TITLE : 名句 歌ごよみ 〔夏〕
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目 次
時 鳥《ほととぎす》
五月雨《 さ み だ れ》
海《うみ》 山《やま》
夏《なつ》 祭《まつり》
蝉《せみ》
牧水が立派だったと思うこと
句歌索引
時 鳥《ほととぎす》
芭《ば》蕉《しよう》に少なからぬ影響を与えた俳人として、山《やま》口《ぐち》素《そ》堂《どう》という江戸前期の俳人の名を知る人もあるだろう。だが、そのことを知らなくとも、「目には青葉 山《やま》 時 鳥《ほととぎす》 初《はつ》鰹《がつお》」の句を耳にし、ふと口にのせた記憶のある人は多いにちがいない。
黒《くろ》潮《しお》にのって南から北へ回遊してくる鰹の味については、いわゆる青葉の季節にとれる伊《い》豆《ず》、相模《さがみ》沖のものより、秋の三陸沖でとれるもどり鰹の方がよいともいうが、いずれにせよ、青葉や鰹、それに時鳥は、夏の到来になくてはならない日本の初夏の景物だった。
卯《う》の花の にほふ垣《かき》根《ね》に
時《ほとと》鳥《ぎす》 早も来《き》鳴きて
忍《しのび》音《ね》もらす 夏は来ぬ
一般に小学唱歌として知られている、佐《さ》佐《さ》木《き》信《のぶ》綱《つな》作詞の「夏は来ぬ」である。この唱歌は五番まであるが、たとえ二番以下は忘れてしまっていても、この一番の歌詞は歌えるという人も多かろう。この唱歌を小学校で教わった頃は、「ホトトギス」が「ハヤモキナキテ シノビネモラス」というあたりの、意味はよく分からないのに、妙に快《こころよ》く入ってくる語感には魅力を感じたものだった。
佐佐木信綱は明治・大正・昭和三代にわたって、歌人として、歌学者として巨大な業績を積みあげた人だが、この「夏は来ぬ」を作詞した当時は、弱《じやつ》冠《かん》二十四、五歳の青年だった。このぴたりと身についた古典的な言葉の調《しら》べの美しさは脱帽ものだと長い間私は敬服してきたものである。ところがある時、鎌倉末期女流歌人の第一人者永《えい》福《ふく》門《もん》院《いん》の歌集を読んでいて、信綱作詞の唱歌との関係についてはたと思い当る歌に出会ったのである。
ほととぎす空に声して卯の花の
垣根も白く月ぞ出《い》でぬる
若き日の信綱は、小学生のための唱歌の作詞を依《い》嘱《しよく》された時、こういう古典の秀歌を踏《ふ》まえてそれに新しい息《い》吹《ぶ》きを吹きこむことを考えたのであろう。彼はそれをみごとに実現した。もっとも、門院の歌では空に声した時鳥が、唱歌では卯の花(空《うつ》木《ぎ》の花)の白く咲く垣根にやって来て忍《しの》び音《ね》をもらすという変化になっている(事実として時鳥が人家の垣根まで来て鳴くことがあるかどうか、多少問題はあろう)。忍び音という言葉は何やら艶《つや》めいた感じも与えるが、古来の日本人の考えでは時鳥は春先山深く姿を隠《かく》して鳴くということになっていたので、「忍び音」は時鳥を形容する言葉の一つでもある。もっともむかしは鳥の分類も厳密ではなかったから、郭《かつ》公《こう》や筒《つつ》鳥《どり》、十《じゆう》一《いち》(古名では慈《じ》悲《ひ》心《しん》鳥《ちよう》ともいう)というような同じホトトギス科の鳥と混同されていたことも多かったようである。
「初《はつ》音《ね》」「初《はつ》声《こえ》」という語も、ウグイスとホトトギスについてだけいわれるものだが、これもこの二種類の鳥が鳴きはじめるのを待つ心が、日本人には特別に深かったからである。『古《こ》今《きん》和《わ》歌《か》集《しゆう》』の夏の歌は三十四首であるが、そのうち時鳥を詠《よ》んだもの二十八首、九割近い多さである。その『古今和歌集』の巻《かん》頭《とう》歌《か》。
わがやどの池の藤《ふじ》波《なみ》さきにけり
山《やま》郭公《ほととぎす》いつか来《き》鳴かむ
よみ人しらず
「わがやど」の「やど」に「宿」の字を当てる本もあるが、意味としては「屋《や》外《ど》」、つまり庭のこと。平安朝の貴族の邸宅は、寝《しん》殿《でん》造《づくり》の家屋に庭という様式だった。庭には池が造られ、そこに松や藤など四季折々の花や樹木を植えて楽しんだのである。「藤波」の「波」は池の縁《えん》語《ご》で、「藤波」は藤の花《はな》盛《ざか》りをさす。
「山郭公いつか来鳴かむ」。時鳥は春渡来する渡り鳥だが、山に囲まれた京都に住む当時の貴族は、花の咲きほこる時期に鳴きはじめる時鳥を、花を慕《した》って山からやってくると考え、「ヤマホトトギス」と呼び慣《なら》わした。しかも、花を慕ってやってくる鳥というものを少しずらして考えると、花であるところの女を慕って通《かよ》ってくる男のイメージに重なる。動植物を擬人化して考えることを好《この》んだそのころの人々にとって、時鳥は歌の題材としては活用範囲の広い、空想を剌《し》戟《げき》される鳥だったのである。
おもしろいことに、この歌の左註には「このうた、ある人のいはく、かきのもとの人まろがなり」と書かれている。この歌は、ある人の言うところでは、柿《かきの》本《もとの》人《ひと》麻《ま》呂《ろ》の作であるそうだ、という註であるが、人麻呂の時代には自邸の庭に池を造る平安朝の建築様式はない。
朝《あさ》霞《がすみ》たなびく野辺にあしひきの
山《やま》霍公鳥《ほととぎす》いつか来鳴かむ
よみ人しらず
藤《ふじ》波《なみ》の繁《しげ》りは過ぎぬあしひきの
山霍公鳥などか来鳴かぬ
掾《じよう》久《く》米《めの》朝《あ》臣《そん》広《ひろ》縄《なわ》
いずれも『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』の時鳥《ほととぎす》の歌で、この時代にも時鳥と藤の花は深い関わりで詠まれている。しかし、これらの『万葉集』歌に詠まれている藤の花は、庭に咲くものではなく野原に咲いているものだった。『古今和歌集』の「わがやど」の藤の花に見られるような場所の限定はまだあり得なかったといっていいだろう。
こんなところから考えてみても、巻頭歌の柿本人麻呂歌説は成立しない。しかし、当時すでに歌の聖《ひじり》と仰《あお》がれていた人麻呂を重んじた『古今和歌集』の撰《せん》者《じや》たちが、人麻呂歌と伝承される歌に巻頭歌という晴れの席をもうけたというのなら、これはうなずけることである。
鎌倉時代初期の『新《しん》古《こ》今《きん》和《わ》歌《か》集《しゆう》』でも、「夏歌」全百十首のうち、ほととぎすを詠んだ歌は三十二首にのぼり、全体の三割弱を占める。冬・秋・春の雪・月・花とともに、時鳥が夏を代表する景物とされていたことを実地に示す数字である。
待レ客聞二郭公一といへるこころを
郭公《ほととぎす》まだうちとけぬしのびねは
来《こ》ぬ人を待つわれのみぞ聞く
白《しら》河《かわ》院《いん》
「時鳥」の初音、すなわち「しのびね」が、来るはずなのにやって来ない人を心待ちにしている、人知れぬつらい思いとイメージにおいて重なり合っていることはいうまでもない。初音を「しのびね」と言いならわす所には、「忍《しの》ぶ」思い、また「忍んで来る人」といった観念が当然結びついていた。この白河院御《ぎよ》製《せい》は題《だい》詠《えい》で、題の中には「客」という言葉をかかげているだけの夏歌であるにもかかわらず、歌そのものは訪れてくる恋人を待ちに待っている女心を余情にした恋歌とよめるものである。
聞かでただ寝なましものを時鳥《ほととぎす》
なかなかなりや夜《よ》半《は》の一こゑ
相模《さがみ》
いかにせむ来ぬ夜あまたの時鳥
待たじと思へば村《むら》雨《さめ》の空
藤《ふじ》 原《わらの》 家《いえ》隆《たか》
「時鳥」が「恋」を連想させ、余情として待つ鳥であったことがこれらの歌によってよくわかるだろう。歌人たちが好んでうたったのも、これと深い関係がある。
篠懸樹《ぷらたぬす》かげ行く女《こ》らが眼《まな》蓋《ぶた》に
血しほいろさし夏さりにけり
中《なか》村《むら》憲《けん》吉《きち》
昭和九年(一九三四)四十六歳で没した「アララギ」の歌人。三十代の初めころから、人生を受容する態度の深化とともに歌風は沈《ちん》潜《せん》的となり、ある澄《す》んだ境地へ達した。第一歌集は島《しま》木《き》赤《あか》彦《ひこ》との共著『馬《ば》鈴《れい》薯《しよ》の花《はな》』。第二歌集『林泉集』になると、都会の景情を官能的に歌ったみずみずしい歌が多い。これもそのひとつで、二十五歳の時の作。
「夏さりにけり」のサリ(去り)は、古くは近づく意味にも使った語で、この場合もその用法。ほのかにまぶたを紅潮させて、すずかけの街路樹の下を一群れになってゆく乙《おと》女《め》らの初夏。青春の感傷が横《おう》溢《いつ》している。
(『林泉集』)
越《ゑち》後《ご》屋《や》に衣《きぬ》さく音や更衣《ころもがへ》
榎《えの》本《もと》其《き》角《かく》
「越後屋」は江戸前期の一六七三年に日本橋駿《する》河《が》町に開店した呉服屋で、現在の三越の前身に当る。現金掛《かけ》値《ね》なし、切《きり》売《う》りという薄利多売の商法で人気を博した。衣《ころも》がえの季節、店頭には客が群らがり、絹布がピピッと裂《さ》かれて切売りされている。まさに大江戸の初夏。
蕉《しよう》門《もん》の俊才其角は、元禄時代の江戸っ子気質を奔《ほん》放《ぽう》華《か》麗《れい》に詠《よ》んだ俳人で、漢語調を用いて俳《はい》諧《かい》の革新をねらった俳書『虚《みなし》栗《ぐり》』を編み、初期蕉風の確立に貢献した。師芭《ば》蕉《しよう》の閑《かん》寂《じやく》の風とは対照的に都会風で伊《だ》達《て》好《ごの》みだった。実生活でも酒と遊里を愛した豪《ごう》放《ほう》闊《かつ》達《たつ》な粋《すい》人《じん》。初夏の昼、粋《いき》な心が呉服屋の賑《にぎ》わいのかたわらを通り過ぎたのである。
(『浮世の北』)
白《はく》牡《ぼ》丹《たん》といふといへども紅《こう》ほのか
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
牡丹の花は艶《えん》麗《れい》豪《ごう》華《か》な紅の花という印象が強い。確かに大輪の花が幾《いく》重《え》にも花弁を重ねて咲く姿には、中国で花の王とまで称《たた》えられただけの威厳が感じられる。しかし虚子はここでは白牡丹を詠《よ》んでいる。白かと見ればほのかに紅をさしている、その隠《かく》れた美のあり方に深く感じたのである。
虚子は「小さなもの」「かすかなもの」「一瞬に生《しよう》滅《めつ》するもの」「ものの局部」を凝《ぎよう》視《し》し、小なるものを写して大を描く方法を完成した。そこから思いがけないイメージが生まれる。単なる写生の達しえないところを、そのような方法でとらえ、究極、写生の醍《だい》醐《ご》味《み》ともいうべき現実を描く。
(『五百句』)
花びらをひろげ疲れしおとろへに
牡《ぼ》丹《たん》重たく萼《がく》をはなるゝ
木《きの》下《した》利《り》玄《げん》
利玄は「白樺」派の歌人で、結核のため三十九歳で死去。右は二十代半ばの作で、第一歌集『銀』に収められた。牡丹のぼってりした感触をよくとらえている。この落花の描写は、いわばスローモーション撮影の方法と言えるだろうが、当時「白樺」同人が美術に強い関心を寄せていたことも、こういう描写法に影響を与えたかもしれない。晩年、「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」の有名な作がある。
利玄は『銀』の後に出した『紅玉』や『一路』などの歌集、さらに晩年の『立春』や『李青集』に至って、口語的な発想や破調の作によって「利玄調」とよばれる独特の親しみぶかい作風を確立した。「舂《うすづ》ける彼岸秋陽に狐ばな赤々そまれりここはどのこみち」(『李青集』)。
(『銀』)
ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに
森《もり》 澄《すみ》雄《お》
牡《ぼ》丹《たん》園《えん》を見ているところだろうか。柔《やわ》らかい初夏の風が吹いて過ぎる。牡丹の花弁はこまかい波紋の連《つら》なりのように身をゆする。「湯のやうに」の比《ひ》喩《ゆ》が意表をつくが、「ゆるる」以下のヤ行の音を媒《ばい》介《かい》にして、現実にゆれる花と、作者の、そして句を読む読者の心のゆらぎを一挙に包みにくるような感触が伝わる。高浜虚《きよ》子《し》に「ゆらぎ見ゆ百の椿《つばき》が三百に」という句があり、それと似たところのある題材だが、こちらの句の比喩はさすがに現代俳句である。「湯のやうに」の一見奇《き》抜《ばつ》な感覚表現は、揺れる湯という万《ばん》人《にん》熟知の肉体感覚に融《ゆう》和《わ》されて、みずみずしい現実感を生んでいる。
(『鯉素』)
朴《ほほ》散《さん》華《げ》即《すなは》ちしれぬ行《ゆく》方《へ》かな
川《かわ》端《ばた》茅《ぼう》舎《しや》
朴《ほお》は山地に自生するモクレン科の落葉喬《きよう》木《ぼく》で、真直ぐな幹《みき》は一〇メートルをこえる。初夏のころ梢《こずえ》のいただきに芳香のある黄白色九弁の花を咲かす。脊《せき》椎《つい》カリエスで病《びよう》臥《が》していた川端茅舍の病室の窓外にもこの朴の木があり、彼は芳香を放って咲く花を愛《め》でて、度《たび》々《たび》句に詠《よ》んだ。中でもこれは珠《しゆ》玉《ぎよく》の作。花が散り尽《つく》したあとのむなしい空に、行方もしれぬ花の行方を追う心の眼《まな》差《ざ》し。師の虚《きよ》子《し》も「示《じ》寂《じやく》すといふ言葉あり朴散華」と詠んでいるが、「朴散華」は造語で、実際の花は茶に変色して萎《な》え落ちる。しかし、冬《ふゆ》木《こ》立《だち》となっても凜《りん》としている朴の木は散華の語にふさわしい威厳がある。
(『定本川端茅舍句集』)
うなゐ児《こ》がすさみにならす麦《むぎ》笛《ぶえ》の
声におどろく夏の昼《ひる》臥《ぶし》
西《さい》行《ぎよう》法《ほう》師《し》
「うなゐ児」は幼童。「すさみに」は心ゆくまま。村童が遠慮なく吹きならす麦笛の音に昼寝の夢を破られたことを面《おも》白《しろ》がっている図、というところだろう。
この歌は西行が京の嵯《さ》峨《が》野《の》に住んでいた時、戯《たわむ》れに人々と唱和した十三首のうちの一首で、『聞《きき》書《がき》集《しゆう》』に入っている。西行の家集は『山《さん》家《か》集《しゆう》』が有名だが、昭和に入って『聞書集』『聞書残集』が新たに発見された。これらの中には西行を知る上で重要な歌が含まれている。とくにこの歌のように村童の日常生活をスケッチ風に描いた作は、逆に西行その人の生活をも写し出していて、『聞書集』の一つの特色ともなっている。
(『聞書集』)
愁《うれ》ひつつ岡にのぼれば花いばら
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
蕪村には、少年の憧《あこが》れと憂《ゆう》愁《しゆう》をやさしくすくいとったような一連の句がある。「愁ひつつ」といっても、これは現実的な理由根拠のある愁いではなかろう。茫《ぼう》漠《ばく》とした青春の哀感にほかなるまい。こういう句が、蕪村の世界を近代の感傷的な詩の世界に近づける。「郷愁の詩人与謝蕪村」に憧れた萩《はぎ》原《わら》朔《さく》太《た》郎《ろう》が蕪村再評価の立《たて》役《やく》者《しや》になった理由である。
蕪村は少年時代に両親に別れ、漂泊の旅人として暮らす期間も長かった。そんな経歴が、このみずみずしい郷愁の情緒を育てたのかもしれない。「愁ひ来て丘にのぼれば名もしらぬ鳥啄《ついば》めり赤き茨《ばら》の美《み》」と石《いし》川《かわ》啄《たく》木《ぼく》も呼応した。
(『蕪村句集』)
卯《う》の花をかざしに関《せき》の晴《はれ》着《ぎ》かな
河合《かわい》曾《そ》良《ら》
曾良は芭《ば》蕉《しよう》の『おくのほそ道』に随《ずい》行《こう》した門人。伊勢長島藩に仕《つか》えていたが致《ち》仕《し》し、江戸に上り国学を学ぶ。深川の芭蕉庵の近くに住んで芭蕉の薪《しん》水《すい》の世話をした。
白《しら》河《かわ》の関は能《のう》因《いん》の「都をば霞《かすみ》とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」を始め、平 《たいらの》 兼《かね》盛《もり》、源 《みなもとの》 頼《より》政 《まさ》など、文《ぶん》人《じん》墨《ぼつ》客《かく》が多く歌を残している場所。芭蕉もここから奥《おう》州《しゆう》の旅が始まると覚悟を記している。曾良の句は、昔さる官人が能因法師の名歌に敬意を表し、わざわざ衣《い》冠《かん》を改めてこの関を通った故事を念頭に、そんな身分ではない私らは、この可《か》憐《れん》な卯の花を髪にさして、それを晴着にして関を越えるのだと、諧《かい》謔《ぎやく》をこめて詠《よ》んだ。
(『おくのほそ道』)
ほととぎす空に声して卯《う》の花の
垣《かき》根《ね》も白く月ぞ出《い》でぬる
永《えい》福《ふく》門《もん》院《いん》
ほととぎすが空で一声鳴いて過ぎる。地上には卯の花が垣根に白く咲きこぼれて。折しも垣根の向う、中空を見ると、月がちょうど出てきたところである。
ほととぎす、卯の花、月の出と、時間の推移を自然の景物によって感じさせながら、初夏の夕暮れをくっきりと浮き上がらせている。
作者は鎌倉後期の持《じ》明《みよう》院《いん》統《とう》・大《だい》覚《かく》寺《じ》統《とう》の皇《こう》継《けい》争いの政治情勢下に生きた伏《ふし》見《み》天皇の中《ちゆう》宮《ぐう》。京《きよう》極《ごく》為《ため》兼《かね》を歌の師とし、伏見院と共に『玉《ぎよく》葉《よう》集《しゆう》』『風《ふう》雅《が》集《しゆう》』の代表的歌人として知られる。佐《さ》佐《さ》木《き》信《のぶ》綱《つな》作詞の小学唱歌「夏は来《き》ぬ」はこの歌を踏《ふ》んでいる。唱歌も『玉葉・風雅』の伝統に連《つら》なっていたわけである。
(『玉葉集』)
卯《う》の花に蘆《あし》毛《げ》の馬の夜《よ》明《あけ》哉《かな》
森《もり》川《かわ》許《きよ》六《りく》
「旅行に」と題する。許六は芭《ば》蕉《しよう》最晩年の弟子で多才な論客だった。三百石の彦《ひこ》根《ね》藩士で、これは元禄六年(一六九三)五月はじめ江戸をたち、彦根に帰った時の作らしい。「蘆毛」は白い毛に黒や濃《のう》褐《かつ》色《しよく》のさし毛のある馬で、道ぞいに咲く卯の花の鮮《あざ》やかな白との色の取り合わせが眼目。しかも夜明けだ。初夏の気分が溢《あふ》れている。そういえば、夜明けに馬ではなく、自動車で旅立つような現代の日常の情景を爽《さわ》やかに詠《よ》んだ現代の句はまだ知らない。
許六は近江彦根の井《い》伊《い》侯の家臣に生まれ、青年二十一歳の時から五十五歳で致《ち》仕《し》するまで、彦根藩に生涯のほとんどを仕官した人だったが、最初談《だん》林《りん》俳諧を学んだのち、芭蕉に傾倒、元禄五年八月、三十七歳になって芭蕉に初めて対面、以後蕉門の名だたる論客となり、かたわら絵にすぐれ、剣術一般にもすぐれていたという。編著も多い。六十歳で没。
(『炭俵』)
ほととぎす声待つほどは片《かた》岡《をか》の
杜《もり》のしづくに立ちや濡《ぬ》れまし
紫《むらさき》 式《しき》部《ぶ》
詞《ことば》書《がき》に「上《かみ》賀《が》茂《も》神社に詣《もう》でたところ、『ほととぎすよ早く鳴いておくれ』とよくいわれるあけぼのの一刻、隣接する片岡山の梢《こずえ》がいかにも面《おも》白《しろ》く見えた」という意味のことが書かれている。片岡山の森は上賀茂神社の東に接する森。ほととぎすの鳴き声は特別に美しいものとも思えない。ただ昔の人はその声に夏という季節の訪《おとず》れを聞いたから特別に珍《ちん》重《ちよう》した。夜明け、片岡山の森のしずくに立ち濡れていようかしら、という紫式部の気分は若々しい。人待ち顔でさえある。それは暁《あかつき》の露《つゆ》に濡れて立つ恋人たちという伝統的な恋のイメージも連想されるからである。
(『紫式部集』『新古今集』)
浮《うき》雲《くも》の身にしありせば時鳥《ほととぎす》
しば鳴く頃はいづこに待たむ
良《りよう》寛《かん》
ほととぎすには夏の到来を告《つ》げる鳥という意味のほかにも、「ほととぎす鳴く声きけば別れにしふるさとさへぞ悲しかりける」(古今集)のように、昔の夏と重ね合せて郷愁や懐《かい》旧《きゆう》の情を誘《さそ》う鳥の意味合いもあった。諸国を行《あん》脚《ぎや》していた良寛も、わが身は浮雲同様定めなく流《る》浪《ろう》する世《よ》捨《すて》人《びと》。ほととぎすがしきりに鳴く頃には、一体どこの土地でその声を待ちわびているだろうかと、昔ほととぎすの初《はつ》音《ね》を聞いた土地土地を思い出している。良寛は越《えち》後《ご》出雲《いずも》崎《ざき》の名主の長男に生まれ、十八歳で出《しゆつ》家《け》。きびしい曹《そう》洞《とう》禅《ぜん》の修《しゆ》行《ぎよう》をつんだ後諸国を行脚。やがて故郷に帰って庵《あん》住《じゆう》し、「良寛さま」と人々に親しまれた。
(『良寛和尚歌集』)
目には青葉山《やま》時鳥《ほととぎす》 初《はつ》鰹《がつを》
山《やま》口《ぐち》素《そ》堂《どう》
作者名とは関係なしに多くの人に愛《あい》誦《しよう》されている句の代表格だろう。素堂は芭《ば》蕉《しよう》と親交のあった江戸の俳人。句は「鎌倉にて」と前《まえ》書《がき》がある。目のためには一帯の山の青葉、耳のためにはほととぎす、鎌倉の初夏はすばらしい。それさえあるに、相模《さがみ》の海の名物の初鰹とは、何といい土《と》地《ち》柄《がら》だろうというのである。初《はつ》物《もの》好きの江戸人の美意識が強く感じられる。大《おお》島《しま》蓼《りよう》太《た》にも「鎌倉は波風もなし鰹つり」があるが、相模湾はその昔マグロやカツオの漁《りよう》でも有名だった。同じ江戸中期の国学者歌人賀《か》茂《もの》真《ま》淵《ぶち》には、「大《おほ》魚《な》釣る相模の海の夕なぎに乱れて出《い》づる海《あ》士《ま》小《を》舟《ぶね》かも」という爽《そう》快《かい》な漁場風景を詠《よ》んだ歌がある
。
(『阿羅野』)
谺《こだま》して山ほととぎすほしいまゝ
杉《すぎ》田《た》久《ひさ》女《じよ》
深山の緑《りよく》陰《いん》に鳴きかわすほととぎすの鋭《するど》い声。結《けつ》句《く》の「ほしいまゝ」が鳥の自由奔《ほん》放《ぽう》な命の発《はつ》露《ろ》を言いとめている。この句の前《まえ》書《がき》には「英彦山」とある。福岡、大分両県にまたがった、修《しゆ》験《げん》道場をいただく霊《れい》山《ざん》である。久女は昭和五年(一九三〇)高浜虚《きよ》子《し》選で行われた全国新名勝俳句に応募のため、英彦山に登ってこの句を得、金賞を得た。しかし同じ句を「ホトトギス」に投句した時には没《ぼつ》だったという話もある。久女の浪《ろう》漫《まん》的で大胆な句風は女流俳人中異《い》彩《さい》を放ったが、作句に熱中のあげく虚子の不《ふ》興《きよう》を買い、昭和十一年、理由不明のまま「ホトトギス」から除籍された。悲運の閨《けい》秀《しゆう》だが、抜群の句が多い。
(『杉田久女句集』)
時《ほとと》鳥《ぎす》鳴くや湖水のささ濁《にご》り
内《ない》藤《とう》丈《じよう》草《そう》
「ささ濁り」の「ささ」は細・小の意の接頭語。丈草は蕉《しよう》門《もん》俳人の中でもとくに天性すぐれた感受性をもち、小事に拘《こう》泥《でい》せず、世《よ》捨《すて》人《びと》の生活を営みながら常に人懐《なつ》かしさの思いに生き、繊《せん》細《さい》な作品に茫《ぼう》洋《よう》たる人生のひろがりを暗示することのできる人だった。芭《ば》蕉《しよう》とは肝《かん》胆《たん》相照らしたと思われる。この句もそういう人でなければとらえ得ないような境地のものだろう。おそらく琵《び》琶《わ》湖《こ》であろうが、ほととぎすが鳴いて過ぎるのと、五月雨《 さ み だ れ》ごろの湖水のかすかな濁りとを客観的に並《へい》置《ち》しただけのようで、作者の深い観《かん》照《しよう》のまなざし、その静けさがしみ透《とお》るように伝わってくる。
(『丈草発句集』)
朝《あさ》月《づく》夜《よ》双《すご》六《ろく》うちの旅寝して
杜《と》国《こく》
紅《べ》花《に》買《カフ》みちにほとゝぎすきく
荷《か》兮《けい》
芭《ば》蕉《しよう》一門の撰《せん》集《しゆう》中いわゆる七部集は代表的である。その最初に位置するのが『冬の日』。 貞《じよう》享 《きよう》元年(一六八四)芭蕉が名古屋地方を訪れた時、同地の俳人山本荷兮、坪《つぼ》井《い》杜国、岡《おか》田《だ》野《や》水《すい》らが芭蕉を迎えて巻いた歌仙五巻を収める。これが蕉風俳《はい》諧《かい》の輝《かがや》かしい出発をつげる撰集となった。右の付《つけ》合《あい》はその五歌仙の一つ「しぐれの巻」の一節で、爽《さわ》やかな夏の夜明けを詠《よ》んでいる。「双六うち」は賭《か》け双六を渡世の業として歩く男。その男が宿を朝早く出発し、折から紅《べに》花《ばな》の仲買人たちが足早にゆきかう道に立って、明け方のほととぎすを聞いている図である。紅花は露《つゆ》をおびている早朝に摘《つ》むのが普通だった。
(『冬の日』)
ほととぎすそのかみ山の旅《たび》枕《まくら》
ほのかたらひし空ぞわすれぬ
式《しき》子《し》内《ない》親《しん》王《のう》
詞《ことば》書《がき》には「いつきの昔を思ひ出でて」とある。「いつき(斎)の昔」というのは、式子内親王が賀《か》茂《も》神社の斎《さい》院《いん》として青春の十年間を神に奉仕する身であった時代を回想してという意味である。「そのかみ」と「かみ山」とは掛《かけ》詞《ことば》で,後者は賀茂神社。「旅枕」は賀茂の祭礼の時斎院が社殿の脇《わき》の神《かん》館《だち》に一夜泊《とま》るしきたりを、旅になぞらえたのである。
ほととぎすよ、その昔《かみ》賀茂の神館に旅寝した夜明け、おまえがほのかに鳴いて過ぎた、あの時のことが忘れられない。文章にすると他《た》愛《わい》なくなってしまうが、口ずさめば歌は縹《ひよう》渺《びよう》たる時間と空間を喚《かん》起《き》させ、恋歌のような情緒さえ刺《し》戟《げき》する。
(『新古今集』)
むかし思ふ草のいほりのよるの雨に
涙な添《そ》へそ山ほととぎす
藤《ふじ》原《わらの》 俊《しゆん》成《ぜい》
摂《せつ》政《しよう》藤原兼《かね》実《ざね》(良《よし》経《つね》の父)が右大臣だった治《じ》承《しよう》二年(一一七八)、いわゆる「右大臣家百首歌」の一首。『白《はく》氏《し》文《もん》集《じゆう》』の「蘭 《らん》省 《せいの》花 《はなの》時 《とき》錦 《きん》帳 《ちようの》下 《した》 盧 《ろ》山 《ざんの》雨 《あめの》夜 《よる》草 《そう》庵 《あんの》中 《なか》」を下敷きにした歌で、雨の夜の草庵で、しみじみ懐《かい》旧《きゆう》の思いにひたっていると、ほととぎすが啼《な》いて過ぎる。ほととぎすよ、ただでさえ思う事多い雨《あま》夜《よ》なのに、この上さらに涙を添えさせてくれるな、というのである。原詩の味わいとは違ったしっとりと艶《つや》めいた情趣が、特に下句にはある。俊成は、道《みち》長《なが》の六男の御《み》子《こ》左《ひだり》権《ごん》大《だい》納《な》言《ごん》長《なが》家《いえ》を祖とする家系で、定《てい》家《か》の父。御子左家歌学を樹立して『千《せん》載《ざい》集《しゆう》』の撰《せん》者《じや》となり、新古今時代の基盤を築いた大歌人。
(『新古今集』)
うちしめりあやめぞかをる郭公《ほととぎす》
啼《な》くやさつきの雨のゆふぐれ
藤《ふじ》原《わらの》良《よし》経《つね》
五月五日の菖《しよう》蒲《ぶ》の節句の時期の歌で、当時は、菖蒲を「あやめ」といった。歌意は平明である。五月雨《 さ み だ れ》の降る夕暮れ、軒《のき》に葺《ふ》き渡した菖蒲が雨で一段と薫《かお》り、折からのほととぎすの啼き声にもいっそうしめやかな情趣を誘《さそ》われるといった気分である。
この歌の本《ほん》歌《か》は「ほととぎす鳴くやさ月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」で、『古《こ》今《きん》集《しゆう》』の有名な恋歌である。本歌の恋を季節の歌に転じ、平明な歌意の中に艶《つや》とさわやかさと品をとけ合せた手腕はあざやかである。作者良経は鎌倉前期の歌人。摂《せつ》政《しよう》・太《だい》政《じよう》大《だい》臣《じん》。俊成・定家らのパトロン的存在としても知られる。
(『新古今集』)
谷に鯉《こひ》もみ合う夜の歓喜かな
金《かね》子《こ》兜《とう》太《た》
昭和三十年代、いわゆる前衛俳句が俳句界を席《せつ》捲《けん》したが、作者はその旗手だった。これはその後の作。無季の定型句だが、夜、せまい谷あいで鯉がもみ合っている情景には、性的なほのめかしも感じられる生命のざわめきがある。無季句ではあっても、この句が喚《よ》びおこす生命力の盛んなほとばしりは、季節なら夏に通じるものにちがいない。その点、同じく無季の句で戦前の新興俳句時代の秀作、篠《しの》原《はら》鳳《ほう》作《さく》の次の句が、何といっても南国の青《あお》海《うな》原《ばら》を思わせるのと軌《き》を一にしているように思われる。
し ん し ん と 肺 碧《あを》 き ま で 海 の 旅 鳳作
(『暗緑地誌』)
郭《くわつ》公《こう》や何《ど》処《こ》までゆかば人に逢《あ》はむ
臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》
「ひとり志賀高原を歩みつつ」と前《まえ》書《がき》。寂《せき》寥《りよう》感を漂《ただよ》わせるが、人なつかしさに堪《た》えて孤独な旅路をゆく者の自愛の思いも感じられる。大正三年(一九一四)夏、病後の静養のため渋《しぶ》温泉に滞在していた時の体験を、十年後に回想して作った句。亜浪は当時三十代半ば、前途の方針について悩みがあったが、後に振り返ってみると、それが生涯の転機の夏なのだった。
亜浪は信州小《こ》諸《もろ》に明治十二年(一八七九)生まれ、昭和二十六年(一九五一)に七十二歳で没した。電報新聞、やまと新聞などで新聞記者として活躍、正岡子《し》規《き》、高浜虚《きよ》子《し》の影響を受け、大《おお》須《す》賀《が》乙《おつ》字《じ》と協力して「石《しやく》楠《なげ》」を創刊した。主情的で雄《ゆう》渾《こん》な作風をきずいたが、俳句の態度としては「まこと」を追求した。
(『亜浪句鈔』)
声かけし眉《まゆ》のくもれる薄《はく》暑《しよ》かな
原《はら》 裕《ゆたか》
昭和五年(一九三〇)茨城県生まれの現代俳人。本名昇、旧姓堀込。高校生の時に原《はら》石《せき》鼎《てい》主宰の句誌「鹿《か》火《び》屋《や》」を知って投句し、原石鼎に師事した。上京して商工省勤務のかたわら、「鹿火屋」の編集部に入り、新進の俳人として注目された。石鼎没後に原家の養子となり、石鼎の句業を継承、顕《けん》彰《しよう》するのに力があった。「薄暑」は暑さがまだ天地を領してしまわない初夏の、薄々とした暑さをいう。知人と行き合い、声をかけたのだ。それに対する相手の反応は言わず、ただその眉がかすかに曇《くも》っていたことだけをいう。心理の陰《いん》影《えい》をそのまま生かそうとして、季語「薄暑」の情感をもよく生かした句。
(『葦牙』)
かなしみは明るさゆゑにきたりけり
一本の樹《き》の翳《かげ》らひにけり
前《まえ》登《と》志《し》夫《お》
大正十五年(一九二六)奈良県生まれの現代歌人。故郷吉《よし》野《の》に住んで、その山河にこもる民俗伝承の深い声に耳傾ける。短歌を作りはじめる以前には、現代詩を書いていた。昭和三十一年(一九五六)、詩集『宇宙駅』を刊行し、戦後詩の新人として注目された。詩の制作は昭和二十三年ごろからで、当時は安騎野志郎というペンネームだった。詩集刊行以前に歌人前川佐《さ》美《み》雄《お》に出会い、短歌を作るようになった。
右の歌は短歌に没頭し始めた時期の作で、歌集巻頭に置かれている。「一本の樹の翳らひにけり」には、風景描写をすると見せて実際は心《しん》象《しよう》をえがく方法がとられている。そのあたり、現代詩の方法を巧《たく》みに短歌に生かして得た叙《じよ》情《じよう》小曲。
(『子午線の繭』)
しぼり出すみどりつめたき新茶かな
鈴《すず》鹿《か》野《の》風《ぶ》呂《ろ》
野風呂は昭和四十六年(一九七一)八十三歳で没した京都市生まれの俳人。本名は登《のぼる》。京都大学で古俳諧を学んだ俳文学者でもあった。俳句は高浜虚《きよ》子《し》に師事し、「ホトトギス」同人だったが、かたわら若い日野草《そう》城《じよう》らと「京鹿《かの》子《こ》」誌を大正九年(一九二〇)十一月に創刊、博識をもって鳴る作風は、草城の才気溢《あふ》れる俳句と相まって、大正末期の「ホトトギス」に活気を与える新勢力だった。野風呂は多作で、生涯に実に三十六万句作ったという。事実とすれば、驚くほかない。西《さい》鶴《かく》の大《おお》矢《や》数《かず》にならって一昼夜に一一八六句作った記録もある。句は虚子門の写生を基調とする作風。新茶のしずくの色を「みどりつめたき」というのは、一見意表をつく表現のようだが、対象のさわやかさの本意をつかんだ写生である。
(『野風呂句集』)
ねこの子のくびのすゞがねかすかにも
おとのみしたる夏草のうち
大《おお》隈《くま》言《こと》道《みち》
言道は慶応四年(一八六八)七十一歳で没した福岡の幕末歌人。中央歌壇とはあまり交渉がなく、古典歌集の教養の上にたって、個性を無理なく生かした歌を詠《よ》んだ。近代の明治以降になって評判の高まった人。「すずがね」は「鈴が音」ととるのが普通の読み方だが、下に「おと」があるので、ここは鈴金の意だろう。夏草が繁って子猫は見えず、ただ鈴の音がかすかに響くだけ。詠風がいかにも清新である。
言道の生家は福岡の商家だったが、三十九歳の時、家業を弟に譲って、以後和歌を作ることに没頭した。六十歳の時、一時大阪に出たが、文名は知られず、失意の中故郷に帰ってそこで没した。身辺のあらゆる事象に取材して歌を作ったが、表現の新鮮さはまさしく近代短歌を予告していた。
(『草径集』)
緑《りよく》蔭《いん》や矢を獲《え》ては鳴る白き的《まと》
竹《たけ》下《した》しづの女《じよ》
しづの女は、昭和二十六年(一九五一)六十四歳で没した福岡県の俳人。昭和初期、女流輩出時代の「ホトトギス」で個性あざやかな女流俳人として活躍した。大正九年(一九二〇)「短《みじか》夜《よ》や乳《ち》ぜり泣く児《こ》を須可捨焉乎《 す て つ ち ま を か》」の句の大胆な表現で一躍有名になった。「緑蔭や」の句は昭和十年の作。矢が当たるたびにさわやかに音をたてる標的。語調の張りは意力の充実を示すもので、代表作たるにふさわしい句である。「ホトトギス」の大きな特徴と言えるのは、女性俳句の隆昌という新しい現象だろう。指導者高浜虚《きよ》子《し》は兄事した正岡子《し》規《き》の敷いた俳句大衆化の路線を継承し、それを「花鳥諷詠」という一つの大方針に要約したが、もう一つの虚子の功績は、子規のなし得なかったこと、すなわち女性俳句の振興をみごとになしとげたことにあった。しづの女は最初期のホトトギス女性俳人たちの有力な一人だった。
(『颯』)
桐《きり》ひろ葉《ば》小学生の立ち話
三《み》好《よし》達《たつ》治《じ》
詩人三好達治は中学時代から作句し、生涯俳句への愛を保ち続けた。「水に入るごとくに蚊《か》帳《や》をくぐりけり」「鯖《さば》売りと赫《あか》土《つち》山を越えにけり」などの句がある。この句、素朴で一見稚拙にさえ思えるほどだが、実は逆だろう。小学生が大人びて「立ち話」しているおかしみ、それを桐の「ひろ葉」の下という牧歌的な明るさでとらえている所など、練達の詩人の活《かつ》眼《がん》が感じられる。
三好達治は豊かな幼少年期を送った人ではない。家計の苦しさを助けるため陸軍幼年学校、士官学校に進んだが挫《ざ》折《せつ》、中退してあらためて京都の第三高等学校に入学し、フランス文学を修めた人である。第一詩集『測量船』(昭和五年〈一九三〇〉)は、現代詩に新しいページを開いた記念的な詩集だが、そこに溢《あふ》れる清新な抒《じよ》情《じよう》性は、同時に悲しみや嘆きを深く秘めていて、彼の幼少年期の体験を栄養素としているところが大きい。
(『柿の花』)
杏《あんず》あまさうな人は睡《ね》むさうな
室《むろ》生《う》犀《さい》星《せい》
詩人・小説家の犀星は、少年時代まず俳句を学び、やがて詩作に没頭したが、親友芥《あくた》川《がわ》龍《りゆう》之《の》介《すけ》の影響で再び俳句に復帰、芭《ば》蕉《しよう》、凡《ぼん》兆《ちよう》、丈《じよう》草《そう》ら蕉《しよう》門《もん》の句に傾倒した。「鯛《たひ》の骨たたみにひろふ夜《よ》寒《さむ》かな」「ゆきふるといひしばかりのひとしづか」など古格の句が有名だが、熟した杏の感触をみごとにとらえた右の句にただよう官能性もまた、犀星ならではの世界である。
犀星は、家庭環境からするときわめて不幸な生い立ちだった。実母とは生後すぐに生き別れとなり、もらわれて行った先での少年期は暗かった。早くから金沢地方裁判所の雇員(給仕)となり、下働きの少年として過ごしたが、そこで当時大流行だった新傾向俳句を教えられ、やがて詩人北原白秋や萩《はぎ》原《わら》朔《さく》太《た》郎《ろう》を知り、新進詩人への道が開けたのである。
(『遠野集』)
ふるさとの沼のにほひや蛇《へび》苺《いちご》
水《みず》原《はら》秋《しゆう》桜《おう》子《し》
秋桜子は明治二十五年(一八九二)東京に生まれ、昭和五十六年(一九八一)八十八歳で没した。東京大学医学部に学んだが、大正末年・昭和初年の時期、「ホトトギス」の俊秀として頭角を現し、山口誓《せい》子《し》、高野素《す》十《じゆう》、阿《あ》波《わ》野《の》青《せい》畝《ほ》らとともに「ホトトギス」の四Sの筆頭として注目を浴びた。しかし、しだいに高浜虚《きよ》子《し》の提唱する花鳥諷詠、客観写生にあきたらない思いをいだきはじめ、昭和六年「自然の真と文芸上の真」を発表して「ホトトギス」を離れ、俳句近代化運動の口火を切った。句集『葛《かつ》飾《しか》』は実作においてその理論をすでに実行していた。自然を忠実に観察しつつも、作者の「心をその裏に写し出さんとする」のが「写生」の本義だとしたのである。この句にみられるようなみずみずしい調べと叙《じよ》情《じよう》性のうちにも、俳句革新のいぶきがあった。
(『葛飾』)
麦の穂の焦《こ》がるゝなかの流《りう》離《り》かな
森《もり》 澄《すみ》雄《お》
作者は大正八年(一九一九)兵庫県生まれの現代俳人。大正八年前後に生まれた現代俳人の数が多いというのは、特徴的な一つの現象である。これを説明して、この世代が第二次大戦の時期、軍に召集された人が多いことと結びつける説がある。兵役にある人々にとっては、文学的表現を書き留めるには、俳句という短詩型が最も手近な形式だったというのである。見当ちがいの説ではないと思われる。森澄雄は軍に召集される前から加藤楸《しゆう》邨《そん》に師事した。俳句において「虚」に遊ぶ心の重要性を説き注目される当代の人気俳人だが、これは初期の作。ボルネオで敗戦、捕《ほ》虜《りよ》収容所から復員し、長崎で戦病を養った後、昭和二十二年(一九四七)初夏、佐賀県立鳥《と》栖《す》高女に奉職した当時の句。野に麦が色づくころ、欠乏の中で故郷に遠く流離する思い。「焦がるゝなかの」という切迫した表現に続く「流離かな」に情感が流露している。
(『雪櫟』)
しづかにきしれ四《し》輪《りん》馬《ば》車《しや》、/ほのかに海はあかるみて、/麦は遠きにながれたり、/しづかにきしれ四輪馬車。
萩《はぎ》原《わら》朔《さく》太《た》郎《ろう》
「天景」全七行の冒頭四行。続いて「光る魚鳥の天景を、/また窓青き建築を、/しづかにきしれ四輪馬車。」大正初年代の萩原の小品詩は、語感の鋭さ、歌われている内容の縹《ひよう》渺《びよう》たる無限感、心耳にしみこんでくる愁《うれ》いの調べで際《きわ》立《だ》っている。この天の風景には、静かな息づかいに一種の浄《じよう》福《ふく》感がある。当時の朔太郎の詩を彩《いろど》る湧《わ》き出てやまぬ祈りのごとき衝動が生んだものだろう。
萩原朔太郎は明治十九年(一八八六)群馬県前橋の医師の家に生まれ、前橋中学三年生のころから短歌を作った。与《よ》謝《さ》野《の》晶《あき》子《こ》の『みだれ髪』の影響を受け、晶子らの雑誌「明星」に投稿もした。大正二年(一九一三)二十七歳の時、北原白秋の雑誌「朱《ザム》欒《ボア》」に詩や短歌を発表、同誌に発表された室《むろ》生《う》犀《さい》星《せい》の「小景異情」に感動して犀星と親交を結び、白秋とも親しくなった。「天景」はこの時期の作品。
(『月に吠える』)
夏の女のそりと坂に立っていて
肉透《す》けるまで人恋うらしき
佐《さ》佐《さ》木《き》幸《ゆき》綱《つな》
作者は佐佐木信《のぶ》綱《つな》の孫で一九六○年代に歌界に登場した。特に初期の歌は、疾《しつ》走《そう》するラガーのように短歌表現の世界を蹂《じゆう》躙《りん》せんとする意気ごみを示して、新進世代の先頭走者となった。「のそりと」坂に立つ女が、「肉透けるまで」人を恋うているらしいというこの歌、ふしぎななまめかしさがあるが、そのなまめかしさは女からというより、多分に、作者自身である青年の空想からきているものだろう。新しい短歌世代の先頭走者と見なされてきた作者も、今では多くの歌集・歌書を持つ重要な存在となり、歌壇の中心的存在となっている。奔《ほん》放《ぽう》な作風にも年輪が加わって、なお新しい試みを自らに課して前進するところに、信頼感が寄せられている。
(『群黎』)
牛放てば木の芽の風のやはらかに
袂《たもと》に青き大《おほ》那《な》須《す》が原
与《よ》謝《さ》野《の》寛《ひろし》
与謝野寛(鉄《てつ》幹《かん》)の功績や詩業は妻晶《あき》子《こ》の名声に覆《おお》われて、不当に忘れられている場合がある。しかし彼が明治新詩運動(短歌だけではなく、詩《しい》歌《か》全体の革新運動)にはたした功績は不朽のものである上に、天《てん》馬《ば》空《くう》をゆく観のあった詩才の輝《かがや》きも、あらためて正当に評価される必要があろう。彼にはまだしかるべき全集さえないというのは残念なことである。右の歌は彼が新詩社の指導者として、「明《みよう》星《じよう》」発刊後の得意の絶頂期にあったころの作。当時の彼の歌としては異色で、自然界にすなおに心を解き放っているごく平らかな歌だが、のびやかな才能はここでもまぎれもない。
(『うもれ木』)
五月雨《 さ み だ れ》
五月雨《 さ み だ れ》は梅雨期に降る雨をいう。梅《つ》雨《ゆ》の入《い》りは立春から一三五日目とされ、だいたい六月十一、二日頃になる。その日から三十日間が梅雨というわけだが、昔は、暦《こよみ》で、芒《ぼう》種《しゆ》の後の壬《みずのえ》の日を梅雨入り、小《しよう》暑《しよ》の後の壬《みずのえ》の日を梅《つ》雨《ゆ》明《あ》けといった。しかしもちろん気象上の梅雨は、かならずしもそのように入りや明けがはっきりしているわけではない。六月上旬から七月上旬にかけて、日本列島(北海道は除いて)および揚《よう》子《す》江《こう》沿岸地方に起る雨期をそう呼んでいる。北方のオホーツク海高気圧と南東の小笠原高気圧の間に停滞性の前線が生じ、それに沿って小さな低気圧が西から東進してくる気候条件が、いわゆる梅雨期で、梅の実が黄熟するころに降るところから梅雨、降るような降らないようなはっきりしない天候が物を黴《かび》させてしまうので、黴《ばい》雨《う》とも書かれる。
このような梅雨期の天候の悪さは、旅行には不向きと大方は考える。だがたとえば芭《ば》蕉《しよう》の『おくのほそ道』では、平《ひら》泉《いずみ》あたりから象《きさ》潟《がた》あたりまでの梅雨期の旅情は、旅の困難さが曾《そ》良《ら》の『随行日記』でしのばれるにもかかわらず、ひとしお味わい深いように思われる。
藤原氏三代(清《きよ》衡《ひら》・基《もと》衡《ひら》・秀《ひで》衡《ひら》)の栄《えい》華《が》をも一朝の夢にしてしまった時の流れを平泉の館《やかた》の廃《はい》墟《きよ》に偲《しの》び、そのかみの義《よし》経《つね》以下の勇士たちが戦った古戦場に、「夏草や兵《つはもの》どもが夢の跡《あと》」と吟《ぎん》じた芭蕉だが、六月の空の下で見た中《ちゆう》尊《そん》寺《じ》の光《ひかり》堂《どう》には次のような句をもって讃《さん》嘆《たん》している。
五 月 雨《 さ み だ れ》 の 降 り の こ し て や 光 堂
中尊寺の大部分は多年の風雨にさらされて損《そん》壊《かい》しているというのに、ここだけは年々降る五月雨も遠慮して降りのこしたのだろうか、光堂は燦《さん》と輝《かがや》いている、と。
けむるような五月雨の感触と光堂との対比が、青葉の中にひっそりと歴史を眠らせている風景を浮かび上らせていて心《こころ》憎《にく》い。ただし、芭蕉と曾良が光堂を訪《おとず》れた時の現場の状況は、この句が詠《えい》じているような燦然たるものだったかどうかについては疑問がある。『おくのほそ道』の他の場所にもしばしば見られるように、虚《きよ》構《こう》の上に成立した光堂の理想化という面が強いかもしれない。
旅はさらにすすみ、最《も》上《がみ》川《がわ》では降りつづいた五月雨がみなぎる奔《ほん》流《りゆう》となって芭蕉の眼を釘《くぎ》づけにする。その時の秀《しゆう》吟《ぎん》――
五 月 雨 《 さ み だ れ 》を 集 め て 早 し 最 上 川
ここで思い合されるのは与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》の五月雨の秀句である。
五 月 雨 や 大 《たい》河 《が》を 前 に 家 二 軒
蕪村
五月雨時の轟《ごう》々《ごう》と流れる大河のすさまじさを、堤《つつみ》の脇《わき》に心細く立っている二軒の家に焦点をあてることで強調してある。濁《だく》流《りゆう》のにごりながらうねる音まで聞こえてきそうだ。
床《ゆか》 低 き 旅 の や ど り や 五《さ》 月 《つき》雨《あめ》
蕪村
五月雨であちらこちらの川や溝《みぞ》が増水しているというのに、自分が泊《とま》る宿はどうやら床が低い。夜眠っているときに川が氾《はん》濫《らん》する危険を思っておちおち眠れない。そんな生活感覚がにじむ、好短篇といった風《ふ》情《ぜい》の句である。次の一句も同じ気分の秀《しゆう》逸《いつ》の句である。
五 月 雨 や 御 《み》豆 《づ》の 小 《こ》家 《いへ》の 寝 覚 め が ち
蕪村
「御豆」は淀《よど》川《がわ》と木津川の合流点に近い淀東南の地で、土地が低かったのである。
さてさかのぼって、平安朝の古《こ》今《きん》・新《しん》古《こ》今《きん》時代の歌人は五月雨をどう詠《よ》んでいたのだろうか。
寛《くわん》 平《ぴやう》 御時きさいの宮の歌《うた》合《あはせ》のうた
五月雨に物思ひをれば郭公《ほととぎす》
夜ぶかくなきていづちゆくらむ
紀《きの》 友《とも》則《のり》
時鳥《ほととぎす》の鳴くを聞きてよめる
五月雨の空もとどろに時鳥
何を憂《う》しとか夜《よ》ただ鳴くらむ
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
五十首歌たてまつりし時
さみだれの月はつれなきみ山より
ひとりも出《い》づる郭公《ほととぎす》かな
藤《ふじ》 原《わらの》 定《てい》家《か》
太神宮に奉《たてまつ》りし夏の歌の中に
郭公雲《くも》居《ゐ》のよそに過ぎぬなり
晴れぬ思ひのさみだれのころ
後《ご》鳥《と》羽《ば》院《いん》
偶然だが全部の歌に時鳥《ほととぎす》が詠《よ》みこまれている。時鳥は当時の人々にとって、忍《しの》び音《ね》、初《はつ》音《ね》、花を慕《した》うといった感じ方である種の心《しん》象《しよう》の表明ともなっていた鳥であるが、五月雨《 さ み だ れ》もやはり、物思いや、うっとうしさ、あるいは晴れぬ心などの代弁という使われ方をしている。気分の表現に主眼がおかれているので、五月雨そのものの風景を具象的に描いた作はこの当時の歌にはほとんど見られない。
風景ではないが、初夏の風物の一つとして五月雨を詠《よ》みこんでいる歌に大僧正慈《じ》円《えん》の今《いま》様《よう》がある。『拾《しゆう》 玉《ぎよく》 集《しゆう》』に載《の》っている歌だが、今様という歌謡の形式をとっているためか、ただ景物をあげているに過ぎない歌であるのに、軽快な調子の中に日本の懐《なつ》かしい夏が感じられる。
花《はな》 橘《たちばな》も匂《にほ》ふなり 軒《のき》のあやめも薫《かを》るなり
夕《ゆふ》暮《ぐれ》さまの五月雨に 山《やま》郭公《ほととぎす》名《な》告《の》りして
慈円
「花橘」「軒のあやめ」「五月雨」そして「山郭公」と、当時の夏をもっとも代表している四種の動植物を配して、夏の夕暮れの花の香《かお》り、今にも五月雨が降りそうな空模様、そこを時鳥がひときわ甲《かん》高《だか》い声で鳴いて過ぎてゆく、と、七五、七五、七五、七五という軽快な今様歌謡スタイルを活用して夏を表現している。
道具だては最もありきたりな夏の景物だが、この種の歌はむしろそのようなありきたりの景物を生かしてうたうところに意味があった。夏の到来は万人のものだったからである。
さつきまつ花《はな》 橘《たちばな》の香《か》をかげば
昔の人の袖《そで》の香ぞする
よみ人しらず
「花橘」は、田《た》道《じ》間《ま》守《もり》が常《とこ》世《よ》の国から「ときじくのかくの木《こ》の実《み》」を持って来たのが最初という伝説があるが、元来は食用みかんの古代名だったらしい。六月頃、香《かお》りの高い白い五弁の花を咲かせる。『古《こ》今《きん》集《しゆう》』の右の歌以来、「花橘の香」といえば「昔の人(恋人)」という連想を誘《さそ》う花ということになった。
五月(陰暦)を待って咲く橘の花のかぐわしい匂《にお》いをかぐと、かつての想《おも》い人《びと》の袖にたきしめられていた香りが突然よみがえってくる、というのだが、香りによって昔の恋人を思い出すというこの歌の主題は、平安朝当時の詩人たちに大層愛され、これを本《ほん》歌《か》とする多くの歌が作られた。
(『古今集』)
橘《たちばな》のにほふあたりのうたた寝は
夢も昔の袖《そで》の香《か》ぞする
藤《ふじ》原 《わらの》俊 《しゆん》 成《ぜいの》 女《むすめ》
橘の香はこの歌でも「昔」への想いをしきりに誘う。橘の花の香りが行き交うあたりでうたた寝をしていると、夢の中でも昔《せき》日《じつ》の袖の香がただよってくる。
俊成女は、藤原俊成の娘ではなく、実際は娘(八条院三条)の娘で、孫に当る。一度結婚したが、のち後《ご》鳥《と》羽《ば》院《いん》に出仕。三十歳過ぎての女房勤めだが、後鳥羽院歌壇での活躍はめざましく、『新古今集』にも女流歌人としては式《しき》子《し》内《ない》親《しん》王《のう》に次いで入集第二位である。祖父俊成、叔《お》父《じ》定《てい》家《か》らの影響はもとより、『伊《い》勢《せ》物語』『源《げん》氏《じ》物語』『狭《さ》衣《ごろも》物語』などの古典を縦横に摂《せつ》取《しゆ》した、新古今時代を代表する優《ゆう》艶《えん》な歌風の女流歌人だった。
(『新古今集』)
花《はな》橘《たちばな》も匂《にほ》ふなり 軒《のき》のあやめも薫《かを》るなり
夕暮さまの五月雨《 さ み だ れ》に 山《やま》郭公《ほととぎす》名《な》告《の》りして
慈《じ》円《えん》
花橘のよい香《かお》りも匂っている。軒に葺《ふ》き渡したあやめ(菖《しよう》蒲《ぶ》)も薫っている。夕暮れのような薄暗い五月雨空にほととぎすがわが名をするどく告げて鳴いてゆく。
慈円の家集『拾 《しゆう》玉 《ぎよく》集 《しゆう》』には春夏秋冬を主題とする四首の今《いま》様《よう》歌謡(七五で四句の形式)が含まれるが、これはそのうち夏の今様。慈円は、関白藤《ふじ》原《わらの》忠《ただ》通《みち》の六男。十一歳で法界に入り、天《てん》台《だい》座《ざ》主《す》に至るが、政変のため四度天台座主の辞退と復任をくり返し、建《けん》仁《にん》三年(一二〇三)大《だい》僧《そう》正《じよう》。死後慈《じ》鎮《ちん》と諡《おくりな》された。和《わ》歌《か》所《どころ》寄《より》人《うど》の一人で、『新古今集』入集九十二首は西《さい》行《ぎよう》に次いで多い。摂《せつ》政《しよう》・太《だい》 政《じよう》 大《だい》臣《じん》藤原良《よし》経《つね》の叔《お》父《じ》に当る。
(『拾玉集』)
あやめかる安積《あさか》の沼に風ふけば
をちの旅人袖《そで》薫《かを》るなり
源 《みなもとの》俊《とし》頼《より》
「安積の沼」は現在の福島県 郡《こおり》山《やま》市の安積山のふもとに昔あったという沼。菖《しよう》蒲《ぶ》の名所として有名な歌《うた》枕《まくら》だった。「あやめか(刈)る」という形容は、安積沼の歌枕としての見どころを端的に表現している。歌論書『俊頼髄《ずい》脳《のう》』、勅《ちよく》 撰《せん》集『金《きん》葉《よう》和《わ》歌《か》集《しゆう》』の撰者としても名高い平安中期の大歌人俊頼のこの歌は、実際にその地をたずねたものではなく、安積沼という名所にちなむ机上の題《だい》詠《えい》である。だがいかにも初夏の薫《くん》風《ぷう》を感じさせてさすがである。「をち」は遠方。菖蒲の香があまりに高いので、遠い旅人の袖まで薫るという詩的誇張である。
(『散木奇歌集』)
子は裸《はだか》父はててれで早《さ》苗《なへ》舟《ぶね》
利《り》牛《ぎゆう》
岸のいばらの真《まつ》白《しろ》に咲《さく》
野《や》坡《ば》
雨あがり数《ず》珠《ず》懸《かけ》鳩《ばと》の鳴《なき》出《だ》して
孤《こ》屋《おく》
芭《ば》蕉《しよう》晩年の俳諧撰集『炭《すみ》俵《だはら》』上巻「百《ひやく》韻《いん》」(百句続きの連句)発《ほつ》句《く》より第《だい》三《さん》まで。「ててれ」はふんどし。「早苗舟」は田《た》植《うえ》の時早苗を積んで水田に浮かべる手押しの小舟。「数珠懸鳩」は後頸部に黒い首輪まがいの紋《もん》のある小ぶりの鳩。「早苗舟」「いばらの花」とも夏の季語で、田植どきのさわやかな風物を詠む。
利牛、野坡、孤屋の三人とも日本橋の呉服商兼両替商越《えち》後《ご》屋《や》の同僚だった。三人の中では志《し》太《だ》野坡が俳人として最も有名だが、日本橋の両替店の店員たちが、芭蕉晩年の弟子たちの有力な一部をなしていたことは、芭蕉の俳諧がこのころ「軽み」へと向かっていたことと考え合わせると、なかなか興味がある。『炭俵』は「軽み」の代表的な撰集だった。そしてこの「軽み」を支えていたのが、元禄時代、商業資本の活気ある動きの中心部にいた人々でもあったわけである。
(『炭俵』)
短《みじか》夜《よ》や既《すで》に根づきし物の苗《なへ》
石《いし》井《い》露《ろ》月《げつ》
露月は、明治六年(一八七三)秋田県生まれ、昭和三年(一九二八)没の俳人。上京して正岡子《し》規《き》の拠《よ》る新聞「日本」の記者になったが、医学に転じ郷里で開業。子規系俳人として秋田の島田五《ご》空《くう》と共に「俳星」を創刊、子規の日本派の東北における拠点となり、秋田一円に大きな足跡を残す。句には悠《ゆう》揚《よう》の風格がある。「短夜」は明《あ》け易《やす》い夏の夜をいう季語。その短夜のつかのまも、苗はせっせと根づきを営んでいるのだ。「既に」は一見理が勝ちすぎのようだが、感動の表現として利いている。
露月は人柄が円満で人々に愛され、往診の時は馬に乗って患者の家を回ったという。秋田地方のみならず中央でも重きをなし、子規門の古参俳人として広く名を知られた。
(『露月句集』)
空青し山青し海青し
日はかがやかに
南国の五《さ》月《つき》晴《ばれ》こそゆたかなれ
佐《さ》藤《とう》春《はる》夫《お》
和歌山県新《しん》宮《ぐう》市生まれのこの詩人の代表作「望郷五《ご》月《がつ》歌《か》」の一節である。詩は次のように始まる。「塵《ちり》まみれなる街路樹に/哀れなる五月来にけり/石だたみ都大路を歩みつつ/恋しきや何《な》ぞわが古《ふる》郷《さと》」。五月の東京にあって、故郷の青々と澄《す》んだ自然とそこに住む人々の生活を望み見て歌った望郷の詩である。昭和六年(一九三一)の作。東京も今よりずっと落ち着いて清潔だったはずだが、南国生まれの詩人の眼にはそれでも東京の街路樹は汚《よご》れて見えた。「五月晴」をサツキバレと読む場合は陰暦の呼称だが、この詩の五月は、梅雨の晴れ間ではない。風《かぜ》薫《かお》るさわやかな初夏である。
渡り懸《かけ》て藻《も》の花のぞく流《ながれ》哉《かな》
野《の》沢《ざわ》凡《ぼん》兆《ちよう》
低い橋《はし》桁《げた》に渡された橋を渡りかけて、ふと川をのぞくと、流れに群生している藻から小さな花穂が水面に顔を出していたのである。夏の日の、さりげない情景が、詩の形の中にとらえられて新鮮である。
凡兆は金沢の人、京都に住み医を業とした。元《げん》禄《ろく》四年(一六九一)蕉《しよう》門《もん》の代表的撰集『猿《さる》蓑《みの》』を去《きよ》来《らい》と共編した。発《ほつ》句《く》編だけでも集中最多の四十一句が入集し、はなばなしい才能を示した。ところが二年後密輸に加担したかどで投獄され、釈放後は句の精彩もうすれる。元禄俳壇を彗《すい》星《せい》の如くに横切った凡兆の作風は、的確な物象写生の切れ味のよさをもち、近代写生句の先《せん》駆《く》をなしているといえるものだった。
(『猿蓑』)
川《かは》止《どめ》に手にはを直す旅日記
誹《はい》風《ふう》柳《やなぎ》多《だ》留《る》
「川止・川留」は江戸時代、出水のため渡《と》河《か》が危険なとき、旅人の川越えを禁じたこと。東海道でいえば大井川が有名だった。長《なが》逗《とう》留《りゆう》の場合、次の川《せん》柳《りゆう》のような情景も生まれた。「川留に宿の小僧が跡《あと》を追ひ」。宿に何日も滞在するうち、退屈しのぎに遊び相手になってやった宿の子が客になじんでしまい、いざ出《しゆつ》立《たつ》の時あとを追って泣くのである。右の句の場合も同じで、退屈しのぎに旅日記の「てにをは」(「てには」ともいった)を直している。テニヲハとは昔漢文訓《くん》読《どく》の便《べん》宜《ぎ》のため、字の四《よ》隅《すみ》に読みを示す記号の点をつけ、左下から上へテニヲハと読みならわした所から来た語で、助詞・助動詞の総称。
奥《おく》能《の》登《と》や浦々かけて梅《つ》雨《ゆ》の滝
前《まえ》田《だ》普《ふ》羅《ら》
奥能登の浦から浦につづく山々、その山《やま》肌《はだ》に梅雨が滝になって落ちている。意味をいうならそれだけだが、句が包みこんでいるのは壮大な景《け》色《しき》の実感である。作者は梅雨前線の激しい雨が滝のように落ちている目前の山肌を見つつ、目には見えない彼方《かなた》、能登半島に沿ってつらなっている山肌をも激しく洗っているであろう雨を想像しているのである。
明治十七年(一八八四)に東京に生まれ、昭和二十九年(一九五四)に没した前田普羅は、新聞記者として多年富山県に住んだ。大正期、虚《きよ》子《し》門で甲《か》斐《い》の山《さん》廬《ろ》(蛇《だ》笏《こつ》)、越中の清浄観子(普羅)と並《へい》称《しよう》され、ともに男性的な山岳詠《えい》に秀《しゆう》吟《ぎん》を多く残している。
(『新訂普羅句集』)
みほとけの千《せん》手《じゆ》犇《ひしめ》く五《さ》月《つき》闇《やみ》
能《の》村《むら》登《と》四《し》郎《ろう》
昼なお暗い五月雨《 さ み だ れ》どき。大寺の御堂の中でたたずんでいると、ふいに眼前に立つ千《せん》手《じゆ》観《かん》音《のん》の手がひしめくような気《け》配《はい》を感じたのである。この観音は多分大きな仏像であろう。五月闇といわれるほど陰《いん》鬱《うつ》な梅雨時の薄暗がりのなかで、長い歳月を経《へ》た仏像に秘められている魔《ま》性《しよう》がふとざわめいたような思いのする肌《はだ》寒さ。「千手犇く」が次の「五月闇」と重なって、仏像のある意味では不思議に官能的な側面を引き出している。千手観音像は普通四十本の手で表わされる。掌中にはそれぞれ一眼をそなえ、一本の手ごとに二十五有《う》を救うとされているところから、千手といわれる。
(『天上華』)
五月雨《 さ み だ れ》や鴉《からす》草ふむ水の中
河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》
五月雨は梅雨期によく降る長雨をいう。「さ」は五《さ》月《つき》の「さ」、「みだれ」は水《み》垂《だ》れの意といわれる。降りしきる雨の中、水びたしの草をふむ鴉の姿。遠景は雨にけぶって。情景は南画にでもありそうなものだが、それを表現するに当っては、物象を触覚的に把《は》握《あく》する詩才がきわだっている。
碧梧桐は、松山生まれで、友人の高浜虚《きよ》子《し》とともに俳句革新運動に加わり子《し》規《き》門の双《そう》璧《へき》と目された人。後二人は主張を異にして袂《たもと》を分かつが、右の句の収録されている句集『新俳句』当時は親友。正岡子規の率《ひき》いるいわゆる日本派最初の総合句集である。
(『新俳句』)
都だに寂しかりしを雲はれぬ
吉野の奥のさみだれのころ
後《ご》醍《だい》醐《ご》天《てん》皇《のう》
十四世紀初め践《せん》祚《そ》した第九十六代天皇。文保二年(一三一八)即位、元弘元年(一三三一)、鎌倉幕府を倒し公《く》家《げ》政権を回復しようと企てた元弘の乱が発覚し、北条氏に敗れて隠《お》岐《き》に流された。しかし元弘二年、天皇は隠岐を脱出、足《あし》利《かが》尊《たか》氏《うじ》や新《につ》田《た》義《よし》貞《さだ》らによって幕府は倒され、後醍醐天皇は京都に遷《せん》幸《こう》、いわゆる建《けん》武《む》中《ちゆう》 興《こう》を成《じよう》就《じゆ》した。しかし二年半後には、足利尊氏の謀《む》反《ほん》のため吉野に遷幸、失意のうちに行《あん》宮《ぐう》で崩《ほう》御《ぎよ》した。逆運の帝王がみつめている山奥のさみだれ。都でさえ寂しかったのに、という上二句の回想があるため、山中に雲垂《た》れこめて降りつづくさみだれの 寂《せき》寥《りよう》 憂《ゆう》愁 《しゆう》はますます深い。『新葉集』は南北両朝分立時代の南朝方の歌を集めた準勅撰歌集。成立事情からも吉野山中の哀歌が多く、これもその一首。
(『新葉集』)
三《み》島《しま》江《え》の入江の真《ま》菰《こも》雨降れば
いとどしをれて刈《か》る人もなし
源 《みなもとの》経《つね》信《のぶ》
経信は平安後期の歌人。子の俊《とし》頼《より》は平安末期の和歌に新風を導入した歌人として有名だが、父経信も清新な叙《じよ》景《けい》歌で特に有名な人だった。もともと経信は詩歌管弦に長じ、藤原公《きん》任《とう》と並んで「三船の才」をうたわれていた。三船の才とは、白河天皇の大《おお》堰《い》川行幸の際、詩・歌・管弦の三船を連ね、諸臣の長所に従ってそれぞれの船に乗らせたという故事にちなんで、一人よく三船に乗りうるだけの才ある人を指す。
「三島江」は淀《よど》川《がわ》河口の入江。「真菰」は水辺に群生するイネ科の多年草で、葉はムシロとし、種子や若芽は庶民の食用として大切な植物だった。真菰の名所三島江の夏景色。だが今は、降り続く五月雨に傾き倒れ、一種荒《こう》涼《りよう》たる美観を呈《てい》している。
(『新古今集』)
出《で》水《みづ》川《がは》あからにごりて流れたり
地《つち》より虹はわきたちにけり
前《まえ》田《だ》夕《ゆう》暮《ぐれ》
夕暮は、明治十六年(一八八三)神奈川県生まれ、昭和二十六年(一九五一)没の歌人。明治末年、「明星」派が退潮して自然主義が優勢となった時期に、歌壇の新鋭として華《はな》々《ばな》しく登場した。興に乗じ奔《ほん》放《ぽう》に歌う型の歌人で、自由律短歌にも重要な足跡を残した。夕暮は金《かね》子《こ》薫《くん》園《えん》のもとで歌人として出発し、明治三十九年に白日社を創立、四十年には「向日葵《 ひ ぐ る ま》」を、四十四年には「詩歌」を創刊して、「明星」に対抗する歌壇の人気作者となった。同じ世代に若《わか》山《やま》牧《ぼく》水《すい》もあって、それぞれ明治四十三年に『収穫』(夕暮)、『別離』(牧水)と、初期の代表歌集を刊行した。「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」(『収穫』)。「出水川」の歌は台風一《いつ》過《か》の後、奥《おく》秩《ちち》父《ぶ》の荒川にかかった虹を詠《よ》む。増水した濁流が岸をかんで走る。折から虹がすさまじい力を感じさせて地から湧《わ》きたつ。荒削りな歌が自然の威力をとらえる。
(『虹』)
岩がねの苔《こけ》の雫《しづく》も木《こ》隠《がく》れて
おとに心をすます宿かな
正《しよう》徹《てつ》
正徹は、備中の神戸山城主小松康清の子として生まれたが、少年期から京に出て和歌を学び、出家して東《とう》福《ふく》寺《じ》書記も務めた。歌人として厖《ぼう》大《だい》な数の実作があり、生涯の作品は四万首といわれる。門下には正《しよう》広《こう》、心《しん》敬《けい》、宗《そう》砌《ぜい》、智《ち》蘊《うん》ら有名な連歌作者たちがいた。正広が編集したものを中心に編まれた家集が『草根集』だが、これは十五巻、一万一千首あまりを収める。心敬その他の連歌作者への影響は大きく、室町時代歌人中、論・作ともに抜群の作者だった人。
これは「閑居」と題する歌である。「岩がね」は岩根で、岩のねもと。閑居の静寂境をえがいており、その種の歌としていわば典型的な歌だが、調《しら》べの優美な統一はさすがで、おのずと心澄《す》む思いを誘う。
(『草根集』)
降りやまぬ雨の奥よりよみがへり
挙手の礼などなすにあらずや
大《おお》西《にし》民《たみ》子《こ》
大西民子は、大正十三年(一九二四)盛岡市生まれ、平成六年(一九九四)六十九歳で没した歌人。歌の中で夜の不安な夢や幻想をしばしば書く。そこには、戦中戦後の、必ずしも幸福ではなかったらしい生活体験が深く浸《しん》透《とう》していると思われるが、この歌にもふしぎになまなましい死者への回想がある。よみがえって「挙手の礼」をするかもしれない幻の人は、戦死した青年である。その人に寄せる情感が、上句の描写に切ないほど溢《あふ》れている。
民子は、実生活においては不運、不幸を多く体験した人だった。結婚した相手の背信によって長い孤独な別居、離婚を強いられたのみならず、強い愛情で結ばれていた妹が急死し、悲嘆のどん底につき落とされた。彼女自身、平成六年、心《しん》筋《きん》梗《こう》塞《そく》のため自宅で急逝する。「水道をとめて思へばかなしみは叩き割りたき塊をなす」。
(『花溢れゐき』)
日の暮《くれ》の雨ふかくなりし比《ひ》叡《えい》寺《でら》
四《よ》方《も》結《けつ》界《かい》に鐘を鳴らさぬ
中《なか》村《むら》憲《けん》吉《きち》
画家平《ひら》福《ふく》百《ひやく》穂《すい》と延《えん》暦《りやく》寺《じ》に登った時得た代表作「比叡山」連作の一首。「結界」は仏道修行の障害をなすものの侵入を防ぐため寺院周辺に設けた堺界。巨木の上に降り沈む雨は日暮れの静けさを深める。それさえあるに、鐘がどこからも聞こえてこない。叡山一帯、静寂そのものと化して。延暦寺は他寺と違い、夕暮れになっても入《いり》相《あい》の鐘を鳴らさない習慣で、歌はそれを踏まえている。
中村憲吉は、広島県双《ふた》三《み》郡布《ふ》野《の》村の地主で酒造業を営む旧家に生まれた。中学の一年下には倉田百三が在学していた。中学時代から文学に関心があり、文章や俳句を発表している。七高(鹿児島)に進み、交友関係を通じて『万葉集』や正岡子《し》規《き》、伊藤左《さ》千《ち》夫《お》らの歌に親しんだ。「アララギ」の第一巻第三号から同人となり、作歌に熱中して、同派の代表歌人の一人になった。愛読者も多い。
(『しがらみ』)
病み呆《ほ》けて泣けば卯《う》の花《はな》腐《くだ》しかな
石《いし》橋《ばし》秀《ひで》野《の》
明治四十二年(一九〇九)奈良県生まれ、昭和二十二年(一九四七)没の俳人。評論家山本健吉氏前夫人。秀野は文化学院に学んだが、そこで高浜虚《きよ》子《し》の教えを受けた。山本健吉と結婚して健吉の姓石橋を名乗った。石田波《は》郷《きよう》や石塚友《とも》二《じ》らと知り合い、波郷が主宰する俳誌「鶴」の同人として将来を大いに期待された女流だった。
戦中には戦火の東京から島根県へ疎《そ》開《かい》したが、戦後京都へ移り住んだ時は、流離の暮らしの中で得た病いがすでにあつく、夫と一女を残し、若くして逝《い》った。句歴は約十年だが、晩年の句には、命の嘆《なげ》きと叫びを短い詩形に凝縮させた独自の調べがあって、強い。卯の花の咲くころ降り続く雨が「卯の花腐し」。
(『桜濃く』)
ゆふめしにかますご喰《く》へば風《かぜ》薫《かをる》
凡《ぼん》兆《ちよう》
蛭《ひる》の口《くち》処《ど》をかきて気味よき
芭《ば》蕉《しよう》
二句の続きによって、野《の》良《ら》仕事のあと膳《ぜん》にむかった男が、田んぼで蛭《ひる》に血を吸われたあと(口《くち》処《ど》)をぼりぼりかいている情景を描く。「かますご」は煮《に》干《ぼ》しや佃《つくだ》煮《に》にするイカナゴ、コウナゴのことで、カマスの稚《ち》魚《ぎよ》ではない。
「風薫る」は、東南から吹く夏のさわやかな風の特徴をとらえた夏の季語。一日の仕事を終えてつましい食卓にむかうほっとした気分が、かゆいところをかく気持ちよさにいきいきと描写されている。師弟の息の合った二句の付《つけ》合《あい》は、庶民の日常の描写を通じてほのかな笑いの情趣を表現し、俳《はい》諧《かい》の奥行きの深さを示している。
(『猿蓑』「灰汁桶の巻」)
ねそびれてよき月夜なり青《あお》葉《ば》木《づ》菟《く》
森かへてまた声をほそめぬ
穂《ほ》積《づみ》 忠《きよし》
「青葉木菟」はフクロウの一種で鳩くらいの大きさ。「ほうほう」と二声ずつふくみのある調子で鳴く。夏のよい月夜、寝そびれてふと聞きとめた青葉木菟の声。途絶えたと思うと、思いがけない方角の森でまた鳴き始めた。声を細めて鳴きはじめるのが何ともいえない。引きこまれて青葉木菟の声を追っている気持ちが、「森かへて」や「声をほそめぬ」によく表わされている。鳥声にいつか心も澄《す》んでゆく。
作者は明治三十四年(一九〇一)静岡県の伊豆に生まれ、昭和二十九年(一九五四) に没した。教育者だった。中学時代から北原白秋に師事したが、国学院大学で折《おり》口《くち》信《しの》夫《ぶ》(釈迢空)に学んで傾倒、歌にもその影響が見られる。
(『雪祭』)
葉《は》桜《ざくら》の中の無数の空さわぐ
篠《しの》原《はら》 梵《ぼん》
初夏、花の去った後の葉桜が、風にゆれつつ透《すか》して見せる様々な形の空の断片を「無数の空」といった。それを「さわぐ」という動態でとらえたところにこの句の発見がある。誰でもが見るありふれた光景を的確な言葉で新鮮にとらえ直すという、詩作の基本的な作業を行って成功した句だといえよう。
作者は明治四十三年(一九一〇)愛媛県生まれ、昭和五十年(一九七五)没の俳人。「中央公論」編集長を経て、中央公論社事業出版役員をつとめた。昭和六年臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》に師事して以来、斬《ざん》新《しん》な感覚をもって句誌「石楠《しやくなげ》」に新風を興《おこ》した。また論客としても活躍した。
(『皿』)
石《いし》畳《だたみ》 こぼれてうつる実《み》桜《ざくら》を
拾ふがごとし!
思ひ出《い》づるは
土《と》岐《き》哀《あい》果《か》(善《ぜん》麿《まろ》)
ローマ字三行書きの歌集の巻《かん》頭《とう》の作で、原文はローマ字。短歌三行書きは親友石《いし》川《かわ》啄《たく》木《ぼく》、また「アララギ」派から出た釈《しやく》 迢《ちよう》空《くう》らに影響を与えた。「実桜」は桜《おう》桃《とう》のこと。思い出すことの内容は描写せず、ただそれが石畳に散る実桜を拾う感じだと、直《ちよく》截《せつ》な気分の感触だけを記述する。きびきびした語の動きは感傷をも律動感に溶《と》かしこんでいる。
作者は新聞記者としての経歴も長く、その幅広い視野に立って、戦後になっても国文学者として、漢学者として、またエスペランティストとして活躍した。能《のう》の新作も試《こころ》みた。
(『NAKIWARAI』)
雨《あま》蛙《がへる》芭《ば》蕉《せう》に乗りて戦《そよ》ぎけり
榎《えの》本《もと》其《き》角《かく》
芭蕉の高弟其角は、近江《おうみ》膳《ぜ》所《ぜ》藩侍医竹下東《とう》順《じゆん》の長男として江戸に出生、はじめ榎本氏のち宝《たから》井《い》氏と称した。師芭蕉の閑《かん》寂《じやく》な句風とは対照的に都会的な華《か》麗《れい》な句風で江戸っ子にもてはやされた。しかししだいに伊《だ》達《て》から洒《しや》落《れ》風へ傾《かたむ》き、大向うの喝《かつ》采《さい》を博するが深味を欠く鬼面ひとを驚かすていの奇想に傾き、蕉風からは遠ざかった。
この句は「雨後」と題されている。あっさりと詠《よ》みくだしたところに、景も情も備わった詩《し》趣《しゆ》が感じられる。庭の芭蕉の葉に乗った雨後の雨蛙は、まことに涼しくそよいでいる。其角の華麗の反面にのぞく閑寂の詩情である。
(『五元集』)
万《ばん》緑《りよく》の中や吾《あ》子《こ》の歯生《は》えそむる
中《なか》村《むら》草《くさ》田《た》男《お》
「万緑」は夏の見渡すかぎりの緑をいう。元来は季語ではなかった。草田男の句は王《おう》安《あん》石《せき》の詩の一節「万緑叢《そう》 中《ちゆう》 紅一点」から「万緑」の語を得て、これを季語として用い、現代俳句の中に定着させた点で記念的な作品だった。
一面の緑の中で、生え初めた赤ん坊の歯の白さが健《けな》気《げ》に自己を主張している。生まれ出るもの、育ちゆくものへの讃《さん》歌《か》が「万緑」の語に託されている。満《まん》目《もく》の緑と小さな白い歯、この対比が俳句的に生きていたので、たちまち俳句界に共感を呼ぶ季語となった。しかし季語として流行することは、また安《あん》易《い》な決まり文句に堕《だ》する危険をも含んでいて、万緑の語も例外ではない。
(『火の島』)
また立ちかへる水《み》無《な》月《づき》の
嘆《なげ》きを誰《たれ》にかたるべき。
沙《さ》羅《ら》のみづ枝《え》に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。
芥《あくた》川《がわ》龍《りゆ》之《うの》介《すけ》
やがてまた、水無月(六月)がめぐってくる。わが胸の愁《うれ》い、この秘めた嘆きをいったいだれに語ったらいいだろう。沙羅の瑞《みず》枝《え》(みずみずしく若い枝)に白い清らかな花が咲けば、その花のうしろには、あの「かなしき人」の目まで見えるではないか。
「かなしき」は漢字を当てれば「愛しき」だろう。ただこの詩の場合には、むしろ沙羅の木の清純な白い花と憧《あこが》れの人の面《おも》影《かげ》とを重ね合せた、淡《あわ》い思慕の感情というべきである。沙羅の木(シャラ・ナツツバキ)は六月頃椿《つばき》の花に似た白い花をつける。
(『相聞三』)
夏草や兵《つはもの》どもが夢の跡《あと》
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
夏草の句を一句あげよとなれば、よほど偏《へん》屈《くつ》でないかぎり、芭蕉の右の句をあげる人が多いだろう。元《げん》禄《ろく》二年(一六八九)五月十三日、芭蕉の『おくのほそ道』の旅は、この日平《ひら》泉《いずみ》に達する。
平泉でくりひろげられた奥《おう》州《しゆう》 藤原家三代の栄《えい》華《が》もはかなく消えて、華美をつくした秀《ひで》衡《ひら》の館《やかた》も田や野にかわっていた。芭蕉は、衣《ころも》川《がわ》がその下で北《きた》上《かみ》川《がわ》に合流している、もと源 《みなもとの》 義《よし》経《つね》の館なる高《たか》館《だち》にのぼる。あたりは夏草がおいしげり、その昔ここで討《うち》死《じに》した義経主従の奮戦も一場の夢と化していた。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」。芭蕉は杜《と》甫《ほ》の詩を思い出し、栄《えい》枯《こ》盛《せい》衰《すい》に涙して、この句を作ったと『おくのほそ道』はいう。
(『おくのほそ道』)
六月を奇《き》麗《れい》な風の吹くことよ
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》
子規にとってこの句を得た明治二十八年(一八九五)は運命的な年だった。彼は周囲の危《き》惧《ぐ》をもふり切って、日《につ》清《しん》戦争従軍記者として大陸に渡った。しかし到着前に戦争は終り、あまつさえ帰国途次の船上で大喀《かつ》血《けつ》をする。以後病床に臥《ふ》す身となるが、この時の旅では神戸・須《す》磨《ま》、松山で療養後帰京した。病人の作とは思えない印象さわやかな右の句も、実は須磨での療養中のものである。子規は三十五年の生《しよう》涯《がい》の最後の数年間、ほとんど病床で生きたが、強《きよう》靭《じん》な精神力と文学革新に対する熱情に支えられて、驚異的な多産ぶりを示し、作品も不思議な活力と明るさに満ちていた。
(『寒山落木』)
六月の氷菓一《いつ》盞《さん》の別《わかれ》かな
中《なか》村《むら》草《くさ》田《た》男《お》
昭和初期の青春の、つつましくも爽《さわや》かな一面を鮮《あざ》やかにとらえた一句である。「氷菓」は夏の氷菓子の総称で、アイスクリームやシャーベット、氷、アイスキャンデーの類。「盞」は盃《さかずき》をさすが、この場合は氷菓子のいれもののことである。夏休みも近づいたある日、国元に帰省するもの、残るもの、喫茶店とかフルーツパーラーあたりでともにしばしの別れを惜しんでいる図か。草田男の句には晩年にいたるまで一種旧制高校生風の理想主義が生き続けていたが、大学生生活を詠《よ》んだと思われるこの句の背景にもそれが感じられる。
(『長子』)
夏河を越すうれしさよ手に草《ざう》履《り》
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
詩人・萩《はぎ》原《わら》朔《さく》太《た》郎《ろう》は少年期、与《よ》謝《さ》野《の》晶《あき》子《こ》の『みだれ髪』を愛読し、実際彼の少青年期に作った短歌には晶子愛唱の痕跡が顕著である。俳人では朔太郎の最も愛したのは与謝蕪村だった。彼の信奉するロマンティシズムのこよなき作者だと見たからで、『郷愁の詩人与謝蕪村』という著書は、彼のあくまで個性的な見方で書かれた新鮮な蕪村論だった。
摂《せつ》津《つ》毛馬村(現大阪市)生まれの蕪村は、若い時江戸・関東を遊歴、三十代半ばで京に上った。まもなく丹《たん》後《ご》(京都府)の宮津に移り、三年余り宮津に滞在、主に画業に精を出した。世にいう蕪村の丹後時代である。この句は宮津滞在中、郊外に人を訪れた時の作。門前に細川があったのだ。清涼の気にみちた作だが、それは句中にごく自然に、無心な少年の日の喜びが呼び戻されているからでもあろう。
(『蕪村句集』)
水ふんで草で足ふく夏《なつ》野《の》哉《かな》
小《こ》西《にし》来《らい》山《ざん》
「在所めづらしく、あらぬかたまでさまよひまはりて」と前《まえ》書《がき》のある句。来山は大坂の生まれ、芭《ば》蕉《しよう》より十歳若く、同時代のもう一人の俳諧の偉才上《うえ》島《じま》鬼《おに》貫《つら》と親交があった。談《だん》林《りん》俳諧から出発した人。酒仙ぶりも有名だが、晩年は蕉風に近づいたとされる。たしかにこの句も田舎《いなか》の散策の気分を活写してさわやかだ。それでも、辞世の歌は狂歌風だった。「来山は生れた咎《とが》で死ぬるなりそれで恨みも何もかもなし」。
辞世の俳句や和歌をのこすのは、江戸時代の詩歌人はもちろん、多少とも文化的な伝統を重んじる人々にとっては、奥ゆかしいこの世への訣別の作法でもあったようである。その場合、重くるしい死生観をのべるというようなことは避け、狂歌・狂句に類する作を残す人々が多かった。軽やかに浮世とおさらばする心構えだろう。
(『今宮草』)
今年亦《また》出《み》水《づ》に住むべき蚊《か》遣《やり》哉《かな》
増《ます》田《だ》龍《りゆう》雨《う》
龍雨は、明治七年(一八七四)に生まれ、昭和九年(一九三四)六十一歳で死去。深川木《き》場《ば》で橋 《きよう》梁 《りよう》請負業を営む家に養《よう》子《し》となったが、義父は豊かな趣味の人で、旧派の俳人でもあった。そのため少年期から俳《はい》諧《かい》に親しみ、のち久《く》保《ぼ》田《た》万《まん》太《た》郎《ろう》と親交を結んで本格的な俳人となる。龍雨の句は、言葉のきめが細かく、いかにも江戸風の情緒に富む。梅雨時から秋にかけて、大雨のたび水びたしになる下町暮らし。また大水の季節か、と思いつつたく蚊遣りの火。
日本人の生活は、日本列島の地理的条件からしても水とは切っても切れないつながりがある。現代にあっても大水害のニュースは絶えない。江戸を統治するにあたって徳川幕府は下町一帯の水利問題や衛生問題にことのほか留意し、たくさんの下水工事に力を尽くした。それでもこの龍雨の句のような状況は毎年東京の下町を悩ませた。
(『龍雨句集』)
月や出《い》づる星の光のかはるかな
涼しき風の夕やみのそら
伏《ふし》見《み》院《いん》
伏見院は第九十二代天皇。中宮は歌人永《えい》福《ふく》門《もん》院《いん》。鎌倉時代後期の勅《ちよく》撰《せん》和歌集『玉葉集』は、院が心服していた歌人京《きよう》 極《ごく》 為《ため》兼《かね》に命じて編ませたもので、同じ歌風を継いだ『風雅集』とともに当時の最も充実した勅撰集だった。この歌は『風雅集』巻四夏に所収。伏見院の入集歌は両歌集とも最多を誇り、中宮永福門院ともども当代の代表歌人だった。叙《じよ》景《けい》歌にすぐれていたが、自然界の変化に敏感に反応してゆく歌風は、近代印象派の絵や音楽さながらの一面がある。
「玉葉・風雅」とひとまとめに言われることも多いのは、言うまでもなく京極為兼の指導理論が両集に深く生きているからでもあった。その叙景歌の特色は、自然界の刻一刻の変化を、あたかも人間の心の変化に対するがごとくにこまやかに観察し詠じたことにある。その分、人間自身についてのダイナミックな観察には、格別の重きを置いていなかったように思われる。
(『風雅集』)
蒸しあつき髪をほどけば髪などの
いづちを迷ひわれに来りし
森《もり》岡《おか》貞《さだ》香《か》
大正五年(一九一六)松江市生まれの歌人。「いづち」はどちらの方。「あち」「こち」というように、「ち」は方角をいう。長い髪にこもるむし暑いような熱気は、時に女であることの言いがたい暑苦しさを実感させるものでもあろう。それを梳《す》きながら、こんな髪のごときものがどこを迷って私にまでやってきたのか、と感じている。そこにはもちろん、唯一無二のわが髪へのいとおしさもあって、なかなか男にはうたえない境地の歌だろう。
森岡貞香は十九歳で結婚したというが、夫はまもなく中国戦線に召集され、敗戦後帰還した。しかし夫は復員処理に従事している間に急逝する。病弱なうら若い未亡人となり、敗戦後の社会で一児を育てながら苦闘しつつ出した第一歌集『白蛾』で、新進女性歌人として脚光を浴び、以後鋭い感覚美で知られる歌人として確固たる位置をしめた。
(『珊瑚数珠』)
せつせつと眼まで濡《ぬ》らして髪洗ふ
野《の》沢《ざわ》節《せつ》子《こ》
節子は、少女期に脊《せき》椎《つい》カリエスを病《や》み、闘病生活を送った。病床で俳句の魅力にうたれ、俳人への道を一《ひと》筋《すじ》に歩んだという。「冬の日や臥《ふ》して見あぐる琴の丈《たけ》」という句もある。右の句は病癒《い》えたのちの作だが、眼まで濡らして一心に髪を洗う動作のなかで、作者は自分の内部の女人をも「せつせつと」洗っている。官能のうずきの中に、女の夏のひそかな愉《ゆ》楽《らく》もある。
フェリス女学院在学中の若さで発病、二十四年間脊《せき》椎《つい》カリエスの療養生活を強いられたが、この苛酷な生活の中で『芭蕉七部集』を読み、俳句に興味をもったという。その後、のちに師事することになる大野林《りん》火《か》の著書『現代の秀句』を読んで現代俳句の魅力に眼を開かれた。右の「せつせつと」の句を収める『鳳蝶』(第四句集)によって読売文学賞を得た。大正九年(一九二〇)生、平成七年(一九九五)没。
(『鳳蝶』)
片《かた》町《まち》に桶《をけ》屋《や》竝《なら》ぶや夏《なつ》柳《やなぎ》
内《うち》田《だ》百《ひやつ》《けん》
百は岡山県に生まれ、昭和四十六年(一九七一)八十一歳で没した文人。本名栄造。戦後は「百」と書いたが、当初は「百間」。「百鬼園」も別号。漱《そう》石《せき》門弟で、端《たん》厳《げん》かつユーモアに富んだ文章で愛読者の多い随筆家。俳句も旧制六高以来の経歴である。道の片側にだけ家が建っているのが片町。そこに桶屋が軒を並べている。職人町だろう。柳があおあおと揺れている。対象に親しく寄り添ってその味を気持ちよく生かした句だ。
百は大正十一年(一九二二)、はじめての小説集『冥《めい》途《ど》』を刊行し、芥川龍之介に賞讃されたが、一般の評判にはならなかった。しかるに、昭和八年『百鬼園随筆』を出すに及んで一躍文名があがり、続々と随筆集を出して、随筆家としての名声を確立した。句集も数冊ある。
(『百鬼園俳句帖』)
海《うみ》 山《やま》
夏山は、夏《なつ》嶺《ね》、青《あお》嶺《ね》、青き嶺《みね》、夏山《やま》路《じ》、夏山《やま》家《が》、五《さ》月《つき》山《やま》などと呼ばれる。嶺はだいたい高い山をさすが、それにしても夏の山をいうのに青や緑色で表現する場合が多いのはおもしろい。緑色には人間を憩《いこ》わす要素があって、色彩心理学の統計などを見ても、緑のもつそのような要素は明らかである。交通信号の「青」が実際は緑色であるのもそれを示しているし、緑の黒髪、みどりご、いずれも人間の生活に深く関わるこれらの形容に、実際は違う色であるにもかかわらず「みどり」の語が使われているのも深い意味があろう。
緑、青が夏の彩《いろど》りを表現するのに多く使用されるということは、青い嶺、緑濃《こ》き谷、紺《こん》碧《ぺき》の海といった夏の景《け》色《しき》が、人間にとって、ほかの季節より、山そのもの、海そのものが一層親しみぶかく思われるための用語法なのかもしれない。
万 《ばん》緑 《りよく》の 中 や 吾 《あ》子 《こ》の 歯 生 《は》え そ む る
中《なか》村《むら》草《くさ》田《た》男《お》
草田男の代表作の一つとしてよく知られる句で、第二句集『火の島』(昭和十四年刊)に収められているものである。
したたるような夏の緑の中で、わが子のかわいい前歯が白く生え始めようとしている。鮮《あざ》やかな緑と萌《も》え出ようとする小さな白との対比。夏の木《こ》蔭《かげ》で、わが子の口の中の前歯を眺《なが》める作者の気持ちは、敬《けい》虔《けん》な祈りにも似ているだろう。ここでも夏の力強い緑色が、「万緑」という元来は中国詩人王《おう》安《あん》石《せき》の「万緑叢《そう》 中《ちゆう》 紅一点」という詩句から来たとされる草田男自製の季語に圧縮されて、人間の生活と密接に結びつく。
草田男と同時代の山《やま》口《ぐち》誓《せい》子《し》にも夏の秀句は多い。誓子は、水《みず》原《はら》秋《しゆう》桜《おう》子《し》が虚《きよ》子《し》の「ホトトギス」流の写生に飽《あ》きたらず、別の創造の場として「馬《あ》酔《し》木《び》」を創刊した当時、それに投じた。秋桜子の叙《じよ》情《じよう》に対して、知的で構成的な作風を確立し、社会現象の中にも題材を広げて、近代俳句に一つの転機をもたらした俳人である。昭和十二年(一九三七)作の次の句は誓子の代表作として有名である。
夏 の 河 赤 き 鉄 《てつ》鎖 《さ》の は し 浸 《ひた》る
山口誓子
工業都市の河口近い水の中に赤く錆《さ》びた鎖《くさり》の先端が浸っている光景がおのずと浮かんでくる。「鉄鎖」は船をつなぐための鎖ででもあろうか。ずっしりと重そうである。水面下に没している鎖のボリュームと、夏の日《ひ》射《ざ》しを錆《さび》の上ににぶく受けている陸上の鉄鎖には、工業国になりつつある日本の夏がある。新しい題材によって俳句の表現の領域を広げた一例である。
表現の領域を広げたといえばプールを季語として使った誓子の次の句も、斬《ざん》新《しん》な感覚の表現で一時代を画した句である。
ピ ス ト ル が プ ー ル の 硬 《かた》き 面 《も》に ひ び き
山口誓子
昭和十一年の作で、前出の句と共に、昭和十三年に刊行された『炎昼』に収められている。
水泳競技のスタート台に立つ選手の緊張感が競技場を無音の状態にしている。観衆も固《かた》唾《ず》をのんでプールの水面を凝《ぎよう》視《し》する。人々の張りつめた注目を受けて、プールさえももはや流動する液体ではなくなったように、硬くひきしまっている。そこにピストルの音が響《ひび》く。次の句は昭和八年の「大阪駅構内」の連作の一つで『黄《こう》旗《き》』(昭和十年刊)に収められている。
夏 草 に 汽 《き》罐 《くわん》車 《しや》の 車 輪 来 て と ま る
山口誓子
夏草の生《お》い茂っている構内の引込線に、列車から離れた蒸気汽罐車が一両入ってきて、線路わきの雑草すれすれに止ったところであろう。映画のクローズアップのような一カットである。
次に夏山の壮大さを詠《よ》んだ歌として、登山を好んだ歌人窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》の歌を引いてみる。
雲海のはたてに浮ぶ焼《やけ》岳《だけ》の
細き煙《けぶり》を空にしあぐる
窪田空穂
大正十一年(一九二二)七月、烏《え》帽《ぼ》子《し》岳《だけ》から槍《やり》ヶ岳《たけ》まで、七日間テントを携《けい》行《こう》して北アルプスを縦走した時の連作中の一首である。焼岳を望み見る槍ヶ岳西の鎌《かま》尾《お》根《ね》の夜明け、一つだけぽつんと空に浮かんでいる焼岳が「細き煙」をあげている姿には、ある人生的象徴さえ感じられたのかもしれない。『鏡《かがみ》葉《ば》』(大正十五年刊)に収める歌である。この北アルプス縦走の時の歌には、次のようなものもあった。
凝《こ》り沈む雲くづれては散るなべに
千《ち》尺《さか》の深《み》谷《たに》あらはれ来たる
窪田空穂
春陽会の創立メンバーだった洋画家小《こ》杉《すぎ》放《ほう》庵《あん》(未《み》醒《せい》)は、日光二《ふた》荒《ら》山神社宮《ぐう》司《じ》の家に生まれ、妙高山はじめ多くの山に登ることを好んだ人だが、早くから短歌作者としても一家をなしていた。その放庵の「妙高山讃歌」一連から一首引いておこう。「山居」(昭和十七年刊)に収められている。
頂《いただき》の岩に尻《しり》据《す》ゑ足指に
まさぐらむとす越《こし》の国《くに》原《はら》
小杉放庵
炎暑の海を詠《よ》んだ句ですぐに思い出される句には次の作がある。
濤 《なみ》暑 し 石 に 怒 れ る ひ ゞ き あ り
加《か》藤《とう》暁《きよう》台《たい》
暁台は江戸中期、いわゆる天《てん》明《めい》中興俳壇の代表的俳人の一人で、彫《ほ》りの深い、意欲満々の句を多く作った人だった。正岡子《し》規《き》は「中興俳《はい》諧《かい》五傑集」の中で暁台について、「剛《がう》健《けん》跌《てつ》宕《たう》一気呵《か》成《せい》、銀河の九天より落つるが如く」と評している。右の句は真夏に佐渡へ旅した時の作だが、暁台には冬の海を詠《よ》んだ次の有名な句もある。「暁《あかつき》や鯨《くぢら》の吼《ほ》ゆるしもの海」。鯨が潮《しお》を吹きあげるのを、「吼ゆる」と言ったもののようだが、夏・冬二句、とりあげてみると、俳句という短い詩によっても、荒《あら》々《あら》しい大景を詠むことはできるものだということをあらためて思わされる。
それをいうならもちろん、ここで『おくのほそ道』の句をもあげておかねばなるまい。
荒 《あら》海 《うみ》や 佐 渡 に よ こ た ふ 天 《あまの》 河《がは》
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
あの夏の数かぎりなきそしてまた
たつた一つの表情をせよ
小《お》野《の》茂《しげ》樹《き》
過ぎ去った二人の輝《かがや》かしい夏、あの時きみの表情は一瞬一瞬変化する輝きそのものだった。変化にみちた数かぎりない表情、そしてまたそのすべてがきみの唯《ゆい》一《いつ》の表情にほかならなかったあの夏の、あの豊かさの極《きわ》みの表情をせよ、と。恋人の「数かぎりなき」表情が同時に「たつた一つの」表情であるという発見に歌のかなめがあることはもちろんだが、この発見は理屈ではない。青年の憧《あこが》れと孤《こ》愁《しゆう》もそこには織りこまれて、心理的陰影が色濃《こ》く反映されている。
小野茂樹は昭和十一年(一九三六)東京生まれ。新鋭歌人として期待されながら、昭和四十五年、自動車事故で急死した。
(『羊雲離散』)
市《いち》中《なか》は物のにほひや夏の月
凡《ぼん》兆《ちよう》
あつし〓〓あつしと門《かど》〓〓々の声
芭《ば》蕉《しよう》
『芭蕉七部集』の中でも代表的な『猿《さる》蓑《みの》』、そのまた代表的な歌《か》仙《せん》である「夏の月の巻」の発《ほつ》句《く》と脇《わき》句《く》。剛《ごう》毅《き》な性格と評された凡兆は、結局芭蕉に師事した二年間に俳人生命のすべてを燃焼しつくした感があった人である。
「市」については市《し》中《ちゆう》と解するか、市《いち》場《ば》と解するかで説が分かれる所だが、市中と広くとっておく。湿気の多い日本の夏の市中、夕暮れどきの煮《に》炊《た》きの匂《にお》いも地を這《は》って漂《ただよ》ってくる。空には、夏のやや赤みがかった月がぽっかりとかかる。「お暑いことで」が口ぐせになっている人々が行き交い、言葉をかわしあう情景を脇に配して、庶民生活の活気までもみごとにとらえた。
(『猿蓑』)
なんと今日の暑さはと石の塵《ちり》を吹《ふく》
上《うえ》島《じま》鬼《おに》貫《つら》
鬼貫は摂《せつ》津《つ》国(兵庫県)伊《い》丹《たみ》の人。芭《ば》蕉《しよう》より十数年の後輩。「まことの外に俳諧なし」とする誠の説で有名である。自然界の見たままを平明率直に詠《よ》むことが物の本質に達する本道だと考えた。口語調の句が多いのもその現れだろう。しかし、たえがたい暑さをいうのに「石の塵」を持ってきたのは、単なる平明な描写などということでは説明がつかない非凡さである。「そよりともせいで秋立つ事かいの」「冬はまた夏がましじやといひにけり」なども著名。
鬼貫の父宗次は酒造業を営み、屋号を油屋といった。鬼貫は八歳の時、「こい〓〓こいといへど蛍が飛んで行く」と詠んだといわれるが、後年の作風を思い合わせると興味深いエピソードである。
(『仏兄七久留万』)
物《もの》申《まう》の声に物着る暑さ哉《かな》
横《よこ》井《い》也《や》有《ゆう》
也有は江戸中期の俳人。名古屋の人で尾《お》張《わり》藩の重臣だった。隠居後は多趣味な風流人の文人として生きた。俳文集『鶉《うずら》衣《ごろも》』は江戸随筆代表作の一つとして有名である。「物申」は訪問者が門口で案内を乞《こ》う声。暑い暑いと裸になってぐったりしている所へ「ごめん」と声。仕方なく身じまいを整えていそいで出る。着物をきるのを「物着る」と、やや投げやりに言ったのが、物《もの》憂《う》い感じを出して効《き》いている。
也有は実に勤勉な人だった。儒学を修める一方、俳諧・俳文・和歌・漢詩、さらには狂歌にも熟達し、他方絵画も修めていた。武芸のたしなみもあったという。しかし中でも彼の名を有名にしたのは『鶉衣』に代表される俳文で、かつては旧制高校でも大学でも、受験の際には読むべき必須の文章の一つだった。
(『蘿窓集』)
濁《にご》り江の泡《あわ》に皺《しわ》よる暑《あつさ》かな
高《たか》井《い》几《き》董《とう》
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》の愛《まな》弟《で》子《し》。篤《とく》実《じつ》な人柄で、多くの編著がある。師の幅広い多力ぶりには及ばぬが、的確な観察にもとづく繊《せん》細《さい》でうるおいある句風は、彼を中興期俳壇の魅力ある存在たらしめた。夏の日の濁り江、ぶくりぶくりと浮く泡に埃《ほこり》がついて、薄皮のように皺がよっている。別に、ひどい暑熱のために皺がよったわけではない。泡に皺がよってるのを見ているうち、逆に暑熱の実感が急に強まったのだ。
几董は父几《き》圭《けい》について俳諧を学び、三十歳の時蕪村の門人となった。きわめて熱心で、入門数年後には蕪村門の重要な撰集『其雪影』を撰し、他にも『明《あけ》烏《がらす》』『続明烏』など、蕪村七部集を構成する重要な編著を多く著した。同時に酒徒としても名高かった。
(『近世俳句俳文集』)
乳《う》母《ば》車《ぐるま》夏の怒《ど》濤《たう》によこむきに
橋《はし》本《もと》多《た》佳《か》子《こ》
夏の怒濤がうち寄せる海岸の砂浜、乳母車が波に向かって横向きに置かれている。乳母車の中の幼児は怒濤を飽《あ》きることなく上機《き》嫌《げん》で眺《なが》めているのかもしれない。しかし、この乳母車の位置やおかれ方には、人をはっとさせる危《あや》うさがある。作者の視線の感じとった不安が、「よこむきに」の一語にさりげなく、しかし正確に定着される。幼い命を容《い》れている乳母車と、迫る怒濤。作者の意図をたぶん超《こ》えて深く読みこまれる類の句だろう。
橋本多佳子は昭和三十八年(一九六三)六十四歳で没した東京生まれの俳人。最初杉田久《ひさ》女《じよ》に師事し、のち山口誓《せい》子《し》について対象を鋭《するど》く即物的にとらえる方法を学んだ。
(『紅糸』)
青うみにまかゞやく日や。とほ〓〓どほし
妣《ハハ》が国べゆ 舟かへるらし
釈《しやく》迢《ちよう》空《くう》
釈迢空は独創的な研究で古代学に貢献した国文学者・民俗学者折《おり》口《くち》信《しの》夫《ぶ》の、歌人としての筆名。しばしば離島や山間を探訪し、村人の民俗的風習・言葉などを採集して歩いた。初期には旅中吟《ぎん》に秀作が多いのはそのためもある。迢空を旅へ誘《さそ》うものの根底には古代へのつよい情熱が一貫して流れていて、その情熱が時空を超《こ》えた深い詩《し》魂《こん》となって迢空の歌に息づいた。右の歌は大正元年(一九一二)八月、教え子の中学生二人を連れての奥《おく》熊《くま》野《の》の旅の作。句読点をうち字間をあける独特な四句語形によって、南国のはてに日本人の原郷を夢見る朗々たる歌だが、調《しら》べには浪《ろう》漫《まん》的なあこがれと寂《せき》 寥《りよう》が漂《ただよ》う。
(『海やまのあひだ』)
向日葵《 ひ ま は り》は金の油を身にあびて
ゆらりと高し日のちひささよ
前《まえ》田《だ》夕《ゆう》暮《ぐれ》
夕暮は明治四十四年(一九一一)「詩歌」を創刊、自然主義短歌を唱《とな》えて若山牧《ぼく》水《すい》とともに明治末期歌壇に一時代を画したが、大正へ入るや、一転このように対象のもつ生命感を鮮《あざ》やかに描くことに力を傾《かたむ》けるようになる。「金の油を身にあびて」には、太陽さえ小さく見えるほどの盛んな花の命への讃《さん》歌《か》がある。
昭和三年(一九二八)休止していた「詩歌」を復刊し、新感覚派風の口語自由律短歌を提唱、たとえば「冬が来た。白い樹《き》樹《ぎ》の光を体のうちに蓄積しておいて、夜《よる》ふかく眠る」のような方法で歌を詠《よ》んだ。戦時下に定型歌に復帰、病没(昭和二十六年)の時まで、平明で向日的な歌風をつらぬいた。
(『生くる日に』)
行きなやむ牛のあゆみにたつ塵《ちり》の
風さへあつき夏の小《を》車《ぐるま》
藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》
「小車」はここでは牛《ぎつ》車《しや》のこと。牛にひかせる乗用の屋《や》形《かた》車《ぐるま》だろうか。炎天に、人はもちろん牛まで、あえぎつつのろのろと歩む。その足もとから乾《かわ》いた塵ほこりが舞いたつ。風がたてば涼しいはずなのに、塵をまきあげる炎天の風はかえって暑苦しさを増す。抜群の美意識を駆使して耽《たん》美《び》的な歌にかずかずの秀歌を残した定家に、このような素《す》直《なお》といっていいほどの作があるのは印象的である。京都盆地の夏の暑さは、現在も昔もそれほど変わっていなかろう。
定家は、勅《ちよく》撰《せん》和歌集『新《しん》古《こ》今《きん》集《しゆう》』の撰《せん》者《じや》の一人で、また『小《お》倉《ぐら》百《ひやく》人《にん》一《いつ》首《しゆ》』を撰したことで親しまれている鎌倉前期の大歌人。
(『玉葉集』)
冷《ひや》されて牛の貫《くわん》禄《ろく》しづかなり
秋《あき》元《もと》不《ふ》死《じ》男《お》
「牛洗う・牛冷す」は夏の季題。炎天下の労働を終えた牛を夕方水につからせて疲労を回復させる。静かに、堂々と冷やされている牛。「貫禄」の一語が牛の描写を見《み》事《ごと》に成しとげている。
秋元不死男は、昭和五十二年(一九七七)七十五歳で没した横浜生まれの俳人。旧号 東《ひがし》 京《きよう》三《ぞう》。新興俳句運動の中心作家の一人で、論・作両面で活躍した。しかし昭和十六年、いわゆる俳句事件により検挙拘《こう》禁《きん》、二年間拘置生活。主に俳句リアリズム論の筆《ひつ》禍《か》といわれる。戦後は現代俳句協会、俳人協会などの幹事をつとめ、数種の歳時記の編集など、啓《けい》蒙《もう》の面にも功績があった。
(『万座』)
かもめ来《こ》よ天《てん》金《きん》の書をひらくたび
三《みつ》橋《はし》敏《とし》雄《お》
洋綴《と》じ本で、本を立てたときに上になる部分(天)に金《きん》箔《ぱく》を貼《は》りつける製本様式がある。「天金」はそれを指す。愛蔵版によく使われる。まっさらな天金の本を開く時は、パリパリと音まで立ってちょっと胸がときめくものである。これが少年時代の体験であればなおさら。この句は作者が新興俳句に開眼して句を作りはじめた少年期、昭和十二年(一九三七)の作という。無季の句だが、海風がきらきら光って本の上を渡るような、さわやかな感傷がある。新興俳句はいわば都市文明の反映である。「ホトトギス」の花鳥諷詠に対抗して半《なか》ば自然発生的に生じ、俳壇の新進たちの間に広まった。
(『まぼろしの鱶』)
角《つの》上《あ》げて牛《うし》人を見る夏野かな
松《まつ》岡《おか》青《せい》蘿《ら》
青蘿は、江戸中期のいわゆる中興俳諧の一人。江戸詰めの姫《ひめ》路《じ》藩士の家に生まれ、青年期まで江戸で育つ。二十三歳の時、賭《と》博《ばく》などで不行跡を重ねて藩を追われ、各地を歴遊、ついに俳人として大家になる。
青蘿は芭《ば》蕉《しよう》の顕彰に力をつくし、明和五年(一七六八)播《はり》磨《ま》国明《あか》石《し》に蛸壺塚を築き、記念の俳諧撰集『蛸壺塚』を編んだ。これは明石の人丸社前に芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」の句を埋めて蛸壺塚を建て、記念の集を編んだもの。
勢いよく草木の茂《しげ》る夏野を歩いていると、牛が静かに草をはんでいるのに出会った。急に角をあげて牛がじっとこちらを見る。「角上げて牛人を見る」というのはよく見る情景だが、「夏野かな」と言い据《す》えた表現が面白い。なるほどこれは夏野だと直覚させられる。
(『青蘿発句集』)
茱《ぐ》萸《み》の葉の白くひかれる渚《なぎさ》みち
牛ひとつゐて海に向き立つ
古《こ》泉《いずみ》千《ち》樫《かし》
千樫は、昭和二年(一九二七)四十二歳で没した千葉県生まれの歌人。「アララギ」草創期の主要同人だった。写生を信条とするが、対象のたたずまいがおのずと作者自身の気分を表すような詠《よ》みぶりに特徴がある。「牛ひとつゐて海に向き立つ」にもそれがある。洗ってやるためであろうか、浜べに連れられてきている牛。ぽつんと立っている。無心そのものにみえる。それが寂しげにも見え、いとしくも思える。
千樫の歌でよく知られている歌の一つに、「うつし世のはかなしごとにほれぼれと遊びしことも過ぎにけらしも」(『川のほとり』)がある。大正十三年(一九二四)喀血して病床にあり、死を思うことの多かったころの深い嘆きである。「はかなしごと」の中には、秘めごとにしていた恋などもあっただろう。
(『川のほとり』)
牽《ひ》き入れて馬と涼むや川の中
吉《きつ》川《かわ》五《ご》明《めい》
五明は江戸後期の俳人。秋田の富商。若くして俳諧を好んだというが、青年時代、芭《ば》蕉《しよう》一門の撰集『猿《さる》蓑《みの》』を読んで発奮、秋田地方に芭蕉の遺風を再興すべく尽力した。田園詩人のおもむきある句が多い。日ごろ見なれた風物を、張りのある描写で切れ味よく詠《よ》む。夕暮れ、馬を涼ませるため川へひき入れる男。当人も馬に寄り添って一緒に川中にたたずんでいる。
五明の旧姓は那波。京都の商人那波祐洋が秋田藩主の招きによって秋田に移住したのである。五明はやがて秋田藩御用商人吉川惣右衛門の養子となって商業に従事したが、四十八歳の時、隠《いん》居《きよ》し、俳諧に専念した。与謝蕪《ぶ》村《そん》と親交を結び、句も蕪村の感化を受けているとされる。
(『近代俳句俳文集』)
水《みず》塩《しお》の点《てん》滴《てき》天《てん》地《ち》力合《あわ》せ
沢《さわ》木《き》欣《きん》一《いち》
昭和三十年代、いわゆる社会性俳句論議の中心部にいた作者が、能《の》登《と》の原始的な揚《あげ》浜《はま》式塩田を訪れての作。なぎさ近くの塩田に海水をまき、炎天の陽にさらす。単調な重労働をくりかえすうちに塩水はしだいに濃くなる。これが水塩。それを鉄のかまにためて煮つめ、塩を得る。したたる水塩のしずくは辛《しん》酸《さん》の結晶。一滴一滴に天地が力を合わせているのが感じられたのだ。
沢木欣一の同世代には、戦後になって俳句界の中心的俳人・俳論家になっていく人々が集中していた。森澄《すみ》雄《お》、金子兜《とう》太《た》、安東次男、西垣脩《しゆう》、原《はら》子《こ》公《こう》平《へい》、石原八《や》束《つか》などで、干《え》支《と》でいうと大正八年(一九一九)の未《ひつじ》年《どし》生まれの人が多い。その一年後には飯田龍太もいて、この年代はいわゆる戦中派の短詩型に示す活力をよく示している。
(『塩田』)
夏河に光を見せて飛ぶ魚の
音するかたに月はすみけり
上《うえ》田《だ》秋《あき》成《なり》
秋成といえば『雨《う》月《げつ》物語』があまりにも有名だが、彼はまた江戸時代を通じて最も興趣豊かな歌人の一人だった。小説家・学者・批評家としての当代屈指の多面的な才が、歌ごころを殺さず、かえって感興の自由な羽ばたきを助けた。細《こま》やかな観察を心のはずみに乗せて詩に高めることの大切さを深く知っていた人だ。「夕されば蛙なくなり飛鳥《あすか》川《がは》瀬々ふむ石のころび声して」。
面白いことに、秋成は和歌を作る時、冬季の歌を最も得意としていたように思われる。彼自身の性格が決して円満な人柄ではなかったらしいこととも釣り合っていたのかもしれない。「霙ふり夜のふけゆけば有馬山井出湯の室に人の音《と》もせぬ」。
(『つづらぶみ』)
大《おほ》魚《な》釣る相模の海の夕なぎに
乱れて出《い》づる海《あ》士《ま》小《を》舟《ぶね》かも
賀《か》茂《もの》真《ま》淵《ぶち》
門弟村田春《しゆん》海《かい》が編み、寛政三年(一七九一)に成立した『賀茂翁家集』巻二に、「釣舟」と題して収める。「大魚」はマグロ、カツオの類だろう。それを釣るため、夕なぎの相模《さがみ》の海に小舟が入り乱れて出ている情景。国学者真淵には自然界の大景を詠《よ》んだ気分のいい歌が少なからずあり、これもその秀作の一つと言ってよかろう。「大魚釣る」という初句の勇壮さに「乱れて出づる」の勢いのよさが呼応して、漁船の群れに目をみはる心躍りをよく表現している。
真淵は本《もと》居《おり》宣《のり》長《なが》と並んで、江戸中期以降の国学者中最大の存在だったことはいうまでもないが、歌の実作者としては、その自由な詠風において宣長よりも一歩も二歩も先を歩いていた。
(『賀茂翁家集』)
夏深み入江のはちすさきにけり
浪にうたひてすぐる舟人
藤《ふじ》原《わらの》良《よし》経《つね》
関白藤原兼《かね》実《ざね》の子良経は『新古今集』撰者の一人。年若くして大《だい》政《じよう》大《だい》臣《じん》となった博学多才の貴公子。和歌を藤原俊《しゆん》成《ぜい》・定家父子に学び、彼らの御《み》子《こ》左《ひだり》家《け》の有力な支援者だった。後《ご》鳥《と》羽《ば》天皇の信任厚く、新古今歌壇を隆盛にみちびいたが、三十八歳で急逝した。歌には孤《こ》愁《しゆう》の影がある。しかし右の舟人の描き方にもみられるように、生得の澄明感、のびやかさをもった歌人だった。
良経が急逝したことについては、暗殺されたという説もある。政界最有力の家柄に生まれた人の悲運ということは、十分に考えられることかもしれない。良経の歌に常に流れている孤独感と清澄な印象は、一層その感を深める。
(『秋篠月清集』)
真《ま》帆《ほ》ひきてよせくる船に月照れり
楽しくぞあらむその船《ふな》人《びと》は
田《た》安《やす》宗《むね》武《たけ》
田安宗武は江戸中期、八代将軍吉《よし》宗《むね》の次男として生まれ、十七歳のとき田安家を立てた人。早くから古典を学び、荷《か》田《だの》在《あり》満《まろ》や賀《か》茂《もの》真《ま》淵《ぶち》を迎えて『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』『新《しん》古《こ》今《きん》集《しゆう》』などを学び、かつ論じた。歌人として当時の歌壇に出色の大らかな詠《えい》風《ふう》をもっていた。
これは夏の隅《すみ》田《だ》川べり、佃《つくだ》島《じま》の実景を詠《よ》んだ歌。「真帆」は正面に向けて張った帆。「ひきて」は張って。「よせくる船」は近づく船。帆を張って近づいてくる船に折しも月が照りはえて、船人たちはさぞうれしいことだろうというのだ。「ひき」と「よせ」を自然に導き出している語感もさわやかである。
(『天降言』)
夏の海水兵ひとり紛失す
渡《わた》辺《なべ》白《はく》泉《せん》
昭和四十四年(一九六九)五十五歳で死去した白泉は、社会的現実を俳句形式によって内面化し、端的にその本質を表現しようと努めた、昭和十年代前半の無季新興俳句運動の代表俳人。昭和十九年、応召して水兵となり、監視艇隊母艦勤務となった。当時の句には厳《きび》しい軍律下の水兵生活が、仮《か》借《しやく》ない非情な簡潔さで詠《よ》まれている。この句もそのひとつ。訓練の厳しさに耐えきれず洋上で逃亡したのか、水兵が一人消えたのである。「紛失す」は意識的にえらばれた言葉で、用語そのものによって、人も物品も同じ扱いを受ける軍隊というものの非情さをえぐっている。「戦争が廊下の奥に立つてゐた」も有名。
(『白泉句集』)
夏山や一足づつに海見ゆる
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
享和三年(一八〇三)五月末、当時江戸住まいの一茶が、上総《かずさ》国(千葉)の木《き》更《さら》津《づ》に船で渡り、滞在した時の作。山深い信州生まれの彼は海に憧《あこが》れていた。同地で詠《よ》んだ「亡き母や海見るたびに見るたびに」には、その憧れの根が語られているようだ。海は彼を幼童の世界に連れ戻す。夏山を一歩一歩あがるにつれ、一歩一歩広がる海よ。「づつ」であって「ごと」でないあたり、見るべき表現上の工夫だろう。
一茶は、たとえば故郷信濃に帰っていた時に父の死に遭遇し、その時の記録がこまやかな看病日誌『父の終《しゆう》焉《えん》日誌』として残っているが、それを見ても、親への孝養の気持ちが人一倍強かったことがわかる。放浪の生活が長かった人だけに、親思いの気持ちも強かっただろう。
(『享和句帖』)
夏山の大《たい》木《ぼく》倒す谺《こだま》かな
内《ない》藤《とう》鳴《めい》雪《せつ》
鳴雪は、弘化四年(一八四七)松山藩士の長男として江戸に生まれ、大正十五年(一九二六)没した俳人。文部省の役人をつとめたが病気退職、旧藩主の依嘱で松山出身学生の宿舎「常盤《ときわ》会」の舎監となり、そこの舎生だった正岡子《し》規《き》と知り会った。俳句を自分よりも年少の子規に学び、たちまち子規派の重鎮となる。句はやや古風だが風格がある。この句に説明は要るまい。言葉はあくまで安らかに、迫ってくる力はさわやかである。
子規が「常盤会」宿舎の舎生として入舎してきた時、舎監として統率していた鳴雪はすでに四十六歳だった。彼は蕉《しよう》門《もん》連句の最高峰たる『猿《さる》蓑《みの》』を熟読しており、そのため子規たちの間にあってたちまち風格ある作者としての位置を得たのだった。和漢の学に通じ、つねに独自の見識によって尊敬された。
(『鳴雪句集』)
虚《むな》国《ぐに》の尻《しり》無《なし》川や夏《なつ》霞《がすみ》
芝《しば》 不《ふ》器《き》男《お》
不器男は大学生時代の望郷の句、「あなたなる夜《よ》雨《さめ》の葛《くず》のあなたかな」で高浜虚《きよ》子《し》に賞讃されたが、昭和五年(一九三〇)二十六歳で病没。俳壇を彗《すい》星《せい》のごとく横切った俳人と惜しまれた。作品わずか二百句ほど。中に珠《しゆ》 玉《ぎよく》 作を数多く持つ。
この句は日光中禅寺湖北方の乾《かん》燥《そう》湿《しつ》原《げん》である戦場ケ原を旅行したときのものである。「虚国(ムナグニ)」はまた「空国」、やせた不毛な地をいう。そのような原野を流れる川は川で、いつのまにか先が消えてしまう尻無川。あたり一面夏霞が茫《ぼう》々《ぼう》とかかって。句全体に一種の虚無感が漂《ただよ》い、時間を超《こ》えて古代世界に誘《さそ》われるような情緒の感じられる句である。
(『不器男句集』)
鼻の穴涼しく睡《ねむ》る女かな
日《ひ》野《の》草《そう》城《じよう》
草城は中学五年(現在の高二)の時から「ホトトギス」に投句し、二十一歳で巻頭をとったほどの早熟の才だった。この句も初期作品だが、対象把《は》握《あく》の即物的かつ感覚的間《ま》合《あ》いのよさは抜群である。
多分昼寝しているのだろう。女の健康な軽い寝息まで聞こえてきそうな夏の午後の静けさ。一見簡単に詠《よ》んでいるようだが、こういう端的にさわやかな印象の句は意外なほど少ない。戦後は眼《がん》疾《しつ》をはじめ病《やまい》に苦しんだ。「夏蒲《ぶ》団《とん》ふはりとかゝる骨の上」。早熟をうたわれた才が生きることの苦《く》渋《じゆう》を詠んでおのずと晩年の心境詩を生んでいる。
(『青芝』)
夕すゞみあぶなき石にのぼりけり
志《し》太《だ》野《や》坡《ば》
野坡は芭《ば》蕉《しよう》門人。福井に生まれ、江戸に出て両替店越《えち》後《ご》屋《や》の番頭となった。元禄七年(一六九四)、蕉門俳諧最後の段階でしきりに話題となっていた「軽み」の代表選集とされる『炭俵』を孤《こ》屋《おく》、利《り》牛《ぎゆう》と共編した。右の句などにも軽みの感じが出ている。水辺に涼を求める人が、川中の石にひょいと乗った。ただそれだけだが、「あぶなき石」という語が、句に生き生きした動きを与え、夕涼みの連れ同士の楽しいさざめきの空気まで伝わってくる。
近世俳諧は松尾芭蕉で一頂点を極めた。芭蕉が五十歳そこそこで没すると、一門の人々もしだいに離れ離れになってゆく。地方行脚に精を出す人々も多く、中でも支《し》考《こう》は有名だが、この野坡も、商用で出張したことが最初だったろうが、九州にひんぱんに出かけて多くの弟子を得たのをはじめ、九州、中国、そして終《つい》の棲《すみ》家《か》となった大坂など、西国各地で大きな影響を及ぼした。
(『炭俵』)
頭の中で白い夏《なつ》野《の》となつてゐる
高《たか》屋《や》窓《そう》秋《しゆう》
「頭」は五七五に則して読めばヅとなる所で、そう読む説もあったが、作者自身はアタマとしてこれを詠んだという。句の中心は「白い夏野」の影像にあるから、初《しよ》五《ご》をヅという音読みで重くすることはありえなかった。昭和七年(一九三二)、水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》の愛《まな》弟《で》子《し》だった作者が作ったこの句は、俳句革新をこころざす若き俳人たちに、客観写生・花鳥諷詠とは違う行き方の可能性を開いたとされ、窓秋初期の代表作として喧《けん》伝《でん》された歴史的な意味をもつ句。
窓秋は石橋辰《たつ》之《の》助《すけ》、石田波《は》郷《きよう》とともに、秋桜子の主宰する「馬《あ》酔《し》木《び》」の三《さん》羽《ば》烏《がらす》として活躍し、秋桜子が提唱した連作俳句にも新しい境地を開いた。時々作句を断って沈黙してしまうという癖があったが、昭和十年に「馬酔木」を去り、句作も断った後、同十二年、書き下ろし句集『河』によって新興俳句作家として鮮《あざや》かに復活するなど、印象の強い俳人だった。
(『白い夏野』)
篁《たかむら》の竹のなみたち奥ふかく
ほのかなる世はありにけるかも
中《なか》村《むら》三《さぶ》郎《ろう》
作者は長崎生まれの歌人。若山牧《ぼく》水《すい》に師事し、その歌誌「創作」の花形的存在だったが、大正十一年(一九二二)三十二歳で若死にした。近年、全歌集が編まれた。作者は次に掲げる京《きよう》極《ごく》為《ため》兼《かね》の竹林の歌を目にしていたかどうかわからないが、両方の歌とも、竹林の閑寂な幽《ゆう》静《せい》境《きよう》をうたった忘れがたい秀歌だと感じられる。
この歌は大正七年、二十八歳の時の作。「なみたち」は並み立ち。下句の「ほのかなる世」がまことに麗しい。
(『中村三郎集』)
枝にもるあさひのかげのすくなきに
すずしさふかき竹の奥かな
京《きよう》極《ごく》為《ため》兼《かね》
為兼は藤原定《てい》家《か》の曾《そう》孫《そん》で、鎌倉時代末期を代表する歌人。『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』尊重を説き、世に玉《ぎよく》葉《よう》・風《ふう》雅《が》時代とよばれる和歌の新風を興した。伏《ふし》見《み》天皇の信任を得、持《じ》明《みよう》院《いん》統《とう》・京極派のなかで主導的立場にたつ。しかし政治的な面でも硬骨の主張をもって画策することが多く、二度にわたって配《はい》流《る》の身となった。『玉葉集』は伏見上皇の命で彼が編んだ勅《ちよく》撰《せん》集《しゆう》で、彼自身や伏見院の他に永《えい》福《ふく》門《もん》院《いん》の作も有名。こまやかで清新な自然描写に秀《ひい》でた作風は、続く『風雅集』にも受け継《つ》がれ、和歌史上独自の地位をしめる。右の歌も観察がよくきいた実感尊重の作で、夏の竹林の幽《ゆう》静《せい》境《きよう》を気持ちよくとらえている。「かげ」は光。
(『玉葉集』)
湧《わ》きいづる泉の水の盛りあがり
くづるとすれやなほ盛りあがる
窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》
信州の松本在に生まれた空穂は、高等小学校時代、二里ほど離れた松本市の、早い時期に建てられた洋風建築で名高い開智学校に通《かよ》った。その通学の途中に広い柳原があり、奥に泉が湧いていた。少年は夏の日、泉のほとりの青草に寝そべり、ごぼごぼと湧きやまぬ泉の語る言葉なき言葉に魅《み》せられて、時の経《た》つのも忘れることが多かった。この歌はその思い出を後年になって詠《よ》んだものだが、そのかみの泉は、この歌の中で作者がこの世を去った今も、湧きつづけている。
空穂は、九十年の生《しよう》涯《がい》に十九冊の主要歌集を編み、『万葉集』『古《こ》今《きん》集《しゆう》』『新古今集』全評釈の偉業を残した。
(『泉のほとり』)
ただ一つ松の木《こ》の間《ま》に白きもの
われを涼しと膝《ひざ》抱《いだ》き居《を》り
長《なが》塚《つか》 節《たかし》
節は、明治十二年(一八七九)茨城県生まれ、大正四年(一九一五)没の歌人。正岡子《し》規《き》門。喉《こう》頭《とう》結《けつ》核《かく》で夭《よう》折《せつ》した。右の歌は晩年の大作「鍼《はり》の如く」の一首で、大正三年七月、福岡の九大付属病院(病没の地)に入院中の作。病院裏には美しい松林があって海に続いていた。白い浴衣《ゆかた》を着て一人松林を歩み、砂に坐《すわ》って膝を抱く涼しさ。自分自身を「白きもの」と客観的に見て微笑する心のゆとりが、節の歌の気品を生んだ。
節の愛誦される歌には、共通して音調のすばらしさがある。「白《しら》埴《はに》の瓶《かめ》こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり」「馬《うま》追《お》虫《ひ》の髭《ひげ》のそよろに来る秋はまなこを閉《と》ぢて思ひみるべし」「芋《いも》の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ子《こ》芋《いも》は白く凝《こ》りつつあらむ」。
(『長塚節歌集』)
涼しさはあたらし畳《たたみ》青《あを》簾《すだれ》
妻子の留守にひとり見る月
唐《から》 衣《ころも》 橘《きつ》 洲《しゆう》
作者は天明狂歌の創始者。田安家に仕える下級の幕臣で、四《よつ》谷《や》に住んでいた。和歌の教養が深く、技巧は堂に入っていたが、おっとりした性格で、当時の狂歌界最大の存在だった四《よ》方《もの》赤《あか》良《ら》(大《おお》田《た》南《なん》畝《ぽ》)の奔《ほん》放《ぽう》華《か》麗《れい》、人気抜群の作風とは対照的だった。
新しい畳に青すだれのさっぱりした部屋で、月を見上げたらさぞ涼しかろう。しかも妻子が留守なら、涼しさもひとしおだよ、と。笑いに実感がこもる所、現代にも通じそうで、妙。
(『鶯蛙集』)
ゆふだちの雲飛びわくる白《しら》鷺《さぎ》の
つばさにかけて晴るる日の影
花《はな》園《ぞの》院《いん》
花園院は、第九十五代天皇。皇統が分裂対立し、まもなく吉野朝が開かれる混乱の時期だが、花園院は学問を愛し、儒仏の教えに深い識見をもち、特に禅宗を深く学んだ。和歌を当時の第一人者京《きよう》極《ごく》為《ため》兼《かね》に教わり、深味のある歌を作っている。
夕立は去ったが、まだ雲は低迷している。それを押しわけるように白鷺が飛ぶ。太陽の光は鷺の翼に直として達している。夕立に洗われただけ、天地は一層明るい。
(『風雅集』)
泉への道後《おく》れゆく安けさよ
石《いし》田《だ》波《は》郷《きよう》
暑い日ざしの中を歩いてきて、泉に近づく。連れは思わず足を早めて泉に急ぐ。その後姿を見ながら、ゆっくり歩いて行く。言葉では言いあらわせないような安らぎが身内に湧《わ》いているのを感じながら。清《せい》冽《れつ》な水の湧いている泉に先についた人々のはしゃぎぶりをも感じとりつつひとり同じ道をたどることには、現在という時間の充実した味わい方があるともいえよう。長い闘病生活をおくった作者の、命へのいとおしみが暖かく伝わる。
大正二年(一九一三)松山に生まれた波郷は戦後まもなく結核の成形手術を受け、闘病生活の後、昭和四十四年(一九六九)死去した。昭和時代を代表する俳人の一人である。
(『春嵐』)
滝の上に水現れて落ちにけり
後《ご》藤《とう》夜《や》半《はん》
大きな滝を仰ぎ見る時、滝水はたしかにこの句のように落ちてくる。見上げ、見下ろし、また上を仰ぐと水は限りなく「現れて」、限りなく落ちてくる。一瞬の休みもなく現われて落ちつづける。自然を見つめ、その一瞬をとって永遠をのぞきみたような句である。「上」は「エ」でなく「ウエ」と読む。大阪の箕《みの》面《お》自然公園の滝を詠《よ》んだというこの句は、虚《きよ》子《し》選の新日本名勝俳句の一つに選ばれ、客観写生句の代表的なものとされた。しかし、この作品に特定の滝を想定する必要はないだろう。水量のある滝はすべてこの句のように落ちてくる。
(『翠黛』)
祖《そ》母《ぼ》山《さん》も傾《かたむく》山《さん》も夕《ゆ》立《だち》かな
山《やま》口《ぐち》青《せい》邨《そん》
青邨は、若いころから「ホトトギス」を愛読したが、最初は句よりも写生文に興味があったと述懐している。昭和初期以来、俳人としてぐんぐん頭角を現わした。右の句は代表作として名高い。祖母山は大分・熊本・宮崎三県の堺にどっしりとそびえる。傾山はその東側に前山として立ち、やや傾いた形をしている。この二つの山をすっぽり包むようにして降る盛んな夕《ゆう》立《だち》。むろん作者が山を眺《なが》めている場所にも夕立は降っているのだろう。二つの印象的な山の名の響《ひび》きを「ユダチかな」が勢いよく受けとめる。地名をほめる句の秀《しゆう》逸《いつ》。
(『雑草園』)
雨のあしなびきて見ゆる雲《くも》間《ま》より
懸《か》け渡したる虹《にじ》のはしかな
木《きの》下《した》幸《たか》文《ふみ》
江戸後期の文《ぶん》政《せい》四年(一八二一)四十歳そこそこで夭《よう》折《せつ》した歌人。備《びつ》中《ちゆう》(岡山)出身。京都に出て香《か》川《がわ》景《かげ》樹《き》に入門し、同門の熊《くま》谷《がい》直《なお》好《よし》とともに桂《けい》園《えん》門下(景樹の門下をいう)の逸《いつ》材《ざい》として知られた。家集『亮《さや》々《さや》遺《い》稿《こう》』に収めた「貧《ひん》窮《きゆう》百首」は生活苦を歌ったとしてよく知られるが、歌人としての本領は、むしろこの歌のような清新で生気ある自然詠《えい》にあった。
夏の昼の雨が降りやむ寸前の景。雨《あま》脚《あし》はまだ風になびいているのに、空ではもう雲が切れ、虹の橋が雲間に立つ。描写的に空間を大きくとらえる方法は、すでに近代写生の出発を告げるものといっていいだろう。
(『亮々遺稿』)
霧ふかき積石《ケルン》に触《ふ》るるさびしさよ
石《いし》橋《ばし》辰《たつ》之《の》助《すけ》
辰之助は、昭和二十三年(一九四八)四十歳で没した東京下《した》谷《や》生まれの俳人。新橋演舞場や日活に照明技師として勤めた。句は水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》門、のち新興俳句運動に転じて弾圧検挙され、五年間作品活動を禁止された。第一句集『山行』で、山岳俳句開拓者という名声を得る。多くの山の句の中でも、「朝焼の雲海尾根を溢《あふ》れ落つ」はよく知られるが、どれをとっても、登山にうちこむ山男でなければつかめない世界があるのが独自だ。他にも山岳俳句のよく知られた作に次のような句がある。
「岩灼くるにほひに耐へて登《ザ》山《イ》綱《ル》負ふ」。
(『山行』)
炎《えん》天《てん》の遠き帆やわが心の帆
山《やま》口《ぐち》誓《せい》子《し》
誓子は、明治三十四年(一九〇一)京都に生まれ、平成六年(一九九四)九十四歳で没した。見方によって青年のあこがれ心を詠《よ》んだ青春の句とも、孤独な心境を遠い白帆に託した述懐の句とも読める。俳句という短詩は作者の真意を露《ろ》骨《こつ》に告げず、ふしぎに美しい、時を超え心理を超えた世界を示すことがある、この句のように。実際には終戦一週間後の昭和二十年(一九四五)八月二十二日の作。誓子は伊《い》勢《せ》の海辺に病を養っていた。だから、一見希望に胸ふくらませる青年が作ったといっても不思議ではない句でも、内実をかえりみるなら、むしろその逆の内容をはらんでいるかもしれない複雑さが、誓子俳句にはあるのである。これはむしろ、落《らく》魄《はく》といえば一番近いだろうような心境から生まれた切実な思いの句だろう。
(『遠星』)
すゞしさや朝草門《も》ンに荷《にな》ひ込《こむ》
野《の》沢《ざわ》凡《ぼん》兆《ちよう》
『芭《ば》蕉《しよう》七部集』中『猿《さる》蓑《みの》』の「夏」に収める。蕉《しよう》門《もん》の逸《いつ》材《ざい》で、『猿蓑』は去《きよ》来《らい》と凡兆の共編だった。「渡りかけて藻《も》の花のぞく流れ哉《かな》」「門前の小《こ》家《いへ》も遊ぶ冬《とう》至《じ》哉」など、当時芭蕉門下で抜《ばつ》群《ぐん》に精彩があった印象鮮明な句の作者。「すずしさ」は夏の季題。農家が馬の飼料などにするため早朝に刈りとった草が「朝草」である。それをきびきびと門内にかつぎこむ姿に、夏の朝のさわやかな気分が活写されている。
凡兆は後に罪を得て入牢するという変事に見舞われた。まもなく赦《しや》免《めん》されたが、蕉門の人々との交わりもとだえた。もっとも、晩年あらためて俳諧に戻ったが、もはや『猿蓑』時代のおどろくべき新鮮な作風は失われていた。まことに惜しい才能だった。
(『猿蓑』)
向日葵《 ひ ま は り》の大声で立つ枯れて尚《なほ》
秋《あき》元《もと》不《ふ》死《じ》男《お》
昭和二十八年(一九五三)作。同じ年にヒマワリの句がもう一句ある。「世過ぎの道を俳句に求む」と前《まえ》書《がき》して、「向日葵の金の雨だれ終りしよ」と。戦争中のいわゆる俳句事件による二年間の投獄も含め、波乱多い前半生を送った作者が、齢《よわい》五十を過ぎて後半生の生計の道を俳句に求めることを決心した時、この花が自らの心境の象徴であるかのように詠《よ》まれたのである。すでに花の盛りを過ぎたヒマワリが、枯れてもなお「大声で」立っている姿。そこにはもちろん人生の一つの姿が詠まれている。壮年期の不死男の句は、その意味ではさらりと読みすごすことを許さない頑強さを持っているといえる。失われてしまったものへの深い愛惜の思いも底流にはある。
(『万座』)
虹《にじ》自身時間はありと思ひけり
阿《あ》部《べ》青《せい》鞋《あい》
虹を詠《よ》んだ句は多いが、この句のようなものはおそらく他に類例がなかろう。これは虹が一定の時間空にとどまっているという事実を、虹の立場で詠んだというような句ではない。虹という現象は、大気中に浮遊している水滴に日光があたり、光が分散しておきるもの。虹はいわば「虚」の現象である。その虹自身が時について思考するというのである。光が生み出した虚の現象なる虹、はかなく消える宿命にある束《つか》のまの虹、それが時間を思考し、「時間」は実在すると思っているおもしろさ。
作者は大正三年(一九一四)東京生まれの俳人。
(『火門集』)
七月や雨《あま》脚《あし》を見て門《も》司《じ》にあり
藤《ふじ》田《た》湘《しよう》子《し》
一読して何のあいまいさもなく了解される句である。しかし、句の背景をなす情緒の中身については、読者の側でさまざまに空想できるふくらみがある。たとえば作者名を消し、人物を女性だと想像したら、急な夕立の雨脚を見ている情感には別な映像が結びつくだろう。出会い、別れ、若い人、老いた人、あるいはごく日常的なすれ違いなど、さまざまな人生模様が想像出来そうである。
短詩型では、常に「何を詠《よ》むか」と同時に「何を詠まないか」の選択が決め手となる。この句は明《めい》瞭《りよう》な事実だけを詠んであとは読者の想像にまかせている。思い切りよく捨てて広がりを取ったのだ。
(『狩人』)
夏《なつ》 祭《まつり》
平安時代に祭と言えば、京都の賀《か》茂《もの》祭 《まつり》(葵《あおい》祭・北《きたの》祭《まつり》・賀茂葵などとも)のことだった。俳句の季語の「祭」は夏祭をさすが、元来夏祭は春秋の農耕行事の収穫に直接関わる神事ではなく、夏に多い災害や疫《えき》病《びよう》を祓《はら》おうとするところから起ったようである。それが全国的に広まると、その土地土地の季節的条件と年中行事、農村の水《すい》神《じん》信仰などが結び合さって、神《み》輿《こし》や山《だ》車《し》、祭太《だい》鼓《こ》といったにぎやかなものが夏祭の中心に据《す》えられていった。
酔 《よ》ひ 臥 《ふ》し て 一 村 起 き ぬ 祭 か な
炭《たん》 太《たい》祇《ぎ》
菅 原 や 御 《み》輿 《こし》太 鼓 の 夜 の 音
上《うえ》島《じま》鬼《おに》貫《つら》
宵 《よひ》に 睡 《ね》て 又 目 の 醒 《さ》め し 祭 か な
中《なか》村《むら》草《くさ》田《た》男《お》
概して夏祭は勇壮である。東北の短い夏にも仙台の七《たな》夕《ばた》祭《まつり》、青森・弘《ひろ》前《さき》のねぶた(ねぷた)祭、秋田の竿《かん》灯《とう》など有名である。仙台の七夕祭が現在のような市をあげての祭になったのは戦後のことであろうが、もとは伊《だ》達《て》政《まさ》宗《むね》の時代にお盆を迎える行事として始まったというから、やはり年中行事が最初だっただろう。ねぶた祭や竿灯などは、七夕の眠り流しからきているので、睡《すい》魔《ま》を払う、あるいは藁《わら》でつくった船《ふな》形《がた》や灯《とう》籠《ろう》などを川や海に流して悪《あく》霊《りよう》を追い払うという意味をもっていた。武《む》者《しや》人《にん》形《ぎよう》の灯籠をかかげて笛や太鼓で練《ね》り歩く現在の祭にも、力強さによって疫病や災害を祓おうとした名《な》残《ご》りが感じられる。
このような夏祭の、五穀の生産暦とは無縁ないわゆる都市型の祭礼の華《はな》やかさは、江戸の山《さん》王《のう》権《ごん》現《げん》(日《ひ》吉《え》神社)と神《かん》田《だ》明《みよう》神《じん》(神田神社)の祭にその典型が見られる。この二神社の祭は天下祭とよばれて、幕府公認の祭事だった。今の日本橋の川《かわ》筋《すじ》がひとつの境になっていたという両神社の氏《うじ》子《こ》たちは、出し物に妍《けん》を競《きそ》っていった。当番町にあたった町内では、舞《ぶ》台《たい》や練りものを工《く》夫《ふう》し、金に糸目をつけぬ勢いで新奇な趣向を編み出してはお上《かみ》の褒《ほ》め言葉を得ることを栄誉としたため、江戸の祭は、また風流と粋《いき》を競う場ともなっていった。
花 す ゝ き 大 《だい》名 《みやう》衆 《しゆう》を 祭 り か な
服《はつ》部《とり》嵐《らん》雪《せつ》
神 《かん》田 《だ》川 《がは》祭 の 中 を な が れ け り
久《く》保《ぼ》田《た》万《まん》太《た》郎《ろう》
嵐雪は江戸湯島の生まれ、万太郎は東京浅草の生まれだった。
浅草といえば三《さん》社《じや》祭。この祭が来て東京は夏になるといわれる。浅《せん》草《そう》寺《じ》(浅草神社)の縁《えん》起《ぎ》は古く、本《ほん》尊《ぞん》観《かん》音《のん》が宮戸川(現在の隅田川)で漁《りよう》師《し》に拾われたのは推《すい》古《こ》朝《ちよう》のことだという。三社とはその時の漁師、浜《はま》成《なり》・武《たけ》成《なり》兄弟と土《は》師《じの》直《あたい》 中《なか》知《とも》をいう。この観音の出現により、武蔵《 む さ し》野《の》の片隅だった江戸湾近くの寒村が次第に江戸の盛り場として、人の通《かよ》うところとなっていったのだという。
三 社 ま つ り 山 王 ま つ り と も に 雨
室《むろ》積《づみ》徂《そ》春《しゆん》
せっかく山《だ》車《し》や御《み》輿《こし》を飾《かざ》ったのに、江戸っ子の舌うちが聞こえてきそうである。
親しみ深い信仰の対象というと、夏祭ではないが稲荷《いなり》信仰が浮かんでくる。稲荷信仰は京都伏《ふし》見《み》稲荷大社を中心にしたもので、古代には秦《はた》氏がつかさどり、のち真言宗と結びついて東寺の鎮《ちん》守《じゆ》になったことから飛躍的に発展し、各地に分《ぶん》祀《し》されていった。各地に祀《まつ》られている稲荷神社は伏見稲荷を迎え祀ったものと、田の神の使いとしての狐《きつね》、あるいは狐そのものに対する信仰が稲荷という名称をもってしまったものと両方あるようである。
は つ む ま に 狐 の そ り し 頭 か な
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
初 《はつ》午 《うま》や 霞 《かすみ》へ だ て て 深 《ふか》草 《くさ》野 《の》
高《たか》井《い》几《き》董《とう》
庶民の夏にかかせない行事に縁《えん》日《にち》があることを忘れては片手落ちである。縁日は夏とは限らないが、やはり縁日の情緒は夏のものだろう。都市生活にともない、江戸中期以降、日中勤務する商人や職人にとって夜の市《いち》は憩《いこ》いの場で、参《さん》詣《けい》によるご利《り》益《やく》と市の立つにぎわいは、庶民の夢と実用が重なっていた。たとえば七月十日に観音に参詣すれば四万六千日分の参詣に相当するということと、市で楽しみながら生活必需品などを買ってくるということは、まことに一挙両得という感があっただろう。
朝 顔 を 見 に し の ゝ め の 人 通 り
久《く》保《ぼ》田《た》万《まん》太《た》郎《ろう》
夫 婦 ら し 酸 《ほほ》漿 《づき》市 《いち》の 戻 り ら し
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
夏の夜の路《ろ》傍《ぼう》に、アセチレンガスを灯《つ》けて、飴《あめ》や綿《わた》菓《が》子《し》、小さな動物、草花、金魚などを売っていた夜《よ》店《みせ》は懐《なつ》かしい風物詩である。夕食後家族揃《そろ》って夕涼みをかねて出掛けた思い出を持つ人は多いだろう。
はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は をゆび の うれ に ほの しらす らし
会《あい》津《づ》八《や》一《いち》
「南《なん》京《きよう》」は北の京都に対して奈良を指していった。「をゆび」は小指。「うれ」は末端。み仏は胸元にお置きになっている小指の先で、さわやかな初夏の風になったことをほのかにお感じになっているようだ。総ひらがなの表記法をとったこの歌を口ずさむと、作者がいわば言葉によってひたと寄り添《そ》おうとしている仏の温《おん》容《よう》、その慈《じ》愛《あい》にみちたたたずまいがおのずと浮かびあがってくるようである。
八一は美術史家、書家としてもすぐれた足跡を残したが、彼の歌も美術史も書も、古都奈良への深い愛を核として育《はぐ》くまれたものだった。
(『南京新唱』)
若葉して御《おん》目《め》の雫《しづく》拭《ぬぐ》はばや
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
芭蕉は貞享五年(一六八八)の関西への旅中、奈良の唐《とう》招《しよう》提《だい》寺《じ》で開祖鑑《がん》真《じん》和上の座像(現国宝)を拝した。唐から来朝した鑑真が想像を絶する苦難に耐え、ついには潮風のため失明までした事蹟は、芭蕉の心に深くしみた。暗い開山堂で仰ぐ盲目の上人像は、涙を宿しているように見えた。折《おり》しも一面の若葉。ああこの若葉で、柔かに御目を拭ってさしあげたいと、その思いをそのまま吟《ぎん》じた。「して」は「でもって」の意。
(『笈の小文』)
鎌倉や御《み》仏《ほとけ》なれど釈《しや》迦《か》牟《む》尼《に》は
美男におはす夏《なつ》木《こ》立《だち》かな
与《よ》謝《さ》野《の》晶《あき》子《こ》
明治三十三年(一九〇〇)発刊の「明《みよう》星《じよう》」第二号から短歌を発表した晶子は、三十四年、身ひとつで堺《さかい》から上京し、熱愛する師与謝野鉄《てつ》幹《かん》と結婚した。世間的常識をはるかに超《こ》えて思う所を貫《つらぬ》いた人である。この歌は発表当時、尊い大仏を美男よばわりしたと、伊《い》藤《とう》左《さ》千《ち》夫《お》らに痛《つう》罵《ば》された。しかし古来日本の詩文には仏の目鼻だちの麗《うる》わしさをたたえたものは数多く、非難は当らない。晶子の歌には、そのような儒教的道徳観に基《もとづ》く謹《きん》厳《げん》主義では律《りつ》しきれない庶民感覚がいきいきとはたらいている。ただし、鎌倉の大仏は釈迦ではなく阿《あ》弥《み》陀《だ》仏《ぶつ》で、晶子も後年誤りに気づいたが、歌は変えなかった。
(『恋衣』)
田《た》中《なか》の井戸に 光れる田《た》水《な》葱《ぎ》 摘《つ》め摘め吾《あ》子《こ》女《め》
小《こ》吾《あ》子《こ》女《め》 たたりらり 田中の小吾子女
催《さい》馬《ば》楽《ら》
『催馬楽』は、奈良時代からの民間風俗歌謡を平安初期に宮廷音楽として雅《が》楽《がく》化した歌謡で、平安貴族に愛唱された。歌詞にひなびたものが多いのはそのためである。「田《た》水《な》葱《ぎ》」は田に生えるナギで、ミズアオイの古名。昔は葉を摘《つ》んで食用にした。「タナカ」と「タナギ」。「ツメツメ」と「アコメ」など響《ひび》き合う言葉によって音の効果を強めている。「吾子女」「小吾子女」は少女に親しくよびかける言葉。「たたりらり」ははやしことば。
田んぼの水に、タナギが光る。摘め摘め小むすめ、ひゃらりひゃらり、田んぼの小むすめたちよ、タナギをお摘みよ。
鮎《あゆ》くれてよらで過《すぎ》行《ゆく》夜《よ》半《は》の門《もん》
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
夏の夜ふけ、釣り帰りの友人が門《かど》口《ぐち》に立寄った。鮎をみやげに置いて、そのまま立ち去った。飄《ひよう》然《ぜん》と来て飄然と去った友のあとには、川の香《か》も新鮮な鮎だけが残っている。あがりこんで釣りの自慢話を長々としてゆくような友人ではない。淡々として床《ゆか》しい。友情のひとつの理想の形があるのではなかろうか。
俳《はい》諧《かい》師《し》としての名声はむろんだが、画家としても池《いけの》大《たい》雅《が》と並び称された蕪村は、古来中国の詩画に多くとられている主題、俗にあって俗を離れる生き方に共鳴するところ大であった。唯《ゆい》美《び》的、浪《ろう》漫《まん》的といわれる蕪村俳句の、心ばえを重んじる考え方がおのずとにじみ出た句ともいえよう。
(『蕪村句集』)
いざのぼれ嵯《さ》峨《が》の鮎《あゆ》食《く》ひに都《みやこ》鳥《どり》
安《やす》原《はら》貞《てい》室《しつ》
貞室は江戸前期、松《まつ》永《なが》貞《てい》徳《とく》門の俳《はい》諧《かい》師《し》。通称鎰《かぎ》屋《や》彦《ひこ》左《ざ》衛《え》門《もん》、京都の紙商だった。右の句の前《まえ》書《がき》に「京で親友だったがその後長らく武蔵《 む さ し》の国に移住した友が、隅《すみ》田《だ》川を見せようと誘《さそ》いの手紙をくれたので、京から出かけて」という説明がある。隅田川の都鳥(ユリカモメ)は、古くから和歌、物語、歌謡などで有名である。その都鳥に自分の友を見立てて、誘ってくれたことへのお礼の気持ちと、自分の側からの誘いを、当意即妙に詠《えい》じたもの。ありがとう、隅田川はすばらしかった。さあ今度は京の名物、嵯峨の鮎を食いに、君が上京する番だよ、都鳥君。
(『一本草』)
汀《なぎさ》にはいれば足にさはる鮎《あゆ》のやさしさ
滝《たき》井《い》孝《こう》作《さく》
明治二十七年(一八九四)高山市生まれの作家。少年時代河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》の新傾向句に刺《し》戟《げき》され俳句に熱中、自由律俳人となった。俳号折《せつ》柴《さい》。小説に転じて『無限抱《ほう》擁《よう》』を書く。この句の収められた『浮寝鳥』はその後の句を集め、多くは定型句だが、中に右のような自由律句もまじる。鮎が実際に足にふれるというより、気分を主とした句だろう。夏の川の感触がやさしく伝わってくるが、もしこれが定型句だったらと考えてみると面白い。自由律が微妙に生きている。
滝井孝作の祖父は大工の棟梁、父は大工から指物師になった人。孝作は十三歳のとき母を失い、魚問屋に丁《でつ》稚《ち》奉公をした。同時にこのころ、隣家の青年より、はじめて俳句を教わった。こういう家系と境遇が、のちに孝作を作家たらしめ、また俳人たらしめた原動力だった。後年志賀直哉に師事し、最も身近かに志賀に接した人の一人となった。
(『浮寝鳥』)
山の色釣り上げし鮎《あゆ》に動くかな
原《はら》 石《せき》鼎《てい》
清流に鮎を釣る人。釣りあげた魚が糸の先で躍《おど》る瞬間、眼前の山の色がゆらりと動くのを感じたのである。作者はこの句を得たころ吉《よし》野《の》に住んでいた。こういう句を見ると、俳句という詩型が、その短さゆえにかえって大きな事象をとらえることを時に可能にするという事実の面白さにうたれずにはいられない。たかが鮎一尾のひらめきに、「山の色」まで「動く」。心理的にはまさに真実であろう。
当時の石鼎の句は、「頂上や殊《こと》に野菊の吹かれ居り」「花影婆《ば》娑《さ》と踏むべくありぬ岨《そま》の月」のように、吉野の風物を自《じ》家《か》薬《やく》籠《ろう》中《ちゆう》のものとした観のある颯《さつ》爽《そう》たる作風だった。「深《み》吉《よし》野《の》の石鼎」と喧《けん》伝《でん》されたのも当然だった。彼は少年期から絵を描くのも好きだったようだが、外界のとらえ方のあざやかさに、そういう素質が生きている。
(『花影』)
松《まつ》浦《ら》川《がは》川の瀬《せ》光り鮎《あゆ》釣ると
立たせる妹《いも》が裳《も》の裾《すそ》濡《ぬ》れぬ
大《おお》伴《ともの》旅《たび》人《と》
奈良朝初期、九州大《だ》宰《ざい》府《ふ》の長官だった旅人は、下《か》僚《りよう》の山《やまの》上《うえの》憶《おく》良《ら》とともに当時における最先端の新風、つまり中国趣味の歌を集中的につくった。それは歌を単なる愛情の表現や悲《ひ》哀《あい》の吐《と》露《ろ》ではなく、同心の者たちと共に作り、鑑賞し、批評し得るものととらえた和歌観を示していた。そこには後世の俳《はい》諧《かい》師《し》のいう「連《れん》衆《じゆ》」の心にも通じる態度が見られる。
右の歌(憶良説もあるが)は、中国の神《しん》仙《せん》思想に刺《し》戟《げき》された発想から、自分を一人の旅びとに見立て、川で鮎を釣る仙女のような乙《おと》女《め》たちと出逢う一種小説風な構《かま》えの「松浦川に遊ぶ」一連の一首。文芸を創作する意識の萌《ほう》芽《が》がうかがわれる。
(『万葉集』)
淀《よど》河《がは》の底の深きに鮎《あゆ》の子の 鵜《う》といふ鳥に背《せ》中《なか》食はれてきり〓〓きりめく 可憐《いとを》しや
梁《りよう》塵《じん》秘《ひ》抄《しよう》
『梁塵秘抄』は平安期、後《ご》白《しら》河《かわ》法《ほう》皇《おう》によって編まれた今《いま》様《よう》歌謡。鵜《う》飼《かい》の情景だろう。鮎が鵜のくちばしを逃《のが》れようと身もだえしてはねるさまを、「きりきりめく」と形容しているところなど、まことに生《せい》彩《さい》ある表現だ。淀川べりの港には遊女たちが群らがってたむろした。この歌はそういう女たちの愛《あい》誦《しよう》した歌だったのかもしれない。鵜につかまってきりきりめいている鮎の子に、なにがしか彼女たち自身の運命も重なって見えてくる感がある。作者不明の流行歌謡は、作者が不明なだけにかえってあわれ深い場合がある。これもその一つである。
鵜《う》飼《かひ》舟《ぶね》高《たか》瀬《せ》さしこすほどなれや
むすぼほれゆくかがり火の影
寂《じやく》蓮《れん》法《ほう》師《し》
寂蓮は鎌倉前期の歌人で新《しん》古《こ》今《きん》時代を代表する詠《よ》み手の一人。俗名は藤《ふじ》原《わらの》定《さだ》長《なが》。藤原俊《しゆん》成《ぜい》の甥《おい》で、俊成の子定《てい》家《か》の出生以前には、一時俊成の養子になっていたこともあった。
「高瀬」は波立つ川の浅瀬。そこを棹《さお》さし越える時、舟は揺れる。それにつれて、舟のかがり火も揺れてもつれる。つまり「むすぼほる」わけである。ああ、あれは今、川中の高瀬を乗り越えている所だな、というわけだ。歌は写生的だが、一種しみじみした人生的な味わいがあり、読みくだした感じは幽《ゆう》暗《あん》。「むすぼほれゆく」の表現に、心理的な含みが同時にあるためである。
(『新古今集』)
鵜《う》の面《つら》に川波かかる火《ほ》影《かげ》かな
高《たか》桑《くわ》闌《らん》更《こう》
かがり火のはぜる川《かわ》面《も》。鵜《う》匠《しよう》のかけ声とともにせわしく動く鵜の顔に飛び散る川波。川波は鵜とたたかい、火は闇《やみ》とたわむれる。平明だが余《よ》韻《いん》の残る姿の句である。
江戸時代中期、蕉《しよう》風《ふう》復興を共通の旗《はた》印《じるし》に、蕪《ぶ》村《そん》をはじめ、多くの俳人が各地で個性的な活躍をした。金沢の商家出身の闌更もその一人だった。各地を経《へ》めぐった後京都に住み、芭《ば》蕉《しよう》生前の貞《じよう》享《きよう》・元《げん》禄《ろく》期に確立された蕉風の復興をめざし、芭蕉の評註や書簡をあつめた『花の故《ふる》事《ごと》』ほか、多数の蕉門関係書を刊行して蕉風復興につくした。
(『半化坊発句集』)
緋《ひ》目《め》高《だか》のかがやけるむくろ掌《て》にかこひ
嘆《たん》美《び》して低し少年の声
服《はつ》部《とり》直《なお》人《と》
直人は、明治四十年(一九〇七)東京に生まれ、昭和五十四年(一九七九)七十一歳で没した歌人。父親は明治の和歌革新運動に活躍した服部躬《もと》治《はる》。緋色の目高は観賞用の変種として作られた目高である。子どもがかわいがっていたのに死んでしまった緋目高。その死体を大事にてのひらにのせて、少年は輝かしい色を保っている死体にうっとりと見入る。美しい物となってしまった命を見るおののき、それを知った少年は、心奪われて何ごとか低く嘆声を発するばかりである。
(『動物聚落』)
水《みづ》鉢《ばち》にすゞしくもりの下《した》陰《かげ》は
人の目につくところてん見《み》世《せ》
峯《みねの》 松《まつ》風《かぜ》
江戸後期の天明五年(一七八五)、当時人気抜群の狂歌師四《よ》方《もの》赤《あか》良《ら》すなわち大田蜀《しよく》山《さん》人《じん》の編で刊行された狂歌集『徳和歌後万載集』に所収。この歌は木陰で店を開いているトコロテン(心太)屋を詠《よ》む。「もりの」は「盛りの」と「森の」の両義に使われ、「ところ」も「所」と「ところてん」に掛かる。水鉢に涼しく心太《ところてん》を盛って、森の下陰の、何となく涼しげに人目をひく所で店を開いている心太屋の店先よ。江戸の夏の風情を狂歌に盛る。
(『徳和歌後万載集』)
ところてん煙の如《ごと》く沈み居《を》り
日《ひ》野《の》草《そう》城《じよう》
京大在学中の大正十一年(一九二二)夏の作。草城の俳句の盟友の鈴《すず》鹿《か》野《の》風《ぶ》呂《ろ》は、たずねてきた草城がまだところてんを知らないというので、家人に作らせて味わい、互いにこれを題に作句したところ、草城がほんの十分ほどで二十句ばかり作ってみせたと驚嘆して書いている。中での絶品がこの句。草城初期の傑作である。「煙の如く」とはまさに言い得て妙。物を見て間《かん》髪《はつ》を入れず気体(煙)を思う連想の精度が抜《ばつ》群《ぐん》なのである。
草城は京大時代は、もう「ホトトギス」雑詠欄で巻頭を占めるという輝かしい実績をもっていた。しかし昭和初年代の新興俳句の気運の中で、草城も関西にあって新興俳句を推進、「十七音の詩が俳句である」と主張し、季語から離脱する方向へ進んだ。昭和十一年(一九三六)、吉岡禅《ぜん》寺《じ》洞《どう》・杉田久《ひさ》女《じよ》とともに「ホトトギス」同人を除籍されたのもそのためである。
(『花氷』)
美しき緑走れり夏料理
星《ほし》野《の》立《たつ》子《こ》
目に涼しく、味はさっぱりとした夏料理。その外見の印象をとらえて、のびのびと本質をすくいとっている感のある句だ。素《す》直《なお》でやわらかな感受性が自然に対象をとらえて独特の明るさを生んでいる。
明治三十六年(一九〇三)東京に生まれ、昭和五十九年(一九八四)に没した星野立子は、高浜虚《きよ》子《し》の次女で、天性ののびやかな才は時に父を欣《きん》喜《き》させた。「文学界」の後援者星野天《てん》知《ち》の子息吉《よし》人《と》と結婚。ホトトギスの「婦人俳句会」で中村汀《てい》女《じよ》とともに活躍した。父虚子の支援のもとに女流俳誌「玉《たま》藻《も》」を昭和五年創刊主《しゆ》宰《さい》した。「一せいに橡《とち》の若葉の吹かれたる」。
(『立子句集』)
神《かん》田《だ》川《がは》祭の中をながれけり
久《く》保《ぼ》田《た》万《まん》太《た》郎《ろう》
神田川は江戸川の下流で、御茶ノ水、柳橋を通って隅《すみ》田《だ》川に合流する。東京の人にはなじみ深い川。この句は前《まえ》書《がき》に、島崎藤《とう》村《そん》の『生《お》ひたちの記』に描かれた新片町(柳町)の祭礼に想を触発されたと記《しる》しているが、句そのものには、そんな動機に限定されない広がりがあるのがめでたい。「祭の中をながれけり」と、すっきり刈《か》りこまれた言葉が、かえって多くの思いを誘《さそ》い出す。
東京浅草に生まれた万太郎は、小説家・劇作家であると同時に、俳誌「春《しゆん》燈《とう》」を主《しゆ》宰《さい》する俳人であった。抒《じよ》 情《じよう》的で独自な句風は下町の情趣を品よく伝え、作家の余技の域をはるかに超《こ》えていた。
(『道芝』)
鬼《ほほ》灯《づき》市《いち》夕風のたつところかな
岸《きし》田《だ》稚《ち》魚《ぎよ》
東京の浅草観音境《けい》内《だい》で七月九・十両日開かれる市が鬼灯市。俗《ぞつ》間《かん》、この日に参《さん》詣《けい》すると四万六千日の功《く》徳《どく》があると言われる。境内を埋めて立つ店では、厄《やく》除《よ》け、夏負け除け、子供の虫《むし》封《ふう》じ、女の癪《しやく》に利《き》くという鬼灯や風《ふう》鈴《りん》が売られている。店々に吊《つ》るされた風鈴の響《ひび》きは夏の夕暮れの雑《ざつ》踏《とう》をさざ波のように涼しく渡る。その情景をとらえて「夕風のたつところ」とした表現に、発見と工《く》夫《ふう》がある。それは作者がこの鬼灯と風鈴のさざめきそのものの中に、いわばもう一つの「夕風」を感じとったところで発見された表現といえる。東京に生まれ育った人があらためて故郷に挨《あい》拶《さつ》した感がある句。
(『筍流し』)
涼《すず》風《かぜ》の曲《まが》りくねつて来たりけり
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
前《まえ》書《がき》に「裏《うら》店《だな》に住《すま》居《い》して」とある。信《しな》濃《の》・柏《かしわ》原《ばら》の農家の長男として生まれた作者が、長い江戸住まいをたたんで、信濃に帰ったのち、江戸の流《る》浪《ろう》生活を回想して詠《よ》んだ句である。むしむしと暑い日本の夏には、涼風ほどうれしいものはない。しかし小さな家の密集している裏長屋では、風さえすっと真《まつ》直《す》ぐには入ってこない。涼風が「曲りくねつて」来るという表現には、単に風の通る道をいうだけではなく、一茶のたどらねばならなかった苦労の多い半生の屈折した心理も仄《ほの》見える。しかし、この句、「兎《うさぎ》小屋」などとよばれる家に住む現代の都会生活者にも共感を呼ぶところがあるだろう。
(『七番日記』)
金《きん》魚《ぎよ》売《うり》買《か》へずに囲《かこ》む子に優《やさ》し
吉《よし》屋《や》信《のぶ》子《こ》
吉屋信子は明治二十九年(一八九六)新潟生まれ、昭和四十八年(一九七三)没の小説家。少女小説で登場、女性の生き方をめぐる数々の話題作で一大人気作家となった。俳歴も長く、俳句関係の著書もある。没後、『吉屋信子句集』(昭和四十九年)が刊行された。
夏ともなれば、金魚売が路《ろ》地《じ》にやってきて荷をおろす。子供らがどっと取り囲む。買う子はいなくとも、おじさんは追い払ったりはしない。のんびりと金魚の説明などもして。近い昔の、過ぎ去った懐《なつ》かしい暮らし。
(『吉屋信子句集』)
水に入るごとくに蚊《か》帳《や》をくぐりけり
三《み》好《よし》達《たつ》治《じ》
詩人三好達治は中学時代から作句し、繁《はん》閑《かん》の差はあっても生《しよう》涯《がい》句を作った。第一詩集『測量船』では、散文詩の中に俳句を挿《そう》入《にゆう》するなど、スタイルの上でも新しい試みをしていた。右の句、切りつめた平明な表現の中に、幼少年時までさかのぼりうるような皮膚感覚を鮮《あざ》やかにすくいとっている。蚊帳の涼味とそれに触《ふ》れた感触は、まさしく「水に入るごとく」だったことを読者も思い出す。俳句のみならず、短歌や漢詩に対する関心も並《なみ》々《なみ》でなく、『測量船』巻頭を飾《かざ》った短歌形式の二行詩、「春の岬《みさき》旅のをはりの鴎《かもめ》どり/浮きつつ遠くなりにけるかも」など、とくによく知られている。
(『柿の花』)
《かや》に寝てまた睡《すい》蓮《れん》の閉《と》づる夢
赤《あか》尾《お》兜《とう》子《し》
兜子は、昭和三十年代にはいわゆる前衛俳句の関西を代表する俳人だった。「音楽漂《ただよ》う岸侵しゆく蛇の飢」「轢《れき》死《し》者《しや》の直前葡萄透《す》きとおる」などの句が当時の句集にあって、鋭《するど》い影像喚《かん》起《き》力の持主であることを示している。その素質が十代の青年期からのものだったことを示すのが、この「に寝て」の句である。十八歳当時の作だという。作者は十六歳から作句したが、この句に対してはいわば公式の処女作といった扱いを与えていた。一見優雅な夢想をえがいているようだが、内実はむしろ戦時下日本の外的現実に対する拒絶として、内向的な孤独世界を築いていたのだとみられる。
(『稚年記』)
日のあたる夢をよく見る氷《ひ》室《むろ》守《もり》
武《む》玉《たま》川《がわ》
氷屋さんも冷蔵庫もなかった昔は、氷を夏まで貯蔵しておくために特別の室を作らねばならなかった。それが氷室。陰暦六月一日、氷は宮中に献じられた。江戸幕府のころは、「お氷の日」ともなると、登城して氷を頂いた当主は大急ぎで帰宅。邸中大騒ぎして氷の一かけらを頬《ほお》ばったものらしい。氷室を守る番人が氷室守。お役目柄とはいえ「日のあたる夢をよく見る」には、どこか切ない現実感がある。同時に、一種ふしぎな詩美もある。氷室というものがあり、そこに氷室守という職業の人がいて番をしていたような時代でなければ、こういう詩句はあまり想像され得ず、まして書かれることもなかっただろう。
白《しろ》団《うちは》となりの羲《ぎ》之《し》にかゝれたり
大《おお》伴《とも》大《おお》江《え》丸《まる》
大江丸は江戸後期の俳人。本名は安井政胤、通称善兵衛。多くの号を持つが、大伴大江丸が最もよく知られている。大伴の浦の近くに住んでいたところからついた号。大坂に飛《ひ》脚《きやく》問屋を営み、六十年間に東海道を往復すること七十回余り。家業のための旅が俳《はい》諧《かい》をも養ったわけで、各地の俳人・画人との交際も広かった。長命で晩年隠居後は句に専念、古典のもじりや口語調に特色を発揮した。
「羲之」は有名な書家王羲之。せっかく白うちわを新調したのに、我こそは書の名人と筆自慢の隣人が、得意になってそれに一筆ふるってしまったのだ。怒るにも怒れぬ微苦笑。
(『はいかい袋』)
夕がほや物をかり合ふ壁のやれ
堀《ほり》 麦《ばく》水《すい》
麦水は金沢の人。芭《ば》蕉《しよう》没後、弟子の支《し》考《こう》、麦《ばく》林《りん》らが平《へい》談《だん》俗《ぞく》話《わ》的な俳諧を唱導し、各地に大いに普及させた。麦水もその影響を受けたが、やがて疑問をもつにいたり、蕉風確立期のきびしさにもう一度帰ることを主張して革新の論陣を張った。彼は『虚《みなし》栗《ぐり》』が芭蕉における蕉風開眼の書であることを主張、そこにこそ蕉風の神《しん》髄《ずい》があったとして、自分の門人たちのみならず、蕪《ぶ》村《そん》、几《き》董《とう》、大《たい》魯《ろ》その他の作をも含めた撰集『新虚栗』を編み、天明俳壇革新の口火を切ったのである。
「やれ」は破れた所。夏の夕暮れ、夕顔が白い花を咲かせている長屋だろう。隣同士足りないものを借り合うなごやかな暮らし。へだての壁の崩れも暮らしと共に古びていて。
(『落葉かく』)
一《ひと》竿《さを》は死《しに》装《しやう》束《ぞく》や土《ど》用《よう》ぼし
森《もり》川《かわ》許《きよ》六《りく》
許六は、芭《ば》蕉《しよう》門弟のうち武家出身者の代表格。祖父の代から彦根井《い》伊《い》藩に武芸指《し》南《なん》役《やく》として仕《つか》え、宝蔵院流の槍《やり》を得意とした。三十歳前後に相次いで肉親を失い、心のよりどころを芭蕉俳《はい》諧《かい》に見出し、その閑《かん》寂《じやく》な美にひかれていったらしい。教養豊かで重厚な人柄だったと思われる。俳諧をめぐる著作も多い。
土用干しの衣服の中に一竿分、純白の死装束がかかっていたのである。前《まえ》書《がき》に、八十過ぎた老祖父が、子孫の繁栄を見るにつけこの幸せのまま早く死にたいものだと口ぐせにおっしゃる、とある。日常の生活様式の中にも死生観が自然に脈うっていた時代の心を、期せずして鮮《あざ》やかに示している。
(『芭蕉名家句集』)
朝《あさ》倉《くら》や 木の丸《まろ》殿《どの》に 我が居《を》れば 我が居れば 名《な》宣《の》りをしつつ 行くは誰《たれ》
神楽《かぐら》歌《うた》
「朝倉」は斉《さい》明《めい》天皇が新羅《しらぎ》遠征時に行《あん》宮《ぐう》を設けた筑《ちく》前《ぜん》国(福岡県)朝倉郡の地名。「木の丸殿」は皮もはがないままの丸木造りの宮殿。「名宣り」は宿直《とのい》に出仕した役人が自分の氏名を名のって通ることで、名《な》対《だい》面《めん》といった。これは古代の宮中行事の一情景をうたった珍《めずら》しい題材の歌謡である。「朝倉」「木の丸殿」などの語感の新鮮さと、名のって通る習慣が古代にもあったという物珍しさが、謡《うた》いものとしての魅力になっている。なおこの歌は『新《しん》古《こ》今《きん》集《しゆう》』では天《てん》智《ち》天皇御《ぎよ》製《せい》として次のような短歌形式になっている。「朝倉やきのまろどのにわがをればなのりをしつゝ行くはたがこぞ」。
故郷の電車今も西日に頭《あたま》振《ふ》る
平《ひら》畑《はた》静《せい》塔《とう》
静塔は、明治三十八年(一九〇五)和歌山市生まれの俳人、精神科医。昭和初期のいわゆる新興俳句運動に参加し、理論面でも中心的存在の一人だった。この句は戦後二十九年の作で「望郷」と前《まえ》書《がき》がある。がたがたと頭を振って懸命に走る市内電車は、故郷を離れて久しい人の望郷の思いの中で、生きもののように懐《なつ》かしい情景なのだ。季語の「西日」と「頭振る」という表現の結びつきが面白い。「西日」は、実際には四季すべてにあるわけだが、特に夏の季語としたのは、強烈な光と暑気のためだろう。ことに盛夏から晩夏にかけて、さえぎるもののない西日は、炎暑の夕暮れを代弁する。
(『月下の俘虜』)
かんがへて飲みはじめたる一合の
二合の酒の夏のゆふぐれ
若《わか》山《やま》牧《ぼく》水《すい》
牧水は恋と旅と酒の歌でこよなく愛《あい》誦《しよう》される歌人らしく、十五冊の歌集約七千首中に三百余首の酒の歌がある。数が多いだけでなく、彼の酒の歌は早くから老成した風《ふう》貌《ぼう》をもっていた。「白《しら》玉《たま》の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」という有名な歌も、ここに掲《かか》げた歌も、いずれも二十代半ばすぎに詠《よ》んだものである。これはかなり驚くべきことといってよい。というのも、牧水の歌は本質的に独《どく》酌《しやく》の歌だと感じられるからである。賑《にぎ》やかな酒は少なく、しんと一人、まるで酒そのものとさしつさされつしているような歌ばかり。
(『死か芸術か』)
真《ま》処《をと》女《め》や西《すい》瓜《くわ》を喰《は》めば鋼《はがね》の香《か》
津《つ》田《だ》清《きよ》子《こ》
清子は大正九年(一九二〇)奈良県生まれの俳人。橋本多《た》佳《か》子《こ》、山口誓《せい》子《し》に師事した。それ以前には、昭和十九年(一九四四)ごろに前川佐《さ》美《み》雄《お》について短歌を学んだという。俳句を始めて三年後には誓子門の天《てん》狼《ろう》賞を受けた。当時、教職のかたわら俳句にのみ没頭していた、とみずから述懐している。「真処女や」の強い詠嘆があって、結句「鋼の香」がよく響《ひび》いた。現実に西瓜に鋼の香がするかどうかという問題ではない。作者にとっては、若さの張りをどう表現するかが眼《がん》目《もく》だったのである。
(『礼拝』)
茄《な》子《す》煮るや気付けばしんと巴《パ》里《リ》なりき
小《こ》池《いけ》文《ふみ》子《こ》
大正九年(一九二〇)東京生まれ、パリ在住の俳人。俳名は旧姓で、現在はフミコ・ペロニー夫人。石田波《は》郷《きよう》に学ぶ。パリに留学した最初の夫を追って昭和三十二年(一九五七)渡仏したが同地で離婚、のちパリで再婚して現姓となる。パリ大学文学部東アジア科日本科講師をつとめ、また俳句を通じて日仏交流に大いに活動している。再婚したペロニー氏も、日本文学の翻訳などで活躍する。
句はパリ到着後日も浅いころの作。馴《な》れぬ異郷で悲しみを胸に持って生きる女性の寂しさが「気付けばしんと」に静かに溢《あふ》れている。煮ものも時に深い寂《せき》寥《りよう》を映す鏡となる。
(『巴里蕭条』)
夏の夜のこれは奢《おごり》ぞあら莚《むしろ》
広《ひろ》瀬《せ》惟《い》然《ぜん》
芭《ば》蕉《しよう》門人。美《み》濃《の》国関《せき》生まれ。元禄元年(一六八八)、美濃国岐《ぎ》阜《ふ》を訪問した芭蕉に会い、そこで入門した。以後元禄七年十月十二日、芭蕉が旅先の大坂で没するまで、諸所で芭蕉に随伴した。物に執着せず、行雲流水の生活で奇行が多かったが、芭蕉に愛された。句も人柄そのまま軽妙洒《しや》脱《だつ》で、芭蕉没後さかんに口語調や無季句も試みた。
右の句は、芭蕉入門後まもないころの作で、奈良に旅寝したころ、大智院の孫七なる男の好意で小屋に寝させてもらって、と前《まえ》書《がき》する句。「あら莚」は荒莚。編み目のあらい莚で、夏の暑い夜だからかえってさっぱりした感触を与えたであろう。「これは奢ぞ」の口語調が一句の命。調べの大切さを示す句である。芭蕉没後の口語調の句には、「水鳥やむかふの岸へつうい〓〓つうい」など。
(『近世俳句集』)
石《いは》麿《まろ》にわれ物《もの》申《まを》す夏《なつ》痩《やせ》に
良《よ》しといふ物そ鰻《むなぎ》取り食《め》せ
大《おお》伴《ともの》家《やか》持《もち》
二首連作のうちの一首。原作の註によると、家持の知合いにあだ名を石麿という人がいた。人格者だったがひどくやせていて、いくら食べても飢《う》えやつれてみえた。そこで戯《たわむ》れにこの歌を作ってからかったと。『万葉集』の特に巻十六に収められている機知と諧《かい》謔《ぎやく》の歌のうち、対人的な笑いの代表的なものとしてよく知られている歌である。ウナギが夏やせに効《き》くという考えは、じつに天《てん》平《ぴよう》の昔からあったわけである。家持の『万葉集』所載の歌は、長歌四六、短歌四三二、旋《せ》頭《どう》歌《か》一、計四七九首と、他の作者たちにくらべ、群を抜いて多いが、それらの歌の中には憂《ゆう》愁《しゆう》の詩人家持、繊《せん》細《さい》で過敏性の詩人家持、雄《お》々《お》しい詩人家持と共に、こんな諧謔の詩人もいた。
(『万葉集』)
夏の夜《よ》や崩《くづれ》て明《あけ》し冷《ひや》し物
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
『続猿《さる》蓑《みの》』の歌仙「夏の夜の巻」発句。近江の門人曲《きよく》翠《すい》邸の納《のう》涼《りよう》の宴に招かれた時の作。師弟総勢五人、深夜まで歓を尽くした翌日の作で、これを発句に一同歌仙を巻いた。「冷し物」とは、酒宴たけなわの折、気分を新たにすべく、中途で冷水をたたえた鉢に盛って出す果物や野菜。その冷し物の食べ崩《くず》された鉢に一夜の歓のなごりを留めて、夏の夜が明けそめる。「崩て」の一語には千金の重みがある。こういう一語があるかないかで、俳句のような短い形式は生きも死にもする。芭蕉はこの四カ月後、大坂で病没した。
(『続猿蓑』)
算《さん》術《じゆつ》の少年しのび泣けり夏
西《さい》東《とう》三《さん》鬼《き》
三鬼は、明治三十三年(一九〇〇)岡山県に生まれ、昭和三十七年(一九六二)没の俳人。昭和新興俳壇の代表的存在だった。作者の自註によると、この句は小学生の息《むす》子《こ》が算術の宿題ができずに一人シクシク泣く姿を、哀れにも気の毒にも感じて詠《よ》んだものらしい。しかし句の印象にはそういう個人的経験を越えた感じがある。北原白《はく》秋《しゆう》の歌「病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出」なども連想させて。
一般に俳句の自句自註は、手品の種明かしに似て、ああそうだったのか、と感心する反面、拍子抜けすることも多い。三鬼の自註もその気配はあるが、この句の魅力は小学生がシクシク泣いている姿を「しのび泣く」という古来ある含みの多い言葉で言いとめた巧みさにある。説明されればなるほどと思う状況だが、この言葉のもつ伝統が、句にふくらみを与えているのだ。
(『旗』)
おうた子に髪《かみ》なぶらるる暑さ哉《かな》
斯《し》波《ば》園《その》女《め》
園女は元禄期の女流俳人。伊《い》勢《せ》山田の神官の娘で、同地の医師斯波一有の妻となった。夫も談《だん》林《りん》派俳人。伊勢在住当時芭《ば》蕉《しよう》に入門、のち大坂に移った。元禄七年(一六九四)九月末、芭蕉を自邸に迎えた時、芭蕉が園女の人柄をも句の面影にして彼女に贈った「白菊の目に立てて見る塵《ちり》もなし」は有名。その旬日後、芭蕉は大坂で客《かく》死《し》している。暑熱のころ、赤ん坊を背負って立ち働いていると、子は無心に母の後髪をなぶる。それで一層暑苦しい。その感覚を詠《よ》む。盛夏の感触を女の肌《はだ》がとらえた。
園女は夫の没後、其《き》角《かく》を頼って江戸に出、深川に住んで眼科医を業としながら俳《はい》諧《かい》を続けた。芭蕉の句にちなんで、最初の自作集を『菊のちり』と題した。
(『近世俳句俳文集』)
暑き日に娘ひとりの置《おき》所《どころ》
武《む》玉《たま》川《がわ》
江戸後期の雑俳集『武玉川』は、江戸座俳《はい》諧《かい》の宗匠慶《けい》紀《き》逸《いつ》が、当時大流行した前《まえ》句《く》付《づ》けの応募作から選んで順次刊行した付《つけ》句《く》秀逸集。古川柳の発生をうながす役目も果たした。五七五または七七の一句だが、諧《かい》謔《ぎやく》の詩として上乗の風味ある作が多い。暑い夏だが薄《うす》着《ぎ》で気楽に寝そべりもできない江戸時代の娘。戸障子がまた憎らしくも開け放たれている。娘一人の身の置き所がない暑さが、他人の笑いを誘う皮《ひ》肉《にく》。
順礼の棒ばかり行く夏《なつ》野《の》かな
松《まつ》江《え》重《しげ》頼《より》
重頼は松永貞《てい》徳《とく》門の江戸時代初期俳人。進取の気性に富み、師風を離れて独住、やがて来る談《だん》林《りん》時代の先駆けとなった。門下に池《いけ》西《にし》言《ごん》水《すい》、上《うえ》島《じま》鬼《おに》貫《つら》などすぐれた俳人をもち、芭《ば》蕉《しよう》最初期の句をも自分の選んだ俳諧撰集に採っている。句は生《お》い茂《しげ》った夏野をゆく順礼を詠《よ》むが、草が高いため、こちらからは杖《つえ》の先だけが動いてゆくのが見える。その風景に、親しみとおかしさを見ている。平明な言葉づかい、写生風の句作りは、当時の新風。
重頼は二冊の近世俳諧史上貴重な著作を世に送った。近世俳諧の出発点となった俳諧撰集『犬《えの》子《こ》集』と、俳諧辞書兼句集として現在でも重宝がられている俳書『毛《け》吹《ふき》草《ぐさ》』である。世の俳諧人口を飛躍的に増加させた功労者である。
(『近世俳句俳文集』)
緑蔭に凶器ばかりの鋳《い》掛《かけ》の荷
岡《おか》本《もと》 眸《ひとみ》
昭和三年(一九二八)東京生まれの女流俳人。勤務していた日本硫曹の社内句会「かつら会」を通じて富《とみ》安《やす》風《ふう》生《せい》に師事。さらに岸風《ふう》三《さん》楼《ろう》の指導を受け、女性俳句界における昭和世代の代表的な実力者となった。鍋《なべ》や釜《かま》の破損をハンダ付けなどで修理するのが鋳掛で、江戸時代からあった。これは昭和三十年代末の句で、鋳掛屋さんを道路ばたに見ることもめったにない昨今、懐《なつ》かしい情景である。しかしこの句は、緑蔭の鋳掛道具が、ふと見ればどれも凶器になりうると気づく一瞬の驚きを詠《よ》んでいる。道具を詠みながら、実は心の揺れを詠んでいるのである。
(『朝』)
夜《よは》にして思ふことありありがたき
陽《ひ》の脈《みやく》摶《はく》の中を通りき
佐《さ》藤《とう》佐《さ》太《た》郎《ろう》
「ありがたい」は現代ではほとんどの場合、感謝の気持を表す意味で使われる。しかし元来の意味は、まれにしかありえない(有り難い)こと。そこから極めて尊いという意味も生じた。この歌の「ありがたき」はそれらいくつもの意味を含んでいるだろう。そんな太陽の脈《みやく》摶《はく》の中を通過していたな、という言い難い歓《よろこ》びの思い出。鮮《あざ》やかな夕《ゆう》映《ば》えに染まったような、成熟した年齢の歌である。
佐藤佐太郎は斎藤茂《も》吉《きち》に信従し、『斎藤茂吉言行』その他、茂吉に関する著作も多い。「意味なきものの意味に満ちた瞬間と断片」をとらえ、日常詠《えい》の中に深い人生の陰《いん》翳《えい》をたたみこむ作風は、単にアララギ派歌人というにとどまらぬ広い範囲の愛読者を生んだ。
(『地表』)
蝉《せみ》
夏の盛りは蝉《せみ》の声から始まる。夏休みを間近にした子供たちの午後は、塾などなかった戦前はもちろん、戦後もある時期までは、蝉取り、トンボ取りに終始したといっていいほどだった。三角形の頭部の両側にトンボほどではないが大きな複眼を持つ蝉を、モチ竿《ざお》を手に真剣な表情で探し歩く子供の姿を見かけると、夏もいよいよ真《まつ》盛《さか》りとなったものである。
小学校の教室である時、蝉の一生を学ぶ。成虫の短い命にふと胸が痛む。しかしモチ竿を持ってしまえばたちまち蝉の短い一生への同情などけしとんでしまうのである。
蝉は成虫としての地上生活は数日ないし一週間といわれる。それにひきかえ、幼虫は数年も十数年も土中の生活をおくり、やがて地上に這《は》い上ってくると、木や草に登って脱皮する。
わ く ら 葉 《ば》に と り つ い て 蝉 の も ぬ け か な
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
空 《うつ》蝉 《せみ》や ひ る が へ る 葉 に と り つ い て
高《たか》野《の》素《す》十《じゆう》
蝉の脱《ぬ》け殻《がら》は、蝉のもぬけなどというほかに、空蝉という言い方があって、これは古来、空《むな》しいこと、はかないことの表現として使われている。
もっとも「うつせみ」という語の原義はウツソミ(現《ウツ》し臣《オミ》の約という)で、この世に生きている人、また現世、人の世という意味だった。これを漢字にあてるに際し、虚蝉、空蝉などと表記したため、そこから蝉の脱け殻という意味にも使われるようになった、と思われる。そういう由来のためか、蝉の脱け殻の、あの背中のぱっくり割れている形からの連想も加わってか、「空蝉」を詠《よ》んだ歌や句には、現世の空しさの思いを蝉の脱け殻に託して諷《ふう》詠《えい》する傾向が強いように思われる。
岩 に 爪 《つめ》た て て 空 蝉 泥 《どろ》ま み れ
西《さい》東《とう》三《さん》鬼《き》
三鬼のこの句は、「空蝉」という季語に内在するそういう性質を鮮《あざ》やかに具象化してみせたような句である。夏の季語の中でもとりわけ「空蝉」の語は情感がつきまとう感じがある。
空 蝉 の 両 眼 濡 《ぬ》れ て 在 《あ》り し か な
河《かわ》原《はら》枇《び》杷《わ》男《お》
あるいはまた、
空 蝉 の ご と く 服 脱 ぐ 背 を 明 け て
加《か》藤《とう》三《み》七《な》子《こ》
女が服を脱ぐ一瞬の感覚の中には、蝉の脱け殻だけの連想ということはあり得まい。この現《うつ》し身《み》にそよぐものも同時に感じての句であろう。
蝉 な く や 我 が 家 も 石 に な る や う に
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
雄《おす》蝉《ぜみ》は腹面に音を発する薄《うす》い鼓《こ》膜《まく》をもっていて、それを振動させる。弦《げん》楽《がつ》器《き》の胴のような腹部の空《くう》洞《どう》はそれに共鳴し、いわゆる蝉の声になるのである。暑い夏ともなると、いっせいに地中から出てきた蝉が脱皮し、ぶつかり合うほどの数で飛び交って鳴く。と、あたかも驟《しゆう》雨《う》が沛《はい》然《ぜん》と降りつけてくるような感じになる。このような蝉の合唱を蝉《せみ》時雨《しぐれ》という。
閑 《しづ》か さ や 岩 に し み 入 る 蝉 の 声
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
蝉をあげればおのずと蜻蛉《とんぼ》にも言及しなくてはなるまい。トンボの幼虫はふつう「やご」という。水中に棲《す》む醜《みにく》い三センチほどの虫で、ぼうふらやおたまじゃくしなどを食べている。やがて六、七月になると成長した「やご」は水中から出て脱皮を行ない、美しいトンボになる。羽化直後は淡《あわ》々《あわ》しい色の、いかにも柔《やわ》らかい弱々しい感じのトンボだが、次第に体色を変えて鮮《あざ》やかな成虫になってゆく。この脱皮したてのトンボを、季語では「蜻蛉《とんぼ》生《うま》る」という。
蜻 蛉 《と ん ぼ》生 《うま》れ 水 草 水 に な び き け り
久《く》保《ぼ》田《た》万《まん》太《た》郎《ろう》
生まれたばかりのトンボが、まだ飛び立つには不安な姿をじっと水《みず》辺《べ》の草にとめている。その近くでは水草が川水に揺られ揺られてなびいているのだ。
蠅 《はへ》を 打 つ 音 や 隣 《とな》り も き の ふ け ふ
炭《たん》 太《たい》祇《ぎ》
止 《とま》り た る 蠅 《はへ》追 ふ こ と も 只 《ただ》ね む し
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
夏に多く発生する昆虫のうちでも蠅は最大の嫌《きら》われ者である。だが人間にとってうるさい、汚《きたな》い存在である蠅にも生の営《いとな》みはある。
地 の 上 に 蠅 重 な れ り 日 あ た ら し
山《やま》口《ぐち》誓《せい》子《し》
「蠅重なれり」を「地の上に」と受けた作者の眼は、蠅の交尾への讃《さん》歌《か》がよみとれる。
や れ 打 つ な 蠅 が 手 を 摺 《す》り 足 を す る
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
これはあまりにも有名な句だが、「手を摺る」の形で覚えている人も多いだろう。この方が口《くち》当《あた》りはいいが、誤り伝えられたもの。「やれ打つな」は人に対して呼びかけたと見るのが一般だが、自分自身に向かってこう制したとする見方もある。解釈にやや揺《ゆ》れが生じるところである。一茶の蠅の句では、
人 も 一 人 蠅 も ひ と つ や 大 座 敷
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
という作もある。こちらの方が詩美はまさっていよう。
夏草のしげみが下の埋《うも》れ水
ありとしらせて行くほたるかな
後《ご》村《むら》上《かみ》院《いん》
南朝の後《ご》醍《だい》醐《ご》天皇の第七皇子。親《しん》王《のう》時代は再三奥《おう》羽《う》討伐におもむき苦難をなめた。吉野の行《あん》宮《ぐう》で即位したが、行宮生活も、兵乱に追われ、大和・河内一帯を転々とする波乱の生涯だった。水辺のほたるを詠《よ》んでいるが、眼前の夕暮の景を叙しながら、夏草の繁《しげ》みの下の埋《う》もれ水を想い見て心が寄ってゆくところに、おのずと象徴的な味わいが生まれている。院の境遇を思い合わせると一層感が深い。転々として最後は住《すみ》吉《よし》行宮で没した。
(『新葉集』)
草づたふ朝の蛍《ほたる》よみじかかる
われのいのちを死なしむなゆめ
斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》
大正三年(一九一四)夏作。作者愛着の歌で、自選歌集『朝の蛍』を編んだ時、本の題名にもとった。「ゆめ」は下に打消し語を伴う副詞で、決して。朝の蛍だから光らずに草を這《は》っている。それを見ながら蛍の短い命を思い、反射的に自身の短い命を思い、そのいとしさに突き動かされた。蛍に呼びかけているようにみえるが、実は何者か大いなる者へ激情的に訴えているのである。
茂吉の第一歌集『赤《しやく》光《こう》』は大正二年に刊行されて歌壇に大きな衝撃を与えた。これに続く第二歌集『あらたま』は大正十年刊。その間に彼の私生活において大きな出来事が二つあった。一つは大正三年の斎藤紀一長女輝子との結婚であり、次には同六年からの長崎医専教授となっての長崎移住である。いずれも茂吉の生涯にとって重要な出来事だった。「朝の蛍よ」とよびかける心境には切実な思いがあった。
(『あらたま』)
蛍《ほたる》這《は》へる葉《は》裏《うら》に水の迅《はや》さかな
長《は》谷《せ》川《がわ》零《れい》余《よ》子《し》
零余子は、明治十九年(一八八六)群馬県に生まれ、昭和三年(一九二八)没の俳人。妻は長谷川かな女《じよ》。零余子は大正初期「ホトトギス」の編集委員だったが、やがて「ホトトギス」から離脱、「立体俳句」など独自の方法を模索中に、不運にも若くして没した。瞬間的な印象描写を重んじる方法論を持ち、この句にもその考えが生きている。蛍がゆっくり葉裏をはっている。それが、葉を透《す》かして点滅するぼっとした光で知れる。そして葉と蛍の下には、虫に触れんばかりに走る急流。
(『雑草』)
大《おお》蛍《ぼたる》ゆらりゆらりと通りけり
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
一茶の句には擬声語、擬態語が実に多い。「うまさうな雪がふうはりふはりかな」「稲妻やうつかりひよんとした顔へ」「けろりくわんとして烏と柳かな」「昼の蚊やだまりこくつて後ろから」「寝た下を凩《こがらし》づうんづうんかな」。みな成功している。これは一茶が、人・動物・事象の、特に動作や変化を鋭い注意力と感覚でとらえることに日頃心を砕《くだ》いていたことを示すものだ。
日本語には擬声語、擬態語がきわめて豊富であるという特徴があり、文学の世界では詩歌作品にその例が多いのは、短い言葉で対象をとらえようとするのに適しているからであるのは言うまでもない。草野心平や中原中也などの現代詩人もこれを得意とした。「頭倒《さか》さに手を垂れて/汚れ木綿の屋《や》蓋《ね》のもと/ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」(中原中也「サーカス」)。
(『おらが春』)
うつす手に光る蛍《ほたる》や指のまた
炭《たん》 太《たい》祇《ぎ》
「うつす」は直後には「移す」で、とらえた蛍を相手の掌《しよう》中《ちゆう》に移しているところだろう。その蛍が指のまたを透《す》かして光る。相手はうら若い女性か、それとも子供同士か。いずれにせよ、「うつす」が「映す」の語感を伴《ともな》っている句作りが、全体にふっくらした味をかもし出している。
太祇は江戸中期の俳人。江戸に生まれて京都を永住の地とした。蕪《ぶ》村《そん》より七歳年長だが親しく交わり、影響を与えあった。人情の機微をとらえた人事句にすぐれ、特色ある句が多い。「初恋や燈《とう》籠《ろ》によする顔と顔」「寝よといふ寝ざめの夫《つま》や小《さ》夜《よ》砧《ぎぬた》」。
(『太祇句選後篇』)
紫陽花《 あ ぢ さ ゐ》やよれば蚊《か》のなく花のうら
加《か》藤《とう》暁《きよう》台《たい》
鮮《あざ》やかな藍《あい》色《いろ》や紫《むらさき》に咲いているアジサイと、小さな蚊の取り合せ。日常生活では迷惑な小動物や虫でも、詩の世界ではむしろ可《か》憐《れん》な景物となることがある。蚊もその一つ。平安時代にも「蚊《か》遣《やり》火《び》」などの主題で蚊を詠《よ》んだ歌が見受けられるが、俳《はい》諧《かい》時代には「春蚊」「蚊《か》帳《や》」「蚊遣火」「蚊《か》柱《ばしら》」「蚊の声」「蚊を打つ」「孑《ぼう》〓《ふら》」その他の題目で盛んに蚊を詠むようになった。
この句も、紫陽花にひかれて近づいてみると、大きな花の裏に小さな蚊の羽《は》音《おと》があったのだ。その思いがけない発見が、詩的情緒をともなう季節の贈り物となる。
(『暁台句集』)
みづからを思ひいださむ朝涼し
かたつむり暗き緑に泳ぐ
山《やま》中《なか》智《ち》恵《え》子《こ》
二行に分けて書いてみるとその感じが一層強いが、この短歌の上《かみ》の句と下《しも》の句は、まるで連句の付《つけ》合《あい》のような呼吸をもって結びついている。両者は微妙なずれ、あるいは疎《そ》遠《えん》さを保った形で結びついているので、かえって、結びつきが新鮮なのである。この歌は字句を追って解釈をしてみても、それだけでは理解したことにならないだろう。叙《じよ》述《じゆつ》の飛躍そのものの中に詩美があるからである。みずからを思い出すという表現は、それだけで十分瞑《めい》想《そう》的な世界を暗示するので、下の句が一層なまなましい生命を感じさせる。大正十四年(一九二五)名古屋市生まれの独自な歌境をもつ現代歌人。
(『紡錘』)
かたつむりつるめば肉の食い入るや
永《なが》田《た》耕《こう》衣《い》
耕衣は、明治三十三年(一九〇〇)兵庫県に生まれ、平成九年(一九九七)に没した。戦後、東洋的無の立場を裏づけにもつ「根源俳句」の主張で注目をあびたように、仏教、特に禅《ぜん》への関心が深く、現代俳句における俳《はい》味《み》と禅味の合《がつ》体《たい》、その探究者といえばまずこの作者をあげる必要がある。この「かたつむり」の句はそのような俳人の面《めん》貌《ぼう》躍《やく》如《じよ》とした作で、清《せい》澄《ちよう》な心境と混《こん》沌《とん》たる性的世界への凝《ぎよう》視《し》とが一体化したような力強さと、一種面《めん》妖《よう》な迫力がある。「つるめば肉の食い入るや」という観察は、対象がかたつむりであるだけに何とも粘着力のある、一読忘《ぼう》じ難《がた》い印象を与える。性を詠《よ》んで性を突き抜けているのだ。
(『驢鳴集』)
夜光虫波の秀《ほ》に燃え秀《ほ》にちりぬ
山《やま》口《ぐち》草《そう》堂《どう》
草堂は、明治三十一年(一八九八)大阪に生まれ、昭和六十年(一九八五)七十八歳で没した俳人。早稲田大学で独文学を専攻、ドイツ詩人ヘルダーリンに傾倒し訳や論も試みたというが、長い病床生活を経て俳句に転じた。昭和六年に水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》が「ホトトギス」から独立したときから秋桜子の「馬《あ》酔《し》木《び》」に参加し、大阪方面での「馬酔木」の発展に貢献。やがて「南《なん》風《ぷう》」を主宰し、自然や人間をきびしい目でとらえる作風で「荒《あら》草堂」とよばれた。第二次大戦後は「生きる証しの俳句」を唱導、「馬酔木」とは別の道を切りひらいた。
「秀」は「穂」と語源は同じで、外に勢いよく現れ出る事、また現れ出た物。海面に浮かび、波にうたれて燐《りん》光《こう》を発する夜光虫。その背後に波の黒々としたうねりまで見えるような句だ。作者の生命観が「秀に燃え秀にちりぬ」に露《ろ》頭《とう》している。
(『帰去来』)
まるまると肥《こ》えしなめくじ夏《なつ》茸《たけ》の
傘《かさ》溶《と》かしいしが己《おの》れ溶《と》けしか
高《たか》安《やす》国《くに》世《よ》
作者はアララギ派の土屋文明に師事した歌人だが、リルケ、ハイネなどドイツ詩人の名訳者としても知られる独文学者。声《こわ》高《だか》に志をのべたり力んで歌うタイプではない。静かに事象に見入り、対象がおのずとその本質を明かしてくるまで、じっと耳《じ》目《もく》を澄ましてゆく詠《えい》風《ふう》。右の歌、ふと姿を消したなめくじに「己れ溶けしか」という感をいだいたのだが、小動物のひそかな営みへの注視が、じわじわと生の不安に変わる。
この歌と同じ時期の別の歌にも次のような歌がある。「厚き殻《から》ひしめき作り雨のなか肉柔かき人間が棲《す》む」(『一瞬の夏』)。人間があたかもカタツムリに化したような感じにとらえられているが、その視線は右の「なめくじ」の歌の視線と深い共通性をもち、背景にはもちろん作者の人間観が横たわっている。
(『一瞬の夏』)
猫《ねこ》の子に嗅《かが》れてゐるや蝸牛《かたつむり》
椎《しいの》本《もと》才《さい》麿《まろ》
才麿は江戸初期の俳人。大《やま》和《と》(奈良県)宇《う》陀《だ》の人。武家の生まれだったが、若くして浪人となり、仏門にも入ったことがある。やがて還《げん》俗《ぞく》し、二十歳代初めから俳《はい》諧《かい》師《し》となった。貞《てい》門《もん》、ついで談《だん》林《りん》派の西《さい》鶴《かく》に学んだが、のち江戸に出て芭《ば》蕉《しよう》らと親交を結んだ。新興の気あふれる蕉風にふれ、談林風から一歩ぬけ出る清新な感覚の句を作った。
雨あがりの木蔭でもあろうか、蝸牛をめざとく見つけた子猫がふんふん嗅《か》いでいる。「嗅《かが》れてゐるや」と、蝸牛を主体として受身表現を用いた所に、句の面白みとふくらみの急所があるだろう。
(『才麿発句抜粋』)
舞へ舞へ蝸牛《かたつぶり》 舞はぬものならば 馬《むま》の子や牛の子に蹴《くゑ》させてん 踏《ふみ》破《わら》せてん まことに美しく舞うたらば 華《はな》の園まで遊ばせん
梁《りよう》塵《じん》秘《ひ》抄《しよう》
平安歌謡集『梁塵秘抄』は、地方の神事歌謡、民謡、仏教歌謡などが、諸国を漂泊する傀《く》儡《ぐ》子《つ》とか港や宿駅で旅客に接する遊女によって唱われていたものがもとになっている。平安末期、後《ご》白《しら》河《かわ》法《ほう》皇《おう》が歌詞や曲節の失われるのを惜《お》しんで、正しい歌詞と唱《とな》え方《かた》を保存しようと一念発《ほつ》起《き》して集めさせた日本歌謡史上の珠《しゆ》玉《ぎよく》である。現存するのは残念ながらごく一部分。それでも珠玉の名に値《あたい》する。
歌謡の性質上恋の歌が断然多い。しかし中にこの歌のような童謡がまじっているのは楽しい。
水すまし流《ながれ》にむかひさかのぼる
汝《な》がいきほひよ微《かす》かなれども
斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》
昭和二十一年(一九四六)初夏の歌。水すましの可《か》憐《れん》さを詠《よ》んでこれに優《まさ》る歌や句はちょっと思い当らない。結局「微かなれども」の働きが絶妙なのである。「水すまし」はアメンボ科の昆虫「水《あめ》馬《んぼ》」のこと。池や沼や川などの水面を細い肢《あし》ですいすいと走りまわる。
茂吉は戦争末期郷里山形県金《かな》瓶《がめ》に疎開し、昭和二十一年二月に大石田に移って、翌年十一月までそこで過ごした。敗戦の衝撃も加わって重い病気にかかったが、この最《も》上《がみ》川べりの独居生活の日々から生前最後の歌集『白き山』一連の絶唱最上川詠《えい》の数々をのこした。この水すましの歌もその一つ。
(『白き山』)
月《つき》読《よみ》の光りの下の水すまし
しづけきを見て、かへり来にけり
折《おり》口《ぐち》春《はる》洋《み》
春洋は、明治四十年(一九〇七)石川県羽《は》咋《くい》郡一宮村の社家の生まれ。昭和二十年(一九四五)硫黄島で戦死。大学で折《おり》口《くち》信《しの》夫《ぶ》(釈迢空)に師事、折口家に住んで親しくその薫《くん》陶《とう》を受けた。母校の国学院大学教授となったが再度召集され、硫黄島で戦死。南方戦争へ出発後、師の養嗣子となった。「月読」は月のこと。清澄な歌である。平和な田園生活を思わせるが、実は若い兵を指揮しての「演習勤務」の一首である。戦中詠《えい》のこういう思い潜《ひそ》めた静けさは忘れ難い。
現在の石川県羽咋市一の宮町には、気《け》多《た》神社の近く、海に臨む松林の中に、折口信夫が自ら碑文を書いた春洋との父子の墓があり、さらに後年、父子の比《ひ》翼《よく》の歌碑も気多神社参道入口に建立された。
(『鵠が音』)
水すまし水に跳《は》ねて水鉄の如《ごと》し
村《むら》上《かみ》鬼《き》城《じよう》
ミズスマシが軽々とはねる水を、「鉄の如し」と言い切ったところに、透《とう》徹《てつ》した重みがある。水に物を置けば沈《しず》むという通念をぴしりとはね返して動かない。水を鉄にたとえた結果、アメンボを浮かせている水の表面張力そのものが鮮《あざ》やかにとらえられた。「水」の語を一句の中で三回くり返させた語感が、虫の軽快な跳躍動作を連想させる。
鬼城は少年時代から漢学や英学を学び、軍人を志したが、十代の終りころ耳を患《わずら》い極度の難聴となり、失意のうちに裁判所代書人となった。子《し》規《き》、虚《きよ》子《し》のもとで俳句を始めたが、個性の強い心境を囲いこんで生かす写生の力は抜群である。
(『定本鬼城句集』)
薫《くん》風《ぷう》や蚕《こ》は吐《は》く糸にまみれつつ
渡《わた》辺《なべ》水《すい》巴《は》
蚕《かいこ》はふつう春の季語であるが、この句の場合夏の季語「薫風」が季を定めている。ただしこの蚕は春《はる》蚕《ご》である。薄《うす》暗《ぐら》い蚕《こ》屋《や》(飼《かい》屋《や》)の中では、蚕ざかりとか蚕《かいこ》時《どき》とかいわれる食い盛りを終えた蚕が、桑の葉や蚕独特の匂《にお》いを発散させ、繭《まゆ》作りのために吐《は》く絹糸にまみれている。蚕屋の外側には初夏の薫風が吹き渡る。夏来たる気分が横《おう》溢《いつ》している。
水巴は明治十五年(一八八二)東京浅草に生まれ、昭和二十一年(一九四六)に没した。日本画家渡辺省《せい》亭《てい》の長男。大正初期「ホトトギス」に登場、その黄金期をきずいた一人。江戸下町の洗練された美意識が句にしみ徹《とお》っている。
(『新月』)
ひつぱれる糸まつすぐや甲《かぶと》虫《むし》
高《たか》野《の》素《す》十《じゆう》
カブトムシをゆわえてある糸は、たぶん柱にでも結びつけてあるのだろう。虫は満身の力をこめて逃げようとふんばる。糸はぴんと張っている。どこにでもありうる光景だが、それを五七五という形式で表現した時、ざらにはない「単純化」のお手本のような詩が生まれた。「糸まつすぐや」という言葉が抜き差しならない。画家の言葉でいえば、デッサンとは省略の芸。
高野素十は東京大学医学部から同大学法医学教室に学び、新潟医大教授、ついで奈良医大教授を歴任した。東大時代、同じ教室に学んだ水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》らのすすめで俳句を始めたが、やがて「ホトトギス」で秋桜子、誓《せい》子《し》、青《せい》畝《ほ》と共に四Sの一人と仰がれるほどになった。四人のうちでは、「写生」の句の最もみごとな実践者だった。
(『初鴉』)
みじか夜や毛むしの上に露の玉
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
「みじか夜」は夏の季語。ふけたと思うや、もう白みそめてくる夏の夜。毛虫の毛さきにほのかに露が置いている。どちらかといえば嫌《きら》われものの毛虫に、夜明けの露を背負わせて、清涼の気を一瞬にして紙上に現出せしめる手腕は、さすが蕪村のもの。仮に「上に」を「上の」とすると、句の重点は結句「露の玉」にかかって、その物質感が強調され、おのずと別の味わいを生む。現代俳句なら、むしろそちらに傾くか。
短歌とも、まして現代詩とも違う俳句の特色に、小動物をとらえてみごとに活写するという性格がある。その場合、人に嫌われる小動物が、ひときわよき素材となる。蠅でも油虫でも蚰《げじ》蜒《げじ》でも、俳句の素材にならないものはない。日本の詩歌文学の一大特徴と言える。「蚰蜒を打てば屑々になりにけり」(高浜虚子)。
(『蕪村句集』)
蛇逃げて我を見し眼の草に残る
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
虚子は『新歳時記』を編んだとき、その序で、「一言にしていへば文学的な作句本位の歳時記」作りが目的だったといった。季題の取捨も「要は文学的に存置の価値」があるか否かが決め手だったとのべた。俳句で「写生」をあれほど重んじた彼は、同時にそれが「文学的」でなければならぬと肝《きも》に銘《めい》じていたのである。たとえば上掲の句は「写生」だろうか。然《しか》り。だがそれ以上に、「文学」にこそ、この句の命があった。
(『五百句』)
音楽漂《ただよ》う岸侵《おか》しゆく蛇《へび》の飢《うえ》
赤《あか》尾《お》兜《とう》子《し》
兜子は、大正十四年(一九二五)生まれ、昭和五十六年(一九八一)五十六歳で没した。晩年作風に転換が生じたが、昭和三十年代いわゆる前衛俳句の先頭に位置した一人。この句は元来抽象性の強い兜子の句の中で、最もよく人に知られた作品の一つであろう。
句は初《しよ》五《ご》で切れる。写生句でないから読者も想像を働かす必要がある。蛇の飢えが岸をじわじわ侵《おか》してゆくというのは超現実的な空想だが、背景には作者の精神の緊迫した不安、渇《かわ》きがある。その時同時に音楽が「漂う」。音楽もまた暗い不安の象徴となるのである。
(『蛇』)
全長のさだまりて蛇《へび》すすむなり
山《やま》口《ぐち》誓《せい》子《し》
昭和二十四年(一九四九)、作者五十代に入るころの作である。蛇は身をくねらせて前に進むが、その動く姿の中から、「全長のさだまりて」という見どころをつかまえてきた所に、この句の非凡さがある。それはここにおのずと表白された誓子壮年期の人生上の覚悟が感じられるからだ。この句を読む人は、あるいは一瞬、とまどうかもしれない。しかしじっとみつめるならば、蛇の一刻たりとも停止することのない全身の運動が、全体としてはみごとに、かついやおうなしに、「全長のさだまりて」進む運動なのだという着眼に、深い意味を見出してうたれるのではなかろうか。
(『和服』)
蟻《あり》地《ぢ》獄《ごく》松風を聞くばかりなり
高《たか》野《の》素《す》十《じゆう》
松風を聞いているのは蟻地獄ではない、作者である。海辺の松林。ふと見れば、足元の砂地に蟻地獄の穴が。あたりに人影はない。蟻地獄はたしかにそこにひそんで獲《え》物《もの》を待ちかまえている。あとはこの句の詠《よ》みてだけ。空には風が渡っている。夏の日のいっときのぽかっとした時間、人は無心にその松風に聞き入っている。日常のふとした出来事といえばそれだけだが、句には不思議な虚《こ》空《くう》のひろがりがある。作者が蟻地獄と松風の世界に没入して、そこにはただしんしんと無人の景《け》色《しき》が現出しているのみだからか。昭和二年(一九二七)、三十四歳の句。
(『雪片』)
蟻《あり》の道雲の峰《みね》よりつゞきけん
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
句文集『おらが春』に収める文政二年(一八一九)夏の作。遠く真夏の空に入道雲がそびえたつ。足もとにはえんえんと続く蟻の行列。その両者を、雲の峰「より」という一語で一瞬にして結びつけた手腕は非凡である。この一語のおかげで、本来まったく無関係な「雲の峰」と「蟻の道」がつながっただけでなく、蟻の行列に一種ふしぎな無限の意志のごときものを感じる、その驚異感をも表現された。烈《れつ》日《じつ》もまたこの時爽《そう》快《かい》であろう。
(『おらが春』)
人間が躓《つまづ》く石をやすやすと
越えてゆく蟻《あり》の長き一列
阿《あ》部《べ》正《まさ》路《みち》
作者は昭和六年(一九三一)秋田市生まれの現代歌人。国学院大学教授として『和歌文学発生史論』『和歌文学年表』など多くの研究書がある。この歌の前に掲げた小林一《いつ》茶《さ》の句、「蟻の道雲の峰よりつゞきけん」は、雄大な入道雲を蟻の行列に結びつけていたが、こちらは眼を足元の石に落として、蟻の列に対する別種の発見を歌っている。蟻が連なって石を越えてゆく光景はだれでも知っている。しかしその同じ石に人間がつまずく事があるのを思うのは、また別の人生の経験だろう。
(『太陽の舟』)
飛《は》蟻《あり》とぶや富士の裾《すそ》野《の》の小《こ》家《いへ》より
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
飛蟻は羽蟻とおなじ。初夏から盛夏にかけての交尾期、若い蟻が羽をはやして空に舞う。家にもとびこむ。この句はそのさまを詠《よ》んでいるが、舞台装置が並みではない。ひろびろとした富士の裾野へいきなり人を誘っておいて、さて羽蟻の群れがとぶのは、この大景の中の小家からだという。大小の対照に趣向をこらし、印象の鮮明さをかちとる手法だが、少しもわざとらしさがないのはさすが蕪村の腕である。蕪村は画家として著名であり、池《いけの》大《たい》雅《が》と並んで南画を開拓した最大の功績者であった。俳画というジャンルが一般に広く知られるようになったのは、蕪村の影響が大きいだろう。「飛蟻とぶや」の句の構成法も、画人としての蕪村を考えると納得されるような気がする。
(『蕪村句集』)
白《ゆふ》雨《だち》の隈《くま》しる蟻《あり》のいそぎかな
三《みつ》井《い》秋《しゆう》風《ふう》
秋風は、芭《ば》蕉《しよう》と同時代の俳人。京都の富豪三井氏の一族で、洛《らく》北《ほく》の鳴《なる》滝《たき》にあった別荘には、芭蕉ら文人がよく往来したという。芭蕉が秋風を訪ねた時に残した一句に、「梅白しきのふや鶴《つる》をぬすまれし」という中国の神仙趣味の歌があり、高《こう》雅《が》をもってむねとした交友関係がしのばれる。
秋風には、「柳短ク梅一輪竹門誰がために青き」のような、西《にし》山《やま》宗《そう》因《いん》の談《だん》林《りん》派《は》の影響下にある初期の漢詩風破調句から、右の句のような、夕《ゆう》立《だち》に急いで物かげににげてゆく蟻を詠《よ》むといった、平明な蕉風に近い句まであって、当時の俳《はい》諧《かい》一般の作風の推移のあとまで見えて興味深い。
(『近世俳句俳文集』)
金《きん》粉《ぷん》をこぼして火《くわ》蛾《が》やすさまじき
松《まつ》本《もと》たかし
夏の火に慕《した》い寄り、焼かれつつ舞いつづける蛾。「金粉」をこぼしつつ火のまわりを乱舞するその「すさまじき」姿には命の発する理を超《こ》えた本能の力と異様な美がある。焼かれてもなお火に寄り添《そ》おうとする光への渇《かつ》望《ぼう》には一種壮絶なかがやきがある。画家速《はや》水《み》御《ぎよ》舟《しゆう》もその名作「炎舞」で、同じような「すさまじき」火蛾の群れを描いた。
宝《ほう》 生《しよう》 流の能役者の家に生まれた作者は、病身で能を断念したが、ものの完《かん》璧《ぺき》な美を追求する姿勢には、静かな能の内側にある激しい動きにも似た気品と澄《ちよう》明《めい》さが感じられる。
(『松本たかし句集』)
めん鶏《どり》ら砂あび居《ゐ》たれひつそりと
剃《かみ》刀《そり》研《と》人《ぎ》は過ぎ行きにけり
斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》
茂吉第一歌集『赤《しやく》光《こう》』(大正二年)は、当初、逆年代順に歌が配列されていた。すなわち初版『赤光』は、大正二年(一九一三)七月三十日、師の伊藤左《さ》千《ち》夫《お》死去の知らせを受けた「悲報来」から始まり、明治四十二年(一九〇九)の作までさかのぼって編まれていた。これが年代順に改められ、歌数も数十首削られた新版(改選版)になったのは大正十年(一九二一)だった。右の「めん鶏ら」の歌は、最も新しい時期の歌だった。すなわち、「七月二十三日」と作歌日付をそのまま題とした五首の一つで大正二年作。
日ざかりの庭でめんどりどもがしきりに砂をあびている。かたわらを剃刀とぎ師(とぎ屋とよばれた)がひっそり通っていった。ただそれだけの光景なのに、不《ぶ》気《き》味《み》に張りつめた静けさがある。ゴッホの絵が与えるある種の不安な感じに似ている所がある。「ひつそりと」の一語、千《せん》鈞《きん》の重みがある。
(『赤光』)
空《くう》をはさむ蟹《かに》死にをるや雲の峰《みね》
河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》
碧梧桐は虚《きよ》子《し》と共に子《し》規《き》門の双《そう》璧《へき》。子規没後、新傾向俳句の王者として君《くん》臨《りん》したが、運動はやがて四分五裂、碧梧桐自身の句も、多様な試みを重ねつつ孤立していった。碧梧桐が新傾向に走ったため、親しい友だった虚子はあえて「守《しゆ》旧《きゆう》派《は》」を名乗り、新傾向と真っ向から対立した。結局、大正初年代で勝敗はついたということができる。虚子の花鳥諷詠は優秀な新進作家を続々と生み出して俳壇を制《せい》覇《は》した。碧梧桐は、ほめて言えば純粋、けなして言えば独善というような行き方をした、悲劇的な、ただし強い魅力をもった先駆者だった。右は新傾向初期の代表作。雄大な雲の峰の下にちっぽけなカニがはさみをかかげて死んでいる。ただ空をつかんで。
(『続春夏秋冬』)
鳳《ほう》仙《せん》花《か》散りて落つれば小《ち》さき蟹《かに》
鋏《はさみ》ささげて驚《おどろ》き走る
窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》
窪田空穂という歌人は、茂《も》吉《きち》とか牧《ぼく》水《すい》とか白《はく》秋《しゆう》とかの同時代の歌人たちと較べると一見地味な生き方をした歌人のように見える。それは一つには、他の人々が短歌表現の上での新しさを顕著に追求したのに対し、空穂は歌われている事象のとらえ方そのものに、独自性と普《ふ》遍《へん》性という両面を追求したからである。
夏の海岸でふと目撃した情景。鳳仙花の赤い小さな花が散り落ちたとき、その下にいた小ガニがあわてて逃げた。「鋏ささげて驚き走る」という観察が歌の中心だが、なかんずく「ささげて」の一語がかなめである。小ガニの動作を描写しながら、同時に作者が興じているその気分と理由をも、この語で言いとめている。たとえば「かかげて」では、そうはいかない。
(『鏡葉』)
みじか夜の浮《うき》藻《も》うごかす小《こ》蝦《えび》かな
松《まつ》瀬《せ》青《せい》々《せい》
青々は、明治二年(一八六九)大阪生まれ、昭和十二年(一九三七)没の俳人。彼は正岡子《し》規《き》によって推賞され(明治三十一年)、一躍俳壇の注目するところとなった。「大阪に青々あり(略)その句豪宕にして高華」と子規はのべている。作句力旺盛な点で、関西俳壇における虚《きよ》子《し》のような位置にあった。東京に出て虚子の下で「ホトトギス」の編集を手伝った事もあるが、三十歳代半ば以降は大阪朝日新聞に勤め、「朝日俳壇」選者として関西俳壇の興隆に尽力した。繊細的確な観察眼、表現力に秀《ひい》でる。小えびが浮藻をつつく、その微《かす》かな、しかし生気ある水面下の動作をとらえた時、「みじか夜」という季語の情緒がみごとに把握され、表現された。
(『鳥の巣』)
金亀子《こがねむし》擲《 なげう》つ闇《やみ》の深さかな
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
虚子は、明治七年(一八七四)松山市生まれ、昭和三十四年(一九五九)没の俳人。正岡子《し》規《き》没後、その業をついで「ホトトギス」を経営、現代俳句の隆盛を導いた第一人者である。
灯を慕《した》ってくるかなぶんをつかまえ、窓外へ放り投げる。虫が音もなく吸われてゆく闇の深さ。
虚子の水《みず》際《ぎわ》だった手腕の一つに、小さなものを詠《よ》むことで背景の巨大を浮き立たせる技法があった。たとえば「ものの芽のあらはれ出でし大事かな」のような句には、その骨《こつ》法《ぽう》の肝《かん》心《じん》な所が語られている。
(『五百句』)
裏富士の月夜の空を黄《こ》金《がね》虫《むし》
飯《いい》田《だ》龍《りゆう》太《た》
龍太は戦後活躍しはじめた俳人の中で、実力、声望ともに際《きわ》立《だ》っている人である。この句、何の奇もてらわずに、裏富士の月夜の空を黄金虫がゆくと詠《よ》む。作者の住む山梨県側が裏富士に当るが、「裏富士」の語がよび起こす力強い影は、「月夜の空」の明かるさと四つに組み合い、虫は黒い命の塊となってその中央を翔《と》ぶ。澄《す》みきった大景が、ごく自然に虫の後から立ちあがる。龍太の句の特質のひとつは、くちずさめばたちまち記憶に刻みこまれると言ってもいいほどの語調の整い、そしてその語調にともなって立ちあがる鮮明な影像だろう。現代の俳人たちのうち、これほど力強く歯切れのいい作句法を身につけている人は、他に見出しがたい。
(『今昔』)
加速度もていのち搏《う》たむと灯《ひ》虫《むし》をり
軽《かる》部《べ》烏《う》頭《とう》子《し》
烏頭子は、明治二十四年(一八九一)茨城県に生まれ、昭和三十八年(一九六三)七十二歳で死去した。東京大学医学部を水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》と同期に卒業した医師。「馬《あ》酔《し》木《び》」創刊以来の主要同人として、終生秋桜子に兄事した。この人の句は気品の中に強い情念を脈うたせている。「灯虫」は灯火に集まる蛾《が》。身を焼かれるのもかまわず火にぶつかり続ける灯虫に、加速度さえつけて命をひたうち、試練にさらしている魂のようなものを見たのである。この句が思いおこさせる近代屈指の名画がある。言うまでもなく速《はや》水《み》御《ぎよ》舟《しゆう》の『炎舞』(大正十四年)である。御舟は烏頭子より三歳ほど年下で、四十代はじめに死去した天才画家だった。
(『灯虫』)
くもの糸一すぢよぎる百《ゆ》合《り》の前
高《たか》野《の》素《す》十《じゆう》
素十は、明治二十六年(一八九三)茨城県生まれ、昭和五十一年(一九七六)没の俳人。法医学を専攻、新潟医大ほかで教授。医学徒として席を並べた水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》の手引きで作句を始め、やがて虚《きよ》子《し》門の俊才となる。物象観察の微細的確な点は抜《ばつ》群《ぐん》、しかも表現に当っては省略法に天性の勘が働いた。すっくと立つ百合の花の前を横切るクモの糸。現実には弱々しい糸一本が、句の世界をただ一筋で支える、素《そ》描《びよう》術の妙。
『初《はつ》鴉《がらす》』は昭和二十二年刊行の第一句集。大正末期爾来の「ホトトギス」入選句約六四〇句のすべてを収めているが、高浜虚子は序文の中で、「文字の無駄がなく、筆を使ふことが少なく、それでいて筆意は確かである。句に光がある。これは人としての光であらう」と称賛した。
(『初鴉』)
草《くさ》枕《まくら》旅に物《もの》思《も》ひわが聞けば
夕《ゆふ》片《かた》設《ま》けて鳴く河《かは》蝦《づ》かも
よみ人《びと》しらず
『万葉集』巻十に収める。「草枕」は旅にかかる枕《まくら》詞《ことば》。「夕片設けて」は夕方になって。古代の人々の旅は、実際にはどんなふうにして行われていたのだろうか。いずれにせよ私たちの観光旅行のようなものはほとんどなかった。よほどのことがなければ、人は旅に出たりしなかった。不便だし、飢えその他の危険もあった。その旅に出て、日暮れ時、川べりでカワズ(万葉ではカジカを指すことが多いが、この歌ではふつうのカエルかもしれないという)を一人聞いている男。
(『万葉集』)
翡《かは》翠《せみ》やひねもす一二三の淵《ふち》
松《まつ》根《ね》東《とう》洋《よう》城《じよう》
東洋城は、明治十一年(一八七八)東京生まれ、昭和三十九年(一九六四)没の俳人。松山中学と一高で夏目漱《そう》石《せき》の生徒だった。東大に入ったが京大へ転学し、卒業後、宮《く》内《ない》省へ任官した。「国民新聞」の俳句欄「国民俳壇」の選者となったが、この欄の選者としては彼の前任者だった虚《きよ》子《し》が、再び選者として復帰し、その時の経緯に憤《ふん》慨《がい》して、終生虚子および「ホトトギス」とは訣別した。東洋城自身の主宰誌は「渋《しぶ》柿《がき》」。
奥多摩辺の渓谷だろうか。瀬があって淵《ふち》があり、また瀬が来て淵が来る。その淵から淵へ、色鮮《あざや》かなカワセミが一日中魚を追って往《い》き来《き》する。鳥の動作のくり返しが自然にイチ、ニ、サンの淵という表現を呼んだので、たとえば三つの淵と言ってしまうのとでは、まるで気分が違う。
(『東洋城全句集』)
千《せん》峯《ぽう》の鳥《てう》路《ろ》は梅《ばい》雨《う》を含めり
五《ご》月《ぐわつ》の蝉《せみ》の声は麦《ばく》秋《しう》を送る
李《り》嘉《か》祐《ゆう》
唐詩人の作から採った詩句だが、原詩の全容は不詳。『全唐詩』には収録されていない。
無数の峰は梅雨を含んだ雲におおわれて、鳥の路《みち》さえも閉ざす。五月(陰暦)の蝉が鳴きはじめれば、麦秋の季節も終わりだと歌う。俳諧の季語ともなったこの「麦秋」の語の「秋」は収穫の候の意で用いられている。初夏から盛夏へ移る自然界を歌うが、少なくも日本では蝉は梅雨明けごろからだから、日本の季節感とは少し異なる。詩の修辞は必ずしも自然現象に忠実ではない一例か。
(『和漢朗詠集』)
青《あを》葉《ば》樹《ぎ》の寂しき秀《ほ》より秀《ほ》に飛びし
蝉《せみ》はそのまま鳴かずこもりぬ
初《はつ》井《い》しづ枝《え》
しづ枝は、昭和五十一年(一九七六)七十五歳で没した姫《ひめ》路《じ》生まれの歌人。北原白《はく》秋《しゆう》に歌を学び、「コスモス」同人だった。この歌は死の前年夏、病床での作。「秀」はとがったものの先。ここでは枝の先端。樹上で鳴きつづけていた蝉が、ふと枝の先から別の枝の先へ飛び移った。また鳴き始めるだろうと思って何となく心待ちしていると、なぜか急に黙りこくってしまった。ただそれだけのこと。それでいて、ふしぎに印象的な歌である。
(『夏木立』)
閑《しづ》かさや岩にしみ入る蝉《せみ》の声
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
「月日は百《はく》代《たい》の過《くわ》客《かく》にして行きかふ年も又《また》旅人」という有名な言葉で始まる『おくのほそ道』のうち、元《げん》禄《ろく》二年(一六八九)五月二十七日、山形の立《りゆう》 石《しやく》 寺(当地ではリッシャクジという)に参《さん》詣《けい》したくだりに出てくる句。全山凝《ぎよう》灰《かい》岩《がん》でできた寺の境《けい》内《だい》は、今もなお「心澄《す》みゆく」「清《せい》閑《かん》の地」の面《おも》影《かげ》を残している。句の断続するサ行音が、日本詩《しい》歌《か》の美感の一つの鍵《かぎ》ともいえる「しみ入る」感覚、その澄《ちよう》明《めい》で幽《ゆう》遠《えん》な味わいを感じさせる。蝉の声が「岩にしみ入る」という表現には、音によって逆に音のない浄《じよう》 寂 《じやく》境《きよう》 を現出させる方法がある。深みのある方法である。
(『おくのほそ道』)
雲のぼる六月宙の深《み》山《やま》蝉《ぜみ》
飯《いい》田《だ》龍《りゆう》太《た》
飯田龍太には毎月の呼び名(一月、二月、三月……)を句の中にそのまま用いてみごとな効果を生んでいる句がいくつもある。「一月の川一月の谷の中」「竹林の月の奥より二月来る」「いきいきと三月生《うま》る雲の奥」。この「雲のぼる」の句の「六月」もまた、地上から上方にむかってむくむくと盛りあがってゆく自然界の息《い》吹《ぶ》きとでもいうべきものをしっかと内に包みこんでいる六月だ。雲が力強く立ちあがる六月、深い色合いを呈している空。ミンミンゼミ(深山蝉)の鳴き声もまた宙にかかっているようである。「六月宙の」という中《なか》七《しち》は、大きな動きをひめている表現で、まさに肝《かん》心《じん》かなめ。
(『春の道』)
鳴く蝉《せみ》を手《た》握《にぎ》りもちてその頭
をりをり見つつ童《わらべ》走《は》せ来る
窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》
手の中で高く鳴いている蝉を、しっかりと握りもって、その蝉の頭をときどきのぞき見しながら、小さな子供が駆《か》けてくる。子供の夏の生活の楽しさがほほえましく活写されている。「手握り」は手に握り。古語で「猟《さつ》弓《ゆみ》を手握りもちて」(万葉集・巻五)などと用いられているのと同じ。
空穂の何の気取りもない平明な表現は、人生に対する開かれた物の見方、感じ方から来るもので、表現は平明、滋《じ》味《み》は深いというその歌の特色もそこからくる。この歌が作られた大正十年(一九二一)頃は、空穂がその歌風をゆるぎないものにした時期でもあった。
(『鏡葉』)
降るほどはしばしとだえてむら雨《さめ》の
すぐる梢《こずゑ》の蝉《せみ》のもろ声
藤《ふじ》原《わらの》 為《ため》守 《もりの》女《むすめ》
中世初頭の大歌人藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》の子息に為《ため》家《いえ》がいる。その為家の晩年の側室が『十六夜《 い ざ よ い》日《につ》記《き》』で有名な女流歌人の阿《あ》仏《ぶつ》尼《に》(安《あん》嘉《か》門《もん》院《いん》四《し》条《じよう》)。二人の間に生まれたのが冷《れい》泉《ぜい》家《け》の祖藤原為《ため》相《すけ》および為《ため》守《もり》。作者はこの為守の娘である。
単純な写生の歌だが、簡潔明確に対象を浮かびあがらせる腕前は、さすがに歌の家の伝統を思わせる。ざあっと村《むら》雨《さめ》(一しきり強く降っては止《や》み、止んでは降る雨、驟《しゆう》雨《う》)が降る間はとだえているが、雨が過ぎ去ればたちまち大合唱を再開する、夏の梢の蝉の声。
(『風雅集』)
渓《けい》村《そん》 雨無きこと 二旬余
石《せき》瀬《らい》 沙《さ》灘《だん》 水涸《か》れ初《そ》む
満《まん》巷《かう》の蝉《せん》声《せい》 槐《くわい》影《えい》の午《ひる》
山童戸《こ》に沿うて 香《かう》魚《ぎよ》を売る
菅《かん》 茶《さ》山《ざん》
作者は、備《びん》後《ご》国(広島東部)の生んだ江戸後期の代表的な儒《じゆ》者《しや》詩人。名声は天下に響《ひび》いていたが、後半生は故郷にあって「黄《こう》葉《よう》夕《せき》陽《よう》村《そん》舎《しや》」と名づけた学塾で後進の育成につとめた。その詩は日常生活に多く取材し、実感をうたって平明かつ印象鮮《あざ》やかな佳《か》篇《へん》が多い。これは真夏、二旬以上も雨が降らない谷あいの村の情景。川まで水が涸《か》れはじめている午後、村中に蝉の声が満ち、エンジュ(槐)の影がくっきり落ちている地上を、村の少年が一人、家から家へ鮎《あゆ》を売りながら軒下をゆく。
(『黄葉夕陽村舎詩』)
蛸《たこ》壺《つぼ》やはかなき夢を夏の月
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
芭蕉は 貞《じよう》 享《きよう》 五年(一六八八)四月二十日、兵庫から須《す》磨《ま》・明《あか》石《し》へ足をのばした。その夜は須磨に泊《とま》ったが、これはその時の旅にもとづく句。「明石夜泊」と題があるのは、月の名所である明石に泊ったことにして詩情を深める芭蕉一流の虚構。句も最後的には元《げん》禄《ろく》三、四年に至ってこの形に定まったかといわれている。明石の浦は蛸の名産地。その海底で何も知らずに蛸壺に入り、夏の短《みじか》夜《よ》の月光のもと、はかない夢を結んでいる蛸。その命もまたはかない夢である。そこには無常の命の「あはれ」があるが、また達観した目でながめれば、一種の「をかし」の気分も湧《わ》いて、句の忘れがたい複雑な味わいも生まれる。
(『笈の小文』)
忍《しの》ぶ夜の蚊《か》はたゝかれてそつと死に
誹《はい》風《ふう》柳《やなぎ》多《だ》留《る》拾《しゆう》遺《い》
正統を誇る和歌の伝統にあっては、「忍ぶ恋」は恋の諸相の中でもとりわけ大切に扱われた主題である。思う相手にさえ自分の恋心を包み隠《かく》し、その苦しみに耐えるのが、忍ぶ恋のいわば醍《だい》醐《ご》味《み》。しかし川《せん》柳《りゆう》 作者はそういう伝統とは別の実生活から、この言葉を人目を忍ぶ当り前の男女の逢《あい》引《び》きの場にまで引きおろす。やっと二人で逢うことができたというのに、場所は物陰の暗がり。蚊のやつは容《よう》赦《しや》もない。気分を害することおびただしいが、ピシャリと音をたてるわけにはいかない立場である。見当をつけてそっと押しつぶすように叩《たた》いて殺す。蚊を主体にした「そっと死に」という言い方が実におかしい。
一《いつ》鳥《てう》声《こゑ》有り 人《ひと》心《こころ》有り
声《せい》心《しん》雲《うん》水《すい》倶《とも》に了《れう》了《れう》
空《くう》海《かい》
真言宗開祖空海(弘法大師)の詩文集『性《しよう》 霊《りよう》 集《しゆう》』巻十の七《しち》言《ごん》絶《ぜつ》句《く》「後《ご》夜《や》に仏法僧の鳥を聞く」の転結。未明(後夜=夜半から朝にかけて)の勤《ごん》行《ぎよう》 中ブッポウソウと鳴く鳥声を聞いたのだ。ブッポウソウは仏と法と僧、いわゆる三《さん》宝《ぼう》をいう。右の詩の起承は「閑《かん》林《りん》に独《ひと》り座す草《さう》堂《だう》の暁《あかつき》 三宝の声一鳥に聞こゆ」である。ブッポウソウと鳴くのは実はコノハズクだが、その鳴声に三宝(仏・法・僧)の声を聞きとって尊ばれた。独座する山中の夜明け、仏法僧の声に心は澄みわたる。鳥声と人心、雲と水(大自然)は一体となり、一点の曇りなく(了了)心眼に映《うつ》ると。
(『性霊集』)
水鳥の背に残りゐる夕明り
湖《うみ》暮れゆけばただ仄《ほの》かなる
大《おお》岡《おか》 博《ひろし》
明治四十年(一九〇七)生まれの現代歌人。窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》に師事した。第一歌集『渓流』の巻頭歌で昭和七年(一九三二)の作。湖は芦《あし》の湖。作者自身が書いている思い出によれば、彼はこの時二、三人の友人とともに、自分の住んでいる静岡県三島町(のち三島市)から徒歩で箱根へ登り、夕暮れ近い芦の湖まで行ったという。現在ではちょっと考えられないほどの、のんびりした〓“遠足〓”だったわけである。
日が山の背に沈んでゆく。その最後の光が、今はもう水鳥の背にだけぽつんとほのかに残っているのを、見るというよりは、感じているのである。外界の仄明りは、実は青年内面の薄《はく》明《めい》境《きよう》なのかもしれない。作者は本書著者の父親で、当時二十五歳、私は一歳だった。父親の青年期の作中、日ごろ愛《あい》誦《しよう》の歌なので引く。
(『渓流』)
牧水が立派だったと思うこと
若山牧水という歌人は、私にとっては最初の歌人でした。私の父は別ですよ。父は私が生まれたら歌人でいたんですからしようがない。まあ、父のそばにずっといましたから短歌というのは本当のガキのときからずうっと親しかったわけで、親しかったというよりは、こんなものは簡単にできちゃうんじゃないかと生意気なことを思うくらいに、家の中にはいろいろな短歌雑誌とか短歌の本などがありました。
で、父は若山牧水の「創作」にちょっと関係したらしいんです。でも父は恥ずかしがって言わないんですが、彼が二十二、三歳の頃、中学を出てから学校の先生になっている頃、どうも数カ月は、牧水の「創作」に入っていたらしいんですね、さまざまな傍証からすると。しかし本人は一つもそんなことを言ったことがないんです。
なぜそうなったかというと、牧水さんが沼《ぬま》津《づ》にいたからです。沼津は父および私が住んでいた三《み》島《しま》のすぐ隣町でありまして、三島は伊豆の喉《のど》元《もと》にある、まあ、小さな町です。しかし伊豆の一の宮である三島大社があって、三島人はもう非常にそれを誇りにしているわけですね。その隣に新興都市ではないけれども非常にモダンな雰囲気を湛《たた》えた沼津がありました。沼津は駿《する》河《が》湾に面していて、とても美しい松原があったんですね。今でもありますけど、牧水のおられた頃から比べるとかなり傷《いた》んできていますね。それは沼津の人々が守ろうとしても守りきれないくらいに自然破壊が進んでいるからでありますけど。
まあ、いずれにしても、父はその沼津の中学を出まして、私も同じ中学を出ました。父の一級下に井上靖《 やすし》さんがいた。それから父の二十五年ぐらい上に芹《せり》沢《ざわ》光治良さんがいらっしゃいます。いや、二十五年どころじゃないです、もっと上ですね。そういう意味では沼津中学校というのは、小説とか詩とかに関わりのある人間を何人か生んだ中学校でありまして、私の父もそこを出た。家が大変に没落してしまって、侍でしたから没落してしまうと腕に何も職がなくて、で、父はずっと学校の教員をしたわけです。そしてその代わりに若い時から「菩《ぼ》提《だい》樹《じゆ》」という短歌雑誌を主宰しまして、今では何十年になるか知りませんけど、父が死んでしまってからもずっとその雑誌はお弟子さんたちがやっているわけです。
というわけで、私は生まれた時から短歌の世界には身を浸《ひた》していたと思いますけれども、自覚的に短歌を読んだのは若山牧水が初めてで、それはつまり、死ぬことがなくてもいいらしいということがわかった一九四五年(昭和二十年)の八月以後です。八月のその時まで私は軍需工場で、中学三年でしたがずっと働いていたわけですけど、その八月十五日に戦争が突然、突然という感じで終わりました。大変うれしかった。しばらくの間は生きていられると思ったんですね。そしてそう思った友だちの連中がみんな、といっても三、四人ですけど、集まって同人雑誌を作ったんですね。
そんな同人雑誌やったって、紙もないし、印刷する術もなかったけど、とにかく軍需工場が閉鎖されましたのでそこには紙がいっぱいあった。工員の作業日程を印刷した紙の裏側は実に見事に使えるわけです。それを全部、一枚一枚裏返しにして、学校のガリ板で刷って、三十七部ぐらいの、限定版の雑誌を合計で八冊出しました。中学三年から四年にかけてです。四年の時に私、旧制高校へ入っちゃったのでその時まで、ですから足掛け二年ぐらいの間、同人雑誌をやったんです。
その間に私が最初に書いたものは短歌でした。短歌を書くのは私にとっては当たり前だったんですね。それから散文を少し書いて、その後で、どうも短歌では自分の気持ちをぴったり表現できないところがあるような気がして、現代詩を始めたわけですけれども、現代詩は、いきなり日本の現代詩をやったわけではなくて、翻訳で何人かの外国の詩人に惚《ほ》れ込《こ》んで、それから始めました。
ですから私は、今の若い人々のたどる経路とはちょっと違うと思います。短歌をやって、散文をやって、現代詩へ行くというのは比較的少ないと思うんですけど、私はそういう変則でやりましたので、短歌については一番最初に親しみを持ったという詩型であるために、その後、あまり作ってはいませんけど、作ろうと思えば今すぐにできるというふうにいつでも思い続けております。五七五七七は自分にとっては非常にしっくり来る形式ではあったんですね。
最初に、創刊号を出す前にわざわざ創刊準備号というのを出したんですから非常にませていたわけです。それが一九四六年の二月に第一号が出たんです。
その前年の十二月頃、私はたぶん箱根の麓をうろうろ歩いている。中学三年生で、まあ、うろうろ歩くしかなかったんですね。マージャンもありませんし、パチンコもありませんし、環境的にいうとガキどもにとっては非常によい環境でした。けっして皮肉ではありません、まじめに言っています。ものを考えるのに非常によかった。そしてなにか考えたことを書くのによかった。そういう生活をずっとしていましたので、自分が雑誌に歌を作らなければならない、それではというので、箱根の麓の三島の、その、東のはずれですね。三島には官幣大社三島神社というのがあって、非常に大きい神社ですけども、そのへんから東側は、今ではすっかり住宅街になりましたけど、まるで畑と田んぼしかなかった。そういうところを歩いて作った歌がありまして、これは、私、既にいろいろなところにその事を書いたものですから、また同じことを言ってると思われるかもしれないけれども、話の都合上聞いてください。
最初に、つまり創刊号ではなくて創刊準備号の第一首目に載せた歌が、
真昼野の山田の畔《くろ》を一人行けば青き麦萌《も》ゆ命ひた燃ゆ
というんですね。随分調子がいいので自分では得意になって、歌なんてこんなもんだって思って、仲間は短歌をやっているのは一人もいなくて、とても上手に俳句を作るとか散文を書くのがいたんですけど、この連中が絶賛したんですね。大岡のはちゃんと歌になってる、五七五七七になってると感心しちゃった。私にとってこれは最初の歌ですからよく覚えているんですけども。
ところがそれから二十年以上も経ってから、歌と自分との関わりについて書かなければならないことがあったんです。それで、牧水の歌集をまた読んだんですね。そうしたら牧水の一番初期の歌、早稲田の学生の頃の歌でこういう歌を発見したんです。またそれが開巻すぐに出てきたのでぎょっとしたんですけど、
真昼日の光の中に燃えさかる炎か哀しわが若さ燃ゆ
私の歌は明らかなる剽《ひよう》窃《せつ》だといわれても仕方がないようなものです。「真昼野の山田の畔《くろ》を一人行けば青き麦萌ゆ命ひた燃ゆ」「青き麦萌ゆ」は萌え出てくる、「命ひた燃ゆ」はぼうぼう燃えるという意味。ところが牧水のは「真昼日の光の中に燃えさかる炎か哀しわが若さ燃ゆ」。
私は牧水を耽《たん》読《どく》した時期が数カ月あったんですね。耽読したといえるかどうかわからないけど、とにかく非常に牧水が好きで、岩波文庫の『牧水歌集』を、特に初めの方の数十頁は本当になめるように読んだんですね。それが麻疹《はしか》みたいなもので三カ月ぐらい。その時におそらく影響を受けていて、この最初の歌を作ったんだと思うんです。自分ではまったくその自覚がないんですがね。ずっとあとになってある時牧水の歌集を読んでいて、あれ、おれの歌にそっくりじゃないかと思った(笑)。牧水はおれのまねをしたんじゃないか(笑)。だけど時間的には全然違いますから、本当に恥ずかしかったですね。もう訂正できない。だから、後にそのことを随筆に書きました。つまり私がいかに剽窃の天才であったかという感じですね。
ところが、剽窃的なものは、たとえば寺山修司という人が、これが実に見事にそれをやったんですね。彼は僕の大好きな男ですけど。有名な俳人のある俳句をそっくりとって三十一文字の和歌にして、寺山の歌の方は残っているけど、俳句の方は消えちゃったというようなケースが……(笑)あります。残念ながら私はそれ一回しかなかったんですね。この後すぐ、私の牧水振りは完全に消えてしまって、「鬼の詞《ことば》」という変な題の雑誌なんですけど、それに歌を載せたんです。四年生になってまもなくの歌ですが、流れ星を詠んだ歌でして、
寒々と橋の上を吹く風痛し折しもあれや流れ星落つる
とか、あるいは白鳥座のことですが、
白鳥を縫ひてすべりしものひとつ燃えの尽きては闇に紛らふ
「燃えの尽きては」の「の」の使い方なんかは随分、窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》だと思いますね。それから、
ちらと燃えて燃えの命の耐え難く夜空を縫ひて流るるものか
とか、このあたりの感傷的なところは、多少とも牧水を引きずっていると思いますけれども、歌のスタイルはもはや窪田空穂風になっているんですね。
その頃、私はべつに空穂だけ一生懸命読んだわけでもなくて、一日ごとに愛読書が変わっていく時代です。その愛読書も、翻訳のドイツの詩人だったり小説家だったり、或いはフランスの小説家だったりということで次々変わりますね。ですから、どこでだれの影響を受けたか全くわからないんですけど、そういう時期がありました。
いずれにしても創刊準備号に載せた一首だけは、明らかに牧水を熟読したことがわかるというわけでありまして、そのために、のちのち、私は『若山牧水』という本も書きました。今では中公文庫になっていますけど、初めは平凡社で単行本で出したんですね。そこにいろいろと自分のその頃のことも含めて、牧水が非常に好きだった、今でも好きであるということを書いております。
牧水という人は、多少ともこの人を知った人で嫌いになる人はいないんですね。牧水はもうつまらないから卒業した、とかいうような人はいるでしょう。しかし、牧水がとてもいやで、感じ悪い人だというふうに思う人は、いたら、よほどその人自身が感じ悪い人です(笑)。
以前に馬場あき子さんと伊藤一彦さんと私と三人で牧水についての座談会をやったことがありまして、そのときに伊藤さんが非常に残念ながらといっておっしゃっていたことで、よく記憶しているのですが、宮崎の人でさえも、牧水というと旅と酒の詩人、そして放浪の歌人だというふうに思う人が多いと言うんですね。伊藤さんはそれを慨《がい》嘆《たん》して言われまして印象的だったんです。
牧水を放浪の歌人というのは全くのまちがいで、そんなことを思っている人がいたらここから出て行ってもらいたいと思うくらいです。全然違うんですね。放浪の俳人で種《たね》田《だ》山《さん》頭《とう》火《か》がいますね。あの人と牧水を一緒にされたら、私は、よせよって必ず言いますね。冗談じゃねえよって。種田山頭火ファンの方もそう言うかもしらん。しかしそんなことはどうでもいい。問題は、牧水は放浪の歌人ではなかったということですね。それは、牧水には旅をする理由がちゃんとあった。ただし、その理由は後でわかるんですね。自分は夢中になって飛び出しちゃう。飛び出してから、だんだん、わかる。
で、その旅では紀行文を書いているんですけど、その有名な一つが『みなかみ』であることは、みなさんご存じの通りです。『みなかみ』を読んでもわかりますけど、牧水の旅というのはとにかく遮《しや》二《に》無《む》二《に》歩くんですね。歩くんだけれども、だんだん、だんだん、歩いていくうちに生命の孤独感と、同時に、突然、自分が思いがけないかたちで出会った川とか谷とか、道とか山とか、そういうものに出会ったときに全身的にものすごい歓喜の情に浸される。その歓喜が欲しいから夢中になって歩くんですね。その歓喜が欲しいというところが山頭火とは違います。
山頭火は、そういう生命の歓喜というものから、なにか下りちゃった人なんですね。山頭火の場合、家族に悲劇的なかたちで命を終わった人なんかもいるわけです。そういう意味で、あの人は命の希望といったものに対してシニカルだったと思います。つまり、素直に信じられないところがあった。ところが牧水はその正反対で、本当に素直ですね。それは牧水が亡くなった後で、「創作」で、昭和四年(一九二九)だったかな、分厚い牧水の追悼号を出した。後に、確か「創作」八十周年ですかね、これの復刻版が出て、かなり大勢の方が今ではそれを手に入れられたと思うんですけど、その牧水追悼号に、実にたくさんの人が寄稿している。現代詩とか短歌とか俳句とか、あるいは川柳や漢詩などまで含めて、その人数とメンバーの豪華さというものは今では絶対にありえない。そのくらい牧水という人は日本の、詩歌だけではなくて、詩とか小説とかの世界まで含めて、彼が死んだときに追悼の文章を寄せたその数の多さというので、彼に匹敵する人はほとんどいない。実は今日僕はその追悼号の目次をコピーしてきたんですけど、大変な枚数になるんですね。目次がですよ、人の名前が一行一行あるんですけど、すごいものです。
追悼号の最初にすばらしい文献があって、牧水が亡くなった時、九月十七日、まだ残暑の暑い盛りに亡くなったわけですけど、その亡くなるまでの何カ月間をずうっと、毎日絶えず見舞って、診察して、お食事からなにから全部几《き》帳《ちよう》面《めん》に正確に記録なさっていた稲玉さんというお医者がいる。稲玉医院といって、今でも沼津に三代目か四代目の人がいると思うんです。私どもも中学生のころ知っていた古い病院ですね、その稲玉先生が書かれた「若山牧水先生の病況概要」という、ものすごい文章です。いわゆる、文章のようなものは、禁欲的にほとんど書いてないのです。全部朝はどういう食事を摂《と》って、昼はどういう食事を摂ってということを書いてある。それが実にいいんですね。私の読んだのでは、昔、夏目漱石が亡くなったときの、漱石の頭を解剖したその記録、脳の重さとかなにかを全部調べたそのときの記録がありまして、とてもいいものでしたけど、それに勝るとも劣らない感じのいい文章がこの稲玉さんの文章です。それから若山喜志子夫人が、看病をした間の「病床に侍して」という長い文章を書かれた。
追悼録になると、ごく一部分をつまんでも、歌人の尾《おの》上《え》柴《さい》舟《しゆう》、窪田空穂、詩人の川《かわ》路《じ》柳《りゆう》虹《こう》、萩《はぎ》原《はら》朔《さく》太《た》郎《ろう》、河《かわ》井《い》酔《すい》茗《めい》、俳人の臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》、飯《いい》田《だ》蛇《だ》笏《こつ》、そしてまた歌人の土《と》岐《き》善《ぜん》麿《まろ》、土岐さんは大の親友でしたから当然なんですけど、それから斎藤史《ふみ》さんの父上の斎藤瀏《りゆう》、当時は有名な軍人さんですね、書いている。それから詩人で絵かきで歌人でもあった中川一《かず》政《まさ》、やはり歌人で岡野直七郎とか、金《かね》子《こ》薫《くん》園《えん》、太《おお》田《た》水《みず》穂《ほ》・四《し》賀《が》光《みつ》子《こ》夫妻、前田夕《ゆう》暮《ぐれ》、俳人の荻《おぎ》原《わら》井《せい》泉《せん》水《すい》、その当時はもう良寛の研究者として随一の人になりつつあった相《そう》馬《ま》御《ぎよ》風《ふう》、詩人の福《ふく》士《し》幸《こう》次《じ》郎《ろう》、小説家の岡本かの子、かの子は長い間歌人でもあったわけで、それから石《いし》榑《くれ》千《ち》亦《また》、吉井勇《いさむ》、室《むろ》生《う》犀《さい》星《せい》、尾《お》山《やま》篤《とく》二《じ》郎《ろう》、白《しら》鳥《とり》省《しよう》吾《ご》、高村光太郎というふうなメンバーがざっと並んでいる……。
どれも非常におもしろいんですけど、それらを読んで、みなさんにご紹介したい短い文章があるんです。それは岡本かの子ですね。かの子は、与《よ》謝《さ》野《の》晶《あき》子《こ》の弟子ですけど、四十歳近くまで短歌をずっと書いていて、歌人としても非常にいい仕事をしていますけど、『わが最終歌集』という歌集を出してからも歌を作っている人で、その後でいろいろな小説を書きだすわけです。『生々流転』とか『鶴は病みき』とか。それらの作品をこれから書こうという時期の、かの子の文章だと思いますけどね。昭和三、四年のころですから、まだ小説家としては世に出てないんです。
会えば、牧水の品のよい素朴な丸顔がいつでも笑み崩《くず》れるようにして「一平さんに会いたいですな」って、かの子の旦《だん》那《な》さんの「一平さんに会いたいですな。一度ゆっくり話したいですな」ってよく、言ってらっしゃった。だけど結局もうそれもかなわなくなったということです。
で、牧水の歌集については、かの子自身が「作品では大正初年ごろの『海の声』の中に随分好きなのをたくさん見た。それから『山桜の歌』」、これは晩年のですね。『山桜の歌』の中にも、酒間の歌にも、すべて、自然を背景としたよい歌がたくさんあった。遊《ゆう》蕩《とう》歌、牧水は遊女を買っている歌もけっこうあるんですね、それはもう読んでいてぎょっとするような、こんな歌を発表していいのかなと思うような歌もありますけど、「その遊蕩歌さへ牧水さんのは汚くない。なにか澄《す》み透《とお》つたものが流露してゐる」、このへんはもう岡本かの子が、かの子自身の小説を書くうえで求めていた世界と非常に近いんですね。
「しかしなんといつても牧水さんは自然詩人であつた。ただし、西行とは異なるものを感じる。西行はどこまでも宗教的人生観を根底に持つて、後に自然に向かつた。牧水さんは自然と直面である、自然と真向かいに向かい合つている。その間に何の思想も観念も介在しない。その点、西行より、より純粋な自然詩人であつたと思ふ」。ここからがおもしろい、ここからがかの子的だなと思うんです。「自然をご飯のやうに食べた。お酒のやうに呑んだ。自然が容赦なく牧水さんに溶流し、傾倒し、一致したのは当然である。牧水さんこそ我が国古今唯一の自然詩人であると極言できる。古今の大詩人に自然と秀歌がいくばくかあるにしても、牧水さんほど徹頭徹尾自然と自家の歌を終始せしめた人はいない」。つまり自然と自分とが一体化しているということでしょうね。「他の、あるいは自然を借りて親子男女間の情を叙し、自然を傀《かい》儡《らい》として」自然を操《あやつ》り人形として「宗教や哲学思想を歌つた歌の多いのに比して」、つまり自然を歌っているように見せて実は自分の抱懐する哲学思想とかをそれによそえて洩《も》らすというようなやり方をする人は、歌人でも詩人でも多いわけです。自然界を歌っているように見せて自分自身がほかに思っていることを歌うのが、まあ、方法論の一つですね、で、そういうのが多いのに比して「牧水さんは、自然と無条件に融合した。否、牧水さんこそ、とりもなほさず自然そのものであつたといへる。自然の子であり、親であり、友であり、同胞であり、恋人である牧水さんが死んで」、このあとがおもしろいんです、「日本の自然も淋しいことであらう」と、まあ、そんなふうに書いている。
岡本かの子という人は、牧水を彼女らしい見方で本質をよくつかんでいると思うんですね。こういう種類の追悼文を、百人近くが書いている。そういう雑誌が昭和の初めに出ているんですね。
それは私の父の書棚にあって、父が死んだので全部私のところへもってきていますけど、今度ここへ来るので読んでみて、いろいろとおもしろいものを見つけた中の一つです。
実は岡本かの子さんがそう書いているので、しまった、おれはやっぱり、そっくり同じことを書いちゃった。だけど当時は読んでなかったということがありまして、それは要するにこういうことを本の中で書いたんですね。私の考えでは牧水という人は自然と相対するんじゃないんだ、自然と相対するということは、自分と自然が別々なものだということが前提になっている。我々がものを見るときとか自然を見るとき、或いは人間を見るときでも、必ず、おれとあの人とは違うというところから出発しているわけです。ヨーロッパ風の人々であればそれが初めから前提条件なんですけど、日本人は必ずしもそうでないところがある。
かの子さんもいっていますけど、西行という人はやっぱり自然と自己とが相対しているところから出発して、いつのまにか融合しているという人だったと思うんです。で、私はその点を、牧水論の中で、自分なりの書き方で書いているんですけど、「この歌人の歌には息を詰めて自然を凝視していくといった、自然への緊迫した対し方はない。たとえば長《なが》塚《つか》節《たかし》の歌を思い浮かべてみるならば、そういう点が一層はっきりするだろう」。長塚節の歌は実に自然を刻むようにして歌っていきますね。本当にいい歌が多いんですけど、自然と彼自身とが必ず対立して、対面しているわけです。そこが牧水とは違うと思うんです。
「牧水の歌を読んでいると、自然に対面してきりきりと感性を絞《しぼ》り上げている人の姿ではなく、むしろ自然がその人の中を次々に通過していくとでもいうほかない、そんな一人の人間が浮かんでくる」
私にとっては牧水は、自然に向かい合ってどうのこうのではなくて、まず彼が歩いていくんですね、すると周りの自然界がいつのまにか牧水と一緒に歩いている、牧水の中で歩いている、そういうふうになっちゃう人。これは本当に珍しい人で、ですから一人の天才としか言いようがない。
で、この人の歌は「歌の風通しがいい」、実に風通しがいいんですね。「彼の歌の世界に入り込むと、牧水個人の個性的なものの見方とか考え方よりは、むしろ牧水という人を通して表れてきた、自然の刻一刻の相貌がじかに私たちの前に展開するという感じがする。言い換えると彼の歌は、彼自身の内面にではなく、彼を通して見えるようになった自然界に、じかに触れることを私たちに誘いかけてくるのである」
つまり、彼の歌を読んでいると、牧水とはどういう人か、というようなことをあまり思わせない。だから一時期、現代短歌の世界で牧水は忘れられたんですね。それはなぜか。つまり、現代の歌人は、なにかものを見て美しいと思った瞬間に、なぜ自分はそれを美しいと思ったかを、自分に納得させないと前へ進めないような、どうしようもなくせちがらい世界に生きているんですね。ところが牧水は、その歌を通して自然がじかに見えてくる。それに触りなさい、私を通過して、という。つまり、牧水の歌を読むと牧水という人がいなくなってしまう。いなくなって、その向こうにある空の青とか海の青とか、そういうものにじかに読者が触ってしまうんです。ですから牧水の歌は名前を必要としないのです。
先ほど、岡《おか》野《の》弘《ひろ》彦《ひこ》さんがおっしゃったように、牧水の歌は、これは若山牧水だ、と作者名を言う必要がないくらいに私たちの頭の中に入り込んでくる歌なんですね。それがあまりにもたやすく入り込んでくるから、阿呆なやつは、この人の歌はちょろいと思っちゃうんですね。つまり、自他の区別ばっかりしたがる今の人とは違って、牧水のように胸を開いて、自然界を自分の中へ入れてしまって、その自然界にみなさん触ってごらんなさいといって見せてくれる、そういう歌人が今はいなくなっちゃった。これは時代の影響です。非常に大きな時代の影響。そういう意味では、牧水は過去の人に見えますけれど、実は未来の人なんです。
西行の歌だってそうですね。西行の桜の歌は、西行自身が桜になって散ってるんですよ。西行が散る桜を見てるんじゃないんです。いつの間にか、ひらひら散っている一片一片に西行がいる。そういう歌人や俳人はときどき出てきました。松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》も、作品そのものはとてもしんどいですけれど、生き方としてはそういう世界をねらった人だと思います。
いずれにしても、牧水の歌で特徴的なのは、自然界です。世の中では『別離』という三冊目の歌集を処女歌集だと思っておられる人が多い。それはけっして無理もないので、なぜならばその前の二冊は彼の学生時代の自費出版で、ごく小部数しか出なかったんですね。で、『別離』の中には一冊目と二冊目の歌もたくさん入っている。だからこれが処女歌集だといわれるのも無理もないところがあるんですけど、その『別離』巻頭の歌というのが、象徴的に若山牧水の生涯を表していると思うのですね。
水の音に似て啼く鳥よ山桜松にまじれる深山の昼を
水音、鳥、山桜、……晩年には山桜の歌集まである。それから松、松は大好きだった。千本松原は松の宝庫です。それから深山。彼は深山が非常に好きです。彼が生まれた故郷東《とう》郷《ごう》町坪《つぼ》谷《や》もそういう感じだったわけですけど、好んで歩き回った関東地方を中心とするところは、みんなそういう深山に面してというか、深山を背中に背負った渓谷、そういうところを一人で、ときにはふらふらになって、孤独で、泣きながらひたすら歩いていくということも度《たび》々《たび》やっている。
で、泣きながら歩いていって、突然、すばらしい、たとえば浅間山の麓にわっと出たりすると、それだけで夢中になって、大声を張り上げて転げ回って歓ぶという、そういう旅をしている。そういう意味では、自然界の懐にそのまま直入している人の歌として『別離』の巻頭の歌は本当に象徴的だと思うんです。
そもそも牧水の名前自身が、お母さんがマキさんだから牧水の牧になり、水が好きだから水とつけた。彼は青年時代、ほかにもいくつも号を作っていますけど、結局牧水に決まったんですね。お母さんと水というのは両方とも牧水が一番好きな存在なんです。私は子供の頃に、父の書棚に改造社版の牧《マキ》水《ミズ》全集というのがあって、ずっとマキミズ全集って思っていて、(笑)後で恥ずかしい思いをしましたけど、今になってみれば正しい理解だった、マキさんとミズですから(笑)。
いずれにしてもそういう意味では牧水は自然というものの見方を、深いところで教えてくれる人だと思うんです。
それに関連していえば、沼津の千本松原というのは、あるときに、静岡県で、松原を伐《き》って薪《まき》かなにかにして売っちゃおうという馬鹿なことを考えた。大正の十年代に議会にそういう声が上がったことがあるんですね。
千本松原は大変な松原なんです。これは歴史的にいえば、武《たけ》田《だ》勝《かつ》頼《より》などの戦いが駿河地方であって、その戦いのためにこの松原がすっかり焼け野原になったことがあった。焼け野原になったために、漁民だけではなくて一般の市民も含めて浜辺にいる人々が非常に苦しんだんです。なぜかというと、駿河湾から来る塩水を含んだ風が、いきなりもろに来ますから、それで作物が全然できないんですよ。作物ができないでみんなが困った困ったと言ってるときに、京都から増《ぞう》誉《よ》上人という、比《ひ》叡《えい》山かどこかの和《お》尚《しよう》さんがいらっしゃって、一本一本、お経を唱《とな》えながら植えていったのが、千本松原の出発点なんです。ですからこれは大変な松原なんですね。
千本松原は、狩野川が駿河湾へ流れ出ているところから始まって、西に向かって沼津の市街を横切り、というか縁を伝わって、海岸線を西へ伸びて、そこに原という町がありますけど、そこまでずうっとつながっている大きな松原で、しかも牧水が大好きだった理由の一つは、この松原が、よく絵やなにかにあるような、磯馴れ松とか、白《はく》砂《しや》青《せい》松《しよう》とかいわれる、松があって下草もなにもないような松原、まあ、美しいと思う人が多かった、そういう松原がありますが、沼津の千本松原はそういう松原じゃなかったんですね。本当に松が一本一本すーっと高く真っすぐに立ってるんです。そして松の根っこには、いろいろな種類の雑木と草がいっぱい生えていて、私ども子供の頃、そこへ行ったら足を取られちゃって、なかなか前へ歩けないくらいのところもありました。そういうところが牧水は大好きだったんですね。たぶん宮崎の坪谷の辺りが似ていたのでしょうか。彼は長年東京に暮らして、東京でいろいろやったけれども、最後に千本松原へ来て住みついた。沼津では住所が二回変わったんですけど、最後は千本松原に住みついて、そこで十年くらい過ごして、四十三歳で死んだんです。
で、増誉上人の事跡は彼はもちろん知っていて、大好きな松原のこともよく研究していた。雑木と下草が立派に生えている。と、その下草の名前も、実によく知っていて、十種類以上の草の名前を、慈《いつく》しみながら随筆などにも列挙して書いている。松は松で、矗《ちく》々《ちく》と真っすぐに立っているのがとても気持がいい、と。松が落とす葉っぱとか松《まつ》毬《かさ》とかそういうものが、下へ落ちて、腐《くさ》って、下草をせっせと養って、下草は下草で冬になって枯れると松を育てるという生の循環、近頃でいうところのエコロジーの考え方が、牧水には非常に早くからあった。これは立派だと思います。
ところがある日、彼が松原に行ってみると、木にしるしがついてる。何だと訊《き》いたら、これは伐る予定の木だというので、彼は仰天した。
政治にはまったく縁のない人だったし、政治演説なんてもちろんできませんでしたが、政友会から立候補した知人が、牧水は有名な人だからぜひ応援演説してくださいと頼んできたことがありまして、丁度、松原を伐っちゃおうという県の案が大きくなってきたという時期でしたので、政治演説なんか絶対できないと思うけれども、この場合は、よし、それなら行って松のために演説しようと彼は思ったんですね。
政友会のその政治家は、沼津地方ではかなり有名な人でした。その人のための演説に、興津だったか焼津だったかまで出かけたわけですね。満員だったらしい。満員の人がしーんと静まり返ったところで、いきなり話し始めたのが千本松原だったんですね。みんな呆気にとられて、一分、二分、三分、四分、全く政治家の名前さえ出てこない。松原の話を一生懸命しているわけです。人々が、これは変だ、この先生はなにかおかしいと言い出して、ざわざわしてきた。しまいには喧《けん》噪《そう》を極めちゃった。で、牧水は茫然として、予定された時間の半分もやらずに、じゃあ御《お》仕《し》舞《ま》いと言って出て来ちゃったんですね。
その時に、高弟で牧水が亡くなるまで身辺で尽くした大《だい》悟《ご》法《ぼう》利《とし》雄《お》さんという歌人、そのころは、二十歳ちょっとぐらいの書生ですね、大悟法さんが一緒について行っていた。で、舞台の袖で聞いているとなんだかひどい話になって、聞いている人はもういなくなった。先生困ったなと思っていたら、牧水もうんざりしてやめてしまった。牧水はもう怒って青くなってるし、大悟法さんは汗びっしょりになっちゃった。
で、二人でぼそぼそ沼津まで帰る途中で、昔の汽車ですから、一時間近くかかったかもしれない。その間、初めは憂《ゆう》鬱《うつ》で困ったと言ってるんですけど、やがて――牧水という人は必ず歌をなんとなく朗《ろう》詠《えい》するんですね、で、気分が乗ってきたらもう朗詠しながら書の揮《き》毫《ごう》もします――、まあ、お酒と朗詠とはつきものだった。だけどその時には悄《しよう》然《ぜん》として乗ったんですけど、夜遅くて車両にほとんどお客がいなかった。二人で朗詠を始めて、だんだん元気になって、短歌だけじゃなくて、漢詩も、歌謡も、思いつくものを全部、朗々と朗詠しながら沼津へ帰ったというエピソードがあります。
牧水に選挙の応援演説を頼む人も頼む人だけど、でもまあそういうことをやった。
で、彼はもちろんそれだけでは済みません。東京の新聞にも、沼津の新聞にも反対論を書いたんですね。この歴史ある松原、たくさんの人々が大事に育ててきたこのすばらしい松原を、一片の紙切れで伐っていいのか。まるで、人の顔の眉《まゆ》毛《げ》を、突然剃《そ》っちゃうみたいなものだと書いたんです。おもしろい比喩ですけど、まさに千本松原でも一番美しいところを伐り倒そうとしたわけで、で、その話はとうとう立ち消えになりました。牧水にとって生涯で唯一の、政治運動だったんです。
もとを言えば、べつに政治運動に関心があったわけでは全然なくて、自分の愛してやまない松林が突然、眉毛を剃られるようになくなりそうになった、そんな暴挙はやめろということをやったんですね。政治的でない人間が書いているんですからたぶん大した政治的な力は発揮しなかったと思いますけれども、今読んでも、非常にいい文章です。理路整然と、松林の歴史を語り、増誉上人を語り、松林に生えている下草の種類を克明に、一つ一つ書いている。そしてその上に生えている松がどのようにして循環しているかを書いている。科学者の論文というか、科学者の随筆みたいな感じもするくらいです。
牧水の文章は、大正時代に書いているわけですからもう百年近くにはなるわけですけど、にもかかわらず文章にはちっとも渋滞がない。正しく息をしているように、すーっと書いている。たぶん声を出して書いたんですね。
牧水は歌を作るときもそうやったと思います。しかもそれは自分が作った歌だけではなかった。牧水はたくさんの雑誌とか新聞の選をしました。選歌の量があまりにも多くて、命を縮めたということがあると思いますけど、一方、家族の方々や大悟法さんが書いていらっしゃいますけど、選をしていれば、素人のへたな歌もいっぱい来る、その中にいいのが一首あると、突然うれしくなって、踊るようにその原稿を持って下りてきて、家の人の前でそれを、どうだい、こんないい歌だよと言って読むんです。全く自分の歌じゃないですよ。この人くらい自我の主張が見事にコントロールされていた人は少ないのではないかと思うんですね。見も知らない人の、単なる投書の歌でも、うまい、いいなあと思ったら、それを持って下りてきて、みんなに披露する、しかも声を出して大声で読んで披露する。そういうことをやったことは、牧水の文章のわかりやすさにも通じています。
文章というものは、だいたい黙って書く人がほとんどだと思うんですね。しかし昔、僕らのじいちゃんばあちゃんの頃は、必ず声出しましたね。それを聞くたびに僕は恥ずかしかった。ばあちゃん、どうしてそんなところでいちいち声出して書くのかなあって思ったけども、あれは明治の人までは、まあ当り前の書き方だったんですね。
つまり声を出しているときには、一筋のことしか言えないんですよ。ところが、書くということは、特に黙って書くということは、書きながら、あ、これはちょっとまずいと思って( )をして注釈を入れてみたり、わざわざ曲がりくねったことを一つのセンテンスの中に入れようとする。しかし、声を出してものを書くということは、筋が一本必ず通っちゃうんです。余計な瘤《こぶ》が他所に出ないんですね。じーっと黙って書く人は、あっ、このことも、あのこともというので、書いちゃった後でちょこちょこと付け加える。そこの部分は必ず瘤になります。それさえもうまくやるという人は本当の文章家ですが、そういう人は現代においてはなはだ少なくなりました。
理屈だけでなく、例を挙げますと、たとえば正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》、この人は晩年、何年間もベッドに縛《しば》りつけられるようにして、『病《びよう》牀《しよう》六尺』というエッセイ集を出しました。あの『病牀六尺』は、毎日書いては彼の所属した新聞に載せていたわけです。それが彼にとっては一日一日、まだおれの命があるという証拠でもあったから、とても大事にして書きました。ひどいときには一行しか書けない。それも自分で筆を執って書く力がない。彼はカリエスで、背中に穴が開いちゃって、膿《うみ》がしょっちゅう溜まっていて、で、寝返りも打てない。上を向いて墨をつけた筆を持たせてもらって、墨をつけてくれるのはたいてい高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》とか河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》とかのお弟子さん、でなければ妹さん、墨をつけてもらって、やっとばかりに、上に貼ってある紙、これは病人のためにわざわざ作った仰向けの書見台に貼った画板みたいなものに、美濃紙が一枚ずつ画《が》鋲《びよう》で貼ってあるんですね、それへさーっと書く。その字があの字ですからね、いかにすばらしかったかということがわかりますね。あれはだれに習った字でもなくて、書きに書いたからああいう枯れた字になった。枯れて真っすぐな字になった。その字で書きました。で、場合によっては書く力もなくて、そのときは口述筆記をさせます。そばにいるお弟子さんに――必ず誰かいます、口述して筆記させるんですね。それを新聞社に送ったんです。
そういうふうにして書いた文章、いってみれば全部語り言葉で書いてある。何々なりというふうな文語体で書いていますけど、本質は語り言葉なんですね。で当然、口述するときには語り言葉ですけど、そうでない日のものも同じ文体です。つまり本質的にしゃべっている文章なんですね。だから、お読みになればわかりますけど、『病牀六尺』は、明治以来百数十年、もう百三十年ぐらい経ちましたけど、その間に書かれたたくさんの随筆集の中で、今でもすっと読めるものの筆頭は『病牀六尺』、それから夏目漱右の随筆、それから高浜虚子の随筆。みんな俳句をやってる。俳句をやってる人々は文章を短く書くという訓練ができていたということもありますけど、もう一つはやっぱり声に出して読んだ。
漱右が『吾輩は猫である』を「ホトトギス」に一回だけ頼まれて書いた。そうしたらえらい評判がよくて、その号はあっという間に売り切れた。その時はもう子規は死んでいて高浜虚子が主幹でやっていますけど、虚子が「夏目さん、えらく評判がいいから続きを書いて」と言うし、漱石も評判がいいのはうれしいですから、書く。どうやってそれが発表されたかというと、漱石は、原稿が出来上ると、それを受け取りに来た虚子に朗読させた。朗読を聞きながら、あのしかつめらしい顔をした漱石が、いかにもうれしそうに、自分でもアハハ、ゲラゲラと笑って続きを待つんです。そのようにして朗読されたのち印刷された。漱石の文章は非常に文飾が多いですね、つまり余計なことがいっぱい書いてある。だから虚子はときどきちょっと反論したくなるんだけど、でもこれをやると、漱石、それじゃあ「ホトトギス」へ出すのはやめだと、やめてしまうかもしらんから我慢した。最初の回だけは虚子が手を入れたけど、二回目からはもうそんな切ってなんかいられないくらいな人気抜群になっちゃった。それでずうっと連載されて後々の大ベストセラーになるわけです。そのときの文章の書き方、読み方もやっぱり、要するに口頭でしゃべった文章をその後雑誌に出している。
しゃべるように書くということはけっしてむだなことではありません。しゃべるように書くと、単純になりすぎるかなと思うけど、当り前なんです。単純になるのがしゃべるように書くということであって、複雑に、「しかるがゆえになんとかかんとか」で、「しかしながら」とかいうのがごちょごちょと同じ文章の中に入っているのが立派だと思っているのは違うのです。日本語の文章というものはそういう造りではありません。英語やフランス語などは違います。英語とかフランス語は、which とか qui とか que とか、関係代名詞が入りまして、それによって、いくらでも長く伸ばせる。ところが日本語にはそれがありません、「なになにしたところの」程度ですね。その「なになにしたところの」というのが出てくる文章を書いていたら、私はそれ以上読まないです、あ、これはだめだと。そのくらい厳しいものですね。
なぜそうなるかというと、日本語のことをいちいち言ったらまた大変なことになるからやめますけど、要するに日本語の文章というのはもともとが語られる文章であって、句読点がなかったんですよ。ご存じのように句読点がない文章というのは今ではお免状、それから卒業証書、句読点、ついていません。あれは昔からの伝統を守っているんです。明治の六年に初めて全国の子供たちに教科書というのが行き渡った、その時に明治の人々は、ヨーロッパの文章の方が日本の文章よりも立派だと思ったんですね。よくよく見るとヨーロッパの文章にはコンマとかポイント、フランス語はポワンといいますけど、要するに「’’」とか「・」があるじゃないかと。だからこそ論理的な文章が書けている。それに比較して日本はまったく未開、野蛮である、句読点さえない、ということで句読点を使った。
で、そのために確かに論理的にわかりやすい文章がいっぱい書かれるようになったし、我々はもう句読点なしに文章を書くことはできなくなっちゃったけれども、にもかかわらず心構えとしては句読点なしに、人がわかるような文章を書かなければいけないんですね。
紫《むらさき》式《しき》部《ぶ》、清《せい》少《しよう》納《な》言《ごん》、みんな句読点なしに書いた。それでいてちゃんとわかるんですよ。明治でいえば樋《ひ》口《ぐち》一《いち》葉《よう》の文章はどうか。一葉は句読点、ついています。だけどもあの人の文章は、ずうっと句読点なしで読んでいけるんですね。ちゃんとそのとおりになる。それは、つまり息《いき》遣《づか》いです。俳句でいえば、五と七で、十二音で一つの単位になる。呼吸をついで最後の五をやるというふうになるんですよ。だから俳句はわずか五七五だけれども、実はあれは二つに割れています。なぜかといったらそういう日本語の生理から来ている。日本語というものは十二音以上ずうっと長く続けるようでは成り立たないのですね。
そういう意味でいうと、話を牧水に戻しますと、牧水が朗々と吟誦しながら歌を作ったことは本当に正しいんですね。日本語の生理として口語であるからこそ、牧水の歌や文章は、すばらしいんです。牧水の紀行文を読んだことがおありの人ならすぐわかります、この人の紀行文は今でも完全にそのまま読める。なぜか。結局あの人の文章はちゃんと日本語の呼吸法に合っているからです。なぜ合っているか、彼は声を出して書いたからです。
といっても、今日ここにいらっしゃる方が、お家へ帰って今日から役所の文書やなにかも大声張り上げながら書いたらやっぱりこれはちょっと……(笑)。しかし本質はそこにあるということだけは申し上げておきます。
で、牧水はそういうところで、とても偉い人だったというふうに思います。これでおしまいにします。
(平成九年一月二十九日 第一回若山牧水賞授賞式記念講演。「短歌研究」平成九年六〜七月号掲載)
句歌索引
●あ
青うみにまかゞやく日や。とほイウどほし
妣が国べゆ 舟かへるらし
釈 迢 空
青葉樹の寂しき秀より秀に飛びし
蝉はそのまま鳴かずこもりぬ
初井しづ枝
朝倉や 木の丸殿に 我が居れば 我が居れば
名宣りをしつつ 行くは誰
神 楽 歌
朝月夜双六うちの旅寝して
杜 国
紫陽花やよれば蚊のなく花のうら
加 藤 暁 台
頭の中で白い夏野となつてゐる
高 屋 窓 秋
暑き日に娘ひとりの置所
武 玉 川
あつしアウあつしと門アウ々の声
芭 蕉
あの夏の数かぎりなきそしてまた
たつた一つの表情をせよ
小 野 茂 樹
雨蛙芭蕉に乗りて戦ぎけり
榎 本 其 角
雨あがり数珠懸鳩の鳴出して
孤 屋
雨のあしなびきて見ゆる雲間より
懸け渡したる虹のはしかな
木 下 幸 文
あやめかる安積の沼に風ふけば
をちの旅人袖薫るなり
源 俊 頼
鮎くれてよらで過行夜半の門
与 謝 蕪 村
蟻地獄松風を聞くばかりなり
高 野 素 十
蟻の道雲の峰よりつゞきけん
小 林 一 茶
杏あまさうな人は睡むさうな
室 生 犀 星
行きなやむ牛のあゆみにたつ塵の
風さへあつき夏の小車
藤 原 定 家
いざのぼれ嵯峨の鮎食ひに都鳥
安 原 貞 室
石畳 こぼれてうつる実桜を
拾ふがごとし! 思ひ出づるは
土 岐 哀 果
泉への道後れゆく安けさよ
石 田 波 郷
市中は物のにほひや夏の月
凡 兆
一鳥声有り人心有り
声心雲水倶に了了
空 海
岩がねの苔の雫も木隠れて
おとに心をすます宿かな
正 徹
石麿にわれ物申す夏痩に
良しといふ物そ鰻取り食せ
大 伴 家 持
鵜飼舟高瀬さしこすほどなれや
むすぼほれゆくかがり火の影
寂 蓮 法 師
浮雲の身にしありせば時鳥
しば鳴く頃はいづこに待たむ
良 寛
牛放てば木の芽の風のやはらかに
袂に青き大那須が原
与 謝 野 寛
うちしめりあやめぞかをる郭公
啼くやさつきの雨のゆふぐれ
藤 原 良 経
美しき緑走れり夏料理
星 野 立 子
うつす手に光る蛍や指のまた
炭 太 祇
うなゐ児がすさみにならす麦笛の
声におどろく夏の昼臥
西 行 法 師
鵜の面に川波かかる火影かな
高 桑 闌 更
卯の花に蘆毛の馬の夜明哉
森 川 許 六
卯の花をかざしに関の晴着かな
河 合 曾 良
乳母車夏の怒濤によこむきに
橋本多佳子
裏富士の月夜の空を黄金虫
飯 田 龍 太
愁ひつつ岡にのぼれば花いばら
与 謝 蕪 村
枝にもるあさひのかげのすくなきに
すずしさふかき竹の奥かな
京 極 為 兼
越後屋に衣さく音や更衣
榎 本 其 角
炎天の遠き帆やわが心の帆
山 口 誓 子
おうた子に髪なぶらるる暑さ哉
斯 波 園 女
大魚釣る相模の海の夕なぎに
乱れて出づる海士小舟かも
賀 茂 真 淵
大蛍ゆらりゆらりと通りけり
小 林 一 茶
奥能登や浦々かけて梅雨の滝
前 田 普 羅
音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
赤 尾 兜 子
●か
加速度もていのち搏たむと灯虫をり
軽部烏頭子
かたつむりつるめば肉の食い入るや
永 田 耕 衣
片町に桶屋竝ぶや夏柳
内 田 百
郭公や何処までゆかば人に逢はむ
臼 田 亜 浪
かなしみは明るさゆゑにきたりけり
一本の樹の翳らひにけり
前 登志夫
鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は
美男におはす夏木立かな
与謝野晶子
かもめ来よ天金の書をひらくたび
三 橋 敏 雄
に寝てまた睡蓮の閉づる夢
赤 尾 兜 子
翡翠やひねもす一二三の淵
松根東洋城
川止に手にはを直す旅日記
誹風柳多留
かんがへて飲みはじめたる一合の
二合の酒の夏のゆふぐれ
若 山 牧 水
神田川祭の中をながれけり
久保田万太郎
岸のいばらの真白に咲
野 坡
桐ひろ葉小学生の立ち話
三 好 達 治
霧ふかき積石に触るるさびしさよ
石橋辰之助
金魚売買へずに囲む子に優し
吉 屋 信 子
金粉をこぼして火蛾やすさまじき
松本たかし
空をはさむ蟹死にをるや雲の峰
河東碧梧桐
草づたふ朝の蛍よみじかかる
われのいのちを死なしむなゆめ
斎 藤 茂 吉
草枕旅に物思ひわが聞けば
夕片設けて鳴く河蝦かも
よみ人しらず
茱萸の葉の白くひかれる渚みち
牛ひとつゐて海に向き立つ
古 泉 千 樫
くもの糸一すぢよぎる百合の前
高 野 素 十
雲のぼる六月宙の深山蝉
飯 田 龍 太
薫風や蚕は吐く糸にまみれつつ
渡 辺 水 巴
渓村 雨無きこと 二旬余
石瀬 沙灘 水涸れ初む……
菅 茶 山
声かけし眉のくもれる薄暑かな
原 裕
金亀子擲つ闇の深さかな
高 浜 虚 子
谺して山ほととぎすほしいまゝ
杉 田 久 女
今年亦出水に住むべき蚊遣哉
増 田 龍 雨
子は裸父はててれで早苗舟
利 牛
●さ
さつきまつ花橘の香をかげば
昔の人の袖の香ぞする
よみ人しらず
五月雨や鴉草ふむ水の中
河東碧梧桐
算術の少年しのび泣けり夏
西 東 三 鬼
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
松 尾 芭 蕉
しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、……
萩原朔太郎
七月や雨脚を見て門司にあり
藤 田 湘 子
忍ぶ夜の蚊はたゝかれてそつと死に
誹風柳多留拾遺
しぼり出すみどりつめたき新茶かな
鈴鹿野風呂
順礼の棒ばかり行く夏野かな
松 江 重 頼
白団となりの羲之にかゝれたり
大伴大江丸
涼風の曲りくねつて来たりけり
小 林 一 茶
涼しさはあたらし畳青簾
妻子の留守にひとり見る月
唐 衣 橘 洲
すゞしさや朝草門ンに荷ひ込
野 沢 凡 兆
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ
野 沢 節 子
全長のさだまりて蛇すすむなり
山 口 誓 子
千峯の鳥路は梅雨を含めり
五月の蝉の声は麦秋を送る
李 嘉 祐
祖母山も傾山も夕立かな
山 口 青 邨
空青し山青し海青し
日はかがやかに……
佐 藤 春 夫
●た
篁の竹のなみたち奥ふかく
ほのかなる世はありにけるかも
中 村 三 郎
滝の上に水現れて落ちにけり
後 藤 夜 半
蛸壺やはかなき夢を夏の月
松 尾 芭 蕉
ただ一つ松の木の間に白きもの
われを涼しと膝抱き居り
長 塚 節
橘のにほふあたりのうたた寝は
夢も昔の袖の香ぞする
藤原俊成女
田中の井戸に 光れる田水葱
摘め摘め吾子女……
催 馬 楽
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな
金 子 兜 太
月や出づる星の光のかはるかな
涼しき風の夕やみのそら
伏 見 院
月読の光りの下の水すまし
しづけきを見て、かへり来にけり
折 口 春 洋
角上げて牛人を見る夏野かな
松 岡 青 蘿
出水川あからにごりて流れたり
地より虹はわきたちにけり
前 田 夕 暮
ところてん煙の如く沈み居り
日 野 草 城
●な
汀にはいれば足にさはる鮎のやさしさ
滝 井 孝 作
鳴く蝉を手握りもちてその頭
をりをり見つつ童走せ来る
窪 田 空 穂
茄子煮るや気付けばしんと巴里なりき
小 池 文 子
夏河に光を見せて飛ぶ魚の
音するかたに月はすみけり
上 田 秋 成
夏河を越すうれしさよ手に草履
与 謝 蕪 村
夏草のしげみが下の埋れ水
ありとしらせて行くほたるかな
後 村 上 院
夏草や兵どもが夢の跡
松 尾 芭 蕉
夏の海水兵ひとり紛失す
渡 辺 白 泉
夏の女のそりと坂に立っていて
肉透けるまで人恋うらしき
佐佐木幸綱
夏の夜のこれは奢ぞあら莚
広 瀬 惟 然
夏の夜や崩て明し冷し物
松 尾 芭 蕉
夏深み入江のはちすさきにけり
浪にうたひてすぐる舟人
藤 原 良 経
夏山の大木倒す谺かな
内 藤 鳴 雪
夏山や一足づつに海見ゆる
小 林 一 茶
なんと今日の暑さはと石の塵を吹
上 島 鬼 貫
濁り江の泡に皺よる暑かな
高 井 几 董
虹自身時間はありと思ひけり
阿 部 青 鞋
人間が躓く石をやすやすと
越えてゆく蟻の長き一列
阿 部 正 路
猫の子に嗅れてゐるや蝸牛
椎 本 才 麿
ねこの子のくびのすゞがねかすかにも
おとのみしたる夏草のうち
大 隈 言 道
ねそびれてよき月夜なり青葉木菟
森かへてまた声をほそめぬ
穂 積 忠
●は
飛蟻とぶや富士の裾野の小家より
与 謝 蕪 村
白牡丹といふといへども紅ほのか
高 浜 虚 子
葉桜の中の無数の空さわぐ
篠 原 梵
はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は をゆび の うれ に ほの しらす らし
会 津 八 一
花橘も匂ふなり 軒のあやめも薫るなり
夕暮さまの五月雨に 山郭公名告りして
慈 円
鼻の穴涼しく睡る女かな
日 野 草 城
花びらをひろげ疲れしおとろへに
牡丹重たく萼をはなるゝ
木 下 利 玄
万緑の中や吾子の歯生えそむる
中村草田男
牽き入れて馬と涼むや川の中
吉 川 五 明
ひつぱれる糸まつすぐや甲虫
高 野 素 十
一竿は死装束や土用ぼし
森 川 許 六
日のあたる夢をよく見る氷室守
武 玉 川
日の暮の雨ふかくなりし比叡寺
四方結界に鐘を鳴らさぬ
中 村 憲 吉
向日葵の大声で立つ枯れて尚
秋元不死男
向日葵は金の油を身にあびて
ゆらりと高し日のちひささよ
前 田 夕 暮
緋目高のかがやけるむくろ掌にかこひ
嘆美して低し少年の声
服 部 直 人
冷されて牛の貫禄しづかなり
秋元不死男
蛭の口処をかきて気味よき
芭 蕉
篠懸樹かげ行く女らが眼蓋に
血しほいろさし夏さりにけり
中 村 憲 吉
降りやまぬ雨の奥よりよみがへり
挙手の礼などなすにあらずや
大 西 民 子
故郷の電車今も西日に頭振る
平 畑 静 塔
ふるさとの沼のにほひや蛇苺
水原秋桜子
降るほどはしばしとだえてむら雨の
すぐる梢の蝉のもろ声
藤原為守女
紅花買みちにほとゝぎすきく
荷 兮
蛇逃げて我を見し眼の草に残る
高 浜 虚 子
鳳仙花散りて落つれば小さき蟹
鋏ささげて驚き走る
窪 田 空 穂
ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに
森 澄 雄
朴散華即ちしれぬ行方かな
川 端 茅 舎
鬼灯市夕風のたつところかな
岸 田 稚 魚
蛍這へる葉裏に水の迅さかな
長谷川零余子
ほととぎす声待つほどは片岡の
杜のしづくに立ちや濡れまし
紫 式 部
ほととぎすそのかみ山の旅枕
ほのかたらひし空ぞわすれぬ
式子内親王
ほととぎす空に声して卯の花の
垣根も白く月ぞ出でぬる
永 福 門 院
時鳥鳴くや湖水のささ濁り
内 藤 丈 草
●ま
舞へ舞へ蝸牛
舞はぬものならば……
梁 塵 秘 抄
真処女や西瓜を喰めば鋼の香
津 田 清 子
また立ちかへる水無月の
嘆きを誰にかたるべき。……
芥川龍之介
松浦川川の瀬光り鮎釣ると
立たせる妹が裳の裾濡れぬ
大 伴 旅 人
真帆ひきてよせくる船に月照れり
楽しくぞあらむその船人は
田 安 宗 武
まるまると肥えしなめくじ夏茸の
傘溶かしいしが己れ溶けしか
高 安 国 世
みじか夜の浮藻うごかす小蝦かな
松 瀬 青 々
みじか夜や毛むしの上に露の玉
与 謝 蕪 村
短夜や既に根づきし物の苗
石 井 露 月
三島江の入江の真菰雨降れば
いとどしをれて刈る人もなし
源 経 信
水塩の点滴天地力合せ
沢 木 欣 一
水すまし流にむかひさかのぼる
汝がいきほひよ微かなれども
斎 藤 茂 吉
水すまし水に跳ねて水鉄の如し
村 上 鬼 城
水鳥の背に残りゐる夕明り
湖暮れゆけばただ仄かなる
大 岡 博
水に入るごとくに蚊帳をくぐりけり
三 好 達 治
水鉢にすゞしくもりの下陰は
人の目につくところてん見世
峯 松 風
水ふんで草で足ふく夏野哉
小 西 来 山
みづからを思ひいださむ朝涼し
かたつむり暗き緑に泳ぐ
山中智恵子
みほとけの千手犇く五月闇
能村登四郎
都だに寂しかりしを雲はれぬ
吉野の奥のさみだれのころ
後醍醐天皇
むかし思ふ草のいほりのよるの雨に
涙な添へそ山ほととぎす
藤 原 俊 成
麦の穂の焦がるゝなかの流離かな
森 澄 雄
蒸しあつき髪をほどけば髪などの
いづちを迷ひわれに来りし
森 岡 貞 香
虚国の尻無川や夏霞
芝 不 器 男
目には青葉山時鳥初鰹
山 口 素 堂
めん鶏ら砂あび居たれひつそりと
剃刀研人は過ぎ行きにけり
斎 藤 茂 吉
物申の声に物着る暑さ哉
横 井 也 有
●や
夜光虫波の秀に燃え秀にちりぬ
山 口 草 堂
山の色釣り上げし鮎に動くかな
原 石 鼎
病み呆けて泣けば卯の花腐しかな
石 橋 秀 野
夕がほや物をかり合ふ壁のやれ
堀 麦 水
夕すゞみあぶなき石にのぼりけり
志 太 野 坡
白雨の隈しる蟻のいそぎかな
三 井 秋 風
ゆふだちの雲飛びわくる白鷺の
つばさにかけて晴るる日の影
花 園 院
ゆふめしにかますご喰へば風薫
凡 兆
淀河の底の深きに鮎の子の……
梁 塵 秘 抄
夜にして思ふことありありがたき
陽の脈摶の中を通りき
佐藤佐太郎
●ら
緑蔭に凶器ばかりの鋳掛の荷
岡 本 眸
緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的
竹下しづの女
六月の氷菓一盞の別かな
中村草田男
六月を奇麗な風の吹くことよ
正 岡 子 規
●わ
若葉して御目の雫拭はばや
松 尾 芭 蕉
湧きいづる泉の水の盛りあがり
くづるとすれやなほ盛りあがる
窪 田 空 穂
渡り懸て藻の花のぞく流哉
野 沢 凡 兆
*本書は一九九一年六月に学習研究社から刊行された『四季 歌ごよみ〈夏〉』に、新たに書き下ろしたものを加えて再編集しました。
名《めい》句《く》 歌《うた》ごよみ 〔夏《なつ》〕
大《おお》岡《おか》 信《まこと》
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平成13年7月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Makoto OOKA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『名句歌ごよみ〔夏〕』平成11年5月25日初版発行
平成12年10月10日再版発行