凩の時
大江志乃夫
目 次
一    小石川後楽園
二    赤坂檜町(一)
三    巨福山建長寺
四    赤坂新坂町
五    麻布龍土町
六    内藤新宿
七    青山北一丁目
八    ロンドン
九    横須賀不入斗町
十    神田三崎町三丁目
十一   芝片門前町
十二   大久保射撃場
十三   日枝山王社
十四   千駄ヶ谷町穏田
十五   二廓四宿
十六   武蔵野
十七   赤坂檜町(二)
十八   青山南一丁目
十九   淀橋柏木
二十   山の手線
二十一  上海
二十二  三宅坂
二十三  京橋南鍋町
二十四  姫路城
二十五  市ヶ谷富久町
二十六  永田町一丁目
二十七  茅ヶ崎海岸
参照文献
あとがき
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一 小石川後楽園
東京の五月のはじめをいろどる新緑が目にまぶしかった。
その新緑の奥深くにつぎつぎと吸いこまれていくひとびとの胸は、いっそうまぶしく輝いていた。
神田川にそって広大な敷地をしめる東京砲兵|工廠《こうしよう》がある。工廠の正門をくぐって、真新しいカーキー色の軍服を着た陸軍の軍人たちが、三々五々、正門からさらに左手の唐門のなかに姿を消していった。一年まえに制定されたばかりの新式の軍服姿の軍人たちであった。
右胸に金色の参謀|飾緒《しよくちよ》をつけているものも、つけていないものもいた。だが、ほとんど全員が授与されたばかりの燦然と輝く金鵄《きんし》勲章を佩用《はいよう》していた。あるものはそれを右肋につけ、あるものはそれを喉下《のどした》につるし、あるものはそれを左胸にさげていた。
右肋のそれは功二級、喉下のそれは功三級、左胸のそれは、功四級か功五級であった。多くが旭日章に金鵄勲章を併佩していたが、金鵄勲章だけしかつけていないものもいた。それは、最近おこなわれたばかりの日露戦争の論功行賞で、かれらの功績がどう評価されたかを示していた。
功四級以上の金鵄勲章だけをつけているものは殊勲甲、旭日章と金鵄勲章を併佩しているものは殊勲乙、旭日章だけのものは勲功の行賞である。さすがに、年功の言いかえにすぎない功労を示す瑞宝章をつけているものはいなかった。
この服装は、その日ここで、なかば公式の会合が開かれることを示していた。金モールとありったけの勲章をかざりたてた黒の正装でなく、カーキー色の軍服に所持する最上位の勲章ひとつだけを佩用するのが、単独の軍装あるいは通常礼装の定めであった。
おなじ等級の勲章のうちでは金鵄勲章が最上位とされる。殊勲甲で標準より一級上の功四級以上の行賞をうけたものは、所持する勲章のなかで金鵄勲章が最上位となる。金鵄勲章所持者にかぎって、所持する最上位の勲章のほかに金鵄勲章を併佩することになっていた。
塀をめぐらした砲兵工廠の広大な敷地にかこまれて、旧水戸藩の名園、小石川の後楽園があった。
現在の後楽園二万坪の庭園は東南のすみが突きでたかたちになっており、その先端に庭園の東門がある。この突きでた部分は、もともと後楽園とは別のかつての水戸藩邸の内庭の一部であった。むかしは広かった内庭の大部分は、工廠のあいつぐ工場拡張のたびごとに工場敷地とされ、つぶされていった。
日露戦争後、わずかに残った内庭の部分は、砲兵工廠の庭園として職員たちの散策や休息の場となっていた。現在の後楽園東門はなかった。内庭と後楽園をへだてていた塀に唐門があり、旧水戸藩以来この唐門が後楽園の門であった。唐門は太平洋戦争の戦災で焼失し、旧内庭が後楽園に取りこまれ、変形の平面をもつ現在の後楽園庭園となった。
関東大震災まで、園内には多くの建物があった。そのうち大きな建物は涵徳亭《かんとくてい》で、明治十三年に失火で全焼したが、翌年再建された。いまでも集会などに利用されているが、現在の涵徳亭は明治四十四年に移築され、位置がわずかに動いている。
後楽園の周囲はすべて砲兵工廠の敷地であった。後楽園は、陸軍部外の民間人からはうかがい知ることができない、陸軍の禁苑であった。天子の園囿《えんゆう》を意味する禁苑という言葉を使っても、決しておおげさではなかった。明治十九年に天皇ついで皇后をむかえ、実際のあつかいも禁苑御料地に準ずるものとされていた。
来日した国賓たちも後楽園をおとずれた。当時の日本の公的な園遊会の会場としては、皇室所有の浜離宮につぐ地位をしめていた。一般人には公開されず、国家の慶事にあたって、砲兵工廠の職員職工、日本赤十字社員にとくに参観を許されることがあった。
後楽園でおこなわれた最大の公式園遊会は、明治三十九年一月にひらかれた満州軍凱旋祝賀会であった。主催は寺内|正毅《まさかた》陸軍大臣で、午前中は各皇族、満州軍総司令官として凱旋した大山|巌《いわお》元帥以下、元老から将官級軍人までの百六十余名、午後は軍、官、および報道関係者など八百七十余名を招いての大園遊会であった。
これを最後に、後楽園は明治期の公的な庭園社交場としての地位を新宿御苑にゆずることになる。
明治三十九年四月三十日、東京青山練兵場つまり現在の明治神宮外苑で日露戦争の凱旋観兵式が挙行された。翌五月一日、観兵式参加の将校全員をふくむ六千三百人を招待しての大野宴が、天皇臨席のもとにおこなわれた。
大名屋敷の回遊式庭園である後楽園は、これだけの人員を収容する野宴の会場としてはせますぎた。会場として皇室の所有地である新宿御料地が選ばれた。御料地とはいうものの、その前身は内務省の内藤新宿農業試験場であった。それは六千人以上の人数を収容するに適当な大広場であった。
御料地につうずる新道および御料地入口の行幸門が、宮内省|内匠寮《たくみりよう》によって突貫工事で完成された。明治日本の最大規模の野宴が盛大におこなわれた。この大野宴を機会に、御料地は新宿御苑と改称され、庭園として整備されていく。観桜会をはじめ、皇室行事としての園遊会の会場が浜離宮から新宿御苑に移るのは大正以後である。
新宿御料地の凱旋観兵式祝賀大野宴からちょうど一年後、後楽園の唐門を久しぶりに陸軍の高級将校たちの軍服姿がにぎわわせていた。朝早くから、各種の酒や料理、それに寿司や蕎麦の模擬店をだすための大道具までもが、工廠の正門をとおって管理事務所に持ちこまれていた。
正門の守衛には会合の名は知らされていなかった。しかし、公式とはいえないにしても決して内輪ではない規模の、陸軍部内の園遊会が開かれることがわかっていた。
会がはじまった。主人公が登場した。長身の一歩兵中佐である。詰襟の軍服の喉下に金鵄勲章がつるされている。中佐で功三級、いうまでもなく、殊勲甲の行賞に浴したことをはっきりと示していた。
招かれた将校の多くはその顔を知っていた。田中義一歩兵中佐、日露戦争の作戦軍の総司令部である満州軍総司令部で、児玉源太郎総参謀長、松川|敏胤《としたね》作戦主任参謀のもとに作戦主務参謀として活躍した男である。実際の役どころは、松川が作戦部長――実際に松川の平時職は参謀本部第一(作戦)部長である――、田中が作戦課長であった。参謀本部に課制がしかれるのは明治四十一年であるが、戦後、参謀本部に復帰した田中は事実上の作戦課長であった。
田中を有名にしたのは、日露戦争中をつうじて満州軍総司令部の作戦命令を起案する責任者の地位にあった、ということだけではなかった。この戦争中の実績をよりどころとし、戦後の日本陸軍の押しも押されぬ若手の実力者として頭角をあらわしてきたことであった。その田中の胸から参謀飾緒がはずされていた。
田中は壇上にたってあいさつの口を開いた。
「不肖田中は、このたび、歩兵第三連隊長に補せられ、歴戦の伝統にかがやく軍旗を奉ずる光栄に浴することになりました。帝国軍人としてまことに本懐のいたりであります。」
あいさつの第一声をきいた参列の軍人たちの多くは、思わずどよめいた。
当時の陸軍は長の陸軍≠ニ呼ばれていた。陸軍首脳の圧倒的な部分を長州藩出身者がしめていた。陸軍の中枢部は長州藩出身者に完全ににぎられていた。日露戦争中の陸軍首脳部の配置がそのことを示していた。
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内閣総理大臣  大将(在職中休職) 桂太郎
陸軍大臣  中将 寺内正毅
参謀総長  元帥《げんすい》大将 山県有朋《やまがたありとも》
満州軍総参謀長  大将 児玉源太郎
第三軍司令官  大将 乃木|希典《まれすけ》
韓国|駐箚《ちゆうさつ》軍司令官  大将 長谷川|好道《よしみち》
侍従武官長  大将 岡沢|精《くわし》
東京|衛戍《えいじゆ》総督  大将 佐久間|左馬太《さまた》
関東|都督《ととく》  大将 大島|義昌《よしまさ》
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これだけの地位を長州藩出身者がしめていた。俗に薩長藩閥というが、これにたいして、薩摩藩出身者は少数派であった。
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満州軍総司令官  元帥大将 大山巌
第一軍司令官  大将  黒木|為驕sためもと》
第四軍司令官  大将 野津道貫《のづみちつら》
鴨緑江軍司令官  大将 川村|景明《かげあき》
遼東守備軍司令官  大将 西寛二郎
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長州と薩摩の比率は九対五である。ほかには、九州の小倉藩出身の第二軍司令官|奥保鞏《おくやすかた》大将がいたにすぎない。小倉藩はどちらかといえば薩摩藩よりであった。
このうち、児玉は、三十九年七月、あたかも日露戦争にその知力、体力、気力のすべてを使いつくしたかのように急死した。だからといって長の陸軍≠フ優位がぐらついたわけではない。しかし、長州閥の人材は先ぼそりしつつあった。寺内が陸軍大臣在職九年という最長不倒の無理をしなければならなかったのも、後継者難ゆえであった。
長岡|外史《がいし》という少将がいた。日露戦争中の参謀本部次長であった。小才はきくが人間がかるく、参謀本部次長といっても山県総長の使い走りの副官という役どころであった。とても長州閥の後継者のうつわではなかった。戦後、東京の歩兵第二旅団長にでていた。
日露戦争をつうじて長州出身の田中が頭角をあらわしたことは、長州閥の総帥山県をよろこばせた。山県は田中を自分のブレーンにした。長州の後輩である桂や寺内のいうことは聞かなくとも、田中の主張には耳をかたむけた。もっとも、桂や寺内が官僚政治家としてすでに一本だちし、いつまでも山県のいうことばかりを聞いてもおれなくなったことが、山県が田中を重用した理由でもあった。
田中も存分に山県を利用した。一介の参謀本部部員の一中佐の主張としてならば問題にもされないが、おなじことが天皇の最高軍事顧問である実力者山県元帥の公式の発言というかたちをとるとなれば、話は別である。田中の主張は山県元帥の天皇にたいする建言という形式をとって、しばしば日露戦争後の日本の軍事政策の基本方針に大きな影響力を発揮するようになった。田中は早くも長州閥の寵児≠ニなった。
三十九年六月に陸軍軍制調査委員兼任となった田中がつぎにつくポストは、当然、陸軍省軍務局軍事課長であると目されていた。長州閥の寵児≠ニいえども、発言権のある地位になければ陸にあがった魚も同然である。軍人政治家への入門コースである陸軍軍事行政の中枢への道は、陸軍省の筆頭課長である軍事課長への就任にはじまる。
しかし、おおかたの予想をうらぎって、田中は四十年五月一日付をもって歩兵第三連隊長に転出した。陸軍部内はこの人事におどろいた。参謀本部部員という軍中枢の職から現場である隊附勤務への転任は、これまでの常識からすれば実質的な左遷人事であった。
会場のどよめきを無視して田中はつづけた。
「本日は、この光栄ある職に補せられるにあたって御尽力たまわった上官・先輩のかたがたに感謝の微意を表したく、またこの田中のよろこびをいささかなりとも同僚・後輩の諸官にわかちたく、ここにささやかな宴を開かせていただいたしだいであります。
この日の後楽園の園遊会は田中中佐の連隊長就任披露宴であった。
園遊会参加者のあいだではさまざまの臆測が、あるいはやっかみの鬱憤ばらしを、あるいは羨望をまじえてささやかれていた。
「一連隊長のぶんざいでこんな宴会を開くなど、やはりあいつはなまいきだ。」
「図にのりすぎて、山県元帥の御機嫌を損じたのかな。」
「さすがに長閥の寵児、はでなことをやりおるのう。」
「中央から飛ばされた体面をとりつくろうつもりじゃろうか。それにしては、並みいる上官にたいしてちょっとあてつけがましい感じだが。」
そうしたささやきの声を耳にして、ひそかに苦笑している一人の歩兵大佐がいた。やはり功三級金鵄勲章をひとつだけ喉下につるしている殊勲甲組である。宇都宮太郎、佐賀県出身、陸軍士官学校では田中の一年先輩、陸軍大学校では田中の二年先輩でしかも優等卒業生である。日露戦争末期に大佐に進級した。実は、田中におくれること一週間の五月七日付で歩兵第一連隊長への転任が内示されている。
宇都宮は日露戦争中のイギリス公使館附武官であった。日露戦争開始当時の陸軍がヨーロッパに派遣していた公使館附武官は、ロシアに明石《あかし》元二郎歩兵大佐、ドイツに大井菊太郎歩兵中佐、フランスに久松|定謨《さだこと》歩兵少佐、イギリスに宇都宮中佐の四人であった。明石は国交断絶と同時にロシアを去ってヨーロッパ駐在となり、ヨーロッパ各地を移動しながら対ロシア謀略工作に従事した。
当時、イギリスは日本の同盟国であった。ドイツはロシアの友好国であったがドイツ陸軍は日本陸軍の師傅《しふ》であるという関係から、イギリスとドイツはロシアの軍事情報を手にいれるための日本の貴重な情報基地であった。フランスはロシアの同盟国であり、日本の公使館附武官が活動する余地はなかった。
同盟国イギリスは、明石の対ロシア謀略工作のただひとつの合法的な支援基地でもあった。対ロシア軍事情報の入手と、対ロシア謀略工作の支援任務の遂行のかなめとして活躍した宇都宮の功績は、当然、第一線の部隊長の功績よりも高く評価された。格からいえばむしろ松川に近い明石は別格として、日露戦争の功績という点からいえば、作戦の田中、情報の宇都宮はならび称せられるべき存在であったといってよい。
藩閥外にあってはげしい野心にもえる宇都宮は、戦後帰国して陸軍大学校の副校長格にあたる幹事の職にあり、今回、田中と前後しての連隊長への転出であった。
現場経験がものをいう騎兵、砲兵、工兵の特科と呼ばれる技術兵科は別である。歩兵科に関するかぎり、当時の常識からいえば、軍の中枢にあるごく少数のエリート軍人が連隊長にだされることが何を意味するか、周囲でささやかれているような疑惑を呼ぶものであった。
エリート養成機関として創設された陸軍大学校の卒業生で、歩兵連隊長級の階級にあるものが五十人にみたなかった時代のことである。そのなかから中央|官衙《かんが》の課長級や軍学校の管理職、各師団の参謀長要員をさし引くと、連隊長にだせる人数はどれほどもいなかった。
日露戦争まえ、長州閥の若手の俊才として田中以上に期待されていたのが大庭《おおば》二郎であった。田中と陸軍士官学校、陸軍大学校の同期であり、しかも陸軍大学校を首席で卒業し、陸軍の最エリートコースともいうべきドイツ留学帰りであった。日露戦争開戦のときは、田中とともに参謀本部第一部つまり作戦部員であった。この段階では、陸軍大学校の優等卒業でもなく、ヨーロッパ留学の派遣先としては、ドイツにつぐフランスにくらべてもはるかに格落ちのロシア帰りの田中より、エリートコースを数段先行していた。
大庭の不運と、田中の幸運のわかれめは、格落ちの留学先ロシアで田中が隊附勤務を経験したことにあった。ロシア野戦軍の戦法を実地に研究した田中は満州軍総司令部の作戦主務参謀に任じられて、野戦の作戦を担当した。
ドイツに留学した大庭は、日本陸軍が師とあおぐモルトケ戦術、とくに参謀総長モルトケが全般の作戦を指導した一八七〇年の独仏戦争を研究した。セダン要塞を包囲してナポレオン三世を降伏させた作戦をはじめ、要塞攻略戦術にくわしいであろうという点を買われ、旅順攻略戦を担当する第三軍の参謀副長に任命された。しかし、大庭は田中とおなじ歩兵将校であった。要塞攻略戦術は歩兵将校のにがてとするところであった。
第三軍司令官は乃木|希典《まれすけ》大将、古武士的な人格者としての評価は高かったが、近代軍隊の将帥としての軍事的能力という点ではむしろ無能に近かった。もっとも、会戦単位である軍以上の大組織では、将帥個人の軍事的能力は、すぐれているに越したことはないが、とくに有能である必要はない。そこでは、これだけの大組織を運用する司令部とくに参謀部の補佐能力が問題である。軍の将帥に要求されるのは、統帥の威信と軍団結の中核としての威望である。乃木の不運は軍の参謀部に人をえられなかったことにあった。
とくに参謀長がよくなかった。藩閥人事の結果として、長州出身の乃木の参謀長に薩摩出身の大山巌総司令官の姪婿がつけられた。砲兵出身、それもすでに五十歳をこえた少将で、老朽の域にはいった参謀長であった。実質的に参謀副長の大庭が、歩兵のもっともにがてとする旅順要塞攻略の作戦の全責任をおう羽目となった。
その結果が、攻囲半年、総攻撃三回の失敗、死傷六万の犠牲であった。旅順攻略戦の失敗の原因はもとはといえば参謀人事の失敗にあった。おなじ薩摩出身の参謀長をつけるにしても、野津道貫大将の娘婿であり、フランスで攻城技術をまなんだ工兵出身の若い少将、上原勇作第四軍参謀長を第三軍参謀長に任命していれば、あのような悲惨な結果を招くことはなかったであろう。
結局、大庭は旅順攻略戦のふてぎわの責任をとらされて解任された。日露戦争終結後の三十八年十二月に大庭が近衛《このえ》歩兵第二連隊長に転出させられたのは、明らかな左遷人事であった。以後、大庭は、長州閥出身、陸大首席卒業というエリート中のエリートであったにもかかわらず、最後の引退の花道として教育総監の職をあたえられた以外には、ついに中央の要職につく機会をあたえられなかった。
その大庭連隊長の失意の姿もこの日の後楽園にあった。誰しもが、田中の連隊長転出をかつての田中のライバル大庭の現在とかさねあわせてみたのは、ある意味では当然であった。
田中のあいさつは本題にはいった。
「私は、このたびの戦役で、ロシア陸軍の敗因の重要なひとつが参謀将校と隊附将校との連絡がまったくなかったことにある、と考えるものであります。実兵を指揮した経験のない参謀と、上からの命令のみで動く部隊長とでは、小さな戦闘の局面でもうまくいくはずがないのであります。
まして、連隊長は独立して一方面の戦闘を担任する職にあります。しかるに、平時、連隊長は経理事務に没頭して演習から遠ざかり、実兵指揮をほとんど知らないありさまであります。ロシア軍のこれらの欠陥は、このたびの戦役で遺憾なくばくろされたのであります。」
日露戦争の戦場を経験しなかった宇都宮は、第一線での参謀と前線指揮官との関係、連隊長の実兵指揮能力についての具体的な知識を持っていなかった。
――それはロシア軍だけにかぎったことでもあるまい。イギリス陸軍も似たようなものだったし、ヨーロッパの陸軍はたいていそんなものだが……――
そんな考えが宇都宮の脳裡をかすめた。宇都宮がイギリス公使館附武官に赴任したとき、イギリスはボーア戦争のさなかにあり、イギリス陸軍はこの戦争の教訓をさかんに研究していた。
ボーア戦争とは、南アフリカのオランダ系植民者ボーア人が建国した白人専制の植民国であるオレンジ自由国、トランスバール共和国にたいしてイギリスが一八九九年にはじめた侵略戦争である。イギリスは、一九〇〇年にオレンジ、トランスバール両国の併合を宣言したが、ボーア人はイギリスの遠征軍三十万の兵力にたいして果敢なゲリラ的抵抗をつづけた。戦争は一九〇二年にいたってやっと終結し、両国は英領南アフリカとなる。
ヨーロッパの大国は、一八七六年の露土戦争以来の久しぶりの大規模な本格的戦争において、その間のいちじるしい兵器の進歩が戦争の様相にどんな影響をもたらしたか、非常な関心をいだいた。ロシアとの軍事的緊張が激化しつつあった日本でも、この戦争から軍事的教訓をまなぼうとしてさかんに研究がおこなわれた。
宇都宮がイギリスに赴任したのはボーア戦争も末期のころであった。イギリスでは、二十世紀初頭の新しい戦争の様相とそれに対応するための軍事力のあり方について、議論がさかんにおこなわれていた。その議論を宇都宮は、現地のイギリスで充分に消化することができた。
宇都宮がまなんだ教訓は、二十世紀の新しい戦争の様相の特徴は組織的な火力戦であり、軍隊の指揮運用と軍紀とくに歩兵戦術は火力戦に対応するものでなければならない、ということであった。宇都宮は、その後、ヨーロッパから日露戦争の様相を観察し、とくにロシア軍側の情報を分析してみて、歩兵火力の発揚つまり射撃をいっそう重視するようになった。
宇都宮にとって、日露戦争の戦場で作戦にあたった田中が日露戦争からどのような軍事的教訓を引きだしたか、興味のあることであった。
田中のあいさつはつづいていた。
「ロシア軍の敗因の第二に重要な点は、軍隊教育と軍隊生活の制度に根本的な欠陥があったことであります。
不肖田中は、ロシア留学中に一年間、ペテルブルグの歩兵連隊におきまして、隊附勤務をする機会をあたえられたのであります。この間、つぶさにロシアの軍隊を観察研究することができたのであります。
御承知のとおり、ロシアではすでにかたちのうえでは農奴は廃止になっております。しかし、実際にはなお広大な領地を有する貴族が多く、農民はなおほとんど農奴とかわるところがないのであります。しかして軍隊の将校の多くは貴族であります。兵卒の大部分は農奴の出身であります。軍隊内における将校と兵卒の関係は、地方における貴族と農奴の関係に異ならないのであります。
将校の兵卒にたいすること、あたかも奴隷の主人が奴隷にたいするごとくであります。これでは、将校も兵卒も一丸となって皇帝陛下に忠誠をつくす軍隊になることはできないのであります。
わが帝国は、王政維新のみぎりに大英断をもって士農工商の身分を廃し、四民平等を実施したのであります。しかし、将校に士族が多く、兵卒の大部分は農民であるというのが実情であります。士は高きにおって農をいやしめるの弊風が払拭されたとは申しがたいのであります。
兵卒の軍隊にあること家庭にあるがごとく、将校の兵卒を教うること父が子をさとすがごとくあってこそ、真の忠勇なる軍隊ができるのであります。
不肖田中は、連隊長の職を奉ずるにあたり、兵営を艱苦《かんく》をともにする家庭たらしめんことを期し、光栄ある軍旗のもとに鞏固《きようこ》なる団結を実現することを願うものであります。」
参会者には、ようやくこの園遊会の意図がのみこめてきた。参謀飾緒をはずして連隊長に転出することが左遷を意味するものでなく、栄転であることを誇示するための今日の盛宴であった。
「こりゃ、天保銭《てんぼせん》にたいする示威運動じゃな。」
だれかが聞えよがしに口にした。天保銭とは陸軍大学校卒業徽章のことである。かたちと大きさが似ているところから、この名で呼ばれるようになった。陸軍大学校を卒業していないものは、天保銭をつけていないので無天《むてん》と呼ばれた。
この声に追い討ちをかけるように田中の言葉が飛んだ。
「わが国軍には、ドイツ陸軍とちがいまして、参謀科と名のつく兵科はないのであります。歩兵科、騎兵科、砲兵科、工兵科、輜重《しちよう》兵科などの兵科将校が、たまたま職として参謀職を奉ずるにすぎません。
参謀職にあるものといえども兵科将校として隊附勤務をなし、実兵指揮の経験をつまなければ進級できないと、かような制度にしてもよいのではないかと、僭越ながら不肖田中は考えるものであります。」
田中のこの大みえに宇都宮は苦笑した。しかし、宇都宮も田中のこの意見には賛成であった。宇都宮自身、帰国後に陸軍大学校勤務をやってみて図上の戦術にあきたらず、ボーア戦争と日露戦争の研究からえた教訓を実地にこころみたいと考え、連隊長の職を買ってでたのであった。しかし、田中のように大みえを切るつもりはなかった。
――やはり田中は策士じゃのう――
しかし、いかに長州閥の寵児といえども、いまでは一連隊長にすぎない中佐が、並みいる上官、同僚のまえでこれだけ思いきった口をきけるものではない。それをいわせるだけのうしろ楯があるはずであった。
――だれが何をもくろんで、田中にこれだけのことをいわせたのか――
宇都宮は考えた。田中の横に田中の直属上官である長岡歩兵第二旅団長が立っていた。
――新しがり屋で小才のきいた長岡少将の考えそうなことではあるが、しかし……――
田中は長岡のあやつり人形を演じてみせる男ではなかった。
第一師団長は閑院宮《かんいんのみや》載仁《ことひと》親王、ロシア陸軍省が田中の隊附勤務希望への許可をしぶっていたとき、たまたまロシアを訪問した閑院宮が直接にロシア皇室にたのんで、田中の希望を実現してやったという関係にあった。師団長も旅団長も田中連隊長の受け皿としてはこの上ない人事関係にある。しかし、皇族の師団長がこんな政治的な演出を思いつくはずがなかった。
――やはり、寺内大臣じきじきのさしがねか。とすると、その目的は何か。これからの連隊人事がみものじゃ――
ロシアでの隊附勤務の経験はともかくとして、田中は中尉のときに師団副官になって以後、今度連隊長になるまで一度も隊附勤務をした経験がない。中隊長を勤めたこともない。実兵指揮の経験がまったくなかった。その点では宇都宮もおなじであったが、田中のばあい、宇都宮が自分自身に歩兵戦法の技術的完成という課題を課して連隊長にでたのとはちがって、上部から特別の任務をあたえられているにちがいなかった。
宇都宮は闘志をもやした。
長いあいさつをおわった田中にかわって、長岡が正面にたった。長岡は乾杯の音頭をとるまえに、かんたんに説明した。
「田中中佐は、凱旋後、昨年|薨去《こうきよ》された児玉参謀総長、松川第一部長にたいし、隊附勤務にでることをお願いし、すでに御諒解をえていたのであります。ちょうど私のところの第三連隊長がこの四月に転任をするのでその後任をすすめたところ、田中中佐からぜひ御尽力をお願いしたいということであったのであります。
私は寺内大臣のもとに、田中中佐を第三連隊長にいただきたいと、お願いにあがったのであります。大臣は、すでに児玉総長から田中中佐の希望を伝え聞いておられました。こうして話はたちまちに決定したのであります。」
それだけいって、長岡は、後年プロペラひげの名で呼ばれるようになる自慢のひげを左手でひとひねりし、右手のシャンパングラスを高くかかげて叫んだ。
「田中中佐の、光栄ある歩兵第三連隊長への栄転を祝して、かんぱーい。」
人垣がくずれて思い思いの集団となり、あるいはテーブルをかこみ、あるいは模擬店のまえにむらがった。大笑をまじえて声だかに談笑する集団もあれば、ひそやかに語りかわしている集団もあった。いずれにしても、型やぶりの今日のもよおしと田中のあいさつに大きな衝撃をうけていることはたしかであった。
その人波をわけて、ひときわ長身がめだつ田中中佐の姿が宇都宮大佐のところに近づいてきた。
田中中佐は宇都宮大佐に手をさしだした。
「これから、当分、お向かいのお付合いがはじまりますな。私の方が一足おさきに引越しということになりましたが……。」
宇都宮大佐は田中中佐の手をにぎって答えた。
「いずれこの秋、旅団対抗演習のさいに、満州の野戦で発揮した腕前を拝見するのを楽しみにしています。」
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二 赤坂檜町(一)
営庭に連隊の全将兵が軍装に身をかためて整列していた。紫のふさだけが残る軍旗が歩兵第一連隊の特権とされている錦の覆《おおい》をはずして、連隊旗手に捧持されていた。旗護兵《きごへい》の銃に装着された銃剣が日の光をあびてキラリと輝いた。
整列した部隊の正面にむかって二人の将校が立っていた。正装をした左側の将校は抜刀して右肩前に垂直に刀を立て、いわゆる肩刀《かたとう》の姿勢をとっていた。軍装をした右側の将校のうしろに若い将校が一人ひかえていた。この若い将校は右肩から左脇へと黄と白の縦縞の肩章をかけている。副官肩章である。
「気をつけ」のラッパが吹奏された。軍装をした右側の将校がその温顔に似つかわしくない大音声をはりあげた。旅順攻囲戦の勇将として名をはせた一戸兵衛《いちのへひようえ》少将である。現在、歩兵第一旅団長の職にある。
「天皇陛下の命により、陸軍歩兵大佐宇都宮太郎、今般、歩兵第一連隊長に補せらる。よって、陸軍歩兵大佐宇都宮太郎に服従し、各《おのおの》軍紀を守り、職務に勉励し、その号令を遵奉《じゆんぼう》すべし。」
「ささげー、つつ。」
連隊附少佐の号令で、将校と特務曹長は刀を顔の中央にささげたのち右ななめ下にのばす刀礼を、曹長はささげ刀を、軍曹以下はささげ銃《つつ》の礼をおこなった。軍装の一戸少将と正装の宇都宮大佐は対向し、刀礼をかわした。
「たてー、つつ。」
敬礼が終わると乗馬が引いてこられた。一戸少将と宇都宮大佐は馬に乗った。新連隊長の横に軍旗が立つ。隊形が変換され、やがて進軍ラッパのひびきとともに、第一中隊を先頭に分列行進がくりひろげられた。
命課布達《めいかふたつ》式というこの行事をもって、宇都宮は歩兵第一連隊長として公式に連隊を指揮する権限をあたえられた。
隊附勤務にあるかぎり、軍人は生涯に何度かの命課布達式の主人公となる。しかし、そのもっとも晴れがましい舞台は、はじめての命課布達式すなわち少尉に任官するときと、最後の命課布達式すなわち連隊長に就任するときとである。新連隊長の命課布達式のときだけ軍旗が立てられる。
分列式の行進に答礼をする宇都宮大佐の後姿を若い副官が見つめていた。一戸旅団長の副官からまもなく歩兵第一連隊にもどる予定になっている、是永|美治郎《はるじろう》中尉であった。
式を終えたのち、正面玄関の上に金色の菊の紋章が輝く煉瓦二階建の連隊本部に、宇都宮は入った。
歴史の古い連隊にはそれなりのしきたりがある。第一師団歩兵第一旅団歩兵第一連隊は、一、一、一とつづく日本陸軍の頭号《とうごう》――ヘッドナンバー――連隊としての自負を持っていた。何から何まで画一的なことでは世界無比の日本陸軍で、天皇から授与された軍旗に錦の覆をつけるという特権は歩兵第一連隊だけに許されていた。
しきたりのひとつに兵営内の神社があった。赤坂の歩兵第一連隊の敷地は長州藩の中屋敷の跡である。
六本木の四つ角に立ってみよう。四つ角の周辺はすべて麻布《あざぶ》区に属する。ほぼ北にむかう道路、現在は外苑東通りと呼ばれている通りを青山通りにむかう道筋の右側が麻布三河台である。三河台のうち四つ角の一筋裏はかなりひろい軍用地であった。大正になってから第一師団司令部の敷地内に移転するまで、ここに歩兵第一旅団司令部があった。
しかし、ほんの二百メートルも歩くと、この道の右側は赤坂区|檜町《ひのきちよう》となる。道路に面して歩兵第一連隊の土塁がつづき、連隊の正門に達する。
麻布三河台と赤坂檜町の台地のあいだを、区の境界となっている道がゆるやかな坂となってくだっている。左側は第一連隊の敷地である。この道は、やがて、右方向からかなりの急傾斜でくだってくる坂にぶっつかる。急傾斜の坂は赤坂|氷川《ひかわ》台からおりてくる坂であり、檜坂と名づけられている。
檜坂は檜町台地の先端にぶっつかって右にまがり、台地の先端を迂回したのち、左方向にゆるやかなカーブをえがきながら赤坂新町にくだっていく。その右折点に新門と呼ばれている第一連隊の裏門がある。
区の境界となっている坂道と、檜坂と、連隊敷地内の台地と、新門におりてくる連隊内の坂道とにかこまれた一画はくぼ地となっている。現在の檜町公園である。いまでは見るかげもないが、檜町公園内の池が旧長州藩邸時代からの湧水池、鏡ヶ池の跡である。
宇都宮連隊長は連隊副官の案内で本部をでた。連隊本部と第一大隊本部、第二大隊本部とが入っている本部建物を除く営舎の新築工事は、竣工まぢかの第二大隊営舎と炊事場とを残して完成ずみであった。
工事中の雑然とした営内を横ぎり、新門にむかって坂をおり右にまがると、鏡ヶ池のほとりにでた。湧水源のすぐ上を整地して将校乗馬訓練用の箱馬場が作られて以後、庭園らしい興趣はかなりそこなわれたが、池は広く、澄み、水面に写る樹影も濃く、なお幽邃の気が残されていた。
池のなかに島がきずかれ、ふたつの小神社が祭られていた。ひとつは桜川|稲荷《いなり》または白面稲荷と呼ばれている稲荷神社である。他のひとつは厳島《いつくしま》神社である。島には木の橋がかかっていた。いずれも旧藩時代に毛利氏が祭ったものである。
昔は池の周辺を鬱蒼とした檜の樹林がかこんでいた。檜の樹林にそっておりる坂が檜坂と名づけられ、檜の樹林が目だつ長州藩邸は檜御殿と呼ばれるようになった。赤坂檜町の町名の由来と伝えられる。
明治七年に檜町に兵営が設置された当時は、現在とおなじように、この庭園は兵営の敷地外であった。桜川稲荷は地元民の崇敬を受け、参詣者を近くの豊川稲荷と二分した。明治十八年に兵営の敷地が拡張され、池も兵営の敷地内に取りこまれた。
しかし、桜川稲荷と地元民との関係を断ち切ることはむつかしかった。毎年四、五月の午《うま》の日をみはからって稲荷祭をおこない、参詣の地元民に開放するしきたりができた。そのとき連隊長が幟《のぼり》を献納するのがならわしであるという。
いま、檜町公園の池には祠《ほこら》の跡もない。「歩一の跡」ときざんだ石碑が残るだけである。公園をかこむ檜町の台地から、防衛庁のものものしい殺風景なコンクリート塀がのしかかるように池に影を落している。
伝説によれば、昔、毛利|元就《もとなり》が尼子義久《あまこよしひさ》を攻めたとき、霊験あらたかな戦捷の神として出雲国|八束《やつか》郡大庭村に鎮座する白面稲荷を安芸国に遷座した。江戸時代になり、毛利家がこの地に藩邸をあたえられたとき、その分祠を祭ったのがこの神社の縁起であるという。連隊にとってもかっこうのいくさ神≠ナある。
連隊長就任を報告するために、宇都宮はさっそく神社に案内された。丹塗《にぬ》りの橋に朱の鳥居はいささか色あせていたが、幟はま新しい。こういうことにこまかく気をつかう前任の連隊長小原|正恒《まさつね》歩兵大佐の置きみやげである。
宇都宮は小原を直接には知らない。加賀の前田藩の出身で、いかにも北陸人らしい悠然とした風格があるが、剛直な努力家であったらしい。陸軍大学校時代に伝説となっている逸話を聞いたことがある。
陸軍士官学校の正規の教育を受けずに陸軍大学校に入校することができた第一回入校の青年将校のなかに、東条|英教《ひでのり》と小原の二人がいた。正規の教育を受けていないので数学と語学の基礎ができていない。数学の得意な東条はもちまえの頑張り精神を発揮して首席で卒業したが、小原は数学で落第して陸大を中退した。
明治三十六年一月に歩兵第一連隊長となった小原は連隊内に楽隊をつくった。十二月十九日の軍旗拝受記念日に、関係将校、下士兵卒の家族などを招いて、分列式や祝宴の席上で演奏させた。軍旗にたいする分列式という公式の儀式に私設軍楽隊を使ったのであるから、参列者一同はびっくりした。
小原は天保銭こそもらえなかったが、大尉時代に陸軍省軍務局軍事課員として約三年間勤務した。担任職務は、建制・編制・儀式・服制などの制定であった。こういうことにかけては専門家である。誰からも文句はでなかった。
当時の第一師団長は伏見宮|貞愛《さだなる》親王であった。伏見宮はことのほかこの私設軍楽隊が気にいり、費用を自分が寄附するからもっと楽器の数をふやしたら、と言ったという。翌年二月に日露戦争がはじまったのでこの話は流れた。
日露戦争がはじまると小原は連隊をひきいて出征し、南山《なんざん》の戦闘で頭部に重傷を負い、入院後送された。治癒後、留守第十師団参謀長などを勤め、復員とともに原職の歩兵第一連隊長に復帰した。
少将に進級のうえ旅団長に栄転するという内示をうけて小原はおどろいた。発令予定日には小原の年齢は大佐の定限年齢を過ぎているはずであった。
調べてみると、軍人の戸籍簿に相当する兵籍簿に記載されている自分の生年月日がちがっていた。小原は自分から陸軍省に訂正を申しでた。陸軍省は困った。小原一人のために人事異動の月日をくりあげるわけにはいかない。
小原は未練気もなく、大佐の定限年齢である満五十五歳の誕生日の四十年五月七日、少将に名誉進級して後備役《こうびえき》に編入となった。現役引退の最後の思い出に稲荷祭の幟を寄附して行ったのである。
鏡ヶ池の上に将校集会所がある。玄関を入ると芝生に面して大広間がある。正面に扁額《へんがく》がかかげられている。
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将校団は、忠君愛国の情と友誼親睦とを以《もつ》て結べる一社会にして、実に一国上流の亀鑑《きかん》なり。而《しか》して之《これ》を維持するに軍紀と秩序とを以てす。故《ゆえ》に将校たるものは、忠君愛国の大義を銘心し、相与《あいとも》に親睦和合し、其《その》品位を高尚にして、以て一国上流の亀鑑たるに愧《は》じざることを務めざるべからず。
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明治二十年十一月十八日
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[#地付き]東京鎮台司令官  子爵 三好重臣
この扁額を見て、宇都宮は小原前連隊長の申送りを思いだした。
「将校団の風は温順なれど活気にとぼしく、これを振作《しんさ》するごとく指導するの要あるものと認む。」
扁額の両側には、日露戦争で戦死した連隊将校の肖像写真が額に入れて掛けつらねてあった。扁額をまえに、これらの肖像写真の主とともにたたかった戦場生き残りの将校、日露戦争の戦場を知らない若い将校たちが参集していた。
日露戦争で連隊旗手として軍旗を奉じてまさに二〇三高地に突撃しようとしたとき、連隊長は戦死したがすぐ横に立っていた旗手は微傷も負わなかったという幸運児、猪熊《いのくま》敬一郎中尉がいた。日露戦争に出征の機会をあたえられなかった篠塚義男少尉、戦後に任官した阿南惟幾《あなみこれちか》少尉の姿もあった。
はじめての天保銭組、しかも優等卒業で恩賜の賞品を授けられたイギリス帰りの新連隊長にたいする好奇の目が、宇都宮の登場を待ち受けていた。
かれらの目にはいった新連隊長の姿は、ゼントルマンの国での生活が長かった紳士の姿ではなかった。腰の刀の柄《つか》を左手ににぎり左肩をそびやかすように前に突きだし、つかつかと歩いてくる蛮カラ風の田舎軍人そのものの姿であった。
――これが佐賀|左肩党《さけんとう》≠ゥ――
猪熊はかつて同期の親友是永中尉から聞いた話を思いだした。
是永は大分県出身、熊本陸軍地方幼年学校の卒業である。九州のことについてはくわしい。
第一師団に動員令がくだったとき、歩兵第一連隊には猪熊の士官学校同期生が全部で八人いた。そのうち六人までが、あるいは戦死し、あるいは負傷して内地の病院に後送された。
晴れの凱旋の日に歓呼の人波のなかを行進することができたのは、猪熊と是永の二人だけであった。それだけ、二人は戦場でのつきあいが長かったことになる。
是永は、いま、隣接地ではあるが歩兵第一旅団副官の職にあって連隊にいない。その是永が猪熊に語ったことがあった。
「佐賀人のなかに左肩を突きだして歩くやつがいてのう。いかにも傍若無人という感じだった。佐賀左肩党≠ニか名のっていたが。さすがに蛮風《ばんぷう》でならした鹿児島人も一目《いちもく》おいていた。」
宇都宮の歩き方がこの佐賀左肩党≠フ歩き方であった。
将校団をまえに宇都宮は着任の訓示をはじめた。型どおりのあいさつのあと、訓示はすぐに本題に入った。
「当連隊の徴募区、すなわち現在の麻布連隊区および横浜連隊区は、近々のうちに改正になる予定であります。現在、当連隊の兵卒は、東京市および東京府の各一部、神奈川県および山梨県からの徴集兵でありますが、本年の入営兵から麻布連隊区のみからの徴集になる予定であります。
すなわち、当連隊の徴集兵の多くが東京市出身の壮丁《そうてい》となるのであります。」
日露戦争末期から戦後にかけての六個師団の増設により、各連隊ごとの徴募区の改正作業が進められ、すでに新しい管区が内定していた。陸軍管区表の改正というかたちで一般に公示されたのは九月十七日であるが、その年の徴兵検査執行のために陸軍部内で実施に移したのは五月十六日である。
もちろん、それ以前に赴任する連隊長、田中中佐と宇都宮大佐には内報されていた。陸軍管区表の改正によってもっとも大きな影響をうけるのが、第一師団所属の各歩兵連隊であったからである。
全国の各歩兵連隊は、原則として一歩兵連隊につき一連隊区という管区の構成になっていた。第一師団だけが変則で、一歩兵連隊につき二連隊区という構成をとっていた。第一師管区から近衛歩兵連隊の兵卒の大部分を徴集していたからである。
今回の改正で第一師団も一歩兵連隊につき一連隊区とし、近衛歩兵連隊の兵卒は全国から選抜する方針を徹底させることになった。その結果、在京の第一師団所属歩兵連隊、歩兵第一連隊と歩兵第三連隊は都会出身兵が大部分をしめることになった。
赤坂の歩兵第一連隊の徴募区は麻布連隊区、麻布の歩兵第三連隊の徴募区は本郷連隊区となる。ややこしいが、赤坂の歩兵第一連隊が所属する歩兵第一旅団司令部が麻布三河台にあり、麻布の歩兵第三連隊が所属する歩兵第二旅団司令部が赤坂の青山南町にあるという関係による。
各連隊区の所管区域を示しておこう。
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麻布連隊区 麹町《こうじまち》区 神田区 日本橋区 京橋区 芝区 麻布区 赤坂区 四谷区 牛込区 小石川区 荏原《えばら》郡 豊多摩《とよたま》郡 西多摩郡 南多摩郡 北多摩郡 伊豆七島 小笠原島 および神奈川県の橘樹《たちばな》郡 都筑《つづき》郡
本郷連隊区 本郷区 下谷区 浅草区 本所区 深川区 北豊島郡 南足立郡 南|葛飾《かつしか》郡 および埼玉県の北足立郡 南埼玉郡 北埼玉郡 北葛飾郡
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宇都宮は訓示をつづけた。
「本連隊に入営しきたる壮丁の素質は、前任連隊長の所見によれば、山梨県の壮丁が優良であり、東京市とその周辺の壮丁はやや敏捷なるも、誠実と忍耐とを欠く故に信をおきがたき所あり、ということであります。
本年以降、本連隊に入営しきたる壮丁は東京市とその周辺の壮丁のみとなるのであります。このことは、伝統ある本連隊の士風に大きな影響をおよぼすことになりかねない、一大事件であります。
元来、本連隊には、徴募区の関係よりして、衷心《ちゆうしん》より法令を恪守《かくしゆ》するの念がうすく、陽に履行するがごときも、陰に実行せざるの風があり、はなはだ遺憾であるということであります。一例をあげれば水道の水の乱用であります。栓をきちんとしめない、はなはだしきにいたっては、水をだしっ放しにするなど、一言にしていえばだらしがないのであります。
前任の連隊長時代、水道税の定額が八百円であったにもかかわらず、その支払額は年額千二百円にも達し、連隊経理の運営上多大の支障をきたしたとのことであります。ひとり水道のみならず、消耗品万般にかんしても同様の弊風があるということであります。
この弊風は連隊創設以来のものであります。乃木大将閣下が本連隊の第二代連隊長であられた時代にすでにかかる弊風の是正に苦心されたところであると、うけたまわっているのであります。
不肖宇都宮は、光栄ある歴史に輝く本連隊の連隊長を拝命いたしました以上、乃木大将閣下以来の歴代連隊長が苦心して連隊の経営にあたられました努力を継承し、軍紀の厳格なる励行にいっそうの努力をかさねる方針であります。」
宇都宮は、ここでちょっとまをおいて将校一同の顔を見渡したのち、声の調子をたかめた。
「軍紀の恪守は連隊長みずからが率先しておこなわなければ、下《しも》一卒に至るまで徹底することは困難であります。
戦捷の余光、ようやく地方に軽佻の風を呼び、軍界またこれに狎《な》れるの風潮をかもしだしているのであります。連隊長みずからが、府下人士を瞠目させるがごとき、派手な遊宴をもよおすことをもってよしとする空気が、国軍内部にもなしということができないのであります。」
訓示を聞いている将校たちのあいだに、さっと、緊張した空気がながれた。この発言はあまりにも露骨な、田中第三連隊長にたいする非難であった。
「もっとも、戦捷軍の栄光をかさに夜々|花柳《かりゆう》のちまたに沈溺し、軍人たるの本分をないがしろにし、世の指弾をうける徒輩が増加しつつある昨今のことであります。白日のもと野宴に歓談の機会を持つことは、品位ある将校団の育成上、かならずしも非難のみに値することではないのであります。」
宇都宮はたくみに田中中佐非難の印象をやわらげたのち、率先軍紀励行という連隊長の方針への連隊将校団の協力をもとめて話題を転じた。
「残念ながら、本官は戦役中イギリス駐在の任にあり、実戦場裡にまなぶ機会をえなかったのであります。しかし、それだけに戦役の教訓を冷静に研究することができたのであります。
這般《しやはん》の戦役において、ロシア軍もまた世界最大の陸軍国たるに恥じない戦いぶりを示しました。戦場を馳駆され、光栄ある戦捷を獲得された諸官はこのことを認めるにやぶさかでないと、信ずるものであります。とくに露国《ろこく》の歩兵は勇敢でありました。
しかるに、何ゆえに露軍は敗れたのでありましょうか。
露軍にはスウォロフ将軍の有名な箴言《しんげん》があります。『弾丸は愚にして、銃剣は智なり』というものであります。目のない弾丸はどこに飛んでいくかわからない愚者であるが、兵卒が目で見て腕で刺突する銃剣は確実に敵を倒す、というほどの意味であります。
スウォロフ将軍の時代の銃は口装式単発の燧石《すいせき》発火の滑腔《かつこう》銃でありました。命中率がきわめて悪く、発射速度もいちじるしく劣っていたのであります。現在の無煙火薬、底装式の施条連発銃の時代とはまったくちがうのであります。
しかるに、露軍の歩兵戦術の権威とされているドラゴミロフ将軍はスウォロフ将軍の箴言を戦術の原則として受けつぎ、敷衍して主張したのであります。這般の戦役において、露軍は、ドラゴミロフ将軍が書きました一九〇一年の『諸兵連合支隊戦闘規定』を基準としたのであります。」
一息ついで宇都宮はつづけた。
「露土戦争において、露軍は火力に苦しめられたのであります。しかるに、この戦争で勝利を得た露軍はその苦痛を忘れ、露軍は射撃戦のための各個教練、射撃軍紀の養成、射撃指揮および軍隊指揮の実戦的演習を等閑視してきたのであります。決戦は火戦《かせん》によらずして密集部隊の銃剣突撃によるべきことを、露軍は規定していたのであります。
諸官が戦場において実地に体験せられたように、露軍は、露軍の銃剣突撃のまえに抗すべき敵なしという確固たる信念のもとに、ほとんど他事をかえりみることがなかったのであります。這般の戦役における歩兵戦闘が火力戦であり、射撃戦であったことは諸官が実験せられたところであります。
這般の戦役の諸会戦において、兵力に劣るわが軍は露軍にたいして攻勢にでて、包囲戦術をとることに成功したのであります。その原因は、一に兵力でまさる露軍が銃剣突撃にそなえて各個射撃が不自由なまでの密集隊形をとり、大胆な延翼運動をおこたったことによるものであります。
寡をもって衆を制することができたのは、もとよりわが軍の精神力によるもの、また少なくはないのであります。しかし、より大きな原因は、むしろ、露軍が兵力の優位を発揮できなかったことに求められるのであります。
戦闘に最後の決をあたえるものは銃剣であります。しかし、敵にとどくことのできぬ銃剣の威力は無であります。銃剣をして威力あらしむるは一にかかって火力にあるのであります。
本官は、我が連隊の教育の重点が射撃におかれることを企望するものであります。軍紀の厳正は精到なる訓練に求めらるべきことを期すべきであります。精到なる訓練は、かならずや、その成果がかたちの上にあらわれるものであります。
具体的にあげるならば、毎年の師団名誉射撃において、わが連隊が優勝の成績をおさめることを本官は企望するものであります。諸官のいっそうの勉強を期待するしだいであります。」
宇都宮の長い訓示は終わった。青年将校たちにとって、この訓示はかなり程度の高い軍事学の講義であった。
そのはずである。宇都宮の在英中、日露両軍に従事したヨーロッパ各国の観戦武官の報告が各国の軍事雑誌にぞくぞくと掲載され、これらの報告をめぐって新しい戦闘法をめぐる論争もさかんにおこなわれはじめていた。ドイツでは早くも、日露戦争の教訓をとりいれて、歩兵操典の改正問題が議論されつつあった。宇都宮はそれらの資料に目をとおしていた。
宇都宮が帰国して陸軍大学校の幹事となったとき、陸大の戦術や戦史の講義といえば日露戦争の実戦体験の自慢話に毛がはえた程度のおそまつな内容にすぎないことに、おどろかされた。日露戦争をたたかった日本の陸軍の方がヨーロッパ諸国より、日露戦争から新しい軍事理論を学びとることにおくれていた。
露土戦争の教訓から学びとろうとしなかったロシア軍の失敗を、日本の陸軍もくり返すのではないか、そんな危機感が宇都宮をとらえた。宇都宮が連隊長にでたのは、実兵指揮の経験をつうじて、新しい戦闘法とそれにみあう指揮法、戦闘軍紀の体系を確立し、歩兵操典の改正に生かしたいと考えたからである。
その夜、連隊将校団による新連隊長歓迎宴が開かれた。
猪熊中尉が新連隊長の席にあいさつに行くと、宇都宮新連隊長は上機嫌で声をかけた。
「貴公が猪熊中尉か。二〇三高地での武勇談はわしも日本に帰ってから耳にしたぞ。歩一の軍旗にまた栄光の歴史をくわえた主だということでな。」
昼間のきびしい訓示と打ってかわって、宇都宮は将校団とうちとけた。戦場帰りの猪熊中尉ら若い将校たちは宇都宮にたいして、きびしいがものわかりもよい、きれものの親父という印象をいだいた。
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三 巨福山建長寺
貴志《きし》弥次郎歩兵少佐は巨福山《こふくざん》建長寺の山門をでて、巨福呂《こぶくろ》坂を鎌倉駅へと歩いていた。晩秋の淡い日の光は、はや夕刻の気配をただよわせていた。
貴志少佐にとってはひさしぶりの鎌倉であった。とはいえ、日帰りの公務出張とあれば、日暮れに追われるようにいそぎ足とならざるをえなかった。半日をすごした禅宗の古刹での時間がうそであったかのような、気ぜわしさを感じさせられていた。
鎌倉駅から横須賀線の二等車にのりこんで、貴志は一息ついた。車内に海軍の将校たちの姿がかなりみえたが、貴志の陸軍省勤務時代の顔見知りはいなかった。
貴志は陸大を卒業して軍務局軍事課勤務となり、エリート軍事官僚としてのコースをあゆみはじめて一年たらずで歩兵第三連隊附に転出させられた。軍務局長|宇佐川一正《うさがわかずまさ》中将じきじきの名ざしであった。
「今度歩三の連隊長に内定した田中中佐のたっての希望だ。実は、田中を連隊長にだすのは目的あってのことだ。田中は参謀本部そだちで、軍隊教育や内務の制度にはくわしくない。その田中が自分から軍隊内務書の抜本的改正の仕事を買ってでた。
隊附勤務の経験に欠ける田中の仕事を成功させるためには、有能な補佐役がいる。貴官がたすけてやってくれんか。」
局長からこうくどかれると否応はなかった。寺内大臣のもとで本来は少将の職である軍務局長の職にあることすでに五年、中将という次官級の大もの局長である宇佐川の勧誘であった。それは、そのまま寺内大臣の意志であると考えてまちがいなかった。
――寺内・宇佐川・長岡・田中という長州閥主流の線で、いま何か大きな仕事をしようとしている。その太い線に身をゆだねてみるのもひとつの生き方ではないか――
貴志は歩兵第三連隊附への転任を承知した。
田中が連隊長として何をやろうとしているのかを、貴志は、着任後まもなくおこった事件をつうじて知らされた。田中連隊長の意図はたんなる軍隊内務書の改正にとどまるものではなかった。
貴志が着任してまもない四十年五月十七日、貴志は田中連隊長から指示をうけた。
「貴志少佐。五月十九日に、青山練兵場で愛国婦人会の第五回総会がおこなわれる。愛国婦人会としてははじめての野外での総会だ。会場の設営および総会当日の運営支援のため、当連隊から二個小隊の使役《しえき》を提供する。ただちに手配せよ。」
指示をうけた貴志は、最初、田中の意図がよくのみこめなかった。ちょっと考えて、今度はその意図に疑問を感じた。貴志が返事をためらっているのをみて、田中は破顔一笑した。
「貴志少佐。今度のことは国軍の将来を思っての大きな仕事の第一歩だ。貴官がいま何を考えて躊躇しているか、おれにはわかっている。このさい、貴官に言っておくが、田中は上官におもねる男ではない。むしろ、田中の方針を実行に移す好機として、この機会を利用するのだ。」
田中は若い貴志をさとすように語った。
「軍隊だけで戦争をする時代はもうおわった。日露戦役で日本の陸軍は百万の大軍を動員した。現役の兵卒はわずか二十万だ。第一線で武器をとる兵卒の大部分は予備役であり、後備役《こうびえき》であり、補充兵役の兵卒である。家をもち、農業をいとなみ、妻子をやしなう一家の主人たちだ。
これからの戦争は国民の戦争だ。おれは、軍隊内務書改正の仕事が一段落したら、つぎに軍隊と地方との関係を改善するつもりだ。いや、その前提が内務書の改正であるといってもよいだろう。
戦時に武器をとる在郷《ざいごう》軍人を平時から組織しておくことも必要だ。壮丁予備教育の団体として青年会を育成することも重要だ。男が戦場にでたあとを守る婦人の愛国団体を発展させることも、平時の軍隊の大きな任務のひとつだ。
軍隊が戦争をしているときに銃後《じゆうご》の国民が革命騒ぎを起こしたからこそ、大国ロシアが日本に負けたのだ。軍隊が平時に国民の根固めをしておいてこそ戦争に勝てる、そういう時代になったのだ。軍隊の力だけで戦争に勝ったつもりの頭のかたい連中はつまらんことを言うかもしらんが……。
今度の愛国婦人会の総会を軍隊が支援するのは、こうした大きな仕事の手はじめとしてちょうどよい機会だ。」
貴志は自分の勘ぐりを恥じた。第一師団長|閑院宮《かんいんのみや》載仁《ことひと》親王、愛国婦人会名誉総裁閑院宮載仁親王妃という関係にからんでの迎合という勘ぐりであった。
五月二十一日、『東京日日新聞』を手にとって貴志少佐はにがい顔をした。予想しないではなかったが、やはり、愛国婦人会総会支援が問題にされていた。
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既記のごとく、一昨日青山練兵場において開催したる愛国婦人会に、歩兵第三連隊より兵卒約二個小隊を派して使役に服せしめたるにたいし、陸軍のある部面においてはすこぶる面白からざる感情をいだきおり、「元来兵卒を陸軍外の団体において使役するがごときは稀有のことにして、国民の義務として服役するものを、陸軍になんら関係なき、しかも婦人団体の使役に服さしめたるは、大失態といわざるべからず。この弊害を今後放任しおかば、ついには一個人の園遊会にまで兵士の使役を見るに至らん。今回の婦人会において帝国陸軍の威厳はたしかにその一部を傷つけられたり云々《うんぬん》」と憤慨しおるむきもありと。
[#ここで字下げ終わり]
「一個人の園遊会にまで」という表現に貴志は悪意を感じた。明らかに先日の田中連隊長就任披露の園遊会へのあてこすりである。
――この談話の主は誰か――
貴志の頭に何人かの名前がいそがしく明滅した。
貴志少佐は連隊長室の扉をたたいた。
問題の記事を赤鉛筆でかこんだ新聞を田中連隊長に示した。田中連隊長はさっと目をとおして、何事もなかったように新聞をおいた。
「いかが処置いたしましょうか。」
貴志の質問に田中はこたえた。
「ほっとけ。」
「しかし、軍部内の反発がひろがっては……。」
「なあに、そこのところは新聞記者の舞文曲筆じゃよ。軍人がそういうことは言えんはずじゃ。」
――陸軍部内からは絶対に攻撃の火の手があがらない――
その自信があったからこそ、田中は、今度の愛国婦人会総会を好機としてとらえたのであった。
明治三十四年に奥村|五百子《いおこ》が創設した愛国婦人会は、第一回、第二回、第四回の総会を陸軍将校団のクラブである東京|偕行社《かいこうしや》で開いた。第三回総会は名誉総裁の閑院宮邸でおこなわれた。明治三十七年には、軍用地である靖国神社の敷地の一部が愛国婦人会本部建設用地として貸与された。第四回総会には皇后が臨席した。
こうした実績の積みかさねをへて第五回総会への軍隊の支援がおこなわれた。軍との癒着による公私混同を問題にするとすれば、会の実質的な責任者であり、攻撃の矢おもてにたつべき奥村は、四十年二月に病没していた。
事件に深入りすれば、その妻が名誉総裁である団体のために直属の部下を使役に供したという、第一師団長である閑院宮の責任追及問題にまでたどりつかざるをえない。それを問題にすることはタブーであり、不敬罪という刑法上の犯罪を構成する。
田中はその点を読んでいた。閑院宮師団長への迎合ではなく、閑院宮師団長をたくみに利用したのであった。
――さすがは作戦家――
貴志は舌をまいた。田中は唇に笑みをたたえて貴志の顔を見た。
それ以来、貴志は田中中佐という男の凄腕に魅せられた。
田中連隊長が軍隊内務書改正の基本方針にかんして連隊将校団に公式の説明をおこなったのは、四十年七月二十五日、軍隊内務書改正審査委員会が設置されてからのことであった。
内務書改正の担当部局は軍務局歩兵課であるが、審査委員長には長岡歩兵第二旅団長が任命された。田中連隊長も委員に任命された。それは田中中佐の歩兵第三連隊を実験連隊として、実質的な改正作業がすすめられることを意味した。
「要するに、陛下の軍隊は国民という海に浮かぶ船のごときものである。この船をして針路をあやまらせないように指導するのが将校の任務である。」
田中連隊長の方針説明の核心はこの一語につきていた。そこに田中の主義もまた明示されていた。
――国民の支持なしには軍隊という船は沈む、しかし、船の行く先を決定するのは国民ではなく、あくまで将校団である――
日露戦争が生んだあたらしいテクノクラートの論理であった。
田中連隊長は改正作業の実務にあたる貴志少佐を連隊長室に招いて、改正方針の大綱をしめし、実地について研究して具体案を作成することを命じた。明治二十七年制定の現行内務書はドイツ陸軍の内務書の引き写しであった。
田中がしめした方針の大綱は、いくつかの基本原則というかたちで表明された。
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一、全軍画一主義の原則。
二、精神教育重視の原則。
三、軍紀風紀の振張の原則。
四、家庭修養第一の原則。
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「具体的なことは、席をかえて飯でも食いながらゆっくり話そう。」
田中は貴志を夕食にさそった。田中がそのころよく使っていたのは、赤坂の三河屋であった。ロシア留学四年の経験をもつ田中は酒につよい。
「おれは、日本の将校のなかではじめてロシアの隊附将校の勤務を経験した。ちょうど一年間だったが、酒に明け酒に暮れる毎日でな。」
「やっこさんたちとの酒のつきあいは大変でしょう。」
「いや、大変なんてものじゃないぞ。なにしろ飲んで踊って、楽隊が疲れて居眠りをはじめると、むりやりにウォトカを飲ませて景気をつけさせて。夏の短い夜が明けると窓のカーテンをしめさせて、暗くしておいてまた飲むというありさまじゃ。一度、大隊長と飲みくらべをやって、あと、まる二日起きられんこともあった。」
「そんなに飲んでばかりいては、勤務の方がおるすになるでしょう。」
「それが、時間になると、しゃあしゃあとして勤務にでていくんだな。こんな連中を相手に戦争をしたら日本はどうなるんだろうと、おれも本気で考えたくらいだ。」
「で、ロシアの軍隊の内務の状態はいかがでしたか。」
「実は、今日は、そのことを話しておこうと考えて席をかえたのだ。
おれが隊附勤務をしたのは、ペテルブルグのノヴォチェルカッスク・アレクサンドル三世歩兵第百四十五連隊という連隊でな。なんでも、アレクサンドル三世の近衛隊として創設された由緒ある連隊らしい。
おれが隊附勤務を希望したとき、ロシアの陸軍省はいい顔をしなくてな。たまたま閑院宮さん、今の師団長殿下が御来遊になったので、おれは思いきって宮さんをホテルにおたずねしてお願いしてみた。
それでな、宮さんがロシアの皇室に直接にかけあってくださって、陸軍省の許可がでたというわけだ。」
「そんな名門連隊ならば、将校たちも気位が高くてつきあいにくかったでしょう。」
「さにあらずだ。さすがに、将校のほとんど全員は貴族だったがな。気さくで、とくにロシア皇室のお声がかりであったせいか、おれもいきなりギイチ・ノブスケヴィッチと呼ばれて歓迎されたよ。」
田中の父親の名は信祐《のぶすけ》である。ロシア式の父称を田中につけるとノブスケヴィッチとなる。
「ところが、連隊の長い名前からもわかるように、連隊には連隊創設の由緒と歴史的伝統にふさわしい、多くのしきたりがあってな。軍隊内務もそれぞれの連隊のしきたりにしたがってきめられている。
新任の連隊長がくると、まずその連隊のしきたりを覚えてからじゃないと、連隊を動かせん。それぞれの連隊がちがうしきたりを持っているから、高級指揮官ともなれば、各連隊を一律の命令でいっせいに動かすことができん。連隊の名誉を守ることにかけてはロシアの将校団はおそろしく勇敢じゃが、これでは高級司令部が大軍を運用する大会戦には役にたたん。
今度の戦役で、ロシアの参謀将校が第一線連隊とともに行動して、戦死したり捕虜になったのが多かった。わが軍はロシアの参謀将校は勇敢だと思うたようじゃが、ああしなけりゃ、ロシアの軍隊は動かせんのじゃ。
さいわいに、日本の連隊はまだ、そういう窮屈な由緒やしきたりにしばられておらん。これからの戦争に必要なことは、おなじ命令をどの連隊にくだしてもおなじ行動をとるような画一性じゃ。全軍画一でなけりゃならん。」
戦役の全期間をつうじて総司令部の作戦主務参謀であり、全軍にたいする命令起案の責任者の地位にあっただけに、田中のこの言葉には説得力があった。
「軍隊内務は、軍隊教育とならんで軍隊の二本柱じゃ。兵営は、兵卒の学校であるとともに兵卒の家庭だ。操典が軍隊の学校教育の教科書ならば、内務書は軍隊の家庭教育の修身教科書でなければならん。
義務教育が国民教育の初歩ならば、国民の必任義務としての兵役は国民教育の中堅じゃ。軍隊の修養と教育を身につけたものにして、はじめて国民中堅の指導者となることができる。そうなってこそ日本の国は安泰というものじゃ。おれがつねづね考えとる良兵|即《そく》良民とはそういうことじゃ。」
貴志は田中の遠大な構想におどろき、一方的に傾聴するばかりであった。
「この仕事は大変な仕事だとおれも思う。国軍百年の将来を決する。操典は兵器の進歩とともに改正される。しかし、内務書は、いったん制定されて兵営生活がそのとおりに動きはじめると、根本的に改正することはもはやできん。
個人の家庭でも、いったん確立した家風はおいそれとはかえられん。まして、全軍画一の家風は、いったんきめられたならば改めるわけにはいかんものじゃ。」
ここまで話した田中は杯をおいて、居ずまいをただした。貴志もあわてて両手を膝の上にそろえた。
「貴志少佐。貴公には、ある程度研究がすすんだら大隊長になってもらう。研究の結果を実地にこころみる実験大隊の大隊長だ。おれが、現職の大隊長より若い少佐の貴公に隊附少佐となってもらったのは、そのためだ。」
それ以来、貴志は、軍隊内務の改善方策について各方面から具体的に研究をおこなってきた。
貴志がとりくんだ研究課題のなかでむつかしい問題は、兵営内の給食の改善問題であった。現行の軍隊内務書は、食事についてきわめて簡単にしか規定していない。
――吟歌および高声に雑話するを禁じ、喫食中はことに行儀《ぎようぎ》をただし、静粛を旨とすべし――
そこからはなんのヒントもえられなかった。しかし、軍隊の食事すなわち給養《きゆうよう》の問題は、戦場における軍隊の機動力に直接に関係する重大な問題であった。戦時の補給と炊事を基準として平時の兵営の給養の問題を考えること、というのが田中連隊長の方針であった。兵食の研究だけは、昔から研究がすすんでいるヨーロッパの軍隊を手本にするわけにいかなかった。パン食と米食では炊事の方法がまったくちがうからである。
考えあぐねた貴志少佐にたいして、田中連隊長は一案を示した。禅宗寺院の雲水の食事について実地に研究してみよ、というのである。つてをたどって、貴志はこの日やっと、懸案の建長寺の食堂《じきどう》の視察をはたすことができたのであった。
貴志は新橋への列車の車内で、この日見聞したことを反芻してみた。
聞いた説明によると、本来、仏教修道の根本は、具体的には、俗縁を絶って潔斎素食し仏門の勤行《ごんぎよう》にはげむことであるという。仏教では、食事をとり健康をたもつことは菩提《ぼだい》にむかって精進《しようじん》するためであり、食事をすることは即精進菩提と心がけるべきである。したがって、戒律では食事に関するさまざまの規定がある。この食事観をもっとも忠実に遵守してきたのが禅宗であるという。
唐代の禅僧百丈が制定したのが『百丈|清規《しんぎ》』である。これは散逸したが、その残ったものを北宋の時代に宗頤《そうい》という禅僧が集成して、『禅苑《ぜんおん》清規』全十巻をあらわした。日本の禅宗でもこの『禅苑清規』をもととして、その伝統をうけついできた。禅宗においては、法と食はひとつであり、食事ということは非常に大事なことであるという。
禅にうとい貴志は不思議に思って質問した。
「禅宗は粗食を旨としていると聞いていますが……。」
貴志の応接にあたった僧は、典座《てんぞ》という地位にある僧であった。その僧は答えた。
「魚肉を断つはもちろん、修行《しゆぎよう》僧の一日の食事は、朝の粥《かゆ》座が粥と胡麻《ごま》塩と漬物、昼の斎《とき》座が麦入りの七分づき白飯と汁と漬物の二食です。ほかに、残りものを火を使わないでいただくことをたてまえとしている薬石《やくせき》があります。これが一般にいう夕食ということになるでしょう。
作務《さむ》つまり労働のあるときは、斎座と薬石に一、二|菜《さい》がつけられる程度です。」
一段と強調するように典座の僧はつづけた。
「素食ということは質素な食事であっても、心のこもっていない粗末な食事であるということではありません。俗界の方は、素食と粗食とをよくとりちがえているようです。私どもから見ますれば、みかけは贅沢でも、手もかけず心もこもっていない粗食をしている、俗界の方が多いように見うけられます。」
こう言って典座の僧は微笑した。
「どうも『禅苑清規』の説明をするようで恐れいりますが、禅林には百丈の昔から、住持《じゆうじ》を中心にこれを補佐する六役職の制度があります。これが寺院の運営のすべてにあたっています。
そのうちの一職に典座があります。ここ建長寺の典座は私です。『禅苑清規』には、典座は大衆《だいしゆ》の斎粥《さいしゆく》を主とし、すべからく道心をめぐらし、時にしたがい改変し、大衆をして受用《じゆゆう》安楽せしむべし、とあります。
自分でいうのも何ですが、食事をつかさどる典座は重要な役職とされています。古来、道心の師僧がその職にあたり、衆僧から非常に尊敬をはらわれています。『禅苑清規』に、物料《もつりよう》つまり食事の材料ですな、それと斎粥|味数《みしゆ》つまり献立ですな、これを庫司《こし》知事と商量つまり相談してきめよ、とあります。
食事を供するということはそれだけ重要なことなのです。
貴志は教えられた思いがした。現在の内務書には炊事に関する規定がまったくなかった。体力が戦力である軍隊にとって、食事の提供は禅宗によってよりもっと重要なことであった。にもかかわらず、軍隊生活を律する内務書に食事の提供にかんする規定がまったくないとは……。
現行の内務書は各大隊に大隊糧食委員をおくことをさだめていた。しかし、大隊糧食委員の任務は、「其《その》大隊の炊事掛を指揮して糧食経理一切のことを管理し、かつ蒭秣《すうまつ》事務を兼掌す」ることにあった。
名は糧食委員であるが、その職務内容は禅宗の庫司知事≠フ職務であった、典座≠ノあたる職務の担当者は存在しなかった。
貴志は質問した。
「提供する食事に関して、典座の心がけなければならないことは、とくにどういう点にありますか。」
「これも『禅苑清規』にある言葉ですが、六味|精《しよう》ならず、三徳給せざれば、典座の衆を奉ずるゆえんにあらざるなり、といいます。
六味とは、鹹《かん》、醋《さく》、甘、苦、辛、淡の六種類の味のことをいいます。三徳とは、軽軟《きようなん》、浄潔《じようけつ》、如法《によほう》です。適切な口あたり、清潔な調理、法式にかなった手順とでも申しますか。この三徳六味がそなわった調理でなければ典座は衆僧に職を尽くしたことにならない、という意味です。」
貴志は、車内で手帳をとりだして鉛筆で記入した。
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一、糧食委員にかんする件。
二、炊事に関する規定の件。
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貴志が見た光景で印象に残ったのは、僧たちが斎座に行くときにめいめい鉢を持っていたことである。これを托鉢《たくはつ》といい、この鉢をもって食事をすることを行鉢《ぎようはつ》というそうである。
貴志は、修行僧が経文を誦《ず》しながら俗家のまえにたち、施される米銭を鉄鉢にうけるのを托鉢といい、托鉢をして歩く僧を托鉢僧と呼ぶものだとばかり思いこんでいた。もちろん、この知識はあやまりではないが、そのほかに斎粥にまつわる言葉として、托鉢という言葉が使われていることをはじめて教えられた。
食器としての鉄鉢は道心の象徴とされているそうだ。
「そういえば、衣鉢をつぐ≠ニいう言葉はたしか禅宗からでたものでしたな。」
貴志は気がついてたずねた。
「達摩《だるま》大師が弟子の慧可《えか》に、伝法の証として衣と鉢をさずけた先例に、はじまっています。」
貴志は、大人数の集団が衛生的で規則ただしい日常生活を反復していくという点で、禅宗寺院の生活様式を大はばに兵営生活にとりこむ余地がある、と思った。
東京に帰る車内で、貴志は鉢の印象を兵営生活のなかに具体化しようと考えつづけた。
「アルミニウムだ。」
貴志は膝をたたいた。
アルミニウムならばすでに野外における炊飯具である飯盒《はんごう》の材料として採用され、その取扱いの便利さも日露戦争の戦場で十分に証明ずみであった。
アルミニウムはすべて輸入に依存しなければならず、戦争中は消耗がはげしく、飯盒と水筒の材料不足に悩まされた。しかし、日常の兵営生活で使用するぶんには鉄鉢ほど堅牢ではないが、現在兵営内で使われているいわゆるメンコにくらべればはるかに清潔であり、耐久力も大きい。
そのころ兵営で使われていた食器を兵卒たちはメンコと呼んでいた。陸軍の庖厨具《ほうちゆうぐ》の備品として規則に記載されている正式の名称は面桶≠ナある。「めんつう」または「めんつ」と読む。一人まえずつの飯を盛る、まげもののことである。杉や檜のうす板を円形にまげて底をつけた容器である、わっぱ≠ニ呼ぶ地方もある。
面桶は、当時、一般には乞食の持つものとして知られていた。陶磁の飯茶碗や木製の椀がこわれやすいところから、明治のはじめに軍隊の食器として採用された。「めんつ」がなぜメンコとよばれるようになったのか、その由来はわからない。
飯籠《めしんこ》または面籠《めんこ》の意味なのであろうか。しかし、飯盒が採用される以前の弁当入れである小型の柳行李に似た飯骨柳≠ヘ、ハンコともメンコともよばれず、はんこつりゅう≠ニいう正式の名称のままであった。あるいは日清戦争のときあたりに、「めんつ」が中国語の面子=メンツにつうずるところから「めんつ」=面子=メンコに転訛していったのかもしれない。
陸軍の兵営で喫飯用の食器のことをメンコと呼ぶようになったのが面桶時代であることだけはまちがいない。この習慣はアルミニウム食器時代になっても引きつがれ、メンコという呼び方は日本陸軍の解体までつづく。
貴志少佐は建長寺視察の結果を田中連隊長に口頭で報告するとともに、軍隊内務書改正にあたっての参考意見を書類にして提出した。
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巨福山建長寺を視察したる結果、兵営の炊事、給養の改善に資すべき貴志少佐の所見|左《さ》のごとし。
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一、根本の主義として、坐臥寝食の間もまた軍人の精神修養の機会なることを明示すべし。
一、軍隊炊事の目的達成は、大隊長の職責なることを明示すべし。
一、大隊糧食委員の主務は経理の管理にあらずして、糧食の調弁、貯蔵、ならびに炊事なることに改むべし。
一、炊事掛下士に関する規定を設くべし。
一、炊事に関する一章を設くべし。該章において規定すべき主要なる項目、左のごとし。
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一、食事は栄養を旨とし、簡易質素を尊ぶの主義を明らかにす。
二、軍隊炊事の目的は、右の趣旨を達成し戦場において迅速かつ善味に炊事することを習得せしむるにあり。
三、経理委員および糧食委員は市井の物価を調査する等、百般の手段を尽くして善良なる食事を供するに勉むべし。
四、残飯、残菜の多きは不健康者多きか、料理不味なるゆえなり。隊長および委員は深くこれに注意し、しばしば検査をおこない、食事の改善に勉むべし。
五、委員は、滋養を専一とし嗜好に適するものを選び、賄《まかない》料の定額を顧慮し、翌週の献立を作成して隊長に提出すべし。
六、委員は、食事分配以前においてしばしば炊事場において試食し、調理の良否、数量、食器の清潔等を検査すべし。
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一、喫飯用食器は、現用の面桶を廃してアルミニウム製の鉢を用うるを可とす。耐久力および清潔保持の観点よりして、後者ははるかにまされるをもってなり。かつ兵営食事の根本主義を実現せんがためには、食器をして品位あらしめざるべからず。この趣旨よりするも、世俗の目をもって見るとき面桶はもっとも適当ならず。
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田中連隊長はさっそくアルミニウム製の食器使用の実験を開始した。たしかに取扱いが便利であり、衛生的にも効果は抜群であった。
こうして、全軍の食器が逐次アルミ食器に切りかえられるにいたる。
面桶がアルミ鉢にかわっても、兵卒にとってはやはりメンコであった。かれらは敏感にもアルミ製食器の手ざわりに、つめたい軍隊的合理主義ときびしい宗教的な精神主義を感じとった。
誰が作ったのか、兵卒たちが歌いひろめ歌いついだ歌は、ことの本質を的確にとらえていた。
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いやじゃありませんか軍隊は
金《かね》の茶碗に金の箸
仏《ほとけ》さまではあるまいし
一ぜん飯とは情なや
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四 赤坂新坂町
歩兵第一連隊の正門――現在の防衛庁の正門――をでて、連隊をかこむ土塁ぞいに青山一丁目の方に歩くと、連隊の敷地を離れたすこし先から右にまっすぐくだる急坂があった。当時、幽霊坂と呼ばれていた。
現在乃木坂と名づけられているこの坂は、くだり口が檜町よりにつけかえられてカーブし、傾斜がゆるやかになっている。当時は現在の外苑東通りからほぼ直角にくだっていた。坂をくだると、右側に檜町の台地がせまってくる。そこは歩兵第一連隊の敷地である。道はそのまま、現在の一《ひと》ツ木《ぎ》通りとなる。
歩兵第一連隊の新門をでて東北に道をとると、道はゆるやかな左カーブをえがいて中ノ町通りを横ぎり、赤坂新町通り現在の一ツ木通りと交差する。一ツ木通りまではゆっくりとしたくだりである。
この道をたどって一ツ木通りを越えると、道はのぼり坂となり、すぐ近くの正面にお寺が見える。江戸相撲の名大関・雷電《らいでん》為右衛門《ためえもん》の墓がある報土寺《ほうどじ》である。報土寺のまえを右にまがって急坂をのぼった上が、一ツ木台である。急坂にそっている右側の台地、現在一ツ木公園となっているところに、かつて近衛歩兵第二旅団司令部があった。
坂をのぼりつめた正面の広い台地は、現在そのほとんど大部分が東京放送――TBS――の所有地となっているようである。そこが近衛歩兵第三連隊の兵営跡である。
ちょうど坂をのぼりつめたところに立ってみると、すぐ左手の前方に銀杏《いちよう》の老樹がみえる。自然の風雪というより、戦災と都会の残酷さに耐えて生きのびてきたその姿は傷ましいというほかない。この一本の銀杏の老樹が、一ツ木の地名の由来とされている。
赤坂一ツ木町はいまでは赤坂五丁目と名をかえてしまった。町名より長生きした銀杏の生命も、これから先あまり長いものではあるまい。戦後はカトリック系の学校の敷地となっていたこの地にも、いま再開発の工事の手がのびている。
幽霊坂のくだり口にむかって左側に、現在も残る一軒の邸宅がある。赤坂新坂町五十五番地、陸軍大将乃木希典邸である。その邸内からかつては東北方に一ツ木台の銀杏がよく見えた。
乃木邸の門は現在の外苑東通りに面している。門にむかって右側、坂のくだり口側にりっぱな煉瓦建築の厩舎《きゆうしや》がある。門をはいって左側に小さな供待ち所がある。住居の玄関は、門からやや左手、ななめにはいった位置にある。居宅は斜面を利用し、大谷《おおや》石積みの半地下構造の地階の上に建てられた木造住宅である。
明治の高官の邸宅のなかではひときわ簡素な邸宅である。ここに、旅順攻囲戦の軍司令官として、従二位、伯爵、功一級、勲一等|桐花大綬《とうかだいじゆ》章の栄典に輝いた乃木大将が、静子夫人と二人だけのわびしい生活を送っていた。乃木の二人の息子はともに日露戦争で戦死した。
長男の勝典《かつすけ》は、かつて乃木が連隊長を勤めた歩兵第一連隊の小隊長として、南山の戦闘で戦死した。次男の保典《やすすけ》は、乃木第三軍司令官のもと、旅順第三回総攻撃に二〇三高地でたおれた。
悲劇性は英雄伝説に欠くことのできない属性である。日露戦争は、その惨澹たる勝利の象徴として、一人の悲劇的英雄をしたてあげた。乃木希典である。
日露戦争の栄光の側面を体現する英雄が、日本海海戦の完全勝利を代表する海軍大将東郷平八郎であり、悲劇の側面を代表する英雄が旅順の乃木であった。あたかも、日露戦争が生んだ二大戦記文学が、旅順をえがいた桜井|忠温《ただよし》の『肉弾』と、日本海海戦をえがいた水野|広徳《ひろのり》の『此《この》一戦』とされたように。
歴史は皮肉である。旅順の悲惨をえがいて軍人作家としての地位を確立した桜井は、後年、陸軍のスポークスマンとして戦争の賛美者となる。日本海の栄光をえがいた水野は、追われるように海軍を去って、反戦平和主義の論陣をはる。二人とも四国の松山市の出身である。
乃木は軍司令官となって大陸に第一歩をしるしたとき、南山の戦場あとをおとずれ、「征馬進まず人語らず、金州城外斜陽にたつ」と吟じた。それはこの地で散った長男勝典への鎮魂賦でもあった。しかし、だれもがこの詩を、日本軍最初の苦戦をしいられた南山の戦闘に死した将士を悼《いた》んだものとして、受けとめた。
旅順攻囲戦の決戦場となった二〇三高地を乃木は爾霊山《にれいさん》と名づけた。爾――なんじ――という呼びかけのなかに、この地で死んだ次男保典への慰霊の情を読みとったものもいた。しかし、それを非難するものはいない。
戦争が終わったいま、勝典、保典の二兄弟は九万の戦没者の象徴であり、乃木夫妻は九万の戦没者の親の象徴であった。旅順の拙戦を非難された凡将乃木は悲劇の英雄として、勝利の栄光をになった陸軍のどの将軍よりも国民の崇敬の的となった。日露戦争の悲劇性が国民にそれを求めさせたのである。
学習院長、軍職としては軍事参議官の職にあって、乃木の日常の時間は、多く、第三軍に所属した各部隊の将士たちの出身地に建てられる、忠魂碑の題字の揮毫《きごう》にさかれていた。
四十年の秋も終りに近いころ、歩兵第一連隊長の宇都宮大佐が乃木邸をたずねた。
歩兵第一連隊は乃木が第二代の連隊長を勤めた連隊である。
日清戦争に乃木は歩兵第一旅団長として出征したが、その麾下《きか》の連隊は歩兵第一連隊と歩兵第十五連隊であった。出征にあたり、乃木は天皇に請うて、とくに歩兵第一連隊の軍旗に錦の覆《おおい》をつける特権の許しをえた。
日露戦争に乃木が第三軍司令官として出征したとき、歩兵第一連隊が所属する第一師団は、第三軍の編成以来、終始乃木のひきいる第三軍に属した。第三軍の編成以前であったが、乃木の長男勝典は歩兵第一連隊の軍旗のもとで戦死した。
乃木の軍人生活にとって、歩兵第一連隊はとくに忘れがたい意味を持つ連隊であった。
乃木は宇都宮を応接室に迎えいれた。宇都宮は手に長い巻物を持っていた。
玄関をはいって奥につうずる廊下のすぐ右側に、広い洋間の応接室があった。板敷の床に栗毛の馬の毛皮がしいてあるだけの、質素な応接室であった。マントルピースつきの暖炉がしつらえてあったが、もちろん火ははいっていなかった。
「本日は、歩兵第一連隊のために閣下の御揮毫をいただきたいと存じて伺いました。」
宇都宮は端的に用件をきりだした。
「何を書けというのじゃ。」
――ほかならぬ歩一の頼みとあれば――
自宅でも軍服を着たままの乃木の表情は、そう語っているかのように、ほころびていた。
宇都宮は巻いてあった手もとの布を広げた。扁額や碑文用のものではない。縦横の寸法からみると大きな旗である。白い旗地の左右の両端に、ふとく赤い条《すじ》が縦に走っている。
「この旗に閣下の御染筆をお願いいたしたいと存じます。」
「これは何の旗じゃ。」
「わが連隊の射撃名誉旗であります。歩兵のおもて芸は射撃であります。しかるに、わが連隊は、いまだに師団名誉射撃に優勝いたしておりません。残念ながら、本年の師団名誉射撃においても、優勝の名誉を歩兵第十五連隊にしめられるに至りました。
明年こそはぜひとも優勝して、わが連隊が武士のおもて芸である射撃においても第一であることを示したいと、かように考えております。各中隊に射撃演習を奨励するために、その年の射撃の成績がもっとも優秀であった中隊に、旗を授けてその名誉を表彰したいと考えます。」
「それは一案じゃ。して、何と書く……。」
「いろいろとかんがえてみましたが、愚案では超群≠フ二字はいかがかと存じます。」
「よいじゃろう。ところで、この旗の地いろは何をあらわしとるのかの……。」
「旭日大綬章の綬になぞらえました。戦場での武功ではありませんので、金鵄勲章の綬を模するのはいささか不謹慎のそしりを招くかと存じまして、旭日章になぞらえたしだいであります。」
「そうなると、旗ざおにも何か適当なものがほしいのう。」
「実は、閣下の指揮のもとに日清戦争に転戦いたしました節、鹵獲《ろかく》いたしました清国軍の槍がございます。この槍をさおに使いたいと考えております。」
「それはおもしろい。」
乃木はおおいに興味をそそられたようであった。
「優勝中隊にたいする名誉旗の授与式にさいしましては、優勝中隊が捧持する名誉旗にたいして他の全中隊は分列行進をおこない、その名誉に敬意を表することにしたいと考えます。」
「では、気分が乗っているうちに書くとしよう。」
乃木は宇都宮を書斎に案内した。大応接室と廊下をへだててむかい側に、玄関の方から書生部屋、板敷の書斎と並んでいた。
書斎の中央に小判型をした大テーブルがすえられていた。テーブルの上に大きな硯《すずり》とふとい筆がおさめられた硯箱があり、硯の池には溢れるばかりに墨汁がすりためてあった。かたわらには、揮毫をたのまれた絹や紙がうずたかく積まれていた。
「ちょっと、そこの古新聞を広げてくれんかの。」
宇都宮はいわれるままにテーブルの上に古新聞をしき、その上に旗地を広げた。
乃木は大きな筆にタップリと墨汁をふくませた。しばし瞑目ののち、一気呵成に超群≠ニ書いた。
旗は超群旗≠ニ名づけられた。
墨がかわくまで、二人は大応接室にもどって談笑をつづけた。
師団名誉射撃の制度は明治三十六年にはじまった。しかし、三十七年、三十八年は戦時中のために中止された。三十九年は千葉県佐倉の歩兵第二連隊第六中隊、四十年は群馬県高崎の歩兵第十五連隊第五中隊が優勝した。
当時の第一師団の編制は、歩兵だけについてみれば、つぎのようになっていた。
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第一師団(東京)
歩兵第一旅団(東京麻布)
歩兵第一連隊(東京赤坂)
歩兵第十五連隊(高崎)
歩兵第二旅団(東京赤坂)
歩兵第二連隊(佐倉)
歩兵第三連隊(東京麻布)
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第一師団のこの編制は四十年九月十八日付をもってつぎのように改正された。新制度への移行は、新築兵舎の完成後所属師団の変更にともなって兵営をいれかわらなければならない連隊の都合を考慮して、四十一年秋季演習の開始日に実施されることになっていた。古い兵営から演習に出発して新兵営に戻るというしくみである。
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第一師団(東京)
歩兵第一旅団(東京麻布)
歩兵第一連隊(東京赤坂)
歩兵第四十九連隊(甲府)
歩兵第二旅団(東京赤坂)
歩兵第三連隊(東京麻布)
歩兵第五十七連隊(佐倉)
[#ここで字下げ終わり]
佐倉の歩兵第二連隊は水戸に兵営を新築移転し、高崎の歩兵第十五連隊とともに新設の第十四師団(宇都宮)に属することになった。
一歩兵連隊は、第一、第二、第三の三個大隊、各大隊は四個中隊、中隊番号は、第一大隊所属の中隊から順番に、第一から第十二までの通し番号という制度であった。師団、旅団、連隊、中隊の編成をこのように順序だてて制度化することを建制といい、制度化された編成を編制という。
陸軍は四十年から四十一年にかけて全軍の編制の大改正をおこなった。
大改正は編制だけでなかった。もともと、この大改正は日露戦争後の師団大増設にともなうものであった。それだけに、兵役制度の改正をもともなった。
毎年現役兵として入営する兵卒の大部分は歩兵である。他の兵科は、原則として一個師団につき騎兵一連隊、野砲兵一連隊、工兵一大隊、輜重《しちよう》兵一大隊と、部隊の数も少なく、一部隊の兵員数も少なかった。ほかに戦時に編成される軍の直属部隊として運用される予定の旅団編成の騎兵、野砲兵、重砲兵などがあったが、その兵員数も多いものではなかった。平時には、これらの旅団は所在地の師団所属とされていた。
歩兵連隊の急増にともない、毎年の徴集兵卒数も急増することになる。これまで兵卒の現役在営年限は三年であった。しかし、徴集兵卒数が急増するにともない、これら多数の兵卒を三年間も兵営にしばりつけておくことが重大な社会問題となった。
陸軍は師団増設とひきかえに、歩兵にかぎって、現役三年のまま在営二年、帰休一年に制度をあらためた。実質的な歩兵現役二年制度の採用である。ただし、一個中隊の定員は従来どおりである。この制度は四十年十二月の入営兵から実施された。
歩兵一個中隊の平時編制の定員は百五十名である。三年在営制度のもとでは毎年各中隊に五十名の新兵が入営した。四十年の入営兵から各中隊七十五名となる。この年にかぎって各中隊二十五名の定員過剰となる。三十八年入営兵の三年兵の半数が過剰人員となる。
四十一年の入営期には定員過剰が五十名となり、三十九年入営の三年兵全員が定員過剰となる。したがってその全員を在営二年で帰休させることができる。三十八年入営兵にかぎって、半数が二年で帰休し半数が三年在営するという不公平が生じた。
当時の軍隊の一年は十二月にはじまって十一月におわる。新兵の入営は毎年十二月一日であり、満期除隊日は近衛師団と第一師団の場合十一月二十六日と定められていた。四十年十月二十九日の勅令で、三十八年入営兵のうち成績良好な兵卒半数を二年で帰休させることが定められた。
帰休する側は問題ないとして、三年在営組に残された兵卒たちの不満は高まった。一年長く兵営に閉じこめられた上に、「成績良好」でなかったという烙印を押されることになる。各歩兵連隊ともに残される三年兵組が荒れはじめた。
四十年十月、歩兵第一連隊では、兵営改築工事の最後に残された第二大隊の兵舎と炊事場が完成した。
炊事場の改築によって、これまで薪で炊飯していたのが蒸気炊飯に改められた。炊事は能率的になった。しかし、飯はまずくなった。
脚気《かつけ》予防のため、陸軍の主食は米六、挽割《ひきわ》り大麦四の割合の麦飯と定められていた。麦飯を常食とする農村出身兵は別として、米飯になれている東京出身兵は、水っぽい、ひえるとポロポロになる麦飯に閉口してきた。
食用大麦を押し麦に加工して米に炊きこむという技術は、当時はまだなかった。蒸気炊飯はただでさえ水っぽい麦飯をいっそう水っぽくし、味気ないものにした。
第二大隊の兵舎完成によって生活環境がいちばん大きくかわったのは、第五中隊の兵卒であった。
念のためにいえば、兵卒の兵営生活の生活単位として内務班が生まれるのは、田中中佐らが目下研究立案中の軍隊内務書改正によってである。当時は、中隊のなかに給食単位としての給養班がおかれていたにすぎなかった。
第二大隊の兵舎の改築だけが日露戦争後に持ちこされたため、第五中隊は、半数が第六中隊と、残りの半数が第七中隊と同居するという不便な生活を送ってきた。不便なというのは中隊幹部の中隊統率の立場からの表現で、古年兵たちは中隊幹部の目がとどかないことを利用して、けっこう気ままな生活をたのしんできた。
第五中隊のおかれた状況を憂慮した小原前連隊長は福田栄太郎第二大隊長の意見具申をいれて、第六中隊長の北川順蔵大尉を第五中隊長に、第十一中隊附の猪熊敬一郎中尉を第五中隊附に転じた。これら歴戦の将校をつうじて中隊の掌握を確保しようとしたのである。
北川中隊長が病気にたおれて休職となったのは、宇都宮連隊長の着任後であった。宇都宮連隊長は猪熊中尉を中隊長代理に任命しただけで、後任の第五中隊長を任命しようとはしなかった。みずから中隊長勤務をした経験がない宇都宮の手ぬかりであった。
この秋、連隊はいそがしすぎた。
八月末から九月中旬にかけて第一師団は特命検閲をうけた。
特命検閲とは、とくに勅命によって任命された大・中将である特命検閲使が、受検部隊に指定された部隊にたいしておこなう検閲をいう。
これによって各部隊長の勤務成績が評定されるのであるから、受検部隊は受検対策に秘術を尽くす。検閲使の高級属員には隊附勤務の経験がほとんどない幕僚将校が任命されたので、特命検閲にまつわるさまざまの珍談奇談が生まれた。軍の形式主義の最たるものといえよう。
こういう話がある。明治末年の特命検閲のエピソードである。特命検閲使の高級属員としてある騎兵連隊にのりこんだ某少将は隊附勤務の経験がほとんどなかった。各中隊の兵卒の身上に関する内務班の記録を調べたのち、連隊長を呼びつけて叱りとばした。
――ある中隊では各兵卒の名の下に、正宗、黒松、白鷹《はくたか》など、好きな酒の名が記入してある。他の中隊では、藤紫、淡紅《うすべに》、黄菊、梅香など、なじみの女の源氏名《げんじな》が記入してある。いくら兵卒の身上を調査記載するといっても、ふまじめきわまる――
どなられた連隊長は目をパチクリさせ、口がきけなかった。じつは記載されていた名前は、各兵卒が手入れを担当している馬の名前であった。当時の軍隊では馬の名称は各部隊が適宜につけるものとされていた。兵卒たちが覚えやすいような二字の漢字でつける習慣があったことから生じた誤解であった。
こんな形式主義の特命検閲対策に時間をとられたあと、十一月十五日から十八日まで特別大演習があった。
特別大演習は天皇みずから統監する日本陸軍最大の年中行事である。毎年各地方持ちまわりでおこなわれるので、天皇が国内を巡幸する最大の機会であった。戦後は各県持ちまわりの国民体育大会が陸軍大演習のかわりとなった。
この年の特別大演習は日露戦争後の最初の大演習であった。
東軍は川村|景明《かげあき》大将を軍司令官とし、第一師団、第三師団、騎兵第二旅団、野砲兵第二旅団、野戦重砲兵第二大隊などで編成された。西軍は伏見宮貞愛親王を軍司令官とし、近衛師団、日露戦争中の新設臨時編成のままの第十五師団、騎兵第一旅団、野砲兵第一旅団、野戦重砲兵第一大隊などで編成された。
当時の第十五師団は千葉県の習志野《ならしの》に仮駐屯中であった。その歩兵連隊は第五十七から第六十連隊までであった。四十年九月発令、四十一年秋実施の編制改正による常設師団化で第十五師団は豊橋に師団司令部をおき、その歩兵連隊の番号は十八(豊橋、第三師団から所属がえ)、六十(豊橋)、三十四(静岡、第三師団から所属がえ)、六十七(浜松)となる。第五十七連隊は第一師団、第五十八連隊は第十三師団(高田)、第五十九連隊は第十四師団(宇都宮)所属となる。
状況は利根川を遼河《りようが》、鬼怒《きぬ》川を沙河《しやか》、思川《おもいがわ》を渾河《こんが》に見たてての、日露戦争における沙河の会戦の再現という設定であった。東軍がロシア軍、西軍が日本軍ということになる。日本陸軍の好きな遭遇戦、攻勢防御、攻勢移転という状況を織りこんだ機動演習である。北関東の平野を舞台にくりひろげられたこの特別大演習は、十一月十九日の観兵式をもっておわった。
例年ならば旅団対抗演習としておこなわれる秋季演習が、三年兵最後の軍隊行事である。これが終われば満期除隊である。
特命検閲も特別大演習も、数年に一回まわってくるかこないかという特別行事である。おなじ年に両方が一度にまわってきたことは、兵卒にとっても隊附将校にとっても、不運であり、迷惑であった。夏以来、緊張をとくひまもなかった。
歩兵第一連隊のばあい、この二大行事のあいだに第二大隊の兵舎と炊事場の改築完成があり、炊事制度の手なおしや第二大隊の各中隊の兵舎いれかえなどの雑務が割りこんだ。
宇都宮連隊長があせってみても、大演習まえにおこなわれた師団名誉射撃に優勝することはとてもむりであった。連隊長が期待をかけた射撃優秀中隊の第三中隊は優勝を逸した。宇都宮連隊長は不満の色をかくさなかった。
第五中隊長の病気休職後の処置にまで、宇都宮連隊長の頭がまわらなかったことは、ある意味ではやむをえなかったといえるかもしれない。
宇都宮連隊長の心にひっかかったのは、来年の師団名誉射撃のことであった。軍隊内務書改正の実験連隊として、内務に全力をそそいでいる歩兵第三連隊に優勝を期待することは、まずむりであった。歩兵第一連隊が優勝しなければ、どういうことになるか。
来年の秋季演習の開始の日をもって、歩兵第二連隊と第十五連隊は正式に第十四師団に編入される。そのまえにおこなわれる名誉射撃に歩兵第一連隊が優勝しなければ、第一師団の射撃名誉旗は、一時的にもせよ第十四師団の手に渡ることになる。それは頭号師団である第一師団の名誉にかけて許すことができなかった。
歩兵第一連隊が来年の師団名誉射撃に優勝することは、第一師団の名誉を守るための至上課題であった。それだけではない。
歩兵火力重視をとなえる連隊長としての宇都宮にたいする軍中央の成績評価は、この一点にかかっているといってもよかった。田中連隊長に軍隊内務書の根本的改正の責任が課せられているとすれば、宇都宮連隊長には歩兵操典の根本的改正の原則確立の期待がよせられていた。
考えた結果が連隊の射撃名誉旗の制定であった。特別大演習がおわったのち、宇都宮は乃木邸を訪問し、連隊射撃名誉旗に超群≠フ揮毫をたのむことになった。
宇都宮が辞去したのち、乃木はそのまましばらく応接室にいた。宇都宮との雑談のなかで、乃木が視察した先頃の大演習も話題となった。しかし、乃木が宇都宮に語らなかった感想もあった。
閑職ではあるが軍事参議官という軍職にある乃木学習院長は、先般の大演習に陪観というかたちで参加した。乗馬の足はどうしても第一師団の方にむく。旅順攻囲戦とそれにつづく奉天の会戦で、隷下にあった師団であるからである。
――こんな元気で訓練のいきとどいた現役兵を指揮して、遭遇戦をしてみたかった――
乃木はそんな感懐をもった。
乃木のひきいた第三軍は、現役兵の精鋭を旅順の鉄壁にぶっつけて失ってしまっていた。旅順を落し北上して奉天の会戦に参加したとき、第三軍の兵力は、体力と訓練の両方で劣る補充兵と、老兵である後備兵が多かった。全軍の最左翼にあって巨大な包囲網を完成する任をおびた第三軍は、長駆して敵の右翼を迂回するという機動戦の要求に脚力が追いつかなかった。
乃木の第三軍の運動が緩慢であるとして、電話で叱咤激励したのは当時の総司令部作戦主務参謀の田中義一中佐であった。第三軍はロシア軍の退路遮断を目前にして戦力が尽きた。退路防衛を目的としてロシア軍が反撃に出た三十八年三月九日、とくに左翼縦隊の第一師団が見るも無残な敗走を演じた記憶は乃木の脳裡に焼きついていた。
――あの日のうちに鉄道を野砲の射程のなかにいれることができていたら――
ぞくぞくと北にむけて走りさるロシア軍の主力を乗せた列車を目に見ながら、なお砲弾がとどかない距離にあることの無念さに、乃木は歯ぎしりした。
――網中の大魚を逸する恐れあり――
総司令部から警告してきたとき、乃木軍はその大魚に呑みこまれかねない状況にあった。
――大魚の逸するを待ちつつあり――
乃木の軍司令部はそうこたえるほかなかった。乃木軍が鉄道を遮断することに成功していたとしても、退路を切りひらこうとするロシア軍の必死の反撃に乃木軍は全滅する以外になかったであろう。
余談であるが、私は奉天の会戦から四分の三世紀余をへたのち、三十八年三月九日に乃木軍が悪戦苦闘した奉天北方の地をおとずれる機会を持つことができた。三台子《さんだいし》の陣地を突破して柳条湖《りゆうじようこ》付近で鉄道を遮断するというのが乃木軍の任務であった。
柳条湖付近の鉄道といえば、のちの満州事変の発火点となった鉄道爆破事件があったところである。奉天を制する戦略上の要点である。私は鉄道を指呼の間に望む三台子の部落の中心にある四つ角にたって、当時の戦況に想像力をはたらかせてみた。
南の翼を形成する第七師団は、その夜の夜襲で清国第二代皇帝太宗の陵である北陵の森に吸いこまれて部隊が分散してしまい、二〇三高地占領の栄誉にかがやく歩兵第二十八連隊長村上|正路《まさみち》大佐は捕虜になった。
北の翼を形成する後備歩兵第一旅団と歩兵第二旅団は田義屯《でんぎとん》で強力な逆襲をうけ、戦線は崩壊して見るも無残な潰走状態におちいった。
第一線部隊はどうしても三台子を突破できなかった。それを知らずに三台子にかけつけた第三軍の津野田|是重《これしげ》参謀は、ロシア軍の防衛線内に飛びこんで包囲され、部下の伝令が時間をかせいで捕えられるあいだに逃げ、あやうく捕虜になることをまぬかれた。力尽きた乃木軍はここで防戦しつつ、むなしく「大魚の逸する」のを待った。
天皇にたいする乃木第三軍司令官の凱旋復命書は、戦況報告のこの部分が公表にあたって伏字にされた。異例中の異例ともいうべきできごとであった。
いま、三台子に当時のおもかげはまったくない。かつての農村は、奉天あらため瀋陽《しんよう》をとりまく工場地帯の一部となった。中心の四つ角の一画は航空機用ジェット・エンジンの整備工場である。
外国人立入り禁止区域であるとしてしぶる中国の受入れ側に、私は日露戦争の戦況の略図を描いて見せながら、前夜おそくまで強引にくどいて案内してもらった。中国の受入れ側はその夜ほとんど徹夜で上部機関の許可をとりつけたようであった。現地に行ってみてよくぞ案内してくれたものと、そのなみなみならぬ好意にあらためて感謝した。
本題にもどろう。
乃木は感慨にひたりながらも、かつて連隊長、旅団長、軍司令官として三度までも指揮下においた歩兵第一連隊と、かつての田中参謀が指揮をとる歩兵第三連隊とを視察した。
そこで発見したのは、闘志をみなぎらせた宇都宮の布陣にたいして、余裕をさえ感じさせる柔軟な田中の布陣の対照であった。そこには、電話口で大声叱呼ひたすらに前進のみを鞭撻した田中参謀とは、まったく別人の田中の姿があった。
――児玉さん仕込みの能吏で、しかも政治家じゃのう――
連隊長田中にたいする乃木の感想であった。職がかわればその職に順応した姿勢に徹しきることができる田中を、乃木は、自分とまったく対照的であった親友児玉の姿と二重写しにして見ていた。
――強い。しかし、部下を大勢死なせるようないくさをするかもしれん。だが、奉天でおれがほしかったのは、こんな連隊じゃった――
連隊長宇都宮にたいする乃木の印象であった。
宇都宮があえて超群≠フ二字を所望したとき、乃木はこの大演習のときの印象を思いだしていた。
宇都宮が辞去するときにいった言葉が乃木の頭に強く残っていた。
「閣下が育成された歩兵第一連隊は、あくまで日本陸軍の第一連隊でなければなりません。」
宇都宮はこの思いを超群≠フ二字に託したのかもしれなかった。この二字が連隊の将兵におわせるであろう重圧感を、旗の染筆者である乃木もまた感じていた。
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五 麻布龍土町
東京鉄道の市街電車の線路が青山一丁目から南にのびていた。停留所は、蛇《じや》が池《いけ》、三連隊裏、青山墓地下、霞町《かすみちよう》、笄町《こうがいちよう》、赤十字病院下、広尾橋、天現寺《てんげんじ》橋とつづく。
東京市内を走る市街鉄道三社が合併して東京鉄道株式会社となったのは明治三十九年九月である。私鉄であった東京鉄道が東京市営になったのは明治四十四年八月である。
そのころの市街電車は、坂道の多い山の手を走るのがにが手であったのか、路線網は下町に密で山の手に疎である。東京鉄道時代の明治四十年に赤坂、麻布かいわいを走っていた市街電車の路線は、三本しかない。
外堀線が四谷|見附《みつけ》方面から学習院前、紀の国坂、赤坂見附、青山通り、山王下、溜池、葵橋《あおいばし》、琴平宮《ことひらぐう》前、虎の門内と走っていた。青山線が三宅坂方面から、赤坂見附上、赤坂見附、豊川稲荷前、表町三丁目、青山一丁目、青山三丁目、青山四丁目、青山六丁目、青山七丁目(車庫前)と走っていた。それに、四谷|塩町《しおちよう》――現在の四谷三丁目――から信濃町、権田原《ごんだわら》、陸軍大学校前、青山一丁目、三連隊裏をへて天現寺にいたる広尾線の三本である。
青山一丁目から青山葬儀場のまえをとおって霞町にぬける現在の道路ができたのはごく新しい。ほぼこの道路の線上を電車の線路が走っていたが、墓地の東側をぬける線路ぞいの道路はなかった。当時、電車の線路は青山一丁目から霞町まで、谷間を路外軌道としてとおっていた。戦後もずいぶん長いあいだ、青山一丁目から霞町に車で行くには青山墓地のなかをとおらなければならなかった。
青山墓地と歩兵第三連隊は、東京鉄道の線路をへだてて背中あわせの位置にあった。歩兵第三連隊の敷地は大きな通りに面していなかった。その正門も奥まった場所にあった。
歩兵第一連隊の正門は現在の外苑東通りに面していた。現在の防衛庁正門の位置である。その敷地も現在の外苑東通りに面しており、敷地と道路との境界は土塁となっていた。道路をへだてた反対側、麻布側には六本木から町並がいりこんでいた。この町並が龍土町《りゆうどちよう》である。
右側に歩兵第一連隊の正門を見て龍土町の町筋を青山方向に進むと、左にはいる道がある。道の突きあたり正面に門がある。現在は東京大学生産技術研究所の門標がかかっている。麻布の歩兵第三連隊正門の跡である。
六本木の四つ角の西南の一画、龍土町は、明治二十三年に歩兵第三連隊が麻布に引越してきて以来、歩兵第一連隊と第三連隊にはさまれて兵営の門前町となった。とくに第三連隊の正門前の通りには、除隊記念の杯などの記念品を売る店、兵卒相手の食いもの店、入営兵をおくってきた父兄や兵卒への面会者めあての店などがたち並んでいた。
龍土町にあったのはこの種の店だけではなかった。ちょっとしたフランス料理店の龍土軒もあった。第三連隊の正門につうずる道路の右側、入口から二軒目である。
大演習がおわった第三連隊の兵営内では、三年兵や今年から実施される帰休制度の適用をうける二年兵が、あと数日後に除隊日をひかえて浮きたっていた。大演習の慰労をかねて、第三連隊の将校集会所で将校の会食会が開かれた。
その末席に予備役見習士官有島|武郎《たけお》がいた。有島は学習院から札幌農学校を卒業し、一年志願兵として兵役に服したのちアメリカに留学し、四年間の滞在後、四十年四月に帰国した。帰国した三十歳の有島を三カ月の勤務演習が待っていた。
一年志願兵制度とは、中学校を卒業し在営中の費用を自弁するものは志願によって一年間現役に服することができる、という制度であった。裕福で学歴の高い青年の兵役義務を短縮する特権的な制度であった。
一年志願兵は一年間の現役在役中に予備役下士に昇進する。成績優秀者は予備役見習士官に採用される。その後、予備役見習士官としてさらに三カ月の勤務演習に服務し、最終試験に合格すれば将校団の選考をへて予備役少尉に任官する。三十五年十一月に現役をおわった有島は、帰国後の四十年九月一日に勤務演習のため歩兵第三連隊に入隊した。十一月末日で勤務演習期間をおわり除隊の予定であった。
有島の歩兵第三連隊勤務の三カ月間はけっこうたのしい期間であった。有島の弟でローマの国立美術学校に留学中の壬生馬《みぶま》(生馬《いくま》)の親友、志賀直哉の屋敷が麻布三河台にあったからである。下士卒とちがい、将校待遇の見習士官ともなれば勤務時間以外の時間は自由がきく。有島はよく志賀の屋敷に行き、風呂にはいったりなどした。
志賀の恋愛問題にかかわったのも有島の見習士官時代であった。そのとき志賀は、有島の性格が意外によわいのにおどろいた。ロンドンで無政府主義者のクロポトキンにあい、幸徳秋水への手紙をたのまれて持ちかえったという話が、うそのように感じられた。
田中連隊長は有島のそんな行動については知るよしもなかった。有島は大演習という行事をふくんだ勤務演習期間をまじめに勤務し、最終試験にも合格して四十一年六月一日付で、予備役陸軍歩兵少尉に任官することになる。
正面の席についている田中連隊長の肩にま新しい階級章がつけられていた。田中連隊長は十一月十三日付で大佐に進級していた。
田中連隊長のわきに新任の連隊附中佐が席をしめていた。久松|定謨《さだこと》歩兵中佐である。田中連隊長から、久松中佐の着任によって軍隊内務書改正作業の内務面は久松中佐、教育面は貴志少佐の分担とすることがつげられた。
久松中佐が歩兵第三連隊附として発令されたとき、陸軍の事情通は田中のあざやかな人事工作にアッといわされた。
久松定謨、伯爵、四国の旧松山十五万石の殿様の家の当主である。それよりも、すでにこの世代の陸軍将校のなかではめずらしい経歴の持主であった。日本の陸軍士官学校の卒業ではなく、フランスのサンシール士官学校の卒業である。そのためか、のちに陸軍中将まで栄進しながら、昭和五十六年に刊行された『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』にもその氏名経歴が誤り記載されている。
当時の陸軍に、サンシール士官学校を卒業した現役将校がもう一人いた。閑院宮載仁親王、すなわち第一師団長である。サンシールで、久松は閑院宮の二年後輩である。閑院宮はサンシールを卒業後、ひきつづいてフランスの陸軍大学校にまなんだ。皇族と華族という関係もあり、在仏中から二人の関係は親密であった。
サンシールの卒業年次が二年しかちがわないのに、閑院宮は中将、久松は中佐である。もちろん、閑院宮が皇族であるために進級が異例に早いのであって、久松が特別におくれているわけではない。陸大出でない無天組とはいえ、大名華族として特別待遇を受けている欧米留学帰りの久松の進級のスピードはむしろ早い方である。
閑院宮がサンシールに留学するとき、監督をかねて随従したのは寺内|正毅《まさかた》であった。久松がサンシールに留学するとき、留学をかねて随伴したのは、松山藩の旧家臣で陸軍大学校第一回の卒業生である騎兵大尉秋山|好古《よしふる》であった。秋山の伝記にはフランス留学中の閑院宮、久松、秋山らでいっしょにとった写真が掲載されている。
秋山は日本の騎兵の育成者となる。閑院宮も騎兵科将校である。二人は同時にフランスで騎兵の技術と戦術をまなんだ。日清戦争前、秋山が第一師団の騎兵第一大隊長のとき、閑院宮は秋山の部下として騎兵第一大隊第二中隊長であった。そのころは各師団に騎兵一大隊、つまり全軍で七大隊、各騎兵大隊二個中隊の編制であった。
日露戦争には秋山が騎兵第一旅団長、閑院宮が騎兵第二旅団長として出征した。当時の日本に騎兵旅団はこの二つしかなかった。日露戦争でロシア軍が大反攻にでて日本軍最大の苦戦となった黒溝台《こつこうだい》の戦闘において、秋山は少数の兵力をもって大兵力のロシア軍の包囲に耐えぬき、日本軍歩兵の総反撃を成功にみちびいた。
秋山の弟は、真之《さねゆき》、海軍にすすみ、日露戦争中は、連合艦隊の作戦主任参謀として日本海海戦の作戦計画にあたった。かつて日露主戦論をとなえて開戦工作にあたった軍中央の中堅幕僚と中堅外務官僚の秘密会が湖月会《こげつかい》である。湖月会の海軍側主要メンバーとして、八代《やしろ》六郎とともに秋山真之の名がみえる。陸軍側の中心人物は田中義一であったから、田中とも親密な仲である。司馬遼太郎『坂の上の雲』の主人公はこの秋山兄弟と正岡子規である。秋山兄はのちに大将、教育総監となる。
久松中佐と閑院宮師団長との関係は、日本陸軍のなかでのただ二人のサンシールの先輩後輩の関係だけでなく、秋山という騎兵の先達をつうじてもとくに親密な関係にあった。田中連隊長が久松中佐を隊附中佐に獲得したことは、閑院宮師団長との人脈関係をきわめて緊密なものにした。
しかし、田中が考えたことはたんなる上部との人脈関係の強化ではなかった。田中自身がロシア陸軍の隊附勤務の経験の持主であった。久松はフランスのサンシール士官学校を卒業したのちフランス陸軍の隊附勤務を一年半経験している。しかも久松は日露戦争まえから戦後まで、ずっとフランス公使館附武官の職にあった。最近のフランス陸軍の事情にもあかるい。
これに、ドイツ陸軍の経験をくわえれば、世界の三大陸軍国の経験を持ちよることができる。陸軍大学校を卒業してドイツに留学中であった首藤多喜馬《しゆどうたきま》中佐が帰国すると、田中は首藤を隊附中佐として獲得した。首藤が着任すると、予定どおり貴志少佐は第二大隊長に転じて内務書改正の実験大隊長となった。
首藤は荻生《おぎゆう》徂徠《そらい》の子孫である。長州藩の軽輩、殿様の陸尺《ろくしやく》つまりかごかきのむすこ田中が、松山の殿様と江戸時代きっての碩学の子孫とを部下に持った。時代である。とはいうものの三人とも日本陸軍のエリートであることにちがいはなかった。首藤は貴志にかわって教育を担当することになった。
有島が勤務演習の期間を終了して歩兵第三連隊を去ったのは、四十年十一月三十日であった。いれかわりにその翌日、おなじ一年志願兵として秀湖《しゆうこ》・白柳武司《しらやなぎたけし》が歩兵第三連隊の兵営の門をくぐった。
白柳秀湖は入営前に書きあげた小説「駅夫日記」を『新小説』十二月号に発表した。この年の『新小説』は日本近代文学史を画期づけた小説を二編掲載した。九月号に掲載した田山|花袋《かたい》の「蒲団」と白柳の「駅夫日記」である。
花袋の「蒲団」は自然主義文学の隆盛時代がきたことを宣言した。秀湖の「駅夫日記」は社会主義文学の誕生をつげた。花袋も秀湖も、ともに、あたらしい文学思潮の旗手として文壇に登場した。
皮肉なことに、花袋はその文壇活動の拠点を第三連隊の営門のすぐ外、龍土軒にもった。秀湖は「駅夫日記」が活字になったとき、第三連隊の営門内にとじこめられ、二等卒の軍服を着せられた。
龍土軒と第三連隊では手をのばせばとどくほどの距離をへだてていただけであるが、兵営の門の内と外では監獄の塀の内と外に匹敵するほどの無限のへだたりがあった。
「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」といいはやされた。
花袋たちが龍土軒をたまり場としはじめたのは日露戦争後である。
柳田国男は書いている。
イギリス公使館に勤めていたコックと家政婦が結婚し、公使館裏に快楽亭という料理店を開いた。だれかがそれを見つけてきて、それまで柳田の家で開いていた文学の会を快楽亭に移した。快楽亭が龍土町に移って、町の名をとり龍土軒と名のった。文学の会も龍土軒に移り、店の名をとって龍土会としたと。
花袋の記憶では快楽亭と龍土軒は別の店である。文士たちが行くまえに、すでに画家たちが出入りしていたという。和田英作、岡田三郎助、中沢弘光、久米桂一郎たちの絵が壁をかざっていたと。
フランス料理のうまい店だということで蒲原有明《かんばらありあけ》、平塚|篤《あつし》あたりが見つけてきて、この二人が国木田|独歩《どつぼ》をつれて行ったという。柳田が龍土軒にくるようになったのはそのあとであり、こうしてたまり場所が快楽亭から龍土軒に移ったという。
龍土軒の細君についても、花袋は茶屋あがりらしいといっている。
どちらの記憶がただしいのか。はっきりいって花袋の方を信じたい。柳田が『故郷七十年』を書いたのは昭和三十四年であり、そのころの柳田はすでにずっとまえから自然主義文学に関心を失っていただけでなく、むしろ悪意をさえ感じている。
柳田のすすめもあって花袋が『東京の三十年』を書いたのは大正六年であり、「蒲団」を書いてから十年しかたっていない。花袋は「蒲団」で世にでたし、「蒲団」と龍土会とは、自然主義文学の旗手花袋にとっては一体の存在でさえあった。
柳田の人生と花袋の人生とにとって、龍土軒のしめる大きさは質的にちがう。記憶のたしかさは自分の人生にとってもつ意味の大きさに支配され、かならずしも一般的な記憶力のよしあしに支配されるものではない。『東京の三十年』が柳田のすすめによって書かれたものであれば、柳田は『故郷七十年』で花袋の記憶のあやまりを指摘するのが常識というものであるが、花袋の記述にはふれることなく自分の記憶だけを書いている。この点も柳田の記憶のあいまいさを感じさせる。
龍土会への参加はおそかった正宗白鳥の『文壇的自叙伝』も、「龍土会は明治文学史に記録されるべき会で、麻布の三連隊の近所の洋食屋龍土軒が会場であった。フランス風の料理が食べられるとかで、岩村透と云ったような美術家が同好者と会食したことが、ことの起りであったらしく」と、最初は洋画家たちのたまり場であったという田山花袋の説を裏づけている。パリ帰りの美術史家、東京美術学校教授、白馬会の創設者のひとりである岩村のサロンとして利用されたのが最初であったという説は信用にあたいする。
明治三十八年四月二十九日、島崎藤村が小諸から一家をあげて東京にでてきた、『破戒』の完成に作家としての生命をかけていた。五月一日に新宿駅の北にあたる西大久保の新しい借家におちついた。三日にさっそく花袋がたずねてきた。藤村の上京といれかわるように、藤村の詩の愛読者である青年有島壬生馬がイタリアに旅だつというので、さっそく見送りにも行った。壬生馬は文学も好きだった。その文学仲間に小山内薫《おさないかおる》、無想庵・武林|磐雄《いわお》などがいた。
藤村の上京を機会に龍土軒の会合が定期的な会合となった。毎月第一土曜日ときめられた。そのとき会の名が龍土会と名づけられた。
蒲原有明、平塚篤、国木田独歩、田山花袋、柳田国男、岩野泡鳴、中沢|臨川《りんせん》、江木|翼《たすく》、生田|葵山《きざん》、小栗《おぐり》風葉、小山内薫らが定連であった。若い武林磐雄が連絡役のような役目を引きうけていた。
龍土軒と目の鼻の先にある麻布三河台の志賀の屋敷にあつまっていた志賀や有島武郎は、龍土会のことを知らない。武郎の弟壬生馬が日本にいたら、たぶん小山内や武林とともに龍土会に顔をだすことになっていただろう。
丸善に洋書をよく買いに行っていた柳田や花袋は、未知の人物である志賀直哉という名前が気になっていた。柳田は三十九年の日記に、「志賀直哉という人、ピネロの作全部を買いたりと、如何なる人にや」と書きつけている。
花袋の「蒲団」は龍土会を有名にした。龍土会は自然主義の本拠とみなされ、龍土軒には、新聞記者や出版社の編集者もやってくるようになった。独歩の健康が悪化し、茨城県|那珂《なか》郡の平磯《ひらいそ》町に転地療養したのは四十年九月二日であった。しかし、独歩はその年の暮には東京にもどってきた。独歩を迎えて、龍土会の忘年会が赤坂の三河屋で開かれた。
そのころから三河屋は、政治家をめざすジャーナリスト三申《さんしん》・小泉策太郎を中心とし、陸軍の田中、宇都宮、海軍の八代六郎、秋山真之を招いて毎月二十八日にあつまる二八会の会場となる。小泉三申がそのころ同時につきあっていた二人の親友が田中義一と幸徳秋水である。ジャーナリスト小泉は処刑された幸徳の墓碑銘を書き、政治家小泉はのちに田中を政治家・首相にしたてあげる。昭和十四年から刊行されはじめ、太平洋戦争中の用紙事情の悪化のために中絶した小泉の全集の校訂者は白柳秀湖である――既刊の『小泉三申全集』四巻は昭和五十九年に復刊された――。歴史の糸はからみあっていた。
龍土軒の二階は二十畳ほどの洋間であった。龍土会の忘年会が龍土軒で開けないほどに、龍土会はふくれあがっていた。文壇の主流からはずれた不遇の文士たちのサークルであった龍土会は、いまや文壇の注目の的であった。
――我々龍土会からも、フランスあたりに行くものがありそうなもんだな。その時は、うんと盛んな送別会をしようじゃないか――
龍土軒のフランス料理を口にはこびながら独歩がそういったのは、つい一、二年まえのことであった。三河屋での忘年会で独歩は主賓の座にすわらされた。話題は花袋の「蒲団」に集中した。
葵山が一言で「蒲団」を評した。
「あまいね。」
酒を二、三杯できりあげた独歩が反論した。
「だって、あまいたって仕方がないさ。花袋君の恋はああいう恋なんだから、とにかく、あまくっても何でも、徹底だけはしてるサ。」
独歩が龍土会に顔をだしたのはこれが最後となった。翌年一月、独歩は茅ヶ崎の南湖院《なんこいん》に入院し、闘病生活ののちそこで息をひきとる。
独歩の姿が龍土会から消えたのちしばらくのあいだ、龍土会の顔は藤村であった。龍土会はふくれあがり、やがて龍土軒を去って新橋に本拠を移した。龍土会が龍土軒を去るとともに会の存在の意義もうすれていった。
三十年後の昭和十一年、龍土軒は思いがけなくふたたび歴史の脚光をあびることになる。歩兵第一連隊と第三連隊の青年将校たちの二・二六事件のクーデタ謀議の場所としてである。
第一連隊と第三連隊の兵営にはさまれたはざまの町のフランス料理店から自然主義文学が生まれたとされていること自体が、自然主義文学を成立させた環境と志向の相克を象徴していた。
白柳秀湖もまた、中学校時代に島崎藤村の愛読者として文学をこころざし、早稲田大学時代から小説の筆をとった。四十年七月に早稲田大学を卒業して書肆隆文館の編集局員となった白柳は、すでに名を知られた社会主義の文筆家であった。
あまりに若くして病死した親友松岡|荒村《こうそん》の遺稿を編纂して『荒村遺稿』を刊行したのは三十八年七月であったが、『荒村遺稿』は発売禁止の処分をうけた。そのまえから加藤時次郎が刊行していた月刊『直言』の編集にたずさわっていた。『直言』はその後、日露非戦論の旗を高くかかげて『万朝報《よろずちようほう》』を退社した幸徳秋水、堺|枯川《こせん》らが発行した週刊『平民新聞』の後継誌となる。
秀湖が中心となって青年文学者のグループ火鞭会《かべんかい》を組織し、機関雑誌『火鞭』を刊行しはじめたのは三十八年九月であった。『火鞭』は翌年五月の廃刊までに九冊刊行された。四十年九月、秀湖は最初の著書を刊行した。小品集『離愁』である。小川|芋銭《うせん》、平福百穂《ひらふくひやくすい》、竹久夢二の絵にかざられていた。そして、入営直前に「駅夫日記」が『新小説』に発表された。
すでに著名な社会主義者の白柳が一年志願兵として歩兵第三連隊に入営することは、軍にとって頭の痛いできごとであった。
白柳は入営の日まで、上司小剣《かみつかさしようけん》とともに目黒村に住んでいた。入営の日、白柳は上司と白柳の弟と三人で朝食をとった。その日は朝からくもり、うすら寒かった。街頭は晴着姿の入営兵を見送る行列の人波でにぎわっていた。そのなかを白柳はふだん着のまま、弟と上司と三人だけで龍土町にむかった。
赤煉瓦の兵営の建物が威圧的であった。営門をはいったとき、上司は白柳に冗談をいった。
「今日からここが君の家だ。目黒のあばら家よりはりっぱだぞ。」
「うん……。」
白柳はそう答えただけであった。
やがて、白柳は古兵の案内で兵営の二階に姿を消した。
さまざまの服装の青年たちがあつめられていた。いちように不安の表情が顔にうかんでいた。まず軍服への着がえから軍隊生活の第一歩がはじまる。
「軍袴《ぐんこ》をはくときはな、キンタマを左によせてはくんだ。」
給養班長が新兵に軍服の着方を教えはじめた。
「なぜキンタマを左によせるかと、いえばだな。おまえたちが執銃教練をするようになればわかる。歩兵操典の……、ええと第四十六だな。膝射《おりしけ》のかまえをするときにだ、銃の床尾板《しようびばん》を股ぐらの右隅に落す。
そのときキンタマが右にあったら、三十年式歩兵銃様がキンタマを押しつぶして、せっかくの男が台なしになる。」
着なれぬ軍服と聞きなれぬ軍隊言葉に不安と戸惑いをかくしきれない新兵たちを、給養班長はひとしきり笑わせて緊張をほぐそうとした。
「いいか、キンタマは左。毎日の服装検査のとき、気をつけるんだ。」
満二十歳の青年たちにまじって大学卒業までの徴集猶予をうけた二十三歳の白柳は、給養班長のいかにもわざとらしい笑いのくすぐりに、しらけた感じになった。これからすごさなければならない一年間が途方もなく長い年月に感じられた。
白柳が一年志願兵を志願したのは予備役将校になりたかったからではない。歩兵のばあい三年在営から二年在営に短縮されたとはいえ、白柳にとって兵営生活の苦痛は耐えがたかった。兵営生活を一年ですませることができるなら、そう考えて白柳は一年志願兵を志顔した。
成績をあげて見習士官にでもなれば、将校となるためにさらに三カ月の勤務演習というよけいな兵役を勤めなければならない。成績がわるければ伍長で除隊である。それでも、一般の兵卒が二年かかって成績優秀で上等兵、たいていの者は一等卒どまりであることを思えば、大変な優遇である。
どうせ、思想がわるいという評価が白柳につきまとうことは覚悟していた。まかりまちがっても、帝国陸軍の予備役将校に適格という判定がくだされることはあるまい。その点では白柳はたかをくくっていた。ただ、そのためにどのような迫害をうけるか、白柳が恐れていたのはそのことであった。
『直言』の廃刊、平民社の解散ののち、再建された平民社による日刊『平民新聞』は三カ月しかつづかなかった。日刊『平民新聞』につづいて、社会主義中央機関を名のって発刊されたのが週刊『社会新聞』であった。創刊は四十年六月二日号である。発刊の中心となったのは、片山|潜《せん》、西川光二郎である。
創刊号の社告に「特別寄稿家」の名があげられている。幸徳秋水、堺|利彦《としひこ》、田添《たぞえ》鉄二、大塚甲山、中里介山、白柳秀湖、大石|誠之助《せいのすけ》、上司小剣、白鳥健、小川芋銭、竹久夢二である。
四十年十二月一日付第二十七号の「人事片々」欄の記事にその年の社会主義者の入営記事がある。
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▲荒畑寒村君 は本日横須賀海兵団水兵として入営せり。
▲白柳秀湖君 よりの近信にいわく「十二月一日一年志願兵として麻布歩兵第三連隊に入営することになりました。」
▲福田狂児君 は要塞砲兵として横須賀要塞に入営せり。
▲藤原恒太郎君 は本日歩兵として奈良連隊に入営せり。
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この記事のうち、寒村・荒畑勝三は心臓病ということで即日|帰郷《きごう》となり、兵役をまぬかれた。
社会主義者は軍隊から歓迎されない兵卒であった。しかし、兵役を国民の必任義務とする軍の立場からすれば、社会主義者であるからといって兵役の義務を免除するわけにはいかない。それは、兵役をまぬかれるために社会主義者となることを奨励するようなことになる。
歩兵二年在営制による最初の入営の年、四十年十二月一日、これまでの二倍の新兵を徴集した結果として何人かの社会主義者が新兵として入営することになった。
そのひとり白柳は、入営後、他の一年志願兵とは切りはなされ、一人だけ第一中隊に配属された。しかも、刑事事件の前科がある新兵と戦友として組みあわされた。知識階級である他の一年志願兵にたいする白柳の思想的影響を恐れたのであろう。それにしてもまるで非行歴をもつ事故兵扱いであった。
第一中隊長は岩倉|定《さだまる》大尉、新兵教育掛は吉江|協中《やすなか》少尉であった。二人とも田中連隊長から、とくに白柳を危険人物とみなして注意をおこたらぬように指示された。
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六 内藤新宿
吉原、洲崎《すざき》を二廓と呼んだ。内藤新宿、品川、板橋、千住《せんじゆ》を四宿と称した。公認の遊廓の所在地である。吉原、正確には新吉原であるが、江戸以来の唯一最大の遊里であった。内藤新宿、品川、板橋、千住は、それぞれ甲州街道、東海道、中山道《なかせんどう》、日光街道が江戸をでた最初の宿場であり、江戸郊外の遊里として発達した。本郷|根津権現《ねづごんげん》の門前町の岡場所が明治二十一年に移転したのが洲崎である。
内藤新宿は甲州街道と青梅《おうめ》街道との追分けにあたる。のちの国電山手線である日本鉄道の赤羽、池袋、新宿、品川線――赤羽・池袋間が山手線から分離して赤羽線となったのはごく最近のことである――が開通し、さらに、現在の中央線である甲武線が新宿をとおるようになってから、新宿は交通至便の町となった。当時の東京十五区の市街に隣接する町として、内藤新宿は他の宿場町の遊廓よりにぎわうようになった。山の手の内藤新宿は、下町の二廓とならび称されるまでに発展した。
兵営に遊廓はつきものであった。若い兵卒たちは、革と油と男くさい汗のにおいがする兵営に長い年月のあいだ閉じこめられ、規則にしばられた単調で非生産的な生活をくりかえさせられていた。その肉体的、精神的な抑圧からの一瞬の解放をあじわうことができるのが、休日の外出であった。
外出先で兵卒たちが求める最大のもの、それはいうまでもなく、日常の兵営内では満たすことができないもの、つまり酒と性であった。その両方を提供したのが遊廓であった。
東京鉄道広尾線の信濃町・四谷塩町間が開通したのは、四十年十月二十五日であった。青山一丁目から、四谷塩町乗りかえで新宿行きの電車にのれば、塩町三丁目、新宿一丁目、新宿二丁目と、内藤新宿の遊廓まではほんの一足となった。もっとも、兵卒たちは青山周辺の兵営街から内藤新宿まで歩くのがふつうであった。
正月の休みといっても兵卒たちに帰郷の休暇はない。外出があるだけである。外出日ともなれば、歓楽街や遊廓は軍服姿でごったがえす。いつもは夜の繁華街である遊廓も兵卒の外出日には昼間からにぎわう。日の高いうちから廓内を兵卒たちの酔歌がながれる。
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今度このたび国のために
遠くわかれて西に行く
西も東もわけ知らずに
知らぬ他国へ売られきて
つらい勤めをするとても
親のためならぜひもない
勤めるその身はいとわねど
もしやこの身に傷つかば
情知らずのお医者様
いやな所を検査され
親にも見せない玉手箱
検査するのがつらにくや
これもお上の規則なら
いやだけれどもぜひもない
ふびんと思えばお客様
早く身|請《う》けをたのみます
客をとるのも家のため
客を振るのも君のため
早く私の年あけて
主《ぬし》とこれからさしむかい
ともに手を取りむつまじく
二つ枕に三つぶとん
手かけ足かけさしつけて
寝ても話をするときは
親よりもろうた軍艦に
主は上より乗りこんで
すれつもつれつその時は
うれし涙に袖ぬらす
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席はみだれ、単調な旋律の歌はいつ果てるともなくつづく。娼妓の恨み節《ぶし》はそのまま兵卒の恨み節であった。むりやりに故郷から引きはなされ、ひとつところに監禁されて自由をうばわれ、年季があけるまで自分の意に反した苦行を強制される点では、兵卒と娼妓とはまったくおなじ身の上であった。「親のため」を「国のため」といいかえれば、それはそのまま兵卒の恨み節となった。
もともと「今度このたび国のために」というのがもと歌であるこの歌は、日清戦争当時の軍楽として作られたものであった。そのもと歌の歌詞があったかどうかもはっきりしない。ただ、兵卒たちが歌いついできた恨み節の替え歌が何種類ものバリエーションとして、兵卒たちの兵営生活の記録のなかに残されている。
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今度このたび国のために
なれし故郷を立ちのいて
かわいい妻子をあとに残し
花の都の東京に
兵士となりて入りしより
知らぬ営所のかごの鳥
つらい練兵や演習も
国のためならぜひもない
器械体操や銃剣で
情け知らずの軍曹さん
いやな鉄棒で怪我すれば
すぐに駆け足絶えまなく
見るも浮世は情けない
検査検査は土曜日に
なれぬ箒に水仕事
たまの日曜の外出も
五分の遅刻がもととなり
かわる営倉のわび住まい
つらい営倉のそのなかで
塩とにぎり飯一つにて
命をつなぐは悲しさよ
もしや父母知りしなら
もしや妻子が見たなれば
嘆きは何とたまうらん
うらやましきは町人の
自由自在の身の上を
私も早く年あけて
われとわが身の権利をば
広げば誰もはばからん
好いた同士と手をとりて
二人で歩くその日をば
待つよりほかはあらざらん
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内藤新宿の遊廓の一画、酒を呼んでは歌に憂さを散じているのは歩兵第一連隊第五中隊の三年兵たちの一群であった。
十一月二十六日に半数の「成績良好」とされた同年兵が除隊帰休したあと、残された半数の三年兵のうち、新兵教育の助手要員として残った上等兵のほかは、どうせもう一年いたところで上等兵にしてもらえる見込みもなく自棄的な気分になっていた。
第五中隊の古年兵は、これまで中隊の兵舎が二つにわかれていたことから中隊幹部や下士の目がとどかず、野放しの古兵天国をかたちづくってきた。営舎のなかでの飲酒もしばしばのことであった。
新兵舎が完成して中隊の営舎がひとつになったとき、先輩の三年兵が享受してきた放埓ともいうべき自由を自分たちが失ったことに、かれらは気づいた。
おなじ営舎内に中隊長室があり、中隊附将校室があり、特務曹長や曹長らの勤務する中隊事務室ができた。
それはまだ昼間だけのことだから我慢できるとしても、下士室とおなじ屋根の下で生活をするのは大きな苦痛であった。古参下士の大部分は日露戦争の戦場帰りであり、公式の場では、勲七等か勲八等、なかには功七級か功六級の勲章をぶらさげているものもいた。戦場帰りの下士に兵卒は頭があがらなかった。
中隊長の北川大尉は温厚な人がらであった。聞くところによると、当初から野戦隊に属して出征したのではなく、旅順の二〇三高地占領後に補充兵を引率して戦列にくわわったのだという。しかし、功五級の金鵄勲章を授けられていた。奉天会戦での功績によるものである。
戦争中の補充隊で召集兵の教育にあたり、みずから教育した補充兵をひきいて戦列に参加しただけに、北川大尉の兵卒にたいする教育はたくみであった。体力や素質の面で劣る補充兵を教育した経験が、戦後の中隊長としての兵卒の扱いに生かされていた。
北川中隊長のもとでならば問題中隊とされていた第五中隊の古年兵たちも、不満はあってもそれを表面化させることはなかったであろう。戦後、北川大尉を第六中隊長から第五中隊長に配置がえした小原連隊長には、そういう配慮があったといえよう。しかし、北川中隊長は病気となり、休職となった。
宇都宮連隊長は中隊附の猪熊中尉をそのまま中隊長代理に任じた。ということは、中隊の将校の実員が一人へったことをいみする。若い中尉の中隊長代理に中隊統率の全責任がおわされただけでなく、中隊長代理を補佐する将校の数が一人へったのである。中隊長代理となった猪熊中尉は若さにあふれたきびしい上官であった。
第一師団に動員が下令されたとき、猪熊中尉はまだ見習士官であった。士官学校を卒業してまもなく第一師団の出征とともに出征した。三十七年八月二十二日、旅順第一回総攻撃の鉢巻山攻防戦で負傷した一期先輩の角田政之助少尉にかわって、新任少尉の猪熊が連隊旗手となった。
三十七年十一月二十八日、二〇三高地に最初の軍旗をひるがえしたのは猪熊少尉の歩兵第一連隊であった。しかし、逆襲をうけて連隊はほとんど全滅状態となり、万一を恐れた旅団司令部は第一連隊の軍旗を山麓の旅団司令部にあずけさせた。二〇三高地はロシア軍に奪回された。総司令部から急行してきた児玉総参謀長が直接に指揮をとり、新鋭の第七師団を投入して攻撃を再興し、十二月五日に再占領に成功した。
北川中尉以下三百八十五名が補充員として到着したのは十二月十六日であった。旅順の陥落は三十八年一月一日であった。北川中尉は旅順攻囲戦に参加することができなかった。第三軍所属の将士で、旅順の生き残りであるかどうかは決定的な差をうんだ。あの悲惨な地獄の戦場体験を持つか否かの差であった。
歩兵第一連隊で、出征から凱旋まで終始戦列をはなれることがなかった将校は、凱旋時の階級でいえば、大尉倉島富次郎、予備役中尉|子安《こやす》録郎、猪熊中尉の三人だけであった。身分としては歩兵第一連隊に属しながら、歩兵第一旅団副官の職に転じた是永中尉をそれにくわえることもできよう。
戦後の連隊のなかでの猪熊中尉の地位は、たんなる一中隊附中尉以上のものがあった。三十七年八月二十二日から三十八年七月十九日に中尉に進級するまで、つまり日露戦争の主要な戦闘の全期間をつうじて猪熊は光栄ある連隊旗手であった。
『歩兵第一連隊歴史』をひもといてみよう。「明治三十七八年戦役」の節は、文章までもが多くの箇所で猪熊の手記の文章のまる写しである。連隊の戦闘詳報を記録することも連隊旗手の任務のひとつであった。日露戦争の全期間を歩兵第一連隊附として従軍し、主要な戦闘のほとんどすべてに旗手として参加した猪熊は、若い中尉ながら歩兵第一連隊の生きている日露戦争≠サのものという存在となった。
猪熊の親友是永中尉は戦地で戦時命課によって歩兵第一旅団副官に転出し、凱旋後改めて平時職として歩兵第一旅団副官に補せられた。
ついでながら書いておくと、陸軍の将校には平時職と戦時職と二重の職名がある。平時には戦時職は戦時予定職である。平時職のない予後備役将校にも戦時予定職が割りあてられている。動員が下令されると、現役将校は平時職から戦時職に移る。戦時職と平時職は同一であることが多い。
しかし、たとえば平時職は連隊附佐官、戦時職は後備連隊長というように、ちがっているばあいもある。動員計画にあらかじめ定められている戦時特設の軍や部隊のばあい、当然、これら特設の軍や部隊の要員は戦時予定職のかたちで決められている。戦時特設の軍や部隊の職につくばあいは、本来の平時職の身分はそのままで戦時命課によって戦時職につく。戦時命課は戦時かぎりのものであり公示されない。
戦死、負傷、病気などによって欠員を生じた場合、その欠員を補充するのも戦時命課による。ただ、進級してより上級の職位につくばあいなどは、当然、これまでの階級に応じた平時職をはなれるわけであるから、平時命課としての人事異動がおこなわれる。戦時命課は復員令によって効力を失い、もとの平時職に復帰するか、改めて平時命課による補職の発令がおこなわれる。
たとえば小原正恒歩兵第一連隊長が南山の戦闘で負傷入院したあと、寺田錫類《てらだしやくるい》中佐(戦死)、生田目新《なまためあらた》中佐が戦時命課によって歩兵第一連隊長となった。小原大佐は負傷がいえたのち、留守第十師団参謀長、第二軍|兵站監《へいたんかん》などの戦時職を歴任したが、復員と同時に平時職である歩兵第一連隊長に復職した。
是永中尉の履歴をみると、明治三十九年二月、歩兵第一旅団副官と記載されている。これは平時命課としての発令の年月日である。
戦時命課で是永が歩兵第一旅団副官に転じたのがいつか、正確な月日はわからない。猪熊の手記から推定すれば、旅順第三回総攻撃以後、奉天の会戦までのあいだであることはたしかである。是永は復員と同時に平時命課によって、すでに在職中の歩兵第一旅団副官に改めて平時職として補職されたのである。
編纂された史料集にかかげられている軍人の日中戦争以前の経歴の記録には、往々にして戦時命課が脱落していることがある。人事異動の公示が平時職から平時職への転補というかたちをとっているからである。たとえば、太平洋戦争開戦当時の首相兼陸相であった東条|英機《ひでき》大将の実父である東条|英教《ひでのり》中将の履歴を『歴代顕官録』で見てみよう。
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歩兵第八旅団長 明治三十四年五月二十二日、任少将、参謀本部第四部長より。明治三九、一、三一、補第三十旅団長。
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『日本陸海軍の制度・組織・人事』もこの履歴をそのまま踏襲している。
しかし、これは事実とちがう。戦術の名手≠ニして令名をうたわれた陸軍大学校第一期の優等卒業生東条旅団長は緒戦で初歩的な作戦のあやまりをおかし、実戦場での指揮官失格の烙印を押されて内地に呼びもどされ、三十七年八月二十日、戦時命課によって留守歩兵第二旅団長に左遷されて戦争終結にいたった。
ただ名目のうえでは平時職としての歩兵第八旅団長という地位を保持していたから、復員と同時に、改めて平時職である歩兵第八旅団長を解任され、歩兵第三十旅団長への転補という、平時命課による発令の手続がとられたにすぎない。
父親が軍人として不名誉きわまる理由で左遷されたとき、息子の英機は陸軍士官学校に在学中であった。陸軍大学校第一期を首席で卒業した父親が軍人としての職業的生命を絶たれ、栄達の道をとざされたこの事件が、父親の後継者としての道を歩きはじめていた青年英機にどのような心の傷を残したか。
父親英教の履歴からの戦時命課の脱落は、昭和日本の運命を左右した東条英機という歴史的人物の軍人としての人間形成を考えるための、重要な資料の欠落を示すものといわねばならない。
話をもどそう。
歩兵第一連隊の戦場生き残りの勇士である猪熊は若くして中隊長代理となり、その重責に気負いたっていた。日露戦争での歩兵第一連隊の軍旗の栄光はそのまま軍人猪熊の栄光であった。
猪熊は群馬県の出身で、幼年学校の卒業ではないが、私立幼年学校ともいわれた牛込の成城学校にすすんで少年時代から陸軍将校になることを夢みてきた。その猪熊にとっては好機到来、思いがけなくも中隊長代理という地位があたえられた。猪熊は、連隊中で最難治といわれている第五中隊を模範中隊にしたてあげてみせるという野心を持った。
戦場における体験から、猪熊は、軍隊教育は猛訓練あるのみと考えるにいたった。二〇三高地で猪熊は、みずから記しているように「この世ながらの地獄に出入」した。その猪熊の信念となったのは、「じつに訓練のたらぬ兵卒ほど厄介千万なものはない」ということであった。
戦場帰りの若い将校が兵卒にたいして粗暴残酷になりがちであるという風潮は、当時全軍に蔓延していた。上官の虐待に堪えきれずに自殺する兵卒が急増しつつある傾向にたいして、陸軍省から警告が発せられていた。しかし、猪熊のばあい、青年将校の気負いにブレーキをかけるべき老練な中隊長が上にいなかった。猪熊自身が中隊長の職務をとっていた。
中隊長を監督し、各中隊の教育訓練に目くばりをして手綱を引きしめるのが職責である宇都宮連隊長自身が気負っていた。各中隊の射撃演習は日ましにはげしさをくわえていた。なかでも、第五中隊の演習のはげしさは度をすぎていた。
――戦場で死にたくなければ、演習で汗を惜しむな――
それが猪熊中隊長代理の口ぐせであった。
第五中隊の古年兵たちの不満は猪熊中隊長代理にむけられていった。
ひとしきり酒がはいり自棄気味の放歌にも飽きてくると、憤懣がでてくる。機械的な性欲の処理がおわったあとの酒である。帰営時間が近づいてくるにつれて、気だるさにくわえて、またはじまる新しい年の猛訓練をいとう憂鬱な気分が一座を支配しはじめる。
佐野新太郎一等卒がぼやいた。
「あしたからまた、据銃《きよじゆう》、おろせー、据銃、おろせー、か。」
宮下秀太郎一等卒が応じた。
「おれたちの中隊は殺人中隊だよな。なにかといやぁ、戦場では……、だ。」
「あらまあ、戦場では弾丸《たま》は前からばかりは飛んでこないんでござんすよ。」
銀木《しろき》福太郎一等卒がちゃかした。
「戦場でもねえのに、射撃場で弾丸をうしろから飛ばすわけにはいかねえしな。」
岩崎亀太郎一等卒が切りかえした。
「なんとかして、猪熊中尉のやつに一泡ふかしてやりてえな。」
と、佐野一等卒。
「あの手でいくか。」
と、これは宮下一等卒。
「あの手とはなんだ。」
佐野一等卒がたずねた。
「ほら、去年の三月だったか旭川の砲兵連隊の連中がやった手さ。」
「ああ、あれか。」
銀木一等卒がまた茶々をいれた。
「およしあそばせ。二度とその手は桑名の焼蛤でさあ。あちらさまも御用心あそばしていると思うんでござんすよ。」
「そうだ、むこうだって馬鹿じゃねえ。二度とおなじ手はくうまいよ。第一、おれたちが行くところはだいたい見当がついているからな。酒も飲まねえうちに踏みこまれて御用≠ニくらあな。」
佐野一等卒が応じた。
意外にまじめな口調で銀木一等卒がいう。
「昔から第一連隊は内藤新宿、第三連隊は吉原か浅草と、相場がきまっているからな。」
麻布連隊区の第一連隊の兵卒は山の手の出身が多いので、内藤新宿に足をむけるのが習慣となっていた。本郷連隊区の第三連隊は下町出身の兵卒が多いので、浅草、吉原になじんでいた。
竹橋にある近衛歩兵第一連隊と第二連隊は浅草、吉原であった。一ツ木の近衛第三連隊と四谷|霞《かすみ》ヶ岳《おか》の近衛歩兵第四連隊の兵卒は内藤新宿であった。これは地理的な便宜にもとづく。川向うの洲崎はもちろん、兵卒たちの足は不思議に他の三宿にむかなかった。
「なんか、いい手はねえか、だれか、かんげえてみねえか。」
佐野一等卒が提案した。
「よし。ひとつ、猪熊中尉がもっと困るような手を考えてみるか。」
宮下一等卒が和した。
「おい、岩崎。こういうときにおまえの知恵はだすもんだぜ。」
話をきいていた岩崎一等卒に佐野が声をかけた。
岩崎はだまったまま、ニヤリと笑ってみせた。
酒は尽きていた。
「今日のところは帰るとするか。」
佐野の声に応じて、みんなよろよろと立ちあがった。それでも、しどけない服装をつくろい、勘定をすませて外にでた。夕方近く、寒風が酔いにほてった兵卒たちの顔に吹きつけた。兵卒たちはシャンと背をのばして、それが第二の天性となっているかのように、歩調をそろえて歩きはじめた。
かれらが口にしていた四十年三月の旭川の事件というのは、新聞によれば、つぎのように報道されていた。
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近来神聖なる軍隊の中にも、一種の不平の気鬱勃たるものありと思わるるが、ここにもまた三十七名の兵卒が、ストライキをおこしたる珍事こそ生じたれ。北海道石狩国旭川町は第七師団の所在地なるが、野戦砲兵第七連隊第四中隊の古参兵は、給養の不良にしてとうてい健康をたもちがたきと、所属士官三浦中尉の酷遇に堪えかぬるより、さる七日の夜点呼後八時半同盟して脱営し、旭川町千幾旅館にて酒をくみ、痛飲快語に一夜を徹し、これにて示威運動の目的をはたしたりとて、悠々凱歌をうたって八日の午前五時隊伍堂々と営門へ帰りきたりたるが、連隊においては、これが処分方につき協議中なりと。
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歩兵第一連隊第五中隊の三年兵たちは四谷|大木戸《おおきど》へとむかう途中、大宗寺《たいそうじ》の近くで歩兵第一連隊の巡察将校にあった。敬礼をしてとおりすぎたあと、岩崎一等卒が一行に首をすくめてみせた。内藤新宿はやはり連隊にとっての要注意区域になっていた。
青山練兵場の広いあき地が妙に白茶けてみえた。一月八日の陸軍|始《はじめ》にここで観兵式がおこなわれる。天皇のまえでの分列行進の練習が明日からはじまることを思うと、一行はまたうんざりした。
「初年兵じゃあるまいし、いまさら、毎日オイチニの稽古だなんて。」
だれかが口にした。
「ちきしょう。帰休したやつら、ぶんなぐってやりてえな。いまごろ、こたつでかあちゃんとさしむかいで、一杯やってるとくらあな。」
「おれは、帰休させなかったやつをぶんなぐりてえよ。」
酔いがさめて、兵卒たちはふたたび恨みの声をあげた。
営門はもうすぐであった。それでも、当面の憂さをはらしてきた古兵たちはぶじ帰営して、帰営の点呼をうけた。事故はなかった。正月の休みはおわった。
夕食後、消灯までの時間、二年兵もまじって「今日はもてた」の「もてなかった」の、たあいない雑談がつづいた。三年兵のだれもが、新宿での不穏な話は忘れたようにふるまっていた。
日夕《につせき》点呼がおわり、消灯時間が近くなった。当番がストーブの火を消し、兵卒たちは、茶褐色に塗られた鉄の寝台にもぐりこんだ。消灯ラッパが鳴る。
銀木一等卒らしい声が消灯ラッパに和した。
「中隊長のマラ見たかァー。見た見たヒゲだらけェー。」
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七 青山北一丁目
市内電車の広尾線で、青山一丁目から信濃町にむかって、最初の停留所が陸軍大学校前である。線路は陸軍大学校の敷地の北側をとりまくようにまがって信濃町にむかっていた。信濃町にむかって右側は青山離宮をかこむ石垣と土塁がつづき、左側に陸軍大学校の正門がある。陸軍大学校の背後と信濃町よりは青山練兵場に接していた。
当時の町名は青山北一丁目、現在は北青山一丁目となっている。陸軍大学校の建物は、戦後の学制改革による新制中学校の設置にあたって、青山中学校の校舎となった。かつての敷地内には都営北青山住宅などが建っている。
陸軍大学校は陸軍の最高教育機関であった。陸軍の将校養成機関――幼年学校・士官学校――および兵科関係の他の専門諸学校――実施学校という――は教育総監部の所管であった。ひとり陸軍大学校だけが参謀本部の管轄に属した。
陸軍大学校は陸軍の高等用兵に参画する参謀将校の養成機関であった。参謀職は参謀本部および師団以上の高級司命部に配置される。陸大の学生だけが高等用兵に関する教育をうける機会をあたえられていた。高級指揮官への道も原則として陸大卒業生だけに開かれていた。
将校の養成機関である陸軍士官学校の教育は初級将校の養成を目的としていた。初級将校として隊附勤務についたのち、連隊将校団の一員として連隊長を中心とする先輩将校による教育とみずからの経験をつうじて、順次、より程度の高い職務につく能力を身につけていくのが、隊附将校の教育のあり方とされた。
隊附将校、とくに中少尉を教育する責任は連隊長にあった。
日露戦争以後、極端な高級将校不足となる日中戦争の開始までのあいだ、例外はあるが、ふつう陸大卒業生以外の将校は、隊附勤務の最高の職である連隊長まで昇任するのが最高の出世であった。大佐まで昇進して連隊長を勤めた上、予備役または後備役に編入されるときに名誉進級の少将になるのが、一般の将校の目標であった。
大きな例外として、砲兵または工兵将校で科学技術将校となる道があった。しかし、この道は陸軍の主流からはずれることを意味した。少数の例外に久松のような欧米留学帰りがあった。陸大を卒業することなく、隊附勤務将校として現役将官にまで昇進することは至難のことであった。
陸大の卒業生は別であった。よほどのことがないかぎり、かれらには将官への道が約束された。若いころから軍の中枢機関に勤務する機会をあたえられるのは、陸大卒業生にかぎられた。たとえていえば、士官学校だけの卒業生は地方採用の中堅幹部要員、陸大の卒業生は中央採用の最高幹部要員というところであろう。
当然、全陸軍の俊秀をもって自認する青年将校は、青山離宮にむけて開く青山北一丁目の陸大の門をくぐることをめざした。しかし、陸大の門はせまかった。
陸大の受験資格は、隊附二年以上をへた中少尉で所属の連隊長――連隊編成をとっていない工兵などの部隊では大隊長――の推薦をうけたものである。
身分上、中尉、少尉はかならず隊附とされている。是永中尉のように歩兵第一旅団副官の職にあっても、その本来の身分は歩兵第一連隊附である。陸軍の現役将校人事の基本名簿である『陸軍現役将校同相当官|実役《じつえき》停年名簿』の記載も、大尉以上は各兵科別の年功序列順の一括記載であるが、中少尉は所属連(大)隊別の記載になっている。中少尉の身分を管理し、教育する責任は、所属の連隊長または独立の大隊長がおう制度になっているからである。
日露戦争中の二年間、陸大は閉鎖された。陸大の教官は参謀として出征し、学生は所属部隊に帰って出征した。師団に所属しない戦時特設の後備混成旅団が編成されると、これらの混成旅団が独立して作戦任務を遂行するために事実上の参謀勤務者を必要とするにいたった。
制度の上では、参謀の定員は師団以上の司令部にしかなかった。陸大の学生のなかからこれら後備混成旅団の副官が選ばれ、事実上の参謀勤務に服した。
陸大が再開されたのは三十九年三月であった。戦後最初の学生入校は三十九年十一月である。日露戦争中の陸大閉鎖のために、日露戦争開戦時に中尉であって戦争中に大尉に進級し、陸大受験資格を失うものがでてきた。その救済措置として、戦後、当分のあいだ大尉にも受験資格を認めることになった。
日露戦争後しばらくのあいだの陸大の学生定員は毎年五十余名、そのころ受験資格を持っていた年齢の将校たちが士官学校を卒業したときの同期生は平均すれば約七百名であった。単純に計算しても士官学校卒業生の一割以下しか陸大に入校できない。
四十年九月の編制改正による歩兵連隊数は七十六、陸大入校者のうち歩兵将校はだいたい四十名くらいであった。連隊から一年に一人の陸大合格者をだすことだけでも連隊の名誉とされた。
入学試験には筆記試験の初審と口述試験の再審とがあった。復員が完結した四十年以後、毎年一月末までに受験者名簿が師団司令部に提出され、五月に各師団司令部で初審がおこなわれた。受験者はそのころ四百名前後であったと思われる。一歩兵連隊から四名程度の推薦がおこなわれた。
初審の合格者は学生定員の約二倍、合格発表は八月である。再審は十二月一日からおこなわれ、ただちに合格発表、即時入校となる。
歩兵第一連隊では、四十年度に、角田政之助中尉が入校していた。猪熊中尉の前任連隊旗手である。士官学校の卒業期でいえば士官候補生第十四期である。三十七年八月に負傷して帰国していた。
四十一年度の陸大受験推薦名簿には士官候補生の第十五期が優先的に名をつらねる順番になっていた。十五期生の序列で連隊トップは是永中尉である。
ふつう連隊旗手に任命されるのは連隊の序列トップの新任少尉である。本来ならば、角田少尉のあとの旗手は是永少尉のはずである。しかし、旗手は、十三期のトップ岸孝一少尉から、十四期のトップ角田少尉をへて、十五期のトップ是永へではなく猪熊に引きつがれた。理由はわからない。
しいて想像するならば、消極的な性格の是永より積極的な性格の猪熊の方が苛烈をきわめる戦場での旗手として適任であると、連隊長が判断したのかもしれない。
猪熊中尉もまた、当然、推薦をうける資格を持っていた。しかも、猪熊は他の青年将校たちより有利な立場にあった。日露戦争の主要な戦闘のほとんどすべてに猪熊が連隊旗手つまり連隊長秘書として参加したことは、軍隊指揮のいわばノウハウを実地にまなぶ機会を、たっぷりあたえられたことを意味した。それは陸大の再審試験の難関にいどむための非常に有利な条件であった。
しかし、猪熊中尉はこの年の陸大受験を希望するかどうか迷った。
軍人になるために、猪熊は早くから親元をはなれて東京に遊学した。猪熊の両親は故郷の群馬県群馬郡|白郷井《しろさとい》村に住んでいた。椿名山《はるなさん》の北東に聳える子持山と赤城山との山かい、利根川がふたつの山のあいだを縫って流れる谷から子持山の南東斜面にかけて広がる山村であった。村の正面東の空いっぱいに赤城の山が聳えたっていた。
猪熊が凱旋したことを故郷の両親に知らせたとき、猪熊はすぐに両親が会いにきてくれるものと思った。しかし、両親はなかなか上京してこなかった。戦場で軍服だけの生活をしていた息子に着せるために母親が着物を仕立てあげるのにてまどったので、おそくなったという。
典型的な養蚕農村である白郷井村では、まだ、自分の家で繭を座繰《ざく》りの糸にし、その糸を染めにだし、さらに機屋《はたや》に織りにだして布にし、自分で着物に仕立てるという、昔ながらの習慣が残っていた。猪熊の母親は、自分の手でひいた糸で作った着物を息子に着せてやりたかったのである。
両親は猪熊に結婚を望んだ。死の淵から生きて帰ることができた幸福感をよりたしかな実感とするためにも、猪熊はこのさい両親の希望に沿うことにした。凱旋後、見合い、結婚、簡素ながらも新しい家庭づくりと、この一年たらずのあいだ、個人的にも猪熊はいそがしい生活を送った。
四十一年度の陸大受験のためには、猪熊は明らかに語学の勉強不足であった。ヨーロッパの三大陸軍国であるドイツ、ロシア、フランスのいずれかの外国語に精通していることが、陸大入校の重要な条件であった。それにひとつ気がかりなことがあった。このところ、健康状態が思わしくないのである。長期にわたる戦場での無理が健康にひびいてきたのかもしれなかった。
しかし、猪熊はまだ若かった。陸大の受験資格がなくなる年齢に達するまでまだ何年も機会はあった。なにも今年でなければということはなかった。むしろ、受験する以上は、歩兵第一連隊の歴代連隊旗手の名誉にかけても万全の準備をもって試験に臨まねばならない。
――健康の回復が第一だ――
猪熊は是永中尉とも相談し、考えたすえ、四十一年度は陸大受験の推薦を辞退することにきめた。
是永は陸大受験の準備にとりかかっていた。旅団副官という職は、中隊附勤務にくらべて受験準備には都合のよい職であった。中隊附将校は勤務時間の大部分を兵卒とともに練兵場で汗を流してすごした。夜の自由な時間を勉強時間にあてるにしても、昼間の疲れがでてなかなか勉強に身がはいらなかった。その点、副官勤務はデスクワークがおもであり、勉強に有利であった。
しかし、是永のばあいはそうはいかなかった。是永も猪熊も少尉に任官したのが三十七年三月十八日であった。戦地での旅団副官勤務は、陣中勤務であるから隊附勤務とみなすという通達がだされていた。それにしても、是永のばあい、平時職としての旅団副官に補職されたのが三十九年二月十三日である。陸大受験資格である隊附勤務二年以上の条件を満たしていなかった。
是永は陸大受験資格の最低条件を満たすため、四十年七月二十日から十二月二十日まで歩兵第一連隊附にもどされた。十二月二十一日付でふたたび旅団副官の職に復帰した。この間、歩兵第一旅団長の一戸《いちのへ》少将は中将に進級し、新設の第十七師団長に転じた。後任の歩兵第一旅団長に、歩兵第十二旅団長から依田《よだ》広太郎少将が転任してきた。
四十一年度の陸大受験有資格者は激増した。明治三十三年に少尉に任官した士官候補生第十一期からいっきょに士官候補生第十七期までが有資格者となった。戦時中の士官学校教育期間の短縮で第十六期が三十七年十一月に少尉に任官、第十七期が三十八年四月に少尉に任官したからである。
歩兵第一連隊では十六期の序列トップは岡村寧次中尉で、年末に陸軍士官学校勤務となった。十七期の序列トップは篠塚義男中尉であった。
四十一年一月二日の朝、独身の是永は猪熊の家をおとずれた。前日の公式の席での年賀とは別に二人でそろって宇都宮連隊長の私宅を訪問し、年賀をかねて是永は陸大受験の意思を、猪熊は受験見送りの意思を、連隊長に報告する心づもりにしていた。
第一連隊はじめての天保銭をつけた連隊長として、宇都宮大佐は連隊の青年将校の陸大受験に熱心であった。それだけに、猪熊にとってこの日の連隊長私宅訪問はいささか気の重いものに感じられた。
「おめでとう。よう、ま、とにかくあがれよ。」
玄関まででてきた猪熊は是永を座敷に招じいれた。といっても、俗に貧乏少尉、やりくり中尉、やっとこ大尉≠ニいわれるほどの所帯であるから、借家といってもごく手ぜまである。その座敷で二人は年始のあいさつをかわした。
猪熊の新妻が屠蘇《とそ》の支度をしてまだあどけなさの残る顔をみせ、年賀のあいさつをした。
「おめでとうございます。本年もよろしくお願いもうしあげます。」
型どおりのあいさつをかわしたあと、猪熊が言った。
「ひとりものではろくな雑煮《ぞうに》も食ってないだろう。すこし、うちで充填《じゆうてん》してからでかけようじゃないか。」
連発式の銃が採用されたそのころ、弾倉に弾丸をつめることを充填といい、発射準備の弾丸《たま》こめを意味する装填とは区別していた。したがって、腹になにかつめこむことを、充填と呼んだ。充填という用語は三八《さんぱち》式歩兵銃の使用を前提とした明治四十二年制定の歩兵操典から姿を消す。
「連隊長のお宅に赤い顔をだせるのも、正月の特典だからな。」
戦地での飲み友達であった是永と猪熊は、酒についても気が合った。
「おい、酒だ。」
猪熊が妻に声をかけた。
「はい。」
座をたった猪熊の妻はすぐにもどってきた。あらかじめ用意してあったようである。
おせち料理をつめた重箱ひとつをみても、いかにも新婚家庭らしいういういしさがただよっていた。是永は猪熊の新妻のお酌をうけた。
「おめでとう。」
「おめでとう。きさまの陸大合格を祈る。」
二人はさかずきを乾した。
是永がもう一度念を押すようにたずねた。
「きさま、やはり決心はかわらんのか。」
「うん、かわらん。軍人たるもの、からだが第一だ。むりな受験勉強はあとがこわい。うちの北川中隊長のように病気休職にでもなったら、軍人はおしまいだからな。」
「どうなんだ。からだの調子は……。」
「いまのところ、たいしたことはない。かるい胸膜炎かもしれん。」
陸軍では肋膜炎のことを胸膜炎とも呼んでいた。
「二、三カ月もすればよくなるだろう。ただ、その二、三カ月が初審の受験勉強のヤマだからな。それにこの病気は春先の用心が大事だということだし。来年をめざすよ。」
「当分、むりな演習はひかえるんだな。」
是永は忠告した。
「大丈夫だ。酒が薬になっている。戦地でも病気らしい病気をせずにすんだのは酒の飲めるやつだった。飲めなかった連中はほかに疲れをとる方法がなかった。飲んで熟睡する、これがいちばんの健康法だったようだな。」
「まあ、飲めるあいだは大丈夫だろう。食う方は奥さんが気をつけてくれるだろうから。その点は独身より安心だ。」
猪熊は質問した。
「ところで、今年の受験希望者はきさまのほかにだれだれだ。」
是永は旅団副官から隊附にもどったとき、連隊内の独身将校宿舎に住みこんだ。旅団副官の職にもどったときもそのまま住みつづけた。独身将校はその方が気楽に勉強できた。第一、静かであった。下宿とちがって夜おそくまで気がねなく勉強できた。日常生活の雑用は従卒が面倒をみてくれた。
独身将校宿舎の先任者ということで、是永は自然に後輩将校たちの動静につうずるようになった。
「岡村中尉も今年は希望しないそうだ。勤務がかわったばかりだからというんだな。ところが……。」
是永はちょっと思わせぶりに言葉を切り、さかずきを空けた。
「篠塚中尉が受験を希望しているんだ。」
篠塚中尉は、この正月で少尉任官からやっと二年八カ月になる。
「篠塚中尉はまれにみる秀才だからな。」
猪熊は別におどろいたようすもなかった。
「熊本の幼年学校でおれが三年のときの一年だ。熊本地方幼年学校を首席で卒業、中央幼年学校も首席で卒業、士官学校も首席で卒業。いままでだれひとりとしてやったことのない快挙をやってのけた男だからな。
あいつだったら最年少で陸大にはいって悠々と恩賜で卒業ということくらい、平気でやるんじゃないか。」
篠塚は是永の幼年学校以来の後輩であった。
「世のなかにはああいう秀才もいることを、おれははじめて知ったよ。」
「いやはや、後輩ながら恐れいったやつだよ。それに、あいつはなまはんかな秀才じゃない。気骨があってな。ひと筋縄ではいかんやつだ。」
篠塚についていえば、かれはこの年みごとに陸大に合格した。四十一年十二月の陸大入校組は陸大二十三期で、卒業したのは五十二名、その内訳は、士官候補生十期が一名、十一期が十五名、十二期が七名、十三期が八名、十四期が八名、十五期が六名、十六期が五名、十七期が二名となっている。十七期は二名しかいなかった。
十期の一人は病気で一年卒業延期でもしたのであろうか。十期生は四十年度が最後の受験年度であったはずである。
優等卒業生として恩賜の軍刀を授けられたのは六名である。その内訳は、十五期一名、十六期三名、十七期二名である。日露戦争の戦場にでなかった十六期以下の方が、やはり勉強の機会に恵まれていたといえよう。
先輩がひしめく陸大では、篠塚もさすがに首席卒業の地位をたもつことはできなかった。しかし、五位の優等卒業であった。
この年度入学で成績上位の陸大卒業生には、後年、陸軍史上に名を残した者が多い。十六期以降の日露戦争の戦後派がエリート軍事官僚として初登場したのがこの年度の入校学生であった。その多くが不慮の死をとげたことをふくめて、栄達のコースの途中で挫折させられた点でも共通している。
十六期、十七期の優等卒業生はつぎの五人であった。
卒業成績第二位はのちの中将永田鉄山(十六期)である。昭和陸軍の担い手として期待されたため、軍内派閥抗争の一方の旗がしらとみなされ、軍務局長在任中に相沢三郎歩兵中佐に斬殺され、二・二六事件の発端をかたちづくった。
第三位は意外なことに加賀百万石の旧大名の当主、侯爵前田|利為《としなり》(十七期)であった。これまで学校秀才として名がでたことがなかった人物である。中将でボルネオ守備軍司令官に在任中、飛行機の墜落死によって大将に進級した。
第四位は藤岡万蔵(十六期)であった。大佐で参謀本部課長在任中に飛行機の墜落によって殉職し少将に進級した。
第五位は篠塚である。
第六位は小畑|敏四郎《としろう》(十六期)であった。昭和陸軍部内の党争で、永田がいわゆる統制派の謀将なら、小畑はこれに対立するいわゆる皇道派の知恵袋であった。二・二六事件のクーデタ失敗で皇道派は全面的に敗北し、小畑は中将で現役を追われた。
優等ではなかったが第七位に小川恒三郎(十四期)がいた。中央幼年学校、士官学校の先輩、陸大の同期生として、永田・小畑の競いあう同期の秀才二人の調整・舵取り役として両方から信頼されていたが、少将で参謀本部部長在任中に藤岡とともに殉職し中将に進級した。小川が不慮の事故にあわなければ、永田と小畑の関係はもっと別のかたちをとっていたかもしれない。
ちなみに、篠塚と士官学校同期の東条英機は篠塚より四年おくれて陸大にはいった。東条とともに陸大を卒業したクラスの優等生のうち、首席は太平洋戦争開戦直後のインドネシア攻略軍司令官、のちの大将今村|均《ひとし》であった。第二位は敗戦時の航空総軍司令官大将|河辺正三《かわべまさかず》、第三位は太平洋戦争開戦時のフィリピン攻略軍司令官であった中将本間|雅晴《まさはる》であった。
三人はいずれも士官学校の第十九期、日露戦争中の将校不足に対処するために急遽採用された士官候補生で、この期にかぎって幼年学校卒業生がいない。したがって語学も英語をまなんだ。士官学校でかれらより二年先輩の東条の卒業成績は十一位である。
のちに、東条はその事務官的才能を買われて頭角をあらわした。東条はカミソリといわれたが、実はどちらかといえば父親ゆずりのガリ勉型のがんばり屋であった。その東条がいくらがんばっても篠塚には追いつけなかった。
歩兵第一連隊の青年将校時代に篠塚の後輩少尉であった、敗戦降伏時の陸軍大臣|阿南惟幾《あなみこれちか》は語っている。
――篠塚はまことに謹厳実直そのもので、率先垂範、いわゆるくそ勉強はしなかった――
机にかじりついて勉強するタイプではなかった。ただ、まったくユーモアのセンスにかけていたらしい。
昭和十六年十月十七日、東条中将が組閣を命じられたとき、士官学校の同期生で東条より先任の中将にひとり篠塚だけがいた。当時の参謀総長の杉山|元《げん》大将が、会議の席で東条の大将進級を提案した。現役陸軍中将の東条総理大臣の下に現役海軍大将の海軍大臣がいるのでは不都合だというのが提案の理由であった。
東条は先任の篠塚といっしょでなければ大将に進級できないと主張した。こういう点については官僚主義の東条はりちぎであった。
刊本の『杉山メモ』に記録されたこのやりとりの部分は、文章の意味がまったくつうじない。印刷された原文はつぎのようになっている。
――本案は果して然《しか》らば篠塚中将も進級せしめられ度《た》しと申|出《い》でしも――
これは明らかに原資料の誤読である。「本案」は正確には「東条」でなければならない。走り書のメモのくずし字では、「本」と「東」では点がひとつあるかないかのちがいである。「案」と「条」も読みわけにくい。
この会議は陸軍三長官会議であり、その出席者は東条と杉山のほかに教育総監の山田|乙三《おとぞう》大将だけである。「申出」の主語は「東条」以外ではありえない。ちょっと頭をはたらかせれば容易に判読できたはずである。
杉山は東条の申出に反対した。陸軍の規定や海軍とのつりあいから考えて、篠塚の進級は早すぎるというのである。結局、特例として東条だけが大将になった。
東条が陸軍大臣として人事権をにぎったまま篠塚と先任・後任の関係が逆転したとき、軍事官僚機構のなかでの篠塚の運命はきまった。篠塚は官僚機構の序列からはみだした。昭和十七年六月、篠塚は中将のまま現役を去った。
もっとも篠塚が大将に進級して現役にとどまっていたとしても、その性格からみてとても東条とウマをあわせることはできなかったであろう。
篠塚は、敗戦後の昭和二十年九月十七日、割腹自殺した。
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大東亜戦争開始にあたり、軍事参議官として同官会議に列席、開戦を可と報告いたし候。この信念は今もかわらずといえども、国家の運命今日にいたりし上は深く責任を感じ候。ここに自決もって謹しんで陛下におわび申しあげ、戦没者およびその遺族ならびに国民の各位に陳謝いたし候。
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遺書の本文はこれだけの短いものであった。敗戦ではなく開戦の責任をとると明記したこと、国民に謝罪していること、この二点で、篠塚の遺書は他の自殺した将軍たちの遺書と大きくちがっていた。いかにも篠塚らしい。
開戦の責任といっても、篠塚は諮問機関にすぎない軍事参議院の一員として開戦の諮問に賛成したにすぎなかった。開戦の政策決定に関与する立場にはなかった。篠塚はまったく非政治的な軍人としての経歴を歩いてきた。
軍事参議官兼任の肩書も、軍司令官の篠塚を陸軍士官学校の大もの校長として起用するにあたり、とくに軍司令官と同格の待遇をするためにつけられたにすぎなかった。
篠塚の生涯をつらぬいたこの生まじめな骨っぽさは、若いころからかわらなかった。歩兵第一連隊の独身将校宿舎で、先輩ではあるが消極的な性格の是永は篠塚に気圧されるものを感じていた。
「うまくすれば、今年は歩一から陸大に二人ということになるな。」
猪熊はそういって、宇都宮連隊長のよろこびの顔を想像した。同時に、自分が今年の受験からおりることについてもだいぶ気が楽になった。
陸大受験の話題が尽きたころ、何本目かの酒をはこんできた猪熊の妻が是永におずおずと質問した。
「是永様もそろそろ、御家庭をお持ちになってもよいのではございません?」
「こいつは天保銭をつけるまで、家庭を持つ気はないさ。」
猪熊が是永にかわって答えた。
「でも、是永様ならば降るほど御縁談があるのではございませんか。」
是永は苦笑した。
「道を歩いていると女学生がふりむいて見る、という話があるくらいだからな。」
猪熊は妻にそう言って笑った。
是永は美男子であった。ただ、複雑な家庭にそだったため、性格は内向的で閉鎖的であった。残された顔写真の表情には暗さがつきまとっている。そのために、いくらかがさつで、むこう見ずなところがある、坊ちゃん気質の猪熊とかえって気が合ったのかもしれなかった。
なにも知らぬ妻の関心が是永の結婚にむけられたのを猪熊ははぐらかし、このへんが潮どきだと考えた。
「そろそろ、でかけようか。」
二人は立ちあがった。
明日の生命も知れぬ戦場で、ひとは自分について語りたい衝動にかられる。是永の家庭的な事情について、猪熊は戦場で話を聞かされていた。
是永は幼くして父を失った。母は長男を亡夫の家に後つぎとして残し、次男をつれて再婚した。次男は母親の再婚先の養嗣子として入籍された。この養嗣子が是永中尉である。その後、養家で、養父と母とのあいだに実子、是永にとっての異父弟妹が生まれた。
責任感のつよい是永は嗣子として異父弟妹の教育に責任を感じていた。同時に、養子である自分と実子である異父弟との関係、どちらが是永家をつぐべきかという問題に思い悩みつづけた。
「おれが戦死してしまえば、すべてはうまくいくのにな。」
戦陣の夜の雰囲気が多感な青年を弱気にさせたのか、そんなことを口にしたこともあった。是永は真剣にそう考えたこともあったのだ。
少尉で戦死して中尉に進級したとすれば、遺族に支給される一時金は千四百円、年金は二百二十五円、行賞によって功五級の金鵄勲章を授与されれば、さらに一時金として金鵄勲章の年金二年分六百円が支給される。それだけの金額があれば異父弟妹の教育費としては充分すぎるはずだった。そして、是永家の後つぎ問題も自然に解決する。
是永が自分の戦死こそ最良の解決法と思いつめたことがあったとしても、それは自棄的なものではなかった。むしろ合理的な計算にもとづくものであった。
しかし、是永は負傷することもなく、ぶじに凱旋した。功五級の行賞を受けたので、その年金で異父弟妹の教育費はなんとかまかなえるようになった。いずれにしても家をつぐ問題がかたづかないかぎり、是永は結婚に踏みきることができなかった。
猪熊は、すくなくも、思い悩まなければならないような家庭環境になかった。是永の立場を理解し、同情していた。事情を知らぬ妻の無邪気な質問に是永が応じなくてもすむようにはぐらかしたのは、猪熊の友情の表現であった。
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八 ロンドン
「よう、きたな。あがれ。」
猪熊と是永が渋谷村の宇都宮の私宅をたずね、玄関にでてきた宇都宮が二人にそう言ったとき、玄関には先客のものらしい将校用の深ゴムの革靴が二足そろえて並んでいた。
「御来客中では……。」
そう言った猪熊に宇都宮は機嫌のよい顔で答えた。
「連隊の将校ではないがのう。たったいまきた客じゃ、ちょうどよい機会じゃ。貴公らも見知っておけば、これから先なにかにつけて好都合じゃろう。」
宇都宮は二人を座敷に招じいれた。
先客は二人の歩兵大尉であった。二人とも軍服の右肋にま新しい天保銭をつけていた。すでに主客ともにいくらか酒がはいっていた。
是永はそのうちの一人の顔を知っていた。是永が中央幼年学校に在学中、当時中尉で中央幼年学校生徒隊附として赴任してきた、荒木貞夫大尉である。
荒木は陸大在学中に日露戦争に出征し、近衛後備混成旅団の副官となった。
平時の軍人としてはめだたない存在であり、陸大創設前の世代に属し、大佐の連隊長どまりと噂されていた梅沢|道治《みちはる》が、少将に進級して戦時特設の近衛後備歩兵旅団長となった。旅団長とは名ばかりのわずか四大隊編成の老兵部隊の指揮官であった。連隊長とあまりかわらない。
この小編成の老兵部隊をひきいた梅沢少将は、みずぎわだった名指揮官ぶりを発揮していくさ上手≠フ評判をえた。近衛後備歩兵旅団は実験的に、砲兵大隊、騎兵中隊、工兵隊を配属され、ほかの後備歩兵旅団にさきだって独立混成旅団に改編された。この最初の独立混成旅団の参謀役の副官に荒木大尉が起用された。
こうして、花の梅沢旅団≠ニ全軍にその名をうたわれた部隊が誕生した。小兵力の老兵部隊が現役の野戦師団に劣らぬ精鋭部隊として活躍した。梅沢は高級指揮官としての能力を再評価され、のちに中将、第六師団長にまで栄進する。
花の梅沢旅団≠フ参謀役であった荒木もその将来を嘱目されるにいたった。
四十年十一月、荒木は期待どおり陸大を首席で卒業し、参謀本部附、つまり見習参謀として第二(情報)部のロシア班に勤務中であった。見習期間をおわると正式の班員になり、右肩から胸へと金色の参謀飾緒をつるすことになる。
「こちらは真崎甚三郎《まざきじんざぶろう》大尉。わしの郷党の後輩じゃ。真崎と荒木は陸士、陸大の同期で、妙にウマがあうようで、ずっと親友でな。今度も二人そろってめでたく恩賜の軍刀を拝受した仲じゃ。」
宇都宮は自慢気に紹介した。
――これが宇都宮大佐の秘蔵ッ子と噂される真崎大尉か――
初対面の是永はそう思いながらあいさつした。
のちにともにドイツに駐在し、真崎第一師団長、真崎参謀次長のもとでその直属の部下となる運命が是永に待っていようとは、もちろん想像もできない。
ただ、是永は噂に聞いていた。宇都宮大佐が佐賀出身の後輩の俊秀たちをあつめ、それに隣県福岡出身者や東京出身ながら真崎の親友の荒木までくわえて、反長州の派閥づくりをしているということである。佐賀左肩党≠ニいうのがそれだとも聞く。
宇都宮を首領として、現在ロシア公使館附武官をしている武藤|信義《のぶよし》歩兵中佐が副首領格、その下で若い将校たちをたばねているのが真崎、荒木の両大尉であるという。
もともと外様《とざま》の大藩が多く旧藩以来の郷党意識がつよい九州では、とくに旧藩出身者をあげて郷党の後輩の面倒をみるという気風が濃かった。
小藩が分立していた大分県出身の是永は、出身藩をよりどころとするこれら反長州の派閥づくりとは無縁であった。熊本の幼年学校で鹿児島や佐賀出身者の強烈な郷党意識を見せつけられ、おどろき、あきれたものだった。
薩・長・土・肥と明治新政府の主流に位置をしめながら、こと陸軍部内は圧倒的に長の陸軍≠ナあった。陸軍の反主流となった鹿児島、佐賀の出身者の郷党的な派閥意識は、他の地方の出身者の目には異常に写った。
反主流といっても、薩派は日露戦争以後、なお大山、野津《のづ》の両元帥を筆頭に陸軍の第二派閥としての地位を維持していた。野津元帥は四十年九月になくなったが、野津の女婿である上原勇作中将が次代の陸軍のホープとしての地位を確立しつつあった。
長州閥のホープ田中義一、薩派のホープ上原のあいだに割ってはいり、長の陸軍≠フ壁を打破することが宇都宮の目標であった。上原、宇都宮、田中の三人の関係は微妙であった。
長州閥には寺内陸軍大臣と田中大佐の中間をつなぐ人材がいなかった。その中間をつなぐ人材として、田中は上原に望みを託していた。陸軍の第一派閥と第二派閥である薩・長連合の方向である。
上原にも薩派の後継者難という悩みがあった。若手の育成に力をそそいでいる弱小派閥の宇都宮が薩派の上原と反長州閥連合をかたちづくることができれば、長州閥と対抗していくだけの実力を発揮することができる。宇都宮にはそういう読みがあった。
基本的な利害がまったく対立する宇都宮と田中も当面の利害では一致していた。つぎのつぎをねらうために、一日もはやく寺内から上原へのバトンタッチを実現したいということである。
ただ、上原時代の実現に田中と宇都宮のどちらが主導権をとるかが、上原のつぎの時代の勝利者を決定する。その日にそなえて、陸軍部内では問題にならないほどの微力な佐賀閥に周辺地域の出身者やその他の人脈関係者を結集して、強力な第三の派閥をきずきあげようというのが宇都宮の構想であった。
荒木、真崎という二人の青年将校がそろって恩賜の軍刀組で陸大を卒業したので、宇都宮は上機嫌であった。
座談にはいるまえに、猪熊は今年の陸大受験の推薦を辞退したいと宇都宮にのべた。
陽性の性格らしい荒木が発言した。
「一年ぐらいでくよくよするな。おれたちの同期生でも、おれや真崎より一年まえに陸大を出たのが十一人もいる。そりゃ、なかには松井|石根《いわね》大尉のように首席で卒業したのもいる。
しかし、一年おくれて陸大にはいったおれたちは軍刀組六人のうち四人まで同期生でしめたからな。はやく陸大に行くのがいいとはかぎらん。
陸大の受験もあとの勉強も体力と気力がものをいう。なまっちろい秀才では陸大学生はつとまらんぞ。」
「荒木大尉は好きな女に振られて、その女との結婚をあきらめて猛勉強したおかげで、陸大首席卒業の栄冠をえたくらいだからな。」
すでにはいっている酒のせいか、真崎大尉が冗談口をはさんだ。
「なんだ。荒木大尉にそんな艶聞めいた話があったのか。」
宇都宮が初耳だとばかりに真崎に聞いた。
「大佐殿は英国におられたのでご存じないのも当然でありますが……。」
そう言って真崎が荒木の顔を見た。荒木はてれたように苦笑した。
「フーム、未来の陸軍大将荒木が惚れた女というのは、どういう女だ。」
「なんでも、アメリカ帰りの建築屋で金持ちの娘だそうで、お茶の水女学校の才媛ですばらしい美人だったそうです。名前は、なんといったかな、荒木……。」
真崎に問われて、荒木はさすがに恥ずかしそうに答えた。
「伊藤|嘉子《よしこ》だ。」
「それで、荒木を振ったその女はほかに誰か好きな男でもいたのか。このご時世に軍人よりもてる男といえば、よほどの男ということになるが……。」
真崎がかわって答えた。
「相手の男も軍人であります。荒木は、戦地からせっせと手紙を書いたそうであります。ところが十四期で熊本出身の古荘幹郎《ふるしようもとお》中尉、いま陸大の二年生でありますが、この男が近衛歩兵四連隊附で負傷して先に内地に帰り、荒木大尉の留守中に女の気持ちを射とめてしまったようであります。女はいま古荘中尉の女房になっております。それで荒木大尉はおおいに発奮して勉強し、陸大首席卒業の栄光に輝いたという次第であります。」
「荒木の栄光の影に女ありか。こりゃおもしろい。」
宇都宮は手をたたいて笑った。
荒木の艶聞に話がそれて座がなごんだおかげで、宇都宮連隊長もしぶい顔をせずに猪熊の申出を承認してくれた。
伊藤嘉子、「異端の建築家」と呼ばれた伊藤為吉の長女である。荒木の恋敵としてせり勝った古荘中尉も、嘉子の期待どおり、四十二年十二月に陸大を首席で卒業する。
新来の猪熊と是永をまじえての飲みなおしとなった。
陸軍は、青年将校が上官や先輩将校の私宅をたずねることを、むしろ奨励していた。座談、歓談のあいだに先輩の体験談や教訓を聞き青年将校修養の資とする、という趣旨からであった。上官や先輩はこの機会に青年将校たちの資質を観察することができた。縁談が持ちだされることもあった。
日露講和条約に日本の軍民ともに不満であった。日露再戦必至の声が陸軍部内につよかった時代のことである。話はいきおいそのことにむく。とくに、日露戦争中をつうじて在英武官としてヨーロッパで対露情報勤務にしたがった宇都宮と、参謀本部ロシア班勤務となったばかりの荒木が同席したとなると、どうしてもそうなる。
「大佐殿。戦役末期のロシアの革命騒ぎは一応おさまったようでありますが、これからさき、ちかい将来にロシアは立ちなおれるでしょうか。」
荒木が質問した。
「ウム、なかなかむつかしい問題じゃのう。わしよりも革命派と直接に接触して謀略工作をした明石元二郎《あかしもとじろう》少将の方がくわしいがのう。
知っているじゃろうが、明石少将は開戦まえロシア公使館附武官で、ヨーロッパ駐在の先任大佐だった。国交断絶のあとヨーロッパ駐在官としてヨーロッパ各地に亡命中のロシアの革命家たちと連絡しながら、謀略工作をしておった。
明石大佐と大本営の連絡は、同盟国のイギリス経由が安全だろうということで、もっぱらわしの仕事だった。
日本から工作資金を送ってくるのもわしあてだし、明石大佐の報告もわしが発信したから、だいたいのことは承知しているがのう。」
「ロシアの革命派というとどんな状態でしょうか。」
「これがいろいろありで、さっぱりまとまっとらんのだな。ポーランド独立派あり、フィンランド独立派あり、ロシアの自由党あり、民権社会党あり、革命社会党あり。民権社会党はまた多数派と少数派、なんといったかな。多数派は、ボル……。」
「ボルシェヴィクですか。」
ロシア語のうまい荒木がひきとった。
「そうそう、そのボルシェヴィクと、少数派の……。」
「メニシェヴィクですか。」
「そのボルとメニだ。二派に割れていてな。」
革命社会党とはエス・エルつまりふつうにいう社会革命党のことである。民権社会党とはロシア社会民主党のことである。ボルシェヴィクはのちにロシア共産党を名のる。
「ガポン長老の名は貴公たちも知っているじゃろう。」
「ちょうど旅順から北上の途中に、露都で暴動が起こったという会報がありました。軍隊が出動して射撃し、人民がおおぜい死んだという。そのときの暴動の首魁が、たしかガポンという坊さんだったと記憶しております。」
さすがに連隊旗手として連隊長秘書的な任務にあった猪熊である。師団からおりてきた会報の内容などをよく記憶していた。
「それじゃ。そのガポンじゃ。」
「あのときは、欧州の露都でおきた事件がこんなにはやく正確にわが軍の第一線部隊まで伝えられるものかと、おどろきました。世界はせまくなったものだな、と。」
それは猪熊の正直な感想であった。
「ロシアの農民や職工、貧民たちは熱心なキリスト教信者だ。キリスト教といってもギリシャ正教。神田にあるニコライ堂がギリシャ正教の教会だ。」
「ニコライ堂については、凱旋後、こんな話をききました。」
荒木が口をはさんだ。
「講和条約反対の日比谷焼打ち事件のときの話です。戒厳が宣告されてニコライ堂の警護のために近衛騎兵連隊の一個小隊が派遣されたそうです。小隊がニコライ堂のまえに到着したとき、殺気だった群衆がいまにもニコライ堂に突入して放火しかねない状況だったそうです。
小隊長はいそいで部下をニコライ堂のなかにいれて警備につかせ、自分は門の正面で群衆に馬をむけ、抜剣して剣をたかだかとあげて馬上から叫んだそうです。
諸君、安心して帰りたまえ。ロスケのニコライ堂はすでに帝国陸軍が占領したぞ。
群衆はくちぐちに帝国陸軍万歳をさけんで散っていったそうです。残念ながら、とっさの機転でニコライ堂護衛の任務を達成した小隊長の名前は聞いておりませんが。」
「フーン、そんな男を補充隊に残しておいたとは惜しいことだ。戦場なら感状ものだ。戦術の試験なら、着眼卓抜、決心おおむね可、総評優秀と認むというところだ。」
真崎が言い、みんなが笑った。
ロスケとは日露戦争中につかわれたロシア人の蔑称である。その語源はロシア人を意味するロシア語のルスキーである。おなじように、日清戦争中に中国人の蔑称としてチャンコロという言葉が使われるようになった。その語源も、中国人の中国語発音チュンクォレンに発する。相手国の国語をいやしめているだけに、たとえばフランス人がドイツ人をドイツ人によくある名のフリッツと呼ぶよりも、いっそうえげつない蔑称である。最近アメリカからきた漫画家が典型的な日本人を形象化してこれにタローさん≠ニいう名をつけたが、ヨーロッパ人ならばこれを蔑称と受けとるであろう。
上官の話の腰を折るのは、いくら酒席であるとはいえ礼を失する。しかし、荒木の話を宇都宮はニコニコしながら聞いていた。
――この三人はたんなる先輩・後輩のあいだの親密さを越えた、妙ななれなれしさを感じさせるな――
是永は笑ったもののあまり愉快ではなかった。というより、なにかわだかまりを感じた。
さすがに荒木はわびた。
「大変失礼いたしました。」
「いや、どうせ酒のさかなの話だ。」
宇都宮はおうように受けた。
「ガポンという坊さんの話でしたが……。」
真崎が話をもとにもどした。
「ギリシャ正教という宗教はの。カトリック教のローマ法皇に相当する地位をロシア皇帝がかねているのじゃな。
イギリスも国教会ちゅうて、かたちの上では国王が教会の最高の指導者ということになっとるが、王様は実際の政治にもあまり関係しとらんし、教会にたいしても口だしするようなことはない。政治は内閣に、教会は大僧正にまかしている。
ところがロシアでは、皇帝は万能の神様の代理で万能の権力者だ。
貴公らは戦場で体験しただろうが、ロシアの兵隊は教育がないけどつよい。皇帝に命をささげるのは神様に命をささげることだと、本気で信じているからのう。日本の兵隊もそう信ずるように教育せにゃならん。そうなれば日本は無敵だ。」
「我が『葉隠《はがくれ》』の精神ですな。よその仏を尊び候こと、我れらは一円落ちつき申さず候。釈迦《しやか》も孔子もキリストも、ついに天朝《てんちよう》に被官《ひかん》かけられ候儀これなく候えば、皇国の精神にかない申さざることに候。その国々の本尊《ほんぞん》をこそ尊び申し候。御被官ならば、よその学問無用に候≠ニ、いうところでしょうか。」
真崎の発言であった。
「それはなんでありますか。」
猪熊は質問しようとしたがやめた。知らないのは自分だけのようだったからである。
あとで是永にたしかめてみると、佐賀藩の武士道を説いた経典ともいうべき『葉隠』という本のなかの有名な一節を、真崎が現在ふうに言いかえたものだそうである。
「だがな、この信仰あつい人民を統御していく方法にも弱点があった。人民の尊敬を受けているギリシャ正教の坊さんが政治に不満をもつ人民の指導者になったら、どうなるか、ということだ。
実際にロシアの宮廷にはいかがわしい連中がいりこんで、政治はみだれていた。そこに、櫛の歯を引くように敗戦のしらせだ。
君側の奸を除けと、ガポンという坊さんが十字架をささげて先頭にたち、群衆をひきいて皇帝に請願に行った。まずいことに、これを阻止しようとして武器をもっていない人民を軍隊が射撃した。それで暴動となり、革命騒ぎとなった。
そこでだ。ロシアの革命騒ぎから教えられたことは、皇帝にたいして忠誠心があつい人民を皇帝に固くむすびつけておくのは、やはり軍人でなければならぬということだ。皇帝を守るのは軍人、人民を導くのは坊さんと、別々になっていたからこそ、坊さんを信ずる人民と皇帝に忠節をつくす軍隊とが衝突をして、流血の革命騒ぎになった。軍人と坊さんとが別々でなければこんなことにはならない。
ロシアの将校の多くは貴族だ。勇敢で誇りは高いが、その精神は人民とかけはなれている。人民がどんなに政治に不満であっても、皇帝を神のようにうやまう気持ちだけは忘れておらんことが貴族にはまるで理解できん。貴族の将校たちは押しよせてくる人民に恐れをなして、単簡《たんかん》に射撃命令をだしてしまった。」
「それで、ガポンという坊さんは……。」
「国外に脱出して明石大佐と連絡をつけ、帰国して武力革命をはかったが失敗した。結局、殺されたよ。」
「明石閣下がそこまで深くロシアの革命に関与されていたとは知りませんでした。」
猪熊はおどろきの声をあげた。
「自分たちが旅順で屍の山をきずいて二〇三高地に突撃をくり返していたとき、欧州では人目をしのんだ日露戦争がたたかわれていたのでありますか。」
猪熊は改めて命課布達式の日の宇都宮連隊長の正装姿を思いだした。その喉下に輝いていた功三級金鵄勲章は日露戦争のヨーロッパの戦場での功績を示すものだったのだ。
「ガポンという宗教の指導者が殺されたとなりますと、四分五裂のロシアの革命派ではもはや人民をまとめていく力はない、と判断してよいでしょうか。」
これから対露情報の専門家となる任務を負わされたばかりの荒木の質問であった。
「いや、明石大佐がロンドンで言っておったが、スイスで妙な男とあったそうだ。
真崎大尉、貴公は充分になじみのはずだが、ザスリッチ中将……。」
「はい。シベリア第二軍団長のザスリッチ中将は、わが第一軍の鴨緑江《おうりよつこう》渡河作戦以来、遼陽の会戦、沙河《しやか》の会戦と一貫して好敵手でありました。
沙河の会戦で広島の連隊が壊滅的打撃を受けた万宝山《まんぽうざん》の敗戦も、相手は、ザスリッチ中将のシベリア第二軍団から派遣された、プチロフ少将のひきいる支隊であったと聞いております。」
「そうだ。シベリア第二軍団|東狙《とうそ》第五師団の第二旅団だったな。万宝山はこの勝利を記念して、皇帝じきじきの命令でプチロフ山と名づけられたとか。」
荒木がロシア軍の戦史に関する新知識をひろうした。
「そのザスリッチ中将の実の姉さんに、ヴェラ・ザスリッチという女傑がいてな。名家の令嬢だったそうだが、昔、若いころ警視総監を暗殺しようとした烈女だそうだ。
この女革命家の手引きで、明石大佐はスイスで、民権社会党の首領株のプレハノフとかいう男に会い、さらに民権社会党の多数派、ボル……、ボルシェヴィクか、その首領のレーニンという男に会った。
ちょうど、アムステルダムで列国社会党の大会が開かれるまえだった。明石大佐はスイスから、列国社会党のなりゆきを見るためにベルリンに行き、ハンブルグからストックホルムについたとき、わしの電報を受けとってロンドンにやってきた。
当時の欧州では有名になったが、アムステルダムの列国社会党の大会で、ロシアの民権社会党のプレハノフと日本の社会主義者の片山なにがしとが、壇上で握手して日露両国の人民の平和を誓ったということがあったな。」
アムステルダムで第二インターナショナルの大会が開かれたのは、明治三十七年八月十四日から二十日までであった。この大会に日本から片山潜が出席し、プレハーノフと二人大会副議長に選出された。片山とプレハーノフは日露両国の労働者の連帯を誓って、固い握手をかわした。
「ザスリッチ中将の姉さんが、革命家、それも高官の暗殺をはかったとはおどろきました。男だったらザスリッチ中将より勇将になっていたかもしれませんな。」
真崎がまじめな顔で言った。
話題に深いりせず、ただ拝聴するにとどめておこうと考えていた是永は吹きだしそうになったが、笑いを飲みこんだ。
――真崎大尉というお方は、人間というものを軍人の尺度ではかることしか知らないお人なんだな。それが『葉隠』的なところなのかもしれないが……――
しかし、真崎にとっては大まじめな感慨であった。真崎は第十二師団に属する長崎県大村の歩兵第四十六連隊の中隊長として出征した。鴨緑江渡河作戦以来、第十二師団の正面の敵将といえばシベリア第二軍団長のザスリッチ中将であった。
「明石大佐がロンドンにきたとき、あったことのあるロシアの革命家についての印象をわしに聞かせてくれた。
明石大佐にいちばん密着したのはフィンランド憲政党のシリヤクスという男だった。このシリヤクスは、主義主張の異なる四分五裂の革命派をなんとかひとつの力にまとめあげようと、努力していたんだな。
ずっとあとの話になるが、ロンドンにきたガポンと明石大佐を結びつける工作をしたのもシリヤクスだ。ガポンを武力革命準備の組織の代表者に押しあげたのもシリヤクスだ。明石大佐がガポンたちのために武器を手にいれてやる工作をはじめたのも、こうしたいきさつからだ。シリヤクスという男は明石工作の中心人物だったというわけだ。
そのシリヤクスが、明石大佐がレーニンと会うまえに言ったそうだ。
レーニンだけには注意しなさい。あの男は、目的のためには手段を選ばぬ、ごろつきのような男だ≠ニな。
ところが、明石大佐が会ってみると噂とは大ちがい。明石大佐は、すっかりレーニンという男にほれこんだらしいな。
レーニンは、まじめで利己心というものがない。自分の信条のためにすべてをささげている。ロシアで革命を成就することができるのは、レーニンだろう。」
明石大佐はこういって激賞していたな。その後のレーニンをみていると、明石大佐の目にまちがいはなさそうだと、わしも思うようになった。
露都の暴動でガポンがスイスに脱出したのは、明石大佐からレーニンの人物評を聞かされた翌年だ。ガポンがスイスからロンドンにきたとき、明石大佐もロンドンのかくれ家にいた。明石大佐の居場所はわししか知らないようになっていた。だから、わしは明石大佐とガポンを引きあわせる役まわりになった。
ガポンの話によると、ガポンのためににせ旅券を用意して欧州各国を自由に旅行できるようにお膳だてしてくれたのは、レーニンのボルシェヴィクだというんだ。
スイスのチューリヒでガポンはレーニンを何度もたずねたそうだ。ガポンとレーニンは主義がちがう。ずいぶん激論したそうだ。しかし、レーニン夫妻ほど心があたたかい人たちと会ったことがないと、ガポンはそう言って感激していた。
まあ、ガポンも、革命派の内部から人気とり∞いかさま坊主≠ニ白眼視されたむきもあったからな。偉大な事業をおこなった革命家としてレーニンに迎えられた感激はひとしおだったらしい。レーニンもえらいが、レーニンの女房というのがまたよくできた女だと、ガポンは言っていたな。」
「すると、明石閣下は、宗教で人民の気もちを引きよせたガポンが殺されたあと、革命を成功させることができる人物はレーニンという男だと言われたのですか。」
「そうだ。人物といい、識見といい、それにガポンの脱出を助けた機敏な実行力といい、一流の戦略家だという。ほかの議論倒れの革命家たちとは、人間のできがちがうというわけだ。会ったことはないが、わしも明石大佐の観察はあたっていると思う。
おい、荒木大尉。」
「はい。」
突然、名を呼ばれて荒木はいずまいをただした。
「明石少将の観察がただしかったとなれば、貴公がロシア班長になるころの貴公の相手はロシア帝国の陸軍ではなく、レーニンの革命軍かもしれんな。」
宇都宮のこの予言はみごとに的中した。後年、荒木大佐は、レーニンの革命軍を相手として反革命の謀略工作に奔走することになる。
長い話であったが、是永は謹聴した。是永は、宇都宮の視野の広さ、これだけの内容の秘話を、もったいぶった態度も自慢気も感じさせることなく、たんたんと語りおえたその器量に舌をまいた。
――一見蛮カラ風、それでいて、その人物のなかみはまったくちがう。これでは、後輩に宇都宮信者がふえるわけだ。しかし、頭領と肩を並べられるだけの器量をもった後輩が、宇都宮大佐のもとではたしてそだつかどうか。この頭領がいなくなったあと、小才のきいた取巻きたちだけの徒党がはびこり、陸軍に禍根を残さねばよいが――
例によって、慎重居士の是永は危惧の念をいだいた。とにかく、是永は宇都宮大佐のグループを敬遠することにきめた。
猪熊はただもうおどろいていた。宇都宮連隊長が着任したときの訓示は、青年将校の猪熊にとってかなり高い水準の軍事学の講義であった。今日の宇都宮連隊長の話は、これまでの猪熊が想像したこともない戦争の裏面の話である。そのどちらもがひとりの軍人の知識と体験として語られたことに敬服するほかなかった。
――戦場で武器を手にたたかうことだけが軍人の世界ではないのか――
同期といっても、陸軍に先輩の少ない上州の出身で、民間の成城学校から士官候補生になり見習士官勤務中に出征した猪熊は、熊本の陸軍幼年学校時代に鹿児島などの出身者から部内の話を聞かされていた是永とちがって、軍人の世界についての見聞が少なかった。とくに、軍人社会の裏面についてはほとんど知る機会がなかった。
是永とちがって、派閥の対立が渦まくこの社会で生きていくことのむつかしさを猪熊は考えたこともなかった。ただ、予想もしていなかった別の世界があるということを知らされ、感動をおぼえていた。
――陸大を出るということはたんに謀を帷幄《いあく》のうちにめぐらす℃Q謀勤務につく機会をあたえられるということだけでなく、それは、隊附将校というかたちで示されている軍人の職務とはまったく別の世界の軍人になることなんだな――
そう考えると、いま、その別の世界への入口をはいろうとしている荒木大尉の快活な顔を目のまえにして、猪熊は混乱を感じた。
「なが話で酒がさめてしまったな。」
宇都宮は手をたたいた。火鉢の炭の灰が白くなっていた。
返事があって女中が座敷の入口に手をつかえた。
「炭をたして、熱いのをつけてきてくれ。」
宇都宮は命じた。
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九 横須賀不入斗町
青山一丁目から第三連隊裏にむかう電車の線路と、青山離宮正門まえから赤坂檜町にむかう道路にはさまれた一画、蛇が池の停留所の近くに第一師団司令部と歩兵第二旅団司令部があった。現在、都立南青山住宅になっている場所である。その一隅、青山通りからひと筋南側でふたつの道路をつなぐ道――のちにこの道を青山一丁目から六本木にむかう電車が走るようになった――と電車通りとの角に面して麻布連隊区司令部もあった。麻布連隊区司令部というが、その所在地は赤坂区青山南町であった。
明治四十一年一月八日の昼近く、第一師団の情報参謀小泉六一歩兵大尉は、やっと目のまわるような忙しさから解放されて椅子にすわった。
この年のはじめはとくに日程がつまっていた。一月四日の御用始が土曜日、五日が日曜日であった。一月八日に青山練兵場でおこなわれる予定の陸軍始の観兵式にむけて、師団司令部は月曜日の六日朝からごったがえしていた。
天皇みずから閲兵する観兵式に皇族の師団長を指揮官として出場するとなれば、師団長を補佐する参謀の気苦労はひとしお大変なものであった。それに七日は一日中雪が降りつづいた。観兵式ができるかどうか、気にしながらの準備であった。
観兵式当日の朝になって、青山練兵場が泥濘で使用できないため、本日の観兵式は中止するという通達が陸軍省からとどいた。小泉は師団所属の各部隊にこの通達を連絡しおわって、やっと席に落ちつくことができた。
――観兵式が中止になっただけ、午後が楽になった――
小泉はさめた茶をすすって一息いれた。小泉の手は机のうえの新聞にのびた。そこに週刊『社会新聞』があった。四十一年一月一日付第三十一号である。
第一師団に名の知られた社会主義者が二人も入営したという報告をうけて以来、小泉は社会主義者取締りの研究資料として、この新聞を読みはじめた。「人事片々」欄の記事が目についた。
[#ここから2字下げ]
▲福田狂児君 はもっか横須賀要塞に入営中なるが、毎日涙のでぬことはなしと。
[#ここで字下げ終わり]
ページをめくると広告欄であった。
[#ここから2字下げ]
恭賀新年
白柳秀湖君著 小川芋銭君画 竹久夢二君画
好評      菊半裁  頗美製
離愁  定価 金三十八銭
再版      郵税 金 六 銭
平民に対する同情 野に対する曠景
▲大阪日報|曰《いわ》く
[#ここから1字下げ]
自然を叙する著者の筆は繊巧細緻を極めたり。其《その》森林に入《い》り草を藉《し》いて座し土の香を嗅ぎ木の葉の日光を受けて下草に影を落せるを見つつ深き黙想に耽るの辺、宛としてツルゲネフの小説に似たり。
[#ここから2字下げ]
▲早稲田文学曰く
[#ここから1字下げ]
青春の情熱到る処に溢れて居る。明かに一部の青年を蔽える時代の蔭影を窺う事が出来る。吾人は之《これ》を時代思潮の反映として世の識者の一読を促したい。
[#ここから2字下げ]
▲万朝報《よろずちようほう》曰く
[#ここから1字下げ]
著者の筆は到る処雄健であると同時に絢綯《けんとう》である。されば此篇を繙《ひもと》く時は宛然萩や薔薇《ばら》の咲き乱れた花園に這入《はい》って居ながら、絶えず畳針の様な鋭利な堅固な或物に心臓を突かれるようである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]発行所 東京京橋区南鍋町一丁目二番地
振替貯金口座八五三番 隆文館
小泉は田中連隊長に白柳の本の広告を資料として送ることにした。ロシア通の田中連隊長のことである。トルストイやツルゲネフなどのロシアの革命思想かぶれの文学青年を御することくらい、田中連隊長にとってはなんでもないことであろう。
問題は福田の方にありそうだ。兵営生活のつらさを訴える通信を『社会新聞』によせている。福田の処遇に連隊の手ぬかりがないか、小泉は気になった。
――なにか大きな事故でも起こさねばよいが……。どんな処遇をしているか、旅団をつうじて連隊に連絡をとってみようか――
小泉の頭をチラと不吉なかげがよぎった。しかし、旅団からなにもいってこないのにこちらから照会するのは、平地に波瀾をまきおこす越権沙汰になりかねない。小泉は当面ようすを見ることにした。
――社会主義者を新設旅団の新設連隊に入営させたことは、まずかったかもしれない――
三十九年四月二十二日、凱旋観兵式に参列するために上京した各師団長をあつめて開かれた師団長会同の席上で、寺内陸軍大臣の訓示があった。訓示はのちに印刷配布されたので、小泉も読んでいた。その一項に社会主義|防遏《ぼうあつ》の問題があった。
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開戦前より世に社会主義なるもの漸次萌芽し、軍隊にもその意志を伝播《でんぱ》せんとするがごとし。これ軍隊の成立主意とあい容れざるの病毒にして、寸毫《すんごう》も軍部に侵入するを許さず。ゆえにかつて留守師団長に注意し、郵便物その他通信により、かくのごとき書類のいっさい軍隊に入らしめざるよう戒飭《かいちよく》する所ありし。しかるに時勢の変遷にともない、なおかつこの危険なる主義を唱導する者漸次増加の傾向なきにあらざるをもって、深く軍人精神の涵養を努め、もって未然にこれを防遏《ぼうあつ》せられんことを望む。
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――「寸毫も軍部に侵入するを許さず」と言っても、兵役が国民の必任義務とされている以上は、社会主義者を兵役から排除するわけにはいかないではないか、現に第一師団にも社会主義者が入営してきたではないか、問題の根本的解決は兵営の外で社会主義者を撲滅する以外にない――
小泉はそんなことを考えた。
「しかし、当面、在営中の社会主義者をどうするかが問題だ。」
小泉はそうつぶやきながら立ちあがり、戸棚から軍隊内務書を抜きとって、「第十五章 営中日課の定則」のところを開いた。
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第十八条 許可なき物品をみだりに営内に持ち入るべからず。
第二十六条 私物を室内に置き又は使用するも妨げなし、然れども風紀を害するごとき物件はこれを置くべからず。
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社会主義思想が軍隊内に広がるのを取りしまるための、法規上の根拠はこれだけしかなかった。
もちろん、そのほかにも法令はあった。治安警察法は現役および召集中の予備役後備役の軍人の政治結社加入を禁じていた。陸軍刑法は、軍人が政治に関する事項を上書建白し、あるいは講談論説し、または文書をもって広告することを禁じていた。さらに、軍人が党を結ぶことも禁じていた。
しかし、それだけでは社会主義は防ぎきれない。広告せずにひそかに配布したり投書することもできるし、自分が講談論説しなければ聞きに行くこともできる。現に福田は通信というかたちで事実上の投書をしていた。
小泉は考えた。
――連隊長が許可した以外の新聞雑誌の閲読の禁止、自分の意志によるものであろうと他人の依頼によるものであろうと、許可なく印刷物を配布することの禁止、世論政治にかんする演説会への臨席およびこれにかんする論説記事を新聞雑誌に投書することの禁止、これくらいのことは新しい内務書に盛りこんでもらわねばなるまい――
小泉が『社会新聞』に目をとおしていたころ、横須賀市|不入斗《いりやまず》町にある重砲兵第二連隊では騒ぎが大きくなりはじめていた。
一月五日に外出した福田狂二が帰営しなかったのである。一晩以上たっても帰営しなかったので、もはや逃亡したことは明らかであった。社会主義者の新兵が入営後わずか一カ月で逃亡したのであるから中隊幹部はあわてた。
だいたい、こういうばあい、まず最初に中隊の責任で逃亡者を捜し、中隊の手におえなくなった段階ではじめて連隊本部に報告されるのがふつうである。連隊本部が報告を受けたのは七日の朝であった。
やはり小泉の不吉な予感はあたった。
新設旅団の新設連隊に社会主義者を入営させたのが、事件の原因となった。
横須賀軍港を防衛するために陸軍の要塞砲兵連隊が設置されたのは、明治二十三年であった。二十四年に市街地の背後の不入斗町の山を切りひらいて兵営が建てられた。二十九年に東京湾要塞砲兵連隊と改称され、その編制は、翌年、五個大隊・十五個中隊の大部隊となった。
日露戦争がはじまると鴨緑江の渡河作戦に使用するために、東京湾要塞砲兵連隊と広島湾要塞砲兵連隊とに、両連隊の保有する十二センチ榴弾砲《りゆうだんほう》二十門をもって、五個中隊からなる野戦重砲兵連隊の編成が命じられた。臨時編成ながら、野戦重砲兵という兵種が誕生した。
旅順攻囲戦にあたって攻城砲兵部隊として、国内各地の要塞砲兵連隊、要塞砲兵大隊から、徒歩砲兵連隊四個、徒歩砲兵独立大隊二個が編成された。野戦重砲兵連隊も二個大隊から三個大隊に強化されて旅順に投入された。旅順陥落ののち、徒歩砲兵第二連隊の大部分と徒歩砲兵第三連隊が旅順要塞連隊と大連要塞連隊に改編されたほか、これらの重砲兵部隊は奉天会戦に使用された。
日露戦争の終末期に、ドイツのクルップ社に注文してあった新式の砲身|後坐《こうざ》式十二センチ榴弾砲三十四門、同十五センチ榴弾砲十六門がとどいた。これらのクルップ式榴弾砲はいずれも三八式という制式名をあたえられた。
これを機会に、これまでの十二センチ榴弾砲二十四門をもって野戦重砲兵連隊を野戦重砲兵第一連隊に改編した。これまでの十五センチ榴弾砲十六門をもって徒歩砲兵第一連隊の榴弾砲隊で野戦重砲兵第二連隊を編成した。新式のクルップ式十二センチ榴弾砲二十四門をもって徒歩砲兵第四連隊を野戦重砲兵第三連隊に改編した。新式のクルップ式十五センチ榴弾砲十六門をもって徒歩砲兵独立第二大隊で野戦重砲兵第四連隊を編成した。
戦後、平時編制に復するにあたって、野戦重砲兵を野戦砲兵にくりこむか要塞砲兵に残すかが問題となった。結局、攻城砲や対艦砲である二十八センチ榴弾砲まで野戦である奉天会戦に使用されたという経緯にかんがみ、野戦砲兵を野砲兵、要塞砲兵を重砲兵と名を改め、すべての重砲兵を混合編成の連隊、独立大隊とすることに決定した。
四十年九月十八日の陸軍常備団隊配備表の改正で、東京湾要塞砲兵連隊は重砲兵第一連隊と重砲兵第二連隊とに改編された。ともに二個大隊・五個中隊の編制であった。日露戦争のはじめ以来、重砲兵の編成はめまぐるしく改められた。事実上、重砲兵部隊は建制部隊としての機能を失い、寄せ集め部隊となっていた。
重砲兵第一連隊と重砲兵第二連隊とへの改編は四十年十月二十三日におこなわれた。第一連隊が坂本町側の兵舎に、第二連隊が不入斗町側の兵舎にはいった。
両連隊を統轄する重砲兵第一旅団が新設された。初代旅団長に、日露戦争中以来陸軍省砲兵課長であった山口|勝《かつ》が砲兵大佐から少将に進級し、十一月二十二日に発令された。
山口勝は、のちの二・二六事件のとき、歩兵第一連隊の週番司令として反乱将校を支援し、舅の本庄|繁《しげし》侍従武官長との連絡にあたった山口一太郎歩兵大尉の父親である。
重砲兵第一連隊長に砲兵大佐村岡常利が発令されたのは四十年十月二十一日であった。重砲兵第二連隊長に砲兵大佐|楢岡《ならおか》金次郎が発令されたのは四十年十一月十二日であった。部隊の編成がえと新編制にもとづく兵舎の入れかえで両連隊は混雑しつづけた。
この間に特別大演習がおこなわれた。両連隊ともそれぞれ野戦重砲兵一個大隊を編成して、特別大演習に参加させなければならなかった。
着任したばかりの旅団長も連隊長も部下を掌握するひまがなかった。そこに十二月一日の新兵の入営日がやってきた。
四十年十一月二十六日に除隊したのは三十七年入営兵だけであった。二年在営の帰休制度が適用されたのは歩兵だけである。三十八年入営兵、三十九年入営兵が入営したときには歩兵も三年在営制であった。在営中に制度がかわったので、新制度の恩恵からとり残された兵科の兵卒の不満は大きかった。
兵卒たちはもともと、志願して重砲兵隊にきたわけではなかった。体格がよかったばかりに、体力を必要とする重砲兵隊にまわされたにすぎなかった。
――なぜ、おれたちだけが三年も軍隊にいなきゃならないのか――
古兵たちの気持ちはすさんでいた。その鬱憤は十二月に入営してきた新兵にむけられた。こういうばあい、いじめやすい新兵が班内で一人か二人選ばれて標的にされるのが常である。三十八年兵の半分が帰休した歩兵連隊とちがい、古兵の数は新兵の倍である。標的に選ばれた新兵こそたまったものでない。
入営してくる新兵たちの身上調書は人事上の秘密書類であり、漏れてはならないはずのものであった。しかし、新設連隊で人事異動がはげしく、人事管理の事務はルーズであった。福田が社会主義者であることは、いつのまにか中隊中に知れわたっていた。
将校や下士は連隊の編成がえにともなう雑務に追われて、兵卒の生活にまで充分に監督の目をむける余裕がなかった。古兵の新兵いじめはおおっぴらにおこなわれた。社会主義者であることは、いじめる口実としては絶好であった。
社会主義者をいじめること自体が天皇にたいする忠誠の行為なのである。福田は、毎日、古兵たちの暴力の対象にされた。
「貴様は、軍隊がきらいだというのか。」
「貴様の性根をたたきなおしてやる。」
「不忠者。」
「非国民。」
どんなに罵倒しても相手が社会主義者なら許された。兵営内ではもちろん口先の罵倒だけですむことはない。かならず、罵倒に暴力がつきまとう。福田は入営からわずか数日ののち、からだになま傷が絶えなくなっていた。
福田自身もともと理論家ではなく、腕力にものをいわせる壮士型の社会主義者であった。しかし、福田個人に腕力があっても軍隊では通用しなかった。軍隊は上級者にたいする絶対服従が要求される社会であった。
兵卒の社会では「メンコの数」がものをいった。一日でも多くメンコの飯を食ったもの、すなわち軍隊生活の経験が一日でも長いものがより大きな権威をもつ。兵卒には兵卒という階級のほかに階級はない。上等兵、一等卒、二等卒という肩書は、正確には軍隊内の待遇の差を示す等級であって、命令と服従の関係を律する階級ではない。「メンコの数」が多い一等卒の方が「メンコの数」が少ない上等兵よりえらいのである。
新兵は古兵に絶対服従である。古兵の暴力に抵抗することはもちろん、暴力を避けようとすることさえ許されない。福田に襲いかかったのは直接の暴力だけでなかった。古兵たちは裕福な家の出身である福田にたかった。福田が社会主義者であることは、富の平等≠口実にして金銭をたかるのに都合がよかった。
入営にあたって福田はなにがしかの金を持っていた。その金はたちまちになくなった。福田は親元から、二度にわたって十円ずつ、合計二十円の金を送ってもらった。それでもなお入営からわずか一カ月で、二円五十五銭の借金が残るほどに金を使った。入営したばかりの新兵に、自分で金を使えるようなひまはない。すべて古兵にまきあげられたのである。
四十一年一月五日、福田は東京まで外出した。どこに行ったのかわからない。福田自身は金策が目的であったと称している。東京で時間をすごし、帰営時間にまにあわなくなったとき、福田は逃亡を決意した。
帰営時間に遅刻すればどんなに苛酷な私的制裁の暴力が待っているか、そのことを考えただけでも福田の足はすくんだ。
だれと、どこで、どういう連絡をとったのか、五日の夕刻、福田は入営まえの私服姿で、神田区福田町二番地の下駄屋|紫崎《しざき》金平の家に、新しい間借り人として住みこんだ。だれかが福田に協力したことはまちがいない。軍服姿の福田をとりあえずかくまい、福田が入営まえに私服をあずけた神田の白壁町十二番地の青山一雄方に福田の私服を受け取りに行き、軍服を着がえる場所を提供した人物がいることだけは、たしかである。
福田が私服を取り寄せて軍服と着がえた場所だけは、福田が逃亡兵であることを承知している人物のところであったはずだ。逃亡兵から市民への変装の現場は、絶対の信頼がおける場所でなければならない。そこは逃亡兵福田の足跡が消えてしまうはずの場所であるからだ。
その場所を提供した人物はだれか。福田の同志吉川|守邦《もりくに》である可能性がつよい。敗戦前、つまり日本陸軍の解体以前に病死した吉川の自伝がこのことに触れていないのは当然として、この人物について福田もまた沈黙を守りつづけた。
平時においては兵営からの脱走は、自発的にであれ、捕えられてであれ、六日以内に帰営すれば陸軍刑法の逃亡罪に問われない。陸軍懲罰令による行政罰の対象となるだけである。六日をすぎると、陸軍刑法に定められた逃亡罪で刑法上の犯罪として処罰される。
逃亡兵をだした連隊は、六日をすぎるまでは自発的な帰営を期待しつつ、自力で捜索する。福田は、一月十一日の夕食時間をすぎても帰営しなかった。福田が所属する第五中隊の必死の捜索によっても、福田の消息はようとして知れなかった。
楢岡連隊長はやむをえず山口旅団長に報告をし、捜査を憲兵隊の手にゆだねた。山口旅団長から師団司令部に福田逃亡の報告がおこなわれた。小泉参謀は自分の予感が的中したことで不愉快になった。連隊や中隊幹部の不行届も腹だたしかったが、逃亡した福田にたいしては憎悪を感じた。
――自殺してくれたのなら、まだしも――
兵卒の兵営内での自殺はよくあることだった。たいていは、本人の意志がよわかったとか、複雑な家庭の事情に悩んだ結果とか、個人的な理由による自殺として処理されていた。福田のばあいも自殺であれば、このやり方でかたづけることができた。
しかし、社会主義者福田が逃亡したとなると、これはもう大事件であった。小泉は旅団副官あてに、福田の逃亡についてはくれぐれも秘密をたもつよう指示した。
東京の両国駅から福田が送りだした小荷物が一月二十八日に重砲兵第二連隊第五中隊にとどいた。中隊の曹長が開いてみると、軍服、帯剣をはじめ、一月五日に福田が外出するときに身につけていた官給の装備、被服のいっさいが、輸送の途中で破損しないようていねいに梱包されていた。
このことは、さっそく中隊長、大隊長、連隊長に報告された。連隊の幹部は頭をかかえた。福田が綿密に考え、慎重に行動しつつあることがわかったからである。
ふつう、兵卒の逃亡罪は逃亡罪だけではすまない。兵営では官給の軍服以外の着用は許されていない。逃亡したばあい、軍服を着たままであればすぐに発見されてしまう。逃亡した兵卒は、なにをさておいても軍服を脱ぎすてる。
当時の陸軍刑法では、平時の逃亡罪は二カ月以上一年以下の重禁錮で、新兵入営三カ月未満ならば罪一等を減ずる規定であった。罪一等は刑期の四分の一である。
他方、軍人が兵器、弾薬、軍糧、陣営具、被服を棄毀《きき》したばあいは、一カ月以上四年以下の重禁錮である。当時の刑法にはまだ併合罪の規定がなく、数罪|倶発《ぐはつ》ということで重い方の刑で処断されることになっていた。陸軍刑法もこれにしたがっていた。
ちょうど陸軍刑法の改正がおこなわれた時期で、新陸軍刑法が四十一年四月十日に公布され、十月一日に施行され、この旧陸軍刑法は廃止となる。福田のばあい、適用されるのは旧陸軍刑法である。
福田が、身につけていた兵器である銃剣をはじめ、官給品いっさいを送り返してきたので軍用物棄毀罪は成立しない。そうなれば単純な逃亡罪だけである。逮捕されても入営三カ月未満の福田は、重禁錮九カ月以下の軽い刑ですむ。
――福田がそこまで読んで行動しているとなると、福田の行動はそう簡単には捕捉できないであろう。しかし、福田はまだ東京に潜伏している。となれば、福田は単独ではなく、かならず社会主義者の組織が福田の逃亡を助けているにちがいない――
連絡を受けた東京憲兵隊はそう判断し、社会主義者の軍にたいする挑戦と受けとめた。憲兵隊は社会主義者の身辺を洗いはじめた。憲兵隊の考えすぎであった。もっとも福田の郷里の警察にたいする手配は怠らなかった。
島根県|簸川《ひかわ》郡|久多美《くたみ》村|大字東福《おおあざとうふく》、そこが福田の故郷である。斐伊川《ひいがわ》が宍道湖《しんじこ》にむけてかたちづくっている三角洲の北のはしに沿って、斐伊川から分流した船川が流れている。船川が平田町の町並みを北に抜けたところに、平田町と久多美村の境界線が走っており、その境界線に接して東福の部落がある。南は一面に広がるゆたかな水田である。
福田家は久多美村でも名を知られた素封家、当主は狂二の父の連之助である。狂二の兄の六蔵は日露戦争に予備役歩兵一等卒として近衛歩兵第三連隊に召集され、三十七年八月三十日、遼陽の会戦で戦死した。生家には父親のほかに母親と妹がいた。
狂二から福田家に一通の手紙が舞いこんだのは、狂二が兵営を脱走してからまもなくであった。手紙の内容は、今度の外出のときに取りに行きたいので友人あてに送金してほしいというものであった。狂二の母親はすぐに二十円を送った。
狂二の兄六蔵の戦死以来、両親ともに狂二にすっかり甘くなっていた。狂二が早稲田大学政経学部に進学したものの、社会主義に走り、大学を中退してなにかその方の運動に首を突っこんでいるらしいことは、母親の耳にもはいっていた。母親は狂二の身を案じていた。
徴兵検査をうけに狂二が帰郷したとき、甲種合格になったのはともかくとして、入営先が郷土連隊である浜田の歩兵第二十一連隊ではなく、重砲兵連隊にとられることにきまったと聞いて、狂二の母親は不吉な気持ちに襲われた。
兄の六蔵も人並みすぐれて体格がよかったばかりに、浜田の連隊ではなく、近衛連隊にとられて戦死した。同郷人のいない連隊などにとられて、狂二の身になにかあったらと気がかりであった。金ですむことならと、狂二が求めてくるたびに送金した。
しかし、入営してから一カ月あまりのあいだに、全部あわせれば四十円も送れということはどうしたことであろうか、母親にも疑念がないでもなかった。
狂二に送金してまもなく、福田家を村の駐在巡査がたずねてきた。特別の用事があってのことではないようすであった。こんなことはめずらしかった。ただ、世間話ふうにではあったが、気になる質問があった。
「兵隊に行とられぇ、むすこさんは、お元気だかね。」
「はあ、元気にしとうますが。」
その返事を聞いて、巡査は心から安心したように笑顔をみせた。
「それは、よございますな。」
巡査にしても、日ごろいろいろと世話になっている福田家の門を、いつもとはちがう目的でくぐるのは気が重かったにちがいなかった。あとから考えれば、脱走した狂二が家族と連絡をとっているかどうかを、さぐりにきたにちがいなかった。
一月十二日の日曜日の朝、福田は東京をあとにしていた。福田の計算どおり、身辺を見はられているようすはなかった。
逃亡罪が成立するのは十一日の土曜日である。それまでは東京から動かないことが賢明であった。もっとも、動こうにも送金を待たねば動けなかった。捜査の主体が連隊から横須賀憲兵分隊に移るのは、早くても土曜日の午前である。横須賀憲兵分隊から東京憲兵隊に報告があげられ、さらに東京の各憲兵分隊が捜査体制にはいるには時間がかかる。土曜日から日曜日にかけて捜査の間隙ができる。そのときが行動のチャンスであった。
そう考えた上で福田は行動を開始した。福田がめざしたのは郷里の出雲《いずも》であった。
都合がよいことに、久多美村から近すぎず、遠すぎず、ちょうど適当なところに出雲大社の町、杵築《きつき》町があった。この町は他国のひとびとの出入りがはげしく、大社参りといえば、たいていの旅行客はあやしまれることがなかった。福田は久多美村に近づくのを避けて杵築町に宿をとった。使いのものをたのんで手紙を母親のもとに持たせた。
翌日、母親が妹とともに福田の宿をたずねてきた。
昼間の宿屋はひっそりとしていた。
「脱走なんちゃ、ようもまあ……。軍隊ちゅうところは、そげにつらいとこだか。」
しばらくの沈黙ののち、母親は口を開いた。福田はよわよわしい笑いをみせた。もともと甘やかされてそだった福田は、図体だけは大きいが、気が小さいところがあった。とくに母親にたいしては甘えがつよくでた。
「軍隊ちゅうところは、いっぺん逃げだすと、がいな罰をうけぇと聞いちょうが……。なんでも、陸軍の監獄は、ふつうの監獄とちごうて、一段とむごいところじゃげな。いれられたもんは、たいて、ひどい目におうて、いびり殺され、二度とでてこられんと聞いちょうどなあ。
なんぞ、よい思案でもあぁかね。うちの近所でも、警察が見はっているようすだけん、とても、逃げきれぇもんじゃなかろうが。」
狂二は答えた。それは母親を安心させるための虚勢であった。
「心配はいらんけん。じつは入営するまえから、清国《しんこく》に行こうかと、考えたこともあぁだけん。清国からおおぜいの留学生が東京にきちょうけんね。顔見知りもずいぶんできた。たいてい革命党の人たちだけど。
今度こげなことになったので、みんな同情して、いろいろと便宜をはかってくれるといいちょってだけん。むこうに行っても、その人たちのつてで、生活することができぃと思います。清国では、日本語の教師をほしがっているげなけん。」
「外国に逃げたら、一生帰ってこれんよになぁじゃなかろうか。」
「そげなことはないけん。法律の話はむつかしいからやめときますが、七年もむこうにおれば、監獄には行かんでもいいようになぁけんね。」
「はぁ、七年だかや。」
母親はため息をついた。
「東京の学校に行っていると思えば、七年ぐらい、すぐたちますけん。あのまんま、軍隊におっても三年かかぁけん。」
「上の兄さんが戦争で死んでから、おかさんはすっかり力をおとしてしまったのに、こんだ兄さんまで外国に……。」
妹が口をはさんだ。
「父さんや母さんには、申し訳ない。ことのはずみで、こんなことになってしまって。それにしても、軍隊というところは、ひどいところだが。人間の行くところじゃないが。
父さんは、怒っちょられるだろうな。」
「いんや、口ではなんにもいわれんけど、上の兄さんが戦争で死んだときみたいには、悲しんだり、怒ったりはしとられんようにみえるけど……。」
思いきったように、母親は小さな包みをだして言いそえた。
「今朝、家をでぇとき、父さんがだまって渡してごしなはった。母さんも、だまってあずかってきた。父さんの気持ちを察して、うまいことやってごしない。」
やがて二人は、あまりなが居をしてもあやしまれるからと言って、立ちあがった。
母親はうしろ髪をひかれるように福田の方を振りかえり、人力車に乗った。あるいはこれが永遠の別離になるかもしれなかった。母親の気持ちを察して福田も弱気になった。しかし、いまはもう、逃げとおすほかに道はなかった。
二人が去ったあと、包みをあけてみると札束がはいっていた。二百七十円という大金であった。
一月二十七日、福田は東京にもどってきた。帰京した夜は深川区富川町二十四番地の新聞販売業大津甚左衛門方に住む同志の加藤義雄のところに泊めてもらった。
清国に渡る旅費ができた以上、もう迷うことはなかった。翌二十八日、両国駅から小荷物で、帯剣、軍服など官給品のすべてを連隊に送り返した。
清国に渡るには、なお準備が必要であった。福田は東京市内の人目につかないところに潜伏し、同志の吉川をつうじて在京の信頼できる清国留学生と連絡をとることにした。
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十 神田三崎町三丁目
徳川幕府の講武所あとが明治のはじめに陸軍の練兵場になった。神田川をへだてた対岸に、小石川後楽園を取りかこんで砲兵工廠の工場が建設された。
三崎町練兵場は明治二十三年に三菱に払いさげられた。丸の内の陸軍用地の払い下げとこみであった。丸の内にあった軍事施設の移転費用を陸軍が確保するために、三崎町の練兵場もあわせて払いさげたのだという。
三菱が手に入れた三崎町練兵場の土地が神田三崎町三丁目一番地である。陸軍の練兵場に一括しておなじ地番がつけられたので、神田三崎町三丁目一番地は広い。神田三崎町三丁目一番地は、現在では三崎町二丁目と三丁目になっている。
三菱は、丸の内とおなじように、三崎町三丁目を整然とした都市計画にもとづく市街として開発しようとした。そのなごりは現在の三崎町二丁目、三丁目の道路に残っている。関東大震災後の帝都復興区画整理も、三崎町三丁目地内の道路にはほとんど手をつけなかった。すでに三菱による計画道路があり、その必要がないとされたのである。
神田三崎町三丁目は明治になってから生まれた新しい町であり、民間の資本によって計画的に開発された町である。
明治二十八年に現在の国鉄中央線である甲武鉄道が飯田町まで開通した。飯田町駅は、当初は三崎町側に駅正面をむけたターミナル駅となる計画であった。三崎町は、新橋、上野と並んで東京の三大玄関口の町となるはずであった。
しかし、鉄道の電車線は十年後にお茶の水駅まで延長され、さらに明治四十一年に昌平橋《しようへいばし》駅、明治四十五年に万世橋《まんせいばし》駅まで延長された。万世橋駅の開業とともに昌平橋駅は廃止された。三崎町にかわって、万世橋駅の正面の町である神田須田町がターミナルの町となった。
須田町は、市内電車の各方面行きの系統が集中する東京市内の交通の中心となった。明治四十三年五月、建設中の万世橋駅まえ広場である須田町交差点に日露戦争が生みだした海軍の「軍神」広瀬武夫中佐の銅像が建てられ、東京の名物となった。
いまでは万世橋駅も広瀬中佐の銅像も姿を消した。万世橋駅跡は現在の交通博物館である。東京都電が廃止されてからは、須田町も人の流れの主流からはずれた。
電車の途中駅飯田橋とわかれて、飯田町駅は貨物のターミナル駅となった。日本有数の大工場である砲兵工廠が莫大な物資の輸送を必要としたからである。三崎町は、砲兵工廠と飯田町貨物駅と神田の学生街にはさまれ、労働者と学生があつまる町となった。
アメリカから帰国した片山潜が神田三崎町三丁目一番地に住みつき、キングスレー館を開設したのは明治三十年のことである。キングスレー館はキリスト教的社会改良事業を目的とし、はじめは、そのなかに三崎町幼稚園、店員英語夜学校、渡米協会をおいた。
片山は、翌年、三崎町三丁目一番地に本籍地を移した。以後、大正三年の片山の渡米まで、キングスレー館は明治社会主義運動の拠点として重要な役割をはたしつづける。
片山が三崎町三丁目一番地にキングスレー館を開設したことに、そのころの三崎町かいわいの生活と世相風俗がよく示されている。
キングスレー館の役員にはキリスト教関係者が多い。委員長は植村|正久《まさひさ》である。館長は片山である。委員には、横井時雄、伊藤為吉、綱島|佳吉《かきち》、松村|介石《かいせき》が名をつらねている。植村、横井、松村は、たいていの人名辞典に掲載されているキリスト教界の知名人である。綱島は片山とエール大学の同窓であり、番町教会の牧師であった。
異色の人物は伊藤為吉である。アメリカじこみの建築家を肩書として耐震建築を看板とし、そのころみずから神田三崎町三丁目一番地に耐震建築の住宅を建て住んでいた。片山が編集していた『労働世界』に私立東京|徒弟《とてい》学校の設立者として名がでている。伊藤の伝記に村松貞次郎『異端の建築家・伊藤為吉』がある。
のちに拡幅されたが、水道橋駅の西口から靖国通りにむかって南に走る現在の後楽通りが当時の一番地通りである。一番地通りを南に進むと、右手に当時の東京では歌舞伎の大劇場であった東京座があった。現在、その敷地の跡にニチレイビルが建っている。東京座の南側で一番地通りと交差する道が電灯通りである。一番地通りは、その南で、左側に北横町、南横町の通りを分岐し、南通りと交差する。南通りから先は小川町である。
一番地通りと北横町通りとの南角に伊藤為吉の耐震建築住宅があった。現在の日本大学五号館の西側である。その北角には現在鉄建ビルが建っている。南横町通りをはいって一番地通りの東側を南北に走る仲通りを越えた左側、三崎町三丁目一番地南横町九号地にキングスレー館があった。キングスレー館の跡は、現在、三崎町二丁目三十、日本大学法学部一号館となっている。
片山がキングスレー館に幼稚園を開くとき、保母や建物面積に関する規則をたてにとって東京府はなかなか許可しなかった。片山は『自伝』に、やっと許可がおりて開業したものの、「伊藤為吉氏の次男| 鼎 (かなえ)君が一人で保母さんと二人で半年位いはやったものだ」と書いている。
鈴木|理生《まさお》『明治生れの神田三崎町』はこの話について、三崎町の古老塩谷三九郎からの聞き書「できもしないうちから保母を置けの、増築をせよの理屈に合わぬことを強いられて、伊藤為吉さんの次男が一人で教師と保母を兼ねて半年以上も勤め」というくだりを引用し、「伊藤の二男(熹朔《きさく》か)が幼稚園の教師と保母を兼ねていた」と説明している。のちの有名な舞台美術家伊藤熹朔が日本の保父第一号であったとする鈴木の推測が、事実ならばおもしろい話である。
しかし、事実はそうではない。片山の『自伝』の記述もまちがっているし、鈴木が引用した古老の話もまちがっている。伊藤為吉の長女は嘉子でのちの陸軍大将古荘幹郎夫人、長男晃一は生まれてまもなく死に、戸籍上の次男で事実上の長男が舞踊家の道郎《みちお》、事実上の次男が鉄衛《かなえ》、その弟が祐司、その次の弟が熹朔、その下が次女の暢子《のぶこ》でのちの画家中川|一政《かずまさ》夫人、暢子の弟が圀男《くにお》すなわち演劇人の千田|是也《これや》である。舞踊家の伊藤道郎、舞台美術家の伊藤熹朔、演劇家の千田是也といえば、有名な芸術家兄弟である。しかし、残念ながら片山が三崎町幼稚園を開いたとき、熹朔はまだ生まれていない。
片山潜の自伝には「伊藤為吉氏の次男鼎君」と名前が明記されている。片山の錯覚である。片山は、戸籍上の次男道郎と事実上の次男鉄衛を取りちがえたうえ、鉄衛の字もまちがって記憶していたのである。鈴木が引用した三崎町の古老の話はまったくの記憶ちがいで、伊藤道郎は片山の三崎町幼稚園ただ一人の園児として入園したのが事実である。道郎は明治二十六年生まれ、三崎町幼稚園開園のときまだ四歳にすぎない。
三十二年春、片山のキングスレー館とキリスト教との関係は疎遠となった。片山が社会運動に関心をつよめはじめたことがキリスト教関係者の不満を買った。以後、キングスレー館は労働運動、社会主義運動の拠点となっていく。日露戦争まえには、伊藤家と片山との関係も疎遠になったようである。
三十三年一月、社会主義協会が成立し、事務所をキングスレー館においた。三十五年四月、労働同盟会が成立し、その事務所をキングスレー館においた。
三十六年十二月、片山はアメリカ経由で、第二インターナショナルのアムステルダム大会出席の旅に出発した。三十七年八月、アムステルダム大会の副議長に片山とプレハーノフが選出され、二人は壇上で固い握手をかわして満場を興奮の渦に巻きこんだ。
三十八年十月、麹町区有楽町の、いまでは改築された有楽町マリオンのシンボルである人形時計の下の通路を抜けた左側、阪急デパートの一画となり、特徴のある前円形の姿を消した日劇の裏あたりにあった平民社が解散した。三十八年四月三十日、森近《もりちか》運平が実質的な経営者であり、名義上の経営者荒川のぶ子、後見人原|霞外《かがい》、山口孤剣という顔ぶれで平民舎ミルクホールが三崎町三丁目一番地に開店した。
平民舎ミルクホールは一番地通りの東京座の並びにあった。三十九年四月二十八日に結成された日本社会党の本部となった。三崎町三丁目一番地は社会主義運動のただひとつの拠点となった。
――私ははじめ「マルクス」派の社会主義者として監獄にまいりましたが、その出獄するにさいしましては、過激なる無政府主義者となって娑婆《しやば》にたちもどりました――
幸徳秋水の書簡の一節である。
日露戦争中の言論弾圧で入獄し、出獄ののちに渡米した幸徳は、三十九年六月、直接行動派≠フ無政府主義者となって帰国した。幸徳の主張は、大衆運動の経験がない若い社会主義者たちの共鳴するところとなった。四十年二月十七日の大会で日本社会党は幸徳の主張を方針として採択し、二十二日に解散を命じられた。
四十年一月十五日、日本社会党の機関紙として発足した日刊『平民新聞』は四月十四日付第七十五号をもって廃刊となった。
いったん帰国ののち再渡米した片山が帰国したのは二月十九日であり、この日本社会党の大会には出席しなかった。片山は、アムステルダム大会で妥協的な社会改良主義に反対するとともに、議会を階級闘争の場としてとらえ、インターナショナリズムへの確信をつよめた。
四十年以後の日本の社会主義運動は幸徳と片山の理論的対立を軸として展開する。片山は、日刊『平民新聞』の後をつぐ、社会主義運動の機関紙の創刊を計画した。六月二日付創刊の週刊『社会新聞』が「社会主義中央機関」を名のって発刊された。
『社会新聞』は片山と西川|光二郎《こうじろう》の共同事業として運営された。編集は主として西川、財政上の責任は片山という分担であった。
創刊当時の社員は片山、西川、斎藤兼次郎、吉川守邦、神崎順一の五名であった。まもなく、田添鉄二、赤羽|巌穴《がんけつ》の二人が社員にくわわった。
特別寄稿者として、創刊号に、幸徳秋水、堺利彦、旧平民新聞記者一同、田添鉄二、大塚甲山、中里介山、大石誠之助、白柳秀湖、白鳥健、小川芋銭、竹久夢二の名があげられている。一応、主義主張の対立を越えた「中央機関」紙として発足した。
販売部はキングスレー館におかれた。発行所は品川になっている。当時の法令に定められた保証金を安くするのが目的であり、ほかに意味はない。実際の編集、発行の業務も三崎町でおこなわれた。
福田狂二が横須賀の重砲兵連隊に入営するまえ、表面的にはなお統一をたもっていた社会主義運動は決定的な分裂への道をたどりつつあった。正確にいえば社会主義の分裂ではなく、幸徳の無政府主義と片山の社会主義への分化である。
これまで漠然と社会主義の名で一括されてきた思想が、まったく異質の思想の寄り合いであることがはっきりしてきたのである。というより、幸徳の思想が社会主義から無政府主義に転換し、その影響が社会主義運動を直撃した結果である。
片山たちが毎週日曜日にキングスレー館で社会主義研究会を開くようになったのは四十年六月十六日であった。この日の社会主義研究会には幸徳派の堺が社会党分派論を演説した。すでに社会主義派と無政府主義派の組織分裂が公然と話題にのぼせられる状況になっていた。
しかし、なお両派は分裂回避のための努力をつづけていた。その努力は八月一日から十日までの社会主義夏期講習会の開催となってあらわれた。講習会の会場は麹町区九段下のユニヴァサリスト教会であった。はじめは講師は八名の予定であったが二人が欠けて、実際は六名となった。
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社会主義史 五時間 田添鉄二
道徳論 四時間 幸徳伝次郎
社会の起源 五時間 堺利彦
社会の経済論 五時間 山川|均《ひとし》
労働組合 五時間 片山潜
同盟|罷工《ひこう》の話 四時間 西川光二郎
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会費八十銭、毎日午後七時より十時までの三時間、全国からの参加者八十余名であった。
大阪平民社の中心人物で『大阪平民新聞』の発行兼編輯人である森近運平が七日に帰阪するというので、六日午後十一時から角筈十二社《つのはずじゆうにそう》の梅林亭で講習会参加者の懇親会が開かれた。現在の新宿副都心、高層ビルが林立するあたりである。参加者四十数名、片山、田添、森近、幸徳が演説し、福田|英子《ひでこ》が二弦琴をひいて興をそえた。記念撮影がおこなわれた。涼を求めて池で泳ぐもの、滝に打たれるものもあり、午前五時に解散した。
一見和気あいあいの講習会であったが、実際は、片山、田添、西川の社会主義派と、幸徳、堺、山川の無政府主義派の論戦であった。両派の対立はかえってはげしくなった。
もっとも、当時、純粋の無政府主義者といえるのはそのとき入獄中の大杉|栄《さかえ》くらいのものであった。急速に無政府主義に傾いた幸徳は、講習会でクロポトキンの『相互扶助』について論じた。
しかし、幸徳派の堺はエンゲルスの『家族、私有財産及び国家の起源』を講じた。堺は思想的にはマルクス主義者であり、人脈的には幸徳派であった。逆に人脈的に片山派に属していた西川はたぶんに無政府主義的な傾向を持っていた。両派の対立は片山と幸徳の思想的対立を中心として、それぞれの人脈関係をふくむ対立となった。
八月の終わりに片山、田添、西川らが社会主義同志会を結成し、事務所を三崎町三丁目一番地のキングスレー館においた。九月のはじめに幸徳、堺、山川が発起人になり、金曜会を結成した。金曜会は九段下のユニヴァサリスト教会を拠点に、社会主義金曜講演会をおこなった。
金曜会主催の金曜講演会は、十月五日の第五回から場所を三崎町三丁目一番地の貸席吉田屋に移した。吉田屋は一番地通りにあった。
幸徳らは『大阪平民新聞』を改めて自派の機関紙とし、十一月五日付第十一号から『日本平民新聞』と改称した。両派の論争は『社会新聞』と『日本平民新聞』の論争というかたちで、公然化した。
決定的な分裂の引きがねとなったのは、『日本平民新聞』十一月五日付第十一号に掲載された、堺、幸徳連名の「社会新聞と小生等の関係」であった。その内容はこれまでの論争の内容とちがって社会主義運動の理論に関するものでなく、これまでの経過の内幕暴露というかたちで片山、田添、西川の言動を非難したものであった。
これにたいして、『社会新聞』は十一月十七日付第二十五号に、田添鉄二「社会無政府党分裂の経過」、片山潜「自然の結果 幸徳堺両君と予の立場」、西川光二郎「幸徳堺両氏に答え併せて其の弁明を求む」の三編をのせた。
田添の書いたものは「経過」とはいうものの、事実の経過の暴露ではなく、理論的な論争の経過について論じたものであった。片山の書いたのは路線のちがいを理論的に明らかにした内容のものであった。そこには中傷も非難もなかった。
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幸徳堺両兄よ。余は二兄の健在をいのる。予は兄等《けいら》がふたたび万国社会党の旗下にきたるまでは兄等とあい見ざるべし。兄等は社会のためと信ずる所にむかって奮闘せよ。余は兄等と主義手段を異にするも兄等の事業にたいしては何も言わざるべし。主義者として世に立つ人はその信ずる所にむかって進むのほかなかるべし。主義のためには無政府主義者を攻撃批評もすべし。しかれども社会民主党、社会主義協会時代の朋友幸徳堺両兄には満腔の同情を表してその健在をいのる。
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万斛の思いをこめた訣別の辞をもって片山は論文を結んでいた。
田添、片山の書いた内容とまったく対照的なのが西川の文章であった。
西川は堺、幸徳の事実経過の暴露にたいして、事実経過をもって反論した。それは理論対理論という理性の限界を大きく踏みはずしていた。それぞれの主張する事実認識をぶっつけあっての泥仕合であり、感情的な対立であり、人格の傷つけあいであった。
あくまで理論の問題、理性の問題としてことにあたる態度を持ちつづけた片山とちがって、西川が感情に走ったのは『社会新聞』編集の責任者であったという立場にもよる。しかし、より大きな原因は、西川と西川の周辺の吉川守邦らが、自分の思想のなかに無政府主義的な気分をなおつよく持ちつづけていたことであった。
理論をもって堺や幸徳とたいすることは、自分自身の内面の無政府主義的な気分と対決することを意味した。それを避けてとおろうとするかぎり感情的に処理するほかにない。
西川は、堺、幸徳にたいして感情的になったあまり筆にしてはならないことを書いた。三十九年三月十一日、東京市内電車の運賃値上げ反対市民大会が暴動化した事件にからんで、値上げ反対運動を押さえるために幸徳、堺、森近の三人が電車会社から買収された疑いがつよい、と書いたのである。
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これが事実だとすれば両氏が僕を邪魔者にする真相もわかる。僕は電車事件の首魁として裁判されつつある人間である。
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この事件で凶徒|聚集《しゆうしゆう》罪に問われて検挙された日本社会党員は、西川、山口孤剣、樋口伝、深尾|韶《しよう》、斎藤兼次郎、岡千代彦である。斎藤は『社会新聞』の発行名義人である。
西川にこの電車運賃値上げ反対事件にからむ買収うんぬんの記事を書かせたのが、福田狂二であった。福田は、西川グループのなかの無政府主義的な気分をもっとも濃厚にあらわしていた人物であった。
のちに、福田は陸軍|衛戍《えいじゆ》監獄のなかで供述している。
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私ども同志のものが電車運賃値上げに反対し、三十九年に上野、日比谷両公園で四度市民大会を開き、ついに電車焼うち事件になったことはよく知られています。そのとき、私は、他の先輩らといっしょに主働者のなかにいて、ほとんど全力を尽くして主義のために活動しました。
しかるに、その後にいたり、同志である堺、幸徳ら一味の動きがともすれば鈍いのに気がつきました。なにか理由があるかとくわしく調べてみると、かれらは秘密に電車会社から巨万の金を収賄し、そのために値上げ反対の口をとざしたことがわかりました。
いずれ一度はその面皮《めんぴ》をはいでやろうと考えていました。ちょうど、かれらが神田三崎町で社会主義講演会を開き、さかんにその主義の鼓吹をしていましたので、私は壮士を引きつれ乱入妨害して、会の解散を余儀なくさせました。
そのとき、幸徳、宇都宮らは私を殴ろうとして、かえって私および壮士のためにめちゃめちゃに殴られましたので、かれら一味は私を深く憎悪するにいたりました。自分はさらに西川光二郎とはかり、その収賄の事実を『社会新聞』にかかげ、その人名も明記しましたので、さか恨みしたかれらは恨みをはらす機会をまっていました。
そこにたまたま、私が帰営時刻におくれたことから逃亡罪をおかすにいたりましたので、かれらは好機到来とばかりに無根の事実を曲筆して、不敬うんぬんの記事を捏造したのであります。あまつさえ、近衛歩兵第三連隊に属して出征し、三十七年八月に遼陽付近で戦死した私の実兄のことまで、戦時逃亡で長崎に護送されて銃殺の刑に処せられたなどと、虚偽を書いたのであります。
この記事の出所は『二六新聞』記者の宇都宮であります。宇都宮はもとはおなじ主義者ですが、収賄者の一人であります。三崎町で私に殴られ、ある晩壮士を雇い本郷高等師範学校のまえで私を闇討ちしましたが、かえって私の返り討ちにあったことがあります。
かさねがさねの恨みがありますので、その恨みをはらそうとしてでたらめな記事を書いたものであります。
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福田はのちに、「『二六新聞』記者の宇都宮」を「『二六新聞』記者森田、『都新聞』記者宇都宮」と訂正している。「森田」は正確には守田――守田文治――である。福田の供述を取調官が筆記したのであるから、この程度のあて字はあって当然である。
福田の供述の内容にはずいぶん誇張が多い。アナーキーで壮士気分の福田の性行がよく示されている。
福田が神田三崎町の社会主義講演会とのべているのは、四十年十月四日から会場を三崎町の吉田屋に移した金曜講演会のことである。
十月十八日の金曜講演会は帰郷する幸徳の送別会をかねて開かれた。社会主義研究会から片山と田添の二人が参加し、ほかに北|一輝《いつき》も参加して、三人が送別演説をおこなった。
十一月十日に大杉栄が出獄した。その歓迎会は十七日に『社会新聞』編集部で開かれた。遊説旅行中の片山の代理として西川が演説し、歓迎|茶話《さわ》会がおこなわれた。
社会主義研究会と金曜会とは事実上の分裂状態にあったとはいえ、まだ敵対的な関係にはなっていず、人的交流がつづけられていた。出獄した大杉の歓迎会が人的交流の最後であった。
堺と幸徳の連名による「社会新聞と小生等との関係」は、末尾に「(十月二十六日)」の日付がはいっている。幸徳は、翌二十七日、東京を出発し、高知県中村の郷里に転居の旅にでた。大阪に滞在ののち、中村についたのは十一月二十三日である。
『社会新聞』に堺、幸徳らの電車会社からの収賄うんぬんの西川の記事がでたのは、十一月十七日付の第二十五号である。これにたいし、十一月二十二日の金曜講演会終了後、「東京社会主義有志者」の決議がおこなわれた。決議を提案したのは山川、大杉らである。
電車会社による買収などの風説は事実無根で、いたずらに分派問題を私情私怨にほうむるものである。だから、堺、幸徳らは、人身攻撃にたいしてはいっさい弁明をしないように望む。かいつまんでいえば、決議の内容はこのようなものであった。
この決議がおこなわれた十一月二十二日の金曜講演会で堺の演説が妨害された。
『日本平民新聞』には毎回の金曜講演会の記事が掲載されている。金曜講演会に角袖《かくそで》≠ツまり私服刑事が潜入している記事はあるが、講演会が妨害された記事は十一月二十二日の講演会のときだけである。
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当夜は何のためか、壮士|体《てい》の人数名いりこんでいた。堺氏の講演が始まるとだいぶ妨害を試みたるが、決議の時には出ていった。金曜講演に来るやつは片っぱしから暗殺するといい、懐に何か忍ばせているぞという風を見せびらかすので、自分は小心者だけにだいぶこわかった。
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福田のいう金曜講演会への殴りこみはこの記事のほかには該当する事実がない。このとき幸徳はすでに高知県にいる。福田が幸徳を殴る機会はなかった。
この日の講演会は妨害によって流会になっていない。そのあと、山川、大杉らの提案による決議をおこない、ぶじ解散した。
福田はずいぶん大言壮語したものである。福田にできたのはせいぜい堺の講演を野次で妨害した程度のことであった。
大杉は純然たる無政府主義者、思想上のアナーキストである。幸徳は社会主義からアナルコ・サンジカリズムに転向した。堺はマルクス主義的な立場にいたが、無政府主義者との調停論者として幸徳と行動をともにした。
それぞれの思想がもつ政治的な評価は別として、思想的立場を異にする片山に「信ずる所にむかって奮闘せよ」といわせるだけの思想の持主であった。
福田は思想上の社会主義者とも無政府主義者ともいえない。気分的にアナーキーな人物であったといった方が適切である。その本質は、腕力を誇示し、自己顕示欲のさかんな壮士であった。そう考えた方が供述の内容を理解しやすい。
吉田屋の金曜講演会妨害事件から旬日たらずののち、福田は横須賀の重砲兵第二連隊に入営した。兵営から逃亡したときの福田は西川グループに属する社会主義者の隊列のなかにある。
福田は一月二十七日に東京にもどってきた。
そのとき、福田の親友である『社会新聞』社員吉川守邦は『社会新聞』をめぐる紛争の渦中にいた。『社会新聞』社員赤羽巌穴は、一月三十日、発行名義人鈴木楯夫をつうじて片山からの退社命令をうけた。赤羽は主張した。
――表面の口実は社の財政困難にして給料を払えぬという点にあったが、片山氏の真意は、僕の無政府主義的思想を恐れたからである。僕の無政府主義的思想は入社当時にわかっているはず――
それでは、なぜ赤羽は幸徳や堺と行動をともにしなかったのか。無政府主義との絶縁を宣言した『社会新聞』に安閑として残っていた赤羽の節操が問題になる。赤羽の主張は開きなおりである。
『社会新聞』社内の吉川守邦、斎藤兼次郎らは赤羽を支持した。『社会新聞』は、そのころ田添をくわえて、片山、西川、田添の三人によって運営されていた。西川との人的関係から入社した赤羽や吉川と片山との対立は片山と西川との対立に発展した。
田添は片山を支持した。赤羽は田添を、和平温厚の君子人≠ニして尊敬していた。田添が片山を支持したことは決定的であった。
二月十三日、田添の家で片山、西川、田添の会談がおこなわれた。
片山は主張した。
「僕は主義によって動く。主義によって離合する。」
西川は反論した。
「僕はあくまで情によって動く。」
片山は西川の発言を聞いて、もはや二人の関係がぬきさしならぬものになったことを感じた。
――西川とはもう気持ちまでも遠くはなれてしまった。西川は、社会主義勢力を維持するために、直接行動派≠フ無政府主義者との提携を切るつもりがまったくない。西川には、どうしても踏みはずしてはならない社会主義の原則があることがついに理解できなかったようだ――
片山は暗然とした。いまや、片山の同志は病身の田添しかいなかった。
この席で田添は、片山の意見に賛成の意志を明らかにしたほかには、片山と西川の議論に口をださなかった。温厚な田添は、片山と田添が二人がかりで西川を攻撃したような結果になることをきらった。というより、西川にそういう印象をあたえてはならないと思った。
西川は片山に宣言した。
「僕ははじめから、社会主義の運動については議会政策と直接行動の併用論者だ。片山君や田添君は主義主義といって、どんなばあいにも人の感情を無視するのかしらん。それじゃあ、主義がミイラになってしまう。」
西川がいうように、アメリカ生活が長かった片山には日本人ばなれのした合理主義的な性格があった。日本人的なまあまあ主義のなれあいをきらった。対人面でもそうであったが、金銭面でもそうであった。まして、運動の原則にかかわる問題に関しては非妥協的であった。
幸徳と片山とでは人間的にもそりがあわなかった。カリスマ的な文章の力で人を魅する幸徳は、帰国当時は日本語をしゃべるのもうまくなかった片山にたいして、軽蔑の情をかくそうとはしなかった。幸徳は情にもろかった。片山は理性でことを解決する性格であった。
情にもろい幸徳の性格は、よい面では、田中正造が足尾鉱毒事件を天皇に直訴したとき田中にたのまれて直訴状の執筆をひきうけたことにあらわれた。このとき、幸徳は木下|尚江《なおえ》に批判された。幸徳は語った。
「けれど君、多年の苦闘に疲れはてたあの老体を見ては、いやだと言うて振りきることができるか。」
情の人幸徳は、ついに情にひかされてその人生を死刑台でおわることになる。
しかし、明治の日本の社会主義者たちの多くは、なお、組織としてよりも人間関係で結ばれる傾向の方がつよかった。青年たちは片山の合理主義をきらい、幸徳の情に魅力を感じていた。青年たちにとって、片山は冷酷であり、金銭的に吝嗇《りんしよく》な性格にみえた。
いま、片山と西川の決裂も、情において無政府主義者を運動から切るにしのびないという西川の一言で決定した。西川の議会政策・直接行動併用論は理論的な運動論ではなく、感情論であった。片山にそれを受けいれる余地はまったくなかった。
片山は日本の社会主義運動を、たんなるひとにぎりの知識人のサークルから、労働者の運動に脱皮させなければならないと考えていた。
「西川君は情によって主義をまげる。」
片山がこう批判したのは、いまこそ思想上の原則をはっきりさせなければならないと考えたからであった。
――運動の発展に要求されるのは理論を基礎としてきずきあげられた組織であって、情で結ばれた閉鎖的な人間関係ではない――
片山はこの原則に固執した。当然、当時の日本の社会主義者たちの感覚から片山は孤立した。志士気どり、あるいは壮士的気分の若い社会主義者がなお多かった時代である。
二月十六日夜、在京の社会主義同志会員三十名のうち二十五名が本郷|金助《きんすけ》町の西川の家に集まり、片山の除名を決議した。片山は社会主義同志会は東京だけの組織ではないと、全国の会員に自分の主張を訴えた。
『社会新聞』は片山・田添派の機関紙として残り、二月九日付第三十六号から三月十五日付第三十七号に飛んで発行された。西川、赤羽、吉川らは四十一年三月十五日付第一号をもって『東京社会新聞』を創刊した。幸徳・堺派の『大阪平民新聞』改め『日本平民新聞』と、三派の機関紙三紙が鼎立した。
このあいだ、吉川は潜伏中の福田狂二のことをかえりみる余裕はなかった。そのことがかえってさいわいだったかもしれない。社会主義者の動静を監視していた憲兵は、福田に関する情報をまったく手にいれることができなかった。
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十一 芝片門前町
福田狂二は、両国駅から官給品いっさいを連隊に送り返した四十一年一月二十八日、新しい潜伏先を増上寺のすぐまえ、芝区|片門前《かたもんぜん》町二丁目の白田平蔵方に求めた。山口宗太郎と名のっての偽名での間借りであった。
福田と連絡をとっていた吉川守邦が『社会新聞』の分裂騒ぎに追われていたあいだ、吉川との接触も途絶えていた。社会主義者の動きを追って福田の潜伏先をつきとめようという憲兵のもくろみは成功しなかった。
憲兵は神田三崎町かいわいに警戒の網を張っていた。
憲兵の張りこみは福田の逃亡を知らない社会主義者に感づかれてしまった。
山口孤剣の実兄に福田保太郎がいた。福田保太郎は、本籍地を山口県下関市から居住地の神田三崎町三丁目一番地に移し、出版業をいとなんでいた。三崎町に移ったのがいつかわからない。警察資料によると、明治三十八年七月当時の山口孤剣の住所は神田区三崎町三丁目一番地福田方になっている。
福田保太郎は四十二年一月に姫路市に引越すまで、三崎町に住んでいた。保太郎の家が三崎町三丁目一番地のどのあたりにあったのか、よくわからない。たぶん、山口が後見人となった平民舎ミルクホールの近くであったと思われる。
のちに、福田狂二と福田保太郎はいわゆる大陸浪人として親しい関係となった。福田狂二逃亡事件のころこの二人がどの程度親しかったのか、わからない。おたがいに顔を知らぬ仲でなかったことだけはたしかである。
保太郎の弟の山口孤剣と狂二の親友吉川守邦とは、東京市内電車運賃値上げ反対事件の共同被告である。吉川も入営まえの福田狂二も山口の同居先であった福田保太郎の家にしばしば顔をだしていた。保太郎が社会主義者として警察の要視察人の名簿にのせられたのは四十二年六月である。しかし、山口との関係で福田保太郎の家はまえから警察にマークされていた。
四十一年二月も下旬のある夜、福田保太郎は自宅への帰り道で暗がりから声をかけられた。ちょうど小川町と三崎町の境界の南通りを一番地通りにまがる角に、巡査派出所があった。この角から一番地通りにはいったあたりである。
「福田さんですね。」
福田保太郎は立ちどまって声の方をむいた。急に声の調子がかわった。
「福田……、福田狂二だな。」
うむをいわさぬ強圧的な声だった。
――ちくしょう、なまいきな角袖め――
一瞬、福田は思った。しかし、気がついた。
――ドジな角袖め――
福田は教えてやるようにゆっくり答えた。
「福田狂二君は兵隊にとられて、こんなところにいませんよ。」
保太郎は暗がりをすかし見た。いつもの角袖≠ニ調子がちがう。私服ではあるがいやに角ばっている。
――こいつ、兵隊あがりの新いりの角袖か、ドジなくせにやけにいばっていやがる――
そう思ったとたん、思いあたった。
「あなた、憲兵ですか。」
相手は狼狽しながら質問した。
「おまえの名前は、福田……、なんというのか。本籍、住所、年齢、職業は……。」
人ちがいは明らかであった。
「名前ですか。名前は保太郎、本籍と住所は三崎町三丁目一番地、ここですよ。年齢は三十二歳、職業は出版業ですが……。なにか事件でもあったんですか。それとも、私になにかあやしいところでも……。」
こうなったら……、福田は考えた。
――このドジな憲兵からなにか聞きだしてやろう――
「福田狂二君になにかあったんですか。」
相手も落ちつきをとりもどしていた。保太郎には答えずに近づいてしげしげと顔を見た。保太郎も身長が五尺四寸、重砲兵の資格十分の体格であった。まして、下駄ばきで和服のうえに二重まわしという姿では実際よりずっと大きくみえる。
ただ、兵卒福田との決定的なちがいがひとつあった。福田保太郎は鼻下に自前のひげをたくわえていた。吉川らが出入りする三崎町三丁目一番地の福田ということで、憲兵の見こみちがいであった。
憲兵は福田狂二の逃亡事件を警察に通報していない。警察に社会主義者についての情報の提供を依頼しただけであった。警察資料に社会主義者としての福田保太郎の名がなかったことから、早飲みこみしてしまったのである。吉川は福田狂二逃亡のことを誰にも話していなかった。
「よし、このことは誰にもいうな。」
私服憲兵は言いすてて、いかにも憲兵らしい几帳面なまわれ右をして去った。
この話はさっそく福田保太郎から吉川に伝えられた。
後年のことながら、社会主義者から大陸浪人になった福田保太郎は福田狂二と行き来している。福田保太郎が大正二年九月に上海《シヤンハイ》から帰国したとき、在京中に往復があった人名のなかに、福田狂二、吉川守邦、伊藤仁太郎、田中|舎身《しやしん》、内田良平らの名が警察によって記録されている。
伊藤仁太郎とは自由民権の講談師として有名な伊藤|痴遊《ちゆう》のことである。田中舎身の名は弘之である。仏教人で、日清戦争後の普通選挙運動に幸徳、堺、片山らと行動をともにしたこともあった。大正二年には財団法人済生会の副会長、のち右翼団体国粋会の最高顧問。内田良平は、日本政府の大陸政策の謀略機関的役割をはたした有名な黒龍会の創設者である。小泉策太郎、田中義一、宇都宮太郎らの二八会のメンバーでもあった。
福田保太郎から話を聞いた吉川は、いずれ近いうちに潜伏中の福田狂二の身辺に危険がせまるものと判断した。吉川は、福田に一刻も早く東京から脱出して中国に渡るようにすすめる決心をした。
福田とて漫然と東京で日を送っていたわけではない。福田がめざしていたのは上海であった。しかるべき手づるを確保するために東京に潜伏をつづけていたにすぎない。その手はずはまだととのっていなかった。
吉川が福田を芝片門前町の隠れ家にたずねたのは、二月も終わりに近い日の夜であった。片山と西川の会談が決裂し、西川派が『社会新聞』から完全に手を引いたあとのことである。吉川は、西川派の新聞『東京社会新聞』創刊準備で多忙な時間をぬって、福田に会いに行った。
吉川は福田がおかれている情勢を知らせるために、福田保太郎の体験を話した。そのあと、さらにつけくわえた。
「なんでも、君。ほかにも君に人相が似ている同志が、憲兵に尋問されたそうだぞ。憲兵隊は君が東京市内にひそんでいるとにらんで、必死で捜索しているらしい。」
「三崎町付近には近よるべからずということか。」
「君が東京で清国の同志と連絡を直接にとることも、あぶないと思う。清国の同志には金曜会に出入りしているのも多いから、金曜会に君の脱走事件がもれるかもしれん。」
「『社会新聞』が休刊になったことに気がついて、憲兵もなにかさぐりだすかもしれんな。」
「いまのところ、どういうわけか憲兵が君の脱走を秘密にしているので、こうやって偽名で間借りしていてもあやしまれないがね。
金曜会の連中が君のことを知ったら新聞に書きたてるだろう。そうなると憲兵は秘密の捜査ではなく、警察にも協力を求めるにきまっている。警察はいちばんに、あやしい間借り人の身元調べをはじめる。これは憲兵にはできないが警察ならすぐにやれる。
そのまえに君は東京をでるべきだな。」
「憲兵には金曜会もこちらも区別がつかんからな。主義者はみんなおなじとばかりに、金曜会の方にもあたりをつけているかもしれんな。」
「東京をでるのは一日も早い方がいい。僕だって警察に尾行されているかもしれん。警察が君のことを知らんからここに来れるけど、もうあぶなくて今日かぎり君のところには来れまい。上海行きの手はずは大阪か神戸でととのえた方がいい。」
「じゃあ、君の勧告に従うことにしよう。今日はひとつ別杯といくか。」
福田は立ちあがり、押入れのなかからすでに口をあけた一升瓶と、するめを取りだして酒を湯呑についだ。小さな火鉢でするめを焼いた。
「世話になったな。元気でな。」
「上海までぶじをいのるよ。」
二人は乾杯した。
福田は焼けたするめをさいて吉川にすすめた。
「出雲のするめだ。僕の郷里のするめはうまい。これが食いおさめになりそうだな。」
ぐっと一息に酒を飲んで、福田は語りはじめた。
「僕は今度逃亡してからはじめて軍隊の法律を調べてみた。もし捕まったときに逃亡罪より重い罪をかぶせられないようにね。調べてみたら、君、軍隊の法律って常識はずれのばかばかしいものだね。」
福田がいう軍隊の法律とは陸軍刑法のことである。当時ちょうど、陸軍刑法改正案を帝国議会が審議中であった。新陸軍刑法は四十一年三月二十四日成立、四月十日公布、十月一日施行となる。一月に逃亡した福田に適用されるのは旧陸軍刑法である。
一般の刑事訴訟法に相当する法律も当時は陸軍|治罪《ちざい》法である。陸軍軍法会議法が制定されるのは大正十年である。
「なにが常識はずれなんだね。」
「たとえばだね。徴兵忌避で逃げるより、いったん兵隊にとられてから逃げた方がうんと得だね。」
「そりゃ、どういうことだい。」
「徴兵忌避で兵隊にとられるまえに逃げるとね、だいたい二十年を逃げ歩かなければならない。現役、予備役、後備役の合計が十七年四カ月だ。このあいだは徴集義務がつづいているから犯罪もつづいているというわけだ。
ふつうの入営日、つまり二十一の歳の十二月一日からかぞえて十七年四カ月たってやっと徴集義務がなくなり、犯罪がおわったことになる。徴兵忌避罪は一カ月以上一年以下の重禁錮だから、時効は犯罪が終わったときから三年だ。あわせて二十年四カ月たたなければ時効にならない。
なんと、四十二歳の春まで逃げのびなければ監獄行きをまぬかれないというわけだ。」
「しかし、確実に二年か三年、兵隊にとられることを考えれば一年以下の重禁錮の方がましじゃないのかな。」
「そうはいかないさ。十七年四カ月以内に捕まったとするね。禁錮刑を終わってもまだ十七年四カ月たっていなければ、改めて何年間か兵隊にとられて新兵からやりなおしというわけさ。
まあ、十七年四カ月以上逃げのびれば御褒美に兵隊にとることだけは勘弁してくれるがね。一生を棒に振らなきゃならんというわけだ。」
福田は自分の湯呑に酒を新しくつぎ、酒瓶を吉川に渡した。
「適当にやってくれたまえ。」
「ああ、いいとも。で……、なんで逃亡の方が得なんだね。」
吉川は酒をつぎながらたずねた。
「君。入営してからの逃亡は二カ月以上一年以下の重禁錮だ。入営してから三カ月以内の新兵、つまり僕のばあいは罪一等を減ずというきまりになっている。刑期は四分の三にへらされる。徴兵忌避罪だと最大一年の重禁錮だが、新兵の逃亡罪は最大九カ月の重禁錮だ。罪が軽いだけでも得だ。
逃亡罪は六日以内に帰営しなければ自動的に成立する。だから本人が捕まらなくても、欠席裁判で軍法会議が判決をくだせるようになっている。
欠席裁判の判決は公示と被告人の住所への送達だけで、本人が受け取らなくとも確定する。本人は行方不明でも手続だけはすんでしまう。」
吉川には、福田がなにを言おうとしているのか、よく飲みこめなかった。
「それは逃亡の損得の問題と、どういう関係があるんだね。」
「大ありなのさ。期満免除という制度があってね。つまり、刑が確定したあとの時効みたいなものさ。禁錮罰金の刑のばあいは七年で期満免除ときめられている。
逃亡罪なら七年逃げきれば監獄に行かなくてよくなるというわけさ。もっとも逃亡中と禁錮中の期間は兵役に服した期間に計算されないから、七年後に姿をあらわせば残りの期間を兵隊勤めしなけりゃならんがね。」
「なあんだ。結局、兵隊勤めからは逃げられないんじゃ、どちらにしてもおなじじゃないか。」
「ちがうよ。僕のようにすでに逃亡兵の身分になってしまうとね、君。七年逃げれば監獄に行かずにすむと思えばかなり気が楽だ。徴兵忌避でこれから二十年も監獄の恐怖に追われながら逃げて歩くなんて、想像するだけでもぞっとする。人生の盛りをむだにしなきゃならないからね。七年くらいなら、清国に行ってひと暴れしているうちにすぐたってしまうさ。」
当時は国外にいた期間を期満免除の期間にかぞえないという規定はなかった。
「ふうん、それで七年たってから帰ってきてまた兵隊をやるのかね。」
「そのときはそのときだ。しかし、そうなればいまのように新兵いじめされるようなことはないだろうな。期満免除でもどった逃亡兵の兵隊勤めなら、上官も古兵もお客さまあつかいで大事にしてくれるだろうよ。いうならば昔の牢名主《ろうなぬし》待遇だね。」
吉川はふと気がついたように話題をかえた。
「徴兵忌避といえば、君は荒畑寒村君の話は知らないだろうな。君とおなじ十二月一日が入営日だったんだから。」
「寒村君はたしか海軍だったはずだが……。」
「そうだ。寒村君は、徴兵検査のとき、徴兵官がいばりくさっているのに腹がたち、つい僕は社会主義者だ≠ニ言ってしまったそうだ。徴兵官はかんかんに怒って、自分から社会主義者だと名のるやつは、みせしめのために現役期間がいちばんながい海軍にやってやる、と宣告したそうだ。
歩兵の二年にくらべて海軍は四年だ。寒村君は後悔したが追いつかない。そこで、いちかばちかで、十二月一日の横須賀海兵団入団の日の身体検査のときカンフルを注射して行ったそうだ。動悸が異常になるようにとね。」
「やることがむちゃだよ、そんなの。すぐばれてしまう。」
さすがの福田もあきれた。
「それがうまくいったのさ。陸軍の軍医だと、徴兵忌避対策として偽病を見やぶる技術をたたきこまれているから、こんなことではごまかせない。
ところが海軍ときたら志願兵が多くて徴兵は少ない。徴兵でも海軍を志望したものがほとんどだ。まさか海軍に寒村君のような徴兵忌避者がくるとは、海軍の軍医は夢にも考えていなかったんだな。
寒村君の胸に聴診器を宛ててみただけでおどろいて、寒村君を疑うまえに陸軍の軍医を疑ったんだね。陸軍のやつ、こんな病人を海軍にまわしてよこしやがって≠ニ、寒村君のまえで大声でどなったそうだ。
それで、寒村君はひや汗をかいたが、首尾よく兵役免除の即日帰郷というわけだ。
人間、なんで得をするかわからない。寒村君は社会主義者だと名のって陸軍の徴兵官を怒らせたばかりに海軍にまわされ、陸軍ならすぐに見やぶられる偽病でうまく兵役免除になることができたというわけだ。」
「それにしても、ずいぶんあぶない橋を渡ったもんだね。」
瓶の酒はまだだいぶ残っていた。二人はそれぞれ独酌でちびちびやりながら、しゃべりあった。
酒はほどよくまわり、なごりは尽きなかった。小さな火鉢だけの室内は寒かったが、若い二人には酒だけで十分だった。焼いたするめのにおいが心をゆたかにした。とくに福田にとっては、兵営のなかでは味わうことができない情感であった。
「僕はね。」
福田が話をつづけた。
「軍隊ってところは、軍服の方が人間よりえらいんだってことを思い知らされたよ。それを知ったら、ばかばかしくって。君、兵隊にだけはなるもんじゃないね。」
「軍隊じゃ、なかみの人間より軍服の肩の階級章の方がはばをきかすことくらい、僕でも知っているけど……。」
「そういうこととは、まるでちがうんだ。僕は陸軍刑法というやつを読んでみて、その非常識にあきれたよ。
兵営から脱走してお仕着せの軍服をどこかに捨てたとする。逃げるとなればまず軍服を脱がなきゃすぐ見つかってしまうからね。そのあと、脱走兵が捕まって兵営に連れもどされるとするね。
脱走してから六日以内に捕まって連れもどされれば、逃亡罪にはならないんだ。まあ、懲罰ということで何日間かの重営倉入りということになる。せまい営倉の独房に入れられて飯と塩と水だけで生きていかなければならんがね。
人間が脱走した方の罰はそれですむ。ところが営倉からだされたあとに、待っているのが軍服を脱走させた罪だよ。軍用物棄毀罪というのがあるんだね。こいつがなんと一カ月以上四年以下の重禁錮なんだ。
君、軍服を逃亡させた罪は最大四年の重禁錮。軍服のなかみの人間は六日間以上逃亡してやっと最大一年の重禁錮だ。ばかばかしくて話にならんよ。だから、僕が逃げたときに身につけていたものは私物の褌《ふんどし》のほか、官物は全部傷がつかないように丁重に荷造りして連隊に送り返したよ。」
吉川は吹きだした。福田の話しぶりが大まじめだったからである。
「そりゃあたりまえだよ。軍服は紳士閥が払った貴い税金で買い入れた貴重品だ。軍服のなかみにつめる人間なんざ、そこらあたりの貧民をただで引張ってくりゃいくらでもかわりはある。」
「おい、貧民だって近ごろは払いきれないほどの税金をとられているんだぞ。」
福田は異議を申し立てた。
日露戦争中かぎりという約束で新設された多くの種類の間接税は戦後も廃止されず、軍備拡張の財源とされていた。それが物価高の原因となってとくに都市貧民の生活を苦しめ、戦後の大きな社会問題のひとつとなっていた。
「おっと失礼。しかし、その貧民から巻きあげた税金を自分のものだとばかりに、使い道を勝手にきめているのは政府と紳士閥の議会だからな。おなじことだよ。いや、税金をとられっぱなしの貧民こそいいつらの皮さ。自分たちが巻きあげられた税金でふやした軍隊に自分たちが兵隊にとられて痛めつけられる、それがいまの世の中さ。」
「それなら、そんな紳士閥の食いものになっている政府も議会もつぶしてしまえと、言いたくなる。」
福田が口をはさんだ。
吉川は応じた。
「そりゃ大杉君の持論だね。ところが、片山さんはだから貧民にも選挙権をあたえろとおっしゃる。」
「どちらにも一理があるから仲よくやっていこうというのが、西川さんや吉川君の立場だというわけか。」
「しかし、片山さんは社会主義と無政府主義とはまったくちがう、絶対にいっしょにはやっていけないとがんばっている。」
「もっとも分派論を主張したのは、幸徳さんや山川君の方が先じゃなかったかな。」
「いっしょにやろうといっても、幸徳さんについた堺さんと、このまえまで片山さんといっしょだった西川さんは、これまた意見がちがう。
堺さんは階級闘争優先論で議会政策を問題にしない。だから幸徳さんについた。西川さんは議会政策と直接行動の併用論だ。だから片山さんと幸徳さんのあいだをとりもとうとした。
ただ、堺さんの階級闘争優先論と幸徳さんの直接行動論は、だいぶちがうような気がする。西川さんのいう直接行動はどっちかといえば幸徳さんの考えに近そうだ。
片山さんも階級闘争に賛成だし、堺さんの階級闘争優先論と片山さんの議会政策論は議会政策を認めるかどうかのちがいで、堺さんの考えは幸徳さんより片山さんに近そうな気がする。」
「どうも、えらい先生たちの主義主張のちがいはよくわからん。僕たちはアメリカにもドイツにも行ったことがないし、社会主義研究会の講演を聞いていてもあちらのえらい主義者の名前がしきりにでてきて、誰が誰だかわからんというのが正直なところだな。
わかったのは、片山さんがとにかく万国社会党の旗のもとに団結しようと、いつもくり返すことだけだね。あの先生は人間も頑固だけど、万国社会党一本槍の頑固さにはちょっとまいるな。」
「君のような血の気が多いのは、そんなまわりくどい議論よりいまの日本で何をすりゃいいんだ、と言いたいんだろう。」
「日本より清国の方が革命が近いぞ。僕は清国の革命でひと暴れしてくる。あそこには議会なんかないから、議会政策か直接行動かなんていう頭の痛くなりそうな議論はないし、とにかく腕力で専制政府を倒すだけだからな。議論より革命の実行の方が僕にはむいている。」
「とにかく、うまく清国にたどりつくことをいのるよ。」
「なあに、うまくやるさ。」
これをしおに吉川は立ちあがった。
「それでは、これで当分会えないな。」
そういって吉川が差しだした手を福田はにぎった。
吉川が去ったあと、福田は残った酒をあおりながらひとしきり考えていた。東京からどうやって脱出するか、それがいま、いちばんさし迫ったもっとも困難な問題であった。
――市内の駅には憲兵が張りこんでいるはずだ――
新橋駅も品川駅も危険であった。
――憲兵に気づかれずにうまく汽車に乗ることができれば、あとはなんとかなるだろう――
福田は市外まで歩くことにきめた。問題はいつ行動を開始するかであった。郷里に行くときには警戒のすきができる日の計算ができたが、今度はまったく計算がたたなかった。早いにこしたことはないが、慎重でなければならなかった。結論はなかなかでなかった。
三月一日の『東京二六新聞』を見て、福田は飛びあがるほどおどろいた。
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驚くべき脱走兵……一個連隊震駭す……
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昨年十二月一日横須賀要塞砲兵に入営せし福田狂次(二十二)なる者あり。相当に教育もありて松本|道別《どうべつ》等ともまじわり、神田三崎町の社会主義研究会にも出入しおり、入営前より人にむかい一週間ならずして脱営して帰るべしと言いおりしが、果然、去月七日ごろ営舎の壁に驚くべき不敬の文字を羅列し、その下に自署して行方不明となりしより、同人所属の小隊にてはおおいに驚き、連隊長にこの由を上申せしが、この文字を一読せし小隊附将校はいうまでもなく、連隊長にいたるまで兵士等に秘密になしおれるが、一方脱営せし前記福田は憲兵隊の大捜索にもかかわらず今日まで行方不明なれば、あるいは自殺せしにあらずやという説あり。
[#ここで字下げ終わり]
新聞は福田の逃亡事件をすっぱぬいていた。しかも、あること、ないことをこきまぜてスキャンダラスな記事に仕立てあげている。すっぱぬいた『東京二六新聞』には、福田にたいして悪意をもっている金曜会の守田文治が記者として勤めていた。
吉川が心配していたことが早くも事実となってあらわれた。新聞がすっぱぬいた以上、憲兵隊は、秘密捜査から警察の協力をえての大がかりな捜査に切りかえるにちがいなかった。もはや一刻の猶予もならなかった。
三月二日朝早く、福田はちょっと近所まで散歩にでもでかけるような姿で借間をでた。荷物は小さな手提げだけ、ほかのものは全部残しておいた。室内はすぐに帰ってくるようにみえる状態のままにしておいた。
なるべくゆっくりと歩き、道を二本榎《にほんえのき》の方向にたどった。品川駅を大きく西に迂回し、五反田をへて中延《なかのぶ》で道を左にまがり、大森駅にむかった。さいわいに、途中であやしまれた気配はなかった。
この日、福田は大森駅からぶじに下りの汽車に乗ることに成功した。あっけないほどに簡単であった。
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十二 大久保射撃場
春めいてきた早朝、猪熊《いのくま》中尉は起きたものの、からだ中から倦怠感がぬけていなかった。昨日も夕刻から微熱があったようである。春さきの風邪にでもやられたのであろうか。このところただでさえ体調がすぐれないのに、いやな感じであった。
朝食もすすまなかった。できれば今日は一日休みたかった。だが、そうは言っておれなかった。猪熊は中隊長代理である。それに中隊の三年兵二年兵教育掛も兼ねていた。中隊の将校が一人欠員になっているところに猪熊が休めば中隊の機能は麻痺する。猪熊は気力を振い起こして出勤した。
四十一年三月三日、猪熊中隊が属する第二大隊は三年兵、二年兵の実弾射撃演習を予定していた。実弾射撃場は豊多摩郡大久保村にあった。射撃場を確保するために昨夜から先発隊が泊りこんでいた。猪熊中隊だけが演習を中止するわけにはいかなかった。
猪熊中隊長代理は三年兵、二年兵の射撃演習にとくに力をそそいでいた。猪熊は宇都宮連隊長の着任の訓示を感銘深く聞いた。猪熊の日露戦争での戦場の体験は、宇都宮連隊長が言ったとおり、戦闘の勝敗を決するものが射撃であることを裏書きしていた。
射撃は冷静を必要とした。流血の戦場で冷静をたもつ最大の秘訣は戦場に慣れることであった。しかし、戦場に慣れることは戦場を経験しなければできない。それは平時に求めるべくもない。平時に可能であり、必要であるのは訓練であった。
射撃はなによりも姿勢である。常におなじ射撃姿勢がとれるようになれば正確で早く射撃できるようになる。正確な射撃姿勢を習慣づける訓練をしておけば、戦場での興奮や恐怖にうち勝って自然に正確な射撃姿勢をとるようになる。射撃は一にも二にも訓練であった。
宇都宮連隊長の着任以後、猪熊が射撃演習にそそぐ情熱はいっそう高まった。北川中隊長が病気休職となり猪熊が中隊長代理を兼ねるようになると、猪熊は中隊の教育目標の重点を射撃においた。
宇都宮連隊長が超群♀を制定したとき、猪熊の野心は超群♀獲得にむけられた。猪熊は兵卒たちに宣言した。
――連隊最初の超群♀授与中隊の栄光を、わが第五中隊が獲得する――
この宣言を猪熊の若さが言わせたことは否定できない。しかし、若さのせいだけではなかった。猪熊のまぶたに、あの二〇三高地をいったん占領したとき、夜に入ってからのロシア軍の猛烈な逆襲の光景が焼きついていた。
津波のように押し寄せてくるロシア軍の巨大な黒い影は、無限の兵力を思わせた。火災の焔を反射した敵の銃剣の赤いきらめきが、頂上への突撃でわずかに生き残った兵卒たちの恐怖心をかきたてた。身を隠す地物もない山上で兵卒たちは首をすくめて乱射乱撃した。銃口は空をむき、弾丸はロシア軍の隊列のはるか頭上を飛んでいった。
ロシア軍はわが部隊の射撃にほとんど損害をだすことなく、銃剣突撃をしてきた。その結果、衆寡敵せずわが軍は壊滅的な損害を受け、多くの戦死者をだし、傷ついた戦友を見捨てたまま退却しなければならなかった。悲惨な光景であった。
猪熊は兵卒たちを二度とあんな悲惨な目にあわせたくなかった。
――戦場で自分の血を流したくなかったら、練兵場で汗を流せ――
この言葉が猪熊の口ぐせとなった。
しかし、兵卒たちは猪熊中隊長代理とはまったく別のことを考えていた。兵卒たちにとって軍隊生活は強制された義務でしかなかった。いずれ近いうちにまた戦争があり自分たちが戦場に送りこまれるなどとは、考えてみたくもなかった。
強制されたにすぎない軍隊生活では、いかに要領よく楽をして除隊の日を指折りかぞえて待つか、兵卒たちの関心はただその一点に集中していた。
――ひとォつ、軍人は要領をもって本分とすべし――
なにかにつけて兵卒たちが仲間うちで口にする言葉は、軍人勅諭をもじったこの言葉であった。
猪熊中尉が中隊長代理となって以来、猪熊と兵卒たちとの感情はまったく通じなくなっていた。北川中隊長には戦時中に召集された補充兵をみずから教育し、かれらをひきいて戦場に馳せ参じた経験があった。その経験が北川中隊長を老練な教育者に仕立てあげた。北川中隊長は兵卒たちの心理をうまくつかみ、緩急自在に兵卒たちを統御した。その呼吸が猪熊にはわからなかった。猪熊の兵卒教育はただきびしいだけであった。
猪熊は健康がすぐれぬようになるにつれて、いらいらするようになり不機嫌になった。猪熊はある日、不機嫌を爆発させ、突如として狂暴な感情におそわれ、訓練に熱のない二年兵の一人を指揮刀で殴りつけた。兵卒たちの不満は高じた。
古兵たちは、猪熊中隊長代理の兵卒にたいする扱いが厳酷に失することを、まず中隊人事掛の中楯理重《なかだてまさしげ》特務曹長に訴えた。軍隊内務書が公認していた行為であった。
しかし、年の功を積んでいる中楯特務曹長は兵卒たちをなだめ、我慢するように説得した。
――三年兵も二年兵もこの十一月二十六日までの辛抱じゃないか。我慢せえ。事をおもて沙汰にすれば、傷つくのはいつも兵卒の方だ。軍隊というところはそういうところなのだ――
中楯特務曹長は、このことを猪熊中隊長代理には内密に、中隊附の伊田常三郎中尉に報告し処置について相談した。伊田中尉は猪熊中尉の二年後輩である。もちろん、戦場の体験はない。二人の貫禄のちがいは決定的であった。
「猪熊中尉殿には猪熊中尉殿の方針がある。われわれの口をだすべきことではない。」
将校である伊田中尉にそういわれれば、特務曹長たるもの口を閉じるほかなかった。
兵卒たちの不満は無視され、猪熊中尉の耳に達しなかった。
古兵たちは中隊内部では問題が解決しないことをさとった。
一月二十六日、第四師団から新設の第十六師団に所属がえになる予定の京都の歩兵第三十八連隊で、兵卒たちの集団脱営事件が起こった。旭川の砲兵連隊の集団脱営事件につづく事件であった。
歩兵第三十八連隊は京都市郊外の深草《ふかくさ》にあった。伏見稲荷のすぐ南、伏見につうずる街道の東側である。街道の西側、現在の龍谷《りゆうこく》大学の位置に練兵場があった。街道に平行して練兵場跡の東側を走る道路を地元ではいまでも師団通りと呼んでいる。
歩兵第三十八連隊第三中隊の三十八年入営兵十九名は、中隊長代理の阿津川|貞才《さだとし》中尉と中隊附の森川曹長の冷酷な扱いに抗議して、一月二十六日の日曜外出から帰営しなかった。かれらは京都市中を徘徊して集団脱営をおもて沙汰にした。事件をおもて沙汰にすることによって、問題が秘密のうちに処理されることを防ごうとしたのである。
集団脱営兵たちは、翌日、先斗町《ぽんとちよう》および北野天満宮付近で全員逮捕された。市中デモの目的は達したが、せいぜい新聞に書かれただけで事態の改善の役にはたたなかった。実質的に罰せられたのは兵卒たちだけであった。事を起こせば傷つくのは兵卒だけという中楯特務曹長の説得も一理あった。
猪熊中隊の古兵たちは旭川や京都とはちがった報復の方法を考えはじめた。もっと効果的な方法はないか、三年兵の一部のあいだで相談がおこなわれた。ことは秘密を要した。計画は、高等小学校を卒業して学のある岩崎亀太郎一等卒、東京市内の地理にくわしい銀木《しろき》福太郎一等卒、こういうことに知恵がまわる宮下秀太郎一等卒の三人に一任された。
猪熊中尉は、古年兵たちのあいだにそのような険悪な空気がみなぎっているとは、夢にも思っていなかった。
三月三日朝、猪熊中尉は三年兵と二年兵を引率して、予定どおり大久保射撃場にむかった。
現在の国電山手線――山の手線の名称から「の」が消されたのは最近である――の高田馬場から新大久保までの両側は陸軍の演習場であった。戸山ヶ原という。夏目漱石は『三四郎』のなかで戸山の原≠ニ呼んでいる。近くの牛込|喜久井《きくい》町そだちの漱石がそう呼んでいるので、あるいは地元では戸山の原≠ニ言いならわしていたのかもしれない。
その東南の一画つまり山手線の内側に射撃場があった。のちに新しく改築されたが、古くからの射撃場の土手も敗戦後しばらくは残っていた。射撃場の所在地が大久保村なので大久保射撃場といい、戸山ヶ原の一画にあることから戸山射撃場とも呼ばれた。
射撃場は三方をたかい土手にかこまれている。射弾が場外に飛びだすのを防ぐためである。正面の的を設置する側の土手を射《しや》|※[#「土+朶」、unicode579c]《だ》といい、ひときわたかい。
※[#「土+朶」、unicode579c]はあずち≠ツまり矢の的をかける場所の意味である。織田信長が城をきずいた安土の地名もこの※[#「土+朶」、unicode579c]に由来するという。
射※[#「土+朶」、unicode579c]の下に射弾が的に命中したかどうかを観測するための壕が掘られている。この壕を監的壕《かんてきごう》という。
標的監守と呼ばれる観測者は監的壕のなかにひそんでいて、先端に小円盤のついた竿をかかげて射撃手に弾着点を示す。円盤は白で中央に黒円がえがかれている。この竿を治痕桿《ちこんかん》という。射弾が標的圏外にはずれたときには、治痕桿は大きく左右に振られる。
射撃位置はふつう的から三百メートルである。射撃姿勢はこれもふつうのばあい伏射である。
大久保射撃場は在京各部隊の共同施設であった。利用するのは大部分が歩兵連隊であった。実弾射撃の演習用の弾丸は、日露戦争中に生産されたものが大量に残っていたので、たりないということがなかった。
弾薬庫は各連隊にもあった。しかし、大量の備蓄品は小石川の大塚弾薬庫、つまり現在のお茶の水女子大学から筑波大学付属中学・高校にかけての場所に収蔵されていた。
訓練の最重点を射撃においていた歩兵第一連隊は射撃演習をおこなうとき、射撃場を独占して他の連隊を割りこませないようにし、能率をあげようとした。演習部隊は先発隊を演習前夜から射撃場に泊りこませ、監的壕を占領して夜を明かすという慣習になった。三月三日の第五中隊の射撃演習のときも例外ではなかった。
猪熊中尉が中隊の古兵たちを引率して射撃場についたとき、射撃場は昨夜からの先発隊が泊りこみで場所を確保していた。
「ご苦労だったな。」
猪熊中尉は出迎えた先発隊にねぎらいの言葉をかけた。こういうところが猪熊らしかった。猪熊は心から兵卒をねぎらった。しかし、その気持ちは兵卒にまるで通じなかった。
猪熊が言葉だけでなく、泊りこみの先発隊の兵卒たちのために甘いものでも準備していたら、兵卒たちに猪熊の気持ちが通じたかもしれない。しかし、猪熊はそういうことにまったく無頓着であった。
戦場生活が長かった猪熊は塹壕《ざんごう》生活に慣れていた。一晩や二晩の壕内での露営など猪熊にとっては日常事であった。しかし、兵卒たちはちがった。兵卒たちは、野営演習以外には塹壕生活の経験を持たなかった。
先発隊はまえの晩から監的壕のなかで夜を明かした。つめたい壕内で霜や露に身をさらしたまま着のみ着のままで毛布一枚をかぶって明かす夜は、なんとも意味のない一夜であった。寒い夜を野外ですごして握飯と水筒のつめたい水で朝飯をしたあとにあたえられたのが言葉だけのねぎらいでは、満足しなかった。
――うちの中隊長は、しぼるばかりで気がきかねえ――
そういう愚痴のひとつもこぼしたくなる。その不満は猪熊中隊長代理にむけられた。兵卒たちに猪熊の戦場体験は無縁であった。
だいたい、戦時下の軍隊についての経験と感覚とが三十八年入営の三年兵と猪熊中尉とではまったくちがっていた。猪熊中尉にとって不幸であったのは、戦争中、入院するほどの負傷も病気も経験しなかったことであった。
入院、後送されたものは、退院後、しばらくは補充隊附とされ体力の回復を待つ。猪熊にはその経験がない。戦時中の留守部隊、つまり補充隊の生活を知る機会がなかった。
三十八年入営兵は補充隊に入営し、当時の陸軍の言葉でいえば生兵《せいへい》、現代ふうにいえばルーキーの時期を補充隊ですごした。補充隊の将校、下士、古兵は、召集の年配者で軍隊生活からはなれて久しいもの、退院したものの通院治療中のもの、まだ訓練に復帰するほどには体力が回復していないもの、そういう連中ばかりであった。
紀律はルーズであり訓練もいい加減であった。三十八年入営兵つまり三年兵は、これが軍隊生活だという感覚を入営当時に身につけてしまっていた。
三年兵と猪熊中尉とのあいだには、「戦時下の軍隊」という言葉ひとつをとってみても、この言葉が意味する内容はそれぞれにとってまったく異質であった。猪熊が軍隊教育に打ちこめば打ちこむほど三年兵の心は猪熊からはなれた。
三日の午前中の射撃の成績はとくにひどかった。三年兵たちの多くが射撃するたびに治痕桿が大きく振られた。兵卒たちにやる気がないのであるから当然であった。猪熊の不機嫌はつのった。
猪熊は治痕桿が振られた兵卒たちにたいして、猪熊が「よし」というまで据銃《きよじゆう》演習を命じた。それも着剣据銃演習であった。据銃演習を命じられた兵卒たちのなかには昼食時間をあたえられなかったものもあった。
午後になると兵卒たちの無言の抵抗はますますはげしくなった。わざと標的をはずして射撃しているのではないかとさえ疑われた。体調がわるく気持ちが高ぶっていた猪熊の感情はついに爆発した。
五発の射弾全部に治痕桿が振られた兵卒がでたとき、猪熊はその兵卒が立ちあがったとたんに殴りつけていた。殴られた兵卒は無言で猪熊を見かえした。猪熊はわれを忘れた。猪熊は足をあげた。猪熊に蹴られた兵卒はその場に倒れた。
そこは兵営内ではなかった。戸山ヶ原は子供たちのよい遊び場所であった。射撃場の周囲には演習中危険をしめす赤旗が立てられ、関係者以外の立入りを禁じていたが、それでも猪熊の振舞いはいわゆる地方人≠ノ見られた。それは兵卒たちの屈辱感をいっそうつよめた。
猪熊中隊の演習が終わったのは、すでに第二大隊の他中隊が帰営の途についてから、だいぶ時間がたったのちであった。猪熊は整列した演習部隊に命じた。
「演習部隊は、山岸伍長の引率のもとに、全員|駈歩《かけあし》にて三十分以内に帰営すべし。落伍は絶対に許さん。落伍者をだしたばあいは全員の責任とする。」
命令を受けた山岸弁次郎伍長の顔は青ざめた。
大久保射撃場から赤坂檜町までの道は、陸軍戸山学校の西側の角をまわり、砂利場《じやりば》をとおって大久保街道にはいり、久左衛門《きゆうざえもん》坂をのぼって東大久保の抜け弁天《べんてん》から市ヶ谷谷町に抜け、荒木町をへて四谷塩町にでるのが一番の近道である。あとは、塩町から信濃町、青山一丁目、檜町とほぼ一筋道である。距離は六キロ近くある。
前夜から壕内で露営して寝不足の兵もいた。据銃演習の強制で昼食ぬきの兵もいた。それでなくても一日の演習で兵卒たちは疲れていた。射撃場を出発した時間がすでに午後六時半ごろであった。全員が空腹であった。
兵卒は手ぶらではない。全員が武装し重い銃を担っていた。兵卒たちは列をみださずに駈歩行軍し、坂道のある六キロ近い距離を約三十分で走らされた。きびしい駈歩行軍であった。それでも一人の落伍者もださずに全員そろって帰営し、解散したのは午後七時ごろであった。
猪熊は大久保駅から電車に乗った。旧甲武鉄道は鉄道国有化によって三十九年十月に鉄道庁の経営に移り、中央線と名を改めた。中央線信濃町駅で電車をおりて信濃町から蛇が池まで市内電車に乗った。
以上が東京憲兵隊長の三月五日付の調査報告書から復元した、三月三日の猪熊中隊の射撃演習のもようである。
おなじ報告書でも、連隊が提出した三月五日付の報告書と内容はかなりちがっている。
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中隊長代理歩兵中尉猪熊敬一郎の平素における厳重なる措置にたいし、二、三年兵中しかも多少戦役中の生活に近き状態に浸染したる者は、やや不快の感をいだき、時ありては中隊附士官もしくは特務曹長に申しでたるものありしも、つねに不心得なきよう懇諭せられ、事なく経過しいたりしも、さる三日、戸山射撃場における教練射撃の成績不良なりしをもって、猪熊中尉はさらに据銃演習を命じ、厳格にこれを施行し、かつ同所より帰営の際、しばしば駈歩をなさしめ帰営したり。
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連隊側の報告書の基調はその後もかわっていない。関係兵卒たちの取調書である三月七日付の歩兵第一連隊第一大隊長福田栄太郎少佐の報告書の内容も、ほぼ同様である。この日の事件に連隊幹部の責任問題がからむことを避けるための、配慮がはたらいている。
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第五中隊長北川順蔵代理歩兵中尉猪熊敬一郎は、平素の教育法は熱心かつ厳格なり。しかるにこの厳格なる結果は、同中隊の二、三年兵をして、ややもすれば不平不満をいだかしめたるがごとし。あたかも三月三日、同中隊二、三年兵の教練射撃を大久保射撃場においておこなうや、当時二、三年兵教育掛なるをもって該射撃を実施せり。しかるに、由来、同中隊の射撃成績不良なるのみならず、当日の射撃もまたはなはだ不良なりしをもって、同中尉はいよいよ厳格に据銃演習をおこない、最後他中隊の射撃結了に遅れて駈歩行軍にて帰営せり。
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憲兵隊長の調査報告の重点は、三日当日の猪熊中尉の兵卒にたいする暴力行為と、着剣据銃演習、落伍を許さない駈歩行軍など、限度を越えた苦役におかれている。これにたいし連隊側の報告書は二通とも、平素の猪熊中尉の訓練のきびしさにたいする兵卒の不満に重点をおいている。三日当日については、厳格な据銃演習、形容詞ぬきの駈歩行軍として、簡単にふれられているにすぎない。
平素からの猪熊中尉の厳酷さにたいする兵卒の不満はすでに限界に達していた。しかし、三日の射撃演習事件は兵卒たちの我慢の限界を越えた。この日の事件に連隊が深く立ちいらなかったのは、それなりの理由あってのことであった。
平素の演習がきびしいのは違法ではない。厳格な据銃演習も苛酷なほどの駈歩行軍も違法ではない。ただ苛酷すぎる駈歩行軍によって死亡者などの事故を生んだ場合はその責任が問題になるが、そんなことがなければ問題は生じない。
兵卒たちがきびしい訓練に不満を持ち違法行為に走ったとすれば、その責任はすべて兵卒たちに帰せられる。上官の責任はせいぜい職務熱心のあまりの行きすぎというかたちで処理され、形式的な懲戒処分を受ける程度である。
しかし、憲兵隊長の報告書に記載された猪熊中尉の暴力行為が事実であれば、猪熊中尉の行為は明らかな犯罪である。据銃演習も度をすごした着剣据銃演習となれば、教練の域を逸脱した拷問である。まして、憲兵隊長の報告書にあるような駈歩行軍は体力の限界をこえた陵虐《りようぎやく》である。
中隊長代理の職権を利用してこのようなことがおこなわれ、それがおもて沙汰になったとすればただではすまない。事件は兵営外の一般市民が見ている場所で起こった。それだけでなく報告書作成の段階では事件はさらに大事件に発展し、もはやもみ消しがきかない状態になっていた。
当時の陸軍刑法では軍務に従事中の下級者にたいする暴行罪は三カ月以上四年以下の軽禁錮である。職権を利用しての陵虐罪は一カ月以上二年以下の軽禁錮である。いずれにしても猪熊中尉は軍法会議をまぬかれないことになる。
中隊長代理が軍務の執行にあたって軍紀上の犯罪をおかしたとなれば、その直属上官もただではすまない。大隊長、連隊長は少なくも停職処分の上、へたをすれば待命ののち予備役編入かうまくいっても左遷の転任である。
連隊側の報告書には、このような責任を回避するための打算がはたらいていたと考えられる。
ふつうの据銃演習と着剣据銃演習とはどうちがうか。
当時最新式の制式銃は三八《さんぱち》式歩兵銃であった。しかし、その生産量はまだ少なく、四十一年三月にまず幹部予習用として各連隊に支給する通達がだされた段階であった。各歩兵連隊の装備はまだ三十年式歩兵銃であった。
三十年式歩兵銃は銃弾をこめていないばあい、銃だけの重さは三・八五キログラム、着剣銃の重さは四・二九キログラムである。銃の長さは一・二七五メートル、着剣銃の長さは一・六六五メートルである。
伏射の据銃は、伏せた姿勢で右手で銃把《じゆうは》をにぎって人差指を引きがねにかけ、前に伸ばして地面につけた左肘を支点に、左腕で銃の前床《ぜんしよう》を下からささえあげ、床尾板を右肩にあて右眼で照準をして発射の姿勢をとる動作である。据銃≠フ号令でこの姿勢をとり、おろせ≠フ号令で銃を下からささえあげた左腕の肘をのばす。据銃演習はこの動作の反復練習である。この反復練習はかなりの腕力を必要とする。
ふつう射撃戦では、突撃態勢にはいってからを除いては、銃に着剣しない。着剣すると銃が重くなるだけでなく銃身の先端に銃剣の重さがくわわり、銃の重心が前方に移動して長く伸ばした左手にむりな重さがかかり、銃の保持を不安定にして命中率をわるくするからである。
据銃演習は反復訓練によって、安定した射撃姿勢をとることを肉体的に習慣づけることを目的としている。疲れて射撃姿勢がくずれるまで据銃演習をつづけるのはかえってマイナスである。まして過分の重量をくわえ重心をわざわざ身体から遠く移動させて腕力の負担をまし、不自然な姿勢をしいる着剣据銃演習は射撃に熟達するためには百害あって一利もない。肉体に苦痛をあたえる目的の拷問にすぎない。
武装した兵卒が約六キロの道を、隊列をくずすことなくわずか三十分で走らされたということも大変な苦役であった。軽装のジョギングではない。重い銃をかついでいるのである。足ごしらえも底裏に鉄の鋲を打った行軍用の重い軍靴《ぐんか》である。左腰には走るのに邪魔な銃剣がぶらさがっている。肩にはずしりと背嚢《はいのう》の重みがかかっている。左右の腹部には革の弾薬盒《だんやくごう》がつけられてからだの屈伸をさまたげている。
武装した部隊の行軍は、五十分で四キロ歩き十分休憩するのが標準とされている。強行軍のばあい歩度六キロ、つまり時速六キロとされている。疲労した武装部隊に六キロを三十分で駈歩《かけあし》行軍させたことは、常識をはるかに越えたむちゃであった。
三月七日付の『東京朝日新聞』はこの日の事件に関連して記事をかかげ、四項目の「事実」をあげた。
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一、猪熊中尉は教練のさい指揮刀をもって熊沢一等卒を打ち、長さ二十センチにわたる傷を負わせたことがある。
二、三日の据銃演習ではついに兵卒阿部作太郎が喀血するにいたった。
三、射撃場からの帰りに猪熊中尉は自分だけ大久保停車場から電車に乗り、帰途、赤坂田町の料亭にあがって芸妓とたわむれた。
四、駈歩で帰営させられた兵卒のうち二人が営庭で倒れた。
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『東京朝日新聞』は事件関係兵卒から取材したと主張している。しかし、この記事を掲載した段階では関係兵卒から取材する機会はなかった。伝聞か噂をもとに書いたものである。
この四項目にたいして連隊側は反論している。その反論のしかたに事実の真偽がうかがわれる。
二年兵の阿部作太郎の喀血は事実無根である。阿部一等卒自身、三日の帰営以後、元気で他の二年兵、三年兵と行動をともにしている。連隊側の反論も断固とした自信に満ちた反論である。
猪熊中尉が電車で帰営したことは連隊も認めている。「同人は元来肋膜炎をわずらいつつあるものなれば、これまことに止むをえざるにいでたるもの」と、事実をのべている。憲兵隊長の報告も猪熊が電車でまっすぐに帰営したことを認めている。
しかし、赤坂田町の料亭の件は具体的な証拠をあげて反論している。「同夕、猪熊中尉は帰営後、歩兵第一旅団副官是永中尉と営内において会食したるものなり」と。
猪熊にはたしかに上州気質ともいえる粗暴なところがあった。しかし、ふまじめな男ではない。むしろ潔癖すぎるくらいまじめな青年であった。売春婦の一群をひきいて戦地に密航してきた女郎屋が上陸しようとしたのを見つけて、部下の小隊を指揮し、実力行使の決意を示して追い返したというエピソードの持主である。出征中、慰安所にも一度も足を踏みいれなかった。その世間知らずのまじめさが一本気の性格とあいまって、逆に世間ずれした兵卒と衝突したのであった。
かつて演習の際、二年兵の熊沢一等卒を指揮刀で殴って傷つけた事件は、傷の大きさを誇大に伝えているとしても事実であると考えてよい。連隊側の反論も熊沢一等卒が被害の事実を主張していることを認めている。
連隊側は、本人が傷をうけたと主張している部分を軍医に検按させたが、傷あとは数年前のものであって入営後のものではないと反論している。しかし、猪熊の料亭の件については是永という具体的な証人名をあげているが、この件については検按した軍医の氏名も明らかにしていない。
直属上官の非行を部下が他の上官に申述するということは軍隊ではたいへんな勇気を必要とする。憲兵隊長の報告も、これまで演習のさいに病傷者をだしたことがあると指摘している。連隊側の反論はまったく反論になっていない。
帰営した兵卒のうち二人が営庭で倒れたことは事実であろう。駈歩行軍の途中で落伍者をださなかったことが不思議なくらいである。帰りついた途端に気がゆるんだ何人かが倒れたことはむしろ自然である。連隊側の反論もただその事実を言葉で否定しているだけで、具体的な根拠を示して反論していない。
過去に熊沢一等卒が負傷した件と帰営後に二人の兵卒が倒れた件は、当事者に聞かなくとも取材可能な事件である。目撃者は三日の事件に直接に関係がない兵卒たちのなかにも多くいたはずである。誇張はあるとしても、この二件については新聞は事実を伝えているとみてよい。
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十三 日枝山王社
大久保からの帰途、電車のなかでひとりになって猪熊は冷静さを取りもどした。後悔が先にたった。
――なぜ、おれはあんなにカッとなったんだろう。今日のおれはどうかしている――
猪熊は自分でやりきれない気持ちになった。むしょうに自分に腹がたった。
――猪熊敬一郎よ、おまえは教育者じゃなかったのか。教育者が教える相手にむきだしの感情をぶっつけるなんて、おまえは恥ずかしくないのか――
自問自答して、猪熊は軍隊教育の教育者であるという自覚を取りもどすとともに、自分が教育者としての資格に欠けるのではないかと悩みはじめた。猪熊はみじめな気持ちになり自信をなくした。
体調をくずすまえの猪熊であったら、自分だけが電車で帰営するようなことはなかった。たしかに、これまでも苛酷な駈歩行軍を兵卒たちに課したことがあった。しかし、そのばあい猪熊はいつも自分が先頭にたって走った。落伍者がでそうになったら落伍しそうな兵卒の銃を左右の肩に一挺ずつ自分がかついでやって、いっしょに走った。そこに教官としての誇りがあった。
いまの猪熊にはそれができない。自分のできないことを兵卒に強制したことが、猪熊にはたまらなく恥ずかしく思えた。
射撃の腕はまだ兵卒に負けていなかった。今日も自分で模範を示してみせた。しかし、兵卒は猪熊の視線にたいして、ただ、恐れのまなざしを返しただけであった。
――なぜだ……、なぜだ……――
兵卒たちが射撃するたびに治痕桿《ちこんかん》が大きく左右に振られるのを見て、猪熊はそれを自分にたいする嘲笑と感じた。
一度は占領した二〇三高地から追い落され、頂上を再占領したロシア軍が薄明の空を背に振った旗を見たときとおなじ気持ちだった。兵卒たちのまなざしもおなじであった。もどかしさとくやしさ、それが怒りとなって兵卒たちにあたる羽目になった。
帰営した猪熊はそのまま帰宅する気になれなかった。猪熊は独身将校宿舎に是永中尉をたずねた。体が熱っぽく気だるかった。
是永は憔悴した猪熊の姿を見て勉強中の席を立った。
「あまり調子がよくないようだな。」
「ウン、食欲がまるでなくてな。」
「元気をだせよ。久しぶりにいっしょに飯でも食うか……。それとも奥方がお待ちかねかな。」
「勉強の邪魔をしてはわるいな。」
「たまには気分をかえなきゃ、おれだってもたんよ。」
「じゃ、集会所でちょっとやるか。」
二人は将校集会所に行った。
たいていどこの連隊でも、将校宿舎と将校集会所は隣接しているのがふつうである。歩兵第一連隊だけは例外であった。将校宿舎は医務室の休養室の棟つづきとなっていた。
明治十九年六月、田中義一はめでたく陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第一連隊附となった。田中は下士養成機関である陸軍教導団の生徒から士官学校に入った。隊附勤務の実習からはじめる士官候補生制度になるまえの士官学校の卒業であるから、田中には隊附勤務の経験がなかった。田中少尉は中隊長の亀岡|泰辰《たいしん》大尉に営内居住の希望を申しでた。
当時は、少尉に任官すると士官学校時代の窮屈な紀律の束縛から解放されたことをよろこび、自由な生活ができる下宿生活をするのがふつうになっていた。将校になっても営内居住をしたいという田中の申出におどろいた亀岡大尉は、連隊長の井上|光《ひかる》大佐にこの希望をとりついだ。
亀岡はのちに陸軍省人事局恩賞課長、日露戦争中の後備歩兵第五十連隊長をへて旅順要塞衛戍司令官、四十年十月に少将に名誉進級し、後備役編入となった。井上は長州出身で田中の先輩、日露戦争に第十二師団長として出征し、戦後第四師団長、四十一年八月に大将に進級したがまもなく病死した。
井上連隊長は田中少尉の希望を奇特なことであるとしてよろこんだ。さっそく医務室付属の休養室の一部を独身将校宿舎に改造して新任少尉に一室ずつ提供した。
その後、しだいに新任少尉の営内居住が奨励されるようになった。各連隊とも将校集会所の付属設備として将校宿舎を設置するようになった。歩兵第一連隊の将校宿舎は陸軍最初の営内将校宿舎であり応急の設備として作られたため、他の連隊とちがって医務室付属設備の改造というかたちのものになった。
「まず酒だ。気つけ薬を飲めば元気になるさ。きさまの口ぐせじゃないが、酒は健康をたもつ。」
こういって是永は集会所当番兵に酒と食いものを注文した。
――結局、戦場で病気に倒れなかったのは酒の飲める連中だけだったな――
そんなことを猪熊がいったのはついこのまえの正月、是永が猪熊の家で御馳走になったときであった。是永はそのときの猪熊の言葉を思いだして口にし、猪熊を元気づけた。
猪熊の言葉は事実を言いあてていた。酒は戦場での熟睡を可能にし疲労の蓄積を防いだ。飲める青年将校たちはよく眠り、その日の疲労をその夜のうちに回復した。そのころの軍人たちは豪快に飲んだものである。
戦場でも酒の補給は充分におこなわれた。日露戦争に観戦武官として従軍した同盟国イギリスのイヤン・ハミルトン中将――第一次大戦時のイギリス軍ダーダネルス海峡遠征軍司令官――が、鴨緑江の渡河作戦を見た感想を皮肉をまじえて書いている。
――日本軍が大砲の渡河作戦に熱意をそそいだ事実は世界に知られている。しかし、シャンパンの渡河作戦をそれ以上に容易に成功させたことは、たしかである――
酒がきた。いつもはどちらかといえば口かずが少ない是永が会話をリードした。
「おれもあの宿舎とおさらばだ。見習士官で出征したおれたちは、新品《しんぴん》少尉時代にあの宿舎に住む機会がなかった。そのぶんをこんど住んだことになるがな。」
是永の口調にはあまり未練気はなかった。
「やはり下宿の方が勉強にいいか。」
気つけ薬がきいてきたのか、猪熊もやっと話にのってきた。
「いや、改築するというんでな。どうも、うちの連隊長は田中大佐が最初の住人だったのが気にいらんようだ。」
「田中大佐は少尉時代から人目をひくようなことをしてきたからな。」
将校宿舎設置にまつわる田中の逸話は第一連隊の青年将校たちのあいだでは伝説になっていた。
「まあ、また下宿に舞いもどりだ。」
憔悴した猪熊の顔は酒でいくらか血色がよくなった。
「ところで、きさま、今日はどうした。まっすぐに奥方のもとに帰らずに……。なにかあったのか。」
「ウン……。ちょっと後味がわるくてな。からだの調子がよくないせいかどうも神経がいらだって、今日はつい自分の不機嫌を兵卒にぶっつけてしまったような気がして。兵卒に気の毒なことをしたと後悔しているんだ。」
「それでなんとなく家に帰りにくいというわけか。しっかりしろよ。どんなに苦しいいくさのときでも不機嫌にならなかったのが、きさまの自慢じゃなかったか。」
「健康であればな。体調がよくないと自分の性格の欠点がすぐに表面にでてくる。それにいや気がさした。おれはきさまのように慎重でおだやかな性格ではない。上州人のわるいところかな。すぐカッとのぼせる。そうなると口より手の方が先にでてしまう。
戦場の修羅場《しゆらば》ではそれがよい目にでたかもしれんが。むかしから消し炭といわれたくらいだ。常に沈着冷静を要求される指揮官にはおれはむいていないのかもしれない。」
「それがきさまのよいところだ。指揮官に要求される決断の早さ、決心は即時実行という点では、きさまはおれとちがって無類の素質をもっている。
もともと指揮官に要求される素質なんてものは矛盾だらけで、ものをいうのは結果だけだ。沈着冷静が結果としては無為無策となるばあいもあるし、果断決行が実は軽率でしかなかったばあいもある。おれは石橋をたたいても渡らぬ慎重|居士《こじ》だと言われるが、これだって優柔不断ということだね。指揮官にむいていないのはむしろおれの方かもしれん。兵は拙速を尊ぶからな。
その点、きさまの決断と行動の早さはたいしたものだ。二〇三高地の奪取に成功という通報があるなり、旗護兵とはぐれても頂上に軍旗を立てに行ったなんてきさまじゃなきゃできん決断だ。もっとも旅団長はその報告を聞いてまっさおになり、それから激怒したがね。」
「いや、あのときはこわいもの知らずさ。たちまちに、大逆襲のさいちゅうにまっ暗な山道をほうほうのていで走りおりるはめになった。結局、軍旗は旅団司令部にあずかりおくということで取りあげられてしまっただけさ。」
「それでも、二〇三高地左山頂にひるがえった最初の軍旗は歩兵第一連隊の軍旗であるという歴史が残せた。軍人に必要な資質というのは戦場でそのときどきの状況の変化を判断して敏速に対応することができる能力だと、おれは思う。あのときはあれが最高の決断だったとおれはきさまを高く買っている。」
「しかし、現におれは病気の中隊長にかわって中隊をあずかり、その中隊をどうやって切りまわしていけばよいのかわからなくなっている。決断はおろか判断力さえにぶってきた。
自信をなくして消極的になってしまったんだな。その裏返しで兵卒たちに虚勢を張っているような気がするんだ。本音は、三年兵たちが事故を起こさずに早く満期除隊してくれればいいがというところかな。」
「いちばんむつかしい第五中隊に中隊長がいないし、代理では荷が重すぎる。本当はこういうところに連隊長が目くばりしてくれればよいんだが。」
「三十八連隊の事件も中隊長代理しかいなかった中隊で起こっている。大尉が中隊長になるというのは、やはりそれだけの経験と貫禄が必要だということなんだろうな。」
「弱音を吐くなよ。弱音を吐いたら負けだ。とくに、きさまは強気強気で押してきたんじゃなかったか。」
「万事は健康だ。からだがまいれば弱気もでようというもんだ。」
「ただ……。ちょっと言いにくいことだが、これから先、きさまがずっと中隊長代理をしなきゃならないようだったら、二、三年兵教育掛をやめて中隊長代理に専念することだな。もともと、この二つの職務は両立せん職務だ。
兵卒ずれして要領ばかりをおぼえた古年兵たちにきびしくしていくのが教育掛の任務だ。教育掛のきびしさにたいする不満を恩威並びおこなう人格のなかに包みこんでしまうのが、中隊長の統率力というものだ。
中隊長の統率力というものがあって、はじめて中少尉の教育掛としてのきびしさもなりたつ。一人の人間が中隊長と教育掛を使いわけることは、きさまでなくともできん相談だ。中隊長は大尉じゃなきゃ勤まらんのではなくて、中隊長と教育掛を兼ねた職務は勤まらんのだとおれは思う。」
さすがは、後年、人事|巧者《こうしや》といわれるようになった是永の発言である。しかし、いまは一介の旅団副官にすぎない。是永は意見をのべることができても自分の考えを実現するてだてを持たなかった。猪熊も責任感の重圧から逃げるつもりはなかった。
「しかし、おれでなければ二、三年兵教育掛は伊田中尉ということになる。伊田中尉ではなおむりだ。三年兵より年が若いんだからな。」
「北川中隊長が近く復職する見通しがなければ、古参中尉のいる中隊の中隊長と北川中隊長を入れかえてもらうか、老練な中尉を一人第五中隊にまわしてもらうよう、連隊長にそれとなく打診してみることだな。戦役のおかげで、いまならば教育掛の助教の経験がながい下士出身の中少尉が連隊にたくさんいる。」
平時には認められていない下士から現役将校への進級が戦時の特例として認められた結果、連隊には老練な下士あがりの中少尉がかなりいた。
猪熊はさかんに杯をあけたが、ほとんど食欲がないようであった。結論はでたがそれを実現できる見通しはなかった。しばしの沈黙が席を支配した。
沈黙を破ることに目的があったかのように、猪熊が発言した。
「宿舎をでる機会にきさまも観念してそろそろ編成したらどうだ。養家に義理がたいのもいいが、ものごとにはふんぎりというものがある。」
「副官が副官を持つなんて……。まだおれはそんながらじゃなさそうだ。せめておれが副官をやめてからにしよう。」
陸軍の将校用の隠語で、家庭を持つことを編成といい、妻のことを副官といった。
是永は冗談にまぎらせて話題をそらせてしまった。凱旋以後、是永は自分の個人的な問題になると口をとざすようになっていた。
「きさまこそ、そろそろ副官殿がお待ちかねじゃないのか。」
すでに時計は九時近くをさしていた。二人は席を立った。
猪熊中尉が是永中尉と食事をしていたころ、猪熊が中隊長代理を勤める第五中隊の第一給養班に十数名の古兵があつまっていた。三年兵の半分が帰休したあと、在営中の上等兵は新兵教育の助手要員だけであり、かれらは新兵と起居をともにし一般の古年兵たちとは別生活をしていた。
あつまったのはいずれも一等卒の、佐野新太郎、高橋政吉、岩崎亀太郎、銀木福太郎、金子佐平、宮下秀太郎、谷畑留吉、山田善之助、岩崎金太郎、小林秀太郎、柳沢光治の十一名に、石井福松ら数人の二年兵がくわわっていた。
みな、くちぐちに今日の射撃演習での猪熊中尉の仕打ちに憤懣の声をあげていた。ひとしきり鬱憤ばらしの雑談がつづき、おたがいの話が高じて感情が激しはじめたころ、宮下一等卒が口を切った。
「みんな、ちょっと静かに聞いてくれ。今日という今日はもう我慢がならねえ。猪熊中尉をとっちめてやろうじゃねえか。
いつか意趣返しをしてやろうと思って、どんな方法でやるか、おれたち何人か仲間で考えてきたんだ。ただ、その方法はみんながやる気持ちになったときじゃねえと、教えるわけにはいかねえ。
旭川の砲兵連隊の連中がやった手は二度ときかねえ。それは京都の三十八連隊の連中の一件でもわかっている。それに旭川連隊では、とどのつまり、兵卒は首謀者が軍法会議にかけられたのに、将校は謹慎くらいですんでいる。これじゃ割りがあわねえ。
おれたちはもっといい手を考えた。」
「どんな手なんだ。」
石井一等卒がたずねた。
「くわしいことはいまはまだ言えねえ。ただ、おれたちが軍法会議にかけられるなら、猪熊中尉もろとも心中するという手だ。あのやろうを監獄にたたきこむには、おれたちも監獄にはいる覚悟をしなきゃならねえ。抱き合い心中を覚悟の上での話だ。」
佐野一等卒が声をあげた。
「そいつはいい。あいつといっしょに監獄行きなら、光栄のいったりきたりだ。なにかといやあ、旅順だ、連隊旗手だ、地獄の戦場だと鼻にかけやがる。あいつもまだ監獄にゃあ行ったことがあるめえ。
へへっ。功五級猪熊中尉殿とならヤクザなおれが無理心中するのもわるくはねえ。男があがるってものよ。」
佐野一等卒は職人あがりであった。
「やるかどうか、みんなの覚悟しだいだ。やるつもりなら計画を話す。どうだ。」
宮下一等卒は決意を迫った。
「やるともさ。」
佐野一等卒は即座にいって周囲を見まわした。
「なあ、みんな。」
一座はだいぶ興奮していた。
「反対のものはいねえだろうな。」
佐野が押しかぶせるようにみんなの賛成を求めた。
「どうせなら、どでかいことの方がいいな。」
山田善之助一等卒が賛成した。
「二年兵はどうだ。」
と、佐野。
「おれはやる。みんなはどうだ。」
猪熊中尉に指揮刀でなぐられた熊沢一等卒が、そこにいる二年兵一同の顔を見渡しながら言った。他の二年兵も反対しなかった。
「ようし、やることにはみんな賛成のようだ。どんな方法でやろうってんだ。」
佐野が宮下をうながした。
「それはな、学がある岩崎が考えた手なんだが……。」
そのあとを岩崎亀太郎一等卒が引きとった。
「みんなで脱営して大隊長の家に押しかけ、大隊長に猪熊の仕打ちを直訴するんだ。どえれえ騒ぎになる。おえら方もほっちゃおけなくなる。おれたちの言いぶんを隠しとおしておけるもんじゃねえ。旭川のような鬱憤ばらしじゃその場かぎりで終わる。言いてえことを、きちんと聞いてもらおうじゃねえか。
首謀者だってんで何人かは監獄に行くことになるかもしれねえ。しかし、おもて沙汰にすりゃあ、猪熊中尉の方だけ、くさいものに蓋《ふた》ってわけにはいかなくなるだろうよ。
どうころんでも、相討ちくれえにはなろうじゃねえか。」
谷畑一等卒が叫んだ。
「その手でいこう。おれは賛成。」
「おもしれえ。おれも賛成。」
山田一等卒も声をあげた。
石井一等卒が口をだした。
「賛成だが、今夜これからやるのか。」
銀木一等卒が答えた。
「あたりめえだ。みんなを信用しねえわけじゃねえが、こういうことは時間がたてばばれやすい。思いたったが吉日ってもんだ。」
「こまったな。おれはまだ点呼後から消灯までの勤務がある。勤務中を抜けだせばたちまちばれちまって、かえってみんなに迷惑をかける。そうかといって、話を聞いちまった以上は勤務を口実に仲間をはずれるのもわるいし……。」
佐野がいった。
「おまえのほかにも何人か勤務についているのがいる。衛兵に上番《じようばん》中のものは、こりゃしかたがねえ。一晩中勤務だからな。さいわい、そいつらはここにいねえから話を聞いてねえ。しかし、従卒と当番勤務は消灯までだ。
石井、おまえは勤務を終わったものをあつめて、あとから追いかけてこい。」
「それしかねえな。そうすることにしよう。」
石井は承知した。
「大隊長の家を知っているのは誰だ。」
「大隊本部に当番勤務にでたときに住所だけは調べておいた。しかし、行ったこたあねえ。」
岩崎一等卒が答えた。
「だれか、行ったことのあるものはいねえのか。」
銀木一等卒がたずねた。
「おれはある。中隊の公用で一度だけど、通信をとどけに行ったことがある。」
石井一等卒であった。
「石井だけか。」
ほかからの声はなかった。
「石井じゃしょうがねえな。おれたちといっしょに動けねえんだから。」
銀木の声は、あてがはずれたという感じをこめていた。
「なあに、住所さえわかってりゃ心配ねえさ。大隊長殿の御邸宅だもんな。毎日、馬に乗って御出勤とくりゃ、近くまで行けば聞きだす手はいくらでもあらあな。」
楽観的な考えをのべたのは佐野であった。
歩兵連隊では大隊長以上が乗馬本分である。歩兵の兵卒からみれば私宅から乗馬で通勤する将校はごく少数であった。近くまで行けばすぐにわかると佐野が楽観したのもむりはなかった。
じつは大隊長の私宅付近は東京でも軍人が多く住む町であった。中央の官衙《かんが》・学校勤務の高級将校が多く、騎兵・砲兵・工兵・輜重《しちよう》兵など乗馬部隊も多い東京では、乗馬本分の将校が星の数ほどもいるという知識が、歩兵の兵卒にはなかった。結果として佐野の判断はあますぎた。
「それでいいな。」
宮下がだめ押しの発言をした。異議はなかった。
「行動開始は日夕《につせき》点呼後だ。それまで解散。」
そのあと、岩崎、宮下、銀木は佐野をくわえて、くわしい打ち合わせをおこなった。
午後八時三十分、日夕点呼が終わった。先ほどの話にくわわっていた十一名の三年兵が第一給養班の一隅にあつまった。佐野が叫んだ。
「二、三年兵全員、第一班に集合。」
この声におうじて、先ほどの謀議にくわわっていなかった三年兵、二年兵もあわせ、点呼後の勤務にでた五人以外の古年兵全員があつまった。
岩崎亀太郎一等卒が計画を手短に説明した。一同賛成である。
山田が寝台の上にあがって指示した。
「いまから、各人、脚絆《きやはん》、外套《がいとう》、帯剣着用の服装で待機、合図があったら、各個に目だたぬように営舎をでて、弾工場裏に集合。」
内務班制度がとられるまえ、第一連隊では新兵班と古兵班とが分離されていた。古兵班の動きが新兵班にもれる恐れはなかった。
合図とともに古兵たちはばらばらに営舎をでて弾工場裏にあつまりはじめた。何人目かの小林庄次郎二等卒が石井一等卒の伝言をもたらした。
「九時に不時《ふじ》点呼があるらしい。」
一同はあわてて営舎にもどった。しかし、九時をすぎても不時点呼はなかった。
中止か決行か、宮下、岩崎、銀木が協議した結果、決行にきまった。古年兵たちが弾工場裏に集合したのは午後九時三十分であった。三年兵十四名、二年兵十八名、合計三十二名であった。
銀木一等卒が提案した。
「大隊長の家は千駄ヶ谷町|穏田《おんでん》だ。しかし、ここからまっすぐ行くのはあぶない。もし残っている石井たちが脱営するまえにおれたちの脱営がわかったら、石井たちが調べられて泥を吐かされ、おれたちは追いかけられるかもしれん。
表門の衛兵所まえを通過するのはむつかしいから新門からでる。新門をでたら穏田とは反対の方向にむかう。目標はとりあえず日枝山王社《ひえさんのうしや》だ。四列|側面縦隊《そくめんじゆうたい》で前進する。」
一同は隊伍をととのえた。
「出発。いそぐな。」
ひくい声で号令をかけたのは佐野のようであった。
誰が全体の指揮をとるというのでもなかった。指揮者のない集団を群衆心理が支配した。いったん行動しはじめると一刻もはやく営門をでたい心理が集団をおそった。自然にいそぎ足になった。
「かけあし。」
叫んだのは、たぶん宮下であった。
「かけあし。」
「かけあし。」
岩崎、銀木らがくちぐちに叫んだ。一行は駈歩《かけあし》に移り四列側面縦隊はみだれた。
新門が近づいた。右手の坂を交替の哨兵がおりてきたが、一行を見て別に不審を感じたようすはなかった。一行は一気に新門を駆けぬけた。哨兵は不動の姿勢をとって一行を見送った。
射撃場を独占するために、消灯後、先発の小部隊が営門をでることは歩兵第一連隊では日常のこととなっていた。哨兵はこの兵卒だけの小部隊の出門を気にもとめなかった。脱営は成功した。午後九時四十分であった。
三十二名の脱営兵は新門からまっすぐにゆるやかな坂道をおり、左にまがり、さらに右に折れ、道なりに走って新町通りにでた。新町の通りをぬけて田町の通りを横ぎり、溜池の電車通りを渡って麹町の日枝山王社の石段を駆けのぼった。
脱営兵たちは神社裏の木立のなかに密集して腰をおろし、一息いれた。
「たばこは吸うなよ。おれたちがここにきた証拠は残さねえほうがいい。」
銀木がみんなに注意した。
佐野がちょっとにがにがしげに宮下に言った。
「誰か指揮者をきめなきゃだめだ。隊列をみだして走りだしたとき、おれぁ哨兵にばれやせんかとひやっとしたぞ。これからは誰か一人が号令をかけ、みんなその号令にしたがうことにしよう。」
「いや、すまんすまん。おれもひやっとした。実は、すこしこわくなってな。はやく営門を通りすぎたくて思わず駈歩と言ってしまったんだ。」
岩崎が改めて佐野にたのんだ。
「これから先の行動はおまえに指揮をたのむ。おれや宮下は段取りを考えることはできても実行を指揮するのはにが手だ。東京の道には銀木がくわしい。みんなが誰かの号令にしたがうとなるとおれの号令ではだめだ。佐野、おまえが銀木と相談しながらみんなの指揮をとってくれよ。」
大胆さと行動力、統率力の点では親分肌の佐野にみんなが一目おいていた。計画の段階では岩崎、行動の段階では佐野の指導力が期待されていた。岩崎のたのみを佐野は承知した。
佐野は思いきりのいい男であった。ちょっと考えたのち、立ちあがってみんなに指示した。
「おれたちの脱営はもう見つかったものと思っていい。捜索隊がでていると考えてこれから行動する。おれたちの隠れ場所として中隊が見当をつけるのはまずここだろう。山王社はいちばんはじめに捜索される危険がある。すぐに出発だ。しかし、ここから穏田にまっすぐ行くのはやはりやばい。捜索隊がとりあえず進出すると思われる地点の外側を迂回する。
案内は土地にくわしい銀木にまかせる。列の先頭におれと宮下、岩崎、山田の四人が立つ。以下、四列側面縦隊。もう走ることはない。隊列をみださずに行進する。」
佐野の指示によって一同は立ちあがり、隊列をととのえた。
脱営兵の一行は日枝山王社の境内を永田町の方に抜けた。
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十四 千駄ヶ谷町穏田
石原一等卒はこの夜、消灯後の最初の不寝番勤務の順番にあたっていた。当然、この夜の脱営直訴の謀議からはずされていた。消灯ののち新兵班から巡回をはじめ古兵班の部屋にきたとき、二、三年兵が一人も就寝していないことに気づいた。石原一等卒はこのことを週番特務曹長の中楯理重《なかだてまさしげ》に報告した。
中楯特務曹長が報告を受けたのは午後九時二十分であった。脱営兵の一同が営舎をでて弾工場裏に集合中の時間である。
中楯特務曹長は中隊の週番下士とともに古兵班である第一、第二給養班を巡察した。二、三年兵は一人もいなかった。
「また古兵どもがなにかたくらんでいるな。」
そうつぶやいた中楯は、週番下士に命じて中隊の下士、上等兵を全員起こして集合させ、営内を捜索させた。
いなくなった古兵たちに中楯以下の関心がむけられている隙を利用して、石井一等卒ら五名はすばやく中隊の営舎から姿を消した。石井一等卒らも新門から営外にでた。
石井らが新門を通過するとき、内田常太郎一等卒は新門の哨兵に先行した部隊に追及するとわざわざことわって出門した。
このことがあとで問題になるとは石井らは夢にも考えなかった。
五名の一行は新門をでたあと、先の三十二名とは逆に檜坂をあがり、麻布三河台町から六本木、材木町、霞町、笄町《こうがいちよう》、青山|高樹町《たかぎちよう》、青山南町六丁目と道をたどり、千駄ヶ谷町穏田に直行した。
中楯特務曹長が捜索にだした第五中隊の下士・上等兵のうち、新門に行った清水富蔵上等兵がもどってきて報告した。
「新門の哨兵からの情報によりますと、午後九時五十分ごろ、三、四十名の部隊が新門を通過して営外にでたということであります。」
清水上等兵が新門に行ったとき、すでに石井一等卒らも新門を通過していた。しかし、清水上等兵は石井らが姿を消したことを知らなかったし、新門の哨兵は清水上等兵が行方不明の兵卒たちの捜索をしていることを知らされなかったので、ただ清水上等兵に聞かれたことだけを答えた。五名の脱営には誰も気がつかなかった。
佐野たち三十二名が脱営したときの新門の哨兵はすでに交替していた。清水上等兵がえた情報は交替まえの哨兵からの申し送りであり、直接の目撃証言ではない。
中楯特務曹長は表門の衛兵所に行った。三、四十名の部隊が新門を通過したときの哨兵から事実を直接に確認するためである。
第五中隊の古兵らしい部隊が新門を通過したときの哨兵は富沢愛蔵一等卒であった。中楯は衛兵司令のまえで富沢一等卒からくわしい話を聞いた。
「その部隊が新門を通過した正確な時間は、いつか。」
「時計で確認はしておりませんが、ほぼ午後九時四十分ごろであります。」
「部隊の人数は何人くらいであったか。」
「約三十名であります。」
「新門通過のときの状態は……。」
「やや隊形はみだれていたのでありますが、四列ないし三列の側面縦隊で駈歩で通過したのであります。」
ここにいたって中楯特務曹長は第五中隊の古年兵が脱営したことを確認した。猪熊中隊長代理以下の中隊附将校に緊急の伝令を派遣した。同時に、中隊の下士、上等兵に営外捜索の準備を命じた。
そのころ、三十二名の脱営兵は銀木一等卒の先導で日枝山王社を出発していた。永田町の三《さん》べ坂をへて華族女学校――つい二年ほどまえに学習院女学部となったがなお古い名前の方がとおりがよかった――の裏門まえをとおり、市街電車の通りを赤坂見附上の停留所付近で横ぎり、平河町にはいり、貝坂をとおって清水谷坂をくだった。
現在、華族女学校あとは参議院議長公邸になっている。
北白川宮邸――現在の赤坂プリンスホテル――にそったこの道は、夜の人通りがほとんどない。人が見たとしてもどこかの連隊が夜間演習をしているとしか思うまい。
清水谷坂をくだり伏見宮邸――現在のホテルニューオータニ――ぞいに紀尾井《きおい》坂をあがれば、喰違見附《くいちがいみつけ》で外堀を渡って紀伊国坂の上にでる。正面は赤坂離宮庭園の門である。
銀木は一行を誘導して右にまがり、外堀ぞいに四谷見附の方にむかった。一行は赤坂離宮のまえを左に折れ、学習院の北側から鮫《さめ》ヶ橋《ばし》におりた。
鮫ヶ橋は青山台地と四谷台地とのあいだに細長くいりこんだ、暗く湿気の多い谷間の町である。当時の東京の三大|貧民窟《ひんみんくつ》のひとつであった。
横山源之助は明治三十二年に『日本の下層社会』を書いた。貧民窟の状態はそれから十年たってもちっともかわっていない。
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東京の最下層とはいずこぞ、いわく四谷鮫ヶ橋、いわく下谷|万年町《まんねんちよう》、いわく芝|新網《しんあみ》、東京の三大貧窟即ちこれなり。
わずかに外観を見れば、荒物屋、質屋、古道具屋、米屋、焼芋屋、紙屑屋、残飯屋、枡酒《ますざけ》屋、古下駄屋、青物屋、損料貸、土方請負《どかたうけおい》、水油出売、煮豆屋、ムキミ屋、納豆売、豆腐屋、酒小売、塩物屋、煮染屋、醤油屋、乾物屋を見るに過ぎずといえども、ひとたび足を路次に入れば、見るかぎり襤褸《ぼろ》をもってみち、余輩の心目をいたましめ、かの馬車をかりて傲然たる者、美飾|※[#「+見」、unicode975A]装《せいそう》して他に誇る者とあい比し、人間の階級かくまで相違するものあるかを嘆ぜしむ。
ついてその稼業を見れば人足日傭取もっとも多く、ついで車夫、車力《しやりき》、土方、つづいて屑拾、人相見、らおのすげかえ、下駄の歯入、水撒き、蛙取、井掘、便所探し、棒ふりとり、溝小便所掃除、古下駄買、按摩、大道講釈、かっぽれ、ちょぼくれ、かどつけ、盲乞食、盲人の手引等、世界あらゆる稼業は鮫ヶ橋、万年町、新網の三カ所にあつまれり。(中略)
要するに、戸数多き上より言えば、鮫ヶ橋は各貧窟第一に位し、新網は表面に媚びをたたえて傍にむいてぺろり舌をいだす輩多く、万年町の住民は油断していれば庭のものをさらえゆく心配あり。路次の醜穢《しゆうわい》なるは万年町もっともはなはだしく、しこうして鮫ヶ橋、新網あい似たり。
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炊事当番にでるとかならず残飯屋という職業の出入り商人との接触がある。軍隊の残飯を払い下げてもらって貧民窟の住人たちの食物として売る職業である。
鮫ヶ橋は、市ヶ谷の士官学校、一ツ木台の近衛歩兵第三連隊、檜町の歩兵第一連隊、麻布の歩兵第三連隊、四谷の近衛歩兵第四連隊と周囲を兵営に取りかこまれ、残飯を手に入れやすい場所であった。このことが、鮫ヶ橋を東京最大の貧民窟に仕立てあげた大きな理由であった。
稼業のうち、車夫は客をのせる人力車夫、車力は荷車引きである。日露戦争後の東京では荷馬車が人の引く荷車にとってかわりつつあり、車力の仕事はへりはじめていた。
らおのすげかえ≠ヘ、喫煙用のきせる≠フ羅宇つまり金属製の火口と吸口をつなぐ竹の交換屋である。本来はラオス産の黒斑竹をもちいたところからラオの名が生じた。
便所探しは便壺のなかの落し物をさがす職業である。棒ふりとり=Aつまり蚊の幼虫であるぼうふら℃謔閧ナある。金魚の餌にする。大道講釈からかどつけ≠ワでは大道芸人である。
鮫ヶ橋の町を歩いたことがある兵卒は、銀木を別とすれば、さすがにいなかった。石油ランプもともっていない夜の鮫ヶ橋はまさしく暗黒の町にふさわしかった。そこを銀木は勝手知ったわが家のように一行を誘導した。
芸人とのつきあいが多いと言い、酒に酔えばかならずといってよいほどに山の手の奥様言葉を使ってみせる銀木の生いたちを、佐野は覗き見た気がした。この道をたどるかぎり捜索の手からは安全だった。
どこをどう抜けたのか一行は暗黒の貧民窟を抜けだしていた。木立の深い坂をあがると兵卒に見おぼえのある景色が出現した。目のまえに青山練兵場がひろがっていた。権田原《ごんだわら》である。
練兵場で夜間演習をしている部隊があるかもしれなかった。あってもかまわない。おたがいに演習部隊だということでやりすごせばよい。ただ、上官にたいする欠礼にだけは注意することだ。欠礼をとがめられて所属部隊名を聞かれたり、お説教に時間を食われたりすることが面倒だ。
佐野は周囲に注意をよく払いながら練兵場を横断した。練兵場のようすはどの兵卒も熟知している。一行は四谷霞ヶ岳町の近衛歩兵第四連隊の北側にでた。近衛四連隊跡は、現在、都営霞ヶ岳住宅や国学院大学付属高校になっている。ちょうど神宮球場の西側一帯の土地にあたる。近衛四連隊の兵営に沿った西側は市外の千駄ヶ谷町である。
兵卒たちの一行は近衛四連隊の兵営の北側に沿ってゆるい坂をおりた。目のまえに水田が開けた。兵営の西側を渋谷川が流れている。川にそってくだればもとの穏田村大字穏田である。兵卒たちは川ぞいの水田のきわに長くのびた林のなかに身をひそめた。
穏田村と千駄ヶ谷村が合併して千駄ヶ谷町になっていた。穏田は千駄ヶ谷町大字穏田と名をかえた。だいたい現在の渋谷区神宮前の一帯である。明治神宮の表参道と明治通りの交差点を中心とした付近、全国のティーンエイジャーのショッピング・タウンと化したあたりが当時は水田であった。
青山、赤坂、麻布、目黒、世田谷、駒場に軍事施設があつまってくると、これらの土地にはさまれた千駄ヶ谷町は現役軍人の居住地、退職軍人の隠棲地となった。是永中尉も陸軍大学校に入校したあと、東京の学校に進学した異父弟妹とともに最初は千駄ヶ谷に住む予備役陸軍少将の家に間借りし、ついで旧穏田村の原宿にあった海軍大佐の隠居所に移っている。
三十二名の脱営兵が穏田の北縁の林のなかにひそんだのは午後十一時ごろであった。ここから大隊長の私宅をさがすための斥候を出すことにし、そのほかの兵卒は全員林のなかに潜伏して休憩した。斥候は、東京の地理に明るい銀木と大隊長の住所をおぼえている岩崎亀太郎が買ってでた。
すでに深夜である。人にたずねようにも起きている家はほとんどなかった。二人は大隊長の私宅をさがしあてることに失敗した。あきらめてみんなのところにもどってきた。脱営兵たちの供述によれば、四日午前一時であった。
計画は大きな誤算を生じた。
「これからどうする。このままおめおめ帰営するか。それとも夜の明けるのを待って、もう一度、大隊長の家をさがすか。」
佐野はみんなの意向をたずねた。
「ここであきらめて帰営したら旭川よりもっとぶざまなことになっちまう。そんなことできるかい。」
宮下が即座に主張した。
山田があとをひきとった。
「もう営外に捜索隊がでているにちげえねえ。帰営しようたって、隊伍堂々と営門をくぐるまえにまちがいなく捜索隊に見つかる。そうなりゃ、罪人として引ったてられて、みじめったらしい格好で連隊中のさらしものにされながら営門をくぐることになる。目もあてられねえや。
それより、明日、大隊長の家をさがす方がいいや。」
「問題はどこで今夜を明かすか、だ。」
佐野の発言からべらんめえ調が消え、部隊の統率者らしいものの言い方にかわっていた。
「いいか、おちついて考えてみよう。たぶん、石井たちはおれたちのあとから脱営しただろう。石井たちがうまくやれたとすれば、石井は大隊長の家を知っているからもうとっくについている。大隊長はおれたちが大隊長の家をさがしていることをもう知っているにちがいない。
石井たちが脱営に失敗したとすれば、中隊幹部はおれたちの脱営目的を石井たちから聞きだしているはずだ。猪熊中尉のやつ、石井が脱営の相談にあずからなかったと言いはっても信用しねえだろう。いためつけても白状させるだろう。
どっちにしても捜索隊は今夜中に穏田付近にあつまってくる。日朝《につちよう》点呼までにおれたちをつれもどせば事故なしですむからな。この付近で夜を明かすのはあぶない。」
三十二名が脱営したのは夜の点呼後である。翌朝の点呼に中隊全員の顔がそろっていれば事故はいっさいなかったことになる。中隊幹部は一行が大隊長の私宅にたどりつくまえに見つけだして連れもどそうと、必死で捜索しているであろう。
一瞬、一同を沈黙が支配した。もともと、かれらも大隊長に直訴したら翌朝の点呼まえに帰営するつもりであった。自分たちが危険な境遇におちいったことをみんなは改めて感じた。
佐野はちょっと間をおいて提案した。
「実は岩崎と銀木が斥候にでているあいだに、今夜の寝場所のことを考えた。ひとつだけ安全な場所があることに気がついた。
大久保射撃場に六百メートル射《しや》|※[#「土+朶」、unicode579c]《だ》があることはみんな知ってるだろう。おれたちは三百メートル射※[#「土+朶」、unicode579c]しか使わない。名誉射撃に六百メートル射撃はないからな。もし、今夜も連隊から明日の射撃演習のための先発隊がきていたとしても、六百メートル射※[#「土+朶」、unicode579c]の監的壕《かんてきごう》はあいているはずだ。
そこで夜を明かそう。もしほかの大隊からの先発隊が三百メートル射※[#「土+朶」、unicode579c]の監的壕にいたとしても、第二大隊は明日六百メートルを使うと命令されてきたといえばいい。よその大隊の先発隊も日夕点呼後に連隊をでているから、おれたちが脱営したことを知っているはずがない。朝の点呼までは、中隊幹部はおれたちの脱営を他中隊には秘密にしておくはずだ。
それに、確実なことは、今日射撃演習をやったばかりの第二大隊の射撃場泊りこみだけはないということだ。」
佐野はこう言ったあと、低く笑った。すご味のきいた笑いであった。
「そりゃいい思案だ。さっそくそうするとして、ここから射撃場までどの道をとおるか。やはり山の手線の外側をまわって行った方が安全かなあ。」
岩崎の発言であった。
日本鉄道会社の品川線、つまり赤羽、池袋、新宿、渋谷、品川間は、明治三十六年に田端、池袋間の豊島線が開通すると、路線名を山の手線と改めた。日露戦争後の鉄道国有化によって主要私鉄は国有国営となり、旧日本鉄道会社線は当分のあいだ日本線と呼ばれる。山の手線もそのなかの一路線である。
四十一年十二月に鉄道庁が鉄道院となり、国有鉄道には院線の名があたえられ、山の手線も電車化されて院線電車と呼ばれる。鉄道院が鉄道省となり、その電車も省線電車と名がかわり、敗戦後、日本国有鉄道公社となってから国電と呼ばれるようになる。
いつになく銀木がきっぱりとした口調で反対した。
「いや、まっすぐ行こう。この時間にわざわざ迂回すれば人に見られたときかえってあやしまれる。なるべく、練兵場と練兵場のあいだをまっすぐに動いた方が夜間演習らしくていい。」
そこまで一気に言ったあと、いつもの銀木らしい口調にもどった。
「でえいち、あんまり腹をへらさねえ方がいい。それに、すこしでも眠った方がいい。おれたちは、明日一日、おまんまにありつけるかどうかわからねえ。ありつけねえ覚悟をしといた方ががっかりしねえですむ。」
「銀木の言うとおりだ。大久保までまっすぐ行こう。銀木、道案内をたのむ。」
佐野が決断をくだした。
「出発。」
一行は穏田から、千駄ヶ谷、淀橋をへて大久保射撃場へというほぼ最短距離の道筋をとり、射撃場内の六百メートル射※[#「土+朶」、unicode579c]の監的壕内にぶじにたどりついた。午前二時ごろであったという。
六百メートル射※[#「土+朶」、unicode579c]は、一八九九年、明治三十二年にはじまったボーア戦争の教訓を取りいれて急造された。
この戦争は、技術的に完成された連発式の小銃を使用しての火力戦として世界の主要陸軍から注目された。その結果小銃火力の威力は絶大で、射撃戦によって勝敗が決しこれまでの戦闘のような白兵戦による決戦にまで進むことはなくなる、と判断された。
射撃戦の敗者が戦意を喪失するときの両軍の距離は五、六百メートルと算定され、この距離が決戦射撃距離と名づけられた。
決戦射撃距離に接近するまでに敵により多くの損害をあたえ、自軍より早く敵の戦意を喪失させることに歩兵戦術は重点をおかなければならない、という戦術思想が成立した。決戦射撃距離に達するまえに自軍が受ける損害を最小限にとどめるために、散開、躍進などの隊形や方法にも工夫がこらされた。
ボーア戦法と名づけられたこの歩兵戦法は日本にもいち早く輸入され、研究された。当時、歩兵戦術の研究と教育にあたっていたのは陸軍戸山学校であった。戸山ヶ原に六百メートル射※[#「土+朶」、unicode579c]が建設された。敗戦後まで残っていたのはこの射※[#「土+朶」、unicode579c]の土手である。
日露戦争の結果、ボーア戦法は実際的でないことが証明された。
ボーア戦争ではイギリスは三十万の陸軍を南アフリカに送りこんだが、ボーア軍は兵力を分散してのゲリラ戦法をとった。戦争の全期間をつうじて一戦場に三万以上の兵力を集中して戦闘をおこなう機会はついになかった。ボーア戦争の遊撃戦的性格が、戦闘を射撃戦だけに終始させるという特殊な現象を生んだにすぎなかった。
両軍の戦闘参加兵力が三十万から六十万という、大兵力同士の大会戦が何度もくりかえされた日露戦争では、戦闘の最後の決はやはり突撃による格闘戦にゆだねられた。白兵(銃剣)、手榴弾、投石、銃をさか手にもっての殴打、腰だめ射撃など、あらゆる格闘手段が使われた。
新しい問題が生じた。突撃発起の距離である。突撃は射撃が有効でなくなる距離から開始される。両軍の距離が接近するにつれ、兵卒は興奮し、小銃は乱射され、命中率は激減した。日露戦争では、小銃火力がもっとも効力を発揮したのは距離四百メートル前後であった。
かわって、日露戦争の近接火力戦の主人公として新しく機関銃が登場した。遮蔽された堅固な陣地にひそむ機関銃は、射角を機械的に固定して早いスピードで連射される弾丸の雨で、突撃してくる歩兵部隊を横なぎにした。
攻撃軍は四百メートルの距離から、掩蓋《えんがい》陣地に隠れた防御軍の機関銃火に身をさらしながら、突撃のための躍進に移らねばならなかった。機関銃火のまえに死体の山がきずかれた。砲兵は陣地つぶしのための榴弾の不足に悩まされた。
敵の機関銃火力による損害を少なくするためには、突撃発起の距離をちぢめることが必要であった。攻撃軍用に便利な軽機関銃はまだ発明されたばかりで装備されていなかった。近距離における小銃火力の威力を大きくすることが重要な課題となった。日露戦争後、射撃の成績は三百メートルで測定されるようになった。六百メートル射※[#「土+朶」、unicode579c]は無用の長物となり、のちに環状五号線――現在の明治通り――建設のために分断される。
三十二名の脱営兵は、こうして、六百メートル射※[#「土+朶」、unicode579c]の監的壕という安全な隠れ場所を持つことができた。
勤務についていたため消灯後におくれて脱営した石井一等卒ら五名は、石井がかつて大隊長の私宅まで公用連絡に行ったことがあったので、大隊長の私宅に直行した。
三日午後十一時、歩兵第一連隊第二大隊長福田栄太郎少佐の私宅の門がたたかれた。馬丁《ばてい》が覗いてみると外套着用の外出姿をした五人の兵卒が門前に立っていた。門をあけると先頭の一人が言った。
「第五中隊歩兵一等卒内田常太郎ほか四名、大隊長殿に急用があってまいりました。」
馬丁は、この時間に下士の引率もなしに兵卒が五人もそろって、何事が起こったかとあわてて奥に取りついだ。床についたばかりの福田少佐はいぶかしいものを感じたものの、急用ということなのでとにかく和服姿で玄関にでた。
ふつう、従卒か公用連絡の当番のほかには、兵卒が直接に大隊長の私宅にくることはない。
「何か緊急事態が起きたのかもしれん。とりあえず馬を用意しておけ。」
福田少佐は馬丁に命じた。まだこの時代には、乗馬本分の将校は自宅に厩《うまや》を持つことに規則できめられていた。
福田少佐が玄関にでると緊張したおももちの五人の兵卒が不動の姿勢で並んでおり、いっせいに敬礼した。
「歩兵第一連隊第五中隊、陸軍歩兵一等卒、内田常太郎。」
「おなじく、石井福松。」
「おなじく、丸山英治。」
「おなじく、広瀬当平。」
「おなじく、陸軍歩兵二等卒、鴨居清蔵。」
五人は名のった。
「夜分、何の用だ。」
福田少佐はたずねた。
大隊長の不審そうな表情に五人の兵卒は口ごもった。
――岩崎一等卒たちはまだここにきていないのか――
それが五人の頭をよぎった疑問であった。
五人は顔を見あわせていたが、やがて、内田と名のった兵卒が思いきったように口を開いた。
「本夜、第五中隊の二、三年兵が脱営して大隊長殿のお宅にうかがったはずであります。私たち五名は当番および従卒勤務中でありましたので、下番《かばん》後、おくれて追及し、ただいま到着いたしました。」
「なにっ。」
福田少佐は一瞬絶句した。
「第五中隊の二、三年兵が脱営してここに……。来とらんぞ。脱営したのは、いつ、そして何人だ。」
「ハッ。私たち五名を除いて非番の一、二等卒全員、三十二名であります。脱営した時間は日夕《につせき》点呼後、消灯時間までのあいだであります。」
「脱営とは容易ならんことだが。それほどまでして、おまえたちはわざわざ大隊長のところにどんな緊急の用件があったのか。」
福田少佐はなにか異常な事態が発生したものととっさに判断した。第五中隊の二、三年兵の一、二等卒全員が脱営して大隊長の私宅にむかったという。しかも、勤務中であったもの五名が勤務を下番したのちに脱営してそのあとを追い、現に大隊長の目のまえに立っていた。
上番とは勤務につくことをいい、下番とは勤務から解放されることをいう。
福田少佐はこのさい緊張しきった兵卒にできるだけ温和な態度で接し、兵卒の緊張感をときほぐしてやることが先決だと判断した。そうしておいて、おもむろにどんな事態が起こったのかをくわしく聞きだすことが肝腎だと考えた。
「おまえたちが大隊長に話したいと思ってきたことを、固くならずに大隊長にくわしく話してみよ。」
そこで、内田一等卒と石井一等卒は福田少佐に、猪熊中隊長代理のこれまでの兵卒虐待の状況、この問題を他の中隊幹部に訴えたが取りあげてもらえなかったこと、そこに今日の苛酷な演習でついに怒りが爆発して、全員で大隊長に直訴しようということになった事情を説明した。
ひととおりの事情がのみこめた福田少佐は、問題の先行した三十二名がいまだに私宅に姿をみせていないことを第一に心配した。
――ひょっとすると大隊長の私宅をさがしあぐねているのかもしれない。いずれにしても大隊内部の問題として処理するには、明朝の点呼まえに三十二名をさがしだして帰営させなければならない。当面はこの五名をまずぶじに帰営させることだ――
福田少佐はこう判断し、おだやかな口調で兵卒たちをさとした。
「よし、事情はわかった。おまえたちは目的を達したのであるから、このまますぐに帰営してあとの三十二名が帰営するのを待て。
いいか、決して軽はずみなことをするんじゃないぞ。おまえたちが連隊からまっすぐに大隊長のところにきて、報告をすませてそのまままっすぐに帰営したということならば、無断で営外にでたことはよくないにしても、大隊長はおまえたちに決してわるいようには処置せぬ。
くれぐれも寄り道などしないで五名そろってできるだけ早く帰営せよ。営門通過証を持たせるから待っておれ。」
福田少佐はいったん奥にはいり書類をととのえてでてきた。
「内田一等卒、おまえがほか四名を引率して営門を入れ。これが通過証だ。」
「ハイッ。内田一等卒はただいまより、ほか四名を引率してただちに帰営いたします。」
復唱したあと、内田一等卒は、このさい部隊の敬礼――頭《かしら》右――をすべきか各個の敬礼――各人ごとの挙手の礼――をすべきか、迷った。大隊長から引率命令を受けた以上は部隊の敬礼をするのが本当か、とも考えた。しかし、自分たちの行動は部隊としての行動ではなく、ひとりひとりの兵卒の自発的な行動であった。内田は意を決して号令をかけた。
「敬礼。」
五名はいっせいに挙手の礼をした。
福田少佐は敬礼にゆっくり応じた。
五名の兵卒を帰したあと、福田少佐は、三十二名の到着を私宅で待つべきかそれともただちに出営して捜索の指揮をとるべきか、考えた。
――迷ったばあいは積極策をとれ――
福田少佐はともかくいったん出営して必要な指示をあたえたのちに、帰宅して脱営兵が来るのを待つことにした。ただちに軍服に着がえ、留守中に三十二名が到着したならば自分の帰宅まで待たせておくように家人に指示し、少佐は馬に乗った。
福田少佐が連隊の第五中隊事務室についたのは四日午前零時であった。
五名の脱営兵はすでに帰営していた。
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十五 二廓四宿
第五中隊の二、三年兵が脱営したという報告を受けた中隊長代理の猪熊中尉以下の中隊附将校はいそぎ出営し、中隊事務室にあつまった。独身で兵営の近くに下宿していた伊田常三郎中尉がいちばん早く姿をあらわした。
伊田中尉は事態を重視していなかった。
「どうせ兵卒たちのやることだ。旭川の砲兵連隊や京都の三十八連隊の脱営事件と似たようなことしかできんだろう。猪熊中尉殿がこられるまえにおれがさがしに行ってくる。中尉殿がこられたらそう報告しておいてくれ。すぐ連れて帰ってくるからな。」
中楯特務曹長にそう言いおいて、午後十一時三十分、伊田中尉は単独で連隊を出発した。連隊の新門から脱営したというから、後続の石井一等卒らと待ちあわせる場所としていちばん近くて便利がよいのは赤坂氷川神社の境内である。
伊田中尉の足は新門から檜坂をあがって左に折れ、氷川神社にむかった。しかし、氷川神社の境内には兵卒たちが立ちよった気配はなかった。伊田中尉はそのまま氷川下にくだり、電車通りを渡って日枝山王社にむかった。しかし、日枝山王社にももはや人の気配はなかった。
伊田中尉は目星をつけた赤坂田町の料飲店に足をもどした。兵卒の行きそうな店はだいたい見当がついていた。伊田はそういう店を片はしからあたってみた。しかし、兵卒たちに関する情報はえられなかった。
夜の十二時前後に伊田中尉が赤坂田町の料飲店を一人で調べ歩いたことが『東京朝日新聞』にあやまり伝えられ、猪熊中尉がその夜赤坂田町の料亭で遊んでいたという記事になった可能性が大きい。
伊田は内藤新宿の遊廓にまで足をのばした。しかし、どこをあたってみても脱営兵らしい姿を見たというものもいなかった。三十二名という多数の兵卒のことであるから、軍服を脱いで変装しているとは考えられなかった。
伊田の単独捜索は徒労に終わった。伊田は午前二時に帰営した。
猪熊中尉が出営したのは伊田中尉が単独捜索にでたあとであった。猪熊中尉は気が動転していた。
是永中尉との酒にも酔えないまま帰宅したあとまで考えこんでいた矢先に、古年兵脱営の報告であった。全身の力が抜け、目のまえがまっ暗になった。とりあえず連隊に駆けつけたが、中楯特務曹長の報告を受けてもすぐに処置を指示することができなかった。
猪熊が出営してまもなく石井一等卒らが帰営し、つづいて福田大隊長が馬をとばせて出営して中隊事務室にやってきた。
福田大隊長は猪熊中尉に第五中隊は引きつづいて脱営兵の捜索をおこなうように命ずるとともに、石井ら五名の脱営兵を中隊長室に呼びみずから取調べた。事件の原因が中隊長代理にあるだけに猪熊中尉以下の中隊幹部の立ちあいを認めなかった。中隊幹部のまえでは兵卒が本当のことをしゃべりそうになかった。
福田大隊長の緊急の関心は残る三十二名についての情報であった。正確な情報を聞きだすには兵卒から信頼されていない中隊幹部を同席させることはまずい、福田少佐はこう判断した。福田少佐は中隊幹部が石井一等卒ら五名と接触することを禁じた。
猪熊中尉以下の中隊幹部は脱営兵に関する情報を手にいれることができなかった。伊田中尉からなんらの手がかりもえられなかったという報告を受けた猪熊中隊長代理は、三十二名のうち東京市内の出身者の住所を調べさせた。
午前三時、猪熊中隊長代理は六組の下士斥候を派遣した。麹町、赤坂、芝、麻布、京橋、の各区内、とくに市内出身の兵卒の自宅とその周辺を捜索させた。各斥候とも午前六時には帰営した。しかし、三十二名の消息はまったく知れなかった。
午前三時をまわったころ、福田大隊長は五名の兵卒の取調べを一応すませた。五名ともに口裏を合わせてでもいるかのようにおなじことをいった。
「三十二名のものはかならず集団で行動していると信じております。本夜中にはかならず大隊長殿のお宅にうかがうものと確信いたしております。」
福田大隊長は中楯週番特務曹長を呼んだ。
連隊長以下の管理職の勤務時間外に兵営内の管理の責任にあたるのが、週番勤務者である。当時の軍隊の週番制度はのちの週番制度とかなりちがっていた。
週番勤務者の最上級者は週番大隊長であった。週番大隊長は在宅勤務で各大隊長が一週間交替で連隊長代理を勤める制度であった。
連隊長が帰宅したあと連隊長にかわって営内勤務をし、連隊管理の責任を負うのは週番中隊長である。週番中隊長は営内宿泊勤務である。週番中隊長の下に各大隊に一人の週番特務曹長がおかれている。週番特務曹長は大隊長帰宅後の大隊管理の責任を負う。
第五中隊の兵卒脱営事件が起きた夜、たまたま第五中隊の中楯特務曹長が第二大隊の週番特務曹長であった。週番特務曹長としての中楯特務曹長は福田大隊長の直接の指揮下にあり、福田大隊長は勤務時間外の大隊管理に関しては中楯特務曹長に直接に指示する立場にある。
中隊長帰宅後の中隊管理の責任者は中隊の週番下士である。大隊の週番特務曹長は各中隊の管理を中隊の週番下士をつうじておこなう。この当時、中隊附の中少尉は週番士官勤務に服することがなかった。
福田大隊長は中楯特務曹長に指示した。
「脱営兵は本夜中に大隊長私宅にくるものと判断される。大隊長はこれより脱営兵のくるを待ち、自宅で待機する。脱営兵が大隊長のもとにきたならば日朝点呼までに帰営させる。脱営事件に関しては大隊長みずから連隊長に報告する。中隊からの報告はしばらく控えおくこと。ただし、早朝にいたるも脱営兵が帰営しないときは、週番中隊長に報告するとともに本官にその旨を報告すること。
要するに朝までにはかならず捜索帰営させるように全力を尽くせ。」
福田少佐は午前三時三十分に自宅にむかった。
脱営兵の目的が大隊長の私宅にあることがわかり捜索範囲はしぼられた。
午前六時三十分、三組の下士斥候が戸山、穏田、代々木、牛込、目白方面に派遣された。しかし、情報はまったくえられなかった。
時間切れとなった。日朝点呼のときに事故人員と事故理由の確認がおこなわれる。事故人員を事故理由ごとに分類した「中隊日報」に記入し、中隊長が署名捺印しなければならない。事故理由の分類表の一項目には「脱走」の二字がくろぐろと印刷され、その欄に人数が記入されるのを待っていた。
午前七時直前に中楯特務曹長は意を決して事件を週番中隊長に報告した。同時に、伝令を派遣してその旨を福田大隊長に報告した。福田大隊長はただちに馬を駆って宇都宮連隊長の私宅に赴き事件の報告をおこなった。週番中隊長は伝令を派遣して週番大隊長に事件を報告した。
第五中隊の兵卒脱営事件は連隊規模の事件に拡大した。
このときの週番大隊長は西郷|寅太郎《とらたろう》少佐であった。西郷隆盛の嗣子である。
明治三十五年、父隆盛の功によって華族に列せられ侯爵を授けられた。隆盛の弟、元帥侯爵西郷|従道《つぐみち》の死の一カ月まえである。明治の元勲として功なり名とげた弟が、賊名こそ除かれたものの非業の死をとげた兄に持参する、いわば冥土のみやげに餞《はなむ》けしたという感じがつよい授爵であった。西郷寅太郎は、大正八年、大佐在任中に病死した。
西郷少佐が麻布市兵衛町の自宅で週番中隊長からの報告を受けとったのは午前七時二十分であった。週番大隊長としての職責上、西郷少佐はただちに出営した。第二大隊の捜索とは別に連隊の将校を何人か、芝、赤坂、麻布方面に派遣して情報を収集させた。午前十時三十分ごろ、西郷少佐は電話をもって旅団司令部および師団司令部に事件発生を報告した。
旅団司令部で西郷少佐の電話をうけたのは副官の是永中尉である。昨夜猪熊中尉と食事をともにしたばかりのところにこの事件発生である。そのときの猪熊の意気銷沈したようすが気にならないでもなかったが、その夜のうちに猪熊が案じていた事故がこんな大事件のかたちで起きるとは、思ってもみなかった。
是永は昨夜の助言がおそすぎたことを悔んだ。というより、陸大の受験勉強にかまけて猪熊がおかれている苦境に気がつかなかった迂闊さに自責の念をおぼえた。
――猪熊は肉体的にも精神的にも疲れ、自信をなくしていた。しかし、猪熊自身の誇りにかけても、おれ以外の誰も猪熊の相談にのってやれる友達はいなかった。そのおれが猪熊の苦しい立場に気がつかなかったため、猪熊は内心のあせりを兵卒にむけて爆発させてしまった。その結果がこの事件だ――
是永は考えた。
――あいつはきかん気の坊ちゃん気質だからな。自分で自分がどうにもならなくなるまで弱音を吐かずに、自分一人でなんとかしようとがんばる。それがかえって裏目にでてしまった。昨夜の話をもう十日も早く聞いていれば……。
それにしても宇都宮連隊長の人事管理は問題だな。矛盾する職責を一人の人間に負わせるような人事は、臨時措置であってもしてはならないものだ――
冷静な是永は人事管理の重要さについての教訓をまなびとった。苦労人の是永はいまこそ自分が猪熊のところに行って元気づけてやりたいと思った。しかし、慎重居士の是永がそれを押しとどめた。
事件が一段落するまで、旅団副官の職にある是永は連隊本部、大隊本部、中隊事務室に顔をだすことを慎まねばならなかった。親友同士の関係とはいえ、いま是永が猪熊に会うことは旅団が連隊に介入したという誤解をうむ恐れがあった。
是永は、第一連隊からの電話報告の内容を依田旅団長に事務的に報告するにとどめた。
師団司令部では、連隊からの電話報告を受けた小泉参謀が橋本勝太郎参謀長に報告した。参謀長の橋本歩兵大佐は田中義一歩兵第三連隊長と士官学校、陸軍大学校の同期、士官学校入校前もともに下士養成機関である教導団の出身という親しい関係にあった。
この事件が田中大佐の第三連隊で起こった事件であれば橋本参謀長ももうすこし慎重であったかもしれない。第一連隊で起こったこの事件を、橋本参謀長は東京憲兵隊に通報するよう機械的に命じた。小泉参謀は命じられたとおりにした。事件は師団の規模を越えた大事件に発展した。
小泉参謀は橋本参謀長の措置に疑問をいだいた。第一連隊の集団脱営事件は脱営の目的が大隊長への直訴であって逃亡ではない。事件はまだ連隊の力で解決可能であった。それに脱営したのは昨夜であり逃亡罪になるまでには十分の時間的余裕があった。憲兵隊に通報するのは早すぎる感じがした。
小泉参謀は、東京憲兵隊が第一連隊の集団脱営事件にかかわることによって、福田狂二逃亡事件の捜査がおろそかになることを恐れた。とにかくやっかいな事件の続発に小泉参謀の神経はいらだった。
――社会主義兵卒逃亡事件で新聞が騒ぎはじめたところに、今度は歩一の集団脱営事件か。福田逃亡事件で新聞記者が憲兵隊に注目しているとき、歩一の集団脱営事件を憲兵隊に通報するとは新聞に事件を教えるようなものだ。参謀長も軽率じゃなかったか。
大事件が一度に二つも外部にもれることによって、「第一師団の醜行」なるものが新聞に書きたてられるだろうな――
福田逃亡事件は三月一日付の『東京二六新聞』がスクープしたばかりであった。
第一師団司令部から通報を受けた東京憲兵隊長安島|政位《まさのり》憲兵少佐は、ただちに上野、新橋、両国、新宿、品川の各駅に憲兵を増派するとともに、市内の警戒を厳重にするように命じた。すでにこれらの駅には福田狂二の東京脱出を防ぐ目的のもとに憲兵を張りこませてあった。
逃亡以来二カ月になろうというのに福田狂二の行方はまったくつかめなかった。憲兵隊は福田がまだ東京に潜伏中と推定し、東京からの脱出行を捕捉しようとして一月二十八日以来、列車の始発駅および品川などの停車駅に張りこみをつづけていた。
偶然ながら、三月二日に福田が大森駅から東京を脱出したことは福田にとってきわどい幸運であった。福田の脱出が二日おくれていたならば、市内に張りめぐらされたきびしい警戒網を突破して大森駅までたどりつけたかどうか。
三月四日、東京憲兵隊の全機能は歩兵第一連隊の集団脱営事件に動員された。そのぶんだけ東京憲兵隊は福田の東京脱出に気がつくのがおくれた。このおくれは決定的であった。福田は三月三日に危険な汽車旅行をおえ、その日のうちに憲兵が福田の消息を追うことが可能な最後の関門である大阪の駅をでて市井に姿を消してしまっていた。
東京憲兵隊の関心がふたたび福田の身辺にもどったとき、福田に関する情報の糸をたぐりよせる手がかりはもはや完全に絶たれてしまっていた。
第一連隊第五中隊は、四日午前十一時、第四回目の捜索隊として伊田中尉を長とする将校斥候一組、下士斥候四組を芝、品川、目黒、渋谷、穏田、千駄ヶ谷、牛込、浅草、洲崎、築地方面に派遣した。あとからみれば、この第四回目の捜索隊が捜索範囲をもっとしぼっていれば脱営兵の集団を発見する可能性がもっとも大きかった。
しかし、集団脱営の目的がわかっていたにもかかわらず、中隊幹部はまだ脱営兵が遊廓にもぐりこむという固定観念から抜けきれなかった。中隊幹部たちには脱営した兵卒たちの気持ちがまったく理解できていなかった。
浅草、洲崎、品川という兵卒たちが平素はまったく足を踏みいれない遊廓のある地域にまで、捜索の網をひろげたため網の目が大きくなりすぎた。またもやなんの成果もえられなかった。
この日、福田大隊長は巡察将校の勤務日にあたっていた。連隊から目黒の陸軍倉庫方面に衛戍《えいじゆ》巡察にでて午前十時三十分に帰営した。福田大隊長は、帰営後、大隊副官代理の渡辺春雄中尉に命じ乗馬をもって主要各駅および吉原遊廓方面の捜索に出発させた。第五中隊の斥候とは別行動である。
渡辺中尉は岡村寧次中尉と士官学校の同期である。
渡辺中尉の任務にも吉原遊廓の捜索があった。
当時の陸軍の隊附将校たちの多くが兵卒をどのようにみていたかが、このことからよくわかる。将校たちには兵卒の志がわかっていなかった。兵卒とは、日常がそうであるように、どんなときにも怠惰で食い物と酒と女にしか関心のない動物であるとかれらは考えていた。
伊田中尉の単独捜索のときの内藤新宿からはじまって、品川、洲崎、吉原と、二廓四宿のうち千住と板橋を除く二廓二宿が捜索の対象とされた。
脱営兵に関する最初の確実な情報は、午前十一時三十分、連隊が派遣した将校によってもたらされた。
「赤坂区新町市民の言によれば、昨夜十時ごろ、三、四十名駈歩にて新町をへて溜池方向に去れり、と。」
情報としては古すぎたが、連隊がつかむことのできた最初の具体的な情報であった。
午後零時二十分、渡辺中尉が新橋駅から電話で報告してきた。各駅に張りこんでいる憲兵からの情報を総合したものである。
「新橋、品川、新宿、上野、両国、の各停車場よりは、脱走兵の乗車せし模様なし。」
これで脱営兵たちが遠距離交通機関を利用していないこと、つまりまだ東京市内または近郊に潜伏中であることがはっきりした。
午後一時、猪熊中尉は新兵をふくめた中隊の全力を捜索に投入した。
入営以来まだ日が浅く第一期検閲を終わっていない新兵はとくに生兵と呼ばれ、一人前の兵卒とみなされない。その生兵のうち東京の地理に明るいもの全員をあつめ、下士および上等兵、勤務に上番中で脱営に参加しなかった二、三年兵の全員とともに捜索班を編成した。
市内および近郊の各部落をしらみつぶしにあたらせようという計画であった。しかし、手がかりはえられなかった。
連隊から派遣した将校が第二報を入れてきた。
「戸山輜重兵第十五大隊まえを、昨夜十一時十分ごろ、三、四十名の一群通過したりとの情報に接す。」
脱営兵たちの供述とは時間がずれている。かれらは午前一時すぎに輜重隊まえを通過したという。人数と道順は合っている。かれらは時計を持っていなかった可能性がつよい。
午後一時三十分、週番大隊長西郷少佐は公文書をもって集団脱営事件の発生を師団司令部と旅団司令部に報告した。
午後四時、渡辺中尉から報告があった。
「吉原方面に脱走兵の行動を認めず。」
これで、脱営兵たちは遊廓などに目もくれていないことが明らかとなった。
旭川の砲兵連隊事件や京都の三十八連隊事件とはまったく質がちがう。一時的な鬱憤ばらしの示威行動ではない。あくまで、捜索、逮捕の手をのがれて大隊長私宅への直訴という初志をつらぬくつもりなのだ。
この目的を達するためにつかのまの自由を享楽することなく極度に禁欲的に行動し、自分たちの足跡を残さないよう万全の注意を払っている。脱営兵たちのかたい団結と決意が福田少佐の胸にこたえた。
――かれらは、昼間、人目につかないところに潜伏して捜索の目をのがれ、夜にはいってから行動を開始して集団直訴を決行するつもりだな。それならば、今夜中に私宅をたずねてくるにちがいない――
福田少佐は判断した。
しかし、一抹の不安があった。
――脱営兵たちも今朝からの捜索網に気がついているはずだ。大隊長の私宅周辺にきびしい警戒網が張りめぐらされていることを感知したならば、かれらは私宅に近よらないであろう――
かれらの素志は、自由意志をもって大隊長に言いたいだけのことを直接に言うことにあった。囚われの身となって取調べというかたちをとった状況のなかで発言することは、その本来の志ではない。
兵卒たちは合法的な手続を踏んで中隊幹部に訴えでて拒否されたとき以後、軍隊内の規則や手続などというものをいっさい信じなくなっている。取調べという形式のなかでかれら自身の言いたいことを言わせてもらえるかどうか、それさえも信じていない。
大隊長の私宅つまり兵営の秩序の外で、直接に大隊長に訴えることがかれらの唯一の目的であった。それだけにこわいことは、かれらが目的を達成できないと判断したとき、三十二名の集団が解散しバラバラになって逃亡することであった。
脱営兵たちが大隊長の私宅にくることが確実ならば、いっさいの捜索を中止してかれらが私宅に来やすいようにしておいた方がよい。しかし、脱営兵たちが捜索に危険を感じているとすれば、直訴を断念して四散するまえに捕えなければならない。
判断のむつかしい問題であった。とくに捜索中止に賭けることは、万一判断があやまっていたばあい重大な責任問題となる。福田大隊長は迷った。
ただ、集団直訴を決行するにしても集団を解散して自由行動に移るにしても、脱営兵たちが行動を起こすのは暗くなってからである。これだけ慎重に行動している脱営兵たちが明るいうちに行動を起こすことは、まずありえなかった。
――日が暮れるまえにもう一度だけ捜索隊をだしてみよう――
福田大隊長は決心した。
福田大隊長は椅子から立ちあがった。週番特務曹長の中楯に指示した。
「第五中隊を除く各中隊から将校斥候要員をだすように伝えよ。各中隊から少尉各一名、別に第六中隊から特務曹長一名、合計四名だ。将校斥候要員はただちに大隊長のもとに集合。」
まもなく、阿南惟幾《あなみこれちか》少尉、藤田徳治少尉、湯浅政雄少尉、船橋特務曹長の四名が集合した。
福田大隊長は口頭で命令を下達した。
「第五中隊の脱営兵全員の行動は不明なるも、なお集団行動をとりつつあるもののごとし。脱営兵の集団は夜暗に乗じて大隊長私宅にむけて行動を開始すべく、市内もしくはその近郊に潜伏し行動開始の時機を待ちつつあるものと判断す。
阿南少尉以下四名はそれぞれ将校斥候となり、各部下若干名をひきいて脱営兵の潜伏位置を捜索すべし。脱営兵の潜伏位置を発見せば、厳重に監視するとともにただちにもよりの電話にて大隊長に報告し、指示を仰ぐべし。斥候の兵力は斥候長に一任するも十名をくだらざる兵力とすべし。
阿南少尉は、雑司《ぞうし》ヶ谷《や》、板橋付近、
藤田少尉は、上落合、新井《あらい》薬師、中野付近、
船橋特務曹長は、護国寺、王子付近、
湯浅少尉は、大久保、高田付近、
をそれぞれ捜索すべし。
捜索は午後六時をもって打ち切り帰営すべし。
余は第五中隊事務室にあり。」
阿南少尉が命令を復唱した。このころの陸軍は二十四時間表示を使っていない。
福田大隊長は念のためにつけくわえた。
「脱営兵を発見したときはなるべく温和な態度でこれに接し、脱営兵に抵抗もしくは逃亡の意を激発せしめないように、とくに注意せよ。脱営兵が斥候に危害をくわえる危険が急迫しないかぎり武器の使用を禁ずる。
脱営兵との会話、談笑は、脱営兵の動揺、不安、敵意を解消せしむるに有効なりと判断したときは、これを活用するも可である。」
武器といっても実弾は携帯していない。
命令を受けた四名はただちに行動を開始した。
福田大隊長の意図は命令のなかにはっきりあらわれていた。
福田大隊長は将校斥候の捜索範囲のなかから、故意に千駄ヶ谷町、渋谷村、代々木村とその周辺を除外している。除外された地域は脱営兵潜伏の可能性がもっとも大きい地域である。
福田大隊長が将校斥候を派遣した目的は、脱営兵の集団を逮捕することよりも四散防止にあった。
事件発生の報告を受けて出営した宇都宮連隊長は、脱営兵捜索の指揮をもっぱら週番大隊長の西郷少佐にまかせ連隊長室にこもっていた。連隊長として事件の対策を考えなければならなかった。
事件の報告を聞いたとき、宇都宮連隊長はしまった≠ニ思った。連隊長の大きな手ぬかりであった。第五中隊が連隊最難治の中隊であることは宇都宮も着任後まもなく聞かされていた。
中隊長の北川大尉が病気で休職となったとき、すぐに手を打つべきであった。新兵舎が完成して第五中隊の兵舎がひとつにまとまり、その統率もよほど条件がよくなったと思って放置しておいたのがまちがいであった。
猪熊中尉については宇都宮連隊長はその将来を買っていた。元気のよい、はりきった、明朗な青年将校であり部下の統率力もあると評価していた。しかし、事件が起こったいま、宇都宮連隊長は重大な見落しをしていたことに気がついた。
猪熊中尉は士官学校を卒業して見習士官のときに動員下令となり、戦場生活をつづけ、中尉になってから凱旋した。平時の初級将校がたどるべき軍隊教育の初等教育者としての経験をまったく持っていなかった。訓練ずみの兵卒を指揮してたたかうことだけしか知らなかった。
平時であれば、新任少尉はまず新兵教育掛の教官として軍隊をまったく知らない青年たちを教育することから将校としての第一歩を踏みだす。そこで軍隊教育というものが根気のいる仕事であることを認識する。身分は将校の教官でも、助教であるベテランの下士や実技のうまい助手の上等兵に、実力でかなわないこともおぼえる。
猪熊にはその経験がなかった。凱旋して平時の連隊にもどったとき、猪熊は最初から中隊のどの青年将校や下士よりもベテランであった。しかも、戦場以外の世間というものをまるで知らなかった。とくに平時の兵卒の心理を理解する能力に欠けていた。
猪熊の経験のかたよりに気づかなかったのは、日露戦争の戦場にでる機会がなかった宇都宮の盲点であった。
――やはり、第五中隊の中隊長をしかるべき人材で補充しておくべきであった――
宇都宮はほぞを噛む思いであった。自分の人事の不手際が有為の青年将校一人の将来を奪うことになるかもしれないと思うと、宇都宮は自責の念に駆られた。
陸軍部内の閥外の人材をあつめて新勢力をきずきあげようという野心を持つ宇都宮にとって、人事の失敗は命取りになりかねない。宇都宮は、二重の意味で、窮地におちいった猪熊を救わなければならなかった。
第一に、宇都宮のもとにあつまっている若い将校たちの信頼を裏切らないために。この事件で猪熊が犠牲とされるようなことになったら、宇都宮のもとにあつまっている将校たちは宇都宮の高級管理職としての力量に疑問を持つようになる。そうなれば宇都宮の野心はすべてが水泡に帰する。
第二に、部下将校団にたいする統率力の有無で評価される連隊長の業績に傷をつけないために。事件は猪熊中尉の経歴上だけでなく、連隊将校団の教育、管理の責任を負う連隊長の業績についても大きな失点となる。その結果は宇都宮個人の保身上の問題にとどまらない。連隊将校団の団結に取り返しのつかないひびをいれる結果となる。
起きたことはしかたがない。損害を最低に食いとめることができるかどうかが、不利な状況に立ちいたったときの軍人の正念場である。
それには事件をできるだけ単純な小事件にしてしまうことであった。ちょっとした誤解にもとづく偶発的で単純な事件として処理することが最善の策であった。脱営した兵卒たちのためにもその方が有利であった。
事件を複雑な大事件としてしまうか単純な小事件で終わらせてしまうかは、社会的な波紋の大小による。社会的な波紋の大小は新聞報道のあり方に大きく左右される。そのよい例が、あれだけ秘密にしてきた福田狂二逃亡事件がついに新聞にもれ、スキャンダラスな事件としてセンセーショナルに報道されたことであった。
現在の新聞とちがって明治後半期の新聞は、現在のテレビや週刊誌なみに、センセーショナリズムとスキャンダリズムの傾向がつよかった。新聞が騒げば陸軍省は黙殺するわけにいかなくなる。陸軍省が乗りだせば事件は大きくなり、事件の原因究明は大がかりとなり、原因はより複雑なところに求められるようになる。当然、各級管理職の責任問題もうるさくなる。
宇都宮は世論が力を持つイギリス駐在武官の経験が長い。新聞が作りだす世論について、他の視野のせまい軍人たちとくらべれば格段に深い認識を持っていた。
――先手を打って記者会見をし、こちらから事件の内容を発表してしまうことだ。連隊の方から新聞の取材に協力的なことを示せば、新聞は連隊をわるくは書かないものだ。記者会見では、連隊長が平静かついさぎよく自分が全責任を負うことを明らかにすることだ――
宇都宮は新聞を敵にまわさないこと、できれば味方につけることが重要だと判断した。
福田狂二逃亡事件の取材で東京憲兵隊にあつまっていた新聞記者たちが、第一連隊の集団脱営事件の通報を聞いて連隊の表門に押しかけた。記者たちは連隊長に面会を求めた。報告を受けた宇都宮連隊長は、記者たちを連隊本部に案内するように連隊副官に命じた。
記者たちは連隊本部の一室に案内された。陸軍の軍隊としては異例のことであった。宇都宮は記者たちのまえにでて、おだやかにこれまでの経過を発表し所感をのべた。
「今回の事件は中隊長代理にたいする不満が原因で起きたとの報告がありました。しかし、要するに、中隊長は連隊長の方針にもとづいて兵卒を訓練しています。したがって、その責任は中隊長にではなく連隊長にあります。連隊長としてはまことに申し訳ないものと考えています。」
「脱走した兵卒の処分について、どんな方針で臨むつもりですか。」
記者の一人から質問がでた。
「何分にもまだ兵卒が帰営いたしませんので、はっきりしたことは申しあげられません。ただ、現在の状況から申しあげれば、事件は二日間の脱営でありまして逃亡罪にふれることはありません。たんなる脱営ならば懲罰処分は隊長の権限であります。兵卒の心情をよく汲みとって、できるだけ穏便に取り計らいたいと考えます。
しかし、徒党を組んだということで、懲罰処分ではすまない兵卒も一、二でてくるかと思います。私としては、責任は兵卒にもあらず将校にもあらず、まったく自分の不行届のいたすところと考えますので、私の懲罰権を越える兵卒については上司の寛大な御処置を嘆願するしだいであります。」
連隊副官が顔をだした。
「連隊長殿。旅団長閣下がお呼びであります。」
宇都宮は席を立った。
「ちょっと旅団司令部まで行ってまいります。その間、西郷少佐が皆さんのお相手をします。お役に立ちそうな情報がはいりしだい発表いたします。兵卒たちが帰営するまでここでお待ちになって結構です。私は用ずみしだいもどってまいります。」
連隊が師団司令部に提出した「本月三日第五中隊兵卒脱営事件顛末概要」のなかに、連隊の新聞記者にたいする対応がしるされている。
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五、各新聞社 いずれよりか該事件を伝聞し、ぞくぞくきたりてその情報を求む。よって、これを新聞に掲載するもさしつかえなく、またやむをえざるものと認めたる範囲内において、これを各社に知らしめたり。
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新聞記者の要求にたいして、連隊側が積極的に情報の提供に応じたのであった。
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十六 武蔵野
明治時代の武蔵野といえば国木田独歩を思いだす。独歩が『武蔵野』を発表したのは明治三十一年である。そのころの武蔵野は東京の中心から遠くなかった。
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僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかしこれは無論|省《はぶ》かなくてはならぬ、(中略)しかしその市の尽くるところ、すなわち町外れは必ず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描くには必ずこの町外れを一の題目とせねばならぬと思う。例えば君が住まわれた渋谷の道玄坂の近傍、目黒の行人坂《ぎようにんざか》、また君と僕と散歩した事の多い早稲田の鬼子母神辺《きしもじんあたり》の町、新宿、白金《しろがね》……
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独歩の『武蔵野』の時代の東京の町と武蔵野の接点は、だいたい、山の手線の内外の線であった。それから十年のち、東京の町に押されて武蔵野はやや後退した。その後退はふたつの鉄道が交差する新宿を中心に起こっていた。白柳秀湖は著書『離愁』について書いている。
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小生郊外に移りてより、早稲田に通うに目黒より目白まで毎日汽車の便により申し候。そのころ山の手線はまだ単線にて、列車の数も少なく、各駅の停車時間長きが上に、列車の遅延はなはだしきため、自然、少なからざる時間を、さびしき西郊の小駅に、ひとり思い暮し候。二三年以来は電車の延長とともに、都市も山の手の場末にむかって膨脹するようになり候えども、以前この山の手線はまったく忘られたる線路にて、むさし野の黒土の臭を浴びたる近郊の農夫の外は来客もなく、雨さみしき日などはそれも皆無なりしため、小生はここに静かなる瞑想の時間をえて、ベンチにより、玻璃《はり》の小窓にうちふし、燃ゆるがごとき情熱を自然と人生に馳せ候。
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山の手線の上野・大崎間の複線化が完成したのは明治三十九年十月であった。甲武鉄道の飯田町・中野間の電車運転が開始されたのは明治三十七年八月であった。山の手線の電車運転開始は明治四十二年十二月である。
白柳がこの文章を書いたのは明治四十年十月である。そのころ山の手線はまだ蒸気機関車による列車運転であり、東京が郊外の武蔵野に広がりつつあったのは、主として甲武鉄道が国有化された中央線の沿線と、兵営が林立しはじめた渋谷・世田谷方面であった。
そのころの山の手線には、品川、大崎、目黒、恵比寿《えびす》、渋谷、原宿、新宿、目白、池袋、大塚、巣鴨、田端の各駅が開設されていた。新宿・目白間の駅の間隔が長い。両駅のあいだは戸山ヶ原という広大な陸軍の演習場によって、都市東京の膨脹がはばまれていた地域であった。
戸山ヶ原から西の方は、独歩のいう「町外れ」としての武蔵野のおもかげが明治末年まで、もっともよく残されていた。
夏目漱石が『三四郎』を発表したのは明治四十一年である。三四郎も日露戦争後の武蔵野を歩いた。
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今度大久保へ行って緩《ゆつ》くり話せば、名前も素性《すじよう》も大抵は解る事だから、焦《せ》かずに引き取った。そうして、ふわふわして諸方《ほうぼう》歩いている。田端だの、道灌山だの、染井の墓地だの、巣鴨の監獄だの、護国寺だの、――三四郎は新井の薬師までも行った。新井の薬師の帰りに、大久保へ出て野々宮君の家へ廻ろうと思ったら、落合の火葬場《やきば》の辺で途《みち》を間違えて、高田へ出たので、目白から汽車へ乗って帰った。
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新井薬師は中野駅の北約一キロにあり、別名を子育《こそだて》薬師≠ニもいう。眼病にも霊験があると伝えられ庶民の信仰をあつめていた。落合の火葬場は、現在の新宿区が西北に大きく張りだした部分のいちばん西南のはし、中野区上高田に食いこむように突きだした先端にある。まわりの上高田にはお寺が密集している。
戸山ヶ原の東のはし、戸山ヶ原の西のはし、落合の火葬場、新井薬師、この四つの地点は、ほぼ等間隔で東西に並んでいる。その戸山ヶ原につづく中野台地の北側、落合台地とのあいだを西から東へ妙正寺川《みようしようじがわ》が流れ、川ぞいの低地に水田が開かれていた。戸山ヶ原の西のはしをかすめるように南から北に旧神田|上水《じようすい》が流れて妙正寺川に合流し、神田川となる。
戸山ヶ原は山の手線の線路をはさんでひろがっていた。線路の東側は射撃場と平坦な練兵場になっていた。線路の西側は、櫟林《くぬぎばやし》と草地のいりまじった起伏のある地形の演習場であった。
三月の武蔵野の夜は寒い。三十二名の脱営兵たちは六百メートル射※[#「土+朶」、unicode579c]の監的壕のなかに身をひそめていた。うずくまっているものもあり、壕壁に身をもたせかけているものもあった。眠っているものはほとんどいなかった。
「銀木。」
佐野が低い声で呼んだ。
佐野の近くにうずくまり、膝をだいて顔を伏せていた銀木が顔をあげて佐野の方をむいた。
壕内で喫煙中の煙草の火が、二、三、赤く光り、周辺をうすぼんやりと照らした。
「明日はどう行動する?」
銀木の頭のなかには、もう夜明け後の行動計画がえがかれていたようである。
「脱営したときとおなじさ。まず山の手線の外側を北に進む。それから西にまがって、たんぼと台地のあいだの林のなかを西に進む。南にまがって、だいたい落合の火葬場と新井薬師のあいだ、まん中くらいをとおって鉄道線路と青梅街道を越える。
これくらい大まわりをすれば大丈夫だろう。
いちばんあぶないのは甲州街道だ。どこまで捜索の手が伸びているか見当がつかん。連隊はおれたちが大隊長の家をめざしていることを知っているから、北は甲州街道、南は大山街道に沿って警戒線を伸ばしているだろう。甲州街道はできるだけ西に迂回して越える。あとは渋谷村をめざす。
渋谷村あたりで隠れて斥候をだし、大隊長の家を探す。これは昼間のうちにやっておかなきゃならん。捜索隊に見つかる恐れが大きいが、しょうがない。とにかく、昼間のうちに大隊長の家を探しておいて、夜になってからみんなで行動開始だ。
ゆうべとは反対の方向から大隊長の家に近づく。それしかないな。ただ、なんとか大隊長の家にたどりつけても、おれたちを捜索するために大隊長が連隊につめて留守だと困るな。」
佐野が大胆なことを口にした。
「大隊長の家に手紙をだすんだ。夜、おれたちがきっと行くとな。」
「とどくかな?」
銀木が首をかしげた。
「斥候にださせる。大隊長の家を見つけたらすぐに、いちばん近い郵便箱からだす。そうすればまにあう。
それに、大隊長の家のすぐそばからだしたことがわかれば、おれたちが大隊長の家の近くにいると思ってその付近ばかりを探すだろう。安全に隠れるのにも役にたつ。」
「ウーン、ちょっとあぶねえが、やってみるか。そうなると、昼間の隠れ場所をうまく探さなきゃならんな。
いまはいいが、朝、明るくなるとここはあぶねえ。いつ、どこの部隊が演習をはじめねえともかぎらんしな。ここは射撃場だし、銃を持たねえで歩一の兵隊が戸山ヶ原なんかをうろついていたら、あやしまれるからな。
朝の出発はできるだけ早い方がいい。明るくなるまえに射撃場からはなれるんだ。そうなると、渋谷あたりでの隠れ場所はよほどいい場所を探さなきゃならねえな。隠れる時間が長くなる。」
銀木は、大山街道あたりの地理を頭に思いうかべているようすであった。
「よし、明日は明るくなるまえに出発だ。
しかし、銀木、おまえはよくまあ道にくわしいな。」
「育ちだよ。」
銀木は、ちょっと、しんみりした口調で言った。
「さっき鮫ヶ橋をとおっただろう。おれは親父の顔を知らなくてな。お袋はおれが生まれてすぐ親父は死んだというが、それも本当かどうか……。とにかく、おれは鮫ヶ橋で第一連隊や士官学校の残飯を食ってそだったんだ。メンコの数じゃ誰にも負けねえってことになるな。
お袋はよいとまけ≠フ人足さ。おれは餓鬼のときからお江戸の町を納豆売りよ。いやでもお江戸の町なかはおぼえてしまうさ。
おれが一人まえに働けるようになって、やっと鮫ヶ橋をでた。もっとも、長屋暮しで鮫ヶ橋とあんまりかわりばえしねえがな。ただ、残飯とは縁が切れた。
仕事はおきまりの車夫とくりゃ、こいつは道をおぼえるのが商売みてえなものさ。わけえし、脚はつええし、稼ぎはわるくねえとくりゃ、まあ、まっとうな、とまではいかねえにしてもお袋と二人、なんとか暮しはたつもんさ。
お袋も外にはでずに内職ですむようになったし、安心したせいかめっきり弱って、おれが兵隊にとられるまえにポックリいっちまった。だから、おれは気楽といえば気楽なもんだが……。」
銀木はちょっとためらったが、話をつづけた。
「実はな。猪熊中尉にしごかれながらの兵隊暮しも、おれにはそんなにわるいもんじゃなかった。字せえ書けりゃ下士を志願しようかと思ったくれえなもんだ。」
「すまんな。そんなお前まで引きずりこんで……。」
「そんなこたあねえさ。言いだしたのは、どっちかといや、おれの方だ。おれは、猪熊中尉の浮世の苦労知らずの強がりに腹がたったのさ。戦争で苦労はしたかもしらんが、どだい将校の苦労なんて知れたもんさ。生きるために食う苦労にくらべりゃな。
あいつにはそれがわかってねえんだ。戦争で死んでも将校さまの家族は困らねえ。たっぷり金がもらえるからな。
兵隊ときたら戦争に引っぱられただけで一家食いあげだ。将校さまは戦争のあいだ給金をもらえるけど、兵卒は兵隊にとられた日から稼ぎがなくなる。そういうことも考えねえで、なにかといや戦場では≠ニくりゃ、世の中そんなにあめえもんじゃねえってことを思い知らせてやりたくなるさ。」
銀木は思いのたけをしゃべった。
佐野は、いままで二年以上の付き合いをつうじて、銀木が自分のことについて話すのを聞いたことがなかった。酒を飲めば陽気なおどけ役を買ってでる銀木を、すこしばかり軽率な江戸ッ子だとばかり思っていた。
「それに同年兵の付き合いってこともあらぁな。どうせ車夫ふぜいには、罪だの罰だのあってもなくても、生きていくのに関係ねえさ。」
「こんどの罪はおれひとりでかぶるよ。山王社で岩崎から指揮をとってくれとたのまれたとき、おれはその覚悟をしたんだ。おれが猪熊と無理心中するってな。」
「おまえだっていい腕した職人だろう。もってえねえよ。」
「ただな、岩崎と宮下の監獄行きだけはなんとかくいとめてえ。岩崎は学があるのに前科がつくと、これからさきの職にさしつかえる。宮下は女房持ちだからな。
おれはひとりもんだし気楽なもんさ。裟婆にでりゃ腕一本で食っていけるし。」
「おれだっておんなじさ。脚一本――じゃねえ、脚は二本なきゃ走れねえか。」
銀木は、しめっぽくなってきた二人のボソボソ話をとくいの冗談で終わらせた。
ほとんど眠るひまもなく東の空がしらみはじめた。
佐野は立ちあがってみんなに声をかけた。
「そろそろでかけるぞ。隊形、先頭は昨日とおなじだ。銀木、道をたのむ。」
射※[#「土+朶」、unicode579c]の監的壕をでた兵卒の一行は山の手線の線路を越えた。北に進んで戸山ヶ原をでて戸塚にいり、さらに北に進むと道はくだりとなり、神田川のほとりにでた。妙正寺川と旧神田上水との合流点のすぐ下に田島橋がかかっている。
田島橋を渡ると、妙正寺川沿いの谷津田《やつだ》をはさんで落合台地の南斜面がつづいている。斜面はかなりの急傾斜で樹林におおわれていた。谷津田ぞいに川の上流にむかって樹林の縁を兵卒たちは西にたどり、落合橋で妙正寺川の対岸に移った。
この日、兵卒たちの行動を監視の目から守ってくれたのは武蔵野の地形と道であった。独歩の『武蔵野』は書いている。
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武蔵野には決して禿山《はげやま》はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。それも外見には一面の平原のようで、むしろ高台のところどころが低く窪んで小さな浅い谷をなしているといった方が適当であろう。この谷の底は大概水田である。畑はおもに高台にある、高台は林と畑とでさまざまの区画をなしている。畑はすなわち野である。されば林とても数里にわたるものなく否、恐らく一里にわたるものもあるまい、畑とても一眸《いちぼう》数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃《いつけい》の畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在してさらにこれを分割している。すなわち野やら林やら、たゞ乱雑に入り組んでいて、たちまち林に入るかと思えば、たちまち野に出るというようなふうである。
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兵卒たちは複雑な地形と地物にたすけられただけでない。武蔵野のよさは水にあった。台地の南側が急斜面となっておちこみ谷津をかたちづくっているところに、関東ローム層の下から礫層《れきそう》が露出した場所があり、そこにかならず小さな湧水源があった。
昨夜からの強行軍の連続で、兵卒たちはなによりも水がありがたかった。つめたい水で顔を洗い、のどをうるおした。
落合の火葬場の北で兵卒たちは妙正寺川の谷津からはなれ、南に道をとって中野の台地にあがった。火葬場と新井薬師とのちょうどまん中あたりを抜けてそのまま南にさがり、柏木《かしわぎ》駅――現在の東中野駅――と中野駅とのあいだで中央線の鉄道線路を越えた。
『三四郎』の主人公が新井薬師から道に迷って落合から高田に抜けたのと、ほぼ逆の道をたどったことになる。
武蔵野の複雑な地形と植生のあいだを縫って、道は武蔵野に独特の走り方をしていた。それは他の野の道とちがっていた。その特徴を独歩がえがいている。
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武蔵野の路はこれとは異なり、相あわんとて往くとてもあいそこね、相避けんとて歩むも林の回り角で突然出あう事があろう。されば路という路、右にめぐり左に転じ、林を貫き、野を横ぎり、まっすぐなること鉄道線路のごときかと思えば、東よりすゝみてまた東にかえるような迂回の路もあり、林にかくれ、谷にかくれ、野に現われ、また林にかくれ、野原の路のようによく遠くの別路ゆく人影を見ることは容易でない。しかし野原の径《こみち》の想いにもまして、武蔵野の路にはいみじき実《じつ》がある。
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火葬場や新井薬師は車夫のかよいなれた道であるが、昼間は人目につきやすい。銀木は、夜が明けはなれたころから一行を脇道にみちびいた。
兵卒たちは地図を読めなくとも、地形を見る目を持っている。地形を見ることに得意でなくとも、地物をたくみに利用するすべを知っている。植生や微妙な土地の高低を利用し、林間の小径をぬけ、水田の縁辺をたどり、人目をさけて南に進んだ。
青梅街道をどの付近で越えたか、記録はさだかでない。兵卒たちはおそらく、中野町の西側で人家のとぎれた場所を選んで街道を越えた。しかし、かれらはその地名を明示することができなかった。
脱営兵の一行は甲州街道の横断にもっとも神経を使った。最大の危険がそこに待ちうけていると予想されたからである。かれらは幡《はた》ヶ谷《や》の部落の西側をへて新上水《しんじようすい》を渡り、林のなかを横ぎっている甲州街道を越え、玉川上水を渡っていっきょに南にくだった。さいわいなことに、連隊の捜索の手は幡ヶ谷までは伸びていなかった。
そのまま南にくだると駒場の東京帝国大学農科大学である。いまだに昔の名称である駒場の農学校と言いならわされていた。脱営兵たちは農学校の敷地に沿って東にむかい、駒場台地と代々木台地とのあいだを流れる小川、河骨川《こうほねがわ》を水無橋《みなせばし》で越え、「渋谷村の南端水田出口」というが、正確には上渋谷の南端に到着した。午前十時ごろであった。
河骨川は、代々幡《よよはた》村山谷に広大な屋敷を持つ旧土佐藩主山内侯爵家の屋敷内の湧水を源とし、だいたい現在の代々木公園の西側ぞいに流れ、NHK放送センターのまえをへて宇田川に合流していた。明治四十一年に国文学者高野|辰之《たつゆき》が中山谷に引越してき、この小川のほとりを散歩することをこのみ、小学唱歌「春の小川」が生まれる。
脱営兵たちは代々木台地が渋谷の水田に落ちこむ斜面の林のなかに潜伏した。潜伏先の林の位置は、道玄坂が山の手線の踏切りを越えるてまえ約百メートルの三叉路の北側の斜面と記録されている。現在の渋谷の繁華街である公園通りを区役所の方からくだってきた坂の下から、宇田川町よりの方にかけての場所ということになる。
このかいわいは、青山練兵場とそれをかこむ兵営群、駒場練兵場とそれをかこむ兵営群にはさまれた位置にあり、軍隊の野外演習は日常的なものとなっていた。兵卒の小部隊が林のなかにひそんでいたからといって、それをあやしむ住民はなかった。
ひと休みしたのち、佐野一等卒は、岩崎一等卒に大隊長の私宅あての手紙を書くことをたのんだ。岩崎一等卒は近くの農家に行って紙と封筒と切手をゆずりうけ、鉛筆で手紙を書いた。
岩崎はわざと農家の主人に見えるように、まず封筒のおもてに大きな字で「千駄ヶ谷町字穏田四番地 福田栄太郎少佐殿」と書いた。農家の主人はそれを見て兵卒が上官に出す手紙であることを知り、不審の念を払いさったようであった。岩崎はおもむろに手紙の本文を書きはじめた。
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前略、今回第五中隊二、三年兵三十二名共同にて昨夜脱営|仕《つかまつ》り候。福田大隊長に対し奉りては何とも申訳ござなく候。此度の事件に付きましては深き次第がこれあり、よって早速隊長殿の御宅をお訪ね仕り、拝顔の上お話致すべくと存じ候処、夜間のこととて不明に付き、残念ながら意をはたさず、よって今夜参上仕りお願い申しあげ候。まずは取りあえず御一報まで申しあげ候。
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三月四日
福田大隊長殿
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[#地付き]第五中隊二、三年兵より
午前十一時ごろ、岩崎と宮下の二人が斥侯となって大隊長の私宅を探しに出発した。二人は潜伏先の林をでて南に進み、道玄坂下鉄道踏切りの西約百メートルの三叉路にでた。新町道――ほぼ現在の公園通り――が大山街道の道玄坂のてまえから分かれている地点である。
二人は踏切りを越え、そのまま宮益坂《みやますざか》をのぼった。宮益坂の途中、青山七丁目の市内電車終点から約七百メートル西側の地点に郵便局がありポストがあった。いまの渋谷郵便局である。岩崎はさきほど書いた大隊長への手紙をポストに投函した。
宮益坂をのぼりつめると青山七丁目の電車の終点である。電車の終点は青山南七丁目の青山学院の前であった。
青山学院の西側、宮益坂をへだてた青山北七丁目の土地は、宮内省の渋谷御料地であった。北海道開拓を目的とした開拓使農業試験場の跡であり、皇族の梨本宮《なしもとのみや》邸建設用地となっていた。青山北六丁目の青山通りぞいに電車の車庫があった。車庫の東側をはいると、その裏はもう穏田であった。
二人の斥候の予想に反して穏田付近には警戒線が張られている気配はなかった。
おなじ午前十一時、第五中隊は第四回の捜索隊として四組の斥候を出発させていた。その捜索範囲のなかには穏田付近もふくまれていた。このときが捜索隊による脱営兵発見の最大のチャンスであった。
しかし、捜索の網は遊廓や歓楽街にまで広げられ、その網目が荒くなった。捜索隊は、二時間以上も昼間の穏田を歩いていた岩崎らを見のがしてしまった。
大隊はまだ渡辺副官代理ひとりだけを捜索にだしていた段階であった。脱営兵の綿密な情勢の予測にもとづく行動にたいして、連隊側の対応は決定的に立ちおくれていた。二人の斥候は大隊長の私宅の位置を探し、午後一時ごろ私宅を発見することに成功した。
大隊長の私宅は大山元帥邸のすぐ隣接地にあった。その位置は現在の表参道――もちろん当時この道はない――ぞいの原宿にむかって左側、神宮前五丁目の中心会館あたりになる。
岩崎と宮下を大隊長の私宅探しの斥候にだしたあと、脱営兵の一行は渋谷の水田に面した林のなかにひそみつづけた。みんな寝不足であり空腹であったが、緊張がそれを感じさせなかった。風のつよい日であったが、南むきの斜面の林のなかはあたたかかった。
銀木が佐野に提案した。
「日は長い。交替で歩哨を立て、日暮れまでみんなゆっくり眠った方がいいんじゃないか。」
「そうするか。岩崎と宮下が帰ってくるまではおれが歩哨に立つ。みんな、いまのうちに眠っておけよ。」
「おれも岩崎たちの帰りを待つ。」
佐野と銀木は、岩崎たちが帰るまで歩哨に立つことにした。
三月の武蔵野の林はそろそろ木瓜《ぼけ》の花が咲きそめる季節であった。田のあぜの枯れ草のあいだにも萌葱《もえぎ》色がまじりはじめていた。まだ芽ぶきをみせていない木の間もれのめっきり春らしくなってきた日ざしが、さすがに寝不足の兵卒たちの眠気を誘ったようであった。
歩哨の佐野と銀木にすべてをまかせたかのように、他の兵卒たちはしばしのまどろみをたのしんだ。
空腹を満たす方法は考えられなかった。
演習中の兵卒が上官の目を盗んで店で食い物を買う習慣は、ないわけでもなかった。もちろん、見つかればひどく叱られる。ひごろの演習中のばあいには、殴られることを覚悟の上での買い食いも兵卒の楽しみのひとつであった。
しかし、このばあい、そのひそやかな楽しみに倣うことも危険であった。脱営兵たちが空腹に堪えかねてなにか食い物を手にいれようとするだろうということくらいは、捜索隊の方でも目をつけているにちがいなかった。このさい、空腹だけはがまんするよりほかになかった。
岩崎と宮下がみんなのところに帰ってきたのは午後二時半ごろであった。大隊長の私宅の場所を確認したという報告にみんなは勇気づけられた。あとは何時に行動を開始するかが問題であった。薄暮《はくぼ》は午後五時半ごろからである。あせってはならなかった。
脱営兵たちは午後五時過ぎまで林のなかから動かなかった。早朝からの長距離の行軍にくわえて、すでに日が長くなった春の日暮れまでの長い時間をかれらは空腹に堪えて潜伏しつづけた。初志を貫徹しようというおそるべき執念であった。
第五中隊からの最後の捜索隊が、午後六時に穏田の大隊長私宅とその周辺に派遣されたが、脱営兵の消息についての情報はえられなかった。この下士を隊長とする捜索隊が帰営したのは午後十時であったというから、本気で捜索にあたったのかどうか疑わしい。
午後六時十分、岩崎が投函した手紙が大隊長の私宅にとどいた。封筒の消印には「武蔵渋谷明治四十一年三月四日二便」とあった。手紙はそのまま私宅から、連隊にいる大隊長にとどけられた。手紙を読んだ福田大隊長はただちにいっさいの捜索を一時中止するように命令をくだした。
福田大隊長は宇都宮連隊長に脱営兵からの手紙の件を報告し、脱営兵を私宅で待つためにいそぎ帰宅した。
宇都宮連隊長は記者団のまえに姿をあらわした。
「みなさん、ただいま脱営隊から大隊長あてに手紙がきたそうです。脱営隊は今夜中には一同そろって帰営するでしょう。もはや大丈夫です。それでは、私は帰営する脱営隊の受入れの仕事がありますので、失礼させていただきます。」
宇都宮は鄭重な言いまわしで発表したのち、部屋を去った。宇都宮が記者団にたいして、わざわざ「脱営隊」という表現を使ったのが、記者たちの印象に残った。あたかも連隊が編成した部隊ででもあるかのような表現であった。
宇都宮連隊長は念のため、連隊から将校、下士を数名、福田大隊長の私宅に派遣した。
三十二名の脱営兵は午後六時五十分に福田大隊長の私宅に到着し、大隊長の帰宅を待った。福田大隊長は午後七時十分に自宅に帰りついた。脱営兵たちは福田大隊長に猪熊中隊長代理の兵卒虐待の事実を直訴した。その内容は前夜の内田一等卒ら五名の直訴の内容とほぼおなじであった。
福田大隊長は脱営兵たちの話を聞いてやり、その上で帰営するように一同をさとした。目的を達した以上、三十二名の脱営兵は帰営することに不満の態度はなかった。福田大隊長の引率のもとに三十二名の脱営兵は連隊にむかった。三月六日付『東京日日新聞』は脱営兵の帰営を目撃した記事をのせている。
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△隊伍を整えて帰る 一昨夜八時過ぐるころの脱営隊は、福田大隊長の宅に来りつぶさに事情を陳述したるが、とにかくここにては如何《いかん》ともなし難ければ一応帰営せよと懇《ねんごろ》に諭しければ、一同は唯々《いい》として大隊長以下連隊より特派せられし将校下士等に従い、その隊伍粛々として帰営したるが、更に不穏の色なくきわめて静粛に連隊長の命を待ち居たり。やがて大隊長は一応の取調べをなして一同を仮営倉にいれ、夜の明くるを待って一々|訊問《じんもん》を始めたるが、昨日中には未だ処分の運びに至らざりき。
△脱営兵の謹慎 中隊長の所為にあきたらずとして脱営したる一同は、即《ただち》に大隊長に面して精細に陳述したればもはや遺憾とする所なし、ただこの上は謹しんで軍規にふれたる罪を待つのほかなしとて至極静粛に待命し、発企者等の訊問に対してはいずれも緘黙《かんもく》して語らざる由。
[#ここで字下げ終わり]
福田大隊長が三十二名の脱営兵を引率して帰営したのは午後八時二十分であった。制度上、脱営兵はすぐに中隊に引き渡された。中隊では一応の取調べをおこなったのち、午後十時四十分、一同を仮営倉に収容した。
この中隊による取調べの内容が三月五日付の『歩兵第一連隊「本月三日第五中隊兵卒脱営事件顛末概要」』という書類となって、旅団長および師団長に報告された。新聞記者にたいする発表もこの「顛末概要」にもとづいておこなわれた。
「顛末概要」は中隊の取調べにたいする脱営兵の供述である。脱営兵は中隊幹部にたいして徹底的な不信感を持っていた。したがって、この取調べでは本当のことをしゃべっていない。むしろ、一目でうそであることがわかるようなことを平然としゃべっている。
ただそのうその供述がそのまま新聞に発表され、その後の取調べによってわかった事実が公表されなかったので、事実のあやまりがそのまま歴史的に定着してしまった。たとえば四日の昼間の長時間にわたる潜伏の場所である。六日付の『東京日日新聞』は「代々木村に至り、同村の目下建築中なる小屋中に潜み、屡々《しばしば》斥候を出して大隊長の宅を捜索せしめ」と伝えている。
この記事のニュースソースは明らかに「顛末概要」である。「顛末概要」には、「甲州街道字新町南方約五百メートル無名村落に至り、建築中なる家屋内に入り、斥候を派遣し大隊長の宅を捜索し、四日午後四時同家屋より出て」と、記録されている。この供述は非常識なうそである。
軍服を着用した兵卒の集団が、たとい建築中とはいえ、無人の家屋にはいりこんで一日じゅう隠れているところをもし一般人に見られたならば、たちまちにしてあやしまれ、警察か憲兵に通報されることは明白である。他の行動において慎重の上にも慎重であった三十二名の脱営兵が、もっとも長い時間をすごした潜伏場所を選ぶにあたって、こんな不用意な場所を選ぶことは絶対にありえなかった。
軍服着用の小部隊にとって昼間のもっとも安全な場所は野外である。野外演習では敵から身を隠して日がな一日、時間をすごすことだってしばしばある。一般の民間人に見られたとしてもあやしまれない。
他の部隊からたずねられても所在を教えるなと、民間人の口封じをしてもあやしまれることはない。対抗演習で潜伏斥候の任務についている小部隊が対抗軍から発見されないために、民間人に潜伏地の秘密を守るように協力をたのむことはしばしばあることであった。事実、脱営兵たちは野外の林のなかに潜伏しつづけ、それは成功した。
中隊幹部の取調べに適当に答えたのち、三十二名の脱営兵たちは仮営倉のなかで水と塩だけの飯をあたえられた。空腹の身には美味であった。日常の懲罰による収容者のほかに昨夜の脱営帰営者五名を収容している連隊の営倉には、新しく三十二名を収容する能力はなかった。三十二名は独房ではなく、空き倉庫を流用しての仮営倉に一括収容された。
一人につき毛布一枚しかあたえられなかった。三十二名にとっては屋根の下で眠れるだけでもありがたかった。全員、緊張がゆるんでむしょうに眠たかった。固くつめたい床に身をよせあって横になり、満足感にひたりながらみんな泥のように眠りこんだ。
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十七 赤坂檜町(二)
三月五日朝早く、福田栄太郎少佐は連隊に出勤し、すぐさま第五中隊にむかった。初年兵の第一期検閲を間近にひかえて、さすがに初年兵の教育だけはおこなわれていたが、中隊のそのほかの機能は完全に麻痺していた。
猪熊中尉は中隊長室に入らず、中隊附将校室にとじこもっていた。
中隊附将校の伊田中尉以下は、猪熊中尉に遠慮して中隊事務室にあつまっていた。
福田大隊長はまず猪熊中尉に会った。昨夜からの心労にくわえておそらくは一睡もしなかったのであろう、猪熊中尉の顔は昨日までとは別人のように憔悴していた。
「大隊長殿、申し訳ありません。」
福田大隊長の姿をみて猪熊中尉は立ちあがり、一言いっただけでうなだれたままであった。
福田少佐は、猪熊中尉の思いつめたようすをみて危惧を感じた。責任感のつよい猪熊のことである。ことに、中隊長代理という特殊な立場にあって、病気中の中隊長からゆだねられた責任をはたすことができなかったという猪熊の窮地を思いやると、福田少佐は猪熊にたいしてきびしいことを言うのがはばかられた。
「あまり思いつめないですこし休養せよ。この事故の始末は、中隊長代理にかわって大隊長が直接に処理する。この際、中尉はからだに気をつけよ。今日一日、中隊長室を借りるぞ。」
福田少佐の発言は猪熊にたいするいたわりであるとともに、婉曲な謹慎命令でもあった。猪熊自身、昨夜から中隊長室に一歩も足を踏みいれていなかった。すでにみずから謹慎し、朝食もとらずに中隊附将校室にこもっていた。
福田少佐は中隊長室にはいり、中楯特務曹長を呼んで、脱営兵帰営後に中隊で取調べた結果の報告を求めた。中楯特務曹長はすでに取調べの結果を書類にしてあった。罫紙五枚半ほどの報告書に脱営兵の名簿をそえたものであった。
「本月三日第五中隊兵卒脱営事件顛末概要」という表題がつけられたこの書類をみて、福田少佐は、脱営兵たちが中隊幹部にたいしてかたくなに心をとざしていることを感じとった。
「顛末概要」には脱営兵たちの行動はかなりくわしく書かれていた。もっとも、あとになって福田少佐が調べた事実と照合してみると、かなりの虚偽がふくまれていることがわかったが、大筋ではなっとくできる内容であった。
しかし、福田少佐が異様に思ったのは、この「顛末概要」の本文全体をつうじて脱営兵の氏名が一度も登場しないことであった。今度の集団脱営事件において、脱営した兵卒のうちの誰がどのような役割をはたしたかというような問題について、脱営兵の全員が中隊幹部にたいしてまったく口をとざしつづけたのである。
福田少佐は首をひねった。
――中隊幹部と古年兵の関係はここまで冷えきっていたのか――
福田少佐は大隊長としての自分の迂闊さを改めて思い知らされるとともに、今日これからの取調べにあたっては中隊幹部をいっさい関与させてはならないと考えた。
――古年兵たちが憎んでいるのは猪熊中尉だけではない。むしろ、若い中隊長代理を補佐するかなめの地位にある特務曹長にたいする不信の念のつよさが、この取調べ書類にあらわれている――そう考えた福田少佐は、これからの取調べにあたって書記役として中楯特務曹長を使うのをやめることにした。書記役として大隊本部から渡辺副官代理と下士一名を呼んだ。
福田少佐は、中隊が作成した「顛末概要」はあくまで仮の中間報告であり、参考資料以上の扱いをすべきでないと考えた。中楯特務曹長に命じて一通だけを連隊本部にとどけさせた。「顛末概要」は順次に写しをつくって上級司令部に進達するという方法で師団司令部に到達した。
現在残っているものは歩兵第一旅団司令部が作成して第一師団司令部に進達した写しである。原本の写しにそえられた表紙には「報告」と書かれ、提出者依田歩兵第一旅団長、あて先閑院宮第一師団長、報告取りつぎの趣旨が記載され、「第一師団司令部密来第一五号」の文書番号がつけられている。
表紙の欄外上に、師団長、参謀長、各副官、参謀、法官という印が押されている。師団長欄には(済)の印、参謀長欄には橋本勝太郎の印、各副官の欄には吉弘(振次郎)高級副官の印、参謀の欄には中屋|則哲《のりあき》、小泉六一の印がおされている。法官の欄の印は鮮明でなく氏名を読みとることができない。最後に、回覧終了を意味する「済」という大きな角印が押されている。
この形式は、のちに福田少佐が提出した公式の取調べ報告書の扱いとまったくちがっている。「顛末概要」は司法的な性格を持たない行政文書として回覧されただけであった。
福田少佐は最初の取調べの対象として、当然のことながら、昨夜自宅に脱営兵たちがきたときに指揮をとっていた佐野という一等卒を選んだ。
佐野一等卒は、福田少佐の尋問にたいして率直に答えた。
福田少佐の尋問の焦点は、集団脱営して大隊長の私宅に直訴しようと発議した首謀者はだれだれで、いつごろから計画されたか、この謀議を実行するにあたり、三十七名の古年兵を組織した積極的な活動人物はだれだれか、実行行為にあたって指揮をとりあるいは積極的に行動したものはだれだれか、という点にあった。
「大隊長の家に脱営隊がきたとき、脱営隊の指揮をとっていたのはおまえだったな。」
質問にたいして、佐野一等卒ははきはきと答えた。
「はい、そうであります。」
「おまえは、三十二名の脱営のはじめからずっと脱営隊の指揮をとっていたのか。」
「はい、そうであります。」
「そうすると、集団脱営を実行に移すときから、ずっとおまえが脱営隊を指揮したということになるな。」
「はい、そうであります。」
佐野一等卒のいさぎよい答えに、福田少佐は好感を持った。
「集団脱営して大隊長の私宅に直訴しようという計画のことだが、いつごろから、誰が言いだしたことか。」
「別に誰が計画したということもありません。三月三日の射撃演習を終わって帰営し、夕食がすんだあと、三年兵たちがあつまって雑談しているうちに、その日の演習での猪熊中尉殿の仕打ちがひどいという話になったのであります。みんなで、なんとかならないかという話になったのであります。
中楯特務曹長殿に申しでて、中尉殿の兵卒虐待をやめていただくよう進言していただこうというものもあったのであります。しかし、まえにも中楯特務曹長殿に申しでたのでありますが、取りあげていただけなかったのであります。今度おなじことをしてもだめだろうという話になったのであります。
ああでもない、こうでもないと、いろいろな意見がでたのであります。しかし、みんながなっとくするようなよい考えがうかばなかったのであります。そのとき、自分がふと思いついて、大隊長殿から中尉殿に兵卒の虐待をやめるように注意していただく方法はないかと、みんなに言ったのであります。
それにみんなが賛成したのであります。しかし、大隊長殿にお会いして自分たちの考えを聞いていただくためには、どうしても大隊長殿のお宅まで行かなければならない、それには脱営して行くよりほかにないということになり、みんなで脱営して大隊長殿に直訴しようという話になったのであります。
話がまとまれば早い方がよいということになり、すぐに実行しようという相談がまとまり、自分が言いだしたてまえ、自分がみんなを指揮して大隊長殿のお宅に行くことになったのであります。
三日の夜のうちに大隊長殿のお宅に行って大隊長殿に自分たちの話を聞いていただき、帰営するつもりであったのでありますが、大隊長殿のお宅を見つけることができず四日の夜までおくれてしまったのであります。
自分たちは三日の日夕点呼後に脱営して、翌日の日朝点呼前に帰営するつもりでありました。はじめの予定がうまくいかなくなり、大隊長殿にご迷惑をかけて申し訳なく思っているのであります。」
佐野一等卒の供述は筋がとおっていた。
「大隊長への手紙を書いたのは誰か。」
「はい、本当は自分で書こうと思ったのであります。しかし、自分は手紙を書くのが得意でないのであります。手紙を書くのがうまい岩崎亀太郎一等卒にたのんで書いてもらったのであります。」
どうせ、このことは筆跡を調べればわかることであった。佐野は正直に答えた。
「大隊長の家はどんな方法で探したのか。」
「四日の昼間のうちに、斥候をだして探しておいたのであります。」
「斥候にでたのはだれだれか。」
「岩崎一等卒と宮下秀太郎一等卒であります。自分がたのんだのであります。自分はあとに残った三十名が安全に潜伏しつづける責任を感じていたので、斥候にでるわけにはいかなかったのであります。やむをえず二人にたのんだのであります。」
三日の夜の三年兵の雑談のなかから中隊長代理にたいする不満が高じ、不満の解決策として佐野がその場の思いつきで口にした集団脱営による大隊長への直訴という案が三年兵たちの支持をえ、実行に移すことに意見がまとまり、言いだした責任上実行にあたっての指揮を佐野がとった。佐野の供述を要約するとこうなる。
佐野の供述を信ずるならば、事件そのものの性格はいわば突発的なものであり、偶然に事件の口火をきる羽目になった佐野が結局首謀者であり、実行行為の指揮者となったという、ある意味ではきわめて単純な事件であった。ただ、事前の綿密な計画なしの行動であっただけに実際が予定と大きく食いちがい、大事件になってしまったにすぎないことになる。
佐野の供述は事件の全責任が自分にあることを佐野自身が認めており、しかも、事前に大隊長の私宅の所在地を確認するなどの準備行動がおこなわれていなかったことからも、信用にあたいするものと思われた。
福田少佐は、一応佐野を計画の首謀者で実行行為の責任者と考え、ついで二次的な主動の地位に立ったものを明らかにするつもりで他の兵卒たちの取調べをすすめた。
しかし、他の兵卒たちの取調べをすすめるにしたがって、他の兵卒たちの供述が佐野の供述と大きな食いちがいを示すことに気づいた。
岩崎一等卒と宮下一等卒は集団脱営・大隊長直訴の計画が突発的なものであるという点では佐野とおなじ立場をとったが、この計画を思いついて提案したのは自分たち二人であると主張した。
この提案に賛成して他の三年兵や二年兵に積極的にはたらきかけたとして、佐野を除いても、銀木福太郎、山田善之助、谷畑留吉、石井福松、宮川国太郎の各一等卒がみずから名のりをあげた。
実行行為の開始にあたり、集合場所などの指示をしたのは自分であると、山田一等卒がのべた。不時点呼の噂で脱営をいったん中止したあと、再挙を煽動したのは宮下、岩崎、銀木であると、三人がひとしく供述した。
脱営のための隊伍を組んでの出発にさいし特定の指揮者はいなかった。列中から「出発」と叫んだのは佐野であったが、「駈歩《かけあし》」と叫んだのは列の先頭にいた宮下、岩崎、銀木らであった。
佐野が指揮をとり、銀木が道案内をするという組織的な行動様式が成立したのは、日枝山王社を出発するときからのようであった。
三年兵たちは全員、取調べにたいしてすなおに答えた。三年兵たちが口裏を合わせているのではないかと、福田少佐はいぶかしく思った点は、全員が計画を突発的であるとしていること、石井一等卒を除く二年兵については、三年兵が誘いいれたのであって謀議に関係ないと主張していることであった。石井一等卒は大隊長の私宅を知っているただ一人の兵卒であり、別行動をとった二年兵五名の組織者であっただけに、名前がでることはやむをえなかった。
しかし、この点については、福田少佐も深くこだわるつもりはなかった。
事前に謀議があったとしても、謀議を実行に移す準備行動にまではすすんでいなかったことは、脱営した夜に大隊長の家にたどりつけなかったことからも明らかであった。二年兵が実際になんらかの役割を演じたとしても、三年兵とことをともにする以上は、自分の意思がどうであろうと、三年兵の気持ちを先取りして行動せざるをえないのが軍隊であった。
問題は、佐野と他の主要な役割をはたした三年兵たちとの供述の食いちがいであった。たがいに責任を回避しあっての食いちがいではなく、たがいに自分の責任に属することを主張しあうという、奇妙な食いちがいであった。兵卒たちの態度には反抗的なところはまったくなかった。
福田少佐の頭はいささか混乱した。三年兵および別行動をとった二年兵の取調べがひととおりすんだところで、福田少佐は取調べの休憩を宣した。佐野と他の三年兵の供述の食いちがいを整理する必要があった。
中楯特務曹長が中隊長室にきて、連隊長からの連絡事項を伝えた。
「さきほど連隊副官がおみえになって、大隊長殿のお手がすいたときに連隊長殿のもとに来ていただきたい、という連絡がありました。」
福田少佐も取調べの進捗状況を一応連隊長に報告しておいた方がよいと思っていたので、すぐに連隊本部に足をはこぶことにした。連隊本部と第二大隊本部はおなじ建物のなかにある。福田少佐はまず大隊長室にもどって一服した上で、連隊長室にむかった。
その朝、宇都宮連隊長は、『東京日日新聞』を広げてみて満足の笑みをうかべた。新聞記者の取材にたいして連隊長自身が積極的な対応をしめした成果が、紙面にあらわれていた。
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△連隊長の心配 宇都宮連隊長は余りに厳格にて隊中の評判よろしからずなどというものあれど、これはまったく虚説にて、同連隊長は温厚篤実の人なり。昨夜記者が同連隊長をおとないしとき、氏は語って言えらく「今回のできごとは中隊長に対する不平より起こりたるもののごとけれど、要するに中隊長は我が意をうけて教練するものなれば、その責はむろん自分にありて中隊長にあらず、まことにあいすまざる次第なり」うんぬんと。
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「壊滅的敗北を喫するはずの戦闘で、からくも橋頭堡《きようとうほ》を持ちこたえることに成功したというところだな。さて、ここから打ってでて反攻に転ずるとするか。
まずは攻勢移転の準備だ。」
宇都宮連隊長はつぶやいた。
三月は新兵の第一期検閲の季節である。十二月に入営した新兵は、第一期検閲を終わると生兵という呼び方から解放される。つまり、一人まえの兵卒として扱われるようになる。現役を終わった兵卒の予備役期間が三年四カ月という中途半端な期間であるのも、第一期検閲が終わるまでの四カ月は新兵が戦力として使えないことを考慮してのことである。
連隊は各中隊ともに第一期検閲の準備にいそがしい。検閲者である連隊長もいそがしい。出勤した宇都宮連隊長はまず山積する連隊事務をかたづけなければならなかった。
とりあえず連隊事務を処理したあと宇都宮連隊長は連隊副官を呼んだ。
「福田少佐はどうしているか。」
「福田少佐殿はただいま、御自分で脱営兵の取調べにあたっておられます。」
「取調べの手がすいたときに連隊長室までくるよう、福田少佐に伝えておいてくれ。手がすいたときでいい。いそぐわけではないとな。」
しかし、やがて福田少佐が連隊長室にあらわれた。
「取調べの進捗状況はどうだ。」
宇都宮連隊長は福田少佐の顔を見るなり質問した。
「実は、ちょうどひと区切りつきましたところで、ご報告申しあげようと考えておりました。
兵卒たちはすなおに取調べに応じております。しかし、今回の事件の謀議をいつごろからはじめたのか、首謀はだれだれなのかという点になりますと、まだはっきりいたしません。
三年兵たちは口裏をあわせたように、今回の集団脱営は三日夕食後の雑談中に誰いうとなく言いだし突発的にきまってしまったと申したてております。誰が言いだしたかという点になりますと逆に供述の内容が一致せず、まだ首謀者をしぼりかねている状況であります。」
「これはあくまで連隊長の考慮意見として聞いてほしい。
事件の方は突発的ということでよいだろう。計画的であるよりも一時の感情に激して起こした事故である方が、兵卒たちの責任も軽くてすむだろう。
首謀者の件だが、できるだけしぼってほしいというのが連隊長の希望だ。兵卒たちにはよく言い聞かせよ。
おまえたちのしたことは陸軍刑法の結党の罪にあたるとな。連隊長も大隊長もできるだけ兵卒のなかから罪人をだしたくない。一人もださないというわけにはいかんだろうが、無用の犠牲は避けたい。
今度の脱営はもともと上官の私宅をたずねるという目的でしたことである。脱営して遊廓に行ったり、酒を飲んだりという、他の連隊であったような事件とは事情がちがう。このことは連隊長も充分に考慮している。
首謀者の数が少なければ、ことを穏便に取り計らっていただくよう連隊長も上司にお願いしやすくなる。
この道理を兵卒たちによくわかるように説いて、理解させてほしい。」
「はい、私も連隊長殿の方針にまったく賛成であります。」
「では、よろしくたのむぞ。」
「はい、承知いたしました。」
第五中隊の兵舎にもどりながら、福田少佐は宇都宮連隊長が示した方針の裏にある意図について考えた。
連隊長が呼んでいると伝えられたとき、福田少佐は、宇都宮連隊長が兵卒にたいしてきびしい方針で臨むように指示するのではないかと、危惧した。しかし、宇都宮連隊長が示した方針は福田少佐の方針と合致していた。
ひとつはっきりしたことは、兵卒たちが軍法会議にかけられるとしても「軍人党を結び」という結党罪の条文のうち、「軍事に関する規則命令の施行を妨げ若《もし》くは之《これ》を妨げんと謀り」という罪条の適用を防ぎ、「其他服従法に違《たが》う者」の罪条の適用にとどめたいという宇都宮連隊長の意図であった。
おなじ脱営でも遊廓で遊んだり酒を飲んだのと上官の私宅に行ったのとではちがうという、宇都宮の言葉のなかにその意図が明らかにされていた。いずれにしても、罰条はおなじ条文でくくられているが、実際の適用にあたっては後者の罪の方が刑罰は軽かった。
宇都宮連隊長の方針がなにを意図するものであるか福田少佐には計りかねたが、その意図は別として連隊長の方針は歓迎すべきものであった。
三十八年一月、旅順から北上中の歩兵第一連隊第二大隊長に補せられて以来、福田少佐は第一連隊の最古参大隊長になっていた。
戦後、同郷の先輩であり温厚で心くばりのきいた小原連隊長のもとにあって、福田少佐は最難治中隊といわれる第五中隊の再建を大きな課題と考えた。第五中隊長に第六中隊長の北川大尉をまわし、第五中隊附中尉に第三大隊から気鋭の猪熊中尉をもらい受けるという人事計画は福田少佐が立て、小原連隊長に進言して実現したものであった。
温和で包容力のある北川中隊長と、はげしいが竹を割ったような気性の猪熊中尉という組み合わせによる、人事の妙を期待してのことであった。しかし、この人事の組み合わせは北川大尉の病気という予想しなかったできごとによってくずれた。
後任の宇都宮連隊長は北川中隊長の後任人事をおこなおうとはしなかった。猪熊中尉が中隊長代理に発令されたとき、福田少佐は猪熊中尉に過重な責任を負わせることになるのではないかと案じた。
案じたとはいえ、福田少佐も第五中隊がこんな大事故を起こすとは思ってもいなかった。自分が猪熊中尉を第五中隊にもらい受けた結果、あたら有為の青年将校猪熊の未来を葬り去ってしまいかねない事件が起こってしまった。このことについて福田少佐は自責の念に駆られた。
福田少佐は石川県つまり藩閥外の出身である。それも同郷の小原前連隊長とはちがって士族つまり旧藩士ではなく平民である。しかも、陸大出身ではなく無天組である。陸軍の将校として出世するにはもっとも悪い条件のもとにあった。
現に、士官学校の同期の天保銭組でまもなく向かいあわせの第三連隊に赴任してくることになる首藤多喜馬《しゆどうたきま》とは、少佐への進級ですでに満二年おくれていた。福田が少佐になると首藤はまもなく中佐になった。エリートの首藤と非エリートの福田とではこの段階で完全に一階級の差がついていた。
現代風にいえば、陸軍という官僚機構のなかで天保銭組は中央採用のキャリアである。無天組は地方採用のノンキャリアである。歩兵将校のばあい、ノンキャリアは退職するまで隊附勤務以外の職場をあたえられないというのがその大部分の宿命である。
まれには、その研究熱心を買われて教育総監部直属諸学校の戦術教官などに転じスペシャリストとして将官への道をたどる歩兵将校もあるが、それは無天組のうちのごく一部にすぎない。いきおい、ノンキャリアはその生涯の職場である隊附勤務を大事にする。
福田少佐も、隊附勤務を大事にする点では人後に落ちなかった。というより、ふつう以上に大事にしたといえよう。その努力がむくいられたのか、遅々とした進級の道をあゆみながらも福田少佐はのちにノンキャリアの幸運な例外となる。
福田は中佐進級では首藤におくれること実に六年余、大佐進級でも首藤に差をつけられること六年以上であった。しかし、首藤におくれること四年余で少将に進級し、連隊長どまりではなく歩兵第十七旅団長の職につき、在職三年で予備役となった。平時のノンキャリアが望むことのできる最高の地位にのぼることができた。
だがそれはずっとのちのことであり、少佐時代の福田には思いもよらないことであった。当面、福田少佐は連隊内の悪条件のしわよせを一身に受けて、こんな大事件をひきおこすにいたった猪熊中尉に同情し、せっぱづまって中尉に反抗した兵卒たちを哀れに思った。
集団脱営をして大隊長の私宅に直訴したという兵卒たちの行為はたしかに重大な軍紀違反であった。しかし、目的をそのこと一本にしぼっての三十二名の兵卒たちの行動は、みごとというほかなかった。
初志をつらぬくためのおどろくべき団結力と組織力、兵卒の知恵が生みだした戦術的な創意工夫と意表をついた行動性、それに目的達成までの寒さと空腹に堪えてのきびしい禁欲。そのいずれもが、もし戦場で発揮されたものであれば最高の賞賛にあたいする水準のものであった。
しかし、兵卒としての最高の水準を示したこの能力と行動は敵にたいする戦闘において発揮されたのでなく、絶対服従を誓った上官にたいする抵抗のたたかいにおいて発揮された。それは軍が絶対に容認することのできない事柄であった。
福田少佐の脱営兵たちにたいする気持ちは、事件発生を知って以来ゆれ動いた。結局、最終的には脱営兵の集団が四散してばらばらの逃亡兵となることだけはなんとしても阻止する、しかし、集団直訴という初一念だけは実現させてやりたいという気持ちに落ちついた。阿南少尉らを将校斥候にだしたとき、その気持ちはすでにはっきりしていた。
はたして、目的を達したあと三十二名の兵卒は柔順そのものであった。三年兵は二年兵をかばい、佐野一等卒ひとりを除いてはすべての責任を三年兵が平等に分かち合おうとしていた。佐野一等卒がなぜひとりで過大な責任を負おうとしているのか、その真意は福田少佐に理解できなかった。
全員の取調べを終わったあと、福田少佐は渡辺大隊副官代理がとった供述の筆記を読み返してみた。
――佐野一等卒の供述は、なんらかの理由によって他の兵卒の責任を自分が引きうけるために、作為されたものである――
福田少佐はそう結論づけた。取調べの調査報告書には佐野一等卒の供述は採用しないことにした。
取調べの結果にもとづいて福田少佐は報告書の草案を書いた。それを大隊本部の書記である下士に清書、複写するように命じた。清書が終わったのは五日の夜もだいぶおそくなってからであった。
硬筆によるカーボン紙複写の報告書四通に、福田少佐はそれぞれ墨書した表紙をつけた。表紙には、「第五中隊二、三年兵三十七名脱走に関する顛末報告 歩兵第一連隊第二大隊長福田栄太郎」と書かれた。大隊長の職印のほか、供述に立ちあった渡辺大隊副官代理と大隊本部の書記である下士の印が押された。
報告書は、目次をふくめて「陸軍」の字がはいった罫紙十五枚の書類となった。目次を紹介しておこう。
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(一)脱走の原因
(二)脱走兵発見の景況
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一、第五中隊に於て脱走兵発見の景況
二、大隊長第五中隊脱走兵発見の景況
[#ここから1字下げ]
(三)脱走後の処置
[#ここから3字下げ]
一、第五中隊の取りし処置
二、大隊長の取りし処置
[#ここから1字下げ]
(四)脱走者の自白に依る脱営当時の始末
[#ここから3字下げ]
一、脱営の発端
二、脱走後の景況
[#ここから1字下げ]
(五)帰営後の処置
(六)脱走人名
(七)調査上より得たる参考事項
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十八 青山南一丁目
三月六日朝、福田少佐は「第五中隊二、三年兵三十七名脱走に関する顛末報告」を宇都宮連隊長に提出した。宇都宮連隊長は報告書にたんねんに目をとおした。読み終わったのち、報告書の結論部分ともいうべき「調査上より得たる参考事項」の箇所を広げたまま、しばらく腕を組んで考えていた。
その文面はきわめて簡潔であった。
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一、主唱者
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前記取調上より判断するに、宮下秀太郎、岩崎亀太郎、銀木福太郎、山田善之助、佐野新太郎、谷畑留吉、石井福松、宮川国太郎の八名重なる主称者にして、殊に宮下、銀木、岩崎三名を主脳たるもののごとし。
其他一般のものはこれに雷同せられてその企図を賛助せしものと認む。
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二、歩哨通過について
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宮下秀太郎以下三十二名のものは、無言にて駈歩を以て新門を通過したるをもって、あたかも夜間演習に擬したるもののごとし。しかれども内田以下五名のものは新門の歩哨にいわく、先に出でたるものの一行なりと称して新門を通過す。故に哨令違反たるをまぬかれず。
[#ここから2字下げ]
三、歩哨について
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両度の脱走兵出門当時の歩哨は、まったく脱走兵たるを知らず、これを夜間演習と誤認せしを疑わず。
[#ここで字下げ終わり]
「ご苦労だった。おおむね同意する。ただ、ここの点だが……。」
宇都宮は「一、主唱者」のところを指さした。
「もうすこし数をしぼれんか。」
福田少佐はややためらったのち、答えた。
「実はその点につきましては小官も判断に苦しみました。ここに記載いたしましたものと異なった供述があります。佐野という一等卒の供述であります。
脱営者の自白の箇所に記載いたしましたように、佐野という兵卒は脱営以後、一貫して脱営隊の指揮をとっていた兵卒であります。この点は他の兵卒の供述からも疑う余地はありません。
その佐野自身の供述によりますと、脱営を計画する段階から主脳の位置にあったと主張いたしております。しかし、この点は他の多くの兵卒の供述といちじるしく異なっております。
小官は、なんらかの理由により佐野が今回の事件の責任を一身におう覚悟で虚偽の供述をおこなっているものと、判断いたしました。多数の兵卒の供述をもとに報告をまとめました結果、このようになった次第であります。」
「フーム。」
宇都宮はまたしばらく考えたのち、口を切った。
「その佐野という兵卒はどういう男だ。社会主義にかぶれるとか、なにかそういう傾向でもあるのか。」
「尋問いたしましたかぎりではそういうことはまったくないと信じております。入営時の身上調査書にもとくに注意すべき前歴の記録はありません。」
「連隊長の見解では主脳は一人にしぼりたい。その方が、今後なにかにつけて扱いやすい。
どうだ。その佐野という兵卒の供述を採用することにしてみては……。」
「ハ……。」
福田少佐はとっさには返事ができなかった。
宇都宮連隊長はつづけて意見をのべた。
「主称の八名も、道案内をしたり斥候にでたり手紙を書いたりということで、氏名がでているものはやむをえんが、五名ていどにならんか。この報告が師団に行ったあと参謀長と折衝してできるだけ穏便にすませるためには、連隊長はその方がやりやすい。
連隊としては犠牲をできるだけ小さいものにとどめたい。この事件は連隊の将兵の士気と団結にかかわる問題じゃからのう。今度の事件が重大な軍紀犯だということは連隊長もよく承知している。しかし、軍紀は軍隊の士気と団結を強固にするためのものであって、その逆に作用するようであってはならない。
いま射撃名誉旗をめざして連隊が一丸となり士気があがっているときに、射撃演習の熱に水をさすような事態になることは避けねばならん。」
福田少佐は宇都宮連隊長の発言の意図を理解した。
第二の猪熊中尉になることを恐れて、連隊の若い将校が射撃演習の手をゆるめることを心配しての発言であった。そうならないためには、連隊は猪熊中尉をかばいとおさなければならなかった。
猪熊中尉をかばうには、事件がごく少数の一部兵卒の一時的な感情の激発による無責任な煽動によるもので、脱営した兵卒の大部分は付和雷同したにすぎないとして責任をできるだけ少数の兵卒に集中する必要があった。つまり、猪熊中尉は運がわるかったにすぎないのだ、そういうことにしてしまおうというのであった。
「はい、再検討してみます。」
福田少佐は大隊長室にもどり、報告書の修正にとりかかった。
修正は簡単であり、福田少佐に心の痛みを感じさせるほどのものではなかった。一人でも罪にとわれる兵卒が少なくなれば、それは福田少佐の方針に合致するものであった。報告書の修正によって佐野一等卒の立場が不利になるとしても、それは佐野自身が望んだことであって福田少佐が筆をまげた結果ではなかった。
福田少佐は、報告書の力点を集団脱営と直訴の謀議から実行行為に移すことによって、佐野一等卒の責任をクローズアップするという方法で報告書を修正した。
「殊に宮下、銀木、岩崎三名を主脳たるもののごとし」という文章を、「なかんずく、佐野新太郎、主脳となり、万事これを指揮したり」と改めた。たくみな観点のすりかえであった。同時に主称者のうち、谷畑、石井、宮川の名をけずり「八名重なる主称者にして」を「五名重なる主称者にして」と改めた。
結論の修正に応じて「脱走者の自白に依る脱営当時の始末」にも、佐野の供述を取りいれた修正をほどこした。修正は四箇所についておこなわれた。
第一は脱営して大隊長に直訴することを提案したものの氏名である。「時に一等卒宮下秀太郎、岩崎亀太郎の両人のいわく、かくのごとき演習において苛酷にせらるる上は、吾等忍耐するあたわざるをもって、大隊長にその理由を訴えなば可ならんと」が原文であった。修正で「一等卒宮下秀太郎、岩崎亀太郎の両人の」が抹消され「佐野新太郎」と書きなおされた。
第二は不時点呼の情報でいったん中止した脱営の再決行を煽動したものについてである。「しかるに人員検査なきをもって、宮下、岩崎(亀太郎)、銀木等煽動して、一同もまたふたたび脱走するの決心をなし」というのが原文であった。この部分で「宮下」のまえにあたらしく「佐野」が追加され、煽動者の筆頭とされた。
第三は脱営のために新門にむかって出発するときの指揮者についてである。「三列あるいは四列となり、距離間隔ともに不規律なる側面縦隊となり、別に指揮官なく前進し」というのが原文であった。「別に指揮官なく」が「佐野新太郎列中にありてこれを指揮して」と改められた。
第四は脱営のための行進を開始したのちの駈歩の号令者である。「宮下、岩崎、銀木等の者共口々に駈歩と呼ばわりたり」という原文のまえに、「佐野まず駈歩と叫び次に」という一句が挿入された。
報告書の以上の修正箇所には訂正印が押されていない。また、原文は硬筆書きであるのに以上の修正箇所は毛筆書きである。筆跡も原文とちがう。報告の草案は福田少佐が作成し書記が清書したものであるから、修正は清書後に福田少佐自身の手によっておこなわれたものである。
最初の清書された報告書と修正された報告書とでは、その内容の法律的な意味が大きくちがってきている。清書後の技術的な修正の範囲を越えた、むしろ報告書作成の方針変更に属する修正である。福田少佐自身の意思による修正と考えることはできない。
修正された報告書は三通が連隊長に再提出され、そのうち二通が旅団司令部に送達され、旅団司令部から一通が師団司令部に送られた。師団司令部にとどけられたのは前日の「顛末概要」が写しであったのとちがって、福田大隊長の職印がおされた公式の書類である。
公式報告書である「顛末報告」を受け取った師団司令部では、橋本参謀長がまず閲覧し、閑院宮師団長の決裁をへて吉弘高級副官に渡された。参謀部や法官部には回覧されていない。はっきりいえば、報告書したがってそこに記載された事件は陸軍検察官の処理にゆだねられたのである。
もともと、この事件は、猪熊中尉の行為に関するものを除いても、陸軍刑法上の犯罪容疑としていくつかの条文にふれる。
脱営したことそのものは、脱営の翌日に帰営したのであるから陸軍刑法の逃亡罪にあてはまらない。脱営は行政罰である懲罰の対象であり刑事罰の対象ではない。兵卒にたいする懲罰の権限は中隊長以上連隊長までにある。
ただ、脱営するにあたって連隊の門をでるときにどうやってでたかは、問題になる。外出の許可をうけて門をでたのではないから門をでること自身が非合法である。門には歩哨がいる。軍隊では歩哨は警戒の第一線であるから、歩哨線を通過するには通過する側にも歩哨の側にもきびしい規則が定められている。これを哨令という。
哨令に違反したばあいは、違反した歩哨線通過者も違反した歩哨も軍法会議にかけられて罰せられる。
三十二名の脱営兵のばあいは、隊伍を組んで無言のまま歩哨線を通過した。歩哨をあざむいて歩哨線を通過するためのことさらの作為はおこなっていない。歩哨も三十二名の通過を阻止しようとはしなかった。つまり、哨令違反となるような行為はなかった。
おくれて脱営した五名のばあい、内田一等卒が先行した三十二名に追及すると歩哨にことわって歩哨線を通過した。この五名は自分たちの出門が非合法であることを自覚していながら、合法的な出門であるかのように歩哨にたいして作為をおこなったことになる。これは明らかに哨令違反である。
通過を阻止しなかった歩哨の側についていえば、第一連隊では射撃演習の先発隊として夜間に小部隊が出門することは日常的になっていた。
きちんとした服装をし帯剣して隊伍を組んだ小部隊が出門することを阻止する、正当な理由はなかった。正規の夜間演習部隊と誤認するだけの合理的な根拠があった。三十二名の出門を阻止しなかった歩哨の責任を問うことはできない。
三十二名の脱営兵の出門を正規の夜間演習部隊と誤認するだけの合理的な理由があった以上、わざわざこの部隊に追及するとことわって出門した五名の脱営兵の出門を阻止する根拠は、歩哨にはなおさらない。歩哨には怠慢による哨令違反の責任はない。
つまり、哨令違反の容疑は内田一等卒以下の五名にだけかけられることになった。哨令違反の罪は、陸軍刑法では平時においては一カ月以上一年以下の軽禁錮の刑である。もっとも、実際には集団脱営自身が他のより重い罪に問われれば、数罪倶発ということでより重い罪の方で罰せられることになる。
問題は、脱営が個人としてではなく集団として組織的におこなわれたことにあった。これは陸軍刑法の結党の罪にあたる。結党の罪は軍人が党を結んで軍事に関する規則命令の施行をさまたげ、またはさまたげようとし、その他服従法に違反したばあいがこれに該当する。
その刑は重い。首魁は二年以上五年以下の軽禁錮、その他の犯人は二カ月以上一年以下の軽禁錮である。
軍事に関する規則の施行をさまたげるといえば、外出の許可なしに兵営の外にでたこと自体、つまり脱営したこと自体がこの条項にあてはまることになる。しかし、実際には逃亡には至らない脱営行為そのものは罪にならない。問題は脱営の目的である。
その罪が重いものとされた本来の理由は軍隊のなかに政党組織や抵抗組織がつくられるのを防ぐことにあった。だから、当時の常識からいえば、組織的な政治活動ではなく抵抗のための抵抗を目的としたものでもない第一連隊の集団脱営事件は、「服従法に違う」罪として、最悪のばあいでも軽い刑ですむと考えられた。
「服従法に違う」罪とは、具体的には中隊長代理を越えて大隊長に直訴した罪である。当時の軍隊内務書の「第二章 服従」にはつぎの一条があった。
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第六条 上たる者の取扱いたとい不条理と考うるも、下たる者決してこれを争い論ずるを許さず。ただしおもむろに順序をへてこれを訴うるは妨げなく、またもし勤務中なれば、勤務終わりてのちこれを訴うるものとす。
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脱営兵たちは党を結んで中隊長代理という順序を飛びこえて訴えたことになり、この「服従法」に違反したということになる。しかし、中隊長代理の取扱い不条理を中隊長代理以外に訴えることを認めない訴願権など、権利としての意味を持つであろうか。
報告書が師団司令部にとどいたのちは、事件の処理は陸軍検察官の手に移ったことになる。陸軍検察官はこの事件のばあいは師団副官である。脱走兵が兵営外で憲兵に逮捕されたばあい、陸軍検察官は憲兵である。
福田少佐の報告書には、検察処分に付することを決裁した師団長、陸軍検察官である高級副官の直接監督権者である参謀長、陸軍検察官である高級副官の閲覧印しか押されていない。このことは、書類が高級副官の手もとにとめおかれ高級副官を陸軍検察官とする検察処分つまりふつうにいう送検がおこなわれたことを意味している。
陸軍検察官は検察処分を終わると、一般でいう起訴にあたる被告事件として、軍法会議を管轄する師団長への具申をおこなう。師団長は審問または審判の命令をくだす。
審問命令と審判命令とではかなり意味がちがってくる。審問は師団の法務官である理事の担当である。審問の結果理事が有罪と判定したとき、師団長は改めて判決の命令をくだす。判決をくだすのは師団の軍法会議である。
審問はかならずしも被告人を軍法会議にかけることを意味しない。実際に日露戦争でロシア軍の捕虜となった約千六百人の軍人軍属は帰国後全員が審問に付されたが、軍法会議の判決をくだされたものは一人もいなかった。
審判命令は審問と判決をひとつづきの手続としておこなう命令である。このばあいは審問の結果としてかならず軍法会議の判決がおこなわれる。師団長が審問命令をくだすか審判命令をくだすか、あるいは審問なり審判の対象をどの範囲に限定するかは陸軍検察官の検察処分の結論しだいである。
一般の刑事裁判にくらべるとたぶんに複雑であるが、軍法会議は一般の裁判所とちがって軍紀の維持を目的とする軍事裁判所であるから、すべてが統帥系統つまり制度化された指揮命令系統にもとづいて運用される。だから、平時の軍隊で天皇につぐ最高指揮官である師団長の裁量権が非常に大きい。
陸軍検察官である師団の副官も、審問を担当する理事も、裁判官に相当する軍法会議の判士――兵科将校から選ばれる――も、すべて師団長の直属の部下である。ただ、憲兵が陸軍検察官となったばあいは師団長の権限は憲兵におよばない。憲兵は憲兵司令官をつうじて陸軍大臣の指揮を受ける。だから、たとえば逃亡兵を連隊が逮捕したばあいと憲兵が逮捕したばあいとでは、師団長の裁量のはばが大きくちがってくる。
師団副官の検察処分は連隊から進達された報告書にしたがっておこなわれる。報告書の作りかたが重要な意味を持つ。東京憲兵隊も独自に報告書を作成して師団に提出している。憲兵隊の報告書と福田少佐の報告書ではずいぶん内容がちがっている。憲兵隊側の弱みは脱営兵の身柄を押えていないことである。いきおい、福田少佐の報告書が検察処分の結論を左右することになる。
脱営兵全員の身柄を連隊が確保したことによって事件に憲兵が介入する余地はなくなり、事件の処理はすべて師団内部の内輪の問題となった。
ここでのべたことは改正前の陸軍刑法、陸軍治罪法の時代のことである。新陸軍刑法は明治四十一年十月に施行される。陸軍治罪法は大正十一年の陸軍軍法会議法施行によって廃止される。
報告書を進達し終わって、宇都宮連隊長はこれで作戦の第二段階が終わったと考えた。
――作戦が成功すれば、実際に結党罪の首魁として刑を課されるのは佐野一等卒だけにとどまるであろう、哨令違反の罪は判決命令まではいかないであろう、あと数名の主称者は軽い刑に処せられるかもしれないが、他の兵卒は連隊の懲罰処分にゆだねられるであろう――
これが宇都宮連隊長の希望的観測であった。
宇都宮は、昨日『東京二六新聞』記者が単独で会見を申し入れてきたとき、この希望的観測をのべておいた。機先を制して連隊の立場を世間に公表し、師団の検察処分の動向をあらかじめ牽制しておく絶好の機会として新聞を利用したのであった。
連隊副官に『東京二六新聞』を持ってこさせた宇都宮は記事を読んで満足した。会見の最後に宇都宮が言った言葉が忠実に記事になっていた。
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宇都宮連隊長は、情状おおいに酌量すべき点あれば、主謀者と認めうべきもの少数を陸軍刑法にてらして処断し、他は陸軍懲罰令の制裁をくわうるにとどめ、なるべく寛大に処置したしと物語りいたり。
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福田少佐の報告書の進達を受けた青山南一丁目の第一師団司令部では、橋本参謀長と吉弘高級副官とが報告書の処置について協議していた。師団長が皇族であるという特殊性から、ふつう、この種の事件の処理はほとんど参謀長と高級副官の協議で決定し、実際に師団長をわずらわすことはなかった。師団長は決裁印を押すだけである。
今回の事件は検察処分に付する重大事件であり、陸軍検察官としての高級副官の権限が大きい事件であった。報告書を処理する権限は高級副官にあり、書類は参謀部にまでまわされることなく高級副官が自分の監督権者である参謀長の同意をえて結論をださねばならなかった。
参謀長室で、二人は事件の処理について協議した。
「第一連隊の意図は報告書からだいたい理解できました。」
吉弘高級副官は橋本参謀長に報告した。
「第一連隊の意図を汲んでやるかどうかだ。」
「参謀長殿はいかがな御方針でありますか。」
「実は、依田旅団長閣下からも連隊の立場を尊重してやってほしいと、要望してきている。」
連隊からの報告書を旅団司令部から師団司令部に進達するにあたり、是永旅団副官が依田旅団長に旅団としての希望をそえるよう進言した結果であった。
「今度の事件は背後に主義者≠フ動きはないようでありますし、兵卒の一時的な感情が暴発した事件のようであります。主謀者は厳罰に処するとして、処断の対象はできるだけしぼってよいのではないかと考えられます。」
「とりあえず脱営兵全員を審問に付するとして、全員にたいして判決命令をだすかどうかは、連隊の将校の責任問題ともからめて検討することにしてはどうか。」
「その点は考慮すべきでありますが、将校の責任問題が大きくなりますと師団長宮殿下にまで監督責任がおよぶ危険がでてまいります。」
「それはあってはならん。旅団長戒告どまりで食いとめなければなるまい。将校の責任問題はそこから逆算して考えることにしよう。」
「そういたしますと、兵卒の処分も将校とあまり均衡を失するわけにはいかなくなります。」
「少数の首謀者厳罰、雷同者は懲罰という線かな。」
参謀長と高級副官の協議は結論がでそうであった。
参謀長室の電話のベルが鳴った。
受話器をとった橋本参謀長は相手の話を一方的に聞かされているようすであったが、しだいに表情がかたくなった。
「ハッ。」
「ハッ。」
という恐縮の返事に、
「いえ、まだ見ておりません。」
「そういう情報は入っておりません。」
「大至急、調査いたしまして厳重に処置いたします。」
「承知いたしました。」
という返答がまじった会話であった。
吉弘高級副官は、橋本参謀長の電話の応対にただならぬものを感じた。
緊張して電話にかかっていた橋本参謀長は通話が終わって受話器をおくなり、もどかしげに吉弘高級副官にたずねた。
「司令部に『都新聞』はあるか。」
「『都新聞』でありますか。とっているはずであります。」
いつもならば小泉情報参謀がその日の新聞に目をとおして、師団に関係する記事があれば報告があるはずであった。第一連隊の集団脱営事件の処理に追われて、橋本参謀長は今日はまだ小泉参謀の報告を聞いていなかった。
「小泉参謀を呼んでくれ。今日の『都新聞』を持ってくるように伝えてくれ。」
吉弘高級副官がでていき、いれかわりに小泉参謀がやってきた。
「今日の『都新聞』にどんな記事がでている……?」
小泉参謀は答えた。
「とんでもない与太記事がでております。」
「本省でその記事が問題になっているそうだ。ちょっと見せてくれ。」
「まったく問題とするにあたいしない記事でありますが……。」
「実情を知らぬ本省は事態を重視している。」
小泉は新聞をさしだし、橋本はひったくるようにして問題の記事を探した。
記事の見出しが橋本の目にはいった。橋本は大いそぎで一読した。
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首謀は社会主義者(一年志願兵の兵士、猪熊中尉は屠腹《とふく》の覚悟)
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今回の脱営事件に関し、宇都宮連隊長はしきりに首謀者の存在することを主張しおる由なるが、第一連隊には昨年早稲田大学文学科を卒業し、京橋区尾張町の書肆隆文館の編輯者となり、旧臘《きゆうろう》十二月一日、一年志願兵として入営せし白柳秀湖(廿五)と称する社会主義者あり。同氏は、常に軍隊の第一主義たる服従実行が時として人権を蹂躙するの傾向ありとて痛く憤激し、入営後数次、新兵生活の悲惨なることを新聞紙に投書し、同期兵のあいだに社会主義を鼓吹しいたりとのことにて、中隊長代理猪熊中尉は社会主義者に乗ぜられてかかる失態を演じたるは、委托を受けたる中隊長北川大尉にあい済まずとなし、屠腹して申訳をなさんと力みたて、また宇都宮連隊長は、従来ありふれたる兵卒の上官抵抗と異なり、帝国軍隊に社会主義を侵入させては由々しき大事なり、根本的に処断せざれば、他日、軍隊の基礎に動揺を生ずべしと称しおれば、この問題は比較的重大となるべきか。
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橋本参謀長は怒りの声をあげた。
「なんという無責任な……。」
すでに福田少佐の報告書を検討ずみの橋本参謀長は、この記事がまったくでたらめであることをすぐに理解した。
「第一連隊に、白柳という社会主義の一年志願兵が実際にいるのか。」
橋本参謀長にはそのことが気がかりであった。
「白柳という社会主義者が一年志願兵で入営中であるのは事実であります。しかし、第一連隊ではなく第三連隊の方であります。白柳の入営後の動静につきましては、田中第三連隊長殿からすでに報告がありました。特に注意を必要とするような動きはありません。新聞に投書云々の事実は、もっか重砲兵第二連隊から逃亡中の社会主義者福田狂二のことを誤認したものであります。」
「しかし、弱ったな。この記事を見て大臣は激怒され、国軍の将来をいましめるために脱営兵全員を厳罰せよと指示されたそうだ。」
形式主義と非難されたほどに軍紀にやかましい寺内陸軍大臣は、処罰をいそぎすぎる傾向があった。日露戦争中にも人事局長の反対を押しきって処罰をいそぎ、取り返しのつかない失敗をした前歴があった。
「ま、すこし時間をかけるとしよう。」
橋本参謀長はつぶやいた。大臣の感情が落ちつくのを待つつもりであった。
事実無根の記事であっても一度新聞にでた記事がもつ意味は重かった。
とくに、ことが軍隊という密室で起きた事件にかんすることだけに一度世間に広がった話というものは、当事者が躍起になって否定すればするほどかえって真相を隠しているものと疑われ、世間に信じられるという逆作用を起こした。
現に、当の『都新聞』そのものがこの記事を事実とみなして、「一事一言」と題する論説欄に論説をかかげていた。
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当局将校の責任
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脱営者の不心得は言うまでもなし。しかれども、脱営せしめたるに至りたる原因にたいしては、当局の将校自省する所なかるべからざるものあるは、勿論なり。いわんや、一中隊中に三十二名の多数同盟の脱兵をだしたるにおいてをや。しかもその責任を他に嫁し、社会主義者に乗ぜられたりと言訳をなすがごときに至りては、事件の責任の地位に立てる将校にたいする世の同情と尊敬との減ぜんことを恐る。
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論説の前半は正論であった。しかし、後半はまったく無根の事実にもとづく主張であった。他の新聞にかかげられているとおり、宇都宮連隊長は事件の責任はすべて連隊長にあると明言していた。宇都宮連隊長のこの言明の意図がどこにあったか問題はあるにせよ、責任を他に転嫁するようなことは一言も口にしていない。それだけは事実であった。
恐ろしいのはこの『都新聞』の記事の内容が事実と信じられて、現在まで生きつづけていることである。内務省警保局が作成した『社会主義者沿革第二』に記載されている要注意人物名簿は、木下|尚江《なおえ》、北輝次郎(一輝《いつき》)のつぎに、白柳|武司《たけし》(秀湖)の名をかかげている。その経歴はつぎのように記録されている。
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早稲田大学における社会主義協会員となり、明治四十年十二月一日志願兵にて入営、四十一年三月二十四日同隊兵三十二名とともに脱営し、後、連隊長に自首したるものなるも、同四十一年十一月三十日満期除隊後は格別注意すべき行動なきがごとし。
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歩兵第一連隊の集団脱営事件に警察はまったく関与しなかった。したがって正確な情報を手にいれる手段をもたなかった。その警察が事実無根の新聞情報をうのみにして極秘の警察情報として公式に記録し、監視の対象としたのである。白柳にとっては迷惑この上もなかった。権力による個人情報の管理の恐ろしさを教えるできごとである。
このあやまった情報は現在の文学史研究の資料のなかにもそのままそっくり生きつづけている。筑摩書房版『明治文学全集 明治社会主義文学集(一)』の巻末にかかげられた白柳の年譜は小田切進編となっている。この年譜は「三月二十四日、三十二名の兵隊と脱営したが、連隊長のもとに自から帰り、同年十一月除隊」と、『社会主義者沿革第二』の記述をまったく史料批判することなしに転載している。
筑摩書房版『明治文学全集』の完成は大事業の完成であるとして高い評価をうけた。それだけに利用者も多く、とくに「明治社会主義文学集」の巻はこれに匹敵するだけのまとまったものが他にないだけに、研究に利用される機会が多いと思われる。それだけに、この重要で初歩的なあやまりを踏襲していることは看過できない。
一犬虚にほえて万犬実を伝えるということわざの、みごとな実例である。
橋本参謀長は小泉参謀に指示した。
「この際、隷下の全部隊に、現在入営中の兵卒で社会主義的な傾向のあるもの全員について調査報告するように、通達せよ。とくに、田中連隊長には白柳という志願兵の身辺に注意するよう伝えよ。」
[#改ページ]
十九 淀橋柏木
山川|均《ひとし》が『二六新報』のちの『東京二六新聞』の創立者である秋山|定輔《ていすけ》の家に厄介になっていたころ、やはり秋山家の世話になっていたのが守田文治――のち守田有秋――であった。守田はキリスト教に入信し、山川も洗礼こそ受けなかったがみずからキリスト教徒をもって任じていた。
かれらが中心となっていた小グループの雑誌『青年の福音』第三号(明治三十三年五月発行)に、「人生の大惨劇」と題する文章がのせられた。皇太子|嘉仁《よしひと》親王つまりのちの大正天皇と九条公爵家の四女|節子《さだこ》つまりのちの貞明《ていめい》皇后との結婚が、愛情にもとづかない政治的な人身御供《ひとみごくう》であることをきわめて抽象的な表現で批判した文章であった。
守田が書き山川が手を入れた文章であった。二人は不敬罪で起訴され、重禁錮三年六カ月の判決を受けた。刑に服して釈放されたのち山川はいったん郷里の倉敷に帰ったが、再上京して日刊『平民新聞』の編輯員になった。
『平民新聞』の廃刊で収入の道を失った山川は、すでに結婚していた守田の家に同居した。山川が守田一家とともに淀橋の柏木に引越したころのことが、『山川均自伝』に記録されている。
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守田一家と共に、同志の多く住まっている淀橋の柏木に引越すことになった。当時、幸徳さんは大久保の百人町に、堺さんはすぐ近くの柏木にいたし、『平民新聞』の同僚だった森近運平、深尾|韶《しよう》なども柏木に集まっていた。五月には森近は大阪に、九月には深尾は郷里に、十月には幸徳が土佐に去って、柏木は一時さびれたが、五月末に入獄した大杉栄は十一月には出獄し、十月に大阪日報に入社した荒畑寒村も翌年(四十一年)の春には帰ってきて、大逆事件の管野《かんの》幽月と柏木の住人になっていたように思う。この春は四月の三日に大雪が降り、荒畑家のヒサシが落ちたこと、柏木の住人総動員で小金井の雪の桜を見物に出かけたことを覚えているから。そのほか赤旗事件の宇都宮卓爾、百瀬|晋《すすむ》、大逆事件の坂本|清馬《せいま》、後年の「新しい女」という言語のできる以前の新しい女の神川松子など、若い人たちもこの近くに住まっていた。ここに住居をもたない人たちも、暇さえあれば、柏木という地域をクラブのようにして集まっていた。それで柏木は社会主義者――とくに革命派にぞくする社会主義者の巣クツとなり、警察では「柏木団」などと呼んでいた。そのころのこのあたりは、ツツジ園のツツジを抜いてどんどん新築の住宅が建っていたころで、手ごろの新築の貸家がいくらもあり、そこは手車一台でてがるに引越せる身分だけに、よく引越しをした。とくに大杉などは引越し趣味で、毎月のように引越していた。
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管野幽月とは管野すがのことである。山川が「革命派」と称していたのは金曜会グループのことである。
警視庁が四十一年七月までの情報をまとめた『社会主義者沿革第一』は、「堺派(元幸徳派)府下淀橋町柏木を根拠とせる故に一名柏木組ともいう」と記録している。警察では、西川光二郎派を本郷組、堺派を柏木組と呼んでいた。片山派を三崎町組と呼んだ形跡はない。
このころ、本郷組は意気があがっていない。西川以下、本郷組に属する多くが関係していた電車値上げ反対にからむ凶徒聚集事件は三十九年七月の東京地方裁判所での無罪判決につづき、四十年十一月に東京控訴院でも無罪の判決がおこなわれた。しかし、検事側は上告し、大審院は四十一年二月に無罪判決を破棄し審理のやりなおしを宮城控訴院に命じた。
つまり、やりなおし判決は確実に有罪判決になるということになる。西川グループにとって大きな打撃であった。さらに、吉川|守邦《もりくに》が福田狂二逃亡事件で憲兵と警察の監視のもとにおかれた。
外国のゼネラル・ストライキの顛末を書いた非合法のパンフレット『将来の経済組織』約三百部を吉川が印刷し、そのうち三十部ほどをひそかに配布したところで吉川は身動きがとれなくなった。のこりのパンフレットは同志の渡辺政太郎がひそかに保管していたが、結局、危険がせまって焼きすてる結果となった。
本郷組は『東京社会新聞』をだしていたものの、実際の活動はいちじるしく沈滞していた。
片山派は片山をささえてきたもっとも大きな力を失ってしまった。片山派の理論的支柱であり、しかも温厚な君子人として他派に属する人々からも信望があった田添鉄二が病死した。
田添は結核の病状が悪化して四十一年二月には再起不能となり、三月十九日、満三十二歳の短い生涯を終わった。田添の死は、たんに片山派だけでなく日本の社会主義運動の歴史全体にとって大きな損失であった。
ひとり、柏木組はなお意気さかんであった。西川、山口、吉川ら本郷組の中核をかたちづくる電車値上げ反対凶徒聚集事件に宮城控訴院の有罪判決がくだされたのは、六月十三日であった。六月二十二日、柏木組は神田|錦輝館《きんきかん》でいわゆる赤旗事件を起こした。
雑誌『光』、日刊『平民新聞』時代の筆禍事件三件の罪が確定して入獄中であった山口孤剣の出獄歓迎会が六月二十二日に神田錦輝館でおこなわれた。山口は本郷組に属していたが、柏木組もこの歓迎会に参加した。
赤旗事件そのものは本郷組の『東京社会新聞』が書いているように、「閉会後柏木一派の人々は警官と衝突して例の革命的狂焔を挙げし為め神田警察署に拘引されたり」という性格の、思慮を欠いた児戯に類する血気の行動が生んだ事件であった。
「無政府共産」「社会革命」の文字を白く縫いとりした赤旗を振りかざして革命歌をうたいながら会場から街頭に押しだした一群が、警官と衝突して赤旗の争奪戦を演じた事件である。この事件が政府に社会主義徹底弾圧の強硬方針をとらせ、幸徳らの大逆事件をデッチあげる誘因になったとされている。
柏木組のなかに福田狂二が憲兵にたいして名をあげている「二六新聞記者森田、都新聞記者宇都宮」がいた。「二六新聞記者森田」とは山川が同居していた『東京二六新聞』の記者守田文治である。宇都宮卓爾が「都新聞記者」であったかどうかは疑わしい。
話は福田の入営まえ四十年のことにもどるが、山川は『自伝』に福田狂二が柏木組にたいして暴力沙汰におよぼうとした事件のことを書いている。
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この晩のキングスレイ館の研究会の帰りには、そのころ「虚無党」などと自称していた福田狂児ら、片山派の二、三の青年が、柏木方面に帰る吾々の一行を、コン棒をさげて、夜道に待伏せするような余興もあった。
[#ここで字下げ終わり]
「この晩」というのは、山川の『自伝』に書かれている研究会での議論の内容と、幸徳・堺連名の「社会新聞と小生等との関係」とをてらしあわせてみると、「第三号発行の当日、即ち六月十六日の夜」であることがわかる。
福田の供述のなかに「一夜壮士を雇い、本郷高等師範学校前において闇討ちをせしも、かえって私のために返討ちにあい」という箇所がある。山川の記述では待伏せにしたのは福田らであり、福田の供述では待伏せにしたのは柏木組の方になっている。
福田の供述では相手のなかに「二六新聞記者宇都宮」の名があげられている。しかし、六月十六日には、宇都宮卓爾は和歌山県新宮の大石誠之助の家に寄食しており、東京にいない。この点はのちに福田自身が「二六新聞記者森田」と訂正しているので、問題にするほどのことはない。
山川の記述にもおかしい点がある。福田が「虚無党」を自称していたというがはたしてどうか。まして福田を片山派としているのは明らかなあやまりである。「虚無党」と片山派が結びつくはずがないことは、当時運動のなかに身をおいており、片山の合法主義攻撃の先頭にたっていた山川自身がよく知っていたことではないか。
山川のいう「柏木方面に帰る吾々の一行」のなかに『東京二六新聞』の守田文治がいた可能性はつよい。守田は山川と行動をともにしており、とくに金曜会時代になると、守田の名は積極的な発言者としてしばしば金曜会の会合の記事に登場する。
だが、六月の段階で山川や守田ら柏木組のグループが西川派の福田に襲撃される筋あいはまだない。六月十六日の社会主義研究会で堺は社会主義分派論を主張したが、このことがすぐにはげしい軋轢《あつれき》を引き起こしたわけではない。
七月二十一日の『社会新聞』第八号に禄亭《ろくてい》・大石誠之助の「社会党分党論」がのせられた。これにたいして、七月二十八日の『社会新聞』第九号に、幸徳の「大石禄亭兄の社会党分党論を読んで感嘆に堪えなかった」、西川の「余も大体に於て大石君の分派論に賛成する一人なり」という、論評がのせられている。
九月一日付の『社会新聞』に共同出版組合と同志出版会の発足の記事がある。
共同出版組合は、社会主義関係の図書を刊行し組合員に割引販売するとともに、地方組合員にたいしては他の図書の取次販売もすることを目的としている。同志出版会は、社会主義を平易に解説した一般むけの小冊子を発行することを目的としている。それぞれ目的を異にした組織である。
共同出版組合の理事は、片山、止水・座間鍋司、西川の三人である。同志出版会の世話人は、深尾韶、相談役は、村田四郎、築比地《ついひじ》仲助の二名、この三名以外の出資者は、幸徳、堺、山川、西川、座間、渡辺政太郎、守田、岡千代彦、森近、藤田四郎、幸内《こううち》久太郎である。発行された小冊子の第一冊は深尾らが書き、あとは予定として、第二冊を岡野辰之介、第三冊を西川、第四冊を山川、第五冊を深尾、第六冊を堺が書くことになっていた。
座間は議会政策派に属する。共同出版組合は片山派と西川派の組織という性格がつよい。深尾は堺の門下であるが、四十年二月十七日の日本社会党大会で議会政策論を主張した田添を支持したただひとりの代議員であった。人的には堺系、思想的には片山派である。村田は、社会主義夏期講習会の主催者となったいわば各派のまとめ役である。築比地は群馬県に住み、派閥的な色彩がうすい同志である。
築比地の名は『日本社会運動人名辞典』にでていない。しかし、その名は、「革命の歌」の作詞者として、歴史に残っている。
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あゝ革命は近づけり。
あゝ革命は近づけり。
起てよ、白屋繿縷《はくおくらんる》の子、
醒めよ市井の貧窮児。
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あたかも「赤旗の歌」が共産党成立以後の運動を象徴したように、「革命の歌」はそれ以前の時代の社会主義運動の象徴であった。
この三人を表面にだした同志出版会は、どちらかといえば、本郷組と柏木組の連合という性格がつよい。柏木組のリーダー堺や本郷組のリーダー西川は小冊子の執筆者として直接に関係している。議会政策派からも深尾や座間らが参加しているが、片山や田添は関与していない。しかし、一応は各派の共同組織である。
これが、八月末の各派の関係であるから六月なかばに西川派の福田が山川や守田を襲撃する理由は、福田のはねあがりかあるいは私的な感情によるもの以外にはなかった。
もっとも、ここでの福田狂二と山川らとの暴力事件についての考察は、山川の『自伝』に書かれている内容が事実であることを前提としている。この辺の記述については山川の『自伝』にも信がおけない部分がある。
『自伝』によれば、山川は上京して日刊『平民新聞』にはいるまえ、三十九年十一月、岡山で『座間止水君の来岡を期して演説会開催」をしている。その座間について山川は、「この座間止水という人は、日本社会党の遊説員だったかどうかは忘れたが、(中略)それからまもなく私が東京に出たころには、運動の中にこの人の姿は見えなかった。(彼は後年、なんでも軍部の息のかかった青年の教育運動に関係していたように思う)」と書いているだけである。
山川の記録では座間との関係は岡山かぎりであったという。たしかに、山川が東京にでた三十九年十二月十九日には座間は東京にいなかった。しかし、座間が郷里での運動の成果を持って再上京したのは四十年七月十九日である。
『社会新聞』は七月二十一日の社会主義研究会について、「来会者五十余名、西川光二郎君の実行論ちょう講演ありてのち、山川均君の直接行動論あり、座間止水君の村落における社会主義者の運動方法についての演説あり」と報じている。山川と座間はこのとき顔をあわせている。顔をあわせただけでなく直接に論争をしている。
座間のこのときの演説の内容の要約は、「村落社会主義」の題で『社会新聞』の七月二十八日号に掲載されている。それは、山川の直接行動論にたいする農村での運動の経験にもとづく反論である。山川に「運動の中にこの人の姿は見えなかった」はずはない。正面からの論敵としてたがいに姿を見つめあったというのが事実である。
しかもなお、論敵でありながら、山川と座間は同志出版会の「同志」であった。座間の再上京は一時的なものでなく、その後『中央新聞』の記者として活動をつづけている。
なぜ『自伝』に、山川は座間のことをこのように書いたのか。それは忘却によるものか、派閥的な対立感情から無視したのか。いずれにしても、山川の『自伝』の少なくもこの時期の人的関係に関する部分の記述について、信頼性を大きく傷つけるものである。
福田狂二は宇都宮卓爾を『都新聞』記者と言っている。これは福田がまちがっている可能性がつよい。
四十一年六月二十二日の赤旗事件の被告人となった宇都宮の職業は、判決文の肩書によれば、荒畑寒村、百瀬晋と並んで、「平民新聞記者」である。この『平民新聞』はもとの日刊『平民新聞』のことではない。
『寒村自伝』によれば、『大阪日報』の記者となった荒畑寒村は日報社の仕事の方は適当にして、大阪平民社の『日本平民新聞』の方に身を入れていた。かつて日刊『平民新聞』の編集室給仕であった百瀬晋が、大阪平民社の二階に住みこんで事務にあたっていた。五月に『日本平民新聞』が廃刊になり、荒畑は上京して百瀬と共同で部屋を借りた。
他方『山川均自伝』によれば、『日本平民新聞』の東京進出計画があったが、不運にも『日本平民新聞』の中心であった森近が新聞紙条例違反で起訴され、東京進出はおろか新聞発行の継続さえ困難になった。東京進出計画は一時中止され、東京で再刊されるまで休刊ということになった。大阪平民社は解散し、その業務を受けつぐ新しい平民社の看板が金曜社の看板と並んで、柏木の山川の家、実は守田の家にかけられることになった。
この事実は四十一年五月二十日付の『日本平民新聞』号外によって裏づけられる。号外の記事は「前号の秩序壊乱事件」と題して森近が罰金六十円に処せられたことを記載し、「移転計画の其後」と題して計画の挫折を報告し、「暫時休刊す」、「本社の移転」となっている。
本社の移転先は「其場所は臨時金曜社と同居にて、東京府下淀橋町柏木九百二十六平民社」とされている。号外のおなじページの下欄に「同志の住所」欄があり、「山川均 東京府下淀橋町柏木九百二十六」と記載されている。山川の『自伝』の記述と一致する。
この発行計画中の新しい『平民新聞』の記者が、荒畑、百瀬、宇都宮であった。しかし、荒畑、百瀬、宇都宮および平民社の山川と全員が赤旗事件で逮捕され、入獄し、新『平民新聞』発行の計画は幻に終わった。
福田狂二逃亡事件に関する新聞報道のあり方を検討するためには、以上のことを念頭においておく必要がある。
福田狂二の逃亡事件をすっぱぬいたのは三月一日付の『東京二六新聞』――この記事では福田の名は狂次となっている――であった。この記事は、福田の逃亡事件の事実関係については不正確であるが、福田の人物については正確にとらえている。事件についての記事が不正確であるのは、軍隊という特殊なところで起きた事件であり、しかも事件の内容そのものを軍が秘密にしていたので、やむをえない点がある。
『東京二六新聞』は、さらに三月三日付の紙面で「脱営兵福田狂児」というタイトルの記事をのせ、福田の人となりをくわしく書いている。その記事は福田にたいしてむしろ悪意のある内容である。『東京二六新聞』に福田逃亡事件の記事を書いた記者は福田個人についてかなりくわしい情報をもち、しかも福田にたいして好意をもっていない人物である。福田の人となりを当時の社会主義仲間で使われていた「狂児」という名で紹介していることからも、そのことは知られる。つまり、守田文治のほかには考えられない。
福田逃亡事件に関する『東京二六新聞』の記事は、当時の軍当局およびのちの歴史記述に大きな影響をあたえた。それだけに、この記事が誰によってどういう立場から書かれたかが問題となる。
『都新聞』は三月十日になってはじめて福田逃亡事件を記事にした。
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又々同盟脱営
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横須賀重砲旅団第一連隊第四中隊内の砲卒十六名は去る六日結党して脱営したり。当局者はきわめて秘密に附しつつあるをもって原因の真相は確めがたきも、元早稲田大学政治科学生山田狂二(廿二)が昨年十二月一日同第二連隊に入営後まもなく、社会主義的の慷慨の文字を書き残して脱営し、東京より服装全部を小包にて中隊長山本大尉におくりしことありしが、山田のこの行動は、多少今回の遠因をなししもののごとく、近くは赤坂連隊の三十二名事件が伝染せしものなるべし。なお脱走の後には「明朝六時帰営す云々」の意味を書残しありしが、一昨日八日までには帰営せしもの僅かに半数にして残り八名ばかりは今になお行方不明なりという。
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他の脱営事件に関連させての福田逃亡事件の報道であった。『都新聞』が伝えるような重砲兵第一連隊の集団脱営事件は存在しない。
第一師団管内で起きたこの種の事件関係の書類をつづりこんだ『明治四十一年 密来綴 第一師団司令部』には、『都新聞』が伝えたような集団脱営事件関係の書類はなく、一連番号順に記載された書類目録のなかにもこのような事件にかんする書類の名は見ることができない。
福田逃亡事件にかんする『都新聞』の報道は福田に関する知識がない記者の書いたものである。福田狂二の名を山田狂二とあやまり報じている。宇都宮卓爾が『都新聞』の記者として事件の報道を担当したのであればこのような初歩的なまちがいをするはずがない。福田逃亡事件についての『都新聞』の記事と宇都宮卓爾とは明らかに関係がない。
福田逃亡事件と宇都宮卓爾との関係を推測させる記事はむしろ『日本平民新聞』の記事である。『日本平民新聞』が福田逃亡事件を記事にしたのは三月二十日付の紙面である。『東京二六新聞』にくらべればおそすぎるが、なにしろ半月刊の新聞であり発行所は大阪にある。東京周辺のニュースは東京の同志からの通信に依存していたのであるから、やむをえない。
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△戦慄すべき脱営者 昨年十二月一日横須賀要塞砲兵隊に入営したる福田狂児は、昨年谷中村問題に奔走し、あるいは社会新聞社の研究会に出入し、時には金曜講演の弁士に暴行をくわえんとしたるがごとき、やや事を好む気風の男なりしが、二月七日頃営舎の壁上にきわめて大胆不敵なる不敬の文字を羅列しおきて脱営し、今日に至るも行方不明なり。連隊にてはその詳細を秘しおれども、はじめてこれを見たる一将校が驚愕して腰をぬかしたりというをもって見れば、いかに大胆不敵の言語なりやをさっすべし。これについて噴飯に耐えざるは、当地の憲兵隊が二月下旬頃同姓の一同志に注目し、あるいはやや人相の似寄りたる一同志に注意する等、小供らしき行動をなしたる事なりし。
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『東京二六新聞』の記事と『日本平民新聞』の記事とは明らかにおなじニュースソースによっている。脱営の日付がともに二月七日ごろとなっていること、「不敬の文字を羅列し」という表現までおなじ言葉を使っていることがそれを証明している。
両方ともに事実とちがっている。両方の記事がおなじあやまりをおかしていることはまちがった同一のニュースソースによったことを示している。
ここで、赤旗事件の裁判で宇都宮卓爾の職業が「平民新聞記者」となっていることが意味をもつ。結論をいえば、『東京二六新聞』に福田逃亡事件の記事を書いたのは守田文治であり、『日本平民新聞』に記事を送ったのは宇都宮卓爾である。
記事の筆者を問題にするのは、「不敬の文字を羅列し」という表現が複数の新聞にでたからである。
この記事は、歩兵第一連隊の集団脱営事件と白柳秀湖との関係を報じた『都新聞』の事実無根の記事よりも、信頼性があるものとみなされた。とくに、社会主義者の仲間うちの新聞である『日本平民新聞』が記事にしたということが、その信頼性をいっそう高めた。
軍制史研究の第一人者であり、職業軍人から戦前の社会主義運動家に転じた経歴を持つ松下芳男が、この記事を資料として採用した。それ以来、この記事は事実と信じられ定説化してきた。松下の著書『明治軍制史論』は、「明治四十一年二月七日頃、横須賀の重砲兵第二連隊の二等卒福田狂二が、営舎の横壁に極めて大胆な不敬な文字を羅列して脱営し」と、『日本平民新聞』の記事をほとんど原文のまま採用した。
ついでながら、宇都宮卓爾はその後、赤旗事件で検挙され起訴された。逮捕された宇都宮は、佐藤悟、森岡永治とともに神田錦町署のおなじ監房に入れられた。その監房の壁に爪で「一刀両|断《ス》天|王《ノ》頭、落日光|寒《シ》巴黎《パリ》城」ときざまれた落書きが発見された。フランス革命で処刑されたルイ十六世に天皇をかさねあわせた漢詩である。この落書きが天皇暗殺の予告とみなされ、大逆事件の引きがねのひとつとなる。
佐藤が落書きの犯人とされ、赤旗事件の罪のほかに別に不敬罪に問われ、重禁錮三年九カ月の刑がつけくわえられた。しかし、佐藤は無実であった。
赤旗事件関係者一同は、検討の結果、落書きしたのは宇都宮であり、宇都宮が罪を佐藤に負わせて口をぬぐっているという結論に達した。宇都宮は事件関係者全員から獄中で絶交を宣言され、出獄後の査問を避けて運動から姿を消した。
『東京二六新聞』の記事は第一師団司令部にも大きな衝撃をあたえた。
第一師団司令部は山口重砲兵第一旅団長にたいして、「不敬の文字」に関する調査を命じた。福田狂二は脱営したのではなく、外出先からそのまま逃亡したのであるから、脱営にあたって兵舎に落書きをすることなど考えられなかった。しかし、外出前日にでも落書きしておいた可能性もないとはいえなかった。
山口旅団長からの報告は三月二十八日付で師団司令部に提出された。
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明治四十一年三月二十八日
[#地付き]重砲兵第一旅団長 山口勝
第一師団参謀長 橋本勝太郎殿
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重砲兵第一連隊本部脇|※[#「囗<」、unicode570A]廁《せいし》内に記載しありし文字、別紙の通りにこれあり候。しかしその発見せしは本年一月ごろの事にて、その記載せるものは何人なるや不明なり。しかれども二六新聞のいわゆる不敬の文字には該当せざるべく、又関連しおらざるがごとし。又先般連隊長より申しいでおき候者にたいしては、当該中隊長に於て十分なる訓戒をなし、これを矯正するに努めつつあり。又先週|汐入《しおいり》の某共同便所内に別紙とほぼ同意味の文字ありたりとの報告に接するも、これあるいは海兵の所為にあらざるやの疑あり。右内報におよび候。
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一、第一連隊将校※[#「囗<」、unicode570A]廁内に記載の文字
「将校は地方税によりて生活するものなり。故に吾等の父母が金を出して飼っておくものなり。」
二、第一連隊下士※[#「囗<」、unicode570A]廁内に記載の文字
「将校下士は吾等の父母が養いつつあるものなるに、当番当番と遠慮なく使われるとは辛いものなり。軍隊にしてかくのごとし……慨くべきかな。」
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右は第一連隊週番中隊長発見し、これに連携してこれに関する研究をなし、先般第一連隊長より申しいでし詳報に至りしものなり。
[#ここで字下げ終わり]
重砲兵第一連隊内のこの落書きと第二連隊所属の福田狂二がつながる可能性はまったくない。入営直後の福田が当番兵として使われることはなかったし、掃除のためであってもよその連隊の将校便所などに近づく機会はなかった。早稲田大学中退の社会主義者福田が将校の給料が地方税からだされているなどと書くはずもなかった。
いずれにしても、落書きの内容は『東京二六新聞』の記事が「不敬の文字」と表現したようなものとはほど遠く、せいぜいが心情的な反軍思想の表現であった。
六月の赤旗事件で多くの逮捕者をだした柏木組はさびしくなった。大杉栄、堺利彦、森岡永治、荒畑寒村、宇都宮卓爾、百瀬晋、村木源次郎、佐藤悟、山川均がいずれも重禁錮一年から二年の刑に処せられた。佐藤にはこのほかに不敬罪の罪が加算された。
本郷組もまた電車値上げ反対事件の有罪が確定し、その多くが七月に入獄した。西川光二郎、岡千代彦、山口孤剣、吉川守邦、樋口伝、松永敏太郎それに赤旗事件にも連座した大杉栄がいずれも重禁錮一年から二年の刑に処せられた。『東京社会新聞』の発行をつづけてきた赤羽|巌穴《がんけつ》も新聞紙条例違反で投獄され、新聞は廃刊となった。
赤旗事件で堺ら東京の同志が根こそぎ逮捕されたことを知らされた幸徳秋水は、家族を高知において上京の途につき、八月十四日に東京についた。翌日、柏木組が壊滅してさびれた平民社つまり守田文治宅あとにひとまず落ちついた。守田は赤旗事件ののち、中野町中野に引越し、柏木の平民社は住む人がなくなっていた。
十月に幸徳の平民社は小泉策太郎の世話で巣鴨村二〇四〇の新居に転居し、入獄中の荒畑の内妻管野すがが平民社に住みこんで幸徳の世話をするようになった。十一月に上京した同志の医師大石誠之助が診察したところ、幸徳も管野も結核にかかっており、とくに管野はあまり長生きできないであろうという状態にあった。四十二年三月、幸徳は妻の千代子を離別し、千駄ヶ谷|二子《ふたこ》新町裏に引越し、管野との同棲生活にはいった。
幸徳は管野との関係で獄中の同志荒畑を裏切ったという非難をあび、病気と貧困のなかで同志から孤立した。きびしい警察の監視で身動きがとれず、山口孤剣、赤羽巌穴、吉川守邦らつぎつぎと出獄してきた同志たちも、幸徳をたずねてきて非難をあびせかけた。幸徳の心情は管野の過激な陰謀に惹かれていった。
[#改ページ]
二十 山の手線
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二十歳《はたち》の春は来た。
停車場《ステーシヨン》も何時の間にか改築される、山の手線の複線工事も大略《あらまし》出来上って、一月の十五日から客車の運転は従来《これまで》の三倍数になった。最早之までのように呑気な事も出来ない。私達の仕事は非常に忙しくなって来た。
鉄道国有案が議会を通過して、遠からず日鉄も官営になるという噂は、駅長の辞意を弥《いよい》よ固くした。
[#ここで字下げ終わり]
田中第三連隊長は、連隊長室でめずらしく小説に目をとおしていた。白柳秀湖が第三連隊に入営する直前に発表した小説「駅夫日記」である。この小説で本格的な社会主義文学が誕生したという世間の評判であった。その白柳について師団司令部はきびしい調査と報告を要求してきた。
白柳が一年志願兵として四十年十二月に第三連隊に入営してきたとき、田中連隊長は、すでに名を知られたこの社会主義者をどのように扱うか、迷った。とりあえず他の一年志願兵とは別の中隊に所属させ、岩倉中隊長にその言動の厳重な監視を命じた。
四十一年二月十一日、主催者不明の増税反対国民大会におおぜいの群衆が日比谷公園にあつまり、暴動化しそうになった事件が起こった。田中連隊長は、警察による調査書にもとづき要注意人物としてマークしていた白柳の言動について、この事件との関係の有無を調べさっそく師団司令部に報告した。報告書は二月十二日の日付になっている。ずいぶん機敏な処置である。
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[#地付き]一年志願兵 白柳秀湖
右は社会主義者中の大鼓吹者にして注意人物たるべき旨、かねてその筋より内牒《ないちよう》ありし者にこれあり候処、昨十一日国民大会事件に関しても彼の行動については注意を怠らず、あるいは彼輩と潜《ひそ》かに気脈を通ずる者にあらざるかを子細に密偵致し候えども、本事件に関しては別に外間《がいかん》の者と声息を通ぜしがごとき形跡を発見致さず候条、この段報告に及び候也。
[#ここで字下げ終わり]
このときの経験から、田中連隊長は入営まえの身上調査書に記載された警察の調査資料の内容に疑問をおぼえた。世間の噂や無責任な新聞報道の内容が裏づけ調査もなしに、真偽とりまぜ記載されているという印象を受けた。
日露戦争の作戦を担当してきた田中の目からみれば、敵の戦力情報にたいする的確な判断なしに作戦を立てているような警察のやり方は、けっして有効とは思えなかった。そこに、歩兵第一連隊の集団脱営事件に白柳が煽動者として関係したという『都新聞』の記事の問題が起こった。記事の内容に根拠がないことは白柳の入営先を第一連隊と書いていることからも、明らかであった。
しかし、師団司令部は白柳にたいする取調べを命じてきた。
田中連隊長は、とりあえず白柳の取調べを命ずるとともに、この際、みずから白柳に関する正確な情報をつかみ、直接に白柳を調べてみる必要があると感じた。それは、軍隊内務書の改正作業のなかで入営してきた社会主義者をどう位置づけるかという問題の解決のためにも、必要であると考えられた。
白柳はまず中隊の特務曹長に呼びだされて取調べを受けた。第一連隊の集団脱営事件と白柳は何の関係もないので、取調べを受けても白柳には無関係というほかには言うべきことはなかった。
白柳はさらに岩倉中隊長の取調べを受けた。ここでも白柳の言うべきことはなかった。大隊長じきじきの取調べにたいしてもおなじであった。ものおじすることを知らない白柳もうんざりした。
田中連隊長はあがってきた取調べ書類に一応の目をとおしたのち、一年志願兵としての軍隊生活にたいする白柳の態度について白柳自身の考えをただしてみる必要を感じた。みずから白柳に関するできるだけの情報をあつめ、大いそぎで白柳の書いた小説を読み、それを予備知識として白柳を呼びだすことにした。
白柳が田中連隊長から呼びだされたのは三月九日午後であった。
――とうとう連隊長みずからの取調べとは、ご苦労なことだ――
相手が連隊長であろうと気おくれしないというのが白柳の性格であった。学生時代から幸徳、堺という社会主義の大先輩にたいしても、ずけずけとものを言っていた。その臆面なさが、若い白柳の名を早くから世にだすことになった。
白柳にとって意外なことに、田中連隊長は白柳を連隊本部に呼びださずに、将校集会所の一室に呼びだした。
現在の白柳は一兵卒である。しかし、身分上は一年志願兵であり、実際に任官させてもらえるかどうかは別として、予備役将校の養成過程にある。田中連隊長はまず、将来の連隊将校団の一員となるべき後輩である白柳と連隊将校団長が私的に懇談するという形式を選んだ。
白柳が部屋にはいり直立不動の姿勢をとって敬礼をしたあと、田中は白柳に椅子をすすめ腰かけさせた。
「『都新聞』の件ではたがいに思いがけない迷惑を受けたな。無責任な言論というやつがどんなに世間を混乱させるか、白柳志願兵も身にしみて理解できただろう。
今日は、その件はもうすんだことにして、ここでしばらくのあいだ貴公は軍服を脱いだつもりで話をするがよい。私も一私人として貴公と話をするつもりだ。
今度の新聞の一件で貴公が受けた迷惑は私もよく理解しているつもりだ。ただこれをちょうどよい機会として貴公と話をすることができれば、災いを転じて福とすることもできるというものだ。
私は、ある事情から、貴公のことについては入営まえの言動についてもよく知っている。入営後の勤務成績その他についても中隊長の報告を待つまでもなく、直接に知ってきたつもりだ。貴公が最近書いた小説などにも一応目をとおした。
貴公はロシア文学を勉強しているようだが、私もロシアでの生活が長かった。政府や警察が貴公をどう思っていても、貴公がこの連隊にいるあいだはこの田中が責任をもって貴公の保護にあたる。その点だけは安心してよろしい。今日は、言いたいことがあるならば腹蔵《ふくぞう》なく語るがよい。」
田中の語りかけは白柳の意表をついた。社会主義者――といっても、白柳の社会主義思想にはトルストイアン的な要素がつよかったが――と呼ばれるようになって以来、警察の干渉がきびしく、権力の側にあるものから高圧的でない言葉をかけられたことなどついぞなかったからである。
だからといって、田中の言葉に一も二もなく感激するほど白柳は純情でもなかった。白柳は、田中連隊長に自分の書いた小説「畜生恋《ちくしようれん》」の登場人物である退職軍曹の姿をかさねあわせた。よく似ていた。
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二十八九の背の高い、色は浅黒いけれども、血色の好い鼻すじの通った頗《すこぶ》る好男子である、艶やかな髪の毛をきれいに分けて、美しい格構《かつこう》の好い口髯を生やした処なんかは、慥《たし》かに女工社会の一問題となりそうな代物《しろもの》である、お定まりのセルの洋服に、ズックの上靴をはいて居る。先の巡査が嫌に人を下に見る癖のあるに比べて之《これ》はまた極めて打とけた、口前のうまい交際家であった、同じく厳格な階級生活の軍人でも、永い間新兵でいじめられて、揚句《あげく》の果てに今度の戦争にまでも行って、弾丸《たま》の下から生きて還った男なので、官吏的の頑固な処なんかは微塵もない。
[#ここで字下げ終わり]
「新兵でいじめられて」を「下級士族でいじめられて」と書きかえて年齢を相応の数字に入れかえれば、この表現はそっくり田中大佐にあてはまるのではないかと思うと白柳は気が楽になった。
軍隊生活の経験がないときに書いた小説であったが、いまにして思えば、巡査あがりと軍人あがりのちがいをうまく書いたものだと思う。それだけに、白柳は自分の小説の登場人物である退職軍曹がそうであったように、いやそれよりもはるかに、田中大佐がしたたかな人物であることを意識していた。
「連隊長殿みずからそのようなお言葉をかけていただきまして、白柳はまことに恐縮、感激いたしております。白柳は、自分ではけっして過激な思想の持主であるとは思っておりません。
白柳はロシア文学を勉強し、その影響を受け、その趣旨のもとに社会改良を図りたいと考えております。これは、たんなる社会主義の問題ではなく社会正義の問題であると考えます。
でありますから、白柳は誰はばかることなく、自分の考えを新聞、雑誌に発表してまいりました。
しかるに、地方におきましては当局の忌避するところとなり、その圧迫はきびしさをくわえほとんど生活もできかねる有様となったのであります。白柳は、軍隊に入ったならばどのような圧制のもとにおかれるかといささか案じ、それなりの覚悟もしていたのであります。
しかし、本日の連隊長殿のお言葉を肝《きも》に銘じて、白柳が在営中は連隊長殿にご迷惑をおかけするようなことはいたしません。」
ここまでは両方にとっての儀式であり、相互の了解事項の確認であった。
田中はここで話題をかえて、白柳にたずねた。
「白柳志願兵は除隊したのち、一度ロシアに行ってみたいと思わぬか。」
「まだ、そこまでは考えておりません。ただ、文学をつうじてロシアの大地の美しさと、そこに住む人民の貧しさ、ロシア皇帝や貴族の圧制、教育ある青年たちの人民にたいする同情と革命にたいする情熱、そういうものに心を引かれております。」
「おれはのう。」
くだけた口調で田中は語りはじめた。
「知ってのとおりロシアに長くいた。ロシアの人民の生活も見てきたし、ロシアの革命派の連中とも付きあってきた。
貴公の小説の『駅夫日記』にでてくる、小林とかいう人物がいたな。資産家の息子で教育もあるが、家を捨てて軍人にならずに工夫《こうふ》になり、革命家になった男のことだ。あの小林という男とおなじ道を選ぼうと、おれも考えたことがある。」
「それは、本当のことでありますか。」
話がこういうことになると、白柳も軍隊の階級の上下を忘れて、もちまえの臆面なさがでてくる。
「さしつかえございませんでしたら、お聞かせ願えれば光栄に存じます。」
「いや、あれはまだ、日露協商か日英同盟かで日本の国内がもめていたころだった。日露協商論の伊藤博文侯がペテルブルグにこられた。そのとき、おれは無鉄砲にも伊藤侯の宿に飛びこんで伊藤侯に日露協商の不可なるゆえんを説いた。
伊藤侯は青二才のいうことなど聞く耳もたぬと一蹴されたがな。それでも、おれは食いさがった。伊藤侯はついに怒っておれの本国召還命令をださせると言われた。
おれは、日本に帰されるくらいなら軍人をやめてロシアの労働者になり、ロシアの革命運動にくわわろうと考えた。それが日本のためだとな。そのころのおれも若かったが、ロシアにはそういう気持ちを起こさせる何かがある。
おれはロシア人になりきるためにギリシャ正教の信者になり、毎週教会にかようということまでした。海軍の広瀬武夫少佐といっしょに、ダンスを習いに女優あがりの教師のところにもかよった。ロシア人は身分や階級の上下をとわずダンスが好きじゃからのう。
もっとも、さすがの軍神広瀬も柔道できたえた足さばきではダンスにならず、いつも腰を鞭でたたかれていた。思いだせば昨日のことのような気がする。
そういう次第で、ロシアの革命家ともずいぶん知りあいになり、付きあったものだ。」
白柳はずばりと質問した。
「そこまでロシア人になりきろうと努力された連隊長殿は、なぜそのままロシアにとどまらなかったのでありますか。」
「そこだ。やはり、おれは日本人であってロシア人ではなかった。ツァーの専制を倒すことはロシアの人民のためでもあるが、それ以上に日本のお国のためである。日本を亡国のポーランドにしてはならん。このことだけはおれの頭からはなれなかった。
革命派のなかにはポーランド人がずいぶん多かったが、いったんほろびた国を革命によって独立させるという仕事は大変なものだ。ポーランドの革命家の苦労には頭がさがった。それだけに、日本をツァーの支配するポーランドにしてはならんと考えた。」
「連隊長殿が交際した革命家にはロシア人の革命家はいたのでありますか。」
「もちろんロシア人も多かった。会ってみて感心したようなすぐれた人物もいた。
一度だけだったが、ある革命派の親分とあった。なんでも、シベリアの流刑地からもどったばかりだということだった。その男は、革命運動の最強の爆弾は紙だ、革命党が党の新聞をもつことだ、と主張していた。
革命党の組織を広げ、思想を高め、結束を固めるには、革命党が機関紙を持つこと、革命の指導者が手まめに手紙を書いて方針をただしく全組織に伝えることが先決だ。無責任な言論が革命運動を中傷している状況のもとでは、正確な事実の暴露とただしい方針の伝達が最大の武器だ。小さな閉鎖的な組織、こそこそとした陰謀、ピストルや爆弾、そんなものでは革命はできんとその男は言っていた。
そのうちに『イスクラ』という革命派の新聞がではじめた。その男の仕事かどうか、おれにはわからなかったがな。その男は、おれと会ってからまもなく国外にでたそうだ。危険人物だということでロシアの国内にはおれなくなったということだ。
しかし、おれはその男に教えられるところが多かった。革命党も軍隊もたたかう組織という点ではおなじだからな。」
田中義一がロシア滞在中にあった革命党の首領というのが、レーニンであったという証拠はない。
レーニンがシベリアからペテルブルグに帰ってきたのは一九〇〇年二月であった。レーニンはペテルブルグから五百キロほどはなれたブスコフに住み、『イスクラ』発行の準備をして七月に出国した。『イスクラ』は十二月に国外で印刷され発刊となった。
田中がロシアの隊附勤務を許可されたのはその年の六月末である。やっとロシア語に熟達した田中は、隊附勤務に入るまえ、さかんにロシア国内を旅行して歩いた。田中がもっとも自由にロシア国内で行動していた時期と、レーニンがシベリアから帰り出国するまでの期間とは、ちょうど一致する。
レーニンと直接に会う機会があったかどうかは別として、田中は、レーニンが革命運動の組織活動に採用した方法を、この連隊長勤務時代から構想していた日本の反革命組織、帝国在郷軍人会の組織活動にあたって全面的に模倣した。帝国在郷軍人会は編纂部中心の運営をおこない、機関誌『戦友』を組織活動の中軸にすえる。
白柳は、田中連隊長が自分になぜこういう話をしたのか、その意図を理解しかねた。いくら私人として話をするといっても、田中連隊長の話は社会主義者の兵卒にすぎない白柳にする話としては深入りしすぎていた。
その白柳の疑問に答えるかのように、田中は切りだした。
「白柳志願兵に希望したいのは、文学をこころざすのであれば文学の世界に徹することだ。ロシアの革命家ならずとも、古くから言われているように文章は経国の大業だ。白柳志願兵が、志願兵としての本務に支障をきたさないかぎり、在営中に文学を勉強することについては連隊長は黙許しよう。
政治にとってであれ軍にとってであれ、およそ組織と名がつくものを動かすに文筆は偉大な力を発揮する。おおいに勉強してよろしい。ただし、天下国家を論じた文章を在営中に書いて発表することは法規のうえで許されていない。これは連隊長の権限を越えた問題である。
文学を研究することはよろしい。しかし、その結果を在営中に発表することはもちろん、そのほか軍紀にふれる行動だけは慎むよう。軍紀にふれる行動があったばあい、貴公を保護するという約束は連隊長の権限をもってしても実行できない。」
――田中連隊長が言いたかったのはこのことだったのか。要するに、書くことは黙認するが行動は禁ずる、ということか――
この取引の提案は白柳にとってわるい提案ではなかった。一年志願兵という特権的な身分であるとはいえ、兵卒であることにかわりはなかった。その白柳に兵営内で小説を書く自由を黙認しようというのである。白柳は取引に応ずる気になった。
「ただいまの連隊長殿のお言葉、白柳は感謝に堪えません。誓って、連隊長殿の御期待を裏切るようなことはいたしません。」
田中連隊長は、師団司令部が隷下の各部隊にだした在営中の社会主義兵卒に関する調査報告提出の指示にもかかわらず、白柳に関する報告書を提出しなかった。白柳は、在営中、社会主義的な言動をいっさい慎んだ。取引は守られた。
そのかわり、白柳は在営中に小説を一編書きあげた。題して「黄昏《たそがれ》」という。その発表は除隊後の四十二年五月である。
「黄昏」は、白柳が早稲田大学在学中に雑誌『火鞭』を発行していた時期のことを題材とした、私小説的な性格が濃い作品である。
主人公の恋の破綻は山の手線の汽車のなかの光景としてえがかれている。最後の別れは新宿駅である。
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黄昏である。雅夫は何とはなしに歩いて大理石のストーブの前に立った。見るとストーブの上の鏡に自分の姿が朦朧《ぼんやり》と映って居る。
「おゝ厭《いや》な奴!!! 何という厭な男だろう。」と雅夫は自分で、自分の姿がホトホト厭になった。爾《そ》うして世界に此鏡というものが無いように、若し自分を知るという事が無かったなら、人生は何《ど》んなに幸福だろうかと思った。
雅夫は黙ってフイと鏡の前を去った。
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この結びの文章の自己嫌悪の感情は、田中連隊長との取引によって保証された安全のなかに身をおきながら軍隊のなかで小説を書いたときの、白柳自身の気持ちにつうずるものであった。
宇都宮連隊長は師団司令部から『都新聞』の記事にかんする連絡を受けたとき、内心の怒りを禁ずることができなかった。慎重に対処してきた新聞対策がこんな事実無根の記事でかきみだされてたまるかと、宇都宮は思った。
宇都宮連隊長が脱営兵卒の寛大な処分を希望しているのは、かならずしも兵卒たちのためを思ってのことではなかった。兵卒たちへのきびしい処分が猪熊中尉にはねかえり、ひいては連隊長の監督責任の問題として自分自身におよぶことを危惧したからであった。しかし、その動機は宇都宮自身の保身だけを目的としたものであるとは言いきれない。
宇都宮連隊長はこの秋の師団名誉射撃にその職責のすべてをかけていた。射撃演習に端を発した今度の事件が連隊長の責任問題にまで発展するとなれば、連隊の士気、とくに射撃演習にたいする各中隊の熱意はがた落ちになる。
射撃で第一師団の名誉を守るのは第一連隊しかないという固い信念のもとに、宇都宮連隊長は各中隊にたいし猛訓練をつづけさせてきた。いま、連隊をささえているこの熱気が消えれば、連隊の士気は落ち、軍紀はゆるみ、連隊将校団の団結はくずれ、連隊は軍隊組織としての一体性をも失ってしまう。
それは、一宇都宮個人の問題を越えた日本陸軍にとっての重大問題であった。
宇都宮が講じた対策は、脱営兵卒たちの審問に先だって幹部の責任を問い、行政処分をすませてしまうことであった。それは幹部の行政処分に見あう兵卒たちの処分をと、師団司令部に迫ることを意味した。
宇都宮は連隊幹部の行政処分をいそぐとともに、自身の進退伺いを旅団長に提出した。
橋本参謀長には別の思惑《おもわく》があった。橋本参謀長は宇都宮連隊長の意図をよく理解しているつもりであった。しかし、今度の集団脱営事件にたいする寺内大臣の態度がきびしいものであることもよく知っていた。
社会主義者の福田狂二逃亡事件が未解決であるのにくわえて、集団脱営事件という不祥事である。集団脱営事件が社会主義者の煽動によるものでないことを示すには、脱営兵全員の共謀事件であり首魁も脱営兵のなかにいるものとするほかになかった。
橋本参謀長の肚は、将校から刑事処分の対象者を絶対にださない、しかし脱営兵卒については軽重の差はあっても全員を軍法会議の処断にゆだねる、というところにあった。そのためには宇都宮連隊長の希望を無視することもやむをえなかった。
――この結論に宇都宮連隊長は不満であろう。処分が片手落ちだといって、世の非難の対象となるのは宇都宮連隊長だからな。しかし、次善の策としてはこれ以外にないことを理解してもらわねば――
宇都宮連隊長が幹部の行政処分をいそぐことについては、橋本参謀長も賛成であった。兵卒の処断に先だって幹部の処分を発令してしまえば、世間の印象もよほどちがったものになるであろうと、橋本参謀長は読んだ。幹部の処分は三月十二日に発令された。
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第一師団密来第一九号
報告
明治四十一年三月十二日
[#地付き] 歩兵第一旅団長 依田広太郎
第一師団長 載仁《ことひと》親王殿
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本月三日夜歩兵第一連隊第五中隊兵卒結党脱走の件に関する、同連隊長陸軍歩兵大佐宇都宮太郎の進退伺に対し、左記の通処分致候に付き、此段報告に及び候也。
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左記
軽謹慎三日
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第一師団密来第二〇号
明治四十一年三月十二日
[#地付き]歩兵第一旅団長 依田広太郎
第一師団長 載仁親王殿
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本月三日歩兵第一連隊第五中隊兵卒結党脱走事件に関し、関係諸官を同連隊長に於て、左記の通処分致候に付き、此段報告に及び候也。
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左記
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[#地付き]歩兵少佐 福田栄太郎
右訓導の道を失い且《かつ》報告を緩緩《けいかん》するの科《とが》、重謹慎五日に処す。
[#地付き]歩兵中尉 猪熊敬一郎
右訓導の道を失う科、重謹慎二十日に処す。
[#地付き]歩兵特務曹長 中楯理重
右勤務を懈《おこた》り且報告を稽緩するの科、重謹慎三日に処す。
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進退の儀に付伺
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[#地付き]広太郎儀
本月三日歩兵第一連隊第五中隊兵卒結党脱走の失態を来せるは、畢竟《ひつきよう》監視不行届の致す処にして恐懼《きようく》の至りに堪えず、仍《よつ》て進退相伺候也。
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明治四十一年三月十二日
[#地付き]歩兵第一旅団長 依田広太郎
陸軍大臣 寺内正毅殿
(朱書)深く将来を戒む。
明治四十一年三月十二日
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第一連隊の集団脱営事件といい、福田狂二の逃亡事件といい、でたらめな記事をのせた『都新聞』には第一師団司令部も困惑させられてきた。小泉参謀は『都新聞』になんらかの手を打つ必要があると考え、吉弘副官に相談した。結論として、ある程度の情報を提供する方が事実無根の記事を書かれるよりもよいであろうということになった。
三月十日の福田狂二逃亡事件の記事を最後に『都新聞』の記事は大きく変化した。他の新聞よりも正確な報道が早く掲載されるようになった。記事の出所が師団司令部であることはその記事の内容からも明らかであった。
これにたいして、『東京二六新聞』は宇都宮連隊長の希望的観測がくわわった記事をのせつづけていた。
三月十五日の『都新聞』は、関係将校にたいする行政処分の結果とともに、早くも十三、十四の二日間におこなわれた三十七名の脱営兵にたいする審問のニュースをのせた。
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脱営兵の処分
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また兵卒三十二名は十三日および十四日において軍法会議に付したる筈なるが右はいずれも陸軍刑法第百二十五条により処断せらるるならんという。
[#ここで字下げ終わり]
記事に三十二名とあるが正確には三十七名である。しかし、これまで三月三日中に帰営した五名の別動隊についてはほとんどニュースになっていなかったので、三十二名という数が世間の常識となってしまっていた。
宇都宮連隊長は三十七名全員に判決命令がだされたことを意外に思った。しかし、連隊の将校の責任問題はすでに行政処分の発令ですんでしまっていた。行政処分が軽かったことに宇都宮連隊長は満足していた。
宇都宮連隊長の主目的は、連隊将校にまで司法処分の手がのびることを阻止するにあった。その目的は達した。連隊将校団の名誉を守ることができれば連隊長の威望は失われずにすんだ。将校団の団結はたもたれるであろう。
気になることは、軽きに失する将校の処分と兵卒全員処刑との不釣合いを世間とくに新聞が攻撃し、その攻撃が連隊にむけられるのではないかという点であった。この際はっきりと、兵卒全員に刑が課せられるのは第一連隊の意志に反するものであることを明らかにしておく必要があった。
事件以来、宇都宮連隊長の意向を記事にしてきた『東京二六新聞』の三月十九日の記事が、宇都宮連隊長の主張を代弁していた。
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脱営当時の意思は脱営を目的としたるにあらずして、猪熊中隊長の虐待に堪えず、福田大隊長に陳情せんとの意思なりしに、偶々《たまたま》大隊長の住宅不明のため、一夜を営外に明かしたるものにして、軍事に関する規則命令の施行を妨げんと謀りたるものにあらず、軍人の服務法に違反したるものなれば、現行陸軍刑法第百二十五条の前段を適用すべきものにあらざる上、その犯情もおおいに斟酌すべき点あれば、軽禁錮三カ月以内の範囲において処罰せらるべし。
[#ここで字下げ終わり]
三月二十七日、三十七名の脱営兵卒にたいする軍法会議の判決がくだされた。首魁とされた佐野新太郎一等卒が軽禁錮三年、主脳とされた宮下秀太郎一等卒、岩崎亀太郎一等卒、銀木福太郎一等卒、山田善之助一等卒、の四名が軽禁錮四カ月、その他の三十二名全員が軽禁錮一カ月十五日という予想をこえた重刑であった。全員が結党の罪に問われただけで、内田常太郎一等卒ら五名の哨令違反の罪は不問に付された。
兵卒の刑が重いことに宇都宮連隊長の不満は残ったが、これで歩兵第一連隊の集団脱営事件の一応の決着がついた。宇都宮連隊長の不満は寺内大臣にたいする不満であった。ひごろから将校の軍服のボタンのつけ方にまでうるさく口をだす大臣の、無言の圧力が今度の第一師団軍法会議の判決に影響したであろうという宇都宮の疑惑は消えなかった。この事件が田中大佐の歩兵第三連隊で起こっていたら、大臣はおそらく軍法会議に手心をくわえるように圧力をかけたであろう。
第一師団衛戍監獄は山の手線の渋谷駅からほど遠くない渋谷村宇田川、現在の渋谷区役所・公会堂の位置にあった。監獄の北側につづく万国博覧会予定地の広大な原野が、不景気による博覧会中止ののちに代々木練兵場となるのは四十二年七月である。戦後、その跡がオリンピック会場としてよみがえり、国立競技場、NHK放送センター、代々木公園などになった。
初年兵の第一期検閲も終わり、佐野一等卒を除く三十六名の兵卒たちも釈放されてきた。衛戍監獄に入監中の佐野一等卒と、行政処分を受けて以来病床についている猪熊中尉の二人を除いて、第一連隊の内部では誰もがあの不祥事件のことを忘れたかのようにふるまっていた。歩兵第一連隊の射撃演習には磨きがかかってきた。
いや、あの事件を思いだしたくないために、連隊長から兵卒にいたるまでが射撃に熱中したという方が正確かもしれなかった。心のなかのわだかまりを拭いさるには師団の射撃名誉旗を手中にする以外になかった。
四十一年十月十日、大久保射撃場で師団名誉射撃がおこなわれた。優勝の栄光は歩兵第一連隊第九中隊の上に輝いた。宇都宮連隊長は満足であった。この日の栄光のための猛訓練であった。栄光には犠牲がつきものである。集団脱営事件もいまとなっては、この栄光を手にするためのやむをえない犠牲でしかなかった。
宇都宮連隊長は心をやわらげて、戸山ヶ原をつらぬき射撃場の土手にそって走る山の手線のレールをながめた。複線のレールはあたかも自分と田中大佐の関係を暗示しているかのように、過去から未来へとむけて永遠の平行線をかたちづくっていた。
[#改ページ]
二十一 上海
四十一年四月六日、日本郵船ヨーロッパ航路の讃岐丸《さぬきまる》が神戸港を出港した。船上に劉長平、字《あざな》は狂民と名のる男の姿があった。船客名簿に記載された住所は東京市麹町区三番町三十五番地となっている。日本語は流暢であるが中国語はほとんどできない。本人のいうところでは日本生まれの華僑であるという。
狂民の字がその正体を示していた。三月二日に大森駅から汽車で大阪にむかったまま姿を消した福田狂二である。この間一カ月の福田の消息はまったくわからない。とにかく大阪か神戸で在日中国人と連絡をとることに成功し、中国人になりおおせて上海《シヤンハイ》に渡航するチャンスをつかんだことだけはたしかである。
福田は上海で下船し、共同租界内の日本人がいとなむ下宿屋森岡太郎方に滞在した。あいかわらず日本生まれの華僑劉長平の名でとおした。そのころの上海には、清国の革命情勢にあおられた得体《えたい》のしれない日本人が中国人を名のってうようよしていたので、このろくに中国語もしゃべれない「華僑」のことを下宿屋もたいして気にしなかった。
下宿に落ちついたのち、福田は上海市内の|廖伯※[#「王+艮」]《りようはくぎん》という中国人の屋敷をたずねた。廖伯※[#「王+艮」]は日本の陸軍士官学校に留学したことのある元陸軍大尉で、日本語も達者であり日本の事情にもつうじていた。その屋敷を見たところ、かなりの有力者であると思われた。
紹介状をそえて刺《し》をつうずると、こころよく邸内に招じ入れられた。
「福田さんですね。私が廖伯※[#「王+艮」]です。」
あらわれて名のった人物はまだ若かった。
中国茶をだされ、しばらく最近の日本のことなどについての雑談がかわされた。廖伯※[#「王+艮」]にすれば、福田の身元を確認するテストとしての意味もあったのであろう。
話が本題にはいったのはだいぶ時間がたったのちであった。
「事情はだいたい紹介状に書いてありました。当分のあいだ、他の日本人の目につかない土地で日本語の教師をしながら中国語を勉強したいという希望ですね。」
「そのとおりです。お国の言葉と習慣につうじてから、改めてお国のお役にたつ仕事のお手伝いをしたいと考えています。」
「私の兄が広東《カントン》省の道台《どうだい》をしています。あなたが日本語の教師をしながら中国のことを勉強するというだけならば、兄のところに紹介しましょう。
しかし、この紹介状を書いた私の友人の同志として活動するつもりであれば、兄に紹介することはいたしません。紹介状を書いた友人は私の兄の敵にあたります。兄は革命運動の本拠地である広東省の責任ある地位についている役人です。あなたが私の兄に顔をおぼえられることは、あなたにとっても都合がわるいことでしょう。」
道台は日本の知事に相当する高官である。
「私は日本の憲兵に追われている身です。高い地位にあるあなたの兄上に迷惑をかけることになりたくありません。私がお国にいることが日本に知れたとき、日本の公使館は私の引渡しを要求してくるでしょう。道台という責任ある地位にあればそれをこばむことはできないと思います。」
「お望みにしたがって兄にたのむのはやめましょう。適当なところを探してみますが、日本の領事館が近くにある土地、日本の商人の出入りがはげしい場所はさけた方が利口だと思います。だいぶ奥地になると思いますがよろしいですか。」
「その方が私も安全だと思います。」
「では、しばらく時間を貸してください。あなたの上海での滞在先はどちらですか。」
福田は滞在先をつげた。
「あぶないですね。しかし、中国語ができないのであれば租界内の日本人の下宿に滞在するのもやむをえないでしょう。もし、何かがあれば使いのものをやって連絡します。廖伯※[#「王+艮」]のところからきた者と名のれば信用して会ってやってください。」
それからいくらも時日がたたずに、廖伯※[#「王+艮」]から福田に連絡があった。福田が廖伯※[#「王+艮」]の屋敷をたずねると、廖伯※[#「王+艮」]は切りだした。
「江西省|※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州府《かんしゆうふ》のある学堂が日本語日本文の教師を求めています。|※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽湖《はようこ》、ご存じですね。広東省と江西省との境界が九連山脈です。九連山脈に源を発して北に流れ、※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽湖にそそいでいる大河が|※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]江《かんこう》です。※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]江の上流、南嶺と九連山脈のあいだの盆地にある町が※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州です。
韓退之《かんたいし》の『左遷されて藍関に至り、姪孫湘《てつそんしよう》に示す』は日本人の好きな詩のようですが、あなたもご存じですね。」
「はい、『一封朝に奏す九重の天、夕に潮州に貶《へん》せらる路八千』という詩ですね。」
「韓退之はその潮州への旅を『滝吏《ろうり》』という長詩に賦しています。そのなかに、『嶺南は大抵同じ、官の去ること道|苦《はなは》だ遼《はる》かなり』という句があります。※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州は江西省ですが、もう嶺南の地といってよいでしょう。梅嶺関を越えると広東省の韶州《しようしゆう》です。
韶州は、韓退之が十二歳のとき、罪に座して流された兄にしたがって移り住んだ最初の嶺南の地です。もっともその期間は短かったのですが。」
韓愈《かんゆ》――字は退之――は、楽天・白居易《はつきよい》とともに李白、杜甫につづく世代の唐代の詩人で、この四人が唐代の四大詩人とされていた。古くから日本人にも親しまれていた。文章を練ることを「推敲《すいこう》」というが、この言葉も韓愈にまつわるエピソードに発している。
明治の日本の多少教養がある青年ならばみな韓愈の詩に親しんでいた。廖伯※[#「王+艮」]は日本に留学してそのことをよく知っていたので、中国の地理に暗い福田に※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州を説明するのに韓愈の話を持ちだしたのであった。
現在の日本人に説明するにはもっとわかりやすい説明法がある。※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]江は※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽湖にそそぐまえで広大なデルタ地帯をかたちづくっている。そのデルタ地帯の中心にある都市が江西省の省都南昌である。
一九二七年四月十二日、国民党の軍事力をにぎっていた蒋介石《しようかいせき》は上海で反共軍事クーデターをおこない、中国国民革命の完成をめざす国共合作は破れた。国民党の旗のもとで国民革命の成功に協力していた共産党員朱徳らのひきいる軍隊は、八月一日、南昌で蜂起し革命の再建をはかった。南昌起義と呼ばれるこの蜂起の日は、現在、中国人民解放軍の創設記念日とされている。
十月、農村の革命運動組織化に重点をそそいでいた毛沢東が、江西省と湖南省の省境にある井岡山《せいこうざん》に革命根拠地を建設した。朱軍は井岡山への合流をめざし福建省の山中から広東省境へと迂回し、梅嶺関の北のタングステン鉱山の町|大余《たいよ》で国民党の旗を捨て工農革命軍と名を改めた。その後、井岡山で毛軍と合流してさらに紅軍《こうぐん》となる。
井岡山が国民党軍に包囲封鎖されたのち、一九二九年一月、包囲網を突破した紅軍は江西ソビェトを建設し、一九三一年十一月七日、瑞金《ずいきん》で第一回中国ソビェト代表者大会を開いた。瑞金は中華ソビェト共和国臨時政府の所在地となった。紅軍が中国西北にむけて大長征を開始し、この地方を去ったのは一九三四年十月十五日であった。
中国革命の歴史にきざみこまれたこれらの地名はいずれも※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州の周辺にある。南昌から※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]江を南にさかのぼること直線距離約三百二十キロで※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州である。※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州の西北百二十キロのところに井岡山がある。※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州の西南八十キロの地点に大余がある。瑞金は※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州のちょうど東に百キロの町である。
※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州は、のちに人民革命軍が根拠地を建設するにふさわしい山地に、四方をかこまれた盆地の町であった。廖伯※[#「王+艮」]が福田を送りこむにうってつけの町であったといえよう。
廖伯※[#「王+艮」]は福田をともなって※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州にむかった。長江を船でさかのぼり、※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽湖に入り、南昌にむかった。途中、有名な廬山の姿を西に望むこともできた。すでに初夏の気配につつまれた※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽湖畔の田園風景は福田に故郷を思いださせた。斐伊川《ひいがわ》が宍道湖に流れこむデルタ地帯に位置する福田の故郷の風景と、※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]江が※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽湖に流れこむデルタ地帯の水郷風景とは、規模のちがいこそあれ、よく似た景観を示していた。
朝日が※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽湖のかなたから昇る光景は、宍道湖を金色に染めて昇る故郷の朝日にそっくりであった。水田のあいだを縦横に水路が走り柳が風にゆれていた。福田は異国を感じなかった。
その福田にこの地が異国であることを思い知らせたのは、※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州が開市場でないという事実であった。欧米の列強諸国ともども、日本も清国にたいして治外法権をふくむ不平等条約を押しつけていた。開港場・開市場には清国政府の主権がおよばない外国人居留地である租界を設け、租界内の警察権は各国の領事館警察がにぎっていた。日本人が日本から開港場・開市場に渡航するには旅券はいらなかった。
清国政府の警察権や司法権がおよばない日本人が開港場・開市場以外の土地に滞在するには、省の稽査委員会に出頭して游歴免状を呈示し、許可を受けねばならなかった。迂闊といえば迂闊であったが、治外法権の特権などとは縁がない廖伯※[#「王+艮」]は、そこまで気がまわらなかった。南昌まできたもののそれから奥地への福田の旅行は拒否された。
「上海にもどって免状を手にいれて出なおしましょう。免状を手にいれる工作は私の方でなんとかいたします。」
中国奥地の游歴免状とは、具体的には日本領事館が発行した旅券に領事館所在地の中国の地方官が副署したものを意味した。
当時の清朝政権は腐敗し革命直前の末期症状を呈していた。領事館発行の旅券は福田本人のものでなくともごまかせる。廖伯※[#「王+艮」]くらいの有力者なら、上海の当局者に手をまわして日本人の誰かの旅券を福田の游歴免状に仕立てあげるくらいのことは、たいして困難ではないであろう。福田はむしろ廖伯※[#「王+艮」]の好意に感謝して、二人そろって上海にもどってきた。福田のもどるところはもとの下宿屋しかなかった。
福田が上海に帰りついて廖伯※[#「王+艮」]とわかれ下宿の森岡方にまいもどった夜、廖伯※[#「王+艮」]の使いの者がいそぎの用と称して福田に面会を求めてきた。福田が会ってみると、廖伯※[#「王+艮」]からの伝言として、領事館警察の捜索の手が福田の身辺に迫っているので一刻も早く租界の外にでよという勧告であった。
在日中国人留学生は、清朝打倒をめざす革命党の大組織であった。明治三十八年十一月に清国政府の要請に応じて日本政府が清国留学生取締令を公布して以後、在日中国人留学生にたいする清国公使館の取締り権はつよめられた。留学生の動きをさぐるためのスパイ網が張りめぐらされた。日本政府の計らいによってあたえられた取締り権であったから、そこからえられた情報で日本政府に役だつものは、当然日本政府に通報されたであろう。福田の上海行きの情報もこうして通報されたもののひとつであろう。
福田の上海への脱出の情報が、いつ、どんな経路をたどって日本の憲兵隊にもたらされたのか、はっきりしたことはわからない。ただこの情報が憲兵隊から上海の領事館に伝えられ、領事館警察が捜査に乗りだしたことだけはたしかなようである。
廖伯※[#「王+艮」]もまた上海の日本領事館に情報源を持っており、この情報を手に入れたものと思われる。しかし、廖伯※[#「王+艮」]が福田とともに旅にでて上海を留守にしていたことは、情報入手の決定的なおくれとなった。
福田は、明日にも下宿を引き払い中国人の宿屋に移ることにし、その夜のうちに準備をした。しかし、まにあわなかった。翌日の朝早く下宿の森岡方は領事館警察に踏みこまれた。五月四日であった。
警察の取調べにたいして、福田はあくまで在日華僑劉長平でとおした。しかし、福田にとって致命的な証拠がでてきた。昨夜の移転準備をいそいだために処分しそこなった、妹からの手紙が荷物のなかから発見された。この手紙を突きつけられては福田も観念するほかなかった。福田は自分が福田狂二であることを認めた。
逮捕された福田はただちに長崎に護送され、五月八日、久留米憲兵隊長崎分隊に引き渡された。福田逮捕の電報を受けた東京憲兵隊は、五月七日、石田憲兵曹長を長崎に派遣して福田の身柄を引き取って帰京し、五月十日、そのままただちに東京|衛戍《えいじゆ》監獄の未決監に収監した。
『都新聞』は福田逮捕のニュースを五月八日付で報じた。その大筋はまちがっていないが、書かれている日付はまちがいが多い。上海脱出を「二月中旬」としているが、実際には福田はそのころはまだ東京に潜伏していた。逮捕の日を「四月二十五日」としているのもあやまりである。五月「一日第十二憲兵隊に護送せられ」というのもあやまりである。第十二憲兵隊は第十二師団管下を所管していた憲兵隊であるが、明治四十年十月七日に各憲兵隊の名称は師団司令部所在地の地名を冠することに定められ、小倉憲兵隊と改称していた。小倉憲兵隊に属していた長崎憲兵分隊は十二月一日に新設の久留米の第十八師管に移り、久留米憲兵隊長崎分隊となっていた。
この間、憲兵の取調べは福田が東京に護送された直後に形式的におこなわれただけである。すでに欠席裁判で逃亡罪の判決があり、憲兵の任務は、上海領事館警察から福田の身柄を受けとって東京衛戍監獄に護送することと、逃亡中の余罪の有無を調べることだけであった。したがって、福田と廖伯※[#「王+艮」]の接触のいきさつなどについては福田のいいかげんな供述をそのまま記録している。福田の供述はずいぶん人を食った内容である。
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下宿業森岡太郎方に滞在中、かねて船中にて知り合いとなりたる清国人廖(名不詳)なるものを訪ねたるに、図らず同姓異人の清国人廖伯※[#「王+艮」]なるものに面会せり。仝人《どうにん》は元陸軍大尉にして、さきに日本陸軍士官学校に在学せしことあり。(中略)渡清の目的はあえて革命党にくわわるとか社会主義を鼓吹する等のこと毛頭なく、日清同盟を計らんには清国人の啓発を必要と認め、教育の任にあたり我が身をも立て、将来おおいに黄色人種の同盟を計らん宿望にて渡清したるものにて、何びとの紹介をもえたるにあらず。
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取調べの憲兵もこんなウソを信じたわけではないであろうが、清国人の誰が福田を廖伯※[#「王+艮」]に紹介したかなどということは、憲兵にとってはどうでもよいことであった。廖伯※[#「王+艮」]その人が日本の警察権のとどかないところにいる人物であったし、福田を廖伯※[#「王+艮」]に紹介した在日中国人の捜査を警察に依頼したところで、警察が兵卒の逃亡幇助の在日中国人の捜査に全力をあげるとは思われなかった。第一、その在日中国人をつきとめても、その人物が福田を逃亡兵とは知らなかったと言いはれば、それで終わりであった。
むしろ、廖伯※[#「王+艮」]がわざわざ南昌まで福田と同行したり、中国奥地旅行許可の游歴免状入手のてだてを講じたり、福田の身の危険がまえもって福田につうじていたりという福田の供述は、福田の背後に組織的な動きがあったことを推測させる。この時期の中国の革命運動の根拠地であった広東・湖南両省との境に接した※[#「章+(夂/貢)」、unicode8D1B]州に福田を送りこもうとした意図に、なんらかの政治的な目的が隠されていたのではないであろうか。
福田にはすでに欠席裁判で重禁錮二カ月の刑が宣告されていた。逃亡中の余罪の有無に関する取調べがすんで五月十五日に判決確定の手続きが終わり、未決監から既決監の独房に移され房内で労役に服させられた。判決確定まえに手続きしたので、十六日に吉川守邦との面会が許可されている。面会時間は約三十分、上海滞在中の私物や憲兵隊にあずけてある私物の処分など事務的なことと、郷里の母親への伝言の依頼がおもな内容であった。
軽禁錮には労役がないが、重禁錮には労役が課せられる。労役はふつう労役場でおこなわせるものであり、独房内でやらせるべきものではない。この点について、衛戍監獄の方もわざわざ福田が社会主義者であるためではないという弁明をしている。
「社会党員福田狂二入監状況報告」は書いている。
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独房特別処遇について
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本囚人を独房において処遇するは、ことさら社会党員たるの故をもって取扱うにあらず、彼れが人格と教育を考慮し、一面には他囚の接近は不測の害を避けたるによる(他悪漢囚独房処遇この例常にあり)。彼れもまた房内にて作業に服し、その不熟なるを他囚に指摘せられざるをもって相互の利益とす。
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言語および動作
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入監以来きわめて温和にして、職員に接する愛嬌あり、また敬意を表せり。作業および体操運動等ははなはだ拙劣なり。けだし表面はおおいに勉励するがごとくなるも、進歩の度あがらず。しかれども諸事に注意し、在監行状は他囚に比してあえて不良というにあらず。
職員ならびに教誨師の考研する処によれば、元来同人の性質は猛悪というにあらず、学校の不結果より失意し、悪友に交わり、遂に社会主義に感染したるもののごとし。理論としては飽くことなきも、父母恩愛をもって説くときはただちに屈伏するの点より考察をくだせば、向来あるいは誘導法よろしきを得ばまったく絶望のものにあらざるべしと認めたり。しかれども、元来兵役をいとう風あり、ことに現時は自暴自棄に陥るをもって、真心隊務服行を期する感念はすべての行状において確認するをえず。
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語るに落ちるとはこの報告書である。なんとか理由をつけてはいるものの、重禁錮二カ月の刑にしかすぎない逃亡新兵福田を「他悪漢囚」なみに処遇していることをみずから告白している。
さらに、福田の「言語および動作」についての報告の主要な部分は、社会主義者であること自体を犯罪とみる観点から書かれている。福田は監獄のなかで社会主義から転向するように教誨されている。しかも、滑稽なことに、福田程度の社会主義者を転向させるだけの説得力をもった理論を軍の側は持ちあわせていない。
にもかかわらず、理論ではなく家族の情をからませることによって転向を迫るという、のちの治安維持法時代の特高警察が使った常套手段を、明治時代の陸軍が早くも採用している。この事実にはおどろかされる。
福田の性格についてはよく観察している。そだちのよさからくる善良さと気の弱さ、礼儀ただしさ、甘やかされてそだったところからくる根気のなさ、からだが大きいのに体力や運動能力に劣ることなど、入営まえにこれだけ調査していれば福田は重砲兵にまわされず、したがって逃亡するまでにはいたらなかったかもしれない。
福田が上海に逃亡中の四月二十八日、東京で師団長会議が開かれた。会議の席上、とくに入営中の社会主義者にたいする対策が問題とされた。奥保鞏《おくやすかた》参謀総長はこの問題について訓示をおこない、社会主義兵卒対策としてつぎのようなことが決定された。
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一、社会主義者の人格およびその系統を厳重に調査しおく事。
一、外出の場合に会合する人物の調査。
一、外出の際憲兵を尾行せしむる事。
一、取り締りによりて被注意者の軍人としての体面を傷つくべからざる事。
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右の中第三項の憲兵尾行については現在の憲兵数にてはその余裕あらざるにより、最も必要と認めたる場合の外はなるべくこの手段に出でざるよう申合せたり。
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入獄中の福田は模範囚に近かった。刑期満了を待つことなく七月三日に出獄を許された。出獄のとき、渋谷の衛戍監獄の門のまえまで吉川が迎えにきた。吉川は、東京市電値上げ反対事件の上告審の無罪破棄差戻し裁判で、六月十三日に重禁錮一年六カ月の有罪判決をうけ再上告中であった。おそらく近日中に上告棄却、実刑確定で今度は自分が入獄しなければならない立場にあった。
吉川は品川まで福田と同行し、品川駅で福田とわかれた。福田はそのまま横須賀行きの汽車に乗った。福田出獄の通知を受けて横須賀駅では私服憲兵が福田を待っていた。午後零時十八分着の列車をおりた福田は足ばやに他の乗客を追いぬいて、いちばんに改札口をでた。私服憲兵は連隊にもどる福田に話しかけた。相手が憲兵であることを知っての上で、福田はわざと地方言葉で語った。
「自分はなにも好きこのんで逃亡したわけではないですよ。班長が自分を目の敵にして殴りつけるんで帰営しなかっただけです。帰営時間に遅刻して帰ったらどんな仕打ちを受けたか、わかったもんじゃないですからね。
しかし、今後はもう逃げないつもりです。上官がすこしでも圧制をくわえたら、もう一歩もゆずらずにドシドシやるつもりです。憲兵隊にもドンドン投書するつもりですから、よろしく。」
「監獄に行くのは、もうこりたか。」
「獄内では、福田というのはどんな男かというので評判になり、大騒ぎでした。もう逃亡する気はないです。とくに新聞に書きたてられたのには閉口したです。とくに『東京二六新聞』の守田や『都新聞』の宇都宮は自分の友人であったのに、あることないことを新聞に書き、迷惑この上もなかったです。自分がでてきた上は、かれらもウソがばれて新聞社にはいられなくなるでしょう。」
福田は連隊の正門まで憲兵に送られ、営門から衛兵に付きそわれて連隊本部に入った。午後一時であった。連隊本部で中隊長に引き取られて中隊に帰り、中隊復帰の申告をすませたのち福田は兵営生活にもどった。
重砲兵第二連隊長|楢岡《ならおか》大佐は、今後の福田の行動の監視について横須賀憲兵分隊長と協議し、連隊と憲兵とのあいだで連絡を取りあうことにきめた。師団長会議の決定は、当然、福田にたいして適用されるものと解釈した。
憲兵分隊との取りきめは三点であった。第一点は、福田が外出するときはその時間よりまえに連隊から憲兵分隊に通報する。第二点は、福田あておよび福田差出しの手紙の発信者受信者ならびに面会者の氏名を憲兵分隊長に通報する。第三点は、福田の外出先の行動および外部で交際する人物を憲兵分隊から連隊に通報する。
八月二日、福田ははじめて東京までの外出を許された。決定にしたがって新聞記者に変装した憲兵が尾行した。
「福田さんでしょう。」
憲兵は声をかけた。
「今日はどちらまで……。」
福田はすなおに答えた。
「同志の吉川、山口、西川たちがいずれも入監したので、その留守宅みまいに行きたいと考えております。」
東京市電値上げ反対事件の有罪判決は七月十七日に上告棄却となり、西川光二郎(重禁錮二年)、岡千代彦、山口孤剣、吉川守邦、樋口伝(いずれも重禁錮一年六カ月)の五人が収監された。出獄した福田がその留守宅をみまう番になった。
「兵営内の生活はその後、すこしは改善されましたか。」
福田はまじめくさった顔で答えた。
「現在、自分の中隊の将校、下士の教育のやり方はよいように思います。この分ならば国民の義務として満期まで服役するつもりです。しかし、もし自分に不法のことをするようなことがあれば、相当の手続をとって自由の権利を使ってたたかいます。」
福田は駅で新橋までの切符を買い、いそぎ足で三等車に乗りこんだ。おなじ中隊の兵卒と並んで席をとった福田は、帽子と上着を脱ぎその兵卒と話をはじめた。
「おい、今朝、中隊の事務室に商人風の格好をした男がきていたが、そいつが駅までおまえにつきまとっていたやつだ。憲兵じゃないか。」
「知ってるよ。新聞記者だって僕には言っていたけどな。なにか聞きだそうと思ったんだろうが。憲兵ってやつも世間を知らんな。僕が新聞記者との付きあいが多くて、新聞記者の本物と贋者の区別ぐらいは一目でわかるということは知っていてもよさそうだのに。」
尾行中の当の新聞記者に化けた憲兵は苦笑した。福田は承知の上で適当にあしらっていたのである。尾行がばれた以上は、今日のところ福田の行動は慎重であるにちがいなかった。東京での福田の行動を一日中追いかけまわさなければならない憲兵の方がむしろホッとした。
その日、福田は新橋駅まえから電車に乗り、本郷湯島の吉川、本郷金助町の西川の留守宅を訪問し、午後四時三十分新橋発の汽車で帰営した。憲兵の尾行が福田にはうっとうしかった。
八月五日、九日と福田は外出を許された。いずれも横須賀市内であったが、憲兵の尾行はあいかわらずであった。九日、外出許可時間は午前六時から午後八時までであったが、午前七時半に営門をでた福田はわずかに二十分でサッサと営内に引き返した。
翌日、福田は中隊長室に押しかけた。
「私が外出するとかならず憲兵が尾行するようであります。それも横須賀だけでなく、東京に行っても尾行され実に不愉快であります。
私の主義は、官憲が自分の行動を妨害すればするほど反抗する主義であります。とくに警官は、我々主義者にすきがあれば殺そうとさえしているのでありますから、危険であると思うのであります。私の入営まえのことでありますが、尾行してきた警部が私の飯に毒を入れようとしたことがありました。」
福田特有の虚栄心がいわせたハッタリであった。
「でありますから、尾行されることは自分にとりはなはだ迷惑であります。私の主義は、個人が自由に行動することができればそれでよいのであります。個人が完全に自由であるためには、法律を廃止し政府を転覆しなければ目的を達しないのでありますが、それは主義の問題であり、いますぐ何かをしようということではありません。軍隊が兵卒の虐待を改めるならば軍隊教育の成績もあがり、私の主義も改まるかもしれません。」
福田の中隊長にたいする発言の内容は、陸軍刑法にふれかねないかなり危険な内容であった。しかし、軍隊教育のあり方しだいでは思想転向もありうるという結論に持っていくことによって、たくみにその危険性を回避していた。
上官強要といわれかねないこの強談判《こわだんぱん》に中隊長はあまり怒ったようすがない。
福田は、本質的には気の弱い、どちらかといえば甘ったれの気分屋であった。それだけに、気分的に追いつめられると開きなおり、ハッタリをきかせて恫喝的な態度に急変するという性格であった。それは、福田の大きなからだのわりに不器用で、しかも地方の金持ちの坊ちゃんとして甘やかされてそだったという弱みからでた、防御本能みたいなものであった。そこのところに一種の愛嬌を人に感じさせる面もあった。
衛戍監獄内のように開きなおりやハッタリがきかないところでは、気のよい善良さや愛嬌のよさが前面にでて人物評価もよくなる。中隊長室に押しかけたときも、ずいぶん恫喝じみたハッタリをきかせたが、中隊長は福田に憎めないものを感じたようである。中隊長は福田の要求を連隊本部に報告し、連隊はこれを憲兵分隊に通報した。
横須賀憲兵分隊はこのいきさつを記録した上で、「以上の状況なるにより、外出の都度憲兵を尾行せしむるも、かえって悪感をいだくもとなるをもって、爾今とくに尾行を要する場合を除くの外は、憲兵を尾行せしめざることとせり」と決定し、師団司令部に通報した。八月十三日のことである。
憲兵の尾行がなくなった九月二十日の日曜日、福田は外出したまま帰営しなかった。病気入院中の同年兵を横須賀衛戍病院にみまい、金三円の小為替の現金化を依頼されたまま東京にでたらしいと、横須賀憲兵分隊から東京憲兵隊に報告された。
翌二十一日、下谷警察署から、福田らしい兵卒が管内を徘徊していたという情報がよせられた。東京憲兵第一分隊は下谷警察署の協力をえて捜査の結果、二十一日午後十一時ごろ、下谷区万年町一丁目四十二番地の菅原|一《はじめ》方にいた福田を逮捕し、横須賀憲兵分隊に引き渡した。福田は軍服着用のままであり逃亡の意思があったものとは思われなかった。
一応委託金費消罪の容疑で検察処分に付されたが、これとて犯意があってのことではなかった。福田には返済の意思と能力があり、けっきょく犯罪としては成立しなかった。もちろん逃亡罪には該当しなかった。重営倉の懲罰処分でことはすんだ。
福田は、これまでの憲兵の尾行にたいするしっぺがえしという、いささか悪意のある危険なうっぷんばらしのつもりで冒険をしてみただけであった。
ヤクザの世界とおなじように、監獄下番といえば兵卒たちのあいだでははばがきいた。まして外国まで逃亡した経歴の持ち主とあれば、兵卒仲間では一種の英雄であった。福田は新兵時代のようにいじめられることはなかった。この事件以後、福田は軍隊内で問題になるような事件をおこすことなく、明治四十三年十月まで二年間の兵営生活を送っていた。
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二十二 三宅坂
皇居の西南側、桜田門から半蔵門へと桜田堀ぞいにあがっていく坂道は、現在でも東京のもっとも美しい都市美を示している場所のひとつである。この坂道が三宅坂である。坂の名の由来は三河田原藩一万二千石の三宅氏の藩邸があったことによる。田原藩士であった渡辺崋山はここで生まれた。
この坂ぞいに陸軍省と参謀本部があった。現在霞ヶ関といえば外務省をさすように、戦前は三宅坂といえば陸軍中央部を意味していた。正式の町名は麹町区永田町一丁目である。その跡は現在の国会前庭北地区つまり憲政記念館がある一画である。
明治四十一年十二月二十一日、参謀本部は部の下に新しく課をおき、宇都宮太郎大佐は歩兵第一連隊長から新制度の参謀本部第一(作戦)部長に転任した。その連隊長時代の業績には、部内でもめずらしい模範連隊長≠ニいう評価があたえられた。新しい軍隊内務書が四十一年十二月一日に制定施行され、内務書改正の任務を終わった長岡歩兵第二旅団長は四十一年十二月二十八日に陸軍省軍務局長となった。田中歩兵第三連隊長は四十二年一月二十八日に軍務局軍事課長となった。宇都宮はこの日に少将に進級した。
赤坂と麻布でむかいあっていた宇都宮と田中は、ともに約一年半の連隊長生活をへて、三宅坂の参謀本部と陸軍省でむかいあうことになった。
陸軍省の軍事課長といえば陸軍の部内行政および渉外政務の担当課長である。参謀本部の第一部長といえば陸軍の作戦用兵の担当部長である。宇都宮も田中も連隊長をへて、陸軍中央の最中枢の地位についた。
当時、ややおくればせながら日本でも日露戦争の教訓を踏まえて歩兵操典の全面改正作業がすすめられていた。ドイツ陸軍の歩兵操典改正が一九〇六年、明治三十九年であったことを思えば立ちおくれていた。
歩兵操典改正の主務|官衙《かんが》は教育総監部の本部である。しかし、軍隊内務書改正の主務官衙が陸軍省軍務局歩兵課でありながら、実際には長岡歩兵第二旅団長が改正審査委員長であり、田中歩兵第三連隊長が改正作業の実務にあたったように、制度上の主務官衙と実際の担当者はかならずしも一致しない。
歩兵は陸軍の主兵とされていた。そのころの歩兵操典は歩兵戦闘と歩兵戦術について定めた第一部と、諸兵連合部隊の運用について定めた第二部とからなっていた。名は歩兵操典であったが、内容は陸軍戦術の総合規程であった。歩兵操典第二部は昭和のはじめにやっと歩兵操典から分離して『戦闘綱要』となり、さらに『作戦要務令』に発展する。当時の歩兵操典の改正については、当然、参謀本部の作戦部の発言権が大きかった。
とくに大正元年に陸軍歩兵学校とその付属実験部隊である教導大隊が設置されるまでは、歩兵戦術と歩兵の戦闘法を研究教育する専門機関がなかった。陸軍戸山学校がその役割をはたしていたにすぎない。
歩兵操典の改正作業は、田中義一中佐の参謀本部第一部員時代に草案ができていたが、田中が歩兵第三連隊長に転出して軍隊内務書の改正に専念するようになって以来、未完成のままであった。未完成の草案を完成させることが宇都宮第一部長の任務であった。
連隊長時代の実験を踏まえて、宇都宮部長は歩兵操典の改正施行を実現した。改正歩兵操典の制定施行は四十二年十一月八日である。この仕事をおえたのち、宇都宮は十二月一日に本来の情報将校としての任務にもどり、参謀本部第二(情報)部長となる。第一部長には第二部長の松石《まついし》安治が就任した。入れかわり人事である。宇都宮は、改正歩兵操典を完成させる任務をはたすためにだけ、第一部長の職についたことになる。
田中と宇都宮は、戦時中の功績を作戦と情報で分かちあった。ここでも田中の軍隊内務書改正、宇都宮の歩兵操典改正と、業績は並行している。
新しい歩兵操典には綱領がかかげられた。綱領の第一には、歩兵が軍の主兵であり決戦兵種であることがうたいあげられている。綱領の第二に、宇都宮が連隊長としてその戦術思想を実験してきた成果が、結論としてかかげられた。
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第二 歩兵戦闘の主眼は射撃をもって敵を制圧し突撃をもってこれを破摧《はさい》するにあり。射撃は戦闘経過の大部分を占むるものにして歩兵のため緊要なる戦闘手段なり。しかして戦闘に最後の決をあたうるものは銃剣突撃とす。
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宇都宮第二部長のもとに、欧米課長として宇都宮の腹心である武藤|信義《のぶよし》中佐がいた。欧米課勤務の荒木貞夫少佐はロシア駐在を命じられて出発し、情報将校としての具体的な任務についた。真崎甚三郎《まざきじんざぶろう》少佐は田中軍事課長のもとに軍事課員として勤務していた。
四十一年の第一師団を騒がせたいろいろな事件は、ひとまず静まったかのようであった。四十二年二月二日の『報知新聞』は伝えている。
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入営兵士中の社会主義者の取り締りに関しては、すでに昨年五月開会せられたる師団長会議において討議せられ、その結果として同主義の兵士にたいしては所属憲兵隊の憲兵をして、外出時の行動を監視せしむることとなしたることは当時報道する処ありしが、その後憲兵尾行の件は種々なる事情ありて実行するをえざりし為、やむなく所属中隊長をして監視の任にあたらしめ、爾来今日におよびしが、近く第一及近衛の両師団管下における同主義者おもなるものとして注意しつつありし一年志願兵白柳秀湖(歩兵三連隊)、笠原文造(近衛三連隊)の両人はともに旧臘除隊となり、一時もてあましたる横須賀重砲兵連隊の福田狂二も前後数回の脱営以来痛く前非を悛《く》いて謹慎し、今はさしあたり注意人物なきにいたりたるより、現在における軍隊内同主義者の取り締りもようやく必要なきにいたり、ここきわめて平静の状況にあるが、聞く処によれば、本年度の入営時に神奈川県より野戦砲兵第十三連隊第六中隊へ入営したる森川松重(二十一)といえるは地方における同主義者の一人なりとて相当注意を受けつつあるも、今の処なんら不穏の行動なしと。
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「野戦砲兵第十三連隊第六中隊森川松重」は近衛野砲兵連隊第三中隊森川|松寿《まつひさ》がただしい所属と氏名である。
三月四日から七日まで開かれた各隊長会同の席で、新しい内務書の実施についての説明がおこなわれた。これまでのドイツ式の内務書とちがって、新しい内務書の冒頭には綱領がかかげられていた。綱領の第一はうたっていた。
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兵営は艱苦をともにし、生死をおなじうする軍人の家庭にして、その起居の間において軍紀に慣熟せしめ、軍人精神を鍛練せしむるをもって主要なる目的とす。
軍人よくその精神を鍛練す、ゆえに身心を君国に献げ、職分の存するところ水火かつ辞せず、義を重んじ節を尚び、恥を知り名を惜しみ、死生の間に従容たり。この精神や我が国民の世々|砥礪《しれい》せしところの精粋にして、国運の隆替《りゆうたい》戦争の勝敗、一にその消長にかかるものとす。これをもって、上官は演習勤務の際はもちろん、坐臥寝食の際においても細心注意し、部下をしてその鍛練に余念なからしむべし。けだし、精神教育は、ただ精神をもって教育するを得べし。しかして其教育の任にあたるものを将校とす。すなわち将校は軍人精神の淵源にして、一国元気の枢軸なり。その教育|薫陶《くんとう》により、国軍の精神を最高度に発揚すること必要なり。
軍紀は軍隊成立の大本なり。ゆえに軍隊はかならず常に軍紀の振作《しんさ》を要す。将校と下士卒とを問わず、時と所とを論ぜず、上官の命令に服従し、法規を恪守《かくしゆ》し、熱誠もって軍務に努力す、これを軍紀振作の実証とす。しかして服従は軍紀を維持するの要道たり。上官と部下との間において絶対にこれを励行し、慣習遂にその性を成すに至らしむるを要す。その他軍人一般にその階級新古の順序に従い、服従の道を守り、恭謙柔順もって全軍の秩序をして整然たらしめざるべからず。けだし、服従は、下級者の忠実なる義務心と崇高なる徳義心とにより、軍紀の必要を覚知したる観念にもとづき、上官の正当なる命令、周到なる監督およびその感化力をもって能《よ》くその目的を達し、衷心より出でて形体に現われ、遂に弾丸雨飛の間において身命を上官に致し、一意その指揮に従うに至るものとす。外形のみの服従はこの際なんらの価値なきことに留意し、衷心誠実にこれを行わしむるについては須臾《しゆゆ》も懈《おこた》ることあるべからず。
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軍人精神こそ国民精神の精粋であり、将校は軍人精神の淵源であり、一国元気の枢軸であるという思想に、田中大佐のかねてからの持論がみごとに表現されていた。長岡軍務局長は、会議の席上で「軍隊内務書改正理由書」を配布させ、さらにその補足説明をおこなった。「理由書」は内務書改正の重点がどこにあるかを、いっそうはっきりと示していた。
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本書改正においてもっとも注意したるは、軍紀、風紀の振張これなり。その拡張いよいよ大なるに従いますます戦捷の基礎を固くするものなることは、もとより説明を要せざれど、ここに一言せざるべからざることは、我が邦武士的|躾《しつけ》漸次|弛廃《しはい》し、新文明の制裁いまだあまねからず、奢侈《しやし》遊惰道心日に微にして、ややもすれば同盟罷工となり職工の暴動となり、社会主義の兆となり、社会の秩序整正ならず、官威公力もまたようやく重きを失わんとする時において、ひとり軍部において一般の風潮に逆行し、軍紀、風紀をますます厳粛ならしめんとするは、すこぶる困難事なるをもって、将校、下士は全力を傾注し、この目的を達せざるべからず。
[#ここで字下げ終わり]
軍紀とは服従であり、服従とは秩序に柔順であることを意味した。しかし、社会の風潮に軍隊だけが逆行することは困難であるから、軍隊の方針に社会の方を従わせてしまえといわんばかりの、乱暴な説明である。新しい軍隊内務書は、労働運動、社会主義思想にたいする軍部の抑圧宣言であった。
服従の強制は改正まえの内務書にくらべていっそうきびしくなった。とくに、上官一般にたいする服従ではなく、直属上官にたいする絶対服従がきびしく強調された。長岡軍務局長は口頭での説明で、この点をことさらに力説した。
「旧内務書における服従は、高級古参者一般にたいする服従という意味の規定であるように解釈されるが、ここにのべた主意からすれば、新内務書においては直属上官にたいする服従が絶対でなければならないことがわかる。」
これは内務書改正の実務の中心であった田中大佐の結論であった。この結論を実行に移すための準備体制もすでに整備されていた。そのひとつが陸軍刑法の全面的改正であった。もうひとつは懲治隊《ちようじたい》制度の性格を大きくかえたことであった。
四十一年十月一日に施行された新陸軍刑法では、下級者が共謀しておかした上官にたいする罪、いわゆる「党与」上官犯の刑罰がとくに重くなった。旧陸軍刑法と新陸軍刑法の平時における「党与」上官犯の刑罰をくらべてみよう。
「党与」抗命罪は、首魁が八年以下の軽禁獄から十年以下の禁錮に、その他のものが二年以下の軽禁錮から五年以下の禁錮に改められた。旧刑法の禁獄と禁錮とは刑期のちがいを意味するだけである。軽とあるのは労役に服しない刑を意味し、重とあるのは労役に服する刑を意味する。新刑法では禁錮は労役に服せず、懲役は労役に服する。
「党与」上官暴行は、首魁が十一年以下の重禁獄から十五年以下の懲役に、その他のものが五年以下の軽禁錮から十年以下の懲役または禁錮という重刑となった。
単独の上官侮辱罪も二年以下の軽禁錮から三年以下の懲役または禁錮に改められたが、公然の方法をもってする上官侮辱罪は二年以下の軽禁錮から五年以下の懲役または禁錮に加重された。「公然の方法」をもってする上官侮辱は上官への反抗を呼びかける行為、つまり「党与」を煽動する重大犯罪であるとされた。
「党与」つまり兵卒たちが団結して行動することをとくに重大な犯罪とし、上官の権威を傷つける行為をとくに重く罰することに、改正の重点のひとつがあった。
懲治隊制度は、田中大佐が内務書改正の理念としてかかげた良兵即良民主義と矛盾するだけに、田中大佐もその位置づけに決断をくだすまでには、ずいぶん考えさせられた。
陸軍には明治三十五年に制定された陸軍懲治隊条例があった。姫路に陸軍懲治隊をおき、「陸軍兵卒のしばしば禁錮の刑に処せられ、または懲罰の処分を受くるも容易に改悛の状なき者を収容して懲治する所とす」る施設とした。その実態は、施設の構造からみても懲治隊に収容された兵卒の処遇からみても、陸軍衛戍監獄とかわらなかった。裁判による刑の宣告なしに、兵卒を監獄に監禁するのとおなじ意味を持つ施設であった。
懲治隊設置後の収容兵卒の実数は少なく、日露戦争中には閉鎖されるにいたった。日露戦争後の三十九年十一月に再開されたが、機構は縮小され、職員数もへらされた。
福田の逃亡事件が起きたとき、第一師団の橋本参謀長は、福田のような社会主義兵卒の軍隊内での扱いについて、軍隊内務書の改正作業の実質的な責任者である田中大佐に研究をたのんだ。むつかしい問題であった。
社会主義者の兵卒がおかす逃亡、上官侮辱、命令不服従などの犯罪は、その兵卒が思想をかえないかぎり何回でもくり返される可能性があった。かれらは確信犯である。
しかも、軍にとって困ったことには、かれらのおかす犯罪は軍紀犯つまり軍隊の存立基盤を根本的におびやかす性格の犯罪であった。だからといって、かれらを軍隊から排除することはできなかった。
社会主義者であることを理由にかれらを軍隊から排除することは、国民皆兵のたてまえをとっている徴兵制度の破壊につうずる。さればといって、かれらを軍隊に入れて一般の兵卒と生活をともにさせることは、軍隊が社会主義に宣伝の場を提供するようなものであった。
いちばんよい方法は、社会主義の兵卒で軍紀をみだしたものを一般兵卒から隔離することである。隔離の施設としてはすでにある姫路の陸軍懲治隊を利用することができた。しかし、社会主義兵卒の隔離施設として懲治隊を利用するという案には田中大佐もなかなか踏みきれなかった。
だいたい、懲治隊のような隔離施設に監禁して兵役を勤めさせることが国民のひとりとして兵役の義務に服することになるであろうか。これが田中大佐の疑問であった。
田中大佐が歩兵第三連隊長として軍隊内務書改正のための実験と草案作成作業に取り組んだのは、軍隊教育を国民の中堅養成のための教育課程として位置づけるのが目的であった。それは逆の立場から言えば、日本というひとつの国を一大兵営国家に仕立てあげようというおそろしくも壮大な計画であった。
当の田中大佐の立場からすれば、軍隊教育こそが初等教育である義務教育につながる国民中堅の養成教育であり、良兵即良民、つまりすぐれた兵卒こそもっともすぐれた国民であるという原則を実現するのが目的であった。この原則にてらせば、社会主義兵卒を隔離するというやり方は軍隊教育本来の趣旨に反する。しかし、画一化をめざす軍隊教育をひとにぎりの社会主義者にかきみだされることはもっと困る。
田中大佐の良兵即良民主義という考え方からすれば、理想としては、社会主義者こそ軍隊教育を受けることによって、よき国民に生まれかわるはずでなければならなかった。社会主義兵卒の存在を考えたとき、田中大佐の良兵即良民主義は解決できない矛盾に突きあたった。
田中大佐の考え方は、もともと国民と軍隊は一体であり、国家の針路に責任を持つのは軍でなければならないという前提に発していた。だから、この前提そのものの存在を認めない社会主義者の存在は田中大佐の論理の枠ぐみのなかに入ってこなかった。はっきりいえば、田中大佐の前提そのものが、国家と軍の一体性を認めないものは国民としての資格がないという意味での、良兵即良民主義であった。結論として落ちつくところは「社会主義者すなわち非国民」論であった。
二段階の対策が考えられた。まず国民のあいだから社会主義思想を一掃すること、ついで軍隊に入ってきた社会主義兵卒で転向しないものは隔離すること、この二段階である。
第一段階の対策として、義務教育終了後の入営まえの青年にたいする社会教育に軍が主導権を持つこと、現役以外の兵役服務中の在郷軍人を組織し軍がしっかりと掌握しておくことが、考えられた。軍隊内務書の改正をはたした田中大佐は、帝国在郷軍人会と青年団の組織育成に力をそそぐようになる。
第二段階の対策は、こうして社会的に孤立させた少数の社会主義者が兵卒として入営してきたとき、軍隊教育をつうじて転向させるか、転向しない社会主義者は懲治隊に隔離するという案であった。
入営してきた社会主義者が一年志願兵の白柳のような知識青年であれば、扱いやすい。しかし、田中大佐が現実にロシアの革命運動を観察してきたように、これからの日本でも社会主義は一部の知識青年の観念的な思想にとどまらず、多数の労働者の行動の論理となる可能性が高かった。そこでは、田中連隊長と白柳志願兵のような対話は成立しない。田中大佐は決断した。
懲治隊制度の改正がおこなわれた。四十一年五月二十三日、台湾、樺太、清国、韓国にある部隊に属する者は懲治隊に編入しないという例外措置が廃止され、懲治隊の管轄は全陸軍におよぶことになった。七月二十八日、「海軍卒中懲治を要する者を陸軍懲治隊に収容する件」が制定され、懲治隊の管轄は海軍にもおよぶことになった。懲治隊制度は陸・海全軍におよぶようになった。これで懲治隊制度はそれまでの懲治隊とはちがった性格の制度として確立した。
軍備拡張による兵卒数の増加とは逆に、懲治隊に収容される兵卒の数は日露戦争後の再開時を最高としてへる一方であった。戦争が軍隊にもたらした頽廃の影響がうすまるにつれて、懲治隊を再開した意味も失われつつあった。懲治隊存続の意味があまりなくなってきたときに逆に懲治隊の管轄を広げたことは、懲治隊に新しい別の目的を持たせたといえる。
当初の目的にくわえて懲治隊は新しく、刑を終わった非転向の社会主義者、あるいは軍法会議という裁判の手続きをへることなしに危険とみなされた社会主義者を監禁するための、予防拘禁所という性格を持たされるようになった。
のちに治安維持法が制定され、共産主義者、社会主義者にたいする思想弾圧がおこなわれるようになった。昭和十六年の治安維持法改正で、刑に処せられたもので非転向者は刑の執行を終わってもなお事実上無期限に監禁しつづけるという、予防拘禁の制度が成立した。この予防拘禁制度は、すでに明治四十一年に軍部が採用した制度を、全国民を対象とする制度に拡大したものと考えることができる。
田中大佐による軍隊内務書の根本的改正は、社会主義者の予防拘禁所としての新しい懲治隊制度と表裏の関係にあった。
新しい懲治隊制度の最初の犠牲者となったのが森川松寿であった。警察は森川を堺派の社会主義者に分類している。白柳秀湖が除隊し、福田狂二が問題を起こすことなく兵役に服役するようになった四十一年十二月一日、森川は近衛野砲兵連隊に入営した。入営後も幸徳らと会っていたが、四十二年六月二十日、兵営を脱走した。
森川の脱走は、二重の意味で陸軍を戦慄させた。第一に、天皇を直接に守護する任務をもつ近衛兵から社会主義の脱走兵をだしたということである。第二に、福田狂二のばあいとちがって、森川の脱走は意図的な脱走であり、脱走にあたってその意図を書き残していたことである。
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野蛮なる軍国主義、強悪なる帝国主義よ、余は汝のために半年間冷酷の鉄鎖に縛《ばく》され、殺人器械として汝の荊鞭《けいべん》に赤き肉は裂かれ血は涸れたり。あゝ憎むべき「ミリタリズム」、汝は人類社会の平和を破棄するものなり。見よ、幾多の愛する同胞兄弟は砲と剣に倒るゝべし。余は断じて汝の奴隷たるを排す。人類の高尚なる理想を望んで革命の猛火を抱き、汝の重き鉄鎖より脱す。しかして余は聖《きよ》き故郷の山に帰り松風清き半生の墳墓に永久の眠りにつかん。しかして人類社会の遠き未来の歴史をひもとかん。希有なる軍国主義、汝の亡滅は将《まさ》に近きにあり。
君見ずや、人の胸に燃ゆる革命の紅火を、余は死して人類の悲劇より脱せん。
最後に云う、兵役は国民の義務にあらず。
兵役は吾人の恥とするところなり。戦争は罪悪なり。
君醒めよ、永き暗黒の眠より。しかして聖き理想に生きよ。さらばよ、我同胞兄弟よ。
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千九百九年六月二十日
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[#地付き]血風生
この文章からみると森川は脱営して故郷に帰り、自殺するつもりだったようである。文章の内容は明らかに遺書である。
森川はまえから熱烈な非軍備主義者であった。兵卒として入営し、軍隊の実態を経験するにおよんで、森川の反軍国主義の信念はますますつよまった。名誉ある国民の義務とされていた兵役を国民の恥とし、戦争を罪悪とし、兵卒を殺人器械ときめつけた森川の思想は、軍にとって許すことのできないものであった。
しかし、森川は自殺しなかった。同僚からあずかった金を旅費として日本を脱出し、韓国にわたり、二十二日に釜山《ふざん》に上陸した。軍服は脱走後に脱ぎ捨てた。売薬商になりすまし、韓国の農村を歩いていたとき、巡察中の憲兵に見つかり、逮捕された。六月二十五日であった。
韓国に渡ったのが森川の失敗であった。日本は日露戦争によって保護国とした韓国を完全な植民地とするために、韓国内に憲兵の警戒網を張りめぐらしていた。韓国|駐箚《ちゆうさつ》軍参謀長兼憲兵隊長は日露戦争中の謀略工作の第一人者|明石元二郎《あかしもとじろう》少将であった。当時の韓国は日本憲兵のきびしい情報政治のもとにおかれていた。
日本国内よりもきびしい憲兵の警戒網に、森川は釜山上陸後わずかに四日目で引っかかった。脱走からまだ六日をへていなかった。森川の逃亡罪は成立しなかった。
森川は、軍用物棄毀罪と横領罪で軍法会議にかけられ、懲役五カ月の刑に処せられた。横領罪はあずかった金を旅費に使った罪である。
近衛師団から社会主義脱走兵をだしたという報告は、陸軍の長老であり、政界の元老である山県有朋《やまがたありとも》を激怒させた。サンフランシスコの天皇暗殺予告事件、赤旗事件と事件関係者の神田錦町署不敬落書き事件につづく森川脱走事件であった。近衛師団までが社会主義に汚染されているという。これらの事件をたどっていくと、すべてが一人の人物に結びついた。無政府主義者幸徳秋水である。
サンフランシスコの天皇暗殺予告事件というのは、明治四十年十一月三日、天皇誕生日である天長節の祝賀会が予定されていたサンフランシスコの日本領事館の正面ポーチまえに、在米日本人無政府主義者の「日本皇帝|睦仁君足下《むつひとくんそつか》に与う」という暗殺予告宣言が貼りだされた事件である。この事件の情報は、スパイの手をつうじて、外務省・内閣という公式ルートとは別に、ひそかにしかも誇大に山県の耳に入り、天皇につうじた。
当時の第一次西園寺内閣の社会主義者にたいする取り締りの手ぬるさに、山県は不満であった。サンフランシスコ事件の情報を手に入れた山県は天皇を動かし、倒閣の陰謀をめぐらした。そのとき、赤旗事件が起こり、神田錦町署の不敬落書き事件が起こった。
山県は寺内陸軍大臣を辞職させて内閣総辞職に追いこもうとした。寺内がこのことを西園寺首相につげたとき、西園寺首相は退陣を決意せざるをえなかった。与党政友会が衆議院選挙で絶対多数の議席を獲得した直後の四十一年七月に、内閣は総辞職した。世に「西園寺内閣は元老山県によって毒殺された」と評された。
後継内閣は第二次桂内閣である。桂は組閣に先だって、自分の政治方針を短い書類にして天皇に提出し、天皇の承認を求めた。方針は、外交、内治行政、財政、対議会政策の四項目に亘っている。そのうち内治行政の全文が社会主義対策に費されている。
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一、内治行政の事に至りては今一々陳奏せず。ただし現時経済変遷の機に際し、往々社会主義の伝播せんとするの兆あり。これ世界の通患にして我れひとり免るをえずといえども、今にして予防の計を怠らずんばねがわくは大患に至らざることを得んか。
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第二次桂内閣は、内治行政に関するかぎり、社会主義弾圧を最優先政策にかかげて成立した内閣であった。桂の背後には山県があり、山県から社会主義にたいする恐怖感を吹きこまれた天皇の姿があった。
国運を賭けた日露戦争に精魂をつぎこんでたたかい抜いた天皇は、在位すでに四十年を越えて老境の域に入りつつあり、往年の気力はおとろえつつあった。このところ、正面から理路整然と法理論を展開する伊藤博文の主張より、山県の秘密めかした情報と密奏に耳をかたむける傾向がつよくなっていた。山県はそれをうまく利用した。
西園寺内閣の倒閣工作には、寺内も一枚かんでいた。寺内は第二次桂内閣に留任した。
陸軍将校分限令によれば、陸軍部外の文官に専任となった将官は予備役に編入される規定である。第一次桂内閣の桂首相は特旨によって現役にとどめられたが、総理大臣在職中は休職であった。第二次桂内閣の桂首相は現役にとどまっただけでなく、休職にもならなかった。寺内陸軍大臣は、総理大臣そのほかの国務大臣に在職中の現役陸軍大将に陸軍から少佐または大尉の副官をつけることを天皇に奏上し、許しをえた。
第二次桂内閣は軍部内閣として成立した。内閣の生みの親である山県は天皇の最高政治顧問である枢密院議長の職にありながら、天皇の最高軍事顧問である元帥の地位にあるため、終身現役陸軍大将である。桂首相も現役陸軍大将であり、しかも大蔵大臣をかねている。寺内陸軍大臣はいうまでもなく、現役陸軍大将である。
ここに、陸軍部内における社会主義防遏問題は、いっきょに日本の国内政治の最重点課題の地位をしめることになった。幸徳の上京は、山県が張った網にみずから飛びこんだようなものであった。
山県の名で天皇に提出された「社会破壊主義論」には「明治四十三年」の年号が記載されている。月日の記載はない。山県が宮内《くない》大臣をつうじてこの文書を天皇に提出したのは、九月八日であるとされている。しかし、そのなかにふくまれた「社会破壊主義取締法私案」を東京帝国大学教授|穂積八束《ほづみやつか》が起草して山県に提出したのは、それよりかなり早いはずである。この「私案」は、寺内|正毅《まさかた》文書の原文では、「社会共産主義」となっており、墨書ですべて「社会破壊主義」と訂正されている。山県が文章を確定して天皇に提出するまえに原案が寺内陸軍大臣の手に渡されていたことを意味する。
「社会破壊主義論」は、「ひそかに聞く、社会主義はすでに近衛その他師団の軍隊内に浸潤せりと。これが撲滅は急務中の急務とす」と、社会主義の軍隊とくに近衛師団への侵入に神経をとがらせている。福田狂二逃亡事件についで、近衛野砲兵連隊の社会主義兵卒森川松寿の脱走事件が山県の神経をさかなでにしたことが、この文章から読みとれる。
山県はむかし自分が陸軍卿兼近衛都督であったとき、西南戦争直後の明治十一年に近衛砲兵の兵卒が反乱をおこした事件、いわゆる竹橋騒動を思いだし、不吉な予感に駆られたかもしれない。あの事件は、山県に自由民権思想の軍隊への侵入を徹底的に防遏する決意を固めさせ、山県を極端な政党ぎらいにさせた。
いま、山県は「社会破壊主義論」で「そのまったく改悛の見こみなき者に至ってはこれを絶滅して遺蘖《いげつ》なきを期すべし」と主張している。検討してみると、いわゆる大逆事件による無政府主義者弾圧の政府の方針が変化するのが、四十三年六月四日から五日にかけてのことである。この日をさかいに、天皇暗殺陰謀の容疑がかけられた少数者と幸徳とにねらいをしぼった弾圧は、幸徳と交際圏内にある社会主義者全体に拡大される。
衛戍監獄からでたあとの森川は、とくに具体的な問題を起こしていなかった。まじめに軍務に服していたとまではいえないにしても、軍紀をみだしてしばしば懲罰を受けるというような行動は慎んでいた。
衛戍監獄から釈放されて八カ月もたった四十三年七月七日、森川は突然中隊長室に呼びだされ、本人自身なんのことだか事態が飲みこめないうちに、中隊長から姫路の陸軍懲治隊編入を申し渡された。森川が口をきく余裕もあたえられなかった。その場から引きたてられて姫路に護送された。
ついでながら、ここでなぞときをしておこう。
サンフランシスコの天皇暗殺予告事件に関する情報は、サンフランシスコの日本領事館が使っていたスパイが渡米中の東京帝国大学教授高橋|作衛《さくえ》にもらし、高橋が同僚教授で貴族院議員の穂積|陳重《のぶしげ》に書簡で報告し、その書簡が穂積陳重からその弟の東京帝国大学教授穂積八束の手をへて山県にとどけられた。
山県が天皇に提出した「社会破壊主義取締法私案」の起草者は穂積八束である。
大逆事件をめぐって穂積兄弟のはたした役割は大きい。
私がここで福田狂二逃亡事件や歩兵第一連隊の兵卒集団脱営事件、一年志願兵白柳秀湖の動向についてくわしい事実を知ることができたのは、穂積陳重の蔵書の一部である穂積文庫のなかから、『明治四十一年 密来綴 第一師団司令部』という秘密書類のつづりこみを見つけだしたからである。
この種の秘密書類が秘密保持のきびしい戦前の陸軍の外部に流れでることは、よほどのことがなければありえない。陸軍の手もとに保存されていたのであれば、敗戦時に焼却されてしまったはずであった。なぜこの書類のつづりこみだけが穂積文庫にあり、結果として焼却をまぬかれ、残ることになったのか。
推測すれば、山県の依頼に応じて「社会破壊主義論」中の「社会破壊主義取締法私案」を起草するにあたり、軍隊内の社会主義者の動きをとらえるための資料として穂積八束がこれらの事件関係書類を軍から借りだし、その資料が高橋書簡の提供者である兄の穂積陳重の手に渡り、そのまま返却されずに穂積陳重の書庫のすみにうずもれてしまったのではないだろうか。
穂積文庫のなかにこの『明治四十一年 密来綴 第一師団司令部』があったこと自体が、大逆事件にいたる社会主義弾圧政策に穂積兄弟がはたした役割の大きさを示すものといえよう。
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二十三 京橋南鍋町
明治四十三年三月二十八日、赤坂の三河屋で定例の二八会が開かれた。会費が十円であることから、重縁会ともいう。
三申・小泉策太郎が中心となり、各界の人士が将来の陸軍、海軍の担い手と目される軍人をかこんで懇親を深めるという趣旨の会であった。軍人の定例メンバーは、陸軍の参謀本部第二部長宇都宮太郎少将、陸軍省軍務局軍事課長田中義一大佐、海軍の第一艦隊司令官八代六郎少将、橋立艦長秋山|真之《さねゆき》大佐である。
のちに八代は、海軍の実力者山本|権兵衛《ごんのひようえ》内閣時代に発覚した海軍首脳の汚職事件であるシーメンス事件のあとを受けて大隈内閣の海軍大臣となり、陸軍の山県に相当する山本海軍大将とその後継者である前海軍大臣斎藤|実《まこと》大将を現役からしりぞけるという人事を断行して有名になった。秋山は海軍省軍務局長を勤めたのち健康を害して閑職につき、中将で病死する。
官僚でのちに政治家になる林田亀太郎、日本の中国大陸征覇をめざす黒龍会の創設者でその主幹内田良平、幸徳らの大逆事件の弁護士となる刑法の大家で政治家の花井卓蔵、出版社隆文館の社長細野次郎らも、会のメンバーであった。
二八会の主催者である小泉と会のメンバー細野は幸徳の親友である。小泉とその同郷の後輩白柳は幸徳をつうじて知己の関係にあった。細野は白柳の才能を高く買い、早稲田を卒業した白柳を社員とし、白柳の最初の著書『離愁』を隆文館から出版した。
細野の隆文館は、京橋区南鍋町一丁目にあった。南鍋町はだいたい現在の銀座五丁目のみゆき通りに面した町である。その一丁目はみゆき通りと西銀座通りの交差点あたりになるであろうか。
二八会は、新聞人から政界入りをめざし、政界入りの準備として金をあつめるために手をつけた事業にも成功した小泉の、人脈づくりの会であった。これという特定の主義もなく、きまった話題もなかった。おおいに飲み、食事をともにしながら時事を談ずるという会合であった。
この日の二八会が終わったあと、席を立った小泉は田中に呼びとめられた。田中は小泉になにごとかをささやいた。かなり長い時間の耳うちであった。小泉の顔からしだいに酔色が消えた。小泉は細野に声をかけ、二人はともに帰途についた。
そのころ、小泉と細野は、幸徳の病気と貧窮、幸徳の周辺をとりまくただならぬ危険な雰囲気を見かね、官憲の弾圧と貧窮から幸徳を救いだそうとしていた。このままでいけば、幸徳は自滅への道をたどりかねなかった。文章家の幸徳といえども、きびしい官憲の監視下におかれて行動もままならず、幸徳の書いたものはかならず発売禁止の処分を受けるという状態では原稿を買ってくれる出版社もなかった。
出獄した吉川守邦は、管野と幸徳の関係を詰問するために一月二十三日に千駄ヶ谷の平民社に幸徳をたずねた。吉川はそのときの幸徳にたいする警察の非常識なほどのきびしい警戒ぶりと、幸徳の貧窮におどろいた。
幸徳の家のまえにはテントが張られ、寒天のもとで毛布にくるまった五、六人の男が幸徳の家を見張っていた。吉川が幸徳の家に入ろうとすると、二人の男が吉川のまえに立ちはだかり、住所、氏名、訪問の目的を聞きただし、帯までとかせて厳重に身体検査をした。幸徳の家から帰るときもやはりおなじように身体検査をされた。これでは幸徳の家から原稿一枚も持ちだすことができない。
幸徳の家のなかはほとんどなにもなかった。汚れたドテラに細帯をしめ、穴だらけの足袋をはいた幸徳のうしろの本箱にはわずか数冊の本がおかれていたが、これも小泉や田岡嶺雲からの借りものだということであった。
幸徳は吉川の詰問を、管野と二人並んですわったまま、うなだれて聞いた。幸徳は抗弁しなかった。意気銷沈しているようであった。吉川には、幸徳が「愚痴のようだが」とまえおきして語った言葉が印象に残った。
「もちろん、今、吾々にたいする迫害は言語に絶している。しりぞいて餓死を待つか、すすんで社会に革命を起こすかの瀬戸際に立っているのだ。」
まさにそのとおりの状況に幸徳は立たされていた。幸徳の心は進むか退くかをめぐって大きくゆれうごいた。四十二年秋、幸徳は奥宮健之《おくみやけんし》から爆弾の製造法を聞きだし、新村《にいむら》忠雄に手紙で知らせていた。四十三年正月、北豊島郡滝野川村の愛人社という社会主義者の読書クラブで川田倉吉が主催した新年宴会に、その年の歌会はじめの勅題「新年雪」にちなんだ歌をよせている。
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爆弾の飛ぶよと見てし初夢は 千代田の松の雪折の音
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この歌は従来、幸徳がなお四十三年正月の段階でテロリズムに関心をよせていたことを示すものと解釈されてきた。しかし、おなじ歌は、一月五日付の赤羽巌穴あてのはがきにも書かれている。
注目しなければならないのは、赤羽あてのはがきにこの歌とともに記載された漢詩の内容である。
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又逢歳改独長吁
四十年聞奈下愚
始信文章□末技
却知漁釣是良図
離家懐母客情切
売剣典衣生計迂
海内交遊如勿我
百年碌々一寒儒
[#ここで字下げ終わり]
この詩はかんじんの箇所が一字不明となっている。この一字をどう判読するかによって詩の意味がちがってくる。「始めて文章の末技たるを信じ、却って漁釣《ぎよちよう》のこれ良図なるを知る」と読むか、「始めて文章の末技ならざるを信じ、却って漁釣のこれ良図なるを知る」と読むかである。まえの読みならば幸徳が文筆に生きることに絶望したことになるし、あとの読みならば幸徳があらためて文筆に生きる情熱を呼びもどしたことになる。
「末技たるを信じ」は言葉の使い方としておかしい。杜甫の詩に「文章は命《めい》の達するを憎む」――文章のたくみなものは世に容れられない――という有名な句がある。杜甫はその反語的用法として「文章は一小技、道に於ていまだ尊しとせず」という句も残している。杜甫を愛した中江兆民のまな弟子幸徳ともなれば当然この句をうけて、「末技たるを悟り……良図なるを知る」くらいにはするであろう。「信じ」という動詞のまえにくる言葉としては「末技ならざるを」の方がふさわしい。いずれにしても、詩の後半は筆を捨てて行動に身を投ずる心境とはほど遠い。
実際に一月の末ごろ、幸徳はしばらく高知に帰って著述に専念しようと、管野に語っている。この心境の変化がすでに詩の後半に表現されている。詩は心を家郷によせ、隠棲して晴耕雨読の生活に入ることを望む心境を賦したものである。
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又歳の改まるにあい、ひとり長吁《ちようく》す
四十年の聞え、下愚なるをいかんせん
始めて文章の末技ならざるを信じ
かえって漁釣のこれ良図なるを知る
家をはなれ母を懐い、客情切なり
剣を売り衣を典じ、生計迂なり
海内の交遊我なきがごとし
百年碌々たり一寒儒
[#ここで字下げ終わり]
とすれば、この詩と併記された歌「新年雪」は「爆弾」の方に力点があるのではなく、「初夢」の方に重点があると解釈されるべきであろう。つまり、幸徳はすでにテロリズムを一場の夢の世界にすぎなかったものとしているのである。
もともと幸徳の無政府主義はアナルコ・サンジカリズムであり、その直接行動論とはゼネラルストライキ論であり、個人的なテロリズム論ではない。それに、幸徳はやはり、自分が文章の人であって、行動の人でないことを知っていた。親友の小泉がそのことを幸徳につねづね言っていた。幸徳はテロリズムに反対の立場をとるようになっていた。
小泉が救いの手をのばしてきたのは、二月に入ってからであった。小泉をはじめとする幸徳の友人たちは、幸徳の健康を案じて性急な直接行動主義からはなれさせ、療養をかねて著述に専念するようにと、ひとつの企画を幸徳に持ちこんだ。『通俗日本戦国史』の編纂である。その間の生活費や資金は小泉が面倒をみ、出版の版元には細野がなるという計画であった。
小泉の説得に幸徳は心を動かした。これを知った細野らは山県直系の官僚で警察の元締めである平田|東助《とうすけ》内務大臣をたずね、自分たち友人が責任を持つから幸徳にたいする取締りを寛大にしてくれるようにたのんだ。小泉と細野は、時の警視総監亀井英三郎と細野が親しいという関係を利用し、わざわざ亀井を私宅にたずねて幸徳を救うために亀井の助力を求めた。たぶんその効果であろう。幸徳にたいする警察の監視は緩和された。
幸徳は小泉との約束にしたがって『通俗日本戦国史』の仕事をするために、神奈川の湯河原温泉におもむいた。三月二十二日であった。湯河原の天野屋旅館に落ちついた幸徳は、すぐに『通俗日本戦国史』の「編輯趣意書・編輯の方法計画」を書きあげ、小泉に送った。しかし、小泉から約束の金はこなかった。幸徳は執筆の予定を変更しなければならなかった。幸徳は最後の著書――それは獄中で完成された――『基督《キリスト》抹殺論』の執筆にとりかかった。
管野は湯河原での単調な生活に堪えきれず、上京した。幸徳との生活の実質的な破綻であった。もっとも、上京した管野を待っていたのは、出版法違反などによる罰金にかわる百日間の入獄であった。
幸徳が小泉のすすめによって湯河原に行ったのは三月二十二日である。ところがすでに四月はじめに、『通俗日本戦国史』の仕事をやめて『基督抹殺論』の執筆にとりかかっている。
四月三十日付の吉川あての手紙に、幸徳は「日本の大歴史編輯をも思い立ち、細野次郎や小泉三申などの友人が資本をだしてくれる約束でしたが、ソレもその後いろいろの事情で延引になり」と書いている。この手紙には、健康にさわらぬように『基督抹殺論』の原稿を一日に三枚か四枚書いているが、すでに百枚ほど書いたとある。
四月のはじめには、小泉も細野も幸徳との約束の実行を中止したことになる。小泉は金に困っていない。幸徳が湯河原に行くまえには、小泉も細野も幸徳のために平田内務大臣をたずねたり、亀井警視総監をたずねたり、とおり一遍の友情ではなく、親身になって奔走している。三月二十二日から四月はじめまでのあいだに、小泉や細野の幸徳援助のつよい気持ちをかえさせたものがあったはずだ。
小泉や細野に国家権力の最高意志、平田内務大臣や亀井警視総監の力をもってしてもどうにもできない権力の意志が伝えられる非公式の機会があったとすれば、三月の二八会の機会のほかにない。その最高意志を知ることのできる立場にあったのが、田中軍事課長である。
――幸徳を救うことはもはや不可能だ。いまとなっては、いつ、何をきっかけとして幸徳をやるかという問題が残っているだけにすぎない。なまじ幸徳とかかわりつづけると、その累が幸徳の援助者にまでおよぶのは必定である――
小泉がそう耳うちされたとすれば、このわずかの期間のあいだに幸徳との約束の履行をとりやめた理由が説明できる。幸徳の湯河原行きのまえの小泉や細野の誠意ある友情を一変させた事情は、それ以外に考えられない。田中軍事課長には、親友小泉に幸徳弾圧の累をおよぼさないよう、ひそかに忠告するだけの理由はあった。
宮下太吉の爆弾製造が発覚したのが五月二十五日、新村善兵衛、忠雄の兄弟、古河《ふるかわ》力作も逮捕され、天皇暗殺の陰謀を自白したのが二十七日である。宮下は、天皇暗殺の謀議が宮下、新村忠雄、古河、管野の四人のあいだでおこなわれたと自白している。宮下は爆弾製造法を新村忠雄から聞かされるまえに、花火業者から教えられていた。忠雄の兄善兵衛は爆薬製造用の薬研《やげん》を貸したこと、新田|融《とおる》は爆弾用のブリキ缶を作ったことで罪に問われた。
宮下の自白は、幸徳がはっきりとこの陰謀に反対し、そんな凶暴なことはやるべきでないと言ったと、明言している。宮下らの爆弾製造事件が新聞に伝えられたとき、湯河原の天野屋旅館には、たまたま幸徳の友人田岡嶺雲が同宿していた。幸徳は田岡に「困ったことをしてくれた」と語った。宮下らの計画に幸徳が反対であったことは、この田岡の証言から明らかである。
その幸徳が六月一日に逮捕された。幸徳に容疑をかけることができるような事実はなにひとつとしてないのに、である。管野が幸徳の内妻であること、宮下らの容疑者が幸徳の家に出入りし、幸徳の思想的影響下にあると推測されること、ただそれだけの薄弱な状況証拠があるだけであった。
昭和十一年、陸軍青年将校のひきいる軍隊の反乱である二・二六事件で、民間人の北一輝が反乱の首魁として処刑された。北は実際に事件に関与したが、その役割はどうみてもせいぜい反乱幇助以上のものでなかった。大逆事件における幸徳は、二・二六事件における北よりもはるかに事件との関係がうすい。幸徳のばあい、事件そのものにほとんど関係していないといった方が正確である。
政治的事件が国民にたいして十分な政治的効果をあげるように演出するため、権力はそれにふさわしい大ものの首魁の存在を要求する。このばあい、その条件にあてはまる人物として幸徳以外にない。事件は、幸徳を中心にすえることによって、小グループの夢想的な陰謀から、緻密な実行計画をともなった全国的な規模の革命陰謀という、政治的大事件にふくらまされた。
大逆罪つまり明治四十一年十月十日施行の刑法第七十三条の罪は、「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又は皇太孫に対し危害を加え又は加えんとしたる者は死刑に処す」となっている。この罪は、既遂、未遂、犯罪予備、陰謀、正犯(教唆をふくむ)・従犯(幇助)の別を問わず、無罪でなければすべて死刑である。その中間はない。
ただ、大逆罪をおかす目的とは知らずに薬研を貸した新村善兵衛、おなじくブリキ缶を作った新田融だけは、刑法第三十八条の規定によって大逆罪に問われず、爆発物取締罰則違反の罪に問われて懲役刑ですむ可能性があった。
大逆罪を審理する裁判所は大審院と定められていた。いきなり最高の裁判所が審理をおこなう。したがって、裁判は一審かぎりで確定し、控訴も上告もない。
六月四日、東京地方裁判所の小林|芳郎《よしお》検事正は新聞記者会見をおこなった。
「今回の陰謀は実に恐るべきものなるが、関係者はただ前記七名のみのあいだに限られたるものにして他にいっさいの連累者なき事件なるは余の確信するところなり。」
翌五日、内務省の有松|英義《ひでよし》警保局長も談話を発表した。
「被告人は僅々七名にすぎずして、事件の範囲はきわめて僅少なり。騒々しく取沙汰するほどのことにあらず。」
ところがおなじ五日、大審院検事局は別の方針を捜査の応援に招致された小山《こやま》松吉神戸地方裁判所検事正談というかたちで発表した。
「当局は一人の無政府主義者なきを世界に誇るにいたるまで、飽くまでその撲滅を期する方針なり。」
神戸の小山検事正は、政府の既定政策を越えた強硬方針を中央の行政当局より先どりして実行に移して問題となった実績の持ち主であった。その過去の実績の背後には山県の影がちらついていた。その談話が大審院検事局で発表されたことは、実務にあたっている司法・内務当局の意図を越えて、より上の方から強硬方針をとるように指示があり、事件担当検事の事実上の中心が小山であることを示すものとして注目された。
検挙の手は全国に拡大され、とどまることを知らなかった。新聞は事件の内容について報道することを禁止された。ただ、重大事件であること、誰が逮捕されたかという事実だけが報道された。事件の内容がわからないままに、検挙の対象がどこまで広がるのかわからないことほど人心をおびえさせるものはない。
近衛野砲兵連隊の森川|松寿《まつひさ》が突然懲治隊編入を命じられ、本人も理由が飲みこめないまま即日姫路に護送されたのも、この強硬方針のあらわれのひとつであった。
横須賀重砲兵第二連隊の三年兵となっていた福田狂二は、幸徳が検挙されて以来、情報を手に入れることができず、いらついていた。あたらしい軍隊内務書は、連隊長が許可した以外の新聞・雑誌を読むことを禁じていた。新聞は九月二十三日に幸徳らの裁判が大審院で特別組織のもとに審理されることを報道した。しかし、事件の内容はただ「恐るべき大陰謀」と書かれているだけで、どんな罪で起訴されたのかもわからなかった。
大審院が直接に管轄する罪は大逆罪だけではない。内乱罪もおなじ扱いである。内乱に関する罪ならば、実際に内乱を起こしたわけではないから、せいぜい内乱予備または内乱陰謀の罪で、一年以上十年以下の禁錮である。大逆罪とは雲泥の差である。
福田は情報がほしかった。十月三十日の日曜日、福田は外出して上京することにした。満期除隊後の方針について相談するためという外出理由をつけて許可を求めた。しかし、中隊長は福田の外出上京を禁止した。幸徳一味の検挙という騒然とした情勢のなかで、福田に外出上京を許すことに危惧を感じたからである。
四十一年九月の外出から帰営しなかった事故を起こしてからまる二年、福田は事故を起こしていなかった。中隊長は、福田がせめてあと残りの在営期間を無事故のままで除隊してほしいと考えていた。幸徳一味の検挙以後、師団司令部から福田の動静に注意するようにと指示されていた。
森川は幸徳事件の拡大の過程で懲治隊に編入されたが、福田は懲治隊編入とならなかった。森川は入営後も幸徳のもとに出入りし、しかも近衛師団所属であった。これにたいし福田はむしろ反幸徳派に属し、その在営先も東京からはなれた横須賀であった。森川は脱走事件で出獄してから八カ月しかたっていないのに、福田は二年のあいだ事故を起こしていなかった。こうしたことが考慮されたからであった。いま福田が事故を起こせば即時懲治隊送りとなることは明らかであった。
福田の外出禁止のおもてむきの理由は、福田が命令に違反した罰であるとされている。軍隊では些細なこと、たとえば銃や被服の手入れのしかたがわるいというような理由で外出禁止を申し渡されることはごく日常のことであったから、理由はなんとでもつく。要するにこの時期に福田を東京に行かせたくなかったのが本当の理由であった。
福田もいまや、したたかな三年兵であった。外出禁止の申し渡しにひるむような兵卒ではなかった。休日外出には軍隊|手牒《てちよう》が必要である。当時の内務書では、日常、軍隊手牒は内務班長が保管する定めであった。監獄|下番《かばん》のしたたかな三年兵ともなれば、下士である班長から自分の軍隊手牒を借りだすくらいのことはわけない。
福田は堂々と無断外出して上京した。外出時間内つまり夕食時間までに帰営すれば問題にはならなかった。しかし、福田は帰営しなかった。逃亡の意思があったわけではなかった。三十日の夜は半田一郎方に一泊し、翌三十一日に菅原|敏《さとし》方をたずねたが不在のため、川田倉吉方を訪問して帰営したという。
半田一郎は宮下、新村らが検挙されたのちの六月二十三日から八月十日まで郷里の長野県に旅行し、その間、とくに友人であった新村の留守宅をたずねている。そもそもの発端となった事件の情報にもっともくわしいはずであった。
川田倉吉は、幸徳が「新年雪」の歌を送った愛人社の新年宴会の主催者である。さらに一月三日に山口孤剣が出獄したのを両国駅に出迎え、一月二十日に神田一ツ橋軒で開かれた山口、岡、吉川、樋口ら西川派の電車値上げ反対事件関係者の出獄歓迎兼新年宴会に出席した。西川派に近く、幸徳らの動静にもつうじていた。
この二人に会ったことは、福田の上京が幸徳らの「大陰謀事件」についての情報をあつめる目的であったことを示す。福田がどの程度の情報を手に入れることができたかわからない。宮下、新村らの爆弾製造の事実は確認したものと思われる。
三十一日、福田は悠然と帰営した。いまの福田にとって、無断外出、無断外泊のとがによって何日間かの重営倉の懲罰を受けるよりも、幸徳らの事件の真相を知ることの方が重要であった。重営倉は覚悟の上であった。はたして帰営後、福田は十四日間の重営倉という懲罰処分を受けた。
しかし、福田の見通しはあまかった。懲罰処分が終わった十一月十四日、福田は班長に連れられて中隊長のもとに処分終了の申告に出頭した。そのころの軍袴《ぐんこ》はふつうの長ズボンで、外出するときも巻脚絆《まききやはん》――ゲートル――を着用しなかった。帯剣姿の申告の服装は靴をはけばそのまま外出の服装となる。黙ったまま福田の申告を聞いていた中隊長は、福田が申告を終わると即座に口を開いた。
「命令。陸軍砲兵二等卒福田狂二、本十一月十四日付をもって、陸軍懲治隊に編入を命ず。ただちに出発すべし。」
福田は唖然とした。一言も言葉を発しないあいだに、福田の右側に並んでいた班長が福田の右腕をつかんだ。中隊長の横で申告に立ちあっていた特務曹長がサッとまえにでるなり福田の左腕をつかんだ。中隊事務室からも屈強な下士が姿をあらわした。福田は左右の腕の自由を奪われ、下士たちに抱きかかえられるように中隊長室から連れだされた。
懲治隊編入には携帯品はなにもいらなかった。内務班にもどることも許されなかった。
福田はその場から特務曹長に引率されて――というより連行されたという方が事実に近い表現であるが――、追いたてられるように横須賀駅から汽車に乗せられた。私服憲兵が二人を護衛・監視していた。東海道線に乗りかえ、翌十五日、姫路についた福田はそのまま懲治隊に引き渡され、腰の銃剣を奪われた。
ぶじに除隊した白柳は執筆と作品の刊行にいそがしかった。四十二年五月、「駅夫日記」と在営中に書きあげた小説「黄昏《たそがれ》」とを合わせて一冊にまとめ、『黄昏』の書名で好山堂《によざんどう》から出版した。九月、小品集『新秋』を金尾文淵堂から刊行した。四十三年一月、小品集『秀湖小品』を隆文館から刊行した。十二月、『町人の天下』をおなじく隆文館から刊行した。白柳はそのころ、隆文館から太平洋通信社に移り、『週刊サンデー』の編集にたずさわっていた。
順風満帆にみえた白柳の文筆活動に暗い影がさした。白柳が入営まえに書き、入営中に出版されたエッセー集『鉄火石火』が、四十三年十二月十一日に発禁処分を受けたのである。白柳にとって発禁ははじめてのことではなく、別におどろくことではなかったが、今度の発禁は、時期が時期だけに微妙な問題をはらんでいた。幸徳らの公判が開始された翌日の発禁処分であった。白柳はこの処分が権力の恫喝であるという印象を受けた。
それにこのところ隆文館から二冊つづけて本をだしたばかりであった。『鉄火石火』も隆文館の発行であった。隆文館と白柳との特別な関係を考えると、白柳個人にとってもかなり重大な意味を持つ発禁処分であった。
白柳は善後策を相談するために、京橋南鍋町の隆文館をたずねた。白柳の古巣である。幸徳の公判がはじまった節であり、白柳もあるいはと思わないわけではなかったが、小泉が細野に会いにきているという。情報通の小泉からなにか聞きだせるかもしれなかった。
白柳は小泉に会った。小泉は切りだした。
「連隊長時代の田中少将のことを書いてみんか。」
田中義一は十一月三十日付で少将に進級し、歩兵第二旅団長に転任していた。
白柳には小泉の発言の意図が飲みこめなかった。
「田中連隊長は君にわるいようにはしなかったはずだが……。君のいまと将来のために、そのことをこの際書いておくんだな。」
「私のいまと将来のためですか。」
「たいした魔除けになるぞ。」
「どういう意味ですか。」
「君にはまだ、田中という男の力がよくわかっとらんようだな。田中は小田原を動かせる男だよ。」
小田原とは、小田原に別荘|古稀庵《こきあん》をいとなんでいる山県のことである。
「幸徳の事件もみな小田原の方寸からでている。僕は事前に、田中からひそかにそれを教えられた。僕も細野も親友幸徳をみすみす見殺しにしなきゃならなかった。幸徳と心中するつもりなら話は別だが、とね。」
小泉と田中の仲を白柳ははじめて知った。そういえば思いあたる。
歩兵第三連隊の将校集会所で田中連隊長とかわした会話を、白柳は思いだした。
「私は、ある事情から、貴公のことについては入営まえの言動についてもよく知っている。」
あのとき、田中連隊長は最初にそういって話を切りだした。
白柳は、第一連隊の集団脱営事件との関係について、中隊の特務曹長、中隊長、大隊長と順を追って取調べを受けたのが田中連隊長の時間かせぎであり、その間に田中連隊長は小泉と連絡をとって自分のことを調べあげたのではないかと推測した。
――田中連隊長のあのときのうちとけた態度も、小泉の口ぞえがあったからではないか――
「古くからいわれているように文章は経国の大業だ。」
田中連隊長はあのとき、そう言った。
「文章は経国の大業なり。」
『三国志』の主人公のひとりである曹操の息子|曹丕《そうひ》――魏の文帝――の言葉として有名なこの句は、いまにして思えば小泉の座右の銘であった。思想を異にしながら、小泉が幸徳と親友の関係をたもちつづけてきたのも、「経国の大業」と呼ぶにあたいする文章を幸徳が書きつづけてきたからであった。文筆に生きる小泉も、中江兆民仕込みの幸徳の学識と文章には頭をさげっぱなしであった。せいぜい小説家の村上|浪六《なみろく》の門下としてまなんできた、独学の貧少年小泉がいっぱしの文章家となることができたのも、『自由新聞』時代からの幸徳との交際によるところが大きい。
のちに政治家となった小泉は、政界では策士≠フ名で呼ばれるようになる。しかし、「文章は経国の大業」という志だけは忘れなかった。後年、小泉は政治家として「経国の大業」と評価するにたる格調の高い文章を書いている。暗殺された原|敬《たかし》首相のあとを引きついだ政友会総裁高橋|是清《これきよ》が子爵の爵位を返上して衆議院議員に立候補し、政友会の分裂を賭して護憲三派の結成に踏みきる決意を表明したときの総裁告辞である。
白柳は改めて、あのときの小泉の口ぞえに感謝の気持ちをいだいた。
「お勧めにしたがって、おおいそぎでやってみましょう。」
白柳は答えた。
こうして、末尾に(明治四十三年稿)と記入された白柳の随想「脱営兵の首領」が書かれた。その内容から、四十三年十二月に書かれたことは疑問の余地がない。
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余ここにおいてか、胸襟を披瀝して、平素の所信を傾け、大胆に、明白に、これを告げ、奮励勇躍、満腔の誠意を尽くして、軍務に従事すべきを誓う。大佐喜んで百方余を慰藉《いしや》す。温情溢るるがごとし。かくのごとくにして、昔日社会にあるの日、行政官の治下に属し、不安と危惧の情に、絶えず身辺を脅かされたる余は、軍隊に入《い》りてより、長岡、田中両名将の保護の下に、偶々《たまたま》愉快なる一年を送ることをえたり。除隊の日、久しぶりにて私服に心身の寛かなるをおぼゆるや、花川戸警察署の刑事突如として余の寓《ぐう》をおとずれ、まず猜疑の眼《まなこ》をもって、余の身辺を凝視す。この時、余は衷心ひそかに長岡少将の内務大臣にして田中大佐の警視総監たらんことをねがえり。堂々たる指揮官にして大教育家たりし田中大佐は、かくのごとくしてまた一個の堂々たる大政治家なりき。
余の除隊と前後して、大佐陸軍省に入りて軍事課長となり、さらに少将に進み、今や第二旅団に長たり。長州萩の人、故児玉大将深くその才幹を愛し、関係ほとんど骨肉のごとし。
度量寛厚、気宇闊達、肥馬に跨って陣頭に立つ。音吐朗々として号令明快、いやしくも凝滞せず、三軍粛然として声を呑む。余の忘るべからざる恩人の一人也。(明治四十三年稿)
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白柳が書いた随想の最後の一節である。
白柳は、これ以後、社会主義の冬の時代≠迎えて、堺利彦の売文社の社員となってその仕事を助け、文学から評論、史伝の世界に転ずる。堺が『へちまの花』を創刊すると、堺の重要なアシスタントとして活躍した。
社会主義とは縁がうすくなったが、大正期をつうじて社会正義の立場から筆をとり、小泉が政治家に転じたのち、史伝で鳴らした文筆家小泉の後継者の位置に立ち、白柳史学≠フ名をえた。昭和期、白柳は太平洋戦争の積極的でしかも批判的な協力者となる。白柳と親交があった清沢|洌《きよし》は、その日記の昭和十九年三月十六日の項に書いている。
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三四日前、白柳秀湖君が手紙をよこした。徳義がすたれば戦争に勝っても国が亡びる。国家永遠のためには敗戦した方がいいかも知れぬといっている。ここで彼は誤謬《ごびゆう》をおかしている。第一に戦争の結果が何よりも徳義心を破壊したのだ。第二には、その戦争の責任者は誰なのだ。かれや、徳富蘇峰などが、もっとも大きなその一人ではないか。日本歴史や日本精神をむやみに誇張して対手《あいて》の力を計らなかったのは、彼等ではないか。
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たしかに、著書『二千六百年史』などをつうじて国民の歴史認識をあやまらせ、好戦的な傾向にみちびいた、白柳の著述家としての責任は大きい。しかし、早くも日本の勝利が亡国につうずることを見きわめ、勝利よりも敗戦を望むと言いきる勇気を持っていたことに、往年の白柳の面目を見ることができる。
清沢にしても、「戦争の結果が何よりも徳義心を破壊した」というが、そうではない。結果がどうであろうと、戦争そのものが国民の徳義心を破壊したのだ。それが戦争の本性である。そこを見きわめていないという点で、清沢の目もまだあまい。
この間、白柳は明治期の社会主義者の良心のあかしとして『堺利彦全集』全六巻を監修し、昭和二十五年に病死した。
京橋南鍋町は銀座みゆき通りとなった。戦後風俗史に名をとどめるみゆき族≠ェ出現するのは、白柳の死後だいぶたってからである。のちの六本木族≠竅A穏田《おんでん》つまり参宮通りをにぎわわせた竹の子族≠フさきがけである。いまでは、みゆき通りの名も忘れられようとしている。
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二十四 姫路城
山陽道は市川を渡り、京口から姫路の町に入っていた。京口のちょうど西正面に、白鷺の舞う姿に似た姫路城が優雅にそびえていた。山陽道は城の南側を迂回し、城の西側から城下町をはなれた。
姫路の城下町は城の東側から南まわりで西側まで、城をとりまくように建設されていた。
京口から市街に入ったところで北に分岐する道が但馬《たじま》街道である。但馬街道は市川に沿って北にさかのぼり、生野をへて和田山で山陰道に連絡する。生野は徳川時代の有名な生野銀山で栄えた町である。銀山への道として、但馬街道は古くから交通のさかんな街道であった。姫路の市街も山陽道ぞいだけでなく、京口から北の方に但馬街道ぞいに長く伸びていた。
?マークの上下を逆にしたかたちを思いうかべてほしい。明治四十年代の姫路の町はちょうどこんなかたちに似ていた。点までの縦長に伸びた部分が但馬街道ぞいの町並みである。半円形の部分が京口から入って南まわりで西に抜ける山陽道ぞいの町並みの部分である。半円形にかこまれた部分が姫路城と城をとりまく軍事施設群である。点の部分は城北の兵営群である。
国有化された山陽鉄道は姫路市街の南端をかすめて東から西に走っていた。姫路駅から市街地をへだててほぼ真北に姫路城を望むことになる。
平山城《ひらやまじろ》である姫路城の、現在も残されている城郭の部分は丘の上の内曲輪《うちぐるわ》の部分である。平地に広がっていた中曲輪と外曲輪の部分は明治十五年に陸軍用地として買収された。外曲輪をかこむ土塁が市街地と軍用地をへだてていた。
城の外郭を歩兵第十連隊、城南練兵場、歩兵第八旅団司令部、姫路連隊区司令部、第十師団司令部、姫路衛戍病院、歩兵第三十九連隊がとりまいていた。
但馬街道が姫路の市街をはなれてまもなく、左側に広大な練兵場と兵営群がある。そこは市外の城北村である。水田にかこまれた一キロ四方ほどの敷地の南半分が城北練兵場、北半分が騎兵、砲兵、輜重兵の各連隊、大隊である。
日露戦争がはじまる直前の明治三十六年十一月、天皇統監のもとにこの地方で陸軍特別大演習がおこなわれた。大演習が終わったのち、城北練兵場で観兵式がおこなわれ、そのあと城南練兵場で天皇臨席のもとに野宴が開かれた。この日のために姫路駅から城北練兵場までの道三キロあまりが改修された。とくに駅から城南練兵場まで約五百五十メートルは直線道路となり、御幸《みゆき》通りと名づけられた。
姫路城をかこむ軍事施設群のなかに、姫路懲治隊と姫路衛戍監獄もあった。城の外郭をとりまく軍事施設のうちいちばん西北の、高いコンクリート塀にかこまれた一画である。おなじ塀のなかに監獄と懲治隊があった。懲治隊の一隅を仕切って監獄がおかれているという感じであった。道路に面しているむかって左の門を入れば懲治隊、右の門を入れば監獄であった。
姫路の懲治隊については、ややのちの記録であるが、くわしい記録が残されている。それは、懲治隊が教化隊と名を改めてからの記録である。
大正十一年十月に、監獄の名が刑務所と改められた。実質がかわったわけではない。施設の名がかわっただけで、収容者の処遇を定めた法律は明治四十一年制定の監獄法のままである。この法律は現在もなおそのままである。これにともなって翌年三月、陸軍衛戍監獄も陸軍衛戍刑務所と名を改め、それまで各師団司令部所在地にあった衛戍監獄は、衛戍刑務所と衛戍拘禁所の二種類に分けられた。姫路の衛戍監獄は衛戍拘禁所となり、場所も移り、規模も縮小された。軍法会議の判決確定者が服役する衛戍刑務所は東京、大阪、小倉の三カ所にまとめられた。すこしおくれて、懲治隊も教化隊と改称された。
名がかわったのちに教化隊に編入されて十カ月余の教化隊生活を経験した北原|泰作《たいさく》が、その経験をくわしく書き残している。懲治隊時代と設備もまったくおなじであり、処遇の変化は懲治隊時代にあった強制労役が廃止されたくらいのちがいであるから、懲治隊の生活を知るのにたいへん参考になる。
北原泰作は、被差別部落解放運動の初期からの活動家であった。青年時代はどちらかといえばアナーキズムの傾向がつよかった。昭和二年一月に岐阜の歩兵第六十八連隊に入営した北原は、軍隊内の部落差別にたいする糾弾闘争をおこなっていた。その年の十一月十五日から、濃尾平野を舞台に陸軍特別大演習がおこなわれた。大演習の最後をかざる観兵式が十一月十九日に名古屋練兵場でおこなわれた。
大演習参加の将卒約四万が整列して粛然として天皇の閲兵を受けているなかで、北原二等卒は軍隊内の部落差別について大元帥《だいげんすい》である天皇の配慮を願うという直訴状を手に、天皇にたいする直訴を決行した。
大元帥は軍の最高統帥者である。二等卒は軍隊の最下級の兵卒である。ふつう二等卒が口をきくことができるのは中隊長までであり、連隊長と口をきく機会さえほとんどない。日露戦争後ともなれば、その連隊長でも天皇のまえにでることはめったにない。連隊長が大元帥に口をきく公式の機会は、新設連隊が天皇から軍旗を授けられるときくらいである。このとき、大元帥である天皇は連隊長に勅語をくだし、連隊長は奉答文を読む。軍隊内の階級差はそれほどはげしい。
四万の将卒が整列し、各部隊ごとに捧《ささ》げ銃《つつ》≠フ敬礼をして天皇に注目の礼をしているなかで、軍の最高幹部たち多数がつきしたがう大元帥に一歩兵二等卒が直訴をおこなったのであるから、陸軍はじまって以来の大事件となった。もちろん北原二等卒の直訴状が大元帥の目にふれるまえに、北原二等卒はとりおさえられた。しかし、北原の当初の目的である示威行動としての効果は充分であった。
北原の行動は事前に法律を研究して計画され、直訴状の文章も不敬罪にならないように慎重に言葉を選んでいた。結局、これだけの大事件でありながら、北原は予想どおりに請願令違反という罪に問われただけで、軍法会議で懲役一年の刑に処せられただけですんだ。天皇の即位式で減刑となった北原は昭和三年十二月十一日に釈放された。
しかし、北原は大阪衛戍刑務所からそのまま姫路教化隊に編入移送された。北原は書いている。
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教化隊は、白鷺城の天守閣が間近に見える姫路市内にあった。衛戍刑務所の建物とほとんど変わらない兵舎が堅固なコンクリートの牆壁《しようへき》に囲まれている。道路に面した表門に歩哨が立っている。門を入るとすぐ左側に衛兵所があった。右側のコンクリート塀の中は陸軍監獄の跡である。
私が収容された特別室は、刑務所の独房と異ならなかった。ただいくらか部屋が広いだけのちがいである。周囲からまったく遮断されていた。室内には木製の長い机と腰掛と鉄製の寝台が各一脚、そのほかに食器・算盤《そろばん》・硯などが備えつけてある。窓が小さいので薄暗く、部屋の隅に便器が置いてあるので臭気が鼻を刺すこと、外側から扉に鍵を掛けることなどはすべて刑務所とおなじであった。この特別室に新入の教化卒を三週間ないし四週間収容し、そのあいだに本人の精神状態や性格などを観察するのだといわれる。週番下士の腕章をつけた背の低い軍曹が、謄写版刷りの小冊子を食器口から差し入れて、これをよく読んでおけ、と言った。それにはつぎのような教化卒の内務規定が書いてあった。
教化卒は軍隊内務書|並《ならび》に当隊内規程の外一般に左の条項を遵守すべし。
[#ここから3字下げ]
一、室の内外を問わず常に静粛にすべし。
二、物品の持出持入には衛兵司令の許可を受くべし。
三、許可なく物品の贈答並に貸借を禁ず。
四、許可なく金銭、物品等を父兄に請求すべからず。
五、金銭、時計、郵便切手、同葉書、為替、貯金通帳其他貴重品類は所持すべからず。
六、書籍、雑誌の購読並に私物品(日用品を除く)の購求は訓育班長を経て隊長の許可を受くべし。
七、書見の場合は音読すべからず。
八、小刀類並に燐寸《マツチ》は之《これ》を所持するを許さず。
九、喫煙は一切これを禁ず。
十、許可なく私有品の所持を許さず、不許可の物或は一時不要の物は隊に預くるものとす。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
特別室規定
一、室外に於ける単独の行動を禁ず。
二、許可なく室外に出ずるを禁ず。
三、将校、下士に請願せんとするときは衛兵司令に願出て自室にて指示を待つべし。
四、何《いず》れの場合と雖《いえど》も他の教化卒に対し談話並にその他の方法を以て意志を通ずるを禁ず。
五、許可せられたる場合の外起床より日夕《につせき》点呼迄の間寝台に横たわるを禁ず。
六、遥拝《ようはい》、洗面、入浴、靴の手入れ、理髪、洗濯等は各人毎に時間を異にして行なわしむ。
七、通常諸勤務には服せしめず。
八、酒保《しゆほ》飲食品の購求を許さず。
[#ここから2字下げ]
これでは衛戍刑務所と大差ないではないか、教化卒は受刑兵ではない! と私は腹が立った。けれども、どうしようもない、諦めるより仕方がなかった。
[#ここで字下げ終わり]
懲治隊に収容された福田狂二も、収容の日から十日間、監獄の独房とおなじ特別室に監禁されていた。のちに北原が感じたように、福田もまた受刑兵でもないのになぜ独房に監禁されねばならぬのか、怒りの気持ちに駆られた。
北原の教化隊在隊中に勤務していた下士がのちに教化隊附将校となり、そのとき調査した資料を戦後すでに部落解放運動の著名な指導者のひとりとなっていた北原がもらいうけた。北原がかかげた統計によれば、懲治隊開設以来昭和六年までに懲治隊・教化隊に編入された兵卒は陸海軍あわせて七百七十八名、うち明治三十九年以後が六百八十六名である。日露戦争で懲治隊が閉鎖されるまえの編入は二年間で九十二名、懲治隊再開後二十五年間の編入は年平均約二十七名である。
懲治隊・教化隊の編入年次別の統計がないので、時代の動きにともなう変化がわからないのは残念であるが、日露戦争まえにくらべて、日露戦争後の編入はずっとへっている。日露戦争後の編入者を学歴別にみると、小学校四年が百五十三名ともっとも多く、ついで高等小学校二年が九十二名、小学校六年が八十九名の順となっている。
小学校の義務教育が四年から六年に延長され、六年卒業生がでるのは明治四十二年度からである。四十年度までは四年卒業か、高等小学校二年卒業である。二年制の高等小学校は義務教育延長後もつづくので、高等小学校二年の学歴者を時代別に分類することはできない。最初の小学校六年卒業生が徴兵検査を受けた年は大正八年、懲治隊再開から十二年後である。さきの統計からみると、大正十年代の軍縮による兵卒数の減少を考慮にいれても、全兵卒にたいする懲治隊・教化隊編入兵卒の比率は義務教育四年制時代の年代の兵卒が高く、それ以後はへっている。満州事変後の思想弾圧がはげしくなった時代の統計はないが、それまでは時代がくだるとともに懲治隊・教化隊編入兵卒はへる傾向にあった。
日露戦争後の懲治卒・教化卒のうち、懲罰だけあるいは前科一犯のものは六十五名で、全体の一割以下にすぎない。そのなかに福田狂二、森川松寿、北原泰作がふくまれる。あとは累犯者である。
興味深いことは、六十五名のうち、中学校一年以上の学歴を持つものが十一名もいることである。この期間を通算すれば中学校への進学率が一割以下であったことにくらべて、異常な高率である。軍法会議で刑に処せられたことがないか、一回刑に処せられただけで懲治隊・教化隊送りとなった兵卒のなかに高学歴者が多い。つまり最初から思想的な確信犯とみなされたものである。この十一名のなかに福田も入っていた。
こうした傾向からみても、福田の懲治隊編入は異例の措置であったことがわかる。
特別室に収容された福田は理不尽な扱いに怒り、懲治隊長歩兵大尉堤|桃蔵《ももぞう》に面会を求めた。面会が許されたのは、十一月二十五日であった。
堤大尉は士官学校の卒業ではない。当時は平時に下士から現役将校に昇進する道はなかったが、特例として日清戦争中および日露戦争中にかぎり、熟達した初級将校不足をおぎなうため、下士から現役将校への道が開かれた。堤はこの特例によって明治二十八年四月に歩兵少尉に任官した。満二十六歳であった。進級もおそく、大尉になったのが満三十三歳、そしてそれから十年間大尉をつづけることになる。堤が少佐になったとき、先任少佐にかれより十歳も若い少佐がすでにいた。
福田が懲治隊に編入されたとき、堤はすでに四十歳を越えた老大尉であった。こつこつとたたきあげてきて、歩兵将校の主流である連隊附勤務からもはなれ、懲治隊長が現役将校としての最後の職となることはほぼ確実であった。それだけに老練であり、兵卒を扱いなれていた。
福田は一見うだつのあがらぬこの老大尉を頭からなめてかかった。二十五日午後一時、隊内会議室に連れてこられた福田は、敬礼もせずに傲然と堤大尉のまえに立った。周囲の状況もたしかめず、興奮してせきを切ったように怒りの声をたたきつけはじめた。それは場所がらを無視した演説といった方がよかった。
「横須賀に一抹の暗雲が起こり、この福田は姫路に送られてきました。私は懲治隊に送られてきたとき、無主義だといいましたが、いまハッキリと共産無政府主義者であることを宣言します。
当懲治隊にはすでに森川松寿がいます。かれは幸徳秋水門下です。いまや懲治隊はこの二人の青年を収容して、いわゆる懲治なるものをしようとしています。しかし、我々は断じて懲治なんかされません。我々は実に聖賢の志と義人の胆を持つ革命党であり、懲治される必要などいささかもないのであります。
だいたい、懲治隊の待遇は残酷きわまるではありませんか。条例にもないことをし、無知の平民を虐待しているではありませんか。私が着隊するや、いきなり営倉にとじこめたのは野蛮きわまる。私は軍法会議で刑の宣告を受けたわけでもないのに、なぜあんなところにとじこめられなければならないのか。こちらが柔順によそおっているのをいいことに、たちまちにして侮辱をくわえたではないか。
それに、ここにきて聞くところでは、かつて何もしていない懲治卒をいじめ殺したこともあるという。僕は断言する。改悛するということは、堕落することだ。僕は絶対に懲治もされなきゃ、改悛もしない。」
しゃべっているうちに激してきて、福田の言葉使いは乱暴になった。
懲治隊が思想弾圧の強制収容所とされた現状に、福田が怒りをおぼえたのは無理もなかった。その福田の演説を堤隊長はただ黙って聞いていた。堤大尉のうしろで、書記の下士が懸命に、福田のまくしたてる言葉を筆記していた。
堤大尉が一言も発しないのにいらだった福田は、挑発するかのように皮肉な口調で言った。
「そもそも我々をここに収容したのは、隊長の不幸ですな。
僕はここで斃《たお》れてもかまわない。僕の志をついで、我々の同志は爆弾を隊長につきつけるでしょう。いや、我々の同志がくるのを待つ必要もない。我々は、懲治卒に我々の主義を注入して、懲治隊を内側から破壊してしまいますよ。懲治卒はひとり残らず懲治隊をうらんでますからね。隊長も気をつけた方がいいですな。
だいたい軍人なんぞいい商売じゃない。君等も、腰に牛切り庖丁のようなものをぶらさげて、あんまりいい格好とはいえんな。隊長もいい年をして……うちの親父より年上かな、老いさきも長くはないだろうに。気の毒なもんだ。堤君、君は我々のような偉大な人物を見たのははじめてだろう。心臓が鼓動するだろう。軍人社会の階級制度の奴隷にならずに、我々の自由を許したらどうだね。」
福田の長広舌はえんえんとつづいた。
堤大尉は福田の罵倒のかぎりをつくした演説を、顔色ひとつかえずに聞いていた。
堤大尉の石のような無表情に、福田はふたたび激昂して早口でまくしたてた。
「当隊では僕を人間として遇していないではないか。僕は今日以後、このような待遇を拒絶する。
もし、この待遇にあまんじている他の兵卒とちがって、僕を人間らしく待遇するなら、僕もおとなしく来年六月まで服役しよう。そうするつもりがないならば、いますぐ、銃剣で僕を刺し殺すがいい、小銃で僕を銃殺するがいい。そうすれば僕は君等が恐れることはなにもできなくなる。生きているかぎり、僕には僕の覚悟がある。
幸徳先生が国家を倒そうとして警吏に捕えられると、重砲兵第二連隊はその隊内に暴動が起こるのを恐れて、僕をここに連行したのだ。僕はこんな所に押しこめられるのを拒絶する。あくまで光輝く太陽のもとで平和な天地に生活したい。それにふさわしい待遇をするよう、僕は要求する。」
福田が言いたい放題のことをしゃべりおわると、堤大尉は、これで終わりか、と念を押すように福田の目を見た。福田が黙っていると、堤は筆記の手を休めている下士の方をむき、顎をしゃくった。あいかわらず一言も発しなかった。下士は心得たとばかりに立ちあがり、福田の腕をとって廊下に連れだした。
福田が連れていかれた先は、福田がさきほど営倉とよんだ特別室ではなく、懲治隊内のほんものの営倉であった。懲治隊にも独房同様の特別室だけでなく、それよりもはるかに待遇劣悪な懲罰用の営倉があった。福田はその営倉に放りこまれた。
懲治隊の営倉は、ふつうの連隊の営倉よりもいっそうきびしい条件の施設である。北原も懲治隊の営倉を経験している。昼間も日がささない。毛布一枚もあたえられない。北原が営倉に入れられたのは二月なかばであったが、福田が入れられたのは十一月下旬である。北原ほど寒さに苦しめられなかったが、それでもかなり寒かったはずである。「じっとしていては全身の血液が凍結してしまいそうに思われた。私は獣のように四つ這《ば》いになって営倉の中を這い廻った。そのためいくらか五体が温まった」と、北原は書いている。
懲治隊そのものがもともと懲罰施設である。その懲治隊のなかの懲罰施設である営倉は、二重の懲罰を課することを目的とした施設である。人間が動物として生きていくのにこれ以上の悪条件はないように作られていた。
福田は寒さにふるえながら、眠れぬ一夜を営倉で明かした。ものごとを考えようにも、頭のなかまでが凍ってしまったような感じであった。ただ、あれだけの長時間、自分は一言も発しないで、感情さえも表情にださずに沈黙したまま、福田に言いたいことを言わせておいた堤隊長の不気味な姿が網膜に焼きついていた。福田はついに堤隊長の声を聞くことなく、面接を終わってしまった。
福田にたいする堤隊長の無言の返答は、翌日の朝もたらされた。二十六日の朝、営倉からだされた福田を待ちうけていたのは、懲治隊附の下士ではなく、黒の襟章をつけた憲兵下士であった。
福田はその場で手錠をかけられた。憲兵下士に連行され、衛戍病院の西側の道をとおり、ちょうど姫路城の天守閣を北から南に東まわりで三分の一ほどまわって、第十師団司令部のまえまで連れていかれた。行きついた先は、第十師団軍法会議と書いた表札がかかっている建物であった。
ここではじめて、福田は自分が陸軍刑法第七十三条の上官侮辱罪で軍法会議の審判にかけられることを告げられた。かつて逃亡罪で軍法会議にかかったときとちがい、新陸軍刑法による処分であった。上官侮辱罪の刑は旧陸軍刑法にくらべて重くなっていた。
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(旧陸軍刑法)
第九十三条 軍人上官を罵言もしくは侮慢する者は二月以上二年以下の軽禁錮に処す。上官の公務を行う時においてする者は一等を加う。
(新陸軍刑法)
第七十三条 上官をその面前において侮辱したる者は三年以下の懲役又は禁錮に処す。文書、図画|若《もしく》は偶像を公示したまたは演説をなしその他公然の方法をもって上官を侮辱したる者は五年以下の懲役又は禁錮に処す。
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軍法会議の審判の席に引きだされて、福田は堤隊長の意図がどこにあったかを思い知らされた。福田は「うちの親父より年上かな」と堤をからかったが、その堤の年の功にしてやられたことを認めねばならなかった。
軍法会議といっても、当時の陸軍治罪法には弁護人に関する規定はない。審問はほとんど形式的なものにすぎなかった。昨日福田が堤にむかってしゃべった内容は、書記である下士の手によってほとんど逐語的ともいえる正確さで書きとられていた。それが証拠として提出された。福田は尋問でその内容を認めさせられただけであった。
即決で判決がくだされた。
「被告人陸軍砲兵二等卒福田狂二を懲役三年に処す。」
それが判決の主文であった。単純な上官侮辱罪としては最高刑である。
福田はただちに陸軍衛戍監獄に収監された。行きと帰りはおなじ道であった。ただ帰りついたとき、入る門がちがっていた。朝でた左側の門を入れば懲治隊である。福田が入ったのは右側の門であった。塀ひとつをへだてて、そこは衛戍監獄である。福田はそこで三年暮した。
懲治隊送りとなった福田がさらに上官侮辱罪のかどで懲役三年の刑に処せられたという情報は、まもなく東京に伝えられた。幸徳らの逮捕以後、思想弾圧の嵐が吹きあれるなかで社会主義者たちが戦々|兢々《きようきよう》の日をすごしているとき、軍隊という組織のなかで福田が示した抵抗はおどろきをもって迎えられた。
幸徳らが処刑されたあとのことであるが、大杉栄は同志に語っている。
「君は懲役に行く決心があるか。斎藤兼次郎はもうろくして語るにたりないし、幸内《こううち》久太郎、野沢重吉はよぼよぼ爺さんだし。堺利彦は、出獄後は因循で、これまでたびたび勧誘したのに茶話会に出る程度でこれまた語るにたりない。しかし、これもまたひとつの道具だから、ないよりはましだ。
ただ見込みがあるのは、福田狂二、菅原|一《はじめ》の二人だ。この二人はやや胆力があり、使いものになる。惜しいことに、その勇気が智謀を欠いていることだ。しかし、現在はいやしくも何か事をなすには、すこしのことで死刑の宣告を受けるのも辞さないくらいの覚悟が必要だ。でなければ何もすることができない。」
菅原一は、四十一年九月の福田の脱営事件のときの潜伏先であった。福田の懲治隊送りの原因となった無断外出事件のとき、福田は半田一郎、菅原敏、川田倉吉を訪問したが、外出していたので会えなかった菅原敏の兄である。菅原一はそのとき青森監獄に入獄していた。
天皇の死による大赦で福田は出獄し、懲治隊にもどった。そこには少佐に進級した堤が、岩に根をはやした古木のように、いまだに懲治隊長として在任していた。
福田が懲治隊復帰の申告に行くと、堤隊長は愛想よく福田を迎えた。堤は福田の復帰申告をきいたあと、口を開いた。福田がはじめて聞く堤の声であった。
「監獄の居心地の方がわが懲治隊よりよいかね。」
堤少佐の能面のような無表情な顔がくずれて、ニヤリとした笑いがうかんだのを見たとき、福田はゾッとした。
「これが権力というものだ。権力のこわさを知らずに、青二才が無政府主義だなどと大きな口をたたくとどんな目にあわされるか、すこしは勉強になっただろう。」
堤少佐の皮肉っぽい笑いが福田にそう伝えていた。
さすがの福田にも、もう抵抗の意思を示す気力が消えうせていた。
福田は現役の残りの服役期間を懲治隊で勤めあげたのち、二等卒のまま除隊した。逃亡期間、入獄期間は現役兵卒の身分ではあるが、現役服役期間に計算されない。また現役中に六年以上の懲役の刑に処せられたものは、兵役から除かれて衛戍監獄ではなく、一般の監獄で刑に服する。
逃亡から第一回の出獄まで六カ月、第二回の入獄が一年八カ月、現役在営期間が三年、福田の入営から除隊までの期間は合計五年二カ月におよんだ。軍人が降等処分を受けたばあいもその下限は一等卒とされているので、福田は現役二等卒であった期間がもっとも長かった陸軍の兵卒として新記録を作った。これ以後もその記録を破ったものがないといわれている。
除隊後の福田は、大正三年五月二十五日、日本労働党を結成し、みずから幹事長となり、結社の届をだしたが結社禁止の処分を受けた。つづいて六月二十三日、今度は日本平民党を名のって結社の届をだしたが、これも結社禁止となった。日本労働党は党則に「法律の許す範囲内において」と明記し、日本平民党は「普通選挙を主張し」とうたっていた。福田は合法運動に転じたのである。
関東大震災のとき、麹町憲兵分隊長の憲兵大尉|甘粕正彦《あまかすまさひこ》が無政府主義者大杉栄・伊藤|野枝《のえ》夫妻とその甥の少年橘宗一(アメリカ国籍保有)を連行し、分隊内で殺害した。麹町憲兵分隊は当時、大手町一丁目一番地のうち江戸城の大手門にむかってすぐ左側、現在は丸の内に編入されて丸の内一丁目一番地となっている場所にあった。ちょうどパレスホテル・日本鋼管本社ビル・AIU東京ビルがある一画である。
おなじ場所に、憲兵司令部と東京憲兵隊と麹町憲兵分隊があった。そのときの憲兵司令官は、小泉六一少将である。福田狂二逃亡事件や歩兵第一連隊兵卒集団脱走事件のときの第一師団参謀であったあの小泉である。小泉憲兵司令官の副官に上砂勝七《かみさごしようしち》憲兵大尉がいた。
甘粕憲兵大尉が大杉を連行した前後、上砂憲兵大尉は福田狂二の逮捕を命じられている。命令をくだしたのがだれか、上砂はその官職氏名を書いていないが、職責上、上砂に命令をくだす権限をもっているのは、上砂が副官として補佐している小泉憲兵司令官のほかにはない。
上砂が福田の住居を襲ったとき、福田は家族をあげて大阪に避難のため出発するところであった。上砂は、福田が東京から立ち去るのであれば震災で動揺している東京の人心に影響をおよぼすことはないと判断し、独断で福田を見のがした。このとき上砂が福田を逮捕していれば、福田も大杉とおなじ運命をたどった可能性がつよい。
逆にいえば大杉殺害は甘粕憲兵大尉の独断ではなく、小泉憲兵司令官の意図がはたらいていた可能性が非常につよいということになる。動機はある。
福田は第一師団参謀時代の小泉に煮え湯を飲ませた兵卒である。
大杉は軍人一族の名門出身で、みずからも名古屋の幼年学校に入学したのち退学させられた異端者であった。少佐で死んだ父親の大杉|東《あずま》は明石元二郎と士官学校の同期であった。母親の姉は陸軍中将山田|保永《やすなが》夫人、その子である従兄の山田良之助は震災当時の第十六師団長(京都)であり、小泉の前任の憲兵司令官であった。日露戦争中の満州軍総司令部の田中義一のもとで作戦参謀、震災当時の第十五師団長(豊橋)、のちの大将田中|国重《くにしげ》は山田良之助の義兄であった。陸軍にとって、大杉栄と福田狂二はもっとも憎むべき主義者≠ナあった。
その二人を震災のどさくさにまぎれて抹殺しようとした計画が、おなじ構内にある憲兵司令部と麹町憲兵分隊とから、まったくべつべつにでてきたとは考えられない。この矛盾を隠すためか、甘粕大尉は大杉一家の殺害事件の軍法会議で、福田殺害計画も自分の発案であったと供述している。
しかし、決定的なことに、福田が自分を見のがしてくれた氏名不詳の「憲兵司令部憲兵大尉殿」あてに大阪からだし、上砂が受けとった感謝のはがきについて、甘粕はその内容の趣旨をまったくまちがえて供述している。伝聞によって供述したなによりの証拠である。福田殺害計画までも自分の個人的計画であったと主張する甘粕の供述は、かえって大杉殺害計画の主犯が甘粕以外の人物であったことを証明しているといえよう。
そのばあい、上砂に福田の連行を命じた人物こそもっとも疑わしいと考えるのは、ごく自然の推理である。出先機関である憲兵分隊長の甘粕が直属の最上級司令部副官の上砂に命令する立場になかったことだけはたしかである。それに、大杉と若いころから仲がよかった山田憲兵司令官――大杉はこの従兄を良ちゃんと呼んでいた――の後任として、震災直前の八月六日に主義者≠憎悪していた小泉が着任したという事実に、私は引っかかるものを感ずる。
小泉は甘粕事件の監督責任を問われて停職処分をうけたが、復職後も順調に出世し、中将に進級後、支那駐屯軍司令官、第十一師団長(善通寺)を歴任し、第三師団長(名古屋)を最後に現役から引退した。
かろうじて軍の報復テロをまぬかれた福田は、その後、大正十四年に反共の立場を明らかにし、日本労農党から日本大衆党へ、さらに右翼に転向し、昭和十年ころ素顕《そけん》と改名して神道の教師となった。戦後は『防共新聞』の発行者となる。
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二十五 市ヶ谷富久町
東京市牛込区市ヶ谷|富久町《とみひさちよう》、そこに東京監獄、のちの市ヶ谷刑務所があった。
幸徳秋水の獄中書簡は、その発信先の住所が市ヶ谷富久町百十三番地となっている。偶然にも私は、昭和十三年春の小学校五年生から中学校一年生までの三年間を、この町、市ヶ谷富久町の旧百十三番地ですごした。そのころは刑務所も移転してそのあとの広大なあき地は、私たち少年のかっこうの遊び場となっていた。
私が卒業した小学校は、富久小学校という新設の市立小学校であった。第一回卒業生が六年生になるまえに、余丁町《よちようまち》小学校から分かれて新校舎に移った。新校舎は昭和六年一月竣工である。私の同級生は第四回新入生で第九回卒業生となる。モダンな鉄筋コンクリート三階建ての校舎で、全館スチーム暖房つき、シャワー・プール・体育館もあり、校舎の両翼に理科・図工・音楽・作法・図書などの特別教室が張りだしていた。
当時、東京市の学校モデル建築として設計されたという。正面にせりだした玄関の広いひさしをささえる奥行の深い前円形の三本の柱とその柱の側面をうがった円形窓、壁面が四半円形の曲面となっている受付、玄関内の両側に一段高くむかいあったアーチ形の柱廊、ラッパ形に横に広がった階段上り口の手すりなど、アール・デコの手法を取りいれた凝った設計であった。
一学年三学級という小規模校であり、各学年が男組、女組、男女共組という編成であったのも、なんらかの実験的な意味がこめられていたのかもしれない。この学校も戦災の洗礼をうけて老朽化した上、都心のドーナツ化現象で在学児童数もへったので、昭和五十九年三月に卒業生を送りだしたあと取りこわされ、改築された。
この学校の同窓会の世話役に、「やぶ音《おと》」というそばやの主人がいる。私よりあとの卒業生であるが、この店は、戦災で焼けた町の再建後の現在も、創業当時とおなじ場所にある。私が引越してきた日の最初の食事が、「やぶ音」の天どんであった。東京という町はこんな御馳走を配達してくれる店があるのかと、おどろいた記憶がある。
「やぶ音」の隣に「観音八百屋《かんのんやおや》」という八百屋があった。「観音八百屋」と「やぶ音」のあいだの道を奥に入った突きあたりに、木立ちにかこまれて等身大青銅製の観音像が立っていた。風雨をへた、あるいは真新しい卒塔婆《そとば》が林立し、香華《こうげ》の絶えたことがなかった。首切り観音≠ニいう。ここが市ヶ谷監獄の死刑場跡である。
首切り観音≠ヘ太平洋戦争中の金属回収で供出され、その跡地は現在マンションになっている。マンションの一角に小祠があり、小さな仏像が安置されている。「観音八百屋」も間口を旧首切り観音の入口にまで広げ、「スーパー観音八百屋」の名で健在である。
監獄への通信は、監獄所在地の番地まで書けばとどくことになっている。発信者の住所も番地までしか書かなくてよい。幸徳の獄中の住所が少年時代の私の住所の旧番地とおなじであったことは、私が住んだ町が明治時代の監獄用地であったことを意味する。私たちの遊び場であった刑務所の跡地は昔よりもだいぶせまくなっていた。
東京の監獄の歴史は複雑である。
江戸時代の牢屋は日本橋|小伝馬町《こでんまちよう》と石川島にあった。日本橋小伝馬町の牢屋がせまくて湿気が多く非衛生的だということで、牛込の市ヶ谷|谷町《たにまち》上の台地にあった大名の板倉氏屋敷跡に監獄を新設して市ヶ谷監獄と名づけ、明治八年に移転した。石川島監獄とともに、内務省が監督し警視総監が管理するいわゆる地方監獄である。地方監獄は懲役・禁獄刑以下の受刑者を収容する施設とされた。
市ヶ谷監獄の門は谷町通りに面していた。監獄開設当時の記録によれば、建物は敷地の西半分に建てられ、東半分は労役用の農園とされた。この東西の敷地部分が、首切り観音のある現在の市ヶ谷台町の一帯である。当時の地図を見ると監獄の南側の塀にそって細長く空地が伸びていた。この部分は市ヶ谷富久町に属する。監獄用地であるが、監獄の塀の外側である。市ヶ谷監獄の面積は約一万七千坪、五・六ヘクタール余である。
未決監である司法省管轄の監倉は、明治三年に鍛冶橋《かじばし》の旧幕府老中の役宅跡に設置され、その改築も明治八年に完成した。翌年、この監倉は内務省が監督する地方監獄となった。のちに東京監獄と名がかわる。現在の東京駅とその周辺がその跡である。
明治十二年、内務省直轄の東京|集治監《しゆうちかん》が南葛飾郡《みなみかつしかぐん》南綾瀬村の旧|小菅《こすげ》御殿に新設された。徒刑・流刑以上の重刑に処せられたものを収容する施設であった。監獄官制の制定で小菅監獄となり、現在は東京拘置所になっている。現在の拘置所の建築は昭和五年の完成で、近代建築史上の傑作とされている。
条約改正による治外法権撤廃にそなえ、石川島監獄にかわる施設として巣鴨監獄が明治二十八年に完成した。巣鴨監獄は、日本銀行、東京砲兵工廠と並んで、明治中期の東京の三大建築と呼ばれた。これらの集治監と地方監獄は、明治三十三年に内務省から司法省の管轄に移された。
明治三十六年に監獄官制が制定された。司法省直轄の集治監も、司法省が監督し警視総監が管理する地方監獄も、ひとしく司法省直轄の監獄となった。東京にある監獄は、未決監の東京監獄と、既決監の小菅・巣鴨・市ヶ谷の三監獄およびその分監である。江戸の牢屋の感覚に香港《ホンコン》やシンガポールの植民地監獄の構造を加味して作られた東京監獄と市ヶ谷監獄は設備が古すぎ、逐次に移転改築する計画が進められた。
市ヶ谷富久町に未決監である東京監獄の施設が新築完成したのは、明治三十七年三月末であった。東京監獄の位置は、市ヶ谷監獄の西寄り南側に隣接した監獄用地である。東西に長かった監獄の西側が南に大きく張りだし、鉤型になった。
小伝馬町にあった死刑場も市ヶ谷監獄とともに移転してきた。有名な毒婦″kエお伝は、明治十二年一月に市ヶ谷監獄で斬刑になった。斬刑が絞首刑に改められたのは、明治十五年一月の旧刑法施行からである。死刑囚は刑の執行まで未決監に収容されており、死刑執行の当日に囚人護送馬車で鍛冶橋から市ヶ谷に送られた。東京監獄の移転先に市ヶ谷富久町の監獄用地が選ばれたのは、死刑場と地つづきであることによるのかもしれない。
市ヶ谷監獄の新築移転先は豊多摩郡中野町にきまり、明治四十三年四月に着工した。大正四年三月末「市ヶ谷監獄新築竣工す」、大正八年一月末「市ヶ谷監獄を豊多摩監獄と改称す」と記録されている。市ヶ谷監獄と東京監獄が市ヶ谷で隣接していたのは、明治三十七年三月末から大正四年三月末までの十一年間であった。
豊多摩監獄は、日本の近代建築が生んだ芸術的にもすぐれた作品として、代表的な建築のひとつであった。明治中期の巣鴨監獄といい、大正初期の豊多摩監獄、昭和初期の小菅刑務所といい、いずれもその時代を代表する建築物として名をとどめている。極度の経済的合理性、管理の合理化と技術の簡略化という制約のなかで、最良の居住性を実現しようという建築家の努力が生んだ成果であろう。同時に、各時期のすぐれた建築物の代表にかならず監獄・刑務所があげられることに、日本の近代建築史の悲劇性が表現されている。
大正十一年に監獄は刑務所と改称された。東京監獄は市ヶ谷刑務所東京拘置所と名を改めた。昭和十年五月に新しく府中刑務所が完成し、巣鴨刑務所が府中に移転した。昭和十二年五月に市ヶ谷刑務所が廃止され、市ヶ谷刑務所東京拘置所はただの東京拘置所と名がかわり、規模を縮小した巣鴨刑務所跡に移転した。その後、東京拘置所はさらに巣鴨から小菅に移った。巣鴨の拘置所跡は敗戦後の占領軍の巣鴨プリズンとなって戦争犯罪人の収容所となった。現在の池袋サンシャインシティ周辺である。
市ヶ谷監獄が移転して豊多摩監獄のちの中野刑務所になったあと、市ヶ谷には未決監である東京監獄だけが残った。旧市ヶ谷監獄の跡地は東京土地株式会社に払い下げられ、宅地に造成されて分譲され、市街地化した。東京土地は、死刑場跡に高村|光雲《こううん》作の観音像を建て、青峰《あおみね》観音≠ニ名づけ、そのまえに幹線道路を作り新市街の中心となる商店街とした。俗称首切り観音≠ナある。新市街の草分けとして首切り観音≠フ入口に四谷から移転してきたのが「やぶ音」であった。新市街は大正十一年に市ヶ谷谷町から分離して市ヶ谷台町となった。
東京監獄が拘置所となり、その拘置所も昭和十二年に巣鴨に移転したのちに、私は市街地化した旧市ヶ谷監獄跡に引越してきた。拘置所の跡地が私たちの遊び場となったわけである。その跡地はいま、都立小石川工業高校や法務省・裁判所関係の公務員住宅となっている。
私が住んでいた町は、市ヶ谷台町とともに、市ヶ谷監獄の移転後、大正時代になってから新しく住宅地、商店街として開発され分譲された町である。市ヶ谷台町の整然とした計画道路がそのことを示している。
小学校が新設校であった理由がやっとわかった。
小学校の敷地は、学校のまえにある自証院《じしよういん》の墓地跡である。自証院はこぶ寺≠フ通称で知られた寺で江戸時代には現在の数倍の面積にたっする広大な境内地を持っていた。この寺の森を愛した小泉|八雲《やくも》の葬儀が明治三十七年にここでおこなわれた。こぶ寺≠フ名の由来と関係があるのかないのか、そこは監獄の敷地がある大久保台地の先端で、後背の台地からいちだん高く飛びだしたこぶ£nであり、東北と西北を監獄の敷地、東南と西南を谷にかこまれていた。
市ヶ谷監獄跡の新しく開発された市街地のほとんど大部分が市ヶ谷台町であるのに、台町に接してうなぎの寝床≠フように細長く、なぜ東京監獄とおなじ番地の市ヶ谷富久町百十三番地――のちに分割して西半分が百十四番地となった――という宅地ができたのだろうか。市ヶ谷台町は、旧板倉邸跡地の部分である。明治のはじめに監獄用地を設定したとき、いちだんと高い自証院の当時の境内地と旧板倉邸とにはさまれたうなぎの寝床≠のちに東京監獄の敷地となる土地とともに官有地に取りこんで市ヶ谷監獄の外郭地とし、一括して富久町百十三番地の地番をつけたのであろう。台町を払い下げるとき、すでに宅地化していた自証院の旧境内地に隣接し、使いみちがなくなった外郭地もいっしょに払い下げたものと思われる。
大久保台地の先端のこぶ≠フ西のはしに建つ小学校の三階の教室から見た景色はなんとも忘れがたい。新宿御苑の森を一望のもとにおさめ、そのかなたに富士山が聳えていた。新宿のデパート伊勢丹の建物だけが町並みを圧するかのように屹立していた。それは東京という広大な海のいらかの波にうかぶ巨大な戦艦を思わせた。
幸徳秋水、森近《もりちか》運平、宮下太吉、新村《にいむら》忠雄、古河力作、奥宮|健之《けんし》、大石誠之助、成石《なるいし》平四郎、松尾|卯一太《ういつた》、新美《にいみ》卯一郎、内山|愚童《ぐどう》の十一人の無政府主義者・社会主義者が、東京監獄の死刑台の露と消えたのが明治四十四年一月二十四日、管野すががおなじくその翌日であった。世にいう大逆事件である。
幸徳らが処刑された場所は東京監獄内である。市ヶ谷監獄ではない。明治四十三年秋、首切り観音≠フ場所にあった絞首台が東京監獄の東北の隅に移された。司法部が幸徳らを大逆罪で起訴することに決定したあとである。新しく移動した絞首台で最初に処刑されたのが幸徳ら十二人であった。幸徳ら多数の死刑囚にたいする迅速で秘密裡の死刑執行を予定して、あらかじめ絞首台を移動しておいたと考えた方が適切かもしれない。
新しく移動した死刑場の位置は、旧死刑場であった首切り観音$ユから西北西に二百五十メートル、最近の町名変更に抵抗していまなお市ヶ谷富久町を名のりつづけているせまい一角にある、余丁町公園と地つづきの富久町公園である。昭和三十九年に日本弁護士連合会によって「東京監獄 市ヶ谷刑務所 刑死者慰霊塔」と題した石碑が建てられた。
幸徳の逮捕といれかわりに出獄した堺は四十三年十二月に東京監獄の幸徳に面会し、そのときに幸徳の依頼を受けて、同志に形見分《かたみわ》けをおこなった。
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大杉栄   バクーニンの大額面一面、剃刀《かみそり》一挺
半田一郎  紙表装の掛物一軸
斎藤兼次郎 硯一個
吉川守邦  外套一枚
石川三四郎 冬洋服一着
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幸徳はすでに死刑の判決を覚悟していた。ここに吉川の名がある。十二月十七日付で幸徳は吉川に手紙を書いている。そのなかに、「初めて君の差入れを受けた時は嬉しかったよ。食物の味よりも君の姓名を書いた紙札を見ると君に会ったようで甚だ愉快を感じた」とある。吉川が出獄してすぐ千駄ヶ谷に幸徳を詰問しに押しかけたときの、二人のあいだの感情的なわだかまりはとけた。
幸徳の死出の旅への心をやすらかにしたひとつに、片山潜からの来信があった。獄中で母親の病死をむかえた幸徳にたいする見舞という形式であったが、四十年十一月の絶交以来の交情の回復であった。来信の時期から考えると、むしろ幸徳にたいする死刑の判決直後に書いたものと思われる。
片山にたいする幸徳の「御暇乞《おいとまごい》」の返信は、おそらく幸徳の生前最後から二番目の手紙となった。処刑の前日に書いたものであり、消印は処刑当日の日付である。片山と幸徳のこの最後の書簡の往復に、片山のきまじめで融通のきかない候文《そうろうぶん》体の固い文章にたいして、くだけた文体で応じた幸徳の優越感といたわりの感情を読みとることができる。
大逆事件の裁判と判決・処刑をめぐって、ひとり西川の名を見ることができない。東京市内電車値上げ反対騒擾事件で入獄した西川が出獄したのは、幸徳らの検挙が拡大中の四十三年七月十七日であった。出獄の翌日から、西川は「社会主義者の詫び証文」といわれた『心懐録』の執筆にとりかかった。社会主義運動の一方の指導者であった西川は、社会主義の「冬の時代」をまえに吹きすさぶ凩《こがらし》におびえ、社会主義を捨てた。
赤旗事件で入獄したためにかえって幸徳事件からまぬかれた堺は、同志の生活をたてるために売文社を起こし、当面の「冬の時代」をしのごうとしていた。吹き荒れる凩に首をすくめたかたちである。
片山は社会主義運動の分裂問題に心を痛め、健康を害してしまった。田添鉄二が病死し、木下尚江らが運動からはなれていくと、片山の心労はますます大きくなり、神経衰弱が高じた。片山のキリスト教信仰は動揺し、マルクス主義にたいする理解が深まった。
山川は郷里の倉敷に帰り、薬種商である義兄の店の岡山支店長になった。荒畑は守田らのつてで『東京二六新聞』の記者になった。
幸徳が獄中で原稿を書きあげた『基督《キリスト》抹殺論』は、刑死後の四十四年二月に刊行された。その出版利益金の一部を費用として、各派合同茶話会が二月二十一日に牛込|神楽坂倶楽部《かぐらざかくらぶ》で開かれた。参会者は、堺利彦夫妻、大杉栄夫妻、川田倉吉、半田一郎、斎藤兼次郎、吉川守邦、片山潜、池田兵右衛門、藤田貞二、石川三四郎、藤田四郎、松崎源吉、原子基《はらこもとき》、加藤重太郎、唖蝉坊《あぜんぼう》こと添田平吉、野沢重吉、熊谷千代三郎、木下尚江、相馬宏治ほか五名であった。
合同茶話会は、三月二十四日に第二回、四月二十六日に第三回を開いた。第二回には、幸徳の前夫人|師岡《もろおか》千代、幸徳とともに刑死した古河力作の父慎一、管野の前夫としてその遺骸を引きとった荒畑寒村も出席している。片山は第二回、第三回ともに欠席である。会は懇親と雑談の会でしかなかった。会が過去の運動の同窓会のようになってしまったのをきらったのか。
事実、なお社会主義運動の前進のために孤軍奮闘していたのが片山であった。片山の武器は、経済的にも人材の面でも困難な状況に追いこまれながら、なお月刊で発行しつづけている『社会新聞』であった。
その『社会新聞』も、幸徳の遺著『基督抹殺論』の発行を紹介した記事が安寧秩序に反するとされ、新聞紙法違反に問われ、ついに四十四年八月三日号を最終号として五年余の生命をおえた。問題の記事は短いものであった。
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基督抹殺論
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是れ幸徳秋水の遺稿なり。秋水は政事的無政府主義を主張して迫害圧制|終《ついに》は死刑に処せられた。不思議にも彼を死刑に処した政府は世界五億万人の信奉する道徳及宗教のオーソリチー基督を抹殺する彼の主張を発行せしめた。
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[#地付き]定価七十銭 丙午《へいご》出版社の発行なり
この短い文章のなかに、かつての盟友幸徳の処刑にたいする片山の無限の怒りと抗議の意思がこめられている。片山は幸徳らの大逆事件の陰謀なるものの存在を認めていない。片山の目からみれば、幸徳らの処刑はあくまで無政府主義という政治思想にたいする政府の弾圧以外のものでなかった。
政府は、世界でわずか四千万人の人間が信奉しているにすぎない天皇の存在を否定する思想に死刑を科し、世界の五億人の人間が信奉するキリストを否定する言論にたいしては、それが大逆事件の首謀者幸徳の著書であっても、出版を許可した。片山は政府のこの矛盾を痛烈に批判している。
幸徳は、キリストを否定することによって、じつは天皇を否定していた。その点をとりあげ、片山は政府の矛盾をついた。ということは、キリスト教徒であった片山自身の心がキリスト教からはなれつつあったと同時に、天皇の権威をも否定する方向に進みはじめたことを意味していた。
天皇を統治権者とする帝国憲法の枠内での合法的な運動を主張していた片山を、君主制否定の方向にむけさせたのは、皮肉にも政府による大逆事件裁判、幸徳らの死刑であった。
明治の最後の年が明けた。この年が自分の人生にとっても最後の年となった石川|啄木《たくぼく》は、この年の最初の日にひとつの時代の終わりを敏感に感じとった。啄木にそのことを感じとらせたのは、市電が止まり、死のような静寂のうちにおとずれた元旦の朝の異様な雰囲気であった。
前年の大晦日の日から東京市電の労働者はストライキに入った。明治四十五年の元旦の朝、東京から、市電の走る音が消えていた。ストライキは一月二日までつづく。
朝早くから走る市電の音は、大都市東京の生命が脈打つ音であった。この年の七月、天皇が危篤におちいったとき、皇居に市電の走る音が聞えないようにと、日比谷の交差点のレールに毛布を敷いたくらいである。市電の音は都市の音であり、その音が消えたことは死を予感させた。
ただ、みずから死の病床にある詩人の敏感な魂が、この予感を的確に捕えることを可能にした。死の予感、それはひとつの時代の死の予感であり、時代を象徴する大きな人格の死の予感であった。それを予感した詩人もまた死をむかえねばならなかった。四月十三日、啄木は小石川区|久堅《ひさかた》町の自宅で世を去った。
七月三十日、時代を象徴した最大の人格であった明治天皇が永遠の眠りについた。九月十三日、明治天皇大葬の日、時代を象徴したもうひとつの人格、乃木|希典《まれすけ》夫妻が天皇に殉死した。
この明治四十五年を劇的な開幕で迎えさせた東京市電のストライキの背後に、片山ら社会主義者の地道な活動があった。
東京市電は、前年の八月に民営から市営になった。市電の労働者のあいだに、この市営移行にあたって年末に支給された会社解散慰労金の配分をめぐり、不満が渦まいていた。かねてから民営の東京鉄道の経営を批判し、市営への移行を主張しつづけてきた片山は、東京鉄道解散にあたって会社の従業員にたいする処遇が不明朗不公平であることを、問題にした。
片山はさいわいなことに、自由主義的な経済雑誌『東洋経済新報』に執筆の便宜をあたえられていた。片山は言論をもって、問題を明らかにしていった。しかし、「冬の時代」にめげることなく最後まで執拗に活動をつづける片山にたいして、官憲は弾圧の機会をねらっていた。
東京市電のストライキは、従業員に有利な内容で解決した。「冬の時代」の重苦しい雲がたれこめた社会に一条の陽光がさしこんだ。それが官憲には許せなかった。
ストライキが解決すると、官憲の介入がはじまった。片山は『東洋経済新報』に、自分の見解を公表した。
片山の見解は、自分は経済的にマイナスであるストライキにかならずしも賛成ではないが、二十世紀の労働者を奴隷のように遇し、その主張のすべてを警察力で抑圧することは、けっして策をえたものとはいえない、という穏健な内容のものであった。片山のこの一文がストライキ煽動の文書であるとされた。
片山は検挙された。しかし、問題とされた文書は片山検挙の口実でしかなかった。官憲は、これまで逮捕の口実が見つからなかった片山の過去の運動と言論のすべてを問題とするために検挙したのだ。警察の片山にたいする取調べは、東京市電のストライキとの関係よりも、片山の過去全体に重点をおいておこなわれた。問題にされたのは、片山がなにをしたかではなく、片山の思想がどうであるかであった。
片山は、おもてむきの罪は治安警察法第十七条違反、つまりストライキを煽動した罪で重禁錮五カ月の判決を受け、四十五年五月七日、巣鴨監獄に入った。二週間のち、片山はさらに千葉監獄に移された。
雑居の大部屋中心の牢屋の延長である明治八年建築の市ヶ谷監獄はもちろん、巣鴨監獄でさえ、雑居房が多く、独房が少なかった。明治四十年四月完成の千葉監獄は、多くの独房をそなえていた。社会主義者を雑居房に収容することは、監獄のなかに社会主義思想を広めるようなものである。有罪が確定した社会主義者たちは千葉監獄の独房に送られた。
千葉監獄へ移送の日はひどい雨だった。ぬかるみの道を、手をしばられたまま歩かされた片山は、はげしいショックと怒りをおぼえた。国家権力というものの具体的な姿がそこにあった。片山は、社会主義者として入獄した幸徳が無政府主義者として出獄した気持ちをはじめて理解できた。しかし、片山はあくまで信ずること厚い社会主義者であった。
千葉監獄は、ついこのあいだ三月一日、巌穴《がんけつ》・赤羽一がハンガーストライキのすえ悲惨な死をとげた場所であった。
西川派が『社会新聞』から分裂して『東京社会新聞』を創刊したとき、赤羽は西川と行動をともにし片山とたもとを分かった。そのとき、赤羽は口をきわめて片山の人格を非難した。しかし、もとをいえば明治三十七年、片山とともにアメリカでサンフランシスコ日本人社会主義協会を結成し、手をたずさえて社会主義運動に入った古い同志であった。
片山が千葉監獄に入ったとき、そこには幸徳事件の直接間接の関係者多数が収監されていた。直接関係者では、無期懲役に減刑された峯尾節堂《みねおせつどう》、佐々木|道元《どうげん》、懲役十一年の新田|融《とおる》、懲役八年の新村善兵衛がいた。
死刑となった内山愚童の秘密出版物を配布あるいは郵送したのが不敬罪に問われ、懲役五年の刑に処せられた田中佐市、金子新太郎、田中|泰《やすし》、相坂|佶《ただし》らがいた。幸徳判決に先だってあらかじめ死刑判決を新聞で批判して新聞紙法違反に問われ、家宅捜査のさいに不敬の文章を記載した日記を発見されて懲役五年禁錮四月に処せられた橋浦時雄もいた。それらの人々のほとんどと、片山は面識がない。
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此処《ここ》で我等の同胞が一年或は三年、五年の艱難を嘗《な》め、或は赤羽君の如きは此処で最後を遂げたかと思うと実に一種云うべからざる無限の感慨に打たれた。
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のちに片山は『自伝』にそう書いている。
幸徳が刑死し、赤羽が悲憤の獄死をとげた道をいま合法社会主義者である片山もたどらされようとしていた。幸徳も赤羽も、最初の入獄は短かった。しかし、権力は一度捕えた社会主義者を、西川のようにその思想を捨て去るか、幸徳や赤羽のように死に追いやるか、そのどちらかを選ぶまで放さない。
無政府主義であれ、社会主義であれ、非合法主義であれ合法主義であれ、広い意味での社会主義という思想が日本で根絶するまで弾圧しつづけるという権力の意志が、片山の胸にひしひしと迫った。検事は論告で、片山を「羊の皮を被《かぶ》った虎」ときめつけた。たとえほんものの羊であっても、虎に仕立てあげるのがかれらのやり口であった。
天皇の死を片山は千葉監獄のなかで聞いた。大赦がおこなわれた。片山は刑期満了の九日まえに出獄した。
片山にたいする警察の監視の目はきびしくなった。政府当局にとって、いまやひとにぎりの無政府主義者もさることながら、「羊の皮を被った虎」つまり合法的な言論活動をつうじて大衆的な闘争を組織し、社会の秩序をみだす活動の方がこわかった。東京市電のストライキがそのこわさを政府に思い知らせた。
警察の監視は片山の生活を経済的に圧迫した。植松|孝昭《ひろあき》が東洋経済新報社に片山を迎え、雑誌『東洋時論』を発刊したので、衣食の道はあった。植松はかつて片山の『労働世界』の編集を助けたことがあり、いまや東洋経済新報社をささえるジャーナリストであった。
しかし、植松が病死し、『東洋時論』が廃刊になると片山の月給は減らされ、生活は苦しくなった。幸徳にとっての小泉や細野が、片山にとっての東洋経済新報社の植松であった。片山は幸徳とおなじ自滅に追いつめられるほかなかった。
大正三年九月、片山はついに決心してアメリカに渡った。日本からの亡命である。四度目の渡米であるが、二度と日本に帰ることのない渡米であった。ときに片山は五十四歳であった。
片山の渡米に、荒畑寒村は割り切れない気持ちを持った。なんといっても、片山は日本の社会主義運動の最長老である。その片山が日本を去ることは、日本の社会主義運動を見かぎることではないか。片山がいなくなったあとの日本の社会主義運動は、支柱を失った苗木のようなものではないか。荒畑は、ここまで片山を追いつめた日本の情勢と社会主義の将来を思って涙を流した。
だが、ここまで片山を追いつめたのは、権力だけではなかった。分裂に分裂をかさね、運動の問題をあくまで理論問題、路線問題として解決しようと努力した片山にたいして、感情の問題や人脈問題を対置して片山を孤立させた、若い同志たちにも多分の責任があった。血気にはやる若い同志たちは、片山の地味で着実な路線より、幸徳や西川の派手な議論をこのみ、組織の輪を広げることより性急な直接行動主義にひかれて、片山からはなれた。荒畑もその一人だった。
もちろん、片山が日本を去ることを嘆く荒畑は、かつて片山をさげすんだ血気の荒畑ではなかった。赤旗事件の入獄体験、入獄中の管野すがの裏切り、管野を奪った幸徳を殺そうとまで思いつめた苦しみ、その管野が処刑されたあと、やはり自分の手で葬ってやりたいと考えるまでにいたった人間としての成長、荒畑もそれだけの人生を歩いていた。しかし、取り返しはつかなかった。
片山を必要とした苗木の時代に荒畑たちは片山をかえりみなかった。もう荒畑も若木である。嵐に堪えて生きていかねばならない。
一九一七年のロシア社会主義革命は、片山の思想に大きな影響をあたえた。片山はアムステルダムで、また渡米後のニューヨークで、ロシア革命の指導者の多くと知りあっていた。片山は、合法社会主義から共産主義へと、急旋回していった。
一九二二年一月に開かれた極東勤労者大会に出席するために、片山はモスクワに渡った。この会議ののち、そのままモスクワに残り、片山はコミンテルンの執行委員として、国際共産主義運動の最高指導者のひとりとなる。
一九三三年、昭和八年十一月五日、片山は敗血症のため、クレムリン病院で死んだ。まもなく、満七十四歳の誕生日を迎えようとしていた。モスクワはすでに冬であった。片山の葬儀は盛大におこなわれ、その遺骨は、この老革命家の名誉をたたえてクレムリンの壁のなかに葬られた。
大正七年夏、全国を米騒動という民衆暴動の津波が洗った。米騒動に発揮された民衆のエネルギーは、ときの総理大臣、元帥寺内正毅の政治的生命に終止符を打ち、陸軍大臣田中義一を出現させる。だが、そこにいたるまでの陸軍部内の道程は長い。
民衆のエネルギーは「冬の時代」以来の暗雲を吹きとばし、民衆の組織の時代に幕を開いた。この時代の波が、大正十一年七月に非合法の日本共産党を誕生させた。四月に結成された日本共産党準備委員会のメンバーのなかに、堺利彦、荒畑寒村、山川均の名を見ることができる。主要な党員のなかに、吉川|守圀《もりくに》(邦)の名もみられる。
この第一次共産党は少数のインテリを中心とした、政党というよりサークルに近い組織であった。綱領草案が作られたが、まだ決定をみないうちに、十二年六月、最初の弾圧を受けた。
長い「冬の時代」のあと、かつての社会主義者たちは、観念的には共産主義者であっても、大衆的な実践運動から遠ざかって久しかった。共産党を名乗ったものの、かならずしも思想的統一はとれていなかった。
十一年八月、山川が雑誌『前衛』に「無産階級の方向転換」という論文を発表し、運動の大衆化を提唱した。労働運動のなかに入り、組織を拡大し、秘密結社的な性格を乗り越えて、党と大衆を結びつけようという方針の提案である。山川の提唱は、結成されたばかりの共産党の活動指針として大きな役割をはたしたが、サークル的組織から政党組織への段階を飛び越えて、論理をいっきょに大衆運動へと飛躍させた弱点は大きかった。
生まれたばかりのこの革命党は、最初の弾圧につづく、関東大震災の戒厳令下での軍隊による白色テロルに戦慄した。大杉が殺されただけでなく、亀戸《かめいど》警察署で党員川合|義虎《よしとら》ら労働運動の活動家たちが軍隊の銃剣に斃《たお》れた。
大震災後、党内に共産党結成が日本の条件に合わず、時機尚早であったとして、解党を主張するものがでてきた。山川はその代表的なひとりであった。政党活動を大衆運動のなかに解消してしまおうというのであり、党組織無用論であった。政党組織の論理を飛び越えた山川の「方向転換」論の必然の結論であった。荒畑は解党に反対した。第一次共産党は、十三年春、解党した。
十五年十二月に再建された共産党には、もはや山川はもちろん、堺も荒畑もその名をみせていない。関東大震災をさかいに、日本の革命運動の担い手は世代の交替をしめした。山川や堺は合法無産政党の組織こそ必要であるとし、共産党とたもとを分かった。
荒畑は共産党再建のとき入獄中であった。出獄したとき、再建共産党の内部は山川イズムの反動で、極端なセクト主義の福本イズム全盛の時代であった。荒畑自身の言によれば、福本イズムを分裂主義であると考えて共産党に復帰しなかったという。
堺、山川、荒畑らは、その後、合法無産政党運動中の人となる。堺は、奇しくも片山とおなじ年に、片山に先だち、脳出血に倒れて世を去った。
山川は合法無産政党の左派の立場をとりつづけ、昭和十二年十二月に人民戦線事件で検挙され、一年半を巣鴨拘置所で送った。戦後は民主人民戦線の結成を説き、中国の延安から帰国した共産党の野坂参三歓迎国民大会の委員長となった。野坂は、亡命十六年、戦争中は中国にあって日本の中国侵略反対の活動をくり広げ、その帰国は国民的歓迎を受けた。このころ山川はすでに癌におかされていたが、社会党左派の立場にたって活動をつづけ、昭和三十三年に世を去った。
荒畑も、ほぼ山川とおなじ道を歩いた。戦後、社会党から二度衆議院議員に当選し、社会党が与党であった芦田|均《ひとし》内閣の予算案に党内からただひとり反対投票をし、明治社会主義者の気骨を示した。政治の第一線から退いたのち、ただひとりの明治社会主義運動の生き証人として著述活動をつづけた。昭和五十六年、九十三歳の天寿をまっとうした。
吉川は、昭和十一年に社会大衆党から東京府会議員に当選したが、翌年人民戦線事件で山川、荒畑らとともに検挙され、仮出獄後まもなく病死した。
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二十六 永田町一丁目
永田町一丁目といえば、現在では国会の所在地を意味する。三宅坂に面した陸軍省と参謀本部の裏、いまでは国会議事堂構内の参議院側の庭に取りこまれている場所に、陸軍大臣官邸があった。明治三十五年三月から四十四年八月まで、実に九年余に渡って、この官邸の主はかわらなかった。陸軍大臣寺内正毅である。その間、次官もかわっていない。石本新六である。
寺内が大臣に就任したとき、年齢は満四十九歳、中将に進級してから三年余の若さであった。その人物が満五十九歳をすぎ、大将に進級してから五年になろうというのに、いまだに大臣官邸の主であった。
石本が次官――就任のときの次官職は総務長官という名称であった――に就任したのは、満四十八歳、階級は少将であった。総務長官の職名が次官にかわったのは三十六年十二月である。次官は、行政官職つまり文官職であり、文官の官等では高等官一等である。高等官一等は武官の階級では中将である。少将は高等官二等である。石本は軍人としては高等官二等の少将でありながら、次官として高等官一等に任用された。日露戦争まえの陸軍行政部の中枢はそれほど若かった。
その石本も中将になってから七年もたとうというのに、満五十八歳をすぎていまだに次官の椅子をしめていた。次官として老朽の域にあるだけでなく、大臣になるにしても年をとりすぎていた。現在とちがって、官僚が大臣となっていた時代のことである。
寺内の陸軍大臣就任にともなって宇佐川一正《うさがわかずまさ》が軍務局長になったが、そのとき宇佐川は少将に進級して一年後であった。その宇佐川も三十九年七月に中将に進級したが、少将の職である軍務局長の座にいつづけた。歴戦の中将が多くでてきた日露戦争後のことであるから、戦歴のない宇佐川は師団長になるわけにもいかなかった。朝鮮を経済的に支配することを目的とした国策会社東洋拓殖が設立され、その初代総裁に就任してやっと転出することができた。
宇佐川の東洋拓殖総裁就任は四十一年十二月であった。副総裁は四十一年七月まで内務次官であった吉原三郎である。このとき、桂首相は、吉原にたいし、軍務局長どまりの総裁のもとに次官の吉原が副総裁では気の毒と、吉原をなぐさめた。しかし、官僚としての経歴からいえば、宇佐川も吉原もおなじ年に高等官二等の局長になり、宇佐川が高等官一等の中将になったのも吉原が高等官一等の次官になったのもおなじ年であった。文官の官等が職階に附随していたのにたいし、軍人の官等は階級に附随して職階とは無関係であるという矛盾のあらわれである。要するに宇佐川の局長在任が長すぎたのである。
陸軍行政部の中枢である大臣、次官、軍務局長の人事の停滞は、陸軍部内の行政を沈滞させた。人事の停滞ほど部内の士気を沈滞させるものはない。寺内の大臣引退を求める空気が中堅エリート将校たちのあいだに広がった。
第二次桂内閣は、いわゆる大逆事件の大弾圧を強行したものの、この事件によって内閣自身も深い傷を受けた。事件の政治的重大性を強調すればするほど、ことがらの性格上、内閣の政治的責任問題にはね返ってきた。桂内閣の退陣は時間の問題となり、同時にこの内閣をささえている最大の支柱であった寺内陸軍大臣の進退も具体的な話題となりはじめた。次官の石本はすでに老朽の人物であり、しかもこのところ病気がちであった。
寺内大臣以後の陸軍大臣官邸の主をめぐって、いろいろの派閥のさまざまな思惑が入りみだれ、派閥間の複雑な関係を生みだした。長州閥の長老たちにとっては、後継者の田中義一までの中継ぎをどうするかの問題であった。しかし、長州閥の中堅である当の田中の立場からみれば、寺内と自分とのあいだにあまりに多くの人間がとどこおりすぎていた。自分に順番が早くまわってくるために、田中は思いきった人事の若返りをつよく望んでいた。
長州閥直系で宇佐川の後任の軍務局長となり、中将に進級して第十三師団長にでている長岡は大臣の器ではなかった。年齢の点から有力な候補者は薩摩閥の後継者上原勇作中将しかいなかった。若返りといってもいずれも四十四年七月現在の年齢が、長岡は満五十三歳、上原は満五十四歳である。長岡の後任である現任軍務局長の岡市之助は、京都出身の長州生まれ、満五十一歳の少将である。宇都宮太郎は満四十七歳、田中義一は満四十八歳であった。
宇都宮のねらいも上原陸軍大臣の実現にあった。さしあたって長州閥に有力な陸軍大臣の後継者がないとすれば、第二派閥の薩摩閥と反長州閥連合を作ることができる。反長州閥の旗をかかげる宇都宮にとって、上原擁立は佐賀閥の勢力拡張の好機と考えられた。宇都宮は寺内の引退近しとみるや、上原陸相実現をめざして活動をはじめた。そのころ上原は北海道の第七師団長である。
田中と宇都宮は当面の利害が一致した。上原陸相実現をめざす田中・宇都宮連合が成立した。田中と宇都宮は小泉策太郎が主宰する二八会の陸軍側メンバーであった。毎月二十八日に赤坂の三河屋で顔をあわせ食事をともにしていた。しかし、二人は陸軍部外にたいする陸軍の将来をになう顔として二八会にまねかれたのであり、二人が選ばれたのは陸軍部内のホープであり競争相手であると目されたからである。
上原を頂点にすえた田中・宇都宮連合の話を持ちだしたのは田中であった。四十四年四月、田中は上原の代理人である薩摩出身の町田|経宇《けいう》歩兵大佐と宇都宮を私宅の晩餐に招いた。豊橋の第十五師団参謀長である町田が参謀長会議で上京した機会を利用しての招待であった。
町田は田中におくれること二年半でロシアに派遣され、ロシア駐在が田中と一年半かさなった関係にあった。日露国交断絶によって帰国し、野津《のづ》第四軍司令官、上原参謀長のもとで情報主任参謀、ついで作戦主任参謀を勤めた。以後、ずっと薩摩閥つまり上原の参謀役という役どころにある。参謀長会議で上京した機会に、上原陸相実現をめざして派閥の同志のあいだを奔走していた。田中の招待は町田にとってよい機会であった。
この招待に宇都宮は出席できなかった。参謀本部総務部長兼第四部長の大島健一少将と先約があったからである。大島は岐阜県出身ながら、少佐、中佐時代をつうじて本務はかわっても一貫して山県元帥の副官を兼務し、現になお元帥府御用掛を兼任していた。次期参謀次長の候補者であり、宇都宮の貴重な情報源であった。それに、長・薩・佐賀の中堅三人の会合を大島つまり山県に知られることはまずかった。
町田の在京の日程の関係から日を延ばすわけにいかなかったので、とりあえず田中と町田の会談が実現した。
田中は町田に自分の意見をのべた。
「目下要路に立っている老朽無能者を一掃することが先決だ。有力な将軍に枢機をにぎらせ、ひろく少壮俊秀の士を網羅していまの陸軍を活躍させなきゃだめだ。その重任にあたることができるのは、上原中将しかいない。」
「ということは、上原大臣をいただいて、老朽を淘汰して人事を刷新し、派閥にとらわれない人材抜擢をする必要があるということですか。」
「いつまでも長州だ薩摩だと言っていられる時代じゃあるまい。思いきった人事の刷新を断行できる大臣は、残念ながら長州出身の将軍には期待できん。やはり、ここは上原中将の出馬を必要とする。」
町田は田中のこの言葉をたんなる薩・長の派閥連合の提案とはみず、むしろ長州閥中心の長老たちにたいする、派閥を越えた中堅エリート軍事官僚の結集の提案と受けとめた。それは薩摩閥の上原ではなく、新しい官僚閥としての上原閥結成の提案を意味する。
「宇都宮少将は同意するかな。」
田中がつぶやいた。
「宇都宮閣下の肚をたたいてみましょう。」
町田は、田中と宇都宮の連絡役を買ってでた。
町田が宇都宮をたずねてその意見を聞き、田中から聞いた話を紹介し、自分の見解をのべたのは、それからまもなくのことであった。宇都宮は慎重であった。田中の提案は結果として、宇都宮が上原・田中連合すなわち薩・長連合の成立に手を貸すだけになる恐れがたぶんにあった。
宇都宮は、先日の田中の招待に応ずることができなかった失礼を償うという形式で、田中を招待した。田中の同席者に選んだのはなんと海軍次官の財部彪《たからべたけし》海軍少将であった。財部は上原とおなじ宮崎県|都城《みやこのじよう》の出身である。宮崎県であるが旧薩摩藩領に属していた。
その境遇にも共通点がある。上原は薩摩閥の長老であった野津|道貫《みちつら》元帥の女婿である。財部は薩の海軍≠フ実力者山本権兵衛大将の女婿である。上原も財部もともに野津と山本に見込まれただけあって、将来の陸軍大臣、海軍大臣の声が高かった。
私は、東京に引越すまえ、昭和十二年の冬を四カ月ほど都城ですごした。小学校四年生のころである。わずか四カ月であったが、排他的な旧薩摩藩領の小学校によそ者として転入した学校生活の日々は屈辱的な記憶として残っている。鹿児島のような県庁所在の都市とちがって、よそ者がほとんどいない山間の盆地の小都市である。薩摩弁がまったく理解できないのに、教師までが授業に薩摩弁を使う。
この小都市の自慢のたねが陸軍の上原と海軍の財部であった。日中戦争の初期、中国の首都|南京《ナンキン》攻略の旗行列を、私は都城で経験した。そういう時代であったから、郷土の歴史的偉人¥繻エと財部の人気はひときわ高かった。私は、この二人の名を聞くたびに、都城の小学校のあの暴力的な排他性を思いだす。
余談であるが、敗戦後の食糧難に苦しんでいたころ、都城に住んでいた小学校時代とは別の友人が、おそらくは密殺であろうが牛肉のかたまりを何キロかみやげにさげて、当時熊本に住んでいたわが家を何度かたずねてきた。排他性のつよさの裏にひそむこまやかな人情味を発見して、私の都城にたいする感情のわだかまりも消えた。
海軍の財部は上原に近く、しかも当面の利害関係がない。財部を田中との顔合わせの立会い人に選んだことに、謀略の世界に生きてきた情報将校宇都宮の面目が躍如としている。上原の疑惑を招くことなく、しかも上原の思惑に気兼ねせずにすむ立会い人であった。
部内トップの動きに関する情報は、宇都宮から上原へと伝えられている。その情報のなかに田中がもたらしたものもふくまれていたと推測される。
田中と宇都宮が二人だけで密談する機会を持ったのは、四十四年八月八日であった。場所は宇都宮の執務室つまり参謀本部の第二部長室であった。
宇都宮は単刀直入に切りだした。
「大臣はかわるだろうか。」
「たぶんかわるらしい。」
「この重大な時期に後任大臣はとくに大切だが、誰がなると思うか。」
田中の返事は明確であった。
「上原をおいてはそれ以上の適任者はいない。」
宇都宮はもう一歩踏みこんだ。
「石本というまえ評判が高いのではないか。」
「大臣としては不適任だ。部内には、くみしやすいということで石本の就任をよろこぶむきもあるが……。しかし、不適任だ。」
「貴公の言うとおりだ。守成の人という点ではともかく、有為の人物ではないからな。長岡はどうだね。」
「長岡は口も八丁手も八丁であるが、人から信用されていない。今度の人選に入ることはあるまい。」
「木越《きごし》はどうだ。」
「だめだ。責任をとる男ではない。しかし、桂は木越を意中においているようだ。まえに桂から木越はどうだという話があった。おれはハッキリと木越はよくないと答え、その理由を説明しておいた。」
木越|安綱《やすつな》は満五十七歳、第六師団長である。石川県出身のドイツ留学帰りで桂のお気に入りであった。桂が第三師団長になったときに少佐で第三師団参謀に起用され、中佐で参謀長代理、大佐で参謀長と、日清戦争の前後をつうじて桂師団長に仕えた。桂が陸軍大臣になると、木越は軍務局長になった。いわば桂の秘書官≠ニして官僚的な出世コースをたどった人物である。
「石本が大臣になるくらいなら、大臣がかわる意味がまったくない。木越は大臣として理想的な人間ではない。」
宇都宮は、今度の大臣人事にたいする田中の関心がどこにあるかを理解した、という意味をこめて発言した。
田中は声をひそめて、宇都宮に語りはじめた。
「実は去年のことだったが、大臣から、いずれ勇退しようと思うという話があった。そのとき後任を誰にするかという話になった。おれは上原が最適任だと思うと意見をのべておいた。大臣も同意したようすであった。その後の大臣の態度を見ていると、大臣の上原にたいする信用は増したことはあっても、減じたようには見受けられない……。」
田中は入口のドアをちらりと見やった。他人が入ってきて話を聞かれてはまずいという感じであった。
「今度の後任問題についても、大臣が朝鮮に出発するまえに上原に内意をつうじてあるのではないかという気がする。おれは上原の就任を確信する。
この後任は、たぶん上原のほかにあるまい。石本は自分でも不適任を承知していて、このごろはだいぶ尻ごみしているらしい。上原で大丈夫だろう。」
宇都宮は内心おどろいた。寺内は自分の大臣進退問題を、そのころまだ一課長にすぎなかった田中に相談していたのだ。
――誰が大臣になるにしても、軍務局長は田中できまりということだな――
宇都宮はそう考えた上で、つぎの問題を切りだした。
「上原大臣が実現するとすれば、次官はどうする。」
田中は断定した。
「岡だね。」
――岡次官は田中の案なのか、寺内の案なのか――
ちょっと判断しかねたが、岡を次官にする意図は明らかであった。
参謀本部そだちで一度も陸軍省勤務を経験したことがない上原が大臣になるとすれば、岡軍務局長を次官に昇任させて実権をにぎらせるつもりなのだ。田中がそれを考えたとすれば、田中にとって上原はたんなるロボットでしかない。
宇都宮は田中の肚にさぐりをいれた。
「岡次官の線なら軍務局長は君だね。」
「いや、長州系が次官と局長と二人かさなるのはよくないな。」
田中は軽く受け流した。しかし、宇都宮は田中にその気がないでもないという感じを受けた。
「じゃあ、岡をしかるべき地位に栄転させて次官に非長州系をあてるか……。いっそのこと君が次官をやったらどうだね。」
宇都宮の意地のわるい質問に田中は苦笑してみせただけであった。
この日の田中との密談の内容は、宇都宮から上原に報告された。
政変は八月二十五日に起きた。後継内閣は予定どおり西園寺内閣であった。
寺内は朝鮮総督専任となって、陸軍大臣に留任しない意思を明らかにした。
西園寺は、桂と寺内に後任の陸軍大臣について相談した。桂は上原を推し、寺内は意外にも石本を推した。ついで桂は上原のほかに木越を候補者にくわえた。寺内の推す石本に若い上原では対抗できないと考えたのかもしれない。寺内は木越に反対した。西園寺は石本起用に決心した。西園寺内閣の中心であり、与党政友会の次期総裁をねらう原敬は、上原起用にこだわった。寺内が石本のつぎは上原という方針を明らかにしたので、原も石本陸軍大臣で妥協した。
石本が暫定大臣であることはわかっていた。初代朝鮮総督という政治的実績をもとに政権をねらう寺内には、石本を使ってなお自分が陸軍部内に影響力を行使しつづけたいという野心があった。
八月二十八日、西園寺は石本をよび陸軍大臣就任の内諾を求めた。石本は、自分が大臣になれるとは予想もしなかったといい、涙を流してよろこんだ。やはりその程度の器量しかない人物であった。
田中の読みははずれた。なお事実上の陸軍大臣でありつづけたいという寺内の執着心を軽く見すぎた。八月三十日に内閣が成立し、九月一日付で岡次官、田中軍務局長の人事が発令された。田中軍務局長は軍事課長に岡山県出身の宇垣|一成《かずしげ》歩兵大佐を起用した。上原は、北海道から次期大臣ふくみで東京に近い宇都宮の第十四師団長に転任した。
宇都宮は田中にしてやられたと思った。いずれにしても、石本大臣時代は短い。ふつう、短命の大臣のもとでその政務幕僚長である軍務局長に就任するなどということは、野心的な官僚ならば避けるのが常識である。田中はあえてこの常識を破ってみせた。
宇都宮には田中の計算が読めた。早い機会に上原が大臣になっても、省務にうとい上原は本省幹部の大規模な人事異動に手をつけることはあるまい、とすれば上原の大臣就任まえに軍務局長の地位をしめておくことが、上原のつぎの時代への主導権を確保する近道であった。
田中の思惑はちょっとちがっていた。田中は自分の抱負が、寺内のあやつり人形にすぎない石本のもとでは、実現できないことを知っていた。むしろ早く上原大臣を実現し、上原をかついで抱負を実行に移すためには、事前にその体制づくりをしておく必要があると考え、あえて石本の軍務局長を引き受けた。
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この度の事体は失敗といえば失敗なれども形勢はたしかに有利の方に一転致し申し候。要するに今や徐々に後図を策案中に御座候。……
石へ初御対面の時がもっとも大事と存じ候。すなわち彼をして御世辞にても差し支えこれなく候ゆえ、「今度は図らずも自分拝命したれどもこの次は君に渡すべしと」の一言を発せしめ置きたく、しかしてこれにたいして閣下は決して御拒否等の事は遊ばされず、まず「まーまー君ゆっくりやり給え」くらいの御応答もっともしかるべきかと存じ候。
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九月八日付の上原にあてた宇都宮の書簡である。
大臣就任の話に人まえもはばからずに涙を流してよろこんだ石本といい、その石本大臣にへつらうことを進言する宇都宮といい、そこにはいかめしい軍服に身を固めて三軍を叱咤する将軍のおもかげは微塵も見ることができない。ひたすらに権力のトップの座をめざす官僚社会のエリートたちの、人間としての姿がむきだしにあらわれていた。
田中は軍務局長に就任すると、参謀本部の作戦部の部員時代からの構想である師団増設問題に取り組みはじめた。当面は、新しく植民地となった朝鮮に常駐する二個師団の増設が目標であった。西園寺首相が寺内の推薦にしたがって石本を陸軍大臣に起用したのは、寺内が日露戦争中から戦後にかけての陸軍の軍備大拡張の要求を、政府の財政方針の許すかぎりという限度に抑え、海軍拡張計画にも陸軍が譲歩するかたちで、政府と協調してきた実績を買ってのことであった。
そのことが、寺内大臣の長期在任にたいする陸軍の中堅エリートたちの反撥を生んだ原因のひとつでもあった。西園寺首相は、寺内の政治力と影響力に期待し、あえて石本を陸軍大臣に起用した。しかし、石本は、四十五年四月二日に現職大臣のまま病死した。当然の順序として上原に大臣の地位がまわった。
上原の参謀役である町田は、好機到来とばかりに、田中を次官に抜擢することを上原に進言した。町田の目的は、上原を頂点とし、陸軍省を田中に、参謀本部を宇都宮ににぎらせ、山県の陸軍にかわる上原の陸軍を建設することにあった。しかし、上原は人事に手をつけるひまもなく、二個師団増設問題に巻きこまれた。
この問題について、原は桂から申し送りをうけていた。桂が首相時代に直接に石本次官をよび、いまの情勢では二個師団増設の可能性はなく、陸軍部内からそういう計画の噂を立てたことについて厳重に注意したという。桂と寺内の協力がえられるかぎり、陸軍は無茶な軍備拡張計画を要求しないであろうと、原は考えていた。
西園寺首相も内閣の実力者原内務大臣も、陸軍部内の宇都宮も町田も、大きな読みちがいをした。山県と田中との関係についてである。
陸軍部内の情勢に暗い原にとって、田中は陸軍省の一属僚にすぎなかった。田中が山県に直結していることを、原は見落していた。気がついたときはおそかった。
上原陸軍大臣は就任するやいなや、田中軍務局長があらかじめ敷いた路線をつっ走った。上原・田中の強硬方針を世論対策の面からバックアップしたのが情報部長の宇都宮であった。原はこれらの動きを内務省のにぎる警察の情報網をつうじて手に入れた。
これを陸軍の中堅エリートの暴走と、原は解釈した。これら中堅エリートの暴走と山県との関係が原にはわからなかった。大正と年号がかわった十一月十日、西園寺は小田原の古稀庵に山県をたずねた。そこで田中をつうじて陸軍を動かしているのが、桂でも寺内でもなく、山県であることを確認した。
内閣と陸軍との正面衝突は避けられなくなった。原は対決の覚悟をきめた。
陸軍はどうするか。ここで田中と宇都宮の意見が割れた。上原陸軍大臣が辞職して西園寺内閣をつぶすか、多数党である与党の政友会と妥協し、上原陸軍大臣の温存をはかるとともに、漸進的な軍備拡張路線に転換するかである。
宇都宮は妥協の線を主張した。宇都宮の主張の裏には、上原大臣実現の目的である寺内人事一掃の人事異動をすることもなく、上原が増師問題と心中することに反対という意図があった。
田中の考えはまったくちがっていた。それは山県の口移しにちかかった。この点が宇都宮や町田の読みちがいであった。
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要するに現下における情況は単純なる師団増設問題にあらずして、政府はこの機会において政党内閣の基礎を作成せんとする底意なるがゆえに、増師問題はこれが犠牲たるに過ぎず、実に我国体に関する重大なる時機なり。すなわち日本帝国は民国たるかはた君主国たるかいわゆる天下分け目の場合にして、実に鞏固なる意思と堅実なる協同の力によりおおいに努力せざるべからず。
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政党ぎらいの山県の思想そのものである。田中は、増師問題を軍部を中心とする官僚政治か政党政治かの決戦場ととらえた。妥協はできなかった。もっとも山県とのちがいもあった。軍備拡張のねらいを中国侵略にむけていた点である。この点はむしろ、上原や宇都宮と共通していた。
中国の辛亥《しんがい》革命は陸軍に好機到来と思われた。田中は上原の腹心ともいうべき町田を三重県津の歩兵第三十旅団長に転任させた。この旅団が中国への緊急出兵の引当て部隊であることを町田にいいふくめた。
対中国政策で見解が一致していたからこそ、上原・宇都宮・田中は連合することができた。しかし、増師問題を軍備拡張をめぐる政党との戦術的対立とするか、戦略的対立ととらえるかで宇都宮と田中の見解は対立した。小泉策太郎は明治四十五年の総選挙ではじめて代議士になったばかりであり、増師問題に口をだせる立場になかった。
結果は上原が田中の強硬論に乗り、陸軍大臣の単独辞職、陸軍による西園寺内閣の打倒にまで進んだ。上原が永田町一丁目の官邸の主であったのはわずか八カ月であった。田中もまた部内への責任をとって軍務局長の職を去った。
しかし、日露戦争直後の栄光の時代とは世の中がかわっていた。世論は陸軍のストライキと呼んでこれを非難した。陸軍は世論の反撃をうけて孤立した。これをさかいに陸軍の政治的発言力は後退の一途をたどる。その後田中陸軍大臣の出現まで、陸軍は、閣議に影響力を行使することができるほどの、政治力を持つ大臣をだすことさえできない。
上原も田中も、社会的にはもちろん、陸軍部内での政治的生命を絶たれたかにみえた。二人が陸軍省を去った大正元年十二月以後、上原は第三師団長を二カ月勤めたほかは待命で職につかず、三年四月にやっと教育総監に就任した。田中は歩兵第二旅団長にもどり、旅団長の肩書のまま欧米出張で三年八月に帰国し、参謀本部附の閑職についた。軍事課長の宇垣は、連隊長にでてほとぼりをさまし、四年一月に軍事課長に復帰した。
第一次世界大戦がはじまり、大隈内閣のもとで四年六月に二個師団増設が実現した。これでやっと陸軍部内での上原・田中の責任に決着がついた。十月に田中は中将に進級して参謀次長に、二月に大将に進級していた上原は十二月に参謀総長に就任した。少将に進級した宇垣も翌年三月に第一(作戦)部長になった。増師問題のトリオが参謀本部の中枢に立った。
大正五年十月、大隈内閣にかわって寺内内閣が成立した。桂は病死しており、山県はなお健在である。寺内内閣の陸軍大臣は山県の副官¢蜩健一である。大島は山県と寺内の連絡役にすぎない。一九一七年、大正六年十一月にロシア社会主義革命が起こった。対米関係をおもんばかる山県と寺内の躊躇を押し切って、上原・田中・宇垣の参謀本部はロシア革命干渉のシベリア出兵を強行した。その寺内内閣は米騒動で倒れた。
西園寺のあとをついで政友会総裁となった原が内閣を組織した。小泉は政友会の策士≠ニして政界に確固とした地歩をきずきつつあった。第二次西園寺内閣が陸軍との調整に失敗した原因が山県にあることを噛みしめた原は、陸軍大臣に田中を起用しようとした。田中もまた、西園寺内閣の打倒に成功したものの、陸軍と政党との決戦が結果として陸軍の敗北に終わったにがい経験を反省していた。小泉があいだに入り、原と田中との意見調整がおこなわれた。
原の持論であるシベリアからの漸次撤兵の政策にたいして田中は賛成した。田中は参謀次長から原内閣の陸軍大臣となった。上原総長とともに田中自身が推進したシベリア出兵であったが、陸軍大臣になった田中は、上原の意向を無視して出兵兵力の縮小を断行した。上原の抗議にたいして、シベリア出兵は政略出兵であるから政府の権限に属する問題であって参謀本部に発言権はないと、一蹴した。上原と田中の連合は決裂した。
田中が欧米出張から帰国する直前に宇都宮は中将に進級し、第七師団長にでた。ついで大阪の第四師団長に転じ、大正八年七月、寺内内閣がついにシベリア出兵に踏み切った直後、朝鮮軍司令官となり、大将に進級した。植民地支配の軍司令官の職は情報将校が一度は勤めねばならない職となっていた。在職中に宇都宮は健康を害した。
大正九年八月に帰国し、軍事参議官の閑職についたまま療養中、十一年二月に病死した。その長男は徳馬《とくま》、青年時代に左翼化したのち転向し、戦後は保守政治家ながら軍縮問題に情熱をもやす。
陸軍部内の派閥地図は大きく塗りかえられた。宇都宮派の武藤信義、荒木貞夫、真崎甚三郎らは上原派に合流した。上原と田中の全面衝突は、大正十三年一月、大将に進級した田中が二度目の陸軍大臣を勤めたあとの後任陸軍大臣の人選をめぐって表面化した。上原は自派の福田|雅太郎《まさたろう》を推し、田中は陸軍次官の宇垣一成を推した。すでに山県は世を去っていた。
超越的な陸軍の権力者であった山県がいなくなったあとのこの派閥争いは、むきだしの権力闘争となった。田中は福田の致命的な弱点をついた。関東大震災の大杉栄殺害事件のとき、福田は戒厳司令官であった。憲兵をふくむ東京警備の軍隊の指揮権はすべて福田にあった。大杉殺害事件の責任をとらされて福田は戒厳司令官を解任された。
一部の無政府主義者たちは大杉の仇とばかりに福田をつけねらった。特別大演習などのとき、陸軍大臣は天皇の側につきしたがって民衆のまえに姿をあらわす。福田をねらう無政府主義者が天皇のまえで行動を起こす危険性があるという指摘に、上原は反論できなかった。後任大臣は宇垣にきまった。
宇垣陸軍大臣は軍縮で四個師団を廃止した。多数の将軍たちが現役を追われた。現役を去った将軍たちのなかに上原派の将軍が多かった。田中は小泉の勧誘に応じてみずから現役を去り、政界入りして政友会総裁となった。
田中内閣の成立は昭和二年四月である。中国国民党の北伐が進み、国民党による中国統一への動きが加速されてきた。陸軍は満州を統一中国から切り放し、日本の支配下におこうとしてあせった。関東軍は満州を支配していた軍閥の張作霖《ちようさくりん》を爆殺した。
張作霖は日露戦争中に日本軍に捕えられ、満州軍参謀であった田中に命を助けられた。田中もまた満州を中国から切り放して日本の勢力下におく方針の推進者であった。しかし、田中は日本の対満州政策に、むしろ自分と特別の関係にある張作霖を利用するつもりであった。
関東軍の心ない幼稚な謀略に田中は怒った。田中首相は天皇にたいして、事件の真相を公表し、責任者の将校を軍法会議にかけて処罰することを約束した。陸軍は田中の事件公表、責任者厳罰の方針に反対した。とくに元帥会議がつよく反対した。当時の陸軍の元帥は奥保鞏《おくやすかた》、閑院宮載仁《かんいんのみやことひと》親王、上原勇作の三人であった。すでに八十三歳の老齢で軍務をはなれて久しい奥、皇族の閑院宮にたいして、直接に中堅幕僚の意をうけて結論をリードできる立場にあったのは上原であった。
陸軍の反対を受けて、すでに現役をはなれて政党の総裁になっている田中首相はほどこす手がなかった。田中は天皇にたいする違約の責任をとって内閣総辞職をした。憤死ともいうべき田中の死は、首相辞任のわずか二カ月後であった。
そのとき武藤信義は大将で教育総監、真崎甚三郎は中将で第一師団長、荒木貞夫は中将で陸軍大学校長、宇都宮が残した派閥の秀才たちの時代がはじまろうとしていた。宇都宮の子飼いから永田町一丁目の陸軍大臣官邸の主がでる日も遠くない。
[#改ページ]
二十七 茅ヶ崎海岸
神奈川県の茅《ち》ヶ崎《さき》は保養地として開けはじめていた。駅をおりて西に道をとると、東海道の松並木が切れた宿場の入口にでる。まだ宿場のなごりが残る町筋をとおり抜けるあたりを左にまがって鉄道線路を越えると、ポプラにかこまれた小学校があった。線路の南側はなかば松原なかば畑で、ところどころに藁ぶきの農家や漁家にまじって瀟洒な別荘が建ちはじめていた。
そのあいだを道がまがりくねって海岸にむかっていた。道の突きあたり、砂丘の松原のなかに南湖院《なんこいん》があった。南湖院の南は砂浜で、すぐ近くまで波が押し寄せていた。海にむかって左前方に平島、姥島《うばしま》と呼ばれる小島が並び、右手は馬入川《ばにゆうがわ》の河口にむけて細長く砂嘴《さし》が伸びていた。
南湖院は当時の日本ではまだ珍しい結核専門のサナトリュームであった。結核の専門家といわれるキリスト教徒である高田|畊安《こうあん》博士が経営していた。
四十年十二月に赤坂の三河屋でおこなわれた龍土会忘年会のあと、国木田独歩の病状は悪化し、二月四日に南湖院に入院した。
「どうもあまり気が進まんのだ。行ったらもう帰れぬような気がするのでね。」
独歩はそう言って妻の治子とともに茅ヶ崎にむかった。その言葉のとおり、独歩はついに茅ヶ崎から帰ってくることがなかった。独歩の妻の治子は病院の近くの松原にある別荘を借りてそこに引越し、独歩の看病にかよった。
六月三日に独歩は喀血し、それ以来、目にみえて衰弱した。独歩が息を引きとったのは六月二十三日の夜であった。病気になって以来経済的には苦しかったが、かぞえ年三十八歳、文学的栄光につつまれた死であった。
独歩の死後、しばらくたってから、猪熊敬一郎が南湖院に入院してきた。
歩兵第一連隊では、宇都宮連隊長の栄転に先だって、是永中尉と篠塚中尉の二人がめでたく陸軍大学校に入校していた。猪熊中尉は第五中隊の兵卒集団脱営事件のショックと心労がひきがねとなって、いっきょに病状が悪化した。軍人にとって致命的な病気、当時は不治の病とされていた肺結核である。事件の直後、猪熊は休職を願い出たが、宇都宮の配慮で保留された。
その猪熊に追討ちをかける知らせがあった。『明治過去帳』につぎのように記録されている。
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北川順蔵 休職陸軍歩兵大尉正七位勲五等功五級にして明治四十二年三月廿日没す。
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病床で北川大尉の訃を聞いた猪熊は完全に打ちのめされた。北川中隊長の生前に一度会って、託された職責をはたせなかったことを詫びたかった。それももはやかなわぬこととなった。それだけでなく、あの事件が北川中隊長の死を早めたのではないかとさえ、思い悩むようになった。猪熊は喀血した。
猪熊は病気回復の希望と気力を失った。いずれ遠くないうちに自分も北川大尉のあとを追うような気がした。
結核という病気は青年にたいして残酷である。年齢が若いほど病気の進行も早い。若さを餌にして繁殖するこの病気に対抗することができる力は、生きようとする気力だけである。生きる気力が衰えた青年にたいして、結核菌は容赦なくその生命をむさぼり食う。
猪熊の人生はこの日をさかいに、健康の回復をめざして療養する闘病者の生活から、ただ死にむかう時間とたたかう病人の生活にかわった。軍隊と無縁の世界の人間となった。猪熊は茅ヶ崎の南湖院に入院した。
田中義一大佐は軍事課長時代に陸軍将校進級令と陸軍将校分限令の一部改正を実現させた。
進級令は、かねてからの田中大佐の持論にしたがって、佐官から将官に進級するには、佐官で隊附勤務三年以上の経験を要することに改正された。陸大出の将校は隊附勤務の経験なしに将官に進級することができない制度になった。
分限令の改正で、負傷または病気で六カ月をへてなお回復の見込みがないものは休職とし、休職三年をへて就職しないときは予備役に編入することになった。これまでの休職期間は五年であった。皮肉なことに、是永の陸大在学期間の三年は、猪熊の休職期間三年とほぼかさなることになった。
いまでは猪熊にとって休職期間のことなどどうでもよかった。独歩とおなじように、猪熊もまた南湖院から二度と外にでることができるとは思わなかった。猪熊の妻もまた、南湖院の近くに別荘を借りて猪熊の病室にかよった。
入院してからしばらくたって、猪熊の病状もいくらか安定した。絶対安静の時期がすぎ、妻とも会話をかわせるようになった。猪熊は、もう長くない自分の人生の残りの時間のうちにやりとげねばならない仕事があることに気がついた。苛烈な地獄の戦場の経験を記録に残すことである。
けっして逃れることができない遠からぬ死に直面して、猪熊は改めて戦場での死の問題を考えた。元気で笑っていた他人の一瞬後の死を毎日のように見とどけ、自分も死を覚悟しての戦場での活動的な日常は、いま病床で死を待つだけの時間に耐えることが日常化してしまった自分の人生にとって何だったのか。猪熊はあの戦場体験が持つ意味を問いなおそうと思った。
猪熊はこの記録を完成することが、集団脱営事件を起こすまでにいたった自分の部下兵卒たちにたいする義務でもあると考えた。健康であれば、事件を起こした兵卒たちにすなおに気持ちを語ることもできたであろう。事件が起こるまえ、なぜ、自分は兵卒たちに語りかけることをしなかったのか。なぜ、兵卒たちと自分のあいだに心がつうじあっていないことに気がつかなかったのか。
それに気がついたいま、猪熊は語りかけるべき兵卒を持っていなかった。これからも永遠に持つことはないであろう。戦場で、戦後の兵営で、猪熊は兵卒に号令をかけることしか知らなかった。号令をかけ、みずから先頭に立ち、「おれについてこい」と、行動で示せばすんだ。いま、語りかける兵卒を持たない猪熊は、書くことをつうじて兵卒に語りかけようとした。
しかし、猪熊は起きて筆をとることを許されていなかった。残り時間は多くなかった。猪熊は寝たまま文章を口述し、妻に筆記してもらうという方法を思いついた。口述するといってもなまやさしいことではない。
猪熊自身、あまり長時間語りつづけることができなかった。言葉を口にすればすぐに咳こんだ。すこしの時間の口述のあとに長い時間の咳こみがつづいた。手もとの資料はたりなかった。戦場の記憶はときとして強烈であり、ときとしてあいまいであった。
さいわいなことに、猪熊は日記をつけていた。それに連隊旗手として連隊の戦闘詳報や武功明細書を記録する任務を課せられたのでその内容の記憶もあった。このふたつがたよりであった。あとは、猪熊自身の全生涯をつぎこんだ大事業として心と肉体にきざみこまれた体験を思い起こすだけである。
夕方に妻が病室から去ったあと、猪熊の全精力は記憶の呼びもどしについやされた。頭がさえて眠れない夜もしばしばであった。霧がかかったようにおぼろのかなたに沈んでしまい、呼びもどせない記憶にあせりを感ずる夜もあった。旅順の鉄壁に肉弾をぶっつけてむなしく死んだ上官・同期生・部下たちの顔や死にざまを思いだして、思考が進まぬ夜もあった。
最大の困難は、妻が猪熊の言葉を理解できないことであった。猪熊の妻はごく平凡な田舎士族の娘である。ひととおりの教育を受けているとはいえ、高等教育を受けたわけでもなく、専門教育を受けたこともない。軍人の妻となってからの日も浅い。猪熊の使う軍事用語など外国語同様の言葉で、まるでわからなかった。もちろん、戦場となった土地の地名のむつかしい漢字など、どんな字を書くのやら見当もつかなかった。
猪熊はいちいち口で説明しなければならなかった。しかし、漢字を口で説明することがどんなにむつかしいか。
「ソンカソシって、どんな字を書けばよいのでしょう。」
「ゲイシカカイドウってどういう字?」
「セキラツザントンってどんな字?」
すでに上陸そうそうで戦闘がはじまるまえからこの調子である。
「ソンはまご≠フ孫、カはいえ≠フ家、ソは……」
猪熊にもすぐにはでてこない。
「ソは……呪咀のそ=c…、口へんに祖先の祖のつくりだ。シは子孫の子だ。」
地名ひとつにしても口述筆記の苦労はなみたいていのことではない。猊子河街道、石拉山屯をどうやって口で説明したらいいのか。
まして、女の身では聞いたこともない軍事用語がでてくる。たいていが音よみの漢語である。
エンポ、ゼンショウ、カイシン、テキサイ、サンカイタイジ――女でなくとも、軍隊生活の経験のないものにはなんのことだかわからない。掩堡、前哨、開進、散開隊次、これらの言葉の意味と字を口で説明しながら口述するのであるから、一日にどれほども進まなかった。
妻の筆は遅々としてはかどらない。猪熊はいらだって、ときに感情を爆発させた。猪熊は絶望しかけては、気を取りなおした。妻も必死であった。いま、死に瀕している夫の生命力は、ただこの口述筆記を完成するという気力だけにささえられていた。筆記をあきらめたとき、夫の命は尽きる。なにがなんでも口述筆記をあきらめてはならなかった。
しかし、口述筆記が終わったときが短かった二人の生活の永遠の別れとなることも、はっきりしていた。そのことを誰よりも妻が知っていた。夫の命を燃やし尽くすための作業に協力するほかに、夫の命を長らえさせる方法はなかった。はかどらぬ仕事に焦慮していらだつ夫の手をとって、若い妻は何度泣いたことか。涙で字が読めなくなったこともしばしばであった。
第五中隊長代理として兵卒たちにたいしていたときの猪熊と、病床で口述筆記の原稿をつづっているときの猪熊は、すでに明らかに別人であった。病床の猪熊の目は兵卒、それも戦場で死んだ兵卒、傷ついた兵卒、病んだ兵卒にそそがれていた。
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湿気多い地上に臥《ふ》し、湿気多い空気に触ることとて、脚気《かつけ》と下痢とは殆ど予防の策が無い。予の小隊でも六名の重症患者を生じた。しかも彼等は病苦を押して勤務に服し、如何《いか》に押し止めても聞かず、病気では内地に還ることは出来ぬ、一日も早く旅順を見、総攻撃に参加して死にたいという。其中《そのうち》脚気衝心の為め一人の死亡者が出来たので爾余の患者に入院を勧めても、内地に後送せられんことを恐れて頑として聞かぬ。試に拇指《おやゆび》を以て一患者の足を押して見れば、指の半を没するまでに水腫を来している。嗚呼《ああ》彼等の心事や勇ましくもまた哀れではないか。しかも内地では負傷者に対しては盛に其の名誉を称揚しても、かかる勇ましき病者に対しては其の同情同日の談ではない。けれども予等は断言しよう、微傷位を以て後送され、得々たるの輩何の面目あって此の病兵に対し得べきぞと。
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かつての猪熊に、弱者にたいするこのような目はなかった。猪熊は戦場で病気にたおれるのは不名誉であり、病死は犬死であると信じていた。猪熊がそう信じただけではない。日本の軍隊全体が、いや日本の国家そのものがそう考え、猪熊たちにもそう信じさせてきた。戦闘で死に、あるいは傷ついて死んだ士卒は名誉の戦死とされた。しかし、戦病死者は、遺族にたいする賜金の金額でも、靖国神社合祀でも差別された。
――二〇三高地に最初の軍旗をひるがえしたおれの武勇伝≠ネるものも、歩兵第一連隊の歴史を美化するために誇張されすぎているのではないか。その誇張された武勇伝≠ネるものの主人公になって、おれはすこし慢心していたのではないか――
公式の連隊歴史には、「先頭第一、二〇三高地上に軍旗を樹《た》つ」と記録されている。この記録は猪熊自身の証言によっている。しかし、思いなおしてみると、猪熊自身、あのときたどりついたのが二〇三高地の頂上であったのかどうか、自信がなかった。
三十七年十一月二十八日、連隊は二〇三高地に突撃した。これまで突撃にあたっては、野戦とちがって軍旗は旗護兵とともに山麓に残し、旗手は連隊長とともに前進しながら刻々と動く戦闘経過を記録するのが任務とされていた。連隊が要求した突撃まえの砲撃は、何度催促してもついにおこなわれなかった。突撃実行命令が旅団から下達された。午前八時すぎ、寺田連隊長は軍旗とともに突撃することを決心し、猪熊旗手に軍旗を奉じて側にくるよう命じた。軍旗もろとも連隊の全滅を覚悟したことを意味する。
猪熊が軍旗を奉じて連隊長のもとに駆けよったとき、連隊長は「やられた」と低い声をだした。機関銃弾に胸と左手を貫通されていた。
正午、まず決死隊の突撃発起。
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時刻は来た。前へ! の号令は掛った。彼等は驀然《ばくぜん》突撃陣地を突出して躍進した。待ちあぐんだ敵は御参《ごさん》なれと計《ばか》り、小銃機関銃の力を尽して弾丸の雨を注ぎかけた。前後左右に彼等は斃《たお》れた。中腹に達せざる間に彼等は全滅した。一人もなくなってしまった。
あゝ惨劇! 虐殺以上の惨劇! 爾霊山対壕頭《にれいさんたいごうとう》より、敵の鉄条網切断部に至る数十|米突《メートル》の地面は瞬時にして一面我兵の小隊を以て蔽われ、尺寸《せきすん》の地をも余さゞるに至った。負傷して辛うじて帰ろうとし途中にて打ち殺さるるもある、人皆正視するに忍びず、眼を掩うて戦慄した。あゝこれ人間の世界ではない。眼に見ゆるものは血と火である。
偶々《たまたま》負傷して帰った二三人のものは、先に戦友に依頼して置いた遺物を受取り喜んで還るのであった。死ねぬと言て嘆じ、死にたいと願うのは真の惨絶なる戦を知らぬ間のことである。死のうと思っても死にきれるものか。死んだとて何になろう。死ぬに死なれぬとは此場のことである。今や戦死は花々しいものではない。さりとて生きて居ても仕方がない。負傷は彼等の最大の幸福である。
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戦死、それは無為の死の言いかえでしかなかった。この大量虐殺の戦場から生きて帰れるただひとつの道は、運よく負傷して陣地までもどることができたばあいだけであった。午後四時、最後に残った軍旗護衛中隊まで突撃に投入された。軍旗のもとに第一連隊の部隊はいなくなった。猪熊が奉ずる軍旗は、対壕作業のために北方の戦線から派遣されてきた近衛工兵の兵卒に守られることになった。連隊長代理のもとには、軍旗と近衛工兵二十六名がいるだけだった。
午後五時、新鋭の第七師団から増援部隊がきた。午後八時、ついに二〇三高地の頂上の左半分の占領に成功した。連隊本部はただちに頂上に移動した。旅団長は軍旗の移動を許さなかった。
しかし、猪熊は近衛工兵をひきいて二〇三高地をのぼって行った。山腹まで達したとき、護衛の近衛工兵ともはぐれてしまった。一人で山上にたどりついたもののすぐに敵の大逆襲がはじまり、連隊本部に合流できなかった。あのとき、猪熊がたどりついたところが本当に二〇三高地の左山頂であったのかどうか、猪熊にも自信がなくなった。
はぐれた近衛工兵の一人が山麓の旅団司令部に帰り、旅団長に歩兵第一連隊の軍旗が単独で二〇三高地の頂上にむかったことを報告した。旅団長は激怒し、軍旗を探して旅団司令部に呼びもどすように命じた。猪熊は呼びもどされ、軍旗は旅団司令部にあずけさせられた。その夜のロシア軍の大逆襲で、連隊本部は全滅し、左山頂は奪回された。
猪熊は病床で口述中の記録には、左山頂に到達したとは書かなかった。旅団長の命令で疾風のように山を駆けおり、壕中に墜落し、重傷者を踏みつけ、膝関節を捻挫した自分のぶざまさについて書いた。あのとき山をおりていなければ、自分も連隊本部の一員として死んでいたはずであった。
――所詮、猪熊旗手の武勇伝≠ネどといっても、連隊の士卒が全滅を賭して切り開いた頂上への道を屍の山のあいだを縫って軍旗をはこび、すぐにおりただけのことではないか。その間、自分をねらって射つ弾丸の雨をくぐりぬけたわけでも、敵と対して刀をふるったわけでもなかった。屍の山となって山腹をうずめた兵卒たちの行動と自分自身の行動をくらべたばあい、自分の行動がはたして誇りにあたいするものなのか――
猪熊はたしかに連隊旗手という特別な立場にあった。そのために負傷もしなかった。死地に入らずにすんだこともあった。しかし、考えてみれば、将校と兵卒とでは軍の扱いがあまりにもちがいすぎていた。将校は温存したい、しかし兵卒は死ぬまで使え、これが軍の方針であったかと思われた。
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驚くべきはこれらの補充員中に、海鼠山《なまこやま》占領の際負傷したものがあったのだ。海鼠山で負傷し、僅か二カ月を過ぎた計《ばか》りで又もや海鼠山に補充に来るとは、あゝ我軍兵既に尽きたるかと予は天を仰いで嘆じ、潜《ひそ》かに寒心せざるを得なかった。而《しか》して彼等忠勇なる補充兵は嘲笑して曰《いわ》く、将校は一たび負傷すれば復《ま》た戦地に来ない。併し吾等は命のある限りは十遍でも二十遍でも帰るのだと。而してこれ実に当時の真情を語っているのである。自分は斯《か》かることを公言するのを好まないが事実は事実として記すの外はない。あゝ卿等《けいら》忠勇なる兵卒よ卿等の力によりて旅順は落ちたのである。卿等の精神によりて帝国の国礎は守られたのである。彼の微傷を負うて内地に後送され、忽ちに全治し、平然として補充隊に執務して居た将校輩、何の面目あって此の忠勇なる兵卒に対すべきぞ。今や野戦部隊は予備|若《もし》くは後備の将校のみとなり、しかも多くの欠員を有しつゝ、多数の現役将校が補充隊に充ちているの奇観を呈した。予は言明す、予の連隊の如きは旅順は愚かのこと奉天の陥落に至るまで、一度負傷した将校は遂に帰って来なかった。
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このあたりになると、猪熊も口述に慣れ、猪熊の妻も筆記に調子がでてきた。あの戦争の真の勇者は歴史に名が残ることもないであろう兵卒たちであって、英雄とされた将軍でも巨額の年金つきの金鵄《きんし》勲章をぶらさげている職業将校でもないことを、猪熊は確信するようになった。自分自身をふくめ、特権にあぐらをかいた将校への痛烈な批判をもって、猪熊は兵卒にたいする謝罪としたのである。
戦争は終わった。出征のとき連隊に八名いた猪熊の同期生も、三名が戦死し、三名が負傷して後送され、旅順陥落のときに健在であったのは猪熊と是永の二人だけであった。猪熊にとって戦争とはなんであったか。猪熊の口述はつづく。
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露軍は戦には負けたと雖《いえども》しかも我軍に取ては真に好敵手であった。事の成敗は天にある。成敗のみを見て直《ただち》にこれを侮るは愚である。我等は露人の真価を解した。露人も我軍の真価を解したであろう。互に真価を解して初めて親密なる握手をなすことができる。戦争は兎角《とかく》両国民の猜疑より生ずるもの猜疑は国際平和の最大の敵である。然《しか》り而《しこう》して両国民はひとり識者のみ相解するを以て足れりとせず、国民|凡《すべ》て相解するに至らねばならぬ。政府者のみ称して親善なりとし、国民の一向|与《あずか》り知らざるが如き親交は何にもならぬ。
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猪熊は、その手記の最後の節をあえて「終焉記《しゆうえんき》」と題した。「余命も既に旦夕《たんせき》に迫って、本書もまた終焉を告げんとして居る」と口述しはじめたとき、猪熊はこれから先を妻に筆記させることの残酷さを思わずにいられなかった。しかし、しめくくりはつけなければならなかった。
結論として言いたかったことは、人間にとって生死の問題は相対的なものでしかないこと、しかし、その相対的な人生を精一杯生きること、人生の価値は人類全体の幸福をはかるにあること、であった。地獄の戦場体験を死の病床で反芻することによって、猪熊は国家を越えた人類という視野を持つことができた。相対界を去って死ぬ自分はそれでよい。生き残る妻にとっての、これからの長い人生がどんなにつらいものであるか、そのことを思うと猪熊の心は痛んだ。だが、どうにもしようがなかった。
猪熊は、最後に「自序」を書きあげた。それは辞世にひとしかった。
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余命は尚夕陽の如き乎《か》。楽天《らくてん》の詩に曰《いわ》く『夕陽限りなく好し、然れども黄昏《たそがれ》なるを如何せん』と。予は一剣一誠の武人にして、幸にも日露の役に従軍し、旅順奉天の各戦に丹心を試むるを得たり。凱旋の後不治の病を得、今や二十九歳にして一生を了せんとし、此書を遺す。知らず、予が余命の夕陽の如き乎。将《はた》また秋風|戦《そよ》ぐ夕の野の如き乎。
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明治四十四年八月
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[#地付き]猪熊敬一郎識
『明治過去帳』の四十四年八月二十日の項に記録されている。
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猪熊敬一郎 休職陸軍歩兵中尉従七位勲六等功五級にして明治四十四年八月廿日没す。遺著「鉄血」あり。
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猪熊の死は、遺著『鉄血』の「自序」を書きあげてから幾日もたっていなかった。
猪熊が病気休職となったとき、是永は陸大の再審の受験勉強にいちばんいそがしい時期であった。再審に合格してすぐ入校、在学中は宿題につぐ宿題で、まったくひまがなかった。茅ヶ崎まで猪熊の見舞いに行けたのは、二年生になってからであった。
「養家から籍を抜いたよ。」
是永は猪熊に報告した。戦場以来、是永の身の上について何かと心遣いをしてくれた猪熊に、このことだけは知らせておきたかった。
「よかったな。はやく結婚しろよ。勉強も大事だが、健康に注意しろな。」
猪熊は、是永の悩みがともかくも片づいたことを、わがことのようによろこんだ。是永に猪熊の死が伝えられたとき、是永は卒業をまぢかにひかえていた。
真新しい猪熊の遺著『鉄血』を手にとって、是永にもすでに遠い日の思い出となった日露戦争の戦場での猪熊との交遊の日々の記憶がよみがえった。日露戦争の戦場は是永にとっては長い軍人としての生活の出発点でしかなかったが、猪熊にとっては人生のすべてになってしまった。是永はそんな感慨に襲われた。しかし、いまの是永はいつまでも感傷にふけっておれなかった。陸大の学生という身分ははげしい生存競争の場であった。
四十四年十一月二十九日、天皇臨席のもとに陸軍大学校第二十三期生の卒業式がおこなわれた。成績首席の卒業生として天皇に日露戦史の講話をする光栄の任が、生家の姓にもどった是永改め梅津《うめづ》美治郎歩兵中尉にあたえられた。この年は優等卒業生六名のうち、首席の梅津と五位の篠塚が歩兵第一連隊附、三位の前田|利為《としなり》と四位の藤岡万蔵が近衛歩兵第四連隊附、恩賜の軍刀組四名を二連隊でしめるという異例の年となった。
慎重居士の梅津は、ドイツ、デンマーク、スイスなどの外国駐在、参謀本部部員、軍務局課員、歩兵第三連隊長、参謀本部編制動員課長、陸軍省軍事課長、歩兵第一旅団長、参謀本部総務部長、支那駐屯軍司令官、第二師団長と、陸軍省、参謀本部、現場の要職をそつなくこなして、一段ずつ軍事エリートの階段をのぼっていった。名前のはるじろう≠ヘ、大尉時代にヨーロッパ派遣にさいしてよしじろう≠ニ読みを変えた。はるじろう≠ェ発音のしかたによってはフランス語の「つむじ曲り」に通ずることを知ってのことであろうか。
梅津が結婚したのは、中佐の軍事課員時代で仲人は宇垣陸軍次官であった。真崎とはことのほか縁が深かった。ドイツでは一年いっしょだった。真崎第一師団長のもとで歩兵第一旅団長を勤めた。真崎参謀次長のもとで総務部長を勤めた。
真崎参謀次長は、皇族の閑院宮参謀総長の権威だけを利用して実は敬遠し、参謀本部の実権をにぎった。陸軍を流血の派閥抗争に追いやったのは、真崎参謀次長時代であった。
真崎の盟友荒木が陸軍大臣で永田町一丁目の官邸の主であった。昭和七年八月に教育総監の武藤信義が元帥の資格をえるために関東軍司令官兼初代満州駐在大使兼関東長官に転出するまでは、宇都宮太郎の腹心であった三名が陸軍の中央三官衙の事実上の長官の地位を独占した。軍中枢人事は露骨な派閥人事で固められた。
決定的な対立は参謀本部のなかから破裂した。当時第二(情報)部長は永田鉄山、第三(交通・運輸・通信)部長は小畑敏四郎、二人は梅津より士官学校の一期下で梅津と陸大同期の優等生組で、かつて士官学校同期の岡村寧次とともに荒木、真崎をかつぐ同志として誓いあった仲である。小畑は真崎、荒木の直系の対ソ戦術家であった。対ソ作戦一本槍の戦術研究の伝統を荒木から受けついだ小畑と、国家総動員体制づくりの研究にうちこんで荒木、真崎ばなれをした永田との論争が、公然の派閥抗争の火を燃えあがらせた。
論争の席で総務部長の梅津はあいかわらず慎重居士をきめこんだ。梅津の部下に編制動員課長の東条|英機《ひでき》がいた。東条は永田に心酔していた。参謀総長の閑院宮は真崎次長から敬遠され、第一(作戦)部長の古荘|幹郎《もとお》も棚あげにされていた。作戦課長の鈴木|率道《よりみち》は小畑の忠実な追随者であり、小畑は真崎次長と鈴木作戦課長をつなぐ事実上の第一部長としてふるまった。荒木、真崎、小畑らにとって永田は目のかたきとなった。第一部長時代の古荘は真崎、小畑の専横を腹にすえかねたと思われる。古荘は、青年将校時代の荒木陸相のライバルであった。その妻は千田是也ら伊藤兄弟の長姉である。
真崎が大将に進級して教育総監となり、荒木が病気で陸軍大臣をやめたとき、荒木の後任陸軍大臣林|銑十郎《せんじゆうろう》は永田を軍務局長に起用した。永田の助言のもとに林が派閥人事の一掃に乗りだすと、真崎はこれを妨害した。参謀総長の閑院宮は次長時代の真崎の専横を不快に思っていた。林は閑院宮の同意をえて真崎教育総監の解任に踏みきった。
荒木・真崎派、これを支持する青年将校グループまでをふくめてのいわゆる皇道派は、永田に憎悪を集中した。昭和十年八月十二日白昼、永田軍務局長は執務中の局長室で相沢三郎歩兵中佐に斬殺された。この事件が導火線となり、翌年二月二十六日、皇道派青年将校は軍隊をひきいてクーデタを敢行した。
クーデタを支持する真崎・荒木を除く陸軍大臣以下多くの将軍たちは、クーデタにたいして日和見《ひよりみ》をきめこんだ。かれらは保身を第一と考えた。天皇のクーデタ将校グループにたいする怒りははげしかった。しかし、陸軍首脳はクーデタ鎮圧になかなか踏みきれなかった。事件当時の陸軍次官は古荘であった。古荘次官は杉山|元《げん》参謀次長とともに、優柔不断の陸軍大臣や反乱将校に好意的な荒木・真崎らの軍事参議官たちにたいして戒厳令の発動を強硬に主張し、実現させた。
このときいち早くクーデタ鎮圧の出動準備をととのえ、中央に武力鎮圧の意見を具申したのが梅津第二師団長であった。参謀本部総務部長時代は永田・小畑の才気縦横の両部長のあいだにあってめだたなかった慎重居士の梅津が、一世一代の大決断をした。中尉時代、宇都宮連隊長に仕えた経験がこの決断をさせたと考えてよい。
古荘次官は反乱将校の厳罰方針を決定したのち、事件の責任をとり、後任次官に起用した梅津に事件の後始末を託して航空本部附ついで本部長に転じた。台湾軍司令官をはじめ、各地の軍司令官を歴任したのち、昭和十四年に大将に進級したが、進級後わずか一年で病死した。
二・二六事件後、現役大将の大部分は責任をとって予備役に退き、大将に進級してまもなく、軍事行政に関係した経験がない寺内|寿一《ひさいち》――寺内正毅の長男――が陸軍大臣となった。次官に抜擢され、古荘から後事を託された梅津は二・二六事件の後始末に欠くことができない存在となった。梅津は事件後の粛軍人事に辣腕をふるい、「能吏」・「人事巧者」の名をあげた。昭和陸軍は梅津によって強固な官僚機構に作りかえられた。
梅津は、約二年で次官の職を東条にゆずり、軍司令官に転出した。人事権を長く独占しつづけると派閥が生じ、組織を腐敗させる。さきの荒木・真崎人事、のちの東条人事がそのよい例である。梅津は明哲保身のすべをわきまえていたというべきであろうか。
関東軍が挑発したソ連との局地戦争ノモンハン事件は日本陸軍の完敗に終わった。その後始末のために梅津は関東軍司令官に就任した。絶対に無謀なことをしない男という信頼が部内から寄せられていた。その後、太平洋戦争開始後の対ソ関係を静穏にたもつため、梅津の関東軍司令官在任は約五年におよんだ。
昭和十九年七月、サイパン島が米軍の手に落ち、東条政権が没落すると、梅津は中央に呼びもどされて参謀総長になった。三度目の尻ぬぐい役であったが、適任であったとは思えない。米軍の攻撃はフィリピンにむけられていた。フィリピンでの決戦をレイテに求めるか、ルソンに求めるかの決断をめぐって、その後の米軍の攻撃の主方向を台湾と想定するか、沖縄と想定するかの判断をめぐって、梅津の参謀本部つまり大本営陸軍部は致命的なあやまりをおかした。
二十年四月、戦争終結を任とする鈴木貫太郎内閣が成立した。歩兵第一連隊時代の梅津の後輩で同郷の大分県出身の阿南惟幾《あなみこれちか》が陸軍大臣に就任した。ポツダム宣言の受諾をめぐって、梅津も阿南も最後まで本土決戦の強硬論を主張しつづけた。阿南は青年将校として日露戦争を経験しなかった世代である。梅津次官のもとで人事局長を勤め、梅津とともに陸軍省を去り、日中戦争には最初から師団長として出征した。自分の足を血の川にひたした経験がない。
梅津は二〇三高地で自分の足を血の川にひたした経験の持ち主である。太平洋戦争のあいだ、関東軍司令官として一度も戦場を経験しなかったとはいえ、第一線の状況を想像することはできたはずである。その梅津が強硬論を主張したのは、飢えと病に斃れつつある兵士、戦火に追いつめられて死の道をたどりつつある沖縄の住民、無差別爆撃の業火に焼かれて命を失いつつある民衆に目をつむって、陸軍の面子《メンツ》だけを考えた主張であった。
猪熊の『鉄血』は、戦場の中国人住民にまであたたかい目をむけている。猪熊と感性をともにした青年是永のみずみずしさは、梅津と姓を改めて軍エリートの出世街道をひた走る年月のあいだに摩耗し尽くされたのであろうか。軍事官僚として成功するには人間的な感情は無用であり、理づめの計算にもとづく情勢の読みと冷酷な実行力が要求された。
強硬論が破れさり、多感な武将阿南が自決したとき、梅津は一言もらした。
「阿南は立派な武将であった。しかし政治家ではなかった。」
九月二日、東京湾上のアメリカ海軍の戦艦ミズーリの艦上で、梅津は天皇の代理として大本営を代表し、降伏文書に署名した。政府を代表して調印した外務大臣|重光葵《しげみつまもる》も大分県出身であった。
A級戦争犯罪人として巣鴨プリズンに収容された梅津は、二十三年十一月十二日、終身禁錮の刑を言い渡された。慎重に道を選んで歩いてきた梅津がたどりついた人生の終点であった。その慎重さが梅津を陸軍大将・参謀総長の地位にまで到達させた。
しかし、その結果が梅津を軍事法廷に立たせることになった。慎重さが「能吏」の定評を生み、「能吏」としての手腕が罪に問われた。ただ、慎重な「能吏」に徹しきったために、梅津は絞首刑にならずにすんだ。翌二十四年一月八日、刑に服してから二カ月たらず、梅津は巣鴨プリズンで不帰の客となった。
長く忘れられていた猪熊の遺著『鉄血』は、いま、再評価の動きのなかにある。
一度だけ歴史、それも軍の秘密書類のなかに固有名詞をだした猪熊中尉の部下、三十七名の脱営兵卒たちは兵営からでたのち、ふたたび民衆のなかに姿を消した。
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参照文献(順序不同)
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宮内庁『明治天皇紀 第十、第十一、第十二、索引』吉川弘文館
陸軍省『自明治三十七年至大正十五年陸軍省沿革史 上巻、下巻、付録』巌南堂書店
内閣記録局『明治職官沿革表 合本2』原書房
大霞会『内務省史 第三巻』地方財務協会
司法省編纂『司法沿革誌』原書房
文部省内教育史編纂会『明治以降教育発達史 第五巻』教育資料調査会
陸軍省『明治軍事史 下』原書房
日本近代史研究会『日本陸海軍の制度・組織・人事』東京大学出版会
外山操『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇、海軍篇』芙蓉書房
陸軍省『明治四十五年七月一日調 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』
井尻常吉『歴代顕官録』原書房
田崎治久『日本之憲兵』『続 日本之憲兵』原書房
山崎正男『陸軍士官学校』秋元書房
宮本林治『明治三十七年改正歩兵須知』鐘美堂
『軍隊内務書 第二版』(明治二十七年)
『軍隊内務書』(明治四十一年)
『歩兵操典』(明治三十一年)
『歩兵操典』(明治四十二年)
陸軍省『軍隊内務書改正理由書』(明治四十二年)偕行社
陸軍省『軍隊内務書ニ関スル軍務局長口述要旨』偕行社
歩兵第一連隊『歩兵第一連隊歴史』
第一師団司令部『明治四十一年 密来綴』(未刊 原本)
参謀本部第四部『明治三十七八年戦役露軍之行動 第一巻』偕行社
大日本奉公会『日露戦役御旗之光 第一師管健児部隊実戦記』大日本奉公会
工華会『兵器技術百年史』工華会
松下芳男『明治軍制史論 下巻』有斐閣
谷寿夫『機密日露戦史』原書房
D・ウォーナー他著・妹尾作太郎他訳『日露戦争全史』時事通信社
大江志乃夫『日露戦争の軍事史的研究』岩波書店
大山梓編『山県有朋意見書』原書房
上原勇作関係文書研究会『上原勇作関係文書』東京大学出版会
桜井忠温『将軍乃木』実業之日本社
大浜徹也『明治の軍神』雄山閣
猪熊敬一郎『鉄血』明治出版社
『田中義一伝記 上、下巻』田中義一伝記刊行会
参謀本部『杉山メモ 上』原書房
額田坦『改訂版 世紀の自決』芙蓉書房
梅津美治郎刊行会『最後の参謀総長梅津美治郎』芙蓉書房
小原正忠『小原正恒自叙伝』(非売品)
松下芳男『陸海軍騒動史』くろしお出版
高宮太平『順逆の昭和史』原書房
三井光三郎『愛国婦人会史』愛国婦人会史発行所
『続・現代史資料 6軍事警察』みすず書房
大植四郎編『明治過去帳』東京美術
『日本社会運動人名辞典』青木書店
横山源之助『日本の下層社会』岩波文庫
労働運動史研究会『日刊平民新聞』『大阪平民新聞』『週刊社会新聞 1、2』『日刊東京社会新聞・革命評論』明治文献資料刊行会
日本近代史研究会『社会主義者沿革 上、中、下』明治文献資料刊行会
同『特別要視察人情勢一斑 第四』近代日本史料研究会(『続・現代史資料 1』みすず書房に収録)
社会文庫『社会主義者無政府主義者人物研究史料(1)』柏書房
塩田庄兵衛編『増補幸徳秋水の日記と書簡』未来社
白柳秀湖『鉄火石火』明治文献
『日本政治裁判記録 明治・後 大正』第一法規
荒畑寒村『寒村自伝』論争社
山川菊栄他『山川均自伝』岩波書店
『日本人の自伝 8(片山潜、大杉栄) 13(柳田国男) 16(正宗白鳥) 17(田山花袋)』平凡社
北原泰作『賤民の後裔』筑摩書房
千田是也『もうひとつの新劇史』筑摩書房
糸屋寿雄『幸徳秋水研究』青木書店
隅谷三喜男『片山潜』東京大学出版会
江上照彦『明治の反逆者たち』中公新書
白柳秀湖校訂『小泉三申全集 四巻』岩波書店
小島直記『小泉三申』中公新書
清沢洌『暗黒日記 2』評論社
『日本共産党の六十年』日本共産党中央委員会
『新聞集成明治編年史 第二、三、四、五、六、十一、十三、十四巻』財政経済学会
『明治文化資料叢書 第拾弐巻 新聞篇』風間書房
東京大学明治新聞雑誌文庫所蔵『東京二六新聞』『都新聞』
『明治大正図誌 東京(一)(二)(三)』筑摩書房
林順信『東京・市電と街並み』小学館
鈴木理生『明治生まれの町神田三崎町』青蛙房
東京都『東京百年史 第三巻』ぎょうせい
横須賀市史編纂委員会『横須賀市史』横須賀市役所
日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史 年表』交通協力会
夏目漱石『三四郎』新潮文庫
国木田独歩『武蔵野』岩波文庫
『明治文学全集 83 明治社会主義文学集(一)』筑摩書房
伊藤整『日本文壇史 7〜19』講談社
清水茂注『韓愈』(『中国詩人選集 11』)岩波書店
黒川洋一注『杜甫 上』(『中国詩人選集 9』)岩波書店
村松貞次郎『日本近代建築の歴史』日本放送出版協会
谷口歌子「仏教と精進料理の知識」(『歴史読本臨時増刊 日本たべもの百科』)
芳賀綏「春の小川」(『歴史と人物』昭和五十九年五月号)
和田春樹・和田あき子『血の日曜日』中公新書
アグネス・スメドレー著・阿部知二訳『偉大なる道 上・下』岩波文庫
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あとがき
この一冊を歴史小説として読むか、歴史叙述の手法から逸脱した社会史の叙述として読むか、読者の自由にまかせたい。ある時代の限られた時間と空間に生きた人々の群像を、とくに歴史のひだに属するデテイルにまで立ちいって推理し、描いてみたいという願望は歴史叙述にしたがう人間の業である。業であることを知って、歴史家としての節度を越えないことが歴史学の本来の道であろう。
その節度を越えるように私を誘惑したのは、大岡昇平『天誅組』であった。大岡氏は新聞連載の『天誅組』を一冊にまとめた際、その「あとがき」に「私の唯一の長篇歴史小説ですが、書き進めるうちに書き出しの物語体がこわれ、いわゆる史伝体になる、という不統一が生じました。」「集団的行動は史料の引用や考証による史伝体に、個人的行動だけ会話や心理の描写を伴う物語体になっているわけです。この二つがうまく調和しているかどうかが問題です。」と書いている。
この「あとがき」を読んだとき、あらかじめ計画的に、歴史の本筋にかかわる叙述は史伝体で書き、歴史のひだに属する部分は物語体で書くことによって、限られた時間と空間の歴史に推理をくわえ、そのデテイルを描きだすことが可能なのではないかと、私は考えるようになった。
執筆にとりかかる気になったのは、本書の真の主人公が明治四十年代という「限られた時代」であり、その時代に生きた人々の群像が行動の場とした「限られた空間」である、という設定を考えついたときであった。この歴史小説らしからぬ歴史小説、歴史叙述らしからぬ歴史叙述を「冬の時代」の到来を告げる『凩の時』と名づけ、各節の題名を地名で統一することに思い至ったとき、本書の構想ができた。
本書の登場人物はすべて実在の人物であり、実名である。銀木一等卒の経歴がフィクションであるほかは、登場人物の経歴についても事実に誤りがないように万全を期したつもりである。
既刊の単行本でふれることができなかった幾つかの点について補足しておきたい。
第一は、猪熊敬一郎著『鉄血』「自序」に引用されている漢詩の作者についてである。猪熊は「楽天の詩に曰く」として引用し、私もまた注をくわえることなく「自序」の全文を引用したが、楽天・白居易の詩としたのは猪熊の記憶ちがいであり、記憶していた詩句にもいくらか誤りがある。作者は白居易ではなく、晩唐の詩人李商隠である。李商隠が三十五歳のとき、白居易は七十四歳で世を去っている。中国詩人選集『李商隠』(岩波書店)の跋に吉川幸次郎が次のように書いている。
それにしても、彼の文学の中心となるのは、最も健康とはいえぬ手法で歌いあげられた最も健康とはいえぬ世界である。それが文学としてもつ最も多くの価値は、何か。そのあまりにも多彩であるがゆえに不健康さを感じさせる世界が、実は、人生のむこうにしのびよる闇の世界、そのすぐ上に密着してひろがるものとしてあり、裏側にある闇の世界へのおそれを、敬虔にうながすからではないか。「晩に向《なんな》んとして意|適《かな》わず、車を駆りて古原に登る。夕陽無限に好し、只だ是れ黄昏に近し」。(「楽遊原」)これがすなわち彼の詩の性質なのではないか。
第二は、猪熊とその妻に関する補足である。猪熊の妻は旧水戸藩士の娘で、その実家は水戸にあり、名を綸《りん》という。猪熊の死後、子供のない綸は華道の師範となり池坊の一派に属する猪熊流を立て、その家元として再婚せずに生涯をすごし、九十四歳の天寿をまっとうした。現在二代目家元をその姪がついでいる。本文では省略したが、猪熊が病気悪化で休職するまでの経緯を記せば、兵卒の集団脱営事件のあと、猪熊は責任を感じて休職を願いでたが宇都宮連隊長らに慰留され、さらに宇都宮は猪熊の病気を配慮してその妻の実家がある水戸に移転した歩兵第二連隊付に転じさせた。
明治四十二年八月に咯血した猪熊は四十四年二月に病床に寝たきりになり、三月に『鉄血』の口述を開始した。口述筆記は本文にも記したように困難をきわめ、「遂に予は怒り、妻は泣きて中止せんとせること幾度なりしかを知らず」と猪熊自身が書いているが、二代目家元の話によれば、猪熊が怒ってしばしば「バカ」とどなるので、ほかの患者から「奥さんの名はバカですか」と皮肉をいわれたという。「中尉が苦痛と夫人が熱涙の凝塊」である『鉄血』は四十四年九月に第一版が刊行され、同年十二月に二十五版発行と、版をかさねている。『鉄血』が世にでてからちょうど三十七年後に、極東軍事裁判の判決があった。梅津美治郎終身刑の判決を知った猪熊綸は、どのような感慨をおぼえたであろうか。
第三の補足は、福田狂二についてである。福田家は島根県の素封家で父連之助は島根県会議員・県会議長を務めた地方政界の名士であった。長男の六蔵が日露戦争で召集されて戦死したので、次男の狂二は事実上の家督相続人となった。脱走兵福田が上海で逮捕され身元が割れるきっかけとなったのは妹からの手紙であったが、この妹の結婚相手は地元の有力企業である一畑電鉄(松江と出雲市・出雲大社間の電鉄、のちにバス、デパート、ホテルなども経営)の社長になった。福田の弟も電鉄専務に在職中に病死している。福田家は地方財界の名門でもあった。
兄六蔵が健在であったとき、福田は軍人を志して東京の私立成城中学校に入学した。奇しくも猪熊敬一郎の何年か後輩にあたる。在学中に日本の陸軍士官学校への入学をめざして成城中学に留学中の中国人学生と交友をむすび、中国革命への関心を深めて宮崎滔天らの革命評論社に出入りするようになり、明治四十年に新聞記者松崎天民に伴われて谷中村を訪ね田中正造に会ってその人格に傾倒し、社会主義青年となった。
大正デモクラシーの時代に合法マルクス主義者として活動した福田は、「進め」社を起こし雑誌『進め』を刊行したが、その初期の執筆陣に、堺利彦、荒畑寒村、山川均、赤松克麿、麻生久、加藤勘十、鈴木茂三郎、浅沼稲次郎、河野密、稲村隆一、羽生三七、高橋亀吉、大山郁夫、片山潜、徳田球一、国領五一郎、春日庄次郎、鈴木東民、小牧近江、小川未明、青野季吉、前田河広一郎、平林初之輔、新居格、山崎今朝弥、布施辰治、小岩井浄ら、戦前の無産運動・プロレタリア文学運動、戦後の社会党・共産党の指導者として活躍したそうそうたる顔ぶれを見ることができる。それよりも、福田のこの時期の功績は地方の労農青年たちを労農運動の活動家に養成したことで、とくに島根県や新潟県などの社会運動史に大きな影響力をもったという。彼が右翼に転向して以後の活動は省略するが、福田は昭和四十六年に八十四歳で死去した。葬儀委員長は児玉誉志夫であった。
最後に一言すれば、本文中では田中義一の第一人称に「おれ」、宇都宮太郎の第一人称に「わし」を使った。田中の首相時代のあだなが「おらが大将」であったことから知られるように、彼の口ぐせは「おら」であった。宇都宮はよく「拙者」と称したとのことである。いずれも文中の座りがよくないので「おれ」「わし」に改めた。
一九九二年六月
[#地付き]大江 志乃夫
大江志乃夫(おおえ・しのぶ)
一九二八年大分県生まれ。名古屋大学経済学部卒。茨城大学名誉教授。綿密な資料分析をふまえた実証的な近代・現代史研究で定評がある。特に日露戦争史・近代軍事史に詳しい。著書に『日露戦争の軍事史的研究』『靖国神社』『日本の参謀本部』『天皇の軍隊』などがある。
本書は一九八五年三月、筑摩書房より刊行され、一九九二年九月、ちくま学芸文庫に収録された。