TITLE : 名句歌ごよみ[恋]
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目 次
和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》 ―― あくがれ尽きぬ魂の渇き
建《けん》礼《れい》門《もん》院《いん》右《う》京《きようの》大《だい》夫《ぶ》 ―― かえらぬ昔への悲歌の結晶
与《よ》謝《さ》野《の》晶《あき》子《こ》 ―― 時を超える夫と妻の相聞歌
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》 ―― 肉体の苦と精神の至美の世界と
石《いし》川《かわ》啄《たく》木《ぼく》 ―― 創意とユーモアに生きる歌
人のみどり 自然の緑
唱和する心
日本文学と女性
日本文学の自然観
句歌総索引
和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》
――あくがれ尽きぬ魂の渇き
あらざらむこの世のほかの思ひ出に
いまひとたびのあふこともがな
『後《ご》拾《しゆう》遺《い》集《しゆう》』第十三・恋に「心地例ならず侍《はべ》りけるころ、人のもとにつかはしける和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》」として見える歌で、病のため不安を感じ、ある男性に贈った歌なのだが、何よりも『百人一首』中の名歌としてあまねく知られている。
自分は病気が重くなって、命は長くないかもしれない。「この世のほか」である「あの世」に移ってしまってからの思い出のために、せめてもう一度あなたにお逢《あ》いしたい、逢ってください、ぜひとも、との思いをこめて男に贈った歌である。贈られた相手が誰であったかは分からない。
和泉式部は二十三歳で和泉《いずみの》守《かみ》 橘《たちばなの》 道《みち》貞《さだ》と結婚し、翌年には娘小《こ》式《しき》部《ぶ》をもうけた。ところが道貞が仕える太《たい》皇《こう》太《たい》后《こう》宮《ぐう》(冷《れい》泉《ぜい》帝《てい》皇后)が病気療養の方《かた》たがえのため、太皇太后宮の権《ごん》大《だい》進《しん》でもあった和泉守道貞の家に移り、そのままそこで崩御したことから式部の運命は狂った。太皇太后宮のもとへ、異母子の為《ため》尊《たか》親《しん》王《のう》(冷泉帝第三皇子)が見舞いに訪れるうち道貞の妻式部と知るところとなったからだ。親王二十二歳、式部は二十七歳くらいだったらしい。
この情事はたちまち評判になった。道貞は妻を離別し、式部の父も怒り悲しんで娘を勘当する。ところが、為尊親王は二十四歳で夭《よう》折《せつ》した。式部は悲嘆にくれるが、運命は彼女のためにさらに数奇な筋書きを用意していた。亡き親王の弟、帥《そちの》宮《みや》敦《あつ》道《みち》親王が新たに式部に言い寄り、彼女もまもなくその恋を受け入れたからである。当時、敦道親王は二十三歳、式部は三十歳ぐらいだったらしい。親王はすでに結婚していたが、年上の恋多き女和泉式部にうつつをぬかし、彼女を自邸の一角に移り住まわせる。親王の妃は屈辱にたえず邸《やしき》を去った。年若い男の恋のはげしさは尋常のものではなかった。式部の方も、この眉《び》目《もく》秀麗な皇子を深く愛した。
しかし式部はこれほどの仲だった敦道親王にも、四年あまりのちに先立たれる。式部は悲しみの底から恋の尽きせぬ思い出によって染めあげられた悲歌をたくさん詠んだ。親王の死を悲嘆した彼女の歌は百二十四首の多きにのぼるが、これらは和泉式部の詠んだ数多い歌の中でも、一つの頂点をなしている。
捨て果てむと思ふさへこそ悲しけれ
君に馴《な》れにしわが身と思へば
鳴けや鳴けわが諸《もろ》声《ごゑ》に呼《よぶ》子《こ》鳥《どり》
呼ばば答へて帰り来《く》ばかり
たぐひなく悲しきものは今はとて
待たぬ夕《ゆふべ》のながめなりけり
だが、このような深い嘆きを歌いながらも、彼女は男に寄り添わねばいられなかったし、男たちもまた言い寄ったらしい。女として、よほど魅力があったのだろう。
一条天皇の中《ちゆう》宮《ぐう》彰《しよう》子《し》に仕えたのはその後のことだった。紫《むらさき》式《しき》部《ぶ》、赤《あか》染《ぞめ》衛《え》門《もん》らも同僚であった。ある日、中宮の父藤《ふじ》原《わらの》 道《みち》長《なが》が、彼女の扇にたわむれに「浮かれ女《め》の扇」と書いたことがあった。平安朝の、一種自由恋愛過剰ともいうべき時代であっても、時めく権力者から「浮かれ女」の異名を奉られるのはよほどのことで、彼女の生きかたが周囲からどれほどかけ離れていたかを鮮やかに示すエピソードであろう。
枕《まくら》だに知らねばいはじ見しままに
君語るなよ春の夜の夢
この歌は、彼女が予想もしていない時に言い寄られ、枕さえない場所で「春の夜の夢」のように短い、しかしはげしい逢《あい》引《び》きをしたあと、男に贈った歌だと、窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》は解釈している。当時のものの考え方では、他のだれもが知らなくても、枕だけは恋の秘密を知っているというわけだったが、その枕さえ知らないというのは、場所も時も普通ではなかったことを意味する。さすがの「浮かれ女」が、醜聞をきらって「君語るなよ」と言わずにはおられなかったほどの情事であり、また思いがけない相手であったと思われる。
しかしそのように男から男へ遍歴を重ねても、彼女の生の渇きそのものだったといっていいほどの十全な恋への夢は、満たされることがなかった。恋によって傷つき、その傷をいやそうとして新たな恋に走る。得《え》体《たい》のしれないいらだちのような不安が、和泉式部の歌の中で、暗い命のほむらとなって燃えているようにみえる。
そういう意味で、次の有名な歌は和泉式部の心の本質的な暗さを象徴しているような歌である。男に忘れられて、鞍《くら》馬《ま》の貴《き》船《ぶね》神社に詣《もう》でていたときに作ったものという。
もの思へば沢の蛍もわが身より
あくがれ出《い》づる魂《たま》かとぞ見る
茫《ぼう》然《ぜん》ともの思いにふけっているとき、蛍がはっとするほど頼りなげに明滅して御《み》洗《たらし》川の水辺を飛ぶ。「あれはわが肉体から抜け出てしまった私の魂《たましい》ではないか」。われにかえっても、胸さわぎは消えない。古代以来のものの考え方からすると、魂が肉体を遊離することは死を意味する。和泉式部は恋を失うことがそのまま自らの死を意味するほどの激しさで、恋に生の完全な充足を求めた女性だったらしい。しかし現実には、そのような要求にこたえうる男はいなかった。
恋に身をやかれながらも、ついに魂の満たされることのなかった叫びが彼女に歌をほとばしらせる。彼女はおのれをいつわることができない魂だった。和泉式部の歌の時代を超えた魅力はそこから生まれた。
如《い》何《か》にせむ如何にかすべき世の中を
背けば悲し住めば住み憂《う》し
とことはにあはれあはれは尽《つく》すとも
心にかなふものか命は
この引き裂かれた心の嘆きは、遠い平安朝の女の歌とは思えない現実感をもって私たちに迫ってくるものがある。
秋の田の穂の上《へ》に霧《き》らふ朝《あさ》霞《がすみ》
何《い》処《づ》辺《へ》の方《かた》にわが恋ひ止《や》まむ
磐《いわの》姫《ひめの》 皇《おお》后《きさき》
秋の田に頭《こうべ》を垂れている稲穂、その上にたれこめて動かぬ朝霧――ちなみに古代では霞と霧の区別はなかったらしい――いったい私の恋は、どちらへ向けて消えて行こうというのでしょう、いっこうに晴れることのない私のこの苦しい恋は。元来は古代農民の愛《あい》誦《しよう》した歌謡だろうと思われる。一方、この歌を含む四首の悲恋の作者として万《まん》葉《よう》に出ている磐姫皇后は、仁《にん》徳《とく》天皇の皇后。『古《こ》事《じ》記《き》』などに嫉《しつ》妬《と》深い女性の典型のように描かれている伝説的な女性で、『万葉集』編者はこの恋の歌の名作を激情家の后《きさき》に仮託したのである。晴れやらず重く垂れる霧に、悩ましい恋心を重ね合わせた技法がみごと。
(『万葉集』)
春さればしだり柳のとををにも
妹《いも》は心に乗りにけるかも
柿《かきの》本《もとの》人《ひと》麻《ま》呂《ろ》歌《か》集《しゆう》
春になると、しだれ柳がたわたわとしなう。そのように私の心もしなう。そのしなった私の心の上に、恋人よ、おまえは乗ってしまった。「春されば」のサルは移るの意で、春がくると。「とをを」は「撓《とをを》」で、タワワの母音が変化した形、たわみしなうさま。「妹は心に乗りにけるかも」という、現代でも新鮮な具象的影像による表現は、古代人には大変好まれたようで、『万葉集』には同工異曲の歌が散見される。『柿本人麻呂歌集』には、人麻呂自身の作と、当時民間で歌われた民謡を人麻呂が採集記録したものとが含まれていると考えられているが、広義には記録者としての人麻呂の作と考えてよいだろう。
(『万葉集』)
小《さ》竹《さ》の葉はみ山もさやに乱《さや》げども
吾《われ》は妹《いも》おもふ別れ来《き》ぬれば
柿《かきの》本《もとの》人《ひと》麻《ま》呂《ろ》
「石《いは》見《み》の海 角《つの》の浦《うら》廻《み》を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ」に始まる「柿本朝臣《あそん》人麻呂の、石見の国より妻に別れて上り来《こ》し時の歌」と題された有名な恋の長歌二首、反歌四首のうちの反歌一首。
あたりは笹の葉が、そのざわめきで山全体を満たしている。しかし、別れてきた妻のことをいちずに思いつめている作者自身の胸のうちは静まりかえっている。旅人は孤影を引いて黙々と山をゆくが、思いは別れてきた妻の上にたえずめぐってゆく。その孤独をさらに切なくきわだたせるようにして、笹の葉がざわめき、ざわめく。その対照に、この歌の隠れた中心がある。
(『万葉集』)
朝《あさ》影《かげ》にわが身はなりぬ玉かぎる
ほのかに見えて去《い》にし子ゆゑに
柿《かきの》本《もとの》人《ひと》麻《ま》呂《ろ》歌《か》集《しゆう》
朝まだき日の光をうけて、弱々しく地に落ちる影のように私は痩《や》せてはかない身になってしまった。美しい玉の光のごとく、ほのかに相まみえ、去ってしまったあのひとゆえに。「朝影」は、朝のまだ弱い日光をうけて地に落ちている影。「玉かぎる」は、「ほのか」にかかる枕《まくら》 詞《ことば》で、玉が微光を発する状態をさす言葉だとされる。しかし同時に女の美しさをも連想させて奥行きの深い情感を示す語である。
万葉に深く学んだ現代歌人斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》に次の歌がある。彼がいかにこの古歌を愛誦したかをうかがわせるものだ。「はつはつに触れし子ゆゑにわが心今は斑《はだ》らに嘆きたるなれ」
(『万葉集』)
行けど行けど逢《あ》はぬ妹《いも》ゆゑひさかたの
天《あめ》の露《つゆ》霜《じも》にぬれにけるかも
柿《かきの》本《もとの》人《ひと》麻《ま》呂《ろ》歌《か》集《しゆう》
行っても行っても逢ってくれないひとゆえに、私は天からの露や霜に冷たく濡《ぬ》れそぼってしまった。求愛が受け入れられない男の嘆きの歌だが、用いられている語が強い喚起力をもっているため、ある種の悲劇的な壮大さすら感じさせる。「ひさかたの天の露霜」のような表現は、そのような感覚を与えるのに決定的だっただろう。従って、読みようによっては、特定の相手もなく憑《つ》かれたように夢の女を探し求める若い男の魂の叫びとも、死んでしまった愛人を求めてさまよう男の果《はて》しない旅とも読めるだろう。古代の恋歌の柄《がら》の大きさということを考えさせられる。
(『万葉集』)
君が行く道のながてを繰り畳《たた》ね
焼きほろぼさむ天《あめ》の火もがも
狭《さ》野《のの》弟《おと》上《がみの》娘子《お と め》
「弟上」は「茅《ち》上《がみ》」と記される場合もある。男子禁制の斎《さい》宮《ぐう》寮に仕える女官だったが、中《なか》臣《とみの》宅《やか》守《もり》とひそかに通じ、やがてその恋が露見し、男は越《えち》前《ぜん》に流罪ときまる。二人の交わした歌六十三首は、『万葉集』中、一つの歌物語といえるほど異色の歌群をなしている。中でも右の歌は印象鮮やかである。「道のながて」は、配所までの長い道。あなたが都を離れて遠い配所へ行く、その手の如《ごと》く長い道を、くるくると巻き寄せて畳んで、焼き滅ぼしてしまう天の火が欲しい、と歌った。女心の切なさが描いた一つの幻の火の柱である。一連の歌の物語的構成の鮮やかさのため、虚構かもしれないとの説もあるほど。
(『万葉集』)
高山ゆ出《い》で来る水の岩に触れ
破《わ》れてそ思ふ妹《いも》に逢《あ》はぬ夜は
よみ人しらず
山から勢いよく下ってくる流れは、岩に当たってはげしく砕ける。そのように私も心砕けて恋人を思っているのだ、彼女に逢えない夜は。「高山ゆ出で来る水」は、高い山を通って出てくる水。更に「岩に触れ」までは、「破れてそ」への序《じよ》詞《し》である。どうして恋人に逢えないかは歌わずに、流露する恋の嘆きだけを歌にしている。はるか後代の作だが、『百人一首』にもとられている崇《す》徳《とく》院《いん》の名歌、「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末《すゑ》に逢はむとぞ思ふ」も同種の発想である。素朴古風であるだけ、このよみ人しらずの歌には感情の溢《あふ》れた直線的な力がある。
(『万葉集』)
妹《いも》が門《かど》行き過ぎかねつひさかたの
雨も降らぬか其《そ》を因《よし》にせむ
よみ人しらず
惚《ほ》れた女の門前で、行きつ戻りつしながら、男がいう。えい、雨でも降らんかなあ、雨宿りを口実にあがりこめるものを。「妹」は恋人や妻を指す。「ひさかたの」は、「天《あめ》」にかかる枕詞だが、この場合は転じて同音の「雨」にかかる。「因」は、口実。歌謡として広く愛《あい》誦《しよう》されたものらしく、後の平安朝歌謡『催《さい》馬《ば》楽《ら》』や、『古《こ》今《きん》和《わ》歌《か》六《ろく》帖《じよう》』にも多少形を変えて受けつがれている。「我が門《かど》を とさんかうさん 練る男《をのこ》 由《よし》こさるらしや 由こさるらしや 由なしに とさんかうさん 練る男 由こさるらしや 由こさるらしや」。この『催馬楽』でも、いかにも用ありげな男が女の門前をぶらぶらしている。
(『万葉集』)
吾《あ》が恋はまさかも悲し草《くさ》枕《まくら》
多《た》胡《ご》の入《いり》野《の》のおくもかなしも
東《あずま》歌《うた》(上《こうず》野《けの》国《くに》の歌)
「まさか」の「まさ」は目の方向、「か」は所を意味するという。したがって「まさか」は目前、現在ただいまの意となる。「草枕」は旅の枕詞だが、タビから転じてタゴ(「多胡」)にかかったと解されている。「入野」は奥深い野で、「おく」を導く序。「おく」は、場所・時間ともに遠い先をさす。一首の大意は、私の恋は今も悲しく切ない。そして多胡の入野の奥さながら、将来(「おく」)も切なく悲しい、という意味になるだろう。しかし、言葉をひとつひとつ分析して歌の意味を知る以前に、「おくもかなしも」にまで至ってたしかにある情緒の高まりを生む調べの不思議さにうたれる。
(『万葉集』)
多《た》摩《ま》川《がは》にさらす手《て》作《づくり》さらさらに
何そこの児《こ》のここだ愛《かな》しき
東《あずま》歌《うた》(武《むさ》蔵《しの》国《くに》の歌)
「手作」は手織りの布で、この歌の場合は「さらさらに」(さらにさらに)を導くための序の働きとなっている。古代の多摩川地域は、調(チョウ)といわれた税を布で納めたため、現在でもその名残が調布などの地名に残っている。
多摩川にサラす手作りの布のように、サラニサラニ、なぜ恋人はこんなにも(「ここだ」)いとしいのだろう。サ行音、カ行音のくり返しが生む音調の快さ、また影像の愛らしさのため、数ある東歌の中でもよく知られ愛誦される歌である。川のほとりで麻布をさらす労働のなかで歌われた歌謡であろう。
(『万葉集』)
名にし負はばいざこととはむ都《みやこ》鳥《どり》
わが思ふ人はありやなしやと
在《あり》原《わらの》業《なり》平《ひら》
京を離れて悶《もん》々《もん》と隅《すみ》田《だ》川《がわ》べりまで流浪してきた男が、渡し舟に乗ろうとする。折しも白い鳥が川《かわ》面《も》を飛び交っていた。くちばしと足の赤い、都ではついぞ見かけない鳥である。渡し守に鳥の名を尋ねると、「知りませんか、都鳥でさあ」と答える。男は都にゆかりのある名の鳥に心うごかされ、片時も忘れぬ別れたひとを思いながら歌を詠んだ。鳥よ、そなたが都鳥か。それならば尋ねよう、わが思いびとは今も都につつがなく生きておいでか、そうでないか、その名にかけて答えてくれ、都鳥よ。この鳥はユリカモメ。墨田区に残る言《こと》問《とい》の地名は、この業平の歌に由来すると伝えられる。
(『古今集』『伊勢物語』)
吉野川いはなみたかくゆく水の
はやくぞ人を思ひそめてし
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
『古《こ》今《きん》集《しゆう》』二十巻中、恋歌は全五巻をしめる。その中にはもちろん個人の切羽つまった恋愛の表現としての歌も含まれてはいるが、同時に、ある状況を設定した、いわゆる題詠の形で作られたフィクションの恋歌も多い。『古今集』の恋歌の編成は、恋のそもそもの始まりから、夫婦となった男女の一種の悟りにまで達したような恋《こい》醒《ざ》めの歌に至るまで、恋の始終を順を追って語る体裁をとる。右の歌は恋の始まりの時期だ。初句から三句までは「はやく」をいうための序詞。「急流」の「はやく」が、「昔から」の意の「はやく」にかかる。前々からあなたを一心に、激流のように思いそめていましたという訴え。
(『古今集』)
春日《かすが》野《の》はけふはな焼きそ若草の
つまもこもれりわれもこもれり
よみ人しらず
むかし農民は土壌を肥やすため、春先になると枯《かれ》草《くさ》に火をつけて焼いた。いわゆる野焼きである。しかし草の中に身をかくすようにして逢《あ》っている若い男女にとっては一大事である。その対照の面白さがこの歌の魅力である。若菜つみのような行事とも関係があるだろう。いとしい女性をいうのに「若草の」と言っているのも、歌に優しいふくらみを与えている。これは典型的な口《こう》誦《しよう》文芸作品で、地名をかえるだけでどこの土地にも適用できる。『伊《い》勢《せ》物《もの》語《がたり》』にも「春日野」を「むさし野」にかえた歌があり、こちらでは女が呼びかけている。
(『古今集』)
郭公《ほととぎす》なくや五月《さつき》のあやめ草
あやめもしらぬ恋もするかな
よみ人しらず
「郭公なくや五月のあやめ草」は、そのあとに続く「あやめもしらぬ恋もするかな」の「あやめ」にかかる序《じよ》詞《し》。こちらの「あやめ」は文《あや》目《め》で、織物の一つ一つの織り目。「あやめもしらぬ」で、ものの区別も全然つかなくなってしまうほどの、の意。恋の初期、夢中で何もかも分からなくなってしまった心の状態を言う。しかし全体としては、上《かみの》句《く》爽《さわ》やかな初夏の季節感と、下《しもの》句《く》の恋の惑いとがないまぜになって、色彩感、音感ともに豊かなふくらみをもつ歌となった。五巻ある『古今集』の恋の歌は、恋の始まりから終わりまでを順を追って歌う形に編まれているが、これは全体の最初におかれた名歌。
(『古今集』)
ゆふぐれは雲のはたてにものぞ思ふ
天《あま》つ空なる人をこふとて
よみ人しらず
「ゆふぐれ」は、一般的に一日のうちでも特にもの憂く感傷的になる時刻である。その夕ぐれどき、雲のはてに向かって天つ空なる人を恋うているというのだ。「天つ空なる人」は天上にいる人、つまり手の届かないはるかな高みにいる人。作者は多分男性で、当時の身分制度のもとでは言い寄る手段も見つからない高《たか》嶺《ね》の花の女性に恋してしまったものとみえる。もっとも、この歌を単独で読む場合、「天つ空なる人」を、特に身分の高い女性と限定する必要はあるまい。恋する人の普遍的なあこがれと悩みが、ごく自然に「天つ空なる人」という表現に結びつき、歌を 愛《あい》誦《しよう》 性の高いものにしているのである。
(『古今集』)
いで我を人なとがめそおほ舟の
ゆたのたゆたに物思ふころぞ
よみ人しらず
皆さん、どうか怪しまないで下さい。大船がゆったりと揺れ動くのと同じように、このごろの私の心はゆらゆらと漂い、物思いにふけっているのです。「いで」は、呼びかけや言いはじめに発する声、さあ、やあ、いや、など。「ゆたのたゆたに」は『万葉集』巻七の「わが心ゆたにたゆたにうきぬなは辺《へ》にも奥《おき》にも寄りかつましじ」などに用例のある言葉で、ゆらゆら揺れて定まらないこと。ぼんやりとうわのそらで恋の嘆《なげ》きの中に日を過ごしている男が、ふと自分のそんな様子に気づいて歌った、という趣向だが、歌の調べは大らかで、歌謡として愛誦されたに違いない。
(『古今集』)
しら露も夢もこのよもまぼろしも
たとへていへば久しかりけり
和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》
前《まえ》書《がき》「露ばかりあひそめたる男のもとへ」とある。ある男と一夜を共にした。しかし実に短い逢《おう》瀬《せ》だった。それに比べれば、「白露」も「夢」も「現世」も「幻」も、すべてなお久しいものに思えるという。白露以下すべてはかない瞬時のたとえである。それさえも「たとへていへば」久しく思われるほど、夢のごとくに過ぎた情事だったのだ。「たとへていへば」の表現は平安朝とも思えぬ大胆な言い廻《まわ》しで、男の歌人でもこれ程斬新な用法はよくなし得なかった。相手に贈った歌で、文語の中に突如として口語を入れたような表現だが、これがぴたっときまっている。天性の詩人の作である。
(『後拾遺集』)
黒髪の乱れも知らず打《うち》伏せば
先《ま》づ掻《か》き遣《や》りし人ぞ恋しき
和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》
「浮かれ女《め》」とまで戯れに呼ばれたほどの和泉式部は、また人一倍悲しみの深さを知っていた女でもあった。はげしい情事のあとの一情景を思い出して歌ったと思われる右の歌でも、相手がすでに儚《はかな》くなっている人だけに、移ろう時間の無惨さが一層鮮烈だ。足かけ五年ほど続いた年下の恋人敦《あつ》道《みち》親《しん》王《のう》の死を悲しんで詠んだ挽《ばん》歌《か》の中の一首で、黒髪の乱れも知らず打ち伏していると、いとしげに髪の毛を掻きやってくれたあの亡き人と生きて肌身を接していた折の濃密な感覚、そして時間が、永遠に失われてしまったことへの痛恨を歌っている。表現の率直さがそのまま詩美を生んでいる。
(『和泉式部集』)
とことはにあはれあはれは尽《つく》すとも
心にかなふものか命は
和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》
平安女流歌人中随一の天性のうたびとであった和泉式部は、なかんずく恋のうたびとであった。恋のあわれをこの人ほど徹底して生き、かつ歌った人はまれだろう。その人にしてこういう歌があった。これは、男からたまには「あはれ」と言って下さい、その一言に命をかけています、と言ってきたのに答えた歌。恋のあわれとあなたは言うが、かりにあわれを永久に尽くしてみても、限りある人間の身で、この心の無限の渇きをいやすことなどできるものでしょうか。心はついに満たされはしないのです、というのだ。情熱家は反面、おどろくほど醒《さ》めた人生研究家でもあった。
(『和泉式部続集』)
つれづれと空ぞ見らるる思ふ人
天《あま》降《くだ》り来《こ》ん物ならなくに
和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》
「つれづれと空ぞ見らるる」は何も手につかず、恋の思いが鬱《うつ》屈《くつ》して、ふと気づけば空を見ているといった状態。特定の相手が今はいないということかもしれないが、また相手がいても少しも自分のもとへ訪れてはきてくれない日々の憂鬱というものも、当時の男性の通い婚という結婚形式ではしばしばあった。平安女流文芸に最も一般的な恋の思いもそこにあったとさえいえる。和泉式部は恋多き女性だったから、そういう気分もまたよく知っていたのである。彼女の恋愛とそこから生じる思想には、散文には盛り切れぬ濃厚な気分の反映があった。
(『和泉式部集』)
建《けん》礼《れい》門《もん》院《いん》右《う》京《きようの》大《だい》夫《ぶ》
――かえらぬ昔への悲歌の結晶
彼女は生年も没年も正確にはわからない。生まれたのは西暦一一五七年ころと推定され、没した年齢は、たぶん八十歳前後であったろうと思われる。平安末期から鎌倉初期を生きた女性である。家は代々書道にすぐれた藤原一族の世《せ》尊《そん》寺《じ》家(和様書道三《さん》蹟《せき》のひとり藤《ふじ》原《わらの》行《ゆき》成《なり》を祖とする)で、父の藤原伊《これ》行《ゆき》は『源《げん》氏《じ》物《もの》語《がたり》』の最初の註《ちゆう》 釈《しやく》 書《しよ》を書いた人で、書論の古典『夜《や》鶴《かく》庭《てい》訓《きん》抄《しよう》』の著者でもあった。母夕《ゆう》霧《ぎり》は、笛の名人として一世を風《ふう》靡《び》した大《おお》神《みわの》 基《もと》政《まさ》の女《むすめ》で、当時箏《そう》の名手とうたわれており、兄や甥《おい》も、名声を博した歌人たちであった。
けれども、彼女の本名はわからない。私たちが知っている彼女の名は、高《たか》倉《くら》天皇の中《ちゆう》宮《ぐう》徳《とく》子《こ》に仕《つか》えた若い日の彼女の職名、建礼門院右京大夫という名のみである。
平《たいらの》 清《きよ》盛《もり》の女《むすめ》である中宮徳子の後宮には、当然平家一門のきらびやかな公《きん》達《だち》たちが日ごろよく出入りしていたと思われる。右京大夫が「のがれがたき契り」と呼んだ平重《しげ》盛《もり》の次男資《すけ》盛《もり》との宿命的な出会いも、こうした宮廷生活の優美典雅な雰囲気の中で生まれた。右京大夫は当時藤原定《てい》家《か》の異父兄である藤原隆《たか》信《のぶ》と交渉を持っていたが、資盛との恋は突然炎のように彼女の心を燃えたたせた。
彼女の容姿が優れていたかどうかといったことはもちろんわからない。ただ推察できることは、彼女が誇り高く、しかもつつましい女性で、並々ならぬ文才の持主だったこと、能筆で、箏もよくしたらしいことなどである。その彼女が世に知られるようになったのは、老年になってから若いころの短い歓《よろこ》びの日々と長い哀《かな》しみの日々を回想して編んだ家集『建礼門院右京大夫集』の三〇一首の歌と、散文としてもすぐれているその詞《ことば》書《がき》のゆえであった。
建礼門院に仕えた一女官にすぎない彼女の歌が、なぜ今日なお私たちの心をうつのか。それは平家の滅亡という歴史の大転換が、その歴史的意味など何ひとつ理解できなかった一人のつつましい女を、時代感情をおのずと深いところでとらえた嘆きの詩人に変えたからである。平家の滅亡という歴史的事件は、散文において『平《へい》家《け》物《もの》語《がたり》』その他の軍記物語を生んだが、詩歌の分野では少なくとも『建礼門院右京大夫集』を生んだということがいえる。
寿《じゆ》永《えい》二年(一一八三)の夏、平家一門は源氏に追われて都《みやこ》落《お》ちした。資盛も「世の中がこんな騒ぎになってきたからには、いつなんどき私も命を失うことになるかもしれません。
私たちが共に経た年月も思えば相応に長くなりました。その年月に照らしてだけでもよいのです、私のためにいささかの哀れをかけてください。私が死んだときは、せめて後生を弔ってください。西へ落ちゆく先々から都へ便りすることも、もはやすまいと決心しています。心が冷たくて便りをしないなどと思ってくださいますな。もう昔の自分は死んでしまったのです。でも、そう思う心の下から、昔ながらの弱い心がよみがえるのをどう仕様もありません……」などと綿々たる言葉を残して、都を落ちていった。
資盛は多くの当時の貴公子の例にもれず、右京大夫との恋愛中は、必ずしも忠実な愛人ではなかったようである。宮廷ぐらし当時の彼女の歌には、恋人の情のこまやかでないことを、嘆くとも恨むともつかぬ歌が多く残されている。それでもそこには平家一門の栄華の日々があり、彼女の日々の哀歓もその中に包まれていた。
だが今、平家は東国の猛《たけ》々《だけ》しい兵たちに追われ、一《いち》ノ谷《たに》、屋《や》島《しま》、壇《だん》ノ浦《うら》としだいに追いつめられていく。都に残った女には、それらの聞きなれぬ地名の一つ一つが恐ろしい風の便りときこえたはずである。ついに壇ノ浦では、彼女のお仕えした建礼門院、その子安《あん》徳《とく》天皇、ともに入《じゆ》水《すい》するという破局になった。しかし門院は源氏の兵に救いあげられてしまう。門院は京に帰って剃《てい》髪《はつ》し、現在も洛《らく》北《ほく》に観光地としてその姿を保っている 大《おお》原《はら》 寂《じやつ》光《こう》院《いん》に住み、その後久しく平家の菩《ぼ》提《だい》を弔うために生きた。
資盛は……。もちろん海の底に沈んだ。親しかった人々も捕らえられたり戦死したりした。都にいた右京大夫は、かねて覚悟していたこととはいえ、ただただ茫《ぼう》然《ぜん》として泣き暮らすばかりだった。
なべて世のはかなきことを悲しとは
かかる夢みぬ人やいひけむ
世の中のはかなさを人はいう。はかない人生を悲しいと人はいう。しかし、そういうことを口にできる人は、私が今見ているようなこの茫然たる悪夢など、見たこともない人にちがいない。
月をこそながめ馴《な》れしか星の夜の
深き哀れを今《こ》宵《よひ》知りぬる
今までは、夜空を眺めるときも、明るい月しか見ていなかったのではなかろうか。今こうして心に涯《はて》しない悲しみをかかえて夜空に眺め入ると、はかなげに空に散っている星こそ、こうこうと照る月よりもいっそう心に沁《し》みて美しく、なつかしく思われる。
これらの悲歌に、右京大夫の抒《じよ》情《じよう》の真髄がみられる。この世を夢とも幻とも哀れとも、もはや何とも言い表わしようのないものと見てとった心に、切羽つまって噴き上げてくる嘆きの世界がこれらの歌にはあり、より広くいえば、日本の女の歌が、久しいあいだそれによって結晶の鋭さと透明さを得てきた、女歌の根源にある悲しみの世界もあった。
彼女は後《ご》鳥《と》羽《ば》院《いん》の時代、断りきれぬすすめによって再び宮仕えすることになる。『新《しん》古《こ》今《きん》集《しゆう》』を編んだ藤原定《てい》家《か》が、当時すでに老女になっていた彼女の歌を覚えていて、のちに『新《しん》勅《ちよく》撰《せん》和《わ》歌《か》集《しゆう》』を編《へん》纂《さん》する時、彼女にも声をかけた。その時定家は「作者名をどうしたらよいか」と彼女にたずねた。再度出仕した時の職名にするか、それとも別の名で出すかをたずねたのである。八十歳近くなっていた彼女はこう答えた。「もう遥《はる》かな昔のことになってしまったことなのに、今なお心にあるのはあのころのことだけです。ですからあのころの名で」と。こうして彼女の名は、建礼門院右京大夫という名でしか伝わらなかった。
ゆく水にかずかくよりもはかなきは
おもはぬ人を思ふなりけり
よみ人しらず
涅《ね》槃《はん》経《ぎよう》に「この身は無常なり。念々とどまらず。なほ雷光と暴水と幻炎のごとし。また水に画くがごとし、随《したが》つて画けば随つて合ふ」という、人の命のはかなさを水に書く文字にたとえて無常観を説いた一節がある。この歌は当時のそのような仏教思想の理屈を念頭に置いて作ったものとされる。流れ行く水に一本二本と、数をかぞえるべく線を書いたところで、どんどん流れ去るのみ。しかしそのはかなさより更にはかないのは、思ってもくれない相手に恋いこがれることだと。切ない恋の嘆きだが、全体の印象は理に落ちず、悲哀感よりはむしろユーモアが、一首に客観的な印象を持たせている。
(『古今集』)
あひみての後《のち》のこころにくらぶれば
昔は物を思はざりけり
権《ごん》中《ちゆう》納《な》言《ごん》敦《あつ》忠《ただ》
「あひみての後のこころにくらぶれば」、逢《あ》って契りを結んだのちのこの苦しく切ない心にくらべれば。「あひみる」は男女が関係を結ぶこと、「後のこころ」は、関係を持ったためにかえって複雑さを増した切ない気持ちをさしている。「昔は」はまだ逢わなかった時のことで、ここでは二人がそのような関係になる前のことをさしている。「物を思はざりけり」、昔の物思いなどものの数にも入らないことがわかった。一見理屈の歌のようだが、一息に詠みくだした勢いのある恋の歌である。作者は藤《ふじ》原《わらの》 時《とき》平《ひら》の三男。時平が伯《お》父《じ》の国《くに》経《つね》から掠《りやく》奪《だつ》したとされている在《あり》原《わらの》 棟《むね》梁《やな》の女《むすめ》を母として生まれた。
(『拾遺集』『百人一首』)
由《ゆ》良《ら》の門《と》を渡る舟《ふな》人《びと》かぢを絶え
行《ゆく》方《へ》も知らぬ恋のみちかな
曾《そ》禰《ねの》好《よし》忠《ただ》
由良の門は、古くから紀《き》淡《たん》海峡をさし、歌《うた》枕《まくら》「由良の岬」として知られていた。しかし好忠が丹《たん》後《ごの》掾《じよう》をつとめていた関係で、契《けい》沖《ちゆう》は丹後(京都)の由良河口とする解《かい》をとっている。歌の柄《がら》からみて、ここは歌枕としての紀伊の由良を考えるのが自然だろう。そうとってこそ、波の荒い海峡で、恋の舟の櫂《かじ》をなくして心細く漂うというイメージが生きる。
曾禰好忠は、宮中に仕官する志を持ちながら、官位は低く、六位丹後掾に終わった。自尊心が強く、直情的な性格で奇行も多かった。作風もまた奇抜な用語や斬新な題材をとり入れ、当時の歌壇からは排《はい》斥《せき》されたが、後世はかえってそれを評価した。
(『新古今集』『百人一首』)
わすれじの行《ゆく》末《すゑ》まではかたければ
今《け》日《ふ》をかぎりの命ともがな
儀《ぎ》同《どう》三《さん》司《しの》母《はは》
詞《ことば》書《がき》によると、中《なかの》関《かん》白《ぱく》藤《ふじ》原《わらの》 道《みち》隆《たか》(兼《かね》家《いえ》長男)との恋が始まったばかりの、いわば幸福の絶頂ともいうべき時期の歌である。にもかかわらず、この歌は傷ましいほどの緊迫感をもって、明日のことはあてにすまい、今日のこの歓《よろこ》びだけをせめてしっかりにぎりたい、と言っている。この自虐的とまで感じられるひたむきな覚悟は、一夫多妻の平安朝当時の女たちの生活と切り離して考えることはできまい。
儀同三司とは大臣に凖ずる地位をいい、この作者の場合、儀同三司藤原伊《これ》周《ちか》の母、高《たか》階《しなの》貴《き》子《し》をさす。貴子は夫道隆との間に、伊周、隆《たか》家《いえ》、一条天皇皇后定《てい》子《し》、三条天皇女《によう》御《ご》原子などの子女に恵まれた。
(『新古今集』『百人一首』)
瀬《せ》をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末《すゑ》に逢《あ》はむとぞ思ふ
崇《す》徳《とく》院《いん》
岩にぶつかる浅瀬の奔流は音たてて左右に割れる。その二筋に分かれた流れも、また再び出会って一緒に流れる。そのように、私たちの恋もまた、いかなる障害をも乗りこえ、必ずや最後には再び一緒にならずにはおかない。祈りにも似たこの激しい恋の歌は、のち保《ほう》元《げん》の乱に敗《やぶ》れ、讃《さぬ》岐《き》の配所で、限りない怨《うら》みを抱きつつ崩じた崇徳上皇の悲劇的な生涯とも二重写しになって、一層激情的な印象を与える。歌が作られたときには単なる題詠であっても、出来あがった歌が作者の運命を暗示するようなものになることはよくあることで、式《しき》子《し》内《ない》親《しん》王《のう》の歌にもそんな性格があった。
(『詞花集』『百人一首』)
遥《はる》かなる岩のはざまにひとりゐて
人《ひと》目《め》思はでもの思はばや
西《さい》行《ぎよう》法《ほう》師《し》
はるか遠い岩かげにただひとり身をかくし、人目をはばかることもなしに、ひたすらあのひとのことだけを想《おも》っていたい、の意。この恋が成就するかどうかは、この際念頭になかろう。せめて苦しい片恋のつらさを人里離れた場所で思いきり嘆いていたいというのが歌の主意である。直接恋の語を用いず、むしろ余情にこめる手法で、遂げえぬがゆえに一層切なくたぎる想いを歌っている。二十三歳で突然出家した西行は、きわめて高貴な女性に失恋したのだという説もある。だが、彼は意外にも出家の身で抜群の恋歌作者だった。失恋出家説は、その当否に関係なく、後《こう》人《じん》の空想を刺《し》戟《げき》したのである。
(『新古今集』)
玉の緒《を》よ絶えなば絶えねながらへば
忍ぶることの弱りもぞする
式《しき》子《し》内《ない》親《しん》王《のう》
「玉の緒」は本来玉を貫き通す緒であるが、玉にちなむ魂《たま》をつなぎとめている緒という考えから、命そのものをいうようになった。玉の緒よ、ふっつりと絶えるならば絶えておくれ。このままこうして永らえていれば、心に固く秘め隠しているこの恋の、忍ぶ力も弱まって、思慕が外に溢《あふ》れ、あの方に知られてしまう、と歌う。この恋の相手に知られずひたすら恋い慕う、憧《あこが》れにみちた「忍ぶ恋」である。題詠だが、ふしぎにも式子内親王の薄幸な寂しい生涯を象徴するようにもみえる。彼女は叔《お》父《じ》の崇《す》徳《とく》院《いん》、兄の以《もち》仁《ひと》王《おう》、甥《おい》の安《あん》徳《とく》天皇などの非業の死を次々に見なければならなかった人だ。
(『新古今集』『百人一首』)
白《しろ》妙《たへ》の袖《そで》のわかれに露おちて
身にしむいろの秋かぜぞ吹く
藤《ふじ》原《わらの》定《てい》家《か》
後《ご》鳥《と》羽《ば》上《じよう》皇《こう》の水《み》無《な》瀬《せ》離宮で行われた歌《うた》合《あわせ》の一首で、題は「風に寄する恋」。「白妙の袖のわかれに露おちて」は、『万葉集』の「白妙の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて許しつるかも」が本歌。また下《しもの》句《く》の「身にしむいろの秋かぜぞ吹く」は、『古今集』のよみ人しらずの歌「吹きくれば身にもしみける秋風を色なき物と思ひけるかな」による。このように二首の本歌をとって、「袖のわかれ(衣の袖を一つにして共寝した後の暁の別れ)」「露(涙)」「身にしむ」「秋風」と、悲恋のイメージを複雑に重ね合わせ、秋風の吹きそめた恋の悲哀感を女の立場から物語的に描き出した構成力は、さすがに非凡。
(『新古今集』)
酒《さか》殿《どの》は 広しま広し 甕《みか》越《ごし》に 我が手な取りそ 然《しか》告げなくに
神楽《かぐら》歌《うた》
『神楽歌』は古く宮中で奏舞された神事歌謡。「神楽」は、神座(かむくら)の転。その演奏は厳粛な神おろし(祭の場に神霊を招請すること)から始まり、心やすい民謡調にいたるまで、夜を徹して行われる。唱《うた》われる歌の中身も多様に変化する。夜通しで神を慰め、そして人も一緒に楽しむという行事だった。この歌は、神事の最後に唱われる朝の歌の一つだが、内容は恋の歌である。酒造りの酒殿で娘が唱う。「酒殿はこんなに広いのよ、酒つぼごしに大っぴらに手を握るなんてしないでね。握ってなどと言わなかったではないですか」。こういうひなびた歌謡が宮中の神事で唱われていたのが面白い。
鎹《かすがひ》も 錠《とざし》もあらばこそ その殿《との》戸《ど》 我鎖《さ》さめ おし開いて 来ませ 我や人妻
催《さい》馬《ば》楽《ら》
「戸には鎹も錠もなく、あいていますよ。押し開いておいでなさいませ、あとは私がしめましょう。私は人妻などではありませんのに」。意味はそうなるわけだが、実はこの原作、問答体の歌謡で、これはその後半。前半は「東《あづま》屋《や》の真《ま》屋《や》のあまりの その雨《あま》そそぎ 我立ち濡《ぬ》れぬ 殿戸開かせ」である。つまり男が思う女の門前で、あいにくの雨に軒下でうたれながら「軒下の雨だれにびしょ濡れになっています。お家の戸を開けて下さい」というのに、女が答えたものである。あいにくの雨も、時にとっての幸《こう》便《びん》となる。古代歌謡や王朝和歌も好んで歌った状況設定の一つである。
美《びん》女《でう》打ち見れば 一《ひと》本《もと》葛《かづら》にもなりなばやとぞ思ふ 本《もと》より末《すゑ》まで縒《よ》らればや 切るとも刻むとも 離れ難きはわが宿《すく》世《せ》
梁《りよう》塵《じん》秘《ひ》抄《しよう》
女に心を奪われた男の溜《ため》息《いき》の歌。「美《びん》女《じよう》」は「美《び》女《じよ》」を撥《は》ねたもので、歌謡の明るいリズム感を出している。ああいっそ一本の蔦《つた》葛《かずら》になってしまいたい、根本から蔓《つる》の先まであのひとのからだにより合わされてしまいたい。もうどうなってもいい、切られようと刻まれようと、離れられないのが私の前世からの宿縁なのだ。見そめた女に対する男の欲望を率直に歌って実にいきいきしている。『梁塵秘抄』は、後《ご》白《しら》河《かわ》院《いん》が平安末期に民間の歌舞芸能の歌詞を集めて分類、編《へん》纂《さん》したもので、「今《いま》様《よう》」(当世風の意)のメロディーで歌われた。
山伏の 腰につけたる法《ほ》螺《ら》貝《がひ》の 丁《ちやう》と落ち ていと割れ 砕けて物を思ふころかな
梁《りよう》塵《じん》秘《ひ》抄《しよう》
一見山伏の法螺貝を歌ったものかと見えるが、実は恋の悩みの歌である。「丁と落ち ていと割れ」と明るい擬音を響かせておいて、次にぐっと調子をかえ、千《ち》々《ぢ》に砕けた心をもって物思いに沈むつらさを歌う。「砕ける」の一語は、前半を受ける限りでは法螺貝が砕け散るさまをいうが、「砕けて物を思ふ」という後半は、恋心が千々に乱れて砕け散るほどだとこれを転じた。「砕けて」の一語がよくその任に堪えているところが魅力的で、このような古代の歌謡を読む面白みのひとつは、古代人がいかに鋭い語感の持主だったかをこういう形で知るところにもあるだろう。
山《やま》長《をさ》が腰に差《さ》いたる葛《つづら》鞭《ぶち》 思はむ人の腰に差させむ
梁《りよう》塵《じん》秘《ひ》抄《しよう》
「山長」は、山を管理する山《やま》守《もり》のかしら。「差いたる」は、差したる。音便で「し」が「い」になっている。「葛鞭」は蔓草を編んで作った強いむち。山林盗伐者などを打ちすえるために使ったという。「思はむ人」は、わたしの恋人。つまりこれは、愛する男の立身を願う村の乙女の思いを歌った歌謡である。あの山長が差しているりっぱなむち、あれをいつかは私の恋人にも差させてみたいものだわ、と。平安歌謡『梁塵秘抄』には、正統派和歌が大っぴらに歌わなかった主題ものびやかに歌われているものが少なくない。この歌も、恐ろしげなむちが、まばゆい地位と男らしさの象徴として歌われているのだ。
余り言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の早さよ
閑《かん》吟《ぎん》集《しゆう》
室《むろ》町《まち》歌謡『閑吟集』の歌詞の簡潔さはまことにめざましい印象を与える。簡潔であるために意味の含蓄が深くなっているからである。人間関係の機微は、表現の省略によってかえって鮮やかにいえる場合があって、この小歌など、その好例だろう。
あのひとに逢《あ》えたなら、ああも言いたい、こうも甘えたいと思いつづけてきたのである。が、やっと逢えたその時には、空ゆく雲を指して、あら、ごらんなさい、雲の動きの早いこと、などと言うしかできない。体だけ宙に浮いたようにただ幸福で、むしろ他愛ないことばかりが口をつく。
ただ 人には馴《な》れまじものぢや 馴れての後《のち》に 離るるるるるるるるが 大事ぢやるもの
閑《かん》吟《ぎん》集《しゆう》
歌謡の主題で最も一般的なものは男女の愛。この事情は、神話伝承時代の歌謡から現代に至るまで変わっていない。この主題はそれだけ普遍的かつ多様なのである。室町歌謡の作者、特に遊女らは「ただ人は情《なさけ》あれ夢のアウ夢のアウ夢の 昨日《きのふ》は今《け》日《ふ》の古《いにし》へ 今日は明《あ》日《す》の昔」と歌いつつ、もう一方では、このような歌、つまり、惚《ほ》れるは簡単、別れは大ごと、と単純な現実をもけろりと歌った。「ぢやる」は、であるの転。応《おう》仁《にん》・文《ぶん》明《めい》の乱以後百数十年ほどの間に、日本の芸術表現は新しい要素を確実に自分のものとした。その要素とは人間の生の、あるがままの肯定だった。
こしかたより 今の世までも 絶《たえ》せぬ物は 恋といへる曲《くせ》物《もの》 げにこひは曲物 くせ物かな
閑《かん》吟《ぎん》集《しゆう》
この面白い恋愛論の歌謡にはさらに続く一節がある。「身はさらアウさら さらさらさらアウさらさら 更に恋こそ寝られね」と。この後半部は平安朝女流和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》の「竹の葉に霰《あられ》降るなりさらさらに独りは寝《ぬ》べき心地こそせね」という、恋人を待ちつつ独り竹の葉に降るあられの音を聞いている歌を踏まえている。『閑吟集』は室町時代の歌謡三百十一首から成る歌謡集だが、流行歌であるだけに内容は恋を主題にしたものが多い。中でも独り寝の寂しさを歌うものが重要な部分を占めていて、その点古来の和歌と共通している。日本の恋歌の歴史で独り寝の歌の系列は無視できない。
我は讃《さぬ》岐《き》の鶴《つる》羽《は》の者 阿《あ》波《は》の若《わか》衆《しゆ》に肌触れて 足好《よ》や腹好や 鶴羽のことも思はぬ
閑《かん》吟《ぎん》集《しゆう》
讃岐の鶴羽の男が、阿波で若衆と交渉をもったのである。つまり男色の歌。あまり相手がすてきなので、故郷のことも忘れた、というのだが、「足好や腹好や」という即物的形容は、正統派和歌では許されない性質のものだった。宴遊の席での愛唱歌を集めたといっていい『閑吟集』には、当時(中世末期・近世初頭)の新興商人階級の現実肯定思想が色濃く反映している。平安期には主に貴族階級に限られていた美や愛の表現が、ここでは公・武・僧・俗の別なく、ひとりひとりの人間の生への関心、肉体の美と快への好奇心、官能の歓《よろこ》びとしてはっきりと主張されてくる。
褐《かちん》帷《かた》巾《びら》に四つ割の帯を 後《うしろ》にしやんと結んだ あらうつつなの面影やの
隆《りゆう》達《たつ》小《こ》歌《うた》
藍《あい》染《ぞめ》の単《ひと》衣《え》に、粋な細帯をしゃんとしめ、ああ、何という美しい夢心地の面影よ、というほどの意。「褐帷巾」は濃い藍色のひとえの衣。カチン(カチ)イロは褐色ではない。色の名は時に思いがけない漢字によって表わされることがあるが、アサギ(浅葱・浅黄)が薄青をさすのもそのたぐいである。「四つ割の帯」は帯地の全幅を四等分して平《ひら》ぐけにした、幅約三寸の帯。慶《けい》長《ちよう》(安《あ》土《づち》桃《もも》山《やま》時代)のころ流行したという。帯の細さが粋な感じを生んだだろう。「うつつな」は、「現・無」で、夢見心地をいう。「後にしやんと」というようなくだけた言い方が、美女の新鮮な感じを巧みにつかんでいる。
とろりアウとろりとしむる目の 笠《かさ》のうちよりしむりや 腰が細くなり候《そろ》よ
松《まつ》の葉《は》
『松の葉』は室町末期から江戸初期にかけ、琉《りゆう》球《きゆう》伝来の新楽器三味線に合わせて歌われた流行歌の一大集成。数首をつないだ組《くみ》歌《うた》を一曲とする。右の歌は中でも古い「琉球組」の一首。「しむる」は締むる。
ここで歌われている女は、芸人か、それとも遊女だろうか。とろけるような流し目で男の心をとらえる情景を歌ったものだろう。女の目に締めつけられて「腰が細くなる」とは艶《つや》のある表現だ。こういうしゃれた言い回しの歌詞はめずらしい。女自身のたおやかな腰つきにまで自然に連想がゆく。歌は世につれというが、こういう歌詞に近世初頭の頽《たい》廃《はい》趣味がずばりと表現されている。
両方に髭《ひげ》がある也《なり》猫の恋
小《こ》西《にし》来《らい》山《ざん》
芭《ば》蕉《しよう》と同時代の大坂の俳人。この句は恋猫が雄にも雌にもひげがあるのに興じたもので、前書がある。およその意味を記すと、「七福神の恵《え》比《び》須《す》どのと大《だい》黒《こく》どのとをてっきり夫婦と思いこんでいる尼さんがいる。違うと言いきかせてもきかない。恵比須・大黒両方ひげがあるついでに、ふと思い出してこれを書く」というのである。由来も愉快だが、恋猫たちを人間の感覚で眺めると確かにひげにはくすりとさせられる。作者は薬種商の父親が俳《はい》諧《かい》をたしなんだ影響で幼い時から西《にし》山《やま》宗《そう》因《いん》のひきいた談林派に学んだが、やがて蕉風にも近づき感覚の鋭い句を作った。この句などは談林派らしく洒《しや》脱《だつ》である。
(『近世俳句俳文集』)
与《よ》謝《さ》野《の》晶《あき》子《こ》
――時を超える夫と妻の相聞歌
与《よ》謝《さ》野《の》晶《あき》子《こ》がただ一人歌のライヴァルと考えていた女流歌人といえば、おそらく平安朝の和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》以外にはあるまい。夫の与《よ》謝《さ》野《の》寛《ひろし》(鉄《てつ》幹《かん》)は、面と向かって妻を批評する時、わざとのように和泉式部には及ばぬではないかとひやかしたこともあったらしい。
和泉式部について晶子自身はこんなことを書いている。
「少女時代より一生を通じて非常に歌が好きであつたらしく、それに加へて熱情と敏感と才気と創造力が旺《わう》盛《せい》であり、卓越してゐましたから、事に触れて口を衝《つ》いて出るものがことごとく歌になりました。もつとも歌の教養にも自ら心を用ひたところが深く、出来上がるのは速《すみ》やかでも、その推《すい》敲《かう》にはかなり苦心したのです」
「彼女の心で新しく感じ、彼女の技巧修辞で新しく表現するのに最も大胆でした。かくして彼女は、自己の内心の生活に即した、生きた新しい歌を詠み、物の感じ方において、言葉の列《つら》ね方において、概念や先例に囚《とら》はれるところがなく、勁《つよ》くして優《やさ》しい一新体を創造したのです」
(「和泉式部新考」)
多少とも与謝野晶子の歌や仕事について知っている人なら、これがほとんどそのまま、晶子の自画像と言っていいような一節であることに気がつくだろう。
くちをしく物《もの》見《み》車《ぐるま》は我《わ》れに無し
乗すべき和泉式部はあれど
与謝野 寛
寛の歌集『相《あひ》聞《ぎこえ》』(明治四十三年〈一九一〇〉三月刊)の一首。これはおそらく、賀《か》茂《も》の祭の日に和泉式部を物見車に乗せ、人々の噂《うわさ》にあえて挑戦するようにこれ見よがしに京の街を練り歩いたという敦《あつ》道《みち》親《しん》王《のう》の故事を念頭において作られた歌だろう。「乗すべき和泉式部」とはもちろんわが妻晶子のことである。一方の晶子にもこんな歌がある。
いにしへの和泉式部にもの云ひし
加《か》茂《も》の祝《はふり》はわれを見知らず
与謝野晶子
『佐保姫』(明治四十二年五月刊)の一首である。「加茂の祝はわれを見知らず」はもちろん諧《かい》謔《ぎやく》として言われていることだが、晶子という天才歌人を知らぬげな加茂の神官に対するからかいと皮肉の調子が、おのずとにじみ出ているような気がしないでもない。たとえこれが純然たる空想の歌だったとしても、晶子自身が和泉式部と自分とを並べることを当り前としていた事実だけは動かしようがない。
彼女らは二人とも天性の歌人というほかない豊《ほう》饒《じよう》多産な作者だった。そして二人とも、生涯を通じて愛、とりわけ男女間の愛を最大のテーマとしてもっていた。彼女らにとっては、「生」の意味は「愛」の充実と不可分だったといってもいいように思われる。そして、一方の和泉には十全な形ではその機会が与えられなかった種類の恋の歌、つまり夫婦間の相《そう》聞《もん》が、晶子の、そして夫寛の恋歌の中心を占めていたことが、与謝野寛・晶子という一組の男女の「仕事」の大いなる特徴でもあった。
われ男《を》の子意気の子名の子つるぎの子
詩の子恋の子あゝもだえの子
与謝野 寛
最初期の代表的歌集である『紫』(明治三十四年刊)の巻頭にある有名な歌である。とめようとしてもとまらぬ勢いによって一息に歌いあげたような歌で、寛の詩歌全体を特徴づけている一種の磊《らい》落《らく》洒《しや》脱《だつ》な歌謡調がその基本にある。重厚さはない。代りにこのような開放性は、封建の重圧に身をこごめつつ自己開放の機会を待っている無数の若い命にとっては、何ものにもかえがたい時代的な意味をもった鼓舞であっただろう。寛・晶子の二人を象徴的先導者とする新詩社、その機関誌「明《みよう》星《じよう》」が明治三十年代に果たした役割の偉大さはそこにあった。
恋といふも未《いま》だつくさず人と我と
あたらしくしぬ日の本の歌
あめつちに一人の才とおもひしは
浅かりけるよ君に逢《あ》はぬ時
与謝野 寛
これらの歌は、反対者の側から見れば鼻もちならない誇大妄想の歌であろう。何しろ、男女の常なる恋というだけではおさまらず、私ら二人で日本の歌を新しくしたのだと歌い、また「君」(晶子をさす)に逢う前には我こそ天地にただ一人の才と自ら信じていたのは思いちがいだったと歌うのだから、妄想といわれ、たわごとと謗《そし》られても仕方がない。実際、当面のライヴァルとなった根岸派つまり「アララギ」派の、伊《い》藤《とう》左《さ》千《ち》夫《お》、島《しま》木《ぎ》赤《あか》彦《ひこ》、斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》らは、ある意味では仮面をかぶった道徳家の嗜《し》虐《ぎやく》性さえにじませて、寛・晶子夫妻を憎悪攻撃する文章を書いた。
「斎藤さんは、私たちをどういふわけか、まつたく腐敗した、取《とり》柄《え》のない非人間のやうに、憎悪の対象としてのみ蔑《べつ》視《し》してをられるやうに感じられます。それなら、まつたく眼中におかれないでもよろしからうと思ふのですが、時に弁《べん》駁《ばく》をお書きになつたりする以上は、時々、斎藤さんの大きな愛からにじみ出た御批評をも見せていただきたいものだと思ひます」
(晶子「斎藤茂吉さんに答ふ」、大正十年一月)
与謝野寛・晶子夫妻と斎藤茂吉や島木赤彦らとの対立を考える上で、相互の恋愛の歌を比較検討してみることは決して無意味ではあるまいと思われる。端的にいえば、茂吉や赤彦には、恋というものをこれほどにも開放的、無条件肯定的に歌いあげてはばからない寛や晶子の近代性はじつに馴《な》染《じ》みにくいものだったのである。彼らの寛・晶子・「明星」征伐への意欲は、たぶん理性的判断の介入する余地もないほど先験的に土着性のものだっただろう。表向きの議論は歌のよしあしに関わってなされていても、その根源にはむしろ理を超えた異端者糾問の衝動があったと推察される。晶子の反駁文は彼女がそれをはっきり感じとっていたことを示している。
朝に夜に白《びやく》檀《だん》かをるわが息を
吸ひたまふゆゑうつくしき君
相《さう》人《にん》よ愛欲せちに面《おも》痩《や》せて
美くしき子に善《よ》きことを言へ
わがこころ君を恋ふると高ゆくや
親もちひさし道もちひさし
与謝野晶子
これらの歌は、明治三十九年の『舞姫』にある。その年晶子は二十八歳、すでに二人の男子をもつ妻であり母である身だ。しかしこれらは、たとえ現在の作としてもなお、多くの人を逆上させる可能性のある要素を秘めている。結婚したのちもこのようにヌケヌケと互いの愛を公言してはばからないような夫婦関係は、晶子のこれらの歌から一世紀近くたった今でも、日本社会ではなお風変りで異様に映るのが一般だからである。
きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに
芭《ば》蕉《しよう》
かぜひきたまふ声のうつくし
越《えつ》人《じん》
王朝男女のきぬぎぬ(一夜明けての別れ)の景を二句の連なりによって作っている。芭蕉は『源《げん》氏《じ》物《もの》語《がたり》』に出てくるような高貴な女性を想像しているだろう。「あてやか」は「貴」という字をあて、みやびやかの意で、「あでやか」とは別。一夜を共にした男を送り出す姫君の消え入らんばかりのはじらいが、ひときわ気品高いさまを芭蕉が描けば、越人は、たまたまひいていた風邪声なのが、なおのこと魅力を添えて男心をそそると受けるのである。発《ほつ》句《く》単独の恋の句はごく少ないが、このような連句の一節では事情は違い、芭蕉も腕によりをかけた。
(『芭蕉七部集』中『曠《あら》野《の》』「かりがねの巻」)
肌《はだ》寒《さむ》ミ一度は骨をほどく世に
荷《か》兮《けい》
傾《けい》城《せい》乳《チヽ》をかくす晨《あけ》明《ぼの》
昌《しよう》圭《けい》
荷兮・昌圭ともに尾《お》張《わり》(名古屋)生まれの蕉《しよう》門《もん》俳人。「骨をほどく」は、骨がばらばらになる、つまり死ぬこと。「傾城」は、美女が色《いろ》香《か》によって城(国)を傾ける(滅亡さす)と、いうところから、美女または遊女をさす。この場合は遊女。晩秋のころの明け方、肌寒さに目をさまして、どこか儚《はかな》い思いにとらわれ、人間だれでも一度は死ぬ宿命を考える。かたわらに寝ている遊女が、夢うつつに目覚めて、ふと乳房をかくす。生も儚く死も儚いが、その思いを背景に、いまはただ一種の凄《せい》艶《えん》な夜明け方だけがある。
(『芭蕉七部集』中『春の日』「春めくやの巻」)
妹《いも》が垣根三《さ》味《み》線《せん》草《ぐさ》の花咲きぬ
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
「妹」は妻、恋人。「三味線草」は、三味線のバチと似た形の実を結ぶためその名があるナズナのことで、ペンペン草ともいう。右の句は蕪村六十五歳の作。当時小糸という祇《ぎ》園《おん》の美《び》妓《ぎ》に老境の苦しい恋を覚えていたようで、友人にあてた書簡にもそのような心境がしるされている。三味線草はさもない雑草だが、三味線に縁のある生活をしているひとを想《おも》いつづけている蕪村の目には、そんな雑草の名前すらその人の面影に連なるのである。振れば小さな音をたてるナズナを見て、春の路傍にたたずむ老人の心の中は少年の愁《うれ》いさながら、悩ましいあこがれが鳴っていた。
(『蕪村句集』)
春みじかし何に不滅の命ぞと
ちからある乳《ち》を手にさぐらせぬ
与《よ》謝《さ》野《の》晶《あき》子《こ》
青春は短い。どこに不滅の命があろうか。この今の命の限りを尽くすため、私はわが胸の力づよい乳房をあのかたに探らせたのだ。大胆不敵な表現で人々の目を剥《む》かせた。その悪評のためだろう、晶子ものちに「手にさぐるわれ」などと改作したが、意味のない修正だった。
思うに作者の晶子自身は、そのような悪評など予想することもできなかったのではないか。彼女が王朝物語などを耽《たん》読《どく》しつつ日夜培ってきた至上の恋愛への夢からすれば、このような表現をとることになる恋は、最も自然に彼女のものだったと思われるからだ。
(『みだれ髪』)
生きながら針に貫《ぬ》かれし蝶のごと
悶《もだ》へつつなほ飛ばむとぞする
原《はら》 阿《あ》佐《さ》緒《お》
原阿佐緒は明治二十一年(一八八八)宮城県黒川郡の素封家の娘として生まれ、少女期から文学書を耽読し、日本画を習った。日本画修得のため上京したが、恋愛問題から自殺未遂事件をおこす。歌が与謝野晶子に認められて「新詩社」に入るが、数年後には対立する「アララギ」に入り、後には歌人石《いし》原《わら》純《じゆん》との恋愛問題からここを追われた。やがて歌壇を離れ、女優、酒場のマダムなどの職を転々としたのち八十歳の波乱多い生涯を閉じた。右の歌は第一歌集の歌で、最初の恋の苦しみと失意のさなかに作られた数多くの歌の一つ。この蝶の姿のなまなましい痛ましさは、作者自身の前途を象徴する感がある。
(『涙痕』)
ああ接《くち》吻《づけ》海そのままに日はいかず
鳥翔《ま》ひながら死《う》せ果てよいま
若《わか》山《やま》牧《ぼく》水《すい》
牧水の最初の恋は世にも不思議な恋だった。相手には夫があったが、牧水はそれをのちのちまで知らなかった。結婚できると思っていた相手が、不可解な拒絶をもってむくいたため、彼は苦しみ、元来酒好きだったことも手伝って酒に溺《おぼ》れるようになった。それらは二十代半ばの青春の真っただ中の出来事で、彼はこの初期時代にすでに近代短歌屈指の悲しく美しい恋愛放浪歌の数々を生み出してしまった。この歌は恋のはじまりの時期、接吻に陶酔する文字通り有頂天の歌。海も日も今あるまま永遠に停止せよ、海鳥も舞いながら即刻そのまま死に絶えよ、この歓喜よ、永遠にここにとどまれ、と。
(『別離』)
かくまでも黒くかなしき色やある
わが思ふひとの春のまなざし
北《きた》原《はら》白《はく》秋《しゆう》
明治末年(一九一二)、詩集『邪《じや》宗《しゆう》門《もん》』と『思ひ出』で詩界の若き第一人者となった白秋は、並行して作っていた短歌においても新風を起こした。多感な青年の感傷をもって、自らの遭遇した運命的な危険な恋を歌い、官能のふるえに妙《たえ》なる響きをもたらした。「かなしき」は、えもいえぬ「悲しき」思いを内に包みこんだ「愛《かな》しき」だろうが、「わが思ふひと」の「春のまなざし」は、わけても胸しめつけるような黒くかなしい色をしていた。なぜなら白秋の恋した人は、夫を持つ美《び》貌《ぼう》の人、しかも不幸せな日々を送っている人だったからだ。二人は愛し合いながら、深いおそれと悲しみをも分けあっていた。
(『桐の花』)
まてどくらせどこぬひとを
宵《よひ》待《まち》草《ぐさ》のやるせなさ
こよひは月もでぬさうな。
竹《たけ》久《ひさ》夢《ゆめ》二《じ》
「宵待草」は、夏の夕方黄色い花を開き、朝にはしぼむオオマツヨイグサのことで、俗に月見草とも呼ばれる。しかし本来のツキミソウとは別種。恋人を待ちくたびれる女心を宵待草の名にかけて、夢二好みの清《せい》怨《えん》の情緒を歌謡調に託《たく》した。これは最初雑誌に発表した段階では、全部で八行から成るもっとこまかく叙述的な詩だった。その段階ではありきたりの出来だったが、詩集では三行に刈り込まれ、面目を一新した。歌曲となって大流行したのは周知の通りである。
(『どんたく』)
春の夜のともしび消してねむるとき
ひとりの名をば母に告げたり
土《と》岐《き》善《ぜん》麿《まろ》
恋人の名をはじめて母に告げる。あらたまって、しかし羞《は》じらいも甘えもまじった心持ちで。ともしびを消した春の夜の闇《やみ》が照れくささを蔽《おお》いかくしてくれる。まるで青年の歌そのものだが、実は還暦をすぎたころ「世代回顧」と題して作った一連の歌の一首である。
善麿は明治十八年(一八八五)東京浅草の等光寺の住職の子として生まれた。はじめ新聞記者をつとめ、長寿を完《まつと》うした最晩年まで知的関心は旺《おう》盛《せい》、容姿動作も若々しかった。「黒髪のしろくなるまで相寄ればいにしへびともさきはひ(幸)とせり」という幸福な結婚生活への感慨を背景に、若き日の妻と自分を歌う回想は甘美である。
(『遠隣集』)
君が瞳《ひとみ》はつぶらにて
君が心は知りがたし。
君をはなれて唯《ただ》ひとり
月夜の海に石を投ぐ。
佐《さ》藤《とう》春《はる》夫《お》
小説家佐藤春夫は第一詩集『殉《じゆん》情《じよう》詩集』以来、大正・昭和の詩壇に特異な地位を占めた。多くの恋愛詩から成る『殉情詩集』は、詩形においては古格を守りつつ、盛られた詩情の鮮烈さ、憂愁の情緒、鋭敏な神経のおののきによって、多くの人の心をとらえた。右は「少年の日」と題する四行詩四章の初期作品で、四季にわけたうちの三番「秋」。表現が古風な型を守っているため、かえって少年の恋ごころをよく歌いえて愛《あい》誦《しよう》された。一番「春」は「野ゆき山ゆき海辺ゆき/真ひるの丘べ花を敷き/つぶら瞳の君ゆゑに/うれひは青し空よりも」。
(『殉情詩集』)
これやこの一《いち》期《ご》のいのち炎《ほむら》立《だ》ち
せよと迫りし吾妹《わぎも》よ吾妹
吉《よし》野《の》秀《ひで》雄《お》
師と仰いだ会《あい》津《づ》八《や》一《いち》と共に、昭和短歌において孤峰をなしつつ聳《そび》えたつ歌人。人間存在の諸相へのいとおしみと、それに起因する悲しみを、力強く歌った。昭和十九年(一九四四)晩夏、最初の妻はつ子は四児を残して四十二歳で病没した。右の歌は、命旦《たん》夕《せき》にせまった妻が、今《こん》生《じよう》のわかれに命の炎を燃えたたせ、男女の営みを「せよ」とせまった時のことを詠む。題材も歌いぶりも稀《け》有《う》のものだろう。『寒《かん》蝉《せん》集《しゆう》』には悲痛な亡妻追慕の歌が並び、近代有数の挽《ばん》歌《か》集となっている。
(『寒蝉集』)
愛《かな》しさにむせぶ妻をも臥《ふ》す吾《われ》の
衣を一《ひと》重《へ》へだてて抱ける
伊《い》藤《とう》 保《たもつ》
伊藤保は大正二年(一九一三)大分県に生まれたが、のちハンセン病を発病し、九州療養所(菊池恵楓園)で昭和三十八年(一九六三)没した歌人。「アララギ」に属し、斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》、土《つち》屋《や》文《ぶん》明《めい》に師事した。第一歌集『仰日』の好評により、療養歌人たちの代表的存在となった。「見る目なく崩《く》えつつ病める吾と妻地《ぢ》虫《むし》の鳴ける夜《よは》に抱きぬ」のような悲痛な歌もある。命の極限に刻々生きているともいえる病む者同士のあいだのいたわりと愛は、そのままこの歌のような苦悩と抱き合わせだった。それを鋭く見つめて歌った歌は、浄化された命の上澄みの観がある。
(『仰日』)
はつはつに触れし子ゆゑにわが心
今は斑《はだ》らに嘆きたるなれ
斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》
『万葉集』の人《ひと》麻《ま》呂《ろ》の歌「朝《あさ》影《かげ》にわが身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去《い》にし子ゆゑに」(前出)の現代版ともいえる歌。「はつはつ(端端)」は、古語の「はつか」と同じで、わずか。「斑ら」はまだら。「斑ら」という表現はむかしから「斑《はだれ》雪《ゆき》」とか「斑《はだれ》霜《じも》」などという具合に使われるが、心を「斑ら」にして嘆くという表現は、茂吉の見出した絶妙の表現というほかない。ひそかに愛し合い、ひそかに別れた女への感傷とあこがれを、実際の経験よりたぶん一層強い現実感をもった表現にまで高め得た歌といえよう。有名な連作「おひろ」の一首。
(『赤光』)
今日の逢《あ》ひいや果ての逢ひと逢ひにけり
村々に梅は咲きさかりたり
中《なか》野《の》重《しげ》治《はる》
今日逢うのが最後、と思いつつ恋人に逢った、村々は梅の花の真っ盛りだった。「相よりてくらやみのなかに居りしかば吾《わ》が手かすかに人の身にふれつ」「風吹けばただに逢はんと手をのべつ心かよふといへどせつなく」などと同様、強い感情の突きあげを、かろうじて歌の形にすくいとっている。作者は明治三十五年(一九〇二)生まれ、昭和五十四年(一九七九)没の詩人・小説家。金沢の四高時代には短歌もつくり、右の歌は大正十二年(一九二三)校友会誌に発表した恋歌の一首。このころの室《むろ》生《う》犀《さい》星《せい》や窪《くぼ》川《かわ》鶴《つる》次《じ》郎《ろう》らとの交遊のさまは小説の初期代表作『歌のわかれ』にうかがわれる。
(『中野重治全集』)
わがこころ環《たまき》の如《ごと》くめぐりては
君をおもひし初めにかへる
川《かわ》田《だ》 順《じゆん》
「環」は玉や鈴などを緒に貫き、腕にまとった古代の装飾品で、手《た》纏《まき》などとも書いた。円環だから端がない。そこでめぐりめぐってとどまらぬことを「環の端無きがごとし」と喩《たと》える表現も生まれた。この恋歌の場合、恋愛の事情が世のありふれた関係ではなかったため、自分の思いが「環の如くめぐりては」相手を思いそめたそもそもの初めにまでたえず還《かえ》る(そして再びめぐりにめぐる)という表現が切実で、ういういしい吐息がきこえるようだ。彼は当時大学教授夫人だった歌人鈴鹿俊子と恋におち、年余の苦悩にみちた三角関係のただ中にあった。二人は結婚して最後まで愛を貫き通した。
(『東帰』)
たちまちに君の姿を霧とざし
或《あ》る楽章をわれは思ひき
近《こん》藤《どう》芳《よし》美《み》
戦時下の若い男女の恋愛は、いつ破壊されるか知れない危うさの上にゆれていた。それゆえの切なさと甘美さが、この歌の霧と少女と音楽の中にはある。昭和二十三年(一九四八)に出版された第一歌集『早春歌』に収められている。この歌集は、昭和十一年から二十年まで戦中の作で占められている。大正二年(一九一三)朝鮮に生まれた作者は、いわゆる戦中派の代表的歌人の一人で、荒廃した敗戦直後の世相を誠実鋭敏なまなざしでとらえ、戦後リアリズム短歌の一方向を示した。しかしその同じまなざしは、青春の恋のみずみずしさをも生き生きととらえることを忘れなかった。「君」はやがて作者の妻となる。
(『早春歌』)
火を産まんためいましがた触れあえる
雌雄にて雪のなか遠ざかる
岡《おか》井《い》 隆《たかし》
いきなり読んで誰の胸にもすんなり入ってくるという歌ではないかもしれない。二人の男女の性的接触が精神的側面と不可分のものとしてとらえられているため、歌の中で譬《ひ》喩《ゆ》の占める比重がひときわ大きくなっているからである。「火を産まんため」とは、まさに烈《はげ》しい性の焔《ほのお》を意味すると同時に、精神的な意味でのある創造的な焔をも意味しているだろう。しかも作者は肉体的・官能的側面にむしろ固執しようとしており、そこから「雌雄」の語も出てくる。内からつきあげる官能の衝動への讃《さん》美《び》の念が根底にあるのだ。「匂《にお》いにも光《つ》沢《や》あることをかなしみし一《ひと》夜《よ》につづく万の短《みじか》夜《よ》」。
(『土地よ、痛みを負え』)
薄《うす》紅葉《もみぢ》恋人ならば烏《え》帽《ぼ》子《し》で来《こ》
三《みつ》橋《はし》鷹《たか》女《じよ》
人の意表をつく道具立ての句である。色づきはじめた紅葉を前にすれば、ああこのような季節、このような背景のもとで思う人に逢《あ》うことができたら、という思いがまずあるものだろう。しかしそのような尋常の逢い方をひっくりかえし、なんと、「恋人ならば烏帽子でやっておいで」という奇想天外なよびかけに変わっている。自らの美《び》貌《ぼう》と気《き》位《ぐらい》を十分意識した言い方だが、烏帽子というところには茶目っ気たっぷりな時代錯誤気分もある。鷹女の句には「白露や死んでゆく日も帯締めて」「みんな夢雪《ゆき》割《わり》草《そう》が咲いたのね」など、一人の女性の奔放で孤独な感性を鮮やかに示している句が多い。
(『魚の鰭』)
泣くおまえ抱《いだ》けば髪に降る雪の
こんこんとわが腕《かいな》に眠れ
佐《さ》佐《さ》木《き》幸《ゆき》綱《つな》
佐佐木幸綱には第一歌集『群《ぐん》黎《れい》』(昭和四十五年〈一九七〇〉刊)の中にもこんな恋歌がある。「夏草のあい寝の浜の沖つ藻の靡《なび》きし妹《いも》と貴様を呼ばぬ」「奴《やつ》は女くったくのない瞳《ひとみ》さえ俺の裸身の汗に裂かれき」。男であることが、スポーツマンでもある自らの「荒魂」の歌いあげとともに意識的に強調されているが、それは決して粗暴さの勝利ではない。掲出した歌ではむしろ男っぽさの中の優しさが際立っていて、優しさを表現するためには、あのような過程が必然的になければならなかったのだとさえ思われてくる。「こんこんと」は雪の降るさまと眠りとの両方にかかる。歌謡調が生かされているのは新しい傾向である。
(『夏の鏡』)
目を病《や》みてひどく儚《はかな》き日の暮を
君はましろき花のごとしよ
福《ふく》島《しま》泰《やす》樹《き》
佐《さ》佐《さ》木《き》幸《ゆき》綱《つな》の次の世代として歌壇に登場した福島泰樹は早大生時代に学園闘争に加わり、その体験を歌集『バリケード・一九六六年二月』で物語詩風に構成して評判になった。一九七〇年以後も現代社会と短歌形式とのなまなましい接触点に自分自身をたえずさらしていこうとする意欲的な行動で注目されている。中《なか》原《はら》中《ちゆう》也《や》の詩と人生を自らのうちに取りこんで短歌連作化し、これを聴衆の前で絶叫し、朗《ろう》誦《しよう》するような試みもその一つである。この作者には現代短歌を歌謡の世界に向けて開放していこうとする明らかな衝動と意欲があって、ここに掲げた恋歌などもその味わいが濃厚である。
(『転調哀傷歌』)
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》
――肉体の苦と精神の至美の世界と
『仰《ぎよう》臥《が》漫《まん》録《ろく》』は、『墨《ぼく》汁《じゆう》 一《いつ》滴《てき》』『病《びよう》 牀《しよう》 六《ろく》 尺《しやく》』と時期的に重なる子《し》規《き》の最晩年の日録だが、その内容はとても「漫録」などというものではない。死の前年の明治三十四年(一九〇一)十月の日記をとってみれば――。
「繃《ハウ》帯《タイ》取《トリ》換《カヘ》ノ際左腸骨辺ノ痛ミ堪ヘ難ク号泣又号泣困難ヲ窮ム」
「此《コノ》日始メテ腹部ノ穴ヲ見テ驚ク 穴トイフハ小サキ穴ト思ヒシニガランド也《ナリ》心持悪クナリテ泣ク」
「始終ドコトナク苦シク、泣ク」
こういう記事が随所にある日録だから、その痛み苦しみは、この種の苦痛を知らぬ人間にも乗り移って、戦《せん》慄《りつ》を覚えさせずにはおかない。
「五日ハ衰弱ヲ覚エシガ午後フト精神激《ゲキ》昂《カウ》夜ニ入リテ俄《ニハカ》ニ烈《ハゲ》シク乱叫乱《ラン》罵《バ》スル程ニ頭イヨアウイヨ苦シク狂セントシテ狂スル能《アタ》ハズ独リモガキテ 益 《マスマス》苦シム(略)朝雨戸ヲアケシムルヨリ又激昂ス 叫ビモガキ泣キイヨアウイヨ異状ヲ呈ス」
同じ十月十三日には、子規は母と妹の留守の間に、目の前の机の上におかれた小刀と千枚通しの錐《きり》で、自殺を図ろうとさえする。
「……此《コノ》鈍刀ヤ錐デハマサカニ死ネヌ 次ノ間ヘ行ケバ剃《カミ》刀《ソリ》ガアルコトハ分ツテ居ル ソノ剃刀サヘアレバ咽《ノ》喉《ド》ヲ掻《カ》ク位ハワケハナイガ悲シイコトニハ今ハ匍匐《ハラバ》フコトモ出来ヌ 已《ヤ》ムナクンバ此小刀デモノド笛ヲ切断出来ヌコトハアルマイ 錐デ心臓ニ穴ヲアケテモ死ヌルニ違ヒナイガ長ク苦シンデハ困ルカラ穴ヲ三ツカ四ツカアケタラ直ニ死ヌルデアラウカト色色ニ考ヘテ見ルガ実ハ恐ロシサガ勝ツノデソレト決心スルコトモ出来ヌ 死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ 病苦デサヘ堪ヘキレヌニ此上死ニソコナフテハト思フノガ恐ロシイ……」
このときも子規は、死のうか死ぬまいかで逆上し、「シヤクリアゲテ泣キ出シタ」。
しかし、子規の驚嘆すべき強さは、ただにこの種の阿《あ》鼻《び》叫《きよう》喚《かん》の苦しみを克明に記録してゆくところにのみあるのではない。自殺未遂事件の二日後、十五日の記事には一種の遺言めいた文章が書かれているが、そこには「自然石の石碑はいやなことに候……柩《ひつぎ》の前にて空《そら》涙《なみだ》は無用に候 談笑平《へい》生《ぜい》の如《ごと》くあるべく候」などの言葉と並んで、中《なか》江《え》兆《ちよう》民《みん》の有名な『一《いち》年《ねん》有《ゆう》半《はん》』に対して次のような意味の感想を記している。
兆民居《こ》士《じ》はのどに穴が一つあいたそうだ。私は腹、背中、尻《しり》といわず、体中ハチの巣のように穴があいている。余命一年半という点も似たようなものだろう。しかし、兆民は「まだ美といふ事少しも分らずそれだけ吾等に劣り 可申《まうすべく》 候《さうらふ》 理が分ればあきらめつき可申《まうすべく》美が分れば楽しみ出来可申候」。たとえばアンズの実を買ってきて細君と共に食うということも楽しみには違いないが、どこかにまだ一点の理がひそんでいる。だが、「焼くが如《ごと》き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処《ところ》何の理《り》窟《くつ》か候べき」。
『一年有半』はいうまでもなく兆民が喉《こう》頭《とう》癌《がん》にかかり、医者から余命一年半といわれて、「生前の遺稿」として書きつづった随想、批評集である。子規の日本主義と兆民の民権論と、思想的に相いれぬこともあっただろうが、子規の兆民への痛《つう》罵《ば》のおもな理由は「生命を売りものにしたるは卑し」というところにあった。多年、病床で激しい苦痛に号泣、乱罵、逆上をしいられてきた子規の目に、兆民のいかにも警世の遺言状らしい名文が片《かた》腹《はら》痛く思われたのかもしれない。
子規は前述のようにこれを書いた二日前、あまりに激しい苦痛のため自殺しようとさえしたほどだった。そういう状態の人が、美の「楽しみ」をいっていることの意味、この不屈の意力がそなえている真の「快活」さは、人間であることの究極境をかいまみた人の覚悟のようなものを感じさせる。「美」というものが、まさしく命をかけてあがなわれるものであることを、子規の生涯は語っている。逆上の病苦の中でもついに宗教とは無縁であった子規にとって、「美」は信仰とほとんど変わらなかっただろう。そのような生活のあり方は、とくに日本人の場合、ひとつの普遍的な意味さえもっていた。実際、古代以来の日本人の宗教と生活の関わり方を考えてみると、きびしく倫理的であるよりはむしろ美的な心境の完成という方向に宗教感情が発揮され磨かれていった例が多いとさえいえると思われる。西《さい》行《ぎよう》や良《りよう》寛《かん》はその一例にすぎまい。
糸瓜《へちま》咲《さい》て痰《たん》のつまりし仏かな
ほか二句の絶筆の句には、「仏」となった自分の死顔を静かに見つめているような澄んだまなざしがある。子規をとじこめている苦痛の戦場である肉体から抜け出た、子規自身のもう一つの目がそこに感じられる。その目は、自分の破《や》れ穴だらけの肉体を自在に山川草木が吹き抜けているのを、じっと見ているように思われる。
そういうかれが、一方で、死ぬまで食いものに限りない執着をもちつづけ、貧しい中でもうまいものを食いたいと願いつづけたことは愉快である。面白いことに、中江兆民の『一年有半』も、残り少ない命だから一つでも余計にうまいものを食って死にたいとたびたび書いている。二人は案外似たところがあるのかもしれない。食いものへの執着は明らかに宗教的ではない。だが、それは美的な感受性とは深い関係があろう。食うものは、いうまでもなく自然界に属する。子規や兆民にみられる食いものへの執着は、超越者としての神や仏ではなく、食いものとか夕顔の花のような、感覚的、感性的にじかに接することのできる自然界を通じて、つまり「美」の窓口を通して、死に立ちむかってゆく日本人のある種の死生観を象徴しているように思われる。
子規は審美学や哲学をいたるところで嘲《ちよう》 笑《しよう》しているが、それは裏返していえば、自己の全感官を通じて本然的に獲得されてゆく美というものへの、かれの不抜の信頼があったればこそであろう。死に臨む人間に対して「理」はついに何ほどのこともなしえない、「美」のみが究極の救済でありうる、と子規は断じているように見える。そういうことを思い合わせながら、『仰臥漫録』などを読むと、これほどの生の悲惨が、これほどの充《じゆう》溢《いつ》と結びついている言語道断さに、目を見張るほかはない。
朝《あした》に紅顔あつて世《せ》路《ろ》に誇れども
暮《ゆふべ》に白骨となつて郊《かう》原《げん》に朽ちぬ
義《よし》 孝《たかの》 少《しよう》 将《しよう》
藤原義孝は平安中期の人。和歌の作でも知られる。日本第二の美人と称《たた》えられた麗《れい》景《けい》殿《でんの》 女《によう》御《ご》(冷《れい》泉《ぜい》院《いん》の后《きさき》)の夭《よう》折《せつ》を嘆じた漢詩の一節というが、その原作の全文は伝わらず、『和《わ》漢《かん》朗《ろう》詠《えい》集《しゆう》』(藤原公《きん》任《とう》撰)に摘句されたこの一節が幸いにも残った。朝には若々しい紅顔に浮《うき》世《よ》の快楽を満喫していても、夕には白骨となって郊外の原野に朽ち果てるのが、死すべき人間のさだめなのだと、人生無常を歌う。浄土真宗中興の祖蓮《れん》如《によ》の有名な「白骨の御《お》文《ふみ》」は、この句に基づいて書かれた。作者の義孝自身、奇《く》しくも二十一歳の若さで死んだ。
(『和漢朗詠集』)
あかあかと一本の道とほりたり
たまきはる我が命なりけり
斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》
茂吉の友であった芥《あくた》川《がわ》 龍《りゆう》之《の》介《すけ》は、ある時エッセーでこの歌を含む「一本道」連作を激賞し、ゴッホの太陽に匹敵する痛切な光がここにはあるといった。タマキワルは魂極・玉極などの字を当てる枕《まくら》詞《ことば》で、内・命その他にかかるが、正確な語義は未詳とされている。しかし茂吉がこの語にこめた遥《はる》かなるものへの激情は、「たり」「けり」の力強い連打と相まって、読む者にまっすぐ伝わる。大正二年(一九一三)秋、代々木原頭での作。その直前、傾倒していた師伊《い》藤《とう》左《さ》千《ち》夫《お》が逝ったのである。茂吉は眼前の道の光のなかに、ある悲壮な思いとともに、連綿と続く魂の一本道を見ていたのだろう。
(『あらたま』)
ねがひたる一《ひと》世《よ》はつひにかすかにて
わらべごころに人《ひと》像《かた》つくる
鹿《か》児《ご》島《しま》寿《じゆ》蔵《ぞう》
作者は和紙繊維の長所を高度に生かした優雅な紙《し》塑《そ》人《にん》形《ぎよう》の創始者で、昭和三十六年(一九六一)人間国宝となった人。同時に「アララギ」で島《しま》木《ぎ》赤《あか》彦《ひこ》に、赤彦没後は土《つち》屋《や》文《ぶん》明《めい》に師事した。歌集も数多い。写実で鍛えた歌風だが、語感が秀れているので優美さを兼ね備えているところが特徴で、その点彼の作った紙塑人形の世界とも共通する。この歌は述懐。かつて思いみたわが一生は、結局実現にはほど遠く、ついに「かすか」なものでしかなかった。だからこうして童心のままに人形を作っている、という。言葉の動きに力と余情がある。
(『新冬』)
戦争が廊下の奥に立つてゐた
渡《わた》辺《なべ》白《はく》泉《せん》
俳句形式に最もふさわしい主題は、と問うて、たとえば高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》は花《か》鳥《ちよう》諷《ふう》詠《えい》という答えを出した。しかし現代社会に生きる者としてはそれでは飽き足らないと考え、都市生活の諸環境に新しい題材を求め、社会的現実を俳句形式によって内面化し、端的にその本質を表現しようと努めたのが、昭和十年代前半の新興無季俳句運動だった。白泉はその代表者の一人。戦火が拡大しつつあった昭和十四年(一九三九)の作である。わが家の薄暗い廊下の奥に、戦争がとつぜん立っていたというのだ。ささやかな日常への凶悪な現実の侵入、その不安をブラック・ユーモア風にとらえ、言いとめて代表作となった。
(『白泉句集』)
防《さき》人《もり》に行くは誰《た》が背と問ふ人を
見るが羨《とも》しさ物《もの》思《も》ひもせず
防人の妻
防人は崎守で、辺境守備兵の意。七―八世紀、九州北辺警備のため諸国の壮《そう》丁《てい》が徴発され、遥《はる》か西国に派兵された。二十歳から六十歳までで三年交替だった。東国制圧の意味もあって坂《ばん》東《どう》からの徴兵が多く、一家の支柱をとられる貧しい人民には大きな苦しみだった。防人の歌の多くは徴兵された兵士自身の歌で、妻や父母との長いわかれを悲しみ、故郷への断ち切れない愛着を歌う内容のものが多いが、これは中での異色で、夫を徴兵された妻の嘆きの歌。防人に行くのはどこの旦《だん》那《な》さんなの、と気楽にたずねている人のうらやましさよ、こんな悲しい物思いもなしに。
(『万葉集』)
焼けただれし裸身さらしてさまよへる
人ををろがみてまた走りたり
山《やま》本《もと》康《やす》夫《お》
山本康夫は明治三十五年(一九〇二)諫《いさ》早《はや》市に生まれた。広島で多年新聞記者をつとめるかたわら、同地方の歌壇で活躍した。合同歌集『広島』は戦後九年目の八月、原爆投下を体験した広島市民ら二百二十人の作品を公募、作者もその一人に加わっていた編集委員らが編集したもの。「をろがみて」は合掌し拝んで。原爆投下直後、むざんに焼けただれ、皮膚を垂らしながら廃《はい》墟《きよ》をさまよう人、その人をなすすべもなくただ手を合わせて拝んで走り去る、子供を探して。作者自身もこの時原爆に愛児を奪われたのである。「子がむくろ手《て》押《おし》車《ぐるま》に結びつけわれと妻とがこもごもに押す」その他の歌がある。
(合同歌集『広島』)
あなたは勝つものとおもつてゐましたかと
老いたる妻のさびしげにいふ
土《と》岐《き》善《ぜん》麿《まろ》
破調の歌で、「勝つ」「おもつて」「かと」の三個所で一応切れる形である。昭和二十年(一九四五)夏の敗戦直後、夫人とかわした会話をそのまま歌にしたものという。調べは散文すれすれだが、多くの人々が口には出さずに感じていたことを素直にのべてそのまま詩になっている点、当時の終戦詠の中でも白《はく》眉《び》のものではないかと感じられる。続く一首は「子らみたり召されて征《ゆ》きしたたかひを敗れよとしも祈るべかりしか」。同じ思いは多くの親にあった。作者は昭和五十五年四月十五日、九十四歳で逝去するまで明敏な知性の活動力を保ちつづけ、単なる歌壇の域を超えた大きな文業を残した。
(『夏草』)
命はも淋《さび》しかりけり現《うつ》しくは
見がてぬ妻と夢にあらそふ
明《あか》石《し》海《かい》人《じん》
明石海人はハンセン病のため昭和十四年(一九三九)、四十歳に満たずして死去した。画家を志し、結婚して子もあった人だが、発病して療養所に入り、短歌制作に苦悩のはけ口を見出した。昭和十一年『新万葉集』に病者の苦悩を歌った作十一首が採られ、一躍注目されるにいたった。病状がしだいに悪化してゆく中で刻一刻の命の消尽をみつめて歌い、その後現れた同じ病気の歌人たち、伊《い》藤《とう》保《たもつ》、津《つ》田《だ》治《はる》子《こ》らの先駆者となった。この歌は、現実には逢《あ》うことのできない妻と夢で逢えたというのに、その夢がいさかいの夢だった悲しみを歌ったもので、「命はも淋しかりけり」は哀切をきわめている。
(『白描』)
たすからぬ病と知りしひと夜経て
われよりも妻の十《と》年《とせ》老いたり
上《うえ》田《だ》三《み》四《よ》二《じ》
上田三四二は医学を専攻し医師として多年病院に勤めたが、同時に歌人であり、小説家であり、文芸批評家である。昭和四十一年(一九六六)結腸癌《がん》で手術を受け、人生の一大転機となった。「五月二十一日以後」という三十首連作に始まる多くの病中・病後詠は、壮年で癌と知らされた人の驚《きよう》愕《がく》と苦悩、妻子への思いを歌って胸うつ作が多い。病名を告げられた日の翌日の歌。患者が同じ医者だから、病院側もあえて癌であることを告げたのだろうか。しかし、実際に病名を知ってみればそれ以後の事情は一変する。下《しもの》句《く》には万感の思いがこもっている。
(『湧井』)
仏は常にいませども 現《うつつ》ならぬぞあはれなる 人の音せぬ 暁《あかつき》に ほのかに夢に見え給《たま》ふ
梁《りよう》塵《じん》秘《ひ》抄《しよう》
平安朝の貴族や庶民にとって、京の都を護《まも》るように背後にそびえている比《ひ》叡《えい》山《ざん》は、特別に尊く親しい場所だった。伝《でん》教《ぎよう》大師最《さい》澄《ちよう》の開基になる天台宗の寺々がそこにはある。この歌は天台宗で重んじられた法《ほ》華《け》経《きよう》の教理を歌謡で歌ったもの。古今を通じて最もよく知られ愛《あい》誦《しよう》されている仏教歌謡の一つだろう。仏は常住不滅だが、凡夫にはまのあたり拝することができないので、一層しみじみと尊く思われる。しかし夜通し一心に祈ったその暁、仏はほのかに夢の中に姿をお見せになるのだ。仏が夢中に示現するというのは、平安ころの信仰者にとって少しも異常な事ではなかった。
命一つ身にとどまりて天《あめ》地《つち》の
ひろくさびしき中にし息《いき》す
窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》
空穂は信州松本から早大に遊学したが、その早大時代、牧師植《うえ》村《むら》正《まさ》久《ひさ》を通じてキリスト教に触れ、生涯に及ぶ影響を受けた。これは七十七歳の「老境」と題する歌。大宇宙に包みこまれて瞬間の命を営む小さな自己を詠じて、これほど深沈たる思いを誘う短歌も少なかろう。生の寂《せき》寥《りよう》相《そう》をとらえて、それを突き抜けた大きさがある。小さな呟《つぶや》き一つが巨大な世界を吸い寄せているからだ。彼が青年時代以来ずっと、大いなる宇宙と、その中の眇《びよう》たる存在としての人間との関係についての思念を歌の核心においていた思想詩人であったことがわかる。
(『丘陵地』)
辛《から》くして我が生き得しは彼等より
狡《かう》猾《くわつ》なりし故《ゆゑ》にあらじか
岡《おか》野《の》弘《ひろ》彦《ひこ》
昭和二十八年(一九五三)の作だが、内容は敗戦直後の内省。学徒兵として軍務に服したが、自分は運よく生還した。だが友人の中には死者も出た。自分自身もかろうじて生き得たにはちがいなかったが、思えばそれは彼らよりもずる賢かったためではないのか。いわゆる戦中派世代にはこのような思いが強かった。すぐれた若者が、日本でも、また敵として戦った相手の国でも、数多く命を散らした。この歌はその痛恨の思いを、わが身にひきつけて歌ったのだ。「神のごと彼等死にきとたはやすく言ふ人にむきて怒り湧《わ》きくる」とも歌う。作者は釈《しやく》 迢《ちよう》空《くう》(折《おり》口《くち》信《しの》夫《ぶ》)の愛《まな》弟《で》子《し》で迢空に関する著書も多い。
(『冬の家族』)
老《お》いたるは皆かしこかりこの国に
身を殺す者すべて若《わか》人《うど》
与《よ》謝《さ》野《の》 寛《ひろし》
時事問題にふれて作られた歌である。すなわち、明治四十三年(一九一〇)四月十五日、山口県新《しん》湊《みなと》 沖で潜航訓練中に遭難した六号潜航艇員の変死を悲しむ歌六首中の一首。同艇の艇長佐《さ》久《く》間《ま》勉《つとむ》大尉は死ぬ直前まで海底で報告書を書きつづけ、その沈着と勇気をながく讃《たた》えられた。寛(鉄《てつ》幹《かん》)は六首の歌で殉難を哭《こく》し、戦争を否定し、若人を死地に追いやって生きのびる「老いたる」者らの「かしこさ」を告発する。当時の多くの歌人たちに見られない鋭い批判精神を見ることができる。彼のこの種の歌や詩には注目すべき作が多い。
(『〓之葉』)
ひのもとの大倭《ヤマト》の民も、孤独にて老い漂零《サスラ》へむ時いたるらし
釈《しやく》 迢《ちよう》空《くう》
詞《ことば》書《がき》に「八月十五日の後、直に山に入り、四旬下らず。心の向ふ所を定めむとなり」と。民俗学者として、国文学者として、日本人の生活と思想の根源をはるか古代に求め、偉大な業績を積み重ねてきた迢空折《おり》口《くち》信《しの》夫《ぶ》にとって、一九四五年八月の敗戦は甚だしい衝撃だったのである。彼にはまた、深く愛した養嗣子折口春《はる》洋《み》(民俗学者・歌人)が南方で戦死した限りない嘆きもあった。「ひのもとの大倭の民」の流浪をいう歌は、今日の日本の繁栄を見れば不当とも見えるかもしれないが、象徴的な意味では、恐ろしいほどの予言性を感じさせる。
(『倭をぐな』)
人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。
旅寝かさなるほどのかそけさ
釈《しやく》 迢《ちよう》空《くう》
大正十二年(一九二三)作の「供養塔」五首の第一首。大意を書くまでもないが、それ以上に、大意では全く伝わらない種類の短歌独特の「かそけさ」の表現がここにはある。短歌の韻律の不思議さである。横死の人馬をいたむ調べの中に、すべての生きとして生けるもの、また旅寝をかさねる自分自身の、いわばよりどころなくさまよう魂への、鎮魂の調べも、おのずとひびいている。迢空折口信夫は、民俗資科採集のためしばしば山間離島を旅し、いたる所の山中や峠で、行き倒れの人や馬をまつった供養塔を見た。この歌はそういう旅の中で得られた迢空初期の秀吟の一つである。
(『海やまのあひだ』)
馬を洗はば馬のたましひ冴《さ》ゆるまで
人恋はば人あやむるこころ
塚《つか》本《もと》邦《くに》雄《お》
初句「馬を洗はば」は七音だが、作者は意図的に七音で起こしている。「隆《りゆう》達《たつ》節《ぶし》によせる初七調組《くみ》唄《うた》風カンタータ」と副題のある「花曜」連作の一首で、作者が一時期集中的に行った中世・近世歌謡からの詞華の富奪還の試みから生まれたものである。自《じ》讃《さん》歌と思われる。「みめがよければ心もふかし 花に匂《にほ》ひの あるもことはり」「花を嵐《あらし》の 誘はぬ先に いざおりやれ 花をみ吉野へ」など隆達節歌謡には七音起こしの歌詞が相応に多い。この快い歌謡調を活《い》かして、現代歌壇随一の才華の人たる作者は「人恋はば人あや(殺)むるこころ」ときれあじのいい恋歌を歌った。
(『感幻楽』)
命《みやう》終《じゆう》のまぼろしに主よ顕《た》ち給《たま》へ
病みし一《ひと》生《よ》をよろこばむため
津《つ》田《だ》治《はる》子《こ》
津田治子は明治四十五年(一九一二)佐賀県に生まれ、昭和三十八年(一九六三)に没した。十八歳でハンセン病と診断され、熊本の回春病院に入る。同所で宣教師ミス・ライトにより受洗。「アララギ」に入り作歌にうちこんだ。イエス・キリストへの祈願をこめた歌である。わが命がついに尽きんとする時、主よ臨終の幻の中に顕現なさって下さい。このような病に冒された一生をさえ喜びとして死ぬために。これを詠むうつし身の哀《かな》しみは無限だったが、信仰を得て、生をいとおしみ、肯定したのである。しかし下《しもの》句《く》にこもる願いの毅《き》然《ぜん》たる明るさは痛切をきわめる。
(『雪ふる音』)
左《さ》様《やう》ならが言葉の最後耳に留めて
心しづかに吾《われ》を見《み》給《たま》へ
松《まつ》村《むら》英《えい》一《いち》
松村英一は昭和五十六年(一九八一)二月、九十一歳で没した。これは没後発表の遺詠である。見舞客に対して病者がいう「左様なら」。このありふれた別れの言葉を今《こん》生《じよう》の言葉の最後として、親しみ合ってきた人々と別れてゆくのである。さよならだけが人生だ、という感慨は古来多くの人をとらえたが、見舞ってくれた人に対して、さあ君、「左様なら」というこの言葉が君とかわす最後の言葉になるのだよ、では君、心静かにこの私を見つめて去ってくれ、という歌には、長寿を得て自然死を迎える覚悟を持ち得た人の知る静けさがある。
(『「樹氷と氷壁」以後』)
世《よの》間《なか》を何に譬《たと》へむ朝びらき
漕《こ》ぎ去《い》にし船の跡なきがごと
沙《さ》弥《み》満《まん》誓《せい》
八世紀初頭の官人で、その名の沙弥とは出家して十戒を受けた男性の称である。大《だ》宰《ざい》府《ふ》の観《かん》世《ぜ》音《おん》寺《じ》造営長官をつとめ、大宰府長官となった大《おお》伴《ともの》旅《たび》人《と》とも歌仲間だった。当時旅人を中心に山《やまの》 上《うえの》 憶《おく》良《ら》その他を擁して形成されていた筑《つく》紫《し》歌壇の一員で、なかなか歌才があった人のようである。この歌は一つの人生観を歌うが、思う所をすらすらと詠みくだしているのがいい。港の船が夜明けに漕ぎ出した後は、水に痕《こん》跡《せき》さえ残らない。人生も同じことだという。世の無常を歌った歌として古来名高い。『拾《しゆう》遺《い》集《しゆう》』『和《わ》漢《かん》朗《ろう》詠《えい》集《しゆう》』その他にやや形を変えてとられ、『方《ほう》丈《じよう》記《き》』その他にもしばしば引用、言及される。
(『万葉集』)
他界より眺めてあらばしづかなる
的《まと》となるべきゆふぐれの水
葛《くず》原《はら》妙《たえ》子《こ》
葛原妙子は戦後短歌の世界で、想像力を駆使して歌を作ることに賭《か》けた一群の歌人たちの中でも、特に注目された一人。この歌はある日の夕暮れの身辺の情景に取材したものというが、作品は日常性を超えている。「他界」といえば「あの世」をふつう意味するが、必ずしも死後の世界だけを考える必要はない。現実を超えた世界が、他界なのである。その他界からこちらをながめやったとき、今自分が立っているこの夕暮れの水辺は、「しづかなる的」と見えることだろうという。作者はこれ以上何も説明していないが、「他界より眺めてあらば」という視点が、歌にふしぎな瞑《めい》想《そう》性を与えている。
(『朱霊』)
石《いし》川《かわ》啄《たく》木《ぼく》
――創意とユーモアに生きる歌
石《いし》川《かわ》啄《たく》木《ぼく》の二十七年の短い生涯は、普通でいう幸福などとはほど遠い、貧困と病気、そして志とはおよそかけはなれた職業を転々とする生活の連続だった。しかし生活の不如意とは裏腹に、彼は歌を多産した。このことは、啄木という詩人が、心にのしかかる苦渋でさえさっと言葉にとらえてこれに微妙な味つけをし、歌として定着させる、自己批評の眼と言葉に遊ぶ魂をもっていたことの証《あか》しだったように思える。
啄木の性格には一種独特な詩的活力の源泉があったように思われる。その一つに、啄木がしばしば夢を見、また白昼夢に類する空想に没頭する癖があったらしいという事実がある。啄木はそういう夢を素材にした作品をいくつも書いている。散文詩「白い鳥、血の海」とか、二人の男の対話で、一方が夢で火星へ行って芝居を見て来た話をする「火星の芝居」とかは、夢の記述としてまことに生彩ある描写を含んだ注目すべき作品である。
金《きん》田《だ》一《いち》京《きよう》助《すけ》の『石川啄木』には、若いころの啄木の異常な空想癖の話がいくつか回想されている。金田一氏が書いている啄木の白昼夢のひとつは、啄木が東洋のアレキサンダー大王になりすまし、みずから皇太子軍を率いて父王と世界征服に出かけるという話である。「おかしいことには東方から南北二道に分れて、父王は天《てん》山《ざん》南路から、自分はインドの大広原に馬を進め、それから西方ヨーロッパを席《せつ》捲《けん》した。その帰るさ、不幸、父王の陣没に遭い、自ら三軍をギリシアのオリンプス山上に会して、一場の演説をした。そして最後に『あとは世界を挙げてお前たちにやるから、どうでも勝手にしろ』と云いすてて突然民家の中へ姿を没した。その刹《せつ》那《な》に私(金田一京助)が障子を明けてそれを醒《さ》まして了《しま》ったという事であった」。
金田一氏は「この余りに豊富な空想は、時として啄木君をウソつきのように思わしたこともないではなかった」といみじくもつけ加えている。つまり、啄木はある思いつきを話しているうちに、夢中になって知らず知らず法《ほ》螺《ら》話《ばなし》にまで拡がってしまうこともあったろうというのである。石川啄木のあの豊かな才能の根っこにそういう資質が横たわっていたということは、彼の実生活と彼の歌との関係を考える上でなかなか重要なことだろうと思われる。というのも、一般に歌というものを作る人の立場からすると、啄木の『一《いち》握《あく》の砂《すな》』や没後に出た『悲《かな》しき玩《がん》具《ぐ》』の歌の作られ方は、決して推賞に値するとばかりはいえない性質のものを含んでいたからである。
啄木の『ローマ字日記』は今ではよく知られている。岩波文庫にも入っているからだれでも読むことのできる秘密の内面記録であるが、その中のたとえば明治四十二年(一九〇九)四月十一日の記事に、「予はこのごろ真《ま》面《じ》目《め》に歌などつくる気になれないから、相変らずへなぶつてやつた」とある。「へなぶる」とは「馬鹿にする・なぶる・からかう」といった意味を含む言葉だろうが、直接には明治三十七、八年ごろに阪《さか》井《い》久《く》良《ら》岐《き》が流行させた新趣《しゆ》向《こう》の狂歌が「へなぶり」とよばれたことから来ているものだろうと想像される。「へなぶり」は「鄙《ひな》振《ぶり》」や「夷《ひな》曲《ぶり》」をもじった語だと辞書は書いているが、いずれにせよ、大真面目で歌を作る態度とは対極にあるのが「へなぶり」精神の根本であって、啄木がそういう気分で彼の歌の少なくともある部分を作っているということは、忘れることのできない重要な一点なのである。
「へなぶり」すなわち低次元のものと考えることは大いに危険である。というのも、いくら人が歌を「へなぶってやる」つもりで書いても、そこに生まれた歌はかえって生き生きした表情で、時には一晩に百首以上もの量産がきくような創意溢《あふ》れた境地に作者自身を運んで行きさえするからである。出発点は「へなぶり」でも、結果は生活感と想像的飛《ひ》翔《しよう》との合体したかずかずの秀歌となる――それが啄木の歌の大きな秘密だった。それに関連して、彼の歌の重要な要素であるユーモアと自己批評についてもふれておかねばならない。
啄木が十五、六歳のころだろう。岩手県立盛《もり》岡《おか》中学校で二級上だった金田一京助が卒業するときのこと、卒業記念に、同好の士が集まって送別短歌会を開き、藤《ふじ》十首、水《みず》十首の題詠を皆で競作した。下級生の石川少年も金田一京助と歌の方の懇意ということで参加し、「水」題のうちの一首として次の歌をつくった。
あめつちの酸素の神の恋成りて
水素は終《つひ》に水となりにけり
この歌は満座の連中を大笑いさせて大成功をおさめた。金田一京助の『石川啄木』に出ているこのエピソードは、後年の歌人啄木を考えるうえで大層興味深い。『一握の砂』や『悲しき玩具』の歌の中に脈々と流れている、精神の軽やかさ、快活さ、それに自己批評の笑いといった要素は、この十代の歌にすでに萌芽状態で現れていたといえるからである。『一握の砂』と『悲しき玩具』から三首ずつ引いてみる。
はたらけど
はたらけど猶《なほ》わが生活《くらし》楽にならざり
ぢつと手を見る
死にたくてならぬ時あり  はばかりに人目を避けて
怖《こは》き顔する
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
(『一握の砂』より)
考へれば、
ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。
煙管《きせる》をみがく。
すつぽりと蒲《ふ》団《とん》をかぶり、
足をちゞめ、
舌を出してみぬ、誰《たれ》にともなしに。
ある日、ふと、やまひを忘れ、
牛の啼《な》く真《ま》似《ね》をしてみぬ、――
妻《つま》子《こ》の留守に。
(『悲しき玩具』より)
これらの歌には笑いが含まれている。しかしそれはげらげら笑う笑いではない。気のきいた機《き》智《ち》でもない。諷《ふう》刺《し》でもない。たぶんユーモアというのが一番当っているだろう。このユーモアが人の心をうつのは、それがまずもって作者自身に向けられているからである。といって、ことさらに自分を戯画化しているわけではなく、読んでみればここにはわれわれの肖像画そのものがあるではないか、と言いたいような普遍性をもった、凡俗の日常の一瞬一瞬が、手にとるように鮮明に写しとられている。かつて理科の授業で水の組成を習ったばかりの少年石川一《はじめ》が作った即席の短歌にも通じるユーモアが、人生の苦しみを通過したのちにも、なお啄木の歌には、血管を流れる血液のように流れていたのだった。
大和《やまと》は 国の真《ま》秀《ほ》ろば 畳《たた》なづく 青《あを》垣《かき》 山《やま》籠《こも》れる 大和しうるはし
古《こ》事《じ》記《き》歌《か》謡《よう》
古代伝説の悲劇の皇子 倭《やまと》 建《たけるの》 命《みこと》が、東国への長征のはてに伊勢の能《の》煩《ぼ》野《の》で絶命する時、故郷をしのんで歌ったとして伝えられる歌の一つ。「真秀ろば」はマホラ、マホラマと同じで、すぐれた所の意。大意は、大和は陸の秀でた所、重なりあう青い垣根のような山々に抱かれた大和こそ、げに美《うる》わしい所、という意味だが、実際は皇子の事《じ》蹟《せき》とは無関係に、国《くに》見《み》の儀式の時歌われた国ぼめの歌だろうという。しかし、悲運の皇子のいまわのきわの懐郷の歌として読むとき、この歌はまことにあわれ深いものがあり、第二次大戦中も学徒兵などにさまざまな思いをこめて愛《あい》誦《しよう》された歌である。
遊びをせんとや生《うま》れけむ 戯《たはぶ》れせんとや生《むま》れけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動《ゆる》がるれ
梁《りよう》塵《じん》秘《ひ》抄《しよう》
この平安歌謡は、普通に読めば、無心に遊ぶ子供の姿を見つつ、つられてわが身までゆらぎ出すようだと大人が歌っている歌である。しかしその解釈とは別に、これを当時の歌謡の重要な作者兼歌手だった遊女の歌だろうとする見解もある。「遊び」も「戯れ」も、当時の言葉では、春を売る行為、またその人を指す語でもあった。その観点から読めば、無心に遊ぶ子らの上にすでに将来の流浪の人生を予感した歌となり、意味は一変する。すなわち、このあどけなく遊ぶ女の子たちも、やがて私らと同じ生涯を送ることになるのだろうか、思えば悲しくて身もゆるぐほどだと。
幾《いく》山《やま》河《かは》越えさり行かば寂しさの
はてなむ国ぞ今日も旅ゆく
若《わか》山《やま》牧《ぼく》水《すい》
牧水一代の名歌として知られる歌だが、これを作った時作者はまだ二十二歳、恋を知りそめた学生だった。夏の休暇で宮崎へ帰省の途中、中国地方に遊んだ時の作である。彼は当時しきりに上《うえ》田《だ》敏《びん》訳のブッセの小曲「山のあなたの空遠く幸《さいはひ》住むと人のいふ」の詩を愛《あい》誦《しよう》していたという。その気分がここに反映していることはたしかで、また窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》の「鉦《かね》鳴らし信《しな》濃《の》の国を行き行かばありしながらの母見るらむか」の影響を指摘する人もいる。しかし、「幾山河」と歌い出した時、一首はたちまち醇《じゆん》乎《こ》たる牧水自身の愁いの調べとなった。
(『海の声』)
何《いづ》処《く》にか船《ふな》泊《は》てすらむ安《あ》礼《れ》の崎
漕《こ》ぎ廻《た》みゆきし棚《たな》無《な》し小《を》舟《ぶね》
高《たけ》市《ちの》連《むらじ》黒《くろ》人《ひと》
横板もない粗末な小舟(棚無し小舟)が安礼の崎を漕ぎめぐっていったが、今ごろどこで一夜の泊りをしているのだろうか。昼間海上ですれちがったか、あるいは海辺から見かけたのか、危うげな小舟と舟人のことを、ゆくりなく夜の闇《やみ》に思い出しているのである。思い出している人自身が心細い旅路にあるのだろう。そうでなければこのようなことをふと思い出して共感こめた歌を作ることもなかろうからである。黒人は柿《かきの》本《もとの》人《ひと》麻《ま》呂《ろ》より少し後の宮廷詩人。『万葉集』に十数首の旅の歌を残すのみだが、そのわずかな歌により「羇《き》旅《りよ》」の歌人としての名声をもっている。
(『万葉集』)
かにかくに祇《ぎ》園《をん》はこひし寐《ぬ》るときも
枕の下を水のながるる
吉《よし》井《い》 勇《いさむ》
明治末期歌壇に現れてたちまち世の愛誦歌人となった勇は、与《よ》謝《さ》野《の》寛《ひろし》主宰の新詩社を脱退後、石《いし》川《かわ》啄《たく》木《ぼく》との雑誌「スバル」を創刊した。これは同誌に発表して生涯の代表作となった歌。この歌の由来については意外な話が伝わっている。戯曲「偶像」で初めてまとまった原稿料を得た記念に京都に遊び、祇園情緒に初めてふれた時の歌という。したがって、後世の人々に蕩《とう》児《じ》吉井勇の印象を与える上で決定的な役割を果たしたともいえるこの歌も、その印象はどうあれ、当人の気持ちは初《うい》々《うい》しかったのだ。「寐る」は眠る。
(『酒ほがひ』)
世《よの》間《なか》を憂しとやさしと思へども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
山《やまの》上《うえの》憶《おく》良《ら》
この世の中を何とも生き難い所だと思っても、飛び立つこともできない、鳥ではない身なので。有名な「貧窮問答の歌」という長歌の反歌である。長歌の方は「貧者」と「窮者」の問答の形で、薄い夜着に寒さと空腹をこらえる貧者、一家窮迫してうち嘆く窮者、そこへ容赦もなく押し入って税取立てのむちを振るう村の役人を歌う。この短歌はそれをうけているもの。「やさし」は「痩《や》さし」と同根で、肩身がせまくて身も細るほどの気持ちという意味だが、肩身がせまいのは人々の目を意識するからである。それがあまりに激しくなればまさに身も細ることになる。「優しい」も語源は同じ。
(『万葉集』)
小学も五年となれば出《い》で稼ぎ
居所不明とて学校に来ず
筏《いかだ》井《い》嘉《か》一《いち》
筏井嘉一は明治三十二年(一八九九)に富山県に生まれ、昭和四十六年(一九七一)に没した。東京下町の小学校で多年音楽教師をつとめた。最初北《きた》原《はら》白《はく》秋《しゆう》に師事して歌を作ったが、昭和初年代にはプロレタリア文学運動とも関わりのある新興歌人連盟に参加している。都会生活の哀歓を鋭く見つめて写実的に詠んだ。下町の教師の日常に容赦なく関わってくる戦前・戦中の貧しい庶民生活をしばしば歌ってこのような印象的な歌を残した。「欠食児の父戦死すと報到れり一年生にて事わきまへず」のような歌もある。
(『荒栲』)
『金次郎』メHARAKIRIモ を説く教師らに
詛《のろ》はるるこそ嬉《うれ》しかりけれ
佐《さ》藤《とう》春《はる》夫《お》
佐藤春夫は新宮の名望ある医家の長男として生まれたが、独立心強く、中学時代すでに正義感と反抗意識の塊《かたま》りだったらしい。三年の時は落第、五年で無期停学処分を受けた。これは「少年閑居不善抄」と反語的に題する初期短歌の一首で、そういう少年期の精神的背景をおのずと語るような一首である。明治時代中期以後、幕末期の相模《さがみ》の篤農家で独特の道徳律の実践者だった尊《そん》徳《とく》二《にの》宮《みや》金《きん》次《じ》郎《ろう》は、明治政府の殖産興業政策の見地からも、また道徳教育の見地からも教育界で大もてだったのである。尊徳や切腹を讃《たた》えていう善良な教師たちには、理解し難い少年だったろう。
(『佐藤春夫全集』)
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
石《いし》川《かわ》啄《たく》木《ぼく》
啄木の歌はまことに口ずさみやすい愛《あい》誦《しよう》性をもっている。それはたぶん彼が、その若くして訪れた晩年の日々、あまりにも深い失意を心に抱いて生きていたがゆえに、一首一首の歌をいわば自らの心の慰めにも軽く流して書いたからだったろう。彼が短歌を「悲しき玩《がん》具《ぐ》」と呼んだのもそういう意味合いからだった。内容は重苦しくとも、歌の調べはむしろ軽やかである。「友がみな」の歌も、深刻に扱えば十分深刻になりうる題材。それをこのように歌うことによって、彼自身が慰められ、それがまた読者の心をも慰める。
(『一握の砂』)
家にてもたゆたふ命波の上に
浮きてし居《を》れば奥《おく》処《か》知らずも
よみ人しらず
安全な陸地の家にいてさえたゆたう(ゆらゆら揺れ動く)命であるのに、波の上に漂えば、なんという「奥処」(はて、行く末)も知れぬ心細さよ。古代の船旅は大きな不安をともなっていた。いつ遭難するか分からないのが海上の旅だった。しかし、その不安を歌ったこの歌には、現代人の胸に響く普遍的な哀感さえある。
これは天《てん》平《ぴよう》二年(七三〇)十一月、大《だ》宰《ざいの》 帥《そち》 大《おお》伴《ともの》旅《たび》人《と》が大《だい》納《な》言《ごん》に任ぜられ、思い出多い任地大宰府を去って都に帰った折り、旅人とは別に海路帰京した従者たちの一人が、不安な旅の前途を憂えて作った歌である。心に深く沁《し》みる歌だ。
(『万葉集』)
心とて人に見すべき色ぞなき
ただ露《つゆ》霜《じも》の結ぶのみ見て
道《どう》 元《げん》
道元禅《ぜん》師《じ》は曹《そう》洞《とう》宗開祖、『正《しよう》法《ぼう》眼《げん》蔵《ぞう》』の大著がある。この歌をおさめる『傘《さん》松《しよう》道《どう》詠《えい》』は、和歌によって禅の根本精神を詠じた折々の詠草を集めたものである。ただし道元自身が編んだ本ではないから、辞句にもかなり異同がある部分がある。同集には「大空に心の月をながむるも闇《やみ》にまよひて色に愛《め》でけり」という歌もある。これは人が大空に心の月がこうこうと照っているのを見ていながら、欲望の闇に迷って色の世界に執している愚かさを歌う。右の歌も同じく心の世界を詠っているが、表現はさらに純化されている。心は元来無色、露霜も無色、色なき世界に色なきものが生《しよう》滅《めつ》するのみ。
(『傘松道詠』)
かかる日にたしなみを言ふは愚に似れど
ひと無《ぶ》頼《らい》にて憤《いきどほ》ろしも
前《まえ》川《かわ》佐《さ》美《み》雄《お》
戦争末期、米軍機の空襲が激化してきたため家族を鳥取県の山奥へ疎開させた時の、山陰線車中の感慨を歌う。切羽つまった時局にあって「たしなみ」をいうなど愚の骨頂だろう、それでもなお何たる憤ろしさか、人びとのこの無頼漢めく有様は、という嘆き、やるかたない怒りを詠んでいる。作者は戦中の作歌活動のため、戦後はむしろ失意の時期が長かったが、戦中すでにこのような孤独な感慨を詠んでいた。当時から四十年以上を経てこういう歌を読むと、まるで昨今のことを歌っているようにも思えるところがある。
(『積日』)
影見れば波の底なるひさかたの
空漕《こ》ぎわたるわれぞわびしき
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
平安朝文学のみならず、その後の日本文学に長く多大の影響を及ぼした歌人・批評家紀貫之は、晩年に入ってから数年、今で言えば高知県知事に当る土佐国守として赴任した。『土佐日記』は任果てて帰京する旅を叙したもの。承《じよう》平《へい》五年(九三五)一月十七日(今の三月初め)未明、澄みわたる月明を浴びて室《むろ》戸《と》岬《みさき》北西の室津を船出した折りの一首。波の底にまで月光が映っている。その月に共に、大空が波の底に横たわる。その上を渡ってゆくのは、ふしぎに心澄むようでまたわびしい限りだ。「われぞわびしき」と「われ」の自覚を正面きって出したのは当時の歌では珍しい。
(『土佐日記』)
世の中は夢か現《うつつ》か現とも
夢とも知らずありてなければ
よみ人しらず
この世に生きる命のはかなさを歌って深く心に沁《し》みるところがあり、知る人ぞ知る平安時代の名歌の一つである。作者未詳の歌であるところがまた面白い。西《さい》行《ぎよう》は弟子に、『古《こ》今《きん》集《しゆう》』を読め、特に雑《ぞう》歌《か》の部は熟読せよと教えたという。雑歌には実人生の嘆きや仏教的無常観を歌って心に沁みる歌が多いからだ。第五句で、この世は存在していて同時に存在していないのだもの、「ありてなければ」と言っているのが目をひく。夢だからはかなく、現実だから確かだ、というような単純な物の見方を否定した所で成り立っている歌である。
(『古今集』)
足裏を舞によごしし足《た》袋《び》ひとつ
包みてわれのまぼろしも消す
馬《ば》場《ば》あき子
歌集以外の馬場あき子の著書の中には、『鬼《おに》の研究』『修《しゆ》羅《ら》と艶《つや》―能の深層美』『風《ふう》姿《し》花《か》伝《でん》』など直接間接に能楽に関わりのある著作が多く含まれる。能に対する造《ぞう》詣《けい》の深さで知られているだけでなく、実際に舞を習得もしている現代女流歌人である。そういう背景を知って読めば、この歌の奥行きもおのずと推しはかることができよう。舞に集中している時、舞手は一つのまぼろしを生きている。それはもう一つの切実な心の現実である。だが人は、足裏の少し汚れた足袋を脱いで包む時、舞台の上で生きたあの幻影の現実をも否《いや》応《おう》なしに潔《いさぎよ》く「消す」のである。そこに私たちの「生」の断面が鮮やかに現れる。
(『無限花序』)
わが息と共に呼《い》吸《き》する子と知らず
亡きを悼みて人の言ふかも
五《ご》島《とう》美《み》代《よ》子《こ》
五島美代子は夫の歌人五島茂《しげる》とともに、昭和初年代には一時期プロレタリア短歌に近い立場で作歌活動を行ったこともある。しかし彼女の本領はもっと別の所で発揮された。元来が豊麗な歌才の人だが、とくに子や孫を歌う時の愛は情痴に近く、母性の歌の一極致ともいえる秀歌を残した。これは掌中の珠《たま》と育ててきた長女が東大在学中急逝した時の慟《どう》哭《こく》の歌の一つ。人は娘を亡くしたことを悼んでくれる。娘はこんなにもありありと私の中で一体になって息しているのに。よし人は迷妄と見よ、親はこの真実の中でしか生きられないのだ、というのである。
(『新輯母の歌集』)
こんなところに釘《くぎ》が一本打たれていて
いじればほとりと落ちてしもうた
山《やま》崎《ざき》方《ほう》代《だい》
山崎方代は太平洋戦争中チモール島の戦闘で砲弾の破片を受け、右眼失明、左眼も視力〇・〇一となった。復員後、職もなく、親族も絶えて天涯孤独の身となり、放浪と貧窮の中、歌を唯一のよりどころとして七十年の生涯を生きた。その歌は寂しさに徹したところから生じる自在な軽さをもつ。「いじればほとりと落ちてしもうた」という叙述は単純をきわめている。しかし「ほとりと」も「落ちてしもうた」も十分に計量され、手触りを確かめられた表現である。そこから結果するのは、折れ釘も作者の全存在も区別がないような境地で、無類に軽く、しかも重い。
(『右左口』)
年たけてまた越ゆべしと思ひきや
命なりけり小《さ》夜《や》の中《なか》山《やま》
西《さい》行《ぎよう》法《ほう》師《し》
平家が滅んだ翌年(文《ぶん》治《じ》二年)、六十九歳の西行は奥州へ向かった。東大寺復興勧進のためといわれている。旅の途中 遠江《とおとうみ》(静岡県)の小夜の中山でこの歌を詠んだ。こんなにも年老いて、再びこの山路を越えようなどと思っただろうか、まことに「命なりけり」の思いだ、というのである。彼は出家後数年、三十歳のころ、奥州へ最初の思い出深い旅をしたことがある。以来実に四十年ほどの歳月がたっていた。西行は現代の詩歌人や文学者には思いもよらないほどの健脚の人だったと考えられるが、「思ひきや」「命なりけり」と繰り返し強く言い切った表現には、極めて深い感動がこもっていた。
(『新古今集』)
「生」といひ「活」といふこといきいきと
身《み》過《すぎ》世《よ》過《すぎ》の歌を詠むべし
島《しま》田《だ》修《しゆう》二《じ》
「生」と「活」、「生活」。だがこれを訓で読めばいずれもイキ・イキである。偶然の一致のようにみえて実際には深い関連性のある二つの文字の結びつきである。作者がこの事実に気づいたとき、どのような心理状態にあったのだろうか。案外、イキイキとは反対の心的状態をかかえていたのかもしれない。「いきいきと身過世過の歌を詠むべし」というのは、むしろ自らに課したある決意の表明なのだと感じられる。その上で、これがひとつの詩的機《き》智《ち》の上に成りたっている歌であることをも、もちろん見逃してはならない。歌はその微妙なバランスの上に自らを横たえている。
(『渚の日日』)
うす墨《ずみ》の眉《まゆ》ずみほそくけぶらへば
老いづくわれの顔やさしかり
四《し》賀《が》光《みつ》子《こ》
四賀光子は、昭和五十一年(一九七六)九十歳で没した長野市生まれの歌人。太《おお》田《た》水《みず》穂《ほ》と結婚、その主宰歌誌「潮音」の主要同人となり、昭和三十年水穂逝去後は十年間主幹をつとめ、最晩年まで歌作にうちこんだ。これは六十代半ばの作。老境に入ろうとする女性が秘めている心の華やぎが、鏡にむかってする薄化粧という女性の身だしなみを素材として、ごく自然に歌われている。「けぶ(煙)らへば」は薄くかすんで、においたつように美しく見えるさまをいう。結句「やさしかり」がいかにも安らかである。
(『双飛燕』)
人のみどり 自然の緑
自然界に緑があるように、人間の内なる緑というものも考えられるのではないでしょうか。そのことについて考えていることをお話ししたいと思います。
緑の話をということで頭に浮かんだことがいくつかございました。一つは、日本人が、昔から緑については、それが身近にあることを当り前に思ってきたということについてです。日本列島の位置してきた地理的な関係で、この国は、全世界でもまれなくらい潤沢な緑に恵まれている。そのために、日本人の多くは、自分たちの身のまわりにある緑について、無意識的に自分の身内だと思っているところがあった。それは、文学・芸術の世界でも、そういう形で書かれたものがあって、自然と人間が実に親しく溶けあうようにして存在している。しかし現在では、緑と人間、緑と文明、緑と社会というものは、決して昔のようには親しみ深く抱きあって共存しているのではない時代になっている。そのために様々な問題が起きている。これは、ナショナル・トラスト運動が起こるということでも証明されているわけです。
私は時々外国へ行くんですが、外国と比べてみて、日本の「緑」は、他の国の緑とはやはり違うところがあるんではないかということです。それぞれの国にそれぞれの緑があるのです。北欧諸国の一つ、フィンランドに行ったことがあります。また、二、三年前にスウェーデンにも行きました。あちらは、森と湖の国であり、木々が実に豊かに繁茂しております。そういうところを大河が悠々と流れているのが、たとえばスウェーデンの首都ストックホルムです。ストックホルムは北ですから、夏には太陽の沈むのが夜十時ごろです。夏を過ぎると、今度は一日中暗い状態であるというのが北の国です。そういう夏の夕暮れに、大きな河のほとり、亭々と繁った緑の木々の下を散歩しながら美しい花が咲き乱れているのを見ると、実に何とも言いようのない感動を覚える。フィンランドも、実に樹木の豊かな森と無数の湖の国です。人間は何故、緑に囲まれるだけでこんなに感動してしまうのか、不思議なほどでした。
一方、たとえば何年か前、中国に行ったことがあります。中国の山《さん》西《せい》省に大《だい》同《どう》というところがあって、巨岩に直接彫った巨大な仏像が何百体とある雲《うん》崗《こう》の石《せつ》窟《くつ》というのがあります。作家代表団の一員としてそこへ行き、案内していただいたのですが、行く道々、ハゲ山がいっぱいある。ハゲ山をながめながら、ここは緑の全然ない、厳しい土地だなと思っておりましたら、案内してくれていた通訳の人が、あの岩山には植林を試みてもどうしてもうまくいかない。日本の方々にも知識をいろいろお借りしなければならないと思う、と言われる。あの山に植林しようというのはたいへんなことだと、一見しただけですぐわかるような山々でした。北京辺りでもちょっと離れれば、万里の長城の周辺でも、何度か緑を植えて失敗したらしいところがいろいろ見られます。そういうところへ行ってみると、自然界というものの厳しさを、匕《あい》首《くち》をつきつけられるように深く思い知らされることがあります。
私が今まででいちばん強烈な印象を受けたのは、一本の緑も育たない荒地の典型のようなところ(といっても、純然たる砂漠ではありません。砂漠ではまた話が別になってしまいますが)で、アメリカ西部のアリゾナ州とかユタ州の砂漠地帯、その辺りを昔、一週間ほどかけて、アメリカの青年の案内で車で走ったことがありました。そこにはグランド・キャニオンなどの大渓谷があります。全部国立公園になっていて、渓谷自体が、日本では全く見られない壮大な風景です。岩石と砂の土地であり、サボテンのようなものはあるのですが、緑が実に少ない。その国立公園の一つで、ブライス・キャニオンだったと思いますが、不思議な形をした巨岩が延々と並んでいる公園でのこと、車から降りて歩いていく途中、たまたま、岩の上に一匹のイナゴがとまっているのを見つけた。ところがそれがイナゴだと認識するまでちょっと時間がかかりました。それというのも、日本のイナゴとはひどく違っていたからです。我々の子供のころには、稲田が自分の家の周りにもいっぱいあり、そういうところでイナゴをつかまえて、戦中、戦後には食べてもいた。今では、イナゴは酒のつまみなんかに時に出てくるゲテものと思われているようですが、そのころは、イナゴを獲《と》るのは子供の務めみたいなところがありましたから、我々もずいぶんイナゴを獲った。しかし、アメリカ西部の岩石の上で見たイナゴは、実に不思議なイナゴでした。つまり、我々が知っている日本のイナゴは、緑の身体《からだ》に目玉が黒く輝いている。生命力に溢《あふ》れた感じがします。アメリカの岩の上にいたイナゴは、全身がグレーで、そこにじっとしていると岩と全然見分けがつかない。ただ、ちょっと身動きしたので、よく見るとイナゴとわかった。私がぞっとしたのは、目玉まで灰色なんです。さらに灰色の目玉の表面に斑《はん》点《てん》まであるような感じさえした。気持ちが悪いので顔を近付けてもっと観察する気力を失ってしまった。しかし、もちろんそのイナゴにも生命があって、そこに存在している。その時痛感したのは、同じイナゴといっても、アメリカ西部の岩石の上のイナゴと日本のイナゴとではずいぶん違うということです。その土地が持っている、その土地固有の恐るべき生命力、そういうものの中で、人間もイナゴも植物もみんな生きているんだということを痛感させられた。もちろん、アメリカは広くて、中西部などは水の豊かなところで、土地も非常に肥え、素晴らしい緑に恵まれているわけです。ほとんど岩と砂のような土地にいる生物は、その土地に順応して生きていて、他の土地の生物を知りませんから、自分たちは幸せな生活を送っているのかもしれません。しかし、いったん緑の生き生きしたイナゴを見た人間にとっては、灰色のイナゴはやはり「死」に近い感じがする。これはしかしこちらの偏見にすぎないわけです。いずれにしても、生物はその土地において固有の命を生きているという、当り前だけれども忘れてはならない事実を知ったわけです。
ひるがえって考えてみると、緑という色は、他の色に比べ、人類にとって特別の意味あいをもっているのではないかと思います。私は今、日本人が昔から今日に至るまで書いてきた詩や歌を読んで、それを新聞に取り上げるという仕事を続けてやっています。その関係で、いろいろ日本の古い時代の詩や歌を読みながら、ふと思いついて、緑という言葉そのものはどういう意味を持っているんだろうと、辞書をひいてみたことがあります。そういう場合には当然、現在の言葉としての「緑」の意味だけではなく、「緑」という言葉にはどういう語源があるのかということまで載っている辞書を見るわけです。それで見ていきますと、「緑」というのはどうも最初は色の名前ではなかったらしい。木や草が萌《も》え出るときの「新芽」、あるいは「若い枝」を言う意味ではなかったかと、いうのです。小さな木の芽、それから転じて赤ん坊のこと。男の子なら「嬰児(みどりご)」、女の子なら「嬰女(みどりめ)」といった。男女総称してミドリコともいった。これは、古代日本の法律の中でも、既に嬰児、嬰女という言葉が出てきているほどで、それは三歳までの幼児を指す言葉です。日本では、戸籍の台帳が、古代律令制が施かれたころから不完全ながらできていて、それが平安時代になるとしっかりした台帳になるのですが、そのころの台帳にも、既に、「嬰児一名、嬰女二名」というふうに書いてある。これはつまり色の名前ではない。緑という言葉は、そういう意味でも実に、生命を感じさせる必然性があるわけです。言葉自体に、広々とした、安らかな、あるいは元気がいいというイメージがくっついている。それが言葉というものの面白さであって、必ずしも色とぴったりくっつかなくても、ミドリという言葉を聞いたとたんに、人々はある種の気持ちを共有できるというところがあるわけです。
ところで、ある論文によると、一九七〇年代に日本のテレビジョンなどで使われた広告の言葉の統計をとってみたところ、第一位は「心」という単語だったそうです。いろいろな種類の広告の文案に、もっとも多く出てくる単語が「心」だった。いろいろな場で「心」が失われているから、それに対する憧《あこが》れのあらわれだろうという皮肉な感想もうかぶのですけれども、「心」という言葉が、日本人は好きなんですね。その統計の中で十八位に位置しているのが「緑」という言葉だったそうです。十八位、何だ大したことないと思われるかもしれませんが、実はそうではなくて、何千という言葉の中の十八位ですし、色の言葉の中では圧倒的に第一位です。ですから、緑という言葉が、日本人にたいへん好かれていることは明らかで、そこに面白い問題があると思うのです。
英語の「Green」という言葉は、必ずしもそれほどいい意味ではない場合がある。若々しいとか、元気がいいとか、あるいは生々しいとか、様々な意味がありますが、さらに、それを引っくり返すと未熟だとか、稚拙だとかいうこと、つまり日本語で言う「青臭い」「青二才」という言葉にあたる意味になる。日本語では、「青」には似た意味がありますが、緑という言葉にはそういう意味はないようです。これは日本人にとって独特の魅力の感じられる言葉だろうと思います。しかし、全世界的にいっても、どの民族でも、概して緑という言葉には「安心なもの」「平和なもの」というイメージはあるようです。「緑十字」というものまで含めて、生命を守るものを象徴する言葉であるわけで、緑というのは、全世界的に、人の心を和らげ、元気にし、精気を吹き込む色とみなされていると思うのです。そのうえで、日本人には緑という言葉が特に好まれているのではないか。
それに関連して、緑色というのは非常に不思議な色なんだということを、私が思い知らされたもう一つのエピソードがあります。それは、色を染める、つまり染色に関わることです。
私の知り合いに、何人か染めと織りを仕事とする方がいます。その中の一人に、京都に住んでいらっしゃる志村ふくみさんという染織の有名な作家がいます。この方は、三十歳前後から染織を始めて、今では、日本を代表する染織作家になっております。東京の近代美術館で、この方と、郡《ぐ》上《じよう》紬《つむぎ》の作家宗《むね》廣《ひろ》力《りき》三《ぞう》さん、それにもう一人西陣織の作家と三人展が開かれたことがあります。ある時、その志村ふくみさんが何気なく言ったことが、私にとってはショッキングでした。自然界には植物の色として緑の色がいちばん豊富にある。様々な花の色ももちろんあるが、それを圧倒的に上回って緑の色彩が自然界には豊富にある。ところが、この緑の色というのは、染色技術の上で、単独では出すことができないと彼女は教えてくれたのです。つまり、緑の色をつくり出すには、二つの色をかけあわせないとできない。たとえば、藍《あい》からとった藍色と黄《き》蘗《はだ》からとった黄色をかけあわせる。他の植物からとった他の黄色をかけあわせる。萌《もえ》黄《ぎ》色ができたり、若《わか》竹《たけ》色ができたり、濃い緑の海《み》松《る》色ができたり、それぞれの色の配合の仕方によって緑の色調はじつに豊かに変わってくるのです。いずれにしても、緑という色はそれだけ一色をとり出すことはできない。もっとも、全く不可能ではなくて、たとえば、蓬《よもぎ》の葉からは緑色がとれます。しかしこの緑は、我々が美しいと思う緑ではなく、むしろ灰色に近いものです。そういう意味でいいますと、たとえば藍色が藍から、紅の色が紅花から、黄色だったら刈《かり》安《やす》から、紫色だったらムラサキ草から、日本人が昔から知っている美しい色がとれる。そういう一つの木の実とか、根っ子とか、木の肌、幹から単独にとれる色のようには、単独では緑色はとり出せないというわけです。志村さんからそれを聞かされたとき、私は深く考えさせられました。何という、面白い色なんだろうと。結局、緑というのは、二つの色が協力しないとできないものだということです。これは非常に多くのことを語っているという気がします。
実は、もう一人、紬のたいへんな指導者で人間国宝に認定されている作家、宗廣力三さんにも同じような質問をしたことがある。宗廣さんは、たとえば蓬から緑はとれるけれども、それは大してきれいな色ではない。ヤマモモからもとれるけれども、それもきれいな緑ではなくて、ちょうどワサビのような黒っぽい感じの色になってしまう。しかも、何日ももたずに色あせてしまうといったことを教えて下さいました。こういう事実は、逆に、緑という色の大いなる貴重さを示しているのではないか。これはいくつもの要素が組み合わさってできている色だからです。
色の不思議ということでは、他の色についてもさまざまなことがあります。桜色は、桜の木からとればいい色がとれます。しかし、私のような素人は、桜が満開の時、その咲いている花から色をとれば簡単に桜色がとれると考えてしまうのですが、実は全然そうではない。桜の花をいくらトラックに何杯分も集めてきてグツグツ煮てみても、色は全然とれません。薄ぼんやりした灰色がとれるだけです。桜が花を咲かせて、美しい花の色を示しているのは、最後の最後の瞬間に生命を全部使い果たしている色なのです。これも志村さんに昔教えられてびっくりしたことですが、桜の色は桜の木の真っ黒なごつごつした皮からとる。しかも、一年中いつの季節でもいいというわけではなくて、花が咲くそのちょっと前、つまり花がつぼみをもってきたころに、その木の皮をもらってきて、グツグツ煮立ててとるのだそうです。つまり、桜の花のあの美しい色は、葉っぱとか、枝とか、幹とかに一生懸命木が樹液を送りこんで、太陽の光の協力のもとにつくり出した色素が最後に全開したものなのです。色素がどんどん木のてっぺん、枝の先にまで送られていき、全部自分を使い果たして花となって開く。ですから、花となって開いたときは、その色素は旅路の果てにいるわけで、色をとるためには実はその旅路の途中をいただかなければならない。私は志村さんからこの話を聞いたときに、桜の花の美しさというものは、花だけではなく、桜の根っ子にも、木の幹にも、枝にも皮にもあの色がたっぷりとあるんだということを一瞬に感じとって、深く心をうたれました。その経験を、昔あるところで、やはり講演で話しました。その講演速記がある雑誌に載ったところ、驚いたことに一週間以内に、大きな発行部数をもっている教科書会社が、四社か五社電話をかけてきました。高校・中学の国語の教科書担当の人たちですが、あの文章を教科書に使わせてほしいという申し出です。そのとき、多くの人がやっぱりこういう話を聞いたり読んだりすることによって、何かとても大切なことを知るのだなということを痛感しました。志村さんから聞いた話に私の感想をつけ加えて話したその文章は、その後高校や中学の教科書に載り、そのために、志村さんのところにはよく中学生から問合せがきたり、ぜひこちらに来てここの桜で染めてほしいというような申し出が、中学の校長先生からあったりするようです。
ともかく、私共は色なら色の秘密をあまりにも知らない。桜色に染められている着物を見れば、これは桜の花を集めて染めたんだろうという程度にしか知らない。しかし、このエピソードが語っているように、ものごとには幹があって根っ子があって、葉があって枝があって、それで最後に花が咲くというのが、全てのものの真実です。人間も全く同じことで、人間にも根っ子がある。一人ひとりそれぞれに、育ってきた環境とか、親兄弟とか、そういうものがその人の基本条件としてある、これは動かし難い条件です。この人は神奈川県で生まれた人だとか、この人は静岡県で生まれた人だとか、この人は徳島県で生まれた人だとか、そういうことがまずあると思う。もちろん、人間と樹木とは根本的に違う条件があります。人間は移動して他の所に移っていき、それぞれそこの文明や文化を採集してきて自分のものにすることができます。後天的にそういうことがいくらでもできる。しかし、「根っ子がどこにあるか」ということもかえりみる必要がある。桜色の染めを見たときに、私は、旅路の果ての花だけのことしか考えないで、恥ずかしい思いをした。美しい色は、二月から三月にかけて、桜の木の真っ黒な皮をいただいてきて、それを材料にしてとるということを志村さんに教えられた。私にとって大きな出来事でした。
また私は宗廣さんのお宅にも伺うようになって、実にいろいろなことをおそわりました。私が今日ここでしているネクタイも、宗廣さんから頂いたものですが、これがどんな服にも合う。何とも不思議なんです。どういうわけか、植物の色で染めたネクタイというのは落ちつく。もともと、私自身がキンキラキンのものはあまり好きじゃないとか、個人的な根っ子をいっぱい持っているわけですが、しかし、このネクタイをしめていると気分が落ちつくということが確かにある。
宗廣さんという方は、岐阜県の郡《ぐ》上《じよう》八《はち》幡《まん》の方です。もう七十歳ぐらいになられる。昔から腎臓その他が悪くて、月に何回かはそのために病院に通わなければならない。郡上では遠くてたいへんなので、病院に通い易いところでしかも染色のいい材料がまわりにありそうなところを探して、神奈川県の箱根山のふもと、小田原に近い丘陵地に居を定め、「南足《あし》柄《がら》工芸研究室」というのをつくって、お弟子さんたちを育てておられます。
郡上八幡というところには、昔から土地の人たちが「郡上織」と呼んでいたものがあって、現在では途絶えてしまっていたのを、宗廣さんが復活させた。この方が染色を始められたのは年齢がいってからで、戦争中までは郡上の少年たちを教える施設にいて、子供たちを満州(中国東北部)の開拓村などに送り出していた。ところが、終戦になり、少年たちが着の身着のままで引き揚げてくる。そういう少年たちの生活をどうしたらいいか。そこから、宗廣さんの新しい生活が始まりました。ポマードをつくってみたり、綿羊を飼って毛織物をつくったり、いろいろされたそうです。結局最後に郡上に昔からあった紬にいって、当初はインド産のエリサンという蚕を取り入れてつくっておられたそうです。エリサンという蚕は、日本の蚕よりも強い糸を吐くのだそうですが、糸の量が少ないので、十年ほどやってみて、結局割が合わなかったので、日本のお蚕さんの方にだんだん移していった。宗廣さんは研究心の豊かな方で、様々な実験的なことをなさっています。実は御本人は、紬など全くやったことのない家の出身です。ただ、自分が責任をもって外国へ送り出してしまった少年たちが、日本に帰ってきたら暮らす場所もない。彼らが自給自足の生活ができるようにするにはどうしたらいいかと、いろいろ試みた末に、紬織りに達したのです。
日本旧来の草木染めによる織物をつくろうということで、それから必死に、染織技術を教えてくれる優れた先生を探した。結局、京都にある研究所の偉い先生が、彼の熱意にほだされて、終戦直後のきわめて不便な交通事情にもかかわらず、手弁当で通ってきては教えてくれた。それが宗廣さんの出発点です。ですから、それを始めたときは当然三十歳を過ぎていた。どうも私の知り合いのいい仕事をしておられる染織家は、宗廣さんも志村さんも三十歳過ぎてからその道に入った人で、人間というのはたいへんなものだとあらためて思います。二十歳代で生きる希望を失っているなんてことは、とてもこんな人たちの前では言えないことです。三十歳、四十歳になっても、自分の求める気持ちだけを頼りにしてやっていく。志村さんも宗廣さんも同じです。志村さんの場合は、ご自分でお書きにもなっていますが、結婚生活に失敗して東京から故郷の京都に帰った。子供二人を育てるためにどうしたらいいかということから、自分のお母さんが昔趣味でやっていた染織によって生きようと決心した。失敗を重ねたあげく、お母さんがたまたま残してあった最後の糸を使ってつくった布地が、伝統工芸展に初入選した。それがきっかけで目が開いた。しかし、その間の数年間、本当に地べたを這《は》いずりまわるような生活をして、そこから出発している、ということです。
お二人とも、地面に生えているものから生命を得て、それを他の人たちが身につけるものにしていく、他の人たちに生命を移していくという仕事をなさっている。その前に、前提条件としてずいぶん生活の苦労をなさっている。それが今の仕事に脈々と生きているということです。色というものに対しても、美しい色をただ消費するのではなしに、それを育てていく。それによって自分も育っていくという仕事をしていらっしゃる。桜の色は、花のところにだけあるのではなくて、根っ子から幹から枝から全部桜の色に染まっている。それが見えないのは実は人間だけで、もし紫外線や赤外線なんかを見ることのできる目を持っている人がいたら、桜の木の花だけでなく、真っ黒な皮のところにも、桜の花の薄いピンク色がひたひたと音をたてて樹液と一緒に流れているのを見ることができるかもしれない。見えないのは、人間の目が限られているからにすぎない。もし我々がちょうちょうの目を持っていたらどうか、こうもりの耳を持っていたらどうかということを考えると、人間というのは実に限られた知覚の中に閉ざされているものだということがよくわかります。私の家には猫が何匹かおりますが、彼らは、夜中に家の中が真っ暗でも、どこにもぶつかったりせずに駆けずり廻って遊んでいることがあります。真っ暗な中でどうして見えるのか不思議でたまらない。猫の目はやはり我々の目とは全然違うものであって、それが彼らを生かしているのですね。そういうことを考えると、自然界の働きというものはたいへんなものだと思う。それが人間というものが生きていく上での、大きな大きな支えにもなる。緑を守るという運動も、結局そういうことと非常に深く関わっているでしょう。緑という色は、決して単独に緑として存在しているわけではなかった。他の色とかけあわせてやっとできあがっている色だった。言いかえれば、緑を守る努力ということは、実は他の全てのものに関わっているということである。それは特に私たち人間の精神のあり方の問題とも深く関わっていると思います。
若山牧水は、私の生まれた三島のすぐ隣の沼津に晩年暮らしていました。沼津の浜辺には「千本松原」という有名な松林がある。大正の末ごろ、その松林が、静岡県当局によって、どういうわけか伐採されそうになったことがある。その時、牧水は地方新聞にくりかえし弾劾の文章を書いた。牧水という人は、普段は全然政治的な人ではないし、文明社会の社会問題についても、絶えず敏感に反応していた人とはあまり思えない自然詩人です。その人が書いたその文章が、おそらく大きな効果を発揮したらしく、静岡県は伐採計画をとりやめたことがあります。
このとき牧水が書いた文章は感動的な文章でした。その牧水の文章の特に注目すべきところは、こういうところです。沼津の千本松原は、よく松原の美についていうとき用いられる白砂青松というようなものではない。またよく園芸でつくられるような枝の曲がりくねった所に美しさを求められるような松でもない。この松原の素晴らしさは、松と一緒に様々な雑木がいっぱい生えているし、下草もいっぱい生えているところにあるのだ、と彼は言います。牧水はそういう木の名前、草の名前をたくさん書きこんでいますが、それを見ると、私など詩を書いていながら草や木の名前をいかに知らないか思い知らされて恥ずかしい思いがします。牧水という人は千本松原のことを言いながら、同時に松の下に生きている様々な雑木・草のことも熱情的に書いている。この千本松原というのは、おそらく日本でいちばん美しい松原である。その理由は、松だけにあるのではなくて、松と一緒に様々な雑木や下草が生えていて、そこに何とも言いようのない生命の循環があるからだ、という言い方をしている。生命の通いあいが、絶えずそこにある。松と他の植物との関係が非常にうまくいっているのに、それをぶち壊すつもりかと。たまたまその千本松原は国有林だったものを、静岡県がいろいろ運動して県のものにしたとたんに伐採計画が打ち出されたのですから、牧水は激怒した。しかも、伐採計画に入っているのは、中でもいちばん美しい部分で、これを伐《き》るとは何事かと書いています。私は、牧水は昔から好きな歌人でしたが、この文章を読んだとき本当に感動しました。
普通の日本人の常識的な感覚の中には、美しい松林といったら白い砂に青い松という、白砂青松だということがある。ところが、牧水は、松林が美しいのは、下の方にいろいろな草や木がいっぱい生えて、そこに生命の交換があるからだと言ったのです。これは別の言い方をすれば、松は美しくて他のものはちょっと下だというような、序列をつける考え方を、彼は全然とっていないということです。雑木も素晴らしいし、ゴチャゴチャ生えている下草も素晴らしい。彼は序列において千本松原を見ているのではなく、生命の循環系、循環システムにおいて松林全体を見ていた。これは現在から見ると、実に先駆的な意味をもつ松原論ではないでしょうか。松という常緑樹、日本の代表的な緑も、実は他のものによって育てられているのだ――他の草木が枯れて、松の根元に肥料となってたくわえられていくわけですから――これこそ生命が大いなる系の中で循環していることの表われです。そういう意味で、牧水にとっては、松も下草も全く同じものだった。そこに素晴らしさがあると、私は思う。詩人はこういう思想の持主でなくてはいけないと思うのです。一般に美しいと言われているものを見て、「これは美しい、だいじに保護しましょう」という考え方は駄目で、とくべつに保存しなければならないものがあるならば、それを支えているものを同時に保存すべきです。桜の花であれば、それを支えているごわごわして汚らしく見えるような木の皮まで、桜の本体として見る。そういう見方が牧水にはごく自然にできていた。彼は宮崎県の生まれですが、故郷のことは絶えず心に思いながら、沼津に住みついて、松林に囲まれた家で亡くなりました。そこに至るまでの彼の精神のあり方というものが、この伐採問題の一件によく示されていると思います。人間の生き方というのは、そういう時に非常に見事な色を発する。牧水もその時に、いわば見事な緑色の生命の輝きを発したのだと思います。
世の中にはそれのみで単独で存在しているものはなく、緑なら緑が存在するためには、他のものも全てひっくるめた生命の循環系においてそれを見なければならないということを、私は思います。その意味では、ナショナル・トラスト運動というのは、まさに緑を育てるために、人々自身が緑の一環になるということだろうと思います。
(昭和六十年〈一九八五〉十月、神奈川県民会議設立記念式典における記念講演より。「ミドリ」〈かながわトラストみどり財団刊〉一九八六年春号所収)
唱和する心――日本詩歌の大動脈
唱和する心の偉大さ
日本の和歌の精神は、日本の文化の根本をなしている。その和歌の中心は、唱和する心であると私は考えている。十数年前から取り組んでいる海外の詩人達との共同制作の連詩を通じても、その重要さを実感している。連詩は、十二世紀ごろから興り十四世紀ごろに全盛となった日本の詩「連歌」や、それの十六世紀以降の新しい発展である「連句」の伝統である「唱和する」ことからヒントを得て私が考えついた新しい詩のつくり方で、異なる言語の人々が一つのテーブルにつき、誰かが詩をつくり、それに詩を次々に付けていくものである。形式上の規制はできるだけ緩やかにしてある。今までに、スイスのチューリッヒ、ベルリン、パリなどさまざまな場所で、英語、仏語、独語、イタリア語、アラビア語、インドのベンガル語などさまざまな言語の詩人達と連詩をつくってきたが、どの場合でも感銘深いのは、個人主義的だと思われる外国の詩人達が最初は初対面で難しそうだと疑わしげであるのが数時間後には夢中になり、別れるころには皆十年来、二十年来の友達のようになってしまうことである。言葉が違い、民族が違う、全く未知の人でも、同じ場に集い、同じ仕事を通じて、相手を直感的に理解できてしまう。おそらく「唱和する」ことのなかには偉大な力があるのだろう。日本では詩歌のみならず茶の湯、生け花などを見ても、師匠と弟子、あるいは友人同志でグループをつくりお互いに切《せつ》磋《さ》琢《たく》磨《ま》していくことが、日本の文学、芸術、芸能など芸道一般に共通の一つの原理であることが痛感される。日本人は、この伝統を強く持ち続けてきている。
日本は古い伝統を保つ一方、コンピュータを中心とするハイ・テクノロジー分野で世界をリードし、この二十年位の間に日本のハイテク製品は欧州市場を制覇してしまった感がある。ところが、その一方、日本の文化は海外で全く理解されていないと日本のインテリは言う。事実欧州の人々の九十九パーセントは日本の文化を知らないとさえ言える。しかしながら、日本のもの、欧州のもの、と区別して考えたいのは日本人の特性であり、連詩という共同制作を通じて痛感するのは、欧州の詩人達は、連詩が日本の詩の伝統の上に成立していることは時々しか意識しておらず、彼らはこれを自分自身のものとしても充分楽しんでいけるものだとみていることだ。私はそれこそが、日本の伝統、「唱和する心」が、本当の意味で欧州に入っていくということだと実感している。
最近、日本の伝統的なものが欧米に入っていきつつある。例えば、欧州諸国に進出している日本企業では、現地の優秀な大学生を大学の夏期休暇中、アルバイトとして雇用している。学生達は二十歳そこそこで、日本企業でのアルバイトを通じ、日本社会のあり方、日本の会社員の生活などを知る。翻って言えば、このことは日本の伝統を彼らに強い実感として伝えていることになる。スペインのバルセロナで現地の日本企業でアルバイトをしていた学生達に聞いたことがあるが、どの日本企業も上から下への秩序が厳しく、時間厳守で、勤務中にちょっと友達と話をすることも許されないような雰囲気で、日本の経済力の背景はよくわかるけれど、スペイン人の自由な生活感覚からすると、不自由でたまらないというのが共通の印象のようだった。
日本の伝統をそのまま押しつけるのではなく、相手にどう受け取られているかを考慮し、対応することが、本来の意味の日本の伝統ではなかったのか。『源氏物語』で光源氏が大和《やまと》魂《だましい》について話している。もちろん中国や朝鮮半島から入って来た、当時日本の文化より上位だった文化の唐心に対比させて言うのだが、光源氏にとっての大和魂とは、優れたものを見たら、それを自分の中に取り入れ、自分流に変形することを意味していたようだ。茶の湯や生け花も、この大和魂から生まれたことを想起する。取り合わせの意識で古いものに新しい意味づけをすることが、『源氏物語』が成立したころには既に観念として存在していた。したがって、日本企業が海外で仕事をしていく際も、現地の考え方と日本人の考え方を取り合わせ、双方が活きる仕方を探る必要があり、日本の伝統が独特な伝統だと意識されている間は特別で、原産地を忘れるぐらいになって初めて世界的になったと言える。その典型として寿《す》司《し》屋があげられる。パリでも寿司は人気があり、寿司屋の板前が魚市場に魚を買いに行くようになると、それにつれて魚市場の魚に対する扱いも変わってくる、というような意味合いで、日本の伝統が入っていく。寿司屋はニューヨークでは大盛況、オランダやフィンランドその他各地に進出し始めている。日本料理が日本独特なものから普遍的なものに移りつつある証拠だ。
日本の精神の原型
――『万葉集』の「梅花の宴」
資料一は、『万葉集』巻五「梅花の宴」の歌の三十二首中冒頭八首である。この宴は、天《てん》平《ぴよう》二年正月十三日に、九州筑紫の大《だ》宰《ざい》府《ふ》長官であった大《おお》伴《ともの》旅《たび》人《と》が、満開の梅の花を見ながら正月のお祝いをしようと、九州一円にいる彼の支配下の県知事、次官クラスの人達を彼の屋敷に集めて開いたもので、そこで三十二人が一人一首ずつ歌をつくった。旅人は、歌人としては『万葉集』の詩人達の中で最高の素質を持っていた一人であった。
まず当時の歴史的背景だが、時の聖《しよう》武《む》天皇は、天平元年に次期天皇の有力な後継者になり得る長屋王が藤原氏の陰謀により横死すると、その年の三月か四月、それまでの伝統を破り、皇太子妃であった臣下の藤原家出身の光《こう》明《みよう》子《し》を皇后にした。これは、一大変革であった。藤原家は以前よりしだいに勢力を伸ばしてきていた。さらに、天平十二年九月頃、大宰少弐藤《ふじ》原《わらの》広《ひろ》嗣《つぐ》が九州で反乱を起こす。広嗣は、天皇の側で政務をとりしきる僧正玄《げん》〓《ぼう》と吉《き》備《びの》真《まき》備《び》を、君側の奸《かん》を除かなければならないとして都へ公式文書を送るが聞き入れられず、天皇は一万七千人の兵を九州へ送り、結局、逃亡する広嗣は捕まって処刑され、十一月に乱は平定した。その年の十月の中旬ごろ、突然聖武天皇は「朕はこれから東国へ巡遊の旅に出る」と言って少数の人を連れて行幸の旅に出た。天皇は各地の離宮をまわり、五年間も奈良の都を空けてしまう。その途中で、国家安泰のために盧《る》舎《しや》那《な》仏《ぶつ》の造営の詔勅を出し、信楽で造り始め、やがて東大寺に場所を移してできあがった。五年後天皇が都に戻り、やがて華やかな天平文化の時代が始まる。このように天平は変化に富んだ波乱怒《ど》濤《とう》の時代であった。
大伴旅人が梅花の宴を開いた天平二年正月というころは、藤原氏が全盛期に入りつつあったころで、大伴氏の族長旅人は鬱《うつ》々《うつ》として大宰府で長官の職を遂行していた。愛妻を亡くし、老境に入り寂しい思いをかかえてもいた。
旅人は、最初に序文「梅花の歌三十二首并《あわ》せて序」(小学館発行『日本古典文学全集』より)として、この宴の意義を説いている。この文章は、「初春の令《れい》月《げつ》にして、気淑《よ》く風和《やわら》ぐ」の「気」と「風」、「淑く」と「和ぐ」というように二字ずつ対になり、対比する形で展開していく。これは中国の文体の特徴で、当時八世紀ごろの日本の文人は中国文学から多大な影響を受けていた。次の序文の大意は私の訳だが、自然を見つめ、没入して自然界のことを細やかに書いており、実に日本的である。日本人はこのころからすでに歳時記風の感受性を持っていた。中国の詩は、自然と自分自身との対比で、自分の思いを自然に託する人間臭い自然観であるのに対して、日本の場合はただ自然を讃《たた》える。この序文は、中国の文体でありながら日本人の自然観を表現しており、取り合わせの意識が明確である。
皆が旅人の屋敷に集まり、梅の花を見て盃を交わし、談笑しながら一首ずつ歌をつくった。歌は社交の最高の道具であり、実用性があった。宮中でお祝い事があればお祝いの歌を詠まなければならず、和歌を詠めない人はそれだけで宴に加わる資格を欠き、また恋愛をするのにも和歌が下手な男は軽視された。したがって、一生懸命に和歌を上手に詠もうとして歌の技術が進んだ。『古今和歌集』などはいわば歌を作るためのお手本となり、最大のあんちょこの一つとなった。三十二首の中で最高の歌は、「主人」とある大伴旅人の歌だろう。
わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
大意は、「自分の家の庭に梅の花がひらひら散っている。あの遠い空から雪が流れてきたのだろうか」。梅の白さを雪にたとえており、この調べの豊かさは旅人の本領である。
また、「筑前守山上大夫」とあるのは山《やまの》上《うえの》憶《おく》良《ら》の歌で、
春さればまづ咲く宿の梅の花独り見つつや春日暮さむ
大意は、「春がやってくるとまず咲く家の梅の花よ。この梅の花を一人見ながら春の日を暮らすことができるだろうか」。「見つつや」の「や」は疑問形。これは宴の精神を、主人旅人の気持ちになり代わって詠んでいると推測される。不思議な人である。
この天平二年の梅花の宴は、日本のその後の平安、室町時代から現代に至るまでの、ものの考え方の原型を示している。つまり、一人だけで素晴らしいものを見ていてはつまらないので、心を同じくする人に集まってもらって宴をしよう。これが、すべての日本の精神の原型にある。これは、もともと中国や朝鮮にもあったが、日本においてほど、古代から現代に至るまで、保たれ続けているところは、ほかにないだろう。日本の政治形態がずっと同じであったという歴史の偶然の積み重ねもあったろう。この梅花の宴は天平時代の眇《びよう》たる一つの催しではあったが、私見では、日本で初めて文章に残された宴の記録であり、その文化的意味はひじょうに大きい。茶の湯や生け花も、ここから始まる。
資料一 『万葉集』巻五「梅花の宴」の歌
天平二年正月十三日
筑紫大宰府長官大伴旅人邸にて(「序」は大伴旅人作)
梅《ばい》花《くわ》の歌三十二首并《あは》せて序
天平二年正月十三日に、帥《そちの》老《おきな》の宅《いへ》に萃《あつ》まりて、宴会を申《の》ぶ。時に、初《しよ》春《しゆん》の令《れい》月《げつ》にして、気淑《よ》く風和《やはら》ぐ。梅は鏡《きやう》前《ぜん》の粉《ふん》を披《ひら》き、蘭《らん》は珮《ばい》後《ご》の香《かう》を薫《かを》らす。加 《しかのみ》 以《にあらず》、 曙《あさけ》の嶺《みね》に雲移り、松は羅《うすもの》を掛けて蓋《きぬがさ》を傾《かたぶ》く、夕《ゆふへ》の岫《みね》に霧結び、鳥は〓《うすもの》に封《と》ぢられて林に迷《まと》ふ。庭に新《しん》蝶《てふ》舞ひ、空に故《こ》雁《がん》帰る。
ここに、天を蓋《きぬがさ》にし地《つち》を坐《しきゐ》にし、膝《ひざ》を促《ちかづ》け觴《さかづき》を飛ばす。言《こと》を一室の裏《うち》に忘れ、 衿《ころものくび》 を煙《えん》霞《か》の外に開く。淡《たん》然《ぜん》に自《みずか》ら放《ゆる》し、快《くわい》然《ぜん》に自《みづか》ら足《た》りぬ。
もし翰《かん》苑《えん》にあらずは、何を以《もち》てか情《こころ》を〓《の》べむ。詩に落《らく》梅《ばい》の篇《へん》を紀《しる》す、古《いにしへ》と今と夫《そ》れ何か異《こと》ならむ。宜しく園《ゑん》梅《ばい》を賦《ふ》して、聊《いささ》かに短《たん》詠《えい》を成すべし。
序文の大意
天平二年正月十三日、大宰帥旅人卿《きよう》の邸宅に集まって宴を開いた。時は初春のよき月、気は澄んで快く、風は穏やか。梅は鏡の前の白《おし》粉《ろい》のように白い花を咲かせ、は白い袋の香のように良い香りを発している。加えて、夜明けの峰には雲がかかり、松はその雲の薄絹をかけて、あたかも蓋を傾けているようだ。夕方の山の頂きには霧がかかり、鳥はその霧のうすものにとじこめられて林中にさまよっている。庭では今年の新しい蝶が舞い、空には去年来た雁が北へ帰ってゆく。
そこで天をきぬがさにし、地を座席にし、膝つき合わせて盃《さかずき》をにぎやかにかわす。一室に坐《ざ》してはうっとりと言葉も忘れ、煙霞の彼方《かなた》に思いをはせて互いに胸襟をひらく。淡《さつ》々《ぱり》としておのずから各人気ままに振舞い、心楽しく満ち足りた思いでいる。
もし文筆によるのでなければ、どうしてこのような情緒を述べることができよう。漢詩にも梅花の散るのを詠じた詩篇がある。昔も今も、いったい何の違いがあろうか。さあ、われらもよろしくこの園の梅を詠じて、いささか短い歌を作ることにしよう。
815正月《むつき》立ち春の来《きた》らば斯《か》くしこそ梅を招《を》きつつ楽《たの》しき終《を》へめ
大弐紀卿
816梅の花今咲ける如《ごと》散り過ぎずわが家《へ》の園《その》にありこせぬかも
小弐小野大夫
817梅の花咲きたる園の青《あを》柳《やぎ》は蘰《かづら》にすべく成りにけらずや
小弐粟田大夫
818春さればまづ咲く宿の梅の花独り見つつや春日暮《くら》さむ
筑《ちく》前《ぜんの》守《かみ》山上大夫
819世の中は恋繁しゑや斯くしあらば梅の花にも成らましものを
豊《ぶん》後《ご》守大伴大夫
820梅の花今盛りなり思ふどち挿頭《かざし》にしてな今盛りなり
筑後守葛《ふぢ》井《ゐ》大夫
821青《あを》柳《やなぎ》梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし
笠沙弥
822わが園に梅の花散るひさかたの天《あめ》より雪の流れ来《く》るかも
主人
823梅の花散《ち》らくは何《いづ》処《く》しかすがに此の城《き》の山に雪は降りつつ
大《たい》監《げん》伴氏百《もも》代《よ》
824梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林に鶯鳴くも
小監阿氏奥《おき》島《しま》
(以下略)
取り合わせの美学
平安時代最大の詩歌人であり、歌論家であった藤《ふじ》原《わらの》公《きん》任《とう》が編《へん》纂《さん》した『和漢朗詠集』にも、取り合わせの意識を見ることができる。一方に漢詩を置き、一方に和歌を置いて、二つを同じテーマでくくる。初めは、屏《びよう》風《ぶ》に張っていたものらしいが、それを集めて本にしたらしい。屏風にしても本にしても大勢の人が見て楽しみ、それがお互いの間の私的な喜びにもなるという文化の共通性を示している。
資料二は『和漢朗詠集』上巻「春」の「春夜」で、白《はく》楽《らく》天《てん》の詩の一節と、『古今和歌集』の編者四人の一人 凡《おおし》河《こ》内《うちの》躬《み》恒《つね》の歌との、二人の作品の対比で成り立っている。
この白楽天の詩の一節は、「壁に燭を当てて前を暗くして、心合う友と一緒に真夜中の月を愛《め》でる。庭に散っている落花を踏みながら、一緒に過ぎゆく若き日の春を惜しむ」という意味である。これは、日本人にひじょうに好まれて、朗詠で愛唱され、さまざまな形で活用され、多くの文学作品に引用されている。これに取り合わせた躬恒の歌は、「春の夜の闇《やみ》に隠れて梅の花の色は見えなくなってしまっているが、だからといって梅の花の香まで隠れるだろうか? そんなことはない、闇の中でもまぎれずに、梅の花は高く薫っている」と、梅の花の香を讃《たた》えている。前の白楽天の詩と直接には結びつかないが、花の香を求めて夜の庭をさまよい、背景に親しい友とか、うるわしい佳人の面影をあしらったところが、気分としては共通している。この二つの作品を取り合わせたところが公任のねらいであり、それが成功している。取り合わせの美学である。この『和漢朗詠集』あるいはその影響でさまざまの朗詠集も作られてゆくが、こうした書物は、文人のみならず日本人一般が読んで大層親しみ、それが人々の美の感覚を大いに洗練されたものにもした。
取り合わせの面白さを高度の遊びとして楽しんでいたことは、資料三の平安中期の編者未詳の私《し》撰《せん》類題和歌撰集『古今和歌六帖』にも見られる。当代の代表歌人四人、紀《きの》友《とも》則《のり》、在《あり》原《わら》のしげはる、紀貫之、凡河内躬恒による遊戯的競作の一例を引く(資料三)。
紀友則が女に別れた時に詠んだ歌、
瀧つせにうき草の根はとめつとも人の心をいかゞ頼まむ
「たとえ瀧がほとばしっている岩の上に、浮き草の根を生やさせることができたとしても、人の心を頼みにすることなんてできるだろうか、人の心は浮き草よりももっとはかないのだ」と、女に捨てられた嘆きを詠《うた》った歌である。この比《ひ》喩《ゆ》が面白いというので、下《しもの》句《く》「人の心をいかゞ頼まむ」を生かし、上《かみの》句《く》に奇想天外な比喩をつける競詠を試みたのだ。例えば、在原のしげはるの詠んだ「蚊の眉《まゆ》に國こおりをば立てつとも」は、蚊の眉の上にこの国全体を乗せることができたとしても、人の心だけは頼みにできない、というようにである。これは、おそらく『古今和歌集』を編纂している最中の時期の、退屈紛れの遊びであったろう。遊びにこそ文化があったのだ。
資料二 藤原公任編『和漢朗詠集』上巻「春」より「春夜」(白=白楽天〈白居易〉、躬恒=凡河内躬恒)
春《しゆん》 夜《や》
27 燭《一 ともしび》を背《そむ》けては共《とも》に憐《二 あは》れむ深《しん》夜《や》の月《つき》 花《三 はな》を踏《ふ》んでは同《おな》じく惜《を》しむ少《せう》年《ねん》の春《はる》
白《はく》
背燭共憐深夜月  踏花同惜少年春
28春《はる》の夜《よ》のやみはあ《一》やなしむめの花《はな》いろこそみえね香《か》やはかくるる
躬 恒
資料三 編者未詳平安中期私撰類題和歌撰集『古今和歌六帖』より
女をはなれて詠める
紀 友則
四五 瀧つせにうき草の根はとめつとも
人の心をいかゞ頼まむ
四九 かたなもて流るゝ水は斬りつとも
五〇 蜘蛛の網に吹《ふき》くる風は留めつとも
五一 吹く風を雲のふくろにこめつとも
在原のしげはる
五五 毛の末にはねつる馬はつなぐとも
五六 袖の内に月のひかりはとゞむとも
六三 蚊の眉に國こほりをば立てつとも
紀 貫之
六六 陽炎のかげをば行きてとりつとも
六八 漕ぐ舟の棹のしづくは落ちずとも
七〇 荒るゝ馬を朽ちたる縄に繋ぐとも
大凡内躬恒
七五 佐保山のもみぢぬ秋はありぬとも
七八 春かへるかりをば皆もとどむとも
七九 しろき毛をこき緑にはかへすとも
(平成五年〈一九九三〉七月二十七日、第二十三回茶道夏期大学での講義録。「茶の湯」二七六号〈平成九年二月〉所収)
日本文学と女性――その役割の偉大さ
和歌とは「和する歌」
和歌という言葉の意味について問われると、大抵の人が大和《やまと》の歌という意味で「日本の歌」と考えるだろう。それは常識的に正しく、歴史的にみても和歌を大和の歌と考えてきた時期は長い。しかし、和歌という言葉には「和する歌」という深い意味がある。
「和」とは「二人以上で和らぐこと」であり、和歌とは「和らぐ歌」あるいは「人の心を和らげる歌」なのである。紀《きの》貫《つら》之《ゆき》が『古今和歌集』の仮名序で、「和歌はたけきもののふの心をも和らげる」と言っている。勇猛果敢な武士の心をも和らげるのが和歌であるというので、これは和歌という言葉についての最も古く、最も正統的な解釈だと考えてよい。
和歌はもともと「和らぐ歌」「和らげる歌」であったが、中国から漢詩が入ってきて、「大和の歌」という意味も生じた。平安朝初期を最盛期として中国文化、中国文学の影響は絶大で、奈良朝末期の天平時代はまさに文化的変革の時代であった。中国の漢詩は上位で公の世界のものとされ、それ以前に発生した大和言葉による和歌は下位で私の世界のものという認識が一般的となった。九〇五年に『古今和歌集』が成立し和歌文学が最盛期を迎えるが、それまでの二、三百年間は、中国文化が日本のインテリの間では圧倒的権威があった。このような経過から、和歌は、漢詩に対する大和の歌という意味あいが強まったのだ。
日本の芸道で「道」と名のつくものはすべて、茶や香や花などは、この和歌の精神を中心にして、少なくとも最初は出発している。
和歌の中心は恋の歌
和歌の原義は「自分の心が和らぎ、人の心を和らげる」であるから、二人以上、少なくとも男女一人ずついなければ和歌は成り立たない。したがって恋の歌が和歌の中心になる。このことは日本の和歌の歴史を見れば一目瞭《りよう》然《ぜん》であり、最初の勅《ちよく》撰《せん》和歌集『古今和歌集』の編《へん》纂《さん》の仕方自体にそれは主張されている。
『古今和歌集』は全二十巻あるが、これは『万葉集』が全二十巻あることに拠《よ》る。『万葉集』はほぼ八世紀後半に成立したが、それ以前三百五十年間の和歌が収められ、段階的に少しずつ増えて巻十六で一応完結をみるが、巻十七、十八、十九、二十を『万葉集』最末期最大の歌人大《おお》伴《ともの》家《やか》持《もち》が自分の身辺日記のような形で編纂し、全二十巻とした。彼は『万葉集』四千五百首のうち約一割の四百数十首を詠んだ詩人であると同時に、優れた鑑識眼を持った学者でもあった。日本では明治時代まで、一流の学者でないと一流の詩人としては認められなかった。おそらくその最初の一人は柿本人麻呂で、続く大伴旅《たび》人《と》、山《やまの》上《うえの》憶《おく》良《ら》らも皆学者であった。
『万葉集』が全二十巻であることは偶然としか思えないが、同時に何たる神の配剤かという感じがする。後の人には神秘的に見えたらしく、『万葉集』は勅撰ではないが、勅撰だと信じられ、その後の『古今和歌集』を始めとする勅撰和歌集二十一代集は皆、二十巻で完結あるいはその半分の十巻で完結している。『万葉集』は日本独自の文字使いをした漢字で書かれており、各世代の優れた学者が少しずつ解読し、現在では正確な解読がされていない数十首前後の歌を除いてすべて一応理解できるようになった。また現在、『万葉集』に関する重要な本だけでも毎年十冊は出版されている。このように八世紀頃から現在に至るまでの千年以上もの間読まれ続けている古典は世界に類がない。日本人がいかに『万葉集』を敬愛しているかがわかる。
紀貫之ら『古今和歌集』の編纂者は『万葉集』を国の心の宝として尊び、同じ巻数二十巻でつくることを踏襲し、そこに平安朝の新味を加えた。つまり二十巻の並べ方を工夫し、前の十巻と後の十巻との二つに分け、巻一から十までと巻十一から二十までがちょうど対称的になるようにした。これは、その後の日本の芸道の序破急といった数の割り方などにも影響していると思われる。『古今和歌集』は巻一から巻六までは日本人が重んじた季節の歌で、春上下二巻、夏、秋上下二巻、冬の六つの巻に分け、巻七から巻十は旅あるいは季節の歌の付随品、巻十一から巻十五までは恋の歌、巻十六から巻二十は述懐の歌を集めた雑《ぞう》の歌その他とした。雑の歌とは、季節や恋愛以外で特に人生観や処世観を詠んだ歌のことである。これより三百年程後の西《さい》行《ぎよう》は『古今和歌集』を尊崇し、雑の歌、つまり思想の歌、瞑《めい》想《そう》的な思索の歌の大切さを弟子達に教えている。昔の優れた歌人は皆、『古今和歌集』を尊崇して読み、そらんじていた。また、女性にとっても重要な教養の一つであった。
『古今和歌集』を真ん中で二つに折ると、前半は中心が季節の歌、後半は中心が恋の歌となり、この二つが日本の歌では重要なテーマだったことがわかる。この編纂の仕方を貫く思想は、その後の勅撰和歌集でも踏襲されている。
とりわけ恋の歌が重要であることは、和歌の言葉の原義と関係がある。恋の歌でないように見えても、実は恋の心を含んでいる季節の歌が多い。逆に、恋の歌に分類されていても季節の歌だと思われる歌もある。
例えば、「遠くの山に美しい桜が煙るように咲いているが、そこに春先の雲がぱっとかかり、その美しい花を見、また手《た》折《お》ることができなくて残念だ」というような歌を男性が女性に送ってきたとする。これは桜の歌の一首として季節の歌にも入るが、実はその心は「美しい女性(あなた)がいるが、その周りに雲のように乳母とか母親とかややこしい人達がいて、どうしても近づけない。何とかあなたを手折らせてください」という意味の恋の歌なのである。露骨な意思表示だが、あくまでも優雅に詠むのが恋の歌であり、このような恋の歌はひじょうに多い。
和歌は教養を表す方便
上流の若い女性は外を出歩くことはほとんどなく、大抵は家に籠《こ》もっていた。だから男性は、年頃の美しい女性がいて、しかも父親は位も高くお金持ちだなどという噂《うわさ》を聞きつけると、早速、まだ会うこともできないうちから恋の歌を送る。未だ見ぬ相手を間接的に口説き落とすための武器は何といっても和歌であった。男性にとっては、高位の貴族の娘と結婚すれば自分の位も上がることから、恋愛は大事業である。また女性は、後ろ楯《だて》となる両親が死に財産もなければ身を売る以外に手段がないというほど不安定な生活条件にあったので、両親は送られてきた恋の歌を慎重に吟味して一番望ましい男性を娘の婿として選ばなければならなかった。女性が孤独でいかに危うい生活を強いられていたかは、『源氏物語』の末《すえ》摘《つむ》花《はな》や『鉢かづき』などの例にも見る通りだ。このような状況で相手を選ぶ基準としては、教養の豊かさが重要な一つの要素であり、その方便として和歌があった。なぜなら、和歌は必ず古典を踏まえることが常識だったからである。両親により選ばれた男性に、しばしば両親のどちらかが代筆で「一度会いに来てください」という意味のまわりくどい歌を送り、その意味を男性が理解できれば知的にも悪くはないと判断され、男性は暗くなると女性を訪ねていく。両親は望み通りの男性であれば、その男性を家にあげるや否や履物を隠しさえした。男性は一番鳥が鳴く前に帰るのが礼儀で、夜の間しか男性と女性は一緒にいることができなかったからだ。かくして男性はずるずると女性の家に住み着いてしまうこともありえた。このように和歌は、男性、女性の教養の豊かさを知るためのあるいは示すためのだいじな道具であった。
女性無くして和歌はありえない
次に女性の歌をいくつか見てみる。
朝霧の鬱《おほ》に相見し人ゆゑに命死ぬべく恋ひ渡るかも
わが思ひを人に知るれや玉くしげ開き明けつと夢《いめ》にし見ゆる
剣《つるぎ》大《た》刀《ち》身に取り副《そ》ふと夢《いめ》に見つ何の兆《さが》そも君に逢はむため
皆《みな》人《ひと》を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝《い》ねかてぬかも
相思はぬ人を思ふは大《おほ》寺《てら》の餓《が》鬼《き》の後《しりへ》に額《ぬか》つくごとし
これらは『万葉集』に収められた笠《かさの》女郎《いらつめ》の歌の二十九首の一部である。二十九首すべては大伴家持への恋の歌で、しかも恋が遂げられない悔しさを詠んでいる。つまり、笠女郎から家持へ送られてきたラブレターを、普通であれば捨ててしまうところだが、家持はすばらしい歌だとその才能を認めて自分が編纂した『万葉集』に入れてしまった。いわば著作権無視。それほど心動かされたのだ。『万葉集』は劇的な詩集なのである。貴公子の家持は繊細な人で、おそらく年上で恋愛経験の豊かな女性に対して、とりわけ男と女の愛情を感じたらしいと推測される。笠女郎を始めとして家持と関わりのあった紀《きの》女郎《いらつめ》や叔《お》母《ば》 坂《さかの》 上《うえの》 郎女《いらつめ》らも年上であった。
代表的な女性歌人である和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》(九七八頃―?)は同時代の人達から隠れもない女であった。恋の歌も上手であったが、恋愛において男性が次から次と群がってくる魅力があった。恋愛に命を懸けるのはもう古臭くなっていた当時に、それを貫いた人で、言い換えると恋愛に高い理想を持ち、それに照らすと大抵の男性が落第した。彼女は 橘《たちばなの》 道《みち》貞《さだ》と結婚していたが、道貞が留守の間に為《ため》尊《たか》親《しん》王《のう》に言い寄られ恋愛し、それが都の大評判になり、道貞は彼女を離縁した。ところが、為尊親王は夜歩きがたたったかして流行《はやり》病《やまい》に罹《かか》り、あっと言う間に死んでしまう。京都では淀《よど》川《がわ》が絶えず氾《はん》濫《らん》して洪水がおこり、そのため疫病がはやった。悲しんでいると、為尊の弟の敦《あつ》道《みち》親王がラブレターを送ってきた。敦道は純情で、情熱的で、美《び》貌《ぼう》の好青年であった。彼は和泉式部の生涯の恋人となるが、このあたりの話は『和泉式部日記』に書かれている。この時、敦道は二十三歳くらい、和泉式部は三十歳近い。二人は都で評判になり、敦道は男性達の憧《あこが》れの的であった和泉式部を自分の屋敷へ連れてきてしまう。敦道の正妻は屈辱に耐えかねて家を出て行った。ところが、また敦道も流行病に罹り死んでしまう。和泉式部は恋人の死を悲しみ、百首余りの悲歌を詠んでいる。その素晴らしい歌に匹敵するのは、近代の与《よ》謝《さ》野《の》晶《あき》子《こ》が亡き夫鉄《てつ》幹《かん》を偲《しの》んだ歌だ。与謝野晶子と和泉式部は日本の歴史上でも最大の女性歌人だが、この二人に素晴らしい歌をつくらせたのは恋だった。
和泉式部が死んだ恋人を痛《つう》哭《こく》する歌に――、
黒髪の乱れも知らず打伏せば先づ掻《か》き遣《や》りし人ぞ恋しき
「自分の黒髪が乱れるのも知らないくらいに打ち伏せて寝ていると、そばに寝てそっと髪の毛をかきやってくれた人が恋しい」という歌であるが、明らかに恋愛中の二人が共に寝て、その最高潮に達した瞬間を詠《うた》っている。平安朝の女性はその長い髪を枕《まくら》元《もと》にある箱に整理して入れて寝たことから、普通だったら「乱れも知らず」ということはあり得ないからだ。男性が乱れた髪の毛をそっと掻きやってくれたというのはそういう意味だろう。平安朝の女性がこのような瞬間を詠むとは普通は考えられない。それぐらいに恋人の死が肉体に響いて悲しかったことが伝わってくる。この歌は当時としては独特で、平安朝を超えていることはもちろん、現代にもこういう痛切な歌は少ない。
捨て果てむと思ふさへこそ悲しけれ君に馴《な》れにしわが身と思へば
「自分の命を捨ててしまいたいと思うけれども、捨てられない。わたしのこの身体《からだ》はあなたに本当に馴れてしまったから」という歌である。日本人の仏教的観念からすると命を捨てることは現世の欲望を捨てることを含むが、彼女は逆に現世の欲望そのものをだいじにしたいから、この身を捨てることはできないと言う。肉体そのものをいとおしみ、これだけ露骨にしかもきれいに詠った歌はなかろう。
君恋ふる心は千々に砕くれど一つも失《う》せぬものにぞありける
自分の心を一つの実体として捉《とら》え、それが粉々に砕け散ってしまっても、その破片の一つひとつが全部失せずに残っていて、その一つひとつが君を恋しているという論理的な考え方を示しており、和泉式部という人は哲学的な歌人だったと言える。
しら露も夢もこのよもまぼろしもたとへていへば久しかりけり
「あなたとの逢《おう》瀬《せ》に比べれば、はかないものの代表である白露や夢やこの世やまぼろしでさえも、まだまだ久しい。もっと長く逢《あ》っていたいのに、本当に残念だ」という意味である。これは前出の三首とは違い、名前は不明だが一、二度逢い引きした男性に送った歌である。「たとへていへば」というのがみごとだ。溢《あふ》れる思いを言いたいがために、それをそのまま書いてしまうところが素晴らしい。
ここに見てきたような、論理性があり、肉体的にも強く迫ってくるような歌を千年以上も前の宮廷の女性がつくっていたことは驚嘆に値する。この話をフランスの最高学府コレージュ・ド・フランスの連続講義で話したところ、日本は本当に豊かな歴史を持つ詩の国だとフランス人が感心していた。和歌はこのような女性の歌によって、本当の意味での日本の詩になった。それは和歌は「和する歌」だからである。和泉式部のような人は男性がいなければ詩をつくることはできなかった。ところが、詩をつくった瞬間に男性の世界をはるかに超えてしまった。そういう意味で和歌は、女性にとってはだいじな一つの道具であると同時に宝である。女性がいなければ和歌はありえなかったというのは、そういう意味である。
(平成八年〈一九九六〉七月三十日、第二十六回茶道夏期大学での講義録。「茶の湯」二七七号〈平成九年三月〉所収)
日本文学の自然観
日本の自然の特徴
日本列島の自然の大きな特徴は何か、ということから話を始めます。日本列島を考えると、なんといっても植物、木というものが非常に重要なんですね。今日も東京からまいりまして、汽車の窓から眺めていると、ちょうどいま稲が芽生えて伸び始めたところで、稲田がずっと広がっている。そのあいだにはいろんな種類の樹木がうっそうと生えているところがいっぱいありました。われわれは日本で生まれて育っているものですから、世界中どこでも同じだと思っていることが多いんですが、必ずしもそうではなくて、日本の植物の植生といいますか分布は、世界でも非常に密度の濃いものですね。
ヨーロッパに行ってみますと、樹木の印象が日本の場合と違います。学者の説ですと、日本の植物の種類はヨーロッパの十倍以上はあるだろうということです。人によっては五十倍ぐらいあるんじゃないかという人もいます。とにかくヨーロッパに比べて日本は、非常に植物の種類が多いんですね。私は文学をやっているので素人で、あなた方理科系の人達のほうがずっとくわしくご存じだと思いますが、日本はアジア大陸の一番東側の端にあるわけですね。一方アジア大陸の西の地続きにヨーロッパ大陸があります。この二大陸の東のはずれと西のはずれで非常に気候条件が違うというわけです。
アメリカの場合もそうですが、アメリカ大陸の東側はニューヨーク、ワシントンなどがあるほう、西側はカリフォルニアからメキシコのほうへずっと下ってくるあの側ですね。これもやはり非常に顕著な違いがあるわけです。
日本列島はアジアの東側のはずれにあって、気象条件の特徴は、夏は暑く雨が多い。当り前じゃないかとおっしゃるかもしれませんが、ヨーロッパはちょっと違うんですね。夏はわりと涼しく、冬に雨や雪が多いんです。アメリカの場合、東側、つまりニューヨークとかワシントンなどのほうも、わりと日本と条件が似ています。夏暑くて雨が多いという条件。私はよく説明がつきませんが、とにかく大陸の東側はがいしてそういうことになるんですね。
日本の場合は、とりわけその条件が、植物が繁茂する条件にピッタリなんです。植物は暑いところで水が多ければ、どんどん育ちますね。これが一番激しいのはもちろん熱帯で、熱帯はどこでも暑くて雨量が多い。たとえば南米のブラジルあたりのジャングルをとってみても、あるいはアジア大陸の南太平洋の洋上に広がっている、いろいろな島々をとってみても、だいたい植物はものすごく多いわけです。ジャワ島とかボルネオあたりの島々の植物は、熱帯植物がどこに行ってもものすごく繁茂しておりますね。日本は地理的な位置からいいますと、相当熱帯とは離れて北側になりますが、植物学の学者の分類だと、日本の植物のなかには熱帯性としかいいようがない生え方をしているケースがある。とくに日本の南西部、近《きん》畿《き》地方から西、南のほうずっとですね。
関西へ旅行しても、大和《やまと》地方は近ごろ古墳や何かが発掘されたりして大勢の人が訪ねて行くようになりましたね。とくに若い人達は気軽にあのへんに行って歩いている人が、このごろは多いようです。たとえば、有名な高松塚のあたり、明《あ》日《す》香《か》地方などへ行っても、山へちょっと入りますと、足の踏み場もないほど非常に幹の太い木と、その下にチョボチョボと生えているいろんな雑草、そのあいだをぬってつる草がいっぱい生えていたり、いろんな種類の木が一本の幹の周りにありますね。ああいう状態は、たしかに熱帯風だといっていいわけです。
中央から北へかけてのヨーロッパの樹木の生え方と非常に違います。ヨーロッパの場合は木が生えていて、その下に雑草がワッとあるというのは、あまり見ないですね。つまり木が一本スッと生えていると、下のほうはわりとスラッとしていて、雑草というとだいたい芝なんです。日本でも芝生は、近ごろではゴルフコースなどでも芝をいっぱい植えていますから芝がよく見られるようになりましたが、あれは日本の植物としては異例なもので、あんなにきれいに細かなものではなくて、日本はやはり植物がワァーッと八《や》重《え》葎《むぐら》生い茂るようなものですね。
ヨーロッパでは雑草というとがいして芝のようなもので、冬になると葉などが落ちてしまいますから、ヨーロッパの冬空はカラッと晴れ上がったような感じになります。日本ではもちろん落葉はしますが、一方では常緑樹が多いわけで、これも日本の植物の非常に大きな特徴だと思います。そういう条件がありますので、日本の文化も植物に取り囲まれているということが、たいへんに大きな一つの根本条件になっていると思います。
このなかには建築科の方々もいらっしゃるわけで、みなさん近ごろはコンクリートなどから出発して、それ以後の建築などを研究されていくという人が多いでしょうが、いままでの日本の状態を考えると、なんといっても木が主体ですね。紙ももとをただせば木でできているわけです。だから、日本の住宅は木がなければ成り立たなかったわけですね。
食生活もまた日本の植物のそういう条件に非常に規制されていて、日本人にとって最も重要な植物は何かというと、なんといっても米、稲ですね。稲の原産地はどこかといえば、栽培種は二種類あるそうですが、今世界各地の熱帯、温帯で栽培されているのは、東南アジア起源のものですね。このサチバ種が、気象条件のわりと似ているところを通って日本までやってきた。気象条件が似ているところというのは、日本列島に近いところからいいますと、中国の中部から南のほうですね。揚《よう》子《す》江《こう》あたりから南の一帯。そしてその南側にインドシナとかラオス、カンボジア、タイなどの東南アジアがあって、そこが米の原産地だそうです。この地域がわりと植物の繁茂する条件としては似ているわけです。季節風がダァーッと吹いてきては雨をもたらす。暑い時期に、そういう季節風によって雨がもたらされるために植物が生えるという意味では、日本列島は中国の南側、それから東南アジア一帯と、だいたい共通な条件ですね。
中国の北側、北中国。いまの北京などがあるところは、条件がぜんぜん違います。中国文化は日本人が昔から非常に憧《あこが》れて、いまから千何百年も前から日本列島のわれわれの遠い祖先は、中国文化の模倣から日本文化をつくってきた。それは大きな部分でそうなんですが、それにもかかわらず生活の基本条件である植物などから考えますと、北中国の文化とどうもソリが合わないところがあるんですね。それを端的に示しているのは、たとえば絵ですが、北中国の絵は昔から線がはっきりときつい線で描かれていて、ものの形を非常に明確に描くんですね。ところが日本人は、感受性でいくと、そういうきちんとした図を描くことに昔から慣れていなくて、中国のそういうものは受け容れたにもかかわらず、いつのまにか自分で消化してボヤけたものにしていく傾向があるんですね。絵の世界では、初めにきちんとした線で描くような、非常に形のはっきりした、くっきりしたものが入ってきて、それがいつのまにか線がボヤけて、絵の上にモヤがすーっとかかってきたりするような形で、なんとなく湿り気のあるものにしていくという傾向があります。
これは日本の美術の歴史を眺めていくと、はっきりとそういうことがわかります。ご存じの雪《せつ》舟《しゆう》という絵描きさんがいましたね。雪舟は子供のころお寺に小僧にやられて、お坊さんに叱《しか》られて柱にしばりつけられたときに、ポトポト落ちた自分の涙をなんとなくいたずらしているうちに、足の指で涙を使って絵を描いたので、和尚さんはびっくりして、「お前は絵がおそろしくうまいから、坊さんにならずに絵描きになったほうがいい」ということで絵描きにした。これはでたらめの伝説ですが、そういう話がある雪舟は中国に行って、やはり中国の北のほうの絵を勉強してきたんですね。非常に線がはっきりした、かっちりしたもので、風景画でも人物画でも、強い線で描く。そういうものを勉強してきたんですが、日本に帰ってきてしばらくそういう絵を描いていましたが、彼が晩年になって描いた絵を見ますと、線が柔らかくなって、湿り気が絵に出ていますね。
それから、日本の中世の絵などを見ても、絵巻物とか屏《びよう》風《ぶ》の絵などはよく松などが描いてある。海辺に松がずーっと生えていて、その周りにきらびやかな車とか、きらびやかな服装の男や女がたわむれているような絵が、日本の絵ではたくさんあります。そういう絵を見ると、松の上に必ず雲がかかっているんですね。松の木の一部分が消えるような形で雲がスーッとたなびいていて、その雲によって画面がサッと切れていて、下のほうの海辺の情景と雲の上のほうの情景とはぜんぜん場所が違うものを、画面の上に両方つきあわせて置くというような描き方をして、雲を置くことによって、それぞれ別々の空間にあるものを一つのところに寄せるという工夫をしています。
それはそういう工夫だけではなくて、どうして雲を置くのか。雲がどうしても入ってきてしまうんですね。それはなぜかというと、雲は水蒸気でできていますよね。やはり画面の上にそういう湿り気のあるものを置くということが、日本人の非常に大きな本能的な欲望だと思います。いろいろなケースについてそういうことがいえるんですね。それは日本の気象条件、日本列島が置かれている自然の条件からきているものが非常に強いと思います。
日本人はやはり、中国の北方の、厳しい論理的なピシッとした線なら線で描かれたものを学んでも、それを南方的な湿り気の多い、水気の多いもので中和して自分のものにしていくというケースが非常に多くある。そういう意味で、日本列島に住んでいるわれわれは、頭は中国の北のほうから受けたものであっても、体のほう、感受性の面では、いつまでたっても南方的なものと縁が切れないでいた。両方同時に共存しながら、うまく溶け合うように、各時代、時代で工夫してやってきたんですね。
それで先ほどの稲の話に戻りますが、稲は東南アジアが原産だとして、だんだん日本列島まで上がってきて、稲は日本で実に見事な改良された形になった。つまり一つの茎から何十粒とれるかというのは、農作物にかかわっている人々にとっては重大な関心だったわけです。昔の稲の非常に粗っぽい原形のようなものだったら、いまのわれわれが食べている稲田の稲の、ひと房にいっぱい種がついているようなものではなくて、もっとバラバラとしかついていない粗末なものだったんですね。それを日本列島の住民達が、長い世代かけて改良してきて、いまのように実に優秀な稲をつくったわけですね。
なぜそういうことになったかというと、やはりそれなりに必然性があるんです。たとえば南方の人達、タイとかベトナムの人々は稲の種をとっておいて、翌年かってにポンポンと放り出しておくと、自然の気象条件、向こうの暑くて雨の多い気象条件が植物の繁茂には合っているので、ワッと生えるわけです。だから放り出しておいても稲はできるわけです。だから農業は、いわばごく自然に行われた。ところが日本列島は、残念ながらそういうように放っておいては稲は育たないわけです。つまり、稲は南のほうからきたけれども、やはり日本列島はインドシナなどから比べるとかなり北ですから、それなりに北方的な気象条件もそこに混ざってきておりますね。日本の場合には南のほうは非常に南方的ですが、北のほう、たとえば東北の北、青森あたりにいけば、実に気象条件が厳しくなりますね。つまり日本は南のほうは非常に南方的だけれども、北のほうはたいへんに厳しい北方的な条件というように、一つの列島のなかで非常に複雑な条件があるわけですね。
そのためにどういうことをしなければならなかったか。種を蒔《ま》いて、稲が生えてきて、それを放っておいてはだめになるケースがあるので、稲の改良をやらなければならなかったんですね。必然的にそういうことを迫られて改良してきた結果、いい稲ができるようになったのです。
そういう意味でいうと、日本人は自然に恵まれていると同時に恵まれていない部分もあって、その部分では一生懸命工夫して、努力して何かつくるということをやってきたのです。そのために稲一つをとってみても、たいへんな工夫の結晶という形で、現代のわれわれが食べている米ができているということになります。
もう一つは、いまお話ししたことと関係がありますが、日本の北のほう、東北などの場合いまだにそうですが、冷害がありますね。冷害があると稲などつくっていても、たちまちにして飢《き》饉《きん》がおきてしまうというように非常に厳しい。そういうところでは人々は、どういう心配をしなければならなかったかというと、いつ種を蒔いたらいいかとか、いつ収穫をしたらいいかなどが、一日一刻を争うことだったわけです。現在はそういうことがわりとなくなっておりますが、かつてはそれが非常に厳しい条件であったのです。
その種を蒔《ま》く時期はどうやって知るかというと、たとえば風を見ていて、このところこういう風が吹いているから、気象条件はわりと安定しているから明日種蒔きをしようとか、苗代に苗を植えようとか、そういうことを考えたわけですね。それだけでなく、たとえば桜の花が今年はわりと早く咲いて、あっというまに散ってしまった。そういうときにはどういうように考えたらいいかということに対して、非常に敏感になるわけです。
つまり稲作は主食ですから一番重要ですが、稲をじっと観察するだけでは足りなくて、その前に前兆として春にいろいろな花が咲いたり散ったりするのを見て、一年間の気象の予測がつくわけです。それで日本の人々はかつて、植物の生態に非常に敏感になったわけですね。桜の花などが咲くと、われわれはワァーッと行って、その下でお酒を飲んだりドンチャン騒ぎをするという形で、桜の花はだいたい観賞用になってしまったわけです。ところがむかしの人はそうではなくて、桜の花が咲く時期とか、散り方などをじっと見ていて、「これは」と考えたのは稲のこと、主食のことですね。それが失敗したら、一年間食いはぐれてしまうかもしれない。そのぐらい重要だったのです。だから桜の花でも単に観賞していただけじゃなくて、桜の花を見ることによって自分達の生活全体のリズムを決めていたんですね。
愛知県あたりでは桜の花の時期になると、花祭をやります。「安楽花(やすらい花)」などという言葉があって、桜の花が早く散らないようにとお祈りするわけです。花が咲いたと思ったらすぐに散ってしまったというときは、今年は危ないぞということがあるわけです。だから、花が一日でも多くついていてくれることを望んだのですね。それが気象条件全体を予知することにつながっていたのです。花祭などもそういう意味では、農業の命を養う基本と関係があったのです。
われわれはいま花を見る場合に、ただ美しいとか散って汚いなどとしか思わないのは、そういうたいへんな条件から切り離されてしまっているのでそういうようにしか見えないんですが、むかしの人はそれだけではなかったのです。花の命を非常に感じたわけです。一本の木、一本の花の命が、実に重要な形で自分達とつながっていることを自覚していたのです。
文学と自然の関係
文学作品は、どうしても自然と密接に関係してくるのです。木でも花でも、日本の文学に表れてくるものを見ていると、そうでないケースももちろんいっぱいありますが――基本的にいうと、花なら花一本の命ということを感じているわけです。その花の命が、それによって生きているわれわれ自身の命と深く関係があります。
文学とは、人間の命を書くことです。命の悲しみとか喜びなどを書くのが文学であって、これは基本ですね。そういう基本にもっとも触れてくるものとして、花とか草とか木などを見ていたということがあるわけです。植物のことをお話ししたのはそういうわけなんです。
それでは、そういう日本列島の置かれている条件が、植物そのものの世界から離れて人間関係の上ではどう影響しているか、考えたことを次にお話しします。
日本はご存じのように島国です。島国の特徴はいろいろありますが、とくに日本列島の場合には、細長くて幅が狭いですね。たとえば飛行機に乗ってちょっと高いところに行くと、もう太平洋と日本海が見えてしまうみたいな感じになっています。つまりたいへん細長い上に、平《へい》坦《たん》ではなく、列島の中央部は全部山で占められている。いい換えると人間の住む場所が非常に限られていたということがあります。海岸地方と山間の盆地などに、人々は寄り添って住んだ。それ以外のところは山地ですから、木がうっそうと生えている。その山は神聖なものである。日本では古代から植物に対する信仰の念が強く、いまお話ししたことと関係がありますが、植物の命は人間の命を左右するものだという考え方があるので、そういうところから植物に対する信仰が非常にあったわけです。
たとえば、日本の古い歴史を伝えている明日香あたりへ行くと、三《み》輪《わ》山《やま》という、明日香の中心の神さまがいる山がありますが、いまだに人々はそこに入ってはいけないことになっていて、入ると蛇などがいっぱい出てきて怖いわけですね。人跡未踏の原始林のようなものが、ポッと大和平野のなかにあるんです。そういう山がいくつもいくつもあります。そういうところのご神体は何かというと、実は何もないことが多い。木とか石などがポコッとあるだけで、つまり自然信仰なのです。山というのはそういう意味で人々の恐れの対象でもあり、逆にいうと憧《あこが》れる対象でもあったわけです。人々は平地に住むけれど、その平地は広くない。関東平野はけっこう広いといえば広いけれども、それでもやはり関東平野程度の平野では、世界中のいろんな平地と比べたら、まるで箱庭のなかの平野ですね。そういうところに人々が密集して住んでいる、という形になっているのです。
しかし島国であるという条件は、もう一方では日本文化にとって、ある意味で有利だったわけです。なんといっても海によって隔てられていますから、外国からの侵略がほとんどなかったわけです。戦争をやって、国際的な戦争で負けたケースは、ついこのあいだの第二次大戦が本当に久しぶりの経験ですね。それ以前、西暦紀元でいうと、四、五、六、七世紀ごろには、朝鮮半島、あるいは中国大陸と交渉があり、あちらから人々がやってきて日本に住みつき、あるいは騎馬民族説などがあるように、北方の騎馬民族が日本にやってきて王朝をつくったというような考え方。これはだいたいそのとおりだろうと、素人考えでもそう思いますが、そういう時代には、もちろん大陸からこの列島に始終人々がやってきて交流があったわけですね。知識人などは、だいたいそういうところからやってきて日本に住んで、日本の中央の文化をつくっていった。そういうことがあります。
それ以外の時期には、日本列島に住んでいる連中はほとんど外国と戦いもせず、だから混血も起こらないという形で、いわば民族的な単一性はわりと長いあいだ保っていました。日本文化のタテのつながりはわりとあるわけです。中国などはそこが違っていて、北方の民族が中国の中央で政権を握れば北方的なものがワーッと広がるけれども、それが倒れると今度は南方系の王朝ができて、南方民族の文化がワーッと出る。唐とか宋《そう》とか元《げん》とか明《みん》などの国の、歴代の王朝を眺めていくと、そういう意味で実に多くの民族的な混合があるわけですね。そのために北方系の非常に荒々しくて、しかも論理的な文化が栄えているときとか、あるいは南方系の非常にゆったりとして湿り気の多い文化が栄えているときなどがあるわけです。
日本の場合にはそれがなかった。そういう意味で、日本文化はある民族的な意味での純粋性を保っているわけです。これがはたしてすべて良かったかどうかは、ひとつ問題がありますが、少なくとも日本人にとっては、そういう文化的なつながりが非常にあったことは確かなことです。
そういう意味では島国的な条件は、文化的な純粋性を保たせる役割をはたしている。逆にいうと、それがいわゆる島国根性みたいなことで、外に対して恐ろしい、外の世界が怖くてしようがない。恐ろしいことの裏返しで、外でちょっと強いものが現れたり、理解し難いものが現れたりすると、すぐにそれに憧れてパッと飛びつく。そしてしばらくするとあきて、また島国へかえってしまうというようなことをくり返してやってきた。なんといってもこれは自然的な条件に影響されているわけですね。
そこに住んでいる人間ですが、何しろ日本列島が、いまお話ししたように山が多くて、森林が多くて、そこには人が住めない。だいたい国土の三分の二ぐらいが森林地帯といってもいいでしょう。その森林地帯のあいだをぬって、人々がわりと平らなところに住んでいるという形です。どういうことになるかというと、平野の場合には人々が往き来しますが、険しい山間の盆地などに人々が住んでいる場合には、そこで暮らしている人々は、山の向こうの世界のことはほとんどわからないわけですね。それはいい換えると、その盆地のなかでは人々の生活が全部筒抜けにわかってしまうことでもあります。たいていが親《しん》戚《せき》同士だし、あそこの家はだれのところから出て、それはどこの土地の息子でなどとたぐっていくと、みんな同じ親戚につながるというケースがありますね。
そういう生活をしていると、そういうところでの人々の生き方のなかで話などする場合に、どんなことに興味があるかというと、自分達のあいだでのことはみんな知りつくしているから、お互いにつまらないわけですね。そこへよそから人が、たとえば行商する人がやってきたりすると、そういう人の話は珍しいから夢中になって聞くわけです。それを「世間話」といったわけです。いまでは世間話という言葉はわりと普通に使われていて、「ちょっとあいつと会って世間話をしてきた」といういい方で使っていますが、むかしの世間話とはもう少し厳密な意味でいうと違っていました。
みんなと互いに知り合っていて、強い血族的なつながりのあるような、血縁的なつながりもあるような社会のことを共同体といいますが、その共同体以外のところからきた人が話をしてくれるのが、世間話なんですね。世間とは、つまりそういう共同体の外側の世界のことをいったんです。だから世間話とは、そういう人々がとても憧れを持って、あの人早くこないかといって、いつも決まった季節などにやってくる人を待ちこがれて、その人が一年間たってやってくると、その一年で外の世界で起きた新しいできごとなどを、みんなで一生懸命聞いたんですね。それが世間話。
それに対して、みなお互いに知り合っているあいだだけでしゃべる話は、「うわさ話」といったんですね。うわさ話とは、つまり隣のだれだれがこんなおかしいことをやったということを、何年ものあいだ語り伝えたりして面白がったりする。そういうことをやりますが、それがうわさ話の原型としてあるわけです。
だからむかしの人々は、そういう意味で、話の種に非常に飢えていました。そこでどういうことが起きるかというと、人々のなかで話のうまい人がどうしても人気が出てくるわけです。うわさ話はいろんな人がするわけですが、なかでも非常に話のうまいやつがいる。そいつの話は、種はみんな知っている話だが、話術がうまいのでつい引き込まれてまた聞いてしまう。そうすると、そこでその人は話術の専門家になっていくわけです。そういう人がずっと話をつくっていったわけです。日本のむかしばなしなどは、そういう形で残ってきたわけです。
あなた方はどう育ってきたか存じませんが、私などは昭和六年生まれですので、そういう人間はだいたい幼年期、少年期ごろには、じいさん、ばあさんとみんな一緒に住んでいるケースが多かったのです。いまはわりとそうでなくなりましたが、じいさん、ばあさんの話などは、退屈するような話をいくらでもくり返してやりますね。だけどもなんとなく面白い話は頭に残っています。それはなぜ残っているかというと、話の種は知っているが、その話の筋書きが面白いとか、おじいちゃんが話してくれたときの話ぶりが面白かったということで、頭のなかに残っているわけです。
そういうことのとてもうまい人が、職業的に話をする「咄《はなし》家《か》」になってくるわけです。落語などはそういうところから発生してきたと思います。落語の場合などは、最後にオチがトンとあるわけで、それでうまく話全体がまとまりますね。話のまとめ方のうまいというのは珍重されたわけです。「あの人の話を聞くと、本当に後で気持ちがいいよ」とか、「おかしくて、いつまでもクスクス思い出し笑いしてしまうよ」などという話のできる人は、話術の専門家としてプロになっていった。そういう連中が、いまでいえば落語界などへくるわけです。中世あたりでは、殿さまなどに召し抱えられて、殿さまの側にいて面白い話をしたり、自分がひょうきんな道化になって、わざと笑われることによって人々のすさんだ気持ちをなごやかにするなどという役割。つまり「道化役」になっているわけです。そういう話の専門家がいました。
これは非常に古い時代からあります。『万葉集』という日本の一番古い時代の歌集、紀元でいうと七世紀、八世紀ごろの歌を集めてありますが、そういう歌を読んでいても、あきらかにこれは咄家だなというような人物のことが、歌のなかに出てきたりします。つまり話術の巧みな人が好まれた。なぜかというと、みんながいつでも肌をすり合わせるようにして狭い社会で顔をつき合わせているから、お互いにたいくつしている。そのなかで、話でみんなを笑わせて面白がらせてくれるやつは貴重な存在だったわけです。だからむかしから、そういう人がプロでずっと暮らせたわけです。日本で落語などがいまだに栄えていることはとても面白いことで、歴史が古いことだったと思います。
ヨーロッパなどでも、落語に類するようなことはずいぶんあります。フランス人とかイタリア人などラテン系の人間はたいへん好きですから、そういうものもありますが、日本のように高座に座って、扇子一本、手拭一つでなんでもかんでもやってしまうような話の芸は、なかなか珍しいですね。フランスなどの場合には、体が一緒にピョンピョン跳んでしまうわけです。跳んで芸をやりながら話をするというケースが多いんです。日本の場合には話をするだけで芸が成り立つんですね。それは本当に古い時代からの伝統の上に成り立っているものだと思います。これがやはり日本列島の島国的な条件からきた面白い現象だと思います。
こういうことが面白い特徴として指摘できるわけですが、その反面を見ると、やはりそれなりの日本人の特徴というか欠点があるわけです。それは人間関係でもなんでも、非常に身近な尺度でしか計らない。あなた方でもやくざ映画などが好きな人はたくさんいると思いますが、ああいうのを見ると、たいてい「理屈はそうだけれども、私は義理に生きる男だから、この場合にはこの人に義理をつくす」という形で、わざわざ無謀にも、死ななければならないところへ自分で行って死んでしまうとか。そういうのはやはり高倉健さんなどがやるとすごくいいわけですよね。日本人の心情のなかには、そういうものが非常にあるわけです。それはやはり島国的な条件と関係があると思いますね。
日本と対比的な土地のことを考えてみる、たとえば砂漠とか草原地帯を考えてみるとわかります。アメリカならアメリカの、西部の大草原とか砂漠でポッと生まれたやつが、隣は何キロも先ですから、隣のやつと会うこともめったにないわけですね。その隣のやつとばったり道で会ったりしたときに、どんな話をしたらいいか。これはずいぶん難しいわけですよ。日本の場合にはたいてい時候のあいさつをします。
「今日はいい天気ですね」とか「雨が続いて困りますね」とか、これは先ほどお話ししたように、農業、稲などでずっと生きてきて、稲作の条件である気象条件を気にするということと密接な関係があります。「天気がいいですね」とか「雨が降りますね」などということは、われわれはあまり意識しないでやっていることですね。友達同士ではいわないでしょうが、ちょっと年上の人などでめったに会わない人に会ったりすると、話がしにくくてしようがないので、「今日で雨は何日目でしょうかね」などという話から始めるでしょう。日本人はたいていそうですよ。それはやはり元をただせば稲のことなどと関係があって、雨が早く上がってくれないかというようなことを始終考えていた民族の、われわれは子孫なんですね。だから、そういうことで時候のあいさつをすると、なんとなく話が通じていくわけです。
ところがアメリカなどの場合、そんなことはあり得ないわけです。アメリカ人と友達になって天気の話をしたことは、考えてみると一度もないんです。初対面のときでも、たとえば「グッドモーニング」といいますが、いい朝ですねということはいい天気だということかもしれませんが、あれはそれだけではなくてもう少し広い意味があると思うんですね。日本の場合は「いい天気ですね」というように、あからさまに天気のことをいう。それとちょっと違うと思います。アメリカ人などは天気の話はしないで、いきなり人や仕事の話をしますね。日本人にとっては、それはある意味ではとても窮屈です。
よく日本の場合には、とくに学生時代の下宿などといったら、隣でだれが何をしているか、たいてい筒抜けにわかってしまうみたいな生活をわれわれはしておりますから、日本人は隣の人のことはわりと知っていますね。ところがアメリカ人は隣の人がどうか、距離があってわからないわけです。
たとえば砂漠の民、イスラエルとかアラブなどの人々も、やはり隣の人は自分とは考え方も感じ方もぜんぜん違うかもしれない、そういう人が隣にいるんだということを前提としてつきあいをする。日本人の場合には、隣のやつも俺《おれ》もだいたい同じことを考えているんじゃないかということを前提にしてつきあいをする。それで、あとでぜんぜん考えが違っていたりすると、あいつに裏切られたなどとすぐ怒るんです。アメリカ人などは、そういうときに裏切られたという感じ方ではなくて、「そうか、あいつはやはり違ったな、オレとは違うな」というように認識してしまうわけです。そのあたりが違います。日本人の場合は、そういう意味でお互い近いところで密集して住んでいる条件が、生き方の上でも、ものの考え方の上でも、違いをもたらしていると思います。
たとえば日本の文学についていいますと、『源氏物語』などは平安朝の宮廷社会の男女のあいだの恋愛を中心にして、こまやかに季節の移り変わりなども含めて書いてありますが、そういうところに出てくる人々の会話は特徴がある。つまり「私はこう思います。あなたはそうですか」というような、「私は」とか「あなた」という主語を、はぶいて書いてあるケースが非常に多い。「こう思います、そう思います」と書いてあるんだけれども、だれがこう思って、だれがそう思っているのかわからない。しかし、話はどんどん通じていってしまうんですね。それはなぜそうなるかというと、基本的にいうと、私もあなたも共同の感情を持ち、共同の思想を持っているから、こう思います、そうですか、というだけですんでしまう。
ところが、遠いところでお互いに始終顔も合わせていないで、たまに会うと、その人がどういう思想の持主か、どういう感情の持主かわからない場合には、いちいち「私はこう思います。あなたはどうですか」というわけで、論理的ですね。
英語などを習って日本人が一番最初に困るのは、アイとかユーとかヒイとかシイとかゼイなどいっぱいいわねばならないことですね。外国人の場合は、日本語を習うと敬語が多いので閉口しますが、そういうように、いろいろ面白い違いがあります。
日本人の場合に、英語が習いたてで下手くそな時期には、みんなやるんですが、英語の問題が出て訳せといわれた場合に、いちいち「彼はそういった、彼はこうした、彼は笑った」などと、全部ヒーとかシーなどを訳してしまいます。しかし日本語としては、それはときにおかしい。日本語の場合にはところどころ削ったものですね。「彼は何なにした」といったら、次には「こういった」というように「彼」をはぶいていったほうが、日本語としてはなめらかに通じますね。そういう違いが言葉の上にも出てきます。つまり「彼は」とか「私は」というものを、日本人ははぶいてもわりと話が通じる。それは彼と私のあいだにあまり違いがないことが前提で、そういうことができたんですね。
最近はなかなかそうもいかなくなっていると思いますが、概していえばそういうことで日本人はずっと続けてやってきたのです。やはり狭いところでお互いに相手の生活も知っているし、自分の生活も知られているから、自分が何を感じているか、何を考えているかということは、相手がだいたい想像してくれることを前提にしていうので、わりと省略したいい方でも通じてきたわけですね。だから日本語は不正確だとか、あいまいだとか、よくいわれたわけです。私は必ずしもそう思わないんですが、日本人はちゃんとわかっているわけですから、論理的に説明しろといわれれば説明できるわけですから、決してあいまいでもなんでもない。日本語の性格として主語をはぶくことがある、習慣としてあるのであって、イデー的にいえばちゃんと論理は通じるんです。しかし普通ははぶいてしゃべる。はぶいているということに日本語の大きな特徴があるわけです。
そういう意味で、意思の伝達の仕方が、外国、とくにアメリカとかヨーロッパとか、アラブなどの人々とずいぶん違います。そこからいろんな結果が生じてくる。宗教なら宗教ということを考えてみても、砂漠で生まれた宗教、たとえばキリスト教は砂漠で生まれた宗教ですが、神さまは非常に厳しいですね。キリスト教の神は愛の神であるけれども、同時に怒りの神でもあります。人間に対しては立法的な、つまり法というものをちゃんと神さまが与えている。たとえば「汝《なんじ》、姦《かん》淫《いん》するなかれ」などというのがあるわけです。日本では「汝、姦淫するなかれ」という宗教は一つもないわけですよね。これは面白いところで、日本の場合はお互いが肌をすり合わせているから、「するなかれ」という厳しいことがあまりないのです。日本の宗教はどちらかというと「するなかれ」ではなくて、「これもしましょう、あれもしましょう」というように、取り合わせということをやってきました。日本人は取り合わせの民族なんですね。取り合わせが非常にうまい。そこに日本人の大きな特徴があって、短所もあるけれど長所があると私は思います。
日本の自然は精神生活と密着
宗教の面でいえば、日本には八《や》百《お》万《よろず》の神という言葉があります。八百万も神さまがいるわけです。キリスト教の神さまは一人。神さまは人格であると同時に非人格だから一人とはいえませんが、神はワンですね。日本の場合にはメニーどころか無数でエイトミリオンあるわけです。実際にはそんなにあるわけはないんですが、とにかく神さまはどこにでもいるわけです。井戸にもいるし便所にもいる。かまどの神さまなど非常に重要だし、神さまはどこにでもいて、人間をやさしく見守ってくれているわけです。守っていてくれるわけです。
砂漠から生まれてヨーロッパを制覇したキリスト教の神さまは、そうではない。人間に対して厳しい条件を課している。たとえば聖書という言葉自体が、新約聖書はニューテスタメントといいます。テスタメントとは契約という意味なんですね。新約の約は契約の約なんです。だれかと契約するということで、つまり神さまと人間が契約を交わして、これだけは絶対に守ります。守らない場合には罰してくださいということなんです。だから罪を犯した場合には、神父さんに向かって告解、懺《ざん》悔《げ》をするわけです。つまり懺悔をするという形で、神さまとの契約に違反したことをわびるわけです。日本人の場合は宗教にそのような制約がないわけで、日本の信仰はそういう意味では、世界でも不思議なくらいに和解することに重点がある、自然宗教ですね。キリスト教の場合のように、人格を持った神さまではなくて、自然に神さまがいるわけです。そのへんが非常に違う。
これがやはり、日本列島の気象条件につながりがあると思います。つまり、雨が降るといろんなところにワァーッと生物が生えますね。動物も植物も繁殖する。そういうものを見ながら、自然の力の偉大さを日本人は昔から感じていたと思うんです。「自然というのはすごいな。生命力があるな」ということで、自然に対する信仰がそこから生まれてくる。そしてポンポン生まれて、いろんなものに、すべて神さまというものを考えたんですね。それが日本の原始宗教のあり方だと思います。
そういうことを考えていくと、日本の自然は非常に日本人の精神生活と密着したものがあることがおわかりだと思います。日本の場合には、それに加えて江戸時代に鎖国をしました。島国的な条件でさえ、すでに純粋培養的に民族的なものがずっと保たれてきたのに、そこへ加えて二百五十年近い鎖国をしたわけです。ヨーロッパ、中国、あるいはアメリカなどからの情報というものは、わずかに九州の長崎や、それ以外にちょっといくつかある窓口を通して入ってきたばかりですね。堺とか大阪あたり、関西の港町もそうでしたが、鎖国してからは長崎だけになってしまったわけです。そういう意味では非常に特殊な条件が、日本の近代直前の時代にあります。鎖国をしたということが、日本人同士がお互いにピタッと密着して、始終顔を突き合わせて暮らすという条件をつくってしまったもう一つの大きな原因です。
江戸時代以後の日本人は、それ以前の室町あたりの日本人とはずいぶん違って、こぢんまりとまとまったところで、生活を洗練させていったわけです。それ以前の時代、室町時代にしても鎌倉時代にしても、外国との交渉がありました。とくに港町を通じて交渉がありますから、堺の町などはそういう意味では非常に開けていて、そういうところの豪商で海外貿易をやっていた連中は、巨万の富をつくったわけです。こういう連中は、いまのわれわれには想像できないぐらい豪放無類で、胆力の座った連中がいたわけです。
武士だけではなくて商人のなかにも、すごい大物がいました。たとえば茶人の千《せんの》利《り》休《きゆう》、いまも千家はずっと続いていますが、千利休は最後に豊臣秀吉と意見が違って切腹を命じられて、みごとな切腹をして死にました。この千利休などはお茶をやった人だから――茶道などいまは多く女の人がやっていますが、その当時はお茶は、侍がお互いに招き合ってお茶をたて、静かに飲んで、お互いのハラをもさぐって、当分のあいだ戦争をしないようにしようなどということを暗黙のうちに誓った。そういう意味では茶道は、厳しいものだったんですね。そういうものの師匠になるには、やはり胆力が座っていなければならない。この千利休はまさに堺の生まれなんですね。堺の町はそういう意味ですごい人が出てきた。そういう町なんです。
そういう人々が出た時代の後に鎖国があって、日本人はわりとおとなしくなりました。明治になって開国をして、また荒々しくなって、戦争を始終するようになってしまったわけです。そういうことがありまして、江戸時代以後の日本人は島国的な条件に加えて、またまたそういう閉ざされた世界で、お互いに毎日顔を合わせながらやっていった。
だから、そこで出てくる美意識のなかでの大きな特徴は、「小粋な」とか、「小《こ》膝《ひざ》をたたく」とか、「なんて小しゃくな」とか、「小」がつく言葉が多くなりました。「小」がつく言葉は江戸時代から始まったといっていいでしょう。それ以前はあるにしてもあまりない。手をかざすといわずに、小手をかざしてなどといいますね。それからさっぱりしているといわずに、小ざっぱりしたという。「小ざっぱりした」というと、何かすごくさっぱりした感じがあります。
落語などを楽しむのも、まったくそうですね。たとえば日本人は銭湯などが好きですよね。いまはみんな銭湯には行かなくなってしまいました。先日、新聞を見ていましたら、東京都ではあまり銭湯に行く人が少なくなってしまい、お風《ふ》呂《ろ》屋さんがどんどんやめてしまった。それで銀座あたりではたいていお風呂屋さんがつぶれてしまって、みんな不便になったので、東京都営の「銀座湯」とかいう銭湯が昨日できて、都知事がテープを切った写真が出ていました。やはり銭湯好きなんですね。本質的にいうと、銭湯などに入って、アーなどと歌っているのがとてもいいわけです。そして風呂から上がって扇風機に当たる。あれは扇風機でないとだめで、もうちょっと進んでクーラーになってしまうと、銭湯の気分がなくなるわけです。むかしは銭湯に行って、うちわであおいだわけですよね。浴衣などを着て、銭湯で腰掛けなどにかけて近所の人と会い、そこでいわゆる世間話をして楽しんだわけです。そういう意味では銭湯は、床屋などと並んで社交場だったわけです。
なぜそういうことが好きだったかというと、お風呂へ入るのも日本人は好きです。なぜお風呂が好きかというと、いうまでもなく日本は湿気が非常に多いですから、お風呂へ入らなければいられないから入ったんです。ヨーロッパ人などは、本当に一週間、二週間入らないのは当たり前であるようです。私の友達も、何人も風呂などぜんぜん入らないようなやつがいましたが、それでも平気なんですよ。つまり汗が出ないし、垢《あか》がたまらない。日本人の場合は風呂に入らなければいられない条件があったから、風呂好きになったんです。それも風呂というのは、ただ入ってザッと出てきて帰るだけではなくて、やはりその後で風を入れながらしゃべったりする。「あー、小ざっぱりした気分ですね」などといっているのが一番良かったんです。つまり風呂に入るということだけではなく、そういう生理的な必要にプラスして、出てきた後で一ぱい傾けたりするのがいいわけです。その感じが「小ざっぱり」で、そこへちょっと小粋なおねえさんなどが通ったらもう……。こういうことになるわけです。
そういう意味で「小」というのは、非常に江戸情緒なわけですね。「小ぎれいな」とか「小またの切れ上がった」といいますが、どこが切れ上がっているのかわからないけれど、いい女のことを「小またの切れ上がった」といいます。ちょっとおきゃんな、行きずりふうな感じがあるわけですが、そういうように「小」とつく、小さいとつくところに、日本人の美意識の非常に大きな特徴がある。ところが江戸時代以前には、こんなものはあまりないんですよ。江戸時代になって、みんなが狭いところに密着して住むようになったものですから、お互いに他人に迷惑をかけないようにしようということで抑制したわけですね。つまり抑える。抑えるということは「小」ということになるわけで、「ああ、さっぱりした」というのではなくて、「小ざっぱりした」というわけですね。「ああ」とやると隣のやつをつついちゃうから、ちょっと着物を開《はだ》けて「小ざっぱりしますね」という感じになるわけです。それは狭いところでお互いに、あまり人を傷つけずに生きていこうというところから出てきた知恵なんですね。
それは江戸の町の条件を考えると非常に面白い。つまり江戸時代には、人口の比率は、いわゆる町民、庶民と武士が住んでいました。それから非常に大きな意味を持っていたのは、お寺とか神社の関係者です。つまり江戸の町には、大きくいって町人と武家と寺社地の関係者が住んでいた。いまから百五十年ぐらい前、一八二〇年ごろの統計だと、そのころの江戸の町、いまの東京の二十三区だけの人口ですが、それが百万は超えていたんですね。これは驚くべき人口密度で、その当時のヨーロッパ第一の都会はロンドンで、ロンドンはものすごい大都会ですが、ロンドンに住んでいた人口はだいたい七十万人。パリなどは世界中の憧《あこが》れの的だったけれども、五十万ぐらいしか住んでいなかった。その当時江戸の町には百万住んでいたんです。
その百万のうちの半分強、つまり五十万以上が町人、あと五万ぐらいがお寺や神社の関係者。あとの四十五万人ぐらいが日本全国から集まってきた、あるいは江戸住まいの旗《はた》本《もと》などを含めて、武士のいろいろ、大名の家中などでした。全体で、だいたい百万ちょっとになったわけです。
ところが、その人々がどういう土地の面積の比率で住んでいたか。これは実に驚くべきことで、武家はだいたい六割ぐらいの面積を占めています。江戸の全体の面積の六割ぐらいが武家の家だったわけです。それから寺社地が二割ぐらい。たとえば、現在の駿《する》河《が》台《だい》。あのへん一帯、御茶の水のあたりは、もともと武家地と寺社地とが入り混じっていて、あのへんは町人はあまり住めなかったんです。だから神《かん》田《だ》の町人は、そういう意味で町人のなかの、いわば特権階級的な位置にいたんです。だから「神田の生まれよ」ということを非常に誇りにしていたわけです。それ以外の町人はどういうところにいたのか。つまり残りの二割ぐらいの土地にしか町人は住めなかったわけです。しかし、その町人は人口でいうと五十万もいたわけで、五十万の人が二十三区のなかの二割ぐらいの土地に住んでいるということは、どういうことを意味しているかというと、必然的に人口密度はものすごく高かったわけです。とくに江東区などの深川あたりは、日本全国から舟でやってきて、材木がきたり、野菜や魚がきたりして、その当時は東京湾は非常に重要な港だった。いまはぜんぜんどろどろになってしまいましたが、その当時は港で、魚もいい魚がとれた。だから江戸前の寿司というのは有名だったんですね。
そういう意味で、その当時の江戸はいい港町だったんです。その港の周辺に町人はみんな住んでいて、その人々の商売は、武家を相手に商売していたんですね。舟で入ってきた魚を魚河岸などで仕分けて、一《いつ》心《しん》太《た》助《すけ》みたいな連中が担いで、お殿さまのところへ入れたりしていたわけです。だから、そういう人々はだいたい港の周辺に住んでいた。狭いところに住んでいたわけで、一平方キロにだいたい五万六千人ぐらい住んでいたわけです。いま東京の人口密度はどのぐらいか正確には知りませんが、一平方キロあたり一万四、五千でしょう。これでも世界の大都市では圧倒的に人口密度が濃くて、「たまらねえや」という感じなんですが。
しかし江戸時代に、五万以上も一平方キロの中に詰め込まれるというのはどういうことかというと、やはり裏長屋。隣はすぐそこですよね。隣の人が夫婦げんかをやると、それがバーンと聞こえる。そういう生活をしていた。火事になれば一夜にして全部パー。だから火事は江戸の華といったのは、結局江戸っ子が火事を誇りにしたのでは毛頭なくて、またやったよということで、ちょっと火が出れば全部パーッといっちゃう。だから「江戸の名物ですよ」と、江戸人がいわば自《じ》嘲《ちよう》したわけです。「本当にひでえとこです」ということで、ヨーロッパの言葉でいえばスラム街という言葉があてはまるわけです。
そういう生活だったから、お互いが息苦しいですよね。お互いの生活もよくわかってしまう。自分のところで隠しておきたいことがあってもわかってしまう。これはたいへんつらい。だから、それをチラッと見せて、肝心なところは隠しておくというところが、さっきいった「小」につながってくるわけです。「小ぎれい」とか「小ざっぱり」などのように、抑制していくことに関係してくるわけです。生活の知恵として、そういう美意識が出てきたといっていいわけです。
そういうと、「何だか日本人はみみっちいな」と思う人がいるかもしれませんが、私は、そういうところで少なくとも江戸時代に、三百年ぐらいかかってそういうものが育てられてきて、現在では日本人全体がそういうことをわかってしまう。落語などでオチがポンときて、それがわかってみんな笑うということは、やはり江戸だけではなくて日本中どこでもわかりますね。そのくらい江戸的な情緒が日本中に広まっている。これはやはり非常に重要なことだと思います。江戸でできた、そういう感受性の型は、やはり非常に面白い。日本人の一つの個性をつくっていると思います。
ただ、いまではそういう個性が保ち難《にく》くなっている条件が、戦後の日本では非常に多くなってきています。そのために日本人の感受性のなかに大きな混乱が生じているのが現代だと思うんです。
いま、あなた方は工学部ですが、工学部のなかの建築などをおやりになっている人が、これから建築の方向へ進む場合にとても困ることの一つは、たとえば日本の家を頼まれて設計する。人々の要求は実に雑多です。つまり畳の部屋も欲しいし、洋間も欲しい、壁も真っ白なものと、京壁のようなちょっとベージュ色のような、なんとなく味わいのある壁も欲しいとか、とにかくゴチャゴチャに混ざって要求が出てくる。そういうことが建築をやる人にとってはとてもつらいことですね。
私の友人に磯《いそ》崎《ざき》新《あらた》という建築家がいます。彼はいまの四十代の建築家では一番有名な人だと思います。美術出版社から『建築の解体』という、難しい本を出したりしましたが、この磯崎君などが建てている建物は、とくに九州・大分のほうでいくつか建てたり、最近は前橋かどこかで大きな公共建築をよく建てています。彼が建てている建物は色彩が実に独特で、真っ赤な壁だったり、外から見てパーンとわかるような壁をつくったりしているので非常に有名です。その磯崎君と話をしていると、彼が非常に「悩むよ」と思っていることの一つはそういうことなんですね。日本人の感受性、戦後の高度成長などでも非常に大きく、かつての日本人の「小粋」「小ざっぱり」を愛した感受性が崩れてきていますね。そういうところへもってきて、頭のなかにはそういうものに対する郷愁がまだあるものですから、いろんなものがゴチャゴチャになっているので、とても建築などをやるのは難しいということです。これは非常に大きな試練の時代になってきたのだと思います。そういう意味では、これからそういう方向へ進まれる方などは、働きがいがあるといえばあるんですが、たいへんだといえばたいへんだと思います。
ただ、日本人の感受性は、いま崩れてきているといっても、今日お話ししたことは、みなさんが聞いていて「あ、そうか。オレもわりとわかるよ」という感じのことがあったと思います。私が話したことは、実際は千年とか千五百年ぐらい前からの、日本人の比較的基本的な感受性の一つのタイプについてお話ししたつもりなんです。そういう意味でいうと、あなた方は戦後もずいぶんたってからの生まれですね。だいたい二十歳前後の方々が多いと思いますが、日本の戦後十年ぐらいたってから生まれた人々だから、まさに高度成長時代に育っている。そういう意味では、日本のかつてのものが壊れてしまった時代に生まれて育ってきた人々なのにもかかわらず、たとえば私が話したような話が、もしどこかでピンとくるようなことがあったとすれば、それはやはり非常に大事なことなんですね。それは保っていったほうがいい。そういうもののある人のほうが、ない人よりは絶対強いですね。そういうものを元にして、新しいものをその上に積み重ねていくことが大事です。
私は文学の話をするつもりできたんですが、そういう話をあまりしなかったかもしれませんが、文学にも非常に関係があるし、工学にも関係があることですね。それはなぜかというと、工学的なものも文学的なものも、要するに人間にかかわっているわけで、人間がどうやって生きるかということにかかわっているわけでしょう。その人間がどうやって生きるかということは、われわれ一人でポコッと生まれてきたのではなくて、何世代も前からずっと、親の親の親からずーっとつながってきている。そういうところで生まれてきているわけですから、当然そういうつながりが一人ひとりの命のなかにあるわけで、それに非常に大きな力があるということです。それがつまり、人の話でそういうことが出てきた場合に、若い人でもわりとわかってしまうということにつながっていくわけです。
自分が非常に新しいと思っている人でも、意外にそういう古くからある感受性をちゃんと持っているものなんですね。それに目覚めるか目覚めないかが、非常に大事なことです。今日お話ししたようなことが、ある意味であなた方にとって、そういうことについての目覚めのひとつのきっかけにでもなったら、これはもっけの幸いで、私が話をしたかいもあるということだと思います。
(昭和五十年〈一九七五〉六月十一日、日本大学工学部(郡《こおり》山《やま》市)での講演より。『教養講座講演集 第一集』所収。本文庫収録に際し、加筆されています)
句歌総索引
●あ
ああ接吻海そのままに日はいかず
鳥翔ひながら死せ果てよいま
若 山 牧 水 恋
あひみての後のこころにくらぶれば
昔は物を思はざりけり
権中納言敦忠 恋
青うみにまかゞやく日や。とほイウどほし
妣が国べゆ 舟かへるらし
釈   迢 空 夏
青海苔や石の窪みの忘れ汐
高 井 几 董 春
青葉樹の寂しき秀より秀に飛びし
蝉はそのまま鳴かずこもりぬ
初井しづ枝 夏
あかあかと一本の道とほりたり
たまきはる我が命なりけり
斎 藤 茂 吉 恋
赤い椿白い椿と落ちにけり
河東碧梧桐 春
吾が恋はまさかも悲し草枕
多胡の入野のおくもかなしも
東歌(上野国の歌) 恋
暁と夜とのさかひの少安に
水をわたりて来る鳥のこゑ
松 村 英 一 冬
暁も埋めたまゝや朧月
白 井 鳥 酔 春
暁や鯨の吼ゆるしもの海
加 藤 暁 台 冬
赤とんぼまだ恋とげぬ朱さやか
佐野青陽人 秋
秋風に歩行て逃げる蛍かな
小 林 一 茶 秋
秋風にこゑをほにあげてくる舟は
あまのとわたる雁にぞありける
藤 原 菅 根 秋
秋風にしら波つかむみさご哉
高 桑 闌 更 秋
秋風にたなびく雲のたえまより
もれ出づる月の影のさやけさ
左京大夫顕輔 秋
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風のおとにぞおどろかれぬる
藤 原 敏 行 秋
秋さらば見つつ思へと妹が植ゑし
屋前のなでしこ咲きにけるかも
大 伴 家 持 秋
秋づけば尾花が上に置く露の
消ぬべくも我は思ほゆるかも
日置長枝娘子 秋
秋に堪へぬ言の葉のみぞ色に出づる
大和の歌も唐の歌も
藤 原 定 家 秋
秋の江に打ち込む杭の響かな
夏 目 漱 石 秋
秋の淡海かすみ誰にもたよりせず
森  澄 雄 秋
秋の暮大魚の骨を海が引く
西 東 三 鬼 秋
秋の航一大紺円盤の中
中村草田男 秋
秋の田のかりほの庵の哥かるた
手もとにありてしれぬ茸狩
四 方 赤 良 秋
秋の田の穂の上に霧らふ朝霞
何処辺の方にわが恋ひ止まむ
磐 姫 皇 后 恋
秋の月光さやけみもみぢ葉の
おつる影さへ見えわたるかな
紀  貫 之 秋
あきの野のくさばのつゆをたまと見て
とらむとすればかつきえにけり
良   寛 秋
秋の野を分け行く露にうつりつつ
わが衣手は花の香ぞする
凡河内躬恒 秋
秋はなほ夕まぐれこそただならね
荻の上風萩の下露
藤 原 義 孝 秋
秋彼岸すべて今日ふるさむき雨
直なる雨は芝生に沈む
佐藤佐太郎 秋
秋深き隣は何をする人ぞ
松 尾 芭 蕉 秋
秋山の黄葉を茂み迷ひぬる
妹を求めむ山道知らずも
柿本人麻呂 秋
あげまきがうかるる声のおもしろし
ふれふれ粉雪山つくるまで
加 納 諸 平 冬
朝顔の紺のかなたの月日かな
石 田 波 郷 秋
朝影にわが身はなりぬ玉かぎる
ほのかに見えて去にし子ゆゑに
柿本人麻呂歌集 恋
朝倉や 木の丸殿に 我が居れば 我が居れば
名宣りをしつつ 行くは誰
神 楽 歌 夏
朝月夜双六うちの旅寝して
杜   国 夏
足裏を舞によごしし足袋ひとつ
包みてわれのまぼろしも消す
馬場あき子 恋
足軽のかたまつて行く寒さかな
井 上 士 朗 冬
葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて
寒き夕べは大和し思ほゆ
志 貴 皇 子 冬
紫陽花に秋冷いたる信濃かな
杉 田 久 女 秋
紫陽花やよれば蚊のなく花のうら
加 藤 暁 台 夏
朝に紅顔あつて世路に誇れども
暮に白骨となつて郊原に朽ちぬ
義 孝 少 将 恋
遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生……
梁 塵 秘 抄 恋
あたたかな雨がふるなり枯葎
正 岡 子 規 春
頭の中で白い夏野となつてゐる
高 屋 窓 秋 夏
新しき年の始の初春の
今日降る雪のいや重け吉事
大 伴 家 持 冬
新らしき蒲団に聴くや春の雨
村 上 鬼 城 春
暑き日に娘ひとりの置所
武 玉 川 夏
あつしアウあつしと門アウ門の声
芭   蕉 夏
跡もなき庭の浅茅にむすぼほれ
露のそこなる松虫のこゑ
式子内親王 秋
あなたなる夜雨の葛のあなたかな
芝 不器男 秋
あなたは勝つものとおもつてゐましたかと
老いたる妻のさびしげにいふ
土 岐 善 麿 恋
あの夏の数かぎりなきそしてまた
たつた一つの表情をせよ
小 野 茂 樹 夏
雨音のかむさりにけり虫の宿
松本たかし 秋
天の河霧立ち渡り彦星の
楫の音聞ゆ夜の更けゆけば
よみ人しらず 秋
天の河とわたる船の梶の葉に
思ふことをも書きつくるかな
上 総 乳 母 秋
雨蛙芭蕉に乗りて戦ぎけり
榎 本 其 角 夏
あまの原ふりさけみれば春日なる
三笠の山にいでし月かも
安倍仲麻呂 秋
余り言葉のかけたさに あれ見さいなう
空行く雲の早さよ
閑 吟 集 恋
雨あがり数珠懸鳩の鳴出して
孤   屋 夏
雨のあしなびきて見ゆる雲間より
懸け渡したる虹のはしかな
木 下 幸 文 夏
あやめかる安積の沼に風ふけば
をちの旅人袖薫るなり
源   俊 頼 夏
鮎落ちて美しき世は終りけり
殿村菟絲子 秋
鮎くれてよらで過行夜半の門
与 謝 蕪 村 夏
荒磯の岩に砕けて散る月を
一つになして帰る浪かな
徳 川 光 圀 秋
有明や浅間の霧が膳をはふ
小 林 一 茶 秋
蟻地獄松風を聞くばかりなり
高 野 素 十 夏
蟻台上に餓えて月高し
横 光 利 一 秋
蟻の道雲の峰よりつゞきけん
小 林 一 茶 夏
或る闇は蟲の形をして哭けり
河原枇杷男 秋
あはれいかに草葉の露のこぼるらむ
秋風立ちぬ宮城野の原
西 行 法 師 秋
あはれさもその色となきゆふぐれの
尾花がすゑに秋ぞうかべる
京 極 為 兼 秋
泡のびて一動きしぬ薄氷
高 野 素 十 春
沫雪のほどろほどろに降り敷けば
平城の京し思ほゆるかも
大 伴 旅 人 冬
鮟鱇の骨まで凍ててぶち切らる
加 藤 楸 邨 冬
杏あまさうな人は睡むさうな
室 生 犀 星 夏
家毎に柿吊るし干す高木村
住み古りにけり夢のごとくに
久保田不二子 冬
家にてもたゆたふ命波の上に
浮きてし居れば奥処知らずも
よみ人しらず 恋
家康公逃げ廻りたる冬田打つ
富 安 風 生 冬
几巾まだつめたいか山の空
岩 間 乙 二 冬
生きながら針に貫かれし蝶のごと
悶へつつなほ飛ばむとぞする
原 阿佐緒 恋
行きなやむ牛のあゆみにたつ塵の
風さへあつき夏の小車
藤 原 定 家 夏
いくたびも雪の深さを尋ねけり
正 岡 子 規 冬
幾山河越えさり行かば寂しさの
はてなむ国ぞ今日も旅ゆく
若 山 牧 水 恋
行けど行けど逢はぬ妹ゆゑひさかたの
天の露霜にぬれにけるかも
柿本人麻呂歌集 恋
いざのぼれ嵯峨の鮎食ひに都鳥
安 原 貞 室 夏
いざや寝ん元日はまたあすのこと
与 謝 蕪 村 冬
石越ゆる水のまろみをながめつつ
こころかなしも秋の渓間に
若 山 牧 水 秋
石畳 こぼれてうつる実桜を
拾ふがごとし! 思ひ出づるは
土 岐 哀 果 夏
何処にか船泊てすらむ安礼の崎
漕ぎ廻みゆきし棚無し小舟
高市連黒人 恋
高市連黒人 秋
泉への道後れゆく安けさよ
石 田 波 郷 夏
いづれのおほんときにや日永かな
久保田万太郎 春
市売りの鮒に柳のちる日哉
常世田長翠 秋
一月の川一月の谷の中
飯 田 龍 太 冬
市中は物のにほひや夏の月
凡   兆 夏
一日物云はず蝶の影さす
尾 崎 放 哉 春
一鳥声有り 人心有り
声心雲水倶に了了
空   海 夏
一枚の落葉となりて昏睡す
野見山朱鳥 冬
一枚の餅のごとくに雪残る
川 端 茅 舎 春
一盞の寒燈は雲外の夜
数杯の温酎は雪の中の春
白 居 易 冬
一旦は赤になる気で芽吹きをり
後藤比奈夫 春
一本の蝋燃しつつ妻も吾も
暗き泉を聴くごとくゐる
宮   柊 二 冬
いで我を人なとがめそおほ舟の
ゆたのたゆたに物思ふころぞ
よみ人しらず 恋
糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ……
北 原 白 秋 春
命はも淋しかりけり現しくは
見がてぬ妻と夢にあらそふ
明 石 海 人 恋
命一つ身にとどまりて天地の
ひろくさびしき中にし息す
窪 田 空 穂 恋
いのち噴く季の木ぐさのささやきを
ききてねむり合ふ野の仏たち
生方たつゑ 春
今はたゞしひてわするゝいにしへを
思ひいでよとすめる月かげ
建礼門院右京大夫 秋
いみじくもかゞやく柚子や神の留守
阿波野青畝 冬
芋嵐猫が髯張り歩きをり
村 山 古 郷 秋
妹が垣根三味線草の花咲きぬ
与 謝 蕪 村 恋
妹が門行き過ぎかねつひさかたの
雨も降らぬか其を因にせむ
よみ人しらず 恋
芋の露連山影を正しうす
飯 田 蛇 笏 秋
芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ
子芋は白く凝りつつあらむ
長 塚   節 秋
岩がねの苔の雫も木隠れて
おとに心をすます宿かな
正   徹 夏
巌まろく老い春潮を乗せ遊ぶ
岸 風三楼 春
石麿にわれ物申す夏痩に
良しといふ物そ鰻取り食せ
大 伴 家 持 夏
魚食うて口腥し昼の雪
夏 目 成 美 冬
魚眠るふる雪のかげ背にかさね
金尾梅の門 冬
鵜飼舟高瀬さしこすほどなれや
むすぼほれゆくかがり火の影
寂 蓮 法 師 夏
萍に生れしと見る虫の飛ぶ
石 井 露 月 秋
浮雲の身にしありせば時鳥
しば鳴く頃はいづこに待たむ
良   寛 夏
鶯のこゑ前方に後円に
鷹 羽 狩 行 春
鶯の脛の寒さよ竹の中
尾 崎 紅 葉 春
鶯の啼くや小さき口あいて
与 謝 蕪 村 春
動くとも見えで畑うつ男かな
向 井 去 来 春
憂きことを海月に語る海鼠かな
黒 柳 召 波 冬
失ひしわれの乳房に似し丘あり
冬は枯れたる花が飾らむ
中城ふみ子 冬
牛放てば木の芽の風のやはらかに
袂に青き大那須が原
与 謝 野 寛 夏
牛一つ花野の中の沖の石
武 玉 川 秋
薄霧のまがきの花の朝じめり
秋は夕べとたれかいひけむ
藤 原 清 輔 秋
薄く濃き野べの緑の若草に
跡まで見ゆる雪のむら消え
宮 内 卿 春
うす墨の眉ずみほそくけぶらへば
老いづくわれの顔やさしかり
四 賀 光 子 恋
薄紅葉恋人ならば烏帽子で来
三 橋 鷹 女 恋
舂ける彼岸秋陽に狐ばな
赤々そまれりここはどこのみち
木 下 利 玄 秋
うづみ火にすこし春あるここちして
夜ぶかき冬をなぐさむるかな
藤 原 俊 成 冬
うちしめりあやめぞかをる郭公
啼くやさつきの雨のゆふぐれ
藤 原 良 経 夏
美しき緑走れり夏料理
星 野 立 子 夏
うつす手に光る蛍や指のまた
炭   太 祇 夏
うなゐ児がすさみにならす麦笛の
声におどろく夏の昼臥
西 行 法 師 夏
卯の花に蘆毛の馬の夜明哉
森 川 許 六 夏
卯の花をかざしに関の晴着かな
河 合 曾 良 夏
鵜の面に川波かかる火影かな
高 桑 闌 更 夏
乳母車夏の怒濤によこむきに
橋本多佳子 夏
馬追虫の髭のそよろに来る秋は
まなこを閉ぢて想ひ見るべし
長 塚   節 秋
馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで
人恋はば人あやむるこころ
塚 本 邦 雄 恋
海暮れて鴨の声ほのかに白し
松 尾 芭 蕉 冬
海見ざるごとくに冬を構へけり
金尾梅の門 冬
梅が香にむかしをとへば春の月
こたへぬかげぞ袖にうつれる
藤 原 家 隆 春
梅散るや難波の夜の道具市
建 部 巣 兆 春
梅でのむ茶屋も有べし死出の山
大 高 源 吾 春
梅の奥に誰やら住んで幽かな灯
夏 目 漱 石 春
梅の香や没日に顔を消されつつ
小檜山繁子 春
梅の花にほひをうつす袖のうへに
軒漏る月のかげぞあらそふ
藤 原 定 家 春
梅の花夢に語らく風流びたる
花と我思ふ酒に浮べこそ
よみ人しらず 春
うらうらに照れる春日に雲雀あがり
情悲しも独りしおもへば
大 伴 家 持 春
裏がへる亀思ふべし鳴けるなり
石 川 桂 郎 春
裏富士の月夜の空を黄金虫
飯 田 龍 太 夏
うらやまし思ひ切るとき猫の恋
越 智 越 人 春
愁ひつつ岡にのぼれば花いばら
与 謝 蕪 村 夏
枝にもるあさひのかげのすくなきに
すずしさふかき竹の奥かな
京 極 為 兼 夏
越後屋に衣さく音や更衣
榎 本 其 角 夏
襟巻に一片浮ける朱唇かな
原   石 鼎 冬
炎天の遠き帆やわが心の帆
山 口 誓 子 夏
老いたるは皆かしこかりこの国に
身を殺す者すべて若人
与謝野 寛 恋
老ふたり互に空気となり合ひて
有るには忘れ無きを思はず
窪 田 空 穂 秋
おうおうといへど敲くや雪の門
向 井 去 来 冬
尾頭の心もとなき海鼠哉
向 井 去 来 冬
逢坂の関の清水に影見えて
今やひくらむ望月の駒
紀   貫 之 秋
おうた子に髪なぶらるる暑さ哉
斯 波 園 女 夏
大いなる春日の翼垂れてあり
鈴 木 花 蓑 春
大江山傾く月のかげさえて
鳥羽田の面に落つるかりがね
慈   円 秋
大魚釣る相模の海の夕なぎに
乱れて出づる海士小舟かも
賀 茂 真 淵 夏
大原や木の芽すり行牛の頬
黒 柳 召 波 春
大原や蝶の出て舞ふ朧月
内 藤 丈 草 春
大蛍ゆらりゆらりと通りけり
小 林 一 茶 夏
奥白根かの世の雪をかゞやかす
前 田 普 羅 冬
奥能登や浦々かけて梅雨の滝
前 田 普 羅 夏
おく山に紅葉ふみわけなく鹿の
こゑきく時ぞ秋はかなしき
よみ人しらず 秋
をぐら山みねたちならしなく鹿の
へにけむ秋をしる人ぞなき
紀   貫 之 秋
落葉たく煙の香まとふ幼子の
ひとときうたふわが膝にきて
木 俣   修 冬
処女にて身に深く持つ浄き卵
秋の日吾の心熱くす
富小路禎子 秋
嬢子らが 挿頭のために 遊土が 蘰のためと……
若宮年魚麻呂 春
斧入れて香に驚くや冬木立
与 謝 蕪 村 冬
おのが灰おのれ被りて消えてゆく
木炭の火にたぐへて思ふ
太 田 水 穂 冬
帯ほどに川の流るる汐干哉
水 間 沾 徳 春
大髭に剃刀の飛ぶ寒さ哉
森 川 許 六 冬
お奉行の名さへおぼえずとし暮れぬ
小 西 来 山 冬
おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ
加 藤 楸 邨 春
朧夜のむんずと高む翌檜
飯 田 龍 太 春
思ひかね妹がり行けば冬の夜の
河風寒み千鳥なくなり
紀   貫 之 冬
音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
赤 尾 兜 子 夏
をみなにてまたも来む世ぞ生れまし
花もなつかし月もなつかし
山川登美子 春
おもてにて遊ぶ子供の声きけば
夕かたまけてすずしかるらし
古 泉 千 樫 秋
をり知れる秋の野原の花はみな
月の光の匂ひなりけり
慈   円 秋
をりとりてはらりとおもきすゝきかな
飯 田 蛇 笏 秋
折もよき秋のたゝきの烏帽子魚
かま倉風にこしらへてみん
雀   酒 盛 秋
●か
貝寄風に乗りて帰郷の船迅し
中村草田男 春
かかる日にたしなみを言ふは愚に似れど
ひと無頼にて憤ろしも
前川佐美雄 恋
牡蠣殻や磯に久しき岩一つ
河東碧梧桐 冬
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
正 岡 子 規 秋
かきなぐる墨絵をかしく秋暮て
史   邦 秋
かくまでも黒くかなしき色やある
わが思ふひとの春のまなざし
北 原 白 秋 恋
影見れば波の底なるひさかたの
空漕ぎわたるわれぞわびしき
紀   貫 之 秋
陽炎や塚より外に住むばかり
内 藤 丈 草 春
陽炎や取りつきかぬる雪の上
山 本 荷 兮 春
かげろふやほろほろ落つる岸の砂
服 部 土 芳 春
鎹も 錠もあらばこそ
その殿戸 我鎖さめ……
催 馬 楽 恋
かすがの に おしてる つき の ほがらか に ゆふべ と……
会 津 八 一 秋
春日野はけふはな焼きそ若草の
つまもこもれりわれもこもれり
よみ人しらず 恋
風おもく人甘くなりて春くれぬ
加 藤 暁 台 春
風きけば嶺の木の葉の中空に
吹き捨てられて落つる声々
正   徹 秋
風はらむはずみにひらく芙蓉かな
阿波野青畝 秋
かぜひきたまふ声のうつくし
越   人 恋
風わたる浅茅がすゑの露にだに
やどりもはてぬ宵のいなづま
藤原有家朝臣 秋
加速度もていのち搏たむと灯虫をり
軽部烏頭子 夏
肩車上にも廻る風車
武 玉 川 春
片隅で椿が梅を感じてゐる
林 原 耒 井 春
かたつむりつるめば肉の食い入るや
永 田 耕 衣 夏
かたはらに秋ぐさの花かたるらく
ほろびしものはなつかしきかな
若 山 牧 水 秋
片町に桶屋竝ぶや夏柳
内 田 百  夏
かたまつて薄き光の菫かな
渡 辺 水 巴 春
かたむきて田螺も聞や初かはづ
建 部 巣 兆 春
褐帷巾に四つ割の帯を 後にしやんと結んだ
あらうつつなの面影やの
隆 達 小 歌 恋
がつくりと抜け初むる歯や秋の風
杉 山 杉 風 秋
郭公や何処までゆかば人に逢はむ
臼 田 亜 浪 夏
かつ氷りかつはくだくる山河の
岩間にむせぶあかつきの声
藤 原 俊 成 冬
葛飾や桃の籬も水田べり
水原秋桜子 春
香取より鹿島はさびし木の実落つ
山 口 青 邨 秋
かなしさに魚喰ふ秋のゆふべ哉
高 井 几 董 秋
愛しさにむせぶ妻をも臥す吾の
衣を一重へだてて抱ける
伊 藤   保 恋
かなしみのきわまるときしさまざまに
物象顕ちて寒の虹ある
坪 野 哲 久 冬
かなしみは明るさゆゑにきたりけり
一本の樹の翳らひにけり
前 登志夫 夏
かにかくに祇園はこひし寐るときも
枕の下を水のながるる
吉 井   勇 恋
鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
榎 本 其 角 冬
蛙の目越えて漣又さゞなみ
川 端 茅 舎 春
鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は
美男におはす夏木立かな
与謝野晶子 夏
神無月降りみ降らずみ定めなき
時雨ぞ冬のはじめなりける
よみ人しらず 夏
かもめ来よ天金の書をひらくたび
三 橋 敏 雄 夏
に寝てまた睡蓮の閉づる夢
赤 尾 兜 子 夏
辛くして我が生き得しは彼等より
狡猾なりし故にあらじか
岡 野 弘 彦 恋
鴈がねもしづかに聞ばからびずや
越 智 越 人 秋
雁はまだ落ついてゐるに御かへりか
大伴大江丸 春
加留多歌老いて肯ふ恋あまた
殿村菟絲子 冬
枯蘆に曇れば水の眠りけり
阿部みどり女 冬
枯れ蘆の日に日に折れて流れけり
高 桑 闌 更 冬
彼一語我一語秋深みかも
高 浜 虚 子 秋
枯枝ほきほき折るによし
尾 崎 放 哉 冬
枯れにける草はなかなか安げなり
残る小笹の霜さやぐころ
賀 茂 真 淵 冬
枯野哉つばなの時の女櫛
井 原 西 鶴 冬
枯野くるひとりは嗄れし死者の声
河原枇杷男 冬
からうじてわがものとなりし古き書の
表紙つくろふ秋の夜の冷え
佐佐木信綱 秋
翡翠やひねもす一二三の淵
松根東洋城 夏
川底に蝌蚪の大国ありにけり
村 上 鬼 城 春
川止に手にはを直す旅日記
誹風柳多留 夏
川に沿いのぼれるわれと落ち鮎の
会いのいのちを貪れるかな
石 本 隆 一 秋
かんがへて飲みはじめたる一合の
二合の酒の夏のゆふぐれ
若 山 牧 水 夏
元日や暗き空より風が吹く
青 木 月 斗 冬
寒雀身を細うして闘へり
前 田 普 羅 冬
神田川祭の中をながれけり
久保田万太郎 夏
灌佛や墓にむかへる独言
榎 本 其 角 春
消えかへり岩間にまよふ水の泡の
しばし宿かる薄氷かな
藤 原 良 経 冬
岸のいばらの真白に咲
野   坡 夏
北はまだ雪であらうぞ春のかり
江 左 尚 白 春
きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに
芭   蕉 恋
君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり……
梁 塵 秘 抄 秋
君が行く道のながてを繰り畳ね
焼きほろぼさむ天の火もがも
狭野弟上娘子 恋
君が瞳はつぶらにて
君が心は知りがたし。……
佐 藤 春 夫 恋
君かへす朝の鋪石さくさくと
雪よ林檎の香のごとくふれ
北 原 白 秋 冬
君ならで誰にか見せむ梅の花
色をも香をもしる人ぞしる
紀   友 則 春
今日の逢ひいや果ての逢ひと逢ひにけり
村々に梅は咲きさかりたり
中 野 重 治 恋
けふの日の終る影曳き糸すすき
野見山朱鳥 秋
玉蘭と大雅と語る梅の花
夏 目 漱 石 春
清盛の文張つてある火桶かな
大伴大江丸 冬
きりぎりす鳴くや霜夜のさ莚に
衣片敷きひとりかも寝む
藤 原 良 経 秋
桐の木高く月さゆる也
志 太 野 坡 冬
桐の葉も踏み分けがたくなりにけり
必ず人を待つとなけれど
式子内親王 秋
霧の村石を投うらば父母散らん
金 子 兜 太 秋
桐一葉日当りながら落ちにけり
高 浜 虚 子 秋
桐ひろ葉小学生の立ち話
三 好 達 治 夏
霧ふかき積石に触るるさびしさよ
石橋辰之助 夏
近海に鯛睦み居る涅槃像
永 田 耕 衣 春
金魚売買へずに囲む子に優し
吉 屋 信 子 夏
『金次郎』メHARAKIRIモ を説く教師らに
詛はるるこそ嬉しかりけれ
佐 藤 春 夫 恋
金粉をこぼして火蛾やすさまじき
松本たかし 夏
空をはさむ蟹死にをるや雲の峰
河東碧梧桐 夏
茎たちに春の地勢を見する哉
加 舎 白 雄 春
草枯や海士が墓皆海に向く
石 井 露 月 冬
草づたふ朝の蛍よみじかかる
われのいのちを死なしむなゆめ
斎 藤 茂 吉 夏
草の戸も住み替る代ぞ雛の家
松 尾 芭 蕉 春
草枕旅に物思ひわが聞けば
夕片設けて鳴く河蝦かも
よみ人しらず 夏
葛咲くや嬬恋村の字いくつ
石 田 波 郷 秋
唇で冊子かへすやふゆごもり
建 部 涼 袋 冬
茱萸の葉の白くひかれる渚みち
牛ひとつゐて海に向き立つ
古 泉 千 樫 夏
くもの糸一すぢよぎる百合の前
高 野 素 十 夏
雲のぼる六月宙の深山蝉
飯 田 龍 太 夏
くらきよりくらき道にぞ入ぬべき
はるかにてらせ山の端の月
和 泉 式 部 秋
暮れて行く春のみなとは知らねども
霞に落つる宇治のしば舟
寂 蓮 法 師 春
暮れのこる寒空の下戸をさせる
わが家を見たりこれは又さびし
木 下 利 玄 冬
クレヨンの赤青の雪降らせゐる
四歳の姉と三歳のおとうと
石川不二子 冬
黒髪の乱れも知らず打伏せば
先づ掻き遣りし人ぞ恋しき
和 泉 式 部 恋
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
飯 田 蛇 笏 秋
黒船に乗りて来るかや四月馬鹿
大 谷 句 仏 春
軍鼓鳴り/荒涼と/秋の/痣となる
高 柳 重 信 秋
薫風や蚕は吐く糸にまみれつつ
渡 辺 水 巴 夏
傾城乳をかくす晨明
昌   圭 恋
渓村 雨無きこと 二旬余
石瀬 沙灘 水涸れ……
菅   茶 山 夏
鶏頭に鶏頭ごつと触れゐたる
川 崎 展 宏 秋
鶏鳴に露のあつまる虚空かな
飯 田 龍 太 秋
化粧ふれば女は湯ざめ知らぬなり
竹下しづの女 冬
月明のいづくか悪事なしをらむ
岸 風三楼 秋
げんげ田を鋤く帰らざる人のごと
森   澄 雄 春
甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋
与 謝 蕪 村 秋
紅葉はかぎり知られず散り来れば
わがおもひ梢のごとく繊しも
前川佐美雄 秋
声かけし眉のくもれる薄暑かな
原   裕 夏
声なくて花やこずゑの高わらひ
野々口立圃 春
声なり刈田の果に叫びおる
西 東 三 鬼 秋
氷水面に封じて聞くに浪なし
雪林頭に点じて見るに花あり
菅 原 道 真 冬
蟋蟀が深き地中を覗き込む
山 口 誓 子 秋
凩の一日吹いて居りにけり
岩 田 涼 菟 冬
凩の地にもおとさぬしぐれ哉
向 井 去 来 冬
こがらしや日に日に鴛鴦のうつくしき
井 上 士 朗 冬
木がらしや目刺にのこる海のいろ
芥川龍之介 冬
木枯よなれがゆくへのしづけさの
おもかげゆめみいざこの夜ねむ
落 合 直 文 冬
金亀子擲つ闇の深さかな
高 浜 虚 子 夏
獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす
秋元不死男 冬
心とて人に見すべき色ぞなき
ただ露霜の結ぶのみ見て
道   元 恋
心なき身にもあはれはしられけり
鴫たつ沢の秋の夕暮
西 行 法 師 秋
心の澄むものは 秋は山田の庵毎に……
梁 塵 秘 抄 秋
こしかたより 今の世までも 絶せぬ物は
恋といへる曲物……
閑 吟 集 恋
去年今年貫く棒の如きもの
高 浜 虚 子 冬
去年見てし秋の月夜は照らせれど
相見し妹はいや年さかる
柿本人麻呂 秋
谺して山ほととぎすほしいまゝ
杉 田 久 女 夏
東風ふかばにほひおこせよ梅の花
あるじなしとて春を忘るな
菅 原 道 真 春
東風吹くや耳現はるゝうなゐ髪
杉 田 久 女 春
今年亦出水に住むべき蚊遣哉
増 田 龍 雨 夏
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴を……
八 木 重 吉 秋
此秋は何で年よる雲に鳥
松 尾 芭 蕉 秋
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
三 橋 鷹 女 秋
小春日や石を噛み居る赤蜻蛉
村 上 鬼 城 冬
子は裸父はててれで早苗舟
利   牛 夏
木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ
加 藤 楸 邨 秋
木の間よりほのめくとみし月影を
やがてよせくる秋の川水
加 藤 千 蔭 秋
木のまよりもりくる月の影見れば
心づくしの秋は来にけり
よみ人しらず 秋
是がまあつひの栖か雪五尺
小 林 一 茶 冬
これやこの一期のいのち炎立ち
せよと迫りし吾妹よ吾妹
吉 野 秀 雄 恋
こんなところに釘が一本打たれていて
いじればほとりと落ちてしもうた
山 崎 方 代 恋
●さ
最澄の瞑目つづく冬の畦
宇佐美魚目 冬
酒殿は 広しま広し 甕越に
我が手な取りそ……
神 楽 歌 恋
防人に行くは誰が背と問ふ人を
見るが羨しさ物思ひもせず
防 人 の 妻 恋
桜咲く遠山鳥のしだり尾の
ながながし日もあかぬ色かな
後鳥羽上皇 春
さくらばな散り交ひ曇れ老いらくの
来むといふなる道まがふがに
在 原 業 平 春
酒しゐならふこの比の月
松 尾 芭 蕉 秋
篠の葉に 雪降りつもる 冬の夜に
豊の遊びを するが愉しさ
神 楽 歌 冬
小竹の葉はみ山もさやに乱げども
吾は妹おもふ別れ来ぬれば
柿本人麻呂 恋
さざなみや志賀の都はあれにしを
むかしながらの山ざくらかな
薩摩守平忠度 春
さつきまつ花橘の香をかげば
昔の人の袖の香ぞする
よみ人しらず 夏
里人の渡り候ふか橋の霜
西 山 宗 因 冬
淋しさの底ぬけて降るみぞれかな
内 藤 丈 草 冬
さびしさはその色としもなかりけり
真木立つ山の秋の夕暮
寂 蓮 法 師 秋
佐保神の別れかなしも来ん春に
ふたゝび逢はんわれならなくに
正 岡 子 規 春
五月雨や鴉草ふむ水の中
河東碧梧桐 夏
さやけくて妻とも知らずすれちがふ
西 垣   脩 秋
左様ならが言葉の最後耳に留めて
心しづかに吾を見給へ
松 村 英 一 恋
小夜時雨溝に湯をぬく匂ひ哉
藤 野 古 白 冬
三五夜中の新月の色
二千里の外の故人の心
白 居 易 秋
さんさ時雨と 萱野の雨は
音もせで来て 降りかゝる
鄙 廼 一 曲 冬
算術の少年しのび泣けり夏
西 東 三 鬼 夏
しほがまの浦ふく風に霧はれて
八十島かけてすめる月かげ
藤 原 清 輔 秋
志賀の浦や遠ざかりゆく波間より
凍りていづる有明の月
藤 原 家 隆 冬
しぐるるや駅に西口東口
安 住   敦 冬
時雨そめ黒木になるは何々ぞ
椎 本 才 麿 秋
しぐれふるみちのくに大き仏あり
水原秋桜子 冬
静さに堪へて水澄むたにしかな
与 謝 蕪 村 春
静かなり耳底に霧の音澄むは
富 安 風 生 秋
しづかなる力満ちゆき〓〓とぶ
加 藤 楸 邨 秋
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
松 尾 芭 蕉 夏
しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかる……
萩原朔太郎 夏
死なば秋露の干ぬ間ぞおもしろき
尾 崎 紅 葉 秋
七月や雨脚を見て門司にあり
藤 田 湘 子 夏
忍ぶ夜の蚊はたゝかれてそつと死に
誹風柳多留拾遺 夏
芝生焼きてはつはつ萌ゆる嫩草や
みどり濃やかに灰かぶり居り
平 福 百 穂 春
しぼり出すみどりつめたき新茶かな
鈴鹿野風呂 夏
島隠り我が漕ぎくればともしかも
大和へ上るま熊野の舟
山 部 赤 人 秋
島の裏春の千鳥のゐたりけり
草 間 時 彦 秋
地虫出て土につまづきをりにけり
上 野 章 子 春
春寒や日闌けて美女の嗽ぐ
尾 崎 紅 葉 春
春暁や人こそ知らね木々の雨
日 野 草 城 春
春雪の暫く降るや海の上
前 田 普 羅 春
春潮は裂け巌々は相擁す
橋 本 鶏 二 春
春泥や嘴を浄めて枝に鳥
石 井 露 月 春
秋蝶の驚きやすきつばさかな
原   石 鼎 秋
秋灯や夫婦互に無き如く
高 浜 虚 子 秋
順礼の棒ばかり行く夏野かな
松 江 重 頼 夏
生涯にまはり灯籠の句一つ
高 野 素 十 秋
小学も五年となれば出で稼ぎ
居所不明とて学校に来ず
筏 井 嘉 一 恋
正月の雪真清水の中に落つ
廣 瀬 直 人 冬
少年や六十年後の春の如し
永 田 耕 衣 春
白魚の小さき顔をもてりけり
原   石 鼎 春
しら魚やあさまに明くる舟の中
桜 井 吏 登 春
白魚やさながら動く水の色
小 西 来 山 春
白雲に心をのせてゆくらくら
秋の海原思ひわたらむ
上 田 秋 成 秋
白雲にはねうちかはしとぶ雁の
かずさへ見ゆる秋の夜の月
よみ人しらず 秋
しらしらと氷かがやき/千鳥なく/
釧路の海の冬の月かな
石 川 啄 木 冬
しら露も夢もこのよもまぼろしも
たとへていへば久しかりけり
和 泉 式 部 恋
白露や死んでゆく日も帯締めて
三 橋 鷹 女 秋
しらぬひ筑紫の綿は身につけて
いまだは著ねど暖かに見ゆ
沙 弥 満 誓 冬
白団となりの羲之にかゝれたり
大伴大江丸 夏
白きうさぎ雪の山より出でて来て
殺されたれば眼を開き居り
斎 藤   史 冬
白き巨船きたれり春も遠からず
大 野 林 火 冬
しろじろと花を盛りあげて庭ざくら
おのが光りに暗く曇りをり
太 田 水 穂 春
白き霧ながるる夜の草の園に
自転車はほそきつばさ濡れたり
高 野 公 彦 秋
白妙の袖のわかれに露おちて
身にしむいろの秋かぜぞ吹く
藤 原 定 家 秋
しんがりをよろこぶ家鴨なり暖か
秋元不死男 春
しんしんと寒さがたのし歩みゆく
星 野 立 子 冬
双六の賽に雪の気かよひけり
久保田万太郎 冬
涼風の曲りくねつて来たりけり
小 林 一 茶 夏
涼しさはあたらし畳青簾
妻子の留守にひとり見る月
唐 衣 橘 洲 夏
すゞしさや朝草門ンに荷ひ込
野 沢 凡 兆 夏
雀子のもの喰夢か夜のこゑ
松 岡 青 蘿 春
雀子や走りなれたる鬼瓦
内 藤 鳴 雪 春
炭竈に塗込めし火や山眠る
松本たかし 冬
相撲取ならぶや秋のからにしき
服 部 嵐 雪 秋
青天に紅梅晩年の仰ぎ癖
西 東 三 鬼 春
「生」といひ「活」といふこといきいきと
身過世過の歌を詠むべし
島 田 修 二 恋
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや
中 村 汀 女 冬
咳をしても一人
尾 崎 放 哉 冬
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ
野 沢 節 子 夏
せめて時雨よかし ひとり板屋の淋しきに
閑 吟 集 冬
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末に逢はむとぞ思ふ
崇 徳 院 恋
戦争が廊下の奥に立つてゐた
渡 辺 白 泉 恋
全長のさだまりて蛇すすむなり
山 口 誓 子 夏
ぜんまいののの字ばかりの寂光土
川 端 茅 舎 春
千峯の鳥路は梅雨を含めり
五月の蝉の声は麦秋を送る
李 嘉 祐 夏
俗名と戒名睦む小春かな
中 村 苑 子 冬
祖母山も傾山も夕立かな
山 口 青 邨 夏
空青し山青し海青し
日はかがやかに……
佐 藤 春 夫 夏
空きよく月さしのぼる山の端に
とまりて消ゆる雲のひとむら
永 福 門 院 秋
空をあゆむ朗朗と月ひとり
荻原井泉水 秋
空をゆく一とかたまりの花吹雪
高 野 素 十 春
●た
大名の寝間にもねたる寒さかな
森 川 許 六 冬
鯛焼やいつか極道身を離る
五所平之助 冬
鯛を切る鈍き刃ものや桃の宿
高 井 几 董 春
他界より眺めてあらばしづかなる
的となるべきゆふぐれの水
葛 原 妙 子 恋
鷹の目の枯野に居るあらしかな
内 藤 丈 草 冬
篁の竹のなみたち奥ふかく
ほのかなる世はありにけるかも
中 村 三 郎 夏
耕すやむかし右京の土の艶
炭   太 祇 春
高山ゆ出で来る水の岩に触れ
破れてそ思ふ妹に逢はぬ夜は
よみ人しらず 恋
抱下ろす君が軽みや月見船
三 宅 嘯 山 秋
滝の上に水現れて落ちにけり
後 藤 夜 半 夏
たくあんの波利と音して梅ひらく
加 藤 楸 邨 春
竹馬やいろはにほへとちりイウぢりに
久保田万太郎 冬
竹ほど直なる 物はなけれども
ゆきゆき積れば……
隆 達 小 歌 冬
蛸壺やはかなき夢を夏の月
松 尾 芭 蕉 夏
たすからぬ病と知りしひと夜経て
われよりも妻の十年老いたり
上田三四二 恋
ただ 人には馴れまじものぢや
馴れての後に……
閑 吟 集 恋
ただ一つ松の木の間に白きもの
われを涼しと膝抱き居り
長 塚   節 夏
闘うて鷹のゑぐりし深雪なり
村 越 化 石 冬
橘のにほふあたりのうたた寝は
夢も昔の袖の香ぞする
藤原俊成女 夏
たちまちに君の姿を霧とざし
或る楽章をわれは思ひき
近 藤 芳 美 秋
経もなく緯も定めず少女らが
織れる黄葉に霜な降りそね
大 津 皇 子 秋
立や年既に白髪のみどり子ぞ
吉 川 五 明 冬
田中の井戸に 光れる田水葱
摘め摘め吾子女……
催 馬 楽 夏
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな
金 子 兜 太 夏
渓の水汝も若しよき事の
外にあるごと山出でて行く
与謝野 寛 冬
旅にして誰にかたらむ遠つあふみ
いなさ細江の春の明ぼの
香 川 景 樹 春
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
松 尾 芭 蕉 冬
旅人の宿りせむ野に霜降らば
わが子羽ぐくめ……
遣唐使随員の母 秋
多摩川にさらす手作さらさらに
何そこの児のここだ愛しき
東歌(武蔵国の歌) 恋
たまだなやしら髪を拾う膳の上
白 井 鳥 酔 秋
玉の緒のがくりと絶ゆる傀儡かな
西 島 麦 南 冬
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
忍ぶることの弱りもぞする
式子内親王 恋
鱈船や比良より北は雪げしき
河 野 李 由 冬
誰か来るみつしアウみつしと雪の門
川 端 茅 舎 冬
たんぽゝや長江濁るとこしなへ
山 口 青 邨 春
力つくして山越えし夢露か霜か
石 田 波 郷 冬
千曲川柳霞みて/春浅く水流れたり……
島 崎 藤 村 春
父よりも母に親しき冬夜かな
佐 藤 紅 緑 冬
蝶老てたましひ菊にあそぶ哉
榎 本 星 布 秋
頂上や殊に野菊の吹かれ居り
原   石 鼎 秋
蝶々のもの食ふ音の静かさよ
高 浜 虚 子 春
長松が親の名で来る御慶かな
志 太 野 坡 冬
仕る手に笛もなし古雛
松本たかし 春
月清み瀬々の網代に寄る氷魚は
玉藻にさゆる氷なりけり
源   経 信 冬
月天心貧しき町を通りけり
与 謝 蕪 村 秋
次の間の灯で膳につく寒さかな
小 林 一 茶 冬
月の人のひとりとならむ車椅子
角 川 源 義 秋
月の夜や石に出て鳴くきりぎりす
千 代 女 秋
月見ればちぢに物こそかなしけれ
わが身ひとつの秋にはあらねど
大 江 千 里 秋
月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
在 原 業 平 春
月や出づる星の光のかはるかな
涼しき風の夕やみのそら
伏 見 院 夏
月夜つづき向きあふ坂の相睦む
大 野 林 火 秋
月読の光りの下の水すまし
しづけきを見て、かへり来にけり
折 口 春 洋 夏
月を笠に着て遊ばゞや旅のそら
田 上 菊 舎 秋
筑波嶺の峰のもみぢ葉落ち積もり
知るも知らぬも並べて愛しも
東歌(常陸うた) 秋
土不踏なければ雛倒れけり
阿波野青畝 春
角上げて牛人を見る夏野かな
松 岡 青 蘿 夏
津の国の難波の春はゆめなれや
葦のかれ葉に風わたるなり
西 行 法 師 冬
椿落ちて一僧笑ひ過ぎ行きぬ
堀   麦 水 春
つばめつばめ泥が好きなる燕かな
細 見 綾 子 春
つぶらなる汝が眼吻はなん露の秋
飯 田 蛇 笏 秋
露の世は露の世ながらさりながら
小 林 一 茶 秋
釣の糸にふく夕風のすゑ見えて
入日さびしき秋の川づら
清 水 浜 臣 秋
吊柿鳥に顎なき夕べかな
飯 島 晴 子 秋
つれづれと空ぞ見らるる思ふ人
天降り来ん物ならなくに
和 泉 式 部 恋
木偶の眼のかたりとねむる寒夜かな
郡 司 正 勝 冬
でで虫の腸さむき月夜かな
原   石 鼎 秋
出水川あからにごりて流れたり
地より虹はわきたちにけり
前 田 夕 暮 夏
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の
朧月夜にしくものぞなき
大 江 千 里 春
照る月をくもらぬ池の底に見て
天つみ空に遊ぶ夜半かな
加 藤 千 蔭 秋
蟷螂のしだいに眠く殞ちゆけり
山 口 誓 子 秋
東岸西岸の柳 遅速同じからず
南枝北枝の梅 開落已に異なり
保   胤 春
冬眠より醒めし蛙が残雪の
うへにのぼりて体を平ぶ
斎 藤 茂 吉 春
遠蛙酒の器の水を呑む
石 川 桂 郎 春
十団子も小粒になりぬ秋の風
森 川 許 六 秋
遠山に日の当りたる枯野かな
高 浜 虚 子 冬
冬麗の微塵となりて去らんとす
相 馬 遷 子 冬
牀寒く枕冷にして 明に到ること遅し
更めて起きて……
菅 原 道 真 冬
とことはにあはれあはれは尽すとも
心にかなふものか命は
和 泉 式 部 恋
解て行物みな青しはるの雪
田 上 菊 舎 春
ところてん煙の如く沈み居り
日 野 草 城 夏
年たけてまた越ゆべしと思ひきや
命なりけり小夜の中山
西 行 法 師 恋
どつちへも流れぬどぶなんで辛夷花さいた
中塚一碧楼 春
とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな
松本たかし 冬
土堤を外れ枯野の犬となりゆけり
山 口 誓 子 冬
となん一つ手紙のはしに雪のこと
西 山 宗 因 冬
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
与 謝 蕪 村 秋
外にも出よ触るゝばかりに春の月
中 村 汀 女 春
とまり舟苫のしづくの音絶えて
夜半のしぐれぞ雪になりゆく
村 田 春 海 冬
富人の家の児どもの着る身無み
腐し棄つらむ〓綿らはも
山 上 憶 良 冬
灯火に氷れる筆を焦しけり
吉 分 大 魯 冬
灯火のすわりて氷る霜夜かな
松 岡 青 蘿 冬
燭を背けては共に憐れむ深夜の月
花を踏んでは同じく惜しむ少年の春
白 居 易 春
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て……
石 川 啄 木 恋
友もやゝ表札古りて秋に棲む
中村草田男 秋
鳥どもも寝入つてゐるか余吾の海
斎 部 路 通 冬
鳥の巣の影もさしけり膝のうへ
田 川 鳳 朗 春
鶏の嘴に氷こぼるる菜屑かな
加 舎 白 雄 冬
とろりアウとろりとしむる目の
笠のうちよりしむりや……
松 の 葉 恋
●な
永き日のにはとり柵を越えにけり
芝 不器男 春
長き夜をたゝる将棋の一卜手哉
幸 田 露 伴 秋
ながめつつ思ふも寂しひさかたの
月のみやこの明けがたの空
藤 原 家 隆 秋
長持へ春ぞくれ行く更衣
井 原 西 鶴 春
流れ来て氷を砕く氷かな
吉 川 五 明 春
流れゆく大根の葉の早さかな
高 浜 虚 子 冬
汀にはいれば足にさはる鮎のやさしさ
滝 井 孝 作 夏
なき名きく春や三年の生別
向 井 去 来 春
泣くおまえ抱けば髪に降る雪の
こんこんとわが腕に眠れ
佐佐木幸綱 恋
鳴く蝉を手握りもちてその頭
をりをり見つつ童走せ来る
窪 田 空 穂 夏
梨食ふと目鼻片づけこの少女
加 藤 楸 邨 秋
茄子煮るや気付けばしんと巴里なりき
小 池 文 子 夏
なつかしの濁世の雨や涅槃像
阿波野青畝 春
夏河に光を見せて飛ぶ魚の
音するかたに月はすみけり
上 田 秋 成 夏
夏河を越すうれしさよ手に草履
与 謝 蕪 村 夏
夏草のしげみが下の埋れ水
ありとしらせて行くほたるかな
後 村 上 院 夏
夏草や兵どもが夢の跡
松 尾 芭 蕉 夏
夏の海水兵ひとり紛失す
渡 辺 白 泉 夏
夏の女のそりと坂に立っていて
肉透けるまで人恋うらしき
佐佐木幸綱 夏
夏の夜のこれは奢ぞあら莚
広 瀬 惟 然 夏
夏の夜や崩て明し冷し物
松 尾 芭 蕉 夏
夏深み入江のはちすさきにけり
浪にうたひてすぐる舟人
藤 原 良 経 夏
夏山の大木倒す谺かな
内 藤 鳴 雪 夏
夏山や一足づつに海見ゆる
小 林 一 茶 夏
七草や女夫アウ女夫に孫女夫
志 太 野 坡 冬
名にし負はばいざこととはむ都鳥
わが思ふ人はありやなしやと
在 原 業 平 恋
なににこがれて書くうたぞ
一時にひらくうめ……
室 生 犀 星 春
難波潟あしまの氷消ぬがうへに
雪降りかさぬ面白の身や
源   俊 頼 冬
浪の秀に裾洗はせて大き月
ゆらりゆらりと遊ぶがごとし
大 岡   博 秋
菜の花や小窓の内にかぐや姫
建 部 巣 兆 春
生酔の礼者をみれば大道を
横すぢかひに春はきにけり
四 方 赤 良 冬
ならさか の いし の ほとけ の おとがひに……
会 津 八 一 春
楢林春禽微雨を愉しめる
西 島 麦 南 春
なんと今日の暑さはと石の塵を吹
上 島 鬼 貫 夏
にぎはしき雪解雫の伽藍かな
阿波野青畝 春
濁り江の泡に皺よる暑かな
高 井 几 董 夏
虹自身時間はありと思ひけり
阿 部 青 鞋 夏
にほどりの葛飾早稲のにひしぼり
くみつつをれば月かたぶきぬ
賀 茂 真 淵 秋
女身仏に春剥落のつづきをり
細 見 綾 子 春
によつぽりと秋の空なる富士の山
上 島 鬼 貫 秋
にはとこの新芽を嗅げば青くさし
実にしみじみにはとこ臭し
木 下 利 玄 春
人間が躓く石をやすやすと
越えてゆく蟻の長き一列
阿 部 正 路 夏
脱ぎすてて角力になりぬ草の上
炭   太 祇 秋
ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる
清き川原に千鳥しば鳴く
山 部 赤 人 冬
ねがひたる一世はつひにかすかにて
わらべごころに人像つくる
鹿児島寿蔵 恋
ねがはくは花のもとにて春死なむ
その如月の望月のころ
西 行 法 師 春
猫の子に嗅れてゐるや蝸牛
椎 本 才 麿 夏
ねこの子のくびのすゞがねかすかにも
おとのみしたる夏草のうち
大 隈 言 道 夏
ねそびれてよき月夜なり青葉木菟
森かへてまた声をほそめぬ
穂 積   忠 夏
残る蚊をかぞへる壁や雨のしみ
永 井 荷 風 秋
のちの月葡萄に核のくもりかな
夏 目 成 美 秋
●は
飛蟻とぶや富士の裾野の小家より
与 謝 蕪 村 夏
灰捨て白梅うるむ垣ねかな
野 沢 凡 兆 春
はかなくて過ぎにしかたを数ふれば
花に物思ふ春ぞ経にける
式子内親王 春
はきごころよきめりやすの足袋
野 沢 凡 兆 秋
萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花
女郎花 また 藤袴 朝貌の花
山 上 憶 良 秋
白牡丹といふといへども紅ほのか
高 浜 虚 子 夏
羽子板の重きが嬉し突かで立つ
長谷川かな女 冬
箱根路はもみぢしにけり旅人の
山わけごろも袖にほふまで
村 田 春 海 秋
箱を出て初雛のまゝ照りたまふ
渡 辺 水 巴 春
葉桜の中の無数の空さわぐ
篠 原   梵 夏
沙魚釣るや水村山廓酒旗の風
服 部 嵐 雪 秋
肌寒ミ一度は骨をほどく世に
荷   兮 恋
肌のよき石にねむらん花のやま
斎 部 路 通 春
はたはたのをりをり飛べる野のひかり
篠田悌二郎 秋
初雁や夜は目の行く物の隅
炭   太 祇 秋
初恋や燈籠によする顔と顔
炭   太 祇 秋
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ
高 浜 虚 子 春
はつとしてわれに返れば満目の
冬草山をわが歩み居り
若 山 牧 水 冬
はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけは
をゆび の うれ に ほの しらす らし
会 津 八 一 夏
はつはつに触れし子ゆゑにわが心
今は斑らに嘆きたるなれ
斎 藤 茂 吉 恋
初雪の畳ざはりや椶櫚箒
川 井 智 月 冬
初雪を誉めぬむすこが物に成
武 玉 川 冬
花籠に月を入れて 漏らさじこれを
曇らさじと 持つが大事な
閑 吟 集 秋
花衣ぬぐやまつはる紐いろアウいろ
杉 田 久 女 春
はなざかりさゝらに狂ふ聖あれ
加 藤 暁 台 春
花橘も匂ふなり 軒のあやめも薫るなり……
慈   円 夏
花散るや伽藍の枢落し行く
野 沢 凡 兆 春
鼻の穴涼しく睡る女かな
日 野 草 城 夏
花の色はうつりにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに
小 野 小 町 春
花冷の庖丁獣脂もて曇る
木 下 夕 爾 春
花冷や履歴書に捺す磨滅印
福 永 耕 二 春
花びらの山を動かすさくらかな
酒 井 抱 一 春
花びらをひろげ疲れしおとろへに
牡丹重たく萼をはなるゝ
木 下 利 玄 夏
花よりも団子やありて帰る雁
松 永 貞 徳 春
はねばはね踊らばをどれ春駒の
法の道をばしる人ぞしる
一 遍 上 人 春
母許や春七草の籠下げて
星 野 立 子 冬
母の魂梅に遊んで夜は還る
桂   信 子 春
はらはらと黄の冬ばらの崩れ去る
かりそめならぬことの如くに
窪 田 空 穂 冬
春風の花を散らすと見る夢は
さめても胸のさわぐなりけり
西 行 法 師 春
春風や鼠のなめる隅田川
小 林 一 茶 春
遥かなる岩のはざまにひとりゐて
人目思はでもの思はばや
西 行 法 師 恋
春さむき梅の疎林をゆく鶴の
たかくあゆみて枝をくぐらず
中 村 憲 吉 春
春さればしだり柳のとををにも
妹は心に乗りにけるかも
柿本人麻呂歌集 恋
春雨や喰はれ残りの鴨が鳴く
小 林 一 茶 春
春雨や降るともしらず牛の目に
小 西 来 山 春
春潮のあらぶるきけば丘こゆる
蝶のつばさもまだつよからず
坪 野 哲 久 春
春立つやそゞろ心の火桶抱く
高 浜 年 尾 春
春立や新年ふるき米五升
松 尾 芭 蕉 冬
春の色すみれにのみぞ残りける
片山畑の麦のなかみち
木 下 幸 文 春
春の雲かたよりゆきし昼つかた
とほき真菰に雁しづまりぬ
斎 藤 茂 吉 春
春の雲人に行方を聴くごとし
飯 田 龍 太 春
春の寒さたとへば蕗の苦みかな
夏 目 成 美 春
春の苑紅にほふ桃の花
下照る道に出で立つ少女
大 伴 家 持 春
春の鳶寄りわかれては高みつつ
飯 田 龍 太 春
春の浜大いなる輪が画いてある
高 浜 虚 子 春
春の日やあの世この世と馬車を駆り
中 村 苑 子 春
春の水岸へ岸へと夕かな
原   石 鼎 春
はるの夜の女とは我むすめ哉
榎 本 其 角 春
春の夜のともしび消してねむるとき
ひとりの名をば母に告げたり
土 岐 善 麿 恋
春の夜のやみはあやなし梅の花
色こそ見えね香やはかくるる
凡河内躬恒 春
春の夜の夢のうき橋とだえして
嶺にわかるるよこぐもの空
藤 原 定 家 春
春の夜や籠り人ゆかし堂の隅
松 尾 芭 蕉 春
春はいま空のながめにあらはるゝ
ありともしれぬ……
三 木 露 風 春
春みじかし何に不滅の命ぞと
ちからある乳を手にさぐらせぬ
与謝野晶子 恋
春ゆくとひとでは足をうち重ね
八 木 絵 馬 春
春を病み松の根つ子も見あきたり
西 東 三 鬼 春
万緑の中や吾子の歯生えそむる
中村草田男 夏
牽き入れて馬と涼むや川の中
吉 川 五 明 夏
引馬野ににほふ榛原入り乱れ
衣にほはせ旅のしるしに
長忌寸意吉麿 秋
久方のひかりのどけき春の日に
しづごころなく花のちるらむ
紀   友 則 春
ひだるさに馴れてよく寝る霜夜かな
広 瀬 惟 然 冬
ひつぱれる糸まつすぐや甲虫
高 野 素 十 夏
人影を雪間に遠く見出でつつ
わが訪はるるに定めてぞ待つ
野村望東尼 冬
人恋し灯ともしころをさくらちる
加 舎 白 雄 春
一竿は死装束や土用ぼし
森 川 許 六 夏
人それイウぞれ書を読んでゐる良夜かな
山 口 青 邨 秋
一つ松幾代か経ぬる吹く風の
音の清きは年深みかも
市 原   王 冬
一家に遊女もねたり萩と月
松 尾 芭 蕉 秋
人に似て猿も手を組む秋の風
浜 田 洒 堂 秋
人はいさ心も知らずふるさとは
花ぞ昔の香ににほひける
紀   貫 之 春
人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。
旅寝かさなるほどのかそけさ
釈   迢 空 恋
一片を解き沈丁の香となりぬ
稲 畑 汀 子 春
人よむに如かず正月諷詠詩
飯 田 蛇 笏 冬
独り碁や笹に粉雪のつもる日に
中   勘 助 冬
日のあたる夢をよく見る氷室守
武 玉 川 夏
日の暮の雨ふかくなりし比叡寺
四方結界に鐘を鳴らさぬ
中 村 憲 吉 夏
日のさしてとろりとなりぬ小田の雁
岩 間 乙 二 秋
日の春をさすがに鶴の歩みかな
榎 本 其 角 冬
ひのもとの大倭の民も、
孤独にて老い漂零へむ時いたるらし
釈   迢 空 恋
向日葵の大声で立つ枯れて尚
秋元不死男 夏
向日葵は金の油を身にあびて
ゆらりと高し日のちひささよ
前 田 夕 暮 夏
緋目高のかがやけるむくろ掌にかこひ
嘆美して低し少年の声
服 部 直 人 夏
冷されて牛の貫禄しづかなり
秋元不死男 夏
ひやひやと積木が上に海見ゆる
河東碧梧桐 秋
病雁の夜さむに落て旅ね哉
松 尾 芭 蕉 秋
病床に駈くる真似して秋の風
石 田 波 郷 秋
鵯のそれきり鳴かず雪の暮
臼 田 亜 浪 冬
蛭の口処をかきて気味よき
芭   蕉 夏
広沢やひとりしぐるゝ沼太郎
中 村 史 邦 冬
火を産まんためいましがた触れあえる
雌雄にて雪のなか遠ざかる
岡 井   隆 恋
美女打ち見れば 一本葛にもなりなばやと……
梁 塵 秘 抄 恋
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ
石 田 波 郷 秋
更くる夜や炭もて炭を砕く音
大 島 蓼 太 冬
ふところに入日のひゆる花野かな
金尾梅の門 秋
ふと咲けば山茶花の散りはじめかな
平 井 照 敏 冬
船の名の月に読まるゝ港かな
日 野 草 城 秋
篠懸樹かげ行く女らが眼蓋に
血しほいろさし夏さりにけり
中 村 憲 吉 夏
冬が来た。白い樹樹の光を体のうちに
蓄積しておいて、夜ふかく眠る
前 田 夕 暮 冬
冬枯や平等院の庭の面
上 島 鬼 貫 冬
冬菊のまとふはおのがひかりのみ
水原秋桜子 冬
冬草も見えぬ雪野のしらさぎは
おのが姿に身をかくしけり
道   元 冬
冬籠り虫けらまでも穴かしこ
松 永 貞 徳 冬
冬ざれやものを言ひしは籠の鳥
高橋淡路女 冬
冬の蜘蛛ある夜動きて殺されぬ
加 藤 楸 邨 冬
冬の蝶睦む影なくしづみけり
西 島 麦 南 冬
冬の蠅二つになりぬあたたかし
臼 田 亜 浪 冬
冬の日や臥して見あぐる琴の丈
野 澤 節 子 冬
冬の水一枝の影も欺かず
中村草田男 冬
冬の夢のおどろきはつる曙に
春のうつつのまづ見ゆるかな
藤 原 良 経 春
ふゆの夜や針うしなふておそろしき
桜 井 梅 室 冬
冬蜂の死にどころなく歩きけり
村 上 鬼 城 冬
冬山の青岸渡寺の庭にいでて
風にかたむく那智の滝みゆ
佐藤佐太郎 冬
ふらここの会釈こぼるるや高みより
炭   太 祇 春
ふりむけば障子の桟に夜の深さ
長谷川素逝 冬
降りやまぬ雨の奥よりよみがへり
挙手の礼などなすにあらずや
大 西 民 子 夏
故郷の電車今も西日に頭振る
平 畑 静 塔 夏
ふるさとの沼のにほひや蛇苺
水原秋桜子 夏
降るほどはしばしとだえてむら雨の
すぐる梢の蝉のもろ声
藤原為守女 夏
降る雪や明治は遠くなりにけり
中村草田男 冬
風呂敷に落よつつまん鳴雲雀
広 瀬 惟 然 春
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
正 岡 子 規 秋
紅花買みちにほとゝぎすきく
荷   兮 夏
蛇逃げて我を見し眼の草に残る
高 浜 虚 子 夏
鳳仙花散りて落つれば小さき蟹
鋏ささげて驚き走る
窪 田 空 穂 夏
亡師ひとり老師ひとりや竜の玉
石 田 波 郷 冬
ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに
森   澄 雄 夏
星きらアウきら氷となれるみをつくし
高 桑 闌 更 冬
ほそぼそと氷の下をゆく水の
己れをとほす音のさやけさ
若山喜志子 冬
蛍這へる葉裏に水の迅さかな
長谷川零余子 夏
ぽつかりと月のぼる時森の家の
寂しき顔は戸を閉ざしける
佐佐木信綱 秋
仏は常にいませども
現ならぬぞあはれな……
梁 塵 秘 抄 恋
ほととぎす声待つほどは片岡の
杜のしづくに立ちや濡れまし
紫 式 部 夏
ほととぎすそのかみ山の旅枕
ほのかたらひし空ぞわすれぬ
式子内親王 夏
ほととぎす空に声して卯の花の
垣根も白く月ぞ出でぬる
永 福 門 院 夏
時鳥鳴くや湖水のささ濁り
内 藤 丈 草 夏
郭公なくや五月のあやめ草
あやめもしらぬ恋もするかな
よみ人しらず 恋
微笑が妻の慟哭 雪しんしん
折 笠 美 秋 冬
朴散華即ちしれぬ行方かな
川 端 茅 舎 夏
鬼灯市夕風のたつところかな
岸 田 稚 魚 夏
本買へば表紙が匂ふ雪の暮
大 野 林 火 冬
●ま
舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば……
梁 塵 秘 抄 夏
真処女や西瓜を喰めば鋼の香
津 田 清 子 夏
また立ちかへる水無月の
嘆きを誰にかたる……
芥川龍之介 夏
またや見ん交野の御野の桜狩り
花の雪散る春の曙
藤 原 俊 成 春
また蜩のなく頃となつた……
山 村 暮 鳥 秋
街の雨鶯餅がもう出たか
富 安 風 生 春
松浦川川の瀬光り鮎釣ると
立たせる妹が裳の裾濡れぬ
大 伴 旅 人 夏
まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの……
萩原朔太郎 春
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
身捨つるほどの祖国はありや
寺 山 修 司 秋
まてどくらせどこぬひとを
宵待草のやるせなさ……
竹 久 夢 二 恋
真萩散る庭の秋風身にしみて
夕日の影ぞかべに消えゆく
永 福 門 院 秋
真帆ひきてよせくる船に月照れり
楽しくぞあらむその船人は
田 安 宗 武 夏
黛を濃うせよ草は芳しき
松根東洋城 春
まるまると肥えしなめくじ夏茸の
傘溶かしいしが己れ溶けしか
高 安 国 世 夏
満月やたたかふ猫はのびあがり
加 藤 楸 邨 秋
曼珠沙華抱くほどとれど母恋し
中 村 汀 女 秋
みじか夜の浮藻うごかす小蝦かな
松 瀬 青 々 夏
みじか夜や毛むしの上に露の玉
与 謝 蕪 村 夏
短夜や既に根づきし物の苗
石 井 露 月 夏
みしま江や霜もまだひぬ蘆の葉に
つのぐむほどの春風ぞ吹く
源   通 光 春
三島江の入江の真菰雨降れば
いとどしをれて刈る人もなし
源   経 信 夏
みづうみの氷は解けてなほ寒し
三日月の影波にうつろふ
島 木 赤 彦 冬
水塩の点滴天地力合せ
沢 木 欣 一 夏
みづからを思ひいださむ朝涼し
かたつむり暗き緑に泳ぐ
山中智恵子 夏
水すまし流にむかひさかのぼる
汝がいきほひよ微かなれども
斎 藤 茂 吉 夏
水すまし水に跳ねて水鉄の如し
村 上 鬼 城 夏
水取リや氷の僧の沓の音
松 尾 芭 蕉 春
水鳥のしづかに己が身を流す
柴田白葉女 冬
水鳥の背に残りゐる夕明り
湖暮れゆけばただ仄かなる
大 岡   博 夏
水鳥やむかふの岸へつういつい
広 瀬 惟 然 冬
水に浮く柄杓の上の春の雪
高 浜 虚 子 春
水に入るごとくに蚊帳をくぐりけり
三 好 達 治 夏
水鉢にすゞしくもりの下陰は
人の目につくところてん見世
峯   松 風 夏
水洟や鼻の先だけ暮れ残る
芥川龍之介 冬
水底を見て来た顔の小鴨かな
内 藤 丈 草 冬
水ふんで草で足ふく夏野哉
小 西 来 山 夏
みちのくの伊達の郡の春田かな
富 安 風 生 春
道のべに阿波の遍路の墓あはれ
高 浜 虚 子 春
身にしむや亡妻の櫛を閨に踏
与 謝 蕪 村 秋
蓑虫にうすうす目鼻ありにけり
波多野爽波 秋
みほとけの千手犇く五月闇
能村登四郎 夏
都だに寂しかりしを雲はれぬ
吉野の奥のさみだれのころ
後醍醐天皇 夏
都をば霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関
能 因 法 師 秋
命終のまぼろしに主よ顕ち給へ
病みし一生をよろこばむため
津 田 治 子 恋
見わたせば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋の秋の夕暮
藤 原 定 家 秋
むかし思ふ草のいほりのよるの雨に
涙な添へそ山ほととぎす
藤 原 俊 成 夏
麦の穂の焦がるゝなかの流離かな
森   澄 雄 夏
むさゝびの小鳥食み居る枯野哉
与 謝 蕪 村 冬
むざんやな甲の下のきりぎりす
松 尾 芭 蕉 秋
蒸しあつき髪をほどけば髪などの
いづちを迷ひわれに来りし
森 岡 貞 香 夏
虚国の尻無川や夏霞
芝 不 器 男 夏
名月や畳の上に松の影
榎 本 其 角 秋
牝鶏はねむり牡鶏雪をかむ
前 田 普 羅 冬
珍らしき春にいつしか打ち解けて
まづ物いふは雪の下水
源   頼 政 春
目には青葉山時鳥初鰹
山 口 素 堂 夏
眼をとぢて思へばいとどむかひみる
月ぞさやけき大和もろこし
正   徹 秋
目を病みてひどく儚き日の暮を
君はましろき花のごとしよ
福 島 泰 樹 恋
めん鶏ら砂あび居たれひつそりと
剃刀研人は過ぎ行きにけり
斎 藤 茂 吉 夏
最上川逆白波のたつまでに
ふぶくゆふべとなりにけるかも
斎 藤 茂 吉 冬
餅搗によみがへる蠅ありにけり
五十崎古郷 冬
物のしゆんなは 春の雨 猶もしゆんなは
旅のひとりね
隆 達 小 歌 春
ものの種子にぎればいのちひしめける
日 野 草 城 春
物申の声に物着る暑さ哉
横 井 也 有 夏
桃の木へ雀吐出す鬼瓦
上 島 鬼 貫 春
桃の花を満面に見る女かな
松 瀬 青 々 春
森の中に川の瀬見ゆる春の月
大須賀乙字 春
門しめてだまつてねたる面白さ
松 尾 芭 蕉 冬
門前の小家もあそぶ冬至哉
野 沢 凡 兆 冬
●や
焼けただれし裸身さらしてさまよへる
人ををろがみてまた走りたり
山 本 康 夫 恋
痩馬のあはれ機嫌や秋高し
村 上 鬼 城 秋
夜光虫波の秀に燃え秀にちりぬ
山 口 草 堂 夏
やどりして春の山辺にねたる夜は
夢のうちにも花ぞちりける
紀   貫 之 春
山長が腰に差いたる葛鞭 思はむ人の腰に……
梁 塵 秘 抄 恋
山里の春の夕ぐれ来て見れば
いりあひのかねに花ぞ散りける
能 因 法 師 春
山里は松の声のみききなれて
風ふかぬ日は寂しかりけり
太田垣蓮月 秋
大和は 国の真秀ろば 畳なづく 青垣……
古事記歌謡 恋
山ねむる山のふもとに海ねむる
かなしき春の国を旅ゆく
若 山 牧 水 春
山の色釣り上げし鮎に動くかな
原   石 鼎 夏
山ふかみ春とも知らぬ松の戸に
たえだえかかる雪の玉水
式子内親王 冬
山伏の 腰につけたる法螺貝の 丁と落ち……
梁 塵 秘 抄 恋
山もとの鳥の声より明けそめて
花もむらむら色ぞみえ行く
永 福 門 院 春
山や雪知らぬ鳥鳴く都かな
心   敬 冬
闇晴れてこころのそらにすむ月は
西の山辺や近くなるらむ
西 行 法 師 秋
病み呆けて泣けば卯の花腐しかな
石 橋 秀 野 夏
やはらかき身を月光の中に容れ
桂   信 子 秋
夕がほや物をかり合ふ壁のやれ
堀   麦 水 夏
夕霧も心の底に結びつつ
我が身一つの秋ぞふけゆく
式子内親王 秋
ゆふぐれは雲のはたてにものぞ思ふ
天つ空なる人をこふとて
よみ人しらず 恋
夕されば小倉の山に鳴く鹿は
今夜は鳴かずい寝にけらしも
舒 明 天 皇 秋
夕すゞみあぶなき石にのぼりけり
志 太 野 坡 夏
夕汐や柳がくれに魚わかつ
加 舎 白 雄 春
白雨の隈しる蟻のいそぎかな
三 井 秋 風 夏
ゆふだちの雲飛びわくる白鷺の
つばさにかけて晴るる日の影
花 園 院 夏
ゆふめしにかますご喰へば風薫
凡   兆 夏
雪明りあかるき閨は又寒し
建 部 巣 兆 冬
雪曇身の上を啼く烏かな
内 藤 丈 草 冬
雪達磨とけゆく魂のなかりけり
西 島 麦 南 冬
雪とけてくりくりしたる月夜かな
小 林 一 茶 春
雪に来て美事な鳥のだまり居る
原   石 鼎 冬
雪の夜の紅茶の色を愛しけり
日 野 草 城 冬
雪刷きておのれ幽めり夜の山
相 馬 遷 子 冬
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
橋本多佳子 冬
ゆきふるといひしばかりの人しづか
室 生 犀 星 冬
雪山の道おのづからあはれなり
猪は猪の道杣は杣の道
穂 積   忠 冬
ゆく雁やふたたび声すはろけくも
皆 吉 爽 雨 春
行春や海を見て居る鴉の子
有 井 諸 九 春
ゆく春や蓬が中の人の骨
榎 本 星 布 春
行春や鳥啼魚の目は泪
松 尾 芭 蕉 春
ゆく春やおもたき琵琶の抱きごころ
与 謝 蕪 村 春
ゆく水にかずかくよりもはかなきは
おもはぬ人を思ふなりけり
よみ人しらず 恋
ゆく水の末はさやかにあらはれて
川上くらき月のかげかな
香 川 景 樹 秋
行く我にとどまる汝に秋二つ
正 岡 子 規 秋
ゆさアウゆさと桜もてくる月夜哉
鈴 木 道 彦 春
ゆで玉子むけばかがやく花曇
中 村 汀 女 春
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
久保田万太郎 冬
由良の門を渡る舟人かぢを絶え
行方も知らぬ恋のみちかな
曾 禰 好 忠 恋
百合根煮て冬日のごとき妻たらむ
石田あき子 冬
宵のまの村雲づたひ影見えて
山の端めぐる秋のいなづま
伏 見 院 秋
よくかゝる笠子魚あはれむ霞かな
大場白水郎 春
吉野川いはなみたかくゆく水の
はやくぞ人を思ひそめてし
紀   貫 之 恋
淀河の底の深きに鮎の……
梁 塵 秘 抄 夏
世の中にたえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
在 原 業 平 春
世間は霰よなう 笹の葉の上の
さらさらさつと……
閑 吟 集 冬
世の中は夢か現か現とも
夢とも知らずありてなければ
よみ人しらず 秋
世間を憂しとやさしと思へども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
山 上 憶 良 冬
世間を何に譬へむ朝びらき
漕ぎ去にし船の跡なきがごと
沙 弥 満 誓 恋
夜にして思ふことありありがたき
陽の脈摶の中を通りき
佐藤佐太郎 夏
夜のほどに降りしや雨の庭たづみ
落葉をとぢてけさは氷れる
上 田 秋 成 冬
呼かへす鮒売見えぬあられかな
野 沢 凡 兆 冬
寄る計引く事のない年の浪
武 玉 川 冬
夜を凍みる古き倉かも酒搾場の
燈のくらがりに高鳴る締木
中 村 憲 吉 冬
よろこべばしきりに落つる木の実かな
富 安 風 生 秋
●ら
蘭鋳の痩せたれど風邪は引かざらむ
林 原 耒 井 冬
流氷や宗谷の門波荒れやまず
山 口 誓 子 冬
両方に髭がある也猫の恋
小 西 来 山 恋
緑蔭に凶器ばかりの鋳掛の荷
岡 本   眸 夏
緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的
竹下しづの女 夏
林間に酒を煖めて紅葉を焼く
石上に詩を題して緑苔を掃ふ
白 居 易 秋
累々と莟むを歯にぞ花菜漬
皆 吉 爽 雨 春
ルノアルの女に毛糸編ませたし
阿波野青畝 冬
老鶯や泪たまれば啼きにけり
三 橋 鷹 女 春
六月の氷菓一盞の別かな
中村草田男 夏
六月を奇麗な風の吹くことよ
正 岡 子 規 夏
●わ
わが息と共に呼吸する子と知らず
亡きを悼みて人の言ふかも
五島美代子 恋
わが影の壁にしむ夜やきりぎりす
大 島 蓼 太 秋
わかくさやくづれ車の崩れより
加 藤 暁 台 春
わが心澄めるばかりに更けはてて
月を忘れて向ふ夜の月
花 園 院 秋
わがこころ環の如くめぐりては
君をおもひし初めにかへる
川 田   順 恋
わが心なぐさめかねつ更級や
姨捨山にてる月を見て
よみ人しらず 秋
我が寝たを首上げて見る寒さ哉
小 西 来 山 冬
若葉して御目の雫拭はばや
松 尾 芭 蕉 夏
わが背子が衣はる雨ふるごとに
野べの緑ぞいろまさりける
紀   貫 之 春
わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて
暁露にわが立ち濡れし
大 伯 皇 女 秋
若の浦に潮満ち来れば潟を無み
葦辺をさして鶴鳴き渡る
山 部 赤 人 秋
我が涙そゝぎし家に知らぬ人
住みてさゞめく春の夜来れば
窪 田 空 穂 春
我は讃岐の鶴羽の者 阿波の若衆に肌触れて
足好や腹好や……
閑 吟 集 恋
湧きいづる泉の水の盛りあがり
くづるとすれやなほ盛りあがる
窪 田 空 穂 夏
わすれじの行末まではかたければ
今日をかぎりの命ともがな
儀同三司母 恋
渡り懸て藻の花のぞく流哉
野 沢 凡 兆 夏 名《めい》句《く》 歌《うた》ごよみ〔恋《こい》〕
大《おお》岡《おか》 信《まこと》
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平成13年10月12日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社  角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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Makoto OOKA 2001
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角川文庫『名句歌ごよみ〔恋〕』平成12年5月25日初版発行