TITLE : 名句歌ごよみ[春]
名句 歌ごよみ[春]
大岡 信
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角川e文庫
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目 次
春《はる》 風《かぜ》
花《はな》
若《わか》 草《くさ》
雛《ひな》 祭《まつり》
鶯《うぐいす》
芭蕉について立派だと思うこと
あとがき
句歌索引
春《はる》 風《かぜ》
日本の詩《しい》歌《か》・散文が日本列島の地理的条件からくる四季折々の天象・気象の変化とふかく結びついて発展してきたことについては、あらためていう必要もないことだが、古代の人々が季節の変化を詩歌の中にとらえるために払った工《く》夫《ふう》と努力は、現代の目でながめ直してみると、それなりに興味ぶかいものがある。春の訪れをうたった歌や去りゆく春をうたった歌に、その一例を見てみよう。『古《こ》今《きん》集《しゆう》』の四季は、春の胎動をうたう紀《きの》貫《つら》之《ゆき》の次の一首から開始される。
春たちける日よめる
袖《そで》ひぢてむすびし水のこほれるを
春立つけふの風やとくらむ
この歌の主役は、当時の人々にとってはまだ新鮮な舶来知識だった暦《こよみ》の知識である。暦という秩序ある枠《わく》組みによって、刻々変化する自然界にいわば縁《ふち》取《ど》りを与え、季節を一層明確に言葉で表現することを可能にするもの、それが暦日というものの文学的な意味だった。
中国の有名な礼法の書『礼《らい》記《き》』の中の「月《がつ》令《りよう》」篇に、立春がくると「東風解 ク〓氷《 ヲ》」という一節がある。東という方角は中国の観念でいうと季節では春を指した。したがって「東風」は春風を意味する。貫之の歌はこの暦の知識によっているわけであるが、もう少し歌そのものに添《そ》ってみると多くの情景や情感が一首に塗《ぬ》りこめられていることが見えてくる。
「袖《そで》ひぢて」の「ひぢて」はぬらして。「むすびし水」の「むすぶ」は水をすくうこと。つまり、袖をぬらしてすくった水が凍《こお》っていたのを、春立つ今日の風はとかすことであろうか、という意味になる。「とく」はとかすで、「とくらむ」の「とく」が上の「むすぶ」と対応して、意識的に縁語をつくっている。当時の立春は旧暦であるから、およそのところ立春と正月は重なっていた。
この歌が「袖ひぢてむすびし水の」と言っているのはいつのころを指しているのかといえば、去年の夏、水辺で納涼した時の思い出を指している。その折にぬらした袖の水が、秋を経《へ》て冬になり凍ってしまった(もちろんこれは心《しん》象《しよう》の中の凍った水である)。が、その水も今日《きよう》立春には東から吹いてくる春風にとけてゆくであろうか、というのだから、いわばこの一首の中には、夏から秋、冬という季節のめぐりがうたわれていることになる。
現実にとけるのは冬の氷だが、その氷の中には夏の思い出がとじこめられている。この歌で春風がとき放ってくれるものは、凍った水だけではなく、その氷にまつわって思い出されてくる去年の楽しかった夏の行楽の日々でもあるわけである。したがってこの歌は目の前の実景を詠《よ》んでいるわけではない。先にも書いたように暦の知識にもとづいて歌われているわけだが、その知識の中には、実際に自分たちが去年水辺で遊んだ時の実生活の記憶も加わって、当時の人々にとっては、楽しい現実感を伴っていたであろう歌になっている。作者の具体的な思い出と知識とが結びつき、そこに春の到来を喜ぶ季節感が浮き上がってくるのである。
次の貫之の一首も、そのような複雑な時間表現を内に秘めながら、風に散る桜の花を波に見立てて、水のないはずの空になごりただよう落花を惜《お》しんでいる。
亭《てい》子《じ》院《いん》歌《うた》合《あはせ》歌
さくら花ちりぬる風のなごりには
水なき空に波ぞ立ちける
「なごり」は現在でも使われている言葉であるが、元来は波打際の小《さざ》波《なみ》のことをな《ヽ》ご《ヽ》り《ヽ》と言い、漢字では「余波」という字が当てられていた。貫之のこの歌は、散る花というイメージをもとにして、花と、風と、水、空、そして波、といういくつかの現象をたくみにまぜ合わせ、花が風になったり、風が空になったり、水なき空が波になったり、というイメージの交換をかもし出し、歌全体の印象をきめ細《こま》やかにねり上げている。
このように、一首の中にさまざまな内容をふくませて影像と余《よ》韻《いん》を重ね、イメージの重層性をはかる歌い方は『古今集』の一つの方法であった。これはまた、比《ひ》喩《ゆ》の技法を開発させ、同音異義語などの日本語の特徴を、掛《かけ》詞《ことば》や縁語、序詞という形で詩の方法にまで発展させていった。歌が一つの意味を言っているだけでなく、別の意味も伴奏音のように入っている。その微《び》妙《みよう》なハーモニーを通じて、複雑な成りたちの心象をあるしっとりとした情感にまで高めようとするわけである。紀貫之はこのような歌づくりにたけた大歌人として『古今集』の代表者となったのである。
比較のため『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』巻八、春の雑歌の巻頭にある有名な志《し》貴《きの》皇《み》子《こ》の歌を引いてみる。
石《いは》ばしる垂《たる》水《み》の上のさ蕨《わらび》の
萌《も》え出づる春になりにけるかも
歌いぶりは率《そつ》直《ちよく》、歌意も単純明快である。滝(といっても小さなものだろう)の傍《かたわ》らに生えているわらびが芽を出す春になった、というよろこびをのべている。立春から多少日を経たころの景《け》色《しき》だろう、さわやかに心のはずむ春の到来が快い調べになっている。
実景に即して、感動や情感を写しとるように描写する『万葉集』のこのような表現方法は直接的で力強い。それに比べ、記憶や時間の世界にとじこめられているイメージを、その重なり合った層の中からとき放ってくる『古今集』の調べは、時のうつろいやはかなさを言葉の華《はな》にさかせて複雑なリズムを奏《かな》でているのである。
「春風」について書いたので、「春《はる》雨《さめ》」についてもふれておくことにしよう。
春雨やゆるい下《げ》駄《た》借す奈良の宿   与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
奈良という古都を表現するのに、「春雨」「ゆるい下駄」「奈良の宿」と三つの要素を盛って差し出されると、なるほど、言われてみれば奈良の感じはこういうものだなと思わず呟《つぶや》いてしまう。ほかの古都とは一《ひと》味《あじ》違う時を刻んでいる奈良の情緒に、ややゆるい下駄の感触とやわらかな春風との配合がぴたりときて、旅心をそそられさえする。
蕪村の「春雨」の句は、数も多いし質も抜群といっていい。
物《もの》種《だね》の袋ぬらしつ春のあめ
春雨や小《こ》磯《いそ》の小貝ぬるゝほど
春雨の中を流るゝ大《たい》河《が》かな
春雨に下駄買ふ初《は》瀬《せ》の法師哉《かな》
春雨や人住ミて煙壁を洩《も》る
蕪村は池《いけの》大《たい》雅《が》と並び称された江戸文人画の巨匠でもあったが、これらの句には煙るように降っている絵画的な日本の春雨がある。
ぐっと時代がさがると、すぐ思い浮かぶ懐《なつ》かしい雨の歌に北《きた》原《はら》白《はく》秋《しゆう》の童謡「雨」(雨がふります/雨がふる/遊びにゆきたし/傘はなし/紅《べに》緒《お》の木履《かつこ》も/緒が切れた/略)や野《の》口《ぐち》雨《う》情《じよう》の「雨降りお月」(雨降りお月さん/雲の陰/お嫁にゆくときゃ/誰とゆく/略)がある。
いずれも季節は秋の長雨、秋《しゆう》霖《りん》のころをうたっている感じの語ではあるが、この時代には童謡の中でもまだ、いかにも日本の雨らしい雨が降っていたように思われる。
明治二十七年(一八九四)に刊行され、長期にわたってベストセラーとなった志《し》賀《が》重《しげ》昂《たか》の『日本風景論』(岩波文庫)は、日本の気候や海流がいかに変化に富み、「水蒸気」がいかに日本列島に多量に発生し、日本人の美意識をいかに陰影に富んだものにしているかを、情熱的に語っている。
「湿気」といえばいやな感じがする。重昂はこれを「水蒸気」とハイカラに言いかえ、日本人が古くから見慣れてきた陳《ちん》腐《ぷ》な春夏秋冬の風景を、新しい感覚、新しい観点から見ることを教えた。彼はたとえば芭《ば》蕉《しよう》の句「霧《きり》時雨《しぐれ》富士をみぬ日ぞ面《おも》白《しろ》き」を引きながら、水蒸気が風景を蔽《おお》い隠《かく》してしまったときの「面白さ」に読者の注意をうながしている。重昂の指《し》摘《てき》は、イギリスの大画家ターナー(一七七五―一八五一)が、霧や雨の中に見え隠れする塔や船や列車を描《えが》いて、すばらしい水蒸気の世界をとらえたのにも比すべき、日本の風土の再発見だった。
また、たとえば横《よこ》山《やま》大《たい》観《かん》の代表作、四十メートル近い長巻の大作である『生《せい》々《せい》流《る》転《てん》』(重文)は、滝となって落ち、小川から大河に、そして海に注《そそ》ぐとやがて空に昇《のぼ》って雲となり、再び地上に落下する水の流転の一生を描いている。雨や蒸気に煙る朦《もう》朧《ろう》とした山や村落、そこを縫《ぬ》って市街に流れ、また浜辺の漁師たちに語りかけるような水の生々流転は、そのまま大観自身の老《ろう》荘《そう》思想の自己表現でもあったという点で、「水」がいかに深く日本人の生の哲学と結びついているかを示す好例となっている。
冬の夢のおどろきはつる曙《あけぼの》に
春のうつつのまづ見ゆるかな
藤《ふじ》原《わらの》良《よし》経《つね》
冬が果て、春がやってきた、その喜びをうたうのが歌の主眼だが、表現の繊《せん》細《さい》な組みたてに非《ひ》凡《ぼん》な詩才がありありと見える。歌全体を支えているのは「冬の夢」と「春のうつつ」の対比だが、冬が春に転じ、夢が現《うつつ》に変る動きのとらえ方に作者の手腕が存分に発揮されている。「おどろき」はハッと目覚めること。冬の夢がハッと目覚めてある朝果てた、その曙の空にこそ、春の最初の訪《おとず》れがあった、というのが歌のこころである。言いかえれば、冬の夢がふと覚めて、春の現実がまずは春の曙のすがたでやってきたのだが、それをこのように優《ゆう》艶《えん》にとらえた歌は稀《ま》れだろう。
(『秋篠月清集』)
珍《めづ》らしき春にいつしか打ち解けて
まづ物いふは雪の下《した》水《みづ》
源《みなもとの》 頼《より》政《まさ》
一年ぶりの珍客である春の訪れに「打ち解け」(氷が解ける意と、心がうち解ける意を重ねている)て話しかける雪解けの水を詠《よ》む。氷の下を流れてゆくせせらぎを聞くのは、いつの時代でも心の躍《おど》るものだろう。頼政は平安末期の源氏の武将で、文武ともにすぐれていた。逸《いつ》話《わ》も多く、宮中で怪鳥鵺《ぬえ》を射落したといわれる武勇談は有名。保《ほう》元《げん》・平《へい》治《じ》の乱《らん》の功労者だが、のち出《しゆつ》家《け》して源《げん》三《ざん》位《み》入道と称した。平《たいらの》清《きよ》盛《もり》の横暴を憤《いきどお》って後《ご》白《しら》河《かわ》天皇皇子以《もち》仁《ひと》王(式《しき》子《し》内親王兄)を奉じて挙兵したが宇治で敗れ、平等院で自決した。その子女には歌人の仲《なか》綱《つな》、二条院讃岐《さぬき》がある。
(『頼政集』)
陽《かげ》炎《ろふ》や取りつきかぬる雪の上
山《やま》本《もと》荷《か》兮《けい》
雪の降ったあと、晴天の空の下では陽光が雪に照り映え、見渡すとうらうらと暖かい日《ひ》射《ざ》しを浴びて陽炎があちらこちらにゆらめいている。「取りつきかぬる」という表現は、積っている雪に、つかず離れず揺らぐ陽炎の様《よう》子《す》をとらえて鋭《するど》い。荷兮は名古屋で生まれ、その地で医者を開業していた芭《ば》蕉《しよう》門の俳人。蕉門の七部集のうち最初の三集『冬の日』『春の日』『阿《あ》羅《ら》野《の》』を編むなどの活躍を示した人物だが、やがて蕉風に反目し、のち反蕉風的な『ひるねの種』などを編んだ。しかし蕉門俳人らと離反した晩年は、結局孤立の歳月だった。
(『猿蓑』)
薄《うす》く濃《こ》き野べの緑の若草に
跡《あと》まで見ゆる雪のむら消《ぎ》え
宮《く》内《ない》卿《きよう》
宮内卿は鎌倉前期の女流歌人。若くして後《ご》鳥《と》羽《ば》院に出仕し、色彩感に溢《あふ》れたたくみな詠《えい》風《ふう》で藤《ふじ》原《わらの》俊《しゆん》成《ぜいの》女《むすめ》と並び称されたが、二十歳前後で夭《よう》折《せつ》したらしい。生没年いずれも未詳である。野辺の若草を見渡すと、薄いところ濃いところがある。薄い緑はたぶんあとあとまで雪が残っていたところだろう。反対に濃い緑は、早く雪が消えて若草が真っ先に萌《も》え出たところだろう。雪はもうとうに消えたが、「雪のむら消え」の痕《こん》跡《せき》は、野辺の緑のこんなまだらなさまになお残っている。目前の春《はる》景《げ》色《しき》から同じ野の雪景色の美しさを回想的に連想した歌で、発想は理智的だが、歌はさすがに優美。
(『新古今集』)
にぎはしき雪《ゆき》解《げ》雫《しづく》の伽《が》藍《らん》かな
阿《あ》波《わ》野《の》青《せい》畝《ほ》
作者は奈良県高取に生まれ、現代俳壇にそびえたつ巨匠になった人である。生まれ育った土地柄《がら》から古寺に関わる秀作が多い。この句もそれで、大和《やまと》一帯の寺での矚《しよく》目《もく》吟《ぎん》だろう。堂々たる伽藍の屋根から、きらきら輝《かがや》く雪解けの雫がにぎやかに落ち続ける。何ともいえぬ喜びが感じられる句だ。雪解けの雫を「雪解雫」とつづめた語法は、初五の「にぎはしき」の語勢とうまく釣り合っている。
青畝は大正初期以来高浜虚《きよ》子《し》に師事し、大正末期・昭和初期の「ホトトギス」のいわゆる四S(秋《しゆう》桜《おう》子《し》、誓《せい》子《し》、素《す》十《じゆう》、青畝)の一人として活躍した。老来ますます自在な詠《よ》みぶりを示した。
(『万両』)
春立つやそゞろ心《ごころ》の火桶抱く
高《たか》浜《はま》年《とし》尾《お》
「春立つ」は立春。現在の太陽暦では、およそ二月四日ごろにあたる。「そぞろ心」は、すべきことがきちんと決まっていないで、心があてどなく揺れ動いているような状態を「そぞろ」という。
高浜虚《きよ》子《し》の長男年尾は、年譜によると少年期から謡曲、活動写真、落語に親しむなど、利発で早熟だった。小樽高商では作家伊《い》藤《とう》整《せい》と同級生だった。英訳でツルゲーネフ全集を読む一方、長唄を習ったりもしたという。この句は大正十五年(一九二六)二十五歳当時、旭シルクに就職して神戸にいた当時の作だが、そぞろ心のあてどなさで立春の日に火桶を抱いている自画像には、若者の倦《けん》怠《たい》感と二世の老成ぶりとが重なっていて、陰《いん》翳《えい》がある。
(『年尾句集』)
春雪の暫《しばら》く降るや海の上
前《まえ》田《だ》普《ふ》羅《ら》
普羅には『春寒浅間山』『飛紬《つむぎ》』『能登蒼《あお》し』の三部作風の句集がある。愛する越中・飛・信州の、とくに山嶽を詠んだ句を集めたものである。彼の清爽高《こう》邁《まい》な作風は、大正・昭和俳壇にそそり立っている。
普羅は東京生まれとも横浜生まれともいわれているが、年少の時父母が台湾に移住したため東京の親戚にあずけられ、開成中学から早稲田大学文科に進んだ。大学は中退し、横浜で職についた。やがて報知新聞記者となり、富山支局に赴任した。多年越中に住んで作った句は、風味も切れ味もいい。この句の海も北陸の早春の海だろう。いっとき降ってやむ春雪。優しく胸にしみる作である。
(『新訂普羅句集』)
水に浮く柄《ひ》杓《しやく》の上の春の雪
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
俳句の魅力が、取りあげた素材の組み合わせ方、そのさりげない物と物の出合いの示す新鮮さにあることを、実作によってあざやかに示している句である。
虚子の句には、小さな事物を通して大きな世界を一気に暗示する句が多い。「ものの芽のあらはれ出でし大事かな」と吟じている通りである。「蝶々のもの食ふ音の静かさよ」「桐一《ひと》葉《は》日当りながら落ちにけり」「蛇逃げて我を見し眼の草に残る」。右の句も同じ。浮く柄杓がすでに軽い。その上にふわりと積もった春雪はさらに軽い。そして句が暗示するのは、一本の柄杓の上に乗っている大きくて軽い春そのもの。
(『五百句』)
解《とけ》て行《ゆく》物みな青しはるの雪
田《た》上《がみ》菊《きく》舎《しや》
俳句を作り始めのういういしい時期に、ふとこんな句が出来たら嬉しかろうな、という気がする。動きを内に秘めている表現の魅力である。春雪の下に覆《おお》われていた若草が、みずみずしい青さに力のみなぎりを見せてつぎつぎに現れ出てくる雪解け。作者の新生の喜びまで伝わってくるような句である。若くして夫を失い、出家して後半生を諸国に巡歴、俳家・文人として闊《かつ》達《たつ》に生きた天明期長州生まれの菊舎(菊舎尼《に》ともよばれる)の、これは三十代初めのころの作。
(『手折菊』)
一枚の餅《もち》のごとくに雪残る
川《かわ》端《ばた》茅《ぼう》舎《しや》
『新古今集』春の歌に、二十代前半で夭折した女流宮内卿の有名な残雪の歌がある。「薄く濃き野べの緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消《ぎ》え」。若草の緑の濃淡を通じ、むら消えしていった残雪の積もり具合を想像する繊細な和歌だった。こちらはまた対照的に簡潔そのものの残雪の景。王朝和歌の優美と現代俳句の力強さと。写生がそのまま諧《かい》謔《ぎやく》に通じているところがある。茅舎は画家の川《かわ》端《ばた》龍《りゆう》子《し》の異母弟で一度は自らも画家を志した人。宮内卿も母方の祖父は画家だった。両者ともに作品に絵画的な所があるのは面白い。
(『華厳』)
流れ来て氷を砕く氷かな
吉《きつ》川《かわ》五《ご》明《めい》
五明は十八世紀のいわゆる中興期俳壇の一人。秋田の豪商那波家に生まれ、長じて秋田藩御用商人吉川惣右衛門の養子となった。秋田地方の四季を背景に詠まれた彼の句には、いかにも北国らしい風物や行事が的確に描写されているものが多い。与謝蕪《ぶ》村《そん》と同時代人で、蕪村の影響を受けた作風で、全国に名を知られた人気俳人だった。
春、大きな河の岸などに流氷が流れ寄る。氷と氷が相うち相砕けつつ、流れに乗ってまた遠ざかってゆく。その力強い光景はいよいよ春が到来したと告げる呼び声なのだ。
(『近世俳句俳文集』)
泡のびて一動きしぬ薄《うす》氷《こほり》
高《たか》野《の》素《す》十《じゆう》
氷は冬の季語だが「薄氷」(うすらい・うすこおり)は、春先氷が薄々と張る感触をいう語として、初春の季語に用いる。この句、「泡のびて一動きしぬ」という把握が、薄氷のいかにももろげな様子を鋭くとらえると同時に、泡の動きで春の空気の揺らぎを描ききっている。
素十は東京大学医学部を卒業して同大学法医学教室に入局した。この教室で学んでいた水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》らのすすめで俳句を始め、高浜虚《きよ》子《し》の「ホトトギス」でぐんぐん力をつけていった。『初《はつ》鴉《がらす》』は第一句集だが、虚子はこの句集の序文で「磁石が鉄を吸ふごとく自然は素十君の胸に飛び込んで来る」「句に光がある」と激賞している。
(『初鴉』)
雪とけてくりくりしたる月夜かな
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
北信濃の水内《みのち》郡柏《かしわ》原《ばら》村の中農の子一茶は、俳諧宗《そう》匠《しよう》として立つべく青・壮年期を江戸で苦闘したが、志成らず五十代初めに帰郷、六十五で死去した。流転の悲哀、処世の苦しみ多い生涯だったが、句には天性不屈の精神のもつ明るさ、開放感がある。
南国の人にとっては珍しさと楽しさを運んでくる雪だが、一茶の句には、雪への憎しみの句も多い。「雪ちるやおどけも言へぬ信濃空」。それだけに雪どけの喜びは格別だ。「雪とけて村一ぱいの子どもかな」。
(『七番日記』)
みしま江や霜《しも》もまだひぬ蘆《あし》の葉に
つのぐむほどの春風ぞ吹く
源《みなもとの》 通《みち》光《てる》
詞《ことば》書《がき》に「詩をつくらせて歌に合せ侍《はべ》りしに」とある。この詩《しい》歌《か》合《あわせ》は、漢詩と和歌を付け合わせて優《ゆう》劣《れつ》を競う催《もよお》しで、右の歌は「水郷春望」の題によって作られた。
「みしま江」は摂《せつ》津《つ》(大阪)の三島郡あたりの淀《よど》川《がわ》沿岸をいう。古来蘆の名所で知られる歌《うた》枕《まくら》。蘆の葉にはまだ霜も消えず、冬がたゆたっているが、その蘆の葉が「つのぐむ」ほどの――蘆の若芽の萌《も》えるさまが鹿などのつのの生える様《よう》子《す》に似ているところから出た言葉――春風はもうその上を渡っている。一首の眼目が「つのぐむほどの」という語にあることはいうまでもない。
(『新古今集』)
旅にして誰《たれ》にかたらむ遠つあふみ
いなさ細江の春の明ぼの
香《か》川《がわ》景《かげ》樹《き》
景樹は江戸後期の代表的な歌人・歌学者。『古《こ》今《きん》集《しゆう》』を尊んだが、自《みずか》らは「しらべ」を歌の本質とする歌論をとなえ、京都を中心に各地に大勢力を張る。別号を桂《けい》園《えん》と称し、一門は桂園派と呼ばれた。
一人旅に見る入《いり》江《え》の春暁は感興も一段ときわだつ思いだが、一人旅ゆえに誰《だれ》にそれを語るべくもない。そのつぶやきの面《おも》白《しろ》味《み》が一首の眼目であろう。「遠つあふみ」(遠つ淡海で遠《とお》江《とうみ》国《のくに》、今の静岡県西部、浜名湖一帯の旧国名)「いなさ細江」(引佐細江で、浜名湖の入口)のような地名の響《ひび》きの魅力が一首の味わいをこまやかに深めている。
(『桂園一枝』)
千《ちく》曲《ま》川《がは》柳霞《かす》みて/春浅く水流れたり/たゞひとり岩をめぐりて/この岸に愁《うれひ》を繋《つな》ぐ
島《しま》崎《ざき》藤《とう》村《そん》
有名な「千曲川旅情の歌」の最終連。千曲川の古城跡にたたずみ、戦国武将の栄《えい》枯《こ》のあとを回想し、「嗚《あ》呼《あ》古城なにをか語り/岸の波なにをか答ふ」と嘆じながら、近代の旅人の愁いを歌いあげている詩だが、藤村はこの詩をのちに「小《こ》諸《もろ》なる古城のほとり」と合わせて「千曲川旅情の歌」一・二番とした。これはそのうちの二番に当る詩の最終連というわけである。藤村のうたいぶりは、漢詩的な対句表現法を多用したり、和歌的語法を効果的に用いたりして、伝統的な詩の美感や技法をたくみに近代的表現の中に移し得ている。
(『落梅集』)
ならさか の いし の ほとけ の おとがひに こさめ ながるる はる は き に けり
会《あい》津《づ》八《や》一《いち》
奈良市の北、般《はん》若《にや》寺《じ》を経《へ》て木津へ出る坂が奈良坂。その上り口の右の路《ろ》傍《ぼう》に、「夕日地蔵」と土地の人の呼ぶ石仏が立っている。この歌はその石仏を詠《よ》んだものらしい。春のはじめ、石仏のおとがい(下あご)に小雨がしとしと降りかかっている。冷たい雨ながら、その細い雨足はもう春の到来を告げている。八一は北の京都に比して奈良を南《なん》京《きよう》とよび、有名な歌集『南京新唱』をはじめとして、この地を讃《さん》嘆《たん》する歌を数多く遺《のこ》した。美術史家、書家としても近代第一級の文人だったので、奈良一帯だけでも彼の書による歌碑は各地にあって愛されている。
(『南京新唱』)
春の寒さたとへば蕗《ふき》の苦《にがみ》かな
夏《なつ》目《め》成《せい》美《び》
成美は江戸後期の俳人。「俳諧独行の旅人」を自称したが、洗練された作風で江戸の大家と仰がれる。浅草蔵《くら》前《まえ》の富裕な札《ふだ》差《さし》井筒屋の五代目八郎右衛門。弱冠十六歳で井筒屋の主人となるが、二年後痛《つう》風《ふう》のため右足の自由を失った。一茶はじめ俳人の面倒をよく見たが、特に一茶はしばしば成美のもとに寄食している。右足の自由を失ったため、一時不随斎と号したりした。そんな身体の条件も感覚を一層鋭くさせるように働いたかもしれない。
この句、春の余寒をたとえて、さしずめ蕗の苦みか、といった。譬喩につきものの理の働きを上回る感覚のよさで、すっきり納得させる手腕。
(『成美家集』)
かげろふやほろほろ落つる岸の砂
服《はつ》部《とり》土《ど》芳《ほう》
土芳は、芭《ば》蕉《しよう》と同じ伊《い》賀《が》上野に生まれた江戸前期の俳人。服部家の養子となり藤堂藩に仕《つか》えたが、少年時代に知り合っていたという芭蕉と二十年ぶりに再会し、藩士の身分を返上して蕉門に入り俳諧師となる。その折芭蕉から「命二ツの中に生きたる桜かな」の句を贈られた。以後没するまで、いわゆる伊賀蕉門の中心的存在として活躍し、俳論書『三《さん》冊《ぞう》子《し》』に蕉風の真《しん》髄《ずい》をよく伝えた。うららかな春の日《ひ》射《ざ》しにかげろうが揺れる。そんな日射しの中で岸の砂がほろほろ落ちる。ただそれだけの情景であるが、「ほろほろ」という形容は、なるほど春のそこはかとない愁《うれ》いをとらえ得ているとあらためて感じさせられる。
(『猿蓑』)
陽《かげ》炎《ろふ》や塚より外《そと》に住むばかり
内《ない》藤《とう》丈《じよう》草《そう》
句には「芭蕉翁の墳《つか》に詣《まう》でてわが病身を思ふ」と前《まえ》書《がき》がある。「塚」は墓。春の昼日中、先師の墓前に詣でて陽炎がもえているのに見入っていた。陽炎はまことにはかない感じがする。見ているうちに、めくるめくように生のはかなさに打たれたのである。この私もやがては師を追って土に還《かえ》って行く身なのだ。今はただ墓の外に住んでいるだけのこと、と。まことにしみじみとした句だが、その詠《よ》みぶりは実に淡《たん》々《たん》としている。ほとんどかすかな溜《ため》息《いき》そのもののような風《ふ》情《ぜい》である。それが一層この句の内容にかなっていて、丈草という俳人の力量をいかんなく示している。
(『丈草発句集』)
暁も埋《うづ》めたまゝや朧《おぼろ》月《づき》
白《しら》井《い》鳥《ちよう》酔《すい》
鳥酔は筑前国福岡の商人だったが、加《か》舎《や》白《しら》雄《お》、榎《えの》本《もと》星《せい》布《ふ》尼《に》といった天明期江戸俳壇の傑出した俳人たちを門人に持った。本人の句も、斬新な表現にはさすがと思わせるものがある。この句、水気をぼうっと含んだ春の夜明けのおぼろ月を詠んでいるが、月の厚ぼったく広がる光を、あれは暁の体をまだ中に埋めているのだ、と詠んでいる。俳句では一語よく一句全体を生かしも殺しもする。この句の「暁も埋めたまゝや」はその一例。
(『若松原』)
森の中に川の瀬見ゆる春の月
大《おお》須《す》賀《が》乙《おつ》字《じ》
乙字は明治十四年(一八八一)福島県生まれ、大正九年(一九二〇)没の俳人。子《し》規《き》の高弟河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》に師事し、東京大学国文科在学中すでに喜《き》谷《たに》六《りつ》花《か》、小沢碧《へき》童《どう》とともに碧《へき》門《もん》三羽烏の一人とうたわれていた。先鋭な俳論によって、師碧梧桐を「新傾向俳句」に走らせたほどだが、のちに師と離反、新傾向をも守《しゆ》旧《きゆう》派をも激しく批判するにいたる。理論家の印象が強いが、その句は柔軟な感性で的確に自然を把握し、見るべき作が多い。これは大学時代の作。写生句だが、情感豊か。
(『乙字句集』)
あたたかな雨がふるなり枯《かれ》葎《むぐら》
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》
作句手控え帳『寒山落木』の巻一、明治二十三(一八九〇)年俳句稿に出る。「枯葎」は冬の季語だが、子規自身は「あたたか」(春の季語)に重きをおき、この句を春季に入れている。かたまって枯れている庭先の雑草に降りかかる雨の、どこか春めいてうるんだ感じが句の中心だと、作者自らは考えたわけで、味わってみればまさにその通り。この句を作った当時の年齢はまだ習作時代だが、句には大らかな風格がある。
(『子規全集』)
しら魚やあさまに明くる舟の中
桜《さくら》井《い》吏《り》登《とう》
いかにも浅春の味わいのある句。白魚漁に出た夜明けの舟の中が「あさまに」明けてくるというのだ。夜が浅々と明けそめたのを「朝間に明くる」と言ったのだが、この語感の微妙な風味が一句の眼目だろう。透《す》けるような白魚の体も、うっすらと明けてくる夜明けの光も、この一語の中に言い含められている。
吏登は服部嵐《らん》雪《せつ》門で嵐雪の別号雪《せつ》中《ちゆう》庵《あん》を継いだが、病弱を理由にこの号を弟子の大島蓼《りよう》太《た》に譲り、閑静な晩年を送った。生前、自作十八句のみを残して句稿を焼却したが、没後門人たちが『吏登句集』を編んだ。江戸深川のわずか二畳の部屋に住んだという清貧風狂の俳人だった。
(『吏登句集』)
春の雲人に行《ゆく》方《へ》を聴くごとし
飯《いい》田《だ》龍《りゆう》太《た》
飯田龍太は、現代俳人の中でも感覚の微妙な働きに敏感な言語表現をなしうる人として抜群のあざやかさを持つ俳人である。
春夏秋冬、日本の空で湧《わ》いては流れ、消えてゆく雲。季節によって形態は微妙に、あるいは大きく異なる。気温・湿度・風の強弱が季節ごとに違うのに合わせ、雲も百態を演じて人の目を奪う。この句、雲が人に「私はどこへ行くんでしょうね」と尋ねているようだ、というのである。そんなにのどかで明るく、気軽に消えてもゆけそうな雲なら、春の雲に決まっていよう。いかにも軽い表現が、春の雲の風情をよくとらえている。
(『麓の人』)
東《こ》風《ち》ふかばにほひおこせよ梅の花
あるじなしとて春を忘るな
菅《すが》原《わらの》道《みち》真《ざね》
菅原道真は平安初期の詩人、文《もん》章《じよう》博《は》士《かせ》。右大臣の位にまでのぼったが、摂関家藤原氏の讒《ざん》言《げん》にあい、大《だ》宰《ざいの》権《ごんの》帥《そつ》に左《さ》遷《せん》、配所で没した。その死がもとで「天《てん》神《じん》」として祭られるようになり、太宰府天満宮、北野天神の天神信仰は今《こん》日《にち》にまで及んでいる。左遷以前の詩文が『菅《かん》家《け》文《ぶん》草《そう》』に、以後の作は『菅家後集』に収められている。『三代実録』『類《るい》聚《じゆう》国《こ》史《くし》』などの史書も編《へん》纂《さん》した。道真が梅を愛したことは有名で、この歌は配所におもむく時、庭の梅に詠《よ》みかけた歌として、『大《おお》鏡《かがみ》』の藤《ふじ》原《わらの》時《とき》平《ひら》伝に語られる道真失脚悲話とともに有名である。「おこす」は「遣す」で、送ってよこすこと。「起こす」ではない。
(『拾遺集』)
梅の花夢《いめ》に語らく風《み》流《や》びたる
花と我《あれ》思《も》ふ酒に浮《うか》べこそ
よみ人しらず
作者を大《おお》伴《ともの》旅《たび》人《と》、その妹の坂《さかの》上《うえの》郎《いら》女《つめ》などと推定する諸説がある。旅人説が妥《だ》当《とう》なように思われるが、『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』では未詳としているのでそれに従う。旅人は九州大《だ》宰《ざい》府《ふ》に長官として赴《ふ》任《にん》中の天《てん》平《ぴよう》二年(七三〇)正月、管下の下僚三十一人を自邸に集めて邸内の梅園で梅見の宴会をひらき、一人ずつ順に梅花を讃《たた》える歌を詠《よ》ませた。中国趣味に傾《けい》倒《とう》していた彼は、こうして日本における風流な文雅の宴の先例を作ったのである。さてこの歌は、後日それらの歌に唱和するつもりで何者かが作ったとされるもの。梅の花が夢に出てきてこういったというのだ、「私は風流《みやび》な花でしょう、ですからどうか酒に浮かべて下さいね」。
(『万葉集』)
君ならで誰《たれ》にか見せむ梅の花
色をも香《か》をもしる人ぞしる
紀《きの》 友《とも》則《のり》
題に「梅の花を折りて人におくりける」とあるように、梅の花を折って人に贈る時に添《そ》えた挨拶の歌である。あなた以外の誰に見せようか、この梅の花を。色をも香をも深く味わえる人にしか味わうことはできないだろうから。梅の花をたたえつつ、実はそれ以上に、贈られる人の心の深さをたたえている歌。「しる人ぞしる」という表現は、この古歌によって、日本語に根づいたのではないだろうか。
友則は平安前期の歌人。醍《だい》醐《ご》天皇の勅命で紀《きの》貫《つら》之《ゆき》、凡《おお》河《しこ》内《うち》躬《のみ》恒《つね》、壬《み》生《ぶの》忠《ただ》岑《みね》とともに『古《こ》今《きん》和《わ》歌《か》集《しゆう》』撰《せん》進《しん》に当ったが、完成を見ずに没した。
(『古今集』)
人はいさ心も知らずふるさとは
花ぞ昔の香《か》ににほひける
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
人の心は、さあ知るすべもない。でもこのなつかしい家の梅の花は、昔に変らずかんばしく香《かお》って私を迎えている。貫之の歌の中でも特に有名な一首である。この詞《ことば》書《がき》は『古今集』の中でも長いものの一つで、一種物語的な味わいがある。貫之が以前初《はつ》瀬《せ》詣《もうで》のたびに泊《とま》っていた家に久しぶりに立ち寄る。と、家のあるじは「この家は昔に変らずちゃんとありますのに」と貫之の疎《そ》遠《えん》を責めた。貫之は折から花を咲かせている梅の枝を折って、この歌をつけて返したというのである。家の「あるじ」を女と想像すると、歌の感じが一層艶《えん》にはなやぐ。
(『古今集』)
春の夜のやみはあやなし梅の花
色こそ見えね香《か》やはかくるる
凡《おお》河《しこ》内《うち》躬《のみ》恒《つね》
表向きの意味をいえば次のようになろうか――春の夜の闇《やみ》はほんとに筋《すじ》が通らない(「あやなし」)、無《む》駄《だ》なことをしているものだ。闇に隠《かく》れて、たしかに梅の花は目には見えないが、どうしてどうして、肝《かん》腎《じん》の芳《ほう》香《こう》は鮮《あざ》やかに花の在《あ》りかを示しているではないか――と。さて、少し角度を変えてよめばこれは恋の歌ともよめる。つまり、春夜の闇とは深窓の娘を守り隠している母親のこと。歌のこころは、無駄なことですよ、いくら隠したって娘さんの魅力(香)はとうに外に現れてしまっているんですから、ということになる。『古今集』でよく用いられ自然と人事を重ね合わす技法である。
(『古今集』)
梅の花にほひをうつす袖《そで》のうへに
軒《のき》漏《も》る月のかげぞあらそふ
藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》
「軒漏る月」は、軒のひさしの間から漏れてくる月光で、荒《こう》涼《りよう》たる中にえもいわれぬ繊《せん》細《さい》さも添《そ》うた美しさを表現する。「かげぞあらそふ」は、月の光がわが袖の上で梅の芳《ほう》香《こう》と艶《えん》を競うのである。作者の意識のうちには、恋の思い出多い家の荒《あ》れた軒《のき》端《ば》に薫《かお》る梅を通して、時の移ろいをなげく男の、ひそかに流す涙の露《つゆ》にも月の光が映っている、というような物語的情景があったと思われる。『伊《い》勢《せ》物《もの》語《がたり》』四段の有名な在《あり》原《わらの》業《なり》平《ひら》の歌「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」を心に置きながら、『新古今集』時代独特の優艶な物語世界を作りあげている一首である。
(『新古今集』)
梅が香《か》にむかしをとへば春の月
こたへぬかげぞ袖《そで》にうつれる
藤《ふじ》原《わらの》家《いえ》隆《たか》
藤原定《てい》家《か》の「梅の花にほひをうつす」と並んで『新古今集』に採られている。
梅の花は今も昔に変らず薫《かお》っているので、思わず、あの懐《なつ》かしい昔を覚えているかと月に問いかけてしまった。が、春の月はだまって答えず、ただその光が袖に映るのみである。「むかし」はその人にとって特別な意味をもっていた懐かしい昔を指す。「春の月」は、その懐かしい昔を知ってくれている月の意。「かげ」は月の光。「袖にうつれる」は、袖にこぼした涙に月が映ったのだ。定家の歌と共に、「梅の香」と「月光」との競演という趣《しゆ》向《こう》には当時の美意識の一つの類型があるといえよう。
(『新古今集』)
東岸西岸の柳 遅速同じからず
南枝北枝の梅 開落已《すで》に異なり
保《ほう》 胤《いん》
作者は慶《よし》滋《しげの》保《やす》胤《たね》、平安中期の著名な文人で、その作『池《ち》亭《てい》記《き》』は鋭《するど》く社会の変《へん》貌《ぼう》をとらえて鴨《かもの》長《ちよう》明《めい》の『方《ほう》丈《じよう》記《き》』に影響を与えた。保胤は白《はく》居《きよ》易《い》に傾《けい》倒《とう》し、この詩も白居易の詩句「北の簷《のき》 梅晩《ゆふべ》に白く 東の岸 柳先づ青みたり」や「大《たい》〓ゆう嶺上の海 南枝落ち 北枝開く」を踏《ふ》まえているが、謡曲「東《とう》岸《がん》居《こ》士《じ》」その他に多く引かれ愛誦された。
同じ春とはいえ、地形や場所によって季節の到来には遅速がある。開く花あれば散る花あり。造化の妙《みよう》はそんな違いにも現れて感興の源泉となる。なお、蕪《ぶ》村《そん》の「二《ふた》もとの梅に遅速を愛すかな」はこの保胤の詩句を踏んだ句。
(『和漢朗詠集』)
たくあんの波利と音して梅ひらく
加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》
「波利」はハリと読むのかそれともパリか。後者の方が実際の音には近いが、この句の場合にはあえてハリと読むべきだろう。たぶん作者は、「波利」と意識的に漢字で書いて、パリという音をうしろに漂わせながら、ハリの音に軽やかに遊んでいるのである。その結果「梅ひらく」がこの音と優しく響き合う。たくあんと梅の花がこんな形で結びつけられるのを見ることに、詩を読むだいご味もあるといえる。
楸邨は晩年になってからの句で、それまでの句の特徴をなしていた人生との正面切った対決と思索という姿勢から、ごく自然に周囲の事物に融《と》けこみ、自らを解き放つ姿勢へと移っていった。
(『吹越』)
青天に紅梅晩年の仰ぎ癖《ぐせ》
西《さい》東《とう》三《さん》鬼《き》
三鬼は昭和三十七年(一九六二)四月一日、胃《い》癌《がん》のため六十一歳で没した。俳人としてはまさに晩年の充実を迎えようとする年齢だった。死はあまりにも早く来すぎたという感じがある。彼の作風は、新興俳句時代から戦中・戦後と何段階かの変化を経て、句の出《で》来《き》映《ば》えにもかなりでこぼこがある。それだけに病に冒された元医師の俳人は無念の思いだったろう。「晩年の仰ぎ癖」には、ふと気づいたこの姿勢に対する自嘲も憐《あわ》れみもこもっている。「青天に紅梅」とは思いきって晴れやかな風景である。晩年になってふと気づく自らの「仰ぎ癖」は、今までほとんど知らなかった晴れやかな世界を人生の終盤に至ってはじめて知った皮肉なめぐり合わせに対する微苦笑もこもるようだ。
(『西東三鬼集』)
梅の奥に誰《たれ》やら住んで幽《かす》かな灯《ひ》
夏《なつ》目《め》漱《そう》石《せき》
明治三十二年(一八九九)二月作。「正岡子《し》規《き》へ送りたる句稿 その三十三」の中の一句。漱石はこの時、熊本の五高講師になって三年目だった。毎月東京の子規あてに句稿を送ったが、病床の友に句の添削をさせることで子規の身辺をにぎやかにしようという友情のあらわれだった。この月には「梅花百五句」と題し、子規あて一挙に百五もの梅の句を送っている。
梅の香の漂う夜の庭。すかし見ると林の奥の方にかすかに灯火が洩《も》れて、だれか知らん、ゆかしい人がひっそり住んでいるらしい。愁《うれ》いを帯びたあこがれの気配がたゆたう。
(『漱石全集』)
玉《ぎよく》蘭《らん》と大《たい》雅《が》と語る梅の花
夏《なつ》目《め》漱《そう》石《せき》
「玉蘭」は正しくは玉瀾、日本南画の祖にして第一人者たる池《いけの》大《たい》雅《が》の愛妻で、自らも画家。この二人ほど愛すべき脱俗の逸話に富んだ芸術家夫婦も他になかろう。二人のむつまじい暮らしを詠んだこの句、香り高く清らかな梅の花を配したところが心憎い。元来は漱石が病床の子《し》規《き》に添削を求めて送った梅花百五句中の一句だが、原作は「語る」が「住んで」だった。「語る」と変えると、とたんに大雅夫妻の肖像に息が通う。子規添削の腕、おみごと。
(『漱石全集』)
灰捨《すて》て白梅うるむ垣ねかな
野《の》沢《ざわ》凡《ぼん》兆《ちよう》
蕉《しよう》風《ふう》の一頂点をなす蕉門の撰集が『猿《さる》蓑《みの》』である。凡兆は向《むか》井《い》去《きよ》来《らい》とともにこの集を編んだ人。芭蕉門人中、近代的な意味での印象鮮《あざ》やかな写生句では抜群だった。芥川龍之介なども凡兆を愛読した。
垣根にぱっと灰を捨てる。一瞬灰が舞いあがる。その時ふと、かたわらの白梅の花がかげりを帯びてうるんだようにみえたのである。なんとも鋭敏で繊細な感覚だが、こうして句に言い留められてみれば、確かにその感じが分かるのがまた見事。
(『猿蓑』)
梅でのむ茶屋も有《ある》べし死《し》出《で》の山
大《おお》高《たか》源《げん》吾《ご》
源吾の通称で有名なこの赤穂義士、名は忠雄、俳名を子《し》葉《よう》といった。水門沾《せん》徳《とく》の門人だが、沾徳は榎本其《き》角《かく》と長年きわめて親しく、その関係で子葉大高源吾も其角と親しかった。
この句は元禄十六年(一七〇三)二月四日、義士たち切腹の日に書き遺した辞世の句である。さぞや冥《めい》土《ど》にある死出の山にも梅は咲いていよう、その梅をさかなに酒をのむ茶屋もきっとあるだろうというのである。かつて辞世の句は、平静で諧《かい》謔《ぎやく》的でさえあるという伝統があった。源吾は酒好きでもあった。
(『近世俳句俳文集』)
梅の香や没《いり》日《ひ》に顔を消されつつ
小《こ》檜《ひ》山《やま》繁《しげ》子《こ》
繁子は、昭和六年(一九三一)旧樺太生まれの俳人。加藤楸《しゆう》邨《そん》に師事する。女学校在学中に終戦、内地に引き揚げた。故郷喪失の痛みを「故《ふる》郷《さと》は轍《わだち》にかかる蝶の翅《はね》」のような句に鋭く詠《よ》む。肺葉切除手術を受けて療養中に俳句を始めた。右の句、梅は花の香りを特に愛される木だが、その香に全身包まれつつ夕暮の底に沈みこんでゆく感覚を、「没日に顔を消されつつ」と言ったのは、鋭敏な発見である。
宵《よい》闇《やみ》の中でも梅の芳《ほう》香《こう》はゆかしく漂《ただ》って花の所在をおのずと明らかにするという現象は、漢詩でも、「暗(闇)香浮動」という成句として、昔から多くの詩歌人に愛された感覚だった。和歌、俳諧もその伝統を踏み、右の現代俳句もその流れにある。もっとも「暗香」という中国の語は、暗さとは本来無縁で、どこからともなく漂ってくる芳香の意だったのだが。
(『蝶まんだら』)
片隅で椿が梅を感じてゐる
林《はやし》原《ばら》耒《ら》井《いせい》
俳句というものは何とも面《おも》白《しろ》い景と情をつかむことができるものだと感じさせる句である。この句について解説は要るまい。「片隅で」という部分だけでも、想像すればいろいろなことが思われ、究極は上等な諧《かい》謔《ぎやく》の詩の面白さということになる。
耒井は明治二十年(一八八七)福井県に生まれ、昭和五十年(一九七五)に没した。号の耒井は本名の耕三の耕の字を分解したもの。旧制一高時代から夏《なつ》目《め》漱《そう》石《せき》の門に入り、漱石作品の校正を任されるなど愛《まな》弟《で》子《し》の一人であった。俳句は臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》の「石《しやく》楠《なげ》」に参加、論客として知られ、特に『俳句形式論』は重要である。
(『蘭鋳』)
椿《つばき》落ちて一僧笑ひ過ぎ行きぬ
堀《ほり》 麦《ばく》水《すい》
麦水は、江戸中期の中興期俳人の一人。加賀の金沢の商家に生まれ、のち町医者となった。芭蕉の遺風を慕い、特に芭蕉が李《り》白《はく》、杜《と》甫《ほ》、寒《かん》山《ざん》、白《はく》楽《らん》天《てん》などに学んで老荘趣味や漢詩調を積極的にとりいれた俳諧撰集『虚《みな》栗《しぐり》』時代を重視、当時に帰れと主張した。同書は蕉風開発の転機となった集。麦水はあまりに平俗化した蕉風末流を否定したわけである。この句もそういう人の作と知って読むと一層興味があろう。さてこの僧は、どこを過ぎてゆくのか。笑いは含み笑いか、はたまた高笑いか。
(『近世俳句俳文集』)
山ねむる山のふもとに海ねむる
かなしき春の国を旅ゆく
若《わか》山《やま》牧《ぼく》水《すい》
牧水初期歌集『別離』に「女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ、われその傍らにありて夜も昼も断えず歌ふ、明治四十年早春」との詞《ことば》書《がき》と共に七十六首の海と恋の歌が並んでいる。その中の一首。
この「女」は、実はすでに結婚していた女性で、年齢も牧水より年長だったが、胸部疾患で転地療養している時に早大の学生だった牧水と知り合い、牧水はたちまち彼女に恋してしまったのである。この恋愛は牧水に多大の苦悩とともに珠玉の青春哀傷歌をもたらして終わるが、恋の始まりの季節に歌われたこれらの歌は、傷つきやすい夢と不安を包んで、今なお愛誦されつづけている。
(『別離』)
花《はな》
梅の花夢《いめ》に語らく風《み》流《や》びたる
花と我《あれ》思《も》ふ酒に浮《うか》べこそ
『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』巻五(八五二)の歌である。作者名は出ていないが、大《おお》伴《ともの》旅《たび》人《と》ではないかと考えられる。梅の花が夢に出てきて、「私は風雅な花だと思いますよ、どうか酒に浮かべて下さい」と言ったというのである。
天《てん》平《ぴよう》二年(七三〇)正月十三日、筑《つく》紫《し》大《だ》宰《ざい》府《ふ》の長官である大伴旅人邸で、庭に咲いた梅を賞《め》でる観梅の宴が開かれた。招かれた客は、筑紫の国司や大宰府の職員たちで、筑《ちく》前《ぜんの》守《かみ》山《やまの》上《うえの》大《だい》夫《ぶ》(山上憶《おく》良《ら》)も招かれた一人だった。この宴会は主客合わせて三十二人。眼前の梅を題材に一首ずつ詠《よ》み合った。漢詩ではない、和歌の、つまりヤマトウタの分野での宴としては日本で最も早い時期のものとして、記念的な宴会でもあった。
旅人にとってもこの時の宴は印象的なものだったにちがいない。後日この日についての歌、「後に追ひて梅の歌に和《こた》ふる四首」を、旅人自身と考えられる作者によって付け加えている。引いた歌はその四首のうちの最後の歌である。
さて、「花」といえば桜を指すことに暗黙の了解が成り立つようになったのは平安初期のころからのようである。奈良から京都に移って一世紀足らずの間に、どういう経過をたどってか、そのような一種の常識が人々の間に根をおろした。
川《かわ》口《ぐち》久《ひさ》雄《お》博士の『花の宴―日本比較文学論集』(吉川弘文館)に、次のような指《し》摘《てき》がある。
「花の宴は、わが国では九世紀のはじめ嵯《さ》峨《が》朝《ちよう》宮《きゆう》廷《てい》で行われたのが公式にははじめで、神泉苑に行幸し、花見をして文人に詩を賦《ふ》せしめている。それに先立つ奈良朝では、名はないがそうした類似の詩酒の宴はひらかれている。それらは長《なが》屋《や》王《おう》宅佐宝楼で行われる初春もしくは暮春の私的な曲《きよく》宴《えん》でなければ、多くは三月三日の曲《きよく》水《すいの》宴《えん》である。これは中国六《りく》朝《ちよう》の遺《い》塵《じん》であることはいうまでもない。平《へい》城《ぜい》・嵯峨両朝の代にいたって曲水宴が、もっともわが国の生活にふさわしいものとして、いわば和風化して花の宴となり、花の宴で曲水詩をよむこともとり入れられる」。
淡《たん》々《たん》とのべられているが、さまざまな想念を刺《し》戟《げき》される一節である。
「曲宴」とはふつう天子が臣下に賜《たまわ》る比較的小規模の宴会をいう。「曲水宴」とは、庭苑内にうねうね屈曲させて作った小川に酒《しゆ》杯《はい》を流し、それが自分の前を流れすぎてしまわないうちに詩を作り、杯《さかずき》をとって酒を飲む風流の遊びで、平安朝貴族の住家の寝《しん》殿《でん》造《づくり》様式は、このような宴によく適していたので盛んに行われたらしい。つまり奈良朝の花の代表たる梅が平安朝では桜に地位をゆずるにつれて、宴も梅花の宴から花(桜)の宴に衣《ころも》替《が》えしていったことになる。
紀《きの》貫《つら》之《ゆき》の家に当代の代表歌人八名が集まり、「花浮春水」「燈懸水際明」「月入花灘暗」の三題によって競作した時のものとされる歌が残っている。「三月三日紀師匠曲水宴序序不書」という題で、日本古典全書の『土佐日記』の中に収められている。これについては、この宴の実在性に疑問を呈する山口博氏の見解もあるが、今は通説に従って取り上げてみる。というのも、この中には今の「花」の話題に関連する歌があるからで、「花浮春水」の中から凡《おお》河《しこ》内《うち》躬《のみ》恒《つね》、紀《きの》友《とも》則《のり》、貫之の三首を引いてみる。
花浮春水
やみがくれ岩間を分《わけ》て行《ゆく》水《みづ》の
声さへ花の香《か》にぞしみける     凡河内躬恒
山がくれ桜をぞ思ふ行く水に
香さへなつかし瀬々のまにまに   紀 友則
春なれば梅に桜をこきまぜて
流すみなせの河の香ぞする     紀 貫之
ふつう梅といえば香《かお》りである。その考え方で言えば、たとえば躬恒のこの宴での歌の「花の香」は梅の芳《ほう》香《こう》だということになる。ところが、友則や貫之の「香」となると、事はそれほど単純と言えない気がしてくる。
時期が旧暦の三月三日だから、梅には遅すぎるだろう。けれども、友則の歌を見ると、この曲水宴の当日に桜が彼らの眼前に咲いていたとは必ずしも思えないところがある。貫之の歌にいたっては、「梅に桜をこきまぜて」という形で、本来香りの強くない桜に、梅の芳香を意識的に加えたと思えるふしがないではない。友則の歌も、桜を「香」において歌おうとしている。おそらくは当時の新風だったはずである。
ということになれば、躬恒の歌の「花の香」も、単純に梅花と見なすわけにはいかないかもしれない。香る花なら梅、という常識でいえばその通りだろうが、ある常識を支えていた基盤そのものが変化しつつある時代には、「花」という言葉の内容も揺れ動いていると考えた方がいいようである。
「花の香」という概念自体に、いわば「和風化」が生じ、梅と桜が香りという局面においても「こきまぜ」られる形で、梅から桜への政権交替がなしとげられたことを、これらの歌は暗示しているように思われる。「三月三日」の宴は伊《だ》達《て》に三月三日のものであるわけではなかった。
花の宴は同時に詩《しい》歌《か》管《かん》絃《げん》舞《ぶ》踏《とう》の宴であった。その後久しいあいだ、春たけなわの三月はじめになると、紫《し》宸《しん》殿《でん》を中心に花の宴が重要な行事となる。
このような形で、「花」は、詩歌の世界でも最重要の文明的・文化的象徴性を帯びた景物となっていった。それは、桜の花がそうなっていったことであると同時に、「花」という語そのものがそうなってゆくことであった。
現実にも「花」が人々の生活に関わる深さは、現代人の想像をはるかに越えるものがあったことも指《し》摘《てき》しておかねばなるまい。農耕民族としての日本人にとっては、桜の花がいつもよりも早く散ることは、稲の実りにとって悪い知らせだと考えられていたとされるからである。花が散るのを惜《お》しむ心は、単純に美しいものの散るのを惜しむ心だけでなく、もっと切実に生活上の先行きの不安をも秘めていた。
だからこそ、花は一方では人の青春の輝《かがや》かしさや世俗的な栄達、幸運、満足を象徴すると同時に、生のはかなさ、名声や美のもろさ、人の心の頼りなさ、いつわりや上べだけの愛情、不安な心の象徴でもあったのである。貴重なものほどまたはかなく去ってゆくものだった。
それらすべてを含めて、「花」は自然と人間の間をつなぐきわめて大切なものであり、また心理的きずなでもあるものとなった。和歌、連《れん》歌《が》、俳《はい》諧《かい》を通じて春は花、夏は時《ほと》鳥《とぎ》、《す》秋は月、冬は雪がそれぞれの季節を代表する景物とされ、中でも雪月花がつねにたたえられ、俳諧之連歌(連句)においてはいわゆる二花三月の花の定《じよう》座《ざ》・月の定座がきわめて重んじられるにいたるのも、すべてこのような思想的伝統の上にたってのことだった。
本文中でも花の歌や句を鑑賞しているが、花の歌人といえば何といっても西《さい》行《ぎよう》がまず思い浮かぶので、花の名所吉野山にちなむいくつかの歌を引いておこう。
吉野山桜が枝に雪散りて
花おそげなる時にもあるかな
吉野山こぞのしをりの道かへて
まだ見ぬかたの花をたづねむ
吉野山やがて出でじと思ふ身を
花散りなばと人や待つらむ
花にそむ心のいかで残りけむ
捨てはててきと思ふ我が身に
春はいま空のながめにあらはるゝ
ありともしれぬうすぐもに
なやみて死ぬる蛾《が》のけはひ。
三《み》木《き》露《ろ》風《ふう》
詩「現身」の第一連。露風は北《きた》原《はら》白《はく》秋《しゆう》と同じ時期に登場した詩人で、「白露時代」と称される一時代を明治末期に築いた。明治三十年代、上《うえ》田《だ》敏《びん》が日本に紹介したヨーロッパの象徴主義の詩を、いわば日本の読者の趣《しゆ》好《こう》に合うようにやわらげ、優美と感傷の衣《ころも》をまとわせて優《やさ》しく歌い出でたのが露風の初期の詩だったといえよう。「現身」は春の駘《たい》蕩《とう》たる気分を全五連の詩の中で繊《せん》美《び》のかぎりを尽くしてうたい、露風の後半の神秘主義を予感させる作。「ねがひはありや日は遠し、花は幽《かすか》にうち薫《くん》ず。/ゆるき光に霊《たましひ》の/煙のごとく泣くごとく」(第二連)。
(『白き手の猟人』)
嬢子《をとめ》らが 挿頭《かざし》のために 遊《みや》士《びを》が 蘰《かづら》のためと 敷《し》き坐《ま》せる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに
若《わか》宮《みやの》年《あ》魚《ゆ》麻《ま》呂《ろ》
この歌は酒宴の席上で、誦《ず》したものであろう。桜の花は、若い娘たちの髪飾《かざ》りになるために、また「みやびを」(風雅を解する人)のかずらになるためにと、天皇のお治めになる国の涯《はて》まで咲いているのです、色も美しく、というほどの意味。「挿頭《かざし》」は「蘰《かづら》」と同じく上代では儀式用のものであったのが、のちには装飾となり、また宴遊の際のつけものとなった。この場合は宴のための楽しい彩《いろど》りである。若宮年魚麻呂の身分は分からない。歌を博《ひろ》く記憶しており、宴の時などに謡《うた》った人かもしれない。これらの反歌は「去《こ》年《ぞ》の春逢《あ》へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも」。
(『万葉集』)
山もとの鳥の声より明けそめて
花もむらむら色ぞみえ行く
永《えい》福《ふく》門《もん》院《いん》
明け方の花(桜)をうたっているが、花そのものの描写よりは、むしろ刻々と明けてゆく風景の変化の妙を通じて、春の気分そのものをうたう所に重点がある。「むらむら」はまだらに。山のふもとの鳥の声で夜が明けそめると、淡《あわ》い朝の光を受けて、あちらこちらの桜の花が濃淡まだらに浮かびあがってくる。
永福門院は太《だい》政《じよう》大《だい》臣《じん》西《さい》園《おん》寺《じ》実《さね》兼《かね》の長女で伏《ふし》見《み》天皇中《ちゆう》宮《ぐう》。伏見院とともに京《きよう》極《ごく》為《ため》兼《かね》を歌の師とし、勅《ちよく》撰《せん》和歌集『玉《ぎよく》葉《よう》集《しゆう》』、並びに死後に成立した『風《ふう》雅《が》集《しゆう》』において、伏見院同様最も注目すべき歌人だった。動きと変化へのいちじるしい関心が当時の新風であったが、この歌はその代表的な例。
(『玉葉集』)
桜咲く遠《とほ》山《やま》鳥《どり》のしだり尾の
ながながし日もあかぬ色かな
後《ご》鳥《と》羽《ば》上《じよう》皇《こう》
後鳥羽上皇の和歌の師 藤《ふじ》原《わらの》俊《しゆん》成《ぜい》の九十歳のお祝いが宮中で催《もよお》された時の賀《がの》歌《うた》である。
本《ほん》歌《か》のある歌で、柿《かきの》本《もとの》人《ひと》麻《ま》呂《ろ》の作として『百人一首』に採られている、「足ひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」がそれ。本歌のこころは恋であるが、この歌の場合、桜咲く遠山の景《け》色《しき》は長い春の日も終日見飽《あ》きないという叙景によって、本意は俊成の長寿をことほぎ、さらに人麻呂作とされる歌を本歌とすることで、俊成を人麻呂になぞらえ、たたえるところに主眼がある。「遠」「なが」「あかぬ」など、めでたい詞《ことば》を選びながら、駘《たい》蕩《とう》たる春の情趣を浮き出させた、大らかな風格の歌である。
(『新古今集』)
しろじろと花を盛りあげて庭ざくら
おのが光りに暗く曇りをり
太《おお》田《た》水《みず》穂《ほ》
短歌象徴論をとなえ、日本象徴主義をとなえた歌人らしく、庭の桜が咲き誇《ほこ》っているさまに、人の心のある種の心ばえを見てとっている歌である。ただし歌そのものにはそのことは直接何も言われていない。作者水穂は桜の花がしろじろと「花を盛りあげて」咲いている姿を描写するだけである。しかしその花を、単に豪《ごう》華《か》に咲いているのではなく、「おのが光りに」「暗く」「曇りをり」という状態で咲いていると見たとき、この歌は単なる描写の歌ではなくなった。桜はあたかも心あるものとしてとらえられている。桜の花を詠《よ》んだ歌は古来数知れないが、このような角度から詠んだ歌は珍《めずら》しい。
(『螺鈿』)
肌《はだ》のよき石にねむらん花のやま
斎《いん》部《べ》路《ろ》通《つう》
路通は、芭《ば》蕉《しよう》門の俳人たちの中でも漂泊の生活者として一風変った位置にあった。「十年余り志の至るに任せて乞食の真《ま》似《ね》をしあるきけり」と自《みずか》ら俳文に書いたほどで、同門の弟子たちから迷惑がられ、芭蕉からも一時遠ざけられた。しかし師に対する尊《そん》崇《すう》の念は厚く、『芭蕉翁行状記』などの著がある。この句は彼がはじめて江戸に出て長屋の一隅に仮り住《ずま》居《い》したあと、春再び漂泊の旅を志した折の作である。花見酒に浮かれる人々を横にながめながら、自分は一人、貧しくとも心豊かに、「肌のよき石に」眠ろうというのだ。同じ年の春、師芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出発した。路通には思い出深い句だったろう。
(『いつを昔』)
世の中にたえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
在《あり》原《わらの》業《なり》平《ひら》
この歌の詞《ことば》書《がき》には「なぎさのゐんにて、桜を見てよめる」とある。作者業平が親しくしていた惟《これ》喬《たか》親王(文《もん》武《む》天皇第一皇子)の別邸での桜の宴の折のものであろう。「たえて」は全く。この世の中に桜というものが全くなかったならば、さぞ春の気持ちはのどかであるだろうに。一見嘆《なげ》いて見せながら逆説的な言い方で桜に対する深い愛着を歌っている。桜の季節は概して雨風が多い。したがって桜の咲く前から散り終わるまでたえず桜が気にかかる。花への愛着心さえなかったならば、むしろ世の中はどんなにのどかだったろうに、ということで、短い命ゆえの桜の美しさをたたえるのである。
(『古今集』)
さざなみや志《し》賀《が》の都はあれにしを
むかしながらの山ざくらかな
薩《さつ》摩《まの》守《かみ》平《たいらの》忠《ただ》度《のり》
『平家物語』に有名な「忠度都《みや》落《こおち》」の段がある。木《き》曾《そ》義《よし》仲《なか》の軍を恐れ、幼い安《あん》徳《とく》天皇を奉じて敗走する平家一門の公《きん》達《だち》の中に平忠度もいた。しかし忠度は途中から都に引返し、旧友の大歌人藤《ふじ》原《わらの》俊《しゆん》成《ぜい》に自分の歌稿を託《たく》した。俊成は後に『千《せん》載《ざい》集《しゆう》』を勅命で編む際、今は朝敵扱いの平家一門の忠度から託された歌を反対を押しきり「よみ人しらず」として入集させたのだという。
「さざなみ」は志賀の枕《まくら》詞《ことば》。天《てん》智《ち》天皇当時の近江《おうみ》の都は今はもう荒れ果ててしまったが、そこの長《なが》等《ら》山の山桜は、ああ、昔ながらに無心に咲いている。平家の悲運に対する挽《ばん》歌《か》のようにもひびく歌である。
(『千載集』)
花の色はうつりにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに
小《お》野《のの》小《こ》町《まち》
花はもう盛りをすぎ色あせてしまっている。私が春の長雨の降っている間中嘆《なげ》き暮らしている間に、月日は過ぎ、花もむなしくあせてしまった。そして私も。自然界と自分の命を重ね合わせながら、技巧を駆使して詠《えい》嘆《たん》している。「わが身世にふる」の「ふる」は、雨が「ふる」と年が「経《ふ》る」をかけている。「ながめ」も、「長雨」と、恋に嘆く心をもってうつろに見る「眺《なが》め」とが掛《かけ》詞《ことば》になっている。
花の移ろいを詠《よ》んだ歌だが、絶世の美女という小町伝説が背景にあるためか、後世、小町がわが容色の衰《おとろ》えを嘆いた歌とよみならされてきた。作者の意図を解釈が越えてしまった典型的な一例といえよう。
(『古今集』)
はかなくて過ぎにしかたを数ふれば
花に物思ふ春ぞ経《へ》にける
式《しき》子《し》内《ない》親《しん》王《のう》
何ということなく夢のように生きてきた日々をかえりみると、私の生《しよう》涯《がい》には、桜の花の咲くのを喜び、散るのを惜《お》しんでは、心をくだき嘆《なげ》くことの多かった年ごとの春だけがあったような思いさえする、というこころだろう。
「百首の歌に」という詞《ことば》書《がき》があり、必ずしもせっぱつまった真情の吐《と》露《ろ》とはいえまいが、題を与えられて作った歌にも深い思いがこもっているのが式子内親王の歌の魅力である。
式子内親王は後《ご》白《しら》河《かわ》天皇皇女。歌を藤《ふじ》原《わらの》俊《しゆん》成《ぜい》に学んだ。その縁故から俊成の子定《てい》家《か》とも親しく、定家らの新しい表現方法をもたくみに採り入れて独自の歌境を示した。
(『新古今集』)
春風の花を散らすと見る夢は
さめても胸のさわぐなりけり
西《さい》行《ぎよう》法《ほう》師《し》
西行が桜を詠《よ》んで抜群の歌人であることは有名だが、この歌は題《だい》詠《えい》で、「夢の中の落花」という題のもとに作ったものである。夢の中で見たのは、何本もの桜がいちどきに散り急ぐ光景だろうと思われる。「さめても胸のさわぐなりけり」がこの歌の生命であることはいうまでもない。それは、一面では花が散ることを惜《お》しむ思いをこめながら、実は落花の情景そのものに、ただひたすら惹《ひ》きつけられ、息をのんでその美しさに没入している心を語っている。彼の歌には当時一般の貴族歌人にはないはげしさ、思うところを言い切るいさぎよさがあった。
(『山家集』)
花びらの山を動かすさくらかな
酒《さか》井《い》抱《ほう》一《いつ》
抱一は本名酒井忠《ただ》因《なお》、播州姫路城主忠《ただ》以《ざね》の弟として江戸の別邸で生まれた。谷《たに》文《ぶん》晁《ちよう》などと並ぶ江戸後期の画家として有名だが、諸芸に秀《ひい》で、俳諧はもちろん狂歌にも名高かった(号は尻焼猿人)。周辺には多彩な人々が集まり、その交遊の輪はそのまま文化文政期の江戸文化の象徴のようであった。泰平の世の代表的芸術家である。
この句の山は江戸の上野辺だろうか。花が満開なのである。風に揺れる花びら、ひらひら散る花びら、山全体が揺れ動くような酔《よい》心《ごこ》地《ち》。艶《えん》麗《れい》な絵ともいえよう。
(『屠竜之技』)
ゆで玉子むけばかがやく花《はな》曇《ぐもり》
中《なか》村《むら》汀《てい》女《じよ》
桜の花どきにわりと多い曇天、それが「花曇」である。そう名付けられると、うっとうしい薄曇りにも一種の美感が添うところに、季語なるものの発生事情も暗示されている。汀女のこの句は季語「花曇」にみずみずしい張りと輝きを与えた名品だろう。まだ三十代半ば、大蔵省官吏である夫の転任に従い仙台に転居後まもない時の、市内の公園での作。連れている幼い子供に、ゆで玉子をむいてやっている母親の句である。句の充実感に作者の力量の正直な表れがある。
(『汀女句集』)
花《はな》冷《びえ》や履歴書に捺《お》す磨《ま》滅《めつ》印《いん》
福《ふく》永《なが》耕《こう》二《じ》
桜の花どきは気候が変わり易《やす》い。ふいに寒さがやってきて肌にしみる。「花冷」はそういう感じを表す季語。その花冷の時期に履歴書に判を捺しているというのだから、就職するにせよ何にせよ、時期からすると多少季節はずれの履歴書提出のようにも思われる。その判が磨滅しているのが、花冷と相まってわびしいような実感がある。耕二は昭和五十五年(一九八〇)四十二歳で没した。若死したが、才能ある俳人だった。
(『鳥語』)
花よりも団《だん》子《ご》やありて帰る雁《かり》
松《まつ》永《なが》貞《てい》徳《とく》
「花より団子」のことわざを踏んだ創始期俳諧の有名な作。花(桜)よりも団子があるから、せっかくの花をも見捨てて北へ帰ってしまうのか、あの雁は。この句のどこが面白いのかと思う向きも多かろうが、俳諧にせよ和歌にせよ、新興の時代はまた古風の焼き直しの時代でもあった。下敷きになっている『古今集』の伊《い》勢《せ》の作「はるがすみ立つを見すてて行く雁は花なき里に住みやならへる」が、せっかくの桜を見すてて北へ帰る雁への惜別をうたっているのをもじり、俗界の笑いに転じようとしたもの。
(『犬子集』)
声なくて花やこずゑの高わらひ
野《の》々《の》口《ぐち》立《りゆう》圃《ほ》
立圃は、初期俳諧の貞《てい》門《もん》七俳仙の一人。連歌や和歌を学んだので、古典をふまえた優雅な句が多いが、この句にはいかにも初期俳諧らしい言葉の遊びがある。花が開くことを古くから比喩的に「笑う・咲《わら》う」という。花が高い梢《こずえ》で咲いているから「高笑い」である。だが、花だからその笑いは「声なくて」なのだ。理づめに言えばそういう造りの句。けれども、そんな理屈はさておいて、今日の語感で読んでも、これはなかなか妙趣ある句と感じられる。
(『近世俳句俳文集』)
ゆさゝゝと桜もてくる月《つき》夜《よ》哉《かな》
鈴《すず》木《き》道《みち》彦《ひこ》
道彦は、文化文政期の江戸で盛名をはせた江戸後期俳人。仙台藩医の家に生まれ、藩医となった。百五十石。はじめは仙台に本拠を置いたが、寛政末ごろには江戸に定住。加《か》舎《や》白《しら》雄《お》に師事した。自信家であくの強い性格が敵を多く作ったといわれるが、句は平明。春月が照る路上、折りとった桜の枝をゆさゆさかついでくる男に出会ったのだ。花のあまりのうるわしさについ手を出した花盗人だろうか。突飛な月と花の出会い。今日ではとてもほめられない仕《し》業《わざ》だが、昔は花盗人を風流として許す環境があった。しかしこの句、人物が桜に消されている所がいいのである。
(『近世俳句俳文集』)
人恋し灯《ひ》ともしころをさくらちる
加《か》舎《や》白《しら》雄《お》
白雄は、江戸時代いわゆる中興俳諧の代表的俳人。師白井鳥《ちよう》酔《すい》の蕉《しよう》風《ふう》復古説を信奉し、芭蕉のあとを追おうとした。作風は飾りけを排し、わかりやすい表現をとるが、句には味わい深いものが多い。憂《ゆう》愁《しゆう》のかげりをおびつつ、どこかにういういしい清新さが漂うところに白雄の句の一特徴があることは、代表作の一つであるこの句にもうかがえよう。
彼には別に春の季題「二《ふつ》日《か》灸《きゆう》」を詠《よ》んだ句、「母恋し日永きころのさしもぐさ」もあって、句の作り方に作者のくせを示す共通性があるのは興味ぶかい。
(『白雄句集』)
やどりして春の山辺にねたる夜は
夢のうちにも花ぞちりける
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
「山寺に詣《まう》でたりけるによめる」と詞《ことば》書《がき》がある歌。「やどりして」は、その山寺に泊《とま》ったのである。「寝たる夜は」の「は」は他の夜と比較しての「は」。「夢のうちにも」の「も」は、その日の昼間、すなわち夢ではない現《うつつ》に見た景《け》色《しき》と並べている。花の散り急ぐころ山寺に泊った夜は、夢の中でさえはらはらと、おやみなく山桜が散るとうたう。現《うつつ》も夢も境なしに散る花の美しさに、妖《あや》しくも満たされた心を詠《よ》んでいるのである。その点では、落花の景に人の命の無常を思うといった、平安朝以後の一般化した無常観の一種 常《じよう》套《とう》的な詠み方とはちがい、むしろ華《か》麗《れい》である。
(『古今集』)
久方のひかりのどけき春の日に
しづごころなく花のちるらむ
紀《きの》 友《とも》則《のり》
この歌の桜の花は、おそらく風に吹かれて散っているものではなく、おだやかな春の日《ひ》射《ざ》しの中で自然に、ゆっくりと切れ目なく散っているのであろう。命を全《まつと》うして散る花の充足感が、この歌に安定とのびやかなリズムを与え、おのずから口ずさむに足る愛誦性をもたらしている。
『百人一首』でも親しまれている歌である。「久方の」は天・空・日・月などの天象に関わる語の枕《まくら》詞《ことば》。「しづごころ」は、しずかな落ちついた心。それがないというので、つまり、あわただしく。「花のちるらむ」の「らむ」は推量の助動詞であるが、ここでは上になぜそのように、という意味を補って読むのが妥《だ》当《とう》であろう。
(『古今集』)
またや見ん交《かた》野《の》の御《み》野《の》の桜狩り
花の雪散る春の曙《あけぼの》
藤《ふじ》原《わらの》俊《しゆん》成《ぜい》
交野は淀川左岸、今の枚《ひら》方《かた》市一帯の野で、当時皇室領の遊猟地。『伊《い》勢《せ》物《もの》語《がたり》』以来の桜の名所として知られるところ。これはそこでの観《かん》桜《おう》の行事の、またとない晴れやかさをたたえる歌だが、「またや見ん」(再び見る日があるだろうか)と単刀直入に問う形で、花が雪と散る春の曙の、その艶《えん》の極みを浮かびあがらせている。初句と三句で二度休止する洗練された技法をもって、影像を折りかさね、陶《とう》酔《すい》感《かん》をかもし出してゆく。練達の技法としみじみした心が深く通《かよ》い合っている。作者はこの時八十二歳。歌人としての意力の充実ぶりは眼をみはらせるものがある。
(『新古今集』)
花散るや伽《が》藍《らん》の枢《くるる》落《おと》し行く
野《の》沢《ざわ》凡《ぼん》兆《ちよう》
凡兆は、京都で医を業とした芭《ば》蕉《しよう》の弟子。鮮烈な感覚で蕉門でも一頭地を抜く俊才だった。『猿《さる》蓑《みの》』を去《きよ》来《らい》とともに編集し、同時にこの集の花形作者でもあった。しかししだいに芭蕉から離れ、芭蕉の没した元《げん》禄《ろく》六、七年頃には、密輸に加担したというかどで下《げ》獄《ごく》、出獄後は大坂に落《らく》魄《はく》の晩年をおくった。だがその短い蕉門時代の句は、近代写生句の先駆者ともいえるみずみずしさで際《きわ》立《だ》っている。
「伽藍」は僧園、寺の境内。「枢」は戸の桟《さん》につけて敷居の穴に落しこみ、戸を閉める木片。人《ひと》気《け》ない寺の境内の春、夕暮れ時僧がきてお堂の重い扉《とびら》を閉め、枢をトンと落して去る。その上に桜がハラハラと散る。
(『猿蓑』)
空をゆく一とかたまりの花吹雪《ふぶき》
高《たか》野《の》素《す》十《じゆう》
素十は東京大学部在学中に、同学の水《みず》原《はら》秋《しゆう》桜《お》子《し》に誘《さそ》われて句作をはじめ、大正十二年(一九二三)以降虚《きよ》子《し》に師事して頭角を現した。「東に秋素の二Sあり、西に青誓の二Sあり」と山《やま》口《ぐち》青《せい》邨《そん》が言ったように、いわゆる「ホトトギス」の四S(秋桜子・素十・青《せい》畝《ほ》・誓《せい》子《し》)時代をきずいた虚子門の逸《いつ》材《ざい》である。虚子のとなえた客観写生・花《か》鳥《ちよう》諷《ふう》詠《えい》をもっとも忠実に継承し、日常の事象をたしかな切り口で鮮《あざ》やかな句に仕立てあげている。落花を詠《よ》んだ歌や句は多いが、この句ほどに無《む》駄《だ》のない明確さで、花吹雪の軽《かろ》やかさ、華《か》麗《れい》さをとらえた詩句はまれだ。花吹雪を詠もうとする人は、意識せざるをえない句であろう。
(『野花集』)
燭《ともしび》を背《そむ》けては共に憐《あは》れむ深夜の月
花を踏《ふ》んでは同じく惜《を》しむ少年の春
白《はく》居《きよ》易《い》
白居易(白《はく》楽《らく》天《てん》)は、中国唐代の詩人であるが、平安朝日本での崇拝ぶりはちょっとほかに例のないものだった。同じ唐の詩人李《り》白《はく》も杜《と》甫《ほ》も、当時の貴族たちの眼中になかった。藤《ふじ》原《わらの》公《きん》任《とう》撰《せん》の『和《わ》漢《かん》朗《ろう》詠《えい》集《しゆう》』での白詩採録数も断然他を圧している。
太平の世の人々は、白居易の詩の中から彼らの審美眼と情感を満足させる詩句を敏《びん》感《かん》に選びとったのである。事実、若き日に心許した友とすごした多感多情な歳月を愛《あい》惜《せき》し、情感豊かにうたいあげたこの詩句のういういしい感傷性は、今《こん》日《にち》でもなお多くの人々の心をうつものがあろう。
(『和漢朗詠集』)
さくらばな散り交《か》ひ曇れ老いらくの
来《こ》むといふなる道まがふがに
在《あり》原《わらの》業《なり》平《ひら》
堀川太《だい》政《じよう》大臣藤《ふじ》原《わらの》基《もと》経《つね》四十歳の賀《がの》宴《えん》に詠《よ》んだ歌である。「さくらばな」とめでたく始まった歌が、「散り交ひ」「曇れ」「老いらく」と続いたときは、並みいる人々も仰《ぎよう》天《てん》したことだろう。時の権力者の祝いの席での朗《ろう》詠《えい》歌《か》としては異例中の異例の詠みぶりだからである。
「老いらく」は「老ゆ」を名詞化し、擬人化して、老年そのものをさす。桜花よ、どんどん散ってあたりを曇らせてくれよ、あのいやな老いらくがやってくる道も紛《まご》うほどに。歌は下《しもの》句《く》において不意に転調し、みごとな祝いの歌になって終る。業平の歌の自由放胆な性格がよく出た賀歌である。
(『古今集』)
をみなにてまたも来む世ぞ生《うま》れまし
花もなつかし月もなつかし
山《やま》川《かわ》登《と》美《み》子《こ》
登美子は「明《みよう》星《じよう》」初期の同人として鳳《ほう》晶《しよう》(与《よ》謝《さ》野《の》晶《あき》子《こ》)と才《さい》華《か》をきそった。師与謝野鉄《てつ》幹《かん》への思《し》慕《ぼ》を断《た》ち、親のきめた許婚《いいなずけ》と結婚、一時歌から離れたが、夫に死別して再び「明星」に復帰した。しかし不運にも、夫の病んだ結核に自《みずか》らも冒《おか》され、三十歳で夭《よう》折《せつ》した。後半生はまず夫、ついで父を喪《うしな》い、さらに自らも死病の床にふす生活だったが、しかもなお来世もまた女に生まれたいもの、と歌っているのである。なぜ、と問う隙《ひま》も与えないほどに切実な調べがこの歌にはある。彼女は透徹した情感と思慮で、女であることを究極的によしと断じたのである。
(『現代短歌全集』)
なににこがれて書くうたぞ/一時にひらくうめすももすももの蒼《あを》さ身にあびて/田舎《ゐなか》暮しのやすらかさ
けふも母ぢやに叱られて/すもものしたに身をよせぬ
室《むろ》生《う》犀《さい》星《せい》
室生犀星の名を一世に高からしめたのは『抒《じよ》情《じよう》小曲集』『愛の詩集』という、大正七年(一九一八)刊行の二詩集だった。前者は初期抒情詩の集成で、その中に六つの短章から成る絶唱「小景異情」もふくまれる。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」に始まる有名な短詩は二番目の短章、右に掲《かか》げたのは五番目の短章。不幸な出生の刻印を受け、ありあまる詩才をいだきながら苦しんだ青年期の、切々たる望郷と思慕の念が生んだ詩。
(『抒情小曲集』)
山里の春の夕ぐれ来て見れば
いりあひのかねに花ぞ散りける
能《のう》因《いん》法《ほう》師《し》
「都をば霞《かすみ》とともにたちしかど秋風ぞふく白河の関」の歌で有名な平安中期の歌人。当時の歌人の中では、いい意味で押しの強い印象鮮明な歌を作った人である。
入《いり》相《あい》の鐘《かね》(日暮れに寺でつく鐘)の音が山里の夕暮れの空を渡るとき、それに響き合うように、はらりはらり桜が散っている情景。「春の夕ぐれ来て見れば」というような、わざわざゆるやかな叙述法をとっている語調の、少しねばるようなゆったりした運びのうちに、春のそこはかとない憂愁を意図的にかもしだしている。
(『新古今集』)
貝《かひ》寄《よ》風《せ》に乗りて帰郷の船迅《はや》し
中《なか》村《むら》草《くさ》田《た》男《お》
貝寄風とは元来大阪四《し》天《てん》王《のう》寺《じ》の聖《しよう》霊《りよう》会《え》で花《はな》筒《づつ》の造花を貝殻で作ることから、その貝殻を岸辺に吹き寄せる強い海風をこう呼んだのだという。しかし、春先の強い海風をカイヨセという土地は他にもある。草田男の第一句集『長子』には青春の気溢《あふ》れる秀作が多いが、これもその一つであろう。彼の郷里は四国松山だった。春の休暇で帰省する船に、快く貝寄風が吹き寄せる。季語そのものが、また作者の心が、いきいきと躍《おど》っている。
(『長子』)
たんぽゝや長江濁《にご》るとこしなへ
山《やま》口《ぐち》青《せい》邨《そん》
昭和六十三年(一九八八)末九十六歳の長寿で永眠した青邨の代表作の一つ。採鉱学専攻の学者として、昭和十二年四十五歳でベルリン工科大学に留学した彼は、途中上海に上陸、長江(揚子江)のほとり宝山城に遊んでこの句ほか四句を得た。長江の濁流に「悠久といふことを眼のあたりに見た」と彼は書いているが、このとこしなえ(永久)の流れは、そのかたわらに小さく可憐な命短い花、タンポポを置くことで、詩になったのである。
(『雪国』)
どつちへも流れぬどぶなんで辛《こ》夷《ぶ》花《し》さいた
中《なか》塚《つか》一《いつ》碧《ぺき》楼《ろう》
この句は「どぶ」で切れ「なんで」と続く形。一碧楼は河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》と共に新傾向俳句運動を推進し「海《かい》紅《こう》」を創刊、のち碧梧桐の後をついで主宰した。作風も新傾向の独善奇抜から、より叙情性ある自由律へ進んだが、その作品を読むと、生涯俳句形式とその周辺で悪戦苦闘したという印象がある。五七五定型と一口に言うが、この定型が秘める律《りつ》動《どう》感《かん》と休止の力には、簡単に否定できぬ韻《いん》律《りつ》の秘密がある。この句は、よどんで流れぬどぶ溝の前のつつましい暮らしでも、春になればコブシの花が咲く、その新鮮な驚きと喜びを詠《よ》む。
(『一碧楼一千句』)
一《ひと》片《ひら》を解き沈《ぢん》丁《ちやう》の香となりぬ
稲《いな》畑《はた》汀《てい》子《こ》
沈丁花は数ある春の花の中でもぬきん出て芳《ほう》香《こう》の高い花。沈香や丁香に似た香をたたえられてこの「沈丁」の名がある。早春、淡雪も時には舞うころ、厚い葉の間でつぼみがほころび、外側は紫紅色、内側は白の花が開く。とくに宵《よい》闇《やみ》の中で香を放つ沈丁花は、嗅《きゆう》覚《かく》を通じて春のときめきを鮮《あざ》やかに伝える。花びらの表現「一片を解き」が、実際の沈丁花の印象にしては柔らかだが、作句の意図はむしろ芳香の洩《も》れる最初の瞬間を映像的にとらえる点にあったろう。
(『稲畑汀子集 春光』)
若《わか》 草《くさ》
家に歳時記の一冊も持たない人でも、歳時記という言葉は知っている。料理歳時記でもよし、動物歳時記でもよし、労働歳時記その他もろもろ、とにかく日常生活の諸事百般を、ある期間の時の経過の中で語ろうとするとき、歳時記という言葉を下につけると何となく格好がつくという不思議な性質が、この言葉にはそなわっているように見受けられる。
季題といわれる一群の語句は、『古《こ》今《きん》集《しゆう》』時代に明《めい》瞭《りよう》に自覚され分類されるようになった。「若《わか》菜《な》摘《つみ》」「春暁」「春の夜」「朧《おぼろ》月《づき》」「淡《あは》雪《ゆき》」、あるいは「蛙《かは》」《づ》、あるいは「春の夢」「春の夜の夢」「佐《さ》保《ほ》姫《ひめ》」その他。春という季節の情感を、その語の周囲に濃密にまとっている語句がすなわち春の季題であった。「春の夜の夢」のような語は、とくに『新古今』時代にこれでもかこれでもかというくらいに多用されている。
春の夜の夢のうき橋とだえして
嶺《みね》にわかるるよこぐもの空   藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》
言うまでもなく藤原定家の代表作として有名な歌である。『新古今集』巻一、春歌上の部の開巻まもないところにあり、和歌にうたわれる春の情感の一頂点を極《きわ》めたといっていい秀歌だろう。
ここでさらにさかのぼり、万葉時代に眼を転じて、歳時記的感覚の揺《よう》籃《らん》時代を振りかえってみたい。『古今集』以後の勅《ちよく》撰《せん》和歌集の季節美感のあり方は、京都を中心とする限られた土地の拡がりの中で、貴族階級の生活を通して感じとられる四季の風物がほとんどだった。しかし『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』の場合はさすがにそれより空間において広く、生活において山野に密着して多様である。
比較のために、まず『古今集』春の歌の詠《えい》題《だい》(これがいわゆる季題となってゆく)を歌に即して順に拾ってみる。
立春・雪・鶯《うぐひす》・残雪・春の日・解氷・野焼・若菜摘・霞《かす》・《み》春雨・野べの緑・青《あを》柳《やぎ》・百《もも》千《ち》鳥《どり》・呼《よぶ》子《こ》鳥《どり》・帰《き》雁《がん》・梅の花・梅の香・春の夜・桜・落花・春風・春の色・春の山野・藤・山吹・蛙《かは》・《づ》春の暮・逝《ゆ》く春。
大体以上のようなものである。それに対して『万葉集』はどうか。巻八には舒《じよ》明《めい》天皇のころから天《てん》平《ぴよう》十五、六年ごろまでの二百四十六首が収められ、四季に分類されている。『古今集』のように整然と時間の順序を追って題ごとに並べられてはいないが、詠題を拾ってみると、ほぼ次のようなものが春の歌でうたわれている。
さわらび・喚《よぶ》子《こ》鳥・沫《あわ》雪《ゆき》(のように散る白い花)・春《わか》菜《な》摘・梅・菫《すみ》採《れつ》・《み》山桜・馬《あ》酔《し》木《び》・桜・鶯《うぐひす》・青柳・山吹・蛙・霞・春雨・雉《きぎ》・《し》瞿《なで》麦《しこ》。
また巻十は、作者不詳の歌を四季に分けて収めているが、こちらの歌数は五百三十九首。詠題は――、春立つ・霞・柳・鶯・梅の花・喚子鳥・貌《かほ》鳥《どり》・春野・かぎろひ・恵《え》具《ぐ》(クロクワイ)摘む・雪消ゆ・春風・桜・山吹の花・久《ひさ》木《ぎ》の花・春雨・雉《きぎ》・《し》河《かは》蝦《づ》・馬《あ》酔《し》木《び》の花・菟《う》芽《は》子《ぎ》・浅《あさ》茅《ぢ》・毛《け》桃《もも》・春山・春の永《なが》日《ひ》・三《さき》枝《くさ》・百舌鳥《もず》の草《くさ》潜《ぐき》・卯の花・藤浪・つつじ・春《わか》菜《な》摘・春草・花・莫《な》告《のり》藻《そ》の花・いつ藻《も》の花、などである。
両者合わせ眺《なが》めれば、題目だけでも、『万葉集』の歌人たちが終始奈良の都周辺の山野を目前に見て、それらをじかにうたっていることが分かるだろう。この事情を、『万葉集』と『古今集』とに出てくる春の若菜摘みの歌の比較を通じて見てみよう。すべて奈良の春日野に関わりのある歌を取りあげてみることにする。
春日《かすが》野《の》に煙《けぶり》立つ見ゆをとめらし
春野のうはぎ摘みて煮らしも   万葉集(作者未詳)
「煙を詠《よ》める」という題で採られているが、歌の内容は、野遊びの少女らが春日野の野辺で嫁《よめ》菜《な》を摘んで煮ているのを、やや遠方から望み見ている図といったところである。「うはぎ」は嫁菜のことで、その若菜を摘んで食料にした。春の若草のいろいろを摘んで、煮て食べるのは、若々しい命をねがい、長寿を祈る初春の大切な行事でもあったから、奈良一帯に住んでいた万葉時代の人々にとってはこの歌の情景はまことに親しみ深いものだったはずである。
春日野の飛《とぶ》火《ひ》の野《の》守《もり》出《い》でて見よ
今幾《いく》日《か》ありて若菜摘みてむ   古今集(よみ人しらず)
春日野の飛ぶ火野の番人よ、外に出て野の様《よう》子《す》をみておくれ、あと何日したら若菜が摘めるだろうか。この歌は『古今集』に収められてはいるが、春日野周辺で暮らしている人々の実感が濃《こ》く出ている。すなわち古い時代の歌に属するだろう。
春日野の若菜摘みにや白《しろ》妙《たへ》の
袖《そで》ふりはへて人の行くらむ   古今集(紀《きの》貫《つら》之《ゆき》)
「ふりはへて」は振り合う意と、わざと目立つようにの意とをかけて用いた語。京都の生活者となっている平安貴族の一人たる貫之は、この歌をすでに空想の中の美しい初春の情景として作っている。古京奈良の春日野は、懐古の情をかきたてる地名となっていて、詩的空想の源泉としての「歌《うた》枕《まくら》」になりつつあるのだ。
春日野に若菜つみつつ万《よろ》代《づよ》を
祝ふ心は神ぞしるらむ   古今集(素《そ》性《せい》法《ほう》師《し》)
これは素性の兄藤原定《さだ》国《くに》の四十歳の賀《がの》宴《えん》に当り、その邸の屏《びよう》風《ぶ》絵《え》を見て詠んだ作。まったくの空想の歌となっている。
簡単に「若草」や「若菜」の扱いを一《いち》瞥《べつ》するだけでも、時代・土地・人々の生活の違いに応じて、自然界との接し方、その表現方法にもいちじるしい違いが生じてくるのがわかるだろう。
『古今集』の歌人たちも京都の盆地の自然を前にしてうたったにはちがいないが、同時に、限られた取材範囲を一層限定するように、詠題に美的観点から選択を加え、ある種の景物を偏《へん》愛《あい》し、他のものは捨てていった。
その成行きは、生活環境の相違という面からして当然理解できることだったが、もう一つ、『古今集』歌人たちが、「時」の移ろいそのものを詩の主題にするようになっていったことが、彼らに特有の美意識をもたらしたと思われる。桜を見る時、それが散ることを思わずに見ることができないのが、『古今集』の歌人たちだった。花が散るのを見、感じることはつまり「時」をまざまざと見ることだった。その「時」を見る眼《まな》差《ざ》しが彼らにとっての「美」の内容でもあった。たとえば『百人一首』でも有名な小《お》野《のの》小《こ》町《まち》の一首。
花の色はうつりにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに
この歌の愛誦性は、いまのべたような日本人の「時」に関する基本的な観念を艶《つや》やかにやさしく形象化し、抒情的にうたいあげているからであろう。この歌は『古今集』巻二、春の歌の下の巻に置かれているが、「春」の歌として見るかぎり、これは長《なが》雨《め》が降りつづいている間に桜の盛りがむなしく過ぎ去ってしまったという内容の、つまり惜《せき》春《しゆん》の歌である。しかし誰《だれ》でも知っているように、この歌の背後には、花の衰《おとろ》えによそおって、「わが身」が恋の思いに沈《しず》んでむなしく「ながめ(長雨)せし」間に、自分の命の盛りも過ぎてしまっていたという嘆《なげ》きが同時にうたわれている。
平安朝の和歌はたえずそのように、自然と自己とが二重の映像となって溶《と》け合い、「時」という眼に見えないものを、詩の言葉として眼に見えるようにしてきたのだった。それも短い詩型によって。「歳時記」はこうして、短小な詩型を洗練させた日本人独特の産物となったのである。そして、「時」の経過、「生命」の経過というものが、衰《すい》頽《たい》枯《こ》渇《かつ》の極致として「艶」と「わび」の両面を兼ねそなえ得るという日本の美学、これも同じ土壌から生まれ出てきたのである。
にはとこの新《しん》芽《め》を嗅《か》げば青くさし
実《じつ》にしみじみにはとこ臭《くさ》し
木《きの》下《した》利《り》玄《げん》
利玄は岡山の旧足《あし》守《もり》藩主の甥《おい》に生まれ、本家を嗣《つ》いで子《し》爵《しやく》となった。十三歳の時佐《さ》佐《さ》木《き》信《のぶ》綱《つな》門に入り、「心の花」同人となるが、のち学習院での交友から志《し》賀《が》直《なお》哉《や》、武《む》者《しやの》小《こう》路《じ》実《さね》篤《あつ》らと「白《しら》樺《かば》」を創刊、同派唯《ゆい》一《いつ》の歌人となる。自然観照に特異な鋭《するど》さがあり、この歌もニワトコの新芽の朝から夕方までの微《び》妙《みよう》な心理的・物理的感触の変化を観察しながらつくった連作の一首である。一見無《む》造《ぞう》作《さ》な表現の中に、精細な観察にもとづく写実と、そこから得られる無《む》垢《く》の感動を一挙にしぼりあげて歌にしている。大正歌壇を独歩する歌人だったが、肺結核のため、大正十四年(一九二五)三十九歳の若さで没した。
(『紅玉』)
地《ぢ》虫《むし》出て土につまづきをりにけり
上《うえ》野《の》章《あき》子《こ》
啓《けい》蟄《ちつ》を詠《よ》んでいる。啓蟄とは、冬眠していた生類が穴を出てくる日という意で、今の暦ではおよそ三月六日ごろに当てられる。実際に虫が出てくるのはもう少し遅いのが普通。この句、数ある啓蟄の句の中でも、俳諧的おかしみと天《てん》真《しん》爛《らん》漫《まん》さで群を抜いている。地虫一匹が風景全体を一人占めしてしまったようである。
作者は高浜虚《きよ》子《し》の六女で、俳人上野泰《やすし》と結婚し、泰の創刊した『春潮』を夫の没後継承した。平成十一年(一九九九)七十五歳で没した。「風花の遊びつかれて地に下りし」のような句もあるが、掲出句にしてもこの例句にしても、そこにあるのは童心と闊《かつ》達《たつ》な表現の一致。
(『六女』)
みちのくの伊《だ》達《て》の郡《こほり》の春《はる》田《た》かな
富《とみ》安《やす》風《ふう》生《せい》
風生は逓《てい》信《しん》省に奉職、逓信次官にまでなったがそこで退職した。逓信省の部内俳誌「若《わか》葉《ば》」を母胎として主宰誌「若葉」を創刊、主宰した。右の句は代表作として有名だが、外国語に訳せといわれたらどんな名訳者も頭をかかえよう。しかも風生代表作としてその名に恥じない句である。「みちのく」も「伊達の郡の春田」も、「東北」や「福島県伊達郡」ではうまく伝わらない何かを響かせている。言葉と化して暖かく脈打っている土地の魂としか言いようのないもの。「の」の繰り返しの明るい静けさも、「かな」の吐息も、この土地讃めの句の、手足で同時に心臓。
(『草の花』)
裏がへる亀思ふべし鳴けるなり
石《いし》川《かわ》桂《けい》郎《ろう》
「亀鳴く」という季語は、藤原為《ため》家《いえ》の「川越のをちの田中の夕闇に何ぞときけば亀のなくなり」に由来するという。荒《こう》唐《とう》無《む》稽《けい》として今では採っていない歳時記もあるが、これを用いた秀句が出れば季語として認めざるを得まい。桂郎最晩年のこの句もその一例としていいだろう。食道癌《がん》で数カ月後には没するはずの俳人が、諧《かい》謔《ぎやく》と悲哀と生への意欲を、裏返しにされた亀に託して吟じている。亀は声にならない声をあげて必死に鳴いているのだ。
もっとも、この句は作者の余命いくばくもない時期の作と知って読めば、読者の側に右に解釈したような作者の人生との関連で読むという一種の深読みも可能になるが、もしそういうことを知らずに読むなら、この句はよくわからない句ということになるだろう。
(『四温』)
わかくさやくづれ車の崩《くづ》れより
加《か》藤《とう》暁《きよ》台《うたい》
暁台は名古屋の人。尾張《おわり》藩士の家に生まれ、江戸の尾張藩邸に詰めたこともあるが、江戸で致《ち》仕《し》し、名古屋を中心に俳人として活躍した。与謝蕪《ぶ》村《そん》と親交を結び、芭蕉に関係のある編著も多い。
壊れて路傍に放置されている荷車。その隙間から勢いよく生え出た若草。両者の対比に句の重点があるのはいうまでもないが、「くづれ車の崩れ」と言葉を重ねた所にももちろん工夫があった。再度の「崩れ」と共に「わかくさ」の可憐な新鮮さがはっきり見えてくる。同じ作者の句、「倒木の芽を張る岸のくづれ哉《かな》」、これも同じ趣向。印象を重んじる作風には、交友があった蕪村の感化もあろうか。
(『暁台句集』)
茎《くく》たちに春の地勢を見する哉《かな》
加《か》舎《や》白《しら》雄《お》
「茎たち」は菜の薹《とう》の立った状態をいう。育ってゆく菜を、その薹のすっくと立った勢いのよさによって描いているが、句の重点が「春の地勢を見する哉」にあることはいうまでもない。小さな植物の示すささやかな変化一つにも、「春の地勢」という大きな力の確かな発現があることに着目した点が大切なのである。句の語法にも注目すべきで、これがたとえば「春の地勢の見ゆる哉」とあったのでは、平凡な作となる。助詞や動詞の表情ひとつで、句は生きもするし死にもすることがある。
(『白雄句集』)
大原や木の芽すり行《ゆく》牛の頬《つら》
黒《くろ》柳《やなぎ》召《しよう》波《は》
召波は京都の人。漢詩人としても一家を成したが、二十歳代はじめに江戸に滞在、俳諧に熱を入れはじめた。蕪《ぶ》村《そん》と親交を結ぶようになり、その後継者と目されたが、壮年で病死、蕪村は悲嘆に暮れた。
京都北郊には比《ひ》叡《えい》山がある。大《おお》原《はら》の里がある。鞍《くら》馬《ま》山がある。これら都の後背地は、ある意味では都よりも深い歴史のひだをもって都を包んでいる。「大原や蝶の出て舞ふ朧《おぼろ》月《づき》」(丈草)が妖《よう》艶《えん》な美しさを感じさせるのも、建《けん》礼《れい》門《もん》院《いん》の哀話などの背景あればこそだろう。一方、別の京都人召波は、これとはまた別の大原の里をえがいた。いかにも手触りのたしかな牛と新芽の触れ合い。
(『春泥発句集』)
おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ
加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》
春の蒸気が生み出す「おぼろ夜(朧夜)」は、その柔らかい情緒が愛されて昔から詩歌にも美術にも大いに詠《よ》まれ描かれてきた。しかし楸邨句のような朧夜の句はなかった。朧夜の底にうずくまる一個の「かたまり」としての自分をとらえている。しかもこの物体は「ものおもふ」のだ。全体朧ろに霞《かす》んでいるようで、その実ずしりと存在感があり、自己風《ふう》刺《し》がある。したたかな力量である。楸邨自身この句を好み、晩年の句の中での自讃の句の一つとしていた。
(『吹越』)
春の浜大いなる輪が画《か》いてある
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
虚子といえば写生、花《か》鳥《ちよう》諷《ふう》詠《えい》というのが俳句史の常識。これらは伝統詩型としての五七五を近代に甦《よみがえ》らす上で偉大な役目をはたした標語だった。だが虚子の怪物性は、ご本人がこれらの標語を自在に駆使しながら、それを超えたより大きな世界を呼び寄せる力を発揮しえた点にある。この句の大らかさは、「春の浜」の生命力にぴったり寄り添いえた心の自由さが生んだもので、口語調の砕《くだ》けた物言いが、この句の場合みごとに生かされている。
(『五百句』)
耕すやむかし右京の土の艶《つや》
炭《たん》 太《たい》祇《ぎ》
右京を西の京ともいう。往年の京都の中央街朱《す》雀《ざく》大路の西側。繁華な左京に較べると、右京には平安京の昔から寂《さび》しい場所が多かった。それだけに古典文学では由緒ありげな人のわび住《ずま》居《い》などが描かれていて、古都独特の陰影がある。太祇の句はそれを踏まえている。「むかし右京の土の艶」を農耕と結びつけるあたり、まことに手だれの作。四十過ぎて京に住みついた江戸者だから、かえってこのような京都の情緒をうまくとらえることができ、それをこのような道具立てで詠《よ》むことができたのだろう。
(『太祇句選』)
赤い椿白い椿と落ちにけり
河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》
碧梧桐は明治六年(一八七三)四国松山に生まれ、中学生のころから同郷の先輩正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》の影響で作句し、同郷の高浜虚《きよ》子《し》とは当時からの親友かつ好敵手だった。この句は明治二十九年の作で、印象明《めい》瞭《りよう》な新世代の秀作として子規が絶《ぜつ》讃《さん》、有名になった初期の代表作。読みようによって、まず赤い椿、ついで白い椿が落ちるさまとよめる。が、作者自身は、紅白二本の椿の下に赤い花、白い花それぞれが散っている情景に感興を得たようである。
碧梧桐はその後「新傾向」とよばれる運動に突き進み、一時は俳壇を席《せつ》捲《けん》したが、実作・理論両面で新傾向俳句には無理が多く、運動は竜《りゆう》頭《とう》蛇《だ》尾《び》に終った。
(『新俳句』)
春の苑《その》紅《くれなゐ》にほふ桃の花
下《した》照《て》る道に出で立つ少女《をとめ》
大《おお》伴《ともの》家《やか》持《もち》
家持は天《てん》平《ぴよう》十八年(七四六)から五年間、推定で二十九歳から三十四歳までの壮年期、現在の富山県から能登半島を含む北国一帯の長官たる越《えつ》中《ちゆうの》守《かみ》として赴《ふ》任《にん》していた。この歌は三十四歳の年の三月一日、春の園の桃と李《すもも》をながめてうたった二首のうち、桃の歌である。「にほふ」は元来色が美しく照り映《は》える意。「下照る」の「した」は下の意とも、また赤く色づく意ともいう。花の咲いている木の下が花の美しい色で照っていること。と同時に下《しもの》句《く》の木の下に立つ乙女《おとめ》の輝《かがや》かしさをも暗示する効果がある。満開の桃の花の下の乙女は、家持が呼び出した夢の精のようにも感じられる。
(『万葉集』)
葛《かつ》飾《しか》や桃の籬《まがき》も水田べり
水《みず》原《はら》秋《しゆう》桜《おう》子《し》
下《しも》総《うさ》国葛《かつ》飾《しか》郡真間にいたという伝説の美女、真《ま》間《まの》手《て》古《こ》奈《な》の悲話で古くから知られる水郷葛飾。秋桜子は壮年時代この隅《すみ》田《だ》川《がわ》東郊の地を愛しよく歩いた。大正時代には田も豊かに満ち、うららかな日《ひ》射《ざ》しの中で水田べりの垣根の桃の花は、麗《うる》わしい色をその水に映していただろう。アメンボやオタマジャクシの走り泳ぐ田園の風景がみずみずしく描写されている。秋桜子は昭和初期、「ホトトギス」の新たな黄金時代をもたらした一人だが、のち「ホトトギス」から離反して「馬《あ》酔《し》木《び》」を主《しゆ》宰《さい》し、石《いし》田《だ》波《は》郷《きよう》、加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》などのすぐれた俳人をその膝《しつ》下《か》から育てあげ、昭和俳句に大きな転機を生み出した。
(『葛飾』)
かたまつて薄《うす》き光の菫《すみれ》かな
渡《わた》辺《なべ》水《すい》巴《は》
大正初期「ホトトギス」第一次黄金時代の中心的存在であった水巴は、明治十五年(一八八二)、花鳥画の大家渡《わた》辺《なべ》省《せい》亭《てい》を父に東京に生まれた。江戸下町風に洗練された感覚は、独特な美意識を感じさせる繊《せん》細《さい》な描写と情緒を句にもたらしている。古来菫を詠《よ》んだ句では、芭《ば》蕉《しよう》の「山路きて何やらゆかしすみれ草」があまりにも有名だが、水巴の「かたまつて薄き光の」という細《こま》やかな観察は、かたまってさえなお繊細さの目立つ菫のあわあわしさを、みごとにすくい取っている。いわば対象を内側からふわっと立ちあがらせるような描き方で、近代写生句の一つの在《あ》りかたを鮮《あざ》やかに示している。
(『白日』)
春暁や人こそ知らね木々の雨
日《ひ》野《の》草《そう》城《じよう》
春の夜明け、人々の深い眠りにしみ入るように春の雨が木々に柔《やわ》らかく降りそそぐ。音もなく降る雨、黙念と立つ木々。人々の眠りはその大気の気《け》配《はい》に包まれながら、しかもそれを知らない。早熟の才をうたわれた草城だが、この句も三高時代の青年期の作。若いみずみずしさが溢《あふ》れている。当時から熱心に学んでいたという古典和歌への好みは、「人こそ知らね」のような古雅な表現にもみられるが、それよりもこういう古典的な味わいをさらっと利用して、若々しい心象を一層新鮮に見せている所が才能である。「木々」は最初「樹々」だったが、のちに改めた。字の重々しさを避《さ》けたのだろう。
(『花氷』)
春の水岸へ岸へと夕かな
原《はら》 石《せき》鼎《てい》
「ホトトギス」の代表俳人の一人。医者の家に生まれたが、少年期から文芸の魅力にとりつかれ、京都医専も中退した。各地を放浪遍歴した後、吉野の山中に入り次兄の医業を手伝う。吉野の自然と醇《じゆん》朴《ぼく》な人情は石鼎の俳句を開花させ、「頂上や殊《こと》に野菊の吹かれ居り」などの秀作を作らせた。波乱多い前半生だったが、右の句は昭和十年前後(五十歳前後)の意力充実した時代の句。ゆったりと流れる大河の深々としたリズムに呼応して、岸へ岸へとはてしなく寄せてくる川波。暮れ方の空の下に広がる無限の律動に、作者は春の水の、溢《あふ》れては盛りあがる本質のようなものを感じとっている。
(『定本石鼎句集』)
ぜんまいののの字ばかりの寂《じやく》光《くわ》土《うど》
川《かわ》端《ばた》茅《ぼう》舎《しや》
人っ子ひとりいない、やや湿《しめ》りけをおびた森《しん》閑《かん》たる原野に、「の」の字に巻いた首をちょこんと立てたぜんまいが立ち並ぶ。その光景が、作者の心眼に、光明の遍《へん》照《じよう》する寂光浄土を瞬時に開いてみせたのである。茅舎は青年時代藤《ふじ》島《しま》武《たけ》二《じ》の洋画研究所に通ったこともあり、岸田劉《りゆう》生《せい》に学んで画家を志したこともあったが、劉生没後絵を離れた。結核・脊《せき》椎《つい》カリエスを病む。病苦の中で仏典に親しみ、句の中に清浄境を確立した。「花鳥諷詠真骨頂漢」とは高浜虚《きよ》子《し》が茅舎に与えた呼び名である。
(『華厳』)
一《いつ》旦《たん》は赤になる気で芽吹きをり
後《ご》藤《とう》比《ひ》奈《な》夫《お》
比奈夫は大正六年(一九一七)大阪生まれの俳人。父は「滝の上に水現れて落ちにけり」の名句で知られる後藤夜《や》半《はん》。物理学を学び、電子工業会社を経営、作句は中年になって父から学んだという。多作派を自称する。句は繊《せん》細《さい》さとゆとりを重んじ、右の句のようなほのかな笑いの世界に独特なものがある。木の身になってみれば、どんな芽の場合でも、芽ぶく時はこういう気持ちなのかもしれない。
この句はただ木の芽を詠《よ》んだのではなく、芽が芽ぶく時のすっくとした勢いのいさぎよさそのものを詠んだのである。「一旦は」という語の大切な意味はそこにある。
(『花匂ひ』)
黛《まゆずみ》を濃《こう》せよ草は芳《かんば》しき
松《まつ》根《ね》東《とう》洋《よう》城《じよう》
東洋城は、伊《い》予《よ》国宇《う》和《わ》島《じま》藩伊《だ》達《て》家の家老職の家に生まれ、宮内省に入って式部官、宮内書記官などを歴任した。漱《そう》石《せき》門下生。「ホトトギス」初期の有力者で、高浜虚《きよ》子《し》は一時自分の後継者と考えたようだが、後年離反した。右の句は明治三十九年(一九〇六)作。若草がいっせいに萌え出て芳しい春の天地の中、あなたの眉《まゆ》墨《ずみ》をも濃くおひきなさい、若草さながら芳しく。東洋城は俳句の音調を重んじた。この句のみずみずしさは、カ行音のよく響く、歯切れいい漢文調の語感を生かした句の勢いからも来ているだろう。
(『東洋城全句集』)
桃の花を満面に見る女かな
松《まつ》瀬《せ》青《せい》々《せい》
青々は大阪生まれ。少年期から漢詩文や和歌、書などを学び、俳句は正岡子《し》規《き》に賞讃されて一時期「ホトトギス」の編集にもたずさわった。関西俳壇の重鎮だった。
陶《とう》淵《えん》明《めい》「桃花源記」に、桃の林の流れをはるかにさかのぼってゆくと、やがて山腹に入口があり、入ると急に向こう側に俗界を離れた平和な別天地があったと語られている仙境、それが桃《とう》源《げん》郷《きよう》である。満開時の桃の花には、実際、人を恍《こう》惚《こつ》と酔わせる魅力がある。花は人の満面を照らす。それを「満面に見る」と表現した所が面白い。中国や日本の人々が桃の花に寄せてきた思いを、凝縮してみせたような句である。
(『松苗』)
朧《おぼろ》夜《よ》のむんずと高む翌《あす》檜《ならう》
飯《いい》田《だ》龍《りゆう》太《た》
龍太は当代俳壇きっての人気俳人。飯田蛇《だ》笏《こつ》の子息で、父祖以来の甲《か》斐《い》の住人、富士山の北側に住む。「かたつむり甲斐も信濃も雨のなか」「水澄みて四《よ》方《も》に関ある甲斐の国」などの郷土を十分に意識し、その特徴をよくとらえた作がある。その句は切れ味よく、柄《がら》が大きい。右の句は昭和四十七年(一九七二)作。水気の多い春の朧夜には、アスナロの若木はひときわ力強く、「むんず」と伸びているだろうという気分をうたっている。
アスナロの語は「明《あ》日《す》は檜《ひのき》になろう」から来ているとされている。ヒノキ科の常緑喬木である。
(『山の木』)
巌《いは》まろく老い春《しゆん》潮《てう》を乗せ遊ぶ
岸《きし》 風《ふう》三《さん》楼《ろう》
風三楼は明治四十三年(一九一〇)岡山県に生まれ、昭和五十七年(一九八二)、七十一歳で没した。逓《てい》信《しん》省で多年放送行政にたずさわり、同省先輩の富《とみ》安《やす》風《ふう》生《せい》に師事した。青年期に一時新興俳句に傾いたが、生涯の作風の基調は手がたい写生にあった。若々しい心のはずみを語の取り合わせに生かすことにすぐれていた。この句のくろぐろとして丸い大岩は、次々に打ち寄せる春の潮を遊ばせつつ、岩自身最も豊かに遊んでいるのである。
(『往来以後』)
春《しゆん》潮《てう》は裂《さ》け巌《いは》々《いは》は相《あ》擁《ひよう》す
橋《はし》本《もと》鶏《けい》二《じ》
鶏二は明治四十(一九〇七)年三重県に生まれ、平成二年(一九九〇)八十二歳で没した。高浜虚《きよ》子《し》に師事。同門の親友に、代表的な戦線従軍句集として知られる『砲《ほう》車《しや》』の作者長谷川素《そ》逝《せい》がいた。若死にした素逝の作品研究などを通じ、亡友を広く知らしめるため尽力した。右の句、春の海の大景を簡潔に力強くとらえている。同じ句集の「春月の波へ燈台蛾《が》をこぼす」などでもわかるが、対象を写実的につかみ、そこに情感を盛りあげる手腕には鍛えられた安定感がある。
(『鷹の胸』)
いづれのおほんときにや日《ひ》永《なが》かな
久《く》保《ぼ》田《た》万《まん》太《た》郎《ろう》
昭和二十六年(一九五二)歌舞伎座三月興行で「源氏物語」が上演されたむね前《まえ》書《がき》がある句。
「いつの御代でございましたか」という、王朝の物語の慣用句をそのまま使っているのは、江戸時代の俳諧師が「里人の渡り候か橋の霜 宗《そう》因《いん》」などと謡曲をもじった伝統にも連なっていよう。即興句だが、これが表現としてぴたりと決まったのは、「いづれのおほんときにや」というのどかな文句を受ける「日永かな」という季語の働きによる。劇作家万太郎らしい句作りである。
(『冬三日月』)
大いなる春《はる》日《ひ》の翼《つばさ》垂《た》れてあり
鈴《すず》木《き》花《はな》蓑《みの》
花蓑は高浜虚《きよ》子《し》門。虚子の写生観を忠実に守った俳人の筆頭と目される人だが、その人の代表作であるこの句が、単なる写生句の域を大きく越えているのが面白い。
「春日」は春の太陽、また春の一日をいう季語。この句の場合、作者はまず春の地上にさんさんと光を降らす太陽を念頭においていたろうが、「春日の翼」が「垂れて」と詠んだ時、一気に春の日の気分そのものをもつかみとることができた。
(『鈴木花蓑句集』)
少年や六十年後《ご》の春の如《ごと》し
永《なが》田《た》耕《こう》衣《い》
耕衣は明治三十三年(一九〇〇)に生まれ、平成九年(一九九七)九十七歳で没した。最晩年、阪神大震災で被災、奇跡的に死を免がれ、旺盛な気力を示した。東洋的無の立場に立つ根源探求俳句を唱え、句集のほか評論も多い。
この「少年」とはいったいだれだろう。妖精のようでもあれば、隠れんぼに余念のない現実の子どもたちのようでもある。「六十年後の春」も謎《なぞ》めく。それでいて、一読忘れられない面《めん》妖《よう》な魅力がある。時間と生命についての夢想に誘う句だからだろう。しいて解釈するよりはこの句とともに遊ぶべきか。
(『闌位』)
春を病み松の根つ子も見あきたり
西《さい》東《とう》三《さん》鬼《き》
花《か》鳥《ちよう》諷《ふう》詠《えい》を主眼とする虚《きよ》子《し》流の俳句観にあきたらぬ俳人たちが、昭和十年前後、新感覚の句を各地で一《いつ》斉《せい》に作り始めた。これが世にいう新興俳句運動。その旗手として三鬼の名は輝かしいものだった。以来戦中戦後の日本社会の変転を経て、彼の句も変わり、その変化に対する賛否の論もまた多かった。六十一歳で胃癌《がん》のため死去。これは絶筆となった句である。俳壇の風雲児最後の句に何の奇想もない。しかし忘れ難い句だ。
(『西東三鬼集』)
わが背《せ》子《こ》が衣《ころも》はる雨《さめ》ふるごとに
野べの緑ぞいろまさりける
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
「背子」は夫。「衣はる」は、衣服を仕立て直すために洗って張ること。ここでは「わが背子が衣」までが「張る」およびそれと同音異義の「春」に掛かる序詞になっている。この序詞は単なる修飾表現というだけでなく、田園に住む若妻が夫の衣を洗い張りしながら、春雨が降るたびごとに野の緑色が鮮《あざ》やかになってゆくのを感じている姿をも彷《ほう》彿《ふつ》させる。一雨ごとに野辺の春が明るく広がっていくのを見る喜び。人間と自然が融《と》け合ってゆく快さが、素《そ》朴《ぼく》な音楽を聴くように読者に伝わってゆく詠《よ》み方は、『古今集』撰《せん》進《しん》当時の代表的な歌風、貫之はそういう新風の代表者として活躍した。
(『古今集』)
物のしゆんなは 春の雨 猶《なほ》もしゆんなは 旅のひとりね
隆《りゆう》達《たつ》小《こ》歌《うた》
日本語の「もの」という語は実にひろがりのある言葉である。手にちゃんと触《ふ》れることのできる物体を指すと同時に、対象の性質や状態がはっきりしないままにある事《こと》柄《がら》を指す場合もある。「物憂《う》い」「物思い」など、みな物体としての「もの」とは無関係だ。この小歌の「物」もそれ。「しゆん」は沈《しず》んで淋《さび》しい、孤独なさま。春雨の降るのは何かしら淋しいものだ、でもそれより一層淋しいのは、旅に出て、思う人とも離れて一人寝をしている時だと歌う。春の雨がしとしと降るころは、草木の芽ばえにつれて人も物思いがつのる。それをたくみに短く言いとめている。
我が涙そゝぎし家に知らぬ人
住みてさゞめく春の夜《よ》来れば
窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》
第一詩歌集『まひる野』出版の翌年、詩人で小説家でもあった親友の水《みず》野《の》葉《よう》舟《しゆう》と合同で出版した『明《めい》暗《あん》』の一首。信州松本から上京し、東京専門学校(早稲田大学)を卒業後、新聞社に勤めたり、短歌から小説に一時転じたりした空穂の二十代終りのころの歌である。当時の地方出身の文学者らの例に洩《も》れず、流《る》浪《ろう》意識の強い生活環境が背後にほの見える。春夜ふと、以前借りて住んでいた家の前を通った。住んでいたのはそれほど古いことでもないだろう。その家ですごした自分とはまったく無縁の人たちの生活が、今そこにある。感傷と言いすてることのできない実感がある歌だ。
(『明暗』)
春の色すみれにのみぞ残りける
片山畑の麦のなかみち
木《きの》下《した》幸《たか》文《ふみ》
幸文は江戸時代後期、文化文政時代に活躍した備《びつ》中《ちゆう》国(岡山県西部)出身の歌人である。若くして京都に出て、二十代で香《か》川《がわ》景《かげ》樹《き》門の俊《しゆん》才《さい》と注目されるようになった。四十三歳で亡《な》くなったため、歌人としても学者としても大成したとはいえないが、その歌はすでに近代を予告する清新さをもっていた。「貧窮百首」が有名だが、歌人としてはむしろ自然描写に最も良質の才能を示した。麦がもう長くのびてしまった晩春の、山辺に沿った麦畑の中道、ふと足元に菫《すみれ》の花が可《か》憐《れん》に咲いているのを見て、「ああ、春の色はもうこの菫にだけ残っているのだ」と、一種の感動をおぼえたのである。
(『亮《さや》々《さや》遺稿』)
芝生焼きてはつはつ萌《も》ゆる嫩《わか》草《ぐさ》や
みどり濃《こま》やかに灰かぶり居《を》り
平《ひら》福《ふく》百《ひやく》穂《すい》
昭和八年(一九三三)五十五歳で没した秋田県生まれの日本画家、歌人。東京美術学校選科を卒業して、父穂《すい》庵《あん》の画業を継ぎ、大正画壇に重きをなした百穂は、画家の結《ゆう》城《き》素《そ》明《めい》を通じて歌人伊《い》藤《とう》左《さ》千《ち》夫《お》に接し、明治三十九年(一九〇六)ごろから作歌をはじめた。「馬《あ》酔《し》木《び》」(明治三六・六―明治四一・一まで通巻三十二冊の短歌雑誌)や「アララギ」などに風格ある歌を発表した。この歌は大正の半ば彼が東京に開いた画塾の冬景《げ》色《しき》を詠《よ》んだもの。枯《か》れ芝《しば》生《ふ》を焼いたあと、ふとこげた地面に鮮《あざ》やかな緑の若草が頭を出しているのに気がついたのだ。「はつはつ」はわずかに。画家らしい観察と色彩感が新鮮。
(『寒竹』)
青《あを》海《の》苔《り》や石の窪《くぼ》みの忘れ汐《じほ》
高《たか》井《い》几《き》董《とう》
江戸中期の俳人。京都の人。江戸の早《はや》野《の》巴《は》人《じん》(夜半亭一世を名乗った)のもとで蕪《ぶ》村《そん》と同門だった父几《き》圭《けい》に俳《はい》諧《かい》を学び、父の死後蕪村に師事し、一門の隆盛に寄与した。蕪村没後その号「夜半亭二世」をついで三世を名乗った。句は繊《せん》細《さい》で雅《が》趣《しゆ》に富むものが多く、語感の鋭《するど》さはさすがに血筋と師系のよさを物語る。この句も、ふと目にとまった小さな情景を「忘れ汐」という趣《おもむ》きのある言葉にとらえて、波のひいた小さな窪みに漂《ただよ》っている青海苔の可《か》憐《れん》さを描写している。「忘れ汐」は海水が満ちた時に岩の窪みなどにたまり、それが干潮時になってもそのまま残っているのをいう。
(『井華集』)
春の夜の夢のうき橋とだえして
嶺《みね》にわかるるよこぐもの空
藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》
「夢のうき橋」は春の夜のはかなさをいっているが、この言葉は『源氏物語』の終巻「夢《ゆめの》浮《うき》橋《はし》」にもとづくものだろう。春夜の夢がふととぎれる。その時山の峰から横雲がつと別れ、漂《ただよ》い出そうとしている。歌の文字づらの意味はそれだけだが、夢の浮橋とか峰に別れてゆく横雲という表現は、男女の物語世界を連想させずにはおかない。作者の意《い》図《と》もそこにあった。幽《ゆう》玄《げん》な味《あじ》わいとある種の妖《よう》艶《えん》さを併《あわ》せ持った物語の美を歌に盛るべく、まさに骨身をけずった壮年期の定家の美意識、そして彼が代表者であった『新古今集』の新風をも、いわば象徴的に表わしている一首といえる。
(『新古今集』)
暮れて行く春のみなとは知らねども
霞《かすみ》に落《お》つる宇《う》治《ぢ》のしば舟
寂《じやく》蓮れん法《ほう》師《し》
この歌は『古今集』の紀《きの》貫《つら》之《ゆき》の歌、「年ごとにもみぢば流す龍《たつ》田《た》川《がは》みなとや秋のとまりなるらむ」を本《ほん》歌《か》としている。「みなと」は河口。逝《ゆ》く春がどこのみなとに行きついて停泊するのか知らない。しかし、柴《しば》を積んだ宇治川の小舟は、急流を霞の中へ落ちてゆく、とうたう。貫之の歌にあるのは秋のきわめつきの美景、すなわち龍田川の紅葉《もみじ》である。これに対し宇治川のひなびた柴《しば》舟《ぶね》を晩春の美景として発見し、対抗させている。「霞に落つる」という表現も急流のさまをとらえてみごとである。『新古今集』の撰《せん》者《じや》の一人であったが、成立を見ずに没した。
(『新古今集』)
外《と》にも出よ触《ふ》るゝばかりに春の月
中《なか》村《むら》汀《てい》女《じよ》
明治三十三(一九〇〇)年熊本県生まれの現代俳句を代表する女流。大正七年(一九一八)から句作をはじめ「ホトトギス」に投句した。結婚後一時中断したが、再び「ホトトギス」や星《ほし》野《の》立《たつ》子《こ》の「玉《たま》藻《も》」、杉《すぎ》田《た》久《ひさ》女《じよ》の「花衣」に参加し、「ホトトギス」から輩《はい》出《しゆつ》した女流の中でもとりわけ大輪の花のような才能を示した。この句は昭和二十一年敗戦間もない時期のもの。霞《かす》むような春のまん丸な月が、わが身に触《ふ》れんばかりに間近に昇《のぼ》ってきた一瞬の驚きと喜び、それが思わず人に誘《さそ》いかける句となって、心の弾《はず》みをよく伝えている。ハ行のフルルとハルの音の響《ひび》き合いも快い。作者の代表作の一つとしてよく知られる句である。
(『花影』)
月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
在《あり》原《わらの》業《なり》平《ひら》
月も春も、昔の月、昔の春ではない。それなのに、わが身だけは昔のままかくもうち捨てられ、孤独の嘆《なげ》きに沈《しず》んでいる、というのである。作者業平は当時最高の権《けん》門《もん》藤原家の娘高《たかい》子《こ》を愛し、ひそかに通《かよ》っていた。しかし、女は藤原家の閨《けい》閥《ばつ》政治により清《せい》和《わ》帝女《によう》御《ご》(二条の后《きさき》)となって入《じゆ》内《だい》させられてしまった。悶《もん》々《もん》の一年の後にまためぐり来た春。業平は二人ですごした思い出の場所でただひとり、板《いた》敷《じき》に伏せって嘆きあかしてこれを詠《よ》んだという。『伊《い》勢《せ》物《もの》語《がたり》』の第四段にも出てくる有名な歌である。風流才子の典型といわれる彼の歌の抒情性は、平安朝男性歌人中群を抜いて真《しん》率《そつ》なものである。
(『古今集』)
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の
朧《おぼろ》月夜にしくものぞなき
大《おお》江《えの》千《ち》里《さと》
この歌は漢学者の大江千里が『白《はく》氏《し》文《もん》集《じゆう》』(白《はく》居《きよ》易《い》の詩文集)の語句の一節を題にして和歌を詠《よ》み、寛《かん》平《ぴよう》六年(八九四)宇《う》多《だ》天皇に奉《たてまつ》った「句題和歌」の一首である。そのような成立事情にもかかわらず、この歌は以来日本の春の季節感を表現する典型的な歌の一つとみなされ、『古今集』が成立する上でも一つのはずみをなしたとみられる作品となった。「しくものぞなき」の「しく」は及ぶ。つまり他にこれに及ぶものもないと、春夜に霞《かす》む朧月夜の美しさを賞《しよう》讃《さん》している。当時から大層愛誦され、『源氏物語』(「花《はな》宴《のえ》」《ん》)でも、初めて源氏の君と出《で》逢《あ》う朧月夜の君がこの歌を吟《ぎん》じている。
(『新古今集』)
行《ゆく》春《はる》や鳥《とり》啼《なき》魚《うを》の目は泪《なみだ》
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
『おくのほそ道』出立の際に詠《よ》んだ留《りゆう》別《べつ》の句。深川の芭蕉庵《あん》から舟に乗り、千《せん》住《じゆ》で下船、「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻《まぼろし》のちまたに離別の泪をそそぐ」とあって右の句がしるされる。時は元《げん》禄《ろく》二年三月二十七日、現在の五月半ばに当たる。この世に在《あ》るものすべて流《る》転《てん》の幻とは観《み》ていても、知人の多い江戸を去る情は格別だったろう。芭蕉の脳《のう》裡《り》には陶《とう》淵《えん》明《めい》の「帰《 ル》〓田園《 ノ》居《 ニ》〓」の「羇《き》鳥《てう》恋《 ヒ》〓旧林《 ヲ》〓、池《ち》魚《ぎよ》思《 フ》〓故淵《 ヲ》〓」や、杜《と》甫《ほ》の「春望」の「感《   ジテハ》〓時《 ニ》花《 ニモ》濺《そそギ》〓涙《 ヲ》、恨《 ンデハ》〓別《 レ》 《ヲ》鳥《 ニ》 《モ》驚《 カ》 《ス》〓心《 ヲ》」などが浮かんでいたかもしれないと説かれる。ありうることだが、この句は一句独立してみごとな日本語の詩である。
(『おくのほそ道』)
ゆく春や蓬《よもぎ》が中の人の骨
榎《えの》本《もと》星《せい》布《ふ》
天《てん》明《めい》初期一七八二年から八七年にかけて日本東部は飢《き》饉《きん》に見舞われた。特に天明三年(一七八三)は、浅間山噴火の影響を受けて冷害による奥羽地方の大飢饉は悲《ひ》惨《さん》をきわめ、多数の餓《が》死《し》者を出した。当時の女流俳人星布のこの句も、あるいはそのころの見《けん》聞《ぶん》から生まれた句かもしれない。春も終ろうとする原野に生い茂っている蓬の原、そこに人の骨がちらばっている。俳句の主題としてはきわめてまれな例である。まして女流がこのような情景を句にするのは稀《け》有《う》なことだろう。星布は武蔵《むさし》八王子の出身。初め芝紅と号し、白《しら》井《い》鳥《ちよう》酔《すい》、加《か》舎《や》白《しら》雄《お》に師事した。天明前後の俳諧中興期に男まさりの格調高い句を作った人。
(『星布尼句集』)
雛《ひな》 祭《まつり》
平安初期、嵯《さ》峨《が》天皇時代の勅《ちよく》撰《せん》漢詩集に『文《ぶん》華《か》秀《しゆう》麗《れい》集《しゆう》』がある。その巻下「雑《ざつ》詠《えい》」の中に、滋《しげの》野《の》貞《さだ》主《ぬし》、巨《こ》勢《せの》識《しき》人《ひと》の「草《くさ》合《あわせ》」を詠じた「闘百草」七言長篇詩二首が収録されている。原文は岩波日本古典文学大系の『懐《かい》風《ふう》藻《そう》・文華秀麗集・本《ほん》朝《ちよう》文《もん》粋《ずい》』(小《こ》島《じま》憲《のり》之《ゆき》氏訓読・校注)に収められている。
その長篇詩の一首、巨勢識人の「聞《きく》道《なら》く春色園中に遍《あまね》しと、閨《けい》裡《り》春《しゆん》情《じやう》窮《きは》むべからず。伴《とも》を結び共に語らひ百《もも》草《くさ》を闘《たたか》はさむとし、競《きほ》ひ来《きた》りてまづ就《つ》く一《いつ》枝《し》の 叢《くさむら》」に始まる詩は、具体的に野遊びの生き生きしたさまをえがいて興味があるので、現代語に訳して以下に引いてみよう。
春の気《け》色《しき》は苑に満ちているという。
寝床にぼんやり寝そべって春の思いを汲《く》み尽《つく》すなどできぬ相談。
仲間を語らい誘《さそ》い合って、
さあ、草合せをやろうじゃないかと、
競って野原にやってくる。目ぼしい枝にすっと近づく。
いい花をさがしまわって桃や李《すもも》をえいやと引っぱり、
葉を摘《つ》んであちこちうろつき、薔《ば》薇《ら》をめぐる。
横向きに咲く花びらを取るかと思えば、つんと尖《とが》った藤も取る。
摘んだ草花はひた隠《かく》し、おたがい敵の獲《え》物《もの》を知らない。
我、人、ともに、相手の方が勝っているかと疑心暗鬼、
小童《わらべ》を放《はな》ってそっと相手を偵察させる。
たたなわる高楼の、明るい窓辺に車座になって、七、八人。
ふところには、さまざまな香りを放つ草花を秘め、
手の中にも、いろんな姿の草花をにぎる。
裳《も》裾《すそ》からげて楽しい席につどうのだ、
おのもおのもの頭《かしら》には、美しいかんざしを挿《さ》して。
早くお出しと促《うなが》し合うが、誰《だれ》ひとり出そうとしない。
どうぞお先に。いえ、あなたこそ。
かくてついに百草を合わせ、千花を闘わす。
ほら、いかが、こんなの無いでしょ、お気の毒に。
紅《くれない》の茎を出して紫の葉を迎えうち、
一本の花しべをもって二枚の花びらと争う。
判者が互いの勝ち数を告げれば、
負けている者は珍《めずら》しい名の草花をさらにくり出し、日もまた傾《かたむ》く。
勝った者は賭《か》けの品を翌朝まで待ってなどやらぬ、
あわれ敗者はうすものの衣を剥《は》がれ、こそこそと家に帰る。
男女入りまじっての賑《にぎ》やかな、しかし素《そ》朴《ぼく》な草花合せの競技である。団《だん》欒《らん》の中に賭けや勝負がふくまれ、勝ち負けで団欒はいっそう味を濃《こ》くし、楽しくなってゆくのである。
この詩では草花合せはすでに洗練された遊びになっているが、根をたぐってみれば、もとは不老長寿を願う呪《じゆ》術《じゆつ》的信仰的な行事から始まったものだろう。
新年最初の子《ね》の日に、山野に出て小松を根ごと引き抜き、若芽を摘んで遊び、長寿を祝って宴遊するのは、平安時代の宮《きゆう》廷《てい》社会では重要な行事だった。「子《ね》の日」は音の共通性から「根《ね》延《の》び」に通じるというので、この日に千年の齢《よわい》を保つ松の命にあやかるために、若い松を根ごと引いたのである。松だけではなく、他の薬草の採集も行われた。後世正月の大切な行事となった春の七草を食べることは、もともとこのような長寿祈願から来ていたのである。
けれども、時は春、日はうらら、草は肌《はだ》にやさしく、土のうるおいは芳《ほう》香《こう》のように人の心にそそぐとあれば、心浮きたつ草花摘みが、おのずと恋の草摘みに重なってゆくのも当然だったろう。また楽しみをいっそう求め合う心が、巨勢識人の詩のような、賭けを伴う遊びに発展してゆくのも自然だった。
信仰と呪術が、遊びと競技と美的享《きよう》楽《らく》へと自然な形で、裾《すそ》を拡げてゆき、やがては「貝《かい》合《あわせ》」、「絵《えあ》合《わせ》」さらに高度な「歌《うた》合《あわ》」《せ》へと発展してゆくのも、どうやら必然の成行きだった。「呪術」から「芸術」が分化してゆく経路がそこにあったといえる。
元来日本語の「合わせ」という言葉は、協調する意味の合わせると、争い競い合うという二つの面を持って成り立っている。その洗練され尽くした究極の形の一つが「歌合」だった。選ばれた歌人たちは共通の題のもとに和歌を競作したが、盛大な社交儀式の一面ももっている競作で、かれらの作は左と右に分けられ、判者によって勝者が判定された。「合わせる」ことは「戦い」を意味したが、戦い合う場はまた「宴《うたげ》」の場でもあったのだった。
このように見てくれば、山野に遊んで自然に直接ふれることと、洗練された文芸の世界での雅宴を楽しむこととの間には、意外にも地下水のようなつながりがあったことがわかろう。日本の文芸の根には、そういう意味で、土の香りがするさまざまな行事の名《な》残《ご》りがあったということもいえるのである。
呪術的なものがいつのまにか生活そのものの中に融《と》けこみ、美しいもの、愛すべくも可《か》憐《れん》なものに変じて生きつづける好例として、春季なら「雛《ひな》祭《まつり》」をあげることができるだろう。
雛祭は三《さん》月《がつ》節《ぜつ》供《く》で、三月三日に行われる年中行事である。五月節供は男児の、三月節供は女児のお節供として祝う。この日には、公《く》家《げ》の正装をした内《だい》裏《り》雛一対《つい》を中心として、随《ずい》身《じん》の左右大臣・三人官女・五人ばやし・白《はく》丁《ちよう》・左近の桜・右近の橘《たちばな》などを雛壇に飾《かざ》る。江戸初期までは、素《そ》朴《ぼく》な紙雛を緋《ひ》毛《もう》氈《せん》の上に二、三対並べる程度だったが、中期以後になると、布製の右にのべたような華《はな》やかな組み合わせの雛壇が飾られるようになり、そのためあまりにぜいたくな雛飾りを禁止する法令まで時々出されるようになったほどだった。
旧暦の三月三日だから、桃の花がうるわしく咲《さ》きほこる季節でもあり、雛人形とともに、桃の花や白酒、菱《ひし》餅《もち》などが供えられた。もともとは公家階級や武家に始まり、一般庶民にまで広く浸《しん》透《とう》した風習である。
雛が美しく胡《ご》粉《ふん》で彩《いろど》られ、高価な布で覆《おお》われ、他方で信仰心がしだいに衰《すい》微《び》してくると、雛人形は大切にしまわれ、三月節供のたびごとに取り出されて鑑賞される一種の工芸品になってきた。たとえば元《げん》禄《ろく》俳人榎《えの》本《もと》其《き》角《かく》の句、
綿《わた》とりてねびまさりけり雛の顔
は、一年ぶりに取り出して、人形の顔を覆っている綿をそっとはがして見ると、一年間見ないうちに雛の顔がその分だけどこか床《ゆか》しく古びてきているさまを詠《よ》んだものである。句の中心は雛人形のもつ美感にある。
けれども、それ以前は雛人形は祭が終れば水に流してしまうのがしきたりだった。今日でも土地によって流し雛の風習があるのは、古来の伝習を守っているのである。なぜ毎年流してしまうのが本来のありかただったのかといえば、信仰・呪術上の意味からである。
もともと、旧暦三月上旬のころはその年の農事の開始される時期だったので、それに先立って禊《みそぎ》をし、穢《けが》れを祓《はら》う行事がいろいろな形で行われた。その際、穢れを移す形《かた》代《しろ》として紙や藁《わら》や木・竹・土などの人《ひと》形《がた》が作られ、それらの素朴な雛人形や武《む》者《しや》人形は人間の穢れを負って水に流されたのである。
節供の流し雛だけではなく、疫《えき》病《びよう》その他を祓うために簡単な人形を作って、村境や川や海に送る神送りの行事も、呪術と雛人形の深いつながりを示していた。
これら、人間の罪や穢れを移す代《だい》替《たい》物《ぶつ》としての雛人形が、近世以来今《こん》日《にち》にいたるまでのあの愛すべく美しいお雛さまたちの起源だったわけである。私たちが展覧会などで時に見ることのできる江戸時代あたりの古い雛が、美しさというだけでなく、一種超自然的な妖《あや》しい雰《ふん》囲《い》気《き》をたたえていることがあるのは、ひょっとするとそのような来歴が、人形にまで乗り移っているのかと思われないでもない。
雛祭る都はづれや桃の月   与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
桃桜白《しら》髪《が》の雛もあらまほし   大《おお》島《しま》蓼《りよ》太《うた》
蝋《らふ》燭《そく》のにほふ雛《ひひな》の雨夜かな   加《か》舎《や》白《しら》雄《お》
いきゝゝとほそ目かゞやく雛《ひひな》かな   飯《いい》田《だ》蛇《だ》笏《こつ》
箱を出て初雛のまゝ照りたまふ   渡《わた》辺《なべ》水《すい》巴《は》
雛の唇《くち》紅ぬるるまま幾世経《へ》し   山《やま》口《ぐち》青《せい》邨《そん》
母の魂《たま》梅に遊んで夜《よ》は還る
桂《かつら》 信《のぶ》子《こ》
肉体を抜け出た 魂《たましい》が昼のうちは梅の花とたわむれているが、夜がくればまたもとの肉体に戻るのだ。ふしぎな幻想性をもった句である。年老いた母を喪《うしな》った折の「母容態悪化」一連の句だから、作者にとっては現実から得た題材だが、句には現実と非現実がないまぜになった感銘がある。大正三年(一九一四)大阪生まれの作者は結婚生活二年で夫と死別するという不幸に遭《あ》った。当時の作には哀《あい》切《せつ》な句が多い。昭和十三年(一九三八)以来日《ひ》野《の》草《そう》城《じよう》に師事したが、初期の作では、「窓の雪女体にて湯をあふれしむ」「ゆるやかに着てひとと逢《あ》ふ螢《ほたる》の夜」など、女性の官能的な感覚をふくよかに詠《よ》んだ句に特色を示した。
(『新緑』)
いのち噴《ふ》く季《とき》の木ぐさのささやきを
ききてねむり合ふ野の仏たち
生《うぶ》方《かた》たつゑ
冬のあいだの固い殻《から》を破って、さまざまな木草が新たな命を噴きあげる春。それを作者は「いのち噴く季《とき》」といった。目覚めたのちささやき合う木草。そのかたわらに野仏が、風化して目鼻も定かでない顔でうつうつと眠っている。路《ろ》傍《ぼう》に野仏をたてた昔の人は、悲しみや祈りをこめて石仏に手を合せたことだろう。野仏はそれらの時間をすべて閉じこめてじっと動かずに立って眠っている。そこには、時の移ろいと時の停止を同時に語るものがある。作者は三重県生まれの歌人で、歌論や歌人評伝などにも多くの著書がある。
(『風化暦』)
道のべに阿《あ》波《は》の遍《へん》路《ろ》の墓あはれ
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
松山生まれの虚子は、生まれてから八歳までの間、今の愛媛県北条市に郷居した。旧居の近くに大きな松があり、その松の下に「阿波の遍路の墓」とだけ銘された墓が立っていた。後年(昭和十年四月)旧居跡《あと》を訪れたとき、幼時見なれていたこの墓をまた見て感を発し、この句を作った。阿波(徳島県)から遍路してきた名も知れぬ人が、この他国で客《かく》死《し》したのである。それを哀《あわ》れんで土地の人が「阿波の遍路の墓」とだけしるした墓をたててやったのだ。幼年時代には感じることもなかった人生無常の思いが、この時の虚子にはひとしお身にしみたのである。「遍路」は春の季語。
(『五百句』)
女《によ》身《しん》仏《ぶつ》に春剥《はく》落《らく》のつづきをり
細《ほそ》見《み》綾《あや》子《こ》
奈良の秋《あき》篠《しの》寺《でら》を早春に訪れた折の句である。折からの春雪に薄《うす》暗《ぐら》い堂内は森《しん》閑《かん》と冷えていた。その引きしまった寒気の中に、寺宝の女身仏、伎《ぎ》芸《げい》天《てん》が立っている。仏像の表面の黒うるしは歳月の中で剥落し、やや赤みがかった地《じ》肌《はだ》があらわになっているところがある。一瞬、長い時の流れがその仏の剥落の部分から透《す》かし視《み》られるような思いが作者をうったのである。自分が観《み》ているこの瞬間も、この仏像の剥落は見えないところで続いているのだと。永遠といっていい時の流れの実感を、伎芸天を見た印象に合わせて一瞬にしてとらえた所に句の成功があった。
(『伎藝天』)
ねがはくは花のもとにて春死なむ
その如《きさ》月《らぎ》の望《もち》月《づき》のころ
西《さい》行《ぎよう》法《ほう》師《し》
もし願いかなうことならば、爛《らん》漫《まん》たる桜の花のもとで死にたいものだ、まさにその二月十五日の満月のころに。「如月の望月のころ」は二月十五日(この日が陰暦では望月、つまり満月)をいうが、太陽暦では三月末に当たる。西行の熱愛した桜の花盛りの時期だが、その日はまた釈《しやく》尊《そん》入《にゆう》滅《めつ》の日でもある。仏道に入った者として、最も望ましい死の日だったわけである。この歌は、自分の歌の中から秀歌七十二首を自《じ》撰《せん》して三十六番の歌《うた》合《あわせ》の形に組み、藤《ふじ》原《わらの》俊《しゆん》成《ぜい》に判を求めた「御《み》裳《も》濯《すそ》河《がわ》歌《うた》合《あわせ》」に含まれている。時に西行七十歳。三年後の建《けん》久《きゆう》元年(一一九〇)二月十六日、彼は驚くべきことに願った通りの時に没した。
(『続古今集』)
なつかしの濁《ぢよ》世《くせ》の雨や涅《ね》槃《はん》像《ざう》
阿《あ》波《わ》野《の》青《せい》畝《ほ》
青畝は秋《しゆう》桜《おう》子《し》・素《す》十《じゆう》・誓《せい》子《し》とともに「ホトトギス」の四Sと称された人。対象に静かに沁み入って詠《よ》む作風である。陰暦二月二十五日の涅《ね》槃《はん》会《え》に寺院で釈《しや》迦《か》入《にゆう》寂《じやく》の姿を一切衆生の悲嘆の姿とともに描いた図を掲げる。それが涅槃像。仏眼から見ればこの世は濁世だが、涅槃会の細かい春雨に包まれるとき、人の世も春雨も、濁世は濁世のままにかぎりなくなつかしいというのである。
青畝は奈良県出身。旧姓橋本畝雄、結婚して大阪の阿波野家に入った。幼い時から極度の難聴で苦しみ、進学も畝傍《うねび》中学まで。「ホトトギス」では大正末年、昭和初年代に大いに活躍し、その後「かつらぎ」の主宰をながらくつとめた。昭和二十二年(一九四七)カトリックに入信、霊名アシジのフランシスコ。入信して以後の作風は美醜両面を平等にみつめて詠む大きな風格のものとなった。
(『万両』)
動くとも見えで畑うつ男かな
向《むか》井《い》去《きよ》来《らい》
この句で思い出される現代の句がある。山口青《せい》邨《そん》の「天近く畑打つ人や奥吉野」。青邨の句はまた大原美術館所蔵の藤《ふじ》島《しま》武《たけ》二《じ》の名作「耕到天(耕して天に到る)」をも思い出させる。春の畑打ちはかつていたる所で見られた情景だし、菜の花に陽炎のもえる田園などで遠目に見る農耕の姿は、まさしく去来のこの句そのままだった。中国の江南あたりでは、今でもよく見られる風景だが。
去来は長崎の儒《じゆ》医《い》の次男として生まれ、八歳の時一家が京都に移住した。しかし数年後、福岡の叔父のところへ養嗣子として移った。この久米家で武芸百般を修業したが、のち養家に男子が生まれたため、再び京都に戻り、兄の医業を助けた。芭蕉の風を慕《した》って門弟となり、やがてぐんぐん頭角を現した。終生芭蕉に忠節を尽くし、蕉《しよう》門《もん》一の人格者として芭蕉に愛され、蕉門俳論書の随一である『去来抄』を書いた。
(『去来発句集』)
ものの種《た》子《ね》にぎればいのちひしめける
日《ひ》野《の》草《そう》城《じよう》
「ホトトギス」で早熟児の名をほしいままにし、のち「旗《き》艦《かん》」で新興俳句運動の先頭に立った草城は、戦後は病《やまい》に苦しみ、しみじみ沈《ちん》潜《せん》した句境をひらいたが、第一句集『花氷』のさっそうたる華《はな》やかさが、何といっても草城という俳人の印象を決めていよう。右の作が感じさせるのは、二十代半ばの青年の鬱《うつ》勃《ぼつ》たる情感。「ところてん煙の如く沈み居り」「春の灯や女は持たぬのどぼとけ」その他の句も当時の作として有名である。
日野草城は京都の旧制第三高等学校で神陵俳句会を創設し、やがてこれを母《ぼ》胎《たい》に京大三高俳句会を創《つく》った。このため関西の人と思われやすいが、生まれたのは東京の上野である。昭和十一年(一九三六)、意欲的に新興俳句の運動を進めている最《さ》中《なか》に「ホトトギス」を除籍され、また第二次大戦後は肺患、さらに右眼の失明と不運が重なった。昭和三十一年五十四歳で没した。
(『花氷』)
街の雨 鶯《うぐひす》餅《もち》がもう出たか
富《とみ》安《やす》風《ふう》生《せい》
俳句は元来笑いや滑《こつ》稽《けい》と深い縁のある文芸形式だが、正岡子《し》規《き》が俳句を近代精神に立脚する「文学」として再興して以来、この種の要素はむしろ背景に沈む形になった。それに対し風生は軽妙洒《しや》脱《だつ》な句風で現代俳句中ぬきんでている一人で、その軽妙な句の成功したものには、読者が思わず微笑を誘われる温かい笑いがこもる。菓子屋の店先に早くも春を告げて並べられた鶯餅。春雨が街を煙らせている中のその若草色。口語調が清新である。
風生は逓《てい》信《しん》省に勤め、逓信次官に任命されたが、その中途で退官、その後は官界を離れた。東大俳句会の大正十一年(一九二二)創設以来のメンバーで、逓信省では有志の始めていた俳志「若《わか》葉《ば》」を、大きな結社誌に育て上げ、主宰した。昭和五十四年(一九七九)九十三歳の長寿で没した。
(『松籟』)
累《るゐ》々《るゐ》と莟《つぼ》むを歯にぞ花《はな》菜《な》漬《づけ》
皆《みな》吉《よし》爽《そう》雨《う》
傘《さん》寿《じゆ》(八十歳)記念として刊行された句集『声遠』に収められ、作者はこの翌年の昭和五十八年(一九八三)逝去した。爽雨は高浜虚《きよ》子《し》の唱えた写生俳句の精《せい》髄《ずい》をさぐって独自の世界を作りあげた俳人である。一語一語の語感をいつくしむ作風で、おのずと優美な句境が生み出された。
「累々」の累は、じゅずつなぎにする、重ねるの意。春の薹《とう》を摘んで食べる菜の花。その花の漬物である花菜漬は晩春の楽しい味覚だが、「累々と莟む」という確かな表現が句の生命を支えている。
(『声遠』)
春の日やあの世この世と馬車を駆《か》り
中《なか》村《むら》苑《その》子《こ》
中村苑子には「黄《よ》泉《み》に来てまだ髪梳《す》くは寂しけれ」のような句もあり、通常の写生や花《か》鳥《ちよう》諷《ふう》詠《えい》の方法では扱うことのきわめて少ない非現実世界にも、しきりに出入りしている。ただし、「あの世」はたしかに非現実だが、人の心はそんな境界へも自在に出入りするふしぎな働きそのものである。古風な馬車を駆《か》ってしきりに現世と死後の世界を往《おう》来《らい》する、妙に物狂おしい静かな春の日。
中村苑子は久保田万太郎に師事し、「春《しゆん》燈《とう》」に参加していたが、「俳句評論」を高柳重信と共に創刊、その終刊まで夫の重信と行動を共にした。万太郎の作風からすると、「俳句評論」の意図した俳句前衛風の世界は非常に異質なように見えるが、中村苑子は両者の間で悠《ゆう》然《ぜん》として自らの世界を保ち、詠《よ》みつづけている。まさに「あの世この世と馬車を駆り」の風情。
(『水妖詞館』)
梅散るや難《なに》波《は》の夜の道具市
建《たけ》部《べ》巣《そう》兆《ちよう》
巣兆は文化文政時代の代表的俳人のひとりである。江戸生まれで絵や書もよくした。同時代の親しい友人夏目成《せい》美《び》などと同様、洗練された品のいい句を作り、おのずと大都市江戸の趣味性豊かな生活を表現している。ただしこの句は江戸でなく、大坂の夜の道具市を詠む。
道具市の売物には家具・調度類もあったろう。いわば人生の哀歓の跡が、ゆらめく灯影を浴びて売り買いされているのである。その上に、はらりと散る梅の花。
(『曾波可理』)
春の夜や籠《こも》り人《ど》ゆかし堂の隅
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
芭蕉は 貞《じよう》享《きよう》四年(一六八七)初冬から翌春にかけて尾張・伊賀・大和《やまと》を旅した。その紀行『笈《おい》の小《こ》文《ぶみ》』に「初《はつ》瀬《せ》」と前《まえ》書《がき》して出ている句。長《は》谷《せ》寺である。春夜、寺の御堂に詣《もう》でると、森閑とした堂内の薄闇の底に、ひっそりお籠《こも》りして祈る人がいた。近づきがたく、しかし深く心ひかれるその姿に、芭蕉は春夜の情感の一極致を見ている。長谷の観音は平安朝以来、特に恋に悩む女人の信仰を集めた。当然この句の「籠り人」にも、そういう暗示があると見ていいだろう。
(『笈の小文』)
はるの夜の女とは我《わが》むすめ哉《かな》
榎《えの》本《もと》其《き》角《かく》
「遠遊酔帰の駕《かご》のうちにて」と前《まえ》書《がき》がある。其角は蕩《とう》児《じ》だった。「酒を妻つまを妾の花見哉」など、いい気なもんだといわれそうな句も作っている。師の芭蕉とはその点正反対。
その其角が、まだ少女といっていい年齢のわが娘と一緒に遠出をし、大酔してかごで帰る時、ふと娘に「女」を感じてはっと驚いたさまの句である。父情は複雑、艶《つや》っぽい味もあって、春夜の句の珍品だろう。
其角ははじめ榎本氏、のち宝《たから》井《い》氏。父親の竹下東順(この人も俳諧師だった)の影響もあったろうが、十代初めで芭蕉に入門し、やがて蕉門の高弟となった。師の芭蕉の枯《こ》淡《たん》な作風とは違い、伊《だ》達《て》好みで新奇な作風を追求した。生活も大名、旗本、また富商との派出な遊興に随伴するようなことも多く、四十七歳で早死にした。
(『五元集』)
鯛《たひ》を切る鈍き刃《は》ものや桃の宿
高《たか》井《い》几《き》董《とう》
几董は蕪《ぶ》村《そん》の高弟で篤《とく》実《じつ》勤勉で知られた。『蕪村句集』『一夜四歌仙』ほか蕪村一門の作品の編著も多い。「酒無ければ句なし」と門人が記したほどの酒徒でもあったらしい。右の句の目のつけ所も、そうと知って読めばいかにもと思わせられるところがある。「鈍き刃もの」というのが面白い。ひなびた風情をかもし出す上、重たい物音、さらには鯛が相当の大物であることまで感じさせる。「桃の宿」は宿屋ではない。花盛りの桃の下の小家である。
几董は俳人高井几圭の次男で、幼時から俳諧に親しんでおり、蕪《ぶ》村《そん》(夜半亭二世)の没後夜半亭三世の号を継いで、名声はいわゆる中興期俳壇に鳴り響き、多くの著名な俳人と交流した。温和な性格で人々に愛されたが、みずからは其《き》角《かく》に憧《あこが》れていたらしい。酒をくみかわして俳諧を制作中に急死したという。四十九歳だった。
(『井華集』)
桃の木へ雀《すずめ》吐《はき》出す鬼《おに》瓦《がはら》
上《うえ》島《じま》鬼《おに》貫《つら》
春、鳥は巣構えで忙しい。ヒバリは枯れ草などで麦畑や草むらに、ツバメは泥で人家の軒《のき》先《さき》や梁《はり》などに、スズメはわらしべその他で屋根瓦の隙間などに、思い思いに営巣する。この句のスズメも、鬼瓦の隙《すき》間《ま》を選んで巣を作ったのであろう。桃の木の横合いへ勢いよく飛び出してくる姿は、まるで鬼瓦自身がスズメを吐き出しているようだ。無造作な句の滑《こつ》稽《けい》感に、初期俳諧の力がこもっている。鬼貫は万治四年(一六六一)生、元文三年(一七三八)没で、正保元年(一六四四)生、元禄七年(一六九四)没の松尾芭蕉よりも二十年近い後輩だが、二十代の終りごろには、「誠のほかに俳諧なし」と大悟したとみずから言っているほどで、これはおそらく元禄初期のころと見られるから、芭蕉と同時代に、蕉風に通じる考えを持っていたと言ってよかろう。鬼貫を考える上で興味がある。
(『仏兄七久留万』)
はなざかりさゝらに狂ふ聖《ひじり》あれ
加《か》藤《とう》暁《きよう》台《たい》
「洛《らく》東《とう》寺院に遊ぶ」と前書がある。京都の円《まる》山《やま》あたりの寺に詣《もう》でて、折からの花ざかりの光景にうち興じ、この句をなしたのである。行い澄《す》ました僧に竹製の素《そ》朴《ぼく》な楽器ささらを持たせて踊り狂わせる空想がこの句を作らせている。俳《はい》諧《かい》味《み》がそこにあることは言うまでもないが、そんな情景を空想するほどに桜がみごとなのだという点が、何よりも肝腎な点であろう。暁台は名古屋の人だが壮年以後は多く京都に住み、同時代人で親交のあった与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》の一門ともしばしば風雅を共にした。天下に盛名をとどろかし、門人も日本各地から集まって、当時は蕪村などよりも有名な天明期俳壇の指導者だった。
(『暁台句集』)
近海に鯛《たひ》睦《むつ》み居る涅《ね》槃《はん》像《ざう》
永《なが》田《た》耕《こう》衣《い》
陰暦二月十五日は釈《しや》迦《か》入《にゆう》滅《めつ》の日とされ、この日諸寺院では涅槃像(涅槃図)をかかげて涅《ね》槃《はん》会《え》を営む。涅槃像は、入《にゆう》寂《じやく》した釈尊をとりかこんで嘆《なげ》き悲しむ弟《で》子《し》・衆《しゆ》生《じよう》が描かれている絵図(彫刻もある)。奈良、京都などの大寺院では涅槃会を三月十五日を中心に行う所が多い。「涅槃会やさながら赤き日の光 池《いけ》西《にし》言《ごん》水《すい》」のように元《げん》禄《ろく》の昔から多くの俳人に詠《よ》まれてきたが、現代俳壇に異色をもって鳴る耕衣の句のような作は珍《めずら》しい。近海で鯛が睦み合う情景と涅槃像との間には、直接何の関係もない。それでいてかえって、大いなる生命世界の調和を感じさせる大らかさと暖かさがこの句にはある。
(『吹毛集』)
灌《くわん》佛《ぶつ》や墓にむかへる独《ひとり》言《ごと》
榎《えの》本《もと》其《き》角《かく》
「灌佛」は灌《かん》仏《ぶつ》会《え》の略で仏《ぶつ》生《しよう》会《え》も同じ。陰暦四月八日(現在は四月八日、所によって五月八日)に釈尊の降誕を祝して、花で飾《かざ》った小堂を作り、水《すい》盤《ばん》に釈尊の像を安置し、人々は小柄《ひ》杓《しやく》で香《こう》水《ずい》(甘茶)を像の頭上に灌《そそ》ぐ。花祭ともいわれる。この句は「上行寺」と題がある。亡母追《つい》悼《とう》の百句を編んだ句日記「花摘」の冒《ぼう》頭《とう》の一句で、四月八日すなわち灌仏会の日の作。蕩《とう》児《じ》をもって自任した江戸俳壇の雄も、日ごろ自分の遊蕩ぶりを案じていた母の墓前で、神妙に独りごとを呟《つぶや》いているのである。其角は蕉《しよう》門《もん》筆頭の俳人だが、西《さい》鶴《かく》をはじめ他門の人とも親交があった。洒落《しやれ》風の俳《はい》諧《かい》江戸座一派は彼を祖とする。
(『蕉門名家句集』)
なき名きく春や三《み》年《とせ》の生《いき》別《わかれ》
向《むか》井《い》去《きよ》来《らい》
前書をよむと句の背景がよくわかる。前書には「丈草を哭《こく》す。およそ十年の笑は三年の恨《うらみ》に化しその恨は百年の悲《かなしみ》を生ず。惜《をし》みてもなほ名《な》残《ごり》をしく此一句を手《た》向《むけ》て来《こ》しかた行くすゑを語り侍《はべ》るのみ」。蕉《しよう》門《もん》で最も親しく相許した仲だった内《ない》藤《とう》丈《じよう》草《そう》の三回忌に詠《よ》んだ句である。およそ十年の間、笑い戯《たわむ》れることもしばしばあった友が儚《はかな》くなって、早くも三年。生者と死者とに別れてしまった悲しみは言い尽くせない。ただこの一句を手向けて、来し方を回想し、行く末を思いめぐらすことにするのだと。二人は蕉門の最も重要な存在だった上に、住んでいたのも京都やその周辺で、親交を結んだ仲だった。
(『去来発句集』)
草の戸も住み替《かは》る代《よ》ぞ雛《ひな》の家
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
この世は有《う》為《い》転《てん》変《ぺん》、変らぬものはない。こんなとるにたらない住み家にも主の住み替る時は来るものだ。新しい住人は自分のような世捨人とは違い、妻も子もある。もうすぐくる雛祭の日には、雛壇が飾《かざ》られて女の子の笑い声も響《ひび》き、華《はな》やいだ家に変ることだろう。
『おくのほそ道』の旅を前に、深川の芭蕉庵《あん》をさる知人に譲《ゆず》って出た芭蕉が、住みなれた草庵に訪れる変化を思いやって詠《よ》んだ句で、『ほそ道』冒《ぼう》頭《とう》におかれている句。「草の戸」は草庵の意で、芭蕉庵をさす。「雛の家」は、雛人形を飾って雛祭を祝う家。はるかな旅への思いを秘めて、まずは明るい句を冒頭においた芭蕉の心がしのばれる。
(『おくのほそ道』)
仕《つかまつ》る手に笛もなし古《ふるひ》雛《ひな》
松《まつ》本《もと》たかし
雛《ひな》壇《だん》に飾《かざ》られた古い雛人形の中の五人ばやし。地《じ》謡《うたい》・笛《ふえ》・小《こつ》鼓《づみ》・大《おお》鼓《つづ》・《み》太《たい》鼓《こ》の五人が並んでいる。ところが、長い歳月の間に、中の笛方の手から、かんじんの笛が失われている。それがなんとも哀《あわ》れである。雛人形にすぎないのに、どこか人間そのもののようでもある。「仕る」は「する」「行う」「作る」などの謙譲語で、これもきいている。松本たかしは父祖代々宝《ほう》生《しよう》流能役者の名門に生まれたが、病弱のため能を断念し、十六歳で専心虚《きよ》子《し》に師事した。この古雛の句に彼自身のそんな来歴をかさねて見るのは行きすぎだろうが、句の目のつけどころにはおのずとそんなことを思わせるものがある。
(『松本たかし句集』)
土《つち》不踏《ふまず》なければ雛《ひひな》倒れけり
阿《あ》波《わ》野《の》青《せい》畝《ほ》
雛祭のように伝統的でしかも現代に生き続けている風習は、当然たくさんの面白い句を俳人に作らせてきた。蕪《ぶ》村《そん》の「たらちねの抓《つま》までありや雛の鼻」のように、母への郷愁と雛の鼻の愛らしさを結びつけた句など、さすが巨匠の手腕である。青畝の句はまた何とも意表をつくもの。言われてみればそうだなあと感じさせることを、最初に言うのが、詩というものである。
青畝の句は、とりわけ晩年に近くなると、普通ひとが簡単に見過ごしてしまうような小さな生活環境の変化に着目して、あっと驚き、笑いを誘われてしまう情景を、じつにすばやく活写することに秀でていた。天性の俳諧師の面影がある。
(『不勝簪』)
箱を出て初《はつ》雛《ひな》のまゝ照りたまふ
渡《わた》辺《なべ》水《すい》巴《は》
「初雛」は女児の初節句に飾る雛人形をいう。しかしこの句の主役は、逆に古雛。毎年桃の節句になると箱から取り出される古雛が、歳月を経ているにもかかわらず、顔も姿も初雛さながら貴《あて》やかに照り映えている、そのめでたさを詠んだのである。昭和十二年(一九三七)の作だが、これと並ぶ句は急に現実に帰って、「印刷代突然騰《あが》り雛過ぎぬ」。当時の時局が時局だけに、雛のあわれも一層心にしみただろう。
水巴は花鳥画の大家として知られた渡辺省《せい》亭《てい》の長男として、明治十五年(一八八二)東京浅草に生まれ、昭和二十一年(一九四六)六十五歳で没した。「情調」を重んじ、繊《せん》細《さい》で粋《いき》な句をたくさん作った。
(『富士』)
菜の花や小窓の内にかぐや姫
建《たけ》部《べ》巣《そう》兆《ちよう》
巣兆は江戸時代後期の文化年間、夏目成《せい》美《び》、鈴木道《みち》彦《ひこ》とともに江戸三大家と称された俳人。菜の花がいちめんに咲く片田舎の昼さがり、一軒の家の小窓があいていたので、何気なしにのぞきこんでみると、なんと、まばゆいばかりのかぐや姫が家の中に坐《すわ》っているではないか。とっぴな童話的着想がおかしみを生んでいる。旧家の美しい娘をよんだ句かとも思われるが、「窓」の内側にかぐや姫がいたという空想が句の面白さを生んだ。
巣兆は飄《ひよう》逸《いつ》な味のある絵もよくし、また力強い筆遣いの書でも知られた。旅好きで、信濃や東北地方、また大阪その他関西にも旅した。この人の父は山本龍斎という書家だった。
(『曾波可理』)
新らしき蒲《ふ》団《とん》に聴《き》くや春の雨
村《むら》上《かみ》鬼《き》城《じよう》
鬼城は慶応元年(一八六五)鳥取藩士の子として江戸に生まれ、昭和十三年(一九三八)に没した。耳疾のため官吏を断念、長年高崎裁判所の代書人を務めた。子《し》規《き》、虚《きよ》子《し》に師事。子《こ》沢《だく》山《さん》で貧窮したが、背筋のぴんと張った句によって、俊秀むらがる大正俳壇に高くそびえ立った。新しい蒲団に寝る嬉しさに春雨を聴いている、その思い。素材も用語も単純だが余韻は豊か。語が感情にしっかり寄り添っているからである。
(『鬼城句集』)
東《こ》風《ち》吹くや耳現はるゝうなゐ髪
杉《すぎ》田《た》久《ひさ》女《じよ》
久女は虚《きよ》子《し》門に輩出した女流俳人の中でもぬきんでた才女だったが、体の不調に加えて精神の過度の緊張のため、晩年は悲運の底におちた。長女石昌子は母に関する多くの致命的誤伝を解くべく懸命の努力をしてきたが、この久女初期の句はあるいはこの長女の少女時代を詠《よ》んだものだろうか。「うなゐ髪」、今でいうおかっぱ髪にやわらかく東風が吹いて、愛らしい耳が現れる。古雅なことばでういういしい命を歌って新鮮。
(『杉田久女句集』)
春《しゆん》寒《かん》や日闌《た》けて美女の嗽《くちすす》ぐ
尾《お》崎《ざき》紅《こう》葉《よう》
明治中葉、若くして文豪と仰がれた紅葉は、俳人としても一家をなす作者だった。ただ西《さい》鶴《かく》崇拝の彼は、初期俳諧談《だん》林《りん》調の影響が尾をひき、同世代の正岡子《し》規《き》の革新性には欠けていた。しかし彼には、清新な作風の句も少なからずあり、明治俳壇の一方の雄だった。これは彼の句の一特徴とされる艶《えん》麗《れい》な情緒の句。春は浅く風はまだ肌寒い。早起きを怠《おこた》った美女が、日もたけて起き出して嗽いでいる。おそらく遊里の情景だろうが、そう限定しないで読む方が面白いように思われる。紅葉は門下の小説家たちに句作りを指導し、句会を催す時にはじつに真剣に精進したという。俳句を作る時の観察力の訓練や、凝縮した表現法が、小説を作る上でも大いに役立つと考えたかららしい。「秋声会」という俳句の会を明治二十八年(一八九五)に結成し、指導したほど、俳句に熱心だった。明治三十六年、三十七歳で没した。
(『紅葉句集』)
花《はな》衣《ごろも》ぬぐやまつはる紐《ひも》いろゝゝ
杉《すぎ》田《た》久《ひさ》女《じよ》
大正時代は虚《きよ》子《し》門に女流俳人が輩出したが、久女の情熱的で大胆な作風はひときわ目立った。美貌をうたわれたが実生活では悲劇の人で、句集も没後七周忌に初めて刊行された。花衣は花見衣装。花見帰りの軽い疲れに体をほてらせた女が、一本一本着物の紐をほどき捨てていきながら、あらためて紐の多さにわれと驚いている風だが、そこにこそ女の知る愉《ゆ》悦《えつ》も快感もあったし、またみずから桜となって花びらを散らす思いもあった。
「花衣ぬぐや」の句は大正八年(一九一九)の作で、師の高浜虚子に絶讃され、久女の作品は「ホトトギス」でもとりわけ注目されるようになった。しかし、昭和十一年(一九三六)、日野草《そう》城《じよう》、吉岡禅《ぜん》寺《じ》洞《どう》とともに突如「ホトトギス」同人を除籍され、その衝撃から久女はしだいに句を遠ざかっていった。
(『杉田久女句集』)
肩《かた》車《ぐるま》上にも廻る風《かざ》車《ぐるま》
武《む》玉《たま》川《がわ》
肩車をしてもらっている子。その子が手にしている風車。さわやかな風に風車が廻る。それだけの情景だが、いうまでもなくカタグルマとカザグルマの音の相似が、だれとも知れぬ一人の江戸庶民の作者を興じさせ、この愛らしい句を作らせたのである。幕末の優れた歌人大隈言《こと》道《みち》にも、「妹《いも》が背にねぶるわらはのうつつなき手にさへめぐる風車かな」があって、いずれもありし日の日本の、のどかな生活を伝えている。
水取リや氷の僧の沓《くつ》の音
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
「二月堂に籠《こも》りて」と前書がある。奈良東大寺二月堂の修《しゆ》法《ほう》としてきわめて有名なお水取りは、陰暦二月一日から十四日間にわたって行われる修《しゆ》二《に》会《え》の行事。二月七日と十二日の夜(現在は三月十三日未明)、若《わか》狭《さ》井《い》の水を汲《く》む行事である。きびしい儀式で、参《さん》籠《ろう》する僧は昼夜不眠、斎《さい》食《しよく》一合、翌朝まで湯水を飲むことを禁じられる。寒さと静けさの中で一切の行事がとり行われる。しんしんと冷える夜ふけ、凍《い》てついた氷さながらの僧の、森《しん》厳《げん》な修法の姿を端的に示す氷りついた沓音が響《ひび》く。「氷」は「僧」にも「沓の音」にもかかると見るべきだろう。貞《じよう》享《きよう》元年(一六八四)から二年にかけての記念すべき関西への旅の体験。
(『野ざらし紀行』)
げんげ田を鋤《す》く帰らざる人のごと
森《もり》 澄《すみ》雄《お》
「げんげ」(紫雲英)、また蓮《れん》華《げ》草《そう》ともいう。かつては日本中の田地で育てられていた。土地の肥料として珍重される草花であると同時に、日本の春を彩《いろど》る可《か》憐《れん》な紅色の景《け》色《しき》でもあった。化学肥料全盛時代の到来、また農地が住宅地やゴルフ場その他に変ってゆく間に、げんげの咲く風景もむしろ珍《めずら》しいものになってしまった。森澄雄のこの句が、そのような社会的変化をも背景として意識しているかどうかについては確証はないが、「帰らざる人のごと」という魅力的で仙境的な表現には、おのずと失われたものへの愛《あい》惜《せき》の響《ひび》きがあるように感じられる。
(『浮〓』)
ふらここの会《え》釈《しやく》こぼるるや高みより
炭《たん》 太《たい》祇《ぎ》
「ふらここ」はブランコのこと。鞦《しゆう》韆《せん》ともいう。春の季語。「会釈こぼるるや」は、空中に舞いあがったブランコの上から明るい会釈がこぼれてくるのだ。もちろん若い娘である。ブランコは中国経由で古くから日本にも伝わり、平安初期の漢詩集に、すでにブランコに乗る麗《れい》人《じん》を詠《えい》じた嵯《さ》峨《が》天皇の作などがある。「こぼるる」は「高み」のゆかりでそう言ったと同時に、こぼれるような笑顔をも連想させる。太祇は江戸中期、与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》と同時代の俳人で、親交もあった。人情の機《き》微《び》を鋭《するど》くとらえ、垢《あか》抜けた人事句にすぐれた句を多く残している。「初恋や燈《とう》籠《ろ》によする顔と顔」「羽《は》子《ね》つくや世心知らぬ大またげ」。
(『太祇句選』)
糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ、
その糸車やはらかにめぐる夕べぞわりなけれ。
金《きん》と赤との南《たう》瓜《なす》のふたつ転がる板の間《ま》に、
「共同医館」の板の間に、
ひとり坐りし留《る》守《す》番《ばん》のその媼《おうな》こそさみしけれ。
北《きた》原《はら》白《はく》秋《しゆう》
幼少年時代を回想した第二詩集『思ひ出』は、北原白秋の巨大な詩業全体の中でも特に評価の高い詩集である。その中でもよく知られた詩の一つが、ここに前半を引いた全十一行の詩「糸車」。今でいえば公立の診療所といった所だろう「共同医館」の板の間、そこで留守番の老女が晩春の夕暮れ、静かに糸車をつむいでいた、幻《まぼろし》のように遠い情景。「わりなし」は理《り》屈《くつ》では説明できない、言い表しがたい感じをいう。
(『思ひ出』)
花《はな》冷《びえ》の庖《はう》丁《ちや》獣《う》脂もて曇る
木《きの》下《した》夕《ゆう》爾《じ》
「花冷」は桜の咲くころにくる不意の冷えこみ。花どきのひえびえとしたそんな日、肉を切った庖丁が脂《あぶら》でうっすら曇っている。脂肪がそのまま庖丁に薄《うす》く付着しているさまに、薄ら寒い「花冷」という季語をぴたりと寄り添《そ》わせた。気温の高い夏ではこんな句は生まれまい。昭和四十年(一九六五)五十歳で没した木下夕爾は詩人で俳人だった。堀《ほり》口《ぐち》大《だい》学《がく》や「四季」派の抒情詩の流れを汲《く》んで多く身辺に取材した清新な感覚の抒情詩を書いたが、俳句は第二次大戦後久《く》保《ぼ》田《た》万《まん》太《た》郎《ろう》に師事してめきめき天分を発揮した。句集に『南風抄』『遠雷』などがある。詩人の余技の域をはるかにこえた句の作者だった。
(『定本木下夕爾句集』)
ゆく春やおもたき琵《び》琶《は》の抱《だ》きごころ
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
惜《せき》春《しゆん》の思いが「おもたき琵琶の抱きごころ」という微《び》妙《みよう》な感覚的表現の中にみごとにとらえられている。「おもたき」とは、単に「琵琶」がおもたいのではない。「抱きごころ」そのものもしっとりおもたいのである。琵琶そのものの、あのずんぐりした茄《な》子《す》のような形態が、おもたさの感覚を即物的にそなえているので、「おもたき」という形容詞がまことによく生きて働いている。そこから暮春のけだるい憂《ゆう》愁《しゆう》の情緒がかもしだされる。細い春雨の降りつづく午後、恋する女がひとり、弾《ひ》く気もない琵琶を所在なげに膝《ひざ》において、丸みある胴を撫《な》でたりしている姿をも想いうかべることができそうだ。
(『蕪村句集』)
帯ほどに川の流るる汐《しほ》干《ひ》哉《かな》
水《みず》間《ま》沾《せん》徳《とく》
汐が引いてずっと向こうまで干《ひ》潟《がた》になった海岸。そこへ一本、川が流れこんでいる。汐が満ちている時にはあまり感じられない川の存在が、干潟の中の帯ほどに細い一本の流れになってくっきりと見えるおもしろさ。いかにも春らしい景《け》色《しき》をとらえる。作者沾徳は、芭《ば》蕉《しよう》高弟で江戸俳壇に君臨した榎《えの》本《もと》其《き》角《かく》と親しかった。其角の豪《ごう》放《ほう》華《か》麗《れい》、洒落《しやれ》風の句にくらべると、より技巧的で小ぢんまりとまとまった世界を描くことに長じていたようにみえる。そこがかえって大衆的人気を生んだらしく、其角没後は江戸俳壇の中心的存在になった。ここに掲《かか》げた句は素直な詠《よ》みぶりで江戸の春の海を詠んでいる。
(『炭俵』)
佐《さ》保《ほ》神《がみ》の別れかなしも来ん春に
ふたゝび逢《あ》はんわれならなくに
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》
明治三十四年(一九〇一)五月初旬の作。子規はこの後なお一年の余を生き抜いたが、結核、カリエスで呻《しん》吟《ぎん》する病床でこの歌を書いた。「佐保神」は佐保姫と同じで、春の女神。したがって、「佐保神の別れ」とは、春との別れだが、とくに女神の姿をした春という季節に対する特別の愛《あい》惜《せき》の情がこもった言い方である。来年の春の女神に、もうこの私は再会できないだろうと、深い思いと悲しみをこめて歌っている。同じ時の詠《えい》は十首あるが、そこには「いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす」など、晩年の子規の歌の特徴をなすふかぶかとした情感の流《りゆう》露《ろ》する歌が並んでいる。
(『竹《たけ》乃《の》里《さと》歌《うた》』)
黒船に乗りて来るかや四月馬鹿
大《おお》谷《たに》句《く》仏《ぶつ》
「四月一日の横浜の海岸に立ちて」と前書がある。四月馬鹿《エイプリル・フール》は西洋伝来の、罪のないいたずらが許される日で、それが四月一日。うそをついて他人にじだんだ踏《ふ》ませても、だまされた方が馬鹿《フール》だったのである。句仏の句は、たまたま四月一日に横浜海岸に立ったためにふとできた句だが、四月馬鹿の句の中では抜群の風味がある。横浜だから「黒船」が連想されたのだが、「四月馬鹿」を擬《ぎ》人《じん》化し、西洋伝来の風習であることを踏まえて、いかにも東本願寺大谷派管長だった多趣味の人の風骨をしのばせるのびやかな諧《かい》謔《ぎやく》の句を成した。
(『句仏句集』)
はねばはね踊らばをどれ春《はる》駒《ごま》の
法《のり》の道をばしる人ぞしる
一《いつ》遍《ぺん》上《しよう》人《にん》
時《じ》宗《しゆう》開祖一遍上人は念《ねん》仏《ぶつ》踊りを勧めて諸国を遊《ゆ》行《ぎよう》して歩いたが、和讃や和歌の形で残された語録は、詩《しい》歌《か》としても格別にすぐれていた。右の歌は念仏踊りなどで仏道修行をすすめるのは下らない、と難じた某に贈った歌。弥《み》陀《だ》の御法に感じたなら、牧の春駒のようにはね踊るがいいのだ。踊躍歓喜の往《おう》生《じよう》の喜びは知る人ぞ知ると。もったいぶった道歌の臭みをはねとばす力強さがある。
(『一遍上人語録』)
鶯《うぐいす》
春の鳥といえば何といってもまずウグイスである。別名春《はる》告《つげ》鳥《どり》ともいわれるように、二月に入るころから初《はつ》音《ね》をきかせ、三月ともなればさえずりが整ってくる。
春の野に霞《かすみ》たなびきうらがなし
この夕かげに鶯《うぐひす》鳴くも
天《てん》平《ぴよう》勝《しよう》宝《ほう》五年(七五三)二月(旧暦)二十三日の大《おお》伴《ともの》家《やか》持《もち》の有名な歌である。
春の野に霞がたなびいてそぞろもの悲しい。その春日の夕方の光の中で鶯がさえずっている。春の「うらがなし」さを夕霞がたなびくのを見る気分という形で客観的にとらえながら、自分自身の感じている「うらがなし」さをも、それに寄り添《そ》わせて表現している歌である。
家持はいうまでもなく『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』という古代の代表的和歌集の編《へん》纂《さん》に決定的な働きをした人で、父は大伴旅《たび》人《と》、叔母に大伴坂《さかの》上《うえの》郎《いら》女《つめ》がいるという家《いえ》柄《がら》である。いずれも当時最高級の歌人だった。『万葉集』巻六に、この坂上郎女と家持の二首が並べて掲《かか》げられている。
坂上郎女の初《みか》月《づき》の歌一首
月立ちてただ三日月の眉《まよ》根《ね》掻《か》き
日《け》長《なが》く恋ひし君に逢《あ》へるかも
大伴宿《すく》禰《ね》家持の初《みか》月《づき》の歌一首
振《ふり》仰《さ》けて若《みか》月《づき》見れば一目見し
人の眉《まよ》引《びき》思ほゆるかも
家持はこのころ十六歳ぐらいで、これは年代の明らかな彼の歌としては最初の作である。「眉引」は眉《まゆ》墨《ずみ》で眉を引くことだが、この家持の作では眉そのものを指している。振り仰《あお》いで三日月を見ると、一目見たことのある女人の、三日月のように美しい眉が思われるというのだが、もちろんそこにはほのかな恋の心がふくまれている。どうやらこの歌は、叔母の坂上郎女に作歌の手ほどきを受けていたころのものらしい。人生の早春期に、恋歌の手習いをもさずけているわけで、大伴家の家族教育のさまもうかがわれる二首である。
大伴家持という天平歌人は、人《ひと》麻《ま》呂《ろ》や憶《おく》良《ら》を深く敬い、彼らの作品に謙《けん》虚《きよ》に学ぶ一方で、漢文学からの栄養摂取も怠らず、生《しよう》得《とく》のやや過《か》敏《びん》とさえ思える繊《せん》細《さい》な感性をもって、衰《すい》運《うん》にある――大伴家は古くより武をもって仕《つか》えた名門であるが、彼の代になって、台頭する藤原氏とその他の反藤原氏とのいきづまる政争の中におかれ、年ごとに命運は衰《おとろ》えていった。――族の長として生きねばならぬ悩みをいだきつつ、そういう立場におかれた多感な人間の抒情世界を作りあげた詩人であった。
最初に掲げた鶯の歌も、現実生活でなめている憂《うれ》いや心中の葛《かつ》藤《とう》を背景に作られたものだが、鶯の歌から二日後に詠《よ》まれた次の歌も、いかにも彼らしい佳品として知られている。
うらうらに照れる春《はる》日《び》に雲雀《ひばり》あがり
情《こころ》悲しも独りしおもへば
春日遅《ち》々《ち》に、〓〓《ひばり》正《まさ》に啼《な》く。悽《せい》惆《ちう》の意《こころ》、歌に非《あら》ずしては撥《はら》ひ難《がた》きのみ。よりてこの歌を作り、式《もち》て締《てい》緒《しよ》を展《の》ぶ。
歌の左側にある注(左注という)の中の「〓《ソウ》〓《コウ》」は『詩《し》経《きよう》』にある言葉で、元来中国ではコウライウグイス、黄鳥をさしていたというが、日本のこの当時には、鶯や雲雀をさしていう語として用いたらしい。家持のこの歌では、うららかに照っている春の日に、何とも言いがたい孤独感の中で雲雀の声を聴いている男の姿がある。
鳥の声や姿は古代人にも現代人にも多くの詩を作らせた。近代の歌人若《わか》山《やま》牧《ぼく》水《すい》の歌を次にあげてみよう。こちらは家持の中年の憂《ゆう》鬱《うつ》な抒情ではなく、青春の哀《あい》傷《しよう》を鳥に託《たく》して詠んでいる。
白《しら》鳥《とり》は哀《かな》しからずや空の青
海のあをにも染まずただよふ
明治四十一年(一九〇八)、早大英文科卒業の年に自費出版した第一歌集『海の声』に入っている有名な歌だ。「白鳥」はここではカモメ。空や海の青に鳥の白を対照させ、広大な自然の中に生きる海鳥の、また作者自身の孤《こ》愁《しゆう》をうたっている。現代の短歌作者だったら避《さ》けるであろう「空の青海のあを」のような単純なくり返しが、牧水の表現の流れの中ではみごとに生かされて感情を流《りゆう》露《ろ》させている。
〓《かもめ》についていえば、三《み》好《よし》達《たつ》治《じ》の二行詩もよく知られている。
春の岬《みさき》旅のをはりの〓《かもめ》どり
浮きつつ遠くなりにけるかも
第一詩集『測量船』(昭和五年刊)巻頭の、短歌形式による二行詩である。昭和二年(一九二七)四月、伊豆湯ケ島に転地療養中だった親友の作家梶《かじ》井《い》基《もと》次《じ》郎《ろう》を見舞ったあと、下田から駿河《するが》湾を横切って清水まで渡ったときの、船中の作だという。岬の波間に浮くカモメが、視野からしだいに遠ざかってゆく。船に乗った旅人も、しだいに陸地から遠ざかってゆく。一つの土地を去ってゆく「旅のをはり」は、また次の土地へ近づいてゆく旅の始まりでもあるが、しばらくの間は去りゆく土地への感傷に身をゆだねているのである。「浮きつつ遠くなりにけるかも」という詠《えい》嘆《たん》に、その思いがにじんでいる。
川底に蝌《くわ》蚪《と》の大国ありにけり
村《むら》上《かみ》鬼《き》城《じよう》
「蝌蚪」はオタマジャクシのこと。春たけて水田や小川のあちこちに寒《かん》天《てん》状の塊《かたま》りがふわふわ浮かぶ。この蛙の卵は十日ほどでかえり、にぎやかな生命の乱舞のさまとなる。鬼城の句はその情景を見ての感を詠んだものだが、「蝌蚪の大国ありにけり」という把握は間髪をいれぬ端的なものといえよう。あれこれ空想してみた結果そうなったというような表現ではない。俳人としての底力を感じさせる句である。
(『鬼城句集』)
遠《とほ》蛙《かはづ》酒の器《うつは》の水を呑《の》む
石《いし》川《かわ》桂《けい》郎《ろう》
桂郎は昭和五十年(一九七五)六十六歳で没した東京生まれの俳人。小学校卒業後独学、家業をついで理髪師となったが戦争中に廃業した。石《いし》田《だ》波《は》郷《きよう》に句を、横《よこ》光《みつ》利《り》一《いち》に小説を学んだ。家族や師友を詠んで独自の句境をきずく。右は病床吟。遠蛙を聞きつつ病床で水を飲んでいる。酒徒として知られた人が、本来酒を飲むためにある愛用のぐいのみで水を飲む。うら寂《さび》しく滑《こつ》稽《けい》でもあるが、句には別の寂《せき》寥《りよう》相、澄《す》んだ趣がある。俳句形式の底力だろう。
(『含羞』)
冬眠より醒《さ》めし蛙《かへる》が残雪の
うへにのぼりて体《からだ》を平《ひら》ぶ
斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》
結句の「体を平ぶ」という、耳慣れない、しかし簡潔で的確な表現が、一首を完結させると同時にゆったり開かれた世界を現出させている。冬眠からまだ醒めきっていないような動きのにぶい体を、残雪の上に平べたく置いている蛙の背には、早春の光も淡《あわ》々《あわ》と射《さ》しているだろう。茂吉は第二次大戦末期東京から山形県の故郷の町へ疎開し、敗戦翌年の二月、最《も》上《がみ》川《がわ》べりにある大石田に移り、一年余りの独居生活をおくった。これは昭和二十二年(一九四七)早春の歌。この時期、握り飯をさげて最上川のほとりをよく歩いた茂吉は、敗戦による衝撃の中で、絶唱というべき最上川詠《えい》の数々を遺《のこ》した。
(『白き山』)
かたむきて田《た》螺《にし》も聞《きく》や初《はつ》かはづ
建《たけ》部《べ》巣《そう》兆《ちよう》
巣兆は江戸後期の俳人。俳諧を加《か》舎《や》白《しら》雄《お》に学び、その八弟子の一人といわれたり、鈴《すず》木《き》道《みち》彦《ひこ》、夏《なつ》目《め》成《せい》美《び》と共に江戸三大家に数えられたりした。親友だった当時の大家、儒者の亀《かめ》田《だ》鵬《ほう》斎《さい》と画家俳人の酒《さか》井《い》抱《ほう》一《いつ》は、二人して巣兆の遺句集『曾《そ》波《ば》可《か》理《り》』に序を寄せているが、鵬斎はその中で巣兆を評して「性酒をたしなみ客を愛し、銭の手に至れば則《すなは》ちこれを散じて惜《を》しまず」と、友の無欲洒《しや》脱《だつ》な人《ひと》柄《がら》をたたえた。恬《てん》淡《たん》たる人柄はおのずと句ににじみ出ている。初蛙の声を聞きながら、「田螺も聞や」と泥の中の小さなタニシの存在に思いを寄せる脱俗童心の面《おも》白《しろ》さもそれである。谷《たに》文《ぶん》晁《ちよう》に師事した画家でもあった。
(『曾波可理』)
蛙《かはづ》の目越えて漣《さざなみ》又《また》さゞなみ
川《かわ》端《ばた》茅《ぼう》舎《しや》
春のさざなみの中にぽつんと開いている蛙の目。それを乗り越えてさざなみは次から次へ寄せてくる。無限にくりかえされる、水の流れと有限の生物の命が、春という時の中で接している。それがまさに「春」というものの実体なのである。写生句だが大いなる生命の波動が感じられる句。茅舎は俳句や絵を好む父の影響で十八歳ごろから「ホトトギス」「雲母」などに投句をはじめた。画家龍《りゆう》子《し》は彼の異母兄である。茅舎自身、大正十年(一九二一)岸《きし》田《だり》劉《ゆう》生《せい》に師事、洋画をこころざしたが脊椎カリエスのため断念、句作に専念することになった人で、彼の句には、そのような画家的稟《ひん》質《しつ》がやはり生きている。
(『川端茅舎句集』)
北はまだ雪であらうぞ春のかり
江《え》左《さ》尚《しよう》白《はく》
尚白は近江の大津で医を営んだ芭《ば》蕉《しよう》門の俳人。近江の蕉《しよう》門《もん》俳人たちは、いろいろな場面で芭蕉にゆかり深い面々だったが、許《きよ》六《りく》・正《まさ》秀《ひで》・洒《しや》堂《どう》・乙《おと》州《くに》らはみな、尚白の手引きで蕉門に入った人々である。尚白は多芸多趣味の人だったが、温和な性格で流行に心をまどわす人ではなかったと諸書口を揃《そろ》えていっている。これは春、北へ帰る雁に対し、もっとゆっくりしていけという句だが、なるほどおっとりした詠みぶりで、人柄がほうふつとする。
(『蕉門名家句集』)
風《ふ》呂《ろ》敷《しき》に落《おち》よつつまん鳴《なく》雲雀《ひばり》
広《ひろ》瀬《せ》惟《い》然《ぜん》
「周防(山口県)路を過《よぎ》るとて」と前《まえ》書《がき》にある。春の野をゆく放浪の元禄俳人。揚雲雀に向かって、この風呂敷に落ちてこいよ、と呼びかけるのは意表をついている。何とも人なつこい暖かさである。頭でひねるのでなく、全身で句を吐き出しているという感じがする。もし雲雀が風呂敷に包まれてくれるなら、しばらくはこのにぎやかな友だちと話しながら、旅を続けようという気なのである。
(『鳥の道』)
つばめつばめ泥が好きなる燕かな
細《ほそ》見《み》綾《あや》子《こ》
女性の俳句作者の隆盛ぶりは未《み》曾《ぞ》有《う》のことという。その通りだ。大正時代に虚《きよ》子《し》が指導して台所俳句を現代俳句の一翼に堂々と位置づけた後、勢いはとどまることなく今に到った。細見綾子は現代女流俳句の重鎮の一人だが、第一句集のこんな句は、そういう女性俳句がもつ活力の源泉を暗示しているようだ。生き物への無心の愛、率直さ、平明さ、つまりは初心。
細見綾子は女流俳人最長老の一人として、結社誌「風《かぜ》」を夫の俳人沢木欣《きん》一《いち》とともに多年指導してきたが、平成九年(一九九七)九十歳で病没した。
(『桃は八重』)
静さに堪《た》へて水澄むたにしかな
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
たにしは春の季感を濃厚にもった水中の小動物なので、古来これを詠《よ》んだ句も少なくない。蕪村のこの句は、田んぼになみなみとたたえた水の澄《す》んだ光を感じさせつつ、しんとした静けさに重点をおいているのが、いかにもしっとりした造作を感じさせる句である。しかもその静けさが、「静さに堪へて」いる「たにし」をクローズアップする手法でとらえられている所に、蕪村のしたたかな描写の力量が感じられる。この句の語法は通常の論理でいえば「水澄んで静さに堪ふるたにしかな」とでもなる所だろう。語の倒《とう》置《ち》が句の深さを一変させている。
(『蕪村句集』)
白魚やさながら動く水の色
小《こ》西《にし》来《らい》山《ざん》
透《す》きとおるような白魚が泳ぐ。まるで水そのものが動くようだ。それを「さながら動く水の色」と、透《とう》明《めい》な水の「色」としてとらえたところに非凡さがある。ほとんど画人の鋭《えい》敏《びん》な観察といっていいだろう。来山は芭《ば》蕉《しよう》ともほぼ同時代の大坂の俳人。談《だん》林《りん》派に学び、それらしい滑《こつ》稽《けい》洒《しや》脱《だつ》な句も多いが、しだいに蕉風に近づき、鋭敏清新な感性の句を遺《のこ》している。「春雨や降るともしらず牛の目に」にしても、牛の見開いた目に春雨が細く降りこんで吸われてゆく瞬間に着目し、鮮明な像をしっかと言葉にとらえている。
(『続今宮草』)
白《しら》魚《うを》の小さき顔をもてりけり
原《はら》 石《せき》鼎《てい》
大正期「ホトトギス」黄金時代の花形俳人の一人。白魚の句では、芭《ば》蕉《しよう》の「明ぼのやしら魚白きこと一寸」が有名だが、前ページで紹介の小西来山作「白魚やさながら動く水の色」に配すべき現代の句をあげれば、まずはこれだろう。大正十二年(一九二三)の作。白魚のあのすき通った小さな体に、つぶつぶの眼があり、顔があったこと。その顔が、何ともまた小さいくせに、りっぱに顔であること。それに気づいた驚きと感銘。
(『原石鼎全句集』)
よくかゝる笠《か》子《さ》魚《ご》あはれむ霞《かすみ》かな
大《おお》場《ば》白《はく》水《すい》郎《ろう》
白水郎は明治二十三年(一八九〇)東京生まれ、昭和三十七年(一九六二)没の俳人。久保田万太郎と府立三中で同級、慶応普通部でも一緒だったため、その手引きで句を始める。都会っ子の感性が、軽やかに明るく、また寂《さび》しげでもある句風に生きている。右の句は釣舟で沖に出た折の句だが、ふと芭《ば》蕉《しよう》の「おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな」を想起させる。芭蕉の句をさらに淡《たん》彩《さい》風にした気分だろう。
淡彩風といえば、大場白水郎は日本画も描いた。俳句は万太郎のすすめで始めたことから、尾崎紅《こう》葉《よう》の秋声会系統の句会に出席し、渡辺水《すい》巴《は》らの薫《くん》陶《とう》を受けた。
(『白水郎句集』)
夕《ゆふ》汐《しほ》や柳がくれに魚わかつ
加《か》舎《や》白《しら》雄《お》
隅《すみ》田《だ》川《がわ》べりか、あるいは江戸市中に縦横に走っていた川の川べりか、夕汐がさしてくる川岸に舟で運ばれた魚が荷揚げされ、集まった人々がその場でそれを買っている。日は傾《かたむ》いたがまだ明るさがあたりに漂《ただよ》っている江戸の春の夕暮れである。白雄は、天明期のいわゆる中興俳《はい》諧《かい》を代表する俳人で、鈴《すず》木《き》道《みち》彦《ひこ》、建《たけ》部《べ》巣《そう》兆《ちよう》らの大家もその門から出た。俳論書『加《か》佐《ざ》里《り》那《な》止《し》』を書いているが、飾《かざ》りを排し、意図の見えすいた技巧を排して、生来の感覚の鋭《えい》敏《びん》さを生かした味わい深い句を作った。「人恋し灯《ひ》ともしころをさくらちる」など、そこはかとない郷愁の句は今《こん》日《にち》見てもまことに新鮮である。
(『白雄句集』)
初《はつ》蝶《てふ》来《く》何色と問ふ黄と答ふ
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
昭和二十一年(一九四六)三月二十九日の作である。初出誌「ホトトギス」昭和二十一年六月号では、「初蝶来《く》何色と問はれ黄と答ふ」だった。それが再掲誌「玉《たま》藻《も》」同年九月号までの間に、「問はれ」が「問ふ」に修正された。この修正はまことに興味ぶかい。虚子の句作の実際を具体的に例示してくれているからである。「問はれ」から「問ふ」に変わることによって、この句は単に実際の体験を詠《よ》んだだけの対話の句から、もう一つ別の次元へ移ってしまった。「何色と問ふ」にせよ「黄と答ふ」にせよ、「だれが」をみごとに押し隠《かく》しているために、かえってある種の超越的な象徴性を生み出したからである。
(『六百五十句』)
春《はる》潮《しほ》のあらぶるきけば丘こゆる
蝶《てふ》のつばさもまだつよからず
坪《つぼ》野《の》哲《てつ》久《きゆう》
敗戦翌年の春の歌。かよわい蝶の翼と荒らぶる春潮との対比の中には、単に自然界の描写にとどまらず、当時のきびしい時代相のおのずからなる心象風景もあるように思われる。「丘こゆる」という簡潔な描写が、この歌ではよく生きている。重圧に耐えつつ挑《いど》む生まれたばかりの小さな生命が、この飛びゆくものの描写の中に、可《か》憐《れん》に、しかも雄《お》々《お》しく言いとめられているからだろう。能《の》登《と》生まれの作者は孤高詰《きつ》屈《くつ》の調べをもっているが、その中にも孤愁がにじみ、浪漫的な郷愁が流《りゆう》露《ろ》するところ、独特の魅力がある。
(『一樹』)
大原や蝶《てふ》の出て舞ふ朧《おぼろ》月《づき》
内《ない》藤《とう》丈《じよう》草《そう》
「大原」は洛《らく》北《ほく》の地にある(京都市左京区)が、一説にはこの大原を洛西の大原野(京都市右京区)とみる見方もある。京都北郊の大原は『平家物語』の「大原御《ご》幸《こう》」の巻で知られる建《けん》礼《れい》門《もん》院《いん》(平《たいらの》清《きよ》盛《もり》の次女。壇ノ浦の戦いで安《あん》徳《とく》天皇とともに入《じゆ》水《すい》したが救われ、洛北大原寂《じやつ》光《こう》院《いん》に住んで仏道に専念した)の哀《あい》史《し》の地。いま春のおぼろの月が大原一帯の野を照らしている。春の蝶が、あたかも古人の幽《ゆう》魂《こん》が舞い出たかのように、ふうわり現れて、舞う。すなわち丈草は平家ゆかりの地としての洛北大原の歴史をふくんだ風《ふ》情《ぜい》をこの句に詠《よ》みこんでいるといえよう。
(『丈草発句集』)
一《いち》日《にち》物云《い》はず蝶《てふ》の影さす
尾《お》崎《ざき》放《ほう》哉《さい》
放哉は一高、東京大学法学部を出て生命保険会社に勤務、幹部にまでなったがサラリーマン生活を脱落し、妻とも別れた。宗教道場一燈園に一時入った後、関西の寺を転々、堂《どう》守《もり》や寺男の境涯にみずからを置いた無一物の暮しだった。一高時代の上級生荻《おぎ》原《わら》井《せい》泉《せん》水《すい》が創刊した「層《そう》雲《うん》」で自由律俳句を作り、晩年二年足らずの間に多くの秀吟を生んだ。これは須《す》磨《ま》寺大師堂の堂守時代の作。深い孤独の安らぎと、そして寂《さび》しさと。放哉の生涯は、通常の生活感覚からすれば転落者、落伍者の生涯といっても言いすぎではなかった。保険会社の幹部社員にまで「出世」した人物が禁酒を決意しても守れず、退職させられ、あとは転々と寺男の境遇に耐えねばならない。粗食のため肺結核が悪化、ついには野たれ死に同然の状態で死ぬ。しかし彼の自由律の句は、ついにだれ一人後継者も出ない。命とひきかえの孤高の作品だった。
(『大空』)
蝶《てふ》々《てふ》のもの食ふ音の静かさよ
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
明治三十年(一八九七)の作。虚子門の俊秀松《まつ》瀬《せ》青《せい》々《せい》に「日《ひ》盛《ざか》りに蝶のふれ合ふ音すなり」という秀作があるが、その句同様、虚子の句もきこえるはずのない物音を聴いている。蝶は「食う」というより、むしろ蜜《みつ》などを「吸う」のが当り前だろう。それをあえて「もの食ふ音の静かさよ」と言った。この時蝶の営みはまた、あらゆる生き物の「もの食ふ」営みを暗示するものにまで高まった。一見非現実的な直観が、ありきたりの写実の達しえぬ生の実相をえぐる一例。
(『五百句』)
春ゆくとひとでは足をうち重ね
八《や》木《ぎ》絵《え》馬《ま》
絵馬は明治四十三年(一九一〇)愛媛県生まれの現代俳人。松山中学以来の親友篠原梵《ぼん》と共に臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》門に入り、「石《しやく》楠《なげ》」の論客となった。連作俳句批判その他、鋭い批評活動で知られる一方、清新な作風の俳句を作り、また明治大学文学部教授の英文学者でもある。戦後日も浅いころの作で、舟の上から見おろした海中の景。ひとでがやんわり「足をうち重ね」ている姿態にふと目をとめたとき、暮春ののどかでけだるい感覚は、言葉に吸い寄せられるようにして一句に結晶した。
(『月暈』)
春《しゆん》泥《でい》や嘴《はし》を浄《きよ》めて枝に鳥
石《いし》井《い》露《ろ》月《げつ》
雪国の春のぬかるみに餌をあさる鳥が、木の枝でしきりにくちばしをぬぐって身づくろいしている。「浄めて」の一語が、春の日《ひ》射《ざ》しにゆるむ自然のうるおいをも伝えてくる。露月は、昭和三年(一九二八)五十五歳で没した秋田の俳人。青年時代には文学を志して上京、正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》門の有力俳人となったが、医学に転じ、帰郷して医者となった。東北の風土の個性を愛し、秋田周辺に都会風とは違う俳句を創造することにつとめた。俳句は生《しよう》涯《がい》かけてひたすら前進すべきものとして、ついに生前は一冊の句集も編まなかった人である。
(『露月句集』)
春さむき梅の疎林をゆく鶴の
たかくあゆみて枝をくぐらず
中《なか》村《むら》憲《けん》吉《きち》
早春の梅林、まばらに立つ梅の木々の間をあるく鶴。低い枝があっても首をさげてくぐろうとはせず、たかだかと頭をあげたままそのわきを歩み去る。鶴の気品ある姿態は「たかくあゆみて」に十分とらえられてみごとである。「梅林の鶴 岡山後楽園所見」と題するうちの一首。同じ折の他の作に「梅林の外《と》にでて鶴は羽ばたけり芝《しば》生《ふ》につくる影《かげ》のおほきさ」もある。憲吉は東京大学在学中から「アララギ」で活躍した歌人で、一時的には新聞社勤めもしたが、広島で家業の酒造業を守り、独自の歌境を築いた。
(『軽雷集』)
春雨や喰《く》はれ残りの鴨《かも》が鳴く
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
一茶は半生を江戸その他に流浪したのち、文化九年(一八一二)歳末近く故郷の柏《かしわ》原《ばら》に帰住した。多年の遺産紛争も、調停を得て翌十年正月やっと解決した。この句はその正月の作である。
表向きは、春雨の降る夕暮れ時、鳴きながら餌《えさ》をあさっている鴨を見ての感慨だろうが、それだといかにもアクが強いだけの句だ。しかしこの鴨を、ようやく面倒で辛い懸《けん》案《あん》が一段落した一茶自身に重ねて見れば、にわかに哀れある句になるのが不思議である。
(『七番日記』)
楢《ならば》林《やし》春《しゆん》禽《きん》微《び》雨《う》を愉《たの》しめる
西《にし》島《じま》麦《ばく》南《なん》
麦南は、俳句は飯田蛇《だ》笏《こう》門一筋、職業も校正一筋に生きた。まだ若いころに入社した岩波書店の初代校正課長として、同社の校正基準を確立し、半世紀の間校正を手がけて、校正の神様の異名さえあった。言葉を文字通り掌中の珠《たま》としていつくしんだ人である。
この句はいかにもその人らしい、言葉の美しく粒立った句である。「春禽」は春の鳥のこと。漢字訓読みと音読みの配合の妙。煙《けむ》る春雨の中の鳥の喜び。
(『人音』)
鶯《うぐひす》の脛《すね》の寒さよ竹の中
尾《お》崎《ざき》紅《こう》葉《よう》
庭先の竹の林に来ている鶯。枝から枝へ移る姿はいかにも春のものだが、その足がなんともきゃしゃで寒そうである。ふだんなら気にもとめない鳥の「脛の寒さ」にふと気づいた風情の句で、春とはいえ寒さが身にしみる日の一情景だろう。小説家紅葉は「秋声会」に拠って、川上眉《び》山《ざん》、広津柳《りゆう》浪《ろう》、泉鏡《きよか》花《う》その他小説の門弟たちに、俳句を伝授指導した明治中期・後期の俳人でもあった。指導にはきわめて厳しく、また人気のある俳人として新聞などで受け持った選句にも大層厳しかったといわれる。
(『紅葉句帖』)
鶯《うぐひす》のこゑ前《ぜん》方《ぱう》に後《こう》円《えん》に
鷹《たか》羽《は》狩《しゆ》行《ぎよう》
狩行は昭和五年(一九三〇)山形県生まれの現代俳人。山口誓《せい》子《し》、秋《あき》元《もと》不《ふ》死《じ》男《お》に師事した。評論集や俳句啓《けい》蒙《もう》書も多い。うぐいすの声が前方からも後方からも響いてくる。澄んだ声が空間をひきのばし、押し広げる。そのこころよい感じが、「後方」という語からふと巨大な前方後円墳の「後円」という言葉と形を思い出させた。「後方」が「後円」になってふっくらする。江戸俳諧風の言葉の機知である。
(『鷹羽狩行集』)
老《らう》鶯《あう》や泪《なみだ》たまれば啼《な》きにけり
三《みつ》橋《はし》鷹《たか》女《じよ》
鷹女は明治三十二年(一八九九)千葉県成田に生まれ、昭和四十七年(一九七二)七十二歳で没した。「夏痩《や》せて嫌ひなものは嫌ひなり」「白露や死んでゆく日も帯締めて」――女性であることに生涯これほどこだわり続けた女性俳人もいなかったと思われるほどの俳人。自ら「自虐」とまで言った。けれどまた、女性的な情念や自意識を詠《よ》み抜いた挙《あ》げ句《く》、俳句という詩型にこれほど深々と抱きとめられた人もあまりなかっただろう。作者晩年七十歳のこの句は、理屈では説けぬ命のあわれによって輝く。
(『撫』)
鶯《うぐひす》の啼《な》くや小さき口あいて
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
古来鶯を詠《よ》んだ歌や句は多くあるが、歌や句づくりの常識としては、鶯は声を「きく」もので、とりたてて見つめるものではなかった。その点では蛙(かわず)と同じといっていい。ところが蕪村は鶯の鳴く動作そのものに目をとめた。彼以前に、鶯という鳥を「啼くや小さき口あいて」というふうに詠んだ人は、和歌・俳《はい》諧《かい》を通じていなかっただろう。蛙を古池にとびこむ水音でとらえた芭《ば》蕉《しよう》同様、蕪村もそのようにして鶯の歌の伝統を新しくしたといっていい。「小さき口あいて」啼く小鳥には、どこかうら若い女の影《かげ》さえ感じさせられるような情趣がある。蕪村はそのころ六十歳を一つ、二つ越えていた。
(『蕪村句集』)
春の雲かたよりゆきし昼つかた
とほき真《まこ》菰《も》に雁《がん》しづまりぬ
斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》
春たけたころ、作者茂吉は、まだ北へ帰らずにいると人から聞かされた雁の群れを千葉県柴《しば》崎《さき》沼《ぬま》に探訪した。この時の小旅行が「残雁行」一連の歌を生んだ。これはその一首。閑《かん》寂《じやく》をきわめた日本田園の春の風景である。遠くにひろがるマコモの葉むらのあいだに雁が静かに舞いおりる。この風景は特に珍《めずら》しいわけでもないのに、歌には独特の風格がどっしりそなわっている。それは茂吉の歌の声調による所が大きい。昭和八、九年の作を集めた茂吉第十歌集中の秀逸。
(『白桃』)
雁《かり》はまだ落《おち》ついてゐるに御《お》かへりか
大《おお》伴《とも》大《おお》江《え》丸《まる》
前《まえ》書《がき》に「一茶坊の東へかへるを」とあり、春の帰雁に託した小林一《いつ》茶《さ》送別の句である。
一茶は寛政四年(一七九二)から十年まで、京阪・四国・九州一帯を流浪遍歴した。大坂の富商で俳諧の大家でもあった大江丸とも親しんだ。当時一茶は三十代半ば。俳諧に野心を燃やしながら志を得ずにさまよう若者に対し、七十を過ぎた悠《ゆう》々《ゆう》自《じ》適《てき》の俳人は、諧《かい》謔《ぎやく》をこめたいたわりの句で別れをつげたのだ。
大江丸は本名安井政胤。大坂の高麗橋に生まれ、飛脚問屋を営んだ。多くの号を使ったが、寛政七年(一七九五)七十のころ以後、大伴大江丸と号を改め、作風も一段と軽妙なものになった。右は大江丸の号をつけて以後の句だが、いかにものびやかな作風。
(『はいかい袋』)
ゆく雁《かり》やふたたび声すはろけくも
皆《みな》吉《よし》爽《そう》雨《う》
「行雁」は春の季語で、仲春のころ北へたつ帰雁のこと。頭上高く雁の声を聞きとめて振り仰《あお》ぐと、列をなしてゆく姿が小さく見える。ああ、雁の帰る季節になったとあらためて思う。やがてふたたび落ちてきた啼《な》き声は、思いがけぬほど遠くに去っていた。雁の飛《ひ》翔《しよう》の速さに、その旅路の遥《はる》けさが急に身にしみる。雁の声の意外性への小さな驚きとともに、大空の広さがあらためて思われ、耳をすます一刻の中で、「はろけくも」響《ひび》きかわす雁の生命とわが生命の共鳴が、余《よ》韻《いん》を引いてしばし胸をみたすのである。爽雨は虚《きよ》子《し》門から出て昭和五十八年(一九八三)、八十一歳で亡《な》くなった俳人。
(『雪解』)
春の鳶《とび》寄りわかれては高みつつ
飯《いい》田《だ》龍《りゆう》太《た》
鳶が二羽、春の空に舞う。寄り合ったかと見るとたちまち別れ、しだいに空の高みへとせり上ってゆく。まるで見えない何かに押しあげられるかのように。この句の中七以下を細《こま》かく区切ってみると、「寄り」「わかれては」「高み」「つつ」のようになるが、いずれも鳶の刻々の動きを言葉で具象化してゆく表現。作者がいかに対象の像の動きを細かく分節化する才能に恵まれているかがわかる。そしてその細分化された対象の動きを一気に力強い詠《よ》み方で合体させるとき、句全体はきびきびした律動を与えられる。何よりも龍太の句は読者にむかって大きく開かれているところが魅力的だ。
(『百戸の谿《たに》』)
うらうらに照れる春《はる》日《ひ》に雲雀《ひばり》あがり
情《こころ》悲しも独りしおもへば
大《おお》伴《ともの》家《やか》持《もち》
家持の数多い歌の中で最も有名なのが、この歌をふくむ天《てん》平《ぴよう》勝《しよう》宝《ほう》五年(七五三)二月下旬の歌三首。他の二首(「春の野に霞《かすみ》たなびき」「我がやどのいささ群《むら》竹《たけ》」)は二十三日、この歌は二十五日の作で、この一首には註があり、「春日は遅々として、〓《ソウ》〓《コウ》(ヒバリとも読む)がしきりに啼《な》く。心中の寂《さび》しい感傷は、歌によらずしてはうちはらいがたい。そこでこの歌を作って、憂《うれ》いに閉ざされた気持ちをとり放つ」といっている。まさに近代人の感覚に近い。事実、この三首の抒情の価値は、古くはずっと見落とされてきたもの。大正初期に歌人窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》が発見し、称揚するにいたってはじめて知られたのである。
(『万葉集』)
永き日のにはとり柵《さく》を越えにけり
芝《しば》 不《ふ》器《き》男《お》
のどかな春の日《ひ》射《ざ》しの中でにわとりが柵をいまのり越えた。変哲もない写生句といえばその通りだが、作者の眼は、にわとりが柵を越える動作のうちに春の「日《ひ》永《なが》」を感じているのである。春は、冬からの解放感が意識の底にあるためか、一日が急に永くなった感じを覚えさせられる。現実には夏《げ》至《し》のころが一番昼が長いのに、「日永」の感じは春のものだ。その微《び》妙《みよう》な肌《はだ》合《あい》をしっかととらえたとき、描写された風景はたちどころに独立した言葉の世界になる。不器男は昭和五年(一九三〇)、二十六歳で死んだ俳人だが、わずか二百句の遺句集にある抒情のきらめきは、現代俳句の貴重な遺産だろう。
(『不器男句集』)
しんがりをよろこぶ家鴨《あひる》なり暖か
秋《あき》元《もと》不《ふ》死《じ》男《お》
あひるが何羽も群れをなして遊んでいる。と、列を作って歩き出した。ふと見ると、最後尾をゆくあひるの動作が何やらばかに嬉しそう。それが春の日の「暖か」という感じを一層愉快な気分に高めてくれる。「しんがり」のあひるというのがまたいい。不死男晩年の句の軽みを示すもので、流《りゆう》露《ろ》感《かん》が句を大らかなものにしている。秋元不死男はプロレタリア俳句、新興俳句で活躍し、新興俳句時代は東《ひがし》京《きよう》三《ぞう》の別号で評論活動もさかんに行った。このため戦時中にはいわゆる俳句事件で治安維持法により二年間投獄された。戦後は山《やま》口《ぐち》誓《せい》子《し》主宰の「天《てん》狼《ろう》」を創刊、のち「氷《ひよう》海《かい》」を創刊発行した。
(『甘露集』)
春風や鼠《ねずみ》のなめる隅《すみ》田《だ》川《がは》
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
「春風や」を「春《はる》雨《さめ》や」「長閑《のどか》さや」とする句稿もある。「鼠のなめる隅田川」という表現が斬《ざん》新《しん》だ。鼠は川べりの家から流れ出す残飯や残菓のたぐいをあさっているのかもしれない。それが、俳句形式が本質とする省略法のおかげで、隅田川そのものをなめているという大きな表現になった。現代人にも学ぶ所の多い言葉の構《かま》え方だろう。そういえばイギリス二十世紀の大詩人T・S・エリオットの有名な長詩『荒《あれ》地《ち》』にこんな一節がある。「一匹の鼠が植物のしげみを通ってぬらぬらお腹をひきずって土手の上を静かに這《は》った……」。現代のテームズ河畔の夕暮れの鼠は、昔の隅田川の鼠よりもだいぶ陰気である。
(『一茶発句集』)
まつくろけの猫が二疋《ひき》、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
絲のやうなみ《ヽ》か《ヽ》づ《ヽ》き《ヽ》がかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
萩《はぎ》原《わら》朔《さく》太《た》郎《ろう》
夜の屋根で鳴いているのは春の恋猫である。朔太郎は初期詩集でしきりに春の悩ましさを歌ったが、それは彼自身の性の悩みとも深く結びつく悩ましさだった。「ここの家の主人は病気です」と猫にいわれているのはそんな朔太郎自身だろう。しかし表現が客観性を保っているから、すぐれた春夜の詩となっている。
(『月に吠える』)
雀《すずめ》子《こ》のもの喰《くふ》夢《ゆめ》か夜のこゑ
松《まつ》岡《おか》青《せい》蘿《ら》
青蘿は姫路藩の江戸詰藩士だったが、賭《と》博《ばく》好きで暇《ひま》を出され浪人、のち剃《てい》髪《はつ》。各地を歴遊して俳諧を修業し、中興期屈指の大家となった。
雀の子は、晩春初夏のころ巣立ちをするが、一夜巣の中でふいに鳴いたのを、物を食う夢でも見たかと興じたのである。昼間親に餌《えさ》を貰《もら》っている時のかしましい声とは違い、寝ぼけたような声で鳴いたのだろう。芭《ば》蕉《しよう》の句に「雀子と声鳴きかはす鼠の巣」がある。
(『青蘿発句集』)
雀《すずめ》子《こ》や走りなれたる鬼《おに》瓦《がはら》
内《ない》藤《とう》鳴《めい》雪《せつ》
鳴雪は弘化四年(一八四七)、江戸の松山藩邸に生まれ、大正十五年(一九二六)八十歳で没した。松山出身者たちのための常磐《ときわ》会宿舎の監督をしている時、寄宿生正岡子《し》規《き》の感化によって俳句を始め、「ホトトギス」の長老俳人となった。
晩春のころ雀の卵がかえって雛《ひな》が生まれる。二週間ほどで巣立ちをするが、空を自由に飛べるようになるには十日ほどかかる。親雀はこの前後実にこまめに面倒を見て子供を養う。この句はようやく飛びなれてきた子雀を詠んでいるが、作者は子雀と鬼瓦の取り合わせに興味をそそられたのである。雀と鬼瓦の親しみ合いに人情味さえ感じられる所は、むしろ古川柳を思わせる。
(『新俳句』)
島の裏春の千《ち》鳥《どり》のゐたりけり
草《くさ》間《ま》時《とき》彦《ひこ》
時彦は大正九年(一九二〇)生まれの現代俳人。石田波《は》郷《きよう》門。俳句に関する評論も多い。「鯛の片身こんぶでしめて霞かな」など食べものの句に特色を示すが、このようなさりげない句もいい。水鳥は秋来て春去るものが多いので、俳句では冬の季語。千鳥も水辺の鳥なので冬季とする。作者の念頭にはそれがあって、その目で「春の」千鳥を見ている。しかも「島の裏」に。千鳥がいとしさを増して見える。こういう小さな発見にも、心は一とき広がる。
(『朝粥』)
春《はる》雨《さめ》や降るともしらず牛の目に
小《こ》西《にし》来《らい》山《ざん》
来山は芭《ば》蕉《しよう》より十歳ほど年下の大坂生まれの俳人。十代でもう一家を成すほどの才だったらしい。右の句を見ても、感覚の鋭敏さ新しさには驚かされる。この来山といい、伊《い》丹《たみ》の人上《うえ》島《じま》鬼《おに》貫《つら》といい、江戸時代前期の俳諧師たちは、早熟で優れた才能の持主には事欠かなかった。俳諧師で小説家だった井《い》原《はら》西《さい》鶴《かく》や劇作家近《ちか》松《まつ》門《もん》左《ざ》衛《え》門《もん》も、ほとんど同世代なのである。
牛のみひらいた目に、細い細い春雨が降りこんで吸われてゆく。「降るともしらず」の表現に春雨がみごとにとらえられている。来山には別に、「白魚やさながら動く水の色」という春の句もある。すきとおった白魚の動きを、まるで水そのものが動くようだというのである。
(『近世俳句俳文集』)
うらやまし思ひ切るとき猫《ねこ》の恋
越《お》智《ち》越《えつ》人《じん》
越人は蕉《しよう》門《もん》俳人。北越に生まれ、名古屋に住んだ。芭蕉の門弟としては、しばしば旅に同行するなど親しい間柄だったが、後年蕉風の展開について行けず、離反した。しかし最後まで蕉門の古老を自負した。
「猫の恋」は初春の季語。恋猫は夜も昼も鳴き廻り、哀切しかも喧《けん》騒《そう》を極めるが、やむ時はつき物が落ちたように静かになる。その思い切りのよさを、未練多い人間の恋にひき較べて「うらやまし」と言い切った。芭蕉に激賞された作。元来恋猫の歌や句は、恋する姿の哀切さを詠むのが普通だが、この句の着想はその点でも新鮮だった。
(『猿蓑』)
鳥の巣の影もさしけり膝《ひざ》のうへ
田《た》川《がわ》鳳《ほう》朗《ろう》
鳳朗は、もとは肥後国熊本藩士。桜井梅《ばい》室《しつ》・成田蒼《そう》〓きゆうとともに、天保三大家とされる。鳳朗没後に編まれた『鳳朗発句集』に序文を書いている門弟の如息いわく、先師鳳朗は句稿を一たびは上総《かずさ》の船上で海に落とし、再び大坂の宿で相宿の男に盗まれて門人たちを嘆かせた。しかし鳳朗自身は「求めずして句数の減りぬるは、風雅のうへなき(この上ない)幸なり」として、暗記していた作だけを書き残したと。天保月並俳諧の親玉のように言われた人だが、俳諧師としての覚悟はさすが。この句、「閑居」と題する。
(『鳳朗発句集』)
行《ゆく》春《はる》や海を見て居る鴉《からす》の子
有《あり》井《い》諸《しよ》九《きゆう》
伯爵家生まれの柳《やなぎ》原《はら》白《びやく》蓮れんのような名家の出の女性が、親の定めた結婚をした後自らにめざめ、恋人と駆《かけ》落《お》ちするといった例は、さかのぼって江戸時代にももちろんあった。この句の作者はそんな人。九州筑後の名家の出で、同族に嫁したが、のち芭蕉の愛弟子野《や》坡《ば》の門弟有井浮《ふ》風《ふう》と駆落ちした。旅を好み、この句のように清新な目で自然界を見つめ、江戸中期俳壇に名高い女流俳人となった。夫の死後剃《てい》髪《はつ》、尼となる。
諸九が俳諧師として腕をあげたのは、夫の浮風の手びきによるようで、彼女は浮風の死後、京都に草庵を結んでのちも、旅を好み、各地の俳人たちと親しく交友したという。
(『諸九尼句集』)
長《なが》持《もち》へ春ぞくれ行く更《ころも》衣《がへ》
井《い》原《はら》西《さい》鶴《かく》
「更衣」は陰暦四月一日綿入れから袷《あわせ》に着替えた行事(秋は十月一日)。今も五月一日に更衣をする人があるが、要は夏の装いにかえること。日は厳密にはいわない。長持を開けて春に着た衣装を一枚一枚納めてゆく。お花見の楽しい思い出も花見衣装と一緒に箱に納まってゆく。春という季節が、こうして長持の中へと暮れてゆくのだ。機智の詩だが、おのずと優美を保っている。小説(浮世草子)作者として不朽の名声をもつ西鶴は、談《だん》林《りん》俳諧の巨匠としても知られた。
(『落花集』)
風おもく人甘くなりて春くれぬ
加《か》藤《とう》暁《きよう》台《たい》
暮春になれば風が重くなるわけではない。人が甘くなるわけでもない。暁台は主観的気分を詠んでいるだけなのに、「成《なる》程《ほど》」と納得させられるような気がするのは、言葉の選び方の巧みさによる。「風」と「人」、「おもく」と「甘く」の対《つい》句《く》的構成が句に安定感をもたらしているのも見逃せない。俳句形式を悠《ゆう》々《ゆう》と乗りこなす江戸時代の俳人の、ふところの深さを示す一例だろう。
暁台は尾張藩士の家に生まれ、尾張徳川家に出仕したこともあるが、その間に俳諧に親しみ、のち江戸藩邸詰めに転じてそこで致《ち》仕《し》した。以後名古屋を中心に熱心に俳諧を広め、蕪《ぶ》村《そん》たちとも親交を結ぶ。芭《ば》蕉《しよう》復興に大いに寄与した人でもあった。
(『暁台句集』)
芭蕉について立派だと思うこと
大岡でございます。一時間お話しするということになっておりますので、多少時間がおくれているかと思いますが、我慢して一時間つき合ってください。
変な題ですね。「芭蕉について立派だと思うこと」、この題を決めたのはもう一年近く前なものですから、そのときは芭蕉が偉いと思っていたのですけれども、今どう思っているか、やっぱり偉いと思っています。ただ立派だと思うことはいっぱいあるんですね。そのうち一時間でここでお話しするに足るような話題を選ぶとなると、非常に限られると思いますけど、できるだけコンパクトに、うまく集約してお話ししたいと思います。
芭蕉という人について僕が一番偉いなあ、もうとてもかなわない、僕はもちろんかなわないけど、現代の詩人と称する人々、詩人も歌人も俳人も、だれもかれも絶対に芭蕉さんにはかなわないだろうと思っていることが一つございます。
それを言えば皆さんはお笑いになるでしょうけど、芭蕉が極端に貧乏だったということです。その貧乏だったということの意味をこれからお話ししたいと思うんです。
芭蕉という人は、我々ならサラリーマンといいますね、どこかへ勤めてサラリーをもらうという生活を、一度もしたことはないわけですね。遺産もなかったと思います。伊賀から江戸へ出てきちゃったのですが、余分のお金は何も持ってなかったでしょう。それから奥さんも一応いなかったわけですね。一応という言い方は変ですが、奥さんだったんじゃないかと言われている女性もいますけど、そのころは婚姻法も何もなかったでしょうけど、とにかくその方が奥さんであったかどうかということについての法的な根拠は何もない。それから具体的に実際に絶えず芭蕉の傍らに暮らしていらっしゃったということはない。したがって奥さんもいなかったということになると思います。それから、身辺にものを持っていたかというと、ほとんど全く持ってない。家はあったかといえば、家は杉《さん》風《ぷう》さんが提供してくれた深川の庵に住んでいたわけですから、家もないわけですね。つまり無一物で無一文なんです。
そういう人は現在の詩歌文学をはじめとして、文学者あるいは芸術家と言われている人々全部を含めて、多分一人もいないだろうと思うんです。もちろんいらっしゃるかもしれないけど、その人は知られていないと思います。ですから、知られてないという意味で、やっぱりいないというのと同じだということになると思いますが、芭蕉という人の偉さは、そういう貧というものをこれほど偉大なものにしたということにあると思います。これは非常に大切なことじゃないかと思っています。芭蕉の俳句がすばらしいとか文学作品としての意義がどうのこうのという以前に、まず芭蕉は本当の貧窮の人だったということを、私たちはもう一度考えた方がいいんじゃないかと思うんです。
そのかわりに芭蕉は非常にぜいたくでした。まず第一に、旅から旅に、あれほど江戸から出ていったり、あるいは故郷伊賀上野からまたどこかへ出発したり、あるいは奥州から日本海岸まで回ったり、京都の自分の借りた庵に住んで、その庵を根拠地にして近くをぐるぐる回って歩いたり、そういう旅をしたという意味では、これほどぜいたくな人もいなかったんですね。
貧乏であって、同時に旅人という意味では非常にたくさんの旅をして、その旅の一つ一つが彼の文学的業績にもなっている。旅をすること自体が文学的業績になったという人はほかには一人もいません。日本にはもちろんいないけれども、恐らくヨーロッパ、アメリカなどでは絶対あり得ないことですね。
アメリカなどでは最近ビートニック詩人と言われた人たちがいました。その人々は多少そういう傾向がありましたのですけど、しかし芭蕉ほどではない。実はその人々は芭蕉に憧れていた。憧れていた人がたくさんいるわけですね。芭蕉の域には遂に達しなかったということだと思います。
要するに、この人は一カ所に定住することをしなかったわけで、それは自分みずから意識して定住しないように心がけた、そういう意味で一所不住の精神といいますか、あるいは所有することを拒否する精神、無所有の精神ですね。そういうあらわれ方をした彼の精神というものは非常におもしろい。おもしろいというか意味があることだと思います。人類の歴史の中でも非常に少ない。もちろん宗教家たちはそういう生活をするのが当然ですからやります。しかし、芭蕉は出家ではありません。出家ではないのに、つまり俗人なのにそういうことができたというところに、芭蕉のすごさがあるというふうに思うんですね。
つまり、芭蕉は精神におけるもっとも高貴な存在として皆が認めていて、認められるに値する仕事をたくさんしました。しかし同時に、生活者としては全くの無能力者だったというところに、実は現代において大変に大きな問題があると思います。生活において全く無力だったのに、その人が精神の世界では最高の位置にいた人だったということは、現代人が再三再四考えるに値する問題を含んでいるのじゃないかと私は思うんですね。
彼は、今申し上げたようなことで言えば、自分の身辺のことで言えば本当に孤独そのものです。係累がないわけですね。係累といっても、もちろん兄弟がいました。お兄さんは芭蕉よりも長生きして、伊賀上野にいらっしゃったわけですけど、そのお兄さんを残して芭蕉は死にましたが、死ぬときの遺言の一つにお兄さんあての遺言状もあって、これがまたすごいんです。後でそれについて触れたいと思いますけども、その遺言を残して死んだお兄さんがいました。またほかにも親族はいたでしょうから、そういう意味では係累はあった。しかし、身辺の、本当に身の回りの感じで言えば非常に孤独な生活を絶えず営んでいたわけですね。
つまり孤独であるがゆえに逆に、天地といいますか宇宙といいますか、宇宙の中での最も小さな一点にはっきりとなり得たわけですね。私ども現代人は、必ず、生きていくためにはとにかく金を稼がなければならないとか、あるいは人間関係を何か円滑に保たなきゃならないとか、その他さまざまな、係累どころじゃなくてしがらみが私たちを取り巻いていますね。そのしがらみの中で我々が日々生きているというのは当たり前のことになっていますけれども、そういうしがらみの中ででき上がった人間関係というのが私たちにはそれぞれの人にそれぞれの形であるわけです。
ある人は五、六人の非常に親しい友達がいるだけだという人もいるし、ある人の場合には千人ぐらいの社員を抱えて、自分がもし万一のことがあったらその千人はどうなるかという危惧の念と不安におびえていなきゃならない会社の経営者もいるはずです。あるいは学校の先生などは、それぞれやっぱり数十人あるいは数百人の集団の中心として絶えず責任を背負った生き方をしなきゃならないわけで、そういう意味ではかなりたくさんの数、たくさんと言っても相対的に言えばたくさんの数ですけど、その相対的に言えばたくさんの数の人に対して責任を持っているということがあるから、決して本当の意味で自由に振る舞えないんですね。我々は一人として完全に自由に振る舞える人はいないと思います。
もし自由に振る舞ったら、まず最初に自分の結婚している妻とか夫とかいう人に対して、多分非常に無責任なことになるということがありますから、そういう意味ではこのことはどうしようもないんですね。これが人間的条件です。これを捨てるわけにはいかない。
ところが芭蕉という人は初めからそれを捨てちゃっていたわけですね。言ってみればその意味での責任はなかった。ですから芭蕉は、自分の向かい合う相手は天地自然であって、人間でなくてもよかった。ところが、天地自然に向かい合って孤独の生活を営む、静かで悠然とした暮らしを楽しむということだってできたはずなのに、彼はそれをしなかったんですね。これは非常におもしろい。
つまり、彼は身の回りにその当時としては無数といっていいくらいのさまざまな生活を営んでいる弟子たちを抱えていました。その弟子はもちろん江戸にもいたし、京都にもいたし、名古屋や北陸地方にもいたし、あるいは故郷の伊賀上野には、もう芭蕉を好きで好きでという人が何人も何人もいて、みんな芭蕉先生を慕ったわけですね。これが大きな芭蕉の秘密です。そのことが芭蕉の文学を現在に至るまでの日本の詩歌の最大の伝統の一つとさせた理由なんですね。つまり、芭蕉は無一物であり無所有であって、孤独をきわめていたために逆に多くの弟子とか友人を持つことができた。それはなぜかというと、唯一、芭蕉がまさに俳人であったからです。
俳句をつくるということは全然銭かねと関係ないですね。お金持ちが必ずいい俳句をつくるなどということはあり得ない。もちろん金持ちでいい俳句をつくる人もいるでしょう。いますけども、それは条件としてのお金ではないわけですね。そんなことは条件にならない。俳句がいい、悪いということはその人が銭かね持っているか持ってないかなどということと全く関係ない。
芭蕉のお弟子の中には、いわゆるお乞食さんみたいな人がかなりいます。かなりでもないけど、まあはっきり言って一人か二人はあるんですね。つまり世間的に言えば、みんながあの人は困ったものだというようなお弟子を、芭蕉は愛しています。彼らに勝手にやらせるんですね。同時にときどきぐっと手綱を引き締めていることは明らかです。しかし、そういう意味では、社会的に言うと、一方では侍とかお金持ちの商人とか、そういう人々が芭蕉を尊敬し、愛して、つき従っていたと同時に、もう一方では、社会的に言えばほとんど人間扱いされないかもしれないような人に至るまで、芭蕉は全部自分の仲間として迎え、彼らと一緒に俳諧をやったんですね。
お金が何もかからないという意味では俳諧文学というものはお金がかかるはずがないものです。文学者で金がかかる仕事をやるというのは、最近ではルポルタージュなんかでは非常に金がかかりますから、それはまた別のことですけど、しかし昔の文学者だったら、お金がかかるということは普通考えられない。それはよほど悪いことをしているんですね。お金持ちの人に接近するために自分も金を使うとかいうことをやった人はたくさんいるはずですけど、そういう人の文学は今に至って何にも残っていない。無所有で無一物だった芭蕉の世界は完全に残っている。残っているどころじゃなくて、ウの目タカの目でまだ何かないかといって探すわけですね。
さっき尾形仂《つとむ》さんがおっしゃった、芭蕉の「奥の細道」の真筆が出たらしいといううわさがあって、そのときに多分億の値段がついただろうというようなお話がありましたけど、全くそうなんですね。芭蕉は何にも金を稼ぐつもりがなかったから逆に彼のつくったものは無限に価値があるということになっているわけで、そこに詩というものの大きな、いわば逆説といいますか、そういうものがあるわけです。そういうことになる理由の唯一のものと言っていいんですけど、それは何かと言えば、俳句をつくったということに尽きます。
では俳句というものは何か、と言えば、俳句は言葉です。
芭蕉時代には、五・七・五だけではなくて、五・七・五を一人の人がつくって、別の人が七・七というのをつくって、また三人目の人が五・七・五をつくってというふうにして、五・七・五・七・七、五・七・五・七・七といってつなげていった。昔、芭蕉よりずっと以前、室町の時代にはそれを連歌と言いまして、五・七・五と七・七を並べて百行でき上がると、そこで連歌が一巻巻き上がるという形になったんですね。その当時は非常に優美なものを理想としました。ですから百行ずっと流れていくような趣が大河の趣をなしていたり、せせらぎであっても、川としても非常に緩やかな流れの感じが大体連歌の時代にはあった。
ところが芭蕉の時代になって、特に芭蕉たちの俳諧は三十六行で終わるようになっちゃったんですね。三十六句の形式、これは三十六歌仙というものがあったものですから、それにちなんで、三十六歌仙というのと同じに、歌仙形式といって、この歌仙形式の連句というのが、芭蕉の時代には大変な勢いではやります。
芭蕉はその歌仙形式の三十六句で仕上がる連句の抜群の指導者だった。彼の場合はまず第一に連句の作者ですね。同時にみんなをまとめていくという意味で指揮者であったわけですね。そしてそれを全体まとめ上げるという意味でマネージャーでもあったわけです。なおかつ、いいものがたくさんできた場合に、それを一巻の本にまとめて印刷して刊行する、そういう意味でエディター、編集者でもあった。ですから、そういう意味で非常に彼が多面的な才能を持っていたことは明らかなんですけど、それを発揮したのはなぜかといえば、ひとえに言葉のためです。言葉というものがどれほど重大なものかということを、芭蕉は本当につくづく知っていたからそういうことをしたわけですね。
じゃ、なぜそんな連句形式の俳句がそれほどにみんなに信仰され、そして芭蕉の周りに大勢の人が集まってきたか。もちろん芭蕉以外にも、同じ時代に連句の師匠というのはたくさんいました。連句というか、その当時はむしろ俳諧と言いましたね。俳諧の連歌というのがその当時の正式の名称で、俳諧の連歌が連句になり、そして歌仙とか半歌仙、半歌仙というのは十八行で終わるので半歌仙と言います。そういう半歌仙形式とか、いろいろな形式が派生してきましたけども、要するにどの場合をとってもはっきりしているのは、五・七・五というのをだれかがつくって、その次にだれかが七・七をつくってというふうにしてつながっていくことなんですね。三人でやるならば、五・七・五をAさんがやって、Bさんが七・七をやって、Cさんが五・七・五をやって、またAさんが今度は七・七をやればいいですね。ですから初めに五・七・五をやった人は次の機会には今度は七・七をやるという形になって、五・七・五でも七・七でも、両方を交互にやっていくから、その人の持っている俳諧文学における才能というのは丸見えに見えるぐらいになっちゃう。それがとてもおもしろかったんですね。
そういう形でつくったものがなぜそれほどに人々を熱狂させたか。これは江戸だけではございません。日本じゅうほとんど全部にわたって芭蕉の名声は知れ渡っていた。芭蕉が亡くなったのは、元禄七年(一六九四)の秋に旅をしながら大坂へ行って、大坂で死んだのですけど、その亡くなった後、芭蕉の遺骸を義仲寺まで運んで葬ります。淀川を川舟でさかのぼっていって、木曾義仲のお墓のある粟津の義仲寺で葬られたのですけど、粟津は田舎です。
そういう田舎に当時としては信じられないぐらいの人数が集まったようですね。お弟子さんたちが集まった。今のように新幹線があるとか、そんなこと全くありませんから、ある人は、近くであればもちろん徒歩で行ったでしょうけど、遠い人はいろんな手段を講じて、とにかく芭蕉先生のお弔いに馳せ参じている。数百人は集まっているわけですね。
そういう不便な時代に数百人もの人が集まるということ自体が異常です。現代で言ったらどのぐらいの人数になるか、ちょっと比較の基準がありませんからわからないけど、私の感じでは何千人とか一万人とかいうくらいの感じじゃないかと思うんです。元禄時代の人々が不便なところまでやってくる。
なぜそれほど慕われたかといえば、結局芭蕉が五・七・五と七・七において天才的なつくり手であったということと同時に、天才的な先生であったということですね。先生であったのはなぜか。なぜかというよりも、先生になり得るだけの形式だったのか。五・七・五とか七・七などというのはだれがつくったって大して違わないじゃないかと普通思えるんですね。ところが指導者によって全然違っちゃう。現代だってこれは同じことで、結社の先生がたくさんいらっしゃいますね。結社の先生いかんによっては、ある人はこの先生とうまく合わないためにその人の作品自体がだんだん衰えていってだめになっちゃうとかいうことだって場合によってはあり得るかもしれない。先生というのはとっても大事なんです。
西欧の詩だと、先生というものは余りあり得ないんですね。それはちょっと不思議で、西欧の詩の方がずっと長くて、規則も厳しい。特に十九世紀とか二十世紀の初めのころまでの詩だったら、韻を踏みます。韻を踏むということは複雑なんですね。もちろんすべてが韻を踏むとも限りません。自由律もありました。しかし、韻を踏むというのは、例えばソネット形式と言って十四行で書くものなんかはきちんとした形式があって、それを覚えるためにはよほど天分がないと無理なんですね。ですから西欧では詩人というのは大変な尊敬を受けます。
日本では職業「著述業」の欄で言うと、詩人というのが一番多いんだとかいう説がありまして、ついこの間亡くなった私の親しい友達だった一人ですけど、武《たけ》満《みつ》徹《とおる》君という作曲家がいます。世界的な作曲家でしたけど、彼が昔笑いながら、「日本の職業で著述業というのを調べると、詩人って書く人が一番多いんだってさあ」って言って、私を困らしたことがあります。「詩人というのはそれほどいるのかねえ」って言うんですね。「俺は何人もいないと思うけどな」なんて言うんですね。
それはなぜかと言えば、日本では短い詩形だから詩人と名乗れるんですね。短い詩形、五・七・五と五・七・五・七・七というのは、韻を踏む必要がなく、五・七・五、あるいは五・七・五・七・七という音数律だけで成り立ちますから、どんな人でも短歌や俳句をつくれるという、これはすごいことなんです。すごい恩典、特典があるんですね。
ところが、ヨーロッパなどの詩形だと、これは不可能なんです。そういうことをだれでもかれでもできるなどということは絶対にあり得ない。ですから詩人というのは尊敬される。日本とヨーロッパの違いというのはそこにあると思うし、中国でもそうですけど、中国でも詩というものは日本の詩ほど短いものはあり得ないんですね。そんなものは詩じゃない。単なる散文の一断片に過ぎないというふうに言われてしまう。
ところが日本人にとっては短ければ短いほど逆に詩であるということがあるわけでしょう。日本も古代においてはいわゆる長歌と言われる形式が、まあ形式意識はそれほどなかったと思いますけど、大体は五・七・五・七・七というのを繰り返していっただけですけども、長いものがありました。しかしそれは万葉集時代が最後の花で、古今集に来たらもうほとんど長歌というものは儀礼的に歌われるだけのものになって、短歌形式一本やりなんですね。短歌形式がずっと栄えてきて今に至ったわけです。
なぜ短歌形式が栄えたかということについては、おもしろい問題がさまざまあると思いますけど、私は一つには女性がそれに大きくかかわっていたからだと思います。男と女の間で、恋愛をした場合には、短歌形式で歌を詠み合って、自分の思いを伝えるということが、一つの重要な生活の形式としてあって、それがやがて大きな詩の伝統になったということがあった。
その場合、男と女が恋愛して、もちろん普通の世間一般の人がだれでもかれでも歌をつくったかどうかはちょっと言えません。多分ないでしょう。しかし、少なくとも貴族階級の端くれでもあった場合には、もうそれは絶対に短歌をつくって相手の女性なり男性なりに自分の想いを伝えなければ、それだけでもう恋愛失格なんですね。自分の想いが和歌形式で伝えられないような人はだめなんです。なぜかと言えば、和歌という形式は神様が与えてくれた一つの大事な想いを伝える手だてだったからです。「私はあなたが好きです」とか「あなたと長い間お会いしてないけども、本当に好きで好きでたまらないからまた会いたい」とか、そういうことを散文形式で言ったって、相手の人は受け入れてくれない。それを五・七・五・七・七で言わなきゃだめなんです。
そのために『古今和歌集』というのは神聖な本になったと言ってもいいぐらいだと私は思っています。その後の歴史をずっとたどってみても、男女の愛というものを介在させるから短歌形式が神聖なものになったのです。
それがずっとつながってきて俳諧文学にまで来ますけど、俳諧文学になって一層言葉が短くなりますね。五・七・五と七・七に分かれちゃう。五・七・五・七・七と一首の和歌だったのが、俳諧になると、上の五・七・五と下の七・七を別々の人がつくるようになるわけです。だからますます短くなった。で、五・七・五で何が言えるか、ということがありますね。中国人もフランス人もそう思うに決まっています。必ずそう思う。
ところが日本人は五・七・五で十分足りると思っているんです。これは本当に驚くべき日本語の特異性なんです。それはいくら強調しても足りないくらいのものだと思いますけど、五・七・五なら五・七・五の短さで、それが神聖なものになるということ自体が、伝統の力というものもありますけれど、同時にまた、私がこれから申し上げることは不思議なことのように聞こえるかもしれないけど、「短いからこそ尊い」ということがあった。
それはなぜかと言えば、短いからたくさんのことは言えないんですね。短い中でたくさんのことを言おうと思ったら、イソップのカエルさんみたいにおなかが膨らみすぎてパンクしちゃいますね。五・七・五、あるいは五・七・五・七・七でもいいです。短歌形式でもいいですけども、今までに千年の昔から、あるいは五百年の昔から、三百年の昔から、すばらしいと言われていた短歌とか俳句の作品を頭の中で幾つか思い浮かべてくださればいいんですけど、そういうもので意味がいっぱい詰まっている歌とか俳句があるかどうか。ないです。その点では、名作とはほとんど意味がないものばかりと言ってもいいくらいです。
これは私だけが言っている暴言ではなくて、例えば釈《しやく》迢《ちよう》空《くう》さんもそうおっしゃった。つまり意味があるよりは、むしろ意味がないところに詰まっているもの、言葉として発語されていない一種の気配ですね、気配とか吐息とか、そういうものの方がむしろ大事なんです。むしろそういうものを発生させるためにわずかの言葉を使うと言ってもいい。つまり、別の言い方で言えば、俳句というものは沈黙を生み出すための言葉の装置というふうに考えてもいいくらいです。私はそう思います。俳句を簡単に定義すれば、「すばらしい沈黙を醸成するための言葉を作る装置」というふうに思っています。
そういう意味で言うと、言葉はもともと不完全なものですね。近ごろはやりの言葉で言うとコミュニケーション、気安く言ってもらいたくないと私は思いますけど、とにかく人と人との間に意思の疎通ができるかできないかというのは実は大変な問題なんですね。それをコミュニケーションなどという言葉を使い、近ごろではインターネットとかなんとか言って、世界のどことでも意思が通じられるということを大宣伝しますね。人のいい日本の庶民はみんな争ってインターネットに走って、あの機械を買いに行きます。あれは実は商売でやっています。商売でやっているわけであって、インターネットならインターネットで、外国の人とすぐ意思が疎通するなんて、笑いさえもできない。憮然としちゃうしかないんですけど、まあそれはそれで結構です。それは商売ですからやってください。
でも、私としてはそういう意味のコミュニケーションではなくて、意思の疎通というふうに言いかえれば、意思の疎通ができるかできないかというのは実に大変なことなんです。地球を一周して裏側まで行って帰ってきて、やっと「おれを好きか」「好きだ」という意思の疎通ができるかできないか、というようなものですよ。そういうのが「言葉」というものだと思います。言葉というものは本当はそういうものであって、たくさんのことを言ったからそれで相手に何ものかが伝わる、などというものじゃないんですね。むしろ本当に小さい言葉、小さな一語が実はきわめて重要なときが、人生の大切な瞬間には必ずありますね。この人と自分がどういうふうに生きていくかというようなことを決めなきゃならないことは、人生だれにでもあります。若者も老人も中年も、そういうことは絶えずぶつかるわけです。そのときは大抵の人がほとんど口が聞けなくなっちゃうでしょう。黙ります。黙って、そのときに発する言葉というのは、沈黙がものすごくあって、その中からようやく言葉を一粒、ウーと言って引っ張り上げて発するようなこと、そのときに相手がこの沈黙に感動すれば「うん」と言ってくれる。だけど、相手がこの沈黙はいんちきだと思えば「嫌よ」って言う。それでおしまいです。そういうのが言葉だと思うんですね。
そうすると、俳諧文学などというものは、要するにその沈黙、ぐうっといっぱいに詰まった、あとは破裂するしかないというくらいに詰まった沈黙を、そうっと相手に伝えるというものでなければならない。日本人の詩というのはそういうものなんですね。それが一番見事にできたのが芭蕉という人だったと私は思っています。それは芭蕉の生き方とぴったり一致しているんですね。
芭蕉は無一物だった。芭蕉のつくった俳句も、五・七・五とか七・七という本当に極端に少ないもの、それで大勢の人が感動したんですね。それは何か。このことは詩の秘密だと思いますけど、これがわかるためにみんな一生懸命芭蕉のところへ馳せ参じたわけです。芭蕉のお弟子さんは、芭蕉といる間は確かにその秘密に触れていたんですね。ところが芭蕉先生が亡くなってしまった後はみんな散り散りばらばらになって、それ以後につくったものは、芭蕉と一緒にいたころにつくったその人の作品を越えることがほとんどできなかった。これは不思議なことですけど、事実そうで、だからやっぱり生きた言葉というものだと思います。
言葉というものは印刷してあればだれでも読めます。それは二次的には私どもも芭蕉の言葉を読んで感動できますね。だけど、本当の意味で芭蕉の言葉にしびれるほど感動したというのは芭蕉の弟子たちなんですね。なぜかと言えば、そのときに本当の意味で生きている言葉が出てきた。それを伝えられる人は芭蕉さんしかいなかった。芭蕉の近くにいる人は、いわば磁気みたいに、芭蕉の磁気の及ぶ範囲にいて、芭蕉が一言言えば、それで何十言ものものを感じ取ることができたんですね。磁気があるかないかと言うことは、大切な、そして大変な問題だと思います。
芭蕉という人はそういう意味では不思議な人間的な魅力があったに違いないんですけど、その人間的魅力というものを突き詰めていけば、芭蕉が本当の意味で言葉を見事に生かして使えたということです。しかもその言葉は五・七・五しかないんですから、本当に短いんです。その小さな言葉。その小さな言葉で、てにをはの、これを「に」にするか「て」にするか「を」にするかというふうなことが決定的なんですね。芭蕉は直感的にそれがわかった。しかし芭蕉でも、後でまた、あれは違った、本当はこっちの方がよかったというふうに直すことはたくさんあった。それくらい言葉というものは難しいものなんです。ですから、大勢の人が芭蕉のもとへ、本当に苦労してでも芭蕉先生のところへやってきて、そして芭蕉の教えを乞おうとしたということの中には、何かとても大切なものがあると思います。
今申し上げたことは、俳句形式というものが非常に短くて、それ一つで全部を言い切るものでは絶対あり得ない、また言い切ってしまったものはそれだけのことであって、俳句とは言えないということを、私は言いたいわけです。不完全なるがゆえに無限であるということがある。つまり不完全なものはどこかで切られていますから、ぱっとどこかが開いちゃっているんですね。その部分は無限に向かって開かれている。完全なと言われるようなものをつくっちゃった人は、その完全性の中にみずから閉じこもってしまって出口がなくなるんです。そういう逆説があるわけです。
特に日本の詩歌では、破れて、開いていればいるほど逆におもしろいというものが、常にそうではありませんけど、あるわけですね。だから、ヨーロッパやアメリカなんかの詩歌をたくさん読んできた人が日本の詩歌に初めて触れて、すぐにおもしろいと思えるかどうかというと、多分ほとんどの人が思えないと思うんです。しばらく慣れてこないとだめなんです。しかし慣れてくると、一つの言葉の周辺に、言われてない言葉、言われざる言葉がいっぱいひしめいているということがわかってきて、このおもしろさが無限におもしろいということがわかる。そうするともう病みつきになるわけです。
今現在でも日本に俳句、短歌をつくっている方が大変な数いらっしゃる。私のように現代詩なんというものを書いている者の数は数えることができると思いますけど、俳句や短歌をつくる方というのは、数えることのできる範囲の外側に、いつでもまだたくさん広がっている。それはなぜかというと、日本人にとって日本語というものがそういう魅力を感じさせるものとしてあり続けているということが、とても大事なこととしてあるんです。日本語ではたとえば中国語やフランス語のようには韻が踏めない。ほかの国の言語にも、日本語のように韻がなかなか踏めないという言葉があるでしょうけども、日本語は極端にそうですね。よく響く脚韻を踏むということがほんとに難しい。脚韻を無理して踏んでみても言葉が響かない。そのかわりに音数律は非常に敏感に反応できる。それは「アイウエオ」「カキクケコ」というのは全部非常に単純に一音一音が切れますから、それを数えることは簡単にできるわけですね。英語やフランス語ではそういうわけにはいかない。
音数律が日本語で非常に有効であるのは、日本語の根本的な条件なんですが、その結果として五・七・五とか五・七・五・七・七という音数だけで詩ができちゃう。そのために、ヨーロッパや何かの詩学をそのまま適用はできない、ということがあります。それであるがゆえに日本の詩歌が外国人になかなかわかってもらえないという問題もあります。しかしそれは説明の仕方によると私は信じています。説明の仕方によっては日本語の世界にだんだん外国の人が興味を持って入ってくるということは十分にあり得る。私は実際に多少の経験によってそのことを感じている人間としてこれを言っています。
とにかくこの五・七・五あるいは五・七・五・七・七が完全にそれ一句、あるいはそれ一首で、完璧に何か一つのことを言い切っているならば、日本の詩歌としてはむしろ二流のものになってしまうだろう。はっきり言いますが、一つのことをみごとに言い切っていると思えるようなものは、ただそれだけのもので終わっちゃうのです。ところが、どこか魅力的だけれど何か不完全じゃないか、言い切ってないじゃないかと言われるようなものは、かえってそこにほかの人を呼び込むことができるんですね。ある一つの句なら句が、この人は本当はもう少し何か言ってくれてもいいじゃないかと思えるような句の場合に、それはどういうことを意味しているかというと、別の人を呼んでいるんですね。私のところに入っておいで、二人でつくろうよ、というふうに呼んでいると考えていいんです。
例えば、芭蕉が亡くなる十数日前に大坂で、もうほとんど気分が悪くてどっと寝つくころにつくった句で、有名な「秋深き隣は何をする人ぞ」というのがありますね。あれは弟子たちが集まって、ある弟子の家で連句をやろうとしたのですね。芭蕉先生はもちろん呼ばれていって、発句をつくるはずだったのに、気分が悪くてどうもおれは行けないと感じた。そのため、やむを得ず、句を作って一同の待っているところへそれを届けさせたんです。それが「秋深き隣は何をする人ぞ」という句だった。
これは非常に意味があります。つまり「隣は何をする人ぞ」というのは、お隣さんは一体何をしている人かなという意味なんですけど、別の意味で言えば、弟子たちが少し離れたところの家に集まっていて、そこでこれから芭蕉先生を迎えて楽しく連句を巻こうと思って一同心をどきどきしながら待っているという、そこへ芭蕉の句が届けられる。そういうことを彼はちゃんと計算してつくっているわけですね。「隣は何をする人ぞ」というのは、つまり弟子たちのことを言っているんです。
君たちはこれから集まって歌仙を巻こうとしている。それに対して僕は行けない。その気持ちが「秋深き隣は何をする人ぞ」という、問いかけの形をした句になってあらわれています。問いかけをされたんだから弟子たちは直ちに答えなければならないです。答えればその句にまただれかがつけるという形で、連句がおのずと回転し始めるわけです。
つまり、完全に閉じられた句ではなくて、むしろ逆にぱっと開かれている。「秋深き隣は何をする人ぞ」というのは一句としては完全な意味を持っていない。いないにもかかわらず、その句はその句でちゃんと独立した、秋が深まってくる時期の人恋しさというものが非常に出ているわけです。いい句ですね。芭蕉の最晩年の句としては「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という壮絶な句が最後の句です。あれは別に辞世の句のつもりでつくったのでは毛頭ありません。死んじゃったからあれが辞世みたいに思われてますけど、それより数日前につくった「秋深き」の方が、私は人を呼び込むという意味ではずっといいと思っているんです。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」というのは、本当に修羅の世界で、孤独な芭蕉一人の世界に閉じこもっちゃった。そういうものではない句が、芭蕉としてはやっぱりつくらなければならなかったし、つくりたかったから、つくったんですね。その句の感銘は深いということがあります。
「秋深き隣は何をする人ぞ」という、そういう呼びかけに対して、だれかがぱっと答えるという形で、既に一座の全体の空気が決まってくるということは、意味があることです。つまり芭蕉は自分だけの詩の世界を形づくって、おれは偉い俳人である、おれは偉い詩人であるといって超然としているというような人では毛頭なかった。むしろ絶えず、弟子たちに向かって今君は何をしているの、僕はこういう気持ちだよということを言っている。そこのところですばらしく高い世界ができたんですね。
これは、考えてみると非常に不思議なことです。ほかの人が参加して初めて一つの詩の世界ができるというわけですから、初めから自分自身だけの世界で完全に完結しているというものを目指すような人は、芭蕉的な世界あるいは日本の詩全体と言ってもいいですけど、そういう人は、日本の詩歌の世界では余り大した境地にまでは行かないということになります。不完全なるがゆえに無限なるものに向かって開かれているということを目指すのが、日本の詩だ、というように思います。
「奥の細道」にちなんで言えば、春いよいよ出発しますね。ひょっとしたらこの江戸も、あるいはこの草加のあたりもみんな見納めかと、彼はほとんど死ぬ覚悟で行っていますからね。そうして、見納めかと思ってつくった句の一つに「行春や鳥啼魚の目は泪」という句があります。「行春や鳥啼魚の目は泪」、これはいったい何だろうと思います。
実際にあの句はもちろん英語に訳されています。何人もの方が訳しているからいろんな訳し方があると思いますけど、欧米の人にとって非常にわかりにくいらしいことの一つは、鳥啼くというのはまだいいんですね。まあ鳥がピーヒョロピーヒョロ鳴いたりしているだけの問題じゃなく、あれは心の問題を言っている。だけど鳥が鳴くのはまだわかる。しかし「魚の目は泪」というのは何だ、と言うんですね。
私は二、三の外国の人で、日本の詩について大変に関心があってよくわかる人に、そのことを聞かれた。「実は大岡さん、恥ずかしながら、芭蕉のこの句はいい句か」って私に聞くんですね。「この句は非常に日本人に愛されているよ」と答えるんです。相手は、「行春や」はいい。「鳥啼」もいい。しかし「魚の目は泪」って何だって言うんですね。
これは本当にわからない。つまり合理主義から考えれば全く意味をなさない。魚はまず水の中にいるわけですから、その水の中にいる魚が涙を流しているか流してないか、わかるわけがないということになるわけです。説明するのに逆に苦労するようなケースで、こういう場合は他にもいっぱいあります。でも、向こうの人の合理主義の考え方を理解し、受け入れた上で、その合理主義の考え方からしてもわかるような説明はできるはずなんですね。だからすればいいんで、いずれにしても「行春や鳥啼魚の目は泪」というのは全く完結してない句です。春が行こうとしている、鳥が鳴いている、魚の目に涙がある、何だ、それはどういう意味だって言われれば、それっきりです。でも、そういう句が、芭蕉の命をかけて追求したものなんですからね。それはとても意味があるんです。意味があるということを私たちは知らなきゃいけない。
それを意味あらしめているものの一つは「日本語」というものなんです。日本語だからこれがいい。だけど、英語で読むと、私でも何だこれは、って思わざるを得ない。「目は泪」の「泪」というのも、わざわざ「泪」って書きますね。それにもやっぱり意味があるんで、日本語というものは漢字と平仮名とを使って表現される文字の世界を見るだけでも難しい。しかし、それはとても豊かなニュアンスに富んだ世界を表現していると思います。
いずれにしても、芭蕉の世界というのは、不完全なものを不完全なままに差し出して、現実的には不完全だけど、その俳句の核心に入ってしまうと、今度は無限に向かって開かれているところがある。例えば「鳥啼魚の目は泪」というのは、意味は完結してないと言っていいわけですから、逆に言うと、意味が彼方の空とか水とかの本質的なものに向かって開かれているということが言えるわけです。
そういう意味で、芭蕉の句は非常に謎めいて見えるところがあると思いますけど、結局彼は何でそういう表現の世界を追求したかというと、それは俳句作品あるいは詩が、自分一個の自己表現ではないということを彼は非常に早い時期に確信したんですね。もちろん自己表現などという言葉はそのころだれも使っていませんから、そういうようには思ってないけども、俳句というものをつくるのに自分だけを表現する、自分の思いだけを表現する、それでよろしいというんだったら、俳句は五・七・五ですから、非常につまらないものですね。五・七・五程度のものでそんな自分自身を表現するなどということはできっこない。そうではなくて、自分をむしろ逆に無にしてしまって、無にした自分の位置に無限のものが入ってくるようにしようとしたんですね。
これは詩的な意味で言うと大変な工夫だと思います。もちろん日本の詩歌というものにはもともとそういう要素はあったんですけど、芭蕉に至ってはっきりとその要素が出てきているんです。つまり自分をできるだけ無にしてしまう。それによって逆に自分の中に巨大なものが入ってくる、どっと押し寄せてくるというふうにしようとした。だから、彼の俳句は、外に向かっておれはこうだよと言って出ていく俳句ではないんですね。逆に何でも、森羅万象全部入ってこられるように、なるべく戸口をいっぱい開けておくような装置をつくったのだ、と私は思います。
つまり、自己表現とか単なる自分一個の自己主張だけを中心に考えるのは、まあ近代の詩とか芸術とかは大体そういう方向に進んじゃったわけだし、今でもそうなっていますけど、私が思うには、それははっきりと行き詰まっている態度です。自分なんてものは大したことないんです。我々は大体自分は自分だと思っていますけど、その自分を構成しているものの九十パーセントぐらいは他人の言葉なんですね。千年も二千年も前から連綿と伝えられてきた日本語のいろんな要素を、私たちはそれぞれの形で受け継いでいるだけにすぎない。その言葉を使って語っているからお互いにわかり合えるわけです。もし自分だけの言葉だったら、だれもわかってくれないですね。近代主義的な自己表現至上主義の考え方だけでは、日本の詩も文学も成り立たなくなっているというのが、現在ただいまの問題だと思うのです。
その場合に、じゃ自己表現をする以外に何らかの方法があるかということで、今みんな悩んでいるわけです。その場合に芭蕉がやった、自分というものを無にする、生活も無にしちゃった、いわば人に施し物をもらって生きている、そういう意味では全く生活の無能力者が、にもかかわらず巨大な言葉の力というものを、彼がそういう生き方を通じて表現し、私たちに示してくれた、ということがあって、そのことは返す返すも考えなければならないことではないかと思っているのです。つまり、個性の単なる自己表現を超越してしまった、より大きな心の世界、そういうものの中に芭蕉が今住んでいて、芭蕉の弟子たちもそこに一人ひとりいて、そして私たちを呼んでいるんですね。そのくらいにあの人たちは開かれていたと思います。それに対して我々も答えることができるならば、それは「自己表現」としても、最高のものになるんじゃないかと思うんです。
いずれにしても、現代のさまざまな言葉だけで自分の頭をいっぱいにしておくというのは、余り健康的なことではなかろう。ちょっと先ほどインターネットや何かの悪口めいたことを言いましたけど、あれはあれで大変結構です。でも、それが現代の一番すぐれたコミュニケーション、余り好きな言葉じゃないですが、コミュニケーションのやり方であると思ったら大間違いだ。そんなものは銭かねで買えるものにすぎないじゃないかというふうに、私は乱暴なことを言いますが、思うのです。銭かねで買えないものの中に、本当に無限に豊かなものがあるということを、芭蕉は教えてくれたのです。それは彼が無一物だからそれができたというふうに思います。それが芭蕉は偉かったなと思う理由であります。
ちょうど一時間過ぎました。これでおしまいにします。
(平成八年三月二十四日 第二回奥の細道文学賞記念講演より)
あとがき
以前、自分が古典と呼ばれる文学作品をどのような気持ちで読んだか、そしてそれらの古典についていつもどのように考えているか、ということについて、短い文章を書いたことがある(『古典のこころ』「はしがき」)。
今度角川文庫から『名句 歌ごよみ』を五冊本として刊行するにあたり、その『古典のこころ』に書いた「はしがき」の小文を読み返してみた。
驚いたことに、もう十五、六年たっているのに、私は今でもその文章に書いたこと以上のことを思いつかないのである。それで、いわゆる詩歌の古典とよばれるような種類の本からもたくさん引かせていただいたこの『名句 歌ごよみ』のための「あとがき」として、今のべた文章から本体を引用し、多少の手直しをほどこして以下に使わせていただこうと思う。この『名句 歌ごよみ』を読む方々が、「そうか、何も最初のページから身構えてきちんと通読しようなどと考えずに、気の向いたところから読み出してもかまわないわけだ」と思って、楽しみながらあちこち読んで下されば幸いである。
そうやって読みかじるつもりで始めたが、結局全部を読んでしまった、という方が一人でも多ければ、これこそ著者としての幸せというものであろう。
では、読んでみて下さい。
「古典というのは何だろう」
「ウーン、一人無人島で暮らさなくてはならなくなった時、後生だいじに持っていく本かな」
「たとえば」
「たとえば聖書にプラトン、論語に万葉集、法華経に資本論」
「ふだん決して読まないくせに、読まなくちゃあといつも思っている本ばかり」
「それだけではないさ。読むのに時間がかかるからいい」
「どの本も退屈だからなあ」
「孤独と無《ぶ》聊《りよう》を退治するのに、退屈な読書をもってする。人格修養には絶好だろう」
「無人島に一人で暮らさにゃならんようなときに、人格なんてものがなんで問題になるのかね」
「それがわからないようでは、はじめっから古典を読む資格もない。心掛けが悪いよ」
「わかった。古典てのは、要するにオレには関係ないんだ。ハハハ」
「じつはオレにもな、フフフ」
閑人の愚談はさておき、「古典」という言葉は近ごろどんな響きをもって人々の脳裡にころがりこむものであろうか。私が中学生、旧制高校生であったころと現在とでは、三十年以上の時のへだたりがあって、本というものについての一般的な感じ方にも、大きな変化が生じてきたことを折りに触れて痛感するから、今どき「古典は若いうちにきちんと読んでおきたまえ」などというお説教に耳を傾ける若者が、日本国中さがしてみて、果たして十人もいるかどうか、甚だ疑わしいと私は思っている。
実をいえば、この私自身、この世に生をうけてこのかた、「古典は若いうちにみっちりと」などという有難い教訓に、ただの一度も従ったことがないのである。だから私は、たとえば大学で学生を前に話さねばならない時でも、その種のことは決して口にしない。言いかえれば、教養としての読書という観念は、私にはついに縁のないものでありつづけた末、今にいたった。それだけの余裕もない生活の連続だった、というのが実情だが、また自分一個で納得している考え方で言えば、読書というのはもともと、余裕があってするものではないんじゃないかと思う。
もちろん、余裕がたっぷりあって、本を読む時間も心の準備もできて、いざいざ、と本を手にすることができるなら、それはどんなに楽しいことだろう、と思う。そんな余裕が与えられたら、私にもじっくり読んでみたい本はある。山ほどある。しかし、そんな余暇はなかなかもって与えられないし、また仮にそんな余暇が与えられても、もし私が「それっ」とばかりにねじり鉢巻をして本の山を崩しにかかるなら、何のことはない、それはもはや「余暇」に悠々自適する生活ではなくなってしまい、「もう一つの仕事」が新たに生じるだけだろう。
だから、本を読むということは、人間のよくよく不思議な事業なのである。あわただしく便所の中で読んだ本の一ページが、じっくり坐った机の前で読んだ本一冊よりもずっと有益だったというようなことは、いくらでもある。何が「古典」で何が「駄本」か、などという区別も、本来ありはしないのである。
はっきりしていることの一つは、私にとって「古典」は、私《ヽ》が《ヽ》かつて読んだものの中にしかないということ。それらが、いわゆる古典文学全集とか古典思想大系とかに含まれている本と、ある程度まで重なっていることは、もちろんありうるけれど、それも、こちらの都合が、その場合世間の一般規格に合致しただけのことで、根本は常に「こちらの都合」にあるのだ。そういう具合の付合い方をした本でないと、古典であろうがなかろうが、本というもの、ほんとうのところ、身にしみて大切なものではなくなってしまうだろう。
人間というものは、それくらい自己本位なのだと心得た方がいい。どこか自分の都合とは別のところに、世にも有難い「古典」さまが鎮座ましましていて、われわれはその前で是が非でもうやうやしくお辞儀をし、自分にとってはどうもピンとこないような書物でも、我慢して読まねばならないのだ、などとは考えない方がいい。なぜなら、そんな中途半端な付合い方をしても、相手は決して秘密をあかしてはくれないからである。
自分の都合が大切だ、といった。そのことは、言いかえれば、自分にとって今何が必要なのかを明確に知っていなければならないということである。これは大変なことで、自己本位という立場を通すのは、人からああせい、こうせいと言われるがままに動くのよりは、遥かに難かしい。むかし夏目漱石が「自己本位」の立場を貫くことの大切さと困難さを説いた時と、事情は少しも変らない。
以上に書いたことは、本を読む、そして何かを書くということが、幸か不幸か、一日の生活の大きな部分を占めるような変則的な暮らしをしている人間のいうことだから、いずれにしても大きな偏りがあるかもしれない。しかし、私は余裕をもって読書を楽しむよりは、たとえ大急ぎの斜め読みでも、自分にとって必要なことだけはがっちり我がものにしてしまうぞ、という心がまえで本と付合ってきた人間なので、今さらきれいごとを言うわけにもいかないのである。
そんなやり方でも、ずいぶん多くの楽しみや余暇や喜びを、本の世界は私に与えてくれた。こちらに「余暇」がない時の、せっぱつまった読書でも、本の方から真の「余暇」を与え返してくれることが沢山あった。それこそ、実をいえば、本を読むということが私たちに与えてくれる最大の驚異なのである。そして、そういう関係で私と結ばれた本は、すべて、私にとっての「古典」となった。「私の古典」とは、私にとってはそういう意味だった。
一九九九年二月
大岡 信
句歌索引
●あ
青《あを》海《の》苔《り》や石の窪《くぼ》みの忘れ汐《じほ》
高《たか》井《い》几《き》董《とう》
赤い椿白い椿と落ちにけり
河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》
暁も埋《うづ》めたまゝや朧《おぼろ》月《づき》
白《しら》井《い》鳥《ちよう》酔《すい》
あたたかな雨がふるなり枯《かれ》葎《むぐら》
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》
新らしき蒲《ふ》団《とん》に聴《き》くや春の雨
村《むら》上《かみ》鬼《き》城《じよう》
泡のびて一動きしぬ薄《うす》氷《こほり》
高《たか》野《の》素《す》十《じゆう》
一《いち》日《にち》物云《い》はず蝶《てふ》の影さす
尾《お》崎《ざき》放《ほう》哉《さい》
一枚の餅《もち》のごとくに雪残る
川《かわ》端《ばた》茅《ぼう》舎《しや》
一《いつ》旦《たん》は赤になる気で芽吹きをり
後《ご》藤《とう》比《ひ》奈《な》夫《お》
いづれのおほんときにや日《ひ》永《なが》かな
久《く》保《ぼ》田《た》万《まん》太《た》郎《ろう》
糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ、その糸車やはらかにめぐる夕べぞわりなけれ。金《きん》と赤との南《たう》瓜《なす》のふたつ転がる板の間《ま》に、「共同医館」の板の間に、ひとり坐りし留《る》守《す》番《ばん》のその媼《おうな》こそさみしけれ。
北《きた》原《はら》白《はく》秋《しゆう》
いのち噴《ふ》く季《とき》の木ぐさのささやきをききてねむり合ふ野の仏たち
生《うぶ》方《かた》たつゑ
巌《いは》まろく老い春《しゆん》潮《てう》を乗せ遊ぶ
岸《きし》 風《ふう》三《さん》楼《ろう》
鶯《うぐひす》のこゑ前《ぜん》方《ぱう》に後《こう》円《えん》に
鷹《たか》羽《は》狩《しゆ》行《ぎよう》
鶯《うぐひす》の脛《すね》の寒さよ竹の中
尾《お》崎《ざき》紅《こう》葉《よう》
鶯《うぐひす》の啼《な》くや小さき口あいて
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
動くとも見えで畑うつ男かな
向《むか》井《い》去《きよ》来《らい》
薄《うす》く濃《こ》き野べの緑の若草に跡《あと》まで見ゆる雪のむら消《ぎ》え
宮《く》内《ない》卿《きよう》
梅が香《か》にむかしをとへば春の月こたへぬかげぞ袖《そで》にうつれる
藤《ふじ》原《わらの》家《いえ》隆《たか》
梅散るや難《なに》波《は》の夜の道具市
建《たけ》部《べ》巣《そう》兆《ちよう》
梅でのむ茶屋も有《ある》べし死《し》出《で》の山
大《おお》高《たか》源《げん》吾《ご》
梅の奥に誰《たれ》やら住んで幽《かす》かな灯《ひ》
夏《なつ》目《め》漱《そう》石《せき》
梅の香や没《いり》日《ひ》に顔を消されつつ
小《こ》檜《ひ》山《やま》繁《しげ》子《こ》
梅の花にほひをうつす袖《そで》のうへに軒《のき》漏《も》る月のかげぞあらそふ
藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》
梅の花夢《いめ》に語らく風《み》流《や》びたる花と我《あれ》思《も》ふ酒に浮《うか》べこそ
よみ人しらず
うらうらに照れる春《はる》日《ひ》に雲雀《ひばり》あがり情《こころ》悲しも独りしおもへば
大《おお》伴《ともの》家《やか》持《もち》
裏がへる亀思ふべし鳴けるなり
石《いし》川《かわ》桂《けい》郎《ろう》
うらやまし思ひ切るとき猫《ねこ》の恋
越《お》智《ち》越《えつ》人《じん》
大いなる春《はる》日《ひ》の翼《つばさ》垂《た》れてあり
鈴《すず》木《き》花《はな》蓑《みの》
大原や木の芽すり行《ゆく》牛の頬《つら》
黒《くろ》柳《やなぎ》召《しよう》波《は》
大原や蝶《てふ》の出て舞ふ朧《おぼろ》月《づき》
内《ない》藤《とう》丈《じよう》草《そう》
嬢子《をとめ》らが 挿頭《かざし》のために 遊《みや》士《びを》が 蘰《かづら》のためと 敷《し》き坐《ま》せる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに
若《わか》宮《みやの》年《あ》魚《ゆ》麻《ま》呂《ろ》
帯ほどに川の流るる汐《しほ》干《ひ》哉《かな》
水《みず》間《ま》沾《せん》徳《とく》
おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ
加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》
朧《おぼろ》夜《よ》のむんずと高む翌《あす》檜《ならう》
飯《いい》田《だ》龍《りゆう》太《た》
をみなにてまたも来む世ぞ生《うま》れまし花もなつかし月もなつかし
山《やま》川《かわ》登《と》美《み》子《こ》
●か
貝《かひ》寄《よ》風《せ》に乗りて帰郷の船迅《はや》し
中《なか》村《むら》草《くさ》田《た》男《お》
陽《かげ》炎《ろふ》や塚より外《そと》に住むばかり
内《ない》藤《とう》丈《じよう》草《そう》
陽《かげ》炎《ろふ》や取りつきかぬる雪の上
山《やま》本《もと》荷《か》兮《けい》
かげろふやほろほろ落つる岸の砂
服《はつ》部《とり》土《ど》芳《ほう》
風おもく人甘くなりて春くれぬ
加《か》藤《とう》暁《きよう》台《たい》
肩《かた》車《ぐるま》上にも廻る風《かざ》車《ぐるま》
武《む》玉《たま》川《がわ》
片隅で椿が梅を感じてゐる
林《はやし》原《ばら》耒《ら》井《いせい》
かたまつて薄《うす》き光の菫《すみれ》かな
渡《わた》辺《なべ》水《すい》巴《は》
かたむきて田《た》螺《にし》も聞《きく》や初《はつ》かはづ
建《たけ》部《べ》巣《そう》兆《ちよう》
葛《かつ》飾《しか》や桃の籬《まがき》も水田べり
水《みず》原《はら》秋《しゆう》桜《おう》子《し》
蛙《かはづ》の目越えて漣《さざなみ》又《また》さゞなみ
川《かわ》端《ばた》茅《ぼう》舎《しや》
雁《かり》はまだ落《おち》ついてゐるに御《お》かへりか
大《おお》伴《とも》大《おお》江《え》丸《まる》
川底に蝌《くわ》蚪《と》の大国ありにけり
村《むら》上《かみ》鬼《き》城《じよう》
灌《くわん》佛《ぶつ》や墓にむかへる独《ひとり》言《ごと》
榎《えの》本《もと》其《き》角《かく》
北はまだ雪であらうぞ春のかり
江《え》左《さ》尚《しよう》白《はく》
君ならで誰《たれ》にか見せむ梅の花色をも香《か》をもしる人ぞしる
紀《きの》 友《とも》則《のり》
玉《ぎよく》蘭《らん》と大《たい》雅《が》と語る梅の花
夏《なつ》目《め》漱《そう》石《せき》
近海に鯛《たひ》睦《むつ》み居る涅《ね》槃《はん》像《ざう》
永《なが》田《た》耕《こう》衣《い》
茎《くく》たちに春の地勢を見する哉《かな》
加《か》舎《や》白《しら》雄《お》
草の戸も住み替《かは》る代《よ》ぞ雛《ひな》の家
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
暮れて行く春のみなとは知らねども霞《かすみ》に落《お》つる宇《う》治《ぢ》のしば舟
寂《じやく》蓮れん法《ほう》師《し》
黒船に乗りて来るかや四月馬鹿
大《おお》谷《たに》句《く》仏《ぶつ》
げんげ田を鋤《す》く帰らざる人のごと
森《もり》 澄《すみ》雄《お》
声なくて花やこずゑの高わらひ
野《の》々《の》口《ぐち》立《りゆう》圃《ほ》
東《こ》風《ち》ふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
菅《すが》原《わらの》道《みち》真《ざね》
東《こ》風《ち》吹くや耳現はるゝうなゐ髪
杉《すぎ》田《た》久《ひさ》女《じよ》
●さ
桜咲く遠《とほ》山《やま》鳥《どり》のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな
後《ご》鳥《と》羽《ば》上《じよう》皇《こう》
さくらばな散り交《か》ひ曇れ老いらくの来《こ》むといふなる道まがふがに
在《あり》原《わらの》業《なり》平《ひら》
さざなみや志《し》賀《が》の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
薩《さつ》摩《まの》守《かみ》平《たいらの》忠《ただ》度《のり》
佐《さ》保《ほ》神《がみ》の別れかなしも来ん春にふたゝび逢《あ》はんわれならなくに
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》
静さに堪《た》へて水澄むたにしかな
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
芝生焼きてはつはつ萌《も》ゆる嫩《わか》草《ぐさ》やみどり濃《こま》やかに灰かぶり居《を》り
平《ひら》福《ふく》百《ひやく》穂《すい》
島の裏春の千《ち》鳥《どり》のゐたりけり
草《くさ》間《ま》時《とき》彦《ひこ》
地《ぢ》虫《むし》出て土につまづきをりにけり
上《うえ》野《の》章《あき》子《こ》
春《しゆん》寒《かん》や日闌《た》けて美女の嗽《くちすす》ぐ
尾《お》崎《ざき》紅《こう》葉《よう》
春暁や人こそ知らね木々の雨
日《ひ》野《の》草《そう》城《じよう》
春雪の暫《しばら》く降るや海の上
前《まえ》田《だ》普《ふ》羅《ら》
春《しゆん》潮《てう》は裂《さ》け巌《いは》々《いは》は相《あ》擁《ひよう》す
橋《はし》本《もと》鶏《けい》二《じ》
春《しゆん》泥《でい》や嘴《はし》を浄《きよ》めて枝に鳥
石《いし》井《い》露《ろ》月《げつ》
少年や六十年後《ご》の春の如《ごと》し
永《なが》田《た》耕《こう》衣《い》
白《しら》魚《うを》の小さき顔をもてりけり
原《はら》 石《せき》鼎《てい》
しら魚やあさまに明くる舟の中
桜《さくら》井《い》吏《り》登《とう》
白魚やさながら動く水の色
小《こ》西《にし》来《らい》山《ざん》
しろじろと花を盛りあげて庭ざくらおのが光りに暗く曇りをり
太《おお》田《た》水《みず》穂《ほ》
しんがりをよろこぶ家鴨《あひる》なり暖か
秋《あき》元《もと》不《ふ》死《じ》男《お》
雀《すずめ》子《こ》のもの喰《くふ》夢《ゆめ》か夜のこゑ
松《まつ》岡《おか》青《せい》蘿《ら》
雀《すずめ》子《こ》や走りなれたる鬼《おに》瓦《がはら》
内《ない》藤《とう》鳴《めい》雪《せつ》
青天に紅梅晩年の仰ぎ癖《ぐせ》
西《さい》東《とう》三《さん》鬼《き》
ぜんまいののの字ばかりの寂《じやく》光《くわ》土《うど》
川《かわ》端《ばた》茅《ぼう》舎《しや》
空をゆく一とかたまりの花吹雪《ふぶき》
高《たか》野《の》素《す》十《じゆう》
●た
鯛《たひ》を切る鈍き刃《は》ものや桃の宿
高《たか》井《い》几《き》董《とう》
耕すやむかし右京の土の艶《つや》
炭《たん》 太《たい》祇《ぎ》
たくあんの波利と音して梅ひらく
加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》
旅にして誰《たれ》にかたらむ遠つあふみいなさ細江の春の明ぼの
香《か》川《がわ》景《かげ》樹《き》
たんぽゝや長江濁《にご》るとこしなへ
山《やま》口《ぐち》青《せい》邨《そん》
千《ちく》曲《ま》川《がは》柳霞《かす》みて/春浅く水流れたり/たゞひとり岩をめぐりて/この岸に愁《うれひ》を繋《つな》ぐ
島《しま》崎《ざき》藤《とう》村《そん》
蝶《てふ》々《てふ》のもの食ふ音の静かさよ
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
仕《つかまつ》る手に笛もなし古《ふるひ》雛《ひな》
松《まつ》本《もと》たかし
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
在《あり》原《わらの》業《なり》平《ひら》
土《つち》不踏《ふまず》なければ雛《ひひな》倒れけり
阿《あ》波《わ》野《の》青《せい》畝《ほ》
椿《つばき》落ちて一僧笑ひ過ぎ行きぬ
堀《ほり》 麦《ばく》水《すい》
つばめつばめ泥が好きなる燕かな
細《ほそ》見《み》綾《あや》子《こ》
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧《おぼろ》月夜にしくものぞなき
大《おお》江《えの》千《ち》里《さと》
東岸西岸の柳 遅速同じからず南枝北枝の梅 開落已《すで》に異なり
保《ほう》 胤《いん》
冬眠より醒《さ》めし蛙《かへる》が残雪のうへにのぼりて体《からだ》を平《ひら》ぶ
斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》
遠《とほ》蛙《かはづ》酒の器《うつは》の水を呑《の》む
石《いし》川《かわ》桂《けい》郎《ろう》
解《とけ》て行《ゆく》物みな青しはるの雪
田《た》上《がみ》菊《きく》舎《しや》
どつちへも流れぬどぶなんで辛《こ》夷《ぶ》花《し》さいた
中《なか》塚《つか》一《いつ》碧《ぺき》楼《ろう》
外《と》にも出よ触《ふ》るゝばかりに春の月
中《なか》村《むら》汀《てい》女《じよ》
燭《ともしび》を背《そむ》けては共に憐《あは》れむ深夜の月花を踏《ふ》んでは同じく惜《を》しむ少年の春
白《はく》居《きよ》易《い》
鳥の巣の影もさしけり膝《ひざ》のうへ
田《た》川《がわ》鳳《ほう》朗《ろう》
●な
永き日のにはとり柵《さく》を越えにけり
芝《しば》 不《ふ》器《き》男《お》
長《なが》持《もち》へ春ぞくれ行く更《ころも》衣《がへ》   井《い》原《はら》西《さい》鶴《かく》
流れ来て氷を砕く氷かな
吉《きつ》川《かわ》五《ご》明《めい》
なき名きく春や三《み》年《とせ》の生《いき》別《わかれ》   向《むか》井《い》去《きよ》来《らい》
なつかしの濁《ぢよ》世《くせ》の雨や涅《ね》槃《はん》像《ざう》
阿《あ》波《わ》野《の》青《せい》畝《ほ》
なににこがれて書くうたぞ/一時にひらくうめすももすももの蒼《あを》さ身にあびて/田舎《ゐなか》暮しのやすらかさけふも母ぢやに叱られて/すもものしたに身をよせぬ
室《むろ》生《う》犀《さい》星《せい》星《せい》
菜の花や小窓の内にかぐや姫
建《たけ》部《べ》巣《そう》兆《ちよう》
ならさか の いし の ほとけ の おとがひに こさめ ながるる はる は き に けり
会《あい》津《づ》八《や》一《いち》
楢《ならば》林《やし》春《しゆん》禽《きん》微《び》雨《う》を愉《たの》しめる
西《にし》島《じま》麦《ばく》南《なん》
にぎはしき雪《ゆき》解《げ》雫《しづく》の伽《が》藍《らん》かな
阿《あ》波《わ》野《の》青《せい》畝《ほ》
女《によ》身《しん》仏《ぶつ》に春剥《はく》落《らく》のつづきをり
細《ほそ》見《み》綾《あや》子《こ》
にはとこの新《しん》芽《め》を嗅《か》げば青くさし実《じつ》にしみじみにはとこ臭《くさ》し
木《きの》下《した》利《り》玄《げん》
ねがはくは花のもとにて春死なむその如《きさ》月《らぎ》の望《もち》月《づき》のころ
西《さい》行《ぎよう》法《ほう》師《し》
●は
灰捨《すて》て白梅うるむ垣ねかな
野《の》沢《ざわ》凡《ぼん》兆《ちよう》
はかなくて過ぎにしかたを数ふれば花に物思ふ春ぞ経《へ》にける
式《しき》子《し》内《ない》親《しん》王《のう》
箱を出て初《はつ》雛《ひな》のまゝ照りたまふ
渡《わた》辺《なべ》水《すい》巴《は》
肌《はだ》のよき石にねむらん花のやま
斎《いん》部《べ》路《ろ》通《つう》
初《はつ》蝶《てふ》来《く》何色と問ふ黄と答ふ
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
花《はな》衣《ごろも》ぬぐやまつはる紐《ひも》いろゝゝ
杉《すぎ》田《た》久《ひさ》女《じよ》
はなざかりさゝらに狂ふ聖《ひじり》あれ
加《か》藤《とう》暁《きよう》台《たい》
花散るや伽《が》藍《らん》の枢《くるる》落《おと》し行く
野《の》沢《ざわ》凡《ぼん》兆《ちよう》
花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
小《お》野《のの》小《こ》町《まち》
花《はな》冷《びえ》の庖《はう》丁《ちや》獣《う》脂もて曇る
木《きの》下《した》夕《ゆう》爾《じ》
花《はな》冷《びえ》や履歴書に捺《お》す磨《ま》滅《めつ》印《いん》
福《ふく》永《なが》耕《こう》二《じ》
花びらの山を動かすさくらかな
酒《さか》井《い》抱《ほう》一《いつ》
花よりも団《だん》子《ご》やありて帰る雁《かり》
松《まつ》永《なが》貞《てい》徳《とく》
はねばはね踊らばをどれ春《はる》駒《ごま》の法《のり》の道をばしる人ぞしる
一《いつ》遍《ぺん》上《しよう》人《にん》
母の魂《たま》梅に遊んで夜《よ》は還る
桂《かつら》 信《のぶ》子《こ》
春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり
西《さい》行《ぎよう》法《ほう》師《し》
春風や鼠《ねずみ》のなめる隅《すみ》田《だ》川《がは》
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
春さむき梅の疎林をゆく鶴のたかくあゆみて枝をくぐらず
中《なか》村《むら》憲《けん》吉《きち》
春雨や喰《く》はれ残りの鴨《かも》が鳴く
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
春《はる》雨《さめ》や降るともしらず牛の目に
小《こ》西《にし》来《らい》山《ざん》
春《はる》潮《しほ》のあらぶるきけば丘こゆる蝶《てふ》のつばさもまだつよからず
坪《つぼ》野《の》哲《てつ》久《きゆう》
春立つやそゞろ心《ごころ》の火桶抱く
高《たか》浜《はま》年《とし》尾《お》
春の色すみれにのみぞ残りける片山畑の麦のなかみち
木《きの》下《した》幸《たか》文《ふみ》
春の雲かたよりゆきし昼つかたとほき真《まこ》菰《も》に雁《がん》しづまりぬ
斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》
春の雲人に行《ゆく》方《へ》を聴くごとし
飯《いい》田《だ》龍《りゆう》太《た》
春の寒さたとへば蕗《ふき》の苦《にがみ》かな
夏《なつ》目《め》成《せい》美《び》
春の苑《その》紅《くれなゐ》にほふ桃の花下《した》照《て》る道に出で立つ少女《をとめ》
大《おお》伴《ともの》家《やか》持《もち》
春の鳶《とび》寄りわかれては高みつつ
飯《いい》田《だ》龍《りゆう》太《た》
春の浜大いなる輪が画《か》いてある
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
春の日やあの世この世と馬車を駆《か》り
中《なか》村《むら》苑《その》子《こ》
春の水岸へ岸へと夕かな
原《はら》 石《せき》鼎《てい》
はるの夜の女とは我《わが》むすめ哉《かな》
榎《えの》本《もと》其《き》角《かく》
春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えね香《か》やはかくるる
凡《おお》河《しこ》内《うち》躬《のみ》恒《つね》
春の夜の夢のうき橋とだえして嶺《みね》にわかるるよこぐもの空
藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》
春の夜や籠《こも》り人《ど》ゆかし堂の隅
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
春はいま空のながめにあらはるゝありともしれぬうすぐもになやみて死ぬる蛾《が》のけはひ。
三《み》木《き》露《ろ》風《ふう》
春ゆくとひとでは足をうち重ね
八《や》木《ぎ》絵《え》馬《ま》
春を病み松の根つ子も見あきたり
西《さい》東《とう》三《さん》鬼《き》
久方のひかりのどけき春の日にしづごころなく花のちるらむ
紀《きの》 友《とも》則《のり》
人恋し灯《ひ》ともしころをさくらちる
加《か》舎《や》白《しら》雄《お》
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香《か》ににほひける
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
一《ひと》片《ひら》を解き沈《ぢん》丁《ちやう》の香となりぬ
稲《いな》畑《はた》汀《てい》子《こ》
冬の夢のおどろきはつる曙《あけぼの》に春のうつつのまづ見ゆるかな
藤《ふじ》原《わらの》良《よし》経《つね》
ふらここの会《え》釈《しやく》こぼるるや高みより
炭《たん》 太《たい》祇《ぎ》
風《ふ》呂《ろ》敷《しき》に落《おち》よつつまん鳴《なく》雲雀《ひばり》
広《ひろ》瀬《せ》惟《い》然《ぜん》
●ま
またや見ん交《かた》野《の》の御《み》野《の》の桜狩り花の雪散る春の曙《あけぼの》
藤《ふじ》原《わらの》俊《しゆん》成《ぜい》
街の雨 鶯《うぐひす》餅《もち》がもう出たか
富《とみ》安《やす》風《ふう》生《せい》
まつくろけの猫が二疋《ひき》、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
絲のやうなみ《ヽ》か《ヽ》づ《ヽ》き《ヽ》がかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
萩《はぎ》原《わら》朔《さく》太《た》郎《ろう》
黛《まゆずみ》を濃《こう》せよ草は芳《かんば》しき
松《まつ》根《ね》東《とう》洋《よう》城《じよう》
みしま江や霜《しも》もまだひぬ蘆《あし》の葉につのぐむほどの春風ぞ吹く
源《みなもとの》通《みち》光《てる》
水取リや氷の僧の沓《くつ》の音
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
水に浮く柄《ひ》杓《しやく》の上の春の雪
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
みちのくの伊《だ》達《て》の郡《こほり》の春《はる》田《た》かな
富《とみ》安《やす》風《ふう》生《せい》
道のべに阿《あ》波《は》の遍《へん》路《ろ》の墓あはれ
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
珍《めづ》らしき春にいつしか打ち解けてまづ物いふは雪の下《した》水《みづ》
源《みなもとの》頼《より》政《まさ》
物のしゆんなは 春の雨 猶《なほ》もしゆんなは 旅のひとりね
隆《りゆう》達《たつ》小《こ》歌《うた》
ものの種《た》子《ね》にぎればいのちひしめける
日《ひ》野《の》草《そう》城《じよう》
桃の木へ雀《すずめ》吐《はき》出す鬼《おに》瓦《がはら》
上《うえ》島《じま》鬼《おに》貫《つら》
桃の花を満面に見る女かな
松《まつ》瀬《せ》青《せい》々《せい》
森の中に川の瀬見ゆる春の月
大《おお》須《す》賀《が》乙《おつ》字《じ》
●や
やどりして春の山辺にねたる夜は夢のうちにも花ぞちりける
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
山里の春の夕ぐれ来て見ればいりあひのかねに花ぞ散りける
能《のう》因《いん》法《ほう》師《し》
山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく
若《わか》山《やま》牧《ぼく》水《すい》
山もとの鳥の声より明けそめて花もむらむら色ぞみえ行く
永《えい》福《ふく》門《もん》院《いん》
夕《ゆふ》汐《しほ》や柳がくれに魚わかつ
加《か》舎《や》白《しら》雄《お》
雪とけてくりくりしたる月夜かな
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
ゆく雁《かり》やふたたび声すはろけくも
皆《みな》吉《よし》爽《そう》雨《う》
行《ゆく》春《はる》や海を見て居る鴉《からす》の子
有《あり》井《い》諸《しよ》九《きゆう》
ゆく春や蓬《よもぎ》が中の人の骨
榎《えの》本《もと》星《せい》布《ふ》
行《ゆく》春《はる》や鳥《とり》啼《なき》魚《うを》の目は泪《なみだ》
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
ゆく春やおもたき琵《び》琶《は》の抱《だ》きごころ
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
ゆさゝゝと桜もてくる月《つき》夜《よ》哉《かな》
鈴《すず》木《き》道《みち》彦《ひこ》
ゆで玉子むけばかがやく花《はな》曇《ぐもり》
中《なか》村《むら》汀《てい》女《じよ》
よくかゝる笠《か》子《さ》魚《ご》あはれむ霞《かすみ》かな
大《おお》場《ば》白《はく》水《すい》郎《ろう》
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
在《あり》原《わらの》業《なり》平《ひら》
●ら
累《るゐ》々《るゐ》と莟《つぼ》むを歯にぞ花《はな》菜《な》漬《づけ》
皆《みな》吉《よし》爽《そう》雨《う》
老《らう》鶯《あう》や泪《なみだ》たまれば啼《な》きにけり
三《みつ》橋《はし》鷹《たか》女《じよ》
●わ
わかくさやくづれ車の崩《くづ》れより
加《か》藤《とう》暁《きよ》台《うたい》
わが背《せ》子《こ》が衣《ころも》はる雨《さめ》ふるごとに野べの緑ぞいろまさりける
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
我が涙そゝぎし家に知らぬ人住みてさゞめく春の夜《よ》来れば
窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》
※本書は一九九二年三月に学習研究社から刊行された『四季 歌ごよみ〈春〉』に、新たに書き下ろしたものを加えて再編集しました。
名《めい》句《く》 歌《うた》ごよみ〔春《はる》〕
大《おお》岡《おか》 信《まこと》
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平成15年1月17日 発行
発行者  福田峰夫
発行所  株式会社  角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Makoto OOKA 2003
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『名句 歌ごよみ〔春〕』平成11年3月25日 初版発行
平成12年3月10日 再版発行