大江健三郎
「政治少年死す」(セヴンティーン第二部・完)
『文學界』の昭和36年2月号掲載
「セヴンティーン第一部」は新潮文庫『性的人間』
夏はまさにあらわれようとしていた、空に、遠くの森に、海に、セヴンティーンのおれの肉体の内部に、夏は乾いた舗道の地面にむかってゆるめられる消火栓からの水のように盛んに湧こうとしていた……
おれは雨あがりの朝、左翼たちの集団が包囲をといた国会議事堂前広場を、青年行動隊の仲間達と訪れて缶ビールを飲んだ、勝利を祝うために。おれは勝利にわずかながら酔い、そしてもっと豊かな寂寥感を頭のなかに、また胸のなか体中の筋肉のなかに熱いむずがゆさのように育てた。左翼たちは石器時代の人間のように石をその武器とするために、現代の工夫が固めた舗道の石を剥ぎとっていた。その剥ぎとられ掘りおこされた舗道の上に、おれは踏みにじられた娘の死骸の幻影を見た。もっと多くの死骸がそこに横たわるべきだったのだ、左翼どもの暴動、市街戦、そして雪のふりしきるさなかまで、おれたちは天皇のための銃をとって闘いつづけているべきだったのだ、二・二六のときのように。
おれは奇妙に寂しくてたまらず、裏切られたような、うろ[#「うろ」に傍点]寒さを感じて、静謐のなかに安定している傲然とした国会議事堂を眺めた、それは他人の城だ、よそよそしい。そしておれは、五月来の戦闘のあいだ身近に感じられ、この手に握ることのように思えた政治[#「政治」に傍線]が、またもとどおり、遠くなり、他人の城にとじこもってしまっているのを感じた。おれは唾をはき空缶を破壊された舗道に投げすてた。仲間たちみんながそれにならった、おれはおれだけがこの祭りの後のようなうろ[#「うろ」に傍点]寒さを感じているのではないことを知った。缶と敷石とのふれあう空しく不快な音がそれをおしえたのだ。
おれたちは皇居にもうでるために坂をおりて行くときも、まったく士気あがらなかった、五月の暗く青葉の匂いだけ激しい疲れきった夜更けにも、おれたちはこんな湿っぽい行進はしなかった。おれは走り去る自動車の窓や水たまり[#「たまり」に傍点]やショウ・ウインドウに、この数ヶ月で圧倒的に逞しくなったと思われる自分の体がうつるのを見たし、また眼をつぶって体中に力をこめると胸が厚くなったことや筋肉があらゆる細部で硬く育ってきていることが感じられたが、それだけで楽しい気分になることもその瞬間にはできないのだった。
しかしいったん宮城前広場につくと、おれは昂揚と幸福感にとらえられ、至福の満ちおこる汐におし流された。おれはあらためて、朝の教育勅語奉読から、夕暮に御真影に祈る眼も昏む快楽の一瞬まで、おれの行動党本部での生活が天皇によってつねに償なわれ満たされ光輝感をそえられているのだと感じた。おれが現実生活のなかでどんな寂寥感をもつときがあろうと、天皇の子としてのおれには至福の瞬間の連続しか真実ではないのだから、その灰色の世界こそ欺瞞なのだ。天皇に関係のないことを考える必要はないばかりか、天皇の眼、天皇の耳において世界をとらえるほかのことをおれはすべきでない、それは私心なのだから、おれは私心なき忠[#「私心なき忠」に傍線]に徹しなければならない!
おれは天皇にかかわりのない現実世界にたいしてはまったく冷淡な、ものぐさで不精な若者になろう、あの左翼かぶれの教師どものいる学校には念をいれて出席する必要もないだろう、天皇はおれの真の太陽だ、真夏の太陽だ、外の世界におとずれる夏よりも早く、そしていつまでも、おれの内部世界には天皇の太陽が真夏をもたらしていたのだ、おれは天皇の夏休をあたえられた学生だ。おれは天皇のためにのみ全速力でエンジン全開で疾走するために、ふだんは情熱をストックしておこう……
党の機関紙に新人紹介[#「新人紹介」に傍点]という欄がある、そこに載せられたおれの紹介文は次のようだ、おれが自分の内側で考えていることがそのまま外側からみたおれ[#「おれ」に傍点]観になるという奇蹟を、おれはここで生まれてはじめて体験したような気がする、ずっと幼かった幸福の一時期をのぞいては。とくにあの汚ならしい自意識の悪魔にとりつかれてからというもの、それはまったくおこりえないことに思われたのだったが、党紙編集者は書くのだ。
≪十七歳の若冠なれども行動にあたっては勇猛果敢、赤色分子を蹴ちらす。恐怖を知らず、わが身をかばうことなき勇者なり。十七歳にして入党を許されたる唯一人の少年党員として修業、諸党員の間に伍して歩をゆずらず、勤勉その進境著しく大成の期待をうく。されども党本部における日常生活においてははなはだ温順、寡黙、礼儀正しく思いやりあり。いつの日かの飛躍を期して爪をかくしたる能ある仔鷹のごとし。全学連の同年輩諸君、爪の垢でも煎じて服用しては如何?≫
おれはこのような人間として皇道党本部に存在していたわけだ。おれのようにインテリの父親をもつ小市民家庭にはいちばん育ちにくい、農民的な性格[#「農民的な性格」に傍点]をもった人間として、おれはそこに生活していたのである。
そしてその間に、保守党内閣が別の派閥の保守党内閣に代わっただけで、民心一新[#「民心一新」に傍点]していた。また問題の軍事条約は結ばれたが、左翼どもは保守派の派閥の一代表者をたおしただけで満足し、国会の包囲をといていた、その包囲陣の学生の一人は、≪日本がいやになった≫という泣きごとの詩を発表していた。おれの心の夏におくれて、季節の夏は、そのあいだに、行動後おれが油布でみがく党の鉄兜のように輝きながら、まさにあらわれようとしていた……。
皇道党の若い者たちだけの修養会で、めずらしく議論がおこった。おれは会のいちばん隅で黙想していた、そこで議論は芝居の台詞のようにおれの頭のまわりをとびかった。若い者たち、せいぜい三十五どまりの者たちは皇道党のなかで、行動隊活動のあと自信を深め積極的に発言するようになった。また、行動隊活動をつうじて、特に逆木原国彦はじめ長老たちのなまぬるさ[#「なまぬるさ」に傍点]に疑問をもってきている者がいて議論を激しくする。なかでも理論家の者らの台詞はこういうものだった。
A党員(二十五歳、神道系の大学を卒業した皇道党ではまれな懐疑派、高知県の神官の息子である)おれはこんどの活動でおれたちが勝った、勝ったと喜んでいることに疑問をもってるよ。おれたち皇道党員は勝った、本当に勝ったかおれは疑ってるよ。
B党員(三十歳、現実派、いつも羽織、袴の純日本式服装をしている、それに刺激されておれもそんな格好で学校に行き、数学の教師が右翼野郎[#「右翼野郎」に傍点]とおれを蔑しめるためにいったかげぐちを聴き、かえってたかめられた喜びを感じた。またこの現実派の男は保守党の青年部との交渉をすべて買って出る骨おしみないところも持っている、あだ名は政治屋、中学卒のみの学歴だが読書家、沼津市の商家生まれ)敗けたわけじゃないよ、現に敵の大将が敗けたことを認めているんだ、国会前で負けた瞬間にわんわん泣いたと雑誌に書いている、その学者は全学連どもが国会内に入って革命をおこすことだって可能だと思っていたらしいよ。考えてもみな、あの学者どもが改正したがらなかった旧安保でよう、駐留軍の出動を要請できるんだ、そんなことになってたら革命どころか左翼どもみな[#「みな」に傍点]殺しだよ。そんなことにならなかったのは保守党に常識があるからさ、安保体制もその良識があってこそ日本のためになっているんだよ。ところが左翼の学者は、娘っ子一人死んで泣き、そして十万人みな[#「みな」に傍点]殺しの危険をまぬがれて、また、わんわん泣くんだ。おれはあんな学者の泣いている首根っ子つかまえて踏み倒してやりたかったな、泣きっつらに右翼だ! この言葉はレーニンが叫んだんだぞ、といっとけば書斎に戻ってレーニン全集に首っぴきだろう、そんなのが学者だ、殴ってやりたかったなあ。
A党員 勝ったつもりで、勝ちほこって、泣いている学者を殴ったり踏みつけたりしたいのか、本当におれたちは勝ったと、きみは信じるのか?
B党員 おれたちが勝ったと信じてどこが悪いんだ? 左翼の毒が尻にまでまわってる新聞がどこもかもおれたちを暴力団とかなんとか書いているけど、国民はおれたちを支持してるんだ、次の選挙には国民が左翼の連中を勝たせるとでも思うのかい? あいかわらず保守党が勝つんだ、それでおれたちもやっと国民の真の声で挨拶されるわけさ。
A党員 きみにもわかっているらしいよ、勝ったのはその保守党の汚らしい膿だらけの淋病どもだ、選挙に勝つのも連中だ、おれたちは勝ったのじゃない、逆木原総裁もまた選挙には勝てないにきまっているんだ。きみは保守党青年部の豚どもと一緒にいろいろやってきたなあ、それであの青年豚どもがはやくも金権政治屋どもの糞のなかを気持よがってうんうん[#「うんうん」に傍点]唸って目をほそめて転げまわってるのがわからなかったのか? おれは左翼どもとおなじように、保守党のやつらも敵だと思うんだ。
B党員 その敵の保守党が皇道党に、この六月来、公式にだけで二十万円献金してきた、それにこんどの新しい首相の後援会からも、十五万円は来てるんだ、それで活動できたんだ、きみは敵からおくってよこした塩だけにこにこ[#「にこにこ」に傍点]してなめて、咬みつくのか?
A党員 (昂奮して蒼ざめ震えながら叫ぶ)その二十万、十五万の金でおれたちを暴力団なみに働かせたやつが勝ったんだ! このままでは皇道党は、あの青年豚どもがお世辞のつもりでいうように、院外団になりさがってしまう。保守党の汚らしい院外団になりさがって暴力関係をうけもつことが仕事になる!
B党員 (やはり昂奮に蒼ざめて)じゃ、おれたちがどうすればよかったんだ!
C党員 (睨みあい昂奮しきって殴りあいはじめんばかりの二人に聴かせるためのように、壁の檄文を大声で読みはじめ、一瞬みんなびっくりとして静まり、それを聴く)
暗雲がいっぱいにたちこめている。
赤い怒涛が北から西から一呑みにせんと迫っている。
国の護りは薄く李承晩の恫喝すら本当にははじき返されないのである。
共産党、進歩党、総評、日教組、全学連および文化人と自称する赤い愚連隊どもが第五列的陰謀を策してしきりと蠢いている。
政治的腐りはそこ、ここに大きく破れてウミを流し、悪臭を国中に放っている。
これが今日の日本の偽らざる現実である。
誰が愛国の至情を吐露するか。
日本! 危ないぞ
と案ぜざるを得ないではないか。
時は今。それはあたかも五・一五事件又二・二六事件の前夜の如き情勢に日本は立ち至っているとしか思えない。
見よ。懦弱と浮薄と怠情と淫風は国を掩い、人々は目前の安逸にふけり権力を濫用し、貧欲の美酒に酔い虎狼の如くにうかがい私腹を肥し破れを知らず、安からざるに康しとし、脚下に横たわる永遠の滅亡の断崖を忘れているのである。
純真な青年同志の中に維新断行、救国革新の声あるも又宜べなるかなである。
A党員 そうなんだ、おれは保守党の政治屋どもにも反省を求めるべきだと考えているんだ、だから保守党から金をもらって紐がつくのは厭なんだ。国会を包囲した左翼どもを殴っているだけじゃ警察と変らんじゃないか、おれは逆木原先生に、保守党にたいしてもっと断固たる態度をとってもらいたいと思うんだ。
C党員 断固たる態度というのはなんだ? たとえば共産圏を訪問した保守党の有力者には抗議文を発したが、ああいうことか?
A党員 もっと強力なことができたら……
C党員 クーデターか?
A党員 可能なら……
C党員 おれは可能だとはいわない、しかしクーデターについての論文を書いている人は日本の現代の右翼にもいるんだ。クーデターの必然性[#「クーデターの必然性」に傍点]という論文だ。日本の自衛隊は戦前の四、五倍の装備をもっている、そしてシビリアン・コントロールのもとにある、皇軍のように天皇が統帥権をもたれているのではない。国民の不信をかう政治指導のもとで、その命令どおり無条件に死地におもむくことが国のため政権のためになるかと疑うものがでる、そしてそういう政権に軍が隷属しなければならないかどうか批判的になるものがでてくる可能性はある。自衛隊が信頼できない政権の命令によって動くより、その政治指導そのものを刷新することこそ国運開顕に貢献するという自覚をもつものがでるかもしれない。とにかくクーデターがおこるなら共産理論より日本独自の民族主義的理念によるほうがいい、そういう論旨だ、おれは非常にすぐれた意見だと思う。逆木原総裁は、まだ時期が早いといわれる、しかし何ひとつ準備工作もはじめないで、結果だけ念頭において時期尚早といっているのは、おれはそれが軟弱すぎると思うんだ、保守党の金権亡者どもに利用されるのがおち[#「おち」に傍点]だ。明日こそはクーデターの基礎工作に着手しよう、そう毎日考えて、結局だ、ある夕暮に、こんどこそ明日こそは、と決心する、そして朝までに死んでしまうんじゃないか、左翼の学者が革命についてとる態度とおなじになあ。おれはそういう死にかたはしたくない。こんど、全学連は国会をのっとろうとした、あわよくば全学連クーデターというところを狙っていたんだろう、それでおれも、これはまごまごしていられないと考えたんだ。右翼のほうでも、あわよくば民族的クーデターを! と考えるやつがでてこないと全学連に対抗できない。誰かがいった学者じゃないが、国会前広場が静かになったとき、おれも、民族的クーデターの芽がこれでつぶれてしまったと考えて泣きたかったんだ。あの腐った臭いのなかでしか生きられない政治屋どもを殺して清らかな花の匂いの中で腐らせてやれなかったのを考えて泣きたかったんだ。民族的クーデター、そして天皇陛下の統帥権復活、それが本当の日本および日本人の姿なんだ。この理想のプログラムをなあ、左翼のやつらの言葉だと、この未来像[#「未来像」に傍点]をなあ、もっていないやつは右翼の正統にはなれても愛国者の正統にはなれない。戦争で死んだ愛国者の正統にはなれない。おれは逆木原先生が、いつまでもこの意見のがわにきてくださらないなら、皇道党を脱党して、クーデターの基礎づくりを始めるよ、きみたちも、おれと一緒にこないか?
A党員 おれは一緒に行くかもしれない。
おれ (天皇の統帥権という言葉がでたときから不意に生きいきした関心をもちはじめていたおれは、天皇により近い道に歩みだすことができるなら、結局、逆木原国彦から去ることはまったくなんでもないという気持がすでに固まっていることに驚きながらいった)おれも、そのときには、あなたと一緒に脱党しますよ、おれは防衛大学に入って内側から、そのクーデター工作をすすめたい。
C党員 (おれの手を握り)よし、きみたちは仲間だ!
おれが皇道党に入ってはじめて聴き、納得し、それを実現したいと願った政治の現実と未来についてのプログラムがこれだった、そしておれは皇道党のなかにやつと身近な指導者をえたのだった。おれはそろそろ逆木原国彦を指導者というより、右翼の偶像[#「右翼の偶像」に傍点]として感じはじめていた、おれはもっと肉を多量にもち血を多量にたくわえている、もっと生の人間らしい指導者をすぐそばに欲しいと思っていた、おれにとって偶像は直接には天皇であったから、右翼の偶像としての逆木原国彦は必要ではなかったのだ。おれは世界史でならった無教会派の信者のように、信仰の側面では神だけが他の付属物や障壁なしにあらわれることを望んだ、天皇という神が! そのおれにC党員は最ものぞましい深い同輩の指導者として手をさしのべてくれたのだ。おれは仮にC党員とよんだかれ[#「かれ」に傍点]についてもっと詳しく語っておきたい。というのはかれが、おれの入党前後にイメージとしてもち、また現実に話しもかわした、あの漫画的右翼の典型たちとはまったく別の人格であったからである。
安西繁、三十五歳、敗戦のとき学徒出陣で戦場にいた、戦中派だ、党の中堅幹部のなかで独りだけ特別な雰囲気をもっている、そして愛読書は左翼どもが編集した≪きけわだつみのこえ≫である、それだけでも他の党員達とちがう。それにいちばん若い層の党員であるおれたちには、よく理解できないところがあって、たいていの若い党員は煙ったがって遠慮する、しかもみんな、この変り者の幹部を気にかけているのだ。中背だが、肥りすぎるほど肥り、肩にもりあがった肉や低い重心、精力が前にむかって駆けたがるのを抑制しながら歩くような態度、浅黒い皮膚、すべて牡牛を思わせる。そして厚いレンズの奥にかくしているが右の大きい眼は激しいやぶ[#「やぶ」に傍点]睨みだ、やはり大きい左の眼は正常だが永いあいだの酷使から、ますます厚い彎曲をもったレンズを必要とする近視である。顔は、もし肥ったカメレオンがいるなら、それに似ていることになるだろう、しかし魅力はある。かれがやぶ[#「やぶ」に傍点]睨みの眼とそうでない眼を苦しげに調節して意外な高みにかかげた新聞を読んでいるのを見ると、新聞というものはおれにはとても読みとりえない困難で深い人生の真実にみちているのだという気がする、また、かれにそれとおなじ方法で見つめられると、胸がなにか重苦しいつめもの[#「つめもの」に傍点]でふさがれ重苦しくなり、ふだんの自分が調子づいて浮薄だったことがわかる、汗が脂っぽくなってくるような気がする。週刊誌の記事に、かれを皇道党でもっとも過激な男だと書いたものがあったが、老年の党幹部のなかにはこういうものもいる≪あの男は左翼になりたくなれば明日にでも思いつめて共産党に入るような男だ、それに現実の日本よりも、戦争中に死んだ仲間の学徒兵のことをもっと切実に考えている、それに天皇陛下をお憎みもうしあげているらしいふし[#「ふし」に傍点]もある、宮城前で自決しようとしてはたさなかったとかいうことも聞いている≫
おれは安西繁と親しく話しあうようになってから、かれが国会前広場でのおれの活動を注意深く観察していたことを知った。かれはおれをあのねばついてくる困難にみちた眼で睨みつけるように見つめながら、奇妙な優しさのこもった声で、
「きみは絶望した犬みたいに勇敢だったよ、もうやめろ! といってやりたいほど勇猛果敢だったよ。ヒステリーで狂った女みたいに勇敢な体当たり[#「体当たり」に傍点]の連続また連続だ、中世紀だと悪魔がついた人間として、魔女裁判でしばり首になっただろうなあ」といった。
≪もし天皇が悪魔なら、おれはたしかに現代の悪魔つき、魔女だったろう≫とおれは考えた、そして党本部での「修祓[#「修祓」に傍点]、祝詞奏上[#「祝詞奏上」に傍点]、玉串奉奠などの祭典のときには陽気ないたずらの気持を味わいながらその悪魔の考えをくりかえし頭にえがいた。
ある日、安西繁と献金あつめの会社めぐりの仕事をうけもった。商事会社某、五千円、パルプ会社某、一万円というように寄付をうけて歩くのだ、それは夏の行動の基金となるだろう、あいかわらずポケットに≪きけわだつみのこえ≫をいれて歩いていた安西繁が国電の吊革にもたれ、ほとんど網棚のあたりに本をかざして読みはじめる、それを隣からのぞきこんで、おれは赤インクでかこまれた詩を読んだ、安西繁も唇をうごかしながら、それを実に永いあいだ読みかえしつづけた、国電の四区間ほどのあいだ、汗の玉を厚い唇のまわりにこびりつかせ震わせて、かれは孤独な子供のように読みふけっていた、
………………
悲しい護国の鬼たちよ!
すさまじい夜の春雷の中に
君達はまた銃剣をとり
遠ざかる俺達を呼んでいるのだろうか
ある者は脳髄を射ち割られ
ある者は胸部を射ち抜かれて
よろめき叫ぶ君達の声は
どろどろと俺の胸を打ち
ぴたぴたと冷たいものを額に通わせる
………………
この安西繁は、天皇のことをほとんど考えない右翼かもしれない、とおれは考えたが、同時に安西繁を熱情をこめて敬愛している自分にも、やがておれは気づいた。しかしそれは、おれが天皇のみをつうじて感じる至福をいささかも傷つけなかった、おれは考えた≪なぜなら安西繁は戦中派だし、おれは戦後派のセヴンティーンの右翼なんだから。そして、ああ、天皇はおれ独りの神であったほうがいい、さもないとおれは安西繁に嫉妬することだろう!≫
おれは皇道党本部にいるあいだ常に、安西繁に近づいているようにつとめ始めた。やがてはかれと同じ部屋に二人きりで眠るようにもなった。逆木原国彦は大きいが涸れた湖のような感じだった、荒れはてた湖底を風がヒステリックな砂埃をあげて吹きつのる、そしてもう情念の水は一滴もない、おれは老人の肉体をつうじて天皇の幻影を見たくなかった、おれはセヴンティーンの肉体に天皇をやどしたいのだ。安西繁はおれの心のなかの天皇を蚕食しなかった、そしてかれの心のなかの、死んでしまった学徒兵の幻影はおれの胸をうたず、おれの額にぴたぴたと冷たいものを通わせなかった。おれは安西繁との本部での共同生活を大人らしいと感じ自由に感じ好きになった。安西繁が逆木原国彦の優柔不断にあきたらずに脱党するという噂は本部でもときどき耳にした、そしておれはそのときにはおれもついて行こうとあらためて決心していた。
逆木原国彦と長老たちは、次の選挙の準備工作のために、いまは本部の活動にあまり情熱をそそいでいないようだった。おれは本部の御真影のまえに座って、一日中、至福の感情にひたっていることがあった、そのような日の夜、おれは十回も自涜したあとのように疲れきって喘ぎながらなかなか眠りにおちこめなかった。しかし夜の世界を猛毒でみたした、あのおれの馴染の死の恐怖はもうおとずれてくることがなかった。
夏は、おれの内部の黄金色の天皇の幻影のように激烈におとずれた。夏の盛りに、おれは暑さの最も激しい地方都市の乾いた市街に、灼けつく鉄兜をかぶり青年行動隊の闘争服に汗と苦しがる皮膚とをつめこみ、棍棒を握りしめて行進し闘うために東京を発ったのである、八月だ、広島、原爆記念日を左翼どもからまもれ!
汽車をおりると駅のなかですでに、ヒロシマは暑かった、空は晴れわたって無機質の青だ、そこへ無機質の夏雲が突然まいおこる。なにもかも無機質の味がする、建築物群も、数多くの川も、地面も、そして夏自身も。人間だけが猛然と機関車のように湯気をたてて走りまわつている汗まみれの有機質だ。しかしその人間どもも、生きのこりのもの[#「もの」に傍点]凄さを汗の飛沫とともに体じゅうから放散している。夜行列車のなかでの若い党員の会話、≪広島か、牡蠣が食えるぞ!≫≪なんだい、田舎の貧乏人の常識のないのが、食通ぶるな! 命知らずの右翼にも、八月の牡蠣を喰わせはしねえよう、広島人だってなあ、八月の牡蠣は喰わねえ用心してるから、ヒロシマ原爆のみな[#「みな」に傍点]殺しのあとも、人間がほそぼそ生きのびられたんだあ!≫駅からのぞいて広島市街を眺めるだけでおれはほそぼそ生きているどころか、猛烈な精気の人間群に、これが生きのこり[#「生きのこり」に傍点]という者かと思うと吐気がするほど腹の奥にこたえた。おれは眼まい[#「まい」に傍点]まで感じるしまつで、駅頭からの最初の党の行進がはじまるまで、偽装平和大会反対[#「偽装平和大会反対」に傍点]! 、赤色対日文化侵略撃退[#「赤色対日文化侵略撃退」に傍点]! の駅の立看板のかげに座りこんで頭をかかえていた。
しかし市内への行進がいったんはじまると、おれは真夏らしい昂奮のなかにすぐ入りこんだ、そして敵が前方にあらわれると昂奮は真夏の水位よりもたかまった。おれたち青年行動隊は、国旗と党旗をかかげて徒歩行進だ、そのまえに三台の車が幹部たちをのせて先行する。車からは軍艦マーチ[#「軍艦マーチ」に傍点]、愛国行進曲[#「愛国行進曲」に傍点]、青年の歌[#「青年の歌」に傍点]、そして海ゆかば[#「海ゆかば」に傍点]がマイクの音量をフルに開いて叫びたて、また別のマイクからは党の中国本部長が訴え[#「訴え」に傍点]を叫びたてがなりたてる、≪ヒロシマ市民のみなさまに訴えます、平和大会は赤色偏向だ、左翼亡国連中の政治大会だ、赤色謀略でいっぱいなんだ、あいつらは日本民族の純真な祈りに色をつけ左にかたよらせソ連中共の侵略の下ごしらえのために、平和運動家などと偽装してやってきているのだ、ヒロシマ市民の皆様、みなさま、どうかわれわれの愛国の悲願の声にふれてくださあいい!≫おれたち徒歩部隊はビラをまいて進む、赤と青のザラ紙に、偽装平和大会反対[#「偽装平和大会反対」に傍点]! 赤色対日文化侵略撃退[#「赤色対日文化侵略撃退」に傍点]! と黒ぐろと印刷したビラだ、たちどまっておれたちの行進を好奇心でうっとりしてがやがや叫びちらしながら見おくる連中も、手にうけとるのを恐がっているのでおれたちはビラをふりまくだけだ、ビラは舞いあがり、風にはためき、おれたち自身の土足に踏みにじられる、偽装平和大会反対[#「偽装平和大会反対」に傍点]! 赤色対日文化侵略撃退[#「赤色対日文化侵略撃退」に傍点]!
突然、おれたちは左翼どもの気配を感じる、緊張し、戦いにそなえてビラをすべて一度にまきちらしてしまう、前方に大きい建物が見える、マイクが訴え[#「訴え」に傍点]をやめて、おれたち青年行動隊員に呼びかけはじめる、≪広島球場と児童文化会館のあいだの広場に注意せよ! 赤色全学連が汚らしいプラカードをたてている、明日の大会の準備をしているのだ、愛国的な青年諸君、左翼どもの待機する、前方の広場に注意せよ!≫おれたちは自動車隊の前に出る、児童文化会館のまえに全学連どもが五十人ほどむらがり、おれたちを罵っている、おれたちの耳にとどくまえに、かれらの罵声はマイクの叫びに吹きちらされる、マイクから怒りにむくれ充血した絶叫がとびだしておれたちをすぐ背後からおそい、おれたちをたちまちつんぼ[#「つんぼ」に傍点]にしてしまう、≪反動だ[#「反動だ」に傍点]、暴力団だ[#「暴力団だ」に傍点]と叫んでいるぞ、愛国者諸君、あの全学連どもは、恥知らず[#「恥知らず」に傍点]、暴力団[#「暴力団」に傍点]と叫んでいるぞ! 愛国者諸君、あの赤色暴漢どもは、恥知らず[#「恥知らず」に傍点]、反動[#「反動」に傍点]と罵っているぞ!≫おれたちは怒りくるって突撃する。プラカードをひき倒せ! くそっ、内閣打倒? くそっ、勤評反対? くそっ、米帝打倒? くそっ、くそっ、軍事条約を認めない? くそっ、くそっ、会場に殴りこめ! 四千人の全学連を蹴ちらせ! くそっ、原爆許すまじ? くそっ、二度とあやまりはくりかえしません? くそっ、死の灰はもうごめんだ? くそっ、下げビラを破きすてろ! 赤のやつらを殴りつけろ! おれの現実は後退しおれの映画[#「映画」に傍線]が始まる、暴れ者の主役おれは恐怖におびえた学生の眼の大写し[#「大写し」に傍点]のスクリーンに体当たりする、女子学生の髪をつかんで駆けるおれの手に髪一束、背後に悲鳴、ぎゃあああ、ああ、カメラでおれを狙うやつを見つけ会場の隅に追いつめ、棍棒をカメラにうちおろす、頭でカメラを覆う、ばかだ、頭を殴りつけると気をうしないカメラをおとし、自分の体の重みでカメラをつぶす、ぐしゃりと音がする、おれは演壇にむかって走る、鳩と花束のかざりつけ[#「かざりつけ」に傍点]を全学連どもが会場の天井の横木に吊りさげている、その紐を跳びだしナイフでごしごしやる、不意に鳩と花束は金属質の喜びの歌をうたって、全学連どもが怯えてかたまっている黒いかたまり[#「かたまり」に傍点]の頭上に墜落する、ぐわん、ぐわらん、真昼の市街を警察車のサイレンが四方八方から洪水のようにおしよせる、おれは会場出口に向って走る、そこここで多数の学生どもにくみふせられた党員が殴ったり蹴られたりしている。学生ども反撃開始だ、おれは三人の学生に前方をふさがれ迂回しようとし、連中が作業衣の上衣にもご丁寧に[#「ご丁寧に」に傍点]東大のバッヂをつけているのを見る、おれは叫びたてながら力のかぎり棍棒をふりまわし襲いかかる、ごん、ごん、ぐしゃり、棍棒が折れ淡い朱色の霧がおれに吹きよせる、怒りと恐怖で赤くなった学生どもの大群のおしよせるクローズアップのスクリーンにとびこんでゆく、おれは殴りつけ殴られ蹴りつけ蹴られ、猛然と衝突し、ひきずり倒され再び立ちあがり、衝突し殴りつけ殴られ、呻きながら敵を呻かせ、また倒れこんでしまう。おれにむかってのしかかってくる群集の顔のクローズ・アップだ、しかしそれはズーム装置の故障のように一瞬静止し、そして不意に学生どもの顔の大群は溶暗してしまう、ああ天皇よ、ああ、僕は殺されます、ああ天皇よ、再び明るくなるスクリーンはのぞきこむ警官たちの顔の大群だ、それは近づきクローズ・アップは過度に進行し、頬ずりされるほど近くの浅黒い顔が警官の声で≪起きられるかい、ひどくやられたなあ、暴力全学連どもめが!≫という、スクリーンすべてが警官の優しい同情にうるおった一つの眼だけでみたされる、スクリーンの外でおれ自身の声のナラタージュ≪天皇よ、あなたはぼくを見棄てませんでした、ああ天皇よ!≫
暑さと苦痛、日光の無機質の感じ、汗の匂い、音、叫び、汚れた空気の鼻腔内でのひっかかり、それらすべてが回復し、おれの頭からおれの映画[#「おれの映画」に傍点]をおしだしてしまう、現実[#「現実」に傍線]の八月のヒロシマがおれを再びうけいれる。おれは掌に血と髪とがこびりついているのを見る、≪他人の血、他人の髪だ≫おれはその掌をゆっくりズボンのポケットにしまい、善良なはにかみ[#「はにかみ」に傍点]屋の少年の声で訴える、
「独りで歩けると思います、お世話さまでした。暴行されましたけれど、報復は自分でやります。共産党流に、被害をふりかざして警察のみなさんを利用はいたしません、どうか行進に戻らせてください」
おれの完全な東京風アクセントが農村出の若い警官を一瞬くちごもらせる、しかしかれは頬を赤らめ微笑していう、
「行きなさい、独りで歩けるなら。まったくひどくやられたなあ、全学連の気狂いどもがなあ!」
おれは全学連どもがたちならぶあいだを昂然と胸をはってゆっくり歩き、かれらのくちぐちに低くつぶやく罵りの言葉を拍手のように聞いて外に出て行く。暑さと光線の大洪水のなかで行進の隊伍はくみなおされている、そして広島球場のジャイアンツ対カープ試合の大観衆のあげる熱狂のどよめきが驟雨の到来のように隊伍をおののかせる。学生たちは虚脱したように黙りこんで、破壊された集会場の入口の陽かげから隊伍を見送っている。太陽は一インチも動かなかったようになお頂上で天皇のように輝いていた、≪ヒロシマ市民のみなさまあ、ああ、訴えます、全学連のお、赤色暴徒は、われわれにい、挑発をしかけてきました、共産テロ団の常套手段でありまあす、ヒロシマを、赤い暴力からまもりましょう、悲しみをいだいて死んだ家族の冥福を祈るうヒロシマ市民の安らかな慰霊の日をお、全学連どもは、ああ、階級闘争の場にしておりますう、われわれはヒロシマの厳粛なる霊の祭りをお、日本民族の純真なる祈りとしてまっとおしたいのでありますう、それを赤どもは、内閣打倒などと無関係な政治色をもちこみ、踏みにじろうとしておりますう。赤どもは、われわれ愛国団体が平和大会に殴りこみをかけるという妄想を抱きましてえ、ええ、決戦するとか対決するとか偏向ジャーナリズムに踊らされていっておるがあ、売られた喧嘩ならばあ、われわれも買ってたたずばなりますまい、いい、皆さまあ、ヒロシマ市民のみなさまあ、みたまのごめいふくを祈りましょう、うう、祈りましょう、うう≫
飛行機が低空を旋回して爆音による威嚇をおこなう、おれたちの味方の爆音だ、ビラも撒いている、赤と青の、あのビラだ、偽装平和大会反対[#「偽装平和大会反対」に傍点]! 赤色対日文化侵略撃退[#「赤色対日文化侵略撃退」に傍点]! おれたちは旋回する飛行機にむかって暑さに唸りながらあおむき国旗をふって激震する、飛行機は翼を揺すって無機質の紺碧の空からこたえる。眼球があまりに激しい光にいためつけられ、空はたちまち青から紺碧、そして黒に色をかえる。繁華街で左翼の宣伝隊と衝突し殴りあいがある、敵の宣伝カーに乗りこもうとした党員が袋叩きにあう、救援に加わると、またサイレンをならして警察車だ。そこへニュースが入る、広島駅から無届けジグザグデモの全学連が県庁におしかけるというのだ、おれたちは絶頂まで昂奮して県庁前広場へ駈足前進をはじめる、罵声と暴力ざたと激怒の夏だ、おれたちは決してひるまないだろう! 赤どもの侵略から日本民族の純真な魂まつり[#「まつり」に傍点]を断乎としてまもりぬくだろう! 皇道党青年行動隊は、すでに真夏よりもなお、太陽よりもなお、昂揚し緊張し、爆発可能だ。県庁の建物が見えはじめるのと同時にジグザグデモの喚声がきこえはじめる、おれは国会前広場での暴力の劇の日々からずっと訪れることのなかった、至福の強姦者のすばらしく熱く、じんじんする全精神と全肉体のオルガスムスに、たちまちおそわれてしまい、駆けながら呻いて歯ぎしりする≪ああ、天皇よ、ああ、ああ!≫
夕暮に絶望的な暑くるしさと湿っぽさの凪がはじまると、闘争は終わった、明日の慰霊祭での行動をうちあわせるために幹部たちは、他の愛国団体との協議のために料亭へでかけた。おれは幹部をおくって行き、おなじ料亭に前屈みに入って行く、憂欝そうな中年男を見た、かれは体じゅうに鋼鉄の針金の束をつめこんでいるように硬く重く緊張しているのだった、しかも憂欝そうに影にみちている、かれがふりかえっておれの顔を死んだ猛禽の眼、激しく、また暗くどんよりした眼で見た。おれは会釈した。幹部をおくりこみ、あの男は鬼みたいだ、地獄の暗い青みどろの沼の鬼みたいだ、と考えながら宿舎にかえると、電話だ。おくったばかりの幹部からで、いまおまえの会釈した人物がおまえを若いが腹のすわった男らしい[#「若いが腹のすわった男らしい」に傍点]、きっと大事をなすだろう[#「きっと大事をなすだろう」に傍点]といった、とおしえてくれ、その人物の名前を、あの伝説的な暗殺者の名前をつげた。おれは身震いし、口腔を乾かせ、溜息をついた。試験の成績のよかったときの感情に昂ぶりを思いだした、受話器をおく手が震えた、≪あの鬼のように憂欝で緊張しきった中年男が、テロをおこない既に人を殺した[#「既に人を殺した」に傍点]男なのだ、その男がおれを……≫
宿舎にきた医者から、おれは体じゅうに二十個の打撲傷を発見された、仲間たちのなかには骨折した者もいた、しかし宿舎は静かで、幹部が戻ってくるとその報告を聞き(明日の左翼どもの大会を実力阻止することはせず、市主催の慰霊祭に身を潔めて参拝する、市民の純粋な祈りをさまたげることのないように)祝詞をささげて就眠した。広島では夜、人間の死肉の気配に刺激されて犬が吠えると言う話を聞いてきたが、それは聴えず、ただ暑い夜の広島全体がかすかに臭うような感じだけがいつまでもおれの眠りをさまたげた。おれはしだいにその臭い[#「臭い」に傍点]を現実のものと感じはじめ、あの暗殺者が夜の暗い片隅に目をひらいたまま横たわり、その臭い[#「臭い」に傍点]をかぐさまを空想した、≪あの鬼が予言したんだ、これは絶対に正しい予言だという気がする、若いが腹のすわった男らしい[#「若いが腹のすわった男らしい」に傍点]、きっと大事をなすだろう[#「きっと大事をなすだろう」に傍点]……≫
朝、おれたちは斎戒沐浴し団旗と黒い布をまきつけた弔旗の日の丸を先頭に整然と厳粛に慰霊祭にもうでた。昨夜の幹部報告で今日は左翼どもと闘う機会がないとわかっていた、それでおれは広島に、原爆ドームに、隊の行列を好奇心に酔って眺めるびっくりした人間に、興味をうしなってしまった。結局おれにとっては、そこがヒロシマであろうと札幌であろうと仙台であろうとよかったのだ。そこは単なる夏の盛りの汗まみれの人間のすむ一地方都市にすぎなかったのだ。おれは若い右翼として、汚い赤どもと戦い、天皇の栄光をまもりとおすことのみに情熱をよびおこされるのだ。原爆、戦争の悲惨、平和への希い、ヒューマニズム、そんなことはおれと関係がない、第二次大戦のあいだ、おれはほんの子供だったのだ、その光輝に関係なく、その悲惨、その原爆をフィナーレの大合唱とする悲惨にも、まったく関係はないのだ。むしろ天皇をまもるためにならニューヨークへでもモスクワ、北京へでも原爆を投げこんでやる、もし広島が赤どもの牙城になったならもう一度こんどはおれが原爆を投じてみな[#「みな」に傍点]殺しにしてやる、それが正義だ。もし日本じゅうが赤どもだらけになり、日本人民共和国ができたら、おれは天皇をカンヌにうつしたあと、ヒロシマ原爆の十万倍の威力をもった核反応装置で日本全土をふっとばしてやるだろう、それが天皇の子の正義だ。おれはその朝の時刻、その記念すべき土地にいあわせた人間群のなかで、カメラを肩にしたフィリッピン人たちの一団をふくめても、すべての人間のうち最も、原爆による死者に関心うすい者であっただろう。≪爆発してしまった原爆、死んでしまった三十万人、それがなんだというのだ、暑い空気を一瞬のやすみなく肺におくりこみつづけ汗をにじませるこの群集に! おれたち生きている群集に膨大な死者の誰ひとり声さえかけられないじゃないか、なんの関係があるというのだ、なんだというのだ!≫
花束のうずたかい山に陽が灼かれ、線香の汚らしい煙の霧がたちこめて喘息の種になっている納骨塔にむかって三分間の強いられた黙祷のあいだ、おれの考えていたのはノグチ・イサムの造ったばかでかい[#「ばかでかい」に傍点]コンクリートの橋のことだ、広島支部の党員によれば、あの巨大な橋じゅうのいぼいぼ[#「いぼいぼ」に傍点]は男根と女陰を示すのだ、灼熱の太陽にやかれる無機質の戦後都市で、三メートルほどの大男根、大女陰が、百本ほどもにょきにょき[#「にょきにょき」に傍点]突起して叫ぶのだ、≪みな[#「みな」に傍点]殺しの原爆にやられたんだあ、生きのこりは昼も夜もやってやって[#「やってやって」に傍点]やりまくれえ、生んで生んで生みまくれえ!≫戦争中、疎開した農村へ浪花節と一緒にきた女歌手が歌ったといって兄に教えられた歌、ノグチ・イサムがヒロシマに建造して人類滅亡をふせごうとした悲願の大橋の絶叫する歌だ、≪どおかねえ? やったかね? しっかり、しっかりやっとくれえ! どおかねえ? 生んだかね? しっかり、しっかり生んどくれえ!≫
不意に他人の震えおののく手が、おれの頭に縋るようにふれた、おれは体をこわばらせてふりむき、中年の醜い女のすすり泣きながらおれを見つめている暗くて悲しみにふくれ溶けてしまいそうな鬱血した眼を見た。おれは不可触賤民にさわられたように怒りでどす[#「どす」に傍点]黒くなった頭を女の指からふりはなし、女を蹴りたおそうとし、女のすすり[#「すすり」に傍点]泣きながらのつぶやきを聴いた。
「ああ! あの子が生きていたら、ああ! あの子が生きて育っていたら」ああ、唾だ!
おれは死ぬほど忍耐して、できるだけ優しく一歩しりぞいた。女は追い縋ろうと恥しらずに試み、急に怯えて立ちすくんだ。おれは女がおれの腕章の文字、皇道党[#「皇道党」に傍点]を読んだことを知った、それで面倒はおわった。おれは仲間を追って駆けだしながら唾を吐きつづけた。そして群集の流れをさかのぼって花束と線香の屋台店の数しれない華麗で安っぽい連なりの向うへ出た瞬間、広場の大群衆が雷にうたれて硬直し静まりかえったのだ、ふりかえると背後の大群衆はばかみたいに眼をつむって何十年まえにおこなわれたみな[#「みな」に傍点]殺しをしのんでいた、八時十五分、ノグチ・イサムに電報をうって追加工事させなければならないことが何か、おれはそのまの悪い[#「まの悪い」に傍点]瞬間にさとった、≪毎年、原爆の日八時十五分に、平和大橋の巨大女陰群に、ミルク一合ずつ発射させる装置たのむ、国連ビルの噴水の要領でよし、巨大女陰群につきては勘案待つ≫おれのために特に一本もらって、そのコンクリート男根射精パイプからは唾を一リットルだけ噴出させよう……
午後は自由時間だった、退屈で空虚だ、おれは独りぽっちで映画を見に行った、アラン・ドロンがご馳走の匂いを嗅いでいるような頭にくる[#「頭にくる」に傍点]眼つきで突然、友達の肥った青年の胸をぐさっ[#「ぐさっ」に傍点]と刺したシーンがよかったが、お祭り気分の広島人どもで満員なのだ。おれは窒息するまぎわでうまい具合にそこを脱出し、命からがら原爆資料館を見に行った。しかしそこにも気晴しの種などはなかった、原爆にやられたぼろぼろ[#「ぼろぼろ」に傍点]人間の写真を見て、こいつらよりおれが原爆のことをよく知っているんだと考え優越感をおぼえたこと、ケロイドの馬を実験用に殺す写真の前で涙ぐんだこと、被爆後の土に育ったオオイヌフグリやハコベの標本が細胞を破壊されたなりに美しい草の葉だったこと、それだけが気分に余裕のできたことどもで、ひとまわりするとおれは嫌悪と苛だちで気も狂わんばかりになり不潔な便所で二十分間も吐いていた。それからおれは絵葉書売場で、裸で死んでいる若い兵隊の写真のやつを一枚だけ買い、東京の本部で留守部隊を統率している筈の安西繁に通信を鉛筆でかきおくった。
≪広島は暑くて最テイです。幹部は弱腰で赤ドモの偽装平和大会をボンヤリ見逃しています、来るほどのこともなかりけり。昨日のみひと暴れ、心気爽快でしたが。過激になればなるほど大御心にかなうのではないでしょうか?
原爆資料館の日本民族の恥をさらす醜怪な写真その他を見るにつけても、天皇陛下にこのようなケガラワシイものをお見せしてはならぬ、広島行幸を一身をカケてもおとめしなければならぬ。決心固くいたしました。
明治天皇《オオキミ》陛下のますらおぶりを偲ぶれど大本営|跡《シ》荒れに荒れたる
下克上の世に憤怒しますね≫
絵葉書をポストにいれて宿舎に戻ると、外出せずテレビを見ていた幹部たちが色めきたっていた。テレビは広島からの特別番組を正午から放送しつづけている、原爆の日特集だ。東京から招かれた若い作家たちの座談会もプログラムの一つだった、その座談会で、南原征四郎という、最も若い、学生あがりの作家が広島では皇道党が愚連隊なみの暴力ざた[#「ざた」に傍点]をつづけている、と特に東京方面ネット・ワークの視聴者にむかって報告した、というのだ、テレビ会社への抗議は幹部たちがやる、青年行動隊のものが南原という若造をつかまえて謝罪させてくれ、あいつはまだテレビ局のスタジオでまごまごしている筈だ。
おれだけ独り、青年行動隊員が外出から帰ってきたわけだった、他の連中は映画館のなかで悪い空気を吸って病気になるべく大奮闘しているだろう。おれは南原という作家の本を姉がもっていたことがあるのを思いだした、写真をおぼえている、その南原が防衛大学生についていいき[#「いいき」に傍点]な悪口を新聞にのせて、姉を怒らせたのだ、おれは姉にかわって南原の本を三冊、古本屋に棄て値で売りに行った。≪あの野郎、またおかしなことを出演料分だけいったんだ、猿芝居の赤い仔猿めが!≫おれは幹部にひきうけた、といった。独りでいいか? 大丈夫ですよ、たかが作家なんだ、皇道党の腕章だけ見せれば、震えあがって小便をもらしながら泣いて謝るでしょう!
おれは勇躍してテレビ局にむかい、党の広島支部がやっているタクシーを走らせた。南原は、おれが探しにくるのを待ってでもいたように独りぽっちで、テレビ局のビルの一階のガラス板で舗道からへだてただけの見通しのいいティ・ルームの一番隅っこに腰をおろして憂い顔で桃のシャーベットをなめていた。おれはだまったままティ・ルームに入って行き、南原に向いあった合成樹脂の椅子に座って、
「皇道党のものです、抗議に来た」と鈍く嗄れさせた若い右翼の声[#「若い右翼の声」に傍点]でよびかけた。
南原はゆっくり顔をあげておれを眼鏡のむこうの細くて濃い茶色の女性的な険しさをもった眼でびっくりしたように見つめた、その眼の最初はかんまんに[#「かんまんに」に傍点]そしてしだいに激しく表情の転換があった、≪こいつは誰かを待つために舗道からの眼にいちばんあらわな所でじっとしていたのだ、そしてその誰か[#「誰か」に傍点]のかわりにおれが来たのだ、こいつは眼の表情で心の中の動きをみな陳列してしまうやつらしい、インテリだ、拷問されるまえに洗いざらいぶちまけて泣き喚く型だ、こんなやつを使って非合法活動をやるとしたら共産党はイチコロだ≫南原の眼のふわふわ揺れる焦点が、おれの眼のあいだにきまる[#「きまる」に傍点]までおれは第二撃を待ってやった。
「貴様はテレビで皇道党のことを愚連隊なみだといったなあ、暴力ざた[#「ざた」に傍点]をつづけているといったなあ、その皇道党員として抗議に来たんだ、責任をとってくれ」
恐怖が、もの凄い山火事のような恐怖が、南原の眼にひろがった、恐怖は液のように眼の奥からにじみだしつづけた、茶色の虹彩、葡萄色の瞳、それがこの真昼の明るさのなかで夜の眼のようにひろがり、恐怖がそこをひたしている、頬が白く硬くなりこめかみ[#「こめかみ」に傍点]がひくひく痙攣し、唇が唾にぬれた桃色の歯茎のみえるまでひらいた。叫ぶのか? とおれは一瞬狼狽して考えたがそうでないのだ、おれはこのように完璧に(いわば過度に)恐怖にうちひしがれる男をはじめて見たと思った、こいつは百人分の恐怖ガソリンを頭のなかの臆病の車庫に[#「臆病の車庫に」に傍点]ストックしておいたんだ。おれはズボンのポケットのなかで跳びだしナイフの留めボタンをはずし、そのまた親指の腹に力をおくりこんだ、がちっ[#「がちっ」に傍点]と音がする、銀色の切っ先が二センチほど、ズボンの布を刺しつらぬいて表の熱い空気にふれてくもる、それが透明なテーブルの下に見える、南原は怯えて肩をおとし恐怖の眼でそれをさっと[#「さっと」に傍点]見るとすぐに眼をつむってしまった、震えている白く広い瞼のまるみ、そして気がつくと顔いちめんにひりひり[#「ひりひり」に傍点]する汗の粒だ、青ざめて汗をかいて南原征四郎は恐怖の海にすっかり潜りこんだのだ。おれは兎を穴に追いこんだ猟師だった、急ぐことはない一服しよう、恐怖映画見物だ、それもスクリーンにあけた覗き穴から恐怖におののく観客席を眺める娯しみだ。ついで驚いたことには閉じた瞼のあいだから猫を殴ったときのように、脂《ヤニ》のような少量の涙がにじんできて、おれの娯しみを絶頂に追いあげた、おれは笑いだしたくなるのをこらえるために死ぬ苦しみで、しかもこの臆病な売国左翼にサディックな憎悪と軽蔑とを吐きたいほど激しく感じたのだ、南仏の青く透明なプランクトンのすむ海にヨットをうかべフランス俳優が演じたアメリカ青年の刺殺場面のように、おれはナイフをつきだしたかった、暗い眼をしたアラン・ドロンのようにでなく兇暴な独裁者の哄笑とともに自分が腹を殴られたようにのけぞって、こいつ[#「こいつ」に傍点]を虐たらしく刺し殺してやりたい……
「おれは貴様を刺す。辱められた皇道党広島行動の責任をとって、おれが貴様を刺し、逆木原総裁はじめ党友の先生たちに申しひらきする。殺しはしない、腹を刺すだけだ、すぐ救急車をよぼう」
眼をつむったまま南原征四郎はぞくっと震えた、しかし黙ったままだ、おれは余裕と昂奮とをますますしっかりと体じゅうにみたした、右翼エネルギーの満タンクだ、おれは南原の恐怖の水でぐっしょり濡れた頭のなかを見とおすことさえできた、なぜなら天皇の選ばれたる子は全能だからだ、≪おまえ[#「おまえ」に傍線]はいま目も昏むばかりの恐怖の水たまり[#「たまり」に傍点]に頭半分までつかっている、口腔はからからに乾き舌の根は痛い。明るすぎる光、強すぎる太陽熱、それをいまさらのように体じゅうに感じる、そして輝くブルーの空に吸いこまれてゆくような気がして貧血だと感じる、繁華街の噪音が、腹だたしくうらめしい[#「うらめしい」に傍点]、こんなに多くの人間が恐怖なしに[#「恐怖なしに」に傍点]生きてばからしい[#「ばからしい」に傍点]動作を続けている真ん中に、おまえ[#「おまえ」に傍線]だけ恐怖におののいていなければならない、独りぽっちだ、悪寒がする小便をちびちびもらす涙もにじむ鼻水がたれる喉がチクチク痛む風邪ぎみだ、ああこんなに熱い地方都市にわざわざくるんじゃなかった、無意味だ、おまえ[#「おまえ」に傍線]はこれが現実でなかったら! と希い、現実に暑がりながら実在していることを不動に感じてがっかり[#「がっかり」に傍点]し、テレビであんなことをしゃべらなかったらよかったと心のなかで繰り言[#「繰り言」に傍点]の洪水だ、作家仲間がテレビの時間のあいだに訂正するよう注意してくれたらよかったのに、作家仲間が独りぽっちにしないでくれたらよかったのに。おまえ[#「おまえ」に傍線]はうらめしい。暑い空気、汗、テレビ化粧のあとの皮膚の不快さ、きつく喉をしめつけているシャツとネクタイ、このごろ肥りすぎだ若いのに[#「このごろ肥りすぎだ若いのに」に傍点]、このまま中年肥りになるのか? 合成樹脂のテーブル、椅子、それにさっきまで甘くて冷たいシャーベットをのんでいた小さなピンク色のクリトリスみたいなスプーンまで合成樹脂だ、軽く脆い、おまえ[#「おまえ」に傍線]はなにもかもがうらめしく腹だたしく不当に思われ叫びだしたい、しかし恐怖はいぜんとしておまえ[#「おまえ」に傍線]の前に清潔に乾いた顔をして座っている、さあ、唇がひくひくうごいた、瞼もひくひくした、おまえは泣きべそをかきながらおれに哀願しひざまずくぞ、さあ!≫
南原はまぶしそうに涙で赤く汚れた眼をうっすらとひらき、おれをみつめ頬はこわばらせたまま、真剣なゆっくりした調子で、
「ぼくは黙って刺されるつもりはない、きみがそうするなら、僕は抵抗するぞ」といった。
おれは呆然とした、こいつは三十分も汗を流しながら恐怖の海をもぐりつづけ、うちのめされたあげく、こんなことをいうのだ、ナイフを握ったおれに、眼をつぶって無抵抗に敗けていた三十分間のあとで! ふざけた野郎だ、しかしおれは、南原がたしかに幾分、恐怖からたちなおりはじめているのを感じとってあっけ[#「あっけ」に傍点]にとられた。まったくふざけた野郎だ! それでもおれは戦術を変えなければならなかった。
「あの隅に赤い電話がある、あれを使ってテレビ局に取り消し[#「取り消し」に傍点]の申し出をしろ、皇道党が暴力ざた[#「ざた」に傍点]をひきおこしたと思ったのはまちがい[#「まちがい」に傍点]で、愚連隊なみという言葉は不用意に使ったがすまなかった、と放送させろ!」
南原はちょっと眉をひそめ赤い眼をはるかな遠い所へただよわせた、敗け犬の不体裁なみじめさと、おれにはわからない奇妙な恐怖への忍耐力といったものをおれは感じた、こんな野郎には会ったこともないという感じなのだ、それからやっと南原は小さな咳をしてからくちごもって[#「くちごもって」に傍点]始めた、
「ぼくは取り消さない、皇道党は暴力ざたをひきおこした、これは記録も証人もいる、それにぼくの使った愚連隊なみという言葉は、よく考えての上だし、月並みだがぴったりしていると思う」
おれはいつのまにか押しこめられてきていた、おれはかっと[#「かっと」に傍点]腹を立てた。南原のふてぶてしさ[#「ふてぶてしさ」に傍点]に始めておれはつきあたったように感じた≪おまえ[#「おまえ」に傍線]は臆病ものだ、それは確実だ、泣くほど恐怖におののいた、そして今も深い恐怖から解放されていない、唇は震え体全体はちぢこまったまま汗まみれだ、鼻から汗のしずく[#「しずく」に傍点]がテーブルにおちるほどなのに顔もぬぐえない≫しかし南原はその恐怖にじっくりととりくみ少しずつ押しかえし、そして回復した陣地はてこでもゆずるまいとしているようだ、しかも嵩にかかったりはできないらしい、いつまでも恐怖に耐えながらの苦しい匍匐前進をしているらしい。おかしなやつだ[#「やつだ」に傍点]、皇道党にはこんなのはいない。おれは党に入ってからいままで感じたことのない得体のしれない不安にとらわれた、おれはじりじり[#「じりじり」に傍点]していった、
「確かにおれたちも暴力をふるったよ、だけど全学連だって暴力じゃないか?」
南原の涙に汚れた赤い眼がほんの少し大きく見ひらき、おれを見つめた、おれはいたずらっぽい[#「いたずらっぽい」に傍点]感情の一瞬のひらめきみたいなものをそこに感じたと思ったが、うまくとらえられなかった。おれは自分が頭の悪い、単純なセヴンティーンの生地をあらわしてしまったという気がした、もうおれの右翼の鎧は威力を発揮できそうになかった、≪糞っ! おれはこいつが臆病風に吹かれて泣いているあいだ三十分間も待ってやったんだ!≫おれは荒あらしく椅子から立ちあがった、南原は怯えて身がまえるようなそぶり[#「そぶり」に傍点]を見せた、抵抗しないで刺されるつもりはないという所だろう、おれは棄て台詞をのこして暑い表に出た、やっと気がついたがティ・ルームでは役立たずの冷房機械が大奮闘していたらしい。
「おれは貴様をいつか必ず刺す、左翼の売国奴どもを生かしてはおけない」
待たせておいたタクシーに乗ってふりかえると南原征四郎はぐったりと坐ったまま心臓の悪い人間のように唇をあけて呼吸していた、まだ恐怖の残り糟[#「残り糟」に傍点]がくすぶっているのがわかった。
「兄貴、ずいぶんとっちめて[#「ずいぶんとっちめて」に傍点]いましたねえ」と党の息のかかっている運転手がいかにも愚連隊なみにいってよこしたが、おれは答えなかった。おれは暗雲をよびおこす[#「暗雲をよびおこす」に傍点]といったふうな一つの疑惑にとらえられていたのだ、≪あいつは臆病者だが三十分間も汗を流し涙をにじませて恐怖のトンネルの暗闇を匍匐前進しつづけ、すこしずつ忍耐のあげくの立ちなおり[#「立ちなおり」に傍点]をかちえた。ああいうやりかたで生きている青年もいるのだ、現実の恐怖から眼をそらさず、現実の汚辱から跳びたって逃れず、豚みたいに現実の醜く臭い泥に密着した腹をひきずり匍匐前進する。ところがおれは現実の恐怖から全速力で逃げさり、天皇崇拝の薔薇色の輝きの谷間へ跳びおりたのだ! もしかしたら、あいつのほうが正しいのではないか?≫おれは愕然と身震いして頭の隅ずみから、この暗雲を追いはらった、そして大きい声で運転手に話しかけた、
「今夜はきみの会社の社長が、おれたちをキャバレーに招待してくれるんだってなあ、どんな所だ?」
「社長が経営しているんですよ、東京からジャズ屋もよんであるんです、大変なもんですよう、兄貴のように若い人にも面白ければいいけどねえ」と党員運転手は厭味まじりに叫んでよこした。「大いに広島名産の酒でも飲んで平和大会見のがしの鬱憤を晴らしてくださいよ、兄貴」
原爆の日の広島行動が終わったその夜、おれたちは広島支部長の招待を充分に娯しんだ、キャバレーには外部の客もいたが、おれたちの天下だった。東京からよんであるジャズ屋というのは浅黒く豊富な髪を油で帽子のようにかためた陰気な若い男でピアノを弾いた、ジャズではなくおれたちのリクエストする愛国行進曲[#「愛国行進曲」に傍点]や軍艦マーチ[#「軍艦マーチ」に傍点]を。そして荒城の月[#「荒城の月」に傍点]をひかせてみんなが合唱するころになると、おれは酒をがぶ[#「がぶ」に傍点]飲みして酔っていたので、そのピアニストの麻薬中毒らしく青黒く荒んだ憂欝な顔が気にならなくなっていた。そしておれが酔っぱらったのは運転手がいった鬱憤のためではなく、おれの胸の深くに根ざしたあの疑惑のできもの[#「できもの」に傍点]の芽をアルコールで殺すためだったのだと思う。だからおれが飲みすぎて悪くなった気分をなおすために化粧室へ吐きにいって楽師控室[#「楽師控室」に傍点]と書いた紙を鴨居に吊りさげたまま扉のひらいている部屋の汚らしい長椅子に南原征四郎がウイスキーの丸瓶を握って寝そべり床においたテープ・レコーダーからのジャズ・ピアノを聴いて唸り声をあげているのを見つけた時には酔いからの幻覚だと思ったのだ。しかしそこにだらしなく寝そべって泥酔し頭をふらふら揺すってテープの音楽に声援をおくっているのは確かに現実の、あの匍匐前進の若い作家なのだ、そしてテープからもピアノ音楽にまぎれこんだその若い作家自身の声がきこえている、≪そうだ、そんな風だ、そんな風なフレイズがお前自身だよ、オリジナルだ、そうだ、もう一度、ほら、お前の頭のなかが見えるよ、そうだ……≫それに加えてまた長椅子の男はつぶやいたり唸ったりする、≪そうだ、それがお前だ、そうだ、うん、うん、お前は立派ないい男だ、そうだ、しっかりしろ、オリジナルだ≫おれは部屋のなかへ入ろうとした、化粧室へ案内してきた熊のような頭の女給がおれを廊下へひきずりだそうとしてささやく、お止しよう、私の部屋へ行こうよう、その男は変態だよ、あのジャズ屋についてきた同性愛の変態だよ、ほっといてわたしの部屋へ行こうよう、ねえ、お止しよう≫
酔い[#「酔い」に傍点]の毒で膿み爛れている眼鏡をはずした裸の顔を南原征四郎が努力をかさねてもちあげ、眼をこらしておれを、テープ・レコーダーを蹴とばして音楽を中絶させたおれを見あげた、一分間もたってやっと南原はおれを認めた、そしてアルコールを浸したような声でとぎれとぎれに、
「あの優秀な、ジャズ・ピアニストに軍艦マーチをやらせているのは、お前たちか? よお、少年右翼よ、ハイティーンのエネルギーで君が代[#「君が代」に傍点]か、よお」とからんでくるのだ。
おれは黙ってこの足もとの酔いどれ[#「酔いどれ」に傍点]を見おろしていた、まといつく女給は嗄れ声で、≪昨日の夜遅くねえ、薬を注射してねえ、二人で録音してるんだよ、同性愛だよ、レコードにして売ればいいよねえ、いひひ、酔っぱらいの変態放っといて寝にいこうよう≫とささやきわいせつ[#「わいせつ」に傍点]なくすくす笑をもらすのだ、おれはウイスキーの瓶に丸くひろげた唇をあてようとしている酔いどれ[#「酔いどれ」に傍点]にたいして完全な優越感をもった、≪おまえ[#「おまえ」に傍線]はやはり恐怖からのがれられないんだ、恐怖のなかを匍匐前進するかわりに夜になるとウイスキーや麻薬、同性愛に変ちくりん[#「ちくりん」に傍点]なピアノ、そんな泥温泉にうずまって傷を癒すんだ、おまえ[#「おまえ」に傍線]はどんな幻影のなかにも逃げこまないけど、そのかわり腐った汚物槽にいつも漬かっていないと不安なんだ、おまえ[#「おまえ」に傍線]は下向きだ[#「下向きだ」に傍点]、輝かしいオルガスムのような上向き[#「上向き」に傍点]はおれだ≫
「よお、少年右翼、おれを刺すんだろ、いまやってくれよ、なあ、酔ってると痛くないんだぞ、そのっかわり明日の宿酔はもの凄いがなあ、あはは」と豚はからみつづける。
「おれは貴様のようなげす[#「げす」に傍点]は刺さない、貴様はどうせ腐って死ぬ。おれは大物を刺す、おれは売国奴を刺す」とおれは答えた。
「ハイティーン右翼よ、おまえになぜ、その権利がある?」と豚は一瞬真剣にいった。
「おれはおれの命を賭ける。権利じゃない、使命だ、日本を最も毒するやつを、おれの命を賭けて刺す、それがおれの使命だ!」おれは叫び、疑惑なしに再び幸福な薔薇色の雲を体のまわりに感じた≪おれは勝った!≫
豚は昂揚しているおれを見あげて頭を弱よわしくふり欠伸をし長椅子から泥だらけの床におちるとテープ・レコーダーに頭をのせて不意に熟睡していた。おれは豚の頭に唾を吐きかけ、女給にひきずられるまま廊下にでた、女はおれの股倉をどすん[#「どすん」に傍点]と叩き、疑わしげに≪あんた童貞?≫とどなった、おれは、あの豚にうち克ったのだと感じると急に立っていることが耐えがたいほど酔いを感じた、おれはどこか暗くていい匂い[#「いい匂い」に傍点]のする柔い場所に倒れこみ、それから裸にひきはがれ、鬼のようにひげもじゃ[#「ひげもじゃ」に傍点]の田舎女給にてもなくひねられ、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]と叫びながら童貞でなくなった……
東京に帰る特急列車のなかで、おれはおれの使命[#「使命」に傍線]という新しくおれの家畜小屋に入った優秀な種牛のような言葉について考えた。使命、生命を賭けて果たすべき使命、おれは体の深みに熱い火のようにそれが燃えているのを感じながら窮屈な石の台のように固い座席に坐って疾走した。≪おれの使命、それはいつかおれが逆木原国彦に希望をのべたように、防衛大学に入学して同志を集め、クーデターをひきおこすことだろうか?≫おれはこの六月以来、ほとんど学校の勉強をしていなかった。受験勉強は独りぽっちではできない、ところが学校の教師はおれを敬遠しているし、同級生たちはおれを好奇心と懼れとに体を硬くして遠くから眺めているだけだ、あれではおれの受験勉強のたすけをしてくれる者を見つけることは不可能だ。防衛大学は年々受験生がふえて受験が難しくなってきている、それに東大と防衛大学とを二股かけて受験するような厭らしい秀才もいるんだから受験生のレベルはかなり高いだろう。それに防衛大学は学科の面では理科系の学校だから、試験で重視されるのは数学と物理、化学、すなわちおれが学力テストで惨敗した科目なのだ。おれは漠然とした恐怖を感じ、それはしだいに明確な輪郭をとっておれの心を苛みはじめた、≪ああ、おれはとうてい防衛大学に合格できないだろう!≫
しかし[#「しかし」に傍線]、選ばれた右翼の子[#「選ばれた右翼の子」に傍点]、真の右翼の魂をもっている[#「真の右翼の魂をもっている」に傍点]と逆木原国彦から証言されたおれ、あの伝説的な暗殺者によって若いが腹のすわった男だ[#「若いが腹のすわった男だ」に傍点]と批評され、きっと大事をなす[#「きっと大事をなす」に傍点]と予言されたおれが、右翼の人間としての使命をはたすことができないという筈があろうか? それは絶対にありえない、それは絶対にありえてならない、不合理だ。
おれは混乱して誰かおなじ皇道党員に問いかけたいとまわりを見まわした。みんな闘争と歓楽に疲れきって座席に体を苦しそうに折りまげ眠っている。おれは窓から走りさる風景を眺めた、粗い砂礫と赭土の直立した壁がおれの眼に不快な強制をおこなうような気がする、おれの眼の奥のどろどろして重い水銀のような脳漿をぐいぐい後方に曳くような感じだ、おれは眼をつむった、おれはできの悪いインポテの高校生だと常に感じていた日々のことを思った、たえざる劣等感、他人の眼、自信のなさ、憂鬱、≪おれはほんとうに、右翼になったことで本質的に変わったのだろうか? ただ右翼になったというだけで、なかみ[#「なかみ」に傍点]はあいかわらずできの悪いインポテの高校生にすぎないのではないだろうか? どこに、おれが真の右翼の魂をもっている選ばれた少年だという証拠があるのだ? おれはあの若い作家の豚が刺されても曲げまいとした表現のとおりに、愚連隊なみの小っぽけなぐず[#「ぐず」に傍点]にすぎないのではないか? おれは豚のような酔いどれ[#「酔いどれ」に傍点]のことから、今朝抱いて寝ていることを発見して心底驚いた汚らしい病気の犬のような女給と、眼ざめるすぐ前におれの唇にくすぐったくふれたその長く黒い鼻毛のことを思いだし、自己嫌悪の毒におかされた、おれは梅毒にかかっているかもしれないのだ! おれは昨日、あの作家の豚に刺激されて、皇道党入党いらい始めての疑惑にとらえられた、そして今日おれはやはり入党いらい始めての暗く湿っぽく激甚な自己嫌悪の毒を味わっている。≪ああ、平和がいけないんだ!≫とおれは声にだしていった、平和がいけない、おれは国会前広場での闘いが終わったとき、静謐のなかの議事堂を眺めながら保守党の代議士寄贈の缶ビールをのんで感じた奇妙な寂しさとうろ[#「うろ」に傍点]寒さを思いだし、平和大会見逃しの決定に感じた不満と興味喪失とを思いだした。また逆に、深夜の乱闘のあいだにつねに見た黄金の光輝をともなって現れる燦然たる天皇、広島でも実力行動にあたっては体験することのできた全精神、全肉体の天皇へのオルガスムを思いだした、≪ああ、ほんとうに平和がいけないのだ! 天皇よ、どうすればいいのか教えてください、天皇よ、天皇よ!≫
めざましく峻烈な汐の香が、一瞬おれの疲れた鼻孔をはじけるほど緊張させた、おれは眼をひらき、窓いちめんにひろがる夕暮の海を見た、そしておれは叫んだ、
「ああ! 天皇陛下!」
真実、天皇を見たと信じた、黄金の眩い縁かざり[#「縁かざり」に傍点]のついた真紅の十八世紀の王侯がヨーロッパでつけた大きいカラーをまき、燦然たる紫の輝きが頬から耳、髪へとつらなる純白の天皇の顔を見たと信じた、海にいま沒しようとする太陽だ、しかし太陽すなわち、天皇ではないか、絶対の、宇宙のように絶対の天皇の精髄ではないか! おれは啓示[#「啓示」に傍線]を海にしずむ夏の太陽から、天皇そのものからあたえられたのだ、天皇よ、天皇よ、どうすればいいのか教えてください、と祈った瞬間に! ≪おれは啓示[#「啓示」に傍線]をえたのだ!≫
おれの叫びで眼をさました党員たちが犯人を穿鑿してどよめき始めた、おれは眼をつむって寝ているふりをした、そして歓喜にみちあふれて啓示を心のなかにくりひろげ確かめた、≪啓示[#「啓示」に傍線]、おれは自分の力でこの毒にみちた平和を破壊することによって、天皇にいたるのだ、啓示[#「啓示」に傍線]、おれは自分の力で真の右翼の魂をもっている選ばれた少年としての証拠をつくりだすのだ、啓示[#「啓示」に傍線]、おれは自分の力でおれを祭る社、おれを守る右翼の城をつくりだすのだ≫おれは昨夜、酔っている自分が豚の酔いどれ[#「酔いどれ」に傍点]にむかって投げつけた言葉がそれ自身で強制力と権威とをもっておれに再び戻ってくるのを感じた、日本を最も毒するやつを、おれの命を賭けて刺す、それがおれの使命[#「使命」に傍線]だ!
この新しい言葉から始った思考がひとめぐり[#「ひとめぐり」に傍点]して再びその言葉に戻り、円環は啓示をかこんで閉じた、そしておれは至福の昂揚のなかで優しく甘い華やかな声を聴いたのである、≪おまえの命を賭けて日本を毒するものを刺す、それは忠だ、私心なき忠[#「私心なき忠」に傍線]だ、おまえは私心をすて肉体をすて、真の忠を果たして至福にいたるだろう、それは神々の結婚のようであるだろう≫おれは満足と平安の睡りをねむりはじめた……
東京に帰りついて本部に急ぎながら、おれが考えていたのは、この啓示を安西繁に話すことだった、しかし安西繁はおれたちの広島行動のあいだに、皇道党を脱退していた。逆木原国彦は、それを知った若い党員を動揺から回復させるために、道場で特別講義をおこなった。それは直接に安西繁の脱党にふれるものではなく、昭和二十年八月二十五日朝、右翼の塾士十四人が古式にのっとって行った集団割腹自決をめぐる講話であった。
敗戦にのぞんでかれら愛国の士たちは慟哭して陛下に詫び、死か蹶起かを論じ、ついに一同自決を決意した、かれらの一人が最後の酒宴にあたって朗吟した天忠組三総裁の一人松本奎堂の辞世歌≪君がためみまかりにきと世の人に語りつぎてよ峯の松風≫、またかれらが署名した共同遺書≪清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓って無窮に皇城を守らむ≫、夜明けにかれらは元代々木練兵場の一角、通称十九欅の傍らで割腹した、直接参加者は一人も生きて残らないが、自刃予定書によれば、祝詞奏上のあと初秋草の咲いた草原に円坐し双肌をぬぎ刀に白布を卷き、
≪一、先生
「覚悟はよいか。最後に何か言ふことはないか」
一同
「先生のお祈りと一つであります」
先生
「霊魂|著《ト》く日の若宮に参上り無窮に皇孫を翼贊し奉らむ
一同
「弥栄」
先生
「いざ」
一、一同同時に割腹自刃、但しカイシャク[#「カイシャク」に傍点]は腹を割いてからなす。≫
かれらは予定書のとおりに全員、割腹死をとげ愛国の鬼となった。検屍にあたった某検事正の談≪このやうな立派な集団自決は戦前に於ても、おそらく始めてで、そしてまたおわりであらうと思ふ≫自刃の現場を含めた旧代々木練兵場は全て進駐軍将校宿舎ワシントン・ハイツとなった為、自刃跡地に約五十貫、約三十貫などの大石を地中深く埋めて他日を期している。
「この割腹自殺はだよ、始め十五人によっておこなわれる筈だったんだ、ところがだなあ卑怯きわまる野郎がいたんだよ」と逆木原国彦は眼球の丸みがほとんど完全に外気にさらされるほど眼をかっと[#「かっと」に傍点]剥き怒号した。「介錯役さえ許されていた盟中の一人が無断で脱走脱落したんだ、十四烈士は木のごとく淡々として一点の動揺もおこらなかったがねえ。その野郎はどぶ[#「どぶ」に傍点]鼠のようになあ、いまも日本の隅っこで恥辱に震えながらこそこそ逃げかくれているだろうよ、おまえたち、どぶ[#「どぶ」に傍点]鼠にはなりたくねえだろう? ああ? 十四烈士中の最年少はおどろくべし今の数えかたで、十七歳だよ、なあ、きみとおなじセヴンティーンだよ」
逆木原国彦は最後の部分を、とくに安西繁と親しいとみんなが認めているおれにむかっていった、おれは安西繁がそのどぶ[#「どぶ」に傍点]鼠のように恐怖から脱走したのだとは思わなかったが、割腹自刃したセヴンティーンの右翼少年がいたのだということには深い感銘をうけた、おれは啓示[#「啓示」に傍線]をふたたびうけ涙ぐむのを感じるほどだった。
逆木原国彦はおれの感動を感じとるともう他の誰にたいしてでもなく、ただおれのためにのみ語るのだ、おれを睨むように見つめ、おれを感動のエスカレーターに追いあげ絶頂へ達せしめようと、
「その愛国のセヴンティーンがだなあ、巻紙に墨書した遺書を見たことがある、現場に懐中して行ったから全面に生々しい血痕があるんだ、おれは胸をうたれた、おれは涙を流した、なんというすばらしい少年だろうと、おれは泣き咽んだよ。覚えている、天津大神に復奉申し奉るに臨みて謹み恐みて涙記し奉る[#「天津大神に復奉申し奉るに臨みて謹み恐みて涙記し奉る」に傍点]、という言葉から始まっていたなあ、悲し[#「悲し」に傍点]、みかどの鎭り居坐大内山の彼方拝み奉れば涙滂沱として赤子我れ言ふべき言葉を知らず[#「みかどの鎭り居坐大内山の彼方拝み奉れば涙滂沱として赤子我れ言ふべき言葉を知らず」に傍点]只天を仰ぎ泣き伏すのみ[#「只天を仰ぎ泣き伏すのみ」に傍点]だよ、立派だなあ、これでセヴンティーンなんだ、天才だったんだよ、一種の天才だ、悲しきかも[#「悲しきかも」に傍点]、神を蔑し皇民の祈りを忘れし不忠の民草[#「神を蔑し皇民の祈りを忘れし不忠の民草」に傍点]、日々に[#「日々に」に傍点]、天皇の宸襟を悩し奉り遂に悲しく恐き御大詔を拝し奉るに至る[#「天皇の宸襟を悩し奉り遂に悲しく恐き御大詔を拝し奉るに至る」に傍点]。今更に何の言葉かある[#「今更に何の言葉かある」に傍点]、それからなあ、おれたちの現に生きのこっている愛国者に少年らしい素朴な信頼をよせてくれているところもある、必ずや維新回天の神機至らむ事を此処に確信す[#「必ずや維新回天の神機至らむ事を此処に確信す」に傍点]。謹み恐みて天津日嗣天皇の弥栄を血祈し奉る[#「謹み恐みて天津日嗣天皇の弥栄を血祈し奉る」に傍点]、そして辞世歌だ、まさやけく現身去りて永久に御代を護りの神とならまし[#「まさやけく現身去りて永久に御代を護りの神とならまし」に傍点]、署名には草奔之臣[#「草奔之臣」に傍点]とある、ソウモウノシンとは在野の人という意味だよ、長じて大臣くらいにはなれた人だろう。敗戦のどさくさのなにもかも揺らいでいる時になあ、セヴンティーンくらいでなぜ確信[#「確信」に傍点]す、といえたのか? それはこの愛国の少年が身命を賭して叫ぶ言葉だからだ、割腹自刃しようとする少年には、その神の確信がめぐまれるのだろう、もう一首の辞世歌は、みなげきの深く鎭もるさ緑の大内山を見るにたへめや[#「みなげきの深く鎭もるさ緑の大内山を見るにたへめや」に傍点]」
おれは耐えきれず、声をあげて嗚咽した、おれにはこの漢語だらけの立派な遺書の意味がほとんどわからなかったが、そのいかめしい岩石のあいだに淡い水色の芽をのぞかせている優しい草のような、若わかしい清純な悲哀の声は聴こえてきた、おれは悲しくて悲しくてたまらなかった、おれは吠えるように喉いっぱいあけて泣いた、そしておれは嗚咽の静まりとともに湧きはじめた、悲しみのひたされた清純なヒロイスムの感情において考えた、≪そうだこのセヴンティーンの確信の権利は、その勇敢な自刃によって保障されているのだ、むしろ確信はこのセヴンティーンの使命となったのだ、かれが自殺したことによって! おれもおなじセヴンティーンだ、おれにもかれのようにおれを祭る右翼の社、おれを守る右翼の城を、みずからつくりあげることができるだろう、確信[#「確信」に傍線]、行動[#「行動」に傍線]、自刃[#「自刃」に傍線]、そしておれは真の右翼の魂をもつ少年、もう一人の天皇の赤子セヴンティーンになることができるのだ!≫おれは涙と啓示の汐に洗われていた、それは至福の汐でもあった……
逆木原国彦はおれにとくに≪自刃記録≫という本を貸してくれることで講話を終わった、かれの特別講義はおれに感動をひきおこした、しかしそれはかれが意図したようにではなく、おれ独自の感動として終始するものであったのだ。その夜おれは独りぽっちで安西繁とおれと二人のための部屋に戻り、おえの机のなかに安西繁からの簡単なメモのような通信を発見した、
≪自分は党の消極戦術を許しがたく脱党し、新しい党をつくるべく努力する。もしきみが同じ心ならば、一時の身のおき所として芦屋丘農場を紹介しよう、訪ねてゆけば万事は了解されている筈なり、地図を裏面に書く、安西繁≫
翌日、荷物をまとめて党本部をでた。感慨が湧いた。芦屋丘農場へむかう気持だったが、いまもなお米軍宿舎のままであるワシントン・ハイツの自刃現場におとずれてみたかった。おれは電車に乗って代々木に向った。
トランクに腰をおろして、おれは鉄条網ごしに芝生の豊かに育った丘の高みを眺めた、将校家族の幼稚園の遊び場になっているらしい自刃現場で、平和な音楽と花かざり[#「かざり」に傍点]にかこまれて金髪の幼い子供たちが遊びたわむれていた、おれはェ容な優しい気持になっていたので、その愛らしい外国人の子供らの幸福が楽しかった、夏の終わりの快活な (注)の清らかな陽の光が独りぽっちのおれの微笑と、青い芝生にまいた水の銀色のしずく[#「しずく」に傍点]と、そこに遊ぶ金髪の子供のぴくぴく動きまわる小さな肩とを照らしていた。そしておれは十五年前のある夏の夜明けにそこで死んだセヴンティーン、≪臍下約四センチのところを横に十五センチ、深さ0.5センチ、即ち皮膚のみ≫を切り≪首の中央より少し下部、第五、第六頚椎間を斬って前咽喉部の皮を一枚残せしのみ≫の介錯をうけたセヴンティーンと、いま党を離れて独り自分の右翼の社、右翼の城をみずからつくろうとしているセヴンティーンのおれとを、ただ一人の同じ人間[#「一人の同じ人間」に傍点]であるように感じた。
(注)この部分、一文字分欠落。ただし、入力者が利用した図書館に開架されていたものはコピーであるため、複写の過程で欠落した可能性あり。
芦屋丘農場でおれは生れてはじめて肉体労働をおこなう機会をえた、若い農夫の生活をおこなう機会を。おれは、人間みな、その生涯の一部分を農耕者としての太陽のもとでの労働についやすべきだと思う。自分の生命を賭しての一事業をおこなうまえには、農夫としての労働の日々が必須だと思う。おれたちは農耕の時をおくりながら夕暮の羊のように静かに柔順にある瞬間[#「ある一瞬」に傍点]を待ちのぞむ。そして額に湧きおこり自然にまた乾きさる汗、足指のやわらかな筋目とふくらみ[#「ふくらみ」に傍点]を汚し、同時に清めてもいる泥、熱い筋肉の雪のようにつもる疲労、空の太陽に優しく見張りをうけ、大地の裸の肉体のようにあらわな土に懐かしく受けいれられ、はやりたたず虚無的にもならず、墓場のために用いられることもある土の奥に柔らかくみずみずしい人間そのもののように脆い種を播いて冬を越す信頼感、芽ぐみ実のり熟する大運動の軌道の成長感、それらすべてを頭上にいただき胸中に充実させて働く農夫的生活のなかで、おれたちは待ちのぞんでいた天からの声≪さあ、おまえはもう充分だ、行け!≫を聴く、そしてその瞬間、おれたちはすべてを放棄して、排卵後の鮭のように身軽に、まっしぐらに行く!
芦屋丘農場でおれは果樹園に仔牛の跳びこすことのできない最小限の柵をつくる仕事をまず一週間、朝から夕暮まで、十時間ずつ行なったが、その一週間のあいだに柿の実はめざましく熟していった。おれは果実がまったくひたむきに全力疾走で熟するものであることをさとった。そしてまたおれは、おれの頭のなか、おれの筋肉のなかで、激しい速さで成熟するものを感じていたのだ……
また芦屋丘農場でおれは家畜飼育の仕事をまかせられて果樹園の仕事のつぎの二週間をそれにあてたが、家畜小屋でおれにもっとも深い印象をあたえたのが、妊娠している牝たちだった。妊娠していたのは牛一頭と豚一頭、そしてこれは家畜小屋の外の日かげの藁の上に寝そべっているのだが一頭の土佐犬だった。おれは妊娠している獣が、のろのろと動くことしかせず、おちついており、ある種の大いなる諦めとでもいうべき慈愛にみちた平穏な眼をもち、陽の光のようにうしろめたさのない倦怠を体一面から放射しているのを見ると感動を深く体にも精神にも感じた。そしてまたおれは、おれ自身が、この妊娠した獣らとおなじ特徴を示しはじめているのをも感じていたのだ、鈍重なほど穏やかにおちつき、転んで流産するのを懼れて土地を踏みしめ踏みしめ歩き、やがてきたるべき出産の苦痛と喜びとを静かに予感して獨り母性の微笑みをたたえている、そしてなお、自分の手足、胴、頭のすべてをいとおしんでいる……
だからといっておれは、自分がいかなる果実を成熟せしめているか、いかなる胎児を妊っているか、具体的に知っていたわけではないのだ。しかしおれは、芦屋丘農場の主、松岡源五郎氏が愛蔵していた古仏のように曖昧な、しかし明確であることはまさにあきらかな微笑を、いわば恒常微笑を、あまり敏感に表情をあらわさなくなった日灼けの激しい顔にうかべて出産を待っていたのだ。なぜなら啓示[#「啓示」に傍線]はすでにあきらかだったし、やがて≪さあ、おまえはもう充分だ、行け!≫という声がすぐにおれを見舞うだろうことがきわめてあきらかに予感されていたからである、すべての妊娠した生命体がそうであるにちがいないように……
農場主の長男の嫁もまた、芦屋丘農場において妊娠している者らの、連帯の輪の一つだった。おれは農場にきてからきわめて無口な若者になっていたが、この美しい娘とは時どき静かな会話をかわした。この娘もまた、おれと同じように妊娠している家畜を見ることを好んでいて、おれの働いている家畜小屋にたびたびおとずれたからだ。
松岡源五郎氏もまた右翼の思想家がたいていそうであるように神道の信者であり、農場には芦屋丘神社という社までしつらえられていたが、その長男の嫁は仏教を信仰していた、おれは夕暮のせまる農場で、すでに暗い家畜小屋のおれがとりかえたあたらしい寝藁のくぼみ[#「くぼみ」に傍点]にじっと横たわりせわしない息をしている妊娠した豚の気配にじっと耳をかたむけながら微笑している娘を、その聖母のような表情を眺めるのがすきだった、またその華やかではないが湿りにみちた太い声を聞くのがすきだった、おれは神道を信じる少年として、彼女にいくらかのいたずらっぽい抗争心をひきおこしていたのだろう、娘はいつも仏教をめぐって話しかけてきた、
「拈華微笑という仏様の教えなかの言葉知ってる? あなた」というような風に。
おれは牛の飼料をざくざく缶にあけながら途方にくれたような顔をする、それに事実、おれの当てずっぽう[#「当てずっぽう」に傍点]につねにまちがっていたからだ。
「知らないでしょう、あなたもまた、お父様のように、高天原派なのね」
「ええ、神道はこちらの精神だけ修養すればいいんですから。仏教のように外国語をひとつ勉強するとおなじ努力をさせるものは、右翼にはむきませんよ」
「怠けものだから」と嬉しそうに、なんとなくおれには拈華微笑的ムードに思える微笑みとともに娘は勝ち誇っていう。「それはねえ、心から心に伝えることをいうんです」
「テレパシーだ、科学未来小説仏教版だ、仏陀はきっと火星人なんでしょう」
「星のふるのを見て悟り[#「悟り」に傍点]をひらいたんだっけな」と美しい年長者はいう。「とにかく、わたしは豚が赤ちゃんをお腹で育てながらこんなにして寝そべっているのを見ていると、自然に微笑が湧いてくるのよ、そして豚の頭のなかのことがわかるの」
「豚のやつ、なんと考えてます? 藁が不足だとか、黍をたべたいとか」
「豚も微笑しています、わたしそっくりにね」そういえば唇がそりかえっている所は似てなくもない、「拈華微笑なんて実に心にくい言葉でしょう」
おれもまたこの妊娠四箇月の若い娘に、心と心とのかよいあい[#「かよいあい」に傍点]を拈華微笑を感じる、そして改宗をせまられる。
「あなたは、子供なのに仏教の聖者みたいなところがある、仏教徒におなりなさい、やさしい仏教の本をあげるから」
「いや、葬式は神式にしてもらいます、なんとかの命《ミコト》という名にするんです」とおれはこたえ、自分が近い将来の死[#「死」に傍線]をいつのまにか確信しているのを知る、≪しかし、その前におれは啓示にしたがうのだ≫
「わたしのお葬式は仏教でする、神式なんて生なましくて怖いわ」と出産を半年後にひかえている娘はすらすらとつづける。「わかってもらえるのは、あなただけみたいな気がするんだけど、妊娠してからわたし、酸っぱいものが食べたくなると同じくらいたびたび、自分のお葬式のことを考えるのよ」
おれは理解する、そしておれも自分の啓示の出産と死を空想する、神式の、確かに生なましいお葬式を。しかもおれは今や、おののくような胸のなかの水圧の上昇だけを感じ、恐怖は、ひとかけら[#「ひとかけら」に傍点]も自分の内外に発見しない。おれたちは微笑しあい、拈華微笑し、そして不意に夜の帷のすでにおちたことを発見する、そしておれたちは親しい姉弟のように肩をならべてもう一度家畜小屋を覗きこみ、そして食堂のある建物へ戻って行く。そのとき芦屋丘農場はオーヴンのように香んばしく初秋の匂いをもうもうとたてこめる……
おれはこの仏教徒の妊婦から、皇道党入党以来はじめて、サディクに踏みつけるべき女性でなく、敬愛と淡くエロティクな親しみとを感じる、真実の女性のイメージをいだくことを許されたように思う。この最も充実して行動へと自分の弓を撓めていた時期に、矛盾するようだが、自意識の厄介な自己裏切にめざめていらい始めて、純粋に素直なオープンな態度で、おれは年上の女にむかっていたのだ、おれはもう杉恵美子のことを思いださず、また時どき安西繁に会いに東京へ出ても王侯の快楽をえるためにトルコ風呂の女奴隷に会いに行こうともしなかった。おれは実際その欲求を感じなかったのだ、おれは小さな個々の勃起とオルガスムとを今や軽蔑していた、おれは啓示どおり、おれの全生命を賭けた大勃起、大オルガスムとにむかって精液と性エネルギーとをたくわえていたのだろう。おれは広島で熊が田舎キャバレーに住みこんでたまたまそう名のっていた女[#「女」に傍点]と寝て童貞でなくなったが、それ以上は決して女とやりたい[#「やりたい」に傍点]と思わず、農場での労働によって性欲を昇華させると同時に、農場主の長男の嫁の美しい仏教徒との拈華微笑によって、童貞よりもなお確固として純潔なるものに変っていたのだ、微笑みはおれの新しい天性となり、おれはふと微笑み[#「微笑み」に傍点]をモティーフとする歌を考えることがあった、それはおれの辞世歌[#「辞世歌」に傍線]となるだろうか、牧歌はおれのおそらくは短い生涯の急速の成熟季に、すばらしい展開を見せていた、芦屋丘農場、おれの愛した果樹、おれの愛した家畜、農場で最年長の男は右翼ぎらい[#「右翼ぎらい」に傍点]で評判の老農夫だったが、かれはおれだけには特殊な、獣が馴れるような親愛をしめしてくれた、かれはいったものだ、≪さあ、愛国とか憂国とかいってないで、土を見ろよ、草や菜を見ろよ、畑の柔らかさや湿りを足に感じろよ、おまえさんは百姓として生まれついた腕と頭してるよ、政治なんてこと考えるには惜しいもんだ≫
このような老農夫が仕事の上で最も影響力をもっている芦屋丘農場は、確かに自由な個人の思想を育くませてくれる場所であったと思う、指導者松岡源五郎氏の存在はかなり強い右翼の磁場をつくってはいたが、おれはとくに政治的な講話を聞いたこともないし、おなじ農場員との政治的対話をもったこともない。そのような対話があるとおれはそのそばをさけて通った、おれは考えたものだ、≪みんな外部世界の噂をしているにすぎない、他人のことを話しているにすぎない、おれは今、おれの内部世界にのみ関係をもち関心がある、それはおれの内部だけで育つ水栽培の啓示[#「啓示」に傍線]の樹だ≫
そしておれの水栽培は知らないまにどんどん茎をのばし葉を茂らせた、それはおれが東京に出て安西繁にあうたびに改めて感じとられることであった。安西繁は、新しい同盟を造りあげようとしていた、それはかれをテレビ・スターのように多忙にしており、かれはおれと会っても、おれの内部にとくに深く入ってくるというような余裕をもたなかった。かれはおれの顔を黙って見つめ、疲れた吐息をもらし、こういうのだった、
「きみは森のなかの一人狼みたいに、だんだんファナティックに、過激になって行くようだ、きみは独りぽっちで自分のなかの気圧をあげている、きみの体のなかに永久運動の発電機と充電体とをしまいこんでいて、きみはつねに自分の内部の電圧をあげるばかりだ、そしてきみは自分をゴム布でくるんで外部から絶縁しているから、電圧は無限にあがるばかりだ。きみはほんとうに、もの凄いエネルギーで月にむかって跳ぼうと身がまえる一人狼だ」
おれは安西繁にむかって、かれの新しい同盟に加わろうか、と会うたびにいい、そしてつねに安西繁はおれを、かれのいわゆるゴムの絶縁布の外から眺めて、頭をあいまいにふるのだった。そしておれにも、自分が決して積極的にかれの同盟のために働くことを考えているのではないことを悟ることができるのだった。おれは確かに、冬眠中の肥えふとった獣のようになにもかもを独りでやらねばならず、またそれが可能であることを本能のように確実な無意識において知るようになっていたのだ。むしろおれは、まったくの他人のように安西繁の同盟についての説明を聞くのが好きだった、そして満足して芦屋丘農場に帰って行くのである、牧歌と沈黙の農場に……
安西繁の新しい同盟の思想も、おれにとってはかれがおれに感じるとおなじように、あるいはそれ以上に、ファナティックに過激に感じられた。考えてみれば安西繁もまた、皇道党という人間の群から離れて東京という大森林に駈けこんで行った一人狼であったわけなのだ、おれは過労につかれきって、しかもなお激しく新しい同盟の組織をつくりあげるためにいきりたっている安西繁にたいして時どき実に過激な印象をうけた。安西繁はおれと会うたびにつねに情熱の極度の燃焼のあげくの一種の判断停止の感じられる疲れきった様子でかれの同盟について語ったが、それはなかなか前にむかって発展しなかった、つねに壁のまえでたちどまっている感じなのだ、同盟加入者が新しく二人ふえると、たいてい安西繁は古い同盟員の二人を除名しているのだった、しかもここで古い[#「古い」に傍点]というのは、せいぜい二三週間のことなのである。そして、かれの話を綿密に聞いていると、彼の同盟に入ったかれ以外の人間で、三週間以上それがつづく者はいなかったことがわかる。結局、かれの同盟につねに所属している人間は、かれのみなのだ。
やがておれは理解した、安西繁は、かれのかつての戦友、戦没学生たちのための同盟をつくりたいのだが、かれがおなじ同盟員として許すことのできる人間とは、戦没学生そのものなのだ、死者たちなのだ。安西繁のように徹底的に一人狼である男は、この東京の荒野にもそれほど多くはいなかったろう、死者のために、死者のみを同盟員として一つの組織をつくりあげようとする青年右翼のファナティック、過激さ、その絶望的性格。安西繁の思想をつきつめてゆけば、かれの同盟員として選びとりたい同志は、戦没学生でしかないことがわかる、そしてかれがつくる同盟も結局は戦没学生のためのものでしかないことがわかる。
ある初秋の午後、おれは、熱情をこめてその同盟の発展の遅さ、停止的性格についてかたり悲憤慷慨する安西繁にこういってしまった、いうべきことでなかったかもしれないが、おれはこういってしまった、
「あなたはいったい日本のどこにあなたの同志がいると思っているんです? どうして、あなた一人でいけないんです? そんなにして一人で動きまわることに満足していられるのに、なぜ同志をさがしもとめるんです?」
「独りぽっちなら、自殺したほうがいいよ、なあ? と安西繁はいった。「独りぽっちなら、なぜ愛国が必要だろう、独りぽっちの人間に祖国はない」
「それじゃ、あなたに祖国はないんだ、それは十五年前にほろびたんだ、タイム・マシンにのって戦没学生たちの所へかえるほかない」とおれはいった。
「じゃきみの祖国は未来にあるのか? きみもおれのように独りぽっちだけど、きみの仲間は死んだわけではないから」
「天皇陛下があるんです。もしそういうべきなら、日本人もない、日本国もない、世界もない、銀河系もない……」
おれたちは微笑をかわして黙ったままじっとしばらく座っていた、おれは天皇のことのみを考え、かれは戦没学生のことのみを考えていたのだろう、おれが安西繁の年代の人間について証言できることは、かれらが死んだ仲間とともに自己をほうむる熱情をもっているということだ、こういうのを戦中派というんだろう、おれはそれを好きだ。
おれは立ちあがり、おなじく立ちあがった安西繁と握手した、かれはいった、
「おれは同盟を来年の五月までにはつくりあげたい」
おれは微笑みを消さないでかれを見まもる時間を五秒だけ長くした、そして別れた。夕暮におれは芦屋丘農場への私鉄乗換駅の木のベンチに座って、駅前広場のテレビを見ていた。進歩党の委員長が肉の袋のような喉から嗄れ声をあげて憂鬱そうに演説している、妙に不安定な、存在感の確実でない顔だ、風にさからってきこえてくる小さな声と、その孤独な顔とは無関係みたいだ、≪この遠いブラウン管にうつった顔をもつ人間が、実際に、この東京に家をもって住んでおり、現実生活をおこなっているのだ、そしておれはそのすべてを破壊することができる、おれのこの指はあいつにふれることができ、あいつを刺すことができるのだ、このカラー・テレビ用のブラウン管に白と黒とで抽象体のようにうつっている魚のように唇をひらいた顔……≫
おれは農場の方向とは逆のむきの電車にのり、家に戻った、家族はおれを好奇心と冷淡さ、そして不思議な丁重さでむかえた、おれは今日がおれのセヴンティーンの誕生日なので帰った、といった、姉さえもがそれを信じたふりをした、おれは父親に中国語のラジオ講座のテキストをお祝いにおくってもらう約束をした、おれは自分のなかの卑怯の残り糟がそこで芽をだしてくるのを見たわけだ、また殴りつけられた愚鈍な犬のようにおどおどした兄が旅行のしるべ[#「旅行のしるべ」に傍点]を読んでいるのをみておれは正月休みに冬山へ兄と行く提案をしようとしたが、それもまた、あれ[#「あれ」に傍線]をさきにのばしたいという臆病の作用かもしれなかった。しかし新聞の一面に大きい活字で選挙前の世論調査の記事がのっているのを見ると、おれは自分がそういうものをまったくばかにしていることもさとった。なぜなら、政治にそれと別の方法でかかわることが自分に可能だし、それは近づきつつあるとおれに感じられていたからだ。これはおれの内部の勇敢なほうの一茎の芽だった。
久しぶりに寝にいった物置の船室は、黴の匂いのしたに懐しい匂いをとじこめていた、おれはすぐ掘りおこしてやった。おれは抽斗から来国雅の脇差をとりだし、それをもって暗闇になにものかをつき刺した夜のことを思いだした、あれはほんとうのセヴンティーンの誕生日の夜だった。いま、おれは来国雅を武器として使うことのできる技術をもっていた、おれは苦悶する肥大した壮漢を暗闇のなかに見た、しかしおれはまだあいつ[#「あいつ」に傍線]にきめた訳ではなかった、日教組のあいつ、共産党のあいつ、総評のあいつ。おれが脇差を枕もとにおいてベッドによこたわると、すぐにギャングが船窓からおりてきた、それは静かに重く毛布を踏んでおりたった。おれは賭けた、舌をチッチッとならす、ギャングは唾をのみに胸の上へくる、体をとらえる、じっとしている、頭をつかまえ鼻を殴りつける、二グラムほどの鼻血が白い毛のさきに粒になる、しかしギャングはじっと死んだようにおとなしいのだ。
おれは秋めいた夜気のうすら寒さのなかで一瞬、汗みずくになり震えはじめた、しかしまだなにも定めたわけではない、しかしまだなにも定めたわけではない、そしていまになって考えれば、啓示が定めてくれるのではなく、おれ[#「おれ」に傍線]が定めるのだ、まだなにも定めたわけでない……
しかし果実は低速度カメラでとったフィルムのなかにおいてのように眼に見える速さで熟しおわろうとし、おれは家畜小屋の臨月の牛のように出産のための最初の唸り声をあげてしまった、もうその胎内から汐のようにあふれでてくるものに抗らうことはできないのではないか、恐怖の螺旋推進錐がおれの頭のてっぺんから尻の柔い穴までつきささってくる。おれはすがりつくべき藁しべ[#「しべ」に傍点]をさがすがおれの沈んでいる水底からは藁しべ[#「しべ」に傍点]ひとつうかんでいない気も遠くなるほど澄んだ恐怖の水面が見えるばかりだ。おれは克服されていた筈の恐怖の再興に呆然とする。おれはあのワシントン・ハイツの芝生の遊び場で十五年前に割腹した神経質そうなおなじ十七歳の少年烈士のことを考える、≪しかしあの時、日本は激動し混乱し揺さぶられていた、非常時だった、いまのおれのようにこの世界をぶっ壊そうとする計画をもつ男のような自分一身に地球をせおう人間の恐怖を、あいつは感じなくてよかったにちがいない。それに、あいつはおれのように人殺しをしようという人間の恐怖をもつことはなかった。ああ、おれは赤の鬼どもに凄く酷たらしい私刑をうけるかもしれない!≫おれはその瞬間、アメリカの関係団体とタイアップした刊行物≪赤の暴力に苦しむ北鮮の人々≫という絵物語のなにからなにまで信じる気持になった。おれは柳の木に釘づけにされはらわた[#「はらわた」に傍点]をひきづりだされ、そのかわりに白熱した金属の臓物をおしこまれるだろう、喉が乾いたといえば、おれはおれ自身の脳みそ[#「みそ」に傍点]を喰わせされるだろう、ああ、おれは性器を石臼ですりつぶされるだろう、赤の虐たらしい私刑狂どもに!
おれは発作的にむせび[#「むせび」に傍点]泣いてギャングを抱きしめた、そして不意に怯えの足枷をとかれた狂暴な泥棒猫は嵐のようにもの凄いスピードで胸と腕じゅうひっかき[#「ひっかき」に傍点]傷だらけのおれを恐怖死した死体のように残して、夜の深みへと跳躍した。おれはギャングのように、また十四人の同志を棄て汚辱感のなかの糞だらけの戦後をかくれしのんでいる、あの裏切者のように逃亡してしまいたかった、脱落脱走してしまいたかった、≪しかし、いつまで? 未来永劫に? 天皇が私刑される革命の日まで? ああ、そんな日がくるものか、左翼のやつらは本気で革命をおこそうなどと思ってみてもいないのだから≫
おれは物置を走り出て叫びたかった、それは夢のなかで鬼に追われているときのようだ、≪助けてくれ、助けてくれ、おれはちがう、ちがう、おれはちがう、助けてくれ≫おれは横たわったまま耳をすました、兄がなおモダン・ジャズを聴きながら起きているのなら、おれは兄の所へ行って、なにもかもまちがっていたんだ、至福どころか恐怖ばかりだ、と告白したかった、しかし兄は、おそらく家に戻ったおれの眠りを妨げることをおそれて今夜は桃色の耳核にやはり桃色のイヤホーンをおしつけ、魚のようにごろんと寝そべっているのだ、ジャズの音はきこえてこなかった。おれはアメリカ流自由主義の父を怨念と軽蔑とにもえて考えた、おまえは息子を見殺しにするやつなんだぞ、恥かしくないのか?
おれは寝室がロケットになって、おれをどこか夜の空へうちあげてくれることを望み、全世界の人々がおれのことを忘れてしまってくれることを望んだ。おれはまた、自分が満一歳になったばかりの幼児であったら、と希った、またおれは、天皇も王も、あるいは祖国さえない遊牧民であったら、と希った。
しかしそれらすべては虚しい希望だった。おれにはわかっていたのだ、解決の道はただひとつ。おれは死と他人の眼を惧れ、自涜と妄想に憔悴し無力感と自己嫌悪にもえているセヴンティーンに再び戻って、おどおどしながら≪おお! キャロル、おまえはおれに酷いことをする≫と歌って、現実世界の鬼どもの法廷にひきずりだされるしかないのだ。それは一年たらず前まで常におれがやってきたことだった、そして今や、それは簡単でも常識的でもなくアブノーマルで複雑な、死を賭する大冒険になってしまっていた。しかもその時、既におれには天皇の光がその熱情の粒子をふりかけてくれてはいない筈なのだ、ああ! おれは天皇の光なしに暗黒世界を生きのびては行けない、おれはすぐに乾いて死んでしまうだろう……
おれは自涜しようと性器をもてあそびはじめたが、それは百回の自涜につかれてしまった物のように、決して息づき膨らみ硬くなり柿色をしてこない。青黒くぐにゃぐにゃと股倉のなかで恥かしがっている。おれは狼狽して頭を下腹におしつけるくらい屈みこんで性器をためつすがめつしもみほぐしたがそれは勃起して男根の光彩を陸離とはなつことはなかった。おれはインポテだった、しかも正真正銘のインポテなのだ。頭がずきずき痛み、吐気がし猫のひっかき[#「ひっかき」に傍点]傷が熱くなっていた。おれは最低で、それは確かにおれの十七歳の誕生日の夜に似ていた、おれは怯えきったインポテのセヴンティーンなのだ、そしておれは苦しみながら浅い眠りをねむる一瞬、自分が美智子さんで、それは結婚式の前夜で、父親、母親たちの前で恐怖から涙にむせんでいるというような夢を見て叫びたてながら眼ざめた、またおれは自分がタジマモリで、しかもおれが世界の隅からもってくるために艱難辛苦した花橘の実をバルザックのようなガウンを着た天皇に≪なんだ、汚ならしい≫とでもいうように無視される夢も見た。そしておれは結局、物置の白じらしい暗闇と冷たさのなかに泣く気力もなく不機嫌に汚れきって、強姦された娘のように膝をかかえてベッドに座り、自己放棄したあげくまた戻ってきたような忠とは私心があってはならない[#「忠とは私心があってはならない」に傍線]、という黄金の言葉を反芻していたのである、それは鬼と明治天皇の肖像とをミックスしたような架空の純粋天皇[#「純粋天皇」に傍点]によって、物置の外の小鳥の声と電車の始発する信号の音とをともなった朝の気配のおとずれとともに、おれによびかけられた言葉だ、純粋天皇[#「純粋天皇」に傍点]がほんとうに存在して、その全能の眼を、かれの選ばれたるセヴンティーンの物置の船室にそそいだとしたら、その神々しい眼は見ただろう、体を小さくしてうずくまり不眠と脂で黒ずんだ小っぽけな顔をした少年の頭のなかに、次のようなみすぼらしく枯れた言葉の花ぐさり[#「ぐさり」に傍点]がもつれあってひっかかっているのを見ただろう、≪やるほかないさ、おれにはもう私心のひとかけら[#「ひとかけら」に傍点]さえも自分の腕でさげて歩く力はない≫それでもおれは朝の陽ざしがあたためた裏庭に出て種々雑多な菊の類を踏みしだいて縄をまいた棒を立て、唐手の練習をやっているうちにかなり回復し、しだいに熱病がさめてくるような気分になった、おれは唐手の棒をすこしけずりマジック・インクで皇紀二千六百二十年[#「皇紀二千六百二十年」に傍点]と書き、また裏側にも神州不滅[#「神州不滅」に傍点]と書きつけ、汗が新しくにじみ出て昨夜来の悪い汗を洗い流すまで縄の縞目を殴りつづけた。おれは決定的な今日[#「今日」に傍点]が静かに熱情をこめて汗に濡れたおれの体のまわりにかもされてくるのを感じ、あれをやりとげさえすれば、昨夜の悪い悪い夜は暗闇のなかへ押し流され、どこか遠方の地下の下水道の縦穴を猫の喉がごろごろなるような音をたてて墜落していくのだ、と思った、えい、やっ、えい、やっ、そしておれは微笑をモティフにする辞世歌がしだいにできあがってくるのを感じてもいた、えい、やっ、えい、やっ、≪国のため神州男子晴れやかに微笑み行かん死出の旅≫いちばん最後の節がうまくゆかなかったが、それはシニイデの旅と訓《ヨ》むことにした、おれは唐手の気合とともにおれ自身の辞世歌を朗吟してみた、おれは始めヒロイックな気持になり、そしてしだいに天皇の太陽のような輝く幻影のなかへ霞のようにすいこまれた、えい、やっ、国のため、国のため、えい、神州男子晴れやかに、えい、やっ、微笑み行かん死出の旅、えい、やっ、シニイデの旅……
きみの暗殺[#「きみの暗殺」に傍点]はくりかえし回転しつづけるヴィデオ・テープ、ニュース映画フィルム、またカメラ・マンがピューリッツァ賞をもらうという噂まで出た写真の網版によって、日本人すべての者らの眼に中毒症状をおこさせるほどだった、永劫回帰の暗殺劇とでもいうように、テレビのブラウン管、ラジオのスピーカー、そして新聞、週刊誌、月刊誌、あらゆる劇場のスクリーン、それらすべてが発狂してきみの暗殺[#「きみの暗殺」に傍点]に核爆弾クラスのエネルギーをそそぎこんだ。日本人すべてがきみの暗殺[#「きみの暗殺」に傍点]の毒におかされてしまっている、しかもきみの暗殺[#「きみの暗殺」に傍点]の毒の灰は霧のようになお日本列島のすべての島の地表にびっしりとたちこめている。そしてこの猛烈な毒からひとり離れて自由なのがきみだ、きみひとりだ。きみはそもそも始めからこのスキャンダラスな毒の粉に防護服をつけてやってきた、三党首演説会場できみの暗殺[#「きみの暗殺」に傍点]を観客席から見なくてすんだ唯一の人間が、行動していた[#「行動していた」に傍点]きみだった、そして寸刻をいれず反復回転しはじめたヴィデオ・テープが日本の隅ずみまでブラウン管から噴出するものをきみは見ることがなかった、しかも今は拘禁されて孤独に獄のなかだ、きみはあのグロテスクでナンセンスな暗殺、政治的弱者の不意の暗殺から、まったく遠くに離れていることになるだろう。この手紙をきみにむかって書き始めたのは、きみがあまりにも、きみの暗殺から遠くはなれているからだ、この手紙を小さなポータブル・テレビだと思ってもらいたいのだ。
1チャンネル きみの暗殺[#「きみの暗殺」に傍点]はいかに行われたか、その実況ヴィデオ・テープと写真。委員長は演説している、その声は嗄れて太く激越だし、その言葉の意味は挑戦と糾弾と反抗心のガソリンと発火機の同居だが、委員長の情念はむしろ疲労に萎縮し、怒りをはらまず、声と意味と、またカメラの背後の聴衆とテレビ視聴者の大群へそれらがつたわってゆくことへの小心な懐疑と不信にみちているようなのだ。かれは演説者としての自分を信じていないように見える。かれは委員長の大きい体、大きい声に、たまたま移りすんだ小心な小男の魂でもって演壇の上にひろげられた原稿を代読しているかのように演説している、空虚な印象。委員長はあたかもこう考えているかのようである、≪次の選挙にもいつものように敗けるだろう、国会ではまた完全に無力であることだろう、そして実業家は欲望と傲慢な自信にふくらんで日本の経済を推進し、何千万の農民とサラリーマンは勤勉に愚鈍に無力に消費的に、そしてみみっちい電化生活願望にあけくれ、与党政治家は金権と派閥というハンディをぶらさげながら、ただひとつ現状維持の線をそれないようにつとめてその他はすべて有能で出世主義で時代感覚ゼロの官僚にまかせてしまい、野党政治家は負けを承知で国会のなかに座りこみ国会の外のデモ隊の声援をわずかに聞く。そして文化人は手を汚さずに我々を応援するだけで満足し、我々もかれらを本当に苦しい所では頼りにせず信用しないだろう。どこにも真に左翼の魂をもった者はいず、どこにも我々の真の味方はいないだろう、なぜならおれ自身、数十年の運動のあと、自分のなかに真の左翼の魂をもっていると感じられない瞬間がたびたびあるのだ、現にいまがそうだ、あれは左翼の怒りを怒っていない。ああ、中国大陸の人民共和国! あすこには左翼であること[#「左翼であること」に傍点]を現実化した六億の民がいた、その指導者とおれとが、アメリカ帝国主義は日中共同の敵だと声明したときの熱情は、いまおれの激しい声にこもっていない。ああ、湿地帯日本、おれは独りぽっちで虚しく、ぞっとするほど通俗で凡庸な、バナールな演説をする! 九千万日本のたれも本気で聞いていはしない≫会場にはもの凄いヤジと叫喚、罵声と怒号だ、委員長の演説を妨害しようとする右翼だけが、真に怒り猛っている感じなのだ。委員長は司会者が妨害中止を要請するあいだ黙って、白く濡れて粘土版のような厚い無表情な皮膚につつまれた老けこんだ顔をうつむいて愚鈍な焦立ちを一瞬みせる、そのあいだ顔は眼鏡のセルロイドよりも無機的[#「無機的」に傍点]だ、皮膚呼吸をしていないようだ。すぐにまた委員長は演説をはじめる、魚のように丸く唇をとがらして≪このような国民の評判の悪い政策は全部ふせておいて[#「このような国民の評判の悪い政策は全部ふせておいて」に傍点]、選挙が多数を占めると[#「選挙が多数を占めると」に傍点]……≫そして黒っぽい少年がスマートでない駈けかたで演説中の委員長に走りよる、衝突そしてふたたび衝突、委員長は倒れ、黒っぽい少年は酷たらしく捻じ伏せられる、それに終始カメラをかまえているカメラマン。傷を負わせたようでございますので[#「傷を負わせたようでございますので」に傍点]、しばらくそのままお待ち願います[#「しばらくそのままお待ち願います」に傍点]、しかし混乱のなかを運びだされる肥満した委員長はすでに即死しているのだ、やがてヴィデオ・テープは空虚な手術室のベッドの枠にたれた血にまみれたネクタイをクローズ・アップするだろうがまだ会場では一人の聴衆も涙を流してはいない、好奇心と衝撃だけだ。もしかしたら捻じ伏せられた黒っぽい少年だけが恐怖と痛みからの涙をこぼしたか?
写真一は、少年が最初の一撃を加える瞬間である、委員長はかれにむかって不審げな表情をうかべている、判断中止の印象だ、そして頭がすこしブレている。少年がここでは凶暴な獣のようだ背をまるく弓のように撓め髪を逆立て短刀をしっかり胸のまえにかまえて跳びかかっている。写真二と三はその直後、少年の顔から眼鏡がなくなり、その眼はつむっている、委員長は少年から体をそむけようとし前屈みになり、苦痛が最も率直にあらわれた表情をしている。また写真三は少年の背後のカメラでとられているので、このおなじ瞬間に、少年の袋のようなズボンと深いブーツでくるまれた棒のように硬直してまっすぐな左足が頭にいたる力の直線をなしていることを明確に示している。また、この角度からでは委員長の伏目でウエッ! と呻いているような顔と腹の筋肉に短刀をとられそうで必死にそれを握りしめた少年の横顔と、委員長の胸の大輪の菊とが小さな緊密な正三角形をなしている委員長の呻きを少年は聴いただろう。そして写真四は第二撃を加える少年と苦痛に倒れようとしながら攻撃にむなしく体勢をととのえている委員長とを、正面から最も鮮明にとらえている。少年は一撃のあと、今や職業的暗殺者の厭らしい万全さをもって行動している。その両足に大きい靴をはき、膝を両方とも外側に屈げて力をこめ、サイズの合わない白いシャツがジャンパーと学生服からかなりはみだすまでぐっと両腕をひき、右手は親指が切先に向うようにしっかり短刀を握り左手は親指を逆に向けるようにやはりしっかりと短刀を握っている。右手で突き、左手で引く、しかも両手はおたがいに別の手の力の方向を正確な刺殺ポイントへみちびく方向舵のつとめをも果たしている。そして、ある右翼組織の男があとから指摘したように、それでもなお万全を期するつもりの偏執狂的なこの暗殺者はその姿勢で左肩からぶつかって行こうとしているのである。野球選手が打撃ボックスに入るとき常に噛みしめる言葉、打球から眼を離すな[#「打球から眼を離すな」に傍点]、少年も細めた眼をしっかり委員長の左胸にあてている。彼の顔は能面の鬼のような非現実な、架空な感じの凶暴さでこわばっている、歯を食いしばり首筋の若さのあらわな筋肉に力をこめ、眼には悲しみと不幸の深淵をのぞいた者の眼の暗い表情をうかべているが、それはまた江戸の春画の若衆のオルガスムの表情にも似ている。そして体全体に室町期かそれ以前の地獄絵の餓鬼の姿勢、表情が感得される。委員長は体を前に屈め眼鏡を上唇までずりおとし迷惑にたえない表情の眼をして困惑しながら両手を、この突然あらわれた鬼の攻撃体勢にそなえている、そして無防備な太い胴、妊娠しているかのようだ、体じゅうが人間の匂いでぷんぷんしている。しかしかれは既に最初の一撃で死にいたる重傷を受けており苦痛を感じる意識がうしなわれているらしい、足はぐらついている。少年のジャンパーに短刀の影が鮮明にうつっている、テレビ用ライトの影だ。数人の男が駈けよっているがほとんど委員長を防護しようという情熱をもってはいない。写真の左肩には別のカメラマンが実に平静にリラックスした姿勢で立ち、指にだけ正確な力をこめて暗殺者と被害者の最も素晴しき瞬間をとらえようと夢中だ。
2チャンネル きみの暗殺[#「きみの暗殺」に傍点]にたいする様々な人びとの反応のフィルムと録音。
マスコミが右翼の暴力というんで、この可憐なる少年愛国者であるかれの行動を、ふくろだたきにしておるのであります。私は、かれのおやりになったことが、これは立派なことであると、日本民族の血の叫びであり、日本的生命の発露であり、天地正大の気が時によって煥発するということの一つのあらわれだと思いますね(某右翼指導者)
つぎつぎと伝えられるニュースから、これは計画された事件であり、少年は殺し[#「殺し」に傍点]の訓練をうけている、と判断した。いわゆる戦中派に属し、しかも、私自身が軍隊で短剣術の訓練をうけていたせいであろう(小松茂夫氏)
この人間を生かしておいては日本のためにならない、と考えて、政治暗殺者はいつでも政治家を殺すらしい。中には売名のためやいろいろ不純な動機からの者もあるが、中には純粋にそう考えてテロを行うものもあるらしい(廣津和郎氏)
ま、いちばんよかったのはボカアかれがやった、そのね短刀でズバリとやったと。でボカア日本刀でバッサリやるつもりでしたがね。ヤツの方がね、その適確ですよね。ま、適中性をいちばん、考えて、ま、もっともその、研究したせいだろうと思うんですがね、やっぱり(某右翼結社員)
あんな悪い奴を殺したといったって、私のためというより、悪いんだもの、あなた、ネ。悪魔のごときものですよ。私はそう思っているね。だからかれはえらいことをやったと、えらい少年だと、私は思っています(松浦佐美太郎氏)
日本がいやになった[#「日本がいやになった」に傍点]、という詩だか和歌だかを書いた大学生がいたというじゃありませんか? そんな若い人にくらべるとね、国のため倒れし人ぞあるこそに今の若人育ちきたらん[#「国のため倒れし人ぞあるこそに今の若人育ちきたらん」に傍点]、と詠んだというあの子のほうが、まあ、したことは別にしても健全だと思うんですよ。私は文芸に趣味があって詩だの和歌だのよく詠むんですよ、天皇陛下さまのことをねえ、あの子は、大君の[#「大君の」に傍点]といっていくつもいくつも歌をつくって手帳に書いていたそうです、私はそれ立派だと思う、愚連隊なんてとんでもないですよ、そんなことをいう文化人こそ愚連隊ですよ、和歌を詠む子を愚連隊よばわりすることはできません、天皇陛下さまのことをですよ、週刊誌に書いてあったんだけど、藤森安和という、やっぱりあの子くらいの子供はこんな詩につくったんです、
いけないことだよ。おまえ ポリさまに怒られるよ。
いけないよ。いけないよ。たんといけないよ。
なんだい、天皇陛下が御馬で御通りになったからってよ、
天皇陛下だってしるんだよ あれを あれをさ。バアチャン、アレダヨ。
天皇さまだって人間だものアレしるさ。
アレってなんだい。バアチャン。
アレダよ。
だからアレってなんだい。
だからアレだよ。
あれあれファンキー・ジャンプ。
こんな変態の詩と、大君につかえまつれる若人はいまもむかしも心かわらず[#「大君につかえまつれる若人はいまもむかしも心かわらず」に傍点]、とくらべてごらんなさいよ。(某主婦)
おれは警視庁と東京地検の取調べをうけていた、それに公安二課、捜査四課、丸の内署などの数かずの警察官たちが東京じゅうを熱い息をはいて駈けずりまわっている筈だった。かれらは熱情をこめて人間の仕事に精をだすものたちだ、芦屋丘農場の老いたる農夫はかれらの誰かれの質問にこたえさせられながら、心のなかでは、ああ、この男たちはほんとうに百姓の頭と手をもって生まれてきているのに惜しいなあ、と嘆いていることだろう。また、この警察官たちは、偶然かれらとつながりができたにすぎない一人のセヴンティーンにたいして、まさに人類の熱い魂の共通の根にそれをうながされているとでもいうように極度の情熱をこめて、人間関係を樹立しようとするのだ。おれは、取調べの係官がおれにむかって綿々と優しい理解の言葉をあびせ、親しい心づかいをしてくれるのを黙ってうけとりながら、ふと、いまおれは保険の外交員が電気器具の外交販売人と話しあっているのではないかという気がするほどだった、話が一段落するとおれの肩をぽんと叩いて、それではどうもお忙しいところをありがとう、といいトランクをさげて街に出てゆきそうなくらいなものなのだ。おれは柔和な微笑をうかべた警察官の、どこかくたびれてがっかりしている表情のかげり[#「かげり」に傍点]にふれるたびに胸をつかれ、この男はもう何万人もの人間と親しい関係をむすび今や疲れきってその厖大な友情の重みにうちひしがれようとしているのではないかと疑った。おれは地球に生きのこって二十一世紀をむかえる現在と未来の人間に一つの参考意見をのべておきたい、≪火星や他の惑星の生物の国に最初の使節をおくるときは警察官をえらびなさい、かれらこそが人類の親しい友情エネルギーを始めて会った者にたいして最も豊かに放出することのできる人間です、しかもかれらは地球上の悪人どもを知りつくしているから、他の惑星の生物にも不当に苛酷であったりはしないでしょう。たしかに警察官は新しい時代の救世軍兵士に似ています≫しかしおれは、まったくおれのみの個人的な理由で、警察官たちと深い友情をむすばなかった。むしろ、おれは警察官たちと人間関係をむすぼうとしなかったといったほうが正確だろう。おれはもう誰ともいかなる人間関係をもむすびたくなかった、そこで取調べのあいまにおれの閉じこもる独房はすばらしい場所であった、東京じゅうをたずねあるいても、このようにすばらしい場所はいまのおれには決して発見されることがないだろう。おれは、閉じこもる[#「閉じこもる」に傍点]独房という、閉じこめられる[#「閉じこめられる」に傍点]独房とはいわない、なぜならおれは、あれ[#「あれ」に傍線]のあとおれ自身の意志によることの他にはなにひとつ行っていないからだ。おれは人間どもから隔離されたいと意志する、そしておれは酷たらしい外部の人間どもから日本の警察力の最も優秀な部分によって隔離された。おれは独りで禁欲的な黙想にふけっていたいと希望する、そしておれは誰も闖入してこない独房で、いかなる労働も強制されず、座っていることができる。おれは自由だ、しかもおれはおれの手をまったく労さず、なにもかも他人どもの労働によってまかなわれているわけだ。自由だって? 外へ出てゆけるか、という質問があればこたえよう、おれは外へ出てゆきたくないのである、しかもいま、おれが最も惧れるところのことが、その外へ出てゆくことなのだ。この場合に外へ出ないこと、それは自由でなくてなんだろう、このように特権的な自由をたいていのサラリーマンは一生あたえられることがないだろう。おれは独りぽっちで遊んでいた幼年期を思いだす、裏庭の隅におれは白墨で一メートル四方の囲いをえがき、そのなかに座って、夕暮までそこから出まいと決心した。まだ昼まえだった、永い時間だ、まよいこんできた野良犬に吼えつかれて恐かった、昼食に母親がおれをよびたて、ついにあきらめた、空腹で便意をもよおした、ほんとうに永い時間だった。おれはそれでも夕暮までその囲いのなかにいつづけたのである、いつでもおれは白墨の薄い白い囲いから出てゆくことができたのだが。おれは、あの奇妙にもの悲しく昂奮して白墨のなかに座っていた時と、独房にいる今と、なにも変った状況ではないと感じる、魂のおく深くの、過去や未来と自由に行ったり来たりできる魂のおく深くの青葉の谷間で……
おれが自由な独房の日々をおくっているということは担当の看守、あるいは当番の警察官にも理解されたようだ。この看守はたいていあまりに老いており、この警察官はたいていあまりに若く赤んぼう[#「赤んぼう」に傍点]のようだったが、おれの心や体については頭をつうじてよりも舌の味覚のような感覚で理解してくれた。かれらの皮膚感覚は制服のしたで哀れなほど鋭い。おれが独房の床の中央に正座している、それをかれらが覗いて短いあいだ見つめる、かれらはだまって覗き窓から沈んで行く。おい、寝そべっていいぞ、疲れて衰弱するぞ、そんな恰好でいてはだめだ、このような言葉をかれらはけっして呼びかけてくることがない、かれらの眼にたまたま光があたっているとき、おれはこんな言葉を読む、≪ああ、きみは正座したい気持でいるんだね、自由に自分勝手に正座しているんだね、マラソン競争をしたくなったら、きみは自由に自分勝手に、甲州街道でも駈けてゆくのじゃないか?≫
おれはやはり子供のころ兄が教会の米人牧師にもらってきたアザラシかオットセイが主人公の絵物語に夢中だったことがある。その北の海の哺乳動物はたしかオーリイという名前で、すばらしいデッサン力のある画家が情熱をこめて黒の濃淡だけの挿絵をかいていた、おれがいちばん好きだったのはオーリイの旅行路を点線でかきこんだ世界地図で、それは段ボールみたいな紙の表紙の裏に印刷されていた。オーリイはサーカスで働いたかどうかしたあと(おれはそのころ英語がまったくだめだった、それにもう記憶も薄れたのではっきりしたことがいえないが)アメリカの大湖水地帯のオンタリオ湖かエリー湖にはなされ、そこから河をくだり海をいくつも泳ぎわたりし、ほとんど全世界を旅して故郷の北海に戻るのだが、その詳細をきわめた旅行図なのだ。いまおれは独房に座っていながら、もしその意志をもちさえすれば自分には、あの勤勉な気ちがい[#「気ちがい」に傍点]の北の海の哺乳動物くらいの大旅行もできるという気持なのだ。そしておれは、あの本に夢中だったころ子供心にも、自分には一生こんな大旅行は不可能だと胸を涙でいっぱいにするほどの悲しい諦めを感じていたのだった……
おれが警察の規定の食事のみをとり、取調べの係官がその悲惨な給料から奢ってくれる丼物や、父親とか逆木原國彦とかが差入れてくれる弁当を辞退するのを見て、ある老いた看守はいった。
「あんたは他人に干渉されずに気侭に生きてゆく人間なんだねえ、それはやはり天分みたいな、さずかった幸福だねえ、だんだんそういう人がすくなくなるんだが」
おれは自由な人間として看守の眼にうつっていたと信じる、逆に覗き窓の長方形に眉とか鼻梁、頬、耳をきられている看守の真剣な眼を見ると、おれはこの看守が自由な人間ではないと感じられた。いつでも制服と制帽、鍵束他の付属品を置きすてて広大な陽のあたる外へ出発できる筈でいながら、かれは実にひとつまみ[#「ひとつまみ」に傍点]の自由も持っていないのだ。それに大変滑稽だが、看守にとっておれは重要人物なのに、おれにとって看守はまったく非重要なゼロ的人物にすぎないのだ、それは森のような街路樹の木立ごしに警視庁の建物を見まもりながら歩いている筈の数多いサラリーマンの任意の一人が、おれにとって非重要なゼロ的人物であると同じだ。しかも諄いようだがその任意のサラリーマンの心は、テロリストおれのことでいっぱいかもしれないのだ。おれは自分のことと、純粋天皇[#「純粋天皇」に傍点]のことよりほかのもので胸の倉庫の透間をうずめたりは決してしないが……
おれが自由であったのは独房においてのみではなかった、おれは取調べのあいだにおいても自由であったと思う。取調べの係官の人間的な、しかも最も優しい意味で人間的な態度についてはすでにのべたが、おれの方でも決してそれを裏切るような行為にはでなかったつもりだ。おれはすべての真実をフランクに陳述した、たとえばおれを始めて皇道党の集会につれていったあの男が新東宝[#「新東宝」に傍点]であり、それはおれのセヴンティーンの誕生日の翌日であったことなど、とくに新東宝[#「新東宝」に傍点]の性格や行動について説明したときには係官は涙を赤く熱そうな頬にこぼしてしまうほど笑った。しかし、おれの陳述は係官をつねに満足させないのだった、かれは優しく人間的な態度と仕事熱心な機械のような性格をともに示しながら、くりかえしまきかえし執拗に問いかけてきた。おもな問題点はほぼ次のようなものだったと思う。一、おれの共犯関係。おれはつねにあれ[#「あれ」に傍点]がおれの単独犯行だと主張した、なぜならそれは真実だったからだ、≪私が皇道党員として逆木原総裁のもとに住みこみ、そこで教育されたこと、また安西繁氏から深い影響をうけたことは事実です。しかし逆木原総裁の行動の軟弱さには不満をいだいていました、それがもとで私は脱党したのです。安西繁氏は戦没学生のための組織を、戦没学生の幽霊と共につくりあげようとしている男です、私は氏の新しい組織に同情をもっていませんでした。私がこの夏お世話になった芦屋丘農場の松岡源五郎氏にも直接政治について話を聞いたことはありません。私はたれにも具体的な一人一殺の暗殺計画を相談したことはありません、また誰かにそそのかされたこともありません。独りきり[#「独りきり」に傍点]でやったことです、そしてこの独りぽっちでやったということが、誰にでもなく私にいちばん重要なことなんです≫
そして二、おれの犯行の直接動機。それを説明し納得させることが難しかった、少なくとも始めのうち、おれはそれを困難だと感じ、やがてそれが不可能だと悟った。しかもそれこそ、おれにとっては最も明らかだったことなのだ。おれはあれ[#「あれ」に傍線]を天皇の栄光のためにやった、天皇のために恥辱を準備する売国奴を刺殺する、それはいうまでもない、天皇の栄光のためではないか。このとき、おれにはきわめて面白く思われる反応を中年の係官が示した。彼は天皇の栄光という言葉を、日本国の栄光というふうに理解した、そしていった≪それできみは神州という言葉を手帳のなかにたびたび書いているんだね、神州不滅とかねえ≫、おれは熱情をあふれさせる思いで係官の誤解をとこうとした、おれは言葉のニュアンスのちがいであれ、こんな律儀な警察官に誤解されたままにしておきたくなかった≪私は戦後の民主主義教育でそだったからでしょう、天皇と国家と国民をそんなにむすびつけては考えていないのです、そのように感じないんです。神州男子とか神州不滅とかいうのは単に和歌らしいものをつくるための言葉にしかすぎないんです。私は天皇のために自分の命をかけるだけでいい。日本のことも、日本人のことも二の次なんです、ただひたすら、天皇だけが私には問題なんです。天皇のために刺したんです、それで政治をよくし警察官の月給をたかくするなんて考えたわけではありません。あくまでも私と天皇とのあいだのつながり[#「つながり」に傍点]だけが問題なんです≫
係官は苦りきった表情を一瞬する、しかしすぐ気をとりなおして始める、≪それでは、なぜ委員長をえらんだのか?≫おれは考えこみ、自分の心のなかを触診してたしかめてからよどみ[#「よどみ」に傍点]なく答える、≪委員長でなくてもよかったんです、日教組の連中でも共産党のやつらでも、極端にいうと、天皇の栄光をねがわない者なら誰でもよかったんです、問題は刺殺する相手にあるのではなくて、刺殺するこちら[#「こちら」に傍点]側にあるんですからね≫係官が不意に冷たい顔になって低い刺《トゲ》のある声でいう、≪それじゃあ、まるで痴漢だ≫おれは忍耐強くいう、≪痴漢という言葉をとりけしてください。さもないと黙秘権をつかいます≫係官はなかなかとりけさず、その日の取調べは一応おわりということになる。
取調べのあいだに、おれでなく係官のほうが怒ってしまったこともある、それはおれが、どうしてこの秋の初めにあれ[#「あれ」に傍線]をやったか、という点について係官がおれを追求していたときだ、おれは答えていった≪夏、広島から帰ってくる汽車の窓から日没の瞬間の海の神々しい輝きを見て、ぼくは、ああ天皇陛下と叫びながら啓示をえました、いま考えてみるとあの啓示の瞬間に、あれ[#「あれ」に傍線]の日時のおおよその所はきまったんだという気がします≫、係官は苛立ってきながらせきこんで訊いただす、≪具体的にいうと、きみは天皇の幻影を見たわけだね?≫おれはますますフランクに、おれの体験と感想の真実を告白する、≪そうです、強いていえば天皇の幻影が私の唯一の共犯なんです、いつも天皇の幻影に私はみちびかれます。幻影の天皇というとわかってもらえても限度があるようなので、もっと思いきって、簡単にすると、天皇が私の共犯です、私の背後関係の糸は天皇にだけつながっています≫、一瞬あと係官の猛烈に怒り狂っている大きい頭がぐっとおれの顔にせまり、すんでのところで頭突きをくらうところだと思っているおれに係官はどなりはじめたのだ、≪天皇が共犯? 天皇が背後関係? おまえ、天皇に会ったことあるかよ? 天皇に金をもらったことあるかよ? 丁重にあつかえば糞小僧がつけあがりやがる、カマトトおきやがれ、こん畜生≫おれはもう決して簡単で平板な事実承認、誤り否認の二つしかすまいと心にきめながら、内心はきわめて冷静に、激昂した警察官の赤っぽさ[#「赤っぽさ」に傍点]と土気《ツチケ》色のまだら[#「まだら」に傍点]の顔を見まもっているだけだ……
確かに、おれがフランクな気持でなにひとつ隠すことなく陳述しても、それはむしろ人間的な係官を当惑させるほかに、どんな効用ももたないのではないか? こう考えついたあと、おれは取調べ室で無口になった。それにもうたいていの事実は洗いざらいぶちまけたあとだったのだ、既に十五回目の取調べは終っていた。おれが取調べに興味を失ってしまっても許されていいころだろう。
≪夕暮の海に沈む陽から啓示をえたといっても警察官がそれを信じることはできないだろう。右翼の魂をもった選ばれたる少年としての証拠を造ろうとしたと、自分を祭る右翼の社、自分を守る右翼の城をきずこうとしたと、そういっても警察官がそれを理解しなければならぬ訳はないだろう。おれは黙っていよう、おれは理解されなくてもいいのだから。なぜなら、おれはすでに城をきずき社をたてた、おれはすでに右翼の子である証拠をえた、そしてあとにはもう、天皇の栄光とおれの至福があるばかりだからだ≫
そう考えるとおれの正座している暗い独房の四つの壁のまわりから、警視庁のあらゆる建物と警察官たち、東京地検のあらゆる施設と検事たちが、アラジンのランプを主題にした漫画映画でみたようなふうに、たちまち雲散霧消した。おれは自由であるばかりか孤独にさえなった。そしておれは暗殺者としての自分を、暗殺者的人間としての自分を、静かに考えてみる余裕をえることになった。
暗殺者的人間[#「暗殺者的人間」に傍点]、おれは広島で見た、あの伝説的な暗殺者の暗く憂鬱そうな顔を思いだした、あれは鬼のように感じられたものだ。いま、おれは小さな筋肉をもった少年の鬼のようだろうか? そしておれは突然気づいた、あの伝説的な暗殺者がピストルで政治家を射殺したのは三十年ほども前だ、あの暗殺者は非常に若かったにちがいない、二十歳前半、もしかしたらおれのようにハイティーンの、小さな鬼にすぎなかったのだ。そしてその後三十年、あの憂鬱な暗い顔で、目に見えぬ厖大な重荷のもとにいつも前屈みになって生きてきたのだ。影のなかを忍苦して三十年生きてきた暗殺者的人間[#「暗殺者的人間」に傍点]、しかもかれは三十年前にあれ[#「あれ」に傍線]をやってしまったあと、地獄の中を耐えしのんで暗殺者的人間[#「暗殺者的人間」に傍点]として生きつづけてきた。≪あの人は三十年間、明日はなにをやろう、と考えて夜をおくったのだろう?≫おれはあの男のことを考えてばかりいるうちに、暑い真夏の地方都市でかれと話をかわしているような夢さえ見るのだった。夢のなかでおれが尋ねる、この三十年間なにが苦しかったことですか? 憂欝な鬼の先輩がこたえる、暗殺者的人間[#「暗殺者的人間」に傍点]のバッジをなくさないように苦心しました、すべすべしてすぐになくしそうなんだからねえ、ある朝、眼がさめてみたら甲虫になっていたという小説をカフカというユダヤ人が書いているんだが、私も、ある朝、眼がさめてみたら暗殺者的人間[#「暗殺者的人間」に傍点]でなくなってしまっているのじゃないかと、そればかり惧れてきたねえ。暗殺は一回こっきりだから、いったんなくしたバッジをとり戻すことはできない。あいつは臆病だ、とか、あいつは忠義でない、とか、あいつは色魔だ、とかそんな評判ひとつで暗殺者的人間[#「暗殺者的人間」に傍点]でなくなるんだからねえ、気がつけてくださいよ! 夢は東京大学の合格発表後のカウンセリングにかわり、おれはとくに暗殺者的人間[#「暗殺者的人間」に傍点]の学部に入れられている、学生課の職員がおれにちかづいて、きみの答案はテレビで見たが立派だったよ。きみもあの成績をずっと一生もちつづけるのが大変だねえ、という。おれは眼ざめて自分が憂欝な鬼の老年をむかえることを考え一瞬ぞっ[#「ぞっ」に傍点]としてその考えから全速で遠ざかる……
こうした日々がすぎさり、ある朝おれは寒さに身震いして眼ざめた、最初の冬の気配だ。まだ外の世界は夜明けだろう。おれは穴ごもり[#「穴ごもり」に傍点]の獣だ、時間を内臓で感じとることができる。おれは鳥肌だっている自身のからだをだきしめて熱い血を感じながら、暗殺者的人間のおれ[#「暗殺者的人間のおれ」に傍点]に呼びかけた、≪おまえ、セヴンティーンの聖者よ、おまえは映画で見た開拓時代のアメリカの冬のはじめの夜明けの風景が大好きだったなあ、嵐のようにパセティックでしかも桃色と鳩の胸の色の静かに濡れた光をはなつ空、墨色にいちめんに霧《キ》っている原、そして葉を払い落とした樫の枝には魔女を絞首するための麻縄が風に揺れていた……≫そしておれは寝具をとりつくろって再び眠った、ふと芦屋丘農場のあの若い妊娠している仏教徒がおれのことで衝撃をうけて流産するようなことでもあったらという惧れにとらえられ、またその点では家畜たちはみな安全だ、と考え、こんどは冬の芦屋丘農場を夢に見た。
その朝、午前十時、取調室に出ると始めて火鉢があった、そして寒さからばかりでなく緊張に頬を白っぽくしている係官が、
「取調べは昨日夕方終った、ご苦労だった、現在までの段階では一応、おまえの単独犯行としか考えられないという結論をえている。いまの政治のあり方や左翼のあり方についての、おまえの思いつめた若者らしい気持ちもよくくみとれたと思う。おまえが警視庁にいるのも今日限りだが、最後に、話しわすれていたことでもあればいなさい」といった。
「私は身をすてて大義を行ったのです、目的が達成できたのでサッパリしました」とおれはこたえたが、その一瞬、おれはこのまま死刑執行場にみちびかれるのだと考え、夜明けに思いうかべた魔女の首吊り樫のことをもういちど鮮明に思いうかべた。
「逆木原先生や安西繁さんが逮捕されて迷惑をこうむっていられるということはありませんでしょうか?」
「それは答えられない、しかしおまえのお姉さまは自衛隊の病院をやめられたぞ」と係官はいった。
おれは醜いためコムプレクスだらけの姉が看護婦をやめ結婚もできず一人で暮らしてゆくことを思うと暗然とした、≪姉だけがおれのセヴンティーンの誕生日をおぼえていてくれた唯ひとりの人間だったのに、おれは暴力をふるったりした、おれは優しい弟じゃなかった、姉には詫びたい≫おれはアメリカの魔女狩のさかんな地方の野原の喬木に首を吊りながら、姉に詫びている人間を(それがおれなのだが)また鮮やかに見る思いなのだった……
午後二時、おれが車ではこばれたのは死刑執行場ではなかった、東京地検は≪刑事処分相当≫という意見つきでおれを東京家裁におくり、おれの身柄は東京少年鑑別所にうつされたのだった。≪練鑑じゃないか、愚連隊どもがブルースを歌う≫とおれは車からおりた瞬間に考え、死刑だと思いこんでいたことの反動もあって、もうこれでおれが特別待遇をうけるのも終りだ、不良少年どもとごたまぜ[#「ごたまぜ」に傍点]だろうと思い、恐怖におそわれた≪おれを小さいころから殴ったり虐めたりした子供の敵[#「子供の敵」に傍点]がここに蟻塚をつくっていっぱい棲んでいるのだ、おれはたちまち殴り倒され踏みつけられるだろう、おれの右翼の魔法[#「右翼の魔法」に傍点]などかからず天皇のことを天チャンなどといって屁とも思っていない若い野蛮人どもにおれは恥辱をうけるだろう!≫あれ[#「あれ」に傍線]からあと、おれが恐怖に震えたのは刺殺後、背広の男たちにカメラマンまでまじった一団に倒れた委員長とおなじ床に首根っ子をおしつけられてぎゅうぎゅうやられた時と、今との二度だけだという気がした、おれは暴れて逃げだしたいと始めて思った。しかし右翼の魔法[#「右翼の魔法」に傍点]にかかっている大人たちはなまなかのことでは特別待遇をやめてしまわないものだということがすぐわかった。鑑別所次長が入所心得を話し、おれがそれにこたえる、脇の男が泥のように柔い鉛筆でメモをとっている、それが伏眼にしたおれの眼にうつる、≪ハキハキト答エル、立派ナ態度、逃亡、自殺ヲ企テルガゴトキ様子ナシ≫
その後すぐおれは所内東寮の単独室第一室に収容された、第一室、特別待遇は右翼の魔法[#「右翼の魔法」に傍点]にかかった大人たちの執念だ。おれは警視庁にいたときとおなじように独房に正座して外部の人間どもから庇護されていることができるのだった、子供のころ練鑑におくられたりする虐めっ子にいったん眼をつけられると、夢のなかで追いすがる鬼をどうしてもまいてしまうことができないように、つねに掴えられては酷いことをされたものだ、おれはチビで弱かったから絶望だった。しかし今は虐めっ子の蟻塚で、しかも最上等の第一室で、独り悠々と正座しているのだ。おれは平静な幸福な気持だった、十分から十五分ごとに係官が様子を見にきたが、かれはまたメモに≪少シモ変ッタ所ナシ≫と書きこんで満足の一服をしたことだろう。午後三時四十五分、食事が運ばれてきた、おれはその殆どすべてをたいらげた。午後は永く静かに油の川のようにゆっくり流れた、おれは芦屋丘農場で感じたような魂の平和を感じていた≪あのときおれは妊娠している人間で、出産をまえにしていたが、実に静かな、父親が好きなミレーの晩鐘[#「ミレーの晩鐘」に傍点]みたいな平穏を味わっていた、今おれは出産した後の脱けがら[#「脱けがら」に傍点]を静かな平安の川にひたしているのだ、おれの生涯でいまがいちばん静かな日の静かな時刻だ≫夕暮がカヌーをこいで油の川をゆっくりさかのぼってくる……
静かなる男、夢みる少年、そして暗殺者的人間[#「暗殺者的人間」に傍点]はせまってくる穏やかな夕暮のなかの東京少年鑑別所東寮単独室第一室に正座して、しだいに濃くなる夕暮のなかにガス状の星雲のように輝きながらぼんやり浮かぶ思想[#「思想」に傍点]を見つめていたのだ、≪おれは暗殺する前、その瞬間、そしてそれ以後においても、やがておれはどうなるのか[#「やがておれはどうなるのか」に傍点]、ということを正面からたちむかって考えたことはなかったという気がする、おれは将来になにを見ていたのか? 死だ[#「死だ」に傍線]、私心なき者の恐怖なき死[#「私心なき者の恐怖なき死」に傍点]、至福の死[#「至福の死」に傍点]、そして天皇[#「天皇」に傍線]こそは死を超え[#「死を超え」に傍点]、死から恐怖の牙をもぎとり[#「死から恐怖の牙をもぎとり」に傍点]、恐怖を至福にかえて死をかざる存在[#「恐怖を至福にかえて死をかざる存在」に傍点]なのだった! おれはこの花の香りのような死、菓子の甘さのような死の家にはいって行くまえにちょっとふりかえって挨拶するように、暗殺をおこなったのだ。いまになってみればよくわかる、けさおれがとっさ[#「とっさ」に傍点]にいった右翼の言葉、身をすてて大義をおこなう[#「身をすてて大義をおこなう」に傍線]は、忠とは私心があってはならない[#「忠とは私心があってはならない」に傍線]という言葉とおなじ意味なのだ、おれ個人の恐怖にみちた魂を棄てて純粋天皇[#「純粋天皇」に傍点]の偉大な溶鉱炉のなかに跳びこむことだ、そのあとに不安なき選れたる者の恍惚がおとずれる、恒常のオルガスムがおとずれる、恍惚はいつまでもさめず、オルガスムはそれが常態であるかのようにつづく、それは一瞬であり永遠だ、死[#「死」に傍線]はそのなかに吸いこまれる、それはゼロ変化にすぎなくなる。おれは委員長を刺殺した瞬間に、この至福の四次元に跳びこんだのだ! おれは今すでに死体なのかもしれないし、二百年後なおこのまままの体[#「このままの体」に傍点]であるかもしれない。警視庁の独房は黄泉《ヨミ》の国のような感じだった。そしてここ練鑑は煉獄ででもあるのだろうか。姉がもっていた文庫本に此処過ぎて悲しみの市[#「此処過ぎて悲しみの市」に傍点]、という行があった、赤線がひいてあった、あれは死の世界の門に書いてある言葉だそうだった。おれは暗殺の剣をつき刺したが、あれは門をくぐりぬけるための旅券申請だったのだ、此処[#「此処」に傍点]を過ぎるときの儀式だったのだ、剣の舞だ、いまおれは悦びの市[#「悦びの市」に傍線]にいる≫
歌声がおなじ建物の遠くから聞えてきていた、不意におれはその旋律をしっかりとらえら、おれがいつも歌っていたやつだ、おお! キャロル、おまえはおれを傷つける、おまえはおれを泣かせる、けれどもし、おまえがおれを棄てるなら、おれはきっと死んでしまうだろう、おお、おお、キャロル、おまえはおれに酷いことをする! ≪おれが歌っていた歌を歌っているやつら、おなじハイティーンたちがここにはいっぱいいるのだ、既にその歌声がおれの耳に届く、明日はおれもあいつらと小さな接触をもつようになるかもしれない、そしていつかは、おれはあのおなじハイティーンたちとともに人間の大群衆のなかへ釈放されることになるのだ!≫おれは恐怖が再びおれの胸にじわじわ滲んでくるのを感じながら歌声を聴いていた、おお、おお、キャロル、おまえはおれに酷いことをする! おれは黄泉の国の鬼のはずだ、鬼として暗殺者的人間[#「暗殺者的人間」に傍点]の威厳をまもって生きているのだ、しかしおれはしだいに深く黄泉の国へおりてゆき、しだいに暗い方へ歩いてゆく、という鬼らしいコースのかわりに、しだいに黄泉の国の深みからうかびあがり、しだいに明るい方へ駈けて行っている。明るい現実世界から≪おお! キャロル≫だって聞こえはじめた、本当は暗い暗い荘厳な声が厳しく≪霊魂著《と》く日の若宮に参上り、無窮に皇孫の御天業を翼賛し奉らん≫と誓うのをこそ聞いているべきときに、おお、おお、キャロル! だ、急に歌声が止む、教官に叱られたのだろう、ここは外部世界とおなじだ、歌うやつ叱るやつ、そしておれはやがて大群衆が喚声やら罵声やらをあげてテレビ・カメラ、ニュース映画カメラ、マイク、写真機、鉛筆、それらを千トンも持ったマスコミの連中とともに襲いかかってくる暴動のような騒ぎのなかへ追放されるのだ、そしておれは、ああ、疲れきった憂鬱な鬼として老年にいたるのだ。おれは再び、あの伝説的な暗殺者の三十年について考えた夜の夢の骨も凍る恐怖感のなかへ頭からおちこんだ。おれはヘマもやってすぐに暗殺者的人間[#「暗殺者的人間」に傍点]のバッジをなくすだろう! おれは右翼の城から追われ、右翼の社からひきずりおろされ、右翼の選ばれたる子である証拠の百倍も、つまらないぐずの[#「ぐずの」に傍点]自涜常習のインポテの泣き虫の低脳の劣等感過剰の犬のようなばか[#「ばか」に傍点]である証拠をつくりだしてしまうだろう……
おれは恐慌におそわれた大都市を胸に内蔵しているようだった、おれは絶叫しながら跳ねあがり壁に体あたり弾かれて床にあおむけに荒あらしい音をたてて倒れ呻き声をあげた、いやだ[#「いやだ」に傍線]、いやだ[#「いやだ」に傍線]、強制されるのはいやだ[#「いやだ」に傍線]、あれを無意味にされ、天皇から永遠に見棄てられてしまう! 強制だ、強制だ、汚ならしい外の世界へ強制的に追放される、いやだ[#「いやだ」に傍線]、いやだ[#「いやだ」に傍線]、いやだ[#「いやだ」に傍線]! 死刑にしてくれ、いますぐ執行人をよんで死刑にしてくれ!
電燈がともった、夕暮が無機質な明るみのなかで粉々にくだけ散った。おれは電燈のおおい[#「おおい」に傍点]が頑丈な鋳物製であること、ベッドの木綿の敷布が紐になること、それを一瞬さとり、次の瞬間、おれの恐慌は湯のなかに投げいれた雪のかたまり[#「かたまり」に傍点]のように凄惨なスピードで融けさった、かすかな鉱物質の匂いのたゆたい[#「たゆたい」に傍点]だけのこっている。廊下を駈けてくるものがある、おれはすばやく起きあがり扉にむかって正座し静かに微笑む。怪訝そうな表情を係官の男らしく実直な眼がまばたき[#「まばたき」に傍点]ひとつではらいおとす、おれは静かに息をつめて呼吸のせわしなさ[#「せわしなさ」に傍点]をおしかくしながら、おれの短い生涯の最後の啓示をあじわっている、≪自殺しよう、おれは汚らしい大群衆を最後に裏切ってやる、おれは天皇陛下の永遠の大樹木の柔らかい水色の新芽の一枚だ、死は恐くない、生を強制されることのほうが苦難だ、おれは自殺しよう、あと十分間、真の右翼の魂を威厳をもってもちこたえれば、それでおれは永遠に選ばれた右翼の子として完成されるのだ。おれはいかなる強大な圧力、いかなる激甚な恐怖にも、その十分間のあと揺らぐことがない、おれの右翼の城、おれの右翼の社、それは永遠に崩れることがない、おれは純粋天皇[#「純粋天皇」に傍点]の、天皇陛下の胎内の広大な宇宙のような暗黒の海を、胎水の海を無意識でゼロで、いまだ生まれざる者[#「いまだ生まれざる者」に傍点]として漂っている、千万ルクスの光だ、天皇よ、天皇よ!≫
係官はいままでの十分から十五分間隔の見まわり[#「見まわり」に傍点]とくらべてずっと熱心におれの部屋を覗いている、おれの眼はヒステリー質の至福の感覚以上をおこして瞼をとじた内部で天の岩戸[#「天の岩戸」に傍点]のなかのように光輝絢爛で、ひらくことができないが、やがて係官の眼がおれの顔にとどまるのを感じる、おれの頭は激しく澄みわたりフルに活動する、きっと次の見まわり[#「見まわり」に傍点]が遅れる事情があるから、こんどだけ過度に綿密なのだ、係官はおれの眼をとじた顔が淡い桃色に輝き、汗にぐっしょり濡れ、小鼻には汗の粒がひくひく揺れており、そしてうっとりするほど幸福なのを怯えるような気持で見つめていたのだ、係官が廊下を重い足どりで去って行く、おれは眼をかっ[#「かっ」に傍点]と見ひらき敏捷に活動を開始する、木綿の敷布をかいがいしい[#「かいがいしい」に傍点]音をたてて二つにさき結んで狭い輪をつくる、針金のほうが早く死ねるだろうが、この粗末な布のなんという優しさ、電燈のおおい[#「おおい」に傍点]の鋳鉄は頑丈で高さもいい、明日、強い腕をもった労働者はあらゆる部屋でこの岩山のように頑丈なやつと格闘しなければならないだろう、歯みがき粉を水にといて壁に指で文字を書きつける、猛然とおれの体を熱情がふくれあがらせる、おれは爆発しようとする、いま、おれの体は十倍の重み、十倍の巨きさだ、巨人おれ[#「巨人おれ」に傍点]は渾身の力をこめて黄金の文字を書きつける、廊下のずっと向うで人間の声が人間の名を呼んで若者の声がそれにこたえている、堀口、はい、安川、はい、大本、はい、三宅、はい、もう一人の三宅、はい、坂田、はい……
天皇陛下万歳、七生報国、おれの熱く灼ける眼はもう文字を見ず、暗黒の空にうかぶ黄金の國連ビルのように巨大な天皇陛下の轟然たるジェット推進飛行を見ている、おれは宇宙のように暗く巨大な内部で汐のように湧く胎水に漂よう、おれはビールスのような形をすることになるだろう。幸福の悦楽の涙でいっぱいの眼に黄金の天皇陛下は燦然として百万の反射像をつくる、八時五分、おれは十分間、真の右翼の魂をもっている選ばれた少年[#「真の右翼の魂をもっている選ばれた少年」に傍線]として完璧だった、おれの右翼の城、おれの右翼の社! ああ、おお、天皇陛下! ああ、ああ、あああ、天皇よ[#「天皇よ」に傍線]、天皇よ! 天皇よ! 天皇よ![#「天皇よ! 天皇よ! 天皇よ!」に傍線]おお、おお、あああ……
9 死亡広告
純粋天皇の胎水しぶく暗黒星雲を下降する永久運動体が憂い顔のセヴンティーンを捕獲した八時十八分に隣の独房では幼女強制猥せつで練鑑にきた若者がかすかにオルガスムの呻きを聞いて涙ぐんだという
ああ、なんていい……
愛しい愛しいセヴンティーン
絞死体をひきずりおろした中年の警官は精液の匂いをかいだという
(完結)