TITLE : 名句歌ごよみ 〔秋〕
本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。
本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。
目 次
秋《あき》 風《かぜ》
月《つき》
紅 葉《も み じ》
七《たな》 夕《ばた》
虫《むし》の音《ね》
子規が立派だと思うこと
句歌索引
秋《あき》 風《かぜ》
『古《こ》今《きん》集《しゆう》』は「夏歌」の最後を凡《おおし》河《こう》内《ちの》躬《み》恒《つね》の次の歌でしめくくっている。
みな月のつごもりの日よめる
夏と秋と行きかふ空のかよひぢは
かたへすずしき風やふくらむ
夏と秋とがすれ違う情景を空に一《ひと》筋《すじ》の季節の通路を想像して詠《よ》んだ歌である。夏の終りの日(旧暦六月三十日)に、片側の道から夏が過ぎ去るとその反対側からは涼しい秋風が吹き始めてすれ違ってゆくだろうかと空想している歌であるが、現実の季節はまだ暑さの中にあったろう。しかし、暦《こよみ》の上ではすでに秋がやって来ている。
『古今集』の「秋歌」の最初はそれを受ける形で、藤《ふじ》原《わらの》敏《とし》行《ゆき》朝臣《あそん》の次の歌で始まる。
秋立つ日よめる
秋来《き》ぬと目にはさやかに見えねども
風のおとにぞおどろかれぬる
立秋だからといって急に秋風が吹くわけではない。しかしこの「夏」の巻《まき》の最後と「秋」の最初との二首をつなげて読むと、『古今集』の季節は、夏から秋へ、まず一筋の風が吹きぬけてゆくことがわかる。目に見えない風が、目に見えない秋を運んでやって来たのである。この歌は、実景をうたうよりは、むしろ「時の流れ」をうたっている。人間がからだの内側で感じとっている時間の微《び》妙《みよう》な変化を鋭《えい》敏《びん》にとらえる感性、その感性そのものをうたっているとさえいえよう。
自分自身の感性の働きに対して繊《せん》細《さい》に、敏感に耳《じ》目《もく》をこらす、この『古今集』の美意識は、『新古今集』になるとますますとぎすまされ、危《あや》ういほどみごとな言葉の結晶になっていった。
題しらず
おしなべて物をおもはぬ人にさへ
心をつくる秋のはつかぜ
西《さい》行《ぎよう》 法《ほう》師《し》の歌である。「心をつくる」秋のはつかぜといった表現には、『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』はむろんのこと、『古今集』にも見出されない種類の、内面化された風があるといえる。次いで式《しき》子《し》内《ない》親《しん》王《のう》の一首。
百首歌に
暮るる間も待つべき世かはあだし野の
末《すゑ》葉《は》の露《つゆ》に嵐《あらし》たつなり
こういう歌、こういう物の見方になると、風はもう作者の心象風景の中を蕭《しよう》条《じよう》と吹き渡っている無常の時そのものになっているとさえいえるのである。
しかし『古今集』『新古今集』の、いわば虚《きよ》構《こう》の美意識は、『万葉集』にはまだあまり鮮明には見られない。万葉の歌人たちは「秋」という季節を意識する場合にも、秋風に吹かれている萩《はぎ》の花、雁《かり》、こおろぎ、白《しら》露《つゆ》などの具体物をまず見て、その目前の秋の景物を詠んだ。例をあげてみよう。すべて「よみ人《びと》しらず」。
この暮《ゆふべ》秋風吹きぬ白《しら》露《つゆ》に
あらそふ芽《は》子《ぎ》の明《あ》日《す》咲かむ見む
秋風は涼《すず》しくなりぬ馬並《な》めて
いざ野に行かな芽《は》子《ぎ》が花見に
わが屋《に》前《は》の芽《は》子《ぎ》の末《うれ》長し秋風の
吹きなむ時に咲かむと思ひて
葦《あし》辺《べ》なる荻《をぎ》の葉さやぎ秋風の
吹き来るなへに雁《かり》鳴き渡る
秋風に山飛び越ゆる雁《かり》がねの
声遠ざかる雲隠《がく》るらし
秋風の寒く吹くなへわが屋《に》前《は》の
浅《あさ》茅《ぢ》がもとに蟋《こほ》蟀《ろぎ》鳴くも
このごろの秋風寒し芽《は》子《ぎ》が花
散らす白《しら》露《つゆ》おきにけらしも
秋風の日にけに吹けば水《みづ》茎《ぐき》の
岡の木《こ》の葉《は》も色づきにけり
いずれの歌にも秋風は吹いている。しかしうたおうとしている対象は風そのものではなく、野に咲く萩の花であり、遠ざかる雁の声であり、わが庭に鳴くこおろぎであり、色づく木の葉なのである。万葉の歌人たちはこのようにほとんどの場合、対象の状況を事象に即して写しとってうたった。
ところが古今歌人の時代になると、暦《こよみ》の知識の普及とも関連して、視点はそこにある対象物そのもののあり方よりは、むしろ季節を予感する方に移っていった。たとえば身体はまだ季節感として秋をとらえていない酷《こく》暑《しよ》のころにも、歌人たちは暦から秋のまぢかなことを知ると、目前の対象物に秋の最初の使者としての風を添《そ》わせ、そこにゆらいでいる時間の流れをいち早く表現するのであった。
これは力強い『万葉集』の写実とは異なる。しかし平安朝が最盛期に向かおうとする時期に成立した勅《ちよく》撰《せん》和《わ》歌《か》集《しゆう》である『古今集』には、やはり時代を反映した向《こう》日《じつ》性があり、『万葉集』とはまた別種の、のびやかな明るさを生んでいるといえるだろう。
『新古今集』の秋になると、支配層が貴族階級から武士に移ってゆく世相とあいまって、それぞれの運命や内面に深く食い入る感覚としての秋風をとらえ、より個性的に表現されるようになっていく。
いずれにしても、日本の詩人は、秋季に限らず、季節の節《ふし》目《め》節目をまず敏感に感じとらせるものとして、風をたえず意識していた。おそらくこれは四方を海でかこまれ、気象条件もそれによって支配されている島国に住む民族として、日本人が農耕、漁《ぎよ》撈《ろう》いずれにせよ、風雨によって生活を根本的に左右されてきたということと無縁ではあるまい。
春風によって芽ぶいた植物も、収穫期に嵐に遭《あ》えば一年の苦労は無と化してしまう。一見単純なリズムを刻《きざ》んでいるかのような季節の中にも、人間の生命をおびやかす要素はさまざまにあった。
古来の日本の詩人たちはそれらの最も微妙なあらわれとして、風に注目したのだともいえるだろう。「初《はつ》風《かぜ》」という一語をとってみても、風が吹きはじめるその瞬間に対して心をとぎすましていた人々の、心の姿勢を見ることができるのである。
秋来《き》ぬと目にはさやかに見えねども
風のおとにぞおどろかれぬる
藤《ふじ》原《わらの》敏《とし》行《ゆき》
詞《ことば》書《がき》に「秋立つ日よめる」とあるように、立秋の日、つまり七月一日(旧暦)に詠《よ》んだ歌である。現実にはまだ夏だが、「風」のほんのかすかな「気《け》配《はい》」によって秋の到来を知る。この事実を詩にしてみせたことが、この有名な歌のかなめである。ほんのかすかな風の揺《ゆ》らぎだからこそ、詩になるのである。この歌は、詞書からも明らかなように暦《こよみ》の知識を土台に詠んだもので、いわば虚《きよ》構《こう》の作であろうが、不思議に実感のある歌である。「立秋」をまず「風」によってとらえるという日本の歌の美学にも深い影響を与えた。
(『古今集』)
おもてにて遊ぶ子供の声きけば
夕かたまけてすずしかるらし
古《こ》泉《いずみ》千《ち》樫《かし》
千樫は千葉県安《あ》房《わ》郡の農家に生まれ、小学校の教員になった。文学少年で、十七歳で契《けい》沖《ちゆう》の『万葉代匠記』や鹿《か》持《もち》雅《まさ》澄《ずみ》の『万葉集古義』を読破したといわれる。おそるべき読書家だった。伊《い》藤《とう》左《さ》千《ち》夫《お》の門人となり、「アララギ」編集にも従事したが、病《やまい》を得て若くして没した。
大正十三年(一九二四)晩夏、喀《かつ》血《けつ》して病床にあったころの作。表現に『梁《りよう》塵《じん》秘《ひ》抄《しよう》』の有名な歌謡にある「遊びをせんとや生れけむ 戯《たはぶ》れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ」の影響があるが、口ずさむにふさわしい清《せい》韻《いん》をもった歌である。彼が、当時不《ふ》治《じ》に等しかった病にたおれていたことを知れば、味わいは一層濃い。
(『川のほとり』)
木《こ》のまよりもりくる月の影《かげ》見れば
心づくしの秋は来にけり
よみ人《びと》しらず
初秋の夜、木の間からもれてくる月の光にしみじみとした情感を覚えながら、ああ、心づくしの秋が来たなあと感じる。「心づくし」は心を尽《つ》くさせること。言い替えると気をもませるということ。
秋になると野山の趣《おもむき》が変わって、あちらにもこちらにも美しく色づきはじめた自然界のすがたがある。しかもそれらはたちまち過ぎ去ってゆくつかのまの黄《おう》金《ごん》の輝きである。それを思うたびに、あそこも見ておきたい、こちらも、と気がもめる。その思いをうたった歌で、つまりは秋への讃《さん》歌《か》である。
(『古今集』)
あはれいかに草葉の露のこぼるらむ
秋風立ちぬ宮《みや》城《ぎ》野《の》の原
西《さい》行《ぎよう》法《ほう》師《し》
西行は七十三歳で世を去るまでに二度陸《みち》奥《のく》へ旅している。最初は三十歳のころで、仏道修行者としてはまだ若い僧だった。二度目は文治二年(一一八六)、六十九歳の秋である。健脚、健康に恵まれていたことがわかる。この旅では、一日鎌倉の鶴ケ岡八幡宮で源頼朝と会って話し合っている。東大寺復興のために沙金の勧《かん》進《じん》をする旅だったという。たくましい老僧だったろう。この歌は吹きそめた秋風に、かつてはるばる旅した陸奥の宮城野を思い、そこに置いた露が一面にこぼれ散る美しさを思いえがく。今の気象条件では立秋はまだ夏のさなかだが、古歌で秋風が立つといえば、立秋時の秋の初風をさす。ああ、今年もまた物思わせる秋がきた、という感慨を旅への思いに託《たく》して歌ったのだ。歌枕としての「宮城野」は、萩《はぎ》などの秋草が一面に咲いている野を連想させる地名としてとくに愛された。
(『新古今集』)
都をば霞《かすみ》とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関
能《のう》因《いん》法《ほう》師《し》
『後拾遺集』巻九羇《き》旅《りよ》に収める。「春」の霞が立つころ都を立ってきたのに、奥《おう》州《しゆう》の入口白河の関までくると、はや「秋」の風が吹いている、何と遥《はる》かな道であろうか、奥州にいたる道は。古来旅の名歌として有名だが、実は能因はずっと都に隠れ住み、人目を避けて顔を日焼けさせ、何くわぬ顔をしてこれを発表したのだという説が出て、一層有名になった。この歌が都にいて机《き》上《じよう》で作った作だという説は『古《こ》今《こん》著《ちよ》聞《もん》集《じゆう》』や『十《じつ》訓《くん》抄《しよう》』などの説話にあるが、能因は実際には二回奥州に旅している。彼はこんな臆《おく》説《せつ》の立つほど、歌に命をかけた風狂人だった。
(『後拾遺集』)
薄《うす》霧《ぎり》のまがきの花の朝じめり
秋は夕べとたれかいひけむ
藤《ふじ》原《わらの》清《きよ》輔《すけ》
作者は平安末期の歌人・歌学者。『袋《ふくろ》草《そう》子《し》』ほかの歌学書は特に名高い。『詞花集』の撰者藤原顕《あき》輔《すけ》の子だが、若い時には父と不和だった。しかし父の晩年には和解し、親子で和歌の家としてのプライドを保った。清輔は和歌の作者としてよりは、その豊かな学識によって仰がれた。
「秋は夕べとたれかいひけむ」は、秋の風《ふ》情《ぜい》は夕暮れ時が最高とは誰が言ったのであろうか、と問うたもの。清《せい》少《しよう》納《な》言《ごん》が『枕《まくらの》草《そう》子《し》』の巻頭で「秋は夕ぐれ。夕日のさして山の端《は》いと近うなりたるに」云《うん》々《ぬん》といったのを踏《ふ》まえて反論し、秋の面《おも》白《しろ》味《み》は決して夕暮れだけにあるのではない、ごらん、この垣《かき》根《ね》のほとりに咲く花が、朝の薄霧をまとってしっとり濡《ぬ》れているさまを、といったのである。
(『新古今集』)
がつくりと抜け初《そ》むる歯や秋の風
杉《すぎ》山《やま》杉《さん》風《ぷう》
杉風は江戸の大きな魚問屋で、幕府や諸侯にも魚を納めた家「鯉《こい》屋《や》」の長男として生まれ、自らも家業をついだ。芭《ば》蕉《しよう》の忠実な門人だった。芭蕉の経済的後援者だったことは有名。深川の芭蕉庵も彼の下《しも》屋《や》敷《しき》だった。この句は『猿《さる》蓑《みの》』にのるが、初案は「がつくりと身の秋や歯のぬけし跡《あと》」として、芭蕉あて書簡に出ている。これだと詠《えい》嘆《たん》が勝ちすぎて、句は集中度に欠ける。改案にはおそらく芭蕉の手が入っているだろう。
杉風は芭蕉の高弟宝《たから》井《い》其《き》角《かく》を援助して、蕉風発達にとって大きな意味をもつことになる俳《はい》諧《かい》撰集『虚《みなし》栗《ぐり》』を編ませた。この撰集は、俳諧の進路を談《だん》林《りん》風から蕉風に転換させる上できわめて大きな役割りをはたした。
(『猿蓑』)
くろがねの秋の風《ふう》鈴《りん》鳴りにけり
飯《いい》田《だ》蛇《だ》笏《こつ》
蛇笏は早稲田大学英文科在学中に高浜虚《きよ》子《し》門に入った。虚子が一時俳壇から身を引いたのち再び俳壇に復帰した大正初年代に、蛇笏は「ホトトギス」で大活躍を開始し、「ホトトギス」の黄金時代の立役者となった。
この句は彼の作中最も有名なもののひとつ。詠まれている事実としては、秋のある日鉄の風鈴が鳴った、というにすぎないことである。しかしその表現において、「くろがねの秋の」と続くとき、すでに秋はくろがねの秋に変じて、やや季節はずれの風鈴の中で、深《しん》沈《ちん》と鳴るのである。この句では「くろがね」は単に鉄を意味するだけではなく、音感そのものが一種のイメージになりかわり、どっしりとした風景がそこから生まれる。
(『霊芝』)
宵《よひ》のまの村雲づたひ影見えて
山の端《は》めぐる秋のいなづま
伏《ふし》見《み》院《いん》
『玉《ぎよく》葉《よう》集《しゆう》』は鎌倉後期、京《きよう》極《ごく》為《ため》兼《かね》が伏見院の命で選んだ勅《ちよく》撰《せん》和歌集である。集中最も入集歌の多いのは伏見院の九十三首。帝王だからではなく、院は実際に当時の代表歌人だった。観察の細《こま》やかで動的な叙景歌を多く収める『玉葉集』は、衰《すい》微《び》期にあった中世の和歌伝統に新味を加えた。
「宵のま」「村雲づたひ」「山の端めぐる」など、雲を伝わって低く移動してゆく秋の稲妻をとらえたこの歌の、一種映画的効果は、『玉葉集』の新しさをよく示している。
(『玉葉集』)
風わたる浅《あさ》茅《ぢ》がすゑの露《つゆ》にだに
やどりもはてぬ宵《よひ》のいなづま
藤《ふじ》原《わらの》有《あり》家《いえ》朝臣《あそん》
「浅茅」は土地一面に生えた背の低いチガヤ。平安中期以後の詩《しい》歌《か》や物語では、浅茅の原といえば、すなわち淋《さび》しい荒れ果てた場所というのが常識になった。浅茅が宿も同じ。浅茅の葉先に結ぶはかない露に宿ることさえもせず、たちまち消えて跡《あと》かたもない日暮れ時の稲妻よ。歌の主題は人生の短さ、無常をうたって観念的だが、新《しん》古《こ》今《きん》歌人は観念を具体的影像で描き出すすべに長じていた。
藤原有家は新古今時代の代表歌人の一人で、『新古今集』撰者の一人に選ばれるという名誉を得た人で、『新古今集』には十九首が採られている。
(『新古今集』)
露《つゆ》の世《よ》は露の世ながらさりながら
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
江戸後期の代表的俳《はい》諧《かい》師《し》の一茶は、信州柏《かしわ》原《ばら》から十五歳の時江戸に出て、奉公生活にも俳諧修《しゆ》業《ぎよう》にも辛《しん》酸《さん》をなめた。異母弟との十三年間に及ぶ遺産争いが解決し、五十一歳で帰郷、妻帯した。三男一女を得たが、長男、長女、それに次男と次々に幼くて死に、妻をも失った。この句は溺《でき》愛《あい》していた長女さとが、一歳余りで天《てん》然《ねん》痘《とう》のため死んだ時のもの。この世ははかない露の世という。そんなことはよく知っている。よく知ってはいるが、知っていることが何になろう。くりかえしくりかえし、私は悲しくてたまらないよ。
(『おらが春』)
ひやひやと積木が上に海見ゆる
河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》
作者は高浜虚《きよ》子《し》と共に同郷の先輩正岡子《し》規《き》の俳句革新を助けたが、のちには新傾向を唱えて虚子と対立する。これは子規没後碧《へき》門《もん》に新鋭が結集、意気あがり始めた明治三十八年(一九〇五)の作。
夏もようやく過ぎたころの海辺の宿でもあろうか。軒下に積んである薪《まき》か何かのひとかたまり、その彼方《かなた》に、秋の海がひやひやと見える。どこかうつろな、でも人なつかしさひとしおの秋が、そっと忍び寄っている。「積木」を玩具の積木とする見方もありうる。
(『碧梧桐句集』)
折もよき秋のたゝきの烏《ゑ》帽《ぼ》子《し》魚《うを》
かま倉《くら》風《ふう》にこしらへてみん
雀《すずめの》 酒《さか》盛《もり》
作者は天明狂歌壇無数の作者の一人。「烏帽子魚」とは鰹《かつお》の異名。江戸時代鎌倉が本場とされた。その秋鰹のたたきを造ろうとする江戸っ子が「いっちょ、鎌倉風にこしらえてやるか」と勇んでいっている風情。
烏帽子魚の語には、鎌倉幕府の武者がかぶった烏帽子への連想があるので、実際は鰹の料理にすぎないのに、下《しもの》句《く》にいかにもさっそうと奮いたった感じが出た。
「狂歌」という語を、「狂」という字から誤解してはなるまい。狂歌は滑稽を目的としたから、使われる言葉はひねりが利いている必要があり、そのためには古典のもじりなども含めて、むしろ一般の和歌よりも一層知的洗練が求められたからである。
(『徳和歌後万載集』)
白《しろ》妙《たへ》の袖《そで》のわかれに露《つゆ》おちて
身にしむいろの秋かぜぞ吹く
藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》
後《ご》鳥《と》羽《ば》上皇の水《み》無《な》瀬《せ》離宮で行われた歌《うた》合《あわせ》の一首で、題は「風に寄する恋」。上《かみの》句《く》は『万葉集』の「白妙の袖の別れは惜《を》しけども思ひ乱《みだ》れて許しつるかも」が本《ほん》歌《か》。また下《しもの》句《く》は『古《こ》今《きん》六《ろく》帖《じよう》』の「吹きくれば身にもしみける秋風を色なき物と思ひけるかな」が本歌である。「袖のわかれ」「身にしむ」「秋風」「露」などの悲恋のイメージを複雑に重ね合わせて、後《きぬ》朝《ぎぬ》の別れのあと、泣き伏す女の姿を物語的に描く。定家の非凡な構成力を示す一首で、「身にしむいろの秋かぜ」のような表現は、先行の表現があるにせよ、まことに印象的。
(『新古今集』)
あきの野のくさばのつゆをたまと見て
とらむとすればかつきえにけり
良《りよう》寛《かん》
越《えち》後《ご》の人良寛は、青年前期に出《しゆつ》家《け》してきびしい曹《そう》洞《とう》禅《ぜん》の修《しゆ》行《ぎよう》をつんだ。諸国行《あん》脚《ぎや》ののち郷里に庵《いおり》を結び、『万葉集』や「寒《かん》山《ざん》詩《し》」にふかく親しんだ。歌・漢詩・書をよくし、書は渇《かつ》仰《ごう》される。良寛の歌は、身辺の人や自然に触発されておのずと口をついて出たものが、そのまま澄《す》んだ調べになっている感がある。草葉に宿る露《つゆ》を玉と見るのも、露のはかなさをいうのも、いずれも古くからの和歌の常道だが、澄《ちよう》明《めい》な響《ひび》きが快い。「かつ」には、「すぐ」という意味がある。
(『はちすの露』)
によつぽりと秋の空なる富士の山
上《うえ》島《じま》鬼《おに》貫《つら》
澄《す》んだ秋空にそびえる富士の姿を「によつぽり」とは、言い得て妙。このくだけた口語調擬《ぎ》態《たい》語が一句の命である。「そよりともせいで秋立つ事かいの」その他、鬼貫には口語調の句が多い。彼は江戸前期、芭《ば》蕉《しよう》などとほぼ同時代の俳人で、摂《せつ》津《つ》(兵庫県)伊《い》丹《たみ》の酒造家の家に生まれた。初期俳《はい》諧《かい》の革新者談《だん》林《りん》派が風俗化し散文化していった時期に、「まこと」のうちにこそ俳諧の詩があるとして、俳諧再生に大きな貢献をした重要な俳人である。
(『鬼貫句選』)
秋の航一《いち》大《だい》紺《こん》円《えん》盤《ばん》の中
中《なか》村《むら》草《くさ》田《た》男《お》
「秋の航一大紺円盤」と、意識的に漢字を音読みして、ン音のくりかえしに若々しい律動感をもたせ、一気に青春の旅情に凝《ぎよう》縮《しゆく》させた。秋の海を航海している青年のさわやかな感傷が、彼の感覚を通じて海景いっぱいにひろがっているような句である。船のまわりには青《あお》海《うな》原《ばら》がまるで紺の円盤のように進む船を包んでいる。
草田男は高浜虚《きよ》子《し》門で「ホトトギス」同人となるが、後に離脱し、「万《ばん》緑《りよく》」を創刊主《しゆ》宰《さい》した。
(『長子』)
梨《なし》食ふと目鼻片づけこの少女
加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》
俳句の「俳」の字はもと一般人と変わったことをして人を興がらせる芸人の意だという。俳優の語はそこから来た。明治以降の「俳句」も、和歌に対抗して滑《こつ》稽《けい》な詩情を開拓した俳《はい》諧《かい》から出ているが、現代の俳句はもちろん、滑稽みや軽みだけですべてが表現されるものではない。新しい短詩型文学の一形態として多種多様な心情を盛る。
しかし中で明治三十八年(一九〇五)生まれの加藤楸邨の句は、抜群の俳味をたたえてふくよかである。梨に無心にかぶりつく少女、目も鼻もどこかへ片づけて、食べることにひたすら没頭している。
(『吹越』)
さやけくて妻とも知らずすれちがふ
西《にし》垣《がき》 脩《おさむ》
昭和五十三年(一九七八)夏、五十九歳で急《きゆう》逝《せい》した俳人。臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》に学んだが、伊《い》東《とう》静《しず》雄《お》に大阪住吉中学時代から薫《くん》陶《とう》を受けた詩人でもあった。
秋の、おそらく夕暮れどき、人通りの多い道《みち》筋《すじ》での一瞬の情景だろう。ふとすれ違った女性が妻であることにさえ気づかず、行きすぎて、おやっと足をとめる。それさえもさわやかに感じられる秋の街《まち》角《かど》。
作者は多年明治大学法学部一般学科で教授をつとめ、国語・文学を担当した。教育者としてもきわめて優秀で誠実な人だった。本書の著者大岡は、読売新聞外報部をやめてから、西垣氏の誘いを受け、同大学で同じところにつとめ、昭和四十五年から西垣氏急逝の時まで、親交を結んだ。懐かしい人である。
(『西垣脩句集』)
長き夜をたゝる将《しやう》棋《ぎ》の一ト手哉《かな》
幸《こう》田《だ》露《ろ》伴《はん》
露伴は近代の文《ぶん》豪《ごう》の名に恥じぬごく僅《わず》かな文人たちの一人であること、いうまでもあるまい。俳《はい》諧《かい》関係の著作も『評釈芭《ば》蕉《しよう》七部集』の偉業をはじめ数多い。自らも句・歌・詩・連句・狂歌・漢詩を自由に作った。また棋《き》力《りよく》抜群との定評があった。これはいかにも将棋好きの人の一句。一手指し違えたばかりに負け将棋となってしまった。その口惜しさで、秋の夜《よ》長《なが》が一層長くなる。
幸田露伴の血族に代々文学者が出ていることは周知のところだが、この一家の文学伝統は、露伴の娘幸田文《あや》(明治三七年・一九〇四―平成二年・一九九〇)、文の娘青木玉《たま》(昭四・一九二九―)と続き、さらに青木玉のお嬢さんまでエッセイストになる可能性が大いにあるという一筋の道である。露伴が娘文《あや》を家庭の生活者としてきびしく教育したことについては、文自身の多くのエッセーや小説でくりかえし語られている。
(『露伴全集』)
甲《かふ》賀《が》衆《しゆ》のしのびの賭《かけ》や夜《よ》半《は》の秋
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
「甲賀衆」は甲賀者《もの》ともいい、江戸幕府に同心として仕《つか》えた甲賀(現滋賀県内)の郷《ごう》士《し》。忍術で伊《い》賀《が》者《もの》と並称される。「夜半の秋」は「秋の夜」に同じ。秋の夜《よ》長《なが》のつれづれに、忍者たちがひそかに賭《かけ》ごとをしている。「しのび」は「ひそかに」の意に「忍者《しのび》」の影像をも掛け合わせているだろう。もちろん想像の情景だが、蕪村にはこの種の印象鮮《あざ》やかな空想伝奇趣味の句があって、楽しい。
「御《お》手《て》討《うち》の夫婦《めをと》なりしを更衣《ころもがへ》」とか「易《えき》水にねぶか流るゝ寒さかな」「鳥《と》羽《ば》殿《どの》へ五六騎いそぐ野《の》分《わき》哉」、あるいは「猿どのゝ夜《よ》寒《さむ》訪《とひ》ゆく兎かな」その他、小説的情景あり、中国歴史への取材あり、日本古典趣味あり、あるいは童話的情景あり、蕪村の取材とその処理法は、まさに行くとして可ならざるはなき有様だった。
(『蕪村句集』)
脱《ぬ》ぎすてて角力《すまふ》になりぬ草の上
炭《たん》 太《たい》祇《ぎ》
太祇は江戸中期の俳人。江戸生まれ。『武《む》玉《たま》川《がわ》』の編者として名高い慶《けい》紀《き》逸《いつ》らに俳《はい》諧《かい》を学んだのち、京に上った。交遊のあった蕪《ぶ》村《そん》とともに、中興期俳諧にひときわ華《はな》やかな彩《いろど》りをそえる俳人である。
若者が草原で戯れている。それがいつのまにかめいめい着物をぬぎ捨てて取っ組み合いとなり、草相撲に変わってゆく。句の背後に漂う微笑には、作者自身の青春への郷愁も感じられて、懐かしい風情がある。
太祇は京では大徳寺の真珠庵に入ったりもしたが、まもなく島原遊廓内の不夜庵に住むようになり、手習師匠を兼ねて俳諧の宗匠となった。これには島原の妓楼桔《き》梗《きよう》屋《や》の主人呑《どん》獅《し》の招きがあった。島原遊廓には彼を中心にして俳壇が形づくられていた。太祇の温和で飄《ひよう》逸《いつ》な性格が皆にしたわれたためである。
(『太祇句選後篇』)
十《とお》団《だ》子《ご》も小《こ》粒《つぶ》になりぬ秋の風
森《もり》川《かわ》許《きよ》六《りく》
許六は彦根藩士で芭《ば》蕉《しよう》最晩年の門人。蕉門の論客としても知られる。江戸への途上、駿《する》河《が》の宇《う》津《つ》の山を越えた時の吟。この地の名物十団子は、小さな豆程度の団子を十粒ひもに連ねて売ったものだという。折しも秋風が身にしむ季節、心なしか十団子まで小粒になったようだというのである。表向きは団子を詠《よ》むが、本意は、名物の団子まで痩《や》せてきたという印象を通して、秋風そのものに潜《ひそ》む細みを具象化することにあった。
許六は蕉門の俳文集『本朝文選』を編んだことでとりわけ知られているが、俳諧史論に『歴代滑稽伝』もあり、これも重要な編著である。晩年は長らく病床にあり、性格は狷《けん》介《かい》となって、人々に対しての寛大さを欠くところがあったが、蕉門の傑物であったことは言うまでもない。
(『韻塞』)
病床に駈くる真似して秋の風
石《いし》田《だ》波《は》郷《きよう》
波郷は大正二年(一九一三)松山市生まれ、昭和四十四年(一九六九)没の俳人。中村草《くさ》田《た》男《お》、加藤楸《しゆう》邨《そん》と共に昭和十年代「人間探求派」と呼ばれた新風の代表俳人として活躍した。
戦後は結核で長らく闘病、病中詠に数々の名吟を残す。とくに『雨《あま》覆《おおい》』(昭23)、『惜《しやく》命《みよう》』(昭25)のころの句には多くの名作があり、療養俳句という言葉の代表者として有名になった。「たばしるや鵙《もず》叫《けう》喚《くわん》す胸《きよう》形《ぎやう》変《へん》」(『惜命』)。句集『酒中花以後』は没後編まれた遺著で、最後の二年間の句を収める。病の最も重い時期の作だが、この句には俳《はい》諧《かい》師《し》の命をかけた諧《かい》謔《ぎやく》があるといえよう。だが、表現はなんとさりげなく透明なことか。
(『酒中花以後』)
秋の江に打ち込む杭《くひ》の響《ひびき》かな
夏《なつ》目《め》漱《そう》石《せき》
夏目漱石の生涯にとって大きな意味をもっていたことの一つは、第一高等中学本科(のちの一高)に入った時、同級生に正岡子《し》規《き》があり、親友となったことだった。漱石の俳《はい》諧《かい》趣味はやがて子規の松山時代からの後輩高浜虚《きよ》子《し》とも親交を結ぶようになって一層強まった。虚子が俳誌「ホトトギス」で漱石の『吾輩は猫である』を世に送ったことが、大評判のきっかけとなり、作家漱石が誕生したのだった。
漱石は明治四十三年(一九一〇)八月、胃《い》潰《かい》瘍《よう》のため伊豆の修善寺で吐血し、一時仮死状態となった。死からの蘇生は彼の生涯の大きな転機となった。句はその十日ほど後、ふと病床でできた作。澄《す》み渡る秋空。広い入江。そこに打ちこむ杭の音が遠くから響いてくる。山間地に横たわる病人の幻聴か。とはいえ、そこに漱石の心はたゆたい、澄みきって呼吸していた。
(『漱石全集』)
石越ゆる水のまろみをながめつつ
こころかなしも秋の渓《たに》間《ま》に
若《わか》山《やま》牧《ぼく》水《すい》
「秩《ちち》父《ぶ》の秋」と前書にある歌。牧水の旅の歌や紀行文に流れている澄《ちよう》明《めい》で軽やかな哀愁は得難いもので、この歌などその上乗の風《ふう》趣《しゆ》を感じさせる。流れの石を越える水の、「一つのまろみは一つのまろみを追うてつぎつぎと流れてゆく。そのまろみを帯びたあたり、水はいよいよ清く、いよいよ軟かに、そしていよいよ冷たげに見えてゐた」と自歌自釈にある。自釈も歌のようだ。言葉遣いは実に単純だが、そこに盛られた感情は陰《いん》影《えい》に富んでいる。
若山牧水は旅を愛し、旅行しては歌を作り、紀行文を書いて生活費の一部にあてるという生活をしていた。彼は生来あまり酒が強い方ではなかったと見られるが、学生時代に出会った運命的な恋とその破綻のころから酒にのめりこみ、旅と酒は彼につきものとなった観がある。中年以後は紀行文に独特の味わいが加わって、彼を近代最良の紀行作家の一人にした。
(『渓谷集』)
何処《いづく》にか船《ふな》泊《は》てすらむ安《あ》礼《れ》の崎《さき》
漕《こ》ぎ廻《た》みゆきし棚《たな》無《な》し小《を》舟《ぶね》
高《たけ》市《ちの》連《むらじ》黒《くろ》人《ひと》
『万葉集』巻一雑歌に収める。黒人は柿《かきの》本《もとの》人《ひと》麻《ま》呂《ろ》より少し後の宮廷詩人。『万葉集』に十数首の旅の歌を残すのみだが、そのわずかな歌により「羇《き》旅《りよ》」の歌人としての名声をもつ。
横板もない粗末な小舟が安礼の崎を漕ぎめぐっていったが、今ごろどこで一夜の泊りをしているのかしら。
昼間海上ですれちがったか、あるいは海辺から見かけたのか、その危《あや》うげな小舟と舟人を、ゆくりなく夜の闇《やみ》に思い出している旅人の孤《ひと》り心。
(『万葉集』)
釣の糸にふく夕風のすゑ見えて
入日さびしき秋の川づら
清《し》水《みず》浜《はま》臣《おみ》
文化文政時代、江戸で国学者歌人賀《か》茂《もの》真《ま》淵《ぶち》門流の歌人が活躍した。浜臣もその一人。中には松《まつ》平《だいら》定《さだ》信《のぶ》のような大名もいた。真淵は『万葉集』をはじめ古代研究に没頭し、その門に学んだ人々も彼の強い感化を受けたが、自分たちの和歌については万葉調にはおもむかず、時代の太《たい》平《へい》趣味、また関西の本《もと》居《おり》宣《のり》長《なが》の影響もあって、『新古今集』の歌風になじんでいた。その上で江戸派独特の淡《たん》彩《さい》、のびやか、率直な歌風が一般的だった。
浜臣は医師で上野不忍《しのばずの》池《いけ》畔に住んでいた。この歌、釣糸のかすかな揺れに「夕風のすゑ」を見つめている。釣りをしながら実は心を見ているのである。
(『泊〓舎集』)
山《やま》里《ざと》は松の声のみききなれて
風ふかぬ日は寂《さび》しかりけり
太《おお》田《た》垣《がき》蓮《れん》月《げつ》
蓮月は寛政三年(一七九一)京都に生まれ、明治八年(一八七五)八十五歳で没した歌人。四人の子が皆早世し、夫も蓮月三十歳の時に死んだ。以後は尼《あま》となって、陶器を焼いて生計をたてたが、独習の焼物の雅趣がかえって愛され、また多芸、美《び》貌《ぼう》だったため、大いに名が喧《けん》伝《でん》された。
しかし蓮月は好奇心で近づく俗客の訪問を嫌い、閑《かん》寂《じやく》を求めて京の各地を転々、簡素に暮らした。この歌にも見られるように、虚飾なく詠じた歌の調べは優雅で、しんとした静けさが印象的。山里ではたしかに松《しよう》籟《らい》の音《ね》を聴くばかりなので、風の吹かない日はかえって物足りなく、寂しい思いがするのである。
(『海人の刈藻』)
白き霧ながるる夜の草の園に
自転車はほそきつばさ濡《ぬ》れたり
高《たか》野《の》公《きみ》彦《ひこ》
昭和十六年(一九四一)生まれの新鋭歌人。小説界で内向の世代という呼び名がはやったことがあるが、この作者の歌は短歌形式の中で堅固な内向性の世界をつくっている。そのような内向性の歌を作らせては、この作者ほど精緻で陰影のゆたかな歌を作る人も少ないと言っていいだろう。心理や意識の暗がりの領域、それを一種内臓感覚的な手ざわりの表現方法でとらえることに秀でる。
夜霧に濡《ぬ》れる自転車は、「ほそきつばさ」を得て、昼とは別の、「夜の」自転車に変容する。ひっそり濡れて「心の」自転車になる。
(『汽水の光』)
処女《をとめ》にて身に深く持つ浄《きよ》き卵《らん》
秋の日吾《われ》の心《こころ》熱《あつ》くす
富《とみの》小《こう》路《じ》禎《よし》子《こ》
作者は大正十五年(一九二六)、東京生まれの現代歌人。窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》の高弟だった歌人植松寿《ひさ》樹《き》に昭和二十年(一九四五)から師事し、昭和二十一年の『沃野』創刊に参加、寿樹門の重要な歌人となった。
旧華族の家に生まれ、独身の上家族にも先立たれたためか、歌には時にとぎ澄《す》まされたある種の滅亡感が息づく。この歌の背景も決して単純な若さの讃《さん》美《び》ではあるまい。「身に深く持つ浄き卵」は鮮烈な印象を与えるが、その「浄き卵」は深くわが身にとざされたままなのである。それを思う時ふと熱くなる心は、複雑な思いを秘めて孤独である。
(『未明のしらべ』)
君が愛せし綾《あや》藺《ゐ》笠《がさ》 落ちにけり落ちにけり 賀《か》茂《も》河《がは》に 河《かは》中《なか》に それを求むと尋《たづ》ぬとせしほどに 明けにけり明けにけり さらさら清《さや》けの秋の夜は
梁《りよう》塵《じん》秘《ひ》抄《しよう》
「綾藺笠」とは、流鏑馬《やぶさめ》の騎乗者がかぶっている笠のこと。綾藺笠の男が、どうしたことか賀茂川に笠を落としてしまった。一所懸命川のあちこち探しまわっているうちに、おやもう、明けそめてきたよ、秋のさやかな夜は。以上のような解釈のほかに、もう一つの読み方もありうる。つまり、来ると約束していてすっぽかした男のへたな言いわけを、女(遊《ゆう》君《くん》であろう)がわざとおうむ返しにくりかえしてみせた粋《いき》な歌ではないかというわけである。当時の流行歌の作者は多く遊君だったことを思い合わせると、この解もまた捨てがたい。
この明るさのなかへ
ひとつの素《そ》朴《ぼく》な琴《こと》をおけば
秋の美くしさに耐へかね
琴はしづかに鳴りいだすだらう
八《や》木《ぎ》重《じゆう》吉《きち》
八木重吉の詩は短詩が多い。単刀直入に真実をいうために、彼は詩句を削《けず》りに削った。詩の原質である心の燃焼だけで成りたっている詩をめざして、命をも削ったように思われる。英語教師で熱烈な無教会主義のキリスト者でもあった彼は、結核のため、昭和二年(一九二七)、二十九歳の若さで没した。生前には詩集『秋の瞳《ひとみ》』一冊を出しただけだが、とみ子夫人と後年結婚した歌人吉《よし》野《の》秀《ひで》雄《お》らの尽力で、次々に遺稿がまとめられ、今では多くの愛読者をもっている。
(『貧しき信徒』)
鳥《と》羽《ば》殿《どの》へ五六騎いそぐ野《の》分《わき》哉《かな》
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
「鳥羽殿」は白河院造営になる離宮で、山《やま》城《しろ》国紀《き》伊《い》郡鳥羽(今の京都伏見)にあった。蕪村は『保元物語』などの兵馬の乱から句の着想を得ただろうと推測されるが、彼はこの種の「歴史もの」の句では右に出る人のない名手だった。
元来これは「野《の》分《わき》」の題による題《だい》詠《えい》。吹き荒れる野分の風から往時の合戦絵巻風な情景を連想したところには、近代以後忘れられてきた連句の趣向も濃厚にある。連句にこの種の句が入ると一気に面白味が増す。
(『蕪村句集』)
静かなり耳《じ》底《てい》に霧の音澄むは
富《とみ》安《やす》風《ふう》生《せい》
風生は明治十八年(一八八五)愛知県生まれ、昭和五十四年(一九七九)没の俳人。戦前逓《てい》信《しん》次官、戦後電波監理委員長など歴任。高浜虚《きよ》子《し》に師事し、みずからは「若葉」を創刊主宰した。第一句集『草の花』の「よろこべばしきりに落つる木の実かな」「みちのくの伊達の郡《こほり》の春田かな」などは有名。その『草の花』の序で、師の虚子は「静かに歩を中道にとどめ」と評したが、「中道」は生涯を通じての作風でもあった。
この句は「岳麓避暑」と題する。山地の霧にしんしんと包まれている感懐。澄んでいるのは霧の音か、いや自らの命だろう。老齢に達してから、作者はしばしば「わが齢」に思いをこらしたが、この句の背景にもそれがあろう。
(『傘寿以後』)
有《あり》明《あけ》や浅《あさ》間《ま》の霧が膳《ぜん》をはふ
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
「有明」は有明月で、夜明けにまだ空に残っている月。昔の旅人は早暁に宿を出て有明月を振り仰ぎつつ、次の土地へ急いだ。
この句は、文化九年(一八一二)遺産問題の話し合いのため江戸と故郷柏《かしわ》原《ばら》 の間を往復した時の中仙道の旅行吟。一茶は浅間山《さん》麓《ろく》軽井沢で一泊したのである。
早立ちの旅人のための膳にまで高原の霧がはい寄る。この光景は爽《そう》快《かい》だが、霧はまた心の中の晴れやらぬ思いのようでもある。
(『七番日記』)
つぶらなる汝《な》が眼吻《す》はなん露の秋
飯《いい》田《だ》蛇《だ》笏《こつ》
大正三年(一九一四)、二十九歳の作。当時蛇笏には芥川龍之介を感嘆させた「死病えて爪《つめ》うつくしき火《ひ》桶《をけ》かな」の繊《せん》美《び》な句があったが、右のような純情可《か》憐《れん》な句もあった。
「吻」の字は口さき、唇の意で吸う意はない。「吻はなん」も本来は「吻ひなん」で、共に厳密には誤用だろう。しかし「汝が眼吸ひなん」では、言葉の微妙な音調の上で句がぶちこわしになるように感じられるのが、詩というものの不思議。接吻を連想させつつ「眼」のことしか言わないところ、純情句だが手腕はしたたか。
(『山廬集』)
秋《しう》灯《とう》や夫婦互《たがひ》に無き如《ごと》く
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
虚子は昭和十九年(一九四四)秋、戦火を避けて浅《あさ》間《ま》山《さん》麓《ろく》の小《こ》諸《もろ》町に疎開した。二間きりの家にこもって、こたつに入っている時など、かんしゃくを起こしたように時々煙を吐く浅間山を親しく感じたと書いている。
この句はその小諸での昭和二十一年秋の作。虚子は数え年七十三歳。
つつましい秋灯のもと、互いに相手を忘れ去っているかのような夫婦の暮らし。互いに干渉などまるでしないが、さりとて互いがそこにいないというようなことは片時も思わない。それほどに、互いに一体となっているのである。
(『六百五十句』)
たちまちに君の姿《すがた》を霧《きり》とざし
或《あ》る楽章をわれは思ひき
近《こん》藤《どう》芳《よし》美《み》
作者は大正二年(一九一三)、朝鮮で生まれた現代歌人。東京工大建築科を卒業し、清水建設に停年まで在職した。以後は神奈川大学教授など教職を経験した。土屋文明に師事し、やがて若い歌人たちと「未来」を創刊した。郷里は広島。
この歌が収められた『早春歌』は昭和十一年(一九三六)から二十年までの戦中作を収めた第一歌集。作者は戦後派歌人の代表的存在だが、青春のみずみずしい恋歌にその本領はすでに存分に現れていた。戦時下の若い男女の恋愛は、いつ破壊されるか知れない危うさの上にゆれていた。それゆえの切なさと甘美さが、この歌の霧と少女と音楽の中にある。「君」はやがて作者の夫人となった。
(『早春歌』)
秋の淡海《あふみ》かすみ誰《たれ》にもたよりせず
森《もり》 澄《すみ》雄《お》
大正八年(一九一九)兵庫県生まれの、現代の代表的俳人。
「淡海」は淡水湖で琵《び》琶《わ》湖《こ》のこと。「近江《おうみ》」に同じ。『万葉集』のむかしから深い歴史の痕《こん》跡《せき》を残してきた近江という土地に、旅の身を深々と沈《しず》めて、心も身体も旅の気《け》配《はい》そのものになって充足している感じである。芭《ば》蕉《しよう》の惜《せき》春《しゆん》の句「行《ゆく》春《はる》を近江の人とをしみける」に対するに、秋の句をもって唱和しようという思いも作者にはあったかと思われる。
(『浮鴎』)
月《つき》
夜空をうたった詩《しい》歌《か》作品は古代以来いつの世にも数えきれないほどある。これは日本の場合だけでなく、どの民族にあっても多かれ少なかれ同じことだろう。しかし、日本の詩歌で興味ぶかいのは、星をうたった作品が、「七《たな》夕《ばた》」を主題にした歌や句を除くと意外なほど少なく、大半は月をうたった詩歌で占められるということである。とりわけ秋の空は気象条件が上空を澄《す》ませて月のさやけさを最高に演出する。したがって俳句の季語で単に「月」といった場合には、秋の月をさす。他の季節の月をいうときには、「春の月」とか「夏の月」とかのことわりが必要である。
月は地球のたった一つの衛星で、自転しながら地球を約一か月でまわっている。しかし月を従えた地球の公転にともない、太陽との位置が周期的に変化するため、月も新月、上《じよう》弦《げん》、満月、下弦と、変化してゆく。
「夕《ゆう》月《づく》夜《よ》」は新月から弦《げん》月《げつ》(五日月)ころまでの、宵《よい》の間だけ月のある夜のことで、「夕月」ともいう。「月《つき》白《しろ》」は、月が出ようとして空がほのじらんで見えること。俳句歳時記の秋の部には、このような月の諸相をめぐる季語のかずかずが列挙されている。それらは一日ごとに変化する月の景観の描写を通じて、月と人間生活とのふかい関わりをもおのずとえがき出している。以下にその主だったものをあげてみよう。
待《まつ》宵《よい》。旧暦八月十四日の夜、明日に十五夜を控えた宵のこと、小《こ》望《もち》月《づき》ともいう。
名月。旧暦八月十五日、仲秋の月をさす。この夜、薄《すすき》をさし、新芋《いも》や枝豆などの、その年の初ものや団《だん》子《ご》を月に供える風習は、農耕民族の収穫への祈りの名《な》残《ご》りといえよう。明《めい》月《げつ》、望《もち》月《づき》、満月、今日の月、月今《こ》宵《よい》、十五夜、芋名月などともいう。
十六夜《 い ざ よ い》。名月の次の夜の月。月の出が満月より少し遅れるので、ためらい、いざよう意味でこのように呼ばれるもので、いさよふ月ともいう。
立《たち》待《まち》月《づき》。十七夜、旧暦八月十七日の夜の月。月の出は満月が過ぎると徐々に遅くなるが、十七夜あたりはまだ立って待っている間にすぐに出るという意味である。
居待月。立待月より出がさらに遅れるので、座って待つという意味で、旧暦八月十八日の月。
寝待月。月の出は大分遅い。寝ながら月を待つ。旧暦八月十九日の夜の月をさしていう。また臥《ふし》待月ともいう。寝待月より更《さら》におそくのぼる八月二十日の月は更《ふけ》待《まち》月《づき》、月の形ももうなかばかけて光は淋《さび》しげである。二十日を過ぎると、十時を過ぎなくては月も姿を現さなくなる。それまでの間の闇夜を宵《よい》闇《やみ》というが、その暗さをうたう詩人の心の中には、たとえばかつて賞《め》でた名月や、さまざまな思いで仰《あお》ぎ眺《なが》めた月への揺《ゆ》らぐ感情もこめられているかもしれない。
連《れん》歌《が》、俳《はい》諧《かい》(連句)では花と並んで月の定《じよう》座《ざ》(月・花の出るべき句の位置)が設けられている。雪《せつ》月《げつ》花《か》という三文字で美しい自然界そのものを表現することもまた、もともとは中国伝来の思想だが、日本では古くから慣れ親しまれた習慣になっている。人々は、いうまでもなく、花や月を、単にそれそのものの美しさによってだけ愛したわけではない。日本の詩人たちは時々刻々変化する四季のうちに天地自然の理法を見ようとしてきた。彼らはとりわけ、四季の景物の代表ともいうべき「花」と「月」の変化の諸相に、生きとし生けるものの命の移ろう姿を見たのである。
『古《こ》今《きん》集《しゆう》』巻四の大《おお》江《えの》千《ち》里《さと》の有名な歌をひいてみよう。
是《これ》貞《さだ》のみこの家の歌《うた》合《あはせ》によめる
月見ればちぢに物こそかなしけれ
わが身ひとつの秋にはあらねど
これは『百《ひやく》人《にん》一《いつ》首《しゆ》』にもとられている歌で、日本人が秋の季節に空を見あげたとき抱《いだ》くある種の情感を代表しているような歌である。
「秋は自分一人にだけ来るわけではない。だれにでも来るのだ。それなのに、月を見あげていると心が千々に思い乱れて物悲しい」。歌の内容は憂《ゆう》愁《しゆう》だが、いかにも愛誦歌らしい調《しら》べの魅力を感じさせる。
この歌はもともとは中国の詩人白《はく》楽《らく》天《てん》(白《はく》居《きよ》易《い》)の詩句を踏《ふ》まえて作られているが、そのような由《ゆ》来《らい》の有《う》無《む》に関わりなく、多くの人が秋の月を見あげて感じるそこはかとない憂愁の気分をたくみに表現した歌として愛《あい》誦《しよう》されてきた。
『古今集』はまた「よみ人《びと》しらず」の歌の中に秀歌の多いことも特徴の一つである。
木《こ》のまよりもりくる月の影《かげ》見れば
心づくしの秋は来にけり
木の間から月の光がもれてくる。その影を見るにつけても、ああ、心づくしの秋が来たなあ、ということで、ここでいう「心づくし」とはひどく気をもませる、という意味である。秋になると、あちらこちらで木や草が美しく色づき、紅葉が山野を彩《いろど》る。人々はこの秋の豪《ごう》華《か》な、けれども短い自然の饗《きよう》宴《えん》の終わらないうちに、そのすべての美しいものを享《きよう》受《じゆ》しようとして気をもみ、心せわしく過ごす。つまり、「心づくしの秋は来にけり」とは、またあのひどく気をもませる美しい秋がやって来た、ということである。
「心づくしの秋」という言葉は、魅力のある表現で、たとえばのちの『源《げん》氏《じ》物《もの》語《がたり》』などでも大切に使われるようになっていった。『古今集』を愛読していた紫《むらさき》式《しき》部《ぶ》などの好《この》みを通して、「心づくしの秋」という、時の移ろいを十分に意識した言葉が、詩歌の情感豊かな語《ご》彙《い》の一つとして人々の愛するところとなっていったことも、日本人の「時間観」の自然なありようを示すものといっていいだろう。
月はこのようにして時代時代における日本人の美意識のありようを映し出す鏡のようなものとなってきた。しかも、月はいつでも夜空にばかりかかるものとはいえなかった。たとえば西《さい》行《ぎよう》の場合などはどうだっただろうか。西行の「月」はとりわけ心の中に冴《さ》えざえと住むもののようである。
月はいわばそのまま心象となり、人間の哀《あい》歓《かん》を写すものとなっているのである。
面《おも》影《かげ》の忘らるまじき別れかな
名残《なごり》を人の月にとどめて
西行法師
浪の秀《ほ》に裾《すそ》洗はせて大き月
ゆらりゆらりと遊ぶがごとし
大《おお》岡《おか》 博《ひろし》
明治四十年(一九〇七)静岡市生まれ。少年期から同県三島に定住した。「菩提樹」を創刊主宰し、昭和五十六年(一九八一)七十四歳で死去した。本書筆者の父。
「秀《ほ》」は「穂」と同じで、ものの先端。麦の穂も波の秀もその点では等しいわけである。まさに波を離れて空に昇ろうとする月の異様な大きさに魅せられた作者の心が、ゆらりゆらりとさまよい出て月とともに遊ぶ趣《おもむき》があり、遊《ゆう》魂《こん》という言葉を連想させられる。病《やまい》のため伊《い》豆《ず》の海を見おろす病院に入院した時の作。
(『春の鷺』)
空きよく月さしのぼる山の端《は》に
とまりて消ゆる雲のひとむら
永《えい》福《ふく》門《もん》院《いん》
作者は鎌倉末期の革新的歌風の指導者だった京《きよう》極《ごく》為《ため》兼《かね》に歌を学び、夫の伏《ふし》見《み》天皇とともに『玉《ぎよく》葉《よう》集《しゆう》』『風《ふう》雅《が》集《しゆう》』に秀歌を多く遺《のこ》した当時一流の女流歌人である。写実的な自然描写の清新さに抜群のものがあった。
この歌も、何の奇もない月の出の景だが、よむ者の視覚はいつしか「山の端にとまりて」消えてゆく雲と一緒になる。観察の細《こま》やかさがさりげない表現を得て、豊かな陰《いん》影《えい》を心に落としてくるからだろう。
(『玉葉集』)
くらきよりくらき道にぞ入《いり》ぬべき
はるかにてらせ山の端《は》の月
和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》
『拾遺和歌集』哀傷の部に、「性《しよう》空《くう》上人のもとによみて遣はしける」という詞《ことば》書《がき》つきで採られている有名な作。
若い日の和泉式部が、深く尊崇していた播《はり》磨《ま》の書写山円教寺の性空上人に贈った歌。上三句は法《ほ》華《け》経《きよう》の一句「冥《くら》きより冥きに入る」を踏む。「山の端の月」は仏教の真理の光、またその体現者たる上人を意味するが、歌そのものはもっとなまな感銘を伝えてくる。心の闇《やみ》から闇へ迷いを重ねてゆきそうなおのれ自身への不安。遥《はる》かな月光への思いはかりそめではない。しかし歌の調べはあくまで流麗で、代表作の一つとされる。
(『和泉式部集』)
花《はな》籠《かご》に月を入れて 漏《も》らさじこれを 曇らさじと 持つが大事な
閑《かん》吟《ぎん》集《しゆう》
室町歌謡。女の立場からうたわれた歌だろう。花籠に月(ほどにも輝く大切な男)を入れて、その光を外には洩《も》らすまい、曇らすこともすまいと、しっかり抱きしめていくのが大切なのよ、と。「漏らさじ」は秘めて他には洩らすまいという心。モラサジ、クモラサジと音が重なるよう工夫している。
花と月は古来日本の詩歌で最も大切に扱われてきた題材だが、それを用いて女ごころを歌った。もっともこれをもっと即物的に肉体的な男女間の愛の表現と読むこともできる。
今はたゞしひてわするゝいにしへを
思ひいでよとすめる月かげ
建《けん》礼《れい》門《もん》院《いん》右《う》京《きようの》大《だい》夫《ぶ》
昔から月の光に物思う歌は多いが、これは中でも思いの深い一首だろう。今はひたすら忘れようと思う昔の日々を、さあ、あれもこれも思い出しなさいと澄《す》みわたっている月よ、という心である。
高倉天皇中宮徳子(後の建礼門院)に仕え、平資《すけ》盛《もり》と恋をした作者は、平家滅亡後再び悲しみを胸に秘めて後《ご》鳥《と》羽《ば》天皇の宮廷に出仕することになった。これはその時の孤独な感慨の歌。彼女の心は死者への思い出で占められているのだ。
(『建礼門院右京大夫集』)
ぽつかりと月のぼる時《とき》森の家の
寂《さび》しき顔は戸を閉《と》ざしける
佐《さ》佐《さ》木《き》信《のぶ》綱《つな》
佐佐木信綱は明治・大正・昭和の三代、歌学者、歌人として他の追《つい》随《ずい》を許さぬ大きな業績をあげた。私たちが今日『万葉集』はじめ多くの古典詩《しい》歌《か》を簡単に手に取ってよめるのは、この人の恩恵によるところ多大である。
だが大学者は一面、童心といってもいい若々しくはずむ心を持っていたようである。この歌も、童話の世界のような、あるいは現代絵画のシュールレアリストたちが描き出した風景のような、懐《なつ》かしさと、そしてちょっぴり恐《こわ》さもまじる子供の領分のみずみずしさを描きだしている。
(『新月』)
月見ればちぢに物こそかなしけれ
わが身ひとつの秋にはあらねど
大《おお》江《えの》千《ち》里《さと》
大江千里は漢詩人として著名だった。生没年は不詳だが、およそ平安朝の最盛時のひとつ宇多天皇のころの人である。儒者として重きをなした。この歌も漢学に秀でた作者らしく、白《はく》楽《らく》天《てん》の「燕《えん》子《し》楼《ろう》」という詩の一部分、「燕《えん》 子《し》 楼《ろうの》 中《うちの》 霜《さう》月《げつの》夜《よ》 秋《あき》 来《きたつて》 只 為 一 人《ただいちじんのために》 長《ながし》」をとって和歌に直したものとされている。日本の風土と日本人の感受性をよく代表しているとされてきた歌のひとつである。
ただし、この歌は、実感を即座にうたったものではなく、「是《これ》貞《さだ》のみこ(光《こう》孝《こう》天皇皇子)の家の歌《うた》合《あはせ》によめる」と詞《ことば》書《がき》にもあるように、題《だい》詠《えい》によるものである。
(『古今集』)
かすがの に おしてる つき の ほがらか に あき の ゆふべ と なり に ける かも
会《あい》津《づ》八《や》一《いち》
明治十四年(一八八一)、新潟県に生まれた作者は、歌人としてのみならず、書家として一世に名高かった。没後その名声はますます高い。号秋《しゆう》艸《そう》道《どう》人《じん》。
元来は英文学者だが、東洋美術への関心が強く、とりわけ奈良美術史研究は名高かった。
右の歌、初出の第一歌集『南《なん》京《きやう》新唱』(大正十三年〈一九二四〉刊)では漢字になっている部分も、歌の声調を重んじる立場から後年かな分かち書きに変えた。奈良春《かす》日《が》野《の》一帯に照り輝く初秋の月。「ほがらかに」の働きひとつで景色は一挙に大きくふくらんだ。
(『鹿鳴集』)
秋風にたなびく雲のたえまより
もれ出《い》づる月の影《かげ》のさやけさ
左《さ》京《きようの》大《だい》夫《ぶ》顕《あき》輔《すけ》
『百人一首』にも採《と》られた顕輔の代表歌である。一見古風な平《へい》明《めい》さ、澄《ちよう》明《めい》さを重んじた写実的な詠《よ》みぶりの歌で、当時の流行であった技巧的な歌に対立する六条家の祖としての顕輔の考え方がうかがわれるようである。
作者の実感を他に伝えようとする場合、平明さがむしろ効果的である場合を、この歌に見ることができよう。「さやけさ」で止めたリズムの軽快さと視像の明確さが、この歌の好《この》ましい印象を生んでいる。
(『新古今集』)
闇《やみ》晴れてこころのそらにすむ月は
西の山《やま》辺《べ》や近くなるらむ
西《さい》行《ぎよう》法《ほう》師《し》
『新古今集』巻末歌。「すむ月」には「住」と「澄」が懸《か》け合わされている。心の空の闇《やみ》が晴れて、そこに住んでさえざえと澄《す》みわたっている月は、もう西の山辺に近くなっているのだろう。西の山辺とは言うまでもなく西《さい》方《ほう》浄《じよう》土《ど》である。
この、西行の歌が巻末歌とされているということは、編者たちがこの歌の中に『新古今集』の思想全体のしめくくりを見ていることを意味すると言ってもいいかもしれない。花や月という日本の美の思想を要約して示す語も、『新古今集』に至ると、精神の世界により多くかかわってくるのである。
(『新古今集』)
をり知れる秋の野原の花はみな
月の光の匂《にほ》ひなりけり
慈《じ》円《えん》
作者は『新古今集』の代表歌人。関白藤《ふじ》原《わらの》忠《ただ》通《みち》の子で、高貴の家柄の出身であったことから、四度にわたって天《てん》台《だい》座《ざ》主《す》となった。有名な史論『愚《ぐ》管《かん》抄《しよう》』の著者とされている。
「をり(折)知れる」は、咲くべき正しい時節を知っている。野の花は季節がめぐればおのずと花開く。天然の理法にかなった折を知って咲くそれらの花、これこそ月光のにおいともいうべきたたずまい。花と月光が「匂ひ」の一語に融《と》けて秋の気《け》配《はい》そのものとなる。
(『拾玉集』)
しほがまの浦ふく風に霧はれて
八《や》十《そ》島《しま》かけてすめる月かげ
藤《ふじ》原《わらの》清《きよ》輔《すけ》
「塩《しほ》釜《がま》の浦」は奥《おう》州《しゆう》松島湾の南西端に臨む浦である。古来有名な景勝の地で、歌枕。この歌は松島のあまたの島々(八十島)に、霧はれてのち、明月が澄《す》んだ光を落としている光景を詠《よ》んだもの。
「島々の数を尽くして、そばだつものは天を指し、伏すものは波に匍匐《はらば》ふ」と後年芭《ば》蕉《しよう》が『おくのほそ道』で描写した絶景である。この歌は空想の作だろうが、調べはさすがにさわやか。
清輔は平安末期の歌人で、父も有名な歌人藤原顕《あき》輔《すけ》。歌学者としても一流の人だった。歌人としては御《み》子《こ》左《ひだり》家《け》の藤原俊成と対立した。著名な『袋草紙』の著者。
(『千載集』)
三《さん》五《ご》夜《や》中《ちう》の新月の色
二《じ》千《せん》里《り》の外《ほか》の故《こ》人《じん》の心
白《はく》居《きよ》易《い》
『和漢朗詠集』巻上「十五夜」。白《はく》楽《らく》天《てん》が長安の都で宮中宿直の折、詩友元《げん》〓《じん》を思って作った詩の一節。
「三五夜」は十五夜。「新月」は地平に昇る月。「故人」は旧友。元〓は当時二千里のかなたの江《こう》陵《りよう》という所にいた。仲秋の名月を共にめでるべき友のいないさびしさを嘆いた詩句だが、平易な詩句が伝えてくる心は深い。
『源氏物語』で須《す》磨《ま》のわび住《ずま》居《い》の光源氏が都恋しく口ずさむのも、この朗詠集の句。
(『和漢朗詠集』)
やはらかき身を月光の中に容《い》れ
桂《かつら》 信《のぶ》子《こ》
桂信子は大正三年(一九一四)、大阪市生まれの俳人。結婚二年にして夫と死別。女盛りの肉体のいとおしさとわりなさが「やはらかき身」の一語にこもっているようだ。
澄《す》んだ光をまるで大きな器《うつわ》のように溢《あふ》れさせている秋の月。その中に歩み入る成熟したひとりの女性。孤独感を根にして、みずみずしい心と体の揺《ゆ》らぐ思いを詠《よ》みすえている。
作者には「窓の雪女体にて湯をあふれしむ」の句もある。女盛りの情感を詠ませたら、この作者の右に出る俳人を探すのは難しいようだ。
(『月光抄』)
人それ〓〓ぞれ書を読んでゐる良夜かな
山《やま》口《ぐち》青《せい》邨《そん》
山口青邨は採鉱学を専攻、東大工学部教授にもなった科学者俳人。大正十年(一九二一)東大工学部助教授となったが、翌十一年、高浜虚《きよ》子《し》に教えを乞《こ》い、秋《しゆう》桜《おう》子《し》、風《ふう》生《せい》、誓《せい》子《し》らと「東大俳句会」を興《おこ》した。以後「ホトトギス」において俳句と写生文で活躍、昭和初期以来俳人としてぐんぐん頭角を現した。
「良夜」は秋の季語で、月の明るい夜のこと。特に十五夜、十三夜をいうことが多い。「読書の秋」という言葉は月並みになってしまったが、その心を詠《よ》んだこの句の鮮度は、今も失《う》せない。
(『雑草園』)
空をあゆむ朗朗と月ひとり
荻《おぎ》原《わら》井《せい》泉《せん》水《すい》
井泉水は昭和五十一年(一九七六)九十一歳で没した東京生まれの俳人。一高在学中に一高俳句会を興し、子規門の「日本派」に傾倒したが、やがて明治四十四年(一九一一)、師の河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》とともに新傾向の俳句誌「層《そう》雲《うん》」を創刊、約束としての季題尊重を排して、季題無用論をとなえた。碧梧桐とも相容れなくなり、自由律俳句の主張のもと、尾崎放《ほう》哉《さい》、種《たね》田《だ》山《さん》頭《とう》火《か》ら自由律の俊才を育てた。句集、評論集など四百冊はあろうという多産の人である。
この句は大正九年(一九二〇)の作。月もひとりなら私もひとり、ひとりなるがゆえに朗々と自由に歩む仲間、という気分だろう。「朗朗と」に作者の大切な気持ちがある。
(『原泉』)
月《つき》天《てん》心《しん》貧しき町を通りけり
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
蕪村の句は、たとえば彼より以前の芭蕉の句にくらべると、印象鮮明な作が多く、その意味では理解しやすいものになっている。しかし俳句には表現上の約束事もいろいろあるから、それに気がつかないと案外わからないこともある。
昔、中学校の教科書でこの句を教わった。よく分からなかった。「天心」が天の真中の意であることを知る前に岡倉天心の名を聞きかじっていたため、脳裏に混同が生じたらしい。
その上、貧しき町を通ってゆくのは月そのものだと思ってしまった。ほんとは、澄《す》んだ秋月が中天に懸《かか》っている下を、作句者自身が通ってゆくのである、貧しい町を抜けて。
俳句における切れ(この場合なら「月天心」でいったん切れる)の重要性を教えてくれた句だった。
(『蕪村句集』)
満月やたたかふ猫はのびあがり
加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》
楸邨は明治三十八年(一九〇五)東京に生まれ、平成五年(一九九三)没した。現代俳句に最も重要な位置を占めていた俳人と言っていい人で、楸邨以後彼のいた位置につき得ている俳人はまだいない。
楸邨俳句の特徴の一つは動物の句が多く、また優れている点にあろう。「かなしめば鵙《もず》金色の日を負ひ来」「雉《き》子《じ》の眸《め》のかうかうとして売られけり」「鮟《あん》鱇《かう》の骨まで凍《い》ててぶちきらる」など前期の代表作を始め、『まぼろしの鹿』『吹《ふつ》越《こし》』などの集には、右のような俳句鳥《ちよう》獣《じゆう》戯《ぎ》画《が》ともいうべき秀吟が連なる。「唖《おし》蝉《ぜみ》も鳴きをはりたるさまをせり」「死にきれぬ捨《すて》蚕《ご》の口の食ひにけり」など。
(『吹越』)
船の名の月に読まるゝ港かな
日《ひ》野《の》草《そう》城《じよう》
「月に読まるゝ」は、月明のおかげで船の名まで読めるということ。秋の良夜の港の光景である。日野草城は中学時代に俳句を始め、三高俳句会を創立、二十歳そこそこで「ホトトギス」雑詠欄の花形となった。『花氷』は第一句集で二十六歳当時の刊行、二千句の多きを収める。多作が少しも障りにならない時期に、彼は思うさま多作して、勢いのある青春期独特の印象鮮《あざ》やかな句を生んだ。のち、関西における新興俳句運動の中心的存在となり、「ホトトギス」同人を除籍された。これは大きな傷手となったように思われる。空襲により家を焼かれ、戦後まもないころから病身となり、昭和三十一年(一九五六)逝去した。
(『花氷』)
鴈《かり》がねもしづかに聞《きけ》ばからびずや
越《えつ》人《じん》
酒しゐならふこの比《ごろ》の月
芭《ば》蕉《しよう》
『芭蕉七部集』中『曠《あら》野《の》』の「かりがねの巻」の発《ほつ》句《く》と脇《わき》句《く》。名古屋の人越人が、師の芭蕉を深川の芭蕉庵《あん》に訪れたとき巻いた歌《か》仙《せん》である。
まず客の越人が発句を示し、師の草庵の閑《かん》寂《じやく》さをたたえる。カリカリと空を鳴いて渡る雁《かり》の声も、この草庵で心静かに聞けば、まことに枯《か》らびて(物さびて)身にしみますねと。脇を付けてこれに応じる芭蕉は、深まる秋の月を共に愛《め》でようと訪れる客に酒を強《し》いる(すすめる)のも、このごろはなれて上《じよう》手《ず》になったよ、という。遠来の人に一《いつ》献《こん》をすすめる心深いあいさつである。
(『曠野』)
わが心澄《す》めるばかりに更《ふ》けはてて
月を忘れて向《むか》ふ夜《よ》の月
花《はな》園《ぞの》院《いん》
十四世紀半ばの南北朝争乱期、わずかな平《へい》穏《おん》の時を利して勅《ちよく》撰《せん》の『風《ふう》雅《が》集《しゆう》』が編まれた。花園院はその中心的推進者だったが、歌人としても伏《ふし》見《み》院《いん》や永《えい》福《ふく》門《もん》院《いん》と並ぶ当時の代表的な皇室歌人だった。
心も、夜も、すみずみまで澄みわたってしんしんと更けつくし、ふと気づけば、自分は月を見ていることさえ忘れて月に向かっていた。ある種の宗教性さえ感じさせるような、無我の世界。
(『風雅集』)
ゆく水の末はさやかにあらはれて
川上くらき月のかげかな
香《か》川《がわ》景《かげ》樹《き》
「月照流水(月は流水を照らす)」と題する。流れてゆく水の下流は、今のぼってきた月の光(「かげ」はここでは光のこと)に照らされてさやかに浮かびあがる。しかし上流一帯は暗い。
平明そのものの詠風である。香川景樹は『古今集』の優美な調べを重んじたため、正岡子《し》規《き》の古今集攻撃の巻きぞえを食った。しかし実作はこの歌のように視覚的印象の鮮明さに富み、江戸後期だがさすがにもう近代の感触がある。
(『桂園一枝』)
木《こ》の間よりほのめくとみし月影を
やがてよせくる秋の川水
加《か》藤《とう》千《ち》蔭《かげ》
加藤千蔭は賀《か》茂《もの》真《ま》淵《ぶち》門の有力歌人だった加藤枝《え》直《なお》の子で、父を継いで町奉行与力となったが、十代から真淵に入門して詠歌に専念、いわゆる江戸派歌人の中心的存在となった。
後期江戸文化の体現者だけに、歌にも江戸情趣が漂う。これは今の台《たい》東《とう》区橋場の石浜で初秋の月を愛《め》でた時の歌。月光が樹間にほのめくと見るまもなく、隅《すみ》田《だ》川《がわ》の水はたちまち豊かな光をのせて打ち寄せてくるのだ。今の隅田川を念頭に置いて読むのでは、この歌の情趣はちょっとわかりにくいかもしれないが。
(『うけらが花』)
荒《あら》磯《いそ》の岩に砕《くだ》けて散る月を
一つになして帰る浪かな
徳《とく》川《がわ》光《みつ》圀《くに》
光圀は家康の孫。黄《こう》門《もん》(中《ちゆう》納《な》言《ごん》の唐名)の名で有名な水《み》戸《と》藩主。学問を敬い、江戸邸内の彰考館で学者たちに『大日本史』を編ませた。また契《けい》沖《ちゆう》の偉大な万葉研究を推進させるため援助を惜しまなかった。
もっとも、家集『常山詠草』に見る彼自身の歌は、当時の多くの歌人の場合同様、優美な王朝和歌の流れをくむ。晩年は隠居して悠々自適した。
岩に砕《くだ》けては千《ち》々《ぢ》に散る月影。それをまた一つの月影に戻して引いてゆく大いなる波。この波は、単なる波以上のものを感じさせる。
(『常山詠草』)
一《ひとつ》家《や》に遊女もねたり萩《はぎ》と月
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
『おくのほそ道』でも異色の物語的場面として有名である。
芭蕉は越《えち》後《ご》の港町市《いち》振《ぶり》の宿で、たまたま伊《い》勢《せ》参りの二人の遊女と同宿する。壁をへだてて聞こえてくる見送りの男と遊女の会話はことに哀れ深い。翌朝、彼女らから道中心細いので道連れにしてほしいと涙ながらに頼まれるが、心を鬼にして断って去る、という一節である。
しかし今では、この短章は芭蕉の創作だろうとするのが定説。古典作品の成立事情は意外なほど興趣に富んでいる。
(『おくのほそ道』)
抱《だき》下ろす君が軽みや月《つき》見《み》船《ぶね》
三《み》宅《やけ》嘯《しよう》山《ざん》
三宅嘯山は江戸中期、与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》らと同世代で親交もあった京都の俳人。職業は質屋だが、儒学者で漢詩もよくした。俳人としては、別号葎《りつ》亭《てい》も多く用いている。「月見船」は名月を水上で愛《め》でるために出す船で、秋の季題。
女性の軽やかさがその美の一条件とされるようになったのは、洋の東西を問わず、主に近世以降のことではないかと思われる。これなどもその一例と言っていい句で、一種の浪漫調。いかにも蕪村の同時代人の句だなと思わせる。
(『近世俳句俳文集』)
名月や畳《たたみ》の上に松の影
榎《えの》本《もと》其《き》角《かく》
榎本(のち宝井)其角は芭《ば》蕉《しよう》の高弟だが、作風は豪放華《か》麗《れい》、故事をふまえ中国趣味を誇るきらびやかな句を得意とした。しかしこういう平易な句もあり、これまた有名な作。
晴れ渡った秋の夜、名月がさしこみ、畳にはあざやかに松の影が映っている。まさに絵にかいたような情景だが、これが師の芭蕉だったら、もう少し心の陰影が加わる句を作っただろう。しかし、この晴朗さこそ江戸っ子其角のもの。師もそれを尊重した。
(『雑談集』)
月夜つづき向きあふ坂の相《あひ》睦《むつ》む
大《おお》野《の》林《りん》火《か》
大野林火は明治三十七年(一九〇四)横浜に生まれ、昭和五十七年(一九八二)逝去した。臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》門に入ったが、都会風の抒情性ある俳句で亜浪門の「石《しやく》楠《なげ》」に新風を吹きこんだ。俳論家としても大いに活躍した人。
林火には「ねむりても旅の花火の胸にひらく」というよく知られた句があるが、右の句も外界の風物がごく自然に生命を波うたせ、心の内景そのものに転じてゆくところで共通している。いい月夜が何日も続いたあと、向かい合わせの二つの坂が、斜面を息づかせて親しみ合っている。そのあやしい生命のときめき。
(『白幡南町』)
月を笠《かさ》に着て遊ばゞや旅のそら
田《た》上《がみ》菊《きく》舎《しや》
田上菊舎は江戸後期の女流俳人。父は長府(山口県)藩士だった。若くして寡《か》婦《ふ》となり、やがて尼《あま》になる。
詩・書・画また茶や琴にも一家をなした才女らしい。各地への旅もよくした。茶で有名な宇治の中国風の禅寺万《まん》福《ぷく》寺《じ》での作、「山門を出れば日本ぞ茶《ちや》摘《つみ》うた」が有名だが、右の句のような作の方が、味はこまやかである。夫に死なれ、大旅行を思いたった二十八歳当時の作だという。大らかなひろがりの中に新生の意志がこもり、風格のある句だ。
(『手折菊』)
蟻《あり》台上に餓《う》えて月高し
横《よこ》光《みつ》利《り》一《いち》
横光利一は大正末年、新感覚派文学運動の先頭に立ち、昭和初年代を通じてたえず強い関心をもたれた作家であるが、詩や俳句も作った。右は「蟻」と題する一行詩。
荒《こう》涼《りよう》たる原野に黒々と影を引いてそびえる塔が想像される。てっペんには中天高く澄《す》む月に向かって凝《ぎよう》然《ぜん》と動かない一匹の蟻がうずくまる。その「餓え」には、あるはげしい意志が感じられる。すべてが高みへ向かって垂直に伸びあがってゆく孤独な心象。
(『書方草紙』)
でで虫の腸《はらわた》さむき月夜かな
原《はら》 石《せき》鼎《てい》
原石鼎は明治十九年(一八八六)島根県出雲に生まれ、昭和二十六年(一九五一)逝去した昭和俳句の代表的存在。第一句集『花影』で名声は決定的となったが、「ホトトギス」で石鼎を広く世に知らしめた高浜虚《きよ》子《し》は、彼の作風を「豪華跌宕」と評して推賞した。
右の句もいかにも石鼎らしい奇想が働いている。月夜のみごとさをいうのに、かたつむりのはらわたが寒いというのである。現実にはそれが事実かどうか確かめ得ないような事象だが、表現の現実感がたしかなので少しも不自然でない。「腸さむき月夜」も、「でで虫」も、つまるところ作者の意中に巣《す》喰《く》う月であり虫であるのだろう。
(『定本石鼎句集』)
月の人のひとりとならむ車椅子
角《かど》川《かわ》源《げん》義《よし》
角川源義は大正六年(一九一七)富山県に生まれ、昭和五十年(一九七五)逝去した。国文学者。昭和二十年、復員して角川書店を創立、出版活動その他を通じて現俳壇の盛況をうながす役割をはたした。没後まもなく、句集『西行の日』が出たが、右はその編集後に作られた遺句の一つ。癌《がん》で入院した作者が車椅子で屋上まで運んでもらい、名月を賞した折の句。「月の人」とはたとえばかぐや姫か。表現は平明、寂《せき》寥《りよう》は深い。「月の人」を「月の客」などと同様、月に対座する人の意とする見方もある。
(『角川源義全集』)
月《げつ》明《めい》のいづくか悪事なしをらむ
岸《きし》 風《ふう》三《さん》楼《ろう》
岸風三楼は明治四十三年(一九一〇)岡山県に生まれ、昭和五十七年(一九八二)逝去した。「春嶺」を主宰した人。
古来花鳥風月の代表的題材である秋の月を詠《よ》んだ句としては異色の作である。通念がもつ「月明」の清らかさと、黒々とした人間の行為と。この対照的な結びつきは、伝統詩の中ではたしかに異色。だがそれが持っている現実味は、「月明」の清らかさゆえにかえって濃い。
岡山生まれの風三楼は岡山中学時代から俳句を作ったが、大学を出て逓《てい》信《しん》省に入って後は同省先《せん》輩《ぱい》の富《とみ》安《やす》風《ふう》生《せい》に師事し、多年「若葉」の編集を通じて門流の発展につくした。
(『岸風三楼集』)
わが心なぐさめかねつ更《さら》級《しな》や
姨《をば》捨《すて》山《やま》にてる月を見て
よみ人《びと》しらず
『古今集』の多くの流麗な調べをもった歌の中で、やや際《きわ》立《だ》って強く感動を表にあらわした歌として目をひく。「わが心なぐさめかねつ」というような主情的な歌い出し方は、『古今集』の中では異色のものである。
作者は多分、信州更級郡の月の名所姨捨山で、旅のつれづれに美しい月を見て楽しみたいと思ったのであろう。ところが、山国の澄《す》んだ空の月はあまりにも美しく冴《さ》えわたり、旅人の心を慰《なぐさ》めるどころか、かえって彼の心を深い孤独感で満たしてしまったのである。この古歌は同地方の棄《き》老《ろう》伝説と結びつき、孝子が老母を山に捨てに行くが捨てきれず、この歌を詠《よ》んで下山した説話を生む。
(『古今集』)
去《こ》年《ぞ》見てし秋の月《つく》夜《よ》は照らせれど
相見し妹《いも》はいや年さかる
柿《かきの》本《もとの》人《ひと》麻《ま》呂《ろ》
『万葉集』巻二挽《ばん》歌《か》に収める。大和《やまと》の「軽《かる》」の地に住んでいた妻の死を嘆く柿本人麻呂の三首の長歌、七首の短歌群の一首。妻の遺児たる赤子の世話に難渋する内容の長歌も含まれ、人麻呂作品中の異色作。しかも作品の質が高く、注目の一群である。
去年見あげた秋の月は今年もさやかに照っているが、一緒に月を仰ぎ見たわが妻は、ますます年月が遠ざかってゆく。去年と今年の対照が鮮《あざ》やかで、いわば嘆き歌の典型的技法である。
(『万葉集』)
逢《あふ》坂《さか》の関の清《し》水《みづ》に影見えて
今やひくらむ望《もち》月《づき》の駒《こま》
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
『拾遺集』巻三秋。京から東国への山路にあった逢坂の関、そこの清水に影がさして、今ごろは引いていることだろう、望月から献上された名馬を、というのである。
十二か月の季節の絵を描きわけた屏《びよう》風《ぶ》絵に付ける屏風歌の一首で、この歌は八月の「駒迎え」を詠《よ》む。
信《しな》濃《の》の「望月」の牧から毎年駒が朝廷に献上され、逢坂の関が駒迎えの地だった。「望月」に地名と満月の意が響き合い、全体に絵画的効果満点で、貫之の作の中でも特に華《はな》やかさで知られている。
(『拾遺集』)
照る月をくもらぬ池の底に見て
天つみ空に遊ぶ夜《よ》半《は》かな
加《か》藤《とう》千《ち》蔭《かげ》
千蔭は江戸中期の国学者・歌人。橘《たちばな》氏。家職をついで江戸町奉行与力を務めたが、少年期より父の枝《え》直《なお》(歌人)の師で庇《ひ》護《ご》者だった賀《か》茂《もの》真《ま》淵《ぶち》に入門、俊才をうたわれた。万葉入門の注釈書『万葉集略《りやく》解《げ》』で知られる。
池に臨《のぞ》んだ家屋に人々がつどい、秋の月をめでた折の歌。池の底で月がこうこうと照る。その上に身を置いて、まるで大空に遊ぶ思いの夜更けだと。古来しばしば歌われた題材だが、洗練された表現には、盛時の江戸の感覚がある。
(『うけらが花』)
あまの原ふりさけみれば春《かす》日《が》なる
三《み》笠《かさ》の山にいでし月かも
安《あ》倍《べの》仲《なか》麻《ま》呂《ろ》
『古今集』巻九羇《き》旅《りよ》に収める。作者安倍仲麻呂は遣唐学生として十六歳で渡唐、玄《げん》宗《そう》皇帝に仕えて出世した。大詩人の李《り》白《はく》や王《おう》維《い》とも交遊。三十数年後、新たな遣唐使一行の帰国の折、共に帰朝することになり、海辺まで来た時この望郷の歌を詠《よ》んだとされている。
東の空に月が輝く。あれは奈良の三笠山の上にのぼった月だ。その同じ月を、今私は去らんとする唐土で見あげている。ああ、大和《やまと》よ。
だが彼の船は難船、安南に漂着し、彼は再び唐に戻り、ついに日本には帰れなかった。
(『古今集』)
眼をとぢて思へばいとどむかひみる
月ぞさやけき大和《やまと》もろこし
正《しよう》徹《てつ》
正徹は室町前期の歌僧。京都東福寺の僧で、同寺書記をつとめたので徹書記と通称される。
歌を今川了《りよう》俊《しゆん》に学び、詠歌数四万という多作の歌人である。藤原定《てい》家《か》を崇拝し、自作の言葉のあしらい、語感の微妙繊細さも抜群だった。
「いとど」は「さやけき」にかかる。月に向かい、さてそれを目を開いて見上げるのでなく、静かに瞑《めい》目《もく》して想《おも》い見るところに、夢幻的な気分が現れ出る。その心中に見る景は、日本・唐土をあまねく照らす澄《す》んだ月。
(『草根集』)
ながめつつ思ふも寂しひさかたの
月のみやこの明けがたの空
藤《ふじ》原《わらの》家《いえ》隆《たか》
藤原家隆は藤原定《てい》家《か》などとともに『新古今集』撰者の一人。
「久方の」は月の枕《まくら》詞《ことば》。下《しもの》句《く》は月の中に月宮殿という都があるとする中国の伝説をふまえている。明け方まで月をながめあかしつつ、月の都の夜明けの空を想像し、寂《さび》しさを感じているところに、題材・詩情の珍しさ、清新さがあった。月の都にもあるいは空を見上げている者がいるだろうかと。このあこがれと空想には、寂しさだけでなく、優《ゆう》艶《えん》さもある。
(『新古今集』)
マッチ擦《す》るつかのま海に霧《きり》ふかし
身捨《す》つるほどの祖国はありや
寺《てら》山《やま》修《しゆう》司《じ》
寺山修司は昭和十年(一九三五)青森県に生まれ、同五十八年に持病の腎《じん》臓《ぞう》病で早世した、歌人・詩人・劇作家。高校時代より俳句、短歌を作り、昭和二十九年「短歌研究」新人賞を受賞した。
大胆でみずみずしい抒《じよ》情《じよう》をもって登場し、戦後のいわゆる前衛短歌の新星として、一《いち》躍《やく》注目を浴びた詩人である。その後、演劇を通じて社会的にもたえず注目される仕事をした。この歌にうたわれている深い霧には、作者の故郷青森の海の思い出が流れているようであるが、同時に故郷や祖国への執着を振り捨てて生きていこうと決意した青年の感傷が突きはなした形でうたわれている。
(『空には本』)
からうじてわがものとなりし古き書の
表紙つくろふ秋の夜の冷え
佐《さ》佐《さ》木《き》信《のぶ》綱《つな》
作者は『万葉集』研究、歌学史研究、古典籍の復《ふつ》刻《こく》などの諸領域で、余《よ》人《じん》の遠く及ばぬ仕事をした人である。それだけに、古写本への愛情も特別のものがあった。
入手のきわめて困難だった古書がついに「わがもの」となった歓喜にひたって、歌人学者は秋《しゆう》冷《れい》の夜ふけの部屋で一人表紙を修理している。
佐佐木信綱は昭和三十八年(一九六三)九十一歳で没したが、この歌人が父に教えられて数え六歳で詠《よ》んだというのは次の歌である。「障《しやう》子《じ》からのぞいて見ればちらちらと雪のふる日に鶯《うぐひす》がなく」。
(『豊旗雲』)
影見れば波の底なるひさかたの
空漕ぎわたるわれぞわびしき
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
土《と》佐《さ》国守の任を了《お》えて帰京する貫之一行は、承平五年(九三五)春寒のころ、室《むろ》戸《と》岬北西の室《むろ》津《つ》の港に停泊した。一月十七日(今の三月初め)未明、澄《す》みわたる月明を浴《あ》びて船出した折の一首。
「影」は「光」をも言った。ここでは波の底にまで映る月光。その月と共に、大空が波の底に横たわる。その上を渡ってゆくのは、ふしぎに心澄むようでまたわびしい限りだった。「われぞわびしき」と「われ」を正面きって出したのは当時珍しく、貫之自身の作の中でも強く印象に残る作である。
(『土佐日記』)
紅 葉《も み じ》
筑《つく》波《ば》嶺《ね》の峰のもみぢ葉落ち積もり
知るも知らぬも並《な》べて愛《かな》しも
東《あずま》歌《うた》
モミジといえば秋の代表的な景物。ひろく草木の葉が紅《くれない》や黄に変わることを意味している。楓《かえで》をもモミジということがあるのは、この木の葉がとりわけみごとに紅葉するからにほかならない。モミジという語(本来の書きかたでいえば、モミチ、あるいはモミヂ)の語源は、「色を揉《も》み出す」という意味の「揉《もみ》出《ぢ》」にあるという説が有力なようである。晩秋、山野のさまざまな木の葉が思い思いの色に色づくさまは、まさしく、秋という季節そのものが大量の色をあちらこちらでせっせと揉み出しているように感じられる。
「筑波嶺の」の歌は、『古《こ》今《きん》集《しゆう》』巻二十にある「東歌」、その中の「常陸《ひたち》うた」二首のうちの一首である。常陸は今の茨城県、筑波嶺はもちろん筑波山。この歌は「〓歌《かがい》」に関わる歌だろう。カガイとはカケアイがつまった語だといわれるが、歌《うた》垣《がき》ともいい、とくに『常陸風《ふ》土《ど》記《き》』に語られている筑波のカガイは有名である。
稲の種まきや収穫の後、若い男女が山や丘に登って〓歌をしながら楽しく遊ぶ風習が各地にあった。これを通じて、山の神の恵みで配偶者を得られると信じていたらしい。当然そこでは性の自由な開放が許されたわけである。
そこでこの歌だが、上《かみ》三句と下《しも》二句のあいだにちょっとした飛躍がある。それは「落ち積もり」のあとにつくべき「愛《かな》しも」が省略されているためで、つまりこの歌は、紅葉と人間との両方を「愛しも」と言っているのである。
歌の大意はおおよそ次のようであろう。筑波嶺の峰の美しい紅葉が落ち積もっているさまは、なんていとしいのだろう。それと同じように、ここに集まっている女たち(あるいは男たち)は、知っているひとも知らないひとも、すべて(「並べて」)なんといとおしいことだろう。
〓歌のために山に登ってきた男女は、浮き浮きと青春を謳《おう》歌《か》しているようである。胸中に紅葉のような血潮がたぎるような、あるいは上気した紅の色が胸のうちから揉み出されてくるような、求め合う庶民男女の気分が伝わる、古代民謡の魅力にとんだ愛《あい》誦《しよう》歌《か》である。
同じ『古今集』でも貴族社会では紅葉をどんな形で詠《よ》んだであろうか。『百《ひやく》人《にん》一《いつ》首《しゆ》』でも馴《な》染《じ》み深い在《あり》原《わらの》業《なり》平《ひら》の歌を引いてみよう。
ちはやぶる神《かみ》代《よ》もきかず龍《たつ》田《た》川
からくれなゐに水くくるとは
これは『古今集』巻五秋下に「二条の后《きさき》の春《とう》宮《ぐう》のみやす所と申しける時に、御屏《びやう》風《ぶ》に龍田川に紅葉《もみぢ》流れたるかたをかけりけるを題にてよめる 業平朝臣《あそん》」という詞《ことば》書《がき》をもった歌である。
詞書の二条の后は藤《ふじ》原《わらの》長《なが》良《よし》の女《むすめ》高《たかい》子《こ》で、清《せい》和《わ》天皇の女《によう》御《ご》となり、陽《よう》成《ぜい》天皇を生んだ人である。『伊《い》勢《せ》物《もの》語《がたり》』には、入《じゆ》内《だい》前のこの高子と業平の秘密の恋が露見し、強《ごう》引《いん》に仲を引き裂かれたという出来事を材料にした悲恋のエピソードがあって有名である。しかし、この歌は、高子がすでに東宮の御《み》 息《やすん》 所《どころ》となったのちに、その邸《やしき》の屏風絵を見て、業平が作ったもので、それは『古今集』の詞書によってあきらかである。
「ちはやぶる」は神の枕《まくら》詞《ことば》。神の霊力は千の磐《いわお》をも破るほどの勢威をもつ、という意味の「いちはやぶる」から来たともいわれる。「神代もきかず」は、不思議なことが普通として通っていた神代の時代にも聞いたことがないほどだ。「からくれなゐ」のもとの意味は、韓《から》からきた「くれない」。当時の日本の染料では出せないような鮮《あざ》やかな真《しん》紅《く》を形容する言葉だった。韓から来たものは当時とくに尊重され、から藍《あい》、から錦《にしき》、から櫛《くし》笥《げ》など、みな大陸文明へのあこがれをこめた美称だった。ここの「からくれなゐ」は、いうまでもなく龍田川名物の紅葉をさしている。「水くくる」には、水を潜《くぐ》ると、水をくくり染めにするとの二つの解釈があったが、真《ま》淵《ぶち》や宣《のり》長《なが》は水をくくり染めにするとよみ、今ではその解釈が一般に通用している。業平の時代の歌にあっては、この種の技巧的なものの見方は決して異例ではなかった。
それにしても、現代人の常識からすれば、たかが紅葉の名所程度のことで、何と大げさな歌だろうと感じる人も少なくないだろう。当時でも、龍田川の紅葉を誰《だれ》もがこの歌のように眺《なが》めていたわけではない。詩的な誇《こ》張《ちよう》があることはもちろんである。しかもこれは龍田川をじかに見て歌ったものではなく、東宮の御息所のもとで、おそらく新調したばかりの美しい屏《びよう》風《ぶ》に描かれた龍田川の絵を見て作られたものである。屏風に祝いの心をこめて歌うためだからこそ、このように誇張された技巧によって景気よく歌いあげることが、むしろその場にふさわしいことだったのである。
在原業平は血筋からいうと、父方の祖父が平《へい》城《ぜい》天皇、母方の祖父が桓《かん》武《む》天皇という、れっきとした貴人であるが、天皇の孫という身分にしては、亡《な》くなった時の官位が従《じゆ》四《し》位《いの》上《じよう》右《う》近《こん》衛《えの》 権《ごんの》 中《ちゆう》 将《じよう》 兼 美《み》濃《のの》権《ごんの》 守《かみ》、蔵《くろ》 人《うどの》 頭《とう》で、あまり高いとはいえない。しかし彼は平安貴族の一種の理想でもあるような色好みの世界を生きた男性だった。色好みというのは、単なる好色とはちがい、心《こころ》映《ば》えの深い、もののあわれをよく知る男のことをさすのである。
清和帝の女《によう》御《ご》になるはずの藤原高子や、伊勢斎《さい》宮《ぐう》など、本来近づくことの出来ない身分の高い女性たちと恋をし、手痛い失恋をして、傷心の身を東国まで運び、さすらいの悲《ひ》哀《あい》を豊かな抒《じよ》情《じよう》で歌いあげる。これが業平をモデルにして書かれたという『伊勢物語』の主人公の「男」である。ここには折《おり》口《くち》信《しの》夫《ぶ》の名づけた「貴《き》種《しゆ》流《りゆう》離《り》譚《たん》」の一典型がくっきりとあって、日本人が業平伝説を好む理由の一因ともいえるだろう。
紅葉にはまた酒が似合うようである。ゆく秋を惜《お》しみながら落葉を焚《た》く日本の秋。
林間煖酒焼紅葉 石上題詩掃緑苔
「林間に酒を煖《あたた》めて紅《こう》葉《えふ》を焼《た》く 石《せき》上《しやう》に詩を題して緑《りよく》苔《たい》を掃《はら》ふ」という『和《わ》漢《かん》朗《ろう》詠《えい》集《しゆう》』の中の有名な白《はく》楽《らく》天《てん》の詩句であるが、いかにも日本の秋の心を端的にとらえた詩句として、日本人によって長く愛誦されてきた一句である。
彼《かれ》一語我《われ》一語秋深みかも
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
「深み」の「み」は、形容詞の「深し(深い)」の末に添《そ》えて名詞化する接尾語で、「秋深み」は秋の深まった状態をいう。
天地の間にぽつんと置かれた二人の人物。一方がぽつりと一語を発すると、もう一方も一語ぽつりと返す。言うに言われぬ時が流れて、二人の男も、発した言葉も、深い秋のまっただなかにある。
この句に登場する「彼」が一体どういう人物なのか、それを示すものは何もない。また「彼」と「我」がそれぞれ発した「一語」がどういう言葉だったのかも、わからない。しかしそれゆえにこの句の世界は成り立っているという逆説的な性格がこの句にはある。俳句というものの不思議な本質をそこに見ることができる。
(『六百五十句』)
夕《ゆふ》霧《ぎり》も心の底に結びつつ
我が身一つの秋ぞふけゆく
式《しき》子《し》内《ない》親《しん》王《のう》
式子内親王は後《ご》白《しら》河《かわ》天皇皇女で『新《しん》古《こ》今《きん》集《しゆう》』を代表する女流歌人。高貴の生まれではあったが、叔《お》父《じ》の崇《す》徳《とく》院《いん》、兄の以《もち》仁《ひと》王、甥《おい》の安《あん》徳《とく》天皇などが、つぎつぎに戦乱の渦《うず》にまきこまれて非《ひ》業《ごう》の死をとげてゆくのを見なければならなかったのが、この孤独な天性の王女歌人の運命だった。
沈《ちん》痛《つう》な内省の眼を強く感じさせる作風も、そのような環境と無関係ではないだろう。この歌は叙《じよ》景《けい》に託して孤独な自画像を描いているが、おのずと一時代のある大きな局面を暗示する心象風景にまで達している。外界に漂《ただよ》うのが本来である霧が、「心の底」に結び、沈んでいるのである。
(『式子内親王集』)
かなしさに魚喰《く》ふ秋のゆふべ哉《かな》
高《たか》井《い》几《き》董《とう》
几董は京都の人。蕪《ぶ》村《そん》門の重鎮として中興俳壇の大きな存在だった。彼の「やはらかに人分けゆくや勝《かち》角力《ずもう》」などは、師蕪村流の印象鮮明な作風を見せて有名な句だが、右に掲げた句は、また別の一面を示すもの。
「かなしさに」のようななまな感情表現は、詩歌では概して避けられるものだが、ここでは逆にあえて使っている。「魚喰ふ」という日常茶飯の営みが、悲しみを一層純粋に保たせるかのようだ。
(『井華集』)
友もやゝ表札古《ふ》りて秋に棲《す》む
中《なか》村《むら》草《くさ》田《た》男《お》
第二句集『火の島』を刊行した昭和十四年(一九三九)、中村草田男は「青春」のまっただなかにあると感じていた。三十代半ばで結婚、最愛の妻との間に二人の子が相次いで生まれ、長い間の厭《えん》世《せい》的憂《ゆう》鬱《うつ》から解放されて、作品も自信に満ちた積極性を備えてきた。
「焚《たき》火《び》火の粉吾の青春永きかな」などの句に、彼の感じていた自負の思いがのびやかに表現されている。しかし、ややへそ曲がりの読者としては、同じ時期の句としては、上に掲げたような陰影ある秋《しゆう》思《し》の句に、むしろ心ひかれる。
(『火の島』)
行く我《われ》にとどまる汝《なれ》に秋二つ
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》
子規句帖『寒山落木』巻四に収められている句。明治二十八年(一八九五)十月十九日、松山で親友夏目漱《そう》石《せき》に贈った句である。
子規は同年、日清戦争従軍の帰途喀《かつ》血《けつ》して松山に帰郷し、八月末、当時松山中学校の英語教師として同地にあった漱石の下宿に移った。松山の俳人たちがここに集まり、漱石も一座に加わって、盛んに句作した。やがて十月、子規は結核の身ながら東京に戻る。松山を故郷とする子規は東上し、東京を故郷とする漱石は松山に留まるのである。二人それぞれの秋の中での、友への惜別。
(『寒山落木』)
秋の暮大魚の骨を海が引く
西《さい》東《とう》三《さん》鬼《き》
西東三鬼は新興俳句興隆の機運にのって一挙に特異な才能を開花させた昭和俳句界の異才。本業は歯科医だった。
初期の句の斬《ざん》新《しん》な表現が多く話題になるが、死を間近にした晩年の作には、ふところ深く味わい濃《こ》い句が多い。これも最晩年の一句。
暗く壮大なものが沖へ静かに退《ひ》いてゆくのを、作者は心の窓ごしに凝《ぎよう》視《し》している。六十一歳で癌《がん》のため没したが、この句を収める句集『変身』(昭和三十七年〈一九六二〉刊)は、辛《かろ》うじて作者の枕《ちん》頭《とう》にまにあった。
(『変身』)
軍《ぐん》鼓《こ》鳴り
荒《くわう》涼《りやう》と
秋の
痣《あざ》となる
高《たか》柳《やなぎ》重《しげ》信《のぶ》
高柳重信は大正十二年(一九二三)東京小石川生まれの俳人。新興俳句の影響を経《へ》て富《とみ》沢《ざわ》赤《か》黄《き》男《お》に師事。俳句を多行形式で書く方法を創始した。「俳句評論」を創刊、編集の中心同人として戦後俳句の世界で孤軍奮闘した。
伝統詩としての俳句界に「花《か》鳥《ちよう》諷《ふう》詠《えい》」とも「人間探求」とも違う現代の詩の種子をまこうとしたが、昭和五十八年(一九八三)六十歳で死去。
軍鼓の響《ひび》きが一点「秋」の荒涼たる「痣」になるとみるのは作者の想像だが、この句そのものは戦後の社会情勢を踏《ふ》まえて作られている。語の響きも引き緊《し》まっている。
(『黒弥撒』)
にほどりの葛《かつ》飾《しか》早《わ》稲《せ》のにひしぼり
くみつつをれば月かたぶきぬ
賀《か》茂《もの》真《ま》淵《ぶち》
賀茂真淵は江戸中期のすぐれた国学者・歌人である。元禄十年(一六九七)―明和六年(一七六九)。七十三歳で没。荷《か》田《だの》春満《あずままろ》に教えを受け、やがて田安家和学御用として仕えた。田安宗武に愛され、古典研究に専念できたことが、真淵の国学研究にとってはきわめて重要な出来事だった。門弟には加藤千《ち》蔭《かげ》や村田春海などを中心に、主君の田安宗武はじめ本《もと》居《おり》宣《のり》長《なが》ほか多くの大家もあり、近世歌壇の一大勢力だった。
この歌はいわゆる「後《のち》の月」の九月十三夜(陰暦)に、江戸浜町の自邸で月見を兼ねた歌会を催《もよお》した折の歌。「にほどり」は葛飾の枕《まくら》詞《ことば》。下《しも》総《うさ》国葛飾で穫《と》れた早《わ》稲《せ》で造った新酒を酌《く》みかわしつつ月見をしているうちに、暁《あかつき》になってしまったのだ。「にほ」と「にひ」が強く響《ひび》き合って、一夜の感興の楽しさを伝えている
。
(『賀茂翁家集』)
死なば秋露《つゆ》の干《ひ》ぬ間ぞおもしろき
尾《お》崎《ざき》紅《こう》葉《よう》
明治三十六年(一九〇三)十月三十日に没した『金《こん》色《じき》夜《や》叉《しや》』の作者の辞世句。紅葉は明治十八年、山《やま》田《だ》美《び》妙《みよう》らと「硯《けん》友《ゆう》社《しや》」を結成し、「我《が》楽《らく》多《た》文《ぶん》庫《こ》」を発刊したころから、俳《はい》諧《かい》にしたしんだ。明治二十八年「秋声会」を興してこれの中心となり、正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》の率《ひき》いる日本派に対抗した。
死ぬなら秋、露の乾かぬうちにこそ、という。死にのぞんでさえいきがっていると見るよりは、秋の露といえばはかなく散るもの、人の命もかくのごとしという、古くからの哀《あい》傷《しよう》歌《か》の伝統を踏《ふ》まえた上での、死ぬなら秋という心意気を詠《よ》んだとみるべきだろう。
(『紅葉句帳』)
さびしさはその色としもなかりけり
真《ま》木《き》立つ山の秋の夕暮
寂《じやく》蓮《れん》法《ほう》師《し》
『新古今集』巻四・秋歌上には、「三《さん》夕《せき》の歌」と呼ばれる三首が並ぶ。この歌および西《さい》行《ぎよう》、定《てい》家《か》の歌で、いずれも秋の荒《こう》寥《りよう》たる、あるいは寂《せき》寥《りよう》の景《け》色《しき》のまっただなかにこそ、一段と深い美を見出して、それを詠《よ》んだ歌である。したがって、うたわれているものは、景色とみえて実は心そのものということにもなる。
真木は杉・檜《ひのき》など良材の総称で、槙とも書く。ふつう、秋を代表する色といえば紅葉。しかしこの歌は、常緑の真木がしんと並び立つ秋山の夕べに、どこがどうと特定できない(「その色としもなき」)、言い難《がた》い寂寥相の深さを覚えて、無常感と背中合わせの幽《ゆう》玄《げん》美《び》ともいうべき趣《おもむき》にうたれているのである。
(『新古今集』)
心なき身にもあはれはしられけり
鴫《しぎ》たつ沢の秋の夕暮
西《さい》行《ぎよう》法《ほう》師《し》
寂《じやく》蓮《れん》、定《てい》家《か》の作とともに、新古今「三《さん》夕《せき》の歌」の一首。
「心なき身」は物の情趣を解し得ぬ身という謙《けん》辞《じ》とも、煩《ぼん》悩《のう》を脱した者という意味で出《しゆつ》家《け》の身をさすとも解される。「たつ」には、鴫のたたずんでいる「佇《た》つ」姿と、飛び立つの「立つ」とが重なるだろう。その鴫のほかは寂《じやく》として動かない。沢田の、寂《さび》しさの極みのごとき風景に、言いしれぬ感動(「あはれ」)を覚えたのである。鴫たつ沢に自《みずか》らも融《と》け入って、深い天地の懐《ふところ》に抱《いだ》かれている感覚である。
(『新古今集』)
見わたせば花も紅葉《もみぢ》もなかりけり
浦の苫《とま》屋《や》の秋の夕暮
藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》
これも「三《さん》夕《せき》の歌」のひとつ。
『源《げん》氏《じ》物《もの》語《がたり》』「明《あか》石《し》の巻」の、「はるばると物のとどこほりなき海《うみ》面《づら》なるになかなか春秋の花紅葉の盛りなるよりはただそこはかとなう茂《しげ》れるかげどもなまめかしきに」というくだりから構想を得たものとされている。四季の美を代表する春の桜、秋の紅葉、いずれも影すらない荒《こう》寥《りよう》たる秋の夕ぐれの海辺。そこにはただ粗《そ》末《まつ》なかやぶき屋根の小屋(「苫屋」)が立っているばかりである。いわゆる美《び》麗《れい》なものの裏側にこそ、艶《えん》を越えた深い美があることを、言外に匂《にお》わせている歌である。「春秋の花紅葉の盛りなるよりは」という『源氏物語』の着眼点とも共通するものがある。
(『新古今集』)
秋の月光《ひかり》さやけみもみぢ葉の
おつる影《かげ》さへ見えわたるかな
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
この歌は貫之亡《な》きあと、第二の勅《ちよく》撰《せん》和歌集として編まれた『後《ご》撰《せん》集《しゆう》』および私撰集の『古《こ》今《きん》和《わ》歌《か》六《ろく》帖《じよう》』にはのっているが、貫之自身中心になって編んだ『古今集』にはとられていない。したがって、少なくとも壮年期の貫之にとっては、この歌はまあ普通の出来と映っていたのかもしれない。
しかし技巧においても抜群の力量をもっていた貫之が、ことさら技巧をこらさないこの種の歌において、どちらかといえば後世の『新古今集』風な尖《せん》鋭《えい》な感覚の表現をなし得ていることに注目される。現在の私たちにとっては清新に思えるこのような歌が、『古今集』当時の一般的評価からすれば、技巧のなさ、ナイーヴさゆえにかえってあきたらなく思われていたふしもある。
(『後撰集』)
この樹《き》登らば鬼《き》女《じよ》となるべし夕《ゆふ》紅葉《もみぢ》
三《みつ》橋《はし》鷹《たか》女《じよ》
鷹女は初期には原《はら》石《せき》鼎《てい》に師事したが、以後大方は独立独歩、孤高の女流として作句にはげんだ。初期には東《あづま》文恵、ついで東鷹女を名乗ったが、その俳号の頭文字から、昭和十年代にそろって頭角を現した著名な女流俳人(中村汀女・橋本多佳子・星野立子)とともに、四Tとよばれた。
「夏痩《や》せて嫌《きら》ひなものは嫌ひなり」のような句を早くに作っている。ここにあげた句にも、気性の激しさはまぎれもない。夕紅葉の血の騒《さわ》ぐような赤さに、女のうちの「鬼女」が呼びさまされる感覚を詠《よ》むが、謡曲「紅葉狩《がり》」からの暗示もあるかもしれない。
(『魚の鰭』)
筑《つく》波《ば》嶺《ね》の峰のもみぢ葉落ち積もり
知るも知らぬも並《な》べて愛《かな》しも
東《あずま》歌《うた》(常陸《ひたち》うた)
上《かみ》三句と下《しも》二句の間には、表現上少々飛躍がある。紅葉はむかしからきわめて美しい秋の景物として愛されていた。だから、落ち積もる紅葉はどれもこれも(「並《な》べて」)いとしい。その紅葉と同じように、今日この筑波山に集まっている男女は、顔見知りもそうでない人々もおしなべて愛《いと》しい、というのである。
古代日本では秋の、収穫後の祝祭のために人々が山に集まって歌垣をする。この日だけは未知の男女も自由に愛し合うことが許された。その歌垣の風習から生まれた歌で、筑波山のそれが古来とくに有名だった。
(『古今集』)
林間に酒を煖《あたた》めて紅《こう》葉《えふ》を焼《た》く
石《せき》上《しやう》に詩を題して緑《りよく》苔《たい》を掃《はら》ふ
白《はく》居《きよ》易《い》
白居易(白《はく》楽《らく》天《てん》)は唐の詩人であるが、『和《わ》漢《かん》朗《ろう》詠《えい》集《しゆう》』の名句をひろうと、ずらりと白楽天の詩句が並ぶほど、平安朝の日本で愛された詩人。この詩句もその一例。
詩の意味は、林間で紅葉を集めて燃やし、酒を暖める。石の上の緑の苔《こけ》を掃いおとして詩を書きつける、というのだが、「林間に紅葉を焼いて」とあるべき叙述を逆にして印象を強めている。この山寺の秋を楽しむ詩句は、謡曲「紅葉《もみじ》狩《がり》」などに引かれて日本でも広く知られている。
(『和漢朗詠集』)
おく山に紅葉《もみぢ》ふみわけなく鹿の
こゑきく時ぞ秋はかなしき
よみ人《びと》しらず
この歌の作者は、『古今集』ではよみ人しらずであるが、『百人一首』での作者名は猿《さる》丸《まる》大《た》夫《ゆう》。権威ある『古今集』で作者未詳とされているということは、ほとんど決定的結論と考えなければならない。ずっと後の時代になって『百人一首』を編《へん》纂《さん》した藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》がそれを知らないはずはなかった。
しかし、この歌を愛していた定家は、伝説的な作者である猿丸大夫の名をかりて百首の中に含めたのであろう。『百人一首』に含めるためには作者名を必要としたからである。奥山をさまよう恋の季節の牡《お》鹿《じか》の哀《あい》愁《しゆう》を、その澄《す》んだ鳴き声によってとらえ、深まる秋の情をそこに読みとっている歌である。
(『古今集』)
箱根路はもみぢしにけり旅人の
山わけごろも袖《そで》にほふまで
村《むら》田《た》春《はる》海《み》
作者は江戸後期の国学者・歌人。江戸の富商の家に生まれた。代々学問や詩歌に熱心な家で、彼も漢学や歌文をみっちり学んだ。加藤千《ち》蔭《かげ》と共に賀《か》茂《もの》真《ま》淵《ぶち》門のいわゆる江戸派の巨匠として、西の同門本《もと》居《おり》宣《のり》長《なが》と対抗した。
歌は真淵の万葉尊重に対し、古今集重視の立場に立つ。しかしこの歌にも見るように、自然を第一として、ことさらな作為は排する。「にほふ」は照り映える。温和な歌風だが、近代の先ぶれを感じさせる清新さがある。
(『琴後集』)
秋山の黄葉《もみぢ》を茂み迷《まと》ひぬる
妹《いも》を求めむ山《やま》道《ぢ》知らずも
柿《かきの》本《もとの》人《ひと》麻《ま》呂《ろ》
『万葉集』の歌を読んでゆくうちにわかってくるのだが、柿本人麻呂は大和《やまと》の「軽《かる》」の地にひそかに妻を持っていたらしい。今の橿《かし》原《はら》市内。だが妻が死ぬ。彼は悲しみにくれて、長歌とその反歌(かえしうたの意で、長歌の内容をもう一度要約する)たる短歌による挽《ばん》歌《か》を歌った。右はその短歌。
「茂み」は茂っているので。歌はここでいったん切れる。「迷ひぬる」は山路に迷った。実際は死んでしまったこと。秋の山の黄葉があまりに深く茂っているので、迷いこんだ恋しい妻を探そうにも道が分からないのだ。
(『万葉集』)
相撲《すまう》取《とり》ならぶや秋のからにしき
服《はつ》部《とり》嵐《らん》雪《せつ》
若いころから芭《ば》蕉《しよう》に入門した嵐雪は、芭蕉みずから「門人に其《き》角《かく》・嵐雪あり」と重んじ、「両の手に桃と桜や草の餅」の句を作ったほどに愛された弟子だった。
力士を詠《よ》んだ句では古来最も有名なものの一つがこの句である。思い思いの化粧まわしをつけて立ち並ぶ相撲取りのはなやかさは、現代でも土俵の魅力を大いにもりたてるが、江戸中期の俳人嵐雪は、これを咲き乱れる秋草の織る唐《から》錦《にしき》に見立てて称《たた》えたのである。
「蒲《ふ》団《とん》着て寝たる姿や東山」というあまりにもよく知られた句でもそうだが、嵐雪はぴたりと決まった見立ての名人といってもいい蕉《しよう》門《もん》俳人だった。なお俳《はい》諧《かい》では「相撲」は秋の季語。
(『炭俵』)
桐の葉も踏み分けがたくなりにけり
必ず人を待つとなけれど
式《しき》子《し》内《ない》親《しん》王《のう》
作者は後《ご》白《しら》河《かわ》院皇女だが、平安から鎌倉への激動の時代をきわめて孤独に生きた。生涯に不明の点が多い。藤原俊《しゆん》成《ぜい》・定《てい》家《か》父子について和歌に専念し、新古今時代を代表する女流として、数多くのあわれ深い歌を残した。定家の方がだいぶ年下だが、定家が式子内親王を熱烈に恋い慕い、世を忍ぶ仲となったという伝説が定家葛の話を生み、能楽「定家」まで作られた。
秋、門前には足にまつわりついて歩きにくいほど、桐の落葉が積もってしまった、必ずお見えになると思って人の訪れを待っているわけでもないけれど。歌のこころは、深まる秋の人恋しさと孤愁。だがそれを露《あら》わにはいわない。
(『新古今集』)
紅《こう》葉《えふ》はかぎり知られず散り来れば
わがおもひ梢《うれ》のごとく繊《ほそ》しも
前《まえ》川《かわ》佐《さ》美《み》雄《お》
前川佐美雄は佐《さ》佐《さ》木《き》信《のぶ》綱《つな》に師事する一方、昭和初年のプロレタリア文学運動や芸術至上主義、昭和十年代の日本浪《ろう》曼《まん》派文学運動に関わりを持った。当時の動揺にみちた文芸思潮の混《こん》沌《とん》状態を、身をもって体験した歌人である。このため、戦後になってから、戦中の文学的姿勢が非難攻撃されることにもなり、長らく不遇の時期をも過ごした。
この優美な歌の「わがおもひ」も、すっくと梢さながら天をさしているわけではない。散る紅葉の限りなさが、思わずも、梢の先のように繊く尖《とが》ってうち震《ふる》えるわが思いを誘うのだ。
(『大和』)
夕されば小《を》倉《ぐら》の山に鳴く鹿は
今《こ》夜《よひ》は鳴かずい寝《ね》にけらしも
舒《じよ》明《めい》天《てん》皇《のう》
万葉初期時代の代表的な歌のひとつで、よく知られ、愛誦もされてきた。
「夕されば」は夕方になると。「小倉の山」は、現在の奈良県桜井市の山とされている。平安京になってからしばしばうたわれた京都の小倉山とは別。
秋の鹿の哀《あい》切《せつ》な鳴き声は古くから詩情をかきたてる題材として歌われた。妻恋いの哀《かな》しい命のよび声をそこに聞きとったからである。いつも鳴く鹿が今夜は鳴かないとなれば、それはそれで何かしら心ひかれ、山野の夜に息づく命に思いをひそめるのである。
(『万葉集』)
心の澄《す》むものは 秋は山田の庵《いを》毎《ごと》に 鹿《しか》驚《おどろ》かすてふ引《ひ》板《た》の声 衣《ころも》しで打つ槌《つち》の音《おと》
梁《りよう》塵《じん》秘《ひ》抄《しよう》
平安歌謡。昔も今も変らないが、流行歌お得意の形式の一つに「物は尽《づく》し」「歌《うた》枕《まくら》尽《づく》し」がある。当代の人の感興を呼ぶものや、恐ろしいもの、珍《めずら》しいもの、見るべき歌枕の地名などを列挙するといった手法のもの。これも「物は尽し」の一例。
山の田んぼを荒しにくる鹿やいのししを追い払うため、田の隅《すみ》の仮小屋(「庵」)からなわを引いた鳴《なる》子《こ》(「引《ひ》板《た》」)の音や、衣を砧《きぬた》でしで打つ音に、「心の澄むもの」を見ている。単に列挙しているだけとみえて、秋の情趣をしっとり立ちのぼらせている。
かきなぐる墨《すみ》絵《ゑ》をかしく秋暮《くれ》て
史《ふみ》邦《くに》
はきごころよきめりやすの足《た》袋《び》
凡《ぼん》兆《ちよう》
芭《ば》蕉《しよう》門の人々がきわめて熱心に作った連句の集は数多い。中でも代表的な撰集七つを後世の俳人が編んだものが、「芭蕉七部集」として人気が高い。その七部集の中でも、『猿《さる》蓑《みの》』は円熟した時季の集として最も高い評価を受けている。これはその『猿蓑』の「はつしぐれ」の巻の一節。
史邦の句の「墨絵」は十五世紀なかば宋《そう》元《げん》画《が》がわが国に流入して以来興《おこ》った水《すい》墨《ぼく》画で、禅宗とも深いかかわりが生じた。中国伝来という意味で異国風な新鮮さがあった。一方、凡兆の付《つけ》句《く》の「メリヤス」は長崎などを通じて入ってきた紅《こう》毛《もう》の舶《はく》来《らい》品である。つまりこの付《つけ》合《あい》は、二様の異国情緒を取り合わせ、両句相まって、晩秋ひとり心ゆくままに墨絵に没頭して楽しむ人物を描きだしているわけだ。風雅を解する豪《ごう》商《しよう》か、それとも脱俗の隠《いん》士《し》か。
(『猿蓑』)
引《ひく》馬《ま》野《の》ににほふ榛《はり》原《はら》入り乱れ
衣《ころも》にほはせ旅のしるしに
長《ながの》忌《いみ》寸《き》意《お》吉《き》麿《まろ》
作者は人《ひと》麻《ま》呂《ろ》とほぼ同時代の宮廷歌人。持《じ》統《とう》女帝の三《み》河《かわ》行幸の時、都に残った作者が、随行の人にはなむけに贈った歌と解される。
「引馬野」は三河(遠《とおと》 江《うみ》説もある)の野。「にほふ」は色づき照りはえる。「榛原」はハンの木の原。榛《はん》の実は摺《す》り染《ぞ》めその他の染色材となったから、「衣にほはせ」は、榛の林に入り乱れて、旅の記念に着物を摺り染めしなさいよ、との意であろう。明るい調べの、いかにも魅力的な歌である。
作者長忌寸意吉麿は、機智に富んだ歌の作者として、『万葉集』十六の「由縁ある雑歌」の章で大活躍している。一首の短歌の中に数種類の物を一度に詠《よ》みこむ歌遊びである。
(『万葉集』)
風きけば嶺《みね》の木《こ》の葉の中《なか》空《ぞら》に
吹き捨てられて落つる声々
正《しよう》徹《てつ》
僧にして室町初期を代表する歌人なる正徹は、元来備《びつ》 中《ちゆう》国神戸山城主の子だった。十歳ごろ父母と共に上京し、十代半ばから京都歌壇の歌会にも出席していたという。のち出家したが、歌に歌論に大活躍し、心《しん》敬《けい》ら連《れん》歌《が》作者多数を門下に擁《よう》した。文人僧輩出の室町という時代を身をもって示した人である。
歌数四万という多産さだが、歌風はこの歌にも見られるように、遥《はる》かなものに耳を澄《す》まして、細やかに歌いわけ、しかも余情深いものがある。
藤原定家を崇拝したことは有名で、定家のいわば芸術至上主義的な側面を、さらに純粋化して継いでいるともいえる人だった。
(『草根集』)
世の中は夢か現《うつつ》か現《うつつ》とも
夢とも知らずありてなければ
よみ人《びと》しらず
『古今集』巻十八雑歌に収める。西《さい》行《ぎよう》は弟子に、『古今集』を読め、特に雑歌の部は熟読せよと教えたという。雑歌には実人生の嘆きや仏教的無常観を歌って心にしみる歌が多いからだ。
この歌は作者未詳の歌だが、一読して凡手ではないことがわかるような巧みさをもっている。第五句で、この世は存在していて同時に存在していないのだもの、「ありてなければ」と言っているのが目をひく。夢だからはかなく、現実だから確かだ、というような単純な物の見方を否定したところで成り立っている歌。
(『古今集』)
をぐら山みねたちならしなく鹿の
へにけむ秋をしる人ぞなき
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
『古今集』巻十物名に収める。「物名」はモノノナともブツメイとも。題に掲げた物の名を一首の中に隠して詠《よ》みこむ技法。その別種に、題を各句の頭に一字ずつ分けて詠みこむ「折《おり》句《く》」の技法もある。右の歌の場合、題は「をみなへし」で、この五文字を一字ずつ五七五七七各句の頭に置いて詠んでいる折句の歌。
小倉山の峰を踏んで平らにならしながら鳴いてさまよう恋する秋の鹿。その鹿を思う秋情の歌が、同時に優美な連想を誘う「女郎花《おみなえし》」を詠みこんでいる形である。
技巧家紀貫之の作と知ればこの歌のさりげない折句の技法も納得できるが、それにしても技巧を少しも意識させない技術の洗練は、みごとというほかない。
(『古今集』)
島《しま》隠《がく》り我が漕《こ》ぎくればともしかも
大和《やまと》へ上《のぼ》るま熊《くま》野《の》の舟
山《やま》部《べの》赤《あか》人《ひと》
辛《から》荷《に》の島を通り過ぎた時詠《よ》んだという長歌への反歌。播《はり》磨《ま》灘《なだ》に三つ並んでいる唐《から》荷《に》島がこの地である。
長歌では、船旅を重ねる心細さから、くりかえし妻の待つ大和の空をかえりみても、見えるのは連なる雲ばかり、と嘆じている。
さてこの反歌では、そんな気分の旅人である自分に、何とうらやましいことか(「ともし」は羨《うらや》ましい)、大和へ向けて熊野の舟が滑《すべ》ってゆくではないかと。「ま熊野」のマは接頭語。古代の船旅はまさに望郷の旅だった。
(『万葉集』)
白《しら》雲《くも》に心をのせてゆくらくら
秋の海《うな》原《ばら》思ひわたらむ
上《うえ》田《だ》秋《あき》成《なり》
初秋のころ、琵《び》琶《わ》湖《こ》畔《はん》に遊んで三井寺に月をめで、その翌朝、「あした湖上の楼に遊ぶ」と前《まえ》書《がき》があるような行楽をして、この歌を作ったもの。
「ゆくらくら」はユクラユクラ(ゆらゆら揺れて定まらぬさま)の省略形のように思われるが、ラを接尾語とみて、「往き来に」の意ととる解釈がある。しかし、詩としては、ユクラユクラの意にとる方が格段に広やかな気分で好ましかろう。『雨月物語』などで知らぬ人もない小説家秋成は、江戸期出色の歌人でもあった。
(『つづらぶみ』)
わが背《せ》子《こ》を大和《やまと》へ遣《や》るとさ夜《よ》深《ふ》けて
暁《あかとき》露《つゆ》にわが立ち濡《ぬ》れし
大《おお》伯《くの》皇《ひめ》女《みこ》
大伯皇女は天武天皇皇女で、伊勢神宮に斎宮として仕えた。同母弟の偉丈夫大《おお》津《つの》皇《み》子《こ》は父帝崩《ほう》御《ぎよ》の直後、反逆のかどで捕えられ、死刑となる。政敵のわなにおちたらしい。政敵といっても、言ってみれば身近な人々の間での権力闘争である。それだけ逆に、容赦ないすばやい処断が普通のことだった。
右は危険な立場の大津がひそかに伊勢の姉のもとを訪れ、暗いうちに再び去った時の、見送る姉の憂いと愛の歌。「わが背子」はここでは弟。「暁露」は未明の草露。姉弟の間柄だが、清らかな身の姉の歌にこもる情感は、恋人に対するようだ。
(『万葉集』)
経《たて》もなく緯《ぬき》も定めず少女《をとめ》らが
織れる黄葉《もみぢ》に霜な降りそね
大《おお》津《つの》皇《み》子《こ》
『万葉集』巻八雑歌に収める。作者は天武天皇第三皇子。右に歌が引かれている大《おお》伯《くの》皇《ひめ》女《みこ》の実弟。権力争いの政略のため、二十四歳の若さで悲運にも処刑された。詩才すぐれ、漢詩集『懐《かい》風《ふう》藻《そう》』にも秀作を遺す。
この歌は当時上流階級に流行していた道教の神仙思想を反映し、山には仙女(「少女《をとめ》」)が住むとみて、その仙女が縦糸も横糸もなく織りなしたみごとな錦《にしき》、それがこの壮麗な一面の紅葉だという。結句は、霜よ降らないでくれ。調べのさわやかな張りに才能が光っている。
(『万葉集』)
秋に堪《た》へぬ言《こと》の葉《は》のみぞ色に出づる
大《やま》和《と》の歌も唐《もろこし》の歌も
藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》
作者は鎌倉前期歌壇の第一人者。「秋に堪へぬ」は秋の美が誘い出す言い知れぬ情緒に、心が押さえきれぬほどになったところの、の意。「色に出づ」は顔色やそぶりにまで出る。日本の和歌も唐土の詩も、たえきれぬほど深い秋の情を専一に歌う点で同じだという考えだが、定家はこの歌に次の自作の漢詩を組み合わせている。「金韻(秋のひびき)忽チ生ジテ残暑尽ク、独リ吟ズ古集早秋ノ詩」。
「秋に堪へぬ」という表現は、冗長になることを嫌って編み出された圧縮表現の一例だが、定家の歌にはこうした表現上の〓“冒険〓”はいろいろある。それだけ彼は言葉の凝縮に心を砕いたのである。一方に、漢詩というものをいわば仮想敵として意識していたからかもしれない。
(『拾遺愚草員外』)
秋深き隣《となり》は何をする人ぞ
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
芭蕉は元禄七年(一六九四)十月十二日(陰暦)、旅に明け暮れた日々の後に今の大阪南御堂の地で世を去った。これはそのわずか二週間前の句。
旅を重ねて当時この地に滞在中だった彼は、門人の家に招かれたが体調に異変をきたして行けず、代わりにこの一句を届けさせた。一同が彼を迎えて巻くはずの連句を考え、その連句の発《ほつ》句《く》として使ってもらうことを考えた句だろう。宴席の人々への言い知れぬ親愛の思いをこめつつ、晩秋、ことさら強まる人恋しい思いを詠《よ》んで含《がん》蓄《ちく》が深い。「秋深し」とよく書かれることがあるが、これは誤り。
(『笈日記』)
身にしむや亡《なき》妻《つま》の櫛《くし》を閨《ねや》に踏《ふむ》
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
蕪村は四十五歳のころ、とも女と結婚した。大作の画を次々に発表、画家として名声を確立しつつあった時代である。彼らはやがて一人娘くのを得た。蕪村は六十八歳で病没、とも女は尼《あま》となり、長生きしたのち夫と同じ墓に入った。
してみればこの句は蕪村得意の想像の句だろう。秋冷をいう季語「身にしむ」の気分を人事に転じて展開すれば、さしずめこういう情景か、といわんばかりの句で、その虚構の才の飛翔ぶり、みごとな手腕という他ない。
(『蕪村句集』)
吊《つるし》柿《がき》鳥に顎《あご》なき夕べかな
飯《いい》島《じま》晴《はる》子《こ》
大正十年(一九二一)生まれの現代俳人。俳論家のまれな女流俳人の中で、この作者は数少ない例外。論理的で説得力ある筆陣を張る。しかしその句は写実にとらわれず、飛躍に富んでいて、いわゆる論理性からはほど遠い。感覚を武器に、直観的にものをつかんでゆく作風である。
「鳥に顎なき夕べ」という直観的な表現もその一例で、言われてみればそんな感じのする夕暮も、私たちにはありそうだ。中ぞらには吊し柿がぶらさがっていて。柿がぶらさがっているというイメージがあるから、鳥に顎がない、という指摘が、なにか不思議な気味悪い感じを生む。
(『蕨手』)
此《この》秋《あき》は何《なん》で年よる雲に鳥
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
旅から旅へ憑《つ》かれたようにさまよった芭蕉は、元禄七年(一六九四)十月十二日(今の十一月十九日ごろ)旅先の大阪で下痢に端を発した病《やまい》のため没した。
これは寝こむ直前の九月二十六日の作。急激な衰《おとろ》えと老いの自覚がこの句の背景にある。
彼は下《しも》五の「雲に鳥」の表現を得るため、この日は朝から苦心さんたんしたらしい。大勢の弟子たちが各地からつめかけ、枕頭に座していたため、芭蕉臨終の時の十日間余りは、きわめて正確に何人もの日記に残されていて、「この秋は」の句に苦しんだことも、たとえば子《し》考《こう》の『笈《おい》日記』に詳細に記録された。世界的に見ても、このような形で文学者の死の記録が残っていることは珍しい。今年の秋はどうしてこんなに老いが身にしみるのか、という嘆《なげ》きを、雲に消えゆく鳥の姿が音もなく吸いとる。漂泊者の魂《たましい》は空に漂《ただよ》う。
(『笈日記』)
七《たな》 夕《ばた》
私たち日本人は、秋の到来をしばしば秋風が立つという形で感じとるが、このような感性はだいたい『古《こ》今《きん》集《しゆう》』あたりから顕著になってきたようである。
ところで日本の古典文学は中国的な見方、感じ方から少なからず影響を受けているが、中国的感性の影響下に書かれたはずの漢詩の作例を見てみると、たとえば「立秋」という暦《こよみ》の知識によって秋風を思い、秋の到来を感じるという古今集的感じ方はほとんど見当らないように思われる。
『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』と同時代につくられた漢詩集『懐《かい》風《ふう》藻《そう》』、平安朝に入ってからの『凌《りよう》雲《うん》集《しゆう》』や『文《ぶん》華《か》秀《しゆう》麗《れい》集《しゆう》』、それに『経《けい》国《こく》集《しゆう》』など一連の勅《ちよく》撰《せん》平安漢詩集にも、実は「立秋」が「秋風」とごく自然に結びついているようなものは、見たかぎりにおいて見当らない。これは『万葉集』にもあてはまることで、『万葉集』では初秋を思うときには、どうやら「七《たな》夕《ばた》」に興味が集中していたようである。
牽《けん》牛《ぎゆう》・織《しよく》女《じよ》の一年に一夜しか逢《あ》えない恋物語が、『万葉集』や王朝和歌の時代に断然他を圧して日本の詩人たちのお好みの主題になったのは、当時の男女関係が基本的に男が夜だけ女のもとに忍《しの》んで通う妻《つま》問《ど》い婚《こん》だったからであろう。極端な言葉をあえて使えば、当時この種の恋愛・結婚形態においては、女はみな、原則的には一夜妻というわけだった。現実には男がそのまま住みつく場合もたくさんあっただろうが、歌の表現の中では、男も女もあくまで一夜明けたあとのきぬぎぬの別れを嘆《なげ》かねばならなかった。
そういう事情を反映して、詩人たちは七夕伝説のうちに、最も理想的に逢うことを禁じられた二人の男女を見出し、その「あわれ」を心をこめてうたおうとしたのであろう。
言うまでもなく「七夕」は現代でも七月七日の夜の行事として広く行われているが、もとは中国から伝わった伝説である。
天《あま》の川《がわ》をへだてて住んでいる牽牛星と織女星とが、旧暦の七月七日の夜に一年に一度逢えるという星祭りの行事で、牽牛、織女という、いずれも農民に関係した仕事が星の名前になっているところからみて、中国の民間伝説であったろう。本来の天の川は無数の恒《こう》星《せい》の聚《しゆう》合《ごう》体《たい》で、銀河とも呼ばれる。牽牛星は一名彦《ひこ》星《ぼし》ともいわれるが、鷲《わし》座《ざ》のアルタイル星のことで、織女星は琴《こと》座《ざ》の主星ベガを指す。
『万葉集』の巻十にはこの「七夕」の歌が九十八首、ずらっと並び編まれている。たとえば、
吾《わ》が待ちし秋《あき》芽《は》子《ぎ》咲《さ》きぬ今だにも
にほひに行かな遠《をち》方《かた》人《びと》に
待ちに待った萩《はぎ》の花が咲いた。まだ七月七日には間があるものの、今からでも堂々と逢いに行きたいものだ、遠いあのひとのもとに。
吾が背《せ》子《こ》にうら恋ひ居れば天の河
夜《よ》船《ぶね》榜《こ》ぐなる梶《かぢ》の音《おと》聞ゆ
私が夫(あるいは恋人)を内心で恋い慕《した》っておりますと、天の河に夜船を漕ぐ音が聞えます。
前の歌は牽牛星の心で、後の歌はそれと対《つい》をなすように織女星の想いを歌って、逢《お》う瀬《せ》を待ちこがれる、地上と変わりのない男女の姿を表現している。また巻八には、山《やまの》上《うえの》憶《おく》良《ら》の「七夕」の歌が十二首まとまっておかれている。その中の一首。
天《あまの》漢《がは》相向き立ちて吾が恋ひし
君来ますなり紐《ひも》解《と》き設《ま》けな
これは織女星の心を想像してうたったもので、大意は、天の河に向き合って立っている私たち、恋しいあなたが、ああそこにいらっしゃいます。私は衣の紐を解いて共寝の準備をいたしましょうよ。
「紐解き設けな」を歌の中心においた、愛情表現としてはやや直接的な詠《よ》みぶりであるが、恋愛と共寝とをごく自然に同一視していた当時の風習からしてみると当然な表現である。「天漢」の漢は、漢《かん》水《すい》という河名から転じたもの。「紐」は衣服の紐。「設《ま》けな」は、用意をしよう。素《そ》朴《ぼく》な味わいをもった歌である。
「七夕」の他の行事として秋祭も欠くことの出来ないもののひとつである。秋祭は、春祭の農作祈願や、祭の元祖ともいうべき賀《か》茂《もの》祭《まつり》などと違って、収穫を感謝する行事として行われるものである。したがって農事の終わる十一月頃が本来のものであるが、二百十日、二百二十日の無事を祝う気持ちもこめて、九月に秋祭を行う土地も多い。しかし貴族社会の勅撰和歌集である『古今集』などには、その種の収穫や労働にかかわる人々の姿はうたわれていない。そのことに関して思いおこすものに『百《ひやく》人《にん》一《いつ》首《しゆ》』の冒《ぼう》頭《とう》におかれている天《てん》智《じ》天皇の歌がある。
秋の田のかりほの庵《いほ》の苫《とま》をあらみ
わが衣《ころも》手《で》は露《つゆ》にぬれつつ
『後《ご》撰《せん》和《わ》歌《か》集《しゆう》』(九五一年、大《おお》中《なか》臣《とみの》 能《よし》宣《のぶ》、清《きよ》原《はらの》 元《もと》輔《すけ》、 源《 みなもとの》 順《したごう》、 紀《きの》時《とき》文《ぶみ》、坂《さかの》 上《うえの》望《もち》城《き》の、いわゆる梨《なし》壺《つぼ》の五人といわれた人たちが撰進した勅撰和歌集)の「秋の巻」に入っている歌である。
大意は、稲がようやく実った田《たん》圃《ぼ》で、番をするために仮小屋をたてて、私はその仮小屋の中に泊《とま》っている。屋根を葺《ふ》いた苫は即製で、目は粗《あら》い。その隙《すき》間《ま》からもれ落ちる露に、私の袖《そで》はぬれそぼって乾く暇もない。
実はこの歌には元歌があって、作者未詳の歌として『万葉集』巻十に入っている。
秋田刈る仮《かり》廬《ほ》を作りわが居れば
衣手寒く露ぞ置きにける
この『万葉集』の歌には、天智天皇の御製とされた『後撰集』の歌にはない、秋の田圃を刈る、稲を刈るという直接の労働が詠《よ》まれている。「秋田刈る」といえば、直接収穫にあたる農民の歌であるが、それが後世に伝えられていくうちに平安朝風の詠みぶりに変形され、やがて天智天皇の御製ということになった。天皇は直接の労働に従事する身分でない以上、「秋の田のかりほの庵の」となるのはいわば必然的な変形といえるだろう。そしてまた、『万葉集』の直接自《みずか》らが秋の田圃を刈る庶民のうたいぶりと、『古今集』以後、平安貴族を中心としたうたいぶりとの違いを、この一首は象徴的に示しているともいえるだろう。
天《あま》の河《がは》とわたる船の梶《かぢ》の葉に
思ふことをも書きつくるかな
上《かず》総《さの》乳母《めのと》
七《たな》夕《ばた》の歌。「梶の葉」はカジノキの葉。七夕の夜、古人たちはこの薄《うす》緑《みどり》の葉七枚に歌を書いて織《しよく》女《じよ》星を祭った。織女星をまた「梶の葉姫」と呼ぶ習慣があるのもこのためである。
「とわたる」は門渡るで、瀬戸を渡ること。ここでは天上の銀河を川に見たてたのでこう言ったのである。「船の梶」の縁で「梶の葉」へ転じる。歌の優美さから、数多い七夕の中でもよく知られた歌。この歌に影響されてできたと考えられる同想の表現の一例をあげれば、次のようなものがある。これは和歌ではないが、同じ圏内にある物語の文章である。「天のとわたる梶の葉に思ふことかくころなれや」(『平家物語』「妓《ぎ》王《おう》」)
(『後拾遺集』)
初恋や燈《とう》籠《ろ》によする顔と顔
炭《たん》 太《たい》祇《ぎ》
太祇は江戸時代中期の俳人。江戸の人であるが、のち京都島原遊《ゆう》廓《かく》内に庵《いおり》を結んだ。人事を得意とした俳風で、蕪《ぶ》村《そん》とも親交があった。
右の句の「燈籠」は盆燈籠のことで、石燈籠の類ではない。俳句の季語で「燈《とう》籠《ろう》」は、旧暦の于《う》蘭《ら》盆《ぼん》のものであるから初秋である。この句のお盆もむろんそれに従っている。
涼風のたつ旧盆の季節に「燈籠」を置いてこそ、恥じらいつつ二人して灯《ほ》影《かげ》に顔寄せ合っている少年少女の、過ぎゆく青春のひとときがきわだって印象的になるのである。
(『太祇句選後篇』)
生涯にまはり灯《どう》籠《ろ》の句一つ
高《たか》野《の》素《す》十《じゆう》
句に前《まえ》書《がき》がある。「須賀田平吉君を弔ふ」。素十はこの人につき何も言っていない。読者は彼の一句を通してその人を想像するのみ。もちろん専門俳人ではない。
実はこの須賀田平吉という故人は、大阪歯科医専(大阪歯科大学の前身)創立者の一人だった。素十の遠縁だった関係で、素十から句の手ほどきを受けたが、まもなく早世した。
素十がこの追悼句でふれたから、ああこの須賀田平吉氏は、ある時「廻り灯籠」を俳句に詠んだのだな、とわかるが、それ以上は、その句そのものも含めてわからない。
生涯に一句だけ、あの廻り灯籠の句はよかったな、と人に思わせて去るのもまた爽《さわ》やか。走馬灯という題材はこの場合、価千金の滋味がある。
(『初鴉』)
天《あま》の河《がは》霧《きり》立ち渡り彦《ひこ》星《ぼし》の
楫《かぢ》の音《と》聞《きこ》ゆ夜《よ》の更《ふ》けゆけば
よみ人《びと》しらず
『万葉集』巻十秋の雑歌「七夕」に収める。
天帝の怒りにふれ、年に一度、七月七日の夜しか会えなくされた織《しよく》女《じよ》と牽《けん》牛《ぎゆう》をめぐる中国の伝説は、日本に伝えられると古代の知識層に大いに好まれ、『万葉集』以下歴代歌集に大量のタナバタの歌を留める。男が女のもとへ通う日本の古い婚《こん》姻《いん》形態からも親しめる話だったのか。陰暦七月七日は、陽暦では八月半ば。初秋だから、七夕の歌には秋の季感が漂う。
(『万葉集』)
秋の野を分け行く露にうつりつつ
わが衣手は花の香ぞする
凡《おおし》河《こう》内《ちの》躬《み》恒《つね》
躬恒は平安初期歌人の代表的存在。紀《きの》貫《つら》之《ゆき》、紀友《とも》則《のり》、大《おお》江《えの》千《ち》里《さと》、壬《み》生《ぶの》忠《ただ》岑《みね》ら八人の有名歌人と共に「三月三日紀師匠曲水宴」と称せられている貫之主催の競詠のうたげが行なわれたとき、躬恒は春水に浮く花を詠《よ》んで「やみがくれ岩間を分けて行く水の声さへ花の香にぞしみける」のような繊《せん》美《び》をきわめる作を詠んだ。
後代の新古今に採られた右の歌も同系列のもの。花盛りの秋の野をかき分けてゆくと、花の香がしみこんだ朝露でわが袖《そで》まで薫る、というのだが、もちろんこれは花の香をたたえるための誇張である。表現は屈折に富んで優《ゆう》艶《えん》。ことばの感覚美追求の先駆者だった。
(『新古今集』)
白露や死んでゆく日も帯締めて
三《みつ》橋《はし》鷹《たか》女《じよ》
三橋鷹女は句集に『白骨』『羊《し》歯《だ》地獄』などの題をあえてつけるほど個性の強い女流俳人だった。「白骨の手足が戦《そよ》ぐ落葉季」(『白骨』)のような痩《や》せこけた句もその個性の反面を示していた。
彼女には死をみつめて自己を厳しく追いつめる一面がある。「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」「みんな夢雪割草が咲いたのね」のように強気で孤絶的な作が多いが、右の句の「死んでゆく日も帯締めて」には、気品と寂《せき》寥《りよう》の結びついた澄《す》んだ悲しみがある。
(『白骨』)
たまだなやしら髪《が》を拾う膳《ぜん》の上
白《しら》井《い》鳥《ちよう》酔《すい》
白井鳥酔は江戸中期の俳人。上総《かずさ》(千葉県)の人。家は代官で二十一の時家《か》督《とく》を継いだが数年で免職、隠居を命じられた。代官職を怠ったためという。こういうことも江戸時代にはあったのだ。現今の日本の状況を考え合わせると、意外な気がするような事実である。
剃《てい》髪《はつ》して隠居し、後半生は年少時から好きだった俳《はい》諧《かい》に没頭、江戸で名をあげた。芭《ば》蕉《しよう》の跡をたずねて関西にも遊吟、著作も多い。
「たまだな」は魂棚。お盆の魂棚をまつって亡き人々をしのぶ日、ふと膳に自分の白髪が落ちているのを見たのである。おのずとそこに、父母につながる思いがある。
(『近世俳句俳文集』)
老《おい》ふたり互《たがひ》に空気となり合ひて
有るには忘れ無きを思はず
窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》
窪田空穂は明治十年(一八七七)長野県に生まれ、昭和四十二年(一九六七)、満九十歳直前で没した。歌集は生涯に二十三冊、『万葉集評釈』『古今和歌集評釈』『新古今和歌集評釈』と、日本古典の三大和歌集すべての評釈を行なったのは、空穂ただ一人である。
近代の詩歌人のうち老年を詠《よ》んできわめて深い境地を表現した作者としては、歌人に窪田空穂、俳人に高浜虚《きよ》子《し》がいる。虚子の「秋灯や夫婦互に無き如《ごと》く」という句と空穂のこの歌、読み較べてみると、おのずと俳句と短歌の違いまで見えてきて面白い。
老夫婦がもはや空気となり合ったように、相手の存在さえ忘れているが、かといって相手がそこに「無き」ことは、片時も思わない。下句の簡潔な表現はみごとで、短歌形式の奥深さをよく示す。
(『去年の雪』)
牛一つ花《はな》野《の》の中の沖の石
武《む》玉《たま》川《がわ》
寛延三年(一七五〇)、江戸座の俳《はい》諧《かい》宗匠慶《けい》紀《き》逸《いつ》が、当時流行の「前《まえ》句《く》付《づけ》」の付《つけ》句《く》から秀逸の句を選んで刊行した『武玉川』は、時人の嗜《し》好《こう》に投じて大好評を博し、次々に続篇が出た。収録句には、機智を重んじるこの種の詩の特長として圧倒的に人事の句が多い。
その中にこういう句が混じっていて、かえって目をひく。秋草が咲き乱れる花野の真ん中、あたかも海の沖合に黒く背中だけ出している岩のようなものが見える。何だろう。おやごらんよ、牛だよあれは。
ふところに入《いり》日《ひ》のひゆる花《はな》野《の》かな
金《かな》尾《お》梅《うめ》の門《かど》
金尾梅の門は、俳号は一見江戸時代の俳人かとさえ思われるほど古風だが、明治三十三年(一九〇〇)富山市に生まれ、昭和五十五年(一九八〇)に没した現代俳人。
「花野」は、俳句の季語としては秋の草花の咲き乱れる野をいう。「ふところに入日のひゆる」というとらえ方は、さりげない感じだが鋭敏である。作者は少年時代、家業の薬行商のため関東各地を旅した経験もあり、のち上京するまで多年富山で暮らした。この句には、そう思ってみれば、まさに北陸の秋が、寂《せき》寥《りよう》の姿でとらえられているともいえそうである。
(『古志の歌』)
霧《きり》の村石を投《ほ》うらば父《ふ》母《ぼ》散らん
金《かね》子《こ》兜《とう》太《た》
金子兜太は、大正八年(一九一九)埼玉県小川町に生まれた。父親も俳人で、伊《い》昔《じやく》紅《こう》と号した。兜太は東大経済学部を卒業し、日本銀行に入り、俳句は加藤楸《しゆう》邨《そん》に学んだ。
兜太は昭和三十年代の前衛俳句運動の旗手として知られていたが、のち原郷志向、定住漂泊、伝統体感といった伝統回帰的主張に転じた。これは故郷秩《ちち》父《ぶ》を詠《よ》んだ代表作の一つ。「父母」は定義通りの父母も含めて霧のようにたちこめる父祖の霊《れい》をもさすだろう。故郷への愛《あい》憎《ぞう》こもごもの思いをこめて霧の中へ石を深々とほうる。
(『蜿蜿』)
萩《はぎ》の花 尾《を》花《ばな》 葛《くず》花《ばな》 瞿《なで》麦《しこ》の花
女郎花《 をみなへし》 また 藤《ふぢ》袴《ばかま》 朝《あさ》貌《がほ》の花
山《やまの》上《うえの》憶《おく》良《ら》
山上憶良は奈良時代の歌人。遣唐使として渡唐、後に筑《ちく》前《ぜんの》守《かみ》となった。
人生の苦悩、社会の階級的矛《む》盾《じゆん》を多く歌った歌人であったが、まれにはこのような、ふと目にとどめた懐《なつ》かしい景物をも歌った。五七七・五七七の旋《せ》頭《どう》歌《か》形式で秋の七草をとりあげている。尾花はススキ、藤袴はキク科の多年草で、秋、淡紫色の小さな筒《つつ》状の袴を思わせる花を多数散《さん》房《ぼう》状に開かす。朝貌はアサガオ、ムクゲ、キキョウ、ヒルガオなどの諸説がある。
(『万葉集』)
紫陽花《 あ ぢ さ ゐ》に秋《しう》冷《れい》いたる信《しな》濃《の》かな
杉《すぎ》田《た》久《ひさ》女《じよ》
杉田久女は明治二十三年(一八九〇)鹿児島市に生まれ、昭和二十一年(一九四六)没した。大正六年(一九一七)、「ホトトギス」の「台所雑詠」ではじめて五句が採られ、俳壇に登場した。それから着々と実績をあげたが、昭和十一年、突如「ホトトギス」同人除籍という悲運に遭い、以後作句力が減退し、不遇のまま没した。しかしその才は高く評価される。
この句は大正九年八月、亡父の埋骨のため信州松本に行った時の句で、久女の代表作の一つとされている。紫陽花は元来夏の花で、「秋冷」(秋の季語)のころには色もあせているのが普通。しかしこの句の紫陽花は色あせてはいまい。高原の国信濃では、紫陽花はさわやかな大気の中でその清《せい》楚《そ》な薄紫の色をかかげていたのだろう。それゆえ「秋冷」が一層感深いのである。結句が大らかで堂々としている。
(『杉田久女句集』)
風はらむはずみにひらく芙《ふ》蓉《よう》かな
阿《あ》波《わ》野《の》青《せい》畝《ほ》
阿波野青畝は明治三十二年(一八九九)奈良県高取に生まれ、平成四年(一九九二)、九十三歳で没した。「ホトトギス」で大正十年代から活躍、秋《しゆう》桜《おう》子《し》・誓《せい》子《し》・素《す》十《じゆう》と並んで四Sと称されるようになった。自在な作風で高齢になってもいささかの作句力の衰えを見せなかった。昭和二十二年(一九四七)、カトリック教徒となった。
朝、淡紅色の五弁の花を開くが一日でしぼみ、散ってしまう芙蓉。まれには白い花の白芙蓉もあれば、咲き始めは白く、しだいに紅色に変わるため酔《すい》客《きやく》の顔になぞらえられる酔芙蓉もあるが、いずれも花は短命。それゆえに一層いとおしまれる。青畝の句はそのような芙蓉のあえかな命の様相まで包みこんでいる感じの句で、単に一輪の花の描写に終わらない余情をも漂《ただよ》わせている。
(『国原』)
秋はなほ夕まぐれこそただならね
荻《をぎ》の上《うは》風《かぜ》萩《はぎ》の下《した》露《つゆ》
藤《ふじ》原《わらの》義《よし》孝《たか》
「ただならず」は普通でない、きわだっている。「荻」は水辺の湿地に群生するススキに似た草。絹状の穂のような花《か》序《じよ》が美しい。
歌の大意は、秋は夕暮れ時こそあわれにも美しい、オギの上葉を吹き渡る風も、ハギの下枝におく白露も、というので、『和漢朗詠集』にも引かれている歌。
「荻の上風萩の下露」という文句が愛され、しばしば引用もされた。作者は中古三十六歌仙の一人だが、伝染病でわずか二十一歳で急死した人。
(『義孝集』)
真《ま》萩《はぎ》散る庭の秋風身にしみて
夕日の影《かげ》ぞかべに消えゆく
永《えい》福《ふく》門《もん》院《いん》
鎌倉後期・南北朝時代の代表的女流歌人。『玉葉集』『風雅集』時代という和歌復興の時代を代表した一人である。西《さい》園《おん》寺《じ》実《さね》兼《かね》の娘で、伏《ふし》見《み》天皇中《ちゆう》宮《ぐう》。
「真萩」は萩の美称。「影」は現代における使い方とは違い、もっと多様な意味合いを含んで、明暗両面に用いた語。ここでは夕日の光をさしているが、同時に何かの物の影も連想させる。「身にしみて」が、秋風のそぞろ寒さをいいながら壁に「しみる」ように消えてゆく夕日かげにまで陰影豊かにひびいている。
純然たる風景描写の歌が、その細みの風《ふ》情《ぜい》によって一読忘れがたい印象を与えるのは、この歌の背後に、じっと夕日のあたる壁をみつめているだけの、たおやかでさびしい女人の眼の存在が感じられるからだろう。
(『風雅集』)
秋づけば尾花が上に置く露《つゆ》の
消《け》ぬべくも我《あ》は思ほゆるかも
日《へ》置《きの》長《なが》枝《え》娘子《おとめ》
『万葉集』では、「秋の雑歌」に分類されているが、歌の本意は恋歌で、大《おお》伴《ともの》 家《やか》持《もち》に贈ったもの。
「秋づけば」は、秋めいてくれば、上《かみ》三句は、秋になるとススキの花穂に置く露のように、というところから、「露」の縁で「消ぬべく」にかかる序《じよ》詞《し》。私はもう露のようにはかなく消え入るばかりの思いですと。ちなみに、この歌に続く家持の歌は「わがやどのひとむら萩《はぎ》を思ふ児《こ》に見せずほとほと散らしつるかも」で、前歌の上三句だけをとらえて、秋の情趣に転換させている。
夏《なつ》目《め》漱《そう》石《せき》はあまり短歌には関心を示さなかった作家だが、『草《くさ》枕《まくら》』の中でこの「秋づけば」の歌を引用している。
(『万葉集』)
朝顔の紺《こん》のかなたの月日かな
石《いし》田《だ》波《は》郷《きよう》
石田波郷は大正二年(一九一三)愛媛県垣生村(現松山市)に生まれ、昭和四十四年(一九六九)に没した。水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》の「馬《あ》酔《し》木《び》」から出発、「鶴」を創刊した。中国大陸に従軍したが、病を得て内地に送還、戦後はいち早く綜合俳誌「現代俳句」を創刊編集した。しかし結核再発、これが命取りになった。『惜《しやく》命《みよう》』その他の句集で療養俳人として一躍有名となり、現在も人気は高い。
藍《あい》染《ぞ》めの最も濃い色が紺。そして染物屋さんの通称が紺《こう》屋《や》だったことは、紺がすべての染め色を代表する色と考えられていたことを示すものだろう。日本人には特に親しみ深い色だった。同時に、青という色は天上的な色。限りなく人の心を非日常の世界へいざなう力をもつ。波郷は朝顔の深く清新な紺色に、時の彼方へむけて一種の望郷の思いをいざなう力を感じとったのである。
(『風切』)
糸瓜《へちま》咲《さい》て痰《たん》のつまりし仏《ほとけ》かな
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》
正岡子規は学生時代にすでに結核にかかり、喀血もたびたびあった。血を吐くほどになっても鳴くという意味でホトトギスに名づけられた「子規」の異名を、そのままとって自分の俳号とした。慶応三年(一八六七)―明治三十五年(一九〇二)の、わずか三十五年の生涯だったが、残した仕事は厖大だった。
子規庵には去痰の薬用と日《ひ》除《よ》けをかねてヘチマ棚が作られていた。晩夏・初秋のころ、ヘチマは真黄色の花を咲かせる。明治三十五年九月十八日、子規は痰がつまって声も出なくなった。もうヘチマの水も役には立たないだろう。これは仰向けに筆を走らせた絶筆三句の最初の一句。子規はすでに死んだ人、つまり「仏」として自分を描いている。この自己客観の余裕と胆力に、たぶん子規の生涯が要約されていた。十九日未明没。
(『子規全集』)
あはれさもその色となきゆふぐれの
尾花がすゑに秋ぞうかべる
京《きよう》極《ごく》為《ため》兼《かね》
京極為兼は藤原定家の嫡男為《ため》家《いえ》の三男為《ため》教《のり》を父とする。藤原家の出身だが、京極家の祖となった。和歌の伝統を守った藤原家の各家の中でも、権威のあった二条家の歌風に対抗し、自然観照に特色ある歌風を樹立、新時代を生み出した功績者である。
「その色となき」は「はっきりその色と言うことができぬ」の意。見まわしてみて、これぞ秋のあわれ、と言えるような際《きわ》立《だ》った情景とてどこにもない夕暮れだが、ふと見れば、風にそよぐひとむらの薄《すすき》の穂先に、ああ、秋が浮かんでいるではないか。「あはれさもその色となき」「秋ぞうかべる」などの抽象的な表現は、意識して具象性を排し、微妙な感覚そのものに迫ろうとする中世和歌の新風だった。
(『風雅集』)
蝶老《おい》てたましひ菊にあそぶ哉《かな》
榎《えの》本《もと》星《せい》布《ふ》
晩秋の蝶が力なく戯《たわむ》れながら翔《と》んでいる。死期も近い蝶のその飛《ひ》翔《しよう》を、魂がうつつなく菊に遊んでいると見てとったのである。鋭い感覚の中に、老いを感じそめた自らの身を晩秋の蝶になぞらえている気配も見えて哀れふかい。
作者は武蔵《むさし》国八王子の本陣の娘で、十六歳の時母を亡くし、継母によって俳句を教えられた。旧家の津戸家から夫を迎え、一子喚《かん》之《し》を得たが、若くして夫と死別、尼になり、俳《はい》諧《かい》を俊才加《か》舎《や》白《しら》雄《お》に学んでぬきんでた女流俳人となった。「ゆく春や蓬《よもぎ》が中の人の骨」という異色作は有名。『星布尼句集』その他多くの彼女の遺作は、息子喚之の編著である。
(『星布尼句集』)
葛《くず》咲くや嬬《つま》恋《ごひ》村の字《あざ》いくつ
石《いし》田《だ》波《は》郷《きよう》
俳句のような短詩では地名一つが死活の鍵《かぎ》を握る。波郷の師水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》が第一句集を『葛《かつ》飾《しか》』と名づけた時、昭和俳句は地名の魅力を再確認した。波郷のこの句はそういう新しい傾向を裏づける名作である。
浅《あさ》間《ま》北《ほく》麓《ろく》、群馬県北西部を占める嬬恋は大きな村だ。波郷は昭和十七年(一九四二)初秋、信州上田を出発、徒歩で嬬恋村を横切る旅をした。これはその旅の収穫。哀れ深い名の広々とした村に、可《か》憐《れん》な葛の花が咲いて。
(『風切』)
あなたなる夜《よ》雨《さめ》の葛《くず》のあなたかな
芝《しば》 不《ふ》器《き》男《お》
不器男は、昭和五年(一九三〇)二十六歳で夭《よう》折《せつ》した愛媛県生まれの俳人。東大林学科中退後、東北大機械工学科に再入学、在学中の作。「二十五日仙台につく。みちはるかなる伊予の我が家をおもへば」と前《まえ》書《がき》する句。ただし前書は作者自身ではなく遺句集編者がつけた。
「あなた」は彼方《かなた》。はるか彼方に夜雨にうたれる葛の山野がある。ああそのさらにさらに彼方に……とのみで、余韻は虚空にゆだねる。言いおおせずして思郷の調べは豊か。
芝不器男の句は多くの人に今なお愛読されているが、そのために大いに貢献したのは、現代俳人飴山實による増補を経た『定本芝不器男句集』や『芝不器男伝』である。最初の『不器男句集』(昭和九年)は横山白虹の編だった。
(『不器男句集』)
をりとりてはらりとおもきすゝきかな
飯《いい》田《だ》蛇《だ》笏《こつ》
飯田蛇笏の名作として知られる句で、全文を平仮名表記にしているのが甚だ効果的な作品。
すすきの、まだすっかり開ききらない、しっとり水気を含んでやや黄味をおびた穂を折り取る。はらりと手に置かれた瞬間、すすきはえもいわれぬ軽《かろ》やかな重さとでもいうべき感触を伝えてくる。新鮮な、かそけき存在の手ざわりである。大体、「はらりと」とあればまず軽さを反射的に思うのが常識だろう。それが「おもき」と続くとき、すすき一本の重みの霊《れい》妙《みよう》さににわかに目を開かれる思いがする。
(『山廬集』)
跡もなき庭の浅《あさ》茅《ぢ》にむすぼほれ
露《つゆ》のそこなる松虫のこゑ
式《しき》子《し》内《ない》親《しん》王《のう》
庭に茅《ちがや》が生えるということは家の荒《こう》廃《はい》の有様をさす。「むすぼほれ」は結ぼれと同じで、「心」のむすぼれと「露」のむすぼれを掛けている。前者では、「むすぼほれ」は心の沈みがちであることを意味し、一方「露」は涙を暗示する。さらに「松虫のこゑ」は、「松」に「待つ」を掛け、初句の「跡もなき(愛人の訪れもない)」に応《こた》えている。つまり、荒れた庭の露に濡《ぬ》れている松虫と、愛人に見捨てられた女の、露(涙)に濡れて待つ哀《かな》しみをうたう。題《だい》詠《えい》であるにもかかわらず哀《あい》感《かん》深い。
(『新古今集』)
秋さらば見つつ思《しの》へと妹《いも》が植ゑし
屋《や》前《ど》のなでしこ咲きにけるかも
大《おお》伴《ともの》家《やか》持《もち》
『万葉集』巻三挽《ばん》歌《か》に収める。秋がきたらこれを見て私をしのんで下さいと、妻は庭になでしこを植えた。その花が咲きはじめたのに、妻はもうこの世にいない。この歌は家持がまだ若かった二十代はじめの時期の作で、相手がどういう女性だったかは「亡妾」とあるだけで不明。
当時の法制大宝令では、「妾」は戸籍に登録もされる公認の存在だったようだが、家持はこの人の死をひどく悲しみ、繰り返し挽歌を詠《よ》んでいる。
(『万葉集』)
のちの月葡《ぶ》萄《だう》に核《さね》のくもりかな
夏《なつ》目《め》成《せい》美《び》
成美は江戸後期の俳人。裕福な家柄の出身で、貧しい俳人などで彼の庇護を得た人も多く、小林一茶も江戸流浪時代に恩義を蒙った。温和な人柄で、俳《はい》諧《かい》に特定の師はなかったが、洗練された句によって大家と仰がれる。
「のちの月」は陰暦九月十三夜。この時期の季節感を、葡萄の実を透《す》かし見た時の種子のまわりの曇《くも》りでとらえる。何とも鋭敏な目のつけ所というほかない。空からはさえた月光が降り、地上には種子のまわりにやや曇りを帯びた果物の粒《つぶ》が……。組み合わせそのものに詩がある。
(『成美家集』)
声なり刈《かり》田《た》の果《はて》に叫びおる
西《さい》東《とう》三《さん》鬼《き》
昭和十年代に新興俳句の鬼才といわれた三鬼は、胃《い》癌《がん》に倒れ、昭和三十七年(一九六二)還《かん》暦《れき》そこそこで惜しまれつつ死んだ。『変身』は没後まもなく出た遺句集だが、三十代や四十代のころの才華はじける句とは別種の、沈痛な人生凝視の句が多く、さすがと思わせる。
この句の初《しよ》五《ご》は四音で破調。しかし、一音の深い沈黙をしたがえたこの破調には、動かし難い必然性がある。野に叫んでいる声は、天の声か、それとも地の嘆きか。
(『変身』)
秋の田のかりほの庵《いほ》の哥《うた》かるた
手もとにありてしれぬ茸《たけ》狩《がり》
四《よ》方《もの》赤《あか》良《ら》
『蜀山百首』秋に収める。小《お》倉《ぐら》百人一首の有名な歌をもじる。すなわち第一番天智天皇作「秋の田のかりほの庵の苫《とま》をあらみわが衣《ころも》手《で》は露にぬれつつ」のもじり。
目を皿のようにして見ていても、すぐ手もとの札《ふだ》には案外気づかないのがかるた取りのおかしさだが、茸狩りも同様で、すぐ足もとの茸に案外気づかない。両方を手品のように結びつける。人々の熟知する原歌をもじってあっと驚くような展開に導くのが、狂歌の極意である。
(『蜀山百首』)
けふの日の終る影《かげ》曳《ひ》き糸すすき
野《の》見《み》山《やま》朱鳥《あすか》
朱鳥は画家を志したが病弱で断念、版画と俳句に専心し、「ホトトギス」で高浜虚《きよ》子《し》に大いに期待される出発をした。しかし俳句にかける意欲が燃えさかっている最中に、肺《はい》患《かん》のため壮年で死んだ。
初期の作には言葉の身振りの強い、主観性の勝った句が多いが、病床に臥《ふ》していた晩年の句には、このように、迫《せま》り来る死の気《け》配《はい》に身をひたした、しんと静かな作がある。彼はこの句を口ずさみながら、生と死のはざまに糸すすきの影が落ちているのも感じていただろう。
(『野見山朱鳥全句集』)
桐《きり》一《ひと》葉《は》日当りながら落ちにけり
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
明治三十九年(一九〇六)、虚子三十二歳の作。「桐一葉」は中国古典の「一葉落ちて天下の秋を知る」などの句に由来する秋の季語。
淀《よど》殿《どの》と片《かた》桐《ぎり》且《かつ》元《もと》の悲劇を書いた坪《つぼ》内《うち》 逍《しよう》遥《よう》の戯曲『桐一葉』でも分かるように、凋《ちよう》落《らく》というイメージと結びつく言葉である。しかし、いうまでもなく虚子はそのような意味合いは排して、ただはらりと日を受けて落ちる葉一枚だけを描いた。目のレンズに切りとられた小さな景《け》色《しき》そのものが、背後の天地の大きさによって目覚めさせられたかのようである。
(『五百句』)
芋《いも》の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ
子芋は白く凝《こ》りつつあらむ
長《なが》塚《つか》 節《たかし》
長塚節は正岡子《し》規《き》の高弟。初期「アララギ」を伊《い》藤《とう》左《さ》千《ち》夫《お》とともに主導した歌人・小説家。茨城県に旧家の地主の長男として生まれ、育った。結核のため三十五歳で没。写生の歌に独自の境をひらき、鋭い観察と冴《さ》えた感覚には完成された風格があった。
右の歌は明治四十年(一九〇七)九月二日作「初秋の歌」の一首。里芋の葉から地面に落ちつづける夜の露《つゆ》。その白玉の露がしみて、地中の芋は白く輝きながら実りつつあるだろうという。地中を凝《ぎよう》視《し》する目と想像力がもたらした印象鮮《あざ》やかな歌。
(『長塚節歌集』)
芋《いも》の露《つゆ》連山影《かげ》を正しうす
飯《いい》田《だ》蛇《だ》笏《こつ》
先に出た「をりとりてはらりとおもきすすきかな」とも同じ句集に入っている。
里芋畑の大きな葉に露が置いて輝く。かなた、連山のたたずまいにはみじんのゆるみもない。本来は善悪の判断に使われることの多い「正し」が、新しい意味づけをされてここに用いられているが、「連山影を正しうす」という得難い表現を得て、大いなる自然と自己との一体化を表しえた作者には、歓喜と粛《しゆく》然《ぜん》たる思いがあったろう。大正三年(一九一四)の作で、初期の代表句としてつとに有名である。
(『山廬集』)
芋《いも》嵐《あらし》猫が〓《ひげ》張り歩きをり
村《むら》山《やま》古《こ》郷《きよう》
いもの葉裏を白くひるがえらせて吹く強い秋風が「芋嵐」。この秋風が吹くころには、初夏ごろ生まれた子猫たちもりっぱに一人前になっている。ひげをぴんと張って畑中の道をゆく猫の、いかにも威厳ありげな姿のもつおかしみ。
村山古郷は明治四十二年(一九〇九)京都に生まれ、昭和六十一年(一九八六)、七十七歳で没した。近代俳句・俳壇史の知見の広さでは定評があり、その方面での著作も多い。『俳句もわが文学』三巻や『明治俳壇史』『大正俳壇史』『昭和俳壇史』、また俳人の伝記や俳句年表などで大きな仕事をした。
(『村山古郷集』)
曼《まん》珠《じゆ》沙《しや》華《げ》抱くほどとれど母恋し
中《なか》村《むら》汀《てい》女《じよ》
中村汀女は高浜虚《きよ》子《し》が「ホトトギス」を通じて起こした女流俳句興隆の気運の中から出てたちまち頭角を現した俳人で、平明な言葉の中に豊かな感性を生き生きと盛っている句が多い。
汀女は一人娘で両親の愛を一身に受けて育ったらしい。嫁《とつ》いで故郷を離れ、三十歳をすぎて三人の子持ちとなっても、その心から母恋いの思いは消えなかった。この句の、一《ひと》息《いき》に詠《よ》み下したような勢いのよさには独特の愛《あい》 誦《しよう》性がある。
(『汀女句集』)
舂《うすづ》ける彼《ひ》岸《がん》秋《あき》陽《び》に狐《きつね》ばな
赤々そまれりここはどこのみち
木《きの》下《した》利《り》玄《げん》
木下利玄は大正十四年(一九二五)、三十九歳の若さで没した岡山県生まれの歌人。佐《さ》佐《さ》木《き》信《のぶ》綱《つな》門の歌人で、「白《しら》樺《かば》」同人だった。
この歌は「わが故郷にて曼《まん》珠《じゆ》沙《しや》華《げ》を狐ばなと呼ぶ、われ幼き頃は曼珠沙華の名は知らざりき」という詞《ことば》書《がき》がある歌。「舂く」は夕日が山に沈もうとする状態をいう。口語や童謡歌詞を自在に用いた詠《よ》みぶりは利玄の独《どく》擅《せん》場《じよう》だった。右の句にも効果的に使われているが、下《しもの》句《く》の七七を八八音で収める独得のリズムによって、曼珠沙華の妖《あや》しい美しさをもたくみにとらえている。
(『李青集』)
秋《あき》彼《ひ》岸《がん》すべて今日ふるさむき雨
直《すぐ》なる雨は芝《しば》生《ふ》に沈む
佐《さ》藤《とう》佐《さ》太《た》郎《ろう》
佐藤佐太郎は、現実生活の細部から「発見」的な価値をもつ断面・瞬間を鋭《えい》敏《びん》に切り取ってくる名手といっていい歌人である。発見された現実の一瞬の姿が、一見したところありふれているようで実は非凡な把《は》握《あく》を示すところに、佐太郎作品の特色がある。
この歌でも、「直なる雨」が「芝生に沈む」という下《しもの》句《く》は、確かな写生の背後に、作者その人を感じさせる力がある。斎藤茂《も》吉《きち》に師事し、茂吉に関する重要な著作がある。
(『地表』)
鶏《けい》頭《とう》に鶏頭ごつと触《ふ》れゐたる
川《かわ》崎《さき》展《てん》宏《こう》
川崎展宏は昭和二年(一九二七)呉市生まれ。本名は展《のぶ》宏《ひろ》。加藤楸《しゆう》邨《そん》門に入り、「寒《かん》雷《らい》」新人会で知られるようになり、俳句と批評との両面で注目された。楸邨の門人としては珍しいが、花鳥諷詠の高浜虚《きよ》子《し》を深く尊敬し、評論集『高浜虚子』はよく知られている。森澄雄の「杉」にも参加したのち、「貂《てん》」を創刊、その代表となった。
『伊《い》勢《せ》物《もの》語《がたり》』などの古典の美と雅と折目正しさを愛する俳人だが、それだけにかえって、現代俳句において写生というものが重視されるにいたった必然性に対する醒《さ》めた認識をもっている。この句はそれを示す一例だろう。「ごつと」が発見で、なるほどこう詠《よ》まれると、鶏頭が風に揺れてふれ合う様は、「ごつ」とふれる以外にないと思えてくるから不思議である。
(『観音』)
頂上や殊《こと》に野《の》菊《ぎく》の吹かれ居《を》り
原《はら》 石《せき》鼎《てい》
高浜虚《きよ》子《し》をして「大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰《いわ》く普《ふ》羅《ら》、曰く石鼎」といわしめ、石鼎を一躍有名にした二十七歳時の作。明治四十五年(一九一二)から一年余、村医となった次兄の助手役として吉野山の山中深く暮らした当時の句である。
丘の頂上の光景をありのままに詠《よ》んでいるが、「頂上や」の単刀直入に続く「殊に」が、無《む》造《ぞう》作《さ》で的確に生きているため、句は澄《す》んだ秋空のもと、それ自身風に溶《と》けて自在に吹かれている感がある。
(『花影』)
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》
明治二十八年作。「法隆寺の茶店に憩ひて」とある。子規といえばこの句があげられるほど有名だが、何の造作もない即興の作。どこか間が抜けているようにさえ見えるのに、実際は大和《やまと》の秋の道具立ても揃《そろ》っている上に明朗な点が愛されるゆえんだろう。
実際には、子規自身は同年春喀《かつ》血《けつ》、夏まで神戸や須《す》磨《ま》で療養していた。すでに宿《しゆく》痾《あ》の脊《せき》椎《つい》カリエスによる腰痛に苦しみ始めていたので、この旅はその意味でも彼にとって思い出深い旅となった。
(『子規全集』)
香《か》取《とり》より鹿《か》島《しま》はさびし木の実落つ
山《やま》口《ぐち》青《せい》邨《そん》
山口青邨は明治二十五年(一八九二)盛岡市に生まれ、昭和六十三年(一九八八)没。東大工学部採鉱学科に学び、鉱務の専門家として農商務省鉱山局などに勤務したのち東大工学部助教授、教授となった。その間ホトトギスで頭角をあらわし、講演で「四S」という名称を一躍有名にしたのも青邨だった。
この句は「香取鹿島吟行四句」より。水郷潮来《いたこ》をはさむ香取神宮(千葉県)と鹿島神宮(茨城県)。両社とも古来軍神として尊崇されたが、この句は、印象的手法によって両社の雰《ふん》囲《い》気《き》の相違を描破した。鹿島神宮は北浦よりもさらに東、市中のにぎわいには遠い。境内は古木の樹林の静けさにみちている。落ちる木の実に「さびし」の語がぴたりとついて幽寂境を現出させた手腕がみごと。
(『雑草園』)
よろこべばしきりに落つる木《こ》の実《み》かな
富《とみ》安《やす》風《ふう》生《せい》
作者は九十三歳の長寿で没したが、第一句集を出したのも遅く、四十八歳だった。これはその中の代表作。風生晩年の句には、滋《じ》味《み》ゆたかで豊《ほう》潤《じゆん》多彩、腰のすわった風格の句が多いが、普通、風生といえばまずあげられるのがこの句だろう。よく知られている句だが、古《ふる》びのこない瑞《みず》々《みず》しさは見事である。作者の心が自然界に対していきいきと開かれているからである。無《む》造《ぞう》作《さ》な切りとり方でいて、表現に隙《すき》がない。「ごく自然に松虫草も植ゑてある」「野葡《ぶ》萄《だう》や樹海を抉《えぐ》る道一すじ」。
(『草の花』)
かたはらに秋ぐさの花かたるらく
ほろびしものはなつかしきかな
若《わか》山《やま》牧《ぼく》水《すい》
明治四十三年(一九一〇)秋、牧水は山梨県東八《やつ》代《しろ》郡境川村に住む早稲田大学時代からの友、俳人飯《いい》田《だ》蛇《だ》笏《こつ》を訪ね、ついで長野県に入り小《こ》諸《もろ》に至った。当時の牧水は、奇妙にもつれてしまった恋に苦しむと同時に、その恋が徐々に、確実に遠ざかりつつあるというさめた認識をも持っていた。この歌の「滅びしもの」には、その複雑な青春の感傷が寂《せき》寥《りよう》感となって歌い出されているとみていいだろう。同じ時期の作に「白《しら》玉《たま》の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」「秋風のそら晴れぬれば千《ち》曲《くま》川《がは》白き河原に出てあそぶかな」。いずれもよく知られた牧水の代表歌である。
(『路上』)
木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ
加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》
加藤楸邨の句には他にも人口に膾《かい》炙《しや》した句はきわめて多い。「 蟇《ひきがへる》 誰かものいへ声かぎり」「雉《き》子《じ》の眸《め》のかうかうとして売られけり」など、初期の句だけあげてもいくらでも拾うことができる。右の句がある句集にも、「鮟《あん》鱇《かう》の骨まで凍《い》ててぶちきらる」という有名な句がある。それらに較べ、それほど広くは知られていないが冬季になると新聞やTVなどでよく引かれる句である。
「いそぐなよ」というのは、作意からすれば自分に対するささやきだが、それは無論落ち葉の光景に触発された思いである。自分に自重しろとよびかける気持ちには切実な背景があろうが、他方落ち葉に向かって急ぐなよと命じるところには、おのずとおかしみがある。この句の魅力はその意味での主客の絶妙な融合にある。「木の葉ふり」で口ごもる感じもいい。昭和二十三年(一九四八)、病《びよう》臥《が》中の作。
(『起伏』)
虫《むし》の音《ね》
我のみやあはれと思はむきりぎりす
なくゆふかげのやまとなでしこ
『古《こ》今《きん》集《しゆう》』巻四に、「寛平の御時、きさいの宮の歌《うた》合《あはせ》の歌」と詞《ことば》書《がき》のある素《そ》性《せい》法《ほう》師《し》の歌である。素性法師の父は『百《ひやく》人《にん》一《いつ》首《しゆ》』の、五《ご》節《せち》の舞姫の美しさをたたえた有名な歌の作者僧《そう》 正《じよう》 遍《へん》 昭《じよう》であるが、素性法師自身も『古今集』に三十七首もの歌がとられているすぐれた歌人であった。
この歌は一見目立たないつくりであるが、スナップショットのように秋の風物の一瞬を繊《せん》細《さい》にとらえている。大意は、この秋の夕日の中に可《か》憐《れん》な花を咲かせているやまとなでしこ(河原《かわら》なでしこのこと)を眺《なが》めているのは何とも惜《お》しい。こおろぎ(「きりぎりす」は現在のこおろぎ)の声がしみいるように聞こえてくるこの夕日の野原で。
淋《さび》しくすんだ虫の音と、これまたしめやかに夕暮の中で咲くなでしこの花。作者は晩秋のしみじみとした情感にひたりながら、それらを「いいなあ」(「あはれ」)と思っている。そして自分一人だけで見ているのは惜しい。誰《だれ》かにこのよさを伝えたいと思うのである。日本人のもつ、かそけさの感覚がすなおにとらえられている歌である。
きみしのぶ草にやつるる故《ふる》里《さと》は
まつ虫の音《ね》ぞ悲しかりける
よみ人《びと》しらず
これも『古今集』の巻四に出てくる歌である。平安朝の歌の場合、「まつ虫」という言葉が入っているときには、だいたいにおいて、恋の想いに閉ざされて誰かを待っている女のイメージが随伴していると見てよいほどに、「まつ虫」の「まつ」と、誰かを「待つ」とは一般的な掛《かけ》詞《ことば》であった。「故里」は、女の愛人である男の立場から見て通いなれた場所をさす語。言いかえれば、この歌をうたっている女自身の家のこと。
歌の大意は、君を偲《しの》ぶという忍《しの》ぶ草がはえて、家も私の姿も見苦しくやつれたあなたの故里(私の家)では、君を待つ思いを歌うあの松虫の声がとりわけ悲しく聞こえます。この歌には松虫の他に、「きみしのぶ」と草の「しのぶ」も掛けられている。
きりぎりす鳴くや霜《しも》夜《よ》のさ筵《むしろ》に
衣《ころも》片《かた》敷《し》きひとりかも寝む
『新古今集』巻五秋下にとられているこの藤《ふじ》原《わらの》良《よし》経《つね》(後《ご》京《きよう》極《ごく》摂《せつ》 政《しよう》 前《さきの》 太《だい》 政《じよう》 大《だい》 臣《じん》)の歌は、『百《ひやく》人《にん》一《いつ》首《しゆ》』の歌としても有名である。
ここの「きりぎりす」もやはりこおろぎである。こおろぎの鳴いている寒い霜夜に、粗《そ》末《まつ》なむしろに自分の着物の片《かた》袖《そで》を敷いて独り淋《さび》しく寝るのか、と嘆《なげ》いている男の歌であるが、詞書に「百首歌奉《たてまつ》りし時」とあるようにこれは題《だい》詠《えい》である。
藤原良経は年若くして太政大臣になった博学多才な貴公子で、後《ご》鳥《と》羽《ば》天皇の信任厚く、『新古今集』の撰《せん》者《じや》の一人でもあった。和歌を藤《ふじ》 原《わらの》 俊《しゆん》 成《ぜい》・定《てい》家《か》父子に学び、新古今歌壇の醸《じよう》成《せい》につくした人物であったが、惜しくも三十八歳の若さで一夜にして急《きゆう》逝《せい》した。
このような貴族社会中の貴族ともいうべき立場の人物が、独り粗末なむしろで寝るはずもない。むろんこの歌はフィクションである。秋の部に収められているが、恋歌として読むことができ、そうするとき一層歌の姿はあざやかになる。共寝の時なら二人の着物を敷いて寝るのに、自分一人だけの着物を敷いて(「衣片敷き」)、寒い秋の夜長を過《すご》している男の耳に聞えてくる虫の音。恋する男の寂《せき》寥《りよう》感が、単なる寂寥を越えて、艶《えん》をただよわせるような詠《うた》いぶりである。
む ざ ん や な 甲《かぶと》 の 下 の き り ぎ り す
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
『おくのほそ道』にある。加賀の小松の多《た》太《だ》神社で平家の武将斎《さい》藤《とう》実《さね》盛《もり》の遺品のかぶとを拝観した時の作。実盛は最初源氏、のち平家に仕《つか》えた。木《き》曾《そ》義《よし》仲《なか》とも顔見知りだったが、義仲との合戦で、老いの身を侮《あなど》られまいと白髪を染めて出陣、壮烈な討《うち》死《じ》にをした。『平《へい》家《け》物《もの》語《がたり》』や謡曲「実盛」には、義仲の臣樋《ひ》口《ぐち》次《じ》郎《ろう》が首実検し、「あなむざんやな、斎藤別当にて候ひけるぞ」と、感動落涙するところがある。芭蕉はその句を踏《ふ》み、悲しいこおろぎの声を配して、古武士の悲壮な心意気とその死を悼《いた》んだ。
わ が 影《かげ》 の 壁 に し む 夜 や き り ぎ りす
大《おお》島《しま》蓼《りよう》太《た》
江戸中期の俳人。いつ絶えるともなく夜のしじまに鳴きつづけるこおろぎを聞いている秋夜の孤《こ》愁《しゆう》。昔は灯火も今よりずっと暗く、夜も深かった。
部屋にはこおろぎがいるのに
なぜこおろぎの話をしないのか
この部屋の人達はみんな女の話ばかりする
村《むら》上《かみ》昭《あき》夫《お》
昭和二年(一九二七)岩手県に生まれ、昭和四十三年に没した現代詩人。戦後シベリアに抑《よく》留《りゆう》されること二年。帰国後まもなく結核を発病し、長い闘病生活の後没した。詩集は、この詩も収められている『動物哀歌』(昭和四十三年刊)一冊を遺《のこ》したのみだが、さまざまな動物の生と死をうたうことを通して、人間世界をじっと見つめるまなざしには、澄《す》みきった哀《かな》しみがある。この詩のとらえている情景は、多くの男にとって覚えのあるものだろう。こおろぎの声に乗ってやってくる詩の声は、痛烈である。
或《あ》る闇《やみ》は蟲《むし》の形をして哭《な》けり
河《かわ》原《はら》枇《び》杷《わ》男《お》
河原枇杷男は昭和五年(一九三〇)宝塚市に生まれた。本姓田中良人。永田耕《こう》衣《い》に師事した。すぐれた言語感覚で独特な内部宇宙ともいうべき世界を切り拓いてきた人で、「琴《りら》座《ざ》」や「俳句評論」の同人だった。
闇が「虫の形」をして「哭く」などということは、もちろん肉眼からの発想ではあり得ない。しかし私たちは、そんな闇をどこかで知っているような気がする時はないだろうか。現実世界の事象よりある意味でいっそう深く現実的に、ぶきみな予感の世界で、「心」そのものの闇が「虫の形」をして「哭く」ことさえある。現代俳句中、ことに創意に富んだ作品群の代表的な一句といえよう。
(『密』)
蟋《こほ》蟀《ろぎ》が深き地中を覗《のぞ》き込む
山《やま》口《ぐち》誓《せい》子《し》
山口誓子は三十代後半から四十代にかけて病身だった。「ホトトギス」の新鋭として大いに注目されはじめた昭和初年代に続いて、俳句面では新興俳句が興隆したが、誓子は「ホトトギス」から決袂した水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》の「馬《あ》酔《し》木《び》」に加盟、連作俳句運動などにも関心を示した。しかし昭和十三年(一九三八)頃から胸部疾患にかかり、昭和二十八年まで病臥静養を余儀なくされた。
日本が太平洋戦争に突入してゆく暗い時代、病身をいたわりつつ、孤独の中で、むしろ意志して孤独を追求するかのように、禁欲的な暗い雰《ふん》囲《い》気《き》の句を書いた。暮秋、衰《おとろ》えはてたコオロギがのぞきこむ「深き地中」とは、はてもない心の暗《くら》闇《やみ》でもあるだろう。超現実の心象風景ともいえるが、深くうつむくコオロギをみつめる眼には、さまよう魂《こん》魄《ぱく》を抱《いだ》いて地上に凝《ぎよう》然《ぜん》と坐《ざ》す孤《こ》客《かく》の、何ものかに耐えている心があるようだ。
(『七曜』)
萍うきくさに生《うま》れしと見る虫の飛ぶ
石《いし》井《い》露《ろ》月《げつ》
石井露月は明治六年(一八七三)秋田県に生まれ、昭和三年(一九二八)没した。正岡子《し》規《き》の知遇を得て、子規の関係した新聞「日本」の記者となり、同時に俳句を学んで、やがて秋田に帰ってからも俳句に熱中、秋田のみならず、中央俳壇でも子規派の重鎮として重きをなした。新聞記者をつとめるかたわら医学を学び、やがて故郷で医者を開業して人気があったという。
池のおもて一面に、直径一センチにも満たぬ小さな萍の葉が繁茂している。根無し草ともいわれる、密集して浮遊する水草である。その水草すれすれに、いま生まれたばかりらしい小虫が飛んでいる。はかない虫でも、一つの命として生き始めた以上、死ぬまで生き続けねばならない。萍も虫も、あまりにちいさな存在である。それでも完《まつ》たき生を営んでいる。そしてそれらは数限りない。そこに世界の広大さがある。
(『露月句集』)
馬《うま》追《お》虫《ひ》の髭《ひげ》のそよろに来る秋は
まなこを閉ぢて想ひ見るべし
長《なが》塚《つか》 節《たかし》
長塚節は明治十二年(一八七九)茨城県岡田郡国《こつ》生《しよう》村の旧家の地主の長男として生まれ、大正四年(一九一五)、三十五歳で喉頭結核のため福岡の九大病院で没した。正岡子《し》規《き》を敬慕し、子規没後も写生の教えを守って、アララギ派でも一頭地を抜く作者となった。後年は長編小説『土』などを書き、歌よりも散文に傾いたが、喉頭結核の診断以後、再び歌に関心を抱き、最晩年「鍼《はり》の如く」の大作を生んだ。
この歌人の写生による描写の冴《さ》えは、他の追《つい》随《ずい》を許さないものがある。「馬追虫の髭の」は「そよろに」を引き出すための序《じよ》詞《し》にすぎないが、初秋、灯火を慕《した》って人家に入ってくるスイッチョの、あの長いひげがそよろと動くという小さな表現に、秋の気《け》配《はい》を漂《ただよ》わせている技術はみごとである。かそけき秋の到来を見抜くには、まず眼を閉じてこそ、であろう。
(『長塚節歌集』)
秋《しう》蝶《てふ》の驚きやすきつばさかな
原《はら》 石《せき》鼎《てい》
明治十九年(一八八六)に島根県に生まれた石鼎は、大正初期以降の「ホトトギス」黄金時代に花形俳人の一人となり、のち「鹿《か》火《び》屋《や》」を主《しゆ》宰《さい》した。
「頂上や殊《こと》に野菊の吹かれ居り」はすでに引いたが、ほかにも「高々と蝶こゆる谷の深さかな」「花影婆《ば》娑《さ》と踏むべくありぬ岨《そば》の月」など、吉野居住時代の若年時の作からして、句境の豪華さでは有名だった。どの作をとっても、こまやかな感覚がよく生かされていて、ここに引いた作でもその特色がよく出ている。
秋の冷ややかに澄《す》みはじめた空気が、細い風となって通り過ぎてゆく。ものにとまって動かない蝶《ちよう》も、羽だけは敏《びん》感《かん》にそよがしている。夏の蝶と違い、動きもにぶくなっている蝶だから、かえって羽のそよぎに秋の到来が感じられる。
(『定本石鼎句集』)
また蜩《ひぐらし》のなく頃 となった/かな かな/かな かな/
どこかに/いい国があるんだ
山《やま》村《むら》暮《ぼ》鳥《ちよう》
山村暮鳥は明治十七年(一八八四)群馬県に生まれ、大正十三年(一九二四)没。若いころは実に多くの職業を転々とした後、小学校の准訓導となった。同じころクリスチャンとなり、短歌を発表するが、しだいに詩に転じ、信仰上の疑問を抱くようになって苦しんだ。萩原朔太郎、室生犀星と知り合い、詩集『聖三稜玻璃』(大正四年)で詩界を驚かせるような斬新な前衛性を発揮した。
しかし、大正初期に前衛詩の先頭走者だった暮鳥は、短い四十年の生涯の果て、このような単純さに達した。その詩風の変化は、それ自体日本近代詩史に投げかけられた重要な設問といった性格のものだが、彼自身は『雲』序文で「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない」と書いている。元来が信仰者だった詩人の魂が、貧苦と病苦に洗われて、いわば骨だけの詩に達したのである。
(『雲』)
赤とんぼまだ恋とげぬ朱《あけ》さやか
佐《さ》野《の》青《せい》陽《よう》人《じん》
佐野青陽人は明治二十七年(一八九四)富山県高岡に生まれ、昭和三十九年(一九六三)没した。本名治《じ》吉《きち》。
俳号の「青陽人」は「西洋人」をもじる。渡《わた》辺《なべ》水《すい》巴《は》(「曲水」主《しゆ》宰《さい》)に師事した。米国人経営の貿易会社に勤めるかたわら、能楽の修《しゆ》業《ぎよう》をつんだ。号の由来はこの会社勤めにあるという。能は宝生流で、野口兼資について修業したが、その縁で高浜虚《きよ》子《し》のやっていた句謡会にも出席していた。趣味が広く、性格もまっすぐな人で、師の水巴に全面的に信頼されていた。
句は平明な中に滋味があり、右の句も、自然界の時の流れの中にあるいのちのときめきを、確かな技法で描きとめている。代表作に、「天の川大風の底明らかに」。
(『天の川』)
残る蚊《か》をかぞへる壁や雨のしみ
永《なが》井《い》荷《か》風《ふう》
秋の蚊は弱々しく壁にはりついている。そのわびしい長屋の壁には雨のしみがにじんで、古色蒼《そう》然《ぜん》。小説『〓《ぼく》東《とう》綺《き》譚《たん》』の主人公「私」が明治四十三年(一九一〇)ごろ、「亡友唖《あ》々《あ》君が深川長慶寺裏の長屋に親の許さぬ恋人と隠れ住んでゐたのを、其折々に尋《たづ》ねて行つた時よんだもの」として、同作品中に引かれている句の一つで、荷風自身の旧作と考えられている。荷風が好んで描いた市《し》井《せい》隠《いん》逸《いつ》の情緒である。
永井荷風の句集は『永井荷風句集』(昭和二十三年)で、春二十九、夏三十三、秋二十七、冬二十九の計百十八句。ほかにも全集の中に拾遺句集がある。
(『〓東綺譚』)
雨《あま》音《おと》のかむさりにけり虫の宿《やど》
松《まつ》本《もと》たかし
松本たかしは明治三十九年(一九〇六)東京神田に生まれ、昭和三十一年(一九五六)没した。本名孝。父祖代々幕府おかかえの宝生流座付きの能役者で、たかしの父長《ながし》は名人とうたわれた人。たかしも幼少時から能楽修業の身だったが、病弱のため役者を断念せざるを得なかった。十八歳ころから虚《きよ》子《し》について俳句を学び、すぐれた感性と言語感覚によって人々の目を見はらせた。
「虫の宿」は圧縮表現で、秋の虫の声に包まれた家、具体的にはわが家を指す。そのわが家におおいかぶさるように、冷たい秋雨が降ってくる、虫の音もかき消して。「かむさりにけり」はみごとな把握だが、これが「かぶさり」でなく「かむさり」になったのは、虫の音や雨音のこまやかな味わいを生かすための必然的処置だったろう。作者の鋭い音感が、かくて空間表現までひきしめた。
(『松本たかし句集』)
秋風に歩行《あるい》て逃げる蛍《ほたる》かな
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
一茶は一種の〓“書き魔〓”だったと言えそうなところがあるくらい、まめな性格だった。日記とか句帖が多いが、文化七年(一八一〇)、四十代の終りに近いころに書きはじめたのが七番日記。この時期から以後、『寛政句帖』『八番日記』『九番日記』『父の終焉日記』『おらが春』などが文化十五年までに書かれ、彼の五十代のすぐれた記録となっている。右の句は『七番日記』にある。
ほたるはふつう夏のものだが、初秋のころにもなお姿を見ることがある。秋風がたち、その中で、美しく点滅して飛ぶことももはやせずに、かさこそ歩いている首筋の赤い虫。一茶はこれを詠《よ》んだ時、尻《しり》にできた悪性の腫《は》れ物《もの》の治療のため、病《びよう》臥《が》中の身だった。あわれな虫の姿にわが身を重ねて見ていたか。「歩行て逃げる」も、ただ歩《あゆ》んでいるだけで、まるで逃げてゆくように見えたのだろう。
(『七番日記』)
しづかなる力満ちゆき〓〓《ばつた》とぶ
加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》
加藤楸邨の生涯の句を通観すれば明らかだが、楸邨は身辺の小動物を詠《よ》むことが特に多かった俳人である。その点では、彼が敬愛していたと自ら言っている村上鬼城を受け継ぎ、さらに越えていた昭和時代の代表者だったということができるだろう。
大形のバッタが飛ぶ瞬間を見つめたことがある人なら、この句の感じもよく分かるだろう。同じバッタ科でもイナゴではこうは詠めまい。イナゴはもっと気軽にとぶ。「しづかなる力満ちゆき」という表現は、作者の主観的把握にすぎないようにみえて実は動かし難い写生になっている。楸邨の表現術の一特長がそこにある。昭和二十六年(一九五一)の作。作者自身、長い戦後の病苦からようやく癒《い》えたばかりだった。
(『山脈』)
はたはたのをりをり飛べる野のひかり
篠《しの》田《だ》悌《てい》二《じ》郎《ろう》
篠田悌二郎は明治三十二年(一八九九)東京に生まれ、昭和六十一年(一九八六)、八十六歳で没した。水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》の最初期からの高弟だった。
「はたはた」はバッタ、キチキチ。はたはたがときどき音たてて舞いあがっては、光が遍《へん》満《まん》する野に沈む。同音のくり返しが快い響《ひび》きを生み、句の空間をより大きくひろげている。野に光は満ちているのだが、はたはたが舞ってはじめて「野のひかり」も本当に溢《あふ》れるのだ、という印象を与えるところに、この句の魅力の秘密があろう。
(『四季薔薇』)
わが影《かげ》の壁にしむ夜やきりぎりす
大《おお》島《しま》蓼《りよう》太《た》
蓼太は江戸中期の俳人。信州伊《い》那《な》の生まれといわれるが、早くから江戸に住み、藤屋平助と称し、幕府御用の縫物師だったというが、俳人雪中庵二世の桜井吏《り》登《とう》に入門し、めきめき上達した。句の教え方がうまかったといわれ、業《ぎよう》俳《はい》として空前の名声を持つにいたり、生活も豪奢だった。このためもあって、句は平俗だとされ、評判は下がった。同時代に蕪《ぶ》村《そん》が出たこともこれに輪をかけた。しかし、天明期の俳《はい》諧《かい》に活気を与えた功績は大きい。
「きりぎりす」は古くはコオロギを指したが、ここでもそれである。夜の静けさの中でいつ絶えるともなく鳴きつづけるコオロギを聞いている秋夜の孤《こ》愁《しゆう》が、「わが影の壁にしむ夜や」によくとらえられている。昔の灯火は現在よりずっと暗く、夜も深く長かった。蓼太の作は、江戸座の難解さはなく、さらっとしたものが多い。「秋風や人にかけたる蜘《くも》の糸」。
(『蓼太句集』)
むざんやな甲《かぶと》の下のきりぎりす
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
『おくのほそ道』の旅で加賀までたどりつき、小松の多太神社で平家の武将斎藤実《さね》盛《もり》の遺品のかぶとを拝観した時の作。
実盛は最初源氏、のち平家に仕え、木《き》曾《そ》義《よし》仲《なか》とも顔見知りだったが、義仲との合戦で、老いの身を侮《あなど》られまいと白髪を染めて出陣、壮烈な討《うち》死《じ》にをした。『平家物語』や謡曲「実盛」には、義仲の臣樋《ひ》口《ぐち》次《じ》郎《ろう》が首実検し、「あなむざんやな、斎藤別当にて候ひけるぞ」と感動落涙するところがある。芭蕉はその句を踏み、悲しいコオロギの声を配して、古武士を悼《いた》んだ。
(『おくのほそ道』)
月の夜や石に出て鳴くきりぎりす
千《ち》代《よ》女《じよ》
千代女は加賀の生まれで、俳《はい》諧《かい》を芭《ば》蕉《しよう》の弟子支《し》考《こう》に学んだ。師の風を継いで、平易な大衆受けする作風で、「朝顔につるべとられて貰《もら》ひ水」はとくに有名。
「きりぎりす」は現今のコオロギをいう。「石に出て鳴く」が鮮《あざ》やかに印象をまとめあげている。
昭和の小説家横《よこ》光《みつ》利《り》一《いち》に「蟻《あり》台上に餓《う》えて月高し」の句がある。横光作品の餓える蟻は悲壮な意志を感じさせ、ほとんど人間に生き写し。較べてみるのも一興だろう。
(『千代尼句集』)
きりぎりす鳴くや霜《しも》夜《よ》のさ筵《むしろ》に
衣《ころも》片《かた》敷《し》きひとりかも寝む
藤《ふじ》原《わらの》良《よし》経《つね》
『新《しん》古《こ》今《きん》集《しゆう》』秋の部に収められているが、恋歌として読むとき、歌の姿はひとしお明確で情緒深いものになる。恋する男の寂《せき》寥《りよう》感が、単なる寂寥を越えてどこか艶《えん》をただよわせているような詠《よ》みぶりだからである。
「きりぎりす」は、コオロギ。「さ筵に」の「さ」は接頭語で、むしろ、あるいは藁《わら》などで作った粗《そ》末《まつ》な敷物。「寒し」と「さ筵」を掛《か》けている。「衣片敷き」、自分の着物の片《かた》袖《そで》を敷いて。共寝の時は二人の着物を敷くので、片敷きはひとり寝をすること。のびやかな澄《す》んだ調べである。
(『新古今集』)
蓑《みの》虫《むし》にうすうす目鼻ありにけり
波《は》多《た》野《の》爽《そう》波《は》
波多野爽波は大正十二年(一九二三)東京に生まれ、平成三年(一九九一)没した。元宮内大臣波多野敬直の孫。その関係で学習院に進んだ。
三《み》島《しま》由《ゆ》紀《き》夫《お》が書いた回想に、学習院中等科在学中、上級生の爽波に俳句を指導された話がある。三島は彼のみずみずしい感覚の句にはとてもかなわなかったと述《じゆつ》懐《かい》している。右の句の眼目は蓑虫の目鼻を「うすうす」「ありにけり」ととらえた感覚の鋭さにあるが、写生がそのまま一つの澄《す》んだ心象風景をとらえているところに注目すべきだろう。
(『波多野爽波集』)
蟷《たう》螂《らう》のしだいに眠く殞《お》ちゆけり
山《やま》口《ぐち》誓《せい》子《し》
すでに「蟋《こほ》蟀《ろぎ》が深き地中を覗き込む」(『七曜』)の句について書いたように、誓子は昭和十三年(一九三八)ごろから十数年間、胸部疾患との長い闘病に明け暮れた。その間に作った句は極度に内向的となった。「ひとり膝《ひざ》を抱けば秋風また秋風」「夜はさらに蟋《こほ》蟀《ろぎ》の溝深くなる」。戦中、軍国主義激化の世相の中で、このような句を作って耐えていた病俳人の孤独の深さが、このかまきり(蟷螂)にそのまま現れている。「殞ちゆけり」とは、まがまがしくも強い表現。
(『七曜』)
秋風にしら波つかむみさご哉《かな》
高《たか》桑《くわ》蘭《らん》更《こう》
蘭更は蕪《ぶ》村《そん》や太《たい》祇《ぎ》より十ばかり年少の俳人で、彼らと共に中興俳壇に雄飛した一人。金沢の商家に生まれ、各地を歴遊したのち京都に住んで名声があった。芭《ば》蕉《しよう》復興に尽力した一人である。
右の句は、句集で「鳥《と》羽《ば》の浦に至りて」と題する三句の一つ。海中を走る魚影めがけて急降下したミサゴが、魚に逃げられ空しく白波だけをつかんで舞い上がる光景。「しら波つかむ」が的確で力強い。
(『半化坊発句集』)
沙《は》魚《ぜ》釣《つ》るや水《すゐ》村《そん》山《さん》廓《くわく》酒《しゆ》旗《き》の風
服《はつ》部《とり》嵐《らん》雪《せつ》
服部嵐雪は芭《ば》蕉《しよう》に師事した江戸の俳人。芭蕉が「門人に其《き》角《かく》・嵐雪あり」と自負したことはすでに書いたが、実際其角と嵐雪は江戸における蕉門の双璧だった。嵐雪は穏《おん》健《けん》優美な句をつくった。「梅一輪一輪ほどの暖かさ」「蒲《ふ》団《とん》着て寝たる姿や東山」などでよく知られる。
ここに引いた句は中国晩唐の詩人杜《と》牧《ぼく》の「江南の春」を自分の句に生かしたもの。「千里 鶯《うぐひす》 啼《な》いて緑《みどり》 紅《くれなゐ》 に映《えい》ず、水村山廓酒旗の風、南朝四百八十寺、多少の楼《ろう》台《だい》烟《えん》雨《う》のうち」の第二句をそっくり頂《いただ》き、原詩の春を秋に転じた。山に囲まれた水辺の村のハゼ釣り。居酒屋の旗が好天の風にはためいている。
(『玄峰集』)
川に沿いのぼれるわれと落《お》ち鮎《あゆ》の
会いのいのちを貪《むさぼ》れるかな
石《いし》本《もと》隆《りゆう》一《いち》
石本隆一は昭和五年(一九三〇)東京生まれの歌人。「早大短歌会」を経て香川進主宰の「地中海」に入社、のち「氷原」を創刊、主宰している。
秋、山間の清流をさかのぼって旅をしたのだろう。宿の夕食に落ち鮎が出た。夏のあいだ清《せい》冽《れつ》な川の上流で育った鮎は、秋になると卵を産むためにくだってくる。その鮎をむさぼりつつ、自分とその一尾との出会いを思い、いのちの悲しみにふとうたれたのである。「のぼれる」われと「落ち」鮎。その「会いのいのち」をむさぼるという畳みこむような表現に陰影と厚みがある。
(『星気流』)
市売りの鮒《ふな》に柳のちる日哉《かな》
常《と》世《よ》田《だ》長《ちよう》翠《すい》
江戸後期俳《はい》諧《かい》の大家加《か》舎《や》白《しら》雄《お》の愛《まな》弟《で》子《し》だった俳人で、書画もよくした。初秋の一日、柳の木陰で男が桶《おけ》に入れた鮒を売っている。その鮒の上に柳の黄ばんだ葉が散りかかって。「柳」といえば春の季語だが、「柳ちる」は秋の季語。
この句を読むとふと思い出される句に、作者の師白雄の「夕汐や柳がくれに魚わかつ」がある。夕方の河《か》岸《し》で魚を荷揚げして売っている情景で、師弟よく息の合った句境。
(『長翠句集』)
鮎《あゆ》落ちて美しき世は終りけり
殿《との》村《むら》菟《と》絲《し》子《こ》
殿村菟絲子は明治四十一年(一九〇八)東京深川に生まれた現代俳人。少女時代歌人、四賀光子(太田水穂夫人)に短歌を学んだというが、彼女の句に底流する抒情性は短歌を早くに学んだところからも来ているのかもしれない。俳句は水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》、ついで石田波《は》郷《きよう》に師事し、やがて「女性俳句」を加藤知世子、柴田白葉女らと創刊した。絵画美に親近性をもつ華麗な作風である。
秋の落ち鮎の季節に、ふと「美しき世は終りけり」の思いにうたれたのである。作者と落ち鮎との関係が現実にはどのような形で存在していたか、この句は何ひとつ説明していない。しかし、「鮎落ちて」という初五と、「美しき世は終りけり」の結びつきは、いわゆる虚《きよ》実《じつ》皮《ひ》膜《まく》の間の機微をつかんで、直観的に納《なつ》得《とく》させられるところがある。一《ひと》息《いき》に吐かれた秋の悲歌というものだろう。
(『晩緑』)
痩《やせ》馬《うま》のあはれ機《き》嫌《げん》や秋高し
村《むら》上《かみ》鬼《き》城《じよう》
村上鬼城は慶応元年(一八六五)江戸小石川に生まれ、昭和十三年(一九三八)没した。少年時代から漢学や英学を学び、軍人や司法官を志したが、耳《じ》疾《しつ》のため断念、失意のうちに裁判所代書人となった。正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》の俳句革新論に共鳴、書簡を通じて師事したが、まもなく子規は没し、その後は高浜虚《きよ》子《し》に学んで大正初期「ホトトギス」俳壇の雄となった。
鬼城の悲傷や鬱《うつ》憤《ぷん》の主観を内側に囲いこんで写生に生かす力は抜群で、時に一句よく一編の短編小説をなすかとさえ思われる。天高く馬肥ゆる秋、労役の痩馬がいななく。機嫌よさそうなのが、一層哀《あわ》れ深い。
(『鬼城句集』)
人に似て猿も手を組む秋の風
浜《はま》田《だ》洒《しや》堂《どう》
洒堂は芭《ば》蕉《しよう》門人。近江《おうみ》の膳《ぜ》所《ぜ》に生まれ、医を業とした。初め珍《ちん》碩《せき》と号し、『猿《さる》蓑《みの》』にはその名で出ている。
右の句、「猿も手を組む」が句の感興の中心であることはもちろんだが、さて猿はいったいどんな風に「手を組む」のか。「人に似て」とあるため、人間そっくりの腕組み姿を想像する解もあるが、それはかえって珍妙である。
猿が秋風に吹かれてうずくまっている姿に「手を組む」風情を見ているところが、むしろこの句の作者のねらいだろう。
(『猿蓑』)
鶏鳴に露のあつまる虚空かな
飯《いい》田《だ》龍《りゆう》太《た》
飯田龍太は大正九年(一九二〇)山梨県境川村に飯田蛇《だ》笏《こつ》の四男として生まれた。次兄が病没し、長兄、三兄が戦死するという悲運に見舞われ、龍太は蛇笏の創刊した「雲《うん》母《も》」を主宰、俳壇の重鎮として作品活動でも抜群の力を発揮したが、平成四年(一九九二)、熟慮の結果「雲母」を廃刊するという決断をして大きな話題になった。その決断の真意はまだ解明されてはいないようだ。
右の句は「鶏鳴に」で切れる。つまり鶏の声のまわりに露が集まるのではなく、夜明けの鋭く透徹した鶏鳴とともに、虚空に露が集結するのを、作者はありありと感じているのである。したがって、詠《よ》まれているのは物理上の真実ではない。秋の暁《ぎよう》闇《あん》の得がたい一瞬を感じとっている感性の真実である。「夕月に山《やま》百《ゆ》合《り》は香を争はず」「闇《やみ》よりも山大いなる晩夏かな」。いずれも単なるハイクではない。
(『昨日の径』)
初《はつ》雁《かり》や夜《よる》は目の行く物の隅《すみ》
炭《たん》 太《たい》祇《ぎ》
炭太祇は与謝蕪《ぶ》村《そん》と親しく交友していたが、いわゆる天明俳壇(天明時代を中心とする江戸中期の俳壇)にこの二人がほぼ同時に生まれて活躍したことは、俳句という文芸形式にとっての慶事だった。
太祇は蕪村より四年ほど先に生まれ、十数年早く世を去ったが、晩年は特に親交があり、作品活動の上でも協力し合っている。
雁は晩秋北方から日本に飛来し、春までとどまる。その年はじめての雁が渡ってくるころは、そぞろ夜寒を覚え始める季節でもある。この太祇の句は、「夜は目の行く物の隅」という鋭敏な着眼によって、その季節感をもののみごとにとらえている。言いかえればこの句は、「初雁」や夜の「物の隅」をぴたり押さえることによって、実は季感の微妙な味わいそのものを、まず表現しているのである。
(『太祇句選後篇』)
病《びやう》雁《がん》の夜《よ》さむに落《おち》て旅ね哉《かな》
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
「堅《かた》田《だ》にて」と前《まえ》書《がき》。異本では「かただにふしなやみて」ともある。
元禄三年(一六九〇)晩秋、近江《おうみ》湖《こ》畔《はん》の堅田で旅寝した時の作。芭蕉は折悪しく体調も崩していたが、冷たい粗末な寝床に横たわる彼の心の目に、夜空から一羽病気の雁が落下してくる幻が見えたのである。その雁と芭蕉自身が、一瞬二にして一となる、深沈たる夜の光景。「夜さむに落ちて」が「旅ね哉」へ転じる呼吸は、まさに至芸というほかない。芭蕉の作はさまざまなひろがりをもっているが、この「病雁」の句は、彼自身の深沈たる思いを伝えてくる点で特に多くの人に愛誦されている。
(『猿蓑』)
秋風にこゑをほにあげてくる舟は
あまのとわたる雁《かり》にぞありける
藤《ふじ》原《わらの》菅《すが》根《ね》
秋になって南下してきた雁を、天上の海を漕《こ》ぎ渡る舟にたとえている。「ほに」の「ほ」は秀《ほ》と帆《ほ》にかかる。ここでの「ほ」は雁の声が高く秀《ひい》でて目立つ意の「秀《ほ》」だが、同じ音のつながりで「帆」に結びつき、その縁で雁を「舟」にたとえる連想が働いている。そこで、「あまのと(天の門)」の天《あま》(空)は、ここでは海に変わることになる。「門《と》」は、水が陸地にはさまれる瀬《せ》門《と》や水《みな》門《と》(港)のこと。こうして雁の渡る空は、鳴き声から櫓《ろ》声《せい》をも連想させ、想像の世界で、空の大景が海の景《け》色《しき》と溶《と》け合うのである。技巧をつくした和歌だと言えるが、平安時代には、このような技巧をつくすことが、和歌を詠《よ》む上では当然であり、高く評価されたのである
(『古今集』)
白雲にはねうちかはしとぶ雁《かり》の
かずさへ見ゆる秋の夜《よ》の月
よみ人《びと》しらず
高い空にかかる白雲と黒い雁の影《かげ》との対比に焦点をしぼり、秋の澄《す》みきった月明りの空をたたえた、まことに絵画的な一首である。自然界の静止したたたずまいだけではなく、「はねうちかはし」てゆく雁の動きをも定着している。
一列になって高いところを飛んでいる雁の姿が、数まではっきりかぞえられるほどだという言い方で、月の光のさやけさをも同時に表現したのである。一首全体の高揚した調べの快さに魅力的な愛《あい》誦《しよう》性がある。
(『古今集』)
大江山傾《かたぶ》く月のかげさえて
鳥《と》羽《ば》田《だ》の面《おも》に落つるかりがね
慈《じ》円《えん》
慈円は関白藤《ふじ》原《わらの》忠《ただ》通《みち》の六男。十一歳で法界に入り、天《てん》台《だい》座《ざ》主《す》に至るが、政変のため四度にわたって天台座主の辞退と復任をくりかえした。和《わ》歌《か》所《どころ》寄《より》人《うど》の一人で、『新古今集』入集九十二首は西《さい》行《ぎよう》に次ぐ多数をほこる。史家としても有名な『愚《ぐ》管《かん》抄《しよう》』六巻をあらわした人である。
この歌は、京の西方大江山に冴《さ》え渡る月に、南方鳥羽田の野に落ちる雁を配する。落《らく》雁《がん》はふつう地におりた雁を歌う例が多いのに対し、これは空から落下しつつある雁をうたった歌としても、注目される。暮秋の景である。
慈円は嘉禄元年(一二二五)、七十一歳で没したが、その十三回忌に四条天皇より慈《じ》鎮《ちん》和尚の諡号を賜ったので、その名でも知られる。
(『新古今集』)
日のさしてとろりとなりぬ小《を》田《だ》の雁《かり》
岩《いわ》間《ま》乙《おつ》二《に》
岩間乙二は江戸後期、文化文政時代の俳人。陸前(宮城県)白石城下の寺、千手院の住職だった。
越冬のため南下した雁が、稲刈りのすんだ後の田におりて、餌《えさ》もあさらずにじっとしている姿。「とろりとなりぬ」は冴《さ》えた表現である。
乙二は旅を好み、江戸や北海道に旅して紀行文も書いた。函館に長期滞在した折、同地で指導した連句作品ではアイヌ語も多くとり入れているという。『蕪《ぶ》村《そん》発《ほつ》句《く》解』などの蕪村研究でも知られる。
(『松窓乙二発句集』)
旅人の宿りせむ野に霜降らば
わが子羽ぐくめ天《あめ》の鶴《たづ》群《むら》
遣《けん》唐《とう》使《し》随《ずい》員《いん》の母《はは》
天平五年(七三三)初夏、遣唐大使多《た》治《じ》比《ひの》広《ひろ》成《なり》一行が難《なに》波《わ》を出発した。七年に無事帰京。これは一行の出発の際、一随員の母が前途の安全を祈って子に贈った歌。
「羽ぐくめ」は羽に包んでやってくれ。遠く異国の野を旅するであろう子の、秋冬の寒さを今から思いやって空の鶴に願い事をしたのだ。夜の鶴は巣ごもりして一心に子をはぐくむという中国伝来の観念が背景にあると思われるが、母情に国の違いはない。
たとえば書道の古典の一つに『夜《や》鶴《かく》庭《てい》訓《きん》抄《しよう》』がある。藤原伊《これ》行《ゆき》(藤原行成を祖とする能書の名門世尊寺家の第六代)が、父祖相伝の書道の秘訣を娘の建礼門院右《う》京《きようの》大《だい》夫《ぶ》に授けるためにあらわしたものだが、ここでの「夜鶴」という語は、まさに右の歌の気持ちと同じ。
(『万葉集』)
吹きおこる秋風鶴《つる》をあゆましむ
石《いし》田《だ》波《は》郷《きよう》
日本では北海道の根《こん》釧《せん》原野に丹《たん》頂《ちよう》鶴の棲《せい》息《そく》地があるが、マナヅルやナベヅルは十・十一月にシベリア方面から渡来し、三月ごろ飛び帰る。今では鹿児島県や山口県の特定の田地に来る程度だが、江戸時代までは全国で見られた。
この句の鶴は飼われている丹頂か。仙人を乗せた白い鶴の姿で親しまれ、鶴の一声と尊ばれた面《おも》影《かげ》は、現代の名句にも生きている。
波郷主《しゆ》宰《さい》誌「鶴」の名はこの句に基《もとづ》くという。高雅な品格は代表作の名に恥《は》じない。
(『鶴の眼』)
若の浦に潮満ち来れば潟《かた》を無み
葦《あし》辺《べ》をさして鶴《たづ》鳴き渡る
山《やま》部《べの》赤《あか》人《ひと》
古代の日本人にとって、鶴《つる》は何よりもまず、「鳴く」「鳴き渡る」姿でとらえられた。その鳴き声を聞くと、人は旅《りよ》愁《しゆう》をひとしお増し、あるいはまた恋の思いを一層切《せつ》なくそそられた。この歌は、海という大きな背景の中で、鶴の行動だけを客観的に捉《とら》えているために、おのずから絵になって、人口に膾《かい》炙《しや》している。「潟」は干潟。若の浦に潮が満ちてきたので「潟を無み」、干潟がなくなって、鶴たちは他の海岸の葦辺に向かって、鳴きながら飛び渡ってゆく。
(『万葉集』)
子規が立派だと思うこと
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》という人について知っておくべき大事なことのひとつは何かというと、若死にしたということです。この人は慶応三年(一八六七)の九月十七日に生まれ、明治三十五年(一九〇二)九月十九日に亡くなりました。慶応三年というのは旧暦ですが、ともかく現在の数え方でいえば三十五歳になったばかりで死んだということになります。
正岡子規の全集の最も新しい、画期的に整備されたものは、講談社から数年前に出版されておりますが、これは全部五百頁から六百頁位の厚さがあり、多くの場合上下二段になっております。上下二段で組んで五、六百頁の本が、子規が書いたものだけで二十二冊あります。ほかに別冊が三冊あって、貴重な資料がいっぱい詰まっております。これだけでも大変な人だということがお分かりだと思います。
実は二十二冊の全集で全部かというと、これに入っていないものもまだある。たとえば彼の編纂した古典俳《はい》諧《かい》の選集。これは昔、北原白《はく》秋《しゆう》の弟さんが創立し、白秋も深くかかわったアルスという出版社から出ております。現在、日本人の本を読む力は衰えてきましたから、だいたい四六判の本でいえば二百五十頁程度、それがまあ普通というようなことになっていて、それ以上厚い本というのは本屋さんが出したがらないという情けない状態になっております。それを標準にしていえば、子規は生涯に七、八十冊くらいは書いていることになるかと思います。
正岡子規と河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》と高浜虚《きよ》子《し》の三人で、現代俳句をいわばすべて基礎がためをしたといってもいいほどですが、そのくらい偉大な仕事をしたこの三人は、同郷の兄貴分と弟分という関係です。子規が死んだときにも碧梧桐と虚子は、そのかたわらにありました。最後の瞬間を見届けたのは高浜虚子でしたが、碧梧桐もすぐに駆けつけてきております。碧梧桐はその数時間前まで枕《ちん》頭《とう》に居たのですけれど、ちょっと帰宅しているあいだに子規が死んでしまったのです。
こういう人々がかたわらにいて、時には口述筆記したものが、『病《びよう》 牀《しよう》 六《ろく》尺《しやく》』です。「日本」という新聞に毎日連載されたものですけれど、これが最後の瞬間までの、本当に最後の瞬間までの連載ですね、それを成し遂げさせた。しかし、口述筆記であるということが逆に、実にいくつかの大きな特徴をもこの本に持たせました。
明治三十五年五月から九月の十七日まで、彼はこの日記を書いているんです。死んだのは九月十九日です。つまり十七日に書いた散文の絶筆は十八日の朝出た。読者たちは最後だなどと思ってませんでしたが、翌日には正岡子規の死が報じられた。
そういう意味では死ぬ瞬間まで仕事をし続けたわけですけれど、それを助けた虚子とか碧梧桐、それから子規の病床で一番看護が上手だったのは寒《さむ》川《かわ》鼠《そ》骨《こつ》ですけれど、この寒川鼠骨という人は、新聞「日本」の編集者であり同時に四国の松山出身で、子規や虚子、碧梧桐と同郷です。その意味では松山は驚くべき都市だったということになります。後々中村草《くさ》田《た》男《お》も出ていますし、愛媛県という形に広げていえば、石田波《は》郷《きよう》も四国なんですね、松山の近くで。ですから四国の愛媛県が近代俳句の王国であったことは疑いの余地のないことです。
正岡子規の最晩年、十年ちかくは寝たきりといってもいいような状態だったんですが、そういう人々が看病しつづけて、子規が何か言うと口述筆記もした。それから子規の有名な絶筆、三句ですね。美《み》濃《の》紙を画板のようなものに張って、それを支えて書けるようにして、子規が仰向けに寝たままで書いたのですけれど、それをかたわらでたすけたのは碧梧桐でした。ときどき筆に墨をつけてやる。そうやって子規は最後の瞬間に「糸瓜《へちま》咲《さい》て痰《たん》のつまりし仏《ほとけ》かな」「をとゝひの糸瓜の水も取らざりき」「痰一《いつ》斗《と》糸瓜の水も間にあはず」という有名な絶筆三句を自ら書いたわけですが、その瞬間までずっと、いってみれば緊密な郷土の出身ということでつながっていると同時に、教養とか制作意欲とかそういうものにも堅い結束を誇っていた松山グループの人々の、子規を囲む情熱といいますか、それが彼の偉大な仕事を成し遂げさせたといえます。
先ほどわたしが大きな特徴といいましたのは、他の文学者の明治三十五年頃に書かれた文章は、難しくて読めないものが多いんです。ところがこの『病牀六尺』は、どなたが読んでもよく分かります。難しい漢字が使われていますけど、それらにちょっとふりがなさえ振ってあれば、いま現在書かれている文章と変わらないんですね。それは何《な》故《ぜ》かというと、喋《しやべ》ったからなんですね。
口述筆記というのは実にすごいと思うのはそのことです。ちかごろはやりのエクリチュールというフランス語がありますが、これは喋る言葉と書く言葉を区別して、書く方の言葉をエクリチュールというんですね。喋る方はパロールです。パロールではなくてエクリチュールについて、書いたものを分析していくということをやります。これは二十世紀後半の学問の世界ではフランスだけでなくて、イギリスやアメリカ、特にアメリカのニュークリティシズムなんかもそうなんですけれど、書かれたものだけを問題にし、書いた人物は除外する。誰が書いていようと書かれたものが全てだという考え方から、書いたものを分析するということをやってきて、現在皆くたびれ果ててちょっと腰をおろしているという感じが強いのですけれど、エクリチュール、つまりものを書くのはどうするかといえば、紙の上に書きます。あることを書いても、それに関連して次々思いだしたりすると、前の方へ挿入句をどんどん入れたりします。そういう形で文章がどんどん複雑に広がっていくわけです。それそのものを楽しむということもあります。
しかしながら正岡子規がやったような口述筆記というものはどうなるか。喋ったことは一本の線にしかならないですね。喋ったことそのものをずっと写しとっていけば、実になだらかな、素直な一本の線としての文章が出来上がります。そうでなくて、紙の上に黙っていて書いたものを眺めては、ここのところにはもう少し付け加えたいとか、傍点をつけたり括《かつ》弧《こ》その他をいっぱい入れるようになると、文章の運びは当然複雑になります。
現在書かれている日本の多くの哲学論文とか評論とか、そうしたものの多くはあと二十年もすると難しくて読めなくなるだろうと、わたしはときどき思います。そういうことを言うとさしさわりもありますが、まあしかたがありません。
正岡子規の文章は、明治三十五年に書かれたということが信じられないくらいに新しい。元来、明治時代の人と、現代の人と、声をだして喋ることにおいてはあまり変わらないんです。ところが文章はものすごく変わりましたね。明治、大正、昭和、戦前から戦後、戦後の時代も細かく分けていくと幾つもの時代があったように思われます。その間に文体を変えていかなきゃならない。新しくするっていうことが、文学者の中には常に一種の強迫観念としてありますから、前の時代の人のやったことと違うことをやりたい。そのためにどんどん文章が難しくなってきました。難しくなったからよくなったかというと必ずしもそうではない。よくなったものもあれば、どうしようもなくなったものもある。そういう意味でいうと子規のパロール、つまり喋ったことで書かれているこの『病牀六尺』というのは、今読んでも新鮮で普通です。普通で新鮮ということがとても大事なことで、異常で新鮮というのはすぐにひからびますけど、普通で新鮮というのはいつまでたっても生きているんです。そういう点で子規の文章は、われわれに教えることが多いと思います。
正岡子規という人は最晩年にはそういう形で口述筆記をした。しかし実は口述筆記でないものと、口述筆記のものとが『病牀六尺』では混じっているわけですね。そして、彼は多くの場合には一生懸命書きました。肺結核患者の最末期の症状ですから、これはもう動けないんです。
彼は二十二歳のときに喀《かつ》血《けつ》をし、二十七、八の頃にはもう脊《せき》椎《つい》カリエスにまでいってます。日清戦争に新聞社の派遣記者として従軍しようとして、明治二十八年に一応中国大陸まで行くんです。しかし大喀血をしてしまった。むこうに着いてまもなく戦争が終わってしまい、そのまま帰ってきます。神戸の港に船が入ったと同時に須《す》磨《ま》の療養所にかつぎこまれ、しばらくそこに居て、夏目漱《そう》石《せき》がその頃四国の松山に、例の『坊つちやん』を書いたあの舞台になった中学校の先生をしてましたので、そこへ行きます。漱石の下宿に転がりこんだ。喀血した病人と平気で住んでいたわけですから、漱石も相当神経が太いけれど、それだけではなく、正岡子規を慕う地元の若者たちが集まって来て、毎晩のように俳句の会をやったりしているんです。あの当時の人の衛生思想はおそるべきのんきさでした。
そういうことをしながら、二か月ほど松山にいて、秋の十月に東京に帰ろうとした。子規は奈良へ行ったことがなかったから奈良へ寄りたい。そこで、行きます。奈良へ行く途中、大阪あたりで、腰が激痛で動かなくなるんですね。それはもうひどい痛みでした。彼自身、それが脊椎カリエスの症状であることは勿《もち》論《ろん》知っていたと思いますけれども、この人はそういうことに対してわりと平気だったものですから、多少痛みが去ったところで、やっぱり奈良へ行ってですね、そして例の有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」をも作ったんです。
彼は御《ご》所《しよ》柿という柿が大好きでした。松山で子供のとき食べていたけれども、ずっと食べていない。時は十月で、まだ御所柿には時期が早いかなと思って宿の女中さんに聞くと、とても可《か》愛《わい》らしい十六、七の素敵な顔をした女中さんが「あります」という。大きなお皿に山盛り持ってきてくれたのを、がつがつ食べるんです。この人は果物が大好きで、大体柿とかそういうものでしたら一遍に六、七個食べて、やっとほっと一息つくという人だった。そのときはちょうど腰の痛みが去っていて、とても気分がよかったということが『病牀六尺』に書いてあります。ちょうど日暮れ時で、東大寺の鐘が鳴った。「柿くへば」の句がそこで出来た。
そういう旅のことなども、病床では思い出します。思い出すとすらすら書いていくわけです。『病牀六尺』というのは次々に思い出すこと、気がつくこと、あるいは自分の身辺で今起こったこと、そういうことをとりとめもなくという感じでさっさっと書いています。一つ一つが小さな一章ずつをなしています。中には何日間も続けて、夢中で書いている長い文章もあります。それらは、正岡子規の批評家としての能力と、文学だけではなくて科学とか哲学とか、その他学術芸術全般にわたる関心の、大した広がりを示す文章で満ちています。ほんの一行、誰だれからこういう手紙がきた。ただそれだけの日もあるんですね。くたびれちゃってそれだけしか書けない。しかし、そういうものと長い文章の間に何の断絶もなく、全部が文体として一貫しているというところがすばらしいわけです。いいかえますと、正岡子規の文章というのは筆で書いているときでも、実は喋っているのと非常に近い文章を書いていたんです。これがこの人の文章の持続力といいますか、歴史的な永続性を保証したように私は思います。
文章というのは凝《こ》れば凝っただけよくなるってもんじゃないんです。文章で一番大事なのは、息が健《すこ》やかか否かによっているということであって、これは昔も今も同じです。古典というと崇《あが》め奉《たてまつ》らなければいけないようなものだと思いがちですが、古典と呼ばれるような作品を書いた人が、これがそのうち古典になるだろうなんて思って書いているはずはありません。そういう人々はただ夢中になって書いたんです。夢中になって書いたもののどこが後世の人々を感動させるかといえば、そこに書かれている内容の一つ一つよりは、それを書いている人の息が、あるいは声が、朗《ろう》々《ろう》と響いてくること。それによって何百年も後の人が打たれるということが大事なのです。正岡子規の文章は、まさにそういう意味での古典性を持っております。
『病牀六尺』というのは「病牀六尺」という文字そのものでありまして、つまりべッドが六尺だってことなんですね。六尺というのは一メートル八十ちょっとなわけです。その寝床に縛《しば》り付けられている存在として書いている。そういう意味なんですね。
それ以外に彼は『墨《ぼく》汁《じゆう》一《いつ》滴《てき》』という文章を、その前の年に書きました。明治三十四年です。これも「日本」に連載した。それからもう一冊、これは公表を始めから考えていなかった『仰《ぎよう》臥《が》漫《まん》録《ろく》』、仰臥というのは仰向いて寝ていること、漫録というのは書いたものという意味です。『病牀六尺』のように新聞「日本」に書くものとは別個に書いていました。
ここには自殺しそびれた話その他、いきなり公表すると大反響を呼びそうなことが書かれております。自分がある日どうしても苦痛に耐えられなくなり死のうと思う。お母さんと妹さんが看病しているわけですけれども、二人が居ない隙《すき》に、隣の部屋まで死にものぐるいで這《は》いずって行って、刃物でやろうと思うんですが、ついに思い切って死ぬことが出来ない。その間のことを細かく書いている、また病気の苦しさを逃れるためもあったのですが、子規はその当時夢中になって絵を描いていました。
毎日、日課のようにして絵を描くんです。『仰臥漫録』のいろんな頁に、色つきで水彩画が出てます。その水彩画の大半は全部身の回りの果物と草花です。
友人の画家中村不《ふ》折《せつ》その他から貰《もら》っていた洋紙の二種類のスケッチ帳がありました。それに、一方は果物ばかり描く。他方のにはそれ以外の草花ですね、朝顔だとかそういうもの。二種類別々に、ずうっと描いています。病床にいてほとんど体を動かすのも大儀だった人が、おそろしく忙しく生きていたわけです。『仰臥漫録』を秘《ひそ》かに書く一方で『病牀六尺』を新聞に毎日出していた。
『病牀六尺』については、はじめのころ大きなニュースが入って彼の文章が飛ばされたことがありました。彼はそれを非常に嘆いて、担当している寒川鼠骨に、自分の文章を見るのが自分にとっては唯一の生きがいである。たった一行か二行なんだから載せてくれないか、そう思ったけれど新聞見るとなるほど自分の文が入る余地はなさそうだ、しかたがないとは思うが、自分としては毎日載せてもらいたい。いっそ、たとえば新聞の欄外に載せないか、と言ってるんです。あげくに、欄外文学というのはどうだろうか、面白いじゃないか、と言ってるんです。
これはすばらしいアイディアですね。現代になって、例えば『ぴあ』なんかが人気が出た理由の一つは、欄外に文章が載ったりしたからでしょう。欄外に小さくお知らせが載りますね、あれを正岡子規は病床ですでに思いついていた。欄外文学というのは面白いと考えていくんです。
彼は自分の病気の苦しみから発して、考えを展開していくうちに病気を忘れてしまう。欄外文学というアイディアに取りつかれると、そのことについて夢中で書き出す。それがちゃんとした文章になってしまうんですね。そういう人でした。大体人はものを書くとき、頭の中でじっくり考えをまとめ内容を決め、さらにどこからどう書き出そうかなどと考えて、やっぱり難しいからやめようということになるのが普通なんです。ところが正岡子規にはそんな暇《ひま》はない。明日死ぬかも知れない。だからどんどん書いていく。それがすばらしい文章であった。そのことの持っている意味は実に大きい。現代の日本の多くの人々、特に教育にたずさわるような人々は、子規を勉強してもらえば基本的には文章を書く心得はもう十分じゃないかと思うくらいです。しかし、読み方がわからなくてはしょうがないですね。
正岡子規の読み方とはどういうことか。子規が三十五歳で死んでいながら、あれだけのことをやり遂げたのは何故かと考えればいい。彼がこれだけの大きなことをやったことの意味はどういうことかというと、ぐずぐず考え込まなかったからです。やろうと思ったら、ぱっと始めたんですね。たとえば、自分の文章がある日新聞からはみ出してしまった。悲しくて悲しくてたまらん。どうしたらいいだろう。そこで自分の文章は短いのだ、欄外だっていいんだから、欄外にもっていけないかなと思う。そこまでは自分のことにかかわっているんですけれど、欄外に置いたらどうかと思った瞬間に、「欄外文学」というものがあったら面白かろうと、こういうふうに考える。もうすでに自分自身を離れてるんです。その一般論になっていく過程がすばらしい。最初のモチーフが、ぐんぐん大きなテーマになっていくんです。そういう頭脳でした、この人は。
なぜそんなふうに出来たかっていうと、実は若いときからものすごい勉強家だったからなんです。今日の教育の世界で正岡子規の教訓というのを生かそうと思ったら、やはり子供をちいさいときから勉強家にしなきゃ駄目です。学校で教え込まれたことをただ記憶するのは、これは勉強家の反対でありまして、怠け者なんです。そうでなく、自分でこれが大事だってことを見つけたら、夢中になって突っ込んでいくというのがほんとの勉強家であって、正岡子規はまさにそういうタイプの人です。子規だけでなくて、明治時代の、我々が知っている限りの立派な仕事をした人々は、一人残らずそうです。
少年期から青年期にかけての勉強というものが、その後の数十年間を完全に支えます。正岡子規の場合にはどうかというと、この人は小学校の頃から非常な勉強家でありましたが、外祖父の大原観《かん》山《ざん》が漢学者でしたし、それから叔《お》父《じ》さんには加藤恒《つね》忠《ただ》(拓川)という明治中期のすぐれた外交官であり政治家であり思想家だった人がいて、この人たちの影響も受けています。そういう家で生まれて、大原観山に子供の頃から漢学をたたき込まれてますから、漢文に関しては彼は非常に自信があったんです。
やがて一高に入りますが、同級生に夏目金之助という男がいた。これが後の漱石と名乗る人ですが、漢学を通じて親しくなります。夏目漱石は英文学をやった人で、漢学者ではありませんけれど、英文学をやった人が、漢文でさらさら書くっていうことが当り前の時代でした。子規の方が漱石よりも漢文については一日の長があったんで、漱石はわりと従順に子規のアドバイスに従っています。しかし、ある時期から、漱石は本当の自分の漢文に目覚めたと思います。それからは子規よりもずっといい漢詩を書くようになります。夏目漱石の漢詩というのは、漱石文学を考える上で絶対に欠かすことの出来ない部分を占めております。英文学をやめたのも、彼が漢文学を故郷として持ち、深く愛していたからやめたといってもいいくらいなんです。
そういう意味でいえば、彼らの子供のときの教養というのはおそるべきものがあります。我々も同じほど、あるいはより長い時間を生きているわけですから、我々の方が教わり方っていうか、学び方が下手になったに過ぎないんですけれど、今の日本の学校制度、社会の仕組みは、そういう創造力にあふれた個性を生みだすのに、正反対といってもいいようなところに向かっており、これは個人の努力ではどうしようもないところがあります。
いずれにしても、正岡子規の場合をいいますと、中学の頃には演説好きでした、はじめ政治家になろうと思ってましたから。ところが政冶家にはなれない。次には何となく哲学ってのが面白そうだと思ったのですが、この人はだいたい哲学的な頭ではないんですね。思いついたらやってみる、実行しながら次々に考えていく、そういうタイプでしたから、哲学には向かないのははっきりしています。それでやめてしまう。ただし彼の哲学というのは、その当時の日本に入ってきた哲学ですから、現在我々が頭に描くような哲学とすこし違っていて、社会学とかそういうものまで含んだものです。やっぱり政治家になろうと思った人の思考ですね。
しかしそれも駄目。なぜかというと、学校時代にすでに胸が悪くなっていて駄目になった。小説家になろうと思ったけれども、それも尊敬する幸《こう》田《だ》露《ろ》伴《はん》に見てもらったら、あまりよい批評を貰えなかった。それで、それまで手すさび程度にやっていた俳《はい》諧《かい》師《し》になった。
彼にとって俳句文学をやったということは、人生における挫《ざ》折《せつ》の果てに選んだ選択です。どちらかといえば馬鹿にしているものだった。これは石川啄《たく》木《ぼく》が短歌をやったのと非常に近いと思います。ところがそういうものをやっていく上で、彼は正岡子規でしかあり得なかったところがありまして、それは俳句をやるんなら俳句をやるで、昔の人のやったことをそのまま守って、伝承されたものを踏《とう》襲《しゆう》するなんてことは始めから考えない。
少年時代には、松山には江戸時代からつづいている旧派の俳人たちがたくさんいて、なかなか有力な人々もおりましたので、その人々にちょっとついたりしてもいますんです。ところがすぐに追随することはばかばかしいって分かるわけです。俳句にしても、当時の和歌にしてもそうでしたが、俳句や和歌は、あるものについて見たときに、それを歌う歌い方に昔から伝統があって、その理に乗って歌ったんです。
和歌の場合は千年近いあいだ『古今和歌集』の伝統が非常に強く中心をなしていました。『古今和歌集』の伝統でいうと、梅の花が咲いていたら鶯《うぐいす》が来て鳴かなきゃいけないわけです。梅の花に雀《すずめ》がちゅんちゅん鳴いてるなんてことを詠《よ》むと、この人は教養がないことになったんです。つまり決まり文句が重んじられる世界が、伝統の芸術の世界の一つのあり方。しかしその決まり文句で、我々の生活の大半は成り立っていますから、これを知らないと人生やりにくくもなります。決まり文句の世界に住んでいながら、そこから新しいことをやりとげていったのが、日本の文学芸術の世界の先駆者たちのやったことです。昔でいえば紀《きの》貫《つら》之《ゆき》もそうでしたし、藤原俊《しゆん》成《ぜい》、定《てい》家《か》親子もそうでしたし、西《さい》行《ぎよう》もそうでした。それから俳諧の方でいえば芭《ば》蕉《しよう》がまさにそうでした。
ところが江戸時代も末期になると、そういうエネルギーが和歌の方にも俳諧の方にもなくなってきた。明治になってからは、明治政府の方針のもとに文明開化政策がとられ、沢山のヨーロッパやアメリカのものが入ってきます。そういうものを生活の方では受け入れたけれども、文学芸術の方ではなかなか追いつかなかった。そのようにして三十年間くらいが過ぎたんです。その時期にちょうど正岡子規がぶつかっているわけです。子規は身の回りのことがどんどん新しい時代になっているのに、文学、特に詩歌文芸の方においては昔ながらの方法でしかやっていないことはおかしいと、素朴に率直に疑問を持ったわけです。
それで明治三十一年に書かれた有名な『歌よみに与ふる書』で、『古今和歌集』とか紀貫之の伝統を、一撃で倒すようなやり方をした。俳諧の方はもっと早めに、明治二十五、六年の頃から、新しい俳句運動を起こします。新しい運動を起こすといっても、彼自身の方からいうと自分自身の肌身に接してくるものとしてぴんとこないということがあるんです。このぴんとこないのは何故か、ということから発してずうっと考えていくと、ものを見るのに既成概念の眼鏡をかけているから、ものを見てもその通りに見えない。それじゃあ駄目だってことに気がついて、それで先ず写生ということを考えたわけです。
写生を考える上では、彼の友人の絵描きたちの影響があったわけです。中村不折とか浅井忠など、根《ね》岸《ぎし》の近くに住んでいて、この連中と行き来していましたので。絵描きの方では、写生ということで目の前にあるものを描く。
例えば、芭蕉の革新性について考えた場合に、芭蕉が例の「古池や蛙《かはづ》とびこむ水の音」という句を作りましたが、あれが何で革命的だったかといいますと、それまではかわずというのは鳴き声でしか鑑賞されなかったんです。かわずは、主として、『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』時代は主に河《か》鹿《じか》なんですね。その後はかわずというと田《たん》圃《ぼ》で普通に鳴いている蛙のこともかわずといったんですが、昔は特にかわずの中でも河鹿です。河鹿の声ってすばらしくきれいですけれど、あれが愛されていた。ところが芭蕉は古池にとびこむ蛙を書いたんです。それで弟子たちはびっくりしました。古池なんていわずに、例えば脇《わき》に咲いてる草花かなんか置いたらどうでしょうかと、そういうことを言う。蛙の俳句や和歌の場合には取り合わせとして、こういう植物がいいという取り合わせが、昔からあるんです。ところが芭蕉は断固として、いやこれは古池でなければ駄目なんだといった。古池へとっぽんと飛び込んだ蛙、その発見がつまり詩の伝統の中でまったく新しかったんです。
そういう点でいうと正岡子規も――子規は芭蕉については蕪《ぶ》村《そん》よりもずうっと低い評価をしていたんですが――やったことは芭蕉と同じで、今までの人々が既成概念でものを見ていたのに、それは駄目だ、自分にはこう見えるんだから、こう書けばいいのだ、とやった。それが新しい文学としての短歌や俳句を生み出す源流になったんです。そういう点でこの人は常に率直で、そしてぐずぐず考えなかったんです。ただし、考えないといっても、もし自分の内側に蓄積がない場合には、その人のいうことは常に一本調子になって、あっという間に人々に馬鹿にされておしまいになりますけれど、正岡子槻の場合には恐ろしいほどの蓄積があった。次から次に出てきた。見たもの、今生じたことを書いているうちに、先ほどのように欄外文学というような言葉が出てきて新しいアイディアに転じてしまう。そういうことが彼の場合は日常的に起きてます。
彼の本名は正岡升《のぼる》といいます。のぼさん、のぼさんとよばれてました。それを子規という名前にしたのは、明治二十二年に喀《かつ》血《けつ》をしたからです。子規というのはホトトギスのことです。ホトトギスは鳴いて鳴いて鳴きすぎて喉《のど》から血を吐くという伝説がある。それにあわせて子規という号を作ったのです。子規という名前にしましたけれど、子規以外にも彼はたくさん名前を持ってました。名前を持っていた人で一番多いのは多分、絵描きの葛《かつ》飾《しか》北《ほく》斎《さい》、あの人は生涯に九十くらいは号を持っていたようです。
正岡子規も記録に残っているだけでもずいぶんあります。中学時代に彼は一人で新聞みたいなものを出していましたし、雑誌も出しました。それにはいろんな筆者が書いているんです。文体も違う。ところが全部自分一人で書いていたという。これは恐るべき才能であります。
一冊の薄っぺらな雑誌を作って、ある頁は人をからかうところ、ある頁は小説、ある頁は俳句とか、そうなっていて、これを全部一人でやってのけて、それぞれに別々の名前をつけた。これは石川啄木もそういうことをやっているんです。どうも詩歌っていうのは嘘《うそ》と非常に関係がありそうですけれども、上手に嘘をつけば詩になります。下手に嘘をつくとインチキになる。
石川啄木が本《ほん》郷《ごう》で、国語学者の金《きん》田《だ》一《いち》京助さんと一緒に下宿していたときに、金田一さんが啄木の部屋の障子を開けると彼があわてて何か隠すんです。自分一人で新聞紙を作っていたというんです。連載小説とか、政治論文とか、色町の探訪記とか、そういうのを名前を全部変えて一人で書いてる。そういうことを石川啄木がしていたことを、金田一京助さんの本で知ることができます。正岡子規もそうだったんです。十二、三歳の頃からそういう才能があった。当然さまざまなことに興味があるわけです。興味がなけりゃそんなことやりません。
近ごろ私たちが駄目になっているのは、一つのことにしか興味を持たなくなっているからではないでしょうか。何でもやるのは器用貧乏になるよとか、そんなことしていると学校の成績悪くなるとか、受験に失敗するよと母親に言われて、ああいやだなと思いながら勉強しているという子が大半であって、そういう子たちは本当にかわいそうです。即刻やめた方がいいんですけれども、しかしやめてしまって本当に大学に受からないんじゃ困りますが。
ぼくの世代は、終戦の年が中学三年でしたから、それから二年くらいは完全な野放しで教科書さえろくにない。参考書も焼け果ててないという、実に自由でいい時代に育ちました。学校の先生は友達でしたから、先生で頼むに足る人は仲間にいれて同人雑誌を一緒にやっていたんです。それ以外の授業は、面白い先生の場合には一生懸命に聞くけれども、そうでない人の場合には勝手にどこかへ行っちゃう。そういうことをやってましたので、正岡子規のそういうのを見ても、自分なんかより立派だなと思うけれど、全然違う世界の人とも思えないところがある。そういうときに子どもはたくさんのことを発見するわけです。とんでもない領域まで発見します。それがつまり自己教育ということであり、本当の意味での教育というのはそういうものだと思うんです。
正岡子規の場合にはそういう意味で興味の範囲が、たいへん広い。『子規全集』の第十巻っていうのが初期随筆篇なんです。その中に「筆まかせ」という初期の随筆があってこれは膨大なものです。いつ頃からのが入っているかっていうと、十七歳から大体二十四歳くらいまでのものが入っている。十七歳というともう完全な大人でして、世の中のことについて論評していると思うと、その隣では江戸時代の文人について論評していたり、絵描きについて論評していたり、あるいは果物のことを書いてあったりするのです。それは次々に変わっていく。そのスタイルは十代から彼の中にあって、それが最晩年の『病牀六尺』にまでずっと貫いてきているんです。
これはある意味でいうと江戸随筆のスタイルをそのまま踏襲しているものです。江戸の随筆というのは、面白いものが多いです。江戸時代というのは随筆の世紀といっていいのです。もっと前の時代でいえば鎌倉時代は軍記ものの世紀です。それから平安時代は女流文学の世紀で、仮名文学の世紀です。室町時代っていうのはもっと広がりが出てくるけれども、一般的にいって庶民というものが重要な文学的存在として台頭してきた時代。
江戸時代っていうのはそれらすべてを合流させちゃったんです。そして漢文系統のすばらしい仕事が、例えば小説家でいえば上《うえ》田《だ》秋《あき》成《なり》とか、あるいは滝《たき》沢《ざわ》馬《ば》琴《きん》という人が出てくるわけです。そうでない和文系統の文学は、また膨大なものがあって、その頂点にいたのが本《もと》居《おり》宣《のり》長《なが》ということになります。いずれにしても江戸時代っていうのは随筆と学問が一体化している時代であって、その伝統は正岡子規においてよく受け継がれました。次から次へ思いつくことをどんどん書いていって、それらがきちんとした学問になっている。
松山藩の藩儒でもあった大原観山からの影響もあって、中国の長い歴史の中で蓄えられてきた学問の伝統ですね、そういうものが日本の中で生かされていたことを知っていた。それで正岡子規は漢学系統の知識を和文系統の方へ転じたわけです。そして和歌と俳句を一新させたんですけれど、教養の基本にはがっちりとした漢学がある。ヨーロッパやアメリカの文学芸術、特に学問ですね、自然科学とか哲学とか、そういうものに対する関心が強かった。これらのことが正岡子規という人を、少年期から作っていたことが分かります。
『子規全集』の第二十巻がまた見ものの巻であります。背表紙には研究編著となっています。研究と編纂の著書ですね。目次だけ見ますと、こういうのがあります。「富士のよせがき」、一、二、三と三章あって、富士山について書かれた古典ですね、それを読めるだけ読んで、その中からよさそうなところ全部筆記して、それでアンソロジーを作った。これは途中から正岡子規一人では出来なくて寒川鼠骨にも手伝ってもらいましたけれど、これはおそるべき原稿です。ここに引用されている本だけで七十冊くらいあると思いますが、それは引用するに足りたものです。それ以外に多くの本をこの「よせがき」のために読み捨てているはずなんです。それらの中から例えば、『太平記』ならその中の富士山にかかわるところだけを引用してある。和歌俳諧、それから戯《ざ》れ歌ですね、川柳とか狂歌、狂句そういうものからもずいぶん引用してありまして、戯れ歌の場合には富士山を女に見立てていますから、かなり猥《わい》褻《せつ》なものまで引用されていて、そういうのを読むと吹き出してしまいそうなものがある。その次「えりぬき」というのがあって、いろんなところから自分の気に入った文章を抜いてまとめてあります。
これらは全部筆で写しています。子規は絶筆も仰向けで書きますけど、あの字がすばらしいのは当り前なんですね。書家の人々とは違って、彼は必要にせまられて、毎日毎日書き続けました。書き続けた人の字というのは必ず読みやすくて、続け字もありますけれど、実に分かりやすい続け字です。我々が読めないような字、近ごろの書道展とかに行くと読めない字が大半でありますが、そういうのと違って読める字を書いている。それは藤原定家と同じです。定家という人もものすごく書いた人ですね。『源氏物語』にせよ『古今和歌集』にせよ、定家は自分で写した。写すことを半生の義務と思った人です。現在の源氏物語研究でも古今和歌集研究でも、古典の研究で定家の写本というのは絶対的に重要なんです。間違いが少ないのと、分かりやすい字で書いてあるからです。それは大事な心構えで、文学者には当り前ですが、字というのは分かりやすくなければいけないんですね。「えりぬき」がそうです。また「日本の諺《ことわざ》」というのがあって、諺をいろは順にならべてあります。また、重ね言葉というのがあります。しくしくとか、あるいはぽくぽくとか、うろうろとか、同じ言葉を重ねることが日本語には多いですね、それに関心を持っていっぱい集めてあります。
それから「種本」というのがあって、いろんなことについての種本なんです。話をするときに、これはいい種になると思ったらすっと書いてある。つぎに「日本人物過去帳」。これは天皇から始まって各種の人々の過去帳。何年に生まれて何年に死んで、最後の地位はどうだったというふうなことが簡潔に書いてある。これが相当あるんですね。何で過去帳にまで興味持ったのかと思うんですけれども。子規は博物誌的な興味を持っていた人なんです。
それから「韻《いん》さぐり」というのがすごい。彼は新体詩にも興味を持ったんです。その場合、彼は詩作に興味を持って、韻をふもうと思ったんですね。韻をふむためには一番おしまいのところで、例えば何とかする「こと」というのと、例えば弾く「琴」ですね、それから言葉の「言」というのもコトですね。そういうのを探っていって、全部同じ韻になるような言葉を二音、三音、四音、五音というように並べ、きちんと配列してある。これは逆引き辞典の発想と同じです。普通辞書っていうのは「あいうえおかきくけこ」で並んでます。「あ」から始まって、頭の部分の言葉で編まれております。それを逆転させて、「こと」といったら「とこ」と引くんです。そうするとそこに普通の「こと」という言葉がずらずらって並ぶわけです。現在では冨山房や笠間書院から脚韻辞典というか、語尾辞典が出ていますけれど、そういうものの先駆者ですね。
それから「飲食考」。子規は食ベることが大好きでした。病気になってから食べることしかないんです。『病牀六尺』でも、今日はお刺身何切れ食べたかとか、柿を幾つ食べたとか、食べ物に対する記事が多くある。胃が丈夫でしたから、死ぬちょっと前まで、飲み食いは十分にできたんです。
彼の明治三十四年の三月から四月にわたって書かれた「くだもの」という文章があります。自分は果物が大好きなんで、病床のつれづれに果物について考えるというのです。これがすばらしい文章です。「植物学の上より見たるくだものでもなく、産物学の上より見たるくだものでもなく、ただ病床で食うてみたくだものの味のよしあしをいうのである。間違うておる処は病人の舌の荒れておる故と見てくれたまえ」こういう前書きがありまして、最初に何がくるかというと、果物の字義っていう小さい項目が上にあって、「くだもの、というのはくだすものという義で、くだすというのは腐ることである」と書いてある。なるほどと思います。語源からはいるんです、この人は。俳句やってらっしゃる方ならご存じの「卯《う》の花くだし」。五月ごろにじとじと降る雨のことをいいます。卯の花が咲いていますね、その花さえも腐ってしまうくらいの陰気な雨ということで、くだすというのは腐るっていう字を書いて、くだす、くだしと読みます。清音で卯の花くたしと読む人もおります。
「菓《くだ》物《もの》は凡《すべ》て熟するものであるから、それをくさるといったのである。大概の菓物はくだものに違いないが、栗、椎《しい》の実、胡桃《くるみ》、団《どん》栗《ぐり》などというものは、くだものとはいえないだろう。さらばこれらのものを総称して何というかといえば、木の実というのである。木の実といえば栗、椎の実も普通のくだものも共に包含せられておる理屈であるが、俳句では普通のくだものは皆別々に題になって居るから、木の実と言えば椎の実の如き類の者をいうように思われる。しかしまた一方からいうと、木の実というばかりでは、広い意味に取っても、覆《い》盆《ち》子《ご》や葡《ぶ》萄《どう》などは這《は》入《い》らぬ。其《そ》処《こ》で木の実、草の実と並べていわねば完全せぬわけになる。この点では、くだものといえばかえって覆盆子も葡萄もこめられるわけになる」。
この頭の働きはすごいと思います。つまり木の実があって、それからここに食べている梨《なし》とかそういうものがあると、これとこれとを一緒にすることがなかなかできない。こちらは木の実で、こちらは果物、もう一方で苺《いちご》のように草みたいにして生えてくるもの。これはどうなる。草の実ってことになりますね。全部ひっくるめて言うには果物っていうのが一番いいという考え方。こういうのが彼の頭の働き方です。最初に大きなところからいってすぐに小さなところへ具体的にいって、それを総合してまたもとへ戻るんですね。これは明治の人々の頭の働き方の特徴でもあると思います。
「くだものと色」という項目。「くだものには大概美しい皮がかぶさっておる」ここから始まるんです。こういうのはすばらしいと思います。これがすばらしいと思えない人はよほど、いろんなことをよくご存じの方だと思います。私は果物にはたいがい美しい皮がかぶさっているってこと、これ読んで初めて気がつきました。「覆盆子、桑の実などはやや違う。その皮の色は多くは始め青い色であって熟するほど黄色かまたは赤色になる。中には紫色になるものもある。(西《すい》瓜《か》の皮は始めから終りまで青い)普通くだものの皮は赤なら赤黄なら黄と一色であるが、林《りん》檎《ご》に至っては一個の菓物の内に濃紅や淡紅や樺《かば》や黄や緑や種々な色があって、色彩の美を極めて居る。その皮をむいで見ると、肉の色はまた違うて来る。柑類は皮の色も肉の色も殆《ほとん》ど同一であるが、柿は肉の色がすこし薄い。葡萄の如きは肉の紫色は皮の紫色よりも遥《はるか》に薄い。あるいは肉の緑なのもある。林檎に至っては、美しい皮一枚の下は真白の肉の色である」。この辺は官能的ですね。「しかし白い肉にも少しは区別があってやや黄を帯びているのは甘味が多うて青味を帯びているのは酸味が多い」。
次にくだものと香りのこと、それからくだものの旨《うま》い部分のことが出てきます。
「一個の菓物のうちで処によりて味に違いがある」。私たちはこのようなことは考えないで食べています。これ読んで本当に驚いた。
「一般にいうと心《しん》の方よりは皮に近い方が甘くて、尖《さき》の方よりは本の方、即《すなわち》 軸の方が甘味が多い」。つまり枝に近い方が甘いっていうんですね。「その著しい例は林檎である。林檎は心までも食うことが出来るけれど、心には殆ど甘味がない。皮に近い部分が最も旨いのであるから、これを食う時に少し皮を厚くむいて置いて、その皮の裏を吸うのも旨いものである。しかるにこれに反対のやつは柿であって」、この辺りがすごいんです。つまり別のものを常に考えていくんです。これは彼の頭のすばらしい多様性というものを示しているのです。「柿の半熟のものは、心の方が先ず熟して居って、皮に近い部分は渋味を残して居る」。本当にそうです。柿の種ですね、あの周りのやわらかく熟れたところは一番甘いですね。食べながらじっと考えて食べているんですね。そのためにも、一度に十個も十五個も林檎を食べなければいけなかったんですね。「また尖の方は熟して居っても軸の方は熟して居らぬ。真《ま》桑《くわ》瓜《うり》は尖の方よりも蔓《つる》の方がよく熟して居るが、皮に近い部分は極めて熟しにくい」。たしかにそうです。「西瓜などは日《ひ》表《おもて》が甘いというが、外の菓物にも太陽との光線の関係が多いであろう」。こうなるんですね。
「くだものと余」というところがありますが、これは大事なところです。
「余がくだものを好むのは病気のためであるか、他に原因があるか一向にわからん、子供の頃はいうまでもなく書生時代になっても菓物は好きであったから、二ヶ月の学費が手に入って」、彼は給費だったんですね、お父さんが早くに死んでしまったから、松山藩から給費されてた。牛肉食べるのが一番のご馳《ち》走《そう》で、学費が入ると真っ先に本郷の牛肉店へいくんです。「牛肉を食いにいったあとでは、いつでも菓物を買うてきて食うのが例であった。大きな梨ならば六つか七つ、樽《たる》柿《がき》ならば七つか八つ、蜜《み》柑《かん》ならば十五か二十くらい食うのが常習であった。田舎へ行《あん》脚《ぎや》に出かけた時なども、普通の旅《はた》籠《ご》の他に酒一本も飲まぬから」この人は酒を全然飲まなかった、「金はいらぬはずであるが、時々路《ろ》傍《ぼう》の茶店に休んで、梨や柿をくうのが癖《くせ》であるから、存外に金を遣うような事になるのであった」。このくらい食べないと、こういう文章は書けないんだなあと思うわけですが、正岡子規の文章の特色はこういうところの一節でもよく分かると思います。
こういうものがすべて『病牀六尺』、あるいは『墨汁一滴』『仰臥漫録』に出てるということです。それが最後の瞬間には、普通の人なら辞世一句だけで大抵は世を去るのに、三句まで書いて死んだという。この人は実に偉大であります。三十五歳で死んだ人としては本当にすばらしい。天才としか言えないけれども、この天才は努力の仕方を知っていたから天才であるというふうに思います。
(一九九〇年八月二日 日本近代文学館主催・読売新聞社後援「夏の文学教室」の講演より。「花神」一九九一年春号掲載)。なお「くだもの」の引用は、『飯待つ間――正岡子規随筆選――』(阿部昭編、岩波文庫)によった。
句歌索引
●あ
赤とんぼまだ恋とげぬ朱さやか
佐野青陽人
秋風に歩行て逃げる蛍かな
小 林 一 茶
秋風にこゑをほにあげてくる舟は
あまのとわたる雁にぞありける
藤 原 菅 根
秋風にしら波つかむみさご哉
高 桑 蘭 更
秋風にたなびく雲のたえまより
もれ出づる月の影のさやけさ
左京大夫顕輔
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風のおとにぞおどろかれぬる
藤 原 敏 行
秋さらば見つつ思へと妹が植ゑし
屋前のなでしこ咲きにけるかも
大 伴 家 持
秋づけば尾花が上に置く露の
消ぬべくも我は思ほゆるかも
日置長枝娘子
秋に堪へぬ言の葉のみぞ色に出づる
大和の歌も唐の歌も
藤 原 定 家
秋の江に打ち込む杭の響かな
夏 目 漱 石
秋の淡海かすみ誰にもたよりせず
森 澄 雄
秋の暮大魚の骨を海が引く
西 東 三 鬼
秋の航一大紺円盤の中
中村草田男
秋の田のかりほの庵の哥かるた
手もとにありてしれぬ茸狩
四 方 赤 良
秋の月光さやけみもみぢ葉の
おつる影さへ見えわたるかな
紀 貫 之
あきの野のくさばのつゆをたまと見て
とらむとすればかつきえにけり
良 寛
秋の野を分け行く露にうつりつつ
わが衣手は花の香ぞする
凡河内躬恒
秋はなほ夕まぐれこそただならね
荻の上風萩の下露
藤 原 義 孝
秋彼岸すべて今日ふるさむき雨
直なる雨は芝生に沈む
佐藤佐太郎
秋深き隣は何をする人ぞ
松 尾 芭 蕉
秋山の黄葉を茂み迷ひぬる
妹を求めむ山道知らずも
柿本人麻呂
朝顔の紺のかなたの月日かな
石 田 波 郷
紫陽花に秋冷いたる信濃かな
杉 田 久 女
跡もなき庭の浅茅にむすぼほれ
露のそこなる松虫のこゑ
式子内親王
あなたなる夜雨の葛のあなたかな
芝 不器男
雨音のかむさりにけり虫の宿
松本たかし
天の河霧立ち渡り彦星の
楫の音聞ゆ夜の更けゆけば
よみ人しらず
天の河とわたる船の梶の葉に
思ふことをも書きつくるかな
上 総 乳 母
あまの原ふりさけみれば春日なる
三笠の山にいでし月かも
安倍仲麻呂
鮎落ちて美しき世は終りけり
殿村菟絲子
荒磯の岩に砕けて散る月を
一つになして帰る浪かな
徳 川 光 圀
有明や浅間の霧が膳をはふ
小 林 一 茶
蟻台上に餓えて月高し
横 光 利 一
或る闇は蟲の形をして哭けり
河原枇杷男
あはれいかに草葉の露のこぼるらむ
秋風立ちぬ宮城野の原
西 行 法 師
あはれさもその色となきゆふぐれの
尾花がすゑに秋ぞうかべる
京 極 為 兼
石越ゆる水のまろみをながめつつ
こころかなしも秋の渓間に
若 山 牧 水
市売りの鮒に柳のちる日哉
常世田長翠
何処にか船泊てすらむ安礼の崎
漕ぎ廻みゆきし棚無し小舟
高市連黒人
今はたゞしひてわするゝいにしへを
思ひいでよとすめる月かげ
建礼門院右京大夫
芋嵐猫が〓張り歩きをり
村 山 古 郷
芋の露連山影を正しうす
飯 田 蛇 笏
芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ
子芋は白く凝りつつあらむ
長 塚 節
萍に生れしと見る虫の飛ぶ
石 井 露 月
牛一つ花野の中の沖の石
武 玉 川
薄霧のまがきの花の朝じめり
秋は夕べとたれかいひけむ
藤 原 清 輔
舂ける彼岸秋陽に狐ばな
赤々そまれりここはどこのみち
木 下 利 玄
馬追虫の髭のそよろに来る秋は
まなこを閉ぢて想ひ見るべし
長 塚 節
老ふたり互に空気となり合ひて
有るには忘れ無きを思はず
窪 田 空 穂
逢坂の関の清水に影見えて
今やひくらむ望月の駒
紀 貫 之
大江山傾く月のかげさえて
鳥羽田の面に落つるかりがね
慈 円
おく山に紅葉ふみわけなく鹿の
こゑきく時ぞ秋はかなしき
よみ人しらず
をぐら山みねたちならしなく鹿の
へにけむ秋をしる人ぞなき
紀 貫 之
処女にて身に深く持つ浄き卵
秋の日吾の心熱くす
富小路禎子
おもてにて遊ぶ子供の声きけば
夕かたまけてすずしかるらし
古 泉 千 樫
をり知れる秋の野原の花はみな
月の光の匂ひなりけり
慈 円
をりとりてはらりとおもきすゝきかな
飯 田 蛇 笏
折もよき秋のたゝきの烏帽子魚
かま倉風にこしらへてみん
雀 酒 盛
●か
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
正 岡 子 規
かきなぐる墨絵をかしく秋暮て
史 邦
影見れば波の底なるひさかたの
空漕ぎわたるわれぞわびしき
紀 貫 之
かすがの に おしてる つき の ほがらか に……
会 津 八 一
風きけば嶺の木の葉の中空に
吹き捨てられて落つる声々
正 徹
風はらむはずみにひらく芙蓉かな
阿波野青畝
風わたる浅茅がすゑの露にだに
やどりもはてぬ宵のいなづま
藤原有家朝臣
かたはらに秋ぐさの花かたるらく
ほろびしものはなつかしきかな
若 山 牧 水
がつくりと抜け初むる歯や秋の風
杉 山 杉 風
香取より鹿島はさびし木の実落つ
山 口 青 邨
かなしさに魚喰ふ秋のゆふべ哉
高 井 几 董
鴈がねもしづかに聞ばからびずや
越 智 越 人
彼一語我一語秋深みかも
高 浜 虚 子
からうじてわがものとなりし古き書の
表紙つくろふ秋の夜の冷え
佐佐木信綱
川に沿いのぼれるわれと落ち鮎の
会いのいのちを貪れるかな
石 本 隆 一
君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり……
梁 塵 秘 抄
けふの日の終る影曳き糸すすき
野見山朱鳥
きりぎりす鳴くや霜夜のさ莚に
衣片敷きひとりかも寝む
藤 原 良 経
桐の葉も踏み分けがたくなりにけり
必ず人を待つとなけれど
式子内親王
霧の村石を投うらば父母散らん
金 子 兜 太
桐一葉日当りながら落ちにけり
高 浜 虚 子
葛咲くや嬬恋村の字いくつ
石 田 波 郷
くらきよりくらき道にぞ入ぬべき
はるかにてらせ山の端の月
和 泉 式 部
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
飯 田 蛇 笏
軍鼓鳴り/荒涼と/秋の/痣となる
高 柳 重 信
鶏頭に鶏頭ごつと触れゐたる
川 崎 展 宏
鶏鳴に露のあつまる虚空かな
飯 田 龍 太
月明のいづくか悪事なしをらむ
岸 風三楼
甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋
与 謝 蕪 村
紅葉はかぎり知られず散り来れば
わがおもひ梢のごとく繊しも
前川佐美雄
声なり刈田の果に叫びおる
西 東 三 鬼
蟋蟀が深き地中を覗き込む
山 口 誓 子
心なき身にもあはれはしられけり
鴫たつ沢の秋の夕暮
西 行 法 師
心の澄むものは 秋は山田の庵毎に……
梁 塵 秘 抄
去年見てし秋の月夜は照らせれど
相見し妹はいや年さかる
柿本人麻呂
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば……
八 木 重 吉
此秋は何で年よる雲に鳥
松 尾 芭 蕉
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
三 橋 鷹 女
木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ
加 藤 楸 邨
木の間よりほのめくとみし月影を
やがてよせくる秋の川水
加 藤 千 蔭
木のまよりもりくる月の影見れば
心づくしの秋は来にけり
よみ人しらず
●さ
酒しゐならふこの比の月
松 尾 芭 蕉
さびしさはその色としもなかりけり
真木立つ山の秋の夕暮
寂 蓮 法 師
さやけくて妻とも知らずすれちがふ
西 垣 脩
三五夜中の新月の色
二千里の外の故人の心
白 居 易
しほがまの浦ふく風に霧はれて
八十島かけてすめる月かげ
藤 原 清 輔
静かなり耳底に霧の音澄むは
富 安 風 生
しづかなる力満ちゆき杣旡とぶ
加 藤 楸 邨
死なば秋露の干ぬ間ぞおもしろき
尾 崎 紅 葉
島隠り我が漕ぎくればともしかも
大和へ上るま熊野の舟
山 部 赤 人
秋蝶の驚きやすきつばさかな
原 石 鼎
秋灯や夫婦互に無き如く
高 浜 虚 子
生涯にまはり灯籠の句一つ
高 野 素 十
白雲に心をのせてゆくらくら
秋の海原思ひわたらむ
上 田 秋 成
白雲にはねうちかはしとぶ雁の
かずさへ見ゆる秋の夜の月
よみ人しらず
白露や死んでゆく日も帯締めて
三 橋 鷹 女
白き霧ながるる夜の草の園に
自転車はほそきつばさ濡れたり
高 野 公 彦
白妙の袖のわかれに露おちて
身にしむいろの秋かぜぞ吹く
藤 原 定 家
相撲取ならぶや秋のからにしき
服 部 嵐 雪
空きよく月さしのぼる山の端に
とまりて消ゆる雲のひとむら
永 福 門 院
空をあゆむ朗朗と月ひとり
荻原井泉水
●た
抱下ろす君が軽みや月見船
三 宅 嘯 山
たちまちに君の姿を霧とざし
或る楽章をわれは思ひき
近 藤 芳 美
経もなく緯も定めず少女らが
織れる黄葉に霜な降りそね
大 津 皇 子
旅人の宿りせむ野に霜降らば
わが子羽ぐくめ天の鶴群
遣唐使随員の母
たまだなやしら髪を拾う膳の上
白 井 鳥 酔
蝶老てたましひ菊にあそぶ哉
榎 本 星 布
頂上や殊に野菊の吹かれ居り
原 石 鼎
月天心貧しき町を通りけり
与 謝 蕪 村
月の人のひとりとならむ車椅子
角 川 源 義
月の夜や石に出て鳴くきりぎりす
千 代 女
月見ればちぢに物こそかなしけれ
わが身ひとつの秋にはあらねど
大 江 千 里
月夜つづき向きあふ坂の相睦む
大 野 林 火
月を笠に着て遊ばゞや旅のそら
田 上 菊 舎
筑波嶺の峰のもみぢ葉落ち積もり
知るも知らぬも並べて愛しも
東歌(常陸うた)
つぶらなる汝が眼吻はなん露の秋
飯 田 蛇 笏
露の世は露の世ながらさりながら
小 林 一 茶
釣の糸にふく夕風のすゑ見えて
入日さびしき秋の川づら
清 水 浜 臣
吊柿鳥に顎なき夕べかな
飯 島 晴 子
でで虫の腸さむき月夜かな
原 石 鼎
照る月をくもらぬ池の底に見て
天つみ空に遊ぶ夜半かな
加 藤 千 蔭
蟷螂のしだいに眠く殞ちゆけり
山 口 誓 子
十団子も小粒になりぬ秋の風
森 川 許 六
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
与 謝 蕪 村
友もやゝ表札古りて秋に棲む
中村草田男
●な
長き夜をたゝる将棋の一ト手哉
幸 田 露 伴
ながめつつ思ふも寂しひさかたの
月のみやこの明けがたの空
藤 原 家 隆
梨食ふと目鼻片づけこの少女
加 藤 楸 邨
浪の秀に裾洗はせて大き月
ゆらりゆらりと遊ぶがごとし
大 岡 博
にほどりの葛飾早稲のにひしぼり
くみつつをれば月かたぶきぬ
賀 茂 真 淵
によつぽりと秋の空なる富士の山
上 島 鬼 貫
脱ぎすてて角力になりぬ草の上
炭 太 祇
残る蚊をかぞへる壁や雨のしみ
永 井 荷 風
のちの月葡萄に核のくもりかな
夏 目 成 美
●は
はきごころよきめりやすの足袋
野 沢 凡 兆
萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花
女郎花 また 藤袴 朝貌の花
山 上 憶 良
箱根路はもみぢしにけり旅人の
山わけごろも袖にほふまで
村 田 春 海
沙魚釣るや水村山廓酒旗の風
服 部 嵐 雪
はたはたのをりをり飛べる野のひかり
篠田悌二郎
初雁や夜は目の行く物の隅
炭 太 祇
初恋や燈籠によする顔と顔
炭 太 祇
花籠に月を入れて 漏らさじこれを
曇らさじと 持つが大事な
閑 吟 集
引馬野ににほふ榛原入り乱れ
衣にほはせ旅のしるしに
長忌寸意吉麿
人それイウぞれ書を読んでゐる良夜かな
山 口 青 邨
一家に遊女もねたり萩と月
松 尾 芭 蕉
人に似て猿も手を組む秋の風
浜 田 洒 堂
日のさしてとろりとなりぬ小田の雁
岩 間 乙 二
ひやひやと積木が上に海見ゆる
河東碧梧桐
病雁の夜さむに落て旅ね哉
松 尾 芭 蕉
病床に駈くる真似して秋の風
石 田 波 郷
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ
石 田 波 郷
ふところに入日のひゆる花野かな
金尾梅の門
船の名の月に読まるゝ港かな
日 野 草 城
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
正 岡 子 規
ぽつかりと月のぼる時森の家の
寂しき顔は戸を閉ざしける
佐佐木信綱
●ま
また蜩のなく頃となつた……
山 村 暮 鳥
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
身捨つるほどの祖国はありや
寺 山 修 司
真萩散る庭の秋風身にしみて
夕日の影ぞかべに消えゆく
永 福 門 院
満月やたたかふ猫はのびあがり
加 藤 楸 邨
曼珠沙華抱くほどとれど母恋し
中 村 汀 女
身にしむや亡妻の櫛を閨に踏
与 謝 蕪 村
蓑虫にうすうす目鼻ありにけり
波多野爽波
都をば霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関
能 因 法 師
見わたせば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋の秋の夕暮
藤 原 定 家
むざんやな甲の下のきりぎりす
松 尾 芭 蕉
名月や畳の上に松の影
榎 本 其 角
眼をとぢて思へばいとどむかひみる
月ぞさやけき大和もろこし
正 徹
●や
痩馬のあはれ機嫌や秋高し
村 上 鬼 城
山里は松の声のみききなれて
風ふかぬ日は寂しかりけり
太田垣蓮月
闇晴れてこころのそらにすむ月は
西の山辺や近くなるらむ
西 行 法 師
やはらかき身を月光の中に容れ
桂 信 子
夕霧も心の底に結びつつ
我が身一つの秋ぞふけゆく
式子内親王
夕されば小倉の山に鳴く鹿は
今夜は鳴かずい寝にけらしも
舒 明 天 皇
ゆく水の末はさやかにあらはれて
川上くらき月のかげかな
香 川 景 樹
行く我にとどまる汝に秋二つ
正 岡 子 規
宵のまの村雲づたひ影見えて
山の端めぐる秋のいなづま
伏 見 院
世の中は夢か現か現とも
夢とも知らずありてなければ
よみ人しらず
よろこべばしきりに落つる木の実かな
富 安 風 生
●ら
林間に酒を煖めて紅葉を焼く
石上に詩を題して緑苔を掃ふ
白 居 易
●わ
わが影の壁にしむ夜やきりぎりす
大 島 蓼 太
わが心澄めるばかりに更けはてて
月を忘れて向ふ夜の月
花 園 院
わが心なぐさめかねつ更級や
姨捨山にてる月を見て
よみ人しらず
わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて
暁露にわが立ち濡れし
大 伯 皇 女
若の浦に潮満ち来れば潟を無み
葦辺をさして鶴鳴き渡る
山 部 赤 人
名《めい》句《く》 歌《うた》ごよみ 〔秋《あき》〕
大《おお》岡《おか》 信《まこと》
-------------------------------------------------------------------------------
平成13年9月14日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Makoto OOKA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『名句歌ごよみ〔秋〕』平成11年8月25日初版発行