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ながい旅
大岡昇平
目 次
責 任
軍 律
横浜法廷
反対尋問
弁護側証人
公判の合間に
司令官の証言
法務官
判決まで
新 生
後 記
岡田資遺稿集
参考文献
[#改ページ]
責 任
私が元陸軍中将岡田|資《たすく》の名を知ったのは、昭和四十年のことだった。その年集英社版「昭和戦争文学全集」の編集に参加して、遺稿と追悼文集『巣鴨の十三階段』を読み、感銘を受けた。
第十三方面軍または東海軍管区司令官として、降下B29搭乗員三十八名の処刑の責任を問われ、昭和二十三年五月、B級戦犯として、横浜の連合軍軍事裁判所で絞首刑の判決を受けた。翌二十四年九月十七日執行、昭和五十六年はその三十三回忌にあたる。
岡田中将は日蓮《にちれん》宗信者で、裁判を「法戦」と称した。天正《てんしよう》七年(一五七九)安土《あづち》城における、法華《ほつけ》宗|日b《につこう》と浄土宗|貞安《ていあん》の間に行われた「法論」をもじったものである。彼は法廷闘争を本土防衛作戦の延長と考えた。
「組織ある一団(参謀長以下旧部下及び弁護団)をもって、余の統率の下に飽くまで戦い抜かんと考えた。(略)吾人は当初においては、消極的な斬死案であった。然るに米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、わが覚悟において強烈ならば、勝ち抜き得るものであると判断した」
右は遺著『毒箭《どくせん》』にある文章であるが、公廷でも降下B29搭乗員を取調べた結果、無差別爆撃を行なった者のみを処刑した、と主張した。そしてアメリカ空軍は、国際法に違反して、軍事目標ではない都市爆撃を行い、多くの非戦闘員を殺傷したことを立証した。これはこれまでにA級戦犯の|市ケ谷《いちがや》法廷、また横浜法廷のその他の裁判でもなし遂げられなかったことであった。
私は昭和四十三年『レイテ戦記』執筆中、軍人は上級になるほど政治的になり、ずるくなるが、軍司令官クラスには立派な人物がいることを知った。レイテの戦闘を指揮した三十五軍司令官鈴木宗作中将もその一人だが、十八軍司令官安達二十三中将がいる。
彼は後期のニューギニヤ防衛戦において、マッカーサーのいわゆる「蛙飛び作戦」──日本軍陣地を超越して次々とはるか西方に上陸する──によって、苦戦を強いられた。多くの部下を後へ残して、米軍の新上陸地点へ急行しなければならなかった。
昭和二十二年ラバウルで行われた軍事法廷において、部下に死刑を宣せられる者を出した。自分の責任であると主張したが、それが彼の指揮の及ぶ範囲でないことはあまりにも明白であったので、終身刑にしかならなかった。
しかし安達中将の主張は変わらなかった。昭和二十二年九月十日獄中で自決した。
そのように岡田中将もすべては自分の責任である、との前提の下に戦った。降下搭乗員処刑については、他方面軍の例でも、責任は司令官と法務部長が重い。この二者が絞首刑、参謀長が終身刑を宣せられるのが普通である(再審で減刑された)。東海軍の場合は、困ったことに法務部長O少将が、逮捕以前に自殺していた。これが岡田中将のケースを複雑にした。
二十一年一月以来、残務整理中の陸軍省改め第一復員省では、自主的調査と称して、山上宗治法務少将が二度出張して来た。二月十二日、山上少将が二度目に名古屋に到着した正午、O少将が自殺した。身辺から発見されたのは、山上少将に第一回尋問を受けた時のメモらしかったが、遺書とも取れた。そこには二十七名の搭乗員の略式手続による処断を、終戦後まで知らなかった、と書かれていた。
法務官は読んで字の如く、軍における法律関係の実務を担当する。ただし昭和十七年四月までは、獣医などと同じく文官であった。太平洋戦争で占領地区が広まり、刑事問題が多発するに従って、権威を付けるために(もしくは多数の法科卒業生を召集によって使うために)武官とされたのである。
しかし本科の軍人からは、とかく一人前の軍人に非《あら》ずとして軽視される。憲兵の相談役ぐらいにしか見られない。しかも法務官は、陸軍大臣に直属する憲兵隊から送致されてきた事件を、検察官として必ず取上げなければならないのである。
起訴、処刑の命令を下すのは軍司令官であるが、法務部長は上席検察官であって、捜査上の一切の指示命令を出す。従って岡田中将は最初からすべては自分の責任であるといっていたのであるが、O法務部長は知らぬといって自殺したのである。
これより先、第一総軍(北海道、東北、東部、東海)の法務部長、島田朋三郎中将は、隷下各軍の起した事件につき一切の責任は自分にあると遺言して、二十一年九月自決していた。しかしO法務少将は、参謀部と副官部がやったことだ、との証言を残したのである。
O部長は内攻的性格で、司令部の中で孤立していたといわれる。しかし二十七名の処刑が、狭い司令部の中でうわさとしても耳に入らなかったであろうか。
一方、人が死に際して残すメッセージには、真実性があると信じられている。殊にキリスト教国ではそうである。何が真実かはいずれ横浜法廷で審理されるけれど、少将の自殺が事件に最初から暗い影を落としたのはたしかである。岡田中将の「法戦」が一部の人にしか知られず、その詳細が周知されなかったのはこのためもある。
山上少将はO少将と京大で同期であったが、昇進はO少将の方がはやかった。後輩に取調べられるのを潔しとせず自殺したともいわれた。山上少将の取調べ方は、まむしのように執拗《しつよう》を極め、法務官として、普段の軽視に対する報復の意味がなかったとはいえない。岡田司令官の場合、少将が中将を取調べるのであるから、かなり激しいやり取りがあったといわれる。
この時の山上調書が横浜法廷で証拠として採用されて、予審調書の役割を果すこととなった。これらすべてが岡田中将の「法戦」を苦戦にした。
私は『レイテ戦記』で、昭和十九〜二十年の南方の戦場の実情を伝えたつもりであるが、内地の被爆状況と降伏に到るまでの経験はなく、従ってその経過を書いたことはない。また戦記では、戦闘の事実の記述に追われて、戦う人間の内部へ深く入る余裕がなかった。若手参謀の心理は描いたが、司令官まで遡《さかのぼ》れなかった。それが何となく心残りであった。その時、私は法廷闘争を勇敢に戦った日蓮宗信者岡田資中将のことを思い出した。
『レイテ戦記』を執筆中の昭和四十三年夏、裁判の経過を書くことにきめ、四十七年から文芸雑誌「新潮」編集部の坂本忠雄君の助けをかりて、調査をはじめた。名古屋に行って、被害の激しかった愛知時計その他を見、搭乗員処刑の状況を聞いて廻《まわ》った。京都で弁護団の一人、京大法学部教授・弁護士佐伯千仭氏に会い、裁判の経過を聞き、弁護資料を拝借した(主任弁護人岡本尚一氏は既に故人だった)。佐伯氏は無差別爆撃が立証された時、アメリカの裁判長も検察官も、しばらく言葉がなく、法廷がしーんとなってしまった、と語った。
岡田中将の遺族をお訪ねした。すると岡田家と私とは不思議な縁があることがわかって来た。岡田中将には一男一女がある。長女|達子《たつこ》さん(大正八年生)は軍人に嫁がれたが、長男|陽《あきら》氏(大正十二年生)は文学、演劇を好まれ、昭和十五〜十七年、父君が相模《さがみ》造兵|廠《しよう》長時代、小田急電鉄で、玉川学園の前を往復しているうちに、なんとなく学園が気に入り、入学、卒業した。現在は同学園文学部教授(教育芸術担当)で、故小原国芳総長の次女純子さんと結婚している。小原先生は私の成城旧制高校の恩師で、純子さんは幼少の時から知っている。
私が玉川学園に行った時、陽さんは外遊中であったが、純子さんのほかに、達子さんと夫君の元第六航空軍参謀少佐藤本正雄氏が見えられ、色々と故人の話をうかがった。当時、横浜市港北区|篠原《しのはら》町北の藤本氏の家にお住いの未亡人|温子《はるこ》さんをお訪ねして、お話を聞き、岡田中将の霊に参って来た(未亡人は昭和五十六年五月他界された)。
しかし何分肝心の裁判記録がアメリカに行ったままだし、関係者の中には、裁判のことを話すのを好まない人もいて、不明の点が多く、なかなか執筆する段階に到らなかった。
昭和四十八年一月新潮社のPR誌「波」に、「私の中の日本人」として、多くの文学者がその共鳴する日本人一人を選んで書いた時、私は岡田中将を選び、その事蹟《じせき》の概略を記した。彼は法廷で勇敢であっただけでなく、スガモ・プリズン内でも態度が最も立派であった、と多くの人が言う。
そのシリーズが単行本になった昭和五十一年、私は中日新聞社長加藤巳一郎氏から、プライベイトな会見の申込みを受けた。戦争中、加藤氏は経済部記者として岡田中将に親しく接していた。もっと詳しく故人の話を聞きたい、と希望されたのである。岡田中将には『巣鴨の十三階段』のほかに、宗教関係を中心に編纂《へんさん》された四百頁を越す遺著『毒箭』がある。私はそれをお貸しした。氏は中将の専属副官が横浜に在住のはずと知っておられ、東京新聞神奈川版に尋ね人記事を出して、新興工業社長、村上二郎氏を探し出して下さった。
専属副官とは多く応召中尉で、司令官の身辺雑事の処理に任ずる。その人柄日常を最もよく知っている人である。村上氏を通じて、名古屋在住の元|兵站《へいたん》参謀保田直文少佐とも連絡ができた。
当時、加藤経済部記者は軍需監理部長時代の岡田番記者であった。方面軍司令官に転じると社会部の担当となるが、一週間に一度ぐらい呼び付けられて、経済状勢その他について雑談的に質問された。その人柄と的確な判断に、敬愛の念を抱かずにいられなかった、という。
岡田家は代々鳥取藩の藩医で、家が城に近い江崎町にあったのを、長女達子さんは憶《おぼ》えておられる。祖父乙松、祖母志可は夫婦養子であった。乙松氏は家業を継がず、鳥取地裁事務官の職を選んだ。京城の任地で没したのは、岡田資十七歳の時という。
中将は明治二十三年四月十四日生で、十七歳は数え年だから、明治三十九年となる。四十一年、陸軍士官学校へ入学されたのは、中学の成績がよく、軍人が志望だったからであるが、父の早逝に会って、士官学校が学費官給のためでもあったろう。軍人として特に縁故的背景はなく、刻苦して経歴を開かれた方である。
父が裁判所の職にあったことは、中将がすぐ「法戦」の考えを抱いたのと関係があるだろう。
中将の性格のもう一つの特徴は、日蓮《にちれん》宗信者だったことである。日蓮宗は戦争中田中智学の好戦的宗派に入信する者が多かったが、岡田中将の場合、二十一歳陸士在学時代、ふと路傍で説教する僧侶《そうりよ》の言うことに気を留め、立止った。そのうち雨が降って来た。説教者と聴衆二人だけになった。中将はもっと話を聞くために説教者の家について行った。それは戸谷好道という四谷箪笥《よつやたんす》町にあった小宗派だったが、後には河合陟助師の話を聞くようになったという。
中将の遺した日蓮宗関係の書籍は、陽氏が一括、玉川学園の図書館に寄贈されている。そこには河合師より与えられた本多日生著『法華経要義』及び同師著『法華経講義』上下二巻がある。
私は仏教に暗いので、にわかに判断はできないが、スガモ・プリズンにおいて、若いB・C級戦犯で死刑を宣せられた者に、死生観を説くのに熱心であった。これらの教誨《きようかい》師的言動と、責任は一切司令官たる自分が負う、と主張されたことにおいて、スガモ・プリズン収監者たちから尊敬されていた。軍人である以上、「軍人勅諭」の書があるが、最後には「南無妙法蓮華経《なむみようほうれんげきよう》」と言って絞首台に上ったと伝えられている。
しかしひたむきに宗教に心をこめられたのは、スガモ・プリズンにおいて死に直面されたからで、それまでの日常生活においては、むしろ知的合理的であった、と遺族の方は言う。年に一度、正月|元旦《がんたん》に床の間に曼荼羅《まんだら》をかけ、香を焚《た》き、瞑想《めいそう》して、何かを書く。遺書のようなものを書いているように見えた、と達子さんは言う。
軍歴は追って詳細に述べなければならないが、イギリス大使館付武官、秩父宮《ちちぶのみや》侍従武官、陸大教官など、教育総監系の経歴がある。
日中戦争中は武漢作戦に参加したが、千葉戦車学校長となり、相模造兵|廠《しよう》にて戦車の改造に当たるなど、技術管理面において手腕を発揮した。昭和十七年満州|勃利《ぼつり》の戦車第二師団長、二千|輛《りよう》より成る戦車集団の編成を当時の方面軍司令官山下|奉文《ともゆき》大将に上申したという。
昭和十八年十一月、航空機増産が最も緊急事であるとの認識の下に、陸海軍航空機生産を一括した軍需省が創設される。十二月、岡田中将が東海軍需監理部長となって名古屋へ来たのは、三菱《みつびし》航空機その他の製作を監督するためであった。そしてあわただしい本土決戦作戦形成の過程で、そのまま第十三方面軍兼東海軍管区司令官に任命されたのであった。当時最年少の方面軍司令官であった。
東海軍司令官に転補された二十年二月には、名古屋はすでにサイパン、テニヤンを基地とするB29の爆撃を受けていた。
これに先立ち十九年十二月七日、名古屋を中心として、近畿《きんき》、東海地方は、熊野灘《くまのなだ》を震源とする震度六〜七の巨大地震に襲われた。日本の航空機の四〇パーセントを生産していた名古屋重工業地帯は大打撃を受けた。死者九九八人、全壊二万六一三〇戸(自治省、昭和五十四年調)に上った。東海道線は天竜川の鉄橋が落ち、静岡─豊橋《とよはし》間は不通になった。しかし当時は報道管制によって、愛知、三重、東海地方の住人しかその災害の大きさを知らなかった。
それから一週間後の十二月十三日に、名古屋はB29の初空襲を受けたのである。三菱重工業名古屋発動機製作所第四工場が被爆した。以来、翌二十年七月二十六日までに被爆三十八回、飛来機数一九七三に及んだ。被害は、死者八一五二、負傷者一万〇九五〇、罹災《りさい》者五一万九二〇五人に及んだ(米戦略爆撃調査団調、一九四六年)。
B29はそれまでに、東京の中島飛行機工場を二回空襲していたが、雲が低く、高々度からのレーダー爆撃であったため、被害は軽少だった。ところが十三日の七五機による名古屋空襲は、落とされた爆弾、焼夷《しようい》弾のほとんどが三菱発動機工場の三〇〇メートル以内に落ち、甚大な被害を受けた。死者二〇九、負傷者三二九、全焼一九五、半焼二五、全壊四四、半壊一五〇であった(『日本列島空襲戦災誌』水谷鋼一・織田三乗著、東京新聞出版局、昭和五十年)。
アメリカ側の記録によれば、これはB29による攻撃が、はじめてあげた戦果であった。中島飛行機爆撃時は、高度八〇〇〇─一万メートルを飛んだために、強い北西の季節風に妨げられて、目標のねらいが狂った。これにこりて名古屋の時は、東から近づいたので、向い風となって滞空時間が長くなり、落着いて照準を合せることができた、という(カール・バーガー『B29、日本本土の大爆撃』中野五郎・加登川幸太郎訳、サンケイ新聞社出版局、昭和四十六年)。
B29が雲海の上に頂上を出す富士山を目標にして飛んで来たことは、よく知られている。そこで左右に分れて、東京または浜松、名古屋に向った。
十二月十八日、六三機による第二回空襲の目標は三菱の組立工場で、建物の一七パーセント以上が破壊され、死傷四〇〇名以上。ただし生産は十日間停っただけであった。この空襲では、B29四機が撃墜され、二機は原因不明の不帰還であった、という。
パラシュートで降りてくる米飛行士も、北西の風に流される。東京空襲の際の飛行士が、九十九里浜に降り、住民は、東京被爆のニュースを聞くまでは、日本機の搭乗員と思ったという。そのうち、こんどは不時着の日本海軍機が、米機に間違えられて、住民に襲われる事故が起きる。
同じように、神戸、大阪を爆撃した搭乗員が、北西風に流されて、東海軍管区に降りることがあった。後に法廷で、神戸中山手通の孤児院長を証人に立てて、米の無差別爆撃の残虐性を立証できたのはこの関係からである。
「さんざん爆弾で人を殺しておいて、自分はパラシュートで降りて来て、助かろう、というのは、虫がよすぎるわね」
これが当時の主婦のいつわらざる感情であって、それはまた降下搭乗員を斬首《ざんしゆ》した日本軍兵士のものでもあった。彼等は「死すとも虜囚の辱《はずかし》めを受けず」と教えられていたから、機と運命を共にしない米搭乗員を卑怯《ひきよう》と見なした。
「われわれは上官の命令に従ったまでだ」と主張する搭乗員もいた。これは「上官の命令は朕の命令と心得よ」と教えられた日本軍人に理解できる言葉であるはずであった。しかし防空、待避に忙殺され、不眠が続き、気が立っていて、相手の立場を考慮する余裕がなかったのである。
これらの主張や無差別爆撃の是非、搭乗員処刑問題については、日米開戦以来の長い物語がある。
航空機による爆撃が一般住民に与える災害は、第一次世界大戦(一九一四〜一八年)当時から認識されていた。一九二三年(大正十二年)のヘーグで開かれた「戦時法規正委員会」(日・米・英・仏・伊・蘭)では「爆撃は軍事的目標に対しておこなわれた場合にかぎり適法とする」と宣言した。
むろん実際にはこれらの制限は守られない。一九三七年(昭和十二年)四月二十六日、ドイツ空軍によるゲルニカ爆撃はピカソの絵によって有名である。スペイン内戦の最中であったが、ゲルニカは西仏国境に近いピレネー山中の小さな町で、軍事的価値は全くなかった。フランコ将軍に加担したナチの、無差別爆撃の威力実験だったといわれる。
同じ昭和十二年七月、日中戦争がはじまった。日本陸海航空隊は、南京、漢口、重慶に無差別爆撃を行なった。日本人がはじめ米軍の無差別爆撃に対して、なんとなく、「戦争である以上、しようがない」と心の底で感じていたのは、戦争に勝つためには、何をしてもかまわない、という通念があったためだと思う。
日本人が無差別爆撃を残虐と感じたのは、実際にそれを経験し、被害が増大し、軍と新聞がそれを言い出してからだった。
一九三九年(昭和十四年)九月一日、ドイツ軍がポーランドに侵入し、第二次世界大戦がはじまった。同日、米大統領ルーズベルトは、すべての交戦国に対し、「非武装都市の一般市民を空中から爆撃する非人道野蛮行為を避けるよう」アピールを行なったが、むろん無力であった。ドイツとソ連はワルシャワを無差別爆撃して、ポーランドを分割した。一九四〇年以来、ドイツはロンドンを無差別爆撃していた。
この報復が、一九四三年の、英空軍によるベルリン、ハンブルクの都市爆撃であった。特にドレスデン爆撃は内外から非難の声があがった。ドレスデンは軍需工場を持たない、古い水の都、観光都市だったからである。
しかも西欧の建物は石造で、多くは地下室を持っているから、人的被害は少なく、工場の生産力も落ちなかった。むしろ防空火砲の精度は増していたから、英空軍の損害は大きく、爆撃効果と引合うかどうかあやしくなった。
しかし大部分が木造である日本都市には、焼夷弾攻撃は有効であろうと米空軍は予想し、予想は狂わなかった。ルーズベルト大統領は、一九四二年四月十八日には、三年前のような人道的な思想を持っていなかった。
昭和十七年四月十八日未明、米空母ホーネット、エンタープライズ及び特設空母一隻が、本州東方海面に八〇〇カイリまで接近し、陸軍長距離爆撃機B25一〇機を放って回頭した。四〇〇カイリまで近寄るつもりだったが、八〇〇カイリの地点に日本の漁船がいて、通報されたおそれがあったので、直ちに回頭したのである。
B25は単独もしくは三機編隊で、京浜、名古屋、神戸に、焼夷弾と爆弾を投下した。被害は主として東京方面で大きかった。戦後まで発表されなかったが、横須賀《よこすか》で建造中の空母「竜鳳《りゆうほう》」が被弾し、一部炎上、かなりの死傷者を出した。東京都内に二〇〇個所で焼夷弾による火災が発生した。しかし昼間のことであり、直ちに消火に成功し、大事に至らなかった。全焼一四五、半焼五九、死者八九、重傷一六九であった。
爆撃隊長の名を取って「ドゥリットル爆撃」と呼ばれている作戦である。名古屋では三菱航空機製作所周辺に爆弾が落ち、別の一機によって東邦ガスタンクが被弾炎上した。
真珠湾、シンガポールの勝報に酔っていた国民にとっては、これは寝耳に水の出来事であった。山本|五十六《いそろく》元帥が、一カ月後に、ミッドウェイ海戦を実行したのは、この爆撃の結果といわれる。皇居が爆撃されるのを怖れた、というのだが、作戦はそれより一カ月前に決定されていた、という説もある。
B25は陸軍機だから、空母に帰投することはできない。中国に不時着の予定であった。大部分が飛行場を見つけられず、搭乗員がパラシュートで降下した。八名が日本軍占領地区に降りて捕えられた。
現地軍は彼らが無差別爆撃したと見なし、三名を銃殺した(五名は天皇によって特赦)。アメリカの世論は激昂《げつこう》した。海戦又は空戦において捕えられた者を俘虜《ふりよ》として扱うことは、一九二九年七月のジュネーヴ条約で約定されていた。日本はこの条約を批准しなかったが、開戦後、その条項に準じて処理すると、スイスを通じて各国に通牒《つうちよう》してあったからである。
日本政府は米世論に答えるように、同年十月十九日、日本防衛総司令官の名で、次のように布告した(原文片カナ、句読点を補う)。
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大日本帝国領土を空襲し、我が権内に入れる敵航空機搭乗員にして、非道の行為ありたる者は、軍律会議に附し、死又は重罰に処す。満洲国又は我が作戦地域を空襲し、我が権内に入りたる者亦同じ。
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非道とは「人道に反する」無差別爆撃のことである。右に対し、アメリカは翌十八年四月十二日、左の声明を発した。
「アメリカ政府は、このような野蛮な無慈悲な行為に対して、責任のある日本政府の将校に相当な処罰を加えるつもりである」
そして戦争法規を改正し、たとえ上官の命令であっても、人道に反する行為を行なった下級者も処罰を免れないとした。連合国の名で日本とドイツ政府に通告した。国内及び外地で、B・C級戦犯が処刑されたのは、この条項によってである。
アメリカ軍でも上官の命は絶対だったが、一般刑法には場合によっては不服従を許す条項があり、それを取り入れたといわれる。ところがこれは上官の命令は朕の命令と心得よ、とさとされた日本兵にとっては、理解し難く、また実行できない事柄であった。
同じ条項がニュルンベルク判決にもある。一般に戦犯裁判は、戦勝国が自国の法律によって戦敗国の将兵を裁いた不当なものであったことは、その後、戦勝国がアルジェリア、ヴェトナムで行なったことによって、立証されている。
B29による空襲は、サイパンのB29爆撃司令官が、軍事工場目標主義のハンセルから、ヨーロッパの無差別爆撃の指導者ルメイに交代したことによって様相を一変する。昭和二十年二月十九日の東京空襲から、夜間の焼夷《しようい》弾爆撃中心になったのである。名古屋は三月十二日以来、多くの悲惨な日々の記録があるが、最も犠牲の大きかったのは、五月十四日の名古屋市北部の絨毯《じゆうたん》爆撃(名古屋城炎上)、六月九日の熱田《あつた》区|千年船方《ちとせふなかた》の愛知時計電機、熱田発動機製作所、愛知航空機機体第四工作所の爆撃であった。
それまでに東京、名古屋、大阪、神戸の軍需工場及び都市の大部分は爆撃によって壊滅していた。ルメイは夜間攻撃の高度を一八〇〇〜一五〇〇メートルに下げ、命中の精度の上昇を期していた。名古屋市の大半はすでに数度の焼夷弾攻撃によって焼き払われていたが、不思議にこの重要な軍需工場が爆撃されていなかった。
被害の最も大きかったのは愛知時計で従業員二万一〇〇〇人、うち約一万三〇〇〇人が徴用工員、約五六〇〇人が、動員学徒であった。魚雷、発射管、機雷、爆雷など水雷部門と、銃弾、信管、制動機など砲煩《ほうこう》部門に分れていた。
六月九日は梅雨晴れの暑い日だった。最高気温二六・〇度、風速北西五・五メートル。この日名古屋、阪神地区に侵入したB29は一三〇機であった。いつも紀伊水道及び熊野山地を北上して琵琶湖《びわこ》上空に集合し、そこで左して阪神に向かうか、右して名古屋を襲うかをきめるようである。
同日朝、一機が伊吹《いぶき》山方面から南下し、名古屋城大手西側にあった東海軍管区司令部防空庁舎東側へ投弾、サイドカーで通行中の警官二名が重傷を負った。警戒警報は午前七時四十五分、空襲警報は八時二十四分に発せられていた。爆撃はその直後であった。
しかしその後、空襲はない。防空庁舎はこの年二月十一日新設されたもので、敵機の位置をランプで示す映画スクリーン状の地図が壁に張ってある。紀伊半島と三重県の各所に設けられた官民監視所(目視、聴音による)からの情報が、一括送られて来る。すると地図にランプがつくのである(三重、岐阜、石川県境が大阪の中部軍との境界)。
ところがこの日はそのランプのつき具合がおかしかった。東南にランプがつく。しかしばらばらである。南方も同じ。いつも来る時はランプが整然と連続してつくのだが、今日はいずれも途中でとぎれている。東南ランプの中には、一旦《いつたん》ついて、まもなく消えるものがある。
敵編隊が伊吹山の北側にかくれて様子をうかがっている可能性があったが、防空参謀はあまり永く警報を出し放しにして、工場の生産性を落とすのはよくない、敵機は阪神方面に向かったのであろうと判断して、九時すぎ警報を解いた。
愛知時計は堀川にかかった白鳥橋の南側にある。解除後十五分ぐらいの間に、橋の北側の堤防その他、付近に設けられた防空|壕《ごう》に避難していた従業員の大部分は職場へ戻った。
その時、突如西方から、風に乗った四三機が低空で来襲した。この頃は敵襲もトリッキイになっていて、さきに司令部庁舎東側に投弾した一機は、偵察またはおとりだったのだった。わずか十分の間に、三つの工場が壊滅した。愛知時計=死者九四八、重傷三〇六、全壊六二棟。愛知航空発動機=死者一五〇、重傷七〇、全焼三棟、全壊九八棟。愛知航空機船方工場=死者三六〇、重傷一三〇、全壊七三棟。
愛知時計の鉄筋四階建の地下室に多くの女子職員は避難したが、三発の爆弾は地下室まで貫き、建材の破片で埋めた。首と肢体のない女子の胴体が、通風孔をふさぐ惨状を呈した。何人が避難し、何人が死んだか、詳細はいまもわかっていない。
白鳥橋下は、よき避難場所と思われた。一発が北詰寄りに落ち、数百人が犠牲になった。昭和三十三年建立の慰霊碑が西詰に建っている。
この惨禍の責任の大部分は、判断を誤って、空襲警報を解いた防空参謀、つまり東海軍にある。
夕方、どこかの警防団長が司令部にどなりこんで来た。そのけんまくに一同たじろぎ、上層部が応対したという。結果は不明(『日本列島空襲戦災誌』)。
一説には当日被害視察に愛知時計に赴いた岡田司令官にくってかかる者がいた。当時、こういう勇敢な人物は憲兵隊に連行されるのが落ちだが、岡田中将が、
「すまなかった」
とあやまって、事なきを得た、という。
これは司令部が、民間人に対して責任を取ったということである。この前の戦争の敗戦は全体としては、丸山真男氏のいう「無責任体系」の中にくるみ込まれていたが、末端においては、それぞれ責任が明白であり、それが戦後戦勝国によって追及されることになったのである。
名古屋市の焼夷弾爆撃の最大のものは五月十四日のそれで、米側の記録によれば、機数四八六機、全投弾量二五六三トン、市の北部八〇パーセントが焼失した。名古屋城炎上もこの日である。
損害は中日新聞同日十九時の集計によれば、死者三二四、傷者六二四、全焼二万三三九四、半焼一七四、罹災《りさい》者六万四八七三である。
米側損害は大本営発表では、B29撃墜八機、撃破九機、米側発表では撃墜二機である。この日、名古屋市内、知多半島、三重県津市、同県農村部に降下捕獲され、憲兵が軍司令部に送致した米搭乗員は、将校三、下士官八であった。
東海軍法務部長O少将指揮の下に、三人の軍検察官が取調べに当ったが、言語等の関係で案外手間取り(「われわれは命令に従っただけだ」といったのはこの時の降下搭乗員である)、六月二十五日頃、捜査終了。軍律違反の嫌疑濃厚、戦時重罪人として死刑に処すべしとの結論を得た。
二十六日、岡田軍司令官の決裁を経て、第一総軍(東海軍以東の各方面軍を総攬《そうらん》)の承認を得るため、伊藤信男法務少佐を東京へ派遣した。
昭和十九年二月二十一日、次の陸軍次官参謀次長|通牒《つうちよう》、陸亜密一二八九号が発せられていたからである。
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軍法会議、軍律会議、軍政法院所管の俘虜又は原住民等の事件にして(略)国際問題を惹起し、(略)その他政治的に影響を及ぼすこと大なる事案の処理に当りては、予め十分中央に連絡すると共に、之を極刑を以て臨まんとする場合は、中央の指示を俟《ま》たれ度《たく》、依命。
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伊藤少佐は第一総軍及び陸軍省法務部の承認を得た。東京空襲下で交通が途絶したため、第一総軍からは七月五日か六日に電話で許可があった。
七月十一日、審判長松尾快治少佐、法務官法務中尉山東広吉、判士片浦利厚中尉、検察官伊藤信男少佐より成る軍律会議を開き、十一名に死刑を宣告、翌十二日|小幡ケ原《おばたがはら》射撃場で、日本刀で斬首《ざんしゆ》処刑した。
この事件も横浜法廷で審理されたが、上席検察官のO法務少将は自殺、岡田中将等十九名の被告は分離裁判されたので、検察官であり、拘置所長でもあった伊藤少佐一人の肩に責任がかかり、絞首刑を宣された(後に終身刑に減刑)。他の関係者にもそれぞれ有期刑が言渡された。
ところが、伊藤少佐が東京へ行っている間に、東海軍ではさらに重大な決定が行われていた。右十一名の後に捕獲された搭乗員の数は二十七名に達していた。
沖縄の組織的抵抗は終り、大本営は米軍上陸を八月と予想していた。九十九里浜上陸の場合、東海地方に補助上陸を行うであろう、伊勢《いせ》湾深くに入る危険は冒さず、渥美《あつみ》半島南部上陸と予想し、陣地構築にはげんでいた。後、大本営から御前崎《おまえざき》方面警戒をいって来たので、岡田中将は、清水市に自宅のある成田喜久基中尉を連れて、出張している。
この忙しい中で、軍律会議に二カ月もかかっていられてはたまらない。無差別爆撃をしたことが明瞭《めいりよう》である者は、正式の手続を省略し、軍律を適用して処罰することに決めてしまった。
二十七名は五月二十九日浜松、六月五日神戸、六月二十二日姫路、六月二十六日大阪の無差別爆撃を自白していた。それまでにも何回かの無差別爆撃の累犯ありと見なされた。
六月二十日、岡田司令官の命により、大西一高級参謀はO法務少将と共に、その案を研究した。六月二十八日山田|仂男《りきお》中尉が部下十三名と共に、十一名を瀬戸市赤津町山地で、日本刀で斬首した。七月十二〜十五日、成田喜久基中尉が、軍司令部第二庁舎裏で、十六名を四回に分けて斬首した。
死体は処刑地点に埋葬されたが、終戦後、墓地の整理及び庁舎使用上の必要から、発掘して、名古屋市近郊津島火葬場で火葬に付し、一部を分骨して、名古屋陸軍墓地に収容した。この事件は処刑者の人数も多く、略式裁判は不当とされたので、伊藤ケースよりも重大で、分離審理されたのである。
当然O法務少将も係り合っていなければならないが、戦後第一復員省の予備捜査の段階で、O少将は、東京より山上法務少将が第二回の取調べに名古屋駅に着いた昭和二十一年二月十二日、庁舎の自室で服毒自殺したことは前に書いた通りである。
各自部署によって責任がある。それまでに空襲俘虜の扱いについて銃殺との軍律を下した第一総軍の法務部長島田中将は、すべての責任を負うと遺書して自決したが、むだだった。米軍は戦争法規を改正して、たとえ上官の命令であっても、違法行為を行なった下級者も処罰を免れなかったとしていた。
空襲下の緊急事態において生じた事件の後始末である。岡田資中将のように、司令官としての責は取りつつ、「法戦」によって、事実と各人の責任の所在を、明らかにしなければならなかったと思われる。
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軍 律
私はこれまで「軍律」、または「軍律会議」の字を、説明なく使って来た。読者は「軍法会議」の意味は知っていても、「軍律」との相違は多分ご存じないと思う。説明する。
軍法会議は「甘粕《あまかす》大尉事件」「五・一五事件」など、著名事件がある。陸軍刑法の条項に当る罪を犯した者を裁くもので、原則として公開で、被告は弁護人を選ぶことができる。しかし裁判長はいつでも非公開にすることができ、大抵はそうなる。
ところが軍律会議の手続は、戦時高等司令部勤務令の規定により、軍司令官が設置権を持つ、地方的なものである。特別の指示のない限り、現地の状況に適《かな》うように、司令官自らが制定する「軍律」による。非公開で、弁護人はつかない。
昭和十七年四月のドゥリットル爆撃に際して、三人の搭乗員の死刑に対する米政府の抗議に対し、十七年十月十九日付防衛総司令官より「死又は重罰に処す」と「布告」したことは既に書いた。
これより先、十七年七月二十八日、陸軍次官発、陸密第二一九〇号「空襲の敵航空機搭乗員の取扱に関する件」をもって示達した。
「防衛総司令官、軍司令官(内地、外地各軍、香港占領地総督を含む)は当該権内に入りたる敵航空機搭乗員にして、戦時重罪犯として処断すべき疑のある者は軍律会議に送致す。
前項軍律会議に関しては、陸軍軍法会議法中特設軍法会議に関する規定を準用す」
防衛総司令部は十月十九日の「布告」と同日付で、左の軍律を定めた。
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第一条 本軍律は帝国領土、満洲国又は我が作戦地域を空襲し、東部、中部、西部、北部、朝鮮及台湾各軍の権内に入りたる敵航空機搭乗員に之を適用す。
第二条 左に掲ぐる行為を為したる者は軍罰に処す。
一、普通人民を威嚇又は殺傷することを目的として爆撃、射撃其の他の攻撃を加ふる行為。
二、軍事的性質を有せざる私有財産を破壊毀損又は焼毀することを目的として、爆撃、射撃其の他の攻撃を加ふる行為。
三、已むを得ざる事情ある場合の外、軍事的目標以外の目標に対し、爆撃、射撃其の他の攻撃を加ふる行為。
四、前三号の外特に人道を無視したる暴虐非道なる行為。
前項の行為を為す目的を以て、帝国領土、満洲国又は我が作戦地域に来襲し、其の目的を遂げざる前、第一条に掲ぐる各軍の権内に入りたる者亦同じ。
第三条 軍罰は死とす。但し情状に依り無期又は十年以上監禁を以て、之に代ふることを得。
第四条 死は銃殺す。
監禁は別に定むる場所に拘置し定役に服す。
第五条 特別の事由ある時は軍罰の執行は免除す。
第六条 監禁に就ては、本軍律に定むるものの外、刑法の懲役に関する規定を準用す。
附則
本軍律は昭和十七年十一月一日より之を施行す。
本軍律は施行前の行為に対しても之を適用す。
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これは十月十五日のドゥリットル搭乗員処刑後に作られたので、「附則」の二で施行前の行為にも適用と書かねばならなかったのである。これは事後法といって、法律一般にかかわる禁止事項で、いかにも苦しい。もっとも国際戦犯裁判全体がこれは犯しているのだから、お互い様ではあるのだが。
本土がその次に受けた爆撃は、中国の成都を基地とするB29六三機によるもので、昭和十九年六月十六日のことであった。目標は八幡《やわた》製鉄所、損害は軽微であった。その後も八月十一日、二十日、二十一日に来襲し、四機が撃墜され、五名が捕虜となった。
この時、総司令部より軍律会議検察官として出張したのは、後に東海軍伊藤ケースの被告伊藤信男少佐であるが、不起訴を相当とすとの意見書を書いて帰京した。そしてその通りとなった。八幡製鉄所が軍事目標であることは、あまりにも明白だったからである。
ところが二十年一月に入ってからは、焼夷《しようい》弾による焼き払い作戦が主となった。アメリカの主張は、日本の軍需産業の七〇パーセントが町工場の下請けに依存している、というのだが、目標は各都市の住宅地域、商業地域を含む、絨毯《じゆうたん》爆撃方式であった。後に行われた中小都市爆撃も同じである。ドイツの例から見ても、日本国民の戦意を喪失させよう、との心理的効果を狙ったものであることは明白であった。
沖縄に敵上陸を見た二十年四月十五日、防衛総司令部を廃して本州を第一、第二総軍に分けた時、さきに示達の軍律は、ほぼ同文で、第一総軍軍律となった。ただしこれは建前としては、隷下各軍によるべき基準を示しただけのものであった。
東海軍、中部軍(大阪)、西部軍(福岡)は、それぞれ弾が惜しい、もしくは銃声が周辺の住民に不安を与えるなどの理由によって、斬首《ざんしゆ》刑を採用した。これは「死は銃殺す」の条文違反であるが、これには総軍軍律は基準であって、現地軍の状況次第で変更できるというエクスキューズがあった。
さらに東海軍岡田ケースでは、軍律会議を開かず、略式裁判によって二十七名を処刑したので、ことが大きくなったのだが、ここでも活路は、軍律制定は方面軍司令官の権限内にあるということであった。
空襲下の緊急事態においては、無差別爆撃行為の明白なる者は、方面軍司令官の判断によって、軍律会議を省くことができるはずだ、これが岡田中将の横浜法廷における主張の一つである。
斬首については、フランスのギロチンはじめ各国において採用している処刑法であって、特に残虐であるとはいえない。日本刀による斬首は、古来武士の切腹の際も行われていて、銃殺と同じく兵器による処刑であるから、軍人に対する尊敬の念は失っていない、と言った。
もっとも江戸時代には切腹を伴わない斬首の刑があったから、これはややこじつけの気味がないでもない。弁護人を付けないことは、法慣習の違う米軍には理解し難いことであった。またなぜ処刑者の遺言、もしくは家族へのメッセージを求めなかったか、などの問題が残った。一般アメリカ人は、日本軍は搭乗員を拷問の末、なぶり殺しにした、と信じていたのだから、始末が悪かった。
軍によって扱いが違ったのは勿論《もちろん》である。東部軍(東京)では、軍律会議を開かず、六十二名を渋谷《しぶや》の陸軍刑務所に収容してあった(中央では早くも手をあげる準備か、との声があったという)。
五月二十五〜六日にわたる東京空襲の際、刑務所を何かの軍事施設と間違えたのか、三度くり返して爆撃し、全員爆死した。ただし同じ刑務所に、吉田茂ほか二名が、休戦工作の疑いで収監されていたが、彼等をすぐいまの代々木《よよぎ》公園、当時代々木練兵場へ避難させたが、米搭乗員はあと廻《まわ》しになったので、所長以下五名が死刑を宣せられている(『史実記録、戦争裁判横浜法廷(一)B・C級』東潮社、昭和四十二年)。
東海軍でも、岐阜方面の爆砕された施設に一括収容していて、全員米軍の爆撃によって爆死したことにしようか、との案が出たというから、人間が考えることは似たようなものである。結局岡田司令官の決裁で、うそを吐《つ》いても、必ず穴がでる、事実通りに述べることに落着いた、という。二十年十一月十五日頃、内地の各方面軍司令官が陸軍大臣下村定大将に呼ばれた時、中将はその方針を告げている。
八月十日以後、降伏の議が東京にあるのを聞いて、特別機を仕立て上京しようとして果さず、八月十五日、阿南《あなみ》陸相に電話が通じた時は、その自決を告げられただけだったという。当時の宿舎は県庁東の知事官舎にあったが、長女達子さんの記憶では、中将の態度にあまり変化はなかった。激昂《げつこう》して訪れる若手将校をなだめていた、という。
中将はこの時、五十六歳、心身共に円熟した時期である。名古屋は中国軍が進駐し、知事官舎は接収されるとのうわさがあり、すぐ空けねばならなかった。利殖を図るタイプでなく、家を持っていなかったので困ったが、軍監部長時代に接触のあった燃料商社(名古屋付近に産する亜炭を扱う)の斡旋《あつせん》で、知多半島東岸の半田市北|荒古《あらこ》二十七番地に家を借りて移り住んだ。
半田市は現在対岸の碧南《へきなん》市と架橋され、名古屋市南の交通の要衝、衛星都市になっている。ここには現在も達子さんが夫君藤本正雄氏(当時、第六航空軍参謀少佐、昭和五十七年現在は名古屋市の都築紡績社長)と共に住んでおられるが、それは当時のお住いとは別の山崎町である。
半田市は当時は閑静な漁村、または別荘地であって、中将はよく釣りに行ったが、大抵は飛込んで泳いだという。六十歳近かったが、身体は壮健であった。一七五センチに近い長身で、これは陽さんも達子さんも受け継いでおられる。
無論、この間に始終名古屋の元司令部に出頭された。幾度か会合を依然持って、打合せをしなければならなかった。現役軍人は九月末付で、一応全部予備役編入になったが、司令官相当の地位にある。十二月東京から来た河辺虎四郎中将と交替するまで、完全に隠居できなかった。
十二月、CIC(Counter Intelligence Corps=防諜《ぼうちよう》部隊)の調査団が来た。十七名が取調べを受けた。ビンタは日本軍の特技ではないらしく、取調べに当って、なぐられなかった者は少ないという。いくら打合せてあっても、各自の供述がちぐはぐになるのは、この時からである。
人間は弱いもので、こういう事態になると、わが身可愛さが顔を出す。敗戦間際には、空爆下の日本人は、一種パニック状態にあったので、自分の言動でも細かく想起することはむつかしい。一方新しい権威者に取り入ろうとの事大主義もまたわれわれの習性であって、CICの調査官はすこぶる日本的な饗応《きようおう》を受けた。
少佐一人、中尉二人、通訳下士官一の構成であったが、焼け残った料亭でサケと鮮魚とゲイシャガールを、東海軍改め第一復員省(旧陸軍省)東海監部(十二月一日付、改名)に少し機密費が残っていたので、それで賄ったのである。やり過ぎがあって、CIC調査官全員が交替になり、調査は二十一年二月までかかった、という。
この頃までに、新聞は、各地の搭乗員斬首を、戦後民主主義正義の通念の下に摘発しはじめていた。二月には旧軍法会議に替る高等裁判所が設けられ、自主調査の目的で、山上法務少将が来た。「虎のような大きな顔をして」と東海軍被告の一人は書いている。新事態への対応において、民間と同じく、陸軍内部にも分裂が生じていたのであった。それは後に行われる米軍の戦犯裁判の予審の役割を果し、多くの不利を招くことになる。
ここらで岡田中将の軍歴を紹介すべきであろう。
岡田|資《タスク》 23期【鳥取】明23・4・14〜昭24・9・17。
鳥取中学(卒)を経て
明44・5、陸士卒、同12、少尉、歩40連隊付。
大3・12、中尉、10・4、大尉。
11・11、陸大卒。
12・12、参本付勤務、13・12、参本部員。
14・11、イギリス大使館付武官補佐官。
昭2・5、少佐、3・3、陸大教官。
4・1 第3師団司令部付。
5・6、参本部員兼|雍仁《ヤスヒト》親王(秩父宮)付侍従武官。
6・3、中佐、8・8、教総課員兼陸大教官。
10・3、大佐、歩80連隊長。大邱。
12・3、第4師団参謀長(大阪─佳木斯)。
13・7、少将、歩8旅団長。
14・10、戦車学校長(千葉)。
15・9、相模造兵廠長(相模原)。
16・3、中将。
17・9、戦車第2師団長。
18・12、東海軍需監理部長。
20・2、第13方面軍司令官。
24・9、戦犯、刑死。
(『日本陸海軍の制度・組織・人事』日本近代史料研究会編、東京大学出版会、昭和四十六年)
教育総監部系の職にもついたが、全体として参本系で、二度、外地へ出ている。昭和十三年十月、第八旅団長として、武漢三鎮攻略に参加した。児島|襄《のぼる》『日中戦争』によれば、東北方より武漢攻略の第二軍最右翼の第十師団岡田支隊(三十九、四十連隊)である。夏衣では寒い大別山脈を越えて、武漢の西方に出、敵の退路を断つべき先遣隊であった。
大腸カタル、マラリヤが蔓延《まんえん》し、隊長もとりつかれた。乗馬はソ連製十二|粍《ミリ》榴弾《りゆうだん》にやられた。マントの裾《すそ》を敵弾に貫かれつつ前進したが、三鎮攻略に先立って西方の信陽に出て、京漢線を遮断し、退却して来る敵に打撃を与えた。第二軍総司令官|東久邇宮《ひがしくにのみや》より感状を与えられた。
揚子江《ようすこう》沿いに海軍との協力の下に進んだ第十一軍も苦戦したが、北方、徐州会戦に漸《ようや》く勝った第二軍は、陸軍伝統の劣勢包囲で、やっと敵を西北方に押し出したのだった。蒋介石《しようかいせき》は黄河の屈折点を決潰《けつかい》させて、自国民五十万の犠牲において、日本軍の進出をおくらせるのに躊躇《ちゆうちよ》しなかった。しかし黄河は河床に黄土|堆積《たいせき》して、いわゆる天井川になっていたので、水は案外早く引いた。
それでも兵士は湿気と悪路に悩まされた。コレラが発生したが、医療品は手薄である。患者を後送する野戦病院も人員不足で、むしろ「前送」して、問題を解決したという。後に南方戦線の各方面に現出する、ごり押しによる悪戦苦闘は、この段階ではじまっていたのである。
大別山系の山路を進む支隊先遣隊に傷兵を「前送」するなんてうまい手段があるはずはなかったが、前途が急がれるので、後方に遺棄して進まなければならなかったに違いない。後に千葉戦車学校長に転じて靖国《やすくに》神社に参った中将は、慟哭《どうこく》した。自制心の強い中将が、人前で取乱したのはこの時だけだった、という。
当時を回想する文章は、比較的のんびりしているが、彼はこの時すでに戦場の地獄を見ていたのである。苦戦する兵隊には修羅と地獄の苦しみがあるが、それを命じなければならない指揮官の心にも地獄があるのだ。空爆下の名古屋は別の地獄の様相を呈していた。搭乗員処刑は、日蓮《にちれん》宗信者の彼にとっては、敵味方の差はあれ、同じ修羅界の現象に属していたのではあるまいか。
千葉戦車学校長へ転じたのは、十三年七〜八月の張鼓峰《ちようこほう》でのソ連軍との衝突で認識させられた戦車の偉力のためで、その改良建造対策のための起用であった。相模造兵廠も戦車改造を実施していた。十七年九月以降は戦車第二師団長として、実戦部隊の編成に当った。もっとも中将苦心の作品も、フィリピンに転用させられて、米M4中型戦車に歯が立たなかったが。
十八年十二月、軍需監理部長として、はじめて名古屋に来た時、一部にノモンハンの敗戦の責任を取らされた、とのうわさがあったという。しかしこれは時日が合わない。ノモンハンの敗戦は昭和十四年七〜九月で、岡田少将は当時まだ第八旅団長である。その十月に千葉戦車学校長に就任したのは、むしろソ連の戦車に対抗するために、人員の養成から立て直しを図ったものだったはずである。
名古屋軍需監理部もこの年十一月できた軍需省の出張所であった。軍需省とは東条首相のイニシァチーブで商工省を改組創設されたもので、おそまきながら、航空機増産が戦局を決定するとの認識に達し、陸海軍の生産を一本化して、資材、人員割当の争いを解消しようとしたのであった。軍監部は初めての機関であり、名古屋は日本の航空機の四〇パーセントを生産していたから、これは重要なポストであった。
ところで理想はよかったが、海軍は陸軍大将東条が立てた案などに従う気はなく、表向き協力を装いつつ、実際は勝手にやっていたと思われる。軍監理部長の職も楽でなかったであろう。
この時の就任演説は少し評判がよくない。県庁で「みながたるんでいるから、今日の事態を招いたのだ」と言ったのを、公務員で今日でもいやな思い出として持っている人がいる。しかしこれは当時の軍人が、「はっぱ」をかけるために、だれでも言ったことだろう。
動員学徒に「本なんか読まないでもいい」と言ったのに反感を持った人もいる。しかし中将自身は読書家であった。自分の長身が鳥取から近畿地方にかけての日本人の特徴であることも知っていた。戦局重大な時にほかにすることがある、と言っただけではあるまいか。一方中将は市内の侠客《きようかく》や「やくざ」や、在日朝鮮人を扱うのが巧みで、後に民間防衛隊に組織している。
なお私は便宜上、ずっと東海軍の名を使っているが、これは軍管区名、第十三方面軍は本土決戦の戦闘上の単位で、第一総軍の隷下に入る。前者は陸軍省の管轄下にあり、後者は第一総軍の統帥を受けるが、建物人員すべて同じものである。戦争がすめば方面軍は解散、東海軍は元陸軍省たる第一復員省の東海監部となったゆえんである。
従って半田市に移った当座、近所の人の元軍人の家に対する当りはきつかった。達子さんがイモの配給を取りに行くと、蔵に米がくさるほどあるはずだからやらないといわれたことがあるという(週刊文春、四十八年八月二十日号)。
二十一年五月、小原国芳先生が半田市の中将の閑居を見舞った。東海監部も三月に解散し、少数の残務整理員がいるだけだった。ただの岡田資氏となった中将は、釣りと泳ぎと庭造りに専念し、閑日月を送っていた。
陽さんの持っていた岸田国士『力としての文化』(河出書房、昭和十八年六月)を読み、「文化」が「耕す」から発するとするクルティウスの説が気に入ったと見え、傍線を引いている。また「娯楽」が立派に「生活」の一部であり、疲れを癒《いや》し、心気を一転して、明日の「力」を培養する、との条《くだ》りに共鳴している。岸田さんの本は、「若き人々へ」と傍題されている。常に若い後輩を愛し、その将来に期待する、これもまた岡田中将の生活信条の顕著な一面であった。
長男陽さんは十八年埼玉県|熊谷《くまがや》航空隊を志願した。軽井沢、八ケ岳|山麓《さんろく》でグライダー訓練を受けた後(これは明らかに特攻用訓練である)ボルネオ進出のため、十九年九月十日ルソン島沖を航行中撃沈され、リンガエン湾に上陸、台湾へ転出して終戦を迎えた。二十年十二月末半田へ復員した。市内の小学校の代用教員でもしようか、と思っているところへ、小原国芳先生が来訪した。そんならうちへ来んか、ということになった。
玉川学園小学部の教員をしている間に、学芸会の時、舞踊を教育に取り入れようと研究していた小原先生の次女純子さんと協力した。これが縁で二人は二十三年四月末、中将が横浜法廷で公判中に結婚するに至る。
スガモ・プリズンへの収監が、いつ予告されたかわからない。大西一大佐(高級参謀)、保田直文少佐(兵站《へいたん》参謀)など、いずれも所轄署から四日前に予告があったという。
用意周到な岡田中将は、二十年十二月河辺中将の交替した頃、その紹介で語学の達者な亀井貫一郎氏に弁護団の構成を依頼している。同月十七日、俘虜《ふりよ》に対する暴虐容疑による軍事裁判、横浜法廷は開廷していた。二十一年に入ってまず岡本尚一氏を、次いで沢部金三郎、佐伯千仭、杉山茂顕、八田《はつた》三郎氏の五人が日本人弁護人に選ばれ、岡田中将は屡々《しばしば》大阪の岡本氏の事務所を訪れている。二十年末からA級戦犯の逮捕は始まっていた。岡本氏は武藤章中将の弁護人であった。
三月三日付の覚書があって、略式手続の命令の日時などを確認している。東海軍司令官就任以来の人事、出張日時の一覧表があるから、この頃までに「法戦」の準備は万端整っていた。
予告があってから、陽さんは半田市に迎えに行き、二十一年九月二十日の夜行で上京した。スガモ・プリズンの門前まで、付添った。列車は貨物列車の間に、三等|車輛《しやりよう》を挟みこんだものだった。同席は許されなかった。他に四、五人の連行者があり(東海軍関係ではなかった)、席は隔てられていた。
すぐ座席に横になり、眠った。中将の態度は、普段と全然変らなかったという。半田の家を出る時、家族と共に撮った記念写真があるが、開襟シャツ、背広姿である。
スガモ・プリズン門前で、「じゃあ」といっただけで、入って行ったという。
山上法務少将が二十一年二月に東京から来た時、中将を二十一日と二十三日、二度取調べているが、その第二回(実際は三回目)で、はっきり抗弁している。その要旨──
一、無差別爆撃を行なった搭乗員は重罪容疑者であり、俘虜ではない。
二、略式裁判にしても、軍律会議にしても、結果は同じく死刑。
三、軍律会議を略式に変更したのは、戦闘つまり空襲激化下における、方面軍司令官の作戦上の判断である。当時は空対陸の戦闘であった。降下搭乗員を俘虜として処遇せよ、とのジュネーヴ条約の条項は、原子爆弾が出現している現在、実状に合わない。
陸戦について、大本営の指示は、縦深抵抗であったが、沖縄の失敗の例を見ても、住民の犠牲のみ多くなるばかりで無意味だ。自分は方面軍司令官として、水際撃滅をするつもりであった。そのように、空爆激化の下に、略式裁判を命じたのだ、などなど、後に横浜法廷で八日間にわたって行われる証言の大綱がすでに形成されている。
なお山上調書は日本人弁護団に見せて貰《もら》えなかった、という。米国立公文書館所蔵の記録が公開され、こんど中日新聞社にコピーを取寄せてもらって、筆者ははじめて読む。公判の最終段階まで証拠として採用されなかったので、日本人弁護団は読む機会がなかったのであった。
戦後三十五年経つまでは、岡田ケースの全貌《ぜんぼう》は明らかにならない運命だったのである。
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横浜法廷
巣鴨拘置所が正式呼称のはずだが、連合軍によって管理されるうちに、スガモ・プリズンの名が生れ、定着している。今日の池袋のサンシャインビルのそばに、処刑場跡の慰霊碑が建っている。
東海軍岡田ケースの被告二十名が入所した日付はまちまちであるが、ほぼ昭和二十一年九月から二十二年十二月の間であった。
スガモ・プリズンは三階建の鉄筋コンクリートの建物で、六棟に分れ、各棟の距離は二十メートルであった。南側に吹き抜けの廊下が通っている。北側には各棟毎に有刺鉄線で区切られた散歩場があった。
一棟がA級戦犯用で独房、三棟が主として公判中の被告を収容する独房(被告らの打合せの禁)、五棟が死刑囚収容棟でやはり独房だったが、自殺者、発狂者を出したため、一房二人ずつに改められた。他は十畳ぐらいの雑居房で、定員六名であった。六棟だけ二階で終身刑囚収容、やはり六人が雑居した。
最初、岡田資元中将の入ったのは、三棟で同房者は、若い青年であった。将官でも、身体検査を受け、荷物衣類は自分で持たねばならぬ。食事は若い同房者がステンレスの食器で、三棟南側の食堂から運んでくる。各自房内で食べ、空の食器はまた青年囚が食堂で洗い、返納する。
A級戦犯の中にはMPの態度に、囚人とはいえ将官に対して払わるべき敬意がない、と怒る者があったが、岡田中将は超然としていて、態度が最も立派であった、とこれは筆者が大磯《おおいそ》在住中、ゴルフの縁でお目にかかった故木戸幸一氏の言であった。
面会は月に一回許される。面会所は南側の入口近くにあって、二重の網を隔てて向い合う。MPが立会っているが、別に内密に打合せることはない。すべては山上少将の下調べですんでいる。入所以後接触する日本人弁護士に会うだけである。
この間に米検察官バーネット検事の取調べがあった。それらの記録は問答体で書かれている。二十三年三月八日の開廷日まで、一年半未決で待たされたことになるが、それはこの時期裁判の重点が主にA級戦犯におかれたからである。
東海軍関係でいえば、二十年七月十一日軍律会議を開いて十一名を処刑した伊藤信男ケースが二十三年一月末に分離審理されて、検察官兼拘置所長伊藤少佐が全部を引っかぶって、三月四日絞首刑を宣告された。軍司令官が分離され、上席検察官のO法務少将が自殺していたため、一番よく働いた伊藤氏がばかを見た結果になったのである(後に終身刑減刑)。
岡田中将は証人に出るといったのだが、米主任弁護人フェザーストン Fetherstone 博士の勧告によってやめた。中将が出しゃばって自分の責任である、と主張することは無用である。伊藤ケースは上級責任者が二人いない裁判だから、極刑はないだろう、という予想であった。この頃はGHQのB・C級戦犯裁判の方針は、どのケースにも必ず死刑を出す、そしてあとで減刑するという、半分本国向けの判決だったらしいのである。
伊藤少佐に死刑の求刑があったといううわさが、スガモ・プリズンに届いたのは、二十三年の一月(二月の誤記か)八日であった。三階にあった岡田中将の房に、二階の房にいた成田喜久基中尉が、散髪の手伝いに上って来て、耳打ちした、という。
スガモ・プリズン内の扱いは割合にゆるやかで、一定の時間、各自に房を訪ね合うことができた。筆記用具も与えられたので、後に遺書『毒箭』の元となった手記は、この頃から書きはじめられている。伊藤ケースに関するうわさが届いたとの記事は、二月十日付にある。自分も死刑になるとの前提のもとに、死について反省している。
「第一回は母の胎内を飛出した時、お前は何時かは死ぬべき身であるぞ、といふ奴を頂戴した筈だ。仏様からだ。只今五十九歳の白髪頭になるまで、おあづけとなつたけれども。
第二回のものは、少々理に走るが──わが陸軍中尉中途頃からかと思ふ。『己の現職を最後の御奉公と思へ』でやつて来た」
これは職業軍人が生涯の早い時期にする覚悟であるはずである。原則として士官学校に入学を選択し、自分の身体を国に捧《ささ》げた時するはずだが、卒業後中尉として勤務中となっているのは、在学中は現実に直面することがないからか。この頃、断乎《だんこ》として軍歴を拒否した者に、文学者岸田国士、詩人三好達治がいる。
第三回は前述の岡田支隊長として武漢作戦に参加した時、しかし「是は珍らしくない軍人普通の覚悟である」としている。それまで第四師団参謀長をしていた北満の佳木斯を離れる時「自分に言ひ聞かせ、次に部下旅団を、中支の蛙埠で掌握した日に再び念を押した」(旅団のうち、四十連隊は中将の出身地鳥取の連隊であった)。
「夢想だもせざりし敗軍の将! 当然自決も一つの選ばるる途であつたが、本件処理に挺身すべく、涙を呑んで今日在るのだ」
中将は公判がすんでから、敗戦以来の心境を、赤穂《あこう》城明渡しの時の、大石|内蔵《くら》之助《のすけ》のそれに比べている。部下それぞれの意見錯綜する中に、色々な態度で臨んで、各自に応分の責任を取らせるつもりだった、というのである。
最終的責任は自分にあると証言をした後の述懐である。中将も神様ではないから、迷いが全然なかったとするのは、多分現実と反する。すべては伊藤ケースと微妙にからんでいるのだが、証言の最後に当って検察官がきいた。
六月二十六日、伊藤少佐が東京の第一総軍へ持って行くべき、軍律会議の死刑の申請の決裁を求めた時、
「有罪のヒントはどっちが出したか」
これはこれまでに岡田中将があまり責任を一人でかぶりすぎるので、その一部を軽減すべき検察官らしからぬ誘導尋問であった。しかし中将は「自分の判断において、ヒントを得た」として、その機会を退けた。
裁判開始の命令は一月二十九日に出されている。軍事裁判委員、検察官、法廷弁護士の任命は、そのころだったらしい。岡田中将は、二月一日付で「米軍弁護士と初会見の機に」なる戦略的な「覚書」を書いている(句読点を補う)。
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一、吾等は旧国際法の基盤の一部をば揺り動かしかねまじき我事件に米軍にさうさうたる(尤も有為なる法曹人の一たる)貴官を弁護士に有する事を光栄とする。自今安んじて吾人の名誉も生命も其掌中に委ねんとするものである。
二、予は旧東海方面軍司令官岡田中将、彼等は予の部下なり。
本件に関しては予の部下は予の命令或は予の意図を奉じて行動せるものだ。従つて全責任は予に在り。
敗将には軍事法廷の与ふる罰の軽重は問題とならぬ。が願望が二つある。
(一)空軍を主とする戦争方式の大変化に鑑み、現国際法は明らかに旧式となりつつあり、本件を参考として世界民族の為、一日も速かに修正を乞ふ。
(二)日本国内爆撃に関して浮薄迎合の日本人の言説に迷ふことなく、爆撃体験が国民の心魂に徹したる事実なることを忘れず、将来の日米民族心からなる提携に癌を残さざらん様注意されたい。
三、吾人は惨たる無差別爆撃下に辛うじて自ら生き、最大の努力をもつて本件を処理したのだ。吾人以外誰人を其衝に当てるも、あの情況下では吾人以上適法の処理は出来ざりしならんと信ず。否、当時吾人の上下左右は一層の憤激に満ちたれば、吾人の行動に反対する者は皆無であつたと信ずる。神の法廷で吾れ再び裁かるるの日、褒められはせぬかも知れんが、甚しく叱られはせぬと確信する。
四、他地区に比して特異の点。
A、東海方面は国防上重点の一なりしに拘らず、我方面軍の編成は他地区方面軍に比してズツト遅れた。而して生れた時、已に名古屋は全国一の猛烈な爆撃地となつて居り、吾人は六ケ月間、其下で米軍上陸作戦に対する防戦準備に狂奔しつつ、爆撃下に降伏となつた。其件は其間の出来事だ、即ち最初軍事目標のみ爆撃された時の降下員は、直に一般俘虜扱とし、無差別爆撃となるや正式に軍律裁判に掛け、盲爆激化するや其手続を略して迅速処断した。今、夫を主としてとがめられて居るのだ。
B、軍の統率系統は極力尊重した。即ち国際法は決して軽視はせぬが、特に軍律の精神指導原理を重要視した。本法は上司第一総軍司令官が作為し、申迄もなく搭乗員取扱専門の法である。又我地区内の地方官憲は勿論、憲兵の如きも防衛事務の範囲として、搭乗員取扱に関しては総て我区処下に掌握した。
五、最後に方面軍とは日本野戦軍の最大単位で、司令官は自ら国際法の許す範囲内に於て、所要の軍法を作り、是を情況に即応する如く、運営する権能を有するものである事を添へておく。
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[#地付き]終
論旨は第三回山上少将調書と同じだが、一層明確になっている。
二十二年八月二十八日には、中部軍(大阪)の降下搭乗員二名の処刑に関する判決が横浜法廷で下った。そして軍司令官は終始何も知らなかったと主張して、重労働三十年にしかなっていない。ところが太田原清美法務部長はこの軍律会議を模範ケースとしようと思い、第二総軍司令官と陸軍大臣に報告し、その承認を得て起訴した。そのため責任明確となり、ただ一人絞首刑の判決を受けたのだから、ばかを見たようなものである。三年後の二十五年には終身刑に減刑されたけれど。
B・C級戦犯はすべて、二十五年朝鮮戦争の勃発《ぼつぱつ》時、また二十七年単独講和条約発効時に減刑|或《ある》いは仮釈放となり、三十三年五月三十日をもって、全部釈放されたことを、ついでに記しておく。
中部軍裁判でも、弁護側は無差別爆撃を問題にした。マドリックス弁護人はアメリカ統合参謀本部に問い合わせた。回答を寄こさないだろうと思っていたが、あっさり公文書をもって、無差別爆撃をやったと言ってきた、というのだから、ひどいものである。この回答の日付はわからないが、この点、岡田ケースでは、徹底的に争われる。日本人弁護人の一人、当時京大法学部教授佐伯千仭氏の話では、A級戦犯のために用意して、使う機会のなかった証人を動員して、立証したという。
横浜法廷は当時第八法廷といって、もと日本にもあった陪審裁判のために作られた法廷を、改造したものだった。陪審法は昭和十八年停止になっていて、使われなかったので、なんだか薄汚ない法廷だったと、佐伯氏は回想している。
正面の一段高いところに、裁判委員長第八軍司令部ルイ・B・ラップ大佐(以下通念によって裁判長と記す)、同ジョセフ・E・カーティス中佐、三五歩兵連隊ブルース・W・カンライト少佐、第八軍司令部ジョン・F・トラシイ少佐、第五騎兵連隊ジェンス・R・ラードラップ大尉、計五名から成る軍事裁判委員が並ぶ。向って右側の平土間にリチャード・F・バーネット主任検察官のほかに、オコーナー検事、ギャリー検事がいる。
平土間の中央には、半円型の枠の中に椅子をおいた証言台がある。壇上の裁判委員会席との間に二世通訳が立ち、右側に速記タイピスト一名がいる。一定の時間打ち終ると、替りのタイピストが左側から入っている。前のタイピストは打ち終った書類を抱えて右から法廷の裏面へ廻《まわ》って行く。すぐ平文に翻訳にかかり、その日の終りに、弁護側に渡される(速記タイプは現在日本の法廷でも採用されている。ただ翻訳は十日経ってもでき上らないだけの違いである)。
主任弁護人フェザーストン博士の助手森里通訳が、その速記録に基づいて明日の打合わせに夜おそく監房を訪れることがあった。被告たちはその熱心さには感謝しながらも、眠くて弱った、頭がぼーっとして、よく話の趣旨がわからないことがあったという。
日本人弁護人は各人にプライベイトに付けられた形になったらしい。大阪の岡本尚一主任弁護人、佐伯千仭(京大法学部教授、弁護士、大阪)、沢部金三郎弁護士(大阪)、杉山茂顕(東京都立大教授)、八田三郎(東京)の五名のほかに、原清治弁護補佐が通訳をかねて採用された(米軍は必ずしも弁護士資格にこだわらなかった、という)
そしてこの裁判に活気を与えたのは、主任弁護人法学博士フェザーストンの存在であった。しばしば裁判長ラップ大佐に説教していた、という。裁判の進行をチェックする任務を帯びていたような印象を、佐伯弁護人は受けている。五人の委員はみな兵科将校だったから。
戦犯裁判はフィリピンの山下奉文裁判以来、判決は結局戦勝国の恣意《しい》を示した不当なものとなったが、訴訟手続における弁護人の弁論は、公正であった。弁護をする以上、被告人の利益のため、あらゆる努力を惜しまなかった。裁判は英米法によると「米連邦対被告人」という形になるから、彼等は自国の利益に反して、手段を尽してゲームを戦ったことになる。判決は苛酷《かこく》であっても、これら米弁護人の活躍は、それまでの日本的裁判しか知らなかった被告に、異様な感銘を与えたのであった。米看守の気軽な扱いと共に、官憲のオイコラ主義しか知らなかった日本人に、民主主義はよいものだとの観念を与えた。
被告たちは法廷左側に横に並べられた三つの長いテーブルに、委員会席に向って坐《すわ》る(この部分が恐らくもとの陪審員席だったろう)。被告の間に日本人弁護人が混って坐り、最後列の右側にフェザーストン博士と補佐官ストラッチャー空軍中尉、森里二世通訳がいる。
私はこれらの配置を処刑責任者として重労働三十年(昭和三十一年釈放)に処せられた成田喜久基中尉が、服役中に描いた見取図に基づいて書いている。成田中尉などは二番目のテーブルに坐り、岡田中将、大西、保田参謀などは、最後のテーブルに坐っていた。証言の順序に従って席がきめられたらしい。
三番目テーブル右端に岡田中将、大西大佐、その左に沢部、岡本弁護人が坐る。さらにその左に米丸高級副官、足立、保田参謀がおり、佐伯弁護人はテーブル左側に坐っている。杉山、八田弁護人は第二テーブルにいる。即ち岡本、沢部、佐伯弁護人が、司令官、参謀、副官係り、杉山、八田弁護人が成田中将など処刑執行者係りだったことがわかる。
正面壇上の裁判委員席の後には、トルーマン大統領とマッカーサー元帥の拡大写真が飾られ、左右に星条旗が立っている。
法廷最後部の傍聴席には、家族らが来ている。成田氏の老父の目に、仕様がないことをしでかしおって、と叱責《しつせき》の色が見えたような気がしたが、裁判の進行と共に、それは消えたという。
法廷見取図は、成田氏が服役中に書いた鉛筆書き五一八葉、一〇三六頁のメモの中にあるものである(二十六年九月七日〜二十八年二月十一日執筆)。所々|聞洩《ききもら》し書落しがあるが、日本語なので現実味がある。以下の記述はそれをもととし、米側記録で補うことにする。
被告たちはそれまでに起訴状の日本語に訳されたものを受取っており、法廷では形式的に「無罪」を申立てればいいようになっていた。
被告二十人の氏名は次の通りである。
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軍司令官中将、岡田資、五十九歳
高級参謀大佐、大西一四十五歳
高級副官管理部長大佐、米丸正熊五十二歳
情報参謀中佐、足立誠一四十一歳
兵站《へいたん》参謀少佐、保田直文三十一歳
副官部付中尉、山田仂男三十二歳
衛兵長中尉、成田喜久基三十一歳
副官部付少尉、菅井康治四十一歳
参謀部付見習士官田辺光夫二十九歳
参謀部付見習士官矢田具潔二十五歳
副官部付曹長、鶴田良好二十九歳
軍医隊付衛生曹長、桑田春雄三十一歳
副官部付軍曹、藤田隆義三十二歳
同軍曹、山本栄二郎二十七歳
同軍曹、信田英司二十九歳
衛兵軍曹、近藤清二十七歳
同軍曹、川上末高四十三歳
同伍長、古山又一三十五歳
同伍長、土山敬之三十三歳
同一等兵、林重明二十六歳
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このうち十五名は処刑執行者であるが、公訴事実を、ここでいちいち述べるのはわずらわしい。すべては裁判の進行と共に明らかになるはずであるが、佐伯弁護人所有の書類の中にある起訴理由要旨を写しておく。
起訴理由概要
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一 岡田資は名古屋市所在の第十三軍司令官兼東海軍管区司令官にして、大西一、足立誠一、保田直文は、同軍参謀、米丸正熊は同軍高級副官兼管理部長であり、山田仂男以下十五名は同軍司令部部員であるが、
岡田資は、昭和二十年六月二十日頃、さきに同軍に捕獲せられたる米軍B29搭乗員「ウィラード・エム・キャップマン」軍曹等二十七名に対し正式の審理を行なわず、死刑に処する手続案の作成方を部下に命じてこれを作成せしめ、以て同月二十八日頃、部下山田仂男中尉をして前記二十七名中「キャップマン」軍曹等十一名を瀬戸市附近において斬首処刑せしめ、更に同年七月十二日より同月十五日に至る間において残余「ジョン・エイチ・コックス」軍曹等十六名を数回に亙り成田喜久基中尉に命じて同軍司令部裏庭において斬首処刑せしめ、
二 同年五月十四日頃同軍において捕獲せる米軍B29搭乗員「ケイス・エイチ・キャリヤー」中尉等十一名を同年七月十一日頃違法、かつ、不公平なる訴訟手続による軍法会議に附することを承認して、同月十二日名古屋市内において同人等を斬首による不法殺害に寄与し、
三 大西一、足立誠一、保田直文、米丸正熊は、同年六月二十三日頃、さきに同軍において捕獲せる前記「ウィラード・エム・キャップマン」軍曹等二十七名に対し、正式の審理を行なわず死刑に処する手続案を故意、かつ、不法に計画し、その処刑方を山田仂男中尉及び成田喜久基中尉に命じて同月二十八日より同年七月十五日に至る間において、瀬戸市附近または同軍司令部裏庭等において斬首処刑せしめて同人等の殺害に寄与し、
四 山田仂男、藤田隆義、古山又一、林重明、川上末高、近藤清、山本栄二郎、土山敬之等は前記米丸大佐の命により、同年六月二十八日頃瀬戸市附近において前記「ウィラード・エム・キャップマン」軍曹等十一名を斬首処刑するに当り、山田仂男はその処刑を指揮し、藤田隆義、近藤清、土山敬之は、右十一名中各その二名を、古山又一、林重明、川上末高、山本栄二郎は、各一名を斬首殺害し、
五 成田喜久基、桑田春雄、川上末高、近藤清、田辺光夫、菅井康治、信田英司、矢田具潔、鶴田良好等は、前記米丸大佐の命を受け、同年七月十二日より同月十五日に至る間前後四回に亙り、同軍司令部裏庭において、前記米軍B29搭乗員「ジョン・エイチ・コックス」軍曹等十六名を斬首処刑するに当り、成田喜久基は、その処刑の指揮官となり、かつ、自らその中三名を斬首殺害し、鶴田良好は、その中三名、菅井康治は二名、桑田春雄、川上末高、近藤清、田辺光夫、信田英司、矢田具潔等は各一名を斬首殺害した。
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米丸高級副官は軍管理部長を兼ねて、山田中尉、成田中尉ら刑執行者はその命令系統に入る。捕虜の取扱は保田兵站参謀の所管であったが、その待遇については問題はなく、略式裁判に賛成した罪で告発されたのである。足立参謀は搭乗員の取調べに当ったが、同じく略式裁判に賛成したことがその罪状となっている。すべては略式裁判にかかっているのである。もっとも伊藤信男少佐のように軍律会議を開いても、正当な証拠に基かず起訴したとして訴追を免れていない。そしてそれもまた岡田中将の訴因の中に入っているのである。
なお被告には参謀長が入っていないが、藤村益蔵少将は六月上旬四国軍に転任になっており、後任の柴田芳蔵少将の着任は九月、参謀長交替の間の事件だったので、参謀長抜きの異例のB・C級戦犯裁判となったのである。
各人共一般の訴因は戦争法規及慣習の違反であるが、いくつかの細目に分れている。岡田司令官のは重大なので、詳しく記しておく。次の五つである。
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細目一、一九四五年六月二十日、違法の意図を以て、部下をして捕獲米捕虜に戦犯容疑ありとして、裁判なしに死に到らしめるよう命じ決裁し、違法の斬首による殺害に寄与し、M・キャップマン軍曹以下三十八名(各人名列記)の六月二十八日以後の殺害に寄与した。
二、六月二十八日、部下をして、違法且つ意図的に、M・キャップマン以下十一名を、斬首により殺害せしめた。
三、七月十二日頃、ジョン・H・コックス以下十六名を、前項同様に、殺害した。
四、七月十一日頃、その命令手続により、違法且意図的に、違法且アンフェアなる手続により、ケイス・H・キャリヤー以下十一名の斬首による処刑に寄与した。
五、七月十一日頃、(前項同様なる経過により)ケイス・H・キャリヤー中尉以下十一名の死刑判決を認可し、同月十二日の斬首による処刑に寄与した。
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このうち、四、五項は本案件には出ていないが、分離裁判された伊藤信男少佐の裁判に関するものである。二十三年一月二十二日より審理され、三月四日判決、伊藤少佐が絞首刑を言渡されたことはすでに記した通りである。この項目において岡田中将が有罪となれば、伊藤少佐は減刑されると予想された。
まず処刑された米搭乗員伊藤ケースの十一名と併せて三十八名の、階級、氏名、軍歴、家族構成が法廷で読み上げられた。
検察側が順次提出した証拠は、被告の尋問調書その他三十七あって、その中には、自殺したO法務少将の所持していたメモ、山上法務少将が二十一年二月、名古屋へ来て、自主調査をした時の伊藤信男少佐の供述書も含まれていた。
フェザーストン弁護人は、起訴状に搭乗員が「捕虜」と書かれていることにまず異議を申立てた。彼等が無差別爆撃を行なった「戦犯」であるかどうか、審理が終るまで決定されないことである。被害者の呼称と関係なく、起訴の理由となるべき事実を詳細に記した「明細書」を作成して貰《もら》いたいといった。この動機は委員会によって採択された。
さらに被告人の数は多く、事情聴取も七〇パーセントしか終っていない、との理由によって、準備のため一週間の休廷を請求し、許可された。裁判委員会、検察側にも、本国から未到着の人員があり、双方とも時間がほしかったと思われる。
十一日、フェザーストン博士──被告はみなこう呼んでいるので以下この呼称を使う──が、スガモ・プリズンに来て、構内教会堂で、被告たちと会合、打合せをした。佐伯氏の記憶によれば、裁判だといってこわがることはない、元上官にも遠慮することはない、自分の行なった事実、思うことを率直に述べるようにすすめたという。
フェザーストン博士は五十近い、恰幅《かつぷく》のいい巨躯《きよく》の持主で、ダブルの背広を着て、穏やかな笑顔で話す好紳士、と成田氏は描写している。
十四日には二世森里通訳が来て、憲兵隊の別件について質問あり。彼等はみな成田中尉がやったことだと言って、責任を回避しているという。成田氏は田村中佐から命ぜられたことだと言った。元東海軍経理部相原伍長の目撃証言が不利だと告げられた。経理部は処刑場のそばの第二庁舎の二階にあったからである。成田氏にとって、意気消沈の一日だった。
一週間後の三月十五日(月曜日)定刻九時開廷。巣鴨から横浜まで、幌《ほろ》つきの自動車で運ばれるが、窓越しに見える娑婆《しやば》の光景が、なつかしく、しかしどこか遠いところにあるもののように感じられた、と成田氏はその公判メモに書いている。
この日は二十人の罪状認否に費された。むろん全員否認、それでなければ裁判ははじまらない。フェザーストン博士は、風邪のため、水曜まで休廷を要求した。弁護側は少しでも時間をかせごうとしている形跡がある。検察官側に要求した「明細書」は、土曜日に横浜法廷に届いていたのだが、フェザーストン博士はその日横浜へ行かなかったので今朝はじめて見た、と称す。
十七日、水曜日、検察側は証拠一号より十六号Bまで提出した。すなわち岡田被告の供述書から大西一被告のそれまでである。十八日、十九日も供述書その他の提出に終始する。証拠三八号は発掘死体写真であった。フェザーストン博士は、犯罪事実と関係のないロマンチックな芸術写真にすぎないと抗議したが却下された。
自殺したO少将の二十一年一月メモは、署名が冒頭にあり、日付を欠き、遺言の形になっていない。日本語の全文のコピーが米側記録の中にあるが、ここにそれを写すのは遠慮する。
法務部は二十年四月から司令部本庁とは道路を隔てて、やや東寄りの元野砲連隊の敷地に新設された第二庁舎木造二階建に移転していた。O少将は最後の頃には、本庁の将校食堂へ行かず、食膳《しよくぜん》を自室に取り寄せていた。十二日正午、昼食の用意が出来たと、係りの女子職員が知らせに行った、持って参りましょうかと言ったが、少将が「よい」と答えたので、妙な感じがしたという。その三十分後に、青酸化合物を呑《の》んで、床に倒れているのを、同じ女子職員によって見出されたのである。
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反対尋問
三月二十二日、月曜日は雨の日だった。最初に証言台へ上ったのは、検察側証人五名のうち、最も重要な証人、元陸軍省法務局長、藤井中将であった。
昨日まで一緒に戦って来た日本人が、日本人を訴追する法廷に、検察側の証人として出るのは異常であるが、敗戦下では不可避であった。当時、米軍に要請されると、命令みたいに錯覚されたのかも知れない。A級裁判でも、陸海軍ともに、かなりの高官が検察側に廻《まわ》っている。
藤井中将には二十三年二月十四日付の短い供述書があった。検察側はそれを、法廷で読み上げたかったのだが、フェザーストン弁護人は、予断に満ちた法律的記述がある、現に証人は証言台にいるのだから尋問すればいい、として拒否した。検察側では一頁足らずのものだから、とねばったが、譲らなかった。
以下、重要な尋問を摘要する。証人を呼んだ検察側の尋問が主尋問、弁護側のそれが反対尋問である。
主尋問「証拠は二十七人の米軍飛行士が、被害状況を読み聞かされただけで、死刑の判決を受けたことを示しています。これは適当でしょうか」
答「それは適当ではありません。つまり彼等は裁判を受けねばなりません」
問「一九四五年の六月か七月の時点でも、そうですか」
答「そうだと思います」
問「すると、日本の法律によると、裁判抜きで、個人に死刑を宣告し、処刑するのは犯罪なのですね」
ここで「裁判抜きで」「犯罪」などの用語について、弁護側から異議が申し立てられたが、当時証人の占めていた高い地位に鑑《かんが》み、判断を下す資格があると見なされ、却下された。
答「そうだと思います」
問「殺人の罪だと思いますか」
答「殺されたのなら殺害でしょう」
この「殺害」の二字は、弁護側に厖大《ぼうだい》な爆撃報告書を証拠申請させる口実を与えることになる。
問「東海軍がそんなことをやっていたと報告を受けましたか」
答「受けませんでした」
問「東海軍が処刑の許可を求めたら、日本軍の法務最高責任者であり、陸軍省法務局長であったあなたは、許可を与えたでしょうか」
答「与えません」
ここでバーネット検察官は「ユア・ウイトネス」と言った。「あなたの証人」つまり「反対尋問をどうぞ」という意味である。
フェザーストン博士は必要な書類を取り寄せるために、十分間の休憩を要請した。
十時十分、沢部金三郎弁護士が反対尋問に当った。高官に対しては、通訳のへんな翻訳言葉では礼を欠くとの配慮からか、常に沢部氏が担当した。
反対尋問「東海軍管区司令官は、方面軍司令官でもあるわけですね」
答「そうです」
問「方面軍司令官は天皇に直隷していますね」
答「方面軍の上に総軍がある」
問「しかし『戦時高等勤務令』によれば、方面軍は天皇に直属しているではありませんか。(法文を引用する)方面軍司令官は、戦時には独断専行が許されていることになります」
答「私はそっちの方の専門家ではないが、あまり奨励されることではありませんね」
問「しかし、方面軍司令官は軍律を制定できますね」
答「そう思います」
ここで検察側から、法令制定権が平時か戦時か明確でないと、異議あり、フェザーストン博士は戦時中にきまっているではないか、と応酬した。法廷は十五分の休憩に入った。
十時四十五分、沢部弁護人の反対尋問が再開された。
問「作戦要務令、綱領第五を読みます。『凡そ兵戦のことたる独断を要するもの頗る多し。而して独断は其の精神に於ては、決して服従と相反するものにあらず。常に上官の意向を明察し、大局を判断して、状況の変化に応じ、自ら其の目的を達し得べき最良の方法を選び、以て機先を制せざるべからず』。あなたはさっき、奨励さるべきではないと言ったが、こういう条文があるのに、なぜそうおっしゃるのですか」
答「いまお読みになったのは、野戦で命令が届かないような緊急事態に適用さるべき条項ですよ。状況によります。奨励さるべきではない、というのは私の個人的意見です」
問「そんなら、連絡不能、電報も電話も不通で、修理の見込がない状況では、許されるとお考えなのですね」
検察側が仮定的質問だ、と異議を申立てれば、弁護側は、東京・名古屋間の連絡不備の事実について、三つの検面調書があると応酬する。裁判委員会は、仮定的状況との前提の下で、質疑の続行を命じる。
答「状況次第と考える」
問「質問を替えます。方面軍司令官は軍律会議の長官であり、会議に関して最高の権限を持っていますね」
答「そうです」
問「第十三方面軍司令官は、総軍示達の軍律会議に関する規定を実行不能と判断した。彼はそれを変更する権限がありますか」
答「第一総軍に申出て、承認を得べきだと思う」
問「日本刑法の規定に『罪を犯す意なき行為は之を罰せず』とあるのをご存じですか」
答「そんな条項があるのを知っています」
問「刑法(旧)三八条です」
答「そのようです」
問「『法令又は正当な業務により為したる行為は之を罰せず(旧刑法三五条)』とあるのを知っていますか」
ここでまた、民間の法律と陸軍刑法の差違について、検察側と弁護側に応酬あり。裁判委員会は、両者は緊密に連結していると考えるから、証拠との関連を失わないように気をつけて答えるよう、証人に命じた。日本の旧刑法と陸軍刑法は緊密というほど連結してはいなかったのだが、委員会はアメリカの通念によって、そう裁定したのである。
答「日本刑法にそんな条項があります」
問「日本刑法の解釈によると、人が合法と信じて行なった行為が、犯意をもって冒したと考えられるのですか」
答「その者が確信をもって行なったのならば、処罰さるべきでないと考える。状況にもよるが、これは日本だけでなく、万国共通と考える」
問「日本軍の法規によって、そう解釈できるというのですね」
答「そう解釈することもできます。しかし例えば歩哨《ほしよう》が居眠りしたとする。彼には眠る意志はなかった。ただ眠くなっただけです。しかし彼は罰せられる。といって、眠った意図については、われわれは何も問わない。これは一例ですが」
これらは処刑執行者に係る尋問である。そして藤井証人の証言は、同じ日本人である以上、同胞に対するいたわりがあるように見える。
問「日本陸軍では、部下は命令に絶対服従するときめられていますか」
答「上官の命令に反抗する場合は、抗命罪として処分する規定がある。それは反面的に、服従しなければならない、ということだ」
問「上官の命令は正当であると教育されていますか」
答「そう教育されている。それでなければ戦争はできない」
問「上官の命令による場合、刑法では罰することはできないのではないですか」
答「その問題は極めて困難な問題であり、しばしば論議が分かれる。例えば上官の命令でも、殺人に加担した場合、誰が見ても明瞭《めいりよう》な場合は、罪あるものと解釈されている」
ここでラップ裁判長は、明朝まで休憩を宣した。
三月二十三日、火曜日、雨
藤井証人に対するフェザーストン博士の反対尋問は、補足的なもので、方面軍が軍律を改正した場合、第一総軍のそれは無効となるか、刑事訴訟法に略式裁判の規定があるのを知っているか、(検事異議申立、それは軽犯罪の場合である、委員会に認められる)その他、伊藤信男少佐が中央に連絡に来た時の状況、十九年二月二十一日付陸亜密一二八九号に違反の場合、などについて証言があった。これらはいずれも重要性のあるものであるが、後に詳細に審理されるのでここでは省く。
次の検察側証人は、元陸軍一等兵|女屋《おなや》健一、二十六歳であった。彼は二十年六月二十八日、瀬戸における十一名処刑時の警護兵であった。自らは手を下さなかったので、処刑状況の目撃証人として呼ばれたのである。
主として同じく一等兵林重明の行動に対する証人で、その証言にはあまり重要性がなかったらしく、弁護側は検面調書その他に尽《ことごと》く同意している。従ってそれは法廷で読み上げられただけだったが、成田氏の法廷記録には記載もれになっている。
三番目の証人は小木曽勲《おきそいさお》、二十一歳、元陸軍一等兵、同じく瀬戸処刑の警護兵で、同じく検面調書が読み上げられた。重要性なし。
次は元東海軍管区司令部経理部勤務相原伍長が証言台に上った。十四日、成田中尉が不利な証言をする、と予告されていた人物である。
問「君は昭和二十年七月に米軍捕虜を見たか」
答「はい」
問「どこで見た」
答「処刑された時に見ました」
問「処刑されたアメリカ兵は何名か」
答「三名」
問「どこで行われたか」
答「経理部の建物のある営庭の一隅です」
問「君が見た時の執行者は誰か」
答「成田中尉」
問「その者は当法廷にいるか」
答「(指差す)この人と思う」
問「当事者は成田中尉のほかは誰か」
答「下士官二名」
問「彼等の名前を知っているか」
答「知りません」
問「では、その時、その処刑場で行われた処刑の状況を、詳細に述べなさい」
答「三人は一人ずつ、首を斬られた。下士官二人が斬った者は、すぐ死ななかったと思う。そこで銃剣で止《とど》めを刺されたように思う。刺したのは衛兵の兵隊だが、名前は知らない。始めから終りまで三十分か四十分です。それで終りました」
問「捕虜たちを護衛していた衛兵は何名か」
答「三、四名です」
問「飛行士の体は、なん回、刺されたか」
答「二十回ぐらいです」
これら処刑の詳細は、私たちとして忘れたいところである。私たちはしかし人間がこのような状況の下では、こういうことをするということは、忘れないほうがいいと思う。読者にとって、不愉快かも知れない詳細を、当事者が述べたままに記しておく。
管区内の農村に降下した米搭乗員の中には、住民によってその場で殺された者もあったといわれる。名古屋駅に到着した米搭乗員を私たちの手に渡せ、殺させてくれ、と泣いて懇願する被爆者の遺族がいた。憲兵は彼等から米搭乗員を守って、トラックで憲兵隊に運んだのだが、激昂《げつこう》した市民や学徒が、トラックの上に上り、彼等を殴り、蹴《け》りするのを目撃した第八高校三年生の作文が、佐伯千仭氏の弁護資料の中にある。
「要するに空襲激化罹災地域の拡大に比例して、国民には刹那的敗戦的なるものと並行して、感情的な敵愾心《てきがいしん》、復讐心が拡大して行つた」
問「君のほかに処刑を目撃した者は誰か」
答「大勢いたが、記憶にありません」
問「およその数でいい、何名ぐらいいたと思うか」
答「百名ぐらいいたと思う」
問「その見物人は、どういう人たちか」
答「軍隊の関係者」
問「民間人がいたか」
答「民間人はいない」
問「処刑者の搭乗員の健康状態はどうか」
答「墜ちた時のけがをしたままの人がいた。疲れていた、そんな程度です」
問「どんな服装をしていたか」
答「結局、米軍の服装」
問「その軍服の状態はどうだったか」
答「多少破れ、体がすりむけていた」
問「この様な人達は、どれくらいの期間、捕虜になっていたと思うか」
答「はっきり知らないが、聞いたところでは、七日か十日ぐらいと思う」
問「その間、治療を受けたか、どうか」
答「知りません」
問「十分、食事をしていると見えたか」
答「どちらかというと、十分ではなかったと思う」
問「君は去年十二月、法務部で次の証言をしている。民間人約百名が処刑に立合った──これをどう思う」
答「民間人でも軍に勤めれば軍属になります」
問「しかし民間のオフィスに勤める者も加わり、女の人たちもいた、と言っている。これは確かですか」
答「はい」
問「時刻は何時頃か」
答「夕方五、六時頃と思う」
問「どういうわけで、処刑の現場を見に行ったのか」
答「うわさがあったから、見に行った」
問「人の見せ物にするような感じだったか」
答「そうは感じなかった」
問「その処刑された場所と、君が見たところとの距離は、どれくらいだったか」
答「半径二〇メートルから三〇メートルくらい、直径にして五〇メートルくらいです」
フェザーストン博士が反対尋問に立つ。
問「処刑場の現場では、衛兵たちの陰になって、よく見えなかったのではありませんか」
答「そんなことはなかった」
フェザーストンはそれ以上追及しなかった。一般に弁護側は処刑の目撃証人はいじらない方針だったようである。
裁判委員会の右端の委員がきいた。空軍のマークを付けた少佐であった。
問「飛行士たちは、どういう理由のもとに死刑にされるのか聞かされたと思うか」
答「言われなかったと思う」
これは単なる推測である。彼等が無差別爆撃の事実を追及されたとの証言の方が多い。多くは「命令でやった」「戦争だからしょうがない」と答えている。ここでも弁護側はおとなしい。フェザーストン博士は、爆弾的動議を用意していたのである。
検察側の五番目の、そして最後の証人は内山信一元一等兵、二十四歳で、瀬戸まで十一名を護衛した兵士であった。処刑者は山田仂男中尉であるが、処刑の状況は、ほぼ相原証人と同じであるから省く。
問「事後山田中尉は墓穴に入って、搭乗員の死を確認したか」
答「しませんでした」
との応答が新しいだけであった。
三月二十四日(水曜日)曇
内山元一等兵に対するバーネット検事の主尋問が続き、フェザーストンの簡単な反対尋問あり、少憩後、検察側はもう一人の目撃証人を申請した。すでに名古屋を発《た》っていて、明朝法廷に到着するだろう、というのだが、フェザーストンは反対した。
「処刑については、もはや十分に証言をきいたではありませんか。この上、米飛行士は首に認識票みたいなものをつけていた、という種類の証言を、いくら聞いても意味はない。ここで弁護側はむしろ一つの動議を提出したい。成田中尉以下十五名の処刑執行者を即時無罪釈放していただきたい」
処刑の目撃証人に対して、フェザーストンが執拗《しつよう》な反対をしなかったのは、このためだったのだ。
裁判長は少し驚いたらしい。とにかく午後一時十五分まで、休廷を告げる。
午後、フェザーストン弁護人は短い要旨を刷ったもの七通を、軍事裁判委員、検察官に渡した後、動議に入る。
「学識ある検察官のすでに立証したところによれば、東海軍が略式裁判を採用することによって、戦時国際法に違反したことは明白です。その責任が岡田司令官、大西大佐、米丸大佐、足立中佐、保田少佐にあることも明白である。検察側の主張によれば、三人の人間がそれについて謀議している。弁護側は米搭乗員にも同じく国際法を冒した無差別爆撃をしたことを立証するつもりです。
成田中尉、山田中尉以下十五名が、この法廷にいるのは恥である。これら下級将校、下士官、兵士に罰が科せられるのは、法の誤った適用と考える。
名古屋市は無差別爆撃を受け、状況は日に日に悪化していた。岡田司令官は、六月二十日頃、O法務少将と大西一高級参謀を呼んで、略式裁判の研究を命じた、と明言している。
これらはすべて検察側の証拠によって立証されているのですよ。法務部は、伊藤ケースにおいて明白にされたように、処刑について責任がある。そして処刑をこれ以上持って来てくれるな、といっている。
米丸高級副官は、六月二十八日山田中尉に、地図を指しながら、適当なところで十一名を処刑しろと命じている。
米丸高級副官と保田|兵站《へいたん》参謀は、大西高級参謀から、略式裁判の相談を受けている。米丸は米搭乗員の拘置を管理していたのです。
自殺したO法務部長は否定しているが、すべての人は彼の承認があると思って動いていたのである。
司令官じきじきの命令とされたことに、下級将校、下士官、兵士が抗《あらが》えるだろうか。ノーですよ。日本兵にはそんなことをする権利はまったくなかった。命令はみな口頭だった。彼等が書面による命令と口頭命令の違いがわかったはずがない。みなさんよく考えて下さい。いまこの法廷をガードしているMPは、法廷の秩序を保て、という命令書を持っているでしょうか。
裁判委員会は、十五人の被告に、個人的殺人の意志が立証されない限り、無罪釈放にしていただきたい」
これに対し検察側の次席検事オコーナーが立ち上った。
「フェザーストン博士の動議は、すでに伊藤ケース、中部軍ケースでも、用いられた陳腐なものにすぎない。とにかく三十八人の米飛行士の生命が、違法に奪われたのですよ。そして一九四四年に制定された陸軍法規は、上官の命令であっても、執行者の責任は免れないと規定している。そして名古屋市の七〇パーセントは下請工場だったのです」
フェザーストン博士「間違った議論はそれくらいにして貰《もら》いたい。アメリカ空軍の調査は、一九四四年十二月以後、名古屋市に家内工業が存在しなかったことを示しています。私の陳述は証拠に基いている。証拠なしにものを言うのはやめて貰いたい」
オコーナー検事「伊藤ケースのリン証人は名古屋軍需工業の七〇パーセントは下請工場によっていたと証言している。七、八名の後部テーブルにいる被告のほかのすべてに、無罪を言渡すのは誤審ですから、排斥されねばなりません」
裁判長は無罪釈放を要求されているのが、十五名であることを確認してから、合議のために、十五分の休廷を宣した。午後二時三十分であった。
フェザーストン博士の動議が、はったりなのは明瞭《めいりよう》であった。以下の弁護側の証人尋問のプレリュードなのであった。
二時四十五分に再開された法廷で、軍事委員会は、弁護側の動議を却下すると告げた。
フェザーストンは、休廷中に検察側の下請工場が七〇パーセントというリン報告書を読み、根拠のないものであることを発見した。それを立証すると告げた。
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弁護側証人
弁護側証人第一号は名古屋市中区|旭《あさひ》町二丁目十二番地、元東海軍軍需監理局経理課長菊地茂氏だった。昭和二十年三月から八月十五日まで、軍需監理局に勤めた。愛知、三重、富山、石川、岐阜、静岡県西部の、生産、労務、資材を管理した。経理部員総数は二百名であった。
フェザーストン博士の主尋問──
問「するとこの六県の航空機部品製造工場と接触したのですね」
答「部品製造だけでなく、組立工場もです」
問「大工場はこれら下請工場に発注しましたか」
答「しました。しかし勝手には出来ません」
問「軍のための生産の場合、あなたの部の監督を受けましたか」
答「はい」
問「大工場が下請に発注する場合、あなたの部ではそれを知っていたのですね」
答「そうです。出来上ったものを、監督するだけでなく、うまく出来上るように指導したのです」
問「家内工業の意味をご存じですか」
答「知っています」
問「委員席に説明してあげて下さい」
答「家庭内で手仕事をすることです」
問「それは家内に旋盤を持つということですか」
答「違います」
問「あなたの就任期間中、家内工業は屋内に軍需資材をおいてありましたか」
答「ありません」
フェザーストン弁護人「終ります。反対尋問をどうぞ」
検察側「名古屋には多数の軍需工場があったと、戦後発表されましたね」
答「その種の工場がありました」
問「この種の工場が、家内工場へ転換されたかどうか、言って下さい」
答「そんなことはありませんでした」
問「たしかですね」
答「たしかです」
問「記録はないのですか」
答「みな焼けました」
問「するとあなたは単なる記憶によって答えているのですね」
フェザーストンの抗議があったが却下された。
答「私は毎日、そのことばかりやっていたのですから、私の記憶はたしかです」
問「あなたのいう工場は一定の場所にあったのですか」
答「東海軍管区六県の方々へ散らばっていました」
問「昭和二十年一月から五月十五日まで、どれくらいの下請工場がありましたか」
答「会社によってまちまちですが、三〇パーセントから六〇パーセントです」
問「東海軍管轄内の大会社で、下請に出していたのはどことどこですか」
答「三菱航空機、愛知三菱発動機、中島飛行機半田及び各務原《かかみがはら》工場、川崎航空機|一宮《いちのみや》市分工場、浜松中島飛行機、静岡三菱発動機、住友プロペラ、呉羽《くれは》富山航空機、津市プロペラなど。ほかに部品及び材料の製造工場があった」
問「あなたは質問の意味を取り違えている。私は下請工場はいくつあったか、ときいているのですよ」
答「わかりました。漠然とした記憶による数ですが、私の部で許可した数は、二〇〇か三〇〇でした」
問「五〇〇から一〇〇〇ではありませんか」
答「そんなにはなかったはずです」
問「それらの下請工場が、さらに方々の再下請工場に出したのではないか」
答「それは違います。航空機の生産には高度の精密さが要求されていました。どんな部品もきっちり合わねばならない。やたらあちこちの町工場に任せるわけには行きません。運輸の関係もありますし」
問「名古屋の三菱航空機のような大工場では、市内の方々に下請工場を持っていたのではないか」
答「名古屋市だけではありません」
問「すると六県にわたって、多くの下請工場があったのですね」
答「メニイ《たくさん》とかラージナンバー(多数)とか、言葉に問題がありますね。『たくさん』とは、数百以上を意味しうるでしょう。私にはそんなに多くの下請工場があったとは言い切れない」
問「六県の下請工場は親工場の周辺にあったのではないですか」
答「親会社の近くにあった場合もありました。しかし三菱航空機のように、東京や大阪に分散しているのもありました」
問「二〇〇から三〇〇の下請工場は、住宅地区にあったのではありませんか」
弁護側はアメリカのジェネラルモーターズの下請工場の所在地を確定しようとするようなもので、時間|潰《つぶ》しだ、と異議を申立てたが、却下された。
答「主に市の中心部にありました。しかしいわゆる下請工場に関連工場も含ませるとすると、それは郊外にもあり、市内だけではありません」
問「郊外とは大部分が住宅地区ですか」
答「大抵の都市は、工場地帯を区別していました。工場はその特殊地区にあり、住宅地区にはありません。私は住宅地区に一つもなかったとは言わない。大部分はなかったと言うのです。工場地帯の区別のない田舎町では、職員は工場の近所に住んでいましたが、名古屋では工場地帯ははっきり区別されていました。そして下請工場もまたおなじ地帯にありました」
問「あなたは下請工場の巡視をしたことがありますか」
答「あります」
問「どんな建物なのですか」
答「いろいろな種類がありますが、大抵は木造と煉瓦《れんが》建てでした。鉄筋コンクリート建てはなかった」
検察側の反対尋問は、主尋問の趣旨をいっそう明確にした結果になった。菊地証人は頭のいい証人だった。
三月二十四日の公判は終った。
三月二十五日、弁護側二人目の証人は元東海軍軍需監理局第一部長、町田秀実氏、当時は鹿児島県|垂水《たるみず》汽船会社社長、五十四歳であった。
フェザーストン弁護人の主尋問──
問「あなたの部で扱っていた軍需資材はなんでしたか」
答「東海軍管下の航空機生産を監督していました。第一部は軍需資材調達です」
問「その目的は何ですか」
答「目的といわれると、航空機増産というほかはありません」
問「軍需資材納入について、製造会社と陸軍との間に、契約が結ばれるのですね」
答「東京にある軍需省の担当部との間に結ばれます」
問「もしその製作所が下請に出す場合、あなたの部の許可が要りますか」
答「大会社には監督官が常駐して、監査しています。下請工場の設置、機械の種類、厚生、人員管理、工作機械の精度などです。報告が満足すべきものであれば許可します」
問「すると、あなたの部は常に下請工場の全貌《ぜんぼう》をつかんでいるわけですね」
答「はい」
問「あなたは家内工業の意味を知っていますね」
答「はい」
問「管下六県に軍需工業と結び付いた家内工業がありましたか」
答「一切ありません」
問「どうしてそう言えるのですか」
答「航空機生産は、多くのこみ入った部品の製作から成り立っています。そして、大量生産ですが、消耗に追いつきませんでした。すべてはセットになっています。この方法でわれわれは、月に三〇〇から五〇〇ぐらいを作りました。情ない数です。そして実をいうと、合格した下請工場でも、コンベヤーシステムで作っている大工場の生産に追付く部品の数を、生産できなかったのです」
弁護人「終ります」
ここでバーネット検事が立ち上がった。
「委員会はこの証人のすべての証言を記録から除いていただきたい。私は日本の経済事情を説明したいというから、この証人を立てるのに同意したのですが、その証言は三十八人の米飛行士の死と何の関係もない。すでに十一人の飛行士を合法的な裁判によって処刑した伊藤ケースには判決が出ています。岡田中将は裁判なしに二十七名を処刑したのです。それは日本の第一総軍の出した軍律にも反している。陸軍省の法務局長ですら、殺人といっている。この証人の述べたことは、本件と何の関連性もない」
フェザーストン博士「私は検察官がなさったように、最終論告めいた論議は、いましたくない。ただ無差別爆撃を立証しようとしているだけです。いずれ最終弁論で申上げるはずのことが、やっとはじまったところなのですよ。あとで、あなたの心をちくりと刺す証言をお聞かせします。家内工業は名古屋にはなかった。郊外爆撃、地域爆撃は、国際法違反かも知れないのです。『裁判なしに』についても、ちょっと言いたいことがあります」
バーネット検事「弁護側は、US空軍と飛行士全員を裁こうというのですか。ヒロシマはトルーマン大統領の命令だったのですよ。この法廷で、大統領とUSアーミー全体を裁こうというのですか」
フェザーストン博士は答えた。
「フェアな裁判という観念の話をしているだけですよ。ドイツ、日本、ロシアはそれぞれに違う。藤井法務局長は主尋問で『裁判なしに』とか『殺人』とか言った。私はこれらの言葉を引っ込めたくなるようにしてみせます。日本刑法の実体との関連でいうと、彼の言ったことはおおとんちきなのですよ。これは最終弁論で言うべきことですが、必要だからちょっと申上げておきます」
裁判長ラップ大佐が割って入った。
「検察側は提案として、言っているのですか」
「この証人の証言を記録から除くことを提案しているのです」
「裁判委員会はその提案を支持できません。弁護側は証人を出す権利があります。尋問を続けて下さい」
「検察側はこの証人に何の質問もありません」
「反対尋問をしないというのですね」
「反対尋問なんかない」
バーネット検事は、怒りをかくさず、腰を下した。
「弁護側は?」
「質問は終りました」
ラップ大佐「証人はお引取り下さい」
弁護側三人目の証人は、元軍需省東海北陸監理局長官、鳥田《とつた》鷹一氏であった。これは岡田中将の前職の名を替えたものに外ならず、管区内の航空機生産を監督する。知多半島の二川町居住。
問「あなたの在職中のお仕事は何でしたか」
答「昭和二十年七月から八月二十九日まで在職、主な仕事は航空機製作資材の調達でした」
問「ほかの兵器に関係しなかったのですね」
答「鉄砲製造も監理しましたが、主に航空機資材と燃料でした」
問「軍需省と契約した大製造会社が下請に出した場合、あなたの部はそれを監督しますか」
答「やります」
問「家内工業の意味を知っていますか」
答「聞いてはいます」
問「航空資材製作の親会社が下請に出す場合、あなたの部の許可がいる。ところで二十年六月には、郊外から市内へ移転した工場はありませんでしたか」
答「私が就任した頃で、五〇パーセントから六〇パーセントでした」
バーネット検事は、われわれは、二十七名の飛行士の不当裁判を審理しているので、アメリカ空軍の爆撃方法が対象ではない、証言を記録から除くことを再び要求したが、再び却下された。十分間の休憩。
弁護側四人目の証人は、福原基彦、三十八歳であって、元東海軍参謀中佐、工場資材調達担当であった。これは二十年四月初め、愛知県下に降下した米搭乗員三名を、尋問した参謀である。
問「その尋問について、あなたの知っていることを言って下さい」
答「尋問したのは、たしか四月七日午後だったと記憶します。足立参謀と保田参謀が同席した。東海軍として初めての捕虜ですから、軍司令部としては、B29の爆撃方法を聞き、友軍戦闘機の攻撃方法をどうすべきかをきめるのが、目的でした」
証人はこれが自分が捕虜の待遇に関するジュネーヴ条約に違反した不利な証言をしていることに気が付いていないらしい。同条約、第五条第二項に「俘虜の所属軍又は其の国の状況に関する情報を獲得する為、俘虜に何等の拘束も加へらるることなかるべし」とあるからである。
「回答を拒否する俘虜は、脅迫、侮辱を受くることなかるべく、又如何なる性質たるを問はず、不愉快又は不利を被むらしめらるることなかるべし」
捕虜は氏名、所属部隊名、階級は実をもって告げなければならないが、あとは答えなくてもよい。これは相手国が、情報を取るために拷問をもってすることから捕虜を保護するための条項である。
しかしこれは前の大戦中、程度の差はあっても、どこの国でも守られたことはなかった。条約は破られるためにあるようなのが現代戦の実相で、アメリカも日本もおなじことなのだが、日本はやり方がアジア的だっただけである。
日本はジュネーヴ条約を批准しなかったが、それに準じるとスイスを通じて各国に通報してあった。しかし作戦要務令第三条情報第二章|諜報《ちようほう》之部第百二十六に(原文片カナ)、
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俘虜を獲たるときは直ちに其の携帯書類を押収し要すれば緊急事項を訊問し、其の結果と共に速かに上級指揮官に送付するを要す。
俘虜の訊問は各人に就き、場所を異にして之を行ひ、其陳述する所、彼此一致するの多寡に依り、状況の真否を判定するものとす。
俘虜に対し訊問すべき主要なる事項概ね左の如し。
所属部隊及其任務、位置、編成、装備、新に支給せられたる資材、最近受けたる命令、其の部隊に連繋する他の部隊、高級指揮官の氏名及所在、前夜の宿営、戦闘及行軍の状態、特に実施しある訓練、給養の適否、志気の振否、団結の良否、行動地域の地形等。
俘虜に対する訊問事項は、当時の状況に適応せしめ、縦ひ時間の余裕少なき場合に於ても所属部隊其の位置は必ず之を訊問するものとす。
俘虜の訊問に当り、既に得たる諸情報を補助とするときは大なる効果を収め得ることあり。
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と噛《か》んで含めるように書いてあったのだからいけない。
ドゥリットル爆撃の特赦で助かった一人が『私は日本の捕虜だつた』という本を書いて、百万売った(ジェコブ・デシェーザー、前川金治訳、有恒社、昭和二十四年)。そこには処刑された捕虜が拷問される場面が描かれている。初空襲だから、日本は情報に飢えていた。全員八名、東京へ送られて、五名が天皇によって特赦、三名が現地へ送り返され処刑されたことは前に書いた。処刑された三名が釣り下げられて拷問される場面を書いてある。
しかし名古屋では拷問はなかった、と私は思っている。B29の威力については、アメリカは十二分に宣伝していたし、またいまさら情報を取っても、対策の立てようがない状況だったからである。福原証人は続けて言った。
「夏服で寒そうだったので、毛布を二枚ずつ渡してやり、水を飲ませながら、約二時間半、尋問しました。私の記憶では一人は大尉、他の二人は軍曹でした。目標は名古屋市東北部の軍需工場と三菱発動機だったそうです。マリヤナ群島の基地、機数などは、大本営からの通報と一致しました。名古屋市周辺の防空施設、高射砲と電波探知器の配置を知られていたので、大本営へ報告しました」
問「高性能爆弾でしたか、焼夷《しようい》弾でしたか」
答「昼間でしたから、高性能爆弾です。三人はそれから大森と鳴海《なるみ》(愛知県内)の収容所に送った。戦後、送還されたと保田参謀から聞いた」
バーネット検察官は異議をくり返したが、却下。これは空襲が激化しない前、目標が軍事工場であった場合、東海軍が降下搭乗員をフェアに取扱ったことを立証するための証人であった。
五人目は元愛知時計保繕課長|小刀禰《ことね》栄吉氏であった。六月九日の爆撃に関した証言であるが、この爆撃の詳細についてはすでに書いたので、省略する。周囲五〇メートル以内の民家は、疎開させてあり、損害がなかったことが強調された。これは軍需工場を目標にした場合のB29爆撃の精度を叙述し、反面的に無差別爆撃の故意性を証明するための証人と思われる。
証言は昼食のための休憩を挿《はさ》んで、午後も続き、バーネット検察官は反対尋問を行わず、二十七名の処刑と関連性がないとの異議を繰り返したが、裁判委員の中に支持する者はなく、却下された。
弁護側六番目の証人は元神戸市役所消防課長、現在同復興部長、宮崎龍男氏であった。フェザーストン博士はこの証人が、神戸市が二十年六月五日に受けた爆撃時において、責任のある地位にいたことを強調した後、尋問に入った。
裁判長は名古屋ではなく、神戸の空襲について証人が出て来たのに驚いたらしく、都市名をたしかめた。
問「あなたは、昭和二十年六月五日の空襲を目撃しましたか」
答「はい、しました。B29二七〇機が西方より侵入しました」
宮崎証人は、証言台の後に衝立《ついたて》を立て、そこに張付けた地図を、笞《むち》のような棒でさし示しながら説明した。
「およそ朝六時頃でした。米機は焼夷弾と小型爆弾を落しました。最初は生田《いくた》区(現・中央区)でした。つまり山際ということです。すぐ火が広がったので、煙に妨げられて後続部隊がどこへ落したか、被爆結果を調べただけですが、生田区から灘《なだ》区、葺合《ふきあい》区、須磨《すま》区にわたっていました。つまりこの地図で朱色に塗ってある部分です。灘区の鉄道を隔てた、南の部分が工場地帯です」
問「工場地帯はどこですか」
答「阪神国道の南が工場地帯です。この日の爆撃でねらわれたのは住宅地区でした。生田区の高架鉄道の北は住宅地区、南はビジネス地区ですが、両方やられました。さらに南に川崎造船所がありますが、その日は大きな被害はなかった。一番西は須磨区で、高取|山麓《さんろく》には五つか六つの大きな鉄道機関車修理工場があります。その一つはこの日やられました。同時にその周辺の住宅地区全部が被害を受けました。人員被害は死者約三〇〇〇名、重傷三〇〇〇名、軽傷四〇〇〇名です。全焼壊家屋五万五〇〇〇戸、罹災《りさい》者のトータルは二一万三〇〇〇名に上りました。爆撃は約二時間続いたと記憶します」
問「この日爆撃された軍事目標が、あなたがあげた二つだけなのはたしかですか」
答「詳細な調査結果は記憶にありません。ほかにもあったかも知れません」
今日確定している数字は、来襲機三五〇、死者神戸市三一八四、武庫《むこ》郡など二六九、計三四五三。重傷者五八二四。郡部六〇七、計六四三一。全焼壊五万五四六八、罹災者二一万三〇三二名となっている。(神戸空襲を記録する会編『神戸空襲体験記』総集編、昭和五十年)
問「あなたは三月十七日の空襲を見ましたか」
答「その日は他出していたので、見ませんでしたが、後日、自分で調査しました」
問「六月五日の空襲と比べて、どうでしたか」
答「三月十七日の空襲は主に長田区ですが、兵庫区も被害を受けました。高架鉄道の南の工場に集中しました」
前に引用した記録によれば、三月十七日午前二時五分来襲のB29は七〇機で、投下、六ポンド油脂焼夷弾三万三六二五、エレクトロン焼夷弾三二七、爆弾約五〇〇、死者二五九九、負傷者八五六四、全壊六万四六五三、全焼八二三、罹災者二三万六一〇六で、総被害総数において六月五日とあまり変りない。
検察側は「反対尋問はありません」と言って無視する態度を取った。
昭和二十三年三月二十五日午後二時二十分であった。二十分の休憩後、証言台に立った弁護側七人目の証人は、はじめての女性証人で、成田中尉は「楚々として咲く可憐な一輪」と形容している。守部和子、二十二歳であった。愛知県|海部《あま》郡|蟹江《かにえ》町居住、当時名古屋鉄道局厚生課勤務の女子事務員であった。
問「昭和二十年七月、あなたが乗っていた客車で起こったことを話して下さい」
答「七月十五日、太多線の美濃《みの》太田と多治見の間で空襲を受けました。午後一時十五、六分だと思います。わたしの乗った車に死者一〇名、重傷者一五名が出ました。多治見駅へ入るところでした」
問「列車は何|輛《りよう》編成でしたか」
答「機関車一、客車四輛でした」
問「爆撃されたのですか、それとも機銃掃射を受けたのですか」
答「機銃掃射です。窓から、天井から入って来ました」
問「死んだのは」
答「十人です」
問「重傷者は」
答「十五人ぐらい」
問「軽傷者は」
答「わかりません。報告がなかったからです。死んだ人と傷の重い人は運び出されました。わたしも軽い怪我をしたので、混乱して、その場でははっきりつかめませんでしたが、それくらいの数です」
問「あなたはその時、車掌区に属していましたか」
答「事務員であり、同時に車掌でもありました」
問「ここにある被害統計を作るのに参加なさいましたか」
答「はい、いたしました」
問「するとこの数字は正確ですね」
答「そう思います」
問「あなたの記憶と一致しますね」
答「はい」
弁護側はここで主尋問を終ったが、検察側は強く異議を申立てた。
「検察側は反対尋問しませんが、この証人の証言は、関連性なく、重要性のないものですから、記録から除いていただきたい。学識ある委員諸氏はどうか、この小さい出来事が、七月十五日に起っていることに御注意願いたい。その頃には三十八人の搭乗員は斬首《ざんしゆ》され埋葬されていたのですよ。この話とは何の関係もありません」
これは一応理由のある抗議であった。フェザーストン博士の返答──
「わたしが証人を証言台にのぼせ、証言が終る度|毎《ごと》に、バーネット氏かオコーナー氏が異議を申立てられる。やむを得ないから、最終弁論で言うはずのことを、いま言います。
米空軍の日本空襲には二つの段階がありました。第一は大体三月十日に終ったもので、後程証拠をごらんに入れます。三月十日以後の第二段階は、広島、長崎をクライマックスとするもので、焼夷弾による都市もしくは地域爆撃を含みます。従ってこれは第二段階で、焼夷弾攻撃のほかに、なにが行われたかを示すための、われわれの立証の一部なのですよ」
「弁護人は冒頭陳述(これは記録にないが、二十四日の十五人の無罪釈放動議をさすものか)で、三十八人の処刑された搭乗員は無差別爆撃を行い、国際法を犯した戦争犯罪人であることを立証すると言った。彼等が死んだあとで行われたことが、どうして彼等と関係があるのか。なんの重要性も認められない」
「重要性があるのは明白だと思いますがね。空襲には二つの段階があり、意図的なものです。それは一つの方針の下に行われた。それは三月十日にはじまり、ナガサキで終った段階の重要な部分です」
「死んだ人間の頭に意図をつぎこむことができるとは思えませんがね」と検察側は皮肉った。
ラップ裁判長の裁定は調停的だったが、結果的には弁護側に有利なものだった。
「委員会は日付について、検察官の主張する通り、問題の搭乗員と直接関連しないことを認めます。しかし委員会はいささかでも証明力があるものは採用するつもりです」
弁護側八番目の証人は吉田|欽松《きんまつ》氏、五十八歳で、名古屋市中村区中村町四丁目居住、当時は鉄道弘済会事務員だったが、昭和二十年には車掌として勤務していた。
問「勤務中、機関銃の掃討を受けた時のことを話して下さい」
検察側は皮肉った。
「日付を先に教えていただけますか」
弁護人「一九四五年七月中です」
答「七月三十日、七二五列車が焼津《やいづ》、藤枝《ふじえだ》間を進行中、三機によって、爆撃と機銃掃射を受けました。爆弾二個は私の乗っていた車輛に当り、即死五名。ほかの車輛にも当って、重傷者二名をだした。民間の防護団の人が担架に乗せ、七名を藤枝駅で降し、駅長に任せた。ほかに約十五名の軽傷者がいましたが、一人が言った。『とにかく命は助かったんだから、おれたちは運がよかった』。そして家へ帰って行きました」
問「その列車は何輛編成でしたか」
答「客車七輛です」
問「客車とひと目でわかりますか」
答「はい」
「尋問を終ります」
ここで検察側は、前回と同じ趣旨の異議を申立て、フェザーストン博士は「答えは前と同じ」と答えた。そして「極東空軍戦闘報告を新たに証拠として申請する。それは精密爆撃が三月十日から変更されたことを明瞭《めいりよう》に示している」と言った。
検察側「ここには一つの争点しかない。それは被告たちが、問題の搭乗員たちをフェアな裁判にかけなかった、もしくは全然裁判しなかったことについて、有罪であるか、無罪であるかです」
フェザーストン「実際のところ、戦犯裁判の一番むずかしいのが、そこなのですよ。哲学的|諦《あきら》めをもって申上げれば、私はこの国へ来てから一年半になりますが、これは終ることのない議論なのです。しかし証拠を避けて通ろうとするのは、とてもむずかしいことです」
ラップ裁判長が言った。
「委員会としては、この証人は、いま目の前にある争点とは関連性がない。しかし弁護側は、なにか情状酌量のできる状況を立証、もしくは強調しようとしているのですか」
フェザーストン「いわゆる情状酌量ではないのですよ、裁判長。これは情状酌量の余地のある問題ではない。われわれは無差別爆撃を立証しようとしています。委員会の前に、一つの裁判の意味を提出しようとしているのです」
「何の意味ですって?」
「裁判の意味するところです。検察側は搭乗員が裁判なしに処刑された一本|槍《やり》で、降下搭乗員はジュネーヴ条約のいう捕虜だったと言う。私の持っている証拠によると、彼等はそうではない。彼等は当時の国際条約を冒しています。従って捕虜ではなく、戦犯容疑者として扱われたのですよ」
裁判長「証言台にいる証人は、証明力があると見なされます。従って検察側の異議は却下します」
フェザーストン博士が、この上なくよい弁護人であったことはたしかだが、裁判長ラップ大佐も、弁護側に同情的であったようである。
このような法廷指揮は、これまでのA級戦犯法廷ではなかったことであった。証人がみな七月に起きた事件に関するのは、これが佐伯氏のいわゆるA級戦犯のために用意しておいた証人ではないか、と思わせる。
フェザーストン博士は、抽象論で裁判長を説得したことに満足したらしい。
「尋問はありません」と言って腰を下した。
委員の一人の質問──
問「その列車が攻撃されたのは何時ですか」
答「朝の七時頃です」
問「攻撃してきた三機の機種は?」
答「たしかではありませんが、戦闘機だと思います」
裁判長が「ほかに質問がありませんか」と訊《き》き、答えがないので、「証人は下ってよろしい」と言ってから、検察側が発言した。
「ちょっとお待ちを。聞きたいのですが」
「どうぞ。証人は証言台に戻って下さい」
検察側の反対尋問──
問「あなたは自分で、その航空機を見ましたか」
答「はい、見ました」
問「印がありましたか」
答「星一つの印がありました」
問「どこに?」
答「翼に」
ここで証人は絶句したらしい。裁判長に「もっと大きな声で」とうながされて答えた。
答「私はその時、荷物車輛の車掌でした。客車の車掌一人と私の助手がそばにいました。三機が近づいてきた。私たちはそれをずっと見ていて、米機だな、気を付けなくちゃと言い合っていたのです。爆弾が当った時、私の助手も客車の車掌も即死し、私一人が残りました。従ってさっき言った五名の死亡者には、私の助手と客車の車掌も含まれていたのです。とにかくわれわれ三人は、それが米機だ、ということで一致していたのです」
検事が証人を深追いして却《かえ》って不利な証言を引き出してしまうのは、よく裁判小説に出て来るけれど、これは私の作り話ではない。成田喜久基中尉のメモとアメリカの裁判記録の通りに書いているのである。
検事は黙って引き退ったが、裁判委員には空軍将校がいた。質問があいついだ。
問「その時、列車は動いていましたか」
答「動いていました。しかし弾がスチームボイラーを貫通したので、スチームが穴から洩《も》れ、列車はまもなく停りました」
問「列車は近くに工場か家内工業地帯があるところを走っていたのではないか」
答「いいえ。両側は田圃《たんぼ》ばかりでした。近くに軍事目標はありません」
問「機銃掃射をした機が、爆弾も落したのですか」
答「そうです」
問「どのくらいの高度から?」
答「機が飛んでいた高さは、正確にはわかりませんが、四〇〇から五〇〇メートルだと思います。とにかくとても低空だった」
問「軍隊を乗せている車輛と、民間人を乗せる車輛と、特別のマークはなかったのか」
答「そんなものはありませんでした」
問「その頃、近所に軍隊の鉄道輸送はなかったか」
答「列車輸送は活発でした」
裁判委員はそれ以上質問しなかったが、検察側がまた反対尋問を要求した。
問「列車による軍隊輸送は一九四五年七月十五日にも非常に活発でしたか」
答「はい」
検察官「それだけです」
これは守部和子証人の乗る列車が機銃掃射された日付で、その列車も軍隊輸送をしていた可能性を示唆した質問だったが、吉田証人はその意味がつかめず、不安な様子を示した、と成田中尉は記録している。
フェザーストン博士が助太刀に出た。その尋問──
問「あなたが車掌として乗っていた列車には何人ぐらい乗客がありましたか」
答「全部で、四、五百人いたと思います」
問「四、五百人のうちに、軍人はなん人いました?」
答「二十名か三十名と思います」
問「四、五百名の中に、軍人はたった二、三十人しかいなかったのですね」
答「そうです」
問「あなたの列車に機銃掃射があった朝、軍隊輸送はありましたか」
答「その日はほとんどなかった。なぜなら、前夜浜松がもの凄《すご》い艦砲射撃を受けて、鉄道もやられたからです」
問「軍隊の移動もなかった?」
答「鉄道が破壊されたのですから、列車による軍隊輸送はありません」
問「軍隊輸送は夜か昼か、どっちに行われますか」
答「夜間、絶え間もなく行われます」
成田中尉は、フェザーストンの反対尋問に「胸のすくような」思いがしたと書いている。
岡田中将も博士に好感を持ったらしい。
「堂々たる体躯に、法廷を徐々に歩み回り乍《なが》ら弁論する。着眼もよい、余裕のある人だと思ふ」
これは三月十二日、開廷直後の休廷中の感想である。次は大分後になるが、被告人質問で、中将の証言五日目の四月二十五日の所感──
「フェザーストン博士は矢張《やは》り全法廷の第一者だ。当然市ケ谷(A級戦犯法廷)で働いてよい人だ。着眼すぐれ、余裕あり、又仲々親切な仁《ひと》だ。
大局判断については遥に検事より上手《うはて》、従つて検事が小股|掬《すく》ひで来る時は、そのまゝ放任して置いて、次に根底から之を覆す作戦に出る。日本弁護士も之には舌を捲いてゐる。(略)実に彼なればこそ、米軍の非人道的爆撃攻撃を法廷に展開せしめ得たのだ。(略)よくぞこの人を与へられしものよと思ふ。
ラップ大佐を首席とする委員会もよささうだ。就中《なかんづく》大佐は醇乎たる軍人型だ。彼なくては博士の努力を以てするも、あれ迄寛大に米軍攻撃を許さなかつた、と思ふ。現に一時検事から、判事席は余りに被告に寛大すぎると抗議も出た」
これら日々の感想を藁半紙《わらばんし》に書いて、少しずつ郵便で送っていたもので、温子夫人や友人の手許《てもと》にたまり、後に『毒箭』の稿本「法戦の合間に」(謄写版刷)となったものである。「公判直前の記録」と二冊組をなし、非売品。『毒箭』より日付が詳しく入っているので、引用はこれに拠った。
しかしフェザーストン博士も、いつもこううまく行くとは限らなかった。
弁護側九番目の証人は、元名古屋鉄道局運輸部副長小西信次氏、四十五歳であった。弁護側が小西証人に法廷に提出させようとしたのは、昭和二十年二月十七日から八月四日までの客車の機銃掃射被害一覧表である。しかし尋問の間に、原物は焼失、コピーはなく、事後すぐだが、記憶によって再作成したものであることが判明して、却下されてしまった。
岡田中将のいわゆる委員席への抗議はこの証人の尋問の間に起った。検察側は最初から、証言には、二十七名の搭乗員の死と関連性、重要性がないと主張して来た。バーネット検事は主張した。
「異議に付け加えたい。裁判委員会は全体において弁護側に寛大でありすぎると思料する。この証人のいうリストは二月十七日から、八月四日までのものである。二月に二十七人の搭乗員が爆撃に参加した証拠はなく、八月は明らかに、その死後である。弁護側は米飛行士全部が戦犯だ、と主張するのか」
フェザーストン博士は反論する。
「私の戦犯法廷の経験では、関連性と重要性は、普通の裁判とは違うのです。私は法律家が、いつから証明力(probative value 直訳すれば証拠価値)ということを言い出したのか、知りません。しかしそれは法律家が生涯、実際に見ることができないものなのです。証明力は民族によって異なる。問題の時期には爆撃は第二の段階、位相にあった。そこでのすべての事実は、シャーマンがいったように、戦争が地獄であることを示しています。一つの事実を取り上げると、他の事実が引き出されてくる。すべてが過ぎ去った後になっては、だれが、いつ、どこで始めたのかわからない。
いずれにせよ、この法廷にいる被告は、先入見をもって裁かれている。私はここに一顧の価値ある申立てを行なっていると信じます。私はこれらの記録を結び付け、全体の位相と一本に結合させようとしているのです。このやり方は委員会を驚かすかも知れないけれど、検察側は驚かないと思います。彼等は何事にも驚かない人種なのです」
裁判長の「それは公的な記録ですか」という問いに対し、「当り前です」と答えた。
「日本人は事後すぐ方々の被害度を聞いて廻《まわ》った。アメリカの戦略調査団が来た時に、提出したのはその時作った一覧表でした」
ところが詳しく作成された経過をきいて行くと、記録は鉄道局公務員が作ったが、原本は焼けてしまい、小西証人の記憶によって再作成したものであることがわかって来た。
事前の打合せの段階で、通訳に何かの間違いがあったらしい。博士は死亡と重傷については誤りの入る率は二、三パーセントだとまで粘ったが、結局委員会は検察側の異議を認め、統計は証拠として採用されなかった。
翌二十六日、金曜日、小西証人の再召喚を求めたが、検察側は尋問は自分の方ですると主張した。
データは車掌から集めたものだった。しかし法廷に出されたのは、「私の記憶によって再作成したものです」と小西氏は答える。
七月十五日の被害、即《すなわ》ち守部和子の証言が、記録によって、機関銃掃射によるものであることを確認した。ただし夜間運行の軍用列車が攻撃されたことは、一度もない、との証言を引出したのは、却《かえ》って弁護側のため働いたようなものだった。
次に証言台に上ったのは、さきに申請された検察側六番目の証人で、東海軍元参謀織田勇蔵少佐である。彼は中野学校出身で、敵上陸後、山間部でゲリラ戦準備という特殊任務を帯び、事件と関係がなかった。
戦後は、事件の調査や事後処理(死体発掘、火葬など)に当り、弁護側十二番目証人として喚問される時に、重要な証言をするはずである。
検察側証人として、提出したのは搭乗員の遺品で、強力な物証であった。
それは灰色の袋に入れられていて、中味は主に搭乗員のその名と番号を刻んだ認識票または腕輪、腕時計、指輪、櫛《くし》、サングラスなど四十点であった。処刑搭乗員の名簿は別に残っており、米側行方不明者リストも検察側から証拠として提出されているが、これは法廷に持ち出された最も生々とした物証で、事件の血なま臭さが、法廷によみがえった。検察側は無感動を粧《よそお》って、認識票の番号、氏名を読み上げて行った。弁護側は無言。
次は再び、弁護側十番目証人、元東海軍参謀長徳永鹿之助少将、五十歳であった。
ただし、徳永参謀長は二十年十二月上旬の赴任で、証言は東海軍における事後処理、復員省への報告に関するものである。軍律会議の規定、総軍の許可を得ることなく略式方式にて処刑することの是非に関して意見をきかれた。少将は、
「あの連日爆撃下では止むを得ない」
と答える。しかしこれらは、後出の岡田司令官自らの証言と重複するので、すべては岡田証言にゆずる。
ただこの場合、二十一年一〜二月に行われた山上法務少将の取調べの調書が、検察側から証拠として申請され、度重なる弁護側の反対に拘《かかわ》らず、法廷で引用された部分のみ逐次採用され、最後には全部採用されることになる。
東海軍O法務少将のメモも問題になった。徳永少将はO少将が事件を終戦後まで知らなかった、とは信ぜられないこと、軍律会議を省くことに反対した形跡がないことにより、このメモ全体は、うそと思うと証言した。
しかしO少将メモは、フェザーストン博士の執拗《しつよう》な反対にも拘らず、結局委員会によって証拠として採用される。
公判は三月二十九日、月曜日まで休廷となった。二十九日にもフェザーストンは、O少将が精神異常を来《きた》していたとして、再びメモの証拠採用の取消しを求めたが、委員会は合議の上、再び採用を決定した。
二十七人中、十六人の処刑は、四回に分けて、東海軍第二庁舎裏で行われた。これは本庁とは、道路を隔てて野砲連隊敷地内にあったが、目撃証人によれば、女子を混えた百人ぐらいの軍関係者の見物がいた。そして法務部は第二庁舎の一階にあった。うわさがO少将の部屋にまで伝わらなかったとは考えられない。
遺骸《いがい》の内ポケットから、問題のメモを取出したのは、織田勇蔵証人で、まず徳永参謀長の手許へ届けた。それは異様に混乱した証言であって、証拠として採用されても、その内容は他の多くの証言によって否定されている。O少将はおとなしい性格であったが、奇妙にがんこな一面があったといわれる。
傷ましさと、死者のプライバシー尊重の念から、どうしてもここに写す気がしない。
弁護側十一番目の証人は、元陸軍次官、柴山兼四郎中将であった。彼もO少将がうわさを終戦後まで聞かなかった、とは思われない、と言った。
柴山兼四郎中将は元陸軍次官で、検察側の証人藤井法務局長より上官である。弁護側の尋問に答えて、藤井が証言したように、軍律会議にかけないで処刑するのは「殺人」と見なすのは誤りであると言明した(成田中尉法廷メモでは「殺害」となっているのは、恐らく通訳が表現を柔げたので、バーネット検事とフェザーストン弁護人の間では「殺人」という、おぞましい言葉をめぐって争われている)。
この日、柴山証人の主尋問に入る前に、検察側は徳永証人について争われた「山上調書」の関連部分の訳文を渡すと言い、弁護側はこっちでも全文コピー中だが、「少しでも早くもらえるのはありがたい」と受取った。フェザーストン博士は、再度O法務少将メモの不採用を主張したが、却下された。自殺した人間の、最後に身に付けていたものは、遺書の代用物と見なされる。
「略式手続は終戦後まで知らなかった」との書き出しによって、その信憑《しんぴよう》性は疑わせるのだが、その内容を全く無視することはできない。そしてこの件をめぐって、法廷で多くの無駄な応酬がくり返された。しかし結局これが採用されたことは弁護側にとって、大きな不利となった。
しかし弁護側はこの日、柴山次官に多くの重大なことを言わせた。
その一は、二十年六月二十二日に議会を通った「戦時緊急措置法」についてである。それは米軍上陸に具《そな》えた場合、日本を六つのブロックに分け(それは各方面軍の区分と一致している)、それぞれに地方総監をおき、その独断によって、行政を一体化するのを目的としていた。
議会で採択した字句は「地方総監」(英訳 area governor)であるが、柴山中将は法廷でそれに general をつけて言った。「地方総将」とでも、逆邦訳すべきか。その理由をきかれて、実際はそうなるのだから、と答えている。本土決戦であるから、民間行政官(各県知事)が軍人のコントロールの下におかれるのは当然である、と言った。
これはむろん岡田中将の専断が、民間立法によって(議会は完全に軍のコントロールの下にあったのだが)法律化されていた、と突っかえ棒をしたことになる。
さらに、軍律会議には法務官がいない場合、本科将校をもって代行せしめることができると規定している、つまり岡田司令官と大西一参謀、副官部で、略式手続でやってもいいということを含みとして持っている、と言った。
要するに弁護側証人は、計二十七人だったが、陸軍高官から庶民まで多岐にわたり、がっちり固めている感じである。こうなるとむしろ検察側の反対尋問に期待したくなるのだから、人間の心の動きは奇妙である。そして事実、バーネット、オコーナー両検事の反対尋問は執拗を極め、反対尋問、再主尋問、再反対尋問がくり返され、時間が予定を大幅にオーバーした。
徳永元参謀長は、出廷の前日、老母を亡くし、早く山口県徳山の家へ帰って葬儀を行わねばならない。尋問は早くしてくれと、証言台に立つ前に、弁護人から要請があったのだが、翌日の正午まで、離して貰《もら》えなかった。
柴山中将は軍律会議は統帥事項である、と言った。その証言は、最後の岡田資中将自身の主張を裏付けるものである。詳細は岡田中将の証言に譲るが、ここに一つ記しておかなければならないことがある。
柴山元陸軍次官の証言によって、法廷で陸亜密一二八九号と、陸密二一九〇号の区別が明らかにされたことである。
後者は、すでに書いた通り、ドゥリットル爆撃への対応処置として昭和十七年七月二十八日付で出されたもので、陸軍次官発「空襲の敵航空機搭乗員の取扱に関する件」である。「敵航空機搭乗員にして、戦時重罪犯として処断すべき疑のある者は軍律会議に送致す」とある。
検察側が固執する陸亜密一二八九号は、昭和十九年二月二十一日に「次官(陸軍省)次長(参謀本部)より関係各部隊」へ出された通牒《つうちよう》で、本文を再掲すれば次の通り──
[#ここから1字下げ]
軍法会議、軍律会議、軍政法院所管の俘虜又は原住民等の事件にして、被告人の身分、員数、犯行内容等に鑑《かんが》み、俘虜又は軍抑留者取扱に付き、国際問題を惹起し、又は大東亜民心結集、対原住民工作その他政治的に影響を及ぼすこと大なる事案の処理に当りては、予め十分中央に連絡すると共に、之を極刑を以て臨まんとする場合は、中央の指示を俟《ま》たれ度《たく》、依命。
[#ここで字下げ終わり]
検察側は「俟たれ度」を、「承認があるまでは、処刑してはならない」の意味に取って、頑張ったのである。
しかし柴山中将は、陸軍次官、参謀次長連名になっていることを指摘し、それは統帥にもかかわるからだ、と説明した。宛先が「暁部隊(船舶工兵)、空軍、広東、東部(東京)、中央(大阪、当時東海を含む)、西部(福岡)、北部(東北、北海道)、朝鮮、台湾」になっていることを指摘した日本がまだ保持していた外地で、兵隊の非行が頻発したので、それを戒めたものである、と言った。
「船舶工兵」とは上陸用|舟艇《しゆうてい》、輸送艇などを扱う、いわば陸軍中の海軍だが、僻地《へきち》を往復するうちに、出先で海賊的暴行を働くものがあった。宛先の筆頭にあげられているのは、この通牒の特質を示している。取り消されない以上有効であっても、状勢の逼迫《ひつぱく》した二十年七月には、死文化しているのも同然だと言った。
しかし検察側は、「戦時緊急措置法」にいう地域法廷は、死刑に処することができるかと喰《く》い下り、「出来る」との答えを得てから、条文を引用して、それが一〇〇円以上の罰金、三年未満の刑しか言渡せないことを明らかにした。
また、繰り返し伊藤ケースを問題にした。伊藤ケースは既述の通り、軍律会議にかけてから、六月二十六日伊藤少佐自ら東京に赴き、三十日陸軍省、七月五、六日第一総軍の承認を得て、七日から十日の間に名古屋と電話連絡した。十一名の搭乗員に十一日判決を言渡し、十二日小幡ケ原で処刑したケースである。
二十三年三月四日にすでに判決は降りていたが、二十年六月二十八日に東京へ派遣したのに、なぜ同日に他の十一名を略式手続で処断したのか。コムニケーション不良なので止むを得ず独断で処断したというが、連絡が取れてるではないか、と迫った。
しかしここで検察側は、弁護側の伊藤ケースの内容を知らないのを利用して、ちょっとしたトリックを使っている。伊藤少佐は七月五日か六日第一総軍の田中大尉から電話で許可を得るまで、名古屋へ帰らず東京にいたのであるが、検察側は七月の一日か二日に名古屋に帰ったことにしている。すると五、六、七日の三度、名古屋─東京間に電話が通じたことになってしまうのである。
また「軍法会議、軍律会議」を裁判と見なし、「裁判なしに」の句について、フェザーストンとの間に、激しい応酬があった。この場合、ラップ裁判長は、検察側を支持している。反対尋問する側を支持して、なるべく多くのことを聞こうという態度が見られる。
午後出廷すべき弁護側十二番目の証人は、さきに検察側証人として、搭乗員の遺品などについて証言した東海軍参謀織田勇蔵少佐であったが、弁護側の要請によって、岡崎清三郎中将、五十八歳を先にした。中将は五日前から島根県から出て来ていたのだが、徳永、柴山証人の尋問が長びいたので、ずっと待たされていた。裁判所から呼び出されれば、証人は応じなければならないが、もはや忍耐の限度へ来ている、と申立てたのである。
中将は近畿地方の元軍需資材部管理部長で、大阪、京都、和歌山、奈良、滋賀、福井、兵庫など七県の、陸海軍に属さない軍需資材、鉄鋼、電力、化学製品などを管理していた。約一五〇〇の工場のうち、一〇パーセントが親会社で、家内工業は不可能、工業地帯は分れているなど、すでに一番目の証人、元東海軍需監理局経理課長、菊地茂氏が述べたことと、同じ趣旨の証言をした。東海軍管区への降下搭乗員の無差別爆撃は、神戸、姫路にわたっていたので、それら地区の状況を述べるための証人であった。
織田勇蔵十三番目証人は四時すぎから、十分ばかり証言した。前述のように、中野学校出身の異色参謀で、主として事後調査を担当し、十月四日、東海軍内に俘虜《ふりよ》調査委員会ができてから、一般俘虜待遇について調査書を作成、続いて問題の二十七名について調査に当っていた。
織田氏は二十一年三月、第一復員省東海監部が解散してからも、残務整理に当っていた。現に直ちに名古屋に帰ってなすべき仕事があり、少しでも証言を進めておくために遽《あわただ》しい証言となったのである。
三月三十一日、水曜日、晴。朝九時から織田証言は続いた。しかしこれも後の岡田中将の八日間にわたる証言と重なる部分が多いので詳細は省く。
ただO法務少将の遺骸から、メモを取出したのは、徳永参謀長ではなく織田氏であり、また徳永参謀長の名で、陸軍省に提出した二つの報告書は、上官たちを遠慮なく尋問して織田氏が書いたものであること、O法務少将は参謀室に入ったことはない、と言っているが、二十年六月新参の参謀として勤務した頃、O少将がなん度も参謀室に入って来たのを見たと証言した。
そしてフェザーストン博士はこの日の朝、発見されたとして、二つの徳永報告書を証拠申請した。第一は十二月初旬に作成、提出日時不明、第二は翌二十一年一月二十一日付になっていて、最も早い調書である。そしてそこではO少将は略式会議に賛成しているのである。
これは十一月十五日前後に、岡田中将が陸軍大臣に、事実通りに述べる方針を伝えた後、いく度か会議を開いて決定した事項を、恐らく各自に読み廻しをして、作成されたものである。他の文献、証言と読み比べると、細部に興味ある相違があり、申合せて体裁を整えた形跡があるが、煩雑に渡るので、これも省略する。
ただ会議に先立ち、岡田中将がした短い訓示についての証言は、岡田中将以外の人が伝えた、珍らしい中将の声なので、左に引用しておく。
「自分が東海軍司令官に着任したときみなに言ったように、東海軍司令部管内で起るすべては自分の責任である。従ってこの二十七名処刑についてもそうだ。自分はこのケースに関する事実のすべてが、明白にされることを望む。全員がこの件の調査に協力してほしい」
そして「真相を隠さず、卑怯《ひきよう》な態度を取らないように」と付け加えた。
弁護側はさらに、織田証人が二十一年二月、山上法務少将が中央から来た時、作成した東海軍管区、特に名古屋地区被爆調査記録を証拠として申請し、受理された。数字は現在、一層正確なものが作られているのでこれも省く。
織田勇蔵証人は、当時も引継いで、弁護側の証拠集めに協力しており、三月三十一日午後二時すぎ、証言台を降りると、その足で名古屋へ向った。
以下は東海軍関係の、あまり重要でない証人なので、簡単に氏名と証言の概略を記すに止める。
十四番目の証人、倉西泰次郎中尉は、捕虜収容所庶務主任、副官に当る人物で、軍事目標を爆撃した搭乗員三名を捕虜として東京の大森収容所に送り、他の三名を県内の鳴海支所に収容したと証言した。
十五番目証人長谷川|茂隆《しげたか》少尉(成田メモには「道隆」とある。成田メモは聞書であり、米側記録はローマ字なので確定できない。漢字については多少の誤りが起り得る。誤記の失礼はお許し願いたい)三十九歳、第一歩兵隊副官で、六月上旬頃六、七名の搭乗員を営倉に預った。七月十二〜十三日頃連れ出されたと証言した。これは後の六月五日の神戸爆撃機搭乗員に関するものと思われる。
なお念のために繰り返せば、二十七名の処刑者の中には、姫路、神戸、大阪を爆撃した者があった。帰還の途中、紀伊水道上空で撃墜され、常に日本上空を吹いている西風に流されて、東海軍管区に降下して捕えられたのであった。そのため、神戸、大阪の被害状況が問題になるのである。
十六番目証人の堀江金一少尉は田村防空参謀の下で勤務し、名古屋地区の工場地区、商業地区、住宅地区の区分を色分けした被害地図によって証言した。
四月一日、証言台に立った十七番目証人、大杉|浩《ひろし》少佐は名古屋市の直接防衛を担当した五十四軍の情報参謀で、主に建物のカモフラージュ工作を担当した。十九年から作業にかかったが完成せず、迷彩できない工場もあった、住宅地区の迷彩は問題外だと証言した。
ここで検察側はこれらの一連の爆撃に関する証言はすべて、二十七名処刑と関連性がないとの異議を出し、記録からはずされたいと言った。
これに対してフェザーストン博士は哲学的な返答をした。
本件の争点は非常に大きい。国際条約は将来改正しなくてはならないでしょう。戦争と道義の共存するのは難しい。ニュルンベルク裁判で、ゲーリングは言った。もし自分が現在問われている罪が予想できたら、陸戦に関する法規を変えておいたろうと。そして「恋愛と戦争ではすべてが許される」という諺《ことわざ》を引用した(ドイツ人戦犯はなかなか洒落《しや》れた証言をするものである)。
検察側の異議は却下されたが、ここで爆撃が法廷の問題になったことは、偶然、弁護側がこのあとに用意していた、被爆者の証言の効果を増すことになった。
十八番目証人、山下|秀司《ひでし》軍曹は、軍参謀部気象班付で、第二庁舎裏で処刑されると聞き、見物に行ったが、衛兵に止められたと証言した。
十九番目の証人、野田京、五十二歳は、名古屋市西区塩町の雑貨商の主婦で、二十年三月十八日、午前二時頃、焼夷《しようい》弾の直撃を受け、夫と義母と娘を失った、と証言した。
二十番目の証人、水谷愛子、五十歳は、神戸市生田区中山手通七丁目、財団法人新生塾孤児院の院長で、三児の母であった。
問「新生塾孤児院とは何ですか」
答「私の父が、明治二十三年に建て、最初は『神戸孤児院』と呼ばれていましたが、昭和十六年、今の名称に改めたのです。捨児、浮浪児、それから家庭の事情で孤児になった者を預っていたので、生れたばかりの赤ん坊から、十四、五歳の児童までいました」
問「米軍の空襲はいつでしたか」
答「三月十七日と六月五日の二度です」
問「その時、あなたは孤児院にいましたか」
答「三月十七日にはいました。六月五日にはすこし離れた親類の防空|壕《ごう》で寝ていました。前の空襲による被害で、孤児院には寝るところがなかったからです。その日は朝六時空襲警報が鳴り、すぐ空襲が始ったので、なかなか孤児院に行き着けませんでした」
問「空襲の様子を話して下さい」
答「三月十七日、警戒警報が夜の十一時頃鳴りました。近くの病院が燃えはじめ、これは長い空襲になりそうだと思ったので、夫と一人の雇員とで児童をいったん裏手の小高いところに移しましたが、照明弾が落ち、あたりは真昼のように明るくなったので、そばの鉄筋コンクリートの建物の中に入りました。その時、ほかの機が焼夷弾を落しました。私は孤児院の男の子たちのいる西側から発火するのを見ました。夫は『もうだめだ』と言うので、女の子たちのいる東側を見るとそこも燃えています。危険を感じて、子供たちをみな外へ出しました。向い側に母子寮がありますので、とりあえず子供たちをそこへ入れました。非常口のそばに病棟があって、遺伝梅毒の五人の子供が寝ていました。そこには病児一人ごとに一人の雇員がついていて、万一の場合、避難させることになっていました。
私は病児が逃げたかどうか、と見に行くと、二階と三階が燃えています。雇員は建物の外をうろうろしています。『子供たちはどうしたの』と訊《き》くと、焼夷弾が落ち、こわくなって飛び出したと言います。そのときまた一機が来たので、彼等は中へ入ろうとしましたが、窓から火が吹き出ていて、入れません。私は中へ入ろうとしましたが、警護団の男の人が『入ったらいかん』といって引留めます。しかし子供たちは焼ける建物の中にいるのです。入口のそばに女の子が一人立って『お母ちゃん、お母ちゃん』と呼んでいます。私は子供のそばへ行かずにはいられませんでした。女の子を背負って、母子寮から逃げ出しました。近くの親和女学校に行きました。
しかし山から降りて来た人が、『ここ、危いで』と言います。そこで子供たちを下の宇治川の宇治橋へ連れて行きました。みなを橋の下へ入れましたが、人で一杯です。五十人もの子を私一人では見きれないので、年上の子供を夫と雇員のいるところへ使いに出して、救援を求めました。焼夷弾がまたあたりに落ち始め、火を消すのに大わらわでした。幾組かの母子が焼死しました」
これがフェザーストン博士が、「検事の心をチクリと刺す」と約束した証言だったらしい。アメリカ人はその頃はまだ女性と子供には弱かった。佐伯弁護人のいう、法廷が「しーん」となってしまったのは、この時だったらしい。
「十二時五分前です。休廷になさっては」
と促したのは、フェザーストン弁護人だった。
新生塾所在の生田区中山手通は、今日では風見鶏《かざみどり》で有名な外人住宅のある上山手通より一筋下の、神戸市後背山地を横に這《は》う通りだが、七丁目はその最も西で地域も広くなり、住宅地区でもあり、施設地区ともいえる。女子中高、親和学園はいまでもあり、神戸中央病院もある。ただ新生塾に当るものは現在の地図には見当らない。
しかし明治二十三年創設であれば、恐らく最も古い私立孤児院でその後継責任者の語る被害実況は、事実として重みがあった。照明弾投下があれば、米飛行士が女子供と知りつつ焼夷弾攻撃したことは明瞭《めいりよう》であり、無差別爆撃が、下請工場をねらったとはいえなくなった。恐らく昭和二十三年には、米軍人も友軍がこんなにひどいことをやっていたとは知らなかったのであろう。
一時十五分にはじまった午後の法廷で、水谷愛子さんの証言は続く──
問「六月五日の空襲は三月十七日とどっちがひどかったですか」
答「六月五日の方がひどうございました」
問「孤児院の近くに工場はありましたか」
答「ありません」
問「六月五日の空襲は、何時に始まりました」
答「朝の六時です」
問「それではもう明るい。まわりに焼夷弾が落ちて来るのを見ましたか」
答「はい見ました」
問「ゆっくり落ちて来たでしょう。数はどれくらいでしたか」
答「雨のように落ちて来ました。五〜六寸間隔です」
問「ここにあるのは、大体長さ二フィート(六一センチ)直径二インチ(五〇ミリ)の弾丸です。これが何だかわかりますか」
答「わかりません」
問「あなたの見た、燃えつきた焼夷弾とは違いますか」
答「子供を連れ出すのが精一杯で、ほかのことを観察する暇はありませんでしたが、色々の形のものがあったと思います。煙突の上に笠《かさ》をかぶせたようなのや、ぎざぎざのものや、地面に刺さっているものもあって、それはこれより少し短かかったようです。しかしとても危険だと思いましたから、兵隊さんにいって、のけて貰いました」
問「孤児院の近くに、高射砲陣地はありませんでしたか」
答「多分一つあったと思います。私どもの建物は、山の斜面にありました。一旦《いつたん》低くなってから(そこが宇治川の作った谷である)あたりで一番高い山(筆者註=恐らく大倉山)になります。その頂上に高射砲があるといううわさでした。とにかく何かが突出ているのが、私どもの建物からも見えました。たしかめたわけではありませんが、みんなそう言っていました」
問「あなたの孤児院から、その高射砲らしきものまでの距離を言って下さい」
答「正確には言えません。間に谷がありますし。まあ六〇〇メートルぐらいでしょうか」
問「高射砲が射撃するのを見ましたか」
答「子供たちにかまけて、気が付きませんでしたが、一度か二度、射ったようです。しかし空襲が始ってからは、音は聞きませんでした」
問「その高射砲陣地から火が燃えひろがるのを見ましたか」
答「よく見ませんでした。子供たちと防空壕にいましたから」
検察官の反対尋問も委員会の尋問もなかった。
水谷愛子さんは率直で、知らないことは知らないと言い、言わないでもいい高射砲陣地のことを言うし、極めて信用できる証人だった。下手に反対尋問するのは、さらに不利な証言を引き出すおそれがあった。
六月五日の爆撃全般の状況については、すでに元神戸市役所消防課員、宮崎龍男氏によって証言されている。
佐伯千仭弁護士は、法廷がしーんとした瞬間があったことで、米軍の爆撃が無差別爆撃であったことが立証された、と感じた。
これは市ケ谷のA級戦犯法廷でも、横浜法廷のほかのケースでも、行われなかったことだった。市ケ谷で武藤章中将を弁護した岡本尚一弁護人が、岡田ケースの日本人弁護団の主任で、A級法廷のために用意した証人を廻したことは前に書いた。
岡田資中将もこの結果に満足で、その獄中手記に記した。
「ラップ大佐とフェザ博士を与へられ、問題の根基たる爆撃犯罪論を徹底的に展開した当法廷を持つ吾人は恵まれたる哉《かな》」
これは中将の見地からは法廷闘争、つまり「法戦」で、一勝をはくしたことになる。次は「軍律なる当時の特殊軍法を了解せしむる」ことにあった。その戦いはフェザーストンが検察側の言う「裁判なしで」without trial の句に対して、申立てる異議によって、すでに始っていた。
二人女性証人が続いたあと、二十一番目の証人は、元衆議院議員、三好秀行氏であった。
この証人は、六月二十二日、第八十七臨時議会で成立した「戦時緊急措置法」に関して証言した。内閣に独裁を与えると共に地方には軍の方面軍管区に合せて「地方総監」を置き、敵上陸により、連絡不能になった場合、各総監に独断権を与えるものである。議会といっても、当時は、首相、参謀総長、海軍軍令部長などより成る「最高戦争指導会議」のきめたことを、機械的に議決するだけであった。
「戦時緊急措置法」については、すでに元陸軍次官柴山兼四郎中将の証言の中に出ており、彼は「地方総将」(area governor general)と言っている。東海軍司令官の作戦に従って、行政面を担当するだけである。
水谷証人によって押えつけられていた検察側は、反対尋問で猛然とこの証人に食ってかかった。
「総監独断で死刑にする権限があるか」ときき、「ある」と答えさせてから「軽罪しか処罰できない」条文を読み上げたことは、前に書いた。
ここで検察側は一点を稼いだが、同法は米軍が上陸しない限り、発効しないのではないか、ときいて、フェザーストン弁護人に、「検察官は法律が何であるか、ご存知なのですか」と嘲笑《ちようしよう》されている。
本土決戦の方針と共に、天皇臨席の最高指導会議がこの条文を決定したのは、六月六日だが、岡田中将のメモによれば十日には、愛知県庁が、「地方総監府」になっている。これは東海軍管区、つまり、三重、愛知、静岡(富士川以西)、岐阜、富山及び長野県南部を総攬《そうらん》するはずであった。
弁護側の再主尋問、検察側の再反対尋問は、翌四月二日、朝も続けられたが、無力な議会の議決内容に関する煩雑なものなので省く。
弁護側二十二番目証人は再び女性証人で、児玉たのさん、四十九歳、名古屋市西区上名古屋居住のメリヤス加工業の主婦で、五月十四日の爆撃の被害者だった。
児玉さんは、当時赤ん坊を生んだばかりで、すぐ防空壕に入ったが、撃墜されたB29の翼が壕の入口に落ち燃えだしたので、そこを匍《は》い出し、ほかの壕に入った。警報解除になって家に帰ると、焼け焦げの死体がある。よく見ると夫だった。
地区被害は二十五名死亡、付近に工場はなく、家を建てる時、主人が市役所へ行って、住宅地区だから、敷地の六〇パーセント以上の家を建ててはならない、とたしかめた、と証言した。
二十三番目証人、谷貞子、二十一歳も、西区小玉町居住、父は市内の工業薬品商店の支配人、母と兄と共に焼夷弾が落ちたので風上に逃げて助かったが、父は一週間後、死体となって帰って来た。千種|工廠《こうしよう》とは一キロぐらい離れていた。一〇〇メートル離れたところに、小学校があったが焼けた、と証言した。泣きながらの証言だった。
このあとなお四人の被害証人が続く。既述のように、弁護側二十七名の証人の順序は、最初に被害証人、次に軍人証人、最後に再び被害証人、という構成で、無差別爆撃を被害証人で、日本の軍律会議の特性については、軍人証人及び被告人質問で、立証する方針だったようである。
そしてこれら被害証人に検察官の反対尋問はなかった。
二十四人目証人、玉置《たまおき》秀雄氏、四十四歳は、神戸市西宮交通局長で、現在は御影《みかげ》町に住んでいるが、当時は神戸山手の住宅にいて、三月十七日の空襲で右手を失った。
二十五番目証人、伊藤一雄氏、二十歳は、名古屋市東区寺井町居住、五月十四日、八時頃焼夷弾爆撃が始ったが、勤務先の鉄道局池下支所へ向った。爆弾の破片を見付けて、ごみ捨て場に、投げようとした時、破裂して、右手を失った。八〇〇メートル四方は住宅地区だった、と証言した。
二十六番目証人、高森光子さん、二十五歳は、大阪市南区|但馬《たじま》町居住、証言は三月十三日と六月(なぜか日時が記録されていない)の被爆に関するものであった。付近に軍需工場はない商店街で、六月の空襲時、警報が解け、防空壕を出ようとした時、爆弾が落ちて来て、左腕を失ったのだった。
これらはみな片腕を肩から切断した証人たちであった。弁護側は視覚的効果を狙ったのであった。
弁護側二十七番目、最後の証人加藤元助氏、四十一歳は、元東海軍司令部勤務の軍曹だった。彼が二十年六月、命により新しい俘虜収容所の建築にとりかかった。各部屋は二間平方、廊下は三尺、片側に八部屋ずつ、合計十六部屋作り、一部屋を自分で使う。半地下室の建築だが、終戦まで完成しなかったと述べた時、バーネット検事が珍らしく反対尋問に立った。
「こんな建築の細部を聞くのは時間|潰《つぶ》しです。フェザーストン弁護人は、岡田中将は三十八人の搭乗員を、ほんとは監禁しておきたかった、処刑は偶発的なものだ、と主張したいのだろうが、ほかの証拠は別の方向を指しています。岡田の方針は飛行士を司令部に拘置しておき、そのうち斬首《ざんしゆ》しようとの悪虐な衝動にもとづくもので……」
フェザーストン博士は立ち上って、検事の最後の言葉を記録から除くことを要求した。まだ尋問を終っていないのに、暴言で妨害するのは審理過誤により無効だ、と言った。
検察側はこの質問によって、一連の弁護側証言の方針に反対しているのだ、と主張する。弁護側はこれまで証人が自発的に、自分の言葉でしゃべったのは明らかではないか、と反論する。
裁判長「双方感情的にならないで下さい。検察官の発言は記録に止めるが、証言は続けなさい」
バラックを設計しただけの元軍曹にはあまり言うことはなかった。
こうして三月二十四日午後から九日間にわたって行われた弁護側証人の証言は最後には検察側と弁護側の喧嘩《けんか》で終った。
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公判の合間に
このあとフェザーストン博士の、米極東空軍の戦略爆撃計画摘要と、アメリカの戦略爆撃調査団による名古屋、大阪、神戸、浜松、姫路の被害摘要の朗読が、午後一杯続いた。それらの数字は、今日さらに詳細なものが発表されているから、ここで未完成な数字を並べる必要はないだろう。
それから法廷は、四月五日月曜日まで、二日間、休廷する。
五日もフェザーストン博士の爆撃報告の朗読は続いた。ラップ裁判長はその一部を証拠として採用する。名古屋空襲に関する菊地茂証人が再召喚されて、幾つかの追加事項が確認された。そしてあとはいよいよ被告の尋問だが、それに入る前に、フェザーストン弁護人は、最終的打合せのために、七日水曜日までの休廷を要求した。
法廷は土曜日もやることがあったが(三月二十七日)、原則として、週末二日間休廷する。
岡田中将は、裁判が始ってから、起床は毎朝五時、六時半頃出発、午後六時まで帰れない。それまでに、後に遺稿『毒箭』(昭和二十九年刊)にまとめられる仏教に関するノートを書き始めていたが、横浜法廷がはじまってからは、暇がなくなった、とこぼしている。
『毒箭』とはむろん毒を塗った矢のことである。矢に当ったら、まずそれを抜かねばならぬ。矢が当ったままで、どうしたらよかろうかとか、毒薬の成分がどうかとか考えるのは愚の骨頂である。これは仏陀《ぶつだ》が説いた譬《たと》えで、「阿含《あごん》経」と「大|涅槃《ねはん》経」にあるという。
人間はすでに煩悩《ぼんのう》という毒箭を突立てられているが、自分は死刑判決によって第二の時限付の毒箭を受けることになった。こんな場合の人間の考えることは何か、仏陀の教えに対する対応はどうか、それを身を以《もつ》て試してみよう、と岡田資は考えたという。それを理論付けようとして、判決のあった後、再審の結果を待つ間に、清書をはじめていた。それを完成しないうちに、処刑の日が来ると困ると、言っていたという。
このほかに、「公判直前の記録」「法戦の合間に」という謄写刷りの小冊子が二冊ある。前者は二十三年二月十日から三月三日まで、後者は三月十四日から、五月十六日に到る。菊判各一一四頁、書体や綴《と》じ方は専門家の手になるものだが、不思議に遺族は知らない。長男陽さんの手許《てもと》に一冊があったが、達子さんの手許にはない。そしてその成立の由来は、夫君藤本氏も陽さんもご記憶がない。私自身の手許に二冊あるのが不思議なくらいだが、十年余り取材している間に、いつどこで入手したのか記憶にない。
前者は三月六日付、岡田資の署名(謄写活字)が目次の前にあり、同頁末段に「次は仏身観や俗世の問題、過去の漫談を書くつもりでした。留守は、愛知県半田北荒古二七 岡田資」と繰り返している。
三月六日は公廷開始二日前である。「公判直前の記録」の名称がある所以《ゆえん》だが、
「いよいよ明朝裁判のために、六人雑居室から独房に移るらしい。開廷中暇はない。一応之で擱筆、石原兄に托す。次に筆執る時は刑は決せられてゐるからだ。刑の如何は我には問題ではないから反つて其時は落付いて書けると思ふ」
石原兄とはA級不起訴組の石原広一郎氏である。恐らく、氏が出所後、昭和二十四〜二十六年の間に印刷させて有志に配布したものではあるまいか。するとこれが遺稿の最も早い出版ということになる。
公判になると、二十人の被告全員、三棟の独房へ移された。
公判に週末二日の休日があろうとは思いがけなかったのであろう。公判の合間に書かれた第二冊も一一四頁に達した。
「陸軍中将岡田資遺稿」と肩書されている。奥付を欠き、出版者も出版年月日もわからないが、判決三日前の五月十六日付の所感をもって終っている。内容は『毒箭』とほぼ同じだが、多少の異同がある。遺族はご存知ないのだから、これも判決後はどうなるかわからぬとの予想の下に、未決棟第三棟の誰かに托したものでなければならない。
これはX氏とすれば、その出所後、第一部の所持者石原氏と図り、中将の刑死後、あまり時を経ないうちにまとめて、中将を偲《しの》ぶ者に配ったのではあるまいか。用紙も上質、謄写刷りとはいえ書体もしっかりしている。各頁三九字一四行に統一されていて、専門家の手になるものと思われる。ただし奥付を欠くので、この出版について遠慮のあった時期、おそらく二十七年の講和条約発効以前に旧軍人間に配布されたものではあるまいか。
一方、刑死後遺族に返却されたものに、『毒箭』と題された未完の清書稿、ほかに随想雑稿があった。これは昭和二十九年、非売品として、「岡田資遺稿刊行会」より刊行されている。その内容は前記二冊の謄写版本と一部重なっているが、二冊本の方がより多く日付が入っているので、私はこれまでそれに従って来た。
これより先、二十七年八月、女婿藤本正雄氏が、『毒箭』の一部と、他の遺稿、九通の獄中よりの書簡、遺書などを集めて、『巣鴨の十三階段』を東京の亜東書房より刊行した。四六判、二五八頁、これが最もポピュラーな本で、私が編集に参加した昭和四十年の集英社「昭和戦争文学全集」第十五巻『死者の声』に収められたのは、これである。
昭和二十四年七月二十日付の「自序」がある。『毒箭』にも二十四年七月中旬執筆の自序がある。ほぼ同文だが、『毒箭』の自序のほうが宗教色が濃い。
発起人に堀日生、駒野教爾など僧籍にあるらしき人及びスガモ・プリズンでの中将の仏弟子と称する福岡の冬至堅太郎ら十七名、推薦者に山田三良、岸信介、ジャック・ブリンクリー、辰野|隆《ゆたか》、田島隆純(後出、スガモ・プリズンの教誨《きようかい》師)、佐藤寛の六名、賛助会員(申込者)に鮎見元吉、池上《いけがみ》本門寺、小原国芳、石原広一郎(二十口)、笹川良一、加藤勘十、武見太郎、石橋|湛山《たんざん》、永田雅一(三百口)など多方面にわたっている。
中将が二十一年九月二十一日、スガモ・プリズンに入所した時に持っていたのは、本多日生師『法華経講義』上下二巻であった。それを終始読み返し、思索し、また法廷に関する所感、獄中の日常生活の記述がある。多少の重複があるが、要するに岡田資は入獄以来絶えず書き続けた著述将軍であって、また少数ながら、知名人の知己があったのである。
別に判決後入った第五棟の同房者|都子野《としの》順三郎元陸軍大尉の追悼文「離魂」があった。これは昭和二十八年四月巣鴨拘置所巣鴨文化会内「巣鴨遺書|編纂《へんさん》会」刊の謄写刷り二段組一八〇頁以上の冊子に収容されていた。これは此度《このたび》上坂冬子氏の発見に係わるが、いずれ物語がその場所に差しかかった段階で紹介する。
横浜法廷開廷の前日、独房の第三棟の二階に移された。一坪の独房に二人住いで、「相棒」は大船の海軍収容所関係の、二十五歳の森青年である。畳二枚敷に、畳一枚分の板間だった。「その板間たるや、真に経済的に世帯道具が点在してゐる」と書いてある。「板一枚を折り倒せば机になる。その右が洋便所兼腰掛、左には、上面を床合せ式にした網戸の物入れがある。
机の下付近は、雑巾や、靴、下駄の配列に十分の広さがある。獄窓は内庭に開いて、採光に不足はなく、而《しか》も壁も天井も凝固土《コンクリート》だから、中央天井からぶら下る五〇燭光で読書には楽である。(略)ざつと此様な室に二人|宛《づつ》入つてゐるのだ。クツツイテモ飽き足らぬ新婚夫婦ならいざ知らず、大の男二人の起居には、相当頭脳を使はんとならん事は、想像に難くあるまい。一昨年初入所の一週間は、此の別世界に自分も一人で入つた。坐禅の習慣がなかつたら、相当苦しかつたと思ふ。或る人は壁とにらみくらしてゐると、なんと石壁が自分に向つて倒れかかる錯覚に襲はれてはつとなつた、と思出話をして居た事がある位だ」
ユーモアすらある獄中の描写である。
三月十六日、フェザーストン博士風邪のため東海軍関係は、一日休廷となった。休んでいると、看守が、ドアの金具磨き、廊下|拭《ふ》きなどの使役に引出す。
「入口の金具など、磨きに磨かれ、磨《かれ》損と、かこち顔に見える。仕事片手に看守に外出先の馬鹿話を白状させるずるいのも居る」
朝九時すぎ、石垣島警備隊の判決のうわさが伝って来た。絞首刑四十一名、重労働二十年一名、五年二名、無罪一名。絞首刑以外の四名が、帰って来たのである。死刑囚は第五棟に移される。
「流石に只ならぬ顔色だ。我等総出動で四十一名の荷物の片付けにかかる。始めは書物、手紙等を、タオルに一括してやつたが、後程何物も、彼等の新室に届けることを許さぬといふ。石垣島組には、戦闘の年、十六歳であつた青年二名を含む。総じて若者|許《ばか》りだ」
石垣島事件とは沖縄戦が始ってまもなく、八重山、石垣島を爆撃した米軍機一機を、I大佐指揮下の海軍警備隊が撃墜し、搭乗員三名を捕えた。パイロットが十八歳の二等兵、通信士はミシガン大学元教授といわれ、機銃員は髭《ひげ》を生やした軍曹だったという。
とにかく憲兵に引渡すべきだったが、I海軍大佐は独断で尋問、処断を命じた。みな殺気立っていたし、同島警備の宮崎旅団と縄張り争い意識があった。島の民家を盲爆した理由で斬殺《ざんさつ》された。機銃員軍曹に「米艦隊はどこにいるか」ときいたところ、「君たちが私の立場にいたら、果して国家の秘密を明かすだろうか」と言って答弁を拒否したため、立木に縛られ、兵士たちの銃剣で刺殺された。東海軍の略式手続よりひどい処断だった。
その裁判が、東海軍と平行して行われていたのである。米人弁護士は「戦勝国による一方的裁判だ」と言って辞任し、後任の女性弁護士も辞任し、法務大佐が弁護人になるほかなかったという。
ただし四十一人の死刑囚は、昭和二十四年三月、第八軍の再審によって減刑、二十五年にはGHQの再審によって、十六人中三人が減刑された。執行されたのは、I大佐と斬殺執行者M大尉、T大尉ら七人だけだった。
この頃から米軍はB・C級戦犯はなるべく死刑にしないで、後の自衛隊要員に温存する方針になっていた。もし岡田中将がすべて自分の責任だと自ら証言しなかったら、減刑されたろう──とこれは後に、当時の参謀長藤村益蔵少将が、名古屋へ来て講演した時の言葉だという。
しかし岡田中将は無差別爆撃の違法性、軍律会議略式手続の不可避性を立証して「法戦」に勝とうと思っていた。責任を自分で引受け、部下を救い、東海軍の名誉を守ることより考えなかったのであった。
温子夫人より来信の記事がある。二十二年十二月には岡田陽さんと玉川学園長小原国芳次女純子さんとの婚約が告げられる。結婚式は四月二十九日の天皇誕生日に定められた。
父が公判中に結婚とは少し変に聞えるかも知れないが、中将が死を決していることは、みなに告げられていた。二人の結婚した姿を傍聴席に見せて、安心させたい、との家族の思いやりなのであった。
陽さん二十五歳、純子さん二十歳である。陽さんは父より丈が高く一八一センチあり、純子さんはむしろ小柄なので、傍聴席で並んで立つと、その差が目立った。フェザーストン弁護人は、法廷の合間に、その違いを身振りで真似して、みなを笑わせたという。弁護人と中将の間に親愛感が生れていたのである。「羽石博士」と手記に書いている。
その頃の玉川学園は、まだ綜合《そうごう》大学に成長していなかった。周辺も東京の衛星住宅地帯に成長せず、学生数一〇〇〇ぐらいで、今日の十分の一に充たない。文学部と農学部が、専門学校(現在の短期大学に当る)の資格を取っていただけだった。
新郎新婦は、小原国芳邸の一間に同居したが、横浜法廷へ通うのは便利である。それまで知多半島の半田市から通っていた、温子夫人、達子さんも、夜行のとんぼ帰りではなく、新夫婦の部屋を根城に、傍聴に行くことができた。
この間に審理は進む。弁護側の証人の証言が終って、あとはいよいよ被告人尋問に入る。しかしこれは英米法では弁護側の証人である。つまり被告が証言台に立って、自己を弁護するかしないかは、被告の選択である。
フェザーストン博士は、成田喜久基中尉以下執行者の大部分を証言台に立たせない方針であった。検察官の執拗《しつよう》な反対尋問に会って、ぼろを出してしまってはまずいとの判断である。しかし一方、他の証拠によって判断されることを甘受せねばならぬ。その不利との兼合いである。
十五日から行われた被告人尋問は、岡田中将の前に、次の四人が行われた。
保田直文 三十一歳、兵站《へいたん》参謀、少佐。
米丸正熊 五十二歳、高級副官管理部長、大佐。
足立誠一 四十一歳、情報参謀、中佐。
大西 一 四十五歳、高級参謀、大佐。
略式手続といっても、まず搭乗員を尋問し、いつどこの爆撃に参加したかを聴取しなければならない。名古屋のほかに、姫路、神戸、大阪、浜松の無差別爆撃を自供した。だから弁護側証人に、神戸の孤児院長が証人として出廷したのである。この尋問は主に足立情報参謀の任務であった。
米丸高級副官は軍の管理部長で、口頭による処刑命令はそこから出る。
O法務少将と共に、略式手続案を起草した(原本は終戦後、中央よりの命令により焼却)のは大西一高級参謀である。彼はO少将と共に、岡田司令官から命令を受けたことを証言する。
保田参謀は六月二十二、三日、参謀室での立話で、O少将から法務部は手一杯なので、これ以上搭乗員事件を送ってくれるな、との要請を受けたと言っている。
これら担当者の証言なしには事案は成立しないのである。
事の起った順序は、徳永参謀長が二十年十二月に第一復員局に提出した報告書以来、変っていない。念のため繰り返すと──
二十年六月二十日、岡田司令官が、O少将と大西大佐を呼んで、略式案の研究を命じた。
二十二日〜二十三日午前までに、大西案を米丸、保田、足立に見せて同意を得た。同日午後、大西大佐は岡田司令官に案を提出し、決裁を得た。
二十六日、伊藤少佐は他の十一名の軍律会議の判決について、岡田司令官の決裁を得た。
六月二十八日、伊藤信男法務少佐が東京へ出発。同日、略式手続による十一名を瀬戸赤津町山地において処刑。
三十日、伊藤少佐は東京陸軍省法務局に赴き、軍律会議について承認を得る。
東京都内、交通遮断により、七月五日か六日、第一総軍の承認を電話で得た。
七日、名古屋へ電話連絡成る。
十日までに伊藤少佐名古屋へ帰着。
十一日、軍律会議。
十二日、十一名を小幡ケ原射撃場で処刑。
十二日〜十五日、第二庁舎裏で、略式手続による十六名処刑。
正式軍律会議による伊藤ケースと、略式手続による本件が交錯して起っていた。
四人の人間が、かわるがわる証言台に立って、フェザーストン博士の主尋問を受け、バーネット、オコーナー両検事の反対尋問にさらされると、どうしても矛盾が出て来る。
検察側は始終、二十一年二月に行われた山上法務少将の調書を引用した。これは日本人同士だからとの安堵《あんど》感があり、また調べておくだけで、裁判にはしない、というので、みな気楽に喋《しやべ》っている。検察側は反対尋問で、法廷での証言と山上調書との矛盾を突いて来る。
フェザーストン博士は山上調書を引用するのに、始終異議を申立てるのだが、そのうち弁護側も使いはじめる。山上調書は事実上予審の役割を果し、英米法の原則に反するのだが、恐らく伝聞証拠として、その限度内において、証明力を認めるということだったのだろう。戦犯裁判の特殊性である。そして最後には全部が証拠として採用されてしまう。
山上調書には、O少将の名は出て来ない。それは山上少将はO少将より、任官がおそく、後輩に取調べられるのを潔しとせず、自殺をした、とする説がある一方、O少将は京大でも同期で、仲が好かった。殊にO少将は終戦後の九月、東京の法務局付に転補されて、山上少将と親しくしていたから、かばって名前を出さなかった、ともいわれる。
O少将は十一月東海軍に戻されたのを、中央から見放された、と思ったという。十一月二十八日東京へ行き、十二月一日名古屋へ帰っている。それは最終的に何らかの運動を試みて失敗し、以来ノイローゼ気味だった、という証言がなされる。
二十三年四月七日午後の保田直文少佐の尋問から、二十日午前の大西一大佐のそれまで、各々三日か四日ずつ続いた。四人の被告人の答弁には、それぞれの個性が出ていて、興味ある問題があるが、全体としてこの後の岡田司令官の証言と重複するので、省略する。
岡田中将の手記には、部下の態度についての批判もあるが、三月十九日から自分の証言五日目の四月二十五日までは、裁判に触れていない。
この間に季節は移って行く。スガモ・プリズンは、殺風景だが、各棟の間には、ヒマラヤ杉が植えられており、後庭の隅には染井吉野があった。それが散ると、アジサイが咲く。代々の囚人が植えた藤、乙女椿の幼樹もある。戦犯は食糧不足の折柄、トマト、ナスなどを植えた。入浴は一週間に一度、浴場は看守の都合で雑居房へ連れ立って行く、などの記事が中将の手記にある。
裁判は公開であるが、まだ戦後の生活は苦しく、傍聴に来るのは、近親者だけである。
東海軍事件が最初に報ぜられたのは二十一年一月で、米軍の軍内紙「スターズ・エンド・ストライプス」に記事が出てからであった。市ケ谷法廷のA級戦犯裁判はまだ結審しない。しかし二十一年十月、キーナン検事は天皇と財界に戦争責任なし、と声明している。二十二年三月、トルーマン・ドクトリン発表、日本を極東における対ソ砦《とりで》とする方針がきめられている。憲法改正その他民主的立法が進行する一方、二・一スト禁止、民主、民自合同政府が成立する。二十三年四月二十八日、神戸の朝鮮人|騒擾《そうじよう》事件に対する第八軍の非常事態宣言をきっかけに、各都市は公安条例の制定に向う。
これら社会の動きは、差入れの新聞を通じて、スガモ・プリズンの人々に伝えられる。しかし横浜法廷の審理は、それら社会の動きと関係なく、機械的に続けられて行く。
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司令官の証言
四月二十日午後二時頃から、元十三方面軍及東海軍管区司令官岡田資中将に対する、フェザーストン主任弁護人の主尋問がはじまった。
型通りの姓名、年齢、現住所、軍歴などについて質問があった後、「戦時緊急措置法」による「地方総監」は、方面軍に従属していたか、東海軍に従属していたか、ときいた。
岡田中将は「地方総監府」は六月十日頃、愛知県庁に設置され、二十日頃の「戦時緊急措置法」の公布により活動を開始した。また地域爆撃の強化により、統帥権による地方行政管理の強化の傾向にあった。六月中旬頃が、命令指導の転回点に当っていたと答えた。
さらに次の三点について説明した。
一、第一総軍と十三方面軍との関係について──第一総軍は六つの方面軍を隷下においていたけれど、
1、六県を掌握する方面軍のような大きな単位に対する命令は、細目にかかわるものではないこと。
2、命令は通常長期にわたる事項に関するものであり、その間、当然状勢の変化が予想される。
3、第一総軍は、日本の北半分を担当している。その命令の適当なる運用については、各軍において、異るべきであった。
この意味において、自分は総軍の命令、通牒《つうちよう》が「指揮を受ける」「命令を受ける」などと、翻訳されないことを望む、と言った。
二、次に当時の十三方面軍の構成、状態を説明した。参謀長藤村少将は、六月二十日付四国軍に転補命令を受けており、重安参謀副長は広大な地区の民需と補給に任じている。藤村少将の後任柴田少将は九月まで着任しなかった。そのため高級参謀大西大佐にすべての処理を任せるほかはなかった。大西の担当の及ぶ範囲は大きく、慣例以上であった。
これはこれまでの東海軍スタッフの証言とは違い、天皇に直属し、日本軍全体を視野に入れた高い見地からの、方面軍司令官の答弁であることは、その声調、内容から見ても明白であった。法廷は緊張した。
三、軍法会議と軍律会議の差違について説明した。軍法会議は議会によって制定された陸軍刑法及び軍法会議法によって運営される。ところが軍律会議はそのような法律によって縛られていない。統帥事項に属し、軍律≠ワたは軍事規定≠ノよる。
伊藤ケースの軍律会議は六月一日に構成され、六月二十五日まで継続した。その手続は英米法の公判主義とは異り、予審手続によるものである。罪状が死刑を相当とすることが明白になったので、伊藤少佐は東京へ行き、第一総軍の許可を七月五日か六日に得て帰り、十一日軍律会議開廷、一日で終った。しかしわれわれはこれを短いとは思わない。本件は六月一日以来取調べが行われたものだからである。軍法会議でも二日以上にわたることはまれである。今日の国際法に照して、軍律会議が不完全とは考えない。
もし適用に誤りがあるとしても、それは十三方面軍のみの過誤ではなく、日本軍全体のそれと考える。略式手続とは、軍律会議期間が一日短かかった。それだけである。
問「陸亜密一二八九号は、このケースに適用されるとお考えですか」
答「いえ、適用されません」
問「その理由は何ですか」
答「秘密命令の内容から見て、これは『通牒《つうちよう》』です。そこには『準拠』という言葉がある。それがその命令の性質を示している」
通訳たちは「準拠」の訳語 mutatis-mutandis について困惑していた。なぜなら「準拠」は陸亜密一二八九号ではなく、第一総軍軍律附則にある言葉だったからである。「方面軍軍律会議は、其所管事件処理に付、昭和十九年陸亜密一二八九号に準拠し、云々」岡田証言にもちょっとした勘違いがあった。
「それは私の着任以前の十九年二月二十一日に出され、大東亜圏に関するものであって、大陸作戦との関連で出されたものだったからです。しかし問題の搭乗員処罰の時には、われわれは本土決戦の段階に入っていた。状態は大きく異なり、命令はもはや強い拘束力を持っていなかった。従ってわれわれはそれを適用しなかった」
四月二十日の証言はここまでであった。法廷は四時半、閉廷となった。
四月二十一日、水曜日、雨。
前日に続き、岡田中将への尋問は続いた。フェザーストン弁護人は、中将に諸規程の綴《つづ》りを渡して、引用の正確を期した。
岡田中将は陸亜密一二八九号通牒の拘束力が弱いものであることを主張した。ここで訳語問題について、検察側と応酬あり、検察側は「連合軍翻訳センターの訳文でたくさんだ」と言ったが、弁護側は新訳の摘要を証拠申請し、採用された。
問「ところで、第一総軍規程による軍律会議とは何ですか」
答「軍律会議とは戦時重罪犯の容疑ある者を処断する規程です」
問「するとこれは敵航空機搭乗員を処断するための独立した手続ですね」
答「当時の状況において、われわれが制定したものはそうでした」
弁護人はそれから第一総軍軍律の各条項について、逐条証言を求めた。
問「ところであなたが、総軍軍律は基準にすぎない、というのは、なぜですか」
答「本土決戦に当って、いくつかの方面軍が作られた。そこでこの規程は統制の意味において、また便利であるから作った。いわば老婆心から出たものだが、せんでも良いことをしてくれた、というべきである。中国大陸、南方で戦っていた方面軍は、それぞれ自分で軍律を作っている」
問「すると軍律会議とは『軍事会議』とも『陸軍軍紀会議』といってもいい性質のものですね」
答「いいと思います」
二十五分の休憩後、十一時開廷。
問「さて、この二十七名の搭乗員の処刑当時の司令部の状況を述べて下さい」
答「東海軍は空襲下の二十年二月に生れました。爆撃の下に育ち、半年の後に潰滅《かいめつ》した。司令部付将校の数は不足し、司令官以下、業務に追われて、飛び廻《まわ》っていた。お互いに顔を覚えるひまもなかったのです。八個師団の兵が、海岸の防衛配置についていた。築城を行い、民間の協力体制を作らねばならなかった。その合間に米軍上陸の場合に取るべき作戦を絶えず研究していた。司令部の直属部隊も、沿岸防衛に廻した。防空|壕《ごう》も作らなければならない。空襲のある毎に、被害地を巡視して、被害者の援助をしなければならなかった。そして司令官室に帰ると、署名すべき書類の山が待っている。
私は十九年十二月十三日三菱発動機第四工場が爆撃された時は、まだ東海軍監部長であったが、多数の死者が出、首のない死体、はらわたの出た死体が散乱し、電線にちぎれた人間の腕や足がかかっているのを見て以来、鉄帽はかぶらず、退避したこともなかった。しかし方面軍司令官になってからは、任務遂行のため、警報が出ると幕僚と共に地下の防空作戦室にもぐり、敵機襲来の状況を察知し、防空作戦を指導した。一日に四、五回空襲があるので、法務部でもいわゆる『コート』を開くことはできない。
自分は一将校として、また司令官として、戦場をさまざまの角度から観察しなければならなかった。勝敗は論外、最後まで戦わねばならぬ。水際で敗れても、山際に退って、最後の一兵まで戦う。われわれは日本の歴史と運命を共にしなければならない、これが東海軍全体の考えでした。しかし米空軍は優勢で、われわれは毎朝、睡眠不足で目をさました。われわれはその日も働けるのを、神に感謝した。まったくのその日暮しの日を送っていたので、正確なことは憶《おぼ》えておられず、翌日のために計画を作ろうにも方途が立たなかった。
これが当時の状況です。日々、直面している問題について、東京の指令を仰ぐことは不可能であった。米搭乗員についての処置も同じです。いちいち中央の指令を仰いだら、われわれは笑われるか、叱られるか、どっちかだったでしょう。自分は今、全般的状況を言った。どれといって具体的な事例を挙げることはできないが」
法廷はここで、昼食のための休憩に入った。成田喜久基中尉の家族は、房江夫人、長男の徹君と、父君昭氏が午前中傍聴席にいたが、父君は午後は帰った。成田氏の家業は旅館であったから、東京の同業者に泊るところがあり、家族は殆《ほと》んど毎日、傍聴に来ている。成田氏は自分の家族のことしか記録してないが、恐らく多くの被告の家族もなにか手段を講じて来たであろう。証言をしない日でも、傍聴席に肉親の姿を見ることははげましになるはずである。
岡田中将が証言を始めてからは、毎日家族の誰かが行った。半田市は遠く、当時の列車の運転状況では東京へ出て来るのは大変で、達子さんは妊娠中、藤本氏には仕事があった。陽さんの住む玉川学園住宅地が近いが、陽さんにも授業日がある。婚約中の純子さんが一人で行ったこともあるという。
午後の法廷でフェザーストン博士は、質問を変え、無差別爆撃について中将の意見を訊《き》いた。軍事目標以外の住宅地区、商業地区まで、焼夷《しようい》弾攻撃したことについては、すでに被爆証人の証言によって、委細を尽されている。中将が絨毯《じゆうたん》爆撃、夜間爆撃、焼夷弾使用についてだけでなく、その爆撃方法を非難したことを挙げておかねばならない。
まず爆撃予定地域を包囲的に爆撃して炎上させ、それからさらに幾つかの爆撃地区に分割し、住民がそこの地区から逃げ出せないように、焼夷弾、小型爆弾、機銃掃射をまぜて、全員|殺戮《さつりく》の方法を取った残虐性を指摘した。
この方法は、二十年三月十日、東京の江東地区で行われ、一夜のうちに、十万人近い死者を出したのが有名であるが、名古屋においても同じ方法が取られていたのである。
フェザーストン博士は訊いた。
問「すると搭乗員は戦犯容疑者になりますが、無差別爆撃の違法性について、どうお考えですか」
答「彼等がどんな命令を受けていたか、私にわかるわけがありません。しかし彼等は事実上無差別爆撃を行なったのであるから、その行為において、非合法である」
問「彼等を戦犯容疑者として扱ったことについて、何か言うことはありませんか」
答「降下搭乗員を捕虜として扱わず、戦犯容疑者として扱うのは、上司の示達です。そして私自身爆撃の実況を見て、正しいと信じました」
問「山上調書は証拠として採用されていませんが、これまで当法廷でその一部が読み上げられたのをお聞きでしょう。あの調書が作られた事情を、委員会に説明してあげて下さい」
答「第一に当法廷の権威ある問答記録と、山上調書にある問答体を同一視しないように願いたい。それでは、たまったものではない。山上調書は信用性のないものです。戦争が終ると共に、法務将校は責任が自らの上にかかるのをおそれ、上下一致、共謀した。山上法務少将は上級将校として本件を調査した。自分は当法廷で部下のことを言いたくないが、しかし実際問題として、二人の私の法務部の部下が、私といっしょに調べられた。そしてその尋問を受けた部下が報告作成に参加しているのです。正しい報告が作られるわけがない。調査は一月と二月、二回行われた。そして第一復員省は、三月には編成が変り、残務整理と調査が主になる予定だったのです。その予定だったにもかかわらず、予審的調査が実行された。
当時の話では、調査をしても、裁判にするつもりはない、とにかく調べを受けてくれ、ということだった。私は本件の事実が明かになるのを望んでいたから、部下の一部に反対があったが、承諾した。第一回の調査において、わが軍のO法務部長は責任を脱《のが》れようとし、彼の責任について、まったく記載されていない。O少将自殺後の、第二回調査でも、みなのO少将に関する証言は、不十分なものです。
その理由は、彼が責任を脱れんがためにしても、とにかく自殺したためです。事実であっても、死んだ部下のことを、あからさまに言うのを、私は好まなかった。その感情はいま被告席にいる大西も保田も同じだったと思います。
次に山上調書全般において、方面軍の独断という文字がある。それには次の理由がある。それは戦争中の自分のした行為について、上級の指揮官、当局に迷惑をかけたくなかった。第一総軍司令官杉山大将は、終戦後すぐ責任を取って自殺しています。方面軍の最高責任者である自分も、もろもろのことから起り得べき問題について、責任を分担しようと思った。
ところが山上法務少将は、最初に言った理由によって、私の行為を何倍か大きく書いている。一例をあげれば、どの調書のどの部分かわからぬが、山上は私にきいた。
『貴官は考えなしに漫然となさったのですね』と訊くから『漫然と事を行うのは、自分の性格に合わん』と私は答えた。
すると『貴官はそれが違法であると知っていながら、やったのですね』と言う。『自分は合法と信じて行なったのである』と答えた。そして説明した。『方面軍司令官として、自分に与えられている権限内において、その権限を十分に生かして、若干の独断を加えたにすぎない』。こんな具合でした」
正午の休廷後、岡田中将の証言はなお続く。
問「捕獲搭乗員の迅速な処断について、研究を命じた理由を述べて下さい」
答「爆撃の激化によって、始終退避せねばならないので、執務時間が減りました。ガス、水道、電力供給システムが破壊された。不眠によって能率が低下した。仕事は簡単にしなければならなかった。六月十七日夜から、無差別爆撃がまた強化された。自分はこれからは降下搭乗員が増加するであろうと判断した。また作戦上、司令部を移転しなければならないかも知れない。重要でない事件はさっさと片付けて、身軽にしておかねばならない。
六月十七日(正確には十八日零時四十分)以後、月末まで爆撃は、二十日豊橋、浜松、静岡方面、約二〇〇機、二十二日、各務原、約五〇機、六月二十六日、各務原、約一〇〇機であるが、その間、大阪も爆撃されていて、米機が熊野灘、紀伊山地上を北上する毎《ごと》に、警報が出た。
第三の理由は、当時、軍法務部が、種々の事件をかかえて、手一杯だったことです。法務部には陸軍将校のほかに、民間人の雇員もいた。例えば軍監督下の農耕隊では、多くの朝鮮人を使っていたが、種々の不法行為を犯して、法務部に持ちこまれ、多くの証言を聞いてやらなければならなかった。手一杯なので、O法務部長はこれ以上搭乗員のケースを持って来てくれるな、と言った。
当時、法務部では、事案を手取り早く片付ける傾向にあった。民間の裁判手続も、平時より、簡易化されていたのです。
米爆撃は無差別になる一方であるから、一貫した戦略によって行われていると判断された。自分には事例をいちいち調べるのは時間|潰《つぶ》しと思われた。これがわれわれが略式手続を考えた理由です。
司令部の内部も外部も、被害状況は同じであった。私は自分に与えられた権限にある軍律を用うべき時だと考えた。ほかに訴うべき手段はなかった。
付け加える。その時々の状況、雰囲気に支配されてはいけないかも知れぬ、しかし時の勢は人間の生命を支配する。また一国民の運命をきめる。歴史を見れば明らかである。
最後の理由は、交通、通信網の破壊である。その頃から爆撃目標が交通網に移されたようである。わが管区でも木曽《きそ》川鉄橋が爆砕された。浜名湖上の鉄橋も度々被爆し、高射砲陣地を移動させねばならなかった。日本の交通網は海岸に露呈していて、海上からの攻撃に弱い。明日の予定を立てることは不可能であった。すべてを簡略にすべき時が来ていた。交通網がこわされてから、交通網確保につとめてもはじまらぬ。しかし交通網破壊の懸念は、多くの理由のうちの一つにすぎない。終り」
問「O法務少将と、最初に略式手続について話し合ったのは、いつですか」
答「はっきりとは覚えぬが、六月十七日、中小都市が爆撃された日の夕刻だったと思う。それは意外な爆撃だった。その直後と思う」
問「どんな話をなさったのか」
答「正確にはおぼえていませんが、要点を言えば、私はO少将に、軍律会議の進み具合はどうかと聞いた。正式手続を現状に合うように簡明化する手はないか。司令部の将校は少く仕事が多すぎるのだが、それに適《かな》う方法はないか、ときいた」
問「答えはどうでした?」
答「正式会議と省略手続について、まず尋問係の将校に命じて、早く仕上げさせる。その方法を研究させる。O少将はやりかけの事件があって、途中で止めることはできない。省略の方法はないだろう。運よくその頃、中央の軍法会議で、法務部以外の将校を使っていた。本科将校を使ってもいい、という示達が来ていた。戦時作戦事項なら、参謀将校を尋問に使ってもよい。会議を一日しか開かぬとか、公開にするとかは問題ではない。軍律の精神を破壊しなければ、法的に成立する。詳しくは憶えていないが、大体以上が話の要点でした。
従ってあとで大西が私に報告した時、別に不審の念なく受取った。それは『大西案』と言われているけれど、内容はよく憶えていないが、大体同じものだと思う。『大西案』と言い出したのは、中央から来た山上法務少将です。あれは正しくない。私が研究を命令し、O少将が法的意見を加えたものです。いわゆる『大西案』とは、岡田・O案であると確信する。終り」
岡田中将が言いたいことを言い終ったと信じた時に、二等兵のように「終り」と言うくせがあった。少なくとも、この法廷では。
それは明確を期する意志の現われであり、通訳にとっては、便利であったが、言い足りなかったのに気が付いて、「付け加える」と言うことがあって、却《かえ》って弁解めいた印象を与えることもあった。
問「いまの証言の大西参謀を部屋に呼んだ日を覚えていますか」
答「六月二十日頃です」
問「その時、大西に言ったことを憶えていますか」
答「大体、憶えています」
問「その時、大西に言ったことの要点を言って下さい」
答「O少将が大西といっしょに来たので、まず軍律会議の正式の手続のことを話した。それからO少将と大西の両人に、略式化を命じた。私は二人にすでに先刻詳しく話した状況を説明し、軍律会議を正式に続けることは不可能だ、私は略式手続を取る決心ができていると言った。故に状況に合うような新しい略式方法を研究してくれ、と言った。大西にきみは大体O少将の意見を聞いているだろう。しかし十分に話し合ってくれ、と言った。終り」
時刻は四時半だった。フェザーストンは、証言の切れ目のように思う、と発言し、この日の法廷は終った。
四月二十二日、木曜日も雨だった。九時開廷、岡田中将の証言は続く。
問「あなたが大西とO少将に命令してから、大西大佐が報告を持って来たのですね」
答「はい」
問「その内容を覚えていますか」
答「大体、憶えています」
問「その報告について憶えていることを話して下さい」
答「『正式軍律会議はできるだけ急がせます』とO少将は言った。しかし現にやりかけの案件、例えば伊藤ケースの日数を縮めることはできない。それから言った。『命令通り略式手続を実施する。方法は次の通り、軍事目標を爆撃したものは、捕虜収容所に廻す。無差別爆撃を行なったかどうか、疑わしい者は、忙しい中だけれど、正式軍律会議に付する。しかし盲爆の実績の明らかな者は略式手続に依る』。私はこの三つの方法を実施するために、米丸高級副官、足立情報参謀、保田|兵站《へいたん》参謀を呼んで、会議を開いた。そしてO少将の法律上の意見によるも、この方法に間違いはない。状況上最上の方法である、と説明した。もとへ、説明したのは大西大佐であった。それから大西は他の三人に、三人の本務に照し、今の三原則を司令官命令として実行して、差支えないかときき、差支えなしとの返事を得た」
これらの詳細は二十年十二月徳永参謀長が中央に出した報告と同じであるが、検察官は答弁と通訳の混乱に文句を付け、証人にもう一度、証言を繰り返させる方がよいということになった。岡田中将はもう一度、略式案の三原則について、より簡明に証言した。それから当時、中将自身の得た感想を付け加えた。
「司令官としての意見では大筋は以前O少将と研究した通りであったが、少し簡略すぎるように思った。しかし案の内容と効力は十分であると思われた。そして私自身は依然として、この略式軍律会議の長であるわけであるから、命令として出す決意をした。終り」
フェザーストンは尋問を続ける。
問「六月二十八日頃、十一人の搭乗員が略式手続で処刑された時、あなたが命令を出した憶えがありますか」
答「憶えています」
問「命令書ですか、口頭ですか」
答「口頭です」
問「誰に?」
答「大西だったと思います」
問「口頭命令の言葉を憶えていますか」
答「よく憶えていませんが、結論は同じです」
問「その時、使った言葉を思い出せませんかね」
これはその言葉が、搭乗員処刑の事実とつながり、裁判では大事なのだ、という注意を含んだ尋問であった。あいまいな言葉で言え、との勧告であった。岡田中将が、フェザーストンの忠告を察したかどうか、わからない。返答は弁護人をがっかりさせる種類のものであった。
答「私は大西に言った。説明はよくわかった。処刑するよりしようがないようだ。処刑しろ。いま思い出しました。『なるべく早く』(immediately)という言葉を使った、と思う」
この頃から、中将の態度、言葉によって、彼が全面的に責任を取ろうとしていることが、法廷にいるみなの目に明らかになって来た。
問「あなたはその時、処刑に刀を使えと命じましたか」
答「そんな細かいことについては命令しなかった」
これはとにかく一つの小さい罪状についての、自己弁護であった。しかしフェザーストン弁護人の尋問に答えて、第一総軍の示達では「死は銃殺す」とあるが、自分は方面軍司令官として、状況に応じてそれを斬首《ざんしゆ》に替える権限があると証言して、再び負わなくてもいい責任を負ってしまった。
それから日本刀による斬首は古来、武士の腹切りに伴ったという、これまでに多くの証人によって、くり返された説明が続いたが、突然伊藤ケースに関する証言が出て来たので、法廷は驚いた。
「斬首は日本人が永年、他の人種に対して用いて来た方法で、殊に民衆が激昂《げつこう》していた当時の状況では、搭乗員の遺骸《いがい》を加辱から守るために、隠密をもって行える最もよい方法であり合法的であると信じた。
私は職務上、結論だけを命じる。実行の具体的手段は、部下が考案する慣習です。従って、伊藤ケースにおける軍刀使用も伊藤法務少佐が立案し、米丸副官が命じ、ということになる。米丸はこの法廷にいるので、この点を強調したい。昼食の席などで、私は搭乗員保護の実例をあげて口にしている。従って、軍刀使用の命令が米丸から出たにしても、その実質において司令官が言いつけたのと同じである。終り」
昭和十七年八月のドゥリットル爆撃の搭乗員三名を、軍律会議によって死刑の判決をした上海軍司令官|澤田《さわだ》茂中将以下、裁判長T大尉、判士Y法務大尉、刑務所分所長T法務大尉は、昭和二十一年三月、上海で戦犯裁判にかけられた。B級裁判の最も早い例である。
その時の澤田中将の起訴状に記された訴因は次の五つであった。
1、軍律会議を実施したこと。
2、虚偽の事実に基いて起訴したこと。
3、軍律会議が虚偽の証拠に依り、刑を宣告したこと。
4、被告中の病人を憲兵隊に抑留して虐待したこと。
5、減刑、刑の免除要求等の職権を行使しなかったこと。
判決は戦争中の報復宣言、戦争法規改正(命令であっても、人道に反することは服従しなくてもよい)にも拘《かかわ》らず、所命者は罰せられなかった。四月十五日の判決は意外に軽く澤田中将、懲役五年、T大尉同五年、Y法務大尉九年、T法務大尉五年であった。米軍としても、いざ裁判となってみると、事後法の禁止にひっかかる、違法裁判の印象を世界に与えるのはまずいと判断したためだったか。
澤田中将については、軍律会議が上司の命令でやったとしても、責任を免かれることはできない、としながらも、
一、本人が当時前線視察中であり、軍律会議終了後帰着し、その結果を知ったこと。
二、搭乗員の刑の軽減に関し上司に意見具申していたこと。
が、認められたためであった。ところが裁判委員の好意的質問に対して、澤田中将は、「自分の不在中に起った事件でも、軍内に生起した事象は尽《ことごと》く軍司令官の責任である」と答えた。
上海軍の軍律会議によって、処刑された搭乗員のうち二名は、東京空襲六番機、一名は名古屋空襲十六番機の搭乗員であった。昭和十七年四月十八日、ガスタンク炎上ほか市内六カ所に被害があった。その被害状況を克明に立証したことが、裁判を有利に導いた。
裁判の結果はいわば「戦訓」として、佐伯千仭弁護人の弁護資料の中にある。大抵は二年で何とかなるという。(二世通訳が与えた情報か?)法廷では検察官と弁護人が勝手にけんかする、「と思う」という言い方は無効、「である」と断定すべしなど、われわれの素速い対応が示されていて興味深い。
通訳の朝鮮人米軍大尉が澤田中将のそばへ来て、
「そのような証言は、東洋人には理解できるが、白人に対しては有害無益だから取消しなさい」
とすすめたが、中将は「その必要はない」と言ってきかなかったという。
岡田中将は澤田戦訓に拘らず、同じような東洋的責任観をもって裁判に臨んでいた。伊藤ケースの証人に出られなかったのを残念に思っていた。伊藤少佐は三月四日絞首刑を宣せられていたので、それを軽減しようとの配慮から、この発言となったのである。
これは尋問では禁じられている「訊かれないことに答える」に当る。だから中将は「米丸は当法廷にいるが」と言って、裁判に関連性を持たせ、伊藤ケースへの救済証言をしたのであった。彼が澤田中将と同じく「軍内に生起した事象」すべてについて、責任を取ろうとしていることは、いよいよ明らかになって来た。
裁判長ラップ大佐は、感歎《かんたん》したのか、呆《あき》れたのか、定例の三十分の午前の休廷を宣した。
もっとも既述のように、中将に対する訴因は五つあって、その「4」「5」は伊藤ケースに関するものである。つまり七月十一日の「違法の軍律会議に付することを承認し」(4)、十二日の「不法殺害に寄与した」(5)というものである。つまり正式軍律会議にかけようと、略式にしようと、有罪なのである。判決は従ってすべてについて有罪であったが、二十四年一月二十六日の第八軍の再審部の減刑意見では、「4」は部分的に有罪、「5」は無罪である。
いずれ伊藤ケースについて尋問されるのは避けられないにしても、何も自分の方から、一旦《いつたん》無罪と罪状否認したことを、責任があるといってしまうことはない。証言は少しずつ区切って喋《しやべ》り、通訳はそれを訳す。しかし次に何を言うか、いい終るまでわからないから、フェザーストン弁護人はストップをかけることはできなかった。国際裁判通有の不便さで、これはどの法廷でも起ったことである。
もっともこれまでに、岡田中将がすべての責任を法廷で取る決意をかためていることは明らかになっていた。「法戦は身の防御に非ず、部下の為也、軍の最後を飾らんことを」と「法戦の合間に」にある。公廷全体に対して、法華経信者の立場から、見下す立場に立っていたのだ。
フェザーストン弁護人は質問を変えた。
問「あなたはO少将が自殺する前に、会いましたか」
答「よく会いました」
問「ずいぶん驚いたでしょうね」
答「驚いた。本当とは思えなかった」
問「自殺の理由は何だと思います」
答「その問題について、また答えねばならんのは、もとの部下だから非常に辛《つら》い。彼に会ったのは、東海軍でいっしょに勤務するようになってからです。性格は非常に温和で、正直で、頭もいい。欠点は積極性を欠き、少し頑固なところがあった。八月の終りに突然東京の法務局へ転任になった。彼自身が望んだのか、中央の意向であったかは知りません。理由は私にわからない。お察しを乞《こ》う。しかし私としては、法務関係の中心人物を失って、非常に困ったので、十一月頃、返してくれと中央へかけ合った。申請はすぐ認められた。これまでに問題になった徳永リポートを作ったあと、彼は東京へ行った。何を言ったか知らないが、帰った時はがっかりした様子でした。さっき伊藤法務少佐の供述書がこの法廷で読み上げられたが、そこにもあるように、O少将は東京の約束が違うと怒っていた。
二十一年一月、山上少将の取調べを受けた。遺憾ながら、O少将は嘘を言った。そして私や参謀たちには、嘘を言ったことを黙っていた。二月、山上少将がまた来ると通知があってから、彼は数日の休暇を取って、H市の養家へ帰った。Hにいる間、自殺する徴候は何もなかった。これはその後家族の方とも話し合ってわかっています。しかし彼としては養家に対する立場があったかも知れない。
十二日正午すぎ、自殺の報を聞いて、すぐ彼の部屋に行って、彼の霊を拝した。二つの遺書を持っていたということだが、そのうち一つは既にこの法廷で一部が読み上げられている。もう一つは最初に来た米軍調査団の尋問に答えたものだった、と記憶する。どっちにも死の理由は書かれていない。家族も知らないので推測するほかはないが、調査官に言ったことが、我々に言ったことと反対だった。そこで突如、意志の力を失い、自殺したものと思います。また山上少将より、彼の方が少将になるのが早かったので、後輩から二度も取調べられるのはいやだった、という理由が考えられる。(筆者註=これは今日でも、関係者のうちに残っている勘違いで、後に山上少将が検察側の最後の切札的証人として出廷しての証言によると、任官は山上少将の方が、少し早かった)それから先に言ったように、中央から裏切られた感じを持っていた、ということが考えられる。これ以上、私からは答えられない。お察しを乞う」
司令官と法務部長は、軍の法律的行為に責任を持つべき二本の柱である。そのうち一本に自殺された時、岡田中将は自分がすべて引受けて死ぬほかない、と決意したといわれる。
一方、「法戦の合間に」には、意志の弱いO少将がいては「法戦」を戦うには足手まといだったろうとの感想も見える。
筆者はこれまで、死者に対する敬意と、また遺族への遠慮から、その内容を書かなかったが、すでに一部は証拠として法廷で読まれ、最後には全部が採用されて、この後の裁判の経過に、大きく影響を及ぼすので、裁判記録にあるままに、発表することをお許し願いたい。
半折|美濃《みの》紙三枚に墨書され、署名は一枚目の右下にあるが、日付を欠く。二十一年一月、山上少将に取調べを受けた時に、メモとして書かれたもの、と信じられている。
O法務少将のメモ(ルビ、句読点を補う)。
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B29機搭乗員二十七名ノ処断ニ関シテハ、小官トシテハ終戦後承知シタルコトニシテ、処断前又ハ処断当時何等協議ニ関与シタルコト無シ。而シテ小官ハ九月十九日附陸軍省法務局附転補ヲ命ゼラレ赴任セリ。然《シカ》ルニ十一月十七日、突然陸軍省法務局附ヨリ再度東海軍監区ニ転補ヲ命ゼラレ、同月二十一日着任スルヤ、翌二十二日徳永参謀長花本参謀副長ヨリ搭乗員二十七名ノ処断顛末ヲ陸軍省ニ報告シ、追テ将来聯合軍側ノ取調ニ対スル答弁ト為《ナ》シタク、就テハ小官ニ於テモ一役負担セラレタシトシテ、(三字不明)既決ノ顛末書ヲ(二字不明)ラレタリ。依テ之ヲ観ルニ書中司令官ヨリ諮問ヲ受ケ、之ニ対シ小官ヨリ軍律審判手続ノ省略意見ヲ開陳シタリトノ記載アリタルニヨリ大ニ驚キ、両官ニ対シ諮問ヲ受ケタルコトモ意見ヲ陳《ノ》ベタルコトモ絶対ニ無シト答ヘタル処、両官ヨリ交々《コモゴモ》処断当時ノ実情ハ顛末書記載ノ如キ順序アル段階ヲ経テ実施セラレタルモノニ非ザルモ、之ヲ其ノ儘聯合国側ニ発表スルコトハ、無統制ナル大虐殺ト為《ナ》ルヲ以テ、若干ノ所謂《イハユル》化粧ヲ施シ(司令官ヨリ上司ノ諒解ヲ得タル事)発表スルモノニシテ、法務部長(小官)モ参謀方面ヲ調査シタル結果ヲ徴スレバ、処断前ニ軍律会議ニ附セザルコトヲ要望シアリタリトノコトナルヲ以テ、軍ノ為ヲモ思ヒ同意セラレタシト要請セラル。※[#「玄+玄」、unicode7386]五月下旬頃、搭乗員十一名ノ未《イマ》ダ軍律会議ニ附セラレザル以前、留置所ニ在リテ(管理部ノ依頼ニテ監房ヲ貸シアリタリトノコト)憲兵ノ取調ヲ受ケ折柄軍法会議ノタメ留置中ノ朝鮮人拘禁所ヲ拡大セネバナラズ、困惑シアル旨ヲ聞キタルヲ以テ、俘虜係参謀タリシ保田少佐ニ対シ、電話ヲ以テ留置場設置ニ関シ連絡交渉ヲ為シタル際「軍律会議ノ方ハ仲々複雑面倒ダカラ成ルベク送ラヌ様ニ頼ミマスヨ」ト雑談的ニ附言シタルコトアル外、爾後他参謀ニ対シ搭乗員処罰問題ニ関シ、折衝シ又ハ相談ヲ受ケタルコト無ク、又右附言モ、決シテ具体的問題ニ対スル意見ヲ陳述シタル趣旨ノモノニ非ザルコトヲ主張シ、顛末書記載ノ小官ニ関スル部分ノ削除ヲ求メタリ。然《シカ》ルニ其後一、両日ヲ経テ顛末書ノ小官関係部分ヲ一部変更シ(現在提出サレアル顛末書ト同一ナラン)、小官ガ大西大佐ヨリ軍律審判手続省略ニ関スル意見ヲ求メラレ状況上已ムナク同意シタリト相談ヲ為シ、該記載ヲ以テ是非提出シタシト両官及大西大佐等ヨリ要求アリ、爾来毎日参謀長室ニ於テ、同官及関係参謀集合ノ上、小官ノ記憶ナキ事項ヲモ作述シテ、恰モ小官ガ処断事実ヲ黙認シアリタル如ク述ブ。拠テ十一月二十八日本省ノ指示ヲ伺フベク上京シタルモ、十分其ノ意ヲ得ズ、十二月一日帰庁シタル処、已ニ聯合国側ヨリ一部ノ者ノ取調開始セラレアリテ、参謀長側ヨリ(司令官出席ノ上)種々ノ言ヲ以テ同意ヲ迫ラレ、折角顛末書記載ノ如ク進捗シアル際、之ヲ変更スレバ、将来法廷ニ於テ非常ナル乱闘ヲ生ジ、軍ノ為《タメ》不利ナリト強調シ、終《ツヒ》ニ小官モ斯ク多クノ参謀方ノ、小官ヲ引入レルベク工作シアル限リ、証拠ナキ以上将来聯合国法廷ニ於テ争フモ、到底望ミナシト思料シ顛末書ニ同意スルニ至レリ。」
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キリスト教国では、人が臨終に際して言ったことを重んじる。岡田中将が、立ち向わなければならなかった証拠は、このように強力なものであった。
事件を終戦後まで知らなかったということについては、後にフェザーストン博士が、強力な反証を出す。それは七月十一日軍律会議による十一人の処刑で、本件とは分離審理され、一月三十一日判決の下った伊藤ケースの伊藤少佐の証言である。
そこに「七月十一日の正式軍律会議の処罰は、六月二十八日の略式手続による処刑を見習ってやった」という趣旨のものがあったからである。これはO少将が上席検察官として行なった処刑だから、それを知らなかった、ということはあり得ない。
なお横浜公判法廷の規則は、A級戦犯裁判とは別に定められていた。そのD項「証拠」の(4)に、「(略)右の部隊、団体、又は組織の、他所属員に対し、有罪判決ありたる公判に提出せられたる証拠は、右の犯罪に関し、被告人も犯罪を犯したる旨の一応の証拠として、之を容認することを得」とある。
伊藤被告は二十三年一月二十二日より公判を開始、三月四日絞首刑の判決を受けていたから、その公判中の証言は本件において証拠能力を持つのであった。O少将遺言の書き出しは真実を疑われるものであっても、その後の記述において、特に徳永リポートの「化粧をほどこし」の句などには、一応の現実性がある。
「搭乗員を寄越さないでくれ」との電話については、保田参謀は電話だけですむ問題でないから、二十年五月参謀室の窓際で話し合った、とこれまでに証言している。六月二十日にいっしょに研究命令を受けたことなどについては大西一の証言がある。なお二十年末のCICによる調査結果、山上少将の第一回調書は、なぜか証拠として提出されていない。前者はスキャンダルがあったから破棄され、後者は多分第一復員裁判所設置以前のもので、第二次調書があれば十分と考えられたものか。とにかくこの日付を欠くメモが、物証として採用されたことは、被告側にとって著しく不利であった。全体において手続略式化が参謀部のイニシヤティーヴで行われたとの印象は避け難かった。
正午の休憩後は、フェザーストン弁護人は、日本軍の命令系統は他国軍と違うかどうか、について証言を求めた。岡田証人は明瞭《めいりよう》な証言を与えたけれど、それは天皇から一兵卒に到るまで一本に通った統帥についてであって、われわれのよく知っていることだから省く。書類は終戦後中央の命令によって焼却したが、激しい空襲の下では、口頭で伝えることが多かった、と付け加えた。
次に空襲について、中将自ら自動車で巡視して廻った結果と、無差別爆撃の実状を述べた。六月九日の愛知時計被爆の状況を視察した、五十メートル離れた民家は被爆しなかったことから、米軍の爆撃の正確さを強調した。それは既述のように反面的に無差別爆撃の故意を強調するものであった。名古屋市民は一致して消火に努めたので、被害を五二パーセントに止《とど》めることができたと言った。
ここでフェザーストン弁護人の直接尋問は終った。伊藤ケースについて、何も訊かなかったのは、細部に立ち入るのは危険だ、との判断からであったろう。
十五分の休憩の後、フェザーストン主任弁護人は、日本人弁護団の勧告により、二、三の追加質問を申請し、許可された。
問「あなたは日本軍の命令の特性について、述べられた。責任は実行者によって分担されるのですか」
答「命令の実行者は、命令を発した者に対して責任を負います。命令を発した者と、責任を共有します。この二人はさらに上の発令者に責任を負う。梯子《はしご》みたいなものです。そうして線を辿《たど》って行けば、司令官たる私の方へ来ます。司令官は、その部下が行なったすべてについて、唯一の責任者です」
問「あなたがその命令系統についてなさった説明と、米搭乗員の扱いについてどう思いますか」
岡田中将は質問の意味がよくわからず、答えは混乱した。フェザーストン博士は言い替えた。
答「あなたは日本軍の命令の特徴について、下級者と上司の命令についての関係について答えた。その日本軍命令の特性と、米航空機搭乗員の上司の命令の同一性または類似性について尋ねているのですよ」
問「一つの米航空機の中には、一定数の搭乗員がいる。彼等の中には一人の隊長がおり、命令系統がある。それぞれに義務を持っている。しかし私の見解では、この一航空機中の搭乗員は一体となって働くから、その任務を果すことができるのです。すべての搭乗員はこの全体の一部である。何事か起ったら、彼等は責任を分担しなければならない。問題は基地の司令官まで行くでしょう。しかし戦争末期、日本軍はもはや強力でなかったから、米基地司令官を取調べることはできなかった。墜落しない航空機の隊長を取調べることもできなかった。(略)
私の元部下はいまこの法廷にいる。一機の搭乗員みたいなものです。この場合、私は基地司令官にあたるでしょう。当時、私はそんな風に部下を使い、米搭乗員を同様に見ていた。何度も言うように、私は違法行為をしているとは思わなかった。ほかにやりようはなかった。日本人の見解では、この法廷にいる者の行為は、みな私の責任です。しかし米搭乗員のようにわれわれは犯罪を犯したのではない。彼等は国際法を破ったけれど、われわれはなんの法も破らなかった」
問「一つの航空機ではなく、搭乗員たちのことを言っているのですね」
答「そうです」
問「焼夷《しようい》弾を使い、絨毯《じゆうたん》爆撃をした者は、違法行為をしたのですか」
答「彼らが違法であると知っていたかどうかは関係ない。私が違法と判断したのです」
問「ここにいるあなたの部下は、違法なことをしていると自覚していたでしょうか」
答「だれもそんなことは思わなかったと思う」
ここで弁護側の主尋問は終った。バーネット検事が立ち上った。
「時間がないけれど一つの重要な反対尋問をして、答えを得、明日また繰り返したいと思うのですが」
しかしラップ裁判長は、尋問が重大な段階にあるから、明日にした方がいい、と言って、四時二十分閉廷になった。
四月二十三日、金曜日、小雨。成田喜久基中尉が、法廷入口に着くと、奥さんの房江さんが待っていて、笑いかけた、家族の傍聴のない日は、成田中尉はなんとなく淋《さび》しかったので、うれしく思った。
午前九時、法廷はバーネット検察官の反対尋問から始まった。
問「主尋問のはじめの方の答えによると、あなたは方面軍司令官として天皇に会っている。捕獲された搭乗員の処置について、天皇と協議したことがありますか」
フェザーストン弁護人は立ち上った。
「異議があります。質問には政治の匂いがする。答弁は占領政策を損うおそれがあると思料します。A級戦犯法廷のキーナン検察官は、ウェップ裁判長と、同じ問題で市ケ谷法廷で論争した。私の記憶では、その種の質問は許されません」
これは二十一年十月、昭和十五年の対ソ攻撃につき、天皇の裁可の有無が問題になった機会に、キーナン検事が引用した、SCAP(国際検察局)の「天皇を追訴追しないとの方針を決定する」との声明に関している。
バーネット検察官「キーナン検事の質問が何であったか、本官は知らない。この質問が政治とか占領政策に関するかどうかにも、本官は興味はない。この証人及び他の証人は、統帥権と称する神秘的なものによって、軍律が無視できると証言した。弁護人は戦時緊急措置法がその権限を与えることを立証しようとしたが、証言はくずれた。どうやらそこから出ているのではないらしいのですよ」
弁護人「それが根本的な問題なのです」
検察官「私はそれが防衛総司令官か、第一総軍か、どっちからその権限が与えられたかを知りたいのです」
裁判長「弁護側の異議を却下します」
弁護人「お言葉を返すようですが、キーナン検事がウェップ裁判長と問題にしたのもその点です。天皇が共同被告と考えられる惧《おそ》れを強調した。天皇が東京にいる以上、名古屋にはいない。それならそれは中央から出た一定の方針である。ところが検察側は、天皇は無罪だという。この前提の上に立って、弁護側は統帥について再考すべき点はないか、とお尋ねしたい」
検察官「私は天皇を共同被告にするつもりはありません。三十八人のアメリカの搭乗員の処置について、天皇が特別許可を与えたなどとは言ってはいない。本官は被告が、搭乗員の処置について、天皇と総括的に話し合ったことがあるかどうか、と訊いているのです。東条の裁判で、天皇がどこまで開戦にかかわり、戦争を指導し、または講和の努力をしたかについて、多大の証拠が法廷に持ち込まれた。しかしあの裁判では、それは天皇が共同被告であることを意味しなかった」
裁判長「弁護側の異議は、その種の質問に政治問題が含まれるということにポイントがあると諒解《りようかい》します。しかし委員席は、被告は天皇に謁見し得るのだから、何らかの方針について天皇と話し合ったか否かを論じるのは、本件に重大な結果をおよぼす、という意見です。本件を裁定する前に、委員会は短い休憩を取り、問題をよく検討したい。そして最終的裁定を出します」
九時十三分、五人の裁判委員は退き、二十分後、再び壇上に現われた。
「委員会は弁護側の異議を一旦《いつたん》却下したけれど、合議の上、検察官の質問は適当でないとの結論に達した。従って弁護側の異議は、熟慮の結果、認めることにする」
裁判官が一旦却下した異議を認めるのは、よほどのことがないと起らない。それだけ天皇の地位は、B級裁判でも保護されていたということであり、またフェザーストン博士の弁護がいかに巧みであったかを示す。バーネット検事は質問を変えないわけに行かない。
問「あなたは主尋問で、最初十三方面軍司令官に転補された時、防衛総司令官東久邇宮から指示を受けたと言った。あなたは宮と捕獲された敵搭乗員について話し合ったか」
答「捕虜としてか、搭乗員としてか」
問「捕えられた敵飛行士としてです」
答「いや、しなかった」
問「あなたは第一総軍総司令官杉山大将からそのあとで指示を受けたと言った。杉山大将と捕獲された搭乗員の取扱いについて話し合ったことはありましたか」
岡田中将が答える前に、ラップ裁判長が言った。
「今日このマイクは入っているのかね」
通訳「だめです」
「そんなら、みなさん、もっと大きな声で言って下さい」
横浜法廷では、時々マイクが故障した。委員席にとどくように、みな声をはり上げねばならぬ。それは関係者に、無益な緊張をもたらした。こんな日には、審理はぎくしゃく進行した。
答「いや、しなかった。その必要はありません」
問「すると当時、あなたが持っていたのは、第一総軍の制定した軍律だけということになる。たしかですね」
答「いや、ことはそう単純ではなかった。私はそんなフォーマルな指令を直接受け取ったわけではなかった。軍には参謀もいれば、法務部もある。彼等はじかに電話か電報で、中央と話し合ったはずです」
問「あなたのいう意味は、参謀か法務官かが、第一総軍のそれぞれの上司と連絡したという意味ですか」
答「実際はどうだったかは知らぬ。私の言うのは、すべきだったということです。例をあげれば、O法務少将が言っていたことだが、第一総軍の法務部長島田中将に、少将はあの軍律は、米搭乗員のみに適用されるのか、敵が上陸した時、陸戦捕虜にも適用されるのか、ときいた。返事は搭乗員のみということだった」
裁判長の要求により、ここまでの応答を、通訳はもう一度読み返さねばならなかった。
問「その時に答えた第一総軍の法務部長は誰ですか」
答「名前はいまちょっと──忘れたが、終戦後自殺しました」
これはむろん九月四日に自殺した島田朋三郎中将で、第一総軍隷下の各軍で起った事件の責任は全部自分にあると遺言していた。この遺言は後に証拠として採用される。
問「あなたはさっき第一総軍軍律について証言したが、それは一九四二年十月十九日付防衛司令部の軍律のことか。それはそのまま第一総軍に引継がれて、軍律の一部をなしている。それとも二十年五月十二日付第一総軍法務部通達のことか」
フェザーストン博士は異議を申立てた。
「私はさきに防衛司令部は四月十五日に解散し、第一総軍と第二総軍に分れたのだから、前の通達は無効になったと言っている。これはもうさきほどの異議で、検察側は了解のはずです。それにも拘《かかわ》らず、古証文を持ち出して、この証人を混乱させようとしている。検察官がこの通達を別個に扱うなら、異議を引っこめる」
一九四二年(昭和十七年)十月十九日付とは、すでに証言ずみの防衛総司令部通達の軍律のことで、総密一八号は二十年五月十一日第一総軍が防衛総司令部から引継いで、念のために達した「軍律」である。
岡田中将は軍律会議は統帥事項に属し、方面軍司令官の判断で、変更可能と、なん度も答えていた。そしてその統帥の源たる天皇について言及するのは禁止で、この司令官は全部の責任を取る、と言っているのだから始末が悪い。バーネット検察官との応答は押し問答になって来た。岡田中将の証言で注目すべき細目を列記すれば──
一、作戦中は命令に違反しても、その目的が達せられればよい。
二、命令に違反しても、精神は残る。
三、略式裁判による結果を、第一総軍に報告するのを怠った不備は認める。
などであった。
検察官が新しい問題を出した。それは例えば同じ搭乗員でも、無線手などは、直接爆撃に参加しない。B29は一つの有機体であっても、無線手は減刑の対象とはならぬか、という問題である。岡田証人は答えた。
「多くの者があそこへ行った、ここへ行ったと答えている。彼等は自分の乗る機の無差別爆撃の効果を見たに違いない。悪いと知りつつ犯罪を重ねたのである。之が処罰決定の理由である」
午後の法廷では、米軍の投下したビラが問題になった。
問「証人は午前の証言で、無線手にも罪の意識があった根拠として、航空機がばらまいた宣伝ビラのことを言った。これは日本国民を脅かすためだと言うが、これから始まる爆撃のきびしさの警告ではないのか」
答「多種のビラがあったから、詳しくは知らないが、全般的印象を述べる。ビラのあるものには、焔《ほのお》を吹く家や、子供が右往左往して親を探し求める絵がかいてあった。『こわければ戦争をやめろ』と文句が付いていた。ほかのものには、もっと口汚い諷刺《ふうし》が書いてあった。これは避難警告ではなく脅迫である。それらの文句は今日でも覚えているが、真意は日本人の戦意を喪失させることにある。戦後、私はこれらのビラを集めようとしたが、戦時下、憲兵隊が見付け次第、焼却したので、わずかしか手許《てもと》に集らなかった。これは人道を無視し、日本国民を脅迫するために作られたものではないか」
問「このビラを運んだ搭乗員が事実上、戦争犯罪を犯したと言ったが、戦意喪失をくわだてたのが戦争犯罪か」
答「そうではない。このビラを運んだ搭乗員、もしくはサイパンの基地で、それを読んだ者も、当時の日本への爆撃方法が、非人道的であることを自覚していただろう、という意味だ」
問「出版者の名は書いてあったか」
答「遺憾ながらない」
問「どこで刷られたと思ったか」
答「わかるはずなし」
問「搭乗員はアメリカ空軍の命令によって、それを日本で撒《ま》いたとは思わないか。搭乗員が自分でビラを作って撒いたとでも思ったのか」
責任がどこに帰するか、についての、あまり細かい探求は、こっけいになって来る。つまらない尋問に答えなければならない岡田中将の感情は、その答え方に現われている。
答「ビラ撒きは、最初のB29爆撃と同時にはじまっていた。誰がビラを刷ったか、問題ではない。その絵に描かれていることが、人道に反するのを自覚していたかどうかということである。そして事実、その行為を犯した。問題は爆撃を実行したということだ」
問「あなたは無線手が爆撃をコントロールしたとでも思っているのか」
答「無線手にそんな権限があろうとは思わないが、くわしくは部下が尋問したろう。詳しいことは私は知らない。タンクのことなら知っている。私は戦車兵だ」
最後の言葉は、英語で言ったので、法廷に笑いが起ったという。中将はイギリス大使館付武官をしており、少し英語がしゃべれた。証言にも英語を混えている。しかしバーネット検事は追及の手をゆるめない。
問「無線手の首を斬り落すのが人道に反すると思わないか」
答「何度も言ったように、搭乗員全体が一個の有機体である。どのメンバーが爆撃を実施したかは問題ではない。私自身息子を特攻に出したから、アメリカ人の両親の気持はわかるが、しかしわれわれは国際法を守るために軍律を設けた。ほかにやりようはない。処罰の主な理由は累犯ということだ」
ラップ裁判長は、通訳に答弁の訳文をくり返させた。検察官はなお同じ問題に固執する。煩雑な質問の目的が、だんだん明らかになって来る。
問「ほかにやりようがないと言った。私は適切な条文を読み上げる。第一総軍の法務部通達一八号です。第一条は『本軍律は第一総軍の権内に入りたる敵航空機に之を適用する』とある。第三条に『軍罰は死とす。但し情状に依り、無期又は有期の監禁を以てこれに代ふることを得』とある。第五条には『特別の事由ある場合は、軍罰の執行を免除す』。それらの条文から、あなたに無線手の首を斬り落すよりほかに、やり方があると考え及ばなかったのか」
答「御教訓、ありがとう。しかし私は第三条の第二項が、あの場合に当てはまるとは思わなかった。繰り返すが、無線手は累犯だったのです。例外扱いはできなかった。第五条の解釈については、故O法務少将から、なん度も説明を聞いた」
ここでフェザーストン博士は証言の翻訳は明日にしてはどうか、と発言した。検察側も四月二十六日月曜日まで休廷にしたいと言う。
オコーナー検事が胃痛で入院中で、バーネット検事はすべて一人でやるので疲れて来たのである。岡田中将は付言した。
答「この軍律が制定された歴史に見れば、極刑を減刑するのは天皇の権限に属していた。上海軍の管内に降下した米兵には、スパイ、宣伝、謀略の任務だった場合があった。わが方面軍のような、本土防衛軍には当てはまらない、と了解している」
マイクの故障のため、ぎくしゃくした二十三日金曜日の公判は終った。
岡田中将は、日本の軍律の特殊性を説明し終えたと思う、と二十四日の日録に、満足気に記している。
四月二十四日(土)、二十五日の休廷中、岡田中将は手記「法戦の合間に」に書いた。
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第二日終頃、就中《なかんづく》第三日には、委員会諸君が、十分に私の気持を了解し得たと自ら信じてゐる。其由の通報も受けた(筆者註=恐らく森里通訳を通じてであろう)。
この司令官は全責任を負うて立つてゐるなとわかつたらしいと、聞かされた時には、矢張りグツと胸に感情が漲つた。何の為ともわからない。(略)
心配もない、慾もない。恐れも感じない。法廷の論戦は寧ろ愉快をすら感じる。気迫は検事君なんか圧倒しつくして居るつもりだ。でも、軽妙に蹴飛ばすのみが、能ではない。是非是非東海日本陸軍の真相を了解せしめずばならぬ。
わが胸中を知らぬ人々が、やれ少々言葉が多過ぎるとか、ああ言へば斯く響くとか、今の証言は誰某の為とか、不為とか、うるさいこともある。両三回も之を伝へる大西参謀を叱つた。気の毒をした。
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これはスガモ・プリズンへ帰ってから大西参謀が、「責任はすべて最高司令官にある、と言われると、自分も参謀たちみなの責任を負わなければならなくなる。それぞれのけじめをはっきりさせねばならぬ」と言って来たことを指している。中将は「わかった」と一言答えただけだったという。
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雑念のある人や、勇気の不足した人には、私の法廷弁論を危険と思ふだらう。本人は平気である。
法廷の合間に検事相手に話す私を変り者と人は言ふ。でも彼等とても人だ。鬼ではない。副検事オカナー君は、其名の如く(筆者註=おっかない)、多くの人を戦慄させた。彼とてやはり人だ。先日は話して見ると、七月には娘の結婚だといふ。(略)
此鬼検事、我尋問を待ち構へてゐた由。我亦有名な彼と一騎打を内心準備せるに、可哀相に彼は先頃、時々休んでゐたが、遂に入院手術を受ける身となつた。常にアルコールの香を漂せてゐたから、胃潰瘍でも病んだのか。
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中将の考えは自然、間近に迫った陽さんと、玉川学園長小原国芳先生の次女純子さんとの結婚に及ぶ。
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色々感想が浮ぶのであるが、筆採る自由に制限(筆者註=書簡数の制限の意か)を受ける事を遺憾とする。
温子《はるこ》連日法廷の傍聴御苦労である、話すことは規定が許さんが、私にはそなたの顔の表情の変化を見れば、其の意味は十分に通ずる。笑を交換する丈で結構々々。純子さんの御手紙にも、同じ意味のことを書いてあつた。それでよい筈。
陽よ、純嬢よ、先以て縁あつて二人の人生必須の同伴者と相成つた事を祝福します。神仏のお定めの此縁を感謝尊重しなさい。
そなた二人、我等二人、小原先生御夫妻、さては今法廷にいかめしく坐して居る米軍の面々といへども、其本体は神の愛、仏の慈心のほか何者でもありません。一切平等のものです。しかしこの現象世界といふか、法界といふか、其仲の一存在界たる人間世界に仮に生を受けたるものとしては、別に差別感を立てて見なくてはなるまい。
陽の顔、身体、仕事上の活動振り、さては音声等々、私自身を鏡面を見詰めてゐる様な錯覚に捉はれる。一人で微笑が洩れる。母もそんな気がすると思ふ。
といふと陽よ、両親以外、否もろともの大生命に根拠を持ち、之から無限の供給を受け得る─修めて波長が合ふならば─そなたである。両親の既成枠内に拘束さるべきではない。
温子よ、時代観念の差のある思想で、飽く迄も子供夫婦を制御しようとするのは、誤りですが、深い慈愛の中に、あくまで子供夫婦を守つて行かうとするのは正しいのです。老いては子に従へ、なんて思想は正しいとは思はん。大愛の前に、従ふとか従へるとか云ふ事は超越すべきだと思ひます。(略)
私は必ず法戦には勝つてみせる。判決は御勝手にだ、之は米軍にても都合のある事ゆゑ。
問答の合間々々に、上面の星条旗を見つめる。そしてその背景の白壁を眺めて居ると、心の影が、文字となつて浮び上る。
○すべての執着を排除すれば、私が智慧は自在|也《なり》。
○身心の精力は仏の賜、供給は無限也。
○菩薩は難問答に巧也。
○敵もなし味方もなく、只慈悲を以て。
○法戦は身の防衛に非ず。部下の為也。軍の最後を飾らん為也。
等々、随分勝手なものかも知れん、呵々。
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岡田中将の信仰は本多日生系のもので、二月頃からの反省録が残っている。素人には核心は捉《つか》み難いが、その後の言動を見るに、いわゆる「菩薩行《ぼさつぎよう》」、自己の成仏をのみ願わず、衆生《しゆじよう》を導き、その「行」によって、自らを「菩薩」に高め、出来得る限り仏に近づくことにある。現実にはこの思想によってすでに同房の青年たちに、教化をはじめていた。
菩薩の精神をもって、証言台に上るから、答えに窮することはないと信じていた。ある意味では、こんな始末の悪い被告はいない。
四月二十六日、月曜日、午前九時、岡田証人は「まだ土曜日の証言がすんでいない」と発言し、続けた。
「第三条は刑の種類をきめる条項、第五条は判決が下りてからの刑の軽減に関するものです。種類と趣旨がまったく違う。それをはっきり区別してもらいたい。そのためにはその成立の歴史を話さないと、委員席にわかってもらえないと思う。O少将が私に説明してくれた。あれは昭和十七年のドゥリットル搭乗員裁判が支那であり、その直後この搭乗員に対する軍律ができた。しかしそれ以前に支那派遣軍は同じ精神で降下搭乗員の裁判を行なっていた。つまり死刑が宣告されても、宣撫《せんぶ》のために死刑を免除することが行われていた。これが一つ。派遣軍内部では、死刑搭乗員に対して天皇の特赦を内奏する相談ができていたのではないか。
ところで第一総軍は防衛総司令部の軍律を引継いだが、本土では宣撫なんてあり得ない。これがO少将の解釈でした。参謀部では必要があれば請願するつもりであった。私にその案を提出された。しかし私は必要と思わなかった」
問「あなたは三十八名の略式裁判による搭乗員にも、軍律会議の結果、死刑の判決を受けた十一名にも、天皇に請願しなかった。それに相違ありませんね」
答「残念ながら、しなかった」
問「減刑の請願のために、全記録を調べるのが、貴官の義務だとは思わなかったのか」
答「ひっきりなしの爆撃と本土防衛作戦研究のため、その暇がなかった」
バーネット検事の尋問は、伊藤ケースに移った。これはすでに述べたように、五月十四日の爆撃(B29約四七〇機による焼夷《しようい》弾攻撃、名古屋市北部八〇パーセント焼失、名古屋城炎上)の際、撃墜されたB29搭乗員に係り、本件とは分離審理されてすでに判決が下りていたが、七月十一日の軍律会議、十二日の処刑が、岡田中将の訴因の中に数えられていたのは、前に述べた。
検察官の尋問は、前年九月、中将のスガモ入所後に取られた検面調書に基いて行われた。処刑命令を出す前に、裁判記録を読んだか、どうか、という点に関してであった。中将は忙しくて読む暇がなかった。概略を故O少将と記録に基いて相談したと答えていた。ところが他の証言によれば、記録は十五日の処刑後まで、出来上っていなかった。
答「それは初耳です」
問「判士たちは、一〇〇頁から一五〇頁ある調書と惨害報告を読むのに二十分しかかけなかった。証拠は調書しかなかったのに」
しかしこの問題は煩雑にわたるし、あとになって出て来るので、ここでは省く。
一旦《いつたん》休憩の後、バーネット検事は、再び略式裁判について、大西大佐とO少将に研究を命じた日付をたしかめた。これらもすでに証言をすませたことの繰返しであるから省く。
ただ無差別爆撃について、神戸の六月五日の爆撃のように、そこに二つか三つの軍事目標が含まれていれば、無差別とはいえないのではないか、との問いに対し、それはまぐれ当りだ、住宅地域、商業地域が広く含まれていれば、無差別爆撃だ、と答える。
第一総軍軍律第三条には、場合によっては、刑の軽減を中央に請願できるとあるではないか、と言えば、爆撃は日を追って非人道になったから、死刑以外にはあり得なかった、と答える。一機有機体説、つまりクルーは無線手も含めて、全部有罪説などをむし返し、押問答になった。
五月十四日の爆撃では、名古屋上空に達せず、伊勢湾上空で撃墜された一機があった。それを未遂事件として、減刑を請願すべきかどうか、の問題があった。岡田中将は無線手がいなければ、目標は定まらず、爆弾投下担当兵とも連絡できないから、一機は有機体である。それに前にもやったことがあると自白していて、累犯である、請願の余地なしと主張した。
うち二人が海軍に救助され、大船収容所へ移送され、戦後アメリカへ送還された者があった。岡田中将がそれは海軍が諜報《ちようほう》を取るためにしたことで、聴取がすんだら、東海軍に返すべきであったと答えた。
バーネット検事はハンブルク、ドレスデンの爆撃を知っているかときいた。中将は忙しくてそんなことに気をつけなかった、と答える。
問「広島、長崎も無差別爆撃だと思うか」
答「もっと悪い」
問「誰がそれを命令したか、知っているか」
むろんトルーマン大統領が正解である。岡田中将は「知らない」と逃げた。
問「日本軍が一九四四年に風船爆弾を作って、太平洋を越えて飛ばし、米太平洋岸の山林を爆撃したのを知っているか」
答「終戦後、聞いた。私はこんなばかげた作戦を恥かしく思っている」
問「きみの国は緒戦に真珠湾を地域爆撃した。地域爆撃は国際戦略慣習となりつつあるとは思わないか」
これは明らかに言いがかりである。真珠湾攻撃は目標は戦艦、航空機に限られ、被害を受けた民間人は一二〇人にすぎない。
答「私は本土方面軍司令官で、そんな大問題は知らぬ。しかし個人的意見としては、空戦法規は至急、大幅に、変えねばならぬと思っている」
問「新兵器の開発に伴い、法概念を変えねばならぬと言うのですか」
フェザーストン弁護人が異議を唱えた。
「問題を無差別爆撃と国際条約に限っていただきたい。検察官の質問は実定法よりも法哲学に関するものではないですか」
問「この質問はむしろ証人を援けているのですよ。証人は無差別爆撃の命令者は戦争犯罪人で、捕えたら略式裁判で処罰すると言っている。原爆を落したことには大統領に責任があると、実質的に答えている。私は国際法の法概念に進化がある、と証言させることによって、その陳述をやわらげるのに手をかしてあげようとしているのですよ。彼は国際法に照して二十七人の搭乗員を処刑し得る高位の将軍だった。そんなら国際法の改訂に関連した質問に答えることができると思います」
検察官はむしろ被告に同情的な尋問をしていることになる。事実、バーネット検事は、岡田中将の態度に打たれたか、この頃は好意的になっていた、と成田喜久基中尉は観察している。
フェザーストン博士は喜んで、異議を引込めた。
問「あなたは二十七名の搭乗員を処罰するときに、国際法改訂を考慮したのですか」
答「いや、そこまで考える余裕はなかった。──しかしここでしばらく意見を述べてもいいですか」
「どうぞ」
答「私は当時の戦況において、アメリカが日本本土を戦略爆撃したのに、原則として賛成です。島伝い作戦なんか愚の骨頂だ。しかしなぜ爆撃を合法的にやらなかったのか。一つ、なぜ運輸と交信機関を狙わなかったのか。それで航空生産は止ったはずです。なぜちゃちな工場地帯を爆撃し、無差別爆撃を行なったか。家内工業があるなどと空想したのか。組立工場をやれば、わが航空機生産は止ったでしょう。航空偵察により、木曽川上流にダムがあるのを知っていたはず。犬山には県変電所があった。これをやられたら、愛知、滋賀、三重の生産はストップしたのです」
問「御説ごもっともだが、一九四五年に戻って考えてほしい。アメリカの方では、戦争はもう勝ったと思っていた。占領したあとのことを考えて、鉄道の爆撃は、ほどほどにしたのかも知れませんよ」
答「名古屋航空機工場群は、国際的に知られていたはずだが」
尋問は戦略問答になって来た。実際はまだ延々と続いたのだが、もはや十分だろう。
バーネット検事は、委員席に向って題目を変えてO少将のことをきく。それは明日にしたい、と言った。
四月二十七日、火曜日、雨。
この日、バーネット検事の尋問は、四月二十日、岡田中将がO少将と大西高級作戦参謀を呼んで、略式裁判の研究を命じたことに関するものであるが、すでに述べたところと重複するので省く。
ただ二十一年二月、東京から出張して来た山上少将の調書を引用した部分だけは省くわけに行かない。そこにO少将が賛成したということが書いてないことが、少将が自殺する時、内ポケットに持っていたメモと共に、東海軍全体にとって不利になっていた。
問「山上調書を読みます。『O法務部長は、軍律会議手続を略式にしろと提案したことはないと言っているがどうですか』。あなたの答え『そんな報告は受けていない』。山上少将『O少将は大西高級参謀といっしょに呼ばれ、略式案の研究を命ぜられたことを否定しているが如何』。その答え『二人を呼んで命令を与えた』。これは確かですか」
答「前に言ったように、山上調書は信用性のないものです。O少将は自殺したのですから、私はその時、旧部下について、かれこれ言うのを避けた」
問「あなたは長い返事の中で『O少将は積極的な意見を言わなかった』と言っている」
答「とにかく当時、法務部では多くの案件を抱えていたし、罪状明白なものは参謀部で処理できた。しかし法務部長は私の側近ですから、食堂でよくいっしょになった。例の未遂をどうするか、話し合わなかったはずはない」
問「五月十四日の降下搭乗員に、二カ月もかかられたのではたまらない。O少将は伊藤少佐を東京へ派遣する時、陸軍省と第一総軍の許可を得るまで、東京でがんばれと言っている。承諾の返事を得るまで軍律会議を開こうとしなかった。貴官と参謀はしびれを切らして、伊藤が東京へ発った二十八日に、十一名を処刑した。伊藤が帰って十一名を軍律会議にかけて処刑した後、残りの十六名を片付けてしまった、それが真相ではないですか」
前日に打って変って、バーネット検事の追及はきびしかった。担当検察官として、訊くべきことは訊いて、記録に止めなければならないのである。
尋問が長くなったので、翻訳するために、十時四分休廷となった。五十五分再開。
答「まずO少将が私の命令に従わず、むしろそれに抗《あらが》った、そんなことはあり得ない。六月中旬は、爆撃が最も盛んな時期だった。
参謀は作戦研究に忙しい。伊藤少佐の帰着と関係なく、平行して略式裁判が行われた。未遂事件を含んでいるので、伊藤の場合は正式手続にかけた。罪状明白なるものを対象とする略式と平行して行われたのである。終り」
問「六月二十八日に、貴官は一人の男を東京へ送り、承認を求めた。なぜ同じ日に、二十七名を略式手続にすることについて、中央の許可を求めなかったのか」
答「伊藤少将は第一総軍に行くべきで、陸軍省に行く必要はなかったのです。すでに東京も爆撃されていて、万事おくれた。名古屋では作戦的にすることが多かった。しかし三つのカテゴリイについてやることについて、第一総軍の承認、許可を取るべきでした。激しい空襲下だったので忘れたのです」
問「伊藤少佐の証言によれば『出発に先立ちO少将は幾日かかってもいいから、十一名を死刑にすることについて、第一総軍と法務局の許可を取って来い』と言っている。貴官は搭乗員を処刑する権限があるというのに、なぜO法務部長は一週間でも二週間でも待て、と言ったのか」
答「それは初耳です。日本軍の法務官が軍律なるものについていかに無智であるか、を示している。法務局長の藤井中将が全然理解していないとはまったく驚いた。しかし私の部下、O少将はわかっていたと思っている」
問「いずれにしても、伊藤少佐を東京に派遣する以上、略式手続について、第一総軍の許可を求むべきではなかったか」
答「われわれが激烈なる盲爆下にあったことを考慮してほしい。また略式を唯一で絶対的な方法としたのではなかった。総軍に必ず報告しなければならない事柄ではなかった。した方がよいというだけである。この方式は、総軍軍律の背後にある精神に、よりよく適《かな》っていたはずだ」
バーネット検察官の尋問は、再び「大西案」が決定された日に戻ったので、フェザーストン弁護人は、「大西案」と呼ぶことに異議を申立てた。検察官はスガモ・プリズンで取った検面調書で、この被告が言ったまま、使っただけだと答える。岡田中将は、それは山上少将が言い出した名称で、O法務少将の責任を軽減するために使われたのだと答える。
問「十三方面軍司令官として、略式軍律会議での判決も、刑の軽減も、あなたの採択にかかっていた。無罪を言渡すこともできたはずです」
検察官の尋問は最後の詰めにかかった感じだった。
答「無罪とはなんですか」
岡田中将は少し驚いたようだった。
問「軍律会議が下した判決を廃棄し、軽い刑を言渡すことですよ」
答「たしかに、できました」
問「天皇の特赦を請願する必要を認めなかったのか」
答「ええ」
問「すると三十八人の搭乗員の死刑判決を言渡したのは、すべてあなたの責任である。たしかですか」
答「たしかです」
問「略式手続は裁判ではない、ということを意識していましたか」
答「形は違っても、精神は同じです」
問「略式と正式の違いは、弁護人がつかないことでしょう?」
答「何度も説明しました。日本では軍法会議にも実際には弁護人はつかない。被告は自分で自分を弁護しなければならない。軍律会議も同じ、罪状明白なものは略式でよいのです」
「終ります」
バーネット検事はここで、反対尋問を一旦《いつたん》打ち切った。しかしそれは弁護側の再主尋問の様子を見て、さらに尋問するつもりであったことは、その後の経過で示される。
フェザーストン博士の再主尋問がはじまった。
問「伊藤少佐に東京への出張命令を出したのは、だれですか?」
答「O法務少将」
問「伊藤少佐係りの十一名の軍律会議の、取調べにかかったのはいつごろですか」
答「六月一日頃と思う」
問「すると彼を東京へ派遣した六月二十八日には、取調べはすんでいたのですね」
答「はい」
問「この十一名の中には、未遂が含まれていましたか」
答「いました」
問「軍律会議で時間がかかるのは事実認定でしょう」
答「そうです」
問「すると裁判手続を正式から略式にしても、形式が変っただけで、実質的には人権尊重には関係しないわけですね」
答「そうです」
フェザーストン博士も、ちょっと問題の有利なポイントを取上げただけで、再尋問を終った。検察側が再反対尋問を用意しているらしいので、それを聞いてから、戦術を立直すつもりであったろう。果してバーネット検事は「もう少し聞きたいことがあるので」と言って立上った。
伊藤ケースの記録から、伊藤少佐が東京へ行く前に、決裁を求めに来たのが、六月二十六日であったことを確認した後、
問「第一総軍の軍律を無視し、変更することについて、伊藤に総軍に報告を命じなかったのですか」
答「無視するとは考えなかった。言い方が酷すぎる。これまでに何度も言った。作戦の急迫と、激しい爆撃に直面していた私たちの身になって貰《もら》いたい」
問「この軍律は、冒したものは、軍律に照して処断するとなっている。あなたはこの軍律会議手続を省いた時、この命令に違反していると思わなかったのか」
答「それは絶対に間違いだ。何度も言ったことだから、要点だけ言う。軍律は法律ではない。それは作戦の一部であり、方面軍司令官が事態に応じて使う。終り」
問「あなたはさきほど、必ずしも必要としないが、略式にすることを第一総軍に知らせておいた方がよかったと言った。なぜ伊藤が東京へ行くというのに、報告させなかったのか」
答「なん度も言ったように、切迫した状況の下で、忘れたのである。忘れていけないという規則はない」
問「あなたは伊藤少佐の東京行きの許可を出す同日、つまり六月二十六日、大西に略式による十一名の処刑を命じている。どっちが先か」
答「前後は憶《おぼ》えていない」
問「あなたは第一総軍に報告させるのを、忘れただけだ、と言った。忘れたと気が付けば、伊藤が東京から帰るまで、略式の十一名の処刑執行を延期することはできなかったのか」
答「作戦を円滑に進めるために、一度きめたことは変更せず、実行に移さねばならぬのです。現在、冷静に考えれば、貴官のいうような意見も出るでしょう。しかしあの混乱の中にあって、われらにあれ以上の綿密な処置を求められるのは、無理かと思います」
成田中尉のメモには、このあたり、東海軍の全責任を負って、検察官の様々の角度からの追及に応じる岡田中将の心中を思って、眼頭がうるんで来た、と記されている。
しかし今日の眼から公平に考えれば、岡田司令官は略式を中央に申請すれば、「しばらく待て」とか「追って達す」とかいって握りつぶされるのが落ちだと判断したのではないか。報告しなかったのは、つべこべ言われるのは、防衛作戦遂行に忙しい中に、うるさいと感じたからではないか。これは筆者一個の素人考えにすぎないが。
バーネット検事は追及の手をゆるめない。
問「六月二十日に、東海軍司令部であった会議に、O法務部長がいたのはたしかですか」
答「会議ではない。命令伝達です」
問「いたのはたしかですか」
答「たしかです」
問「一九四六年の二月、つまりその会合から八カ月後に、あなたは東京から取調べに来た山上少将にこう答えている。問『大西案をO少将が承認するについては、何かもめ事はなかったのですか』。答『書類は焼いてしまったし、記憶はたしかではない。しかし誰か大西のほかにいたような気がする』。この返答を覚えていますか」
答「はっきり覚えています」
問「ところが今日、この法廷では大西参謀とO少将を呼んだという。しかしその日から数カ月後には、はっきりしない、と言っている」
フェザーストン弁護人が立上った。
「異議があります。その件はもうすんでいる。時間|潰《つぶ》しです。同じ山上調書の、二つ前の質問、No.10にこうある。『O少将は略式について、何か意見具申しなかったのですか』。答『なんの報告もうけなかった』。次の質問『O少将は米搭乗員を早急に処理できるよう、大西参謀と共に、軍律を研究するよう命ぜられたことを否認していますが』。答『私は二人を呼んで命じたと思う』。そしていま検察官が言った問答に続くのです。貴官は質問の意味を取違えている。問題にならない」
検察官「岡田中将は二人を呼んで命じたと言った。そこで山上少将はほんとかどうか試してみた。すると、よく覚えていない、誰かいたような気がする、と口を滑らした」
弁護人「それはきみの解釈にすぎない」
検察官「ところで彼は今証言台にいて、O少将がいたと断言している」
弁護人「あなたの尋問はなんら矛盾のないところに、むりにそいつを持ち込んだだけですよ」
検察官「証人が五分前にO少将がいた、と言った時、矛盾が生じたのですよ」
裁判長「委員席の意見としては、異議の一部を認めます。つまり一つ尋問がなされる時、この前後の脈絡と背景は、十分知らなければならない。しかしこの場合、被告は山上少将との応答を明瞭《めいりよう》に憶えていると言っている。従って弁護人の異議は却下されます。しかしながら、証人に記憶を新たにさせるために、まず前後の質問を知る機会を与えられるべきです」
検察官「数日前にした尋問をもう一度やれとおっしゃるのですか」
裁判長「彼が完全に尋問を思い出すために、それはしなくてはなりません」
四時三十分だった。この日の法廷はここで終った。
フェザーストン弁護人は、最初から検察官が山上調書を部分的に引用するのに異議を申立てていたが、実はその一部、恐らくこの日法廷で使った「二人を呼んで命じた」という部分は、最初から弁護側が証拠申請し、採用されていたのだった。
検察官の要請により二〇〇頁に及ぶその調書の全文が再翻訳され、採用されることになった。
そしてこの後、山上少将自身、検察側の切札証人として証言台に立つのである。
四月二十八日、水曜日、曇。
岡田中将の証言は、二十日午後以来、中二日の週末休廷を挿《はさ》んで、すでに七日に及んでいるのに、答弁に乱れを見せていない。
五人の裁判委員、三人の検事とも、質疑の要領がわかり、親愛感が湧いていた。休憩中、「あと予備何個師団ありや」とロンドン大使館付武官だった時、仕込んだ英語で冗談をいうぐらい余裕ができていた。若いギャリー検事は顔色を変えたが、バーネット検事に何か耳打ちされて、笑い出した。
「まだうんとあるぞ」
と言って大笑いになったという。実際、検察側の尋問は午前の半分で終ったが、それはかなり強力な予備軍であった。
バーネット検察官「一九四六年二月の山上調書の中から、三つの応答を読みます。わからなかったら、言って下さい」
そして前日の質問を繰り返したが、「誰かほかにいたような気がする」の次に「命令の性質から考えてO少将だったはず」が付け加えられていた。
問「ところで、一九四六年二月に不確かだったことが、なぜ三年後の今日、たしかだと言えるのですか」
答「山上調書がどういう性質のものであるか、すでに言った。O少将は責任を回避したがっていた。それはわかっていたが、武人として、自殺した部下のことをあからさまに言うのを好まなかった。そのため私が躊躇《ちゆうちよ》したように取られたのです。それに山上少将はO部長のメモを手掛りにして、最初からわれらを疑ってかかっていた。第二に記憶の問題──人が一つの事に精神を集中している時、同時に起ったほかのことが記憶に残らぬことがある。また極度の多忙、危険の下にある時、時々記憶を失う。何年か、何カ月かたって、却《かえ》って思い出すことがあるのです。これは記憶に関する哲学にもあることです。しかしいまこの法廷において、哲学論で貴重な時間を潰《つぶ》したくない。終り」
岡田中将の、この頃書いていた手記では、法華《ほけ》経の法理を説明するために、ベルグソンの記憶論を応用している。中将の証言は根拠のないものではなかった。
そして「大西案」とあるのは間違いで、この法廷で自分が言ったように「岡田・O案」というのが正しいと繰り返した。
バーネット検事は山上調書の大西被告に関する部分を引用し、そこでは大西参謀はO少将と共に研究を命ぜられたと言っている。ところが本年一月十二日にスガモで取った検面調書では、大西は二度も「私の[#「私の」に傍点]略式手続」と言った。それはあなたの記憶論によると、突然本当のことを思い出したことになりはしないか、と食い下った。
答「いくら私が大西をよく知っているからといって、細かいことまでも言うと間違いが起る。あの混乱した状況の中で、大西が色々なことをよく覚えていて、それがよく整理されていることに感心する。東海軍は終戦後、兵士の復員事務、厖大《ぼうだい》な軍事物資の処理、秩序の維持に力を尽した。敗戦の歴史と混乱の中にあって最も多忙だった大西が、その後少しぐらい記憶の混乱があっても、論理的に不思議はない」
なお大西参謀はほぼO少将と同時に、陸軍省軍務局付に転任になっている。東海軍になにかあったらしいといううわさがあって、中央でも一応関係者を現場からはずすという処置が取られたらしい。大西大佐は軍務局在職のまま、山上少将の取調べを受けたのである。
十時半から二十五分の休憩後、バーネット検察官の再反対尋問は続く。
問「一九四六年二月の山上調書を読みます。『この前答弁があいまいだったから、もう一度聞くのです。二十七人の搭乗員を、正式手続を経ずに処罰するのは軍律違反だと思わなかったのですか』。答『作戦要務令綱領第五項がある』」
これは前に引用したが、独立部隊に独断を許す項目である。
「凡ソ兵戦ノコトタルヤ独断ヲ要スルモノ頗ル多シ」云々。しかしこれは主に野戦軍の作戦行動に係り、こん度のように法的処置について、適用できるか、どうか。しかし岡田中将は空襲を地対空の戦闘と解し、国際法規に反する無差別爆撃を行なった者は、処罰してもよい、と考えていたことは、これまでの証言で明らかであった。
地対空の戦闘において、一方の行為者を、自分を国際法上の俘虜《ふりよ》と考えて降下しても、他方は戦争法規違反者、即《すなわ》ち「敵」と見なして殺すことは出来る──恐らくこれが、この戦意に燃ゆる方面軍司令官の真意だったのではあるまいか。ここにあるのは戦争当事国が無差別爆撃を採用して以来生じた矛盾であり、それは相互|殺戮《さつりく》によってしか解決され得ないものであった。岡田中将はそれを空軍法規を改定せよという、緩和された形で表現したにすぎないだろう。
バーネット検事の山上調書の引用は続く。
「『文明国の将官として、専門家に諮問をせずに、重罪に処したのは軽率、無責任とは思わないのですか』。あなたの答『今冷静に考えれば貴官の質問に心から賛成できる。しかし当時の状況を考慮すれば、きみの質問はむちゃくちゃだ。連日の無差別爆撃下、管下に死者二万人、負傷者三万が出ている。多くは非戦闘員だ。この事実と比べれば二十七名の処刑なんて問題にならない』。これはいまのあなたの考えですか」
答「違います」
問「山上少将への答えとどこが違うか」
答「その質問には、私の信じる仏教哲学をもって答えたい。凡《およ》そ人間の心には十界あり……」
翻訳は「人間は彼の中に十個の魂を持っている」になっていた。裁判長ラップ大佐はよほど驚いたらしく、
「何だって」と叫んだ。
このあたりは仏教用語は翻訳も成田中尉のメモも、正しく伝えていないので、「法戦の合間に」五月二日付で、八日間にわたる証言の要領をメモしたものから引用する。
「わが信奉する仏教教理には、人間の精神に上は仏界より下は地獄に至る十界あり、念々不住、変化極まりなきものである。キリスト教神学に於ても、恐らく同一の見解を有するものと信ずる。山上少将の如き人格不十分にして非難に価する人──検事が十二分に承知のはずだ──が非難すべき目的を以て、調査に任じある時、予期せざる非礼の言を吐けば、われ亦突如修羅界の精神面を以て、之に応答するは許さるべき現象に非ずや。然れども闘争を好む修羅界は、勿論|予《よ》の固定的人格に非ず。即後に於て、就中《なかんづく》現在に於て、尚且《なほかつ》当時と同一の思想を保持するものにては断じてない。当時といへども単なる売言葉と買言葉だ。況《いは》んや今の考ではない。復仇的心理の存続せざる事を、|※[#「玄+玄」、unicode7386]《ここ》に明らかに誓ふものである」
十界とは法華経|方便品《ほうべんぼん》第二に見える実相の十段階をいう。即ち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞《しようもん》、縁覚《えんがく》、菩薩《ぼさつ》、仏である。日蓮《にちれん》の教えによれば、十界中の「仏界」を除き、他の九は「迷」のうちにあるが、人は与えられたままの自然の生命、天はあらゆるものを享楽する生命、修羅は人の下、畜生の上にあって、人の欲する処を争う体、としている。
検察官は納得したか、どうかわからないが、仏教は苦手だったのだろう「二の矢はなかった」と手記にある。
いつまでも「山上調書」からの引用が続くので、岡田中将は言った。
「それは問答ではない。センテンスである。スガモで最初にギャリー氏に見せられた時、私はこれは使いものにならないと言っている。正しくない心で作ったものだからである」
問「しかし略式裁判に法務官を一人入れるべきだとは考えなかったか」
答「O少将は法務部は忙しいから、もうこれ以上事件を送ってくれるな、と言った」
問「そこで貴官と大西とで処理した、有罪無罪の決定をした」
答「私はそんなことを言った覚えはない」
問「しかしとにかく一つ一つの事案について、貴官と大西で有罪無罪をきめた」
答「きめたのは私である。大西は準備しただけです」
一時間半の昼食休廷の後、バーネット検事の尋問は続く。
問「法務官は忙しかったそうだが、参謀は米軍の上陸を控えて、一層忙しかったのではないか」
答「一応ごもっともだが、大西の下に進藤作戦主任参謀がいて、防衛は実際には彼が専門にやっていた。大西は全般を総攬《そうらん》していたのです。裁判は参謀としては余分の仕事です。しかし被害状況の調査は参謀がする。略式は参謀部へ持って来た方が手取り早かったのです」
問「法務部将校では被害報告を読むのに手間がかかるということですか」
答「事実関係は参謀の方が呑《の》み込みが早いのです」
これは略式が参謀部のイニシヤティーヴで行われたことを暗示する答えとも取れる。検察官は満足したかどうかわからないが、尋問を終った。あと少し大西被告に係わる補足尋問があった。
フェザーストン弁護人が再々主尋問のために立上った。
問「日本軍における法務部将校の役割について、簡単に説明して下さい」
答「詳しい条文は記憶しませんが、大体次の通りです。法務部長は高級指揮官の補佐官であって、法律問題の諮問に応じる。あるいは進言することもある。それからむろん部下の教育監督に任ずる」
問「法律指揮系統の上官は誰ですか」
答「O法務部長に指揮権を振い得る唯一の者は、軍司令官たる私だけです。しかし法律問題については、第一総軍の法務部長と深い関係がある。しかし直接の命令系統にはない」
問「私の質問は、仮定的なものですが、こういうことです。万一あなたが法律的に間違った処置を取った場合、彼は第一総軍の法務部長に苦情を言うでしょうか」
問「まず私に警告し、私が聴かなければ、第一総軍の法務部長に上申するでしょう」
問「第一総軍の島田中将は自殺しましたね」
答「はい」
問「すると彼が次に報告すべきは、陸軍省法務局長藤井中将ということになる。藤井中将はこの法廷で証言したことがあるが、彼はO少将や島田中将から、苦情を聞いたと言いましたか」
答「いいえ」
問「もし東海軍司令部で、道義的に変な事が起ったら、O少将は島田中将か藤井中将に報告する義務があったでしょう。もしか軍の方針に反したとしても、道義的にはしなければならないはずでしょう」
答「私はO少将のしたことは批判するが、上司はしない。お察しを乞《こ》う」
問「次は大西被告に関することですが、彼は検面調書で『私の[#「私の」に傍点]略式手続』と言ったことを検察官に指摘されています。しかし彼は各々の搭乗員について判決案を書いて、あなたに見せた。たしかですね。彼は被害状況報告と情報部の報告に基いて判決案を書いた。すると彼が自分が言い出した案ではなくても、『私の[#「私の」に傍点]略式手続』と言うのは当然ではないでしょうか」
答「まったく自然です」
ここでフェザーストン弁護人が、
「もう質問はない」
と言えば、バーネット検事も、「検察側もありません」と答える。七日間にわたった、岡田中将に対する検察、弁護両サイドからの尋問は終ったのだった。
あとは軍事裁判委員の質問がある。最初は中将の経歴に関する質問だったが、次第に重大な内容に移行する。
問「あなたが略式手続を発案したと了解してもよいのですか」
答「はい」
問「だれかに示唆されたのではありませんか」
これは中将に好意的な質問だった。フェザーストン博士が割って入った。
「もう少し明確に質問して下さい」
問「略式手続はだれかに示唆されたものですか」
答「直接に示唆した者はいない。間接的には耳に入った」
事実、略式手続は東海軍の発明ではなかった。当時、まだ沖縄の石垣島の例は、内地に伝わっていなかったとしても、お隣りの中部軍(大阪)では、さきに紹介した二名の搭乗員処刑事件(二十年五〜七月)のほかに、同年六月に軍律会議抜き処刑の指令を、憲兵司令官の賛成を得て、外事課長私信の形で、隷下部隊に達したことがあった(『史実記録・戦争裁判横浜法廷(一)B・C級』東潮社・昭和四十二年)。末端で幾件かの処刑事件が起きたが、軍司令官は、前回同様否認して、絞首刑の宣告を免れている。
およそ内地方面軍で起った搭乗員処刑事件で、自分の責任であると言ったのは、岡田資中将|唯《ただ》一人である。
なおこの時の中部軍法務部長は山上少将で、岡田ケースのあとで審理され、彼も被告としてスガモ入りしている。
問「搭乗員を処刑して、貴官は何を成し遂げようと思ったのか」
答「国際法の権威を守り、日本軍が制定した軍律の精神を遵守したのである」
向って右端の空軍マークを付けた少佐がきいた。
問「あなたは死刑執行の命令を下した時、いずれそれについて、責任を取るつもりだったか」
答「むろん責任を取るつもりでした」
問「その気があれば、なぜ被刑者の遺言や遺品を、中立国を通じて遺族に送らなかったのか」
答「理想としてはそうです。しかし、空襲下に作戦準備に狂奔する状態を、ご推察乞う」
成田中尉の記録によれば、左端の大尉も空軍の胸章を付けていた。
問「搭乗員の処刑は復讐《ふくしゆう》の意味か」
答「そんな考えは絶対にない」
問「アメリカの陸戦法規三五八条にそのことが出ています。『ある戦闘員が敵戦闘員自身もしくはその財産に対し、戦争法規に照して違法な行為に及んだ時、報復を認める。そのような違法行為の行われるのを防ぐためである』。あなたはこの条文を知っていたと思うが」
これも好意的な質問と言える。
答「知っていた」
問「もう一度聞きます。搭乗員の処刑は彼等の違法行為に対する報復であったか」
答「報復ではない。処罰である」これで裁判委員の調停的質問は無効になった。
問「六月二十三日以後の降下搭乗員に対して略式を用いたと言った。ところが、処刑された者の中には、五月または六月五日に行なった爆撃の参加者が含まれているのはなぜですか」
答「五月二十九日と六月五日の降下搭乗員は留置場に入れておいた。しかし六月中旬から始った爆撃の様相が変ったので、略式を取るつもりになったのです。正式の軍律会議にかけるつもりだったが、実施する見込みがなくなったので略式にした」
委員による質問は終りそうもないので、ラップ裁判長は翌二十九日まで休廷を宣した。裁判長自身も聞きたいことがあるのだった。
四月二十九日、木曜日、晴。
「昔であれば、今日は天長の佳節」と成田喜久基中将のメモにある。「巣鴨より横浜法廷に来る途中、焼跡のバラックに、一本の日の丸の旗、翻へるのみ」
この日、結婚式は多かった。岡田中将の長男陽と、玉川学園長小原国芳の次女純子の結婚式も、この日に行われた。岡田中将が死を決していることは、あまりにも明らかだったので、新夫婦の姿を見せてよろこばせ、安心させよう、がみなの一致した気持だったのである。新夫婦は式場から法廷にまっすぐ来て、法廷から、新婚旅行先の湯河原へ向った。翌三十日、母温子さん、女婿藤本正雄氏、新夫婦が傍聴席に姿を見せた。
この日は、成田中尉にとっても、五回目の結婚記念日だった。その日をこのようなところで迎えねばならない、感無量であった。スガモへ帰ると、房江夫人からの手紙が届いていた。
「早く早くと終末が急がれた裁判も、今では一日も長くと思わずにいられません」
とあった。成田中尉は十六名の処刑に係っているので、どんな判決が出るかわからない。裁判が長びけば、それだけ生きた夫の、後姿でも見られるのである。
ラップ裁判長の質問は少し専門的になった。
問「あなたは正式軍律会議による事実認定を、略式裁判の標準にしましたか。つまり正式軍律会議の証拠を見て、略式手続実施の結論に達したのか、ということですが」
答「伊藤少佐が最初の十一名の処刑について、東京へ持って行く書類に、私の署名を求めに来た時のことですか」
問「その時、あとの十一名の有罪のヒントを得たのですか」
答「もちろん私の心の中で、参考として用いた。しかし大西があとの二十七名の取調べの結果を持って来た時、最後の点検をした。正式は正式、略式は略式で、別です」
問「最後に質問がある。それは日本軍における準用の観念についてです。この法廷に限らず、一般に日本政府、高級官僚は準用もしくは準拠という言葉をどう解釈しているのか」
答「ある規則を状況に応じて変更することです。束縛されるのではなく、規則の目的に適うように適用することです」
問「どうもよく理解し合えないようだ。日本政府はジュネーヴ条約を批准していないが、捕虜の扱いについてはその規定に準拠[#「準拠」に傍点]すると、スイス政府を通して各国政府に通告している。そこで私の質問は、例えば捕虜の給与に関して準拠という場合と同じなのかどうか」
答「私の答えは第一総軍軍律について説明したのと同じです。方面軍のような大野戦軍の場合、司令官の判断において変更できる」
ラップ裁判長はさじを投げた形で尋問を打ち切った。
「ほかに質問はありませんか」
の声に応じて、左端の空軍大尉が再び質問する。
「世界の主なる国は、戦略爆撃を採用している。日本のほかに、マニラ、シンガポール、中国の大都市を爆撃した。なぜ降下搭乗員を捕虜として扱わなかったのか。あなたはそうしないことは、通告に反することを知っていたはずだ」
答「それらすべてを考慮した結果、日本陸軍の軍律ができたと考えられる。ただ私個人の意見としては、現行の空戦法規には大へんな欠陥があると思っている。陸亜密一二八九号、つまり死刑について上司の許可を得よ、との条項は、本土決戦になった場合、実状に合わないので、方面軍司令官の権限で適用しなかったのです」
この大尉は、公判が始まってから、ずっと眉間《みけん》にしわ[#「しわ」に傍点]を寄せて、表情がきびしかったが、次第にやわらいだ、と岡田中将は観察している。
ここでバーネット検事が発言を求めた。
問「伊藤ケースの伊藤信男の証言を引用します。問『きみが斬首による処刑を考えたのはいつか、方面軍司令官が死刑の署名をする前か後か』。答『岡田司令官の許可を得る前です。しかし司令官に会えば、この判決を決裁すると思っていました。いつも軍律会議を早くすませろと言っていましたから』。問『軍律会議の前にどう言っていたか。いま言ったような結論になると思ったか』。答『法務部へ二度も来て、早くすませろ、と言いました。私は搭乗員は有罪、死刑が相当と思っていると予想していました。O少将は死刑にしろ、と司令官から命令を受けたと言いました』。問『軍律会議の他の判士メンバーもそれを知っていたか』。この質問に対し、伊藤は答弁を訂正して『知りません』に直した。さて六月二十六日に伊藤少佐があなたの部屋に来た時、搭乗員が有罪で、死刑に処すべきだ、とのヒントを出したのは、どっちですか。伊藤があなたからヒントを得たか、あなたが伊藤からヒントを得たか」
これは岡田中将が責任をみな引っかぶってしまうので、いくらかでも軽減し得るチャンスを検察官が出したことになる。中将は「伊藤から得た」と答えることもできた。
答「伊藤が持って来た調書を見て、私が得たものをXとします。ヒントは誰から与えられたものではない。私が自分で考えて、自分にヒントを与えたのです。誰かから得たものでもない。裁判を急がせたことと、死刑宣告とは何の関係もありません」
こうして岡田中将は最後の機会を却《しりぞ》けた。みな「もう訊くことはない」と言った。ラップ裁判長が「証人は下ってよろしい」と言った後、岡田中将は発言を求め、証言台に坐《すわ》ったまま意見を述べた。
「市ケ谷のA級戦犯法廷においても、当横浜法廷における他のB・C級ケースにおいても、われわれはこれほど自分の感情を述べる機会を与えられなかった。米空軍の内地爆撃問題に就《つい》ては、被告から十分に言う機会が与えられなかった。この点において極めて寛大なる処置を執《と》ってくれたのは、此《こ》の法廷が初めてであると思う。戦争中の我々の行動に対して、今日の冷静なる法理論を以《もつ》てすれば、相当批評の余地があります。我々ですら、そう感ずる。然《しか》しながら我々は一日一日|漸《ようや》く生き延びながら、背負い切れない重荷を負うて、ベストを尽していたのです。日本中の防衛軍の中で最も任務を尽したと思って、満足している。その満足感に加えて、此の法廷において絶大の感謝の気持を加えられました。一点の曇りなき青空のごとき気持を持っている。此の気持は横浜法廷のほかの人たちの持ち得なかったものと思う。日本人同胞も此の寛大なる法廷の状況を、間もなく聞くでしょう。そして感謝の気持を持つであろう。その感謝の気持は、両民族、米国を兄とし日本を弟としての心からの結合に非常なる役割をするものであると思う。終り」
岡田中将は第四師団長として、満洲にいたことがあり、ソ連を仮想敵として、対峙《たいじ》していた。「米国を兄、日本を弟」の言葉は予言的であるが、それは昭和二十三年四月二十九日の状況にも合致していた。これまでの戦犯裁判の例では、裁判長の法廷指揮により、被爆状況による証言はしばしば妨げられたからである。しかし岡田中将が米軍の審理を賞讃《しようさん》し、感謝の念を表明したのは、多くは部下の量刑を考えてのことであろう。
これで岡田中将の証言は全部終り、十時四十分、ラップ裁判長は、午前の休憩を宣した。あとは証拠の採否など、法廷手続に時間が費された。「山上調書」の全部が正式に採用されのはこの時である。
午後、フェザーストン博士は、被告たちと打合せのため、午後三時まで休廷を申請した。
成田喜久基中尉が自分を証言台に立てない方針と聞いたのはこの時である。森里通訳は「立てば法廷に血が流れる」と表現した。証言を回避すると、そのこと自体、有罪の心証を与えて不利になるおそれがある。他者の証言その他の証拠だけによって裁かれることになるが、あまりにも生々しい処刑の事実を法廷で述べるのは有利ではないと言った。
午後三時開かれた法廷で、フェザーストン博士によって再び休廷が申請され、三時五分、明朝まで休廷が宣せられた。岡田中将の八日間にわたる尋問で、みな疲れ切っていたのである。
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法務官
四月三十日、金曜日の法廷に出たのは、略式手続による処刑執行者のうち、六月二十八日、十一名の搭乗員を、瀬戸で処刑した山田中尉三十二歳以下三名、及び第二庁舎裏の十六名処刑関係者二名だった。処刑状況についての証言であるが、成田中尉らの第二庁舎裏の処刑についてすでに書いたところと、大同小異なので省く。
いずれも事情を知らされず、ただ人に知られないようにとの注意を受けた。瀬戸は名古屋の東方二十五キロである。米搭乗員はいずれも、平然として連行された、という。暴行はなかった。
週末二日休廷の後、五月三日、月曜日開廷、サマータイムになったので開廷時間を間違えたらしく、傍聴席は空だった。午前中に瀬戸関係の証人の尋問を終った。午後、成田中尉以下、十名は証言台に立たないことを言明した。うち土山|伍長《ごちよう》だけ、証言することを望んだ。その証言に午後一杯かかった。
これで東海軍関係計二十名の被告の証言は全部終った。八田弁護人が「明日は検察側の証人が出ますよ」と、成田中尉に耳打ちした。
五月四日午後三時、検察側の証人として証言台に立ったのは、戸井田信三元陸軍省法事務部録事、五十四歳であった。これは二十年二月の山上調書の作成に関する証人であった。しかし反対尋問によって調書が事後、山上少将によって書き下されたことが明らかにされた(ついでにいえば、現在日本の検面調書もこうして作られる)。さらに、被告に読み聞かせたのは調書の全部ではなく、一部である、との証言を引き出した。岡田中将の証言「真相案で指導したのであるが」を「相当の作為を以て」と訂正されたと言った。
五月五日、水曜日、フェザーストン博士の戸井田証人に対する反対尋問に対して、証人はこんどは、全文を読み聞かせ、捺印《なついん》させた、と答えた。この証言の変更は無論休憩中に山上少将が強制したのであるが、日本の裁判の慣習を知らない委員席をよほど驚かせたと見えて、多くの質問が相つぎ、午後二時五分までかかった。
少憩の後、山上宗治法務少将が法廷に現われた。成田中尉の印象は当然よくない。名古屋へ来た時、虎のように大きく見えた顔が、小さくすぼみ、「うっふ、うっふ」と押し出すように笑うのに、嫌悪の念をかくしていない。二年の間に弁護士になっていて、平服で来た。
京大法科大正十年卒、五十四歳であった。昭和十七年四月十一日、法務官が武官になった時は、法務大佐、二十年三月一日少将になった。東海軍の人々は、彼がO少将より後で少将になったと思い込んでいたが、これは当人の証言で誤りとわかった。O少将が後輩に取調べられるのを苦にして、自殺したという線はこれで消えた。
昭和二十年七月には中部軍(大阪)の法務部長、その後に東部軍法務部長に転じた。第一復員高等裁判所が設置されると共に、その法務官の兼務を命ぜられた。「予審官」として岡田資、大西一を調べよとの命令を受けたと言った。
問「第一復員高等裁判所とは何ですか」
答「第一復員省が元の陸軍省、第一復員高等裁判所は、元の高等軍法会議のことで、第一復員省とは別のものであります」
問「当法廷記録、四三九頁で、大西一高級参謀の証言に、貴官の調査の目的は、将来米軍当局の調査に具《そな》えて、日本軍でも自主調査をしたという言い訳を作るためとあるが、これは真実か」
答「そんなことは聞いていない。嘘とも本当とも答えられない」
問「高等裁判所といっても、判決を出す権限はなかったはずではないのか」
答「だから裁判にはしないとあらかじめ断って調査した」
問「岡田中将はきみの調書は信用性がない。問答体になっているが、この法廷で記録されるものとはちがう。日本軍の法務局は責任の自己にかかるのをおそれ、その目的で調査したと言っているが、どうか」
答「答えようがない。すこぶる奇怪と言うほかはない。真実とはほど遠い」
問「貴官はそういう断定をする根拠があるのか。調査を命ぜられただけではないのか」
これは検察側の証人であり、尋問しているのは、バーネット検事である。さすがに山上少将は怒気を顔に表した。
答「この問題ははっきりさせねばならぬ。少し長くなるが、よろしいか」
問「どうぞ」
岡田中将はこの日の手記で、これは検察側の策略で、山上少将を怒らせて、真実を言わせようとしたと解している。成田中尉は、検察官席のギャリー検事が笑っていたと書いている。
答「予審官の役目は、容疑の有無を調査することで、起訴不起訴は検察官がきめます。予審官の役目は犯罪が行われたか、どうかを調査することです」
問「そしてあなたは東海軍で何を見出したのか」
答「詳しいことは知り──もとへ、憶《おぼ》えていませんが、概略を申せば、二十七名の搭乗員の処刑は当時の軍律を冒していた。しかし方面軍は激烈なる爆撃下に、近い将来に予想される上陸に備えて作戦に従事していた。もし正式軍律会議にかけるとすれば、大変複雑な手続を要する。そこで司令官は略式の手続を命じ、二十七名が処刑された。これが具体的な事実です」
山上少将の答弁が、あまりにも当りさわりのないものだったので、バーネット検事は意外だったらしい。裁判長に向って言った。
「私の次の質問は、岡田・O案と、事案全体においてO少将の果した役割についてで、かなり長い答弁になる筈《はず》です。もう時間もおそいし、明日にしたいと思います」
裁判長「いいでしょう」
フェザーストン弁護人「弁護側は公判も終りに近づいたことではあるし、申請したい重要な書証がある。翻訳に明日一杯かかるので、明後日まで休廷していただきたい。無差別爆撃報告、戦略爆撃計画概要、伊藤信男法務少佐及び北村法務中佐に係わる山上調書です」
裁判長「検察側に異存がなければいいでしょう」
バーネット検察官「検察側も山上調書の完全な翻訳を、弁護側が反対尋問に入る前にいただきたい。伊藤ケースと内山ケース(中部軍)の摘要の翻訳に時間がほしいので、休廷に異存はありません」
裁判長「結構です。法廷は明後五月七日金曜日まで休廷しますが、被告は明日この法廷に集って、翻訳に協力して下さい。なお、臨席委員カンライト少佐とラードラップ大尉は辞任されました」
この二人は恐らく成田記録にある、右端と左端の空軍将校で、臨席委員はmonitorの仮訳である。モニターは市ケ谷法廷では裁判官を助けて雑務を受持つ補佐官だったが、岡田ケースでは、こと空軍に関するので、むしろオブザーヴァーの役割も果したと見られるので、こう訳した。この時期に辞任したことは、最終的に判決をきめる合議に参加しないことを意味する。空軍将校は裁判には臨席させるが、合議に参加させず、裁判の公正を期したと解すべきだと思われる。
昭和二十年六月現在、東海軍に法務部将校は三人しかいなかった。
北村中佐は当時、恐らく留置中の朝鮮人農耕隊の事件に係わっていたか、出張中で、事件に関係がなかった。彼も事件を「終戦後聞いた」と言っているが、供述書に軍事目標だけをねらった者は俘虜《ふりよ》収容所へ送った、との証言が含まれているので証拠申請されたのである。
伊藤ケース、内山ケース(大阪)についての書証は、被爆状況に関するものであった。
事案全体は、本科と法務部の対立の様相を呈している。法務官は法律に詳しくとも、本科将校と比べて、軍務、慣習にうとく、司令部内部で軽視されていた。しかし終戦と共に、位置は逆転した。軍法、軍律違反の疑いのある者に対する厳しい態度には、感情的なものが含まれていなかったとはいえない。本科将校にきつく、同じ法務部将校に甘くなるのも人情である。
例えば容疑者の一人、大西大佐は留置して、取調べられている。山上少将の第一回調書が、証拠として法廷に提出されなかったのも、おかしなことの一つだが(焼却したとか紛失したとか主張したものか)、そこにはO少将の名は全然出ていない、との証言がある。
O少将について、山上少将の証言はあいまいである。少し先になるが、五月十日のフェザーストン弁護人の反対尋問に対し、
問「二人共、京都帝大の同窓生ですか」
答「同級ではありません。年次はよく知らない。とにかく卒業して、法務官になって、暫《しばら》くして会ったので、いつ頃だったか、はっきりしません」
問「しかし君達は、法務官になった後は、家族の者も一緒に、訪問し合ったのでしょう」
答「極《ご》く最近、私の妻がOの妻と、東京で会ったらしいが、極く最近のことです。昭和十七、八年のことです」
問「それでは、普通の社交として、O少将にはじめて会ったのは何時か」
答「はっきり答えられません」
問「なぜですか」
答「今、頭に浮ぶのは、昭和五、六年頃、熊本で会ったか、東京で五・一五事件を傍聴した時であったか……」
問「私の知りたいのは、名古屋において取調べを行なった時、O少将ときみとの間が、どの程度のものであったか、ということですよ」
答「わかりました。仲の良い友を、職権を以《もつ》て取調べるのは非常に辛《つら》いことである。よほど辞退しようと思ったが、辞退するほど強い理由もありませんので……」
記録にはあいまいなものが残っていると、後に再審査委員の批判を受けている。その一部は、これら本科と法務部の対立が原因である。
五月七日、金曜日、山上証人に対するバーネット検事の主尋問は続く。二十年一月と二月に、名古屋へ取調べに行った目的については侮辱的であっても、取調べの手続、その結果得た心証についての尋問は、実際的であった。読者のすでに知っている細々とした経過を確認した後、検察官はきいた。
問「あなたが予審調書を陸軍省の上司に提出した時、岡田中将と大西参謀について有罪無罪のあなたの意見を書き添えましたか」
答「事件が起った時、緊急事態ではあったが、法的見地に立つならば、殺人の容疑があると書きました」
これで検察側の主尋問は終った。フェザーストン博士が反対尋問に立ち上った。
問「各々の方面軍は独自の軍律を制定する権限があるのではありませんか」
答「ありますが、無条件ではないと思います」
問「方面軍の権限は統帥権に属し、司令官は天皇に謁見できるのは事実ではありませんか」
ここで検察側は「天皇」の名を出すことに異議を申立て、弁護人は質問を変えるよう命ぜられた。
問「山上さん、無差別爆撃と国際法規に関する本を読んだことがありますか」
答「ありません」
問「正式軍律会議によった伊藤ケースの場合、被害状況が調査されたことはご存知ですね」
答「はい」
問「略式手続の場合も、被告は正式手続と同じく人権を守られていたでしょう」
答「正式と略式が同じ手続を取ったとしても、取調官がその権限を持つ者でない場合は、合法的とは言えません。例えば一人の男が強盗殺人を犯したとします。彼は正式裁判にかけられ、死刑になるでしょう。どうせ死刑になる、というので、巡査がばっさりやったら、それは法に適った行為とは言えない。私なら殺人と見なします」
問「まさかその巡査と東海軍の幹部将校を同一視するのではないでしょうね」
答「例として適切でなかったかも知れないが、法理論からいえば、そうなります」
山上少将に対する反対尋問は、微に入り細を穿《うが》って、この日一日では終らず、週末を挿《はさ》んで、五月十日、月曜日まで持ち越された。
問「徳永参謀長と織田参謀が行なった調査は、貴官の調査より前に行われた、より真実に近いと思いませんか」
答「あれは妥協案だと思う」
問「O少将が降伏後に、略式に賛成したことを否定し出したら、他の将校が説得に努めるのは当然ではないか」
答「起り得ることですね」
問「O少将のメモの最初の文句を思い出して下さい。『私は事件を終戦後始めて聞いた』とあるが、伊藤ケースの証言で伊藤信男法務少佐は、七月十二日の小幡ケ原処刑を、略式裁判による瀬戸のやり方の真似をして行なったと言っている。O少将から瀬戸の話を聞いたと証言をしている。あなたはO少将のメモの最初の言明が信じられるか」
答「私はそれがまったく不可能だと思いません。従って可能であると思います」
この詭弁《きべん》めいた返答が、再審の段階になって効果を発揮するのだから、裁判というものは、おかしなものである。
問「かりに法務部長が何か不正が行われていると思ったら、軍司令官に意見具申するのが、彼の義務ではないでしょうか」
答「むろんそうです」
問「万一、聞き入れなかった場合は、第一総軍の法務部長に上申すべきでしょう」
答「えーっと、私の経験ではないが、そんなことをしても、握りつぶされるだけでしょうね」
問「第一総軍法務部長の島田中将まで報告が届かないという意味ですか」
答「ええ。最も理想的というか、または神に近い人ならば、意見具申するかもしれませんが、しかし日本陸軍における法務官の権限地位は非常に低くかつ微力であって、軍司令官、参謀長、または平《ひら》の参謀からでも、命令または要求があれば、それに従わねばならなかったのです。そういう制度はないが、そうせねばやって行けなかった。ひと言付け加えるが、岡田中将はO少将に自分の幕僚という言葉を使っているが、終戦まではそんなものではなかった。事件になったので、にわかに弁解または遁辞《とんじ》として、そんなことを言い出したのです。権威づけんための、逃げ言葉です」
問「しかし東海軍が空襲下にあり、搭乗員の処罰が問題になるのであれば、司令官にとっての最上の相談相手は法務官でしょう」
答「それはまあそうですね」
問「終戦後、あなた方は強くなって、軍司令官と高級参謀を殺人容疑と報告した。当時、これら将校を裁判にかける機関はありましたか」
答「まだなかった」
問「なかった? するとこの調査は結果を連合軍に渡すために作られたのか、イエスかノーで答えて下さい」
山上少将は検察側と弁護側から、同じ質問を出されたことになる。彼の顔はまた赤くなった。
答「詳しいことは知りませんが、当時、第一復員省長官の考えははっきりしていなかったと思う。しかし私の推測では、岡田中将がひょっとしたら裁判にかけられるのではないかと思った。連合軍に渡すか、そのうち時期を見てわれわれの手でやるか、きまっていなかったのではないでしょうか」
問「あなたがはじめて『大西案』と言い出したということだが、それは大西が米丸副官、足立参謀の前で、その内容を発表したからである。たしかですね」
答「たしかです」
問「『大西案』という言葉は、彼が案の作成に参加していることを意味しませんね」
答「個人的には、彼が立案者の一人だと思っています。だから『大西案』といっても、間違いではないと思います」
岡田中将は獄中手記「法戦の合間に」五月十二日付で、山上少将がきかれもせぬのに、日本の法務部将校の不遇、不平の歴史を申立てたことをわらっている。それは自ら自己の調査に色がついていることを告白するに等しい、と。
近い将来中部軍(大阪)の法務部長として、法廷に立たされるのに備えて、米軍におもねる態度を非難している。
一方、「山上調書がたたる、たたる」とこぼしている。どんな下心があったにせよ、予審官の意見が法廷で言われたことは大きかった。委員席の補足質問に対し、山上少将は結論的に二十七名の処刑は不法であり、岡田中将は上司の命令に違反したと思う、と答えた。
検察側三人目の法務官証人は阪埜《ばんの》淳吉中佐で、数え年四十一歳、昭和六年東京帝大法学部卒、そのまま法務部に入って、終戦時は第一総軍法務部員であった。
しかしこの証人の証言はむしろ被告側に有利で、なんで検察側が、こんな証人を出したのかよくわからぬ、と岡田中将は書いている。
第一総軍軍律はあったが、方面軍司令官が作戦の主導権を持っている以上、緊急事態において、独断専行は許されると思う、と答えた。
フェザーストン博士の反対尋問に対し、第一総軍軍律制定に際し、方面軍の意見を聞かずに、制定するのは適当ではないと思う、との東部軍参謀副長山崎少将の意見具申を引用した。
問「日本刑法三十八条に『罪を犯す意なき行為は、之を罰せず』とあります。岡田中将が、自己の権限内において行なった行為で、犯罪の意思のない場合、之を違反と言いますか」
答「意思がないならば犯罪ではない。とはいえ、意思の有無だけでは判断できない、と思います」
問「これが第一総軍軍律の干犯だ、という強い説が法務官の間にあります。しかし統帥事項に属するとする説もある。どうお考えですか」
バーネット検察官が異議を申し立てた。
検察官「この法廷にはその件に関する証拠はない。三人の法務官が証言台に上っただけである。最高の地位にある藤井法務局長はじめ、今日出廷した三人はこれは殺人だといい、山上少将も『大西案』は殺人の疑いがあると言っている」
弁護人「藤井中将、山上少将、阪埜中佐の証言を分析すると、殺人という文句に使うべき理由が見付からない、ということを立証しようとしているのですよ。説明には、それぞれに大きな相違がある。すべて最終弁論で言いますが、証人にもそう言ってほしい。とにかく証言を聞けるうちに聞いておかないと、例えば先日柴山陸軍次官がここにいたが、いまはスガモにいます」
検察官「法務官全体の一般的見解が聞きたいとおっしゃるなら、なぜこの証人のかわりに、法務官全部をここに引っぱり出して来ないのか」
弁護人「柴山将軍はいま、スガモにおられます」
裁判長「委員会の意見としては、検察官の主張は筋が通っていないように思う。しかし弁護側の質問も、もう少し高い見地からしてほしい。異議は却下します」
問「最高の統帥方針の下では、方面軍司令官は自己の方針において、軍律を制定できるかどうかにつき、法務官の間に意見の相違がありますか」
答「私個人としては、その事実は知りません。方面軍司令官が、作るという例はなかった。従って法務官の間に議論が起ることもなかった。しかし敵上陸が非常なる緊急状態であることはたしかです」
この証人は法務官が最も公平な証言をなし得る立場にあることを証明したようなものであった。
この後、検察、弁護双方より、またしても爆撃状況に関する証拠と、島田朋三郎中将の遺書の提出があって、この日の公判は終った。
弁護側の最終弁論、検察側の最終論告の準備のため、五月十三日木曜日午後まで休廷となった。
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判決まで
フェザーストン主任弁護人の最終弁論が行われる予定の五月十三日まで、まる一日、ひまになった。岡田中将は三月八日以来、二カ月にわたる裁判の経過を顧みて記した。
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予《よ》の証人台八日間、日本陸軍中将として最後の光芒を放ち得た事を神仏に感謝する。
法戦は存分に戦うて聊も遺憾もない。気分は徹頭徹尾乱れた事がない、透徹に終始し得た。答に窮した事なんて微塵もない。口を衝いて出る皮肉に始末に困る位だ。
巣鴨の人々は、皆或る満たされざる心の持主だ。未決の人達は我等の奮闘を伝へ聞いて、多大の感激に沸いたのは無理もない。左記はA級容疑石原広一郎氏の託送してくれた所懐である。
『法廷に於ける貴一統の上下一致の敢闘振り、特に貴台の捨身は無限の威力となり、遂に満廷を呑み、正義人道の勝利の模様、田村君(筆者註=元東海軍航空参謀)より承知す。実に良くやつてくれた。必ずや日本再建の上に世界人類の為に何かの姿として現はるべし。兎に角、横浜法廷を通じ、日本人の真の姿、真の面目は貴台により発揮せらる。今日、痛快に堪へず』
予は只予の欲するがままを、断行せしのみ、当然の義務をつくせしのみ、讃辞は当らんと思ふが、淋しき友の歓呼を微笑もて受けたい。
[#ここで字下げ終わり]
岡田中将の心残りとしたのは、事後、第一総軍に報告しなかったことだけであった。
五月十三日午後三時三十五分から、翌十四日午前十時三十分まで、三時間近く行われたフェザーストン主任弁護人の最終弁論のすべてを紹介する必要はないだろう。その趣旨はすでに多くの証人の主尋問、反対尋問に現れている。ただ最終弁論で、法律的に新しく指摘された点を列記すれば──
一、岡田資被告に対する起訴状に記された五項目の訴因には、裁判にかけずに、不法に米軍飛行士を死刑にしたと明瞭《めいりよう》に書かれていない。
二、被害者の死体、いわゆる「罪体」が存在しない。従って殺人とはいえない。
三、織田勇蔵証人によって提出された物証、すなわち認識票、指輪などが被害者の身に付けていたものであることが証明されていない。
四、O少将の遺体より取出されたるメモが、果して山上少将のいうごとく、第一回取調べに当ってメモとして使われたかどうか、立証されていない、などであった。
略式裁判で処刑された米飛行士はお気の毒であるが、米軍の投下した爆弾で死んだ二十万の日本の非戦闘員も大変お気の毒なのではないだろうか。一飛行士の証言に依れば、名古屋のどことも特定せずに、焼夷《しようい》弾攻撃を命じられている。盲爆というべきである。ところが昭和二十年には市内に家内工業なるものは存在しなかった。
軍律会議で死刑を制定した第一総軍法務部長島田中将は自殺している。O少将の自殺はその例に倣ったと考えられる。
柴山陸軍次官は軍司令官は軍律を自由に裁量できる、と言っている。
O少将のメモの内容は信用性を欠く。山上少将のO少将に関する証言もあいまいである。
フェザーストン主任弁護人の弁論はこのほか、大西高級参謀、米丸高級副官、足立参謀、保田参謀、その他二十名の被告の公訴事実に及んでいるが、多くは岡田中将についての弁論と重複するので省く。
バーネット検察官の論告は、弁護側の最終弁論に比べればごく短いもので、十三日午前十一時から、四十分足らずで終った。
六月二十日、岡田中将が二人を呼んだ時、「大西のほかに、だれかいたような気がする」という言葉の重要性が強調された。法務部全体が無視されていたことが指摘された。O少将が略式に賛成なら、七月十一〜二日の軍律会議、処刑もそれに従ってやったはずである。
第一総軍軍律について、東部軍の山崎少将は中央へ抗議した。岡田中将は抗議しなかった。
無差別爆弾について、多くの言葉が費された。搭乗員の各々がアメリカ空軍全部の責任を取らなければならないのか。原子爆弾は、日本上陸作戦が行われた場合、日米双方に出たはずの、さらに上廻《うわまわ》る数の人員殺傷も救ったのではないのか。
搭乗員が瀬戸へ連行される時一人が、「われわれは命令に従って行為を行なっただけだ」と言った。護衛将校は「馬鹿野郎」と言った。米空軍の無差別爆撃に対する抗議について、われわれは同じ「馬鹿野郎」という言葉で答えよう。
弁護側は「罪体」がないというが、多くの被告たちが被害者の存在を証言している。日本の法務官が一致していないというけれど、この法廷に現れた法務官は、みなここには殺人、またはその容疑があると言っている。
岡田中将は山上調書は、信用性がない、みな敗戦で取り乱していた、と言っている。ところが証言台に立った岡田中将は、一度も取り乱したことはない。彼は自分の言いたいことを言い、一度言ったことを訂正したり、変えたりしない。彼は自分の言うことにかなり自信があり、敗戦の翌日であろうと、六カ月後であろうと、言いたいことは言う人のように見える。
これはむしろほめ言葉である。事実岡田中将の証言台での態度は、バーネット検事に感銘を与え、後に減刑嘆願書に署名している。しかしこの場合は、この評価が、山上調書の信用性を高める言葉として使われているのである。
バーネット検事は藤井法務局長の裁判抜きの処刑は殺人である、という証言を引用して、その論告は終った。
ラップ裁判長は弁護側に何か言いたいことはないかとたしかめた後、厖大《ぼうだい》な書類を検討しなければならないから、判決までかなり日がかかる。しかし大体四日後の五月十八日十五時、つまり午後三時には言渡すことができるだろうと言った。
軍事裁判委員会は、今日の午後一時十五分以後と、月曜と火曜一杯、合議するであろうと付け加えた。
こうして長かった東海軍の公判は、昭和二十三年五月十四日正午をもって結審となった。三月八日開始以来六十八日目であった。
バーネット検事の論告は、確実に弱点を突いていたが、「東海軍は罪するに忍びないが、仕方がない」との感想を漏らしたという。
一方ある検事は笑いながら、「東海軍はあまり話の辻褄《つじつま》が合いすぎていた。普通はもっとくい違うものですよ。だからあやしいと思った」と通訳に言った、という。
五月十八日午後三時、関係者は出廷した。傍聴席は各被告達の家族で埋り、廊下まで溢《あふ》れている。裁判長ラップ大佐以下三名の裁判委員が正面段上に現れたが、起立したままである。裁判長は判決言渡しは翌十九日水曜日午前十時まで延期すると告げた。これはまだ結着しない問題の所在を示していた。
十九日水曜日午前十時、傍聴席は前日と同じく超満員。委員の顔には苦悩の色が見えた、と成田喜久基中尉は観察している。
「ストラッカー航空兵弁護人補佐が私に接近して、それとわかるゼスチャを見せた。私はとたんに全身に猛烈と闘志の沸《たぎ》るのを覚えた」(『毒箭』)
岡田資は「修羅」の心で判決を受けたのであった。
法廷の中央には、検察官、弁護人が並んで、正面の軍事裁判委員席に向って立っている。被告は一名ずつ、フェザーストン主任弁護人と日本人弁護団代表沢部弁護人に挟まれて立つ。
岡田資。
軍事裁判委員は、秘密合議と無記名投票による三分の二の多数決により、被告人に対する各訴因について、次の決定に達した。
訴因、有罪(戦争法規及慣習の冒犯)
細目一、有罪(六月二十日の略式手続命令)
細目二、有罪(六月二十八日の略式手続による十一名処刑)
細目三、有罪(七月十四日頃の十六名の略式手続による処刑)
細目四、有罪(伊藤ケース、不当なる軍律会議による十一名の有罪判決)
細目五、有罪(伊藤ケース、不当なる判決による処刑)
判決。
再び秘密合議による三分の二の無記名投票により、
絞首刑。
岡田中将は軽くうなずき、三人の委員を見上げた。
「終始委員の顔を凝視するともなく眺めてゐたが、宣告の瞬間に心なしか委員等の瞳が動くのを見た。傍聴席から軽いざわめきの起るのを聞いた。前に腰掛けた二世通訳君の緊張、速記嬢の身震ひが大きい。通訳が翻訳を始めるまで、手先に一寸注意を集めて見る。別に震へてゐない。
手錠を掛けられて退場した。お世話になつた検事や弁護士には、左右に寄り添ふMPのために、遂に挨拶の黙礼も出来なかつたが、傍聴席にゐた妻には出る間際に相当接近し得たので、一言『本望である』といつた。それは私には実感であつても、彼女を勇気づけるものではなからう」(『毒箭』)
法廷を去る中将の後姿を、裁判委員はじっと見送っていたが、向って左側の少佐委員は、今にも泣き出しそうな表情で「お気の毒に」との気持がありありと見受けられた、と成田喜久基中尉は観察している。これが軽い判決の少数意見を書いた委員であろう。
「私の身体からは眼鏡、鉛筆等を取り上げられて、準備された別室に禁錮された」と岡田中将は続けて書く。
「物もないコンクリートの部屋だ。高窓が唯一つ中庭に向かつて開いてゐる。それから見える視界の三分の一は大煙突で邪魔されてゐるが、和やかな初夏の青空を、心ゆくまで眺めるには十分なものであつた。
真綿をちぎつたやうな白雲が右から左へ、一片また一片、悠々と浮かび流れて行く。
このやうな落付いた気持は敗戦後はじめてである。(略)大きな人生の転換である。静かに合掌して長い軍職の最後の幕を、恥も少なく引くことを得させて戴いたのを感謝した。無論わが主観のみといつた心境である。
私の気持はすつかりあの白雲に没入した。そして何となく微吟でもして見度くなつた。
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葡萄美酒夜光杯 葡萄の美酒、夜光の杯
欲飲琵琶馬上催 飲まんと欲すれば琵琶馬上に催《うなが》す
酔臥沙場君莫笑 酔うて沙場に臥す、君笑ふこと莫《な》かれ
古来征戦幾人回 古来征戦幾人か回る
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厚い壁への反響はわが声を美化した。低唱すること、二度また三度、白雲は微笑んでくれる。真にこれ一如の境地」(『毒箭』)
詩は王翰《おうかん》の作で、涼州より西域へ出陣する時の作、日本軍人に愛唱された唐詩である。
以下十九名の判決は次の通り。
大西一、重労働終身刑、高級参謀、大佐、四十五歳。
米丸正熊、同二十五年、高級副官、大佐、五十二歳。
足立誠一、同十七年、情報参謀、中佐、四十一歳。
保田直文、同十五年、兵站《へいたん》参謀、少佐、三十一歳。
山田仂男、同二十年、副官部付、中尉、三十二歳。
成田喜久基、同三十年、衛兵長、中尉、三十一歳。
菅井少尉以下十三名の処刑執行の下級将校、下士官、兵が、それぞれ十年の重労働に処せられた。
ただし翌二十四年三月二十四日、山田中尉は十年に減刑、菅井少尉等は全員「執行停止」または「残刑免除」になって釈放された。
他もそれぞれに減刑、昭和三十三年五月三十一日の大西一氏を最後に、すべて釈放になった。伊藤ケースの伊藤信男氏もそれまでに釈放になっていた。
B・C級戦犯で、減刑にならなかった者はいない。なぜ岡田中将だけが判決通り執行されたか、新しい問題だが、とにかくこれから昭和二十四年九月十七日まで一年四カ月、スガモ・プリズンでの、新しい生活がはじまった。
スガモ・プリズンに帰った被告一同は左側の裏門から入った。二十歩ばかり行って左右に分れる。岡田中将だけ死刑囚の第五棟に、大西大佐は終身刑の第六棟に、他は四棟、二棟の雑居房に分れる。束《つか》の間《ま》だが、心のこもった挨拶《あいさつ》が交された。これまでと違って、死刑囚とは面会はむろん、通信も許されなくなる。
身体検査、更衣、五棟Bフロア(二階)四十八号室に、囚人担当のコーカー中尉に導かれて、独居することになった。
折柄、廊下の突当りで、備付図書の借用取扱い中であったが、コーカー中尉が大声で、飛入りを申込んでくれた。図書物色中、傍のI君に、伊藤法務少佐に伝言を頼んだ。
「君の責任は軽減した。米弁護士の見込では必ず減刑されるそうだ。安心せよ」
伊藤ケースに関する訴因細目、(四)(五)について、上級検察官たる岡田中将が有罪になったのだから、それまで伊藤少佐一人でかぶっていた罪状は軽くなるはずである。事実、同年十月二十八日に終身刑に減刑されている。ただし犠牲者の数が多いせいかそれ以下には減刑されない。正式軍律会議によっても、虚偽の証拠によって起訴し、死刑判決に寄与したとされるのである。
次の日の朝まで、岡田中将の房の入口の網扉に何度も米下士官が訪れて声をかけて去る。自決の心配をしているのかも知れないが、それは無用だ、と中将は思った。これで中将のすることが終ったわけではないからである。
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新 生
かねて所内のうわさでは、死刑囚のみを集めた第五棟に掃除に行くと、看守は沈黙、部屋部屋はしーんとして、聞えるのは読経念仏の声だけだ、身が締る思いがする、ということであった。
「然るにいま見ると聞くとは大違ひだ。朝夕真剣な読経念仏は聞える。讃美歌も流れてゐる。けれども一方では艶つぽい美声も漂つてゐるではないか。石垣島事件で二十台の青年を主とする四十一名が、同時に送り込まれて以来の変化らしい」(『毒箭』)
入棟二日目の二十日、将校室へ来いということである。護衛はコーカー中尉一人、手錠はかけない。棟長のヴィンセント中尉が待っていて、タバコをすすめられた。
通訳なしの懇談であった。中尉はロンドン大使館付武官時代に仕込んだ英語で応対した。コーカー中尉の親切な扱いに、B階一同感謝していると述べ、次いで当棟における「桁外《けたはず》れの猥歌《わいか》」を禁止してほしい、と申し込んだ。
猥歌とは主として、広島、宇品《うじな》の兵隊積出港の娼婦《しようふ》を主題としたものや、数え歌の替え歌があり、夕食後、消燈までの間に歌われるのである。
筆者のいたレイテ島の俘虜収容所の経験では、戦争中は友軍がどこかで戦っているのだから、遠慮気味に微吟された。ところが八月十五日以後は、誰はばからぬ大合唱となった。
まして明日知れぬ命の死刑囚が、昼間は読経念仏に過したにしても、夜は猥歌に発散するのも、これまた人間の本性なのである。
ヴィンセント中尉は言った。
「歌はよいものだ。『シナの夜』など私は好きだ。しかしその変てこな日本語ラブソングは指摘してほしい」
その後、夜、中将が読書していると、突然ドアの外から、
「いまの歌、あれはどうだ?」
と声をかけられて、苦笑せざるを得なかった、という。そのほか、一階で米軍の看守同士が、大声で喋《しやべ》り合う声が、消燈後も聞える。これは止めろというわけに行かない。中将は第三棟では三階にいたので、一階の声は届かなかったらしい。第五棟へ入ってから、寝苦しくなった。
二十日ヴィンセント中尉に呼ばれた時、東海軍の共同被告十九名が早くも提出した減刑|歎願《たんがん》書を見せられた。これはやがて、全棟員、その家族、東海軍関係者、中央の将官、佐伯、八田弁護人、検察官、裁判委員、秩父宮に及び、数千通に達する。しかしこれについては後に詳しく書く機会がある。
これから中将の毎日は、読経修行となった、といってもよい。遺著『毒箭』の大部分は、法華《ほけ》経の釈義に費されている。死刑を目の前に控えて、自分の心は仏陀《ぶつだ》の教えの前に揺らぐかどうか、どういう反応を示すか、その実験の結果を書き止める、そこに書く意義を認めて、書き進めた。
清書稿とメモが混り合っているが、清書稿が二分の一に達した時、不意に処刑命令が来て未完のまま残さねばならぬのが残念だ、との意味の句が遺書に見える。
多くの若い人たちが、教えを聞きに来た。中将はいっしょに坐禅《ざぜん》を組んで、読経し、訓話をしたが、次第に著書の清書が急がれるようになった。相手をしてやりたいが、今、おれは忙しいのだがな、と呟《つぶや》いた。しかし結局時間をさいて、一日一人ときめて、青年と対坐した。
この作品のはじめに記したように筆者が岡田資中将の事蹟《じせき》に惹《ひ》かれたことの第一は、横浜法廷における「法戦」を、本土決戦の延長と考え、裁かれるとの受身の意識を持たずに、戦おうとしたことである。第二はその日蓮宗信仰であった。
二十一歳、士官学校生の頃、通りすがりの辻《つじ》説教に興味を持ったのが、きっかけであったことなど、すでに記した。この頃、軍人には、強く国家意識を持った日蓮宗に共鳴する者が多かった。しかし岡田中将には、狂信的熱狂はみられない。むしろ哲学的|瞑想《めいそう》的なものである。死生観において、軍人勅諭五カ条であき足らず、法華経に支えを求めたことに、関心を持ったのであった。
その信仰は、スガモ・プリズンに入所以来、深まったようである。遺著『毒箭』は五三一頁あるが、三篇に分れている。第一篇、随筆的なもの、一八八頁は、入所以来の折に触れての感想を記したもの。そこにも信仰に関するものが多いが、第二篇、教義的なもの、一八九〜四三〇頁、二四二頁の内容は「法華経奉読の手引」以下、八章に分れている。これが中将が二分の一で、完成できず残念だ、と言っていた理論篇である。第三篇「法戦」はすでに引用した「法戦の合間に」に、判決後の所感を加えた四二頁である。最後に「仏語」辞解三〇頁に略歴、刊行者の言葉等を添えた。東京都世田谷区|弦巻《つるまき》町「岡田資遺稿刊行会」刊、昭和二十九年(一九五四)五月、非売品である。
昭和三十二年(一九五七)九月再版、発行者は同じであるが、申込所は東京都品川区平塚町の女婿藤本正雄氏宅になっている。内容は初版と同じであるが、賛助会員の名前を列記した最後の二頁と白頁計三頁に代えて、刊行会常任理事、駒野教爾氏の「跋《ばつ》」が、付いている。
「死生ハ氏ノ已《スデ》に達観セル所、何ゾコレヲ憂ヘンヤ。当ニ此ニ仏子ノ菩薩道ヲ行ズル最勝ナル道場ナリトシ、失心セル同囚ヲ己《オノ》ガ独房ニ招キテ、淳々トシテ法華経ヲ説キ、悉《コトゴト》ク安住不動ノ境ニ至ラシム。而《シカ》ウシテ狂乱ノ場所ハ俄カニ浄界ト化シ、怨嗟ノ声ハ唱題ノ声ト転ジヌ。而ノミナラズ、氏ノ最大関心事ハ祖国再建ヲ担フベキ青年層ノ上ニアリ、法華経コソソノ指導原理タルベシト」
遺稿集は藤本氏が別に所感抄、書簡、遺言などを加えて編んだ『巣鴨の十三階段』(亜東書房、昭和二十七年〔一九五二〕八月)の方が早く、また周知されているが、宗教面においては『毒箭』が詳しい。再版は「法華経と現代」と副題され、巻頭に日蓮上人直筆の「十界大|曼陀羅《まんだら》」(妙本寺蔵)を掲げている。そして最後の頁には本書初版を温子夫人が秩父宮邸に献呈に参上したところ、妃殿下の御引見を賜って、天皇及皇太子内侍まで奉献の手続を取られたことを伝える。
明治の文人、高山|樗牛《ちよぎゆう》、昭和の詩人宮沢賢治の書き遺したものによって、法華経の功徳は、周知されているが、私はその一端を窺《うかが》うのみで、その教義全体については至って昏《くら》い。岡田中将の遺稿によって、勉強しようとしたが、多く慣用句で成立っていて、やはり難解である。生半可な註解は冒涜《ぼうとく》になると信じ、岡田中将の書いたことでなく、そのしたことを報告するに止めたい。
独房といっても、自殺者、発狂者を出してから二人ずつになった。中将は第五棟に入った夜は、一人だったらしいが、やがて誰かと同居になったはずである。八月十日頃からはC級死刑囚|都子野《としの》順三郎大尉と同居した。大尉は昭和十九年十二月五日、マニラ発、翌二十年一月十三日門司着の、ルソン島に収容中の米軍捕虜約六二〇名を運んだ鴨緑丸の護送隊長だった。途中で米機の襲撃を受け、門司に着いた時は米捕虜の人員は五八〇名に減っていた。「輸送中、充分な食糧、飲料水などを給養せず、かつ衛生施設不良にして、医療手当などを施さず、あるいは空襲に際して防空措置怠たり」などの項目があるが、都子野大尉が絞首刑を宣せられたのは、ルソン島沿岸で米軍一三〇機の空襲を受けた直後の十二月二十二日、同島南サンフェルナンドに上陸し、見込のない重傷者一五名を殺害したためである。
ルソン島収容所からの命令によったのであるが、むろんそれは考慮されない。執行は八月二十一日で、その前に十一日ほど同居したことになる。
都子野大尉は愛媛県松山沖の忽那《こつな》島の五十鈴《いすず》神社の宮司の三男で、松山高等女学校の体操の教師を勤めるうちに応召された。そしてたまたま不運な捕虜殺害とめぐり合せになったのだが、熱心な神道の信者であった。
岡田中将が書いた回想が、昭和二十八年四月、巣鴨拘置所内で発行された『十三号鉄扉』に掲載されている。既述のようにこれは遺族に返送された遺稿の中になかった。恐らく原稿の写しはなく、編集部に渡っていたので、遺族の許へは届かず、『十三号鉄扉』が発行された時には、遺族の所在がわからなくなっていたのであろう。『巣鴨プリズン13号鉄扉』の著者上坂冬子氏が発見された資料で、左に抜粋する。
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暑い木曜日の午後であった。房の網扉にふと二、三人の人影がさした。一人が鋭く叫ぶ。
「としの、レッツゴー(出て来い)」
其の時都子野君は、今日は眠いくせに横になっても眠られぬ、とつぶやきながら、やけに紫煙を吹き続けて居た。反射的に都子野君を後に庇って突立った私。
「持物を持ってか、素手か」
「持物を持って」
嗚呼、遂に来るべきものが来たのだ。「よし」と言い乍ら私は、彼の毛布一枚を拡げて其の夜具類を包みに掛る。彼は素早く一枚の白紙を延べて在京親戚の名前を記し、処刑後の連絡を托したのだが、頼母しや、其の鉛筆は正確に走って居る。ジリジリして居る看守を前に、彼は西南面して立った。故郷愛媛県の方向を想定したのである。そして短い乍ら「のりと」の一節をあげた。入口を背にして坐した彼と堅い堅い握手の一と時。
「何事が起っても泰然とね」
私の左手は思わず、彼の右手に添えられた。彼の掌には震えも無く、冷さも感じられない。嬉しい事であった。吾人の生活には、手荷物と云うても毛布包一個に過ぎぬ。蝸牛の様なものである。(略)
彼と同室は一一日余であった。彼の志望により同居したのである。起床後私が蒲団を畳み上げて机とし、そこで読経を始めると、彼も同時に洗面所の蓋を机に便所の上板を腰掛とした席で、「のりと」を読む。二人共随分大声を張上げるが、曽て八ケ間敷いとか邪魔だとか感じた事は無い。
或る日の事である。彼は恒例の「のりと」を俄然廃めて坐って了った。その次の日もそうだ。そして其の次の日には最初から「のりと」抜きに静坐だ。
「君、どうしたのかい」
「実はね、この二日ばかりノリトを読んで大海原に≠フ文句に来ると、こはいかに、自分は何時しか牢獄を脱出して居る。茅ケ崎あたりの東海道線と思われる下り列車が、鉄橋を走るのを右手に見乍ら、其の下流をば、なんと楽々渡り行く我が身、蛇身に化して居る我が身に気付いたではないか。ハッと思えば大海原≠フ一節を一心に繰返して居る。ノリトは一向に進んで居ない。腋下から冷汗が流れる。これはいけないと思い、ノリトを止めて坐禅に返ったのである」
私は「どこ迄行くつもりで……」と咽喉迄出た質問を呑込んだ。此処の誰にもある如く、裁判内容に割切れぬものを持ち就中K船長の証言には甚だしく裏切られたものを感じて居る事実がある。今、由無き事を問い詰める結果、罪作りになり兼ねない事を恐れたからである。(略)
都子野君は話好きな青年であった。床に入ってからの昔話続行には些か閉口したが、或る夜「お邪魔ではありませんか」と言われて見れば「いいえ、聞いて居ます」と答えたが、実は睡魔撃退に大童であった。比島バターンの攻撃や、台湾に転ずる途中の爆撃下で、度々命拾いした様だ。事件の真相を聞き、日に日に人柄を知るにつれて、彼の無事を心に祈り乍ら、いつとは無く無事なるべき所以を彼に説く我が身であったが……。
都子野青年と同居して以来、一度も私から法華経や参考仏典を見る様彼に強いた事はない。又進んで仏教教理を説こうともしなかった。職掌柄神道に安住して居ると思ったからである。けれども、何時ともなく彼は仏典、就中法華経寿量品講義を愛読し始めた。次いで訪問を許される時間毎に、同行の青年を私の室に集めて(と云っても畳二枚の室では四人以上集合は許されない)仏教研究をやるとき、何時しか彼も其の一人に加わり、やがては、時に他の同行者の室に出向いて私の手伝をして呉れる迄深く入って来たのである。こうなると朝の御勤めは「のりと」で、夕には法華経を読誦し、合掌唱題する様になり、食後漫談の折など、「神道も大乗仏教の哲学を取入れなければ駄目です。仏教の深味を是程とは思わなかった」と述懐して居る。処刑の次の朝、此の棟の係将校コーカー中尉は其の長身を扉の外に見せた。
「都子野が刑場最後の言葉として、君に宜しく、と言った。又Eも同様な意味を伝言して呉れとの事であった。今日の処刑者十名共与に日本人らしい、よい覚悟の人許りであった。感心した」
と言って、中尉は呼吸を呑んだ。
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昭和二十七年八月刊の『巣鴨の十三階段』にもほぼ同文があるから転載の疑いもある。
西部軍(福岡)に冬至堅太郎という主計中尉がいた。お母さんが爆撃の犠牲になったのを怒って、その夜決定した米搭乗員処刑に志願して加わった。絞首刑判決を受け、第五棟十九号室に収監された。当時、岡田中将は十一号室に、西部軍の死刑囚楢崎正彦氏と同室していた。
冬至氏の家は文房具商で、筆紙と親しみがあった。昭和二十六年(一九五一)五月、スガモ・プリズン内「巣鴨新聞社」より、謄写版刷り一一六頁の岡田中将追想文集「久遠」を出した。中将に関する最も早い文献である。東海軍の元高級参謀大西一大佐、成田喜久基中尉など、二十六名の人々が、それぞれの「本化菩薩岡田資師」の思い出を綴《つづ》った。
西部軍は東海軍に約半年おくれて、十二月二十九日、「私は何も知らなかった。みな部下の責任だ」と叫び続ける司令官以下、九名の死刑囚を出した。冬至氏は巣鴨へ帰る途中、やがて岡田中将と同室になる予定の楢崎ほか一人と、第五棟へ入ったら、岡田資師を訪ねようと話し合った。
「斯うして死刑囚第一日の夜、私たち三人は、二畳の房に岡田閣下と対坐した。閣下は色白の面長で、濃い眉、鋭い目、ぐつと緊つた口元、堂々たる体躯で正座してをられる姿は、司令官当時の威容を偲ぶに余りがあつた。髪はすでに半白であつたが、表情は青年の様に溌溂としてゐて、威厳の中に限りない温情が感じられて、身の内から温まる思ひであつた。
『よう来なさつた──と云ふ訳にも行かんな』
閣下の第一言に私たちは笑つた。閣下も笑はれた。
『君たちが死刑になるとは、全く不当な判決だ。再審で必ず減刑になるから、希望を以て、此処の生活に精進しなさいよ』(この辺の問答は、生前の中将の日常の口調をよく伝えている、と当時の中日新聞経済部加藤記者はいう)
さう云つて慰めて下さるお心は有難かつた。然し私は減刑をたのむ心では、迚《とて》も自分を解決出来さうもなかつた。他の二人は単に命令によつて行動したのであるから、当然減刑になるに違ひない。然し私は米軍飛行士の処刑現場で志願し、四人を斬首したのであるから、助かる見込はない。(略)私は兎に角死の座に置かれたこの現実を全的に肯定して死との対坐に於て、『我』は何か、の謎を解かねば……と思つたのだ。その意を申上げると、『それでゆけるなら幸ひだ、それが本道だ、しつかりやりなさい』と賛して下さつた。(略)
当時、死刑囚は新しく入つた九名を入れて八十八名であつた。その中で三十名くらいが、弟子として、直接閣下の説法をきいてゐたので、まづ十日に一度位しか順番が廻つて来ないのであつた。ところが閣下は新入生の私たちを、特別に一週間連続に教へて頂くことになつた」
スガモ・プリズンには教誨師に有名な花山信勝師がいて、『平和の発見』という本を書いている。師は岡田師と意見が合わず、ことごとに対立したのはよく知られている。罪を認め、ただ仏の慈悲にすがって、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》を唱えてあの世へ行けばよい、との花山師の教えでは、死刑囚の荒ぶる心はなかなかおさまらないのであった。
岡田師は各棟の非公式教誨師の役目を果していた。囚人係将校コーカー中尉の取りなしで、同囚のための仏教解説として、謄写刷りの『妙法蓮華《みようほうれんげ》経要義』を配った。「如来|寿量品《じゆりようぼん》」は全文を収めたという。仏陀の永遠に信者に共に在ることを説いたもので、法華経の骨幹である。岡田中将の信仰が、オーソドックスなものであったことがわかる。
一方、中将は入獄しても、「法戦」を止めなかった。軍律会議は統帥権に属する特殊事項である。従って私の部下には罪はない。大西一大佐以下、罪を軽減してほしい、と所長を通じて、請願しつづけた。待遇改善については申すまでもない。例えば大便中|膝《ひざ》へ毛布を掛けることの禁止の是非につき、所長に抗議して許可をかち取った。
スガモ・プリズンはこんな不撓《ふとう》不屈の囚人を見たことはなかった。二十四年三月の菅井少尉以下十三名の釈放は、中将の請願の効果とのうわさがあった。しかし無論それだけではない。
「再審」と普通呼ばれているが、公判を開くのではないから、厳密にいえば「再審」ではなく、法務官による書類審査である。岡田ケースが、被告二十人という大きな事案であり、また皇族による歎願《たんがん》(誠実な性格で、正直にものを言う、との人格証言であった)その他多数の減刑歎願が相次いだためでもあるまい。一応あらゆるケースについて、チェックしたらしい。
審査の結果は、こんど公開された裁判記録にある。まず第八軍で、二人の法務官(judge advocate)が審査し、二十四年一月二十九日付で答申した。
九二葉裏表合計一八四頁の答申書の細目を記すスペースはないが、秩父宮の歎願書は重視されていることを記しておこう。意見は二つに割れた。一人は証拠不十分として、O少将の、出所不明、目的不明、日付のないメモを証拠として採用に同意したのを、弁護側のミスとしている。
訴因 (戦争法規及慣習の冒犯)有罪
細目T・U・V (六月二十日の略式裁判命令、同月二十八日、七月十四日頃の処刑)部分的に有罪
細目W(伊藤ケース判決)無罪
細目X(同処刑)部分的有罪
終身刑に減刑を相当とした。しかし他の一人はいう、無差別爆撃は極東空軍の決定である(一九四七年キング元帥の海軍作戦の報告が公表されたところであった)。岡田は証拠の山の前に、率直のふりをするよりほかに手はなかっただけである、彼が「大西案」という言葉を口にしないのは、それが「大西案」だったからである(ひどい論理である。中将は大西参謀だけの案でないのに、そう呼ばれているので、その言葉を使うのを避けたのは、記録によって明らかである。人があることを口にしないのは、それにかかわりがあるからだという論理を使われては、われわれは実に多くのことについて、有罪である)、O少将のメモは真実を伝えていると見なされる、北村法務中佐の供述書にも「終戦後まで事件を知らなかった」とある、それは山上証言にある通り、不可能だとはいえないから、可能である(これも乱暴な論理)、皇族の歎願書は封建的なものの復活を意味する(この法務官は古いアメリカの通念に支配されていたらしい)、彼は判決通り処刑さるべきである。
第八軍司令官の決裁は書類の中にないが、三月二十六日の減刑は、この時の審査の結果と思われる。
GHQでは三人の審査部法務官が審査した。七月八日付の六八頁の答申書も、多くの点で証拠不十分としたが、第八軍の意見が割れていることとの調整を図ったものか、極刑を相当とした。ただし絞首刑でなく、銃殺に替うべしというのである。もう一人の法務官、恐らく審査部長の大佐は、八月三十日この意見を支持した。
この書類には同文のものが二つあり、一方には一頁のマッカーサー元帥の処刑命令書がついている。ただし日付はないから、文案として添えたものであろう。審査部としてよほど自信があったのである。
第八軍答申書には署名があるが、これには署名がない。もっとも処刑命令の文案のついている方は、六八頁中四五頁しかなく、そのあとの部分に変更があって除却されたと見なされる(米公文書館発表は完全ではなく、所々こういう穴がある。爆撃戦略の記述などにも)。そこには幾分の軍内部事情への言及があって、削除されたと見ることができる。
軍人にとって銃殺は軍人としての処刑であるから、戦死と同じく名誉であり、加辱刑たる絞首刑とは大変な違いである。しかしこの案は遂にマッカーサー元帥によって裁可されなかった。その理由は様々に憶測されるが、まず第八軍司令官アイケルバーガーの介入が考えられる。GHQは日本占領、戦犯裁判の実務にたずさわる第八軍の意見を無視できなかったのであろう。そして第八軍法務官の一人の意見は「判決通り」であり、司令官アイケルバーガーもそっちへ傾いていたのではあるまいか。
岡田中将がスガモ・プリズンにいる間に、市ケ谷法廷のA級戦犯の判決が下りた。昭和二十三年十一月十二日のことである。東条英機以下七名の絞首刑は十二月二十三日執行された。同じスガモ・プリズンにいて、岡田中将に所感がないはずはないのだが、それは半田市北荒古の留守宅へ送られた遺物のなかには含まれていない。
遺書も、最後に書いたものは渡されなかった、という感じを、遺族の方は持っておられる。しかし半田の家族宛の遺書、十五行|便箋《びんせん》七枚、鉛筆書きの九月十六日付のものがある。
半田市の家へ、男の声で電話がかかって来たのは十八日だった。偶然電話に出たのは、長女の達子さんだった。役人らしい男の声で、
「十七日に亡くなられました」
と聞き、足の力が抜けて、その場に坐《すわ》り込んでしまった。壁に取り付けた電話機だから返事ができない。電話は無言のまま、しばらくして切れた。
通知の主は、第八軍であるか、スガモ・プリズンか、法務省か、たしかめる手段はない。
少し経って女婿藤本正雄氏と長男陽氏が、教誨師の大正大学の田島隆純師の許《もと》に呼ばれ、遺品として、眼鏡と故人手製のこよりのサックを渡された。しかし遺書は渡されなかった。『毒箭』の未定稿は、その他と一括して、小包で送られて来たものである。
遺骨は遺族には渡されない。これはA級戦犯と同じである。
最後の遺書が渡されなかったことは、われわれに一つの希望を抱かせる。いよいよ執行ときまると、囚人は前々夜の十時頃、一般棟の西南側にある女囚用の棟「ブルー・プリズン」に移される。そこで教誨師と共に遺書などを書いて一日を過ごし、のぞむ食事が与えられ、翌朝零時三十分頃、十三階段を上るのである。
マッカーサーによる最後の決定は、法務官団のすすめる銃殺ではあり得ない。ここで差別を付けては、遡《さかのぼ》ってA級七名の中にも、銃殺にすべき者があった、との論議が起こり、収拾がつかなくなるおそれがある。
しかし所長に仏心があって「ブルー・プリズン」にいる間に、決定は絞首刑でも、第八軍の法務官一人が終身刑、GHQの四人が銃殺を答申した、と聞かされた、としたらどうだろう。中将のよろこびは、どれほどであったろう。「われ勝てり」だ。
「判決は御自由に、そちらにも都合があることゆえ」と中将は最初から割り切っていた。しかし五人の法務官が絞首刑という加辱刑に反対しているとすれば、中将は二年間の「法戦」に勝ったのだ。無差別爆撃の違法性が証明され、軍律会議の特殊性が認められたのだ。
その旨を遺書に記し「満足だ」と書いたとしても、教誨師はそれを書くがままにさせるであろう。いつか公開されることがあろう、と慰めるだろう、そして喜びに顔をほころばせた死刑囚を十三階段へ送り出したことだろう、従って秘匿事項に触れた最後の遺書は遺族には渡されない。
これは一瞬、小説家の頭に閃《ひらめ》いた空想であったが、現実はどうだったろう。種々の事情から考えて、そんなことはなかったと考えるのが正しいであろう。GHQも第八軍も却下事項は、所長にも知らせはしなかったろう。従って教誨師にもまた。
さて岡田資の昭和二十四年九月十六日付の遺書は次のようなものである。それは所内で支給された十五行便箋七枚に、鉛筆で書かれたもので、中将の慎重な性格から見て、判決後、かなり早い時期から用意されていたと見て間違いはない。書き残すべきことはきまっていたのであろう。しかしやや不意打であったのが、文面から察せられる。
執行は十七日と聞いたので、遺族は最後のものではないと思われたろうが、最期は十七日零時三十分なのだから、遺書は十六日付でよく、また文面にそれらしい痕跡《こんせき》があるのだ。
母上
温子
正雄 殿 16/9 資
達子
博子
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温子の帰宅報告を入手せん先に昨夜ここ(註=ブルー・プリズンのこと)に来てしまつた。此の報を得たら、皆驚く事だらう。気の毒でたまらぬ。けれども此れは仏の授けられた最善の途だよ。元々覚悟を定めて渦中に飛び込み、すべての力とすべての人々の御蔭を以て、思ひのまゝに法廷を済ませたのだから夫《それ》でよいのである。色々な情報の為に、且つは私の積極的活動性の為に、今の第五棟の青年を指導した後には、又浮世の青年の信仰生活に応分の力添へをと思ひ、一寸慾を出したので軽き失望感を味つたが、何一夜の夢よ。今朝体重を測つたら一五〇ポンドあつた。まる三年前入所時は一三〇、(五棟で)一四五→一四九→一五〇だ。浮世の位を転換せんとする時、体重でもないがね、私の気分を反影して居たものと思つて笑うて聞いてくれよ。
温子よ、短い様で永い、又永い様で短い此世は、そなたにはえらい御世話になつたね。御礼の言葉もないよ。でもね、そなたの誠実と私に対する純愛は、公人としての私を十二分に働かせしめたし、志を得た二人の児として残つたしね。それで一応の満足感を得ておくれ。此の度の様な民族国家の大変動に会つては、個人の事なんかとても問題でない。況《いはん》や敗戦国の将軍では犠牲壇上に登るのが当然です。聊かの恨みもない。出来たら次の大活動をと思うたが仏の御受用は遂に此の路であつた。それを喜んで頂戴しよう。好きであつた(今は少しも慾しくない)酒の為に度々そなたに迷惑を掛けたが、其の他の公人生活は御蔭げで寸志を伸べる事が出来た。人生と日本軍の将領としての最後も、是で所謂有終の美と言へさうです。ほんたうにそなたには迷惑を掛けた。余生尚有れば、十二分に老妻をいたはつてと想うて居たが、今は私の強い業力思念を以て御護りする事に致しませう。家族一同も共に、共に。
私の業は何も血縁丈に伝はるのではない。正雄君のからだも拝借して居ます、故に温子よ、淋しがらないで、そなたの身にも外の家族の身にも孫嬢にさへも、私の内在せる事を確信して下さい。
年寄の母に今更心配掛けて済みません。朝夕御|曼荼羅《まんだら》に対して祈念なさる時私は必ずその座に入れてもらつて居るでせう。
正雄君には御縁あつて家族がとんでもない御厄介を掛けたね。特に法廷関係では一方ならぬ御尽力で、私も御礼の言葉もないです。今後共に何卒後を宜敷く御頼み申します。此世の法位を去る私の次の任務は、仏の御手にあるのですが、少くも私の業力は、不及《およばず》乍ら君のお手伝は、出来ると思ひます。
達子よ、よい夫君を持ち、待望の愛児も授かり、此処暫くの浮世の荒波を凌げば、又楽しい日が来るでせう。けれども精神界には、今の直ぐでも航海日和は得られます。工夫して御覧よ。
博子ちやんの成長振りを欲を言へば、今一度見度かつた。苦難の雰囲気の裡に、両親や婆ちやんの純愛に包まれて育つそなたは、必ず立派な此の世の位に就けるでせう。御写真は皆記録の内裏に貼り付け、毎日微笑もて御話して居たのだよ。
記録といへばね。世の青年の為に、難解の仏教を、順序を考へ成る可く平易に解いて、と思ひ三月以来精進し(毎日一回は今迄通り青年の指導を廃するわけにも行かぬしね)、一応外郭は出来、今や書き直し中であつた。が1/2弱で中止となつたのだ。体裁を完成するには、仏教の知識が無くては駄目だしね。河合(陟助)先生に私の下書きの分が読めるか知らん。田島師に頼むかなあ。何《いづ》れにしても何も急ぐ事はないと思ふけれどもね。是れだけは大に失敗した。判断の誤りであつた。
あの記録中に今年の14/4月に所感を遺書的に記録しておいたと思ふ。いづれにもせよ、遺物は一切留守宅に送るとの約束ではあるから、心配せんで待つて下さい。
私は戒名なんて不要です。仏縁により今生を得て、働かせて貰つた。其の俗名こそ懐しけれ、何々院殿ではやり切れない。子供達もあれでは遠からず忘れるでせう。髪とか爪とか私は残す必要を認めません。私の手紙でも、何んでも、私の精神を宿す事に於ては同じです。
こんな世に、特に葬式法要一切不要です。お曼荼羅《まんだら》の前に、写真や俗名を並べて呉れたら、夫《それ》で結構です。私はとくに仏の御受用を信念として居る身です。仏を離れて私は在りませぬ。此世に御都合なところに私は又法位を頂戴して働きます。
私の生命は真に久遠です。業は正に不滅であり、又少々思索が六《むつ》ケ敷《し》いかも知らぬが、小なる自我を去れば、我は大我である。すべてと一体である。即ち之亦永遠である。
飽迄《あくまで》も国家民族の為に、そして無論広く世界民族の為にも、順序は近きよりです。
過去に私の愛した数十万の青年の心の内容には、必ず宿つて居ます。最愛の家族には云ふ迄もない事です。
私の業力の泉は、バックに宇宙の大生命力即ち仏様の力がある限り、有限定量のものではなかつたです。
諸方への伝言宜敷頼む。
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このあとに伝言先の細目が記してある。まず、
「宮様(御厚意を深謝し、日本性をこれ祈る)」
宮様は秩父宮、人格証言を含む歎願書のお礼であって、「日本性」の文字にはわが民族の自立の祈りがこめられている。既述のように中将は二年間宮付武官として、テニスのお相手もしたらしく、「趣味は」との裁判委員の質問に対し、「水泳とテニス」と答えている。この後温子夫人は直ちに御礼に上ったが、後に『毒箭』が献呈されたことは前に書いた。
「和歌山の秀子、森(両方共)、
米子には激励のため手紙を出します。定次郎さんには、永々《ママ》の絵葉書のお礼を書く」
これは親族への伝言。「和歌山の秀子」さんは実妹、「森」はその娘さんの嫁ぎ先(軍人である)。米子は温子さんの実家であるが、兄さんはなくその奥さんと娘さんがいた。定次郎さんは女婿藤本氏の弟で、絵心があって、度々手製の絵葉書を獄中の慰安に投じたらしい。
「大杉旧参謀、菊地、長谷川、福田、高嶋等の親分、高津、吉田、各位。藤村旧参謀長には陽に頼む。
笹川氏には石原氏を兼ねて別に出す」
大杉旧参謀は終戦時静岡県御前崎配備の第五十四軍参謀で、もと東海軍参謀、菊地は相模造兵廠時代の部下、長谷川、福田は名古屋軍監部時代の部下である。高嶋等の親分は軍監部時代から中将に心服していた侠客《きようかく》で、後に民間防衛隊「東海進撃隊」を組織した親分、高津、吉田は再び軍監部時代の部下、藤村旧参謀長は事件の起る直前、四国軍へ転補された方で、東京在住だったので、陽さんが挨拶《あいさつ》に行かれたという。笹川氏は今日有名な笹川良一であるが、当時は衆議院議員で、A級戦犯不起訴組である。
二十三年十一月A級戦犯判決が下りてから、北側の各棟毎の散歩場を区切る有刺鉄線が取り払われて、各棟交通が自由になった。それまでにも市ケ谷から横浜へ廻《まわ》る護送バスの中で、A・B級戦犯容疑者はいっしょになることがあったが、自由に談笑の機会が増えたのである。岡田中将が木戸幸一氏と親しく口を利き、その態度を感服させたのは、この時期からと思われる。中将の散歩ぶりの特徴は、決してうなだれることはなく、常に仰向き気味に歩くことであった。笹川氏が釈放後出版した『笹川良一の見た巣鴨の表情・戦犯獄中秘話』(大阪、文化人書房、昭和二十四年五月)の中で「あつぱれ也岡田元中将」として、「全く頭が下がる程、立派であつた」と書いている。ほかの方面軍司令官、憲兵隊長と比較している。
笹川氏は入所中からB・C級戦犯の青年の差入れや、家族の面倒などを見ていた。笹川氏宛、岡田中将の遺書は、次のようなものである。
笹川良一殿
[#地付き]九月十六日 岡田 資
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前の手紙を出して又矢継き早やに出します。此れが絶筆となりました。
今夜半を静かに待機する身となりました。私としては覚悟の事が予定通り来たのに過ぎませんが、後の青年達に与へる精神的打撃が小さくないと思ひそれが気になります。でも彼等には大乗仏教の本筋をあら方打込みましたので、後は大丈夫と思ひます。就中花山師とは全然違ふ田島先生の御守りがありますから。通俗仏教の手引を完成出来なかつた事が唯一の遺憾事です。
私に関しては元より、あの青年達の為に与へられた大兄の大慈悲に対し、如何に御礼申上げてよいかわかりません。所謂無所得とは云ひ条、必ず善根は大兄に善果報を運ぶでせう。国敗れて、徒に将領の生き伸びる事のつらさは、是で解消します。人生の最後に、多少の光芒を曳き、次代の青年を多少とも照すよすがともなれば幸甚です。
私は今生は終つても、仏の御受用を信ずる限り、又々此の世に働き続けます。況んや数十万の青年に飛び込んだ私の業力は、活溌に働いて居ります。私の宗教信念は大宇宙の平等観には立ちますが、諸法観に於ては、一応民族国家の国境は無視出来ません。
石原大兄にも宜しく御伝言下さい。宛名がわかりませんから。
くれ/″\も御自愛御祈り申し上げます。
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中将の関心は、常に日本の将来に向いていて、青年をへこたれぬようにすることであった。このこころには以心伝心の言語にならぬ部分があり、それを中将は青年と対座することによって、「打込む」と考えたのであった。
花山教誨師が河合陟助師から来ていた書信と書籍を、中将に渡さぬという奇怪な行為が、行われたことが書かれているが、そのようなことが実際にあったかどうか、私の立場は中立であって、ただ文献のままに写しておく。それがブルー・プリズンで渡されたのは、棟で渡した事が周知されてはまずいとの考慮からであろう。
岡田中将の遺書は書き継がれる。
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唯今、8/9学園から出した葉書と140信を此処で分配された。
元気帰宅で安心した。フ博士も答解に困つたことであらう。其の日はもう決定して居た筈だからね。田島さんが今同席なので、そなたの御手紙を大変気の毒がつて居ます。
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達子さんは公判中は身重で、主に半田のお宅の留守番掛りであった。公判の終りに近く生れた長女博子さんを抱いて、傍聴席まで孫の姿を見せに行った。
最後の面会は、恐らくは九月七日何時に面会を許すから来いと、プリズンから知らせがあったのである。一年半の間に大きくなったお孫さんを見せたかったが、生憎《あいにく》病気だったので、祖母志可さんに世話を任せて温子夫人と二人で上京した。玉川学園の陽氏夫妻の新居に泊り、八日に帰途に就くに当って手紙を書き、十日に半田に帰ってまた書いたらしい。入所第一四〇信の番号は、恐らく中将がふったもので、その几帳面《きちようめん》な性格を示している。
処刑の日がきまったために、許された最後の面会であった。フェザーストン博士は何となくスガモに来たふりをしたろうが、温子さんは虫の知らせか、スガモ・プリズンから離れられなかったのである。
遺書の中からの慰めは、なお続く──
[#ここから1字下げ]
そなたは先日の面会日には、三時間も当所に居て、面会時間外に少しでも私の近くに居る気分を味つて呉れたとの事、何んと言ふ優しい気持でせう。結構々々、私は誠に有り難い気持で一杯です。それに今日の知らせは無情であつたね。でも単なる感情に敗けないで私の以上書いた気持や、平素から書き送つて居た事を、よく消化して、強く生きてくれよ。
国家民族が弱つて居る時だ。根幹の人迄が参つてはならぬ。
御曼荼羅の前で何時でも私に会へます。此処で青年を教へる事も中止だから、主力を以てそちを御見舞しませう。
唯だ飽く迄も夫の心は仏の御受用だと信仰しなさい。そして其本仏も信仰の人には常に自信と一緒です。
御曼荼羅で思ひ出した。河合先生の山積した書類が花山師時代に当所に来て居たのを、今日田島師が始て引出して下さつた。当時故障があつたのか、花山師が何かの理由で私に渡さなかつたのか、河合先生には相済まぬ事をした。丁度、書を四冊差入れられた時の物だ(その四冊は五棟の青年に残してやつたから、留守にはもどるまい)。
そなたも強健でなかつたのだから、どうか私の強い業力を支柱にして丈夫になつてくれ。私に代り老母を見て頂かなくてはならず、若い夫妻の指導、就中孫嬢には絶対必要なそなたですから。
[#ここで字下げ終わり]
手紙は三字下げてまだ続く。現状報告の形である。岡田中将は余白と時間があれば、なにか書かないと、気がすまない気分のうちにあったのであった。
[#ここから1字下げ]
午後三時から手紙書きに疲れて静坐すれば、外では蹴球の競技で賑かだ。愈々不住の世の中だ。それでよいのだ。
昨日は警戒兵も数人居たが今日は唯一人。手紙の合間に時々、息やすめに横臥して青年相手に他愛もない話に興ずる。
三時半頃になつたら田島先生が来る筈、夕食は所で御馳走して、先生をお客様にさせてくれるらしい。
昨夕当局は食物の特別注文を求めたが、平常通りと云うて置いた。が、実際何か用意してくれつゝある。
田島先生も、何か書き遺す様に筆紙を整へて来ませうかと言はれたが、之亦平常通りと御断りした。妙な歌をひねくり廻すのも好まない。隣に移る様な気で居り度い。
[#ここで字下げ終わり]
ここで遂に永遠に書き続けた将軍の筆は終る。午後三時半、田島教誨師がブルー・プリズンに到着したのであろう。
ここで書いた遺書の形のものには、この母、藤本夫妻、孫の博子宛だけで、長男陽、純子宛がない。そこで遺族の方は、ますます最後のものは渡されなかったと思ったらしいが、書かれたものをよく読むと、陽氏宛の遺書は、四月十四日、自己の誕生日に書いて、房においてある。ほかの私有物といっしょに送られるだろう、と書かれている。新しく書いて矛盾したおかしなことを書いてはいけない、という考えでもあったのだろうか。中将のすることで、筋が通っていないことはないのである。
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陽 殿
純子殿
[#地付き]昭和二十四年四月|十《ママ》日 資
御縁があつて人生の好伴侶となつたのです。真に似合ひらしい。十二分に義務を尽し、十分楽しくお暮しなさい。
陽には二つ父が詫びなければならぬ事がある。
一つは朝鮮大邱の中学時代に、激励の為とは云ひ乍ら「貴様見たいな奴は碌な者に成れるか」とやつたのは悪かつた。私が英国勤務の為神戸で船出の時、陽坊を涙の頬ずりし、坊も永く父を慕つて泣いた。そんな父子間に出る言葉としては頗るまづい。私の負け嫌ひが激発したのだ。
次は敗戦後、私の来るべき今の運命を知つて居たから、留守を正雄君にのみ御願ひするのも心苦しく、陽も半田の留守宅に居て、生活の御手伝をして貰ひたかつたので、生活場所をあんなに限定せんとしたのだ。結果から見れば、然り確かに、仏の御指導により、最善に導かれて居る現在の境地は遥かに半田に勝る。けれども当時は半田説を取つた。之は致し方ないとも云へるが、陽の天分を伸す方から云へば、最初から積極的に、現境地を考慮すべきが、父の義務ではなかつたらうかとも思ふ。
陽の結婚前夜に私に書いた手紙を見て、成人して呉れた、安心だと思つた。其の後の玉川学園での活動振りも大に私を喜ばしめる。陽は幸な事だ。速かに彼の人生の目的を発見し、且今や其の途を歩んで居るなと思ふ。だが肉体の力には限度がある。肥えない。風邪にかゝり易い。純子も気を付けておやり。私としては顔見る度に云ふのも却つて面白くないので、近来は一切言はないが、心には常に健康であれと念じて居る。土に親しめよ。禅せよ。
実はそれにも増して正しき宗教を把握してほしい。言はずとも私を見れば仏心は躍り出す事必定ならんと思ひ、口には出さぬ。機を待つ。温子母を大切にせよ。岡田系の旧悪業の一筋も出してはならぬ。小原先生に会ひ度いと思ふ。宜敷く。
[#ここで字下げ終わり]
これは純然たる遺書の形を取っていて、ほかの書きものといっしょに、半田に送られた。
なおこれらの遺書の筆致に、達子さんへの愛情の深さが観取されるであろう。男親の娘への偏愛は一般に見られることだが、岡田中将も例外ではなく、幼時は文字通り「なめるように」可愛がられた、という。陽さんには幼年学校、士官学校の経歴を期待されたのだが、その関心は文学、演劇に赴いた。それに不満であったことが、察せられる。しかし最後に父は息子に詫《わ》びている。こんなに率直に詫びられる父も珍らしいのではないだろうか。
この遺書の温子夫人への優しい呼びかけは、筆者や編集者の家庭で物議をかもした。「あなたは死ぬ時になって、こんなやさしい手紙を書いては、くれないわねっ」と言われると、亭主は一言もない。中将は昭和十八年名古屋へ来てからは、集会などにはべるもんぺをはいた女子勤務員[#「女子勤務員」に傍点]即《すなわ》ち芸者に目もくれなかった。これも中将の名古屋での名望を助けているのだが、それはすでに遊び飽きた人の淡泊さであったらしい。若い頃は五尺七寸五分の美丈夫であるからずいぶんもてた[#「もてた」に傍点]。遺書にある「酒の為に迷惑をかけた」は「酒と女」と読むべきだということである。
昭和二十四年の日本は、激動期であった。七月四日米独立記念日にさいし、マッカーサーは「日本は共産主義進出の防壁」と宣言。同日、国鉄三万七〇〇人の解雇を発表。同月六日、下山国鉄総裁が轢死体《れきしたい》で発見、同月十五日、中央線|三鷹《みたか》駅で無人電車暴走、六人死亡。八月十七日、東北本線金谷川─松川間で、旅客列車が転覆した。いわゆる松川事件である。
この状勢下で米側は、岡田中将のような人材は、終身刑に減刑して取っておかなければならないはずであった。そして実際、なんらかの希望的なうわさが、岡田中将の耳に届いていたことが、遺書や後出の田島師の回想にうかがわれる。ところがあまり助命歎願が多すぎるので、GHQは警戒したという。
秩父宮、東久邇宮はじめ不起訴A級戦犯、日蓮宗関係、その他笹川良一氏や、高嶋の「親分」の身内の多数の歎願書がGHQ、第八軍に集まった。フェザーストン博士、バーネット検事、裁判委員二名のそれが加わった。それはカンライト少佐(恐らく少数意見を書いた正規委員)とモニター委員のトラシイ空軍少佐であった。しかし中将自身は歎願書を好まなかったらしい。家族宛二十三年五月二十七日付の手紙に「歎願書のお話、人々の御厚意は有難く頂戴します。然し私としても唯々神の前に公正に裁判されること、不備な公法をこの機会に軌道に載せること、両民族の感情が腹の底から清算されることを望むので、個人に情けを掛けられることは良くないと思つてゐます。日本軍人らしく日本軍隊らしく終始せるこそ毎日の祈りであり、誓である」とある。高嶋の親分の輩下の連中が在日朝鮮人といっしょに日比谷のGHQの前でデモをやった。これはマッカーサーが一番嫌うことだった。右翼のよほどの大物らしいとの印象を与え、そのため却《かえ》って処刑を早めたといわれている。
処刑場にいつもいるので評判が悪く、「白ぶた」と綽名《あだな》された軍曹が、十五日、朝から岡田中将の十一房の向い側に来て、何かメモしている。不吉な予感がしたという。午後十時頃、迎えが来る。
中将の仏弟子、西部軍の死刑囚(後に減刑)冬至堅太郎氏が、藤本夫妻に宛てた手紙の一部(十月十日付)。
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閣下が死に就かれました事は全く意外でした。九月十五日夜、誰かが処刑の為連れ出される気配がしました。「誰だらう」と思つて網戸に立つて見て居ますと、閣下が手錠をされたまゝ来られました。それを見て思はず「アツ」と声をあげたのでした。
「君達は来なさんなよ」
只一言さう言はれました。
「閣下、後は御心配なく」
「うむ」
何といふ短い別れでせう。然し私は之で十分でした。千万言を尽しても足りはしません。また千万言を費さなくとも、此の短い会話でお互に無量の感情が通じ合つたことゝ信じて居ります。
閣下の顔はホンノリ紅らんで、まるで内部から光を発してゐる様でした。静かな微笑は無限の慈悲の表情でした。私はも早や元東海軍司令官も岡田資と云ふ人も感ぜず、仏を全身的に感じたのです。
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五棟B階には南から北へナンバーをふって六十四室あり、一室二人ずつ、西側の十九号室までしか使われていなかった。岡田中将は、十一号室にいた。北端の一号室まで行って各房の人々に別れを告げ、引き返して来て、冬至氏の部屋を最後に、南の階段を降りられたのであった。
同室者楢崎正彦氏の回想──
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閣下はその夜に限り暫く床の上で坐禅をされた。いつもは唱題を二、三回やつてながくなられるのだが、唱題の後三、四分坐禅である。そして漸く床にながくなられたと同時に、玄関が騒がしくなつた。足音は数人こちらの方へ近づいたと思ふと、枕許で「岡田」といふ首吊りの声であつた。ひよつと瞳をあげると、ガチヤ/\と錠が外され、数名の兵隊が立つてゐる。あゝ愈々来たな──岡田さんを見ると、身動きもされず横のまゝ、今一度オカダの声がかゝつたので、僕は思はず跳起きて、「岡田さん」と最後の叫びをかけた。
すると下から鋭い眼をぎよつと据えて看守らを見上げてゐられた、そして「よしきたつ」と声と同時にフトンを蹴つて起きられた ─wait moment─ 暫く待て──とはつきり、然《しか》もゆつくりと言はれて服をつけられた。僕は余りの突然に物も言へずたゞ合掌した。すると閣下は口をすゝがれ、再び顔をふかれた右手首にいつもの数珠をかけられて「なすことはなし終つた。君らは心配するな。最後迄正法を護念せよ」と言つて、かるく頭を撫でて下さつた。下駄をとつて出ようとされた時、下士官がフトン全部、本も持てと言つた。
再び毛布をひろげ、僕のかるい布団と一枚をかへて包み、廊下へ送り出した。思はず自分は「南無妙法蓮華経」と声が咽喉をついて出た。するとあちらこちらの部屋から一度に大きな唱題の声がわきおこつた。その時こゝのアダムスといふ大尉が来てゐて、彼は終始不動の姿勢で見守つてゐた。矢張り将官といふものに対する敬意をもつてゐたのである。
目の前で手錠をうけられ、一番端の部屋より挨拶をされて廊下をゆかれた。そして階段をおりつつ、閣下の大きなあの美しい唱題が廊下一杯に響き渡り、大扉のしまる迄相呼応して唱題の声がつゞいた(「久遠」)。
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南側の吹き抜け廊下へ出て、各棟の列の前をすぎ、左手のカギ形の、ブルー・プリズンまで、アーケード式に廊下が続いている。ブルー・プリズンは元来女囚棟で、はじめは数人がいたが、この頃では、一人しかいなかった。カギの一方を死刑囚が、最後の一夜を過ごすところにしてあるのである。
後に陽さんと藤本さんが田島|教誨《きようかい》師に会って、遺品の眼鏡と手製のサックを渡された時、いろいろと最後の模様を話してくれたという。
中将は終始落着いておられて、いっしょに厨子《ずし》を拝したが、阿弥陀《あみだ》像の光背の先が二つかけたようになっているのを注意された、という。夕食に米軍のたれかの差入れの葡萄酒《ぶどうしゆ》が出て、二人でほとんど飲んだが、看視兵が一杯分を残しておくように言った。
その時間が来て、グラスに注いで出したが、酒好きの中将が、
「やめよう」
と言って飲まれなかった、という。
田島隆純師は、昭和二十八年七月に『わがいのち果てる日に』という教誨師時代の回想を書かれ(大日本雄弁会講談社刊)、そこに岡田中将の最後の時間を共にした時の模様が綴《つづ》られている。
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元陸軍中将岡田資氏(六十歳)は単に巣鴨死刑囚棟での異彩ある存在だったばかりでなく、今次大戦の落し子たる所謂戦犯者の中でも、これ程の人物は珍しかったに相違ない。東海軍司令官として敵飛行士の処刑の責を一身に負った氏は、十九名の旧部下を率いて立った横浜第八号法廷を、軍人生活最後の死場所と定め、自らこれを「法戦」と名づけていた。
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右は故人の人物への畏敬《いけい》の念が、その最後を見届けた僧によっても、保たれていることを示すために繰返しをいとわず写した。なお田島師は大正大学教授、天台宗|僧侶《そうりよ》であって、A級戦犯処刑後、教誨師として花山師に替った方である。
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昭和二十四年九月十五日の夜十時、執行命令を宣告すべく独居より連れ出しに行った米軍将校の中には、房外に氏の姿の現れるまで終始外で不動の姿勢をとっていた者さえあったという。
宣告場に於ても曽《かつ》ての将軍に相応しく、実に堂々、列席の米軍将校達を威圧する感があった。
所長が読んだ宣告文にも軽く頷いたまゝで、「何か食事の希望があるか」との問いにもふだんの食事でよろしい、といっただけであった。
その後、私は氏の新《あらた》に移された房を訪ねたところ、氏は先刻何かいうことはないかとの問に対し「何かいおうとは思ったが、さてあの面々ではねえ……」と苦笑を漏らしていた。その意味は説明するまでもなく、所長が大佐、以下少佐、中尉程度で、こちらの相手には質が不足過ぎたからである。
翌日は遺書を認《したた》められる傍で、一日中、話相手となっていた。一生涯の履歴から苦心談のいろいろ、大別山を裏から踏破して、漢口背面攻撃で個人感状を貰ったことなど話は尽きなかった。
「いろ/\な楽観的情報が入って来たり、且は私の積極的な活動性のために、第五棟の青年指導より更に浮世の青年の信仰生活にも応分の力添えをと手を伸ばしかけていて、少し考えが欲ばったので、突然の宣告には軽い失望感を味わったが、なあに一夜の夢ですよ」と意中を漏らしていた如く、盛んに氏の助命デマが飛ぶ中を、その年三月以来青年のための仏教解説約千頁を書き終った由である。そして大体その半ばまで清書し終ったところを連れ出されたわけで、「これだけは大いに失敗した。判断の誤りだった」といっていた。
処刑当日というのに、終日平常と何の変りもなく、看視兵らとも冗談を飛ばし合い、或る米兵が、
「アメリカ煙草をあげようか」と、話しかけると、
「アイ、アム、グッドボーイ」と吸うのを断ったりしていた。
若しあなたがマ元帥に会われる機会でもあったらと、前置きしながら話されたところによると、大体に於てその施政振りを感心して見ているが、しかしポツダム宣言直後と今では内外の情勢も甚しく変化しているに拘らず、指導がそれとマッチしておらぬ嫌いがあるようだ。彼は日本をまだ/\秀英太明朝KIGO">〓去勢しようとするらしく、真に日本の速かなる自立を望んでの政策転換をなしたかどうか疑わしいところがあり、例えば漁業や船舶の問題などにも異論がある。
警察力の統一で武装を図る一方、教育も総て統制せんとするところなどはあたかも日本の対支援助が中途半端であったのとよく似ている。独逸の「ナチ」と軍閥(或は単に戦中指導者)との差別をはっきり知ったかどうか。現在の状態では、当時の国是や天皇命令を以て働いた者達まで犠牲壇上に残されてしまっているが、真に米国に協力できるのは彼らであって、国是が変えられたのであれば、勿論彼らはそれに従って忠実なる協力をするのである。
「今次のような民族、国家の大変動に会うては、個人のことなんか、とても問題ではない。況《いわん》や敗戦国の将軍では犠牲壇上に登るのが当然です。聊かのうらみもない」
最後の夜、そういって笑っていた氏は、妻への遺書にも自らの死刑を評して、
「仏の授けられた最善の途だよ。もと/\覚悟を定めて渦中へ飛び込み、総ての力と総ての人々のお蔭を以て思いのまゝ法廷をすませたのだから、それでよいのである」
と述べている。
「日本はもとより旧右翼のまゝで再興さるべきではないが、しかし日本人は元来右翼であっても差支えなかろうではないか。民族思想を根本的に変えてしまうということは、今日の諸事情では余りに難が多過ぎるし、表面上変ったように見えて、内実は無方針の迎合党ばかりを相手にしているのでは明らかに失敗だ。試験済みの片山社会党の如き、即ち落第ではないか。今のまゝでは有為の青年達がどしどし共産党に入るばかりで、速かにその阻止手段を考えねばならぬ。旧陸軍青年将校のパージは実に馬鹿げた悪いやり方だ」
こうした話の結びとして、氏は、一体米国は、自衛力すら全然失くされた国民を抱き込んで、今日の情勢上、その不利に平気でいられるかどうか、と疑問を投じていたが、氏の処刑後一年ならずして、俄に再軍備問題が喧伝され始め、誠に思い半ばに過ぎるものがある。
最後の晩餐には、氏の殊更の注文はなかったが、御馳走があって、私も御相伴した。初めから瓶に三分の二程残っていた上等の葡萄酒が出たが、誰か厚意ある米軍将校の提供になったのかも知れぬ。「半分は最後の出発のとき飲むのに残して置いてくれ」と看視兵が私に囁いていた。
愈々最後のお勤めの時間となって、私は般若心経を読み、次で「唱題は何回ぐらいやるのですか」と訊ねると「別にきまりはありません」とのことで、それでは七遍と、二人で七回唱えて勤行を終った。その後で先程の葡萄酒をコップに注いであげたが、どうしてか、ちょっと口をつけただけでコップを置いてしまわれた。氏の酒好きは昼間十分に伺っていたので、ちょっと不審を感じたが、すぐ私は薦めるのをやめた。いやしくも軍人たるもの最後に臨み、酔って刑に就くが如きは恥辱である、との気持がはっきり読めたからであった。
このため、予定した二十分が余ってしまったが、岡田さんは自分と向き合った厨子を眺めながら「この阿弥陀さんの光背は少し曲っていますねえ」などと、実にのんびりしたものだった。
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中将はブルー・プリズンでの一日の間に、所長ら、処刑申渡しの米兵の階級に不満であり、マッカーサーの施政を批判し、仏像の光背の欠陥を咎《とが》めている。この上なく澄んだ心持の中にも、なにかを咎める精神が突出しているのに注意したい。意識されることはなかったらしいけれど。
一方、田島師の回想も、師自身の思想で彩られているかも知れない。ここでも筆者は文献にあるままを伝える立場にあることを繰返しておく。
この建物がブルー・プリズンと呼ばれたのには深い仔細《しさい》はなく、二階をB階と言ったようなものだった。ブルー(青)、レッド、イエローに別れていた。レッドはA級戦犯棟、イエローがB・C級棟ではなかろうか。
女囚用棟で、一般棟の西南に少し離れていて、一時有名な対米放送のトーキョー・ローズなど何名かがいたが、この頃は岡田ケースと平行して審理された、九大生体解剖事件の婦長一人だったという。それでも女気に違いないから、A級戦犯の某大将など浮かれ出し、昔習い覚えた猥歌《わいか》をどなり出して、同囚を苦笑させたという。
むろん岡田中将にはそんなことはなく、やがて時間になって、敷地西北隅にある刑場、いわゆるスガモ・十三号ゲートに向う。
岡田中将はなにも書いていないが、刑の宣告はブルー・プリズンへ移された夜、すぐ行われたらしい。それに似た状景を詳しく書残している死刑囚がいる。昭和二十五年四月七日、朝鮮戦争の始まる二カ月前に処刑された不運なT中尉である。
「手錠を掛けられ、それを更にバンドでおさへ、階下に連れて行かれる。下に行くと両側に兵が立つて居て(略)。部屋は三十坪程の大部屋で電燈は昼も顔負けする程煌々と輝き、窓際に据ゑられて居る机に坐つてゐるのは巣鴨の所長であらう。真中にそれに向つて左に二世の通訳が居て、その左右には綺羅星の如く将校達が並んで居た。這入つて直ぐ眼に写つたのは、多数居る将校の中に只一人法衣に身を包まれて居る我等の導師田島先生である。机の前に立つや先生の方を向き、先生御苦労様と短かい挨拶を述べる。先生もさぞ吃驚なさつて居るのであらう、黙つてうなづかれただけだつた。それからすぐ通訳が読み上げだした。それを聞きつつ一ケ所不明な点があり、そこをもう一度読んで頂く。(略)昭和二十五年四月七日午前十二時三十分頃、同人を巣鴨拘置所に於て絞首刑に所《ママ》すべし云々と読んだ。(略)申し渡しが済むと二階へ連れて来られる。宣告申し渡し書は日本語で書いたものが四枚と、英語で書いたものが二枚、帰る時、兵隊が持つて来て呉れる」(上坂冬子『巣鴨プリズン13号鉄扉』)
刑執行の言渡しは所長の大佐がするが、岡田中将の場合、囚人が将官であるから、GHQからマッカーサーを代表して高級副官、法務官、第八軍からも、法務官が来たのではなかろうか。
刑場の間取りは、清掃に囚人を使ったので詳しくわかっている。死刑囚まで使ったのは、いかにも残酷に思える。しかしスガモ・プリズン勤務の米将兵百余名の中には徴募兵もいる。いやなことは囚人に押しつけたのであろう。それも刑罰の中に含まれるとの考え方もあろう。
キリスト教で不吉とする文字13を白ペンキで鉄扉に書き、処刑はやはり不吉とされている金曜日に行う。仏教徒の日本人には、何の意味もないが、向うでは刑罰を加重したつもりであろう。
方三十メートルぐらいのコンクリートの塀に囲まれた一廓《いつかく》が、スガモ・プリズンのほぼ西北隅にある。その東側の北の端近くにある鉄の扉の入口がそれである。南側に運び出し口、13A扉があったらしいが、それは塀で隔てられていて、囚人には見えない。
中に入ると殺風景な庭になっていて、その北側の隅に白木作り瓦葺《かわらぶ》きの古い日本の刑場があって、B・C級の戦犯ははじめはそこで処刑された。昭和二十二年末、A級戦犯処刑のために、その南側にアメリカ式の五人一度に執行できる処刑場が作られた。
灰色の波状ブリキ張り、ブリキ葺きの一〇×五メートルの建物である。ドアを開けて入ると三メートル弱の高さの、粗削りのラワン材(一説に杉材)の処刑台がある。囚人はそこまで十三階段(アメリカはあくまでもこの数にこだわる)を上るので「巣鴨の十三階段」という言葉は象徴的な響きを持つことになる。
台上から二メートルぐらい高く、一本の梁《はり》が横に通っていて、五本のロープが下っている。その下の一メートル角ほどの床に、日本の揚げ戸式のつっかえがあって、横手のハンドルの操作ではずれる。死刑囚の体は、半地階まで落ち、くるくる廻《まわ》る。医師が心搏《しんぱく》音を聴音して、死亡を確認する。
心搏がとまるまでの時間は、体重の重い人の方が早く、七分から十三分の間である。しかし落下の衝撃で頸椎《けいつい》がこわれ、意識を失うから、絞首刑は斬首よりは残虐ではない、と執行者はいう。残虐という言葉の意味の取りようである。
教誨師は刑場の入口で、殺される囚人と別れるが、裏側の階段から地下室に入って、死を確認し、納棺《のうかん》に立会って、回向《えこう》する。アメリカのやり方では、体は眼だけ残して、白綿布でぐるぐる巻きにして、納棺したという。それが13A扉から運び出される。
A、B、C級、いずれも横浜の久保山市営火葬場で荼毘《だび》に付されるが、遺骨は遺族に渡されない。どことも知れぬところに棄てられるともいわれ、あるいは埋葬され、白木の墓標が立てられるが、向うの書類の番号のみ記され、姓名はわからないともいう。
最終の処刑は二十五年四月であるから、それまでA級戦犯処刑用にアメリカが建てた処刑台を使っていたと思われる。日本式刑場なら、もう一度仏間で阿弥陀像を拝し、四畳半の平らな床の中央から落ちることになったのだけれど。
ブルー・プリズンから13ゲートまでは、中庭を対角線に、約一五〇メートル横切ることになる。その夜は月夜だった。手錠をかけられた手に数珠を持ちながら、両側に看視兵に挟まれて行く。後に従う田島師をふり返って、
「いい月ですなあ」
と言ったという。
中庭はA級戦犯のいた第一棟に沿っている。しかしこの頃までには、有期刑の囚人しか残っていなかったから、みな中庭の見えない側、つまり東側に移されていたのではあるまいか。
第二棟に一カ所、中庭が見える房があるという説がある。岡田中将の悠然と歩く姿を見た者がいるという伝説があるが、あまりあてにならない。この頃、岡田中将はスガモ・プリズン内外で、すでに伝説的存在になりかけていたから。
田島師は刑場までついて行く。地下室でまた対面するわけだが、刑場のドアの前で別れたはずである(田島師もいまは亡く、たしかめる手段がない)。
「久遠」から見れば、しばらく境を異にするだけだから、信者の別れの言葉は、
「じゃ、また」
ぐらいでいいわけだが、しかし現世には礼儀という慣習があり、個人的感情がある。田島師は手錠をかけられた手を握り、中将は「ありがとう」を言ったであろう。
ドアの中へ岡田資の姿が消える。ドアがしまる前に、
「南無妙法蓮華経」
と呟《つぶや》く声が聞こえた、と陽さんは田島師から聞いている。
「九月十七日午前零時半、氏の肉体のみが絞首台上に崩れた」
田島隆純師はこう回想を閉じる。
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後 記
本文の中に書いたように、私が岡田資の名を知ったのは昭和四十年のことである。昭和四十三年以来、作品にすることを考えた。
昭和四十八年一月、「私の中の日本人」(「波」)に、私は中将の遺稿から次の文章を引用した。
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敗戦直後の世相を見るに言語道断、何も彼も悪いことは皆敗戦国が負ふのか? 何故堂々と世界環視の内に国家の正義を説き、国際情勢、民衆の要求、さては戦勝国の圧迫も、亦重大なる戦因なりし事を明らかにしようとしないのか? 要人にして徒に勇気を欠きて死を急ぎ、或いは建軍の本義を忘れて徒に責任の存在を弁明するに汲々として、武人の嗜みを棄て生に執着する等、真に暗然たらしめらるるものがある。
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そして書いた。
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戦後一般の虚脱状態の中で、判断力と気力に衰えを見せず、主張すべき点を堂々と主張したところに、私は日本人を認めたい。少なくとも、そういう日本人のほか私には興味がない。
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現地名古屋のほか、京都、横浜、玉川学園へ出張、調査した。しかし肝心の裁判記録がアメリカにあり、被告の一人成田喜久基氏のとったメモの写ししかなかった。事件のぼんやりした輪廓《りんかく》しか、わからなかったのだが、そのうち中日新聞社長加藤巳一郎氏が当時岡田番記者だった関係で、旧東海軍関係の方々と連絡をつけて下さった。
公判以来三十年経って、アメリカ国立公文書館所蔵の裁判記録が公開された。それを中日新聞が取り寄せてくれた。岡田資元中将はその遺稿で、中将のいわゆる「法戦」、法廷闘争をよく戦ったと書いている。その実状が記録として判然と姿をあらわして来たのである。一部の人々に知られていたことだったが、これは戦後三十六年、米公文書の公開なしにはないことだった。「ながい旅」という題名には、それまでの時間を含んでいるつもりもある。
昭和五十六年は三十三回忌に当る。九月十七日が命日であるが、その少し前の九月十日から百回の予定で、中日新聞、東京新聞朝刊に、挿画入りの連載小説の形で連載された。米公文書は英文タイプ二千頁あり、またその到着が、アメリカの空港管制塔職員のストライキのために大幅におくれ、八月末から九月始めまでには、心不全を持つ身には、肉体的に辛い毎日であった。そのうち岡田元司令官の証言に入ってからは、内容のよいことと共に、書くのも楽になり、却って十回延長して、十二月二十九日に終った。手直しも最低半年かかるのが例であるが、実際に執筆を終えた十八日の翌日から取りかかり、年内にほぼ終った。寒い師走なので、一日のうちに暖かい昼間、三時間ぐらいの労働でそうなったのである。これは私としてはないことで、陳腐な例だが、蝋燭《ろうそく》の消えんとする寸前に、ぱっと燃え上るにたとえられるだろう。
参考文献、これまでに出た書誌は別掲したが、特にこんど遺書はそのオリジナルから写したので、これまで諸文献に出なかった部分を収録したことを自讃《じさん》しておきたい。遺言は藤本氏のお宅に保管されているはずだが、どうしても見付からない。そのうち長女達子さんが、ふっと銀行の貸金庫ではないか、と思い付いた。保管品目表を調べてその存在を確認した。大事にしすぎて忘れることがあることの例証である。
その一部は写真として口絵にしたが(※編集部注 本書には未収録)、私は悪筆なので、老妻に原稿用紙に写させた。彼女は「あなたは死ぬ時になっても、こんなやさしい手紙は書いてくれないわね」と言った。名古屋の中日新聞本社へファクシミリで送るために、東京新聞の担当文化部森秀男君がそれを別の原稿に清書する。彼は折柄右腕に神経病をわずらって、読み上げ奥さんに書かせた。彼も奥さんに同じことを言われた。打ち上げの会合の時、この話が出て大笑いになった。そのように岡田元中将は「法戦」で強かっただけではなく、妻にやさしい夫だったのだった。もっともこの話にはもう一つ裏があって、それは本文中に書いてある。
その他の『毒箭』の原稿の問題があるが、その所在は少し取り出すのに不便な場所にあり、校合していない。また公判記録は、岡田元中将にしぼって、筋を通すのを旨としたのでその他の被告についても、中将の証言に現われる範囲に限った。それで十分のはずである。
呼称は刑事事件だから「被告人」と呼ぶのが、正しいかも知れないが、国際裁判なので、その点確定できない。適宜に両方を使った。
この作品に最後に仕上げるきっかけを作って下さった中日新聞社長加藤巳一郎氏はじめ東京新聞文化部のスタッフに感謝する。またそれまでのながい予備的段階で、取材旅行や資料集めに協力してくれた「新潮」の坂本忠雄君については、種々の場面の記憶を伴った感謝の念がある。いつものことながら乱雑な訂正稿を整理してくれた出版部の梅澤英樹君に感謝する。
長らく貴重な弁護資料をお貸し下さり、また執筆中も度々の電話で、有益な御助言を賜った弁護団の一人佐伯千仭氏に御礼申上げる。また種々度々の質問にお答え下さった元東海軍参謀大西一、保田直文、専属副官村上二郎氏に感謝する。同じく児島襄氏に感謝する。
五十六年五月に亡くなられた故温子さんに、本稿をお目にかけられなかったのが、心残りとなった。貴重な文献や写真をお貸し下さり、多くの質問にお答え下さった長男岡田陽氏、同夫人純子さん、長女達子さん、女婿藤本正雄氏には、特にお礼申上げなければならない。
昭和五十七年四月
[#地付き]大 岡 昇 平
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岡田資遺稿集
(『毒箭─岡田資遺稿』『巣鴨の十三階段─戦犯処刑者の記録』より抜粋)
富士よ晴れぬか
民族国家は大敗北を吃したのであります。此処数十年間、大任を受けて国家指導を御手伝して居た当局連中の、大失敗であることは勿論肯定します。が大和民族が積極的に侵略に出たとか、戦争の原因は日本一国が背負ふべし等と脱線して、果ては日本と名のつくところ何物も残すべきものはない。一切御破算で、思想迄全部輸入品に切り換へるかの如き、戦後の脱線無気力振りには、つく/″\情無くなります。然れ共我等に知らされる与論は、極めて皮相一方的なものの様な気がします。或は一時的な反動も多分に見えます。更に食料不足から生ずる変態もあります。でも灰を掻き廻せば確かに火種は有りませう。又正しき民族の火を燃し直すのです。絶対に徒らなる旧態への還元ではいけません。
けれども、敗戦後の文武官を問はず、指導者階級の行動は、真に不適当です。
国敗れて上将が、求めて責任を取るのは、当然過ぎる事ではありませんか。そして法廷では懺悔も躊躇もせぬ代りに、主張すべきは、堂々と申し開かなくてはなりません。今日一般国民諸君に、自我が有るとか無いとか批判する前に、市ケ谷で、民族意志を完全に披瀝したかどうか、顧るべきだと思ひます。
(中略)
青年等が、比較的率直に戦ひ得る私を、特別な道を高踏するかの如くに言ひます時には、『勝てば将官なんて大きな勲章を頂戴する、負けたら命も差し出すのは当然だ』と青年向きの議論を出して大笑するのです。歯に衣きせぬ此の粗野な譬諭にも一面の理はあるのであります。
死を待つのが人生
私と死刑との関係や如何と開き直つて見ると、私は正に第四回目のそれを待つ身ではないか。
第一回は母の胎内を飛び出した時、お前は何時かは死ぬべき身であるぞ、と云ふやつを頂載した筈だ、仏様からだ。只今五十九歳の白髪頭になるまで御預けとなつたけれども。
第二回のものは少々理に走るが中尉の中頃からかと思ふ、「己の現職を最後の御奉公と思へ」でやつて来た。之はどうも腹の決つたような決らない様な裡に、何時とはなしに中将となり、東海第十三方面軍司令官として降伏する迄刑の実行無しに来て了つた。無想だにしなかつた敗軍の将、当然自決も一の撰ばるる途であつたが、本件処理に挺身すべく涙を呑んで今日在るのだ。
第三回は右の中間に挿入さるべきものである。即ち昭和十二年歩兵第八旅団長として、漢口戦に参加した時だ。是は珍らしくない軍人普通の覚悟である。(中略)
第四回目は三月か四月にもならうか、兎に角遠からず国際軍事法廷から頂く番である。花の下にて我死なん、と云ふ様な感傷的な気分も、今の処一向に起らぬ。多数の部下青年に対する責任感で一杯な為であらうか。それとも二十台から精進を続け、特に此の国際拘置所に入所以来、恵まれた時間を読経観法に過して来た事を、多少とも如来に御認め頂いたせいであらうか。負け惜みではない、只感謝の毎日である。
死とは
生を享けたものには死は必然だ。生れた時已に吾人は神や仏──大自然の法則でもよい──から死の宣告を受けて居る。期日が通告されないだけの事である。然らば一体、死後の不明と云ふ以外に、死について何を恐怖するのであらうか。
死の瞬間の苦痛が問題となるのであらうか。そうでもあるまい。死の瞬間に、病的に或は時に精神的に、呵責に苦しむ者もある。だが何も之は定石視するには当らない。其の数も多くはない筈である。況んや戦場弾雨の間談笑裡の死もある。然し親近や愛するものの死に対しては、相当痛烈な実感を与へられる場合の少くない事は事実だ。方面を変へて考へて見ると、人は此の世をば忍苦の世界と称し乍ら、一方無限の快楽や慾望追及に浮身をやつして来たから、それが尚後を曳いて居るのではなからうか。斯く考へて来ると、結局死に対する恐怖は煩悩に発した慾の断滅に対する絶望、少くも寂寥感と且は死後の不明より生ずる疑惑と見なければならないであらう。
故に、生を整へ終るならば死の恐怖は起る余地がない。東西何れの宗教も、此の生を整へる教である。教理、哲学で道理を通し信仰で柔かに包むのだ。生を整へるとは端的に云へば、永遠の生命を発見し、大死一番、とくの昔に、死のみか生をも超越して了ふ事だ。仏教は死の後始末や、死者の思ひ出に関係するものかの如き観察を下すならば、それは笑へぬ茶番である。
白 雲
私の身体からは眼鏡、鉛筆等を取り上げられて、準備された別室に禁錮された。一物もないコンクリートの部屋だ。高窓が唯一つ中庭に向つて開いている。それから見える視界の三分の一は大煙突で邪魔されているが、和やかな初夏の青空を心ゆくまで眺めるには十分なものであつた。
真綿をちぎつたような白雲が右から左へ、一片また一片、悠々と浮び流れて行く。
此のような落付いた気持は敗戦後始めてである。
いや十八年末、北満戦車師団長から内地の航空機製作監理部長に転職し、牡丹江の山下大将と別盃を交した時、さあこれから陸上とお別れ、空だ空だ、と想うた時の気持に似ているかなあ。
いやいやもつと大きな人生の転換である。静かに合掌して長い軍職の最後の幕を、恥も少なく引くことを得させて戴いたのを感謝した。無論わが主観のみをいつた心境である。
私の気持はすつかりあの白雲に没入した。そして何となく微吟でもして見度くなつた。
葡萄美酒夜光盃 欲飲琵琶弾馬上
酔臥砂上君勿笑 古来征戦幾人帰
厚い壁への反響はわが声を美化した。低唱すること、二度また三度、白雲は微笑んでくれる。真にこれ一如の境地。
そのとき隣室にいま一人入つたことを感じたので、非常に心配したが、大西参謀の無期重労働なることを知つてから、いよいよ安心した、他は問題ではないからである。
(中略)
巣鴨には裏門から帰つた。二十米程歩いた所で、それこそ私は左、一同は右と別れた。旧東海軍司令部も愈々これで真に解散である。
「ご苦労さまだ。私の代りに若い諸君よ、元気に新時代に尽せよ。ではさようなら」
ほんとうに左様ならだ。
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参考文献
「公判直前ノ記録─陸軍中将岡田資の遺稿─」自二三・二・一〇至二三・三・三〔謄写版印刷〕(昭和二四〜六年?)
「法戦の合間に─同右─」自其ノ一、二三・三・一四至其ノ七、二三・五・一六(同右)
「離魂」「都子野順三郎君」「十三号鉄扉」〔謄写版印刷〕(巣鴨遺書編纂会編、昭和二八年四月)
「遺書」(昭和二四年九月一六日付)
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「久遠」「岡田資師を偲ぶ」─大西一ら追悼文集─〔謄写版印刷〕(冬至堅太郎・北村寿得治編輯、巣鴨新聞社、昭和二六年)
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「十三階段に消えた最後の武士」(高津彦次、「人物往来」昭和三五年三月号)
『死者の声』(「巣鴨の十三階段」その他収録。安田武解説、昭和戦争文学全集第15 集英社、昭和四〇年)
「絞首台に消えた悲劇の将軍」(「週刊文春」、昭和四八年八月二〇日号)
『私の中の日本人』のうち「岡田資」(大岡昇平、「波」昭和四八年一月号)
『巣鴨プリズン13号鉄扉』(上坂冬子、新潮社、昭和五六年)
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「岡田資他十九名公判記録供述書など」〔英文コピー〕(アメリカ国立公文書館蔵)
「私の法廷メモ」(成田喜久基〔獄中手記〕、昭和二六年九月〜二七年一一月)
「戦争犯罪被告人裁判規則」(仮訳)〔謄写版印刷〕(法務審議室、昭和二一年一月一四日)
『俘虜ニ関スル諸法規類集』(俘虜情報局、昭和二一年)
『陸軍刑法』『軍法会議法』(六法全書、平凡社、昭和一七年)
『陸軍刑法原論』(菅野保之、松華堂書店、昭和一五年、増補版=昭和一八年九月)
『史実記録、戦争裁判横浜法廷TB・C級』(坂邦康編著、東潮社、昭和四二年)
『東京裁判』1〜8、特輯1(朝日新聞社法廷記者団編、ニュース社、昭和二一〜二四年)
『東京裁判〈上・下〉』(児島襄、中央公論社、昭和四六年)
『戦争犯罪論』(横田喜三郎、有斐閣、昭和二四年)
『戦犯裁判の錯誤』(ハンキー卿、長谷川才次訳、時事通信社出版局、昭和二七年)
『刑事裁判と人権』(佐伯千仭、京都・法律文化社、昭和三二年)
『あるB・C級戦犯の戦後史』(富永正三、水曜社、昭和五二年)
『山下裁判〈上・下〉』(フランク・リール、下島連訳、日本教文社、昭和二七年)
『ニュルンベルク裁判』(ウェルナー・マーザー、西義之訳、TBSブリタニカ、昭和五四年)
『本土防空作戦』(防衛庁防衛研修所戦史室編、朝雲新聞社、昭和四三年)
『名古屋大空襲』(毎日新聞社編、昭和四六年)
『日本列島空襲戦災誌』(水谷鋼一・織田三乗、東京新聞出版局、昭和五〇年)
『神戸空襲体験記』総集編(神戸空襲を記録する会編、昭和五〇年)
『本土空襲』(島村喬、図書出版社、昭和四六年)
『B29、日本本土の大爆撃』〔第二次世界大戦ブックス〕(カール・バーガー、一九七〇、中野五郎・加登川幸太郎訳、サンケイ新聞社出版局、昭和四六年)
『私は日本の捕虜だつた』(ジェコブ・デシェーザー、一九四八、前川金治訳、有恒社、昭和二四年)
「最新精密日本大地図」(読売新聞社、昭和二四年)
「名古屋市焼失区域図」(昭和二一年? 中日新聞資料部保存)
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『法華経講義〈上・下〉』(本多日生、博文館、大正五年)
『法華経要義』(本多日生、中央出版、昭和四年)
『法華経の研究──一名・法華経の文化学的研究』(里見岸雄、京都・平楽寺書店)
『法華経〈上・中・下〉』(坂本幸男・岩本裕訳注、岩波文庫、昭和三七〜四二年)
『法華経』(田村芳朗、中公新書、昭和四四年)
『近代日蓮論』(丸山照雄編、朝日選書、昭和五六年)
『平和の発見』(花山信勝、朝日新聞社、昭和二四年)
『わがいのち果てる日に』(田島隆純編著、大日本雄弁会講談社、昭和二八年)
「日中戦争」(児島襄、「週刊文春」、昭和五四年一月四日〜五六年一二月二四・三一日合併号)
本書には、今日の人権擁護の見地に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、また著者が故人であるという事情に鑑み、発表時の記述どおりとしました。
[#地付き]編集部
角川文庫『ながい旅』平成19年12月25日初版発行