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大槻ケンヂ
グミ・チョコレート・パイン チョコ編
目 次
第1章 美甘子の旅立ち
第2章 踏み切りの向こう側
第3章 渋谷屋根裏
第4章 サタデーナイトフィーバー
第5章 ナスターシャ
第6章 リテイク
第7章 哀愁の中央線がゴゴゴと走るのだ
第8章 We are not alone 我々は孤独ではない
第9章 どこへ行ける? どこへ行こう?
第10章「美甘子大ピンチ!」
第11章 発表会
最終章 たとえ地獄が凍りついても
あとがき
文庫版あとがき
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〈主な登場人物〉
大橋賢三[#「大橋賢三」はゴシック体]
『グミ・チョコレート・パイン』の主人公。都立黒所高校二年生。アイドルのグラビアをこよなく愛するオナニスト。自分には人と違った何かがあると思う彼には、学校の連中はくだらない俗人間に見えている。彼は映画やロックで通俗な連中との差別化を図ろうとし、友人のカワボン、タクオとノイズバンド結成を決意、後に山之上も加える。一方で、名画座での偶然の出会いから親しくなった山口美甘子に、秘かに思いを寄せている。美甘子が学校から去った今、賢三のバンドヘの思いは一層高まるのであった。
カワボン[#「カワボン」はゴシック体](川本良也[#「川本良也」はゴシック体])
賢三の同級生。賢三と同様、自分には何か人と違うものがあると思っている、のんびりした性格の知性派。賢三、タクオとつるんでいて、しばしば脱線しがちになる彼らをなだめる役回り。
タクオ[#「タクオ」はゴシック体](小久保多久夫[#「小久保多久夫」はゴシック体])
賢三の同級生。熱しやすく冷めやすい性格で、けんかっ早い。彼の両親は「コクボ電気店」を経営していて、店を閉めた後は本宅に帰ってしまうため、タクオは「コクボ電気店」の二階を占領して自分の城にしており、そこが彼らのたまり場になっている。
山之上和豊[#「山之上和豊」はゴシック体]
賢三の同級生。じーさんの孫。学校では変人扱いされている山之上だが、実はもの凄い数のビデオと本のコレクターであり、変態的オナニストであった。賢三たちのブルマー作戦にはまり、渋りながらも(内心は嬉しいのだが)バンドのメンバーに加わることになった。
山口|美甘子《みかこ》[#「山口美甘子」はゴシック体]
賢三の同級生。黒所高校一の美人で胸が大きい。学校では「くだらない人たち」に合わせてふるまっているが、心の中では自分には人とは違う何かがあると思っている。映画監督の大林森宣蔵にスカウトされ女優になることを決意、学校から去る。
羽村一政[#「羽村一政」はゴシック体]
人気アイドル。美甘子の相手役として、撮影中の映画『I STAND HERE FOR YOU』で共演。最初は美甘子に嫌われていたが、彼のさまざまな言動が彼女に変化をもたらし、好意を抱かれるようになった。
じーさん[#「じーさん」はゴシック体]
山之上の祖父。練馬パレス座で賢三たちと出会い、以後突拍子もないところで登場。孫がバンドのメンバーになることを望み、賢三たちと引き合わせた。
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第1章 美甘子の旅立ち
まだ肌寒い四月の朝。
空は青く。地にはキャベツ畑があった。
東京も案外に田舎である。新青梅街道より北側、環状七号線より左側、つまりは都立黒所高校の周辺には、薄汚れた青いボールを思わせるキャベツ玉がポコンポコンと畑に散らばる光景などというものもまだあったりする。
その、キャベツ畑の道を並んで走る二台の自転車があった。
一台は、通称オバチャリと呼ばれる婦人用自転車で、ペダルの具合が悪いのか運転手がこぐごとにギーギーと嫌な音をたてている。もう一台は対照的にサドルの高いサイクル車であった。
自転車をこいでいるのはどちらも少年だった。黒い学生服姿の高校生である。
「遅刻だ、明らかな遅刻だぞ、山之上」
と、オバチャリに乗った少年・大橋賢三がのんびりと言った。
「か、関係ねーよ」
スポーティーなサイクル車がどう見ても不釣り合いな山之上和豊がぶっきらぼうに答えた。
話すようになってまだ二日しかたっていないというのに、賢三は山之上の無愛想にはもう慣れていた。
「そうか、じゃあホームルームはすっとばして一限の直前に忍び込むか」
賢三のつぶやきにも山之上は何も答えず、額にたれた油っぽい前髪を払っただけだった。賢三はそれでもムッとはしなかった。おととい、山之上と賢三は、タクオ、カワボンらと飲み明かし、昨晩もコクボ電気店の二階で、「スゲーハードなノイズバンド」結成について語り合っているのだ。山之上の一見無礼なしぐさも気にならなくなっていた。そんなことより、賢三には今、気にかかって仕方のないことがあった。
賢三はなるべくゆっくりとペダルをこいでいた。
畑を過ぎると川を埋めたてた細い道に出る。道の果てに、都立黒所高校の校舎が見えた。
「おお、また出たな黒所高校」
自転車を止めた賢三は、風車に立ち向かうドン・キホーテのようなことを言った。
「毎日せこせこ学校行って何の人生なんだろうな」
賢三が、芝居がかった大きなため息をついた。くだらん黒所の連中とオレは違うと思いながら、映画館の闇の中へ逃げることと、少数の友人とくだを巻くことしかできない彼の、それは偽らざる本心だった。
特に今日は学校へ行くのが憂うつだった。
教室で山口美甘子を中心に展開されるであろう騒動を思い浮かべると、何とも言えぬ嫌な気持ちになって、ペダルをこぐ足がズンと重くなるのだ。
美甘子は、高名な映画監督に見そめられ、次回作の主演女優としてデビューすることが決定していた。美甘子が女優になるのだ!
「生きることってグミ・チョコレート・パインだと思うの」
そう賢三に語った美甘子は、いきなりのチョキ十連発で、もとから後方にいた彼を、さらに何十キロもの距離を引き離してしまったのだ。もし賢三がケーシー高峰であったなら、「そりゃないぜセニョール!」と悲鳴を上げるであろう、これは最低の敗北である。
しかし賢三は思った。
『それでも、オレはいつか美甘子に追いついてみせるのだ』
今や美甘子の足音は、彼女の使うシャンプー「薔薇園」の香りと共に、賢三の後方から近づきつつあった。あともう少しで彼女は、口ばっかりで何もできぬ情けなき彼を再び抜き去るだろう。賢三を「周回遅れ」にしてしまうのだ。「それだけは避けねば。その前に、オレは何かをやらねばならん、バンドだ、バンドをやるんだ」と、賢三は思った。
「きょ、今日は面白い日になるぞ、大橋」
青空の下、そびえ立つ黒所を見ながら山之上がいった。
「面白いだと?」
「山口美甘子が『GORO』で脱いだだろ。黒所のバカ共が騒ぐぞ、生徒も教師も」
賢三にとって、何より恐ろしいのはそのことだった。
今日、美甘子は間違いなく黒所中の人間からなぶられ蹂躙される運命にあるのだ。
美甘子がGOROで脱いだのは、事件としては二次的なことだ。本当の問題は彼女が退屈な日常からのワープ的大脱出を試みたその勇気と行動なのであり、裸身をカメラの前にさらしたことは、結果の一部にすぎないのだ。
『だが黒所の中で誰がそんなことまで理解できるというのだ』
脱いだ! 美甘子が脱いだ。生徒も教師もどいつもこいつも、「美甘子が脱いだ」という、事件の薄皮の部分だけをぺろりとめくり、めくっただけで中身を見ようともせず、暴き立て騒ぎ立て、完膚なきまでに美甘子の心をいじくりまわそうとするにちがいない。生徒達はニキビの脂でぬめるその手で、教師たちは安月給のために握るチョークの粉がこびりついたその指で、ふくよかな胸の奥で静かに息づいている美甘子の心をいじくりまわすのだ。
『オレの美甘子が奴らの手で犯されようとしているのだ!』
いつから美甘子がお前のものになったんじゃい!?……と、一応つっ込みのツボは押さえつつ、賢三の話をもう少し聞こう。
『美甘子が奴らの安っぽい好奇の目にさらされた時、オレは美甘子に何がしてやれるだろうか?』
賢三は、その時に自分がどんな行動をとるのか、見当もつかなかった。あるいは何もできずに見て見ぬ振りをするかもしれない。
もし美甘子への思いが本当に、世に言われる恋≠ニいうものであるなら、それこそドン・キホーテのごとく、美甘子を守るべく自分は行動をおこさねばならないのではないか?
できるか? オレに? それが。
「バ、バカ共が騒ぎ出すぞ。大林森宣蔵の映画で主演女優をやるってことが、どんだけスゴイことかなんてわかるわけがない連中だ。つまんねー学校にゃあ、絶好のゴシップだもんな。騒ぐぞあいつら、ヒヒヒ」
仲間になったとはいえ元は「うすら不気味の山之上」である。おまけにじーさんの孫だ。真剣に苦悩する賢三の横で、イヒイヒと奇怪に笑う山之上。
「が、学校ってさ、売れない役者を集めた劇団なんだよな。みんな主役になりたいんだ。何か事件が教室でおこるだろ、でも誰も本質は見てないんだ。関係ないんだ。事件を舞台に見たててさ、自分が自分の演技に酔えればいいだけなんだよ、ヒヒヒ」
「その意見には同意するけどさ、ヒヒヒってのやめろよ。気味悪いなあ、お前」
「ヒヒヒ、ボ、僕は奴らの下手な芝居を見るのが好きなんだ。あいつらバカだからさぁ、演技すればするほど逆に自分の本当の姿をさらしてるってことに気づかないんだよね」
イヒヒヒヒヒ、と山之上はまた笑った。
「ホラ、府黒松子が自殺しただろ、あん時なんかスゴかったよなぁ。府黒と一言もしゃべんなかった連中がよぉ、『相談してくれれば』なーんて言って泣きやがってよぉ。自分は偽善者ですって言ってるよーなもんじゃねーかよ、ヒヒヒ」
「今日はどーゆーことになるかな」
「大騒ぎだろうなぁ。同級生が裸になって女優になるんだぜぇ。まずはメス共の嫉妬、これにつきるな」
美甘子が、モロ子を代表とする若きおばさんと化した女生徒たちの嫉妬視線ゲロゲロ攻撃を一身に浴びせられるのか=B想像しただけで賢三はめまいがした。
どうする賢三、美甘子を守るべき行動をおこせるか? 君に?
「も、もちろん男共の関心は美甘子の体だ」
山之上に言われるまでもなくそれは予想できた。黒所中の男共、教師までもが、美甘子の制服ごしに裸体を想像して、鼻息をチンパンジーほども荒くするのは火を見るよりも明らかだ。賢三とて、これが美甘子でなければしっかりチンパン化したことだろうが。
凶暴な猿化した野郎共のエロ視線集中砲火に美甘子がさらされるのだ。
賢三、君は守ってやれるのか? お猿の群れから美甘子を? ウキキー。
「や、山口は多分、退学になるだろうなあ」
都立黒所高校から山口美甘子の姿が消える。
賢三の、命をも救う最後の一葉がハラリと落ちることになるのだ。
『クリープを入れないコーヒーなんて』と言ったのは、あれは誰だったか? 美甘子のいない黒所なんて……賢三にとって一体何の意味がある?
無[#「無」に傍点]だ。無[#「無」に傍点]じゃないか。
賢三は自己に問うた。
『できるか? オレに? 美甘子を守るためにオレは行動に移れるか?』
筆者も問う、なれるか君は? ドン・キホーテに?
賢三の予想どおり、黒所高校二年C組の教室は、若きおばちゃんと発情したチンパンジーの群れで上を下への大騒ぎ状態であった。山口美甘子を肴に、教室の至るところで地獄の井戸端会議が開催されていた。いくつかのグループにそれぞれ分かれ、(GOROを中心に置き、眉間に皺を寄せる者あり、鼻の下を伸ばす者あり、ヘラヘラ口を広げる者あり、各自顔面の筋肉をフルに活用して同級生のゴシップを楽しんでいた。
美甘子の姿は教室に無かった。
もう一限はとうに始まっているというのに、教師の姿もまた無かった。
「オイ! オイ! 大橋、山之上」
教室へ入った途端、賢三と山之上は声をかけられた。ゴボジというあだ名の、マラソンだけが取り得の生徒だった。
「おめーら見た? 知ってる? これこれ!」
ゴボジは本当に猿のように歯をむき出し、手に持った(GOROを賢三たちにつき出して表紙をペシペシと叩いて見せた。
「ゴボジ、よせよぉ、山口のページが折れちまうだろう」
「折り目入ると後でコキづらくなるだろう」
ゴボジの背後で八木たちがゲハハハハと笑った。
「山口山口、山口が載ってんだよ、裸、グラビアによぉ! モロ出しだぜ、山口のやつ」
ゴボジは目茶苦茶な語順でまくしたてると、ゲゲゲゲと笑いながら去っていった。
賢三は気が滅入った、と同時に、胃のあたりにシクシクとした痛みを感じた。
すでに美甘子は、くだらない連中によって心を土足で踏みにじられ、傷つき、怒りとくやしさの涙を流しながら帰ってしまったのではないか、と賢三は思ったのだ。
「勇気あるっていうかぁ、いーんじゃない、きれいに撮ってもらってるしぃ」
「美甘子ぐらい美人ならねえ、いーんじゃん」
モロ子を中心とする派手目グループの女子たちに、いつものヒステリーじみた勢いはなかった。彼女らは冷静ともアンニュイとも、あるいはふてくされているのかともとれる顔をして語り合っていた。彼女たちの美甘子に対する建て前は、「写真もポルノ風じゃないしぃ、なんかよく知らないけどいー映画に出るみたいだし、いーんじゃん、がんばってほしいよねぇ、同級生としては」といったところだろうか。だが本音はどうだろう。言わずもがな、「なんで美甘子だけ、納得いかないわよねー」である。
異性と自分との距離関係を何よりの価値基準、自分のステイタスと妄信する彼女たちのこと、いい男が沢山いるであろう世界へ級友がただ一人飛翔することをどうして快く応援できようか。
普通人グループの女子たちはどうであろう。
「美甘子、有名になったりするのかなあ」
「マッチにも会えるのかなあ」
マッチにも会えるのかなあ[#「マッチにも会えるのかなあ」に傍点]……彼女たちの認識は、せいぜいこの程度だ。美甘子の映画出演までの決断。それに至るまでの想いなど眼中にはない。芸能ネタの一つなのだ。
「トシにも会えるのかな、いーよねー」
彼女らの呼ぶトシなる人物が、果たして田原俊彦のことなのか、それとも近江俊郎のことなのか筆者はよく知らない。とにかく、マッチやトシに会えるかなあ[#「マッチやトシに会えるかなあ」に傍点]……その程度の認識で美甘子の冒険を論じ合っていた。かえって罪重いゾ、と賢三は思った。
では、根暗グループの女子たちはどのような反応を示していただろう。
「……すごいよね……ところでマクロスがさあ」
「……きれいに撮れてるよね……ところでガンダムのね」
彼女らとて、一見キラビヤカなショウビジネスへの憧れがないわけがない。いやむしろ、客観的に見て美しいルックスとは言いかねる者の多い彼女らは、逆に人一倍憧れも強いのではないだろうか。しかし、現実よりも浮き世離れしたアニメーションの世界にできるかぎり逃避しようと試みる少女たちだ。級友がただ一人、ターボを全開してブッちぎり独走態勢に入ろうとしている。その現実さえも彼女たちは直視したくはなかった。気にはなりつつも、おくびにも出さず、彼女達はいつもよりトーンを上げて、マクロスやガンダムの話に興じるのであった。聞きたくない話を打ち消すように。
さて、「奇人」は美甘子の一件をどう考察しているのか。入学以来一ことも口をきかない荻和江は、
「……………………」
いつものように無言だ。もしかしたら彼女の内面では、山之上のように、「イヒヒ、イヒヒヒヒヒヒ」という、他者を分析した上での嘲笑が響き渡っているのかもしれない。とりあえず奇人は奇人らしく、黙して語らず。
女生徒に対し、男子たちの反応はどうだろう。
こちらはもう単純明快。説明するまでもない。
いずれのグループも、彼女の大英断に対して、まったく同じ反応を示した。
ただただ、美甘子のたわわなオッパイの魅力に煩悩を刺激されまくり、エロと化し、猿と化し、エロ猿と書いてバカ。|エロ猿《バカタレ》……とでも表記すべき集団性欲ヒステリーの発作を起こしていた。
「スンゲー! スンゲーよ! バッチリだよ、おお! 見ろよこの胸、デケー! スンゲー」
「デケー! デケー! デケー!」
「スゲー! デケー! デケー! 乳首ピンク!」
「あ! ああっ!(と、うめく)」
「何だよ!?」
「陰毛見えてねぇ、これ!(と、目をむく)」
「マジ!? マジ!? マジマジマジマジ!?」
「マジ! マジ!」
「マジかよ、陰じゃねーの」
「ちがうよ、毛じゃんかよ、これ!」
「マジ!? マジマジマジマジマジマジマジ!?」
「フカシてんじゃねーよ、陰だよ(と、本気で怒る)」
「フカシてねーよ! 毛だよ毛! ちぢれてるもん(と、本気で反論する)」
「んまっじっかっよおおうう……(と、言葉を失くす)」
男とは本当にバカである。特に少年は、エロアイテムを目前にした時、どんなパーソナルの者であっても思考が停止し、本能のみが人格を支配し、原始回帰を始め、猿と化してしまう単純なメカニズムでできているものなのだ。
「お、大橋」
山之上が賢三に声をかけた。
「僕の『焼き肉屋平等論』を覚えてるか」
「あれか、焼き肉屋じゃみんな赤ん坊化してしまうっていう……」
「そうだ。けど男に限って言えば、焼き肉屋より同級生のグラビアのほうが平等化を完璧にするみたいだなあ」
確かに、美甘子のグラビアは男子生徒たちを平等化していた。派手目グループも普通人グループも、そして根暗者たちも、わけへだてなく美甘子のヌードについて語り合っていた。入学以来、初めて口をきいたのではないだろうかという組み合わせがあちこちで見られた。
「きょ、共犯者意識だよ」
山之上が言った。
「なんだって?」
「共犯者意識が奴らを平等化させてるんだ」
「また、へ理屈こねだしたな」
「へ理屈じゃないよ。に、人間てのはなぁ、同じ罪を犯すと仲間意識を持つんだ」
「罪ってなんだよ」
「オ、オ、オナニーだよ。イヒヒ」
「オナニー……」
「ああ、このクラスの男全員、い、いや、恐らく黒所の男共は全員、や、山口でこいてるはずだ。イヒヒヒ、顔見知りでこくのはたまらねー興奮だからなぁ。ざ、罪悪感が増していーんだよな。『こ、こいつら全員山口でぶっこいてるんだ』ってさぁ、口には出さなくてもみんなそれはわかってる。み、みんなが同じ罪の意識を抱えて登校しているのを知っている。そうするとそこに共犯者意識が生まれるんだなあ。一体感が発生するんだ」
そうかもしれんと賢三は思った。それにしても、黒所男子生徒に平等な一体感を与えた事件が、学園祭の感動でも、体育祭の熱狂でも、まして受験の試練でもなく、山口美甘子のヌードによる共通オナニー体験であるとは、全国の教育者は、これを聞いたら辞表を書きたくなるのではないか。あの世の福沢諭吉でさえも。
でも、男なんて実際そんなもんである。
「こ、これを題して!」
山之上はそこで前髪を払い、言った。
「共通一次おヌード平等諭」
できることなら、オレも共通おヌードでオナニーをぶっこき、一体感を得たかった。と、賢三は思った。美甘子ではオナニーはせんと決意した手前、彼は歯ぎしりする思いでこらえたのだ。
美甘子に電話も入れていなかった。
こちらのほうは、思うところあってこらえたのではない。できなかったのだ。
電話でも話をしたら、何か余計なことを口走ってしまいそうで、かけることができなかった。言いたいことはいろいろあった。
「すごいじゃないか」と祝福したくもあったし、「なんで教えてくれなかったんだ」と問い詰めたくもあった。「オレもいつかアッと言わせてやるぞ」と宣戦布告してやりたいし、「まいった、君には負けた」と頭を下げたいような気もしていた。
複雑な思いが交錯して、かけられなかったのだ。
情けない、実に情けない賢三である。
「いつか美甘子に追いついてみせる」という決意はどうしたのだ。この弱っちい小犬野郎に、大活躍の日などくるのだろうか。
「美甘子がもどってくるよ」
女生徒の一人が言った。
教室中の視線が扉に向けられた。
扉は勢いよく開いた。
山口美甘子は、自分にむけられたたくさんの視線に少しだけたじろいだ様子だった。
どういう表情をしようかと悩んだようだった。
うつむき、後ろ手に扉を閉めた。
顔を上げると、少女は笑っていた。
久しぶりに会った親戚のおじさんに照れてしまい、曖昧に微笑む幼女のような、賢三が初めて見る表情だった。なんだ、好奇の目に耐えきれず帰ってしまったわけではないのか、と賢三は少しホッとした。
「どうだった? 呼び出されてたんでしょ」
モロ子が聞いた。
美甘子は答えず自分の席へと歩いた。
「ねぇ山口ぃ、どうだったんだよ?」
イスに座った美甘子にモロ子はわざわざ駆け寄って尋ねた。女生徒が級友を名字の呼び捨てで呼ぶのは、黒所では逆に親しさの表現になっていた。モロ子は、こんな時に友情を示すことで、美甘子から言葉を引き出そうとしていた。若年性おばさん症によるゴシップ好きを、友達を気づかう振りでごまかそうとしていた。
山之上がボソリと言った。
「山口ぃ、何言われたのぉ? 休学くらった?」
生徒たちは雑談を交わしながらも耳はダンボになっていた。美甘子の返答を聞きのがすまいとしていた。
美甘子はモロ子の顔を見て、ニッと笑った。
目のなくなってしまう、いつもの笑顔をしてみせた。
そしてモロ子に対してだけ告げるには大きすぎる声で、明るく言った。
「退学になっちゃった」
教室がシンとした。
一瞬、全ての人間が黙った。
そしてそれからすぐに、ざわざわと波のよせるように騒がしくなった。
「えっ、うそ、うそでしょう?」
「何だよ、それー」
数人の女生徒たちが美甘子の周りに集まった。
「は、始まった、クサイ芝居が始まった」
山之上がさもうれしそうにつぶやいた。
「退学? マジかよ」
「マジだろ、本人言ってんだからさぁ」
「マジ!? マジかよぉ」
|エロ猿《バカタレ》たちも、相変わらずボキャブラリーは少ないながら驚いていた。
賢三はと言えば、とりあえず茫然としていた。
口をポッカリ開け、美甘子を見つめながら、
「助けなければ、今こそオレが守ってやらねば」
と思うのがやっとだった。
「一体どうしたら美甘子を助けてやれるのだ?」と彼は思った。
「校長まで出てきてさ、校風に君は合わない、とか言われちゃった」
美甘子は明るい調子を崩さずモロ子たちに語った。美甘子のそばに立っていた女生徒の一人がポロポロと涙をこぼし始めた。
「ヘッ、泣く芝居は楽だもんな」
と、山之上。
校長……あの戸蔵とかいうハゲた親父を殺せばいいのか……いや違う、無知なつっぱりではあるまいし、そんなことがなんの解決にもならないことぐらいはわかる。
「何言ってもダメ、先生みんな馬鹿なんだもん。途中からしゃべるのやめちゃった、私」
「山口ぃ、やめないでよう」
泣き出した女生徒が美甘子の背後から腕をまわし抱きついた。美甘子は肩ごしに彼女の頭をなでて、「よしよし」と言った。
オレが職員室に乗り込んで教師たちを説得するのは不可能か? 美甘子の決意が、単なるミーハーな気持ちから来たものではないことを懇々と説明するのだ。何だったら焼き肉屋平等論や共通一次おヌード平等論を引き合いに出したっていい、オレが奴らを論破してやるのだ。
冷静に考えれば、所詮いかなる手段も無理なことはわかる。ただこの時の賢三の気持ちは、ドン・キホーテの無謀さと同質のものだった。
「でもしょうがないんじゃん、脱いじゃったらねぇ。やっぱ退学だよ、美甘子だって覚悟してたんでしょう」
堀之田詠子という、小猫みたいな目をした女生徒がのんびりと言った。
「ちょっと詠子、あんたその言い方ってないんじゃん!?」
モロ子が怒鳴った。
「ヒヒ、本格的に始まったぞ、大橋。安っぽい芝居だぁ」
山之上がヒヒヒと笑う。
「遊びで脱いだわけじゃないんでしょう」
詠子が言った。彼女は自称モデルだった。モデルクラブに入っていて、時々学校に内緒で仕事をしているとのことだった。一度、賢三は彼女を雑誌で見たことがある。「ローンズ大富豪」という怪しげなサラ金の広告で、ひまわり柄のビキニを着た彼女が足をぱっかりと広げていた。
「覚悟しなきゃタレントなんかやれないもんね」
「タレントったってね、詠子みたいなインチキとちがうんだからねぇ」
モロ子の言葉に詠子が切れた。缶ペンケースをモロ子めがけて投げつけた。
「ちょっと、やめてよ」
美甘子が初めて見せる気弱な表情で言った。
「やれやれ! タイマン張れ!」
八木がはやし立てた。
「演じてる、ヘヘ、自己陶酔だぁ」
と山之上。
「モロ子ふざけんなよ」
「何だよ」
モロ子と詠子が胸ぐらをつかみ合う。
「やめなよ、やめなさいよ」
「やれ! 殺せ!」
教室中が沸いた。
みんなギラギラとした目をしていた。飼いならされていたはずの犬の群れが、ほうり投げられた肉塊を見て、いきなり一斉に野生化したかのようだった。退屈な日常に、ふいに出現した級友の退学騒動は、まったく彼らにとって血のしたたる餌だった。
賢三にとって、美甘子が犬の群れの餌にされるのはたまらなかった。
オレよ! 何とかしろ!……と、賢三は思いながら、実際には、大騒ぎの教室でオロオロするばかりだった。
「おい山口ぃ、おめえ毛ぇ見えてるぞう」
騒ぎのドサクサに紛れてゴボジが叫んだ。
男子生徒の数人がゲラゲラと笑った。
「こりゃ陰じゃねぇよなあ、毛だよなあ、こりゃあ!」
そう言ってゴボジは自分もゲゲゲゲと笑った。
美甘子は、モロ子たちのケンカを仲裁していて、多分ゴボジの言葉を聞いてはいなかった。彼女の心が大馬鹿者の言葉で傷つけられることはなかったろう。だが、賢三にはしっかりとゴボジの言葉が耳に入った。
自分の中で、何かとほうもない真っ白なものが、ものすごいスピードでグングンふくらんでくるのが賢三にわかった。何だ!? これは!? 自己に問わずともすぐ理解した。怒りなのだこれは! 十七年生きてきて初めて感じる、わがままや口惜しさからくるのではない、理屈とは別のところで爆発する本能の怒りだ。愛する美甘子を口汚く罵った者に対し、許してはならないと気づいた時、初めてそのスイッチが押されたのだ。
ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴと白い怒りの球体は賢三の中でふくらみ、彼の体内を飛び出し、逆に彼をスッポリと包んだ。
やおら賢三は歩み出した。
数メートル離れたゴボジに向かって。
すべての物が賢三の目にはスローモーションに見えた。
ゴボジ! 許さん!
もう何年もケンカなどしたことがなく、それよりケンカで勝ったことがないというネガティヴな事実は頭の中から消し飛んでいた。
許すまじゴボジ! 我が制裁うけてみよ!
賢三の手がゴボジに近づいた。
指先がゴボジの背に触れた。
死ね! ゴボジ!
賢三はゴボジに体当たりをくらわすべく、グッと踏み込んだ。
「ああっ! うひゃああ!」
勢いあまった賢三は、机に足をとられ、もんどりうって前のめりに倒れ込んでしまった。「イテテテ、アテテ」
顔面を床で痛打した賢三を覗き込み、ゴボジが言った。
「おい、大橋どうした? 立ちくらみか? 大丈夫かよ? 怪我しなかったかぁ」
ぶち殺すはずの相手にいたわりの言葉をかけられるとは、どこまでも賢三……バカである。
「何が女優よ! いい気になるなコノー!」
痛む顔面を押さえつつ見上げれば、いつの間にか詠子は美甘子につかみかかっていた。モロ子たちがそれを引き離そうとしているところだった。少女たちの中で一人背の高い美甘子が困っていた。小人たちにじゃれつかれた白雪姫のようだ、などと賢三は思った。
「うわっついてるっていってんのよ! どうせチヤホヤされたいだけなんでしょ! コノヤロー!」とヒステリックに詠子。
「ちがう、ちがうよ、ちがうってば!」
美甘子が叫んだ。
モロ子たちが詠子を彼女から引きはがした。
「ちがうってば!」
「どうちがうのよ!」
美甘子は黙った。
賢三には美甘子の沈黙の意味がわかった。
『どうせ何を言っても無駄だ』そう思っているのだ。
ところが美甘子は、落ち着いた声でこう言った。
「あたしはね、ただ狭い世界にいるのが嫌だったのよ」
ゾッとする程、落ち着いた声だった。
「退学になってよかったと思ってる。もっと広い世界へ行けるかもしれないでしょ」
女生徒たちが黙った。彼女たちは息を呑んでいた。
それは美甘子が、今まで隠していた本心を初めて語ろうとしているということが、彼女らにもわかったからだ。
「試してみたいの。修学旅行の夜でもあるまいし、こんなこと言うの恥ずかしいんだけどさ、自分がどんだけのことをできるか、試してみたいって私ずっと思ってたのよ」
そして、エヘヘと笑い、
「こんなことみんなにしゃべったの初めてだ」
と独り言のように言った。
詠子は明らかに気圧《けお》されていた。
モロ子たちも、今までの美甘子とちがうことに気づき、言葉を失っていた。
美甘子の笑顔は全てを包み込むようだった。教室にいながら、彼女の瞳は教室の何も見てはいなかった。もっと遠くの、もっともっと広い世界に彼女の視線は向けられていた。
いさぎよく自分の思うまま生きることを決めた少女の姿は、輝くばかりに美しく、賢三は教室の床にはいつくばりながら、自分がついに、「周回遅れ」になったことを悟った。
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第2章 踏み切りの向こう側
山口美甘子はそそくさと帰り支度を始めた。
「担任来る前にあたしゃ逃げるよ」
おどけた調子で言うと、机の中の教科書や缶のペンケースをカバンにつめ込むのだった。
教室の生徒たちは誰も、何を言ったらよいものかわからずに黙ってしまった。山之上言うところの「下手な役者」たちにしても、サッパリした様子で退学していく同級生にかける台詞のマニュアルまでは持ち合わせていなかったのだ。
学生カバンとスポーツバッグ、それと小さな赤い巾着を両手に下げた美甘子は、「じゃあね」と、特に誰にというわけでもなくあたりに声をかけた。
モロ子が何か言おうとした時、その声をさえぎるように美甘子は窓際を見て言った。
「あ、あれ、もらってっちゃおうかな」
「あのサボテン?」
と、モロ子が尋ねる。誰が持ってきたのか、以前から教室の窓際にはサボテンの鉢植えが置いてあった。刺のない緑色の球型で、俗に烏羽玉《うばたま》と呼ばれる種類だった。
「記念にさ、盗んでっちゃおうかな」
「いーんじゃん、持ってっちゃいなよ、美甘子」
「バレたって退学以上のことにはならないもんね」
美甘子の悪い冗談に、数人がハハハと力なく笑った。
「ワーイ、じゃ、こいつ、いただいていこう」
美甘子はうれしそうに、サボテンの鉢植えを手にした。
バッグやらサボテンやら、いろいろな物を抱えてはしゃいでみせる美甘子の姿は、夏休みの始まる前日に、教室にある自分の持ち物を全部持って帰ることになった小学生みたいだった。
実際には、一足も二足も早い、おまけに二度と新学期の始まらない夏休みが美甘子の目の前にはあるのだ。
「ほいじゃ、本当にみなさんお元気で、ごきげんよう」
サボテンを抱えたまま、ペコリと美甘子は頭を下げた。
「うん、ごきげんよう」
最後まで場が湿らぬよう気遣う美甘子の意志を汲み取り、女子の一人が彼女に合わせてふざけた調子で答えた。
「みなさん、本当にごきげんよう」
美甘子はそう言うと、その場でクルリとターンを決めた。いつか文芸座で賢三が見た時と同じく、ティーカップをさかさにしたようにスカートがふくらみ、上履きのゴム底で床をキュッと鳴らし、勢いよく振り向いた。
そして振り返ることなく、背すじを伸ばし、正面を見すえて、ものの数秒で教室を去っていってしまった。
あっという間に黒所一の美少女は姿を消した。
生徒たちは言葉を失くし、再びざわめきだすと、今度は制御不可能なぐらいにさわがしくなった。その中で、一人ぽかんと口を開け、失語状態に陥っている男子があった。
言わずもがな、賢三だ。
賢三は言葉を発するどころか、思考停止のボケボケ状態にあった。脳裏に浮かんでは消える思考の断片はいくつもあった。それは賢三が美甘子について知っているいくつかの事柄だった。文芸座、ジョン・カーペンター、ロッキー・ホラー・ショウ、薔薇園、ふくらむスカート、ふくらみすぎの胸……一つ一つがまるで目の前にあるかのように賢三には知覚できた。ただ一つ一つがバラバラで、ピースの足りないパズルの不自由さでまとまらない。もどかしく、いかんともしがたい。賢三は、頭の中の山口美甘子という複雑な迷路に迷い込み、右往左往するのみだった。
『美甘子……背が高く……びっくりした目をして……笑うと目がなくなっちゃって……それで……頭が良くて……議論をするといつでもオレは負けた……美甘子はオレより一周早く走っているんだ……何を?……人生をだ!……人生はグミ・チョコレート・パインだと言って……突然黒所を去っていった……サボテンを抱えて……サボテン……サボテンの花は梅雨に咲く……梅雨に……えっ!?』
賢三は我に返った。相撲取りに猫だましを食らったかのように、ハタと気づいた。
『そうだ! サボテンの花は梅雨時に咲くんだ。しかしその花が咲いた頃、美甘子はオレとかけ離れた世界でその花を見つめるのだ。同時刻にオレは、このくだらない、つまらない退屈で凡庸で憎むべき黒所の教室の隅でいつものように呆けているのだ。ダメだ、ダメだ、そんなの認められん、美甘子にだけサボテンの花を見させてはならん! サボテンの花は、サボテンの花は、あれは二人で見るものなのだ![#「あれは二人で見るものなのだ!」はゴシック体]』
いかなる人の目から見ても、明らかに賢三の思考回路は冷静さを欠いていた。正常ではない。六法全書をひもとくまでもなく、「サボテンの花は二人で見るもの」などという決まりは存在しない。コイサンマンにだってポンポコプン族にだってそんな掟はありゃしない。
賢三は美甘子のいなくなった衝撃のあまりこの時、一時的に錯乱していたのだ。もともと賢三には冷めたところがあり、けして激情にとらわれるタイプではなかった。そんな彼が「サボテンの花は二人で見るもの」などと不可思議な法律を自己に制定してしまったのは、賢三の中でまた新たな感情が機能し始めたからだ。美甘子と出会ったことで賢三にさまざまな感情が芽吹き始めたことを以前にも書いた。「不条理なほどほとばしってしまう抑えようのない激情」というスイッチもまた、美甘子の細くしなやかな指がグイッと押してしまったのだ。
激情につき動かされた賢三がそれからした行動は、ちょっと異常だった。
賢三はざわめく教室を抜け出し、オバチャリに飛び乗り、美甘子の乗ったバスを一心不乱に追いかけ始めたのだ。
ギリギリときしむペダルを踏みしめながら、賢三の目には、黒所から練馬駅へと続く一本の道と、その道のはるか先を走るバスしか見えていなかった。後部座席に美甘子の後ろ姿があった。バスが揺れる度に彼女の髪も背中で躍った。賢三は競輪選手さながらにサドルから腰を上げ、力の限りに自転車をこいだ。ノーブレーキでコーナーを曲がると大きくアウトにふくらみ、のほほんと散歩する老人から「何をしちょるかあっ!」との罵声をちょうだいしても謝りもせず、ひたすらにバスを追いかけた。すごい勢いで遠ざかっていく左右の風景は灰色一色に見えた。ふと賢三は「ちびくろサンボ」のトラを思い出した。『あのトラは高速で回転するうちに黄色一色になって、最後にはバターになってしまったんだよな……』どうして懸命に何かをやっている時というのは、こういう無意味な想念が湧き上がるのだろうと賢三は思い、同時に、無意味な想念が湧き上がるほど何かに打ち込んだことなど本当に久しぶりであることに気づいた。こんなに懸命になったのはいつ以来だろう、と記憶の糸をたぐれば、それは「美甘子ではオナるまい」と腐心した日の夜ではないか。「また美甘子か、またあいつか」と賢三はつぶやき、泣きたいような笑いたいような気分になって、またペダルをひたすらにこぎ続けた。
昼時のバス停は乗り降りする者も少なく、美甘子を乗せたバスはほぼノンストップで練馬駅へと走り続けた。
突然オバチャリのペダルが音もなく外れ、勇み足を踏んだ賢三は自転車ごとキャベツ畑の中へ、「うひひいいっ!」という悲鳴とともにつっ込んだ。
賢三はヨタヨタと立ち上がり、「何でこーなるの! 何でこーなるの」とブツブツつぶやきつつ、畑をつっ切って裏の団地に侵入していった。
それから数十秒後、制服のあちこちに泥をつけた目つきのあぶない少年が、自転車置き場から今まさに自分の自転車を盗み出そうとしている光景を、主婦森田良子は呆然と見つめていた。
少年自転車泥棒は良子に一瞥を加えると、うおっしゃあ! と一声叫んでバス通りへと飛び出していった。良子はあまりのことに気が動転し、少年を怒鳴りつけるどころか思わず、
「その自転車、チェーンが外れますよう!」
などと親切な忠告を与えてしまった。
良子の言葉は賢三には聞こえなかったが、急な坂を下り、右手に豊島園のジェットコースターが見えたあたりで、忠告どおりチェーンが外れた。バスはもう目と鼻の先にあり、あと一歩のところだった。
賢三はガク然としながら走り去るバスを見つめた。自転車を降りると、あたたかなアスファルトの上に座り込んでしまった。
バスはゆっくりと坂道を下っていた。
賢三は再び自転車にまたがり、両足で地面を蹴り始めた。坂道だからチェーンは外れても車輪はまわる。賢三はそれを利用し、あたかも自転車創世期に山高帽をかぶった紳士たちがそうしたかのように、足で地面を蹴って前進せんとしているのだ。不屈というかしつこいというか、筆者、賢三のこれほどまでの執念を見たのは初めてである!……オナニー時をのぞいては。
運よく、バスは停留所で止まり、賢三は時間をかせいだ。しかし、ここから先は上り坂だ。自転車創世期走法ではとても追いつくことは不可能だ。どうする賢三。
と、賢三は決然と自転車を捨て、走り始めた。
彼は運動が不得意だった。当然速度は遅く、ふらつきながら走った。
二十メートルほど走っただろうか。
あれ!? と、賢三は思った。
『何やってんだっけ? オレ、何で走ってんだ?』
ふと気づけば、賢三には教室からこの坂道までの記憶がなかった。
教室で美甘子がサボテンを抱えたあたりから、実は賢三の記憶はどこかへ飛んでいた。パンパンに張ったふくらはぎの痛みが、彼を現実に引きもどした。
『ああ……ああそうだ、美甘子を追いかけていたんだ』
もう一歩も足が動かない、賢三はガードレールにもたれた。バスはすでに見えなくなっていた。
『美甘子にこれ以上逃げられてたまるか……そうオレは思って……そんでチャリンコに乗って……追いつくというのは人生をグミ・チョコ遊びにたとえてのことで、本当に自転車で美甘子を追っかけることじゃないのにな……オレ……どうしちゃったんだろう』
賢三は肩で息をしながら振り返ってみた。
黒所へと至るバス通りが、はるかに続いていた。桜の花がアスファルトの上に桃色の点々をつくり、豊島園で遊ぶ子供たちの声がかすかに聞こえた。したたる汗が目に入り、それらの風景をかげろうのようにゆがませた。
かげろうの視界の中に、坂道をのぼってくる少女の姿がぼんやりと見えた。
少女は奇妙なことに、緑色のボールみたいなものを抱えて歩いていた。
目をこすると、少女の持っているボールに見えたものが、実はサボテンの鉢植えであることがわかった。
サボテンを抱えた山口美甘子はびっくりした顔をして、「大橋君、何走ってんのよう!」と賢三に叫んだ。
豊島園から練馬駅まではそう遠い距離ではない。賢三と美甘子は、あたたかな春の午後を並んで歩いていた。
「自転車いいの? あんなとこ置いといて」
「いいんだ。あれもうボロいし、チェーン外れてるし」
まさか盗んだもんだからとも言えず、賢三はゴマカシて言った。
「でもビックリしたよぉ、振り向いたら大橋君が昔の人みたく地面蹴ってすっ飛んでくるんだもん。あ、大橋君! と思ってさ、途中で降りて待ってたのに気付かないんだもん」
「あ、や、急いでたもんだから」
君を追っかけてたんだよ、とも言えず、再び賢三はその場しのぎの言い訳を言った。
「あ、忘れもの? ごめんねぇ呼び止めちゃって、急いでるんならいいよ、先行って」
「や、いいのいいの、もういいの、どうせもう間に合わないから」
「本当? じゃ、一緒に帰ろう」
美甘子が笑った。
彼女は相変わらず両手に荷物をぶら下げ、サボテンまで抱えた夏休み前の小学生スタイルだった。
『おい、こんな時、男っちゅうのは「俺持つよ!」と言ってやるもんじゃないのか!?』と賢三の心の中で誰かが言った。それはわかっていても、口に出して言うのはひどく恥ずかしい気がして声をかけられなかった。初めて吉祥寺で待ち合わせをした時のように、賢三はなぜだか緊張していた。
「こういう時、男は『俺持つよ!』とか言うもんだよ」
気のきかぬ賢三に美甘子は言って、サボテンを持った両手を賢三につき出した。
「あ、ゴメン」
ふくふくと丸い緑の玉が、美甘子から賢三に手渡された。美甘子は学生カバンとスポーツバッグと赤い巾着までも賢三に持ってもらい、自分は春の青空に向かってウーンと言いながら大きく伸びをした。
「ウーン、スッキリした! 駅まで持ってよ、退学になったばっかりの可哀想な山口だもん。そのくらいサービスしてもらってもいいよね」
「いいけど……オレのこのかっこ、マスオさんみたいじゃないか?」
「ええ?」
「ホラ、サザエさんとデパート行くとさ、いっつも荷物持たされてこんなかっこになるじゃん、マスオさん」
「アハハハハハハハ」
美甘子は口に手も当てず、思いっきり笑った。いつもなら、賢三のボケと美甘子の笑いは二人の会話の糸口になり、映画論や青くさい人生論へと発展していくものなのだが、賢三の緊張はまだほぐれていなかった。
「寺山修司がエッセイでさ、サザエとマスオの性生活について論じてるでしょ。あれって斬新だよね」
などと美甘子が振って[#「振って」に傍点]くるのに、賢三は「ああ」とか「うん」としか返答できなかった。
「寺山はサザエさんを論じるのにライヒって学者の説を引用してるんだけど、実はこのライヒってのは晩年ちょっとおかしくなっていたらしいんだ」ぐらい言い返せるはずなのに、やっと口にした言葉といえば、
「サザエさんって……『笑点』の後にいつもやるよね……」
という、円楽師匠ならずとも座布団十枚取り上げたくなるほどのオタンコナスな一言であった。
「え、笑点?」
と思わず聞き返した美甘子に賢三は言った。
「あ、ああ……小円遊っていいよね」
小円遊っていいよね、と言われて「ええ、木久蔵もイカスわ」とボケたおすほど美甘子もアホではない。「しるこドリンク事件」の再演に彼女が言った。
「大橋君、山口の退学に動揺してるんでしょ?」
いたずらっぽく美甘子が笑った。
賢三は、黙ってしまった。当たりさわりのない表情を取りつくろおうにも、できなかった。
「え、ちょっと何? やだなあ、大橋君、真面目な顔しちゃってるよ」
美甘子はあわててしまった。賢三がまるで「断腸の思い」とでもいうような深刻な表情をしていたからだ。賢三も、自分がとてつもなく険しい顔になっていることは気づいていた。笑おうと努力はしていた。が、苦心すればするほどいよいよ苦渋に満ちた星一徹顔になってしまうのだった。
美甘子は何とかこの場を取りつくろおうと、再び小猫のような表情をして「本当は急いでたなんてうそで、あたしのこと追いかけてたんでしょう? そうでしょう、フフ」と笑った。
図星である。
星一徹顔が、さらに紀州の梅干しを口にふくんだ直後のような表情へと変化した。
美甘子もさすがにハッと気づいた。目の前の少年が、自分を追いかけるために学校を抜け出し、一生懸命に走ってきたのだということに。
美甘子も黙ってしまった。
二人は、言葉なく、トボトボと歩き続けた。
ぶーぅぶんんん……と、ヘリコプターがはるか遠くの空を飛んでいた。
二人の頭上30pではモンシロ蝶が舞っていた。
二人は顔を上げて、蝶々の踊るさまをながめた。
『こいつはどこへ飛んでいくのだろう』と賢三はふと思った。
『豊島園にお花畑があるから、きっとあそこまで飛んでくつもりなんだな』美甘子はそう思った。
「言わなくてゴメン、驚いたでしょう」
美甘子が言った。
ようやく自然な表情に戻った賢三は「たまげた! 本当にひっくり返ったよオレ」と大仰に言った。
美甘子がフッと笑い、二人の間に流れていた空気がやわらいだ。
「どっちに驚いた? 脱いじゃったこと? 大林森監督の映画にでるってこと?」
「うん……乳首がピンクだったってことかなぁ」
ボコン! 美甘子が賢三の背中を叩いた。賢三は息をつまらせ、美甘子はケラケラと笑った。
「大橋君には教えなきゃと思ってたんだけどさ、なんか言いそびれた。自分でも夢みたいだし、誰かに言ったら夢が覚めちゃうんじゃないかって思って、つい黙ってたのよ」
練馬駅の直前には「開かずの踏み切り」がある。最低でも十分は開かない踏み切りに、二人はさしかかっていた。
「今ねぇ、とーっても怖いよう」
美甘子は両の拳を握りしめ、胸の前でブルブルと震わせながら言った。
「退学になったことはもういいんだ。それよかさ、山口の実力が試されるってことが怖いのよ。私、偉そうなことばっか言ってたじゃない、つまんない黒所の人たちと私は違うってね」
遮断機の警報が鳴り始めた。
「じゃあどこがどう違うって言われた時、本当のこと言うと私何も言えなかったのよ。ただ自分だけは違うって、プライドって言葉は大仰だけどそう思ってた。それが試されるのよ。私が本当に人と違った何かを持ってるのか、それとも黒所の人たちと何にも変わらないただの女子高生……あ、もう高校生じゃないか……ただの小娘なのか、それが試される世界へこれから飛び込むんだよ。怖いよう、ああ怖いよう」
美甘子はうれしそうに震えた。
遮断機がゆっくりと二人の前に降りた。
「何がおこるのかなぁこれから、ねぇ大橋君、私が役を降ろされちゃったり、もしもこけちゃったら笑ってね」
「いや、山口なら大丈夫、山口は絶対大丈夫、何やってもうまくいくよ」
「本当、本当にそう思う?」
「ああ絶対、絶対平気だよ」
賢三は何度もうなずいて見せた。そして心の中だけで『君は大丈夫!……しかしオレは……』とつぶやいていた。
美甘子が賢三に何か言った。その時かたわらを通過し始めた西武池袋線の音にかき消され、何と言ったのかはわからなかった。
「えっ、何だって!?」
「うれしいって言ったのぉ! ありがとう! お礼にそのサボテンあげるよ」
「あげるよって山口んじゃないだろこれ」
「いーのいーの、サボテンの花はねぇ、六月ごろ咲くんだよ、山口はそのころロケの真っ最中だかんね、サボテンの花見て山口のこと思い出してよ!」
「他の学校に転入しないの!?」
「しない! がんばって女優さんやってみる!」
「……山口はかっこいいよ」
「ええ? 何!?」
「山口はかっこいいって言ったんだ」
電車が通り過ぎ、その直後に美甘子の叫んだ「聞こえない――!」という言葉だけがあたりに残った。
「ひゃあ! でっかい声だしちゃった、恥ずかしいな」
美甘子は照れながらあちこちを見渡した。
賢三は美甘子を見つめながら、いつもは「遅刻の元凶」として嫌悪していたこの開かずの踏み切りが、今日だけはいつまでも、このまま開かずであったらいいのになと願った。
思いが通じたのか、警報は鳴り続けた。
「でも偉そうなこと言ってもね、私にも退学はショックだったかな」
「……うん」
「さすがの山口もバスん中でちょっと泣いてしまったのだった。アハハ」
またしても賢三の中に新たな感情がムクムク湧き上がった。初めて知るその衝動は、小さいものや、あたたかくて丸いもの、やわらかな子猫の体や洗い立てのタオルケットを手にした時の気持ちに似ていた。想いは熱く激しくとも、傷つき易い対象を愛でるために……。
はっきりと言葉にすれば、賢三はその時、
『美甘子を抱きしめたい』
と思ったのだ。
賢三が実際にそれをできなかったのは、サボテンを抱えた不自由さからではない。
『オレにそんな権利はない』と思ったからだ。
自分よりはるか前方を歩き、この先何発チョコを出したとて追い越せる自信のない相手にそんなことはできない。
そして。
オレは今、間違いなく彼女に恋をしていると悟ったが、それは一方的な想いなのであり、彼女はきっとオレのことなど友人としてしか思ってはいないのだ。
『だから、そんなことできん』
ふがいなさの帝王、ダメ人間ナンバーワンたる賢三の横を、西武池袋線はののしるがごとき轟音を立てて通り過ぎていった。
警報は鳴り止まなかった。美甘子が言った。
「ね、何で追っかけてきたの」
「な、何でって」
「どうして追っかけてきたのよ」
賢三は言葉につまった。自分でも何で追いかけたのかわからないのだ。ただ『いつか美甘子に追いついてやる』と思って……。
「前から思ってたんだけどさ、大橋君さ、何かあたしに言いたいことあるんじゃない」
のぞき込むように、美甘子はそんなことを言った。
「言いたいことって……」
「そう、言いたいこと、あるでしょう」
賢三の頭に「君が好きだ」「君はオレをどう思っているんだ」そして「いつか君を追い越してやる」という三つの言葉が即座に浮かんだ。
賢三は今日こそ言ってやる! と決めた。だが「君が好きだ」「君はオレをどう思っているんだ」の二言は、まだ言えぬと思った。まだオレはそんな立場にはない。オレは現時点ではるかに負けているのだ。まだ言える権利はない。
「何か言いたげだもん」
美甘子が小生意気に笑った。
よーし! と賢三は思い、サボテンを持つ手に力を込めて、言った。
「オレ、山口に差をつけられっぱなしだと思ってる。山口にそんなつもりはないかもしれないけど、議論でも何でも、オレは君にいつもかなわない。そんで今度は大林森映画でデビューするだろ。負けっぱなしだろ。なんつーか……一言で言うとオレ、口惜しかったりするわけだ。だから、宣戦布告ってわけじゃないんだけど、言っておこうと思って……んーとつまり……負けないぞ! と……人生がグミ・チョコレート・パインの遊びと一緒なら、オレもチョキ百連発で、山口をいつか追い越してやるぞと……んー……思ってるんだってことを……君に言おうと……ずっと思ってたりしてたわけだよ!」
ついに言ってやった! と賢三は思った。
美甘子はけれども、キョトンとした表情で「ふうん」と答えただけだった。
「ふうんって何だよ、ふうんって」
「ふうん、そっか、そんなこと思ってたんだ」
美甘子は賢三の腕から鞄や巾着を取り上げ、「持ってくれてありがと」と言った。
「それが言いたくて追っかけてきたんだね。うん、わかった。君の宣戦布告は、山口、肝に銘じるよ」
また一本電車が通った直後だった。美甘子はまだ上がろうとしない遮断機をヒョイとまたいで、踏み切りの中へ入り、振り向いた。
そして、ニンマリと笑って賢三に言った。
「なんだ、あたし君がさ、山口のこと好きだとか言ってくれるのかと思ってたんだよ」
美甘子はスカートのふくらむ例のターンを決め、賢三に背をむけて歩き始めた。向こう側へわたって振り返り、右手をヒョイと頭の横に立て、振ってみせた。
「じゃあね」
賢三が何か言おうとした時、回送電車が視界をさえぎった。長い長い十二両編成が通り過ぎた後、美甘子の姿はもう無かった。
賢三はサボテンを抱えたまま、美甘子のいなくなった踏み切りの向こう側を見つめ、案山子のように立ち尽くすばかりだった。
それからひと月たった。
わずか三十日の間に、賢三はまたしても美甘子に差をつけられた。賢三にしてみれば、もう二人の差は周回遅れなどという問題ではなかった。人生がグミ・チョコレート・パインという名のレースであるにしても、美甘子が走るのはオリンピック一万メートル、レディー・ゴー! なのであり、対して賢三のほうはたかだか町内商店街対抗パン喰い競走ヨーイドン! ぐらいなものなのだ。次元が違う。
美甘子のグラビアは一大センセーションを巻き起こし、彼女は「シンデレラ」と冠せられるほどのアイドルになっていた。一夜にして時の人となっていたのだ。好評第二弾グラビアにおいては、彼女はくるぶしまでかくしたドレスを着た。前回の大胆な裸体と反比例したストイックさがまた受けた。GORO誌は売り上げ記録を更新し、男たちは彼女でヌキまくり、業界人たちは「あの娘誰? 事務所入ってんの?」と右往左往し、大林森次回作は早くもアタリ決定か!? と噂された。
賢三は、あれから一度も美甘子と会っていなかった。
めんどくさい退学手続きのために美甘子が黒所を訪れた時、賢三は授業を抜け出し、下赤塚のあたりをオバチャリで放浪していた。東京大仏をぼんやりと眺めた後、黒所へもどると、教室が騒然としていた。山之上に聞くと、さっき突然山口美甘子が現れて、皆に別れを言って去っていった、とのことだった。
「な、泣いてる奴いるだろ、あれも芝居だよ。芸能人になった同級生と何とかつながりをつけとこうってぇ魂胆が見え見えだな」
山之上はそう言って、ヒヒヒと笑った。
美甘子から一度だけ電話があった時も、賢三はいなかった。中野武蔵野館の暗闇の中で、『新ミスター・ブー、アヒルの警備保障』などという、もう本当にどうでもいい映画を観ていたのだ。家に帰ると、
「なんか女の子から電話あったわよ。今日からロコモーションで夏まで帰ってこないとか言ってたわよ」と母が告げた。
ロコモーションというのが「ロケーション」を母が聞き違えたのだと気づくのに三分かかった。
「そうか、本当に美甘子は違う世界に翔んでいくのだな」と賢三は思った。
美甘子の名が人々に浸透していくごとに、賢三は、美甘子に電話したり、まして会いに行こうという気持ちが失せていった。
もしあの時、踏み切りで、「オレは山口が好きだ」と言ったなら(まあ賢三に言えるわけがないが)、美甘子は何と答えるつもりだったのだろうか。
「私もよ」
などというめでたい返答はまず期待できまいと賢三は思った。そして美甘子が有名になっていくごとに、賢三の中で、踏み切りの向こう側に立つ少女の返答は冷酷非情なものヘと変化していった。
「ヘッ、好きだって? ませたこと言ってんじゃないわよ」
「あんた何様のつもりよ」
「百年早いのよ」
「バカじゃーん」
「タコ」
まさかタコとは言うまいが、例の被害妄想癖も輪をかけて、ネガティヴな返答を思い浮かべ、賢三は落ち込むのであった。
美甘子からもらったサボテンは福々しく生長していた。机の上に置いたサボテンを見つめながら、賢三は、一体何度くり返したのかわからない言葉を心でつぶやくのだった。
「それでもいつか美甘子に追いついてやるのだ!」
明日はすげーハードなノイズバンド結成のため、タクオたちと渋谷の屋根裏というライヴハウスにパンクとノイズバンドのイベントを見学に行くことになっていた。「毒キノコ腹上殺人GIG、VOL3」という恐ろしくもアホなタイトルのつけられたこのライヴには、DOLLやフールズメイトで名の知れたアングラバンドが多数集結するとのことであった。ライヴ告知のチラシには体中に毒キノコを寄生させた「赤ン坊少女タマミ」が、鉄腕アトムの眼球をえぐり出している絵が描かれてあった。破壊衝動のみで描き込まれたイラストをながめていると、賢三も思わずウオオウッ! とデストロイしたくなる衝動にかられ興奮した。
興奮は彼のリビドーをも刺激し、さっきサボテンを見つめながら愛すべき美甘子へ挑戦を誓ったばかりの少年は、
「お前それじゃダメだよ、美甘子に勝てねぇよ」という筆者の忠告などもちろん聞く耳持たず、いつものようにシコシコプルプルとポコチンをしごき、オナニーを始めたのであった。
[#改ページ]
第3章 渋谷屋根裏
「バンドブーム」という言葉を読者は覚えているだろうか? 今となっては「熱気ムンムン」「ノリノリ」などと同様、この言葉もすっかり死語と化してしまったようだ。
一般にバンドブームの起こりは、原宿歩行者天国で自主演奏活動をしていたアマチュアバンド群の活躍と、テレビ番組、通称「イカ天」の人気によるものであり、さらにルーツをたどるなら、東京ドームで華々しく解散したバンド「BOΦWY」の影響によるところが大きいとされている。
BOΦWY→ホコ天→イカ天→ブームという道順は、確かにいくつかのバンドにはそっくり当てはまる流れではあるが、バンドブームを川に喩えた場合、この流れは支流の一つに過ぎない。本流を川上に向かってたどっていったならば、探険者はやがて「東京ロッカーズ」という小さな小さなムーヴメントに到達するはずだ。
対抗文化《カウンター・カルチャー》であったロックが市民権を得ていくうちに、やがてスッポリと商業主義に取り込まれてしまった七〇年代後半、保守安定の側にまわった彼らに対し、さらなるアンチの立場を表明する連中が現れた。対抗文化にさらに対抗しようとした彼らは、俗にパンク・ニューウェイヴと呼ばれ、その勢いは英国から、はるばる東京は新宿界隈のロック兄ちゃんにまで飛び火する。リザード、フリクション エスケンらの和風対抗文化バンド群は「東京ロッカーズ」と名乗り、一般商業のルートを通さず、自主的にレコードを制作する、いわゆる「自主製作盤」という裏通り文化を創り出した。
自主盤製作は、本当に小規模ではあるが、「DOLL」「フールズメイト」「宝島」を共通情報収集場としたムーヴメントへと発展していった。そして、オートモッド、サディサッズ、タコ、非常階段、アレルギーなどの自主盤ロッカーの群れの中から、六〇年代学生運動のムードとパンク少年少女の破壊衝動とを見事に結び付けたザ・スターリンが世の注目を浴び始めるようになると、第二波とも呼ぶべき怪しげな連中で自主盤の世界はあふれ返るようになる。
有頂天のケラを代表とするナゴム、ラフィン・ノーズのチャーミー率いるAA、BOの北村昌士によるトランスなど、自主盤界の人気レコード会社(!?)まで登場し、徐々に浸透していった。AAが正統パンク系、トランスはいわゆるデカダンお耽美系(今で言うビジュアル・ショッカー系の走りと言えば言える)、ナゴムは「根暗」「病気」「おたく」などいつの世も差別感に満ちた言葉で呼ばれることの多い、ある種の人々が集っていた。筋肉少女帯やたま、電気グルーヴの前身である人生、役者の加藤賢崇、田口トモロヲ等……。
ちなみに俳優の佐野史郎さんは田口トモロヲ氏と親交が深く、田口氏のバンドばちかぶりや、それに筋肉少女帯なんかも、八○年代の中頃に何度か観ていたのだそうだ。ある種の人間を演じさせたら天下一の彼にナゴムとの接点があったとは、出来過ぎた話である。
……閑話休題。さすがにこの頃になると、マスコミも自主盤界に注目し始めた。対抗文化の台頭はメディアにとって格好の獲物である。「自主盤」といういかにも手づくりを思わせる言葉は「インディーズ」という当たりのいい英単語にとって代わり、いくつかのバンドがメジャーデビューを決める。
そこから先は、かつて七〇年代にロックが対抗文化としての意味を失っていった時と、ほとんど同じ失敗が展開されたわけだ。支流であるホコ天バンド群と合流し、イカ天でブレイクしたものの商業主義に取り込まれて、あっという間に消費された。七〇年代後半には保守化することでかろうじて存続できたロックも、平成の日本においては、バンドの地力の無さもたたり、跡形もなく一斉に消え失せたのだ。
バンドブームとは、一つの対抗文化が資本力を前にして、本来の機能を急速に失くしていく過程そのものだったのである。人々がそれにひきつけられたのは、資本の力が一つの文化を食い尽くしていく様子が、まるで大きな獣が小動物を生殺しのまま飲み込む光景を見るような、もののあはれ≠感じさせる無残絵として面白かったからなのではないか。人々はバンドブームに弱肉強食のモデルケースを見ていたのだ。
バンドが本当の意味で対抗文化として機能していたのは、スターリン台頭直後から、有頂天がデビューする直前の、八〇年代中頃までだったように思う。「吸血の群れ」とでも呼ぶべき変態ロックバンドたちが日本全国から集結し始め、都内ライヴハウスで暴れていた頃だ。新宿JAMやLOFT、渋谷のLA・MAMA、そして賢三たちがこれから行こうとしている、渋谷屋根裏がその主な舞台だった。
「あ! あ!」
人でごった返す渋谷センター街。アービーズの向かいにたむろする怪しき人々を指差して賢三は叫んだ。
「あ! あれは何だ!?」
思わず懐かしきスーパーマンのオープニングのように、「鳥だ! 飛行機だ!」と調子を合わせたくなる賢三の問いかけである。
「インディアンだ!」と山之上。
「マッドマックスだ!」とタクオ。
「いやちがう!」カワボンはグッとつばを飲み込んでから言った。
「あれは……本物のパンクの人[#「本物のパンクの人」に傍点]だ!」
おおおう! と賢三たちは一斉に感嘆の雄叫びをあげた。
「スゲー! 金髪30pモヒカン刈りだ!」
「ウオウー! 『DOLL』の写真とおんなじだ!」
「うわあ! 鋲《びよう》付きの革ジャンだあ!」
「う、動いてる、動いてるぞ!」
そりゃ動くわい。ハードコアパンクスも四人にかかれば伝説の未確認動物モケーレ・ムベンベと同じ扱いである。ロック雑誌の中でしか見ることのなかったパンクスが現実のものとしてうろつく姿は四人に異常な興奮を与えた。
「あ、あっちにも一人、あ、あの人化粧してる、ポジパンの人だ!」と賢三が騒げば他の三人が一斉に「おおおう! 本物のポジパン!」と感動の声をまたあげる始末。まったく、ディズニーランドでプーさん見つけて喜ぶ子供じゃないんだから。
驚いているのは四人ばかりではなかった。センター街を歩く人々は、奇怪な姿のパンクスにチロチロと白い目を向けていた。特に四十代半ばの会社員風お父っつぁんなどは、露骨に舌打ちし、にらみつけながら通り過ぎようとした。
パシッ! と乾いた打撃音がお父っつぁんの尻で鳴った。お父っつぁんは自分が今、ニワトリのような頭髪をした若い男の手にしたムチによって、馬みたいに尻をひっぱたかれたのだという事実を、どうしても現実として認識することができず、引きつった表情のまま振り返らずその場から歩き去った。頭の隅で鳴り始めた「ローハイド」のテーマにリズムを合わせながら。
「ム、ムチで人をぶった……」
賢三が弱々しい声で言った。
「びくつくな、ノイズとパンクのGIGに来たんだ、多少のバイオレンスはあらかじめ予想できたことだぜ」
とタクオ。とはいえ彼にしても『いくらパンクっつっても馬じゃないんだからムチはないだろムチは』と思い、しっかりびくついた。
四人はムチ打ちシーンに喚起されて、やはり頭の隅で鳴り始めた「ローハイド」のテーマをBGMにしつつ、パンクスと目を合わさぬよう顔を伏せて、屋根裏のある老朽化したビルの入りロへと入っていった。
溶ける途中のようなどんよりとした薄い闇の中に、階段が上へと延びていた。両の壁は落書きとビラで埋めつくされ、二階の踊り場には赤いランプが灯り、四方を血の色に染めていた。
「い、行くぞ!」
怪奇映画じみた光景にしばらくあっけにとられていた四人だが、カワボンの声に気を取り戻し、ゆっくりと階段を昇り始めた。
四人の頭の隅では、まだローハイドが鳴り続けていた。
※[#歌記号、unicode303d]ローレンローレンローレン、と心で歌いながら、四人は階段を昇った。
※[#歌記号、unicode303d]ローレンローレンと歌っては一歩、※[#歌記号、unicode303d]ロオオハァァァァアアイと唄ってはまた一歩。これから彼らを襲うであろうライヴの興奮に期待とその倍の恐怖を抱きながら、ローハイド四人組は階段を昇っていった。二階右手に黒いガラスの扉が見える。あれが屋根裏か!? 期待しながら一歩。な、なんだかトテツモなく怪しいぞと不安に怯えてもう一歩。※[#歌記号、unicode303d]ローレンローレンローレン、さらに一歩。
賢三が扉に手をかけた。※[#歌記号、unicode303d]ローレンローレンローレン!
扉を引いた。※[#歌記号、unicode303d]ローレンローレンローレン!
いざ屋根裏ヘ! ※[#歌記号、unicode303d]ローレンローレンローレン!
期待と不安を胸に! ※[#歌記号、unicode303d]ローレンローレンローレン! ロオオオハァァァァァァアアアイ……。
「こらあっ!」
あたかも待ち受けていたかのごとき絶妙のタイミングでパンチパーマの男が怒鳴った。開けたガラス扉から飛び出して来た三十過ぎの男が、四人を一喝したのだ。
「開けるなよ!」
西部劇に出てくるメキシコ人のような口ヒゲを伸ばした男は、黒いスラックスにYシャツ、蝶ネクタイ。まるでキャバレー従業員のような格好だ。
「開けるなって……俺たちライヴ観に来たんです」
本物のパンクスにはパンチパーマもいるのかと感動しつつ、賢三が弁解した。
「何、ライヴ?」
「そうです」
メキシコ顔の男は鼻で笑った。瞳に怯えの色があった。小心をパンチパーマで武装しているようだった。
「フン、バカ、屋根裏なら三階だよ、ここはキャバレーだよ」
男がガラス扉を指差すと、確かにそこには「キャバレー王様」という札があった。
「ありゃりゃ!」とこけるローハイド四人組。
「てめえら間違えといて俺がただで通すと思ってんのか?」
客に飲まされでもしたのか、男は酔っているようだった。少年たちにすごんでみせた。しかし、それは芝居であり、実のところ虚勢を張っているだけだということはすぐわかった。険しい表情をしても、本来の性格であろう気の弱さが顔をのぞかせていた。
「じゃんけんでもしますか?」
賢三が言った。
「おう面白え。ヘッ、俺が負けたら通してやるよ。勝ったら……そうだな、馬車馬になってビールケースでも引いてもらうかな。へっへ」
四人の頭の中で再びローハイドが響き渡った。
「よし、じゃんけんだ! 後出しすんなよ! ヘッ」
男の右の拳が天井に向けられた。
賢三も咄嗟に拳をふりかざした。
「OK牧場」ならぬ、「屋根裏」の決闘だ。
『チョキを出せ』
と誰かが賢三に言った。耳元ではなく、ローハイドに乗ってその声は彼の頭の中で聞こえた。
『美甘子に追いつくためにはグミでもパインでも駄目だ。一足飛びのチョコレートを出し続けろ。急げ、あわてろ、チョキを出せ、どんな時でも、誰の前でも、美甘子に追いつくためには、一足飛びのチョキを出せ』
頭の中の声に対し、賢三は『言われるまでもない!』と答え、二本の指をピンと立てながら右手をメキシコ男につき出した。チョキを形作った右手が自分の顔前を通り過ぎるコンマ何秒かの間、さえぎられた視界に、賢三は山口美甘子の小生意気な笑顔を一瞬見たような気がした。
「フン、負けちまったぁ!」
男は自分のつき出した開いた手を見て言った。
『そうだ、いつでもチョキを出すんだ』と賢三は心でつぶやいた。
「じゃ、俺たち行きますから」
カワボンの言葉を合図に四人はペコリと頭を下げ、再び階段を昇り始めた。
四人の背中で男が叫んだ。
「ヘン、ロックもいいがキャバレーもいいぞ! どっちも同じ! モチャモチャを発散しようって悪あがきなんだ! 気体めだよ気休め! エレキ弾いてもチチもんでもモチャモチャはなくならねえよ! だって生きてんだもん俺ら! そうだろ!? 死ぬまでモチャモチャかかえてんだよオ・レ・ら・は・さ。そうだろ!? ヘン、それでも行こうってんなら止めねぇよ! ケツひっぱたかれた馬みてえにどこまでもすっ飛んでいきなよ! ヘッ、ハイヨー! シルバー! ってなぁ。ヘッ、ヘヘヘヘ」
鼻で笑うメキシコ男の言葉に、四人の頭の中で再びローハイドのテーマが鳴り始めた。
渋谷屋根裏の中で賢三が初めて目にした光景は、むせび泣くチョーキングでも雷神のようなタムまわしでもなかった。
賢三が目にしたのは、「バックドロップ」であった。
ルー・テーズからジャンボ鶴田へと受けつがれたトラディショナルなプロレス技。あの、へそで投げる「バックドロップ」である。
四人が屋根裏の重い木の扉を開けた時、ステージ上ではむくつけきスキンヘッドの大男が長髪の男をまさに放り投げている真っ最中であった。
長髪男を後頭部から叩きつけたスキンヘッドは、腹筋の力だけでムックリ起き上がると、マイクに向かい何かがなった[#「がなった」に傍点]。するとドラムの緑髪男が早口で「ワンツスリフォ!」と叫び、リズム速すぎ音でかすぎでズモモモモモモとしか聴きとれないモノスゴイ演奏が開始された。
スキンヴォーカリストはズモモモに合わせてまるで相撲取り化したルイ・アームストロングのような声でウゴゴゴゴとがなりたてるものだから、混じり合った音はズゴゴモモズゴモモと何やらゴモラがモズクを喰っているかのごとき意味不明な状態である。
ズゴモモゴモモに合わせてフロアーぎっしりの客たちが踊る踊る……いや暴れる暴れる、押し合いへし合いなぐり合い、知らぬ人が見たなら、これはまるで零下三十度の南極でやけくその押しくらまんじゅうを始めたアムンゼン探険隊である。無茶苦茶だ。
床に投げられた男を、ギターやベースを片手に持った男たちが引きずっていった。どうやら彼らは、スキンヘッドたちの前に出演したバンドのメンバーのようだ。ということは、彼らの演奏が終わるやいなやステージに上がったスキンヘッドが、はよ帰れ! とばかりに前のバンドの人間をバックドロップで投げ捨て、自分たちの演奏を始めたということか? そんなに転換がめんどくさかったのかスキンよ!? 目茶苦茶だ。
ズモゴモバンドの演奏は十分程で終わってしまった。
興奮した客の一人がヴォーカリストのマイクを取り上げたのだ。すかさず飛んだスキンヘッドの右ストレート。
正確に客のアゴを捉えたその迫力たるや、テリー・ファンクか猪木の鉄拳制裁か。ワンパンチ喰らった客が腰くだけで千鳥足を踏む姿と対照的に、スキンヘッドはあたかもヘルレイザースのごとく胸を張り肩いからせさっさとステージを去っていった。
「だ、誰だあれは?」
と賢三。
「ゴ、ゴブレスのゾドーだ」
山之上が答える。
「ゾドー! あれがゾドーか!」
タクオが目をむいて叫んだ。
ゾドーって何や? と突っ込みを入れた読者にお答えしよう。ゾドーはもちろん本名ではない。いわば芸名だ。アンダーグラウンドロックの世界では、芸名を名乗るのはよくあることだった。ジュネ、ガゼル、ベイビー、ザジ、ゾンビ、ポン、サッズ等、並べただけではタガログ語のあいさつかというようなヘンテコな名を名乗る人間が往来していた。中には「王選手」なんて人までいた。一番トテツもない芸名は、あるバンドのメンバーが名乗っていた「分度器」であろう。……人間にして文房具。……もはや人の尊厳にまで関わる奇名である……分度器……。
「うおう! 本物のゾドーかぁ!」
冷静なカワボンも興奮していた。
アングラロック界には、「カリスマ」や「天才」という言葉で表現される人物が数多くいた。ライヴハウスに集う人々は、疑いもせず彼らを信奉していた。確かに彼らの中には、輝く宝石にも似た才能を持つ人間も何人かいたが、大多数は、裸の王様だった。情報量の少なさがイメージを肥大させただけの、本当はただの石ころにすぎなかった。コピーにコピーを重ねて輪郭のぼやけた宇宙人の死体写真が、逆に判然としないがために無限のロマンを感じさせるのと同じように、情報量の少なさは、多少エキセントリックなぐらいのロック兄ちゃんたちを、等身大以上のものに拡大して人々に伝達してしまう。ちょうどそれは伝言ゲームによって本来の意味を失くしていく言葉のようなもので、「石ころ」が何人もの間を伝わるうちに「宝石」に化けるのだ。ライヴハウスという空間は、そうして創り上げられたにせの宝石と、本物の宝石とが入り乱れ、つまりは束の間ならば、どんな人間でもきらめくことのできる舞台なのだ。
それを思うと、とにかく一刻でも早く何かをやりたいと切実に願う賢三たちが、ライヴハウスという場所を選んだのは正解といえるかもしれない。
……束の間は輝けるだろう。束の間なら誰だって輝ける。
問題は、自分が宝石かにせものか解ってしまったその後だ。
本当に試されたその後だ。
「うおおおう、何か俺、興奮してきちまったよぉ!」
もちろんまだ賢三は、ライヴハウスのからくりになど気づいてはいない。彼にとっては宇宙人の死体写真以上にロマンをかき立ててくれる屋根裏の店内を、充血した瞳で見渡した。
横に長細い屋根裏は、二百人も入ればいっぱいだった。空手道場のような板壁には安いコピー用紙を使ったバンドの告知ビラが無数に貼られていた。天井は、もしジャイアント馬場がチョンとジャンプしたならしたたかに頭頂部をぶつけ、思わず「アポー」と声を上げそうなくらいに低く、満員の客から湧き上がる気化した汗の水分で雨漏りみたいにそこから滴が落ちるのだ。タバコと汗とディップの臭いが立ちこめ、まさに屋根裏という名がぴったりだった。
ふと賢三は壁に貼られた一枚のビラに目を止めた。
「ザ・ゲロズ、ゲロはきまくりGIG・ゲロ吐くから来い!」という身もふたもないバカコピーの書かれたチラシに、山口美甘子のヌード姿があった。
「GORO」から転用したと思われる、粒子の粗い美甘子の写真が刷り込まれていた。コピーされたものでも、彼女の肉体は賢三のリビドーを刺激するに十分であった。ゲロズのメンバーも刺激されたのだろう、美甘子の周りには、スコスコとオナニーをしている男のイラストが添えてあった。
『私が本当に人と違った何かを持ってるのか、それともただの小娘なのか、それが試される世界へこれから飛び込むんだよ』
賢三は、文芸座で偶然に出会ったあの日から、美甘子と自分の間にどれだけの差が開いたのかと思い、ため息をついた。
「賢三! おい、賢三!」
と、タクオに肩を叩かれた彼が振り返ると、屋根裏内の雰囲気が先程とは妙に変わっているではないか。人々はざわめきながら、ステージ上に現れた一人の男を見つめていた。そこにはひょろりとしたヒゲ面の男が、トラ目も見事なレスポールを抱えて立っていた。
「自分BOXの中間だ!」
とカワボンが言った。
「ども、自分BOXっちゅうちんけなバンドやっとります中間ですう」
不自然な関西弁で男がつぶやくと、客席のあちこちで「おう!」「やっぱり!」と驚きの声が上がった。
「君たちなめとったら困るよう」
中間はのんびりと言った。そしてニコリと笑った。あまりにのほほんとしたその口ぶりは、逆に人を威圧する迫力があった。さっきまで荒れ狂っていた客たちが、サッと引いた。
関西のノイズバンド自分BOXの評判は、屋根裏まで知れ渡っていた。彼らのライヴは宗教的なまでにテンションが高く、時にトランス状態に達した客の乱闘で大変な騒ぎとなり、バンドは次々とライヴハウス出入り禁止を喰らっているとのことだった。石もダイヤもゴッチャの世界にあって、誰しもが認める本物である。
「あ、あれがじじじ自分BOXの中間か」
山之上がどもりながら言った。四人にとっても自分BOXは、彼らにスゲーハードなノイズバンド結成を決意させたきっかけの一つなのだ。
「何しに来た! 帰れ!」
アングラロックについては一家言あるぞ! とでも言いたげな、したり顔の男が中間に怒鳴った。
「飛び入りですう」
中間はのんびりと答えた。
「ノイズなんざ観たくねぇよ!」
革ジャン命といったふうの金髪パンクスがケンカを売った。
中間は声のしたほうをチロリとにらみ、押し殺した声で言った。
「……こんなかに関西のもんが紛れとる!」
突飛な言葉に客たちが黙った。
静まり返った客席に向かい、腹の底から吐き出すような声で彼は叫んだ。
「それは誰やっ!?」
切れたら何をするかわからないと評判の男だ。屋根裏に緊張が走った。中間はさらに怒鳴りだした。
「どいつやあっ!! 紛れ込んだ関西人はどいつやぁ!?」
ケンカを売った金髪がヒ〜と悲鳴を上げた。
それを見てとると、中間はうってかわってニンマリと笑い、こう言った。
「それはわいや」
昔の笑い話だったら、ここで一同一斉に「ギャフン」とこけるところである。
「はるばる関西から来たんやたら、いじめんといてぇ」
客席で数人がクスクスと笑った。すっとぼけたキャラクターで、中間はものの数分も経たぬうちに客の関心を引きつけてしまった。「つかみはOK」というやつだ。
「ハハハ、関西でライヴできへんようになりましてぇ、流れ流れてこないなとこまで来てしまいましたぁ。新参もんですう、いじめんといてやぁ」
「いじめないよー」と、ほとんどオッパイが見えそうな格好の女の子が声をかけると、数人がドッと笑った。賢三たちも思わず笑ってしまった。
「ありがとさんよー」
中間はそう言って、女の子にウインクをしてみせた。今度はさっきより多くの客から笑い声が起こった。
「ほないくでぇ!」
中間の表情がまた険しくなった。足を踏んばり、ピックを握った右手を高々と上げ、ザ・カルトのジャケット写真のようにピタリと決めた。
客たちが静まり返った。
賢三はゴクリとつばを飲み込んだ。
中間はいきおいよく右腕をふりおろ……すのかと思えば、彼はなぜか耳のあたりで腕を止め、目線はネックのあたりを見つめたままで言った。
「このギター、音出ぇへんのや……」
またもや突飛な発言に静まり返った客席に、中間は言った。
「シールド抜けとるからのう」
こーゆーコテコテのボケに反応するのは右脳でものを考えるタイプの女の子である。数人の女性客がケタケタと笑い、「かわいー」という黄色い声援まで飛んだ。左脳を動かしまくって理屈をこねることを人生の最大関心事とする賢三たちにとって、中間のボケは違った意味でのショックを与えていた。
「な、なんだあいつ、本当に中間なのか?」
とタクオ。
「うーん、しかしインパクトはあるなぁ、とりあえず」
とカワボン。パンクラスを観にいったら悪役商会の試合が始まってしまったようなものである。彼らの困惑も無理はない。
中間は薄笑いを浮かべながらシールドをつなぐと、ブルース調のリズムを刻み始めた。
「※[#歌記号、unicode303d]ウ〜ダバダバ〜、オイらブル〜スメェ〜ン〜ズビズバ〜」
とデタラメなブルースを歌い始めた。
「※[#歌記号、unicode303d]あれは寒い冬の夜ぅ〜ダバダバ〜」
なぜ唐突にダバダバ!? さすがに悩み始めた客たちなど一向に気にせず、中間は悦に入った表情で歌い続けた。
「※[#歌記号、unicode303d]おいらはバンドを引き連れて〜、京都のライヴハウスに出てたのさ〜ズビズバ〜」
どうしてズビズバ!? 呆然とするパンクス、賢三。
「※[#歌記号、unicode303d]知ってるやつもいるかもしんねぇけど〜あの店の店長はオメコ野郎だぜ〜ズビダバ〜」
中間の言う「店長」はバンドの世界では知られた存在なのだろう。あちこちではやし立てる声が起こった。
「※[#歌記号、unicode303d]前にその店に出た時に〜、おいらステージでマスかいてやったのさ〜ダバダバダ〜」
ヒュー! という声が客席から飛んだ。
「※[#歌記号、unicode303d]そしたら店長さんに怒られちまったんだよ〜ダバダバ〜、もう一度マスかいたらもう出してやんないってよ〜」
「俺らもあいつにしめ出しくったんだあ」
と客の一人が叫んだ。笑いが起こる。
中間は声のほうを一瞬指差し、間をとってから再び唄い始めた。
「※[#歌記号、unicode303d]だからオイラは次に出た寒い冬の夜に〜」
「何やったんだ!?」「店長しめてやったのか〜」
次々に中間に声がかかった。すっかり客は中間のペースにはまっていた。
「ボクが何したと思う?」
中間が、頭をツンツンに立てた女に尋ねた。
「わかんなーい!」ニナ・ハーゲンばりのきついメイクと裏腹に、女は童女のように笑いながら答えた。
「そやな〜、わからへんやろな〜、どや!? みんなもわからんかあ!!」
「わからん!」「わかんねー!」「教えてくれよー!」無数の声が中間に飛んだ。
殺気走った観客をウクレレ漫談の要領で手なずけてしまった男は、そこで一声大きくダバダバダーと唄うと、ピタッとギターを弾く手を止め、とぼけた調子でこう言った。
「……マスがあかんちゅうからかわりにオナニーしたんや」
ドカンと爆発したような笑いが起こり、ヒューヒュー! とこの奇妙な男をたたえる声が一斉に飛んだ。
「ども、ども、ありがと、ありがと、前説はこれで終わりや、次は本番いくで〜」
中間はまだ笑い声の絶えない客席にピックを投げ入れた。
「笑う門には福来たる、けど笑ってばかりじゃ狂人と間違えられますなぁ」
中間はしゃべりながら尻ポケットから文庫本ほどの大きさのガラス板を取り出した。そして反対の手でレスポールのボリュームをフルに調整した。ぶううううんとマーシャルアンプが低くうなった。
「間違えられるんならまだええ。どうせ間違えられるんなら、とことん狂った人間に思われたいもんやなぁ」
中間は手にしたガラス板で、軽く弦を弾いた。ヒュウンという悲鳴に似た金属音が観客の耳を刺した。
「周りにおるもんがビビリまくるような、色と光と音でつくった造花の束みたいな、なんやようわからんけどあいつけったいすぎてかなわんわあ言われるほどの阿呆に思われたいもんやなあ」
ヒュウン! と、もう一度弦を弾いた。客たちももう笑ってはいなかった。今度は本当に、この男何かやるなと全員が理解していた。賢三たち四人にももちろんそれは察知できた。
「一人おるねんそんな奴」
中間が笑った。
「ボクの友だちやねんけどな、ほんまに狂っとんねん」
うれしそうに笑った。
「今日連れて来とるんや。ゾンいうんやけど、知っとる?」
おおおおっ! というどよめきが起こった。
「おい、ゾンだってよ、ホラ、お前らに見せただろ自分BOXのビデオ!」
タクオが得意気に言った。
「おう、あのスゲーインパクトの男だろ」
「たまらん、興奮するぞ」
とカワボン、賢三。
「つつつついに本物が見れるのかかか」
どもりまくる山之上。
と、重い木の扉を開けて、よろけるように、店内に入ってきた一人の男があった。暗い店の中でも、にぶく光る瞳が見えた。
滑るようにつるつるの目をしていた。
つるつる目の男は、興奮する四人の少年の間を音もなくすりぬけ、ステージへと歩いていった。
「あ、今の、ゾン……」
賢三がつぶやいた。
ギラギラとライトの輝くステージにむかって、屋根裏の中を、ゾンと呼ばれる男が歩いていった。
[#改ページ]
第4章 サタデーナイトフィーバー
亡霊のように、ふらりとゾンがステージに立った。
やせた、女みたいな顔をした弱々しげな男だった。
相棒の中間には目もくれず、ここはどこだとでも言いたげに、つるつるの目で客席を見渡した。
ゾンは両手を前方に突き出し、マイクスタンドを握った。両手とも小指から、確かめるように銀色の棒をゆっくりと握りしめた。マイクスタンドを引きよせるのではなく、やや内股の足はそのままにして、上体を自分から傾けた。つえを手にした老人が、道端で途方にくれているようだった。しかし滑稽ではなかった。奇妙だが決まっていた。かっこよかった。
「ゾン! ゾンビのゾンや」
うれしそうにゾンを見つめながら、中間が自分BOXのもう一人のメンバーを紹介した。
客たちは前に押し寄せ、あちこちで怒号と悲鳴が聞こえた。
タクオが狭い屋根裏の中を走り出した。
「俺も前で観るぜ、いや、のるぜ!」
と言って押しくらまんじゅう状態の客の群れに突っ込んでいった。
タクオにつられ、賢三とカワボンも思わず駆け出した。
「ぼぼぼ僕もも」
あわてた山之上は、一歩踏み込んだものの、から足[#「から足」に傍点]を踏んでその場にペタリと倒れてしまった。すぐに立ち上がるも眼鏡がどこかに落ちてしまい、「眼鏡ぇ眼鏡ぇ」と両手をふりまわし地団駄を踏む往年の横山やすし状態。いかんともし難い。
「ゾンはほんまのアホやでぇ、狂っとるんや、何するかわからんでぇ、ゴリラよりゴリライモより凶暴や、あんたらそんなに近づいてええんかぁ?」
後方でオロオロとしている山之上などもちろん眼中にも入れず、中間は客をあおった。その横でゾンはマイクスタンドを握ったまま、うつむき、口元で何かつぶやいていた。
「ゾンは見てのとおりの美青年や」
中間がニタニタと気味の悪い笑いを浮かべた。
「肌は白うく透き通り、生まれながらの蝋細工、はるかに遠いフランスの、シャンソンの故郷おパーリの、マダム・タッソーが作ったか、男と思えぬ美麗人。瞳は輝くトパーズに、くちびるわななく毒の虫、沼のほとりの血吸い虫。虫の唇唄います。心をこめて唄います。昔太鼓で猿まわし、今じゃエレキで狂人まわし、聴いてください観てください、あ、じぃ〜ぶ〜んぼおおおおうっくっすう〜 おんすぅてぇぇえいじぃぃ〜」
どうも中間という男、止まらないたちのようである。いい塩梅で延々と講釈をたれる彼に客たちの野次が飛ぶ。
「はやくやれ!」
「お前は弁士かぁ!」
なんでもいいからはやくやれ! と客の怒鳴り声。
「ハイハイ、言われなくともわかっとるよ、昔、テレビ局で前説のバイトやってたくせが抜けなくてね、えろうスンマセンなあ。ホナ、いかさせてもらいますぅ」
中間がガラス板を握った右腕を高く上げた。
ゾンがゆっくりと顔を上げた。
ゾンのつるつるの瞳に、汗だくで彼を見つめるいくつもの顔が映っていた。一見、女のような顔をしたゾンだが、喰い入るような視線の集中砲火を浴びても、動じることがなかった。それより、この世の何も、彼には見えていないようだった。ステージの上でゾンは無表情だった。
賢三、タクオ、カワボン、そしてやっと眼鏡を見つけた山之上は、何とか前の方で観ようと満員の客を押しわけていた。パンクスの革ジャンについているとげが体のあちこちを刺し、安全靴の底が足を踏み、彼らは「ひい」「あうぐ」「イテ、イテテテテ」と悲鳴をあげながら、それでも前へ前へと進んだ。
賢三は、不思議な高揚感の中にいた。
イガグリのようなパンクスのツンツン頭が彼の鼻先をかすめるたび、ディップやダイエースプレーの匂いが嗅覚を刺激した。一人、コカコーラの匂いがするモヒカン刈りがいた。糖分の多いジュースを使って髪を立てるパンクスがいるというウワサは本当なのだなと彼は思った。
革ジャンの鋲《びよう》にひっかかると、チクリと痛かった。
足を踏まれると、頭のてっぺんまで痛みが走った。
痛みというものを、賢三は久しぶりに感じたと思った。
蒸気と化した人々の汗が、天井から滴となって賢三に落ちた。
ほてった体にひやりと冷たかった。
ビリビリに破ったTシャツを着た男のわきを通ろうとした時、賢三はよろけて、汗でビショビショの彼の背中に額を押しつけてしまった。体勢を立て直そうとして、彼の体に触れると、男の体は柔らかく、右手の指先は脇腹の脂肪に喰い込んだ。左手の指先が彼の肋骨に触れ、内臓を包む一本一本がはっきりと感じとれた。獣じみた体臭が鼻孔から賢三の肺へと注ぎ込まれた。
黒所の教室では絶対に感じることのできなかった、生きた人々の熱気が、今、賢三の五感を刺激していた。
賢三以外の三人も同じだった。それぞれ、生身の発する匂いや汗や、そういったものに驚き、とまどい、興奮させられていた。
ステージ上の中間は、右手を高々と上げたまま、左手でネックの上方をトリルしていた。人差し指で三弦の三フレットを押さえ、素早く薬指を動かし、三弦の五フレットをハンマリングしていた。低く、獣のうなるような音が屋根裏に響いていた。
ゾンは、相変わらずどこも見ていないような瞳をして、ぶつぶつとつぶやいていた。
「いくでぇ」
中間が叫んだ。
賢三たちは客席の真ん中まで客を押し分け進んでいた。
振り上げたタクオの拳が、山之上の眼鏡をふき飛ばした。
「あっ、山之上すまねぇ!」
「めめめ眼鏡ぇ眼鏡ぇ」
再び横山やすしと化す山之上。
「いくでぇ!」
中間のトリルがさらに素早くなった。
うおおおうっとどよめくパンクス。
つられで思わず声を上げる賢三、タクオ、カワボン。
虚空を見つめるゾン。
「眼鏡ぇ眼鏡ぇ眼鏡ぇ」
相変わらず横山な山之上。
天井からしたたる水滴が、中間の突き上げたガラス板にそって、ツーと流れた。
滴が流れ落ちると同時に、中間は腕を振り下ろした。
最初の音はGだった。鉄板を叩き折るように激しい音だった。
やっと眼鏡を捜し出した山之上も含め、少年たちは、一斉に「かっちょいー!」と叫んだ。いくらごたくを並べたところで、結局ロック最大の魔力はそのかっこよさにある。中間がガラス板の角で器用に弾いた音は、理屈ではなく彼らに素直な一言を叫ばせた。
中間は再び腕を高々と上げ、ニタニタと笑いながらもう一度振り下ろした。
耳をつんざくディストーションの音。B♭だ。
「ウヒョ〜!」
と四人はまた同時に声を上げた。
かっちょいい! かっちょいいぞ! 賢三は心で叫んだ。自然に顔が笑ってしまうのを、どうにも止められなかった。
中間のレスポールからアンプを通して発せられた次の音はCだった。
四人は再び「かっちょい〜!」と叫んだ、が、一瞬の間を置いて、
「ん?」
と思った。
盛り上がっていたパンクスも、やはり「ん?」という顔をした。
『G→B♭→C、この進行、なんか聞き覚えがあるぞ』
その想いが客や賢三たちに「ん?」という表情を与えた。
「あれ、これってもしかして……」
「し、しかしなぜ……」
あちこちで声が聞こえた。
中間はとまどう客たちを気にもせず、ガラス板の角で弦を弾き続けた。
G→B♭と再び弾いて、D♭へと動き、素早くCへと移った。
G→B♭→C G→B♭→D♭→C
おおおっと客がどよめいた。しかし今回のどよめきは、「?」マークを付けるべき状態として起こった。
客席は疑問のどよめきをあげたのだ。
客たちの全てが、これから弾くであろう中間の音を知っていた。次は再びG→B♭→Cをくり返し、そしてB♭→Gとしめるはずだ。まちがいない。まちがえるはずもない。
中間は彼らの予想どおりG→B♭→Cへと戻り、B♭→Gとしめた。
G→B♭→C、G→B♭→D♭→C、G→B♭→C、B♭→G
知らぬ者を探す方が困難な、ロックのオーソドックス、基本中の基本、演歌なら「悲しい酒」、シャンソンなら「枯葉」、スイス民謡なら※[#歌記号、unicode303d]おおブレ〜ネリあっなぁたのおっうちはどこ〜……ぐらいに定番と化したナンバー。言わずと知れたディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のイントロではないか。
いきなりのスカシ技に、屋根裏中の客たちがズッコケた。
「てめえっ! そこまでボケるかぁ!」
「引っ込めえっ! 今すぐ引っ込めえっ!」
罵詈雑言、怒声の嵐が屋根裏を飛びかった。
――『なんでその曲弾いただけでそこまで言われにゃいかんのだ?』と、素朴なる疑問を抱いた読者のために御説明しよう。
ロック者の常識として、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」は「ちょっと恥ずかしい曲」なのである。ロックに憧れ、ギターを手にした人の中で、この曲を一度もコピーしたことがないという人間は存在しないと断言できる。たとえ今は、アシッド・ジャズに傾倒していたり、「やっぱりデビシルはピーガヴを超えられませんよ、ロバフリとユニット? マスターベーションですよ、所詮」などとしたり顔で語るロック通などにしても、ロックに目覚めたころはやっぱG→B♭→Cとやっては「かっちょい〜!」と一人勉強部屋でよがっていた時代があるのだ。「スモーク・オン・ザ・ウォーター」は、全てのロック者に、少年時代、ロックに対して抱いていた熱くて甘い初恋にも似た初期衝動を思い出させてしまう、「ちょっと恥ずかしい曲」なわけである。某楽器店では、「ギター試奏の際、スモーク・オン・ザ・ウォーターは禁止」の貼り紙まで貼ってあるとかないとか。そのぐらい、恥ずかしい、恥ずかしー曲なのだ。
「やめろ! それ恥ずかしーぞ!」
いたたまれなくなったのか、客の一人が叫んだ。
中間は「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のリフをくり返しながら、声の方に向かって言った。
「恥ずかしい? ええやないか? 恥ずかしくてええやないか、お前かて夢中でこのリフ何べんも弾いたことあるやろ? 友達呼んで『どや? かっちょええやろ?』って自慢したことあるやろ? その気持ち忘れたらあかんでホンマにぃ! 初期衝動っちゅうやつや、何にもまして強いもんやないか、それはラーメンでいうたらダシや、ダシは長くもたん、残るのはうわずみだけやろ、だからな、初期衝動っちゅうのは忘れたらあかんのや、否定したり恥じたりするもんやないでぇ、たとえば女に惚れるやろ、美人や、な? でも美人かて結局人間や、歳とれば乳は垂れるわオメコは広がるわで、とても惚れぬけるもんやない、人間かて変わっていく、性格のよかったあの娘でも、金と欲と宗教と、何やらゴチャゴチャしたもんが絡めばいくらでも変わっちまうもんや、でもな、あの時たしかに僕は彼女に恋してました、スキスキスーで抱っこしてチューしたかったゆー気持ちはな、それはあったんや、存在したんや、それさえも否定したらな、おう考えてみいよ、この世はホンマに、闇やでぇ」
「ゾンが退屈してるよ〜!」
ニナ・ハーゲンメイクの女の子が独演会状態の中間に叫んだ。
「おっ、スマンスマン、ほな、今度こそホンマにいくでぇ、ミキサーさん、ミュージックスタートや」
冗談かと思えば、彼の呼びかけに応えて本当に、ステージ両脇のPAから大音響が流れ始めた。
テクノのノイズ的解釈とでも呼ぶべきか、ジャングルビート風のあわただしいリズムが、イコライジングされたシンセの音色で構成されていた。ノイズ風テクノが流れる中で、中間はいかにも古色蒼然としたハードロックを弾き続けた。やがてお互いのリズムが重なり、中間が作ったと思われる無機質なテクノサウンドと、彼の奏でる泥臭いリフとは、絡み合い奇妙な異化効果をもたらし始めた。
客たちは初めて目《ま》のあたりにする不可思議な音に圧倒され、立ち尽くしてしまった。
と、不意にゾンが唄い始めた。
それを唄、といっていいのかどうか。
ゾンはつるつるの目で空をにらみながら、両手でしっかりとスタンドを握りしめ、何とも言えぬ気味の悪い声を、ノドの奥からしぼり出し、マイクに向かって叩きつけたのだ。
賢三は、心をわしづかみにされるような声だ、と思った。それも、鉄の爪フリッツ・フォン・エリックの長い長い指でムンズとつかまれるかのような迫力だ……。
まったくゾンの声は異様だった。
例えばマーク・ボランやデヴィッド・ボウイの声を、つぶされるカエルの発するようなとか、しめられた七面鳥の鳴き声のようなとか、さまざまに形容されることがあるが、ゾンの声に限っては、たとえようがなかった。
「なんて気味の悪い声だ」
とカワボン。
「でもずっと聴いてたくなる声だ」
と賢三。
「最初はきついが後でくせになるってかんじだな」
とタクオ。
「くくく、くさやの干物のようなものか」
と山之上。すかさず「他に言いようないのかよ!」とタクオにはたかれ、またしても眼鏡を飛ばし横山と化した。
ノイズ風テクノは徐々に激しさを増していった。それに合わせ、中間はリフにオブリを加え始めた。その上に、不吉なゾンのヴォーカルが、まるで地獄のオペラといったように、クラシック調のメロディをのせていた。
それは、今でならハウス系のミュージシャンが試みている混合の手法であるが、この頃にここまでしっかりとしたサウンドを創り上げている者はいなかった。当然、渋谷屋根裏の客たちにとっては初めて聴く斬新な音楽であった。メタルでもない、パンクでもない、テクノでもない。客たちはどう反応していいのか困っていた。しかし、自分BOXの吐き出すような音の勢いに、理屈ではないところで、彼らはしだいに興奮させられていった。
オブリガートの部分は、やがてリフを侵食し始め、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」は原型をとどめないまでに崩して演奏された。そしてまったく別曲に変化したところで、またしても中間は右腕を高々と突き上げ、いきおいをつけて打ち下ろした。
戦闘機の爆撃音、あるいは火に焼かれ断末魔の叫びを上げた女の声のような、狂った音が中間のアンプから飛び散り、賢三たちの鼓膜に突き刺さった。
中間はガラス板を弦と垂直に立て、上下左右にスライドさせた。
「うるせえ!」とモヒカン男が悲鳴を上げた。
ニナ・ハーゲン娘が両手で耳をおさえた。
ゾンの両肩のあたりが小刻みに震え始めた。
震えは彼の全身におよび、彼はガクガクと痙攣しながら不吉なオペラを唄い続けた。
ゾンに呼応するかのように、金髪に銀ブチ眼鏡をかけた客の一人が体を震わせて「おおおっ!」とうなり始めた。
彼だけではなかった。何人かが同じようにうめき、体を震わせていた。
リズムが機関銃のようなスピードに変わった。
条件反射のように、数人がポゴダンスを踊り始めた。
賢三の横にいた男も踊り出し、革ジャンの鋲が賢三の肌に痛みを与えた。
賢三は逃れようと男から体を離したが、ふと気付けば前の客も後ろの客も上下に体を揺らし始めていた。
「イテテ、カワボン痛ぇよオレ」
賢三はカワボンに訴えた。
「アイタタ、ケンゾー、オレもだよ、前の人のリストバンドが当たってイテテ、タクオ、そっちはどーだ!?」
「オチチチ、オレなんかよー、足ガンガン踏まれてんだよー。おーい、山之上、大丈夫かぁ」
「眼鏡ぇ眼鏡ぇ眼鏡ぇ、めめめ眼鏡ぇ……あああ」
「どうすりゃいいかなあ、身動き取れねぇよカワボン」
「い、一緒に跳ねればいーんじゃないか、タクオ」
最初はとまどっていた客たちも、有無を言わせぬ中間とゾンの演奏に、すっかり興奮させられていた。2ビートに合わせ、屋根裏中の客が一つのかたまりとなって、上下に激しく揺れ始めていた。
「お、おい揺れてる、床が揺れてるぞぉ」
賢三が弱々しい声を上げた。客が跳ねるたびに、屋根裏の床は確かに揺れていた。
「うおおおう! 何か燃えてきたぞオレ、オレものるぞ! 跳ねるぞ! うおおおおう!」
タクオが吠えた。
「オレもだ、何か、何だろう、こんなの初めてだ」
いつもは冷静なカワボンが抑え切れぬ口調で言った。
「うん、うん、スゲー、何かスゲーよこれ」
賢三もうなった。
今、四人の少年たちを、今まで感じたことのない刺激がスッポリと包んでいた。鼓膜を震わせる大音響、目の前で痙攣する女のような顔をしたヴォーカリスト、満員の客から天井へと湧き上がる気化した汗。ディップや体臭や、湿った革ジャンの匂い。触れ合った瞬間、ヌルリとすべる人肌の熱さ。大仰ではなく、船のように揺れるフロアー。
どれもこれもが、黒所の教室では……。
いやそれどころか、何冊の本を読んでも、何本の映画を観ても決して感じることのできない「生」の世界がそこにはあった。
「スゲー! スゲー!」
満員の客と共に飛び跳ねながら、賢三は思わず叫んだ。
「スゲーよこれ! 何でオレら今までこれを知らなかったんだよ」
隣を見れば、カワボンが笑っていた。タクオと目が合った。彼も笑っていた。初めてジェットコースターに乗った子供のように素直な笑顔で「ケンゾー! たまんねーなー」と言った。
ふり返れば、やっと眼鏡を捜し出した山之上が飛び跳ねていた。笑顔こそ浮かべていなかったが、賢三を見て「すすすスゲエ!」と言った。
「うおおおおおおおおう!」
タクオが腹からしぼり出すようなおたけびを上げた。
「何だ!? 足踏まれたかタクオ?」
「そうじゃねーよケンゾー! 何か叫びてえんだよ、叫ばずにいられねえうおおおお!」タクオの語尾はそのまま雄叫びと化していた。
一体となり押しくらまんじゅうをしている間に、賢三も、何故だが「叫ばねばならん!」という気持ちになってきた。
オナニーの日々、黒所、受験、将来、それに山口美甘子、そういった彼を取り巻くモンモンとした全ての事柄に対し、ナンダカワカランガトリアエズ叫ビタイ、叫バネバナラン! と賢三は感じ、そして叫んだ。
「うっおおおおおおおおおおおおおお!」
タクオも叫んだ!
「うっっっおおおおおおおおおおおおおう!」
突然うおおおう男と化した友人を見て、カワボンは冷静に、しかしこんなことを言った。
「オレも叫ぶ」
うっおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ! と、二人よりやや長目に彼は叫んだ。
「ぼぼぼぼ僕も行くぞぞぞ」
山之上が眼鏡のフチを上げつつ言った。
「うっおおおおう! うおおおぅ! うおっ! うおっ! うおっ! うおっ! うっ! うがぐぐっ」
勢いがつきすぎてタンがからんだのか、山之上の叫びは「さ〜て来週のサザエさんは」と次週予告をするフグタサザエのような終わり方になってしまった。
それは単なるうっぷん晴らし、ストレス解消であったのかもしれないが、四人は、生まれて初めて味わう高揚感に我を忘れた。モヒカンや金髪や、奇妙な姿をした連中と一緒に飛び跳ねていると、何でもできるような、そんな気になった。
「オイ、バンドやろーぜ!」
「やるのは決めてるじゃないかタクオ」
「うっせーなケンゾー! そうじゃねーよ、すぐやろーぜ、帰ったらもう本当スグに始めようぜ、うおおおおおおおおっ!」
またしてもタクオの語尾は雄叫びと化していた。
ステージ上では、ゾンが体を震わせながら天を仰いでいた、滴が彼の顔に落ちても、彼は気にするようすもなかった。ゾンの真っ白なノドが、こくんと鳴った。
ふいにリズムがミドルテンポに変わった。
中間がガラス板を客席に投げこんだ。
ガラス板を奪おうといくつもの手が客席から伸びた。
中間はうって変わって、アルペジオで弦をコロコロとつまびき始めた。
ゆっくりと、ゾンがマイクに顔を近づけた。
一言一言かみしめるように、ゾンが語り始めた。
『人を嫌いになると
君の頭の上でいつもミラーボールがまわる
クルクルクルと
わかってるっていうのに
マチ針を軸にして
いつまでもまわりやがるんだ
魚のウロコのいっぱいついた半魚人みたいな
まぶしく光るあの球体はオレだ
十七歳の記念日に
一晩で何人の人を殺せるものか試してみたくて
吉田レンタル衣装屋に八つ墓村の格好を注文したのだが
「あいにく今これしかないんです」
手渡された服は
えりの大きい道化みたいなスーツで
ジョン・トラボルタが着ていたのとまったく同じ物
おりしも土曜の夜
フィーバーだ
フィーバーだ
サターデーナイトはフィーバーだ
ジョン・トラボルタの名の下に
俺は踊る殺人鬼となる
ミラーボールに照らされて
俺は踊る殺し屋になる
踊りながらでも殺せるのは
そりゃあステップの踏めない
しょぼくれの、あらくれの
どうしようもない十七歳に決まってる
生ハゲに犯された秋田美人みたいに
痙攣させてあげるから名乗れよ
「僕には何もありません」って告白しろよ
何もできないんです
自分の中に誰かいて、いつか暴れてやるなんて言ってるけどウソなんです
何もできないんです
ただ途方に暮れるばかりです
これではまるでソフトビニルのピグモンです
ガラモンにさえなれません
殺して下さい
ねえあんた踊りながら殺しておくれよ
ヘイミスタートラボルタ!
ダンスが上手ね
プリーズ・ミーのヘッドをミラーボールとチェンジして
キラキラ輝く、魚のウロコのテラテラ光るミラーボールで
僕の全てをまわしてください』
賢三はゾンの語りを、まるで自分のことを言われているようだと思いドキリとした。
中間がストロークを刻み始めると、ゾンは『「僕には何もありません」って告白しろよ』という言葉を何度もリフレインし始めた。
『僕には何もありませんって告白しろよ
五体満足なだけですって悟れよ
僕には何もありませんって告白しろよ
五体満足なだけですって居直れよ
僕には何もありませんって告白しろよ
五体満足なだけですって謝れよ
僕には何もありませんって……』
ふいにゾンの姿がステージから消えた。
興奮した客がステージに駆け上り、ゾンに飛びかかったのだ。客とゾンは勢いのあまりステージに倒れた。
中間の目が一瞬にして殺気だった。
レスポールを頭上高く振り上げ、そのまま一動作で客の頭に打ち下ろした。
ニナ・ハーゲン娘がギャッと悲鳴を上げた。
客の頭から真っ赤な血が飛びちった。
返り血を浴びて顔面を赤くそめながら、ゾンは唄うことをやめなかった。
『僕には何もありませんって告白しろよ
五体満足なだけですって笑えよ
僕には……』
取りつかれたように唄い続けるゾンが、ゆらゆらと立ち上がり、血まみれのその姿を現した時、客たちは息を呑み、次の瞬間、誰といわず一斉にステージに駆け上り始めた。わずかでもこの美しいカリスマに近づこうと、我先に殺到した。
二、三人を殴り飛ばした中間であったが、すぐにあきらめた。
「来い来いみんな来い、やけじゃもう!」
と言って、顔をクシャクシャにして人なつっこく笑った。
「おい! 行こう、オレらも行こう!」
タクオが目をむいて叫んだ。
言われるまでもなかった。四人は革ジャンやモヒカンでパニック状態のステージへと走り出していた。
山之上が賢三を追い越していった。賢三は山之上の肩を後ろからムンズとつかみ、一気に言った。
「おい! これだよ! 絶対これだよ! 帰ったらすぐにバンド始めようぜ! バンドやってチョキを連発して、一気に山口を追いぬいてやろうぜ! できるよ! 美甘子なんかすぐに……あっ!」
言ってしまってから賢三はあせった。美甘子のことをつい口走ってしまった。
しかし、ふり向いた山之上はそれどころではなかった。またしても眼鏡がふっ飛び、あわてる彼は賢三の話など聞いてはいなかった。
フィーバーしまくる渋谷屋根裏の中で、山之上はただ、
「眼鏡ぇ眼鏡ぇ眼鏡ぇ、あああ」
と、例によって横山やすしと化し、うろたえるばかりなのであった。
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第5章 ナスターシャ
轟音を立てながら疾走するトラック。その真正面に、敢然と立ちはだかる若い男の姿があった。両腕を広げ、仁王立ちだ。
何ごと? まさか究極の異種格闘技戦によって名を上げんとする実戦派空手家か、はたまた若き自殺志願者なのか? いずれにせよこの男、徒手空拳でトラックを制止しようとしているところのようだ。
「すいませーん! ちょっと止まってくださあい!」
険しい表情と裏腹に、男の口調はやけに丁寧であった。
タイヤが悲鳴を上げた。トラックは間一髪のところでピタリと止まった。
「脳味噌腐り野郎! 俺を交通刑務所に入れる気かあっ!」
運転手が永源遥なみに大量のツバを飛ばして怒鳴りつけると、男はペコペコと頭を下げ、しかし険しい表情のまま運転手をにらみつけてこう言った。
「スンマセン映画撮影中なもんで、別の道行ってもらえますかあ!」
――十メートルほど離れたところで、その光景を眺めていた映画監督大林森宣蔵は、呆れた調子で言った。
「もう少し穏やかにやれんのかねあいつはぁ……品位ってもんがねーな」
彼を中心に集う十数人から、なごんだ笑いが起こった。
「すごいですねゴモさんは、ヤクザが来てもトラックが来ても止めちゃうんだもん」
山口美甘子が言った。
四方からまばゆい照明を当てられた彼女の笑顔が、撮影用カメラのレンズにくっきりと映っていた。
「ゴモ! 早く戻れよ」
ぶっきらぼうに監督が言った。
肩で息をしながら、ゴモと呼ばれるサード助監督がかけ戻って来た。
「美甘子、行人、かたちつくって」
監督の声に美甘子はハイと答え、チーフ助監督が目線用に握った拳のあたりを見つめた。
一瞬にして彼女の顔から笑いが消えた。かわって、思いつめた表情がスッと浮かび上がった。
と、ふいに背後から少女は抱きすくめられた。
美甘子と同年代の少年が、日に焼けた腕を伸ばして、彼女を強く抱きしめたのだ。
「行人、美甘子のおっぱい握って」
「え? 握るんですか?」
監督の不意な注文に、美甘子を抱きしめた少年はたじろいだ。
「そうだ、右のほうをギュ〜っとな」
「あ……ハイ」
行人と呼ばれる少年は、十七歳にしてはふくよかすぎる美甘子の胸に指を立てた。
「弱いよ、母乳が出るくらい強く握って」
まさか母乳は出ないだろうと思いながら、行人は美甘子の胸をさっきより強く握った。「もっと強くだよ行人」
「え、もっと強くスかぁ? あ〜でも……」
「私は全然平気よ」
きっぱりと美甘子が言った。
美甘子の言葉を聞いた少年は、「ほんじゃ」と、とぼけた調子でつぶやいて、さらに強く、彼女の胸に置いた指に力を込めた。
美甘子は表情一つ変えなかった。「思いつめた少女」を演じたまま、眉一つ動かすことがなかった。
「じゃ本番」
監督が言った。「本番」「本番」数人のスタッフがそれを連呼し、「しりボールド!」などと専門用語が飛びかった。そして直後、全員が一斉に黙し、あたりはシンと静まり返った。
「スタート」
カタカタとフィルムの回る音。
『いち、にい、さん』と心の中でゆっくり三つ数えてから、美甘子は観念したような口調で語り始めた。
「……犬や猫じゃないんだからね……こんなことされたら……あたしだって……行人のこと好きになっちゃうんだからね……」
美甘子の大きな瞳が、不意な雨に降られたかのように、ゆっくりと潤み始めた。行人は少女の体を抱きしめながらがっくりと頭をたれていた。少年と少女は、生まれて初めて知る恋の痛みに、熱いその体を寄せ合い、迷子のようにただ途方に暮れるばかりなのであった……。
と、「すんません監督!」突然ゴモが叫んだ。
「な、なんだよ?」
「またトラック来ちゃいました」
「んなもんはやく止めに行けよ」
「ハイ! それがヘリコプターも飛んでまして、音がうるさいんでもう一度……」
監督はきっとゴモをにらみつけ、極めて真面目な口調でこう言った。
「んなもん早く撃ち落とせ!」
「『撃ち落とせ』は、いくらゴモ君でも無理よね」
狭苦しいロケバスの中で美甘子の髪にブラシを入れながら、ヘアメイクの久田がアハハと笑った。
「でもやりかねないですよね」
美甘子も微笑んだ。
連日、早朝から深夜にまでおよぶハードな撮影の中で、久田とおしゃべりをするのが、美甘子の唯一の息抜きになっていた。新人女優とヘアメイクは、女子高における生徒と保健室の先生のような関係になる場合が多い。美甘子は今年三十になる久田を慕っていた。
「ああ見えてもゴモ君ね、華道の師範だったんですって」
「えっ! 若いのに」
「だけど映画がやりたくってやめちゃったんだって」
「ふうん、映画の力ってすごいなあ」
「みんな病気だよねえ。現場が好きなんだろうねぇ……。美甘子はどう? 映画の現場、慣れた?」
「……慣れてない……。もう何日も経ってるのに、どうしたらいいのか、自分がわかんない……」
美甘子は口惜しそうに口をすぼめた。
美甘子初主演作のタイトルは『I STAND HERE FOR YOU』といった。
幼児の頃のように、夢と現実の区別がつけられないでいる一人の少女が、やがて大人ヘの階段を上る途中で、現実と対峙する勇気と諦念を得るまでを描いた青春物語であった。美甘子の役名はズバリ「美甘子」であった。
「プロデューサーがわざわざ同じ役名にしたってことはさ、そのままやればいいってことよ」
「そのままって……私のそのままなんて何もないってことだもん。私、背ばっかりでっかくて、中身がないんだもん。あー、落ち込む」
「背ばっかりなんてことないわよ。オッパイもおっきいじゃないの」
久田は陽気に笑ってみせたが、美甘子の気分は晴れなかった。
まったく美甘子は落ち込んでいた。監督は美甘子の演技を、ほめもしなければけなしもしなかった。たまに、撮影が終わったばかりでホッとしている美甘子の背後に忍びより、ボソリと一言「リテイク(撮り直し)」と告げるのであった。この攻撃には美甘子は心底まいっていた。
「大見得切って学校までやめちゃったのに、つくづく私、自分が何もできないってわかっちゃった。あー落ち込む。どうせまた監督が来て後ろから言うのよ、『リテイク』『リテイク』『リテイク』って、いーわよ、やり直せばいいんでしょ、やってやるわよ、リテイクリテイクリテ……」
「……リテイク」
「キャー!」美甘子がふり向くと、そこには監督の姿があった。AV監督からメジャーな映画制作者へと名を上げた彼は、寸づまりの体型にブランド物のスーツという、監督というよりはなにやらインチキ空間コーディネーターといった風貌をしていた。
「キャー! 監督いたんですか!」
「キャーじゃないよ、リテイク」
「やっぱりヘリコプターの音が入っちゃってましたか?」
「そうじゃない、芝居に問題あり」
ポケットに手を突っ込んだまま、大林森はぞんざいに言った。
「……どこが駄目でした?」
「とにかくリテイク」
ズンと美甘子の体が重くなった。もう落ち込ませないでよ。美甘子は泣きたくなった。
「言ってください、演技指導してください」
ペコリと頭を下げた。
「いいから用意しろ、リテイクリテイク」
「私の駄目なところ言ってよ!」
つい美甘子は、自分でも驚くほどの大声を上げてしまった。
監督は美甘子より背が低かった。上目遣いに見る彼の瞳が一瞬キョトンとなった。そしてすぐに、ニヤリと笑った。
「すぐ怒る」
「ごめんなさい! でも……」
「不安か」
「不安です」
「なにが不安だ」
「自分がわかんない」
「わかってんじゃないか」
「なんですかそれ? 禅問答ですか?」
「なんでもいいから監督様を見下ろしながらしゃべるのはやめろ」
と言って監督はイスに座った。
美甘子も隣の席に腰を下ろした。まだムッとしているのだろう、ふんぞり返って、揃えた両ひざを前座席の背もたれに引っかけて座った。金属性の背もたれがベコン! と音を立てた。スカートから白い脚がのぞいた。
「お前、女の子だろ、そんなポーズとって恥ずかしくないのか?」
「別に恥ずかしくないです」
「脱いだ時も恥ずかしくなかったのか?」
「脱げって言ったの監督ですよ」
「お前に度胸をつけさせようとしたが失敗した」
「どうしてですか?」
「おまえは度胸だけならもとから人の五倍はある」
後ろで久田がクスリと笑った。
「美甘子、リテイクな、脱げ」
「いいですよ」
美甘子は力強く答えた。
「力むな。鼻息がかかったぞ」
「監督も鼻毛が出てますよ」
「知っとる。趣味で伸ばしてるんだ」
「私も趣味で鼻息かけてるんですよ」
「そうか、おあいこだな」
意地悪だが、美甘子はこの男を嫌いではなかった。
「監督、私、自分がどこまでできるのか試してみたい」
「じゃトライアスロンをやれ。チョモランマ登頂もいいぞ、限界への挑戦だ」
「ふざけないで指導してください」
「女優になりたいのか、『エースをねらえ』だな」
「『ガラスの仮面』でしょ」
「どんな女優になりたい? 目標とする役者はいるのか」
「います……。でも言わない……笑うから」
「笑わん、約束する」
監督は魚のような小さな目で美甘子の瞳をジッと見つめた。
「言ってみろ、美甘子」
「……ナスターシャ・キンスキー……」
告げた瞬間、監督がニタ〜リと笑った。そして、他人の秘密を握って嬉々とする中学生のように彼は言った。
「んなあすぅとぅおあしゃくぃんすくぅいいい、だとぉ!?」
あまりの無礼に、目を見開き呆然とする美甘子。
久田が腹をかかえて笑った。
「アハハハ、美甘子ちゃん、怒っちゃ駄目よ、こういう人なんだから」
「もういい、もういいです。監督にはもう何も聞かない」
美甘子は本当に怒ってしまった。子供のように頬をふくらませた。
「怒るな、そうか、ナスターシャ・キンスキーか、俺は親父のクラウス・キンスキーのほうが好きだがな。わかった。美甘子をナスターシャ以上の女優に教育してやろう。そのためにな、お前リテイクで脱げ」
「脱ぐって言いました」
「うむ……」
ふと監督が黙った。
「なんですか?」
「お前な、恥ずかしいとは思わんのか?」
「思いません」
「全然?」
「全然」
「何で?」
「演技の上でのことなら……」
「抱かれても平気か?」
「お芝居ってそういうものでしょう」
「何とも思わんか」
「脱ぐのも抱き合うのも、必然性があるなら……」
再び、監督の顔に意地悪中学生の表情が浮かび上がった。
「え、何? 何ですか監督、その顔は……」
「……ひいいいいっつぅぅずうえんせえええい!? ひいいっつうずうえんせえいだとお!?」
美甘子の顔がスーッと青ざめた。
鼻の横にくっきりとしわをつくって、二十も歳下の小娘をいじめる監督を見つめるうちに、彼女の心には、掃除当番をさぼった男子に張り手を喰らわせた小学三年の時以来の怒りがこみ上げてきた。そして思わず大恩人である監督の顔面に、彼女はアントニオ猪木ばりの鉄拳をガッツーン! と一発喰らわしてしまったのであった……。
「美甘子監督殴打事件」の評判はおおむね好意的なものであった。
撮影スタッフは美甘子の腕っぷしをたたえた。
「いやあ、今まであいつにネチネチといじめられてきた女優たちの恨みを一気に晴らしたね〜、美甘子ちゃんえらい!」
と言って、監督とは長い付き合いのカメラマン清山は腹を抱えて笑った。
「すごいっスよ! 俺もやってみたいなあ、なーんて」
ゴモは嬉しくってたまらないといった顔で言った。
殴られた当の監督は、血止めの脱脂綿を鼻の穴につめ、撫然とした表情でリテイクの準備を始めていた。しかし、久田によれば「監督ねぇ。美甘子ちゃんのこと気にいっちゃったみたいよ。『この恨みは次回作で晴らす!』だって、監督ハッキリした娘大好きなのよ」ということであった。
いくらフォローされても、美甘子の最低な気分は復活しなかった。ロケバスに一人閉じこもり、地の果てまで落ち込んでいた。
一番後ろの座席に座り、ぼんやりと窓の外を流れる雲の行方を目で追っていた。
少しだけ窓が開いていた。五月の生ぬるい風が美甘子の顔にそよぎ、柔らかな髪の数本が、自然に開いた唇の端に流れていた。
「美甘子ぉ」
と、馴れ馴れしく呼ぶ声がした。
行人役の俳優、羽村一政が、台本を片手に近づいてきた。
美甘子はこの少年が嫌いだった。
「黒所にいっぱいいたつまんない連中」の一人みたいな奴なんだもん、と美甘子は彼に最低の評価を下していた。羽村は大手芸能事務所ジョニーズ所属のアイドルタレントだった。「バリバリマイLOVE」だとか「ぞっこんキメキメボーイ」だとか「ジンジンするぜ湘南族」だとか、美甘子にしてみれば脳味噌がジンジンと腐ってしまいそうな通俗かつ下劣な唄を唄い、彼女いうところの「つまんない人たち」から絶大な人気を博していた。
「準備もうちょっとかかるってよ」
と言って、羽村は美甘子の横に座った。
少女の使うような、甘いリンスの香りがした。
男のくせに、と美甘子は思い、さらにうんざりとした。
「美甘子さぁ」
「何よ」
窓の外を見たまま、美甘子は無愛想に答えた。
「お前さぁ、なんか俺に冷たくねぇ?」
黒所を退学してからの美甘子は、「つまんない人たち」に合わせて自分をつくることをやめていた。撮影の場においては、美甘子はまがりなりにも主役だ。誰に対してどんな態度を取ろうと、黒所と違って孤立することはない。そのことを自覚した時から、彼女は無理に愛想をよくしたり、無意味に笑ってみせたりすることをやめたのだ。
『そういうのって性格悪いよな』
と、思いつつ、彼女は羽村に対して明るく振るまうのが面倒臭くてならなかったのだ。
「そう? 落ち込んでるだけよ」
と、美甘子は言い訳をした。
「監督のことか? 平気平気、喜んでたよあの人、マゾなんじゃーん」
羽村が笑った。口元から真っ白な歯がこぼれ、彼が出演する「びっくりチップス・メキシカンドライカレー味」のCMとまったく同じ表情が出来上がった。
『やっぱりこんな奴やだ』
と、美甘子は思った。
美甘子が落ち込んでいる原因の一つは、羽村にもあった。映画の中で、美甘子は羽村演じる行人と恋に落ちる設定になっていた。しかも美甘子のほうから好きになっていくのだ。映画は映画、と割り切った考えを持つ美甘子だったが、羽村に対して嫌悪感を抱いているために、彼の演じる行人にも、「恋」という特別な感情を持つことができなかった。
「おい美甘子ぉ!」
「羽村君、君ちょっと馴れ馴れしいと思うよ」
言ってから『しまった。言いすぎた』と美甘子は思った。
「そーかー? いーじゃん恋人同士なんだからさ」
羽村はまったく動じていなかった。日本中の女子高生の憧れである。美甘子以上に度胸は据わっているのだ。が、美甘子の目には「ふてぶてしい奴」としか映っていなかった。
「役の上でのことでしょ」
「ほらー、その言い方、冷たいよなー」
羽村が笑った。今度は「森光チョコビスケット『ゆかいな猿山』」のCMで見せる笑顔だった。
美甘子は羽村を一瞬にらみ、そしてすぐに「怒ったんならごめんね」と謝った。
「そんなに冷たくするっていうのは、俺のこと好きだからなんじゃないの」
シレッとした表情で羽村は言った。
「何言ってんのあんた! 大体ねえ!」
もうだめだと美甘子は思った。もう抑えきれない。あんたが嫌いだってはっきり言ってやる。
「俺は好きだけどね」
「へ?」
「俺は好きだよあんたのこと」
トップロープからの決死のダイビングヘッドバットを、ドロップキックで打ち落とすかのようないきなりの切り返し技に、美甘子は一瞬言葉につまった。そして、
「……ど、どこが好きなの?」
などと、まるで自意識過剰おマヌケ娘のような質問を羽村にしてしまった。
「どこがって……う〜ん」
羽村は腕組みをして考え始めた。美甘子は心の中で悲鳴を上げた。
『わー! 考えなくていーよ! 考えんなバカ! わー! わー! わー!』
羽村が深刻な顔で言った。
「……体かな、やっぱ」
そして真っ白な歯を輝かせてニカッと笑った。
羽村が冗談で返してくれたので、美甘子はホッと胸をなでおろした。
ところがだ、羽村は続けてこう言った。
「正直なところが大好きだ」と。
「お前俺のこと好きじゃないだろ、それが素直に顔に出てる。芝居してる時も出てるんだよ」
「…………」
「そういう正直すぎるところがお前いーよ」
「……。ゴメン」
ペコリと美甘子は頭を下げた。
「ほめてんじゃねーかよ」
「演技の上でも嫌いなのが出ちゃうのはまずいもん」
「なんだ、やっぱ嫌いなのかー」
「あ」
羽村の顔に寂しげな表情が浮かんだので、美甘子はどうしたものかわからず、びっくりした顔のまま固まってしまった。
「美甘子、今お前スゲー困ってるだろ」
「……顔に出てる?」
「出まくり、徹底的に正直な奴だよなー」
「……ゴメン」
「かわいいよお前は」
羽村は美甘子と同い年であった。十七歳の少年が、同年代の少女に面とむかって「かわいい」などと言うのは、よほどの厚顔無恥でなければできないことである。しかし、羽村はスターだ。彼が他者から受ける愛情や憧れの量は天文学的数字なのだ。だから「かわいいよ」の一言がスルリと口から出た。彼にとってはなんでもないことだった。
だが美甘子は、矢に打たれたウサギのように、動くことも言葉を発することもできなくなってしまった。
女優とはいっても、美甘子はひと月前までは、どこにでもいるフツーの女子高生にすぎなかったのだ。
「なんだよ、口パクパクさせて、お前金魚かよ、何黙ってんだよ」
「……あ、え、うん」
美甘子はあわあわしていた。「好きだ」だの「かわいいよ」だの、殺し文句の波状攻撃にクラクラしていたのだ。
『そういえば、何も言ってくれなかった人もいたな』
ふと、美甘子はそんなことを思い出した。
「今度の火曜撮影ないだろ、二人でどっか行かねえ?」
「え」
「俺目立つからさぁ、家に来いよ」
遠く頭上でヘリコプターの音が聞こえた。
撃ち落とせ! と叫ぶ監督の声が響いた。脱脂綿をつめているせいなのか、鼻声になっていた。
「駄目かなぁ、やっぱ」
羽村は再び腕を組み、首をかしげた。
「やっぱ俺、信用ねーんだなー」
真剣な顔でつぶやいた。
その時だった。美甘子の心に、新しい感情が生まれた。
それはまず、クスクスという笑いになって彼女の表情に出現した。
そして次に、それは言葉となって彼女の唇から発せられた。
「羽村君って、意外といい奴だね」
「ええ、そうかあ」
羽村が笑った。
美甘子は、初めてその笑みが、CMで見る営業用のものではなく、自分に対して微笑みかけているものなのだということを理解した。
美甘子はクスクスと笑い続けた。
「おいお前さ、多少は俺に好意持ってくれたみたいだな」
「顔に出てる?」
「出てる出てる……なぁこの調子でもっと話し合おうぜ、お前いっつも本読んでっからさ、話しかけにくいんだよ」
「本、好きなんだもん」
「何読んでんだよ」
「今は、沢木耕太郎」
「誰だよそれ?」
沢木耕太郎も知らないのか、と思うと、またしても羽村がヒドクつまらない人間に思えてきた。
「あ、今軽蔑したろ」
「あ……」
「いいよ言ってみろよ、俺のそういうところが嫌なんだろ、言ってみろってば」
「……っていうか、私、本とか映画とか大好きだから、そういうことを知らない人って」
「バカに見えるんだろ」
「…………」
どうしてこいつは、ここまでズケズケものが言えるんだろう、と美甘子は思った。
「俺だって本ぐらい読んだことあんだぞ」
「何?」
「三毛猫ホームズっての、面白かったなあ」
顔に出すな! と美甘子は思ったが遅かった。
「あれ、またバカにしてるな」
「してないけどさ」
「なんだよ」
「俗っぽいよ、そういうの」
「じゃお前は読んだことあるのかよ」
「え?」
「三毛猫ホームズをさ。読んだことあんのか?」
「……ない」
「じゃ言う資格ないじゃん」
やり込められて、美甘子はすっかりしょげ返ってしまった。彼女にとって、実は一番触れられたくない部分だったのかもしれない。あまりしょんぼりしてしまったので、逆に羽村のほうが困ってしまった。
「あ、や、でもその山本コータローっての、今度俺にも貸してくれよ」
「沢木耕太郎だよ」
「ああそうか、アハハ」
羽村の心遣いを、美甘子は素直に嬉しいと思った。
「俺、今アイドルやってんだけどさぁ、昔はバカにしてたんだよ、あんなもんくだらねえって。だけどさー、やってみたらさー、難しーんだよこれが。ガキ共の夢を壊さず、でも不良っぽさはなくさず、とかな。あと老けたらもう駄目じゃん、だから今からそのへんの根回しもやっといたりとかさ、なんか町工場の社長みたいに忙しいんだよ。寅さんのタコ社長みたいな心境だよ。んで、何が言いたいかっつーと、馬の耳に念仏じゃなくて――」
「百聞は一見にしかずでしょ」
「それだよそれ、何ごともやってみなくちゃわかんないってこと。だからさー、だからさー、何が言いたいかっつーとー」
「いいよ、羽村君の言いたいことわかるよ。私も三毛猫ホームズ読んでみるから今度貸してよ」
「じゃ家に取りに来いよ」
ヘリコプターの音はもう聞こえなかった。
美甘子が何か言おうと口を動がしかけた時、開いたロケバスの窓からゴモの顔がのぞいた。
「すいませ〜ん! 美甘子と行人、リテイクいきまーす!」
美甘子の耳元で羽村がボソリと言った。
「決めろよ美甘子、来るのか? 来ないのか?」
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第6章 リテイク
「ハイ美甘子ちゃんバンザイして」
片手にパフとタオルを握った久田が、子供をあやすように美甘子に言った。
久田のふざけた調子につられて、ロケバスの補助椅子に座ったまま、美甘子は両腕を天井に向けて突き上げた。
「バンザーイ」
言葉の意味とは裏腹に、彼女はちっとも嬉しくなさそうな表情をしていた。
「『バンザイなしよ』って感じね」
「えっ? 久田さん何それ?」
「あら知らないのー」
と言いながら、久田は美甘子が着ていたトレーナーの両袖を思いっきり上に引っぱった。
「わっ、きゃっ、何するんですか!?」
いきなり服を引っぱり上げられた美甘子は、真っ白なお腹を出した状態で久田に訴えたが、「いいから」と彼女は言って、一気にトレーナーを脱がせてしまった。
ブラジャー一枚の、むきたてのゆで卵みたいにツルツルと輝く肌が久田の面前に現れた。
小さな汗の玉が一つ、胸元に浮いていた。美甘子が腕を下ろしたとたん、それはコロコロと転がって、ふくよかな胸の間へと流れ、にじんで消えた。
「リテイクで脱ぐっていうから、汗おさえとかなきゃね」
と言って、久田は美甘子の胸元にタオルを当てた。
「体にもドーラン塗るんですか?」
「オバサン女優はやるけどね、美甘子の場合はちょっと粉たたくだけでOKよ。何にもしなくたってこんなに肌がツヤツヤしてるんだもん」
久田は中年女のように、ンマー本当にうらやましい! などと言った。
「久田さんだって若いじゃない」
「若かないわよ、うらやましいなあ美甘子の肌、羊羹みたいにツヤツヤしてる」
「アハハ、変なたとえやめて下さい」
「つくづく歳の差を感じるわよ。『バンザイなしよ』も知らないんでしょ?」
「なんですかそれ?」
「『スター誕生』で合格者が出なかった時に欽ちゃんがやるのよ、『バンザーイ! なしよ』って」
久田がバンザイの姿勢から両の手首をクイッと曲げ欽ちゃんのマネをしてみせると、美甘子はあられもない下着姿のまま、大口を開けてケラケラと笑った。
「くだらなーい、それ新鮮」
「内緒だけど私もスタ誕の予選出たことあるのよ。狩人の『コスモス街道』唄ったら見事落ちたわ、選曲ミスだったのね」
へえ……としかコメントのしようがない久田の告白に、美甘子もまた「へえ……」と応えるばかりだった。
「だからうらやましいわよ、女優になれたあなたが」
「あたしはだめです。自分に何が足りないのかわかんない。役者になんかなれない」
美甘子の表情が曇った。絵本でもめくるように次々と表情が変わる娘だな、と久田は思った。
「また落ち込んじゃったの?」
「バンザイなしよって感じです」
美甘子は両腕を上げ、力なく欽ちゃんのマネをした。
クスクスと笑いながら、久田は美甘子にもう一度トレーナーを着せてあげた。美甘子の体からは少女特有の香りがした。シャンプーと石けん、それに甘い汗の匂い。久田はふと、高校の教室に自分が戻ったかのような錯覚を覚えた。
久田は、監督が求めている美甘子の「足りない部分」をわかっていた。それは何人もの新人女優と仕事を共にしているうちに培われた勘によるものだった。しかし未だかつて、少女たちにそれが何であるのかを教えてやったことはない。
「本当の宝石なら放っておいたって自分から輝き出すものだから」と彼女は考えていたのだ。「コスモス街道」を唄って予選落ちしたわりには、なかなかわかっている久田である。
「久田さん、あたし、何が足りないんだろ」
大きな瞳で、美甘子は久田をじっと見つめた。
一直線、とでも表現すべき熱い視線で美甘子が見ていた。
「知らない」
ぞんざいに答えた久田。
美甘子はコクンと頭をたれ、再び「バンザイなしよ」と下を向いたままつぶやいた。
と、久田が両手で美甘子の頭を両脇から押さえた。度重なる彼女の唐突な行動に、美甘子は真下に顔を向けられたままキャーッと悲鳴を上げた。
「キャー、何するの!? どーゆーことこれ!?」
「あんたのつむじがどこにあるかなと思って探してるとこ」
美甘子のつむじは頭頂部にポチンとあった。
「ホラやっぱり真ん中にある」
パッと久田が手を離すと、美甘子はビックリ箱から飛び出す人形みたいに勢いよく顔を上げ、「つむじがどうしたっていうんですか!?」と尋ねた。
「真面目で融通の利かない人間はつむじが頭のてっぺんにあるんじゃないかと思ってね、そしたら本当にあった」
久田の言葉に美甘子は一瞬キョトンとしたが、すぐにまた、一直線の視線で久田を見つめ、言った。
「それかな!? 私のだめなとこって」
「ちがうよ、それは美甘子のいいところ。真面目すぎも融通が利かないのもかわいい部分よ」
「あ、そう……」
美甘子はがくりと肩を落とした。
久田はウズウズしていた。一言言うたびにクルクルと表情を変える、この素直すぎる少女に、さらに彼女が輝くための解答を与えてあげたくて、仕方がなくなっていたのだ。
「久田さん私もうイヤ、弱音を吐いちゃう」
「吐いてごらんよ」
久田が小さな子供に対するように言うと、美甘子は「困ったなぁ」という顔をして、
「ふにゅふにゅふにゅ」
と口をすぼませて言った。
「アハハ、それ美甘子流の弱音ってやつ?」
「そう、気分はふにゅふにゅなの私」
そしてもう一度ふにゅふにゅとつぶやくと、馬鹿馬鹿しくなったのか、美甘子は「アハハ……」と笑った。
久田はこらえきれなくなった。
「あのね」
言っちゃいけないと思いながら、誘惑に勝てない自分に気づいた。
「あのね、美甘子」
妹のような少女に、おせっかいをしたくてどうにもたまらない。
「何ですか?」
しかしすんでのところで、久田は解答≠ナはなくヒント≠与えるにとどまった。
「今日はけっこう暑いから、あなた汗をかいてるね。羽村君が気づくかもよ」
久田のヒント≠ノ対し、美甘子は「うん、そうかな」と答えただけだった。まあ、これだけのヒントで「なるほどそうだったのか!」とすべて理解するなど、たとえ名僧道元であっても不可能であろうが、それにしてもあまりに素っ気ない美甘子の答えに、久田はつい、さらにヒントとなる言葉を口にしてしまった。
「羽村君、美甘子のこと好きみたいね」
「え」
ふいを衝かれて美甘子は黙った。
「いいなあ、青春よねぇ」
おどける久田に、すかさず「私は関係ないです」と言おうとした美甘子だが、なぜか言葉が出なかった。羽村君も、あれでけっこういい奴だなと思い直してはいたけれど、それでも結局あいつは「つまんない人たち」の一人に変わりはない、くだらない唄を唄って、男のくせにシャンプーの香りを漂わせて、「〜なんだけどさあ、〜じゃん」なんて言葉遣いをする。しかも三毛猫ホームズしか読んだことがないうえに、何より沢木耕太郎も知らないのだ。それなのにいきなり『部屋に来いよ』だなんて、あんな通俗な……。
「美甘子」
「え?」
「美甘子は好きな人いないの?」
「いないです」
キッパリと美甘子は答えた。
「デートとかしたことないの?」
「デート……ないなあ……あ」
「何?」
「一回、男の子と映画を観に行ったことがあった」
「デートじゃない」
「あれは違うなぁ、クラスにすごい映画好きな男の子がいて、オールナイト観に行く時について来てもらったの」
「ああ、付き添いってやつね」
「そう、でもその子は勘違いしちゃったみたい」
「美甘子がデートに誘ったと思っちゃったの?」
「そう……そんなさ、女から誘ったりするわけないじゃない、ねー」
「ねー」
久田と美甘子は顔を見合わせて笑った。
「私と考え方が似てるところあったから、その後も電話で長話したりしてたんだけど、それがまずかったかなー」
「あー、まずいよそりゃあ」
「なんかちょっとアブナイ少年でねぇ、話は合うんだけど、付き合ったりしたら後で大変っていうか」
「あー、いるいるいるいる」
「私が学校退学になった時ね、その人ったら、私の乗ったバスを自転車で追いかけてきたの」
「そりゃヤバイよ!」
久田はドラえもんのように丸めた両の拳を口元にあてて驚いてみせた。
「ヤバイよそいつ」
「うーん、やっぱりヤバイ子だったのかなあ」
「ヤバイって」
「ヤバイよねー、やっぱり」
「ヤバイヤバイ」
「ヤバイと思ったんだよなー私も」
「よっぽど好きだったんだろうね、美甘子を」
「そうかなあ、でもね」
美甘子は、もうおぼろげにしか思い出せない記憶をたぐり寄せ、言った。
「私のこと好きなのかなと思って聞いたら、その子、なんか変なことを言ってたなぁ、口惜しいとか、追いついてやるとか……」
そこで一瞬だけ、遠くの空を見つめるような目をした美甘子は、まるでおまけのように言葉を付け足した。
「よく覚えてないんだけどね」
「美甘子メイク直し終わりました」
ゴモが叫んだ。
美甘子は背筋を伸ばし、いくつもの照明が眩く輝くほうへと歩いていった。
「もうどうにでもなれ」
そんな心境だった。監督みたいな意地悪親父が何を不満に思おうと知ったこっちゃない。「私は私のやりたいように『美甘子』を演じるのだ」と心に決め、バミリ(位置を決めるためのガムテープ)の入った立ち位置の上に立った。
「監督、さっきはゴメンナサイ」
ペコリと頭を下げると、ドッと笑いが起こった。
「いいのいいの、気にすることねーよ、ワハハ」
カメラマンの清山が顔をクシャクシャにして笑った。
当の監督はといえば、余裕を見せようとしたのか不敵に笑ってみせたものの、鼻の穴に脱脂綿を詰めた状態であるからして、威厳というものがまるでなかった。それでも彼はビシッと決めてみせた。
「詫びは芝居でしめせ」
臭い台詞なのに、有無を言わせぬ迫力があった。
人々は一斉に黙り、美甘子は「はい」と答えた。
「リテイクは一回だ」
「はい、わかってます」
空気がピンと張りつめた。
「美甘子、ヘタな芝居するんじゃねえぞ」
「はい」
「学芸会じゃねーんだからな」
「わかってるって言ってるでしょ!」
監督は気の強い女優の神経を逆なですることにかけては天才ともいうべき技量を持っていた。美甘子は術中にはまっていた。
『始まったな、宣蔵の女優いじめが』と思い、清山はうつむいてこっそり笑った。
「どうわかったんだよ? 教えてくれよ」
自分に何が足りないのかわからない美甘子は、監督への答えに窮してしまった。
「いいよ、わかってないんなら」
フン! と鼻息で脱脂綿を飛ばして、憎々しげに大林森は言った。
「気にすんな美甘子、お前の演技なんて編集でどうとでもごまかせる」
思わず、美甘子は監督をにらみつけた。
大林森は無表情だった。魚のように小さな目で、美甘子の一直線の視線をはね返した。
「お前は美少女としてかわいく映ってくれてれば、それでもういい」
美甘子は言い返そうとしたが、言葉が出なかった。
「誰もお前に深いもんなんか求めてないよ」
どんなふうに演じればいいのかわかっていたら、こんな男、もう一発パンチをお見舞いしてやるのに、そう思いながら、美甘子はただ黙って大林森をにらみつけるばかりだった。
「結局、客が観たいのはお前の顔であり、そのやたらとでっかいオッパイなんだよ。体の上を覆った薄皮が観たいだけだ」
「……!」
「温泉まんじゅうみたいなもんだよ、表面が一番のセールスポイントなんだな、中身にゃ誰も期待してねえよ」
美甘子が拳を握りしめた。
「怒ってるな、怒れよ、怒ってみろよ、もう一発俺をなぐったらいい芝居ができるかもしれないぞ、ホレ、やってみろよ、女・優・さ・ん」
あおるだけあおって、彼は口を閉ざした。
数十秒の間、誰一人として言葉を発する者はいなかった。
再び大林森が語り出した。
「美甘子、お前、自分が他のガキとは違うと思ってるだろ、人と違った何かが自分にはあるんじゃないかと思ってるだろ、そんなもんなあ、ないんだよ。お前のとりえは人より少し美人なだけだ。胸がでかいだけだ」
そこまで言う!? スタッフの誰もがさすがに呆れた。だが、清山だけはさして驚きもしなかった。『大林森の野郎、この娘を本気で育てる気だな』と、彼は思っていた。
「このリテイクでお前がヘタな芝居したらな、俺はもう期待はせん。お前も結局、そこらのジャリタレと同じだと悟って、これからはそつない演技をしていただくよ」
そしてまたしばらく黙ったあと、「どうだ? 美甘子」と大林森は尋ねた。
すると美甘子は、返事の代わりにしゃっくりをした。
なぜしゃっくり?
監督を含め、いきなりのしゃっくりにア然とする人々。だが、美甘子はどういうわけか、もうひとつしゃっくりをしたではないか。
「……なんだ、わりと張り合いねーんだな」
監督がつまらなそうに言った。
しゃっくりに聞こえたのは、実は嗚咽だった。
美甘子の顔がクシャクシャにゆがんでいた。
この数カ月の間に、津波のように彼女を襲ったさまざまな感情が、口惜しさ、怒り、情けなさ、悲しさ、切なさ、考えられるすべての負の想いとなって、今、涙と化してこみ上げようとしていた。
まだ、涙はこぼれていなかった。ギリギリのところで美甘子は何とかこらえようとしていた。彼女はもう一人の自分と戦っていた。身長10pぐらいで背中に羽のはえた小さな自分が、『泣いちゃったら気持ちいいぞ! スッキリするぞ』とやけに明るい声で言いながら、頭の上でクルクル回っているような気がしていた。小さな美甘子は本当の美甘子のつむじにつまさき立ちをして、『泣いちゃえよ、泣いちゃえよ』と誘うのだった。おまけにそいつはつむじの上でターンまで決めてみせるのだ。『泣いちゃえ泣いちゃえ泣いちゃえ!』そいつは唄うように叫びながらモーターの素早さでクルクルと回転するのだ。
『泣いちゃえよ、泣いてチャラにしちゃえよ、お前は勘違いをしてただけなんだよ、自分は人とは違う、私は通俗じゃないなんて、そりゃ君、妄想だよ、バカな小娘の思い込みだよ、※[#歌記号、unicode303d]クルクルクル〜』
『そうかもしれない』
『かもじゃないよ、そうなんだよ、なんにもないんだよ君には、泣いて楽になっちゃえよ、※[#歌記号、unicode303d]クルクルクル〜』
『そうだ、私は勘違いしてただけなんだ、私には、本当は何もないんだ』
『そのとおり、やっと気づいたんだね、ちょっと遅かったけどまあいいや、泣いちゃえよ、楽になっちゃえよ、普通の人ですって認めちゃえよ、ホラ、※[#歌記号、unicode303d]クルクルクル〜』
『よし、泣いてやる』
小刻みに震えながら、美甘子は泣くことに決めた。
『ポロポロ泣いて、私もつまんない人になるんだ』
そう思うと、なんだかとても楽な気持ちになった。頭のてっぺんにあるつむじから、今まで心の奥に沈殿していたドンヨリとした何かが、空に向かって一斉に飛んでいくような、スッキリとした気分になった。
『同じなんだ』
と美甘子は思った。
『自分の中のなんだかわからないものを解き放つのも、自分の中の、もっと深くて暗いところにそっとそいつを隠して、そんなもん最初っからなかったみたいなふりをして、つまんない人になって一生を暮らすのも、楽になっちゃうってことではおんなじことなんだ』
なんで今までこんな単純なことに気がつかなかったんだろうと美甘子は思った。
『よし、泣いてやる。ポロポロ涙をこぼしてやる、もういい、もう疲れちゃった。私、泣いて普通の人になってやるんだ。泣いてやる、泣いてやるぞー!』
美甘子の瞳にたっぷりと熱い涙がたまった。
涙を通して目に映る全ての物が、曖昧な存在に変化していく。監督も久田もゴモも清山も、何もかもがデッサンのできてない油絵のようにヘタクソだ。
『よし、泣いてやるぞー』
顔なんて隠すもんか、子供みたいに泣きわめいてやるんだ。
『山口、泣きます!』
と、
美甘子が心で叫んだその時だった。
「あのさーカントクー」
のんびりとした口調で羽村一政が監督に声をかけた。
「そーゆーけどさー、俺、けっこうこいつスゲーやつだって思うぜー」
張りつめていた緊張感とあまりにかけ離れた羽村の口調に、その場の空気が一瞬ほぐれた。
不退転の決意で号泣する直前だった美甘子は、ハッとして振り返った。
背後にいつの間にが、羽村が立っていた。
涙を通して見るせいで、少年の姿はユラユラと、まるで蜃気楼が躍っているように見えた。
「おめーも泣くなよ」
美甘子にだけ聞こえる小さな声で羽村が言った。美甘子は思わず、しかられた子供みたいにこっくりとうなずいてしまった。
「監督そーゆーけどさー、マジでさー、美甘子なかなかいいじゃんって思うぜ俺」
羽村の口調は、あくまでのんびりとしていた。
「真面目だしさー、ムズカシー本読んでんだぜーこいつ」
スットボケた言い方に、何人かが噴き出した。
「俺バカだからさー、硬い本読んでる奴見るとすぐ尊敬しちゃうんだけどさー」
清山がゲラゲラと笑った。
「本当、こいつムズカシー本読んでんだぜ、山本コータローとかいう……」
「沢木耕太郎だってば!」
すかさず突っ込みを入れた美甘子。震える涙声だったが、それでも人々はドッと笑った。
目の前の蜃気楼が、だんだんと輪郭の明らかなものになっていった。
羽村の姿がハッキリと見えた。
羽村は笑っていた。
『ああこれは資聖堂「朝シャンスカッシュ」のCMと同じ笑い方だ』
と美甘子は思った。けれど『そんなに嫌味な笑い方じゃなかったんだな』と美甘子は気づいた。むしろ『無垢だよな』などと感じた。
背の高い美甘子より、羽村は頭一つ大きかった。そのことが、美甘子は不思議と嬉しかった。
「泣くなっつってんだろ」
顔は笑顔のままで、羽村がボソリと言った。美甘子を見ずに、けれど美甘子にだけ聞こえるように彼はつぶやいたのだ。
美甘子も、羽村にだけ聞こえる声で言った。
「羽村君、腹話術師みたいだよ」
「何でもいいから泣くな、笑えよ」
『腹話術』で、羽村が言った。
美甘子は、ニンマリと笑ってみせた。
「行人、ずいぶん肩持つな」
監督が羽村に言った。
「お前、美甘子のこと好きなんだろ」
あんたは中学生か!? というような大林森の突っ込み。
「ちーがうっスよー!」
これまた中学生のような羽村の受け答え。
アハハハとコモが笑った。
「好きならやっちまってもいいぞ。俺が許可する」
羽村のマネージャーが「監督、羽村も一応アイドルですから」と口をはさみ、人々からまた大きな笑いが起こった。
監督もつられて笑っていた。
美甘子も笑った。
羽村は相変わらずCMで見せる笑顔だったが、笑いながらも、
「本当は好きだ」
と、『腹話術』で美甘子に言った。
「よし、撮ろう」
気を取り直し、監督が叫んだ。
「本番」
「本番」
スタッフの表情から笑いが消え、本番を知らせる声が飛び交った。
「あ、待った」
ガチンコを構えようとしたゴモを制して監督が言った。
「みなさんすいません、ちょっと変えます。美甘子、オッパイ出しちゃって」
記録の山本が「あら、でもつながりが」と言った。
「あとで何とかします。美甘子とは話がついてます。清山さんは大丈夫だよね」
「こっちは大丈夫よ〜」
カメラをのぞいたまま清山がのんびりと言った。
「照明さんは?」
照明班の一人が「問題ありません」と答えた。
「じゃ、脱いじゃって」
美甘子は「ハイ」と答え、勢いよくトレーナーを脱ごうとした。
「美甘子、バンザイしてみな」
ふいに羽村が言った。
「え」
「手上げて、ホラ、バンザーイって」
羽村の口調は、年の離れた妹に語りかけるようだった。
「俺が脱がしてやるよ、手を上げろよ」
たくさんの人が見守るなたで、よくこんなことが言えるなと美甘子は呆れたが、気がつけば、羽村に言われるままに、彼女は両腕を五月の空に向かって突き上げていた。
羽村は、美甘子の体に腕をまわし、彼女を抱きかかえるように、トレーナー。背中側のスソを握って、ゆっくりと脱がせ始めた。
「羽村君、汗かいてる」
脱がされながら、美甘子は思った。少女の使うようなシャンプーの香りと、それに黒所の教室で男子とすれちがった時に感じる、汗の匂いがした。こんなに間近でその匂いを嗅ぐのは初めてのことだった。
羽村の手で、美甘子はブラジャー一枚の姿になった。
風が、ひんやりとした。
美甘子は、チラリと羽村の顔を見上げた。
羽村は、美甘子の鎖骨のあたりを見ていた。
また羽村の匂いを感じた。
あわてたように、彼女は自分の背中に両手を回した。
「アレ、アレ」
ブラジャーのホックを外そうとしたのだが、背中側にあるはずのそれが見つけられずにあせった。そんなはずはないのに指がホックに触れないのだ。「何やってんだ」と羽村が冷ややかに言った。「アレレレ、アレレレ」美甘子は慌てふためいた。
「アレレ、アレレレレ」
「何やってんだよ」
「アレレ、レレレ」
「お前レレレのおじさんかよ」
「そうじゃないけど、レレレレ」
「前だよ、前」
「あ!」
フロントホックだった。
「慌てんなよ」
と言いながら、羽村はホックに指をかけようとした。
「やめてよ!」
美甘子が叫んだ。
美甘子のいきおいに、羽村の指がピタリと止まった。
「自分で、やれるよ」
彼女は言って、ホックを外した。衣装の中村がそれを引き取る。
羽村の前で、美甘子は裸になった。
四方からの照明が、彼女の肌をキラキラと輝かせていた。
美甘子は、胸を張った。
「自然にしてろ」
と監督が言った。
『自然って、どんなだったっけ……』
美甘子は心でつぶやいた。
美甘子は羽村に正面を向いて立っていた。台本の上では、美甘子は背中から抱きしめられることになっているのだが……。美甘子はいつ羽村に背中を向ければいいのか、タイミングを見つけられずにいたのだ。
『そんなのいつでもいいんじゃない』
と理屈ではわかっているのだが、なぜか美甘子は、それぐらいのことさえできずに、まるででくのぼうのように羽村の前に突っ立っていた。
「美甘子、行人、かたちつくって」
大林森が言った。
再び、羽村が美甘子の背に腕をまわした。
抱きしめた。
美甘子はその瞬間、自分がとても小さくなったような気がした。
「あ、逆じゃん」
そう言って、羽村は美甘子の両肩を握ると、おもちゃでも扱うかのように、彼女の体をクルリと背中向けにした。
美甘子の足がもつれた。前のめりになったところを、羽村の腕が引き戻した。
背中から少女は抱き止められた。
不必要なほどの力強さで、裸の美甘子は抱きしめられた。彼女の体はいとも簡単に、羽村の腕の中へ収まった。
「平気平気、お前は絶対うまく演れる」
羽村が『腹話術』で言った。
「平気かな」
美甘子も『腹話術』で聞いた。
羽村は何も答えなかったが、美甘子は自分を抱きしめる彼の指先に、さらに力がこもったような気がした。
シャンプーと汗の香り。
美甘子は安心した。
と同時に、ふと久田の言葉を思い出していた。
――美甘子、あなた汗をかいてるね……。
『そうだ、私、汗をかいてる』
と、いうことは……。
『私が羽村君の匂いを感じているように、羽村君もあたしを感じているんだ[#「あたしを感じているんだ」に傍点]』
そう思うと、体温がいきなり二度も上昇したような気がした。
『それ、やだ』
と美甘子は思った。
『絶対やだ』
子供のように美甘子は思った。
『でも何でだろう?』
美甘子は不思議だった。
『何でいやなんだろう』
「本番!」
大林森が叫んだ。
『なんでだろう? 安心したりいやになったり、なんでこんなに動揺するんだろう』
「本番」「本番!」
いくつもの声が飛び交った。
羽村の腕に、また力がこもった。
シャンプーと汗の匂い。
『ああ、そうか』
「シーン18、テイク8」
ゴモがガチンコをかまえた。
『抱きしめられるって、そういうことなんだ!』
「よーい!」
監督が叫んだ。
『腕の中に包み込まれるだけで子供のように安心したり、仔犬のように怯えたり……抱かれるってそういうことなんだ!』
カタカタとフィルムが回り始めた。
『死ぬほど嬉しいんだ。でも好きな人に生の自分を知られてしまうのを、ビクビク怯えてたりもするんだ』
「スタート!」
『今まで私、こんな簡単なことを全然知らなかった。監督は私を裸にして、少しでもそのことに気づかせようとしていたんだ。わかったよ監督! 抱かれるってものすごく……感じるんだね』
美甘子は、頭の中で三つ数えてから、ゆっくりと語り始めた。
「……犬や猫じゃないんだからね……こんなことされたら……あたしだって」
強く抱きしめられながら、少女は言った。
「行人のこと好きになっちゃうんだからね……」
「……カット!」
短く、監督が叫んだ。
美甘子は羽村の腕の中で、じっと黙って監督の言葉を待った。
「美甘子」
監督が眼鏡を外した。そして言った。
「最高じゃねーかよ」
魚のような目を細め、笑った。
ホウッとあちらこちらでため息がもれ、本当に嬉しそうにゴモが手を叩いた。久田はニヤニヤと笑っていた。
美甘子は抱きしめられたまま、背後の羽村にそっと『腹話術』で言った。
「ありがとう、お礼に今度の火曜日、羽村君の部屋へ行くよ」
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第7章 哀愁の中央線がゴゴゴと走るのだ
漫画家みうらじゅんは、高円寺を「日本のインド」と呼んでいる。
なるほど、夕飯の買い物に急ぐ主婦たちと、ギターを抱えたロックにいちゃんが行き交う高円寺純情商店街やパル通りの様子は、確かにカルカッタやベナレスの猥雑さに近いかもしれない。すると、高円寺を北と南に分断する中央線は、さしずめ聖なる川ガンジスといったところか? かつて友部正人は「中央線よあの娘の胸に突き刺され!」と絶唱した。んなものが本当に突き刺さったらこりゃエライことであるが、フォークの重鎮にそんなことを唄わせるほどの哀愁が中央線にはあるのだ! と筆者も思う。
中央線に乗って高円寺に集ったロックにいちゃんねえちゃん、劇団野郎にアングラ娘、自称天才、自称狂人……その他モロモロの、「自分には人と違った何かがあるのじゃないか」という曖昧模糊とした想いだけを存在証明の手段としている連中。彼らの多く……というよりそのほとんどが、結局のところ「自分には何もなかったのだ」という身もフタもない事実にやがて気づき、また中央線に乗って高円寺を去って行くのだ。
トホホと泣いたってエヘヘと笑ってみせたって、ヤケクソで三上寛の「夢は夜開く」を唄ってみたところで、まるでおかまいなしに電車はゴトゴトと音を立てて彼らのおまけの人生に向かって走り出してしまうのだ。
南無阿弥陀仏の暇もないのだ。
ああ、開く夢などあるじゃなし、哀愁の中央線よ夢破れし者の胸にも突き刺され!(すかさず「地下鉄東西線で去ってく奴はどうなるんじゃい」と突っ込みを入れた読者は自分の意地悪さを自覚して反省すべし、総武線も然りじゃっ!)
友部正人の唄う「一本道」は阿佐ケ谷駅を舞台にしていた。阿佐ケ谷から高円寺までのガード下には、昼なお薄暗い一本道が続いている。
五月の午後、都立黒所高校の制服を着た四人の少年が、それぞれ自転車に乗ってその道を急いでいた。
哀愁の中央線の下、彼らは意気揚々としていた。これから彼らは、高円寺のレンタルスタジオに練習時間を予約しに行くところなのだ。といっても、彼らがもう楽器を手にして実際に音を出すまでに成長していたのかといえばそんなことはない。バンド経験のある読者ならウンウンとうなずいてもらえると思うのだが、彼らも世のバンド初体験者同様、まだなんも決まっとらんうちから練習やライヴの予定をたててしまうという、先走った行動を取っているだけなのだ。渋谷屋根裏で怒濤のライヴを体験した彼らは、今なら何でもできるようなハイな気分になっていた。
「※[#歌記号、unicode303d]中央線よ〜あの娘の胸に突き刺され〜」
と、タクオが鼻唄を唄った。
「すごいフレーズだな、タクオが作ったのか?」
カワボンが尋ねた。
「遼うよカワボン、友部だよ」
「ああ、あいつもいい唄作るねぇ」
たかだが高校生ふぜいにあいつ呼ばわりされるとはフォークの重鎮もガックシである。
「それ、いいなぁ、いい詞だなぁ」
ギーギーと怪音を発するペダルを踏みながら、賢三がしみじみとつぶやいた。彼はタクオの唄った「あの娘の胸」の部分を「美甘子の胸」に置き換えて想像していた。
「中央線よ美甘子の胸に突き刺され」
そう遠くはない日に、それは現実になるのだ! と賢三は思った。
『オレは走り出したのだ。通俗な群れの中から、もっと広い世界へ脱出するために、オレも蜘蛛の糸を上り始めたのだ。広い世界を中央線の終点にたとえるなら、美甘子はもう御茶の水あたりまで達しているのかもしれない。オレはまだ阿佐ケ谷を出たばかりだろう。だがな美甘子、動き始めたオレは止まらないぜ、チョコチョコチョコの連打ですぐに追いついてみせる。そのポヨポヨとした巨乳に体ごと突き刺さってやる。君よ! その日を震えて待て!!』
たかだが練習時間を予約する段階で西村寿行ばりの台詞を口にするとは、この男、あいも変わらずである。
もちろん、美甘子と羽村一政のことなど、賢三はまだ何も知らない。
「オレさあ、高一の時、この道でヤマ工のツッパリにカツアゲされたことがあるんだよなぁ」
タクオが笑いながら言った。
「カンパしろって言われて、『え? おたくをナンパするんですか?』って聞き返したらブン殴られちった」
四人は一斉にワハハハハハハと笑った。
「じ、実は僕もやられた……」
山之上の告白に「お前もナンパって聞き返したのか?」とタクオが尋ねた。
「い、いや、『え、乾パンですか?』って聞き返したら自転車ごと蹴倒された……」
ウヒャハハハハハハと四人は笑った。
薄暗いガード下の道を、彼らはそんな調子でバカ笑いをしながら走っていた。通り過ぎる人々が露骨に嫌な視線を浴びせかけてもまったく気にせず、ウヒャハハイヒヒヒと笑いながらチャリンコを走らせた。
『オレたち何でもできるぞ!』
と、四人は思っていた。
その時、まるで遠雷のように、ゴゴゴゴと重苦しい音を立てて哀愁の中央線が彼らの頭上を追い越していったが、誰一人、気にとめた者はいなかった。
貸スタジオ「シット・オン」はキャバレー「王様」の隣にあった。……屋根裏といいシット・オンといい、どうもバンドというのはキャバレーと縁が深いようである。
「『プレイヤー』(音楽専門誌)に載ってた広告のなかでここが一番安かったんだ」
と言いながらカワボンがシット・オンの扉をいきおいよく引いた。
モワッ!………という音を、その瞬間賢三は聞いたような気がした。
シット・オンの内部は、体育用具倉庫のように雑然としていた。いたるところにギターやアンプが無造作に積み上げられ、窓から差し込む西陽は舞い踊るホコリをキラキラと輝かせていた。たちこめたタバコの匂いはむせかえるばかりで、室内に大音響で流れるウルトラ・ボックスと渾然一体となり、それらはモワッ! としか言いようのない音のかたまりとして賢三には感じられた。
練馬パレス座、渋谷屋根裏、シット・オン。
賢三は、タクオやカワボン、そして山之上たちとつるんで何か行動を起こすたびに、このモワッ! という音に出会うのだなと気づいた。
……確実に、オレは歩を進めていると賢三は思った。この音をあと何回聞いたら美甘子に追いつけるのだろうか。
「そう遠くはない、遠くはないぞ」
と賢三は心でつぶやいた。
店番の兄ちゃんは愛想がよかった。オズオズとカワボンが声をかけると、チョッパーでベースを激弾きしていた手を止め「ハイ、予約ですか?」と尋ねた。
「ハイ、来週の火曜の五時から七時、Cスタでお願いします。予約名は川本です」
「ハイ、火曜五時七時Cと……六千円ですね」
慣れた口調で言いながら、兄ちゃんは予約予定表を机の上に置いた。予約は個人名が多かったが、いくつかはバンド名で記されてあった。そこには「ザ・スターリン」という文字もあった。
その名を見つけた賢三たちは、「おう!」と叫んで顔を見合わせた。
「おい、スターリンもここでリハやってるぜ!」「スゲエ」「みちろうに会えるかもな」
「し、し、色紙用意してこよう!」
店番兄ちゃんが「スターリン」のすぐ下に「カワモト」と鉛筆で書き込んだ。と、
「おおおおおうっ!」
一斉にどよめいた四人の少年。
「カワボンの名がスターリンと並んだ!」
目をむき驚きの声を上げたタクオ。
「スゲーよ! スゲー」「たたたたた大変だ」
賢三と山之上も鼻の穴をふくらませて興奮。
「…………!」
感動のあまりカワボンは絶句した。
「スターリンの方々ならよくみえますよ」
少年たちの大感動に対し、兄ちゃんがいともあっけなく言った。今では考えられないことだが、この頃はまだ、名のあるバンドも町の小さなスタジオを利用していたものだ。筆者は一度、映画『灰とダイヤモンド』の自主上映を観に行った「公民館」で某メジャーバンドが練習している光景に遭遇、愕然としたことがあった。四人にとっても雲上人であるスターリンと自分たちが同じスタジオの空気を吸えるなどとは、タクオの言葉を借りるなら、
「夢じゃねーか!?」
といった心境であったのだ。
予約を終えて帰ろうとした時、ギターケースを抱えた数人がドヤドヤとスタジオに入ってきた。店番兄ちゃんと「あ」「やぁ」などと親しげに会話をしているところを見るとどうやら常連のようなのだが、驚いたことに、一人を抜かして彼ら全員が学生服姿であった。しかも会話の端ばしに、「じゃがたら」「あぶらだこ」といったアングラロックバンドの名が聞こえるではないか。
四人はまたしても興奮した。もしかしたらこの連中、他高校の「同志」なのではないか。通俗な連中との差別化を図るため、アングラロックに傾倒する同胞なのではあるまいか?
「今度の屋根裏さあ」
と、彼らの中で唯一、私服を着た男が話し始めた。
「ステージからラーメン屋に電話して出前呼ぶってのどーかなぁ」
ユニオンジャックのTシャツに真っ赤なズボン、そのくせなぜか頭髪を七・三分けにした彼がバカげた提案をすると、学生服の少年たちはゲラゲラと笑った。冗談かと思えば、そのうちの一人が真顔で言った。
「それいい、絶対やろうよ!」
私服の男がまた言う。
「客に無理矢理ハゲかつらかぶせるっていうのもパンクっぽくてよくない?」
なぜそれがパンクっぽいのだ? むしろドリフっぽいと言うべきではないのか? シド・ヴィシャスもあきれる男の発想に、だが学生服の少年たちはまたしてもウムウムとうなずいたではないか。どうもこの「同志」たち、よほどヘンテコな連中のようだ。
「おい、話しかけてみようか」
タクオが小声で他の三人に言った。
「いやしかし」「山之上行けよ」「ボ、僕は……」
などと四人がヒソヒソやっていると、逆に学生服の一人が賢三に声をかけた。
「君、ヒカシュー好きなの?」
賢三のカバンにはヒカシューのステッカーが貼られていたのだ。
「君、黒高でしょ。そういうの好きな人、黒高には多いの?」
「いや……そんなことないけど……」
賢三が黙ってしまったので、妙な間があいた。すると私服の男が立ち上がり、
「俺、ケロ」
と言った。
「は?」
四人が同時に聞き返した。
「オレ、ケロっていうの、こういうバンドやってんだけどさ、ヒカシューとかそこらへん好きだったら今度観に来てよ」
ケロと名乗る男はクチャクチャのチラシを賢三に渡した。
「五月○日、ドスコイGIG! 新宿JAM」
とそこには書かれてあった。
「はー、『ドスコイGIG』ってバンドなんですか」
「違う違う、それはライヴのタイトル、バンド名はこっち」
笑いながらケロはチラシの隅を指差した。
「……あ、これ……『有狂天』……ですか」
「そう、有狂天、来てよライヴ」
学生服の連中も口々に「来てよ」と言った。
彼らの制服に賢三は見覚えがあった。
「……私立鳩ケ丘高校……でしょ」
「そうだよ」と一人が答えた。
「鳩高には多いの? そーゆう……変なロックの好きな奴って?」カワボンが尋ねた。
「ボチボチかな」
と一人が答えた。賢三たちは内心一斉に「うらやましい!」と思った。
「それよかオレが定期的にやってるライヴに来ればいくらでもいるよ、変なバンド集めてJAMとか屋根裏でやってるんだ」
とケロ。
「……いっぱいって……みんな高校生?」
タクオが尋ねる。
「いろいろだけどさ、高校生バンドもスゲー多いよ」
――当然だよ、というようにケロは答えた。
腎三たちは言葉を失くした。
もしかしたら、「同志」と呼ぶべき奴らは、自分たちが考えているよりはるかに数多くいるのかもしれない。
そんなことを四人は、今まで想像したこともなかった。いや、ケロの言葉を聞いた今でさえ、それは彼らにとって、太古の人間が宇宙の果てを空想するような、とてつもない話にしか思えなかった。
「君らもヘンなバンドやってたんだったら俺の企画するギグに出てよ」
とケロは言った。「いや、まだまだこれからで……」とカワボンが言いかけたのをさえぎって、賢三が言った。
「出ます! 絶対それ、オレら出ます!」
「本当、じゃチラシの連絡先に電話してよ」
「ええ、ハイ!」
賢三のいきおいに、他の三人もついついうなずいてしまった。が、その直後にケロが言った言葉には、四人はまた言葉を失くしたのだった。ケロは尋ねた。
「ところで君たち、バンド名は何ていうの?」
「バンド名かぁ……」
高円寺ガード下の喫茶「たんぽぽ」の片隅で、腕組みをしたタクオが言った。
「バンド名……だな」
カワボンも腕組みをしていた。賢三も山之上も、無意識に腕を組み、ため息をついていた。
バンドを組む者たちにとって、まず何より先決すべき重要な問題こそがこれである。
バンド名を決める。同じ想いの下に集った者たちが、バンド名を名乗ることにより、初めて一つの「個」となるのだ。
「なんか、バンド名決めるのって照れるな」
と、カワボンが思い出したように言った。そして軽く笑った。
賢三たちも、それぞれ腕組みをしたままで笑った。バンド名を決めることで、黒所高校の同級生という以上の関係が自分たちの間に生まれるのだ。それは、なんとも言えず照れ臭かった。
口の端だけを曲げた妙な微笑みが四つ、「たんぽぽ」の隅で向かいあっていた。
「バッチリな名前にしようね」
とカワボンが言った。
バンド名は集団の指向と音を表す。よいバンドというのはこのツボどころを実にうまく押さえているものだ。名と音とが見事に直結しているものだから説得力がある。例えば「アイアン・メイデン」や「メガデス」などと名乗る男たちにゴキゴキのメタルをかませられたなら、これはもう「おっしゃるとおりで!」と床に額をこすりつけて陳謝する他ないではないか。仮に彼らが「ア、イヤ〜ン・ヤメテ〜ン」だとか「目が出るっス」などという名であったならどうだろう。オーディエンスたちは即座に彼らをステージから引きずり降ろし、怒りのチャランボ百連発をかますに違いない。また、「レッド・ツェッペリン」が唄うから「天国への階段」は今なお唄いつがれているのであって、もし仮に「おヘソ丸出し欽ちゃんなの〜」であるとか、ましてや「車団吉ホンコンでラビット関根にぶたれてヒ〜ン」などという名のバンドが唄っていたならば、いかにロバート・プラントが「※[#歌記号、unicode303d]貴婦人が天国への階段を……」などと高尚な歌詞を唄いあげたところで、恐らくアトランティック・レコードはプレスを拒否したのではないだろうか……バンド名、重要だ。
「普通の名前はやめようぜ」
タクオが言った。三人は黙ってうなずいた。
バンド名は重要、とはいえ、必ずしもいかにもなロックっぽい名をつけるのがベストとは、彼らには思えなかった。
アナクロと批判する読者もあろうが、ロックにはやはり「今までになかった価値観」を世の中に叩きつける義務があるのだ、と彼らは考えていた。六、七〇年代、かっこいいバンド名は斬新だった。ザ・フー、ピンク・フロイド、ステッペン・ウルフ、それらは「ロックっぽい」ということで「今までにない価値観」として機能していたのだ。ところが前衛的なものはやがて様式化していく宿命にある。ロックは「かっこいい名を名乗るのが普通」と世の中から思われるようになった時点で、もう「今までになかった価値観」としての役目を終えてしまったのだ。
賢三たちがやろうとしていたのは、いつの間にか様式化してしまったかつてのカウンター・カルチャーであるロックに、さらに対抗しようという試みであった。だから、今や当たり前になってしまった「かっこいい普通の名前」を自分たちのバンドに名付けるのはやめようと決めたのだ。
「スゲー変な名前にしたいな」
賢三が言った。
「参考になるかと思って」
と言って、山之上がカバンからレポート用紙を取り出した。表紙をめくると、最初のページに虫がはったような字がビッシリと書き込まれていた。
「ラ、ライヴハウスに出てる変なバンドを書いておいたんだ」
「えっ? お前がそんな気がきいたことをするとはねぇ」
タクオがレポート用紙をひったくった。
「どれどれ」
「フンフン」
賢三とカワボンがのぞきこんだ。
「馬鹿のやってそうなバンドはあえて入れなかった」
「どんなんだよ、馬鹿のやってそうなバンドって」
賢三が尋ねた。
「あ、あれだよ、『ドッキリマリちゃんとウルトラ警備隊』とか、『ギョーザアンド味噌ラーメンズ』とか、面白おかしい名前くっつけときゃそれでいいだろうと思ってるような連中、ヤマハのポプコンに多いタイプ、馬鹿だよ、馬鹿!」山之上は吐き捨てるように言った。
ここらへんのこだわり、読者よ判ってもらえるだろうか。彼らのいう「変」とは、「毒」という言葉とは置き換え可能でも、「お笑い」や「仲良し」、まして「楽しくやろうぜ」などとは一線を画するものなのだ。
賢三、カワボン、タクオも「ウムウム我が意を得たり」といった表情でうなずいた。
「しかしいろいろいるなあ……ええっと……」
カワボンが山之上の記した「変」なバンド名を次々と読みあげ始めた……。
と、ここで。この時、彼が読みあげたのは、八〇年代中頃にライヴハウスで暴れていたバンドに限られるわけだが、読者のために、最近も含めた「変」なバンド名をザッと思いつくままに列挙してみたい(順不同)。
ぐんじょーがクレヨン、木魚、青ジャージ、裸のラリーズ、大陸男と山脈女、少年ナイフ、火の宮、INU、殺人空手、不思議なバレッツ、イキル、パパイヤパラノイヤ、人民オリンピックショー、あぶらだこ、タコ、フナ、さかな(水族館シリーズか?)、のいづんづり、ほぶらきん、みかんむくっ、たま、ばちかぶり、はなたらし(ひら仮名にこだわりがあるのか?)、ゲロ金魚、ゲロゲリゲゲゲ、バカズ、発狂一直線、毒マンコ(ミもフタもない人たち……)、猛毒、梅毒箱、梅毒ジェラシー(なぜ毒に人気が?)、畸型児、胎児、少女人形、腐敗屍体(オドロオドロしい人々)、空手バカボン、まんが道、人生、我殺、金鶴、少年ホームランズ、スラッシュ55号、ゴリライモ、新東京正義の士、イボイボ、ツアイトリッヒ・ベルゲルター、アプリケーターズ、ソネット姉妹、東京タワーズ、マッチ売りの少年、思い出波止場、暗黒大陸じゃがたら、つめ隊、妖唱ロマネスク、赤痢、伝染病、捕虜収容所、突然ダンボール、突激ダンスホール、原爆オナニーズ、全力オナニーズ(友達なのか?)、死ネ死ネ団、ロシアバレエ団、ドレミ合唱団、至福団、恐悪狂人団、非常階段、スター階段、招き猫カゲキ団……ふう……最後はドトーの団攻撃、演歌歌手段田男もビックリ! だ。まだまだあるが、キリがないのでオシマイ。
「……俺、バンド名ひとつ考えてるんだ」とタクオ。
「何だよ、言ってみろよ」と賢三。
「……タクオの二階……」
「へっ?」とカワボンが聞き返す。
「『タクオの二階』だよ」
ぶっきらぼうにタクオが言った。
「『タクオの二階』? んなんじゃそりゃ!?」
カワボンがジーパン刑事の断末魔のように言った。
「それってどーゆー感性?」すかさず突っ込む賢三。タクオは三人をギョロリと見わたしてから、説明を始めた。
「ザッパのアルバムに『ジョーのガレージ』ってのがあるだろう、オレ、あれがスゲー好きでさあ、思い入れあるんだよ、あれ聴いた時ぶったまげたもんね、『ロックってこんなことやってもいいのか!?』って、……だからさ、バンド名は『ジョーのガレージ』に似たもんにしたいんだよ」
「それで『タクオの二階』かあ〜!」と賢三。
「オレら、あそこがアジトじゃん」
「うーん、しかしなあ……」と賢三。
「『ジョーのガレージ』だからしまるんであってさ、『タクオの二階』じゃなぁ」とカワボン。
反論されムッとするタクオ。
「ザ、ザッパというよりポルノ映画みたいだな」
山之上がボソッと言った。
「なんだとぉ!!」
「『未亡人下宿二階貸します』とかさ、『悦子の二階、数の子天井』とかさ」
「『下は電気屋コケシもあります』とかな」と調子を合わせる賢三。続いてカワボンまでが、
「『タクオの二階、ただいまオナニー真っ最中』ってのもいいな」
などと言ったからたまらない。爆笑する賢三と山之上、目をむき撫然とするタクオ。
「イヒヒヒ、お、怒るなよ、冗談だよ」
「ンナロー、じゃあお前はどうなんだよ山之上、何か考えてあるのか」
「ある」と山之上は言い切った。
「こ、こんだけ考えた」
ゴソゴソとポケットから一枚の紙を取り出し、皆の方に向けた。
「……!」
三人は絶句した。そこにはこんな言葉がビッシリと書き込まれてあったのだ。
「魔変態 幻聴狂頭症 獄間地底女 獣病獣性癖 膏盲蚊医者 傑書無惨 聖書獄門悶絶死 鬱病患者感染症 狂乱妄盲牛頭馬人 悪魔殉教食人病 苦役懲役夜尿症 畸型魔観音菩薩 畜生天国 墓穴死体奪殺人 禁治産者轢死 日本拷問餓死臭団 死後轢断 脳髄移植大失敗 嘔吐糞尿録 孤児院中毒禿坊主……」
呆然とする三人に、山之上が言った。
「どれがいい?」
「どれもよくないわっ!」とタクオ。
「山之上、お前やっぱり病んでるよ」しみじみと賢三が言った。
「そうかなぁ、ボ、僕はどれもいいと思うんだけどなぁ、特にこの『獣病獣性癖』とか『畜生天国』なんて……」
「よくなーい!」とタクオ。
「じゃ『苦役懲役夜尿症』……」
「ダメーッ!」と賢三。
「『日本拷問餓死臭団』……」
「いかーん!」カワボンのダメ押し。
「…………」
山之上は黙ってしまった。
「賢三は何かねえの?」
気を取り直してタクオが尋ねた。
「……実は『ノーマン・ベイツ』なんてのを考えてたんだけど……」
「あ、『サイコ』の主人公だ。アンソニー・パーキンスの当たり役だろ」とカワボン。
「そう、あとB級映画監督の名前を複数形にするのはどうかなと思って、『トビー・フーパーズ』とか『ロジャー・コーマンズ』なんてのも考えてたんだけど……普通すぎるかな?」
「普通すぎるな、つまらん」とタクオ。
「なんだよタクオ、人が下手に出りゃエラそうに!」
「つまんねーからつまんねーって言ったんだよ! 山之上同様、ケンゾーのセンスもたいしたことないな」
「ボ、ボ、僕を一緒にするな、『孤児院中毒禿坊主』のよさがお前らにわかるものか!」
「わかるかバカ!」同時に突っ込む賢三とタクオ。
「お、お、お前らとはやってられん、やめてやる!」
「おいおいおい、早まるなよ君たちぃ」
カワボンがやんわりと三人を制した。
とその時だ。
「そのとおり、急げ若者! されど早まるでなああい!」
突然、怒鳴り声が「たんぽぽ」に響いた。
「ん? 今の誰の声だ? タクオ?」
「いや、俺じゃねーよ、賢三か?」
「いや違う、山之上か?」
「ち、違う! 後ろを見ろ!」
山之上の言葉に三人が振り向いた。
「ワーッハッハッハ! 久しぶりじゃのう」
「あっ!」とタクオ、「うおっ!」とカワボン、「ヒエーッ!」と賢三。
「ワーッハッハッハッハッ! ウグッ!? ゲゲッ! カ―――ッ! ペッ!!」
忘れようにも忘れられないこのタンさばきは!?……四人の少年は同時に叫んだ。
「じーさん!」
「ワッハッハッ!……キンタマッ!」
久しぶりに出てきたと思えばこのセリフ、なぜ唐突にキンタマ? あんたはメタクソ団か?(そりゃマタンキ)
「も、もとい! たまたま『たんぽぽ』の前を通りかかればお前らがミーチングしとるではないか、わしを置いてとはいけずな奴らじゃのう」
じーさんはニヤニヤと笑った。
「こっそり話は聞かせてもらったぞ。バンド名な、ワシもズバリなやつを考えたぞ」
と言って、じーさんは懐から取り出したクチャクチャのワラ半紙を四人の前で広げた。
そこには筆ペンでこう書かれてあった。
『転がる石に苔生えズ』
「どうじゃ?」
「どうじゃって……じーさんそれ……」
カワボンの言葉を制してじーさんは説明を始めた。
「シャレじゃよシャレ、ロックは日本語で岩じゃ、しかしお前らはまだ岩とは言えぬ、まだまだ小さな石じゃ、お前らが巨大な岩になるためには、苔の生えぬよう常に転がり続けねばならん。すなわち『転がる石に苔生えズ』じゃよ、ワッハッハ、どうじゃ、ちゃんと複数形にもなっておるぞ、決定じゃろ、ワーッハッハッハッハ……ウググッ! ゲゲッ! カーッ、ペッ!」
確かに、じーさんにしてはいいことを言う。しかし、彼はミックとキースの率いるロックンロールの帝王であるあのバンドの、その名の由来を知らなかったのだ。
四人がじーさんを黙殺したことは言うまでもない。
「カワボンは何かないの?」とタクオ。
「うん『キャプテン・マンテル・ノーリターン』っていうのを考えたんだけど」
「え? それ何?」と賢三。
「空飛ぶ円盤を追っかけたまま行方不明になってしまった、マンテル大尉って人がいるんだよ。……一九四七年、マンテル大尉は、戦闘機でUFOを追いかけているうちに、プッツリと消息を絶ってしまったんだ。後で空中爆発したと思われる戦闘機の残骸だけが発見された。マンテル大尉は『UFOに殺された男』として全米中の注目を浴びたんだ。……ところがね……どうもマンテル大尉の追っかけたのは、空飛ぶ円盤なんかじゃなく、気象観測用の気球だったんじゃないかって今では言われているんだ。それを思うと、マンテル大尉の死は、ハッキリ言って犬死にだったわけだな」
「ふうん、哀れな死だな」と賢三。
「だろ、そこなんだ、オレが面白いと思ったのは。『UFOに殺された男』が、いきなり『犬死にの男』になっちまうなんて、人生いろいろと言うけど、死の意味までいろいろだよね、なんか不条理で、哀れで、引かれるんだよオレ。しかもマンテルは二十五歳の若さで死んだんだよ」
「うーんキャプテン・マンテル・ノーリターンかぁ……」とタクオ。
「い、いいんじゃないか、それ」山之上がふと言った。
「決めるか?」と賢三。
「決めよう」とタクオ。
「いいかな?」カワボンが一同を見る。
黙ってうなずいた山之上。
「よし、乾杯! バンド名は『キャプテン・マンテル・ノーリターン』に決定!」
賢三がコーヒーカップを持って手をグイッと突き出し、他の三人もそれに合わせた。高円寺中央線ガード下喫茶「たんぽぽ」の片隅で、ガチャンと四つのコーヒーカップがぶつかり合った。
こうしてバンド「キャプテン・マンテル・ノーリターン」は正式に結成されたのだ。
その時じーさんは、離れたテーブルで筆ペンを握っていた。
「ウ〜ム、やはり若者に和風な名は受けんようじゃな、ならばこれをアメ公の言葉に訳せばよい。『転がる石に苔生えズ』……英訳するならズバリこうじゃ!」
フンム! 気合いを入れて、じーさんは新たなバンド名をワラ半紙に記した。
「ザ・ローリング・ストーンズ」と。
……再び、彼の案が少年たちに黙殺されたことは、言うまでもなかろう。
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第8章 We are not alone 我々は孤独ではない
七〇年代に「新宿ダダ」という奇妙な歌謡曲があった。
たぶん、日本の総人口一億数千万の中でも、覚えているのは五百人にも満たぬのではないか。筆者とて二十年以上んな唄のことは忘れていたのが、先日新宿を歩いている時けつまずき、ステンコロリと倒れた拍子に頭を打ち、どうも側頭葉に電気的刺激が走ったらしく、それでふいに思い出したのだ。
「んダダッ! んダダッ! んダーダダーダダーダァッ!」
のっけからロニー・ジェームス・ディオばりのハードロック・シャウト。そしてそのまんま、なんのヒネリもない歌詞で始まる「新宿ダダ」を唄っていたのは、いかにも幸薄そうな(に筆者には見えた)カーリーヘアの少女であった。「なぜいきなりダダと叫ぶか少女よ!?」と問う間も与えず彼女は、一転哀しげな表情をつくり、切々と唄い出す。
「※[#歌記号、unicode303d]しぃんじゅうくぅ生まれでぇ〜しぃんじゅうくぅ〜育ちぃぃぃん」
ロックからド演歌への唐突な展開。しかもいきなりディープな身の上話。ア然としつつも、ならばしみじみと聴きましょうとリスナーが姿勢を整えたその瞬間、少女は再び叫ぶのだ。
「んダーダッ! んダーダッ! んダーダダーダダーダァッ!!」
プログレなのか!? ロックとド演歌の無理矢理な融合。しかし残念ながら実験歌謡曲「新宿ダダ」はまったくヒットすることなく日本歌謡史の忘却の彼方へと葬り去られた。デビュー曲だというのにスットコドッコイな曲をあてがわれた、あの不幸なカーリーヘアの少女と共に……。
山手通りを並んで走る四台の自転車があった。
賢三、タクオ、カワボン、山之上の四人は、これから新宿にあるライヴハウス「JAM」に行くところだった。
数日前、四人は「キャプテン・マンテル・ノーリターン」と自分たちのバンド名を決めた直後に、何やらいてもたってもいられない気分になって、シット・オンで出会ったケロという男に電話をかけた。
「マンテル大尉は帰らず……か。いーじゃん、その名前」
と電話の向こうでケロは笑った。たかがバンドの命名とはいえ、それは紛れもない四人揃っての「表現」だった。初めて他者から「表現」をほめられて、四人の心はワナワナと震えた。ケロはさらに、彼のバンド「有狂天」が主催するライヴに遊びに来いと誘った。「君ら絶対喜ぶと思うよ。あさってのライヴ、トンデモない連中ばっかり出るからさぁ」
ケロは四人より二つ年上とのことだった。シット・オンにいた学生服の連中は皆彼の後輩で、賢三たちと同じ歳だという。
「トンデモねー高校生バンドばっかりが集結するんだぜぇ、JAMで六時半からだからさ、来なよ」
ケロの言葉から推測するに、どうやら自分たちと同じような「怒り」と「憤り」をきっかけにして、バンドを組んでいる同世代の奴らがたくさんいるらしい。……どんな奴らなのか? どんなことをするのか? あさって、JAMに行けばそいつらに会えるのか?
本当に「|We are not alone《我々は孤独ではない》」なのだろうか?
映画『未知との遭遇』の原題と同じその想いが、また四人の心をワナワナワナワナと震わせたのだった。
……新宿六丁目の交差点にさしかかった時、ふいにタクオが唄い出した。
「んダーダッ! んダーダッ! んダーダダーダダーダーッ!」
おおタクオ! 君は知っていたのかあの唄を!?
「すごいフレーズだなぁ、タクオが作ったのか?」
「違うよカワボン、『新宿ダダ』ってぇ昔の曲だよ」
ん? 前回も同じような会話があったような気がするって? 気にするな、君のデジャヴだ。
「なんか興奮してきちゃってよ、つい口に出ちまったぜ」
「お前はいつも興奮しとるなぁ」
と突っ込んだ賢三も実は興奮していた。本当に、我々の「同志」たりうる者たちが、この四人以外にもいるのだろうか? 賢三は、ペダルをかけたつま先に力を込めた。
「ダダ……そうか、ダダイズムだな」
ポツンと山之上が言った。
「なんだ? 今なんつった山之上」
カワボンが言った。
「ダダイズムだよ」
先頭を走っていた山之上がチロリと振り向き言った。
「第一次大戦の終わりに流行った芸術の一主義のことだよ。既成の文化や常識をぶっ壊してやろうって運動のことだ。……お、お前らそんなことも知らないのか?」
相変わらずイヤミな山之上である。んナローと怒りかけたタクオを制してカワボンが言った。
「知ってるよ、ウルトラマンに出てくる宇宙人『ダダ』ってのは、そこからきてるんだろ」
さすがカワボン、変なことを知っている。賢三はダダイズムもダダの名の由来も知らなかった。こういった、学校ではまったく必要のない、雑多な知識の量で彼らに差をつけられるのは、賢三にとってこの上なく口惜しいことだった。それで賢三は「それがなんだってんだよ!」と山之上に言った。
「ぼ、僕らがこれからバンドでやろうとしていることは、つまりダダイズムじゃないのか」
山之上が答えた。
ウ〜ム、と三人は一斉に唸った。ダダイズム。そう言われると、何やら自分たちが高尚な精神性を持つ芸術家の集いのように思えてくるではないか。
「ウ〜ム。そうか、俺らダダイストか」
とつぶやいた直後、おもむろにタクオは再び「新宿ダダ」をくちずさみ始めた。
「んダダッ! んダダッ!」
「んダッダッダッダッダダ〜!」
カワボンがそれに合わせる。
「んダダッ! んダダッ!」
「んダッダッダッダッダッダ〜!」
賢三と山之上がそれに参加する。
「んダッダッダッダッダッダ〜!」
ずいふんおバカなダダイストもいたものである。四人は幻の実験歌謡曲「新宿ダダ」を合唱しながら、新宿JAMへと急いだ。んダダッダダッダダー、と。
JAMの前では、出演者であるはずのケロが四人を待ちかまえていた。シット・オンの時同様、ド派手な服装なのに髪型はゲゲゲの鬼太郎を彷彿させる七・三という異常なスタイルで、人なつっこく手を振っていた。
彼だけではなく、JAMの前には十数人の者たちがたむろしていた。それぞれ服装はさまざまだったが、皆十代の、賢三たちと同年代の少年少女であった。自転車を降りた四人がケロに「あ、どうも」と挨拶をすると、彼らから一斉に大きな笑いが起こった。
「アハハハ、君たちチャリンコで来たのぉ!?」
ケロは腹を抱えて笑っていた。
「い、いや、俺ら金ないっスから」
いきなり笑われてドギマギしながらも、カワボンが言うと、少年たちの一人がボソリと「オレなんか金ねえから、下北から歩いて来た」と言った。再びダハハハと皆が笑った。ケロが言った。
「もう開場してんだけどさ、楽屋狭いんで外で打ち合わせしてたところなんだよ」
「あ、じゃ、この人たちみんな出演者……」とタクオ。
賢三は改めてJAM前に集った連中を見渡した。本番直前ということで、オカマのようにメイクをしている者もいれば、髪をピンと立てている者もいる。顔をまっ白にぬった奴、なぜか町工場の作業服を着ている奴、ベースをクサリのストラップで肩から下げている奴、それぞれ、出番直前の緊張と興奮をモロに表情に浮かべて、ハイなテンションで語り合っていた。その周りには、彼らの彼女なのか単に同級生なのか、やはり興奮した顔の少女たちが、小鳥のように少年たちの間をウロチョロしていた。通り過ぎる人々がうさん臭げな目で彼らを見る。
……こいつらが同志なのだろうか? 賢三はフツフツとこみ上げる何とも言えぬものを感じながら、『いったいこいつら、どれだけやる[#「やる」に傍点]のだろう?』などと、往年の番長マンガのようなことを思った。
「ケロさん、この自転車少年たちは何もん?」
アコギを抱えた白衣姿の男がケロに尋ねた。
「ん? えっと〜、キャプテン・マンテル・ノーリターンってバンドの皆さんだ。変なバンド好きだっつーんで観に来てもらったんだよ」
「どんなのやってるんスかぁ?」
一人が、ニコニコと笑いながら賢三たちに尋ねた。咄嗟のことにあわてたタクオは大きな声で「あのっ! 『自分BOX』みたいなのを……」と言った。すると、
「おおおおっ!!」
夕暮れの新宿JAM前で起こった少年たちのどよめきによって、「……これからやろうと思ってるんスけど……」と言ったタクオの気弱な言葉は、シッカリかき消されてしまった。
「それいーなー、君たちさあ、うちらが次に主催するギグに出てよ」
ケロが言った。出るも何も、四人はまだ練習さえしたことがないのだ。しかしここでそんなことを言ったら「とっとと帰ってください」と言われそうだ。カワボンが思わず「はい、出ます」と答えた。
こうして、キャプテン・マンテル・ノーリターンのファースト・ライヴは、あっさりと決定してしまった。
「ドリンク代あと五百円いただきま〜す」
ライザ・ミネリのような(本人はキュアーのつもりかもしれない)パンダ目張りを入れたモギリのねぇちゃんが、四人のチケットをピリリと破った。
「ちくしょー、タダで入れてくれるんじゃねーのか」タクオがブツブツと言った。すっかりタダ観できると思っていた四人は、「ハイ、チケット、一人千円ね」というケロの言葉に声を失くした。「来なよ」という彼の言葉は、文字どおり「来なよ」なのであって、決して御招待という意味ではなかったのだ。バンザイなしよ、である。
『ああなけなしの金が……今週の文芸座はなしだな……』
トホホ……気落ちしつつ、賢三はJAMの重い扉を開けた。
「モワッ!……」という例の音を、賢三はまた聞いたような気がした。
屋根裏と同じように、天井の低いJAMには、煙草《タバコ》と汗と、安っぽいヘアスプレーの匂いが入り混ざった、ライヴハウス独特の空気がムゥンと満ちていた。
客は満員だった。自分BOXを観に行った時とは違い、大半は賢三たちと同年代の少年少女たちだった。少女たちの多くは、カラフルなニーソックスに、ヒラヒラの不必要についたスカートをはいていた。髪の毛を二つに、チョコンとお団子に結っている娘もいた。なぜか小学生のようにランドセルを背負っている者もいた。『駄菓子みたいな格好だ』と賢三は思った。と思えば上から下まで真っ黒い服で決めた、お通夜のごとき娘もいた。彼女たちはそれぞれ、片手にジュースの入った紙コップ、片手にさまざまなバンドのチラシを持ち、嬉しそうに、二、三人グループになって語り合っていた。会話のはしばしに、賢三たちがコクボ電気店の二階で語り合う際に登場する、昔で言えばサブカルチャー、今でいえばカルトという言葉に代表されるような、映画、小説、マンガ、ロック、人物の名がポンポンと飛びだしていた。四人はその光景にガク然とした。
「お、おい……」とタクオ。
「ウ〜ム、これは……」と賢三。
「すすすすげえなあ」と山之上。
「……カワボンよぉ、こりゃ、どうやらオレたち……」
タクオがカワボンの肩をガッシとつかんで言いかけた。しかしカワボンはあわてず騒がず、「わかってるタクオ、みなまで言うな。どうやら我々は、井の中のカワズ。いや、『コクボ電気店二階のカワズ』だったようだな」と言った。
「つまりこういうことか!?」
と、ギョロリと目をむいたタクオが後を接いだ。
「我々は今まで、いやつい今この時までだ。『人とは違う何か』が自分にはありながら、その表現の手段が見つからないことに悩み、せめてつまらない他の連中と差別化を図るために、アングラかつマニアックな知識を得ようと努力している高校生など、オレ、カワボン、賢三、そして山之上、この四人しかいないのではないかと考えていた。ところがどうだ。ケロ、バンド連中、そしてこの客たち、どいつもこいつも、どうやら我々と似たような考えを持った連中のように見える。これは……つまり……何を意味するかと問うならば……つまり……」
ウ〜ンなんと説明的な台詞を言うのかこの男。まぁいい、筆者もそのほうが楽だ。続きを聞こう。
「……つまり……」
「おい! 見ろ!」タクオの言葉をさえぎって、賢三がJAMの隅を指さした。
「あそこで学ラン着てる奴、『宝島』を読んでるぞ!(信じられないことですが、『宝島』は昔サブカルチャー少年御用達の雑誌だったのです)」
「おーっ!」
一斉に感動した四人。
「あっ! あっちの学生服の奴、『ビックリハウス』を読んでるぞ!」とタクオ。
「いや、あっちは『フールズ・メイト』だ!(当時、『フールズ・メイト』はものすごくアングラな雑誌だったのです)」
「ギャッ! あの男、『夜想』だ! 『夜想』を読んでる!」賢三、カワボンもあせる。
「ガガガガガガガ!」
「どうした山之上、お前魔神ガロンか!?」
こんな時にも突っ込みを忘れない賢三。
「ガガ……『ガロ』だ!『ガロ』を女子高生が回し読みしているぞ!」
「お、おーっ!!」
雑誌で人判断してどうすんねん、という気もするが、彼らにとって、購読する雑誌の一つとて、通俗か否かを決める重要な要素なのだ。
「ああ『突然変異』だ! 『月光』だ。『ビリー』も『ヘイ! バディ』もいるぞ!」
叫ぶ賢三。
まさかライヴハウスで伝説のカルト変態雑誌『ビリー』を読んでいる奴はいまい。賢三の見間違いか、でなけりゃ妄想であろうが。とにかく四人は、黒所ではまったくお目にかかることのできないアングラ・サブカルな情報に興味を示す同世代の連中を一気大量に目の当たりにして、今や鬼のように興奮していた。
「やはり我々は……カワズ……まさにコクボ電気店のカワズだったようだな」
低く、カワボンが言った。
「……つまり、我々のような考え方をしている連中は……いくらでもいる! っちゅうことか!?」
天井のスピーカーからは、クレージーキャッツが流れていた。
※[#歌記号、unicode303d]ひっとつ山越しゃホンダララッタホ〜イホイ
植木等の能天気な歌声が四人の頭上で流れていた。
※[#歌記号、unicode303d]ふたっつ越してもホンダララッタホ〜イホイ
「……オレらさ」
賢三がつぶやく。
「つくづく、黒所しか知らなかったんだなあ。あそこを批判しながら、しかし結局、黒所を世界の全てと考えてたんだなぁ」
※[#歌記号、unicode303d]越しても越してもホンダララッタホ〜イホイ
「そのようだな」とタクオ。
「オレたち、まだまだだな」とカワボン。
無言でうなずいた山之上。
※[#歌記号、unicode303d]どうせこの世はホンダララッタホ〜イホイ
「まだまだだ、まだまだだ」賢三がくり返した。
※[#歌記号、unicode303d]ホンダララ〜 ホンダララ〜 ホンダラホダララホンダララ〜 ホンダララッタホンダララッタ ホンダラホダララホ〜イホイッときたもんだ
『いや、しかし』
と、賢三は思った。
『けしてそれは悪い意味ばかりではないゾ。確かに、今オレらは、つくづく自分が狭い世界の中でうごめいていたカワズだったということに気がついた。だが、と同時に我々は、同じ怒りや憤りを持つ者たちが、黒所という小さな世界を超えたところに実は、無限に存在しているのだという狂喜すべき真実にも気がついたのだ!』
ふいに客電が落ちた。一瞬、客席は静まり、直後、あちこちでメンバーの名を呼ぶ少女たちの声が聞こえた。
『つまりそれはアレだ。「未知との遭遇」の原題と同じだ』
薄闇の中で、楽器を手にした有狂天のメンバーがステージに現れるのがボンヤリと見えた。客席がさらにざわついた。賢三は心で叫んだ。
『|We are not alone《我々は孤独ではない》ということだ!』
ステージに照明が灯され、ギターとベースがユニゾンでイントロをつまびくなか、トコトコと舞台に現れたケロがマイクを握り、カクカクと全身を奇妙にくねらせながら唄い始めた。
有狂天の演奏は思っていたより普通だった。RCサクセションのコミカルな部分を誇張したようなサウンド。そんな感じだった。それでも客席は大いに盛り上がっていた。ケロ以外、みなまだ高校生だというのに、すでに彼らには常連の客がついているのだ。
「わりと普通だな」
タクオが、賢三に耳打ちした。
三曲ほどたて続けに演奏したところでMCとなった。
「今日はこの後トンデモない奴ばっか出るので、有狂天はド頭に出ることにしました……」
ケロが言うと、客席でなごんだ笑いが起こった。
「いやー本当はさー、今日三上ひろ子って女が観にくるはずだったんだよねー」
ステージ上だというのに、ケロはまるで世間話のようにそんなことをしゃべり始めた。
「誰だそれ?」
と、キーボードの男がマイクも通さずに突っ込む。ケロはチロリとふり返り、「ホラ、田村の知り合いだよ」と答える。そのあまりにロックっぽさのない口調に、客席がドッと受けた。賢三たちも、思わず笑った。
「ああ、三上ね、あーあー、あいつ、浜田山に住んでたあいつね、あーねー、知ってる。スゲー美人なんだよね」
ライヴ中にもかかわらず、ギタリストもまったく世間話のノリでつぶやくものだから、満員の客たちがまた一斉に笑った。
「あいつ、かわいいんだよね、なんで今日来ねえの?」
ギタリストが尋ねると、ケロはふいに遠い目をしながら、
「うん、かわいいんだけどさあ、この間、電話したらさぁ」
そして眉間にしわを寄せ、
「それが三上の奴さ……」
と、ここでケロはニタ〜リと笑い、ポツンと言った。
「死んでやんの」
ドドーッとJAM中が笑いに包まれた。
「風邪こじらせてさ、ポックリ死んでやんの」
おっかしくてたまらんねー、というように、ケロは言った。ケロのあっけない言い方は芝居めいていて、独特な間がまたなんともいえずおかしかった。客たちはケロと共に、今度はクククッと忍び笑いをもらした。
「死んじまったらしょーがねーなー」
キーボーディストがあっけらかんと言った。
「それがさ、三上の奴、注射打ったらアレルギー起こしてさあ……」ケロはプッと噴き出した。
「なんなんだ!?」「どうなったのー!?」あちこちで声がかかった。ケロは必死の形相で笑いを噛み殺しながら言った。
「髪抜けちゃってさ、三上の奴ね、ツルッパゲになって死んじまったんだと」
「ウヒャハハハハハハハハ!」
賢三の横で、山之上が爆発したように笑った。他の三人も、そしてJAM中の客がやはり狂ったように笑った。しばらく、JAMは不吉な笑いに包まれた。
ケロは、人の不幸で笑う共犯者意識を客たちに与えることによって、一瞬にして客を一つの個に集《まと》めてみせたのであった。
そのことに、四人は気づいていた。
「スゲー、やるなケロってやつ」と賢三。
「なななるほど、共犯者の名のもとに客と一体化するわけか。うまいな、不幸ってのは笑いと紙一重だからな」山之上がしきりに感心する。
「美人なのに、ツルッパゲ、そんで死んでやんの」
ケロのダメ押し。客席の黒い笑い。
「なななるほど、これは死と不幸によってのみ人は平等化するのだという思想だな。名付けて……『ケロの縁起でもない平等論』!」
多少買いかぶりな気もするが、山之上は腕を組みウンウンとうなずいた。
「もうツルツルでさ、美人なのに、ワハハハハ」
ケロの高笑い。
と、「な、なんてことを言うんだあーっ!」
突然、学ラン姿でステージ上に立っていた有狂天のベーシストが激昂して叫んだ。
「あ、あんた、ひろ子ちゃんになんてこと言うんだー!」
リーゼントヘアの彼は、怒りにまかせてベースをステージの上に放りなげた。バオオオン! という重低音がPAからはじけ飛んだ。
打って変わって、シンと静まり返るJAM。
ベーシストは凄い形相で客席を見渡し、言った。
「あ、あんたたちもだあっ! 人の不幸がそんなに楽しいのかあっ!!」
握った両の拳がプルプルと震えている。
「おい、なんかやばいな」
カワボンが小声で言った。
「お、俺は、俺はなぁ、ひろ子ちゃん……三上さんを愛していたんだぁっ!」
天を仰ぎ、叫んだリーゼントのベーシスト、何やら新劇の役者のようなポーズだ。この男、かなりの情熱家なのだろう。
「それをなんだぁ……」
ふり返りざまに、ケロに飛びかかった。
「おい、よせ!」
「ゴーダ、落ち着け!」
「イテェ! ゴーダよせよ!」
他メンバーがあわてて止めるが、ゴーダと呼ばれた男はケロの胸ぐらをつかみ、グイグイ引っぱりまわした。少女たちの悲鳴、ケロが叫ぶ。
「よせよ! ゴーダ、シャレだよシャレ」
「人の不幸をシャレにするなあ! 殴ってやるぅ! 殴ってやるぞう!」
「イテテ、やめろ〜! ヒー」
「アンタ俺が東北の田舎から転校してきたと思ってバカにしてるんだあっ!」
ゴーダの声はひっくり返り、今にも泣き出しそうだ。
「アワワ、なんなんだこのバンド!?」
タクオがあせる。
ギタリストがゴーダを羽交い締めにする。ケロはマイクスタンドをつかんで震えている。「やれやれ!」「やめてー!」はやし立てる男と悲鳴を上げる少女の声が交差する。もう目茶苦茶の新宿JAMである。
「ひろ子ちゃあん、なぜ死んだああっ!」
ついに泣き出したゴーダ。どうにも収拾がつかない。
するとその時、頭髪をハリネズミのごとくツンツンに立てた有狂天のギタリストが客席を指差して言った。
「あっ! 三上だ、ひろ子がいるぞ!」
「ヘッ!?」
と言いながら、ゴーダとケロがクルリとそろって客席をふり向いた。
カッと目を見開いた二人の表情は、誰の目にも「つくった」ものであることが一目瞭然だった。
とたんに、客席から笑いがこぼれた。
直後に、大仰に客席を見まわしながらゴーダが、
「どこ? どこにひろ子ちゃんがいるとですかぁ!?」
と叫ぶと、さらに大きな笑いが起こった。
「どこですかぁ!? どこですかぁ!?」
叫びながらゴーダが客席に飛び込む。「キャーッ」という少女の悲鳴、まぜっ返すような男たちの笑い声。ゴーダがその中をねり歩く。
「ゴーダ、右だ右」
「ちがう、左、左、そうそこ」
ステージ上からゴーダに「ひろ子ちゃん」の居場所を指図する有狂天のメンバーたち。
「なんだ芝居かあ」
賢三がホッとして言った。
「アハハ、くだらねぇ」
タクオが笑った。
「ひろ子ちゃあん! どこですかぁっ!」
ナマハゲのごとくJAM中を歩きまわるゴーダ。
「ひろ子ちゃん」を捜しつつも、客のジュースを一気飲みするわ、カメラを取り上げ勝手にシャッターを押すわの暴れ放題である。
「いいなぁあいつ、アハハ! やれやれ!」
カワボンが叫ぶ。
「なななるほど、演劇的要素を導入することによってステージと客席の一体化をはかるわけか。寺山修司ばりの実験ライヴだなこれは!」
相変わらずへ理屈をこねる山之上。
「ひろ子ちゃあん! 見つけたぞおっ!」
ゴーダの怒鳴り声と共に、一際大きな少女の悲鳴が上がった。どうやら「ひろ子ちゃん」が発見されたようだ。
「ゴーダ! ひろ子ちゃんをステージへ」
ケロが叫ぶ。
「やだーっ!」と、ひろ子ちゃんにされた少女がまた悲鳴を上げた。それを聞いて、待ってましたとばかりに盛り上がる客席。有狂天は毎回こんなことをやっているのだろう。あちこちでヒューヒューとはやし立てる声が飛ぶ。
「ゴーダ! 早くひろ子ちゃんを連れてこいよー!」
ニタニタと笑いながらケロが叫ぶ。
「キャー! 絶対やだー!」
客席の隅で少女の悲鳴。
スポットライトが声のあたりを照らす。ライヴハウスの照明係まで巻き込んでの騒動である。
「ひろ子ちゃあん! あんたの観たがってた有狂天のライヴですばぁい! オラと一緒にステージっさ上がるっぺー!」
もはや何県人なのかさえもわからない言葉でゴーダが叫ぶ。
「ギャー!」と本気の悲鳴。盛り上がる客席。
ケロの大笑い。
スポットライトが「ひろ子ちゃん」を捜し当てた。その瞬間、JAM中に爆発したような笑いが起こった。
見るも無惨、哀れ「ひろ子ちゃん」の頭には、ゴーダの手によって、ドリフ加藤茶ばりのハゲヅラがかぶせられていたのだ。
「ウハハハハハくだらねえー!」
笑いのツボを押された四人も一斉に爆笑した。
ヅラをかぶせられた「ひろ子ちゃん」は、ゴーダにズルズルと引っぱられて、無理矢理ステージに上げられてしまった。
「ゴーダ、よかったなぁ!」
ケロがゴーダの肩を叩く。
「嬉しかばーい! ひろ子ちゃんにギグさ観てもらえて、おいどん嬉しかばーい! ほなこつ幸福じゃー!」
各県の方言を入れ混ぜながら泣いて喜ぶゴーダ。
顔を両手で覆い、今にも泣き出しそうなツルッパゲのひろ子ちゃん。
JAMは爆笑の渦。
「それにしても、ひろ子ちゃん本当にツルッパゲになってしまって、かわいそうばーい」
自分でやっといてそりゃないだろうと思うのだが、ゴーダはそう言って、ひろ子ちゃんのツルツルの頭をなでた。
「ゴーダ! お前の髪の毛やれよ」
ケロがトンデモないことを言う。
「それ名案ですたい」
言うが早いか、ゴーダが自分のリーゼント頭をグイッと引っぱった。するとどうだろう。スポッとリーゼントがゴーダの頭から離れた。
実はリーゼントもヅラだったのだ。
ゴーダは嫌がる女の子の頭に、リーゼントのヅラをかぶせた。ハゲヅラの上にリーゼントヅラをかぶらされて、もう何やらわけのわからん頭にされてしまった少女がベソをかきだしたが、気にすることなくケロは言った。
「よし、せっかくだ。ひろ子ちゃんとゴーダの体をヒモでくっつけてやろう!」
「え!? ケロさーん! ゴーダ嬉しかばーい!」
手際よく、他のメンバーたちがひもを取り出し、ゴーダとひろ子ちゃんの体をひとつに縛り上げる。しかもその上からゴーダの肩にベースをかけた。
「かわいそう!」とあちこちから少女の声が飛ぶが、その声も笑っている。
あまりの屈辱にすっかり黙ってしまったひろ子ちゃんと抱き合いながら、ゴーダが叫ぶ。
「嬉しかばーい! ゴーダ嬉しかばーい!」
「よしみんなあ! 一曲ひろ子ちゃんのために唄おうぜ!」
ケロがマイクをつかみ、客席に向かってイエーイ! と叫ぶ。すかさずイエーイ! と客が返す。
「コ! ン! パ! ス!」
ケロが唄い出す。
※[#歌記号、unicode303d]まわるコンパス どこでも円周 まわるコンパス どこでも円周 でも僕と君の心はつながらないね
「いいなあ、やるなぁケロ、有狂天」
カワボンが不器用にリズムを取りながら言った。
「うん、やるやる。まさにダダイズム」
ちょっと違う気もするのだが、タクオが嬉しそうに言った。
「ま、負けられんなぼくたちも」
と山之上。
「ウン、負けられん」
賢三は自分に言い聞かせるように言った。
※[#歌記号、unicode303d]まわるコンパス でも丸くはならないねえ アレもこれも でもつながらないねえ 君と僕も
有狂天のライヴは大いに盛り上がって終わった。去り際、ケロが次の出演バンドを紹介する。
「このあともバカばっかり出てくるからさ、途中で帰るなよー……次のバンドはアハハ、スゴイ名前なんだよね、筋肉少年少女隊のみなさんでーす!?」
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第9章 どこへ行ける? どこへ行こう?
有狂天がひっ込み、インターバルの後に現れた筋肉少年少女隊は、やはり賢三と同世代の少年たちであった。
ヴォーカリストは異様な風体をしていた。
ドーランで顔を真っ白に塗ったうえ、身にまとっている服も医者の着る白衣だ。その下には女子高生の体育着用ブルマーをはいていた。さらに網タイツにドタぐつである。
「よくいやアングラ劇団風。でなけりゃただのバカだな、あいつ」
とタクオが言った。
「どっちかな? アングラか、それともバカか?」
カワボンが首をひねる。
「バカに百円」ボソリと山之上。
「オレもバカに百円」とタクオ。
「賭けにならんがオレもバカに百円、賢三は?」
カワボンの問いに賢三は黙った。白塗り男の姿は確かにスットコドッコイだったが、哀れでみにくくて情けないその格好は、賢三の心に巣喰うコンプレックスを、見事に具現化したもののようにも見えなくはなかった。それで賢三は言った。
「アングラ風に百円」
BGMのキングクリムゾン「21世紀の精神異常者」が小さくなると、白塗り男が奇声を発した。
「イョオオオオオッ! 筋肉少年少女隊です!」
シーンと、客席が静まり返った。
どうやらこのバンド、有狂天ファンには初お目見えであったらしい。だが、マイナスの立場からいかに観客のリビドーを引っぱり出すかでロックバンドの力は試されるのだ。屈せず、白塗り男は叫んだ。
「今晩は、私がヴォーカルのラッシャー木村です」
……外した。
もしこの場に小松政夫がいたなら、すかさず伊東四朗と共に「シラケ鳥飛んで行く南の空へ ミジメミジメ」とあの懐かしき唄を口ずさんだところだろう。客席はさらに静まり返り、賢三は賭けに負けたことを悟った。
※[#歌記号、unicode303d]丘の上で 一人座って 古ぼけた娘が
狼狽しながらも、筋肉少年少女隊は演奏を始めた。しかし笛吹けどもコブラ踊らずといったところか、有狂天のライヴとは打って変わって、客は冷たい視線を送るのみ。お通夜のようだ。
※[#歌記号、unicode303d]とろろのの〜ずい! とろろのの〜ずい〜!
あまりのわびしいムードに業をにやした白塗り男は、唄いながらステージを降り、客席をねり歩くも逆効果。「何よ」「やだ!」、露骨に嫌悪感を表明する少女たち。それどころか次のバンドにそなえてトイレに駆け込む者まで出る始末。白塗り男まさにミジメミジメである。
「はやく人間になりたあああい!」
MCにおいても男は外しまくる。意味不明の雄叫びをあげ、客の首をムンズとつかむ。「き、きみの名は何と言うんだー!!」
やにわに尋ねた。勢いにつられた少年が「あ、藤波です」と名乗るも、白塗り男は何を聞きまちがえたものやら「なにー!? そうか、君はミネシ君と言うんだなぁ」
一体どういう聴覚があれば藤波君をミネシ君と聞きまちがうのか? だいたいミネシなんて名があると思うか? 哀れミネシ君ということにされた少年の体をグイグイと揺さぶりながら、白塗り男は言った。
「よしミネシ、次の曲は君のために唄うぞぉ! 新曲『ミネシのペニス』聴いてくださあい! ワン、ツー、あワン、ツー、スリー、フォー!」
ドカドカとハードコアパンク演奏が始まる。それに乗せて白塗り男がシャウトする。
「ミネシのペニス! ミネシのペニス! ミネシの男根ミネシのペニス!!」
……そのまんまやないか。少しはひねれよ白塗り男。
結局、最後の最後まで盛り上がることなく、筋肉少年少女隊はステージを去っていった。
白塗り男の背がわびしかった。
「やりたいことはわからんでもないけど、勢いだけで空回りって感じだったな」
とカワボンが彼らを評した。
「あ、あいつはきっと、自分を卑下してみせることでしか、人から注目を浴びる方法を知らないやつなんだろうな」
と山之上。
「でも、オレらと同類の人間だよ、言いたいことが自分の中でくすぶってんだ、あいつも」
ポツリと賢三が言った。
続いてステージに現れたのは、「念仏」という四人組であった。
これまたヘンテコ。長身のヴォーカリストは遊女のような着物を羽織った男。ギタリストはロバート・フリップさながらの着席スタイル。ベーシストは町工場の作業衣。ドラムがいないかわりに、『ブリキの太鼓』のごとく首からフロアータムをぶら下げたメンバーがいる。彼らは揃って「つまらん」「いかんともしがたい」「やってられん」といったアンニュイな表情を浮かべて舞台に立っているのだ。
念仏も高校生バンドながら有狂天のように固定客がいるのだろう。しらけた顔の彼らとは対照的に、客席は盛り上がっていた。少女たちはおのおのお気に入りのメンバーに声援を送る。と、ヴォーカルの男がすかさず「うるせー」と返す。その声にまたドッと受ける少女たち。なかなかもてている。
「……バンドってもてるんだな」
感極まった声でタクオが言った。彼らがバンドを組もうと決めたのは、あくまで「人と違った何か」を見出すための手段なのであり、そこに「もてたい」「キャーキャー言われたい」などというよこしまな気持ちは一寸もなかった。……しかし、どうやらタクオの言ったように、さっきから見ていると、バンドというのは「もてる」ものであるらしい。しかも声援を受けているのは、皆彼らと同年代の少年たちなのだ。……とすれば……。
「オレらもバンドやったら、も、もてたりするわけか?」とタクオ。
「キャーとか言われたりするわけか?」とカワボン。
「『私ファンなんですぅ』なんて娘が来たりするのか!?」と賢三。
そんでもって、
「い、い、いいいいやらしいことできたりするのか!?」
ミもフタもない山之上の一言は、キャプテン・マンテル・ノーリターンのメンバー四人の心に、一気に煩悩の炎を点火した。まさにハートに火を点けて状態である。
ゴーッ! と燃え上がった男どもの性欲《エロリビドー》。
『あっいややめて〜ん! こんなこと聞いてな〜い。ライヴのテープ聴かせてもらいに来ただけなのに〜……あ、いやいややめて許して堪忍して〜ん! でも嬉しいの! ああ〜ん、イヤでも好き好き※[#白ハート、unicode2661]う〜んなめて吸ってモンでチュクチュクしてスケベスケベ! 他のファンの子に怒られちゃう〜ん! イヤイヤでもいーのもっとしてうんとしてイクイクシヌシヌ〜ン※[#白ハート、unicode2661]』
妄想! 妄想! 妄想!
同世代の者たちが目前でライヴを行っている真っ最中だというのに、よこしまな性妄想に四人の全身、特に下半身に鎮座ましましたポコチンはわなないた。
『イカン! そういうんじゃない、オレは美甘子に追いつくために、あの小憎らしくも愛らしい山口に追いつくためにバンドをやるのだ。けしてもてたいとか、ましてやセックスをしたいがためにやるのではない、もし仮に、バンドを始めたことでもてたとしても、それは副次的なものにすぎない。いくらファンに一発求められようとも、それに何の意味がある。ファンの娘とのセックス! そんなもの、そんなもの……いやしかし……だがしかし……あうぐっ!』
妄想! 妄想! 妄想!
『いややめて〜ん※[#白ハート、unicode2661]賢三君っていつもこんなことするの〜ん※[#白ハート、unicode2661]いやだめよでもいいわああ〜んチュパチュパグチュグチュしてしてだめいいもっともっともっとして〜んあ〜んこんなとこもあんなとこもいやいやい〜ん※[#白ハート、unicode2661]』
妄想! 妄想! 妄想!
賢三だけではない。今や四人の頭上には、天空の大都市ラピュータのごとく巨大なるドスケベー妄想のかたまりがズズズドーンと浮かんでいた。
「バンド……やろうぜ」ため息まじりにタクオ。
「ああ……」やるせなくカワボン。
「ぜぜ絶対やろう、すぐやろう」どもりながら山之上。
「……あうぐ」そして賢三もまた。
妄想! 妄想! 妄想!
妄想! 妄想! 妄想!
このようにマヌケな状態を、昔の人はこう言い表したものだ。
「とらぬタヌキの皮算用」
賢三、タクオ、カワボン、山之上……まだまだである。まったく、まだまだなのである。
アホの四人はさておいて、もう一度、念仏のライヴを追ってみよう。
念仏のメンバーは相変わらず冷めた表情をしていた。リズムボックスがチャカポコチャカポコと鳴り始めた。物憂げなギターの旋律。ヴォーカルの少年が唄い出す。
※[#歌記号、unicode303d]あんパンにはあんが入っているのに うぐいすパンにはうぐいすが入っていないのは……なぜだ?
チャカポコチャカポコ
※[#歌記号、unicode303d]肉マンには肉が入っているのに オニマンには鬼が入っていないのは……なぜだ?
チャカポコチャカポコ
お笑いマンガ道場なみの低レベルギャグを、あくまで無表情の少年が淡々と唄うことによって、妙な異化効果が生み出されていた。客席からクスクスと笑いがもれる。
性妄想のとりことなっていた四人もハッと我に返った。
※[#歌記号、unicode303d]なぜ? なぜ? なぜなぜなぜなぜ〜……
チャカポコチャカポコ チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャ……
リズムボックスが止まり、唐突に演奏は終わった。
歓声、それに応えて、ヴォーカリストは無表情のままこう言った。
「みんなぁ、だるいかあい?」
と、あちこちから「だるい!」「だるいぞー」の声。
「もういっちょう、だるいのかあい?」
「だるい」「だるいぞ」「だるいよー」客もだるそうに返す。
ロックといえば、オーディエンスをなんとか盛り上げようとするのが当たり前である。だが念仏の場合、それは当てはまらぬようだ。
「う〜むなるほど」
山之上が感心した。
「なんだ山之上? また何かわかったのか?」
「わ、わからんのか賢三? これぞダダイズムだよ。あの『だるいかい?』てのはな、『イコール熱狂』の図式が形骸化されてしまったロックに対するアンチテーゼだよ。メインカルチャーと化したロックコンサートに対する疑問と否定が『だるいかい』という言葉にすべて表れているじゃないか!」
そう言われてみればそんな気もしてくる。賢三、タクオ、カワボンは山之上の言葉にフムフムとうなずいた。しかし、
「……少々買いかぶりのような気もするがなぁ」
タクオがふと言った。山之上がいつものように何か言い返そうとしたが、制してカワボンが言った。
「……いずれにせよ、あいつらはすでに行動を開始している。オレらはまだそれを見ている段階なんだ。オレら、出遅れていることだけは確かだぜ」
「うん……」
タクオが黙った。
「早くオレらも、動きださんとな」
カワボンの言葉に、小さくうなずいた三人。もう何回目かわからぬほどに数多く決心を固めた彼らの耳に、再びリズムボックスのかったるいチャカポコチャカポコという音が響き始めた。
念仏の後に現れたバンドも、普通、人がロックと聞いて連想するものとははるかにかけ離れたパフォーマンスを展開する連中だった。
まず何より彼らは楽器を使わなかった。それぞれ奇妙なメイクをほどこした少年たちが、テクノ調のカラオケに合わせて唄い踊るのだ。それも、
※[#歌記号、unicode303d]金玉が右によっちゃった オールナイトロング
なんていう、もうどうしようもないぐらいにトホホな唄だったりする。ほとんど学芸会……いや小学校のお誕生日会の出しもののようだが、念仏や有狂天同様、それを大まじめにかますものだから、そこには不思議な説得力があり、はるばる今日のために静岡から来たというこのユニット「一生」に、客たちはズズズッと引き込まれていった。
賢三たちもしきりに感心していた。「ダダだ! これぞダダ!」と、口々に彼らのダダぶりを絶賛していた。
本当は、有狂天から一生まで、この日彼らの前に現れた連中のやろうとしていることは、ダダイズムというよりも、「キャンプ」という言葉で言い表されるべきものだったのかもしれない。
作家の小野耕世は著書『バットマンになりたい』の中で、キャンプの意味を――くだらないもの、大まじめに作られたしょうもないものを、やさしく愛でる姿勢――であると説明している。例えば五〇年代のB級恐怖映画を大笑いしながらも、愛してやまないオタクな心を「キャンプ」と呼ぶのだ。
ロックでキャンプをやるということは、ロック=のるぜ熱いぜ=かっこいい、という、もはや様式化された図式へのアンチテーゼである。かつてのカウンター・カルチャーに対する今再びのカウンターである。その意味では確かに、ダダとも呼べるかもしれない。ま、やってることは本当にくだらねーことなのだけれど。
「どう? くだらねーだろ!」
いつのまにか空席に来ていたケロが、ニコニコと笑いながら四人に尋ねた。
くだらない? と問われて正直にくだらないと答えてよいものか? 四人が言葉に詰まると、ケロはさらにニコッと笑って言った。
「くっだらねーよなぁ」
つられて四人は「くだらないっすね」と声を揃えて答えた。
するとケロは、嬉しくてしかたないという顔をして言った。
「な、くっだらねーんだよどいつもこいつも、俺さ、今度くだらないバンドばっか集めて自主製作盤のレーベルつくろうと思ってるんだよ。よかったら君らもソノシートとか出さない?」
「ハイ、出します、絶対」
即答した賢三。
ライヴ予定に続き、インディーズ・レコード・デビューまで決まってしまったキャプテン・マンテル・ノーリターン。いいのかこんな簡単なことで、世の中そんなに甘かないと思うのだが……。
それはさておき、ステージ上には一生に続き、また新手の少年たちが登場していた。
「ええっ! どうも、我々『大江戸世直しの士』といいます!」
と叫んだ男は、ピアノの前に座っていた。例によって、彼のルックスは、人が普通ロックと聞いて想像する姿とはかけ離れたものであった。五分刈り、眼鏡、親父ジャケット。同級生であったなら、絶対に「おっさん」とあだ名がつけられるであろうふけまくりの風貌。
「まず一曲! 『神と観世音』聴いてくださあああい!」
「おっさん」は叫ぶやいなや、鍵盤に十本の指を叩きつけた。と、どうだろう。見ためからは想像もつかない美しい旋律が彼の弾くピアノからJAMに響き渡った。
「ほう!」とあちこちから感心した声がこぼれる。この男、目茶苦茶にピアノがうまい。コロコロとした音の華麗なることは砂金の舞うごとし。美しく切ない。
例えるなら野獣化したYOSHIKI様……といったところか。「おっさん」と「ピアノ」というヘンテコな組み合わせの妙に、賢三たちもうなった。本当にうまい。
まさに神だ! 観世音だ! 人々が感動に心うちふるえたその時だった。おっさんはピアノを弾きながら突然笑い出した。
「フッフッフ……フッフッフ……ウワッハハハ……ウワーッハッハッハ!」
なぜ笑うおっさん!?
「ワーッハッハッハッハ! ワーッハッハッハッハッ! ワーッハッハッハッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
だからなぜ笑うおっさん!?
「人生は、愚かなる日々だぜえ! だから俺は笑うのさあああっ!」
ああ、そういうわけね。
「俺を愛する女の前でえっ! 俺は、俺は!」
台詞と共におっさんのピアノはどんどんと激しくなっていく。肩をふるわせ首筋に血管を浮かびあがらせながら、おっさんはピアノを弾き……いや叩き続ける。彼の精神と鍵盤は見えない何かで直結しているかのようだ。
「俺はあっ! 俺はあああっ!」
おっさんのピアノに合わせ、極限までストラップを下げたベーシストがブブブブブブと開放弦ピック連打。ドラムはロールをクレッシェンド。高まる。
「俺はあっ! 俺はあっあああああっ!」
おっさんはクワッと眼鏡の奥の瞳を見開いて叫んだ。
「オナニイイイイをしてやるぜええええ!」
そして狂笑。
「ウワーッハハッハハハハハ! ウワーッハハハハハハハハ! ウワー! ウワーハハハハハハハハッハッハ!」
……もう今夜のJAMはこんな奴ばっかである。ああロックの神様ごめんなさい。
大江戸世直しの士はたて続けに曲を演奏した。彼らの楽曲の特徴は、「タイトルと歌詞がそのまんま、ひねりなし」なところであった。例えば「ひげ左半分」という題名の楽曲であれば歌詞はズバリこうだ。
※[#歌記号、unicode303d]クラスの可愛いあの娘、でも顔の左側にひげがはえてたぜ〜。ひげっ! ひいだぁり半分っ! (半分っ!) ハアッ!! ひげっ! ひいだぁりぃ半分っ! (半分っ!) ハアッ!! 半分半分半分半分! (半分半分半分半分!)
ちなみに( )はかけ合いなので、読者諸君もご一緒にどうぞ、ハアッ!
念仏同様これを大まじめに、しかも激情ほとばしりまくりの表情で唄うのだから……何というか……くだらんのだ。しかも一曲ごとに彼の解説が入る。
「ええっ、自分はあっ! 先日、上野交通博物館へ行ったのですがあっ! その時、上半身の目茶苦茶にがっしりした女があ、SLのオモチャを動かしているのを見て、感動しましたあっ! その思いを曲にしましたあっ! 『君は上半身ガール!』聴いてくださあああい!」
……聴くまでもないと思うが、一応こんな歌詞である。
※[#歌記号、unicode303d]きっみは上半身ガール! (上半身ガール!) ハアッ!
客席はスッカリ引いていたが、筋肉少年少女隊とは違い、大江戸世直しの士はオーディエンスまったくおかまいなしのプレイをくり広げていた。呆然としている客の中で、ケロと、やはりライヴを終えてステージを観に来た有狂天や筋肉少年少女隊、念仏、一生のメンバーたちだけが、ゲラゲラと笑い、声援を送っていた。
賢三たちも、彼らに混ざって笑った。
「アハハハ、くだらねー、あいつら、笑いのツボがオレらと一緒だよなあ」
賢三が言うと、他の三人もフムフムとうなずいた。
有狂天のギタリストが、賢三に話しかけた。
「いいだろ、あいつら」
「うん、いいっスね、いいっスよ」
思わずうなずいた賢三。
ふいにケロが言った。
「君らのデモテープあったら聴かせてよ」
「あ……いや……」と口ごもった賢三に、カワボンが言った。
「おい、今度のリハで作ろうぜ」
「作ろうって、まだオレら何にもやってないじゃないかよ」
「役割を決めよう」
「役割?」
「そう役割、オレはリハまでに死にものぐるいでギター弾けるようにしてくる。オレ手先器用だから、基本のコードぐらいならすぐできると思うんだ」
二人の会話を聞いていたタクオが「オレは何を?」と尋ねた。
「お前、電気屋だろ、シンセで曲つくって、テープでオケつくってこいよ。テープにギター、つまり自分BOXスタイルだよ」こともなげにカワボンは言った。
「できるかよ、んなこと」
「できるよ、できるよ」
「どういう根拠だよカワボン」
「できるってば」
カワボンがステージを指差した。
「お前機械強いだろ、それにオレらと同じ歳の奴らがあんだけやってんだぜ、オレらだってできるよ、できるってば」
珍しく、彼は興奮しているようだった。
「できないわけないもん」
と、カワボンはステージ上のおっさんを見つめながら言った。
「わかった」
タクオが答えた。うなずいた。
「ぼぼ僕は詩を書く」
山之上が言った。
「じじ実は、家に、今までに書きためた『ポエム・ノート』があるんだ」
「ポエム・ノートだとおっ!?」
ちゃかそうとしたタクオの言葉を、またしてもカワボンが制した。
「うん、じゃあ山之上はそれを持って来い。タクオの曲に俺がギターで合わせる。その上にお前の詩を乗せる」
「……アレを人に見せるのは、初めてだよ」
山之上がニヤッと笑った。それこそ皆が初めてみる、照れ臭そうな笑顔だった。
「よし、じゃあ賢三は……」
カワボンが賢三を見た。
「賢三は……」
「お、オレは……」
賢三はガク然とした。「じゃあオレは……」の後に続く言葉を、彼は咄嗟に思いつけなかったのだ。
「オレは……オレは……」
タクオ、山之上が、賢三を見た。
「オレは……」
ステージでは、おっさんがピアノソロを弾き始めていた。超絶なテクニックで奏でるムソルグスキーの「展覧会の絵」だ。
『オレは、一体何ができるのだろう?』
賢三はクラシックの古典を聴きながら、自分に問うてみた。
『人と違った何か……それは必ず……絶対にオレの中にある。その発露の手始めとして、オレは同志たちとバンドを組んだ。そうだ、UFOを追いかけて太陽の彼方まで飛んでいった男の名を冠した「キャプテン・マンテル・ノーリターン」は、間違いなくオレの初めて手に入れた表現の場なのだ。山口美甘子に追いつくため、追いこすため、ぶっちぎって差をつけるための場を得たのだ……でも』
カワボンが言った。
「賢三は、何ができる?」
「うん、オレは……」
――では、オレは一体その場所で何ができるというのだ!?
美しいピアノの調べの中で、賢三は途方に暮れた。
「お前も詩を書いてみたらどうだ」
賢三が黙ってしまったので、カワボンが助け船を出した。
「詩?」
「うん、賢三なら映画もいっぱい観てるし、本も読んでるし、面白いもんが書けるんじゃないかな」
「詩か……」
はっきりと、詩が自分のやりたいことなのかどうかはわからなかったが、とりあえず役割をふられて賢三はホッとした。
「うん、やってみるよ」
と賢三はカワボンに言った。
「よし、じゃ決まった。オレはギター、タクオは曲とオケ、山之上と賢三は詩、それぞれ努力して、次の火曜、シット・オンで発表会だからな」
カワボンの言葉に三人はうなずいた。
『オレに、本当に詩など書けるだろうか。この三人をうならせるだけのものを、オレは創り出すことができるのだろうか……』
来週の火曜、「人と違った何か」が本当に彼の中にあるのかどうか、試されるのだ。
賢三が「言うだけ番長」なのか。それとも本当に人と違う何かを持っているのか、そして山口美甘子を追い抜く力があるのかどうか、ついに試される時が来たのだ。
「来週の火曜か……」
賢三がつぶやいたその時、客席から「ギャアアッ!」という少女たちの悲鳴が一斉に飛んだ。見れば、一糸まとわぬ少年がステージ上に乱入し、おっさんが名曲を弾いているピアノの上で、狂ったように踊っているではないか。
「ありゃ誰だ!?」
とタクオ。
「アハハハ、よっちゃんだよ、常連客なんだ。のるとすぐ素っ裸で乱入しちゃうんだよ、くだらねー、いいぞよっちゃん、やれやれ、あいつあれでも名門の私立高に通ってるんだぜ。どいつもこいつも、スンゲースッゲーくだらねー最低のバカばっかなんだ」
ケロはそう言って笑った。
少女たちの悲鳴、男たちの爆笑、展覧会の絵、よっちゃんの狂乱。もはやJAMは阿鼻叫喚。その中で賢三は、再びつぶやいた。
「いよいよだな」
砂浜の一粒にならぬために、通い続け観まくった映画たち、これでもかというほどに読み続けた本の数々。黒所での勉強を拒否し、自分のために詰め込んだそれらのものたちが、本当に自分の糧となりえていたのか、それとも実は単に徒労にすぎず、無駄な時を浪費したにすぎないのか。
『俺が試されるのだ』
「アハハ、くっだらねー! くっだらねー、くっだらねーぞー!」
大笑いするケロの横で、もう一度賢三はつぶやいた。
「……火曜か」
火曜……そういえば、山口美甘子が羽村一政の部屋を訪れると約束した日もまた、ズバリ来週の火曜日であった……。
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第10章「美甘子大ピンチ!」
夕暮れ。
連日にわたるロケで日焼けした頬を、夕陽がトーストの黄金色に照らし出していた。
さっそうと胸を張り、大股で歩道橋を歩く長身の彼女を、通りすぎる誰もが振り返った。「お、今の女ゲキマブじゃん」
と、中坊たちはエロリビドーのままに言った。
「ほお……美しい。雅《みやび》な」
と、老人は感極まった。
「き、金星人だ! 絶対にあの娘は金星人だ」
と、仕事のやりすぎで|パラノイア《誇大妄想》に囚われた中年会社員は、少女の美しさを明けの明星からの使者に喩えた。
「あれ!?」
「今の」
「山口美甘子じゃん!」
ギターやベースを抱えた若きロッカーたちが一斉に驚きの声を上げた。「サインもらおーぜ」「うひょ〜きゃわい〜」「あ、美甘子ちゃん待ってよ〜!」あたかも七〇年代少年漫画のごとく叫んだロッカーズだったが、美甘子は気づく素振りも見せず、タッタッタッと階段をかけおりていった。「グ・ミ・チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」と、一段踏むごとに呪文じみた言葉をつぶやきながら。
実際、美甘子の耳には、彼女の美しさをほめたたえる声も、サインをねだる言葉も聞こえてはいなかった。うわの空だった。
これから彼女は、生まれて初めて男の部屋を訪れるところなのだ。
恋人に誘われたわけではない。映画の共演者である羽村一政に、約束どおり『三毛猫ホームズ』の本を借りに行くだけのことだ。
『そんなのわざわざ部屋に行かなくても、ロケ先でだってできるじゃない』
美甘子の内《なか》で、そう突っ込む声があった。
「そうだけど、違うんだもん」と美甘子は声に応えた。
「ロケで助けてもらったから、お礼に、私の方から借りに行くだけのことよ」
そうだ、本を借りに行くだけなのだ。
美甘子は自分に言い聞かせた。確かに、あれでなかなか羽村君もいい奴だなと思うけど、別に好きな人の部屋に行くわけじゃない。
『だったらなんでそんなにドキドキしてんのよ?』
再び「声」の突っ込み。美甘子はウッと詰まった。
背後から羽村に抱きしめられた時の感覚がふいに体によみがえったからだ。
と、すかさず「声」は突っ込む。
『あれ[#「あれ」に傍点]って気持ちよかったよね』
「ヒャー! なんてこと言うのよ」
階段の途中で美甘子が突然大声を上げたものだから、通りかかった老婆はあやうく足をもつれさせて転げ落ちるところだった。
「ああたまげたっ、あんた私を殺す気かい、ババア殺しは毒蝮三太夫の仕事だよ〜。ゲゲゲー!」
わけのわからぬババアの悲鳴さえも美甘子の耳には入っていなかった。代わりに幻聴のように、いつだかの羽村の声が耳の奥で聞こえた。
『俺、お前のこと好きだよ』
好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好き……。
「ああうるさい!」ブンブンと耳元でうなる虫をはらうみたいにして美甘子は叫んだ。それが彼女の癖なのか、独り言をいちいち口に出して言うものだから、はたからみれば、かなり怪しげな人物と化している。
「いい奴だけど、私はやっぱりあんなの趣味じゃない。沢木耕太郎も知らない通俗な奴なんか、この美甘子様とつき合える器じゃないわよ。あんな奴、あんなの」
『とか言いながら、羽村君に何の本を貸すかで、きのう一晩中悩んだのは誰よ?』
「あ、あれは……だって本との出会いって重要だから厳選しちゃったまでで、別に深い意味ないわよ」
『ふ〜ん』
「ふ〜んって何よ、本当にただ本を借りに行くだけよ、だから見てよ、服だってこんなのよ、ちっともおしゃれしてないんだから」
ボカリと大きなTシャツに、ひざ小僧のすり切れたジーンズをはいた美甘子は、「見てよ」というふうに軽く両手を広げてみせた。どうも美甘子という娘、思考がそのまま行動に表れてしまうようである。一見ズボラなその格好を選ぶまでに、何度服をとっかえひっかえしたことか。それについては、美甘子は忘れたふりをした。
『ふ〜ん』
「何よふーんって、本借りたらすぐ帰るんだから、ちょっと行ってみるだけなんだから」
好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ好き……。
「うっさいなー、うっさいなー、あんたはただのいい奴、それ以上でも以下でもないの、私は頭がいいんだからね、本も映画もいっぱい知ってるんだからね、どんだけ人気があろうとアイドルなんて通俗なダメ人間なんだからね、ハトの群れみたいな俗っぽい人たちのなぐさみものなんだから、私みたいな深い人間を好きになる資格なんかないのよ」
夕暮れだというのに五月の風は生暖かく、美甘子の背中にあたる時、彼女を強く抱きしめた羽村の腕を連想させた。
羽村の腕。
美甘子を小さな赤ん坊の頃にまで戻してくれる大きな力。少年のくせに父性のこもった優しさの包。勝気な美甘子を従順な仔犬のようにおとなしくさせてくれた肌。できればもう一度、あの心地よさに包まれたいなぁと美甘子は……。
「キャー! 何言ってんのよ、オタンコナス!」
人目もはばからず叫んだ山口美甘子。
「お嬢さん、どうかしたかね?」
やおら声をかけた通りすがりの老紳士があった。
「えっ? あっ大丈夫です大丈夫です」
我に返り、真っ赤になって美甘子は答えた。
「何かお悩みですか?」
理知的な風貌の男はおだやかに尋ねた。
「いえいえなんでもないです」
まさか羽村に抱かれた時のことを思い出してなどと言えるはずもない。バタバタと手を振った美甘子に、紳士は言った。
「私はこういうものです。街角で叫ばずにはいられぬほどの悩みがあるのでしたら、一度気軽に、偏見を捨てて相談にいらっしゃい」
懐から名刺を取り出し美甘子に渡した。
「では」
シュタ! という感じで手を挙げると、長身の老紳士は革靴のカカトをコツコツ鳴らしながら去っていった。
美甘子は名刺に印刷された文字に目を落とし、キャッ! と叫んだ。
『呉森田精神病院 院長 呉森田一郎』
「……あたしノイローゼの人と思われちゃったかなあ……トホホだなぁ」
つぶやきながら顔を上げると、もういつの間にか、美甘子は羽村一政のマンションにたどり着いていた。
ホッと一つ、美甘子は息をついた。
インターホンを押して「山口です」と告げると、
「おう美甘子か」
と馴れ馴れしく羽村は応えた。
カチャカチャと鍵を外す音が扉の向こうで聞こえた。
ふと背後に人の気配を感じて美甘子は振り向いたが、もちろん誰もいるわけではない。もう一度正面に向き直ると、今まさに、扉が開く瞬間だった。
美甘子の鼻孔を、五月の生ぬるい風とは違った匂いがくすぐった。「男の部屋の匂いだ」と美甘子は解った。
同時に、モワッ!……という何かが静かにはじける音を、彼女は確かに聞いたような気がした。
「突っ立ってねーで入れよ」
薄暗い玄関に立つ羽村一政が笑った。テレビの中では決して見せることのない、少し照れた笑顔だった。
何よりもまず、美甘子は本棚を見た。
「ジュースでも持ってくるよ」と羽村が台所に行ってしまったので、そのスキに、美甘子はフローリングの床に四つんばいになった。そして一声。
「アッチャアー……!」
突然ブルース・リーと化した美甘子! 山口怒りの鉄拳アッチャアー……ではない。彼女はガク然としてしまったのだ。
「ふわわわ、これは……」
テレビ台のかわりになっている本棚の中身は、美甘子に言わせれば「お話にもならない」寒々としたものであった。
どんな本を読んでいるかで、その人にどれだけの値打ちがあるのかがわかる、と彼女は信じていた。人よりたくさん本を読み、映画を観ていることが彼女のアイデンティティーだったから、他人にもそれを求めた。そうあってほしかった。そして、同級生たちの本棚が(彼女から見れば)浅はかであればあるほど、彼女は優越感に浸ることができた。モロ子の本棚には二、三の夢々しい少女小説と『ハイティーン・ブギ』が全巻、それに矢沢永吉の『成りあがり』しかなかった。そういえば堀之田詠子の本棚はすべてタレント本。しかも美甘子から見れば「おいちょっとそれは……」と絶句したくなるようなラインナップであった。和田アキ子『文句あっか!』、ツービート『わっ毒ガスだ』、松田聖子『両手で聖子』、さらに松山千春『足寄より』。果てはジャッキー・チェン『愛してポーポー』ときた日にゃあ、美甘子ならずとも脳味噌ポーポーである。一体何を考えて詠子という娘、川津祐介著『超能力健康法』まで買うのか? 美甘子は笑ったものだ。美甘子に、最も優越感と差別意識を与えてくれた本棚は、やはり黒所の同級生、至田茶名子のものであった。彼女は自称「文学少女」であった。美甘子はこれ見よがしに整然と並べられた茶名子の本棚を一瞥。心の中でほくそ笑んだものだ。
「浅い。この娘浅いな」
彼女の棚には、当代ベストセラー作家の代表作ばかりが取り揃えられていた。そこに個人の主張はなく、書店新刊平積みコーナーにたむろする人々の哀しみオーラが漂っていた。今売れている本が「いい本」であるとメディアにマインドコントロールされ、書店の隅にひっそりと眠る大面白本の存在には、一生気づくこともないだろう人気本専門読書人の典型である。本は自分のアンテナで選ぶという基本を忘れた、美甘子に言わせれば「バカ」であった。至田バカ茶名子は美甘子に言った。
「龍も春樹も駄目よ、やっぱ三島よね」
美甘子はたまらない優越感の喜びの中で、こみ上げるあざけりの笑いをかみ殺しながら、「三島って蒲鉾《かまぼこ》の三島食品のこと?」などとボケてみせた。意地の悪い山口美甘子である。
しかし、羽村の本棚は、浅いとかバカなどというコメントをはさむ余地のない人類未到の大魔境であった。
まず何より、漫画しかなかった。彼女に貸してくれる予定の三毛猫ホームズは一体どこに? あるのはどれもこれも、何と理解すべきか見当もつかぬ不可思議なタイトルがゴンヌズバーッと並べられていた。ザッと挙げてみよう。
『プロレススーパースター列伝』『俺の空』『四角いジャングル』『空手バカ一代』『硬派銀次郎』『できんボーイ』『1・2のアッホ』『マカロニほうれん荘』『アストロ球団』『サーキットの狼』『侍ジャイアンツ』『がきデカ』『バイオレンス・ジャック』『凄ノ王』『ドーベルマン刑事』……。
「……なななにこれ?」
山之上のように思わずどもる美甘子。
「なんでプロレスがスーパースターで列伝なの? 空手バカ一代ってどーゆー語順? 侍ジャイアンツって何? でっかいお侍さんのこと? どーゆー言語感覚してんのよ?」
侍ジャイアンツぐらいで混乱している美甘子に、もし主人公の名は蛮場番《バンババン》で、彼の使う魔球の名が「ハラキリシュート」や「大回転ハイジャンプエビ投げ」であると教えたなら、一体どんなことになるのであろうか? まして『アストロ球団』の「殺人L字ボール」や「ジャコビニ流星打法」に至っては……。少年漫画の言語感覚ってつくづく大バカ。ああ幻の多角形コーナーリング。トシちゃん25歳。死刑! んがっ! 禁じられたずぅえっとおお〜……キリがない。
「ウッヒャー!」
と、またしても唐突に叫んだ美甘子。台所から戻った羽村が、シェパードのように四つんばいになっていた美甘子の腰のあたりに、よく冷えたジュースの缶をあてがったのだ。
「ビックリしたなもう」
「三波伸介かお前は」
「お前って……何よその呼び方」
「何警戒してんだよ」
美甘子は言葉に詰まった。羽村は気にせず「ホラよ」と缶を投げてよこした。
よく冷えたドクターペッパー。
「あっ、このジュース懐かしい」
「オレ、ビールね」
羽村が、バドワイザーをぐびぐびとあおった。隣で高校生が飲酒を始めたということよりも、一人暮らしをするにはずいぶんと広い一室の中で、わざわざ肌が触れ合うぐらいのところに彼が座った事実に、美甘子は憤りを感じて言った。
「これ、何よ?」
「問題あるかー?」
のんびりと羽村は答え、小さくゲップを吐いた。
「あたし、本借りに来ただけなんだけどな」
バックレた調子で美甘子は言ってみたが、心の中では、「演技してるなあたし」と思っていた。
「じゃ、ハイ」
ポンと本を投げた羽村。
ソファーを背に、体育座りをしていた美甘子の太股の上に、赤川次郎の文庫本が落ちた。
『三毛猫ホームズの怪談』。
「……ありがと」
「帰れよ」
「え?」
「本借りに来ただけなんだろ? 用すんだんなら帰れよ」
しれっと羽村は言って、美甘子のすぐ横でまたビールをあおった。
美甘子は自分でも信じられないことに、その時ふいに、泣きそうになった。
胸が痛くなった。
鼻の奥がギュンとした。
頭の上で小牛や小羊がクルクルと廻った。
小羊はゲロゲロメエ〜と鳴いた。
『何これどうして!?』と思っても、美甘子の内的異常事態は確かに発生、存在していた。
しかし、賢明な美甘子は、これが何かのゲームであることを瞬時に悟った。
まさか本当に「帰れ」と言っているわけではあるまい。きっと、羽村いきなりの意地悪は、少年ながら天文学的な愛情を注ぎこまれてきたであろうスーパーアイドルの彼が自然に会得した、対女性関係用必殺の先制攻撃戦術なのだ。何らかの目的[#「何らかの目的」に傍点]のために、羽村一政は、あたしという存在を完膚なきまでに打ちのめそうとしてるんだ。飼い犬にお座りを教えるように、今のうちにあたしに忠誠を誓わせてやろうと考えているんだ、と美甘子は思った。
だから彼女は、「何でそんな言い方するの?」とか、「じゃ帰る」とか、「ビエ〜ンあんまりよあんまりよ」などと、当たり前の反応を返しはしなかった。彼の「目的」が何であれ、このゲームに負けてはいけない。逆に出鼻をくじいてやれ! 裏をかけ、揺さぶりだ、何と言おう? 何と言えばいい? 言葉を見つけろあたし、いっぱい映画を観てきたじゃないか、本を読んできたんじゃないか山口。ボキャブラリーはあるんだから、意表をつけ、「目的」の裏をかけ、羽村の目的はなんだ? あたしと同い歳の男の子の、あたしに対する目的っていったら……やっぱアレかな……でも……。
『え〜い! 一か八かよ』美甘子は羽村を見つめ、ニンマリと微笑みながら言ってみた。
「帰ってもいいけど、そしたら羽村君、あたしとエッチできないじゃん」
そこでなるたけ憎らしくフフンと笑ってみせた。
「……あ」
さすがの羽村一政も、誰もが正体を知っている覆面レスラー・スーパーストロングマシーンに向かい、「お前の正体は平田だろう!」とぶちかましたドラゴン藤波のごとき、このミもフタもない返し技には言葉を失くした。
『やった、勝った』
と美甘子は思った。表情の固まった羽村の頭上で、小羊がゲロゲロメエ〜と鳴いた。
ニヤリと笑った美甘子。
ところが羽村もニタリと笑うではないか。あの「びっくりチップス・メキシカンドライカレー味」のCMの顔で。
静かなマンションの一室で、肌を寄せ合いニヤニヤニタニタと声なく笑い合う少年と少女。不気味だ。
と、ふいに羽村が言った。
「オレ、好きな奴には意地悪しちまうんだよ」
『ふふん』美甘子は心で思った。何よその言い訳。工夫もなんにもない。B級少女マンガの台詞じゃない。やっぱ山口の勝ちね。君は通俗。美甘子様に太刀打ちできる器じゃ……。
「キャアアアアアアアアア!」
美甘子が絶叫した。彼女の想像をはるかに超えるトテツもない事態がたった今、起こったからだ。
ニタニタと笑っていた羽村が、一転真顔になったかと思うと、飛魚のような素早さで美甘子にチョンとキスをしたのだ。
しかも唇に、だ。
「キャーッ! キャー! キャー! キャー!」
パニクり、ただ叫ぶ美甘子。
その横で「ぐびっ」とバドワイザーをあおった羽村。
「キャー! キャー! キャー! キャー!」
「……うるさいよ(ぐびぐび)」
「キャー! キャー! キャー! キャー!」
「……うるさいっての(ぐびぐび)」
「キャー! キャー! キャー! キャー!」
「……(ぐびぐびぐび)……」
「キャー! キャー! キャー! キャー!」
「……(ぐびぐびぐびぐびぐ……)あ、ねえや」
「キャー! キャー! キャー! キャー! キャー! キャー! キャー! キャー! キャー! キャー! キャー! キャー! キャー! キャー! キ……」
「るさい!」
羽村の右手が美甘子の真ん丸い頭をつかんだ。
左手は、ジタバタと暴れる美甘子の肩をつかんだ。
ドクターペッパーとバドワイザーが床に落ちた。
ゴロゴロと転がる。
羽村の腕にこもる力。
抗おうとする美甘子の力。
美甘子には目の前の世界が、だんだんとスローモーションになっていくように見えた。
――サム・ペキンパーの映画のように、ゆっくりとあたしと羽村君が暴れている。
あたしはジタバタ両手を振りまわそうとするけど、どのみちあたしは、羽村君の腕の中に吸い込まれていくんだ。
『2001年宇宙の旅』の木星探査宇宙船ディスカヴァリー号みたいに、汗っぽい男の子の腕の中に吸い込まれ、そしてボウマン船長と同じに、あたしは小さな子供になってしまうのだ。
……ああなんでこんな時まで映画や本に喩えてしまうのだろう。
きっとそれは、あたしが映画や本の中でしか世界を知らないからだ。
現実世界の何も知らないから、ちょっと現実に触れただけでそれが世界の全てだと思ってしまうんだ。だからこんな通俗で普通な男の子に「好き」だの「かわいい」だの言われたぐらいで、クラクラしちゃうんだ。そんでキスされちゃうんだ(えっ!? あたしってキスしちゃったんだ!)。抱かれちゃうんだ(えっ!? え!? 抱かれるわけ!?)。生まれてすぐに目にした動くものを何でもかんでも母親と思い込んでしまうアヒルの赤ん坊みたいに、初めて触れた現実の男の子を、あたしはこんなにも単純に好きになっちゃったんだ。
(――えっ!? 好きになっちゃったの!?)。
スローモーションのシーンはそこで終わった。
羽村一政は、しっかりと美甘子の体を抱き締めていた。
「おい美甘子、聞こえるか!」
美甘子の耳元で羽村が叫んだ。
キーンと美甘子の耳が鳴った。
「うるさいよ羽村君」
「ゴメン」
羽村の匂いがした。先日のリテイクを美甘子は思い出した。こんなことになっちゃったのを知ったら、監督は何て言うだろう。
「オレが今、何を思ってるかわかるか?」
強く抱き締めながら羽村が言った。背筋が寒くなるくらいにキザッたらしい言葉だが、不快ではなかった。正直言えば、美甘子はその時「うっとり」とした。この「うっとり」が、「羽村に抱かれた」ことによる女性としての生理現象なのか、それとも単に「恋愛的シチュエーション」にある自分に酩酊してしまっただけのものなのか、彼女は分析しかねた。
そんなことはどっちでもいいのだ、という気もしていた。
「わかるか?」
「わかんないよ」
うっとりとした状態のまま、美甘子は答えた。すると羽村はこんなことを言った。
「ガキん時、柔道をやっておいてよかったと思ってるよ」
そして美甘子の面前15pの距離で、びっくりチップスの顔が笑った。
「お前ガタイ[#「ガタイ」に傍点]でけーからさ、押さえつけてんの大変なんだよ」
美甘子も笑ったが、しかし心臓はバックンバックン鳴っていた。
「そ、そーゆーギャグって何の本に書いてあるの?」
なんとか言葉を返したものの、スットコドッコイな台詞しか出てこなかった。
「お前と違って、オレは本なんか読まないよ」
「ど、読書はいいものだよ」
またしてもマヌケな美甘子の言葉。そーゆー問題じゃないでしょがっ!
「オレ、中卒だしさぁ、アイドル長いしさ、本読む頭もヒマもないんだよ。だからお前見てっとさ、なんかこー口惜しいっつーかさー、負けられないとか思うわけだよ。お前はロケバスん中でムズカシそうな本読んで、オレのことなんか見向きもしないだろう」
「そういうわけじゃないけど」
「聞けよ。でさ、そうすっとなんつーか男のナントカ本能がガーッと湧いてきて……」
「狩猟本能でしょ」
「あーそれだよ! その見下した口調!」
と言って再びふいに羽村は美甘子の唇にチョンと触れるだけのキスをした。
「キャー!」
「うるさい! そういうふうに見下されるとオレはなんつーか、つまり、アレだ! アレだぞ」
と言ってまたもやキス。
「キャー!」
もひとつキス。
「キャー! キャー! ちょっと、キャー!」
「アレだ、オレは、口措しいのを通り越すと、なんでか好きになっちまうんだよ」
「だだだからって、本能のままに行動するのはどうかと思うよ、初めて部屋を訪れた女の子に対して、いきなり襲いかかるなんて、それじゃまるで原始人……」
「ぐぇんしじんだとぉ!?」
「キャー! ごめんごめん……じゃクロマニヨン人」
羽村がプッと噴き出した。優しい顔で、怒ったふりをして、羽村は言った。
「こ、このアマ〜」
「キャー! そしたらピテカントロプスエレクトス」
「うーん、お前のそのクルクルとよく回る脳みそが憎い。中卒だと思って、アイドルだと思ってバカにしてんだろテメー」
「してないよー」
美甘子が笑った。
羽村の腕から、ふっと力が抜けた。
美甘子は思った。
今、あたしは羽村君とジェットコースターに乗っているんだ。どういう理由かはわからないけど、ともかくあたしはこのバカでおポンチで、でもこの優しい男の子と、小さな車両に乗り込んで、両側にメリーゴーランドや魔法のカーペットやお化け屋敷の建物なんかを見ながら、カタカタと高いところへ昇っているところなんだ。あともう少ししたら、あたしと羽村君を乗せたコースターは、すごいスピードで落ちていく。そこから先はもう、泣いても笑ってもどうしたって、あらかじめ定められた運命のレールの上を走っていくだけなんだ。理屈の通じない世界へあたしは連れて行かれるんだ。そこはどんなところなんだろう? どんなところでもいいけれど、あたしが、周りのみんなを見下すために読んでいたあのたくさんの本たちは、映画たちは、果たしてこれからあたしの行く道を指し示す灯りになってくれるだろうか?
もしかしたら今までずっと、あたしは無駄なことをしていたのかもしれない。
虚構の世界の中で現実を学びとろうとする試みは、徒労だったんじゃないのか。
何百冊本を読むより、何百本映画を観るより、好きな人と一度キスを交わすことの方が、重要なことなんじゃないのだろうか。
あたしはもう羽村君と四回もキスをした。
あたしは生まれて初めてくちづけすることによって、虚構の世界から脱け出して、あたしが生きている現実のこの世界と、触れ合うことができたのかもしれない……。
『……なーんて、あたしって羽村君の言うとおり、理屈っぽいよねぇ』
美甘子はアハハと笑った。
そして羽村の腕の中で、美甘子はハッと気がついた。
「これってつまりアレってことじゃない!」
「何だよ美甘子?」
「寺山よ、寺山修司よ」
「ん? 何? 誰だ?」
「虚構に生きるよりまず行動、『書を捨てよ、町へ出よう』ってことじゃない!」
美甘子は一人ウンウンとうなずいた。
「何だよわかんないこと言って、ああまたオレを見下したな」
「羽村君それ妄想だよ」
「オレさ、今まで、すぐやらせるバカな女としかつき合ったことないんだよ。美甘子みたいな、なんつーの頭よくって、つっぱってて、『あたしはあたしよ』って感じのプンプンする……言うなれば、難行苦楽っての……」
「難攻不落。君ィ、わざとボケてるね」
「んなことねーよ。……だからさ、君みたいなタイプ、初めてなんだよ」
……君みたいなタイプ、初めてなんだよ。
アハハ、こんな陳腐な表現。今時、新聞の四コママンガだって使わないよ。羽村君ってバカ。
でもかまわない。
あたしはこの男の子と、ともかくジェットコースターに乗って、周りの景色が見えなくなるぐらい振りまわされてみようと思う。
「いや、マジ、オレ、お前のこと好きになった」
初めて、羽村は「好き」という言葉を照れ臭そうに口にした。逆に美甘子は照れもせず、ハッキリと言った。
「あたしも君のこと好きだって、今気づいた」
「お前、彼氏いたりしないよなあ?」
「いないよ」
「メイクの久田さんが言ってたぞ、なんか一緒に遊びに行った男がいるって?」
「えっ? 誰のこと」
美甘子は賢三の名を咄嗟には思い出せなかった。
「……一晩中映画館にいたとかなんとか……」
「あ〜あ〜、大橋君のこと?」
「知らねえよ」
「アハハハハハ、あの子は友達よ。本や映画の話をする、趣味友達よ」
恐らく、久田が賢三のことを羽村に語ったのは、美甘子との関係をたきつけるために違いない。久田のニヤニヤ笑いを思い浮かべ、美甘子は笑った。
「そいつといて楽しかったか?」
そんなことを、羽村は真顔で聞いた。『この子バカなうえにかわいい』と美甘子は思った。
「楽しかったけど……同じ趣味の話ができるってだけのことだよ。マニアの会話ってやつ」
美甘子が言うと、羽村は安心した顔をした。
「気持ちが顔に出てるよ羽村君」
羽村がウッと言って、黙った。
このゲーム、やっぱあたしの勝ち、と美甘子は思った。
カタカタとジェットコースターは、空のいちばん高い所へ昇り、そして泣いても笑っても、一気に落ちる。それこそが羽村の「目的」だった。美甘子も、一緒に落ちてみることにやぶさかではなかった。
『落ちるなら落ちてみろ、ジェットコースター』
エイッ! と心で一声叫び、美甘子は羽村の唇に、自分の唇を押しあてた。
二人の足元でドクターペッパーとバドヮイザーの缶がぶつかり、コトコトと音をたてていた。
美甘子はかすかにその音を聞きながら、『なんだか通俗なラブシーンだな』と思ったけれど、同時に、『そんなことを気にするのは、本当は意味のないことなんだよな』と気づいた。
そして何度も、いつまでも、二人は唇を重ねた。
山口美甘子、十七歳になって、まだ数カ月とたってはいない。
[#改ページ]
第11章 発表会
火曜日。
夕暮れ時。
山口美甘子が羽村一政と唇を重ねているその頃、賢三たちは「由美かおるでオナニーはできるか否か?」という問題について熱く激しく論じあっていた。
「ぼ、僕はできる!」
と断言した山之上。
「僕の性の目覚めはかおるだったんだ。ゆ、由美のレオタード姿で性の扉を開けたんだ。由美でオナニー。僕はバッチリできるさ。ぶっこいてやるさ」
「なるほど、初期衝動に忠実ってわけか。しかしな山之上、オレが言ってるのは今現在の由美についてだ。若かりし頃の由美ではないんだぞ。『水戸黄門』で安土桃山時代だというのに網タイツをはいて日本中を行脚しているあの女だ。あのムチムチオバさんでこけるのかお前?」
タクオの突っ込みに対し、さすがの山之上も「ウッ」と言葉を失くした。
「……そ、それは」
「無常……だよな。美しきものもいつかは老いる。山之上のヰタ・セクスアリス由美もまた然り、今やオバさんだ。無常、無常だよ」
ニヒリストを決めこんだタクオ。賢三の突っ込みが入る。
「『水戸黄門』って江戸時代の話じゃなかったっけ?」
「るせーな賢三、論点は由美だ。時代考証は関係ねえ」
と、ふいに、カワボンがボンヤリと言った。
「網タイツって江戸時代にあったのかな……」
不毛な議論に水を差す、さらに不毛なカワボンの言葉。三人は黙ってしまった。
彼らは今、シット・オンのスタジオ内にいた。
「室内禁煙」の貼り紙がありながら、壁にしみついたタバコの匂いが鼻をつく小汚い練習スタジオの中で、おのおのアンプの上に座り、曖昧な場所に視線を落としていた。
「……んじゃあ」
けだるい沈黙を破って賢三が言った。
一斉に、他の三人が彼を見た。
一瞬たじろいだ賢三。だが意を決してこんなことを言った。
「じゃあ次は、山本リンダでオナニーができるかどうか。みんなで議論しようぜ」
――何をやっとるんじゃお前ら! 今日はそれぞれの成果を発表しあう大事な日ではなかったのか?
「まさかリンダじゃこけまい山之上」
「ふふ、な、なめるなケンゾー」
「何!? リンダでもOKというのか?」たまげたタクオ。
「ああ、リンダでさえも……だ。小学六年生の頃、僕のズリネタはリンダだった。あの頃はまだ正式なオナニーの方法を知らなくてねぇ。リンダをネタに、ずいぶんと変なやり方でこいていたものだよ」
遠い目をした山之上。
「変な方法?」問うたカワボン。
「ふふ……な、名付けて!」
山之上はクワッと目を見開き、言った。
「名付けて『オナニー子連れ狼』!」
「オナニー子連れ狼?」とてつもないネーミングに思わず聞き返した三人。
「そりゃ一体どんな?」とタクオ。
「せ、説明しよう。まだ小学生だった僕は、『右手にポコチン、左手にズリネタ』というオナニー普遍の方法を知らなかった。多くのオナニービギナー同様、独自の方法でこいていたのだ。ぼ、僕の場合、リンダのグラビアを机に置き、両の手のひらでポコチンをはさみ、あたかも原始人が火を起こす時のようにしごいていたのさ」
「いたのさ……と言われても、それのどこが『子連れ狼』なんだ?」賢三が聞いた。
「ふふ、想像してみろよ、い、一心不乱にポコチンを両手でしごくその姿は、はたからみれば、まるで神聖なる剣《つるぎ》を拝んでいる武士のように見えるはずだぜ。一本の刀を拝む……これまさに拝一刀《おがみいつとう》!(『子連れ狼』の主人公です)転じてすなわち『オナニー子連れ狼』ってわけなのさ」
わけなのさ……と言われても。あまりのしょーもなさに、少年たちの誰もが再び黙した。
またしてもけだるい間。不毛だ。実に。
いたたまれなくなったのか、タクオが言った。
「……じゃあ次はちあきなおみでオナニーがこけるかどうか……」
もーえーっちゅーの!?
「おい、いつまでも不毛な議諭しててもしかたないぜ。牽制しあうのはこのぐらいにして、早いとこ発表会やっちまおうぜ」
もうガマンしきれんというようにカワボンが言った。彼の言葉どおり、四人は牽制しあっていたのだ。
本日ついに、彼らはそれぞれの課題を発表することになっていた。
初めて「口だけではない自分」を友人たちの前で見せ合わねばならなかったのだ。各自、自信と不安が入り乱れ、とても心中穏やかではいられない状態だった。それで不毛なオナニー問答に逃げ込み、問題をはぐらかし、お互いの出方を探り合っていたというわけなのだ。
さすがにリーダー格のカワボンが、いかんともしがたいニラミ合い状態にストップをかけた。
「誰もやらないなら、オレからいくよ」
と言って、カワボンはギターケースのファスナーを開けた。トラ目もあざやかなレッドサンバーストのエレキギターが、薄暗いスタジオの中で鈍く光った。
「おおっレスポール。買ったね〜」
タクオが驚きの声を上げると、カワボンは本当に嬉しそうに笑った。
「うん、質屋でだけどね」
ジャーン! と言いながら、彼はギターを三人に見せつけた。
「安いよ、一万八千円。ボロいディストーションまでおまけでつけてくれた」
「へ〜、い〜な〜、い〜な〜、い〜な〜、メーカーどこ? グレコ?」とタクオ。
「ギブソン」得意気に答えたカワボン。
「うっそだ〜!」三人が一斉に笑った。
ベンチャーズのコピーバンドを結成する高校生の青春を描いた芦原すなお著『青春デンデケデケデケ』を読むと、二昔前の音楽少年たちが、涙ぐましい努力の末に、やっとどうにか楽器を手に入れることができたことを知る。ところが賢三たちがバンドを始めようとしていた八○年代半ばには、高校生が楽器を手に入れることにそれほど大変な努力を要する時代ではなくなっていた。ギターの値は下がり、少年たちのこづかいは上がっていた。質屋、中古楽器店、または友人から一〜二万円台のエレキを買うというのが、現代ギターキッズのよくあるギター初購入手段となっていた。……とはいえ老舗ギブソンが一万八千円とはチト安すぎる。
「嘘だー! そりゃ嘘でしょー」
口々に三人が疑うので、カワボンはムッとした顔をしてネックのあたりを指差した。
「見ろよ、ちゃんとギブソンって書いてあるだ……アアアアアアアッ!」
突然、カワボンが悲鳴を上げた。
「アアアアッ! なんてこったー ウワアアア!」
普段冷静な彼らしからぬ慌てように、三人もギョッとした。「どうした?」とタクオが尋ねると、カワボンは泣いたような笑ったような複雑な顔をして言った。
「……だまされた。これギブソンじゃない」
ネックに三人の視線が集中した。
カワボンの指差したところには、ローマ字でこう記されてあった。
「GIBBON」
一瞬静まりかえった四人の少年たち。すぐに沈黙は爆笑に変わった。
「ギャーッハッハッハッハ、ギブソンじゃなくてギブボンだよこれ」
「ウワッハッハッハッハッハ! ギブボン」
「イヒヒヒヒ、イーヒヒヒ! ギブボン」
「……やられた。……ギブボン」
腹を抱えて笑った三人。タクオなど床に転がりながら笑っている。しかしこのズッコケが彼らの緊張をほぐすのに一役買った。
「よーし」つぶやくとカワボンは「ギブボン」のレスポールにジャックを差し込み、アンプのスイッチを入れた。ヴヴヴンと唸るジャズ・コーラス(アンプの名前)。
「ギブボンサウンドで奏でる必殺のリフ。練習のたまものだ、聴いてくれ!」
カワボンは叫ぶやいなや、ピックを握った右腕をいきおいよく振り下ろした。
おおっ! と賢三、タクオ、山之上がどよめいた。
「レインボウの『オール・ナイト・ロング』か!」
「カワボンうまいじゃないか」
「や、やるな」
ニタリと不敵に笑って、今度はヴァン・ヘイレンの「ユー・リアリー・ガット・ミー」のワンフレーズを弾いたカワボン。
おおおおおおっ! 再びどよめく他の三人。
「これはどうだ!」続いてマイケル・シェンカー・グループの「アームド・アンド・レディ」。
おおおおおおおおおおおおっ!
「まだまだ! こいつでどうだっ」
ギュワ〜ン! ノリノリのノリ助状態で弾きまくるカワボン。続々繰り出されるナンバー。一曲ごとに大きくなる三人のどよめき。
「今夜は帰さない」バイ、チープ・トリック。
おおおおっ!
「サマータイム・ブルース」バイ、子供ばんど。
おおおおおおおおっ!
「ブラック・ドッグ」バイ、ツェッペリン。
おおおおおおおおおおおっ!
あたかもエレキの若大将。カワボン電撃のハードロックメドレー!……バイ、ギブボン。
「カワボン、本当にうまいよ。ギターむいてるよ。さすが器用だなあ」
お世辞ではなく心から賢三は言った。
「うん、自分でも驚いてる。ソロはまだまだ弾けないけど、簡単なリフやコードだったら、なんとか弾けちゃうんだよ。オレ、むいてるみたい」
別に自慢するふうでもなく、カワボンはニコリと笑いながら言った。賢三は頼もしいなと思った。四人の間で、このバンドのリーダーはカワボンという空気が自然にできあがりつつあった。
「次は、誰が発表する」
とカワボンが言った。
「じゃオレ」
間髪を入れずタクオが答えた。
学生服のポケットからカセットテープを取り出すと、スタジオ備え付けのデッキにセットした。
大音響で流れだした不可思議なサウンド。
ジャングルの奥地で、発狂したグリーンベレーがベトコンと共に、銃やナイフをそこらのガラクタにぶつけて音を立て、焼けクソになって盆踊りを踊りまくっているような……ともかく形容のしようがない電子音とノイズで奏でる強烈なテクノダンスビートだった。
「なんかスゴイな」
とカワボン。
「うん、いいよ」
素直に賢三もうなずいた。「わ、悪くないな」と山之上も言った。
「いいだろ! な、いいだろ! 安いシンセ買って、何度も何度もピンポン録音してつくったんだ。三日もオナニー断ちしてなぁ」
ギョロリと目を見開き、タクオはヴォリュームのツマミをさらに上げた。
「ちょっとオレ、リフ乗せてみるよ」
タクオの作ったサウンドにあわせて、カワボンがギブボンを弾き始めた。
おっ。おおっ。お―――――っ。
と、またしても三人はどよめいた。
冷静な大人の耳で聴けば、それはアヴァンギャルドにもならない騒音にすぎなかったかもしれない。だが少年たちの耳には、タクオのサウンドとカワボンのギターが、とてつもない異化効果を生み、未だかつて誰も聴いたことのない、キャプテン・マンテル・ノーリターンのロックとして、いよいよ機能し始めたように聴こえた。
「いいじゃねえかっ!」
タクオが唸った。
「うん! いいよ! これいいよ!」賢三は何度も何度もうなずいた。山之上も「信じられない」という表情を浮かべ、カワボンはギブボンをガッシガッシと弾きながら、「ウヒョー!」と一声雄叫びを上げた。
しばらく三人は、初めて聴く自分たちの音に酔いしれ、ニヤニヤと笑いながら、時が経つのを忘れた。
やがてテープが止まった。
カワボンがギターを弾く手を止めると共に、誰からともなく、一斉に笑いが起こった。
四人は、「なんかちょっと困ったなあ」という照れ隠しの表情を顔いっぱいに浮かべて、アハハハと笑い合った。
「よし、じゃ次は賢三、山之上、どっちだ?」
カワボンが聞いた。
賢三と山之上の目が合った。
「ジャンケン!」と山之上が言った。
「ポン!」二人が同時に腕を突き出した。
賢三はチョキ、山之上はパー。
「山之上からでいいよ」
と賢三。軽く鼻で笑った。
「自信があるのか?」
山之上がチロリと賢三を見た。
賢三は黙ってうなずいた。
一週間のあいだに、賢三は何編かの歌詞を書き上げていた。出来具合には充分満足していたのだ。
深夜、歌詞を書いていると、賢三の気分は高揚した。酒をかっくらった時とは全然違う快感に包まれながら、次々と浮かび上がるとりとめのないイメージを、ひとつひとつ言葉に置き換えていった。黒所での憤る想い。黒い夜の海のように、目の前にどこまでも広がるこれからの人生。不安、孤独、傷心、そして自分の中に「ある」ことはわかっていながら、ぶつける相手の見つからないドロリとした怒り……浮かび上がってくるのは負の想いばかりだった。言葉に換えていくと、そいつらが心の中から消えていくように思えた。毛深いネコに寄生したみにくいノミを一匹残らずつぶしていくように、賢三は自分の中のやるせない思いを、次々に言葉でつぶしていった。そうやって書きあげた歌詞は、必然的に殺伐とした言葉の並ぶ破壊的な文章になった。「狂」「殺」「血」等々……。これをノイズに乗せて叫んだら、さぞやかっこいいだろうなと賢三は一人悦に入った。
『無駄ではなかったのだ』
と賢三は思った。
『黒所のつまらない連中との差別化を図るため観まくった映画、読みまくった本、みんな無駄ではなかったのだ。ひとつひとつのシーンが、文章が、オレの中でグチャグチャにかき混ぜられて、詩となって結実したのだ』
何度も何度も、賢三は自分の書いた歌詞を読み直し、思った。
『いいじゃないかオレ、やるじゃないかオレ、これだ、詩だ。オレにとっての人と違った何か≠ニは詩だったんだ。オレは、オレは詩人だったんだ』
詩人……ときたか賢三。例によって若干調子に乗りすぎという気もしないではないが、ともかく、彼は自分の才能を生まれて初めて確信することができたのだ。
『山之上には負けん』
タバコ臭いシット・オンの中で、賢三は心でつぶやいていた。
山之上が、カバンの中から一冊のノートを取り出した。
「ポエム・ノート」
と表紙に神経質そうな細かい字で記されてあった。
「ぼ、僕はずっと詩を書いてきた」
山之上はぼそぼそと話し始めた。
「だ、誰にも言わなかったけど、僕はずっと詩を書いていたんだ。僕にとって詩は、宇宙と自分とを区別するための、たったひとつの武器だと思っている」
宇宙?……何かすごいことを言い出した山之上。
「い、今、世にはびこっている歌詞はクズばかりだ。ゴミだ。クソだゲロだ回虫以下だ。どいつもこいつも『僕は君が好き』だの『僕は君がとても好き』だの『本当に僕は君が好き』だの、つまり同じ言葉を、手を変え品を変え唄っている。でも、そんなもんは詩じゃない。詩を書くということは、恋愛を毒々しくデコレーションする作業じゃない。んなことは詩人ではなく、結婚サギ師のやることだ」
毒づいた山之上は、ポエム・ノートにはさんであった何枚かの紙を、賢三たちに配り始めた。
「自信作をコピーしてきた」
賢三たちが読み始めようとすると、山之上が叫んだ。
「まま待て、ま、まだ読むな!」
「なんでだ、読ませるつもりで配ったんだろ?」
とタクオ。
「そ、そそうだけど」
「じゃ読むぞ」
「ま、待てタクオ!」
「なんだっつーんだよ、なんで読んじゃいけね〜んだよ!?」
すると山之上は、ポツンと言った。
「は、はは恥ずかしいんだよ。読まれるのが、何か自分を試されるようで」
うつむいてしまった。
ダハハと笑ってから、カワボンが言った。
「宇宙と自分を区別化しようとする人間が、照れてどうする」
山之上が顔を上げ、イヒヒヒと笑った。
「イヒヒヒ、それもそうか」
賢三は、『勝ったな』と思った。賢三には自分の歌詞が絶対に受ける自信があった。試されたって大丈夫。オレのはバッチリだ。
『わりーな山之上』などと彼は思った。
「読むぞ」
とカワボン。
「う、うん」
『宇宙と対峙する男』山之上は、ちょこんとうなずいた。
「おい、これ歌詞か? どの詩もすごい文字数だぞ」タクオが間いた。
「さ、散文詩だ。思い浮かぶとりとめのないイメージを、ひとつひとつ文字に置き換えて書いたんだ。こういうのも詩って呼ぶんだぞ、し、知らないのかタクオ?」
「てめーはなんでそういう嫌味な喋り方しかできねーんだよ!」
「ぼ、僕が嫌味なんじゃない。タクオが無知なんだよ」
「なに無知だと? ムチムチババー由美かおるでオナニーする奴に言われたくないぞ、この野郎!」
例によって揉めだす山之上とタクオ。「よせっつーの!」と止めに入るカワボン。定番のドタバタ騒ぎも、賢三の耳にはまるで聞こえてはいなかった。
その時賢三は、山之上の書いた異常な詩世界に言葉を失くしていたのだ。
山之上の詩は奇妙だった。
彼の言うとおり、安易に愛だの恋だのを唄う巷の歌詞とは一線を画す世界だった。創作の源となっているものは、賢三と同様に、心の底にたゆたう負の想いであるのは確かだった。
「ひとつひとつ言葉に置き換えていく」作業の方法も、賢三とまったく同じだった。
しかし作品として並べてみた場合、両者には決定的な違いがあった。
実に簡単な、困っちゃうぐらい解りやすい違いがあった。
山之上のはよくて、賢三のはダメ。
賢三は、山之上の詩を読みながら、さっきまでの自信が崩れ落ちていくガラガラという音を心で聞いた。
賢三の歌詞が、毒々しい言葉をただ並べているのに対し、山之上の詩は、言わんとする主題を仮空の物語に置き換え、いかようにも解釈できるように書かれていた。比べてみると、言いたいこと「そのまーんま」な賢三の歌詞は明らかに稚拙だった。
例えば「鉄道少年の憩」と題された山之上の詩は、
「俗に世間では無政府主義者をアナーキストと呼ぶ」
という一文で始まっていた。続いて、
「糞尿愛好者をスカトロジストと呼ぶ。 聖書根本主義者をファンダメンタリストと呼ぶ」
と、いかにも山之上らしい言葉が並び、「松任谷由実はユーミンで、松任谷正隆はそのままだ」ととぼけた後、鉄道少年「鉄ちゃん」にまつわる奇妙な物語がつづられているのだ。要約してみよう。
「鉄道少年鉄ちゃんの正体は、東京巣鴨病院院長呉秀三のもとより逃走した離魂患者なのである」
「魂が肉体から遊離し、遠い土地をさまよう離魂の病は、現実逃避願望の強きあまり、精神作用に影響を及ぼし、やがて肉体はここにありながら心のみは羽ばたき飛び立ちどこへでもいけるのだという哀れな妄想を抱くようになった者たちの、幻視の疾患だ」
「鉄ちゃんだって逃げ出したい、どっか遠くへとんずら決め込みたい。それでもなぜか鉄ちゃんは、心に羽根はくっつけないのだ。代わりに心に車輪をつけて、汽笛と煙をポッポと吐いて、レールの上を走って逃げる」
「呉先生は言う。『ダメだよ鉄ちゃん鉄道は、どんな遠くへ逃げたって、君の嫌いなこの土地と、そこだって地続きだ。鉄ちゃん鉄ちゃんダメ鉄ちゃん。とっつかまるぞ、レールたどって追いかけられて、君の肉体にとっつかまるぞ。とっつかまったなら、心は再び箱の中、薄桃色の肉の檻。精神性など午睡の夢だ。どちらを向いても肉肉肉肉、肉肉肉肉二×九=十八、えっ? 鉄ちゃん来年でもう十八かい? 大きくなったなあ。お父ちゃんによろしく、じゃ、また』」
「ヘッ、先生もわかっちゃいねーなあ。オレはとっつかまえてほしいのさ。オレは御覧のとおりのブ男で、放送禁止の『ピーッ』だから。心と肉体を二つに分けて、自分同士で恋をするのさ。イカシタ恋をハッスルするのさ。それじゃ、出発ヨウポッポウ!」
「鉄ちゃん」の物語は、コピー用紙五枚にもわたっていた。壮大な妄想散文詩のラストは、自殺者だけが乗れるという「レティクル座行超特急」の車掌となった鉄ちゃんが、「自分には人と違った何かがある」という漠然とした想いを抱く少年たち(つまり山之上自身、タクオ、カワボン、そして賢三のことだ)を、「ダメ人間と飼い犬のための夜光トンネル」に突き落とすという、お先真っ暗いいことまったくなしの展開で幕を閉じられていた。
「『えー御乗車ありがとうございます。レティクル座行超特急、突然ですが、自分が他人とは違うというのならば、その証拠となるものを提示してください。証拠なき者はダメ人間と見なし、飛び降りていただきますのであしからず。お出口は左側でございます』
悲鳴悲悲悲悲鳴はいつしかやせた犬の助けを請う泣き声と化した。鉄ちゃんは腕章もピカピカに汽笛をピーッ!
『発車オーライ、ヨウポッポウ!』」
……賢三は、山之上の怪大作と、自分の書いてきたいくつかの詩が、まったく同じテーマでつくられていることを理解した。それだけに、激情にまかせて書いた自分の作品を、友人たちに見せる自信が、今ではすっかり失くなってしまった。
「……うーん」
と、いつの間にか「鉄ちゃん」を読み終えていたタクオがうなった。
タクオやカワボンは「鉄ちゃん」をなんと評するのだろう。もしかしたら感動しているのは賢三だけで、後の二人は「こんなのよくない」と言うかもしれない。
『……そうだったらいいのに』
ふと、賢三は思った。
「う〜ん、これは……」
タクオがもう一度うなった。
山之上はチョコンとジャズ・コーラスの上に座ったまま黙っていた。審判を待つ彼の顔から、いつものふてぶてしさは消えていた。
「……なんというか」
『――タクオ、よくないと言え、こんなのダメだ、と、いつもの調子で言ってくれ』
賢三は心でつぶやいた。
タクオが、山之上に言った。
「スゲーいいよ、山之上、お前スゴイよ」
ほめられて山之上は、困った顔をしながら、意味もなく何度も前髪をなでつけた。
「ドロドロしてていーよ、気にいった」
「そ、そそそそうか?」
「ああいい、ぶったまげたよ、カワボンもそう思うだろ」
コピー用紙に目を落としていたカワボンが、タクオの言葉に顔を上げた。
『カワボンまで、山之上の散文詩をほめるつもりだろうか』
賢三は、自分の体の奥で、ポチンと黒い染みが、ムクムクと音を立てて広がっていくような気がした。
「山之上」
カワボンが口を開いた。
『カワボンはほめない。カワボンなら、山之上よりオレの歌詞をほめるはずだ』
だがカワボンは、静かに言った。
「オレ、感動した」
再び、山之上が前髪をなでつけ始めた。
真っ黒な染みが、みるみる賢三の体中を覆っていった。
カワボンが言った。
「結局、創作っていうのは、感動を心にためこんで、それを自分なりに、もう一度この世に出現させるってことだろ。感動を貯金することはだれにでもできる。問題は、ためた感動を詩や絵や文章なんかに、置き換える能力があるかないかってことだ。山之上、お前にはそれがあるよ。山之上には、詩を書くという才能があるよ。オレらのなかで、お前がいちばんハッキリと持っているよ。人とは違った何かを持ってるよ。この散文詩、いいよ、なんか爆弾みたいな物語だな」
山之上はうつむいたまま、前髪をなでつける一動作を延々と繰り返した。
「なぁケンゾー、お前もいいと思うよなぁ、山之上の詩」
唐突にカワボンが尋ねた。
賢三は小さくうなずき、「ああ」と答えた。
「おい、一回合わせてみねーか」
タクオが立ち上がり、皆に言った。
「オレのテープとカワボンのギターをバックに、山之上の詩を唄ってみるんだよ」
「これを唄うのか?」
とカワボン。
「カワボン、キャプテン・マンテル・ノーリターンは普通のロックバンドじゃねーんだぜ。音楽だからって、必ずしも朗々と唄い上げることはねぇ。アングラ芝居ふうに朗読するのもアリだぜ。遠藤みちろう風にアジったってOKだぜ」
「なるほどダダイズムか。よし、やってみよう」
カワボンがギブボンのギターをかまえた。
すかさずプレイボタンを押したタクオ。
バウワウワウを思わせるジャングル・ビートが、ノイズまじりに流れだした。
低音は割れ、ところどころブジブジと音の切れるところもある。が、気にせず、カワボンが即興のリフを乗せ始めた。
「山之上、読め!」
カワボンがギターの轟音に負けじと大声で怒鳴った。
「叫べ、お前の詩を!」
山之上がマイクを握った。
おずおずと、山之上は語り始めた。
「ぞ、俗に世間では無政府主義者をアナーキストと呼ぶ」
タクオがテープのヴォリュームをさらに上げた。つられて、山之上の声も、大きくなった。
「糞尿愛好者をスカトロジストと呼ぶ」
プツンと、ギブボンの一弦が切れたが、気にもせず、カワボンはガッシガッシとギターをかき鳴らした。
「鉄ちゃんだって逃げ出したい、どっか遠くへとんずら決め込みたい」
タクオのテープにカワボンのギターが乗り、さらに、山之上のシャウトが絡んだ。
「ウヒョー!」
とタクオが叫んだ。
「いーじゃねーかこれ! いーじゃねーかこの感じ、ウヒョー!」
「ウヒョー!」
ニコニコと笑いながらカワボンも感極まった声を上げた。
山之上は額にかかる前髪も気にせず、シュールな詩を叫び続けた。すでに山之上、目がイッちゃっている。
「えー御乗車ありがとうございます。レティクル座行超特急、突然ですが、自分が他人とは違うというのならば、その証拠となるものを提示してくださいー」
タクオがビートに合わせ、手や足をカクカクと動かし始めた。すわ、タクオいきなりの恐怖タコ人間化か!? と思えばそうではない。ノリノリのあまり、ついに踊り出したのだ。
カワボンが賢三に叫んだ。
「オイ! 次はお前の歌詞を見せてくれよ」
賢三はドキリとした。「うん」と小さく答えたが、轟音にかき消され、誰の耳にも聞こえなかった。
「証拠なき者は、ダメ人間と見なし、飛び降りていただきますのであしからず〜!」
もはやトランス状態に陥った山之上が、力の限り叫んだ。
「発車オーライ、ヨウポッポウ!」
ピタリのタイミングで、テープが止まった。
演奏を終えた賢三以外の三人が、またしても照れ臭そうにダハハハと笑った。皆一様に額に汗を浮かべ、フルマラソン完走直後のごとき爽快な笑顔を浮かべていた。
タクオが、額の汗をぬぐいながら言った。
「じゃ次、賢三の番だ。見せてくれよ、お前の書いた歌詞をさ」
山之上がチロリと賢三を見た。
カワボンが、笑顔で賢三を見た。
タクオがせかす。
「ケンゾー、早く」
――もう逃げられない。どうすればいいんだ。
賢三の胃が、シクシクと痛み始めた。
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最終章 たとえ地獄が凍りついても
制服姿の堀之田詠子は大橋賢三の足元にひざまずき、彼のポコチンを口にくわえていた。
賢三が詠子の後頭部を押さえつけても、彼女は嫌がるどころか、喉の奥へと固くなったポコチンをさらに吸い込むのであった。
ぶちゅぶちゅと、詠子の唇が汚らしい音を立てた。
「うまいか」
賢三が問えば、
「ほいひー」
とポコチンをくわえたままで詠子は言った。
「『おいしいです』だろ」
「ほいひーえふ」
だらだらとよだれをたらし、怯えた目で御主人様を見上げた詠子の表情は哀れこのうえなく、賢三はたまらない優越感の中で詠子を責めた。
「早くやれよ、この豚」
小鼻を親指で上げてやると、いつもはいたずら猫みたいな詠子の顔が、本当に豚のような表情になった。無理矢理に口と鼻の穴をこじあけられて、詠子は※[#「う」に濁点、unicode3094]※[#「え」に濁点]ー※[#「う」に濁点、unicode3094]※[#「え」に濁点]ーと獣じみた声を上げた。
「豚、なめろよ」
「ぼぁ※[#「い」に濁点] ※[#「う」に濁点、unicode3094]※[#「わ」に濁点]※[#「ま」に濁点]※[#「う」に濁点、unicode3094]」
「何言ってんのかわかんねーんだよ」
「ぼ※[#「あ」に濁点]い ぼ※[#「ぉ」に濁点]※[#「え」に濁点]※[#「ん」に濁点」]なさい」
「返事はいーから早くなめろよこのクサレ豚女!」
賢三は左手の親指と人差し指で、詠子のまぶたを上にひっぱり上げた。
ものすごい形相にされた女子高生の両目の上に、ぷっくりと水の玉がふくらんだ。すぐに涙はじゅくじゅくと両の頬に流れて落ちた。涙とよだれと鼻水までたらしながら、それでも詠子は賢三に言われるままにポコチンをしゃぶり始めた。
ぼ※[#「え」に濁点]ぐぅ、ぼぅぐぅぼぅぐぅっ ※[#「う」に濁点、unicode3094]っぷ※[#「う」に濁点、unicode3094]っぷ※[#「う」に濁点、unicode3094]っぷ ※[#「う」に濁点、unicode3094]っぷるる
活字にしたならばまるで宮沢賢治のつくった童話のフレーズのようだが、これは別に「ポランの広場」の一節ではない。一心不乱のフェラチオによって詠子の唇から発せられたおぞましい怪音なのである。
※[#「う」に濁点、unicode3094]っぷ ※[#「う」に濁点、unicode3094]ぉぅっぷ はぐ※[#「う」に濁点、unicode3094]るるるる……。
ぐぇっぷ ぐえっぷ じゅぶるるるる……。
「いい音だ」
と賢三は思った。イヒヒヒヒと山之上のように笑った。
ひとしきり奉仕させた後、賢三は低くつぶやいた。
「豚、いつまでやってんだよ」
慌てて詠子は、ポコチンから口を離した。
「夢中になってんじゃねーよ豚」
しかられて、詠子は「ハイ」と小さく答えた。唇が赤くはれて、イタズラに化粧をした子供のようだ。
「足を開けよ」
「えっ?」
「お前が『投熱写真』のグラビアでやってたみたいに、オレの前で足広げてみせろよ」
詠子はうつむき黙ってしまった。いつも黒所の教室で、モロ子たちと過激なセックス話をしている彼女からは想像もできない、しおらしい態度である。そのけなげさが、賢三のエロリビドーをさらにあおった。
「ぐちょぐちょのべちょべちょにしてやる」
と言って賢三は、どこから取り出したのか、黒所指定女子ブルマーを、詠子の口をこじあけ喉の奥まで突っ込んだ。あうぶぅ、とまた声にならぬ声をあげた詠子。賢三は気にせず彼女の両の足首をグイッと握り、仏壇の扉を開けるように左右に広げ、そのまま彼女の顔のところまで一気にもっていった。アダルトビデオでいうところの「まんぐり返し」にされた詠子は、※[#「う」に濁点、unicode3094]※[#「え」に濁点]ー※[#「う」に濁点、unicode3094]※[#「え」に濁点]ーと泣き叫びながらも本気で抗おうとはせず、賢三に自分の灰色のパンティーがよく見えるよう、逆に自ら自分の足首を握り、アクロバットな姿勢を維持した。
非力なはずの賢三が、詠子のパンティーを引きちぎった。
詠子のその部分が丸見えとなる。オヤジギャグで言うならば、いわゆる「観音様御開帳」、ありがたやありがたやの状態である。
賢三は「突っ込んでやる」と心で思った。ぬぷぷぬぬぷぷとポコチンを突っ込んでぐちゃぐちゃにしてやる。腹の中をポコチンでぬちゃぬちゃにかきまわしてやるのだ。十二指腸から胃腸を突きぬけ食道へと逆流してやるのだ。オマンコからポコチン突っ込んで口から出してぬちゃべちゃぐちゃどろにしてやるのだ。指は肛門に入れてやるのだ。両手突っ込んでウンコのたまった腸の中で七年殺しを決めてやるのだ。乳房をもみしごいて母乳をねじり出してやるのだ。乳が出て血が出て混ぜこぜのペースト状になったものがピーピュー乳首の先から噴き出るまでこいつのオッパイをもみしごいてやるのだ。こんな豚豚豚豚豚女に思い知らせてやるんだ。お前なんか肉とションベンのかたまりなんだ豚女。オレのポコチンでヒーヒー言ってりゃいーんだ豚女。よがれ豚女、泣け豚女、※[#「う」に濁点、unicode3094]ぃー※[#「う」に濁点、unicode3094]ぃーわめけ豚女、突っ込んでやる突っ込んでやるホラ突っ込んでやるぞ豚女イヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!!
笑いながら賢三は詠子の顔に爪を立ててかきむしった。ドス黒い血の筋が彼女の顔に何本も浮かび上がり、すぐに涙やさまざまな分泌物と混じって顔中を赤く染めた。賢三の指の一本が眼球に突き刺さり、ふう※[#「い」に濁点]※[#「い」に濁点]※[#「い」に濁点]※[#「い」に濁点]※[#「い」に濁点]っ――!! と詠子が悲鳴を上げた。そのままずぶずぶと眼の穴に突き立てていけば、舌でなめられるように賢三の指は気持ちよかった。
「ぼぅぐぇっ ぼっぐぇっ あぐっげーっ! あ※[#「う」に濁点、unicode3094]※[#「い」に濁点]えー! ぼごずずずずーっ!」
今や血まみれの真っ赤なまりも[#「まりも」に傍点]のようになった詠子が何かを叫んでいた。口にブルマーを突っ込まれたまま、イヤイヤ子供みたいに頭を左右に激しく振って何かを訴えようとしていた。
「ぼぅぐぇ! ぐぅえー! あ※[#「う」に濁点、unicode3094]※[#「う」に濁点、unicode3094]※[#「う」に濁点、unicode3094]※[#「う」に濁点、unicode3094]」
助けを乞うているようではなかった。
よく見れば、こんな状況の最中に、詠子は笑っているようなのだ。
血まみれの顔で笑いながら、詠子は何かを賢三に言おうとしているようなのだ。
「ぼうぐぐぐぐぐぐぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
賢三は、ふと恐ろしくなった。
ぬるぬるとすべる血だらけの指で詠子の口に詰まっているブルマーを引っぱり出した。
すると詠子は、歯茎と歯の区別すらつかぬ血みどろに濡れた口でケケケケケケと笑った後、キッパリとこう言った。
「大橋賢三! 君には結局、何もないのよ」
左手に、黒所の同級生堀之田詠子のグラビアが載ったエロ雑誌『投熱写真』、右手に己がポコチンを握りしめていた賢三は、まるで時が凍ったように、勉強部屋のイスの上で、ピタリと固まってしまった。
全身にたっぷりと溜まっていた性欲がどこかへ流れ出ていくと同時に、ポコチンはみるみる小さくなり、クタリと萎えた。
ふにゃふにゃのポコチンをさらした情けない状態のまま、賢三は、やるせない心の沼へと落ちていった。
『そうだ、オレには結局、何もないんだ』
ちょうど一週間前。キャプテン・マンテル・ノーリターンの「発表会」において、彼は何も自分を出すことができなかった。賢三は、まるで藤子不二雄の名作『まんが道』における才野茂との勝負に敗れた満賀道夫のように、その場しのぎのウソをついて逃げたのだ。『オレ……実はまだ書いてないんだよ。詩をさぁ』
と、賢三の宿題である「詩」の発表を迫ったメンバーたちに、そう答えた。
『構想はあるんだけどさぁ……なんつーか、もう少し練りたいんだよね』
などと嘘をついた。
『でも山之上の詩、いいじゃん』
と言って、笑ってみせた。
全部、自分の負けを認めたくないための、そしてわずかばかりのプライドを保つための嘘八百であった。
『もうちょっと待ってよ、必ずスゲーの書いてくるからさ』
が、あれから何日も経ったというのに、賢三はまだ一編の詩も書いてはいなかった。キャプテン・マンテル・ノーリターンの練習は、それから二度あった。賢三以外の三人は、バンドという新たな試みに大いに興奮していたから、彼らにとってはとても充実した時間となった。カワボンは、前よりもギターが上達していた。ギブボン・レスポールでリフをいくつも作り、一つ一つ発表するごとに「どうだ? どうだ?」と皆に尋ねた。皆「いいぞ! いいぞ!」と鼻息荒く答えた。タクオも次々に新曲を発表した。なけなしの小遣いをはたき、シンセとMTRを買い込んだ彼は、持ち前の凝り性が爆発したのか、量産と言ってもいいぐらいたくさんのデモテープを作ってきて、「どうだ? どうだ?」と皆に尋ねた。皆も「いいぞ! いいぞ!」と答えた。そして山之上は、いくつもの詩を発表した。どもりながら彼が自作の詩を朗読するごとに、他の三人がウームと黙り込んだ。皆、感動に言葉を失ったのだ。沈黙の中、山之上が「どどどうかな?」と呟くと、一斉に「いーぞ山之上!」の声が飛んだ。すると彼は前髪を意味なく撫でつけながらうつむき、照れ隠しに「フン」と鼻を鳴らした。
カワボン、タクオ、山之上、それぞれに、確実に、走り出そうとしていた。
大橋賢三だけが、その場に踏み留まり、どこへも行けずにいた。
――君は 見果てぬ夢を見て いつか迷った袋小路 うまい話があるじゃなし 金の生る木のあるじゃなし
僕はここで見ていよう 君の朽ち果てるところを
その島は囲まれて君はもう動けない 夢を見てもう二度と動けずに動けずに
から笑う孤島の鬼 鬼! 鬼! 鬼!!
新宿JAMで筋肉少年少女隊のヴォーカリストが唄っていた不吉な唄が、あの発表会の日以来ずっと、賢三の頭の上でグルグルと回転していた。
詩を作ることができず、賢三は例によってオナニーばかりしていた。何も変わらぬ日々唯一の変化といえば、オナニーにおける賢三の夢想が、どんどんサディスティックなものになっていったことだけだ。自分のふがいなさを夢想の中で暴力に転化しようとしていたのだ。毎夜、賢三はアイドルや同級生を、血と精液で凌辱していた。
「大橋賢三! 君には結局、何もないのよ」
しかし今夜、堀之田詠子に一言逆襲されただけで(それはもちろん賢三自身の心の声であるわけだが)、賢三のサディスティックな性欲さえもシュンと萎え、ポコチンはふにゃってしまったのだ。
『オレは、ダメ人間だよなあ』
と賢三は思った。
つくづく、賢三はこの数日、自分が嫌だ……。
数学教師谷村始夫は、二次方程式の説明そっちのけで、自殺した府黒松子の思い出をしみじみと語っていた。
「あの娘はやさしい娘だった」
と谷村は言った。
「一度、私にこう言ったものだ。『先生は中原中也を読みますか』とね。もちろんと答えたよ。ゆあーんゆよーんゆやゆよーん のどがなりますかきがらと……中也を読んでいたんだねぇあの娘は……」
しかし生徒たちは、誰も彼の話を聞いてはいなかった。松子の葬式の日、オイオイと泣き崩れてみせた女生徒たちさえ、今ではそんなことなどすっかり忘れてしまったように、テレビや異性の話に打ち興じていた。
堀之田詠子などは、モロ子と共に、彼氏とのセックスについてだべっていた。
「んでー、中西君と先輩が残ることになったわけだけどー、先輩といたらやっぱ悪いじゃん、でも結局先輩ともそーゆーことになっちゃってー」
「信じられない、詠子しちゃったわけー」
「しちゃったわけー」
「しーんじられない、お前バカかよー」
モロ子は詠子の肩口のあたりをつかんで、キャッハハハと笑った。
詠子もケタケタと笑った。
少女たちがあけすけに大騒ぎしている背後の席には、ダメ人間賢三がいた。手製の「映画ノート」を開き、いつものように、最近観た映画について自分なりの感想を書き込んでいた。先週賢三が観た映画は、『コットンクラブ』一本だけだった。しかし実は、途中で席を立ってしまったために、後半を観ていなかった。別に映画が、つまらなかったわけではないのだ。
『オレのやっていることは無駄なのではないか?』
上映途中、ふと賢三はそう思ってしまったのだ。すると、どうにもやり切れないその想いに、賢三の体はスッポリと包まれてしまった。いたたまれない気持ちになり、ついに映画館を飛び出してしまったのだ。
『映画を観まくって、本を読みまくって、くだらない連中との差をつけようと試みてきた。しかしそんなことは、実は意味のないことだったのではないか』
発表会で打ちのめされて以来、その想いが離れない。
『人とは違った何か……それがあるかないかは、結局、先天的なものであって、もともとそれがないオレが、何をしようとも、血にも肉にもならないのではないか』
いやそんなことはない。賢三は思い直し、再び映画ノートに、途中までしか観ていないで『コットンクラブ』についての感想を書き始めた。
「でー、あたし最近モデルの仕事多くってー」
詠子が、ひときわ大きな声で言った。
「大きいプロダクションからも引き抜きの話きてるらしーんだけどー、社長に悪いし、あたし別に、そんな売れたいわけでもないのよねー」
賢三の手がピタリと止まった。
『バカ女』
と心で彼は吐き捨てた。
『通俗なバカ女、あくまでつまらない日常の延長に生きようとしているクソバカ女。オレは違う。オレはお前らとは違うんだ。俗世界から逃れるために、オレは試みているんだ。お前らの知らないことをオレは知っているんだ』
賢三は自分に言い聞かせるように、心の中で呟き続けた。
『お前ら知らないだろうブラッドベリを? 知ってるか町田町蔵を? わからないだろう「狂い咲きサンダーロード」なんて? 読んだことあるか「ドグラマグラ」を? オレは知ってる、オレは知ってるんだ、お前らバカの知らないことをオレは知ってるんだ、オレは、オレは……』
しかしそれが何になる?
「アイドルやらないかって話もきてるんだけどー、ぶりっこするのもアレじゃーん」
結局、オレも認められたいだけなのだ。自分を人々にわかってもらいたいのだ。
「でもさ、今企画でー、マッチとしぶガキの共演する映画ってのがあってー、それのオーディション受けないかって言われててー」
つまり、虚栄心を満たしたいのだ。
「出たらあたしが優勝するって決まってるらしいんだけどー、それもアレじゃーん」
人とは違った何かなんて大層なものじゃない。誰しもが思う「目立ちたい」という通俗な願いに、オレもすがりつきたいだけなのだ。
「六十万出せば内定するって社長が言うんだけどー、親だませば揃えられるけどー、なんかプロデューサーを接待とかもしなきゃいけないらしくてー、つまりセックスのことなんだけどー、別にそれはいーんだけどー」
黙れバカ女!
「何か社長に聞いたらー、美甘子もプロデューサーとやってー、映画に出ることになったらしーよー」
黙れバカ女! 黙れ!
「別に映画なんか出たくないんだけどー、ヒマだしー、中西君もやれって言うから、やってみてもいいなって思ってる」
黙れ! 黙れ!
「ねえ大橋くーん、カナスギって監督知ってるー?」
「えっ!? えっ!?」
モロ子の背中越しに、詠子からふいに声をかけられた賢三は、慌てて顔を上げた。
「マッチとしぶ[#「しぶ」に傍点]の映画撮るカナスギって監督知らない? あたしその人の映画に出れるのよ」
猫のような詠子の瞳が、じっと賢三を見た。
「うるせーバカ女、そんな話インチキに決まってるじゃねーかよ!」
とは賢三は言えなかった。いきなり女子に話しかけられて、彼の哀しいクセが出た。
ポコチンがムクムクと立ってしまった。
「ねー君、映画よく観てるんでしょー」
モロ子が振り向きながら言った。フワリとシャンプーの香りが賢三の鼻をくすぐった。
ポコチンがキリキリといきり立った。
ポコチンとうらはらに、賢三自体はフニャフニャであった。
「し……知らない」
と一言返すのがやっとだった。
ふーん、と言って、少女たちはまた二人の会話に戻っていった。賢三のことなど、すでに眼中にもなかった。
谷村は、相変わらず府黒松子の思い出に浸っていた。
「死は最低の逃避だ。どんなにつらいことがあっても死んではいけないんだ。たとえ今まで自分のしてきた努力がまったく報われなかったとしても、死んではならないんだ。たとえ、自分の抱いていた信念が、実はまちがっていたと気づいたとしても……だ」
……本当にそうだろうか?
賢三はふとそう思った。
『自分のしてきたことがまちがっていたと気づいたら、誰だって、死にたくなるに決まっているじゃないか』
と、その時だった。
賢三は、『みんながオレを笑っている』と思った。
教室中の生徒が自分を見て、ニヤニヤと、クスクスと、あざけりさげすみの笑いを浮かべていることに、彼は唐突に気づいた。
ハッとして、賢三は教室を見わたした。
ところがどういうわけか、誰も賢三を見てなどいなかった。話をする者あり、机に突っ伏して寝ている者あり、けれど誰も、賢三のほうなど見向きもしてはいなかった。『それでもなんだかみんなが、確かに今、オレを笑った気がする』
「人生に逃げ場などない。自殺などいかんのだ……松子」
谷村は自分の言葉に酔いしれ感極まっていた。
再び賢三は、教室中の生徒たちに、クスクスと笑われた気がした。
振り向いた。だが、やはり誰も賢三のほうを向いてはいなかった。
賢三は『オレ、どうしたのかな』と思った。そして呪文のように、『大丈夫大丈夫大丈夫だよねぇ』と、無意識のうちに心で自分を励ましていた。
「おい、ライヴ決まったぞ」
わざわざ隣の教室までやって来たカワボンが、興奮した声で言った。
「おーっ!」
と、新曲の構想を話しこんでいたタクオと山之上は雄叫びで答えた。
「いつだ? カワボン」
「驚くなよタクオ、来月の六日だ」
「げっ、すぐじゃねーか、場所は?」
「屋根裏だ」
「ややや屋根裏!?」
「そうだ山之上、キャプテン・マンテル・ノーリターンの初ライヴは、いきなり渋谷屋根裏だ」
タクオと山之上が、おーっ! と叫んだ。
「ケロさんがコネでブッキングしてくれたんだよ」
「リハだ、もっとリハをやろう」
タクオが声を荒らげた。
「オレはやるぞ、興奮してきたぞ、シット・オンに今すぐ行こう。六限なんて関係ねぇ、すっぽかしのバックレだ。カワボン、山之上、すぐに賢三も呼んで、練習しようぜ」
まくしたてた後、鼻の穴を広げてウオーッと吠えた。
「そういや賢三がいないな」
カワボンがポツンと言った。
「あ、あいつ帰ったよ」
と山之上。
「サボリか、文芸座にでも行ったのか」
「違うんだカワボン、三限の途中でいきなり帰っていった」
「いきなり?」
「ああ、ちょうど八木とゴボジのバカ共が、くだらないことでちょっとしたケンカを始めたんだ。数学の谷村が止めに入って、みんながザワザワしていた時だ。賢三の奴が僕のところに来て言ったんだ」
そこで山之上は眉をしかめ、言った。
「『オレ、笑われてるから帰るよ』って……」
「……笑われてるから帰るよ、と言ったのか?」
「そ、そうなんだカワボン」
「賢三が笑われたのか? 誰かに?」
「い、いやそんなことはない。いつもどおりだよ、教室の誰も、あいつのことなんか見向きもしてはいない。なのにあいつ、僕に言ったんだ。『オレ、笑われてるから帰るよ』って……」
三人は黙ってしまった。
最初に口を開いたのは、やはりカワボンだった。
「あいつ最近、ちょっとやばいな」
もう一度試みてみよう、と賢三は思った。
勉強部屋の椅子に腰かけ、机にノートを広げ、もう一度、作詩に挑戦してみようと決めた。「がんばる」という言葉は嫌いだったから、「試みてみよう」と心で強く思った。
まぶたを閉じ、『できるはずだ』と念じた。
『オレは今まで、オレ自身を表現するための蓄えとして、映画を観、本を読み、カワボンやタクオ、そして山之上と議論を闘わせてきたのだ。その日々が無駄であったはずがない。無意味であったはずがない。オレよ、やるのだ。もう一度試みるのだ』
カッと目を見開き、呟いた。
「山口美甘子に追いつくために」
そして鉛筆を握り、ノートに向かった。
ふんむ! と気合を入れた。
う〜〜〜んと唸った。
う〜〜むむむむとふんばった。
うごおおおおおっと吠えた。
一分過ぎた。
十分過ぎた。
三十分過ぎた。
……しかし何も、浮かんではこなかった。
ホッとため息をついて、賢三は鉛筆を放り投げた。
気分を変えるために、鉛筆でも削ろうと、賢三は机の引き出しを開けた。
引き出しの奥には、紙袋に詰めた山口美甘子のブルマーが入っていた。いつぞや山之上の机からこぼれ落ちたものだ。
ふと賢三は、紙袋を引き出しの中から取り出した。
袋を開け、中をのぞいた。
ふくふくとした藍色の体育着が、気絶した小動物のように眠っていた。
指でつつくと、弾力が心地よかった。
つまんでゆっくりと、賢三は袋の中からブルマーを引っ張り出した。
少年は同級生のブルマーを、しげしげと見つめた。
いつか吉祥寺の映画館でかいだ美甘子の香り、シャンプーの匂いを、賢三は鼻に感じたような気がした。
その時賢三は、思った。
急に彼は、こんなことを思った。
『もういいや』
山口美甘子のブルマーを見つめながら、賢三はもうどうでもいいやと思ったのだ。
『オレには何もできないんだ。オレが今までやってきたことは全て無意味だったのだ。もういいや』
だから賢三は決めた。たとえ地獄が凍りついても、彼女でだけはすまいと思っていた賢三だが、
『美甘子でオナニーをしてやる。あの小生意気な娘を、どろどろのべちゃべちゃにしてやる。泣いたってわめいたってかまうものか。全身の穴という穴にポコチンを突っ込んで、ぬぬぷぷぬぬぷとぐちゃぐちゃのべっちゃべちゃにしてやる!!』
左手にブルマーを握りしめたまま、右手でベルトを手際よく外した。一瞬、誰かに見られている気がして振り向いたが、もちろん誰もいない。ホッと息をつき、そして賢三はまた、ポコチンを握りしめた……。
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あとがき
この『グミ・チョコレート・パイン』のチョコ編は、「ポコチンを握りしめた……」で終わっています。主人公がポコチンを握りしめて終わってしまう小説というのは、我ながら「スゲーなこりゃ」と思うのですが、これは意図的なものなんですね。なぜならば、これは『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』だからなんです。古今東西、三部作の二作目っていうものは、「どうしてここで終わるの?」っていうところで終わるっていう印象が、僕のなかにはあるんですね。『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』しかり、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』しかり……。で、僕はそういうのが、とても好きなんですね。で、この小説の二作目もそういう風にあっ気なく終わらせてみたかった。
と同時に、僕がこの『グミ・チョコレート・パイン』を書く目標というのは、主人公と登場人物全員を幸せにしてあげたいっていう気持ちなんですね。だから僕のなかではもう、賢三も、カワボンも、山之上も、じーさんも、美甘子も、それからちょっとしか出てこないキャラクターたちも、みんな、僕のなかではもう生きて動いているんで、ホントにせっかく自分が生み出したキャラクターなんだから幸せにしてあげたいという思いが、とても強いんですよ。だからそのためには、突き詰めれば、極端に言えば、もう読者はいらないとさえ思ってるんですよね。だから、この黒所高校に徘徊している連中たち、少年少女たち、そしてじーさんたち……いろんな人が出てきますが、全員が幸せになってくれれば、もうそれでいいわけで、二部がどういう形でエンディングをむかえようと、これはもう読者の問題ではなく、大槻ケンヂの問題なんですよ。すごいですね、アハハ。
最終作のパイン編が、いったいいつ出るのかはわからないけど、このポコチンを握りしめた0・01秒後から、賢三をはじめ、各キャラクターが、非常につらい状況に陥るんですよ。そういう展開になる予定なんです。ここでパタッと変わるのね。物語の流れとしては、もっとエピソードがいっぱいあって、起承転結があって、みんなが悩み始めたりとか、そういう徐々に徐々にとかいろいろあるんだろうけど、人が生きていくとよくわかると思うんだけど、物語と違って本当にある日突然ガタッとすべて歯車が合わなくなったりっていうことがあるでしょ? 彼らにもそれが起こるんですよ。これは物語なんだけど、僕のなかではもう、物語ではないので、ひとつの架空の現実なので、……まあ、架空の現実を物語というんだけど……これはもう観念の世界なので、読者にとっては物語なんだろうけど、大槻ケンヂのなかでは現実だから、チョコ編は「賢三はポコチンを握りしめた……」で終わるべくして、終わったんでね。それでこれからパイン編に向かうわけですね。
グミ編が出て二年ぐらい経つんですよね。グミ編を読んでくれた読者もその間に、いろいろ考え方の変化とかがあると思うんですよ。それで変わってきたと思うし、僕自身も変わってきたし、それで、自分自身もこんなに長い話になるとは夢にも思わなかったし、本当は中編で終わらせる予定が、自分の生きてきた何十年かとどんどんクロスしていって、非常に思い入れが強くなっていったんです。その思い入れの行く果ては、出てきた人物全員を幸せにしてあげたいということ。だから、不幸にもすでに自殺しているキャラクターなんかもいるわけですが、その自殺したキャラクターでさえもパイン編では幸せにしてあげたいと思っています。もうパイン編は、また極端に言うと、SFになっちゃってもいいと思っているのね。美甘子がターミネーターになってもいいわけだし、どんなぶっ飛んだ展開になってもいいと思ってるんですよ。「そりゃーねーだろ」という世界に突入して、例えば府黒松子が突然輪廻して、ブッダと化してもいいとさえオレは思ってる。登場人物を幸せにしてあげるためなら、そういう妄想小説に到達しちゃってもいいと思ってる。だから、繰り返しますが、このキャラクターたちをいかなる卑怯な手を使ってでもハッピーにしてあげたい。活字はどんな卑怯な手でも使えますから、どんなグチャグチャなことがあっても「と思ったら賢三の夢だった」で終わってもいいわけですから。必殺の「夢オチ」を使っちゃってもいいわけだから。最終兵器、活字のハルマゲドンと僕は呼んでいるんですが。「すべては夢だった。そして隣には恋人・山口美甘子が眠っていた」でもいいんだから。まあ、いくら何でもそんな手は使わないけどね。でも、どんなズルイ手を使ってでも出てくる登場人物を幸せにしてあげたいと今は思っています。
読者はいらん、などと言いながら、できればたくさんの人たちと『グミ・チョコレート・パイン』という、この架空の現実を共有したいと僕は心から思っています。だからパイン編、期待して待っていてくださいね。
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文庫版あとがき
読んでくれてありがとう。
グミチョコのチョコ編を書いてから何年たったのか? まだ完結編であるパイン編を一行も書いていません。とにかく毎日忙しくて気づいたらずいぶん時が経ってしまった。今では考え方や文体も変化して、パイン編に取りかかるタイミングをなかなか掴《つか》めずにいます。
けれど、いつか必ず書きます。
『グミ・チョコレート・パイン』は、僕の作品の中でも、特に思い入れのある小説であり、もう数えきれないほど沢山の人から、「パイン編はまだですか? 賢三や美甘子はどうなるんですか?」との質問も受けています。何より、僕自身が、賢三を始めとする登場人物たちのこれからに、青春に、期待している。「いったい彼らは、どうやって、生きていくことの喜びを知っていくのだろうか?」楽しみにしているのです。グミ編の巻頭にもあるように、
「『オレはダメだな〜』と思っている総ての若きボンクラ野郎どもへ、心からの心を込めて、本作を贈る。」
そういう気持ちで書く気でいます。
だから気長にパイン編を待っててね。
二〇〇〇年現在、グミチョコは佐佐木勝彦さん、清水沢亮さんの手によりマンガ化され、講談社「マガジンGREAT」誌で好評連載中です。原作ともどもこちらもよろしく。
あ、よろしくついでに、現在、僕は「特撮」というバンドを率いて活動中です。今のところ「爆誕」「ヌイグルマー」二枚のCDが発売中なので、こちらもひとつ……キャプテン・マンテル・ノーリターンともどもよろしくお願いしますね。
文庫化にあたりお世話になった角川文庫の佐藤氏、表紙絵を描いていただいた江口寿史氏、尽力してくださった総ての皆さんに深く深くありがとう。
角川文庫『グミ・チョコレート・パイン チョコ編』平成12年9月25日初版発行