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大槻ケンヂ
グミ・チョコレート・パイン パイン編
目 次
プロローグ
第1章 KISS
第2章 少女対少年
第3章 崩壊の前日
第4章 自転車
第5章 賢三対関東バス
第6章 帝国の逆襲
第7章 少年対老人
第8章 雨
第9章 君に、胸キュン。
第10章 美甘子死す!?
第11章 童貞の狼
第12章 男たち
第13章 訣別失敗
第14章 ニセ美甘子と復活の日
第15章 屋根裏へ、そして屋根裏では
第16章 十七歳町へ
最終章 輝ける
エピローグ
あとがき
文庫版あとがき
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〈主な登場人物〉
大橋賢三[#「大橋賢三」はゴシック体] 『グミ・チョコレート・パイン』の主人公。都立|黒所《くろどころ》高校二年生。アイドルのグラビアをこよなく愛するオナニスト。自分には人とは違った何かがあると思う彼には、学校の連中がくだらない俗人間に見えてしかたがない。音楽で抜きん出た存在になろうと、友人のカワボン、タクオ、山之上とともにノイズバンドを結成。女優デビューを果たした同級生、美少女、山口美甘子への思いを断ち切れずにいる。
カワボン[#「カワボン」はゴシック体](川本|良也《よしや》[#「川本良也」はゴシック体]) 賢三の同級生。のんびりした性格の知性派。しばしば脱線しがちな賢三やタクオをなだめる役回り。
タクオ[#「タクオ」はゴシック体](小久保多久夫《こくぼたくお》[#「小久保多久夫」はゴシック体]) 賢三の同級生。熱しやすく冷めやすい性格で、けんかっ早い。両親は「コクボ電気店」を経営、夜はその二階が彼らの溜まり場になっている。
山之上和豊《やまのうえかずとよ》[#「山之上和豊」はゴシック体] 賢三の同級生。もの凄い数のビデオと本をコレクションしている、変態オナニスト。が、詩作の力量で賢三を打ちのめす。
山口|美甘子《みかこ》[#「山口美甘子」はゴシック体] 賢三の同級生。黒所高校きっての美少女で、豊乳の持ち主だったが、映画監督の大林森宣蔵《おおばやしもりせんぞう》にスカウトされ、女優になることを決意、学校を去る。初出演の映画で共演しているアイドル、羽村一政に心|惹《ひ》かれはじめる。
羽村一政《はねむらいつせい》[#「羽村一政」はゴシック体] 人気アイドル。美甘子の相手役として撮影中の映画『I STAND HERE FOR YOU』で共演。最初は美甘子に嫌われていたが、彼の様々な言動が彼女に変化をもたらし、好意を抱かれるようになる。
ジーさん[#「ジーさん」はゴシック体] 山之上の祖父。練馬パレス座で賢三たちと出会い、以後突拍子もないところで登場。孫がバンドのメンバーになることを望み、賢三たちと引き合わせた。
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これまでのあらすじ
都立黒所高校二年の大橋賢三。学校にも家庭にも打ち解けられず、猛烈な自慰行為とマニアックな映画やロックの世界にひたる、さえない毎日を送っている。
賢三が好意を抱いている学校一の美人山口美甘子も賢三と同じく「自分には人とは違う何かがある」という強烈な自意識を抱いていた。美甘子は表面上はまわりの「くだらない人たち」に合わせてふるまっていたが、映画監督の大林森宣蔵の目にとまり、女優としてデビューすることになる。雑誌のグラビアにヌードが掲載されたことが原因で退学処分になる美甘子。が、同級生たちの騒ぎをよそに彼女は「自分がどれだけのことができるか、広い世界で試してみたかった」と爽《さわ》やかに宣言し、黒所高校を去っていく。
後れをとったことに焦りを抱いた賢三はカワボンやタクオ、山之上たちとノイズバンド「キャプテン・マンテル・ノーリターン」を結成、美甘子に追いつき、追いこし、ぶっちぎりで級友たちに差をつけようとするのだったが……。その一方で美甘子は女優として確かな一歩を踏み出し、「沢木耕太郎も知らないバカ」と侮っていた共演者、羽村一政に好意を抱きはじめていた……。
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プロローグ
六月。
ゆっくりと夏が近づいていた。エルニーニョの影響で、今年はことさらに猛暑が予想されている。その夜、すでに空気は熱をおび始めていた。
あまつさえ、彼らは皆、十七歳だった。
新人女優山口美甘子は、男の肉体の上で恍惚《こうこつ》の状態にあった。
主演映画の相手役である羽村一政の部屋、そのシングルベッドで、あおむけになった彼の体の上に、美甘子は馬乗りとなって覆いかぶさり、そうしてもう一時間近くも、キスという行為の快感に時を忘れていたのだ。最初は唇を触れ合うだけであったのが、やがて密接に重なり合った。そして羽村の方から半ば強引に舌を入れて来た。ところがいつの間にか倒れこんだベッドの上で主導権を握っていたのは少女の方であった。体を入れ替え、跨《またが》り、ただとろけるような快感のままに、少女は舌を絡めることを止めようとはしなかった。
「おい、もーいーだろ、重いよ美甘子」
羽村の言葉で美甘子はハッと我に返った。
「キャー! なんで私、上に乗っかってるわけ」
驚いた声をあげてアハハと笑った。笑うと目がなくなってしまう。胸元ははだけ、つんと上を向いた豊かな乳房が羽村の体の上でこぼれるように揺れた。羽村は無造作に、乳房を彼女のシャツごしに片手で握ると、あいた腕を使ってスルリと美甘子と体を入れ替え上になった。
「キスって気持ちいいだろ」
「って言うか羽村君、慣れてる」
「認めろよ、気持ちよかったろ」
「うん、すごく気持ちよくて美甘子は驚いてるとこ。小説でも映画でもわかんないね、この熱さとか、やわらかさとか、伝わってくる鼓動のリズムとか」
羽村がおもむろにTシャツを脱ぎ捨てポンと後ろに放った。ロケで焼けた肌にうっすらと汗の玉が浮かび上がっている。
「……羽村君、あたしたち、するの?」
「しないのかよ」
「でもまだ八時前だよ」
「時間じゃねーだろ」
「そうだけど、山口、初めてっていうか……」
「俺じゃ嫌かよ」
「嫌じゃない。不思議と嫌じゃないと思ってる」
「じゃ、やろーぜ」
「やるって、やっぱそれ、セックスのことだよね?」
羽村は黙って美甘子のシャツをたくしあげた。このまま彼女がバンザイのポーズを取れば服は脱がされ羽村の提案を黙認することとなる。『セックス? あたしが男のコとセックスをするわけ? これから? 今?』美甘子の思考は迷走を始め、果たしてバンザイのポーズを形づくるべきなのか否か、ロケが休みの度に訪れている異性の部屋の、シングルベッドの上で、大きな瞳を白黒させながら考えあぐねたのであった。
その夜同時刻、コクボ電気店の二階では、三人の少年たちが熱く議論を戦わせていた。議題はこうだ。
「オナニーを発電に利用できぬものか?」
そしてまた、
「利用可能であったとして、その場合のズリネタは誰がベストなのか?」
二点の大いなる命題について、必要あらば夜明けを見るまで討論する覚悟であった。夏休みも近づいている。都立黒所高校の退屈な生活から一時《いつとき》解放される喜びと、大量に買い込んでおいたビールやタコハイの酩酊《めいてい》が三人をバカ・ディベートへと導いていたのだ。部屋にはガンガンにレコードが流れている。ザ・スターリン。パンクサウンドに乗せて小久保多久夫は熱弁をふるうのであった。
「山口だよ! オナ力《りよく》発電にはなんといっても山口美甘子の巨大な乳が重要なんだよ!」
「ややや山口だと! かつての同級生を早くもズリネタにするとは、タクオも黒所のバカ共と同じレベルだな」
どもりながら山之上和豊が揚げ足を取った。「何だと?」「やややるのか?」タクオが山之上の胸ぐらをつかんだ。ポテチ袋の散乱した床の上をゴロゴロと二人がころがる。すでに酔って赤ら顔のタクオと、逆に青ざめた表情の山之上。サンダ対ガイラ弱々版といったところか。二人を見ながら、川本良也が大笑いをしている。彼もすでにホロ酔いのいい塩梅《あんばい》だ。プロレス技で山之上を押さえこんでタクオが川本に問うた。
「ところでカワボン、オレらのデビューライブの日、ケロさんの事情でのびたって聞いたけど、いったいいつになったんだ?」
カワボンは、彼らのバンド「キャプテン・マンテル・ノーリターン」が練習に通う音楽スタジオの会員券を財布の中に確認してから静かに言った。
「うん、今日ケロさんから電話が入った。八月の前半。店は渋谷の屋根裏だ」
「そうか、ついにか、八月か、夏だな」
タクオがつぶやいた。ああ夏だ、とカワボンもまた、噛《か》みしめるようにくり返した。
同時刻、大橋賢三は自宅勉強部屋の机の前で、山口美甘子同様「するべきか、せざるべきか」究極の二者択一に頭かきむしり悩みまくっていた。しかしその問題とは、新人女優のヴァージン喪失の是非とは、およそ較べようもない低次元のチョイスについてなのであった。
「山口美甘子で、オナるかオナるまいか?」
えーやんそんなんどっちかて!
すかさずつっ込みを入れた読者に代わって筆者が説明しよう。大橋賢三にとって山口美甘子こそが、彼の人間としての良識、その最後の砦《とりで》であったのである。美甘子を聖なる存在とし、彼女が今いる高みへと一歩でも歩を進めることが、彼のかろうじての自己同一性でありプライドなのであった。ならばこそ、いかにパイオツプリンプリン(死語)な美甘子のグラビア、ましてや歯がゆい歯がゆい美甘子のブルマーが勉強机に鎮座ましましてあるからといって、一時の快感のために彼女で抜いたなら、オナったなら、しこったなら、一体オレはこの先どうやって生きていけばいいのか? と少年はズボンをずり下げたポコチン丸出し君の状態で文字通り頭を抱えていたのである。しかも勃起《ぼつき》したまま。
『オナりたい! でもできない! クソーッ火を噴くほどにしこりてえ! 駄目だやっちゃいけない! どうすりゃいいんだオレはワアアアアアアッ(泣)』
とりあえずズボンはけよ君。という筆者の冷静な忠告は無論のこと伝わるはずもなかった。さらに賢三は、内なる戦いに没頭するあまり、息子の夏ものの服を抱えた彼の母の、いきなりの勉強部屋訪問にもまったく気が付かなかった。バタンと母が部屋のドアを開けた時、賢三の目前には女子体育着ブルマーと、たけだけしくも仰角45度を保ってそそり立つ自らの性器とがあり、そして母の視界には、断末魔の表情を浮かべ下半身をむき出した我が子の情けない姿があった。死よりも、地獄よりも、この世の何よりも重々しい暫《しば》しの沈黙の後、母は、こんな状況においては、それ以外に無いであろう言葉を、やはり、息子に投げかけたのであった。
「……アンタ……何やってんの……」
問われて賢三は、恐怖漫画見開きの表情でもって、プルプルと身を震わせながら言い訳をしたものだ。
「……あ、あ……暑かったんだーっ! 暑いから脱いで涼んでたんだー! お、お、オナニーなんかオレはしてなーいっ!」
ともかく、十七歳にそれぞれの夏がせまりつつあった。
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第1章 KISS
都立黒所高校にまた朝が来た。
一限はまだ始まっていない。教室の生徒たちはいくつかのグループにわかれ、雑然とした時間をやり過ごしている。自分以外を俗物と見下しているがために、あまり友人のいない大橋賢三にとって、このぽっかりとやるせない時間は苦痛以外の何ものでもなかった。そういう時にはたいがい、カワボンかタクオのいる教室まで出張≠キることにしているのだが、彼らとて不在の時もある。他者と自分との差別化をはかるためにシコシコとつけている「映画ノート」にしても、いくら書き込んだところでそんなに時間のつぶれるものでもない。学校生活の気だるい時間の流れは、喩《たと》えるならさだまさしの「親父の一番長い日」を一週間リピートで聞き続けるぐらいに耐えがたい、と、賢三は感じていた。
「んでよー、バックれてっからシカトこくんじゃねーってシメてやったわけよー」
賢三の後ろの席では八木《やぎ》が、例によってケンカとバイクの自慢話をしている。
「ってゆーかー、きのうもまた、彼氏にフェラたのまれちゃってー。結局しちゃったんだけどー」
横ではモロ子が堀之田詠子《ほりのたえいこ》を相手に昨夜のセックスを語っている。クリアファイルに|マッチ(近藤真彦)の切り抜きを入れようと苦心している詠子は、「うん、あー、フェラねー」と生返事をくりかえすばかり。
「だからシャア少佐のキャラが……つまりイデオンとゴッドマーズは……」
アニメグループは相変わらず訳のわからないことを語り合っている。
「グゲゲゲ! ゲゲゲゲ!」
陸上部のゴボジはさらになんだかわからない状態で下品に笑いころげている。何一つ変わらぬ教室の光景。
もうがまんできない。
と、大橋賢三は思っていた。
どいつもこいつも死んでしまえ、とさえ思っていた。
『死ね! 死ね! どいつもこいつも死んでしまえ! なぜならお前らは凡庸だからだ。通俗だからだ。まるで北極の海にボチャボチャ飛び込んで集団死するアザラシのようなものだ。意志がない、主張がない、恥を知らない、ただなんとなく黒所の日々に流され生きているだけだ。学ぼうともしない。俺はちがう、俺はちがう。俺はせめて無知な存在にならぬために、お前らの何倍もの映画を観、ロックを聞き、本を読んでいるんだ。俺には人と違った何かがあるんだ。俺はバンドを作った。俺は俺は俺は俺を俺を表現するためについにバンドを作ったんだ。そうだバンドだバンドバンドバンドを俺は俺は俺俺俺俺俺俺……えっ!?』
教室の机でうつむきながら考えていた賢三が不意に「えっ!?」と顔を上げた。
二、三度あたりを見回した。
誰かが俺を笑っている。
そう、賢三は思い、笑い声の主を捜そうとしたのだ。八木か? モロ子か? 堀之田? アニメのやつらか? ゴボジでもない、荻《おぎ》?
しかし「奇人」の荻|和江《かずえ》は、ポカンと口を開けいつものように虚空を見つめているばかりだった。
気を取り直し、賢三は席を立った。水飲み場で時間をやり過ごそうと考えたのだ。
賢三が高校生活の中で発見した、休み時間の退屈を回避するための究極の手段こそが、水飲み場にあったのだ。それは、──水を飲んでいるふり──なのであった。
不毛この上……いやこの下無し! と言わざるを得ない。けれど実際、たまに賢三は、旧校舎の隅にある人気の無い水飲み場の蛇口に口を近づけ、いつまでも、いつまでも、水を飲んでいるふりをしては休み時間の明けるのを待つことがあった。凡庸な黒所の連中の中にいるよりは、よっぽど俺の孤高の方にこそ意味がある。そんな想いを胸に秘めながら。
蛇口をひねり、口を近づけると、水流に混ざってまた笑い声が賢三の耳に聞こえた。
笑いは、どうやら、賢三をあざ笑っているようだった。
アハハハハハハハハハハハハハハハハ!
一人ではなかった。複数の声だった。
アハハハハハハハハハハハハハハハハ!
男も、女もいる。声質からしてどうも、賢三と同世代の者たちのようだ。ようく耳をすますとその中に、山口美甘子の声があった。美甘子は、おかしくって堪《たま》らないといった調子で賢三に言った。
『アハハハハハハハ! でも君、バンドつくったって、その中で何も役割が無いじゃない。結局君には、人と違った何かなんて、どこを捜したってなんにもないの。早く気付きなよ、早くあきらめなよ、アハハハハハハハハハハハ早く歯車の一つになって楽になっちゃいなっ!』
美甘子以外の者たちも、一様に、同じことで自分をあざ笑っているのだと賢三はハッキリと認識した。すると、体の芯《しん》がスッと抜けでたような感覚を覚えた。水流が賢三の顔面を目と言わず鼻と言わず濡《ぬ》らしていく。賢三は水の滴《しずく》と共に、自分の体が頭の方からゆっくりと、黒所の下水管の中へ吸い込まれていく奇妙な光景を、しかしなぜか、フカンから客観的に観察している気がした。
賢三は、そのまま意識を失った。
「みんなが笑ったって?」
カワボンが賢三の顔をのぞきこんだ。
「誰を?」
「俺を」
「賢三を? なんで?」
保健室の薄いベッドに腰かけながら、賢三は「わからん」とつぶやいた。大体みんなって誰だよ、とカワボンがまた尋ねる。
「それも、よくわからん」
一人だけわかっている。山口美甘子がその中にいて、俺を極めて正論でののしったのだ。彼女の高笑いを聞いた瞬間、ふっと意識が遠のいたのだ。俺は水飲み場で気を失った……。
「ふーん、貧血で倒れる時ってのは幻聴が聞こえるものなのかあ」
「幻聴? そうか、あれ、幻だよな」
山口美甘子も幻だったのだろうか? 賢三には一瞬、気絶する直前に見た美甘子の姿だけではなく、そもそもそんな少女自体が、賢三の周りに存在などしていなかったのではないかと思われた。実際、山口美甘子は銀幕のスターとなり、もう一月《ひとつき》も黒所の教室にはいないのだ。
「いい倒れっぷりだったよ賢三、サム・ペキンパーばりのスローモーションだったぞ」
保健医の座る椅子に腰かけたカワボンが笑った。
水飲み場で気を失った賢三を、偶然通りかかった彼が保健室に連れてきたのだ。「軽い貧血」との診断を下し、保健医は用事があるといって出ていったところだ。
「いくら名画座代つくるためだからって、昼メシ抜きすぎなんだよ賢三、それともあれか、徹夜でコキまくったか?」
賢三の脳裏に昨夜の忌わしき思い出が蘇《よみがえ》った。
「い、いや、それは無い、コイてないよ」
戦艦ヤマト第一主砲なみに仰角45度でそそり立ったポコチンを、あろうことか実の母に目撃されてしまった十七歳は、さすがにその夜サルガッソー海の底よりも深く暗く落ち込みまくり、結果的に山口美甘子をオナニーの餌食《えじき》にすることもなかったのだ。
「わかった、徹夜で作詞をしていたんだな」
「え?」
「できたかよ、俺らのバンドの歌詞」
カワボンの笑顔はすっかりバンドリーダーの表情になっていた。
「スゲーハードなノイズバンド」とするべく、カワボン、タクオ、山之上、そして賢三が集って結成したバンド、キャプテン・マンテル・ノーリターンは、来たるべき渋谷屋根裏デビューを前にすでに動き出していた。
カワボンがギブソンの似せものギブ|ボ《ヽ》ン・レスポールギターを激弾けば、タクオが宅録で破壊的なテクノを作ってきた。山之上は限りなく狂気に近い歌詞を書きそれを叫んだ。真っ白なキャンバスに段々と絵が描かれていくがごとく、彼らはゆっくりとだがバンドマンに成長をし始めているのだ。ボンクラな少年たちに、生まれて初めてそれぞれの配役が自らの手によって与えられたのだ。このセルフキャスティングの感動こそが、バンドが少年たちに与える最高の演出なのである。
しかし、大橋賢三には?
「う、うん、そうなんだ、徹夜で歌詞書いてたから俺、寝てなくてさぁ」
「で、書けたのか?」
賢三はふと保健室の窓の方を向いて、「書けたよ」と小さな声でウソをついた。窓の外では二年の女子たちが体育の授業を受けているのが見える。
「次の練習で見せてくれよ」
「うん」
「賢三」
「ん?」
「俺ちょっと心配してたんだ。賢三だけバンドの中でなかなか役割見つけられなかっただろ、それお前が気にしてんじゃないかと思ってさ、タクオも山之上もそう感じていたと思う。お前、楽器はまるで才能なかったしな。努力してもアレじゃお荷物になるだけだ。お前の担当は、やっぱりまず作詞だと思うんだ。でも俺らはお前がけっこうやるやつだってわかってるからさ、俺らの誰よりも、黒所の中で一番、賢三が映画とか本とかくわしいって俺らは知ってるからさ。俺ら、この一月、お前が動き出すの待ってたんだよ。だってやっぱ、俺ら四人が揃わないと、バンド始める意味がないからな。賢三、お前の書いた歌詞、期待してるよ」
じゃ俺もう教室に戻るよ、と言ってカワボンは保健室を出ていった。
ベッドの上に腰かけたまま、黙って賢三は窓の外を見ていた。
『徹夜して書こうとしても、一行も、一言も歌詞なんて書けないんだ』
追いかけて、カワボンの背中に叫びたい衝動を賢三はどうにかおさえつけた。
山口美甘子だけではなく、カワボンもタクオも山之上も、他の黒所のバカ共さえもが、チョコレートの連発で歩を進め自分との距離をドンドンと開いていく。いつか埋めることのできないほどはるかに遠ざかっていくのか? いや、もうすでに、追いつくことなど不可能なのではないのか?
俺は、おいてけぼりを喰《く》らった。
何の?
人生そのものの。
うちひしがれた瞬間またしてもアハハハハハハハと賢三の耳に遠く笑い声が聞こえた。あざけっている。あざけっている。そして窓の外の空の隅に、ポチッと黒い針の穴が開き、すごい速さで近づいて来るのが見えた。それは裏地にビッシリと責め言葉の書き込まれたおなじみ自己嫌悪マントに他ならない。嘲笑《ちようしよう》とマントの最強タッグチームついに襲来である。賢三は身の打ち震える恐怖を感じ、心の中で「ああっ!」と小さく悲鳴を上げた。そして肉体の方は〇・二秒の素早さでもって危機回避の行動を取った。動いた! 何が? 右手が! どこへ? 股間《こかん》へ! 握った! 何を? ビーンとそそり立ったポコチンを!! なぜ?
オナニーによる刹那《せつな》の快感によって、恐怖と自己嫌悪を緊急回避しようと試みる、本能につき動かされた無意識の行動であり、それはボクサーが失神しながらも格闘を続行しついに相手をKOする極限状態にも似てい……いや全然似ちゃいないんだが、ともかく賢三は、オナニーという行為によって理性を保とうと、気が付けばガッシガッシと学生ズボンの中に手をつっ込みしごきまくっていたのである。
保健室で。
さらなる悲劇は直後に起こった。
所用をすませ部屋に戻ってきた保健医川守緑子(43)は、なんたることか保健室のベッドの上で自慰行為にふける男子学生を目撃し、こんな状況においてはそれ以外に無いであろう言葉を、やはり彼に投げかけたのであった。
「……アンタ……何やってんの……」
問われて賢三は、ミケランジェロ・タッチのすごい形相でもって、言った。
「……も、も……盲腸です! 盲腸が痛くなって腹をもんでいたんでーす! お、お、オナニーなんか俺はしてませーん!」
かつてコメディアンの坂上二郎は「学校の先生」という歌の中で、人間の不平等についてデヴィッド・ボウイばりのケレン味でもって歌ったものである。
※[#歌記号、unicode303d]生まれた時は誰でも同じ、裸でうぶ声あげるのに
だのにどうしてその後、人生には歴然と差が生じてしまうのだろうという魂の慟哭《どうこく》なのであった。
二郎さんの歌同様に、大橋賢三と山口美甘子の人生もまたくっきりと見事なまでの差がそこには……と、ここまで書いてハタと思ったのだが……筆者、以前にも二郎さんの歌を例に二人の人生を対比したような気がする、アレ? やってないかな? 覚えてないよ、賢明なる読者の皆さんどうですか? って読者に尋ねるバカがどこにいる。いやなにしろ、チョコ編を書いてから八年もの歳月が流れているものだから、ところどころ忘れてしまっているのもいたしかたあるまい。
開き直るな。
まあとにかく、賢三と美甘子との間にはもはや埋めがたいばかりの距離が生じつつあったのだ。
賢三が母のみならず、保健の先生にまでオナニーを目撃されたけだるい午前中。同時刻、山口美甘子は主演映画のロケ現場にいた。
彼女専用に用意されたキャンピングカーの中で、アイドル羽村一政の腕にいだかれながら、キスの気持ちのよさに夢見ごこちとなっていたのだ。
とろとろと、とろけるようであった。
たかだか粘膜の摩擦と粘液の交換に過ぎぬというのに、美甘子は今や、何ごとにも代えがたい至高の時として口づけを認識しつつあった。
ソファーに座った羽村の膝《ひざ》の上で、美甘子はいわゆる「お姫さまダッコ」の状態にあり、美甘子の体をささえるものは羽村の陽に焼けた片方の腕だけだった。もう片方の手は美甘子のTシャツの下へともぐり込み、彼女の胸をまさぐっていたのだ。しかし不安定な体勢を口づけがおぎなっていた。二人の密接に重なりあった唇の中で、二つの舌が絡みあい、つながりあい、それだけで十二分に、少年と少女の体を一つにしてもう永遠に離れることなどありえないのではないかと思わせるほどにしていたのだ。
「ん、んっ」
と、美甘子は長い長いキスの最中に何度か声をもらした。
こくん、こくん、と、その度に彼女ののどが鳴った。
「もういいんじゃねーか」
不意に羽村が言って、唇を離した。羽村とて美甘子との口づけに我を忘れてはいたが、先に唇を離すことで、少しでも余裕を見せようと、少年らしいプライドで試みたのだ。だが、少女がそれを認めなかった。
「ダメ、もちょっと」
言って、美甘子は羽村の首の後ろに腕を回すと、グッと体を起こし、両足を広げて彼の膝の上に跨《またが》った。そのまま首に回した手に力を込め、自分の唇に彼の唇を当てがった。
「ん、んぐぐぐぐ」
口をふさがれた羽村が思わずうめいた。
「ぷはーっ! おい美甘子、いいかげんにしろよ」
「やだ、もっとキスする」
「もう撮影始まるよ」
「やだやだ、もっと山口は羽村君とチューするんだもん」
「撮影終ったら後でまたしてやるよ」
「ホント? 約束?」
「ホント。約束する」
「じゃ約束のキスして」
「アホか」
美甘子が弾《はじ》けたように笑った。触れるだけのキスを一つ彼女の方からして、そしてもう一度、彼女は彼の唇に口づけた。
「だから美甘子、キリがねーっての」
「キリがないんだもん、あのね、山口、羽村君とキスするとキリがなくなっちゃうの、自分もなくなっちゃうのよ、どんどん山口の頭の中がからっぽになっちゃうの、今まで見てきた映画のことも、沢木耕太郎の本のことも、みんなみんななくなってっちゃうの。山口、頭よくなろうとしていろんな知識をためこんできたけど、でも羽村君とキスを一つした方が、何よりもどんなことよりも体験として重要っていうか、大切だってことに気が付いたんだ。だって、だって、だって、気持ちいいんだもん。キス」
「じゃあなんできのうの夜最後までやらせなかったんだよ」
「きのうはもう夜おそくなっちゃったから、今日朝からロケだったから」
「じゃ今度はやらせるか」
羽村の唇にまた口づけて、口づけながら美甘子は「うん、全然いいよ」と言った。
「いつがいい?」
「いつでもいいよ」
「今日は?」
「今日? 今日のいつ?」
「次のシーンが終ったら次の撮影まで、多分待ちがメチャクチャ長いと思うんだ。その間に」
「うん、いいよ。どこで」
「場所か、ロケハンしなきゃな」
「助監督のゴモ君に頼む?」
抱きしめあいながら二人はクスクスと笑った。
「美甘子、もう離れろよ」
「やだ」
「ゴモさんのスクーターの音がする。見られるぞ」
美甘子が羽村の膝から降りて、しらじらしくも台本を開いたその時、車の扉が開き助監督のゴモが人なつこい顔をのぞかせた。
「お待たせ、二人とも読み合わせバッチリですか? シーン32の撮影行きますよ。キスシーンですよ。美甘子ちゃん心の準備は大丈夫かい?」
美甘子がプッと噴き出した。羽村もつられて笑い出した。ゴモがキョトンとした顔をしている。
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第2章 少女対少年
シーン32はワンテイクでOKとなった。
十七歳の新人女優は躊躇《ちゆうちよ》することなくカメラの前でファーストキスを演じてみせた。それどころか監督の大林森から「カット、OK」の声がかかると、ぺロリ、と相手役の羽村の唇を舐《な》めて、いたずらっぽく笑ってみせた。バカ負けした羽村はつられて笑い、スタッフたちは美甘子の子供っぽい照れかくしと思った。なごやかな笑いがあたりに湧いた。
「OKにしていいの? 何回やっても山口はいいよ」
調子に乗った美甘子が大林森をふり返って聞いた。羽村が美甘子にだけ聞こえる声で「バカ」とたしなめる。
「いや十分だ。もう撮らん」
監督はすでに次のカットの準備を始めている。美甘子の方を見ようともしない。
「なんでですか? 大事なファーストキスシーンだよ」
「大事なシーンだからもう撮らん。おうゴボ、次シーン35行くからな」
「なんで? いつもネチネチNG出すくせに、なんでこのキスシーンだけワンテイクなわけ」
美甘子が絡んだ。
撮影も中盤にさしかかり、美甘子と監督のケンカごしなやり取りはもはや現場のお約束の感があった。
ところが監督はこれにも応《こた》えようとはしない。
台本に目を落としている。
スタッフたちもいそいそと準備を開始している。
美甘子があきらめ、ロケバスへ戻ろうとした時、背後で監督の声が呼んだ。
いつの間にかピタリと近付きジトリと美甘子を見上げていた。
「美甘子よう」
「何ですか」
「お前キスシーンうまいなぁ」
「ありがとうございます」
「いや違うなぁ」
「何が違うんですか」
「キスシーンじゃなくてキスそのものがうまいんだな、山口美甘子十七歳は。慣れてる。いつの間にかな」
「なんですそれ? スケベオヤジですか」
「だてに三十七年スケベオヤジやってねーぞ俺は。美甘子、この映画は少女が大人になっていく過程を描く映画だ。俺はその変化の様子を撮りたい。お前という現実の少女の成長過程とシンクロさせてだ。だから美甘子、撮影の間だけでいい、もうちょっと大人になるのを待ってもらえんか?」
長身の美甘子に較べ監督は頭一つ分背が低い。しかし下から見つめる視線にもの言わせぬ威圧感があった。
「お前は若い。これがこけたってまだ次がいくらでもある。だが俺はこの大作がこけたらもうアウトだ。干される。それとも何か? お前、俺がAVに戻ったら、ホンバンしてくれるのか? ピンじゃねーぞ、企画AVだ。『女だらけの50人寒中ドッジボール大会』とかそーゆーんだぞ。この映画はな、俺には試合なんだよ。美甘子。お前、完成するまで、待ってくれ。まだ少女と大人の狭間《はざま》で揺れ動くお前のままでいてくれ」
「……待つって……どうすればいいっていうの?」
すると下から監督の顔がヌッと昇って来た。
思いっ切りなつま先立ちの姿勢で三十七歳の小男は言った。
「撮影が終るまで羽村とオマンコするんじゃねーって言ってんだよっ!」
山口美甘子が羽村とのセックスに選んだ場所は、本当に助監督のゴモがロケーションハンティングした場所であった。
六分にも及ぶ長まわしのシーンの芝居を、羽村と二人きりでじっくり相談したいから、という名目で美甘子が探しに行かせたのだ。「うるさいから監督には言わないでね」と付け足しておいた。人のいいゴモは信じ込み、すぐに、ロケ地付近の、公園の中にある小屋を見つけて二人を案内した。シーズンには管理事務所として使われているらしく、埃《ほこり》っぽいがそう汚くはない。何より少年と少女にはおあつらえ向きなことに、ソファーが置いてある。次のシーンのためにゴモはさっさと帰っていった。マネージャーには「芝居のためだから邪魔するな」と、羽村が説得ずみだ。トップアイドルは力関係で年上のスタッフよりも上の立場にあったのだ。午後からは、二人の出番がないシーンがいくつかあり、少なくともその撮影に二時間はかかるはずだ。二時間あればどれだけの数のキスができるだろうか。
山口美甘子は思いながら、羽村一政ともつれ合うようにソファーに横たわった。
「でも……狭い……これ」
「美甘子がでかいんだよ」
ソファーは長さがなく、二人の膝《ひざ》から下はニョッキリとはみ出てしまった。スプリングも緩み、体が沈む。羽村の肉体の上に覆いかぶさることが好きな美甘子は、おかげでしゃちほこのようにそり返った状態である。なんとか膝を曲げ、羽村の上に馬乗りとなった。ミニスカートがめくれあがり下着が見えているがまるで気にしない。それより長い黒髪がたれ下がり、口づけの邪魔をするのがもどかしくてならない。いく度か唇を重ねあい、舌をからめあった後、美甘子は羽村の体を降りて床にぺタリと座りこんだ。ポケットからゴムヒモを取り出し後ろ手に髪を束ねる。
「ごめん、たれてきちゃうから一本にしばるね」
羽村は身を起こし、現れた白い彼女のうなじに唇を当てた。そのまま舌を使い、噛《か》むのであった。美甘子はどうにもならないくらい気持ちがいいと思ったけれど、アハハと笑ってくすぐったいふりをした。羽村の舌は照れかくしとすぐに感づいた。鳥肌の立つことまでは、美甘子にもとめようもなかったからだ。舌はそのまま美甘子の左耳へたどりついた。パクッと、左耳は羽村の唇に食べられた。内では舌が軟体動物のようにうごめいている。美甘子はこの時、自分が、スクリーンの中で外国の女優たちが(それは自分なんかよりずっと大人の女たちのはずだったのに)ベッドシーンで発するみたいな声≠、いつの間にか出していることに気付き、驚いた。
「美甘子、お前、声もでかい」
羽村は笑って唇をはなした。二人は畳の床に寝ころんだ。
「今山口『ア〜』とか言った?」
「言った。あえいでたよお前」
「ビックリ、ウソみたい。映画みたい」
羽村と初めてキスを交わして以来、異性との肉体的な接触の全てが美甘子にとって驚きの連続であった。
キスは、これまで体験した何よりも心地の良い感覚であった。舌をからませている間、時は経過ではなく溶解していくのであった。時がとろとろと溶け始めると、思考も感情も美甘子の中ではもうどうでもよいことであり、あるのはただ、相手の肉体と同化していく喜びだけなのであった。この延長にセックスというものが存在するなら、きっとあたしはセックスが大好きに違いない、と少女は思うのであった。その間にも美甘子は羽村の手によりTシャツを脱がされ、豊かな乳房の中心にある乳首に唇を押しあてられながら、絶えることなく吐息まじりの声を上げ続けていた。羽村もシャツを脱いだ。さっきのシーン終りでシャワーを浴びたはずなのに、早くも玉の汗が二人の肌に浮かび、流れ、落ち、合わさって一筋となり山口美甘子の胸から腹へ、そしてヘソに沈んでいった。美甘子はスカートもいつの間にか脱がされていた。羽村が下腹をさわろうとする手を美甘子がつかんだ。羽村は代わりに、美甘子の体を抱きしめた。
「……羽村くん、山口さ、すごい、気持ちいい」
「映画みたいか?」
「映画みたい……じゃ嫌みたい。小説みたいでも嫌だ。現実じゃなくちゃ嫌。今この、気持ちいいっていうのが、本当のことじゃなくちゃ山口は嫌だ。すごい、現実って、映画も本も超えることあるんだね。すごい、山口、男のコと裸で抱き合ってる。気持ちいい、とっても、山口ってセックス好きみたい」
「まだBまでしかしてねーよ」
現代に生きる若き読者諸君には、羽村の言った「B」なるものが何かさっぱりわからないであろう。説明しよう。「B」とはいわゆるペッティングのことである。グミチョコの舞台となっている‘80年代、キスのことを「A」、オッパイもんだり太ももレロレロしたりを「B」、そして挿入したなら「C」と呼んだものなのである。ちなみにお色気女優五月みどりが中森明菜の「少女A」に対抗して「熟女B」なるトホホソングを歌っていたのもこの頃である。が、んなこと知ってても何の得にもならんのでどうか忘れて欲しいものである。
「『C』も、気持ちいいのかな?」
抱きしめられながら無邪気に美甘子が聞いた。すでに下着も脱がされ、ソックスだけのすっかり裸である。
「最初は痛いらしいぞ」
「痛がってた?」
「誰が?」
「知らない。誰かいたでしょ。今まで」
十七歳の少女は早くも恋人に対しすねてみせる術を覚えていた。トップアイドルは動じなかった。
「ああ、なんか、まさにつっこまれる痛さっつってたぞ、焼いた針をブスッと刺されるような……杭《くい》をトンカチでカーンとうちつけられるような……」
「ヒー、やめてよ、想像するでしょ」
「だから舐《な》めたり指一本ずつ入れたりして徐々にやってかなきゃなんねーんだよなー」
「舐めるの? どこを? 今? ウソだよね?」
「入れねーんだもんしょーがねーだろ」
「え! え! え! え! え! ギャー! ちょっと!」
羽村が身を起こすと同時に、美甘子の太ももの裏側にそれぞれ手を回し、内側からパカリと足を開いた。身を沈めようとした羽村の頭を、あたかも真剣白刃取りの要領でハッシと美甘子の両手がつかむ。
「ギャー! やめてやめて! 舐めなくていい! 山口は大丈夫! 痛くてもすぐ入るから、足閉じて足閉じて足閉じてたのむー」
「舐めねーんだったらなおさら足開げないと入んねーんだよ」
「入るってば入るってば、だって、山口、カエルみたいじゃないこのかっこう!?」
「映画じゃないんだよ。現実のセックスはカエルみたいなかっこうしないとできないの」
「やだやだカエルの現実なんか大嫌いだ!」
羽村はおもしろくって仕方ないといった様子で笑い、開いた美甘子の長い足を自分の腰のあたりにまきつけるようにして、あおむけの彼女の肉体に正面から密着した。
「美甘子、大好きだ。お前、かわいい」
「うん、山口も、大好きだ」
「舐めなくてもお前なら入る気がする」
「何それ、殺し文句なの? って言うかあの、羽村君、しないの? その……あの……あれ」
「コンドーム?」
「それ」
「持って来た」
羽村が手をのばすと、避妊具の袋がいつの間にかソファーのクッションとマットの間に用意されていた。
「手品みたい」
「男には仕込みってものがあんだよ」
羽村は美甘子の体の上で装着を試みたが、うまくいかなかったらしく、舌打ちをして起きあがり、美甘子に背を向けあぐらをかいた。
「まったくこの間《ま》がかっちょ悪いんだよなぁ、現実のセックスってけっこうマヌケだよ」
「羽村君、後ろから見てると原始人が火をおこしてるみたいな姿だよ。『2001年宇宙の旅』のオープニングっぽい」
「訳わかんないこと言うなよ。アレ、くそ、うまくいかねーな」
「……ね、なんで後ろ向いてるの?」
「恥ずかしいだろ」
「羽村君だってさっき美甘子に恥ずかしいかっこさせたよ」
「較べものにならないほど今の俺の姿の方が恥ずかしいの。と言うか情けないの」
「こっち向いてもいいよ」
山口美甘子が身を起こした。膝《ひざ》を抱えた、いわゆる体育座りのポーズで、いたずらっぽく、右手をのばし、裸の恋人の背をつんつんと中指でつついた。
「ね、こっち向いてよ」
「つつくなよ。なんだよ。見たいのかよ」
「焦った顔しないでよ、山口、見たことないから……見てみたい、その……それ」
「美甘子、お前なんか変わったなぁ」
「山口自身は変わってないよ、映画や本が現実の体験に変わっただけだよ。もっと見識を広げたいだけ、変じゃないもん。ね、どんなになってるの? その……それ」
「これ? まあ別に見せてもいいけどさぁ、現実はきれいごとじゃねーぞ」
羽村が片手にコンドームを持ったまま体ごと振り向いた。裸の股間《こかん》が少女の方を向いて隆起していた。山口美甘子は、へのへのもへじのような表情になった。黙った。そして一つ息を吐き、じーっと羽村のそれを見つめながら言った。
「へ〜! 画家のギーガーが男の人のアレをモデルにエイリアンのデザインをしたって話、本当だったんだねえ」
もしかしたら、この女はとてつもない大物なのかもしれない、と羽村一政は全裸でそう思った。
保健医は賢三のマスターベーションを見なかったことにしてくれた。まったく思春期の少年は意表をつく行動を取るものだ、と、彼女はあきれただけであった。
賢三は学校を早退した。
キャベツ畑を右手に見ながら、チャリンコをこぐ足が重かった。幻聴も聞こえず、青空に浮かんでいた自己嫌悪マントも今は姿を消してはいた。ただ今は、どこまでも続く空の広さを彼は哀しい、と思うのであった。山口美甘子も、同じ空の下にいるのだ。同じ青空の下にいながら、美甘子は自分の行く道をすでに見つけ、どこまでもどこまでも広がり続ける世界の大きさを全身で体感している、まさにその真っ最中であるのだ。に、対して、俺は一体なんだ? プライドばかりが肥大した、実は無能のダメ人間ではないのか? 賢三の自転車はスピードを上げ、いつか美甘子と別れた踏み切りを通過した。さらに思い切りペダルを踏みしめる。膝も折れよと賢三はペダルをこぎ続ける。あたりの風景が勢いよく後方へ流れ残像と化していく。ところが、見上げれば空だけは青々と何一つ変わることがない。急げ! 急げ! 焦ろ! 焦ろ! ペダルをこぐリズムに合わせ声に出してつぶやいてみたところで、空は、賢三の想いに反して何一つ変わるところの無いなんたる大きさであることか。そして山口美甘子は今どこで何をしているのか。もし、彼女が同じ空を見上げているというのなら、そうだ俺は、空の青がオレンジ色へ変わるその前に、せめて一歩でも美甘子に近づいたという証《あかし》を見つけてみよう。できるか? いややるのだ。急げ! 急げ! 焦ろ! 焦ろ! 何をする? 何がある?
詩だっ。
詩だっ。
『もう一度、俺は詩を書いてみよう』
そう思いついた時には束の間だが心が晴れた。ちょうど自宅に着いたときだった。賢三はブレーキをかけるより早くハンドルを握ったままチャリンコの左側に着地した。直後にブレーキを握れば勢いのまま車体は左に弧を描きザザッ! と砂ぼこりを巻き上げスリップ。見事にピタリと止まった。『決まったぜ』賢三はほくそ笑んだ。これこそ彼が長き自転車通学によってあみ出した、名付けて「石原軍団風チャリンコストップ」なのであった。映画や小説の量と共に、賢三の数少ない自慢の一つだ。『フフフ、黒所でこの技がバシッと決まるのは俺だけ』苦み走った賢三。山口美甘子がロストヴァージンするか否かの瀬戸際だというのに、こんなもんで喜んでいてどうする賢三! 大体において石原軍団はチャリンコに乗ってねーっつーの。
チャリンコを止めると賢三は詩を書くべく勉強部屋に駆け込んだ。
一瞬『今からならまだ二時の映画劇場が見れる』と気になった。新聞のテレビ欄を見たところ東京12チャンネルで「ドラキュラ対フランケンシュタイン」をやっているだけだったのでホッとした。力自慢が売りのはずのフランケンが、ドラキュラに腕をもがれてやられてしまうD級バカ映画で、クソつまらんくせに何度も放送されるので賢三はすでに三回は観ていた。これならチェックする必要はない。部屋に入ると賢三は、早速大学ノートを机の上に開き、座った。
詩作には何度も失敗していた。
頭の中に、胸の内に、全身の隅々に、確かにドロリとした得体の知れないものが詰まっているけれど、それを文字にして記すことができなかったのだ。山之上の書くような、自分の醜さをさらした詩を綴《つづ》る方法がわからない。カワボンはどんどんギターがうまくなっている。タクオは優れたサウンドを作ってくる。最近ではキーボードも操るようになっていた。ようやく結成されたキャプテン・マンテル・ノーリターンの中で、当の賢三だけがなんと早くもお荷物になりつつあるのだ。友人たちには内緒で、こっそりと楽器を練習したこともあったが、どうしても、何日かかっても、弾けるようにはならなかった。
もう賢三に残されたのは詩作しか考えられなかったのだ。
「書かなければ。書かなければ」
書けるはずだ。書けるはずだ。心で何度もくり返しながら、賢三は真っ白な大学ノートと対峙《たいじ》していた。そして、
一時間過ぎた。
二時間過ぎた。
さらに、時が過ぎた。
何も、何一つ書くことができなかった。
フランケンシュタインはとっくに腕をもがれている頃だろう。まだ夕暮れには時間があるものの、陽はゆっくりと西へ沈む気配を見せている。空の広さは変わらぬままに、色は賢三が自分に決めたリミットのオレンジへと徐々に変わっていくのだ。おそらく、その前にまた、空の中にはたはたとはためく自己嫌悪の黒いマントが浮かびあがるのであろう。そう思うと怖くて堪《たま》らず、賢三は、大学ノートをパタリと閉じて、何よりも早く心を鎮めてくれるであろうアイテムに救いを求めた。
足下の机の下にそれはあった。青いスポーツバッグ。アディダスの偽ものでアドニスと横に書かれている。ジッパーを開くと中には、ギッシリとオナニー用エロアイテムが詰まっていた。
中森明菜菊池桃子薬師丸ひろ子川上麻衣子トレイシー・ローズ小泉今日子原田|知世《ともよ》早見優シェリル・ラッド手塚|理美《さとみ》洞口依子立花理佐斉藤由貴オナッターズ青木琴美朝比奈順子美保純石原真理子……。
そして、山口美甘子。
『いやいやこれは駄目だ』
賢三は美甘子のヌードグラビアの載った雑誌を取り出し、大学ノートの下に隠した。
『今日はブナンに菊池桃子あたりでコイておくか』
なんで菊池桃子だとブナンなオナニーになるのかよくわからないのだが、とりあえず美甘子だけではするまいといつものように彼は思った。思いながらふと机を見ると、大学ノートは美甘子の写真の太ももから上をかくすように置かれていた。ちょうど、マイクロミニを穿《は》いたかのように、大学ノートの底辺からニョッキリと美甘子の太ももがのびて見えるのだ。
それを、見た瞬間に異変が起こった。
※[#歌記号、unicode303d]パ〜パッカパ〜パララッパッパパ〜! パララップパプパパーパララッヒ〜!!
いや別に、ついに賢三が発狂して赤塚不二夫キャラに変身したわけではないのだ。ノート底辺よりつき出た美甘子の太ももを見た途端、賢三の脳内に『宇宙戦艦ヤマト』テーマ曲の、懐かしきファンファーレが勢いよく鳴り響いたのである。
※[#歌記号、unicode303d]パ〜パ〜パパパーパ〜パ〜パパパ! チャララッチャララッチャラッチャラッヒュ〜!
ファンファーレと同時に、賢三の股間においても宇宙戦艦現象が勃発《ぼつぱつ》した。
グイ〜ン!
文字にして見るとまったくバカみたいなんであるが、まったくもってその現象はグイ〜ン! といった感じで出現したのである。仰角45度! 大橋賢三少年のヤマト第一主砲がグイーンと鎌首をもたげ、まさにガミラス艦隊を迎え撃たんとする猛々《たけだけ》しい臨戦態勢に入ったのである。そう、賢三のポコチンが突如おっ立っちまったのである。
『た、たまらない!』
もう穴のあくほど何度も見返した美甘子のグラビア。しかも半分以上がノートに隠れているというのに、一体この宇宙戦艦現象はいかなることなのであろうか?
説明しよう。
それはチラリズムである。
って、書いていてアホらしくっていけませんが、本当にチラリズムなのだから仕方がない。ゴンヌズバーと御開帳された観音様よりも、男は、生い茂る木々の中からわずかにこぼれた輝きこそにありがたみを感じる複雑な存在なのである。隠されているがゆえに、淫靡《いんび》な想像を生む下半身だけの美甘子が、チラリズムによってかつてないエロ衝動を賢三の心に現出させてしまったのだ。もはや衝動は強大な爆発力となり、今まで耐えてきた分、破壊力も十二分と言えた。
『こいてしまおうか……』
※[#歌記号、unicode303d]さらば地球よ旅立つ船は宇宙戦艦ヤマト……頭の中ではついに歌声が鳴り響いていた。
『駄目だ! 美甘子は俺にとっては性ではない、聖なのだっ』
※[#歌記号、unicode303d]宇宙の彼方《かなた》イスカンダルへ運命背負い今とび立つ……実際にはささきいさおの歌っているこの曲なのだが、パニクっている賢三の頭の中では混濁を極め、なぜか、子門真人《しもんまさと》の歌声に変換されていた。
『やめろ! 戻って来い俺よ!』
※[#歌記号、unicode303d]必ずここへ帰って来ると手をふる人に笑顔で答え〜
『しかし、もう駄目だ、とてもたえられない! 俺は、こく! 美甘子でこく! だが美甘子よ、違う、違うんだ』
※[#歌記号、unicode303d]銀河をはなれイスカンダルへはるばるのぞむ〜
『俺はお前でこくんじゃない! お前の、お前の太ももだけでこくんだ! だからお前を汚しはしない! 汚れるのは太ももだけなんだ!』
※[#歌記号、unicode303d]うちゅうせんかんや〜ま〜と〜!
『……んな言い訳あるわきゃねーって』
セルフつっこみを入れつつ大学ノートをずらした。全裸の山口美甘子がまぶしそうな表情で彼を見つめていた。チラリズムからゴンヌズバーへ変わったところで、頭の中のファンファーレは消えるどころかさらに高らかに鳴り響くのであった。きっと四十人フル編成のオーケストラだ。今度はちゃんと、ささきいさおが歌う準備をして待ち構えている。賢三は大きくため息をついた後、声に出して、ついに、言ってしまったのであった。
「……がんばったけどもう駄目だ。ごめんなさい。君で、します」
オレンジ色の陽ざしが少年と少女の体を照らし出していた。
小屋の窓のカーテンの隙間から輝きは一直線にのびて、重なり合った二人を祝福するかのように、あたりのホコリの舞い踊る様をキラキラと際立たせていた。
少年と少女は共に裸であり、瑞々《みずみず》しい肌の表面に汗をうっすらとにじませていた。少年が指や舌を使うごとに、少女は敏感な反応をみせた。はっ、はっ、はっ、と、リズミカルに息を吐き、時にびくりと震えることもあった。快感に半ば意識を蕩《とろ》かせながらも、かろうじて冗談を言う余裕をみせた。
「監督またリテイク繰り返してるね。誰も呼びに来ない。本当はみんな周りでこっそり見てたりしてね」
撮影が終りしだい打たれるはずのポケベルは、ソファーの上で黙ったままだった。
「こっそり撮影してAVにして売る気なんだよ。なんて、美甘子、わりぃ、もうちょっと腰を立ててくんない」
「い、痛い! 痛い! 痛い!」
犬のように四つんばいの姿勢で美甘子が言った。
「羽村君、最初が後ろからっていうのは、やっぱ山口、どうかと思うんだけど」
「力抜いて! 力抜いて! 普通にやって入んないからさ、こっちの方が確実なんだよ」
美甘子の腰のあたりに手を置いて、背後から羽村は言った。
「本当かなぁ。あ、いたたたたたたたた! いたたたたたた! いたたたたたたたたたた!」
「ふざけてんのか?」
「ホント痛い! ホント痛い!」
羽村が両手を美甘子の太ももに回した。そのまま力を込めて自分の体の方へ引き寄せた。
「痛っ! 羽村君動かないで」
「入った、入った」
「へ?」
「入ったよ、入った」
「へ?」
「入ってる、入ってるのもう」
「へ? へ? あ、そう」
美甘子は、ヴァージン喪失という人生の一大事に、「へ?」とか言っている自分自身を、ずい分とマヌケだなぁと思った。ただでさえ四つんばいの姿勢である。
「入ってんだぁ、山口、もう処女じゃないんだ……監督ゴメン」
ペコリと頭を下げた。
「なんだよ、俺よりまず監督にコメントかよ。そもそも美甘子とやってもいいって最初に言ったのは監督なんだぜ」
「私たちがいい感じになってきたら、とたんに『するな!』って怒ってたよ……痛っ、動かないで。じゃ羽村君には、アリガト」
「なんだよそれ」
「カエルみたいなポーズで初体験しなくてすんだから、アリガト」
アハハ、と山口美甘子は笑った。
「アホか。カエルじゃないけど犬みたいだぞ」
「犬好きだもん」
「じゃあワンワン鳴いてみな」
「ワンワン! ワンワン!」
うれしそうに、美甘子は鳴いてみせた。また、アハハと無邪気に笑った。
「お前、やっぱり変わったよ。なんか、そこらの女子高生みたいなノリだな」
「じゃ、この体勢で今から沢木耕太郎について解説でもする?」
「いやそりゃ勘弁だけどな」
「変わったね。山口変わった。でも悪いことじゃなくて、山口やっと生まれたんだと思う。映画や小説しか知らなかったあたしが、いろんなこと体験してやっと山口美甘子として人生を歩み出したっていうか、羽村君と会ってその成長は加速度を増したんだと思う。山口は現実の世界に連れ出してくれた羽村君に感謝する。アリガト」
「バックでされながらこんなにしゃべるやつ初めてだ。珍しいもん見せてもらってこっちこそアリガト」
そしてまた美甘子がいたたたたたたた! と叫び、思わず床に爪を立てたその時、羽村が突然美甘子から身を離し、ソファーにかけられていた毛布を美甘子にほうり投げた。自分自身もその中にもぐり込み、オレンジの光が射す窓を見て怒鳴った。
「待て! 待て! 撮るんじゃねえっ!」
美甘子の瞳《ひとみ》を、太陽の輝きとは明らかに異なる光が矢のごとく射た。
カメラのフラッシュであった。
[#改ページ]
第3章 崩壊の前日
『ごめんなさい。君で、します』
ところが決断した直後、賢三の胸中に去来した感情は、後ろめたさではなく、意外にも解放感であった。
進級を決定する期末テストが直前で中止になった、そんな感覚。つい今までモンモンと悩んでいたことがまるで嘘のように、よっしゃやるぞ! とガッツポーズの一つも取りたい開けっ広げの俺様だ。何日かぶりで味わうスッキリとしたこの気分は何? もしかしたら幻聴も自己嫌悪マントも、そして詩が書けないことさえも、禁美甘子オナニーのストレスが総《すべ》ての原因ではなかったか。そう思えたほどだ。
『ぶっこいてしまおう。こいてこいてこきまくってやる。美甘子だ。美甘子で俺はこくんだ。美甘子をすっ裸にしてもみまくりなめまくってやるんだ。上からも下からもだ。前からも後ろからもだ。昼だって夜だってだ。ぐっちょぐっちょだ。ぬっぷぬっぷだ。ずっこんずっこんだ。ぶっしゅぶっしゅばっこばこっこずっぷずっぷすこすこずごずごずこすこすこすこすこ!』
ダム決壊! 溜《た》めに溜めていた分、一度噴き出すや鉄砲水のごとき彼の性リビドーなのであった。今や賢三の脳内はいやらしい液体で満ち満ちていた。液体は粘着質でゲル状だ。腐乱した屍猫《しびよう》の肉ほどにドロドロと糸を引く脂質なのだ。そいつが無限に脳の奥からあふれ出し全身へ流れ落ちていく堕落の快感。賢三の細胞は今や完全にエロのみに支配されようとしていた。
『美甘子美甘子美甘子の乳房をれろれろれろれろ美甘子だ美甘子だ美甘子の太股《ふともも》をむんずむんずむんずむんずむんず美甘子を美甘子を美甘子を足首持って逆さまにしてオラどうだ!? どうだ!? どうなんだあっ!?』
妄想は止まらない止まらない。勉強部屋の机の上の、たかだかグラビア一枚が、賢三にエンドレスで美甘子の痴態を夢見させるのだ。逆さまにされた美甘子のスカートがパラシュートの要領で広がると、むき出しになったたわわな尻《しり》を黒所高校指定体育着ブルマーが覆っていた。
『美甘子のブルマー……』
一瞬、賢三は想像をやめた。逆さづりの美甘子の姿が彼のイメージの中でフッと消えた。賢三は引き出しの奥から大事そうに美甘子のブルマーを取り出し、暫《しば》し、じっと見つめた。
『美甘子、君は性ではなく……聖……』
そしてまた、美甘子こそが、賢三を表現活動へ立ち向かわせる最上の原動力であったはずだ。彼女に負けぬために、オレは本を読む。映画を観る。学ぶ。詩を書く。山口美甘子に負けぬために。もしかしたら、山口美甘子のためだけに。
『美甘子、やっぱり君を汚せない……』
賢三は我に返った。万感の思いを込めて、山之上が盗んできた美甘子のブルマーを顔に当てがった。暫し息をつめて顔を埋めた。『また引き出しの奥にこれをしまったら、グラビアも閉じ、そうだ俺はまた詩を書き始めよう』そう決めた。よし! と一つ息を吸うと、鼻孔いっぱいに、甘ずっぱいようなすがすがしいような、なんとも言えぬ山口美甘子のブルマーの香りがムンムンと侵入してきたのだ。
『み……み……美甘子美甘子美甘子の匂い匂い匂い匂いムンムンムンムンムンムンムン堪《たま》堪堪堪らん堪らん堪らんムンムン匂い匂い匂い美甘子美甘子美甘子美甘子ムーン!!』
再びダム決壊!!
一片の良心さえも美甘子のブルマーの匂いの前には無意味であった。
賢三は右手でポコチンを握った。左手にはグラビア。おなじみオナニー時基本姿勢をとったのだ。何千何万回と決めた定番の体勢は、新聞記者が両手で押しても倒れなかったという王選手の一本足打法も泣いて謝るジャキーン! と強固な安定ぶりを誇っていた。いやそんなもん誇ることではないんだが。
ところで右手にポコチン左手にグラビア、ではさっきまで両手で握っていたブルマーはどうなったかと問うならば、──ああ筆者とてこればかりは書きたくはなかった──あろうことか、それは今、賢三の頭部を覆っていたのだ。
つまり、性的興奮のあまり、大橋賢三は同級生の女子体操着を、ブルマーを、頭からスッポリとかぶってしまったのである。どうせ堕落するなら堕《お》ちるところまで堕ちてしまえという半ば焼けクソであったのかもしれない。逆に、もっと胸いっぱいに美甘子の香りを吸いこみたいというストレートなエロ願望であったかもしれない。いずれにせよ、両方であったとしても、十七歳の少年は不気味この上ない覆面姿で四畳半の勉強部屋の中にあった。
本来なら美甘子の太股が通されるブルマーの足穴部分の左右から、ぎょろぎょろと血走った二つの眼がのぞいている。興奮した鼻息は布にさえぎられ「フゴー、フゴー」とくぐもった音を立てている。名づけるなら『仮面バカダーV3』あるいは『フォースのエロ・サイドに堕ちたダース・ベイダー』といったところか。怪奇ブルマー人間が握るのはバイクのスロットルでもライトセーバーでもなかった。ポコチンとグラビアなのだ。お前鏡で自分の姿見てみろと百万人が思う情けなさ。しかも夕陽が怪人をオレンジ色に照らし出し、キラキラと輝かせているのだから、おてんとう様も無駄な演出をするものだ。
賢三の内面は大変なことになっていた。
鳴門《なると》のうず潮に巻き込まれる勢いでエロ妄想の海底へ引きずり込まれていた。今や、山口美甘子と人気のない夜の美術準備室で二人きりになっていた。「借りていた文房具を返したいから来て」と、彼女の方から誘いがあったという脳内の設定をつくりあげていた。なぜ文房具? なぜ夜? なぜ美術準備室? といった問いは愚問である。オナニーではいくらでも無理な設定を作り上げることが可能であるのだ。薄暗くカビ臭い深夜の学校の片隅で女をヒーヒー言わせるのが、彼の最も興奮するシチュエーションであった。賢三の頭の中にある美術準備室には、なぜか医療用のゴムチューブが無造作にころがっていた。木製の大きなイーゼルに、キャンバスのかわりに山口美甘子を医療用ゴムチューブで縛り付けるためだ。現実的に考えたなら大柄な美甘子の体は支えきれず、バキバキドシンとイーゼルなどぶっ壊れてしまうはずだ。妄想の中で賢三は、うまいこと美甘子を縛り付けることに成功した。後ろ手に。数本のゴムチューブの間から、美甘子の二の腕の肉がぷっくりとふくらむようにはみ出ている。ゴムチューブの色は美甘子の白い肌をきわ立たせる赤……賢三は、ディテールにこだわるのだ。こうして改めて見ると、なんと肉感的な美甘子の体なのか。緊縛によって胸などは爆発せんばかりにつき出ている。美甘子が恥ずかしそうにぽつりと言う。
『イヤだ、賢三くん……あたし文房具返しに来ただけなのに……でも、して※[#ハート白、unicode2661]』
……さすがにちょっと設定に無理あるよなあ、と、賢三はふと我に返った。そして美甘子の肉体の堂々たる迫力に、俺の貧弱な体でたちうちできるだろうか、と思った。想像の中でさえ、美甘子と自分の人間力の差は埋め難いものがあった。とてもこの二人が、セックスをする光景というのは不自然だ、と、賢三はむなしく思った。いくら想像は自由でも、リアリティーが皆無ではいけない。そこで賢三は、想像だからこそできるちょっとした変身を試みることにした。
想像の中で、賢三は、肉体を羽村一政の姿に自分自身を変化させてみたのだ。
顔も、美甘子の相手役でありトップアイドルである羽村の甘いマスクに変身させた。この姿ならあるいは、深夜の美術準備室で文房具をエサに美甘子をゴムチューブで縛ることだってできるかもしれない。エロ心のみは賢三自身のまま、羽村一政のルックスにイメージの中で変身した彼。後ろ手のまま美甘子が、妙に濡《ぬ》れた唇で再び言った。
『イヤだ、賢三くん……あたし文房具返しに来ただけなのに……でも、して※[#ハート白、unicode2661]』
『美甘子美甘子美甘子美甘子! やってやるやるやるもむもむレロレロレロ美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子!!』
翌日のことである。
朝焼けの練馬《ねりま》駅。
改札のあたりで何やら人だかりがしている。
蛍光色のハッピを着たリーゼントヘアーの少年たちが数人、もみ合っている。
その周辺をサラリーマンや女子高生たちが遠巻きに見ていた。
「ちくしょー」
「もう何もかもおしまいだ」
「殺す! 殺す! アイツを殺して俺も死ぬ」
ノーフューチャーなことを言いながら、少年たちはお互いをつかみ合い、こづきあい、さながらバトルロイヤルの様相を呈しているのだ。
彼らは揃いのハチ巻きをしめ、そしてなぜか、片手にはそれぞれ、新聞が握られていた。少年たちの一団はひとかたまりとなって右へ左へ揺れ動く。押された子供が倒れ、若い母親が悲鳴を上げた。子供の体の上によろめいた少年の巨体が覆いつぶさんとしたまさにその時、一つの小さな影が人だかりの中から脱兎《だつと》のごとく飛び出し、少年の足下にしゃがみ込むや彼の足を低い蹴《け》りで刈った。少年の体はいきおいのままフワリと宙に舞い上がり子供の上で一回転。そのまま頭から落下するところを小さな影がまた動いた。少年の手首をハッシと握るや空中でひねったのだ。またまた少年の体は一回転。うまい具合に急所をはずして尻からドーンと着地させたものだ。
一瞬シーンと静まり返った少年たちに、小さな影が喝を喰らわせた。
「何を騒いでおるんじゃっ」
ビクッと少年たちが肩をすくめた。
「訳を聞こうと言うんじゃっ。少年たちよ、なぜもめておるのじゃっ」
今度は落ち着いて尋ねた。少年の一人がオズオズとこう答えた。
「い、いえ、あの、美甘子が……」
「ミカコ?」
「美甘子が……美甘子が……ウワ──────ッ」
突然顔を覆って泣き出してしまった。するとさっきまでこづきあっていた隣りの少年が彼の肩をガッシと抱いた。「わかるわかる」とうなずきながら、小さな影に言った。
「山口美甘子が羽村一政と、ニャンニャンしちまったんスよう! それで俺らヤケになって、暴れるしかなかったんスよ」
「ニャンニャン、とな?」
「セックスっスよ、セックス! 俺ら山口美甘子私設親衛隊LOVEみかみか※[#ハート白、unicode2661]極東練馬支部なんスよ! 今日は学校さぼって美甘子のロケ応援に行くはずだったんスよー! ところがキオスクでスポーツ新聞買ったら……ウワ──ッ!」
これまた泣き出してしまった。
小さな影はまだ少年の手首を握っていた。手の中にある新聞が見てとれた。どでかい文字が一面に躍っていた。
『鼻血ブー!! 超スクープ写真 羽村一政 山口美甘子衝撃ニャンニャンセックス特写!』
ウワ────ッ!! 少年たちが一斉に泣き始めた。
小さな影は懐からタバコを取り出した。「わかば」であった。ライターの火が彼の顔を照らしだした。深く刻まれた皺《しわ》。アーネスト・ボーグナインと植木等を足して二で割ったような、とぼけた表情。プカリと煙の輪を吐いて、その老人……いや、ジーさんはつぶやいた。
「そろそろ、わしの出番のようじゃな」
そして一つ、プーッとへをこいた。
暴徒と化していたのは『山口美甘子私設親衛隊LOVEみかみか※[#ハート白、unicode2661]極東練馬支部』だけではなかった。
この朝、日本中のいたるところで、少年たちは片手に丸めたスポーツ新聞を握りしめ、それを振り回し、数人で集っては奇声を発して走り回っていた。さながらニャンニャン土|一揆《いつき》である。
自転車で学校へ向かう者たちもやはり片手に新聞握りしめ声にならぬ声を上げながら疾走していくのであった。言うなれば民族ニャンニャン大移動といったところか。
たった一枚の、新人女優とアイドルのベッドイン写真が、彼らの妄想を無限に掻《か》き立てて、盆と正月とおまけにハルマゲドンまでが一緒にやってきたようなディープインパクトを一人一人に与えていたのだ。少年たちの足は必然的に学校へと急いだ。走れ! 急げ! この興奮を友とわかち合わなければ! そしていかにマスターベーションのネタとして有効に活用すべきか論じ合わなければ! 日本中全ての通学路は今やレース場と化していた。黒い弾丸アベベ並みの速さで彼らは走った。すれちがいざまに声をかけ合った。
「見たか!? 見たか!? ウキョ──ッ!」
「見たぜ! 見たぜ! アヒョ──ッ!」
まるで猿同士の会話であった。
都立黒所高校では、まだ授業開始に一時間近くあるというのに、全ての教室がすでにフルハウスの状態となっていた。興奮のるつぼとはこういうことを言うのであろう。生徒たちはそれぞれいくつかのグループに分かれ、新聞を広げて口角泡を飛ばし合っている。アニメグループまでもが今朝ばかりは伝説巨神イデオンのことではなく山口美甘子について激論を戦わせていた。
「スッゲー!! マジかよスッゲー!? マジマジマジマジ!? スッゲー!! スッゲー!!」
と、これは八木。興奮のあまり少年たちのボキャブラリーは普段にもまして失くなっていた。ゴボジなどはいつも以上にゲゲゲゲゲゲゲゲと笑いとも悲鳴ともわからぬ奇声を発している、女生徒たちも今回ばかりは嬌声《きようせい》を上げるしか反応の仕方がわからなかったようだ。
「クッ! チョッ! コレ! アッ! ホッ!」
「なっ!? あっ! でっ! あれ! きゃーっ!」
ダニー・イノサントとブルース・リーが死亡の塔の中で戦っているわけではない。ニャンニャン写真を見ての、それぞれモロ子と詠子のコメントであった。無理もない。
この間まで机を並べていた同級生が女優となり、トップアイドルとのベッド写真を新聞に載せられてしまったのだ。
この頃、まだまだアイドルのセックスというのはタブーであった。恋人を「彼氏」と呼び、明るく交際を宣言するような現代と違って、この時代の性は、暴かれた瞬間に彼らの芸能人生命を抹殺する禁断のスキャンダルであった。
家族向けバラエティ番組から登場した三人組の少女、その一人が恋人とのベッドイン写真を公開された事件が‘80年代半ばに起こった。結果的に彼女はテレビから消えた。少女が彼氏との秘めごとを「ニャンニャン」と表現したことから、以後、アイドルのベッドインを撮影したフィルムは、ニャンニャン写真と呼ばれるようになっていた。
「ニャンニャン写真出ちゃ山口も終りだ」
と、男子生徒の誰かが言った。
「じゃあまたこの教室にもどってくんのか?」
「セックスしたことがバレバレの女がいるクラスってやべーよなー」
少年たちがゲヘへへへへと笑い合った。
「別に大したことないじゃん、セックスぐらい」
モロ子が頬づえをつきながら言った。
「モロ子のやってるセックスと美甘子のじゃ、レベルが違うよ。相手は羽村一政だよ」
詠子の言葉にモロ子が「何言ってんだテメ」と切れかかった。すると女子の一人がワッと泣き伏した。
「ワーッ! 羽村君がそんなことするなんて信じられないーっ」
クラス一太った石松という女だった。あだなはもちろんガッツ。
「ガッツてめバカじゃねーの、アイドルなんか毎日やりまくってるに決まってんだろ」
モロ子が吐き捨てるとゴボジがゲゲゲゲゲそりゃうらやましいゲゲゲゲと笑った。ガッツが机をひっくり返した。それが合図であったかのように、教室のあちこちで小競り合いが始まった。
スポーツ新聞を丸めてポコポコとなぐり合う。きのう買った調理パンをぶつけ合う。少年たちは押し合いへしあい。机が倒れる。少女たちはスカートのすそがまくれ上がるのも気にせず、黄色い声を上げながら走り回る。まるで祭りのような大騒ぎ。少年の一人が窓わくにしがみつき「落ちる落ちる!」とふざけてみせた。他の生徒たちが「落ちろ落ちろ!」とはやし立てる。いつしかコールとなり、「落・ち・ろ! 落・ち・ろ!」と全員が手拍子を取り始めた。八木もモロ子もゴボジも、アニメグループさえもが、ニャンニャン写真の興奮から始まった無意味な騒動に我を忘れていた。
落・ち・ろ! 落・ち・ろ! 落・ち・ろ! ここは三階。死にはしないだろうが大怪我の可能性は十分にある。しがみついているのは栗里というプラモデル好きだ。「中学の頃はプラモも流行《はや》ってて楽しかったが、高校来たらガキ扱い、最近俺、しょっぱいな」というのが口ぐせであった。一度だけシンナーを吸ってみたことがある。ゲロ吐いて半日寝込んだ。ズリネタはモロ子。もちろん童貞。
落・ち・ろ! 落・ち・ろ! 栗里にしてみれば黒所に来て以来初めて脚光を浴びた瞬間であった。
落・ち・ろ! 落・ち・ろ! 落・ち・ろ! 落・ち・ろ!
『落ちてもいいかもなあ』と栗里は思った。
『どうせ俺就職コースだし……』
落・ち・ろ! 落・ち・ろ! 落・ち・ろ! 落・ち・ろ!
『どうせ今日かえってもガンプラ作って寝るだけだし』
……落・ち・ろ! 落・ち・ろ!
『どうせ今週ベストテンに明菜出ないだろうし……』
落・ち・ろ! 落・ち・ろ!
『ようし! 落ちよう』
落・ち・ろ! 落・ち・ろ! 落・ち・ろ! 落・ち・ろ! 落・ち・ろ! 落・ち・ろ! 落・ち・ろ!!
『行くぞ!』……
「やべえ、田代田が来るぞ」
生徒の一人が担任の名を呼ぶや全員が一斉に自分の席へ向かった。ヒーローになりそこねた窓わくの少年が、「ふっ、やっぱ俺、最近しょっぺーよな」と自嘲《じちよう》的な笑みを心で浮かべたのと同時に、入り口の扉を開けて入ってきたのは担任ではなく大橋賢三であった。
全員が「なーんだよ」とコケながら言った。そしてまた各自がバラバラに騒ぎ出す。
「な、なんだ? 山之上、今日はやつらやたらに早く集ってるじゃないか」
入り口付近の席にいた山之上に、賢三が尋ねた。
「お、お前もしかして、なななにも知らんのか?」
「何をだよ?」
「しし新聞見てないのか?」
「見たよ。コボちゃんが相変わらずウッカリチャッカリしていたよ」
「読売だな……四コママンガの話じゃない。これだよ」
山之上が賢三の眼前にスポーツ新聞をつきつけた。
大きく、一枚の写真があった。
毛布一枚に少年と少女がくるまっていた。肩から上しか映っていないが、どうやら二人は裸のようだ。カメラのフラッシュに驚いたのか、二人ともこわばった顔をしている。少年は手のひらをこちらへつきつけている。少女は怯《おび》えつつも、しっかりとレンズを見つめている。少年の片手は少女の肩を強く握り、少女の両手も、離れぬように、離さぬように、少年の陽に焼けた体に回されている。
『17歳アイドルセックス!? 羽村一政 山口美甘子言語道断グレートニャンニャン写真!!』
極太文字のキャプションが躍っていた。
「おい、今、記者会見やってるらしいぞ! ちくしょーテレビねーのかよ」
八木が叫んだ。
まだ窓わくにしがみついていた栗里が、ハッとした顔で言った。
「俺、ラテカセ持ってる。粗大ゴミの日に拾って来たんだ」
オオーッ! と大歓声が教室に巻き起こった。『ヒーローになるチャンスはまだあるぜ』栗里が、心でニヤリと笑った。
結果的には六〇%以上の視聴率をはじき出すこととなる美甘子と羽村の記者会見を、黒所の生徒たちは栗里の拾ってきたラテカセで目撃することとなった。
ラテカセとはラジオとテレビ、そしてカセットテープレコーダーが一体化したポータブルコンポのことであり、当時の高校生がノドから手が出るほど欲しがった夢のAV機器である。
ラテカセを中心に生徒たちはぐるりと取り囲んだ。ここでもクラス内ヒエラルキーは明らかだった。八木やモロ子といった目立つ連中が最前列を陣取り、ゴボジたちの運動部系が二列目にいた。その後ろに普通人グループ、アニメ好きや、賢三、山之上といった下層連中が、隙間から盗み見ることとなった。
「栗里、早くつけろよ」
栗里が八木にせかされるままスイッチをひねった。ぶううんとラテカセの放つノイズ。ゴクリ、と生徒たちが息をのんだ。まず音声が流れ出た。舌足らずな声がこう言った。
「こんにちは、永六輔《えいろくすけ》です!」
ズコーッと集団でずっこけた黒所の生徒たち。
「あ、ごめん、ラジオつけちまった」
しかもAMだ。背後から二、三発思いっきり頭をどつかれながら、あわてて栗里がスイッチを回した。ところが焦ったために再びAMラジオのスイッチをひねってしまったのだ。
「このババー! さっさとおっ死ねくたばりぞこない!」
今度は毒蝮三《どくまむしさん》太夫《だゆう》であった。栗里の後頭部を容赦の無いパンチが集団で襲った。泣きながら操作すると今度こそはテレビがついた。
山口美甘子が画面いっぱいに映っていた。
フラッシュが嵐のように点滅している。カメラが引くと横に羽村一政の姿があった。少年と少女は緊張したおももちで座っている。
「今回、お二人の写真が新聞に掲載されたわけですけどね、これはいわゆるニャンニャン写真と考えていいものなんでしょうかね?」
レポーターが質問を投げかけた。ワイドショーでよく観る男の声だ。羽村が何か言いかけたのを、横にいた背広姿の男がさえぎって言った。
「私共ではあくまで、撮影中のオフショットの一枚であり、ニャンニャンですとか、そういった特別な意味合いはないと考えて……」
わけわかんないこと言うなよ! アンタに聞いてんじゃないよ! などと、記者席から一斉に野次が飛んだ。
「お二人は恋愛関係にある、そう考えていいんですよね」
女性レポーターが言った。
「はい、そうです」
羽村一政がキッパリと答えた。
「大事に思ってらっしゃるんでしょうね」
「そりゃ、まあ」
「じゃあキスとかももうお済みでしょうね」
バカな質問に羽村が絶句したところを、別のレポーターがたたみかけた。
「若いんだからキスじゃ済みませんよね」
羽村が声の方向をにらんだ。
マシンガンのごとくシャッター音。
背広姿の男が「何言ってんだアンタは」と怒鳴り声を上げた。
「お前に聞いてんじゃないって」とレポーターがやり返す。
背広姿がコップを投げた。水しぶき。
シャッター音。閃光《せんこう》。怒声。
「やりました──っ」
突然その時、十七歳の少女が「やりましたーっ」と大声で叫んだものだから、場内にいた全ての人間の動きがピタリと止まった。
「やりました。私、山口美甘子十七歳、羽村君とHしちゃいました」
美甘子がテレビカメラにむかってニーッと笑ってみせた。
一瞬の沈黙の後、オーッ! という歓声が巻き起こった。
シャッターとモータードライブの機械音が鳴り響き、フラッシュで場内は雷の直撃を受けたように光り輝いた。
「あ、あの、H……っていうのは、そのつまりニャンニャンの……」
百戦錬磨のはずのレポーターが、しどろもどろになりながら十七歳の少女に尋ねた。
「ニャンニャン、っていうの、もうオヤジっぽいからやめにしませんか? H、って言った方が可愛いと思うからそれでもいいでしょ?」
「は、はい」
思わずレポーターがうなずいてしまった。
「あ、あの、え、Hですか、美甘子さんはどういった心境で羽村さんとですね、その、え、H、してみようとお考えになったわけですかあ? いっちょういちゆうには語れないでしょうが」
美甘子は微笑みを絶やさなかった。ア然としている羽村をチラリと見て、「平気よアタシ」と声なく語りかける余裕さえみせた。
「いっちょういちゆうじゃなくて、いっちょういっせきだと思うんですけど」
まずレポーターの言葉の誤りを訂正してから、美甘子は胸を張り、カメラを見据えて言った。
「最初に、ファンの皆さん、映画のスタッフの皆さん、あと、お父さんお母さんに謝らせてください。バカな美甘子で本当ゴメンなさい。そして今日来てくださったマスコミの皆さん、頭の悪い小娘の無責任な行動に時間を無駄遣いさせてしまっています。どうもすみません」
深々と頭を下げた。顔を上げ、そこで「ハッ!」という顔をして横を見た。
「あ、忘れてた。羽村君もゴメンね」
この日、場内に初めてなごやかな笑いが起こった。
「私は、私は羽村君とHをしました。逃げようがないからはっきり言います。端から見たら軽はずみかもしれない行動を取った理由は、好きだから。生まれて初めて、人を好きになったからです。そうしたら、止めることができなかった。もっと話してみたいと思ったし、手を握ってみたいと思ったし、もっと二人の距離を近づけてみたいと思いました。その近づいていく途中に、どうしてもHがあって、避けることができなかった。それが悪いことであるのか、もしかしたら愛とか呼ばれるものなのか、私にはまだわかりません。ただ今別に、私は全然後悔していない。後悔なんかしたら、自分が可哀そうだと思う。きっと多くの同世代の女のコたちと私は一緒なんだと思うんです。自分の想いに従って行動すると、いつも怒られてしまう。本当にゴメンなさい。ゴメンね。ゴメン。ゴメン」
コメントの後半から、美甘子の大きな瞳《ひとみ》には涙がたまっていた。
こらえきれず一粒二粒と流れ落ちていく、ぬぐいもせず、泣き笑いの表情で言った。
「でも私は、大好きな人とHしたことを、どうしても後悔することなんてできない」
……栗里は、自分のラテカセの映し出す映像が、黒所の女生徒たちに大いなる影響を与えていることにハタと気付いた。
ブラウン管を見つめながら、彼女たちのほぼ全員が目にうっすらと涙をためていたのだ。モロ子からガッツまでもがである。堀之田詠子などはポロポロと涙をこぼしている。彼女らは一様に、山口美甘子の大演説に、同世代の少女として共感しきっている様子なのであった。栗里はなんとなく、また自分が教室の中でヒーローになったような気がした。まったくの勘違いなのであるが、マイ・ラテカセが呼んだ感動に得意気であった。
ところが、何気なく教室の窓の方を見上げた彼は、やはり自分はまだまだヒーローにはなれぬと悟った。
あの窓から飛び降りたらヒーロー、その行動を、実際に成し遂げた同級生を目撃してしまったからだ。
「あ……大橋が……」
栗里が何気なく見た教室の窓から、今まさに、大橋賢三が飛び降りるところであった。
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第4章 自転車
鬼気せまる表情を浮かべるわけでもなく、『虫が飛んでくるから窓しめよう』ぐらいな調子で賢三は席を立ち、そしてそのまま三階の校舎の窓からポンと飛び降りたのだ。
真っ先に窓際へと駆け寄ったのは山之上であった。栗里と共に、賢三の自主的な落下を目撃していた。
「けけけけ……けんぞおおっ!」
叫んだ。のぞきこんだ彼の目に、うつ伏せで倒れている賢三の姿が飛び込んできた。
「しし死んだ! けけ賢三が死んだっ」
賢三の体は校庭の上で奇妙な型をつくってうつ伏せになっていた。
両腕はガッツポーズ。両足は相撲の四股《しこ》の状態である。三階から見ればこれは懐かしやスペースインベーダーそのものではないか。校庭のインベーダー、その傍らではたまたま通りかかった男子生徒が一人、わなわなと震えながら叫んでいる。
「マジマジマジマジ! これマジ? え、何? 落ちてきた! ビビった! スゲービビった!」
落ちた! 飛び降りたぞ! 自殺!? 誰だっ!?
山之上の背後でも悲鳴が上がった。他の教室からもただならぬ叫びが聞こえた。
「賢三! 死んだのか? しし死んでんのか!?」
山之上が賢三の名を呼ぶと、一斉に窓ぎわに駆けよった生徒たちから次々と声が挙がった。
「ケンゾーか!……ケンゾーて誰だっけ?」
「大橋君のことよ」
「オーハシか!……そんなやついたっけ?」
教室で影の薄い少年、彼の命たるやなんとうすばかげろうのごとき軽さであることよ。
それでも校内での自殺(?)以上にセンセーショナルなことなど十代の若者にはそうはない。美甘子記者会見の余韻も冷めぬ間に、連続して起こった大事件に、少年少女たちはまさに血湧き肉躍った。
「死んだぞ!」
「死んだのか? 本当に死んだんだな」
「死んだよな! 死んだに決まってるよな」
死は、それが同級生の死ともなれば、最大級の学内イベントである。同級生の死一つで、この先どれだけ会話のネタに困らないことか、大学に行けばコンパで受けるし、恋人ができればピロートーク用のトラウマ話にこれまた最適だ。そんな先のことよりも、なんたって数ヶ月はこのネタ一発で学校生活の退屈から逃れることができるではないか。
『どうか死んでいてくれ、オーハシケンゾーとかいう影の薄い同級生よ!』
教室の生徒たちは熱狂に近い情念で彼の死を望んだ。
ところが賢三は生きていた。
マジマジマジ!? と、まだマジ連続の止まらない男子生徒の足下で、賢三の両手両足が、マジマジのリズムに乗って、まったくスペースインベーダーの動きそのままに、上へ下へと痙攣《けいれん》を始めたのであった。
『その動き、どうか死後硬直であってくれ!』
そんな生徒たちの願いも届かなかった。賢三がムックリと起き上がったのだ。逆に「ヒ〜!」と言ってマジマジ少年が校庭に座り込んだ。
「賢三! だだだ大丈夫かーっ」
教室の中で唯一賢三の無事を願う山之上が叫んだ。
賢三が見上げた。
二人の目が合った。
賢三は無表情だった。
山之上がもう一度名を呼ぶと、賢三はハッと気づいた表情をした。そして微笑んで何か言った。
聞き取れない。
「何だ?」山之上が聞き返す。
賢三が、微笑みながら言った。
「バンド、がんばれよ」
「え?」
「バンド、がんばれよ。ライブ、必ず成功させろよ、お前らなら、できるよ」
何言ってんだお前もメンバーじゃないか、そう山之上が言おうとするより早く、賢三はスタスタと小走りに去っていこうとする。「賢三!」もう一度呼んだがふり向きもしない。校舎のあちこちからバラバラと、教師たちが飛び出してくるのが見える。賢三の姿は校庭から消えた。校舎の影にかくれもうわからない。
「山之上、行くぞ」
山之上の背後で不意に声がした。
ふり向くと眉間に皺《しわ》を寄せたカワボンがいた。
隣りにはタクオが並んでいた。
「タクオと一緒にあわてて走って来たんだ。山之上、賢三を追うぞ」
「カカカワボン、一体あいつどうしたっていうんだよ」
「わからん、最近様子が変だとは思っていたんだが、まさかそんな……」
「賢三のことだ、まずはチャリに乗るはずだ。山之上、カワボン、とりあえずダッシュだ」
三人の少年は大さわぎの教室を抜け、駐輪場へと全力で走った。
教師たちが教室へと急ぐ廊下を逆流し、階段を三段飛ばしで駆け下りた。
角を曲がり、時にすっころび、誰かが誰かを助け起こし、また全速力で走った。
すぐに息は上がり、ふくらはぎの肉は岩のように固まった。
それでも走った。
山之上はヒーヒーとノドから奇妙な息を立て、タクオはウオオオッとおたけびを上げた。
カワボンとて噴き出る汗をぬぐおうともしなかった。
文科系の彼らの体はいずれも後方にのけぞり、何より全力でありながらまったく速くはなかった。
ドタドタとぶかっこうな三匹のバカレースとしか端からは見えないだろう。だが、走ったのだ。友を追って少年たちは走り続けた。
やっと駐輪場のある校舎裏に出たとたん、山之上が勢いあまって地面に倒れこんだ。眼鏡が飛び、顔面から砂利に思いっ切りつっ込んでいった。
「何やってんだ山之上! 間に合わねーだろ」
口の悪いタクオが叫んだ。賢三の自転車はすでに無い。
「タクオ、お前先に追っかけてくれ、とりあえず賢三の帰宅ルートを走れ。おい山之上、大丈夫か……」
助け起こすと、山之上はブーッ! と鼻血を噴き出した。賢三よりこっちの方が先に死にそうである。ところが山之上は血まみれの顔でニヤリと笑ったではないか。
「カ、カワボンも先に追っかけてくれ、大丈夫、ぼ、僕のチャリはお前らのオバチャリとは性能が違うのさ。ドロップハンドル、しかも十段変速のな。フフフ、フフフフフ」
妙な自慢をしたものだ。うむ、とうなずきカワボンは自分のチャリのチェーンロックを外した。タクオはすでにまたがっている。二台のオバチャリは勢いよく……と言っても何分オバチャリであるからして最初はノロノロと、駐輪場を後にしたのであった。
両脇に商店街やキャベツ畑を見ながら二人は全速で走った。
すぐにスピードに乗り、ペダルをこぐ両足は昔のマンガのようにクルクルと何本にも見えた。抜きつ抜かれつ、賢三の姿は見えない。ルートが違うのか? 一体賢三の身に何があったというのか? ものすごい勢いで周りの景色が後方へと流れていく。街の喧騒《けんそう》がドップラー効果でゆがんで消える。
昇り坂にさしかかった時、見なれた賢三の背中がついに見えた。
遠い。30メートルは離れている。彼を乗せたチャリは坂を昇り切り今まさに下らんとするところだ。あの坂を下り切ったら道は四方に分かれ、どちらへ行ったかは判別できない。
「賢三ーっ!!」
タクオが叫んだがふり向きもしない。
坂を下り始めた。もう間に合わない、「急げ!」「無理だ!」足が重い。息が続かない……。
するとその時マッハの勢いでドロップハンドルのサイクリング車が二人を追い越して行った。
山之上。
速い。速過ぎる。
さすが十段変速と言わざるを得ない。
「俺がスリップストリームを作る。後に続けっ」
山之上が振り向いて言った。スリップストリームとは、F1レースなどで、バカっ速のレースカーの後ろに出現する空気抵抗の少ないゾーンのことである。ここに入るとグンと車が加速するのだが、いくらなんでもそんなものチャリンコでできるはずがない。とはいえ山之上の出現はカワボンとタクオの闘魂にもう一度火をつけた。
三台のチャリは一気に坂を昇り切り、また一気に駆け降りた。山之上のギアはもちろん10=Bカワボン、タクオのギアはもちろん平《※》≠ノ入っている。
「タクオ、山之上、俺ら『バニシング・ポイント』みたいだな!」
「おう、『ダーティ・メリー、クレイジー・ラリー』ってとこだ」
「な、なら僕は『激突!』の暴走トラックってとこか」
スピードが三人をハイにしていた。それぞれ名画座で見たカー映画に自分をなぞらえ「ヒャッホウ!」と奇声を発した。
賢三の背中がグングンと近づいてくる。
25メートル。
20メートル。
15メートル。
あとわずかだ。さらにスピードが高まる。
あと少し。
あと10メートル!
その時、巨大な鯨のように、横道からダンプカーがヌッと飛び出してきた。
三人は同時にあることを思い出した。彼らがなぞらえたカー映画のドライバーたちは、いずれも皆、スピードの出し過ぎであの世へ直行する悲惨なエンディングを迎えていたことを。
「うわあああああっ!!」
「しぬうううううっ!!」
「よよよよよよけろ!!」
ドンガラガッシャンと三台はもつれ合いながら横すべりに倒れ込み、すんでのところでダンプカーを逃れた。砂けむりを上げながら大型車が去った後には、地面に寝っころがって涙目で荒い息を立てる三少年の姿があった。
「ゼーゼー、助かった」
「ゼーゼー、生きてるっていいなあ」
「ゼーゼー、そ、空が青いよ」
大自然に感謝している場合ではない。三人は腰が抜けながらも立ち上がろうと試みた。
と、大橋賢三の自転車が逆に近づいて来て彼らの前でピタリと止まった。
「おい! お前ら死ぬ気か? あぶないじゃねーか」
逆に心配されてしまったという落ち。三人は何とも言えぬ表情で顔を見合わせた。
練馬駅近くの喫茶店「ラリー」は、まだ開店したばかりであった。
客は五人。営業をさぼったとおぼしきサラリーマンが競馬新聞を読んでいる。十分ほど前にナポリタンを頼んだところだ。マスターは注文を受けると黙ってミートソーススパゲティを作り始めた。できあがったミートソースをフォークでかき混ぜ、「はい、ナポリタン」と言ってサラリーマンのテーブルに置いた。サラリーマンは顔色一つ変えず、粉チーズとタバスコを山のようにかけて、競馬新聞のエロ面をながめながら黙って食べ始めた。
と、そのような店であるからして、学生服姿の高校生が昼前から入ってきたところで何のおとがめもなかった。カワボン、タクオ、山之上、そして賢三は、窓辺のテーブルで顔をつき合わせていた。
「まさか追って来るとは思わなかったよ」
賢三は「すまんな」と言ってペコリと頭を下げた。
素直に感謝されて三人は照れた。同時に賢三のどこかふっ切れたような表情を奇妙だと感じた。
「バカ、それよりまさか飛び降りるとはこっちも思わなかったっての」
取りあえず、タクオが憎まれ口を叩《たた》いてみた。賢三は乗ってこなかった。
「ああ」と、小さくうなずいただけだった。三人は、黙ってしまった。
「……なんか、観たい映画でも思い出したのか?」
と、カワボン。
「アレじゃねーの? エロスクラップを机の上に出しっぱなしにしておいて、見つかっちゃまずいとか思って……」
と、タクオ。しかし賢三は曖昧《あいまい》な表情のままコーヒーカップに目を落としたままだ。
「しし、死のうと思ったのか?」
山之上がズバリと尋ねた。
「じじ、自殺しようとして飛び降りたのか?」
賢三は答えない。また沈黙。店内にはAMラジオが小さく流れている。関越自動車道の渋滞に関する交通情報。
「バカ、山之上、三階じゃ死なねーっての」
「なななんだとタクオ、じゃあ自殺以外に三階から飛び降りる理由なんてあるかよ」
「どうなんだ賢三? お前、死のうとしたのか?」
「……わからない」
カワボンの問いに、賢三はそう答えた。
「わからない。気づいたら地面で倒れてた。気づいたらチャリに乗って走っていて、気づいたらお前らが倒れてて……気づいたら今この店にいるんだ……なあ……あれナポリタンじゃなくてミートソースだよな」
賢三がゆっくりとサラリーマンを指差した。
三人は顔を見合わせた。タクオが何か言おうとするのをカワボンが手で制した。代わりに尋ねた。
「賢三、最近どうだ?」
「え?」
「最近どうなんだ?」
「どうって……どうも」
「お前最近、どうかしてるよ。言ってみろよ。何かあるなら俺に言ってみろよ」
「なんかそういうの恥ずかしいな」
「なんで?」
「なんか青春みたいで恥ずかしいよ」
「知らねーよ。青春だかなんだか知らねーよ。だけどさ、青春なら青春でも別にいいじゃねーかよ! 賢三、俺はバンドの……キャプテン・マンテル・ノーリターンのリーダーなんだから、メンバーの悩みは聞く権利があると思うんだよ。来月にはついにライブもあるんだよ。なのにメンバーが三階から飛び降りて、知らないふりなんかできるわけないだろ」
「バカ、賢三、俺だってメンバーだ。聞く権利は十二分にある」
「ぼ、ぼ、僕にもだ」
賢三の体からフッと力が抜けた。言った。
「青春だよな、これって」
少しだけ、笑い、続けた。
「山口美甘子、いるだろ。ついこの間まで同級生だった山口、今じゃスターの山口だよ。俺、あいつのこと好きだったんだ」
いきなりのカミング・アウトに三人は絶句した。
黒所のくだらないやつらと自分たちとを差別化するために、カルトなロックや映画で一晩中語り合う彼らたちではあったが、「恋」という感情について論じ合うことだけはなかった。エロネタはいくらでもOKなのだが、「恋」という観点から異性を、特に同級生を語るともなれば、それはお互いを、結局のところ他の連中と何も変わらぬ思春期真っただ中の青臭いだけの存在と認めるに等しかった。何より恥ずかしかった。お互いを認め合う友なればこそ、「恋」の領域に侵入することはタブーと暗黙の内に決まっていたのだ。
いとも簡単に賢三が禁句を口にした。
「好きだし、尊敬してた。あいつに負けないために本を読んで映画を観て、詩を書いて、あいつのいるところにたどりつこうとがんばっていたんだ。笑えるだろう?」
賢三が笑ってみせた。
三人の誰も笑わなかった。
カワボンが言った。
「記者会見が、ショックだったのか」
「うん……それもある……と言うかカワボン、アレ、俺のせいなんだ」
「賢三のせい? 何が?」
「山口が羽村一政とセックスをしてしまったのは、実は俺のせいなんだよ」
「よくわからんな、なんでだ?」
「俺、ほれてたからさ、山口でだけはオナるまいと決めてたんだよ。説明しなくてもこの気持ちお前らにはわかるよな? ところがさ、つい耐えられなくてさ、きのう山口のグラビアでぶっこいちまったんだよ。四回」
「四回か。よくそれでとめられたな」
「いや本当は六回なんだけど……で、そん時、俺は想像の中で羽村一政になってたんだ。俺みたいなダセーやつと山口がやれるわけねーだろ。だから羽村になって、美甘子と六回やったんだよ。そしたら、それが新聞に載ってバレちまったんだ」
え? と三人が目を丸くした。
カワボンが言った。
「え? 何だって? お前が想像の中で羽村になって、オナって、それが新聞でバレたって言うのか? 何言ってんだ賢三」
「俺が羽村になって美甘子とやったから、美甘子は羽村とやって新聞に載っちまったんだ」
「……わからんな」
「俺俺俺のせいなんだっ」
いきなり賢三が声を荒らげた。
「俺のせいなんだっ。美甘子を俺のいやらしい欲望が汚しちまったんだ。俺が羽村になって美甘子をやったから、美甘子は本当に羽村一政にやられちまったんだ。俺の性欲の汚ならしさがバラされる代わりに、美甘子のニャンニャン写真が公表されちまったんだ。俺の欲望のせいで美甘子が代わりに非道《ひど》い目にあっているんだっ。カワボン、タクオ、山之上! すべては俺俺俺俺俺のせいなんだよっ」
一気に言って机につっ伏した。
コーヒーカップが激しく揺れ音を立てる。店の主人が「静かにしてくれよ」とぶっきら棒に言う。
三人は言葉もなかった。うちひしがれた賢三の姿を見下ろすしかなかった。店の奥では主人が、空気を変えようとしたのかラジオを消し、代わりにテレビをつけた。
「……ノイローゼってやつか?」
カワボンの耳元でタクオが言った。
あるいは、これが世に言う恋わずらい≠ニいうやつなのか、とカワボンは思った。
彼とて、実は黒所の中で憎からず思っている女子がいないわけではない。しかし、奇妙な妄想に囚《とら》われるほどの感情というものをまだ知らない。それで思わず、賢三にこんな間の抜けたことを尋ねた。
「山口を、愛しているのか?」
横でタクオがウププ、と噴いた。山之上はヒャハハと下品な笑い声を立てた。
「そうだ、愛していたんだ」
顔を上げた賢三が即答した。
真顔だ。
「腐り切った黒所の中で山口だけが一筋の俺の光だったんだ。だが、もう駄目だ。俺が山口を汚した。俺が羽村一政となって山口でオナったことで……ぶっこいちまった……山口は本当に羽村にやられちまった。そして俺の汚ならしい性欲の代わりに、山口のニャンニャン写真が白日の下にさらされてしまった」
「賢三、それ本気で思っているのか? どう考えても妄想だぞ」
「妄想じゃないよカワボン。本当だ」
「お前、病気だよ。歌詞のこととか受験のこととか……楽器が向いてないとか、それに山口のこととか、お前ちょっと考え過ぎたんだよ。しばらく学校休んでさあ……」
「妄想じゃない。俺のせいなんだ」
またしても、誰もが黙ってしまった。テレビからは「笑っていいとも!」のオープニングソングが流れ始めた。
──お昼休みはウキウキうぉっちんぐあちこちこちこちいいとも ハウドゥユードー 御機嫌いかが 御機嫌ななめは真っすぐに──
「……じゃ、山口のセックスがお前のせいだとしよう。で、賢三、だったらどうだっていうんだ? 校舎から飛び降りて自殺して、それで山口が処女に戻るとでも言うのか?」
カワボンがもっともなことを言った。賢三は無言であった。
「それとも飛んで山口に会うつもりでもいたのか? 確かに、山口は俺らみたいなボンクラとは天と地よりも離れたところにいる。遠いよ。目茶目茶遠いよ。俺らがいくらあがいたところで、山口や羽村一政のいる世界にはたどりつけないよ。もしかしたら一生無理かもしれない。俺らは一生はいつくばって生きていくのかもしれない。でもな賢三、何かやらなければ、何かを始めなければ、一歩でも、いや一ミリだってあいつらに近づくことすらできないじゃねーか。賢三、訳のわからない妄想に囚われてるヒマがあったら、一つでも俺らのバンドのための歌詞でも書いてこいよ」
賢三はしばらく黙っていたが、吐き出すように言った。
「俺、バンドはやめるよ」
三人が同時に「え?」と聞き返す。
「俺、バンド、やめるよ、もうお前らとは一緒にやれない。俺のせいで山口があんなことになっちまった。俺のせいでバンドまで駄目になっちまったら、申し訳がないよ」
「お前まだそんな訳のわからないことを……」
カワボンが言いかけた時、山之上が不意にウヒャハハハ! と笑った。
「けけけ賢三、ぼ、僕にはお前の本当の気持ちがわかるぞ。お前のオナニーのせいで山口が羽村にやられた? そそそんなバカなこと、本当はお前、これっぽっちも思ってやしないんだ。そう思いたいだけなんだ。嫉妬《しつと》だろ賢三? お前は山口を、トップアイドルに奪われたことが口惜《くや》しくてたまらないんだ。現実を認めたくないんだ。百万年かかったってお前はアイドルにはなれんからな。それでお前のオナニーのせいなどという、ノイローゼを気取ったような言い訳を作って、少しでも自分の劣等感を、嫉妬を、ごごごごまかそうとしているに過ぎないんだ」
すっかり冷えたコーヒーを、ノドを鳴らして一気に飲むと、また続けた。
「バンドにしてもそうだ。おおお前のせいでバンドが駄目になるだと? うぬぼれんじゃねー。ほほ本音を言え! 僕はわかってるんだ。バンドに居どころを見つけられないからだろ? 楽器ができないからだろ? 僕より面白い歌詞が書けないからだろ? つつつまりお前は逃げようとしているだけだ。バンドからも山口からも黒所からも、お前は逃げようとしているだけなんだよ……ウッ!!」
山之上が突然腹をおさえて下を向いた。
「コココ、コーヒーが下っ腹に来たっ!」
せっかくいいことを言ったのに、つめの甘い山之上であった。
賢三はそれでも、気の抜けた表情であった。
「もういいよ山之上。すまんな。とにかく、俺は抜けるよ」
「やめてどうする気だ?」
「わかんないよカワボン。とにかくもういいんだ。バンド、がんばれよ、ライブ、必ず成功させろよ、お前らなら、できる……」
キラリと輝く金属片が賢三の顔面をかすめて飛んでいった。
壁にぶつかりカチャンと音を立てて落ちた。
タクオがスプーンを投げつけたのだ。
「バカヤローテメーいい加減にしろよっ」
目をむき、賢三の胸ぐらをつかんだ。
力まかせに引っぱろうとしたがスッポリと手が外れた。勢いあまって椅子ごと後方にひっくり返った。すぐさま起き上がり賢三の肩をつかみ引っぱり上げようとしたがまたまた手が外れて失敗。後方にのけぞった。ならばと賢三の頭部を張ろうと試みるも目測を誤り見事に空振り。ぶうん! と空を切った。端から見たなら謎の一人ラジオ体操イン・ザ・ラリーと言ったところだ。
「何やってんだ」
カワボンにつっ込まれてしまった。しかし次に放ったもう一発の張り手はヒットした。ぺちゃっ、と賢三のおでこをはたいた。
「賢三! お前立てっ。立て立て立ってみろ」
言われるまま、賢三が無表情で立ち上がった。
ぺちゃっ、とまた音がした。
タクオがもう一発張り手をかましたのだ。賢三の頬のあたりをかすめた。
「おいちょっと、ケンカなら外でやってよ」
ラリーの主人がつまらなそうに言った。
「すいません、おいタクオよせよ」
カワボンがおっとりとタクオを止めた。
「だってカワボン、こいつ勝手なことばっかり言ってよぉ」
タクオは涙目になっていた。気の短いタクオとはいえ人を殴る経験は初めてであった。かすっただけのビンタだったが、興奮している彼の主観では、ヘビー級ボクサーのKOパンチ炸裂《さくれつ》、ぐらいなことに感じられていた。
『殺してしまうかもしれない』そう思うと恐ろしくなって、思わず涙ぐんでいたのだ。
「よせってば」
「殴ってやるんだ! 殴ってやるんだ!」
今度こそ本当に殺してしまうかもしれない! 悲愴《ひそう》な決意でふりかぶったタクオの顔面に、賢三がコップの水をパチャッとかけた。
「うわっ! てめーバカ賢三!」
水をかけられてタクオが本気で切れた。
ウオオッと叫びながら体ごと賢三に体当たりをかました。テーブルが倒れグラスが割れる。
「ガキどもいい加減にしろっ!」
主人がお盆を投げつけた。山之上の後頭部に直撃。
「ななな何すんだカッターで切るぞ!……ああ下っ腹にまた来た」怒ったり苦しんだりの山之上。
「とにかく外に出よう」
両腕を広げもつれあうタクオと賢三を、カワボンが店外へ連れ出す。
店内のサラリーマンはたじろぎもせず競馬新聞に目を落としたままだ。
彼の頭上のテレビでは、テレホンショッキングのゲストに来た少女アイドルが、タモリを相手に山口美甘子について語っている。
「こんなこと言うと私も何か言われちゃうかもしんないんですけどー、同じ歳の女のコとしてー、美甘子ちゃんの気持ちってよくわかるんですよー、そりゃ悪いことなのかもしんないけどー、好きな人がいたらそーゆーこと(笑)だってあるかもしんないしー、って言うか、あたしは記者会見見て美甘子ちゃんのこと大好きになりましたー」
タモリは聞いているのかいないのか。
「そうだねー、まーとりあえずオジさんは、羽村くんになってみたいねぇ……んなこたない」
と、一応ボケてみせた。スタジオアルタがドッと沸いた。
※オバチャリの変速ギアの多くは「軽」「平」の二段になっている。
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第5章 賢三対関東バス
「ラリー」を追い出された少年たちは、チャリンコを押して、取りあえず練馬パレス座の前までトボトボと移動した。
数ヶ月前、山之上をのぞく三人で、揃ってポルノ映画を観に来た場所だ。劇場の受付横に、車がかろうじて二台とめられる駐車スペースがあった。
四人はチャリをとめた。壁にはポルノ映画のポスターが無数に貼られている。
『節子の告白 あれは遊びよ!』
『聖子の太股《ふともも》』
『獣のようにもう一度!』
『大巨乳のしかかる』
雨風にさらされた裸の女の写真は、いずれも色があせ、白っぽく変色している。
ポスターを背に、学生服姿の四人がふさぎこんだ顔をしている。さっきまでの興奮はすっかり冷めてしまった。それぞれの額にじんわりと汗が浮かんでいる。もうすぐ夏が来る。
「賢三」
「ん?」
壁にもたれてカワボンが声をかけた。
「本当にやめる気か? バンド」
「やめるも何も、俺はまだメンバーにもなっちゃいないよ」
「茶化すなよ」
「茶化してない。事実だ。さっき山之上の言った通りだよ。できることがない」
「居場所がないから、やめるのか? 探そうとは思わんのか?」
「探したよ。でも、見つからない」
賢三が黙った。
ガチャン! と音がした。タクオが自販機から缶ジュースを取り出し、賢三に投げてよこした。よく冷えたマウンテンデューであった。
「賢三、さっきは悪かった」
「……ああ、俺も、すまん」
「山口美甘子のことは、正直オレもショックだったよ」
「ああ」
「でもよ、バンドってもてるらしいぜ。オレらもうまくすればよ、羽村一政みたいに、山口美甘子みてーなアイドルといつか一発やれっかもよ」
タクオがアハハと笑った。すると賢三はさらに押し黙ってしまった。マウンテンデューの缶さえ、足下に置いてしまった。どこか遠くで、今年初めて聞くセミの声がしている。カワボンが再び聞いた。
「やめるとして、これから何をする?」
「わからない。黒所へも、もういかない」
「本気か」
「本気だ。本気でもういかないつもりだ。俺はとにかく今、消えたい。誰も俺を見ないでほしい。俺も自分を見たくない。ただ、消えてしまいたいんだ」
山之上が下っ腹をおさえながら、不意に高い声で歌った。
「俺の存在を、頭から打ち消してくれ
俺の存在を、まったく無いものとしてくれ」
町田町蔵の曲の一節であった。
「じゅ、重症のノイローゼだな」
山之上が缶を蹴《け》った。美甘子が以前にアルバイトをしていたタバコ屋の方へコロコロと缶はころがっていった。
少年たちはタバコ屋の店頭に、山口美甘子の幻影を一瞬だが確かに見たような気がした。
「いつか、ここで山口に会ったよな」
カワボンが言った。
「俺らはポルノ映画を観るためにここへ来たんだ。昼間っからな。『何やってんだ俺たちは』って心の隅で思いながら。でも女の裸見て興奮して、そこそこ満足してくらがりから出てきた。そしたら山口美甘子がタバコ屋のカウンターに座っていた。確かに、俺らと較べてあいつは輝いていたよな。同じ歳でありながら、どうして闇と光にハッキリと分かれちまうんだろうなって、言わなかったけど、あの時俺はむなしくて仕方なかったよ」
タバコ屋の店頭には今、店番のバーさんが座っていた。半分眠りながらテレビを観ている。昼のワイドショーだ。司会者の顔と切り替わり、山口美甘子の姿が映し出された。
その途端、賢三の体がビクッと震えるのを三人は見た。意志とは別のところで肉体が反応したかのような震え方であった。
「賢三、気にすんな、女なんぞいくらでもいる」
タクオが利いた風な口をきいた。
「でで、でかいこと言って、お前が女の何をわかってるって言うんだ」
山之上が茶化し、タクオが「うるせー」とやり返した。押し黙る賢三の前で二人が、空手映画のまねを演じてみせた。もう一つ盛り上がらなかった。テレビでは各界の識者がスタジオに集い、美甘子をネタに、十代の性意識について激論を戦わせ始めている。
「賢三、今バンドをやめたら、来年はもうできんぞ」
カワボンが言った。
「俺な、ちゃんと受験してみようと思ってるんだ。正直、まだ自分が何者であるか、あと数年は見つけられない気がする。だから、モラトリアムと言われるだろうけど、取りあえず大学へ入って、やるべきことを四年の間に探そうって、最近考えてるんだ。だからバンドは、今年しかできない。勝手だけどな」
するとタクオが、
「いやカワボン、実は俺も。電気屋がスゲー赤字でよ。やべーんだ。マジやべーんだ。俺は黒所を卒業したら即行で電気屋を継ぐことになる。もしかしたら……黒所を中退することになるのかもしれん。バンドをやれるのも、今年ぐらいなもんかもしれねーんだ……」
しん、と、四人が全員黙ってしまった。
「なななんか、カミング・アウト大会になっちまったな。ぼぼ僕も何か告白しなけりゃいけないのか?」
「山之上、お前は卒業したらどうするんだ?」
「聞きたいのかタクオ? 僕はな、インドへ行く」
「インドだとお?」
「決めてるんだ。インドへ行って悟りを開く」
山之上は極めて本気であった。意表をつきすぎていて三人は言葉を失くしてしまった。やがてカワボンが言った。
「賢三、やっぱやろうぜ、バンド」
「いや、ダメなんだ。もう……」
「大丈夫だよ。やろうよ」
「すまん。俺はもうダメだから……」
「ダメなことねーよ。俺らダメなことねーって、俺ら全然ダメじゃねーって……」
「すまんカワボン。すまん、すまん……」
と、謝り続ける賢三の胸ぐらに、カワボンが突然つかみかかった。
『節子の告白 あれは遊びよ!』のポスターが貼られた壁に賢三の体を何度も押しつけた。
「ダメじゃねーよ! ダメじゃねーって言えよ!」
声を荒らげながら、何も言わぬ賢三を押しつけ続ける。冷静なはずのカワボンの激昂《げつこう》に、タクオと山之上があわてて止めに入った。それでもカワボンはやめようとしない。怒鳴り続けるのであった。
「ダメだって思ったら俺ら本当にダメになっちゃうじゃねーかよ!」
カワボンの声は震えていた。
タクオが背中からしがみつき、山之上はカワボンと賢三の間を引き離そうとしてる。
賢三は応《こた》えない。
四台のチャリンコが午後の陽を受け輝いている。少年たちのもつれ合う様子を、うたたねから覚めたタバコ屋のバーさんがのんびりと見ている。遠くでセミの声。テレビには山口美甘子。胸を張り、十七歳のロストヴァージンについて、私は恥じていない、と断言している。今日、何度もリピートされている映像。
少年たちにとっては遠い遠い世界の出来事だ。
色あせたポルノ映画のポスターの前で、ついに彼らは訣別《けつべつ》の時を迎えようとしていた。今やハッキリと涙声のカワボンが、賢三に向かって言い放ったのだ。
「もういいよ! やめちまえよ! いらねえよ! お前なんかもういいよ。もういらない! もういらねーけどな、俺らお前を待ってるからな、お前がライブに来るのを俺ら待ってるからな。お前のためじゃないんだぞ、お前が来なかったらコクボ電気店の二階で語りあった俺らの時間が全部、無駄になっちまうじゃねえか。あんなにいっぱい熱く熱く俺らしゃべり合ったのに、あの時間が何も無くなっちまうなんて絶対そんなの認めねーからな。賢三! バカ! お前もう行っちまえ! 行っちまえ! でも帰って来い! 俺らのライブに、お前は帰って来る義務があるんだ。帰って来て、俺らがダメじゃないってことを、賢三、お前が証明するんだ」
それから約一ヶ月間、賢三は勉強部屋から一歩も出ることがなかった。
まるで木偶《でく》のぼうであった。一日中部屋にとじこもり、ろくにメシさえ食わない。ただひたすらに眠くて堪《たま》らず、何もする気にならないのだ。
忘れさられた廃墟《はいきよ》の古井戸の底に落っこちて、そのまま肉体も心も徐々に腐っていく、ところが意外にも腐乱は心地がよく、助けを呼ぶ気さえおこらない。そんな精神状態なのだろうか。一日八回の記録を誇るオナニーさえ全くする気にもならないのだから彼の心は重症だ。万年床の中でひねもすまんじりともせず、時々薄目を開けて天井のしみをじっとみつめる姿は、もはや人間というより巨大な虫……いや、蟲《むし》、であった。絵に描いたならばジョージ秋山かつげ義春《よしはる》の世界である。
両親とて息子の異常をなんともすることができなかった。三階飛び降り事件以後、担任の教師が何度か家に来たが、賢三は話を聞くどころか布団から出ようともしない。反応を示したのは一度だけ、教師が母親に対し、愚痴混じりに山口美甘子の名を口にした時だけであった。
「まったく、山口さんの事件だけでも我が校は大変なことに……」
すると賢三の体が布団ごとムクムクと動き始めたではないか。
まさに蟲そのものの動きであった。身をよじり、体をくの字にまげて痙攣《けいれん》したのだ。「ううっ」と布団の中からうめき声を発しながら。教師も母ももはや犬神|憑《つ》きを目撃したかのような驚きであった。「病院」や「入院」という言葉が教師から発せられたのも仕方のないことであった。
ちょうど一月《ひとつき》目の夜、賢三の部屋で何やら物音がするので、母はそっと部屋の扉を開けてのぞいてみた。薄暗い部屋の中で、奇妙な覆面をかぶった息子が半身を起こしてボウッとしているではないか。鼻も口もスッポリ覆った赤色の面であった。その奥からフゴーフゴーと荒い息が聞こえている。目の周辺が大きくあいていて、どこを見ているのかわからない眼球がにぶく光っていた。恐怖漫画さながらの光景に我が子のことながら母は腰を抜かした。翌日精神科に電話することを決意した。
もし母が、賢三のかぶっていたそれが、山口美甘子のブルマーであったと知ったならば、病院どころか警察に通報したであろうか。
翌日の昼、黒所から車に乗った教師が二人やって来た。
半強制的に、賢三を病院へ連れていくことになり、助《すけ》っ人《と》に現れたのだ。教師たちとしては、三階飛び降り事件を出来る限り校外に出したくなかった。できれば入院でもしてもらって、賢三の存在を、言ってしまえば闇から闇へ消し去ってしまおうと考えていたのだ。
ノックも無しに、教師は賢三の勉強部屋に飛び込んだ。
異臭が鼻をついた。
万年床の周りに、カップラーメンやエロ雑誌が散らばっている。
しかし賢三の姿はどこにもなかった。
「逃げたな……」
教師が、小さく言った。
大橋賢三は幽鬼のように町をさまよっていた。
逃げたわけではなかった。いつの間にか布団を出て、ジャージ姿で戸外を歩いている自分に気付いたのだ。我に返った時は中野駅の周辺にいた。すると家からもう二十分も歩いていたことになる。十七歳の若い肉体が意識とは別のところで運動を求め、少年を歩かせたのであろうか。ちょうど北口のロータリーのあたりであった。学生やサラリーマン、ペシャワル難民募金を求める身体障害者などでゴッタ返している。急ぎ足の群れの中で、大橋賢三ただ一人がゾンビさながらのスローモーな歩みであった。何日も変えていないTシャツ(しかも胸にデカ文字で『高円寺|阿波《あわ》踊り』と書かれてあった)。黒所指定のジャージ。足下はサンダル履きという有り様だ。
ゆらりゆらりとさまよい歩きながら、しかし彼の頭の中は、高速で回転し続けていた。まったく、この一ヶ月間、賢三は同じことばかりを考えていたのだ。
とにかく山口美甘子のことばかりであった。
まず、彼女との束の間の美しい思い出が次々と浮かぶのだ。思い出とは言っても、賢三側からの一方的なものに過ぎないのだが……。例えば教室の片隅で一瞬空を見上げた美甘子の持つシャーペン。それが自分の持つメーカーと一緒であったこと、ただ一度、教室で不意に声をかけられた時のこと……『プリントやってたらちょっと見せて』という、極めて事務連絡の領域を出ない一言……などが、走馬燈《そうまとう》のごとく脳裏をよぎるのだ。
思い出は次に、文芸坐以後の出来事へと変化していく。しるこドリンク。ジョン・カーペンター。そして一夜の夢のごとく、共に出かけた吉祥寺ナイスシアターのオールナイト。
牛の反芻《はんすう》ならば、ここまでを何度も咀嚼《そしやく》していれば満足であろう。ところが人間の思考は、いいことだけをくり返すようにはできていないのだ。
楽しかった思い出の次に、賢三は忌わしきオナニーの記憶を思い出す。
羽村一政になりきって、山口美甘子を薄汚い性欲の油地獄に陥れた時のことを、ビデオテープ以上の正確さで賢三の脳は全て覚えているのだ。観たくない。全部消し去ってくれ。そう思うのに、頭の中に山口美甘子の裸体が浮かびあがって止まらないのだ。
全裸の美甘子は体をくねらせ、股《また》を広げ、汗まみれの胸を自らわしづかみにすると薄桃色の乳首を口元に近づけた。少女の唇からヌラヌラと光る舌がのびて、自分の乳首をなめまわしたではないか。そのままズルズルと乳房ごと飲み込もうとする。それだけでは足りないのか、少女はもう片方の乳房さえもほおばろうと試みる。ズルッ、ズルッ、と吸い込んでいく。飲み込んだ乳房がノドの奥でひっかかり、「おぐうえっおうえっ」とむせかえる。それでもむしゃぶりつくことを止めようとはしない。あまりの醜い姿を見るに耐えかね、賢三は美甘子に「やめてくれ、頼む、もうやめて」と訴える。
すると美甘子は乳房を一気に吐き出して賢三に言うのだ。うれしそうに言うのだ。
『だって、全部君がやらせたことなんだよ。君の汚らしい性欲のために、美甘子はこんなにいやらしくなってしまったんだよ』
賢三が腹の底から悲鳴を上げる。地に這《は》い土下座をしてひれ伏す。その丸まった情けない肉体を、裏地に責め言葉のびっしりと入った真っ黒なマントがスッポリと包み込むのだ。マントは美甘子の女性器から現れたようにも思えた。マントの中でいくら助けを求めても無駄であった。手足をのばすことすらできない。真っ暗闇の中で人々の嘲笑《あざわら》う声だけが無数に聞こえている。金属音に近い。頭の芯《しん》に響いてくる。それでももがいていると、かろうじて切れ目が見えた。両腕をつっ込んで切り裂くと、裂け目から黒所の教室で山口美甘子が空を見上げている姿が見えた。
握ったシャーペンのメーカーが賢三のものと一緒だ。ただ一度美甘子に声をかけられた。『大橋君……だよね? プリントやってたらちょっと見せてくんない』。躍り上がるほどうれしかった。ところがひょんなことから名画座で出会った。しるこドリンク。ジョン・カーペンター。ナイスシアター。天にも昇るようだ。それなのに俺は美甘子を汚した。羽村一政となって美甘子を汚らしい性欲の餌食《えじき》にしたのだ。美甘子は羽村一政に抱かれた。裸で抱かれた。あえいだのか? よがったのか? 愛してると言ったのか? 股を開いたのか? なめさせたのかそれともなめたのか!? しゃぶらせたのかしゃぶったのか? 血は出たのか? またするのか? いっぱいやるのか? どうしてやるのか? どうしてやるのだ山口美甘子よ。
『だって、全部君がやらせたことなんだよ』
悲鳴。
土下座。
生まれてどうもスミマセン!
マント。
闇。
切り裂くとまた教室で山口美甘子が空を……
このくり返しが約一ヶ月間、二十四時間休みなく頭の中でリピートされていたのだ。
朦朧《もうろう》としながら賢三は中野駅を北口から南口へと歩いた。
彼の足はいつしか、改札の対面にある中野名画座へとむかっていた。
まさにゾンビと一緒であった。映画『ゾンビ』の中でゾンビたちが、生きていたころの習性に従ってショッピングセンターにむかったように、生きる屍《しかばね》と化した賢三は、つい日頃の行動パターンのままに、フラリフラリと、通いつめた名画座へ歩み始めていたのだ。
その日かかっている映画は『溶解人間』であった。賢三の好きな映画だ。来週観に行こうとそういえば決めていた。ポケットをさぐると奇跡的に千円札が一枚入っていた。窓口へ金を払おうとしたところ、背後で「山口美甘子」という言葉が聞こえた。ビクンと賢三の体が硬直した。
「山口美甘子ってはっきりしてていいわ。会社の女性陣は全員断固支持派よ」
「男にも受けいいよ。大物だな。でも羽村の小僧はむかつくよな。俺の美甘子とやりやがってよ〜」
OLとサラリーマンの立ち話であった。賢三は釣り銭をひっつかむや逃げるように名画座の扉を開けた。
中野名画座は百人も入れば満員の小さな小屋であった。
スクリーンは黒所の黒板よりも小さい。客は十人程度。賢三は端の方に座った。両|膝《ひざ》を前の席の背もたれにひっかけるいつもの座り方。ボコッ、と背もたれの板が音を立てた。館内は休憩時間。チープな音楽が流れている。見慣れた名画座の風景に包まれ、賢三は一瞬、心がやすらいだように感じた。
映画はまもなく始まった。
『溶解人間』はC級ホラー映画だ。バカ映画と言っても過言ではない。宇宙から帰還した飛行士の体が、徐々にとろけ出すのだ。理由はよくわからない。コロナの影響などと一応の説明はあるが、大した問題ではない。それより重要なのは、体がとろけるほどにこの飛行士がパワーアップされていくことだ。腕がもげるほどとろけながら、彼はドンドン力自慢になっていくのだ。んなアホな。道行く人々を次々と襲う溶解人間。ついにはドロドロの汚物状態となり、ゴミとまちがわれてゴミ箱に捨てられて THE END という、何より脚本家の脳が一番溶けていたのではないかと思われるトンデモなラストなのであった。
映画が終り館内が明るくなると、客の大半は「バカなもん観ちまった」という半ばあきらめの表情を浮かべていた。
その中で一人、大橋賢三だけが涙を流していた。
嗚咽《おえつ》しながらの号泣であった。「こんなもん観てなぜ泣く!?」近くの客がギョッとしているのも気にせずしゃくりあげていた。
『これは俺だっ』
溶解人間を観ながら賢三はそう感じた。
飛行士の肉体が腐臭を立ち上らせながらとろけていくさまは、まったく賢三が抱える自己嫌悪のメタファーに思えてならなかった。汚らしい姿をさらしながら周囲に不幸を撒《ま》き散らしていく怪人……それ全然俺じゃん? そう思うと溶解人間と自分自身が痛々しくてならなかった。そしてラストは、溶けて溶けてついにゴミとなり誰に知られることも永遠に無いのだ。
つまり、俺も、そうなるのだ。
それにしてもよりによって溶解人間に感情移入するなど、『スターウォーズ・エピソード1』のダメキャラ、ジャージャー・ビンクスを観て「アレは俺だ!」と感動するぐらいに不毛この上ない映画の見方だと言わざるを得ないのであるが、この時の賢三にはピターッとはまってしまったのである。
賢三はオイオイと泣きながら名画座を出た。
涙でぼやけて前が見えない。手さぐり状態で10メートルも歩いたところで、Tシャツのそでで顔をふいた。視界が開けるとパチンコ屋の前であった。店頭に十数台のテレビモニターが壁となって並んでいた。その全てに山口美甘子と羽村一政のツーショットが映し出されていた。二人主演の映画の一部のようだった。ニャンニャン騒動で一時は撮影中止かとウワサされていた映画は逆に宣伝となって、ハリウッド大作なみの前評判が高まっていたのだ。映画の中の二人が抱き合い、キスを交わした。通行人が一斉にモニターを振り返り、「おうっ」とどよめきがあたりに起こった。誰が見ても美しい少年と少女の恋の風景だった。
賢三はモニターを観ながら、フッと思った。
『あ、そうだ。死のう、俺』
なんでこんなに単純な解決策に気が付かなかったのであろうかと賢三は不思議に思えた。
生きているからつらいのだ。
生きているから、どうすべきかなどと迷うのだ。人と違った何かを見つけなければなどと思うのだ。書けない歌詞を書こうなどとあがくのだ。オナニーなどをしてしまうのだ。はるかに遠い存在に近づこうなどと試みるのだ。近づくことなど不可能なのに、試み、果たせず、それどころか汚らしい欲望の対象にしてしまうのだ。
「死ねばいーんじゃん」
自らの意志によって生に終止符を打ったなら、めんどう臭い一切合切から逃れることができるではないか。二十四時間リピートで脳内に流れる、美甘子の思い出に苦しめられることもない。そして羽村と美甘子のキスだって、もう見なくたってすむのだから。
「そうだ、死のう俺」
声に出してつぶやいてみると、禁美甘子オナニーを解禁した時のような、えも言われぬ解放感に賢三は包まれた。
五月の涼風が心に吹くようであった。なんとすがすがしい死の誘いなのであろうか。きっと自殺者の多くが死を決意した時にこの清涼を味わったのであろう。拒むことなど不可能な、あまやかなあの世からのそよ風なのであった。と同時に、賢三の大好きな、アメリカン・ニューシネマのヒーローたちが、次々と脳裏に浮かび上がった。
ピーター・フォンダは散弾銃で撃たれて死んだ。ダスティン・ホフマンは風邪をこじらせて死んだ。フェイ・ダナウェイとウォーレン・ベイティはマシンガンで蜂の巣にされて死んだ。ロバート・レッドフォードとポール・ニューマンは一緒に死んだ。死んだ。死んだ。俺の大好きなヒーローはみんな死んだ。犬のようにくたばりはてて、這《は》いつくばって、土にまみれ泥にまみれ死んだ。死んだ。死んで、そうやって俺の心のヒーローとなった。
「ならば、俺も死ななくちゃダメじゃないか」
もしかしたら俺の死が山口美甘子の心の中でいつかヒーローになるかもしれないのだ。
一縷《いちる》の望みというやつだ。パチンコ屋の前で大橋賢三は「わああああっ!」と叫んだ。「あはははははは!」続けて高笑い。周りの人々がいぶかしげに見たが気にも留めない。もう一度天をあおぎ高らかに笑った。
わはははははははははははは! あはははははは! あはは! あは……あははははあはははっ!
そしていきおいよくかけ出した。
南口のロータリーを一直線に改札方面へ、そのまま北口までひた走った。あはあははと笑いながら。北口のロータリーには何台ものバスが出入りしている。白地に赤ラインの関東バスである。野方行、新宿西口行、数ある路線から、賢三は一番マイナーな阿佐谷《あさがや》営業所行を選んだ。ゴーッと走り来る阿佐谷営業所行関東バスに正面からの体当たりを決行しようと考えたのだ。それは車で自分からつっ込んで死んで行く映画『バニシング・ポイント』への彼なりのオマージュであったのかもしれない。賢三は走りながら笑い続ける。
「あはははははははは!! バスガス爆発!! バスガス爆発!! あははははははははははは!」
普段はろれつの回らない早口言葉さえもがなぜか流暢《りゆうちよう》に口から発せられた。死を決意した賢三が関東バスにつっ込んで行く。
関東バスも賢三につっ込んで来る。
両者の距離はあとわずかである。
もうわずかである。
「あははははははは!! バスガス爆発!! バスガス爆発!! あはははははははは……オゲーッ!!」
賢三が悲鳴を上げてひっくり返った。
その真横を阿佐谷営業所行関東バスが轟音《ごうおん》を上げて走り去っていった。
土ぼこりが舞った後、のど元をさすりながら道路に倒れ込んでいる賢三の姿があった。関東バスに激突する寸前に、賢三は何者かの放ったウエスタン・ラリアート……あるいはアックス・ボンバーをのど元に喰《く》らい、たまらずひっくり返り、結果的に九死に一生を得たのだ。
「ウグッ……グホッ! いてーっ……」
もがき苦しむ賢三を見下ろす人影があった。
プロレス技によって彼の自殺を食い止めた張本人である。逆光で顔は見えないが、小柄なシルエットに見覚えがあった。
「……あ、あ、あんたは……」
人影が賢三に顔を近づけた。植木等とアーネスト・ボーグナインを足して二で割ったような顔、不敵に笑うその老人こそは。
「ひさしぶりじゃな賢三。わしの稲妻レッグラリアートは効いたかの」
「山之上のジーさん」
ジーさんは口元で人差し指を振りながら「ちっちっちっ」と舌打ちをした。そして言った。
「老師、あるいはヨーダ……とでも呼んでもらおうかのう。賢三、さあ、修行の始まりじゃ」
ニターッと、また笑ったのであった。
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第6章 帝国の逆襲
中野駅北口サンモール商店街の中ほどを左に折れたところに「C」という名曲喫茶店がある。
暗く埃《ほこり》っぽい店内には竹針で聞かせるSP盤が朗々と流れている。壁には前衛的な油絵が何枚も飾られている。メニューはコーヒー、紅茶、ジュースのみ。一杯百五十円。‘80年代当時にしても激安である。水のコップはワンカップ大関の空き容器。ミルクはマヨネーズの蓋《ふた》に入って現れる。そんな不可思議な店だから、自殺未遂の少年と、プロレス技を使う老人が昼から話し込むにはうってつけの場所と言えた。
賢三を従えて「C」の扉を開けた老人は、ベレー帽にパイプをくわえた「C」のマスターに軽く会釈をすると、隅の席にドッカと座った。
「おごりじゃ、なんでも頼め」
えばったところで、百五十円が三品なのであるが。賢三は小さな声で「コーヒー」とつぶやいた。まだ顔には表情がなく、青ざめている。
ウエイトレスにジーさんは「コーヒー二つ。ミディアムでな」と訳のわからないことを言ってはヌフフフと一人で笑った。
「あ、それとネーちゃん、曲のリクエストを頼むぞ」
「はい、何がよろしいですか?」
「ああ、題名を失念してしまった。なんと言ったかのう、ホレ、行進曲じゃ、有名な、えーと、ホレあの、ホレホレあれじゃ?」
「は? え?」
「ホレあれじゃってば、威勢のいいホレ」
「スッペですか? チャイコフスキー?」
「いや違う。そうじゃ、植木等じゃ」
「……は?」
「思い出した。クレイジー・キャッツのホンダラ行進曲。青島|幸男《ゆきお》作詞のアレを頼む」
名曲喫茶でホンダラ行進曲をリクエストされたウエイトレスは絶句するより他に対応の仕様がない。目を丸くしているとマスターが助け舟を出した。
「山之上さ〜ん、若い娘《こ》をからかわないでくださいよ。スーザあたりでいいですか? それともお孫さんの方、リクエストありますか?」
孫と間違われた賢三は、表情の無い顔のまま、それでもキッパリと言った。
「ムソルグスキーをお願いします。『展覧会の絵』が聞きたい……」
それはまたしてもゾンビ現象であった。ゾンビが生きていた頃の習性に従って行動するように、賢三はクラシックをリクエストされて、コクボ電気店の二階で同級生たちと聞いた曲の名をつい口にしていたのだ。ムソルグスキーの「展覧会の絵」は、賢三たちが好きなロックバンド「EL&P」がカバーしている楽曲なのであった。
やがて店内に美しいピアノの調べが流れ始めた。
「ほう、知っておるぞこの曲、孫の部屋からよく聞こえていた。ジャンボチンスキーじゃなっ」
ムソルグスキーだよ! とつっ込む気力さえ今の賢三にはなかった。しーんとシラけた間が二人に空いた。
ずずずっ、と音をたててコーヒーをすすってから、ジーさんは言った。
「本気で死のうとしている人間の背後には、音楽が聞こえるものじゃ」
そんなことを言って、チロリと、上目づかいに賢三を見た。
「長いこと生きておる内に、ワシは何人もの人間の背後にその音楽を聞いてきた。たいがいはボレロじゃった。死の時にむかってドンドンとクレッシェンドしていく。死を人生の頂点にして、コーダさえ残さず演奏を終了させたいから、自然とボレロになっていくのじゃ。ところが中途半端に未練のあるやつの背後には、イントロダクションのみが長いヘタクソなブルースセッションが聞こえるだけなんじゃ。お約束のコード進行通りに進むがいっこうに|泣かない《ヽヽヽヽ》んじゃ。いくらチョーキングを決めてもな」
賢三の顔に一瞬、表情が戻った。ジーさんがいきなり音楽用語を使って語り出したことに驚いたのだ。『こいつ、何者?』と虚をつかれた少年の顔色を老人は見逃さなかった。一挙に攻め入った。
「ワシが何者かと思っておるな?」
「え!?」
「知りたいか賢三、ワシの正体を」
思わずまた黙った賢三に、ジーさんは言った。
「ワシは、ワシはお前のヨーダなのじゃっ」
「ヨーダ? ヨーダだって?」
皺《しわ》だらけの顔でニヤーッとヨーダは笑うのであった。言われてみれば顔といい小柄な体型といい確かにスター・ウォーズ・シリーズのジェダイ・マスターに見えなくもない。一瞬、賢三は自分がルーク・スカイウォーカーになったような幻覚に襲われた。頭の中で荘厳なテーマ曲が響き渡った。
ところがヨーダは続けてこう言った。
「そうじゃ! ワシは『|スター《ヽヽヽ》・|トレック《ヽヽヽヽ》』のヨーダじゃっ!」
すここここっとカウンターでマスターがずっこけた。賢三がすかさずつっ込んだ。
「ジ、ジーさん、それを言うなら『スター・ウォーズ』だよっ」
「むっ? そうじゃったか? アレじゃろ、宇宙へ行ったらゴリラがいて自由の女神が……」
「そりゃ『猿の惑星』だよ!」
「あれ? ああアレじゃ。月にでっかい羊羹《ようかん》があるってんで食べにいったら猿が骨拾って木星に行く話じゃったな。で、赤ん坊がいて……」
「そりゃ『2001年宇宙の旅』かい!? しかも解釈が滅茶苦茶だよっ」
「そうじゃそうじゃ、『スター・ウォーズ』じゃ。ルークってガキがぬいぐるみから修行受けてお姫様と一発やろうとするんじゃ、ところが実は姉弟だったとわかって、八つ当たりで親父と決闘して手首を斬られてしまう話じゃ。アレはつまりせんずり禁止のメタファーじゃな」
「当たってるのはタイトルだけだよ!」
食ってかかる賢三に対し、ジーさんはワハハハハと豪快に笑った。
「なんだ賢三、映画の話になったらずい分元気になったじゃないか」
「……あ」
言われた賢三の表情が赤味を帯びていた。どうやら一連のボケさえも、少年を活性化させるための策であったようなのだ。
すっかりはめられた賢三が赤面するのを確認するや、ジーさんは一気に畳み込んだ。
「賢三、お前の背後にボレロは流れていなかったぞ」
「え?」
「ボレロもブルースさえも流れてはいなかった。お前は本気で死のうとしたんじゃない。頭の中でグルグルと回転をやめない悩みから一時逃れたかっただけじゃ。それなのに関東バスに飛び込むってのはちとやりすぎじゃ。しかもよりによって阿佐谷営業所行に飛び込んで死ぬなど、中野区の歴史始まって以来のミジメな死に方じゃぞそれは」
「…………」
「止め方を知っておるんじゃ」
「止め方?」
「そう、止め方、お前の頭の中の悩みの回転をワシは止められる」
「……どうやって?」
「止めてほしいか?」
「…………」
「ワシに暫《しばら》く身をあずけてみないか賢三。受講料もいらん。見返りは求めん。理由は気が向いたら話す。ボランティアじゃ。お前が社会や学校や、友達の所へ戻れるための修行を、ワシがつけてやろうと言うているのじゃ。そしてもちろん、好きな女にだって会える度胸をお前につけてやる。山口美甘子にな」
「なんで、なんで知っているんだ?」
「ムヒヒヒ、まったくあのオッパイちゃんには男子たれば誰だってまいるわな。賢三、これを読め」
テーブルに茶封筒が置かれた。
筆ペンの文字で「ケンゾーのバカへ」と書かれてあった。
筆跡でわかった。
これはタクオの字だ。
あけると大学ノートの切れはしが出てきた。こう、記されてあった。
[#ここから1字下げ]
ケンゾーのバカへ
バカケンゾー、元気か? 元気なわけねーな。お前が家を飛び出たと聞きつけ、黒所の教室でこれを三人で書いている。ケンゾー、まず、お前がそこまで追い込まれていることに気付かなかったことにオレらは謝ろうと思う。ゴメン。バカだバカだとは思っていたが、そこまでお前がバカ正直に人生や、そして山口美甘子のことを悩んでいるとは気付かなかった。思えばオレらはあんなに語り合ったくせに、こと女子のことになると牽制《けんせい》しあっていた。まーオレらはある意味コーハだからしかたがなかったけどもな(笑)。それにしてもケンゾー、お前はバカだ。逃げてどうなる? 逃げてどこへ行ける? オレらだって黒所でつまらない連中に囲まれて毎日ショボイ思いをしているのだ。だからキャプテン・マンテル・ノーリターンを結成したんだ。勝てるとは思わない。でも少しでも何かやろうと前に向かったなら、オレらが集ったなら、多分オレらは負けはしない。負けさえしなければいつかオレらだって陽の目を見ることがあるかもしれない。ケンゾー、オレらはお前抜きで練習を始めている。来る八月○日は遂に渋谷屋根裏でライブだ。確かにもうお前のパートはバンドの中にはない。だがケンゾー、お前はとにかくライブに来い。どんなかたちでもいいから現れて、ライブに参加しろ。これはメーレーだからな。お前は来い! 絶対来い! お前が来なかったらオレらがコクボ電気店の二階で熱く語った時間がすべてムダになるんだわかってるのかこのバカ! あの時間がムダではなかったことをお前がライブに戻ってきて証明しろ。メーレーだし、ギムだ。
オレらは手助けをしない。お前を甘やかしたりはしない。オレらにはオレらの、お前にはお前の戦いの夏だ。代わりに山之上のジーさんにこの手紙を渡す。ジーさんの方から、お前の復帰を助けたいと申し出があったんだ。理由は知らんがぜひやりたいそうだ。お前は金も荷物も持たず、チャリにも乗らずに飛び出したらしいから、きっと中野あたりの名画座にまだいるだろうとジーさんには言っておいた。会えることを願う。ジーさんを『スター・ウォーズ帝国の逆襲』のヨーダだと思ってお前は修行をつけてもらえ。ルーク・スカイウォーカーがヨーダのしごきでフォースを得たみたいに、お前も少しはバカを直して、オレらのライブに現れること! メーレーだからな! このバカ!
[#地付き]タクオ
[#地付き]カワボン
[#地付き]山之上 より
追伸
戻ってこなかったら絶交だっ!
[#ここで字下げ終わり]
賢三は大学ノートの切れ端を持ったまま、うつむき、固まっていた。
『展覧会の絵』は静かに流れ続けている。
賢三の瞳からボタボタとこぼれ落ちる涙の粒がカップの中のコーヒーを直撃するので、ジーさんはカップをずらしてやった。ペーパーをしいたところ、アッと言う間に濡《ぬ》れてグショグショになってしまった。ジーさんは自分の飲み干したカップをその上に置いた。ピタン、ピタン、と雨だれのような音がしばらく続いた。ジーさんはころ合いを見て、言った。
「どうだ、賢三、修行してみるか?」
賢三はただ、こくりこくりとうなずくばかりであった。
「そうか、わかった。もう泣くな。おいマスター、やっぱり『ホンダラ行進曲』かけてくれないかのう。どうもしんみりしていかんのじゃよ」
するとさっきから二人の様子を見ていたマスターは、意外にも「いいですよ」と笑うのであった。逆にジーさんが驚いた。
「あるのか!? なんであるんじゃ?」
「植木等はマーラー以来の天才ですから」
その日、名曲喫茶「C」の店内に、クレイジー・キャッツは高らかに鳴り響いたのであった。
翌日から雨が降り始めた。
誰の上にも均等に、雨は降り続いた。重く、ねばりつく空気は人々の顔から表情を奪っていくのであった。
雨は二日目も降り続いた。
大橋賢三などは、さらに無表情になっていくばかりであった。もはや眼球の輝きさえも失われつつあった。彼の存在自体がどよんとにごり、それこそ溶解人間のごとく本当に表皮から腐り始めそうな状態となっていた。
心も体もグズグズ、半生レア人間と化した賢三は、今、車の助手席にへたりこんでいた。
ついに黒所教師の魔の策略によって、車に乗せられ、精神病院へ連れられていくところなのであろうか?
いや違う。哀れなドナドナとして連れ去られる寸前に、賢三は山之上のジーさんに救いだされたのだ。
降りしきる雨の中を走るのは、ジーさんがハンドルを握るスバル360であった。
よほど古い車であるらしく、ガタガタピシピシとボディのあちこちが異音を発している。何より天井から雨もりがしていて、ジーさんと賢三の体を濡《ぬ》らしている。ジーさんは気にも留めず、むしろ上機嫌で鼻歌さえ歌っていた。
「賢三、もうすぐ着くぞ」
ずい分前にも彼はそう言ったはずだが、一向に車は止まる気配がない。
都心をはるかに離れ、右に左に雨に煙る山々が見え始めた。
行き交う車もまばらで、時おり、地方特有のけばけばしいラブホテルが幻のように現れ、すぐにまた、雨の中に遠ざかっていく。ジーさんが鼻歌をやめると、賢三の耳に聞こえてくるのはワイパーの音ぐらいなものだった。ウインドガラスとゴムがこすれて、奇妙な音を発していた。そのリズミカルな音の連続には、少年の心を嫌な思い出に引きずりこむ催眠作用があった。賢三は雨に溶けていくように、山口美甘子の思い出の中にまた沈み込んでいった。後悔と自己嫌悪の底無しの沼である。何度そこに落ちたことか、これからも数限り無く落ちることとなるのか、いつかは沼の底の住人となって、心地よさを感じるようになるのか、いやもしかしたら俺はもう、このサイテーの気分なくしては生きていけないマゾヒズムの人間になっているのでは……。
「賢三、また考えとるな」
ジーさんに言われて賢三はハッと我に返った。
「どうしてもあのオッパイちゃんのことを考えてしまうのか」
車は国道を外れ、ちょっとした山道に入っていた。タイヤが砂石を踏むとスバル360の車体はさらに激しく揺れた。
「賢三、後ろにあるバッグのチャックをちゃんとしめておいてくれ」
言われるまま賢三は、リアシートに積んであるバッグの中身が落ちぬよう、ふり返ってジッパーをしめにかかった。賢三とジーさんの、それぞれのバッグが積んである。両方ともかなりの容量のあるものだ。
二人は、期限未定で「合宿」に出かける途中であったのだ。
三日前、「C」を出た足でジーさんは賢三の家を訪れ、「おたくの息子を精神修行に連れて行きたい」と、おもむろに両親に申し出たものだ。
ジーさんが名を名乗ると、賢三の父は「えっ」と驚いた。
「あの有名な山之上先生ですかっ! 若い頃先生の本を夢中で読みましたっ」
まだ自由海外旅行者などいなかった時代に単独で世界を放浪し、貧乏旅行記『ヤマちゃんのソ連でモヒモヒ』を著した冒険野郎の名を父は覚えていた。
「二冊目の『ヤマちゃんのインドでマキマキ』も読みましたよ! 確かその後、ジャズ・ミュージシャンをやりながら事業を興されて、今は悠々自適と聞いていましたが、まさか賢三の同級生のおジー様とは……」
「ふふふ、三冊目の『ヤマちゃんのアメリカでアメアメ』は読んでいないかのう」
息子のノイローゼに手を焼いていた両親は、ジーさんの提案した「修行」の話に乗った。ちょうど夏休みが近いこともあったし、引きこもった息子がひねもす家にいる状況よりも、ましてや息子が精神病院に入院するよりは、御近所で体裁がいいと判断してのことであった。東京郊外の山之上家の別荘を修行の場にするという。
早速、三日後にジーさんが雨の中、スバル360に乗って迎えに来たのだ。
二人が去った午後、賢三の同級生が三人、賢三のいない家を訪ねて来た。
三人の内の一人はギターのケースを背負っていた。もう行ってしまった、と母が告げると三人はがっくりと肩を落とし、「修行先で読んでもらえたらと買ってきたんですが……じゃ、帰ってきた時に渡してください」と言って、紙ぶくろに入った大量の本を置いて、雨の中をトボトボと帰っていった。母が紙ぶくろを開けると、入っていたのは『あしたのジョー』であった。全巻揃っていた。
……スバル360の中で、賢三はジーさんのバッグのジッパーをしめようとした。なかなかしまらない。どうやら何か布に噛《か》んでしまっているようなのだ。赤色の布である。あれ? この布なんか見たことがあるぞ。そう思い、賢三は布を引っぱり出してみた。正体が判明するや、賢三はここ数日で初めて大声を上げていた。
「こ、これは美甘子のブルマーじゃねーかっ」
「ワハハハハ! いかにもオッパイちゃんのものじゃ。荷造りの時にお前の部屋からこっそり拝借して来たのじゃ。ワハハハ! おっ、賢三、修行場所についたぞ。オッパイちゃんの呪縛《じゆばく》から逃れるための修練の場所じゃ。オッパイちゃんへの想いをここで断ち切るのじゃ。賢三、ようこそ地獄の一丁目へ!」
「なんでもいいからオッパイちゃんって言うのやめろよな」
小高い丘。
林の中に山之上家の別荘はあった。
庭付き。雨が上がれば緑が美しいだろう。管理も行きとどいている。こんな金持ちの家に生まれて山之上の野郎はなぜあんなに屈折したのだろうかと賢三は不思議でならなかった。
「寝室は三つか四つある。ワシは一番広い部屋を使う。賢三はそうじゃな……」
「別にどこでもいいよ」
「では屋根裏部屋に寝てもらおう」
「なんでだよ!」
「忘れたか、修行の身じゃ」
シブシブ賢三は二階へ上がった。さらにハシゴを昇り屋根裏部屋へ。本来物置きとして使っているのだろう、天井は低く、腰をかがめてようやく歩ける高さだ。昼なお薄暗く、こんなところにいたらかえってノイローゼが悪化してしまうのではないかと思われた。小窓が一つ、あった。
賢三が顔を近づけると、雨に濡れた緑の匂いが鼻をついた。ちょうど丘の一番頂上に位置する屋根裏部屋の小窓からは、遠く街並が一望できた。どの家の屋根も今、降りしきる雨の中にある。
この雨の続く先に山口美甘子がいるのだなと賢三はぼんやりと思う。思ってから、しまった、と気付く。賢三を苦しめる想念の回転は、いついかなる時もほんのちょっとしたきっかけで始まるものなのだ。山口美甘子。文字にしてしまえばたった五文字の短いこの名前を思い浮かべただけで、後悔と自責の高速度回転がまた頭の中で始まってしまうのだ。止まらないのだ。ぐるぐると回り続けるのだ。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐぐるぐるぐ……。
「また頭の中が回転しているのか?」
背後で不意に声をかけられ、賢三はようやく我に返った。ふり向くと屋根裏部屋の床に開いた入り口から、ジーさんが顔だけをひょっこりとのぞかせていた。
「女に惚《ほ》れるというのはそういうことじゃ、無理もない」
ニヤニヤと笑っている。
「そして女にふられるということも、またそういうことじゃ」
うんうんとうなずく様子が小憎らしい。
「ジジーうるせえな」
「うるせえな、と来たか。ボキャブラリーがないなぁ」
「他に何言えってんだよ」
「沢山映画を観ているそうじゃないか。本も読んどるしロックンロールも聞いている。それだけ勉強していて出てくる言葉が『うるせーな』では、お前の見聞きしてきたことは、結局何の役にも立ってはいなかったと言うことじゃな」
「……な」
「ちがうか? 映画にも本にもロックにも、女に惚れた話はいくらでもあっただろう? いやむしろ大体がそんな話だ。ところがケンゾー、お前はそれだけ知識がありながら、オッパイちゃん一人でテンテコ舞いしておるのが現実じゃ」
「だからオッパイちゃんって言うなよ」
「オッパイちゃんがなんだって言うんじゃ。オッパイちゃんがそんなに好きか。オッパイちゃんを他人に取られてそんなに口惜《くや》しいか。オッパイちゃんが他の男にオッパイレロレロされてると思うと死にたくなるか。口惜しくて死にたくなるのにどうにもできない自分が憎いか。情けないか。そんなお前をふり向きもしないオッパイちゃんが……」
「オッパイちゃんって言うなって」
「どうして映画と現実のオッパイちゃんは違うんじゃろうな。なんで本と現実のオッパイちゃんは違うんじゃ。まったくロックと現実のオッパイちゃんは……」
「美甘子をオッパイちゃんって呼ぶなあああああっ!」
ついにぶち切れた賢三は、バッグの中に手をつっ込むと、着替えの一枚をジーさんに向かって思いっ切り投げつけた。それは空中で勢いを失い、ジーさんの顔前にポトリと落ちた。よく見ればそれは着替えではなかった。
「あ、オッパイちゃんのブルマー。賢三、盗みおったな」
「盗んだのはお前だろ。もともとオレのなんだよっ」
いやもともとは山之上の、いやいや、そもそもは、山口美甘子の物である。
「あ、あ、やめろジジー。それはやめろー」
賢三が悲鳴を上げた。なんとジーさんが、スッポリと美甘子のブルマーを頭にかぶったのである。
「うっへっへっへ。オッパイちゃんのブルマーかぶってみちゃったりなんかして〜」
この世にこれ以下の老人がいたものか。ジーさんはブルマー仮面となりながら、あまつさえ右に左にプルプルと顔を振るのであった。
「うひゃひゃひゃ、オ〜ッパ〜イちゃ〜んのブ〜ル〜マ〜。ぷるぷるぷるぷるう〜ん※[#ハート白、unicode2661]」
「て、てめー……痛ーっ!!」
立ち上がった賢三が天井に思いっ切り頭をぶつけた。
「おおおっぱああいちゅわあああ〜ん※[#ハート白、unicode2661]」
うひゃひゃと高らかに笑いながら、ブルマーをかぶったまま、ジーさんは入り口から頭を引っ込めた。やっていいことと悪いことがある。怒り心頭の賢三はまだ頭をさすりながらも、二階へ続くハシゴを降りた。
二階では信じられぬ光景が少年を待ち構えていた。
ブルマーをかぶった小柄な老人が、狂ったように笑いながらあたりを飛びはねていたのだ。
覆面ブルマー猿!!
でなけりゃただのバカである。
どういうわけか老人の両手にはボクシングのグローブがはめられていた。本当に狂ってしまったのかこのジーさん? 一抹の不安を感じつつ、賢三は老人に近づくとブルマーに手をかけようとした。
と、老人の体が一瞬目の前から消えた。
それはボクシングで言うスウェーバックであった。
賢三がもう一度手をのばすと、老人はヒョイッと、今度はいわゆるダッキングで少年の手をかわした。
老人とは思えぬ身軽さで、その場でフットワークを始めた。
ニタッと笑って、一歩しりぞいた。そこでまたトントンと小さくジャンプをしている。
「賢三、結局お前は頭の中でしか世界を知らないんじゃ」
「うるさいってんだ。それよりブルマーを返せ」
「何も知らぬくせに、映画や本の知識だけが頭の中でふくれあがっている。知識はいらぬプライドを生み、プライドは現実との軋轢《あつれき》を生み、耐えられなくなった少年は内へ内へと閉じていく。内向は何も生まず、そして知ることを恐れるのじゃ」
賢三が手をのばすのと同時に、ジーさんの体が低く沈んだ。
沈んだまま老人の体は少年のギリギリにまで近づき、そのまま一気に拳《こぶし》から上昇していった。
ジーさんの左拳が少年のアゴを捉《とら》えるまでに、時は〇・一秒も経過していなかった。
賢三の体は一メートルも後方にふっ飛んだ。
うーん、とうなりながら賢三は身を起こし、口から血を吐いた。
血にまじって、前歯が一本ポロリと落ちた。
何事がおこったかすぐには判断できず、賢三は落ちた前歯を、ポーンと口の中にほうり込み、またすぐに吐き出した。
顔を上げると覆面ブルマー猿が見下ろしていた。
猿が言うのだ。
「内向は何も生まない。そして知ることを恐れる……例えば、痛み、をな。賢三立て、立つんじゃ。さあ修行の始まりじゃ」
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第7章 少年対老人
立て、と言われても賢三は立つことができなかった。それどころか血を見てワナワナと震えている。ぬぐってもぬぐっても指に絡みつく赤色に驚き、「ああ……ああ」と喉《のど》の奥でうめき続けるばかりであった。
「どうした賢三、そんなに血が珍しいか? 初めて見たか? 何色だ? 甘いか辛いか? どんな匂いだ? 本には書いていなかったのか?」
ジーさんは言いながら一歩踏み込んだ。また殴られると思った賢三は、ヒイッと悲鳴を上げて頭を抱えこんだ。
「血なんぞ映画で何度も観てきただろう。『椿三十郎』は観たか? 三船が仲代達矢を斬り捨てると二メートルも血しぶきが飛んで見事なもんじゃった。お前の血など口元をちょこっと濡《ぬ》らしているに過ぎん。口紅みたいなもんじゃ。それでも恐ろしくて堪《たま》らないとはどういうことじゃろうな、賢三よ?」
ジーさんはジリッ、ジリッと賢三との間合いを詰めていく、賢三はしゃがみこんだままあわてて後ろへ下がった。すぐに壁に背がついてしまった。逃げようがない。
「やめてっ、ぶたないでっ、ぶたないでっ」
「ぶつんじゃない、殴るんだ」
「なんで殴るの? なんで殴るんだよ?」
「こっちの質問が先じゃ。どうして映画の中の血しぶきは美しくさえあるのに、今お前の吐いたわずかな血は恐ろしく思えるのか?」
「わああ! 殴んないで、殴んないで」
ジーさんの放ったストレートがガードしていた少年の腕をなぎはらい顔面を捉えた。
鼻がぐしゃりとつぶれた。
賢三は鼻と口一杯にツンと鉄の匂いを感じた。なぜだか懐かしいと思った。遠い夏の日に遊んだ鉄棒の匂いと同じだったからだ。
溢《あふ》れ出る涙の味と混ざって懐かしさと恐怖とが一杯に広がっていく。さらに血が流れ出る。ここは一体どこだろうと賢三はぼんやり思う。覆面ブルマー猿が見下ろしている。
「教えてやろう。それは現実だからじゃ。現実は痛みと恐怖の連続じゃ。どれだけ映画を観ようと本を読もうと現実の痛みだけは体験しなければ絶対わからんのじゃ。そして現実の恐怖は……立ち向かわなければ乗り越えることができないんじゃ。失恋と自信喪失でお前はさらに象牙《ぞうげ》の塔の中へ引きこもろうとしておる。映画や本や空想の中に浸っていればぬくぬくと安心できるからな。だがな賢三よ、少年よ、お前に今必要なのは現実の痛みを知ることじゃ。現実の恐怖と対峙《たいじ》することじゃ。汗をかき涙を流し息を吸い息を吐き小便してウンコして寝て起きてメシ喰《く》って、生きることの一切合切を腹に収めるために、少年よ、考えるな、動けっ! 怯《おび》える前に殴り合え! 殴り合って痛みと恐怖を乗り越えて、そして初めて人生を歩み出すのじゃ!!」
大演説の覆面ブルマー猿に対し、賢三は一言「いやだ」と答えた。
「いや? なぜいやだ?」
「……だって、だって痛いんだもん」
言うやいなや四歳児のごとくビエーンと泣き出してしまった。
これにはジーさんも拍子が抜けた。
「気骨のないやつじゃのう。向かってくるどころか幼児返りしおったか」
賢三は体育座りの体勢で泣きじゃくるばかり。ビエーンビエーンとほとんど昔のアニメの泣き虫キャラである。
「……ちょっと最初から飛ばしすぎたかのう」
「いたいよー、こわいよー、ビエーン」
「そんなに泣くことはないじゃろう」
「いたいよー、こわいよー、ビエーン」
「……わ、悪かったよ」
すっかりテンションの下がってしまったジーさんは、ブルマーを取り、グローブもはずすと、懐から手ぬぐいとちり紙を取り出して賢三に渡した。
「ホレ、血をふけ、鼻にちり紙をつめろ」
賢三の横に自分もあぐらをかいて座った。
「わかば」を一本取り出して火をつける。「吸うか?」と賢三に勧めたが、イヤイヤと首を振って断られた。
「賢三、ワシも若い頃は悩んだもんじゃ」
ポワ〜ンと煙の輪を一つ吐いた。
「もちろん恋もした。稲子といってやっぱりオッパイちゃんじゃった。イヒヒ。もみまくったもんじゃよ。ウヒヒ。ところが他の男に取られてな。なんだかわかんなくなってワシは世界放浪の旅に出た。行く先々でいろんなやつらと出会ったんじゃ。身ぶり手ぶりで話すんだが、黄色いチビだってんで結局見下して来るんじゃよ。ワシも若かった。めんど臭くなって手を出しちまうんだ。世界のいたるところで大ゲンカじゃ。大概ワシより二回りも大きくて、中には二メートルの雲つく黒人なんかもいたが、ワシはガキの頃から武術をやっていたからみ〜んなのしてやった。アメリカの港町じゃ戦争帰りの三文文士と派手にやりあったな。確かヘミングウェイとか言う名の男で、その後有名になったそうじゃが知っとるか? ま、たまには負けたが不思議とケンカの後は仲良くなれた。夜通しの議論も重要だ。でもそれ以上に若い頃に必要なのは痛みを伴う経験なんじゃと思う。賢三、それをワシは教えてやりたかったんじゃが……」
賢三は依然として四歳児泣きを継続中であった。
「……ちょっとお前のような種族には強烈過ぎたかな。すまん。だがな賢三よ。殴られるってのはなかなか面白い体験じゃぞ。あのな、左顔面を殴られると右手が痺《しび》れるんじゃ。フラフラして踊ってるみたいになってしまう。左脳をやられた老人が右半身不随になるのと同じ理屈じゃ。これが本当のサノヨイヨイってわけじゃ。ワハハハハハハ。どうじゃ、面白いじゃろ?」
もちろん賢三がクスリとするはずもない。会心のギャグを無視されたジーさんは、一寸《ちよつと》ムッとしたのか冷たい口調で言った。
「それぐらいの血でビービー泣くな。お前の愛するオッパイちゃんなんぞ、その十倍の量を毎月オマンチョからダラダラ流して平気でおるんじゃぞ」
すると賢三の泣き声がピタリと止んだ。
おや? と思いジーさんが横を向くとそこには、口の周りを血で真っ赤に染めた賢三が、鬼のような目をしてにらみつける顔があった。『八つ墓村』の殺人狂みたいな表情をしながら、鼻の穴からニコッと|こより《ヽヽヽ》が一本つき出ているのがまたすこぶる不気味だ。
「……おいジジー、そんな下劣な言い方はやめろ」
「お、賢三怒ったのか? 怒ったんなら殴ったっていいんだぞ」
ホレホレ、と自分の頬を賢三に近づけてみせた。
「ホレホレ、ワシの鼻からも流血させてみい。オッパイちゃんのオマンチョと同じくらいたっぷりと血を噴いてやるぞ。ホレホレ」
最低だっ! とつぶやいて賢三は立ちあがった。
「もう家に帰る。アンタみたいなどうかしてる奴と殴り合うぐらいなら、家で引きこもってる方がまだいくらかましだ」
「そうして現実から逃げ続けて、逃げて逃げてどこへ行けるというのか。逃げた先にオッパイちゃんがいるとでもいうのか?」
「いないよ。いるわきゃない。わかってるよ。でもいくら考えてももうわからないんだ」
「だったら考えるな」
「考えるなって……何を?」
「全てを」
「考えないでどうする?」
「動け」
「動く?」
「そして感じろ」
「何を?」
「生きているということを」
「わかんない」
「わかる前に動け、そして感じろ」
「全然わかんないよ!」
賢三はまた子供のように落涙を始めた。明らかに、このところの過剰なストレスが、彼の心を退行させ始めているのだ。泣きじゃくりながら屋根裏部屋へ向かう彼の背に、ジーさんは口の端でタバコを吸いながら静かに言った。
「お前のバッグにビデオを一本入れておいた。部屋の隅にデッキがある。黙ってそれをまず観ろ。お前が家に帰ろうとどうしようともうワシは知らん。だがそのビデオだけは途中で止めずに最後まで観ろ。話はそれからじゃ」
屋根裏部屋の中でバッグを探ると、本当に一本、ビデオテープが入っていた。
‘80年代当時、VHSと勢力争いをくり広げていたSONYのベータであった。背にラベルが貼ってある。
「ケンゾーのバカへ 明日のためにその1」
と、虫のはったような字で書いてある。
これは山之上の字だ。
部屋の片隅にモニターとデッキがあった。
両方のスイッチを入れると、画面に砂の嵐が浮かびあがった。まだ降りしきる雨音と機械のノイズとが蒸し暑い屋根裏の薄闇の中で重なりあった。ビデオをデッキに押し込んでプレイボタンを押すと、現れたのは画面一杯に映った山之上の顔であった。ビデオカメラをセッティングしている様子だ。画面が揺れている。揺れがおさまると山之上は「よし」と言って後方にしりぞいた。すると彼の両隣りに見慣れた二人の姿があった。三人は小さく「せ〜の」と声を合わせた後、画面に向かって叫んだ。
「俺たち! キャプテン・マンテル・ノーリターン!!」
最初に語り出したのはカワボンだった。
「け、賢三、しゅ、修行しているか。お、俺らも毎日、れ、練習しているぞ。や、屋根裏のライブにむかって日々モーレツア太郎……じゃなかった、も、猛練習を……その、あの……う……」
ものすごい棒読みの上に、何より目が泳いでいた。どうやらカメラ側に置いてあるらしい台本を読みながらのトークのようだが、緊張しているのかシドロモドロなのだ。その内、完全に詰まって真っ赤な顔のまま黙ってしまった。画面の中の山之上とタクオがカワボンをジーッとにらむ。そういえばカワボンは落ち着いているくせに、こういった芝居じみたことはとことん苦手なやつだったなと思い出し、賢三は別荘に来て初めてクスリと笑った。カワボンの代わりにタクオが語り始めた。
「賢三、ちゃんと修行してるのかこのバカ。オレらは屋根裏のライブにむけてガンガンとリハを重ねているぞ。おかげで毎日昼メシ抜きだ。ところで賢三、お前のノイローゼを克服するためにオレらでビデオを一本編集してみた。続けて入っている。観ろ。内容は……」
山之上が割り込んだ。
「ぼぼ、僕の部屋のデッキで編集したんだ。ふふ、もちろんベータだ。VHSは近い将来絶滅すると僕は読んでいるからね。内容は……題して! 『ケンゾーの恐怖突入!!』だ」
今度はタクオが割り込む。
「ノイローゼの克服に恐怖突入というのがあるんだ。あえて恐怖を感じる状況と直面することによって乗り越えるんだ。高所恐怖症だったらわざと世界貿易センタービルのてっぺんにあがってみるというようにな」
「お、お、お前が今恐怖に感じているものを一本にまとめておいてやったぞ。震えて観ろよ!」
山之上がイヒヒヒヒと芝居っぽく笑ってみせた。
「克服してみろ! 乗り越えてみろ賢三っ!」
タクオが目をむき拳《こぶし》を握りしめた。
カワボンはレンズを見たまま固まっている。本来は彼のセリフタイミングであったのだろう。すっかり忘れているために、ポーズを決めた山之上とタクオが困っている。
妙な間。
タクオが決めの姿勢のまま「カワボンだよ。カワボンが言うとこ」と小声でうながした。ハッと我に返ったカワボンは、人差し指をつき出して突然叫んだ。
「コ、コマーシャルッ!」
そーじゃねーだろ! と言いながら画面の中の山之上とタクオが後方にずっこけたところで画面が切り替わった。
賢三の体がビクッと震えた。
山口美甘子の姿が映し出されたからだ。
十数秒の間、画面が次々と切り替わった。
しかしいずれもが山口美甘子であった。
制服の美甘子、カクテルドレスの美甘子、ジーンズ姿の美甘子、目もくらむ悩殺ビキニの美甘子、美甘子! 美甘子! めくるめく美甘子の嵐。
なるほどこれこそが今の賢三にとっての恐怖≠サのものに他ならなかった。
赤いドレスを着た美甘子が画面の中でクルリとターンを決めてみせた。
スリットから白い腿《もも》がのぞいた。
すると賢三の頭の中で妄想が爆発する。
ドレスの赤は美甘子の股間《こかん》から噴き出した血の色なのだ。美甘子はそれを『毎月オマンチョからダラダラ流して平気でおるのじゃ』。血は美甘子の体をなめまわしドレスの型にへばりついて愛撫《あいぶ》を続けるのだ。ゼリー状の怪物に喰《く》らわれ吸われる哀れな美少女の肉体は、意外にも痛みやかゆみさえ快楽と認識してしまうのだ。快感は声となって美甘子の唇から発せられることとなる。獣の仔《こ》どもの声を上げる。
『いいっ、いいっ、いいっ、ねぇ美甘子は何になる? 犬になる猫になる? 豚でもいいよ。いやらしいことしてもらえるなら殴ってもいいよ。殴ってよ殴ってほしい。いっぱい血を流したいの。平気、平気。だって美甘子は毎月オマンチョからダラダラ流して平気でおるのじゃ……』
妄想を止めるべく賢三が自分の手で自らの顔を張ると、幻覚の美甘子の声がジーさんのものへと変化し、ようやく現実の世界へと戻ることができた。
だが、画面にはまだ美甘子が映っているのだ。
さまざまな番組から編集した美甘子の姿が、今度はバックに音楽をのせて流れ続けた。キング・クリムゾンの「ムーン・チャイルド」。賢三のフェイバリット・ソングだ。カワボンたち三人らしい、ちょっとした演出であったが、彼らの想像を何十倍も超えて哀しい調べは賢三の心を刺激していた。ダイレクトに副交感神経に伝達し、滂沱《ぼうだ》たる涙を少年に流させていた。一度だけ語りかけられた黒所の教室。偶然出会った文芸坐。奇蹟《きせき》のナイスシアター。楽しかった思い出がムーン・チャイルドにのってかけ巡り、もうその日々が絶対に帰って来ないことまでを音楽は痛切に思い知らせるからだ。
賢三が泣き崩れようとした時、場面がまた切り替わった。賢三の体が再びビクリと震える。
羽村一政が大映しになっていた。
同じ歳とはとても思えぬスターの輝きを放つ少年は、いとも簡単にその腕の中に山口美甘子を抱き寄せた。猫の子でもつかむように、しかも微笑みながら、そして山口美甘子と唇を重ねた。
三人のマメな編集によって、このシーンは五回連続でくり返された。
賢三は五段階に分けてガタンガタンと自分が奈落《ならく》の底に落ちていくのを確かに感じていた。奈落の底では山口美甘子がまた痴態をさらしていた。ねばつく血のドレスの中で獣の仔どもじみたあえぎ声を上げていた。「犬にしたの、犬に決めたの」といって四つんばいになり闇の中をかけずりまわった。「はっ、はっ」と息を吐きさかりのついた犬そのままに腰を振ってみせた。ぶるぶると振り続けた。正視できる光景ではなかったが、止めたところで美甘子は代わりに賢三にこう言うにちがいない。
『大橋君、あなたが山口をこんなにいやらしくしたんだよ』
美甘子が言わなくても、その言葉を連想しただけで賢三は体の震えを止めることができなかった。
もうダメだ。ストップボタンに指をかけた。
と、モニターの画面が黒柳徹子の顔のアップになった。
この背後のセットは明らかに「徹子の部屋」だ。画面が引くとやはり隣りにはソファーに座った美甘子がいた。ル〜ルル、ル〜ルルというおなじみの音楽が聞こえるところをみるとどうやらエンディングのようだ。徹子が機関銃のようにしゃべっている。
「んま〜そうですの山口さんは本当に大変でいらっしゃって、ニャンニャン写真って今言うんですって私ちっとも知らなかったんですけど(笑)撮られちゃって大騒ぎになって、それでもあなたおエライわね、ちゃんとテレビで釈明したらみんな応援してくれて、前より何十倍も人気が出ちゃったって運もいいのね〜、それであれですって、なんかえらいところから話が来て、次の映画ももうお決まりになったんですってね。ハリウッド。んま〜その話して」
全部あんたが説明したやんけ! しかもエンディング直前に! もはや名人芸的ゲスト・トーク殺しにはさすがの美甘子もたじろいだ様子だった。それでもニコリと笑ってすぐに返した。
「え、はい。ハリウッドで製作される映画に出ることが決まりまして、八月中にアメリカに渡ります。だからしばらく日本には帰ってきません。もしかしたら永住しちゃおうかな〜なんて思った……」
そこでCMが入り、ビデオ自体もエンディングをむかえた。
ごていねいにドアーズの「ジ・エンド」を流しながらタイトルロールが流れ始めた。スタッフ三人しかいないというのに。
賢三は地蔵のように固まった。
全てが衝撃ではあったが、ラストの渡米発言には、全身の力の、最後の一滴を振りしぼられた。
背後で声がしても、なかなか気付かなかった。
それでもジーさんは声をかけ続けた。
十回も名を呼んだだろうか。
ようやく賢三はふり向いた。
ジーさんは美甘子のブルマーをかぶり、頭だけをヌッと天井裏につき出していた。
階下の灯《あか》りがその顔に奇妙な陰影をつけている。
ドアーズの流れる中、ジーさんは静かに語りかけた。
「賢三、とりあえず、殴り合ってみようや」
雨。
雨の中を二人は向かいあった。
しばらくの間二人は無言であったから、山之上家別荘の芝生を濡《ぬ》らす雨の音だけがあたりに聞こえた。ぬかるみにしっかりと足を踏みしめ、ジーさんは再び覆面ブルマー猿と化そうとしていた。両手に赤いグローブ。やがて水しぶきをあげながらその場でリズミカルにフットワークを始めた。
対する賢三は、ジーさんから二、三歩離れた位置で雨に濡れつっ立っている。ジーさんから渡された白いグローブを両手にはめている。
「賢三、感情は時に爆発させてやらねばならん」
フットワークを止め、何やら上体をタコのように動かし始めた。武術の型のようだった。
「特に嫉妬《しつと》の心は全てを悪いほうに向かわせる」
「俺が誰に嫉妬していると言うんだ?」
「オッパイちゃんじゃ。それに羽村とかいうガキ」
「嫉妬なんかしていない」
「嫉妬だけじゃない。恨み、ねたみ、そねみ、羨望《せんぼう》、劣情、数えきれない負の感情にお前は囚《とら》われている。なぜそのような苦しみにつきまとわれているのか。その根本的な原因を教えてやろうか」
「……なんだよ」
「執着じゃ」
「執着?」
「いつかはなくなるもの、手に入れようとすればするほど遠く離れていくものを、永遠に手中に収めようと思う執着の心が苦しみを生じさせるのじゃ」
「わかったようなこと言うな」
「まず、オッパイちゃんがお前の手の届かぬところにいることを認めろ」
ジーさんが動きを止め、上体を前に倒し両の拳《こぶし》で顔面をガードした。ファイティング・ポーズ。
「そして、もうすぐもっと遠くて広い世界へ彼女が羽ばたいていくことを認めろ。彼女がハリウッドの社交界に打って出るその時、どうせお前はヘボヘボと自転車をこいで練馬あたりをほっつきまわっておるのじゃ」
「うるせえ!」
「彼女がムービースターたちと極上のシャンパンを飲み交わすその時、お前はニキビ面の野郎連中とコーラの一気飲み大会を駄菓子屋の前で開いて、そうしてゲロを吐いておるのじゃ」
「うるせえうるせえうるせえ!」
「認めろ。彼女が手の届かないところにいることを腹に収めろ。執着を捨てろ。しかしだからといってくさるな、めげるな、自分が今どん底にいることを認め、ではその最低の位置からできる最低限のことをお前はとにかく始めるがよい。何年かかるかわからない。一生無理かもわからない。彼女は気付きもしないかもしれない。それでも、俺は何一つしなかったと人生の終末に思うよりはナンボかましじゃ。少年よ、捨てろ。今は嫉妬も恨みも、何よりお前のちっぽけなプライドすらも執着をやめて捨ててしまえ。考えるな。まず動け! 考えるな、まず行動じゃ。考えるな、体験しろ! お前はお前の人生を今この時から……ギャーッ!!」
いいこと言ってたジーさんが突然悲鳴を上げてぬかるみに尻《しり》もちをついた。
賢三がタックルをかましたのだ。意表をつかれたジーさんは賢三の馬乗りを許してしまった。一発二発と老人のブルマー面めがけ少年のグローブが打ちおろされた。
「お前に俺の何がわかるってんだよーっ!」
切れた内向型の高校生……しかも文系、ほど危険な存在も他にない。
雨の中、髪ふり乱しあまつさえ鼻も口もまだ血まみれの賢三が怒り泣き叫ぶ狂鬼の形相に、さすがのジーさんも引きまくった。顔面をガードするのが精一杯。
賢三はブンブンとパンチを連打する。
「何がわかるってんだよおおっ! 美甘子が好きなんだよおおっ! 大好きなんだよおおっ! でもやられちまったんだよおおっ! アイドルにやられちまったんだよお! 遠くに行っちゃうんだ! アメリカに行っちまうんだ! アメリカ遠いよー! 昼メシ何回抜いてもそんなとこ行けねーよー! どこなんだアメリカってよー! ニューヨークかよー! ハリウッドかよー! アムステルダムなのかよー!」
「それはオランダじゃ」
「知らねーよー! なんにもわかんねーよー! 楽器もできねーよー! 歌詞も書けねーよー! なんにも俺にはできることがねーんだよー! オナニーしかできることねーんだよー! 美甘子でオナッちまったんだよー! 俺はダメダメダメ人間なん……ギャーッ!」
今度は賢三が悲鳴を上げた。
殴られるままにまかせていたジーさんが一瞬の隙をかいくぐり、賢三の片腕を両手でつかんで股《また》の間にはさむや、一気にしぼり上げたのだ。いわゆる腕ひしぎ逆十字固めがガッチリと決まった。
「イテ──ッ!! イテテテテテテテテ!」
「どうじゃ、痛いか?」
「イテ──ッ! やめて、助けて、あ、あ、イテテテテイテ──ッ! ギャアアアアアッ!!」
生まれてこのかた経験したことのない痛みに賢三の頭の中は真っ白になった。美甘子も羽村も、自分自身も全て消えた。ジーさんがさらにしぼり上げた時、賢三は腹の底から湧きあがる大声で叫んでいた。
[#本文より1段階大きい文字]「戦争反対〜!!」
戦争反対……と、確かに賢三は叫んだのだ。
ジーさんはそれを聞くやパッと腕を離した。
「ほう、戦争反対、と来たか」
ブルマーの下でニヤリと笑った。
「なんで戦争反対なんじゃ?」
賢三はゼーゼーと肩で息をしながら、自分でも不思議そうに肘《ひじ》をさすった。
「……あ、あんまり痛くって……痛いことは嫌だと思って……痛いことがあるのは戦争だから……戦争はよくないって……何言ってんだ俺?」
「思考が痛みによって飛んだんじゃよ。そんなこともある。面白いだろう、実体験というもんは。想像のつかないことの連続じゃ」
ジーさんが立ちあがった。泥だらけだ。雨に濡れた草の匂いがあたりを包んでいる。やはり泥だらけの賢三を、ジーさんがゆっくりとおこしてやった。「ありがとう」と賢三が小さく礼を言った瞬間だった。
ジーさんが右フックを放った。
賢三の左顔面を直撃した。
ぬかるみが足かせの役割を果たし賢三は倒れることはなかった。代わりに、賢三の体に奇妙な動きが発生した。どうしたことか、少年の右半身がまるで踊っているようにブルブルと震えたのだ。
左顔面を打たれると右半身が踊る。
賢三は痺《しび》れた頭でジーさんの言葉を思い出していた。
──これが本当のサノヨイヨイ。
雨の中でジーさんの目が笑っているのが見えた。
その時、賢三の中でムクムクとふくらみ始めたものがあった。
すごい勢いで大きくなっていく。
表面張力ギリギリまでふくらみ一瞬にしてはじけた。
噴出。
なんだこれは?
爆発。
押さえ切れぬ一挙に。
なんなんだこれは?
炎上。
そうだ。わかった。これこそが怒り≠ネのだ。
だが誰に? ジーさんに? 羽村に? 美甘子に? それとも自分自身に? おそらくその全てに対してのあらゆる感情がもつれうなりそして今怒りという最もわかりやすい激情として発露しようとしていた。
「う、う、うわああああああああっ!!」
賢三が渾身《こんしん》の力を込めて放った右ストレートが見事にジーさんの顔面をつらぬいた。
老人の歯がその口から十本もふっ飛ぶほどの鉄拳《てつけん》であった。
……と思ったら入れ歯であった。
[#改ページ]
第8章 雨
「ふがふがふが」
と言いながらジーさんは入れ歯を探すべくぬかるみに這《は》いつくばった。
「いへぶぁいへぶぁ、いへぶぁはほこひゃ」
横山やすしの「眼鏡眼鏡」ならぬジーさんの「入れ歯入れ歯」である。
怒り心頭とはいえ、さすがに賢三もあわてた。
「えっ、ごめん、どこかな」
一緒になって地面に這った。
「ほこひゃ、いへぶぁはほこひゃ」
「どこだっ、入れ歯はどこだ」
老人と少年で雨の中、入れ歯を探すこと数分、ついに賢三が泥に半分埋もれていた入れ歯を発見した。
「あった、あったぞジーさん」
「よほへっ、いへぶぁよほへっ」
賢三から入れ歯を取りあげたジーさんは、水たまりでジャブジャブと泥を洗うと、グローブをはめた手で自分の口にそれを持っていった。
「はー、危なかったわい」
老人は安堵《あんど》の笑みを浮かべた。いつの間にかブルマーは脱げていた。
「よかったね、ジーさん」
賢三もつられて微笑んだ。
その一瞬の気の緩みをジーさんは見逃さなかった。
賢三の笑顔の真正面めがけてグローブを叩《たた》き込んだのだ。
ぐへっ、と賢三ののどから奇妙な音がもれた。
背中から、雨に濡れた芝生にゆっくりと倒れていく。
賢三の両目いっぱいに雨空が広がる。
溢《あふ》れる涙と天から降りしきる雨粒とが眼球の表面で混ざり合う。
このまま永遠に泣き続けてしまいたい、と賢三はぼんやりと思った。
そして実際に、えっく、ひっくと雨の中に仰向《あおむ》けに倒れこんだまま嗚咽《おえつ》してみた。えっく、ひっく、えっく、ひっく、くり返してみれば泣くことのなんとうれしさよ。悩みなどなかった小さな子供の頃に戻れるではないか。誰もがつんつるてんの赤ん坊だったあの頃、優劣などという差は俺たちにはなかった。俺も、美甘子も、羽村も、カワボンもタクオも山之上も、黒所の連中だって、誰しもが同じ地平に仰向けになって、えっく、ひっくと泣いてさえいれば存在価値を認められたのだ。それがいつ、なぜ、俺たちは競争を強いられ、差がつき、埋められないほどの距離となったのか。えっく、ひっく、えっく、ひっく、ああ俺は泣いていたい。一生こうして泣き暮らしていたい。
賢三の悲しき願いは十秒と続くことはなかった。えっく、ひっくの少年に対し、老人は両足でもって、その腹の上に飛び乗るという荒技に出たのだ。プロレスでいうところのフット・スタンプである。
「オハーラーッ!」
踏みつけられた賢三が目ん玉むきながら謎の悲鳴を上げた。ちなみにイントネーションは「ハ」にあった。
「おはら? なんじゃ? 小原庄助か?」
腹の上に直立したまま尋ねたジーさん。
息も出せぬ賢三に答えが言えるはずも無い。代わりに筆者がこの謎を説明しよう。「オハーラー」とは『燃えよドラゴン』におけるブルース・リーの敵役空手マン「オハラ」のことである。
オハラはリーに戦いを挑むが、リーの放ったコテコテのプロレス技・フット・スタンプによってあえなく絶命するのである。賢三のオハラ絶叫は、激烈な痛みによるフラッシュバック反応であった。生まれて初めての殴り合いの痛みが、いかなる伝達からか、近似する光景を彼の脳の側頭葉から引き出したのである。映画少年の彼のこと、脳裏にすかさず浮かんだのが『燃えよドラゴン』のオハラ絶命シーンであったというしだい。
そんな脳内革命とはさっぱり気付くはずもないジーさんは、賢三の腹から飛び降りると、イヤイヤをする賢三をひきずり起こし、一本背負いで放り投げた。すると、
「クリストファーッ!!」
空中で賢三がまた叫んだのだ。
おそらく映画『スーパーマン』のスーパーマン役、クリストファー・リーヴのことであろう。いきなりの空中浮遊が超人役俳優の名を賢三の脳から引き出したというわけ。
どうっ、と顔面から地に伏した賢三。
その頭をジーさんのサッカーボールキックが襲う。
もし当たっていたなら賢三はなんと叫んだであろうか。すんでのところで賢三はジーさんの脛《すね》にしがみついた。殺される! そう思った瞬間自然に手がのびたのだ。反撃に転じても賢三の側頭葉映画検索はまだ続いていた。だから彼は老人の脛に思い切り噛《か》みつく直前、こう叫んだものだ。
「ゾ〜ンビ〜ッ!!」
語源となる映画は説明するまでもあるまい。
骨まで砕かんばかりの一噛みに、今度はジーさんの方が堪《たま》らず叫んだ。
「エリザベ〜スッ!」
なんだそりゃ? 実は老人の側頭葉にも賢三同様に痛みの刺激が伝わったのだ。エリザベスとはジーさんが世界放浪をしている時にフロリダで出会ったオッパイちゃんの名であった。やりまくった後トンズラするところをエリザベスの亭主に発見され、したたかに脛を齧《かじ》られた思い出があるのだ。
「ゾ〜ンビ〜ッ!」
「エ、エ、エリザベ〜スッ!!」
「ゾ〜ンビ〜ッ! ゾ〜ンビ〜ッ!」
「エリザベ〜ス! エリザベ〜スッ!!」
ゾンビ対エリザベス。バカみたいと言うしかない。
なんとか賢三の歯から逃れたジーさんだが、今度は足をすくわれた。賢三はジーさんの両足を片手それぞれでつかみながら立ちあがった。立ちあがった瞬間、また側頭葉にズビビビと強い刺激を受けた。少年の脳裏にパッと浮かんだ光景は今度はプロレスなのであった。
しかも全日本。
ジャンボ鶴田が大熊元司あたりをジャイアント・スイングでグルグルと回す‘80年代全日本プロレスののどかな景色が検索されたのだ。
老人の体は思ったよりはるかに軽かった。賢三は両|腋《わき》にジーさんの足をしっかりと挟み、腰を落とした。
嫌な気配を感じた老人が「おい、よせ、それはやめろ」と叫んだが、賢三は自分の体を軸に、一気に老人の体を回転させ始めた。
「やめろおおおおおお……おおお……ぉぉぉ」
四回、五回、六回転目で放り捨てた。
老人はゴロゴロと地にころがる。
回した賢三も目を回している。
老人が立ちあがりふらつきながら少年に近づいていく。
少年も歩いていく。
雨。
いつまでだって雨。
二人の全身はもう濡《ぬ》れ鼠である。
老いた鼠がファイティングポーズを取る。
ヒッ、と若い鼠は一歩たじろいだが、雨の中で何かを決意したようだ。
逆に一歩、また一歩、もう一歩、ゆっくりと老いた鼠に歩を進めていった。
鼠と鼠とが向かいあう。
今はもう、若い鼠も拳《こぶし》を構えている。
「ほう、やっとやる気になったか」
「逃げたって殴る気だろ? だったらやってやる」
「殴られて目が覚めたか?」
そうとも言えた。痛みによるフラッシュバックは、映画やプロレスの記憶だけではなかったのだ。何度目かに殴られた時、同時に少年の脳裏に山口美甘子の映像も検索されていた。そして現れたチカチカとまたたく思い出の美甘子が賢三にこう言ったのだ。まるで天啓のように言ったのだ。
『人生ってグミ・チョコ遊びだと思うの。出す手によって先に行ったりおくれたり、でもそうやって、いつかみんなが同じ場所へたどりつくんだと思う』
美甘子の姿が欲情した獣に変化することはもう無かった。
脳裏で定着し、やがてすうっと消えていった。
賢三を悩ませていた頭の中の回転が、殴り合いによって、痛みによって、現実の行動に熱中することによって、ジーさんの言うように、確かに止まったのだ。
考えるな、動け、確かに今の俺にはそれが必要だ。賢三はそう思った。
賢三は右ストレートを放った。
渾身《こんしん》の力をふり絞ったパンチだったが、ジーさんにはよく見えていた。左ジャブを合わせて|1《ワン》≠ナ制し、すかさず|2《ツー》≠フ右ストレートを賢三の顔面に打った。ところが驚くべきことに、賢三がこれに合わせて左ストレートをかぶせてきたのだ。
少年と老人の拳は同時に互いの顔面を貫いた。
雨の中で二人は同じ言葉を叫んでいた。
「ジョ〜〜〜ッ!!」
これって『あしたのジョー』のクロスカウンターだよなあ。
と、二人の痛みは同じ記憶を検索していたのだ。
「ジーさん『あしたのジョー』知ってるのか?」
老人が鼻血をたらしながらニカッと笑った。
「そもそも殴り合いを考えたのは孫の部屋にあった『ジョー』を読んだことがきっかけじゃ。『リングにかけろ』も読んだが、ありゃちょっと参考にならんのう」
少年も顔面を血まみれにしながらクスリと笑った。
「賢三、これから毎日やるぞ」
「やってやる。何もやらないよりはましだから」
痛みの連続の内に、賢三は、わずかだが光明が見えたような気がしたのだ。
ただ今は、バカとなってこの男と殴り合ってみようと決めた。
まったく根拠はないけれど、そうやって無為にすごした日々のはるかな果てに、山口美甘子がいるのではないかと思えた。
どのくらい遠いにせよ、いつか同じところへみんながたどりつくはずなのだ。
ならば無駄に思えようとも、一歩でも歩を進めるべきなのではないか、だって、美甘子がそう言ったんだから。
俺に教えてくれたんだから。
まだまだ雨。
それでも賢三の心の雨雲は実に久しぶりに晴れ間を見せて、そこから少しだけ陽の光が射しこむ気配をみせていた。
雨雲の向こうに美甘子がいる。
輝く俺の天使がいる。
天使はきっと俺を待っている。
賢三は自分に言い聞かせるように、強く思ったのであった。
その日二回目のセックスが終ると山口美甘子は、弓なりにのけぞらせた背筋の力を緩ませる暇も無く、「ね、もう一回、もう一回すぐして」と羽村一政の腕の中で強くねだった。
まだ視線さえ定まらぬ忘我の状態にありながら、下腹などはびくんびくんと震えるまさにその最中だというのに、一時をおしんで恋人の髪をつかみさらなる快感を求めるのだ。
「あっ、ねっ、できる? できるよね? そのままもいっかいしてほしい」
「今終ったばかりだろう」
「でも羽村君、美甘子ん中でまだおっきいよ。できるよね? 美甘子の震えてるのが止まったら、すぐまたして」
「そんなに気持ちいいのかよ」
「すっごく気持ちいいの」
見開いた少女の瞳《ひとみ》はまだ視点が定まらぬらしかった。羽村の顔をすかして、どこか空の遠くを見ているかのように左右に揺れ動いている。阿呆《あほう》みたいにぽっかりと口をあけ、息は下腹の震えと連動して、はっ、はっ、はっ、と等間隔で吐き出されている。吐息に混ざってまた哀願の声をあげてみせるのだ。
「ねっ……してってば、すぐして、すぐ……」
羽村は「うるせぇ」とつぶやいて、美甘子の大きくあけた口の中に指を二本つっこんだ。中指と薬指とを美甘子は根元まで受け入れた。舌で、舐《な》めてみせた。
「へぇっ、ひへっへぶぁ、ひへっ」
入れ歯の抜けた老人のような声が少女の口から漏れ始めた。
「うるせーってば」
羽村は小指までを美甘子の口の中に押し込んだ。三本の指がその中でべっとりと濡れ、かつ熱かった。
それでも少女は黙ろうとしなかった。ようやく焦点のもどった大きな瞳で、羽村を見つめさえしながら、「ひへっ、ひへっ」と発し続けるではないか。
「黙れ、黙れよ」
羽村は、少し、恐くなっていた。
この時だけに限らず、山口美甘子とセックスをする度に、彼女が、徐々に快感を知り始めるにつれ、彼女のただならぬ反応や行動に、時に恐怖にも似た違和感を持つようになっていた。
ついに人差し指も口の中にねじ込んだ。美甘子は「ううっ、ううっ」と少しの間うめき声をあげていたが、やっと大人しくなった。下腹の震えが収まって、多少気がすんだようだった。
四本の指をゆっくりと口から抜くと、山口美甘子は、まだ粘液の糸が羽村の指とつながっている唇で、うれしそうに尋ねた。
「羽村君は気持ちよかった?」
「え、ああ」
「ちゃんと見てた?」
「え?」
「してる時、山口をちゃんと見てた?」
「ああ……そりゃ見てたよ」
「山口、ちゃんと言われたとおりにしてた?」
「え、ああ、なってたよ」
美甘子はエヘヘヘヘと、無邪気に笑った。
「次はなんになろうか? なんにでもなれるよ。羽村君とHするとなんにでもなれる。楽しい。どんどん楽しくなる。やめらんない」
羽村は生返事をして美甘子の体を離した。
すかさず美甘子が両腕でからみついてきた。
二人の体は汗でぬるりとすべった。
「タバコぐらい吸わせろよ」
そう言って羽村はまとわりつく美甘子をはがし、ベッドに腰かけた。
美甘子はあきらめなかった。
後ろから羽村の首に両腕を巻きつけ、豊かな乳房をぴったりと彼の背につけた。蛇のように両足までも彼氏の腰にからみつける。かかとで、少年の陰部をもてあそぶ。
「じゃ、一本吸ったら、すぐしてね」
「お前、本当にかわったよなあ」
「かわったんじゃないってばあ、ホントの姿にもどったの。君とキスしてから山口はホントの山口美甘子に気付いたの」
「どんなだよ?」
「この世界に起こる総てのことをね、頭の中じゃなくて、体全部で直接感じることが大好きな人間なの、私は。頭の中も含む私の体の喜ぶことに、忠実でいたいなって思うんだ」
「もう本なんか興味ないってのか?」
「今はいらない。映画も、観ているのなんかつまらない。出なきゃ、体験しなきゃ。昔はオールナイトで何本も観たりしたけど、あんなの意味がない。山口は、出ることのできる人間だもん。世界は送る側と受け取る側とに二分されていて、山口は絶対に、前者なんだもん」
羽村は、黙っていた。
突発的に有名性を得た十代特有の慢心であり、羽村にももちろん経験のある特権意識だ。けれど確かに彼女には、それを言うだけの才能がある。
そして逆に、「いい気になるな」と一笑に付すだけの立場に、もう俺はいられないかもしれない、そう思うと、たしなめる気にはならなかった。
ニャンニャン写真事件以来、二人を取り巻く状況は一変した。
美甘子は「純愛の果てのセックス」を公言し、見事大衆の信任を勝ち得た。特に若い層からの支持はそのままマスコミと企業とを動かす力となった。今、時代の風は明らかにこの十七歳の少女から吹いてくる。大人たちは彼女を、現代の若きカリスマとして全面的にバックアップすることを決めたのだ。
そのためにまず彼らが始めたことは、彼女のビルボードを町中に貼り出すことよりも先に、羽村一政を叩くことなのであった。
美甘子の行ったセックスを、善であり聖であるとイメージづけるために、逆に悪と欲望としてのセックスを行った者を見つけ出し、スケープゴートとして断罪する必要があったのだ。白羽の矢を立てられた羽村は、今まではキャラクターと言われ評価さえされていた尊大な態度を、いきなり「生意気」と各芸能誌に書き叩かれた。美甘子のハリウッド進出に対し、羽村は次のドラマさえまだ決まってはいなかった。
「灰が落ちてるよ、もうタバコ消しな」
そう言って美甘子は羽村の耳を一口ですっぽりと覆い、舌で、耳の穴の中までも念入りに舐めまわした。
「ねぇ、もう、ねぇ、また、早く」
違和感を感じながらも、羽村は美甘子とのセックスを拒むことはできなかった。ゆっくりと蛇にのまれるように、彼女の見事な裸身に身も心もいつの間にか吸い込まれ溶かされていくのであった。いつから主従の関係が逆転したのか、もう思い出せない。
二人が羽村の部屋で会う時間は、双方の事務所が取り決めていた。数時間、スケジュール通りに二人は会って、そしてカメラのフラッシュの嵐の中、少年と少女は黒塗りのメルセデスでさっそうと去っていくのだ。それをマスコミが面白おかしく書きたてる出来レースとなっていた。デートさえも美甘子のイメージ戦略のために今や綿密な管理がなされていたのだ。
しかし、まさか、それだけの注目の中で、少年と少女がセックスしかしていないとは、誰一人として気付かない盲点であった。
少女は、「今日のデートはどんなでしたか?」とマスコミに尋ねられると、その場でドラマを作り上げてみせた。
「今日は、羽村君とちょっとケンカしちゃいました。フランス映画の解釈について」
ニッコリ笑って、十分もの間、トルコ料理屋を営む帰還兵の失恋を題材にした古い仏映画についてペラペラと語ってみせた。主人公の恋愛観について羽村と共感できなくて、それでつかみあいのケンカしちゃったの、とペロリと舌を出してみせた。
そんな映画が、実は存在しないことを知っているのは羽村一政だけであった。
観ているはずがない。だって俺たちは、部屋にいる間、お互いに丸裸で、セックスしかしていなかったのだから。
虚言というより、憑依《ひようい》と言えた。
美甘子は、自分が演ずべき存在に、一瞬にして、取り憑《つ》かれてしまうのだ。
セックスの最中もそうであった。
「じゃあ美甘子、犬になる」
言った瞬間に、彼女はもう獣になりワンワンとほえてみせた。ハッハッと息を荒らげ、果てるまで羽村の腕の中で演じ続けてみせた。
「今度は王女様になる」
二度目の行為を始める前にはそう言って、やおら羽村の上にまたがった。背をのばし凛《りん》とした声で言うのだ。
「王女の証《あかし》のティアラが揺れて落ちぬよう」
羽村はもちろん笑ったが、美甘子はこの奇妙な遊戯にのめりこんでいた。
愛し合う度に自分に役を課し、見事に演じ切ってみせた。その内、羽村は笑えなくなった。「普通にしようぜ」と言うと、素の彼女にもどり、しばらく従った。しかし気が付くとまた何ものかになりきっているのだ。
山口美甘子は、さまざまな霊が自由に出入りする人間の形をした変換器そのものであった。
異常ではあるが、演ずるということにおいては紛れもなくこいつは天才だと羽村は思った。
そういうタイプの俳優がいることは彼も知っていた。確か演技性人格障害とかいうのだ。名優といわれる役者の中に、ごくまれに混ざっていると、何かのテレビでやっていた。情報としては知っていても、間近で見ると、怖い、と羽村は思った。
美甘子はセックスの体感を楽しんでいるのではなく、人格変換装置としての自分を、セックスの中で試しているのではないか。
俺が起動させてしまったのだ。
そして俺は、彼女を起動させる、そのための道具に過ぎなかったのではないか。
美甘子を憑依型の天才女優として完成させるための、俺は踏み台に過ぎないのではないか。
彼女はもうじきハリウッドに旅立つ。後に残る俺は、その時すっかりもぬけのカラになる。優位にいたはずの俺が、いつの間にかすごい差をつけられて取り残されているのだ。
トップアイドルにとって、初めて知る自己存在の不確かさであった。
「ねぇ、なんになる? 今度は美甘子はなんになる?」
それでも抗《あらが》えないことはわかっていた。山口美甘子の体は表面張力一杯の水面だ。プツン、と音を立ててはじけそうなほどに光を放ち、わななき、誘う髪と肌と肉と、香りとをまた抱きたくて少年はならなかった。
「なんになる? なんになる?」
少女は少年の耳元で囁《ささや》き続けた。狂気に近い才能が、さなぎから成虫へと変化する過程を、トップ少年アイドルとて、もう止めることはできなかった。
窓の外ではさっきから雨が降り続いている。
キャプテン・マンテル・ノーリターンの三人には傘すらなかった。
雨に全身をさらしながら自転車をこいで疾走していた。これからバンドの練習のために、練馬の貸スタジオへむかう彼らの体は、興奮に火照り、しかも真夏を間近に、降り続く雨ごときはエキサイティングで心地がよかったのだ。
「うおおおっ、雨粒で前が見えねぇぇっ」
急な坂道にさしかかった時、うれしそうにタクオが叫んだ。
「うっぷ、こりゃ確かに、口に入る」
カワボンも顔をしかめる。
「フフフ、き、君らとちがって僕の十段変速は前傾姿勢を保つからねぇ。空力学的に水滴をシャットアウ……アウーッ!!」
理屈をこねた山之上だったが、十段変速自転車の細いタイヤが水たまりにすべり、あえなくドンガラガッシャンと道路にずっこけた。
「山之上、山之上、ワハハハハハハハハ」
自転車を止めたタクオが爆発したように笑う。カワボンもつられて笑い出す。
「アハハハハハハ、ワハハハハハハハハ」
「イヒヒヒヒヒヒ、アハハハハハハハハ」
いつまでも、いつまでも二人は笑っている。
やっと山之上が立ちあがり、「く、くそう、笑うな、カッターで切るぞ」とすごんでみても二人の笑いは止まらない。
「アハハハハハ、な、なんかおかしい、なんか笑っちゃう アハハハハ」
「ワハハハハハ、空力学的とか言ってこけてんだもん、ウヒャヒャヒャヒャ」
タクオとカワボンは腹をおさえて笑っている。その内タクオの自転車がその場に倒れてしまった。それを見てカワボンはしゃがみこんで笑い出した。彼の自転車もコテンと倒れると、タクオはさらに身をよじって笑い出した。
「な、なんだよ お、お前らばっかりおもしろくなっててずるいよー」
山之上が口惜《くや》しそうに言った。それを聞いて二人がまた笑い出す。
「ワハハハハハ、ずるいって言われてもな〜 ワハハハハハハ」
「ずるいかよ〜っ、ずるいのかよ〜っ、アハハハハハハ、イテーッ、腹イテーッ」
ついに二人は雨に濡れるアスファルトの道路にころがって笑い始めた。
「く、空力学的にずるいってゆーんだよう」
自分も少しおかしくなってきた山之上が試しにそう言ってみると、タクオとカワボンは釣り上げられたばかりの魚のように地面の上ではねまわった。
「ギャーッハッハハハハハハハハハハハ!」
山之上も、なんだか腹のあたりがヒクヒクと震え始めた。
「うふふふふ、アレ、なんかおかしい、笑いそう、うふふふふふふ」
「アハハハハハ、イテテー、イテー、腹イテーよー、アハハハハ」
「あ、あのねカワボン……空力学的」
「アハハハハハハハハハハハハハ! やめろーっ、腹いたいよー、苦しーよー、アハハハハ」
「タクオ、おいタクオ」
「ワハハハ、なんだよ山之上、ワハハハハ」
「く〜りきが〜くて〜き!!」
「ギャハハハハハハハハハハハハハハハハ! ワハハハハハハハハハ」
「ふはははははははは! ふははははは! おい早く練習行こうよ、アハハハハハハハ」
「笑ってるばあいじゃねーよ! でも、アハハハハハハハハハハ」
「ひゃははははははは! 今日新曲やろうぜ! ワはははははは」
「アハハッ……アハッ……できたのかよ……アハッ」
「フヒヒヒヒ……ヒーッ……うん……自信がある。いい曲だ……アハハッ」
「ハハッ……いい感じだな俺ら……ああまだ腹いて〜っ……」
「ハァ〜ッ……賢三がいればもっとな……」
「……今は言うな」
「ハァ〜ッ……あいつ、戻ってくるかな」
「……今は言うなって」
「……ああ……山口のハリウッド行き、決定だってな」
「……スゲーな……同い歳なのにな……」
「負けねーよ」
「ああ」
「俺ら動き出したんだからな。もう負けねー」
「うん」
「……うん」
「……でも、くやしいよな」
「……うん」
「…………」
「それよりよう……練習終ったらコーラの一気飲み大会やらねー?」
「いいねっ! 500か?」
「1L!」
「ヒョーッ!!」
「やるねえぇ!」
「負けたやつデコピンな」
「きついね」
「しぶいぜ」
「……ところでさ」
「なんだよ?」
「何?」
「……く〜り〜きが〜くて〜き!!」
「ウャハハハハハハハハハハハ!」
「やめろっつーんだよ! もうよせっての! うはははははははははは! アハハハハハハ」
「アハハハハハハハ! 苦しーよ〜! 腹いてーよー!」
「あははははははははは、わはははははははは、いひひひ! ひひひひ! ひーっく! ひーっく! あははははは! あはっ、あはっ、あははははははははは……はっ……はは……あ! いつの間にか雨が上がってる」
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第9章 君に、胸キュン。
雨は上がった。
そして、夏が来た。
気象庁は高らかに梅雨明けを宣言し、黒所の生徒たちはいよいよ間近にせまった夏休みを前に、とてもおだやかではいられない興奮の状態にあった。休み時間ともなれば、栗里は自慢のラテカセでYMOをガンガンに流した。
君に胸キュン
浮気な夏が
ぼくの肩に手をかけて
YMOの「君に、胸キュン。」は、カワボン、タクオ、山之上にはすこぶる評判の悪い一曲だった。前作「テクノデリック」で、ミーハー層を拒絶するような硬質の音世界を構築したはずのYMOが、一転、突如として万人向けのポップソングを歌い出したのだから。しかも「君に、胸キュン。」などとたわけたことを言われた日にはスコココーとズッこけるしかないではないか。
君に胸キュン
愛してるって
簡単には言えないよ……
しかし、夏休みに突入せんとする大方の少年少女にとっては、まさに自分たちの青春を謳歌《おうか》するBGMとして、バッチリはまって聞こえた。
軽快なテクノポップに乗せて彼らの夏はめまぐるしく展開していくはずなのだから。
そして期末テストと終業式が終り、解き放たれた十七歳たちは、黒所の校門を飛び出しながら一様にこう考えたものだ。
「この夏こそは特別なものにするんだ」
やはり同級生山口美甘子の活躍が発奮の大きな原因であった。つい数ヵ月前まで同じ教室で机を並べていた友が、気づけばいつの間にか国民的アイドルになってしまったのだ。羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》。『あいつができるのなら自分もやれるのではないか』若者らしい根拠の無い自信をも刺激して、この夏の十七歳たちは無駄に力がみなぎっていた。
夏休み三日目。うだるような暑さの中、堀之田詠子は新大久保でスカウトされた。
「君さ、山口美甘子みたくハリウッドで女優にならない?」というのがスカウトマンの一言めであった。暇でもあったし、女優≠ニいう言葉が彼女の自尊心をくすぐった。そのまま事務所で面接≠受けることになった。
雑居ビルの四階。エレベーターは無かった。通された部屋ではすでにライトが煌々《こうこう》と輝き、「監督」と呼ばれる三十半ばの男がビデオカメラをかついで待ち構えていた。
「かわいいねぇ! かわい過ぎます」
妙にかん高い声でしゃべる「監督」はTシャツにまっ白なブリーフ一枚の半裸であった。詠子をソファーにかけさせ、ねちっこく言うのだ。
「かわい過ぎる。オナニーはするの?」
「……あ、いえ、あの、私」
「ナイスだねぇ。照れる仕草がすでに女優」
「あの、これってもしかしたらアダルトビデオですか?」
「確かにこれはアダルトビデオです。全国八百万人のオスどものせんずりの助《すけ》っ人《と》でございます。でも君ね、女優になりたいんだって? だったらアダルトビデオを踏み台にしていってください。今ここで、私にはめられしゃぶられ昇天し、そのあられもない姿を全国八百万のオスどもに見せつけてやるのです。八百万もいたならアナタ、中には大手プロダクションの社長さんもいます。ハリウッドの監督だっているでしょう。羽村一政だって見てるよそりゃ。そういったV・I・Pが、君のこのナイス過ぎる肉体をどうしてほっておくわけがあるでしょう? さあ、お脱ぎなさい、すっぽんぽんになってごらんなさい。女優へのステップとして私にはめられるのです」
堀之田詠子は知らなかったが、ブリーフ男の正体こそ、その後‘80年代AVブームを代表することとなる有名監督の、無名時代の姿であったのだ。
ブリーフ男がカメラをのぞいたままにじり寄ってきた。詠子はソファーに腰かけたまま、レンズに向かって真顔で聞いた。
「……本当に女優になれるんですか?」
「もちろんです。あの山口美甘子だって最初はヌードでデビューしたじゃないですか。しかも羽村一政と。おセックスをすることによってハリウッドへ行く。ね? 女優と裸とセックスはセットなんです。女優への登龍門《とうりゆうもん》がAVなんです」
「……私も、美甘子になれるの?」
「なれます。股《また》を広げて」
「美甘子になりたい」
「なれます。う〜ん赤いパンティーがナイス」
「だって美甘子ばっかりずるいもん」
「上も脱いじゃおうか」
「私、ムダ毛……今日わき毛|剃《そ》ってない」
「それがまたナイスですね〜」
私もこれで美甘子みたいになれる。女優になれる。チヤホヤしてもらって学校だって休み放題。それでそうだマッチとHができる!!
堀之田詠子は来たるべき栄光の日々を夢見て、うっとりとほくそ笑んだのであった。ブリーフ男に大きく股を広げられながら。
夏休み四日目。栗里は身体障害者になった。
自慢のラテカセを教室の机に忘れたまま母方の田舎へ行っていた彼は、帰るなりその足で黒所へ向かったのだ。誰もいない教室で一人ラテカセのスイッチを入れると、小さな画面に血まみれの山口美甘子が映った。彼女が大ブレイクしたことによって、彼女主演の映画も大幅に録《と》り直しと録り足しが加えられ、今は美甘子のアクションシーンを撮影中であるとナレーションが教えた。
『俺、中学ん時はプラモ作りが上手《うま》くて人気もんだったけど、黒所来たら、しょっぺー毎日だよ』
栗里は美甘子を観ながらつぶやいた。なんとなく寂しくなって、教室の窓を開けた。ここから飛び降りたらヒーローになれると考えた日のことを思い出し、たわむれに窓わくにしがみつき「落ちてやる! 落ちてやるぞー!」と、一人ぽっちではしゃいでみた。
そしたら足がすべって本当に落っこった。
脊髄《せきずい》損傷。車椅子生活を余儀なくされ、生涯歩くことは無かった。
夏休み五日目。マラソンでの日本一周を計画したゴボジはやっと箱根までたどりついた。
宿泊したユースホステルで旅行中の元自衛隊員と出会った。彼から日蓮《にちれん》の話を聞かされ、その場でゴボジは創価学会に入信した。
夏休み五日目。アニメグループは吉祥寺《きちじようじ》で開かれた「伝説巨神イデオン」のイベントに出かけた。
気合を入れて全員コスプレで行ったところ、地元のつっぱりにからまれ金を取られた挙句、「アニメなんざ『ど根性ガエル』一本だけ見てりゃ十分なんだよバーカ!」と捨て台詞《ぜりふ》を吐かれた。
夏休み六日目。モロ子は彼氏にふられた。
「飽きた。セックスが」という理由だった。
モロ子はガク然とし、彼の家を飛び出し夜の町をさまよった。結局その日は映画館で夜明けをむかえた。明け方、うとうとと目を覚ますとどこか外国の古い白黒映画が上映されていた。大道芸人の女が男に捨てられる話だった。捨てた男は何年もたってから、実は彼女こそを本当に愛していたと気づき、号泣するのだ。モロ子も声を上げて泣いた。彼女は生まれて初めて物語に感動して涙した。ボロボロといつまでも涙はとまらなかった。ジェルソミーナというその女は、捨てられて死んでしまう。「きっと私の代わりに死んだんだ」そう思うとジェルソミーナが姉妹でもあるかのように愛《いと》おしく思え、モロ子は夏休みの間中、この『道』という映画を求めて名画座を巡り歩いた。サントラを探し、シナリオを見つけた。映画の舞台となった土地や時代のことを知りたくなり、図書館へも通うようになった。映画一本から派生する情報はどこまでも限りがなく、いつの間にかモロ子には、失恋のことなどで悩んでいる暇はなくなっていた。
夏休み六日目。八木は下着を盗んだところを通りがかりのガッツ石松に捕りおさえられた。
「そんな力があまってんだったらボクシングでもやってみろ」
と、どやされたが、痛そうなのでやる気にはなれなかった。
夏休み七日目。奇人の荻……彼女が夏休み中何をやっているのか、知っているものは誰一人いなかった。
実は、自殺した府黒松子の墓参りをするため、東京郊外の墓地へ出かけていたのだ。今日は松子の命日であった。ポカーンと阿呆《あほう》のように口を開けながら、荻は墓前に、輝くばかりの白い花を一輪|捧《ささ》げた。
夏休み八日目。タクオはコクボ電気店の二階で作業に追われていた。
電気屋だと言うのに、クーラーは壊れていた。トランクス一枚の少年は汗みどろで机にむかっている。バンドの招待状を作製しているのだ。友達のいない彼らが一体誰にそんなものを出すのかと言えば、意外にも黒所の同級生たちに宛てていた。
「出すべきだ。連中に俺らの行動を告知するんだ」
と主張したのはカワボンだった。
「いくら行動を起こしたって、ライブハウスの闇の中で完結したなら、俺らは結局、井の中のカワズで終ってしまう。やつらが来なくったっていいんだ。俺らが、何かを始めたってことを、伝えることに意義があるんだ」
練習スタジオのロビーで、カワボンは熱く二人に主張したのだ。
「せ……宣戦布告ってわけか」
「言ってみればそうだ、山之上」
手先の器用なタクオが作製をまかされることになった。タクオは何十枚も用紙を無駄にした挙句、ようやくチラシもかねたインビテーションカードを作り上げた。キャプテン・マンテル・ノーリターンをCMNRと略し、かっちょいい(タクオにしてみれば)ロゴを中央に描いた。対バンの「有狂天」や「オギノ式」などのバンド名をその横に書き込み、CMNRのメンバー名とパートはその上下に付け加えていく。
カワボン・ギター
タクオ・キーボード&DJ
ゾディアック山之上K3・ボーカル&詩朗読。
最後の、田舎のマンションみたいな名前は、山之上が自己申告した芸名≠ナある。
こうしてパートと名を書いてみると、タクオは生まれて初めて世界の中で自分に役割が与えられたような気持ちになった。
何のために生まれたのか、何のために生きていくのか、そんなことはまだわからないけれど、今はともかく、俺はCMNRでキーボードとDJを担当するための存在であればよいのだ。それをやりとげるために俺はいるのだ。そう思うと果てしなく気持ちは高揚してくるのであった。流れ出る汗を気にも留めず、タクオはそして、もう一人の名をチラシに付け加えることも決して忘れなかった。
ケンゾー
書いてから少し考えて、パート名は「X」としておいた。
夏休み九日目……といっても彼にとっては、通常の高校生のような夏休みは縁遠いものであったが……羽村一政は、映画のロケ現場にいた。
映画「I STAND HERE FOR YOU」クランク・アップの日であった。
本来なら二月《ふたつき》前にアップしているはずだった。ニャンニャン事件をきっかけとする美甘子の大ブレイクによって、大幅な録り直しと録り足しが行われることになり、遅れたのだ。羽村はこの日の午後に自身のコンサートがあったが、もうすぐアメリカに旅立つ美甘子に合わせるため、無理にスケジュールを空けることとなった。今やはっきりと人気も力関係も羽村と美甘子の立場は逆転していた。
付け加えられたシーンも、全て美甘子にとっておいしい≠烽フばかりであり、羽村などはもはや、引き立て役に過ぎなかった。
「仕方ねーだろ」
と、監督の大林森はロケバスの中で羽村に言うのであった。
「美甘子はもうバケモノに変身しちまったんだから。子供と動物とバケモノ女優ってのは、映画を喰《く》っちまうんだ。もうこれは俺の映画でもお前の映画でもない。憑依《ひようい》型の天才女優、山口美甘子の映画なんだよ」
ラストカットの直前。バスの中には二人とメイクの久田しかいなかった。
「羽村、お前が美甘子とオマンコしちまったからいけねーんだぞ」
監督が冗談っぽく羽村の頭をこづいた。目はちっとも笑ってはいない。あわてて久田が「やってもいいって最初に言ったのは監督ですよ。それに監督、メイクの邪魔です」と笑い顔を作って二人の間に割り込んだ。
「まさか本当にやるとは思わなくてな。あいつがいつかバケモノじみた女優になるってことはわかっていた。だから俺は狂気に近い才能が開花する前のあいつをフィルムに焼きつけておきたかったんだ」
なのにオメーがやっちまったからあいつは目覚めちまったじゃねーかよー!
監督は久田の頭ごしに手をのばし、羽村の頭をまたこづいた。
羽村は答えず、窓の外の美甘子を見ていた。全身に血のりを付けた美甘子が、ラストカットの芝居を一人で練習している。血まみれで天をあおぎ、アハハハハハハ、と高らかに笑っている。
「もうあいつに演技指導なんか無駄。いらない。役柄だけ伝えれば、あいつはその役になりきる……いや、役の方からあいつに憑依してしまうんだ。限りなく狂人に近い天才だよ」
血まみれの美甘子の周りにはカメラやマイクを構えた報道陣が遠巻きに見ている。クランクアップ直後のコメントを取るためにワイドショーもこぞって集まっているのだ。ゴモが両手を広げて彼らに何か注意している。
バスの中ではまだ監督が羽村に絡んでいた。
「羽村、気をつけろよ。お前じゃ美甘子は荷が重いかもしれんぞ。ケツの青いガキにはな」
こづかれても黙っていた羽村が、この言葉には反応した。睨《にら》んだ。
「痛いところをつかれたからムカつくんだろ。羽村、ちがうよ。嫌み言ってんじゃねーんだ。俺はお前を買ってる。美甘子みたいな才能はねーが、コツコツやっていけばいつかお前はいい役者になるよ。だからその前に、美甘子に喰われないでほしいんだ。つぶされないでほしいんだ。相手が悪いよ」
羽村が何か言おうとした時、ロケバスの扉が勢いよく開いた。汗まみれのゴモが顔をのぞかせると、真夏の熱風も同時に侵入してきた。
「監督、羽村さん、いよいよ、いよいよラストカットでーす! お願いしまーす!」
窓の外では山口美甘子が、遠くから羽村を見て微笑んでいた。かげろうの中で、血まみれの少女はゆっくりとおいでおいでをしてみせた。やはり、確かに彼女は笑っている。
それを見た羽村は、彼女の恋人だというのに「ちっ」と憎々しげに舌打ちを一つ、吐き捨てたのであった。
さかのぼって夏休み八日目。もう何日も学校へ行っていない賢三だから、羽村同様、夏休みという言葉は当てはまらないかもしれない。
彼はあの雨の日からずっと、修行の身なのであった。
実際、賢三は従順にジーさんの教えに従っていた。
朝は六時に起きていた。庭へ出て乾布摩擦、ラジオ体操。ちゃんと「第二」の方までこなしていた。続いてマラソン。これはジーさんの発案によって「森の熊さん」を二人で交互に歌いながらのものであり、地元ではすでに、「イカレタ親子がジョギングをしている」と噂が広まっていた。「俺も見た!」「私も見た!」ツチノコかカッパあたりの扱いなのであった。マラソンの後朝食。もちろん自炊。沢庵《たくあん》の数が多い少ないでつかみ合いの喧嘩《けんか》になることもしばしばなのであった。
その後は庭に出て殴り合いだ。あの雨の日ほどのガチンコは二度となかったが、防具を付け合ってのスパーリングはかなり激しいものであった。技術ではとてもかなわぬ賢三も、ジーさんのスタミナが切れるころを狙って、攻め込むこともあった。
昼食を摂《と》り、お昼寝。日が経つにつれ、美甘子の悪夢を見ることは少なくなっていった。
午後には立禅をした。
裏山の中に入って木陰で腰を落として立ち、両手を、大きな瓶を抱えるように円を作ってのばすのだ。目は半眼。そうして長い間じっとしている一種の瞑想《めいそう》法なのであった。ジーさんがやり方を教えた。
「中国|拳法《けんぽう》には筋力で叩きつける外家拳と、内面をきたえて敵の力を吸収する内家拳とがある。立禅は内家拳の修行法なんじゃ。こうして自然の気を全身に通し、自律神経を整えるのじゃ」
不思議なもので、言われるままじっとしていると、やがて蝉の声や木々のざわめき、夏の暑さまでが、気にならなくなっていくのだ。すうっ、と、何か大きな存在と体の中心軸とが絡みあい、あざなえる一本の糸となって、自分をこの世界にしっかりとつなぎ止めてくれる。そんな安心感を賢三は得た。
回復している。
ノイローゼから俺は復調しつつある。
賢三は立禅の瞑想の中で、心の平穏を取り戻しつつある自分を体感していた。
「実際に気≠ニいう未知のエネルギーがあるのかどうかは知らん。しかし、ただ黙って内面を見つめながら立ちつくすことが、どういうわけか副交感神経を調整してくれるのじゃ。自己治癒力を含めた人の生命力こそを気と呼んでいるだけなのかもしれん。ただ、立ちつくす、眠る、食う、動く、思う、そういった人として当たり前の行いを、その意味を問わず、巡り合うごとにきちんきちんとやり遂げていく。そうしていれば一生などあっという間じゃ。悩んでいる暇など本当はないはずなんじゃ」
誰かがピクニックにでも来ているのだろう。遠くで「君に、胸キュン。」が聞こえている。
※[#歌記号、unicode303d]君に胸キュン 浮気な夏が ぼくの肩に手をかけて……高橋幸宏のねばっこい歌いまわしが夏の山の発するさまざまな音と混ざり合い、やがて賢三の呼吸音とも一つに溶けていく。何の違和感もなく、賢三を包む世界は一つになっていく。
「一生などというものは、出会う事象一つ一つにきっちり落とし前をつけていけばいいだけのことなんじゃ。生まれたら死ぬまで生きればいい。人に会ったら挨拶《あいさつ》をすればいい。女と会ったら恋をしたらいい。別れたら泣けばいい。泣いたなら忘れればいい。忘れたら思い出せばいい。思い出したら……どうする?」
不意にジーさんが賢三のみぞおちを軽く突いた。息がつまり、賢三は思わず目を開けた。
目の前に、山口美甘子がいた。
「美甘子!?」
すると美甘子が「うひゃひゃひゃひゃ」と笑い出したではないか。
一瞬賢三はまたしてもノイローゼが再発したかと思い、ゾッとした。よく見れば、なんのことはない。山口美甘子のお面をかぶったジーさんであった。
「うひゃひゃひゃ、きのう夜なべで作ったんじゃ。実寸大ピンナップに厚紙を貼ってゴムを通した。どう? 美甘子かわいいん※[#ハート白、unicode2661]」
そういって腰をクイッと曲げて少女ポーズを決めてみせたものだ。顔は美少女、体はジャージ姿の老人。妖怪《ようかい》百物語みたいなもんである。
「かわいくないよ! 不気味だよっ」
「なんだったらブルマー一枚の姿になってもよくてよん※[#ハート白、unicode2661]」
ついついその光景を想像してしまった賢三は、あやうく昼食を吐き戻すところであった。
「マジやめてくれ。気持ちが悪くなる」
「うひゃひゃ、しかし賢三、美甘子を見ても震えなくなってきたじゃないか」
確かにジーさんの言う通りであった。修行と名付けた、つまりは規則正しい生活を続ける内に、最近では美甘子の写真や映像を見ても、発作じみた震えが起きることが少なくなってきたのだ。
「どうじゃ? もうバンド仲間のところへ帰ってみるか?」
ライブ当日まであとわずかであった。
「いや、まだ帰れない、帰りたくない」
「なぜ?」
「帰ったって、俺にはバンドでやることがない。みんなの足手まといだ」
「オッパイちゃんはアメリカに旅立つ。ライブではやることを見いだせない。ダメ青春だな。夏だというのに」
「ああ、つくづくダメだよ、ダメなんだ」
「見つけられなかったら、どうすればいいと思う?」
「どうすればいいんだ?」
「考える前に動き出せばいい。見る前に飛べ」
「簡単に言うなよ」
「ステージでオナニーでもぶっこいてみたらどうだ? 受けるぞう」
「バカ言うな」
「このところまたオナニーを始めたようじゃないか。今朝も一発しこったじゃろう」
「えっ!? しこってねーよー!」
嘘であった。ある程度心の健康を取り戻したためであろう。賢三の下腹部にオナニー・パワーが蘇《よみがえ》っていた。ジーさんの目を盗み、今朝も深野晴美の水着グラビアで二発抜いていた。復活の証明であり恥じ入ることではない。しかし、体は老人で顔は美甘子の怪奇人間に言われると、おちょくられたようで(いや、おちょくられているのだが)、それで賢三はあわてて否定したのだ。
「朝焼けのオナニーマンじゃな。うひゃひゃひゃ」
「しこってねーっつってんじゃんかよう」
「他人様の別荘でオナニーをするとはな〜。リゾートオナニーってか? うひゃひゃひゃ」
「て、てめコノ馬鹿ジジー」
賢三がつかみかかるのをジーさんがひょいっとよけた。大木の周りを笑いながら走り、賢三がそれを追い回す。立禅修行のはずがいつの間にか追いかけっこの始まりである。
この時、二人の姿を遠くから目撃した者があった。東京からUFOの写真を撮りに来ていた高校生山田伸郎(17)は、山中で願ってもない光景を見て声を失った。あろうことか、林の中で、顔は少女で体が老人という奇怪な生物が、大木を中心に少年を追いかけ回していたのだ。
「……う、宇宙人だっ」
山田は超常現象専門雑誌『モー』の熱心な定期購読者であった。手にしていたラジカセをほうり投げ、カメラで怪奇生物を激写した。残念ながらピンボケであったが、写真は「モー」最新号のグラビアを飾ることとなった。
『宇宙人か!? 少年を襲う謎の怪物』
怪物の顔が山口美甘子に似ているのは、おそらく宇宙人が今日本で一番有名な人物の顔をモデルに変身を試みたためであろうと、一部マニアの間で有名なUFO研究家がコメントを寄せていた。山田は『モー』のネームが入った万年筆を記念品にもらった。新学期になると、山田には新しいあだ名が付けられていた。「ウソつき」である。
夕方には別荘に帰り食事の準備を始めた。
窓から黄金色の夕陽がさし、キッチンで、味噌汁《みそしる》や、魚の焼ける香りに包まれるこの時間が、賢三は一番好きだった。
かまぼこの数が多い少ないでつかみ合いのケンカをしながら夕食。
陽がとっぷりと暮れると、酒盛りが始まる。
肴《さかな》はジャズとジーさんのバカ話しであった。
その昔ジャズマンもやっていたというジーさんは、沢山のレコードを所有していた。バカ話をしながら、せんべいをひっくり返すように、次から次へとジャズのレコードをプレーヤーにのせ替えた。エリック・ドルフィー、チェット・ベイカー、オスカー・ピーターソン、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス……。
「ほれ賢三、キース・ジャレットのレコードには必ずうめき声が入っとるじゃろ? 鶏のしめ殺されるようなこの声はな、興奮したキース自身のもので、これが入っていないとやつの演奏とは認めがたい。ところがカルフォルニアのジャズフェスティバルに行った時、乾燥した気候のせいで声が出なくなってしまった。翌日は録音じゃった。困ったスタッフはバイトを何人もやとって演奏するキースの横でマスをかかせたんじゃっ。ううっ! ああっ! と果てるバイト連中のうめき声は全くキースの声と一緒じゃった。中でも日本から来た貧乏旅行者の昇天のうめきは絶品じゃった。味があるというかわびさびが効いててのう、キース自身も気にいって、そいつの声を録音して、その後も自分のレコードに後で加えるようになったぐらいじゃ。賢三、キース・ジャレットのレコードに入っているうめき声の半分は、ありゃ実はワシのエクスタシーの声なんじゃ。その印税でこの別荘を買ったんじゃ。うひゃひゃひゃひゃ」
もちろん嘘八百である上に、落ちもなんにもありゃしない。しかし今の賢三には、酒を飲みバカ話をすることが、とても心地がよかった。酔うほどにジーさんは饒舌《じようぜつ》になった。
「賢三、ワシの夢を聞いてくれるか」
「ジジーが今さら夢もないだろうよ。なんだ、理想の死に方か?」
「死んだ後のことじゃ。死んだ後で、やりたい仕事がワシにはあるんじゃ」
「何バカ言ってんだよ。浮遊霊になって女湯でものぞくのか?」
「それは二番目の夢じゃ」
「じゃあ一番の夢はなんなんだよ」
「よく臨死体験をして生き返った人間が言うじゃろ。あの世とこの世の中継地点まで行ったら、『お前はまだ人生でやり残したことがあるだろう、まだ来るな、戻れ』と諭されて、そうして生き返ったと」
「ああ、よく聞くな」
「ワシは死んだら、その諭す者≠仕事にしたいんじゃ。まだ死ぬ歳でもないのにあの世へ来てしまった若者を……そうだな、自殺とかしたやつなんかだな、そういう連中を諭して、現世へ追い返す仕事をしてみたい。まーワシがやる場合は諭すというより説教になるじゃろーがな」
「アンタはどうしてそうおせっかいなんだ?」
「そもそもワシが世界旅行に出たきっかけは、自殺未遂じゃった。失恋も含めて、ま〜いろいろあってな。だが旅をしてわかったんじゃ。死ぬことはない。何があっても死ぬことはない。どんなにしょぼい人生でも、意外に、楽しいと思える日が必ず来る。その日が来るまで、その日を信じて、起きて、食って、寝て、くり返して、一日一日かたづけて暮らしていけばどうにでもなるもんなんじゃ。それを、教えたい」
「俺にも来るかな……そんな日が」
「誰にでも来る」
「ジーさん、アンタはまだまだ死なないよ」
「いや、もう死ぬ」
「え?」
「死ぬんじゃ」
「誰が?」
「ワシが」
「なんで」
「ガン」
「へ?」
「末期ガン。全身にまわっとる。だから人生最後の仕事にお前のコーチを買って出た。あと三ヵ月と言われて、もう半年生きておるが、もうじきじゃろ」
「……うそー!?」
「ほーんと。だって今も、倒れそうなんだもん」
「なんだもん、って、ちょっとやめてよ」
「駄目、苦しい、倒れる、死んでいい?」
「え? ちょっとそれ困るよ」
「葬式とかよろしくね」
「そんなもんよろしくするなー!」
「たのんだよ、じゃあね、ワシ、死ぬから、バイバ〜イ」
「あっ! あーっ!!」
ジーさんがヘタッと床に倒れた。賢三が抱きかかえると、すでに、息がなかった。
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第10章 美甘子死す!?
羽村一政は明らかにいら立っていた。最初の内はそのそぶりさえ見せなかった。
『どうってことねーよ』
つとめて超然を装っていた。
クランクアップの光景を撮るために、ロケ現場にはマスコミがつめかけていた。ゴルフトーナメントのギャラリーのように、スタッフや照明の背後に人々が群らがっていた。ビデオカメラやマイクを手にしたワイドショーのクルーたちだ。羽村にしてみれば見なれた光景のはずだが、今日は事情が違っていた。彼らが注目しているのは山口美甘子ただ一人なのであり、自分ではないのだ。
「羽村さん、少しずれてくれませんか」
冗談を言われたのかと羽村は思った。ふり向くと、女性レポーターの一人が手でチョイチョイと「どいてくれ」と示す動きをしていた。
「美甘子ちゃんが隠れちゃうんで、すいませーん」
と、彼女は申し訳なさそうな顔を一応つくりながらも、確かにそう言った。
羽村一政は十五歳で芸能界デビュー。1stシングル「純情|I《あい》☆|shew《しゆう》羅舞《らぶ》」は百二十万枚の大ヒットを飛ばした。それから十七歳になるこの夏まで、アイドルとして常に第一線を走ってきたのだ。人気というものが、いきなり無くなるものだとは聞いていたが、それは、『死ぬのはいつも他人』という言葉と同様に、まさか我が身に降りかかってくるなどとは、少年には夢にも思えなかった。
輝きを失い老いさらばえていくのはいつも他人のはずじゃないか。俺ではない。俺じゃない。しかし「ニャンニャン」事件以降、羽村の人気は凋落《ちようらく》の一途をたどっていた。マスコミは早々と、羽村に続く美甘子の新恋人さがしに注目していた。
「ああ、どいてやるよ。おい美甘子、お前マスコミさんにちゃんと挨拶《あいさつ》しろよ」
美甘子の二の腕を持って、ギャラリーの前に引っぱり出そうとした。役のために血糊《ちのり》にまみれた彼女の腕はすべり、羽村の手からスポリと抜けた。爪の間に入り込んだ血糊の赤を、一瞬少年は不思議そうに見つめた。
山口美甘子は自分で振り返った。むしろ羽村を押しやり、ギャラリーと対峙《たいじ》したのだ。
「美甘子ちゃん、俳優の○○さんとのウワサが出てますけど」
美甘子が応《こた》える様子をみせたので、一勢にビデオカメラが回り始めた。あわててゴモが飛び出し、両手を広げて彼らを制した。
「終ってからにしてくださあい。あとワンカット、ワンカット終ってからに」
「羽村はいいからさ、美甘子ちゃんだけコメントほしいな」
テレビスタッフの一人がそう言った。
なんだよそれ、と羽村は笑いながら強がってみせた。笑いも声も小さく、誰も気付きはしなかった。
誰かがフラッシュを焚《た》いた。大林森が「ぶっ殺すぞ!」と叫んだ。ゴモがギャラリーの中につっ込んでいった。カメラマンにつかみかかった。羽村が「おもしろくなってきたじゃん」と悪ぶってみせる。誰も聞いていない。もみ合いは止まらない。
すると美甘子がスタスタと混乱の中心へと歩いていった。
ゴモの背を人差し指でつついた。振り向くと、血糊だらけの美甘子はにんまりと笑っていた。言った。
「ゴモちゃん、撮ろう、ラストカット」
これにはゴモももめていたカメラマンも拍子抜けした。騒ぎは波が引くように収まり、美甘子は、踵《かかと》を中心にクルリと回転して現場を振り返った。背を伸ばし胸を張り、目は、羽村の後方の大林森を一直線に見つめた。それだけでスタッフの誰もがいよいよ撮影の時であることを理解した。ゴモはカメラの方へと猛ダッシュで走り、照明班は気を利かせてスポットライトを美甘子に照射した。ラストカットのために歩を進める主演女優を、立ち位置までまばゆい光で誘導してやろうというアドリブの演出であった。
陽は陰り始めていた。
ライトに導かれた少女はゆっくりと立ち位置へ向かって歩いていく。さすがにギャラリーもシンと静まり返った。連日のロケで、すっかり日に焼けた映画スタッフたちが、「いよっ!」「がんばれっ!」「美甘子ちゃん!」と、声援で彼女の花道を盛り上げた。当の美甘子はもう笑っていなかった。すでに現実の山口美甘子ではなく、映画のヒロインである架空の少女山口美甘子≠フ意識と同調していたのだ。
立ち位置へ女優が戻る。
相手役と目を合わせる。
女優に見つめられた相手役の少年は、のまれていた。
威厳を保とうと見返すほど、女優の瞳にそのまま吸い込まれそうな気がして恐ろしくさえあった。周囲のほぼ全員が女優の方しか見ていなかったために、少年の怯《おび》えに気が付いていたのは監督の大林森だけだった。
「羽村、美甘子、じゃあ行くぞ」
監督がぶっきら棒に言った。
スタートの声がかかる直前、美甘子はフッと素の目に戻った。それは羽村が二人のベッドの中で何度も見てきた、人格の入れ替わる瞬間であった。
「羽村君、これで最後だね、今までありがと」
「最後? 何が? え? 俺らが?」
馬鹿なことを聞いたと羽村は後悔した。
少年に虚勢を張る暇も与えず、少女はまた吸い込まれるような憑依《ひようい》の瞳に戻っていた。
スタートの声がかかると、血まみれの美甘子はその場に崩れ落ちた。
腰からストンとあお向けに倒れてみせた。呆然《ぼうぜん》と立ちすくむ少年が「美甘子」と、つぶやく。
美甘子の体が小刻みに震え出し、やがて波のように揺れ始める。上半身を起こしてみせた。
不思議そうに少年を見上げる。
両|膝《ひざ》を同時に立てる。
少年を見上げたまま立ち上がり、またすぐに、力が抜けて尻《しり》もちをついてしまう。
その動きをもう一度くり返す。
ようやく立ちあがり、どうにか、笑ってみせる。
「私、まだ生きてるね」
「ああ、美甘子は生きてる」
「でも私、遠くに行くからね」
「遠くって」
「誰もつかまえられないとこ、君もつかまえられないとこ、ジュピター、マルス」
そしてまた、ストンと腰から崩れてしまうのだ。
美甘子の頭頂部や指先に、天上から透明な糸がつながっていて、形而上《けいじじよう》の存在に操られているかのような見事な芝居であった。
羽村は口惜《くや》しかった。今やはっきりと美甘子に激しい嫉妬《しつと》を意識していた。
『演じれば演じるほど俺はこいつの引き立て役だ。道化だ。天才と凡人、くそっ、大体、こいつとさえ出会っていなければ俺は……』
羽村はしゃがむと、美甘子の首を両手で絞め始めた。
美甘子が驚きの表情を浮かべた。そういうダンドリであったとはいえ、少年の力があまりに強かったからだ。
『でも俺はアイドルだ。スターだ。それが俺のアイ……アイデン……なんだっけ』
羽村は両手に力を込めていく。
美甘子がノドの奥で「うぐっ」と声を上げるが、呼吸を止められ大きくは出ない。
『なんだっけ……美甘子が言ってた……そうだアイデンティティーってやつだ。俺はスターだからこそ俺だったんだ』
美甘子の体が腰を中心に大きくのけぞった。
血まみれの両手で少年の手首をつかむが、さらに力は強くなるばかりだ。
美甘子が口を大きく開けた。
何か言っているが声にならない。
『こいつが天才なのは仕方ない、俺にそれが無いのも仕方がない、だけど……』
あまりの苦しさに、美甘子の瞳《ひとみ》が素の彼女のものに戻った。
天上からの糸が切れ、必死に羽村の手を外そうともがき始めた。
眼で大林森に助けを訴えかける。
「監督、なんかこれまずいよ」
カメラマンが大林森につぶやいた。
「羽村君熱くなり過ぎだ。止めようよ」
大林森は「いや」と止めることを制した。
「続けさせる」
羽村は美甘子のノドを絞め続けた。
美甘子が爪を立てた。
ギャラリーが異変に気付き始めた。ざわつき出すがそれでも大林森は撮影を止めない。
「アフレコだ。続けろ」と無表情で言う。
羽村の手首に少女の爪が喰《く》い込んだ。
目が合った。
素の美甘子の目だった。
必死に助けを求めている。
『お前が天才なのはもういい。認める、負けたよ。だけど、だけど俺を今の位置からひきずり降ろすのだけはやめろ! 俺がアイドルでなくなったら、俺の存在は頭から何もなくなっちまうじゃないか。怖いんだ! やめろ!』
いよいよギャラリーが騒ぎ始めた。
「大丈夫なのか?」
「死んじまうぞ!」
声が飛んだ。
美甘子の顔がどんどん青ざめていく。
「監督、止めよう」
カメラマンが再び言った。
ゴモは腰を抜かしている。
それでも大林森は首を縦にふらない。それどころか激情にかられた少年に対して言い放った。
「羽村、殺せ」
「ジーさん、おいジーさんてば」
賢三は倒れた老人の体をおっかなびっくりさすってみた。ピクリとも動かなかった。
息も、していない。
事の重大さに気付いた賢三は、後頭部をハンマーで殴られたような衝撃を受け、思わず「ガーン!!」と大声を上げた。
「死んだっ! ジーさんが死んじまったっ」
もしかしたら俺が殺したのではないか?
続いて賢三は恐怖にかられた。いくら武術の心得があるとはいえ老人だ。連日の殴り合いで蓄積された疲労が、彼を死に至らしめたのかもしれない。とすれば、俺が殺したようなものではないか。
殺人者大橋賢三!
──古いコントに出てくる横しまの囚人服を着た自分が、絞首台に繋《つな》がる十三階段を上っていく……そんな陳腐なイメージが賢三の脳裏をよぎった。
「そうだ、人工呼吸だ!」
まだ間に合うかもしれない。賢三は老人の小さな体を抱き抱え、自らの唇を老人の唇に重ねマウストゥーマウスの人工呼吸を……。
「……できん。すまんジーさん、死んでくれ」
九死に一生のチャンスであるというのに、さすがの賢三もジーさんと口づけするのは生理的に不可能なのであった。
こんなむなしいファーストキッスで己の青春を汚すぐらいなら、俺は甘んじて殺人者の運命《さだめ》を受け入れよう。賢三は十七歳童貞らしい純情で人生の茨道《いばらみち》を観念したのだ。
そしてハ〜ッと切ないため息をついた。その時であった。老人が目を開き、プハ〜ッ! と酒臭い息を吐き出したではないか。
「あ?」
「あ? って何じゃ」
「あ? だました?」
「そうとも言うな」
賢三が老人の体を床にほうり投げた。
「そんなことしてなんの意味があるわけ?」
「今からお前にありがたい話をしようとしてな」
ジーさんは悪びれもせず、あぐらをかいてその場に座った。
「なんでその前に死ぬふりする必要があるんだよ」
「ドラマ効果じゃよ。余命いくばくも無い者の言葉の方が、心に響くじゃろ? 効果、演出効果をねらったの〜」
「……じゃあ、ガン、ってのも嘘だよなぁ」
「ワシがガンに見えるか?」
「全然見えない。嘘だよねぇ?」
アハハハハとジーさんが笑った。賢三もなんだかうれしくなり──喜びを意識するのは照れ臭かったが──つられて笑った。
「賢三よ」
ジーさんが真顔になった。
いつの間にかキース・ジャレットは終っていた。深くもぐるような、夏の山の静けさだけが二人を包んでいた。
「賢三よ、我が弟子よ、そろそろ修行も終りじゃ」
「え、なんでだよ。俺はまだ皆のところへ戻れる状態では……」
「これ以上甘えるな」
「え」
「お前はワシとの修行生活に甘え始めている。これ以上ここにいたなら、お前はこの生活に安定を求めひきこもることになるだろう。結局また、逃げているだけじゃ。逃げるな少年よ。不安恐怖|葛藤《かつとう》はあるがままに、やりたいことをやれ、行きたいところへ行け、それが見つからなければ、それを探すために出ていくのじゃ。そのための荒野は無限に広がっているのだから」
ジーさんはあぐらをかき、脱力した両手をヘソの下あたりで軽く重ねていた。瞳は立禅する時のように半眼であった。賢三は、いつしか彼の前で膝《ひざ》を折り正座をしていた。
「賢三よ、最後にお前にこの世の真理を教える。アメリカで放浪していた時に、ワシがナイアガラの滝を見ながら得た悟りじゃ」
「うん、ジーさんの哲学ってわけか」
「そうじゃ。オリジナルじゃ。類似品に御注意じゃ。ありがたいぞ〜」
「自分で言うなよ。聞かせろよ」
「賢三よ。人間の苦しみの根源とはなんじゃろう?」
「なんか言われたような気がするけど……なんだっけ?」
「教えがいの無いやつじゃ。それは執着じゃ」
「執着、か」
「つきつめれば執着の心こそが人の苦悩の源じゃ。例えばお前はオッパイちゃんに執着しておる。詩を書くことに執着しておる。執着するとどこが苦しい」
「……そりゃ心だよ」
「心はなぜ苦しむ」
「なんでって……なんでだろう」
「求めるものが手に入らないからじゃ。オッパイちゃんも詩の才能も得ようとすれども手に入りはしない。執着の苦しみとはつまり、自分のものにならないものを永遠に手中に収めようとする葛藤のことなんじゃ」
「うん……」
「苦しみの根源に執着があるとして、では人間の四大苦とはなんであろうか?」
「……童貞、金がない、もてない……童貞」
「バカ! 人間の四大苦だよ! それはな、生老病死じゃ。生きることそのもの、老いること、病むこと、そして死ぬこと、この四つ」
「……童貞は入らないのか。人生って深いな」
「童貞はしょぼいだけじゃ。で……なぜ生老病死は人にとって苦なのか?」
「それも執着か?」
「ピッタシカンカンじゃ! もっと幸福に生きようと執着するから苦しい。いつまでもヤングでいることに執着するから苦しい。病に伏せりたくない、永遠に生きていたいと執着するから苦しい。まだまだあるぞ、愛すべき人と別れなければならぬ苦しみも、憎むべき野郎に出会ってしまう苦しみも、逆に言えば、そうありたくないと執着する心が、手に入らぬ存在や状態に両手を伸ばしてもがいているから起こることなんじゃ。
この世の総ての事象に実体など本当はなにも無い。みな流れゆく時の中で姿を変え続けさまよっているだけだ。物質も、感覚も、想いも、意志も、我想うゆえに我ありと感じる自分自身さえも、結局は常ならざる不確かな存在に過ぎないのだ。賢三よ、この世はつまり空《くう》……空《から》っぽなんじゃ。空《くう》なるものに執着しても、得られるわけがないだろう」
「じゃあ生きているそのことそのものに意味がないのか? 執着を捨てたら人間はあまりに無気力だっ」
「捨てるのは執着だけじゃ。目的や意欲や挑戦する心まで捨てろとは言っておらんぞ」
「え」
「賢三よ、この世は空《くう》じゃ。だが、空《くう》だけれども、お前の前に確かに存在しているのもまた事実だ」
「…………」
「すなわち、この世は空《くう》、空《くう》すなわちこの世なんじゃ。賢三よ、この世は執着すればするほど苦しむ空《くう》であることを腹に収めよ。しかし同時に、無常であれども、確かに存在しているのだから、目的と意欲を持ち挑戦する価値のある空《くう》であることもまた腹に収めよ」
「……なんだか金八先生みたいだ」
「ああ、鉄矢か、あれもワシの教え子じゃ。博多にいたころ昭和というライブハウスでよく説教してやったもんじゃ……コラいいこと言ってる時に水を差すなっ!」
「ごめん、聞くよ」
「賢三よ、こんな風に考えてはどうだ? オッパイちゃんは今、お前にとってはるかに遠い存在だ。執着すればするほどお前は苦しむこととなる。執着するな。彼女が手に入らぬ空《くう》であることを腹に収めろ。だがな、それでも確かにオッパイちゃんは生きている。この世の総てと一緒に、それはやがて老いてシワシワのオッパイばーさんへと変化する無常の生ではあるけれど、お前と同じ生きている空《くう》だ。ならば、お前の人生の目的として、意欲を持ち、挑戦する価値は十分にあるはずだ。空《くう》はまた、この世の総ての相関関係によって作られているのじゃ。お前の目的が、意欲が、挑戦が、はるかに遠いオッパイちゃんの空《くう》に、しかし少なからず、必ずや影響を及ぼすものなんじゃ」
「たとえそれが、チョコレートやパイナップルではなく、グミの連続であったとしても……」
「バンドもそうじゃろう」
「執着するほど居場所がなくなる空《くう》。でも、確かにそれは存在している。目的と意欲で挑戦する価値のある空《くう》」
「そうじゃ」
「そうかっ」
「わかるかっ」
「……悪あがきしろってこと?」
ジーさんズルッ! とずっこけた。
「ま、まあ一朝一夕にはわかるまいて。そういう考え方があると昔お釈迦《しやか》様が言っておったということじゃ」
「あ? お釈迦様の受け売り? あれ? ジーさんのオリジナルじゃないのかよ」
ジーさんはあわててテレビのスイッチを入れてごまかした。
「テレビでも観るかの」
「なあ、本当に俺もう卒業かよ」
「さびしいのか?」
「んなことねーけど……」
「不安か」
「……うん」
「明日車で家へ連れて帰る。まず孫たちに会いに行け、そしてオッパイちゃんに……」
ちょうどブラウン管に映し出されたのは山口美甘子のアップであった。不意をつかれた賢三の体が震え出した。
「まだ駄目か?」
「まだちょっと……目をふさいじまったよ」
「目を開けろ、逃げるな、恐怖突入じゃ。見ろ、今宵もオッパイちゃんはプリンプリンのやわ肌で元気一杯に乳をまさぐって……アレ……死んどるぞオッパイちゃんが」
「えっ?」
ジーさんの言葉に賢三も思わず目を開いた。
飛び込んで来た映像は地面に倒れた血まみれの山口美甘子であった。
目を見開いたまま仰向《あおむ》けに寝ころがっている。どうやら手持ちのカメラで撮っているらしく画面は右に左に揺れ動いている。
ズームが引くと傍らに呆然と立ちすくむ少年がいた。
羽村一政。
マイクは現場の罵声《ばせい》を拾っていた。
「おい救急車呼べよ!」
「撮るなよ! カメラ止めろってば」
「美甘子をアップで! 美甘子をアップで!」
駆けつけた映画スタッフたちの陰で山口美甘子の姿はかくれ見えなくなった。興奮した誰かが羽村を羽交い締めにしたところで音楽が流れ「スクープ! 撮影中に大ハプニング!! 美甘子に何が起こったか!?」と、テロップが出た。直後に画面はCMに切り替わった。シブがき隊がゆるいCMソングを歌い始めた。
「え、え、死んだ? 美甘子が死んだ?」
賢三はフラフラと立ちあがった。
「待て、早合点するな。座れっ」
ジーさんが賢三の腕をつかみ再び座らせた。CMはやけに長かった。シブがき隊の次にC・C・Bが登場した。続いて糸井重里。彼らのにこやかな表情がいちいち賢三の心をイラつかせた。
「おい救急車呼べよ!」
と声が入ったところから映像は再開された。
人々が群らがり美甘子の姿が見えなくなる。まだ若い映画スタッフが顔をクシャクシャにして泣いている。画面端で羽村一政が何か叫んでいる。レポーターたちがつっこんで行く。さらに画面が揺れる。カメラもその中へ入りこんで行く。何度も手のひらでレンズをふさがれながら、執拗《しつよう》に人ごみをかき分けていく。
テレビを見つめる賢三の手のひらに汗がにじみ出る。
カメラはついに美甘子の姿を捉えた。今は目を閉じている。背後から大林森が支えていた。「死んだんですか!?」誰かが聞く。すると監督は「うるせー」とめんど臭そうに言ってから、美甘子の両肩を押さえて背中に活を入れた。
「うっ……」
と一声うなって、血まみれの少女がパッチリと両眼を開けた。
キョトンとカメラを見つめた表情は、一瞬で彼女の天性の魅力を満天下に知らしめるに十分過ぎる映像であった。
「……あれ? あれ?」
何度もまばたきをしながら美甘子は、自分を取り巻く人々を不思議そうに見回した。
羽村に首を絞められて気を失い、柔道でいう落ちた¥態になっていたことは本人ももう気付いているようだった。恥ずかしそうに見回す表情はどうにもユーモラスであり、ホッとした笑いがあちこちで湧き起こった。そして背後の大林森に気付いた美甘子は、大きく首を後ろに傾けた状態で、撮影終了の言葉を聞いたのであった。
「……美甘子、カット」
大林森が言うと、緊迫していた人々は一転、ドッと笑った。
賢三の体からヘナヘナと力が抜けた。
画面はスタジオに切り替わった。女子大生が司会を務める深夜のバラエティ番組だった。
白華女子短大一年、と書かれた名札を胸につけたハマトラ女子大生が、棒読みでコメントを言う。
「ヒヤッとしちゃいましたね。それにしても美甘子ちゃん、この可愛らしさがもうじきハリウッドに輸出されるというわけです。果たしてエンターテーメントの世界でも、ボーエキマ……マ……あ、貿易摩擦が起こるのでしょうか?」
横にいた青山学院大二年のサーファーギャルが続けて言った。
「え〜と〜、あっ、ところが〜ハプニングはこれだけではなかったんです」
再び画面はロケ現場の光景に切り替わった。
山口美甘子を中心に、羽村と大林森が並んで座っていた。その周りをレポーターたちが取り巻いている。クランクアップ直後の囲み取材であるようだった。
血糊《ちのり》も落とした美甘子は上機嫌だった。
「本当に殺されるかと思った。監督止めるタイミングおそいですよ。羽村君、なんか美甘子に恨みでもあるの?」
一斉に笑いが起こった。羽村は、無言であった。
「生きるか死ぬかの瀬戸際なら、いくらお前でも自然体の芝居が出来るだろうと思ってな」
大林森がシレッとした顔で言った。美甘子はうれしそうに笑って、監督のヒゲをなでてみせた。
「もしかしたら俳優の○○さんとの噂が気になって、ついつい力が入っちゃったんじゃ?」
女性レポーターの質問は、誰が聞いたところで不愉快なものであった。無論羽村が切れた。
「バカ言ってんじゃねーよ」
あちこちでフラッシュが輝いた。誘導尋問のようなものだ。マスコミは美甘子のカリスマを伝えると共に、羽村の許されざる傲慢《ごうまん》を伝えるために集っていたのだ。レポーターがすかさずからんだ。
「なんだその口の利き方」
「くだらねーこと言うからじゃねーかよ」
売ればケンカを買う少年の性格はバッシングに好都合であった。美甘子を気絶させた上にこの悪態である。思うつぼもいいところだ。
テレビを観ていたジーさんがポツリと言った。
「無常じゃ。人気などというものはすぐにでも無くなる。執着すればするほど逃げていく」
画面の中では山口美甘子が、激昂《げつこう》する恋人にやおら抱きついてみせた。
カメラの前で頬にキスをした。
けたたましくモータードライブの連続音。
美甘子が言った。
「みんなが何て言っても大丈夫。美甘子が君を知ってる」
この時もし、美甘子が羽村の目を見てその言葉を言っていたなら、直後に第二のハプニングは起こらなかったかもしれない。
山口美甘子の目線は、大林森の方を見ていた。それは単に偶然だったのかもしれない。けれど羽村には、騒動を自分の演技で収めようとする女優が、監督に自信に満ちた態度で「どう?」と出来を尋ねているように思えてならなかったのだ。
『この女は結局、俺を利用しているだけなんだ。そして俺を、引きずりおろした』
突然羽村の目に、周りの総《すべ》てがスローモーションに見え始めた。
羽村が美甘子に応《こた》えた。
「ああ、俺もよく知ってるよ。美甘子のこと」
ゆっくりと、やっと美甘子が羽村と目を合わせた。天使のように、静かに笑ってみせる。
「好きだよ。お前のこと」
「美甘子もだよ」
羽村は美甘子の背後の大林森を見た。目で「よせ」と少年を止めているのがわかった。
羽村は自分の行動を制御することができなかった。
まだスローモーションで動き続けている周りを見渡し、その中に一つのカメラのレンズを見つけ、輝く半球の中心に向かって、言った。
「だから美甘子、またセックスしまくろうな」
美甘子も含め、全員の顔が「は?」という表情になった。大林森が一人「アチャ〜」と言いながらうつむいた。
スローモーションの世界の中で、一言一言|噛《か》みしめながら少年は言った。
「セックスだよ。美甘子と俺、一日に五回はやりまくってるもんな。お前が何度もしてくれってせがむから、まいるぜ。皆さん、こいつマジでセックス中毒の変態なんですよ」
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第11章 童貞の狼
「セックス中毒なんですよ。映画を観ていたとか肉じゃがを二人で作ったとか、こいつの言ってることは全て嘘なんです。当たり前じゃん。俺ら十七歳だぜ。会えば|やる《ヽヽ》に決まってんじゃん。それしかないに決まってんじゃん? アンタたち馬鹿じゃねーの。じゃあ何? 六ケタの暗算でも二人でやってたと思ってたわけ? セックス中毒のこいつを相手に? へっ、バ〜カ、セックスだよセックス。アンタたちに大人気の山口美甘子は、羽村一政とやりまくってんだよ。山口美甘子はセックス中毒の変態……」
スーツ姿の男たちが数人、一斉に羽村一政の体に覆いかぶさった。
彼の口を覆い、有無を言わさずアッと言う間にフレーム外へと連れ去っていった。少年の、所属事務所のスタッフたちであった。拉致《らち》と言ってもいい強制退去。
羽村一政のトップアイドルとしての役目が一挙に崩壊したことは誰の目にもあきらかであった。
少年のいなくなった記者会見席では、監督と主演女優とがボウ然と虚空を見つめていた。あまりの事態にレポーターたちも言葉を失っていた。
画面には十秒近くも、いたたまれない間が映し続けられた。テレビ放送の歴史始まって以来の珍事であろう。
「……あのう、山口さん」
「はい?」
我に返ったレポーターの一人がやっと美甘子に声をかけた。あまりの出来事に質問が浮かんでこない。それでこう尋ねた。
「……中毒なんですか? その……セックス……」
「……いえ、違うと思います」
はいその通りですと言うはずが無い。
「ですよねぇ」
「ええ」
「……で、では六ケタの暗算を?」
「……それもしてませんけど」
間の抜けた問答であった。
大林森は黙っていた。
監督作の記者会見を滅茶苦茶にされて、席を立ってもいいところなのに、何も語ろうとはしなかった。どうやら、美甘子がどうやってこの場を収めるのか、高みの見物を決めこんでいるようなのだ。
美甘子もそれに気づいた。一瞬監督に目くばせしてから、女優は言った。
「ごめんなさい。どういうわけか美甘子の大好きな人は、たまに自分を抑えることができなくなるんです。急に興奮して訳のわからないことを言い出したりして……私、本当はたまに怖かった」
会見を終了します、と誰かが叫んだ。「おいちょっと待てよ」「まだ時間あるだろ」レポーターたちが騒ぎ出すなか、美甘子のスタッフが彼女に歩み寄った。肩を抱き連れ去ろうとする。美甘子は腰を上げながらもマイクを離さなかった。カメラを真っすぐ凝視しながら言った。
「美甘子はそれでも羽村君が好き。羽村君は薬なんてやってません! 美甘子は信じて……」
そして少年同様に拉致され退去していった。
取り残された映画監督が無言でうつむいている。
直後、再び画面は軽薄な女子大生レポーターコンビに切り替わった。
「え〜!! これどうなっちゃうの〜? 羽村一政ってあぶなくな〜い?」
「ね〜、友達の間でもこの話で持ち切り。明日昼から、中野サンプラザで羽村くんのコンサートがあるそうなんですけど、一体どんなことになっちゃうんでしょうか」
「ね〜……では続いて片岡鶴太郎さんのコントコーナーです。つるちゃ〜ん!」
「は〜い! マッチで〜す!! ペアで揃えたスニーカ……」
画面が消えた。
ジーさんが指でテレビのスイッチを切ったのだ。
彼が振り向くと、背後で賢三がうちひしがれていた。床の上で体中を内部へと抱えこんでいる。柔道で言う「亀」のポーズである。全身が小刻みに震えている。「うう、うう」と、地の底から聞こえるがごとき不気味な声を発している。
「怖いのか?」
「いや」
「泣いているのか?」
「いや」
「怒り、じゃな」
「そうだ」
「顔を見せろ」
老人に言われるまま、少年が顔を上に向けた。
「……テキサスでな、KKKに夫を殺された黒人の妻に会ったことがある。今お前は同じような眼をしておる。鬼の眼じゃ」
「どうしても許せないことってあるだろう」
「怒りも執着じゃ」
「あいつは美甘子を馬鹿にしたんだ。許せない」
「ポイントはそこじゃないじゃろう。羽村がオッパイちゃんとチョメチョメをした事実をあらためて本人の口から聞かされたことが、お前を腹立たせておるのじゃ。結局オッパイちゃんへの執着じゃ」
「殺すぞ」
「わしを? やめておけ。殺さんでももうじき死ぬって」
「羽村を殺す」
「まだそんなことを言い出すか、殺してどうなる。オッパイちゃんがお前に惚《ほ》れるとでも言うのか?」
「殺す! 殺す! 殺す! 殺す殺す殺す殺す……」
「殺さんでもあのガキは芸能界を干されるじゃろう。なんであんなことを言い出したのかはわからんが、もう芸能界にはおられんて。あのガキの人格はすでに抹殺されたようなもんじゃ」
「嫌だっ、殺す!」
「執念が色気から殺気に移ったか。愚かものめ」
「殺す! 絶対ぶっ殺す!」
賢三が拳《こぶし》を床に叩《たた》きつけた。一度、二度、三度、いつしか皮膚が破れ血がにじみ出してもまったく止める気配を見せない。殺す殺すと呪文《じゆもん》のようにつぶやきながら床を叩き続ける。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
「もういい、よせ賢三」
「殺す! 殺す! 殺す! 殺す!」
「わかったってば」
「殺す! 殺す! 殺す! 殺す!」
「わかった。殺しに行け、賢三」
「殺っ……え?」
「床暖房の工事をしようと思っとったから穴が空くまで殴ってくれてもいーんじゃがな。血を拭《ふ》くのがめんどうじゃ。床ではなく、ワシと共に鍛えたその鉄拳《てつけん》で羽村一政を殴り殺しに行ったらいい」
「…………」
「明日は昼から中野サンプラザでコンサートと言っていたぞ。行ってこい賢三。お前の執着の根源であるオッパイちゃんの処女を奪い、あまつさえ一日五回のオマンチョを実行し、そしてオッパイちゃんをセックス中毒の変態娘に変身させた憎き恋仇《こいがたき》を、お前は自分の責任で見事殺害してこい……それにしても、セックス中毒の変態娘十七歳とは……いいもんじゃの〜」
「本当に俺はやるぞ」
「だから行けよ。なんじゃ? 止めると思ったか?」
「いや、ちょっと意外だっただけだ」
「今から車で中野までは連れていってやる。そこからはもうお前一人だ」
「……ジーさん」
「なんじゃ」
「わかってるのか? 俺、けっこうすごく本気なんだぞ」
「わかっとる。目でわかる」
「俺、山口のためなら、死ねると言うか……羽村に会ったら、本当に何をするかわからないんだ。いや、て言うか、殺すよ」
「うむ。どうしても捨てられぬ執着は、逆に一度、とことんまでつきあってみるのもいい。ワシはそう思ったんじゃ。だって止めたってお前行くだろ? オッパイちゃんへの執着の果てに何があるのか、羽村に会って、その目で確かめてきたらいい。賢三、荷物をまとめろ、すぐに出かけるぞ」
「本当に殺しちゃうんだからな!」
賢三は叫んで、荷物のある屋根裏部屋へと駆けていった。
ジーさんは彼の姿が見えなくなるのを確認すると、懐から手帳を取り出しパラパラとめくり始めた。
「山口美甘子私設親衛隊LOVEみかみか※[#ハート白、unicode2661]極東練馬支部」
そう走り書きしてあるページで指を止めた。
「仮免試験じゃな」
そう言って、老人は不敵に笑った。
スバル360が中野サンプラザへ到着したころは、東の空に陽が昇り始めていた。
サンプラザ前の広場に立つ時計塔が、地面に長い影を描いている。
まだ人の姿は無く、車を降り広場まで歩いて来た老人と少年は、影を挟んだかたちで向かいあった。
「ほれ」と言って、ジーさんは賢三にバックパックを投げてよこした。
賢三がそれを胸で受け止める。
ここに来るまでの車内では、二人は終始無言であった。夜の闇の中で少年の顔色は紙のように青白かった。
「聞いた話によると羽村のガキは喧嘩《けんか》も滅法強いそうじゃないか。返り討ちにあわんように、バッグの中に武器を入れておいてやったぞ。いざとなったら使ったらいい」
じゃあワシは帰ると言って、老人は少年に背を向け歩き出した。
少年は「ジーさん」と声をかけた。
老人は立ち止まるが、ふり返りはしない。
「ジーさん……なんか、あの、いろいろと……」
「楽しかったな」
「え」
「いろいろあったがワシはお前と遊べて本当に楽しかった」
時計塔の影はちょうど老人のいるあたりにのびていた。影の中で老人の体はいつもより小さく見えた。
「うん、楽しかった。また会いたいよ」
「ホモみたいなことを言うな」
「また会えるよな」
「バカ」
「ガンって、嘘だよな? アレ、冗談だったんだよな?」
「言ったじゃろ、憎むべき者とは会う運命《さだめ》にあると。ワシのオリジナル哲学じゃ」
「お釈迦《しやか》様の受け売りだろ」
「余計なことだけ覚えていやがる」
「もう一つ覚えてるよ。愛すべき者とは別れなければならない」
「じゃあな賢三。ワシは帰る」
「もう一つ覚えてる。この世界は空《くう》。しかし、挑戦する価値のある大いなる空《くう》。そうだよなジーさん」
「あばよ」
「ジーさん待てよ! 俺を本当に人殺しにしちまうのか? 羽村と会ったら、俺は絶対アイツを殺しちまうんだぞ」
「惚れられてもいないオッパイちゃんのために一生を棒に振る。バカな小僧じゃ。だがな賢三、お前の他にもワシはそんなバカなガキを知っとるぞ」
「え?」
「賢三、会って来い羽村に。二人が会う算段はワシが整えてやる。会って、何が起こるかお前自身が確かめてこい。お、いかん、もう乾布摩擦の時間じゃ、帰ろ帰ろ〜」
朝日は刻々と昇りつつあった。時計塔の影が老人の体からずれた。陽ざしの中で彼は背を向けたまま片手を振ってみせた。そのまま振り返らず一直線に道路へ止めたスバル360へと歩いていく。車に乗り込み、エンジンをかけると、初めて少年の方を振り返った。
「あ、それからな賢三」
澄み切った夏の朝の空気の中で、老人の声はよく通った。
「たとえお前が人殺しになろうとも、返り討ちにあって逆に殺されようとも、お前は必ず孫たちのライブに駆けつけるのじゃぞ。脱獄しようとも、幽霊になってでも、男は待っている者たちの元へ馳《は》せ参じる義務があるんじゃ。そういうのをな、『いざ鎌倉』と言うんじゃ。この言葉もワシのオリジナルじゃ。ワハハ。じゃあな賢三、楽しかったぞ。遊んでくれてありがとう。ワハハ。人生は空《くう》じゃ。だがな、遊ぶ価値のある大いなる空《くう》なんじゃ。賢三、あばよ!」
羽村一政は声を上げることも無く絶命した。
老人の渡した武器は「サイ」と呼ばれる中国武術の刃物であった。中野サンプラザの楽屋で、賢三は羽村の背中からそいつを根本までつき刺したのだ。
『人の体ってこんなにも柔らかいものか』
賢三は、人を殺しながら妙な感動を覚えていた。
羽村は刺された直後に首をひねり、自分の命を奪う者の顔を確認しようと試みた。かなわなかった。30度も曲げたところで意識を失った。せめてもの反撃のつもりなのか、賢三の顔と言わず体と言わず、真っ赤な鮮血を傷口から噴き出した。しかしそれも数秒とは続かなかった。やがて羽村は、一言も発することなく十七年の短い生涯を終えた。
賢三は血まみれのまま呆然《ぼうぜん》と控え室に立ち尽くしていた。廊下で人々の怒鳴り声が聞こえている。ばれた。足音が近づいてくる。逃げ道はない。目前には屍《しかばね》と化した羽村一政。初めて事の重大さに気付いた賢三。悲鳴。生まれたての赤子のような全身でふりしぼる悲鳴。ギャアアアッ! と賢三は泣き叫び、背後に人の気配を感じて振り向いた。いつの間に現れたのか、そこには山口美甘子が立っていた。
「美、美甘子! 君のために俺は殺した」
「バカ! Hの相手がいなくなっちゃったじゃない。私セックス中毒なのよ。大橋君、責任取ってかわりに美甘子とHして?」
「え? 何それ? マジ? あ、夢?」
そこでハッと賢三は夢から覚めた。
すでに太陽は空の真上近くに昇っていた。
バッグを背負ったまま、賢三はいつの間にか眠っていたのだ。
中野サンプラザの広場には人々が集まっていた。
コンサートを見に来たニキビ面の少女たち、ワイドショーのクルーも多数いる。柄の悪い少年たちがインタビューを受けている。賢三同様に羽村許すまじと駆けつけた美甘子ファンらしかった。彼らと少女ファンがあちこちで小競り合いを起こしていた。警備員も割って入り、サンプラザ前は騒然としている。
時計塔を見るともう十時半だ。後少しで開場ではないか。
起きあがろうとした賢三だが、ふいに嫌な気配を背後に感じた。
複数の人影の中に自分がいることに気がついたのだ。さらに、後ろでコソコソと声が聞こえた。
「お、おい、賢三さんが起きたぞ」
「き、気をつけろ、『練馬の虎』だからな」
「見ろ賢三さんの股間《こかん》を! もう昼なのにあんなに朝立ちしていらっしゃる! さすが『童貞の狼』だ!」
なんだなんだ? と思いつつ、恐る恐る、賢三は身を起こした。すると、
「おはようございます賢三さあんっ!!」
野郎共の声で一斉にグッド・モーニングMr.ケンゾー!! と声をかけられたではないか。驚いた賢三はあわてて立ちあがり振り返った。
するとそこには、揃いのハッピを着た暴走族風の少年たちが賢三を囲んで整列していた。
「な、何!? なんなわけ?」
「おはようございます賢三さん!」
真ん中にいた男が一歩前へ出た。
「え? 何? え?」
「山口美甘子私設親衛隊LOVEみかみか※[#ハート白、unicode2661]極東練馬支部特攻隊隊長、岩垣真平《いわがきしんぺい》っス!! 押忍《おす》!!」
「え? 特攻隊? なな、なんなの?」
「山之上先生から話は伺っています。今日は俺ら、全力でサポートさせていただきますんでよろしくお願いしまーすっ」
真平が深々と頭を下げると、十数人の少年たちも「お願いしまーすっ!」とそれに続いた。
「山之上先生……あ、ジーさんのこと?」
「そうっス。俺ら練馬駅で山之上先生に投げとばされてから、先生の舎弟になったっス。それで、今朝、山之上先生から電話があって、空手使いで凄腕《すごうで》のヒットマンを送ったから、羽村の野郎に会わせるようお前ら助《すけ》っ人《と》しろって頼まれたっス」
「ヒットマンって? ボ、ボクが?」
あまりのことに賢三はへっぴり腰で二、三歩後ずさった。その千鳥足を見て少年の一人が驚きの声を上げた。
「見たか! あれが実戦派殺人空手の動きだ!」
おーッ!! と特攻隊から湧き起こった感動の声。
「え? 何? なんなの?」
「先生の言った通りだ! 賢三さんはやっぱり『練馬の虎』なんすね! おいお前ら! 本物だぞ! この方こそ先生の送ったヒットマン、『童貞の狼』大橋賢三さんだ」
「おーっ!!」
「賢三さん、俺らが賢三さんを囲んで騒ぎを起こしますから、賢三さんは裏口突破して楽屋にダッシュしてください。そして……そして俺らの美甘ちゃんを傷ものにした羽村を、殺人空手でぶっ殺してやってください!」
「え、いや、あの、ちょっと」
賢三は両手を前につき出し、興奮する特攻隊を押し留《とど》めようと試みた。ところが、
「シャドーボクシングっスか! おい! 賢三さんはやる気だぞ。お前ら、童貞の狼を裏口へお連れしろっ。突入だあっ」
「お──っ!!」
「いや、あの、ちょっ、そうじゃなくて」
賢三の両足が地面からフワリと宙に浮いた。
両|腋《わき》を特攻隊に抱きかかえあげられたのだ。そのまま一団はワッショイワッショイラブラブミカちゃんと連呼しながらサンプラザ楽屋口へとなだれ込んで行った。
もちろん警備員やスタッフが止めに入るが、少年たちの気合の方がはるかに大人たちの力を上回った。羽村許すまじと集まった他の少年数十人もこれに加わり、周辺は一気に大騒動となった。押しくらまんじゅうの群衆の中で、警備員に殴られて目の上を腫《は》らした真平が、賢三の体を入り口の中へとつき飛ばした。
真平が警備員に羽交い締めにされる姿を目の端で見ながら、賢三は通路を建て物内部へと走った。
スタッフのほとんどが入り口で乱闘しているため、建て物の中はガランと静まり返っていた。
楽屋はすぐに見つかった。
「羽村一政様楽屋」と書かれた紙が扉に貼ってあった。
賢三は一瞬ためらったが、ノブを握り、ゆっくりと回してみた。鍵《かぎ》はかかっていなかった。
部屋の中で、ソファーに座った羽村一政が、不意の侵入者をいぶかし気に見つめていた。
羽村一政の顔を見た途端、スーッと、賢三の体から殺気が失《う》せた。
『俺はなんて考え違いをしていたのだ』
賢三は羽村を見ながらそう思った。
『やっぱり俺は底無しのダメ人間だ』
同時に、たまらなく自分が恥ずかしく思えた。
『これは駄目だ。レベルが違い過ぎる』
部屋の中にいたのは、端正な顔立ちのスターであった。人気は失墜しつつあるとはいえ、凡人とは異なる独特の輝きをまばゆいばかりに放射していた。黒所でモテモテとか、そんな狭い世界の存在ではないのだ。人を魅《ひ》きつけてまだあまる天性の光の所有者だ。賢三と較べたなら一目見ただけで、天と地……いや天と井戸の底ぐらいの歴然としたレベルの差だ。
賢三は、なんだか自分がアホらしくなってしまったのだ。
かなう訳のない相手に、勝手にライバル心を燃やしていた自分に、つくづく嫌気がさしてしまった。すると一挙に力も抜け、ポカンと口を開けて目の前の美少年に見とれる始末。
「お前誰だよ? バイトか?」
羽村が声をかけた。
「バイトの控え部屋はここじゃねーぞ。あ、ついでだ。そこのビール取ってくれよ」
生まれて初めて芸能人に声をかけられて、賢三はドギマギしてしまった。思わず「あ? は、はいっ」と応《こた》えた。テーブルの缶ビールを羽村に渡した。
「グラスもくれよ」
「え? あ、はいっ!」
あわてて差し出した。
「おつぎしますっ!」
頼まれてもいないのに、羽村の持つグラスにきちんと両手を添えてビールをついだ。ヒットマンのはずがこれではすっかりパシリである。羽村に「ありがと」と小声で言われ、ジ〜ンと感動したりして。まったく賢三、井戸の底と言わざるをえない。
「なんか外が騒がしいな。どうなってんだ?」
羽村が聞いた。続けてビールの泡に目を落として、小さく付け加えた。
「て言うか、少しは来てるか?」
「え? 誰がですか?」
「いや……客」
「来てますよ」
羽村がホッとした表情を見せた。こんなスターでもそんなことを気にするのかと賢三は驚いた。
「ホラ、最近オレ、落ち目だからよ」
賢三を見て笑って見せた。信じられないほど前歯が白かった。そして、かなり酔っているようだった。賢三は、客以上にレポーターや美甘子ファンが集っている事実を、羽村に伝えることができなかった。
「お前高校生か?」
「十七です」
「学年下?」
「いえ、タメです。高二」
「タメか。タメだな。ふーん……あのさあ、ちょっと扉閉めてカギかけてくれねーか」
賢三は羽村の言う通りにした。閉める間際、パスカードを首からぶら下げた男たちが裏口へと走っていくのが見えた。どうやら騒ぎは一段と大きくなっているようだった。
「飲めるだろ? ビール持ってそこ座れよ」
羽村が言った。賢三は従い、テーブルを挟んで彼の対面に座った。
「グラスいらねーのか?」
「いいです。直《ちよく》で飲みます」
「じゃあ乾杯」
「羽村さん、相当飲んでますね」
「悪いかよ。乾杯しろよ」
羽村が身を乗り出しグラスを差し出した。
賢三も缶を差し出す。
缶とグラスとが、小気味良い金属音を立てた。
「乾杯」
「乾杯」
賢三は、気合を入れて、350mlのビールを一気に飲み干した。
せめてこんなことで、同年齢のアイドルに自分の存在を示してみたいと思ったのだ。
羽村は「やるじゃん」と言って笑ってくれた。
それにしても真っ白な前歯だ。
「やるじゃんバイト君。普段から飲んでんの?」
「はい。いや友達なんかとたまに」
「友達か。同級生か? いいな。俺学校行ってねえからさ。そういうのいねーんだ。楽しい? 学校って」
「いや全然、最悪っす。どいつもこいつもくだらない話しかしてないし、テレビだのアイドルだのクソくだらない……あっ……」
羽村はそれはうれしそうに笑った。「お前おもしれーな」と言って、自分もビールを一気に飲み干した。
「お前の言う通りだよ。アイドルなんてクソくだらねーよ。……あのさあ、お前、沢木耕太郎って知ってる?」
「沢木耕太郎? 作家の? 知ってますよ。『敗れざる者たち』『一瞬の夏』……」
「そうか、やっぱ知ってんのか。俺は全然知らなかった。十五で芸能界に入って、本なんか読む暇も無かった。学校も行かないし友達なんかもいなかった。人気だけがあって、それ以外何もなかったんだよな。て言うか人気だけが俺だったんだよ。じゃあ人気の無くなった俺ってなんなんだよ。なんにもねーじゃねーかよ」
廊下でガラスの割れる音が聞こえた。
「12分の1」
「え、なんですか羽村さん」
「前回のライブに比べて、今回のチケット前売り状況は1/12だってよ。俺もう駄目だな。事務所も俺を干すためにキャンセルをわざとしない。ガラガラの会場でやらせて俺のプライドをぶっつぶす気なんだ。俺一人を悪者にして、ほっぽり出して、体裁を取りつくろうつもりなんだよ」
もう一度ガラスの割れる音。怒号が聞こえる。羽村の名を呼んでいる。
「アレ、客じゃないよな」
「……みんな君を殺すつもりでいるよ」
「お前もか?」
賢三は応えなかった。逆に尋ねた。
「なんで美甘子のことをあんな風に言ったんだ?」
「お前……しのびこんだ美甘子のファンか」
「違う。美甘子の……同級生だ。一度一緒に映画を観にいったこともある。俺の知ってる山口は、君の言うようなやつじゃなかった。山口を悪く言うやつは許せない」
「好きなんだな」
「そうだ」
「俺も美甘子が好きなんだ」
廊下で悲鳴が聞こえた。「血だっ」「警察呼んで」ただならぬ言葉が飛びかい、怒号と沢山の足音がすごい勢いで近づいて来る。
「じゃあなんで山口を馬鹿にした」
「バイトに何の関係があるってんだよ」
「ある。俺はバイトじゃない。アンタを殺しに来たヒットマンだ。答えしだいによってはバッグの中の武器でアンタを刺す」
暴徒と化した美甘子信者の一団が控え室の前までたどりついた。「開けろオラ!」「出てこいクソガキ!」口汚なく罵《ののし》りながらドアを蹴破《けやぶ》ろうと暴れ始めた。
「刺すなら刺せよ。人気を失った羽村一政なんて死んだのと同じだ。何も怖くねーよ」
「なあ教えてくれ羽村、どうして惚れられてもいない女のために一生を棒に振ろうとした?」
「俺は惚れられてたんだ!」
「俺だって惚れられてたっ……ような気がしたんだ!」
合鍵《あいかぎ》出せコラーッ! と怒鳴る声が扉の外で聞こえた。スタッフが吊《つる》し上げになっているようだ。爆竹まで鳴っている。パトカーのサイレンが聞こえてきたが、まだ近くではない。
賢三は背中に手を回し、脅した。
「言ってくれ羽村、本当に殺すぞ」
「だから殺《や》れって言ってるだろっ」
「…刺されたりしたら痛いんだぞ」
「当たり前のこと言うなっ」
あったぞ! と今度は扉の外で喚声が上がった。カギを回す金属音。
「なあ頼む。教えてくれ。どうして山口に、お前はあんな非道《ひど》いことをしたんだ」
「おい、逃げろバイト。あいつら入ってくるぞ。お前までまきぞえ食うぞ。お前逃げろよ」
「言ってくれ羽村」
「逃げろよ」
「逃げない。君が言うまで絶対に逃げない」
酔いの回った目付きで羽村は言った。
「美甘子が俺を置いてどんどん大人になってゆくのがたまらなくさびしかったんだよっ」
その時ついに控え室の扉は開かれた。
ウオーッという声を上げて暴徒がなだれ込んできた。
目は血走り明らかに集団ヒステリーの狂気の群れであった。
さすがの羽村も声を失い棒立ちとなった。
最前の真平はナイフを手にしていた。
呆然としている羽村の腕をガッシリとつかむ者があった。
大橋賢三。
羽村に言った。
「今の言葉を聞いて殺すのやめたよ。だって君は俺と一緒の人間だ。心を美甘子にグチャグチャにされた俺ら同じバカ野郎同士だ。羽村君、逃げよう。俺が君の命を救ってみせる」
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第12章 男たち
180度の急激な心変わりは直感によるものであった。
『俺も羽村もおんなじだ』
羽村の一言を聞いて、賢三は瞬間で感じ取ったのだ。
自分も羽村も、美甘子に置いてけぼりを食った十七歳に過ぎないのだ。
駆けめぐる速さで大人になっていく一人の少女に恋をし、ふられ、地の底までうちひしがれるうちに人生に怯《おび》えることを知ってしまったダメな男たちなのだ。トップアイドルもボンクラ高校生も、かっこ悪いふられ方の下にはみじめさにおいて平等であるはずではないのか。
ならば、仲間だ。
俺たちは、同志だ。
友達?
それはまだわからない。ただ、殺す理由はすでにない。仲間なら、同志なら、俺は体を張ってこいつを守る義務がある。賢三は瞬時に理解し、そして行動に出た。
「羽村クソガキ殺すぞオラァァッ」
ナイフを構えた真平が怒鳴った。
咄嗟《とつさ》に賢三は羽村の前に立ちはだかったのだ。
「賢三さん、裏切る気っスかああっ!?」
「気が変わった。俺は羽村の命を守る。殺《や》るなら俺を殺ってからにしろよ」
なんと大見得を切ってみせた。
童貞の狼に凄《すご》まれて真平たちがひるんだ。
「おいバイト、大丈夫かよ」
羽村が後ろから聞いた。
「大丈夫。ちょっと最近、鍛えているんだ」
「そうか、俺も空手やってる。五人なら倒せる。バイト、お前は?」
「六人。俺は殺人空手」
「スゲーな。極真か?」
「いや……ジジー流だ」
ジーさんと殴りっこをしたぐらいで賢三はすっかり空手家気取りであった。免許皆伝のつもりなのか「ジジー流」を名乗ったあげく、ブルース・リーばりに奇声を発した。
「あちゃ──っ」
どよめくと共に一歩後ずさった真平たち。
調子に乗った賢三は、今度は「あたっ、あたたっ」と言いながら、燃えよドラゴンになり切ってその場でステップを踏み軽快な(本人的には)フットワークを見せ始めた。
「な、なんだバイト? ケイレンか?」
残念ながら羽村には理解してもらえなかったようだ。
「ど、童貞の狼さんよお、こっちは光りもん持ってんだぜえ、ブスッとやっちまうぜ」
真平が凄んだ。賢三は表情で真平たちを牽制《けんせい》しながらバックパックを背中から外した。バッグに手をつっ込みジーさんが忍ばせたという武器を手探りで探した。何か硬いものに触れたので握りしめ、取り出し真平につきつけた。
バイブレーター…電動コケシであった。
「……また、ジーさんにだまされた……」
賢三がつぶやくのと暴徒が襲いかかるのは同時だった。
「どけバイト!」ウニウニと手の中で震えているバイブレーターを見つめていた賢三の体が、背後の羽村によってつき飛ばされた。
真平のナイフを羽村の足が蹴り上げた。
そのまま地に降ろさず真平の左顔面も見事に捉《とら》える。片足二段蹴り。
ぶっ飛んだ真平。
その体を乗り越えて別のリーゼントが猛然とタックルをかましてくる。
羽村は体を横に開くと暴漢の後頭部と背中のベルトをつかんで勢いのままに壁に叩《たた》きつけた。う〜んと二人目の敵は昏倒《こんとう》。
羽村が飛んだ。
ソファーとテーブルを踏み台にホップ、ステップ、ジャンプのタイミングで次に襲ってきたヤンキーにカウンターの真空飛びひざ蹴《げ》りをぶちこむ。
三人目は失神。
地につくと同時に右の敵に正拳。くるりと回転して左の敵に裏拳。
ドタッと二人が倒れたならば、羽村は賢三をふり返って言ったものだ。
「五人。約束は果たしたぜ」
つ、つ、つよ〜。賢三は目を見開き呆然《ぼうぜん》とした。それどころかつくづくと、『羽村君の味方になっておいてよかった〜』心の中で胸をなでおろしたのであった。
では賢三が羽村との約束を果たしてその後六人ぶっ倒したのかと言えば、無論そんなことができるわけないではないか。
ただ賢三には中野区民としての土地勘があった。
「羽村君、逃げよう」
倒れている連中を乗り越え、ア然としている親衛隊の間をぬって、二人は一気に出口へ向かってつっ走った。
通用口は人だかりだったが、走りぬける二人の少年の勢いを止めることはできなかった。
行き交う車に急ブレーキをかけさせながら少年たちは中野通りを渡り切った。
賢三がふり返るとサンプラザの側から、親衛隊、テレビクルーや芸能レポーター、それに羽村の事務所スタッフまでがワラワラと飛び出してこちらに向かって来るのが見えた。
「もう事務所の連中も味方じゃない。バイト、どっちに逃げればいいんだ?」
「まかせて、こっち、こっちだっ」
賢三と羽村は電光石火の勢いで中野の町中を走った。
喫茶「C」の前を抜けサンモール商店街からブロードウェイビルへ。エスカレーターを無視して階段で二階へ、先を急ごうとエスカレーターをかけ上がった追っ手の連中は、それが二階を通過して三階まで行ってしまうことを誰も知らなかった。連中を出し抜いた二人は二階から今度は一挙に地下へかけ下りる。食材屋から下着屋までがゴッチャになったいかにも中野の地下市場を走り抜けそのまま地下駐車場から地上へ出た。すぐ右に折れ、ネイティブ中野人でなければ絶対にわからない抜け道裏道を息を切らせて二人の少年は走りに走った。
夏。
噴き出る汗をぬぐおうともせず。
トップアイドルとボンクラ学生。立場は月とスッポンほど違うというのに、今や二人の息づかいはひとつに同調し、心臓の鼓動までもがトクントクンと同じリズムで刻まれ始めたのであった。
「はっ! はっ! はっ! はっ!」
「はっ! はっ! はっ! はっ!」
走る。走る。どこまでも走る。
足も腰もガクガクと震え出し、小さなスナックのいくつも入った朽ちかけの雑居ビルにたどりつくと、階段の踊り場で二人は同時にしゃがみこんだ。
「はーっ! はーっ!……はーっ……もう走れねえ」
羽村が大の字に倒れた。
「ひーっ! ひーっ! ひーっ! もう追ってこないね」
賢三は四つんばいで息を切らせていた。
「やっちまったなあ俺。もう戻れねえや」
「余計なことしたかな?」
「いや全然だ。なんか晴れ晴れした気持ちだ。どうせもう俺に戻るところはねーよ。これ見ろよバイト」
羽村が踊り場に落ちていたスポーツ新聞を拾い上げ、賢三に見せた。
「羽村一政の奇行暴言の裏に薬物使用のウワサ」
と、見出しに赤い大文字が躍っていた。
「これ、事務所がリークしたんだ。美甘子が自分の立場を守るために言ったウソをうまいこと逆利用しやがった。俺を完全に干すつもりだ。帰る場所はどこにもねえよ」
「でも」
「バイト、ありがとう。スッキリした。これでもう俺はなんにもねーただのバカなガキだ」
「ごめん」
「ありがとうって言ってんだろ」
羽村が身を起こし、真っ白な歯を見せて笑った。なんと端整な顔立ちなのかと賢三は再び見惚《みと》れた。
「バイト、お前なんていうの? 名前教えろよ」
「いや……俺なんかそんな、名乗るほどの……」
「俺だってもうアイドルじゃねえ。一緒だよ。なんてーの? 名前」
「ケンゾー。大橋賢三」
「ケンちゃんか」
「え!? ケンちゃん??」
「ケンちゃん、よろしく。握手しようよ」
「え!? やめてよそういうの。恥ずかしいよ」
「なんでだよ」
「だって」
「ホラ」
「あ」
羽村が賢三の手を強く握りしめた。賢三はなんだか猛烈に恥ずかしくなって、うつむいた。
「照れんなよ。なんか俺、同い歳のやつと友達になるって初めてだよ。よろしく、ケンちゃん」
「ケ、ケンちゃん……俺がケンちゃん……」
「で、ケンちゃん。これからどうする?」
二人は「C」へ入った。
こんな古ぼけた喫茶店に追っ手が来るとは思えなかったし、まさかまだ中野に潜んでいるとは考えつくまい。賢三の読みは当たった。「C」には人気も無く、竹針でクラシックをかける店のマスターが羽村一政を知っているはずもなかった。
テーブルを挟んで二人は向かい合った。
トップアイドルの座を自ら捨てた羽村は、よほどのプレッシャーから逃れた解放感なのだろう。初めて出来た同年代の友を前に、堰《せき》を切ったようにこれまでの自分を語り始めた。
生い立ちからデビュー、トップアイドルに上りつめるまでの高揚した日々、薄汚い芸能界の裏話、そして山口美甘子との出会い。
不思議なことに、羽村の口から山口美甘子の話を聞かされても、賢三は腹が立たなかった。もう打ちひしがれることもなかった。
戦友意識、のような特別な感情が二人の間に目覚めていたのだ。
山口美甘子という一人の少女に恋をしたがために、傷つき、今までの生活を全て捨てるはめに陥った者同士。何をいがみ合う必要があるものか。同じ穴のムジナというやつではないか。まったく山口美甘子というやっかいな娘は初対面の少年たちが打ちとけるためのアイテムとしてはあまりにネタが豊富であった。二人は、相手の語る美甘子の言動に思い当たるふしがある度に、「わかるわかる」「そうそう」などと言って笑い合いさえできた。
そして二人は、互いの生きてきた十七年間の圧倒的な違いに驚き、興味を持った。
羽村に続いて賢三が自分のことを羽村に語ってきかせた。黒所のこと。カワボン、タクオ、山之上と結成したキャプテン・マンテル・ノーリターンのこと。さらに一日五回のオナニー・ライフについてまで……。
「ケンちゃん、それ、気持ちいいのか?」
「え? 何? オナニー? 最高じゃない」
「セックスより気持ちいいのか?」
「……羽村君、俺、童貞だから」
「あ、ゴメン。そうか、そんなに気持ちいいもんなのか」
「まさか、やったことないの!?」
「ないよ」
「なんで?」
「なんでって? やる暇がなかったから。彼女とかそこらの女とか十二歳の時から、やりたくなった時は、必ず相手がいたからさ」
さすがの賢三も、この時ばかりは「ガーン!」と言ったきり暫《しば》し言葉を失ってしまった。
「実はやり方もよくしらないんだ」
「駄目だよそれ! オナニーは自己との対話なんだ」
そんなことを言って昼間っから賢三は、オナニーのやり方を身ぶり手ぶりを加えながら羽村に指導してみせたのであった。
「ふーん、そうかあ、王貞治みたいに一本足で立ってこすると最高に気持ちいーのか! ケンちゃんありがと、勉強になったよ」
調子に乗ってウソも教えた賢三であった。
「美甘子とは同級生だったんだろ。どんなだった? 学校のあいつ」
「ああ……俺はとにかく、憧《あこが》れていたんだ」
オナニー談義がひとしきり終ると、羽村が尋ねた。
賢三は美甘子への想いを包み隠すことなく語って聞かせた。教室の美甘子、文芸坐の美甘子。ナイスシアター。「グミ・チョコレート・パイン」。踏み切りでの別れ。話はノイローゼの日々にまでおよんだ。そしてジーさんとの修行。テレビを観て羽村殺害を決意したこと。
「ケンちゃん、あのことはマジ、ゴメン。俺はどうかしてたんだ」
「いやもういいよ。わかるよ羽村君」
「俺を置いてどんどん広い世界へ羽ばたいていく美甘子をへこませてやりたかったんだ。好きだったから、余計にメチャクチャにしてしまいたかった。それに何より、俺はあの時、気が狂うぐらいに焦ってたんだ。俺の人気がどんどんなくなっていく一方だった。人気こそが俺自身なんだって思ってたから。それが無くなってしまった時のことを思うと怖くて仕方なかったんだよ。バカだったよなあ、人気も名声も、アイドルの立場も、こうやって、無くなっちまえば、こーんなにスッキリするのにな」
そう言って羽村は真っ白な歯を見せながら快活に笑ってみせた。
無邪気な表情だった。
賢三はふと、ダスティン・ホフマンの『卒業』を思い出していた。確か中野武蔵野館で観たはずだ。ダスティン・ホフマンが花嫁を結婚式場から強奪する。手を取り合ってバスに乗り込む二人。興奮冷めやらぬ二人は暫《しばら》く無邪気に笑い合う。しかしすぐに、自分たちの起こした事の重大さに気が付き、徐々に表情を曇らせていくのだ。映画の主題歌はサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」。不安気で、どこかはかない旋律であった。
「羽村君、本当にこれから、どうする?」
尋ねると、羽村の表情もやはり、陰りを帯びた。
「うん、とんでもないことしちまったな、俺」
「俺が余計なことをしなければ」
「お前のせいじゃねーって! どの道俺は落ち目だった。それにしても、コンサートをほったらかして逃げた上に、麻薬疑惑まで背負っちまったとはな。おしまいだな」
「美甘子はなんで君が麻薬をやってるなんてウソを持ち出したんだろう」
「天才なんだよ。自分を輝かせるために、人を陥れる。そういうことを無意識のうちにやってのける。生まれた時から女優なんだ。そして大人になって、きっとバケモンみたいな大女優になっていくんだ」
「でも好きなんだろ」
「好きだ。忘れられねー。ケンちゃんは」
「好きだ。思い出してしまう」
「俺は何度もアイツとやったぞ。一歩リード」
「俺は美甘子と人生論を戦わせたんだ。負けちゃいないよ。君と話していてやっと気付いた。羽村君、俺らはガキだ。美甘子に較べてどうしようもないガキだ。セックスをしようと人生論を戦わせようと、俺らはどの道、山口美甘子が大人になるための踏み台に過ぎなかったんだ」
「踏み台は踏み抜かれてグチャグチャだな」
「うん」
「ケンちゃん、口惜《くや》しくねーか?」
「うん、口惜しい。たまらなく口惜しい」
「どうすればアイツに俺らは肩を並べることができるんだろう」
「俺は、本を読む。映画を観る。もっともっと、今より沢山、読んで、観る。でもそれだけじゃ駄目だ。体験する。この世界の、この現実のあらゆることを身を以って体験して、そして痛みを知る。感動を知る。失敗も成功もなんにも恐れない。とにかく知って知って体験しまくって、やがて山口美甘子に、俺の存在を知らしめる」
前向きな言葉が次々と口をついて出た。賢三は自分自身の台詞《せりふ》に驚いていた。ジーさんの教えが気付かぬうちに自分の中に根づいている。賢三はうれしかった。
「よし、ケンちゃん、俺もやる」
「羽村君、何をやる?」
「山口美甘子に会いに行く」
「え?」
「あいつはもうじきハリウッドに旅立つ。その前に会っておきたい。未練じゃねーぞ。ケジメだ。会って美甘子にアレだ……えーと……そうだ、宣戦布告ってやつをしてーんだ。俺はこれから相当ミジメでつらい毎日を送るに違いない。でも負けねー。ぜってーに負けねー。いつか今の位置にカムバックして、山口美甘子に、俺の存在を知らしめる。それを、会ってアイツに伝えたいんだ。伝えたら、いつかあいつと役者の仕事で出会うまでは、もう一切アイツのことは考えねーつもりだ!」
「……そうか、やっぱり羽村一政ってかっこいいね」
「何言ってんだケンちゃん、お前も一緒に行くんだよ」
「えっ!?」
「俺ら一緒だってお前言ったろ? 踏み台同士だろ? 一緒にアイツに会いに行こうぜ。会ってケンちゃんもケジメをつけろよ」
「え? でも僕、美甘子を見ると震えちゃうし……」
「乗り越えなきゃ前に進めねーよ。よしケンちゃん、すぐ行くぞ。アイツが今いる場所なら俺にはいくつか当てがあるんだ。2ケツで捜しに行くぞ。振り落とされんなよ」
「あ、羽村君チャリンコで来たんだ?」
「バカ、バイクに決まってんだろ!」
どん底まで落ちたなら後はもう上がるしかない。数年間トップアイドルの座を死守してきた羽村一政である。賢三と違って瞬時に心を入れ替える術を心得ていたのだ。確かに『卒業』のダスティン・ホフマンのように、とんでもないことをしでかした束の間の達成感と、アイドルの座を辞した解放感で、一種のハイな状態にあったことは確かだ。ただ羽村は、この興奮の冷めぬ間に、やるべきことをやってしまおうと決意する行動力を持っていた。
「シラけちまわねーうちに行こうぜ」
会計は羽村が払った。
「マスター、カードで」
「お客さん、うちそんなのやってないよ」
店長に言われると、ポケットから無造作に一万円札を抜き出し、投げて渡した。ろくにつりも受け取ろうとはしなかった。
それどころか羽村は、店を出るなり賢三のためのヘルメットや、替えのTシャツまでカードを使って買い与えた。名画座代を浮かせるために、毎日昼メシを抜いている賢三とは大違いの経済感覚であった。オナニー未体験というのもこれなら有りうるなあ、と、賢三はつくづく生きてきた環境の違いに驚くのであった。
ブロードウェイビルのトイレで二人は着がえ、なるべくうつむきながら、再びサンプラザの方へと向かった。
羽村のバイクが駐車場にあるというのだ。徒歩や電車で移動するわけにもいかない。タクシーは運転手にチクられる危険がある。なんとかバイクを奪回したかった。
サンプラザの見える裏路地から二人は様子をうかがった。
「まだ人がいるね」
「ケンちゃん、キーを渡すからお前行ってきてくれよ」
「そんな、俺、自転車しか乗ったことないよ」
「大丈夫、俺も中坊の頃は無免だった」
羽村は賢三にキーを渡し、エンジンのかけ方やギアの入れ方をレクチャーし始めた。そんなことを言われてもチンプンカンプンの賢三であったが、なんとか理解しようと集中した。
「わかったか? 早稲田《わせだ》通りまで出てくれれば後は俺が乗り換える」
「う、うん……本当にやるの?」
「本当にやるんだ。行ってこい」
羽村に背を押されて賢三はよろめいた。
二、三歩前へ進むと中野通りへ出た。通行人と体がぶつかり「あ、すいません」と謝った。通行人は気がおさまらなかったのか賢三の肩をムンズとつかんだ。文句をつけるにしてもあまりに強い力であった。すると背後の羽村が「あ、てめえ」と声を上げた。賢三が顔を上げれば目のあたりを腫《は》らした真平の顔があった。
「往生せえよ〜」
賢三のどてっ腹に真平の膝《ひざ》が喰《く》いこんだ。
たまらず賢三は地面をころげ回る。
その体を裏路地へ蹴りころがした。
芋虫のように這《は》いつくばった賢三の体を踏みこえて、真平は羽村の面前に立ちはだかった。
「やるんかコラ羽村、やるんかテメやるんかテメぉ〜?」
メンチを切るが羽村ももちろん引かない。
「なんだコラ、もう一回やられてーかコラ」
「なめんなコラなめんな羽村お〜!?」
中野の裏路地で二人の少年はギリギリと視線を戦わせあった。
真平が羽村の胸ぐらをつかんだ。
羽村がやり返す。
押し合い、ビルの壁にお互いの体をぶつけ合う。
ゴミ箱が蹴《け》たおされた。野良猫が逃げ出した。
真平が頭突きを羽村の鼻頭に叩き込む。
羽村も同じことをして返す。
血が出るが気にも留めない。
少年たちはプライドをかけてお互いの額をぶつけ合う。
骨の音。
骨のぶつかりあう鈍い音。
「待った! やめて、やめて」
真平と羽村の間に割って入る者があった。両手を広げて二人を制しようとする。
「ケンちゃん、すぐ片つける。止めんな」
「裏切りもの、てめーも殺すぞコラ」
「待った待った、話を聞いてくれ」
賢三は渾身《こんしん》の力を振りしぼって二人の体を引きはがした。
肩で息をする三人の少年が中野の裏路地で向かいあった。賢三が言った。
「羽村君、真平、俺ら敵じゃない」
真平が「何言ってんだタコ」と毒づいた。賢三はやめない。
「俺ら敵じゃない。同じだ。俺らただのガキなんだ。美甘子という、同じ女に惚《ほ》れたために、心をメチャクチャにされたただのガキのバカ野郎同士なんだ。同じなんだよ。同じガキ同士でいがみあったって仕方ないじゃないか」
「同じじゃねー。この羽村の野郎は美甘子ちゃんと何発も何発もやってんだぞ。ひとつも同じじゃ……」
「同じだっ。セックスしようと人生論を戦わせようと、ハッピ着て応援しようと、どんどん大人になっていく山口美甘子に置いてけぼりを喰《く》らっているミジメさは何ら変わりはないんだ。俺らは一緒。ガキだ。いがみ合ってる暇はない。その暇に美甘子はもっと遠いところに旅立っていくんだ。追いつこう。追いかけよう。一生無理かもわからないけれど、俺らも美甘子のいるところまでがんばって行ってみよう。行けるよ。絶対行ける。だから今は殴り合ってる場合じゃないんだ。俺らは今、自分自身と戦うための時間を生きているんだ。真平、そうは考えられないか?」
賢三に問われて真平はキョトンとしてしまった。羽村は賢三の言わんとすることを理解した。すかさず機転を利かせた。
「お前真平っていうのか。いくつだ」
「え? じゅ、十七だよ」
「タメじゃねーか」
「学年も一緒だ。中卒だけどな」
「俺も中卒だぜ。一緒だな。好きなのか? 美甘子のこと」
「す、好きだ。愛してる」
「俺も賢三も好きなんだ。だからふられちまって、心は今ペシャンコにつぶれてる」
「俺だってテメーに美甘子ちゃんをあんなこと言われて、心ん中グチャグチャだよ」
「謝る。ごめん。美甘子に置いてけぼりを喰《く》らって、口惜しくて、ついバカなことを言っちまった。だから今からケジメをつけに行くんだ。美甘子に会って謝って、そして別れを告げてくる。そうしたら真平。俺もお前も立場は一緒だ。ゼロ……いやマイナスからやり直しだ。俺、お前、そしてここにいる賢三、誰が美甘子と肩を並べることになるのか、もうわからねえ。競争だ真平」
憎むべき相手に「競争だ」と言われて、真平は思考停止の状態に陥ってしまった。
「……んなこと言ったってよ〜、中卒でヤンキーの俺が美甘子ちゃんと肩を並べることなんて……」
「真平、人生はからっぽ。空《くう》だ」
賢三が言った。
「え?」
「人生は実はからっぽで何も無い。空《くう》なんだ。でも挑戦すべき大いなる空《くう》なんだ。誰にだってチャンスはあるものなんだ」
「な、なんだそれ、宗教か?」
「この世の真理だ。俺のオリジナルだ」
「て言うか賢三、お前本当は何者なんだよ」
真平に問われて賢三は、やや間をおいてから、しっかりとした口調で言った。
「俺はキャプテン・マンテル・ノーリターンと言うバンドの一員だ。今度渋谷の屋根裏でライブをやる。真平、お前も見に来てくれよ」
「来てくれって、な、なんなんだこのノリ? 俺ら敵じゃねーのかよ。友達かよ?」
仲間だ競争だライブに来てくれと、ケンカのはずが突然フレンドリーに応対されて、真平は頭を抱え込んだ。
「おい、お前も友達になってくれんのか?」
と言って羽村が手を差し出したものだからもうわけがわからない。
「おいケンちゃん、俺もう一人ダチができたぞ。アイドルやめてよかったよ」
「よかったね羽村君!」
「ちょっと待てーっ! 勝手に決めるなー」
「よろしくな、シンちゃん」
「シ、シンちゃん? 何言ってんだ羽村、俺がシンちゃん? なんなんだこりゃ!?」
真平が声を上げた時、中野通りの方角から「いたぞ」と叫ぶのが聞こえた。
ふり向くと追っ手だった。マイクを持ったレポーターやカメラマン、背広姿の男たち、かなりの人数がこちらへ向かって来るのが見えた。
「ちくしょう、バイクはあきらめだ。ケンちゃん、走って逃げるぞ」
再び賢三と羽村は全速力で駆け出した。
太陽はギラギラと燃えるように熱く午後の空気を淀《よど》ませている。
若い二人とはいえ一日二度の全速力疾走は足腰に来た。
なんとか早稲田通りまで走ったが、すでに体力は尽き始めていた。
街行く人々が羽村に気づいた。今やお茶の間のヒール(悪役)である彼に、容赦の無い言葉が投げつけられた。「サイテー男!」「麻薬やってんのか!」さらに追っ手はこの周りにも張っていた。
数名の屈強な男たちだ。
「待て」「こら羽村」追いかけてくる。
速い。
少年たちはもうフラフラ。
追いつかれた。
男の手がのびる。
賢三の腕をつかむ。
ふり払うが足がもつれる。
羽村が抱き起こす。
羽村の髪を男がつかむ。
羽村が殴りとばす。
賢三が羽村の背を押す。
しかしまた足がもつれる。
男たちがせまる。
その時ふいに爆音。
雷のような爆音がすごい勢いでせまり来る。
男たちが四方に飛びすさる。
その狭間《はざま》を爆音が駆けぬけた。
爆音は二人の少年の前に回りこみスピンを決めてピタリと止まってみせた。
舞い上がる煙りの中から爆音の正体が浮かび上がった。
バイク。カワサキ。400cc。改造有り。
バイクの男がメットの風防を開けた。
真平。
「お前らの言うこと、中卒の俺でもなんとなくだけどわかったよ。今つかまっちゃ競争できねーもんな。羽村、賢三、お前らにこのバイク貸してやるよ。スゲー改造してっからよー。コケんじゃねーぞ」
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第13章 訣別失敗
真平のバイクは恐るべき速さであった。
「スゲー、これスゲーよ」
ハンドルを握りながら羽村は何度も驚嘆の声を上げていた。
グングンと速度を増していく。ノーブレーキでコーナーを曲がってみせる。
「スゲー! シンちゃんが改造したのかな。プロがいじったようなマシンだよ」
羽村はふり向くとバックシートの賢三に話しかけた。メットの奥で白い歯を見せてニコリと笑う。
賢三はそれどころではなかった。
チャリンコ人生の賢三にとって、バイクに2ケツでかっ飛ばすなどとは、いきなりスペースシャトルの乗組員に抜擢《ばつてき》されたに等しい驚異の出来事なのであった。
生まれて初めて体験するスピードと恐怖感に、全身を硬直させ、もちろんマトモな受け応《こた》えのできるはずもない。そうとは気付かぬ羽村は、
「直線番長かと思ったらコーナーでも全然安定してるんだぜ。シンちゃんスゲーよ。ただもんじゃねえ。やっぱりあいつは、俺らのライバルだよ」
「あ、や、あわわわわわわ……」
「このマシン返す時、あいつといろいろ話し合ってみたい。芸能界以外にも、無数に世界はあって、いろんなスゲーやつらがそこにはいるんだろうな。ケンちゃん、俺そいつらにこれからドンドン会っていこうと思ってるんだ」
「あ、ひ、わわわわわわわ……」
「おっ、こいつまだまだ回せるな。ケンちゃん、さらに飛ばすぜっ」
「わわわわ……わわわわわわ……」
何を言われてもそんなリアクションしかできない賢三なのであった。
追っ手はすでに振り切っていた。
それでも羽村は速度を落とさなかった。
二人を乗せたバイクは中野から練馬方面へと北上していた。
賢三はビビりながらも、いつしか黒所への通学路を自分が疾走していることに気がついた。
美甘子と別れた踏み切りを通り過ぎ、美甘子を追いかけたバス通りをひた走る。すると左手に、幻のように、彼の目に、都立黒所高校の校舎が飛び込んできた。
夏休みの学校は遠目にも人気がないのがわかった。ただ野球部員が一人、校門のそばで真っ白なユニフォームを着て立っている。賢三は彼と目が合ったような気がした。不思議なことにその一瞬から黒所を通り過ぎるわずかな時間が、賢三の内面でスローモーに変化していった。
バイクの爆音も聞こえなくなった。
静かな時の流れの中で校舎の窓一つ一つがはっきりと見てとれた。
夏の太陽を受けキラキラと輝いている。目もくらむ輝きの奥に、賢三は懐かしい友人たちの幻影を見た。
カワボン
タクオ
山之上
三人は、賢三を遠くから見つめていた。
表情はわからない。すぐにまた光の反射にのみこまれて消えていった。
「ケンちゃん、急ぐぞ、大丈夫か?」
羽村に問われてハッと我に返った。今度はきっちりと応えてみせた。
「うん、急ごう。とにかく急いでほしいんだ」
バイクは東武東上線を越えたあたりから徐々にスピードを落としていった。
住宅街に入ると、改造したカワサキの爆音は明らかに近所迷惑であった。通報されては事だ。羽村はコンビニの駐車場にバイクを止めた。
ヘルメットを取ると、二人の顔から汗がしたたり落ちた。手の甲でぬぐいながら羽村が言う。
「この辺に監督のマンションがあるんだ」
「大林森宣蔵の?」
「そう、映画完成の挨拶《あいさつ》もかねて、明日遊びに行くんだと美甘子から聞いていたんだ」
「え! 大林森監督の家に行くの? 俺全部映画観てるよっ」
「それ言わない方がいいよケンちゃん。あの人ひねくれてっから、映画なんか観てる暇あるならてめーで映画撮れとか言い返されるよ」
でもいい人だよあのオヤジ。そう付け加えて、変装のつもりなのか羽村は眼鏡をかけた。
「敵陣に乗り込む前にさ、雪見大福でもコンビニで買わねー?」
「あ、羽村君もしかして甘党?」
「ケンちゃんも?」
「練乳もいいんだよね〜」
「やっぱ気ぃ合うね」
少年たちは甘味を求めてコンビニへ入った。
有線からは「君に、胸キュン。」が流れている。店番のオバさんはカウンターで居眠りをしていた。アイスのケースに二人は直行。先客がいた。若い女がケースの中に顔をつっ込んでアイスを探していたのだ。ミニスカートを穿《は》いた尻《しり》をつき出してガサゴソとケース内を荒らしている。滑稽《こつけい》でありながらもエロティックなその姿に、賢三の股間《こかん》は早くもムクムクと活性化を始めていた。
「ケンちゃん。それは反応が早過ぎだよ」
「……これが悩みの種なんだ」
制御の利かぬ愚息を握りしめながら、思わずうつむいた賢三。
いやそれにしてもこれはムラムラする尻の女だわい、などと、反省しつつもしっかりエロおやじの視線で賢三が娘の後ろ姿を見続けていると、「ギャーッ」と突然、娘が悲鳴を上げたではないか。どうやら頭がケースに挟まってしまい抜け出られなくなったようなのだ。ジタバタと長い手足でもがいている。
「すいません誰か助けてくださーい」
アイスケースに噛《か》みつかれた娘が助けを求めた。
あわてて羽村と賢三は両側へ回り、それぞれ腕を持って引っぱってやった。ところが逆にもっと頭がつっかえてしまった。
「あいたたた、痛い痛い」
「ケンちゃんこのコの肩を持って引っぱろう」
「こ、こうかな?」
「いててて、痛い痛い、冷たい冷たい」
「ケンちゃん、せーので引っこ抜くぞ」
「了解。せーの」
「せーの」
「いたたた痛いってばーっ」
ポン! という感じで娘の上半身がケースから抜け出た。
顔を現したのは同世代の少女であった。不自然に大きな眼鏡をかけている。冷気のためにレンズは白く曇り、顔の半分を隠していた。それでも賢三と羽村には、彼女が山口美甘子であることが一目でわかった。
茫然《ぼうぜん》と立ちすくんだ少年たちの前で、まさかあの二人だなどとはまだ気付かぬ美甘子がのんびりと眼鏡を外した。今度は反対に少女の方が息をのむ結果となった。
「羽村君………なわけ?」
「……よ、よお」
「大橋君…だよね」
「あ、や、うん」
「え……これって…何?」
三人の十七歳は向かい合ったまま、暫《しばら》くの間言葉を見つけられないでいた。うたた寝から目覚めたパートのオバさんが「ちょっと、ケース閉めてくださいよ」とレジから声をかけた。
「あ、はい」
山口美甘子がケースの扉を閉めると、バターン! と、ずい分大きな音が店内に響いた。
扉の音ではなかった。美甘子の隣りで、美甘子恐怖症の大橋賢三が貧血を起こし、コンビニの床に腰から崩れて倒れた音なのであった。
賢三は見知らぬ部屋のベッドで目を覚ました。
どこかで見たことのある顔が彼をのぞきこんでいた。
「大林森宣蔵!」
気付き、はね起きた。
「オ、俺全部映画観てますっ」
「映画なんか観てる暇あるならてめーで映画撮れ」
驚きのため羽村の忠告を忘れていたことに賢三はハタと気付いた。
「あっ……えと、ここは」
「俺のマンションだ。俺が車出してお前を運んでやったんだぞ。感謝するなら俺の映画のビデオも買ってくれ」
「デッキ持ってません。あの、俺はその……」
「自己紹介ならいい。美甘子から聞いた。賢三だろ。ここへ来た理由は羽村から聞いた。訣別《けつべつ》だってな。二人ならあそこだ」
監督の指差す方に羽村と美甘子がいた。
ベランダに並び、手すりにもたれかかって、何かを語り合っている。映画のワンシーンのように、美少女と美少年とは見事なほど絵になっていた。
賢三は、途端に自分が惨めに思えてきた。来てしまったことを今さらながら後悔し始めていた。
すると大林森が言った。
「お前、映画かなり好きなんだってな」
「え、あ、はい」
「その歳なら名画座通いに夢中の頃だな」
「はいっ。週に三回は行ってます」
「闇の中に逃げこめるからか?」
「え」
「闇の中は居心地がいいからな。ずっといたいよな」
「いつかは出ていかなければなりませんか?」
「何かを表現したいって想いは野獣みたいなものなんだ。解き放してやらないと、自分がその獣に喰《く》われてしまう。美甘子は解き放つ方法を見つけた。羽村もすぐに見つけるだろう」
「俺は……まだそれを見つけられていない」
「そうか、つらいな。俺もそうだったな。だからカメラを回し始めたんだっけな。そんな気もするな。なあ賢三。これのぞいてみろ」
大林森が両手の親指と人差し指で、四角を作ってみせた。賢三の顔の前にゆっくりと持っていった。
「絵になるよなベランダの二人。別れのシーンだ。俺ならまずこのフレームで行く。賢三、お前ならこの次どうする?」
指のフレームの中に、今別れ行く少年と少女がいた。夏の太陽の下で、シンメトリに並んでいる。
「賢三、あいつらの別れを、お前が監督ならどう切る?」
賢三は暫く黙っていたが、やがて一言一言を噛みしめながら語り始めた。
「まず……レールでゆっくりと近づいていきます。じっくりとヒロインを見せたいから、近づいたら、なるべくフィックスで長回し。でも夏の描写は挟みたい。音楽は流さない。二人の声もいらない。何を語り合っているかはわかるから。さよならってこと。風鈴の音。そう、風鈴の音だけ。風鈴の音だけをたよりに、別れ行く二人に向かって、カメラはなるだけゆっくりと静かに近づいていくんだ」
夏のベランダに、風鈴の音だけが聞こえていた。
太陽は別れ行く少年と少女を高い角度から照らしている。うつむきかげんの少年の表情は、影になりがちだった。対して少女は、時おりまぶしそうに、空を見上げ、その顔には柔和な表情を浮かべていた。
全てを認め、寛容にも許してみせる余裕の微笑。
ふと少女を見上げた少年が、少女の、母性をもうかがわせるその笑顔にとまどう。
「おい、あの笑顔はアップが欲しいよな」
ぼそりと、大林森が賢三に耳打ちする。
「はい……あ、いえ」
賢三はベランダの二人を見ながら首を振る。
「羽村君の表情も合わせて見せたい」
「ほう、じゃあもう一台カメラがいるな。どっちから狙おう?」
「美甘子の横顔なめで。ピントは羽村君の表情の方に」
「この映画の主役は羽村なのか?」
「いえ、美甘子。美甘子はそこにいるだけでドラマを周りに作り上げてしまう。だからカメラは逆に美甘子に翻弄《ほんろう》される周りの男たちを追う」
「コメディータッチになるな」
「男たちが悩めば悩むほど、観客は笑う。悩んだり、逃げ出したり、殴り合ったり、追いかけたり、気絶したり、バカみたいなんだ」
「盛り沢山だな。九十分で収めろよ。長いとプロデューサーが嫌がるぜ」
ベランダの二人が風鈴の音の中で指を絡めあった。
賢三は夢から覚めたような思いだった。
自分の視界に山口美甘子がいることを、その現実に、ようやく現実の出来事として気が付いたのだ。しかも羽村一政と指を絡め、今、二人は見つめ合っているのだ。途端に息がつまった。全身が震えた。血液が逆流を始めたかのように苦しくなった。
「おい賢三、大丈夫か?」
「ぜ……全然駄目です。こ、怖い……怖い……」
「これが噂の美甘子恐怖症ってやつか。パニック障害だな。気の弱い新人俳優にたまにいるよ」
「駄目だ、駄目だ、怖い、怖い」
ガタガタと身を震わせ、毛布の中にもぐりこもうとした賢三を、大林森が引きずり出した。それでも賢三がもがく。大林森が押さえつける。いいムードのベランダとは打って変わって、ベッドの上では野郎同士がプロレス状態でもみ合いを始めた。
実際に二人ともプロレス好きであるのが災いした。もがき続ける賢三の動きを封じ込めるために、胴締めチョークスリーパーで仕留めようとした大林森の足を、逆に賢三がスピニングトーホールドで決め返すと、「おうっ!」と叫んで大林森が下からのモンゴリアンチョップを一閃《いつせん》。たまらず賢三が前のめりになればガッシリと頭を腋《わき》に抱えられた。大林森がそのままジャンプしたなら必殺DDTが爆裂だ。体を返し今度こそ押さえ込んだ大林森。賢三の上で吠《ほ》えた。
「1! 2! 3! 勝ったーっ……ってオイオイ何やらせんだよ」
体を張ったノリつっこみであった。
真顔に戻って大林森は言った。
「お前の映画だ。投げ出すな」
ベランダを再び指差した。
「撮れ、撮ってみろ、結果など気にするな、どう転がるかなど誰にもわかるもんか。もしも悪い方に転がったなら、その時にまた考え直せ、編集し直して『完全版』とステッカーを貼れば映画祭にだって出品できる。失敗ってのは後々のための糧だ。賢三、さあ、どう撮る?」
恐る恐る、賢三はベランダを見た。
少年と少女が、キスを交わすところであった。
目前で、山口美甘子が、羽村一政と軽く互いを抱き寄せ合い、今まさに、唇を重ね合わせようとしていた。
賢三の体から全身の力が脱けていった。
「寄るか? 引くか?」
賢三は答えない。
「音楽を乗せるか? ヘンリー・マンシーニを連れて来たっていいんだぞ」
賢三は何か答えようとしたが、こみあげる涙で息がつまり、しゃべることがかなわなかった。
大林森は黙って少年の涙を布でぬぐってやった。着古した自分の寝巻きであることはもちろん言わなかった。代わりに撮影の終りを告げた。
「限界だな。このフィルムは未完に終ろう。お蔵入りだ」
「いや、撮ります」
「やれるのか? OK?」
「こんなに金の取れるドキュメントシーンを撮り逃したなら、ヤコペッティにどつかれちまう」
「残酷魔境ものだったのか。どう狙う?」
「オレの視界のそのままに、正面からじっくりと、小手先の技術は何一ついらない」
「OK。風鈴の音は?」
「もう聞こえない。口づけが終るまで、観客は固唾《かたず》をのんで二人を見つめることになる」
「OK、賢三、回すか?」
「回してください」
「スタートを言ってくれよ。監督さんよ」
「……スタート」
美甘子と羽村は見つめ合い、何かを語り合っていた。
時に笑って、うなずきあって、二人の関係が、愛と憎しみを乗り越え、今やノーサイドの状態にあることは一目|瞭然《りようぜん》であった。これから先、またいつかどこかで出会って、再び二人は恋に落ちるのかもしれない。あるいは友情へと昇華していくのかもわからない。いずれにせよ少年と少女は今この時、まず軽く唇を重ね合わせ、すぐに離し、また触れ合い、そして今度は、そろそろ傾き始めた太陽の輝きを若い肉体に受けながら、いつまでもいつまでも、溶けるほどに口づけを交わしたのであった。
口づけをしながら美甘子は『そういえば風鈴の音が止まったな』、ふとそんなことを頭の隅で考えていた。
長い長い口づけが終るのを見届けると、賢三は小さく「カット」とつぶやいた。
ベランダから見る室内は逆光に隠れ、羽村は賢三の涙に気が付かなかった。それでつい「見られちまったかな」と、おどけた調子で友に笑いかけた。
「え、何? 羽村君俺何も見てないよ。監督さんと映画の話をしてたんだ」
「ん? ああ、そうだ。『キングコング2』の素晴らしさについてこの若者と激論を交わしていたところだ」
そう言いながら、大林森は後ろ手で賢三に何か硬い物体を手渡した。賢三が見ると、それはポータブル・ビデオカメラだった。
「やるよ」
と小声で大林森は言った。「え? どうして?」賢三が問うが答えない。わからないながらも賢三はバックパックにそれをしまいこんだ。
羽村が室内に戻って来た。
急いで顔をぬぐう賢三。羽村は無邪気に言った。
「ケンちゃん、俺はもうすませたぜ。すっきりした。美甘子に謝って、宣戦布告をして、きっちり別れを告げてきた。あれだけやりまくった仲だ。話せば通じ合ったよ。さあケンちゃん、選手の交代だ。次はお前の番だぜ」
賢三を抱き起こす。背中を押し、ベランダへ連れて行こうとする。抵抗しようにも羽交い締めにされてどうにもならない。数メートル先に美甘子。賢三の息がつまる。吸うことも吐くこともままならず、ひっく、えっく、とノドの奥が引きつった音を立てている。心臓が高鳴る。美甘子が近づいてくる。笑っている。目を白黒させている賢三の様子がおかしいのだ。クスクスと、爆発寸前の心も知らず口に手を当てて笑っている。『結局この皮肉な構図こそが二人の関係性の全てではなかったか』と賢三はパニックの中で思う。一人相撲というやつだ。どれだけ美甘子のことで地の底まで悩んだとしても、当の本人から見たなら単にバカ丸出しのクソつまらぬ道化のようなものなのだ。羽村には宣戦布告をする権利があった。だって美甘子とやったのだ。やりまくったのだ。セックスをしたのだ。別れを告げる権利もある。だって今さっき目の前で二人は唇を重ねたのだ。十二分にある。しかし俺に権利は無い。人生論を戦わせた? そんなもん下北沢の売れない役者同士だってやっている。一緒に映画を観た? 百本の映画を共に観たところで、ただ一度のキスほどの意味にもならないではないか。俺など美甘子から見れば、元より生まれて来なかったに等しいのだ。逃げよう、トンずらだ。今すぐこの場から逃げよう、逃げて逃げて、そうだ名画座の暗闇の中へ俺は隠れ、もうそこから一歩だって出ないのだ。そうして一生を安息の夢の中で終えるのだ。
「大橋君。賢三君。久しぶりだね」
くしゃっと笑って美甘子は言った。
目のなくなるあの表情。羽村が腕をほどいた。ポンと肩を叩《たた》き、「がんばれよ」と声をかけ、部屋へ戻っていった。サッシを閉じ二人をベランダに置き去りにした。
「大橋君、元気だった?」
賢三は、動けなかった。
一刻も早く逃げ出したいのに、身動き一つできず、ただ震えるばかりだった。山口美甘子が目前にいて、笑いかけている。彼女の大きな瞳《ひとみ》が、賢三を見つめている。針で止められた蝶《ちよう》みたいなものだ。少年は少女の視線に射られてしまったのだ。
「映画、最近観てる?」
美甘子が自分に気を遣っているのが賢三にはわかった。今やスターとなった少女は、かつてとは異なる輝きを自分が放射していることをよく理解していたし、輝きが人々を時に威圧することもこころえていた。怯《おび》えさせぬよう、まずは共通の趣味の話題をふったのだ。
「なんか面白いのあった?」
「……『溶解人間』かな」
なんでこんな時に限って『溶解人間』なんかが思い浮かぶのだろうと賢三は悲しくなった。
「ああ、『スパイダーマン』と二本立てでやったやつね」
「え!? そう! 知ってる? 実はあの『スパイダーマン』はテレビ用に作られたものだったんだ」
「知ってる。テレビ用のパイロットフィルムだったんだよね」
そんなオタク話をしに来たわけじゃない。賢三は焦りつつ、やっと美甘子と会話を交わせたことにホッとしていた。
ベランダで美甘子がピョンと一つ飛びはねた。うれしそうに賢三の両肩に手を置いて言った。
「こういう話って、なんか懐かしいね」
「うん、すごく懐かしい気がする」
「昔、パール座で会ったもんね」
「いや文芸坐だ。君はジュースを買っていたんだ」
「そうだっけ?」
「俺がしるこドリンクをあげたんだ」
「そんなことあったっけ?」
「あったんだ」
「ね、オールナイト観に行ったよね。テアトル新宿」
「ナイスシアターだよ。吉祥寺の」
「そうだっけ?」
「そうだよ。みんな……忘れてしまったの?」
美甘子は手を離し、頭を抱えてみせた。
「ゴメン。美甘子、最近もの覚えが悪くなって。ゴメンね」
「仕方ないよ。忙しいだろうから」
「学校やめてから、一日一日が十年ぐらいに感じられてるんだ。だから高校の頃のことってどんどん思い出せなくなっちゃったのよ。……言い訳になってない? ゴメン」
手を合わせ、おどけた調子でペコリと頭を下げてみせた。
「そうだよな。忙しいもんね。仕方ないよ」
「黒所のみんなはどうしてるの? モロ子とか、元気かな」
「夏休みだから」
「夏休み……か、もう美甘子は二度と経験することないんだろうな。夏休みなんて」
「そうだね。アメリカに行くんだよね」
「うん。すごい楽しみ。すごい怖いけど、同じくらい楽しみ」
「応援してるよ」
「応援しててね。ね、大橋君は、なんか予定無いの? 夏休み」
「別に無いよ。何も無い」
「大橋君、あのね、ありがとう」
「え?」
「羽村君を連れて来てくれてありがとう」
「……ああ」
「非道《ひど》いことしちゃったから、もう絶対会えないと思ってた」
「え? 誰に非道いこと?」
「え? 羽村君によ」
「ああ……」
「アメリカに行く前にまた会えてよかった」
「羽村君に?」
「うん」
「ああ、そうだよね」
賢三の震えはいつの間にか止まっていた。代わりに、美甘子にも気付かれなかったし、賢三本人も意識することはなかったが、彼の体は血の気が失《う》せ、ひんやりと冷たくなっていた。
「山口さん」
「何?」
「学校やめてから、どうだった?」
「行ってる頃と? 全然違うよ。何もかも」
「俺なんか、子供に見えるよね」
「そんなことないよ」
「いつか山口さんと肩を並べたいと思っていたんだ。でも、無謀だったかな」
「羽村君が、大橋君も美甘子に言いたいことがあるって、どんなこと?」
「いや、無いよ何も」
「言ってよ。なんか大橋君がっくりしてる。美甘子のせい? 何か悪いことした?」
「いやなんでも無い。もう俺帰るよ」
「言ってから帰りなよ。なんか気持ち悪いよ」
「だから、君と競争してるつもりで俺は……つまり……グミ・チョコレート・パイン」
「え? 何? おまじない?」
「え? グミ・チョコレート・パイン。生きることはグミ・チョコレート・パインの遊びのようだって、君が……」
「そう考えているけど、美甘子、大橋君にその話、言ったっけ? インタビューとかで読んだの?」
賢三は力無く笑った。
「何? 何笑ってんの?」
賢三は笑うしかなかった。
あはははははははははははははははと笑って、なはははははははははははとまた笑い続けた。
山口美甘子が気味悪そうな顔をするので、賢三は笑うのをやめ、ウツロな目をして、彼女に背を向け、サッシを横に開いた。
「ケンちゃん、どうだった?」
羽村が尋ねた。白い歯がキラリと光って見えた。
「うん、俺の考え違いだった」
「え?」
「羽村君、ゴメン。やっぱり君と俺とは同じじゃなかった」
「なんだよ」
「君はヒーロー。僕は……ダメ人間だ。一人で熱くなっていただけだった。恥ずかしい。死んでしまいたいほど恥ずかしい」
おい美甘子何を言ったんだ。
そう言って羽村がベランダに飛び出していった。「え、何も言ってないよ」美甘子が言い返す。別れたばかりの恋人たちがベランダで口論を始める。ベッドに腰かけた大林森が賢三を見上げている。
「賢三、どうした。また顔が青いぞ」
「はい。がんばれば主役をやらせてくれると思い込んでやっとの思いでロケ地へ来てみたら、やっぱりエキストラで、しかも映ってなかった、みたいな展開です」
「あ〜、よくあるな」
「よくありますか」
「そんなことの連続だ。人生も映画も」
「美甘子の眼中にも無かったんです。それなのに俺、いい気になっていた。いつか肩を並べるなんて……十万年早かった。もう俺、こんな惨めさには耐えられません」
「フラフラとお前どこへ行く気だ」
「闇に隠れます。もう二度と太陽の下には現れません」
「朝の来ない夜ってねーんだけどもなー」
「さようなら」
賢三は大林森に頭を下げると、そのまま部屋を出た。
エレベーターで一階に降りると、当ても無く歩いていった。
夕焼けがやつれきった賢三の顔を朱色に染めていた。
暫《しばら》く歩くと駅が見えた。
ポケットの小銭を探るとわずかにあった。切符を買い、電車に乗った。各駅停車は池袋へ向かっていた。
池袋には、文芸坐がある。山口美甘子と偶然に出会った、名画座があるのだ。
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第14章 ニセ美甘子と復活の日
夕陽の中を東武東上線は走っていった。
車窓には遠ざかる住宅街。
賢三の目には何も映っていない。
乗客たちの中にあっても、彼の心は圧倒的な寂寞《せきばく》感に包まれていた。そのまま池袋駅へとたどり着く。ホームを浮遊霊のごとく彷徨《さまよ》った挙句、間違えて西口に出た。文芸坐は東口である。すえた匂いの漂うガード下を東口へ渡る。左に折れ、そろそろ灯《あか》りの点《つ》き始めた風俗街を抜けると、文芸坐の古めかしい建て物が賢三を待ち構えていた。
賢三は、ほっと安堵《あんど》のため息をついた。
『ああ、やっぱり俺にはここしかないのだ』
心からそう思った。
ずっと小さい頃、学校でいじめられて、泣きながら帰ると、我が家の灯りが見えた安心感に涙が出たものだ。今、賢三は全く同じ気持ちで、名画座の建てものを見つめながら、うるうると瞳を潤ませていた。
『この闇の中に居さえできればいいんだ。何も考えず、誰にも会わず、ただスクリーンに映し出される他人の人生に一喜一憂していればそれで十分じゃないか。自分の人生なんかいらない。なぜなら人生と呼べるものさえ俺にはないのだ。闇に戻ろう。闇に生きよう』
そもそも名画座の闇の中で、俺は山口美甘子などと出会ってはいなかったのだ、と賢三は考えるようにした。
『そもそも、山口美甘子は夢幻だったのだ。俺にもし、人生と呼べるものがあったとしても、山口美甘子という人間は、初めから存在などしていなかったのだ』
闇に戻ろう、闇に生きよう、と心でつぶやきながら、賢三は文芸坐の入り口へと歩いていった。闇に戻ろう、闇に生きよう、闇に……あっ……。
入り口の前で賢三の足がピタリと止まった。
『……これは、まずいかもしれない』
本日の上映作品が書かれた看板を見て、彼はたじろいだ。
『ミッドナイト・エクスプレス』『タクシードライバー』の二本立てであった。
どちらも暗く重い映画であった。いくら闇の中は居心地がいいとは言え、今の落ち込んだ気分にこの二本はいかがなものか。胃もたれの朝にガツンとカツ丼食うようなもんではないか。
賢三はおじけづき、進行方向を右へと変えた。文芸坐を正面に、その右側面にもう一館、文芸坐地下が隣接している。そちらの方の闇へ入れば同じことだと考えたのだ。再び賢三はブツブツとつぶやきながら歩き始めた。闇に戻ろう、闇に生きよう、闇に……げぇっ!
賢三の足がまた止まった。文芸坐地下は古尾谷雅人《ふるおやまさと》特集であったのだ。
『丑三《うしみ》つの村』と『人妻集団暴行致死事件』
岡山で実際に起こった三十人殺し事件を古尾谷雅人が狂演した『丑三つの村』。お世話になった人の妻を古尾谷が犯した挙句に殺してしまう『人妻集団暴行致死事件』。正常な気分の時に観てさえ「もう許してくださいっ」とスクリーンに向かって土下座したくなる重苦しい古尾谷ダブル・フィーチャーだったのである。
『……なぜこんな時に限って』
ミスター・ブーとか燃えよデブゴンの特集でもやってくれればいいものを。
他の映画館に入る気にならなかったのは、やはり心の奥で、無意識のうちに山口美甘子との思い出の地を訪ねたかったからなのだろう。
賢三は、古尾谷特集より多少はライトなセレクトの文芸坐へ戻った。チケット販売機の前でポケットをさぐり、ガク然と気が付いた。
『……って言うか俺、金がねぇ』
賢三はそれから小一時間も、もう日の暮れた池袋の風俗街をうつむいて歩き回った。小銭が落ちていないかと探したのだ。落ちているわけが無い。代わりに裏道で、つぶれかけた質屋を見つけた。
大林森にもらったビデオカメラを差し出すと、二〜三日は食いつなげる金をくれた。白内障の老店主はろくに賢三の身元すら聞かなかった。
その日、彼は文芸坐で夜を明かした。
11時半からオールナイト上映のプログラムに切り替わった。
古尾谷雅人の四本立てであった。
だが、疲れ切っていた賢三は、一本目の『ヒポクラテスたち』の途中から眠りに落ちたために、重苦しい古尾谷づくしからなんとか逃れることができた。
目覚めるともう朝であった。
腰を上げようとすると体中が痛んだ。文芸坐を出ると朝日は彼の両眼を射る勢いでまぶしかった。電柱の下でカラスがゴミ袋をつついている。今日、夏休みだというのに、自分にはどこにも行く当ては無いのだ。少年は呆然《ぼうぜん》とした。最低の朝だが、空の中に自己嫌悪マントは見えなかった。無くなったのではない。今や少年は、それを頭からスッポリかぶっている状態なのだ。皮膚と密着し、やがて同化していくのだと賢三は悟った。
マントに包まれながらホテホテと歩いていく。どこへ行く当ても無く彷徨い始める。真っすぐになど歩けはしない。ユラユラと少年はどこへ歩いていくのだろう。きっと死に場所を見つけに行くのだ。
『やっぱ死のう、俺』
名画座の闇だって永遠ではない。ならば真の闇たる死の中へ逃げ込もうと賢三は十七歳の心で再び決意した。
死のう、どこで死のう、考えながら賢三はとりあえずゲロでも吐こうと電柱に手をのばした。むぎゅっ、と賢三の手の中で電柱はとても柔らかな手触りであった。
「えっ? むぎゅっ?」
それじゃまるでオッパイじゃないか。いや触ったことないけどさ、と、賢三が不思議な気持ちで顔を上げると、電柱と思っていたのは人間であった。
髪を茶色く染めた若い女が、驚いた顔で賢三を見ている。趣味の悪い赤色の口紅を塗り、肉感的な体にセーラー服を着ている。いかにもパーティー用の、ペラペラの布地だ。彼女のその胸のあたり、まさにオッパイを賢三は電信柱と間違えてギュ〜ッと握りしめていたのだ。
「うわ〜い店長店長店長! このコ、私の胸握ったぁ」
そう言って、若い女はキャハハハハとうれしそうに笑った。彼女の横には四十がらみの男が立っていた。険しいその顔は平家蟹《へいけがに》にそっくりだった。
「お客さん、酔っぱらってらっしゃるんですか?」
やけに冷静な声で言った。笑顔を作っても目は全然笑っていない。
「……あ、いや、あの、電柱かと……」
あわてふためく賢三に、女は両手を差し出した。「タッチは別料金いただきます」と言って、また無邪気に笑った。八重歯が口の両側にのぞいた。両方とも、先端が欠けている。オヤジは賢三の肩に手を乗せ、ポンポンと叩《たた》いた。
「お茶引いてるんです。早朝サービス受けていってくださったら、今のタッチ代はサービスにいたしますよ。お嫌でしたら……埋めますよ」
女とオヤジの背後に、「ヘルス ふぞろいの淫娘《いんこ》たち 早朝6時から営業」の看板がショッキングピンクも鮮やかに輝いていた。
肩に置いたオヤジの手にいきなり握力がかかった。女が賢三の腕に手を回して来た。シンナーの匂いがほんのりと漂って来る。化粧は厚塗りだが、あどけない。見た目よりずっと若いのかもしれない。
賢三は「いやっ、あのっ、僕」と逃げようとした。しかしオヤジの目に射すくめられて動けない。
「学生さん大丈夫。怖くありませんから」
その慇懃《いんぎん》無礼な言い方が怖くて仕方ないというのだ。早朝から高校生を誘うなどボッタクリ以外に考えられない。女がさらに身をすりよせてくる。ふくよかなのを差し引いても大した巨乳だ。賢三は怯《おび》えながらも押しつけられた乳房の感触に感動した。ビクビクしたりムラムラしたり忙しい十七歳の夏の朝だ。
「いや、ホント、僕、やめときます」
賢三は咄嗟《とつさ》にオヤジと女の間に割って入った。身をかわそうとしたのだ。ところが、代わりに女がとんでもないことを言った。
「御一名様御案内っ!」
「えっ!? いや、そうじゃなくて」
すかさずオヤジが店内へと賢三の体を押し込んだ。
「はい一名様御案内、みかこちゃん張り切ってサービスお願いしまぁす」
「……み、美甘子?」
みかこと呼ばれた若い女は、賢三を見て人なつっこく笑った。そしてピースサインを自分の顔の前で作って、フルネームを名乗った。
「やまぐちみかこちゃん、どぅえーす※[#ハート白、unicode2661]」
やまぐちみかこは賢三の手を強引に引っぱり、店へ昇る細い階段を上がっていった。
二階へ上がると受付があり、アフロなのかリーゼントなのかわけのわからない髪型の若い男が眠そうに座っていた。
逃げようと思えば逃げられたが、好奇心もあった。所持金がまたゼロに戻るのを承知の上で、男に言われるまま金を支払った。
受付の奥はカーテンでしきられていた。みかこがこっちへ来いとカーテンの奥へ誘う。恐る恐るついていくと、薄暗い廊下の左側にベニヤで作られた小部屋がいくつかあった。有線放送がバービーボーイズをやかましく奏でている。名画座とはまた違ったすえた匂いが鼻をつく。異界に紛れこんだようだ。
L字型に曲った廊下の行き止まりにシャワールームがあった。
「意外に明朗会計でしょ。うちボッタクリじゃないよ。正統派過ぎて流行《はや》んないぐらいなんだよ、店長の方針でね。はい、服脱いでくださぁい」
言いながら、みかこはまず自分がサッサとセーラー服の上下を脱ぎ捨てた。下着はつけておらず、いきなりのマッパであった。
賢三は、一年365日夢にまで見た女の裸を目前に、ポカ〜ンと口を開け、硬直した。言葉も出ない。
「大学生でしょ? 風俗初めてなんですかぁ?」
「……え?」
「マジ目線が熱いよね。そんなにオッパイ珍しい?」
言いながらそれを、ユッサユッサと賢三の目の前で揺らしてみせたではないか。賢三の両眼が乳房の動きに合わせて激しく上下した。みかこはヒャハハと笑って、今度は横に振ってみる。すると賢三の眼球も左右に動き出す。グルリと肉の塊を回したなら、眼球も地球一周の要領で回転したものだ。みかこはもうおかしくなってしまい、腹をかかえて笑い出した。笑うと全身の肉がたわわに震えた。「お客さんかわいい」と言いながらみかこが賢三の服を脱がせにかかった。「あ、やめて、よして」とジタバタ暴れる賢三からみかこはスルスルと衣服を剥《は》いでいった。身をよじらせながら、股間《こかん》と、なぜか胸まで押さえて体を縮こまらせた少年を、みかこはシャワールームに押し込んだ。
イソジンの匂いが充満している。蛇口をひねった。水滴が四方に跳ねる。電話ボックスよりも狭い部屋の中で、賢三とみかこが素っ裸で向かい合った。背の低いみかこの、しかし巨大な乳房が賢三の腹のあたりにぺったんぴったんと当たる。近くで見ると彼女が美人ではないが、愛敬《あいきよう》のある顔をしていることがわかる。賢三を見上げる笑顔が子猫のようだ。
「あっ…あっ…あっ…ぬあああああっ」
賢三は股間にヌルリとした刺激を感じ、思わず白目をむいて声をもらした。と、同時にアッと言う間に昇天してしまった……。
みかこが先端の欠けた八重歯を見せながら、うれしくてたまらないといった表情になった。
「かわいいっ。今のは料金に含めといてあげるね」
湯気の中にみかこの表情が白く消えていった。
「気にしなくていいんだよぅ」
ベニヤで仕切られた個室は二畳ほどしかなかった。
ベッドと小さなテーブル。ティッシュの箱とローションの入った容器。爆風スランプの「たいやきやいた」が流れる殺風景な部屋の中で、みかこはストップウォッチを45分に合わせながら賢三を気づかった。
「シャワー室でいっちゃう人って多いよ」
はいじゃあ横になってくださあい、と言ってバスタオル一枚のみかこは賢三をベッドに誘った。
ふがいなさと驚きで力の抜けた賢三は、言われるまま素っ裸で仰向《あおむ》けに横たわった。みかこがタオルを取り、賢三の上にまたがる。裸の女を目前に、あまつさえ肉体を接触しながらだというのに、賢三はちっとも現実感を持てないでいた。GOROや週刊プレイボーイのグラビアで見てきたそれと、今、目の前で蠢《うごめ》いているこれが、同一の物であるとは、どうしても頭の中で一致しようとしないのだ。まるで山口美甘子とやまぐちみかこが、全くの他人であるように、両者は全く異質の存在に思えた。
「ま、みかこがバカテクだからって噂もあるけどねぇ。アハハハッ」
さっきからみかこは笑ってばかりだ。緊張感をかくそうと、賢三は尋ねた。
「……なんで、みかこっていう源氏名にしたの?」
「大ファンなんだ私。お客さんも好き? 山口美甘子」
みかこの問いに、賢三は答えることができなかった。
「だーって、かっこいーじゃん。いきなりヌードんなってさ、羽村一政とニャンニャンしちゃってさ、やばいことばっかやってんのに逆にそれ武器にしてのし上がっていくんだよう。憧《あこが》れるんだぁ。同い歳なのにさぁ」
「同い歳って、君十七歳!?」
アチャッという表情をしたみかこ。
「店長には内緒ね。十九ってことになってるから」
「僕も、十七歳だ」
「げっ! 嘘マジ、高校生? 大学生じゃないの? やばやばっ、アハハ、じゃあお互い内緒ってことで今回は。はい指切り」
賢三の上からみかこが小指を差し出した。賢三も、返す。少年は少し気持ちがほぐれた。
「みかこさん学校は? 夏休みのバイトなの?」
「一年でバックレた。親がパーでさ。二人とも死んだけどさ。金がさ、アレで。まーいーんだけどね別に。中退中退。お客さん江南工業知ってる? あそこ中退なんだ」
「あ、練馬の? 俺黒所だよ」
「え!? マジマジマジマジ? マジ美甘子ちゃんの学校じゃんそれ」
「同級生だった」
「マジマジマジマジマジ!?」
マジの連続の度に乳房がブルンブルン揺れるのを、賢三は奇妙な気分で見上げていた。
「どんなコどんなコ? やっぱスター?」
同世代であったこと、それより何より裸であったことが一番の理由であった。賢三はみかこに気を許した。二畳の部屋のベッドで、言った。
「うん、スターだ。俺らなんかとは比べものにならない、本物のスターだ」
「話したことあんの?」
「ふられたんだ」
「好きだったんだね」
「立ち直れないんだ」
「それでこんなとこ来たんだね」
「君が無理矢理連れてきたんだ」
「アハハ」
「相手にもされてなかった。海の底にいるような気分だ」
「死にたい?」
「死にたい」
「私もよくそんな気分になったよ」
「どうやって乗り切った?」
「生きてれば、死なない」
「え?」
「死のうと思って池袋フラついてる時にさ、さっきの店長に拾われたんだぁ。『生きてれば、死なない』って、あの平家蟹が言うんだ」
「あ、あの人やっぱ平家蟹《へいけがに》ってアダ名なんだ」
「昔極道だったらしいんだあの店長。三人山に埋めてるらしいよ」
「平家蟹……いや店長の言葉をもっと知りたい」
「『生きてれば、死なない。死ぬまで生きればいいだけ。くだらねぇことばかり起きるけれど、くだらねーのが人生当たり前。だから、本当は何も起こってないのと結局は同じ』……なんだってぇ」
「それ、空《くう》ってことだ!」
「え?」
「続けて」
「でもそれでボヤいてたら人生マジくだらなくなるから、死のうなんて考えてる暇あったら何かやれって」
「人生は空《くう》。しかし挑戦すべき大いなる空《くう》」
「何やりゃいいのよって言ったら、『まずは男のチンチンをくわえるんだあ』って、で、店に入れられちった。マジだまされたよね。でもマジこれ、みかこの天職だった。マジみかこ風俗むいてる。楽しいもん。男の人が気持ちよさそうにしてる顔見るのマジ好きなんだよね。かわいいって思う。お母さんになった気になる」
「どうすれば、楽しくなるんだろう」
「風俗が?」
「いや、人生が」
「わっかんないよそんなの。ね、時間なくなっちゃうよ」
「わからないんだ。どうすればいいのかもう」
「なんか君マジお悩みだね。そうだなあ、私なら新潟のオバーちゃんに会いに行く。学校やめても風俗やっても、オバーちゃんは私と会うのを楽しみにしてくれてるから、会いたがってる人に会いに行くのって、マジ重要なことよね」
体の下の少年が黙ったので、みかこは彼の股間にローションをたらした。悩み事を相談しながらも賢三のそれはビンビンであった。みかこは頭と下半身とが別々に思考する男という生きものの生理を、かわいいと認識していた。両手で賢三自身を包みこんだ。
「俺にも、待ってくれているやつらがいる」
「なら会いに行けばいーじゃん」
「うん」
「それ誰?」
「友だち。三人。バンドやってんだ。もうすぐライブなんだ」
「行かなきゃ」
「うん、でも……」
「いろいろあるんだ」
「いろいろ……いや、何も無いって言うか」
「でも、駆けつけなきゃ駄目だよ」
「え?」
「駆けつけなよ。駆けつけて、後のことはそれから考えればいいよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「あいつらの中で、俺だけやれることが何もなくて、それが……」
「からっぽなんだね、君」
「そう……からっぽ……空《くう》だ」
「でもからっぽだからこそ、いくらでも詰めこむことができるわけじゃない」
「…………」
「失恋も同じだと思うよ。ふられてからっぽになったからこそ、逆に、いろんなものをその中にこれから新しく詰めこめるんだよ」
「そうか」
「そうだよ。私もふられて自殺しようとして、なぜかこんな店で働いているんだけどさ、今じゃふった人に感謝してるもん。私を一度からっぽにしてくれてありがとうって、逆に、新しいこと詰めこむ隙間を、そいつが作ってくれたわけだからさ、詰めこんでも詰めこんでも、まだまだ足りないでっかいからっぽだよ。今日も明日も詰めこみ作業で大忙しだよ。悩んでる暇も無いよ」
「人生は空《くう》。だが挑戦すべき大いなる空《くう》」
「何? お客さん宗教の人? 勧誘しないでよね。私はおチンチンの山で毎日忙しいんだから」
「ありがとう」
「まさか手コキだけじゃ終らないって。これからくわえてあげるからね。口内発射は別料金ね」
「ありがとう……みかこ」
「え? 何よ? 君、みかこにお礼言ってんの?」
「なんか俺、復活できる気がしてきた。いや下半身がじゃなくて、気持ちが」
「ふ〜ん、よかったね。じゃ、駆けつけてみるんだ」
「……うん。そうしようと、今思った」
「そのコたちも、十七歳?」
「そう、十七」
「タメか。みんなこれから、どうなっていくんだろうね」
「山口美甘子も、十七歳だ」
「やまぐちみかこも十七だよ〜ん※[#ハート白、unicode2661]」
「またお金ができたら、この店来ていい?」
「それがさ、ここ今月でつぶれるんだ。平家蟹が借金こさえちゃってさ。北の方へ逃げるらしい。私も、あいつにひっついてちょっと遠くへ行こうかなあと思ってるとこ。それって愛人? アハハハハ」
「そうか、もう君とは会えないのか。残念だよ」
賢三が、寂し気な表情を浮かべた。
「アンタ、本当、かわいいコだね」
みかこがまたいたずらっぽく笑った。
「気に入っちった。ね、特別にサービスしてあげようか」
言いながら突然、手に取ったローションを、自分の股間《こかん》にたっぷりとすりこんだ。そして言った。
「入れてあげる」
下で賢三が目を丸く見開いた。
「内緒ね。私ちょっとマジやばい女でさあ、お客さん気に入るとやっちゃうんだよねぇ」
「ま、まままま待ってよ! だってそれ……」
「だから内緒ね。平家蟹に二回バレてっからさ。三回目はお客も一緒に山に埋められちゃうよ」
「え! 埋められるの!? あ、いや、でも、僕」
「初めてでしょアンタ。そういうのみかこちゃん大好き」
賢三のポコチンを握って挿入しようとするが、ローションですべってうまくいかない。
「あれ、ちくしょ。逃げんな」
「あ、ダメ、そんなこと、ダメダメ」
「いーじゃんいーじゃん」
「だって……だって初めてなんだもん!」
「大人しくしろよっ」
どっちが男でどっちが女かわかったものではない。
賢三はまさか、童貞喪失がこんなにも早く、しかもこんなかたちで訪れるとは夢にも思っていなかった。有線からは聖飢魔Uの「蝋《ろう》人形の館《やかた》」がのんびりと流れている。みかこは容赦しなかった。
「ほら、あ、ずれた。よいしょ」
「よいしょって!? え、あ、あ、あ……ウソ〜ッ!!」
スポッ、と言う感じでみかこのその中に賢三自身が体を収めた。そのままみかこは腰をゆっくりと落としていく。賢三は熱く、そして湿った感触が敏感な表皮の下の神経にジワジワと広がっていく様子を信じられぬ思いで感じていた。みかこはもう、これ以上入らぬというところまで腰を落とし、言った。
「いただき。食っちゃったぁ」
賢三は、この先、初体験を思い出す度に俺はデーモン小暮閣下の顔も一緒に思い浮かべるのだろうなぁ、と、なんとも言えぬ複雑な気持ちになった。
「平家蟹《へいけがに》がさぁ、言ったんだぁ、死にたければ死ねばいい、でも、セックスだけは知っておけよって。世界中を旅しても得られない知識と情報量が人の肉体にはあるから、それを知らないうちは、死ぬとか言ってる前におまえはまだこの世に生まれてもいないんだ、って」
しゃべりながらみかこは器用に腰を上下させ始めたのであった。賢三の体に電流が走った。
「で、ラブホに連れてかれて処女奪われたんだよねぇ。マジ、オヤジの口車に乗せられたよねえ」
電流は賢三の体の穴という穴から白煙が噴きあがるほどの激しさであった。
「ううっ! あぐう」
と、少年はうめきながら上体を起こし、みかこの二の腕にすがりついた。
熱を帯びた彼の手にみかこの白い肌がひんやりと冷たかった。
目前で乳房がユッサユッサと揺れている。
みかこの体から液体ボディソープの香りが匂い立つ。
「でもマジ、セックスするといろんなことがわかるよ。みかこも失恋で死にたかったんだけどさ、結局彼氏のことなんて何一つわかってなかったんだって気付いたもん。人って自分の頭の中だけにいるんじゃないんだよ。ちゃんと現実にいて、体があって、肉があって血が流れてて、熱くて匂いもして、きれいなとこも汚いとこもあるって、平家蟹とセックスして初めてみかこは知った。セックスって空想の相手と現実の相手を合致させるためのお祭りなんだなぁって」
みかこのピストン運動は山道を登る機関車のごとく力強かった。
※[#歌記号、unicode303d]なんだ坂こんな坂!!
股間からの快楽電流は賢三の脳をも貫いていた。
賢三は『俺の股間にジミ・ヘンドリックスがいる!』と思った。
股間でジミヘンがフェンダーのストラトを縦横無尽に弾きまくっているのだ。シールドは快感中枢に直結だ。曲はもちろん「パープル・ヘイズ」だ。
ジミヘンはピックアップをマイクスタンドにこすりつける。歯で弾く。アームをギュインギュインさせる。背中に持っていって激弾きだ。そしてついに、ジッポーのオイルをフェンダーにかけて、ああっ、なんだ坂こんな坂!! 賢三の心に火を点《つ》けたっ。
「うあああっ! 出、出、出るううっ!」
「ダ〜メ、まだダメ、がまんして、今からみかこがターボかけるんだから」
恐ろしいことをやまぐちみかこが言った。
そして実際にターボがかかった。みかこの腰の動きは、ファミコンの名人がボタンを連打する速さに等しかった。股間のジミヘンは一挙に十人に増加した。その上に股間の岸部一徳までがベースかかえて登場し、十人のジミヘンとセッションおっぱじめたではないか。まさに、上を下への大騒ぎだ。
「あああっ、し、し、死ぬぅ、死ぬよぅ」
「私を本物の山口美甘子だと思いなよ。あんた美甘子とやっているんだよ。乗りこえなよ。美甘子に気付いてほしいなら、まず男にならなきゃ。ホラホラ美甘子があんたの上で腰ふってんだよ」
「み、み、みかこおおおおおおおおっ!」
賢三がいよいよ死に到ろうというその時、個室のドアがバターン! と音を立てて開いた。
みかこがあわてて見上げた。ギャッ! と口に手を当てた。
「あっ店長っ! また見つかっちった」
賢三は、ドアの方向を自分がふり向いてしまった事実をどうしても認めたくはなかった。初体験のエクスタシーのその時に、まさか、平家蟹そっくりな四十男の顔を見つめてしまったなどとは、どうしても、信じたくはなかった。
それが現実だ。大橋賢三は最悪の状況の中でついに果てたのであった。店長の、冷たく光る両眼を、じーっと見つめながらの童貞喪失、である。
「こちらの方から仕掛けた本番行為なら、罰金を取るわけにはいきません。しかも童貞でおられたそうで、とんだ失礼をいたしました」
強面《こわもて》の顔とは裏腹に、店長は律儀な男だった。
それどころか悪いことをしたと言って、「ふぞろいの淫娘たち」の店の前まで、みかこと共に送り出してくれた。みかこの頭をゲンコでこづく。それぐらいですむのは平家蟹にとってこの十七歳の少女が、誰よりも大事な存在だからだろうと賢三は思った。
「本番行為がバレたら業界にいられません。お客さん、どうか、口外なさらないでください」
斜め45度の角度で頭を下げた。
「はい、言いません。約束します」
賢三も頭を深々と下げた。間でみかこがクスクスと笑っている。
「この娘は少し気が違っておりまして……病気なんです」
「みかこね、子宮も病気なの。だから生でやったけど赤ちゃんの心配はいらないよ。子供、一生できない体になっちゃってんだぁ」
アハハハハとどこまでも無邪気な彼女。
「笑う話じゃないっ」と言って、また平家蟹が少女をこづいた。
「ま、そうなったの、私のせいなんですけどね」ボソリと、店長は付け足した。
「じゃ、俺、行きますんで」
「本当にすみませんでした」
「なんか君、元気になったじゃん、表情が晴れ晴れしてるよ」
と、みかこ。
「死ぬの、やめたよ」
賢三は答えた。
「おだやかじゃないですねぇ」
店長が少し驚く。
「だから店長、人助けだったんだってば〜」
少しも反省の色が無いみかこ。
「お客さん、死にたかったんですか」
店長が聞いた。
「はい」
「また、なんで」
「失恋と、自信喪失と」
「定番ですね。でもセックスしたらもう少し生きたくなりましたか?」
「はい」
「男って、そんなもんです。童貞の悩みのほとんどは、一発やれば解決してしまいます」
「平家……いや、店長さんもありがとうございました」
「私は何もしていませんよ」
「いえ、教えてくれました。『生きてれば死なない。死ぬまで生きればいいだけ……』って」
店長が「あ」という表情。みかこがぺロリと舌を出した。
「じゃ、行きます」
ありがとうございました、と言って店長がまた深々と頭を下げた。横でみかこが手を振っている。
「アンタ山口美甘子とやったんだからね。自信持ちなよ」
「ありがとう、やまぐちみかこ」
賢三は小さく言って、すぐに踵《きびす》を返した。
ふり返ると文芸坐が見えた。
二、三歩名画座の方へ歩いていって、立ち止まった。
文芸坐をしばらくの間じっと見上げた。
少年は名画座へは戻らなかった。
まわれ右をして、別の方向へと少年は一歩一歩足を踏みしめ始めたのだ。
わずかな時間に、少年は心を入れ替えていた。
俺は、からっぽだ。だからこそ、詰め込むことが山ほどあるはずだ。
闇の中に安住している暇は、無い。
何より童貞を捨てた(とんでもない状況であったとしても)という事実が彼の心を解き放っていた。
単純だが店長の言う通り、男とはそういうものだ。
『美甘子のことはひとまず忘れよう。それより、行こう、行ってみよう、何ができるかわからないけれど、とにかく、俺は友のいる場所へ駆けつけてみよう。とにかく何かを始めたなら、そのはるか先に、もしかしたら美甘子がいるかもしれないじゃないか。いなくたってかまわない。とにかく今は行くしかないんだ』
大通りへ出ると銀行の電光掲示板が日付けを知らせていた。
8月○日
賢三は「げっ」と声を上げた。連日の出来事にすっかり日付けの感覚を忘れていた。キャプテン・マンテル・ノーリターンの渋谷屋根裏ライブは、今日だ。
AM9時45分。
ライブは昼の部、12時からだ。あわててポケットをさぐる。ヘルスで使ったために金はもう一銭も無かった。どうする? 渋谷まで走るか? 間に合うだろうか? 考えている暇は無かった。賢三は、駆け出していた。
今日もまた、とびっきり暑くなりそうな夏の朝だった。
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第15章 屋根裏へ、そして屋根裏では
渋谷までどのくらいかかるのだろうか。
体力は、もつのか。
文芸坐の椅子で眠った体はまだ節々が痛い。
食事は、ヘルスの事務所で平家蟹《へいけがに》が出してくれた夜のお菓子うなぎパイ≠食べたのみだ。
何より夏。
真夏だ。
ギラギラと照りつける太陽の陽ざしの中を、賢三は渋谷の方角に向けて走り続けた。夏空には一点の雲も無く、そして少年には考えている余裕が無かった。汗を流し、荒い息を吐き、ぶざまでもぶかっこうでもとにかく両足を動かすしか友のライブに間に合う手段は無いのだ。池袋の人の群れをかきわけ、ジグザグに、稲妻の動きで走り抜けていく。駅周辺を抜けると後はもう一直線に、ひたすらに、力の続く限り走っていった。やがて一定のリズムを掴《つか》み、「はっはっ、はっはっ」と二つ息を吸ったなら二つ吐いて、マラソンの要領で全身を動かし始めた。少年の周りを夏の風景が行き過ぎていく。プール用バッグを抱えた小学生たち、風鈴売りの屋台、浴衣《ゆかた》の少女、きっと近くで夏祭りが行われているのだ。懐かしい夏の雰囲気に喚起されてのことなのか、賢三の脳裏には、ここ数ヶ月の嵐のような日々が次々と浮かびあがるのであった。
オナニーの日々。山口美甘子とすれ違った夜。カワボン、タクオとのバカ話。黒所の重暗い授業。文芸坐。美甘子とのナイスシアター。CMNR結成。山之上の加入。美甘子の女優デビュー。傷心。ジーさんとの修行。羽村との友情。真平、大林森、平家蟹、やまぐちみかこ……。さまざまな思い出が少年の体を貫いていくようであった。そして走りながらどういうわけか、賢三は涙の込み上げる衝動をこらえることができなかった。さまざまな思い出が今涙となってあふれ出て、総てが浄化されていくような気がした。駆けつければよい。友が待っているのだから、ただ駆けつければよい。たった一つの、それだけの簡単な解答を自分の中から導き出すために、俺はなんと回り道をしたものか、そう思うと涙と共に、今度は笑いも込み上げてきた。
ポロポロと涙をこぼしながら、エヘエヘとうれしそうに笑いつつ、大橋賢三が真夏の中を走っていく。気温33度。まだまだ上がるだろう。
ところが大通りと交差する地点に出た時、彼の足がふと止まった。
巨大な、賢三の視界を埋めつくすほど巨大な山口美甘子のビルボードが、行く手をはばんで、大通りに沿って設置されていたのだ。横たわり、腿《もも》をさらして、美甘子は憎らしいばかりの余裕の微笑みを浮かべている。
賢三は両|膝《ひざ》に手をついた。うつむき、暫《しば》し肩で息をしたまま、動かなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
山口美甘子のボードを見上げる。
瞳に涙は、もう無かった。
しかし体は、小刻みに震えている。
顔はこわばり、歯がカチカチと音を立てている。
『立ち向かってやる』
と、賢三は思った。
『だって立ち向かうしかないじゃないか』
そう、決意を固めた。
『震えても、パニクッても、俺には行くべきところがある』
不安や葛藤《かつとう》はあるがままに、目的本位の行動を取ると彼は決めた。それしかないと理解した。
信号が青に変わると同時に、うおっ、と声を上げた。
つんのめるように走り出た。
山口美甘子のビルボードに向かってつっ込んで行った。
大通りとの交差点に躍り出る。
賢三の視界いっぱいに山口美甘子のもどかしい肢体が広がっていく。
かまわず、どんどんと近付いていく。息苦しくなる。頭に血が上る。震えが止まらない。
『かまうもんか。かまうもんか』
賢三は止まらなかった。美甘子を全身で受けとめてやろうと思う。近づく。息を吸う。息を吐く。拳《こぶし》を握りしめる。そしてついに歩みを止めた。立ちはだかる。睨《にら》み付ける。負けるもんかと思う。息苦しさを押さえつけて睨み続ける。震えが止まる。ピタリと止まった。もう苦しくない。山口美甘子を目前に、賢三は冷静を取り戻したのだ。
『……勝った。俺、負けなかった』
賢三は思わず安堵《あんど》の笑みを浮かべていた。もう震えていない自分の両手をマジマジと見つめ、アハハハハ! と声を上げて笑った。
うれしさのあまり信号が赤に変わったことにも気が付かない。
一台のバイクが賢三めがけて爆走してくることもわからなかった。
あとわずかで激突するというその直前、賢三はやっと爆音の方向をふり返った。
遅かった。
『あ、轢《ひ》かれて死ぬんだな俺』
賢三は、タイミングの悪い運命を一瞬で悟った。
羽村一政は不安にかられながらバイクを走らせていた。
やっと、自分のハイテンションの異常さに気が付いたのだ。
賢三と共に中野サンプラザから逃げ出した直後の快感たるやなかった。芸能界におけるイザコザや、トップアイドルとしてのプレッシャーから一気に解放されたのだ。背中に翼が生えたと言っても大袈裟《おおげさ》ではない喜びであった。賢三や真平といった、非芸能界の同世代人との出会いも新鮮だった。勢いのまま山口美甘子に会いに行き、謝罪し、同時に宣戦布告を果たした。
そこまでは調子に乗っていた。だが昨夜、練馬の光が丘公園で野宿しながら、いいようのない不安に少年は襲われたのであった。
『で、これからどうするんだよ、俺』
賢三から聞いたダスティン・ホフマンの『卒業』の話を思い出した。解放感は束の間、解放されたはずの空間で、人はまたすぐ我が身を取り巻く環境に拘束されていくのだ。では今、自分のいる環境ってなんだ? 積み上げてきた全ての立場をほうり投げ、忍び込んだ公園の林の中で、木々の間からこぼれて見える星々を、たった一人で見上げている。この状態ってどういうことだ? これは、孤独ってやつだ。
羽村一政が生まれて初めて知る孤独の底の寂しさであった。自由の代わりに、少年はそれを手に入れてしまったのだ。
夜が明けたらとにかく誰かに会いたいと彼は心から思った。そうは言っても、今の彼に誰がいるというのか? 仕事を放棄したアイドルに、芸能界の人間と合わせる顔などない。親は、思春期の少年にとって助けを求める対象にはならない。兄弟はいない。ならば友だ。友の元に駆けつけようと彼は一人の夜の中で思った。たまらぬ孤独感に包まれて、羽村はまんじりともせず夜明けを待った。
日が昇り始めるとバイクにまたがり、大橋賢三を捜して走り始めた。
今、損得の関係抜きで彼を受け入れてくれる者は賢三ともう一人しか思い浮かばなかった。山口美甘子と出会ったがために、彼もまた同じような孤独感を感じたに違いないと考えた時、羽村の中には奇妙な戦友意識にも似た感情が湧き上がっていたのだ。
賢三の行きそうなポイントを目指してバイクを駆った。
「何かあると僕はここへ行くんだ」と彼が言っていた文芸坐周辺を見て回った。名画座の周りは風俗街だった。声をかけてきたキャッチの娘に、逆にこんな少年を見なかったかと尋ねた。娘は「そのコならさっき食っちゃったよ」と笑いながら、渋谷に友達のライブを見にいったはずだよと教えてくれた。
渋谷に向かってバイクを走らせた。真夏のフルフェイスヘルメットの中はサウナ並みの暑さであった。かまわず賢三を捜し続けた。会って、この孤独から抜け出す方法を語り合いたかった。
大通りへ出ると、青空を背景に、巨大な山口美甘子のビルボードが視界一杯に飛びこんできた。羽村は思わず目を奪われ、見上げてしまった。
ハッと気付いた時には、寸前に歩行者が立っていた。急ブレーキをかけながら避けたが、間に合わない。ひっかけた。数メートルも歩行者がふっ飛んだ。焼けたアスファルトの上をころがっていった。バイクは火花を散らしながら横だおしにすべっていく。羽村はマシンと共に地に倒れつつも、抜群の運動神経で跳ね起きることに成功した。躊躇《ちゆうちよ》無く倒れた通行人に駆け寄り抱き起こした。
「大丈夫ですかっ……あっ」
口から鮮血をたらした通行人の顔を見て羽村一政はガク然とした。
羽村の腕の中で賢三の体がぐったりとしていた。
コクボタクオは興奮の中にあった。
渋谷屋根裏の楽屋に出演者として自分が居ることがどうしても現実のこととは思えずにいた。
渋谷屋根裏の楽屋は、ステージの一つ上の階にあった。コンクリート打ちっぱなしの殺風景な一室。出演者たちは、ろくに冷暖房の利かぬその狭いスペースで、ライブ開始を待つのだ。冬は寒さに指が凍え、夏は暑さに身が蕩《とろ》ける。いずれにせよ一番困るのはギターのチューニングであった。ステージとの気温差で、万全の準備を整えたはずが、いざ舞台に立ったら半音も調律が狂っていたなどということもザラなのだ。だからこれからリハに臨む各バンドのギタリストたちは調音に余念が無かった。チューニングメーターをにらんでいるカワボンの横で、タクオは言った。
「カワボン、やべーよ、オレらマジで屋根裏に来ちまったよ」
「バババカだなタクオ、来ただけじゃねえぞ、こ、こ、これから僕ら、屋根裏の舞台に立つんだぞ。おおお前わかってんのかよ」
例によって山之上が絡んでいく。カワボンは二人を見て静かに微笑む。けれど、冷静を装うカワボンにしてからが、実は楽屋入りするなりずっと目が泳いでいる始末であった。
まったく、右も左も三人にしてみれば興奮すべき光景が広がっていた。
他バンドの連中がそれぞれ四方に陣取り、そこらのテーブルに腰かけたり、車座になったりしている。だべり合う彼らの周りには色とりどりのギターが無造作にころがっている。ストラト、レスポール、テレキャスター、SG、フライングV。メンバーの彼女たちなのか、ギターに負けずカラフルな服を着た少女らが声高らかに笑っている(もちろんCMNRにはそんなもんはいなかった)。タバコの煙がたち込め、ダイエースプレーの匂いと混ざって、窓から差し込む陽の光に照らされてユラユラと辺りに踊り続けている。メンバーたちは誰しもがライブ前の興奮と不安の中にいた。騒ぐやつ、黙り込むやつ、他人のことなどお構いなしにラジカセの音量を上げるやつ。
流れ出したのはRCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」だった。
誰かが忌野清志郎の声に合わせて歌い出した。他のバンドの誰かも歌い出す。また誰かも歌い出す。誰も彼もが清志郎のモノマネで歌い出した。モノマネの合唱は次第に大きくなっていった。タクオも声を合わせてみた。山之上が続いた。いつの間にかカワボンも歌っていた。何十人ものニセ清志郎の大合唱だ。
──彼女教科書広げてる時、ホットなメッセージ空に溶けてった──
渋谷屋根裏の楽屋で、全員が声を合わせて一つのフレーズを歌っていた。合唱の大きさが頂点に達した時、ドッと笑いが起こり、歌声は崩れて散った。そしてまたそれぞれのバンドごとに会話は分かれていく。今日渋谷屋根裏昼の部の出演者は、全員が十代の若きバンド小僧たちであった。
「スゲーな。スゲーよ。黒所とは全然違うよ。みんなわかってる奴らばっかだよ」
タクオは小躍りせんばかりであった。「クリムゾン・キングの宮殿」のジャケットが印刷されたキング・クリムゾンのTシャツを着て、絵柄と一緒に鼻の穴を広げている。タクオのファッションセンスから言えば、これ以上は無い一張羅のおめかしであった。
「カワボン、俺、バンド組んでよかったと本当思ってるよ。始めてよかった。黒所の教室の外にはやっぱり|わかる《ヽヽヽ》奴らがいっぱいいて、しかもその中に今、俺らいるんだぜ」
また横から山之上が茶々を入れた。
「タクオ、入り口に差しかかったぐらいでそんなに興奮していてどうするんだ。CMNRはこれからだ。これからどんどん、お前の言う|わかる《ヽヽヽ》連中の中で、と、と、頭角を現して行かなければならないんだ。ま、ま、満足するのはまだまだ全然先だ」
珍しくもっともな意見を述べたものだ。
タクオは応《こた》えなかった。
タクオは、実はこの日を持ってキャプテン・マンテル・ノーリターンの活動を断念するつもりでいたのだ。
コクボ電気店の経営がいよいよまずいことになっていた。
……夏休みが始まったばかりのある夜、いきなり父がタクオの部屋に現れて、それを告げた。借金もかなりの額に上っていた。十七歳の息子にしてみれば、一生かかったところで一体何割返済できるのかという巨額に思えた。
父は、何度も何度も息子に謝り続けた。
息子は、高校を休学して、働きに出ると告げた。また父は、何度も何度も頭を下げた。
タクオは、屋根裏のライブの日には、一番お気に入りの服を着ていこうと、父の謝る姿を見つめながら思った。
洗濯をして、アイロンをかけて、ピカピカのシャツで出かけよう。そう決めた。きっと「ダサい」とか言って山之上に笑われるだろう。同時に、『山之上が、笑ってくれたらうれしいな』と、タクオは思った。
「だだだ大体なんだタクオそのTシャツは。ダダダ、ダサいぞ」
渋谷屋根裏の楽屋で山之上がタクオのTシャツを指差して、イヒヒヒと笑った。
馬鹿にされたタクオが、うれしそうに笑い返した。
「おい、対バンに女のボーカルがいるぞ」
カワボンが小さな声で言った。後ろを向いていて顔は見えないが、楽屋の隅で発声練習を始めた一人の少女がいたのだ。
「わ……うまいなタクオ、あの女」
「うんケイト・ブッシュみたいな声だ」
「……てて、天才だ」
朗々として天使の飛翔《ひしよう》を想像させる美声であった。三人が聞き惚《ほ》れていると、少女がクルリとふり向いた。CMNRの三人が彼女の顔を見て目を見開き呆然《ぼうぜん》となった。そして同じ言葉が口をついて飛び出していた。
「荻っ!?」
なんと美声少女の正体は、黒所の奇人、荻であったのだ。
荻も三人を見てそれは驚いた顔をした。ところがすぐにニヤッと笑い、また壁を向いて天使の歌声で練習を続けた。
「……カワボン、こりゃどういうことだ?」
タクオがまだ口をポカンと開けながら言った。
「驚いたな。タクオ、山之上、俺ら、本当に狭い世界にいたんだよきっと。狭い世界の中で虚勢を張ったり、自惚《うぬぼ》れてみたり、荻の正体さえ知らないで、つまり、やっぱりこの世界の何も知らな過ぎたんだ」
「しししかし、まさか荻がバンドのボーカルで、しかもあんな美声とはな」
「なあ山之上」
「なななんだカワボン」
「俺ら、考え違いをしていたのかもな。黒所の連中を差別化して拒絶していたけれど、実はどいつもこいつも、そんなに変わりはないのかもしれないな。ダサくて悩んで、でもみんな心に鈍く光る刃は隠し持っているんだよ……よくわかんねーけど、それを抜けるか抜けないかで、人生は変わっていくんじゃないのかなぁ……よくわかんないけどさ」
その時、キャプテン・マンテルの皆さんリハお願いします。と店員が入り口で大声を上げた。三人が一斉に立ち上がった。
「え〜と、キャプテンはメンバー三人ね」
ヒッピー風の店員が尋ねた。
「はいっ……あ、いえ、四人です」
カワボンが答えた。
「え? だって三人しか……」
「四人です。一人ダセーやつで遅刻してるんです」
タクオが言った。
「ももももうすぐ来ます」
山之上が付け加えた。
「いいけどさあ、本番には間に合うのか?」
いぶかしげに店員が聞いた。タクオは、楽屋中に響き渡る大声で、自分に言い聞かせるように言った。
「来ます。四人、絶対揃います」
だって俺の最初で最後のライブなんだ。あいつが来なきゃ、始まらないじゃないか。
タクオは、一張羅のTシャツで、そう思った。
賢三が目を開くと、黒いフルフェイスのヘルメットが顔前にあった。
「あ、あ、ごめんなさい。ボーッとしてて」
あわてて謝るが、ライダーは賢三の体をがっしりと抱きかかえたまま放そうとしない。
「ごめんなさいごめんなさい」
動転した賢三はてっきり殴られるのではないかと思い、ライダーの腕の中で身をよじった。口の中で鉄の味がした。どうやら少し切ったらしい。
「すいませんすいません、放して助けて」
「違うよケンちゃん、俺だよ俺だよ」
ケンちゃん? そんな呼び方をするやつが知り合いにいたであろうか。ハタと賢三は気付いた。
「……あ、羽村君?」
「そう、俺」
ライダーが慣れた手つきでヘルメットの風防を開けた。まつ毛の長い、涼しげな瞳《ひとみ》がのぞく。
「あ、俺、羽村君に轢《ひ》かれたの?」
「ああ俺が轢いた。でもギリギリでかすっただけだぜ。怪我ねぇか?」
羽村が賢三の両肩を掴《つか》み、立たせた。どこも痛むところはなかった。口の中が切れただけだ、それも大した傷ではないようだ。
「……意外に不死身だったりして」
「よかった」
羽村が賢三を抱きしめた。
「よかった。マジよかったケンちゃん。俺お前に会いたかったんだよ。俺には今お前ぐらいしかいないんだ。また会えてよかった」
抱きしめる両腕に力がこもった。
「……う、うん。ぼ、僕もうれしいよ」
賢三は交差点のド真ん中で骨も折れよと抱きしめられてモーレツに照れた。突然の事に周りの車は総て止まっていた。運転手たちがこちらをのぞき込んでいる。通行人たちも立ち止まり、抱き合う二人の少年を不思議そうに見ている。青空を背景に、巨大な山口美甘子が羽村と賢三を見下ろして笑っていた。
「よかった、マジよかった」
「……あのさ、羽村君、警察とか来ちゃうと思うんだよね。こんなとこでさ、加害者と被害者が抱きあってると」
そうだな、と言って羽村はやっと賢三の体を放した。
「なんてタイミングだ。羽村君、俺を渋谷屋根裏まで乗せていってくれ」
「いいぜ、どこだよ」
「センター街の真ん中、アービーズのむかい側」
「OK」
「ライブが始まってしまうんだ。あともうそんなに時間が無いんだ」
「余裕だよ……壊れていなければだがな」
真平のバイクは道路に倒れたままだった。
羽村は駆けより、バイクを起こす。エンジンをかける。動かない。人々がそろそろと二人に歩み寄りつつあった。賢三は「大丈夫です! 全然平気です」と叫んで野次馬を制した。背中でエンジンの音が聞こえた。ふり向く。羽村がまたがり、「乗れよ」と親指でバックシートを指し示す。
賢三がまたがると同時にバイクは軽快な音を立ててその場を走り去って行った。山口美甘子の微笑みの下、野次馬たちがア然とした顔で二人を見送った。
賢三が羽村の腰にしがみつく。
羽村はフルスロットルで夏の道路を走っていく。
左を行く路面電車を一瞬で抜き去り、トラックの隙間を縫って渋谷へと進む。羽村の言う通り余裕でたどり着きそうであった。
賢三は今、自分がかけがえの無い時間を生きているのだと感じた。さまざまな出来事が、CMNRのライブに向かって集約されていく。つらかったことも、みじめな出来事も、渋谷屋根裏のステージへたどり着くための、実は全部伏線だったのではないかとさえ思えた。
賢三は、いつかこの夏の日々を、映画にしてみたい、と、走り行くバイクの上で思った。
きっとファーストシーンは、「GORO」や「スコラ」を手にオナニーに励む少年の背中だ。そしてヒロインが登場し、主人公の友人たちが紹介され、彼らとのバンド結成の物語りを縦軸に、ヒロインへの恋を横軸に、映画は展開していくのだ。ライバルが登場する、いつの間にか彼との間に友情が生まれる。泣いたり笑ったり、失意の連続もあって、最後は渋谷屋根裏のライブでラストをむかえるのだ。
屋根裏の扉を開け、少年たちが、ついにステージに上る。まばゆい光が四方から照らす。客席にはこれまでの登場人物たちが揃っていて、少年たちを見上げている。少年たちは、照れたような、でも思いっ切り勝者の表情で、スポットライトを浴びるのだ。輝きはいよいよ力強さを増し、あたりを真っ白に照らし出す。そうだ、そのままスクリーンもホワイトアウトしていこう。観客たちの前で主人公たちの姿が完全に白色の中へと消えた時、静かにエンディングテーマが流れ始めるのだ。そうして下から上へと、長い長いスタッフロールが流れてゆく。キャスト……スタッフ……そして最後に、監督の名が……監督の名は……その名は……。
「……あっ、羽村君っ」
突然賢三が声を上げた。
「どうしたケンちゃん」
「引き返してくれないだろうか」
「えっ?」
「戻ってほしいんだ」
「どこへ?」
「池袋へ。文芸坐のあたりへ」
「何でだよ」
「見つけたんだ」
「何を?」
「見つけたんだ! 大切なものを見つけたんだ。俺はそれを、質屋に売っちまった」
二人を乗せたバイクがUターンをかました。
路面電車を今度は右に見ながら、池袋へと向かう坂を一気に登っていく。巨大な山口美甘子のボードを通り越し、そして文芸坐周辺へ。やまぐちみかこと平家蟹《へいけがに》の姿はもう風俗街にはなかった。真平のカワサキは裏道へ入り、老朽化した一軒の店の前で止まった。「質」と看板が出ている。
二人は質屋へと入っていった。カビ臭い店内に、ギターや電化製品が所狭しと並んでいる。白内障の老人が、ぽつんと店番をしていた。
「すいません。昨夜置いていったビデオカメラ、引き取りに来ました」
カメラはすでに店内に並べられていた。
「もしもお前さんが強盗じゃないってんなら、まずそのヘルメットを取りなさい」
老人が羽村を指差して言った。
「なんだ見えるのかよ」
羽村がヘルメットを取った。
「羽村君、出世払いで絶対返す。カメラ代貸して」
賢三が羽村を拝んだ。金に無頓着《むとんじやく》な羽村は、「おう」と言ってポケットからムキ出しの一万円札を数枚出し、無造作にカウンターに置いてみせた。
老人は震える手でビデオカメラを棚から持ち上げた。賢三がそれを受け取る。
金を数えながら老人が言った。
「一泊とはね。何か撮りたい行事でも急に入ったのかい、学生さん」
賢三は黙ってうなずいた。
「学生さん、昔は目に焼きつけたもんなんだけどねえ。残らないから、いい思い出だけがいつまでも瞳に焼きつくんだよ。こんなもんは、悪い思い出まで残しちまう。目があればいらないんだよ。目さえありゃあねえ。へっへっへ」
白濁した瞳を少年たちに向けて、老人がニタニタと笑ってみせた。羽村は気味悪そうであったが、賢三は老人に微笑み返した。
「悪い思い出は、編集して、音楽を乗せて、いい映画に作り変えてしまえばいいんだと思います」
老人が「へ?」という表情を浮かべた。
賢三はビデオカメラをバックパックにしまいこんだ。
二人は再びカワサキにまたがり渋谷を目指した。
また美甘子のボードを通り越した。
ところが都電を追い越した辺りで、エンジンが異音を発するようになった。羽村が何度も首をかしげている。そしてついに、カラカラプスプスと力の無い音を立てながら、カワサキは止まってしまった。路肩にバイクを置き、ヘルメットを外した羽村が絶望的なため息をついた。
「やべぇ、やっぱコケた時にやっちまったらしい」
「動かないの?」
「この辺、駅あるか? 電車なら間に合うぜ」
「相当歩かないと無いよ。それに、羽村君だってバレてしまう」
「俺のことなんか知らなそうな年寄り運転手のタクシーを拾うか、手持ちの金は使っちまった。どっか銀行が……あれ!?」
「な、何よ」
「財布、無い」
「うそ! 落としたの!?」
「コケた時だな」
「うそっ! うそ〜っ!」
「本当」
「どうしよう、もう間に合わない」
池袋に戻ったためにかなりの時間をロスしてしまった。二人は完全に途方に暮れた。すると通りかかった女子高生の集団の一人が羽村を指差してギャーッ! と叫んだ。
「ギャーッ! 羽村一政」
周りにいた全員が羽村をふり返った。
「やべえ、ケンちゃん、とにかく渋谷の方へ走るぞ」
「えっ、また走るの」
駆け出した二人の少年を、ヒステリーにかられた女子高集団がドドドッと追いかけ始めた。
二人は逃げた。とは言えいかに全力で走ったところで、とてもライブに間に合う時間は無かった。
「間に合わないよ羽村君」
賢三が気弱な声で叫んだ時、羽村がハッと何かに気付いた表情となって言った。
「十円玉ならあるか!? ケンちゃん」
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第16章 十七歳町へ
太陽に導かれたようだった。
都立黒所高校の十七歳たちが、続々と渋谷を目指して集い始めていたのだ。
彼らは皆、センター街の中ほどにある「屋根裏」というライブハウスへと向かっていた。
本日昼から同級生のバンドが出演する。親しくも無いクラスの連中のライブを、彼らが観に行ってやろうと思い立ったのには、それぞれ訳があった。といっても、いずれも、タイミングや気まぐれに過ぎないのだが。太陽の導きとでも解釈しない限り納得のつかない、偶然の一致が十七歳たちを引き寄せていたのだ。
堀之田詠子はAV撮影の帰り道、ふと屋根裏へ寄ることにした。
軽井沢での、数日を費やしてのロケは有意義に思えた。カメラの前で全裸となり、股《また》を広げ、オナニーをしてみせた。演技とも本気ともつかぬ行為そのものが、彼女にとって初めて知る快感として全身を貫いた。吐息はやがて動物じみた嗚咽《おえつ》となり、それは監督を大いに喜ばせた。
「ナイスですね〜美夏子《みかこ》ちゃん。さ、トップアイドルの座まで一気に昇天するのです」
堀之田詠子の芸名は山口美夏子であった。ビデオのタイトルは「私、山口美甘子の先輩です※[#ハート白、unicode2661]」。詠子は黒所卒の十八歳と年齢を偽っていたのだ。本当に山口美甘子の先輩と思い込んだ監督は、詠子を破格の待遇で迎えた。軽井沢ロケでは4P、SM、アナル、そしてスカトロまでのフルコースが用意され、詠子はいかなる難局をもまさに体当たりでこなしていった。それどころかインタビューシーンを「本番しながらにしたい」と自分から申し出たほどだ。白樺の林で駅弁スタイルにつき上げられながら、詠子は監督の質問に答えた。
「さ、美夏子ちゃんの夢は何かな?」
「あっ、あっ、あっ、女優になりたいのっ」
「ナイス! なれますよ〜、これだけがんばっておセックスを致している若者を、どうして映画界が、神様が、ほうっておくもんですか。ねえ? 美夏子ちゃんの目標の女優さんは誰かなぁ?」
「あっ、あっ、あっ、山口美甘子! あっ、あっ、美甘子を抜いてやるの。あ〜い〜っ」
「抜いてます抜いてます。すでに全国八百万人のアダルトビデオユーザーが、美夏子ちゃんのおセックスで抜きまくっているのでございます。男たちが美夏子で抜き美夏子が美甘子を抜く。これこそ愛のぬくぬくトライアングルでございます。ナイスですね〜」
「あ〜、いくっ、いくっ、いぐ※[#「う」に濁点、unicode3094]ううっ…」
監督と十本の専属契約を結んだ。スタッフたちとも仲良くなった。最終日の夜は皆でバーベキューをした。自ら焼きそばを作り、一人一人に取り分けた。花火をしてはしゃぎまわった。そしてモニターで、今朝撮影した浣腸《かんちよう》シーンを観直した。観ている内に涙があふれ始めた。詠子は自分の脱糞《だつぷん》姿を観つめながらつぶやいていた。
「……私って……がんばってるじゃん」
ロケバスが都内へ戻っても詠子はすぐ家に帰りたくなかった。心も体も、仕事を成し遂げた興奮がまだまだ冷めなかったのだ。喧騒《けんそう》に誘われて渋谷で降りた。ハチ公の前は人だかりであった。さてこれからどこへ行こうと考えた時、ふと、犬の像の足下に、数枚のチラシが貼ってあることに気が付いた。一枚はがしてみた。
「本日十二時渋谷屋根裏、キャプテン・マンテル・ノーリターンついにデビュー!!」
メンバー名を見て「あっ」と驚いた。同級生だ。黒所の地味めな連中だ。
『バンドやってたんだ……こいつらも、がんばってんだ。|私たち《ヽヽヽ》って皆、がんばってんじゃん』
詠子はシンパシーに似た熱い感情を覚えた。「見に行ってあげなくちゃ」そう思った時、スクランブル交差点の信号が青に変わった。一斉に人々が真っ白な夏の光の中に交錯していく。混沌《こんとん》とした群衆の光景に重ねて、詠子は自らの浣腸シーンを、幻影に一瞬見たような気がした。すると、くらくらと、少女は初めてめまいを覚えた。
その時、ゴボジは交差点をセンター街の入り口へと歩いていた。
ポケットにCMNRの招待状。右手には「人間革命」を二十冊入れた紙袋を下げていた。元自衛隊員から日蓮の話を聞かされて以来、ゴボジは敬虔《けいけん》な創価学会信者になっていたのだ。学会の教えは今まで漠然と感じていた人生の虚無感にピタリと蓋《ふた》をしてくれるように彼には思えた。
「ぜひ人々に伝えるべきだ」と少年は強く信じた。黒所の地味目な連中からライブの誘いのDMが届いた時も、「客ごと全部|折伏《しやくぶく》すべし!」と決意したのであった。日本学会化計画を胸にゴボジは渋谷の交差点をズンズンとつき進んだ。センター街入り口で「アナタハ〜神ヲ〜、信ジマ〜スカ〜!?」と近づく外国人があった。もちろん黙殺したのだが、小雑誌を手渡されてしまった。何やらキリストの教えが書いてある。苦々しく思いつつも、五、六歩の間読み進めていたゴボジが、やがてピタリと歩を止めた。小雑誌に目を落としながら、つぶやいた。
「……やべぇ、こっちも真実だ」
その時、アニメグループはセンター街を歩いているところだった。
「まんがの森」に「装甲機兵ボトムズ」のグッズを買いに行く予定で来たのだ。皆で夏休みをつぶして短編SFアニメを作ることになり、参考資料を収集中であったのだ。気合を入れて全員コスプレで行ったところ、同世代のパンクスに絡まれライブのチケットを売りつけられた。会場は渋谷屋根裏。後わずかで始まるのだという。挙句、「アニメなんざ『一休さん』で十分なんだよバーカ!」と捨て台詞《ぜりふ》を吐かれた。
その時、八木はセンター街の中ほど、今は無きハンバーガー店「アービーズ」の前にいた。
実は重度の下着フェチである彼は、女子高生の脱ぎたて生下着を売る店を渋谷に発見し、なかなか入れずに躊躇《ちゆうちよ》していたのだ。もう何時間もアービーズで冷めたコーヒーをなめていた。ついに意を決しアービーズの向かいのビルへ向かった。ところが、ふと隣りのビルの壁に「ボクシングジム入門生募集」のチラシを見つけた。八木は、暫《しばら》くそれを見つめ、そして我に返った時、チラシから目を離せなくなっている自分がいることに気付いた。経営者が一緒なのだろう、二階のキャバレーで入門随時受け付け中とある。八木は、下着屋のあるビルではなく、隣りのビルの入り口をくぐった。その三階に、渋谷屋根裏があるのだ。
その時、モロ子は屋根裏へとつながる階段を上っていた。手にはキャプテン・マンテル・ノーリターンのチラシが握られていた。
モロ子が屋根裏に来た理由は、大橋賢三に会うためであった。
セックスが飽きたと言って彼氏にふられた彼女は、死にたい気持ちで入った映画館でフェデリコ・フェリーニ監督の『道』を観た。感動し、号泣し、この映画についてどんな些細《ささい》なことでもいいから知りたいと願った。
黒所の教室の地味めグループの中に、映画マニアがいたことを思い出した。いつも暗い表情で、映画ノートのようなものをつけていた。一度、わざと彼のそばで恋人とのセックスについてアケスケに語ったことがある。ドギマギした様子でノートを閉じた賢三を見て、モロ子は勝ちほこったような気持ちになったものだ。「あの頃の私ってとことんバカ」今ではモロ子はそう思っていた。異性とのつき合い以上に、人生にはさまざまな世界が広がっていることを『道』が教えてくれたのだ。一本の映画を出発点に、私はこれからどこまでも知識の旅を始めるんだ。あの映画マニアの同級生なら、私の旅の出発点について、何かいろいろ知っているかもしれない。「わからないもんだな。でもまさかあんなダサいやつに会いに行くことになるなんて」。モロ子は渋谷屋根裏へつづく階段を上っていった。
蕩《とろ》ける途中のようなどんよりとした薄い闇の中に、階段は上へと延びている。
二階の踊り場には赤いランプが灯《とも》り、黒いスラックスに蝶《ちよう》ネクタイの男が赤色の中にポツンと立っていた。メキシコ風のヒゲをたくわえている。モロ子が尋ねた。
「あの、ここ屋根裏ですか?」
「ここはキャバレーなんだってばお姉ちゃん。屋根裏は三階。ジャンケンで勝ったら通してやるよ」
昼間から酒が入っているのだろうか、呼び込みの男は笑いながら、「ジャンケン」と言って突然右手を挙げた。つられてモロ子も手を挙げた。「ポン!」呼び込みはチョキ。モロ子はグー。
「勝ちました。通してください」
「ヘッ、へへへへ、やられたな。そう、グーでいいんだよグーで。あわてるこたねえ。焦ったってなるようにしかならねえ。追いてけぼり喰《く》らったって引き離したって、グーでちょこちょこいけばいい。だって、行き着く果てはみんな一緒なんだぜ。姉ちゃん、わかる?」
ホロ酔いの呼び込みの脇をすり抜けて、モロ子は三階へ向かった。アンプで増幅した楽器の音がドーン、ドーンと階上から聞こえてきた。
リハーサルも終り、CMNRはいよいよ本番を待つ身となった。
出順は荻のバンド「オギノ式」の次、二番目だ。
大橋賢三はまだ現れていない。
バンドマンたちがあわただしく準備に急ぐ楽屋で、三人は車座になったまま黙り込んでしまった。
「くそ、あいつがハン・ソロだったらスター・ウォーズは一作で終っちまうな」
ようやくカワボンがぽつりと言った。映画『スター・ウォーズ』で、主人公の窮地にギリギリのタイミングで駆けつけたハリソン・フォードを、賢三に照らし合わせての冗談だった。タクオも山之上もすぐに意味を理解したが、クスリとも笑わない。
「間も無く開場します」とスタッフが楽屋の入り口でバンドマンたちに告げた。
山之上がスックと立ちあがった。いつにもまして顔が青白い。
「カカカワボン、タクオ、もう時間は無い、今は賢三ではなく、ライブの準備に集中すべきだ」
あの山之上がしごくまっとうなことを言い出したので、二人は目を丸くした。
「どうした山之上、日射病かっ?」
「熱さでバカが治っちまったのか!?」
真顔で妙な心配をしたものだ。
山之上は答えず、PUMAのニセモノでLIONとネームの入ったスポーツバッグを抱え、鏡の前に座った。バッグから何やら化粧道具を取り出し並べ始めた。タクオがギョッとして尋ねた。
「何する気だよ山之上」
「きき決まってるだろう、メイクだ」
この頃、バンドマンといえども男性がメイクをほどこすという行為は、まだまだ奇異に見られていた。坂本龍一や土屋昌巳といった一部ニューウェイブミュージシャンに限られての特殊な行為だったのだ。
「本気かよ」
「ほ、本気だ。僕の妖艶《ようえん》ぶりに驚くなよ」
顔を白く塗り始めた。口紅を赤々と引いていく。目の下にくっきりとラインを入れた。カワボンとタクオを振り向いてニタ〜ッと笑ってみせた。
「どどどうだい? デヴィッド・ボウイみたいか?」
「ボウイと言うより、忍者ハットリくんみたいだぞ」
「うん、オバQにも似てるな」
どちらにしても妖艶というよりは藤子不二雄な容姿ということだ。がっくりとコケた山之上は口惜《くや》しそうにクレンジングでメイクを落とし、それでも再び、顔を白く塗り始めた。
「開場しました。出順前半のバンドさん準備急いでください」
スタッフが叫んだ。にわかに楽屋が緊張感を帯びる。バンドマンたちが行き交う。「よしっ!」と気合を入れる者、ドタバタと走り回る者、階下からは入場を始めた客たちのざわめき。どこまでも膨らんでいく高揚感に、ついにCMNRも耐え切れなくなった。三人は荒い息を吐き拳《こぶし》を握りしめた。訳もわからずコーラを飲みポテチをバリバリと食べ散らかす。何をしても不安と興奮は収まらない。タクオが口の周りをカスだらけにしながら言った。
「なぁ! おい! あのさ! これ、本当に始まっちゃうわけ?? 逃げ出せねーんだぜ、なんなんだよ、スゲーな」
カワボンが答えた。
「始まるんだ。スゲーな、これだけ逃げ出したいのに、逃げ出せないことってこの世にあるんだな。ライブに限らず、これから俺ら、そんなことを何度も何度も繰り返していくことになるんだろうな。今日はその……最初の日なんだろうな」
「けけ賢三は逃げ出しやがったけどな」
山之上が真っ白な顔で言った。
「いや、逃げていない」
カワボンが遮った。
「後わずかだぜ、来るかな?」
とタクオ。
「来る」
カワボンが言い切る。
「じゃあトップのバンドさん、よろしくお願いしまぁす」
スタッフが叫ぶと、荻たちのバンドが一斉に立ちあがった。メイクをほどこした荻の顔は、教室の片隅でポカンと口を開け呆《ほう》けている彼女とは全くの別人であった。きつくアイラインを引き、顔半分に色鮮やかな蝶の絵が描かれていた。露出の多い衣装もサイケデリックな極彩色。屈強な男性メンバーの中心に構えた姿は、まさに妖艶と言えた。
楽屋の扉まで歩いていって、荻は突然振り返った。CMNRの三人をじっと見つめた。三人は彼女の視線に気圧《けお》された。
「君たち黒所の生徒だよね」
三人は荻の喋《しやべ》る声を初めて聞いた。
「こんなとこで会うとはね、誰も他人を、見くびってかかっちゃいけないね」
荻はそんなことを言った。見くびられていたのか三少年。そして「山之上君」と名指しで呼び、ペコリ、と頭を下げた。
「ありがとう、松子のこと」
確かにそう言った。すぐに男たちに囲まれ、楽屋を出て行った。
タクオがすかさず尋ねた。
「……山之上、『ありがとう』って何のことだよ。『松子』って、あの自殺した府黒松子のことか? 何なんだよ、一体」
山之上は「わわわからん、いかれた女のいうことだ、相手にするな」と真っ白な顔の前で手を振った。納得はできなかったがいよいよ準備の時間が無かった。タクオは曲順のチェックを始めた。山之上は鏡に向かい、再びアイラインを目の下に塗り始めた。
山之上は嘘をついた。
……数日前、彼は郊外の丘の上にある府黒松子の墓を訪れ、花を添え、手を合わせていたのだ。
CMNRのための作詩を続ける内、山之上に変化が訪れていた。詩作とはつまり簡単に言えば自己との対話であった。連日連夜、自分自身と、詩によって問答を繰り返す内に、彼は幾度となく府黒松子の残像と対峙《たいじ》することになったのだ。
誰からも愛されないという劣等感の果てに、山之上は松子を犯そうと計画したことがあった。実行しようとしていた日、松子は黒所の美術室で手首を切って自殺した。
山之上にとっての詩作とは、彼にしてみれば運命的なこの事件を、どのように自己の中で前向きに意味づけをして、人生の一部として生涯保ち続けるのか、それを決めるための作業と言えた。
詩作を続ける内、山之上は、身代わり=Aという言葉を思いついた。
『おそらく、この世の幸福と苦しみの総量は一定で、誰かの喜びが誰かの苦しみとなり、そうやって互いが互いを補完しあって普遍は保たれているのだ。松子の死の代わりに、自分は罪人となることを逃れて今もまだここにあるのだ。自分もまたいつか誰かの身代わりとなるのかもしれない。きっと人は、人間は、綿々とつづれ織られる身代わり≠フ連続によって他者とつながり合っているのだ。松子は自分にとって、初めての、他者とのつづれ織る生命の糸であったのだ……松子の死は、俺の生の身代わり≠ネんだ……。
翌日、少年は電車を乗り継ぎ、自殺した少女の眠る丘を目指した。花をたむけ、手を合わせた。
まさかその背後に、彼女の唯一の友であった奇人の荻が隠れていたなどとは、山之上はまったく気が付かなかった……。
「おい! 始まった! 始まっちまったぞ」
ついに演奏が始まったようだ。
階下からドラムを連打する音が聞こえた。タクオが、もの思いにふけっていた山之上の両肩をガッシと握りしめ揺さぶった。山之上の手元がすべり、口紅が白い顔の上に思いっ切り真紅の斜線を引いた。
「バババカッ! 何すんだ、タクオ、ナスカの地上絵みたいな顔になっちまったじゃないかっ」
「カワボン、来ねぇぜ、賢三が来ねぇよ」
「いや、来る。賢三は、来るんだ」
カワボンがギブボン・レスポールを構えた。階下ではドラムロールにベースが重なり始めた。音量がクレッシェンドしていく。
「賢三は来る。きっともう、そこまで来てる」
カワボンが断言した時、荻の絶叫が三人の緊張感を引き裂いた。三人がハッと目を合わせる。バンドがEの爆音で一斉にかき回すと、荻のシャウトはオクターブ上まで一気に駆け上がった。高速回転のタイヤがスリップするような少女の絶唱が聞こえた。
スピンターンをかましたタイヤの悲鳴はさながら少女の悲鳴のようであった。
一瞬の差で対向車をかわすと、車はすかさず渋谷の方向へと乗り入れた。
そのまま五速につっこむ。シャコタンの車底がガリガリとアスファルトの路面を削り取る。火花が散る。火花を蹴散《けち》らしてグロリアは坂道を駆け降り始めた。車体は紫。ホイールは金。前は出っ歯。後は竹ヤリ。正統派ヤンキー仕様車だ。
グロリアの車内ではガンガンにアイドル歌謡曲が流れている。
「艶姿《あですがた》ナミダ娘、色っぽいね」
キョンキョンだ。
小泉今日子の唄声《うたごえ》に合わせてドライバーも「色っぽいね〜」と調子っぱずれに唄っていた。リーゼント。まだ幼さの残る顔。
「シンちゃん、間に合うか!?」
後部シートの羽村一政が、ハンドルを握る真平に聞いた。
「まかせろ、道玄坂着いたらすぐだからよ」
言いながら真平はハンドルを右に切った。グロリアが対向車線に飛び込んだ。左の車を一台抜いたところで真正面にバスが現れた。「ぎゃあっ」と背後で大橋賢三が悲鳴を上げるが真平は気にもしない。左に切り戻す。グロリアを再び左車線に戻す。
「大丈夫だよ賢三、慣れっこなんだこういうの」
シレッと真平が言った。
「じゃあ真平君、ああいうのも慣れっこなわけ」
賢三が恐る恐る尋ねた。リアガラスの向こうを指差した。赤色のランプを回転させて、数台のパトカーが近づきつつあった。
「得意だよ」
ふり向きもせずに真平は言ってのけた。
「でも今日はちょっと台数が多いかもな」
赤色のランプはグロリアの後方全面に広がっていた。バックミラーをチラリと見た。
「西部警察みてえだな」
「真平君、つまんないこと頼んじゃって本当にごめん」
「つまんなかねーよ賢三、仲間のとこに駆けつけんだろ? 重要だよ。送迎ぐらいやらせてくれよ。あ、送≠セけになりそうだけどな、このままパクられたら」
うれしそうに、真平は笑った。
──バイクが壊れ途方に暮れた時、羽村が唐突に「真平を呼ぼう」と発案したのだ。
バイクを返す時のために、電話番号の書かれた「LOVEみかみか同盟」の名刺を彼からもらっていた。
「え、真平を? 来るだろうか」
「来るよ、あいつは来るよ」
羽村は自信があるようだった。賢三は、「ジーさんに車で来てもらおうか」と一瞬考えて、すぐにその案を自分の中で却下した。なんとかジーさんにだけは頼らず、CMNRのライブに駆けつけたかった。その方が、何より当のジーさんが喜ぶはずだと、賢三は思ったのだ。
果たして真平は、紫のグロリアを駆ってすぐに現れた。
待ち合わせた電話ボックスの前に横づけして、車を降りるなり羽村に向かって怒号を上げた。
「ふざけんなコラー! バイク壊した上に渋谷まで送れってか、ワレなめとんのかオラッ」
ガニ股《また》のヤンキー歩きで一気に歩みよると、羽村の寸前に立ちふさがり、眼《がん》を喰《く》らわした。
羽村も負けなかった。睨み返した。賢三がオロオロした。
すると、羽村が真平の目前で、クスッ、と笑った。
その笑顔を見て真平も、ニヤリ、と笑った。
「ごめんな、シンちゃん」
「修理代はもらうぜぇ。キョンキョンのサインもらってきてくれたらそれでもいいな」
「美甘子のじゃ駄目か?」
「別れを告げて来たのかよ」
「ああ」
「じゃ、これで本当に、一斉のセで競争ってわけだな、テメエと」
「ああ」
「負けねーよ」
「ああ、俺も。あ、バイク、最高だったよ」
「当りめーだよ」
「俺のも今度乗ってくれないか?」
「じゃあどっちのがバリバリか、それも競争だな」
「負けねーよ」
あの〜僕もいるんだけど、と、賢三が自分を指差して言った。羽村と真平が声を上げて笑った。
紫のグロリアのボンネットには、デカデカと山口美甘子の顔が描かれてあった。
「みかりん号ってんだ。乗れよ」
「あの、真平君、無免許運転だよね」
「当り前だろっ!!」
真平が怒鳴った。なんで無免を指摘して怒られるんだと思いつつ、賢三はグロリアのバックシートに飛び込んだ。羽村も続く。
そうして「みかりん号」は一路渋谷を目指して走り始めたのだ。
──渋谷区に入ったあたりでパトカーに目をつけられた。
制限速度50qオーバーであったから当然のことだ。パトカーは一台、二台と増え、いつしか刑事ドラマ「西部警察」のオープニングのようなことになってしまったのだ。
「かまわねーよ。俺、どの道もうじきパクられることになってんだ」
グロリアは道玄坂に入った。道はつまっていた。真平はホーンをパンパン鳴らしながら右に左にかわしていった。
「シンちゃん、罪状は?」
「窃盗、傷害、凶器準備集合、その他モロモロ。強姦《ごうかん》と殺人以外は大体」
再び真正面にバスが現れた。逆ハンを切ってパス。紙一枚の車間をバスの巨体が行き過ぎる。賢三が「オエッ」と吐き気を催す。
「羽村、テメーと同じだよ。俺、一度自分の人生ゼロに戻してーんだ。バカばっかりやってきてもう先が見えねーんだ。いっそのことパクられて勤め上げてみようと思ってんだ。何年くらいこむか知らねーけどさー、出てきたら、あのさ、遊んでくれるか? アイドルにこんなこと言うのバカみてーかな。なんかテメーとは、遊べる気がすんだよな」
「もうアイドルじゃないよ。同じただの不良だよ。待ってるよ。遊ぼうぜ」
「中野の裏道でさ、お前、スターなのに、俺みてーなやつにキッチリ眼《がん》を返してくれただろう。アレ、アレ……うれしかった」
「シンちゃん、俺だってうれしかったよ」
僕もいるってば〜、と、賢三が後ろでうめき声を上げた。で、ちょっと吐いた。
「よし、あのトラックの前に回り込むぞ。陰になったところでお前らだけ飛び降りろ、そのまま人ゴミにまぎれれば捕まらねえからよ」
ただ屋根裏に間に合いさえすればよかったのに、いつの間にか大橋賢三は犯罪の片棒をかつがされていることに気が付いた。
「ちょっとそんな、フツーに行こうよ〜!」
あわてるが真平は止まらない。ウオッ! と叫ぶやアクセルを踏み込みハンドルをクルクルと右に回した。前方にいたトラックと対向車線を疾走して来たRX7の間をすり抜ける。また加速。左のトラックを一気に追い抜くと斜めに車体をその前方へとすべり込ませた。
ところがトラックは止まらなかった。
「あ」と真平が小さく声を上げた。
サイドウインドウいっぱいにせまり来るトラック。
止まらない。驚いた表情の運転手ごと巨体がグングン近づいてくる。
「ちっ!」
真平の舌打ち。
逆ハン。
無駄。
ブレーキ。
無効。そして衝撃。
賢三は渋谷の風景が45度、90度、180度と回転していくのを不思議な気持ちで眺めていた。
止まったような時間の中で、ゆっくりと360度回転していくのだ。だがまだ止まらない。もう90度回った時、グロリアはようやく渋谷センター街の入り口に停車した。天井と底を逆にした状態で。
「行け! 走れっ! 羽村、賢三、早く」
逆さになったグロリアの中で真平が二人をせかした。
賢三が割れたウインドウからはい出した。
羽村も続いた。
見回す。ア然とした表情が無数にこちらを見ている。
グロリアを囲んでパトカーが次々と止まる。
「行けってば! 行けよ」
半分だけ体を出した真平がまた叫んだ。
二人は我に返り、センター街の人ゴミに向かって走り始めた。
夏休みのセンター街は祭りのようなにぎわいであった。人々をかきわけ、ぶつかりながら二人は走っていく。
「今の羽村一政!?」誰かが叫ぶがかまわずに走り続ける。
「ケンちゃん、見ろよ」
羽村が突然立ち止まりふり返った。
センター街の群衆が全員、交差点の方をふり返っていた。
ひっくり返った車の上にリーゼントの少年が立ち上がり、取り囲んだ警官達に大見得を切っているところであった。
「やんのかコラ〜!!」
真平のがなり声がセンター街の中ほどまで聞こえてきた。こんな時だというのに、賢三と羽村が、思わず笑った。
「ケンちゃん、行こう、どこだ」
「こっち」
「間に合うか?」
アクセサリー屋の時計をチラリと賢三は見た。十二時をとうに過ぎていた。絶望的な気持ちになりながら、それでも賢三は言った。
「とにかく、行ってみたいんだ」
踵《きびす》を返した。
その瞬間、賢三のふくらはぎが、ブチッと嫌な音を立てた。
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最終章 輝ける
川本良也は万に一つの可能性に賭《か》けていた。
荻のバンドは好評の内に演奏を終了した。鳴り止まぬ拍手が階下からまだ聞こえている。今は唄姫《うたひめ》へと華麗に変身を遂げた荻が、流れる汗をタオルで拭《ぬぐ》いながら楽屋へ戻ってきた。カワボンと目が合うと、挑発的に言った。
「盛り上げといたよ。いよいよアンタたちね」
カワボンは「ああ」と生返事を返すのが精一杯だった。ギターの調律は完璧《かんぺき》だ。山之上のメイクも完成した。タクオはさっきから鼻息を荒くしてストレッチに余念が無い。キャプテン・マンテル・ノーリターンはすでに臨戦態勢に入っていた。
だが、賢三がまだ来ない。
「カワボン」
タクオがトントンとその場でジャンプを繰り返しながら言った。
「……ん?」
「賢三、もう無理だよ。アイツ来ないよ」
「俺はそうは思わない」
「きっと文芸坐にでもいるんだよ」
「そうかな」
「アイツ暗いから、きっと文芸坐の地下の方へもぐってるな」
「違うよ。もしまだいるとしても文芸坐の方だよ。だって文芸地下は今、古尾谷雅人特集なんだ」
「あ……『人妻集団暴行致死事件』か」
「それに『丑三つの村』だぜ。いくら賢三でも、落ちこんでる時にその二本は観に行かんと思う」
「そうだな。じゃあ、あのバカ、どこフラフラしてるんだろうな」
「だから……きっとすぐそこまで来てるんだってば」
タクオはそれ以上カワボンに声をかけなかった。「かもな」とつぶやいて、楽屋の時計を見た。
間も無く、ステージへ立つ時が来る。
すると逆に、カワボンがタクオに話しかけた。
「俺、余計なことを賢三に押しつけちまったのかな」
「え?」
「バンドさえ組まなければ、差なんて出なかったんじゃなかったかなって。みんなでタクオの二階でバカ話をして、笑ってウダウダして、そうして今年の夏は何事も無く終っていったはずだったのに、何かをやろうなんて言い出したために、俺らの間に差が生まれてしまった」
「バンドを始めるべきではなかったと言うのか」
「いや、でも、賢三があんなことになることはなかったと思って……」
「そそそそれは違うっ!」
山之上が真っ白な顔でふり返った。さっきよりは上手《うま》い具合にメイクしていた。それにしても気の狂った道化師のような表情だ。
「さ、差が生じる怖さは四人平等だったはずだ。今回は賢三だったが、カワボンやタクオが追いてけぼりを喰《く》らったかもしれない。僕だったのかもしれない。差が生まれる、差を縮める。これは何かを始める人間の宿命なんだから誰のせいでもない。賢三はそりゃ落ちこんでいるだろうけれど、僕らのせいにしようなんて考えてはいないよ。そんなにアイツはバカじゃない……バカだけど、バカなりにわかってるよ」
タクオが、付け加えた。
「オレも思うんだけどよ。そりゃあ何も始めねぇで、オレんちの二階でバカ言ってすごしたら、この夏休みは平安無事だったかもしれねぇよ。でもよ、何年か経ってふり返った時、何もしなかった夏より、たとえ地を這《は》うようだったとしても、とにかく何かをやろうと泥々になった夏の方が、賢三にとっても絶対意味があったと思えると思うんだ……って、オレ、黒所の教師みたいなこと言ってるか?」
突然リーダーが弱気になってしまい、山之上とタクオがいつになく真面目なことを言った。
「タクオ、お、お前モラリストに成り下がりやがったか」
「るせーな山之上、てめえこそ中学生日記みてーなこと言って、ひよったんじゃねーのか」
なんだと! ンナロー! とライブハウスの楽屋でまでつかみ合いを始めた二人を、止めに入ったのは結局カワボンであった。
「わかった。すまなかった。本番が近づいてつい動揺しただけだ。ごめん」
「キャプテンの皆さん、屋根裏の入り口まで来てくださぁい」
楽屋の入り口に店員が現れて告げた。
ピタリと三人の動きが止まった。表情がこわばった。ゆっくりとスタッフをふり返り、一斉に睨《にら》みつけた。
「な、なんだよ君ら、怖い顔して、出番だってば」
鋭い眼光は、実は腹の底からの怯《おび》えによるものであったのだ。
「…は、はい」
三人、声を裏返してうなずいた。ロボットじみた動きで、カワボンがギターを肩にかけた。タクオはキーボードをかかえるが、足がもつれ壁に体ごとぶつかった。山之上はもう一度鏡をのぞき込み、よせばいいのに震える指でアイラインを修正し始めた。
「あっ! まままたナスカの地上絵にっ」
案の定、悲惨な結果になったようだ。
カワボンを先頭に、三人は楽屋を出て、屋根裏の入り口へと向かう階段を下り始めた。意気揚々とは言いかねた。緊張と不安のために背を丸め、声も無く薄暗い階段を歩いていく。同級生たちの怯えた背中を目撃した荻は、思わず心の中で「ドナドナド〜ナ〜ド〜ナ〜」と、連れられていく子牛の哀歌を口ずさんだほどだ。
「すごいな。もう引き返せないんだ」
カワボンがつぶやいた。顔は凍結したままだが、瞳《ひとみ》の奥には、隠し切れぬ喜びがある。
「オレら、ついにたどり着いたな」
「オ、オーバーに言うな。たかが初ライブじゃないか」
山之上がタクオにつっこむと、少しだけ、三人の顔に表情が戻った。屋根裏の扉は木製だった。その向こうから、客たちのざわめきが聞こえてくる。一歩、一歩、一歩と、三人の少年たちがざわめきの方向へと歩みを進めていく。カワボンが、バンドを組もうと決めた夜のことを思い出している。タクオは、蒸し暑いレンタルスタジオでの練習を思い出している。山之上は、バンドに参加しようと決めた日のことを思い出している。カワボンが階段の途中でつまずいた。よろけた友の体を他の二人がすかさずつかまえた。照れ笑いが階段の途中に三つ浮かぶ。カワボンがふと二人に言った。
「俺さ、やっぱり受験やめるよ。この何日間、屋根裏に立つための日々の方が、黒所の教室で学んだことよりよっぽど有意義だった。黒所出たら、俺、真面目に音楽をやってみようと思う。お前ら、一緒にやってみねーか?」
つつつき合うぜ、と即答した山之上。タクオは、応えることができなかった。黙って、微笑んだだけだった。
屋根裏の扉が少し開いて、店員が顔をのぞかせた。
「ちょっと君ら、急いでよ」
はいっ、と三人が声を合わせた。
階段の残りをかけ下りる。すぐに踊り場に出た。踊り場を左に曲がると正面に屋根裏の扉があるのだ。
「じゃあ登場のSEを流してください」
カワボンが店員に言った。「あいよ」と言って店員の顔が扉の向こうに消えた。
すぐに、「聖地エルサレム」が流れ始めた。
木製の厚い扉を通して、荘厳なEL&Pの名曲が踊り場の三人を包みこんだ。黒所の球技大会をボイコットした夜、そしてCMNRを結成した夜、高らかに流したあのメロディを、三人はバンド登場のオープニングSEに決めていたのだ。
「……行こうか」
暫《しばら》く聞いてから、カワボンが言った。
「うん」
とタクオがうなずく。
「こ、来なかったな。賢三」
山之上がつぶやいた。
カワボンは、屋根裏の扉に手をかけた。ノブを強く握りしめた。
「きっと、近くまで来て道に迷ってんだよ」
「ああ、アイツ、バカだからな」
寂しく笑って、タクオがカワボンの言葉に合わせた。
「山之上なみのバカだもんな」
付け足した。
絶妙のつっこみ所のはずなのに、山之上が何も言わない。
「アレ?」と、調子を狂わせられたカワボンとタクオが彼をふり返った。
するとどうしたのだろう、山之上がキャバレーへとつながる階段の方を見下ろして、全身を硬直させているではないか。
二人が追った山之上の視線の先に、理解不能の光景があった。
アイドルが、階段を上ってくる。
息を切らせ、汗まみれとなって、羽村一政がこちらを目指して薄暗い階段を駆け上がってくる。
トン! トン! と階段を三段飛ばし。アッと言う間に三人の目前にたどり着いた。
そして、アイドルは言った。
「君たち、キャプテン・マンテル・ノーリターンだろ?」
三人は、もちろん声も出ない。
「キャプテン・マンテル・ノーリターンの三人だよな」
もう一度羽村一政が聞いた。三人を見て、笑っている。こぼれる歯のなんと真っ白な輝きであることか。
「俺、羽村一政!」
アイドルが名乗った。「びっくりチップス・メキシカンカレー味」のCMと全く同じ表情だ。
「は? は?? あ、あの、僕は川本良也……」
驚きのあまり自己紹介を始めたカワボンを、羽村が遮った。
「聞いてるよ。よろしくな、カワちゃん」
カワボンの手をギュッと握りしめた。
「カ、カワちゃん? 俺がカワちゃん!?」
「で、君は山之上君だろ、わかるよ。よろしく、ヤマちゃん!」
「ヤヤヤヤヤマちゃん!? 僕がヤヤヤヤマちゃん??」
「そして君がタクオだ。よろしく……タッくん」
「タッくん? オレがタッくん!?」
いきなり現れたアイドルに、シェイクハンドの上フレンドリーをかまされて、三人はもう、思考のスパーク状態に陥っていた。頭をかかえながらカワボンが言った。
「あ、あの羽村さんですよね? この状況全然理解できないんだけど、とにかく俺ら今ものすごく忙しいんで、ま、またにしてください」
再び屋根裏のドアノブを握りしめてた。一気に開こうとしたところを、羽村が後ろから羽交い締めにして止めた。
「カワちゃん駄目だ! ドアを開けるなっ」
「えーっ!? なんで!? なんで駄目なのよ」
羽村がカワボンを抱きかかえて振り回す。タクオと山之上はア然としながら見つめるばかり。「聖地エルサレム」はいよいよ盛り上がっている。カワボンが羽村を振り払った。すごい形相で羽村を怒鳴りつけた。
「やっとたどり着いたんだ。たとえスターであろうと、俺らを止める権利はねぇっ。止めるなら、俺らはこの場でお前を殺す」
カワボンの左右にタクオと山之上がピタリと付いた。睨んだ。三人と一人が向かいあった。
羽村は動じることなく言った。
「カワちゃんよ、俺はもうスターでもアイドルでもねぇ。お前らや、賢三と同じただの十七歳のガキさ」
「……今、賢三と言ったのか?」
「ああ、大橋賢三、ケンちゃんだ」
「賢三を、知っているのか?」
「友達になった。連れて来た。そこにいる」
羽村が階段を指差した。
三人が、ふり返った。
カワボンが、「あ」と声をもらした。
タクオが、ポカンと口を開けた。
山之上は、アワワワと口元を激しく震わせた。
「聖地エルサレム」が高らかに流れていた。
キャバレー「王様」のメキシコ髭《ひげ》の男が、ゆっくりと階段を上ってくる。
背中に、少年を背負っている。
一歩ずつ、踏みしめて、三人の元へと上ってくる。
そしてたどり着き、男は酒臭い息を一つ、吐いた。
「こいつ、足、肉離れ起こしたみてぇでよ。俺がジャンケンで勝ったらオンブしてってやるって言ったのよ。てっきりチョキを出すかと思ったらグー出しやがった。この小僧」
少年を背中から降ろした。
少年が男に頭を下げた。
軽く手を振り、「ヤングはいいねぇ」と言って、髭男は再び階段を引き返していった。
少年が、カワボン、タクオ、山之上をふり返った。
「タイミングで言うならハン・ソロみたいだろ」
少年が言った。
三人がまだ声を出せずにいると、こう付け足した。
「でも、再会のシーンなら『スタートレック』の方が、俺はよかったと思うんだ」
「…映画版だろ。一作目だな」
カワボンが、少年に応《こた》えた。
「カークとMr.スポックが何年かぶりに会うんだよな」
タクオが、補足した。
「ち、地球人のカークは素直に喜ぶのに、スポックは感情を出さないバルカン人だから、すごく無愛想なんだ」
山之上が、説明を加えた。
「そう、なんか全然地味な再会なんだよね」
「そうそう、さりげなくてさ」
「アレが逆によかったよな」
「あ、あのシーンは確かにいい。映画自体はクズだったけどな」
久しぶりに出会った少年たちは、いきなり映画版スタートレックの話を始めたのであった。
「あれはエンタープライズ号への思い入れが希薄な日本人には共感できない映画だよ」
「それにしてはワビ・サビの効いた再会シーンだったぜ」
「つまりスポックのモデルは禅の僧侶《そうりよ》なんだよ」
「しし知ったようなことを言うじゃねぇか」
一瞬でマニアックな議論へと突入していった。
オイオイ! と言う感じで羽村が止めに入った。
「ケンちゃん、お前らいっつもそんな話してんだろ」
あきれたように笑った。
カワボン、タクオ、山之上の三人がハッと我に返った。そして今、夢のように、けれど確かに、目の前に現れた少年の名を、代表してカワボンが口にした。
「賢三」
「うん。カワボン」
「いろいろあったか?」
「いろいろあった」
「俺らもだ」
「うん」
「ふっ切れたのか?」
「いや」
「だよな」
「うん、きっと一生|葛藤《かつとう》は残る。けど葛藤はあるがままに、ちょっとでも歩いていかないとな。たとえ『グミ』の連続ほどに、なかなか前に進まなくったって」
「そうか。よし、話は後だ。タクオの二階でたっぷり聞く。今は、ライブだ」
「ああ」
「賢三、行けるか?」
賢三は応えるかわりに、バックパックを降ろし、中からビデオカメラを取り出した。「なんだ?」とタクオが尋ねた。賢三が、カメラを構えて見せた。
「見つけたんだ。俺の役割りを。俺はカワボンみたいにギターは弾けない。タクオみたいに機材も操れない。歌詞も山之上にはかなわない。でも、俺はお前らの誰よりも映画を観ている。それが俺のちっぽけなプライドだ。だから俺は、これでお前らの映画を作る。このカメラで、お前らのライブを記録する。いい所もヘマしたところも総て録《と》る。録って、編集して、音を入れて、お前らの物語りを映画にまとめてやる。それが俺の、キャプテン・マンテル・ノーリターンでの役割りだと見つけたんだ」
聖地エルサレムがもう終りかけていた。
「そうか、うまく撮れよ」
カワボンが言った。
「リテイクはしねぇよ」
とタクオ。
「ぬぬ、脱げとか言い出すんじゃないだろうな、監督さん」
山之上が言った。
大橋賢三はすでにビデオを回し始めていた。
ファインダーの中で三人の友人がレンズを見ていた。背後には屋根裏の扉。「録画」と赤い文字の出たあたりに店員の顔がニュッとのぞいた。賢三はその表情にカメラをズームアップする。
「何記念撮影やってんだよ、SE終っちまったじゃねぇかよ…アッ!?」
カメラはガク然となったスタッフの表情を切り取った。彼の視線を追って賢三はカメラを大きく右に振った。そこには羽村一政の顔があった。
「すいません。もう一回SEかけてあげてください」
羽村の爽《さわ》やかな笑顔。「えっ!? は、はい!」と思わず応えてしまったスタッフの声が、羽村のアップにかぶさる。
再び流れ始めた「聖地エルサレム」。
賢三は「オウッ!!」と盛り上がったCMNRの様子を捉《とら》えた。自分の右手をレンズの前に差し出して、「みんな、紹介するよ」と言いながら右手を羽村の方向へ持っていく、賢三の右手を|なめて《ヽヽヽ》、再び羽村のアップ。
「知っていると思うけど、羽村一政君だ。ここに来てくれた理由は後で説明するよ」
「ふられ仲間だよな」
また羽村が画面一杯に笑ってみせた。さすが絵になるなと監督≠ヘつくづく感心した。ズームを引く。「よろしく」と手を差し出す羽村と、おっかなびっくり手を出し返したCMNRの全景をファインダーの中へ。
「俺もバンドに入れてくれよ」
羽村が驚くべきことを無邪気に言った。
「君らのバックで音楽に合わせて踊りまくるよ。お前ら見てたら、やりたくなった。俺のゼロからの再出発だ」
カメラをCMNRのリーダーへと向ける。
う〜ん、と考えた表情のカワボン。
「面白いじゃん」とタクオ。
「すすすげぇかもな」と山之上。
「う〜ん、しかしパニックになってしまう」
とカワボン。
「なんか、覆面みてぇのないかな」
羽村の言葉に、賢三はハタとひらめいた。バッグからある物を取り出し、四人の前で広げて見せた。
女子体操着であった。
CMNRの三人が「あっ!」と同時に声を上げた。羽村が尋ねる。
「ケンちゃん、それ、ブルマーだろ」
「うん、山口美甘子のブルマーなんだ」
「マジ!?」
「マジ。羽村君、これ覆面のかわりにかぶって出ていけばバレないよ」
羽村が爆発したように笑い出した。つられて賢三が笑った。しばらくイヒイヒアハアハと笑っている内、CMNRの三人にも移ってしまった。全員が屋根裏の扉の前でバカのように笑い出した。その様子も、揺れながらもカメラは押さえ続けた。羽村が美甘子のブルマーをかぶった時、ファインダーの中に再び店員の顔が現れた。
「そ、そこのブルマーかぶってるやつ、羽村一政……だよな?」
「違います」
カワボンが店員をふり返った。
「違います。メンバーです。遅れて来た俺らのバンドのダンサーです」
「そ…そうか。そうだよな、こんなとこに来るわけねーもんな。……おいお前ら、いい加減ステージへ向かえっ」
釈然としない表情のまま、扉をしめた。
賢三はカメラをカワボンへ振った。
「よし、タクオ、山之上、それに羽村君、賢三、開けるぞ」
カメラ目線で、言った。
それを合図に、全員が扉の前に集結した。
「賢三、ちゃんと撮れよ」
カワボンは羽村と共に扉の右側へ寄った。
タクオ、山之上は左側へ。
その中心で数歩下がった賢三が、カメラを構えている。
聖地エルサレムが再び山場を迎えようとしている。
賢三は後ろに気配を感じ、カメラを180度背中の方へ振った。
荻が微笑んでいた。
「がんばんなよ」と言った彼女の表情を捉えると、再び扉の方を向き直った。
「行くぞ」
と小さくカワボン。
「おう」
タクオ。
「い、い、いつでもっ」
山之上。
「なんでだ俺? 武道館やった時より緊張してきたぜ」
羽村。
「よしっ」
言ってカワボンが屋根裏の扉を一気に引いた。
五人は、モワッ!……という何かが静かにはじける音を、匂いを、同時に感じた。
屋根裏は満員であった。
カワボンを先頭に、タクオ、山之上、羽村、そしてカメラを構えた賢三が続いた。
一列になって客席の端をステージへと歩いていく。
歓声が少年たちを包んだ。
賢三の視界が会場の蒸気で真っ白に曇った。
指でレンズとファインダーの水滴をぬぐう。
ぬぐっても、ぬぐっても、賢三の目の前には真っ白な世界が広がっていた。
その白色が、水滴の曇りなどではなく、ライトによって煌々《こうこう》と照らし出されたステージの輝きそのものであると賢三は気が付いた。
あの輝きを、俺は映像に切り取らなければならないのだ。そう考えた時、彼はこれから待ち構えているのであろうけして楽ではない将来を想い、軽いめまいすら覚えた。
振り返れば、屋根裏の扉はすでに閉ざされ、少年は光の方向へと歩を進めるより他に行き場はないのだと知った。
聖地エルサレムの流れる中、五人は、輝けるステージへと歩き続けた。
ふいにファインダーの中で山之上が客席を指さした。「アレを撮れ」と口が動いている。
賢三がカメラを振った。
堀之田詠子が手を振っていた。
アニメグループが、驚いた顔で五人を見ていた。
ゴボジが、両手を天井につき上げて「うおおおっ!」と声を張り上げている。右手に『人間革命』。左手に『エホバの証人』の小冊子を持っていた。
八木が、ボクシングの構えをしながら、「行けっ! 行けっ」と叫んでいる。
モロ子が、賢三を見つけてうれしそうに笑っている。
黒所の生徒たちの表情を一人一人おさえてから、カメラはまたステージへ向かう五人へと戻った。
聖地エルサレムは後奏に入り、ステージ上はいよいよ白くまぶしく輝きに満ちていた。
まず、カワボンが輝きの中へ足を踏み入れた。
タクオが、続いた。
山之上が、客席との段差につまずいた。タクオが手をさしのべる。その手を取り、登った。
羽村一政は、ピョンと軽快に飛び乗って見せた.すぐに覆面をはずしてしまった。
四人の少年が、ステージの上で光に包まれていた。
大橋賢三は、彼らが光の中にのみ込まれ、やがて真っ白の中に消えて行くさまを、客席からカメラで撮影し続けた。
白く溶けていくその寸前、光の中から四人が賢三を手招いた。
「来い! 賢三。お前も、来い!」
賢三が、カメラを構えたままステージに飛び乗った。
光の中にカワボンの顔があった。タクオもいた。山之上もいた。羽村もいた。
そして、大橋賢三自身がそこに立っていた。
五人の十七歳たちは、自分たちの体が輝ける白色の中にとろけていく様子を、不思議な気持ちで、まぶしそうに、じっと見つめ合うのであった……。
[#地付き]終り
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エピローグ
映画ならばここらでスタッフロールが流れるところだ。
賢三の好きな『アメリカン・グラフィティ』のエンディングにならい、登場人物たちのその後を付記して、筆者はこの青春の物語りを終らせようと思うのだ。
三年後。彼らの多くが、二十歳になっていた。
大橋賢三は黒所高校を卒業した後、映画の専門学校へ入学した。友人たちと自主映画を製作しながら、コツコツとシナリオを書いている。十七歳の少年たちを描いた彼の脚本『グミ・チョコレート・パイン』は映画祭のコンテストで佳作入選を果たし、賢三はわずかばかりの賞金とプラスチックの盾をもらった。特別審査員として山口美甘子の名があり、授賞式後のパーティーにチラリと顔をのぞかせるという話であった。賢三は「バイトがありますから」とパーティーを辞退した。新人監督賞を受賞したゴモという青年に、「美甘子ちゃんに会わないっていうの!? かっわい〜よ〜」と驚かれた。
「まだ……まだまだ、会えません」
大橋賢三はそう笑って、バイト先の渋谷へと会場を後にした。賢三のアルバイトは、キャバレー「王様」の呼び込みである。
カワボンは、高校を卒業後、アルバイトをしながら、いくつかのバンドでギタリストとして活動している。いずれは自身のバンドを結成したいと考えているのだが、めんどうみのいいキャラクターが災いして、どのバンドでもいつの間にかリーダー役にされてしまうのが悩みの種である。「有狂天」や「念仏」「筋肉少年隊」「大江戸世直しの士」「一生」といったバンドたちからも引き合いが来ていた。ついには「自分BOX」の仲間から「俺とツインリードギターでやらへんか〜」と誘われ、週に一度は渋谷屋根裏のステージで弾きまくっている。
タクオは、十七歳の夏休みの途中で高校を中退し、コクボ電気店再建のために昼夜をおしまず働きまくった。二年で借金を返済したどころか、商才を発揮、父と共に激安家電のフランチャイズ「ドンジョバンニ」を興し、一年で都内に三店舗を構える身となった。店長のタクオ自ら健康器具を実演販売。店内にエンドレスで流れる「ドンドンドンドンドンジョバンニ〜」という店歌《ヽヽ》も、もちろんタクオ自身の録音歌唄によるものだ。そしてドンジョバンニの二階はフリースペースになっている。若者たちが漫画やCDを聞き、語らう場として常時開放されているのだ。
山之上は、高校を卒業後、インドを放浪。帰国するやバンドを組んだ。タクオの高校中退により解散したキャプテン・マンテル・ノーリターンの名前を譲り受けた。音楽性は全く異なるものとなった。全員が顔面に化粧をほどこし、中世ヨーロッパ的な衣装に身を包み、退廃的な詩を唄い上げるのだ。
山之上は本名を公開せず自分を「YAMA」と呼んだ。そのユニセックスなコンセプトは多くの少女たちを魅了。ライブでは「YAMA様〜※[#ハート白、unicode2661]」と黄色い声を上げながら続々と観客が失神していった。ビジュアル系の元祖となったYAMAはインタビューでもけして身の上を語ろうとせず、特に高校時代の話になると、逆上してあたりかまわず暴れ出すのであった。
羽村一政は、沢木耕太郎の「深夜特急」に感銘を受け、十七歳で海を渡り、未《いま》だ世界放浪の旅を続けている。バンコクのカオサンストリートで出会った日本人映画プロデューサーに、俳優としての再デビューをさかんに勧められたが、「まだ俺はこの世の何もしらねーから」と、やんわり断り続けている。カルカッタのパラゴンホテルでバッタリ山之上と再会し、ゴアまで旅を共にした。ゴアの浜辺でマリファナを山之上と一緒に試し、ハイを経験するが、それよりネパールの安宿で行った生まれて初めてのオナニーの方が強烈な快感であった。ちゃんと、賢三のアドバイス通り、彼はそれを一本足で立ってやった。その後、プロデューサーはわざわざカシミールまで彼を訪ねてきた。「お前にいいホン≠見つけたんだ」と言って、羽村に一冊の脚本を手渡した。
表紙に、『グミ・チョコレート・パイン』と書かれてあった。その下には小さく「真平に捧《ささ》ぐ」とあった。
真平は死んだ。少年刑務所を出た翌日。飛び出して来た子猫をよけようとして、バイクでトラックに真正面からつっ込んだのだ。
堀之田詠子はスターAV女優山口美夏子として活躍中である。わき毛を汗で濡《ぬ》らしながら画面狭しとのたうちまわる姿を称して、人は彼女を「人間原発」と呼んだ。
しかし将来の目標を尋ねられると「女優になってマッチとセックスしたいんです」と未だに真顔で答えてしまうのであった。
栗里は車椅子のモデラーとして模型業界では知らぬ者のいない存在となっている。彼の作るガンダムのジオラマは高値で取り引きされている。校舎の窓から落下する少年のジオラマを製作してプラモデルイベントに出品したが、「ジョークがきつい」と、これは不評であった。
高校時代からゴボジは宗教ジプシーであった。彼にとってどの教義も真実に思え、またどれもがインチキに感じた。卒業後、ついに本物と出会った。彼は今、あるヨガ・マスターに教えを受けている。視力の悪いその人物は、なんと座禅を組んだまま宙に浮くほどの導師なのだ。彼尊師≠フ語る真理と、来たるべきハルマゲドンへの展望にゴボジは心酔しきっている。
アニメグループは相変わらずアニメの製作を続けている。その内の一人がシナリオコンテストに入賞し、全員気合を入れて「ど根性ガエル」のコスプレで授賞式に出かけたところ、無頼派で知られた映画監督に、「てめ、なめとんのか」と怒られ、全員正座をさせられた。
八木のボクシングは長く続かなかった。今は埼玉の三流大学に入り、冬はスキー、夏はテニスのバカサークルで、週末のコンパだけが人生最大の楽しみだ。就職は絶望的。
モロ子は『道』を追うがあまり、イタリアに留学した。放課後はパントマイムを習い、いつかジェルソミーナのように、大道芸をしながらさまざまな国の道を旅してまわるつもりなのだ。
荻もイタリアへ留学。声楽を勉強中。信じられないことに、モロ子と無二の親友になっている。
やまぐちみかこは平家蟹《へいけがに》と共に消息不明。池袋のヘルスは閉店。跡地はコンビニエンスストアとなっている。
ジーさんはガンで死んだ……と言いたいところだが、ピンピンに健在である。
全身に回った末期ガンを、自ら考案した「どつき合い健康法」によって奇跡的に治してしまったのだ。これは、ガンを患った老人にグローブをはめさせ、若いもんと心ゆくまで殴り合うという荒療治で、日本では全く受け入れられなかったが、フロリダでアメリカン・ジジー&ババーに大流行。著書『ヤマちゃんのボカボカガン治療』は五百万部を突破。ジーさんはラスベガスに招かれてジョージ・フォアマンとエキシビション・マッチを行い、喝采《かつさい》を浴びるが、観客として来ていたブルック・シールズに突如ポ○チンを見せ、罰金五十万ドルの支払いを命じられた。
山口美甘子は、女優としてさらに大成していた。
ハリウッド製作の映画にもすでに何本か出演し、かつ、低予算のアート系映画にも出演を拒まない姿勢は、内外で高く評価されていた。次回作は自らの性体験を綴《つづ》ったエッセイの映画化だ。
十七歳の頃の、大林森宣蔵との性愛を映像化、自らが演じることとなる。
羽村一政との公開された恋物語の裏で、山口美甘子は、二十歳も歳の離れた映画監督と、実は愛し合っていたのだ。スキャンダルはその後すぐに発覚し、大林森は一時的に映画界を干されることとなった。彼は今、復帰作となるはずの、二十歳の青年が書いた『グミ・チョコレート・パイン』というシナリオを映画化すべく、水面下で準備を始めているところだ。
……キャプテン・マンテル・ノーリターンが渋谷屋根裏でライブを行っていたあの夏の日、山口美甘子は監督との二度目のセックスの最中であった。
行為が終ると、美甘子は彼の腕の中で、クスクスと笑った。
「ね、きのう、羽村君にバレなかったかな、私たちのこと」
「笑って言うことかよ」
「大丈夫だよね、あのコ、子供だから」
大林森は応えず、タバコを探している。裸の少女はなおも笑いながら、大林森が取ろうとしたタバコの箱を先につかみ、ポーンと、窓のあたりへほうり投げた。
「コラッ」
「タバコ吸ったら、その後またさせちゃうよ」
そう言って、男の体に長い腕をからめた。
「かわいい監督」
髭《ひげ》の生えた口元に何度も唇を押しつける。
「羽村のことは言うな。俺は、罪の意識を感じてんだからよ」
「あたしたちの仲をカモフラージュまでさせちゃってるもんね」
「あの小僧にも、悪いことしたなと思ってんだ」
「誰? ああ、大橋君? あのコね。だからビデオカメラあげちゃったの?」
「そうだ。羽村どころか、俺らがこんなことになっちまってんのを知ったらあいつは耐えられんだろう。悪くてな、せめてカメラをプレゼントしてやった。罪ほろぼしっつーか…」
「あのコたちどうしてんだろうね、今ごろ」
「羽村は賢三を捜しに行った」
美甘子が体を離した。裸のままベッドの上にあぐらをかいた。少女の肌の上で、セックスによってにじみ出た水分は玉状となりコロコロところがり落ちていく。逆光でも美甘子の裸体は、ヌルヌルと輝くようであった。大林森は、またもう一度彼女が求めてきたら、俺は絶対に拒めないだろうなと心で思う。一度どころか、何度でも、命を奪われるまで。山口美甘子から逃れられるオスなどいるものか……。
「だからダメなんだよ、あのコたち」
「何が? 何がダメなんだ?」
「結局、友だち同士でつるんで、仲よしこよしのぬるま湯の中に逃げこんでるだけでしょう? 何の解決にもなっていないと思うの。美甘子と勝負したいんだったら、美甘子に堂々と向かってこなくちゃ。宣戦布告とか言って羽村君もやっぱり逃げたのよ。賢三君なんか、論外よね」
「逃げているんじゃない。お前が今いる場所があまりに遠いから、ならば思いっ切り遠まわりをして、苦しんで、学んで、そうやって追いかけてみようとあいつらは決めたんだ」
美甘子は聞いていないようだった。落ち着きの無い子猫の動きで、再びベッドにもぐりこもうとした。大林森は咄嗟《とつさ》に手で少女の体を制した。
「何よ?」
「もう服を着ろ。俺らもそろそろバレる。今日はもう帰れ」
山口美甘子がマンションを出ると、今日もとろけるばかりの真夏の午後であった。
変装用の眼鏡をかけて、美甘子はかげろうの立つ街並を歩いていった。
ふと、後ろをついてくる気配を感じ、そっと振り向いた。
五〜六歳の男の子が見上げていた。興味深そうな表情だ。
「なぁに?」
「山口美甘子ちゃん……でしょう?」
「……どうかな、似た人かもよ」
ごまかして去ろうとするが、トコトコとついてくる。またふり返り、「じゃあね、バイバイ」と手を振った。それでも二、三歩歩いて振り向くと、背後で見上げながら笑っている。
「ついて来ちゃ駄目よ」
すると駆け寄ってきた。
「困っちゃったなぁ」
美甘子はハタと思いついた。しゃがみ、子供と同じ目線になって言った。
「じゃあ、美甘子お姉ちゃんとグミ・チョコ遊びしよう」
「グミチョコ……?」
「じゃんけんして、グーだったらグミで二歩。チョキだったらチョコレートで六歩。パー出したらパインで三歩進めるの。行くよ」
美甘子が手を挙げた。子供も連られて手を挙げる。
「じゃ〜んけ〜ん……お姉ちゃんグー出すようっ」
言ってから、チョキを出した。子供はついパーを出してしまった。
「アハハハハッ」
美甘子はうれしそうに笑って、「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト!!」と言いながら六歩前に進んだ。
足の長い少女の六歩は、アッと言う間に子供との間に長い距離を広げた。
「みかこちゃんズルイ」
子供が大声を上げて地団駄を踏んでいる。
「じゃあ、もう一回やろう! じゃ〜んけ〜ん」
美甘子がまた手を挙げた。
「お姉ちゃん今度こそグー出すからねっ、ポン!」
しかしまたチョキ。子供はパー。
アハハハハハッと笑って、美甘子は真夏の空気を切るように、「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」と言いながらポーンポーンと進んでいった。六歩飛んで歩いて、その後はふり返りもせず、真っすぐに歩いていってしまう。男の子はからかわれたことにやっと気が付き、あわてて彼女の背を追おうとするが、すでに山口美甘子の後ろ姿は、どうしたって追いつくことのできない、遠い遠い、はるかな先に、色のにじみのように、ボンヤリとかすかに見えるだけになっていた。
[#地付き]「グミ・チョコレート・パイン」完
[#改ページ]
あとがき
‘92年に、読み切りのつもりで書いた小説が、いつの間にか三部作となり、11年もたった‘03年、ついに完結しました。
「グミ編」「チョコ編」は‘03年現在角川文庫で発売中。とは言え、この「パイン編」からまず先に読んでくれても、まったく問題は無いです。最初にパイン編を読んでから、チョコ、グミとさかのぼっていくのも面白いかも知れません。
当初は「自伝的小説」のつもりでしたが、主人公たちの自由奔放な活躍により、私個人とはスッカリ別物の青春の物語りになってしまいました。楽しんでください。
‘03年現在、私は「特撮」というロックバンドを率いて活動しています。「爆誕」「ヌイグルマー」「Agitator」ベスト盤「始めての特撮」が発売中。そして‘03年12月17日には新作「オムライザー」が発売されます。また、フォークスタイルでもソロ活動を行っています。ぜひ一度、ライブに遊びに来てください。
また、「グミ・チョコレート・パイン」は、佐佐木勝彦、清水沢亮氏によって漫画化されています。講談社より現在三巻まで発売中。なんとこちらはジーさんが登場しないんだよなあ。
本書を出すに当って尽力してくださった方々、角川書店の佐藤氏、宮脇氏。イラストの江口寿史さん。そして何より、約10年もの間、私と一緒に遊んでくれた、賢三、カワボン、タクオ、山之上、ジーさん、羽村、真平、大林森監督、ライブハウスのバンドマンたち、黒所高校のみんな、やまぐちみかこや平家蟹《へいけがに》、キャバレー「王様」の店員からロケ先のスタッフ一同、質屋の老人に至るまで、本当にありがとう。
山口美甘子、君には愛をこめて、ありがとう。
二〇〇三年十月
[#地付き]大槻ケンヂ
[#改ページ]
文庫版あとがき
童貞少年のトホホな日常を、とバカ話のつもりで始めた小説が、気付けば全三巻にも及ぶ大長編になっていました。作中に登場する少年少女たちのいずれもが、作者さえ思いもよらぬ行動につっ走り、それぞれが、予想もつかなかった成長を遂げて、小説の完結したこの後も、一人一人似て異る悶々《もんもん》の日々を送り、そうしてやがて大人になっていくことでしょう。
大橋賢三を中心に、彼らの今後を、小説に著すという方法で、これからも僕は見守り続けていこうかとも考えています。続編、外伝、番外編といったものを書いてみたいということです。ちょっとしか出てこなかったキャラクターのその後さえ、とても気になる…グミチョコは僕にとって、そんな特別な位置にある物語だからなのです。
‘06年10月現在、グミチョコは佐佐木勝彦さん・清水沢亮さんの作画で、「グミ・チョコレート・パイン」として全六巻の漫画にもなっています。漫画版「グミチョコ」は台湾でも「青春巧克力」というタイトルで発売になり、台湾の悶々少年たちから大いに共感を得たとのこと。また、ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督‘07年秋公開作品として、映画化が決定しています。ケラさんはチョコ編に登場する「ケロさん」のモデルでもあります。いや〜人生ってなわからないもんだね。
まったく人生ってのはどうころがるかわからない。いつになるかもまた見当つきませんが、大橋賢三や山口美甘子のその後を綴った作品で、皆さんまたお会いしましょう。長い本を最後まで読んでくれて本当にありがとう。
でも、まだまだ続くからね。
二〇〇六年十月
[#地付き]大槻ケンヂ
本文中に下記楽曲の歌詞を引用させていただきました。
「学校の先生」 作詞:山上路夫
「宇宙戦艦ヤマト」 作詞:阿久悠
「ウキウキWATCHING」 作詞:小泉長一郎
「メシ喰うな」 作詞:町田町蔵
「君に、胸キュン。─浮気なヴァカンス─」 作詞:松本隆
「トランジスタ・ラジオ」 作詞:忌野清志郎
角川文庫『グミ・チョコレート・パイン パイン編』
平成18年11月25日初版発行
平成19年11月10日6版発行