大槻ケンヂ
ステーシー
目 次
序 章
ステーシーの美術
十三体のステーシー
つぶれトマト
オクトパスショウ
マユミ
銃 撃
終 章
違法再殺少女ドリュー
幽 霊
春
あとがき
文庫版あとがき
序 章
コロコロ
コロコロ
コロコロと鳴る風鈴の音で目覚めるまで、僕はミルク・コーヒー・ダンスの夢を見ていた。
牛乳と珈琲の踊り≠ヘ、ここ数年、世界中をパニックに陥れている気まぐれな神様が、夢の中で僕に啓示で与えた振り付けで、きっと実際にはどの国を捜したって、こんな奇妙な踊りは存在しないだろう。
なにしろミルク・コーヒー・ダンスときたら、牛乳ビンとコーヒーのたっぷり入ったマグカップを、それぞれ右手と左手とに持ちながら踊らなければならないのだ。男は、黒いビロードの、肌触りのよい服を着て、女は、白い、赤ちゃんが着るようなタオル地のドレスをまとい、端から見たら阿呆のように、どんなに哀しい気分の日でも、ニコニコと笑って向かい合わなければならないのだ。
それが、たとえお別れの日であっても。
もう数日もしたらステーシーと化すであろう詠子と向かい合った僕は、作り笑顔ができないことを理由に友人の自主制作映画の出演を断った時のことを思い出しながら、途方に暮れていた。
「ホラ渋さん笑うの」
と、十七歳の詠子は、二十近く歳の離れた僕に言った。
「ハイ、ミルクとコーヒーを持った手をホラ、こうやって肩のとこまで持ち上げて」
詠子の笑顔は、ステーシー化する直前に少女たちが見せる典型的な表情だった。まるでこれから観覧車にでも乗り込むかのように、少女たちは死を前に何故かしら多幸感に包まれた笑顔を見せる。これから自分の肉体が、歩きまわる忌まわしい屍《しかばね》となることがわかっていながら。親か、恋人か、あるいは会ったこともない再殺部隊の男たちか、誰の手にかかるかはわからねど、百六十五分割されたグチャグチャの肉の破片になって四方八方に散らばる運命が待っていることを理解しながらも、十五歳から十七歳までの少女たちは、なぜだか喜びに満ちた微笑みを見せた。
「お互いとお客様に礼をした後、くるりと回るの。回る時に、女の子の持つ牛乳ビンと男の人が持つコーヒーカップがぶつかるようにするんだよ、わかった? 渋さん」
科学者たちは少女の多幸感の表情にもそれらしい名称をつけ、なぜ突然、十五歳から十七歳までの少女たちが世界中で集団的な変死を遂げ、さらに短くて数十分、長ければ半日後に、歩きまわる屍《しかばね》……ハイチの言葉でいう「ゾンビ」と化すなどというバカげた現象が起こるのか解明できないふがいなさを、少しでもごまかそうと試みた。
「ホラ渋さん、始めるよ。お互いにお辞儀、ペコッとね。お客様にもお辞儀、ペコッ」
学者言うところの「臨死遊戯状様《ニアデスハピネス》」の笑顔を浮かべ、詠子が僕と、いつの間にか集まっていた老人ばかりの観客にペコッ、ペコッと頭を下げた。
僕と詠子は夢の中で、天井のはるかに高い映画館にいた。
「もうすぐお別れだってのに、ダンスかい詠子?」
僕はおずおずと尋ねた。ミルク・コーヒー・ダンスなんて踊ったことがない。
「大丈夫、お別れしても、また会えたら、それでチャラよ」
詠子の胸のふくらみが、近づくと僕の身体に触れた。二人の身体はすぐに離れた。
「ホラ、ここで牛乳ビンとカップをカチャリ!」
踵《かかと》をクルリと回転させて、詠子が言った。あわててマグカップを握った右腕を伸ばせば、カチャリと音をたて少女の持つ牛乳ビンにぶつかった。
「ホラ、背中を合わせて」
背中を合わせると、正面に、薄ら笑いを浮かべた老人の顔が観客席いっぱいに二千は並んでいた。
「ホラ、これがお別れの状態」
「ああ、詠子がいない。ジーさんやバーさんばかりがいるよ。さみしいな」
「じゃ、ここで詠子がエイッ! ターン」
一滴もこぼさず、詠子は片足を軸に回転して、また再び、僕の前にニアデスハピネスの笑みを浮かべて現れた。
「ね、また会えた。お別れしても、また会えたなら、それでチャラよ。いつまでも、一緒の世界に、あたしたちはいるのよ」
僕は白いタオル地のドレスを抱きしめようとしたが、手に持ったミルクとコーヒーが邪魔で果たせなかった。おまけに詠子の手には、いつのまにかビンもカップもなく、代わりに両手に一つずつ、風鈴が握られていた。
詠子が自分の頭の横でユラユラと風鈴を鳴らし始めた。
コロコロ
コロコロ
コロコロ
コロコロと鳴る風鈴の音で目を覚ますと、現実の詠子は、やはりニアデスハピネスの微笑を浮かべて、僕の顔を覗きこんでいた。
「渋さん起きたねぇ」
左耳のすぐ横で風鈴を鳴らされた僕は、机の上に突っ伏したまま、いつの間にか眠っていた自分に気付いた。詠子は木の葉のようにも見えるヘタクソな金魚の絵の描かれたガラス玉を嬉しそうに振っていた。
コロコロ カラコロ
「ふーん……そっかー……」
詠子はゆっくりと喋る。口をはっきり開けて発音しないので、彼女の声は時々、何を言っているのかよくわからない。「なんて言った?」と聞き返すと「あたしの話を聞いちゃいない」と言って、十七歳はすねてみせる。
「何て言った? 詠子」
詠子は怒りもすねもしなかった。逆に、さらにニッコリと微笑んで、言った。
「すごいね、あたしの前で眠ったんだ」
「どのくらい眠ってたかな」
「あたしが風鈴の短冊に願いごとを書き始めたのと同時にね、バタンと机に突っ伏したよ。クククッ」
「バタン≠チて音が本当にしたのか?」
「うん、本当にバタン≠チて音をたててね、本当にグーグー≠チて寝息をたてながらね」
「スヤスヤ≠チて音もたててたか、俺?」
「うん、もちろん、クククッ。小一時間も」
「そんなに寝てたか……疲れてたから」
「すごいね、あたしの前で眠ったんだ」
コロコロ カラコロ
「大人になったね、渋さん」
「何だそれ?」
「クククッ」
詠子の奇妙な笑い声と、季節にまるで合わない冬の日の風鈴が重なり合い、雑然とした僕の狭い部屋に染みわたった。
詠子が僕の後ろを、チョコマカと付いて歩くようになってからしばらく経つ。
初めて出会ったその日に、詠子は僕に『再殺の権利』を押しつけてきたのだ。
「ねぇ、あたしの再殺の権利をあげるわよ」
「ん? あげるわよっていきなり言われてもなぁ」
「ククククッ」
広い公園の隅の方に、ものを書くのにちょうどいい木製のテーブルとベンチがある。その日、僕はポツネンと座り、どうせまたボツになるであろうホラー小説を書いていた。メキシコからスモウ・レスラーに憧れて来日した少年が、親方の張り手で即死、「ドースコイ、ドースコイ」と呟きながら悪霊となって呪いをしかける話だ。恨まれた親方が「もう、ごっつぁん!」と言ったとか言わなかったとか……。現実がどんなに異常な小説世界も超えてしまった今、売れない作家見習いはこんなバカげた話ばかりを編集者から注文されている。
少女が遠くから冬枯れた芝生を踏み踏み歩み寄ってきたことに気付いてはいたが、どうやらステーシーではなさそうなので気にかけなかった。少女がズンズンと近づき、断りもなく僕の横に座り、原稿を覗きこんだ時でさえ、僕は「少年アミーゴ呪いの土俵入り」を書き続けていた。
「ねぇ」
少女に呼びかけられて、初めて顔を上げた。
「ねぇ、あたしの再殺の権利をあげるわよ」
「ん? あげるわよっていきなり言われてもなあ」
「ククククッ」
と少女は、典型的なニアデスハピネスの笑みを浮かべた。
「ステーシーになるまで、あと何日ぐらいだ?」
ニアデスハピネスを浮かべるようになった少女は、死もステーシー化も再殺さえも恐れない。だから僕はぶしつけに聞いたのだ。
「その前に名前を聞いてよ」
「……君は何て名前だ?」
「えーこ、ごんべんに永遠の永よ。あなたは?」
「渋川……」
「じゃ、渋さんて呼ぶ」
「んァ〜、俺は『渋さん』か、オヤジ臭いなぁ」
「渋さん、詠子はね、たぶんあと一週間もしたら死んで、それからステーシーになるのね、だからさ、あたしの再殺の権利を渋さんにあげるわ」
「……なんで? 俺は君を知らない」
「あたしね、今日、再殺の権利をもらってくれる人を探そうって決めてたの。あたしがステーシーになるのと一緒で、そのことには理由がないの。決めたから決めたの、この世の総てのことは起こるから起こるの、それだけ、ただそれだけのことよ、そしてそれは悪いことではないの。渋さん、渋さんは詠子が横に座っても気付きもしないふりをしたでしょ、詠子はそこが気に入ったのクククッ。渋さんは人に自分がどう思われているのかが気になって仕方がなくって、だから渋さんは他人に興味がないふりをしてごまかしているの。詠子はね、ステーシーになる前に、一つだけいいことをしようと決めてるの。詠子も渋さんと同じように、人がそばにいると絶対に安心して眠れないから、そういう人の寂しさがわかるから、ステーシーになる前に、詠子はそういう人を、世界中で詠子と一緒にいる時だけは、安心して眠ることのできる人にしてあげると決めたの。それがあたしのステーシーになる前にするただ一つだけのこと。ねえ渋さん、世界中で詠子と一緒にいる時だけはスヤスヤと眠っていいんだよ。お礼はね、再殺の権利をもらってくれるだけでいいよクククッ」
「……詠子は目茶苦茶なことを言うなぁ」
「ククククククッ!」
「世界中で詠子といる時だけはスヤスヤ眠っていいんだよウヒヒヒ」
「笑い方が変わったぞ」
「こっちの笑い方の方が可愛いでしょ、ウヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
* * *
眠りから覚めた僕に、詠子が「公園に行こう公園に行こうクククッ」と笑いながら手を引っぱった。彼女の行きたがっている公園が、以前、僕が「少年アミーゴ」の物語を書くために通っていたところだとわかった時、僕は、『いよいよだな』と思った。
詠子の死に対して、特別な感情は何も浮かばなかった。
「渋さんは他人に興味がないふりをしてごまかしているの。渋さん、渋さんはねぇ、世界中で私といる時だけはグッスリ眠っていいんだよイヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
「詠子の笑い声で起きちまうよ」
詠子は枯れた芝生の上で、ピョンピョンと飛びはねながら笑った。生まれて初めて散歩に連れて来てもらった小犬のように、しばらくその場ではねていた。
僕と詠子以外、公園に人はいなかった。
公園へ来る途中、再殺されたばかりのステーシーを見た。色とりどりの果物と油絵の具とセロハン紙を、巨大な赤ん坊の手がギュギュッと握りつぶした後に放り捨てたような、百六十五分割されたステーシーの再殺体は、ロメロ再殺部隊の隊員たちを乗せたトラックの脇で、まだ時々、肉片や骨片や髪の毛の数本がピクリピクリと虫のように蠢《うごめ》いていた。
「渋さん、詠子のこともこんなふうにグチャグチャにしてね」
詠子はピンと指を立て、まっすぐに、自分と同じ年頃の少女の肉と血を指差した。
ニアデスハピネスの表情。
「お嬢ちゃん、その隣りのお兄ちゃんに、キチンと再殺してもらうんだぞ」
トラックの荷台から銃を肩にかけた再殺部隊員の一人が、詠子に声をかけた。
「うん、頼りなく見えるけど、詠子が選んだお兄ちゃんだから大丈夫。ちゃんと詠子を再殺してくれるよっ!」
元気一杯の詠子の姿に、十数名の隊員たちがドッと笑った。
「ウヒャヒャ、そりゃいいなエーコちゃん」
「がはははは、よかったなエーコちゃん」
「ふふふふふ、もうすぐだなエーコちゃん」
「うん、もうすぐだよ再殺部隊のオジさんたち、ククククッ」
ウヒャヒャヒャヒャ
がはははははははは
ふふふふふふふふふ
ククククククククク
隊員たちは本当に嬉しそうに笑った。詠子も、笑いながらその場ではねた。その脇で、ステーシーの右足の薬指がかすかに動いていた。数匹の蠅が、ぶぶぶぶぶぶ〜んと、忙しげにあたりを飛びまわっている。
笑っていた隊員の一人が、不意に真顔になって、僕に言った。
「なあ、お兄ちゃん」
「えっ」
「キチンとやってやれよ。ちゃんと、あんたが責任を持って、この娘を百六十五以上の肉片にしてやれよ。始末、してやれ」
詠子はトコトコと隊員たちに近づき、「ねぇ知ってる?」などと、隊員たちが知る由もない同級生の失敗談を語り始めた。
「砂置子にハムスターを貸したらね、違うハムスターに変身して帰ってきたの、何でだと思う?」
隊員たちは、詠子の頭を優しくなでたりしながら、ニアデスハピネスのために意味不明のことを語り始めた少女の一言一言に、うんうんと頷き、アハハハと声高らかに笑った。
僕に話しかけてきた三十代後半の隊員だけが、静かな表情を浮かべていた。
「ステーシーが獲物を求めて歩きまわる姿は哀れだ。もう何百人と見てきただろうが……自分のよく知る者が徘徊する姿を見るのは辛いぜ。あんたはこの娘の兄か? 恋人か?」
「いや、ただこの娘が、俺に勝手に再殺の権利を押しつけたんだよ」
「ああ、ステーシー化する直前の娘たちがよくやる、再殺人見つけ遊び≠セな、見事、標的にされちまったってわけか。で、迷惑なのか?」
「いや、別にそうとも思っていない」
「今、彼女とどんな関係にある?」
「俺は世界中で、この娘の前でだけグッスリ眠れるらしい。そういう関係らしいよ」
「ああそれで十分だ。その関係を受け止めろ、ちゃんとグチャグチャに再殺してやれよ」
トラックの隊員たちから一際大きな笑い声が起こった。
すると僕に話しかけていた男が「行くぞ」と言った。
トラックは走り始めた。
さよなら!
じゃあな!
隊員たちはいつまでも詠子に手を振っていた。
遠ざかるトラックと男たちの声。
さよなら!
じゃあな!
また会えたらいいな!
ちゃんとグチャグチャにしてやれよ……。
「なぞなぞ≠セよ、詠子が砂置子にハムスターを貸したところ、似てるけどよく見たら違うハムスターに変身して帰って来ました。さて、なぜでしょうウヒヒヒヒヒ」
「砂置子が借りたハムスターを死なせちまったんだろう」
「正解」
「で、あわてて別のハムスターをペット屋で買ってきたんだろ」
「正解!」
詠子が、僕の部屋から持ってきた風鈴をコロコロと鳴らした。風鈴の音はニアデスハピネスの笑い声と混ざり合い、奇妙な機械音に聞こえた。
風鈴につるしてある短冊には、詠子の丸っこい字で「渋さんへ、詠子が幸福になる話をたくさん書いてください。詠子より」と記してあった。
「砂置子がこの間うちに来てね、何か言いたそうにしてたの」
詠子は十六夜の猫パーティーに初めて参加した子猫のように、僕が浅く腰かけた公園の木製ベンチのまわりをはねながらクルクルと回っていた。
時々、体の一部一部、真っ赤なスカートからのぞく太腿の肉や、長い薬指や、左目のまわりの表皮などが、不思議にピクピクとケイレンしていた。それはステーシー化する直前の、死がもうすぐそこまで少女に近づいている予兆に他ならなかった。
「その時の砂置子のものまねをしよっか」
詠子がピタリと止まった。ちょうどテーブルを挟んだ向こう側に詠子がいた。
はっ、はっ、はっ、と息を切らす詠子の喉のあたりに、汗の玉が浮かんでいた。
小さな水の玉は、不自然な少女の体の痙攣《けいれん》に合わせて右へ左へとせわしなく動いていた。
「ねえ、詠子、言わなきゃならないことがあるの」
多分それが砂置子≠フ癖なのだろう、詠子は痴呆のように薬指で髪をいじくりながら早口で言った。
「言わなくてもわかってるよ」
目には見えない砂置子≠フ方を向いて、詠子は自分のものまねのつもりか、ことさらにゆっくりと喋った。風鈴はまだ右手に握られている。
詠子による、詠子と砂置子の一人二役。
砂置子「詠子が驚くことだよ、あのね」
詠子「わかってるよ」
砂「あのね……やっぱ驚くからやめた」
詠「驚くから聞かないでおくよ」
砂「ん……でもね、何のことだと思う?」
詠「わかってるってば」
砂「ハムスター……」
詠「うん、でしょ」
砂「なんでわかったの?」
詠「わかるよ、殺しちゃった?」
砂「踏みつぶしちゃった、ペチャッて。怒る?」
詠「怒んないよ」
砂「なんで」
詠「また会えたから」
砂「でも違うハムスターだよ」
詠「ハムスターでしょ?」
砂「ハムスターよ」
詠「じゃあ同じじゃない。砂置子に殺されても、ハムスターはまた詠子と会えたんだよ。お別れしても、どんな形でも、また会えたなら、それでチャラよ」
ミルク・コーヒー・ダンス。お互いにペコッ。お客様にペコッ。ペコッ、ペコッ。
「砂置子はその後、ハムスターを抱いてあたしのベッドで小一時間程眠ったわ。詠子が冬でも風鈴て売ってるのかな? と思って買いに行って、帰ってきたら、ハムスターはパックリと体を一直線に切り裂かれていた。砂置子がステーシーになっていたのよ。砂置子は詠子のパパとママを食べていた。詠子が帰った時、砂置子はまたあたしのハムスターを踏んづけて、右手と左手にはあたしのパパとママの切り取った首を抱えて突っ立っていたの。渋さん、詠子は兄弟もいないし彼氏もいないから、悪いけど詠子の再殺の権利をもらってね。迷惑でしょ? でもね、どんなヘンテコなもんであっても、人は与えられた運命を認めなきゃいけないものなんだよウヒヒヒヒ。詠子だって、砂置子を再殺してあげたんだよ。再殺部隊を呼ぶヒマがなかったから、包丁や、ナイフや、家にあるいろんなものを使って、一晩かけて百六十五……ちゃんと数えたんだよ、百六十五分割したのよ、ヌルヌルしたわウヒヒヒヒヒ。ああ渋さんお別れだ。一度お別れだ。あたし死ぬね、もうじき死ぬねウヒヒヒヒヒ、じゃあね渋さん、よろしくねウヒヒヒヒヒ……風鈴って冬でも売っているんだよウヒヒヒヒヒヒヒ、渋さんごめんねありがとうウヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒありがとうヒヒヒヒヒヒヒ」
けたたましく笑いながら詠子の体が真後ろに倒れた。
ボクンと詠子の頭蓋骨が地面の上でひび割れる音、そして風鈴の砕けるカチャンという音を、僕は同時に聞いた。
あとどのぐらいたったなら、詠子は、歩き回り人の肉を喰らう屍……ステーシーとして、もう一度起き上がってくるのだろうか。できればそれまでに百六十五分割しなければならない。
公園に人影はなかった。
たった一人で、僕は詠子の死体を見下ろしていた。
空は青く、詠子の瞳は空の果ての星々を見つめるように、カッと見開かれていた。
あと数十分で、忌まわしきものとはいえ、僕はまた、詠子と出会う。
赤子を抱えるように、やせた詠子の身体を両腕に包んで、人気のない公園のベンチに腰かけた。
詠子の体は僕の膝の上で、柔らかい樹脂で作られた人形のごとくに、グニャリと力がなかった。
ガクンと後ろに倒れた頭は、何度手のひらで押し上げても、その度に後方へ折れ曲がった。小さな二つの鼻孔が、空に向かってポツンポツンと開いていた。上唇が微かにめくれあがり、唾液に濡れた前歯が冬の陽を反射してチカチカと輝いていた。すでに赤色の消え失せた唇の端から、チョコンと舌先がのぞいていた。飽きもせず少女の鼻孔と唇と歯と舌先を見つめていると、ふいに、機械仕掛けでちょうつがいが外れた宝箱のように、詠子の口がOの字に開いた。
必要以上に高い位置にあって、無駄に明るい冬の陽の光は、詠子の口腔をくっきりと照らし出した。
小さな小さな詠子の口の中には、沼地の生物を思わせる赤い舌と、ギッシリと隙間なくアーチ型に並んだ歯の一本一本とが、唾液を接着剤にしたかのように、巧妙な配置で収まっている。
僕はふと箱庭≠思い出した。
心身症の少女の心を癒す箱庭療法みたいに、できることならば、詠子の口腔の配置を箱庭の中の人形や家に見立てて、ピンセットやドリルやルーペを使って入れ替えてやりたいと思った。入れ替えて、詠子の短すぎた一生を、もっと幸福な時間とすり替えてやるのだ。
鋭い犬歯をペンチでひっこ抜き、喉の奥に隠してやろう。遠目に見ればお歯黒をぬった貴族に見えるだろう。舌先にピアノ線を巻き付け、ゆっくり静かに時間をかけて、今の五倍の長さにしてやろう。爬虫類のように、ペロリと葉の上の蝶々も食べられる。そうすればもう、僕の食事を横からつまみ食いして、「コラ!」と怒られることだってなくなるのだ。ベロリと伸びた舌には、一直線に十七個の誕生石を埋めこんであげよう。きっとはるか昔に死んだカイゼル髭のダリが作るより、美しい装飾品として人々の心を魅了するだろう。ガラスケースに入れて博物館に陳列したなら、世界中の人々が押しかけて十七個の詠子の誕生石を……ああ……しまった。僕は詠子の誕生石を知らない。
「ごめん」
と、腕の中にスッポリと収まった詠子に声をかけたが、もうククククともウヒヒヒヒとも笑いはしない。ついさっきまで皮膚の痙攣《けいれん》に合わせて忙しく動きまわっていた喉元の汗の玉も、今は死んで動かないテントウ虫のように静かだ。
どこか遠くで、チェーンソーの音が鳴っている。
ぶおおおおむ ぶおおおおむ
とぎれとぎれに、高速でチェーンソーを回転させるエンジンの爆発音が鳴っている。距離のためか、虫の羽音にも聞こえた。聞き覚えのある音色だ。通称ライダーマンの右手≠ニ呼ばれる小型電気ノコギリのエンジン音だ。そして、どこかで誰かが再殺されている音だ。妹か、恋人か、あるいは詠子のように、再殺の権利を勝手に押しつけたワガママ娘が、百六十五個の肉片に切り刻まれている真っ最中の音だ。
ぶおおおおむ ぶおおおおおむ
それは、詠子の細い腹から食道を伝わって、口腔から放出されるラッパの音にも聞こえた。
ライダーマンの右手≠ニ俗に呼ばれる小型チェーンソーは、国道沿いのディスカウント・ショップに行けば、二十四分の一スケールのカー・プラモデル一箱と同じ値段で買うことができる。実際に、つい最近、僕はJASCO≠ナフィアット500のプラモデルと一緒にライダーマンの右手≠買ったところ、同じ値段だった。ライダーマンの右手≠ヘ、大きさも、フィアット500のように小型だ。
数年前……二十一世紀の初頭、世界中で何の前ぶれもなく、十五歳から十七歳までの少女たちが、突然死をした直後にいわゆる「ゾンビ」と化して徘徊するようになって以来、ディスカウント・ショップの店頭には、色とりどりのチェーンソーが並べられるようになった。百六十五以上の肉片にバラバラにしない限り蠢《うごめ》きを止めない少女ゾンビ、通称ステーシー≠切り刻むためには、電気ノコギリが最適なのだ。ステーシーの息の根を止める作業を、人々は再殺≠ニ呼ぶ。
『出血大サービス! 電ノコ千六百五十円でどやっ!!』
JASCOに行った時、ヤケッパチな赤丸付き手書き広告にプッと吹き出したものだ。よく見れば、赤丸は血で書かれていた。驚いていると、背後から男に声をかけられた。
「お客さん、うちの娘の血ですよ!」
振り向けば小柄な中年店長が人の好い顔で笑っていた。
「よく切れますよ。うちの娘の中指なんてね、血を噴きながらロケットみたいにピューッ! って飛んでいきましたよ。アハハハハハハハハハ」
店長の銀ブチ眼鏡は、片玉がひび割れていた。
「……一つ、ください」
「妹さんを再殺するんですか? まさか恋人じゃないよね? あんたロリコン? アハハハハハハハハハハハハハ」
答えず、フィアット500のプラモデルと共に差し出すと、店長は、わざわざリボンをかけて電ノコとプラモを包んでくれた。
「お客さん、キッチリ始末してあげなよ。あの娘たちはね、それがいちばんの望みなんだ。大切な人にね、再殺されるなら、あの娘たちは悲しくないんだ。むしろ嬉しいんだ。好きな人に血まみれにされることは、あの娘たちにとっちゃ幸福なんですよお客さん。あたしの娘は反抗期でね、世界一大嫌いな父親に切り刻まれて、いや不本意だったんでしょうな。再殺されてる間ずっと白眼をむいてましたよアハハハハハハハハハハハハハハハ! 舌をベロベロさせて最後の最後まで反抗期ですよアハハハハハハハハハハハハハハハ! お父さんのバカってとこですかねアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハでも俺は娘をこの世でいちばん愛していたんだ」
詠子の身体をテーブルの上に寝かせた時、彼女のポケットからもう一つの風鈴が転がり落ちた。
コロコロ カラコロ
金魚の絵のガラス玉は割れもせず、冬枯れた芝生の上で風に吹かれて転がり、音を立てた。
風鈴が、それぞれ違った音色を持っている楽器なのだということを、僕は詠子によって知った。
「ねぇ渋さん、二つの音だけで奏でられる曲を知らない?」
「知らないよ。あ、でも三つあれば、ジョン・レノンの曲が歌えるな」
詠子はその話を聞くと、風鈴屋で十数個のガラス玉を買い込み、ジョン・レノンの「マインド・ゲームス」を聴きながら、それぞれの音をガラス棒で叩いて調べた。五十回も立て続けにかけた頃には、キンコンカンという調子っ外れの風鈴の音と、クククッという詠子の伴奏に合わせて、ジョン・レノンは「マインド・ゲームス」を歌わされるはめになっていた。
キンコンカン キンコンカン
We're playing those mind games together
クククククッ
詠子の身体は、公園に置かれたテーブルのサイズとピタリ同じ身長だった。
少女の両の瞳は、まだ青空と、そしてその果ての星を観察するようにカッと見開かれたままだった。
Oの字に開いた小さな口の端に数本の髪がかかり、唾液で湿った光を放っていた。
両足はピタリと閉じ、両腕は肘から直角に曲がり、軽く開いた十本の指先が空に向かって「おいでおいで」をしているように見えた。
ぶおおおおむっむっむっ むっ……
再殺が終わったのか、遠く聞こえていたエンジン音が止まった。再殺後につきものの嗚咽《おえつ》や号泣は聞こえてこなかった。きっと手慣れている者の仕業だったのだろう。何人もの少女を切り刻んでいるうちに、樹木や機械のように、何も想わなくなったのだろう。
静かになった公園の片隅で、僕は詠子の屍を見下ろしていた。
喉元の汗の玉は消えて、代わりに蝶羽状輝微粉がうっすらと浮き上がり始めていた。ステーシー化した少女の身体から吹きこぼれる蝶羽状輝微粉は、言葉のままに、蝶の鱗粉のように銀色に輝く微粒だ。ステーシーと輝微粉発生の因果関係は、学術的には何もわかっていない。ただ輝微粉は、彼女たちの身体を月のない夜でも居場所のわかるぐらいに、ぼんやりと照らし出す。冬の陽の下では、キラキラと輝く。
僕がナップザックからライダーマンの右手≠取り出したちょうどその時、Oの字の口からこぼれた舌先が左端から右端へ、ヌルリと移動した。
思わず腕を止めると、今度は右端から左端へ、詠子の舌先は水棲生物の動きそのままに、粘着質な音を立ててまた移動した。
突き出された舌先は捕まえられたばかりの魚を思わせる素早さで右へ左へ、さらには上へ下へとものすごい勢いで動き始めた。
ヌルヌルネチャネチャペロペロペロレロレロレロヌメヌメヌメリプルプルプル
醜く蠢く。
ステーシーは人肉を喰らう。少女が一度死に絶えた後、最初に心の伴わない機能を再生するのは舌だ。生きる者の血と肉と血管と神経繊維と、そして皮膚を存分に味わうための赤色器官だ。
今や詠子の舌は、独立した生き物としてせわしなく動きまわり始めた。口元はよだれと、歯に当たって切れた舌のあちこちから噴き出た血とが混ざり合い、幼女がお化粧遊びをして汚したかのように、赤く赤くやがて顔一面を濡らしていった。
「っじっぐぁおごごごごごごごご」
詠子の声帯が機能を再生したが、心を伴わぬ声は、葬式マンジュウを無理矢理喉に押しこまれた老婆が呻くかのような、滑稽な嗚咽にしかならない。
舌と声帯に続いて、眼球が活動を再生した。これもただ、頭に開いたポッカリ穴の中の水晶球がグルングルンと目茶苦茶に回転しているだけだった。回転最中に一度だけ詠子の視線が僕を捉えたが、彼女の黒目は直後にグイッと寄って歌舞伎役者のごとき寄り目に、と思えばすぐに左右に分かれてロンパリ。すかさず上方に回転、黒目かくれてピンポンの白玉。舌先はレロレロペロロペロ、口腔からはっぐぼぐっっ……いかんともしがたい。
顔面の痙攣はすごい速さで少女の全身に伝染し、テーブルの上で肉体は上下に激しくのたうちまわった。
何度も後頭部を強打、その度にボクンボクンと頭骨のひび割れる音。
両足のかかとは揃ってテーブルを連打。パキッバキッとまたかかとの骨の折れる音。
ミニスカートからのぞく細いももには失禁の体液がつーと流れ、蝶羽状輝微粉の浮かんだ肌にいく筋もの泥水色の川を作る。
痙攣痙攣痙攣痙攣痙攣痙攣。
そしてビックリ箱の中のピエロのように、詠子の上半身がついにムックリとはね起きた。
バタン!
ステーシー。
少女の再生死体は、'80sホラームービーのモンスターそのままに、ゆっくりとした動きでテーブルを降り、枯れた芝生の上に立った。
詠子は、舌なめずりを繰り返し、首をコクンと斜めに曲げ、目玉をせわしなく回転させながら、一歩、僕の方に歩み寄った。
ギュッ、と、冬の枯れ草を踏む音。
また一歩。ペリッ、と、乾いた枯れ葉の割れる音。
「ぐぼづ」と震える少女ゾンビの声帯。
詠子の前進と逆に、二歩、僕は後ずさった。
二人の間には、数メートルの距離があった。
僕は『再殺のしおり』に書かれていた、ステーシーとの危険距離についてを思い出していた。
国から配布された『再殺のしおり』には、再殺部隊の到着が間にあわなかった場合と、何らかの事情で市民が自ら再殺をする場合の心得が記されていた。ライダーマンの右手≠使用する時には、まずステーシーの膝を切断することが効果的だとあった。右足でも左足でもいいという。
切り離された足が飛魚のように跳ね回り、大変危険ですので気をつけましょう。アイスピックなどで床に打ちつけておくとよいでしょう
『再殺のしおり』に下手クソなイラストを添えている画家は、僕の友人だった。気の弱い男で、娘が一人いた。娘には同い歳の恋人がいた。いつだったか、彼氏と遊園地にデートに行くのだと、娘は嬉しそうに僕に語ったことがある。ステーシー騒ぎがまだ海外の小国で二、三件発生していた程度の、平和な時代だ。
『あたしだったら、レイ君に殺してもらうな。あたしの彼ね、レイっていうの。女の子みたいな名前でちょっとステキでしょ? でね、遊園地がいい。ディズニーじゃなくてもいい。観覧車がひと回りしている間に、グチャグチャにしてもらうの。夕暮れ時だったらロマンチックだろうな』
そう言って画家の娘は、また嬉しそうに微笑んだものだ。画家は聞こえないふりをして、キャンバスに向かっていた。空に浮かぶ魚の群れを描いていた。画家のおませな娘は今年十七歳になるはずだ。まだ、生きているならの話だが。
『再殺のしおり』通りに、ライダーマンの右手≠低く構えてみた。一歩踏み込み、腕を一振りさえすれば、詠子の細い足は膝からスパッと真っ二つに切り離せる。詠子はのたうちまわるだろうが、悲鳴をあげるだろうが、後は何度も何度も何度も何度も、回転する鋼鉄を細い身体に押し当てさえすればよい。ただそれだけのことだ。ただ、それだけのことじゃないか。
づづづづ……
つぶされた両生類のような声を発して、屍の詠子は、また一歩、僕に近づいた。
少年のように薄い詠子の胸元に、くっきりと下着のラインが透けて見える。
俺はなぜ太陽を背にしてしまったのだ?
順光は、ステーシーの無惨な容姿を、隅々までくっきりと僕の目に焼きつける。
僕が部屋の中でニコンF9のレンズを向けると、いつも、詠子はトコトコと窓際に歩いていって、隣接したビルの隙間から少しだけ見える街並みを背景に、元気一杯のピースサインを突き出したものだ。逆光になるから太陽に背を向けるなと僕が叱ると、詠子は「ごめんごめんククク」と笑った。
「ごめんよ、渋さんの背中にはいつも太陽があればいいんだね。そうして詠子の目には、いつも太陽が映っていればいいんだね」
そう言いながら、次の日もカメラを向けると、詠子はまたトコトコと窓際に駆け寄り、得意気にポーズを取った。ピース!!
今日に限って、詠子は僕の言いつけ通りに太陽の輝きを正面から順光で受け止め、屍の全身何一つを隠すことなく僕の目にさらす。
「詠子」
ステーシーはもちろん答えない。僕も、名前の次にかける言葉を見つけられずにいた。
「詠子」
それでもなお、詠子の名を呼んだ。
何か、俺はこの困り者の小娘に言ってやらなきゃいけない言葉があるような気がするが、どうしても思い出せないでいた。
詠子が一歩、歩み寄る。いつか僕が買ってやったフランスパンのようなフワフワ布地の靴先が、風鈴をけとばした。
カラコロと音を立てて風鈴が僕の足元で止まった。
視線を落とすと、短冊の字が見てとれた。
ヘタクソな詠子の文字が書かれていた。
『ありがとう。ごめんね。大好きだよ』
ふと、僕は言うべき言葉を思い出した。
屍になっても、美しい僕の詠子に、言った。
「やあ、また会えたな。少しの間、俺たちは別れていたけど、また会えたから、これでチャラだよな」
その時、詠子が微笑んだように見えたのは、動きまわる眼球と舌先が、笑顔状に一瞬バランスを保っただけのことだろう。
僕は続けて言った。
「ありがとう。ごめんな。大好きだ」
人差し指でスイッチを押すと、ライダーマンの右手≠ェ、僕の手の中で爆音を立て始めた。直径三十センチの鋼鉄の輪が、自分のしっぽを噛むことができずに牙をむく輪廻の蛇のように、ものすごい速さで回転を始めた。
ステーシーの美術
十三体のステーシー
ステーシーの一体にじっと見つめられているような気がして、有田|約使《やくし》は振り向いた。
背後には十三体のステーシーが横一列に並べられていた。
つい一年前まではピカピカに輝いていたであろう彼女たちの夏服は砂や灰や血で薄汚れ、茶色く変色した制服姿の十三体の少女たちは、古ぼけた記念写真に見えた。
足首と両腕をそれぞれゴムチューブで縛られ、釣り上げられたばかりの魚のように転がされた光景はさらに虚構じみて、けれどそれぞれがピクピクモゾモゾと身体を動かすものだから、かろうじて、十三体の少女が現実のものとしてここにあると認識することができた。
ステーシーはここに、確かにある。
あるけれども、ステーシーたちはここに確かにあるのみで、呼吸をすることもなく、脈打つこともなく、つまり生きてはいなかった。
有田約使はただここにあるもの≠見る冷めた目で、左から順に、少女たちを一体一体観察していった。
顔面に拘束具をはめられ、鼻の穴を豚のように縦に長く引っ張りあげられた少女の顔が十三個。
口に通称ギャグ≠ニ呼ばれるステンレス製の猿ぐつわを噛まされているために、阿呆のように大口を開けたままの少女の顔が十三個。
それぞれ右に左に上に下にぶるんぶるんと頭を震わせ、おおう……ふぉぶぉぶぉぶぉぶぉおおう……と、これまた阿呆のような声にならぬ声を喉の奥から発している。
けれど彼女たちは、悲鳴や嗚咽を上げているわけではないし、涙ながらに救いを求めているわけでもない。
ステーシーと呼ばれる、動きまわる屍《しかばね》の少女たちに意志などはない。ただ、この十三体は声帯を持っているから、声帯に物理的な作用が加わった時、音声を発するだけのことだ。
「ずぅごぉおおおおおおうぶじぐ!」
「ゎゎわわああんんん!」
「ほぼぉうほぼうほぼうぼほぼあああ!」
「ぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐ!」
「あっ・あっ・あっ・あっ・あっ・あっっ!」
「げげげげげげげげげげググググググ!」
「げげげげっ・あっ・あっ・ゲゲゲゲゲ!」
「あっ・あっ・げげげ・おおおううう!」
「ずぃ――っ・ずぃ――っ・ずいいいい!」
「え――っえっえっえっえっえっえ!」
「ああああああああああああああああ!」
「ひいいいいいいいいいいいいいいい!」
「あああああアアアアア!」
十三体のステーシーが呻く、あわせて五十ホーン。
『こいつらを率いて聖歌隊でもつくろうかな』などと約使は思った。
そうだそうしよう、教会にひな段を作って、一段一段にスチールのパイプを突き立て、ステーシーの一体一体をパイプにくくりつけよう。自転車屋でゴムチューブをたくさんもらってきて、ぐるぐるに縛りあげればいい。十五歳から十七歳までの少女たちはけっこう胸が大きいから、縛りあげたチューブの間からはちきれんばかりに乳房が突き出して、女もいける隊長はクックックッ! といやらしく笑うかもしれないな。ステンドグラスから七色の光が射し込んで十三体のステーシーを照らしたなら、古ぼけた記念写真も少しは現実味を帯びるだろう。俺は指揮者として、タクトを振ろう。
『さあステーシー聖歌隊よ、哀れなロメロ再殺部隊のために一曲唄っておくれ』
割れんばかりの拍手。教会はステーシー狩りを仕事とする荒くれ男たちで一杯だ。声援はもちろん「ヤンヤヤンヤ!」。隊長もクックックッとあの調子で笑っている。
『曲はもちろん……』
曲は……何にしよう? この山奥の女子高校に、ステーシーの調査に来てからもう三カ月経つ。音楽を九十二日間も聴いていないのだ。隊員たちが口ずさむあの自虐的な鼻歌以外は。
※[#歌記号]じゅうご、じゅうろく、じゅうしちと、少女はゾンビのステーシー、ヤクザな俺らの鉄拳で、夢も開かなぁい〜〜……
隊長はいつも嬉しそうに鼻歌を唄う。特に、ステーシーの一体を、戯れになぶり殺しにする時、隊長はコオロギの羽音のようなジージーとひしゃげた声で、それは嬉しそうに歌を唄う。
『曲はもちろん、「聖地エルサレム」』
約使は隊員たちの口ずさむ陰気な歌が大嫌いだったから、空想の中でステーシー聖歌隊に「聖地エルサレム」を歌わせてみた。
ぐぐおおおう! おうおおおおおおおおお! いーびひひひひひひひひひひ! あうううぐぐぐぐぐぐぐぐぐう! うぉああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
『ダメだダメだ、ステーシー聖歌隊の歌はひどいものだ。これでは商売にならない。ダメだこりゃ。聖歌隊解散解散、アハハハハハハハハハハハハハハハハ』
約使は、つまらない空想をシラけた笑いで自ら終わらせると、空想のタクトの代わりに、ギラリと光るメスを、黒いゴム手袋をはめた右手に握り、一歩一歩、静かに、いちばん左側のステーシーのほうへと歩み寄っていった。
ついさっき、ステーシーの一体に見つめられたような気がしたことなど、とうに約使は忘れていた。
生徒たちがステーシーと化してもう一年経つというのに、体育館の床はつるりと魚のように滑らかだった。歩む度にキュッキュッと音を立てた。高い天窓からは、そろそろ暮れかけた西陽が射し込み、ステーシーたちのスカートからニョッキリと伸びた二十六本の足を、安っぽいイチゴミルクの色に照らし出していた。
二十六本はそれぞれが別の生物であるかのように、あるものは痙攣《けいれん》し、あるものは機械仕掛けのように伸びたり曲がったりとうごめいていた。遠目に見ると、自動ピアノの鍵盤が曲を奏でているようだった。
『何の曲だろう? まともな音楽を、もう三月《みつき》聴いていない』
約使はふと横を向いた。体育館の演壇の上に、ゴキブリ色をしたグランドピアノがテラテラと光っていた。恐らく、かつてはこの女学校でいちばんピアノのうまい生徒があれを叩き、少女たちは声も高らかに唄ったのだろう。それはどんな曲だったのだろう! 何の曲だったのだろう? 音楽なんて、約使はもう三月聴いていなかった。
約使はいちばん左側のステーシーの足元で膝をついた。
ステーシーがチロリと約使を見た。
「やあ」
と、約使が声をかけるより早く、「ぐぐっ!」と奇声を発して、ステーシーは約使の鼻をかじりとろうと試みた。両腕をゴムチューブによって頭の上でバンザイの形で縛られ、鼻に拘束具、口にはギャグを噛まされた少女のこと、両の瞳をカッと開き、せめて口元を約使の顔面に近づけるのが精一杯の動作だった。
「やあ、君は何て名前だったっけ?」
約使は空いている左手で少女のスカートをめくった。夕陽に照らされイチゴミルク色に輝く太腿に、赤虫の這ったような細い傷跡で「ミキヨ」とあった。
「ああ、ミキヨちゃんか」
ステーシーたちを識別するために、約使は彼女たちの右の太腿の内側にカッターナイフで名前を彫っていた。名前は彼女たちの生徒手帳で調べた。手帳の見つからなかったステーシーには、「ミケ」とか「ポチ」とか犬や猫のような名を仮に彫った。カッターナイフでつけた傷跡はすぐ消えてしまうが、それはどうでもいいことだった。ロメロ再殺部隊の隊員たちが検体用にこの体育館に運んでくるステーシーたちは、約使の彫った名前が彼女たちの異常な回復力によって消えるより早く、約使の電動ノコギリによって、少なくとも百六十五以上の肉片に切断されてしまうのだから。
隊員たちは約使のことを『パズル屋』と呼んだ。「先生はステーシーの身体をパズルにして遊んでやがる」と言って彼らはガハハハハと笑った。「百六十五ピースじゃ、ジグソーとしては簡単すぎますよね」と、約使は噛み合わない冗談で応えた。それでも隊員たちはギャハハハハハハ! と狂ったように笑った。隊長もクックックッと笑った。みんな笑いに飢えているのだ。
「ミキヨちゃん。ちょっと切るよ」
約使の右手がタクトを振るオーケストラ指揮者のようにサッと動くと、メスが陽を受けピカリと光り、同時にミキヨの額から眼球を通って顔面拘束具ギリギリまでの肉をスパッと切った。赤い一筋。
「ぼぅぐぅぐぅえええええ!」
ピュッと血が一メートルほども噴き出たが、慣れたもので、約使はちょっと頭を傾けただけでほとばしる赤い液体をよけてみせた。
「痛いわけないだろう? そんなに声を出すなよ。もう一回切るよ」
約使はミキヨの太腿の、ミキヨと彫られた位置に正確にメスを突き立てた。ブン、と肉を断つ音。突き立てたままメスを一度ねじり、引き抜くと、噴水のように血があふれ、みるみる、体育館の床に赤色の泉が広がっていった。
ミキヨは「うぐぐげげ、ゲゲゲゲゲゲゲ!」と喉の奥で嫌な声を上げている。
約使の顔に表情はなかった。
あちこちに血が付着した白衣から、ステーシー対応血液凝固剤の入ったボトルを取り出し、ミキヨの顔面と床とに、液をたっぷりと垂らす。予想通り十秒以内にミキヨの赤い血がゼリー状に固まるのを見届けると、約使は初めて、まだ幼さの残るその顔に表情を浮かべた。
笑顔だった。
「不思議だ、本当に不思議だ」
約使は、昆虫がさなぎから成虫へと変化する様子を見て嬉々とする少年そのものの笑顔を浮かべ、ため息をついた。
「ミキヨちゃん、ステーシーの血は、まるで生きているように変化をする。学問上は死んでいる血がだよ、なんでだろう。本当に不思議だね。なんでだかわかるかい、ミキヨちゃん?」
ミキヨは、「ぶぉぅぅぅうぐぐゲゲゲゲ」としか答えなかった。
「アハハ、いいよいいよ、学者のオレにわからないことが十七歳の女子高生にわかるもんか」
ウフフ、と約使は笑った。
それから小一時間かけて、約使は電動ノコギリを使ってミキヨの身体を百六十五分割した。ステーシーはこれぐらいバラバラにしてやらないと、再殺できないのだ。五十分割ぐらいでは、それぞれの肉片が二時間以上動きまわってうるさい。太腿あたりの肉ならどうということはないが、ヘタに手首など残そうものなら、古い怪奇マンガのように這いまわる。釘で床に打ちつけても指がピアニストのようにうごめく。うるさい。だから約使は、注射器でまずたっぷりとステーシー対応血液凝固剤を少女の身体に流しこみ、小型電動ノコギリで丹念に切り刻んでゆくのだ。そうすれば血が飛び跳ねない。肉片からにじみだした血液はすぐゼリー状に固まる。ゼリー化した血はモップで一カ所に集めておけば、自然により集まってくっついて、やがて野球のボールぐらいに丸く固まってくれる。ステーシーの血のボールは三日もすればカチンカチンにかたくなるから、白マジックで血液ボールに元の身体の名前(この場合だったらミキヨちゃん、だ)を書いておいて、ケースに入れて、本隊から帰還の指令が出た時にまとめて持ち帰り、科学分析班に提出すればよい。まあ、帰還指令が出るならの話だが……。
「もう三月も経つのに、本隊から帰還の知らせはない……」
約使は浅いため息をついた。
百六十五分割された肉片は、ビニールの袋に入れて、一週間の終わりにまとめて燃やす。
ステーシーの肉片は赤く赤く時に青く、ゴーゴーととてもよく燃える。
ロメロ再殺部隊は、パズル屋が一週間に作ったジグソーの何百という肉片を、週の終わりに校庭の真ん中で一度に燃やし、炎を囲んで、度の強い酒を飲む。酒の量には限度があるので、隊員たちは一口ふくむと、ハードコア・メタルの客のように、一斉にヘッドバンギングをする。それでも酔いの足りない時には、約使の登場となる。約使の、ステーシーを相手にした「芸」は、隊員たちの間で大いに受けるのだ。約使自身はウンザリしていたが、「芸」のおかげで、荒くれ者ばかりの隊員たちのなかでいちばん年の若い約使が一目置かれているのも事実だった。だから、頼まれればやらないわけにはいかなかった。
「そういえば今日は週末か」
約使はミキヨの肉片を一つ一つビニール袋に放り投げながら、また一つ小さなため息をついた。
と、
また、約使は、ステーシーの一体にじっと見つめられているような気配を背中に感じた。
振り向くと、十二体のステーシーたちは薄闇の中にあった。
すっかり陽は落ちていた。天窓に、いくつかの星が輝いていた。
十二体の呻き声だけが体育館にうわわわーんと響いていた。
約使もまた、若い学者にありがちな、熱中すると我を忘れるタイプだった。「もうこんなに暗くなったのか」と独り言を言って、約使は蛍光灯のスイッチを押した。
青白く照らし出されたステーシーが十二体、さっきより二本減って二十四本になった少女たちの足は、軟体動物のように、ゼンマイ仕掛けのように、一本一本がバラバラの動きを見せている。
「オレを見つめていたのは誰だい?」
約使は、さっきまでミキヨのいた位置まで歩むと、一体のステーシーのうごめく足を、靴底で踏みつけた。くねくねと活発に動いていたステーシーの足は意外にもろく、約使は靴底に、半月板のパキッと折れる感触を感じた。
膝を折られたステーシーが約使を見上げた。にごった白目の中に、色の反転した満月のような黒目の奥に、天井の蛍光灯が映っていた。
「君じゃあないようだね」
約使は十二体のステーシーたちを、一体一体観察しながら、彼女たちの前を歩み始めた。
もう冬だというのに、少女たちは夏服を着ている。シャツのボタンが外れ、ふっくらとした胸が覗く者もいる。下着が黒だ。校則違反だったろう。こんな山奥の全寮制の学校で、黒い下着をこっそり着るのに、彼女はどれだけの胸の高まりを感じていたのだろう。
スカートの丈はどの少女も短かった。何人かは白か紺のオーバーニーソックスをはき、肌は、膝から腿の少しの部分だけが露出していた。さっきまで夕陽に照らされ、安っぽいイチゴミルク色に見えた肌は、今、青白い蛍光灯のせいで、生命力の弱い蝶々の羽根のように見える。実際、何人かのステーシーは、太腿の表皮の上にうっすらと鱗粉≠載せていた。正確には「再生屍体蝶羽状輝微粉」と呼ばれるこの粉は、ステーシーの肌に自然と浮きあがってくる細かな粒で、その成分も意味も、学者の誰にも解明できないでいる。時々ただうっすらと、蝶の鱗粉、あるいはキノコの胞子のような粉が浮きあがり、光の角度でキラキラと輝いて見えることがある。
十二体のなかに、特に鱗粉のキラキラと輝く少女があった。
ちょうど真ん中に置いてある一体。
「それにしてもよく光る鱗粉だな」
と、その一体の足を見て、約使は思った。ひざまずき、彼女の両膝を軽く握り、左右に足を開いた。
黒の下着を着けているところをみると、生前はちょっとした不良少女だったのかもしれない。オーバーニーソックスの色も、限りなく黒に近かった。太腿の表皮に再生屍体蝶羽状輝微粉が浮かびあがり、キラキラと輝いていた。鱗粉の量はずいぶんと多く、約使が彫っておいた名前が埋もれて見えないほどだった。
約使は、左手は彼女の膝を押さえたまま、右手のゴム手袋を口を使って外した。
そして指先で、彼女の腿に触れた。一度パッと払うと、鱗粉はチロチロと光りながらあたりに舞い飛び、その下からステーシーの名前が現れた。
モモ
と、カッターナイフで彫られた赤い字があった。
「モモ……、モモちゃんていうのか」
約使は意味なく笑い、モモの顔を見た。
ボール型のステンレスのギャグをかまされたモモの口から、赤子のようにダラダラとよだれがとめどなく滴り落ちていた。
鼻の穴は拘束具によって醜く上方に引っ張り上げられていた。
瞳は約使を見ていた。
まん丸い瞳の底辺に、水分が溜まっていた。
みるみる瞳は水分に包まれ、やがてポタリポタリと頬をつたい、顔面拘束具でせきとめられ、金具の上をツーと横に流れた。
どういうわけかステーシーが泣き出すことがあった。もちろん医学的には死んでいる彼女たちに感情のあろうはずはないから、涙に意味はない。
「モモちゃん、哀しいのかい?」
約使としても、戯れに問いかけてみただけのこと。
しかし、モモという名のステーシーが、その時コクリと頷いたように、約使には見えた。
約使はギョッとして、「そんなバカな」と笑い、それでも気になり、もう一度ステーシーに声をかけてみた。
「さっきからオレを見つめていたのはモモちゃんだったんだね?」
モモがコクリと頷いた。
泣きながらコクリコクリと頭を垂れた。
これは単なる偶然に違いないと思いながら、約使は、モモの後頭部に両手をまわした。約使の指先に顔面拘束具の止め金の、ヒヤリとした冷たさが触れた。
モモは、イヤイヤをする子供のように頭を振った。それは、早くこんなもの外して下さいと御主人様に願うペットの行動にも思えた。
約使の指が滑った。なかなか止め金が外せなかった。「オレは何をやっているのだ?」と、彼は思った。「ステーシーは屍だ。十五歳から十七歳までの、歩き回る死体だ。意志も感情もなく、ただ自分たちの口内に付着したウィルスを、生きた人間に移すことのみに執着するゾンビだ。こいつらに感情などはない」
モモがイヤイヤのように頭を振るので、約使はどうしても止め金を外せなかった。外してどうなるというのか? オレは何をしようとしているのだ?
モモが、イヤイヤをする。
モモは、ハーブティーによく似た香りがした。再生屍体蝶羽状輝微粉は、暖かな日曜の午後に飲むお茶のようなよい香りを放つ。
モモが、イヤイヤをする。
約使はふと我に返った。バカバカしくなって止め金を外そうとする試みをやめた。
「モモちゃん、あまり暴れんなよ」
自分のとった行動のバカバカしさに少し照れて、約使はモモに言った。
モモが、またコクンと頷いた。
約使は言葉を失くし「オレは気が狂ったのかもしれないなぁ」とぼんやり思った。
モモは泣きながら、約使を見つめた。
それはステーシーの瞳ではなかった。
一年前までは、こんな瞳を街でよく見かけた。
生きている少女の、感情に溢れた、感極まった時の、涙に濡れた、黒い瞳。
「モモ……」
約使は、もう一度拘束具を外すべきか考えた。ステーシーが人間としての意識を回復したという報告は今まで一例もない。しかし、まさか……。
再び両手をモモの後頭部にまわした時、背後で男の声がした。
「パズル屋さん、今日はその娘をバラすんですか?」
振り向くと、松井が立っていた。
「有田先生、バラバラにしたやつ、またもらっていきますよ」
「ああ、今夜は週末でしたね。宴会の日ですね」
「パズル屋さん、またあの芸≠披露してくださいね。あれ見ると興奮するんだ」
松井はウヒャヒャヒャヒャ! と笑った。地方出身の若い男だ。年は約使より二つ上。ステーシーに銃弾を撃ちこむのが何より好きな男だ。
「先生、まだバラしてないやつ、一匹もらっていいですか?」
「いいよ、右から三人目までは血液凝固剤打ってあるから、血も飛び散らないよ」
「ありがとうよパズル屋さん、あ、それから隊長が呼んでましたよ」
ヘヘヘッと笑った松井は、もう自動小銃のセーフティを外していた。
約使は、十二体のステーシーと松井を残し、体育館を出た。
見上げると満天の星空だった。
背後でタンタンタンと銃声が響いた。松井がステーシーを撃っているのだ。
タンタンタン
タンタンタン
あの音は、あと数分は続くはずだ。ステーシーは、最低でも二百発の銃弾をぶちこまないとくたばらない。
少し疲れたなと約使は思った。
しかしモモという名の、奇妙な行動をとるステーシーのことが気になり、一瞬引き返そうとして、やめた。
隊長は、約使が遅れると、ジクジクと怒る。もめるのは面倒臭い。モモのことは後にすればよい。
約使は満天の星空の下を、ふらふらと歩き始めた。
背後で銃声がいつまでもいつまでも聞こえた。
タンタンタン
タンタンタン
タンタンタン
つぶれトマト
タンタンタン
タンタンタン
キャンバスに釘で打ちつけられたステーシーの手首。その指先が規則的に音をたてていた。
「これ、誰の手首かわかるかぁ? パズル屋さんよぉ」
血染めの実験衣で美術準備室に入ってきた約使を振り返って、隊長がのんびりと尋ねた。
タンタンタン
タンタンタン
細く長く真っ白な指。人里離れた山の中に建てられた全寮制リルカ女子美術学園の生徒たちは、皆、自分たちの死期をわかっていたようだ。死化粧のつもりだったのか、どのステーシーも、手と足の爪を小さな貝のように美しく切り揃えていた。髪にウェーブをかけている者もあった。どこから手に入れたのか、ワインレッドの口紅を引いている者もあった。顔面拘束具をはめられ、とめどなく流れ出るヨダレで紅がにじみ、かえって汚らしい口元になることなど、生前のおしゃれな彼女たちは思いもよらなかったのだろう。さらに電動ノコギリで百六十五分割されたうえ、ロメロ再殺部隊の隊長が寝床とする美術準備室のキャンバスに手首だけ釘で打ちつけられようなどと思うわけがない。
「なぁ約使ぃ、その手、何て名前の女の子のだと思う?」
隊長がもう一度聞いた。いくつでも部屋はあるというのに、絵の具の匂いのたちこめた美術準備室を自分の部屋に選んでいる隊長は、簡易ベッドの上に、寝仏のような格好で横たわり、「再生屍体少女管理表」を読み上げ始めた。
「矢樹田洋子、十七歳。羽野由美、十六歳。小倉多恵子、十七歳。姓名不明、仮名ポチ、十五歳。同じく姓名不明、仮名カナ、十六歳。……同じく姓名不明、仮名エリザベス……アハハ、ふざけた名前つけやがって、十七歳……同じく姓名不明、仮名」
「再生屍体蝶羽状輝微粉が、特にキラキラと輝いていますね。薄紫のシルバーだ……この手首は……僕がポチと名付けた十五歳のステーシーですよ。間違いない」
「スゲー、正解だ! クククッ、さーすが新進気鋭の学者、お見事!」
隊長は身を起こし、大げさに驚いてみせた。
「当たり! ホラ!」
と言って、隊長はいたずら小僧のような素早い素振りで、背中に隠してあった生首の頭髪をつかんでヒョイッと約使の前に突きつけた。そしてニカッと笑った。
「ポチだよ、ポチ、クククッ」
と、鳥のような声を上げた。
ポチと名付けられたステーシーの生首はまだ動いていた。瞳をくるくると回転させ、同調するように舌先も、右へ左へ上へ下へといやらしくせわしなく動いていた。
「拘束具をつけておいたほうがいいですよ、隊長。噛まれたらやっかいなことになりますよ」
「バーカ。んなヘマするか俺が」
隊長はオモチャを扱うようにステーシーの頭部を腹のあたりに抱え、両の親指と小指を使って、ポチをあっかんべー≠フ表情に形づくってみせた。泣いたような、笑ったような表情の十五歳の生首。
「クックックッ、猫踊り≠ネらぬ少女の生首踊り≠セよ」
と、隊長がまた笑った。
約使はしらけた表情で血染めの実験衣を脱ぎ、「シャワーを浴びましょうか?」と聞いた。
「気にするな」と隊長が言った。
「鱗粉は血の匂いと混ざるといい香りがするからな。あの匂い、嫌いじゃないんだ」
ゴム手袋を外す約使を見つめながら、隊長はステーシーの生首をポンと背後に放り投げた。バスケットのシュートのように、ポチの首は見事にゴミ箱に収まった。その中でも少女の顔は獲物を探すギョロギョロとした表情を止めはしなかった。できる限り口を開き、できる限り舌をピンと突き出し、汚れたゴミ箱の内壁をおいしそうになめまわしていた。
「今日、体育館に、特に鱗粉の光るステーシーが一体ありましたよ」
「いい香りがしたか? ハーブティーみたいな」
と言いながら、隊長は腕を約使の腹に回し、引き寄せた。
タンタン……タン……
キャンバスを叩くステーシーの指先に、そろそろ勢いがなくなってきていた。
隊長は背後から、約使の細い身体を抱いた。
条件反射で約使はふっとため息をついた。
「疲れたか? 約使」
「いいえ、ステーシーを一体切り刻んだだけですから」
「何かわかったかよ?」
「いえ別に……相変わらずです」
「あいつらが何で歩きまわるのか、まだわからねぇってのかよ、もう一年も経つってのによぉ!」
よぉ! と言いながら隊長は強く約使を抱き締めた。鍛え上げられた男の腕の中に若い学者はスッポリと収まっていた。
「わかりません……ああ、ちょうど一年前になりますね」
「ああ、妹がステーシーになった日だ、いやでも覚えているよ」
「ちょうど一年前の……そうだ、ちょうど今ぐらいの時間でしたよね。何万人もの十五歳から十七歳までの少女たちが、不意に言葉を失くし、亡我の状態となり……やがて……」
「俺の妹は二時間後に死んだ。十六だった」
「ステーシーとして再生屍体化したのは何時間後でしたか?」
「半日後だ。ムクムクと起きあがったかと思ったら、ヨタヨタ歩き出しやがった。俺はちょうど葬式の準備やなんかでいなくてな。目を離している間に、ステーシーになったあいつは外に出ていってな、近所の公園にいたガキを三人噛み殺しちまった。柔らかくて食べやすかったんだろうな。俺が見つけた時に妹は、ガキの眼球を、卵のカラを割らずに黄味だけ食べるようになあ、目の玉をチューチューすすっていたんだ」
「二時間で死亡、半日後に再生ですか。典型的なステーシー化現象ですね。鱗粉は?」
「俺が再殺した時、妹は、身体中キラキラと輝いていたな。血まみれなのに、ハーブティーの香りがしてよぉ……ぶんなぐる度に、骨を折る度に、指を切断する度に、目ン玉をほじくりだす度に、ハーブティーの香りと銀紫の粉が俺を包むんだ……妹は……利江香は……」
「鱗粉がなぜああいう香りがするのかも、未だに原因は不明です」
冷めた言葉に、隊長は約使の顔を改めて見つめ、クククッと笑った。
「約使、お前には感情ってもんがねぇのかよ」
『早く本隊からの帰還命令がロメロ再殺部隊に出てほしい』と願うのも、感情の一つなのだろうか? と約使は心で思った。
「約使よぉ、バカ騒ぎの前に、一発やらせろな」
隊長は約使の肩をつかみ、膝を抱え上げ、赤子を寝かしつけるようにベッドに横たわらせた。灯りを消し、隊長も横になる。
……タン……タン……タ……
ステーシーの指先が、キャンバスを叩く力を失くした。ゴミ箱の中から聞こえていたガサゴソという音も、すぐに聞こえなくなった。ポチ≠ニ、捨て犬のような名を仮に付けられた少女が、二度目の死を迎えた。捨て犬の名の少女の本名も、性格も、密かに恋していた異性の名も、もう永久に、誰にもわからなくなった。
時々、写生用のミケランジェロの胸像にぶら下げられたトランシーバーが、ノイズ混じりに鳴った。
「ザーッ……ザッ……隊長、今夜は二十一時より宴会です……ザーッ」
「ザーッ……隊長……倉庫番≠フ様子がちょっと変です……パズル屋さんはどちらにいますか……」
「ザーッ……本隊からの帰還指令はありません……ザーッ……都市部ではさらに少女のステーシー化が進み……」
「ザーッ……約使先生はそちらではありませんか?……倉庫番≠フ奴がちょっと……ザッ……」
「ザーッ……私事ですが……本日、オレの妹がステーシー化したとの連絡が入りました……私事で恐縮です……ザーッ」
「都市部では百万のステーシーが暴徒と化し……ザーッ……管理不能……再殺部隊も……ザー」
「ザーッ……ザーッ……ザーッ……ザーッ……倉庫番≠ェ『ステーシーを解放すべきだ』と……ザーッ……『星座から電波の指令があった』そうです……約使先生を……ザーッ……ザーッ……」
「都市部ではついにナパーム弾の使用が……ザーッ……ステーシーに喰われた人の数は増え続ける一方……」
「ザーッ……笑い話です……ステーシーの切断した腕だけ集めて……ザーッ……アームレスリング大会を開催した元中古車販売員が……ザッ……刺殺されました……ザッ……リンチにあって……ザーッ」
「ザー……倉庫番≠ェ狂いました……ザー……得体の知れない話を……ステーシー……あやつり人形に……ザー……レティクル座の人形遣い……ザー……ザー……倉庫番≠ヘ狂ってます……ザー……約使先生を……ザー……隊長……ザー……ザーザー……ザッ……ザー……――ザッ……ザザザザザザザザザザザザザザザザ――ザザザザザザザザザザザ――…………隊長、いつまでこんなことが続くんですか?」
知らねぇよ、と呟いて、隊長はゴミ箱に捨てておいたポチの頭を、ミケランジェロの胸像に投げつけた。胸像が砕け、ポチの鼻骨も砕けた。小うるさいトランシーバーも床に落ち、それきり黙った。
薄暗い美術準備室の簡易ベッドは、クリスマスに使う豆電球でデコレイトされていた。チカッ……チカッ……と、リズミカルに部屋を照らした。
約使の目に、数秒おきに、さまざまなものが映った。
ステーシー化する前に少女が描いたキリストの絵。
天井に貼られた「金星人地球を征服」のポスター。
机の上の、おもちゃのエンタープライズ号。
九時四十分を示して止まっている柱時計。
ピクリとも動かなくなったポチの手。
床に転がったポチの頭。
その泣いたような少女の顔。
ポチの顔は、鼻骨がつぶれてもけっこう美人だった。『もう少しマシな名前をつけてあげればよかったかな』と約使は思った。
「約使ぃ」
煙草の匂いがした。すぐ耳元で、隊長が呟いた。隊長は、約使の身体にまとわりついたステーシーの血と、鱗粉の香りの混ざった独特の匂いを嗅ぎながら、彼を抱き締めていた。
「はい」
「倉庫番≠ェ狂ったってよ」
「はい」
「後で見に行ってくれよ」
「僕は精神科医じゃないから」
「かまわねぇよ、お前のお得意のチェーンソーでよぉ、頭かち割って、ロボトミーにしてやってくれよ、クックックッ」
チカッと豆電球が輝き、約使はベッドの脇の壁に、新聞の切抜きがピンで止められているのを見つけた。
『政府ステーシーの再殺を認可』『ロメロ再殺部隊案可決』『十四歳少女自殺激増』『巨人軍はやくも最下位転落か?』
「約使ぃ」
煙草の匂い。
「はい」
「お前さぁ、オレに抱かれてる時、声出すよなぁ」
「……はい」
「聞こえない」
「はい」
「はい出しますって言えよぉ」
「はい出します」
「はい出します隊長殿って言ってごらん、ククッ」
「はい出します隊長殿」
「女の子みたいに声出すよな」
「はい出します隊長殿」
「もっと大きい声で」
「はい出します隊長殿」
「聞こえなーい」
「はい! 出します隊長殿。女の子のように声を出します」
「なあ、まるでステーシーみたいにひぃひぃ言うよなぁ、それって気持ちいいの?」
「……はい」
「気持ちいいんだぁ、なめられたりいじくりまわされたりして気持ちいいんだぁ」
「はい気持ちいいです」
「声は大きくね、気持ちいいんだぁ」
「はい気持ちいいです隊長殿」
「首絞めてやってる時も?」
「はい」
「首絞めたら苦しいだろぉ? でも気持ちいいんだぁ」
「はい」
「それってさぁ、約使ぃ、感情なの?」
「…………」
「お前ってさぁ、嬉しいとか、哀しいとか、思うことあるの?」
チカッと豆電球が輝いた。壁に止めてあるセピア色の新聞の見出し。『マイケル・ジャクソン、「ステーシー現象は釈迦の怒り」と老人ホームの病床で発言。あわや暴動』
「泣いたことないよなぁ、約使は」
約使を抱き締めていた力が柔らかくなった。
「お前、泣いたことってあるかぁ?」
「……初めてステーシーを百六十五分割した時は……」
「……うん」
「涙が出ました」
「たくさん?」
「たくさん」
「涸れたか、もう涙も」
「……その時、六人の医師とともに解体を行ったんですけど、僕以外全員、解体直後に自殺しました。田辺は電ノコで自分の首切って、矢野賀と渡部と森は病院の屋上から飛び下りて、もう一人は、検体用のステーシーの口の中に自分の舌を突っ込んで、食いちぎられて」
「そして約使一人が感情を失うことによって、心の安定をかろうじて計ったってわけか。狂わないために、お前はもう二度と泣きもしない、怒りもしない、笑いもしないんだな」
「そうかもしれませんね」
「俺も初めてステーシーを再殺した時は泣いたわなぁ」
「妹をやったんでしょ」
「あいつが近所の公園で、子供の眼球をうまそうにすすっているところを見たら、もうなんだかわからなくなってな、ステーシー再殺法なんかまだない頃だってのに、俺は利江香の十五歳の腹を思いっきり蹴り上げた。そしたら『ウッウッ……』ってカエルみたいな気味の悪い声を出しやがってよう。妹に目玉えぐられたガキどももまだ死んじゃいなくてな、砂場を、やっぱりカエルみたいな声あげながら転げまわってたよ。ガキと利江香、小さな公園で少女と子供たちがねずみ花火みたいにバチバチ跳ねまわってんだ。俺はその真ん中で一瞬途方に暮れて……人間ってパニくると何するかわかんねぇな、俺は砂場で転げまわってるガキどもにまずとどめを刺したんだ。ガキの顔面にかかとを落としてよぉ、ペチャッてつぶれたぜトマトみたいによぉ。ペチャ、ペチャ、ペチャ! クククッ……でな、ガキどもを始末して次は妹だよ。ユラユラ俺に近づいてくるんだあいつが。俺は困ってあいつの胸を突いた。十五歳といっても結構でけえ胸でな、俺は妹の胸をワシづかみにしちまったよ、クククッ。そのまま引きずり倒して、片っぽの足首持って逆さにしてやった。俺、力あるからな、そのまま振りまわしたらよ、カコーンっていい音してよ、ブランコを支える鉄柱に利江香の頭が直撃だよ。また『ペチャッ』だよ。つぶれトマト。でもステーシーだからよ、くたばらねぇんだ。いくら殴っても蹴っても、利江香は俺に喰らいついてくるんだ。仕方ねえからよ、目をえぐってやった。指をつぶしてやった。鎖骨を砕いてやった。立入禁止≠フささくれだった立て札で、利江香の身体中の肉をグシャグシャに切り刻んでやった。でも死なねぇんだ。泣けてきてな、泣けてきてな、涙が止まらなくてな、兄としてはさ。やっと駆けつけた自衛隊員たちが、利江香を射殺しようと銃を構えた、撃った。つぶれトマトの妹は、それからたっぷり30秒間撃たれまくったあと、小学生の吹くようなピーピーという音を裂けた喉から鳴らして、やっともう一度死んでくれた。俺の隣で銃を乱射していた若い隊員がボソリと言ったよ。『俺、早く家に帰りたい。帰ったら音楽を聴くんだ。俺、今、ビリー・ジョエルが聴きたい』俺の顔を見て、『俺、本当はパンクスなんだよ。なのに、ビリー・ジョエルが聴きたいんだ。今、すぐに』号泣しながら俺に言うんだ。『俺、ださいかなあ!! 日和ったかなぁ!! でも聴きたい! ピストルズよりニルヴァーナより、俺はビリー・ジョエルが聴きたい! たまらなく!』俺は奴に聞いたよ、『曲は?』そしたらパンクスは言った。『……「オネスティ」が聴きたい……』」
クックックッ……クックックッ……声を殺して隊長は、しばらく笑った。確かビリー・ジョエルも、ステーシーに喉を喰いちぎられたはずだ、約使はいつだったかニュースで聞いた。
「今でも俺はステーシーを再殺する時、涙ぐむんだぜ。いい奴だろ」
「……うん」
「はい≠セろ?」
「はい」
隊長が約使の首を、節くれだった十本の指で軽く絞めた。
「俺を泣かせるなんてひどいよなぁ、ステーシーってのは」
「はい」
「約使ぃ、苦しいかぁ?」
「はい、苦しいです」
「でも俺はもっと苦しかったんだぜ、妹をつぶれトマトにしたんだぜぇ」
「はい」
「なあ、どうしてそういうことするんだよぉ!」
隊長の指に、力がこもった。約使の上に、隊長の身体が乗る。
「約使はいいなぁ、感情を捨てちまったんだろ、哀しくも寂しくもないんだろ、いいなぁ」
「はい、ごめんなさい」
「うん、謝って」
「はい……ご……めんな……さい」
「苦しいか? 苦しいだろ。あのパンクスも苦しかったんだよ。パンクスが『オネスティ』聴きたいって泣くんだぜ。クククッ……」
「は……い……ごめんなさい」
「ステーシーは俺たちに謝るべきだ。再生して歩きまわるより先に、俺たちに謝るべきだ。誠実《オネステイ》にな。俺だって謝りたいんだ。何百人もの少女をつぶれトマトにしちまった。謝りたいんだよわかるかステーシー!!」
隊長は左手はそのままに、右手の指で約使の薬指をグイッと反り返した。
「痛いだろ」
「はい」
「謝れよステーシー。俺をつぶれトマト製造人にしやがって、パンクスに『オネスティ』を聴かせようとしやがって、ステーシー、謝れ、心をこめて謝れ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい僕が悪……」
「僕ぅ? ステーシーだろ? 十五、十六の少女だろ?」
「はい。あたしが悪いんです、ごめんなさい」
「クククッ、あたし≠ヘ、なんて名前だ」
「……あたしの名は……」
「……あたしは?」
「…………」
「あたしの名は……?」
「…………モモ」
ククククククッとそれは嬉しそうに隊長は笑ったものだ。
「モモちゃんモモちゃんモモちゃんモモちゃんモモちゃん! ククククッ!」
チカッ。チカッ。と点滅する部屋の中で、トランシーバーが一瞬蘇った。
「ザーッ……隊長……ザーッ……私事で恐縮ですが……僕の妹がザーッ……再殺されました……ザー」
「モモちゃん、モモちゃん、生きていかなければいけない俺たちに、心をこめて、さあ、さあ、謝れ」
「はい」
「謝れ」
「はい」
「謝っておくれぇ」
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……許してくださいごめんなさい、許してくださいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい許してくださいもし許してくださるならば……」
オクトパスショウ
炎。
明々と星空に立ち昇るその周りを、再生屍体蝶羽状輝微粉の銀紫が、パッチ! パッチ!≠ニ音をたてながら舞い踊っていた。
炎の中では、それぞれ百六十五分割されたステーシーの肉片が、赤色のガラスケースにギッチリと詰めこまれた七色のガムボールのように、誰が誰のものともわからぬゴチャ混ぜの状態で燃えていた。
ぶすぶす
ぶすぶす
生前の彼女たちなら、そんな情けない音を出す自分自身の身体を恨み憎み嫌悪しただろう。しかし再殺はどんなステーシーにも平等に、彼女たちにたっぷりと恥をかかせる。
パッチ! パッチ!
ぶすぶすぶす
ぐずずっ ぐずずっ
んぢゃっ んぢゃっ ぶぶぶぶぶぶぶ
指が、髪が、眼球が、ふくらはぎが、上腕のふくふくとしたあたりが、突起のあまりない平面な型のかわいらしい乳首が、ロメロ再殺部隊唯一の娯楽である週末のキャンプファイアーの中で、汚らしい音を立てて燃えて崩れて朽ちていく。
「ぶすぶす燃えるオッパイ。ぐぢゅぐぢゅ燃える足の指。燃えろよ燃えろよ燃えよステーシー! アチョー! ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハ。あち〜な〜」
訳のわからないことを言って松井が炎の周りを歩きまわっていた。千鳥足。リルカ女子美術学園の校庭に、週に一度の楽しみを求めて集ったいかつい男たちも、松井同様、皆すでに酔いがまわり、あらぬことを口走り、笑い、泣き、荒れていた。炎に照らされた彼らの顔はじっとりと汗ばみ、輝いていた。
「隊長、隊長、隊長、お疲れ様でした。ロメロ再殺部隊第十六師団総勢十三名……」
「倉庫番≠ェ狂ったから十二名+《プラス》バカ一名だっー」
松井の言葉をさえぎり、チェーンソーをやせた胸に抱えた雪住が叫んだ。
「あーそうか、十二名+《プラス》バカ一名。今週もたくさんのステーシーを再殺いたしました。血と肉と火薬とナントカカントカ輝微粉の混ざった匂いは身体中に染み込みたぶん一生とれません。あち〜な〜、隊長ォ! 隊長ォ! これって名誉の勲章ですか?」
松井の服のあちこちに点々と血の跡がついていた。ステーシー対応血液凝固剤を打っておいたはずなのに、松井はいったいどのステーシーに二百発の弾丸を撃ちこんだのだろうか?
約使はふと、モモという名のステーシーのことを思い出し、一瞬寒気に似た妙な感覚を首のあたりに感じた。
「ねえ、隊長ってばぁ……あぐっ!」
隊長の左ミドルが松井の横腹にくいこんだ。ぐっ! と唸って松井は炎のギリギリまでふっ飛び、寸前でペタリと尻もちをついた。はぜて飛んだステーシーの中指がジャストのタイミングで松井の背中と服の間に入り、ギャギャギャギャギャッと叫ぶ松井は砂ぼこりを立て地面を転げまわる。
約使をのぞく隊員たちがドッと一斉に笑った。
「おめーらよー、隊長殿残して先に宴会始めんじゃねーよ。クックックッ」
言葉とは裏腹に笑いながら、隊長は一同に言った。
「だって隊長はパズル屋さんと宴会やっとったんでしょう」
寸詰まりのゴーレム人形のような、がっしりした体格の隊員、録山が野太い声で言った。
再び隊員たちが下卑た笑い声を上げた。
約使は無表情だった。
隊長は『どーってことねーよ』という表情を浮かべて「ああ」と頷き、またククッと笑った。
「ステーシーとやりまくれればなぁ、お前らも、もうちょっと紳士でいられたろうになあ」
ステーシーとの性交渉は、彼女たちの保有する悪性体内分泌物のために、すなわち死を意味していた。隊員の何人かは、ステーシーをつぶれトマト≠ノすることで、やり場のない欲望を昇華しているうちに、本末転倒、セックスよりも再殺に性的な喜びを感じるようになっていた。松井も雪住も録山も、少女たちの柔らかな身体にペニスの何十倍もでっかいチェーンソーを突き立て、えぐり、はぎ、ぢゅくぢゅくのぐちゅぐちゅな汚物にして、週末にバラバラの指が目玉が肋骨がぶずぶぐぐずずずと燃え上がり灰に返る様子を、今では心から楽しむことができた。
隊員の多くが、再殺に悲しみや哀れみを感じてはいなかった。もし人≠ェ少女に対する一般的な感情で再殺を続けていたなら、彼らは間違いなく狂っていただろう。だから彼らは無意識のうちに再殺という仕事を楽しむべきだと思い、神々の恩恵か単なる慣れか、実際、再殺を楽しむことに成功していた。隊員たちは、自分なりの得意な再殺のやり方を、時には自慢しあったりもした。職人技で少女の顔面をつぶれトマトにした時など、彼らは笑いさえ浮かべた。「いい仕事をするだろう、俺」とでも言いたげに。
ついさっき、約使を責めたてながら「俺は今でも、ステーシーをつぶれトマトにする時涙ぐむんだぜ、いい奴だろ」と言った隊長も、哀しみを口にするのは約使といる時だけだ。約使は、隊長が見事な要領でステーシーを再殺する場面を何度も見てきたが、一度として彼の瞳が涙でにじむ様子など見ていない。
「酒、くれよ」
隊長の言葉に、録山がウオッカのビンを放り投げた。片手でキャッチした隊長は口にふくみ一気に天を仰いだ。天に月があった。月から四十五度の線を引くと、地上には闇の中に校舎がそびえ立っていた。いくつかの窓には灯りが灯っていた。
遠く校舎の窓から、じっとこちらを見つめているステーシーの姿が、約使の目に映った。
南校舎のオーディトリアムに集められた数百人のステーシーたちに顔面拘束具ははめられておらず、鱗粉が月に照らされ青白く輝く少女の顔がいくつも見えた。
彼女たちの顔は約使が再殺をしている時のように無表情だ。人形じみて、それでもユラユラと身体の揺れるさまは、ろくでもない魔術でぎこちなく動き始めたマネキンを思い出させた。
「パズル屋さん。倉庫番≠フ奴がいかれちまいました」
約使に不意に声をかけてきたのは、さっきトランシーバーで、自分の妹が再殺されたことを報告してきた柳沢だった。意外に、表情に苦しみの影はなかった。ここの連中は情という言葉に置き換え可能な表情のことごとくを押し殺す。生かしておけば、自分の心が壊れるからだ。
「あいつは優しい奴でしたからね。耐えられなくなったんですかね」
「どんな様子ですか?」
「レティクル座とかいう星座がどうしたとかこうしたとか……シリウス星がなんだとか、訳のわからないことを言ってます。とりあえず、あいつに数百体のステーシーを閉じこめておく倉庫番の役目はもう勤まりませんよ」
レティクル座
シリウス星
共に、ステーシーに関わるうち、心に変調をきたした者が口走る言葉の端々によく出てくる、実在の星座と星の名前だった。
「形而上の力で、ステーシーを操っている『人形遣い』がいる。奴らはレティクル座とシリウス星に存在し、十五歳から十七歳までの少女たちを再生屍体化して我々を苦しめる。その目的は、特にない。無理に挙げるなら、『気まぐれ』だ」
というような話をあちこちのロメロ再殺部隊で始める者が現れ、その数が加速度的に増えているとの報告を、約使は本隊から受けていた。
「先生、倉庫番≠ヘ技術準備室に閉じ込めています。あとで見に行ってくださいよ」
「ええ、わかりました」
「先生、倉庫番≠ニは古い友達でしたよね」
柳沢はまだあまり酔いがまわっていないのか、一人黙々と、バケツ一杯に積まれたステーシーの肉片を、一つ一つ炎に投げ入れていた。
「倉庫番=c…あいつは、いい奴ですよネ」
肉片が炎に投じられるたびに、再生屍体蝶羽状輝微粉が四方に飛び散った。パッチ!パッチ! パッチ! パッチ!≠ニ爆竹のような音を立てながら煙と共に空へ。
「倉庫番≠烽んたに友情を感じているようですよ。よく嘆いてましたよ。よく言ってましたよ。ステーシーなんてもんが現れるまでは、約使はよく笑う奴だった。屈託なく女の子みたいに俺がどんなつまらない冗談を言ってもケラケラ笑う奴だったって」
ポン! と真ん中から真っぷたつに割れたステーシーの頭部が炎の中で弾けた。
「小学校も同級だったんですってねぇ。『西暦二〇〇〇年の祭りの時に、あやうくパレードの車に轢かれそうになった約使を引きずり起こして助けたのは俺だ。俺がいなかったら、約使は十二歳で死んでた』って、嬉しそうによく言ってましたよ。ステーシーを切り刻みながらね」
輝微粉は空へ。空には月。南天の星座レティクル座はこの国からはほとんど見えない。
「俺、倉庫番≠ニ一度寝ました。フェラチオうまかったスよ。でも本当はパズル屋さんを抱きたかったのかもしれないですね。あいつは盛んに俺のことを抱き締めようとするんですよ。かわいいかわいい≠オようとするんですよ。俺はただ女とやれないうさ晴らしだったんだけど、あいつはなんか……求めてたな。俺を抱き締め頭を撫でて『好きか好きか好きか』と何度も聞くんですよ。俺も調子に乗って好きだとか言っちまって、今思うとなに男同士でバカやったんだって感じでしたよ。しかも、何百というステーシーがガラス窓越しに見ているところでですよ。まったくねぇ……」
校庭に集まった炎の周りの男たちは、いよいよ酔いが回ってきたのか、顔をさらに赤く染め、いかれたような声をあげていた。その中で柳沢は静かに言った。
「パズル屋さん。倉庫番≠ノ抱かせてあげたらどうですか、あんたを。そうすりゃアイツのオツムも元に戻るかもわからない。童話のお姫様みたいに、目を覚ますかもしれませんよ」
約使は一瞬、輝微粉のハーブティーに似た匂いにむせた。小さくせきをしたあと、何も言わず、柳沢のそばを離れた。
宴の戯れに、ステーシーの一体が駆り出された。
炎に照らされ、輝微粉が輝き、蛍《ほたる》のようだ。
再殺隊員の一人によって顔面拘束具を外された彼女は、シャアッ! とへびのような声を上げ、同時に舌をペロリと突き出し、淫乱が売りのロリータポルノ女優さながらに、上に下に、舌先を器用に動かした。
レロレロレロレロ
レロレロレロレロ
あどけない表情だというのに、生前なら死んでもそんなことはしなかっただろう恥ずかしい舌先の動きはいつまでも続いた。
ケケケケケケケケケケケ
ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャ
アハハハハハハハハハハハハハハハハ
ハハハハハハハハハハハハハハハ
十二分に酔いの回った隊員たちの嘲《あざけ》りの笑い。
レロレロレロレロ
レロレロレロレロ
少女の舌先の機械的な動き。
レロレロと舌を上下させながら、ステーシーはゆらゆらと歩み始めた。
薄闇の中でタイトロープをわたるように、小さな肩が右に左に揺れている。右に左に顔を動かし、獲物を探している。
ステーシーは、生きている人間の肉に歯を突き立てたくて仕方がない。
肉を喰らうためなら、どんなところへでも出て行く。たとえ地上三十メートルに張りめぐらされた一本のロープの上だって、彼女たちは列を作って歩くことだろう。足を滑らせ一体が落ちたとしても、次の一体が行く、三十メートル下で落ちたステーシーのつぶれるペチャリ≠ニいう音がしたって、彼女たちは気にしやしない。綱渡りは途切れることなく続く。ステーシーには想い≠ヘない。
駆り出されたステーシー。その髪の毛は長かった。燃え上がる炎が風を起こし、彼女の髪を舞い踊らせている。髪の数十本が彼女の口元にかかり、彼女は自分の髪をペロペロとなめている。数本は眼球の上にはりついているが彼女は気にもとめず、大きく黒目がちな瞳をキョロリキョロリと動かし続けていた。
「ステーシー! ステーシー! 蘇って幸福か!!」
酔いつぶれた松井が校庭に突っ伏しながら叫んだ。
ステーシーが松井を振り返った。十五、六歳の屍体少女は、舌を引っ込め、瞳の回転を止め、じっと松井を見据えた。
「ヒャハハハハハハハハハ」
松井が笑った。
「俺か!! 俺を喰うのか? やれよ、やれよ、やってくれよ、喰べて喰べて喰べてヒャハハハハハハハハハハハハハ!」
ステーシーは両腕を前方に伸ばし、葉に止まった蝶々を捕まえるようにゆっくりと、松井に向かって歩み出した。松井はヘラヘラと口元に笑いを浮かべていた。
「そうか、今日で俺も運の尽きか。なんだか謝りたい気分だな。土下座でもしたい気持ちだ……」
ステーシーはゆっくりと近づく。
「誰に謝ろうかなあ、俺の人生をさぁ」
松井の手前二メートルまでステーシーは迫っていた。松井と一緒になってヘラヘラと笑っていた隊員たちが、一斉に黙った。非力な少女といえども、泥酔した人間がステーシーに二メートル以内に近づくのは危険だった。しかし松井は体を起こそうともせず、隣にいた約使に声をかけた。
「パズル屋さん、あんたに俺の人生の最後を謝るよ。さっきさ、俺さ、あんたの話ちゃんと聞いてなくてさ、血液凝固剤打ってないステーシーを銃でハチの巣にしちまったんだ、ヒャハハハ」
ステーシーと松井の距離は一メートルまで迫っていた。隊員の数名が、銃のトリガーに手をかけた。
「ごめんよ」
笑っていた松井が、ふいに神妙な顔をして謝った。
「ごめんよ。ごめんよ。ごめんよ。本当にごめんよ。……ごめん」
泣きだした。
ダッチワイフのように、ステーシーが口をOの字に開いた。舌先が伸びる。レロレロレロレロ。
隊員たちの銃が、一斉にステーシーに照準を合わした。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさい許してくれっ……」
突然嗚咽を始めた松井に、ステーシーが腰をかがめ手をかけた。
背広を着たラビットに話しかける不思議の国のアリスによく似たステーシーのポーズ。
「ごめんなさいごめんなさい、ううっ」
「松井さん、喰われちまいますよ」
静かに約使が言った。
ステーシーの指が松井の首筋にかかった。
タンタンタン タンタンタン
四方からの銃声。
ロメロ再殺部隊員の腕は皆巧みだ。松井にも約使にも流れ弾は一発も当たらなかった。一度に五十発以上の弾を浴びたステーシーはごげぐぇぐぇぐぇっとカエルのような声を上げ、その場で被弾の勢いのままに奇妙なダンスを踊った。
うわー! っと、松井が声を上げて、その場に泣き崩れた。
タンタンタン タンタンタン
ごめんなさいごめんなさいワーッ!
タンタンタン タンタンタン
月の下、炎のかたわら、銃声のリズムと松井の赤子のような泣き声を伴奏に、少女は腰をひねりツイスト、頭をふりポゴ、腕を回しボーグ、おまけに歳のわりにはふくよかな胸をふり血まみれのサンバまで披露してみせた。
約使はボンヤリと、目の前で再殺の踊りを踊る少女を見ていた。返り血が約使の頬に飛び散っても、若い学者はみじろぎもしなかった。踊るステーシーの上空に月があった。約使の瞳にステーシーと月の両方が映っている。
「後は俺がやるから」
録山がそう言って立ち上がると、隊員たちはヒャッホウ! と喚声を上げた。
録山は身体中から血を滴らせている少女に近づくと、いきなり校庭に、ステーシーに両足を向けた格好で仰向けに転がった。
「来いよ、小娘」
録山は倒れたまま、ステーシーを手招いた。
イヤー! っと隊員の一人が歓声を上げた。
「録山のオクトパスショウだ! クックッ」
隊長も嬉しそうに叫んだ。
血まみれのステーシーは新たな獲物を見つけた喜びにレロレロとまた舌を伸ばしながら、録山の腹に馬乗りになった。口をカッと広げた。録山は少しも慌てず、ステーシーの片腕の手首を右手で掴むと、半身を起こし自分の左腕を外側から彼女の腕に絡ませ、手首を握った右腕とクロス。そのまま尻を浮かせ月に向かって両腕を絞った。
ボクン……と、少女の細い腕の骨が、砕ける鈍い音。
隊員たちがドッと一斉に笑った。
ロメロ再殺部隊員になる前は草プロレスで喰っていたという録山は、それからたっぷり二十分かけて、ステーシーの骨という骨をサブミッション(関節技)で次々に折ってみせた。
クロスヒールホールドで足首を、
ストラングルホールドで肩を、
V1アームロックで腕を。
ボクン! ボクン! ボクン! ボクン!
小気味いい音を立てて録山の関節技が決まるたびに、少女はグエッ! グエッ! グエッ! と声を上げ、徐々に人間の形状をとどめなくなっていった。
首は背中に腕は逆に足は太腿の途中で折れ曲がり腰はアーチのように反り返り、全身がクネクネと、どの方角でも曲がるようにタコ化≠オたステーシーの身体。それでもまだピクピクモゾモゾと動くものだから、この物体、いったい何なのかまるでもうわからない。
ボクン! ボクン! ボクン! グェッ! グエッ! グエッ! ウヒハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハ……ボクンボクンボクン! グェッ! グエッ!グエッ! クックックックッ、ギャギャギャギャ! イーッヒッヒッヒヒヒッヒヒヒヒ! ボクン! ボクン!
月夜、
炎、
狂ったように笑う男たち。
かつては少女だった、今はただグニャグニャの物体。
泣いたカラスがもう笑う。あれだけ詫びを入れていた松井も今はゲタゲタと笑っていた。
有田約使だけが、返り血を浴びたところどころ赤い顔のまま、無表情で膝を抱えていた。
約使が、傍らで笑い転げている松井に不意に尋ねた。
「間違えて再殺したステーシーの名を覚えているかい?」
「へっ?」
「……何て名前のステーシーだったか覚えてるかい?」
「パズル屋さんは何でそんなこと聞くんです?」
「いや、特に意味はない」
「確かモモって名前だったかな? アレ、ミモだったか、ミッキーだったかな。そんなんっスよ」
「モモ?」
約使は一瞬黙ったあと、小さな声で「そうか」と呟いたが、ぐにゃぐにゃのステーシーが録山のエアプレーンスピンによって炎に投げ込まれる光景に見とれていた松井の耳には、その言葉は聞こえなかった。
マユミ
録山のオクトパスショウによって、宴はさらに盛り上がった。
本隊から支給がここ一月《ひとつき》途絶え、銃弾の残数に不安があるというのに、ロメロ再殺部隊の隊長は、隊員たちが銃口を空にむけタンタンタンタンタンタンと無駄弾をさまざまな星座に放つ、古い西部劇のアミーゴたちのような酔狂を止めはしなかった。
タンタンタン
タンタンタン
タンタンタン
タンタン タンタンタン タンタンタンタンタンタンタンタンタンタン タタタタタタタタタタタタタタタタ……
夜空では相変わらず、月が見下ろしている。
月と共に、隊員たちをじっと見つめている者たちがあった。宴の場からおよそ百メートル離れた南校舎のオーディトリアムの中で、海草のようにユラリユラリと揺れている数百のステーシーたちは、感情もないくせに、もの欲しげな瞳をしていた。
欲しいよう
欲しいよう
欲しいよう
欲しいよう
ユラリユラリ
欲しいよう
「おい松井、もう一匹連れてこいよ、クククッ」
隊長が注文した。しかしすでに、松井は宴の始まる前に、オーディトリアムから何体かのステーシーを連れ出してきていた。
「イヒヒヒヒヒヒヒ、イヒヒヒヒヒヒ」
松井は笑い、猿のように飛びはねてみせた。脱兎のごとく、炎の照らさぬ闇の中へ駆け出していったかと思うと、またすぐに戻ってきた。
松井の手に、軟体動物のようにヌメヌメと輝く鎖が握られていた。鎖の先には首輪がついていて、首輪は顔面拘束具をはめられたステーシーの細い首に巻きついていた。首輪には可愛らしい小さな鈴がいくつもついていて、ステーシーが松井に引っ張られてユラユラと歩むごとに、サンタクロースのそりのようにシャンシャンと小気味良い音を立てた。シャンシャン。
「イヒヒヒヒ隊長! イヒヒヒヒヒ隊長」
「クククッ、おいお前ら、銃構えろ」
隊長の言葉に、隊員たちは一斉に銃の照準をステーシーに合わせた。
「イヒヒヒヒヒ」
鎖を持つのと反対の手で松井はポケットの中のリモコンを操作した。松井が指先で「OPEN」のボタンを押すと、カチャリと音がして、ステーシーを捉えていた首輪と顔面拘束具が外れ校庭の土の上に落ちた。
いきなり拘束具の外れたステーシーは、一瞬キョトンとした顔をした。子猫のように、「何?」と御主人様に尋ねるような表情になった。ニャオン。
約使は連れ出された二体目のステーシーに見覚えがあった。確かこの少女の太腿の内側には、約使がつけた「マユミ」という傷跡があるはずだ。マユミの生徒手帳には、小さな丸っこい字で、いくつも書き込みがあったのを約使は覚えていた。詩のようなものもあった。
猫見に行ったら犬がいて
ワワワワワンって吠えられた
『あなたは嘘をついたのね
猫飼ってるって言ったのに』
猫見に行ったらあなたがいて
『ゴゴゴゴメン』って謝った
『来てくれるなんて思わなくて
ちょっと冗談言ったのさ』
『骨のガムを今度は買ってくるわ
なめてくれるかなぁ! なついてくれるかなぁ?』
『骨のガムを今度は買って来てよ
僕から言っとくよぉ、ちゃんとなつけよって』
犬見に行ったら犬がいて
ペロロロンってなめられた
『ほらねほらね』とあなたが笑う
『ちゃあんと君になつくだろ』
犬見に行ったらあなたがいて
二人でハハハッて笑ったわ
これから二人は永遠に、いつも笑って暮らせるわ
犬はとっても長生きで、子犬もたくさん生んでくれて、あたしとあなたも長生きで
いつまでも
いつまでも
アハハハワンワン アハハハワンワン ペロロロロン ペロロロン アハハハワンワン アハハハ アハハハ
『ねぇ、この犬、この子は甘噛みするかな?』
『甘噛みするよ、君のこと』
『甘噛みするかな?』
『甘噛みするってば』
隊長が撃てと叫んだ。
ヒーッと、飛びすさる松井の悲鳴。
一瞬遅れて四方からの銃声。
タンタンタンという軽やかな音は、いくつも重なると、ダダダッ ダダダッと激しさが加わった。
マユミの右腕が肘の部分からぶちりとちぎれ、ブーメランのようにくるくると回転しながら夜空に舞った。
相変わらず空には月。
ロケットパンチを発射した後のマジンガーZのように肘から先のなくなったマユミ。すぐに左肘から先もぶち切れ、やはりくるくると宙に舞ってなくなったから、マユミは左右対称シンメトリーのかたちになり、バランスがとれたかと思う間もなく、右から左から正面からロメロ再殺部隊の銃弾がマユミの身体にマッハのスピードで喰いこみ始めた。
両膝の半月板にそれぞれ五十二発の銃弾。
少女の骨が耐え切れるわけもない。
ブスブスと穴を開け両膝が砕け散り、血はよく振った缶コーラの栓を勢いよく抜いたかのごとく四方へと。
ゴトン!
音がして、マユミの身長が数十センチも小さくなった。
ニーソックスとシューズを履いたマユミの膝から下の部分が、その上の彼女の肉体と完全に分断され、マユミはダルマ落としの要領で、膝下のないステーシーとして地面に立ったのだ。
『何? どうしたの? ニャオン』
マユミはロメロ再殺部隊員たちの顔をキョロキョロと眺めた。怯えた目ではなく、あくまで御主人様の気まぐれな不意の愛撫に、ふと振り向いた時の子猫の表情。
『何? どうしたの? ニャオン』
答えず、隊員たちは銃の照準を今度はマユミの太腿の付け根に合わせた。
「チクショー! このやれない無駄マンコが!」
録山が怒鳴った。
ゲゲゲゲゲゲと笑いながら隊員たちは一斉にトリガーを引いた。
プシュ!
プシュ!
プシュ!
太腿のあちこち、そして録山言うところのやれない無駄マンコのあたりから、鮮血が噴き出した。
プシュ!
プシュ!
プシュ!
『何? どうしたの? ニャオン』
ゴトン!
再びダルマ落とし。
マユミの肉体は両腕と腰から下がなくなり、美術準備室のデッサン用の裸婦石膏像のようだ。
もちろん、太腿は太腿で、膝から下はその部分だけで、小さくなったマユミの体のそばで、今は別な生き物としてくねくねと動きまわっている。
次の照準はヘソを中心としたマユミの腹だ。
プシュ!
プシュ!
プシュ!
『何? どうしたの? ニャオン』
ドン!
またマユミは小さくなった。
次は胸だ。乳首を中心に構え! 撃てっ!
プシュ!
プシュ!
プシュシュ!
『だからな〜に? 何か用なの御主人様? ニャオン』
ゴトン!
次は首だ。子猫チャンを顔だけにしてしまえ。ホラ構えてホラ撃てクックックッ!
プシュ!
プシュ!
プシュ――ッ!
『な〜に〜? 御飯をくれるの? あたしは高い缶詰は嫌いだよ、くれるんならネコマンマにしてほしいニャ。ニャオン』
ゴトン!
マユミは首から上だけの姿となった。
美しい顔をしている。大人びて、口元などいやらしいぐらいだ。
約使が名を彫った時は、長い髪を後ろで一つに結い、牛乳ビンの底のようなぶ厚いレンズの眼鏡をかけていた。
生徒手帳に自作のポエムをしたためてしまう、一見地味な彼女が、髪をほどき眼鏡を外しただけでこんなに大人びてしまうことを、果たして級友たちは気付いていたのだろうか。あるいは、マユミは自分の大人びた表情に少女らしいコンプレックスを持っていて、野暮ったい髪型や眼鏡をかけることで隠そうとしていたのかもしれない。
「イヒヒヒヒヒヒ隊長! こいつはこのままにして、もう一匹行きましょうよ、もう一匹! 今度はパズル屋さんに『クンフーショウ』をやってもらいましょうよ!」
松井の提案に一同がドッと沸いた。
約使はウンザリしながらも、ユラリと立ち上がった。
マユミが阿呆のように隊員たちをキョロキョロと見上げるなか、また、もう一体のステーシーが校庭に連れ出された。
「おい、炎を絶やすなよ、パズル屋さんの得意芸だ。燃やせ燃やせもっとゴーゴーイヒヒヒヒヒヒヒヒー」
連れ出されたステーシーの拘束具が外された。
口を大きく開け、ステーシーは舌を伸ばした。口の両端からしたたるよだれ。
この少女にも見覚えがあった。
確か「ミカコ」だ。
ミカコはとびきりの美少女だった。スッと背が高く、水泳でもやっていたのか、少年のように肩幅が広いが、彼女の豊かな胸を支えるにはぴったりと言えた。
美少女ミカコの一メートルほど手前に約使は立ち、白衣を脱いだ。
そして約使は「チャチャチャ」によく似た独特のフットワークで、ミカコの周りを歩み始めた。
ミカコはダンスは踊れなかった。
約使とチャチャチャは踊れなかった。
楽しくダンスを踊るどころか、ミカコは約使の放ったサイドキックで鎖骨をへし折られた。
「技が地味だなパズル屋さん!」
録山が茶々を入れた。
ここでペンチャックシラットの構えでもすれば隊員たちは大いに盛り上がるところなのだろうが、そこまでする義理もない。獣のような隊員たちのなかで、年若い学者がナメられないために、派手な技を見せておけばいい。
しかし派手な蹴《け》りは、美少女の顔を醜く変えてしまう。
約使の飛び後ろ回し蹴り、クンフーで言う旋風脚に似た蹴りは、きれいな弧《こ》を描いてミカコの奥歯を二本叩き折った。
―――――!
という奇妙な呻き声を大量の血と共に吐き出しながら、ミカコの足がよろめく。
約使の使うジークンドーの技には、サブミッションもあったが、隊員たちの望むのは派手な立ち技だ。
約使は軽く膝を上げ、落ちてきたミカコのアゴを載せた。
血まみれでもミカコは美しかった。上目づかいに約使を見つめている。
約使は左腕でミカコの髪をつかむと、一気に引っぱった。
勢いのままミカコは宙に浮き、蝶羽状輝微粉を舞い散らせながら背中から地面に落ちた。
約使は髪を放さず、小柄な身体つきからは考えられない強い力で、ミカコを無理矢理引きずり起こした。
同時に三歩下がった約使は、シュッ! という息吹と共に空中に飛び上がり、身体をひねり一回転。かかとでミカコの喉元をとらえた。
―――――!
今度はミカコも踊った。奇妙なステップで奇声を発しながらだったが。さらに大量の血をだらりだらりとたらしながら、ヨタヨタヨタと踊ってみせた。
慣れない踊りで足元がおぼつかない。前のめりに倒れかけたミカコの身体を軽い前蹴りで押さえた約使は、すぐに軸足をチェンジして、ミカコの上腕部にミドルを叩きこんだ。
パキンといい音がして、骨が折れた。
無表情の約使はシュッシュッシュッと素早く息を吐きつつ、同時にロー、ミドル、ハイと回し蹴りを放った。
パキン パキン ペシャ
ミカコのすねと肘の骨が砕け、額がザックリと割れた。
急速に回転を始めた秒針のように、右に倒れ始めたミカコの顔面を四発目の右回し蹴りがとらえると、ミカコは勢いよくその場で一回転してみせた。
心得たもので、約使はクルリと回転したミカコの右肩に五回目の回し蹴り。ミカコがもう一度一回転。くるりくるり。
ドッと隊員たちが沸いた。
「イヒヒヒヒヒ、いいコンビだ!」
約使は勢いのままもう一度回転を始めたミカコの髪を背後からわしづかみ、引っ張った。
ミカコが上目づかいに約使を見る。その眼球がグルリと回転する。大きく開いた口から伸びた舌はなんとか約使をとらえようとするがかなわず、かわりにミカコ自身の可愛い鼻先をベロリとなめた。鼻のてっぺんが血でトナカイのように赤く染まった。
約使は、派手に見えるよう、なるだけ大きくふりかぶって、拳をミカコの顔面に叩き落とした。
ヒャッホーウ!
隊員たちが吠えた。
ミカコの鼻骨はペチン! と、まるでプチトマトがつぶれる時のような可愛い音を立てて砕けた。
血が大量に噴き出した。心臓の停止したステーシーの血がなぜこれほど勢いよく飛び散るのか? 山積みにされたステーシーの謎を解く研究課題の一つではある。
鼻が砕けても、ミカコはまだ整った美しい顔立ちをしていた。
もう一度、今度は手刀を顔面に叩きこんだ。
ペチャン
左眼がつぶれた。
イーヤッホウ!
隊員たちのそれは嬉しそうな雄叫び。
しかしまだ、ミカコは美しかった。
彼女の生徒手帳にも書き込みがあった。
カレンダーになったページの、八月のある日の欄に、
やっと会えた。
これからもずっと、
何年たってもずっと
ね
と、
小さな小さな字で記されてあった。
歯と鼻と眼を叩きつぶされても美しい少女に永遠を誓わせたボーイフレンドとは、一体どんな男だったのだろう? 少年か三十男か? 彼はまだステーシーに喰われていないだろうか? それともどこかの再殺部隊員として、ステーシーを百六十五分割しているのかもしれない。
もう一撃を顔面に加えると、さすがのカワイコちゃんミカコの顔も、ややブスになった。頬の骨が叩き折られて、皮膚を突き破って鼻の真ん中のあたりからニョッキリと出てきてしまったのだ。こんな美人はいない。
ステーシー化する以前、少女たちの誰もが自分の容姿にコンプレックスと小さな優越感を持っていただろう。他人にはどうでもいいことでも、当人にとっては命にも関わる大問題だったろう。
もう一撃。
ミカコの前歯もすべて折れ、今度こそ本当に彼女はブスになった。
百六十五分割されたり、録山のオクトパスショウや、隊員たちのダルマ落としや、そして約使のクンフーショウで血まみれにされる時、少女たちには美も醜もない。平等に、ぐちゃぐちゃのぐちょぐちょのつぶれトマトと化すだけだ。ミカコも、今はブスだが、すぐつぶれトマトと化して、みんなと一緒になれるのだ。
ミカコの顔がつぶれていくごとに、隊員たちのテンションは上がっていった。
もういいだろう、と約使は思った。
もうみんな酔っ払っている。適当に切り上げたところで怒る奴もあるまい。
約使はミカコの髪を放すと、三歩下がった。
シュッ!
飛び上がった約使の足は空中できれいな弧を描き、回転しながら足刀をミカコの額に叩きこんだ。隊員たちの履くクツには鉄板が入っている。ミカコの頭が、爆発したように砕け散った。
「いいぞう! パズル屋! ロメロ一!」
隊員たちが一斉のスタンディング・オベイション。
「イヒヒヒヒヒヒ! こんなことしてみたりなんかしてぇ!」
マユミの頭を、首のなくなったミカコの身体にのせ、はしゃぐ松井。
『えっ、何? どうしたの? ニャオン』
きょとんとした子猫のマユミ。
「火を絶やすな! ガソリンぶっかけろ! クックックッ」
いつまでも燃え続ける炎。
校庭にのびる男たちの長くて黒々とした蠢《うごめ》くいくつもの影。
「イヒヒヒヒヒヒ! もう一匹、もう一匹いきましょうパズル屋さん!」
すばしっこい松井は、早くも、もう一体のステーシーを引きずり出していた。
ヌメヌメと光る鎖。
鎖の先に首輪と一緒に少女の表情を隠す顔面拘束具。
顔面拘束具からのぞく瞳に見覚えがあった。
太腿の内側に彫った傷跡ではなく、ステーシーの「名前」を思い出したことに約使は驚いた。
「ヒャハハハハハハ! パズル屋さん次はこの娘、こいつをぐしゃぐしゃのべしゃべしゃのつぶれトマトにしてやってくださいよ、血とよだれとポキポキポキ骨の折れる音でロメロ再殺部隊を喜ばせてくださいよ! 笑わせてくださいよ! 幸せにしてくださいよ!」
松井の操作で拘束具と首輪が外された。
ステーシーの顔が、月夜にもはっきり見てとれた。
ステーシーの周りに、オーラのように、一瞬、蝶羽状輝微粉が銀色に輝いた。
「……モモ」
口に出して、約使はステーシーの名を呼んだ。
そしてモモは、言葉を語り始めた。
銃 撃
ロメロ再殺部隊員たちは、したたかに酔っていた。だから、拘束具を外されたステーシーのモモが、小鳥のように高い声でぺらぺらと語り始めたのを見ても、あまり騒ぎたてる者はいなかった。「そんなものだ」と、酔っ払った彼らは思った。酔いの回っていない約使だけが、月明かりに照らされ、炎に照らされ、蝶羽状輝微粉に輝きながら、壊れたおもちゃのように語り続ける少女を、惚けたように見つめていた。
モモは、ピンと背中を張り、胸を突きだし、威風堂々としていた。心に一点のかげりもない、これから十メートルの高さから水面に落ちる高飛び込みの選手のように、すっくと立ち、ロメロ再殺部隊員たちをぐるりと見回した。
大きな瞳だった。
遠く遠く、今は闇に包まれている山々を見渡すように、モモの目はしっかりと見開かれていた。
隊員たちを一巡した目は、再び約使のほうを向いた。約使に向かい、モモはニコリと笑い、ありがとうという表情を作り、実際約使に向かって、「ありがとう」と正確に静かに言った。
「ありがとう」のあと、せきを切ったように、死んだはずの少女は語り始めた。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう。
私が、何についてお礼を言っているかは、特別にみんなは知ることはないと思うけれども、私がこんなにもありがとうを繰り返すのは、あなたたちが、私たちにしてきたことについて、あんまりにも悲しんで、苦しんでいるからよ。
だって見るに忍びないんだもん。そんなにみんな、自分を責めることはないと思うわ。
あなたたちはただ、自分の仕事をしただけなんだから。そんなに自暴自棄になることもないし、泣くこともないし、怒ることもないし。ましてね、感情を、心を、思いを、押し殺す必要なんか、まるでないんだよ。
あたしたちが死んだのは、どうしようもないことだから。生きているとね、どうしても、こうあって欲しいのにそうなって欲しくないことがあって、そのなかに、死ぬっていうことも含まれるわけ。あたしも、エミコも、リョウコも、ミエも、シズヨも、ミカコも、あの子もこの子も、どの子もその子も、その不条理から逃げられなかっただけのことだから。
逃げられないのはよくあることだし、それがたまたま、あたしたちにとっては死ぬことだった。ただそれだけのことだから。ただ、それだけのことだから。
それに、まだ、いきなり虫にされちゃったりとか、クモにされちゃって、一生地面をはいつくばるとかさ、それより何より、眼球の白い部分にだけ毛がにょろりと生えるようになって、なんか気味の悪い生物として一生を送るよりは、あたしたちの受けた仕打ちは、全然いいほうだと思うの。
死ぬことは、誰にだってあることだから。
あたしたちが生き返ったのはね……、みんな、その理由を探そうとして、わからないみたいね。
ついさっき、私と勘違いして私の友達を鉄砲でたくさんたくさん百六十五分割したあなたも、結局わからなかったようね。
教えてあげるね。
あたしたちが生き返ったのは、神様の気まぐれなんだ。他に理由なんか何にもないの。神様の気まぐれ。それだけ。
気まぐれで生き返って、あたしたちは舌をペロペロペロペロ出して、よだれをたらたらたらたら流して、ふらりふらり、ゆらりゆらり、いつまでも歩き回ることになったの。
ただ、歩き回るだけよ。かわいらしい格好をしてね。いちばん、女の子がきれいでいられる年頃の姿のままで。サルガッソウ海の海草のように、あっちへいって、こっちへいって、そっちへいって、ゆらゆらしてればそれでいいの。
たまに人も食べるわ。
それにも別に意味がなくて、神様の気まぐれ。たぶん、神様はそういうのが好きなのよ。レティクル座か、シリウス星。あのあたりにいてね。たまに、彼らの声を聞く人がいる。たぶん神様は本当に気まぐれで、あたしたちをゆらゆらと歩かせて、人を食べさせて、それを眺めてご満悦なんだと思うわ。
あたしたちも別にそれで、損をしたとか得をしたとか、幸せだとか不幸せだとか、思わないし。
与えられた運命を、与えられたままに受け止めているだけ。
楽なのよ、とっても。それはとっても楽なのよ。
あたしみたいな子供がさ、お兄さんたちにお説教するのはなんだと思うけれど、与えられた運命を、与えられたままに受け止めればいいんじゃない?
再殺部隊員さん、あなたたちは、あたしたちを焼き、切り、刻み、バラバラにして、あの炎のなかにボンボン放り投げるのが仕事なんでしょ? だったらそれを、自信を持っておやりなさい。
お兄さん、お兄さん、お兄さんたちが、ホントはもっと、楽に、幸せに、朗らかに生きたかったっていうのはわかるわ。誰だって、妹みたいな娘たちを、ぐしゃぐしゃのつぶれトマトみたいにしたいとは思わないよね。
お兄さん、お兄さん、お兄さん、私たち、ホントはさ、この炎の下で、本当にキャンプファイアーができればよかったね。みんなでマイムマイムでも踊って。二、三組、カップルなんかもできてさ。闇の中に、そっと消えちゃう二人なんかもいて。
ギターの弾ける人はいるの? 私はもう何カ月も、音楽を聴いていないな。
ギターを弾ける人はいないの? もしいるんなら、ギターを弾いてさ、みんなで歌でも歌ったら、楽しかったろうね。
『こたつみかん』ていう曲を知ってる?
こたつみかん、こたつみかん、春なのにこたつみかん、夏なのにこたつみかん
好きな人とね、兄と妹くらいの年齢の恋人同士が、本当に仲良く愛し合っていて、二人の気持ちは冬の日の、木枯らしの吹く狭い部屋の中で、こたつでみかんを食べるように、いつも朗らかなの。
こたつみかんの歌を、誰かギターが弾けたら、あたしたちは歌いたかったな。
あたしたちをいっぱいバラバラにした、若い学者さん? お兄さんは、ギターは弾けるの?
それで、バーベキューとかしてさ、また歌を歌って、踊って、即席にできあがったカップルはキスをして、恋をして、肩を抱き合って、髪を撫で合って、頬を撫で合って、君が好きだよとか、私も好きよとか、語り合うのよ。
朝が近づいてきたら、恥ずかしげもなくギターに合わせて、『今日の日はさようなら』を歌うの。
『いつまでも絶えることなく友達でいよう
今日の日はさようなら また会う日まで』
また会えるかなんてわからないのに、あたしたちは無二の親友のように、こたつみかんを食べる恋人たちのように、みんなで肩を抱き合って朝焼けを見るのよ。
でもそうはならなかったね。
あたしたちは歩き回る屍《しかばね》で、お兄さんたちは、あたしたちを百六十五分割しにきた殺し屋さんだもんね。
でもそういうものよ。うまくいかないのよ。がんばったって、どうしたって、うまくいかないもんだよ。
だからさ、また、小娘がお説教しちゃうけどさ、みんなそれぞれに、自分の与えられた運命を、与えられたままに受け止めればいいんだと思うな。
あたしたちは、これからも彷徨《さまよ》い歩くわ。舌をペロペロと出して、たまに人を食べるわ。
お兄さんたちは、殺すわ。私たちをもう一度殺すために、チェーンソーや、ナイフや、銃弾や、キックや、関節技や、あの手この手を使って殺すわ。
あたしたちのいるこの世界は、たまたまそうなっているのだから、お兄さんたちもあたしたちも、それぞれの役割を演じ続ければ、それで神様の気まぐれにつきあうことができるのよ」
隊員たちが、ざわめきだした。
突然語りだしたステーシーに、ロメロ再殺部隊員たちは、一斉にパニックに陥った。
約使だけは、冷静だった。
このステーシーは、本当の意味で再生したんだろうか。それとも、ステーシーのなかに、言葉を操る者が存在するのだろうか。するならば、なぜこのような言葉を語るのだろうか。
なにより、神の気まぐれは、なぜモモを語り部に選んだのだろうか。
モモは微笑んでいた。ニコニコと、静かに笑っていた。
我に返った隊員たちの銃が、照準をモモに合わせた。しかし誰一人として、この語るステーシーを撃っていいものかどうか考えあぐねた。
「たた、隊長! ここ、こいつを一体、どうすりゃいいんですか!!」
銃を構えながら、松井が聞いた。
さすがの隊長も声が出なかった。小声で、参ったなと言った。
「おい約使、これは一体どういうことなんだ。なんでこいつはこうもぺらぺら喋るんだ」
「わかりません」
「それはまあ、そうだろうよなあ……」
と言ったきり、隊長は黙ってしまった。
「イヒヒヒヒヒヒ」
松井が狂ったような笑い声をあげた。
「やっちまいましょう、殺しちまいましょう、ぐじゃぐじゃのべちょべちょのつぶれトマトにしちまいましょう。イヒヒヒヒヒヒ、ケケケケケ」
笑いながら、松井は一歩、一歩と、銃を向けたまま、モモに近づいていった。
「おい、よせよ松井」
隊長が小声で制したが、松井はエヘヘッヘと笑ったまま、さらにモモに近づいていった。モモはといえば、相変わらず静かに微笑んでいた。松井のほうを見た。
「フフフフフフ、こいつ、俺を見てやがるぜ。俺を見て、笑ってやがるぜ」
するとモモが言った。
「うん、お兄さん、あたしは笑ってるよ」
答えられた松井は目を見開いて黙った。
モモは、大きな瞳でもう一度皆を見渡して、こう言った。
「怒ってないからだよ。生きてたらさ、悪いことってしちゃうよ。いっぱいいっぱいしちゃうよ。それがさ、お兄さんたちの場合は、あたしたちに向けられただけのことだよ。だから、あたしたちが笑ってあげれば、お兄さんたちはもう苦しまないんでしょ? 仕方なかったんでしょ? お仕事だったんでしょ? 運命だったんでしょ? 血と、肉と、死で彩られた、お兄さんたちの毎日は、与えられた運命だったんでしょ? あたしたちが笑えば、もう気にすることはないんでしょ? 笑うよ、笑うよ、あたしたちはニコニコと笑うよ。だからさ、気にしなくていいよ。全部、全部、許してあげるよ。あたしが、許してあげるよ」
ロメロ再殺部隊員のなかに、泣きだした者がいた。約使の位置からは、泣いているのが誰かはわからなかった。しのび泣くその声は、伝染するように、徐々に声量を増やしていった。
モモが、許してあげるよ、許してあげるよ、許してあげるんだからとリフレインする度に、一人、一人、また一人、炎の周りで、むくつけき男どもが涙を流し始めた。
「許してあげるよ、許してあげるよ、全部、あたしがお兄さんたちを、許してあげるからね」
信じられないことに、隊長までが嗚咽を漏らし始めた。
約使は、泣くことができなかった。泣くという感情を、約使はもうとうに忘れてしまっていた。
約使を見て、モモは、「かわいそうだね」とは言わなかった。代わりに、約使の頬を撫でた。ステーシーの指先は、冷たかった。蝶羽状輝微粉が、約使の白い頬に、人差し指と、中指と、薬指の三本の筋でス、ス、スーと刻まれた。ハーブティーの匂い。
ふと、約使は恋人を再殺した日のことを思い出した。
夕暮れだった。河原沿いの雑草の生い茂る場所で、約使は恋人の身体を、石ころで何度も何度も数限りなく殴打した。皮が裂け、肉が飛び散り、ピンク色の筋が見え、爪がはがれ、眼球が吹っ飛び、頭髪が束となってごそりと抜け、何度も口づけをせがんだ唇はめくれ上がり、赤い肉の塊の中で、真っ白な歯がドミノ倒しのようにバラバラと崩れた。
通りがかった労務者風の男が、「お兄さん、手伝おうか、ステーシーだろ」と聞いた。
約使は泣きながら、「結構です、この子は、僕のものでしたから。僕もこの子のものでしたから。もう一度殺すには、僕一人の手でやらなきゃいけないんです」と断った。
労務者風の男は、それでもひかなかった。こういう光景には慣れているようだった。
「いいんだよ兄ちゃん、困ったときはお互いさまだよ。そんな小石じゃステーシーは殺せねえよ。待ってな、もっといい物を持ってきてやるよ」
労務者風の男はひとっ走り駆けていくと、すぐに戻ってきた。手にはスコップが握られていた。
「こいつでさ、突くんだよ。そうすりゃブッ切れる。おじさん代わってやろうか?」
「結構です、僕がやります。この子は僕のものだったんです。だから、僕が殺さなきゃいけない」
すると、労務者風の男は、突然声を荒らげて言った。
「だったらちゃんとやるんだな。ほらよっ」
スコップを投げてよこした。
約使は、男の投げたスコップを手に、もう人間の形状をとどめていない恋人を、何度も何度も、鋭く尖ったスコップの先で突いた。
労務者風の男だけではなく、川面から、橋の上から、土手の上から、次第に見物人が集まっていた。ステーシーをぐちゃぐちゃのつぶれトマトにする光景は、もうその頃見慣れたものだったから、人々は特別に声もあげなかった。
約使が声を出して泣いていたものだから、ああきっと恋人か妹なんだろうなと人々は思い、五分ほど見ては、みんな目を伏せて足早に去っていった。
恋人がもう二度と動かなくなり、百六十五以上の肉片となった頃、日はとっぷりと暮れていた。川面を行く船の灯が、血まみれの約使を照らした。振り向くと、労務者風の男はまだそこにいた。約使は、まだ泣いていた。できれば、この見も知らぬ男の胸に飛び込み、一晩中泣いていたかった。労務者風の男は、約使に一言、こう言った。
「スコップ、返してくれるかい? 悪いね、俺の仕事道具なんだよ」
ふと気づくと、いつの間にかロメロ再殺部隊員たちは、数百人のステーシーたちに囲まれていた。ゆらりゆらりと海草のように近づき歩き回る屍が、いつの間にか彼らの背後にいた。
「倉庫番の野郎が、解き放ったんだな」
隊長が、低い声で言った。
背後から忍び寄るステーシーの一体の口に、倉庫番の頭がぶら下がっていた。
「バカめ、食われやがったか」
ケケケケケケケ! 松井が笑い声をあげた。
隊員たちは、近づいてきた数百のステーシーたちに、照準を向けた。本隊からの弾丸の支給は遅れていた。この数百のステーシーたちを全て再殺するのは、とても不可能だった。
ゆらり ゆらり ゆらり ゆらり
確実に一歩ずつ、ステーシーたちは再殺部隊に近づいてきた。
隊長の指示を待たず、松井の銃が火を噴いた。
タンタンタン タンタンタン
一体のステーシーの、頭部が消し飛んだ。
隊長も号令もかけず、自ら銃を撃った。
タンタンタン タンタンタン
一体のステーシーの、上半身が吹き飛んだ。
隊員たちの何人かは、まだ泣いていた。泣きながら、銃を撃った。
タンタンタン タンタンタン
ステーシーの片腕がもげ、片足がもげ、首がもげ、胸がえぐれ、だがいくら撃っても、ステーシーの数にさほどの減少はなかった。
ゆらり ゆらり
静かにしかし確実に、ステーシーたちは、今やロメロ再殺部隊に近づきつつあった。
「ハッハッハ! 撃て、撃て、撃て、撃て!」
隊長が叫んだ。
タンタンタン タンタンタン
限りなく続く銃声。
まだ泣いている隊員。
松井の狂笑。
蝶羽状輝微粉の、ハーブティーに似た香り。
月夜。
星座。
いつの間にか、オーディトリアムの灯は消え、炎はさらに高く昇り。
銃声。
ステーシーがつぶれトマトと化す、グシャリという音。
モモの微笑み。
「お兄さん、お兄さん、お兄さんたち、ホントにキャンプファイアーみたいだね。ホントにみんなで遊んでるみたいだね。誰かギターは弾けないの? 誰かギターは弾けないの? タンタンタンて、リズムはもうあるから、誰かギターを弾いてほしいな」
銃声。
怒鳴り声。
泣き声。
笑い声。
そして、モモの歌。
『いつまでも絶えることなく友達でいよう
今日の日はさようなら また会う日まで』
タンタンタン タンタンタン
「キャハハハハ! 隊長、もう銃弾がありません。もう空っぽです。もう俺たちダメっすよ、亡霊たちに食われるっすよ!」
「バカ野郎、そんなことはわかってるよ」
漫才のような、松井と隊長の掛け合い。
二人を見て、微笑んだモモ。
タンタンタン タンタンタン
様々な音の飛び交うなかで、約使だけは、再殺した恋人にとてもよく似たモモの横顔を見ながら、まだ、涙を流すことができなかった。
有田約使の感情は、まだ、再生することができないでいた。
終 章
違法再殺少女ドリュー
バーカ! どいつもこいつも思い詰めてんじゃないわよって思うのよねドリューは。玉代なんかスーパーバーカよ、もう胸をワシづかみよ。玉代の胸からミルクをチューチューしぼってやるわよ。十四歳と十一カ月ったらドリューと同い歳じゃない。どうせあと一月《ひとつき》したらステーシーになるわけじゃない? 十五でなるか十六でなるか十七でなるかはわかんないけどさ。もうじき死ぬことわかってんのに自分で死んでどーすんのよバーカ。死ぬのが怖いのかステーシーになるのが嫌なのか知んないけど、んなもんなるようにしかならないんだから仕方ないでしょ。オッパイでっかいくせに何よ、このドリュー様が寄せて上げて無理矢理に谷間作ってメルメルのブラでおさえてるってのにさ。バスト85センチ以上の十四歳に自殺する権利なんてないのよバーカ。しかも彼氏と心中ですって? 十四歳でオッパイでかくて彼氏のいる女に自殺する権利なんて断じてないわっ! あ〜も〜クサクサする。で、セックスはしたの? 遺書残すんだったらそれぐらい書いときなさいよバカ玉代。「ハム恵ちゃん、あんたと別れることだけが心残りです」とか書いてる暇あったら「冥土《めいど》の土産に一発やっちゃったわよ、ちょっと痛いけどステキよ」ぐらいのアドバイスを書いとけっての! だいたい何度言ったらわかるのアタシの名はドリュー! ド・リ・ユ―――ッ!! ハム恵ちゃん≠カゃない! ドリューも玉代のことたった一人のマブダチって思ってたよ。でも自殺するよーな弱虫のためにドリューは泣かない。ちょっとだけウルウルきたけどさ、それはいつだったかドリューがウルトラクサクサしていた時に抱きしめてくれた玉代の髪の毛の野イチゴシャンプーの香りに感謝してのことよ。イチゴ色の血の海で死んだアンタなんかにお別れの言葉なんか言ったげない。フン! いつかどこかでまた会ってやるわよ、そん時ゃオッパイワシづかみだからね覚悟しときなさいよ玉代のバーカ!
アレレ? とか言ってたらもう着いちゃった。さすがニトロチャージャー装備のフェアレディ・ネオSR311は速いわね。世田谷区ウエスト8―7……うん、ここだわ、でっかい家ね。ドンドンドン! 開けなさいよ来たわよ! 開けなさい開けろってばドンドンドン! 呼んどいて待たせやがってコノヤロー、キック入れてやるわエイッ! ガチャリ。キャー! オットットいきなり開けんじゃないわよバカ!
「……再殺屋……さんですか?」
「ズバリそうよオジサン! 違法再殺請負人・ドリューよっ。本名は公恵ってんだけどさぁアタシを『施設』に捨てた両親の付けた名前なんて名乗るもんですか。その上たった一人のダチにゃー『公』の字を上と下に分けて『ハム恵』なんて呼ばれちゃってさ、カッチョ悪いから自分で名前付けたのよ。あんたドリュー・バリモアって知ってる? 今はもうバーさんだけれど、むっかしのセクシー女優よ。オッパイぷりぷりでおいしそうなのよ。あの身体は女の理想ね、だからアタシはドリューに改名を……」
「あの……もう少し静かにしてくれないか」
「わかってるわよオジさん。サイレン鳴らされて重装備の再殺部隊員がドヤドヤ来た日にゃ御近所の手前カッチョ悪いから違法個人営業の再殺請負業者に頼んだんでしょ。だのに現れた再殺屋にサイレンよりでかい声でしゃべりまくられたらそりゃ困るわよね。あいスミマセン。フン!」
「……君が、再殺をするのか?」
怯えた顔の中年男が尋ねたわ。くっきりと皺《しわ》、疲れきった皮膚。典型的なステーシーの父親の典型的な質問ね。怒る気にもならないわ。ガキ扱いは慣れっこよ。
「気に入らないのはアタシのどこ? 名前? 童顔? 小さいオッパイ? パツキン? ブラッドレッドのリップ? ピカピカ光るコスチューム? メルメルは返り血を弾いて実用的なのよ。デザインもセクシーでしょ? むっかしファイティング・バイパーズのハニーが着てた服をアレンジしたのよ。おじーちゃんが物持ちよくってさ、ガキの頃よくあのテレビゲームをやったのよ。アタシがハニー、おじーちゃんはバンってキャラ使ってさ。ボタンのラッシュで倒すとおじーちゃん本気で口惜しがって『ゲームの道は一日にして成らずじゃーっ!』って叫んだ拍子に卒中起こして死んじゃったアハハハ! ドリューおじーちゃん大好きだったけど、お迎えは誰にでも来るものよ。だから悲しんだりは……」
「……あの、ド、ドリューさん、おいくつ?」
「ああ年が気に入らなくて? 十四歳と十一カ月。でも五歳でパパとママに捨てられて育ったから自分じゃイッパシと思ってるわ。オジさんとこのステーシーはいくつ?」
「十五歳と一月……もう少し、生きていてほしかった」
オジさんの瞳がうるんでピカピカ。しみったれてる奴はドリュー大嫌い。仕方ないものは仕方ないじゃない。
「早いとこやっちまいたいわ、十五歳と一月のいる部屋にさっさと案内して」
ドリューのブーツは膝小僧まであって一度脱いだらもう一度はくまでに一月かかっちまうの、そしたらドリューは十五歳。ブーツのジッパー上げてる最中にステーシーになっちまったらたまんないわ。時間ないから土足であがらせてもらうわよ。ドカドカドカ! どっち? でかい家ね。二階? オジさんハッキリしゃべりなさいよ。奥さんは? 自殺した? あーそー玉代と一緒でそりゃバーカね。イテテぶたないでよオジさん、ケンカしてる暇ないでしょ。ドリューはただ自殺する人はバーカだって思ってるだけよ。黙ってたってどーせいつか死ぬんだからさ。ドリューだってもうじきまだヴァージンだってのに死ぬんだからさ。キスはね、経験あるの。思い切りディープなのを去年やっちゃったへへ。だって十四歳と十一カ月よ、ディープキスぐらいポンポコプーよ。でもセックスはまだよ、このドリュー様のナイスバディをそんなたやすく……ああ、この部屋ね。鍵ちょうだい。ガチャガチャ、バターン。ハーイ! ステーシー。ハウアーユー? アイムファインセンキュー!! テキニイーズィー? 平気なわけないわね。さっさと再殺させてもらうわね。
イヤッ!! ボーン!! バラバラバラ……
ちょっと失敗。パパの前で娘の生首はもっと細かくちぎってあげなきゃダメね。飛び散って壁にへばりついた目玉の周りにまだお肉が付いてるわ。ギョロギョロとパパを見つめているわ。でも大したものでしょオジさん? 念じるだけで、ライダーマンの右手≠燻gわずに一瞬で百六十五分割よ。マンガでよく見る超能力よ。サイコキネシスによる爆破再殺。女の子がイヤッ! て叫ぶと敵がボン! って爆発するイヤボン技よ。初めて見た? 施設≠ノは何人かいたわよ、イヤボン技を使える娘が。みんなステーシーになっちゃって再殺されたけどね。パパとママはアタシの畸形より、この力≠嫌ってたわ。お前のことなど誰も愛しはしない≠チてね。ドリューもそう思う。三つ目だしね。オジさんアタシおでこにもう一個目玉がある畸形なの。ヘアバンドをとると、ホラ、キモチ悪いでしょ? 見て……アレ、なんだつまんない。気絶しちゃってたのねオジさんったら、フン!
再殺代行のギャラもたんまりもらってドリューのクサクサもちょっと晴れたわ。「俺はこれからどうやって生きていけば(泣)」とかオイオイ泣き出したオジさんに一喝してやってスッとしたわよ。「バーカ! あんたの娘は十五歳と一月で死んだの。わかる? で、ステーシーになったの。わかる? そんでドリューがイヤボン技で百六十五個のお肉にバラバラにしたの。わかる? オジさんの人生に起こったことはそれだけ。わかる? ドリューは三つ目で力≠使うバケモノでパパとママに捨てられてマブダチにも自殺されたことを自分でよくわかっているから泣かないの。受け入れているから泣かないの。わかるオジさん? あんたも女の子みたいに泣いてる暇があったら自分にふりかかる全部のことを受け入れてみなさいよバーカ」。自分の言葉ながらまったくその通りだって思うわ。あースッキリした。次の現場≠ワで160でドライブ! 風がドリューの長い髪をネオSR311のボディと平行にたなびかせているわ。オープンのスポーツカーだもん、ハンドルを握る女の子の髪の色は決まってるわ。ブロンドよっ! 脱色だけどねへへっ。でもバリモアだって脱色だったんだからいーのよ。ギアチェンジが利く人生の不運はいくらでもチェンジしてやるのよ。あー、やっぱ豊胸手術を受けようかなぁ……あ! 前方から猛突進の一台発見。パルロロロパルロロロ!! げっ! やばい! サイレン鳴らした再殺部隊の車だわ。OK、ドリュー落ち着いて、ニコニコ笑顔でニアデスハピネスを気取るのよ。ステーシー化直前の女の子なら派手な服着てイエローのフェアレディ爆走させてたって大目に見てくれるわ。軽く右手を上げてピース。
「ハーイ! お兄さんたち、早く再殺してよねっ」
「やーお嬢ちゃんもうじきかい? 死ぬ前には恋人に抱いてもらっておきなよぉぉっっ」
パルロロロパルロロロパル〜……ドップラー効果と共に部隊の車は一瞬ではるか後方に去っていったわ。フン! 再殺野郎のヤボテン! そのためにドリューは請負人をやっているんじゃないの。バーカ。あーあ、恋人かぁ、欲しいなぁ、ドリューはね、むっかしの映画が好きなの。でね、ジャン・レノって知ってる? 『レオン』の人よ。タイプなの。渋くってさ、うん、渋い男が好きよ。男はヒゲが似合わなきゃドリューは認めない。むきたての卵みたいな童顔したお子様を見るとぶん殴りたくなるわ。サラダオイルかけてゴマ塩ふりかけてヒゲみたくしてやるわ……ヒャー! 想像したらそれってプチプチしてて気持ちワルー! 鳥肌立っちゃうヒャーヒャー! ……アレレ、とか言ってる間にもう次の現場に着いちゃったわ大原イースト156―6……ここだわ。廃墟みたいなビルね。屋上ね。えっ!! エレベーター壊れてんの。フン! ……仕方ないものは仕方ない、駆け上がるわよドリュー! トットコトットコトットコトットコなんでドリューの力≠ヘテレポーテーションじゃなかったのよトットコトットコトットコトットコ着いたわゼーゼー。
「ちょっと、開けなさいよ!!」
鋼鉄の扉をガンガンけっとばしてやったわ。そしたらガチャンと扉が開いて、むきたての卵みたいにツルンとした男の子の顔が薄暗闇の中からのぞいてドリューに言ったの。
「砂也子の友達?」
アタシと同い年ぐらいの少年は怯えた小犬のような目付き。あーまた出た。疲れ切った表情ってとこね。でも、ずいぶんとまつ毛の長い子だなあ。
「うん、ドリューが来たって伝えて。砂也子なら喜んでくれるわ」
「ああ……ありがとう。でももうステーシーになってしまったから、君のことを砂也子はわからないと思う。ごめんね」
ペコリと頭を下げた。バーカ正直な子ね。ガキのくせに落ち着いた声出しちゃって。
「いいの、仕方ないことは仕方ないこととして受け入れるのがドリューの主義よっ。砂也子だってよくわかってるわ。たとえステーシーになってもダチはダチよ。会わせて」
顔を上げた男の子の瞳は潤んではいなかったわ。今まで見たどんなステーシーの御主人様≠謔閨A決意を秘めた口調で言ったの。
「そうか、ありがとう。入ってくれ」
バーカ。何て単純に引っかかる子なんだろう。扉を思い切り開いて、私を屋上へ招き入れたわ。
砂也子は屋上の真ん中で、暮れかかる夕陽を全身に浴びて、キラキラと輝いていたわ。陽の光と混ざって蝶羽状輝微粉のきらめきは、ステーシーをこんがり焼いたトーストの狐色……ではなく、水泡がゼリーの中でゆっくりと動きまわるマーマレードの金色に輝かせていたわ。ドリューのいんちきブロンドも、こんな風に輝いてほしいもんだな。
「砂也子……久しぶり。アンタはステーシーになってもきれいだね」
顔面拘束具をはめられて、とめどもなくよだれを小さな唇の端から垂れ流すステーシーは半裸。あー可愛いな、シルクの下着だ。依頼人の父親から聞いた話じゃ砂也子は十五歳ってことだから、歳の割にはマセガキだったのかな。下着の趣味がドリューと一緒だわ。本当にトモダチになれそうだなこの娘となら。死んじゃいなけりゃね。
後ろ手に縛られた砂也子の身体には、男ものの学生服がかけられていて、不釣り合いだった。
「えーとアンタは……」
「僕、祐助。砂也子とは高校の同級生」
「アタシ、ドリュー。砂也子とは中学時代の同級生」
砂也子の声帯が「ぐぼごごごごごっ!」と鳴った。
これで三人の自己紹介は終わったわね。アタシのはウソッパチだけどさ。フン!
「祐助。砂也子の身体にかかってる学生服アンタの?」
「うん。寒いとかわいそうだろう」
「……バーカ!」
言ってからドリューはシマッタ! と反省したわ、バーカって言ったことじゃない。バカにバカって言うのは正しいことこの上ないと思うわ。反省したのは、必要以上に仕事先の人間と関わりあったからよ。
「バカって何だよ」
「バーカだからバーカって言ったの」
再殺代行業は重罪よ。特にドリューみたいに大金をもらうとね。両親と兄弟、それに「再殺の権利」をステーシー化直前の娘からもらった人物以外は、ステーシーを発見したならすぐに再殺部隊にTELしなきゃいけないの。ミッキー・フィンの初孫が作曲したってあのメロディーにのせて大至急TELよ。5644141《ころしよいよい》ってあの番号よ。五分とかからず再殺部隊は、御近所の手前も考えずサイレン鳴らしてやってくるわ。自分じゃ手が下せなくって、しかも我が家の不幸を表沙汰にしたくない賢明なパパとママは、サッと現れ御近所にわからぬよう愛する娘を始末してくれて、しかも後くされのない違法代行業者に再殺を発注するってわけ。
「わかってるよ。ステーシーが熱さ寒さを感じることなんてないのは。服なんかかけてやったって無駄だよ。でも」
さっさとイヤボン技で爆破再殺して逃げよう。砂也子のパパに代行料たんまりもらって、ドリューはまたネオSR311に乗ってドリューの目的のために旅に出るわ。
「でも何よ!!」
と思ったのに、アララ聞き返しちまったバーカだなドリューったら。
「だって、砂也子がかわいそうだから」
一直線に相手を見つめてしゃべる男の子なんかに会うの初めてでさ、面喰らっちゃってドリュー、よしゃいーのにまたバーカ! って言っちまったわよ。
「ステーシーはステーシーよ。服かけたって生き返っちゃこないのよ。仕方ないもんは仕方ないんだから受け入れなさいよ」
そしたら祐助がにらんだわ。よく見りゃ女の子みたいな顔してるくせにさぁ、キッとドリューを見つめたのよ。ドリューの瞳って右と左で微妙に色が違うの。右がブラック、左はブラウン、それぞれブラック・パンサーとチャーリー・ブラウンって呼んで自慢してるの。武闘派黒人と庶民派白人がドリューの中で同居しているってわけ。いくら寄り目にしたって永遠に見つめ合うことがないってわけ、ドリューは社会派ね。ああそうそう、ヘアバンドの下の三つ目にはね、ウィノナって名前を付けてるの。むっかし、ウィノナ・ライダーって女優がバリモアを毛嫌いしてたのよ。もちろんバリモアにしたって「本当は私IQ200以上なのにバリモアぐらいにオツムの軽い女の子の役を演ってますの」みたいなウィノナのこたぁ大っ嫌いよ。これってさ、アタシと三つ目の関係と一緒でしょ。「施設」じゃ三つ目を新しき人の証≠ネんて呼んでたわ。力≠フ有効な利用法について学者は目を輝かせていたわ。「ドリューちゃん、君は人類の希望の光だよ」って。うるせえってイヤボンで髪の毛全部焼いてやったわ。新しき人の証ですって? バケモノみたいな三つ目と力≠フためにドリューはパパとママに捨てられたのよ。笑っちゃうわねヘヘヘヘッ。
「ニアデスハピネスかい?」
急に笑い出したドリューに驚いた祐助の瞳の色ったら本当に単純。怒りからコンマ1秒以内で「かわいそうに」色に変化したわ。
「アンタ真面目に心配してるでしょ」
思わずドリューったらまた笑っちゃった。
「違うのか、安心したよ」
「アンタ真面目にホッとしたでしょ」
「何で笑うんだよ……ドリュー」
「最初に笑ったのは自分のやったことを思い出して、二回目はアンタのバーカ正直さで、今笑ってるのは、アンタが死人を大事にしていることよ」
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘッてドリューもう一度笑ってやったわ、ヒャー祐助が怒った。
「笑うなよ!」
「笑うわよ!」
「なんでだよ!」
「ラテン語にだって直訳できるような単純な質問の仕方はやめてよ!」
って言ったらアラ黙っちゃった。目を白黒させて拳ワナワナさせて、どうやら本当にひねった質問の仕方を考えているんだわ。この子がスワヒリ語で質問してくるのを待ってたら陽がトップリ暮れちゃいそうね。
「あのね、自分に振りかかる運命は、なんでもかんでも受け入れなくちゃいけないのを知らないの?」
まだ釈然としない顔の祐助。その横でステーシーの砂也子が目ン玉をぐりぐり回転させているわ。ハーイ砂也子ちょっと待っててね。アンタのバーカ正直な彼氏を説得してからすぐにイヤボンしてあげるからね……ねぇ砂也子は祐助のバーカ正直なところが好きだったの?
「こうあってほしいのにそうならないってことはいっくらでもあるわ。そんな時どうする? テコでも使う? ネコでも飼う? 何やったってムダよ。仕方のないことは仕方がないって認めて受け入れるのよ。泣いているヒマがあったらね。怒ってるヒマがあったらね。笑ってるヒマがあったらね、不運を受け入れてその中で、できる限りの大暴れをしてやらなければならないのよ」
今や夕陽はやけっぱちみたいにギラギラと輝いているわ。祐助は砂也子を守るように仁王立ち。
「今アンタがやらなければならないことはさ、恋人がステーシーになったことを認めて、キチンと砂也子を百六十五分割してあげることよ。いい? アンタの彼女はもうアンタの恋した女の子じゃないのよ」
「いや、同じだ」
「バーカ」
「バカなことはわかってるよ。でも僕の目に映る砂也子は、生きていても死んでいても……ステーシーになっても、同じなんだ。砂也子なんだ」
砂也子ったらよく見りゃ巨乳。憎ったらしいわねチョット。
「だから再殺なんかしない。砂也子の親が再殺部隊を呼ぶ直前に、僕は盗んでやったんだ」
砂也子のパパとママはね、再殺部隊なんて呼ばなかったの。お金持ちのパパはね、十五歳の娘がいることを会社でも内緒にしていたの。砂也子は捨てられたのよ、バーカ正直の彼氏君。
「ステーシー隠し≠ヘ重罪よ」
「知ってるよ」
「見つかりしだい部隊にバラされるよ」
「いいよ」
「アンタがだよ」
「いいよ」
フーン……。
「フーン、どうあっても砂也子を捨てないつもりなわけね」
「うん」
「なんでよ?」
祐助がゆっくり答え始めた頃には、もう夕陽はビルの陰に沈み始めていたわ。砂也子の身体はもうじきホタルのようにボウッと輝き始めるでしょう。ドリュー好みのシルクの下着と、バーカ正直な彼氏のかけた学生服以外の露出した少女の肌が。
「だから……君……ドリューがさっき言ったろう。どんな不運も受け入れろって……」
「そうよ、仕方ないこた仕方ないの。ドリューだってもうちょっとオッパイ大きかったらモテモテで困っちゃってたとこ……」
「聞けよ」
ゴメン。ゲッ! ドリュー一年と二カ月ぶりよ人に謝ったの。玉代に借りたハムスター踏みつぶしちゃった時以来のことよ。自分でビックリ。なんでかしらね玉代?
「砂也子を好きになったことは不運だったと思う。けど、仕方ないだろ」
そうね……うん、そうだと思うわ。
「もうじき死ぬ人間を好きになっちまうことだってあるんだ、仕方ないだろ」
そうね……うん。
「その人間が死霊となって歩き回るけど仕方ないだろ」
うん……ステーシーだからねぇ。
「でも、それでも嫌いになれない自分がいるんだ。仕方ないだろう」
うん……まあねぇ。まぁそうだけど。
「砂也子がどんなに醜くなっても、嫌いになれないんだから仕方ないだろう」
……けど……。
「たとえバケモノでも一緒にいたいんだ」
……ああ……。
「ずっと。永遠に。二人で」
眉間にしわ寄せて力説されると返す言葉ってなかなか出ないものね。えっ? バーカ正直君まだ言い足りないの!! ちょっと近づかないでよ。アンタここ数日お風呂入ってないでしょ。男の子の匂いがするわ。
「僕は、自分が砂也子を絶対に捨てられないって不運をあるがままに受け入れたんだ」
キャッ! こらバーカ正直少年。アタシの上腕部をあったかい手で握るな! プクプク。
「ドリュー、僕は自分が間違っているとは絶対に思っていない。僕は砂也子を捨てない、絶対に」
そーゆー恥ずかしーことをまばたきなしで言うなバカモノ!……アタシ……ヘアバンドずれてないかな?
「ドリュー、この隠れ場所を知ってるってことは、よっぽど砂也子と仲がよかったんだろ」
「う、うん」
ウソよ、依頼人が娘の日記を読ませてくれたのよ。
「だったら手伝ってくれ。行けるところまで砂也子と逃げようと思うんだ。どうせいつかは見つかるだろうけど、逃げられるところまででも、二人でいたいんだ」
『俺たちに明日はない』『テルマとルイーズ』『ゲッタウェイ』『卒業』……ドリューの大好きなむっかしの映画みたいなことを、祐助は本気でやろうとしているのよ。
ドリューのネオSR311はフルオートマのコンピューター制御、玉代だって100でドライビングできたわ。ランナウェイにはピッタリのスピードスターよ……って、ドリュー何考えてんのかしら、バカパワーに圧倒されちゃったのね。手ェ放してっ!
「悪いけど手伝えないわ」
「なんで?」
「だってドリューの仕事は……」
言いかけたその時よ。背後で屋上の鉄の扉が静かに開いて、一秒間に十六発のクルリネコ弾を撒き散らす自動小銃を抱えた再殺部隊員がヌッと現れたの。
なんだかややこしいことになってきたわね。でもアタシはドリューだもの、このトラブルも受け入れるわ!
幽 霊
――先生、ハム恵ちゃんは帰ってくるよね?
施設の庭で玉代に語りかけられた時、考えごとをしていた私は、それが肉声なのか、力によるものなのか、一瞬判断しかねた。
『先生、ハム恵ちゃんは、きっと帰ってくるよね』
振り向くと、玉代の三つの瞳がじっと見上げていた。シンメトリーに、横に二つ並んだ唇が閉じられたままだったことから、声の正体は玉代の心のゆらめきであるとわかった。
「ああ、必ず、もうすぐだよ」
冬の陽射しの中で私が応えると、玉代はこくんと頷いた。
施設の中で、玉代は特に公恵……あだ名で
ハム恵
と呼ばれていた少女と仲がよかった。
同じように瞳が三つあり、同じように引っ込み思案なところで、気が合っていたのかもしれない。施設の畸形少女たちはみな仲が良かったが、中でも二人は、いつも一緒に行動していた。
ハム恵がニアデスハピネスを発症し、人里離れたこの施設から逃走してもう七日経つ。
毎日、肉声で、あるいは精神波で、玉代はハム恵の安否を私に尋ねた。その度に私も、同じ慰めの言葉を繰り返すより仕方なかった。
今朝方現れた、政府の使い走りの若い男が届けたハム恵についての報告書のことは、一生語るまいと決めていた。
私は、なおも見上げる少女の頭を、赤子をあやすように、ゆっくりと撫でた。
三眼の少女ははにかんだように笑った。
「玉代ばっかりズルイ!」
施設の庭に座り、編み物をしていた静美が、右腕の下からもう一本生えた腕を振り上げて玉代に叫んだ。
「うるさいなー、虫!」と玉代がやり返し、「なによバケモノ!」と静美が応え、二人は楽しそうにケラケラと笑った。
ステーシー現象が発生する十数年前、東洋の限られた地域で数十人の畸形児が生まれた。いずれも女で、彼女たちは容姿と共に、人と異なるものを持っていた。人の心を読んだり、あるいは意識によって物を動かしたりといった、いわゆる形而上の力≠ナある。
十五本の指を駆使しても、不器用な静美はセーターをなかなか編み上げられないでいる。もうすぐ冬も去ろうとしていた。
ステーシーと畸形少女団の関連性について私がいくら口角泡を飛ばし語ろうとも、聞く耳を持つ人々はいなかった。施設の研究者たちは、歯止めの利かぬステーシー現象のために次々と都市部へ、あるいは遠方へと駆り出され、今では、少女たちの父親ほども年の離れた私一人が、彼女らと共に施設に取り残されていた。少女たちは皆、私を慕ってくれていた。
私は、もうじき来る暖かな春に、静美の編んだセーターを着ようと思っている。春の日に、たっぷり汗をかくのも、そんなに悪いことではないだろう。
「先生! 見て、アタシ、乳首がもう一つ増えたよっ」
そう言いながら、美伊が服をたくし上げてやせた体を私に見せた。肋骨の浮き上がった胸に、七つの乳首があった。
「ああ本当だ。もう一つ増えれば本当にネコだね」
「うん、乳首が八つになって、アタシの足がもう少し内側にねじ曲がったら、アタシは本物のネコになれるんだね。ミーミー、ミーミーミー!」
畸形少女の身体と力は着実に変化し続けている。進化なのか退化なのか? 最近、しゃべるステーシー≠ェ辺境の女子学園で見つかったとの、まことしやかな噂がある。何か関係はあるのだろうか? 調べようにも、娘たちと共にここに捨てられた私には、その術もない。
「ハム恵ちゃんが帰ってきたら、また幻灯機で遊ぶの」
娘たちの精神年齢はとても低く、私が作った、太古の遺物のような玩具でさえ、心の底から喜ぶ。
クラムボンはかぷかぷ笑ったよ。クラムボンはかぷかぷ笑ったよ。
宮沢賢治の「やまなし」の絵物語を、玉代とハム恵は何度も何度も私に観せろとせがんだ。
ハム恵が初めてニアデスハピネスの笑い声をあげたのも、私が二人に、「やまなし」の幻燈を観せている最中だった。ケケケケケケケ! と唐突に笑い出したハム恵の腕をギュッと掴んで、玉代はハム恵に、泣きながら言った。
「駄目! 駄目! ハム恵ちゃん、違うよ、クラムボンはかぷかぷ笑うんだよ! かぷかぷ笑うんだよ! そんな笑い方しちゃ駄目だよ! そんな笑い方したら、ステーシーになっちゃうよ!」
けたたましく笑うハム恵を玉代から引き離し、別室に閉じ込め、私は、顔面拘束具をハム恵の顔にはめた。手と足を、ゴムのチューブで縛り上げた。ハム恵は床の上でイモムシのようにドタバタとはねまわった。
玉代が心配になり、幻燈の小部屋に戻ると、三つ目の少女は私の胸にすがりつき、震えながら、呪文のように唱え続けた。
「駄目! 駄目! ハム恵ちゃんはかぷかぷ笑わなきゃ駄目!」
玉代の声はじきに嗚咽に変わり、乱れた精神波が私の脳にうるさいほどに伝達され続けた。
くくくらむむむぼんんんんんんんはあああかぷぷぷぷぷかかかぷぷぷわららららっったよよよよよよよよよよよよっっっ!!
「先生、また、『やまなし』の幻燈を観せてね」
「ああ、そうだな、玉代には……そうだ……詩を読んであげようか」
「詩?」
「うん、幻燈もいいが、玉代に聞かせたい詩があるんだよ」
「どんなの?」
「うん、とっても寂しく始まってね、でも最後にはう〜んと勇気の出る詩だよ」
玉代が黙った。一瞬、私の背中に広がる冬枯れた山を見た後、三つの視線を戻し、「ハム恵ちゃん、死んだんだね」と、ポツンと言った。
「力で私の心を読んだのかい?」
「玉代は先生の許可なしにそんなことしない。なんとなくわかったの」
私は玉代の頭をなでながら、「ハム恵は……」と言いかけると、私の許可なしに玉代の精神の波が、『かぷかぷ笑ったよ』と続けた。
愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。
皆での夕食をすませた後、私は自室に戻り、玉代に読んでやろうと決めていた中原中也の詩集を開いた。
愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。
けれどもそれでも、業が深くて、なおもながらうことともなったら、
奉仕の気持に、なることなんです。
そこまで読んで、涙を押さえることができなくなり、本を閉じた。
私は机に座り、政府から派遣された若い男が持ってきた資料に目を落とした。正面には小さな窓があり、月の光が一直線に資料の上の文字を照らしだしていた。
「畸形少女ステーシー再殺報告」
とあった。表紙をめくると、無味乾燥な文字の配列が、私たちの愛していた一人の少女の死を、情報として記していた。
「被再殺者名、明音公恵(通称ドリュー)
年齢 14歳
再殺場所 世田谷区ウエストB区屋上
再殺者名 第三ロメロ部隊 渋川
状況
被再殺者明音公恵は、いわゆる畸形≠ナある。ステーシー化現象発生の数年前に、限定された東洋の一区域で十数人誕生した畸形女児集団の一人である。公恵の異能は、彼女の意識と同調する力であり、その威力は人間一人を爆殺≠キるほどである。
公恵は畸形少女集団を幽閉した研究施設内でニアデスハピネスを発症、施設を逃亡。百貨店にて女店員を爆殺。メルメルの服と車両一台を奪い逃走。都内に潜みつつドリュー≠ニ名乗り、違法再殺代行業を行い、数日のうちに三体のステーシーを再殺。
明音公恵によって違法再殺されたステーシー三名。
宮稲高子
新谷元子
海野陽子
第三ロメロ部隊矢川政考は別件で出動中に明音公恵を発見。同隊員渋川と共に世田谷区ウエストB区ビル屋上へと追跡。矢川は明音公恵の力≠ノより殉死。享年22歳。殉死後一階級特進。矢川の直前に海野陽子を力で再殺していた明音公恵は、著しく脱力。渋川の小型チェーンソーによって百六十五分割。明音公恵はこの時、まだステーシー化直前であったとはいえ、危険人物であることは明白なため、部隊は渋川の行為を緊急時特殊A級再殺として認可する。この時、同場所にいたステーシー一体東野砂也子と、東野砂也子を隠蔽していた少年・洞木祐助も、渋川によってそれぞれ再殺、射殺されているが、別件のため詳細は略する。
ニアデスハピネスの夢幻様状態にあったとはいえ、なぜ、明音公恵が違法再殺代行業を行ったかについては、目的が……」
そこまで読んだ時、私は声≠聞いた。
その声≠ヘか細く、しかも死んだはずの少女のものであったが、私はすぐに、肉声ではなく、脳髄に直接に語りかける精神波のゆらめきであると理解した。
私は、窓から見える月に照らされた庭にむかって、言葉に出して、「おかえり」を言った。自分でも驚くほど、私は自然に言葉を発していた。
「ハム恵かい、おかえり、みんな待ちかねていたよ」
『ただいま』
声≠ヘ、先程と同じ言葉をつぶやいた。
『先生! 帰ってきた。本当にハム恵ちゃんが帰ってきた』
玉代の精神波が飛び込んできた。
『先生! ハム恵ちゃんだ』
玉代の他にも、施設には何人か精神で交信できる者がいる。次々に、驚きと喜びの声≠ェ私の脳に伝達されてきた。うるさかったが、嬉しかった。
『アタタタシシシ うれれれれれししし……』
まだ精神波をうまく使いこなせない二頭の領子は、右頭の脳髄からロレツの回らぬ波を送ってきた。
私は窓の外に、帰ってきたハム恵の姿を見た。
ハム恵の姿は幻燈の映し出す映像のように、きれいな半透明の輝きとして、冬枯れの土の上にあった。
『クラムボンはかぷかぷ笑ったよ』
はちきれんばかりの喜びの波を、幻燈のハム恵にむかって玉代が投げかけた。
ハム恵は、施設でよく見せたはにかみ笑いを浮かべて、『かぷかぷ、ただいま玉代ちゃん』と言った。
玉代の心の波が急速に上昇し、下降し、喜びと驚きの放射線が一つに混じり、ポロポロと流れる涙に昇華していく様が、手に取るように読めた。
あっ! ひゃあ、ハム恵ちゃん! なんで!
施設のあちこちで、テレパシー以外の力を持つ少女たちが喜びと驚きの声をあげた。
『玉代、私だけではなく、皆にもハム恵の姿は目に見えているのかい?』
私は玉代に意識で語りかけた。読心できる少女は、嬉しそうに言った。
『見える見える見える見えるるるるる』
『波が乱れているね、落ちついて。玉代の目にハム恵はどういうふうに見えている?』
『……ぼんやりと……透き通って……輝いて……』
『幻燈のように?』
『そう、幻燈のよう……』
窓枠を額ぶちとするなら、青白いキャンバスの中に月だけが描かれ、その月の真下に一筆、紅色の絵の具を散らしたような少女の姿があった。私はハム恵に肉声で問いかけた。
「君の再生は力の一種なのかい?」
『違うよ、先生』
ハム恵の波は、静かに言った。
『私はね、幽霊。幽霊になって帰ってきたの、みんなに会うために……』
月の光の下、幽霊のハム恵を中心に私たちは集まった。
幽霊は微笑んでいた。
死んだ時の姿なのだろうか、ハム恵はマンガのキャラクターみたいな服を着ていたが、表情は、私たちが見慣れた、無口な少女のままであった。
「……ただいま」
それぞれの部屋から駆け降りてきた畸形少女たちに向かって、幽霊は小さく言った。
「おかえり!」
「おかえり!」
「おかえりなさい!」
おかえりおかえりおかえりおかえり。アタシたちのハム恵ちゃん!
口のない瞳子を除いて、十二人の少女たちが口々にハム恵の帰還を心から祝した。おかえり、と一人が言うたびに、ほっこりと月灯りに白い蒸気が輝いた。
ほっこり ほっこり ピカリ ピカリ
「ありがとう」
答えたハム恵の口元には、ほっこりもピカリもなく、ああ本当に彼女は幽霊になったのだなと私は思った。
幽霊は目線のやり場に困っていた。まず私に話しかけるべきなのか、それとも親しい友と語らうべきなのか、決めかねているらしく、目線を足元に落とした。
「ハム恵、おかえり。ずっと玉代が君の帰りを待っていたよ」
と、私は言った。それを聞いて、幽霊は私にペコンとお辞儀をしてから、玉代の顔を見つめた。
「玉代ちゃん、ごめんね」
「ううん」
しばし間が空いた。私と畸形少女たちは、二人を見守った。しん、と、冬の夜は冷たかったが、皆、暖かく微笑んでいた。
「また、会えたね、ハム恵ちゃん」
切り出したのは玉代の方だった。
「でも、私、幽霊だよ」
「幽霊だって、ハム恵ちゃんでしょ」
「そうだね」
「ならいいの、嬉しい」
「うん」
「ありがとうハム恵ちゃん」
「ありがとう玉代ちゃん」
「……どうして、いきなり逃げ出したりしたの?」
「ニアデスハピネスだったから、仕方ないの。死ぬことが怖くなくなって、そしたら、急に元気が出てきて……ごめんね」
「いいってば」
「ニアデスハピネスの時は、おかしな空想の中にいるの、ウソばっかりつくの、玉代ちゃんが恋人と心中したなんて……」
「あたしに? 恋人がいるの?」
玉代がクスリと笑った。
「目が三つあって口が二つある玉代と心中してくれる男の人って、どんな人?」
クスクスクス
「きっと目が四つある人よ!」
静美が茶々を入れた。一斉に笑いが起こった。
アハハハハハ クスクスクス ウフフフフ エヘヘヘヘヘ ほっこりほっこり ピカリピカリ
ハム恵も笑っていた。ひとしきり笑い合った後で、ハム恵は再び語り出した。
「アタシね、再殺してくれる男の人をお金で買おうとしたの。アタシは、みんなと同じオバケだから、きっと男の人は恋してくれないだろうなと思って、だから、再殺代行でお金を貯めて、アタシをグチャグチャにしてくれる男の人を、お金で買おうと思っていたの」
私はハム恵の言葉に年甲斐もなく嫉妬のようなものを感じた。さすがに言葉には出さなかったが、代わりに玉代が言った。
「先生じゃ駄目なの?」
ハム恵はハッとした顔をして私を見た。
「先生は……お父さんだから」
また、皆が笑った。ニコニコと笑った。私も、あまりに生真面目なハム恵の申し訳なさそうな表情に、つい吹き出してしまった。可愛いなと心の底から思った。
「いいよハム恵、お前も年頃だ。どうせなら恋人に再殺してもらいたいという女心はわかるよ。お父さんもね」
「ごめんね先生」
ペコリ。
「で、ハム恵のお眼鏡にかなう男の子はいたのかい」
幽霊は、こくんとうなずいた。
「うん、でも、その人には他に好きな人がいたの。その娘をかばって、血まみれで死んでいったの」
私は報告書にあった祐助という少年の名を思い出していた。
「ハム恵! 先生! みんなでお祝いをしよう。唄を唄って踊ろう! 踊ろう! ダンスを踊ろう!」
三本の腕をグルグル振り回して静美が叫んだ。つられて、少女たちから歓声があがった。
「踊り終わったら、幻燈を観ようね。『やまなし』を先生に映してもらおうね」
あちこちで手をつなぎ、早くもステップを踊り始めた畸形少女たちの中で、玉代が聞こえぬくらいの小さな声で言った。
その時ハム恵が言った。「待って、話を聞いて」。おとなしい彼女からは想像もつかない決然とした口調に、皆は踊りをやめ、ステップをやめた。
「みんな、逃げて。再殺部隊が、もうじきここに来る。みんなを、殺すために」
「なんで? あたしたちまだ誰もステーシー化してないよ!!」
静美が尋ねた。尋ねた後に小声で、「そりゃあもうすぐなるけどさ」とつぶやくのを忘れなかった。
「ステーシー化した時に、アタシたちの力が暴走すると連中は思いこんでいるのよ。アタシたち、皆殺しにされるわ」
「それを教えるために帰ってきたのかい?」
「ええ先生、そうです」
「お前の意志で? それとも、何か別の存在に、それをしろと命じられたのかい?」
ハム恵の答えによって、ステーシー、畸形、そして力を結びつけるシステムの一部が、ほんの少しでもわかるのではないかと私は期待したが、幽霊は再び「逃げて」と繰り返したのみだった。
「ハム恵ちゃんはどうなるの?」
玉代が問うた。
「消えるの」
「もう会えないの」
「また会えるよ」
「いつ? どこで?」
「いつでも、どこでも。あのね、この世の全てのものは、小さな小さな、同じ存在で構成されているの。小さな小さなものは、くっついたり離れたりして、いろいろなものに変化して、生や死を入れ替わっているだけなの。くっついてアタシになったり、くっついて玉代になったり、くっついて……祐助君になったり。でも小さな小さなものの総数はこの世界の中で一定なの。増えも減りもしない。だから、何度お別れしたって、アタシたちは一緒なの。いつか、どこかで、みんながまた会えるの。だから、消えることを悲しんじゃいけないの。わかってくれる? 玉代」
「うん、わかる、わかるよ、わかるよ」
「玉代、男の子とのファーストキスの練習台やってもらっちゃって、ごめんね」
玉代は涙と笑いでくしゃくしゃになりながら何度も首を横にふった。
「先生……またいつか」
私は、頷いた。またいつか。
「みんな、またいつか」
畸形少女たちが一斉に「またいつか!」と叫んだ。
幽霊のハム恵は音も立てずに消えた。
遠くから無数の明りが近づいていた。再殺部隊の夜襲から逃れるために、私たちは急いだ。この娘たちの誰も、もう幽霊にはさせない。冬の夜を、急いだ。
春
コロコロ
コロコロ
コロコロと鳴る風鈴の音で目覚めるまで、渋川はミルク・コーヒー・ダンスの夢を見ていた。
まどろみは心地よかった。
悪夢を見なくなって長い、というより、もとより、悪い夢など見てはいないのだ。
この世に生じる総てのことは、結局は、意識する渋川の主観により七色に十二色に百六十五色に自在の変化を遂げるものであり、定まった型があるわけではない。
不定型の未確認飛行物体を、渋川が悪と感じたなら悪となり、善と感じるなら、感じたまま善となる。
まったくこの世の総てのものはよくできている。渋川はこの世の中の主軸≠ノ感謝すべきである。
速さ≠竍重さ≠フ定位を確認できないのと同様に、主軸≠烽ワた存在の定位を確認できる種類の範疇《はんちゆう》にはない。
だから渋川が心からの感謝と忠誠の一礼を捧げようにも、彼自身が、一体どちらを向いて肩より低く頭を垂れるべきなのか、皆目見当がつかないのだ。
北を向けば、小窓の外によく晴れた冬の終わりの青空が見えるだけだ。
南の小窓にも、鏡映しのように同じ青空があるだけだ。
東には詠子の写真が虫ピンで壁にとめてあり、その周りにはストーンサークルのように、その後の詠子たちの写真があった。
西には動きまわる詠子が渋川の寝顔を見下ろして微笑んでいたが、まどろみの中の渋川は、まだ彼女に気付いてはいない。
主軸の定位が見つけられないならば、はたして渋川はどうすべきなのだろうか?
べき……ではなく、渋川がどうしたか、その行動をもって、彼の主軸に対する意識と見るのが正しい。
渋川はミルク・コーヒー・ダンスの夢をただ心地よいものと認めて、まさにミルクとコーヒーが混ざり合う白濁と漆黒の真ん中のようなまどろみを受け入れた。
四十年前、ミルク・コーヒー・ダンスは確かに悪夢であったはずだ。
主軸の微調整の間、渋川はずいぶんと苦しんだ。
苦しんだが、それは過去のことであり、過ぎ去った時間に定位はなくとも、過ぎ去った時間が今もう既にここにないことだけは確実である。だから渋川は、「もういい」と、過去に対しては一切考えないことにしている。
主軸のこの世界の微調整期間、渋川もまた、ずいぶんとひどいことをして、ひどい目にあってきた。
主軸のこの世界のすべてのものに対する微調整期間は、渋川には、ちょっと長かった。ライダーマンの右手(今では若者はもうこの言葉の由来を知らない)≠ナ最初≠フ詠子を百六十五の肉片に切り刻んだ。再殺部隊に志願し、何十体ものステーシーと、ニアデスハピネス期の少女を切り刻んだ。ハムエ初期タイプを再殺したこともあった。
再殺用機器の新規開発は目ざましく、わずか数年の微調整期間に、中世の拷問機器バージン・キラーをもはるかにしのぐコンタックス02が隊員の必携アイテムとなった。究極の再殺具がよもやカメラメーカーから誕生しようとは誰も思わず、兵器メーカーは地団駄を踏んで口惜しがったが遅かった。レーザーを使用するのにカールツァイスのレンズが不可欠だったのだ。渋川は02の量産型であるコンタックスH1を使用し、合衆国大統領により再殺部隊の全世界的完全解散宣言が発布されるまで、黙々と少女たちを再殺し続けた。合衆国大統領は、ほぼ十年にわたってこの世界が闇に陥れられた理由を、主軸による微調整期間≠ニ述べた。
渋川は「それなら仕方がない」と思った。
疲れきっていた渋川は、ただ爪の間にたまった赤黒い血の色を家に帰って落としたいだけの一心で、理由はもう、それでよい、と受け入れた。
合衆国大統領は微調整の調整者の名を主軸≠ニ言い、それ以外の言葉を使わぬよう必要以上に慎重な態度を取った。数十年たった今も、主軸≠ニ名乗るものと合衆国大統領の間で取り引きがあったのだと主張する輩《やから》も多いが、定位のない存在とどうやってホットラインをつなげたのかを、明確に答えられるものは一人としていない。太古から、時代や民族や個人によってさまざまな呼び名のあるやっかいな対象を、合衆国大統領は暗殺の危険から逃れるため、便宜的に主軸≠ニ呼んだだけなのだ。
しかし結局、合衆国大統領はそれから数年後、ブルース・リーのイエロー・トラックスーツを御神体と崇め奉る「シャロンとリンダ夫人の会」の信者によって、鎌ヌンチャクで首を切断されるはめとなる。合衆国大統領の生首は、まるでニアデスハピネスのような微笑みを浮かべた表情のまま、ホワイトハウスの階段をコロコロと転がったものだ。
渋川の爪の間の血の色は、今もまだ、取れていない。いくら洗っても、取れない。
コロコロと鳴る風鈴の音で目を覚ますと、現実の詠子は、阿呆の微笑みを浮かべて、渋川の顔を覗きこんでいた。
「渋サン……起キタ……」
左耳のすぐ横で風鈴を鳴らされた渋川は、机の上に突っ伏したまま、いつの間にか眠っていた自分に気付いた。詠子は木の葉のようにも見えるヘタクソな金魚の絵のガラス玉を嬉しそうに振っていた。
「ああ詠子か……眠っていたよ」
「渋サン……起キタ……起キタ……起キタ……」
渋川が眠りから目覚めたことが、詠子にはよほど嬉しいのだろうか。詠子はコロコロと春の日に風鈴を鳴らし続けた。
渋川は顔を上げ、静かに言った。
「ああ詠子、起きたよ、目覚めたよ。ミルク・コーヒー・ダンスの夢を見ていたんだ。四十年ぶりにあの踊りを見たよ。あの頃、あの踊りは、私にとって哀しみや恐怖や不安や、いろんな暗いことごとを眠りの中で視覚に統一した忌まわしい現象だったんだ。だけど今では、ただ、まどろみの中の一つの光景にすぎない。哀しみも、恐怖も、不安もそこにはなく、さらに希望も、快楽も、喜びもない。しかし、ないことは、ない、という現象の一つにすぎず、もうそれ以上でも以下でもない。
ない。
ただそれだけのことなんだ。
私は眠りの中で不条理に出会った。
不条理をどのように解釈するかは、考えるまでもなく、結局その人の主観でね。
私は、主軸がこの世界の微調整をしたように、主観という私の世界の捉え方を、目、耳、舌、触、鼻、それぞれすべてに微調整を行なったんだ。
いろんな経験をして、長い時間……といっても、たかが人の生きて老いる歳月の中でね。
わずかに、わずかに、私の主軸≠ェ、ちょっとズレていた。いや傾いていた。
インインメツメツとした方向へね(笑)。
だから私は私の力を信じて、私の主軸を少しずつ少しずつ、すこうしずつね、傾けていったんだ。私の主軸を、つまりは楽な方にね。
詠子。今日は空がよく晴れているね。
風が吹きこぼれるように吹くね。
春が来るのだ。
冬を哀しみ、春を夜明けと捉えるのは、これまた主観の問題だ。
けれどもこんなに晴れた日は、私は春を信じよう。
暖かさは柔らかさ、微笑によく似た夜明け時。
そうだそうだ信じよう。
とにかくここらが難しいとこで、御都合主義とよく似てる。
なるだけ主軸は気楽な方に。
どんなことでも気楽な方に。
テコ使っても構やしない。
動かすんだ。動かすんだ。
春一番を追い風に。
春の陽射しを背に受けて。
詠子よこんなに晴れた日は、私は春を信じよう」
渋川は詠子の腰にステーシーのお散歩用ゴムチューブをキリキリとしめ、散歩に出かけた。
肉を喰らうことのなくなったステーシーは、飼いならされた犬によく似ている。
「詠子、お散歩に行こう」
「ウン! 渋サン、ウレシー」
数十年前、ステーシーたちが一斉に肉を喰らうことをやめ、さらには四歳児程度のボキャブラリーながら、言葉を発するようになった日こそが、主軸の微調整期間最終日であると、かつて合衆国大統領は語った。
『理由だと? 俺は政治屋だ。そんなことはアーサー・C・クラークにでも聞け!』
合衆国大統領は会見の席で胸元のピンマイクに気付かず側近に毒づいたものだから、翌日世界中の書店にアーサー・C・クラークの著作の注文が殺到して本屋は困った。
「詠子、愛するものが死んだ時には自殺しなけりゃいけないんだよ」
「ウン! 渋サン、ウレシー」
チューブでつながれた詠子は、渋川の半径一メートルの円周をクルクルとチョコマカとはねまわりながら、モモ記念館へと続く一本道を歩いている。
「詠子、それでも業が深くて、なおもながらうことともなったら、奉仕の気持ちになることなんだ」
「ウン! 渋サン、ウレシー」
詠子の口元には、小さな傷跡があった。主軸の微調整期にくわえていた顔面拘束具の名残りだ。
「詠子、そこで以前《せん》より、本なら熟読、そこで以前《せん》より、人には丁寧」
「ウン! 渋サン! アッ! ハムエノ皆サンゴキゲンヨー」
「やあゴキゲンヨー、ステーシーさん」
道の傍らでボンヤリと空を見つめていたハムエの青年が詠子に手を振った。指は六本。優しく微笑む顔に瞳が三つ。典型的なハムエだ。
「ロストさんもゴキゲンヨー」
ハムエの青年が、詠子の飼い主である渋川にペコリと頭を下げた。
渋川も微笑み、やはりペコリと頭を下げた。
ハムエとロストがペコリペコリ。
畸形たちにハムエ≠ニいう名を付けたのが誰であったかはっきりとはわからない。ロスト(失われゆくもの)≠ヘ、旧人類たちが名乗った自虐的なギャグが、いつのまにか正式な呼び名となったものだ。
主軸の微調整期間の後、この世におけるステーシーの定位を決めたのはハムエたちであった。
ステーシー化現象の発生より十数年前、限られた東洋の一地域で数十人の畸形児が生まれた。全員が女で、彼女たちの多くはステーシー化し再殺されたが、十数人の畸形たちは、再殺部隊の追跡を逃れて、しばらくの間、身を潜めていた。若き日の渋川も在籍していた再殺部隊の、あれだけの追っ手から少女たちが逃げ切ったのは、彼女たちが父親のように敬愛していた一人の老学者の知恵によるところが大きいとされている。もっとも当の老学者はその後のインタビューに対しても多くは語ろうとせず、たまに口を開いたかと思えば、繰り返される言葉はまるで暗号のようで取りつくしまもなかった。
『……私は別にジェームス・ボンドでもありませんし、ハムエたちの力を私が統治したわけでもありません。あの子たちは自分自身で、自分たちの力を制御する手段を覚えました。私はただ、幽霊の声に従って、何度も危機から逃れることができただけのことです』
故マイク・タイソンの六度目のカムバック戦をリポートしたこともある老獪《ろうかい》なペントハウス誌の記者が、『幽霊とは主軸より遣わされたものなのか?』と尋ねた時も、老学者は、わからないとしか応えなかった。
『……でも……幽霊はいい子でした』
などと言った。
学者が頑として語らなかったために、幽霊≠フ銅像は建てられていない。
「詠子、テンポ正しき散歩をなして、麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔《けいけん》に編むんだよ」
「ウン! 渋サンウレシー、ポカポカ暖カイネ! ウレシー、ウレシー、ウレシー」
合衆国大統領が鎌ヌンチャクによって首をはねられた後、この世界の統治を行なったのはハムエたちであった。逃げた先でロストの男と恋に落ち、何人かのハムエには子供がいた。彼らはいずれも三つの目と六本の指を持ち、慈愛に満ち、力に富み、ロスト、ステーシー、ハムエと、三分割されてしまったこの世界の住人たちに、それぞれ定位を与えて治めた。
ロストは今までの功績を認められ、罪は許され、そしてハムエたちが今後、この世の統治をしていくことを認めた。
ステーシーは、主軸の微調整に生じたひずみの犠牲者ではあるが、彼女たち自体に哀しみを感じる機能はなかったために、何者をも憎みはしなかった。それどころか、ステーシーたちはロストの愛玩体となることを欲した。主軸の微調整期間がある日突然終了し、もう、人の肉を求めて徘徊しなくなったステーシーたちの口から顔面拘束具は外された。外すと、ステーシーたちはカタコトの言葉を発したではないか。しかもそれはペットのごとき甘えた口調でロストに語りかけた。
「スキ スキ」
「ダッコシテ ダッコ」
「イツモ イッショニイテ」
「オネガイ オネガイ オネガイ オネガイ オネガイ オネガイ」
少女にオネガイされて悪い気のする者がいようはずがない。ロストはステーシーの御主人様となり、ステーシーはロストに遊んでもらって御満悦であった。またロストの男の中にはステーシーと恋に落ちるものもあり、ロストとステーシーのセックス(微調整期間の後、ロストとステーシーの性行為による死は急速に減少した)は、ステーシーのベビー(単に、阿呆少女≠ニ呼ばれることも多い)を、新しきこの調和の世界に誕生させた。ロストの数は減りゆき、ステーシーは増え、そしてハムエの数はさらに増え続けた。
というのも、ロストとハムエの間に生まれた第二世代のハムエたちは、単体で急速増殖する生命体であったのだから。
「詠子、まるでこれでは玩具《オモチヤ》の兵隊」
「ウン! 渋サンウレシー」
退役後の再殺部隊員たちの中には、数体のステーシーを手元に置き、他のステーシーと交換、売買を仕事として余生を送るものも多かった。
穏やかな春の日には、道端にステーシー売りの露店が並ぶ。
モモ記念館へ向かう道のあちこちに、今日はたくさんのステーシーが売り出されていた。
ステーシーは道行くロストの男たちに、思いっきりシナをつくってみせた。
「スキ スキ」
「買ッテ、私、安イヨ、イイ娘ニスルヨ」
「オネガイ オネガイ オネガイ オネガイ」
「おうっ! そこいくジーさん! ちょっと見ていっちゃくれねえかい? あんたのステちゃん可愛いけれど、うちのステちゃんもっと可愛いよ。素敵よきれいよ! 何より言うことなーんでも聞くよ」
渋川と同じ年ぐらいのステーシー売りが、五段に伸びるシルバーのボールペンで店先の一体の胸元を弾いた。弾かれたステーシーは「スキ 大スキ」と渋川にシナをつくってみせた。ステーシーの首には札がかけられており、一言、「忠実」と墨汁で記されていた。
「渋サン! 渋サン……」
詠子が何か言いたげな目でクルリと振り向いた。ゴムチューブが詠子の細い腰に一回りした。
「ハハハ、詠子を交換に出したりはしないよ。何かと引き換えに愛する者を手放すのは、私はもう懲りているんだ」
ステーシー売りを適当にあしらい、渋川は詠子に言った。
「最初の詠子の時にね、つくづく懲りたんだよ」
優しく詠子の頭を撫でてやると、安心したのか、詠子はニコニコと笑った。
この詠子を露店で買ったのは二年前だ。十七歳になれば死んでしまうステーシーの子供を捨てる親は多く、ハムエもこれを黙認していた。どうにも矯正の仕様がないロストの苦悩や性分を、ハムエたちは大方は受け入れ許した。
ステーシーを買い換えるごとに詠子≠ニいう名を付けるのはいささか考えものだなと思うのだが、結局渋川はいつも買い物に詠子と名前を付けた。
今度の詠子は現在十六歳だから、あと一年は一緒にいられる。来年になったら、また新しい詠子を買おうと渋川は考えているが、もちろん現在の詠子にそれは言わない。
「おや、失敗失敗、今日は休館日だよ」
モモ記念館の扉には鍵がかかっていた。どうりでいつもより人影が少ないはずだ。渋川同様、ステーシーをゴムチューブで縛り、散策に訪れたロストたちは、一瞬、記念館の前で呆けた顔をした後、ホッと息をつき、また、はしゃぎまわるステーシーを連れたまま、トボトボとそこいらの散策を始めた。
「参詣人等もぞろぞろ歩き、私は、なんにも腹が立たない……か」
「ウン! 渋サン、ウレシー」
「うれしかないよ。残念だな、モモ様の像を見たかったのだけどな」
「ウン! 渋サン、ウレシー」
モモ記念館は、正式には有田約使記念館という。
リルカ女子美術学園で、初めて語るステーシー≠発見した有田約使博士は、モモと名付けられたその一体から、ロストとステーシー、そしてハムエの共存について、五千ページにもわたる言葉を聞き出し、正確に記録した。
その貴重な「モモ語録」こそが、新々約聖書とまで言われる、主軸の微調整後のこの世を定位する根幹となっている。
研究の中で、有田博士とモモは、ロストとステーシーとして、初めて、両者の間に子供を誕生させている。
だから新しきこの世の根幹となるバイブルには、やたらに愛情表現の言葉が多い。
「愛しています」というモモの言葉が、二段組五千ページのうち、百ページ分はある。
渋川は一時、血に塗《まみ》れた。
渋川の爪の間は、いまだ赤黒い。
いくら洗っても洗っても洗っても、血など取れるものではない。
しかし渋川が一時、血に塗れたことは、主軸の所業なのだからいたしかたがない。抗えば、主軸は微調整を始める。これもしかたがない。微調整の際にひずみが生じる。これもしかたがない。時としてひずみが苦しみであることもある。これもしかたがない。
微調整は、いつかは終わる。これこそが希望だ。
渋川は「調整」という言葉の意味に気付くべきだった。「調」べて「整」すのだ。整すのだ。主観のズレを調べて、整すのだ。
辛くとも、自分は主軸により整していただいているのだということに渋川は気付かなければならなかった。
そして、渋川は気付いた。だからこうやって、今、陽射しの中で、渋川は詠子に語りかけるのだ。
「風鈴は、どんなに寒い冬の日でも、風が吹けば鳴るんだ。どんなことが起こっても、私はね、いいように考えたい。詠子はどう思う?」
するとステーシーは微笑み、一言。
「ウン! 渋サン! ウレシー」
コロコロ
コロコロ
コロカラリ。
あとがき
読んでくださってありがとうございます。
とても、思い入れの深い作品です。
僕はステーシーたちと、彼女たちの物語を心から愛しています。
『ステーシー』は、僕が今まで書いた中で最も無惨で奇妙な物語です。
だから本にする時も、「これでOKか?」「大幅に書きかえてみてはどうか?」という意見も出ましたが、その度に僕は「いえ、これでいいのです」と、バカボンのパパのような言葉をくり返したものです。
『ステーシー』は無惨で奇妙で、不条理な作品ですが、と同時に、僕が今まで書いた中で、本作は最も、登場人物たちが幸福に現世から去っていく物語として機能しています。
だから、「これでいいのだ」と、僕はバカボン・パパ化するわけです。……って、あとがきまで奇妙になっちゃいましたね。
そんなことより何より、僕はステーシーたちを愛しています。だからぜひ読んでほしい……というか、僕の可愛いステーシーたちを、みんなにも見せてあげたい。そんな気持でいるのです。
奇妙な作品であるため、単行本化に際しては、沢山の方に本当に多大な御迷惑をおかけしました。スイマセンでした。中でも角川書店の方には、打ち合わせと称して「組手《スパーリング》」のお相手までしていただきました。グローブつけて顔面ポカポカなぐりあっての「打ち合わせ」というのは、出版業界の歴史上最初にして最後だったのではないでしょうか。スイマセンでした(フック効きました)。やっと本になってうれしいです。ありがとうございます。単行本化に携わって下さった方々のお名前を挙げていくと、それだけで一冊の本ができてしまうので、皆さんどうもありがとうございました本当に。という言葉でまとめさせてください。
皆さんどうもありがとうございました本当に。
P.S.本作の一部は筋肉少女帯『ステーシーの美術』(MCAビクター)というCDの歌詞の世界と、ほぼ同内容となっております。ぜひ一度、本書と併せて、音で聴く『ステーシー』の世界を楽しんでいただけたならと思います。
文庫版あとがき
数年振りに『ステーシー』を読み返して思ったことを正直に述べるなら、
「ノイローゼのやつはスゲーこと書くなー」
ということです。
『ステーシー』を書いた頃、僕はノイローゼとしかいいようのない病的な精神状態にありました。それはひどいもので、陰々滅々たる気分の中で書きまくったのがこの残酷な小説です。名曲喫茶にコーヒー一杯で何時間もねばって、取り憑《つ》かれたように書いたものです。何の罪もない少女たちの屍の首をはね、骨を折り、肉を削《そ》ぎ、銃弾やライダーマンの右手でぐちゃぐちゃに責め立てていると、その間は、精神的な苦しみから逃れることができたのです。これも一種のヒーリングってやつでしょうかねぇ……違うかな。
書き方も変わっていて、「月刊カドカワ」連載時は、まず最初に「ステーシーの美術」の章を書いて、その後に序章と終章を付け加えています。なんでなんだろう? 自分でもよく覚えていない。なんか頭の中がいっちゃっていたのでしょうねぇ。
さらに、「銃撃」の部分は、口述筆記です。深夜に突然ひらめいて、ダッシュで角川書店を訪れ、「今から小説をしゃべるから、テープレコーダーと部屋を用意してください!」とお願いしたのです。編集者の「この人大丈夫かっ!!」という表情をよく覚えています。で、用意してもらった小部屋で一人、カセットレコーダーにむかってボソボソと(しかも女言葉で)小説をしゃべったわけです。テープをおこしてみると、文字数がピッタリ連載一回の分量になっていて、また編集者を驚かせた。病的な精神状態というのは、脳のちがう部分が活性しているのかもしれませんなぁ。
さてこの奇妙な小説は、その後、長田ノオトさんによって漫画化されています。小説以上にぐちゃぐちゃどろどろのいかした漫画です。『ステーシー』の他にも、僕の散文詩や掌編もコミカライズされて収録されています。漫画版『ステーシー』も本書と併せてよろしく。
2000年現在、僕は新バンド「特撮」を率いて1stCD『爆誕』を発売したところです。『ステーシー』を読んでなにかピンと来た人は……まあ来なかった人も……ぜひ音楽の方も聞いてみて下さいね。あ、本なら『くるぐる使い』って短編集と、『リンウッド・テラスの心霊フィルム』、小説『新興宗教オモイデ教』ってのが、割と『ステーシー』にテイスト近いので、ひとつよろしく。
最後に、角川書店の佐藤氏を始め、『ステーシー』文庫化に当って尽力して下さった全ての皆さんに、どうもありがとうございました。
角川文庫『ステーシー』平成12年6月10日初版発行
平成13年9月25日再版発行