よそとちがって、ブドウ糖や味の素などで水増ししてませんからね」
「いま、いくらある?」
「五グラムです」
「いま五万円しかない。残金は必ず順子に持っていかせるから、全部頼む」
「こういう取り引きはその場で決済するのが鉄則です」
「待ってくれ。順子から借りてくる」
「五グラム全部お買いあげくださったら、注射器のセットと蒸留水のアンプルをサーヴィスに差しあげましょう」
狩野は言った。
月日が過ぎ、初冬がきた。
野村はますます重症の麻薬中毒になっていた。すでに土地の一部を抵当にして銀行から金を借りている。
そして、チーム・パラダイスの新東邦商事ダループは、新東邦汽船という会社をでっちあげ、緑島への定期便や遊覧船に改造するという名目で、三隻の二万トン級の大型上陸用艦艇と、三十トン級の上陸用舟艇三十隻を安く買っていた。
買ったのは、パナマの船会社からだ。その会社は、第二次大戦後、米軍からそれらの舟艇をタダ同然で払いさげを受けたが、朝鮮戦争のときに米軍に逆リースして|莫《ばく》|大《だい》な利益をあげたあとは、ほとんど遊ばしてあったのだ。
新東邦汽船はそれらの舟艇を横浜港で受け取ると、ドックでエンジンなどをオーヴァーホールさせた。会社では、船長や船員たちを高給を出して雇ってあったから、オーヴァーホールが終った大型上陸用艦艇の腹のなかに舟艇を積みこませ、緑島の|洞《どう》|窟《くつ》のドックに運ばせた。
緑島にはすでに、クルーザー“ディアボロ二世”を使って、何回にも分けてハーレムの女たちを運んであった。そのほかに、|誘《ゆう》|拐《かい》した日本の美女百名ほどもだ。
緑島に着いた船長たちも高級船員たちも下級船員たちも、女とマリファナに|溺《おぼ》れて、桂木たちの命令通りに動いた。
彼等は、三隻の上陸用艦艇と三十隻の上陸用舟艇を海上自衛隊のものそっくりに塗り替えた。島を歩くときには、チーム・パラダイスがアメ横で手に入れてきた海上自衛隊員の制服制帽をつけることが義務づけられた。
制服とか制帽とかは、いきなり身につけたのではまったくサマにならないものだが、何日もつけているうちに似合って、不自然でなくなるものだ。
一方ではチーム・パラダイスの狩野と若林は、野村と副官と通信主任も、彼等の妻や娘を通じて、麻薬中毒にさせていた。
いよいよ決行の日が近づいた。
協力すればそれぞれ五十キロのヘロインを与えられると約束され、手付けとして十キロのヘロインをもらった野村たち第二武器補給処の責任者たちは、総司令部から通報がきた、ということで、地対空誘導弾のミサイル・ホーク発射装置三基とそのミサイル本体九十発をはじめとする|厖《ぼう》|大《だい》な武器弾薬を、陸上自衛隊南部補給支処に移動するための準備をすみやかに開始しろ、と部下たちに命令し、
「このことは、七十二年に米国が小部隊だけを残して韓国から本国に引き揚げ、日本の自衛隊が韓国に出兵して駐留し、北鮮軍の侵略にそなえるための作戦の一端として行なわれる。重大な国家機密であるから、絶対に外部に漏らさないように。秘密を漏らした者は自衛隊法によって厳重に処罪される」
と、|嚇《おど》しをかけた。
結果として、麻薬に溺れた野村をチーム・パラダイスの意のまま動かすには、志津子を偽装誘拐するという作戦は不必要になったわけだ。だから志津子は緑島に運ばれ、しばらくは若林の専用の女として監禁される。
陸上自衛隊第二武器補給処の武器弾薬を移動させる準備は十日間で完了した。
いよいよ決行の日の夜がやってきた。横須賀の補給処は濃霧に包まれていた。濃霧のなかから、幻のように、海上自衛隊のものに|艤《ぎ》|装《そう》された三隻の大型上陸用艦艇が姿を現わした。
補給処の専用|埠《ふ》|頭《とう》には、霧に濡れながら、野村陸将補をはじめとする高級将校三十名ほどが威儀を正して並び、そのうしろには八百名近い隊員たちが控えている。
スピードを落した大型上陸用艦艇の一隻の巨大な前扉が開き、二隻の上陸用舟艇がその腹のなかから滑り出た。
波を|蹴《け》たてて近づいてきた二隻の上陸用舟艇は専用埠頭にぴったりと接岸した。海将の制服をつけた桂木をはじめとするチーム・パラダイスの面々、それに船員たちのなかから|択《よ》って海上自衛隊の高級将校の格好をさせられた男たちが合計二十名ほど、身軽に埠頭に跳び降りる。
若林だけは大型上陸用艦艇に残っていた。海上自衛隊員に化けた船員たちが、万に一つの場合でも反乱を起すことがないように、厚木の米海軍の黒人を買収して武器庫から盗みださせたM16自動ライフルを胸に抱いて|睨《にら》みをきかせている。
桂木が野村と握手した。もっともらしく、補給処の武器弾薬の偽造の引き渡し書類を手渡す。そして、
「陸上自衛隊の諸君、この悪天候のなかをご苦労さんです。所長さんからお聞きになったとは思うが、夜明けまでには船積みを完了していただきたく、海上自衛隊からもお願いする」
と、言った。
野村の命令で、隊員たちは散り、大型トラックやウェーポン・キャリアに乗りこんだ。エンジンが一斉に|吠《ほ》え、昼をあざむく照明が点灯された。
虐殺パーティ
あとの二十八隻の三十トン級の上陸用舟艇も、三隻の二万トン級の母船の大型上陸用艦艇の腹のドックから滑り出た。
陸上自衛隊第二補給処の専用埠頭に近づくと、鉄の前扉を前に倒し、それを幅広い渡し板のように岩壁に渡す。
補給処から、陸上自衛隊員たちが、大型トラックやウェーポン・キャリア、それにトレーラーなどで、まず地対空のミサイルのホーク三基と、そのミサイルの弾体九十発を運んできた。
それらのトラックやトレーラーは、ミサイルの発射装置や弾体を乗せたまま、前扉をタイアで踏みしめて、数隻の上陸用舟艇のなかに収まった。
次いで、対戦車誘導弾MAT二門とそのロケット五十発が別の上陸用舟艇にトレーラーごと積まれた。
別の上陸用舟艇には、三百ミリ地対地ロケット発射装置四基とそのロケット弾百発が積まれる。
さまざまな無反動砲、高射砲、高射機関銃、迫撃砲、|榴弾《りゅうだん》砲、キャノン砲、機関銃、自動ライフル、拳銃などのおびただしい数量が残りの上陸用舟艇に積まれた。
荷を積まれたすべての上陸用舟艇は、三隻の母船の腹のなかに戻り、母船は前扉を引き揚げて閉じると岸壁に接岸する。
その三隻に、信管を外した数万トンの砲弾、仕切りがついた箱に入れられた信管、それに機関銃弾や小銃弾や拳銃弾数十トンがクレーンを使って積みこまれた。
さらにボーイング・バートルX一一四チヌークの超大型双発ヘリ二機、川崎バートルKX一〇七三機、ベル四七小型ヘリ二十機、シコルスキーS六一ヘリコプター五機も積まれる。
そして三隻の艦艇の予備|油《ゆ》|槽《そう》には、一万リッターの百オクタン・ガソリンが積まれた。航空機用のやつだ。
荷積みが終了したのは、午前五時頃であった。まだ霧が深い。海上自衛隊の高官に化けた桂木たちは、野村陸将補たちと挙手の礼を交わし、上陸用艦艇に戻った。
重荷に|吃《きっ》|水《すい》|線《せん》を深くさげた三隻の大型上陸用艦艇は、霧笛を響かせながら岸壁を離れた。麻薬のために悪魔に魂を売りとばした野村が挙手の礼を保ったままよろめくのが見えた。
艦隊が岸壁を一キロほど離れると、桂木が爆笑をはじけさせる。若林も声を出して大笑いした。
レーダーを使い、濃霧の浦賀水道を抜けた艦隊は、一度西南に針路をとった。
伊豆の突端の|石《い》|廊《ろう》|崎《ざき》の南方二十カイリのあたりで針路を変え、緑島に向けて南下する。
緑島に艦隊が近づいた時は、もう夜になっていた。その島の北側の断崖の下にある洞窟には、自然の岩そっくりに見せかけた扉が閉じているので、入り口は狭い。
ベルの小型ヘリコプターで岸にあがった黒須が、十分ほどして洞窟のなかにあるドックから油圧装置を操作し、洞窟の偽装扉を開いた。
二百トンもあるその扉は、激しい渦巻を残して海中に沈み、洞窟の巨大な出入り口が口を開いた。洞窟の要所要所には灯がついている。
その洞窟のなかに、三隻からなる艦隊は静々と入っていった。洞窟を奥に進み、直径二キロほどの巨大な自然のプールを改造したドックに着いた。
その夜から、さっそく自衛隊からの詐取品の陸揚げがはじまった。陸揚げが終り、地対空ミサイルや地対地ロケットや対戦車用誘導ミサイル、それに大砲のうち二十門ほどを島の要所要所に据えつけ終るまでには一と月ほどかかった。
一方、本州のほうでは、翌日になって陸上自衛隊第二補給処のおびただしい兵器や弾薬、それにヘリや車輛が詐取されたことが判明し、日本中が引っくり返らんばかりの騒ぎになっていた。
第二補給処の司令部の建物には、幕僚たちや|調査隊《シー・アイ・シー》の幹部たちが続々と詰めかけ、野村陸将補たち責任者への|苛《か》|酷《こく》な追及がはじまった。
尋問がはじめられてから、二時間後、司令部の建物は粉々になって吹っ飛んだ。野村たちは即死した。
チーム・パラダイスの狩野が、第二補給処の武器弾薬が隊員たちによって搬出されているとき、司令部の床下に大型のカバンに入れた時限爆弾を隠しておいたからだ。
同じ頃、野村の逗子の自宅も時限爆弾によって爆破され、女中の順子も爆死した。
ミサイルまでも詐取されたのだから、第二補給処事件は共産国の仕業にちがいない、ということになった。たとえ、チーム・パラダイスの仕業だと分ったところで、緑島に攻撃をかけるには、自衛隊は大きな犠牲を覚悟した上でなければ行動に移れない。
奪われたなかにある三基のミサイル・ホークのレーダーは超低空から突っこんでくるジェット戦闘機を捕える能力があるし、二十基の三五ミリ双連高射機関砲はレーダーとコンピューターが連動して命中率は高い。
対戦車誘導弾MATは対艦船としても使えるし、三十型ロケットは射程三十キロを誇るから、うっかり海から近づくわけにもいかない。
緑島で、武器弾薬の陸揚げとロケットやミサイル・ラウンチャーの地上据えつけにこき使われた船員たちは、その間は女を抱くことも出来ず、マリファナの吸飲も制限されていた。
したがって百名を越す彼らは、欲求不満から、暴動を起しかねないようにまでなっていた。その彼らを、桂木たちは、仕事が終れば毎日|放《ほう》|埓《らつ》な生活を送らせる、と約束してなだめてあった。
そして、あとは少人数でも仕事をなしとげることが出来るまでになった日が来た。真冬だが、その島では昼間は暖かい。
桂木や若林たちのチーム・パラダイスの面々は、船員たちを島ホテルの前の砂浜に集めた。桂木は、
「みんな、ご苦労さん。これで君たちの仕事は終った。あとは、ただただ遊び暮していてくれればいい。もっとも、どうしても手伝ってもらわねばならない仕事があるときだけはよろしく頼むが」
と、言う。
「女はどこだ! マリファナは? 酒は?」
作業服をまとった船員たちは|拳《こぶし》を突きだしてわめいた。
「いま、頼みはすべてかなえてやる」
桂木は腰のホルスターから、ゆっくりと拳銃を抜いた。
「畜生……」
船員たちは血相を変えてあとじさった。
「あわてるな。女たちを呼ぶんだ」
桂木は銃口を空に向けて引き金をガク引きした。
銃声が空に消えると同時に、ホテルのドアが開き、誘拐してきてあった美女百人ほどが駆け寄った、船員たちと同数だ。
みんな、ビキニのパンティとブラジャーの上に、簡単に脱げるムームーのようなドレスをつけている。毛布で包んだものを抱えている。
女たちも一と月も男と触れずに過ごしたので、欲望を野生のもののように輝かせていた。飢えきった船員たちが喚声をあげて跳びかかってくるのを見て、わざと逃げながら|挑発《ちょうはつ》する。
だが、五分もたたぬうちにそれぞれの相手は決った。ホモやレズはいないようだ。女たちが拡げた毛布のなかには、|酒《さけ》|壜《びん》や焼き肉やイセエビの蒸しものなど……それに島で栽培された大麻の樹脂や葉で作ったハッシーシや、やはり島で育てたケシのネギ坊主の実を傷つけて取ったアヘンを練り固めたものなどが入っていた。
チーム・パラダイスの面々はティー・パーティに加わらずに、船員たちが騒ぎにまぎれて脱走を企てないように見張った。
だが、その心配は無用のようであった。
船員たちも女たちも、快楽に|貪《どん》|婪《らん》であった。|溜《た》まりきっているので一回目はあっという間に終ったが、二回目の交わりをしながら、アルコールとパイプに詰めて火をつけたハッシーシを交互に体に入れる。
南の陽が輝く下で、男たちはやがて女をチェンジしはじめた。|真鍮《しんちゅう》製のナタマメ・ギセルに詰めたアヘンを、流木を集めて起した焚き火で|炙《あぶ》り、その煙を吸う者も出てくる。
陽が傾き、夕暮れが迫ったとき、まだ動いているのは四、五組しかいなかった。だが彼等も、深い酔いと疲れで、抱きあったまま眠りこむ。
桂木が狩野に目くばせした。
狩野はホテルの地下から、五丁の六四式自動ライフルと弾倉帯、それに|錐《きり》のような形をしたナイフを持ってきた。
若林たちは、ライフルと弾倉と|錐《すい》|刀《とう》を一組ずつ受け取った。自動ライフルに弾倉を|装《そう》|填《てん》し、それを左手に、錐刀を右手に持って散った。
若林は、ホテルの前から一番遠い位置で、ほとんど意識がないままに時々本能的に腰を動かしている男に歩み寄った。その下の女は男の動きに反応を示さない。
二人の横に|蹲《うずくま》っても二人とも気付いた様子はまったく無かった。
木彫りの面のように無表情になった若林は、男の首のうしろ側の、頭と首とのあいだに錐刀を当てた。
錐刀をぐっと押す。皮膚と肉を貫いた錐刀は|延《えん》|髄《ずい》にくいこむ。脳髄の下端にある延髄は、呼吸と心臓の活動の|中枢《ちゅうすう》だ。そこが傷つくと一コロだ。
だから、たったの一突きで男は|痙《けい》|攣《れん》し、意識が無いままに即死する。死に気付かぬ女は、意識不明のまま、男の痙攣に応えた。
月光のもとで、若林は次の男に移った。
向うでは、桂木、黒須、狩野、それに正岡がそれぞれ非情な仕事を遂行している。
若林が五人目の男を片付けたとき、桂木がいるほうで銃声が響いた。刺殺に失敗して銃を使ったのだ。
ハッとした若林は六四式の引き金に左の人差し指を掛けた。だが、若林が狙っている男は銃声を聞いても何も反応を示さない。聞えないのであろう。たとえ聞えても、それを自分の身の危険と結びつけるだけの意識を失っているのだ。
それは、ほかの男たちにも聞えた。女たちも、目を開く者はいたが、すぐに再び寝息をたてる。
百名を越す船員たちを五人で殺し終るまでには、午前零時近くまでかかった。さすがに真冬だから、南の島とはいえ、服をつけていても寒い。
若林たちは死体を女から引き離し、波打ち際の近くに集めた。その頃になって、女たちが寒さで目を覚ます。
死体の山を見た女たちは悲鳴をあげて逃げようとしたが、麻薬が体に残っているので機敏な行動がとれなかった。
「逃げてどこに行く?――」
桂木が女たちに向って叫んだ。
「泳いで逃げきることが出来ると思ってるのか? 馬鹿な真似はよせ。それとも、お前たちで二万トンもの上陸用艦艇を動かせるとでも思ってるのか? もっとも、船にたどり着くまでには、隠しスウィッチがついた油圧や電動の扉が幾つもあるから、船を捜し当てることも無理だろうがな。男たちは、反乱を企てたんで処分したんだ。お前たち女には絶対に危害を加えないから安心しろ。殺す気なら、いつでもやれたんだ」
「分ったわ――」
一人の女が|呂《ろ》|律《れつ》が回らぬ声で答え、
「でも……でも、わたしたちだって|生《なま》|身《み》の人間だわ。男の人がいなくなったらどうするのよ?」
と、呻く。
「心配するな。お前たちがお姫様だとは思ってないさ。俺たちが可愛がってやるから安心しろ」
狩野が笑った。
「たった五人では、いつ可愛がってもらえる順番が廻ってくるか分らないわ」
「いつも可愛がってもらおうと思ったら、もっと魅力的になるんだな。これからはお前たちハーレムの女たちのあいだで戦争だ。俺たちの|寵愛《ちょうあい》を奪いあってな。さあ、みんな部屋に戻れ。命令にしたがわない者は標的がわりにしてやる」
黒須が、空に向けて六四式自動ライフルをフル・オートでブッ放した。女たちは、つまずいたり転げたりしながらホテルのなかに逃げ込んだ。
若林たちは死体を、超低圧タイアをはかせ砂地でも自由に走れるようにした八トン積みトラックに積む。そのトラックは、バズーカ・ロケットの発射筒五門と、ロケット弾二百発を積んだトレーラーを|曳《ひ》いている。
トラックはジャングルのなかに切り開かれたガタガタ道を、ノコギリ山と名づけた山の手前まで進んだ。
その山は、中腹から上には野生の山羊が|群《ぐん》|棲《せい》しているほどけわしく、いたるところに|断《だん》|崖《がい》がある。
トレーラーはトラックから切り離された。トラックは、断崖の下に向う。停まったトラックから死体が降ろされ、一か所に積まれる。トラックは、トレーラーのところに戻ってくる。トレーラーから五門のバズーカ砲とロケット弾が降ろされた。
若林たちは横一列に並んだ。死体の群れとの距離はほぼ百メーターだ。
バズーカ砲をかついだ桂木がまず第一発を射つ。バズーカ砲の尻から高圧ガスが噴出し、燃焼する推薬の炎の尾を曳いた。バズーカ・ロケット弾は、目に見えるほどのスピードで、弧を描きながら飛んでいく。
そいつは外れた。死体の山の三十メーターほど手前に着弾して火柱を吹きあげる。続いて黒須が射ったが、そいつは高く着弾しすぎて、断崖から岩を吹っ飛ばす。慣れてないので若林ももう少しのところで外れた。狩野と正岡もだ。だが、二回目からは、全員がほぼ狙った場所に着弾させることが出来るようになった。特に若林と狩野は正確だ。
死体はバラバラに|千《ち》|切《ぎ》れて吹っ飛び続けた。吹っ飛んだ手や脚にも若林と狩野は命中させることが出来た。
二百発のロケット弾を射ち終ったとき百を越える死体は、いずれも肉片や骨片となっていた。泳ぎのプールが出来るほどの大きな穴が地面にあいた。肉片や骨片は、トンビやカラスが片付けてくれるだろう。
ホテルに戻った若林たちは、二階の大広間に、石黒ビルから連れてきた世界各国の女たちと志津子を集める。
「さあ、これからは俺たちのパーティだ」
桂木が叫んだ。
楽 園
それから二年以上が過ぎた。
陸上自衛隊第二武器補給処から大量の武器弾薬や航空機などが詐取された事件は、次第に国民の記憶から薄れていき、その頃には話題になることも少なくなった。
無論、捜査当局は捜査を続けていたが、相手が武器弾薬を使って報復してくるのではないかという不安から熱が入らないようであった。
そして犯人たちであるチーム・パラダイスの男たちは、緑島で週の三分の二を過ごし、あとの三分の一は東京で過ごす優雅な日々を送っていた。交代でだから、緑島が無防備になることは無い。
若林が島に放った五|番《つがい》ずつの世界各国のシカ類は、二年以上のあいだに大いに繁殖したが、同時に輸入したピューマやジャガーやチータなどの肉食獣も増えたので、ジャングルの若木が食い尽されてしまうような事態にはならなかった。
一年半ほどのあいだは、ウサギやキジや冬になると人工沼やクリークに何万羽となく集ってくるカモを射って楽しんでいた若林は、シカやイノシシや猛獣類が大きく増えてくると、軍用ライフルを使って大物猟を楽しむようになった。
大物猟用と島の番犬用として、若林は紀州犬とプロット・ハウンドを一群ずつ島で飼ったが、犬肉が大好きなピューマやジャガーが弱い犬をさらっていったり、追いつめられたときに逆襲して殺したりするので、犬が増えて困るということにもならなかった。
ハーレムの女たちのうちにも病死する者が三か月に一人ぐらいの割りで出たが、東京から新しい女をさらってくるので、ハーレムの女の群れは五百人に増えていた。魅力が薄れた女たちは雑役婦として使われる。そして、チーム・パラダイスの五人の男たちの誰のタネとも分らぬ赤ん坊が、五十人以上も生れていた。
食糧の心配はまったく無かった。地下の水力発電所で起される電気を利用した地下の巨大な冷凍室には一万トン以上の肉と粉ミルクが常備され、米や小麦は穀倉に五十万トンが用意されているからだ。野菜や果物は雑役の女たちが、クリークのあいだの畠で作る。
新鮮な肉や魚や|甲《こう》|殻《かく》類が食いたいときには若林が射った鳥やケモノや、狩野や正岡や黒須がクリークや人工沼で|投《と》|網《あみ》で|獲《と》った川魚や、上陸用舟艇を改造したトロール船で獲った海のものを食卓に乗せればいい。
誘拐してきたハーレムの女たちのうちには女医や看護婦たちも三十人ほどいた。だから、島で生れた赤ん坊たちは、大多数が成長して、十数年後にはチーム・パラダイスの面々の忠実な部下となることであろう。女の赤ん坊は、成長すればハーレムの女とすればいい。
春のある土曜の夜、五人の男たちは全員が島に集った。彼等チーム・パラダイスは、自衛隊から捲きあげた三十機のヘリのほかに、東京と緑島の平時の往復用として、デ・ハヴィランド・ビーヴァーの万能軽飛行艇とグラマン・アルバトロスの水陸両用艇を正規のルートで買って使っていた。
カナダやアラスカのプロ・ハンターや医者に愛用されているデ・ハヴィランド・ビーヴァーは、|頑丈《がんじょう》なボディと荒天での安定性に定評がある。そいつはフロートをつけたままにしておき、緑島の人工沼に発着する。巡航速度二百三十キロ、航続距離八百五十だし、海上に不時着しても沈まないからいい。離陸距離は四百メーターそこそこで、長さ一キロを越える人工沼は水上飛行場として充分すぎるほどだ。
双発のグラマン・アルバトロスのほうは、耐波性にすぐれ、相当に海が荒れているときでも離水が可能だ。日本製でまだ一般には市販されてない新明和の対潜哨戒飛行艇PXSほどのことは無いが……。
航続距離二千五百キロ近いその大型アルバトロスは島の海岸近くで発着し、使わないときには海岸に建てられたコンクリート造りの格納庫に仕舞われる。
ハーレムの女たちのうち二十人ほどをはべらせ、海辺の焚き火を囲んで|亀《かめ》のスープからはじまる|晩《ばん》|餐《さん》をアルコールと共に|摂《と》りながら、桂木が、
「この緑島をこの世の楽園に造りあげるために、予想以上の金がかかった。だから、あと一つだけ、最後の大仕事をして、我々のあとの世代の者たちも食うに困らないだけの金を残したい」
と提案した。
「どこを襲う?」
若林は尋ねた。
「色々と候補があるが、まだ決めないでいいだろう。私は君たちにやる気があるかどうかを|尋《き》きたい」
桂木は言った。
「やる気はあるぜ。こうやって山海の珍味をくらい、上等な酒を飲み、麻薬に|痺《しび》れて女たちとたわむれるのも、毎日となると飽きがくる」
狩野が答えた。
「ほかの諸君は?」
「無理してまた稼ぐこともないと思うが、皆が賛成するなら俺は反対しない」
黒須が答えた。
「俺もだ」
と、言ったのは正岡だ。
「目標次第だ。何か大きな目標に向って熱中している時が俺は自分が生きていることを実感できるからな」
若林は答えた。
最後の獲物が日銀本店の大金庫室にある還流現金と決められたのは、夏に入りかけた頃であった。その頃、日銀本店は、新館建設の第一期工事が秋までの完成を目ざして急ピッチで進められていた。
インフレにつぐインフレに加えて、高度成長経済のために日銀券の増発は急カーヴを描き、旧館では狭い上に非能率なので、地上十階地下五階の新館が地上六階地下四階の旧館の隣りに建てられつつあるわけだ。
新館の四階は将来の支店とのオン・ライン・システムにそなえてコンピューターの専用フロアとなり、大金庫室は地下三、四、五階で床面積二万平方メーター近い。地下には駐車場も出来る。
第一期工事が終れば、明治二十九年に建てられたイタリー・ルネッサンス様式で重要文化財級の正面玄関周辺をのぞいて、旧館は取り壊されて第二期工事に入るが、完成は昭和四十八年が目標だ。
還流現金というのは、若林が菱和銀行町田本店の現金輸送車を襲う際に説明したように、一般の市中銀行から日銀に持ちこまれる、使い古した紙幣や硬貨だ。
一日に紙幣だけでも二百億円が日銀に持ちこまれ、一定期間のあいだ大金庫室に保管しておき、その間に偽札やすり切れて新しい紙幣に替えないと無理なものなどがチェックされる。
日銀といっても本店のほかに支店が多いから、本店に一日に持ちこまれる還流現金のうちの紙幣は約七十億だ。だが一日に七十億でも、四日から一週間分がストックされるから、日銀本店の大金庫には常に三百五十億前後の還流現金が保管されていることになる。
無論、還流現金は新札でないから通しナンバーではなく、奪ってから自由に使えてアシがつく心配がないクール・マネーだ。
日銀本店には、そのほかに、常に流通量の約二倍の莫大な札束が保管されているが、そいつは造幣局から直行してきた通しナンバーのホット・マネーだから、奪っても|迂《う》|闊《かつ》には使えない。
チーム・パラダイスは、日銀本店の新館新築工事が完成に近づいた頃、旧館の大金庫室から新館の大金庫室に移される筈の還流現金を狙うことにしたのだ。そのためには、還流現金が新館に移される正確な日時を知らないとならない。
真夏のある日、日銀本店の発券局監査課次長横井守は不運に見舞われた。
東大法学部卒業の三十八歳の横井は、父が信州銀行頭取、母が諏訪の国際的なカメラ工業の社長の娘というエリートだ。したがって、将来は保守党の公認を得て信州から代議士に打って出る積りで日銀に籍を置いている。給料など当てにしなくとも、信州銀行とカメラ・メーカーの株からの配当だけで同年代のサラリーマンの十倍以上の金を得ていた。
横井は箱根と軽井沢と南房白浜に別荘を持っていた。家族を白浜の海の別荘にハイヤーで送らせた横井は、シヴォレー・カマロを運転して中仙道を軽井沢に向った。三日間の公休をとってある。
途中、二十一歳の金髪の混血娘が冷房が効いたそのカマロに乗りこんでくる。横井の愛人の高見絵魔だ。
旧軽のカラマツと白樺の林のなかにある別荘で絵魔とただれたような情事にふけっていた横井は――無論、管理人には多額の口止め料を払ってあった――、二日目の深夜、|執《しつ》|拗《よう》に鳴る電話のベルに舌打ちした。
もし妻からの電話なら、新潟支店に出張と言ってある|嘘《うそ》がバレてしまう。|苦《にが》|虫《むし》を噛み|潰《つぶ》しているうちに、五分ほど鳴り続けた電話はやんだ。ほっとして絵魔の乳房のあいだに顔を埋めた横井は、再び硬くなってくるのを覚えた。そのとき聞き覚えのある管理人のバイクの音が林のなかを入ってきた。
バイクは寝室の近くで停まった。
「旦那様、夜分まことに申しわけありません。日銀の秘書課から電話で、重要な話があるので起してくれ、と言われましたので……今度電話が鳴ったら、受話器を取ってくれませんか?」
と、叫ぶ。
「分った。お休み」
横井は|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に怒鳴り返した。
バイクが走り去る音が消えた頃、再び電話が鳴った。横井は絵魔の背後から|插《さ》しながら受話器を取り上げた。
「横井次長ですね。こちら秘書課の竹山と申します。実は還流現金のうちの三百万が抜き取られる事件が起りまして……内部犯行の線が強いので、警察には内緒で捜査しているのですが、何しろ次長さんがいらっしゃらないことにはどうにもならなくて……高崎駅前にうちの車が待ってますから、出来るだけ早くその車に乗ってください」
電話の声は狩野であった。
「君は明日、電車でここを出てくれ。一緒だとまずい」
絵魔に言った横井は、|泡《あわ》をくらった表情でシャワーを浴び、服をつけると、カマロに乗った。
そのカマロが旧道のメイン・ストリートに抜ける細い道を五百メーターほど走ったとき、前をふさいでいる東京ナンバーの車があった。
二人の男が降りる。若林と黒須だ。
「横井さんですね。警視庁の者です」
と、カマロの助手席のドアを開く。
|碓《うす》|氷《い》のつづら折りのカーヴからカマロごと跳びだし、数百メーターの断崖を転落して炎上死した横井の死は事故死ということになった……。
そして、九月も終りに近づいたある深夜、日銀本店では、百名を越す警備員に見守られて、白い上っ張りをつけた日銀の出納課員や管理課員たちが、第一期完成式を近日に控えた新館に向けて、旧館の中庭を、五つの木箱を乗せた手押し車を何十台も運んでいた。その日銀独特の木箱一つには、一万円札だと一億五千万円が詰められている。箱には封印と鍵が掛けられている。
その日銀本店のほぼ上空四千メーターを、二機の大型ヘリが旋回していた。ボーイング・バートル二機だ。そのほかに数キロ離れたところの上空に二機のシコルスキーS六一大型ヘリがいる。日銀からは、距離が遠いので、それらのヘリの爆音はかすかにしか聞えない。
日銀のはるか上空にいるボーイング・バートルの下腹についた望遠レンズに連結したスクリーンを見ている若林には、日銀の中庭の様子がはっきりと分った。
彼等は、数千億の九月決算各会社の法人税納税資金を新館の大金庫室に移したあと、数百億の還流現金を移しはじめているのだ。
|爽《さわ》やかな笑いを浮かべた若林は、マイクに向って、
「決行!」
と叫んだ。ボーイングの高度を急激に落していく。もう一機のボーイングを操縦する狩野も高度を落す。離れていた黒須と正岡が操縦するシコルスキーが、日銀の上空に近寄ってくる。
聞えはじめたヘリの爆音に日銀中庭の警備員や出納課員たち、それに管理課員たちは、足を止めて上空を仰ぎ見た。
その時、若林たちは、コンピューターと爆弾倉に連結したスウィッチを次々に押していく。四機のヘリの下腹が口を開き、キャノン砲弾を改造した爆弾が投下されていく。
爆弾は、日銀の新館と旧館の中庭に面した出入り口に着弾し、|凄《すさ》まじい火柱を吹き上げた。出入り口の近くの建物は崩れてふさがれ、中庭の行員たちは、爆弾やコンクリートの破片を浴びて即死したり、爆風や爆煙をくらって重傷を負ったり気絶したりする。
館内に残っていた行員たちは、あわてて非常電話に跳びついた。しかし、続いて落ちてくる爆弾によって電線はズタズタに切断されている。
その時、ゆるやかな弧を描いて飛んできた三十型SSMロケット弾が日銀のまわり、神田一体の主要交差点にあるビルを直撃した。
海上に停めた大型上陸用艦艇から、桂木がロケット・ラウンチャーを操作しているのだ。爆発音と火柱を見て、日銀に直行しようとしていたパトカーの群れは、崩れ落ちて交差点を|塞《ふさ》いだビルの|残《ざん》|骸《がい》にはばまれ、それ以上近づくことが出来ない。四機のヘリは下腹の投光器をスウィッチ・オンにし、やっと火炎が鎮まった日銀の中庭に降下した。重機関銃を乱射しながらだ。
抵抗できる行員たちは誰もいなかった。エンジンを切らずにヘリから跳び降りた若林たちは、爆風でころがっている紙幣入りのおびただしい木箱を、それぞれのヘリの中に運びこむ。
外では三十型ロケットに続いて、射程三十五キロ、速度マッハ二・八のミサイル・ホークが神田周辺にうちこまれ、パニックに襲われた住民たちと警官隊は、逃げ場を争って殺しあいまで始める。
海上からの攻撃が終ってしばらくしてから、四機の大型ヘリは|悠《ゆう》|々《ゆう》と空中に舞い上がった。レーダーを避け低空で海上に逃れると、はるか沖合で前扉を開いて待ちうけていた桂木が乗る二万トン級の大型上陸用艦艇の腹の中にすいこまれる。前扉はおびただしい海水をしたたらせながら閉じられ、その船は緑島に向けられて針路をとった。
奪った還流現金は総額四百三十億八十五万に達した。
|唇《くちびる》に|微笑心《ほほえみこころ》に|拳銃《けんじゅう》
|後《こう》|編《へん》
|大《おお》|藪《やぶ》|春《はる》|彦《ひこ》
平成14年5月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Haruhiko OYABU 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『唇に微笑心に拳銃』昭和53年7月20日初版発行