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大槻ケンヂ
グミ・チョコレート・パイン グミ編
目 次
第1章 「GORO」
第2章 「ビリー」
第3章 「ZOOMUP」
第4章 「DUNK」
第5章 「映画の友」
第6章 「スコラ」
第7章 「MOMOCO」
第8章 「エロトピア」
第9章 「平凡パンチ」
第10章 「パンチザウルス」
第11章 「BOMB」
第12章 「別冊スクリーン」
第13章 「写真時代」
最終章 「ヘイ! バディ」
あとがき
文庫版あとがき
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「オレはダメだな〜」と思っている
総ての若きボンクラ野郎どもへ、
心からの心を込めて、本作を贈る。
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第1章 「GORO」
五千四百七十八回。
これは、大橋賢三が生まれてから十七年間に行なった、ある行為の数である。
ある行為とは、俗にマスターベーション、訳すなら自慰、つまりオナニーのことである。
彼が最初にその行為を「発見」したのは、今からちょうど五年前、まだポコチンに毛もはえぬ……もとい……清らかなる若き女性読者諸君は御存知ないかもしれない、ポコチン自体には毛ははえない。正確にいうなら、ポコチンの周りにまだ一本の毛もはえていなかった小学六年生の頃だ。これもまた女性読者諸君は知る由もないことだが、彼もまた多くの少年たち同様、「偶然」という名の恐るべき必然に導かれてその行為を発見した。
その頃、幼き大橋賢三のヘソ下三寸、その内部三寸のあたりに、ポチンと赤く光る球体が息吹きを始めていた。
それこそがリビドー、性欲、つまりはスケベーの目覚めだったのである。
そいつはあたかもウルトラマンのカラータイマーのごとく、学校で女子同級生のブルマー姿を見た時だとか、「健康的なお色気」という見事に矛盾したキャッチフレーズで当時異常な人気のあったピンク・レディーの「これでもか! これでもか!」といわんばかりなゴンヌズバー大開脚ダンスなんかを目前にすると、ピコピコと点滅を始め、ダイレクトにその刺激を彼の脳髄とポコチンに送り込むのだ。そうなるともう彼はいかんともしがたく、それが自宅であったならスッ飛んで「勉強部屋」と名づけられた、物置きを改造した一畳半の彼のアジトへ駆け入り、燃えるゴミの日に廃品回収場所からひそかに拾ってきた、捨てられてあった平凡パンチの「鮮烈! 由美かおる衝撃ヌード!」を火の点くほど見つめるのだ。
「しかし、この由美かおるという人も変わらんなあ。オレが子供の頃からグラビアやってたぞお」
そんなことをまだ子供の賢三は思いつつ、じっとかおるのたおやかなオッパイや、これでセックス嫌いつったらわしゃホンマ怒るでぇと関西オヤジが言いそうな赤いポッテリとした唇をさらに見つめるのだ。
しばらくのち、ため息をついて彼は平凡パンチを閉じた。飽きたのだ。スケベーにではない。由美かおるにだ。由美かおるでは何かこうガツーン! とくるもんがない。賢三は棚の上から秘蔵の少年マガジンを抜き出した。篠山紀信撮り下ろし石野真子衝撃初水着グラビアを見るためだ。賢三はその頃デビューしたてのこの新人アイドルに夢中だった。まだ幼さの残る、といっても小学生の賢三にとっては十分に大人な彼女の水着写真は、飽くことなく彼を幻惑させる魔法の数ページだった。何度開いても、真子はかおると違い彼を深きエロスの世界へと誘うのだ。だからそのグラビアを掲載した少年マガジンは宝物であり、信心深きキリシタンにとってのバイブル程に重き書物なのだ。聖なる少年マガジンを開き、ポテトチップスを食べようと賢三は再び腰を上げた。
その時……だ。
偶然……いや、やはり必然にして彼のポコチンのあたりが、コクヨ・スタディデスクの角っこにあたったのだ。
「あ、なんか……いい」
真子の魔力によって熱く燃える彼のポコチンが、確かにそう言った。そしてその言葉は一字一句違わず彼の口から彼の声として発せられた。
「な、なんか……あれ?」
偶然……いや完全に自発的に彼は腰を動かし、角っこにポコチンをスリスリしてみた。
「あ……あれ……いい……いいなあ」
今や甘美なる赤き花がボカーンと燃えて、賢三のポコチンをポコポコチンチンと、快感という名の下に支配していた。
「あぅあううう」
自分でも情けないと思いつつ、種馬のごとくさらに早く激しく腰をグラインドさせる賢三、彼の心を察して黙して語らぬコクヨ・スタディデスクの角っこ。一人と一個の物体がジャズのスウィングよろしく絡み合いせめぎ合い、今まさに賢三は高き山の頂に達した。
「あっ……うぐぐっ!」
……失禁してしまった……賢三はそう思った。快感が極まった瞬間、今までに体験したことのない、爆発のような感覚がポコチン本体を襲ったのだ。脳の奥、そして全身にゆっくりと広がった謎の超感覚は、まったく初めてのものだった。しいていえば、こらえにこらえた末の「おもらし」の感じによく似ていた。それで彼は、快感のあまり自分で失禁してしまったと思ったわけだ。
「もうじき中学生だっつーのにこのオレはおもらしをしちまった!」
深く悔い、ポコチンのあたりを触れてみれば、意外にも湿ってはいなかった。
「これは一体……!?」
まだじんわり残る快感の波動に身を震わせながら、真昼の幽霊にでもあったように、賢三はしばらく呆然としたのであった。
真昼の幽霊の正体を「それはエクスタシーというものだ」と教えてくれる者はいなかった。なにしろ彼は超感覚について仲のよい友人にも語らなかった。説明のしようがなかった。自分だけの秘密にもしておきたかったし、もしかしたら自分は何かの病気なんじゃなかろうかという不安もあった。
いずれにしろ、超感覚「真昼の幽霊」がヒジョーにヒジョーに気持ちがいいということだけは事実として認識した。
賢三は超感覚を再体験すべく、少年マガジンを頼りに、コクヨ・スタディデスクの角を用いて果敢にチャレンジした。ある程度のテンションと時間さえあれば超感覚は確実に味わえることが何度かの実験で判明した。さらに彼が自らの肉体をさらして行なった実験の結果、コクヨ・スタディデスクの角を用いずとも、より有効に短時間のうちに超感覚を得る手段があることに気づいた。
賢三はこの研究に関してはアインシュタイン、ホーキング以上にストイックで、貪欲であったかもしれない。
よりよき方法、つまり、ポコチンに直接自分の手を使い刺激を与えるまさに「手法」は、例えるならダーウィンの進化論によく似ているだろう。彼の「手法」もまた進化の道をたどったのだ。
大橋賢三オナニー その「手法」の進化
一、コクヨ期
まだ賢三は「手」を使用することを知らず、コクヨの勉強机を用いるという、大変原始的な手段を取っていた。これは人類がまだ猿に近く、やっと立って歩けるという状態のラマピテクス期といえるだろう。
二、タタ期
賢三は机を捨て、ついに「手」を用いる技術を身につけた。最も原始的な人類となった猿人期である。この時、まだ賢三は手の用い方を誤っていた。彼はさかんに自らのポコチンを「叩いた」のである。名づけてタタ期。シャレだ。スマン。
三、回転期
賢三はある日「叩くとやっぱ痛いなあ」という恐るべき事実に気づく。人類が骨を武器とすることに気づいた原人期。『二〇〇一年宇宙の旅』のオープニングのように。次に、賢三は何とポコチンの包皮をつまみ、グイッとねじるという荒行にも似た技術を発見する。過渡期だね。
四、摩擦期
そして彼はついについに発明する。「手」を用い、ポコチン本体を上下に摩擦する「正攻法」の発見。人類のあけぼのである。ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする、アーチャカポコチャカポコ、である。
「人に歴史あり」とはよくいったものだ。こうして紆余曲折の末に正調オナニーを独学で手に入れた彼は、中学入学とほぼ同時に精通も始まり、それから高校二年の今日に至るまで一日三回、一年で一千九十五回、かけることの五年。うるう年を入れて、合わせて五千四百七十八回、超感覚を味わうため日夜ポコチンと共に戦ってきたのだ。
女性読者諸君は彼を軽蔑するだろうか? 男なら、大半の男なら賛同してくれると思うのだが、最もスケベーの盛り上がりが高く、さらにその発散となる対象が最も手に入りにくい十代のモンモン野郎たちの回数としては、それ程多い数字ではない。少ないとはいわないが、賢三ぐらいのオナニストならそれこそ掃いて捨てるぐらいにはいる。
嘘だ、信じられないと思うなら、試しに貴女の彼氏に聞いてみるとよい。
その時「僕は一度たりともそんな行為をしたことがない」と語るような男は、過去に父と母を殺し、常習の麻薬中毒で結婚サギ師の大ウソつきに違いないから、悪いことはいわない、すぐに別れるべし。
「バカ、そんなにやるかよぉ、アッハッハ」
大方の男はそう言って笑いとばすだろう。しかし貴女よ、見逃してはならない。笑いながら彼の目がほんの一瞬だけ哀しげに潤むはずだ。それこそ彼が昔一日三回のオナニストであった証拠に他ならない。
彼の哀しげな目つきは、十代の頃のつらくわびしい、さみしいオナニー野郎時代の自分をフッと思い出してのものなのだから……。
大橋賢三の日々もオナニストとして王道を行くものであった。つらくわびしく、そしてさみしかった。彼の場合、そんな言葉を使うのももったいないかもしれない。
さえない。
その一語ですんでしまうのだ。
学生として、一日の大半を学校で過ごす。それは半強制的なわけで楽しいわけがない。少年少女たちはそれでも何とか楽しみを見つけようと友人をつくり、運がよければ彼氏彼女を捜し出す。友人にしろ恋人にしろ、必要なのは共通の興味だ。ディスコ、バイク、ケンカ、部活、テレビそしてセックス。まあ大体そんなところ、そのへんを押さえておけばなんとかなる。人並みにやっていける。これが囲碁、能面打ち、狂言、円盤投げ、なんて人とは違った興味の者を捜すとなると、これは大変。うまくいって同胞を見つけたとしても、マニアックな彼らは人並みに校内でのスタンスを見出せず、自然とのけ者の道を歩むわけだ。賢三は後者のタイプだった。彼の興味あるマンガ、映画、小説というのはよくある趣味であるにもかかわらず、同胞さえも見つけることができなかった。校内のマンガ好きの者たちは何故かみな太っていて、メタルフレームの眼鏡をかけ、お互いを「おたくさあ」と呼び合うジメーッとした人たちで、賢三が「大島弓子とか好き?」などと訊いてもチロッと上目遣いに見るだけで、返事をしないのだ。気味が悪いので友人にはなれない。映画も小説も好きだという者もいたが、彼らの挙げる作品はみなその年の売り上げトップ10に入るようなメジャーなものばかりで、賢三はがっくりした。興味のベクトルが別方向だ、ダメだこりゃと思った。
賢三にはおかしなプライドがあった。自分は人とは違う、何か違った能力があり、いつかは世に出る者なのだ、と。
それなのに学校においては人並みの生徒にもなれず、学業成績はすこぶる悪く、運動もできず、ただ単にさえない野郎だ。
彼はこの矛盾を思うと、ひどくやりきれない気持ちになる。
そのうえ……と心でつけ足し思う。
「そのうえオレは女としゃべることもできんのだ」
数千回のオナニーで訓練された彼のポコチン最大の弱点は、抑制がきかぬことである。
十代前半から三十代後半までの女性を前にすると、容姿人柄職業を問わず、おっ立っちまうんだよこいつのポコチンは!……ったく。
クラスの中で存在感のない、いてもいなくてもわからない賢三に率先して語りかけてくる女子などいなかった。たまに「宿題の範囲を教えてほしい」「班分けの名簿をつけるので用紙を渡す」などの事務的な用事で話す者はあった。
少女たちは何恥じ入ることなく(当たり前だ)賢三に言葉をかける。
そうすると瞬時にしてヘソ下ヘソ中三寸に鎮座ましました彼のファイヤーボールがうなりをあげる。
二十年前のマンガならボッキーン! という擬音で表現されたろう、彼のリビドーパワータワー略してLPT、すなわちポコチン、はっきりいってもただのポコチンが、ボッキーン!(あれ?)といきり立ってしまうのだ。
気づかぬ少女は微笑みさえ浮かべ、「生物部のアンケートなんだけど亀を飼ったことある?」と尋ねた。
賢三は亀を飼ったことオレあったかなと考えながらも、おっ立ったポコチンを気づかれまいかとハラハラし、それでも目線は少女のふくらみかけた胸の隆起をなぶるように見つめ、同時にこんな少女でもやはりパンティの下は陰毛なのだろうかなんてことも考えつつ、ハ、いかん亀、亀だったなと、もう一人でパニクって、わけわかんなくなっちまうのだ。
その混乱は純情なんていう優しいものではなく、もっとドロドロとした吹き出ものじみた人間の汚い部分によるものだと彼は自覚していた。
プライドばかり高く、そのくせ人並みにすらなれない自分のダメな部分が、全て性欲という形であふれてくるのだ。
そう思っていた。
学校が終わると賢三は婦人用自転車――通称オバチャリで三十分程かけて家へ帰る。クラッカーにバターをぬって紅茶で流し込むと、再びオバチャリにまたがり夕暮れの街へ出かけてゆく。
彼はだんだんと暮れていく街が好きだ。
街に灯りが点く前の、ほんの一時の、暗くなり始め、人も電柱も犬も自転車も実体のないものになりかける一瞬が好きだった。全てが闇の中に消えていくような錯覚を覚えるからだ。
「このままオレの性欲も消えちまえばいいのにな」
「それよかオレそのものが闇に消えちまえばいいんだ」
彼の住むその街は、古本屋が多くあった。これは読書好きの、そしてオナニスト賢三にとってとてもうれしいことだ。ほぼ毎日する古本屋巡りが、映画館に通うのと並んで彼の唯一の楽しみだ。古本屋と一口にいっても、店によってかなり違う。演劇に関する書物の多い店、オカルト関係のうさんくさい本が充実した店、『日本御仕置列伝』などといういかめしいタイトルの箱入り全集本が中心の店、大きくて真っ白なネコが、積み上げられた「アサヒカメラ」の上でいつも眠っている店……その中で彼がよく通ったのは、商店街のはずれにある非常に狭くて最もゴチャつき度の高い寅巳堂なる一軒だ。「どうでもいいよ人生なんて」という表情をした老人が営むこの店は、本当にどうでもいいのか、老人からは絶対に監視できない位置、なんと店の外に強大な棚があり、一冊百円なりの文庫本と、同じような値のついた男性週刊誌がぎゅうぎゅうと詰まっていた。まるで盗んで下さいというようなものだが、賢三は万引きもせず、たっぷり時間をかけてその棚から本を選ぶのが好きなのだ。
じーっくりと表紙、後書き、解説を吟味して文庫本を選ぶ。その一冊をわかりやすいところに入れ直し、次に今夜の……何と言おう……今夜のオナペット……古いか……ズリネタ……お下劣だな……まあいい、ともかく今夜のオナニーの聖書たりうる「もの」を探すのだ。
これについて彼にはいろいろなこだわりがあった。
「ひとつ、何人《なんぴと》たりとも脱ぐべからず」
のっけから理解しかねる読者も多かろうが、彼は、歴然としたヌードを好まないのだ。「女は薄物をまとっている時が一番エロである」。スポーツ新聞「玉門占い」冒頭の一文ではない。弱冠十七歳の賢三なりに思うこれは哲学なのだ。だからビニ本(なつかしー)、裏本の類は購読の対象にはならない。自然と、GORO、プレイボーイ、平凡パンチ、MOMOCO、写真時代、DUNK、少年マンガ誌のグラビア、写楽、というように、ある程度の雑誌名が限定されてくる。
「二つ、マンガは邪道なり」
オナニストの中には「やっぱエロマンガね、それも肉体労働者が読むようなグッチャグッチャしたエゲツないの、あれがくるね」と語る者も多い。筆者が独自の取材により統計をとったところによれば、オナニストのエロマンガ支持率はAV至上主義の現代においてもかなり高いものであった。賢三が古本屋巡りをしている八〇年代にはさらに高かったと思われるのだが、彼はエロマンガをよしとしなかった。そこに深い思想の有無を問うムキもあろうが、なんのことはない、ただの好みの問題。
「三つ、グラビアは紙質なり」
これももう哲学の領域なので黙って聞いてほしい。彼はピンナップ・グラビアの紙質にこだわるのだ。何故かは実のところ本人もわかっていない。あるいはトラウマによるものなのかもしれない。ともかく、彼の中では少年マガジンのグラビア、そのいかにも安っぽいざらつく紙質が一番「くる」のだ。燃えるのだ。続いて GORO、次に MOMOCO、という順になる。
以上の規準を踏まえた上で、まむしのようにネチっこく、今はすでにとっぷりと暮れた商店街のはずれで、少年は一人、オナニーのための一冊を真剣勝負で選ぶのだ。
その日、候補は二冊あった。一冊は少年マガジンだ。ツッパリイメージでデビューしたての中森明菜というアイドル・グラビアにひかれた。
童顔なのにすでにこの世の全てに冷めてしまったような少女は、かなり太っていて、レオタードからニュッと出た二の腕はハムのようだ。
だがそこがいい(ここで賢三はニヤリと笑った)。もう一冊は写楽。写真雑誌といいながらこの雑誌の売りはアイドルのグラビアだ。川上麻衣子というまだ若い女優がゴンヌズバーと脱いでいた。「何人たりとも脱ぐべからず」と言った舌の根のかわかぬうちにそりゃないだろうと思うだろうが、川上麻衣子が脱いだのだ。これは買わずにおられよか。何ごとにも例外はあるのだ。
小一時間悩んだのち、さっき見えやすいところに置いておいた三田誠広の『高校時代』と共に、結局二冊とも買って家へ帰った。
家ではすでに食事の用意ができていた。
グツグツと鍋が煮え、よい香りが漂っていた。「遅いぞ」と父親は賢三に言い、それきり黙って酒を飲んでいた。賢三は何も答えなかった。学校で存在感のない彼は、家では自ら存在感をなくそうと思い、家族の者とは極力口をきかないようにしていた。家庭は学校以上に自分のいる場所ではない、親とはたまたま血がつながってしまっただけなのだ。彼はそう思い、反抗するわけでもなく、波風を立てず、他人のように接したい、と思っていた。
その日の献立ては「おじや」だった。母は父に比べて多弁な人だ。賢三がいくら透明人間として家族と接しようとしても、何かどうでもいいような話題を無理矢理持ってきて一人で語っていたりする。しかし今日はその様子もなく、いそいそと食事の用意をしている。そして思い立ったように賢三を見て言った。
「ケンゾー、おやじっ!」
言った後で母はングっと口をつぐみ、何もなかったかのようにまたジャラジャラとハシを並べる態度はどうにもぎこちなかった。
大体「ケンゾー、おやじ」というのは何語だ?
それが「ケンゾー、おじやよ今日は」というのを言い間違えたのではなかろうかと気づくまでに、賢三はおじやを三杯食べた。
不審な母の態度にも家庭内透明人間の彼はあまり気にとめず、二階にある四畳半の自室に向かった。
扉を開けた瞬間、賢三はアッと息を飲んだ。
恐るべき事件が発生していたのだ。
そして母の奇怪な態度の意味を一瞬に彼は知った。
部屋の万年床の上に、青いスポーツ・バッグがボテッと置かれてあった。アディダスのまがいもの、その名もアドニスのロゴが入ったそのバッグは、賢三にとって宝物であり恥ずべきものであり、何より人目に触れてはならぬものであった。
バッグの中身は、あまたの雑誌から切り抜いたセクシー・グラビアをファイルした濃厚な内容のバインダー・ブックが少なくとも十冊、そしてエロの妄想を賢三が「イラスト」「ショートストーリー仕立ての小説」にしたとっても恥ずかしいノートが少なくとも六冊、ドーンと詰まっているのだ。
いつもは押し入れの奥に冬眠するがごとくしまわれたバッグが、何故? 今日は布団の上にあるのだ、お前は!?
いわずもがな、母だ! 血をわけたまごうことなき肉親、母の仕業に他ならない! ああ……。
おそらく母は何かの拍子にこのバッグを見つけ、部屋の真ん中でそれを開け、驚きと情けなさのあまり声をなくしその場に置きざりにしたのだ。呆然としながら食事の支度をし、何も知らず帰宅した性欲の人、わが息子に平静を取りつくろうと、決死の思いで言った一言が、
「けんぞー、おやじっ!」とは……。
賢三は母を呪い、アドニス・バッグを呪い、自分の性欲を呪い、そして自分自身を呪った。
やっぱりオレなんか消えちまえばいいんだ、とその夜思いながら、でもしっかり五千四百七十九回目のマスターベーションはした。
新人アイドル中森明菜の瞳が、とても哀しげには見えたのだけれど。
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第2章 「ビリー」
「ハァー」
賢三は、四畳半の自室で机に向かいながら深くため息をついた。
机の引き出しは20センチほど開けられ、開かれた本が斜めに立てかけられていた。
「ハァー」
その本の開かれたページを見つめてまたひとつ賢三のため息。
大きめのサイズにつくられたその本がパックリと開いたまま閉じそうな気配も見せないのは、何度もそういう状態で引き出しに立てかけられたことがあるからだ。
その本、『薬師丸ひろ子写真集』は、ペラペラとめくれば必ず彼女の水着写真のところでパカリと開いて止まるようになっていた。賢三がそのページばかり見るもので、「型」になっていたのだ。
「ハァー」
小麦色の肌に茶色の水着がいやらしい、ひろ子の水着姿を見つめて、賢三これで三つめのため息。
賢三は膨大な量のオナペットを所有していた。中でもこの『ひろ子水着写真』はヒズ・フェイヴァリットであった。
いくら見つめても飽きることがないのだ。そして『ひろ子水着』から喚起される妄想も、決してとどまるところを知らなかった。
「これでもか! これでもか!」
人間が想像しうるスケベー妄想の限りを思い浮かべても、さらに次から次へとひろ子水着写真は賢三に煩悩の波状攻撃をしかけてくるのだ。
この一枚で無限にオナニーができた。
連続三回のマスターベーションの直後でさえ、この「黄金の一枚」をチラリと見ればそれでもう彼のポコチンはボッキーン!……もとい、エレクトしてしまうのだ。
「オレは永久機関か……」と彼は自分を笑った。
また『ひろ子水着』を見ると、賢三はやたらにため息が出た。
「ハァー」
ため息にはいろいろな意味があった。
「どうして薬師丸ひろ子はこんなに可愛いのだろう」
「どうして薬師丸ひろ子はこんなにオレの性欲をくすぐるのだろう」
「どうしてオレはこんなにスケベーなのだろう」
そして最後に、
「こんな子と実際にスケベーをする機会なんて、この先永久にオレの人生にゃあきやしないんだろうな」
そう思うと、自分の人生、自分が生きているということがまるで無意味に思えてきて、腹の底からため息があふれ出してくるのだ。
「ハァー」
賢三は自分の人生が無意味だということに確信を持っていた。学校も家も何もかもつまらんと思いながら、社会というその最小公倍数から抜け出せない非力ないくじなしの自分こそスットコドッコイだ。「自分は人とは違う何かを持ってるはずだ、ナメラレてたまるか」と心はパンクでも、その実、女の子の一人ともまともに話ができんのだこの男は。
もどかしさ全開気分でひろ子を見れば、彼女はそんな賢三をバカにするかのようにうっすら笑顔。
「くそう! このアマ、犯してやる。妄想の中でたっぷりと犯してやるぞ」
ウオオッと心の中で獣じみたおたけびを上げ、賢三はおのがポコチンをムンズと握った。
「ホレホレこうしてやる! どうだどうだ」
哀れ妄想の中であられもないポーズを賢三にとらされる女優薬師丸ひろ子。
『修学旅行で京都に来た賢三と、ロケでやはり京都にいたひろ子がたまたま出会い、二人は金閣寺裏にあるラヴホテルで熱きスケベーを致すのであった』
フェリーニがノーテンパーになったとしても思いつかぬであろうシュールな設定を想い、賢三は妄想の中で何の罪もない女優を辱めるのだ。
と、
「ケンゾー、電話よ」
階下で母の声がした。
苦々しい思いで妄想を打ち切り、電話に出るとコクボタクオの眠たげな声が聞こえた。
「おう、賢三、何しとる?」
「あ、ああ、ちょっとものおもいにふけっとった」
「詩人やのう、暇なら家に来ねえ? カワボンもいる。ツェッペリン聴いてるんだ」
タクオの後ろでディストーション・ギターがうるさく響いていた。
タクオは一年の時同じクラスだった。家が近いこともあり、時々夜中に家を脱け出し、電気店の二階にある彼の部屋で酒盛りをしていた。賢三には珍しくウマの合う男だ。
「行くよ、シャッター開けといてよ、何か持ってくか?」
「ああっと、タコハイがいいなあ」
「あいよ、すぐ行く」
「ああ賢三」
「何?」
「いろいろ計画があるからさ、早く来な」
深夜まで営業している酒屋でタコハイとポテトチップスを買い、賢三は歩道橋の階段を昇っていた。この歩道橋を越えるとすぐ目の前にタクオの電気店がある。
前かがみに段を昇る彼の耳に、キャーキャー言いながらはしゃいでいる女の声がした。
見上げると賢三と同じくらいな年頃の少女と、小学生ぐらいの女の子が賢三より九段程上に立っていた。
月明りに照らされた年長の少女の顔には見覚えがあった。
同じクラスの山口|美甘子《みかこ》だ。
女の子は彼女の妹だろうか、二人はじゃんけんをしていた。
何度出してもあいこが出てしまい、その度に二人は顔を見合わせてうれしそうに笑った。
「ジャンケン・ポン!」
美甘子がチョキを出し、妹はパーを出していた。
「勝った、あたしチョコレートね」
「ずるい、今のはお姉ちゃん後出しでしょ」
美甘子は「アハハ、ダメダメ」と笑い、チ・ヨ・コ・レ・イ・トと言いながら、一語言う度に一段ずつポンポーンと階段を駆け降りた。
すぐに階上の妹を振り向き、
「ジャンケーン」
「ポン」
美甘子がグー、妹はチョキ。
地団太踏んで口惜しがる妹にまたアハハと笑い、グ・ミと言って彼女は二段下がった。短いスカートがヒラリとまくれ、真っ白な太モモが月に映えた。
顔を上げた彼女が二段下の賢三に気づいた。
「見られちゃったな」というようにニッと笑って、美甘子は小さく「あ、どうも」と言った。
「……ああ……」
もっと小さな声で賢三が答えた。けれど聞こえなかったらしく「え?」と美甘子が聞き返した。
「何か言った?」
「いや、何も言ってない」
そう言って、賢三は足早に階段を昇り美甘子の脇をすり抜けた。まるで逃げるようにだ。
美甘子の邪心のない目が、さっきまで性妄想のドロ沼に浸っていた賢三にはまぶしかったのだ。妹と無邪気にグミ・チョコレート・パイン遊びをしている彼女の姿は、純真清潔なるものの象徴のように見えた。美甘子に話しかけられると、賢三の中にたまった蔑むべきスケベーが、彼の毛穴という毛穴から今しも噴き出てくるような、そんな恐ろしい思いにとらわれて、賢三はいたたまれなかったのだ。読者諸君は、すかさず「そりゃ自意識過剰ってもんだよ」とつっ込まれたであろう、筆者もそう思う。しかし、思春期の人、賢三にとってそんなことには気づくわけもなく、ただひたすらに美甘子の目がすりガラスなしで見る日蝕のようにまぶしかったのだ。
歩道橋の上で、賢三は背中に山口姉妹の声を聞いた。
「あの人友だちィ? お姉ちゃんの」
「ぜーんぜん! クラスが同じだけよ!」
そうして二人は声を合わせて言った。
「ジャンケン・ポン!」
「おー、賢三ォ、よく来たなぁ、やっぱジミー・ペイジはいいぞう」
電気店の二階では、すでにタクオが酔っぱらっていた。
タクオの両親は店を閉めると、別にある家の方へ帰ってしまう。タクオは親のいないのをいいことに、二階を占領し自分の城にしていた。城では毎夜ロックが大音響で流れ、ビールびんが何本も空になっていた。
「タコハイある、タコハイ」
タクオはろれつのまわらぬ声で言いながら賢三の持ってきた焼酎を奪い取った。
「タクオ酔っぱらっちゃってさあ」
そう言ったカワボンの目もすっかり据わっている。
「結局二人とも酔ってるわけか」
「おおそうだ! 悪いか、座れよ」
タクオが投げてよこしたクッションにあぐらをかき、賢三はカワボンのつぐビールでまず駆けつけの一気。
「プハー、ああきくなぁ」
それぞれに酔っている連中を見て、これは早々に自分も酔っぱらっちまわなければなと思った賢三は続けてもう一気。
賢三とタクオ、それにカワボンは週に一度か二度、こうやって集っては酒を飲み、タバコをふかし、ということをやっていた。
やたらいろんなことに口をつっ込み、熱しやすく冷めやすいタクオ、それに比べ落ち着いているというか、のんびりとしたカワボン、それに賢三が加わって、三人は酔いがまわってくると、今いるアイドルで最も早く乳輪を見せるのは誰か? なんてことから現代高校教育における矛盾と欺瞞なんて話題に至るまでを終わりなく論じるのであった。タクオが熱く自分の主張をまくし立て、賢三が彼のあげ足を取る。二人のやりとりを笑いながら見ているカワボンが、時々するどいつっ込みを投げかける。そんなふうにして議論は朝まで続くこともあった。明け方、シャッターを開けると、真っ白な朝の光が三人の眼に飛び込んだ。
チクチク痛む眼をしかめながらも、賢三はこういう時、何かひとつの仕事を成しとげたようにうれしかった。
ロックに傾倒しているタクオ、映画の虫の賢三、浅く広く知識の幅が大きなカワボンというように、三人の趣味は一致していなかったが、彼らにはあるひとつの共通点があった。「自分には何か人と違った能力がある、だがそれが何なのか今はわからない」という「想い」だ。
お互いに面と向かってそんなことを口にしたことはなかった。三人ともそのことには気づいていた。だから誰かが酔いのまわった口で「何かやりてえよなあ、何かできねえかなあ」などと言う時は、他の二人も心の中で「オレには何ができるだろうか」と自問した。
明確な答えが出たことはなかった。
「何かやりてえよなあ、何かできねえかなあ」
この夜も、そろそろ本格的に酔いのまわってきたらしいタクオが、もともとギョロ目なのにさらに目をむいて決まり文句を口にした。
賢三もお約束で、心の中で「オレには何が?」と自問した。カワボンもそう思っているのだろうなと彼を見ると、意外にもニコニコと笑っている。そしてこう言った。
「タクオの言うように、オレたちはいっつも何かできると思いながら、何やったらいいかわかんなかったわけだよ、なあタクちゃん、そうだろ」
「おお、そうだよ。オレたちは知能指数とかそういうのは別にしてだな、学校にいるあのつまらん奴らとは違うんだよ。待てよ賢三、みなまで言うな、お前の言うことはわかるよ、『何を根拠に?』って言いたいんだろ、そうだよ、別に根拠はねえよ、でもよ、オレたちには少なくとも『何かをしなきゃ』って問題意識はあるだろ、少なくともオレにはあるぞ」
「何か『熱い』なタクオ」
「おおおお! 熱いよ、オレは熱いよ!」
「で、何なのよ」
「だから何かやろうっつってんのよ! この三人でさ!」
「だから何やんのよ」
「何かだよ」
「何?」
「だから何かだって……」
まあまあというようにカワボンが彼のコップにタコハイをついだ。
「こんなことを賢三が来るまで話し合ってたんだよ。でね、何かやろうってことになったの」
「カワボンまでわけのわからんことを。オレも退屈に過ぎてくこの日常を何とかしようって意識はあるよ、今までガンと言わなかっただけでさあ。そりゃあるよ、でもタクオの言ってることはさっぱり」
「なんだこら賢三、おめー!」
あばれ出しそうな酒乱の気があるタクオを押さえてカワボンは言った。
「バンドでも映画つくるんでもいいしさ、何かやろうよ、計画立てようよ」
「オレはバンドをやる!」
カワボンの腕を振りほどき、ギョロ目をさらにむいてタクオは決然と、
「オレはジミー・ペイジになる」
と叫び、しかしすぐに小さく、
「ギター弾けんけどもね」とつぶやいた。
「う〜〜ん何かねえ、オレは映画がいいなあ」
賢三は秘かに8ミリ映画を撮ってみようかと考えていた。金も人脈もない彼のこと、そんな大仰なものはつくれまいが、いつか新宿のアンダーグラウンドなムーヴィー喫茶で観たいくつかの実験映画、感性にまかせてフィルムに絵の具をぶちまけたかのような、ストーリーのないシュールな映像。ああいうものならもしかしたら自分にも撮れないだろうか、そんなことを考えていたのだ。
「ケネス・アンガーとかルイス・ブニュエルなんて人がいてさ、わけわかんないけどすごい映画つくってんだよ、こう、女の眼をいきなりカミソリで切っちゃったりとか、不思議なシーンがいっぱい続くような」
「ああ、あれか、『アンダルシアの犬』だね」
「さすがカワボン、よく知ってるなあ。なあタクオ、お前映画は……」
「オレはジミー・ペイジだっつってんだろ、ジャカジャーン! キュルキュルキュル」
タクオは一升びんを抱え、ギターを弾くまねを始めた。目を細め悦に入り「プッシュプッシュ」などとロバート・プラントのまねまでしている。
「おいそれロバート・プラントだろう」
「いいの、オレの中にはね、ジミーとロバート・プラントが同居してるの」
「ああそー、ほっとこ、でさ、どうかなカワボン、映画、8ミリでさ、いいのできたら|ぴ《*1》あのフィルフェス送ってさあ」
「ううん、いいかもね、シュールな短編ねえ」
「いいよね。わけわかんないんだけどさ、なんかそういうのってくるんだよ、思ったんだ。結局創作するってのはさ、自分の中の怒りだとか哀しみとか喜びとか、とにかくグチャグチャした心の動きを作品に置きかえるっていう作業なわけじゃない、そしたらさ、ストーリーなんて関係なくていいんじゃないかな。映像の羅列でも、いいたいことが完成品に出てればいいんだよね」
「いやそれは自己満足にすぎねえな!」
タクオが怒鳴った。
「そうかなあ。だってわかる奴はわかるんだぜ」
「違う! 万人の胸を打たんで何の創作だ、コノヤロー!」
「万人の胸を打つことが創作なのか! そんなありきたりにつくられたもんのどこに感動がある、ただの商業主義じゃないか」
「違う! 問題はお前の発想があくまで自分自身を満足させようと思ってるにすぎないっつーことなんだよ! 自己満足だろ! いいたいことが出てたって、たかだかお前のいいたいことなんて女とやりてえとかそんなことだろ」
「女とやりたいっていうことが創作の源になっちゃいけないのか、今ある芸術のおよそ半分以上はその発想からきてるんだぞ」
「そうじゃなくてだ、問題はな、技法も基礎もないからシュールに逃げようという、つまりあれだ、お前の存在的軽薄さだよ」
「技法は後でついてくるんだ」
「バカ、お前みたいのがシュール、シュールといっているうちに『シュールであらなければいけない』という定型にはまってだな、『定型アヴァンギャルド』なんつー見事に矛盾したものをつくり出すやからになるんだよ!」
さて、読者はこの二人が論ずることを理解できるだろうか、筆者はさっぱりわからん。
本当いうと討論している当の二人にもわかってはいないのだ。ただ二人はなるべくこむずかしいごたく、はっきりいえば屁理屈を並べまくることで、自分たちがまるで「選ばれし者の恍惚と不安」に浸っているような気になれる討論にただ酔っているだけなのだ。
「だからつまりあれだ。問題はだなあ、問題は……」
語るうちに自分が何を言っていたのかわからなくなってしまった賢三の言葉を引きついで、カワボンが言った。
「問題はつまり何をすべきかってことだろ。賢三の言ったように創作ってのは、心の中にある何だかわからないものを作品に置きかえることだとオレも思う。映画でも音楽でも絵を描くんでも、女を自分の好みにすることでもさあ……じゃあそこでだよ、そこでさてオレたちは何をする?」
賢三もタクオも黙ってしまった。ツェッペリンの「|移《*2》民の歌」だけがのんきに流れていた。
「……何か……かあ」タクオがつぶやいた。
「……何か……ねえ」賢三もぼそりと言った。
「女を囲って自分の色に染めるなんてのはやってみてえけどな」
カワボンが大人ぶって言った。
「うん、やりてえって感じのパッと見スケベな女をなあ……賢三のクラスの、ほら山口美甘子みたいな奴」
タクオの言葉に賢三はなぜかギョッとして、あやうくコップを落としそうになった。
「あいつスケベな体してるもんなあ、処女じゃねえんだろうなあ」
山口美甘子は確かにエッチな体つきをしていた。まだ高二なのにパツンパツンに張った胸やヒップは実に見事であった。
しかし賢三は、美甘子を「おかず」にマスターベーションをしたことはなかった。
クラスの中で、よほどのブスをのぞいて彼の性妄想のえじきになっていないのは、美甘子だけだった。
何度か美甘子でいたそうとはしたものの、いざとなると手が止まった。
いつだったか、学校の階段で今夜のように賢三は美甘子とすれ違った。
彼女の首筋から放たれた甘い花に似た香りに賢三はクラクラとした。ドキドキして困った。
その日から、美甘子ではすまいと決めたのだ。
『オレはどうやら美甘子を好きになってしまったようだ。好きな女を、頭の中とはいえあんな汚らしいオレのオナニーの犠牲にしちゃいかん』
そう決めたのだ。
「しかし何すっかね」
カワボンはそう言って、何気なく「ぴあ」をペラペラとめくり「とりあえず映画でもいこっか」ととぼけた調子で言った。
「ハハハ、『穴のにおい』だって」
「ああ、ポルノか」
タクオがのぞき込んだ。
「ギャハハ、『お姉さんの太もも』だって」
「これこれ『節子の告白、あれは遊びよ』」
「『痴漢透明人間!』」
「『三日三晩汗だらけ!』」
「ギャハハハハいいなあ、よく考えるよなあ、こういう題を」
「ところで賢三、カワボン、ポルノ観たことある?」
タクオが真顔で聞いた。
「ない!」
「オレも!」
「よし、じゃ、とりあえずポルノ観に行こう。オレたちの大事業はポルノ観ながら決めようぜ、な! へへへ」
タクオは笑い、そしてタコハイをグッと飲んだ。
「ポルノかあ、いいかもね、フフ」
カワボンもニコリと笑いタコハイをあおった。
「おうポルノ、行こう行こう、エヘエヘ」
賢三もタコハイをつぎ、三人は酔っぱらい特有の無意味さで、
「ポルノに乾杯!」
と叫んだ。
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*1 雑誌「ぴあ」主催の自主映画コンテスト、フィルムフェスティバルのこと。
*2 プロレスラー、故ブルーザー・ブロディの主題歌でもありました。
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第3章 「ZOOMUP」
名もない少女でするオナニーは格別だ。
名もない出版社から出ている「ドンドン・マガジン」だとか「パンティー・ボイス」などという、言葉としての機能を停止したかのようなタイトルのエロ雑誌。グラビアを飾る少女たちはいつでも無名だ。美人ではないけれど体はエッチな彼女たちに関する情報は何もない。性格も本名も趣味や親の職業もわからぬ彼女たちは、ただ男性読者のリビドー光線性欲ビームを受けるために存在する一塊の肉なのだ。
パーソナルを隠滅することで少女の持つエロスのみが湧き立ち、そこにあるのは一人の人間というより単に「女のハダカ」。
「シンプル・イズ・ベスト」
ミスター・ベースボール長嶋茂雄のようなことを心の中でつぶやきながら、賢三は例によってポコチンを右手でしごいていた(しごくってスゴイよなあ、星一徹じゃないっつーの)。
左手にエロ本、右手にポコチン。
賢三のオナニー時にとるポーズはもう、ひとつの「型」になっていた。大の大人が押しても倒れなかったといわれる王貞治のフラミンゴ打法のように、あるいはミケランジェロのダビデ像のように、賢三のオナニー・ポーズはピタリと決まっていた。それは十年に亙るオナニー・ライフのなせる型なのだ……自慢できるものではないが……。
型だけでなく時間までをも賢三は支配していた。「いきたい時にいく」技を賢三は持っていた。「今日はたっぷり楽しもう」と思った時はエクスタシー直前に右手の上下運動を和らげる。そうして左手に持つエロ本を違うものにかえたりして十二分にひとときを楽しむのだ。逆にあまり時間がない、また「行きがけに一発抜いとくか」などという時は右手の運動能力を可能な限り発揮させる。その速さたるや光よりも速いといわれるタキオン粒子のごとし。高速で行きかう右手は五つにも六つにも見え、さながら分身の術のごとし、見事なり賢三の荒技……しかし自慢できるもんじゃないわな。
今日の賢三は「行きがけに一発」のオナニーだった。ムダな雑念の入らぬようエロ本は名もない少女満載の自販機本(自動販売機で売ってるエロ本)「ボディーエロス」を選んだ。
右手をフル回転し、賢三は三分強で早くもはるかな山の頂にさしかかった。
エクスタシー直前、賢三の性妄想にはターボがかかる。無名の少女は妄想の中であらん限りのスケベーな言葉を口にする。
「もっとお願い、やめちゃいやビショビショなのくわえさせていくいく死ぬ死ぬおっぱいとろけそうよいやんバッカンやめてやめないで堪忍してでもやめちゃいやいいでもいやなのよ」
どないせえっつーんじゃ。
無名の少女は賢三の意のままに大開脚。自らの乳房をムンズとわしづかみ唇はヌメヌメと粘液に光り、体全体がのたうつ水辺の生物のようだ。
賢三の心から湧き出していくドロリとした液体によって彼女はさらに軟体動物じみていった。
賢三のポコチンに体中の血が快感と共に押し寄せ、少女が完全に下等動物と化す寸前。血と快感はともにポンとはじけた拍子に混ざり合い、真っ白な汚物となってポコチンの先っぽからピュッと飛び立った。
「賢三、一発抜いてきただろ……」
待ち合わせた練馬パレス座裏の喫茶店「ラリー」でコーヒーを飲んでいたカワボンは、店に入ってきた賢三の顔を見るなり笑いながら言った。
「ちょっとカワボン聞こえるように言うなよなあ……あ、コーヒー下さい」
「アハハ悪いっす」
「いや、でも何でわかった? ポルノ観に行くんだと思ったら興奮してきちゃってさあ、抜いてきちゃった」
「やっぱなあ」
「あ、じゃカワボンももしかして」
「ああ、そのとおり。抜いてきましたよ私も」
賢三とカワボンはクヒヒヒと声を殺して笑った。
「情けないよなあケンゾー、お互いに」
「何が情けないってさ、抜いた後のあのやるせなさね」
「抜いた後のやるせなさ」……男だけが知る人生のエアポケットのような時間。女にはわかるまい、オナニー・ボーイズのみが知るあの虚無感。
「最初あれってオレだけが感じてんのかと思ってたよ。で、カワボンもタクオもあるっていうからさ。しかしあれって何なんだろうね」
「射精した直後にくるんだよね。二秒前までのドスケベな自分が他人に思えるんだ」
「そそそ、そう、モンノスゲー後悔するんだよね。『ああまたバカなことをしてしまった』ってさあ」
「百八十度気持ちが逆になるもんなあ。抜いた直後って妙に哲学的になったりしてさ」
「こんなことをしてしまうのは本来人間とは悪なものだから仕方ないのである、とかね」
「性悪説を私は支持する、とか思うよね」
「ハハハ、そうそう。そうかあ、オナニー直後はカワボンも性悪説かあ」
「あのやるせなさってさ、一説によると猿みたいにオナニーし続けないためになるらしいよ」
「その機能って誰が人間の男につけ加えたんだろうなあ」
「やっぱ神と呼ばれるものじゃない」
「じゃあ神は失敗したんだなあ」
「なあ」
「やるせなくなっても十分もすれば元の性欲野郎に戻っちまうじゃない」
「で、結局猿と一緒」
賢三とカワボンはまた声を殺しクヒヒヒと笑った。
「おお、待たせたなワリィ、ワリィ」
賢三の背後でタクオのデカイ声が聞こえた。
「遅えよタク……」
振り向いた賢三はタクオの姿を見て絶句した。
「タ……タクオお前なんなの、そのカッコ」
カワボンもあきれた声で言った。
「え、変かなあ、変かあ?」
そう言って頭をかいているタクオのかっこうは明らかに「変」であった。
タクオの髪はポマードか何かでピッシリと七・三に分けられていた。ギョロ目で童顔のタクオにサラリーマン七・三分けは見事に似合わず、不気味な父っつぁん坊やと化していた。
さらにタクオは背広、しかもスリーピースを着込み、サイズが合わないスーツ姿は藤子不二雄のマンガに出てくるキャラクターのようだ。
不気味だ。
「な、なんだお前、そのスーツどうしたんだよ」カワボンが再び聞いた。
「いやあ親父のを借りてきたんだけどさあ、似合わんかな」
「そういう次元の問題ではないと思うぞ」
「なあ賢三、オレ十八歳以上に見えるかあ?」
「あ、まさかタクオ、お前ポルノの十八歳未満禁止を考えて」
「そうなんだよ」
「ギャハハハハハ」
「ギャハハハハハ」
「あ、笑ったな、カワボンまで笑いやがったな、オレはだな、最善を尽くすつもりでだな、決死の思いで親父のスーツをかっぱらってきたんだぞ! それをお前ら笑うのか!」
「アハハ……悪い、悪かったタクオ。まあ座れ」
憤懣やるかたないといった顔をしながらも、タクオはカワボンの言葉に従い、席に着いた。
だが、絶妙のタイミングで、オーダーを取りに来たウェイトレスがタクオの姿を見てプッと吹き出した。
「ギャハハハハハハハハハハ」
「クククク、ブワッハハハハハ」
「あー! 笑うのかあ! お前ら笑うのかあ、なんだよチクショー」
「ウワッハハハハハ」
「ギャーッハッハッハ」
「ク、クソーッ……」
タクオの拳がワナワナと震え始めた。
ギョロっとした目が赤く充血している。ポマードで固まった髪の先までがプルプルと震えている。激情男タクオはこうやってちょっとからかうと、いつも本当に怒ってしまうのだ。賢三たちはその様子がおかしくてよく彼をおちょくっては遊んでいた。怒りが爆発する直前に、まとめ役のカワボンがフォローを入れることになっていた。
「ま、でもタクオの気持ちもよくわかるよ。門前払いくったらたまんないもんね」
そろそろと思ったのか、カワボンがタクオの肩をポンと叩いて言った。
「そうだろ、そうだろ、用意周到と言ってほしいなあ」
「やぶヘビって言うんじゃないの」
賢三のいらぬつっ込みにタクオが「なんだとこのー!」と声を荒らげる。
「まあまあ、まあまあ」
カワボンが二人の間に入る。
ボケ、ツッコミ、仲裁と、まるで往年のトリオマンザイ、レッツゴー三匹のように配役の決まったこの三人組は、日頃から自分たちを取り巻く社会というものを嫌悪し、そして自分たちの中に存在すると信じている「人とは違った能力」の、その発露の手段を捜すべく、「何かをやろう」と誓いだけは立てたのだが、さて何をやったものか見当もつかず、「とりあえずポルノ映画でも観に行くかあ」という実に情けない情況のもとこの喫茶店に集ったわけなのだ。
「用意周到だよ、うん、タクオの考えは正しい」
「そうだろ、ケンゾー、お前はポルノ映画館を甘く見てるんだよ」
そう言ってタクオはこれも親父のをかっぱらってきたと思われる黒い革のバッグをテーブルの上にのせ、ジッパーを開けて手を入れ、ゴソゴソと何かを捜し出した。
「これを見ろ」
タクオがカバンから取り出したのはハンダゴテとニッパーだった。
「店から持ってきたんだ。護身用にな」
「護身……って?」
「ケンゾー、オレこれから行く練馬パレス座について嫌なウワサを耳にしたんだ」
「何よ?」
「パレス座は工業のナワバリらしい」
「工業って、ヤマ工のこと」
「そう、ヤマ工」
ヤマ工とは大和山第一工業高校という、賢三たちの通う黒所高校の近くにある、区内一ガラの悪いといわれる学校のことだ。黒所高のツッパった連中が呼び出されてしめられたというウワサを賢三も聞いたことがある。
「パレス座にはヤマ工の奴が必ずいて黒所の者を見つけるとしめるらしいぞ」
タクオは目を細め、妙にしぶい表情をつくってみせた。
「もしもの時は、この長年愛用したハンダゴテとニッパーで……」
「お前やっぱりバカね」
「何だと」
「すると何か、ヤマ工の生徒は縄張りを守るため、毎日ポルノ映画館で見張ってんのか? 市ケ谷のつりぼりで魚つってんじゃないんだからさ、そんな暇人いるかってえのよ」
「いや、しかしウワサで」
「うーん、ないとは言いきれんかもなあ」
「カワボン、無理にフォローしなくていいよ。アレ! それよりこれは……」
タクオのスーツの胸ポケットから飛び出していたものを賢三がサッと抜き出した。それを見てカワボンもアッと声を上げた。
「これ、コンドーム」
「そ」
タクオがニヤリと口の端を曲げて笑ってみせた。
「ま、一応ね」
「一応ってタクオ、お前何を考えてんの?」
「これもウワサなんだけどな、パレスにはさせ子がいるらしい」
「させ子……」
「色情狂だよ。まだ三十代前半の色っぽい女だけど、ダンナと死に別れてちょっとおかしくなっちまってな、パレスで若い元気そうな男を見るとホテルに誘うらしいぞ。ウワサだがな。ま、一応そういう女に、気に入られちまった時のことを考えてだな……」
「……タクオ……バカ」
「用意周到だよ」
「うーん、ダメだケンゾー、今度ばかりはオレもフォローできん」
「すると何か、練馬パレス座というのは不良学生が常に見張りを立て、色情狂の未亡人が男を見つくろう、そういう場所なわけか、タクオ」
「そ、そういうことになるかな」
「オレたち、恐ろしいところに行こうとしてるんだねえ」
カワボンがのんびりと言った。
水を取りかえに来たウェイトレスがまたタクオを見てプッと吹き出した。
しかしタクオの言うことも決して間違ってはいないな、と練馬パレス座の前まで来て賢三はそう思った。
「昼なお暗い」まだ館内に入る前から、ダークなオーラをパレス座に感じ三人はたじろいだ。
ハダカの女が絡み合い、遠目に見ると桃色に見えるポスター。
入り口付近に貼られた白黒スチール写真もみな女の裸体だ。
くすんだ色のカーテンが閉ざされた窓口。
ボコボコと穴の開いた館内の扉が外からも見える。
いきなり扉が開かれ、青白い顔をした初老の男が、ユラユラと海草のように現れた。館外に出た彼はまぶしそうに眉をしかめ、陽をさえぎろうと手をかざし、何だかとっても「スマナイ」という顔をして、三人の前を通り過ぎていった。
「都会の陰の部分って感じだなあ」
カワボンがボソリと言った。
「いなたいっていうのか……ブルージーだよね」
賢三がやばいとこ来ちゃったなあというように言った。
「次回上映『犯す! 犯される! 犯して!』……か。なんだろーね」
タクオが落ちてくる髪を気にしながら言った。
「じゃ……入ろうか」
カワボンが意を決したように言ったが三人はなかなか入ろうとしない。
「なんか緊張するなあ、ちょっとタバコ買ってくる」
タクオが、映画館の向かいにあるタバコ屋に走った。販売機で買えばいいものを、店番のおばちゃんに金を差し出した彼は案の定「この父っつぁん坊やは一体何者だ?」といういぶかしげな顔で応対されていた。
タクオが戻ったところで三人は、カワボンを先頭に切符売り場に並んだ。窓口の穴に金を差し出すと、ヌッと闇の向こうから手が伸び金をつかみ、パラリと小さなチケットを投げてよこした。指先の爪には毒っぽい赤いマニキュアがたっぷりと塗られていた。
「ゴシックホラーのようだ」
賢三は心の中でそう思った。
館内に入るともぎり嬢……というかもぎりババアが三人の半券をちぎった。
タクオの警戒は無駄な努力だったようだ。ババアは三人の高校生にまったく興味を示さず、タクオの父っつぁん坊や状態にさえ表情ひとつ変えず半券をちぎった。三人どころか、このババアは、この世の何事にも興味がないんじゃないだろうかと賢三は思った。
館内には、一応待ち合わせロビーのようなところがあり、雑誌の積まれたテーブルと、粗大ゴミを再利用しているような汚いソファーが置かれていた。学生風の男が一人ぼんやりと何も見ていない目でタバコを吸っていた。
湿地帯の静けさが館内を覆っていた。気だるい、いなたい、貧乏臭い。そんなじっとりとした待ち合わせ場所に、時々「ああん」「いいわっ」といった女のあえぎ声がこもって聞こえた。
「おお聞こえる。やってるやってる。この扉の向こうでポルノ・ムーヴィーが映し出されてるわけだな」
はやくも興奮ぎみのタクオ。
「じゃあ、開けるか」
冷静だが、カワボンの声も上ずっている。
「|デ《*3》ビルマンの黒ミサパーティーに行くシーンみたいだなあ」
そう言いながら賢三が扉に手をかけた。
音もなく扉は開かれた。
「おおっ」
三人は同時に小さく唸った。
でかい。
でかすぎる。
運動会の玉ころがしに使うハリボテのボールかというぐらいに強大なオッパイが二つ(まあ二つに決まっとるが)ドーン、チュドドオオオオンとスクリーンに映し出されていたのだ。
「で、でかい」
「しかも動いている」
「乳輪黒い」
おのおの、まずさっそくその感想を口にしながら席に着いた。三人は吸い込まれるようにスクリーン直前に席を取った。館内はガラガラだったが、最前列のど真ん中には老人がポツンと座っていたため、彼らは二列目の真ん中に座った。
パレス座は四本立てであった。これは後で知ったことなのだがポルノと呼べるのはにっかつの製作した映画のことであり、それ以外の大映、新東宝などという会社の製作した映画は通称「ピンク」と呼ばれている。パレス座はポルノとピンクを半分ずつかける映画館なのだ。ポルノとピンクは微妙に違う映画なのだ、もちろんエロ映画初体験の三人にはそんなことは関係がない。
とにかく女のハダカが巨大化されて蠢いているのだ。
女、女、女、女のハダカの前に言葉なし。
三本目の途中まで、三人は一言も言葉を発しなかった。
ピーンと張りつめ切りまくった精神状態の中に彼らはあったのだ。
スケベー妄想は表面張力限界ギリギリにふくれ上がり、ポコチンは長時間エレクトしまくりまくりのあまり、痛いくらいであった。
三人の緊張の糸を切ったのは前列にいた老人だった。突然振り返ったジーさんはこんなことを三人に言ったのだった。
「スマンがのう、この席、人が座らんように見とってくれんかな」
咄嗟のことに「ハア」と答えた三人の言葉にうなずくと、ジーさんは席を立ち、外へ出ていった。そしてトイレにでも行ってきたのだろうか、すぐ戻ってくると三人に「ありがとうよ」と礼を言い、またさっきと同じ席に腰を下ろした。
ヘンテコな老人の登場で三人はやっと我に返った。三本目が終わり館内が明るくなると、彼らは一斉にハーッとため息をついた。
「オレ、ちょっと外の空気吸ってくるわ」
タクオが多少ふらつきながら席を立った。
「とか言ってあいつトイレで抜いてくる気じゃあるまいなあ」
そう言うカワボンの目の下にはクマができていた。
「ケンゾー、どう?」
「ああ、いやあ何ともまいったなあ、オレ映画好きだからさあ、何とか一本の作品として観ようと思うんだけど、それより、やっぱりハダカに目がいっちゃってさあ」
「家に帰ってからが思いやられるよ」
「ああねえ、キング・オブ・オナニー状態に陥りそうだよ」
「ケンゾーがキングならオレはゴッド・オブ・オナニーだろうなあ」
「タクオはさしずめマシーン・オブ・オナニーかあ?」
二人はイヒヒヒと笑った。
その時、あわてながら戻ってきたタクオが、
「ケンゾー、カワボンやべえよ」
と大声で言った。
「何よ、どうしたのよ」
「オレたち、ここから出れねえよ」
「へ?」
「パレス座の前のタバコ屋、バッチリこっちが見えるあのタバコ屋にさ、いるんだよ、山口が」
「ヤマグチ?」
「山口美甘子だよ、ケンゾーのクラスの。店番やってんだよあいつが。こんなとこから三人ゾロゾロ出てくるの見られたらちょっとマズイぞ」
それを聞いて、レッド・ゾーンを振り切っていた賢三のエロ・リビドーが〇・〇一秒の素早さで一挙にマイナスまで下がっていった。
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*3 永井豪著『デビルマン』の中で、悪魔と合体することを決意した主人公が黒ミサパーティーに飛び込むシーンがあるのだ。
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第4章 「DUNK」
三人は映画館の待ち合いロビーに集った。
そこから映画館の入り口が見えるのだ。
もぎりババアは居眠りをしていた。コクンコクンと前後に頭を揺らしている。
映画館の外は黄昏《たそが》れていた。
入り口から射し込む夕陽が金色のじゅうたんを敷いた道のように、三人のいる待ち合いロビーまで延びていた。
その道をたどった先に山口美甘子がいた。
校則スレスレに毛先をくるりとまるめた髪型。「びっくりした」ように大きな瞳。賢三は彼女の目つきを見る度に、コメディ女優のゴールディー・ホーンを思い浮かべた。
パレス座正面歩いて十五秒のタバコ屋で店番をしているのは間違いなく山口美甘子だった。店先で文庫本を読んでいる彼女の顔は夕陽に照らし出されて、賢三には仏像のように輝いて見えた。
暗黒ポルノ映画館のロビーで野郎とたむろする賢三。初夏の夕陽を頬に受け仏像色に映える美甘子。これは自分の心象風景の完璧なる映像現実化ではないか、と賢三は思った。
「おい、ケンゾー、もうちょっと引っ込めよ。気づかれるぞ」
タクオが賢三の腕をグイッと引っぱった。
「こんだけ近い距離だぜ、のこのこ出てったら一発でばれちまうよ」
タクオは眉をしかめて言った。
「うーん、弱ったなどうも」
カワボンも苦い表情。
読者の中には、「別にポルノ映画館から出てくるところを見られるぐらい、いーじゃないのよ」と素朴なる疑問を持った人も多々いるだろう。しかし三人にとっては、ポルノ映画を観たという事実を山口美甘子に目撃されることが、大いに問題ある事態なのである。
それは高校での彼らの立場から推測できる。
三人は、「オレたちには周りのつまらん俗っぽい連中とは違う能力があるのだ」と自負するプライド高き男たちだ。それがどんな能力であるのかは三人ともわかってはいない。ただそう思い込んでいるにすぎず、だからそれを発揮する手段などはなっからない。
他人から見ればただのダメ人間である。
特に学校という枠の中で必要な能力というのは数が限られている。スポーツ、勉強、友人を引きつける知識、この三つだ。
「人とは違った何かスゴイ能力」などというものは、そこそこな学校生活においては無用の長物なのである。さらに三人はスポーツも勉強も不得手であった。残るひとつの要素「友人を引きつける知識」だが、彼らの通う黒所高校の教室で必要となる知識とは、バイク、バイト、ディスコ、そんなところであり、彼らはそのいずれにも興味がなかった。
自然に彼らは校内で孤立した存在となっていた。
というより存在がないに等しい状態だった。
プライドばかり高く、他の者たちと混じり合おうとしない彼らは、孤高を気取るあまり、いつしか誰からも忘れられた男たちになっていた。
賢三、タクオ、カワボンの三人は、三人で集う時だけ多弁だった。
教室の中での彼らは、自分の砦の中に閉じ籠った単に目立たない奴ら、ホラよくいるでしょ、卒業写真の中で「あれ、こんな奴いたっけなあ」っていう人が。三人は、つまりアレだ。
「オレたち、黒所の通俗な連中からは無視されてるわけだからなあ。その三人がパレス座から揃って出てきたなんて情報が流れたら」
タクオがゴクリとつばを飲んだ。
「オレらの黒所での存在は『パレス座でポルノを観ていた暗い連中』というネガティヴ・イメージだけで認識されるわけか」
とカワボンがタクオのあとを継いで冷静な分析。
「それはちょっとマズイなあ。オレたちの異端な能力を奴らに知らしめる前にただの『ポルノ観てた連中』で終わっちまうのは口惜しいね」
カワボンは真剣に口惜しがっているようだった。しかし客観的に見ればこの三人、実際に、ただの「ポルノ観てた連中」なわけだが……それはさておき。
賢三はカワボンやタクオとはまた違った意味でこの状況に困り果てていた。
黒所の連中に「ポルノ観てた暗い連中」と認識されることより、山口美甘子に「ポルノ映画館から出てきた大橋賢三」と認識されることが賢三には痛かった。
「ポルノ映画館から出てきたオレを見て、美甘子はオレの性妄想の全貌を知るに違いない」
んなこたあるわけがないのだが、賢三はそんな気がしてならなかった。
自分の恥ずべきスケベーを山口美甘子に知られることは、賢三には耐えがたかった。それに「美甘子でだけはオナるまい」という、自戒の意味までがなくなってしまうではないか。
「よりによって山口美甘子とはなあ」
タクオの言葉に賢三はびくりとした。親友はすでにオレの美甘子に対する想いを悟っていたのか?
「あんな通俗の極みみたいな女に見られるのは困るなあ、なあ賢三」
「へっ?……あ、ああ、なあ」
「山口って賢三のクラスだろ。あいつどう? 口軽そう?」
「さあ……オレはよく知らないけど、多分そうなんじゃないかなあ」
美甘子はクラスの中でも目立つグループにいた。彼女たちはおしゃべりで、賢三にはその話があまりに無意味な内容に思えた。
「きのうディスコでナンパされたけどヤマ工の○○先輩と知り合いのナントカって奴でカッコイイけどいいカッコしいで乗ってるバイクはいいけどあたし嫌い」というようなことをいつも聞こえよがしに大声で語り合い笑い合っている少女たちだ。彼女たちの輪の中で美甘子はいつもケラケラとただ笑っていた。
美甘子の声はあどけなく、とてもよく響いた。
タクオの言うように、彼女は賢三が本来憎むべき通俗の極み型少女なのかもしれない。それでも美甘子のことを思うと賢三は説明のしようがない心のわななきじみたものを感じてしまい、「ああもしやこれが恋というものかしらん」などと少女のようなことを思い、さらに「恋とは理屈を超えたところにあるのか」などとアニメヒーローのセリフみたいなことさえ考えるのだった。
――三人は態勢を整えるべくボロいソファーに腰を下ろし、タバコをふかした。
「いくっいくっいくっ」
と、例によってあられもない女のあえぎがくぐもって聞こえている。
「どうしたもんかなあ」
煙を目で追いながら賢三がつぶやく。
「パレス座の終映が九時。今五時半か。あと三時間半ここにいるか?」
「でもカワボン。九時になっても山口美甘子がタバコ屋にまだいる可能性だってあるぜ」
「賢三の言うとおりだな、確かあのタバコ屋は十時半まではやってるよ。それとこれはオレの個人的な事情なんだけどさ、八時からFMでどうしても聴きたいラジオがあるんだよ」
「何だよ?」
と聞く賢三に、タクオは「スターリンと頭脳警察の特集」と答えた。どちらも日本のロック・バンドである。
「あ、それオレも聴きたい。それじゃなるべく早くここを出よう。で、どうする? タクオ、カワボン、何かいい案ない?」
「うーん、オトリを立てる」
とカワボン。
「オトリ、誰かが犠牲になって山口の目を引きつけておくうちに他の二人が逃げる……と」
「……と、ってさあ、誰がやるんだよ、オレか、賢三か? カワボンがやってくれんの」
「オレはやだよ」
「それ、タクオやれよ」
賢三がタクオの肩をポンと叩いた。
「何でだよ!」
「お前捨てるもの何もないだろ」
「まあないけどさ、けど山口といつも集ってる女どもに『スケベな根暗者』の焼き印を捺されて生きるのは嫌だよ」
「だって実際スケベな根暗者じゃないかよ」
「賢三てめえ、いちいちうるせえなあ!」
「お前のその父っつぁん坊やスタイルはまさにオトリにうってつけだぞ」
「てめえこそそのトレーナーな、アディダスのにせものアドニスじゃねえかよ」
「いーんだよそんなこと。それにお前こないだカワボンに金借りただろ、それのおわびで行ってこいよ。あ、思い出した、タクオにこの間ダビングたのんだヒカシューのレコードな、針飛んでてずーっと同じところが四十六分間入ってたぞ、そのおわびもかねてタクオ行ってこいよ」
「うるせえ、あれはミニマル・ミュージックなんだよ。勝手なことばかり言いやがってこのオナニー野郎!」
「お互い様だろう」
「バカヤロー、回数なら負けねえぞ、日に六回までならOKだ」
「オレは七回やったことがある」
「オレは連続三回できるぞ」
タクオも賢三もいいかげん自分たちの不毛さに気づき、早いとこカワボンが止めてくれないかと思っていたのだが、彼は真剣に対策を立てているのか無言だった。賢三たちがしらけて口論をやめた頃、彼が言った。
「ドードーと出ていくというのはどうだ」
意外な発言に言葉をなくした賢三とタクオを交互に見ながらカワボンは言った。
「オレたちは黒所の日々に見切りをつけている。通俗な連中と一線を画すこと、つまり奴らを見限ることがオレらの反体制、反社会、反黒所なわけじゃないか。だったら奴らの我々に対する評価がなんだっていうんだ。どの道、奴らに我々が正当に評価されることなんかあるわけがないんだ。『ポルノを観る根暗者』というのが奴らの認識だとしてもだ。逆にいえば、そのぐらいの評価しか我々に下せないくらい、程度の低い連中なんだ、黒所のあいつらなんて。そんな奴らに何と思われようと別にどうでもいいじゃないか。だったらドードーと練馬パレス座からオレら三人登場しようじゃないの」
オーとタクオがうなった。
「うーむ、いいぞカワボン。そのとおりかもしれんなあ。そうだよなあ。あんな通俗な奴らに何と思われようと知ったことか! オーシ、ドードーと出ていこうじゃない。高らかに勝ちどきのおたけびを上げ、ポルノ映画館から山口美甘子の面前に登場してやろうじゃないの!」
「いや、別に勝ちどきのおたけびはいらんと思うけどね……賢三、お前はどうだ。賛成してくれるだろうな」
しかし賢三の表情は暗かった。
「ハァ……ねえ……」
と言ったっきりタバコをふかすのみ。
「山口美甘子でなければそれもよいが」
と賢三は心の隅でつぶやいていた。
カワボンのラジカルなアジテーションも美甘子を想う賢三には通じなかった。
再び沈黙が三人を包む。
と、その時誰かが「フッフッフ」と笑った。
「なんだよ賢三、じいさんみたいな笑い方すんなよ」
「オレ笑ってねえよ。タクオ、お前だろ」
「違うって、カワボンか?」
「オレ? オレ、笑ってないよ」
顔を見合わせる背後で今度は高らかな笑い声が響いた。
「ウワーッハッハッハッハッハッハ」
一斉に振り向いた三人の面前に、高らかに笑う小柄な老人の姿があった。
「ウワーッハッハッハッハ……ウッ! ゴホッ、ゲホ、ゴホホホーッ!」
老人は笑いすぎてむせ、今度は胸をかきむしり苦しみ出した。
「グゴゲーッ! フンゴー、カーッ、ペッ!」
「ギャーッ!」
老人のはき出したタンが、悲鳴を上げた三人の頭上スレスレをピューッと飛んでいった。
「イヤースマンスマン、死ぬかと思った」
老人はふところから取り出した手ぬぐいで口元をふき、三人を見て再びウワッハッハッハッハッハと笑った。
「な、何ですか?」
不審げな賢三の問いに老人はニコニコと笑いながら言った。
「ハハハ、あんた方の話があんまり面白かったもんでのお」
そしてヨタヨタと三人に近づき、勝手に彼らの横に腰を下ろした。
「盗み聞きしてたんですか」
責めるようなカワボンの口調も気にせず、老人はわずかばかり残った白髪をなでつけながらなおも笑っていた。六十代半ばといったところだろうか、白い口ヒゲをはやし、人の好《よ》さそうな、それでいてずるがしこそうな表情をしている。アメリカのB級映画によく出てくるアーネスト・ボーグナインにちょっと似ているなと賢三は思った。
「イヤイヤ、スマンな、それはそうとさっきはアリガトウよ」
「さっき……あ、オレたちの前の座席に座ってたジーさん」
タクオの言葉に賢三もハッと思い出した。パレス座の中で、場内ガラガラだというのに、「スマンがのう、この席、人が座らんように見とってくれんかな」と三人に頼んだジーさんではないか。
「アッハッハッ、あの席はワシの指定席なんじゃ。あの席でポルノ・ムーヴィーをウォッチングするのがワシのポルシーなんじゃよ」
「あの、それってポリシーじゃ」とカワボンのつっ込み。
「カーッ! ポルノとポリシーをかけたんじゃ、シャレじゃよシャレ、今時の若いもんはユーモアもわからん。クレージー・キャッツの悪影響じゃな。ワシの若い頃はエノケン、ロッパといった素晴らしいコメディアンがいたもんじゃが……植木某やハナなにがしでは話にならん。ユーモアをわかっとらんよ」
「おジイさん、ボクらの世代はクレージー・キャッツよりドリフターズですよ」再びカワボンのつっ込み。
「カーッ!……ペッ!……いかりや某か? 加藤なにがしか? あんなもん草野球のキャッチャーじゃ。ミットもないばかりじゃ。ただ荒井注の『|デ《*4》ィスイズアペン』、あのユーモアだけは秀逸じゃがな。ワシの笑いのツボを心得とる」
「どういう基準で生きてんだこのジーさん」
カワボンのあきれ声。
「ん? 何か言ったかな。それはそうとヤングボーイ諸君。話は聞かせてもらったぞ」
「だったら何だっていうんです?」
タクオがムッとした調子で言う。
「まあ怒るな。ヤングボーイ諸君の気骨、大いに気に入った。学校に反抗しようというんじゃな」
「体制への反抗です」タクオがすかさず言った。
「ム? お前らさてはアカか? ゼンガクレンか? まあよかろう。自分を取り巻く全てのものに反抗しようとするのは若者の特権じゃ。反抗すべきものはでかければでかい程によい。ただしアメリカはいかん。アレはでかすぎた。日本は開戦する前に米兵のチンポコと自分のチンポコを比べておくべきじゃった。路傍の地蔵と奈良の大仏程に違うのじゃから、ありゃ負けて当たり前じゃ。……そんなことはさておき。諸君らの気骨大いに結構。そこでだ」
ジーさんがグッと身を乗り出した。
つられて三人も身構える。
「プーッ」
絶妙の間でジジイの放屁の音が響いた。
「ウワーッハッハッハ! スマンスマン。齢をとるとどうも下半身が弱くなってのう」
「グホッ! 何なのこのジーさん」
むせる賢三たち。
「イヤイヤまじめな話な、そのオトリとやらを、このワシにやらせてくれんかな」
ジジイは突然真顔になって言った。
「この冷たい現代にも、諸君らのような気骨のある若者がいたことをワシはうれしく思う。さっき席を取っておいて下さったお礼も含め、その役、ワシにやらせてはもらえんかのう」
何と言っていいかわからず沈黙する三人の目前で、老人は静かにタバコに火を点けた。タバコは「わかば」であった。
「ユカイなことに飢えとるんじゃ、ぜひやらせてくれんかのう」
「……一体どうやってやる気なんです」
カワボンが聞いた。
「タバコ屋の看板娘の気を引けばよいのじゃろ。簡単じゃよ」
言うが早いか老人はわかばをもみ消し、スックと立ち上がった。
「見ておれ。闘牛はオレェッ!」
わけのわからぬことを言いながら入り口へスタスタと歩き出した。金色に光る外界へ歩み出て、美甘子のいるタバコ屋へ向かう。
「賢三、タクオ、どうする気だろう?」
「わからん、何なんだろ」
「山口に声をかけてるぞ」
老人が美甘子に何か話しかけている。
二言、三言、老人と会話をしていた美甘子だが、急にその顔色が変わった。
怯えの表情を浮かべ、彼女はびっくりした目をさらにびっくりさせてタバコ屋の奥に引っ込んでしまった。
老人がくるりと振り向いた。
と同時に三人は驚きの声を上げた。
「ああ、バカジジイ!」
「なんてことを!」
「狂ってる!」
老人のいわゆる社会の窓が全開していた。そこからフニャフニャとしたポコチンがたれ下がっているのが見えるではないか。
「ワーッハッハッハ」
老人……いやジジイの高笑い。
「ヤングボーイ諸君! 今が勝機じゃ、走れ! 走れぇーっ!」
「このエロジジイ!」
「へたすりゃ共犯だぞ」
「ともかく逃げよう!」
脱兎のごとくパレス座を飛び出す三人。夕暮れ時の街を三人はひたすらに走った。線路ぞいの道を肩を並べ、ゼーゼーいいながら走った。
夕陽に鉄路がギラギラとまぶしかった。
三人がタクオの電気店二階にたどりついた時は、まだ七時半をまわった頃だったが、日曜なのでタクオの両親はいなかった。それをいいことに三人はすぐにビールの栓を開けた。
「ワーッ」
「カーッ」
「ンーッ」
全力疾走後の体に、冷えたビールは異常にうまい。
「オレつまみつくるよ」
タクオがそう言って台所に立った。短気なくせに変にマメなところのある彼の料理はけっこういける。ソーセージとべーコンを冷蔵庫から取り出し、手際よく包丁でソーセージに切れ目なぞを入れている。
「タクオ、塩コショウ多めね」
「あいよ、賢三、まかしてちょ」
賢三のグラスにビールをつぎながら、カワボンが「いやしかし……」と言った。
「いやしかし何だったんだろう、あのジーさん」
「たまげたね、いろんな奴がいるよ」
「今日はいろんなことがあったなあ、面白かったよ」
「明日は学校……か」
「……つまんねえなあ……」
「カワボン、オレたちダメだよねえ、学校くだらないとか言いながら、中退する度胸もねえんだ。情けねえよ、だらしねえよ」
「なんだあ、もう酔っちゃったのー?」
タクオが包丁を持ったまま台所から現れ、「ラジオつけてえ、FMねえ」と言った。
カワボンがスイッチを入れた。
『……日本のパンク特集、最初に紹介するアーティストは頭脳警察』
「ふがいねえよなあ、オレらってよお……」
「あ、賢三、お前酔ってんなあ」
すきっ腹に流し込んだビールでアッという間に酔っぱらった賢三の脳裏には、山口美甘子の仏像のように輝く姿があった。
「ふがいねえよ、何が人とは違った何かだよ、オレなんかよー、オレなんて奴はさあ」
「おーい、賢三、大丈夫?」
「カワボーン! ラジオの音でっかくしてえ!」
「あいよー」カワボンがラジオのヴォリュームを上げた。
『まず一曲聴いてもらいましょう、頭脳警察で……』
「オレみたいな奴なんてさあ……」
『「ふざけるんじゃねえよ」です』
「そうだ! オレなんかふざけるんじゃねえよだあっ!」
叫んで賢三はそのまま後ろにひっくり返った。
「ああらら」という表情のカワボン。
気づかずウインナーをいためているタクオ。悶々たる三人のヤングボーイズに活を入れるがごとく、頭脳警察のロックがコクボ電気店二階に流れ出した。
周りを気にして生きるよりゃ一人で
勝手気ままにグラスでも決めた方がいいのさ
それでやられたって生きてるよりゃましさ
ふざけるんじゃねえよ
動物じゃねえんだぜ
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*5 シリアスなシーンで、突然何の脈絡もなしに「This is a pen!」と一言叫ぶ。荒井注の意味なしギャグ。
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第5章 「映画の友」
ググウッ、と、賢三の腹が情けない音を立てた。
同時に胃をキュウッと締めつけられたような空腹感が賢三を襲う。
机の上に広げた情報誌「シティロード」をペラペラとめくりながら、賢三は口の中で小さく、「大丈夫、いつものこといつものこと」とつぶやいた。そしてほおづえをつき、ぼんやりと教室を見渡した。
黒所高校二年D組の昼休みはにぎやかだ。生徒たちはそれぞれ仲のよい者同士でグループをつくり、ワイワイ言いながら弁当や学食の菓子パンを食べている。
グループは男も女も、三つの種類に分類することができる。
ひとつめのグループは、クラスの中でも比較的目立つ連中によって構成されている。このグループの特徴は、人気タレントの髪型を模倣した者が多いことだ。男の場合は、通称マッチと呼ばれる学園ドラマ出身のアイドル風に、軽くウェイヴをかけた髪を左右に流した頭髪が最もポピュラーとなる。女生徒の場合は俗称|カ《*5》マチンカットなどと呼ばれる、アイドル松田聖子、もしくは中森明菜を意識したと思われるスタイルが主流となる。ただ、髪型をマネする分には誰でもできるが、顔の造作はいかんともしがたいのだろう。似合っているといえるのはその中でもほんの一部で、たいがいの連中は頭だけ浮いていた。彼らのもうひとつの特徴は、「自分がいかに不良であり、遊んでいるか」をなるべく汚い口調で主張する点にある。例えば、
「私はきのう学校を休んでディスコに行きました」という一文を彼ら風に訳すなら、
「数学のタブチやってらんねーからバックレて歌舞伎町のゼノンに行っちったよ」
となる。
といっても、彼らはいわゆるツッパリではない。マンガ『ビー・バップ・ハイスクール』に登場するような、典型的なツッパリは地方特有の文化であり、都内にあんな奴がいたらただの笑いもんである。二年D組第一グループは、黒所高校の大半を占める、ごく一般的生徒たちである。賢三にいわせれば、「くだらん話題でしか盛り上がれない享楽的俗人間ども」ということになる。
第二のグループは、頭髪も特別ジャニーズ系というわけでもなく、口調もそんなに汚くもなくといった、普通の連中だ。このグループには、何人か賢三と会話を交す者もいた。といっても本当にたわいのない話題であり、正直いうと賢三は彼らと話していてもあまり面白くはなかった。何の話にしてもレベルが低く感じられた。「この間テレビでやった映画、オレ、スゲー興奮したよお」などと語りかけられても、それは賢三にとってはつまらないエンターテインメント主義だけで創られたアクション映画にしか見えなかったりして、「フンフン」と適当に相づちを打つのもめんどくさかったりするのだ。賢三から見れば彼らは、「自分たちの凡庸さにも気づかぬ俗人間ども」なのだ。
第三のグループには、あまりにもハッキリとした身体的特徴があった。まず色が白く、ブタのように太っているか干物のようにやせているかのどちらか。そして全員がキラリと光るメタルフレームの眼鏡をかけていた。女はさえなく、男は小汚く、彼らはいつもボソボソと、何かコンピュータ用語のような単語を駆使して語り合っていた。「……クラリス……マクロス……ラム……イデオン……ザク」どうやらそれは、全てアニメの登場人物についてらしかった。彼らの共通の話題はアニメなのだ。このグループに関しては、賢三は複雑な思いを抱いていた。創作的活動に対する追求の仕方には同意できる。他グループに対して壁をつくり、同好の者たちだけで集う気持ちもわからないではない。しかし彼らはどうにも不気味である。じめーっとしてるんだな、なんだかとっても。賢三は理屈よりも生理的に彼らを受けつけなかった。アニメのよさもわからなかった。『ルパン三世・カリオストロの城』など、一本の映画として大名作と思えるものもあったが、『六神合体ゴッド・マーズ』だの『超時空要塞マクロス』だの、ガキっぽくってくっだらねーやと賢三は思っていた。
賢三にとって彼らは「興味の対象と孤高のあり方を間違えた俗人間ども」だった。
この三グループの他にも、どこにも属さない者たちが何人かいた。例えば入学以来一言も口をきいたことのない自閉症気味の山之上という男や、いつもポカンと口を開けている荻という女生徒など。そして賢三も含め、彼らは教室内において「奇人」と見られていた。奇人同士は横のつながりもなく、教室内透明人間として、教師からも生徒からもあまり注目を浴びることはなかった。
グループの比率は、第一グループが五、第二が三、第三が一、奇人が一といったところだった。当然、数のまさる第一グループが「でかい面」をしている。
山口美甘子は第一グループにいた。
その中でも、美甘子は目立っていた。美人で背も高く、手足の長い彼女は、さりげない動作ひとつひとつがオーバーに見える。びっくりしたような目をして、たわいもない友だちとの会話中に何度もキャー! と声を発し、続けてキャハハハと大口を開けて笑う。笑うと大きな目がまったくなくなってしまった。彼女はそんなふうに笑うばかりで、あまり自分から話しかけることはなかった。それでも、聞き上手なのだろう、美甘子の周りにはいつも数人の、夜遊びや教師に対していかに反抗したかを汚い口調で声高に自慢したがる女生徒たちがいた。
美甘子はもてる。何より美人だし、パンパンに張った彼女のブラウスの胸元は、男どものエロ・リビドーを刺激するにはあまりに十分すぎるものがあった。マッチヘアーの男どもはかわるがわる美甘子に話しかけた。その内容は判で押したように同内容であった。
「オレはこんなにワルで遊んでいて教師などいつでもブンなぐれる度量があり、バイクも持っている」
ということを、言葉を変え、美甘子に主張していた。美甘子は彼らに対しても、ウンウンとうなずき、要所要所でキャハハと笑った。
その日も、美甘子は野口というマッチヘアーの男の話にキャハハと笑い、チョコデニッシュをほおばっていた。
その様子を見るともなく見ていた賢三の腹が、再びググウッ、と鳴った。
賢三は、昼メシを食わない。毎日親からもらう昼メシ代四百円を浮かせるため、がまんしているのだ。バイトもしていない賢三にとって、昼メシ代は貴重な収入だ。週に三回は観に行く名画座代にあてるのだ。昼メシを食わないと午後の授業がつらかった。特に今日は六時限目に賢三の苦手な体育がある。
「ゴキマラかあ……」
賢三はゲンナリとため息をついた。ゴキマラとはゴキブリのように黒いマラ……ではもちろんなく、黒所名物5キロメートル・マラソンのことだ。
「メシ抜きゴキマラはつらいかんなあ」
またしてもググウッと鳴る腹を押さえて賢三は机にうつぶした。
「イテッ!」
いきなり後頭部をはたかれ、賢三が振り向くと、タクオとカワボンのニヤニヤ笑いがあった。
「よ〜ケンゾー、またメシ食ってねーの」
「タクオかあ、おー、腹減ったよー、ひもじーよー」
「だろーなー、メシ抜きゃ腹減るだろうなー、名画座めぐりもつらいねー」
「おお、つらいよ」
「オレも今月は|R《*6》Cの新譜とスターリンとドアーズ買うから、五回はメシ抜かないとなあ」
「パンあまってない、タクオ」
「オレ食っちゃった。カワボンに言って」
「カ〜ワ〜ボ〜ン」
「そんな『|一《*7》、二のアッホ』のカントクみたいに言わんでもあげるよ、ホレ」
ポイッとカワボンが賢三にパンを放ってよこした。
「オー! 三色ヤングロールパンだあっ。い〜つ〜も〜す〜ま〜な〜い」
「だから寝たきりジジイみたいに言うなっての。ところでその後どうだ、山口は?」
カワボンが美甘子をチラリと見て言った。
「いや、あれからひと月たったけど何もないよ。きっとあのジーさんのチンポコにあせって、パレス座から出てくるオレたちのことは見てないと思うよ」
「そうか」カワボンとタクオがホッと息をついた。
「黒所の奴らに『ポルノ観てた暗い奴ら』と認識されずにすんだわけだな」
タクオがウンウンとうなずいた。今日はさすがにポマードも七・三頭もしておらず、いつものタクオに戻っている。タクオはパンをがっつく賢三に「今日、うち来いよ」と言った。
「今日こそカワボンとお前とで、何やるか計画立てようと思ってさ」
「おお、いいよ。オレ今日映画行くから、十時にタクオん家でいいか」
「いいよ。タコハイ買ってきてよ」
「ああ」
昼休み終了のチャイムがのんびりと鳴った。
「じゃな、ゴキマラがんばれよ」
「ああ、カワボン、ヤングロールありがとね」
カワボンとタクオは「なんのなんの」と言い教室を出ていった。
ゴキマラは想像以上に賢三の足腰をコンニャク状態にさせた。それでも家に帰ると彼は即席の焼メシをかっ込み、チャリンコに乗ると、夕暮れの中を名画座に向かった。
この頃、賢三は本当によく映画を観ていた。
「黒所高校の教室において自分の学ぶべきものは何もない」そう思った時から、彼の映画館通いが始まった。「自分は人とは違った何かがある」と信じながらその自信に何の根拠も見出せないでいる賢三は、せめて読んだ本の数、観た映画の本数を増やすことで、クラスの他の者たちと差異をつけたいと思ったのだ。
考えてみれば、それは賢三いうところの俗人間どもが、「どれだけディスコに行ったか」「どれだけアニメを観たか」と自慢することで自分の存在を証明しているのと何ら変わりはない。賢三はそのことに気づいていなかった。映画館の暗い闇に吸い込まれていく回数が増えれば増えるだけ、いつかくるはずの、「自分が人と違った何か」を世間に知らしめる期日に近づいたような気がした。
それに、架空のストーリーの中に埋没する快感がたまらなかった。何もない黒所の日々から遠く高く自分を放り投げてくれるスクリーンとフィルムと闇と、そして、すえた臭いのたちこめた名画座を賢三は愛していた。
中野名画座、中野武蔵野館、高田馬場パール座、早稲田松竹、三鷹オスカー、池袋文芸坐、文芸坐地下、テアトル新宿、新宿オスカー。
自転車で行ける距離にあり、安ければ三百五十円、高くても七百円もあれば、二本立て、四時間もの間をトリップさせてくれるそれらの名画座へ、賢三は週に三日のペースで通っていた。
狂った映画、爆発した映画、暗く重い映画、ガラリと変わって少女を主人公とした映画が好きだった。
常識はずれでおよそ道徳的とはいいがたい狂った映画たちは、賢三の脳髄をグイグイと揺さぶった。『ゾンビ』『ファンタズム』『ハロウィン』『マタンゴ』『悪魔のいけにえ』といったB級ホラー・ムーヴィーたちだ。賢三はまだ子供の頃、親に連れられて行った『ノストラダムスの大予言』という映画を観て心の底から恐怖に震え上がり、それがトラウマとなって一切恐い映画が観られなくなってしまった。高一の時、これではいかんと思い立ち、タクオ、カワボンと共に文芸坐地下に『ゾンビ』『溶解人間』の二本立てを観に行ったのだ。二本ともホラーの中でもグロテスク趣味の高さでかなり悪名高い映画である。しかしこのショック療法がよかった。賢三はすっかりホラー・ファンになり、特に『ゾンビ』にはいかれた。殺戮シーンをこれでもかと見せながら、主要人物が死ぬ泣きのシーンだけは、彼を撃つ銃声と目を伏せる友人の描写にとどめるイキな演出に参った。映画館を出ても興奮さめやらぬ賢三は、人ごみの池袋をゾンビのマネをしてヨタヨタ歩き、カワボンとタクオの顰蹙《ひんしゆく》を買いまくった。
「爆発した映画」とは、つくり手のイメージが映像に炸裂している映画のことだ。例えば『トミー』や『ロッキー・ホラー・ショー』や『ファントム・オブ・パラダイス』といったロック・ミュージカルは、いずれも宝石箱とゴミ箱を一緒にひっくり返したような、理屈では説明のつかない目茶苦茶な映像が目まぐるしく展開する爆発映画だ。それらの映像はみなドラッグの影響からきているわけだが、シンナーさえやったことのない賢三には、夜に見る夢を見事に映像表現化したみたいな映画たちの存在自体がまず信じられなかった。「こんなんもありか!」ザ・フーのロジャー・ダルトリー扮する目も口も耳も不自由なカリスマ青年トミーの活躍を、ただ口をポカンと開けてみるばかり。
『博士の異常な愛情』も衝撃的だった。映画監督スタンリー・キューブリックをこれで知った。驚き感動し、三鷹オスカーのキューブリック特集にあわてて行った。『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』、そして『博士の異常な愛情』の三本立て。あまりに「濃い」組み合わせだ。キューブリックの映画は、普通の映画とは密度が違う。三本は単純に計算すれば八時間程でも、他の映画と比べると十三時間分には相当する。いくら映画好きでもちょっときつい。さすがの賢三もめまいを覚えながら三鷹オスカーを後にした。尻は痛くとも至福の長丁場だった。
『狂い咲きサンダーロード』『太陽を盗んだ男』『ガキ帝国』などの、日本の爆発映画にもやられた。
タモリのオールナイト・ニッポンに『狂い咲きサンダーロード』の監督がゲスト出演したのを、賢三はたまたま聞いていた。「どんな映画ですか?」と質問したタモリに対し、まだ二十代半ばの彼は、ただ一言「つっぱり通す男の映画です」とぶっきらぼうに言った。あちこちで同じ質問をされていたのでうんざりしていたにしても、随分といいかげんではないか。ところが映画を観れば、彼の言い分が実に正論であることがわかる。
設定は近未来。暴走族の一人が孤立し、片腕を切断される。その後、死の淵から蘇った彼は報復のため街をメチャクチャにぶっつぶしていく。よくあるストーリーなのに、賢三は観ている間呼吸するのも忘れてしまった。とにかく映画が走っているのだ。アベベも円谷幸吉もカール・ルイスもベン・ジョンソンも追いつかぬ凄じさで、映像が疾走しているのだ。「これはオレだ! オレの心の憤りがフィルムに焼きついている」一人の暴走族野郎の爆発を通して、賢三は自分の中にドロドロとたまっているコールタールのような屈折した何かを見た。泉谷しげる、モッズ、パンタ&HALのロックが映像と共にズドドドドと音を立てて絡み、そして本当に「なにもかもぶっこわし」てゆく男。少年期の心の中のモンモンを「絵」にしたら、絶対にこうなるという手本のような映画なのだ。映画が終わり、館内が明るくなると、前列にいたカップルの男の方が、「何だこれ、シロウト映画じゃんよ」と言った。興奮していた賢三は、よっぽどブン殴ってやろうかと思ったが、やっぱりそんなことはできず、男の椅子の背をボコンとけっ飛ばして、ダーッと中野武蔵野館を逃げ出した。
――暗くて重い映画が好きな理由を、賢三は自分で説明ができなかった。モンモンとした日々だというのに、映画館でまでモンモンとした映画を見せられてはたまらないはずなのに、なぜか暗い青春映画を前にすると、彼はもうメロメロになるほどノメリ込んでしまうのだった。
『真夜中のカーボーイ』『スケアクロウ』『俺たちに明日はない』『ファイブ・イージー・ピーセス』『ダーティ・メリー、クレイジー・ラリー』『カッコーの巣の上で』。
アメリカン・ニューシネマと呼ばれる'60年代から'70年代の、貧乏ったらしいダメ若者を主人公とした映画がたまらなく好きだった。やり場なき青春のモンモンとした日々の果てに、しょうべんを漏らして死ぬ男、発狂する男、ハチの巣みたいになるまで銃に撃たれる男と女、くされ縁の女を捨て、北へ逃げる男。列車に激突する男と女、狂人のふりがいつしか本物の狂人となってしまう男。みんながみんな、まるで未来の暗い自分を暗示しているのだ、と賢三は思った。アメリカン・ニューシネマの影響を受けた日本の暗い青春映画もたまらないものがあった。『青春の殺人者』『ヒポクラテスたち』『サード』『十九歳の地図』……。
賢三の暗い青春映画好きは、結局ナルシシスムからきているのではないかと筆者は思う。
モンモンとした少年がモンモンとした映画を観てさらにモンモンとする。モンモンがモンモンを呼びモンモンモンモン状態である。「あーオレはダメだ、ダメ人間だ」と自虐的になるというのは、ある種心地よいものである。ナルシシスムに酔えるからだ。アメリカン・ニューシネマは、ベトナム戦争など負の要因が多くある時代背景に生きたその頃の若者たちの、「自虐のナルシシスム」をうまくくすぐった映画だ。賢三もこの戦法にコロリとやられたのだ。つまり、センチメンタルな少女が「私は世界一不幸よ」と思い込むことでナルシシスムに酔い、カタルシスを感じる。賢三の暗い映画好きの理由はそこにあるのではないか。……ともかく、賢三は好んで名画座の闇の中に「暗い青春」を観に出かけた。
「狂った映画」「爆発した映画」「暗く重い映画」と同じくらい、いやそれ以上かな、賢三が好きなのは「少女を主人公とした映画」だった。
少女が主人公とあらば、原田知世の『時をかける少女』、薬師丸ひろ子の『ねらわれた学園』といったメジャーどころから、ちょっと古めの美少女ファンタジー『HOUSE』や、もっと古めの、栗田ひろみ主演、井上陽水が主題歌「夢の中へ」を歌った『放課後』だの、木之内みどりの『野球狂の詩』、竹田かほりの『桃尻娘』なんてマイナーどころまでチェックしていた。
「人間の中で最も美しいのは少女である」という、まるでオヤジのような持論が賢三にはあった。女が少女である時期は短く、そして最も輝く時期はさらに短い。そのほんの一刹那をフィルムの中に永遠に閉じ込めた少女映画はだから美しく、そしてフィルムの中の少女と同一人物でありながら、老いてゆく女優という現実の残酷さがさらにその映画を貴重なものにしているのだ、と賢三は少女映画を観ながら思い、いつもウンウンと一人うなずいていた。
てなことを言っても、本当は十七歳にして彼はロリコンの気があっただけのことである、と筆者は思うがな。
賢三の少女映画好きは自主映画にまでおよび、『MOMENT』という8ミリ映画の主演女優、矢野ひろみのファンになった。彼女は薄幸そうな、貧血気味のまっ白な肌をした美少女だった。情報誌で彼女の主演した自主映画を文芸坐地下で上演すると知り、この日、賢三は自転車をすっ飛ばして池袋へ向かうところなのだ。
映画の題名は『フルーツ・バスケット』といった。
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*5 デビュー当時の松田聖子の髪型はこう呼ばれていた。彼女の本名が「カマチ」であることからきている。
*6 RCサクセションのこと。
*7 コンタロウの名作ギャグ・マンガ。「カントク」というキャラクターが登場する。
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第6章 「スコラ」
賢三の乗る婦人用自転車、いわゆるオバチャリは、毎日の通学に耐えかねて崩壊寸前の状態だった。
ペダルを踏む度に朝焼けのカラスのようにギャーギャーと鳴いた。油の切れたチェーンを回転させるために思いっきり踏み込むとペダルが取れてしまうこともあった。一度など期末試験期間中に、通学の途中ではずれてしまい、賢三は自転車を乗り捨てて近くの団地に侵入し、自転車置場から他人様のものを一台拝借して……つーよりもかっぱらって走り、ギリギリで間に合ったこともある。そんなオンボロチャリンコに乗って賢三は名画座へ出かけるのだ。
池袋、新宿方面の名画座に行く時には、西武新宿線の線路沿いに走る。
沼袋から新井薬師への長い坂をヒーヒーいいながらも一気に上り、それから坂を下ってしばらく走ると、下落合を越えたあたりで右手に川が現れる。コンクリで固められた川の両側はしっかりと高くそびえているくせに、その下を流れる水は川底をはいつくばるみたいに水量が少ない。都会によくあるドブ川だ。この川に着くあたりでいつも日が暮れ始めた。
夕日を受けて、ドブ川は束の間だけこんがりと焼いた食パンの色に輝く。
高田馬場を過ぎたところで山手通りにぶつかる。左に折れ、長く急な坂道を上ると池袋だ。息を切らし賢三は自転車をこぐ。黒所名物ゴキマラをこなした後の山手通りかけ上りは特にこたえる。
遠くに池袋駅前のネオンが見える頃にはあたりはかなり薄暗くなっていた。
夕闇が自分を包み始めていることに気づいた時、賢三の心をふとよぎる暗い影のようなものがあった。
「あ、やばいな、またきたか」
と小さく彼はつぶやいた。
暗い影のようなものとは、漠然とした不安感と自己嫌悪だった。
最近よくそいつらは賢三にちょっかいを出すのだ。
何か少しでもうれしい時や楽しい予感のある時に特に多く、不安と嫌悪はやってくる。例えば今のような、これから映画を観に行くというような時。あるいはタクオやカワボンたちとバカ話をしてワッと盛り上がった直後などに、ニコニコとしている賢三の真上から黒いマントのような不安感と自己嫌悪が彼を包み込もうとするのだ。
『お前今ニコニコ笑ってるけど、学校や家に自分のいる場所ないんだろう? 毎日つまんないんだろ?』
『お前今うかれてるけど、自分のやりたいことをやってないだろ。それさえ見つけられないんだろ?』
『お前今ワクワクしてるけど、女の子と話もできないんだろ?』
という言葉が、マントの内側にはびっしり書き込まれていて、賢三の楽しい気分は一挙にげんなりとさせられてしまうのだ。
プライドばかり高いくせに本当は何もできない、賢三が薄々は自覚している自分の本当の姿が、不安感と自己嫌悪を呼び込んでいるのだ。
「んなこたわかってるよクソッ」
自分に言い聞かせ、賢三はペダルを踏む足に力を込めた。
ギャギャーッと錆びたチェーンが大きく悲鳴を上げた。
「いつかやりたいことをやってやるよ」
腰を上げ、さらに力いっぱいペダルを踏みしめる。
『でもいつかっていつなんだよ』
黒いマントの内側の文字がまたチラリと頭の隅をよぎる。
賢三は気にしまいと心に決め、もっともっとペダルを踏む足に力を込めた。
と、足先にあった強い抵抗感がフッと消え、カラーンと音を立ててペダルが道路にころがった。
「あ、だめだこりゃ」
自転車を止め、賢三ははずれてしまったペダルを拾うために、あわてて坂を駆け戻った。
あたりはすっかり暗くなっていた。
はずれたペダルをカゴに入れ、賢三はオバチャリを手で押して歩いた。
駅前の大通りから、ストリップ小屋やパチンコ屋の並ぶ怪しげな小道を抜けると、古めかしいつくりの文芸坐の前に出る。
自転車を文芸坐のわきに置き、入り口に向かった。
自動販売機でチケットを買っても、彼はなかなか中へ入ろうとはしない。劇場の前に貼られたスチール写真や近日上映予定作品のポスターをまずじっくりと見るためだ。
「○月○日より、スーパーSF大会。『地球に落ちて来た男』『ニューヨーク1997』」
うーむこれは行かねばなるまいなと賢三は一人うなずいた。前者はデヴィッド・ボウイ主演の、一風変わったSF映画。後者はジョン・カーペンターというB級サスペンスばかりを撮っている監督の近未来アクションだ。
しばらくうろついた後、入り口から映画を観終わった人々が数人出てくるのを見て、賢三はそそくさと文芸坐の中に入った。
劇場内に数十人しか観客はいなかった。
賢三は前から五列目の真ん中に座った。あまりクッションの利いていない椅子に、社長がエラソーに背中で座る時のようにふんぞり返って腰を下ろし、両ひざを立て、前の座席の背にひっかけた。これが彼の、映画を観る時の基本姿勢である。こう座ると落ち着くのだ。
映画が始まるまでは文庫本を読む。平井和正のバイオレンス小説『狼の紋章』。平井和正は賢三とタクオとカワボンの、共通して好きな作家だった。怒りを耐えに耐えた主人公が最後に爆裂して大殺戮をくり広げるお決まりのパターンに三人はこの上ないカタルシスを感じていたの|だ《*8》。
館内に流れるイージー・リスニングに混ざって、低いイビキが聞こえた。横を見ると、隅の席で「もーや、会社なんていつでもやめたる」というようなやるかたない想いを全身から匂い立たせた背広姿の中年男性氏がはてているのが見えた。
名画座通いの長い賢三には、イビキなど気にもならなかった。
名画座には必ずこの手合いがいる。平日の名画座にいるのは、あの親父のような営業さぼりらしきサラリーマン。ジメリとしめった雰囲気の映画マニア。それとやることないんでとりあえずきただよというジイさん。そんなさえない奴が多い。
「しかしそれにしても」
と賢三は思った。
「たまには美少女が一人で来ていたりしねえもんだろーか」
と賢三はイビキ親父を見ながらしみじみつぶやいた。
「……例えば美甘子のような」
そんなことも思った。
「あるわきゃねーか、何を言っとるんだオレは」
名画座で美甘子と出会うなどという、あまりに自分勝手な想像に賢三は我ながら恥ずかしくなり、「アホかオレは」と心の中でくり返した。
小さなブザーが鳴って館内が暗くなり、名画座にしては大きめにつくられた文芸坐のスクリーンに、粗い粒子のざらついた映像が投影された。
賢三は文庫本を隣の座席に置き、試験範囲を写す時でさえ見せないような真剣な眼差《まなざし》でスクリーンを見つめた。
この日、彼が観に行った映画は『|フ《*9》ルーツ・バスケット』というタイトルの、8ミリフィルムで撮影された自主製作映画だった。
三人の少女たちのひと夏をスケッチ風に描いた、なんということもない小作品である。
三人の名前はイチゴ、メロン、オレンジ。自殺願望のあるイチゴを中心に三人が何となく集い、夏のある日ゴムボートで川を下ろうと決める。ノホホンと日傘をさし川下りをする三人。川に落ちて水びたしになったりしながらもやがて海にたどりつく。それから三人は三方向へ分かれた道をそれぞれに歩き出し、そこでストップ・モーション。
「また会えるよね?」
「バーカ! ラスト・シーンじゃあるまいし」
という文字がスクリーンに映し出されてジ・エンド。
本当にそれだけの、だからどうしたと思わずつっ込みのひとつも入れたくなる小作品である。
しかもあちこちにロリータ・コンプレックスの匂いが感じ取れる。
ついでにいうなら少女趣味すぎてちょっと背中のあたりがくすぐったい気がしなくもない。けれど賢三はこの映画が好きで、今日で観るのは四度目だ。上映される度に観に行っているのだ。
オナニー三昧の性欲の人賢三が、何故このような少女趣味の香り漂う作品に夢中になるのかと、素朴にして正しき疑問を持つ読者も多くあろう。そして『フルーツ・バスケット』を観る時の賢三は、瞳はうるみ、口は半開き。さながら往年のセクシー・ロックンローラー西城|秀樹《ヒデキ》を見つめる少女のごとき「うっとり」の状態なのだ。かなり気味が悪い。
なぜエロ的シーン皆無の少女趣味映画でうっとりするのか賢三!?
読者諸君の疑問に対し、かわって筆者が解説を試みてみたい。ついでといってはなんだがこの問題を考えるに際し、彼の性欲の目覚めまでさかのぼってみたいと思う。彼のオナニーの目覚めが、一枚の石野真子ピンナップ、そして一個のコクヨ・スタディデスクによって訪れたいきさつは、以前に述べたとおりである。では性欲自体の目覚めはというと、これはそれよりも数年も前、あるテレビ番組によってであった。
その番組名は『ウルトラセブン』といった。そう、あの「セブ〜ン、セブ〜ン」という、そのまんまやないけ的テーマ曲でおなじみの、あのセブンである。こう書くと、読者の中には、「ウルトラ警備隊の紅一点アンヌの巨乳によってか?」と推測されたマニアの方もおられよう。だがそれは残念ながら違う。
賢三は、ウルトラセブンそのものに性欲を覚えたのだ。
「性欲」とはっきりいえるものではなかったのだが、賢三が初めて心のどこともいえない部分をムズムズと刺激されたのは、超人ヒーロー・ウルトラセブンによってなのだ。
ボーグ星人という、中世のカブトを着たような姿の宇宙人がセブンと死闘をくり広げる回がある。戦いの場所は湖。
騎士を思わせるボーグ星人に、組み伏せられもがき苦しむウルトラセブン。
彼の真っ赤なエナメル質の体が水に濡れ、ヌラリと光る。
その光景を目にした時、まだ小学校にも入らぬガキであった賢三は、感じた。何を? 性欲を……なのだ。
御理解いただけるだろうか。賢三はわずか四、五歳にして、セブンの水に濡れたエナメルボディにSMのゴム・フェティシズムのようなものを感じ取り、そしてそのことによって初めて性に目覚めたのだ。
賢三は、生まれながらの性的倒錯者なのか!?
いやしかし、だ。性の目覚めというのは、賢三のように、一見ヘンテコなものであることが多いらしい。まず彼が子供向けテレビ番組によってそれと出会ったというのは、テレビ世代の彼のことだからして不思議ではない。昔の子供が柳行李《やなぎごうり》の中の春画で目覚めたように、それは一番身近に接しているもので目覚めることが多いはずだからだ。テレビ世代ならテレビで目覚めるのはむしろ普通だ。「ゴレンジャー」で複数プレイにその後走った者もいるかもしれないし、「いなかっぺ大将」を見て育ち、大人になってフンドシマニアになった奴もいるかもしれない(いねーよ)。そしてこれからは、テレビゲームの女性キャラを見て目覚める子供というのが激増するだろうと筆者は予想している。
また賢三がセブンによってその後ゴム下着などに異常な興味を持ったという事実もない。彼が単にエロティックなものをエロティックなものとして認識するきっかけになったのが水に濡れたエナメル質のセブンだったにすぎない。
ともかく、性に目覚めた彼はその後オナニーを覚え、もてないことが原因となって孤高のオナニストとなった。
オナニストは、女性を一言でいってしまえば「性の対象」として見る。
オナニストは、この女でいいオナニーができるかどうかで、その女性の価値を判断するのだ。
まったくもって最低である。
ところがオナニストは、女性をまったく反対の視点でも見ている。
「聖なる存在」としても見ているのだ。
大いなる矛盾である。矛盾だがしかしこれは事実だ。
オナニストは本当の、生身の女を知らない。妄想の中でのみ彼女たちと接しているのだ。妄想の中では、彼女たちに余分な人格は必要ない。細かな心の機微だとか、その女性の精神を形づくっている時代背景なんてのも必要ない。オナニーに必要なのは、オッパイだ。太モモだ。しとどに濡れて光る唇なのだ。オナニストはこうして女性を単なる性の対象として考えながら、自分がそんなふうにしか女性を認識していないことに強いコンプレックスを抱いている(忙しいやっちゃね)。彼らはその反動で、一方では女性を神聖犯すべからざるものとしても考えるのだ。
どちらにせよ女性蔑視のゆがんだとらえ方に違いはない。しかしオナニストはこうやって両極端に女性を考えることで、精神のバランスを保とうと無意識のうちにしているのだ。
「性欲の対象」と「聖なる存在」。
賢三にとっての『フルーツ・バスケット』は、つまり後者なのだ。日々のモンモンたる|オナ・《自慰》|ハリケーン《台風》の束の間に『フルーツ・バスケット』のような乙女チックな映画を観ることで、少女趣味にうっとりすることで、性欲のみに流れることのないよう意識せずにバランスをとろうとしているのだ、と筆者は分析するものである。
山口美甘子。
賢三にとっての美甘子も、『フルーツ・バスケット』同様に、そのための存在なのかもしれない。
――スクリーンの中で、海にたどりついたイチゴが「あ、海だあ」と屈託のない声で笑った。
賢三はうっとりとしながら、ふと、美甘子の笑うと目がなくなってしまう無邪気な笑顔を思い出し、闇の中で、自分もまねてニーッと笑ってみた。
「こんなとこタクオにでも見られたらバカにされるだろうな」
と思って、彼は今度は本当にゲラゲラと笑ってしまった。
「また会えるよね?」
「バーカ! ラスト・シーンじゃあるまいし」
映画が終わり、館内が明るくなった。
賢三は大きくのびをし、ホッとため息をひとつついて、ジュースでも買うかとロビーへ出た。
文芸坐のロビーは薄暗く、賢三はいつも「トンネルみたいだ」と感じていた。実際にはそれ程に暗くはない。スクリーンの虚構世界にどっぷりとトリップした後では、ロビーは、つまらない現実世界との連絡路のように思えて、それでトンネルじみて陰気な場所に思えてしまうのだ。
トンネルには、いつも数人の男たちがたむろしていた。二本目の映画が始まるまでの時間つぶしをしている彼らは、一様に地味な雰囲気を漂わせていた。椅子に座り、文芸坐の今後の上映予定を知らせる小冊子をじとりと見つめながら、ボソボソと紙コップのコーヒーをすする大学生風、壁に貼られたジョン・カーペンターの『ニューヨーク1997』のポスターを無表情でながめているサラリーマン。
スクリーンの虚構世界をあの世とし、映画館の外の現実をこの世とするなら、ロビーに集う彼らはその間でどちらへも行けない亡者のようなものだ、と賢三は考えていた。
「こいつらは現実に立ち向かう勇気もなく、映画館の闇の中へ逃避して、そのくせ虚構世界の中へ飛び込むことが不可能なことも知っているから、こうしてロビーで途方にくれているのだ。そしてこのオレもその一員なのだ。みんなみんなダメ人間だ。死ね死ね死んでしまえダメ人間どもめ!!」
――ただ映画館のロビーでコーヒーを飲んだりポスターを見ているだけなのに、ダメ人間とまで断言されてしまう彼らも災難な人々である。
賢三はコカ・コーラのボタンを力いっぱい叩いて押した。
「しまった!」
叫んだがすでに遅かった。怒りにまかせて彼が叩いたのはコーラではなく、「あったか〜い」の表示が赤々と灯る「しるこドリンク」のボタンであった。……亡者のたたりか。
あったか〜いしるこドリンクのカンを握りながら、彼は力なくロビーの椅子に座った。
ロビーは静かだった。
『ニューヨーク1997』のポスターをぼんやりと眺めた。
「亡者か」
と賢三は声に出してつぶやいてみた。
「そうかもしれんな」
と思った。
「自分には人と違う何かがある」
「いつかそれをわからせる時が来る」
「いつかっていつだ?」
自問自答し、再び彼は「亡者か」とつぶやいてみた。
裏地にビッシリと賢三を問いつめる黒文字の書き込まれた大きなマントが、文芸坐の通気孔からスルスルと侵入し、賢三の頭上で広がって、ゆっくりと彼を包み込んだ。
「オレなんかダメだよな。どうしようもないよな……くだらん、そうだくだらんよオレは」
こうなるともうだめだった。どんなことを思ってもネガティヴな方向へ向かってしまうのだ。
「コーラではなくしるこドリンクを買ってしまった。これこそオレの暗き人生を象徴する事件に他ならないじゃないかっ!」
読者よ、「しるこドリンクぐらいでそんな」などと思わないでいただきたい。今の彼にとってこれは究極の選択を誤った戦国武将にも似た一大事に思えているのだから。
「オレのバカ。しるこドリンクのバカ」
賢三は激しく自分としるこをなじった。
彼は、楽しい気分の直前直後にくる漠然とした不安感と嫌悪感にスッポリとはまってしまったのだ。
打ちひしがれながら彼は、さっき映画を観ながら、「美甘子のような美少女がいたらな」と思ったことを思い出した。
そしてまた、美甘子の笑うと目のなくなってしまう表情を思い浮かべた。
「美甘子がいたらなんだっていうんだ?」
と、賢三は心に問うてみた。
「美甘子が文芸坐にもしいたとしても、お前は何ができるっていうんだ。何もないお前は美甘子と何を話すっていうんだ。クラスで一言もしゃべれないお前は名画座だとしゃべれるっていうのか。ここが逃げ場だからか? 逃げた場所ならお前は態度がでかくなるのか? 仮にしゃべれたとしてそれからどうするんだ? お茶にでもさそえるのか? 二言三言しゃべって家に帰って美甘子でオナニーか? おかずにするのか? 美甘子ではすまいと決めていたんじゃないのか? 欲情しちまったのか? ムラムラしちまったのか? お前は何だ? お前は一体何者だ? お前自分が好きか? 自分を汚いと思うか? お前って何だ?」
自己嫌悪マントにくるまれて、彼は次から次へと自分を責め立てる質問をくり返していた。
「オレには何もない。まず心がねえ、怒りならあるけれどぶつける相手が見つからねえ、明日もねえ、未来がねえ、イマジンねえ、ピースもねえ、アイデンティティーは何者だ!! オレこんなオレいやだ!! オレはこんなオレいやだっ!」
おーい誰か止めてやれよ、と思わず筆者もげんなりする程の賢三の落ち込みようである。
「あー、クソー!!」
いきどおりの人賢三は、しるこドリンクを床に投げ捨てた。カンはゆっくりと傾斜したロビーをころがっていった。
「キネマ旬報」を熟読している学生の足元を通り過ぎ、なおもカンはゴロゴロところがった。
観客席のドアがゆっくりと開き、制服を着た背の高い少女がロビーに現れた。
カンは少女のかかとに当たって止まった。
制服の少女は自分の足元にころがってきたカンを見て、
「あっ、しるこドリンクだ」
とつぶやいた。
素早い動作でカンを拾い上げた彼女を見て、賢三は『フルーツ・バスケット』のラスト・シーンを思い起こした。
「バーカ! ラスト・シーンじゃあるまいし」
という台詞がグググーッと全身の血管にゆきわたる感動を覚えた。
しるこドリンクを手にした山口美甘子が、ゆるやかなロビーの傾斜を賢三のいる方に向かって歩いてくる姿を、彼は砂漠の幻のようだと思いながら見ていた。
美甘子は賢三に気がつかなかった。
賢三の目前で止まりながら、クルリと背を向けて『ニューヨーク1997』のポスターを眺め出した。
見なれた黒所の制服を着た美甘子が、右手にペタンコにつぶした学生カバン、左手にしるこドリンクのカンを持ち、肩幅より少し広く足を開き賢三の前に立っていた。
真ん丸い頭頂部から一気にたれ下がった髪は肩甲骨の下まで流れていた。肩幅は広く、棒でも入れているように背すじが伸びていた。眼前にある腰は豊かにふくらみ、スカートは長かった。「つくりものみたいによくできた体だ」と賢三は思った。
「振り向いたらなんとすべきか?」と彼は自己に問うた。
「やはり一応挨拶をすべきか、しかし一体何と言ったらいいのか? 明るく『やあ』とでも言おうか、しかし黒所で存在のないこのオレが変に明るいというのも妙ではないか。では暗く『どうも……』とでも言うのか、しかしその場合、美甘子はさらにネガティヴなイメージをオレに持つのではないか。……美甘子が振り向く前に席を立つか。待て。それでは『もし美甘子がいたなら』と思っていたさっきの自分はどうなるのだ。どうする、どうするオレ!?」
日々の性妄想の中ではあれ程女性をいいように弄ぶ賢三なのに、現実の女性を目にするとまったくもってふがいない。
「しかしなぜ美甘子が文芸坐に?」
もう彼の頭の中はわけがわからない状態に達していた。おまけに彼のポコチンはムクムクと頭をもたげ始めていた。これは早くも美甘子の腰に欲情したわけではない。彼は女性との接近遭遇に直面すると、無条件で立ってしまうパブロフ犬公なのだ。
美甘子はダンスでターンを切る時のように勢いよく振り向いた。
賢三にはその姿がスローモーションみたいに見えた。
弧を描く黒い髪や、花を思わせてふくらんだスカート、彼女の足元で床のなるキュッという音、ひとつひとつがハッキリと見え、聞こえた。
美甘子が賢三に気づいた。「あっ」という表情を見せた。ただ単に驚いたという表情。
「黒高の人だ」
と美甘子は、やや間の抜けた声で言った。
賢三は黙っていた。言葉が出てこなかった。
美甘子もそれ以上何も言わず、二人は黙って向かい合った。何か言わねば、何か言わねばと賢三はあせった。そしてついにこんな言葉を口にした。
「しるこドリンクってスゲー甘いよね」
……言ってからしまったと悔やんだがもう遅かった。
(オレよ死ね)と賢三は思った。(腹かっさばいて今すぐ死ね)あまりに意味のないことを言った自分に対し、10トントラックでひき殺してやりたい心境にかられた。
「へ? しるこ?」
美甘子は自分の手の中にあるカンを見てビックリした顔をした。
「こんなの飲んだことないよ」
と言った。高いトーンの声だった。
「そうか、オレはあるよ」
言ってからまたしまったと思った。
「本当にスゲー甘いんだよ」
(もうよせ、オレよしゃべるなこれ以上)
と思いつつ、しかし止まらなかった。
「飲みすぎると虫歯になる」
(何をつまらんことを言っとるんだオレは)
「ふうん、そんなに甘いんだ」
「ああ。糖尿病も怖いよ」
(だからどーしたああああっ)
「あ、そう」
「他にも甘いもんはあるけどね」
(よせ! もうよせ、何も言うなオレよ、これ以上不毛の荒野に墓穴を掘りまくるのはよせ賢三!)
「甘いもの?」
「ああ、イチゴ大福はもっと甘い」
(バカアアアアアアア!)
美甘子が黙った。
賢三も黙った。
(おれは死のう。家に帰って最後のオナニーをして、そして首をくくろう)
賢三がさめざめと思っていると、美甘子が言った。
「何でいるの?」
「え?」
「何でここにいるの?」
それはこっちが聞きたい台詞だと賢三は思った。美甘子こそ何故文芸坐に。
「よく来るの?」
「え、ああ。うん」
美甘子はへええと言ってチラと後ろを振り向いた。
「この映画観た?」
「ああ、観た」
「面白い?」
「くだらなくていい」
「カーペンター……好き?」
「え!?」
美甘子の口からB級ホラー・ムーヴィー専門監督の名が発せられたことに彼は大きな衝撃を受けた。今確かに、美甘子はカーペンターと言った。
「知らないよねぇ」
賢三が黙っているのを知らないからだと思ったのか、彼女はそう言った。
「いや! いや! 知ってる」
賢三はあわてて大きな声で言った。
「ジョン・カーペンターは大好きだ!」
美甘子は彼の勢いに少し驚き、そして笑った。
「しるこドリンクも好きなんでしょ、あげるよ」
美甘子の手からしるこドリンクを受け取りながら賢三は、ああこの娘は本当に笑うと目がなくなっちまうんだなあと思っていた。
カンを渡すと美甘子は、「じゃあ」の一言も言わずにサッサと映画館を出ていった。
文芸坐前のゲームセンターのネオンに、一瞬彼女の姿が明るく照らし出され、そしてすぐに見えなくなった。
賢三は二本目の『金田一耕助の冒険』を観なかった。
美甘子が出ていった数分後に、彼も文芸坐を飛び出してしまったのだ。
「美甘子を探そう、探して話をしよう」
と賢三は思ったのだ。
話してどうなるというわけではないが、理屈ではなく、話すべきだと思ったのだ。
居酒屋とパチンコ屋とファッション・マッサージの並ぶ池袋の裏道を、賢三は美甘子を探して歩いた。
「会ってどうする?」
探しながら自分に問うてみた。
「美甘子のことなど何も知らぬくせに会ってどうする?」
明確な答えは何も出なかった。
「会ったところで、またしゃべれなくなって、ポコチンが立って、そうして家に帰って、すまいと決めていた彼女でオナニーをしてしまうだけじゃないか。次の日、黒所の教室で彼女を見て、情けない気持ちにひたるんだぞ」
自分にそう言ってみた。
「それはそうだが」
と彼は思った。
いつわかるかわからない、人と違った何かを探すよりも、美甘子を池袋のネオンの光の中から探し出すことの方が、もしかしたら段違いに大事なことなのじゃないだろうかと彼は思った。
「会った時の最初の一言だけは考えておかなければな」
と、歩きながらつぶやいた。
「しるこは……」
もうしるこはいいっての。
「カーペンターは好きか?」
さりげなくこう聞こうと思った。「ブラームスはお好き?」みたいだけど、今現在自分と美甘子の間にある接点はジョン・カーペンターとしるこドリンクだけなのだから仕方あるまい。
「カーペンターは好きか?」
「カーペンターは好きか?」
と小さくくり返しながら、賢三は夜の池袋駅前をさまよい歩いた。
けれども結局美甘子は見つからなかった。
いつの間にか文芸坐の前に戻っていた。
古めかしいつくりの映画館を見上げながら、賢三はもう一度「カーペンターは好きか?」とつぶやいてみた。
「オレは好きだけどもね」
と彼は心の中で言った。
疲れきった表情の男たちが数人、文芸坐から出てきた。二人組の会話が聞こえてきた。
「『フルーツ・バスケット』ってよかったなあ」
「ロリコンですよ、特にラスト・シーン。陳腐ですよ、陳腐。僕は嫌いだ」
賢三はペダルのとれた自転車の鍵をはずしながら、『フルーツ・バスケット』のラスト・シーンを思い出してみた。
「また会えるよね?」
「バーカ! ラスト・シーンじゃあるまいし」
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*8 しかしこの後、平井和正の小説はどんどん宗教っぽくなってしまい、賢三はついていけなくなって愛読者であることをやめた。
*9 監督・今関あきよし。彼の『りぼん』も名作である。
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第7章 「MOMOCO」
昨晩、賢三は本当に久しぶりに、オナニーをせずに眠った。
オナニーなき夜、オナレス・ナイトは賢三にとって、実に一年ぶりのことであった。ちょうど一年前にあった黒所名物のゴキマラで、精も根も尽き果てた彼は、オナニーをするのも忘れて泥のように眠りこけたことがあった。あの夜以来のことだ。しかも、その時はただ疲れて眠ってしまっただけなのに対し、今回はなんと、自らを戒めて、律して、自分の意志でいきり立つ肉棒を握ることを拒んだのだ。一体何故?
偶然に出会った美甘子を、猥雑な池袋の夜から探し出すことに失敗した彼は、ペダルの取れた自転車を押して家に帰った。下り坂だけサドルにまたがり、登り坂はゼイゼイいいながら押して歩いた。そうやって自分の部屋にたどりついたころにはもうスッカリ疲れてしまい、結局タクオの家にも行かなかった。狭い四畳半の部屋で、美甘子の後ろ姿を思い出した。彼女の背すじの伸びた後ろ姿は、賢三のオナニー三昧の日々を全て見透かしているように思えた。
「そんなわけはない。あるわけがない。美甘子は火田七瀬じゃないんだから」
火田七瀬とは、そのころ彼が夢中で読んでいた筒井康隆の小説に出てくる、人の心を読むエスパー少女のことである。
「それにしても何故、美甘子は文芸坐なんかに一人で来ていたのだろう」
もしかしたら、彼女は「同志」なのではないだろうか? と賢三は思った。
「彼女もまた、退屈な黒所高の日々を嫌悪し、いつか本当の自分を世に知らしめようと考え、くだらない同級生とせめて差をつけるために名画座に通ったり本を読んだり、そんなことをしている少女なのではないだろうか?」
それは賢三にとっては、お花畑で出会った熊さんに甘い甘い蜂蜜をわけてもらうぐらいに心のホンワカとする至福の想像だった。そうであればよいなと、体の奥底から賢三は夢想をふくらませた。だがすぐに、
「……そんなことあるわけねーじゃん」
ということに気づき、目の前に広がっていたお花畑は一瞬にして、文庫本と男性雑誌だらけの薄汚い四畳半へ戻った。
「こんな自分本位な想像をするなんて、これじゃまるでモロ子じゃねーか」
モロ子は賢三と同じクラスの女子である。本名を歌月素子といった。イタリア人のようなハッキリとした目鼻だちをして、小柄なくせにやけに巨大なオッパイとオシリをした女である。いつも声高らかに、自分と男がいかなるセックスをしたかといったような話をモロに語ることから、男どもの間では陰でモトコならぬモロ子と呼ばれている女だ。噂によれば、モロ子はあるロック・バンドの追っかけをやっているらしい。本人いわく「グルーピー」なのだそうだ。
「またライヴの途中でアレンったら私のこと見つめちゃって、他のピーの子が嫉いちゃって困っちゃったよ」などと彼女はよく、誰も聞いていないのに一人で語っていた。ちなみにピーとはグルーピーの略、アレンとは彼女お気に入りのバンド・マンで、本名は「山田君」というのだそうだ。山田君がライヴ中モロ子のことを見つめるというのは、恐らく彼女の自意識過剰による妄想である。
「美甘子を『同志』と思い込む自分も、モロ子のような自意識過剰野郎にすぎんのだ」
と賢三は思った。
文芸坐でたまたま会った美甘子を、もしかしたら仲間かもしれないなどと思い、必死に追い続けた自分の行動と、ステージ中の山田君が自分を見つめたと思い込んで「うれしいけどちょっと迷惑よね」なんてお門違いもはなはだしいことをつぶやくモロ子との間に、どれだけ恥知らずさの差があるだろうかと考え、賢三は深く深く、また例によって自己嫌悪に陥っていくのであった。
「今日はオナニーはやめておこう」
と賢三は心に決めた。
自慰をこらえることで、少しでも、モロ子のような通俗中の通俗人間と自分との差をつけようと思ったのだ。何故オナらぬことでモロ子との間に人間としての差が生じるのか。そこらへんは筆者もよくわからんのだけど、とにかく彼はそう決め、この夜、久方ぶりにポコチンをしごかずに彼は寝た。
しかし次の朝、賢三は自分の決心が水泡に帰したことを知った。
確かにオナニーはしなかった。しなかったけれどもかわりに、賢三は夢精していたのだ。
翌日、山口美甘子は賢三の姿を見つけても、挨拶ひとつしようとはしなかった。
「もしかしたらジョン・カーペンターのことをまた訊かれるかもしれない」
賢三の一握りの期待はまったくの無駄だった。彼女はいつものように、窓際の席に座り、数人の、派手めグループに属する連中に囲まれて、時々トーンの高い笑い声を上げていた。その姿はすっかりクラス内派手めグループの立派な一員に見えて、「ああ、やはり単なるオレの思い過ごしであったか。彼女は同志でもなんでもない俗人間の一員なのか」と賢三は心の奥でホッと小さくため息をついた。
四時限目は数学だった。初老の教師が体調を崩し休んだため、授業は自習となった。
自習と言われて勉強するバカはいない。
派手めグループ、普通人グループ、おたくグループはそれぞれ仲のよい友人同士で集い、わきあいあいといった感じで談笑を始めた。
授業開始チャイムが鳴り五分もたたぬうちに、教室は蜂の巣をつついたような騒がしさになった。
賢三の周りには、誰も来なかった。
にぎやかな教室の中で、どのグループにも属さない山之上といううすら不気味な男、同じく、うすら不気味な荻という女、そして賢三の周りだけがポツンと静かだった。
「これでいいのだ」
と賢三は一人うなずいた。
「俗人間どもに語りかけられない、これぞ人とは違った何かを持つオレ様にとってプライドに他ならない」
さて、賢三のこの考えは、真意なのだろうか。彼がこの時、心からそう思ったことは事実である。寂しいとは感じていなかったし、一人の世界に没頭できることを喜んだのも本当だ。
実のところ、寂しさを誤魔化すために、無意識のうちに思い込もうとしていたのかもしれないけれど、筆者は何ともいえない。
賢三はカバンから大学ノートを取り出し、机の上に広げた。ノートは小さな字でビッシリと書き込まれていた。「○月×日、パール座」「○月×日、文芸坐地下」といった記述があちこちに見られた。このノートは、賢三が映画を観る度に記入している「映画感想文集」なのだ。シャーペンのノックをカチカチと鳴らし、彼はノートに書き込み始めた。
「○月×日、早稲田松竹、『祭りの準備』、おなじみ|A《*10》TGの暗黒青春シリーズである。ヒロインは竹下景子、一瞬ヌードになるが多分吹き替え。ガッカリ。それにしてもこの映画、まるで不幸の大安売りだ……」
賢三はこのノートをつける時間をとても大切にしていた。ノートに文字を書き込む度に、自分の存在には意味があるのだ、と思えるような気がした。ノートのページに書き込まれる映画の本数が増えることは、賢三のいう凡庸な連中との差が少しずつ増していくことを意味していたのだ。
一カ月分書いていなかった映画日記を、賢三はここぞとばかりに書き進めた。気分が高揚してきた。『フルーツ・バスケット』の前に観たコメディ映画『|ア《*11》ニマル・ハウス』について書き始めた時、ガタガタと耳障りな音に彼は我に返った。
賢三からあまり離れていない席に、モロ子と数人の女子生徒たちが移動してきたのだ。
「でっさぁ、聞いてくれるぅ」
モロ子の、関西のオバちゃんじみた声が聞こえてきた。彼女は机にドッカと座り、黒いタイツに覆われたちょっと太めの足をブラブラさせ、女友だちに語りかけていた。
「アレンのローディーやってるカズシ君ってのがいるんだけどぉ、私この間誘われてぇ、結局やっちゃったのねぇ」
賢三のシャーペンを持つ手がピタリと止まった。
「山田君の情報仕入れるのにぃ、やっぱいろいろあれじゃん。減るもんでもないしぃ」
モロ子の態度は明らかに得意げだった。彼女の周りの女生徒たちは「ああまたか」というように、そして「よくあるよね、そういうことって」というように、精一杯大人びた顔をして、適当な相づちを打っていた。それを聞くとモロ子はさらにイキイキとした。
「カズシ君けっこういいよ。キスとか、慣れてるって感じ。体つきがダンサーっぽいってぇかさぁ、動く動く、腰がぁ」
聞くんじゃなかった、と賢三は思った。
「別にモロ子がいくらセックスをしようと、オレはいっこうに構わない」
それでも、そういう言葉を聞かされると、自分のプライドを守るため、通俗なつまらぬ連中との差をつけるため、こうやってシコシコとノートを綴っている自分というものが恐ろしく意味のない存在に彼は思えてくるのだった。一万本の映画を観るより、一回キスをしたことのある奴の方が存在意義があるのではないか? そういう根本的疑問にぶちあたってしまうのだ。
「イクっていうの、私初めてわかったもん」
賢三はシャーペンを机に置いた。
「ああこれかあーって、何か感心しちゃったよ」
パタリと映画ノートを閉じ、ため息をついた。
「フェラうまいって言われたよ」
ああ、イカンなあ……と賢三はつぶやいた。
「またきやがったなあ」と、教室の窓の外、どんよりとくすんだ曇り空を見つめて彼は嘆いた。
灰色の空に、ポツンと黒い点が見えた。そいつはみるみる近づき、裏地にビッシリと文字の書き込まれた黒いマントは、サッシの隙間から教室内に忍び込み、あっという間に賢三を頭から覆った。
御存知、自己嫌悪マントである。
「オレはセックス体験を大声でしゃべる同級生の横で、誰に見せるわけでもない映画ノートを綴るしか能のないダメ人間だ。結局こんなノート、マスターベーションじゃねえか、そうだ、結局はオナニーしているわけじゃねえか、家でもオナニー、学校でもオナニーか賢三、このダメダメダメ人間めが」
例によって落ち込む賢三、モロ子はまだセックス自慢をしている。
「でね、フェラしてたらさ、ピクピクって……」
「あのさ、モト子」
どんどんエスカレートする彼女のえげつなさにさすがに嫌気がさしたのか、女生徒の一人が横やりを入れた。
「その話はまた次聞くよ。それより六限どうする。出る?」
「ああ、体育、出たいんだけどさあ、私、服ないのよ。盗まれたのよ」
「ええ、あんたも、ブルマーでしょ」
「そ、洗ったばっかでロッカー入れといたんだけどさ。ないのよ、ブルマーだけ」
「レイコも美甘子もやられたってよ。信じらんないよねー、変態みたいのいるんじゃん、この学校」
「レイコに美甘子にモト子かあ。胸でっかい奴ばっかじゃん」
一人がそういうと、彼女らは「ヤラシ〜」と言って顔を見合わせて笑った。
黒所に最近出没する、ブルマー怪盗の話は賢三も知っていた。あちこちのクラスで、忽然と女子の体育着、しかもブルマーだけが消えているらしいのだ。これは男子の間でのみのウワサだが、どうやら盗まれる生徒は、可愛かったり、体つきがやらしかったりする女子に限られているらしい。見栄を張って、盗まれたと主張する女もいるとかいないとか。しかしそれにしても、美甘子のブルマーまでが盗まれていたとは賢三も初耳であった。
「美甘子のブルマー」
小さく声に出して賢三はつぶやいた。
美甘子の、あのたわわなヒップを包む一枚の布。肉体の表面張力ギリギリ、あの尻をけなげに包む一枚の赤き布……。
一瞬にして、賢三の全身の血は彼の下腹部へと逆流を始めた。「いざ鎌倉!」と申し合わせた義理堅き武士のごとく、赤き血潮は彼のポコチン海綿体目指してつっ走った。
グググッと、音こそ立たないが、賢三のポコチンはズボンの中でこれ以上はない程に硬くなった。
「やべ」
賢三はあわてて机を引き、股間を隠した。
「しかとしてんじゃねえよ!」
突然、口汚い罵り声が教室に響いた。
あまりにも大きい声だったため、教室内の生徒たちの会話がピタリとやんだ。
「てめえ気にくわねえっつってんだよ!」
八木という、派手めグループに属する男が、うすら不気味な山之上の襟首をつかみ、怒鳴っていた。
「てめえが一人でつまんなそうにしてるから消しゴムのカスたっぷりかけてやったんじゃねえか、喜ぶかと思ったのによう」
周りにいた八木と仲のよい男連中が、「もっともだ」「おっしゃるとおり」などと言ってヘラヘラと笑った。
「わかってんのかよ」
山之上は青白い顔をしていた。小さく「離せ」と言った。その声には感情がなかった。
「離せだあ〜。んだと、この野郎」
八木は、教室中の視線が自分に集中していることが、うれしいようだった。そういう男なのだ。
「離せ……よ」
山之上の声は相変わらず無表情だった。目の色から、怯えているのは明らかだった。けれど恐怖が声に出ていない。人の心を逆なでする、いじめられる者特有の声だなと賢三は思った。
「んだとお、こらあ」
八木が調子づいて、ヤクザのような声で言った。
「やめなさいよ」と女生徒の誰かが言った。
八木が襟首をつかんだ腕で山之上の体を思いっきりつき飛ばした。山之上は背後の机の上を越えて、後頭部からもんどり打って床にひっくり返った。勢いで一緒に倒れた山之上の机から、教科書や筆記用具が四方に散乱した。
キャアッと二、三人の女生徒が悲鳴を上げた。
床にのびた山之上はピクリとも動かなかった。
教室が静まり返った。
「八木ぃ、殺しちゃったんじゃねーの」
八木の仲間が不安そうに言った。
「バカ、これくらいで死ぬかよ……」
勢いづいていた八木の表情がにわかに曇った。
「でもよ、奴、動かねーぜ」
教室が、ゆっくりとまたざわめき始めた。
恐る恐る、八木が動かない山之上に近づいた。
「お、おい、山之上……」
山之上は答えなかった。
「お……おい……おいってば!」
八木の顔はみるみる青ざめてゆく。
と、いきなり山之上がびっくり箱の飛び出すピエロのように上半身をムックリと起こしたので、驚いた八木はギャッと叫んでその場に尻モチをついた。
「だっせー! 八木、だっせーでやんの」
派手めグループの男たちがゲラゲラと笑った。
「う、うっせーなあ、こら山之上、いきなり起きんじゃねーよ、ボケがこの!」
山之上がよろよろと起き上がると、何度も力を込めて自分のズボンをはたいた。そして笑っている派手めグループと八木を交互に見て、言った。
「お前ら……切ってやる」
一瞬あっけにとられた八木は、「なんだと」と言ってまた山之上の襟首をつかもうとした。山之上が一歩後ろに下がった。
「お前ら切ってやる……今度カッターで切ってやる!」
青白い顔の山之上は、色のない声で小さくつぶやくと、そのまま振り向き、足早に教室を出ていってしまった。上体を動かさず、大股で歩くロボットのような変テコな動きだった。
「なんだよあいつ。おかしいんじゃねーの」
八木が吐き捨てるように言った。
事態が一段落したことに気づいた生徒たちは、また親しい友人たちとたわいもない話に花を咲かせ始めた。普通人グループの女子何人かが、山之上の机をゴトゴトと直していた。
賢三は、山之上が気になった。今の騒ぎで、同じクラスになって以来、彼の声を初めて聞いたと気づいた。感情が出ない、冷たい石のような声が何故か耳に残った。
気を取り直し、映画ノートをしまおうと、床に置いてあったカバンを拾おうとした時、カバンのかたわらに、あちこちの破けたボロボロの小さな紙袋が落ちていることに気づいた。さっきまでなかったことを考えると、どうやら山之上の机からころがった物らしかった。
拾い上げた賢三は、子猫のようなやわらかな感触に驚いた。そしてそっと中身を見て思わず大声を上げそうになった。
茶色のボロい紙袋の中には、真っ赤な女子用体育着、ブルマーが丸めて詰め込まれてあったのだ。
チラリと名札が見えた。黒所ではブルマーには名札を縫いつけなければならず、女子の間で大不評を買っているわけだが、減点の対象になるので、渋々ながら彼女たちは名前入りブルマーを着用している。賢三の拾ったブルマーのその名札には恥ずかしそうな小さな字で、
「M.YAMAGUCHI」
とローマ字で綴られていたのだ。
タコハイの入ったビニール袋を手に、コクボ電気店の二階へ上がると、すでにタクオもカワボンもいい塩梅になっていた。轟音でYMOの「テクノデリック」が流れていた。
「※[#歌記号、unicode303d]体操体操〜、みんな元気にぃ、けいれんけ〜いれんってかあ、おう、ケンゾーお前昨日来なかったなあ、もうオレとカワボンの計画にゃ入れてやらんもんね。ハブだもんね」
「なんだと、そんなこと言うとカッターで切ってやるからな」
「なんだそれ?」
賢三が腰を下ろすやいなや、なみなみとつがれたビールがカワボンから手渡された。
「ま、ま、ひとつ」
「んぐ、んぐ、んぐ、んぐ、プハーッ」
「おう、相変わらずいい飲みっぷりだね」
「あー、カワボン、昨日はスマン。いろいろあってさ」
「何だよケンゾー、オレには謝んねーのか?」
「うるさいよ、カッターで切るぞ」
「だから何なのよそれ?」
賢三は、タクオとカワボンに、四時限目の山之上御乱心事件について語って聞かせた。
山之上こそが今黒所を騒がせている怪盗ブルマーかもしれないということもつけ加えた。
「ううん、山之上かあ。オレあいつと同じクラスだったことあるけど、確かにかなりあぶない感じあったなあ」
カワボンが眉間に深い皺を浮かべて言った。
「いっつもボーッとして誰ともしゃべらない奴なのにさ、いきなり狂ったみたいに怒り出すことがあるんだよな。いつだったかなあ、あいつ今どきさ、透明な下敷きに女の切り抜きとか入れてるわけよ」
「誰の?」
「それがさ、GORO とか MOMOCO とかから切り抜いたって感じじゃないんだよ。あれ、あれだよ、スーパーの折り込み広告かなんかだよ」
「何でそんなの入れてんだ、あいつ」
「それがさ、タクオ、電化製品が安い! とか言ってビキニの女が笑ってる、いかにもC級なチラシなんだよ。女も白人のさ、いかにもチープな感じの奴でさあ」
「ううん、それはオナニストの行きつく果て、『普通の女ではいけなくなった男が自分なりのオナペットを探し出した』ってやつじゃないの?」
「そうかなあ、そうかもしれんなあ。でもあんなただのバタくさい白人モデルで抜ける奴って、やっぱりかなりヘンだと思うぞ」
「佐川君趣味なのかもよ、白人女性の肉にこだわってんのかもよ」
「ケンゾーらしい意見だよ。それでさ、そのチラシを八木に見つかってさ」
「八木とは一年からの遺恨だったのか」
「最初は、やめろよ、とか言ってたんだけどさ、そのうちキーッとか叫んだかと思うと」
「ふんふん」
「そんで」
「泡吹いて失神した」
タクオが「気持ち悪いやっちゃなー」と一言言って、タコハイを三人のグラスにつぎ始めた。賢三は、山之上の青白い顔を思い出し、少しだけゾッとした。
「ケンゾー、おまえ山口のブルマーどうしたんだよ」
タクオがニヤニヤ笑いながら言った。
「家にもって帰ったんだろお」
「するかあ、んなこと。山之上の机ん中に戻しておいたよ」
「本当かあ、本当に本当かあ?」
「本当、本当に本当」
ウソであった。
賢三は、美甘子のブルマー入り紙袋を、あの時こっそりと鞄に入れてしまっていたのだ。今、真紅のブルマーは、賢三のベッドの下に、ひっそりと隠されている。
「ああっと、それよりだなあ」
賢三はあわててブルマーから話をそらした。
「昨日の話はある程度まとまったのかよ。何やるか、具体的な話はあるのかよ」
賢三は二人に問いかけると、二人は同時にグラスをテーブルに置いた。
「それなんだけどさ、ケンゾー、ちょっと観てほしいものがあるんだよ」
カワボンが言った。やけに神妙な顔をしている。タクオに目くばせをすると、タクオも変に真面目な顔をして、ステレオのヴォリュームを絞った。
「ちょっとこのヴィデオ観てくれ」
タクオがさっきから机の上に置かれていたヴィデオ・テープを、デッキにセットした。
テレビの画面に、黒っぽい映像が映し出された。
「暗くしないとわからんか」
そう言ってタクオが電灯を消した。
部屋が闇に包まれ、ほのかなテレビの明りだけが、三人の顔を浮かび上がらせた。
闇の中で見ても、映像は判然としなかった。
画面の下半分は何やら黒い物が無数に蠢いている。どうやら人の頭のようだった。よく見れば、金色に髪を染めた者や、モヒカン刈りらしき頭もあった。画面上方には、金属質の棒が二本つき出ていた。多分マイク・スタンドだろう。
「ライヴ・ハウスか?」
賢三の問いには答えず、タクオがヴォリュームを上げた。
男のがなり声や、女の悲鳴にも似た声がいくつか聞こえた。その声を覆うように、ブーンというアンプのノイズが低く響いていた。
画面の中の男や女は、何か同じ言葉を叫んでいるようだった。
「何て言ってるんだ。ドン? ボンって言ってるのか?」
「黙って観てろよ」
タクオがまたヴォリュームを上げた。
画面左から、髭面の男が現れた。
「ぎょうさん来てくれたな。ええもん見せたるよう、期待しとって」
マイクに向かって、のんびりと言った。
髭の男はギターを抱えていた。レッドサンバーストのレスポールだ。
髭の男は煙草を吸い始めた。ニヤついた笑いを浮かべて、最前列の客と二言三言会話を交し、ガッハッハと大声で笑った。
彼の背後を、黒い影が横切った。
影はステージ中央のマイクを握りしめた。
スポット・ライトが照らされ、影は一人の、女のように美しい顔立ちをした男になった。
客の歓声が一際大きくなった。
しかしステージ中央の美青年には、客の声などまるで耳に入っていないようだった。
焦点の定まらぬ目をしていた。
それでも、客たちの声はさらに勢いを増し、ステージの男の名前と思われるものを連呼し始めた。
「ゾン! ゾン! ゾン! ゾン!」
ゾンと呼ばれた男は、相変わらず無表情だった。
レスポールを持った髭男が、笑いながら言った。
「ほな、やらさしてもらいまっかあ」
彼が右腕を高らかに上げた。その手にはガラス板のようなものが握られていた。髭男がその腕を勢いよく打ちおろした。
コクボ電気店の上空スレスレに、爆撃機が通過したかのような金属音が賢三の耳につき刺さった。
髭男がガラス板で、レスポールの弦を狂ったようにひっかき始めたのだ。それと同時に、客席の、すし詰めの頭が激しく上下に揺れ始めた。
うつろな表情の、ヴォーカル・マイクを握りしめた男が、瞳をカッと見開いたままで、歌い始めた。
賢三は、持っていたグラスを落としそうになった。何だこれは? と思った。それは歌ではなかった。歌などと呼べる代物ではなかった。体の奥底、心の深淵に行き場を失ってたまりにたまり、目に見えぬ闇の中で腐臭を立て始めた得体のしれない汚物じみたものを、全て吐き出すような、聞いているとどっか遠くへ連れ去られてしまいそうな気味の悪い声の嵐であった。
ゾンと呼ばれた男の声に、客たちは狂乱していた。客たちの上下運動はとどまるところを知らず、前の客の頭に手をかけ、ステージ上に何とか近づこうとする者もあった。頭を金髪に染めた男が、ゾンのマイク・スタンドをつかみ、ガタガタと揺すった。ニヤニヤ笑いながらギターをかき鳴らしていた髭男が、それを見るや怒りの形相を浮かべ、弾いていたレスポールを農夫の鍬みたいに振り上げ、そのまま金髪の上に打ちおろした。金髪が赤く染まり、吹き出た血がゾンの白い頬にはねた。
――ヴィデオはそこで終わっていた。
闇の中で、カワボンが賢三に「どうだ?」と聞いた。
「すげえ」
賢三は一言で答えた。本当にただすごいと思ったのだ。
タクオとカワボンがニヤリと笑った。
「そうか、やっぱりわかってくれたかケンゾー。カワボン、やっぱケンゾーはこのスゴさをわかってくれたよ」
「でもこれ一体何なんだよ」
「大阪のノイズ・バンドだよ。自分BOXっていうんだ」
カワボンが灯りを点けながら言った。
「自分BOX?」
「うん、関西のアングラ・ロック界ではかなり評判になってるらしい。ウワサを聞いてさ、『|DOLL《*12》』の通販でタクオが買ったんだよ」
「おう、オレこれ観てさ、これだあって思ったんだよ。何だかわかんねえけどスゲーパワーだろ。オレたちのやりたいことってこーゆーことだったんじゃねーかなって思ってさ、カワボンに観せたらやっぱえらく気に入ってくれてさぁ」
「うん、でな、ケンゾー」
カワボンが再び眉間に深い縦皺を浮かべた。この表情を見せる時の彼はかなりマジだ。
「オレたちさ、何かやらねばって意志と、何かやれるって自信だけはあるんだよね。ないのはその方法、発露の手段なんだよ。入り口はあっても出口はないんだよ。それと時間もないと思うんだ。そりゃオレらまだ若すぎるぐらいに若いさ、でもね、今この暗黒黒所時代において、俗人間どもの鼻を明かすには本当にあと一年半しか時間はないわけだよな」
カワボンは酔っているな、と賢三は思ったが、あえて何も言わず彼の話を聞いた。
「だから、発露の手段は即効性のあるものじゃないといかんと思うんだ。映画も普通のバンドもいいけど、いかんせん時間がかかりすぎる。その時にこのノイズ・バンドという、テクニックを度外視したところで勝負する方法を見て、オレ思ったんだよ」
「これしかないってか?」
「そう、そうだよ、ケンゾー」
もちろん、ノイズ・バンドにもテクニックは必要なのであるが、自分BOXの常軌を逸したステージングに叩きのめされた彼らはそんなことに気づくはずもない。
「どうだケンゾー、ノイズ・バンド組まねーか?」
「おお、カワボンとオレはもうやるって決めたぞ。ケンゾーやんないっつっても、オレらやるもんね」
「誰がやらないって言ったよ、やるよもちろん」
賢三も、もう手段はこれ以外にない、と確信していたのだ。
「そうか、じゃあ乾杯だ。ついに乾杯だ」
タクオがタコハイのグラスを手に、笑った。
「おーし、ついに乾杯!」
カワボンもすっかり酔った目をして笑った。
賢三のグラスにもタコハイがつがれた。
「よーし、ついに乾杯!」
「ついに乾杯!」
「ついについに乾杯!」
三人はその夜、徹底的に飲んだ。飲みつつ「同志を増やそう」という話になった。「|フ《*13》ールズメイト」にメンバー募集の葉書を送ろうと誰かが言った。あーでもないこーでもないと文面を考えた。明け方ついに完成し、三人はスズメの声を聞きながら近所のポストに投函しに行った。彼らはここ数年でその時一番泥酔していた。そのため、文面はまったく酔っぱらいの感性でしたためられた怪しげなものであった。次の月、フールズメイトのメンバー募集欄を開いて、三人は我がことながら情けなさで揃ってうつむいてしまった。
それはこんなトホホな文面だった。
「メンバー激募! 当方十七歳の青い麦。おホモだち待ってるヨ〜ン。いかした薄毛の兄貴、六尺好きの祭り大好き大いに結構。退屈な日常を打破し、第二の青春を謳歌すべく、ポコチンを満天の星空の下フルフルしてみないか? 露出狂、六十歳以上歓迎、完全プロ指向、ツッパリ不可。乞連絡シクヨロで」
[#ここから2字下げ、折り返して6字下げ]
*10 低予算の映画をつくり続けた映画会社、アート・シアター・ギルドの略称。ATGの映画は、とにかくみんな暗かったのだ。
*11 ジョン・ランディスの出世作。ジョン・ベルーシが目茶苦茶おかしい快作。
*12 アンダーグラウンド・ロッカー御用達の専門誌。
*13 ロック雑誌。現在と違い当時のフールズメイトは、完全なアンダーグラウンド・ロック情報誌であった。
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第8章 「エロトピア」
かつて偉大なる劇作家シェイクスピアは、ハムレットに名を借りて、「生きるべきか死すべきか?」と問うた。誰に? 世に。そして自分自身に、だ。
モンモン男子高校生大橋賢三もまた、今、さすがに世には問わんが自己に問うているところだ。
「オナるべきか、オナらざるべきか」と。
同じ人間に生まれながらどうしてこうまで究極の命題が哲学と煩悩とにハッキリと分かれてしまうのか、筆者ならずとも不思議なところだ。ともかく、シェイクスピアも賢三もそれぞれに悩んでいることだけは確かだ。
四畳半の部屋で、ベッドに腰を下ろした賢三の右手と左手には、それぞれに、まったく性質の異なる物体がのせられていた。
右手には文庫本。レイ・ブラッドベリの『何かが道をやってくる』。
左手には女子体育着。怪盗ブルマー山之上から手に入れてしまった山口美甘子のブルマー。
文庫本もブルマーも、それ程重いものではない。それなのに賢三の左手はずっしりと重みを感じていた。それに心なしか左手だけがジンジンと熱い。
「オナッちゃおうかなあ……」
御存知のように、彼は美甘子でだけはオナるまいと心に決めていた。しかし、現実にこうして美甘子の尻を覆っていたブルマーを手にしてしまうと、バランスを失ったヤジロベエのように彼の心は揺れ動くのであった。
「いやいかん! 今日は大人しく本を読んで過ごそう」
決心して本のページを開くものの、どうにもストーリーが頭の中に入ってこない。
パタリと本を閉じ、再びブルマーを手にした。赤き布を握っただけで、ポコチンはすでにエンパイア・ステイトビルほどに固く高くいきり立ってしまった。頂上でキングコングが一暴れしてもみじんも影響はないだろう。そして賢三はそっとこんなことをつぶやいてみる。
「オレは美甘子でオナるのではない。美甘子のブルマーでオナるのだ」……。
あんたはとんち小坊主一休さんか!!
筆者のつっ込みに気づいたわけでもないだろうが、さすがに賢三はこの完全なる屁理屈は捨て、再びブラッドベリを読み始めた。
……だがやはり、いくら読み進めても物語の中に入っていけない。
賢三は本を捨て、しばしの間考え込んだ。
そうして五分後、彼はブルマーをベッドの下にしまい、かわりにアドニス・バッグの中からやおらポルノ女優青木琴美写真集を取り出し、彼女のスレンダー・ボディでガッシガシとポコチンをしごき始めた。
「何や結局オナるんやないかワレは!」と、興奮のあまり関西弁でつっ込みを入れた読者諸君。そんなに怒らないでほしい。彼にとってこれは「山口美甘子を汚さぬため」の、唯一の手段だったのだから。
賢三の心の中にはまだ、もしかしたら彼女は「同志」なのではないかという一縷《いちる》の望みがあった。もしかしたら、自分と同じ黒所への憤りを持ち、同じ反抗の方法、自己確認の仕方を選ぶ人なのかもしれない。性妄想のえじきにするにはもったいない仲間なのかもしれないのだ。
「それがわかるまでは、絶対にオレはオナらん!……美甘子では……」
そう思いながら青木琴美を性妄想のえじきにしまくる賢三であった。
教室の美甘子は相変わらずだった。授業中は頬づえをつき、窓の外をぼんやりながめたり、適当にノートをとったり、教師の目を盗んで何やら手紙を書き、こっそりと近くの友人に渡したり。休み時間は派手めグループの輪の中でよく笑った。その姿はどこにでもいる普通少女だった。「同志」などには思えなかった。
「お〜も〜い、すごしも〜こ〜い、それでも〜い〜い、いまのうち〜」
美甘子の姿を見つめる賢三の口から、ふとそんな歌がこぼれた。口ずさんでからそれが|サ《*14》ザンオールスターズの一曲であるのを思い出し、オレたるものがこんな大衆受けするポップ・バンドの歌を唄っちまうなんて、と賢三はひどく後悔した。
「……でもやっぱり思い過ごしなんだろうか」
賢三はふうっと息を吐き、美甘子のつくり物のように整った体から目をそらした。そして情報誌を机の上に広げ、パラパラとめくった。黒所では土曜はのぞいて、水曜だけは四時限で授業が終わる。いつもより二時間早く学校が終わるのだ。賢三は毎週この日を名画座に行く日と決めている。
今日はその水曜日だ。
昼メシも抜いているので金もある。これは何か観に行かねばと思い、彼は本腰を入れて名画座の各上映予定を調べ始めた。
「中野名画座……『ハウリング』――観たなあ。パール座は『テス』かあ……これも観た。大塚名画座は『|フ《*15》ァントム』と『|ロ《*16》ッキー・ホラー』の二本立て、よくやるなあ。この組み合わせ……でも観たし……|新《*17》宿昭和館『広島脱獄殺人囚』『沖縄ヤクザ戦争』『県警対組織暴力』ヒェー、ポリシーはっきりしてるよなあここ。えっと文芸坐は、あ」
文芸坐の上映予定作品はニコラス・ローグの『地球に落ちて来た男』。そして『ニューヨーク1997』だった。監督はジョン・カーペンター。
「知らないよね、カーペンターなんて」
という、美甘子の少し生意気な口調が賢三の脳裏に蘇った。
ハッ! と賢三は、明りが点くようにあることに気づいた。
「今日、美甘子は文芸坐に行くのではないだろうか?」
単なる願望ではなく、それには根拠があった。まず彼女がカーペンターの監督するB級映画に関心があるらしいこと。そして『ニューヨーク1997』の上映時間が四時三十分からという、午後の授業がある日では早退しない限りは観ることが不可能なスケジュールであること。それにこの二本立てが、「スーパーSF大会」という文芸坐の特別プログラムにおいての上映であり、そのため三日しか上映されないこと、しかも今日はその最終日なのだ。
黒所高の生徒が『ニューヨーク1997』を観に行くなら、ズバリ今日しか日はないはずだ。
ゴクリ、と賢三はつばを飲み込んだ。
文芸坐のロビーで、クルリとターンを決めた山口美甘子の姿を、賢三は牛が食物を反芻するように、ゆっくりと思い返してみた。すると、恥ずかしいぐらいに胸が高鳴ったりした。賢三は顔を上げ、なぜかビクビクしながら、現実の美甘子の方に顔を向けた。
さっきまで雲にかくれていた夏の太陽が、一直線の光を教室内に放っていた。山口美甘子の顔は逆光の中に暗く陰となり、その表情はまったく見ることができなかった。
中井を通り過ぎたあたりで、はやくも賢三の自転車は嫌な音を立て始めた。ペダルを踏み込む度にギリギリと鳥がしめられているような悲鳴を上げる。
山手通りに到達した時、またしてもペダルがはずれた。
池袋に至る急な坂道を、学生カバンとペダルをかごに詰めた自転車を押しながら賢三は、本当に美甘子と会ってしまった時のことを考え、その時動揺せぬように、何度も何度も最初に彼女に言うべき一言を心の中でくり返してみた。
「ジョン・カーペンター好きなの?」
トーンを上げたり下げたり、さりげない口調で、あるいは少し荒い口調で、さまざまなパターンで賢三は同じ一言をくり返した。
「ジョン・カーペンターは好きなの!?」
「……ジョン・カーペンター……好きなわけ?」
しかし言い方を変えて何度つぶやいてみても、これだというのがなくもどかしく、さらに、毎晩オナニーではあれだけワイルドなレイプを慣行しているオレが、「ジョン・カーペンター好きなの」という一言を言うだけで何故初デートにおびえる少女のようにドキドキせにゃならんのだと思うと自分が情けなく、それでもなお、ジョン・カーペンターは好きなの? とくり返し続け、百五十回目ぐらいをつぶやいてハタと顔を上げると、文芸坐の古めかしい建て物が彼の前にそびえ立っていた。
映画はすでに始まっていた。客席には何人か女性がいたが、はたして美甘子かどうかは暗くてわからない。とりあえず、いつものように前方の席に腰を下ろした。
『ニューヨーク1997』はもう二回も観ているはずなのに、賢三の頭にはまるでストーリーが入らなかった。
カート・ラッセル演じるダーティー・ヒーローがNYの闇に消え、エンディング・テーマが流れ始めた。淡い夢のように現れては消えていくスタッフたちの名前。それもやがて終わり、文芸坐館内が静かに明るくなっていった。
「いるわけないよなぁ」
と賢三は心でつぶやいた。
「思い過ごしに決まってるんだ。たまたま文芸坐で会った美甘子を同志と思い込むオレは、結局モロ子みたいなただの自己中心的考えしかできんスットコドッコイなんだ」
「振り向くのはやめよう……」と賢三は思った。
今振り向いて、後方の客席に「同志」を見つけられない現実に叩きのめされるよりも、このままこうして前だけを向いて、スクリーンに映し出される夢だけを見ている方がよっぽど幸せじゃないか。そう思った。
「そうだそうだそうしよう、そう決めた」
賢三は座席にふんぞり返り、両ひざを前列の背もたれにひっかけた。「しっかり映画観るぞ」姿勢をとったわけだ。そうしてもう一度「美甘子がいるわけねえじゃん」と心でつぶやいた。
と、賢三の背もたれがボコン≠ニ大きな音を立てた。
「チッ」と彼は小さく舌を鳴らした。名画座通いの長い彼にはこの音がなんだかはすぐわかった。このボコン≠ヘ、後ろの席に座った客が、「しっかり映画観るぞ」姿勢をとった時に鳴る音なのだ。両ひざで背もたれを押していて、足を移動させた時に背もたれの金属部分が鳴る音なのだ。映画上映中にこの音を鳴らされると本当に腹が立つ(賢三もよく鳴らすがな)。
次に上映される『地球に落ちて来た男』をボコン≠ナシラケさせられてはたまらない。こと映画に関しては真剣になってしまう賢三は、自分の座り方は棚に上げ、注意してやろうと後ろを振り返った。
「ちょっとすいませんけどね」
「あ、すいません」
怒られた少女はパッと背もたれにひっかけていたひざを浮かせ、体育座りのように両手で足をかかえた。
「ごめんなさあい」
と、謝った少女が山口美甘子であることに気づいた時、賢三は無意識のうちに、まさに条件反射で思わず口走っていた。
「ジョ……ジョンは好き!?」
「へ? ジョン? ジョンって誰? |ジ《*18》ョン・トラボルタ?」
賢三の頭の上でミラーボウルがクルクルとまわり、フィーバーしまくるジョン・トラボルタのノーテンキこの上ない姿が目に浮かんだ。
「ねえ、同じクラスの人でしょ?」
呆然としている賢三に美甘子が言った。
あれほど訓練しておいた最初の一言をはずした賢三は、もうわけわからん状態に突入し、美甘子の問いに何も答えられなかった。
「この間も会ったよね、ここで」
「……ああ」
やっとそれだけ言えた。
「そん時もいちご大福は甘い≠ニか変なこと言わなかったぁ、君?」
そう言って美甘子は、例によって目のなくなる彼女独特の表情を見せて笑った。
高いトーンでアハハハハと笑った。
「いや! いちご大福は本当に甘い!」
言ってからまたしても「しまった」と賢三は思った。
あわてるあまり、またオレはわけのわからぬことを美甘子に言おうとしている。
落ち着け、オレよ。
「……あ、っていうかね、本当に甘いんだよね。うん」
(だからそれじゃあ同じだろうが)
「糖分を糖分でくるんでるわけだからそりゃあね、甘いよ、うん!」
(ダーッ! 話題を変えろよ話題をよ!)
美甘子は目を丸くし、「何言ってんだこの人は」という顔で賢三を見つめている。何か言わねば、気の利いた一言を何か言わねばと思う程、彼の脳からは言語というものが飛び散っていってしまうのだった。まるでアリ地獄、あたかも底無し沼。
「……あ、うぐ、うう、え、ぐ、その、んで……」
おまえは原始人百万年か!
「…………」
ついに完璧に言葉をなくし、押し黙る賢三。
「アハハハハハハ」
美甘子が再び高らかに笑った。あまり大きな声だったので、彼女の後部座席で眠っていた労務者が目を覚ましたのかビクリと体を震わせた。
「変な奴だなあ、アハハハ」
彼女の笑い声の真意を、賢三はつかみかねた。屈託のなさすぎる彼女の無邪気な笑い声は、賢三を蔑んでいるようにも聞こえたし、ただ単におかしくって笑っているようにも聞こえた。また、賢三に対して友好の気持ちを抱くことからくる開放的な笑いに聞こえなくもなかった。「……多分、ただ単におかしくて笑っているのだ」と賢三は結論づけた。「それ以外は、どっちもオレの自意識過剰なのだ」と心でつぶやいた。「美甘子はオレのことなど何とも思っちゃいない。もちろん、同志でも何でもない」
「あ、オレ、ジ、ジュース買ってくっから」
と言って賢三は立ち上がった。こうやって美甘子と対峙している状態が、どうにもいたたまれなくなってきたのだ。
カバンをかかえ、そそくさと賢三はロビーに出た。薄暗い文芸坐ロビー。自販機の前に立った。何か冷たいものが飲みたかった。わずか数十秒美甘子としゃべっただけで、すっかり賢三の喉は渇き上がってしまったのだ。「つくづくだらしのないオレだ」と思いながらコインを入れた。「つめた〜い」の表示が灯るドクターペッパーのボタンを押そうと指を伸ばした時、賢三の背後で「大橋君」という声がした。
「大橋賢三君。でいいんだよね?」
山口美甘子はそう言って「間違ってたらゴメン」とつけ加えた。
「……うん、そう、大橋、いいんだよ」
それを聞いて美甘子がニコリと笑った。
「ああっと、君は山口……山口……美甘子さんっていうんじゃないかなもしかして」
「知ってるくせに〜」とつっ込んだ読者よ。筆者もまったく同感であるが、まあいいではないか。一応ボケさせてやろうじゃないか。
「そ、私、山口美甘子。黒所で大橋君と同じクラスの、ね、ジュース一本おごってよ、同じクラスのよしみでさ」
そんなことを言って美甘子はさらにニマニマと笑った。
賢三はまたしてもこの「ニマニマ」の真意を探りたくて仕方なかった。
「これは嘲りか!?」
「あるいは友好を求めているのか!?」
「それともこの女、何も考えとらんのか!?」
押し黙っている賢三を見て、美甘子は笑うのをやめ、「ダメ?」と言った。
「いやダメじゃない! おごる、おごらせてもらう。何がいい山口さん?」
「んとね、ウーロン茶」
「ウーロン茶だね」
賢三はウーロン茶のボタンを押そうと振り返った。
そこでハタと思いついた。
「ウーロン茶ではなく、しるこドリンクのボタンを押してみたらどうなるだろうか?」
今、オレは美甘子の前ででくのぼうのようになっている。この状態のままウーロンを渡して一体どうなる。ますますいかんともしがたくなるばかりではないか、何か状況を打破せねば、オレは彼女に結局何ひとつ言えないで終わり、家に帰り、今日こそ美甘子でオナニーをぶっこいてしまうのだ。彼女の笑顔の真意も、彼女が何を思って文芸坐に通うのかもわからず、例によって一人モンモンと自己嫌悪マントに包まれるのだ。
「イカーン! それじゃイカーン!」と、賢三は思った。
そこでだ。例えばここで、間違ったふりをしてしるこドリンクを彼女に渡せば、もしかしたら彼女は大笑いしてくれるのではないか、真意を探る必要のない、ただしるこがおかしいという単純な笑いを聞けば、その間をきっかけにオレは彼女に話しかけることができるようになるのではないか、と彼は考えたのだ。
賢三の目の前で「つめた〜い」の青い光と「あったか〜い」の赤い光が、音もなく輝いていた。
賢三はボタンを押しかねた。青を選びこのままでくのぼうで終わるか、赤を押し美甘子を試してみるか。しかしもし美甘子がしるこドリンクに激怒したらどうなる。それでなくても彼女がまた真意のつかめない態度を示したらどうする……。
「どちらを選ぶべきか……しることウーロン、どちらを選ぶ賢三。……生きるべきか死すべきか……どうするオレ??」
……ハムレットは結局どっちを選んだんだっけ?
背後に美甘子の視線を感じる。
「やっぱり、ウーロン茶を押そうか」
そうあきらめかけた時、賢三は心の隅で誰かの声が聞こえたような気がした。
「オレたちさ、何かやろうよ、何かわかんねえけど何かできるはずだよ! やってみよう!」
と、その声は言った。声と共に、目の前の自販機の明りにぼんやりと幻が見えた。
「タクオ! カワボン!」
それはまったくの幻だった。賢三には、究極の選択を迫られた彼を助けに、親友たちがアドヴァイスをテレパシーで送ってくれたように思えてならなかった。
「何かオレたちできるはずだぜ、やろうよ!」
「そうだな、やるべきだな。タクオ、カワボンすまねえ、後でタコハイおごるぜ」
賢三の指がしるこドリンクのボタンを勢いよく押した。
「アーッ!」
と、背後で美甘子が悲鳴を上げた。
受取口に落ちてきたしるこドリンクの缶を、賢三は握った。
「本当に『あったか〜い』ぜこいつは」と賢三は思った。
振り返り、
「ゴメン。間違えて押しちゃった。しるこドリンク」
と美甘子に言った。
美甘子に缶を渡した。
美甘子は、何も言わなかった。
ただボンヤリと、あきれたようにしるこドリンクの缶を見つめるのみ。
「ああ……やはり……」失敗したのか。と賢三は思った。笑ってくれるどころか、どうやらオレは美甘子を怒らせてしまったらしい。
「もういい、もういいのだ。ユルセ、タクオ、カワボン。オレはまたしくじった。今夜は飲もう、浴びる程タコハイを。もう美甘子のことなどあきらめた。同志でも孔子でもなんでもいい、他の女同様に、今夜から我がマグマのごときエロ・リビドーのえじきにしてやるのだ。オナってオナってオナリまくって……」
「ククク……」
ふいに美甘子が笑った。
ハッとした賢三の面前で、美甘子は爆発したように笑い出した。
「アーッハハハハハハハ。何よこれ、またしるこドリンクじゃなああい」
美甘子はしるこドリンクの缶を握りながらケタケタと笑い続けた。腹をかかえ、涙さえ浮かべながら大笑いし、ついにむせてしまった。それは深く真意を追求する必要などない、まったくストレートな笑いだった。
「生きていて本当によかった」と、賢三は心の底から思った。
そしてまだむせている美甘子に、決然とこう尋ねた。
「あのさ、むせてるとこ悪いんだけど、ジョン・カーペンターは好き?」
「ゴホゴホ……え? カーペンター好きかって?」
「うん、好き?」
美甘子がうれしそうな表情を見せた。そしてこう答えた。
「大好きよ。カーペンターもデ・パルマもロメロもアルジェントもクローネンバーグも、リンチも、それからルイスもみんな私好きよ。知ってる、みんな?」
「監督の名前?」
「そう、みんなわかる?」
バカにすんなよ。と賢三は思った。美甘子に向かい、一気にまくし立てるように言った。
「デ・パルマはブライアン・デ・パルマ、こりにこったカメラワークを使う監督で代表作は『殺しのドレス』。ロメロはジョージ・A・ロメロ。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』で名を上げて、『マーティン』なんていう屈折した青春映画を撮ってる。クローネンバーグはデヴィッド・クローネンバーグ。人間が化けものと化していく映画を撮らせたらダントツにうまい奴だ。『ビデオドローム』なんてその典型ね。アルジェントはダリオ・アルジェント。映像はきれいだけど脚本はメチャクチャな人ね。リンチはいわずとしれた『デューン』のリンチだろ。そんでもう一人いたなあ、誰だっけ」
「ルイス」
「ルイス? ルイス……ううん、誰だあ……ルイス・ブニュエル?」
「違うよ、『|ゴ《*19》アゴアガールズ』の」
「あ! ハーシェル・ゴードン・ルイスか」
「正解! 大正解! 君はさては映画好きだね」
「おう、美甘……あ、山口さんもさては好きだね」
美甘子は賢三の問いに答えるかわりに、笑いながらピョンピョンとはねた。
とてもうれしそうにはねた。
「何ではねてるの?」
「うれしいのよ。うれしいんだもん。黒所に同じ趣味の人がいるなんて夢にも思わなかったから。アハハ、ワーイ」
賢三は、冗談ではなく美甘子の言葉に涙が出そうになった。この先人生にどんな苦難が待っていようとも、今、目の前でピョンピョンとはねている美甘子の笑顔だけはオレは忘れまいと思った。
「アハハ、そーかー、知ってるのかあ、そーかー。二度もこんなとこで会うからさ、きっと映画好きなんじゃないかなあと思ってたのよ」
「山口さんは、ホラー映画のファンなわけ」
「そういうわけでもないよ。日本の映画なんかも観るよ。『狂い咲きサン……』」
「うおおおおう! 『狂い咲きサンダーロード』と今、君は言おうとしたのか??」
「あ、好きあれ?」
「大好きだ」
ワーイ、と言って美甘子はまたはねた。
「じゃあさ、『青春の……』」
「『蹉跌』か!? 『殺人者』か?」
「そんな暗いのじゃないよ、『さらば青春の光』って知ってる?」
「モッズ族の話ね。あれはいい映画だね」
「そう、私あれすごい好きなのね。でさ、なんで好きかっていうとね、すごく笑えるシーンがあるのよ」
「もしかして、俳優として出てるポリスのスティングがカクカク変なダンスを踊るところ?」
美甘子はまた、答えるかわりにワーイワーイといいながらはねた。
「アハハ、黒所なんかにこんなマニアックな生徒さんがいるなんて、美甘子はちっとも知りませんでしたよ、アハハ」
「黒所なんか……?」
「そう、黒所の人たちってさ、私イヤよ。くだらない人ばっかなんだもん」
「え、でも山口さん、いつも明るく笑ってんじゃないか」
「どうしてそんなこと知ってるの?」
賢三はドキリとした。
美甘子はそんな彼の様子には気づかず、続けて言った。
「あれはさ、一応合わせといたほうがいいからなの。私本当は毎日つまらなくてつまらなくて、本当は映画の話とか本の話とかロックの話とかできる人はいないもんかと思ってたのよ」
そうか、そうか、と賢三は心でひとつひとつうなずいた。
「だって黒所で映画の話って、みんな『トップ・ガン』とかさ、そんなのなんだもんね。本なんてさ、中学ん時に三毛猫ホームズ読みましたって人しかいないんだもん」
わかる! わかるぞその思い。わかるぞ美甘子!
「あ、本は好き? 大橋君は」
「江戸川乱歩と椎名誠とブラッドベリと平井和正が好きだ!」
「私も椎名さん大好きよ、|シ《*20》ョージ君も読むよ、ワーイワーイ」
上映時間を告げるブザーがロビーに響いた。
ショルダー・バッグをぶらさげた映画マニア風大学生が、はねている美甘子をうさんくさげにじろりとにらみ、館内へ消えていった。
「アハハ、はねてる場合じゃないよ、映画始まっちゃうよ、入ろう、大橋君」
「いや、オレはいいんだ、『ニューヨーク1997』だけ観て帰るつもりだったんだ」
賢三は何故か心にもないことを言った。
彼はもう十分すぎるほどに満足してしまったのだ。
美甘子と再会し、美甘子にしるこドリンクを渡し、そして美甘子が自分と同じように、黒所の日々を退屈きわまりないものだと思っている。そのことがわかっただけで、賢三には十分すぎる出来事であった。美甘子が「同志」であろうとなかろうと、そんなことより、賢三の前でワーイとはしゃぎながらピョンピョンとはねた美甘子の、あの輝くような美しさを目の当たりにできたのだ。これ以上何を望めというのか。
「そうなんだ。じゃあ私は観てくるね」
「ああ」
「しるこドリンクありがとね。きっとニコラス・ローグのカメラ・ワークにピッタリ合う飲みものだと思うよ」
美甘子はくるりと振り返り、傾いたロビーの通路を歩いていった。
背が高い美甘子は、歩幅も広く、黒く長い髪を揺らしながら、あっという間に館内に消えていった。
賢三は、しばらくの間、美甘子のいなくなったロビーに立ち尽くしていた。
その姿を見ながら賢三は「オレはもう死んでもいい」などとしみじみ思っていた。
ペダルなき自転車のかごに、途中で買ったタコハイを四本も詰め込み、コクボ電気店の前に賢三が着いたのは、すでに九時をまわったころだった。
シャッターは半分開いていた。多分彼より早く、カワボンが遊びに来ているのだろう。幻とはいえ、賢三にしるこドリンクのボタンを押す勇気を与えてくれたタクオとカワボンに、賢三は礼を言いたくて仕方なかった。二人にしてみれば、何の礼やらさっぱりわからないだろうが、賢三にはそんなことはどうでもよいことだった。ただ、一刻も早く、二人と酒を飲みたかったのだ。
「タクオ! 勝手に上がるからなあ!」
タコハイ入りのビニール袋をかかえ、ドタドタと二階へ上がった。ノックもせず、タクオの部屋の扉を開けた。
「よー! やっぱカワボンもいたかあ! 今日オレ機嫌いいんだ、タコハイおごるぜえっ、飲め……飲めえ……あれ」
タクオの室内に、どんよりとした空気がたちこめていた。
いつもならころがっているはずのビールびんも、タクオのお手製のソーセージベーコン巻きもテーブルの上にはなかった。それどころか大音響でかかっているはずのBGMさえ聴こえないではないか。ただブゼンとした表情のタクオと、げんなりとした顔色のカワボンが部屋の真ん中と隅っこにポツンとそれぞれ座っていた。
「どうしちゃったの、タクオ!」
「どーもこーもねえよ!」
タクオが怒鳴った。
「どーもこーもないんだよ、ケンゾー」
カワボンが弱々しく言った。
「何? 何よ、一体何だってのよ、タクオ、説明しろよ」
「メンバーだよ」
「メンバー?」
「そう、フールズメイトに出したメンバー募集にさ、来たんだよ、ノイズ・バンドやりたいって奴が」
「え、来たの、あんなデタラメな募集で」
「いかした薄毛の兄貴、ポコチンを満天の星空の下でフルフルしてみないか、露出狂、六十歳以上歓迎……」
「え、まさかあの酔っぱらって書いた条件どおりの奴がいたの?」
「おう」
「まさかー、いるかよ、そんな奴がよー」
「それがおるのじゃあああああっ!」
突如賢三の背後3センチで、タクオでもカワボンでもない声がした。しわがれた、それでいてやたらといせいのいいその声に、賢三は聞き覚えがあった。
「薄毛の兄貴、六尺好きの祭り好き、退屈な日常を打破し、第二の青春を謳歌、おまけにポコチンフルフル……孫の持っておった『ふうるずめえいと』を読んだ時、これこそまさにワシのことに他ならぬとアイ・アンダスタンドしたのじゃよ、フフフ……フフフ……」
背後の男が笑う度、賢三のうなじにしるこドリンクのようにあったか〜い息がかかり、思わずムズムズと鳥肌が立った。
確かに、この笑い声にも聞き覚えがある。
「おい……タクオ……」
「なんだ、ケンゾー」
「今……オレの後ろにいる、そのメンバーになりたがってる人ってさ……」
「おう……」
「まさか……あの人……」
「ケンゾー、残念ながら君の予感は当たっているよ」
タクオが「すまない」という顔をして言った。
カワボンが黙って目を閉じうなだれた。賢三はソッと、背後霊を見るまじないのようにゆっくりと振り向いてみた。
目の前3センチの至近距離に、どこかで見た老人の顔があった。アーネスト・ボーグナインに似た老人が、ニカッと笑った。
「あ、あんた、パレス座で会った……」
「ワーッハッハッハ、さよう、偶然にも以前諸君を助けたこともある、あの時のジジイじゃよ! 諸君らの気骨大いに気に入った。ぜひワシもそのノイズ・ベルト……もとい! ノイズ・バンドとやらに参加させていただきたい。
まさか断わるまいな。ワシは諸君らの恩人じゃからな、ワーッハッハッハッハ」
高らかに笑うジーさんを見ながら、賢三はともかくもう今日は早いとこ酔っぱらっちまおうと心に決めていた。
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*14 「思い過ごしも恋のうち」
*15 『ファントム・オブ・パラダイス』
*16 『ロッキー・ホラー・ショー』
*17 この映画館はいつでもこんなんばっか上映しているのだ。
*18 『サタデー・ナイト・フィーバー』で一躍スターとなった俳優。今、当時の彼を見ると、単なるイモ兄ちゃんであり、当時、何故あれ程人気が出たのか、本当に不思議である。
*19 スプラッター・ムーヴィー(血みどろ映画)の元祖ともいわれる、低予算D級エログロ映画。
*20 東海林さだおの愛称。
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第9章 「平凡パンチ」
「ま、ま、そーゆーことだからのう、こら少年っ。立っとらんで座れ座れ」
と、ジーさんは賢三に言った。
「座れ座れってなあ、ジーさん、ここはオレの家だぞ」
とタクオが声を荒らげたが、老人は気にもとめず、例によってワハハハと笑うのであった。
「ワハハハ、ま、よいではないか」
そうして今度は、歌舞伎の女形、もしくはオカマ化したクフ王のミイラよろしくしなをつくり、
「そんなつれないこと言って、別れろ切れろは芸者の時に言う言葉よ、ホホホ」
などと、現代文明に生きる若者にはとうてい理解不能な超カルト・レトロ・ギャグをかますのであった。
「お、少年、いいものを持っておるじゃないか」
目ざとく賢三のタコハイを見つけたジーさんは、タクオに「湯飲みはどこじゃ、湯飲みは」と聞いた。「隣の部屋だよ」というタクオにうなずき、ジーさんは部屋を出ていった。
「どーゆうことだよ、これ!?」
たまりかねたように賢三が尋ねた。
「見たとおりだよ。メンバーになりたいってんだ、あのジジイが」
タクオが憮然として答えた。それ以上語るのはめんどうなのか、立ち上がり、レコードをプレーヤーにセッティングし始めた。
ゴボッと乱暴に針をのせる音がスピーカーから聞こえた。盤面の傷をこする火のはぜるようなノイズ。そして爆音じみた音量でキング・クリムゾンの「レッド」が流れ出した。
「タクオうるせー! ちょい音下げで頼む!」
賢三の注文にタクオは答えなかった。「いーじゃねーか」と言ってさらに音量を上げた。
「あ、なろテメエ、また反抗的な」
「タクオすまん、ジーさんのことケンゾーに説明するからさ、音下げてくれないか」
カワボンが冷静に言うと、タクオは「そうか」と言って素直にヴォリュームを絞った。
「タクオのとこにさ、今日手紙が来てたんだよ」
と言ってカワボンが賢三に一枚の葉書を渡した。葉書には毛筆で書いたと思われる見事な達筆で、「貴殿らの心意気に感服。参加したし。○月○日練馬パレス座において待つ。目印として紀古屋の甘納豆持参されたし」
「パレス座あ? 紀古屋の甘納豆?」
「変だろ、差出人の名前も書いてないしさ、時間も特に指定してないし。でも一応行ってみようってことになったんだよ。あの文章読んで応募してきた奴だろ、まあ変な奴なのかなあと思って、恐る恐るタクオと二人で甘納豆持ってさ」
「しかしパレス座とはねえ」
「いや、タクオが言うにはね、自分BOXの曲に『ポルノ映画館で会った女《ひと》だろ』ってのがあってさ、それを意識したんじゃないかっていうんでさ、それならイタズラでもないだろと思って行ってみたんだよ。でもパレス座だろ、また前のタバコ屋で山口美甘子がバイトしてたらどうしようかと思ったよ」
いやいやカワボンそれはないよ、と賢三は心でつぶやいた。文芸坐での美甘子との出会いを思い出し、自然と顔がほころびそうになって困った。
「山口は結局いなくて一安心だったんだけどさ、パレス座入ったらロビーにいるんだよ、この間のジーさんが。タバコ吸って、あ、やべえと思ってたら、ジーさんこっちに寄ってきて言うんだよ、『なあんだ、お前らだったのか……ワシじゃよワシじゃよ……』」
「ワシじゃよ! 貴殿らの心意気に感服したのは」
老人がビールとコップをのせたお盆を持って再びタクオの部屋に入ってきた。
「あー、ジジイ! 勝手にビール持ってきたなあ、あっ! あっ! ケンゾーとカワボンに内緒で食おうと思ってたもらいもののカマンベール・チーズまで、勝手に持ってきやがったな!」
怒るタクオの横にどっかと老人は腰を下ろし、シュポンシュポンとビールの栓を抜いた。
「ま、乾杯」などと言って一人うまそうにビールをついで飲み始めた。
「あー、どこまでもずーずーしいジジイめ!」
怒りまくるタクオに賢三が、「ついてきちゃったの、この人?」と聞いた。
「そうなんだよ。おれたちジーさんなんか入れる気ないからって、パレス座すぐ出てきたんだよ。そしたらさっき勝手にうちの階段上がってくる奴がいてさ、賢三だと思って開けたらこれが……」
「ワシじゃよ。住所はメンバー募集でわかっておるからのう」
と言ってジーさんはニヤリと笑い、ビールを一息に飲んだ。
「ああ、なんか頭痛くなってきたオレ」とタクオが言った。
「とりあえずオレらも飲もう、飲まずにおれん」とカワボンも嘆いた。ジーさんのついだビールを三人はあおった。
賢三のスキッ腹にビールはジーンとしみ入った。
「あの、じ……おじいさん、本当にメンバーになりたいんですか、オレたちがどんなことやりたいかとかわかってるんですか?」
賢三の問いに老人は深くうなずいた。
「わかっておる。満天の星空にポコチンをフルフル……じゃろ?」
「いや、あれは酔っぱらって書いたもので、その……」
「それもわかっておる。あんな文章をシラフで書く奴がおったらアホじゃ。孫の読んでいた雑誌をめくっておったら、お前らの募集記事を見つけたのじゃ。まあロック雑誌というのか、まったくアホな若者ばかり載っておるが、その中でもお前らのアホさたるやないのう、ワッハッハ」
「うるせー、ジジイ!」
早くも酔い始めて顔を赤くしたタクオが毒づくと、老人はさらにうれしそうに笑い、ビールを一気に飲み干した。単純で負けず嫌いのタクオはそれを見て「おーし!」と叫び、老人の前で自分のグラスを一気に空にした。
「ワハハ、見事な飲みっぷりだのう! 結構! 大いに結構! ワシが孫の仲間に見こんだとおりじゃな」
「えっ? 孫……孫の仲間?」
カワボンが口をはさんだ。
老人の表情に変化があった。能天気な笑いがピタリと止まった。少し目をふせた。
「孫ォ?? 孫ってなんだよ。孫ってのはよ。孫の仲間だあ、オレたちがあ??」
完全にでき上がってしまったタクオがほえた。
「孫の仲間って何だよ?」
賢三も問いつめるように老人に聞いた。
「話を聞かせて下さい」
カワボンが落ち着いた声で言った。
老人の顔がゆがみ始めた。
「ウッ、ウッ……」
老人の両目から突如として大粒の涙がこぼれ始めた。
「な、なんだ。今度は泣き出したぞ。しかも『いなかっぺ大将』の大ちゃんみたいに大仰なナミダ」
あきれたように言ったタクオの面前で、老人がバタリとつっ伏した。
「ウッ……ウワー! ウワーン!」
と大声で泣き出す老人。
「なんなのこのジジイ。小松政夫みたいに泣き出しちゃったよ。カワボン、ケンゾー、オレもう知んねー」
「ウワー! 孫と……我が孫と仲間になってやってくれー! ふびんな子なんじゃあー」
老人がタクオの手を握りしめた。タクオはヒー! と悲鳴を上げてその手を振りほどこうとしたが、想像以上に強いらしく、老人に両手を握られたままジタバタしている。
「ウワーン! 初孫なんじゃあー!」
「は、初孫といわれてもオレ知んねーよー!」
「うちの孫は誰ともしゃべろうとせんのじゃ、学校から帰れば自室に閉じ籠りきりじゃ。息子や嫁が声をかけても『ウン』とか『ハア』とかしか言わん。ワシには多少心を開いてはくれるものの……息子に聞けばどうやら学校でも全然ものを言わぬそうだ。友だちもなく、あれではまるで生ける屍じゃ。学校でも家でも、いるところはあってもその中で生きてはおらぬ。あれではまるで、防空壕の中で息を殺しておる敗戦間近の日本人じゃ」
老人がまたワーンと泣き出した。
賢三は老人の孫の話を、まるで自分のことを言われているようだ、と思った。
老人の孫、そいつもまたきっと学校内家庭内透明人間なのだ、と賢三は思った。自分を取り巻く全てのものに強い嫌悪感を抱き、何かやらねばと思いながらその何かが見つからず、モンモンと、時々やってくる自己嫌悪マントの影に怯える「同志」に違いない、と賢三は直感した。
「孫は深夜までロックを聴いておる。部屋を暗くして、わけのわからぬ狐がとりついたような声でがなっとるおかしなもんばっかり聴いておる」
「どんなの聴いてんだよ、お孫さんは」
ロック・マニアのタクオが聞いた。
「なんじゃったかな、妙ちくりんな名じゃった。確か『しょう油イカ』とか『いくらうに』とか、そんな名じゃった」
「イカ? ウニ? 何だろ? タクオわかるか?」
賢三が聞いた。
「もしかして『あぶらだこ』のことかな?」
「そう、それじゃ、そのあぶらなんとかじゃよ」
ホーッとタクオが感心したような声を上げた。
「あぶらだこ聴いてんのか。現代詩みたいな歌詞を変則リズムバックに唄うパンク・バンドだよ。すげーアングラなやつだぜ」
「それと、何じゃったかのう……ムッソリーニとかラスプーチンとかいうロ助の名を名乗っとる楽団……」
「もしかしてスターリン?」
「おうそれじゃ、それも聴いとった」
ウオーッと三人は盛り上がった。どうやら問題の初孫は、三人が夢中で聴いているスターリンも好きであるらしい。
「あと何といったかな、『さつまさけ』とか何とか……イモと魚の名がゴッタになっとったな」
「イモと魚? さつまいも……さといも……じゃがいも……じゃが……じゃが……あ!『じゃがたら』のことか!?」
「それ! それじゃよ」
まるで「連想ゲーム」における加藤芳郎と大和田獏のような会話だ。
「『|暗《*21》黒大陸じゃがたら』かあ!? うーん! スターリンの遠藤みちろうより先に全裸放尿パフォーマンスをやったバンドだよ。カミソリで自分の額を切ってライヴ・ハウスを血だらけにした最初のバンドだあ。スゲー! スゲーなあ! ジーさんの初孫。マニアじゃねえか。なあ、他にどんなの聴いてんだよ」
「うーん、フランキー堺みたいな名のヒゲはやした外人の……」
「|フ《*22》ランク・ザッパだな」
「あと何だったかのう、殿様キングスとかクリトリスとかっちゅう」
「|キ《*23》ング・クリムゾンだろ!? ジーさん、わざとボケてねえか」
「いやそんなことはないぞ。それとワシが明け方トイレにいった時じゃ、孫がじっとヴィデオを観ておった。気の狂ったような二人組の演奏が映っとった。ジジイのワシが観とってもあれは大した迫力じゃった……孫にこれは何じゃと聞いたら、珍しくあいつが興奮した顔をして……あんなにイキイキした表情は久しぶりじゃったなあ……『おじいちゃん、いいだろこれ』と言って笑ったんじゃ、口の端を少しだけ曲げて……孫の笑顔なぞ何年ぶりに見たことか……あの二人組の名は確か……」
老人が思い出そうと天井を見上げた。
「カワボン、気の狂ったような二人組っつったら……」
「ああ多分、あいつらのことだろうなあ」
賢三がタクオを見てニヤリと笑った。
カワボンが黙ってうなずいた。
「あれはそう、確か『自分BOX』という名じゃったな」
老人が、初めてボケもなく、三人が思い浮かべていたままのバンド名を口にした。
* * *
「もう一杯! もう一杯じゃ。金はワシが出す! 少年、ビールを買え」
老人がよろめきながらふところから小銭を出しタクオに渡した。
「ちくしょー、よく飲むジジイだなあ。負けねえぞ、毎晩きたえてんだ酒は」
と言ってタクオは自販機に百円玉を投じた。
「ワハハ、戦後の闇市でエチルアルコール飲んどったワシが小僧っ子に負けるものか」
「なんだと、ジジイ!」
三人と老人は夜の街を酔いながら歩いていた。
「はやく孫に会わせたい」と老人が言い出したのだ。老人の家はコクボ電気店から歩いていける距離だという。
「会ってみたいな、そいつに」と賢三は言った。タクオもカワボンも異存はなかった。
「ジーさん、家が近くて孫と同じ趣味だからオレらを孫の仲間にと思ったのか?」
缶ビールを皆に渡しながらタクオが言った。
「いや、ちがう、赤丸がつけてあったんじゃ、お前らのメンバー募集にのみな」
「えっ、あのポコチンフルフル六十歳以上可にだけ」
「そう、他にたくさんある中で、あの『薄毛の兄貴』にのみ赤丸がついておった」
「ジーさん、あんたの初孫、たんにホモなんじゃねーの」
「いやそれはあるまい。孫の部屋は女の裸で埋め尽くされとる。可愛なにがしやら中森某やらのボインちゃんが載ったエロ雑誌で匂い立つようじゃ。それに棚いっぱいのブルー・フィルム」
「ブ、ブルー・フィルム?」
「エロ映画の古い言い方だよ。多分アダルト・ヴィデオのダビングもんのことじゃねえか」
と賢三がタクオに言った。
「ふうん、すると」カワボンが歩きながら腕組みをして言った。
「その初孫は、一体なんでオレたちのバカげた募集記事なんかに注目したんだ?」
カワボンと賢三の5メートルほど後ろで、ジーさんとタクオがまたも飲み比べをしていた。
「プハーッ! ジジイ、やるな」
「プハーッ! 少年、お前さんもなあ」
二人ともかなり足取りが怪しくなっていた。
「ジーさん、もういっちょいくかあ」
「おう、前進! 前進! またぜんしーん!」
「あの二人いいコンビかもしれん」
と賢三がしみじみ言った。
「ジーさん、それにしてもあんた何で自分がメンバーになりたいなんてウソ言ったんだよ。最初っから孫をよろしくって言えばいいじゃん」
カワボンの問いかけに、老人は缶ビールを握った手を空に突き上げ怒鳴った。
「ウソではなーい! 孫と、そしてこのワシも参加させろと言っておるのじゃ!」
「へ?」
タクオ、カワボン、賢三の目が点になった。
「ワシもノイズ・バンドとやらをやりたいんじゃ! 退屈な日常を打破したいんじゃ! 第二の青春を高らかに唄いたいんじゃ! そしてなにより、満天の星空のもとポコチンをフルフルさせたいんじゃあー」
老人は叫ぶやいなや缶を投げ捨て、「こうじゃ、こうしたいのじゃ」と言いながらズボンのチャックをゴンヌズバーと開いた。
「わー! やめろお」
「見たくねーぞ、ジジイ!」
「落ち着け、御老人!」
悲鳴を上げる三人の前で、「カッカッカ」と笑いながら老人はポコチンをフルフルと揺らすのであった。
「ここじゃ」
と言って老人の指した家は、「豪邸」と呼べる大邸宅であった。老人がインターフォンに「ワシじゃ」と一声言うと、ガガガーッと鉄の扉口が自動的に開いた。
「スゲー」
と賢三が思わずため息をつくと、老人は冷めた声で「こんなもん、見せかけじゃ」と言った。
「ついてこい」と老人が三人に言った。
庭園のような庭を通り、三人は老人にひっついて屋敷内へ入った。玄関だけで、大橋家のお茶の間くらいの大きさがあった。廊下の壁には色鮮やかな絵画が飾ってあり、さらに「金は持ってるぞ」と言わんばかりの雰囲気を醸し出していた。
「二階じゃ」と老人は三人を引き連れ階段を昇り始めた。
「誰です?」
階段の途中でいきなり声をかけられ、三人は万引きがばれた不良のようにギクリとした。振り向くと、ガウンを着た中年の男が、賢三たちをいぶかしげな目で見ていた。冷たい、あまり感情のない目をしていた。金持ちって本当に家でガウンを着るんだなぁと、賢三はふと思った。
「お父さん、その子たち、誰です?」
ヒンヤリ目の男はそう言った。
お父さんと彼が呼んだのはジーさんのことらしかった。
「ワシのつれじゃ」
ジーさんはめんどくさそうに、少しだけきまり悪そうに言った。賢三たち三人は「あっ、どうも」などと曖昧に挨拶をして頭を下げた。
男は三人の挨拶は黙殺し、老人に言った。
「なんでもいいですけどね、めんどうなことだけは起こさないでくださいよ」
老人は何も言わなかった。
身の置き場のまるでない三人の少年たちをジロリと一瞥し、男は去っていった。
ホッとしてカワボンが老人に言った。
「ずいぶんと冷たい親子関係ですね、失礼ながら」
ジーさんは怒りもせず答えた。
「うちの人間はな、ワシ以外はみんな自分を中心に、半径5メートルの世界で生きとるんじゃ。典型的な現代人じゃよ。ばーさんが死んで以来、ワシはこの家ののけ者じゃ。いるところがないから、ワシはポルノ映画ばかり観てヒマつぶししておるのじゃ。孫がああなったのも結局あいつらの責任じゃ。
人はみんな赤ん坊のころ、半径5メートルの世界で生きておる。自分を中心に世界が動いておると信じ込んでおる。つまり天動説じゃ。ところがこの世の真理は天動説ではない。本当は人間なんぞというのは社会、そして現実という太陽の周りをクルクルクルクルまわるちっぽけな衛星のひとつにすぎんのじゃ。この世の真理は天動説ではなく地動説なのじゃ。自分の小ささを認め、口惜しかろうが無念であろうが、わがままの通用せぬ地動説という真理を認めることが大人になるということじゃ。
全ての少年少女はいつか大人にならなければならん。
少年少女たちは天動説という安住の地を去りがたいために、大人を『汚い』だとかいって敵対視しようとする。大人を『体制』みたいなものに置きかえて敵にまわそうとするのじゃ。そうして天動説で生きることを『純』であるとし、さらには美しいことと考える。
だがワシはそれは違うと思うのじゃ。
真理を、見て見ぬふりしてうっちゃり、本当のことを『悪』とし、実はただ単に自分にとって都合のいい言い訳にすぎぬことを『純』であるとか『善』と思い込むのは、ワシに言わせりゃそれはヒキョウじゃよ。
最近の若者……孫も、息子の世代も含めて、みなこのことに気づいておらん。天動説のまま生きようとし、真理であるところの地動説との間に摩擦が生じても、なんとかごまかして生きていこうとする。エゴのままに生きていけると思い込んでおるのじゃ。戦争に行って、エゴなどまるで通じぬ生きるか死ぬかの状況を味わったことのない奴らだから、仕方ないのかもしれんがな。……ともかく天動説のままに生きようとすれば絶対に人間はゆがむ、現実との間にズレが生じるからじゃ。息子は見事にゆがんだ。自分以外の世界にまるで関心がない……そしてその子供……ゆがんだ息子のまた子供じゃ……これはもう輪をかけた天動説人間に生まれたのも仕方あるまい。
……しかし……なんとかしてやりたいんじゃ……これ以上孫が社会とズレていかんうちに……。何でもいいから自分の外の世界と関わらせてやりたいんじゃ……孫がお前らの募集に興味を持った、そこから何とか……何とかしてやれるんじゃないかと思うんじゃ……何とか……」
老人は言葉をなくし、うつむいた。
三人の目に、老人がさらに小柄な男に映った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「ジーさんよお」
最初に声を出したのはタクオだった。タクオはもう一度「ジーさんよお」と言った。
「何じゃ?」
顔を上げた老人に、タクオは笑いながら、
「酔っぱらっちまったんだろ。オレの勝ちか?」
と言った。
それを聞いてジーさんはニヤリと笑った。
「今回は一本取られたようだのう。次は日本酒で闘おう。ワシは一升までならシラフじゃ」
そう言って老人は、カッカッカと笑ってみせた。
孫の部屋は二階のつきあたりにあった。
「おじいちゃんだ。ちょっと開けてくれんかのう」
と老人は優しい声で言った。
カチャカチャと鍵を開ける音が、ドアの向こうで聞こえた。
「じゃ、入るからな」
老人がドアを開けた。
ムッとするすえた匂いが賢三の鼻をついた。
薄暗い部屋の奥に、机にもたれた少年の姿があった。
少年は、老人の背後につき彼の部屋に入ってきた三人を見て、「アッ!」と声を上げた。
と、同時に、タクオ、賢三、カワボンの方も「ア!」と驚きの声を発した。
「お前ら!!」
少年がア然とした顔で言った。
「山之上!」
三人が声を揃えて叫んだ。
「なんじゃ、知り合いか?」
間で老人が、双方を交互に見ながら言った。
「じいちゃん、どういうことだよ?」
「どういうことってどうもこうも、お前が赤丸つけとったバンドの連中じゃ。ホレ、満天の星空の下ポコチンフルフル……」
「勝手に見たのか?」
「いやついその……スマン」
孫を前にすると老人の態度は一挙にだらしなくなってしまった。うすら不気味な山之上に怒られてシュンとしてしまった。
老人が黙り、山之上もそれ以上何も言わないので、室内には妙な「間」ができてしまった。
それにしてもこの部屋はスゴイ、と賢三は思った。
床には雑然と本が散乱していた。その大半は男性向けの雑誌なのだ。「プレイボーイ」「平凡パンチ」「DUNK」「写真時代」「エロトピア」「GORO」「投稿写真」など、ありとあらゆる種類の男性誌、そしてそれと同じ数のビニ本が散らばっていた。「濡れてるの」「女子高生真美」「痴女vs痴漢」等々……。
こいつの性的リビドーはオレ並みだな、と賢三は直感した。
山之上の部屋は、四面とも壁が棚になっていた。そこには、おびただしい数の本とレコードとヴィデオが収納されていた。その数はちょっと普通ではなかった、本のタイトルはよく見えなかった、古本屋通いの長い賢三には背表紙の色で大体わかった。ズラリと揃った水色の背表紙は、間違いなくハヤカワ文庫のSFである。あの数からすると、全巻あるのではないか。ヴィデオの数もおびただしいものがあった。山之上老人いうところのブルー・フィルム、つまりアダルト・ヴィデオなのだろう。
天井全面には映画のポスターが貼ってあった。『燃える昆虫軍団』『吸血の群れ』『魔鬼雨』『悪魔のはらわた』など、グロいC級映画ばかりだ。
「根暗」「病気」といった、ある特定の人種を指す言葉が賢三の頭を駆けめぐった。
山之上はメタルフレームの眼鏡の奥でチロチロと光る、白眼がちな目でこちらを見ていた。ゴキブリのようにテラテラと黒びかりした長髪の七・三分け、頭髪とは逆に青白い肌は乾ききって生気がなかった。厚ぼったい唇はヌメリと濡れていた。鼻の下にあるほくろから一本だけ長い毛がニュルリとはえていた。
一見して両生類を思わせる男だ。
山之上がぼそりと言った。
「……どういうこと?」
老人はまだシュンとしていて何も答えられなかった。
カワボンがかわりに説明を始めた。
「オレらがフールズメイトに出したメン募にお前が赤丸つけてたのをジーさんが見たんだよ。それで気ぃ利かしてさ、家まで連れてきてくれたってわけだ」
「……そんなこと……いつ頼んだ」
老人がさらにシュンとした。
「おう山之上、その言い方ねえだろ」
タクオが言った。
山之上が黙った。
また室内がシンと静まってしまった。
「山之上……お前、ロック聴くんだってな」
賢三が聞いたが山之上は答えなかった。かまわず賢三は続けた。
「『自分BOX』のヴィデオも持ってんだってな、全然知らなかったよ。学校じゃわかんねえもんだな。でもお前も知らなかっただろ、オレたち三人がロック聴くってさ。それでフールズメイトのメン募でタクオの名前見つけて、たまげて赤丸つけたってわけなんだろ?」
「…………」
「お前もしかして、オレたち側の人間なんじゃねえか?」
「なんだ……それ?」
「うーん、何というか、カワボン説明しろよ」
「おう、まかせろ……つまりだな。我々は周りのつまらん連中……黒所の連中に代表される俗な人間どもを見下している。そしてオレたちには奴らにはできん何かができるのではないかと思って日々モンモンとしているわけだ。その想いは、嗜好する本、映画、音楽に如実に表れる。黒所の俗な連中が読まぬもの、観ぬもの、聴かないものを吸収しようとするのが我々のプライドなわけだ。山之上、お前が『暗黒大陸じゃがたら』や『自分BOX』を聴いていることを聞いてオレたちは興奮したぞ。お前がこっちサイドの気持ちを持つ、つまり黒所の俗物どもを見下し、何かやらねばという想いにモンモンとするオレたちと同類の人間じゃないかと思ったからだ。……そしてこの部屋にあふれ返るアイテムを見てオレたちは確信したぞ、お前はこっち側の人間だ」
冷ややかに聞いていた山之上は、表情ひとつ変えずに言った。
「ウルサイ! 帰れ。帰らないと……カッターで切るぞ」
「いや帰らん!」
タクオが叫んだ。
「オレら時間がねえんだよ。スゲーせこい話だけどよー、来年になったら受験ちゅーものもあるわけだよ。やるなら今しかねえんだな。それに人手が欲しいんだよ。オレら三人みたいに黒所の日常にあきあきしているこっち側の人間が欲しいんだよ。『自分BOX』みてえなノイズ・バンド、速攻でやりてえんだよ。お前だって本当いうとさ、フールズメイトのメン募見て、オッ! とか思っただろ。自分と似た趣味の奴が、自分側の人間が、あんなつまらん黒所にいるのかと思ったらドキリとしただろ! それで赤丸つけたんだろうがよ」
「お前ら……酔ってるんだろ。じいちゃん……また飲んだんだな、医者に酒止められてるんだろ」
「……あ、いやあ……」
老人がさらに小さくなった。
「おう酔ってるよ! 酔ってて悪いかあ!」
タクオが毒づき始めた。
「鼻をあかしてやりたくねえのかよ、黒所の連中の鼻をよ」
「うるさい!」
山之上が突然怒鳴った。かん高いヒステリックな声だった。
「やりたいならお前らだけでやれよ! 僕はお前ら側の人間なんかじゃないんだ。僕のことが何がわかるってんだ! 帰れ! 帰れ! 帰らないとな、カッターで切るぞ!」
「なんだかすまんことをしてしまったようじゃなあー」
山之上の大邸宅前まで、三人を送ってくれたジーさんは、来た時とはうって変わってスッカリしょげきった顔をしていた。
「……よかれと思ってしたことじゃったのに……」
しょぼくれたジーさんの目が潤み出した。
「あー! 泣くなよ、ジーさん! いーってことよ!」
タクオがジーさんの肩を叩いた。
「……そうか……またもしよかったら、孫をさそってやってはくれんかのう……」
すがるような老人の目に、三人は黙ってうなずいた。
老人は三人が角をまがるまで、山之上大邸宅の前で、じっと立ちすくんでいた。
その姿はまるで古い地蔵のようだった。
翌日、またしても山之上は八木に消しゴムのカスをかけられ、授業中だというのに席を立ち教室を出ていった。きのうあれだけ仲間だ同志だといっておきながら、賢三は他の級友同様その様子を黙って見ていた。
「もう一度なんとかして奴とちゃんと話さねばな」と賢三は思った。
「山之上ってさ、あいつ一生女とつきあえないタイプだよねー」
モロ子が大声で言い、ドッと教室がわいた。
六時限目が終わり、賢三はそそくさと帰り仕度を始めた。今日はまたタクオの家でバンド計画に向けてのミーティングなのだ。黙々とカバンに教科書を詰め込む賢三の机に、ポンと四角に折りたたまれた紙切れが落ちた。
ハテ? 誰がこんなものをと頭を上げた彼の前に、山口美甘子がいた。
思わず息を飲んだ賢三に、美甘子が言った。
「これ手紙、読んでね」
言うが早いか美甘子はターンを切り、スタスタと歩み去った。
約五秒、賢三は化石と化していた。ハッ! と気づき、美甘子いうところの「手紙」をカバンにしまい込み、誰も見てはいなかっただろうかとあたりをキョロキョロ見回した。
家に帰る途中、キャベツ畑の横の細い道で、賢三は「手紙」を広げた。「手紙」は折りたたんだレポート用紙だった。
大きな、間の抜けたような丸い字でこう書いてあった。
「前略、山口はオールナイトの映画を観に行きたいのですけど、さすがに嫁入り前なので一人で行けません。保護者として一緒に観に行ってくれたりはしてもらえませんかね?」
――オレは夢を見ているのか。
賢三はキャベツ畑の横でワナワナと震えた。
[#ここから2字下げ、折り返して6字下げ]
*21 その後JAGATARAと改名。ヴォーカリスト江戸アケミの死により解散。うねりまくるファンク・バンドであった。
*22 天才ギタリストでありながら、ステージ上でウンコを喰うなどの奇行により「変態」の異名を持つミュージシャン。
*23 天才ガンコ親父ロバート・フリップ率いるプログレ・バンド。個人的に、筆者はこの世にあるロックの中でクリムゾンが一番好きである。
[#ここで字下げ終わり]
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第10章 「パンチザウルス」
デート
デート
「これはいわゆる世間でいうところのデート申し込みというやつか!!」
そう思うと、賢三の肉体は立っていられぬ程の歓喜に打ち震えた。天空を覆っていた雲のすき間から一筋の光が射し、賢三の真上から降りそそいだ。そしてその周りを、背中に小っちゃな羽をつけた天使たちが、ラッパや鐘や、正式名称はよく知らないが小さな竪琴みたいなのをヒャラヒャラプカプカと打ち鳴らして舞い踊るのであった。
「いや、まてよ」
賢三はふと思った。
天使たちの踊りもピタリと止まった。
「美甘子にしてみれば、単純にオールナイトを観るためのボディガードとしてオレを指名しただけのことではないのか?」
別に「好きです」とか、「一度でいいからあなたとデートしたい」などと書いてあるわけではないのだ。ただオールナイトに一人で行くのが不安だからついてきてよ、彼女にしてみればそれだけのことなのだ、きっと。
「……当たり前だわな」
賢三のつぶやきをきっかけに、天空よりの光はシュルシュルと消えていった。「お客さん、こっちも忙しいんだからさ、出てきて損したよ」という顔をして、天使たちもいそいそと賢三の周りから引き上げてしまった。
キャベツ畑の横で、一人きりになった彼は「しかし、オレは美甘子と映画を観に行くのだ」と改めて気づき、それからややあって、「たたた、大変なことになっちまった!」と心の中で叫び、あたふたと自転車に乗り、走り出した。
その夜、美甘子から電話があった。
「やーやー、どーも山口です。手紙見た?」
少し照れ臭そうな、けれどハキハキと電話の向こうで語りかけた美甘子に、賢三は、「見たよ、見た」と答えるのがやっとだった。
電話の置いてある廊下を、母が意味もなく通り過ぎていった。賢三をチロリとうさんくさげな目で見た。賢三はピタリと受話器を耳に当て、母に背を向けた。
「で、どうかな? 今週の土曜、九時からなんだけど?」
と美甘子が聞いた。――若い読者は心配ないと思うが、御年配の読者の中には、「高校生が映画を観るためとはいえ、夜九時から待ち合わせとはなんたること。喝!」との想いを美甘子に対して抱いた方もおられよう。美甘子に対して「あばずれ」なんていう死語的偏見を持たれては困るので筆者から弁解しておこう。
この程度の冒険は高校生ぐらいなら誰でもやっている。
「や、大丈夫大丈夫。オレ平気」
再びドスドスと音を立て、意味なく廊下を通過していった背後の母に聞き取られぬよう、それに緊張も加わり、彼は必要最小限の返事を美甘子に告げた。
「本当。よかった。うれしいな。んじゃ土曜の八時にさ、ホラ、吉祥寺のミスタードーナツ、わかる?」
「北口の?」
「そう。じゃ、そこにしよう」
賢三は「ああ」と答えた。何か言わねばと思うのだが言葉が出なかった。間が空いた。
「じゃあ、そーゆーことでね」
と言って、美甘子はあっさりと電話を切った。
それから土曜までの間、賢三と美甘子は何度となく顔を合わせたが、美甘子は「やーやーどーもね」などと曖昧に微笑むだけだし、賢三の方も、面と向かって、「この指名はデートの相手としてか、それともボディガードとしてか」なんて聞けるわけもなく、「あ、土曜ね、よろしくね」と間の抜けた挨拶を、他の生徒に聞かれぬようくり返すばかりだった。
オールナイトの上映作品は『ロッキー・ホラー・ショー』『ザ・バンド/ラスト・ワルツ』『ヘアー』『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』『ハーダー・ゼイ・カム』というセレクションだった。いずれもロックやレゲエが響き渡るミュージカルやライヴ映画だった。上映館は吉祥寺ナイスシアター。美甘子がロックにも興味があるということが賢三にはうれしかった。ニューミュージックや歌謡曲にうつつを抜かす俗人間ではないのだ。
タクオやカワボンにこのことを伝えたかったが、美甘子について、賢三は何も言わなかった。それは、三人の間に「恋愛感情」についての話は御法度、というような決まりが暗黙のうちにでき上がっていたからだ。
お互い、性妄想についてはアケスケなまでに語り合う三人でも、女性を性欲の対象としてではなく、恋愛の対象として語ることはしなかった。
オレたちは周りのつまらん奴らとは違うと思う三人にとって、恋愛感情を口にしたり、恋する人について語り合うことはできなかった。それを語ったら最後、化けの皮がはがされ、「ただ無力なだけの十代」であることがバレてしまうような気がしていたのだ。三人にとって恋愛についての会話は、王様の裸を叫ぶ無邪気な子供のような存在なのだ。
金曜の夜、賢三は、美甘子に電話を入れた。
考えてみれば、手紙にしろ最初の電話にしろ美甘子からばかりで、これは男として情けないのではなかろうかと思ったのだ。せめて最終確認ぐらいこっちからしようと思い立ち、賢三は受話器を握った。――もし調子がよければ、この映画鑑賞がデートであるのか否かも確かめてみたかった。
三回のコールでつながった。「もしもし山口ですが」という高いトーンの声で美甘子だとわかったが、いきなり「よう、オレ」という仲でもない。一応礼儀はわきまえねばいけない。「大橋ですが、美甘子さんは御在宅でしょうか?」そうキッチリ言おうと思った賢三だが、やはり、上がっていた。勢いあまって、
「大橋と申すものなのだ!」
と、まるでバカボンのパパのような力強い名乗りを上げてしまった。
逆にこれがよかった。美甘子はケラケラ笑った。「明日、ミスドに八時だよね」と賢三が確認を入れても、彼女はまだクスクスと笑っていた。美甘子は「学校で話すのはなんだからさ、電話入れなきゃと思ってたとこだったの、かけてもらっちゃってどーも」と言って、再び思い出したのかケラケラと笑った。賢三は、今がチャンスだと思った。彼女のハイテンションに合わせて、今こそ言わねばならんと思い、言った。
「ところでこれってデートってやつかな?」
つとめて明るく、トマトってやっぱ野菜かな? とでも聞くような軽い調子で賢三は聞いた。
「へ?」と美甘子の声が聞こえた。
賢三の予想として返ってくる答えはイエスかノーかであり、「へ?」というのはなかった。
「あ、だだ、だからその、あーっと」
一瞬にしてあわてふためき出した賢三の耳元で、カチャンという機械音が鳴り、美甘子が大声を上げた。
「アーッ、ごめん、キャッチホン入っちゃった。多分モロ子だ、またヘンな話、聞かされるのかなぁ。あっ、大橋君ごめんね、そう、明日八時にミスドだから、じゃね」
賢三はツーツーというむなしい響きを聞きながら、「とにかく何であろうと、オレは明日美甘子と映画を観に行く。それでいいじゃないか」と自分に言い聞かせた。
しゃべりもせず、受話器を持ったまま立ちすくむ彼を、通りかかった母がチロリと見た。
賢三のモンモンたる気分は、その夜明け方まで続いた。「デートか? ボディガードか?」の問題もさることながら、賢三は一晩、湧き上がるエロ・リビドーと闘い続けたのだ。
想うまいと心に強く誓っても、彼の脳裏に浮かび上がる山口美甘子の、たわわとしかいいようのない胸や、体育の時間に盗み見た太モモや、いついかなる時でもキラキラと輝いている長い髪、それらが彼のスケベーパワーを灼熱の炎でもってあぶり続けるのだ。
「よせ! 美甘子。オレは君を汚したくはないんだ。君だけは特別なんだ。オレの性欲を、お願いだから刺激するのはやめてくれ!」
一人で興奮しとるだけやないかい、と、思わず河内弁でつっ込みを入れられた読者も多かろうが、わかってあげてほしい。彼は闘っているのだ。自らの恥ずかしいまでに大量のエロ・リビドーと。凄惨なバトルをくり広げ、永六輔もビックリの七転八倒状態となっているのだ。
美甘子の唇、美甘子のうなじ
「よせ! やめろ!」
美甘子の瞳、美甘子のへそ
「やめい! よせい!」
美甘子の水着、美甘子のセーラー服
「うわー! たまらーん!」
美甘子のブルマー
「あー! それだけはよせー!」
賢三のベッドの下には、山之上から手に入れた美甘子のブルマーがあるのだ。手を伸ばせば、数十センチ手を伸ばせば、この世においてこれ以上のオナ・アイテムはなかろうという美甘子のブルマーがあるのだ。楽になれる、手を伸ばせば楽になれる。楽になっちゃえ、楽になっちゃえよ、楽になれよケンゾー……。
悪魔の囁きに負けぬため、賢三はタコハイを浴びる程に飲み、ポコチンに手がいかぬよう、なんと右手をベッドに縛りつけて眠った。
この努力を読者は何と評価するだろう。
筆者は一言、彼の肩を叩き、こう言ってあげたい。
「バカ」
そして、土曜八時。
美甘子はミスドの前で待っていた。
「いっぱいだったから」
と言って笑った。ブカブカのパーカーを着て、ジーンズをはいていた。足の長い彼女にとてもよく似合っていた。可愛かった。賢三が彼女の普段着を見るのはこれが初めてだった。
「オナらなくてよかった」
賢三はふとそんなことを思った。
「ご、ごめん、待たせたかな、オレ」
おー。「ごめん、待った」。デートにおける定番のセリフではないか。
「ううん、今来たとこよ」
おー、おー、これまた定番、「今来たとこ」。まるで赤穂浪士の「山」「川」のように「あ・うん」の呼吸ではないか、と賢三は思った。
「人生」っていいもんだ、と思った。
賢三の人生賛歌は十五秒と続かなかった。
「じゃ行こうか、こっちだよね」
「うん、こっち」
と言ったきり、会話がなくなってしまったのだ。
美甘子は、賢三の隣50センチのところをピタリとついてくる。こうして並ぶと、つくづく背の高い子だなとわかる。美甘子は正面をキッと見ていた。表情は読めない。せめてニコニコと笑っていてくれたら何か言い出せるかもしれないが、何を考えているのかわからぬ彼女に、かける言葉がなかった。何か言おうとしても、言葉が逃げていってしまうのだ。砂浜に落ちたペンダントが波にさらわれていくように、言葉という言葉が賢三の頭から遠ざかっていってしまうのだ。
二人は、夜の吉祥寺アーケード街を押し黙ったまま歩いていた。
言葉は賢三の中で、すでに忘れられた太古の遺跡と化していた。何か言おうと口を開いても、パクパクと意味なく酸素を吸入するのみ。ナイスシアターに着くまでに、彼の発した唯一のセリフは、
「……吉祥寺って……中央線だよね」
という、「だからどうした」と一億の人がいれば一億全員がつっ込まずにはおれぬスットコドッコイな一言であった。ちなみに、それに対する美甘子の返答は、
「うん、そうだよね」
という、これまたどーでもよい一言であった。
ナイスシアターの前には、オールナイト上映を待つ人々が数十人たむろしていた。
ロックやレゲエのオールナイトとあって、集った人々も、長髪の「バンドやってます」風が多く、普段の名画座とは趣が異なっていた。ドレッドヘアーのラスタマンもいた。『ロッキー・ホラー・ショー』に出てくる人物とそっくりのかっこうをした女の子もいる。彼らは映画館の前でワイワイやっていた。座り込んでタバコをふかすものもいて、皆、楽しげだった。
「ワーイ」
と美甘子が小さくはしゃいだ。
賢三は、「いいよ、あたしも払うよ」という美甘子を制し、チケットを二枚買って上映を待つ人々の列に並んだ。十八歳未満がばれないために学割が使えず、三千円の出費であった。今月は一体何度昼メシを抜くのか? 賢三は内心クラクラとしていた。
二人の後ろには、長髪だがロッカーではなく、単に不精で髪が伸びてしまっただけの、キネマ旬報を小脇にかかえた映画ファンが並んだ。いつもと違った客層に、彼は肩身が狭そうだった。賢三は、彼に、「どーだい!!」と自慢したくて仕方ない心境に襲われた。「今日のオレはお前らと違う。オレの横には美甘子がいる。どーだ」と言いたくて仕方なかった。
けれど相変わらず、美甘子は無言だった。開場の時間が来ても、二人はほとんど黙ったまま劇場に入り、座席に着いた。映画館が暗くなると共に、誰かがヒョー! と叫んだ。オールナイトの映画館は時として異常に盛り上がることがある。今夜はかなりいきそうだ。
「楽しそう」
と、美甘子がポツンと言った。
一本目は『ウッドストック』だ。サンタナ、テン・イヤーズ・アフター、ジョー・コッカーといったミュージシャンが登場する度にあちこちで喚声が飛んだ。その度に、美甘子は闇の中で声のした方を振り向いたり、クスクス笑ったりした。二本目は『ロッキー・ホラー・ショー』だった。冒頭、黒をバックに真っ赤な唇が映し出され、巨大な軟体動物のようなその唇が、ささやくように歌い始める。
「サイエンスフィクション。ダブルフィーチャー(空想科学映画の二本立て)」
『ロッキー・ホラー・ショー』は痛快なミュージカル。制作者のB級SF、ホラー映画に対する偏執的なまでの愛情が込められていて、賢三は観ていて目頭が熱くなることがあった。報われないB級映画たちに対する想いが、賢三にはよくわかった。亜流な、はぐれてしまったものが賢三は好きなのだ。特に、冒頭のこの曲を聴くとジーンとくる。
賢三は、こみ上げてくる感動の波を心地よく感じながら、美甘子はこの歌を、このシーンを、一体どういう気持ちで聴いて観ているのだろうかと思った。
同じ想いを共有していたなら、オレは死んでもいいぞと彼は思った。本当に死んでもいいなあ、と思った。
三本目の『ザ・バンド/ラスト・ワルツ』が終わったところで長めの休憩となった。賢三と美甘子はロビーに出た。バンドマンやラスタヘアーがタバコをふかす混雑した中で、二人は椅子に座りコーラを飲んだ。「今度はあたし出す」と譲らなかったので、美甘子の金で買った。
コーラをお互いに三分の二飲んだところで、沈黙にいたたまれなくなった賢三は、「どう?」と聞いた。「どう?」って聞かれても何がどうなんだか答えようがなかろうが、それでも美甘子は「うん、よいよ」と言った。
「あ、だから、今見た三本さ」
「へ? あ、コーラじゃなくてね」
「別に今さらコーラがうまいかなんて聞かないよ、オレ」
美甘子が笑った。「そりゃそうだよね」と言って恥ずかしそうな顔をした。
賢三も、何か肩の荷がやっとおりたようにホッとして笑った。
「だからどう? 今見た三本」
「|ジ《*24》ョー・コッカーの痙攣がよかった」
こんなのでしょ、と言って賢三は、痙攣し、ひきつりながら唄うジョー・コッカーのまねをしてみせた。
美甘子は似てる似てると言って笑った。
「猿や馬のまねをして初孫を笑わせる老人の心境ってこんなかな」と、痙攣しながら賢三は思った。
「ジョン・ベルーシっているじゃない、大橋君」
「ブルースブラザーズの?」
「そう、あの人って、|サ《*25》タデーナイト・ライヴ出身なんだよね」
「ダン・エイクロイドもチェビー・チェイスもそうだよね」
「そそそそ、そんでね、ベルーシはジョー・コッカーのまねするんだよね。あたしそっちの方しか見てなくてね、よっぽど大仰にまねしてるんだな、と思ってたの。だけど『ウッドストック』見たらさ、ベルーシのものまねそのまんまなんだねぇ、本当に痙攣するんだね、ジョー・コッカーってぇ。ね、もう一回やって、ジョー・コッカーのまね」
と言って美甘子は賢三のひじのあたりを軽くつかみ、グラグラと揺すった。
賢三の全神経が彼女の触れている右上腕部に集中した。
「おかしかったからもう一回やってよ」
賢三はカーッと熱くなる右上腕部を気にしながら、軽くジョーの痙攣をまねてみせた。それはまねというより、美甘子と初めて接触したショックによる本当の痙攣であったかもしれない。
美甘子はアハハハハとはっきりした発音で笑った。
賢三は「やばい!」と思った。右上腕部の火照りが、下腹部にまで伝わりそうな気がしたのだ。緊張のあまり、逆に、いつものようにいきなりポコチンがエレクトするということなく今まできたが、右上腕部への接触により、今、その封印が破られそうになっている。オレは、美甘子に欲情しそうになっている。そのことに気づいた賢三は、あわてて話題を変えた。
「『ロッキー・ホラー・ショー』はどうだった?」
「うん、好き。ずっと観たかったのよ。『ファントム・オブ・パラダイス』は観たことあるんだけど、こっちはなかったから」
「ファントムだけって珍しいんじゃない? たいがいロッキーと二本立てでやってるからさぁ」
「そそそそ、そうなんだけどぉ、その二本立てに行った時ね、ファントム観て、ロッキー始まったとこで痴漢にあっちゃったから観られなかったのよ」
「大塚名画座?」
「うん、そこで」
「オレ、中野名画座でやられたよ」
「えっ? 痴漢」
「うん、隣に座ったおじさんがね、触ってくるんだよ、オレの太モモを」
美甘子は、「おじさん一人で映画観てるのが寂しかったのよ」と笑いながら言った。
「山口さんは、いつも一人で行くの、映画?」
「そう、山口さんはいつも一人で行くよ」
「何で?」
「何でって、友だちいないからよ」
「いるじゃない」
「いるけどいないの。黒所の人たちはね、教室友だちなの。学校生活を孤独なものにしないためにね、お話を合わせているだけなの、便宜的につきあってるだけ」
ピシリと言ってのけた。
それは賢三が、普段タクオやカワボンと言っていることと同じだった。女の美甘子が言うと、とても冷たく聞こえた。それで賢三が何と言っていいものか困っていると、美甘子は自分の言葉のきつさに気づいたのか、「しまった」という表情を一瞬だけ浮かべ、再びニコリと笑って、「でもみんないい人たちだけどね」と言った。
「あたしの言い方ってきついでしょ、自分でも時々嫌になっちゃう。それに理屈っぽいとこあるから」
「や、別に、理屈っぽさではオレも負けん」
「本当? じゃ、大橋君はロッキーをどう思った。理屈っぽく感想を述べよ、百字以内ね」
美甘子の問いに、賢三は、自分はこの映画がB級ホラー映画へのオマージュである点が好きだとまず述べ、それからB級映画が亜流であることで、いかに世の常識に風穴を開ける役割をになってきたか、そしてまたなぜ自分がそういうはぐれ者的映画を好むのかを、知っている限りのむずかしい言葉を並べて(用法を間違えたり、アイデンティティーをアイデンティティティーとか言ったりもしたが、まあご愛敬であろう)語り、最後に、そういうわけでオレは冒頭のシーンが一番好きなのだ、としめた。
「よくできました。パチパチ。百字は超えたけど、大橋君の意見いいと思う。パチパチ」
美甘子は目を輝かせて手を叩いた。
この時、賢三の鼻の高さをはかったなら、比叡山の天狗より高くなっていたであろう。
「あたしオープニングのシーンにはやられたなぁ、胸がジーンときた。B級映画の好きな人にしかわからない感動だよね、でね、聞いて聞いて、あたしの感想はというとね」
美甘子は堰を切ったように語り出した。
まず彼女は、ヒロイン・ジャネットが夫に従順な娘からやがて性の解放に目覚める女に変わっていくことや、車椅子の学者が自分の足にはめられた網タイツに驚くシーン、それに何より登場人物たちがみなオカマや人造人間、そして地球外の人間といった普通でない者ばかりであることから、ズバリこれは、差別をテーマにした映画だとわたしは思う、と言った。そこから始まり、つまりB級ホラー映画に対するオマージュも、ハリウッド産の映画に対して差別されるものへの愛であり、何より『ロッキー・ホラー・ショー』が元々オフブロードウェイの小演劇であったことを考えれば、差別される弱者からの、王道を歩く者たちへの反抗が読み取れてわたしは大好きだ、といったことを、特にむずかしい言葉も使わず熱っぽく語った。
賢三はうなずきながら聞いていたものの、自分の、B級映画に対する思い入れだけで語った映画論に対し、美甘子は何と深いところまで考えて観ていたのだろうかと、さっきまで得意げに語っていた自分が恥ずかしく思えてきた。美甘子によく思われたいがために、こむずかしい単語を表面的に並べていた自分が、ひどくかっこ悪いものに思えて情けなくなった。負けた、と思った。天狗の鼻がポキリと折れた。
「……というふうにあたしは思ったの。どう?」
「すごい。映画評論家になれるよ」
皮肉でも嫌味でもなく、正直な気持ちで賢三は美甘子に言った。
美甘子はワーッと言って目をつむり上を向き、再び賢三を見て笑った。
「うれしい、あたし、こういう話のできる人を捜してたのよ」
うれしいのはこっちの方じゃい! と賢三は言いたかった。
「もっとこういう話、していい?」
賢三が嫌だと拒むわけがないが、もしそう言ったとしても、彼女は無視して語り始めただろう。美甘子は話したくて仕方なさそうだった。
「うん、話してよ。山口さんの話は面白いよ、聞かせてよ」
「ワー、どんなことから話そうかな、何から話そうかな。映画のことがいい? 本のことがいい? 何がいい?」
「じゃ、映画」
「映画? 映画について聞いてくれるの? うれしーなー。じゃ、ホラー映画が何故お笑い化してゆくのかについて」
美甘子は一呼吸おいて語り出した。
「かつてホラー映画というのは、その名のとおり見て怖い♂f画だったはずでしょ。それが最近の恐怖映画っていうのは怖いけどバカバカしい、笑っちゃう≠チてつくりになってるよね。それは何でだと思う?」
「さあ……」
「それはね、今、恐怖映画をつくってる若手監督たちがね、子供の頃、恐怖映画を見て本当に怖がったからだと思うのね。子供の頃見た恐怖シーンは、彼らの中でトラウマとなって、人格形成に障害をもたらしているのよ。それで彼らが大人になって新進監督として、まず腕だめしにホラーを撮らされることになるでしょ。そうすると、彼らはそこで、自分の作品をトラウマ克服に使うのよ。恐怖シーンを、笑っちゃうようなバカバカしいものにすることによって、子供の頃見たシーン、あれは本当はおかしいものなんだ、バカバカしいものだったんだって確認することで、幼児期の恐怖映画トラウマを克服するわけよ。だから最近のホラー映画はみんなお笑い的要素が強いのよ!」
早口でまくし立てた美甘子は、賢三の反応を待っているようだった。「どう?」という、ちょっと小憎らしい表情をして見せた。
「……あ、ああ、面白いと思う」
これがタクオの意見であったなら、あげ足を取りまくった賢三だが、美甘子に言われるとこんなコメントしか返せず、自分がまたしても情けなくなった。
美甘子の方はそれでも、話を聞いてもらえただけでうれしいらしく、満面に笑みをたたえていた。
「んじゃね、次は|ブ《*26》ラッド・パックのそれぞれ今後について」
と言って、美甘子はアメリカの新進若手俳優たちについて、自分の考えを賢三に熱く語り出した。
賢三は、こんどこそ負けまいと決意し、美甘子の意見にケチをつけてみたり、大仰に賛同してみたり、時にはあからさまなあげ足取りをしたり、話を議論にまで高めようと彼女の言葉にくらいついた。話はブラッド・パックのことから、何故か少女漫画の話に飛び移り、それからまた何故かUFOと幽霊の話になり、やがて前田日明と筒井康隆の類似性ということにまでおよんだ。
賢三は話しながら、クラスの女子とまともに話すこともできなかった自分がこれ程に雄弁に語り合っているのが不思議でならなかった。
目の前で、笑ったり、賢三のあげ足取りにムクれてみたりする美甘子と、昔からの知り合いであるような気がしてならなかった。
と、上映開始を知らせるベルが鳴った。
美甘子が、「あ」と言って黙った。
正直いって賢三は、まだ美甘子と話していたかった。映画をさしおいても何かしたいなどと思ったのは、文芸坐で美甘子を追って夜の池袋に飛び出していって以来、二度目のことだった。
「映画始まっちゃうね、次は『ハーダー・ゼイ・カム』だね」
美甘子が言った。紙コップを脇のゴミ箱に捨て、立ち上がろうとした。
「あのさ、山口さん!」
「何?」
呼びかけてからハッとしたが、もう遅かった。賢三は、言った。
「オレ、『ハーダー・ゼイ・カム』はもう一回観たし、それよりもうちょっと話さない、映画のこととか……」
うわあああ! 何てこう恥ずかしいことを言っちまったんだオレは、と賢三は思った。第一「オレ一回観たし」はないだろう、ただの自己中心野郎じゃねえか。
打ちひしがれる賢三。しかし、美甘子はこう答えた。
「うん、あたしも『ハーダー・ゼイ・カム』観たし、もうちょっと話したいと思ってた」
ナイスシアターには幸の神が住んでおられる。
賢三は確信した。
ロビーは、二人だけになった。
映画の音がもれ聞こえてくるが、静かだった。
賢三と美甘子は、さまざまなことについて語った。
映画や本のこと、音楽のこと、それから黒所の退屈な日常について。
「あたしはつまんない人とも話を合わせられるの」
と美甘子は言った。
「オレは学校内透明人間になることにしてる」
と賢三は言った。
ジミー・クリフの唄う「ハーダー・ゼイ・カム」が館内からもれ聞こえていた。
いい曲だな、と賢三は思った。
美甘子は、「まだあるのよ、話したいことが」と言って、美甘子独自の映画論を語り出した。賢三も負けじと彼の持っている限りのヴォキャブラリーを総動員し、応戦した。
もし二人の間にジャッジがいたなら、5―2の判定で美甘子に勝利を与えただろう。
美甘子の話はどれも理論的でスキがなく、情緒面から切り込んでいく賢三の映画論は彼女に比べると多少強引でアラが目立った。
美甘子は優位に立ったからといって勝ちほこる気などまるでなかったのに、賢三は口惜しかった。唯一のプライドである映画について負けるのは、特に美甘子に負けるのは嫌だった。それで、話が再び黒所のことに戻った時、賢三は「孤独にならないために話を合わせるなんてヒキョウだよ」などと彼女に言ってしまった。
美甘子はカチンときたようだった。
「学校内透明人間だって無責任じゃない!」
とやり返した。
気まずい沈黙が流れた。
こんなケンカなんかしたくないのに、と思いながら、賢三は後にも引けず困った。
美甘子は小さな子供のように、不機嫌な顔をしている。
「いや、だからそれはつまり、その」
賢三が弱りきった声を出した時、館内のドアが勢いよく開いたかと思うと、飛び出して来たラスタヘアーの男が二人に叫んだ。
「おおおい! 火事だ、火事だー!」
賢三と美甘子は、同時に「へ!?」と言って椅子から立ち上がった。
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*24 このシンガーは、本当に痙攣しながら唄うのだ。
*25 エディ・マーフィーなどの有名コメディアンを数多く輩出したアメリカの超人気番組。
*26 当時まだまだ若手といわれていた、エミリオ・エステベス、デミ・ムーア、マット・ディロンなどの新進俳優は、まとめてブラッド・パックと呼ばれていたのだ。
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第11章 「BOMB」
「ボブの野郎がラリって椅子に火ィつけやがったんだ!」
ラスタヘアーの兄ちゃんは賢三と美甘子にそう叫ぶと、「知らね! オリャ知らね〜!」と、往年の|キ《*27》ンチョールのCMみたいなことを言いながら走り去っていった。
「か、火事、火事だって、山口さん」
「あ、大橋くん、煙、煙……」
扉の隙間から、|紫の煙《*28パープル・ヘイズ》……ならぬ灰色の煙がモクモクとロビーに侵入し始めていた。
「ギャッ! こりゃ火事だ」
横で美甘子がキャーと叫んだ。
突如、扉が開き、ラスタ帽をかぶった男が飛び出した。彼は泣いていた。
「ワーン! 大変だあ、こんなことになるとは思わなかったんだー! 冗談のつもりだったのにドンドン燃え出して……」
ラスタ帽はヒーンと泣きながら去っていった。
「今の……ボブの野郎……かな?」
と美甘子がつぶやいた。
館内から「ウオッ!」「ヒー」「火事だあ!」という悲鳴が次々に聞こえた。
扉が開き、あっけにとられている賢三と美甘子の前を、あわてふためいた表情の人々が「逃げろ!」などと叫びながら走っていった。
「や、山口さん、オレたちも逃げた方が……」
賢三が言い終わるより早く、けたたましいベルの音が館内に響きわたった。火災報知機の音はまるでスタートの合図だった。二人は揃って、脱兎のごとく駆け出していた。
映画館の外には、すでに逃げ出してきていた観客たちが何十人もいた。皆、火を見て興奮した状態だった。加えて、どいつもこいつも騒ぐのが何より好きなロック野郎たちである。
「ウォー! 燃えろー!」
「ファイヤー!」
「イテテ、足くじいちゃったよ」
「くっそう! オレは『ヘアー』を観るために来たってのによー」
「山田ァ! いるかあ」
などと、口々に好き勝手なことを言って盛り上がっている。
美甘子はキャーキャーいいながら、無責任に騒ぐロック野郎たちの群れの中を、意味なく走りまわっていた。賢三は彼女の姿を見失わないように、一緒になって興奮する人々の波にもまれていた。
火の勢いは激しく、野次馬があちこちの酒場から集り、消防車のサイレンが聞こえてきた頃には、ナイスシアターは竜の舌みたいな炎に包まれ始めていた。ドス黒い煙が夜空に舞い上がり、ロック野郎たちは、ギタリストの超絶技巧に興奮するオーディエンスさながらに、さらに騒ぎ始めた。
「キャー! なんか大変よー!」
ピョンピョコと跳びはねる美甘子の顔が、炎を受けて夕焼けの色に染まっていた。
「キャー、大橋君の顔が真っ赤よー」
「自分だって真っ赤だよ」
「あっそーか、アハハ、でもなんかお祭りみたい」
美甘子の無責任きわまりない言葉は、しかしそこにいたロック野郎たち全ての気分を代弁していた。
「こりゃスゲーや」
「こうなりゃ全部燃えちまえー!」
脱色長髪にモヒカン、それにドレッドヘアーまでが、ジャンルを超えて、炎という人類最古の興奮剤に酔っていた。
消防車が到着し、バカ長いホースを握った防災服の男が、人混みの中に割って入った。
「どいて! どいて下さーい」
次々とパトカーも到着し、警官たちがいかめしい顔をしてあたりの人々に叫んだ。
賢三たちのすぐ近くで、モヒカンと警官の小ぜり合いが始まった。何かつまらぬことで口論となったのだろう。「んナロー!」と言いながらモヒカンが警官の胸ぐらをつかんだ。
五、六人の警官がモヒカンに飛びかかり、倒れた彼に容赦なく蹴りを叩き込んだ。
それを見て、そばにいた長髪男とラスタヘアーの数人が、警官たちにつっ込んでいった。
ヒュー! と、あちこちからはやし立てる声が起こった。
「いけー! やれえ!」
という叫び声が飛んだ。
「キャー! なんか怖いよー」
美甘子は両足をジタバタと踏み鳴らして、賢三の腕を両手でつかんだ。
フッと、花の香りが賢三の鼻をくすぐった。シャンプーは薔薇園だろうか。美甘子の髪の香りをもっと胸いっぱい吸い込みたい。火事の最中であるというのに、賢三はそんなことを思い、フンと息を吸ったはいいが、あたりにたちこめた煙を吸い込んでしまい、目を白黒させてゲホゲホとむせた。
「ゲホッ! ゲホッ! ウグー!」
「大丈夫? 賢三君」
賢三がジジイのようにせき込んでいる間に、警官vsパンクスを発生元としたケンカは、メタル、レゲエ、リズム・アンド・ブルース、さらにはニュー・ウェイヴまでをまき込んだ、警官vsオール・ジャンル・オブ・ロック軍団への大抗争へと発展していた。体制vsフリーダム。まさにロックの存在意義を確認するかのごときこの大ゲンカは、あたりの演歌好き野次馬お父っつぁんも参加して火に油をそそぎ、火事そっちのけの大乱闘に広がっていたのだ。
「んなろー」
「テメー!」
バキ! ボカ! スカ! あちこちで悲鳴と怒号とが交錯していた。
燃え上がるナイスシアターの下、あらゆる趣味嗜好を持つ人々が暴れまわった。
「キャー! キャー! キャー! キャー!」
さっきまであれほど雄弁に映画論をぶっていた美甘子も、今はただ「キャー」というオンリー・ワン・フレーズを叫び続ける、ヴォキャブラリーのない少女である。
「ウワー、ギャー、ウヒョー」
賢三も意味のない悲鳴を上げながら、美甘子よりは状況を冷静に判断していた。
ともかく美甘子を連れてここから逃げなければ。
賢三は美甘子のパーカーの袖を強くつかみ、「行くよ!」と言って引っぱった。美甘子は気づいていなかった。キョロキョロとあちこちを見ては相変わらずキャーキャー騒いでいる。賢三は袖を握っていた手をはなし、美甘子の手を握りしめた。こういう時でなければ、もっとじっくり彼女のやわらかな手の感触を感じていたいものなのだが……賢三は「無念じゃ」と、下克上された戦国武士のごとくつぶやきつつ、美甘子の手を引っぱった。
「行くよ、山口、逃げるよ!」
「ボブの野郎は捕まったのかなあ」
と、明け方の青梅街道を歩きながら美甘子はつぶやいた。
「罪重いよね」
「死刑かしら?」
「十五年ってとこじゃない」
「ボブかわいそう」
と言いながら美甘子は、ちっともそんなこと思ってもいなさそうにクスリと笑った。
ほっこりとした白い息が彼女の口から飛び出して、すぐにあたりの空気と同化して消えた。
ナイスシアターの騒乱から逃げ出した二人は、朝までやっているレストランで映画論の続きをやらかし、それでもまだ始発まで時間があったので、西荻窪の彼女の家まで、賢三がつきそって歩いて帰る途中なのだ。
賢三はもう、これ以上はないというような満足感で胸がいっぱいだった。美甘子とこんなにも長く話ができたことが、まるで夢のように思われてならなかった。
朝日がやけにまぶしく感じられ、そして光をうけて今日もキラキラと輝く彼女の髪を、この世に存在するいかなるものよりも美しいと思いながら見つめた。
先を歩いていた美甘子がクルリと振り向いた。
「今日はどうもありがとね」
「いやいや……いやいや」
「またついてきてよ。映画観るときの用心棒役をお願いするよ」
と、美甘子は言った。
やはりオレはたんなる用心棒役か……。賢三の体内よろこびメーターが、メーター振り切れレッド・ゾーン突入の状態から、一挙に80パーセントほど下がった。
「大橋君も何かあったら山口を誘ってよ」
と美甘子が言った。
よろこびメーターが再びグングンと、指し示す数の値を上げていった。
「おう、ぜひ、誘わせてもらうよ」
「本当、待ってるよ」
巨大なトラックが、ゴーッと二人の横を通り過ぎていった。
「でも、もうじき受験だしねぇ」
「関係ないよ」
「あら、だから大橋君は理想論の人だっていうのよ。映画にしてもそうだけど、理想や思い入れだけじゃ名作はつくれないと思うのね。同じよ、受験も。体制のつくったそんなシステム、自分には関係ないっていっても、それはやっぱり目前に現実としてあるんだもん」
「わかってるよ。でもだからって受験のためにあたふたするのは、やっぱり体制のいいなりになることを認めるわけで……オレはどうも嫌なんだ」
「だって、そんなこといったって現実は……」
二人は受験についてまたもや議論を始めた。お互い、自分たちの言っていることがたかだか高校生の、まだまだ子供が背伸びをしようといきまいている程度のことであることはわかっていた。しかし二人は、それでも話さずにはいられないのだった。二人の間に、恋愛感情はともかくとして友情のような感情が芽ばえ始めたのは確かなことだった。口ゲンカまがいの議論でしか、この時の二人はその気持ちを確認し合う手段を知らなかったのだ。
今回の議論も、美甘子が優勢だった。否定しても、受験という現実が目前から消えることはないのだ。
「そうだよね。確かに山口の言うとおりかもしれない」
賢三は、王手を取られた棋士の気分でそう言った。
「あっ、でも大橋君の言うことスッゴクわかる。スッゴクあたしもわかるんだよ」
と美甘子はあわてたようにフォローを入れた。
賢三は、そんな美甘子の思いやりがさらに恥ずかしく、この時、「オレはもっともっと本や映画とたくさん接し、自分を磨かねばならん」と痛切に思った。
「でもボブはほんと、どうなったかなあ」
美甘子は話題を変えようとしてつぶやいた。
「いたずらのつもりが放火犯……人生いろいろだよな」
「ねえ、大橋君、人生ってなんだと思う?」
「いきなりでかいくくりだなあ。人生?」
「人生よ。あたしはね、人生ってグミ・チョコレート・パインだと思うの」
「グミ・チョコレート・パインだって?」
「そう、ホラ、ジャンケンして、グーだったらグミ、チョキだったらチョコレート、パーだったらパインって、それぞれ言葉の数だけ前に進めるゲームのことよ。人生って……生きることって、あのグミ・チョコ遊びだと思うの。自分の出した手が相手を負かすことがあって、でもその手は必ず一番強いわけじゃなくて、負かした相手の手より弱い手で負けちゃったり。そうして勝ったり負けたりしてるうちに、いつの間にかくっきりと勝者と敗者とが分かれてしまうのよ。生きてくって、そういうことなんだと思う」
美甘子は、一体どれだけ心に引き出しを持っているのだろうか、賢三は、彼女に尊敬に近い感情を抱き始めていた。オレはずっとこの子にはかなわないんじゃないだろうか、と思った。オレがグーを出せば美甘子はパー、チョキを出せばグー、パーを出せばチョキ、どんな手を出しても、山口美甘子はオレの上をいく。
「ねえ、あっちの信号までグミ・チョコレート・パインをやろうよ!」
と、美甘子は言った。賢三の返事を聞く間もなく、彼女は手を、すっかり明るくなった空につき上げていた。
「ジャンケン!」
美甘子が叫んだ。
賢三はとっさのことに、開いていた左手をそのまま前につき出そうとした。
「美甘子は必ずチョキを出す」
賢三は直感した。
「勝った! アハハハ、勝ったよ、山口の勝ち」
美甘子はそう言って、「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト!」と、ポーンポーンと六歩、前方に跳びはねた。歩幅の広い彼女は、賢三との間に数メートルの距離を一瞬にしてつくってみせた。
勢いよく振り返り、美甘子は、「ジャンケン!」と再び叫んだ。
賢三は、空に向かって拳をつき上げる。朝日に照らされた彼女を見ながら、「もっと映画を観よう、もっと本を読もう、そして早く、バンドを結成しよう。何かしなければ、何かしなくちゃ」と心でつぶやいていた。
興奮冷めやらぬ翌日の夜、タクオ、カワボンからの緊急招集の電話が鳴った。
「あ、タクオだけど、ケンゾー、ヒマだろ? 九時オレんち、じゃな」
必要最小限の連絡事項を告げて、電話は切れた。
コクボ電気店二階では、いつものごとく、レッド・ツェッペリンをBGMに、タクオとカワボンがすでに一杯やっていた。まったくこの連中はまだ十代だというのに酒ばっかり飲みやがって、お前らは小原庄助さんか!? 今に身上つぶすぞ本当に、などと思いながら例によって賢三も駆けつけのビールをキュッと一杯。
「プハ〜! うまいっ、なんだか今日は特にうまい」
「何だ? 何かいいことあったのかよ?」
タクオがつまみのロール・キャベツをハシで二つに分けながら聞いた。
「いやいや、別に」
と、賢三はとぼけた。
「ハフ、ハフ、ケンゾー、タクオのつくったホフ、ホッ、ロール・キャベツ……ハフ、ハフ、食べなよ」
別に恐怖ハフハフ人間がしゃべっているわけではない。タクオ特製の熱々ロール・キャベツを口にほおばった状態のカワボンである。
「オー、ロール・キャベツかあ、手の込んだもんつくるよなあ、タクオも」
賢三は感心しながら、ロール・キャベツをポンと口に放り込んだ。
「どう、オレの料理。うめえだろ、ケンゾー」
「ハフ、ハフ、う、うまいけど、ホヒ、ホヒ、アフイ、アフイ……熱いよ、これ。でもいろいろつくるねぇ、タクオも」
「こんなもんもつくるぞ」
と言ってタクオが差し出したものを見た瞬間、賢三は驚きのあまりロール・キャベツを喉に詰まらせた。
「ゲホ、グホ、グホ」
「そんなに驚くんじゃねえよ。ホラ、いいだろ、これ」
と言ってタクオは、手に持ったそれを自分の目の前で広げてみせた。
「黒所高校指定女子体育着、ブルマーだ」
一瞬、賢三はタクオの持つ真っ赤なブルマーを、賢三がベッド下にかくしておいたはずの、山口美甘子のものではなかろうかと思い、ほとんどパニックに近い状態に陥った。「え、何で? 何で? どうしてタクオが? どゆこと? どして? なんで」吉沢秋絵もびっくりの「|な《*29》ぜ?の嵐」が賢三の脳内で吹き荒れた(誰もわからんぞこんな例え。スマン)。
「ホラ」
笑いながらタクオは、目を白黒させている賢三に、ブルマーを放った。
とっさに手を伸ばし、賢三はブルマーをつかんだ。やわらかい布ごしに、何か固いものの感触があった。
「ワハハハハハハ、ギャハハハハハハ」
突如鳴り響いた高らかな笑い声に、賢三は「ウワ〜」とマンガのような悲鳴を上げてブルマーを放り投げた。床に落ちたブルマーが、ワハハハギャハハハと高らかに笑っているではないか。
「ななななな、何だこれ!?」
笑い続けるブルマーを見つめ呆然とする賢三。
タクオとカワボンも、ブルマー同様、はじけるように笑い出した。
「ワハハ、そんなに驚くかね、普通。ケンゾー、ブルマーに何か強烈な思い出でもあるんじゃねぇのか?」
タクオが聞いた。まさか、「いや、家にあるはずの美甘子ブルマーかと思って」とは言えない。賢三は、落ち着きを取り戻し、「笑い袋が入ってるのか」と言った。
「そ、っていうか、このブルマー自体が笑い袋になっているわけ」
「どうしたんだ、こんなもん」
「オレがつくったんだよ」
「ブルマーはどうしたんだよ」
「買ってきたんだよ、さっきカワボンとスポーツ用品店に行ってさ。うさんくさそうな目で見られたけどな、山之上をハメるためだ。それも仕方ねえ」
「山之上をハメるためって……何だ」
「おどすんだよ。あの怪盗ブルマーを、これでおびきよせるんじゃねぇかよ」
「ハ?」
タクオにかわり、カワボンがニヤニヤと笑いながら説明を始めた。
「だからね、ブルマー・フェチの山之上を、これでハメるんだよ。奴の通学路にこれを置いといてね、奴がこれをつかんだところで我々が飛び出す。『見たぞ、怪盗ブルマー山之上! このことをバラされたくなかったらオレたちのノイズ・バンドに参加しろ!』……とまあ、こういう計画なわけね」
タクオがカワボンの説明を聞いてウンウンとうなずいた。
時々、この人たちは本当に小学生のようなことを言い出すことがあった。たいがい発案者はタクオで、賢三とカワボンがそれに便乗するのだ。タクオの案がくだらなければくだらないほど、賢三もカワボンも燃えた。以前もクリスマスに「ダッチワイフを恵まれない子供たちに送ってやろう」と突如タクオが言い出し、三人はそのためにビラ配りのバイトをして金をつくり、ダッチワイフを購入し、「恵まれない子供たちにあげて下さい……愛の三人より」と書いた手紙を添えて、なんとユニセフに送ったことがある。そんなことやるパワーがあったらもっと他のことせえ! と、サンタクロースならずともつっ込みたくなるプレゼントである。
「それ、くだらなくていいな!」
と、今回のバカな計画にも、賢三はさっそく賛同の意を表明した。
「な、いいだろ、山之上がブルマーつかんだとたんに笑い声がけたたましく起こるわけよ。ナイスだろ、これ」
コラ、コラ、何がナイスだよ、と筆者は今、彼らをどついてやりたい衝動にかられてモンモンとしているところである。
「ウヒャヒャ、タクオ、それおかしいよ」
賢三はさもおかしそうにウヒャヒャと笑った。賢三よ、君は美甘子に負けぬため、もっとさまざまなことを学ばねばと心に誓ったばかりではなかったのか!?
「これがあいつの家から黒所までのルートだ」
ロール・キャベツの皿をどかせて、カワボンが床に地図を広げた。沼袋の周辺から黒所高校に向けて、一本の赤いラインが引かれていた。
「ここ、ここだ」
と、カワボンが地図の一カ所を指さした。
「ここは工場の裏にあたる道だ。人通りはほとんどない。道沿いに空き地があり、背丈ほどもある雑草が生えている。我々はここにかくれて山之上の来るのを待つ。時刻は午前八時十五分ぐらいだろう」
「とすると、必然的に一限はさぼらざるをえまいな、カワボン」
「そうなるな。ケンゾー、一限は?」
「化学だ」
「橋本か、老いぼれだ、問題なかろう。タクオは?」
「藤木のリーダーだ。眼中ねえよ」
「そうか、オレんとこは稲城の漢文だからまったく問題ない。決定だな、これで」
三人は地図を囲んでうなずき合った。
カワボンが、真顔で言った。
「オレたちが山之上を必要とする理由はいくつかある。まず第一に、とても打算的な問題になるが、奴の資本力だ。あいつの家を見ただろう。機材を買うにも奴の資本が必要だ。第二に、とにかく人手が必要であるということ。奴をノイズ・バンドのメンバーにするかどうかはわからん。しかしバンドにはスタッフというものが何かと必要になってくる。機動力アップのためにも奴が欲しい。それと、第三は……ジーさんのためだろうな……三人とも同じことを考えると思うからあえて言うが、どうもあのジーさんをオレたちは憎めない。というか、何か力になれるならなってやりたい気もする。ジーさんがオレたちと山之上を引き合わせたいと強く願うなら……ま、そういうことだ。そして第四に……これが一番大事なことだが」
ここではカワボンはタクオとケンゾーをチラリと見て、言った。
「あいつのあの部屋を見て、二人とも感じたと思う。あいつは、山之上は、オレたちと同類だ。何かやらねばという思いにかられながら、そのためにあらゆる雑多な知識を吸収し、とめどもなくあふれてくる性欲を持てあまし、しかしその発露の手段が見つからず、モンモンと自分の中の袋小路でくすぶっている、我々と同じ種類の人間だ。ケンゾー、タクオ、見たか!! あのおびただしいヴィデオと本を、天井に貼られたC級映画のポスターと床に散乱したエロ本を。山之上は間違いなくこちら側の人間だ。だから我々は奴を勧誘する」
工場沿いの細い道に、ポツンと、赤い女子体育着が置かれていた。片側にはコンクリートの壁が数十メートルも続き、反対側は土地ころがしのためか荒れ放題になった土地が寒々と広がっていた。そんな光景の中に真紅のブルマーは、寺山修司かフェリーニの映画のような、シュールなムードを醸し出していた。
タクオ、賢三、カワボンの三人は、大人の背丈ぐらいに伸びた雑草の茂みにかくれて、怪盗ブルマーの到来を今かと待っていた。
「イテテ、なんか虫がいる」と賢三。
「おい、八時十五分過ぎたじゃねえかよ」
とタクオ。
「タクオ、オレの足踏んでる」とカワボン。
待つこと十数分、もう現れてもいい頃だった。
「おい、来ないぞ」
「いや、そんなはずは……」
「あ、来た!」
人気のない道を、一台の自転車が走ってくるのが見えた。遅刻寸前のためか、山之上は飛ばしていた。十段変速ぐらいのスポーツ用自転車だった。それぞれのパーツを全部別々のメーカーで取り寄せるような高いやつだ。山之上は腰を上げ、前傾姿勢でハーハーと息を荒らげながら走っていた。
すごい勢いで、道に置かれたブルマーの横を通り過ぎていった。
「アラ」
「ハレ」
「ホロ」
三人はチクチクする茂みの中で、それぞれ口を開け、疾走していく山之上の姿を見送った。
「行っちまったよ、タクオ」
「何だ、あの野郎、んなわけねえよ! なあ、カワボン」
「そう言われても」
三人は、茂みの中からはい出そうと、周りの雑草を手で払いのけようともがいた。
その時、
シュワアアアッ! というコンコルドが音速に近づいた時のような音を立て、山之上の十段変速特注ロード・サイクルが猛スピードで引き返してきたではないか。
「来た!」
「す、すげえスピード」
「タキオン粒子のようだ!」
山之上のロード・サイクルがブルマーの数センチ手前でピタリと止まった。
山之上の、おしゃれで伸ばしているわけではない長髪が銀ブチ眼鏡の上にハラリとかかった。
微妙に震える指先で、山之上は髪をかき上げた。
目線は、じいっとブルマーを見つめている。
あんなに集中した目つきで見られたら、さぞやブルマーも恥ずかしかろうに、などと賢三は思った。それほどに、強い目線だった。
山之上はロード・サイクルを降りた。
サイクルを立てかけ、ゆっくりとブルマーに近づいた。
腰をかがめ、立てひざをついた。
アリの行列を観察する子供のように、ブルマーをしげしげと見続けた。
ふっ、と笑った。
ニヤリ、ニヤリ、ニヤリ、ニヤリと山之上は、女子体育着を見つめながら不気味に笑っていた。
ゴクリと、横でタクオがつばを飲み込む音を賢三は聞いた。
「危ないぞ、あいつ」とカワボンがつぶやいた。
山之上の震える指先が静かにブルマーに伸びた。
「ワハハハハハハハハ、ワハハハハハハ」
山之上の指がブルマーにふれた瞬間、笑い袋が作動した。
「うわああああああ!」
山之上が機械仕掛けの人形のように立ち上がり、悲鳴を上げた。
「ワハハハハハハ! ギャハハハハハハハハ」
「うわああああ! うひいいいいいいいい!」
「ワハハハハハハハハ! イヒヒヒヒヒヒ」
「わっ! わっ! わっ! わっ! うひゃあああ」
これは『グミ・チョコレート・パイン』ではなく夢野久作の『ドグラ・マグラ』か!? と思われるような光景が、人気のない路上で展開されていた。笑うブルマー、悲鳴を上げる陰気な男。
「よし今だ、行くぜ!」
とタクオが二人に言った。
三人は茂みの中から、もがきながら道路にはい出た。
笑うブルマーを見つめてまだ驚いている山之上の背中に、賢三が声をかけた。
「見たぞ、山之上! いや、怪盗ブルマー!」
山之上は振り向き、ギョッとした表情を見せた。
タクオがタンカを切った。
「おうおう、知らねぇとは言わせねぇぞ! ブルマーに異常な関心を抱くお前の行動、しかとこの目で見たんでえいっ!」
タクオは、昔から時代劇、特に金さんのファンであった。
カワボンがいつもどおり、冷静に言った。
「調べはついている。黒所の怪盗ブルマー、あれは君だね」
山之上の右手が動いた。いつもノソノソとした彼からは信じられぬ素早い動きで、ポケットから一本のカッターを取り出した。
「カッターで切ってやる!」
と山之上は三人に叫んだ。
「この改造カスタムカッター、山之上モデルで切ってやるう!」
叫びながら、カッターを持った手をブルンブルンと振りまわした。
「うわー! 危ねえ、山之上、よせよ」
「おいおい、危ないっての、ヒー」
「落ち着け、落ち着け、山之上」
こんのやろーと叫びながら、山之上は暴れた。ロード・サイクルが倒れ、山之上の足がブルマーを踏んだ。再び笑い袋のスイッチが押された。
「ワハハハハハハハ! ギャハハハハハハ」
「死ねー! 切ってやるぞ!」
「危ないっての、ウヒー」
「ちょっとこら、ワー」
「やめいっつーの、ウワ!」
「ワハハハハハハハ! ギャハハハハハハ」
当人たちは命がけだろうけれど、遠目に見たらこの光景は、まるで「8時だよ! 全員集合」である。
「待て、山之上、オレたちを殺して何になる、それより取り引きをしねえか!?」
タクオが言った。
もともと体力のない山之上は、彼の言葉を聞いて、とりあえずカッターを振りまわすのをやめた。ゼーゼー肩で息をしながら、「取り引きって何だ?」と聞いた。
「怪盗ブルマーの件、この四人だけの秘密にしてやってもいいんだぜ。そのかわり」
カワボンが言った。
三人と山之上は、無言でにらみ合った。
「そのかわり」
「そのかわり何だ、川本?」
「オレたちのバンドに入れ」
「バンドだと?」
「そうだ、自分BOXを超えるようなバンド組みたいんだ。お前が要る、山之上、バンドに入れ」
「……入らないと言ったら」
「怪盗ブルマーの正体が判明しましたと黒所の連中に教えてやる」
山之上が再び黙った。
「ワハハハハハハ! ギャハハハハハハ」
ブルマーはまだ笑い続けていた。
山之上のカッターを持つ手が下がった。
けたたましい笑い声をバックに、山之上は言った。
「わかった。話を聞こう」
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*27 ※[#歌記号、unicode303d]オリャ知らね〜 オリャ知らね〜 キンチョールのせいだよオリャ知らね〜。
*28 ギターの革命者、ジミ・ヘンドリックスの代表曲。
*29 あったんだよ、こーゆー曲が。
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第12章 「別冊スクリーン」
城の中で、山之上は兵糧攻めにあった孤独な王様のようにうつむき、考え込んでいた。
城とは彼の部屋のことだ。
この城で王様を守るのは、石の壁や堀や数千の兵士たちではなく、『マタンゴ』『美女と液体人間』などといったC級映画のポスターであり、ズラリと並べられたアダルト・ヴィデオであり、水色の背表紙のハヤカワSF文庫だった。
この王様には守るべき権威などまるでない。彼が知識の量で守ろうとしているものは、肥大した自意識と、本人は「孤高」のつもりでいるが、本当はコンプレックスでいっぱいの自己愛に他ならなかった。
頑強なはずの城は、今、たった三人の男たちによって陥落の危機に直面していた。
三人の男は、盾も槍も、ましてや火薬さえ使わずして、難攻不落の山之上城を断末魔に追いつめたのだ。
「お前はオレら側の人間だ。組もうぜ、山之上」
彼らの用いたたったひとつの武器であるこの言葉は、未だかつて、黒所においていかなる冷たい視線や仕打ちにもビクともしなかった山之上の心を、直下型地震マグニチュード7・8の揺れでもって刺激したのであった。
昨日、黒所への途中、工場脇で大橋賢三、小久保多久夫、川本良也の三人に彼は呼び止められた。三人はほとんど無理矢理に彼をポルノ映画館裏の喫茶店に連れ込み、二時間にわたって、彼らが組む予定だという、「とにかくすげーハードなノイズ・バンド」に入れとせまった。
「おめーは、オレらのことよく知んねーかもしれねーけどよ」
と、三人の中でいちばん口の悪い、ギョロリとした目の小久保多久夫は言った。
「オレたちも実は、お前と同じように、黒所の俗っぽい奴らにあきあきしてるんだよ。そんでさ、あいつらが絶対に観たり聴いたりしそうにない音楽や本や映画をチェックしまくってるんだよ」
大橋賢三は、そのことがさも重要であるかのように語った。
「山之上、お前も同じなんだろ。奴らとの差別化を、知識の量で確認してんだろ。自分は何かできるはずだと思ってんだろ」
落ち着いた声で川本良也は言った。
山之上は黙っていた。三人がおごるといったホット・プレス・サンドを、無言のままほおばった。
三人は喫茶店に入ってからの二時間、一度も怪盗ブルマー事件については触れなかった。「お前が加入を拒むのならその件を暴き立ててやる」といった工場脇での発言を、どういうわけか持ち出さなかった。そんなことより三人は、黒所の連中をこきおろし、自分たちが奴らとどれだけ違うかを一生懸命に語ることに夢中だった。そして何度も、「お前ならわかるだろう」と主張することも忘れなかった。
「こいつら寂しいんだな」
と、山之上はそんな三人を見て思った。
「こいつらは結局ただ寂しいんだ。こいつらは、砂浜のひとつぶじゃないし歯車のひとつでもないんだと思うあまり、いつしかどんどん狭い世界に閉じ籠ってしまったんだ。ハタと気づけば周りには、自分と同じ考えを持つ奴は二人しかいない。砂浜のひとつぶになるまいとしているうちに、三つぶだけ沖合に流されちまって、それですっかり寂しくなって……僕を……」
「おい、山之上、てめー、聞いてんのかよ!」
何も言わず、時おり上目遣いに三人を見る山之上に業を煮やし、タクオが声を荒らげた。
山之上は彼特有のうすら笑いを浮かべながら、喫茶店に来てから初めて口をきき、
「お、お前ら、う、うるさい」
どもりながら言った。
「あんだこらあ!」
勢いよく立ち上がったタクオをカワボンが制した。
「座れ、座れよ、タクオ」
タクオが腰を下ろすと、山之上が今度は立ち上がり、「帰る、おごりだろ」と言った。
「おごるか、バカー!」
タクオが怒鳴ったが、山之上は背を向け歩き始めた、彼の背に向かってケンゾーは言った。
「とにかくお前はオレらと同類だ。組もうぜ、山之上」
山之上は振り向きもせず、店を出ていった。
「聞こえてねーんじゃねーか、あいつ」
タクオはふてくされて言った。
しかし、もちろん山之上の耳に彼らの言葉が聞こえていないはずはない。本当のことをいえば、一日たった今も、三人の言葉は彼の頭の中を回転し続けていたのだ。
おびただしい数のコレクションに囲まれた部屋の中で、机に座り、山之上は幻聴のように耳奥で響く言葉の、その意味するところを考えていた。
「お前はオレら側の人間だ、組もうぜ、山之上」
なんだろうこの言葉は?
一体なんなんだこれは?
この言葉はなぜオレの心を動揺させるのだ。
認めたくはないが、耳奥でこの言葉が響く度に、山之上はなにかとてつもなく「恥ずかしい」ような気持ちになるのだ。心を揺り動かされるのだ。
生まれてから十七年、こんな言葉を彼は聞いたことがなかった。いくら記憶の糸をたぐりよせていっても、こんなフレーズに出会った覚えはなかった。
山之上は、記憶の糸をさらにたぐりよせた。
山之上の最初の記憶は、二人の美しい女だった。どちらかが母で、どちらかは叔母だった。二人の女は、赤ん坊の山之上を慈愛に満ちた顔で見下ろしていた。山之上はこの時、まだ三歳だというのに、「女は聖だ」と確かに思った。
次の記憶は葬式だった。美しい女のうち、一人が病気で死んだのだ。母の方だった。山之上四歳の時であり、彼は今でもこの時嗅いだ線香の香りを鼻の奥で再現することができる。
フラッシュ・バックする彼の次なる記憶は、父と叔母とのセックスだった。
汗にまみれ、小犬のような声を上げる叔母を見て、弱冠四歳と三カ月の山之上は、「女は聖ではない」と思った。思ったというより、「知った」、そんな気がした。そしてこの時初めて、彼はオナニーを覚えた。
それからの記憶は全て、性欲でコーティングされていた。幼稚園、小学校、中学、そして黒所へ入ってからも、彼の記憶という記憶は、みんな性欲で覆われていた。記憶だけではない。彼は、自分の周りにあるものはすべて性欲で覆われているような気がしてならなかった。そして彼自身の肉体も、発する言葉も、吐く息さえも、性欲というこまかな粒が集って形づくられているのだと思った。
自分の手をじっと見ると、皮膚の上にピタリと貼りついた性欲が見える時があった。小汚い場末のラーメン屋にある、壊れかけたテーブル、何度乾いた布でふいても絶対にぬぐい去ることのできない中華油の皮膜。それが彼の思う性欲のイメージだった。
「僕の性欲は腐臭を漂わせているに違いない」と、彼は確信していたから、他人とコミュニケーションを取ることなど不可能な話だった。
彼は自然と内向していった。
性欲臭が外世界にもれないよう、鉄壁の城を築き上げる必要があった。最初に書いたように、彼が守るべきものは自意識と自己愛だ。一時、孤高の気持ちを味わわせてくれるSF小説とC級ホラー映画とアングラなロックを彼は愛した。知識の海に浸り、外世界との連絡を絶つ生き方を彼は選んだ。いつかは城の中で死のうとさえ彼は決めていた。黒所の女生徒たちが彼の臭さに鼻をつまむ姿を見るよりは、孤独な王として誇り高き死を選びたい、などと思っていた。
筆者は、彼の「性欲腐臭妄想」を、賢三同様、思春期特有の肥大した自意識過剰によるものだと断定する。
自分が、他人、特に異性から特別な目で見られているに違いないという、ナルシシズムからくる思い込みが負の側につっ走った典型的な例だ。
そして、やはり賢三同様、彼もそのことに気づいてはいない。全然わかってない。
性欲腐臭妄想。まさにスメル男妄想に囚われた彼は、そのために女の子に近づけない。逆に、これが異性に対する憧れをより熱く切ないものにしてしまった。孤独な王でありたいなどと言ってはみても、本当は、できるならハーレムの王になりたいというのが本音だった。
城の中で、山之上は賢三以上にオナニーをくり返していた。以前、賢三が自分をキング・オブ・オナニーと自称し、それに応えてタクオがマシーン・オブ・オナニー、カワボンがゴッド・オブ・オナニーと名乗り出たことを著したが、さしずめ、山之上はクレージー・オブ・オナニーといったところか。連日連夜シコシコスコスコプルプルゴシゴシと、擬音の限りを尽くしてポコチンをしごきまくっていた。
すればするほど、性欲が吐き気をもよおす腐臭となって自分を覆っていくのがわかった。
臭いは隠蔽のしようがない程、今や鼻が曲がるぐらい胸クソ悪い状態になっていた。もう、クラスの女の子たちは誰も相手にしてくれないだろう。僕がこんなに臭くちゃな。
「じゃあ、一体どんな女なら相手にしてくれるというのだ?」
夏のある日、クーラーもつけずに汗だらけになって、山之上はこの疑問を一日中考えた。顔面を流れる汗の玉をふとなめた時、答えを見出した。
「普通の女が相手にしてくれないのなら、普通じゃない女なら相手にしてくれるかもしれない。普通じゃない女は孤独に違いない。寂しいに違いない。寂しいから、僕の臭いを気にしないでくれるかもしれない」
黒所高校に、病気の女生徒がいた。どんな病気かはあえて書かないが、彼女は極度に太っていて、頭髪がほとんどなかった。片足を引きずりながら歩いた。
山之上は、学校から帰る彼女を、人気のない工場脇の道で待った。その道は、片側が空き地で、背の高い雑草が生い茂っていた。山之上は茂みの中で息を殺し、彼女を待った。
彼女が通ったら、カッターナイフで脅し、茂みに連れ込んで犯すつもりでいた。
孤独な彼女は、犯されても僕を許すはずだ。そして徐々に僕を愛するようになる。なぜなら、彼女は醜く孤独で、犯されたとしても、自分を抱きしめる男になどこれから会うことはない。だから結局最後には僕を必要とすることになるのだ。山之上はそう考えていたのだ。
あの女の孤独感を取りのぞいてやるんだから、これは罪じゃないのだ、と彼は自分に言い聞かせていた。難民救済だからな。
茂みの中で、じっと彼女を待った。熱い夏の日だった。熱気と興奮で、水をかぶったように彼の体は汗で濡れていた。カッターを持つ手がヌルヌルとすべった。
彼女はいつまで待っても現れなかった。
時間が経過すればする程、彼は自分を覆っている性欲の腐った臭気が、逃げ場のない茂みの中にたちこめてくるのがわかった。アンモニア臭は、もはや本人ですら耐えがたいものとなっていた。山之上は吐き気を感じた。
「早く来いよ! てめえの孤独を救ってやろうとしてるんだぞ、早く来い」
山之上は小声でつぶやいた。性欲と共に、複雑な激しい衝動が吐き気となってこみ上げて、彼にこんな言葉をつぶやかせた。
「一人で寂しいのはわかってるんだ!」
病気の女生徒は、結局現れなかった。
山之上が茂みの中で、自分の発する腐臭に耐えながら彼女を待ちぶせていたその頃、実は、彼女はすでにこの世にいなかったのだ。
病気の女、府黒松子は、黒所の三階美術室で手首を切り自殺していた。
翌日、山之上はそのことを、八木たちの交す彼女への悪口で知った。
「あのブス、死ぬのはいーけどよー、手首切るなんて少女漫画みてえなことするんじゃねーよなぁ、ブスは首つれってゆーんだよ」
ヘラヘラと笑いながら話す八木の言葉を聞いた時、山之上は、昨日より耐えがたい吐き気をおぼえた。
「病気が苦しかったのね、かわいそう」
普段、明らかに彼女をさけていた女生徒たちは、そんなことを言って泣いてみせた。
「ちがう! そんなんで死んだんじゃない」
山之上は心で叫んだ。
「あの女は、僕のことを知っていたんだ。カッターを持って待ち伏せしている僕の存在を知ってたんだ。そして、腐った臭いの僕に愛されて孤独から解放されるより、孤独のまま誇り高く死んでいくことを選んだんだ。
僕の腐った臭いを嗅ぐよりは、死んだ方がいくらかましだってわけだ!」
イヨッ! この被害妄想! などと筆者が茶々を入れたところで、彼の圧倒的自己嫌悪はとどまるところを知らない。
「みんなが気づく! あの女だけじゃない。黒所の奴らが全員、僕の臭いにもうじき気づく!」
そう思うととても座っていられなかった。教室を出た。めまいがして、廊下はゆがんで見えた。すれ違った女生徒たちが鼻をつまんだように見えた。
「もうダメだ、気づかれた。もうダメだ」
つぶやきながら山之上はトイレに駆け込んだ。個室に入り、しっかりと鍵を閉めた。しゃがみ込み、しばらく目を閉じて、めまいが治まるのを待った。目を開けた時、彼は生理用ナプキン入れがトイレの中に設置されていることに気づいた。あわてて女子トイレに入ってしまったのだと気づくまで、三分かかった。
女子トイレの中で、山之上は一日考えた。
「普通じゃない女もダメなら、一体誰なら大丈夫だっていうんだ」
女がダメなら男か? なんてことまで考えた。同じ性欲臭を発散させている男同士なら、お互いの悪臭を気にせずに愛し合えるじゃないか、そんなことを思ったりもした。実際男同士で絡み合っている自分を想像すると、気味悪さが先に立ち性的興奮をおぼえることができなかった。
「誰もいないのか、人間はダメなのか、僕は人間の女とは一生何もできんのか、こんなに臭くちゃダメなのか、僕の手は性欲でヌメヌメしていて、それでダメなのか」
夜になり、校舎が闇に包まれるまでまんじりともせず彼は考えた。やがて何の解決策もないのだと悟り、重い腰を上げた。宿直に見つからぬように静かに廊下を歩いた。窓越しに、遠くのネオンが見えた。ハッキリとした赤や青の点滅を、山之上は美しいと思った。
山之上は立ち尽くし、スーパーマーケットのネオンサインに見入った。
遠くの光を見ているうち、彼はあることにハタと気づいた。
「ああそうか」
何でこんなことに気づかなかったのだろう。
自分の馬鹿さ加減に、彼は思わず笑った。
こんな簡単なことに気づかなかっただなんて、僕もどうかしてる、しごく単純なことじゃないか、バカだな、なんで気づかなかったんだ。
「人間がダメなら、人間以外の物≠ェあるじゃないか。僕の性欲臭を気にとめる嗅覚を持っていない物≠ェいくらでもあるじゃないか。人間がダメでも物≠ェあるじゃないか」
山之上が黒所の教室から、女子生徒のブルマーを盗むようになったのはそれからだった。
いかに彼の肉体が腐臭を漂わせていようとも、気にしないでいてくれる(当たり前だが)ブルマーを、彼は人間の女より数倍も愛しいものと思い、危険をかえりみずせっせと収集し始めた。特に、山之上から見て、自分と遠い位置に存在する女たち。明るく、美しく、生きることの喜びを発散させまくっている女生徒たちのブルマーを山之上は愛した。彼女たちのブルマーを、反対に生きることの醜さを発散しまくる自分の手で汚していくことに、サディスティックな喜びを感じた。彼が自分と対極に位置する人間の代表として考えているのは、同じクラスの山口美甘子という女生徒だった。明るく、美しく、彼女の周りはいつも輝いて見えた。山口美甘子の衣類をワンセット盗み出し、こっそりと城の中で着てみたいと山之上は考えていた。彼女の下着を、スカートを、リボンを、全て自分の腐臭で犯してやるのだ。フクシューだ! これはフクシューなのだ。僕の臭いから逃げ出した女たちへのこれはフクシューなのだ。
毎日そんなことを考えながら、けれど彼は、自分の心が病んでいることにも気づいてはいた。
このままでは、僕はもっと薄汚い、もっと人から憎まれるようなことをしでかす。いつか必ずとり返しのつかない罪を背負う。
恐ろしかった。
祖父に、隠していたブルマーを見つけられた時、もはやこれまでか、と彼は観念しながらも内心でホッとした。祖父により、僕のしてきたチンケな罪が人々にバレるだろう。だがバレるかわりに、これ以上自分が壊れていく恐怖からも逃れられるのだ。
だが祖父は、意外なことに、このことを誰にも口外しなかった。
彼が孫の異常に気づかなかったわけがない。
孫を溺愛していた彼のこと、孫が性犯罪者と化していくことに、何らかの感情を爆発させぬわけがないはずなのに、彼は何も言わなかった。
かわりに、三人の男たちを彼の城へ連れてきたのだ。
三人の男たちは、山之上にこう言った。
「お前はオレら側の人間だ。組もうぜ、山之上」
なんだろうこの言葉は?
一体なんなんだこれは?
――本当のところ、山之上は老人の無言も、三人を連れてきた行動も、そしてこの言葉の意味も全て理解していた。
孫の異常を、肥大した自己愛によるものだと祖父は一瞬にして悟った。孫は、何とか外世界とのつながりを求めようと内心猛烈に闘っているのだ。ただその手段が間違っている。多くの犯罪者がそうであるように、コミュニケーション不全症に陥った少年がやっと見つけた外世界との接触が、犯罪行為という歪んだかたちで出現してしまったのだ。孫の場合それは、女生徒のブルマーを盗むことだった。
孫に今必要なのは、自分が怒鳴りつけることでも、孫の心の病を白日の下にさらすことでもなく、同じように外世界とのコミュニケーション不全症に陥り、それと葛藤しながらも孫と逆に、前進的な解決策を見出そうとしている同年代の者たちなのだ。
孫が何の気なしに赤丸をつけたフールズメイトのメンバー募集に、祖父は賭けた。
「お前はオレら側の人間だ。組もうぜ、山之上」
この言葉が山之上の心にガシガシと響く理由も、本当は彼は知っていた。
この言葉は、彼が外世界とコンタクトする方法が、性的犯罪以外にも存在するという明るい事実を意味しているのだ。
同じ想いを共有する者たちと組めば、外世界に出ていくことだってできるはずだ。この想いは、実に秘かに彼が幼い頃より抱いていた夢想そのものだった。夢想はあくまで夢想で、そんなことが現実にありうるわけがない。腐臭漂うこの僕と組もうなどという人間がこの世に存在するわけがない。彼はずっとそのように考えていたのだが……。
例えるなら、今の山之上の心境は、白馬に乗った王子様がいつか自分を迎えに来るんだわ、などというたわけた夢想を捨てきれずにいた独身OL三十二歳の家に、ある日、本当に白馬の王子が訪ねてきちゃったようなものである。
ぶっちゃけていえば、彼は三人の勧誘が、内心涙が出る程うれしくて仕方がないのだ。「このままでは僕は本物の変態になる」その寸前に現れた援軍に、泣いてすがりたいくらいだった。ただ、愛された記憶のあまりない彼は、「照れ臭くて」素直に喜べず、「一体なんなんだこれは?」などと哲学してみせているにすぎないのだ。
ブルマー泥棒の王様は、一晩中「考えるふり」をした後、「たわむれに、あのヘンテコな三人の男たちと組んでやってもいいかもしれんな」と心でそっとつぶやいてみた。
「あくまでたわむれだからな」
と、王様はつけ足すことを忘れなかった。
王様は、城から出てみようと決めたのだ。
翌日、黒所でバンド加入の意思を表明し、コクボ電気店を訪れた山之上を、ガラは悪いが人のいいタクオは、精一杯のもてなしで歓迎してやろうと、まず彼の秘蔵ロックLPのコレクションを引っぱり出し、山之上の前に並べた。
「おう、どうだこれ、スゲーだろ。お前ならわかるだろう、ホラ、発禁になった頭脳警察のファーストだ。それからこれ、スターリンの自主制作ソノシート『電動コケシ』だぜ。あ、お前チャクラとか聴くか? 『福の種』のシングル。これなんか十年たったら好き者の間でプレミア必至だぜ。それとなあ」
山之上はほとんど反応というものを示さず、次から次へタクオが自慢げに差し出すアルバムやシングル盤を手に取り、二、三秒ながめてはタクオに返す動作をくり返すばかりだった。
「おめーよー、ちっとは何とか言えっての。スゴイなあとか、これ知ってるとかさ、コメント入れろよ、コメントをよ!」
山之上の無反応にしびれを切らしたタクオが言った。
山之上は脂っぽい前髪をさっとかき上げ、チロリとタクオを見て、
「……大したことないな。僕全部持ってる」
と言った。
思わずタクオはムカッときた。人が歓迎してやっとるのにその態度は何じゃ! いやしかし、ここで怒ってはいけない。やっとバンドが組めそうな時なのだ。オレが怒ってこいつを帰らせてしまったら、もうすぐ期待しながらやって来るはずのケンゾーとカワボンに合わせる顔がない。
何より、バンドが組めなくなったら、オレはつらい。
タクオには、漠然とした将来のヴィジョンがあった。
何とかして、ロックでメシを食おうと考えていたのだ。
タクオがロックと出会ったのは、小学校六年の時だった。その頃、クラスの女子たちの中でも、発育が早く、いっぱしにブラジャーをつけているらしいと噂されていた矢川弘美という女が、透明な下敷きに一枚のピンナップを入れて登校してきたのだ。その一枚。ベイ・シティ・ローラーズ。略してBCRのピンナップは、伝染病のように、一瞬にしてクラス中の少女たちの心をとりこにしてしまった。レスリー、イアン、デレク。今、彼らの写真を見ても、ビザ切れを気にしながら街頭でパンダのおもちゃを売ってる怪しいイスラエル人以上の者には見えぬのだが、当時の少女たちは、甘く優しいヴォーカルを聴かせるこのグループに熱狂してしまった。
女子たちが毛唐に入れ込んでいる姿は、男子としては当然楽しいものではない。タクオも然りだ。BCR許すまじ、である。けれどもタクオは、デレクやレスリーたちには何の魅力も感じなかったが、彼らの音楽には、不覚にも乗せられることがあった。
「何がデレクだよ、くだらねえ。オレはやっぱりピンク・レディーのミーだな」などと、まるで比較にならない言葉でBCRを批判しながらも、ふと気づけば「ササササタデナーアーイ」と、BCRの大ヒット曲「サタデーナイト」を口ずさむ自分に気づき、しまった! と口惜しがった。タクオのみならず、クラス中の男子が、BCRは認めんが奴らのやっているロックというものはなかなかよい、という中立的な考えに傾きつつあった。だが、やはりBCRの軟弱さは認めたくなかった。
そこへ、ある日一人の男子生徒が、この問題を解決する見事なアイテムを持って登校してきた。
透明な下敷きに入れられた一枚のピンナップ。そこに写し出された四人の男たちは、BCR同様外人であり、ロック・バンドであっても、軟弱ではなかった。反対に、彼らには少年の破壊衝動をドヤしつけるような迫力があった。タクオをはじめ男子生徒一同、「カッチョイ〜!」と叫んだ。
特撮ヒーローものの悪役を思わせるド派手なメークをして(何しろベースの男は口から血のりをたらし、おまけに火まで吹いているではないか!)、ピンナップに収まっている四人の男たち、ポール・スタンレー、エース・フレーリー、ピーター・クリス、そしてジーン・シモンズ。この四人との出会いが、その後のタクオの生き方を決定づけた。
「こ、こいつら、何ていうんだ?」
ややあわてながら、タクオはピンナップを持ってきた級友に聞いた。彼は得意げにタクオに答えた。
「キッスっていうんだ」
「キ、キッス……?」
「キッス……」
「キッス!」
「……キッス……」
男子生徒たちは「キッス」という、その言葉の響きにしびれた。そして「キッス」と口に出して言ってから、なんたる言葉を自分は言ってしまったのか! そう思い、一同一斉にカーッと顔を赤らめた。
もし四人の男たちが仮に「おま○こ」などという名であったなら、少年たちは「おま○こヒュー!」なんかいってはしゃぎまくっただろう。しかし小学六年生男子にとって、「キッス」というシャレた名称はどうにも照れ臭いものだ。なんたって「キス」じゃなくって「キッス」だもんな。タクオは「キッス」と言ってしまってから、ふと自分の頭がスポーツ刈りなことを思い出し、さらにカッと赤面した。
「キ、キッスって……チューのことか?」
クラス一のひょうきんもので知られる通称コブッコが、一同の赤面状態を緩和すべく茶々を入れるも不発に終わった。少年たちは、キッスというその響きと、下敷きの中で見得を切る異形のロック・バンドに心囚われ、クスリとも笑わなかった。
数日後、タクオはキッス来日公演を偶然にもNHKのテレビで観た。
オープニング。「デトロイト・ロックシティ」のイントロが流れ、ステージに組まれた階段の上から、高さ30センチという冗談みたいなブーツをはいた彼らが駆け下りてくる。火柱が上がり、顔面に黒い星の絵を入れたポール・スタンレーが唄い出した時(タクオには唄というより絶叫に聞こえた)、タクオは誇張ではなく、悟った。
「オレはこれをやるために生まれてきたんだ」
と知った。
まるで仏教でいう大悟見性である。生まれた時から存在していた「仏性」ならぬ「ロック性」に彼は気づいたのだ。神秘体験をきっかけに宗教に入り込む人間がいる。小学校六年の彼にとってキッスのステージは、まったくもって神秘体験だったのだ。
ステージ上ではサイレンが鳴り、火の点いたたいまつを握ったジーンが、獣のような目つきで火を凝視していた。
口にふくんだガソリンを、ジーンが炎に向かって一気に吹きかけた。
タクオの両眼に、真っ赤な炎はロックそのものの象徴として映った。タクオは心で、「絶対にいつか、オレもバンドを組むんだ」と決意していた。
バンドを組んで、それでメシを食うようになりたいという想いは、中学に上がり、キッスだけではなくさまざまなロックを知るにつれ、日増しにつのっていった。
キッスと共にロック御三家などと呼ばれていたクイーン、そしてエアロスミス。キッスのフォロワーと思われていたが、実はビートルズの落とし子であるチープ・トリック。このあたりは、当時中学生の人気番組「銀座NOW」で毎回紹介されていたので、中学の級友たちも知っていた。タクオはもっと深くつきつめていきたかった。レコード屋に通い、店の金をちょろまかして、ディープ・パープル、クリームといったレトロなものから、ジャパン、タンジェリン・ドリームなどのニュー・ウェイヴまで手を広げていった。ロックでメシを食いたい。いつでもそう思いながら、針をレコード盤に落としていた。
ロックへのこれほどの強烈な想いは、彼の家庭環境によるところが大きな原因となっていた。タクオは一人っ子だ。両親は、断じて店を継がせる心づもりでいた。
将来が自分の意思と別のところで決められているというのは、タクオにとって、何にもましてつらいことだった。
多くのロック・ミュージックの根底に流れる、体制への反抗と自由への渇望というテーマは、多くの少年少女同様、いやそれ以上に、タクオの胸を打った。「ロックはやはり反体制とフリーダムなのだ!」と酔っぱらって彼が主張する度に、ケンゾーは「アナクロ」といい、カワボンは「ステレオタイプ」と言って彼を批判した。それでもやはり、タクオにとってのロックは反体制であり、フリーダムであった。
「お前は店を継ぐんだから、電機のことだけ勉強しておけばいいんだ」
ことあるごとにタクオの父はそう言った。
その言葉が父の口から出た夜はいつでも、タクオは一人っきりの部屋で、フル・ヴォリュームでキッスを聴かずにはいられなかった。
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第13章 「写真時代」
タクオは自分の将来を夜の海に例えて考えていた。そして自分は闇夜を行く一隻のボートなのだと思っていた。天上の月は厚い雲に覆われ波光もつくれず、塗り込めたように真っ黒な闇の中を、ボートは、さらに暗黒の奥へと流されていくのだ。オールでいくら漕ごうとも、ゆるやかでも確実に流れている潮のうねりに歯向かうことはできないのだ。もどかしく、いら立つばかりだ。
「将来に夢を持つのは自由だ。若い奴の特権だからな。けれどな、タクオ。信じていれば夢はいつか叶うなんて言葉はな、ありゃウソだ。ウソとは限らんが真理じゃねえ。真理を聞きてぇか、タクオ」
店の金をちょろまかしてLPレコードを買ってきたタクオに、彼の父は怒鳴りつけるわけでもなく、配達するラジカセを段ボールに詰めながら背中ごしに言ったことがあった。
「真理はなあ――開く夢などあるじゃなし、だ。それか……いくら夢見ても、叶わぬ夢もあるってことだ。わかるか、タクオ」
タクオの父は、その昔、風来坊のような男だった。二十代半ばにドロップ・アウトを決め込み、根無し草のように生きてきた。しかし電気店の娘をはらませたことをきっかけに、大地に深々と根をはらねばならぬようになった。父は、さまざまなことをあきらめてしまった男なのだとタクオは思っていた。父があきらめなければならない理由をつくったのは、他ならぬタクオだ。父は、若いころの自分同様、流れにさからって、航路の定まらぬ旅に憧れる最近の息子を、複雑な気持ちで見ていた。
「ロックでメシを食うだとぉ、お前は青いよ、ガキだガキ。現実ってもんを知らねぇんだよ。てめえで金かせいでから言えよ」
父の言葉に何も答えず、タクオは階段を上がっていった。しばらくして二階から、爆発したようなディストーション・ギターと、首をしめられた鳥を思わせるヴォーカルが大音響で聞こえてきた。
「チッ、うるせーな、またロックか」
父は舌打ちをし、小声で、彼の定番鼻歌である「昭和枯れすすき」を口ずさんだ。
※[#歌記号、unicode303d]貧しさに負けた
いいえ世間に負けた
断腸の思いでさまざまな夢を封印し、社会を構成する小さな歯車のひとつとして生きることを選択した父にとって、ネガ意識の極致の、貧乏たらしいこの歌ぐらい、倒錯したマゾヒズム的快感をもたらすものはなかった。
「※[#歌記号、unicode303d]ふーたぁーりぃは〜、枯れススキーってか。そうだ、夢なんてもんはなぁ、持つだけ不幸なんだ。オレのバカ息子はわかっちゃいねーなー」
父はつぶやいた。だが、父もまたわかっちゃいなかった。彼のバカ息子が、「夢を持つな」と口角泡を飛ばす父に対して選びプレーヤーにのせた一枚のアルバム。そのタイトルがそのまま父への返答になっていたことなど、演歌世代の父は知る由もなかった。タクオが針を落としたアルバムはSEXPISTOLSの『ネバー・マインド・ザ・ボロックス』。邦題は、『勝手にしやがれ!』である。
ビールとタコハイとつまみがギューギューに詰まったビニール袋を両手にぶらさげ、カワボンこと川本良也は、日の暮れかけた商店街の中を、コクボ電気店に向かって急いでいた。
別に急ぐこともないのに、自然と足早になっている自分に気づき、カワボンは照れ臭さを感じて速度を落とし、意識してゆっくりと歩き始めた。
「オレは興奮してるんだな」
と彼は思った。
今日の午後、黒所の教室でたむろしていた彼、タクオ、ケンゾーたちのところへ、ふらりと現れた山之上が、「オレ、入ってやってもいいぜ」とボソリとつぶやいた時、カワボンは思わず、
「時は来た!」
と叫んだ。
その、あまりに時代がかった言葉に一番驚いたのはカワボン自身だった。三人の中ではいちばん物静かで思慮深い、「まとめ役」的存在と自他ともに認める彼に、あたかも一代で大事業を成しとげたワンマン社長の月曜定期社内朝礼挨拶第一声のごとき「時は来た!」の台詞はいかにも不釣り合いであった。
「カワボン、あんたは|本《*30》田宗一郎か?」
「まさか、月刊『|プ《*31》レジデント』とか定期購読してねーよな?」
案の定、すかさずケンゾー、タクオのつっ込み。
「あ、いや、まあ、つい……」
赤面し、言葉を濁したカワボン。けれど「時は来た!」という時代がかった言葉は、実は偽らざる彼の本音だった。
「時は来た!」
彼にとって訪れた「時」とは、自分の選択がはたして正しかったのかそれともまったくの誤りだったのか、それを審判されるべき「時」のことである。ではその「選択」とは何なのだろうか……。
中学の頃の彼は、秀才といっても過言ではない勉強のよくできる生徒だった。「できる」というより「そつなくこなせる」と言った方が当てはまるかもしれない。勉強をすること自体、別に好きでも嫌いでもなかったから、中間テストや期末テストが近づけば、遊びを控えて机の前に座り、教科書を開いた。何の疑いもなく、「そういうもんだ」と考えていたからだ。勉強だけではなく、全てのことに対して彼は、「そういうもんだ」と思っていた。親、学校、塾、友人関係。自分を取り巻く全てのものは、目に見えない大きな流れ――運命とでもいうべき力によって操作されているのであり、それにあらがうことは無意味な徒労なのだ。「そういうもんだ」と思って生きていれば、そこそこであっても、そこそこ以下にはならない。西から太陽が昇ろうと、柳の下にネコがいて「だから〜ネコ柳ィ」と浪曲師がうなろうと、天才バカボンのパパのごとく「そういうもんだ。これでいいのだ」とつぶやいていれば不幸にはならない。そこそこに生きるのが一番だよな、と彼は思っていた。
現在のカワボンは、そのころの「そこそこ男」である自分を、今では「無知の知も知らぬ断罪されるべきオタンコナス野郎」と考え、恥じている。「そこそこ」をよしとするのは、自分が何も知らないという事実にさえ気づいていないがためのおろかな結論づけである、と思っている。
「そこそこ」ではいかんのではないかと彼に疑問を抱かせるきっかけとなったのは、中学三年の時に同じクラスになった羽馬良彦との出会いだった。羽馬は一言で言って「ヘンな奴」だった。授業中、何の脈絡もなく奇声を発するのだ。それも「しり!」とか「しっこ!」とか、初期ドリフにおける加藤茶の「うんこちんちん」と同レベル、あるいはそれ以下の、情けない、シモに関する言葉を、隣席のカワボンにだけ聞こえるぐらいの声でつぶやくのだ。
「は、羽馬ァ。お前、頭おかしいんじゃねえのか?」
「ん? 聞こえたか」
「聞こえたよ。お前、時々しりとかうんことか、頭、大丈夫か?」
「ハハハ、まだ大丈夫、残念だけどよ。まだ完全におかしくなれねーんだよ。どうやったら完璧にヘンな奴になれるか研究してるんだけどよ、なかなかなれねーや」
そんなことを言ってから、またしても彼は「しりがうんこだらけだぜ」とシモ言葉を発した。
「しりがうんこだらけ……ねぇ……」
無意識に汚い言葉を口にしてしまう病気が現実に存在することをカワボンが知ったのは、中三の期末テストの数日前、その不思議な病を患っている羽馬自身の言葉によってであった。
「生まれながらに病を背負ったなんて言ったらかっこいいけどよ。症状が症状だよなあ」
数学の教師が黒板にビッシリと書いたテスト範囲を写そうともせず、羽馬は手に持ったエンピツをくるくるとまわしながらのんびりと言った。
「女にヘンな目で見られちまうよなあ」
そう言いながら、彼は特別に落ち込んでいるわけでもなさそうだった。
「治らんのか?」
「わかんねー。けどオレのは特別に重症らしいよ」
「あのさ、ハタから見たら笑いごとみたいな症状だけどさ、それって本人にしてみれば大変なことだろう……って、オレきついこと言っちまったか?」
「別にー。それよりカワボン、範囲写した方がええんと違う?」
「あ、ああ、そうだった」
あわててカワボンはノートにテスト範囲を書き写し始めた。
「二次式、一六三ページ例題特に重要」などと書きながら、彼はその時、心の中にぽつんと光のような、熱のようなものが生まれたことに気づいた。
『何の因果か数奇な人生を歩まざるをえない同年代の人間が今オレの隣にいる』という思いが、それを生むきっかけとなったことは明白だった。
ふいに、エンピツを握る手を止め、カワボンは羽馬に聞いた。
「羽馬。お前さ、自分の……その……何ていうか、そーゆーよーなもんを背負ってさ、生まれてきたことをどう思ってる?」
「んー? 病気だってことをかぁ? えー、いきなり聞くなよそんなこと」
「だからさ、そーゆー……うーん、運命みたいなものをさ。『これでいいのだ』って思うか? それとも『これでいいのか?』って疑うか?」
「元祖天才バカボンかよ」
「どっちだ」
「んなもん決まってるだろ」
「だからどっちよ?」
「『これでいいのか?』って疑っているのに決まってるだろ」
その言葉を聞いた瞬間、カワボンの心の中でついさっき生まれたばかりのぽつんとしたものは、すごい勢いでムクムクとふくらみ、津波のようにドドドドドッカーンとくだけて四方に散った。
彼のこの内面世界におけるビッグバンは一体何であろう!! このドッカーン大爆発こそ、つまりはコギト・エルゴスムなのである。「我思うゆえに我あり」だ。川本良也十四歳のやや遅い「自我の目覚め」に他ならぬのだ。「自分は自分である」という自己同一性の存在に彼は到達したのだ。
説明しよう。
この時以前、先に述べたように、彼は人の一生とは目に見えぬ何者かによって定められたものであり、心地よく生きていくにはその流れに逆らわず、あらがわず、従順な犬のように生きていけばよいのだと考えていたのだ。さらに、全ての人間が自分と同じように考えて生きているものだと彼は信じて疑うこともなかった。「疑問を抱かずにはいられない運命の理不尽」などということには考えもおよばなかったのだ。羽馬良彦と出会い、カワボンは、羽馬の運命を奇妙だと思った。汚い言葉を口に出してしまう病だなどと。「理不尽じゃないか、そんな病気」、彼は運命というものに生まれて初めて疑問を感じた。
彼の口にした「しりがうんこだらけだぜ」というお下劣な言葉にピンときたわけだ。
羽馬は自分の運命をどう思っているのか?
「『これでいいのか?』って思ってるに決まってるだろ」
たとえそれが天にまします神の定めた|ア《*32》カシック・レコードによるものであろうとも、自分の人生の途上に疑問が生じたなら、運命に対し、あらがい、そむき、進路を変えてやろうと決意することこそ必要なのではなかろーか!!
カワボンは、歌舞伎の大どんでん返しのごとく、あるいは星一徹により実は右ききであることを告げられた星飛雄馬の衝撃で、この時初めてこの考え方があることに気づいたのだ。
「自分は自分だ。人生を誰かに決められてたまるものか」という想いに、ハタと出くわしたのだ。
羽馬から目をそらし、再び黒板に顔を向けたカワボンは、ふと、そこに書かれたチョークの文字をノートに丸写しすることをやめてみようと思い立った。
「なぜテストのために、受験のために、将来役に立ちそうにもない暗記作業なんかしなくちゃいけないんだろう」
と思ったからだ。
「学校も期末も受験も、あらがうべき運命の疑問点じゃないか。なぜみんなそれに従うんだ? オレはなぜ従うんだ。社会のシステムをつくったのが誰だかわからんが、オレがつくったんじゃないことだけは確かなことじゃないか。そんな運命、理不尽だ」
ずいぶん、考えの飛躍する奴だとあきれた読者も多かろう。しかし、少年期にコロリと意識の転換が訪れることは確かにある。今までの考えがガラスの城のように砕け散り、新たな城が現れる時がある。カワボンにとっては今がその時なわけだ。
写さない。オレは絶対にこのテスト範囲を写さないぞと、彼は心で何度もつぶやいた。
「ケツの穴かいー」
決心を固めたカワボンの隣で、彼に人生の転換のきっかけをつくった運命の男は、のんびりとまたシモネタを口にした。
――とはいえ、高校受験をボイコットするほどにカワボンの意志が強かったわけではない。
「自分の運命は自分で」などとえらそうなことを考えつつ、夏が過ぎ、秋が深まると、彼もまた、ダッフル・コートを着込んで志望校へ下見をしに行く生徒の一人になっていた。
「情けないな」と思った。
そんなことだったので、志望校のほとんどを落ちた。なんとか黒所にだけ引っかかった。
大学受験に関しても、高校の時と同様、「なぜそれをしなきゃならない」と自問自答しながら、それでもやはり、『出る単』を買ってしまった自分を彼はまた情けないと思った。
成績は面白いように落ちていった。
「このまま流されてしまえよ」
「それじゃいかんのじゃないか」
「結局、受験から逃れる言い訳をつくってるだけじゃないのか?」
時々心の中で何人もの自分が議論を始めた。
明確な解答を出すことはできないでいた。それでも彼は一人内面討論会を続けているうちに、やがて、ひとつやってみようと思うことだけ探し出した。それはこんな「賭」だった。
「黒所の教室で教師から教わる勉強以外のことを自分なりに学ぶ努力をしよう。そしてそのことに意味があったとしたら受験などやめよう。もし、意味がなかったとしたら……賭の敗北を認めてオレは受験勉強を始めよう。大きな流れに従順に従う犬になろう」
彼にとって黒所以外での勉強とは、絶対に受験問題には出ないだろうと思われる知識をがむしゃらに吸収することだった。本を読み、映画を観て、ロックに傾倒した。
この「自習」にはたして意味があったのかなかったのか、彼の選択の正誤は、タクオ、ケンゾー、そして山之上と組むはずの「すげーハードなノイズ・バンド」の活躍により決まるのだ! と彼は思っていた。バンドがそれなりのものを残せればよし、ダメなら賭は負け。
今、山之上のバンド加入OKにより、やっとこの計画は進展しようとしている。
「時は来た! 審判の時がついに来たんだ」
小さくつぶやき、ビニール袋を揺らしながら商店街を行く彼の足取りは、再び速度をましていた。意識してゆっくり歩こうとしても、彼は競歩選手さながらの速さで歩いている自分に気づき、立ち止まり、やがて思い立ったように、全速力で商店街を走り始めた。
「すっかり遅れちまった」
と賢三はニコニコとほほえみながらひとりごとをつぶやいた。
いつものようにこっそりと家を抜け出し、バンド結成の祝杯を上げるためにコクボ電気店へ急がねばと思っていたのに、約束の時間はとうに過ぎていた。
すでに日は沈み、空は雲で覆われ月は見えなかった。
人気のない商店街の裏道は、街灯もなくかなり暗いはずなのに、賢三にとっては十分すぎるほど明るく感じられた。
道の隅に眠そうな顔をしてうずくまっている野良ネコの背中まで、彼には磨いたように光って見えた。
もちろん、街灯のない裏道やネコの背中が夜になって突然輝き出したわけではない。LSDをきめたヒッピーではあるまいに、賢三以外の人が見たなら、裏道はやはり眼鏡をうばわれた横山やすしが「眼鏡ぇ、眼鏡ぇ」と手さぐりするぐらいに暗く、ネコの背中だって夜光塗料がぬってあるわけでもない。しかしながら、今、現在、賢三の目に映るものの全ては、たとえそれが大橋巨泉が尻で踏みつぶしたイチゴ大福にワサビをすり込んだようなシロモノであったとしても、ピカピカに七色の光を放射する宝石の輝きに等しいのだ。
身の回りのものがみな宝物のごとく美しく見えてしまうこの怪奇現象。はたしてそれは瞳の病か? それとも魔術か? 読者よ、君はわかるか原因が?
そう、そのとおり! これはまごう方なき「恋」のなせる業なのであーる。
大橋賢三は今、恋をしているのだ。恋愛初心者の定番として、「なんだかとっても夢心地」の状態に酩酊しちゃっているとゆーわけ。
筆者は試みに、この文章を書くために持っているゼブラ・ノック・ペンシルの先っぽでもって、賢三の心をちょいとつついてみようと思う。
……プツン。
おお! わずかにあいたペン先の穴から、何かこまかな物が大量に流れ出てきたではないか。何万何千。まるでアリの群れのような……これは何だ? これは……お、おお見よ、読者よ! やはりこの男、疑うべくもなく恋をしている。彼の心からあふれ出たこまかな物。それは名だ。筆者も読者諸君も先刻御承知のあの娘の名だ!
「美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子美甘子……」
……ふう。ダメだこりゃ。
賢三がコクボ電気店での約束時間に遅れたのは、美甘子美甘子美甘子美甘子(もうええちゅーの)……山口美甘子との電話が延びてしまったからだ。
ナイスシアター以来、賢三は時々美甘子と電話で話すようになっていた。黒所で彼らが会話を交すことはほとんどなかった。たまに偶然目と目があっても、ニコリとほほえみ合うとか、そんなこともない。賢三も美甘子も、教室の中で二人が映画論や小説談議を交すことはすべきではないと考えていた。
「そうは言うけどロバート・デ・ニーロの思わせぶりな演技を、エンターテインメント主義の映画に持ち込むのは勘違いというものであってさ」
「そうかもしんないけど、あたしはそれも含めてジョン・ランディス作品に彼みたいな俳優が必要だと……」
などという会話を黒所の教室で繰り広げた時の周りの反応は、想像しただけでも心地いいものでないことはわかっていた。
二人はそれぞれ家に帰り、一人になってから電話でさまざまな話をした。話の内容は、ナイスシアター・ロビーや、あの日の帰りに交された議論の延長戦のようなものである。
賢三が思い入れたっぷりに映画や小説についての持論を語り、美甘子は論理的な解釈による作品論を展開し、お互いに相手の話に時に賛同し、時にあげ足を取り、笑い、怒り、また笑い、会話がコロコロと坂道をころがり始め、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、とめどもなく広がっていって、また笑ったり怒ったり。
わずかな隙間もできぬようにピタリと受話器を耳に当て、賢三は美甘子の言葉をひとつ残らず吸収するために、全神経を集中した。
美甘子の言葉は、確実に彼の中に進入していった。そして言葉が彼の心の中に蓄積されていくうちに、それは化学変化のごとく賢三の情緒に異変をもたらし始めたのだ。
ナイスシアター以来、彼は自分の中に、今まで認識したことのないいくつかの感情が目覚めつつあることに気づき、驚いた。
人間として、普遍的に太古からそのDNAの中にインプットされていたのではあろうが、美甘子と会話を交すようになるまでその存在すら気づかなかったいくつかの感情が、美甘子との対話により機能し始めたようなのだ。
ひとつは、自分に対する誇りだ。
オナニー三昧、コンプレックス三昧の日々の中で、踏みにじられ、心の奥に追いやられていた自分に対する誇りを、彼は自分が美甘子という、今までは憧れながらもいちばん遠い存在と考えていた人と十分会話を交せたことにより、見出したのだ。「オレだってそんなに捨てたもんじゃない」と、彼は最近、時々思えるようになった。
二つ目は、喜びだ。
賢三が今まで一度たりとも喜んだことがないわけではない。十七年間、幾度となく喜びはあった。ここでいう喜びとは、「ドキドキ」といいかえてもよいかもしれない。特定な人と接する時にのみ起こる特別な胸の高鳴りのことである。その人のことを想うと、いついかなるシチュエーションにもかかわらず、息切れやめまいと共に心の中にポワワワワ〜ンと発生するうれしさのことだ。
三つめは、喜びとほぼ同じだが微妙に違う、あえて形容するなら「きらめき」とでも呼べる感情である。
ある特定の人のことを想うと、心の天井からハープの音と共にキラキラと輝く金色の色紙が舞い落ち、目に映る全てのものを輝かせてしまうのだ。その昔、大場久美子は迷曲「スプリング・サンバ」の冒頭で、「※[#歌記号、unicode303d]くっものかーげから光が射してぇ〜、ああいえええおおいええええ」と、あの不可思議な音程で唄っていたが、まさにあの歌詞こそ、今賢三に芽生えたこの「きらめき」の感情を見事に言い表しているといえる。
「自分への誇り」「喜び」「きらめき」と、明るく前進的な感情が続いた。が、美甘子との接触により賢三の心で目覚めたのは、決してポジティブなものばかりであったわけではない。
――賢三は、歩道橋にさしかかっていた。この橋を越えて少し歩けばコクボ電気店に着くのだ。
そういえば以前この歩道橋の階段で、賢三は偶然にも妹と遊ぶ美甘子に出くわしたことがあった。
スカートのはじをフワリとなびかせながらすれ違い、彼の背中ごしで、「お友だち?」とたずねた妹に「全然」と答えた美甘子を思い出した時、彼を取り巻く世界はまばゆい輝きを放つことをやめ、本来あるべきかたちへと戻ってしまった。
「舞い上がってるのはオレだけだもんなぁ」
歩道橋の階段を前に賢三は立ち止まり、月のない夜の暗さの中でぽつんと言った。
「美甘子はオレのことをどう思ってんだろう」
美甘子がもたらした四つめの感情は、「もどかしさ」だった。
客観的に見て、賢三と美甘子の関係は、共通の趣味と、ものごとに関する考え方、捉え方が多少似通った友だち同士以上のものではない。
賢三はそのことに、時々何ともいえぬ憤りを感じていた。美甘子が自分をどんなふうに思って接しているのかが、いくら映画や黒所批判で会話が盛り上がろうとも、まるでわからなかった。
相手の気持ちがわからない。
怒りとも悲しみとも微妙に違うこの感情を「もどかしさ」以外の言葉で表現するなら、「せつなさ」ということになるのだろうかと彼は思った。
「これが……いわゆるひとつのアレか……胸キュンとゆーやつか」
胸キュン
胸キュン
胸がキュン!
八丈島のキョンではない。胸キュンである。
賢三は、このいわゆるひとつの胸キュンという特異な心理状態を原因とする肉体的感覚が、よもや現実に存在し、しかも自分の身にまでそれが起ころうなどとは夢にも思ってはいなかった。「んなもんはアイドル歌謡曲の詞の中だけのものだ」とばかり思っていたのだ。
だがしかし、確かに、「美甘子の自分に対する考えがわからない」と思う時、彼は、心臓のあたりを赤ちゃんの手でつままれたような、スポイトで日光華嵐の湯をピュッとかけられたような、思わず「アン」とか声のもれてしまいそうな、まったく「キュン」としかいいようのないナゾの感覚に襲われるのだった。
美甘子の気持ちが知りたかった。
「だったら聞きゃーいーだろうがよ」とすかさずつっ込んだ一億人のグミ・チョコ読者よ。筆者も同感である。賢三! 聞けよズバリと。
「オレは君のこと好きなんスけど君はどうなんスか!?」とよー。
「……できねーなー。『友だちと思ってるよ』とか言いそうだもんなぁ、山口のやつ」
ふがいなき人賢三は、しみじみつぶやきつつ階段を昇り始めた。……再び、ダメだこりゃ。
美甘子による新たな感情はもうひとつあった。
「くやしい」と思う感情である。
賢三は美甘子との議論で、結果的にいつも負けていた。美甘子には賢三を論破しようという思惑などまったくなかっただろうけど、賢三は、彼女と話す度に自分の未熟さをいやというほど思い知らされていた。知識の量、ものごとのうがった解釈。自己を確認する彼の唯一の手段においても、いつも彼女は役者が一枚上手なのだ。
「生きることってグミ・チョコレート・パインだと思うの」
彼女の言うように人生がグミ・チョコ遊びだとしたら、今の時点で、美甘子はチョコレートの十連発。賢三はパインの十連発で、少なくとも六十歩は彼女が先の位置にいる、と賢三は思っていた。
口惜しかった。
気持ちもわからず、ただ賢三の頭をポンと踏みこえて六十歩も遠くへいった彼女に、一歩でも二歩でも近づき、そしていつか掟破りの逆チョコレート十連発で差をつけてやりたいと賢三は思った。
彼は、カワボン、タクオ、そして山之上と組む「すげーハードなノイズ・バンド」を、そのためのスタート地点にしなければならないと決心していた。
「グミ……チョコレート……パイン」
とボソボソつぶやきながら、賢三は踏み抜くぐらいの力をスニーカーのくつ底にこめて、一歩一歩、足の裏につたわるコンクリートの固さを味わうように、ゆっくりと、いつか美甘子とすれ違った歩道橋の階段を昇っていった。
*30 HONDAの創立者ね。
*31 中間管理職クラスのオジさんが読む雑誌です。
*32 この世の全てが記録されているといわれる記録層。
最終章 「ヘイ! バディ」
コクボ電気店の二階からファンファーレが聞こえていた。
大いなる祝福をイメージさせるあの曲は、タクオ、カワボン、賢三の三人が、何かうれしい事件の起こった時にかけようと決めている、 E《エマーソン・》 L《レイク・アンド・》 P《パーマー》 の「聖地エルサレム」ではないか。以前三人で、黒所の球技大会をボイコットした夜、彼らはビールとタコハイで自分たちの「勇気ある大脱走」を記念し、この曲を部屋中に鳴り響かせて祝杯を上げたこともある。「あらかじめ定められた愚かなるイベント」から見事に逃亡した自分たちを讃え、そしてまた、明日以降彼らを待ち受けているだろう「黒所教師たちとの闘争」にそなえるためにも、アルコールとELPの大仰なロック・ファンファーレで自らを奮い立たせようともくろんだのだ。ところが三人は、翌日教師たちから呼び出しをくらうようなことにはならなかった。教師たちにとって球技大会は、実は学校行事として「一応やっておかなきゃなあ」程度のものでしかなく、校内においてあまり存在感のない三人が来なかったからといって、特に目くじらを立てるような事件ではなかったのだ。教師たちは三人の名簿に「欠席」の判を押し、それでこの一件はおしまいだった。そんなこととは露知らぬケンゾーたちは、再び勝利の宴をコクボ電気店二階で催した。「教師たちは我々と球技大会の是非について議論することを恐れ、敵前逃亡したに違いない、勝利だ! またしても勝ったのだ我々は!」……ああ勘違いとはこのことか。ともかくその夜も、レコードプレーヤーにELPの「恐怖の頭脳改革」が置かれ、A面一曲目、「聖地エルサレム」に針は落とされたのだ。
そして今、タクオの部屋からまた、その曲がもれ聞こえている。
本日の祝い事はいわずもがな、他ならぬ、「すげーハードなノイズ・バンド」結成記念だ。
賢三は扉の前に立ち、ニマ〜ッと笑った。
意識せずに、思わず笑みがこぼれてしまったのだ。
子供の頃、遊園地に連れていってもらって、華やかな入り口が見えると、親の手を振りほどいてつい駆け出してしまったことが読者にもあっただろう、あんなうれしさがこみ上げて、ついニンマリと笑ってしまったのだ。
ついにバンドが組めるのだ。美甘子のいる位置へ近づくための一歩がようやく踏み出せるのだ。
賢三はこみ上げてくるうれしさの笑いをどうにかこらえ、なるべく「なんでもないぜ」という顔をして扉を開けた。
盛り上がりまくる「聖地エルサレム」のサウンドが賢三を包んだ。
早くも空のビールびんがころがっている部屋には、おなじみの二人と、そして今夜は山之上がいた。賢三に背を向けて床に座っていたタクオとカワボンが、同時に振り返った。
賢三を見上げた二人の顔は、扉の前で彼の浮かべていた表情とまったく同じだった。遊園地に向かって走り出す子供のように、ニマ〜ッと笑っていた。
「やあ、来たか」
あわてて「なんでもないぜ」という表情を作りながら、カワボンが言った。
「おめーおせーよ! もうすっかり飲んじまったじゃねーかよ」
やはり「どーってことねーぜ」という顔を必死につくりながらタクオが言った。
「スマンね」
賢三は、すでに指定席化している本棚の横に座った。そこに座ると、左にカワボン、正面にタクオがいる、あまりにも見なれた光景である。ところが、
「あ、そうか、今日から一人多いのか」
今日、隣には、うすら不気味な山之上がいた。
チロリと賢三を見ただけで何も言わず、山之上は手に持っていたELPのレコードジャケットに目を落とした。
「どーもこいつあんまりしゃべらねえからよ、カワボン来るまで間がもてなくて死んだぜ」
すでに酔いがまわってしまったのか、「おてもやん」のような顔になったタクオが言った。
「オレが必死こいて接待してやってるってのによう、うんとかはあとしか言わねーんだから張り合いねーよなあ」
「だったら帰るぞ」
山之上が早口で言った。
カワボンがまあまあと言うように、山之上の紙コップにビールをそそいだ。
「山之上、お前飲むの?」
賢三の問いには答えず、山之上はグビビビと一気にビールを飲み干してしまった。
「おおッ!」
「な、賢三、なかなかやるだろ山之上」
と言ってカワボンは再び山之上のコップにビールをついだ。
「こいつ酔っぱらってるくせに本性見せやがらねえんだよ」
「酔ってない!」
またしてもタクオの言葉を早口で山之上はさえぎった。
「いや、酔ってる、おめーは酔っぱらってんだよ」
「よ、酔ってない!」
よく見れば山之上の顔色は真っ青だった。青をこえて土気色に変色しつつあった。明らかに「やばい」状態である。
「酔ってるよ! 酔っぱらいまくってるよ!」
「よよよ、酔ってない!」
「うるせー! こんぐらいでヘロヘロなのかよ、女のブルマー盗む奴にしちゃあ根性ねーなー」
「な、なななななんだとぉ!?」
山之上の顔に、初めて感情らしきものが浮かんだ。カチンときたようだった。
「お、何だ怒ったのか山之上、おめー怒る権利あんのか、おめーにブルマー盗まれた女子の方がよっぽど怒っとるぞ」
「ててててててめえ、ななななんだとお」
人間サンプリングマシーンのごとくどもり始めた山之上は、拳を握り、小刻みに全身を震わせていた。それを見てタクオは、さらに毒づいた。
「おめーブルマーでどんなオナニーしてんだよ、やっぱ頭にかぶったりしてんだろ」
「ううううるさい!」
賢三は二人のいさかいを止めたものかと迷った。これで山之上がヘソを曲げて帰ってしまったら、ノイズ・バンド結成の計画はまた一から立て直さなければならなくなる。
カワボンはと見れば、ケンカ寸前の二人を、ニヤニヤ笑いながら見守っているばかりだった。
いつもなら止め役の彼がこの調子とはどういうわけなのだろうか。
「山之上、おまえくだらねぇな」
「な、なんだよう、なにがくだらないんだ」
賢三はピンときた。タクオは試しているのだ。山之上を挑発し、本音を語らせ、本当にこいつが我々に必要か否か、最終審査をしようとしているのだ。カワボンもそのことに気づき、だから止めようともしないのだ。
「おまえくだらないよ、黒所の連中と同じだよ」
その言葉に、山之上が黙った。蛇が木の上の獲物をにらみつけるように三人の顔をチロチロと見てから、おもむろに紙コップをグワシとつかみ、〇・〇二秒ほどの猛スピードでビールを一気に飲み干してしまった。そしてプハーッと息をはいてから、山之上はこんなことを言った。
「僕の一人称は『僕』だ」
三人は「へっ?」と、山之上を見た。
「僕は自分を指す言葉を、『俺』ではなく、『僕』という言葉を使っている。しゃべる時だけじゃない。頭の中でだって僕は『僕』だ。なぜだかわかるか……」
問われても三人は答えられず、無言で山之上を見つめるばかりだった。
「僕らぐらいの年代は、たいがい一人称に『俺』を使うだろう。教室という公共の場所でみんな『俺』という一人称を使う。『俺』と名乗れば、それだけで共同体意識を持てるからだ。『俺』と名乗れば、『俺』と名乗る集団の一員に入れてもらえるからだ。俺俺俺俺、俺とさえ名乗っていれば、それだけ集団の中ではじかれないですむからだ」
ちょっと被害妄想がかっているな、と賢三は思った。しかし、こいつ面白いぞ、とも彼は感じた。
「黒所を見てみろ、どいつもこいつも俺俺俺俺俺俺俺俺! 集団の中で群れていたい、おしくらまんじゅうで一人のさみしさから逃げていたいという弱っちい心が俺俺俺俺俺と名乗らせているんじゃないのか」
「でもさ、自分をどう呼ぶかなんてことまで意識する奴、あんまりいないんじゃないかな」
カワボンがのんびりと言った。
「むむむ! 無意識だから、ななななお悪いんじゃないか! 俺俺俺俺俺と名乗ることで、まずクラスでの位置づけをする。そうゆうことを無意識にやっちまうんだあいつらは! くく黒所の連中は! あいつらと僕を一緒にするなあ!」
合格! と賢三は心でつぶやいた。山之上はやはり、オレたちと似た想い、憤りをため込んだ男だ。それに、ものの考え方がどうしたって変だ。こいつは使える。そう思うと、再びニンマリと笑いたくなった。
タクオとカワボンを見れば、二人も笑っていた。うれしさが腹の底からこみ上げ、どうしたってこらえきれないニンマリとした笑いとなって顔中に広がってしまったあの表情を浮かべている。
「ななななななななに笑ってんだよ!」
やおら山之上が立ち上がった。ガチャガチャドシャンとビールびんやらコップやら割りばしやらがはね飛んだ。
「あ、ゴメン、そういう意味で笑ったんじゃねえんだよ」
「落ち着け山之上、君の持論は大変参考になった」
「そそ、タクオとカワボンの言うとおり、落ち着いて乾杯しようぜ、な」
「ううううるせえ! 笑ったな! お前ら笑ったな! 黒所の連中とオレを一緒にした上に笑ったな」
「アレ、お前今『オレ』って言ったぜ」
タクオのいらぬつっ込みに山之上が切れた。
「きききききききき!」
「キキキ?」
「お猿か?」
「ウキキーってか?」
「ききききききききき切ってやるう……」
山之上がふところからキラリと光るものを取り出した。美術工作用カッターである。
「カカカカッターで切ってやるう!」
「うわあ! またかあ!」
「それはあぶないってば」
「よせ、山之上、話せばわかる」
またしてもドリフターズ的展開である。
山之上は右腕を扇風機のごとくブルンブルンと振りまわし暴れまくり、賢三、タクオ、カワボンの三人がその周りをヒーヒーいいながら逃げまくる。これが本当にドリフターズであったなら、スッチャカスッチャカという音楽と共に舞台が回転し、かわりに野口五郎の歌が始まるか、あるいはいかりや長介の「ダメダこりゃ!」の一喝で次のコントへと場面が転換するところなのだが……まさかグミ・チョコレート・パインの中でそんなことは起こるわけも……。
「ダメだこりゃあっ!」
え?
「コラアッ!」
突如響いたダミ声の罵声。ドタバタ劇を一瞬にして停止させるだけの迫力ある一喝。ま、まさか本当にいかりや長介の登場なのか!? グミ・チョコは第一部終了間際にして実在人物入り混じるヌーベルバーグな実験小説へと変身してしまうのか!? いやいくらスットコドッコイと自他ともに認める筆者といえども、さすがにそんなことはしない。とすると、この「ダメだこりゃあっ!」の声の主は、やはりあの……。
「あ、じいちゃん」
と、山之上がボソリ言った。
三人がふり返ると、そこには見なれた老人の姿があった。
「なんじゃお前ら、ワシがノイズ・バンドとやらの結成を小耳にはさんで来てみれば、何をやっておる! お前ら初日でもう痴話ゲンカ……も、もとい、内輪でもめておるのか? 別れろ切れろは芸者の時に言う言葉じゃと言うておるじゃろう! もめとる場合じゃなかろうが」
「あ、ジジイ、また勝手に入ってきやがったな」
「お、君は確かタクオと言ったな。孫をヨロシクたのむよ」
「じいちゃん、どうしてここに僕が来てるって……」
孫の問いに、ジーさんはフッと笑って言った。
「そろそろお前が折れるころじゃろうな……と思っただけじゃ」
山之上は言葉に詰まり、何も言い返せなかった。
「ワハハハ、ワハハハ、ま、つっ立っておらんで座れ座れ、役者は揃った。今夜はパーッといこうじゃないか。パーチじゃパーチー、水ノ江滝子じゃよ、え、そりゃターキー? ワハハ、しゃれにもなっておらんのう、まあいい、飲もう飲もう、すげーハードなノイズ・バンドの結成を祝して、乾杯じゃ!」
「邂逅」という言葉がある。
筆者の使用している永岡書店国語小辞典によれば、カニがウジャウジャ集ったようなこの二文字は「かいこう」と読み、意味は、「思いがけなくめぐりあうこと」とある。
賢三は三人の同級生と一人の老人とタコハイをくみ交しながら、「こーゆーのを邂逅というのだな」などと考えていた。彼が画数の多いこのような言葉の意味を知っていたのは、YMOの曲に同名があったからだ。興奮してくると、次々にプレーヤー上のレコードを取りかえていくタクオが、YMOの「浮気な僕ら」に針を落とし、「邂逅」がコクボ電気店の二階に流れ出した時、もうしたたかに酔いのまわり始めていた賢三は、「邂逅だ、これこそ邂逅だ」と、もつれる口で小さくつぶやいていた。
タクオはその夜、本当にさまざまなLPに針を落とした。
戸川純「玉姫様」に始まり、ZELDA、P-MODEL、S-KEN等ジャパニーズ・ニューウェイヴをたて続けたかと思うと、一転してブラック・サバス、レインボウ、ジューダス・プリースト等の頭悪そうなハードロックをかけまくり、ジーさんから「B29の爆撃を思い出す! もっといい塩梅になれるのはないんか!?」と一喝されれば、すかさずリクエストにお応えし、キース・ジャレット、チック・コリア、チェット・ベイカー、突如のJAZZ攻撃「せめてもうちょっと熱くなれるやつをたのむよ」とケンゾーがせがめば、今度はなぜかYES、ピンク・フロイド、そしてキング・クリムゾンのスーパープログレ三本立、節操のかけらもなくコクボ電気店二階のDJはくるくるとテーマを変えていった。
ジーさんを抜かした四人の会話は、それ以上にくるくるくるくると回転していた。
タクオ、カワボン、賢三の定番メンツに、うすら不気味な山之上が加入したことの意味は、はかりしれないものがあった。
議論の永久機関……とでもいったらいいのか、四人はターボチャージャーのかかったヤンキーシャコタン車の勢いで語り合った。
最初は黙りがちだった山之上も、三人の会話を聞いているにつれ、黙っていられなくなったようで、やがてボソリ、ボソリと言葉をはさむようになった。このボソリが、見事に的確に賢三たちの会話を刺激するのだ。
例えば三人が、「人間ははたして平等な生物か否か?」なんていう議論を交していた時だ。本来がネガティヴな発想の三人であるからして、当然結論は「否」とでることは解りきっている。それでも一応議論として盛り上げようと、三者三様の意見をぶつけ合っていたわけだ。ケンケンガクガクとやり合っていると、シールを貼りつけたような目つきの山之上がボソリと言うのだ。
「……とりあえず焼き肉屋じゃ人間は平等だよ」
「へ?」一斉に振り返った三人に、山之上は言う。
「や、焼き肉屋ってホラ……前かけするだろ、赤ん坊のよだれかけみたいなやつ……あれするとさ……み、みんな平等になっちまう!」
「なんだそれ?」タクオのつっ込み。
「ど、どんなヤクザでも、聖人君子でも、焼き肉屋であの前かけしたら、パッと見、たんなる巨大な赤ん坊になっちまうだろ。千億の商談すすめてる奴も、ベトナム難民救済訴えてる奴も、ただの赤ん坊になっちまう……そ、そ、それこそ、宇宙的に見れば、結局人間なんて無力なガキなんだってことの……こ、これは証明だよ……こ……これを……な、名づけて……」
山之上はそこで三人をシールの目でチロリと見てから、
「焼き肉屋人間平等論!」
キッパリと言った。
「アホか!」
「名づけるほどのことか!」
「オレたちの会話を止めんな!」
福沢諭吉が後五十五年長生きしていたとしても考えつきはしなかったであろう人間平等についての新説をぶち上げた男は、しかし、持論提唱一秒後には、割りばしやら紙コップやらを友からポカポカぶつけられる情けない野郎と化していた。
「一人称は僕」の件や、焼き肉屋平等論等、どうやら山之上という男、自分の発想の独特さ、引いては自分の奇妙なキャラクターを自覚していない、いってみれば「天然のボケ」的人物であるらしい。
ボケのタクオ、つっ込みの賢三、仲裁のカワボンに加えて天然ボケの山之上。
役者が揃った……のかどうかはわからんが、とにもかくにもこれからこの四人ですげーハードなノイズ・バンドを結成するのかと思うと、賢三は何かこう燃えるような、少年ジャンプ的胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。口には出さねども他の三人も同様の想いをつのらせているのだろう。四人は、深夜をはるかにまわっても、壊れたウォークマンのようにしゃべり、語り、話し合った。
「お前らワシの存在を忘れちゃおらんか?」
時たま、会話に加えてもらえないジーさんがボヤいてみたりしたものの、彼とてそれでつまらないわけではないようだった。
孫を含む少年たちの様子を、半分眠った目で、しみじみと見つめていた。
「なんか暑いな、タクオ、窓開けようよ」
カワボンが言った。あいよ! と答えてタクオが、サッシをいきおいよく全開した。
生ぬるい風が侵入してきた。
紙コップがフワッと飛んだ。
そこいらに散らばっていた新聞紙が、春の嵐を受けて舞い上がった。
空中の新聞紙をハッシとつかまえた賢三の腕に、薄桃色の小さな紙切れ状のものが、いくつも貼りついた。
舞い込んできたそれは、四人の少年たちと一人の老人の全身に、一瞬にして薄桃色の斑点もようをつくった。
「桜じゃな!」
と、ジーさんがつぶやいた。
無数の桜の花びらが、コクボ電気店二階で舞い踊っていた。
「裏にすぐ桜の木があってさ、春んなるとこの部屋で花見ができるんだよ」
タクオが説明するまでもなく、窓の外には、印象派の絵画を思わせる桜の枝々が、花びらを支えきれぬほど身にまとい、サッシの窓わくいっぱい広がっていた。
「川へ行こう、川へ行こう」
と、突如カワボンが言い出した。
「川へ行こう 川へ行こう 川へ行こう」
普段は落ち着いている彼が恐怖オウム男のように「川へ行こう」のオンリー・ワン・フレーズを叫び出したのは、深酒のためか、それともいきなりの桜乱舞に血迷ったのか。
「川行ってどうすんの?」
と、賢三。
「川行って花見すんの」
「あ、尾高川」尾高川はすぐ近所を流れる川である。
「そ、あそこ川沿いずっと桜の木だろう、花見しようよ」
ムックとカワボンが立ち上がった。
カワボンの体から桜の花びらがひらひらと舞い落ちた。
「花見か! そりゃいい、ワハハハ、花見じゃ花見じゃ!」
ジーさんが立ち上がった。酔いのせいか二、三歩よろめいた。
「オットットト……試合が地味だぞ、|オ《*33》ットー・ワンツ、なんちて、ワハハハハ」
よほどのプロレス通であっても理解不能な駄ジャレを飛ばした。
「よし、花見だ! バンド結成を祝して花見だ! 川へ行こう川へ行こう川へ行こう」
あたりの紙コップやビールびんを蹴散らかしながらタクオが立ち上がった。
「おお! 黒所の連中にウンギャーと言わせるためにオレは立ち上がるぞ! 立ち上がって川へ行くぞ! 花見だ! 川へ行こう、川へ行こう、川へ行こう川へ行こう」
賢三も立ち上がった。足元がふらつく、「あ、かなりオレ酔ってんなあ」と思った。
気にせず「川へ行こう川へ行こう川へ行こう」と叫び続けた。
カワボンのみならず、他の三人も恐怖オウム男と化し、川へ行こう川へ行こうと連呼し始めた。
「川へ行こう川へ行こう川へ行って花見をしよう、山之上、お前も来い川へ行こう」
山之上も酔っていた。閉じたまぶたの上に貼りついたシールのような目をキョロキョロさせて、「川へ行こう川へ行こう川へ行こう」とつぶやきながらヨロヨロと立ち上がった。
「ワハハハ、川じゃ、川へ行こう川へ行こう」
「ウヒャヤヒャ行こう、川へ行こう」
「イヒヒヒヒヒヒヒヒヒ川へ行こう」
「ゲーッ、ウゲゲー気持ち悪いッ……川へ行こう」
「ニョホホホホホホホホホホホホ! ニョホホホホホホホホホホホ川へ行こう」
もはや一々、どれが誰の台詞であるのかを説明する必要もないだろう、五人の千鳥足いい塩梅軍団は、「川へ行こう川へ行こう」と連呼しながら、そろそろ夜も明け始めた街へとくり出していった。
尾高川のあたりにさしかかった頃には、スズメが鳴き始めていた。
小鳥の声をBGMに、五人はそれでもまだ酔いが覚めず騒ぎまくっていた。あいにく筆者は彼らのブレイクぶりを描写する筆力を持ち合わせていない。書けば書くだけアホらしくなるからだ。それほどに五人の暴れぶりは顰蹙ものであったのだ……でもちょっとだけ、書いてみようか。
「ウキョキョー! ジジイてめえポコチンフルフルすんじゃねーよウキョキョー!」とタクオ。
「何を申すかホーレホーレプルプルプル〜ンのプル〜ンとなホレチンコ○ンコチンコ○ンコさのよいよいと来たもんじゃワーハハハハハハハハハハハハ」とジーさん。
「あー! 何ゆえ我々は受験体制という名の下にあまねく統一化されなければならないのであろうか、あたかもパブロフの犬のごとく環境という名の下に支配され学校という名の下に支配され教室という名の下にふざけるなあ!」これはカワボン。
「ウゲッ……気持ち悪い……ウゲッ……吐いちゃった……ゲボッ……あ、胃液……グググー、まだ吐ける……ウゲ」そして山之上。
桜の花びらが雪のように舞い降る尾高川の土手で、彼らははしゃぎまくった。
この物語の主人公、賢三はどうしていたのだろう。その頃彼は、四人とは少し離れたところに寝そべり、徐々に明るさを増してゆく空を見上げていた。
「山口美甘子のいるところまで、オレは追いついてみせる」
などと、決意の男になりながら空を見ていた。
この時、賢三は限りなく深く酔っていたため、文字にするととてつもなく恥ずかしい「追いついてみせる!」なんてフレーズを心に描いてしまったわけだ。けれども、それは偽らざる彼の本心ではあった。
グミ・チョコレート・パイン。
生きることが本当に、美甘子の言うようにグミ・チョコ遊びであるなら。それならオレはチョコを出し続けてやる。と賢三は思った。
たとえグミの必殺百連発に出くわしたとしても、かまわずチョコの二百連発を出してやる。そうすれば必ず、山口美甘子のいる位置まで行ける。そしてさらにチョコレートの百連発で、美甘子をはるか後方まで引き離してやるのだ。
……しかし……なんでオレはこんなムキになっているのだろう。
ふと、賢三はそんなことも思った。
そうすると不思議なことに、ナイスシアターで彼の嗅覚を刺激しまくった、美甘子の髪の香りが匂ったような気がした。
「ウヒヒヒ、オーイ! オーイケンゾー。ウヒヒヒ、いいもん拾ったぞう! 今週号の GORO だ! 今日……あ、もうきのうか、きのう発売のホヤホヤだぞう、ホレエ! オナニーぶっこけよう!」
タクオが寝ころんでいるケンゾーに、男性週刊誌 GORO を放り投げてよこした。カラスみたいに空中をバサバサと舞った GORO は、開かれた状態でケンゾーのかたわらに落ちた。
「グミ・チョコレート・パイン」
賢三はそっとつぶやいてみた。
薄汚れたオナニー野郎のこのオレが、本当にグミ・チョコ遊びに勝つことなどあるのだろうか? と賢三は思った。
何百回、何万回チョコを連発してみても、結局美甘子にグミを連発されて、オレは永久に負け続けるんじゃないんだろうか。
そう思えてならなかった。
オレは誰だ?
オレはこれからどうなるんだ?
どこへ行くんだ?
どこかへ行けるのか?
それともずっと今いる場所にとどまっていなきゃならないのか?
――イカン、酔っぱらってるなとケンゾーは思った。けれど、止まらなかった。
オレは一体なんなんだ?
朝日が昇り始めていた。太陽のきらめきの中に、賢三は確かに、黒点のような小さな影を見た。
そいつは、春の空をものすごいスピードで飛びながら賢三の方に近づいてきた。
あっという間に、裏地にビッシリとケンゾーを攻め立てる文字を刻み込んだ黒いマントは、賢三の真上5メートルのところにフワフワと浮かんだ。
「ある朝僕は空の中に
黒い旗がはためくを見た
はたはたそれははためいていたが
音は聞こえぬ高きがゆえに」
――空に浮かぶマントを見ながら、いつだったか何かの本で読んだ中原中也の詩を、賢三は思い出していた。
真っ黒な自己嫌悪マントが、静かに降下し始めた。
「ナンダとジジイ! もう一回いってみろコノヤロー!」
後方でタクオの怒鳴り声が聞こえた。
「だから何度もいったじゃろうが!」
あごを上げて後方を見れば、向かい合い怒鳴り合うタクオとジーさんの姿が、天地さかさまの姿で目に映った。
「お前ら自分たちは他の奴らとは違うとか言っとるがのう! じゃあ一体どこがどう違うんじゃ!? 映画やらロックやらを知っとるだと、それが何だというんじゃ! え!? そんなもん、たかが趣味の問題じゃないのか!? え!?」
自己嫌悪マントは、目前1メートルの距離まで降りてきていた。
「何もできんで四の五の言っとるからだめなのじゃ! 何かやってみろ! 行動してみろ! 見る前に飛んでみろ!」
「だ、だからバンド組むことにしたんじゃねーかよ」
ジーさんがニヤッと笑った。
「それはいい、だがな、何かやろうと決めたところで浮かれとるお前らがバカだというとるんじゃ! 成果を上げてからものを言え!」
賢三のすぐ顔の上に、マントが浮かんでいた。
「ワシが言いたいのはな」
「な、なんだってんだよ」
「で、お前ら一体どんなことができるんじゃ?……ということじゃ」
タクオが黙った。
カワボンも山之上も、黙ったまま身動きひとつできずにいた。
「もう一度言ってやろうかのう」
ジーさんは少年たちをにらみつけ、片方のまゆだけピクリと上げて、言った。
「オレたちは他のくだらん奴らとは違う≠サれは結構……大いに結構……で……お前らそれじゃあ一体何ができるんじゃ? 他のくだらん奴らとは違うんじゃろ? 一体全体、それじゃあ何ができるんじゃ?」
桜が舞っていた。
スズメは小笛のような声で鳴き、あたりをはねまわっていた。
カタカタと、牛乳配達の自転車が近づいてくる音が聞こえた。
自己嫌悪マントがケンゾーの鼻にピタリとくっついた。
賢三は、タクオの投げてよこした GORO をギュッと握りしめた。
腹の底から湧き上がるどうにもならないもどかしさを、雑誌を握りつぶすことで昇華しようとしたのだ。握りしめてから、だけどそれではあまりに七〇年代青春ドラマのような恥ずかしい怒りの表現ではあるまいかと思い、クチャクチャにしたばかりの GORO を広げ、何の気なしに、グラビアのページをながめた。
「……あ……れ……」
賢三は、夢を見ているのだろうかと思った。
しわだらけになった GORO のグラビアの中で、見事に豊かなオッパイをドドドーンと見せつけている女の姿に、見覚えがあったからだ。
「え? え? え? ええええっ??」
自己嫌悪マントのことも忘れ、ケンゾーは思わず立ち上がった。そして、喰い入るようにグラビアを見つめた。
グラビアの女は、素晴らしいプロポーションをしていた。
肩幅が広く、堂々としていた。胸ははちきれんばかりにふくらみ、薄桃色の乳首は、コンパスで描いたような、一ミクロンの狂いもない正確な円だった。一条の髪が胸と胸との間に流れ、焼いたトーストの色に輝いていた。
まだ十代らしいその少女は、古ぼけた洋館を背景に、照れたような笑みを浮かべ、賢三を見つめていた。
賢三が、気恥ずかしくて正視できなかったあの瞳が、グラビアの中から今じっと彼を見つめていた。
「十七歳もちろん初ヌード! 巨匠大林森宣蔵監督の新作で鮮烈デビュー決定! 女子高生山口美甘子はすでに女優だっ!!」
陳腐なキャプションが、ヨーロッパの絵画を思わせるグラビアの右下に躍っていた。
「美甘子……」
絶句した賢三にかわり、キャプションの続きを筆者がまとめればこうだ。
「数々の賞に輝く巨匠、大林森宣蔵監督の新作に、弱冠十七歳の少女が主演女優として決定した。山口美甘子は映画経験もなく、カメラの前に立つのも初めてとのこと。大林森監督は自作の試写会に一人で観客としてやってきた彼女に一目ボレ。強力なアプローチにより高校二年生は映画出演を決意した。新作は、ヌードのシーンが不可欠なため、監督と美甘子の相談により、『度胸だめしの意味もあって』今回のヌード撮影となった。まったく、美甘子君の勇気には脱帽、我々男どもは歓喜の涙にむせび泣くものである。ウシシシシシ」
さらに、新人女優山口美甘子のコメントも同時に掲載されてあった。
「尊敬する大林森作品に主演できるなんて夢のようです。私、生きることってグミ・チョコレート・パインみたいなものだって思ってるんです。裸になるのは恥ずかしいけれど、これは私にとっていってみれば、チョコレートです。いま私のいるところから一気にステップするための挑戦だと思ってがんばりました。え? 友だちにですか? いえ、まだ友だちの誰にも言ってません、これ見たら、みんなひっくり返っちゃうんじゃないかな」
ドターッ!!
賢三がひっくり返った。
ひっくり返って、彼はしばらくの間すっかり明るくなった空を見上げていた。
ポッカリと、雲が浮かんでいた。
それから賢三はムクムクと起き上がり、トコトコと走り出した。
「おーい、ケンゾー、どこ行くんだー」
カワボンの声は聞こえなかった。
「ケンゾー、飲み直そうぜ」
タクオの呼びかけにも答えなかった。
「なんじゃ! 早朝マラソンか!! 健康なら乾布マサツが一番じゃぞ」
ジーさんが何か叫んでも、まったく気づかなかった。
山之上のことなど、頭の隅にもなかった。
桜の舞い落ちる川沿いの道を、賢三はリタイア寸前のマラソンランナーのスピードで……つまりは酔っぱらいのもつれる足取りと、呆けた顔で走り続けた。
手が足が、意識とは別のところで動いてしまって、賢三はどうにも走ることをやめられなかったのだ。
賢三はトコトコと走り続けた。
前方から、新聞配達の青年が自転車に乗り走ってきた。
賢三はすれちがいざまによろめき、彼にぶつかった。
「いてて、あぶねーじゃねーか」
道にたおれた新聞配達人が怒鳴った。
「オレとジャンケンをして下さい!」
賢三が怒鳴り返した。
「は?」
男が何か言いかけたが、それより早く、賢三の右腕が空に向かってつき上げられていた。
「ジャンケン!」
男もつられて右手を上げていた。
「ポン!」
男はグー、ケンゾーはチョキだった。
「もう一度! もう一度お願いします!」
「な、なんだよお前! なんでジャンケンなんて」
「ジャンケーン!」
「ひっ! ジャンケーン!」
「ポン!」
男の手はまたしてもグー、ケンゾーはチョキ。
「もう一度お願いします!」
「な、なんだってのよう! あんた一体ね……」
「ジャンケーン!」
「わわわ! ジャンケン」
「ポン」
賢三の手はまたしてもチョキ。
しかし、男の手は……パー。
「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」
あっけにとられている男を置いて、賢三は大またに歩を進めた。
「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」
ジャンケンもしていないのに、ケンゾーはさらに歩を進めた。
「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト! チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」
くり返し叫びながら、賢三はまた走り始めた。「チヨコレイトチヨコレイト」とつぶやきながら、賢三はトコトコと走り始めた。
ここではないはるか遠くの道を走っているはずの山口美甘子に少しでも追いつくために、賢三は息をするのももどかしいくらいに、「チヨコレイトチヨコレイトチヨコレイトチヨコレイトチヨコレイトチヨコレイト!」とつぶやきながら、ポカポカとあたたかな春の中を、ただひたすらに走り始めたのであった。
*33 ヨーロッパのプロレスラー。
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あとがき
自分が頭の中で創作した人物たちが、勝手にトコトコと動き始めた時の喜びというのは、至上の、えもいわれぬ、筆舌に尽くしがたい、モースンゲー! 超ゴイス! エークセレント! な快感があります。
賢三、美甘子、タクオ、カワボン、山之上、そして忘れちゃならないジーさん(あ、そういやジーさんに名前つけるのを忘れていた……)。彼らは、僕の住むこの世界とは時空の異なる並行宇宙に、今や確実に存在し、練馬区に限りなく風景の似た土地にポカンとそびえ立つ都立黒所高校の周辺で、日々モンモンと、それでも来たるべき明日のために、懸命に、トコトコと歩き出そうとしているのです。
これは、創造主たる僕としては、応援してあげぬわけにはいかない。
彼らの一挙一動が、作者である僕の筆先しだいでどうとでもなってしまうものだということはもちろんわかっているのですが、それでもどうにも、「そんな単純なものではない」ような気がするのです。
彼らの行動と僕の筆先が、お互いに干渉し合ってひとつの物語をつくろうとしているのだ。
そんな気がしてならんのです。
これは一種のオカルト的発想であります。
本当のところは、それが作品への思い入れ過剰からくる妄想であることは、意外にも合理主義者の僕ですから十分にわかってはいます。しかし何故か、そんな気がしてならんのです。
『グミ・チョコレート・パイン』は、このグミ編のあと、第二弾チョコ編へと続きます。僕はできるかぎり、彼らを幸福な方向へ導くために、ペンを使って干渉してやるのだと思っています。けれども、もう彼らは半分僕の筆を離れ、それぞれ勝手に動き出し始めてしまったわけですから、この先、どれだけ僕が彼らの人生に影響を及ぼすことができるか、さっぱり見当もつきません。もしかしたら、全員が全員、真っ暗な運命の海に身を投じてしまうことになるのかもしれないわけで……。
どうころぶにせよ、チョコ編もよろしく。
子供の頃、水に入れるとアラ不思議、生物になって泳ぎ出す謎の粉「シーモンキー」というのがありました。袋に入った粉末を、水の入ったコップの中に注ぎ込むと、水中でその粉が泳ぎ出すのです。種を明かせば、乾燥して仮死状態になっていた微生物が水分を得て生き返るようになっているのです(違うかな? 知っている人いたら教えてくれ)。僕はこのヘンテコなペット(?)をかわいがっていたのですが、不注意でコップを割り、哀れシーモンキーを全滅させてしまった悲しくも情けない思い出があります。
作中人物に対する僕の異常なまでの思い入れは、あの時の失敗がトラウマとなってのことなのかもしれない。
お世話になりました見城さん、杉岡さん、佐藤さん、江口寿史さん、そしてこの本をつくるにあたりヘルプして下さった全ての方に。……ありがとうございます。
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文庫版あとがき
「オレはダメだな〜」と思っている総ての若きボンクラ野郎どもへ、心からの心を込めて、本作を贈る……。
本当に、そんな想いで書いた小説です。
『グミ・チョコレート・パイン』を読んで、何もいいことのないコンプレックスだらけのボンクラ少年が、「……なんか、オレのことが書かれているみたいだな」と思ってくれたならうれしい。
「この賢三とかカワボンとかタクオとか山之上って……オレじゃん」「こいつらオレとおなじようにダメじゃん」「ダメだけど何かやろうとしているんだ」「がんばってるわけね、ダメなりに」「じゃあ、オレも」「オレも」「オレもダメかもわかんないけど、何かしてみよっかな」「でも何を?」「わかんないけど」「それを見つける作業を」「まず始めてみればいいんじゃないだろうか?」「無理かな?」「無理でもいいか、どうせダメなんだし」「賢三たちと、一緒に」「とにかく何かやってみようかとオレは思う」
そう思ってくれることを、僕は心から願います。
賢三が、名画座の闇の中で観た映画たちに感化されて、とにもかくにも、何かをはじめようとしたように、『グミ・チョコレート・パイン』もまた、「自分は人とは違う」「でも何が違うのかわからない」とモンモンクサクサしているやつらに、走り出すきっかけを与えるに違いないと僕は信じています。
『グミ・チョコレート・パイン グミ編』文庫化にあたって協力してくださった方々、角川書店の佐藤氏を始め、尽力してくださった総ての方に深くお礼を。
『グミ編』に続き『チョコ編』も文庫化されます。お楽しみに。『パイン編』はまだ書いていませんが、僕の頭の中では、すでに賢三、カワボン、タクオ、山之上、ジーさん、そして山口美甘子が、えっ!? ウソ!? ヒャ〜!! というようなドラマを展開しています。もう少しお待ち下さい。
では『チョコ編』でまた会おう!
P.S.あ、一度ぜひライブに来て下さい。楽しいよ。CDは『オーケン・ベスト』(もう廃盤かもしれん)か『ピアノ・デス・ピアノ』を聴くとよい。
角川文庫『グミ・チョコレート・パイン グミ編』平成11年7月25日初版発行