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くるぐる使い
大槻ケンヂ
目 次
キラキラと輝くもの
くるぐる使い
憑かれたな
春陽綺談
のの子の復讐ジグジグ
あとがき
文庫版あとがき
[#改ページ]
キラキラと輝くもの
森村|麗美子《れみこ》の精神がヘンテコな状態に変化し始めたのは、十一月の上旬だった。秋が深まり、空模様のかげんが悪くなり、冬へと季節が変わり始めたのと並行するように、妙な言動やふるまいを麗美子は見せるようになった。
麗美子の兄、時夫が彼女の異常に最初に気付いたのは週末の夜だ。雑誌の編集をしている彼が深夜帰宅すると、麗美子はパジャマ姿にハンテンをはおり、部屋の電気を消してテレビを見ていた。
「起きてたのか」と問いかけた時夫に、麗美子は「うん」と生返事を返しただけだった。
「明日が日曜だからってあんまり遅くまで起きてんなよ」
と、時夫はぶっきらぼうに言った。それは注意というより、思春期を迎え無口になった妹に、口を開かせ何か言わせるための挑発のようなものだった。
麗美子はソファーにぐったりとだらしなく座ったまま、再び「うん」と小さく答えた。
麗美子と時夫は二人暮らしだった。両親は、二人がまだ幼い頃に火事で死んでいた。兄妹は、時夫が高校を卒業するまで遠い親戚に引き取られて育てられた。親戚から多少の援助はあったものの、時夫は九つ年の離れた妹を学校に通わせるため、高校卒業と共に働き始めた。県内でもハイレベルの進学校に通っていた時夫には、それはつらい選択だった。
「うんじゃなくてさ、何か言えよ麗美子」
妹はテレビを見たまま「はあい」と間の抜けた声で言った。闇《やみ》の中に、生意気そうな瞳《ひとみ》がテレビ画面の光を受けて、猫の目のように青白く輝いて見えた。
「なんかって何言えばいいのよ」と麗美子はにくまれ口をきいた。
しかし、時夫は麗美子をこの世の誰よりも大切に想っていた。十月で十七になったばかりの麗美子は、ほっておいたら何をしでかすかわからない少女だった。我儘《わがまま》で、気まぐれで、自分の周囲三十センチの価値観で生きていた。ネガ要素をあげていくとまるで嫌《いや》な小娘の代表のようだが、それもこれも、幼くして両親と死別したという、古い少女漫画のような彼女の生い立ちが要因になっているのだと思うと、時夫は妹が一言で言えば「不憫《ふびん》」でならなかったのだ。
「暗いとこでテレビ見てんじゃねぇよ、つけるぞ」
時夫が室内照明のスイッチに手をかけた。
「つけないでよ!」
麗美子が兄を振り返り、強い調子で言った。
「つけないでよ!」
もう一度、今度は叫ぶように訴えた。
麗美子の勢いに時夫は一瞬キョトンとした。それから妹の態度に腹が立ち、持っていたバッグを彼女に投げつけて言った。
「お前いいかげんにしろよ。最近なんだっていうんだ。我儘すぎるぞ麗美子」
妹は兄の顔をキッとにらんだまま黙った。すぐに目を伏せ、だだっ子のようにツンと唇をつぼめて見せた。自分の意志の通らぬ時に妹の見せるこの表情を、兄は一体今まで何度見て来ただろうかと思った。
時夫は照明のスイッチを押した。
部屋の中が明るくなるのと、麗美子が叫んだのはほぼ同時だった。
「つけるなっていったじゃない!」
ソファーからはね起きた彼女は時夫を見すえて、
「明るくしたら電波が私の胸に入ってこれないでしょう!」
と言った。
彼女は目を見開き、「どうしてそういうことするのかなぁ」と問いかけるように兄に言った。
「あの人達の精神電波が明るくしたら私に届かないじゃない!?」
麗美子は瞳にうっすらと涙さえ浮かべ、時夫に訴えかけた。真剣そのものの表情と、子供っぽいハンテンを着込んだ姿がアンバランスだった。
「何? 電波? あの人達? お前何言ってんだよ? 酒でも飲んでるのか?」
ただならぬものを感じた時夫は、二、三歩彼女に歩み寄った。
麗美子は、肩をつかもうとして伸ばした兄の手を、後ずさってよけた。ビクリと身を固くして、兄を見つめたまま、「なんでもないなんでもないなんでもない」とくり返した。
こみ上げてくる感情の高ぶりを押さえ切れないのか、麗美子は泣いたような笑ったような顔をして、「私もう寝るからね、お休み」と言って、呆然《ぼうぜん》とする時夫の前をすりぬけて自室へ去っていった。
その夜の明け方、ふと目覚めた時夫は、ガタガタと廊下を歩く足音を聞いた。足音は玄関とリビングの間にある彼の部屋の前を三度も通過し、四度目に通り過ぎた後、リビングで消えた。
何か忘れ物をしたのだけど何を忘れたのか思い出せない。それでイライラして歩き回っている。そんな足音だった。
ベッドを抜け出しリビングに行くと、麗美子がソファーに座っていた。
彼女は薄暗い部屋の中で、足を投げ出し、ぼんやりと天井を見上げていた。
下着姿だった。
カーテンからこぼれる明け方のしらじらとした光に照らされて、彼女の十七歳にしては豊かな胸にくっきりと陰影が創《つく》られていた。朝日は、彼女の肋骨《ろつこつ》にも一本一本ていねいに影を浮かび上がらせていた。大人びたへその下のなだらかな肌の上を、彼女の指がつーっとなぞっていった。指先を彼女は左の胸元にもっていった。ほのかに浮かび上がった胸元に、一本、赤黒い傷跡があった。十二センチほどの真一文字に、傷は、彼女の肌にへばりついた軟体動物のように見えた。
彼女は天井をぼんやり見上げたまま、いつまでもいつまでも、その赤黒い胸元の傷跡を指でなぞっていた。
それから三日は何も起こらなかった。麗美子は相変わらず我儘で、感情の起伏が激しく、時夫とつまらないことで口ゲンカをし、一晩中泣きじゃくって見せたりしたが、それぐらいは今までにもよくあることだった。
時夫が、妹の心の異常にはっきりと気づいたのは、彼ら兄妹を引き取ってくれていた、義母の訪問によってであった。彼女は時夫達の母の、またいとこにあたる人間で、気の強い女だった。家計が苦しくなると、兄妹の前で露骨に嫌味《いやみ》を言った。二人は彼女が嫌いだった。
義母は時夫のマンションに来るなり、「麗美子はまだ帰ってこないわよね」と聞いた。
「高校生は午前中いないよ。オレだってこんな仕事じゃなきゃ会社に行ってる時間だよ」
「それならいいんだけどね……時夫、あんたちょっとこれ見てよ」
義母はバッグから一通の封筒を取り出し、時夫に渡した。女子高生の使うような、メルヘンチックなイラストのついた封筒の表に、義母の名が書いてあった。裏返すと、差出人の名は森村麗美子とあった。
「これは?」
「まあ読んでみなさいよ」
義母にうながされて読んだ麗美子の手紙は、不可思議としかいいようのないものだった。奇妙な妄想《もうそう》じみた文章がつづられていた。
「お母さんお元気ですか? 元気だと思うけどね。私は元気です。兄も元気です。でも私は元気だけどあなたから見たらとっても変わってしまったと思いますよ。……どこから説明したらいいかな。どこから言っても信じてもらえないだろうけど、私は先日、ある人達の訪問を受けました。美術部の帰り、北沢橋を通り過ぎた、今は誰も住んでいない木戸パン屋さんの裏のあたりで、何となく空を見上げたら、揺れながらキラキラと輝くものが空に浮かんでいたんです。あっと思って、でもそれから家のベッドで我に返るまでのハッキリした記憶はありません。でもなんとなくは覚えています。何か光に包まれて、手術台みたいなものに寝かされて、カエルみたいな人達に見られていて、彼らに何かピカピカと光るものを胸の中に埋めこまれたような気がします。夢じゃない。その証拠に私の胸元には、赤黒い傷跡があります。こんな傷は今までなかったもん。今では時々、キラキラ輝くものに乗っていた人達から精神電波が送られてきます。埋めこまれたのは電波をキャッチする器具だと思う。電波をくれるのはカエル達ではなくて、その上の人というか、もっとエライ人達です。いろいろな、これからどう生きていけばいいかとか、いろんなことを教えてくれてうれしい。彼らのおかげで今とても幸せです。誰よりも、お母さんにこのことをまず知ってもらおうと思って手紙を書きました」
確かに妹の字だったが、ところどころ左手で書いたように文字がゆがんでいた。
「何だ……これ……」
「何だってあたしが聞きたいよ、気味悪い」
義母は、一度医者に連れていったらどうだと時夫に真顔で言い、麗美子が帰ってくる前に帰るからね、と、そそくさと去っていった。
夕方になり、帰宅した麗美子に、時夫は何と手紙のことを問うたらよいか悩んだ。手紙の内容が真実だとはとても思えない。
麗美子は兄に「帰ってたんだ」とだけ言って、制服姿のままチョコンと両親の遺影の前に座った。彼女の幼いころからのクセである、老婆《ろうば》のように足をM字型にまげペタンと尻《しり》をつく座り方をして、瞳をつぶり、両手を合わせた。彼女の、それは毎日の習慣だった。無宗教である兄妹は、テーブルの上に両親の写真と、二人の結婚指輪を置き、水と花を添えて仏壇の代わりとしていた。
両親が事故で他界した時、麗美子はまだ三歳だった。中学生だった時夫だけが遺体を確認に行った。確認といっても、どちらが父でどちらが母かもわからぬくらいに焦げた真っ黒な人型の異物を、「多分そうだと思います」と時夫が言っただけのことであったが。
十年以上見続けてきた、両親に手を合わせる麗美子の背に、時夫は思い切って声をかけてみた。
「お前、義母《かあ》さんに手紙出したんだってな」
ゆっくりと、麗美子がふり向いた。
「うん、出した。お義母さんに聞いたんだね」
「変なこと書いただろ」
「変なことじゃないよ。本当のこと」
麗美子は立ち上がり、ソファーに座っていた時夫の前を通り過ぎ、窓際にサッシを背にして再びチョコンと座り込んだ。
「本当って何だよ。UFOみたいなのにさらわれて、何か埋めこまれたとかいう、あれが本当のことだっていうのか?」
普段の妹だったら、勝手に手紙を読んだことを知って大声で時夫をなじるところだったが、彼女は兄を上目づかいに見つめながら、「全部本当のことなんだもん」と言った。
「全部本当のことよ。今UFOっていったけど、あの人達が宇宙人だかどうかは知らない、とにかくカエルみたいな人達をたくさん使ってるえらい人達がわたしに電波でもっていろんなことを教えてくれるのよ。三本花が咲いてたら、真ん中の花の香りをかぐと悪いことがおこるとか、隣りのクラスの子が夏休み明けに自殺したのはそれをした報いだからとか、イガイガのついた金属の棒をポッケに入れておくと願いがかなうとか、いることといらないことと大事なこととバカバカしいことのちがいとか、いろんなことを教えてくれる人達がいる世界とわたしは精神電波で通信してるの」
時夫は、いきなりわけのわからないことを言い出した妹に、返す言葉を失った。
「耳をすますことはないけれど、あたしの胸に埋めこまれた器具は光には強くないから、なるべく暗いところがいい、だからホラ、この間……」麗美子はそこで時夫を指差し、「……がさあ、電気つけようとした時にわたしを怒ったでしょう」と言った。高校に入ったぐらいから、妹は兄を呼ぶ時に、それまでのように時夫を「お兄ちゃん」と呼ばなくなった。代わりに彼を指差し、その部分だけ言葉をあけるようになっていた。
「あの時も電波が入ってたのよ」
麗美子は真顔だった。
静かに立ち上がり、ブレザーを脱いだ。
兄を見つめながら、ワイシャツのホックを外し始めた。
上から三つ目のホックを外すと、ワイシャツの胸元を広げた。麗美子はブラジャーをつけていなかった。
豊かなふくらみが見えた。
二つのふくらみをそれぞれに、真っ白な水着のひもの跡が、肩の上から鎖骨を通って垂直にのびていた。そのラインと交差するように、左の胸元に、十二センチ位の、水辺に生きるグロテスクな軟体動物を思わせる赤黒い傷跡があった。そいつは麗美子の柔らかな肌にはりついて血を吸っているように時夫には見えた。
「これ、証拠だよ」
と言って、麗美子は兄の方へ静かに歩み寄った。
「この傷の下に器具が埋めこまれているんだ」
麗美子は笑っていた。仏像のように、中途半端な笑みを浮かべ、さらに兄に近づいた。
「見てよ、ねぇ」
妹は時夫の顔を見つめていたが、視線は彼の顔面数センチ手前のところをフラフラとさまよっていた。
「ねぇ、見てよ、ねぇったら」
麗美子は笑うのをやめ、時夫の瞳をしっかりと見て言った。
「ねぇ、ちゃんと見てよ……お兄ちゃん」
それから数日後の夕方、麗美子は公園のベンチに座っていた。
彼女と時夫の住むマンションの、すぐ裏にあるちっぽけな公園で、彼女は一人っきりで「声」を聞いていた。「声」は精神電波となって彼女の左胸の器具から神経や血管を伝い、細いうなじを流れて、彼女の頭の中へ響いた。
「声」の主には、性別も年齢も無かった。夕暮れ時に、隣町から風に流されて届く、校庭開放の終了を知らせるサイレンの音みたいな、静かな波動だった。その波に身をゆだねていると心地良かった。心が、ひんやりとやすらいだ。
今日は一日中「声」を聞いていた。勝気な彼女は、クラスでは孤立した存在だったから、彼女が「声」に包まれ、忘我となっていようと、あまり気にとめるものはいなかった。しかし、ただ一人、彼女の生意気そうな目付に、性衝動を揺さぶられ、いつか彼女のペッタリとした上履きの底で顔面を踏みにじられたいと秘《ひそ》かに熱望していたマゾヒストの初老教師だけが、彼女の異常に気づいていた。
とろりとした目で窓の外を見つめる彼女に「森村、具合が悪いのか?」と聞いた。
麗美子は「声」に包まれる快感を中断されて腹を立てた。「うるさいわね!」と初老教師をにらみ怒鳴った。
教室がざわついた。「森村さんってキツイよねえ」という女子の声が彼女にも聞こえた。
だが老教師は麗美子に怒鳴られたその日一日幸せだった。
麗美子は学校から帰る道も、「声」に包まれていた。彼女は「声」とさまざまな会話を交していた。「声」との会話は、「声」の投げかける質問に彼女が答える形式をとっていた。
「人間の、腕や指や足やまつ毛は、どうして日一日と伸びていくのだと思う?」
そんな「声」の問いに、麗美子は、日の暮れ始めた下校の道をユラユラと歩きながら、答えを見いだそうと考えた。
「大人になって、腕とか足とかが短かかったら、小人と間違われてしまうからよ」
と答えた。
「まつ毛は? 小人だってまつ毛は長いよ」
と「声」はさらに質《たず》ねた。
「まつ毛はその上にビーズ玉を五個も六個ものせるためでしょ。退屈なパーティーの時に役に立つよ」
「正解だ、君は頭がいい」
と「声」は彼女をほめた。
麗美子はうれしくって、ニンマリと笑った。
通りかかったサラリーマンが、いきなりほほ笑んだ少女を見て、けげんそうな顔をした。
「声」がまた言った。
「公園でゆっくり話そう、あそこはこちらの精神電波がよく伝わる。空気がいいからね」
「声」に言われるまま、麗美子は、公園のベンチに座った。
「対話を続けよう」
と「声」は言った。
「では何故《なぜ》、胸はふくらむ? 少女に限ってのことだが」
「それにはすぐ答えられるよ」
「言ってごらん」
「器具を埋めこむため」
ちがうな、と「声」は言った。
「精神器具は直径三十ミリにも満たない、そんな大きなスペースは必要としない、特に君のような、年に似合わぬ大きな胸で、器具をおおう必要はない」
「余計なお世話だわ、なろうとして大きくなったわけじゃない、じゃなんで胸はふくらむのよ」
「いやらしいからだよ」
麗美子は息を呑《の》んだ。
「いやらしいことばかり考えているからだ」
おし黙った彼女に「声」は容赦なかった。
「どうして抱かれたいと思うんだ、麗美子」
「何のことよ」
「精神器具は麗美子の思うところを、それこそ幼児のころに好きだったアニメの主題歌から、去年こっそり焼いた日記の中身に至るまで、何一つもらすことなく報告してくれるのだ。かくしても無駄だよ」
麗美子は両手で耳を覆ったが無駄なことだった。「声」はさらに彼女を包んだ。
「いやらしいことを考えるのは楽しいのか」
「そんなこと……」
「眠れない夜に自分の指先で自分の体をいじくりまわすのは楽しいことか? いやらしい妄想《もうそう》で頭の中をいっぱいにして、ベッドの中で一人小さく息を吸ったりはいたりするのは気持ちが高まってたまらないのか?」
「やめてよ!」
「小さく何度も何度も息を吸ったりはいたりするのがそんな楽しいのか麗美子」
「声」は、麗美子の体の中で、「ハッ・ハッ・ハッ」と、彼女をまねてあえいで見せた。
「いやらしいんだな、お前は」
麗美子の瞳《ひとみ》に涙があふれた。
ぽとりと、ほほをつたいヒザにかかえたカバンの上に落ちた。
「誰に抱かれたいんだ?」
「声」が再び聞いた。
「ベッドの中で蠢《うごめ》くお前の白い指先は誰の手の代用品なんだ?」
「何言ってるのよ……」
「それとも誰でもいいのか? 誰に抱きしめられても麗美子はああいう声を出すのか?」
涙がとめどもなく溢《あふ》れた。
「もうやめてよ」
「いや、はっきりさせんとな。答えろよ、誰に抱かれたいんだ」
麗美子は両手で顔を覆った。冷えきった手のひらが、涙でじんわりとあたたかくなった。
「答えなさい麗美子、誰に抱かれたいんだ?」
麗美子は子供のようにしゃくりあげながら、小さな声で「お兄ちゃん」と言った。
「声」が黙した。
波動が消えたことに驚き、彼女は涙に濡《ぬ》れた瞳であたりを見渡した。彼女にとって「声」は、自分とあっちの世界を結ぶ、器具と並ぶ大切なつながりだった。それが消えてしまうことは恐怖だった。声が聞こえない。声はどこ? 彼女は立ちあがり、どうしようどうしようとくり返しながら震えた。
「ここにいるよ、君の中だ」
「声」が再び彼女を包んだ。
「あわてるな、座りなさい」
安心して座り込む麗美子に、「声」は言った。
「時夫に抱かれたいと思うのか」
麗美子は、こくんとうなずいた。
「いやらしい女だなお前は、いやらしい、まったくいやらしい」
「ちがう、聞いて!」と麗美子は「声」に叫んだ。
「……子供のころから、あたしはお兄ちゃんと結婚するんだって決めていた。もちろんそれは子供のたわいない夢だったんだけど、いくつになってもその想いが消えなくて、あたしの胸がふくらみ始めたころから、その想いだけじゃすまなくなって、あたしはどうしても、どうしても裸で抱きしめて欲しかった」
ふっと「声」の波動が、また消えた。
今度は本当に消えてしまったのだ、と麗美子は思った。あわててブレザーを脱ぎ、ワイシャツのホックを三つはずした。
胸元の赤黒い傷が消えかかっていた。
日に日に傷跡は薄れてきていた。指でさわると、かさぶたがペロリとめくれた。再生したばかりの真っ白な肌がその下に見えた。
大変ダ、大変ダ、とつぶやき、彼女はかさぶたをはがし、虫ケラのようなはがしたそれを地面に投げ捨てた。
器具を取り出して直さなきゃ、とつぶやいた。
学生カバンの口をあけ、両手をつっこんでひっかき回した。
カンペンケースを取り出し、中からカッターナイフを探し出した。
チチチ、と音を立て、麗美子の目の前でカッターの刃がのびた。
すっかり日は暮れていた。黄色い月が、公園わきにある病院の上に昇っていた。闇《やみ》の中に、カッターの刃はうすらぼんやりと光った。
「器具を取り出して直さなくっちゃ」
ともう一度つぶやき、麗美子はカッターの刃を、左胸のふくらみに思いっ切り押し当てた。
ぶつん、と、肉に喰いこむ音がした。
何か熱いものがそこからいきおいよく吹き出し、おろしたてのブラジャーにしみこんでいくのが感じられた。不快な臭《にお》いが鼻をついた。
「血か」と麗美子はつぶやき、カッターを握った手を思いっ切り右胸の方へ引っぱった。
ブラジャーのヒモがちぎれた。血に染まったかわいらしい乳首が現れた。
激痛が彼女の全身を貫いた。
血のしぶきが水鉄砲で打ったように数十センチも飛んだ。
カッターを捨て、血でベトベトする手をスカートでふいた。
「そうだお兄ちゃんにも器具を見てもらおう」
と思った。
お兄ちゃんはあたしのこと何も信用してくれないんだもんな。
立ちあがり、マンションへふらふらと歩いていった。
お兄ちゃんはあたしをちゃんと見てないんだ。
麗美子は「まったくもう」などとつぶやきながら、公園を抜け、マンションの階段をのぼった。
彼女がのぼるごとに、階段の一段一段に血の赤い花が咲いた。
兄妹の部屋は明りが消えていた。
「ほうらいない、肝心な時にお兄ちゃんはいつもいないんだから」
鍵《かぎ》を開け、真っ暗な中へ入っていった。
なんだか息が苦しい。
心が体を離れていくのがわかった。
その前に器具を取り出しておこう。
麗美子は傷口に指をつっこみ、そこに埋めこまれているはずの器具を探した。
お兄ちゃん、あたしはウソつかないよ。
しかし、指先はグチャグチャとした肉をさわるだけで、あるべき金属質を見つけられなかった。
おかしいなあ、変だなあ。
ふいに気が遠ざかり、麗美子はその場にたおれこんだ。
あおむけにたおれた麗美子は、ビクビクと全身をけいれんさせてもがいた。
床をはいずりまわる彼女の腕が、スチールでできたテーブルの足にいきおいよくぶつかった。指の折れる音がした。
その指に、何か固くて小さな物が触れた。
「こんなとこに落ちてたのか……」
と麗美子は薄れていく意識の中で思った。
「ホラ、あたしのいった通り、お兄ちゃん、これが器具よ。お兄ちゃん、あたし、うそつかなかったでしょう。お兄ちゃん……」
時夫がもどった時、すでに麗美子は息絶えていた。
時夫がマンションに帰ると、廊下に点々と血の跡があり、兄妹の部屋に続いていた。
麗美子は左胸に手を置き、鮮血で真っ赤に染まりながら死んでいた。
麗美子の血まみれの指の間に、キラキラと輝くものがあった。彼女と時夫の両親が、生前大事にしていた二つの指輪だった。
時夫は全てを理解した。
妹の奇妙な妄想《もうそう》は、自分との関係を原因としていたのだ。
兄に抱かれてから、妹は、この世とは異なる別の世界と、自分は交信ができると信じ込むようになった。
つまり罪の意識から逃れるために、妄想の世界へ逃げこもうと試みていたのだ。
「私の体の中には、その世界とつながるための器具があるの、ホラ、その証拠に手術の跡があるわ」
確かに妹の胸元に傷はあった。しかしそれは手術の跡などではない。その傷は、麗美子が自分でつけた傷なのだ。
いつしか兄と抱きあうようになった妹は、ある夜、兄の目前で自殺を図った。果物ナイフを、自らの胸につき立てようとしたのだ。傷は大したことはなかったが、その日以来、どちらからともなく、兄妹はお互いをさけるようになった。麗美子が奇妙なことを口にし始めたのは、数日後のことだ。
麗美子のように、宇宙人にさらわれたと公言する人々が世界中にたくさん実在している。そして彼らの多くがやはり、「何かを埋め込まれた跡」だという傷を体に持っている。
「謎《なぞ》の傷」について、近親者による幼児虐待を原因とする説がある。
幼い頃、近親者の暴力によって、後々まで残るような傷を負った子供は、ひどい心的外傷《トラウマ》を心に負う。
「親しい人にこんな傷をつけられたなんて信じたくない」と彼らは切実に思う。原因を、他に求めようとする。その想いがあまりに強い時、ウソの記憶や妄想で傷の存在を説明しようとする者が現れるのだ。
「この傷は、奇妙な生物に誘拐《ゆうかい》されて、何かを埋め込まれた跡なのです」……と。
簡単に言えば、彼らは妄想でトラウマを昇華させてしまおうと試みているのだ。
兄との許されざるべき関係のためにつくられた傷を、麗美子が不可思議な妄想で説明しようとした理由も、被幼児虐待者と同じように、心の防衛機能による記憶のすり換えだったのかもしれない。
彼女が死の直前に見つけた「器具」……指輪は、両親と彼女をつなぐただ一つの、物質的な存在であった。それを思うと、彼女が逃避の場所として、交信できる……いつか自分もそこにいけるのだと信じていた世界は、宇宙人でもなんでもなく、時にやさしく、時に容赦なく娘を責めたてる、父と母そのものであったのだ。
時夫は妹の屍《しかばね》につっ伏して、自分も血まみれになって、ほえるように泣いた。
ただ、麗美子よ、あれは恋だった。オレたちは恋をしていたのだ。誰も信じてはくれないだろうけれど、あれは恋だったんだ。
時夫はそう思いながら、いつまでも泣いた。
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くるぐる使い
入院患者に回教徒がいた。
礼拝の時間になると、裏庭の片隅でピクニックみたいにビニールシートを敷いて、その上で深々と頭を下げる姿が病室の窓からも見えた。田舎町《いなかまち》の病院でみるアラーの神への礼拝は、まるで不思議な夢のようだな、と、あやはいつも思っていた。
「あれは何だなあ、神様おがむっちゅうより、お天道様にむかって一心不乱に謝っているみてえだなあ」
あやに注射を射たれながら、波野《はの》はそんなことを言って、歯の抜けた口をゆがめて笑った。
「そんなこといっちゃ駄目ですよ波野さん、一生懸命お祈りしてるんだから」
あやに注意されると波野は、さらにうれしそうに、顔じゅうを皺《しわ》だらけにして笑った。
注射器を逆流して薬と混ざり合う波野の血液は、闇《やみ》のようにドス黒かった。
「へっへっ、いいじゃないかあやちゃん、どうせもうじき死ぬ私だ。好きなこと言わせておくれよ」
あやは言葉に詰まった。波野の死期がさしせまっていることは、今年看護婦になりたての彼女にも容易にわかることだった。波野は、あやが看護婦になって、初めて世話をすることになった患者だった。しかし実のところ、世話になったのはあやの方といえるかもしれない。はるかに年の離れた老人は、失敗ばかりするあやをなぐさめ、「何があっても行雲流水、のほほんだよあやちゃん」などとおどけ、何かにつけ励ましてくれたのだ。いつしかあやは、波野を実の祖父のように思うようになっていた。だから彼が、窓の外の回教徒を眺めながら「私もくたばる前に、ああやって何度も頭を地面にこすりつけて、お天道様に謝っておかねばな」とつぶやいた時、彼女は思わず尋ねてしまった。
「波野さんでも、悪いことしたことあるの?」
「あるさ、あるともさ、ありすぎるさ」
「へーっ、どんなことよ」
「昔な、あんたみたいな若い娘を殺した」
老人の腕から針を抜こうとしていたあやの手元が狂い、血の滴が真っ白なシーツに気味の悪い模様を描いた。
「御免なさい!……ヘンな冗談言うから」
「冗談じゃないんだよ、あやちゃん」
彼女が顔をあげると、さっきまでとはうってかわって、彼女が初めて見る、ひどく思いつめた表情の老人がいた。
「私はもうじき死ぬ。怖いとは思わん、ただ……、どうにもつらいんだ。あんたみたいないい娘に、優しい人間だと思われて死んでゆくのがね。いや待て、話をさせてくれ、私は本当に外道なんだ。行く果ては地獄と決まっておる。鬼どもも私がもうすぐ来るってんで手ぐすねひいて待ちかまえておるころだろうて、恐しかない。それだけのことはしてきたからね、でもね、何というか……歳《とし》かのう、あんたを見とると、あのくるぐる[#「くるぐる」に傍点]を思い出していかんともしがたい。あんたに本当の私を教えておかないと、なんだか死にきれんのだ」
「……くるぐる……って何?」
「くるぐる……私が昔、殺しちまった娘だよ」
回教徒の姿はいつの間にか裏庭から消えていた。
注射針が、ガラスの破片のような夕暮の光を受け、チロチロと燃えて見えた。
老人は、ゆっくりと懺悔《ざんげ》を始めた。
私は本当に外道なんだ……というより、まっとうな人の道を歩いたことがない。もとよりそんな道を選ぶ余裕もなかった。
私が生まれたのはえらく貧乏なところでね、盗み、だまし、たいがいの悪事はしかたがねえことだと思っていた。恐しいことに、人間はみなそういう価値で生きてるもんだとばかり思っていたんだ。
本当に、なんでもやったよ。お天道様に顔向けできねえことばかりね、なかでも一番許しちゃもらえねえだろうって悪事がアレさ。……「くるぐる使い」だ。
くるぐる使い……っていっても、今じゃあ誰も知らんだろうねぇ。戦争の後、国がやっきになってもみ消したからねぇ。「我が国の民度が疑われる」とか能書きこきやがってなあ、最後までくるぐる使いやってた奴《やつ》ぁ、精神病院に入れられたらしいやな、厚生省のお役人の仕業だってぇけど……ありえる話だねぇ。
えっ? で、くるぐる使いって何だって、あわてるなよあやちゃん、あんたの悪いくせだ、今説明してあげるよう。
くるぐる使いってのは、大道芸の一種さあ。さすがに東京じゃあ見なかったが、その昔、神社の縁日や、旅回りのサーカスなんかに出ていたんだ。特別な芸でね、数も少なかった。
多分私が、元くるぐる使い最後の生き残りだよ。
くるぐる……ってえのはねえ……頭のいかれた娘のことなんだ。
地方によっては、てふてふ、とも呼ばれていたなあ。てふてふってのは蝶々の意味もある。きっと、頭のいかれた娘が千鳥足でふらふらさまようさまを蝶々にたとえたんだろうな。……くるぐる使いとはつまり、そのくるぐる、……頭のいかれた娘に芸をさせて日本中を旅して巡る大道芸人のことなんだ。猿まわしの猿のかわりに、アンポンタンポカンの娘を見世物にして銭をかせぐって寸法だ。外道だよ。外道の芸だあな。
もともとは、狂人を娘に持った旅まわりの芸人が苦肉の策で始めたのが最初らしい。それがいつしか、発狂した娘を買いとって仕込むように変わっていった。……ますます外道だあ。
ちょっとあやちゃんに、ヘタクソな唄《うた》を聞いてもらおうかな。
「オホン! エホン……※[#歌記号、unicode303d]くるぐる娘がトンと来て、トンと来て、水につけよか火にくべようか、いえいえそれはなりませぬ。たとえ先祖の業といえ、男も知らぬ生娘じゃ、色恋わからぬくるぐるじゃ。股《また》に蜘蛛《くも》の巣張る前に、浮き世の喜び教えやしょう、赤いおべべを着せてやろ、赤いお紅もひいてやろ、太鼓|叩《たた》いて踊りゃしょう。くるぐる娘がトンと来て、くるぐる使いにまわされた。ホーイホイ。アッパリなぁ」
くるぐる使いを唄った民謡だ。
しかしあやちゃん、ここが重要なんだがね、くるぐる使いといっても、発狂した娘の「狂いかげん」を見世物にしていたわけではないんだ。他人と異なる心の揺らぎようを満天下にさらして金を取っていたわけではない。ヒステリーの金切り声とか、蝶々を追いまわすような狂人の足取りや手つきとか、ましてやよだれをたらしてワナワナと痙攣《けいれん》する様子を売りものにしていたんじゃない。私らはな、くるぐるならではの「芸」を道行く人々に見せていたんだ。
芸……「力」と言ってもいいかもしれん。くるぐるの中には、尋常ならざる「力」を持つ娘がいた。それは……人の心を読んだり、将来に起こる出来事を語ったり、目の前の人間の、触れてはならない過去を見てしまったり、とっくに死んだ人間の言葉をしゃべったり……もうじき死ぬ者の名を知っていたりといった……普通の人間には無い、そういう特別な力なんだ。
シャーマンと言ってな、大昔には多くの村に、神様の言葉を語ったり、神事を司《つかさ》どる娘というのがいた。神と交信する能力を持つといわれた彼女らは、実は多くがくるぐる[#「くるぐる」に傍点]だった。
今で言う精神異常者の彼女らがなぜ神がかりとして崇《あが》められていたのかと言えば、くるぐるの彼女らがしゃべる支離滅裂な言葉の中に、どういうわけか時として、その村の将来にかかわる重大事についての情報が含まれていることが実際にあったからなんだ。大昔そうやってくるぐるは預言者として村での存在を認められていた。くるぐるになっちまったかわりに、お天道様が不思議な「付録」を授けて下さった。人々はそう解釈していたんだ。
時が経ち、文明が発展を遂げると、人々はそんな考え方を好まぬようになった。くるぐるの救済手段でもあった神がかりも必要としなくなった。くるぐるの言葉は「狂人の妄想《もうそう》」でかたづけられ、たとえ預言が当たっても「偶然」として処理されてしまうようになった。
お天道様からいただいた偉大なる付録……くるぐるの「力」を利用しようというのは、くるぐる使いだけになった。
――私がくるぐる使いを志したのは、実際にくるぐるの「力」を目のあたりにしたからなんだよ。
まだ二十歳のころさ、奇術師のまねごとまでやっていた私は、くるぐる使いと夏祭りの縁日で一緒になってね。一目でその怪しい芸のとりこになっちまった。
今でもよく覚えている。十六歳ぐらいのくるぐるだった。おかっぱで、こう薄くお白いをぬっていた。やけに白目の部分の多いピンポン玉みてえなでっかい目玉をぐるんぐるん回しながら、機関銃みてえにしゃべり出すんだ。何を言ってるかわからねえ、まるで壊れたテープレコーダーだ。隣につっ立ってた山高帽に蝶ネクタイのくるぐる使いが、それでも上手《うま》い具合に聞き取って、見物人に説明するんだよ。
「くるぐる亀子はこう言っております。※[#歌記号、unicode303d]もうじき血の雨がァ、ザンブとォ、降るぅでぇあっろおおおう……と!」
無声映画の弁士に似た独特の語り口でくるぐる使いが叫ぶと、一斉に非難の嵐だ。
「めでてえ時になんてこと言うんだいっ!」てなもんだよ。しかしくるぐる使いは気にしない、もともと邪道の芸だからねえ、人を幸せな気分にしようなんて心づかいは端《はな》から無いんだね。
「※[#歌記号、unicode303d]くるぐる亀子はピタリと当てますうう!」
血の気の多い若い衆が腕まくりしてすっ飛んで来た。縁起でもねえ二人を袋にしようってんだ。男がくるぐる使いの胸ぐらつかんで今にもなぐりつけようとした。と、そん時だ。
ドドドドっとスゲー音がした。くるぐるを取りかこんでいた見物人が一斉に振り返るってえとどうだろう、いいかげんな工事で足場のゆるんでいた矢倉が、人々を乗せたまま、まさに崩れ落ちる真っ最中じゃないか、阿鼻叫喚《あびきようかん》の血の池地獄。まさにくるぐるの言うザンブと降る血の雨だ。
「※[#歌記号、unicode303d]ホーラごォらん、大当たりいいいいっ!」
私はその夜、くるぐる使いの男に土下座してね、弟子にしてもらった。理屈抜きでくるぐる使いに魅せられちまったんだ。へっへ、最初の仕事はくるぐる亀子のおむつをとっ替えることだったけどねぇ。いろいろ聞き出して、三月目には一人立ちした。……といっても、これも師匠の金を持ち逃げしただけの話だがねぇ。
私は師匠の金で、自分のくるぐるを買うつもりでいた。さんざんあちこち巡ってねえ、美那という名の少女を買ったのは、翌年の春のことだった。
そう、美那を見つけるまで随分とかかっちまった。塩梅《あんばい》のいいくるぐるがどこにもおらんかったんだ。いや、ただのくるぐるなら沢山いたよ。いろんなくるぐるに会ったさ。――自分を聖母マリアだと思ってる娘がおってな。他人の家にあがり込んで、赤ン坊を勝手に連れ出してしまった。赤子がキリストに見えたのだろうねぇ。それだけならまだよかったんだが、電柱に張りつけにしちまったんだな、両手両足に釘《くぎ》を打ちつけてな、泣きわめく赤ン坊に「ゴルゴダ坊やゴルゴダ坊や復活するのに泣くのかお前!」って怒鳴りつけたんだよ。真っ昼間に村のど真ん中でさあ、赤ン坊がいるからみんな手を出せない。するってえとくるぐるがまた叫ぶんだ、「ゴルゴダ坊や神の子なのに泣くのかお前、矛盾してる!」……そりゃ泣くよ五寸釘打たれちゃなあ。結局赤ン坊は死んじまったあ。そうそう、その子の母親がショックでまた狂っちまってねぇ、初七日の朝、何を思ったか自分で号外つくって村中に配り歩いたそうだよ、「我が子復活!! 今晩各電信柱に帰宅予定聖書熟読」なんてキテレツな見出しが書いてあったそうだ。……えっ、くるぐる? 巡査に頭撃たれて死んだあ。
もっとデタラメな話がいくつもあるんだけどね、閑話休題。ともかく、くるぐるには山と会った。だがね、肝心の「力」を持つ娘といえば、これがトンといなかったんだ。ただのくるぐるを見世物にするのは芸じゃないからねぇ。師匠からくすねた金も、そろそろあぶなくなってきた。そんな時、美那を見つけたんだ。
でもね、美那は、実はくるぐるじゃあなかった。
無口で、そのくせいつも口元がにやついているヘンテコな娘だったけれど頭はいかれちゃあいなかった。それでも私が目をつけたのは、美那に「力」があったからだ。他人の忌わしい過去を読んじまう奇妙な力が美那にはあったんだ。
美那はその村の嫌われ者だった。まだ十五歳の小娘なのに、村人は美那を疫病神《やくびようがみ》のように恐れていた。実際美那は疫病神だったんだよ。いらぬところでいらぬことを言うからね。これから嫁ぎに行こうという娘にむかって「でも他に想っている人いたんでしょ」と言う、盗みでとっつかまり泣いてわびる男に「この間は隣り村で火つけまでしたくせに」と話しかける。さらには亭主が何者かに殺されて、妻が号泣していると「おばさん自分でやっといてどうして泣くの」と真顔で質《たず》ねる。普段は大人しいくせに、口を開けばギョッとするようなことを言う、そしてそれがみんな図星だってんだからあ……そりゃあ嫌われるわなあ。
それでも、ちょっとおつむが足りない娘だったからね。美那は村八分にされながらも、いっこうに気にする様子はなかった。ひねもす空だの花だの虫だの川だの、どうでもいいもんをながめて、薄ら笑いを浮かべてすごしていたんだぁ。むしろ悩んでいたのは母親の方でね、いつか娘のせいで自分も非道《ひど》い目に合うに違いないと怯《おび》えていたんだなぁ。私が旅まわりの芸人と知った時、母親はいかにも、娘を引き取って欲しいようなことを私にいい出した。確かに私が欲しかったのは「力」のある娘だ。ある程度「力」があり、しかもくるぐるでない美那なら、世話もいらないしうってつけじゃあないかと思うだろう。……ところがねえ。そうじゃないんだ。私にとっては美那がくるぐるであった方が塩梅が良かったんだ。
なんでかって? あやちゃん、そりゃあ簡単なことだよ。くるぐるの方が、頭のいかれてる分、普通の娘よりお値段が安かったんだよ。
そんな目をせんでくれよあやちゃん、だから言ったろう、私は外道だって。
私は本当に外道だ。私は美那の母親と交渉を始めた。あの業《ごう》つくばりのケチ女、一銭もまけようとしなかった。
「腹を痛めた可愛《かわい》い娘、そんな安くちゃ、あたしが売るのは許しても、お天道様が許さないよ」
「馬鹿野郎! 子供売るって段階でお天道様はもう輝いちゃいねえんだよ」
売り言葉に買い言葉、らちもあかねぇ。
「美那がくるぐるだったらあんたの言い値で売ってやるわよ」
「くるぐるなら格安かい」
「くるぐるなら、二束三文さ」
私も若かった、カチンと来てねぇ、
「よーし! わかった!」
タンと手を打って立ちあがった。
さあ、あやちゃん、私が何を思いついたと思う?
……私はね、この時、人間をやめちまったんだよ。それこそ二束三文で、悪魔に心売りとばしちまったんだあ。外道も外道、ド外道になり果てちまったんだあ。
「美那をくるぐるにしてやれ」……と思いついたんだ。
「くるぐるづくり」……ってのがあるんだよ。
くるぐる使いにとって、力のあるくるぐるを捜すことは至難の技だ。一生かかっても本当に力のあるくるぐると出会えないことだってある。
だからくるぐる使いの中には、くるぐるを捜し出すよりも、貧しい村の、ちょっと情緒不安定な娘を引き取って、さまざまな方法で、くるぐるに仕立てあげてしまおうという、鬼でも思いつくめえことを実践していたド外道もいたんだよ。「力」のあるくるぐるを捜し出すより、普通の娘を狂わせて、「力」を誘発する方に賭《か》けるわけだ。
その場合気になるのは、「人の道」ってやつだな。商売のために人間一人くるぐるにしちまう。その重さに耐えられるかどうかだ。
私は、何とも思わなかった。善とか徳とか、情とか、愛とか、言葉としては知っていても、それに意味があるなんてことを考えたことは一度たりともなかったんだ。すべてこの世のことは、私にはどうでもよいことだったんだ。この世なんて、白黒写真にゴテゴテ色をぬりたくった程度のシロモノだと思っていた。
だから美那をくるぐるにしてしまおうと決めたその時も、可哀《かわい》そうだなんてこた思いもせなんだ。
……美那はいつも、村はずれの小川のほとりに座っていた。私が声をかけると、あの娘はびっくりした目をして、しかし口元に笑みを浮かべて振り向いた。
「いい天気だね、何をしてるの」適当なことをいって私は隣に座った。
「あんた、芸人なんだってね」
美那は口元に薄ら笑いを浮かべたまま私に質《たず》ねた。首を軽く左右に、ゆらゆらと揺らしながら「どっから来たのう?」と、のんびり聞いた。
「ここでは無いどこかだよ」
いいかげんに答えても、美那は怒る様子も見せず、「ふうん」と、何かうれしそうな顔をして空を見上げた後、再び私を見てこう言った。
「盗んだお金、お師匠さんに返してあげなよ」
人の忌わしい過去ばかりを読んでしまう美那が、早速私の秘密を暴いたってわけだ。私はギョッとしたが顔には出さず、すかさず彼女の青白い手を握りしめて、低い声で言った。
「あれは盗んだんじゃないよ。借りたのさ」
「あんた怒ったの? みんなこれやると私のこと嫌いになるんだ。言っちゃいけなかった?」
上目づかいに私の目をのぞき込んで美那は言った。言ってから、気弱そうにまた笑った。
「そんなことない。それより、今度は私がビックリさせてあげよう」
「何?」
「手を離してごらん」
言われるまま、美那は私に握られていた手をほどいた。
「君は私に蝶々をくれたね」
「え。何のこと?」
私は軽く握った自分の拳《こぶし》を彼女の目の前に持ってゆき、そこで静かに手を開いた。
「あっ! あっ!」
真ん丸く見開かれた美那の目の前で、三匹のアゲ羽蝶がパタパタと舞い踊った。飛び散るりん粉が陽《ひ》の光に輝いて、春の午後の中に溶けていった。
美那は吸い込まれるように空に昇ってゆく虫たちを、口をぽっかと開けたまま、いつまでも見つめていた。
簡単なマジックをきっかけに美那と仲良くなった私は、小川のほとりで明日も会う約束をした。私は宿に飛んで帰り、彼女をくるぐるにするための計画を立てたんだ。
彼女をくるぐるにするために私が使ったのは、コックリさんだ。
なあんだと思ったかい? そんなもんで人間がくるぐるになるわけ無いと思うかい? ところがね、コックリさんで十分くるぐるはつくれてしまうんだ。
十代の多感な娘というのは、みんな情緒不安定だ。箸《はし》がころんでもおかしい年頃なんて言うが、箸がころんでもおかしくなっちまう年頃でもあるんだな。ちょっとしたきっかけで、ポーンとあっちの世界にいっちまう危険をはらんでいるんだ。
コックリさんなんかやらせるといちころなんだよ。
ホラ、よくコックリさんをしていた女生徒が狐憑《きつねつ》きみたいになっちまったなんて話を聞くだろう。アレはね、別に悪霊が取り憑いたとかそんなんじゃない。コックリさんは人を暗示にかけて、心の奥から潜在意識を引っぱり出す遊びなんだ。そんなことをまだ心の未完成な娘がやったらどうなると思う……ヒステリーを起こし人格がおかしくなって、即席くるぐる一丁上がり!……だよ。
小川のほとり、平べったい石の上に紙を広げて、私は美那にコックリさんをしようと誘った。
最初私は、他愛の無い質問から始めた。
いろは四十七文字と神社の鳥居を描いた紙に銅貨を置き、美那と私のひとさし指をその上に置いた。
「ククク、なんだか阿呆《あほ》みたい」
「シッ! 黙って、コックリさんに聞かれたらどうするんだい、たたられちまうぜ」
そう言うと、美那は木々で覆われた小川のほとりをグルッと見渡して、もう一度いたずらっぽく笑った。笑うと幼女みたいにあどけなかった。
「まず何から聞こう。明日のお天気でも尋ねてみるかな」
私は思わせぶりに瞳を閉じ、「コックリさん、いらっしゃいましたらお答え下さい」と唱え、美那にも暗唱させた。目をつぶると、美那の長い髪が風に吹かれ、私の指先をくすぐるのが感じられた。
「明日は晴れるでしょうか」
美那と私はじっとお互いの指先をみつめたが、銅貨はピクリとも動かなかった。
「ククッ、何よ、ちっとも動きゃしない……」
美那が言いかけた時、二人の指をのせたまま銅貨がスルリと動き始めた。
「あっ、大変大変、動いた動いた」
息を飲む美那。しかし実を言えば何のことは無い。私が動かしただけのことさ。
「ハ・レ・ル」私は銅貨を動かし、「晴れる」とつづった。
「ではコックリさん、来月のお天気はいかがなもんでしょう」
おどけた調子で私は言い、美那に気付かれぬよう再び指を動かした。
「アメオオイデアロウ」
クククククッと、南方の鳥のような声で美那が笑った。
「あったり前じゃない、来月はもう梅雨なんだもん、私だってわかるわよ」
「そりゃそうだよな、大したことないなコックリさんも、アハハハ……アッ!」
私は突然驚いたふりをして、指を素早くあちこちに動かした。
「バカニスルナ ノロウゾ」
そのようにつづると、美那はハッとして黙った。
「ホントニキキタイコトキケ」
私はさらに指を動かした。
「オマエノイチバンシリタイコトヲキケ」
コックリさんは、コックリという形而上の力を建て前にして、自分の心の奥でくすぶっている欲望や劣等感や憎悪や不安、泥みたいにうす汚い感情を吐き出す地獄の自己分析だからね、一番言いたいことを占わせる。これがくるぐるへの近道なんだな。
「おい美那ちゃん、君が笑うから怒っちまったようだぜ、言う通り一等聞きたいことを聞けよ」
「……うん、そうする」
美那は初めて見せる神妙な顔をしてうなずいた。陽が照らす娘のほほに、可愛《かわい》いうぶ毛が金色に輝いていた。
「コックリさん、ミコちゃんはどうしているの?」
美那は指先の銅貨を見つめて言った。
「ミコちゃんて誰だい?」
「コックリさんなら知ってるよ」
「そりゃあそうだが、私は知らない。私にも教えておくれ、友達かい?」
「うん、あたしと一緒に遊んでくれた、ただ一人の子だよ。去年東京へ行ったっきり、たよりが来なくなった。村中みんな心配してる、けど、一番心配してるのはあたしなんだ」
「ふうん、そうかい、じゃあ聞いてみよう」
私はここで意地悪を思いついた。なるべくゆっくりと指を動かしてね。「ミコ シンダ」とつづったんだよ。
美那はしばらくボンヤリとした顔で文字盤を見つめていた。やがて彼女の真ン丸い目ン玉がさらにふくらみ始めた。涙が一杯にあふれ出したかと思うと、ポロポロとこぼれ落ちた。
外道の私は調子に乗って「ミコ クルツテ シンダ」と指を動かした。
「ミコ サビシクテ ナミダトマラズ ナキシンダ」
「泣き死んだっ!! ミコちゃん泣き死んだんだ! 涙が止まらなくなって泣き死んだのね!」
「泣き死んだ」とは私も上手《うま》いことをいったもんだ。
美那はそれこそ泣き死にせんばかりに落涙したよ。
私はその時ピンと来た。何のことはない。美那の心の奥底にあるものは、少女らしい感傷と孤独感に過ぎないのだ……とね。どんなに変わり者を気どったところで、人から愛されない孤独感に耐え切れるほど、十五の心は強靭《きようじん》であるはずもない。
「泣き死んだ! 泣き死んだ! 寂しくって泣き死んだっ!」
よっぽど泣き死にという言葉が恐しかったのだろう。美那は肩を震わせながらオウムのようにくり返したものだ。
私は、美那をくるぐるにするのは、さほど難しいことではないなと悟った。
泣きじゃくる美那をチロリと見てから、私は指を動かし続けた。
「ミコハイツテイル ヒトリボツチニシテスマナイ」
美那が泣き笑いのような表情を浮かべた。
「モウダレモ ミナニ トモダチイナイ ミコノセイ」
美那は口をへの字に曲げて、しきりに首を振った。
「ヒトリキリ ヒトリキリ ミナ コノヨデヒトリキリ ヒトリキリ ヒトリキリ」
私は彼女の孤独感をえぐり出すため、執拗《しつよう》に指を動かした。
「おい美那ちゃん、もうやめておこう」
口ではそんなことを言いながら、指先の銅貨を動かすことは止めやしなかった。
「デモ ミナハヒドイヤツダ」
私がそう動かすと、美那は泣くのを止め、「どうして!?」と口走った。
「ミコガシンデモナゼナキシナナイ」
美那のか細い喉《のど》が嫌《いや》な音を立てた。
「ナキシネ ナキシネ ミナモ ナキシネ ミナモ ナキシネ ナキシネ」
「おい! やめよう、指を銅貨から離せ!」
「ナキシネ ナキシネ ナキシネ」
私はここぞとばかりに不吉な言葉をくり返し文字盤に描き続けた。
「もうよそう、俺は指を離すからな」
さんざん「泣き死ね」とつづった後、私はそろりと指先を銅貨から離した。
しかし、それでも銅貨は動き続けた。
私が指を離しても、美那のひとさし指をのせた銅貨は「泣き死ね泣き死ね泣き死ね」と、すごい早さで動き続けたんだ。
美那は、全身を小刻みに震わせ、どこにも焦点の定まらぬ目をして、一心不乱に銅貨を動かしていた。明らかに心はこの世に無い、ヒステリー発作による自動書記の状態、霊媒でいうトランス状態にはいり込んだのだ。トランス状態はくるぐると表裏一体だ。美那はもう狂気へ向かって自分で滑り始めたのだ。後はあわてず騒がず、私がそっと背中を押してやればいい。
一度トランスを覚えた少女は自慰を知った猿みたいなもんでな、トコトンやってしまう。
美那はそれから毎日、小川のほとりで、私とコックリさんをやるようになった。ミコの霊を呼び出して、美那は私が指を離しても、一人で銅貨を動かし続けた。ミコの霊と語り合っているつもりでも、実は彼女は、コックリさんの文字盤を通して、自分の劣等感とヒステリー状態の中で何日も語り合っていたというわけだ。
十五の小娘に、そんな状況で、狂うなと言う方が無理な話だ。
美那の挙動不審はすぐに村人の知るところとなった。
ある日、小川の中で、全身を水に濡《ぬ》らしながら、うまそうに蝶々を食べている美那が巡査に発見された。
「お前、田所さんとこの美那じゃろう」と恐る恐る尋ねた巡査に、美那はりん粉を口の周りに光らせながら、「ちがう! 幽機交流人間七号だ」と、きわめて冷静に答え、あっ気に取られた巡査の前で「おてもやん」を踊り始めたんだそうな……
頭のいかれた美那を、私は約束通り母親から二束三文の値で買った。しらじらしくも別れの際に、母親は号泣してみせたよ。美那はポカンとしていたけれどね。
こうして、私は一丁前のくるぐる使いになったというわけだ。
どうしたあやちゃん、気分が悪くなったかい?
御免よ、後生だ、あともうちょっとだけ聞いておくれ。
くるぐる美那を引き連れて、私は日本中を巡った。
ああ、今でもよく覚えているよ。
「※[#歌記号、unicode303d]見とくれおべべはビロードの、果実酒色のワンピース。袖はヒラヒラでっかくて、ラッパみてえな末広がりだ。ひざ丈までのタイツを着せて、靴はピカピカピッカリと、ようかん色したエナメール。頭にゃちょこんとベレーをのせて、おかっぱ頭を眉毛《まゆげ》の上で、ピタリ揃《そろ》えたこの姿、遠目に見りゃあお人形、フランス生まれのセルロイド。ああこれでこの顔が、もちょっと器量がよけりゃあなぁ……」
くるぐる使いの口上だよ。こいつを何度しゃべったことかなあ……いつもここで、見物人がドッと笑うんだ。いやいや、美那の器量は悪かなかった。美人とはお世辞にも言えねぇが、愛敬のある顔をしていた……あやちゃんにちょっと似てたよ……
美那の顔に私はたっぷりとお白いをぬったんだ。紅も赤々と引いてね、目の下にくまも描いた。泣いたような笑ったような道化顔だ。
くるぐるは、整った顔してちゃいけねぇんだよ、説得力がないからねぇ。
「※[#歌記号、unicode303d]聞くも涙かため息か、語る私も胸が痛い。トンチンカンなお話だ、奇妙|奇天烈《きてれつ》アッポレのプー、くるぐる娘の摩訶《まか》不思議、生まれた時ゃあみな同じ、裸でうぶ声上げるのに、いつの間にやら、どうしたことやら、らっきょの皮のむけるよに、離ればなれになる運命《さだめ》。おーい、お天道さん聞いてるかーい! あんたぁキビシーねー!」
ここで私は哀しい顔して空を仰ぐんだ。するってえと隣の美那も上を向いて「キビシー!」見物人はドーッ!
「※[#歌記号、unicode303d]分裂 躁鬱《そううつ》 ノイローゼ 幻覚 妄想《もうそう》 離人 色情 自閉症 不安 強迫 夢遊病 くるぐるりーんのこにゃにゃちゃわー、頭と心がこにゃにゃちゃわー」
ここで美那も「こにゃにゃちゃわー!」。見物人がドーッ!……へっへ……昔は人を笑わせんのも簡単だったよ。
「病には先天と後天とがございます。先天ならば仕方がない、お天道様のおめこぼし、生まれついてのものだもの、だけれど病の後天は、ああ、あの時にあんなこと、不承不承をせなんだら、かかる不幸も雲の上。……悔いが残りますなあ。このくるぐる娘、名を美那と申します。今じゃあこんな顔をしておりますが、もとは亜細亜《アジア》一のべっぴんで、遠くチベットに白亜の豪邸を持つ資産家の娘でございました。もちろんおつむの方だって、叩《たた》けば砂金を振りまくってぐらいの秀才だ。神童でございますな。ところが人の世、いつも不幸の始まりは金と女だ。美那の親父が色ボケでね……へっへ、はずかしいぐらいの助平だぁ……えっ? 娘の前で親の悪口言っていいのかって? かまやしません。どうせくるぐるにわかりっこねえ」
するとここで美那が私の後頭部をポカリ。客はドーッ。
「……いててて! いやいや、英雄色を好むといっときやしょう……お父上はインドからやってきた怪しげな娘に一目惚《ひとめぼ》れ、ところがこの娘がまたくるぐるだ。しかもインドの麻薬、人を狂わすマリワーナ作りの達人と来た。お父上は昼は麻薬、夜は女の阿呆三昧《あほうざんまい》、結局いかれちまいましてね、財産没収一家離散。よくある話だあ……」
それから延々と美那の不幸な生い立ちを語って聞かせるわけだけどね、長くなるのではしょっておくよ。
どうして美那がくるぐるになっちまったのかを散々語った後で、やっと見世物の始まりさ、山高帽に蝶ネクタイの私が、見物人の中から、いかにも訳有りといった風情の者を選んで、美那に過去を読ませるわけだ。
「おじちゃんおじちゃんおじちゃん子供が泣いてらあ、左の目ン玉取れちゃって井戸の中まで捜しに行ったんだぁ。つるべ[#「つるべ」に傍点]にのせとくれ、水くんどくれって泣いてらあ、おじちゃん非道いやぁ」
美那ははっきりしたことは言わない。どうとでもとれる、観念的なことを言うように私が仕込んだからね。それで十分なんだ。言われた本人にはそれだけで何のことだかピンとくるからねぇ。
ひいっ! と女みてえな悲鳴を上げて、やっこさん腰抜かしちまいやがった。それを見て美那がククククククッと笑うってえと、あたりが水を打ったようにシーンと静まり返ってねぇ。
私はあの瞬間が堪《たま》らなく好きだった。
恐いもの見たさってんだろうねぇ。他人にはわからねぇように過去を読むっていう覆面性も受けて、くるぐる美那は行く先々で大受けに受けたよ。
評判が風に乗ったんだろうねぇ。その頃売り出し中の、サーカスの団長がある日私らを訪ねて来た。「しばらくうちとまわって見ねぇか」っていうんだ。私も若かったからね、目ン玉飛び出るくらいの金吹っかけてみた。それでもかまわないと言われたよ。それだけ美那と私の芸は評判が良かったんだ。
私らはサーカス団とあちらこちらを巡るようになった。
サーカス……懐かしいねぇ。獣の匂《にお》い。安っぽいラメの輝き、地上五メートルに張られた綱のギーギーときしむ音。失敗して人が落ちてこねぇもんかなと期待しているお客の目ン玉。そいつが百もあるんだぜ。
楽しかったねぇ。私の人生で二度だけ楽しい日々があった。死ぬ間際にこうして、あやちゃんに良くしてもらったことと、あのサーカスで芸やってた時だよ。
楽しいことってなあ長く続かねぇなあ、私と美那がサーカスにいたのは、ほんの一月だけだった。一月たったあたりから……美那の様子がおかしくなり始めたんだ。
美那の「力」が無くなり始めたんだ。
あんだけ百発百中だった美那の過去読みが、的を射なくなり始めた。
「お姉さんお姉さんお姉さん玉取っておくれよ、子猫詰めたよな生ぬるい人肌のぬくもりした玉取って出刃包丁で切り刻んどくれよ」
「え……何のことだいそりゃあ?」
「おじさんおじさんおじさん八丁目の老人を石地蔵で漬け物にしてぺしゃんこにするの止めとくれよ、柱時計ふいになって鳩の羽根赤ン坊喰えないんだよ」
「……ハ?……このくるぐる……何言うとるんじゃ?」
奇天烈な言葉を並べたてるだけで、客の方がきょとんとしてしまう。そんなことが頻繁《ひんぱん》に起こるようになっちまった。
「美那、近頃どうした? 疲れちまったのかい?」
「力」が無くなり始めてから、美那は暇があると、テントの裏の空き地で、呆然《ぼうぜん》とつっ立って空を眺めていることが多くなった。
「おい美那坊、何を見てるんだよ」
私が話しかけても、美那はまだ紅の残る口をぽかんと開けて、空を見上げるばかりだった。
「雲だよ」
「雲見て楽しいか」
「楽しか無いよ。楽しか無いけどあたしの行く果てがわかるからねぇ」
美那は、日常会話にも脈絡が無いからね、こんな時は合わせてやるんだ。
「ほう、美那はどこに行っちまうんだい」
「お天道様まで飛んで行く。あそこなら月がよく見えるからねぇ」
「美那は月が好きかい」
「月の裏には穴っぽこがいっぱいあってねぇ、どっかひとつにかくれちまえば、もう誰にも見つかりゃしない。地球中の人間があたしをとっつかまえようと双眼鏡をのぞいたって、けっしてつかまりっこないんだ」
「けっ、とぼけたこといってらぁ」
狂人のたわごとと一笑に付した私が、今になって不思議だ。まだ月の裏側にも穴っぽこがいっぱいあるなんて誰も知らない時代のことだ。くるぐるの力は、宇宙の神秘まで少女に見せてくれていたんだろうかねぇ。
「それより美那、お前近頃どうした。今日も外したじゃあねぇか」
「兄さん怒ったの?」
私と美那は、兄弟ということになっておった。くるぐるの妹を看病しながらつらい旅路の美青年……へっへ、私はそういう売りでやっていたんだよ。
「怒りゃしないが、一体どうしちまったのかと思ってなぁ、どうした、故郷へ帰りたくなったか?」
美那は私に背中をむけた。テントの上の、はたはたはためく黒いサーカス団旗をじっと見上げていた。私はその時初めて、美那の背中や肩のあたりが、ずいぶんと丸みをおびて、女らしい体つきになっていることにふと気付いた。
つやつやした黒髪が強い風に吹かれ、天上の黒い旗とほぼ平行にたなびくさまを、色っぽいなとさえ思った。
あっ! と私は思わず声を上げそうになった。
私は嫌《いや》なことに気付いたんだ。
美那は恋をしている。
くるぐる娘は、男に惚《ほ》れちまっているんだ。
一年前にはブカブカだったビロードのワンピースが、今じゃ肩胛骨《けんこうこつ》のあたりにゃ皺《しわ》も無い。表側でぷっくりとふくれ始めた二つの乳房が、布地を引っぱっているからだ。
くるぐるは女になろうとしている。
「いけねぇなあ」と私はつぶやいた。
くるぐるから、ある日「力」が失せちまうことがある。
くるぐる使いにとって一番恐しいこの一大事は、くるぐるが男を意識し、男に心底惚れた時に起こる奇現象なんだよ。
理屈は知らねぇ、恐らくホルモンのバランスが崩れるとかそんなところなんだろうな。ともかく、くるぐるの「力」は、彼女が女になった時に失くなっちまうことが多いんだ。大昔のシャーマン娘は、「処女」であることが絶対条件だったという。男を知った薄汚ねえ女にお天道様と話す資格はねえって発想もあったんだろうが、それより男を知った娘は、その時から「力」がなくなり、シャーマンを続けることができなかったからなのだよ。
「おい、美那」
「なあに兄さん」
そういう風に見るからだろうか、のんびり振り向いた美那の唇が、やけにてらてらと光って見える。おぞましい軟体動物みてえだ。
こいつもしかしたら、もう男を知っているのかもしれん。
私はそんなことも思った。そうするとどういうわけだろう、無性に腹が立ってきた。腹が立ってどうしようも無い。腹の底で、地獄の業火にあぶられた赤ん坊が、この世の理不尽を呪《のろ》って泣き叫んでいるような、どうしようもない怒りがこみ上げてきたんだ。
「おい美那! お前何か俺にかくしているだろう?」
「えっ? 何のこと?」
「とぼけるんじゃないよくるぐる!」
怒鳴りつけてやった。
何がおかしいのか、私の顔を見て美那はククククッと身をよじらせて笑いやがった。
笑うと、美那の胸は大きく揺れた。
私の腹の底で、赤ん坊がゴッと火に包まれた。
「笑うな! 笑うな!」
私は美那をなぐりつけていた。
水たまりに尻もちをついた美那は、ひいいいいいっ! と悲鳴を上げると、天上の黒旗を仰ぎ見て「旗旗旗旗旗旗! ぶった! ぶった! 兄さんぶった! 旗旗旗旗旗旗旗!」と、ヒステリーをおこしてわめき散らした。
ぱっかりと開いた美那の股《また》に、泥水がだんだらの模様を描いていた。
「股を開くなくるぐる!」
私は美那の腹に蹴《け》りを叩《たた》き込んだ。やわらかい正月のもちのような感触が足の甲に残った。
体をくの字に折り曲げ、狂ったように……もとい……もとから狂っておったね……踊るように水たまりの中をころげまわる美那を、私は何度も蹴りつけていた。……自分でも、何故こんなに腹が立つのかわからなかった。美那の「力」が無くなり職を失うことと同時に、美那が男に惚れている。そのこともまた怒りの原因であるような気もした。
だからといって何故これ程腹が立つのか、その時の私にはわからなかったんだ。
「やいこの売女! どいつだ! どこのどいつに股開きやがった!」
「やだやだやだもうやだやだやだやだあっ!」
「答えろ! どいつだ! どいつだ!」
「いやいやいやいやいやったらいやあああっ!」
「抱かれたのか!? 吸ったのか!? よがったのか!? どうなんだ!?」
「やだやだやだやだやだやだやだやだ」
「惚れたのか!? 惚れたのか!? 惚れたのか!?」
「旗旗旗旗旗旗旗旗旗旗旗旗旗旗旗!」
蹴られても蹴られても、美那はカッと目を見開いて天空をにらんでいた。美那が瞳《ひとみ》を閉じてくれていたら、私もあんなに蹴りつけはしなかったかもしれないと今にして思う。
「どいつだ!? どいつに惚れやがった!」
私が問いつめても、可哀想《かわいそう》なくるぐるは、旗旗旗旗とつぶやくばかりだった。真っ赤だったビロードのワンピースはすっかり泥だらけで、どぶネズミの色になっちまっていた。私は少し冷静になって、すまない気分になった。けれど奇妙なことに、自分でやっておきながら、美那をこんな風にしたのは、美那を惚れさせた男のせいなのだという、不条理な確信を抱き、さらにくるぐるに食ってかかった。
「誰だ!? 誰に惚れた!? 道化か? 魔術師か? 猛獣使いか!? まさか小人の源公じゃあ、あるまいなあ!?」
美那は、自分の額からしたたり落ちる血の滴を不思議そうに見つめているだけだった。
「誰だ!? 綱わたりのロビ男……あいつか! そうだな! あいつだな!?」
綱わたりのロビ男はサーカス団きっての女たらしで、いけすかない野郎だった。とにかく手が早くて節操が無いので有名だった。小人の女をはらませたこともあるってウワサだった。
「あいつか! あいつにちがいねぇ!」
若い頃の私は、思い立つといてもたってもいられない性分だった。美那がそうだと認めたわけでもないのに、そう叫ぶと、次の刹那《せつな》にはもう、脱兎《だつと》のごとく走り出していた。
綱わたりといやぁサーカスの花形だ。団長とロビ男だけは特別に、別のテントを与えられていた。
私はロビ男のテントに飛び込んだ。
「おっ、くるぐるじゃねぇか、どうした鳩が豆鉄砲食ったような顔して?」
こういう時は何もかも腹立たしいもんだ。ロビ男のありきたりの表現さえも私の怒りに火に油を注いだ。
「もう少し気のきいたこと言えねぇのかいこの色ボケ野郎!」
「てめえだってありきたり言ってんじゃねえかい、何興奮してんだよ」
ロビ男は印度風の派手な衣装を着て、メイクの途中なのか変に白い顔をして、私に尋ねた。
「……てめえ……美那に手ェ出したな!」
へっ? という表情のロビ男。
「手ェ出さねぇまでも、美那に色目使いやがっただろう」
ロビ男の表情が目元のあたりから崩れ出し、鼻におよび、口に至り、そしてついに爆発したように笑い出した。
「ウワッハハハハハハハハハハハ! 何を言い出すのかと思えばお前! ウハハハハハハ!」
「笑うな、笑うなよぅ」
「笑うよ! 笑うよ! 今親が目の前でポックリ死んだって笑うよ! ウハハハハハハハ! おい、いくら俺だってな、あの娘にゃあ手ェ出さねえよ」
「わからねぇ、女となりゃお前はおかまいなしだからなぁ!」
「ウッハハハハ! よせよ! 死ぬ! 笑わせんなよ! 女ったってなぁ、くるぐる娘の美那だぜ、きょとんとした目でアバアバしゃべるしか能がねぇ小娘だぜ! あんなもんでチンポコ立ててたらバランスとれなくって綱から落っこっちまうよ! あんなもんとオマンコしてるほど俺ぁ暇じゃねぇよ! あんなもんで立つかよ、あんなもん惚れるかよ! それじゃ何かい、お前、あのくるぐるに、本気で惚れる阿呆《あほ》がいると思うのかい? ウワハハハハハハハハハハ!」
あやちゃん、それからしばらくの記憶が私にはないんだよ。あまりにも非道いことしたんだろうねぇ。おつむがそれから半日分の記憶を捨てちまったらしいんだ。
我に返った時、私は夜空を焦がしながら燃え上がるサーカスのテントを、見物人と一緒にながめていた。
ばれなかったけどねぇ……どうも私が火をつけたらしい。
逃げ遅れて焼け死んだ奴が二人いた。
ロビ男と美那だよ。
ロビ男は胸にナイフをつき立てていたそうだ……私がやったんだろうねえ……そのかたわらには美那、二人|揃《そろ》って、こんがりと焦げついていたそうだよ。私はロビ男を刺し、火まで放った。私の読みは正しかったんだ。美那は恋焦がれた男を助け出そうとしてテントに飛び込み、そして息絶えた。
……やるせないよねぇ……
でもね、話はこれで終りじゃない。もう少しだけ聞いてくれるかい。
――何度もいうように、私は外道だ。他人様の胸にも心があって、そいつが哀しくなると縮んだり、うれしくなるとあったかくなったりするなんてことを知らない男だった。だから美那があの世に行っちまっても、特にどうだとも思わなかった。……ただ、その日からどうにも、体が疲れちまって、飯を食うのもおっくうになっちまった。考えることといったら、どうしてあの時あんなにも腹を立てちまったんだろうかということだけだ。あん時美那の奴がカッと目を見開いてなければとか、股をぱっかり開げてなけりゃとか、いろいろ理屈をひねってみるんだがどうにもわからねぇ、いや、わかってはいるんだがそれが言葉として出てこねぇ……そんな感じさ。
私は、美那の死を彼女の母親に報告に行った。
外道の私が何故そんなことをしようと思ったのか、これもわからぬままに汽車に乗っていた。
あんな女でもさすがに母親だねぇ。訪ねていくと、私の顔を見るなり彼女は全《すべ》てを承知した。私の手を握り、「そうかい、そうかい、そうかい……」とくり返した。
「まったくすまないことになっちまって」
柄にも無く私が愁傷を言うと、母親はこんなことを言った。
「私はあの娘を捨てた親。泣く権利はないよ。それよりあんたが不憫《ふびん》だよ」
私が返答に窮していると、母親は、まるで、私をあわれむような目で見つめ、さらにこんなことを言ったんだ。
「くるぐるの美那を女として扱ってくれたあんたに申し訳が無いよ」
「え? 何といった?」
「美那の手紙で知ってるんだよ、あんた……あの娘と恋仲だったんだってねぇ」
くるぐる美那は哀れな娘だ。
笑ってやるしかなぐさめようのないアンポンタンのポカンだ。
真夏に夕立ちのあるように、美那の頭にも塩梅《あんばい》の比較的良い日もあった。そんな時美那は、自分を売りとばした母親にせっせと手紙を書いていたんだ。
「お母さんえ、美那はサーカスの中で不幸では無い不幸はライオン使いの小次郎だって噛《か》まれたから馬鹿お母さん私のこと好きか私は好きだって遠くにいるから好きだお父さん元気なら美那を呼べ呼んだら行くお母さん会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会って」
くるぐるが一生懸命書いた奇天烈《きてれつ》な手紙は三十通もあり、その文面は、全て同じ一行でしめくくられていたのだ。
「兄さんと私もうじき一緒になる惚れあっているから母さん許しておくれね」
私は外道だ。美那の「力」が無くなった本当の原因を知り、美那がロビ男をではなく、私を助けようとして業火に燃やし尽くされた事実を知ってさえも、まだ哀しいとは思わなかった。
ただ、体がくたくたに疲れ、そのくせ足は独りでに動き、私はふらふらと蝶々を追うくるぐるみたいに、村の中をさまよい歩いた。
どのくらい歩いたのか、ふと気が付いた時、私は小川のほとりにいた。
ほとりに腰をおろし、平べったい石の上に紙を開げ、トランクの中から万年筆と一枚の銅貨を取り出した。
いろは四十七文字と鳥居を、随分と時間をかけて紙に書き込み、銅貨を置き、さらにその上にひとさし指を置いた。
コックリさんは、形而上の力を建て前にして、心の奥底から嘘偽《うそいつわ》りの無い自分自身を引っぱり出す遊戯だ。外道であろうとするために、感情を凍結してしまった私にとって、自分の感情を知るためには、もはや魔界の力を言い訳にするしかなかったんだ。
私はコックリさんに尋ねた。
「私も美那に惚れていたのか?」
ソ・ウ・ダ
「それであんなに腹が立っちまったのか?」
ソ・ウ・ダ
「美那を他の男に取られると思ったんだね?」
ソ・ウ・ダ
「私は阿呆だね」
ソ・ウ・ダ
「私はどうしたらいい」
オマエハシツテイル
「……泣き死ねばいいんだね」
ソ・ウ・ダ・ナキシネ ナキシネ ナキシネ ナキシネ ナキシネ ナキシネ ナキシネ ナキシネ ナキシネ ナキシネ ナキシネ ナキシネ 泣き死ね、泣き死ね、泣き死ね。
私はその時、生まれて初めて、スルスルと文字盤の上を滑り続ける自分の指先を見つめながら、「哀しい」という気持ちを知ることができたのだよ。
――結局、波野は泣き死ぬことはできなかった。
あやに全てを打ち明けた三日後、外道の死に様としては信じられぬほどおだやかに、病室の寝台の上で眠るようにこの世を去った。
けれどあやは、波野にとって、この死に方こそが、もっとも残酷な最期だったのではなかったろうかと思った。
『くるぐる美那は、波野に泣き死ぬことすら許してはくれなかったのだ』あやはそう思った。
波野のいなくなった病室の窓から、一心に頭を下げる回教徒の姿が、波野の死んだ日にもあった。
あやにはどうしてもその光景が、お天道様まで飛んでいった蝶々《てふてふ》の美那に、ひたすら許しを乞《こ》う波野の姿に見えてしかたなく、やっぱりどうにも、
「不思議な夢のようだな」
と、いつものようにそう思った。
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憑かれたな
その男の顔には表情がなかった。
マンションの玄関で、稲村節子の目前につっ立っている男の顔は、能面のように無表情で、喜怒哀楽いずれの感情も見てとれなかった。
「初めまして、滝田と申します」
節子に軽く頭を下げた男の声にも、やはり表情がなかった。「モールス信号のようなしゃべり方」と節子は思った。
四十代前半だろうか、私鉄駅前の紳士服屋で売っていそうな安いスーツを着ている。白髪の目立ち始めた七・三。足元に車輪のついた巨大なスーツケースがあることをのぞいたら、どう見ても避妊具の訪問販売員にしか見えない。……こんな男が本当に博子を救ってくれるというのだろうか……。
「あ、名刺です」
節子の不安気な表情に気づいたのか、男は内ポケットから名刺を抜き取り節子に渡した。「オール・ジャンル・エクソシスト、滝田一郎」
と、そこには明朝体で記されてあった。
「私はお客様の宗教、思想にこだわることなく、そして悪魔、悪霊、狐、犬神、妖精《ようせい》、はては宇宙人まで、お客様に取り憑《つ》いた魔物の種類にもまったくこだわらず、オール・ジャンルの憑きものをお祓《はら》いさせていただきます」
滝田一郎はモールス信号の単調なリズムで、まるで「当社はあらゆるサイズの避妊具を取り扱っております」とセールスでも始めるかのような調子で節子に言った。節子はあっ気に取られ、言葉が出なかった。呆然《ぼうぜん》と一郎を見つめている節子に、エクソシストは「あがってかまいませんか?」と尋ねた。
「あ、はい、どうぞ」節子が答えると、一郎は重そうなスーツケースをヒョイと持ちあげ、「ではお邪魔します」とクツを脱ぎ始めた。中肉中背。やはり特徴が無い。
節子と一郎は、マンションの一室で向かいあった。十階の窓から差し込む午後の陽《ひ》が、正座している一郎の顔に陰影を創《つく》るのだが、それでものっぺりと「どうとでもとれる」表情以上には見えなかった。
「今、コーヒーを入れてきますので」
「いえお構いなく、それより娘さんは? 隣のお部屋ですか?」
節子はギクリとした。隣室には彼のいうように娘がいた。十五歳になったばかりの博子。誕生日の夜までは、あどけない少女だった娘。
「早速ですが、様子を拝見させて下さい」
一郎は言い終るより速く立ち上がった。
節子は何とも言えない――恥ずかしさに酷似した――感情に襲われ、彼に「待って」と言った。
「何故です。私はそのために来たのですよ」
「あ、でも待って下さい。博子は今薬で眠らせてます。もうちょっと後でも……」
言いながら節子は、自分がやはり「恥」の感情につき動かされていることに気付いた。私は娘を見られたくないのだ。あんなになってしまった[#「あんなになってしまった」に傍点]少女を娘に持つ自分が死ぬ程恥ずかしいのだ。
一郎は節子の言葉を無視して隣室の扉に歩み寄った。「失礼します」と言いながらも、少しも躊躇《ちゆうちよ》することなくノブに手をかけた。
「待って! 見ないで!」
節子は一郎に駆け寄りその手をつかんだ。
一郎の力は意外にも強く、扉は勢いよく開かれてしまった。
何よりもまず、吐き気を催す悪臭が節子の鼻をついた。また娘が自分の糞尿《ふんによう》と吐瀉物《としやぶつ》をベッドにぶちまけたのだなと思うと、節子は情けなく気を失いそうになった。部屋の奥に、カーテンにさえぎられ陽もささぬ薄暗がりの中に、ベッドの上で寝そべっている博子の姿があった。両手両足をベッドに縛られている。暴れないように節子が縛り上げたのだ。
壁の方を向いていた彼女が、ゆっくりとふり向いた。
その顔はまるで老婆《ろうば》のように醜かった。
髪は抜け落ち、乾燥しきった肌には皺《しわ》が寄り、あちこち月のクレーターみたいにひびが割れていた。瞳《ひとみ》はどんよりと濁り、焦点が定まっていなかった。彼女が百歳の老婆でないとするなら、これではまるで餓鬼だ。
餓鬼は不意の訪問者である一郎を見ると、ニタリと笑った。一郎はと言えば、無表情のままただじっと博子を見つめ返した。
「博子、博ちゃん、お客様よ」
節子は無駄と知りながら娘に語りかけた。
博子は母をチロリと見て、
「黙れよ腐りきってドロドロのオマンコ!」
と言った。
母が何か言おうとするより速く、娘はゼーゼーと息のもれる低い声で「また男を連れこんだか汗だらけのセックスのために! 変態性欲の権現《ごんげん》様かあんたはぁ! 金比羅《こんぴら》様かお釈迦《しやか》様かあんたはぁ!」と言って、そして爆発したように、ギャハハハハハハハハハハと笑った。
笑うと、顔面の角質化した肌がポロポロと落ちた。
節子は思わずその場にヒザを突いた。とめどもなく涙が頬《ほお》を流れて落ちた。
「泣くのかお前は!? 男とオマンコするときみたいによう!? グゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲ!」
節子は涙を止めることができなかった。両手で顔を覆い、「死のう」と思った。博子を殺して私も死のう、こんな化け物、娘じゃない。私が育てた博子じゃない。殺した方がましだ。そうだキッチンに包丁があった。あれでグチャグチャに切りさいて……。
「娘に取り憑きし邪悪なものに問う!」
その時、節子の頭の上で声が聞こえた。それは例えばカソリックの敬虔《けいけん》な長老を思わせる、慈愛と威圧感を兼ねそなえた重厚な響きだった。
「邪悪なものよ、お前は誰だ」
顔を上げた節子は目を疑った。声の主は一郎だった。単調なはずの彼の声が、どういうわけか深みある声に変化し、娘に語りかけているのだ。
「邪悪なものよ、我が問いに答えるべし!」
変化は声だけではなかった。能面じみた一郎の顔までが、叡智《えいち》と苦悩とその他さまざまな人間味を帯びた……賢者ともいうべき表情を形づくっているではないか。一体この男は?
「お前は悪魔と呼ばれるものか?」
一郎が問うた。博子は彼を見据え、
「ちがう」と言った。
「お前は何者かの霊なのか?」
「ちがう」
「それでは狐か? 犬神か? どこから来た? まさか異星からか?」
「ちがう。なんだっていいじゃねえかよ」
「娘を殺す気だな」
「そうだ。殺す。プチトマトをペシャンコにするみたいにベチャベチャベチャしてやる。お前、邪魔するな。お前お前お前お前お前お前邪魔する暇あったらその女とオマンコしろよギャハハハハハハハハハハハハハハハ」
一郎は無言で扉を閉めた。
扉ごしに、しばらく博子の狂った笑いがくぐもって聞こえていたが、やがてピタリと止んだ。
「さ、奥さん。作戦を立てましょうか」
と、一郎がしゃがみ込んでいる節子に言った。その声には、さっきまでの威厳はなかった。節子が見上げると、一郎はすっかりもとの顔にもどっていた。能面のように無表情で、何ひとつそこに感情を見いだすことができない。
節子はとまどうばかりだった。
「これが二週間前の、元気な頃の娘です」
節子は一枚のポラロイド写真を一郎にさし出した。博子の十五歳のバースデーに写したものだ。明るく、素直で、非の打ちどころのない愛《いと》しい少女の笑顔が焼きつけられていた。一郎は手にとり、「なるほど」と無感動につぶやいた。
「明らかに現在の姿は異常だと言えますね」
当たり前のことを言って、写真をテーブルに置いた。
陽が傾き始めていた。写真の表面が陽を受けて焼いたトーストの色に輝いていた。博子はまた眠ってしまったのか、隣室は静かだった。
「娘がおかしくなり始めたのは、この写真を撮った直後でした」
節子は語り始めた。
「娘の誕生日。私達母子家庭だから二人っきりでケーキを切って、そうだお母さん写真を撮ってあげるといったらあの娘喜んで、それじゃママ、お気に入りの服着てくるといったんです。胸元のグリッと開いたワンピースを着てきましてね。栗色に赤い花が散らばったお人形さんみたいな服で、私の前でクルクル回ってみせるんです。ホラ見てよって、スカートがコーヒーカップを逆さにしたようにふくらみましてね。あたし、博子、それじゃ顔が写んないから止まりなさい、止まりなさいっていいながら一枚シャッター切って、そしたらあの子、ふらふらってその場にしゃがみこんだんです。だからいったじゃないって起こそうとしたら……あの娘……私の手をふり払って……そして……」
「なんです?」
「いきなり……『お前何様のつもりだ』……って私に言ったんです」
「それからですか、ああなったのは」
「……最初は、時々でした。時々……博子は別の人格になってしまうようになったんです。時々……突然口汚なく私を罵《ののし》ったかと思うと、すぐに元にもどって、ママ、あたし今なんか言った? なんて……それがだんだん、博子じゃない時の方が多くなって……」
やがて博子は、まったく別の存在になってしまった。十五歳にしてはむしろ幼さを感じさせた彼女が、三流エロ劇画誌にも載せられない程に卑猥《ひわい》な言葉を並べたて、母を「淫売《いんばい》」と罵るのだ。のたうちまわり、手あたりしだいにあたりの物を投げ散らかし、挙句の果てに失禁し、嘔吐《おうと》し、自分の顔になすりつけ、ゲラゲラと笑った。そして股《また》を開き、性器をさすりながら言った。
「俺は博子の肉体を征服した。道徳の名の下にマスターベーションの喜びを!」
性器に爪を立て、指と太股《ふともも》を赤く染めた。
「精神科医の治療は?」
「もちろん受けました。今も眠らせるお薬を飲ませています。ヒステリーとか多重人格症とか言われて入院をすすめられていますけれど……」
「入院させないんですか? 何故?」
節子は一郎の目を見て、言った。
「あれが病気に見えますか? 私にはどうしたって、何かが取り憑いたとしか思えない」
そして一郎に右腕をつき出し、セーターのそでをめくった。腕の内側が赤黒く変色していた。
「あの子が私の腕をつかんでどうしても離さなかったんです。あたしの皮膚が腕からひきはがされるまで、あの子離さなかったんです。あんなこと、人間が出来ることじゃない!……」
感情がこみ上げて来たのか、節子は声をつまらせた。
いよいよ陽《ひ》は沈み始めていた。
節子が灯《あか》りのスイッチを押した。
「滝田さんのチラシを町角で見つけた時、本当に今こうして明りが灯《つ》くように、パッと目の前が開けた気がしました。『医者も宗教家も直せなかった憑きものはらいます』って……しかもお電話さし上げたら、その日のうちに来ていただけるなんて」
「いや、暇なものですから」
「結局、医者は一時だけ大人しくする薬を飲ませるだけで、また薬が切れれば暴れ出します。いろんな霊能力者も訪ねたんですけどインチキばかりでした。でも滝田さんは違う。あなたは本当に霊力がおありになるって、私、なんというかカンで……わかるんです」
嘘《うそ》だった。医者も自称霊能力者達も、博子に取り憑いたものの前ではみんな無力なことはさんざん思い知らされていた。節子がおべっかを一郎に使ったのは、何より節子自身がそう信じたかっただけのことなのだ。今度こそはと思いたかったからだ。
一郎はしかし、意外な言葉を節子に返した。
「私には、霊力などございません」
「は?」
「気功も知りませんし念力もありません」
「……でも、さっき……何かが憑いたようになって、博子に語りかけたじゃないですか?」
「ああ、あれは芝居です」
「芝居ですって?」
「演じたんですよ。霊能力を持つ男の役をね」
突拍子も無いことを言う男に、節子はおずおずと尋ねた。
「あの、超能力じゃないなら、滝田さんは、一体どうやってお祓《はら》いするんです?」
「ですから芝居です」
「え?」
「演技力です」
「ええっ?」
「悪霊祓い師の演技をして魔物を祓うのです」
思わず言葉を失った節子の前で、一郎は巨大なスーツケースの止め金を外し始めた。
「御覧下さい」
スーツケースが開いた。中には、何着もの服が、ていねいに折りたたみ、積み重ねて収納されていた。一郎は一着ずつ、床に並べ始めた。ケースから一着出されるごとに、節子の顔色が青ざめていった。
床に並べられたさまざまな衣服は、いずれもさまざまな宗教儀式に用いるものであった。キリスト教の司祭服、仏教の僧衣、神道の宮司が着る袴《はかま》、白い包帯のような布、あれはイスラム教用のターバンだろうか。スーツケースの中から現れたのは服だけではなかった。一郎はさらに、奇妙な物を次々に床に並べ始めた。聖書、仏典、水晶球、密教法具、得体のしれない草のつまったガラス瓶、しゃれこうべ、ろうそく、何だかわからない化け物の粘土像……等々、一瞬にして室内は、さながら宗教と呪術《じゆじゆつ》の万国博覧会といった様子になってしまった。
「これ……何なんです?」
呆然《ぼうぜん》とつぶやいた節子に、一郎は相変わらず感情の無い声で言った。
「私のお祓いの方法は芝居なのです。お客様に取り憑《つ》いたものが悪魔なら司祭に、幽霊なら坊主に、龍神様なら宮司に、その他のものならそれなりに、私はいかようにも対応し、魔物に見合ったエクソシストの演技をいたします。そして霊力や念力ではなく、私の演技による説得力で、憑きものを祓ってしまうというわけです」
節子はただあっ気にとられ、この奇妙な男の顔を見つめるばかりだった。
「私は役者なんですよ。もっとも、トレンディ・ドラマには出ていませんがね」
そう言って|エクソシスト《悪霊祓い師》は、口の端をつり上げて見せた。
それが一郎の「笑顔」であるとは、その時の節子は、まったく気づきもしなかった。
博子は眠っていた。闇《やみ》の中で、スースーと子供っぽい寝息をたてていた。眠りの間だけは、博子に取り憑いた化け物も大人しくしているのだろうか、それとも彼女と一緒に眠り、同じ夢を見ているのだろうか。節子は、扉のすき間から、老婆《ろうば》のようにやつれた娘の寝顔をつくづくながめ、「どうしてこういうことになってしまったのだろう」となげいた。
どうしてこういうことに……。
節子と娘は、長いこと二人きりで暮らしていた。節子は、博子が五つの時に離婚していた。気にいらないことがあると暴力を振るう夫を、それでも節子は愛していたが、まだ幼い娘にまで手を上げるのを見た時は、別れなければならないと決意した。夫とは離婚後一度も会っていない。それから十年以上、節子は水商売で生計を立てた。恋愛もせず、博子のことだけを考えて生きてきた。博子は大人しい子で、甘え過ぎることをのぞけば何の欠点もなく成長していった。片親だからといって厳しく育てる必要もなかった、素直で、自分より人を想い。明るく……。
「ググググッ」
博子が笑った。眠ったまま、取り憑いたもののしわがれた声で笑ったのだ。節子は背筋を氷でなでられたような寒気を覚え、あわてて扉を閉めた。
応接室にもどると、一郎が無節操な宗教グッズに囲まれながらコーヒーを飲んでいた。こんなウソ臭《くさ》い男にお茶を入れたのは、節子自身、もう何を信じていいかわからなくなっていたからかもしれない。
「滝田さん、その消防服みたいなものは何ですか?」
滝田の持ってきた服の中に、銀色のつなぎがあった。彼はコーヒーをテーブルに置き、落ち着き払ってこう言った。
「宇宙服です」
「うちゅうふく?」
「はい、お客様に取り憑いたものが邪悪な宇宙人[#「宇宙人」に傍点]だった場合。私はそれに対応すべく宇宙服を着るのです。『NASAからやって来たエイリアン・エクソシスト』という役づくりのためです」
「……はあ……NASAですか……」
もうどうでもいい、博子を殺して、私も死ねばいいだけだ。そうすれば博子も私もゆっくり眠れるんだ。そういえば、一体何日まともに眠っていないだろう。眠いなあ……ゆっくりと眠りたい……博子と二人きりで……。
「奥さん……稲村さん!」
一郎の声に、節子はハッと我にかえった。本当に眠りそうになってしまったようだ。
「大丈夫ですか? 寝てないんですね。家族に憑かれた人をもつとおちおち眠れませんからね」
「いいかげんにしてよ!」
節子が怒鳴った。一郎の無感動な言い方に腹が立ち、思わず叫んだ。
「何がNASAよ! 何が芝居よ! 馬鹿なことばっかり言って、私が娘のことをどんなに心配しているか! あんたふざけないでよ!」
一郎はあわてる様子もなかった。節子が嗚咽《おえつ》でしゃべれなくなるまで待ってから、静かに語り始めた。
「奥さんが私を信じられないのは無理もないでしょう。しかし、私はエクソシストの演技、芝居によりこれまで何人もの憑きものを祓っています。芝居エクソシズムの効力を理解していただくためには、まず、憑きもの、いわゆる憑依《ひようい》現象とは何かについて御説明する必要がありそうですね。
最初にわかってもらいたいのは、憑依は古今東西にある現象であり、決してあなたの御家族だけに降りかかった出来事なのではないということです。それを知るだけで少しは楽になるでしょう。……ある日、普通に生活していた人間が奇妙な行動を取るようになる。大人しかった人が手のつけられない暴れものになり、卑猥《ひわい》な言葉をわめきちらし、自分はこの肉体に取り憑いた邪悪なものだと主張する。これが世に言う憑依現象であり、その歴史は聖書の時代にまで遡《さかのぼ》ります。そして、症状としては大同小異なのですが、各自主張する魔物の種類が、国や民族や信仰する宗教によって異なるのが憑依のもう一つの特徴です。キリスト教圏は断然悪魔に取り憑かれたと言います。仏教国ではこれが幽霊[#「霊」に傍点]になります。日本の山岳地帯では狐が多いですね。海辺の村では魚神に憑かれたなんていいます。どうしてこういう違いがおこるのでしょうね」
一郎はここで節子の顔をじっと見た。どうやら節子の意見を待っているようだ。
「……さあ……なぜです?」
「妄想《もうそう》だからですよ」
「なんですって?」
「憑依現象とは、目に見えない邪悪なものに肉体を乗っ取られたと思い込む妄想に過ぎないのです。魔物に雑多な種類があるのは、自分のボキャブラリーの中から無意識に名称を選ぶためです。自分の生活環境の範囲内で、古来から邪悪の代表と言われているものの名を口に出すからです」
一郎は自分の主張に微塵《みじん》の疑いもないようだった。
「博子のあれも妄想だっていうんですか」
「そうです」
キッパリと言い切った。
「ではなぜ妄想に捉《とら》われるのか御説明いたします」
節子が何か言いかけたのをさえぎり、一郎は続けた。
「それは抑圧に対する本能の逃避行為なのです。ある欲望があるとして、それが道徳と反する場合、人は理性で押さえますね。ところが欲する心が理性の何倍も勝っていたらどうなります? ふくらみ過ぎた風船はやがて破裂しますね。憑依妄想がそれです。本能という風船が破裂した状態なのです。本能を抑圧されてきた人間が道徳とまったく反する目に見えない力に自分は支配された。取り憑かれた≠ニ思い込むことによって、逆にどんなことをしたってそれは魔物のせいなのだ。本当の自分は罪深いことなど何もしていない≠ニいう言い訳≠得て暴走してしまう。これが憑依現象の正体なんです」
節子はもちろん納得しなかった。
「そんなことカウンセラーから何百回と聞きました。ヒステリーの一種だというんでしょ。でもね、そんな説得受けて薬飲ませたって直らないのよ! だから電話したんでしょ! だから……」
ギャハハハハとけたたましい笑い声が節子の言葉をさえぎった。隣室からの狂笑。
「起きたのね、あの子……」
「急いだ方がいいですね、手短に説明します。今言ったのが憑依《ひようい》現象の正体ですが、では何故そういうことが起こるのか、一体いかなる物理作用が脳や神経に影響を及ぼして、思い込みというにはあまりに激し過ぎる妄想に全人格が支配されてしまうのか、肝心のその部分が、現代の医学を以《もつ》てしてもまったくわかってはいないのです。答えが出ているのに計算方法のわからない数学問題みたいなものですよこれは。だから薬を飲ませて大人しくさせるより手段がない。西洋合理主義の限界ですよ」
「だからって芝居して効果があるなんて」
「ちょっと待って下さい。医学がダメなら次は神だのみですね。目に見えない存在に対抗するには目に見えない存在だというわけです。しかし妄想ですから、いくら聖水をかけても護摩をたいても意味はないはずですね。ところが……無意味なはずの加持祈祷《かじきとう》、儀式行為を施すことによって、憑依妄想がケロリと無くなってしまう場合が実際にあるのです。一体これはどうしてなのでしょう?」
隣室からしわがれた声が聞こえた。おい淫売《いんばい》! さっきの男とオマンコしてるのか! 俺様に見せて見ろよグハハハハハハハハ!
「何故なら、儀式を施されることによって魔物は取り祓《はら》われた≠ニいう新しいイメージを患者が得られるからなのです」
「……よくわかりません」
「心理療法ですよ。患者は、押さえつけられていた負の本能を、魔物に支配されたという言い訳を得て爆発させます。しかし、それで満足を得るかというとそんなことはない。患者は本能を爆発させながらも心の隅では自分の異常な状態に危険を感じているはずです。これじゃいけないと思っているはずです。心の底ではもとの姿にもどりたいのです」
隣室で大きな物音が聞こえた。博子が両手両足を縛りつけられたままもがき、ベッドを揺らして壁に打ちつけているのだ。ドスンドスンと、地獄から悪魔が登ってくるような嫌《いや》な音をたてている。
「ああ! あの子が暴れている」
「憑依妄想者を元の姿にもどらせるのに必要なのは、薬でも超能力でもありません。一番必要なのは、現実世界にもどるためのイメージなのです」
ギャハハハハ! またもけたたましい笑い声が聞こえた。ギャハハ! 殺してやるよ! ギャハハハハ! この娘犯し殺してやるよ!
「あの声をとめて、何とかして!」
「魔物に支配されたというイメージ≠ノよって暴走した人間をもとにもどすには、同じように、魔物は取り祓われたというリアルなイメージ≠作ってあげればよいのです」
ギャハハハハ! 犯してるのか淫売! あの男を犯しているのか!? それとも犯されているのか!?
「お願い! あの声を止めて!」
「各宗教の|エクソシズム( 悪 霊 祓 い)の方法が、細部まで形式化されているのは、決まりごとが多いほどイメージ≠ノ説得力を持たせられるからです。キリスト教なら聖水をかけ、聖書を何百回と読むことがイメージ≠ノなるわけです。これにより憑依妄想はとり払えます。『自分がもとにもどったのは、抑圧を受け入れたわけじゃない。エクソシズムによって魔物が祓われたのだ』というこの世にもどる言い訳≠、イメージ療法で得られるからなのです」
ギャハハハ! 犬の目玉! 犬の肛門《こうもん》! 犬のオマンコ! お前お前お前の口につめてやるよ!
耳を覆っても博子の声は節子の頭に響いた。
「時に、自称霊能力者達のエクソシズムが、精神医学より効果をあげてしまうのは、霊力なんかじゃなく、結果的にイメージ療法になっているからなのです。合理的でしょう?」
「じゃあそれを博子にやってよ!」
一郎の言い分が、推理、臆測《おくそく》の域を出ていない世迷言《よまいごと》であり、そしてそれを信じて疑わぬ彼の異常性にも節子はもちろん気付いていた。それでも彼を追い帰そうとしなかったのは、隣室から聞こえてくる狂った笑いをとめてくれるという人間がいるなら、例え狂人でも何でもかまわなくなっていたからだ。
ギャハハハハハ! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!
「ところが困った問題があります。憑依妄想者の妄想と、エクソシストのイメージが食い違う場合も多いのです」
「なんですって?」
「仏教信者にキリスト教エクソシズムを施しても意味がないということですよ。鬼に取り憑かれたという妄想を抱いている人に、河童《かつぱ》を取り祓うエクソシズムをほどこしても意味がないでしょ奥さん?」
一郎の唇の端が、それぞれ上方に吊り上がった。
「真のエクソシストは、憑依妄想者の妄想に対応し、見合ったエクソシズムのイメージを与えなければなりません。悪魔に憑かれた者には司祭。ヤマタノオロチなら宮司、宇宙人に憑かれたというのならNASA職員の姿でのぞまなければ意味がありません。そうでしょ奥さん?」
ギャハハハハ! ギャハハハハハハ!
「単一の魔物にしか対応のできない自称霊能者達にこれは無理です。お客様のニーズに応《こた》えていくつものエクソシズムが施せるのは、私のようにどんな魔物に対しても見合ったエクソシストを演じ切れる『俳優』だけなのです」
一郎の唇の両端が、さらに上方につり上がり、ヤニで汚れた前歯がのぞいた。その時になって始めて、節子は彼が笑っているのだということを理解した。
「私、本業は役者なんですよ。『太陽にほえろ』にもチラッと出たことあるんですよ」
一郎の口にアフレコするかのように、博子がゲラゲラと笑った。
「私なら、お嬢さんの妄想に合わせたエクソシストを演じ、現実世界にもどるイメージ≠彼女に作って差し上げられるんですけどねえ」
明らかに、目の前の男がまともでないことはわかるのだが、「帰って下さい」の一言が節子には言えなかった。まともであろうと狂人であろうと、あの笑い声さえ止めてくれるならもうそれだけでいい。
「いかがです、やらせていただけますか奥さん」
節子はおし黙った。彼女が黙している間も、博子は笑い続け、口汚なく彼女を罵《ののし》り続けた。
……ギャハハハハ! お前お前お前の脳みそはオットセイの脳と入れかえられてグチャグチャだなあ! 俺がつぶしてやったんだからな感謝しろ良いことされてお前ありがとう言わないのか矛盾してるぞこの売女くやしかったらオマンコ見せてみろよこの女アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!
……もうだめだ、と節子は思った。これ以上は耐えられない。
「滝田さん、よろしくお願いします」
節子は負けを認めた棋士のように、深々と一郎に頭を下げた。
頭を下げていた節子には見えなかったが、その時、一郎は口の両端をさらに上方に吊り上げていた。そしてすぐに能面の顔にもどり、ぼそりと、「久しぶりの舞台だ」とつぶやいた。
一郎のそれからの行動はさらに奇妙だった。
不安気に見つめる節子の目前で、胸元からコンパクトを取り出し、ペタペタと顔を塗り始めたのだ。あきれ返り「あの……」と尋ねた節子に一郎は言った。
「役づくりですよ」
やっぱり娘と心中した方が良かったかな、と節子は思った。
「エクソシズムで一番困るのは、憑依妄想《ひよういもうそう》がオリジナルの場合です」
ドーランを塗り終えて、妙に白い顔になった一郎が言った。
「悪魔や狐といった、お祓《はら》いの方法が古来からマニュアル化されているものならその通りに演じればいいわけですが、取り憑《つ》いた魔物が妄想者のオリジナルの発想である場合、聖水や読経に代わるお祓いのアイテムや手段を、憑依妄想者の心の中から探し出さなければならない」
「こんな風にお祓いされたいというイメージ≠ェ博子の中にあるというんですか?」
「そうです。必ずあるはずです。奥さん思いあたりませんか?」
「そんな、急に言われても」
「母と子だけの、合い言葉みたいなものは?」
「ありません」
「信仰は?」
「ありません」
隣室の娘は、相変わらず卑猥な言葉を叫び続けている。「オナニーしろ! いじくれよ!」
「娘さんのマスターベーションをしかったことはありませんか?」
「はっ!? あるわけないじゃないですか」
「奥さんの性行為を目撃されたことは?」
「ないです。何言ってるんですか」
「憑依妄想は抑圧された本能の暴走です。特に宗教等によって性欲が虐げられた時に起こる場合が多いのです。性欲を悪としたキリスト教で悪魔憑きという概念が生まれたのはそのためです。罪の意識から逃れようという思いがヒステリーと妄想を呼ぶのです」
「私から娘に禁欲主義を押しつけたりしてません。最近だって、好きな男の子ができたのと相談してきたあの娘を、応援したぐらいなんですから」
「そうですか、娘さんの望むお祓いのイメージを、そこらへんから探し出そうと思ったんですがねぇ」
ヒイイイイッと博子が黒板を爪で引っかくような悲鳴を上げた。
「ではその他なんでもいいですから、娘さんにあれしちゃいけないこれしちゃいけないと強くしかったことは」
「……そりゃ、片親ですから、しつけには気を使いましたけれど、ヒステリーをおこさせるほど押さえつけたつもりはありません」
一郎は腕を組んだ。
「そうですか、わかりました。祓いのアイテムと手段は、直接に私が彼女から引き出しましょう」
早く来いよ! お前ら早く来いよ! と、隣室で博子のしわがれた声が二人を呼んだ。
「ではとりあえず、役づくりをさせていただきましょう、しかしこれも困った。彼女のオリジナルな魔物に対しては、一体どんなかっこうでのぞめばいいでしょうね」
そう言って一郎は並べた服を見渡した。例によって無表情だったが、節子は彼がウキウキしているのだということに気付いた。
「娘さんはどんなエクソシストをお望みでしょうねぇ」
また、唇の両端が上方に吊り上がった。
「御主人は乱暴な方だったそうですね」
「それが何だっていうんです?」
自殺さえしたくなるこの状況を、楽しんでいるかのような一郎に、節子は冷たく聞き返した。
「何の意味があるんです?」
「娘さんは五歳の時にお父さんを失くされてますね。今十五歳、まだまだ父性に憧《あこが》れる年頃ですよねぇ。どうでしょう、大きな、山のような、そして優しさに満ちあふれた父。そんな男がエクソシストとして現れたなら、彼女もお祓いの効力をイメージしやすいかもしれませんねぇ」
一郎は笑うのを止め、腕組みをといた。そして瞳《ひとみ》を閉じ、しばらく何やらぶつぶつとつぶやいたかと思うと、また静かに目を開いた。
節子は、信じられないものを見た。
能面じみた彼の顔に、さまざまな表情が、あぶり出しの文字が浮かびあがるように徐々に、くっきりと、現れ始めたではないか。特別大きく目を見開いたとか、何か言葉を発したわけでもないのに、明らかに、生まれた時からかねそなえていたかのごとき自然な表情が、彼の顔面に現出した。
優しさと厳しさと深いいつくしみ。彼の顔面に浮きでた表情は、人が幼い頃父親に抱いた、全能の男というイメージそのものだった。
「いかがでしょう奥さん? こんな感じ」
これが演技だというのか? 彼の声までも高価な弦楽器のようにつややかに変化していた。
「始めましょう」
と言って一郎はスクと立ち上がった。そんなはずはないのに、大男に見えた。
一郎は足早に狂笑が聞こえる隣室へ向かった。
「信じられないわ」
後につきながら、小さくつぶやいた節子に、一郎はふり向いて言った。
「役者ですと言ったでしょ。『Gメン'75』にもチラリと出ました」
ニヤリと笑った。今度は、本当に笑っていた。
一郎が扉の前に立った。
ギャハハハハ! と脳に響く狂笑。
「今の笑いが1ベルですね」と一郎がつぶやいた。
再び博子の狂笑。
「2ベル」
一郎は廊下の電気を消した。
「客電が消えて……」
ひときわ大きく博子が笑った。
「観客の拍手! そして……開演!」
一郎の手で、扉が勢いよく開かれた。
「ギャハハハハ……また来たかお前またこの娘を犯しに性懲りもなくいやらしい奴《やつ》だ!」
博子は縛りつけられたままベッドの上でもがいていた。ガタガタと部屋中が震動した。
一郎は無言のまま、節子の手を引きながら部屋へ入り、扉を後手にしめ、手さぐりで灯《あか》りのスイッチを押した。
灯りに照らし出された博子は、一瞬顔をしかめた。女の子らしいピンク色のベッドは、血と糞尿《ふんによう》と吐瀉物《としやぶつ》でまだらに染まっていた。
「また会ったな邪悪な者よ!」
と、一郎は博子に向かい、腹の底から響く声で言った。
「お前に名はないのか!?」
「うるせえな! そんなものあるか!」
節子の問いにはまともに答えない娘が、一郎には返事をしてしまうのは、彼言うところの説得力の成せる業なのだろう。
「名もつかぬほどチンピラだというわけか」
「黙れバカヤロー! ブタ!」
「バカにブタか、語彙《ごい》が少ないんだな。もっと気のきいた台詞《せりふ》は言えんのか? お前の座右の銘は何だ? 敬愛する詩人はいるか?」
博子を挑発することによって彼女からアイテム≠引き出そうとしているのだ、と節子は感付いた。
「何言ってんだお前! この娘を犯しに来たんだろ! 早くやれよ!」
「遠慮するよ、女にゃ飢えてない。それよりお前は何をしたいんだ」
「殺す殺す殺す殺す、死ぬまでいたぶる!」
「……それは何かの罰なのか?」
博子が黙った。
「その娘が何か悪いことを欲したから、お前が罰を与えているのか? それとも、かわりにお前が欲望を得てやろうとしているのか? 何が欲しい? その娘は何を欲しているのだ?」
節子はまた気付いた。一郎は抑圧された博子の欲望の正体を引き出すつもりなのだ。
「何か答えてみたらどうだ」
博子は黙ったまま、ゼーゼーと臭《くさ》い息をはきながら一郎をにらみつけていた。
「まあいい、どのみちお前は大した奴じゃない。私がすぐに取り祓《はら》ってやろう」
そこで一歩、一郎がタンと前に進み出た。歌舞伎のような見事な間の取り方だった。博子がピクリと体を震わせた。
名優だ。と節子は思った。
「お前はチンピラだ。力など無い」
「そんなことはない!」
「だったら私について語ってみろ。私の心をお前の力でのぞいてみろ、さあ、やってみろ!」
博子はまた黙った。
「どうした! 何も言えまいこのチンピラ! 私の心さえ読めない愚か者に娘が殺せるか! この能なし、さっさと引き下がれっ!」
烈火のごとく怒鳴りつけた。節子まで縮み上がるほどの迫力だった。
とその時だった。博子が天井を見上げ、突然、少女の声で叫び出したではないか。
「暗い暗い闇《やみ》の中、私をこんなところに置き去りに! 狭い狭い闇の中! 光が無い! 一条の光も無い! 早く出して! 早く早く出して出して!」
その言葉を聞いた一郎の顔が一瞬にして青ざめた。演技では無い。明らかに彼は怯《おび》えたのだ。
博子を見下していたはずの目がくもり、体がブルッと震えた。
「奥さん、一時撤退しましょう」
と節子にむかって唐突につぶやいた彼の声は、もとの、モールス信号のような力無い響きにもどっていた。
「……一条の光もない闇の中……あれは……間違いなく私の中の記憶です」
廊下の壁にもたれ、一郎は言った。
「なんですって?」
「暗い闇の底で助けをもとめる女……あれは私が消そうにも消せない心の傷なのです。それを……読まれた」
「読まれたって……それじゃ……」
節子は一郎をにらみつけた。一郎のドーランが汗ではげかかっていた。
「こんなこと始めてです。今まで憑依妄想者《ひよういもうそうしや》に何人もあってきましたが、私の心を読めと言って本当に読まれたのは始めてだ」
「ねえ! どういうことなんです」
「……本当に目に見えない邪悪なものがお嬢さんに取り憑《つ》いていて、私の心を読んだということでしょうか。私の思い出したくない過去を……」
どうしたお前ら! もう一度来て見ろ! と扉の向こうからしわがれた声。
「私は、舞台役者でした」
一郎は扉を見つめながら語り出した。
「自分で言うのも何ですが、その筋ではちょっと知られた役者だったんです。……もう十年以上舞台には立っていませんがね。芝居をやめた理由は……公演中にね、殺してしまったんですよ。共演の女優を」
「えっ?」
「過って、奈落につき落としてしまったんです。……そう、一条の光もない闇の中にね……芝居のエンディング直前の出来事でした。私はその時、芝居を中止にしなかったんですよ、やっとこぎつけた公演でした。私は熱に浮かされていたんです。奈落の底の彼女の悲鳴が客に聞こえぬよう、私は……咄嗟《とつさ》に奈落のフタをしめてしまいました。そして彼女を闇の中に置き去りにしたまま、演じ切りました。楽屋にもどると、血まみれの彼女が運び出されるところで……娘さんが語ったのは、あの時のことに違いない」
ギャハハハ! ギャハハハハハ!
「二度と舞台には立つまいと決心しました。そして、私のような人間以下の者は、泣いたり笑ったりする資格もないのだからと、感情を人に見せることも封印したんです。だけど血が騒いじゃいましてね。ダメです。芝居は麻薬だ。演じたくて演じたくてどうしようもない。しかし舞台には立てない」
「……それでこの仕事を……」
「友人が憑依妄想に捉《とら》われたのが最初です。ふと思い立って、昔の仲間に聖書と司祭服を借りてエクソシストを演じました。……人助けのためならば、私が殺した女優も……私が演じることを許してくれるのじゃないかと……」
一郎と節子は並んで壁にもたれ、しばらくどちらも口をきかなかった。博子のわめき声だけが廊下に響いていた。
……節子はふと、滝田というこの男、そういえば私と同じくらいの年なのだな、同じくらい、ふけているのだなあ、などと思った。
「まさか……本当に魔物がいるなんて……まだ信じられませんよ奥さん」
「私だって信じたくないです」
本当に博子は一郎の心を読んだのだろうか? 魔物の存在を信じて疑わぬ節子だったが、一郎の反応が過敏すぎる気もした。忘れられぬ記憶だけに、類似したことを言われただけで、結びつけて考えてしまっただけなのでは?
「闇の中……置き去り……一条の光も無い……早く出して」
これは単純に、博子の中にある思い出なのではないだろうかと節子は考えた。もしそうだとしたら、エクソシストの演技により引き出された、現実世界へもどるためのイメージ。そのアイテムと、何らかの関係がありはしまいか。
闇……置き去り……一条の光もない……早く……出して……
「あっ! あっ! あああっ!」
「なんです。奥さん!?」
「ちがいますちがいますちがいます!」
「へっ?」
「博子は滝田さんの心を読んだんじゃない! あれは、……私と博子の思い出です!」
節子は頭の中に、今まで忘れていた過去の記憶が明確な映像となって映し出されていた。
「あの娘はあの時のことを言い出したのよ」
「何です? 言って下さい」
「十年も前のことよ。別れた夫が博子にまで暴力を振るうようになって、夫が酒を飲んで帰ってきた夜、私は博子を押し入れにかくしたの。暗くて狭い押し入れに」
「暗い闇……一条の光もない……」
「そう! それに、早く出してねってあの娘、何度も私にいったわ」
「しかし何故、それを今になって彼女は……」
「アイテムよ! 聖水や読経に代わる、現実世界へもどるためのカギがそこにあるんだわ!」
「どういうことですか?」
「私あの娘に、お父さんが出てったら、もう平気っていう合図に歌を唄《うた》うからねって、それをきいたら出てきなさいねっていったのよ」
「なるほど、その歌をあなたから唄ってもらうことで、彼女は魔物から逃れるイメージを得られるかも……いや得られるに違いない!」
「思い出した! そうよ! 私あの夜娘を抱いて、一晩中彼女に言ったわ……絶対に、何があっても……男なんて好きになっちゃだめよって」
「……抑圧したわけですね」
「あの娘覚えてたんだわ……私さえ忘れていたのに……。それで今、好きな男の子ができて、でもそれはいけないことだと気に病んで……」
「心の葛藤《かつとう》から逃げだすために憑依妄想に捉われたのです」
「あたしが原因……」
「奥さん、悩んでる暇はない、早く博子さんに、十年前に唄ったその歌を唄ってあげなさい。その歌は何です?」
「ピンクレディーの『モンスター』です」
「なるほど! そりゃピッタリだ」
一郎は、ノブに手をかけ、「1ベル、2ベル、喝采《かつさい》、開演」と早口でつぶやくと、思い切り扉を開けた。
「ギャハハハハハハ! 来たか、また来たのか淫売《いんばい》……」
うれしくてしかたがないというように、博子は吼《ほ》えた。
「さあお母さん、唄ってあげなさい……ピンクレディーを」
一郎が節子をうながした。
節子は背すじをのばし、大きく息を吸った。耐えがたい悪臭が節子の嗅覚を刺激し、思わず嘔吐《おうと》しそうになったが、彼女はこらえた。
「ヒャハハハハ! 何をする気だ淫売!」
唄い出そうとして、節子はふと、自分は一体何を馬鹿なことをやっているのだろうかと思った。……いけない、悩むな。今はただ唄ってみるんだ。博子のために。
「モンスター、この私の可愛《かわい》い人、
モンスター、目を覚ますのよ」
節子は音痴だった。怪し気な音程で懐メロを声の限りに唄った。
「モンスター、この私の可愛い人」
いつか娘のためにこうして唄ったことがあったなと思うと、涙がこみ上げてきた。
「モンスター、この私の可愛い人、
モンスター、目を覚ますのよ」
泣きながら節子は唄った。
博子が笑うのを止めた。
不思議そうな顔で母を見つめた。
一郎は黙って二人を交互に見ていた。
節子が唄い終った。
博子の部屋に、しばらくぶりに静寂《せいじやく》が生まれた。
「博子……博ちゃん」
母は、じっと自分を見つめる娘に歩み寄った。
そっと手をのばした。
母の指が、娘のしわだらけのほほにそっと触れた。
「ギャハハハハハハハ!」
老婆《ろうば》の顔をした少女がまたしてもまたしても、爆発したように笑い出した。
「下手な歌唄うんじゃねぇよこの売女! ギャハハハハハハハハハハハハハ!」
「奥さん、泣いている暇はありません!」
廊下にうずくまり泣きじゃくる節子に一郎は言った。彼自身気付いてはいないだろうが、節子を励ます彼の声には、しだいに感情がこもりはじめていた。
「多分、彼女の妄想《もうそう》が強くなり過ぎていたのです。方法自体は間違ってないはずだ」
「もういい……帰って下さい……あの娘を殺して私も死にます。だからもうお帰り下さい」
一郎が、くちびるを噛《か》んだ。そして言った。
「たのむ! もう一度だけためさせてくれ!」
泣いている節子の体を引きずり起こした。
「俺の芝居は人を助けられるはずなんだ。聞いてくれ!」
一郎の勢いに節子は黙った。
「映画の『エクソシスト』を見たことありますか?」
「ええ」
「映画のラスト、いかにしても立ち去らない悪魔に対し、神父は『俺に取り憑《つ》け!』と叫びます。そして取り憑かれた神父は窓から身を投げ悪魔ごと死ぬ……これを演技と考えた場合どうでしょう。神父は妄想者に対し、君に取り憑いた魔物は私の方へ乗り移ったのだというイメージ≠与え、妄想者を救済したわけです」
「それをあなたがやるの?」
「いえ奥さんがやるんですよ。彼女の妄想の原因はあなたです」
「あたしにどうしろと?」
「自分に取り憑いている魔物が、母に乗り移ったという演技を彼女の前でやるのです」
「また私に恥をかかせるのね」
「何が恥ですか、今度こそ絶対にうまくいくんだ! 彼女に、魔物は母に乗り移った、母親が身代わりに自分はもう元にもどったというイメージを与えてやるのです。娘さんがもとにもどったら、すぐに私が、あなたに取り憑いた魔物を祓う演技をします。これで母も子ももとにもどれる」
「でも……私……演技なんか……」
「一度くらいあるでしょ」
「小学校の学芸会で……」
「何の役でした」
「梅の木」
ブッと、一郎が笑った。
節子もつられて笑った。
しばらく二人は声を殺して笑い合った。
二人の忍び笑いと博子の狂笑が暗い廊下にひびき渡った。
「芝居は自我を捨てる作業です。自己を捨て、観客のために尽くそうと思えば、誰でも演技は出来る」
「それ……誰の言葉です?」
「私が殺した女優が言いました」
ギャハハハハハハとひときわ大きな博子の狂笑。
「さあ行きますよ、今のが1ベルだ」
ケケケケケケ! 早く来いよバカ共!
「2ベルが入った」
「私……できるかしら」
「もうおそい、ホラ客電が消えた」
一郎の手がノブを握った。
「役づくりは今のうちですよ」
ケケケケケケケケ! 何やってんだお前ら。
「開演!」と叫び、一郎は思い切り扉を開けた。
「ママ、ママ、そんで? ママあたしの前でじたばた魔物に憑かれた演技したの?」
「何度も話したでしょ、そうよ、博子の前でウーウー言って暴れて見せたのよ」
「ふうん」
このくだりになると、博子はきまってニンマリと笑った。母が自分のためにそれほどのことをしてくれたのだと思うと、うれしくてしかたがないのだ。
節子は、ひざをかかえほほえんでいる娘を、たまらない幸福感に包まれながら見つめた。
あたたかな春の日差しの中で、娘と二人で生きる喜びを、今はただ噛みしめていたかった。
「コーヒー飲んだらまたお部屋のお掃除始めなさい」
「いやよあの部屋、臭くって鼻がまがりそうよ」
「あんたがやったんでしょ」
「だって何も覚えてないもん、あたしがウンチとゲロで汚したなんて信じられない」
信じられない。まったくその通りだ、今こんなにも元気な娘が、ほんの一週間前までは獣のようになっていただなんて。
滝田一郎。
あの男はどうしているのだろうかと節子は思った。彼とはあの日以来あっていない。あの日、娘の前で何もかも忘れのたうちまわった節子の耳元で、そっと、「奥さん、もう大丈夫です」とささやいた一郎。顔をあげると、キョトンとした娘の顔があった。
「ママ、あたし何してたの? 何があったの? あたしの部屋どうしてこんなに汚ないの? あたしどうして縛られてるの……ママ……この男の人……誰?」
一郎は娘がもとにもどったのを見届けると、巨大なスーツケースにエクソシズム用グッズをしまいこみ、いそいそと帰りじたくを始めた。節子が引き止めても、「じゃ私はこれで、料金の方は後日連絡いたします」と、来た時のように事務的に、無表情に言った。
次の日、チラシの番号にダイヤルした節子は「この番号はただいま使われておりません……」というテープの音声を、信じられぬ思いで聞いた。
「滝田さんって人、どこ行っちゃったのかしらね」
のんびりと博子がいった。
きっと一郎は、女優を殺した罪が自分の中から消えうせるまで、エクソシスト専門の役者を続けていく気なのだろう。
もう女優も許して上げているにちがいないわ……と節子は思った。
「じゃ、あたしお掃除してくるね」
博子は悪夢の舞台となった自室へと去っていった。
カーテンのすき間から、一条の光が節子にむかってのびていた。
……一条の光……
滝田一郎は、私達親子に差した一条の光だったのだと節子は思った。
「あれ?」
その時、ふと節子は何かを思い出したような気がした。
何か嫌《いや》な予感めいたものに気付いてしまったような気がした。
「一条の光」という言葉が心の奥でひっかかったのだ。
なんだろう……一条の光……
「あっ!」
と、節子は叫び、ぽかんと口を開けた。
「そうだ一条の光だ」
やはり、節子は自分が恐しいことに気がついてしまったのだと悟り愕然《がくぜん》とした。
博子はあの時、「一条の光もない闇の中」に自分は置き去りにされたといった。
しかし、十年前のあの日、節子は博子が押し入れの闇に泣き出すのを恐れて、彼女に一本の懐中電燈を渡したのだ。
「一条の光」は押し入れの中に、あったはずなのだ。
……とすると……
……博子の語った「暗闇」の記憶とは……私と博子の思い出ではなく……やはり、博子に取り憑いた魔物が滝田一郎の心を読んで語った……殺された女優の独白だったのではないか?
「そんなわけあるもんか」
節子は一人つぶやいた。
そんなことあるもんか、あれは魔物なんかじゃない、妄想だったんだ。
でも待てよ……
もし、本当に魔物が取り憑いていたとしたら、どうして博子はもとにもどったのだっけ?
私に乗り移れと言ったからじゃないか!
魔物が私に乗り移ったから博子はもどったのだ!
……それじゃあ私の体の中には今……
「……まさか……まさかね」
節子は自分を安心させるため、フフフと笑ってみた。
すると、もう少し笑ってみたくなった。
アハハハハと、節子は笑った。
そうするとまた、今度はもっと大きな声で笑ってみたくなった。
ギャハハハハハハハハハハと狂ったように笑ってみたくなった。
それは耐えられないほどの誘惑だった。
笑いたくて笑いたくて仕方なかった。
こらえることなどできなかった。
「憑かれたな」と、節子は思った。
[#改ページ]
春陽綺談
まったく、新井春陽《あらいはるひ》が中学校の教室でやっていることといったら、鉛筆の芯を時間をかけて千枚通しのように細く長くするどく削っていくことだけだった。
それは彼に言わせれば「いつか誰かの眼にこいつをプスリとつき立ててやる」ためだ。瞳《ひとみ》でなくとも、彼の嫌いな同級生や教師達の肉体でやわらかそうな部分――例えば上腕内側の薄い皮質あたり――に、ひ弱な彼の一撃でも致命的な痛みを負わせてやることができるよう、このHBの鉛筆は、いつでもするどく削っておかなけりゃいけないと新井春陽は考えていたのだ。
春陽はまだ十五歳になったばかりなのに、自分をとりまくほとんどのことに飽き果てていた。周りのことが全《すべ》て深夜番組終了後の砂嵐画像を延々と見せられているように退屈でしかたなかった。級友達が夢中で話す異性の話も教師達がヒステリックなまでに熱く語る「志望校選択基準」も、彼にはどうでもいいことであった。
それより、とりとめのない夢想に浸って、夢ともうつつともつかない世界に心を遊ばせていることの方が彼には重要なのだ。鉛筆を削りながら春陽はいつもさまざまな空想をめぐらしていた。およそ現実的とは言いがたい、子供っぽい想像力の世界を捨て切れず、その甘くやるせない空間を愛していた。そして白日夢の国と対極に位置して彼を縛りつけている退屈な現実世界と、その代表たる級友や教師達を嫌悪《けんお》し、もし彼らが春陽の内的空間を否定したり、そこから無理矢理ひっぱり出そうとするようなことがあらば、その時は、とぎすましたこの鉛筆の芯で彼らを一人残らずつきさしてやるのだ。などと考えていた。
春陽のこの想いは、しかし実はほとんど意味がなかったのだ。
教室内の誰一人として、春陽の存在を気にとめてなどいなかったからだ。春陽を否定するも何も、彼らはそれこそ受験や異性のことで頭の中がいっぱいなのであり、春陽のことなど逆に「どーでもいー」ことなのだ。春陽はそのことを自分でもわかっていた。だからなお、彼は雑念に捉《とら》われぬよう鉛筆を削ることに没頭し、自分の思うがままにつくれる空想の世界に、さらに深く、沈むように浸っていたわけなのだ。
「パレードの練習をするので校庭に集合しなさい」
と、教師が語調を強めて生徒に言った時も、春陽はやはり鉛筆をとがらせながら、自分中心にすべてが動く空想世界に心を遊ばせている最中だった。
「またかよぉ」などと口々に小さく不満を表しながらも、生徒達はゾロゾロと教室を出ていった。
春陽は誰もいなくなった教室でキリのようにとがらせた鉛筆を小刀と共にきき手側のポケットにそっと落とし、そして、
「いつかくだらないこの現実からぬけ出すためにこれを振りまわす時がきっとくるんだ」
心に思った。
と、その時ふと誰かに語りかけられたような気がして、春陽はクルリとふりむいた。しかし教室にいるのは彼一人だった。
「気のせいか」
と、さして気にもとめず、彼は教室の入口へと歩き出した。
春陽の通う中学は、保守的で規律の厳しい学校だった。
県民の日に県下|総《すべ》ての中学生総出で行なわれるパレードにしても、春陽の学校は率先して予行演習をくり返していた。
「日和《ひよ》ってやがる」と春陽は思いながら、彼に教師に対して暴言の一つも吐く勇気があったわけではない。
「新井ィ! ボサボサしてんじゃねーよー」
中年の体育教師中川が遅れて現れた春陽の頭をこづいた。春陽は顔からずり落ちそうになった銀ブチ眼鏡《めがね》を片手でおさえ、あわててクラスの最前列に立った。
「お前チビなんだからよ、最初に来い!」
中川はそう言ってもう一度彼の頭をこづいた。再び眼鏡がズレて鼻に落ちた。
それを見て女子の数人がゲラゲラと笑った。
こういうことは、しょっちゅうだった。無口で何の存在感もない春陽が、クラスの中で目立てるのは、あざけりの笑いの対象としてだけだった。
威勢の良いマーチが響き渡り、教頭の号令を合図に、生徒達は背すじをのばし、ひざを高く上げて歩き始めた。
「新井! はやく進めよ」
歩くテンポの遅い春陽の背を、後ろの八木という生徒が強く手で押した。春陽の足はもつれ、酔っぱらいの千鳥足みたいによろけた。
「バカじゃないの」
誰か後ろで女子の声が、けたたましいマーチの流れる中でも、春陽の耳にははっきりと聞こえた。
怒りよりも情けなさよりもただ「前にもあったなこんなことが」と彼は思っていた。
退屈で憎むべき日常を実感させられる局面にぶつかった時、彼はなぜかデジャ・ヴュを同時に感じることがよくあった。そんなはずはないのに、確か以前にもパレードの列の中で自分は誰かにバカと呼ばれた。「あったあった、確かに前にもあった」そんな気がするのだ。冷静に考えて、これはまさに既視感と呼ばれる錯覚であり、本当に以前あった出来事が再現されたわけではないのだろう。もしかしたら、なにかの本にあったように、それは前世の記憶に酷似したものなのかもしれない。
「とすると、ボクは前世でも現実の世を憎み、空想ばかりしていたのだろうか、何代前かわからないその時のボクは、果たして心の中の世界を守るために、凶器をふりまわす勇気を持ち合わせていたのだろうか」
とりあえず、今のボクにそれは無い。でもいつか必ず、遠くない未来にポケットの中のこの鉛筆で……。
カチャカチャとポケットで鳴る鉛筆達の重さを感じながら、新井春陽はそんなことばかり考えていたのだ。
誰にも聞こえないくらいの小さな声で彼はそっとつぶやいてみた。
「うつし世は夢、夜の夢こそまこと」
中学生にしてはずい分とジジむさい響きのある彼のその座右の銘は、江戸川乱歩が好んでよく使っていた言葉である。この言葉通り、現実世界を憎み、見限り、妄想《もうそう》、白日夢、猟奇の空間へと飛翔《ひしよう》していく乱歩の小説を、春陽は特別の思い入れで愛読していたのだ。
「腕を大きく振って! 前を見て進め!」
春陽の頭上で、スピーカーから教頭の割れた声がマーチにのって響いた。春陽は、その声が、放射能に汚染された黒い雨のごとく彼の全身に降りそそぐような嫌な感覚に襲われ、再びつぶやいた。
「うつし世は夢、夜の夢こそまこと!」
「まったくその通りだよな」
えっ? と思わず春陽は顔を上げあたりを見回した。
今、誰かボクに話しかけなかったか?
よっぽど後ろの八木に問いかけようかと思った程、「まったくその通りだよな」という男の声は確かにハッキリと彼の耳に聞こえた。
いや、耳に聞こえたんじゃない。頭の中[#「頭の中」に傍点]で誰かがしゃべったのだ。直接彼の頭の中で声が響いたのだ。
「まったく現実は夜の夢よりうつろだな」
今度はさっきより明確に、春陽は自分の頭の中で誰かが声を発したのがわかった。
思わず、うわあああ! と悲鳴を上げそうになるのをどうにかこらえて、必死の思いで何喰わぬ顔をして春陽は歩き続けた。
「君の頭の中にいるわけじゃない」
再び男の声がした。落ち着いた感じの、春陽よりは十ぐらい年上と思われる声だ。
春陽の額に冷たい汗が浮かんだ。
「誰だ?」と春陽は心の中で姿の見えぬ男に問いかけてみた。
「キョロキョロするな、次のコーナーを曲がる時、校庭の隅を見てみろ、首を曲げずに横目でみるんだぞ」
春陽はもうその場にしゃがみ込んでしまいたいほど怯《おび》えていたのだが、少年の好奇心がかろうじて恐怖心を封じ込んだ。声だけの男に言われるまま、パレードの隊列が大きく進行方向を左へ曲げた時、最小限に首を動かして、できるかぎり両の瞳を右へ向けて十メートル先、校庭の隅を見た。
そこには、若い男が立っていた。
二十代半ばといったところだろうか、一瞬のことだったが、眼鏡をかけたやせこけた顔と、なぜだか大正時代の書生のように着物を着た男の姿を春陽は見たと思った。そして腕組みをしてじっと立つその男は、春陽を見ながら、何がおかしいのかニヤニヤと笑っていた。
春陽は自分の体が面白いように震えているのがわかった。
あと一声ニヤニヤ笑いの男が頭の中でささやいたなら、彼はなりふりかまわず悲鳴を上げていたに違いない。
春陽はもう一度ふり向いてみようかどうしようか考えあぐねた。決死の思いで振り返ろうとした時、「のそのそ歩いてんじゃねーよ」とひざの裏を八木に蹴《け》られた。結局そのまま予行演習の終るまで男のいた校庭の隅を見ることができなかった。演習後振り返った時、そこにはもう誰もいなかった。
――一体何ごとが自分の身に起こったのかまるで理解できないまま、春陽は日の暮れかけた道を自宅に向かって歩いていた。春陽に下校を共にするような友達は一人もいなかったから、彼は毎日たった一人で、人通りのない夕暮れの道を、キャベツ畑を横に見ながらトボトボと帰っていた。いつもならさまざまな夢想に遊ぶ帰途も、今日だけは、校庭で見た例の男とバッタリ出くわしそうで、薄気味悪くて、春陽はこころもち速度を早めて歩いていた。
あと少しで家へつくというころには、夕日はすっかり遠くの山の裏へと沈んでいた。あたり一面の風景がふっと闇《やみ》に落ちた。恐怖心から逃れるため、春陽は天を仰いだ。
夜空にキラキラと輝く星々があった。
雲の切れ間から宝石のように輝く星達を、春陽は美しいと思った。退屈で憎むべきこの世のもののひとつであるとはいえ、またたくつどに砂金をふりまくかのようだ。「きれいだな」と再び春陽は思い、同時に同じくこの世にありながら、ひ弱でみにくく情けない存在でしかない自分自身を想い、小さくため息をついた。
その時ふいに、星がユラユラと動きはじめたように見えた。真上を向いていたからめまいがしているのだなと思い、春陽はあわてて頭をたれた。
その、夜空から自分のクツへと視線を落とす百八十度の間に、時間にすれば一秒にも満たない瞬時の途中に、春陽は自分の瞳《ひとみ》が何か異常な映像を捉《とら》えたことに気づき、ギョッとしてすぐさま視線を上げた。
春陽は声も出せなかった。
いつの間にか彼の目前数歩あまりのところに、若い男がニヤニヤと笑いながら立っていたからだ。
言うまでもなく、校庭の隅のあの男だ。
眼鏡《めがね》をかけ着物を着たその男は、腕組みをしたまま「今晩は」などと言った。しかしのんびりとしたその響きとは裏腹に、これがのんきでいられない事態であることは春陽にもよくわかっていた。なぜなら男の声は彼の口からではなく、春陽の頭の中で聞こえたのだ。
「むかえにきたよ春陽」
次に頭の中の声がそう言った時、春陽は今までに体験したこともない恐怖感が津波のように一挙に頭上から覆いかぶさり、同時に「あった! こんなことが前にもあった!」と、やはり今までの中で最大の既視感にも襲われ、さらに自分の心が肉体から強い力でひっぱり出されるような予感がして震え上がった。
「むかえにきたんだよ春陽」
男が笑いながらもう一度くり返したのがきっかけだった。春陽はトンデモないものを見た。
男の背後で、大地から遠くにある山や夜空まで、つまりこの世界|全《すべ》てに一本たてのひびが入り、その割れ目から目もくらむまばゆい光がこぼれ出すと、徐々に広がって、やがて大きく二つにぱっくりと割れていく様子を、春陽はどうにも形容のしようもない気持ちで眺め続けた。
光は急激に明るさを増していった。それだけではなく、彼方《かなた》から春陽に向かって、いくつもの「光の核」のようなものが目にも止まらぬ速さで飛びこんでくるではないか。ちょうど地平線にズラリと並んだ大戦車軍団の集中砲火をたった一人で浴びせられているようだ。「まぶしい!」男の姿さえ光の中にうもれてもはや見えなかった。春陽はもう目を開けているのが苦しくて、ギュッと瞳を閉じ、両手で顔を覆った。
どのくらいそうしていたのか。
春陽が再び目をあけると、そこはキャベツ畑の道ではなかった。
生まれて初めて見る、あざやかな極彩色の世界に春陽はポツンと自分が立っていることに気づいた。
はるか遠くにベル型の山々がつらなり、手前に針葉樹の森が見えた。春陽の周りは見渡す限りの草原で、ひざ丈《たけ》程もある、きれいに整った草の先を、風が心地よく揺らしていた。
「なんだ? ここはどこだ?」
どこまでも続く空の中を、ヴヴヴヴヴヴンという音を響かせて、やや低空飛行のグライダーが横切っていった。頭の真上には、銀色の、巨大な川魚を思わせる飛行船が浮かんでいた。頭上をゆっくりと通り過ぎる飛行船の腹から、彼の頭に届きそうな程にまで、一本のロープが地上へ向けてたらされていた。驚くべきことにロープには数人の男女が一糸まとわぬ姿でしがみつき、何か楽しそうにポルカのような能天気なメロディを口ずさんでいた。彼らは唄いながら、ロープを伝って陽の光を受けて輝く飛行船に乗りこもうとしているようだった。ズイッ、ズイッと彼らは徐々に登っていった。と、一人の男が手をすべらした。ひゅうっと、ポルカを唄いながら地上へと落下していった。男の体は草の上で二度ほど高くバウンドし、草にたおれ、姿が見えなくなった。しかし、ロープを伝う人々は悲鳴を上げるどころか、一瞬だけ彼を見降ろし、ハハハと笑っただけで、またしてもポルカを唄《うた》いながら、飛行船へ向けてロープを伝ってゆくのだった。
「夢を見ているのだろうか」
遠ざかる飛行船を見ながら、春陽は思った。
どうにも夜に見る夢としか思えない光景だったが、どこかが違った。確かに何かが夢とは微妙に異なっていた。その違いは、犬と猫ほどの決定的な差ではなくて、同じネコでも、アメリカンショートヘアーとトラネコの気性がまったく別であるように、同類であっても同質ではないもののような気がした。
「一体どこがちがうんだろう」
目の前を、金色の蜂《はち》が空中に8の字を描きながら通り過ぎた時、春陽はそのちがいに気付いた。
「色だ、色がちがうんだ。あまりにもこの世界のものは、すべてがあざやかすぎるんだ」
草原の緑。花の赤。空の青。飛行船の銀。そればかりか、風や音にも色を感じた。さまざまな色が、混じり合うことなくそれぞれの距離をもって調和していた。全て微妙に色の異なる十万ピースのジグソーパズルを思わせる美しい世界だった。
その時、背後に校庭の男が立ったことを、春陽はふり返らずして想念で理解した。
「死んで天国に来てしまったのかと思っているだろう」
と、男の想念が頭に響いたのだ。
「ここは……天国?」
春陽は、男の声を聞いても自分がさっきほど恐怖を感じていないことを不思議に思いながら、背後の男に想念で問いかけた。
「天国とはいえないが……君にとってここはどこよりも住みやすい……限りなく天国に似たところなのかもしれないね」
一体、背後の男が何を言わんとしているのか、春陽はまるで理解できなかった。
「ここはどこなんだ?」
と再び問いかけても、背後の男は何も答えなかった。春陽も、なんだかそんなことはどうでもよいような気がしていた。そんなことより、春陽の足元で、花と虫が何か語り合っていることの方が気になってしかたがなかった。
どうやら、この世界では、重要なこととそうでないことの価値基準が理路整然としてはいないようだった。この世界がどこなのかということより、今一番問題なのは、春陽の足元で、見たこともないサフラン色の花と、さっきまで8の字を空に描いていた虫とが会話を交わしていることだった。幻聴なのか、それともこの世界ではそういうこともわかってしまうのか……植物と昆虫は意思を通じ合おうとする時、ペチャクチャと少女達のようにやかましくおしゃべりするのだなと春陽は生まれて初めて知った。
よく聞くと、井戸端会議のテーマは、どうやら春陽についてらしかった。
背後の男が言った。
「少し歩いてみようか」
花と虫とが自分についてどんなことを言っているのか気になってしかたなかったけれど、春陽は男の言われるままに、キラキラと輝く世界を歩き始めた。
歩き出してみると、一歩一歩がやけに重いことに気づいた。
固まる寸前の、不定型なゼリーの中を歩くように、上げた足がなかなか地につかず、春陽はもどかしさを感じながら歩いた。
どこまで行っても景色は変わらなかった。
草原が果てしなく続いているだけだった。
どのぐらい歩いたのか、頭の後ろでギャーギャーという鳥の鳴き声が聞こえた。ふり返ると空に、鳥ではなく運動会に使う大玉ほどの、薄桃色をした物体が浮かんでいた。春陽の頭上を通過していくそれには、サボテンかウニのような無数のトゲがついていた。
それは飛行船よりもずっと低空飛行で、トゲにみえるものは、それ自体に生えているものではなく、それに深々とつき立ててあるものだということが見てとれた。
ふわふわと回転しながら飛んでいくそれには、いくつもカッと見開いた瞳がついていて、眼球のひとつひとつに、「HB」の鉛筆がていねいにつき刺してあるのだ。百個以上の目を持ちながら、一つの口も持たぬ巨大な肉球は、体そのものをブルブルと空中で震わせて鉛筆の一本一本に震動を伝え、さらに空気にもバイブレーションを与えて、ギャーギャーと鳥の鳴くような声を立てているのだった。
それが真上を通る時、春陽は無数の目玉が一瞬だけ一斉に自分を見つめたような気がした。
……さらに歩いていると、そよ風を受けて、波光きらめく小さな沼にぶつかった。ほとりに、丸眼鏡をかけた老人が立っていた。
「あなたは?」
想念を送ると「小松」というかぼそい波動が返ってきた。
老人は、春陽をぼんやりと見つめていた。
孫を見るように、遠い目をして見ていた。
「……小松さん……」
春陽が再び語りかけるよりちょっと早く、小松と名乗る老人はクルリと春陽に背を向けた。そして「あの」と声をかけた春陽を一度もふり向くことなく、老人はゆっくりと歩き去っていった。
――春陽はそれから半日程もこの世にいた。
半分以上、思考の停止した状態のまま、春陽はいつまでも草原の中をさまよった。
この世界では、虫や花やどんな小さなものとでも想念で意思を伝えあうことができた。驚いたことに、空を見ていると必ず視界をチョロチョロと動きまわる白い糸くずのようなもの(春陽はずっとそれは網膜の傷であるとばかり思っていたのだが)とさえおしゃべりができた。といってもさしたる話題のあったわけではない。「今日は」を交わしたあとは、「良いお天気ですね」などと言い合って、すぐに「さようなら」をして別れた。
この世界は退屈だと春陽は思った。しかし、それは鉛筆をキリのようにするどく削らずにはいられないほどに憎むべき時の経過状態なのではなかった。のどかで、うららかだなと思っただけだ。この退屈は苦痛ではない。
「春陽」
校庭の隅にいた男の想念が響いた。
「見ろ、何もないだろう。牧歌的ってやつだ。もっとも実際にはいろんな人に害を及ぼす電波が飛びかっているんだ。でも電波は色がついていないからね。目には見えない。で、結局何もうるさいものは、ここにはないというわけだ」
男はそんなことを想念で送った後、声に出してクククと笑った。
「この世界をどう思う? 春陽」
「……どうって」
「いやか?」
春陽は、そんなことはないなと思った。
この世界は不快ではない。むしろ何というか……そうだ甘美だ。と彼は思った。
静かで美しく、何よりバカ面《づら》を下げてパレードの演習をするやつらがここにはいないのだから。
「ずっとここにいてもいいんだよ」
男の想念に、春陽は何と答えたものか迷った。甘くやるせないこの世界。まるで教室での夢想を立体化させたようなこの世界にずっといられるのかと思うと、うれしくもあった。
「ここにすめよ春陽」
「……でも……」
男は光をふりまきながらそこらを飛びまわっていた金色の蜂《はち》をヒョイッとつかまえ、春陽に手わたした。
春陽は手の中の虫を、逃げ出せぬように手で覆いながら、指のすき間からのぞいた。
電子顕微鏡で見るように、蜂の眼球にあるブツブツや、口のあたりについた花粉の一粒一粒までが鮮明に見えた。
「春陽、生きたいように生きろよ。現実の世界なんか捨ててこっちへ来いよ」
男の想念に春陽はなぜかギクリとした。その拍子に蜂は手の中から青い空へと逃げていった。
遠くで、雷のような音が聞こえた。
「あれは? 雷、雨雲が近づいているの?」
「いや、あれは花火だ。どっかで花火をやっているんだ」
ゴーン、ゴーンと遠雷に似た花火の音。
「小松さんも君が来ることを望んでいらっしゃる」
「小松さん? あのおじいさん?」
「小松龍之介さんだ。この世界の……いわば、ボスがあの人なんだ」
「……ねぇ、そろそろ帰りたいんだけどな」
「いいよ、またむかえに行く」
「……また?」
「その時までに決めておいてくれよ、こっちの世界の住人になるかどうか、まあ、どうせ君はここに帰ってくる」
「……」
「オレは人見広介という。また必ずむかえにいくからな」
「もう……帰りたいんだけどな」
「春陽はもう帰っているんだよ。この世界に」
春陽は自分がうつ伏せにたおれていることに気付き、あわてて立ち上がった。
軽いめまいを感じながらあたりを見まわすと、そこは光り輝く草原ではなく、いつも学校帰りに通るキャベツ畑の中だった。
あたりは暗く、空には星があった。
「いったい何があったんだ!?」
春陽は自分に起こった奇現象を瞬時に思い出した。いくつかのシーンが彼の脳裏に浮かび上がった。
頭の中の声、デジャ・ヴュ、人見広介と名乗る男。光、飛行船、不気味な肉球、小松老人……さっきのさっきまで、ボクはあの世界に半日もいた。
……半日以上も……
春陽は腕時計を見た。水晶の刻むデジタル数字を見た時、彼は「うわあああ!」と悲鳴を上げた。背筋を無数の虫がはい上がってくるような恐怖を感じた。
1993、3月3日、PM19:00。
春陽は確かに、少なくとも半日以上あの世界にいたと思っていた。ところが実際には、人見広介に出会ってからの時間は、わずかに10分しか経過していなかったのだ。
逆浦島太郎とでもいうようなこの体験を、春陽は自分でどう解釈したものか当然のことながらまったくわからなかった。家へ帰り、食事もとらず自室で数時間も呆然《ぼうぜん》としていた。
深夜に、彼はあることに気づき、一冊の本を棚から抜き出し震えながらページをめくった。
春陽は人見広介という名に聞き覚えがあったのだ。「しかしまさかそんなことが」と思いながらめくった本の中に、やはりその名はあった。
春陽が手にした本。江戸川乱歩の「パノラマ島奇談」の主人公は、眼鏡をかけた大正時代の書生であり、その男の名を……人見広介というのだ。
「パノラマ島奇談」は、まるで万華鏡のように、読む度に印象のかわる不思議な物語だ。主人公人見広介は、何をやっても面白くなく、まだこの世を見ぬ内から全てに飽き果て、いつも夢想ばかりしていた。その彼が、自分にそっくりな大富豪の死を利用し、巨万の富を得て、一つの島を彼の思うままに装飾するのだ。やがて彼の馬鹿げた罪は名探偵の知るところとなり、人見広介は花火と共にパノラマ島の夜に散った。
読む度に、これはボクの物語だ。人見広介とは、退屈なこの世界を嫌悪《けんお》し、自分の中にある国を愛してやまないボクの分身なのだ! と春陽は思っていたのだ。
しかしそんな彼でさえ、まさか自分がその分身によって得体の知れない世界へ誘われようなどとはもちろん夢にも思ってはいなかった。
ともかく自分の体験を誰かに話さなければと思い立った。この異常な出来事を自分の中だけにしまっておいたら、ボクはどうにかなってしまう。
夢を見たのか? という当然の疑問も、彼はそれを否定せざるを得なかった。
明らかにあの世界は夜に見る夢とは異なっていた。夢を水にたとえるなら、あの世界は透明なウォッカのようなものになるのではないかと春陽は思った。遠目には同じにしか見えなくとも、それぞれ効果は決定的に異なり、その違いは口に含んだ者にしかわからないのだ。同じ集合に入るものなのに、真冬の朝に片方は凍りつき固体へと変化し、片方はトロトロと冷えきった液状のままなのだ。
『春陽、こっちにすめよ』
「夜の夢もあの世界もボクを惑わすことは一緒だが、はっきりと異なるものなんだ。夢はボクをうならせるだけだけど……あの世界は……ボクを喰らおうとしている」
誰かに助けてほしいと思った。
「誰に打ち明ければいいのだ!」
と考えた時、彼は自分には友人と呼べる者の一人もいないことにハタと気付き、今まで味わったことのない、胸のあたりをしめつけられるような感覚に襲われた。
「打ちあける者などボクには誰もいないのだ」
という想いを、事実を、春陽はこの時初めて現実のものとして自分自身の中で確認することとなった。それは十五歳の少年には、いささかリアルにすぎたといえる。
「ボクには誰もいない」
ぼそりとつぶやいてみると、今度は胸のあたりがキリリと痛んだ。
何だろうこの感じは、こんなの初めてだ。
「ボクには……誰もいない」
もう一度つぶやくと、鼻の奥がツンとした。
そしてふいの夕立に降られた窓ガラスのように、みるみると視界がぼやけ始めた。
春陽は自分が「さびしくて泣いている」のだと気付くまでしばらくの時を要した。
涙は面白いように彼のほほを流れて落ちた。
退屈な現実世界という敵国の大軍から身を守るため、自分の城壁を高く築き上げることのみに夢中になっていた春陽は、気が付けば、天変地異のような異常事態が降りかかった今、援軍として馳《は》せ参じる友の一人としていなかったというわけなのだ。
いくらこらえようとしても、涙はあとからあふれ出し、春陽は嗚咽《おえつ》さえしていた。
「こんな時ボクぐらいの年のやつは誰にたよるんだろう」と考えても、何より同世代の友人がいないのだからわかりゃしなかった。
春陽は無意識にポッケの中の鉛筆を握りしめていた。とがらせた芯が彼の指に小さな穴を空け、血をにじませても、春陽は痛みを感じることもなかった。無機質の物を、彼は強く握りしめた。
その時、春陽がなぜ滝田六助の名を思い出したのかはよくわからない。けれども灯《あか》りがふいにつくように、春陽の脳裏に、いつかテレビのオカルト特集番組で見た、自《みずか》らを「不思議現象ゴロ」と名乗るヘンテコな男の姿が浮かんだのだ。二十代半ばのひょうひょうとしたその男が、居合わせたしかめ面《つら》の霊能力者達と対照的に視聴者からよせられた心霊写真を、「ぜーんぶトリックと錯覚ですねぇ。これは」と笑いながら切り捨て、「いやこれは二百年前のおヨネの霊が」とさらに喰い下がる霊能力者の説明を、変わった理屈で論破してみせたのを春陽は見たことがあった。
「あの人なら、ボクに起こったこの現象さえ、笑いとばしてくれるかもしれない」
春陽はわらにもすがる思いで彼に手紙を書くことにした。一晩かけて、何か参考になるかもしれないと、自分の生い立ち、考え方までもできるだけ詳しくつづった。六助に手紙を書くという行為は、春陽にとって生まれてからの十五年をふり返る作業でもあった。一行書くごとに、ボクは何と意味のない、誰からも必要とされないやつなのだろうか、と彼はつくづく思った。
ボールペンを机に置いた時、空はしらじらと明け始めていた。
滝田|美甘子《みかこ》はイライラしながら兄・六助の背に声をかけていた。
「ねーってば!」
六助はさっきから机に向かって真剣に手紙を読んでいた。妹の声にはまったく気付いていないようだった。
さっきから何度も呼んでいるのに、兄は手紙に夢中になっていてまるで気付かないのだ。
「もう一度声かけてふりむかなかったらぶつかんね!」
「うーむ……これは実に……何つーか……」
六助は手紙の内容によほど感心しているらしく、妹の最後通告にも気付かない。
ポコン、という感じで、美甘子のげんこつが六助の後頭部を軽く叩《たた》いた。
「あてっ! 何、何だ美甘子、まがりなりにも兄であるこのオレの頭を突如として殴るとは!」
「人にコーヒーいれさせといてふりむかないからでしょ。……ハイ、コーヒー」
「お、すまんね」
六助はコーヒーを一口すすり、カップを机に置こうとした。と、間髪を入れずに美甘子の怒鳴り声。
「テーブルにカップ置いちゃダメ! 資料を汚していつもギャーギャー騒ぐでしょう」
「何で二十六にもなって妹に怒られなくちゃならんのだ」
「あたしだって十七にもなって兄の世話を焼くとは思わなかったわよ」
六助は、妹の憎まれ口のたくみさは一体誰に似たのだろうかと思いながら、何も言い返せずに黙ってコーヒーをすすった。
フリーのライターである六助は、安アパートを仕事部屋兼住み家としていた。七〇年代フォークの歌詞のように、電車が通るたびにガタガタと揺れる六助の一室は、おびただしい数の書物で足の踏場もなかった。学校帰りでまだ制服姿の美甘子は、積み上げられた「日本御仕置伝全集」の上にチョコンと座っていた。
「今に本の重みで床が抜けちゃうよ」
「いちいちうるさい奴だなお前ぇは」
「うるさくもなるわよ。二十六にもなって定職の無い兄を持つ妹としてはね」
「ちゃんと仕事をしているだろう、いろんな雑誌に原稿書いているじゃんかよ」
「『流血ジジー、ジプシー・ジョー復活!!』とか『エジソンもびっくり! オナニーで頭が良くなる! 何故?』とか、あんなの文章っていわないわよ」
「おい、オナニーはよせ! 女の子だろ!」
「あんたが書いたんでしょ!」
「あんたとは何だ、お兄ちゃんと呼びなさい」
「そう呼ぶのが恥ずかしい年ごろなの」
「オナニーは言えてもお兄ちゃんは言えんというのかお前は!?」
「うるさいわよ! 世話焼きにきてあげないわよ!」
自分の専門分野以外は何ひとつできない自他共に認めるダメ人間六助は、たまにやってきては食事を作ったり洗濯をする妹に、頭が上がらないのであった。
「それからUFOとか心霊についての文章もやめてよ。気味悪いんだもん」
「オレからプロレスとオナニーと超常現象を取ったら何も残らないのだ」
「夢中で読んでたその手紙。それはどれなの? まさかオナニー……」
「オナニーと言うな! 超常現象だよ、読んでみろ!」
六助が数枚の便箋《びんせん》を美甘子に投げてよこした。
便箋だと思ったのはレポート用紙だった。小さな字でビッシリうめつくされた新井春陽という少年からの手紙には、異常としかいいようのない彼の体験談がつづられていた。――ある日、自分の愛読していた小説の登場人物に出会い、奇妙な光り輝く世界に連れて行かれた……と。
「おかしくなりそうです。ぼくには、相談を持ちかける友人の一人もいないのです」
と、手紙はしめくくられていた。
「……、何?」
レポート用紙から顔を上げ、美甘子はいった。
「な、面白いだろ」
「こんなことって本当にあるの?」
「ある、不可思議な別世界体験談というのははるか昔からいくらでもある。例えば、一人の漁師が、動物に導かれ水中の楽園を旅する。それ程いたつもりはなかったのに、もどってみると、現実世界では何十年もの時がたっていた……とかな」
「それって浦島太郎でしょ」
「ああ、日本で最も有名な別世界体験談だ」
「昔話とこの男の子の体験が同じようなものだっていうの」
「どっちも案内人がいて、楽園のような世界を訪問して、帰って来たら時間の感覚に異常があった、という点ではよく似ているだろ。『案内人』『楽園世界』『時間感覚の異常』そしてさらに『光≠ニの遭遇』がこれに加わった四要素が、別世界体験談には必ずといっていいほど含まれているんだ」
「光=H 光を見るの?」
「光≠ヘ別世界体験談の重要な要素だ。……えっと……一九六七年。ベティ・アンドレアソンは、自宅の窓から差し込む強烈な光≠見た後に、身長一メートルほどの者たちが一列に、ドアを開けずに通過して入ってくる光景に遭遇した。小人達は彼女をUFOに連れ込み、彼らの星に連れていった。そこで彼女は、巨大な鳥が炎に包まれ、やがて灰色の虫がそこから出てくるという夢のようなシーンを目撃したと後に語っている。彼女は長いことその星にいた気がしたが、実際には三時間半しかたっていなかった。……どうだ」
「でもそれってさ、どっか違う星にいったんでしょ。ヘンテコなといっても、ナニナニ星と浦島が行った水中楽園と、この手紙の子がいったところじゃ全然違うじゃない」
「そこが面白いんだよ! 話の大筋は同じなのに、ディテールだけが違うんだ。……ホラ、妖精《ようせい》にバカされた話なんてのを思い出してみろよ。ある日、森の中で『真っ赤な火』を囲んで踊っている妖精に出会う。彼らに連れられて森の奥に行き、何日もドンチャン騒ぎをくり広げるが、ふと家に残した妻が気になりもどって見ると、彼女はおばあさんになっていた。……国が違っても、時代が違っても、結局、別世界体験者の話すことというのは一緒。光、案内人、楽園的世界、時間感覚異常……この四つなんだな」
美甘子の目が「たまげた!」という風に丸く見開かれた、彼女が六助の話に興味を示した時に見せる表情である。「こーゆーとこはまだ可愛《かわい》いな」と思いながら、六助はコーヒーを一口飲んだ。
「ねーねー! 何で!? どうして? それどーゆーこと? ねーねー教えてよー」
「フフフ、やっとこの事件のただならぬ異常さに気付いたかワトソン」
「え? 『輪と損?』あんた何言ってんの」
こういう時の定番であるホームズ・ギャグも、十七歳の小娘には通用しなかった。六助は若干ズズっとこけながら説明を続けた。
「この四要素から、いずれの別世界体験も、実は共通の体験であって、何らかの理由の下に、物語の端々に違いが生じているだけなのではないかという考えができるわけだ」
「浦島太郎もUFOや妖精に連れてかれた話も同じだっていうの? 新井春陽って子も?」
「そう、で、別世界体験の真相に関しては、少なくとも三つの仮説がある、とオレは考えている」
「なに? ナニナニナニナニナニ!?」
「なには一回でいいっ!……まず一つは、ドラッグによる幻覚説だ」
「ドラッグって……この間となりのうどん屋さんにつっ込んだ……」
「そりゃトラック! いらんことをいうな……だからね、要はラリパッパってことだ。ベニテングダケ、ペヨーテなどの毒性を有した植物を食べ、あるいはLSD、モルヒネなどの化学合成された麻薬を服用して『いい塩梅《あんばい》』になっただけの話じゃないかってわけだ。この場合『光』とは、ドラッグにつきものの視覚過敏状態によって、太陽や月が恐ろしいほどまぶしく見えたってことだ。そして楽園はすなわちハイ≠フ状態。時間感覚の異常も、ラリってたら時間なんてわかんなくなっちまうだけのことってわけだ」
「浦島太郎って麻薬常習者《ジヤンキー》だったの!?」
「いや、多分一日だけの体験だろう。一度だけだからこそ浦島も人に語ったんだと思うよ、そして何人にも語ったから昔話として定着したんじゃないかな」
「ちょっと待ってよ、じゃ亀はどうなんの、浦島は亀に連れられて楽園へ……」
「ああ亀か。……それはね美甘子、ドラッグってのは一人でやると危険なもんだ。初体験者にはね、『羊飼い』といって、すでにドラッグの体験のある者が見張り役として立ち合う必要があるのが常識だ。……つまり『案内人』だよ」
「……『案内人』っていっても、亀なんだよ!」
「亀ってのはあくまで比喩《ひゆ》なんだよ。オレの推理では、あの亀というのは、修行のしすぎでちょっとおかしくなった山岳密教の行者かなんかだったんじゃないかと思う。村人からリンチにあっていた行者を助けた浦島は、お礼に行者からベニテングダケでももらったんだよ。山岳密教と幻覚植物は親密な関係にあるからね」
「うーん、なるほど、妖精の話も、森に住む少数民族の幻覚植物を使用するお祭りや宗教儀式に参加しただけの話ってわけね」
「その通り」
「この新井って子も……まさかそーゆーのやってたっての……まさかシンナーとか?」
「それはないと思う。確かにこいつの見た世界はサイケデリックで、LSDや、あるいはシンナーの幻覚と思えなくもないが、別世界について以外の文章がとてもキッチリしている。中坊がLSDを手に入れるのはちょっと考えられんし、シンナー小僧はちゃんとした文章は書かんよ、幻覚説は適用されんな」
「じゃあ何なんだろ?」
「『別世界体験』お次の仮説は、本当にこの世ならざる世界とその住人が存在していて、彼らはどういう根拠かしらないが時々光と共に現実世界にあらわれ、この世とは時間概念の異なるキラびやかな世界に人を連れさることがあるのだという、『形而上世界との遭遇説』だよ。ただどうかなあこれは……例え異次元の者のしわざとはいえ、自分の世界を案内しようという時、何も宇宙人や妖精を名乗ってみたり、ましてや亀になって現れる必要はねーよな」
「キャハハハ。ドッキリカメラみたい」
「古いもん知っとるなあ美甘子、……まあそんなわけで、これはありえないんではないかな……と」
「んじゃあ、残る仮説はあとひとつだけだね?」
せかす美甘子をじらすように、六助はぬるくなったコーヒーをゆっくりと飲み、そして言った。
「オレは超常現象の全《すべ》てが合理的に解説可能だとは思ってない。解けないナゾはある。しかし、別世界体験のほとんどは、ドラッグと、脳異常による幻覚だと考えているんだ」
「脳異常?」
「脳外科医ウイルダー・ペンフィールドは、脳の役割を調べるため、患者の頭を手術で開けて、脳のあちこちに刺激を与えたところ、側頭葉を刺激した時だけに、患者が実際には目の前にないさまざまな映像を見ることを発見したんだ。賛美歌を唄《うた》う合唱団。一輪車をこぐドレスの少女。……脈絡なくいろんなものを見る。これは、側頭葉が記憶の図書館であるためだ。人間は体験したほとんどのことを、忘れているつもりでも、実は側頭葉にはしっかりとメモリーされてあって、そこに何らかの刺激が加わると、忘れていた映像や音が、突如目前に引き出されてしまうことがあるんだよ。――このことから、別世界体験者とは、側頭葉に異常があることが原因で、ある時ふいに、忘れていた記憶のランダムな上映会が頭の中で始まり、さらに記憶もされていない、得体のしれない幻覚までをも見てしまい、そういった超視聴覚経験を、異次元世界旅行と誤って認識しているに過ぎないのではないかという解釈ができるわけだ」
「……でも光は?」
「うん、突然まぶしい光に体が包まれる体験というのは、実は脳異常発作の症例としてあるんだ、それとな、新井春陽は光を見る直前、デジャ・ヴュと、自分の心が体から離れていくような感覚に襲われたと書いているな。既視感と離人感。この二つもまた発作時の症例としてある、そして……」
「そして?」
「別世界体験者の多くが、やはり既視感と離人感を訴えているんだな」
「……時間感覚の異常と共に……ね。……うーん、でもまだナゾはあるね。案内人は? 人見広介をどう解釈するの?」
「うん、こっからは、完全にオレ個人の憶測なんだけれども、別世界体験者の見る『異空間』というのは、その人の心理的基盤となっている思想や信心、そしてコンプレックスからの逃避を代表とするさまざまな願望に大きく左右されることがあるんではないかと思うんだよ。夜に見る夢と同様、脳異常による幻覚の中にまで、人は無意識に『自分自身』を見てしまうんだ。わかるか美甘子? 脳異常説をとった場合の案内人とはつまり、自分自身の『コンプレックスと願望』それらを幻覚の中で擬人化、擬生物化したものなんだとオレは思うんだ」
「うーん……簡単に言うとどーゆーこと?」
「亀。小人達。宇宙人。みな外見は美しいものではないだろ。しかし美しくはないのに、世俗的な苦しみから逸脱した存在ばかりだ」
「あ! なるほど、コンプレックスと、理想とが合体したかたちになってるんだ」
「そう! そして『パノラマ島奇談』の主人公人見広介は、犯罪者という『きらわれ者』だ。しかし逆に、この世を捨てて空想の世界に生きることをきめた『決意の男』でもある。……人見広介こそ新井春陽のコンプレックスと願望の擬人化。春陽そのものなわけだ。さらに春陽が別世界で見たものは、『牧歌的風景、楽しげに空を行く飛行船』『誰とでも心が通じあえる美しい理想郷』唯一見たみにくいものは『鉛筆を無数につき立てられた目玉』つまりこれも、現実世界から理想郷へ飛翔《ひしよう》したいという願望と、それがかなわぬコンプレックス。この二つの見事な映像化といえんだろうか」
そう言って、六助はカップを机に置いたが、美甘子はもう注意することもなく、じっと兄の顔を見つめていた。
「異常に強い現実逃避願望。春陽にとっては別世界体験より、実はこっちの方が大きな問題だとオレは思うんだ。
問題は、この少年はどっちにいこうかと迷っていることだ。
それなりに妥協し、現実社会に順応して生きるか、それともこれから先もずっと、内面世界の住人として生きるのか。現実と夢どっちを選ぶ?
美甘子も知っているように、オレも中学のころかなぁ、生きるってことが嫌《いや》でさあ、今じゃ信じられんけど五回自殺未遂やらかしたんだよなあ。……五回目ん時、手首から血をダラダラ流しながら気づいたんだ。……こりゃ逃げ場はどこにもねえんだなあって……。現実世界で生きることを『負け』だと思わなきゃいいんだなって……『ま、いっか』って思えばいいんだなあと……そう思ったんだよ……」
「お兄ちゃん、そのことも含めて春陽君にお手紙書きなさいよ!」
「お、今、お兄ちゃんと……」
「あんたがいーこと言った時だけそう呼んであげるわよ」
と言って妹はにんまりと笑った。
「そうか! じゃ、お兄ちゃん今から手紙書くよ!……あ、その前に一本取材に行かなきゃ」
「今日は何なの、お兄ちゃん?」
「ん、ノーパンしゃぶしゃぶ屋突撃レポート」
あたふたと身じたくを始めた兄・六助を見上げながら、妹・美甘子はしみじみつぶやいた。
「……一生あんたと呼ぶわ」
六助がふり返り言った。
「ただ小松龍之介というのが何かわからん。春陽もそんな人物に記憶はないという。こいつが誰かわからんうちは、一笑に付した『形而上世界との遭遇説』も否定できないということになるな」
新井春陽は、眠れぬ夜を過ごしていた。
それは、初めて味わう不思議な気持ちに興奮させられていたからだ。簡単に言えば「うれしい」という感覚を、春陽は知覚しながらも、なんなのかよくわからず「何でボクはドキドキしているのかな」と思いながら何度も寝返りをうっていた。学校でなるたけ感情を押し殺す努力を続けていた春陽の情緒は、太古の恐竜なみに鈍感になっていて、面識も無い滝田六助という男が自分の相談に親身にのってくれたことに対し、「うれしい」という言葉が心にうまくまとまって表われなかっただけなのだ。
ただ、六助の言葉を全部信じたわけではなかった。あの体験が全て幻覚であるとは信じられなかったからだ。
また彼のいう生き方の選択についても、同意しかねると思った。大人しい羊のようなパレードの群集の中に一生うまってしまうなんてボクには耐えられない。
それじゃあ人見広介と花火を見に行くのか? 永遠にこの世から逃げ続けて、理想郷を探して根のない草のように生きる勇気がボクにあるのか?
どちらの選択も、よい結果が得られるとは、春陽には思えなかった。
明日はまたパレードの予行演習がある。
ボクはきっと、明日も参加してしまうのだろう。いくら教室で鉛筆をするどく削りあげても、結局それをポケットにしまって、あのくだらないパレードの中の一員になって、そしてマーチにのって、言われるまま前へ前へと進むのだ。「あんなものに参加して生きるのはいやだ。明日、天気が雨になればいいのに。練習が中止になればいいのに」
と春陽は思った。
翌日、空はぬけるように青く、雲ひとつなかった。
聞き慣れた行進曲が、校庭を囲むフェンスの四方に設置されたスピーカーから響いている。
「早く並べ! 一列に! ホラ早く!」
体育教師が叫んでいる。
春陽はポケットの中の、削りたての鉛筆に軽く触れた。
チクリと指の先に痛みを感じた。
「ポケットに手を入れるな!」
いきなり体育教師にほほを張られ、春陽はその場にペタリと座り込んでしまった。そのポーズがいわゆる「女の子座り」だったため、級友達は男子も女子も一斉にクスクスと笑い始めた。笑いは隣のクラスの列にまで伝染し、わざわざのぞき込みにくる生徒までいた。
春陽は心の中で「よくあること……よくあること……」とつぶやきながら、立ち上がり、学生服についた土ボコリをはらった。
その時、またしても頭の中で人見広介の声が響いた。
「今こそ教師に鉛筆をつきさしてやれよ」
と、人見広介は押し殺した想念で語りかけてきた。
自室にもどるなり春陽はベッドにたおれ込んだ。ゼーゼーと荒い息はいつまでもおさまらなかった。パレード演習後、春陽は全速力で走って家へ帰ってきたのだ。日が暮れてからあの道を通ったなら、またあの世界に連れていかれるかもしれない。そう思うと恐ろしく、あの日以来、あらん限りの力をふりしぼって、一度も後をふり返ることなく彼は走って帰るようになっていたのだ。
十五分位もベッドの中でせきこんだ後、春陽はやっとおき上がり、校庭での人見広介との会話を思い返した。
人見広介は、さかんに教師を刺せと彼に想念を送った。
「やっちまえよ。目ん玉にぷすっと刺しちまえよ」
「できない、そんなこと……」
「そのために今まで削っていたんじゃないのか? この世を捨てる絶好のチャンスじゃないか」
「あんたこそ消えろ、あんたは幻覚だ」
「幻覚なものか、現にこうやってお前はオレと話しているじゃないか。それにあの滝田六助にしたって、小松さんの正体がわからなかったじゃないか。あの方が誰かわからない内は、幻覚説も完璧《かんぺき》なものとはいえないな。春陽、この世を捨てろよ、うつし世は夢、夜の夢こそまこと……だろ」
「うるさい、消えてくれよ」
「お前が望んでいたことだろう」
「うるさいってば」
「春陽、一緒に花火を見に行こう」
――春陽は「あああ」と叫びながら、枕《まくら》をほうり投げた。
ダメになる。このままじゃボクはダメになる。
それから自室の中で彼のとった行動は、ほとんど無意識の内だった。
机の上を引っかきまわし、一枚のメモを手にすると、そこに書いてある電話番号を震える指で押した。
十六回目のコールでつながった。眠そうな男の声で「ふああい」と聞こえた。
「……もしもし、滝田さんですか」
「……ん? だあれかなぁ?」
「……新井です……新井春陽です」
「……んー?」
「こないだ手紙出した。あの……別世界の」
「あー! 君かあ」
滝田六助はワハハハと笑い、やーどーもどーもーと、手紙と同じラフな口調で春陽に挨拶《あいさつ》をした。
春陽は早口で、またしても人見広介の声が聞こえたこと、この世を捨て光り輝く世界の住人になれと誘われたこと、自分はもう精神的にギリギリのところにきていることなどを六助に告げた。
「うーん、そうか」
六助はしばらく沈黙してから、語り始めた。
「オレの言った幻覚説でいうなら、それもまた幻聴ではないかと思う。君と人見広介の会話は、つまり頭の中で、そのまま君自身の葛藤《かつとう》をひとり二役で語り合っているようなものだというわけだ。この世に未練がありながら、この世を憎み、かつ空想の中でなど永遠に生きられないこともわかっている。その複雑な想いが人見広介となって君の周りをドッペルゲンガーのようにつきまとっているんじゃないのかな。……小松龍之助の正体がわからなければ幻覚説は成り立たないと広介が言ったのも、つまりそれも君自身の考えでもあるんじゃないか? あの甘美でやるせない色と光の世界が、幻覚の中に完全に封じ込められてしまうのが、君は本当いうとかなり不本意に思っているんじゃないのか?」
「……そうかもしれない……で、ボクは一体どうすればいいんだろう? 滝田さん」
「知らねーよそんなこと」
と、六助はぶっきらぼうに言った。
「現実をとるか妄想《もうそう》に生きるか。そんな大事なこと自分できめなさい、あなた本当に」
言われて見ればその通りだなと春陽は思った。
いくら拒んでみても、いつか自分の生き方を選択せねばならぬ時にぶつかるのだという真実が、春陽は何より恐ろしかった。空想に浸り現実を見ずにただ鉛筆を削っているうちは、なんとかモラトリアムでいられる。本音を言えば、彼の「凶器」づくりの一番の理由もそこにあったのだ。
しかし、やはり、いくら何本の鉛筆を削ってみても、今こうして、その時は来た。
沈黙している春陽に、六助は明るく言った。
「それより飲もうぜ春陽、お前の屈折のしかたは昔のオレを見るようで気味悪くていかん。たたき直してやる。ヘラヘラ生きるコツを教えてやる。もし脳の異常による幻覚だったら、どこの医者がいいとかアドバイスもできるしな。こりゃ仕事に使えるネタだとゆー打算も正直ある。ともかくまずは飲もう!……お前、プロレス好きか?」
「はあ……まあ、北尾光司とか好きです、ウソっぽくて」
「ワハハハハ! 気に入ったそのひねくれ具合――よし、明日行くよ」
「明日ですか!?」
「あさってまで待ったら春陽、お前本当におかしくなっちまうかもしれねーだろ」
そういって、六助は笑った。
翌日はどんよりと曇っていた。
春陽は、音量を上げすぎて音の割れたマーチに合わせ、みなと共に行進の中にいた。
春陽の額に汗の玉が無数に浮かんでいた。
きのう、六助との電話を切った後、またしても人見広介からの想念が春陽の頭に響いたのだ。広介は抑えた声で「信じるなよ」と言った。
「お前を助けようなどという人間がこの世にいると思うのか? 今までにいたか? 滝田がお前を友達だと思っているとでも思うのか?」
春陽は両耳をおさえ、毛布に頭をうずめて、頭の中に広介の声が侵入してこないように「来るな、入ってくるな」と呪文《じゆもん》のように唱え続けた。それでも声は一晩中春陽を責め続けた。おかげで彼は一睡もできなかった。今日、教室でいつものように鉛筆を削っている時は、指が震えて、鋭く削ることができず、何度か指の腹を小刀の先で突き刺してしまった。
「いらいらいらいらいらいらする」
とつぶやき、春陽はそれでもなお、小刀の背に親指をあて、鉛筆をとぎつづけた。
――少し歩くのが遅れた春陽の背を、八木が「おせーよ」という言葉と共に強く押した。腹は立たなかった。そんなことより、またここで人見広介の声がしたらどうしようということの方が何百倍も気になっていたのだ。もしもう一度人見広介が語りかけ、「どっちを選ぶ」と問いかけてきたらボクはどうすればいいのだ。「夢と現実、夢と現実、夢と現実、夢と……」花占いのように、行進曲のテンポにあわせて春陽は心でつぶやいてみた。
「どちらを選ぶ? 夢? 現実? 夢? 現実? 夢 現実 夢 現実 夢 現実 夢 現実 夢 現実 夢 現実 夢」
「夢を選べよ春陽」
「来たな!」春陽は思った。
恐ろしさに気を失いそうになりながらも校庭の隅に目を向けた。
「そこじゃない」
と人見広介は春陽の頭の中にあざ笑うような想念を送ってきた。
「どこにいるんだあんた?」
「どこだっていいだろ。それより決めたのか春陽、夢かこの世か?」
春陽はキョロキョロとあたりを見まわした。書生姿の男はどこにも見えなかった。八木が「何をふらふらしてんだよ」と言った。マーチが、やけにうるさかった。
「どうするんだ、どっちにする、春陽? 夢 現実 夢 現実 夢 現実 夢 現実 夢 現実」
「どこにいる? どこにいるんだ?」
「夢現実夢現実夢現実夢現実夢夢夢……」
体育教師中川は、自分の担任する三年C組の行進が乱れていることに気づき、その原因を判断するより前に、とりあえず「こらあー」と一声大きく叫ぶと、生徒達の様子を見るため走りよった。行進の乱れが最前列の新井春陽という無口な生徒のせいだということは一目でわかった。
新井春陽は、立ち止まり、何かを探すようにしきりと首を左右に動かしていた。その表情は真剣そのもので、彼がただならぬ状況におちいっていることは明らかだった。八木という生徒が中川を見つけ、「先生、こいつ何かやばいっスよ」と言った。
「おい新井、何をキョロキョロしとるんだ!?」
と中川は新井春陽を怒鳴りつけた。
中川はこの新井という生徒が大嫌いだった。一日中小刀で鉛筆を削り、話しかけてもろくに答えず、おまけに中三にもなって「ボク」という一人称を使う。『現実を見ようとしない生徒は嫌いだ。大人になろうと努力せずまだ夢を見てやがる。夢なんかあるものか! オレはあと三十年ローンがあるってのによう……』
「新井、聞いとるのか!?」
新井春陽が静かにふり返った。
中川は、春陽の顔に浮かんだ表情を、喜怒哀楽いずれのものとも判断ができなかった。ただ、この少年の感情は、ふくらみ過ぎた風船のように、あと数秒もたたぬうちに爆発しようとしているのだなということだけははっきりわかった。
「そこにいたのか……」
と新井春陽は言った。
「何? 何といった?」
中川の問いに答えず、春陽は言った。
「そこにいたのか、人見広介」
度数四十の焼酎《しようちゆう》をつめたナップザックを背負い、滝田六助は初めて通る田舎道《いなかみち》を、春陽の家を探して歩いていた。
春陽にあったら、まず小松龍之介の正体を教えてやらなきゃと六助は思っていた。
小松龍之介とは、平井太郎こと江戸川乱歩が、春陽くらいの年の少年を対象とした作品を書く時に何度か使った、乱歩以外唯一のペンネームだったのだ。春陽は表面的に忘れていたその名を、側頭葉異常による幻覚の中で思い出していたのだろうか。――やはり彼の別世界体験は、脳異常による夢幻様状態だったのだと六助は考えた。
小松龍之介こと江戸川乱歩。――この世に飽き、そして憎み、妄想《もうそう》の中へ逃げようとした者が、その手段として犯罪を選んでしまった悲劇を、何度となく物語にした男だ。「蟲《むし》」「屋根裏の散歩者」「パノラマ島奇談」。
輝く世界の住人、人見広介、つまり春陽自身が、小松龍之介のことを「この世界のボス」と呼んだのも、当然のことといえるかもしれない。
「間に合うかな」と六助はつぶやいた。
超常現象を素直な目で見ない六助だったが、時々、嫌《いや》な事件が起こる直前に限り、彼にはカンが働くのだ。胸のあたりがズンと重くなるその予感を、今確かに彼は感じていた。
「待ってろよ、オレが現実の中でヘラヘラ生きていく方法を教えてやるからな。ヘンな考えをおこすんじゃねーぞ春陽。妄想世界の住人になるんじゃねーぞ」
風にのって、どこからか行進曲が聞こえていた。「間に合わんかもしれんな」と、六助はなぜかふと思った。
「何? 何と言った新井、ひとみひろすけ?……誰のことだ、それは!?」
「見つけたぞ人見広介……」
新井春陽はそう叫ぶと、ポケットから一本の、キリのようにとぎすました鉛筆を取り出した。そして、まるで虫をピンで刺すかのように、それを中川の左目に深々とつき立てた。
ぷつん……という眼球の破れる音を、中川は、他人の身に起こったことのように不思議な気分で、しかししっかりと両耳で聞いた。
「うううああああ!」
どうっと校庭にたおれ、やがて「ギャア」と悲鳴を上げながらころげまわり始めた中川に、春陽は叫んだ。
「どうだ人見広介! ボクが何もできないとでも思ってたんだろう!? なめるな、ボクだってできるんだ! 選べるよ! 夢と現実とどっちかひとつを選べばいいんだろ! 選んでやるよ! 現実だ! 現実だ! やっとわかったんだ現実だ! ボクはこわかった。いつまでも夢の中にいたかったんだ。だけどそんなことできるわけないだろう! みんないつかは大人にならなきゃならないんだ! いつまでも夢に生きちゃいられないんだ! 知ってたよそんなこと! ずっと昔からわかってたよ! 認めるのがこわかっただけだ! でももうかわった! そして決めた! ボクは夢に喰われないぞ! 人見広介! あんたを殺して! ボクはこれから現実の世界で精一杯生きていくんだ」
けたたましく鳴り続ける行進曲の中、叫び続ける春陽と、赤ん坊のようなうめき声を上げる中川以外、教師も生徒も、凍ったように身動きひとつできずにいた。
「それにしてもだ! 夢を守るためにとがらせていたこのHBの鉛筆が、逆に現実世界で生きるための武器になるだなんて、人生ってわかんないもんだよなあ! なあ、八木君! 君もそう思うだろ!?」
春陽に突然同意を求められた八木は、「ひい!」と叫んで尻《しり》もちをついた。
ペタリとしたその座り方は「女の子座り」だった。
それを見て新井春陽は「あった! こんな光景は前にもあった!」と叫び、行進曲に合わせてゲラゲラと笑い始めた。ゲラゲラゲラゲラと、壊れたオモチャみたいに、春陽は笑い続けたのであった。
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のの子の復讐ジグジグ
袋手《ふくろで》道子には、のの子というあだ名がつけられていた。
「のの子」の由来は、彼女の大きなギョロリとした瞳《ひとみ》が、まるで「の」の字を横に二つに並べたように見えるところから来ている。実際、浅黒い肌をした彼女は、真ン丸い瞳ばかりがよく目立つ猿みたいな顔をしていた。おまけにのの子には、大きなその瞳を上下左右にせわしなく動かすくせがあった。顔は真正面を向いたまま、キョロリキョロリと瞳を動かす様子は、不二家の店頭に置いてあるペコちゃん人形のようだった。
のの子が瞳を動かす理由は、彼女にしか理解できない強迫観念によるものだ。
「右を見たら左を一回見ないと悪いことが起こる、ああ、右を見ちゃった、左も見なきゃ、そうしないと悪いことが起きる」
などと思いながら彼女は目の球をクルリクルリと回転し続けていたのだ。
彼女の言う「悪いこと」とは「いじめ」であった。
中学二年生の今日まで、彼女は学校とは名ばかりの地獄にいた。
小学校の頃には、真冬のプールにつき落とされたり背中に焼けた栗をつっ込まれたりもした。鼻の穴にリップスティックを二本つっ込まれ呼吸が出来なくて口をあけるとその中に丸めた雑誌をつめ込まれたこともあった。さらに雑誌をじょうごに見たてて彼女の大嫌いな芋のトロロ汁をボール一杯分も流し込まれたり、足首に巻いたロープ一本で四階の窓から逆さづりにされたり……ほとんどダイ・ハード、でなけりゃヤコペッティの大残酷といったような毎日を送っていたのだ。中学になってもいじめは続いた。体育倉庫の隅で数人の男子に裸にされたこともあった。さいわい犯されはしなかった。鼻水をたらして許しを乞《こ》うぶ細工な彼女の泣き顔と、のの子のパンツからはみ出していた、ハンペンが血を吸ったような生理用品が、少年たちの気分をゲンナリとさせたからだ。かわりにのの子は少年たちから「桜田淳子ごっこ」を強要された。それは、口のわきを自分の指でグイッと左右に開き、オバケのQ太郎のような顔になったところで「桜田淳子で〜す」と名乗るという実にシンプルないじめであった。口を開けた状態なので「淳子」と言うつもりがどうしても「うんこ」になってしまうのだ。「だからどうした!?」と問うなかれ、これを延々やらされる屈辱は、桜田淳子には悪いが、年頃の少女には堪えがたいものがある。
「さうわぁわうんこうぇーふ」
夕暮れ時だった。オレンジ色の輝きが体育倉庫の高い窓から差し込み、のの子の顔を照らしていた。馬鹿みたいな顔を見られたくなくて、のの子は顔に夕陽《ゆうひ》があたらないようになんとか体を動かそうと試みる。そのたびに男子生徒によってもとの位置にもどされてしまうのだった。
「うんこうぇーふ」
口を広げている左右の人さし指がつばでヌルヌルした。何度か指がはずれ口のわきの肉がパウンと情けない音を立てた。
「うんこうぇーふうんこうぇーふ」
涙と鼻水とよだれをたれ流す「さうわわうんこ」の顔を、夕陽が容赦なく照らし続けていた。
やがてのの子は本格的に泣き出した。彼女の口からはオーオーという嗚咽《おえつ》しか発せられなくなった。少年の一人がのの子のスカートを体育倉庫の窓から外へほうり投げ、やっとその日のいじめは終った。
少年達が去り、一人きりになったのの子は、日も暮れて真っ暗な倉庫の隅で「あ、また右を見ちゃった左も見なきゃ悪いことが起こる、あ、ああ、どうしよう上も見なきゃ」と心でつぶやきながら、闇《やみ》の中でほのかに光る大きな瞳をクルリクルリと、いつまでも回転し続けたのであった。
のの子がいじめられる原因は、「モノコン病」の蔓延《まんえん》にもあったのかもしれない。エイズより感染力が強く、人間の体をグジュグジュに腐らせてしまう地獄の病「モノコン」が、今や人類を不安の奥底に引きずり込もうとしていた。と言っても、のの子がモノコン病者であったわけではないが、少年少女達は弱者を徹底的にいたぶることで、束《つか》の間《ま》おびえの日々からの逃避を図ろうとしていたのだ。
いじめにはもうひとつの理由があった。それは彼女の家族である……。彼女の母は道子が四歳の時に死んだ。自殺だった。スーパーで万引の疑いをかけられたことを苦に首をくくったのだ。優しくてお人好しな女だった。
だが父は、母の死を国家の「陰謀工作」と考えた。しかも「毒電波装置で殺《や》られたのである」と幼いのの子に語って聞かせた。
父、元秀は「名犬探偵デュパンだワン[#ハート白、unicode2661]」シリーズを代表作に持つ、高名なユーモア・ミステリ作家であった。ところが妻の死によって、元秀は精神に変調をきたした。同時に彼の作風も一気に奇妙なものへと変化していった。妻の死から数カ月後に書かれた元秀の作品は、「名犬デュパンを妻殺しとして利用した薬師丸ひろ子のエゴを記憶操作するため日蓮上人《にちれんしようにん》が大橋|巨泉《きよせん》とゴルフで対決する」というぶったまげた内容になっていた。
この四千枚にもおよぶ力作「名犬デュパン対わが妻園子を殺せし毒電波ジグジグ」は、残念ながら出版社の判断により陽の目を見ることはなかった。
最愛の妻に去られた元秀は、のの子を連れて放浪の旅に出た。
のの子にとって父と旅したこの二年間だけが、唯一、人生の中で楽しく幸福な記憶である。
父は優しかった。たくさん遊んでくれた。のの子が一番好きだったのは「毒電波遊び」だった。二人で歩いていると、父がふいに「毒電波が飛んでるぞ! 逃げろ道子!」と叫ぶのだ。毒電波は父にしか見えなかった。のの子は言われるまま、横っ飛びに電柱のかげにかくれた父の後をキャーキャーさわぎながら追っかけるのだ。「あれにママも殺《や》られたんだ!」「ヒャーパパこわい!」「大丈夫だ。俺がついている」といって父はのの子を強く抱きしめた。普段「パパ」と自分を呼ぶくせに、興奮した時だけ「俺」と言う父をのの子はカッチョイーと思っていた。
父と娘は日本中を旅した。父いわく「どこにいても毒電波を発射している奴《やつ》らに居所を見つけられてしまう」ので、常に転々とする必要があったのだ。居場所をかえるたびに、二人は部屋の「もよう替え」をした。毒電波侵入を防ぐため壁にアルミホイルを張りめぐらすのだ。もよう替えが終ると、部屋中が銀色に輝いた。のの子の顔がホイルに映り、広がったり縮まったり、不思議な百面相を見せてくれた。指でつつくと全然違った自分の表情を見ることができた。
「パパ、きれいだね、鏡の中にいるみたい」
「ああきれいだ。この中にいればママを殺した奴らも入ってこれないよ」
「パパ、誰がママを殺したの?」
「政府とその背後に暗躍する陰謀団の奴らめだ! ユダヤフリーメーソン、CIA、ロックフェラー財団にクリンゴン、そして……マイケル・ジャクソンだ」
「え!? マイケルも」
「そうだあいつもだ。つまり世界人類が普遍的に抱えている運命共同体的差別意識の合同作業がママを殺したのだ。道子、いつか二人で、この世に復讐《ふくしゆう》してやろうな、この世の全《すべ》てを二人でジグジグジグジグジグジグジグジグジグジグジグにしてやろうな道子」
「うん!」
しかし父はこの世をジグジグにすることは出来なかった。ある日錯乱した彼は、街中でナギナタを振り回し、警官隊の銃弾に撃たれて死んだ。
のの子は遠縁の叔母に引き取られ、小学校に通うようになった。
同級生たちは毒電波遊びでのの子と遊んではくれなかった。彼らは親から、のの子の父にまつわる「眉《まゆ》をひそめるべき」話を聞かされていた。「あの娘とかかわるな」とはっきり言われた者もあった。それでのの子は不当な扱いを彼らから受けるようになったのだ。クルクルと目玉を回転させるくせが始まったのもこの頃からだった。
のの子も中学二年生の今では、自分の父が精神を病んでいたのだということを理解していた。それでも「パパの言うことはまちがってはいない」と彼女は確信している。パパの言う通りに、この世は運命共同体的差別意識の合同作業なのだ。だれか一人弱い者を選んで、ちっぽけでくだらなくていじ汚いゲロみたいな優越感を満たすためだけに、そいつをいじめぬけばいいとみんな思っているのだ。そして貧乏くじを私はひいてしまったんだ。いつだってそうだ、答がわからない時に限って神様は私を指名するんだ。わかる時はいくら手を挙げたって見てはくれないくせに、どいつもこいつも腐ったプライドを守るために毒電波でバリヤーを張っているんだ。恥知らずなあいつらはそれでいいけど、繊細な私にだけは電波が刺さるんだ。チクチク刺さってジグジグ肌を焼いて痛いんだわからないのかバカ! あんたたちいつか復讐してやる。ジグジグジグジグいじめ返してやる。ぶっ殺してやるぶっ殺す! ジグジグジグジグしてやる殺す! ジグジグジグジグ殺す! ジグジグジグジグ殺す!
「袋手さん、のの子さんってば」
えっ!?
教室で一人言をつぶやいていたのの子は、声をかけられてあわててふり向いた。
「何ブツブツ言ってるのよ」
銀ブチ眼鏡《めがね》の少女がのの子を見おろしていた。
「あ……た……田口さん」
「やめてよその呼び方……織筆《オルフエ》と呼んで」
自称「織筆」の背後には二人の少女が並んでいた。三人共クラスではおタッキーと呼ばれている連中だった。
「お、おるふぇ?」
「そう、私が織筆。松園さんが縷流《るる》、白土さんは紫炎《しえん》……前世ネームよ」
「……はぁ、前世ネームですか……」
「私たちは前世で戦士だったの、来たるべきハルマゲドンにそなえて記憶を消されたんだけれど、三人とも覚醒《かくせい》しちゃったんでね、こうして前世ネームで呼び合っているのよ」
織筆たちはオカルト雑誌「ムー」と少女マンガの愛読者であった。
「のの子さんにハルマゲドンにそなえた私たちの作戦に参加してもらいたいの」と織筆。
「え? 腹巻きうどん?」
「バカ! ハルマゲドンだよ!」
凄《すご》い剣幕で織筆が怒鳴った。そして有無を言わせぬ口調でのの子に言った。
「放課後、屋上に来てよね!」
「そんなことできるわけないじゃない!」
おタッキー三人組に屋上で囲まれながら、のの子は叫んだ。
「し、死んじゃうわよぉー」
とワナワナ震えた。
「だから、ちゃんと後で生き返らせるっていったじゃない!」
わからない奴《やつ》だなあこのバカ! というように織筆が怒鳴った。
「のの子、もう一度説明するわ、さっきも言ったように、私と縷流と紫炎は戦士なのよ」
「聞いたわよ、来たるべき春川ますみにそなえて……」
「ちがーう! ハルマゲドンよ! ボケたおしてごまかそうとしても駄目よ、のの子!」
「ご、ごめんなさいごめんなさい」
のの子はペコペコと頭を下げた。
「まあいいわ……実はね、隣の私立寺園中学にも戦士を名乗る者達がいるのよ」
どこにも似たようなガキがいるのだなと、のの子は思ったがもちろん口には出さず、代わりに「えっ! 本当」と言った。
「本当よ、で私達は彼女達を呼び出してデニーズでミーティングしたの」
「デ、デニーズで……」
「ええ、そんで話しているうちにケンカになっちゃったのよ」
「何で?」
「死後の世界観が食い違っていたの」
「はあ、死後……」
「そう、私達のグループは死後の世界を来世までの中継地点と考えて……いえ記憶しているの。私達何度も転生しているから知っているのよ。死後の世界は白バラの花園だったわ、それなのに寺園中の娘達いったい何て言ったと思う?」
「さあ」
「死後の世界は蓮《はす》の花が咲いてるなんて言うのよ」
そういえば寺園中は仏教学校であったなとのの子は思った。
「もうそれからは大ゲンカよ、お互いののしり合い。『ハルマゲドンが近づいている時にこのニセ戦士!』ってね、本当頭きちゃう、あいつら、ねぇ」
織筆が振り向き合いづちを求めると、縷流と紫炎が深々とうなずいた。
「でね、どっちが本物の戦士か調べようってことになったの」
「……はあ」
「はあじゃないわよ、あんたが実験台になるんじゃない」
「……え? 何?」
「だからー、あんたが一回仮死状態になって、死後の世界がどんな所か確かめてくるのよ」
織筆が真顔で言った。
「……な、何で?」
「あんたバカじゃないの、ハルマゲドンが近づいてるって言ってんでしょ!」
「それは分かったわよ……でも何で私が」
「あんたなら間違えて本当に死んじまったって誰も悲しみゃしないからよ! バカッ」
縷流と紫炎の手がのの子の両肩をつかんだ。織筆が制服のスカーフをスルリとはずし、ブルース・リーがヌンチャクを扱う様に両端を握って構えた。
「大丈夫、心臓マッサージですぐ蘇生《そせい》させてあげるから」
などと、とんでもないことを言ってスカーフをのの子の首に巻き付けた。
「ややややややめて、やめてえー!」
のの子はありったけの力を振り絞って逃げ出した。「待てバカ女!」「ハルマゲドンなのよ!」ハルマゲドンでもハル9000でも何でもいい、殺される! のの子は走った。しかしあわてふためく彼女は、行き止まりの方角へと自分が走っていることに気づかなかった。鉄柵《てつさく》に激突し、勢いあまってそれを乗り越えてしまった。
ふわりとのの子の体が空中に浮いた。
浮いていたのはほんの一瞬であった。彼女の体は地上へともの凄《すご》い勢いで落ちていった。
「何だろうこの人生」
落ちながら彼女はそう思った。
三階を通過した時、窓越しに一人の少年と目が合った。南直之君。のの子が密《ひそ》かに想いを寄せる男子であった。スポーツマンで、頭が良くて、私に桜田淳子遊びを強要した連中の一人だけど、あれはきっと悪い仲間にそそのかされて無理矢理やらされただけなの。本当はかれも私のこと……
などと思っているうちに、のの子の体は二階を通過していた。
再び窓越しに目が合った。教師の権田原だ。あのヤローいつも私をバカ呼ばわりしやがったクソ野郎だ。死ぬ前に一泡《ひとあわ》吹かせてやりたかった。ジグジグジグジグジグジグ毒電波かませてやりたかった、あのヤロー殺すぶっ殺す絶対殺す!
などと腹を立てているうちに一階を通過していた。あと数十センチで地面にぶつかるその時、のの子は「この世の全《すべ》ての人間を不幸にしてやる! ジグジグしてやる」と心に決めた。
真っ逆さまに落ちる彼女の瞳《ひとみ》には自分の両足が映っていた。
「あ、私、今日お気に入りのニーソックスを穿いている」
ちょっとだけのの子は嬉《うれ》しくなった。
ドンと鈍い音を立て、のの子の身体は校庭に激突した。
のの子は、すぐにムクムクと立ち上がった。
「ちょっとあんた!」
モノコン病に感染した息子《むすこ》の登校拒否問題について学校に文句をつけに来ていた主婦、萩原晶子は、いきなり落下してきたと思ったら再び立ち上がった少女を見て仰天し、思わず叫んだ。
「危ないじゃないの落ちてきたら!」
「すいませんすいませんすいません」
色のまったく無い顔でのの子は謝ると、トコトコと歩き去ろうとした。
「ちょっとあんたどこ行くの!」
晶子が声をかけたが、のの子はすいませんすいませんとつぶやきながら歩き続けた。「待ちなさい、私はPTAの青山さんの知り合いなのよ、言うこと聞きなさい」
あわてた晶子は、自分が訳の分からないことを言っていることにまったく気づいていなかった。
「待ちなさい! あんた志望校どこ!? 内申に響くわよ!」
トコトコと歩いていたのの子がふと振り返った。
晶子はヒッと悲鳴を上げた。
のの子の大きくて真ン丸い瞳が、コマの様にグルングルンと回転していたのだ。
「みんな嫌《いや》な気分にしてやる、ジグジグしてやる」
のの子はつぶやくと、瞳の回転と合わせるように、ニーソックスを穿いた踵《かかと》を軸にしてクルクルとターンを決めて見せた。そしてすぐに、晶子の前でパタリと倒れ、それっきりピクリとも動かなくなった。
のの子が目覚めた時、彼女の瞳に最初に映ったのは、やはりニーソックスを穿いた自分の両足だった。
スカートとソックスの間に見える浅黒いひざ小僧に、小さな蝶々が止まっていた。
蝶の羽は銀色だった。のの子のひざの上で宝石のように目映《まばゆ》く輝いていた。
「――アルミホイルみたい」
と、のの子は思った。蝶の羽の輝きは、のの子に父と暮らしたアルミホイル張りの部屋を連想させた。のの子が指を伸ばすと、蝶々はパタパタと羽を動かし空へ舞い上がった。
「あ、何だここ」
蝶の動きに合わせ、自分のひざ小僧から顔を上げた彼女は、自分が不思議な風景の中に居ることに気づいた。
なだらかな丘の上だった。
地は緑、ひざ丈《たけ》ほどの草が生い茂り、台風の翌日を思わせる涼やかな風で、一斉に揺れていた。ところどころに赤い花が密集していて銀色の羽を持つ蝶々がそのまわりをピカピカ輝きながら舞い踊っていた。
空は青く、モフモフと柔らかそうな雲が空の低い所を泳いでいた。奇妙なことにどこにも太陽は無く、代わりに昼だというのにいくつもの星が見えた。遠く遠く、地平線|辺《あた》りの空は桃色に光っていた。どうやらその辺りだけ雨が降っているようだった。雨と言っても、それはとんでもない光景だった。遥《はる》か遠くにいるのの子にも見えるほどに大きな、しかも真っ赤な水滴が、一粒二粒とゆっくり空から落ちているのだ。
水滴が地平線に落下するたびに、遠くの空は桃色に燃え上がった。
「生理の時お風呂《ふろ》に入っちゃうと、血の玉があんなふうにゆっくり水の中で落ちていくんだよな」
ボンヤリとそんなことをのの子は思った。
どこかで音楽が聞こえた。軽快な、聞き覚えのある曲だった。自分にとって、それは思い出深い楽曲のようにも思えるのだが、どうしても思い出せなかった。
「でも、聞いてるだけで良い気分」
と、のの子は思った。
そうだここに居るととっても良い気分だなとのの子は重ねて思った。
風も、懐かしい匂《にお》いがした。アルミホイルの部屋で、父と語らっていた時のような、安心した気持ちを、今のの子は全身で感じていた。のの子は草のうえに寝転んだ。
「ああ気分がいい、ここならもう目ン玉をキョロキョロさせなくてもいいな」
それにしてもここは何処《どこ》だろう……あ!
「て、天国!?」
のの子はガバッと跳ね起きた。
「あ、あ、あたし……死んじゃったのね!」
ヨタヨタと立ち上がった。
「死んじゃった! あたし死んじゃったんだ」
そう思うと、急に恐くなってきた。
「そんなぁ、私まだ男の子と付き合ったことも無い、キスも無い、Hだってしたこと無いのよ! ああそれに、復讐《ふくしゆう》が済んでないわ! ジグジグぶっ殺してないわ! みんなに一泡吹かせてやるまでは死にきれないのよ! まだ死ねないのよ――……」
「その通り!」
ふいに声がした。
振り返ったのの子は、信じられないものを見た。
なんたることか! そこには最愛の人が立っていたのだ。
「ああ……パパ!」
父、元秀は、のの子に懐かしい顔で微笑《ほほえ》みかけた。
父の横に、美しい女性がいた。
「覚えてないかもしれないね、道子」
と言って元秀は美しい女性の頬《ほお》に軽くキスをしてみせた。
「お前のママだよ」
美しい女性が微笑み「みっちゃん」とつぶやいた。
のの子はもう何を言ったものか分からず、ニーソックスを穿いた足をガクガクと震わせていた。
「ニーソックスがお似合いよ、可愛《かわい》いわね」
と、母が言った。
「……う、うん」
のの子は照れてしまって、うなずくのがやっとだった。
「お前のことは天国からずっと見守っていたんだぞ道子」
と、元秀は母の腰に手を回しながら言った。なにやらナイスミドルな父である。
「うん、ありがとう」
「パパとママが見張ってたから、さすがのマイケル・ジャクソンも手出しが出来なかったようだな、アハハハハ」
『パパ死んでもおつむの病気直ってないのね』
のの子はそう思い、クスリと笑ってしまった。
「道子、天国は良いところだ。試験も何も無いぞ、地獄だってない、死んだらみんなここへ来れるんだ」
「やっぱりここは天国なのね! ねぇ、いじめっ子もいない?」
「アハハハ、いないよ、良い奴も悪い奴も、ここに来るとあんまりいい塩梅《あんばい》なんで、いじめなんかバカバカしくってやってられないんだ。毎日ボウリングしたり、絵を描いたり、楽しいぞ」
「パンも焼ける? パパ」
「何? パン」
みっちゃん! と母が声を上げた。
「マイスイートベイビー! ママもパン作りが趣味なのよ」
「ええ!? 私はクッキーも焼くよ」
「チョコチップスたっぷりね?」
「もちろん!」
OH! と母は顔に手をあて大袈裟《おおげさ》に喜んで見せた。母がアメリカンな乗りの人だということをのの子は初めて知った。
「アハハハハハ、そうかそうか! ママも道子もパン焼き名人か。こいつぁいーなあ、天国でパン・パーティーでもやるか」
「パパ。小説は?」
「おう、もちろん書いてるよ。最新作のタイトルは『名犬デュパンと幻聴ジグジグ中毒我にあり!』だ。全寮制の女子高を舞台にした空手文学だよ、どうだ読みたいか道子」
「ウン、読みたい! ねえ、私ずっとここに居ていいんでしょう」
するとどうしたことだろう。父の顔が曇り、母はうつむいてしまった。
「え、どうしたの……駄目なのパパ」
「いや……駄目じゃない。いずれは一緒に暮らせるよ、しかしまだ……」
「……何?」
「時々あることなんだが、お前はまだ死ぬ運命じゃない。神様の手違いで早く来てしまったんだ」
「え……じゃあ」
「もう一度、現世に戻らなくてはならない」
「いやよそんなの、あんな世界に戻りたくない、ここに居させて!」
のの子はニーソックスの足をジタバタと踏み鳴らした。しかし父と母は、悲しい眼をして娘を見つめるばかりだった。
「……いつ、……いつ私はここで暮らせるようになるの?」
「そんなに遠くはない、三年後の今日、水道橋の駅前でチャールズ・ブロンソンの乗った車に轢《ひ》かれて死ぬことになっている」
のの子はチラリと母の顔を見た。父の話に彼女は真顔でうなずいていた。……どうやら父の妄想《もうそう》ではないようだ。
「そんなのやだ。チャールズ・ブロンソンに轢かれるまで三年も待たなくちゃならないなんて私いやよ……あっ!」
その時だ、のの子はひらめいた。彼女の頭の上でランプが光った。ハッ! と彼女は素晴らしいことを思いついたのだ。そして、両親に向かって決然と言った。
「分かった、パパ、ママ、私三年待つわ」
「分かってくれたかい道子」
「オー、スイートベイビー」
親子三人は天国でしっかりと抱き合った。
「さあ急ぎなさい、この道を行けば現世に戻れる」
「うん、パパいっぱい小説書いてね」
「うん……泣かしてくれるぜこの娘はよう」
「ママ、三年後に一緒にパンを焼こうね」
「オー、マイベイビー、ノー!」
『パパ、ママ。私三年の間にやることを決めたの』
現世へ至る細い道を走り出しながらのの子は思った。
『復讐よ! みんなをジグジグな気持ちにしてやるの』
「道子ぉぉ!」
背後で父が呼んだ。振り返ったのの子がニコリと微笑《ほほえ》むと、父は声の限りに叫んだ。
「今度来る時はおみやげにアルミホイルを持って来なさい!」
のの子は再び目覚めたが、瞳《ひとみ》に映ったのはニーソックスではなく、彼女を見下ろす白衣姿の人々であった。
彼らはどよめいていた。医師達は、死の縁《ふち》から奇跡的に蘇生《そせい》した少女を感動の目で見つめていた。
「君、分かるかい? 君は戻って来たんだよ、もう一度人生をやり直せるんだよ」
若い医師が興奮して言った。
「……ええ戻ってきたわ、復讐《ふくしゆう》のためにね、ジグジグ……」
とのの子はつぶやいた。しかし小さなその声は誰にも聞かれることは無かった……。
いわゆる「ニアデス」を経験した者が、その後に人格的な変化を見せることがある。無神論者が突然|敬虔《けいけん》な、かつカリスマ的な宗教者になったり、ぐうたら者が労働の喜びに目覚め、バリバリ働きだしたりといったふうにだ。例えばその昔、反キリスト者だったサウロという人物は、生死の境をさ迷った後、突然キリスト信者となり、十二人の使徒の一人、聖パウロとなった。
のの子が、彼女のいうところの「復讐」のために、今までの彼女からは想像もつかないほどのカリスマ性を発揮し、冷静にことを進めることが出来たのも、臨死経験者特有の人格変化によるものだったのかもしれない。
すっかり傷が直ってからも、何かと理由を付けてのの子は入院し続けていた。のの子を嫌っている叔母も、同級生も、滅多に見舞いには来なかった。それはのの子には好都合なことだった。
「みっちゃんいるかい」
ノックも無くのの子の病室のドアが開いた。
「あらお婆《ばあ》ちゃん達、いらっしゃい」
のの子は人の良い笑みを浮かべ客人を招き入れた。何人もの老人達が入ってきた。たちまちのの子の病室に、老人特有のカビ臭《くさ》い匂《にお》いがたち込めた。のの子は嫌《いや》な顔もせず微笑んでいた。
「今日は肝臓病とリウマチと、何だっけあんたは?」
と、話し出した老婆が、となりのやせこけた老人に尋ねた。
「……モノコンですわ」
「……ああ、モノコンの患者さんを連れて来たよ、みんなみっちゃんの話を聞きたいってさ」
老人たちが、孫ほども年の離れた少女にペコペコと頭を下げた。
「すまんねぇいつもいつも」
「こんだけいい話を聞かせてもらってるんだ。お金包んだっていいってあたしら思ってるんだよ」
のの子は大きな瞳で老婆を見つめた。そして言った。
「お金なんかいらない、みんなが私の話で幸せになってくれればいいの」
へへ〜と言いながら老人の何人かがのの子に手を合わせた。「ええ子や!」と、はやくも感極まる者もあった。
「今日もまた、私が見て来た死後の世界のお話をさせてもらうね」
のの子は静かに語り出した。
「みなさん御存知の通り、私は一度死を体験した人間です。死後の世界を見てきました。そこはとっても……とってもとっても……」
モノコン患者がゴクリとツバを飲み込んだ。
「とっても美しくて、幸福に満ちた世界でした」
ほーう、と老人たちから一斉にため息がこぼれた。部屋中に死臭が満ちた。
「苦しみもありません、悩みもありません、それだけじゃない」
のの子はモノコン患者の目を見つめて言った。
「痛みもないんだよ」
モノコン患者の目が潤んだ。
「昔から、いろんな国のいろんな人々が死後の世界について語ってきたよね。仏典にも聖書にもあるし、スティーブン・ボルグという、やはり死後の世界を見て来たという人もいました。でもね」
そこでのの子は少女らしくクスリと笑ってみせた。
「でもね、それはみんな昔のこと、あてになりません、だってそうでしょ、たとえば三百年前の日本についてくわしい外国人がいたとします。その人が現代の日本に来たらなんていうと思う?」
のの子はここで、目の玉をギョロリと回した。
「オーノー! ココハドコノ国デースカー!」
両手を広げ大仰に言うと、老人たちがゲゲゲゲゲと笑った。
「アハハ、ね、もし死後の世界がどんなところか知りたいなら、最新の情報をキャッチしないと意味がないでしょ、つまり、つい最近にその世界を見てきた者の話でなければ、無意味ということです。わかりますか、おじいちゃんおばあちゃん」
老人達がフムフムとうなずいた。
のの子はニンマリと笑って自分を指さした。
「……私はね、つい最近それを見て来たの、知りたい? どんなだったか」
老人たちがグッと身を乗り出した。
「教えてあげる」
無意識の内にモノコン患者はのの子に手を合わせていた……
一カ月後、のの子はついに退院したが、叔母の家には帰らなかった。彼女の「死後世界見聞談」に感動した資産家の老人が、のの子に家一軒ポーンとプレゼントしたのだ。その家にも、評判を聞きつけた人々が連日訪れていた。
人々の前で、のの子は語り続けた。
「とにかく死後の世界って、ちょー素敵なところなの、お正月とクリスマスとディズニーランドが一緒にやってきちゃったって感じ!」
おー! と大広間に集まった人々から声が上がった。
「じ、地獄はないんですか?」
客には若者も多かった。モノコン感染者だという青年から質問が飛んだ。
「ありません」
きっぱりとのの子が答えた。
「大昔にはあったみたいですけど、それって現世で言えば中世の魔女裁判みたいな不合理なものでしょ。時代と共にそういう残酷なものはあの世でもなくなったんです」
青年は目に涙を浮かべて、良かった良かったとつぶやいた。
「や、でもですねー道子さんのお話は自殺をそのー、助長することになりませんかね」
新聞記者だという男が言った。
「自殺者の魂は救われません」
客達がシンと黙った。
「どんなにつらくても苦しくても死んじゃだめ、私は幼い頃に父と母をなくし、ひどいいじめにもあって、何度死のうとしたかわかりません……でも花に満ちた死後の世界を見て、本当に生きててよかったって今思ってます……」
のの子の真ン丸い瞳《ひとみ》から大つぶの涙がこぼれ始めた。
「死後の世界は楽園です、どんなにつらくても、いつかはそこへ行けるの……だからみんな……がんばろう」
道子様ぁ! と演壇ののの子に叫ぶ者があった。先ほどのモノコン青年である。わなわなと震えながら、彼はのの子の名を呼んだ。
「道子様ぁ! 道子様を信じまぁす!」
するとどうだろう、あちこちから、まるでイエスの名を呼ぶがごとき「道子様コール」がおこり始めたではないか。
「道子様ァ! 道子様ァ! 道子様を信じます」
興奮する人々を前に道子は宝塚女優さながらの晴ればれとした笑顔で応《こた》えた。のの子の名を叫ぶ人々の声はどんどん大きくなり、その時のの子が何やら口元で「ジグジグジグジグ」と奇妙な呪文《じゆもん》じみた言葉をつぶやいていたことに気づく者は一人もいなかった。
それから二年が過ぎた。のの子は全世界的有名人になっていた。彼女は日本より、まずアメリカで人気者となった。エイズとモノコン病の蔓延《まんえん》から人々の心に暗く沈澱《ちんでん》した死への恐怖が、「死後世界は良いところ」と主張する極東の少女をカリスマ化したわけだ。
さらに人気バラエティ番組における、のの子とWSD大学のヨシ博士との公開討論も彼女の人気を決定づけた。
ガチゴチの合理主義者である博士は、のの子の臨死体験を頭から否定してかかった。
「いわゆる臨死体験の報告によくある『天国的世界』についてですが、これは体験者が現実に見たものではなく、まあ、はっきり言えば幻覚を見たに過ぎないのではないかと思われます。
幻覚を見る要因として、まず、脳の酸欠状態が考えられます。人間が死ぬ間際、脳は酸素欠乏状態におちいっている場合が多いのです。こういう時、人は幻覚を見ます。
次に考えられるのは、脳内麻薬状物質による作用です。モルヒネという薬品がありますね。脳の中にはモルヒネと結合して作用を起こすレセプター(受容体)が存在しています。ということは、脳の中にもモルヒネと同様の効果をもたらす麻薬状物質があるはずですね。そこで研究の結果発見されたのがエンケファリンやエンドルフィンといったアミノ酸からなるペプチドホルモンなのです。このペプチドホルモンは、人間が極限状態に追いつめられた時、苦しみをやわらげるために分泌されると考えられています。つまり『天国的世界』とは、究極のストレスである『死』から逃避するために、ペプチドホルモンが見せた幻覚であると考えられるわけです。
他にも、死に直面した時に何らかの理由で脳の側頭葉に――ここは記憶の倉庫のような役目をするところなのですがね――異常が起こり、天国にいるような幻覚を見てしまったのだという考え方もできます。
いずれにせよ道子さん、あなたが見たのは脳の器質変化による幻覚ではないんですか?」
一気にまくしたてた博士。
通訳の話を黙って聞くのの子。
司会者がのの子をうながすと、彼女は「そうかもしれません」と小さな声で答えた。
のの子を支持するギャラリーたちがざわめいた。
「でも……」
顔を上げ、のの子はカメラ目線でこう言った。
「でも私は見たんです。つらく苦しい生のあとに待っている楽しい世界を」
そして博士を真ン丸い瞳で見つめ、続けて言った。
「もし博士のおっしゃる通り私の見た天国が科学で証明できる夢まぼろしだというのなら」
再びカメラ目線。
「科学って」
そしてクルリと瞳を回転させて、
「人の心を救ってくれないんだなぁ」
と、のの子はすねてみせた。
誰の目にも勝敗は明らかだった。それから博士がいかに合理的なつっ込みを入れようと、二人のツーショットは、世紀末の世において救済を語るいたいけな少女を前に理屈をこねくりまわす意地悪博士と人々の目には映った。番組終了後、各界の著名人からのの子をたたえる電話がかかってきた。
その中にはマイケル・ジャクソンもいた。
かん高いマイケルの声を聞きながら「このことはパパには言えないなあ」と思い、のの子はクスクスと笑った。
「み、ち、こ! み、ち、こ! み、ち、こ!」
麻布《あざぶ》十番の事務所から水道橋まで「道子コール」は途切れることがなかった。
のの子の乗ったリンカーンコンチネンタルは、沿道につめかけた彼女を歓迎する人々の振る旗と、キラキラ輝く紙吹雪の中を、東京ドームへ向かって疾走していた。
「ミチコサーマ、大人気デース」
運転手のヨシ博士が言った。彼はのの子との討論の後、すっかり彼女に感化され、今では教職の座をすててのの子のマネージャーを務めていた。
「今日ノ東京ドーム公演モ、キット大成功デース、ナンタッテ今日ノ公演ハ、全世界同時生放送ダカラネ!」
後部座席でふんぞり返っていたのの子は博士の言葉には答えず、ただニヤリと笑っただけだった。
『今日こそは復讐《ふくしゆう》の日よ、ジグジグいじめてやるの、ジグジグジグジグ……』
「エ? 熟熟? 何デスカ道子様?」
「なんでもない、それよりチャールズ・ブロンソンは今日来るの?」
「ハーイモチロン、彼ハタフガイデ一番熱心ナ道子様信者ネ……タダ撮影デ、遅レテ来ルヨーデス」
「そう……」
のの子はうなずいた。そして小さな声で「予定通り」とつぶやいた。
「道子様見テ! スゴイ人ダヨ」
東京ドーム周辺は戦場のような状態になっていた。興奮したのの子信者と機動隊の間で乱闘が起こっていた。石が飛び交い、発煙筒の煙が夜空を焦がしていた。その様子を自衛隊のヘリコプターがサーチライトで照らし出していた。
「OH! マルデ、モンスタームービーノワンシーンネ、『サンダ対ガイラ』ミタイデース」
博士は日本通であった。
「ワーオ、ビューティフル!」
夜空に花火が上がった。一つずつ光の文字が浮かび上がった。
「みちこふっかつ三しゅうねんバンザイ※[#ハート白、unicode2661]」
わずか三年で、のの子は世界でもっとも有名な少女になっていた。
世界が彼女の死後の世界体験を信じていた。
死に至る病によって不安のドン底に落ちていた人類は、単純明快「死んだら楽しい」と訴える東洋の少女にすがりついたのだ。人類規模の集団ヒステリーである。
「ターマヤー!」
ヨシ博士が上機嫌で叫んだ。その時前方不注意になり、リンカーンは警官の一人を見事に跳ね飛ばしてしまったが、救世主の乗る車ゆえ皆何も言えず、哀れひん死の警官はゴミ袋に入れられて神田川にポーンと投げ捨てられてしまった。
クエンティン・タランティーノ、ハルク・ホーガン、チャールズ皇太子、等々。楽屋は各界著名人からの花束でまるで花園のようになっていた。美しい花に囲まれた浅黒い肌の少女は、真ン丸い目玉をクルリクルリ回しながらはしゃいでいた。
「まあ、アメリカ大統領とフセインのお花が並んでるわ。あら、ローマ法王が無いじゃない」
「法王ハ、ダフ屋デ当日券買ッテ見ニ来テマース」
「アハハ、それじゃ花は無いはずね」
と言ってのの子はまた目玉をクルリクルリと回した。今では彼女の目玉回転ぐせは強迫観念にとらわれた時に起こるものではなくなっていた。嬉《うれ》しい時、楽しい時、そして優越感を感じる時、のの子は目玉を回すのだ。
「道子様、本番十五分前です」
舞台監督がのの子に言った。ウォォォンという歓声が楽屋まで聞こえた。
「いよいよね」
椅子《いす》に座っていたのの子は、バレリーナのように右足を高く上げ、靴底を天井に向けてピンと伸ばした。
「オーミチコサマ、パンツ丸見エデース」
お気に入りのニーソックスを両手で引っ張りながらのの子は言った。
「ヨシ、用意しておいて欲しい物があるの」
「ナンデスカ?」
「舞台そでにリュックサックを一つ、そしてその中に溢《あふ》れるほどたくさんの、ギラギラ輝くアルミホイルを入れておいて」
右から左へ、ドームに集まったのの子信者によるウエーブが起こっていた。
ピンスポットの中で微笑《ほほえ》むのの子が、右の手のひらを会場に向けると、ウエーブがピタリと止まった。
のの子は客席を見渡した。
最前列にローマ法王が居た。のの子と目が合うと十字を切った。何席か後ろにマイケル・ジャクソンもいた。彼の連れていたチンパンジーが屁《へ》をこいて隣席のエルトン・ジョンが怒っていた。はるか後方に、見慣れた服の一団が居た。のの子の母校の生徒が集団で見に来ているのだった。織筆や、権田原達も真剣な眼差《まなざ》しでのの子を見つめていた。彼らの多くが、モノコン病に感染していた。もうじき死ぬ運命にあった。
「南君も来てるかしら」
ふとのの子は思った。その一瞬だけのの子は忘れていた強迫観念にとらわれて、キョロリと目玉を回転させた。
(のの子は知らなかったが、すでに南君はモノコンで死んでいた。体中を、むきたてのゆで卵を思わせるクリクリとしたこぶに覆われて、痛い痛いとうめきながら、くたばったのだ。
少年は死ぬ間際に、好きな少女の名をうわごとでつぶやいた。もちろん、「袋手道子」ではなかった。
桜小春という、自称モデルの同級生だ。モデルとは言っても、彼女の主な仕事と言えば、「ローンズ巨泉さん」の広告で、パカリと大股開《おおまたびら》きを撮られたことだけだったが。小春はデートの度に、南君をフェラチオでいかせていた。思えば、それこそがモノコン感染の原因であったのだ。ああ口内発射さえせなんだら。あれだけ「いく時言ってね」と小春がささやいたというのに――。)
「みっちっこ! みっちっこ!」
今度は六万人の大コールが起こった。
のの子は気にせず、語り始めた。
「みなさん」
六万人が一斉に口を閉ざした。
「……今、人類はかつてない不安と恐怖の中で苦しんでいます」
早くもすすり泣きが聞こえた。ミイラ化した子供を背負った若い母親が「お願い救いを!」とのの子に叫んだ。
「人生は闇《やみ》です。辛《つら》く苦しい。しかし、それでも生きて、生きて、命尽きるまで生きたなら、私の見てきた」
のの子は「私の見てきた」の部分を特に強く言った。
「天国に、全《すべ》ての人が行けるのです」
ウオオオオオン! と爆発するドームの六万人。死ぬことの恐怖から救ってくれるのは、この方だけだ。
人々は感極まっていた。
「と、私は今まで教えてまいりました」
さらに人々のボルテージが上がる。ウォオオオン! ウォウオオオオン!
『天国に行ける』
『のの子様を信じていればもう死の苦しみからのがれられるのだ』
人々はのの子の言葉を待った。望んだ。
『もう苦しむのは嫌《いや》だ。おびえるのは嫌だ。深夜にハッ! と目覚めるのはもう嫌なのだ。汗と涙と、おお鼻ちょうちん! 嫌だ嫌だ嫌なんだ。ゆっくりと眠りたいんだ。道子様お言葉を、ハルシオンより深い眠りに我々をつかせてくれる、夢と希望に満ちたあなたのお言葉を!』
のの子はゆっくりと人々を見渡した。こころもち上を向いて、静かに口を開いた。人々はぐっと息を飲んだ。ああついに、お言葉が聞けるのだ。道子様、ああ道子様!
と、のの子が言った。
「……んが!」
んがあっ!?
のの子が口にした意表をつく言葉。あたかも「がきデカ」における少年警察官こまわり君のごとき突然の「んがっ!?」を、六万人が思わず繰り返した。すると続けて、救世主のの子はこんなことを言ったではないか。
「……それは間違ってましたあ!」
あっけらかんと言い放った。
思わずシンと静まり返った客席、『何なんだ一体!?』やがてすごい勢いでざわめき始めた。
「ど、どういうことですか!?」
「何が間違っていたというんですかあ!?」
ついさっきとは打って変わって、疑惑のどよめきがウォオオオン! とドームを包んだ。
大騒ぎの中で、壇上ののの子はニンマリと微笑み、「ジグジグ」と小声でつぶやいてから、大きな声でゆっくりと奇妙な話を語り始めた。
「……実は先日、私はのどにラムネの玉をつまらせて、一時的に呼吸が止まってしまったんです。……つまり、また死にかけて、再び死後の世界を見て来たんです」
思いもかけない言葉に、人々は再び一斉に黙した。
「死後の世界は、やっぱり美しくて幸に満ちた所でした。でもね、それは本当の天国じゃなかったんです」
TVで公演の様子を見つめていた世界中の人々も、一体のの子が何を言い出したのかと茫然《ぼうぜん》としながら画面に食い入っていた。
のの子は今にもケケケケケ! と笑いたくなるのをぐっとこらえた。かわりにニッコリと笑ってから続けた。
「私が天国だと思っていたところは、実はこの世とあの世の中継地点に過ぎなかったんです……本当は、死んだ人間はみんな、楽園を抜けて、さらに奥へと行くんです。すると暗い森にたどりつきます。パッと明かりが消えたようにあたりが暗くなるんです」
のの子の言葉に合わせたように、スポットライト一つを残してドーム中の灯《あか》りが消えた。闇の中に、のの子のうれしそうな顔だけがポッカリと白く浮かびあがった。
「……私は手探りしながら森の中を歩きました。すると、何か小さなボンヤリと光る物が、たくさん落ちている所に辿《たど》り着きました。拾ってみると、光る物は直径三十センチぐらいのカプセルでした。上下を握って反対に回すと、パカリと蓋《ふた》が取れました。
その中にはね、小さな人間が入っていたの。怯《おび》えた顔をしてやせ細って、痛イ痛イ痛イ痛イって泣いていたの、『どうしたの? あんた誰』って聞くと、彼は『人間です』って答えたわ。
『どうしてこんな所にいるの?』ってもう一回聞くと、彼は言ったの。
『あんた知らないのかい、人間は死ぬとね、みんなこの壺《つぼ》の中に入れられちまうんだ。天国でしばらく遊んだ後、強制的にここへ連れてこられるんだ。そして神様に万力で小さくされてこの壺の中に押し込まれるんだ。良い人も悪い人も関係無い、どいつもこいつも壺の中だ。壺の中は暗くて寒くておまけに臭《くさ》いんだ。中のネジが腕の裏側に擦《こす》れてね、痛イ痛イ痛イ痛イんだよ。ほら、見てご覧、傷にイボイボがいっぱい出来ちゃったじゃないか、痛イ痛イ痛イ、痛イんだよ触《さわ》ってごらんよ。ほら、イボイボがたくさん出来ているだろう、ほらピュウッてウミが出るよ、ああゴメンよ可愛《かわい》いあんたの服にひっついちまった。消えないよそのシミは、ああ痛イ痛イ、またイボイボが増えちまった。ほらご覧よ、下唇の裏側にもこんなにいっぱいのイボイボだあ、ああ痛イ、痛イヨー、助ケテヨー』
『ね、ねえおじさん』
『おじさんじゃない、ボク死んだ時はまだ二十歳だよー。もっとも壺の中にゃあ、もう四十年もいるけどね。苦しんでいるうちにこんな顔になっちまったんだ。たるんでるだろ、中国の老犬みたいに皮がびよよんとたるんでるだろ。皮のよったところには、やっぱりイボが無数にできているんだ。ぷちぷちぷちぷちいっぱいあるんだ。ああボクはまるでフジツボ人間じゃないか、昔はこれでも二枚目な湘南《しようなん》ボーイだったのに、ヒ〜』
そう言って彼はサーフィンをテーマにした歌を唄ってくれたけど、よく聞いたらその曲は横浜|銀蠅《ぎんばえ》だったの、彼、きっと丘サーファーね」
などとのの子は冗談を言ったが、世界中の誰一人としてクスリとも笑わなかった。テレビでのの子の公演を見ていた元銀蠅一家のミッキーでさえ、唐突に始まった彼女の地獄話に茫然とするばかりだった。
のの子は続けた。
「……さらに彼は言ったわ、『早く壺をしめて、壺をしめて、外の空気にふれると溶けてしまうんだ。豪雨の日のなめくじみたいに、目も鼻も口もわからないくらいに溶けてしまうんだ。ボクはチョコレイトじゃないんだから蕩《とろ》けたくなんてないよ。ウルトラQのオープニングみたいになりたくはないんどぅわっわわわわわわわああ、どぅわっ、どっわわわわわ〜』
別にドゥワップを唄い始めたわけじゃないのよ、みるみる、空気にふれた元湘南ボーイの体が溶け始めたのよ、溶け始めはどうやら声帯からのようね、ゴムをはじくように声がぶるぶる震えるのよ、『どうぶぶるるる、るるるんうぶぅるるるるるる、もぐぅえっるるるるるるる、るるるるるるるるるるるるるる……ぶるるるるるるるるうっっっ……』
ぶるぶるとうめき声を上げながら、湘南ボーイはすっかり溶けてしまった。私は恐ろしくなって壺を投げ捨てたの、そしたら他の壺の上に落ちて、青白い火花がちったかと思うと、ぶつけられた方の壺がパカリと開いてしまったの、
中から出てきたのは、これまた神様に万力で小さくされた人間よ、
『ナイストゥーミーチュー』
とキーキーした声で彼はいったわ、
『マイネームイズ ジム・モリソン』
ジム、あなたも痛いの、かゆいの、苦しいの?
『オー、トッテモ痛イデース、苦シイデース、ワターシハ、生キテル時、ロック歌手デ、カリスマデシタ、デモ本当ハタダノジャンキーネ、へへへ、ラリパッパネー、ドーユーノーマイソング? ※[#歌記号、unicode303d]THIS IS THE END BeWTIFULLLLLLLLLLLLLL, OH MY GOTTTTLLLLLLLLLLLLRRR……』
どうやらジムも、声帯が蕩け始めたみたい。
もう一つ壺が開いていたわ、中から出てきたのは、顔中イボだらけで、特許出願中の台所用品みたいな顔になった男の人。
『やあ今晩は、俺は尾崎某。いい歌をたくさん唄ったのにこのざまさ、まったくこれじゃぶるるるるるるるるるるるるる』
彼もあっという間に溶けていったわ。
私は近くに落ちていた壺を開けて、小さな人の頭を持って引っぱり出したわ、イボだらけの頭は、まるで手のツボを刺激する健康ゴム球みたいな感触だった。私は痛がってピーピー泣きわめいている小人に、どうしても知りたいことを尋ねてみたの、
『いいことをしても、悪いことをしても、誰もが死んだら壺の中で永遠に苦しみ抜くの?』
『そうだ、百円拾って交番に届けたって、四歳の少女の乳首を切り取って酒のつまみにしたって、どんな風に生きたって関係ない、死んだらみんな壺の中、苦しむために壺の中、壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺……。オレなんかアレだぜ、本当はエライんだぜ、中野の駅前で募金だってしたんだぜ、ハモニカ吹いて赤い羽根もらって服に刺したら肉に刺さって血がじゅくじゅく出たけどそれでも怒らなかったんだぜ、ちゃんとティッシュでふいたんだぜ、そんな小松方正……じゃなかった、品行方正のオレでさえ見てみろ、死んだらみんなと同じだ。神様に万力で小さくつぶされて真っ暗な壺の中だ。無駄なんだ無駄なんだ、真面目《まじめ》に生きるなんて無駄なんだ。どんな風に生きたって、どうせさほどの差などない、しっかり現実見つめよと、この世は夢とうかれよと、末路は同じ壺の中、どんぐりころころ背ェくらべ、死んだらどうせ壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺壺……
ああ画数多くてやになっちゃう』
『死んだらみんなツボの中なのね!』
『そうだっていってんだろー、痛イヨー』
『いつまで』
『永遠にだよー、助ケテヨー、ずっとこうなんだ、痛イヨー、イボイボが出来るよー、ウミが吹き出るよー』
私は恐くなって思わず聞いたの。
『ねえ、しわとイボだらけのお兄さん、どんな生き方をしてもツボの中に入れられちゃうの? だったら、人間って何よ? 人生って何なの?』
『知りたいか、本当はなあ、人間は壺の中で永遠に苦しむだけの動物として神様がお作りになったんだ、それだけのためにだよ、だけどそれじゃあ、あんまりだって言うんで、人間共におまけの日々を作ってくれたんだよ、それが人間の一生と呼ばれているものなんだ。人間の人生ってのはな、おまけなんだよ、壺中《こちゆう》の地獄にお情けで付けられたおまけなんだるるるるるるる……』
お兄さんもまた、ぶるるるるとうめきながら溶けていった。
私は真実の恐ろしさに茫然としちゃって、しばらくその場にたたずんでいた。そしてふり向いた時、アッと叫んだわ、だってあたりの壺が、みんな開いているじゃない、体中、イボだらけの小さな人たちが、あたしにむかって一斉に歩いてきたの、ノゾノゾノゾノゾ音立てて歩いてきたの、でもね、誰も私に近づけないの、なぜって? みんな途中で体が溶けだしちゃうからよ、ぶるるるるぶるるるるるるって、声帯からはじまって、膵臓《すいぞう》、眼球、かかと、それから全身が溶けていくの。泣いても笑ってもひがんでもどうしてもよ。あっという間にあたりはぐちょぐちょ、ウミの海よ、でもね、どこからかサーッと、十一月に吹くような冷たい風が流れてきたかと思ったら、大量のウミは、またそれぞれの壺の中にもどっていって、パタンパタンとひとりでにフタはしまっていったわ。そして、あたりはまた、シンと黙ったものよ……」
一気に語ってから、まるでおまけのように「痛イヨー」と一言付け足して、のの子はその嫌《いや》な話を終えた。
再び、客席に灯《あか》りがともった。どうやらスイッチはのの子の手元にあるようだ。
灯りに照らし出された人々は、一様にしかめっ面《つら》をしていた。ロングビブラートの真っ最中に突然ネックがポキリと折れてしまいガク然とするサンタナ……とでも表現すべきいかんともしがたい苦悩の表情が六万。ドームだけではない、TVを見ていた世界中の人々も然り、彼らはまさに、「ジグジグ」とでも形容すべきいや〜な気持ちになっていた。
ローマ法王もマイケル・ジャクソンも織筆も権田原も、そしてヨシも、全《すべ》ての人の心がのの子の話によってジグジグと痛み始めた。
「全ての人間は死んだら永久に小さな壺の中……」
死に瀕《ひん》したこの世の中で、のの子の言葉をただ一つの救済としてきた世界中の人々、その心が、来たるべき壺中の永遠を想って、ジグジグジグジグと、今や音を立てて腐り始めたというわけだ。
これから人々は、ジグジグの不安からもう逃れることはできないのだ。
どんな生き方をしようと、死んだら壺の中だ。いいことをしても、悪いことをしても、泣いても笑っても、働いても遊んでも、誰を心の支えにしても、人生は本来壺中に苦しむために創造された生きものである人間の、おまけの期間に過ぎないのだ。人は、一人で生きるさみしさから逃れるために、愛を求める。けれど本当は、そんなもんあったって無駄なのだ、どうせ死ぬのよ、死んだらそれまでよ、友情も愛も夢も恋もない、努力なんてカバのエサよ、コツコツやる奴《やつ》ぁバカよ、何をやったって無意味よ、アホよ、ヒョウタンツギよ、手塚先生も真っ青よ、信じてんじゃねーよバカ! 天国なんてあるわけないじゃない。いじめてもいじめられても、がんばってもヘラヘラしてても、喜んでも悲しんでも、どうせ最後はみんな死んでいくの、壺の中に入るの、ジグジグジグジグ苦しむの、永遠に、宇宙が終るその時まで、暗くて臭い壺の中でジグジグジグジグジグジグジグジグ苦しむの、痛いのとっても痛いの、痛痛痛痛痛ケケケケケ!!
それから数十分後、水道橋の駅前で、チャールズ・ブロンソンの乗った車が人身事故を起こした。轢《ひ》かれて死んだのは言うまでもなくのの子である。ア然としている観衆を残したまま、ドームから逃げ出した少女は、アルミホイルをいっぱい詰めたリュックを背負った姿で路上に果てていた。
――指で突くと、アルミホイルはのの子の表情をさまざまに変化させて映しだした。
「道子! こんだけアルミホイルを張っておけば大丈夫。毒電波も襲ってこれんぞ!」
父が豪快に笑った。
「パンが焼けるわよ、野イチゴジャムを用意してスイートベイビー」
母は相変わらずアメリカンであった。
大好きなパパ、大好きなママ、お気に入りのニーソックス、ホンワカとした天国の午後に、クルリと目ン玉を回して、のの子は思った。
『みんなバカね、壺《つぼ》なんて大ウソよ! 神様がそんなヒドイことをするわけないじゃない。良い人も悪い人も頑張って生き抜いたなら、みんな天国に連れてってもらえるに決まってるじゃない。どんな一生を送っても、死んだ後はチャラよ。天国じゃみんな仲良し、みんな幸福、みんなみんなホンワカニコニコいい塩梅《あんばい》に暮らせるの。苦しみも哀しみも死ぬまでの辛抱よ、そうじゃなきゃ人生なんてやってられないもん。死ぬまで頑張って生きたのなら、どんな罪だって神様は許して下さるものよ』
クルリともう一度、のの子は目を回した。
「でも私をいじめたから、みーんな死ぬその時まで、壺の中の永遠を恐れてジグジグ苦しみながら生きてくのよ! 嫌な気分で一生を終えるのよ!」
ケケケケケケケケケとのの子は笑った。
実際、あのビッグエッグの夜以来、浮き世は闇《やみ》にスッポリと包まれてしまった。
どんなふうに生きたって死後は壺の中……やり場のないのの子の言葉は、人々の心をジグジグとむしばみ、発狂する者が続出した。彼らは毒電波の脳内侵入を確信し、これを防ぐべく、部屋の内側にアルミホイルを貼りめぐらした。特にカルカッタは街中がホイルで覆われギラギラと光り輝き、さながら鏡の国のようであった。
そしてさらに発狂した者たちの間で奇妙な遊びが流行した。口の両わきを指でひっぱり、「桜田淳子」と名乗るのだ。世界中の狂人たちが「さうわわうんこ」と言ってはケケケケケケケ! と笑い合った。当の淳子は話題に乗って、「私の青い鳥毒電波ケケケケ!」という新曲を発表したが、これはあまり売れなかった。森昌子の髪の毛は、あいかわらずちぢれていた。
「アハハ、パパ幸せだあ!」
「ウフフ、道子も」
浮き世の苦しみとは対照的に、天国でのの子は上機嫌。
「ママもよ! 二人のために歌を唄《うた》うわ♪ラララ〜」
「あ、ママその歌、三年前にも聞いたよ」
「私がみっちゃんの後ろで唄ってたのよラララ〜」
「いい歌、なんて言うの?」
「クロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤングの『アワー ハウス』よ!」
「ママしゃれてる〜!」
「こいつぅ!」
元秀がのの子のおでこをチョコンとこづいた。
「アハハハハハハハハ」
パパが笑った。
「アハハハハハハハハ」
のの子も笑った。
「アハハハハハハハハ」
ママも大声で笑った。
「アハハハハハハハハ」
キラキラ輝くアルミホイル張りの家で、焼き立てのパンの香りにつつまれながら、三人はいつまでも笑い続けた。
のの子は思った。
『人生ってジグジグ苦しいことばかりだけど、いつか幸福が訪れて来るものなのよ。それに気づかなくちゃ、生きてたってあんた達はいつまでも壺の中よ。ジグジグジグ、ジグジグジグジグ……』
(この作品はフィクションであり、実在の人物とは一切関係ありません)
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あとがき
読んでくれて本当にありがとう。うれしいです。
超常現象を素材に、多感な少年少女の心の揺らめきを物語にできないかと考え、五つの短編を書きました。いうなればこの本は、史上初の、「超常現象青春小説」というわけです。(なんだそりゃ)
いやしかし、文を書くって本当につらいっス。バンドやってる方がなんぼか楽ですよ。一作一作、プレッシャーで、ゲロはきそうになりながら書いていました。だからこうして、本にまとめることができて、僕は今とてもいい塩梅《あんばい》です。大ニコニコです。
ニコニコしてるばかりではアホみたいなので、各作品について少しだけふれますね。
「キラキラと輝くもの」は、「SFマガジン」に掲載した時はもっと長い話で、滝田六助が登場して麗美子の宇宙人誘拐《アブダクシヨン》を解説したりするシーンもあったのですが、読み返したところ、「ウーンちがう!」と感じまして、思い切ってバッサリと切っちゃいました。
ところで森村麗美子って名前、AVギャルみたいだと思いません?
「くるぐる使い」、本作品で第二十五回星雲賞をいただきました。お気付きの方も多いと思いますが、この話、フェリーニの映画『道』を下敷きにしています。主人公の名からしてが、実は波野…ザンパーノ、美那…ジェルソミーナのもじりなんですね。『道』は大好きな映画で、僕は何度見てもホロホロ泣いてしまうのです。「くるぐる使い」は、いつか続編を書きたいと思っています。全国のくるぐる使いが集って、くるぐるの交換会を開くという話になる予定です。
「憑かれたな」は、もちろん『エクソシスト』の影響大です。映画よりも、ウィリアム・ピーター・ブラッティの原作がおもしろい。この本、もう絶版なのですが、どういうわけかある古本屋にだけはよく置かれているんですね。しかも誰かが買っていくと、また新しい『エクソシスト』が棚にならぶんですよ。あれこそが超常現象と呼ぶべきものではないかと僕は思っとるのですが……
これも、いつか滝田一郎のその後を書いてみたいと思っています。
「春陽綺談」は、今は亡き「SFアドベンチャー」に書いたものです。滝田六助は、春陽の異常体験を脳の作用で解説していますが、これはあくまで仮説の一つであると考えてください。作者がこんなこといっちゃいかんのだろうけど、僕としては、春陽はどっか別の世界へ、本当に行っちゃったのではないかと思っておるのですね。この気持ちわかる?
滝田六助は、僕が小学校二年の時に創作した架空の人物です。生まれて初めて書いた推理小説の名探偵が彼だったのです。六助には思い入れが強いです。「春陽綺談」では、彼のことを少ししか書けなかったので、またまたいつか、六助のそれ以前、その後を書きたいと思っています。
「のの子の復讐ジグジグ」を書こうと思ったのは、山田花子さんの漫画を読んで、ガーンときたからです。山田さんは僕のファンであったらしく、漫画の端々に僕の名や、僕の曲名を見つけることがありました。しかし影響されていたのは実は僕の方だったというわけです。彼女の作品のテーマは、僕が少年時代に抱えていた想いそのままでした。肥大した自意識からくる自己|嫌悪《けんお》……あまりにそのままなので、読んでいてつらく、好きにはなれませんでしたが、多大な影響を受けました。
……さてさて、最後に発刊に当ってお世話になったすべての方々にお礼を!
本当にありがとうございました。
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文庫版あとがき
あとがきを書くのが好きでないので短めに。
「くるぐる使い」で第二十五回、「のの子の復讐ジグジグ」で、第二十六回星雲賞を連続授賞しました。「のの子の復讐ジグジグ」は、その年の優秀短編を集めた日本文学のアンソロジーに収められ、「くるぐる使い」は翌年、吉川英治文学新人賞の候補となり、アララこの調子で芥川とって直木もらって作家先生になっちゃうのかしらオレ? パイプとベレー帽買っとかなきゃ(どーゆー作家のイメージだ)、と思ったりもしたのですが、さすがにそううまくはいかず、新人賞は落ちちゃいまして、今、僕はパイプをくゆらすこともなく、相変わらずロックと執筆のボンクラな日々を送っています。
なんか無茶苦茶苦労して書いた短編集です。山のように資料を買い込み、つかさのウイークリーマンションを借りてこもりきり、酒を断ち、モンモンモクモクと書きました。もちろん筋肉少女帯と並行しての作業だったので大変でした。なんか燃えてたんでしょうねぇ。とても思いで深い作品ばかりです。読み返しても面白いし。「くるぐる使い」なんか泣けてくるよ。自分で書いといてなんですが。
「キラキラと輝くもの」というタイトルは、そのまま筋肉少女帯十一枚目のアルバム・タイトルにもなっています。内容はあまり関係ないのですが、筋肉少女帯のなかで最も完成度の高いアルバムなので、小説と併せて聴いてみるのもまたオツというものでしょう(笑)。ちなみにジャケット画は江戸川乱歩『パノラマ島奇談』の角川文庫版カバー絵を、そのまま使用という離れ業で、画家は本書と同じ、高橋葉介さんです。また「春陽綺談」は筋肉少女帯九枚目のアルバム『UFOと恋人』収録「パレードの日、影男を消せ」という二昔前のプログレッシブ・ロックのようなタイトルで唄になっています。こちらも併せてよろしくです。
読んでくださってどうもありがとうございます。
最後に、本書を刊行するにあたり協力してくださった全ての方々にお礼を、ありがとうございました。
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<参考文献>
『脳の手帖』久保田競・他(講談社)
『臨死体験の不思議』高田明和(講談社)
『「神秘体験とは何か」の科学』諏訪見殿雄(AZ一九九〇年十一号 新人物往来社)
『何かが空を飛んでいる』稲尾平太郎(新人物往来社)
『私は宇宙人にさらわれた!』ジョン・リマー/秋山真人訳(三交社)
『怪談の科学』『怪談の科学・2』中村希明(講談社)
『エクソシスト』ウィリアム・ピーター・ブラッティ/宇野利泰訳(新潮社)
『精神病は病気ではない』萩原玄明(ハート出版)
本書は一九九四年十一月に早川書房より刊行された単行本に加筆・訂正したものです。
角川文庫『くるぐる使い』平成10年1月25日初版発行