TITLE : 名句歌ごよみ[冬・新年]
名句歌ごよみ[冬・新年]
大岡 信
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目 次
時 雨《し ぐ れ》
雪《ゆき》
氷《こおり》
正《しよう》 月《がつ》
鴨《かも》
句歌索引
時 雨《し ぐ れ》
神《かみ》無《な》月《づき》降りみ降らずみ定めなき
時雨《 し ぐ れ》ぞ冬のはじめなりける
よみ人しらず
秋の季節をまず告げるものとして人々が親しみ迎えたのが「秋風」だったように、冬の季節をまず告げるものとして長いあいだ詩《しい》歌《か》の世界でうたわれてきたのが「時雨」だった。『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』では秋季のものとされていた。それが、『古《こ》今《きん》集《しゆう》』になると、冬の最初の歌に「しぐれ」の歌がくる配列になる。以来和歌や俳《はい》諧《かい》では時雨は初冬の景物となった。奈良から京都へ(万葉の時代から古今の時代へ)、微《び》妙《みよう》な季節感の変化があったのかもしれない。この歌は平安朝以降のその通念にお墨《すみ》付《つ》きを与えたような歌だといえる。「降りみ降らずみ定めなき」という表現は、「時雨」をとらえてまことに的確な描写である。
おほぞらの月のひかりしきよければ
影《かげ》見し水ぞまづこほりける
よみ人しらず
これは『古今集』巻六の冬歌。多分庭の池を見おろしているのだろう。大空の月の光が昨夜はとりわけ清かったから、その光(「影」は光をいう)を映した水が、まず最初に月と同じようにさえざえと清く氷《こお》ってしまったというのである。冬の朝、初めて張った氷を見て、その氷った水に前夜月光が清い輝きを落としていたことを回想している歌で、初冬の情感を繊《せん》細《さい》に、かつ明確にとらえている。
夜のほどに降りしや雨の庭たづみ
落葉をとぢてけさは氷れる
上《うえ》田《だ》秋《あき》成《なり》
上田秋成が『雨《う》月《げつ》物《もの》語《がたり》』などの小説家であることは有名であるが、国文学者、歌人でもあった。歌人としては一個独立の個性豊かな歌人として、江戸後期の歌人群中に鮮やかな位置を占めている人である。
夜のあいだ、降ったとも気づかれぬほどの細かい雨が降った。翌朝雨戸を繰《く》って庭を見やると、雨が降ったらしい証拠に、小さな水たまりが出来ている。その水たまりに、冬の枯《かれ》葉《は》が一枚落ちて、落ちた姿のままで氷っている。まるで氷に意志があってそれを閉じこめてしまったかのようにというのである。
何の技巧も感じさせない、まことにささやかな生活情景のいっときを歌にしている。しかしこの歌は、庭の水たまりを見つめている秋成自身の眼《め》の歓《よろこ》びを感じさせ、読者もふと、昨夜の雨を知って軽く驚いている作者の眼と同じ位置から、夜から朝までの時の経過を見るのである。
自然描写の清新さは、さかのぼって鎌倉末期の勅《ちよく》撰《せん》二歌集、『玉《ぎよく》葉《よう》集《しゆう》』『風《ふう》雅《が》集《しゆう》』の特徴でもあった。ふつう「玉葉風雅」とひとつらなりでよばれることの多い二つの和歌集は、ある意味で衰微をきわめていた当時の皇族・貴族らの、とぎ澄まされた美的感覚を尖《せん》鋭《えい》に言葉に移し得ている。その意味で注目すべき歌集である。
実質的には鎌倉幕府が国政を動かしていて、皇族や貴族の生活は寄食者の無力感にひたされていた時代であった。しかし、上流社会のこういう根無し草的な生活意識は、気分とか感覚の細かな動きに対する独特の敏感さを生んだ。心では王朝最盛期を恋い、「もののあはれ」の理想を求めつつ、現実には無《む》明《みよう》と無常の意識に深くひたされた官能の刺《し》戟《げき》へとのめりこんでゆく傾向が、当時の宮廷社会の少なくとも一面にはあったと思われる。『玉葉集』や『風雅集』は、そういう時代の宮廷人たちの、最も純化され洗練された美意識の造形だったといっていいだろう。
『玉葉集』から二首。
五十番歌《うた》合《あはせ》に、冬雲といふことを
山あらしの杉の葉はらふ曙《あけぼの》に
むらむらなびく雪のしら雲
伏《ふし》見《み》院《いん》
冬夕山
さゆる日のしぐれの後の夕山に
うす雪降りて空ぞ晴れゆく
藤《ふじ》原《わらの》 為《ため》兼《かね》
くだくだしい説明は要るまい。一読して視覚と聴覚にふれてくる快さがある。動きとその変化に対する敏感な関心が、陰影豊かな水《すい》墨《ぼく》画《が》風の世界を広げている。その意味で、室《むろ》町《まち》時代禅《ぜん》宗《しゆう》の隆盛とともに隆盛を迎えた水墨画の情感は、これら前代の歌にすでに予告されていたともいえるだろう。
竹ほど直《すぐ》なる 物はなけれども
ゆきゆき積《つも》れば 末はなびくに
隆《りゆう》達《たつ》小《こ》歌《うた》
『隆達小歌』は、堺《さかい》の富商の家に生まれ、若くして出《しゆつ》家《け》した高《たか》三《さぶ》隆達なる教養人が、関ケ原の戦いの頃、ちまたの小歌を集録し、また自ら作詞もし、曲をつけて世に広めたものである。どんな曲節で唱《うた》われたのか今ではわからないが、総称して隆達節とよばれた。恋の歌が多いのは歌謡の通性で、これも「ゆきゆき」に「雪々」「行々」をかけた、そのような歌の一つである。
いかにまっすぐ立っていても、雪が積もればついには枝を垂れなびかせる竹のように、あの情の強《こわ》い美しい人も、繁《しげ》く通えばそのうちには……と。
江戸後期の俳《はい》諧《かい》付《つけ》句《く》集『武《む》玉《たま》川《がわ》』は、十八世紀半ばの無名の民衆詩の宝庫である。後続の有名な川《せん》柳《りゆう》集『誹《はい》風《ふう》柳《やなぎ》多《だ》留《る》』などにも影響を与えた。句の形は五七五、または七七。内容は俗世間の諸事万《ばん》般《ぱん》にわたるが、中には次のようなきれいな写生句もある。
転んだ跡《あと》の青い淡《あは》雪《ゆき》
この句、深読みすれば、「淡雪」とは転んで青くあざの残っている女性の白い肌からの連想かもしれない。そうよむと、「転んだ跡」は雪にではなく、肌に残った跡ということになる。
江戸後期の注目すべき歌謡集に、大旅行家で民俗学者だった菅《すが》江《え》真《ま》澄《すみ》の採集した『鄙《ひな》廼《の》一《ひと》曲《ふし》』がある。
さんさ時雨《 し ぐ れ》と 萱《かや》野《の》の雨は
音もせで来て 降りかゝる
元来は仙台周辺でうたわれていた祝《しゆう》言《げん》唄《うた》だという。現代でもよく知られている。「さんさ」は「さっさ」と同じく、時雨の降る音から来た語というが、音がいかにも美しい。今では「さんさ時雨か萱野の雨か音もせできて濡《ぬ》れかかる」とうたわれることが多いようだが、それだと色事の「濡れ」と重なり、忍《しの》んで女に通う男の姿である。本歌もその色気を秘めてはいるが、初冬の時雨そのものの景と見るだけでも余情があっていい。
神《かみ》無《な》月《づき》降りみ降らずみ定めなき
時雨《 し ぐ れ》ぞ冬のはじめなりける
よみ人しらず
神無月は旧暦十月。現在の暦では十一月半ば頃からにあたる。時雨は秋から冬にかけて降る通り雨だが、『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』では秋の末頃降る雨とされていた。ところが『古《こ》今《きん》集《しゆう》』になると、「しぐれ」は冬の最初の歌という配列になり、以来和歌や俳句では、時雨は初冬の景物となった。神無月の、降ったり止《や》んだりして一定しない時雨こそ冬の到来を告げる最初のきざしだ。とうたったこの歌は、平安朝以降のこういう「時雨」についての通念を素直にのべたもので、それだけにこれを決定づけたような形にもなった。
(『後撰集』)
せめて時雨《 し ぐ れ》よかし ひとり板《いた》屋《や》の淋《さび》しきに
閑《かん》吟《ぎん》集《しゆう》
室《むろ》町《まち》歌謡。せめて時雨でも降ってくれよ、独《ひと》り寝《ね》の夜はわびしくてたまらないのだから。共に住む相手もなく、粗《そ》末《まつ》な家で長い冬の夜をじっと寝ている男の独りごと。
「板屋」は板屋根ぶきの貧しい家。「ひとり板屋」は「ひとり居」のイに「板屋」のイをかけている。昔の歌謡は言葉の節約によって含《がん》蓄《ちく》の豊かさを生んでいるものが多い。これもその一例だろう。
言葉をいさぎよく切り捨てた歌の雅《が》趣《しゆ》を感じさせる小《こ》歌《うた》である。
さんさ時雨《 し ぐ れ》と 萱《かや》野《の》の雨は
音もせで来て 降りかゝる
鄙《ひな》廼《の》一《ひと》曲《ふし》
江戸時代の先駆的な民俗学者で大旅行家だった菅《すが》江《え》真《ま》澄《すみ》の採集した歌謡の一つで、仙台地方の祝《しゆう》言《げん》歌《うた》だという。
現在でもうたわれている「さんさ時雨」の元唄。江戸初期から手拍子でうたわれたが、酒宴などでは三《しや》味《み》線《せん》や踊りで囃《はや》しうたったようである。
初冬の通り雨と、茅《かや》の茂った野原に降る雨は、音もなくささっと降りそそぐ。音もなしにやって来るので、知らぬまに濡《ぬ》れてしまうという余情を含んでいて、当然男女の恋を連想させるところに、長く愛唱される一つの理由があろう。
時雨《 し ぐ れ》そめ黒《くろ》木《き》になるは何々ぞ
椎《しいの》本《もと》才《さい》麿《まろ》
黒木は生《なま》木《き》を一尺(約三十センチ)ほどの長さに切り、かまどで蒸し焼きにして火がつきやすくした黒いたき木。京都の八《や》瀬《せ》や大原一帯で作られ、大《お》原《はら》女《め》が頭にのせて京の町を売り歩いた。
才麿は初冬、京に時雨の降りはじめる時節の感じを、山に茂《しげ》っている雑《ぞう》木《き》がやがてたき木になってゆく時の推移を背景としてとらえようとしたのである。わびしく煙る初時雨の中で、どの木が黒木になってゆくのかしらと目を遊ばせている。
「時雨そめ」の語に動きがあって成功した句である。
(『仮橋』)
凩《こがらし》の地にもおとさぬしぐれ哉《かな》
向《むか》井《い》去《きよ》来《らい》
時雨《 し ぐ れ》の軽やかさをとらえた句として記憶に値する秀《しゆう》逸《いつ》の句。これについては『去来抄《しよう》』に師芭《ば》蕉《しよう》の談話があってよく知られている。芭蕉は同じく門人の荷《か》兮《けい》の句、
木《こ》枯《がらし》に二日の月の吹き散るか
とこの句を比較して、荷兮の句は繊《せん》弱《じやく》な二日月と木枯の取合せの面白味でもっているだけだが、君の句はどこといって特色がないのに、全体としての好句だ、とほめたという。ただ、「凩の地までおとさぬ」と限ったのは見苦しいとして、「地にも」に変えさせた。去来の原句は「地まで」だった。この変更は、日本語の助詞の働きの妙、テニヲハの肝要さを、みごとに示した好例だろう。
(『去来発句集』)
しぐるるや駅に西口東口
安《あ》住《ずみ》 敦《あつし》
降ったかと思えばあがり、またさっと降る時雨《 し ぐ れ》。京都辺では特に初冬に趣《おもむき》が深く、陰暦十月は時雨月ともいうくらい。そのため、「時雨」は和歌・俳《はい》諧《かい》を通じて初冬の代表的季語となり、作例も多い。「しぐるるや」と頭に置くだけで句心が動く人も多かろう。
この句など、中でも時雨の語のもつ軽やかな雅趣をごく自然に生かしている。
前《まえ》書《がき》に「田園調布」とあるが、句の風情からはどの駅であってもよいと感じられる。
(『古暦』)
小《さ》夜《よ》時雨《 し ぐ れ》溝《みぞ》に湯をぬく匂《にほ》ひ哉《かな》
藤《ふじ》野《の》古《こ》白《はく》
古白は明治四年(一八七一)愛媛県生まれ、同二十八年没の俳人。母親同士が姉妹だったため正岡子《し》規《き》と親しく、共に作句に励んだ。東京専門学校(現早《わ》稲《せ》田《だ》大学)在学中、湯《ゆ》島《しま》の下宿でピストル自殺を図り早世、子規は古白を深く愛しており、将来に期待するところが大きかったので、古白の自殺には大きな打撃を受けた。
子規らをも驚かすほどの新奇な趣向の句も作ったが、この句は違う。夜の時雨が町を濡《ぬ》らしてゆく。折から一軒の家でしまい風《ぶ》呂《ろ》の湯を抜いたらしく、溝に湯のにおいが立ちこめている。人恋しい思いを誘われる初冬の裏町の情景である。
(『新俳句』)
しぐれふるみちのくに大き仏あり
水《みず》原《はら》秋《しゆう》桜《おう》子《し》
会《あい》津《づ》勝常寺の薬師如来を拝した時の七句連作の第一句。秋桜子の代表作の一つでもある。
「厨《づ》子《し》の中金色ならず時雨冷ゆ」など連作中の他の句は多少ともその場の情景に添って詠《よ》まれ、それが句《く》柄《がら》を細身にもしているが、この句の「しぐれふるみちのく」という表現には、一挙に大景と直面している作者の感動がある。それを受けるのが「大き仏」であるため、句に丈高さと生気がみなぎった。
俳句に表現されるものがきわめて細密な風景とか物象である場合でも、句そのものの句柄が快い大きさを持っているということは、もちろん当然ありうることである。しかし、そこに作者の人柄が微妙に関わりを持っていることは否定できないように思われる。秋桜子のこの種の句を見ると、おのずとそのようなことが思われる。
(『岩礁』)
とまり舟苫《とま》のしづくの音絶えて
夜《よ》半《は》のしぐれぞ雪になりゆく
村《むら》田《た》春《はる》海《み》
「水路新雪」と題する。江戸市中に引かれた運河のほとりの夜景だろう。
「苫《とま》」はスゲやカヤで編み、舟や小屋を覆うようにしたもの。「とまり舟」(岸に停泊中の舟)に「苫」の音を響かせている。
しぐれのしずくの音がいつしか消え、雪に変わっている静けさ。昔の江戸の情趣はこのようなものだった。
春海は賀《か》茂《もの》真《ま》淵《ぶち》門の学者・文人。日本橋小舟町の大きな魚問屋に生まれ、若いころ放《ほう》蕩《とう》の余り家産を傾けたが、文才は一世に鳴り響いた。
(『琴後集』)
淋《さび》しさの底ぬけて降るみぞれかな
内《ない》藤《とう》丈《じよう》草《そう》
丈草は尾《お》張《わり》国犬山に生まれた。父は犬山城主成瀬正虎に仕えた。丈草は病気を理由に遁世し、京都に出て芭《ば》蕉《しよう》 門の有力者たち、去《きよ》来《らい》や史《ふみ》邦《くに》と親交を結び、芭蕉自身のもとに入門した。数ある芭蕉門人中、抜群の詩的天分の持ち主だった。芭蕉もまた、丈草にはいつも暖かい感情をもって対していたように思われる。丈草は芭蕉没後、近江《 お う み》の粟《あわ》津《づ》の仏幻庵で三年の喪に服したほど先師思いの人だった。
孤独そのものの草庵の暮らしを押し包んで降るみぞれが、やり場のない陰気な思いを誘う。「淋しさの底ぬけて降る」とは、言いかえようもない厳しい表現だ。天のみぞれは、じかに丈草の心を叩《たた》いている。
(『丈草発句集』)
家康公逃げ廻《まは》りたる冬田打つ
富《とみ》安《やす》風《ふう》生《せい》
九十三歳の長寿を保って昭和五十四年(一九七九)逝去した富安風生は、愛知県の出身だった。三《み》河《かわ》の人であれば当然、徳川家康に寄せる親しみも深かっただろうと想像される。その家康公ゆかりの土地で冬田を耕す人のいる風景を前にしたとき、卒然と家康を思い起こしたのである。それが威風堂々の大将軍の姿ではなく、三十六計逃げるにしかずと逃げ廻る姿である所に、意外性の面白さ、湧《わ》きあがるおかしみがある。この家康像は、風生という俳人の人柄をもおのずと連想させる親しみぶかい人物像である。
(『米寿前』)
世《よの》間《なか》を憂《う》しとやさしと思へども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
山《やまの》上《うえの》憶《おく》良《ら》
山上憶良は、『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』の数多い作者たちの中で、親子の愛情や生死にかかわる歌を歌っては、他の追随を許さない切実な長歌や短歌をたくさん作った人である。とりわけ彼が古代の詩人として傑出していたのは、当時の庶民の立場で詠んだ貧しい人間、窮している人間の実態の描写だった。これはその有名な「貧窮問答の歌」という長《ちよう》歌《か》の反歌である。
長歌の方は「貧者」と「窮者」の問答の形で、薄い夜着で空腹をこらえている「貧者」と「窮者」の嘆きを語り、そこへ容赦もなく押し入って税取立てのむちを振るう村の役人を歌う。この短歌はその貧窮両者の問答をうけ、どんなに辛く身も細る思いであっても、翼がないから飛び去ることもできぬと嘆く。「やさし」の語源は「痩《や》さし」で、身も細るほどの気持ちの意。今の「優《やさ》しい」も語源は同じ。
(『万葉集』)
ルノアルの女に毛糸編ませたし
阿《あ》波《わ》野《の》青《せい》畝《ほ》
広く俳《はい》諧《かい》がもつ洒《しや》脱《だつ》な味は、また絶妙なとぼけの味でもある場合がある。阿波野青畝の句は、この種の洒脱さにおいて当代にぬきんでている。
右の句は昭和二十四年(一九四九)の作。まだ毛糸などひどく乏しい戦後どん底時代だった。従ってこの句の現実の背景は窮乏まっただ中の社会だが、作品には上品なとぼけた味がある。だいいち、ルノアールの豊満な肉づきの女と、ふかふかと暖かそうな毛糸という取り合わせがいい。ルノアールの絵の女、なるほど、毛糸の感触だ。
(『春の鳶』)
いみじくもかゞやく柚《ゆ》子《ず》や神の留《る》守《す》
阿《あ》波《わ》野《の》青《せい》畝《ほ》
青畝は明治三十二年(一八九九)、奈良県生まれ。高浜虚《きよ》子《し》に師事、大正末期から昭和初期の「ホトトギス」のいわゆる四S黄金時代を築いた。四Sとは水原秋《しゆう》桜《おう》子《し》、高野素《す》十《じゆう》、阿波野青畝、山口誓《せい》子《し》の四人のことで、命名者は山口青《せい》邨《そん》だった。
平明な言葉で格調高い句を作るのが得意だった阿波野青畝。
「神の留守」は初冬の季語。陰暦十月、国中の神が出雲《 い ず も》に集まるという古くからの伝承に基づく。初冬の晴れわたった空の下、柚子の実が枝で金色に輝いている。いかにも晴朗な響きをもつ上二句を、季語がかちりと受けて響きかわす。
(『万両』)
木がらしや目《め》刺《ざし》にのこる海のいろ
芥《あくた》川《がわ》龍《りゆう》之《の》介《すけ》
芥川龍之介は大正十一年(一九二二)の友人あて書簡に「長崎より目刺をおくり来れる人に」と前《まえ》書《がき》つきでこの句を引いているが、句は大正六年作とされている。贈物への返礼の気持を汲《く》んで読めば、「目刺にのこる海のいろ」も一層心にしみるが、前書なしでも句の繊細な情感は的確に伝わる。
芥川は早くから句作に親しんだが、ある時期以後芭《ば》蕉《しよう》やその弟子凡《ぼん》兆《ちよう》、丈《じよう》草《そう》らを愛読し、その作もおのずと古調を帯び、端正な中に哀愁が漂う佳句が多い。
(『澄江堂句集』)
木《こ》枯《がらし》よなれがゆくへのしづけさの
おもかげゆめみいざこの夜ねむ
落《おち》合《あい》直《なお》文《ぶみ》
落合直文は文《ぶん》 久《きゆう》元年(一八六一)、現在の気《け》仙《せん》沼《ぬま》市の鮎貝家に生まれ、明治七年(一八七四)、十四歳の時、塩竈神社宮司の落合直《なお》亮《あき》の養子となり、やがて直文を名乗った。明治三十六年、四十二歳で糖尿病のために病没。彼は明治二十六年「あさ香《か》社」を創立、短歌革新の機運を盛りあげるとともに、教育者として国語国文学の普及に尽力した。感化力の強いすぐれた指導者だっただけに、病身で若死したことが惜しまれる。
この歌は十二月十六日に死去する一週間ほど前、夫人に口述した歌という。静かな心境の辞世の歌といえよう。芭《ば》蕉《しよう》辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」を想い起こさせる。
(『萩之家歌集』)
凩《こがらし》の一日吹いて居《を》りにけり
岩《いわ》田《た》涼《りよう》菟《と》
前《まえ》書《がき》に「漫興」とある。こちら側には格別の意図もなしに何事かを見たり聞いたりしているうちに、おのずと湧《わ》いてくる感興というものがある。それをいっている。この句の場合、前書と句がぴったり合っていて、実際何の説明もいらない句だ。平明で、それ以上でも以下でもない。それでいてどこかにおかしみがある。「居りにけり」がよく効《き》いているのである。木《こ》枯《が》らしがこの擬《ぎ》人《じん》的な結《けつ》句《く》のおかげで意志のあるもののごとくに変わり、「けり」にこもる情緒的な気分がそれを表現して定着させている。
(『伊勢新百韻』)
夜のほどに降りしや雨の庭たづみ
落葉をとぢてけさは氷《こほ》れる
上《うえ》田《だ》秋《あき》成《なり》
夜の間に、降ったとも気づかぬほどの細かい雨が降ったらしい。翌朝雨戸を繰《く》って庭を見やると、雨の降ったらしい証拠に、小さな水たまり(「庭たづみ」)ができている。その水たまりに冬の枯葉が一枚、落ちた姿のままで氷に閉じこめられている。ささやかなありふれた日常の景色である。しかしその日常のひとこまを見る眼が、生き生きと自分の関心をかきたてるように働くため、ありふれた情景が生気をふきこまれる。秋成はいうまでもなく小説家であり国学者であるが、同時にすぐれた歌人でもあった。
(『藤簍冊子』)
落葉たく煙《けむ》の香《か》まとふ幼子の
ひとときうたふわが膝《ひざ》にきて
木《き》俣《また》修《おさむ》
木俣修は彦《ひこ》根《ね》藩城代家老の家系に生まれた。「われは彦根藩、万《まん》延《えん》元年三月三日を思ふことありて」と詞《ことば》書《がき》のあるその歌が、右の歌と同じ歌集にある。「父系のこと記せる冊子万延のころに生きたるみ祖《おや》恋しも」。井《い》伊《い》大老の桜田門外での暗殺という歴史的事件も、木俣修には身内の事件に等しかったわけで、この覇《は》気《き》に富んだ刻苦精励の歌人・歌学者の精神的背景をうかがわせる。晩年は大病にたおれ、作風にも人生受容の優しい調べがめだち、風格が深まっている。「幼子」は孫だろう。微《ほほ》笑《え》ましい、小《こ》春《はる》日和《 び よ り》のような歌である。
(『昏々明々』)
とつぷりと後《うし》ろ暮れゐし焚《たき》火《び》かな
松《まつ》本《もと》たかし
たかしは明治三十九年(一九〇六)に、父祖代々宝《ほう》 生《しよう》流能役者の名門であった家に生まれた。父は名人長《ながし》である。たかしは病弱のため能を断念し、大正十年(一九二一)十六歳で虚《きよ》子《し》に師事、俳句に専念するようになった。しかし後年「夢に舞ふ能美しや冬《ふゆ》籠《ごもり》」という句があるように、能の世界は彼にとっては見果てぬ夢でもあった。そんな生いたちを反映して、彼の句には気品と抑《よく》制《せい》がある。焚火の火色に心を奪われて見入るうち、ふと気づくと背後はとっぷりと闇に暮れていた。子供の時代を回想した句かもしれない。懐かしい焚火の情景の中に、夜の妖《あや》しい雰《ふん》囲《い》気《き》を感じさせる。
(『松本たかし句集』)
牀《とこ》寒く枕《まくら》 冷《ひややか》にして 明《よあけ》に到《いた》ること遅し
更《あらた》めて起きて 燈《とう》前《ぜん》に独《ひと》り詩を詠《よ》む
詩《し》興《きよう》変じ来《きた》りて 感興をなす
身に関《かかは》る万《ばん》事《じ》 自《し》然《ぜん》に悲し
菅《すが》原《わらの》道《みち》真《ざね》
冬の夜、寝床に入っていても寒さを覚えるほどで、枕も冷たい。夜明けにはまだまだ間がある。仕方なく再び起き出て、灯火のもと詩を作ろうとする。ところが、詩句を案じるうちに気分が変わってきて、わが身の来《こ》しかた、行く末、さまざまな思いが湧《わ》きたって感慨にふけることになってしまう。どういうわけか、わが身に関わることはすべて、何がなし悲しみの色を帯びているのだ。「冬夜九詠」と題する七《しち》言《ごん》絶《ぜつ》句《く》九篇《へん》のうちの一篇。
(『菅家文草』)
家《いへ》毎《ごと》に柿吊《つ》るし干す高木村
住み古《ふ》りにけり夢のごとくに
久《く》保《ぼ》田《た》不《ふ》二《じ》子《こ》
「高木村」は長野県下《しも》諏《す》訪《わ》町高木。作者は同地に生まれ、昭和四十年(一九六五)七十九歳で没した。同じ高木村の久保田家の養《よう》嗣《し》子《し》俊《とし》彦《ひこ》、つまりアララギ派歌人の島木赤彦と結婚し、自らも「アララギ」に参加している。赤彦の上京中は共に東京に出て暮らしたこともあるが、赤彦は病を得て帰郷、そこで病没した。彼女は生涯の大部分をこの故郷で過ごすことになる。吊るし柿は晩秋初冬の山村の風物詩。その柿がいたる所で吊るされている故郷の村で「住み古りにけり夢のごとくに」。調べはなめらかだが、思いは深い。
(『庭雀』)
枯《かれ》蘆《あし》に曇れば水の眠りけり
阿《あ》部《べ》みどり女《じよ》
みどり女は昭和五十五年(一九八〇)、九十三歳で没した札幌生まれの俳人。大正初年から作句、虚《きよ》子《し》の主唱した写生の追求のため、森田恒友について素描を習い、春陽会展に六回連続入選もした。
写生句によってこれほど豊かな情感と艶を表現しえた女流も少ないと思われる。この句、曇天の枯蘆のもと、水がとろりと眠っている。ただそれだけの描写だが、ふしぎにふかぶかとした世界が立ち現れる。
(『微風』)
灯《ともし》火《び》のすわりて氷《こほ》る霜夜かな
松《まつ》岡《おか》青《せい》蘿《ら》
「すわりて」に漢字を当てれば、「坐る」とも「据わる」とも書けるだろう。灯火が一点にひたと位置を据えて動かぬ感じを、「すわりて」の一語が端的に表現している。
現代ではあまり注目されぬ素材となったが、森《しん》閑《かん》と静まり返った寒夜、ろうそくの火が孤影をまとって卓上にしんとたたずんでいるすがたは、和漢の詩歌の好素材だった。ほとんどの場合、孤独な夢想の同伴者として。
光厳院の秀歌に次の歌がある。右の句と好一対だろう。「ともし火に我もむかはず燈《ともしび》もわれにむかはず己《おの》がまにまに」。
(『青蘿発句集』)
ひだるさに馴《な》れてよく寝る霜夜かな
広《ひろ》瀬《せ》惟《い》然《ぜん》
「ひだるさ」は「饑さ」で、ひもじさ、空腹。惟然は斎《いん》部《べの》路《ろ》通《つう》同様、芭《ば》蕉《しよう》門の放浪の風狂者として知られた人。この句などその生活信条と実態をよくうかがわせるといえよう。
ひもじい時、まして冬の夜にはなかなか寝つかれないのに、自分はそれにも馴れてぐっすり眠るというのだ。一見零落のさまだが、むしろ生活水準を最低限に保ちつつ風流に生きる志を詠《よ》んでいる。
惟然は美濃国関の生まれ。元《げん》禄《ろく》元年(一六八八)、美濃国岐阜を芭蕉が訪れたとき芭蕉に面会して入門した。芭蕉に愛され、芭蕉が病没した時も終始その傍らにあって仕え、師の没後は追善の心をこめて諸国を行《あん》脚《ぎや》遍歴、奥羽、北陸から九州に至るまで、風《ふう》羅《ら》念《ねん》仏《ぶつ》という彼独特の念仏を唱えて回った。奇行に富み、口語調の句でも知られる。
(『惟然坊句集』)
里《さと》人《びと》の渡り候《さうら》ふか橋の霜
西《にし》山《やま》宗《そう》因《いん》
宗因は江戸前期の連歌師・俳《はい》諧《かい》師。西翁、梅翁などとも号した。元肥《ひ》後《ご》八《やつ》代《しろ》城主加藤正方の側近だが、京都に出て連歌師となり、余技の俳諧でもたちまち革新派の旗手としていわゆる談《だん》林《りん》俳諧の創始者となった。談林俳諧には当時大流行の謡曲の名文句をもじった句が多い。これも「景《かげ》清《きよ》」の一節「いかにこのあたりに里《さと》人《びと》の渡り候ふか」から句を取って、人懐かしい冬景色をたたえる。伝統に新味を加える一方法として引用句を活用している。
彼の俳諧は、和歌や謡曲の大胆なパロディー、見立ての斬新奇抜な面白さ、詠み口の軽快さなどに特長があり、大坂の西鶴や江戸の桃青(芭蕉)など、門人が輩出した。しかし晩年には、宗因はふたたび連歌に回帰している。「すひた事して遊ぶにはしかじ。夢《ゆめ》 幻《まぼろし》の戯《げ》言《げん》也」というのが、談林時代の宗因の立場だった。
(『梅翁宗因発句集』)
力つくして山越えし夢露か霜か
石《いし》田《だ》波《は》郷《きよう》
石田波郷は愛媛県垣《は》生《ぶ》村(現在松山市西垣生町)に大正二年(一九一三)に生まれ、昭和四十四年(一九六九)、五十六歳で没した。水原 秋《しゆう》桜《おう》子《し》の「馬《あ》醉《し》木《び》」でいち早く頭角を現したが、昭和十八年秋に応召、中国大陸で病を得、昭和二十年に大陸から送還され、兵役を免除された。以後、その早い死に至るまで「今生は病む生なりき烏《とり》頭《かぶと》」という自作の句に言う通り、病む時の方が多かった一生だった。
波郷は昭和二十三年秋、結核の第一次成形手術で右第一〜第四肋《ろつ》骨《こつ》を切除した。この句は手術の一週間ほど後の作。俳句の「切れ」は重要だが、この句における「夢」と「露か霜か」の間の切れは、特別深くて幽暗である。力の限りを尽くして死にあらがい、一つの山を乗り越えた夢。その夢から覚めたか覚めないかで感じとっている、ある冷たく透明な世界。現実と夢幻の間に漂う心。
(『惜命』)
冬が来た。白い樹《き》樹《ぎ》の光を体のうちに
蓄積しておいて、夜ふかく眠る
前《まえ》田《だ》夕《ゆう》暮《ぐれ》
口語自由律短歌とよばれるものである。「白い樹樹の光」を、たとえば雪を冠《かぶ》って白くなった樹木ととらえることもできないわけではないが、それだと詩的な面《おも》白《しろ》味《み》は薄れる。むしろ葉が落ちて裸《はだか》になった樹々に当たっている冬の日の光そのものを、「白い」と感じているのだろう。この歌は、白い樹樹の光を「体のうちに蓄積しておいて」というとらえ方も面白いが、それを受けて「夜ふかく眠る」とつづくところに、作者のすぐれた資質がよく出ている。詩句における昼から夜への移行が、歯切れのいい転換によって新鮮さとふくらみを生んでいる。
(『青樫は歌ふ』)
遠《とほ》山《やま》に日の当りたる枯《かれ》野《の》かな
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
明治三十三年(一九〇〇)十一月二十五日の虚子庵《あん》での例会の作である。当時虚子は二十六歳だが、この句は自らも認める代表作にふさわしく、静《せい》寂《じやく》枯《こ》淡《たん》の趣《おもむき》がある。俳句の本質は花鳥風月を諷《ふう》詠《えい》することにあると提唱し、方法としては写生を唱《とな》えた作者らしく、目前の枯野と彼方《 か な た》に連なる山、その山に雲の切れ目から射す日が当たっている。それだけの写生句である。しかし、遠山にぽつんと当たっている日《ひ》射《ざ》しに気づいた時、目の前の枯野は実に広々とした静かな大きさになって、逆に作者の心に沁《し》みてきたのである。気品が句の景色をひときわ大きく見せている。
(『五百句』)
失ひしわれの乳房に似し丘あり
冬は枯れたる花が飾らむ
中《なか》城《じよう》ふみ子《こ》
中城ふみ子は昭和二十九年(一九五四)、三十一歳で没した北海道生まれの歌人。乳《にゆう》癌《がん》手術に基づく五十首詠『乳房喪失』で一躍歌壇の話題を集めたが、歌集刊行直後逝去した。
奔放な情感と醒《さ》めた死生観で女盛りの短い命の歌を歌い、表現は時に独善的なまでに独特である。乳房を失った女が丸い丘に見ている乳房の幻。冬には「枯れたる花」がそこに咲いて丘を飾るだろう。作者の眼はすでに死後の山河を見ている。
(『乳房喪失』)
枯《かれ》野《の》哉《かな》つばなの時の女《をんな》櫛《ぐし》
井《い》原《はら》西《さい》鶴《かく》
元《げん》禄《ろく》六年(一六九三)、五十二歳で没した近世最大の小説家西鶴は、十代半ばから俳《はい》諧《かい》を作り、西《にし》山《やま》宗《そう》因《いん》に師事、談《だん》林《りん》派新風の俊《しゆん》英《えい》だった。一定時間内に独《どく》吟《ぎん》連《れん》句《く》(通常複数で行う連句を独《ひと》りで作るもの)の数を競う俳諧大《おお》矢《や》数《かず》に長じ、とりわけ四十三歳の時には一昼夜二万三千五百句独吟を住《すみ》吉《よし》の社頭で興行、世間を驚《きよう》倒《とう》させた。この句は、冬の枯野を歩いていて、ふと女櫛を見つけた思いを詠《よ》む。チガヤの小さな穂花(つばな)が咲く春の頃、花つみに来た女人の落としていった櫛にちがいない。春から冬へ、一本の櫛が見落とされたまま経過した時間。寂《さび》しい冬景色に一点艶《えん》を見る晩年の作である。
(『渡し舟』)
枯《かれ》野《の》くるひとりは嗄《しやが》れし死者の声
河《かわ》原《はら》枇《び》杷《わ》男《お》
冬の枯野をやってくる何人もの人間。中のひとりは、しゃがれた死者の声で話しているというのである。あるいは「嗄れし死者の声」そのものが、人間の姿をして向うからやってくるのかもしれない。超現実的なリアリティがそこにとらえられている。人間の生と、生の背後に闇《やみ》のように存在する、しかしそれもまた人間の世界としかいいようのないものに向かって、作者はシンボリックな手法でせまっている。俳句が時に幻想の領域にまで深く関わる表現をなしうる一例といえよう。
(『閻浮提考』)
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
芭蕉最後の吟。彼は元《げん》禄《ろく》七年(一六九四)旅先の大坂で発病、各地の門人がかけつけてみとる中で、十月十二日逝去した。これは八日の作。しかし、辞世を意識した句ではない。
弟子がおそるおそる枕《ちん》頭《とう》に近づき、師に辞世の吟を乞《こ》うと、芭蕉は、私は辞世の句を特に作るようなことはしないよ、私の折々の句はすべて辞世だと思っている、と答えたという話が伝わっている。
俳《はい》諧《かい》への執念の人はまた、それを妄《もう》執《しゆう》として刻々に断ち切ることを念じた人でもあった。それゆえ、この句は辞世の吟である。
(『笈日記』)
草《くさ》枯《かれ》や海《あ》士《ま》が墓皆海に向く
石《いし》井《い》露《ろ》月《げつ》
露月は昭和三年(一九二八)、五十五歳で没した秋田県生まれの俳人である。文学を志して上京、正岡子《し》規《き》に師事し、子規門の有力俳人となったが、医学に転じて、明治三十二年(一八九九)郷里に帰り医院を開業した。心ひそかに期するところがあって、都会とは違う東北の自然に即した俳風の創造につとめた。朴《ぼく》訥《とつ》飄《ひよう》逸《いつ》な人《ひと》柄《がら》は馬に乗って病家の診療に廻《まわ》ったりして人々に親しまれたという。
草木の枯れた冬の日本海を羽《う》越《えつ》線の車中から眺《なが》めた時の印象で晩年の作である。漁夫たちの墓が、みな海へ向かって立っている草枯れの風景。墓の主《ぬし》たちのなりわいとの関わりが、句に哀《あわ》れ深い風《ふ》情《ぜい》を与えている。
(『露月句集』)
はつとしてわれに返れば満《まん》目《もく》の
冬草山をわが歩み居《を》り
若《わか》山《やま》牧《ぼく》水《すい》
牧水は酒と旅の詩人とよくいわれる。たしかにそうだったが、彼は今《こん》日《にち》さかんな観光旅行の旅人ではなかった。思いつめて旅にとび出し、山間を歩み、水辺をさまよい、常に何ものかを追いつつ、結局は放心の旅であるような、そういう旅をしつづけたように思われる。酒にしても、たしかに酒好きではあったが、印象としては、のめりこむように酒を飲んだ人のように思われる。心に何かしら満たされぬものを抱《いだ》きつづけて生き急いだ人だった。この歌にもそういう牧水がいる。現実の生活ではこの若者は当時苦しくてたまらない恋をしていたのだ。
(『路上』)
枯《か》れにける草はなかなか安げなり
残る小《を》笹《ざさ》の霜《しも》さやぐころ
賀《か》茂《もの》真《ま》淵《ぶち》
「なかなか」はかえっての意。「さやぐ」はざわめく。小笹はまだ枯れきらず、霜をかぶったまま冬の寒風に吹きさらされて、どこか不安げにざわめいている。そんな光景を見ると、すでに枯れはてて地べたにくたりと横たわっている草は、かえって安らかに見えるというのである。このささやかな発見が一首の眼目だが、ささやかであるだけにむしろ新鮮な感じがする。短歌とか俳句とかが、長い歴史を経て今なお愛《あい》誦《しよう》され、作られている理由も、おそらくこれと無関係ではあるまい。真淵は江戸中期の国学者だが、歌人としてもすぐれていた。
(『賀茂翁家集』)
枯《かれ》枝《えだ》ほきほき折るによし
尾《お》崎《ざき》放《ほう》哉《さい》
放哉は大正十五年(一九二六)、小《しよう》豆《ど》島《しま》の庵で四十一歳で没した鳥取県生まれの自由律俳人。若い頃の恋愛の破《は》綻《たん》、その後の社会生活への失望から、大正十二年、いっさいを放《ほう》棄《き》して世を逃《のが》れ、寺男や堂《どう》守《もり》として諸所の寺に転住した。句歴は大正四年以降だが、表現を削り、一《ひと》息《いき》をもって物の核心にせまろうとする晩年二年間の句に秀作が多い。これもその一つ。
「ほきほき」はどう置き換えようもないみごとな表現である。枯れ枝の折れる音が、軽く、寂しく、透明な音になって響く。
(『大空』)
咳《せき》をしても一人
尾《お》崎《ざき》放《ほう》哉《さい》
放哉は種《たね》田《だ》山《さん》頭《とう》火《か》と共に、荻《おぎ》原《わら》井《せい》泉《せん》水《すい》を先導者とする口語自由律句の代表作者だった。二人が世捨て人だったことと、伝統的な五七五の俳句形式を離れてしまったこととは、たぶん密接に結びつく事柄だろう。「一人」であるとき、句は定型を順守する必要がなくなるのだと思われる。
だがたとえば右の句が三・三・三から成るように、まったくの無形式ではない。彼らの自由律は「咳をしても一人」の境涯に耐えうる人のための詩形だった。
(『大空』)
一枚の落葉となりて昏《こん》睡《すい》す
野《の》見《み》山《やま》朱鳥《 あ す か》
朱鳥は虚《きよ》子《し》門に学び、昭和四十五年(一九七〇)、五十三歳で没した。青年期から肺患で久しく療養したが、俳誌を主宰、画家としても一家をなした。画家らしく句は色感に富み、ややあくの強い心象表現が特色だが、晩年、心境の澄みが句に深みをもたらした。
右は最晩年の作。病《びよう》臥《が》の身を一枚の落葉と見ているが、「昏睡す」が「落葉」のイメージと響き合って、言い知れぬ寂《せき》寥《りよう》を生む。なお「朱鳥」の号をアスカと自ら呼んだのは異例の読み方。
(『野見山朱鳥全句集』)
冬《ふゆ》枯《がれ》や平等院の庭の面《おも》
上《うえ》島《じま》鬼《おに》貫《つら》
宇治の平等院にちなむ句では、これが最も有名な作だろう。
平家追討に敗れた武将源《げん》三《ざん》位《み》頼《より》政《まさ》がここで自刃した故事を踏み、しかも句の三分の二が謡曲「頼政」の引き写しという放れ業《わざ》。すなわち、「ただ一筋に老武者の、これまでと思ひて、平等院の庭の面、これなる芝の上に、扇をうち敷き」自刃する一節である。
平安末期の武将にして大詩人だった頼政への哀悼を、「冬枯や」一語に言いとめ、深い余情を漂わす。
鬼貫は摂津国伊丹の酒造業上嶋家に生まれたが、遠祖は藤原秀《ひで》郷《さと》(俵藤太)に出るといわれ、奥州の名門藤原氏につながるという自負と誇りが鬼貫の一生を貫く自立的精神を支えていたと見られている。源三位頼政の面影を引くこの句の作者であったことも、単なる偶然とはいえないような、粛然とした高雅な雰囲気をたたえた句である。
(『鬼貫句選』)
冬の蝶《てふ》睦《むつ》む影なくしづみけり
西《にし》島《じま》麦《ばく》南《なん》
春に舞いはじめるころの蝶は、二、三びきひらひら戯れ合うように花から花へ飛び回ることも多い。だがこの句の冬の蝶は、睦み合う相手の影もなく、視野の外へひとり静かに沈んでゆく。「孤影」という言葉そのもののような蝶である。「しづみけり」が含みの多い表現で、単に蝶が飛びながら姿を消したというにとどまらぬ、柔らかで深い気分を表現している。
麦南は明治二十八年(一八九五)熊本に生まれ、昭和五十六年(一九八一)八十六歳で逝去した飯田蛇《だ》笏《こつ》門の俳人。大正七年(一九一八)武《む》者《しやの》小《こう》路《じ》実《さね》篤《あつ》の「新しき村」運動に共鳴して参加、三年間在村した。大正十三年、岩波書店に入社し、校正一筋につとめあげ、「校正の神様」と呼ばれたという。俳句は草創期の「雲母」に参加、飯田蛇笏の最も忠実な弟子であり続けた。
(『西島麦南全句集』)
ふりむけば障《しやう》子《じ》の桟《さん》に夜の深さ
長《は》谷《せ》川《がわ》素《そ》逝《せい》
昭和二十一年(一九四六)三十九歳で没した「ホトトギス」の俳人。砲兵将校として中国大陸を転戦、胸を病んで内地送還となり、長い闘病生活をおくった。
「障子」は冬の季語だが、近年になってのものである。この句は、障子の季感がいかにも冬のものである感じをよく伝えている。しんしんと深い冬夜の感触を「障子の桟」というこまやかな物によってとらえた着想もさることながら、「ふりむけば」に一種の無《ぶ》気《き》味《み》な鋭さがある。
(『定本素逝句集』)
雪《ゆき》
上《うえ》田《だ》秋《あき》成《なり》の歌は時雨《 し ぐ れ》の項にも雨の歌を一首引いたが、秋成は物質の冴《さ》えわたった性質や形状、清《さや》かに引き緊《し》まったたたずまい、雪や氷の静けさ、またその静けさのうちにひそむ動勢といったものにとりわけ惹《ひ》かれる気質を持った歌人だったように思われる。そのため冬の歌がなかなかいい。
古来日本のおびただしい和歌集にあって、四季の歌といえば何といっても春秋が歌の数も多く、名歌の数もまた多かったのに、冬季の歌が最も印象的であるという秋成の特質は、他の季節の歌が冬季の歌にくらべてひどく劣《おと》るというわけではないにしても、注目すべきことと思われる。歌文集『藤簍《 つ づ ら》冊《ぶ》子《み》』から興味深い歌を引こう。
霙《みぞれ》
みぞれふり夜のふけゆけば有《あり》馬《ま》山《やま》
いで湯の室《むろ》に人の音《と》もせぬ
冬月
雪ふると見し夜の雲は名《な》残《ごり》なく
はれてふけゆく月のさやけさ
池の面にとづるとぞ見し月《つき》影《かげ》は
空にさやけくこほる暁《あかつき》
更《さら》科《しな》や姨《をば》捨《すて》山《やま》の風さえて
田ごとにこほる冬の夜の月
雪
故《ふる》郷《さと》はいかにふりつむけふならん
奈良の飛鳥《 あ す か》の寺の初雪
一《ひと》年《とせ》の昔にたえし山里を
けふ訪《と》はずばと雪ふみまよふ
大原のをかのお神《がみ》が降らす雪
大和《 や ま と》国はら道もなきかな
杉が上《へ》を雲は走りて吉《よし》野《の》なる
樫《かし》の尾の上に斑《はだれ》雪《ゆき》ふる
大空を打《うち》傾《かたぶ》けてふる雪に
天《あま》の河原はあせにけむかも
雪深し
根《ね》芹《ぜり》生《お》ふ田《た》井《ゐ》の水《み》渋《しぶ》の色ながら
こほれる上に雪のつもれる
たとえば最初の「みぞれふり……」の歌。これは、みぞれが降ってしんしんと凍《い》てつくような深更の有馬温泉の、人《ひと》気《け》の絶えた森《しん》閑《かん》たる趣《おもむき》をうたっているが、この何《なに》気《げ》なく詠《よ》まれた歌の面《おも》白《しろ》味《み》は、「人の音もせぬ」と思いながら、ひとり深夜の湯にひたっている作者自身、そして彼をとりまく山中の静寂というものが、よむ者の心に自然に伝わってくるところにあろう。「大原のをかの……」「杉が上を雲は……」、あるいは「大空を打傾けて……」といった大景をうたう時にも、朗々として渋滞するところのないうたいぶりが印象的である。これは、自由な心で言葉の世界に遊ぶ作者だけが持ち得る、生気ある大らかさというべきだろう。
雪といえば、『古《こ》今《きん》集《しゆう》』の冬の歌には吉野の雪をうたったものが目立つ。天《てん》武《む》天皇と縁の深い吉野は、奈良朝文化からさまざまな影響を受けた平安貴族たちにとっても、心のふるさとを感じさせる場所だったと思われる。奈良よりさらに奥に控えている吉野の名は、奥深い里として神秘的な地名であった。事実、この世をのがれた修《しゆ》験《げん》者《じや》の修《しゆ》行《ぎよう》の場でもあったから、当時の人々が、吉野に降る雪に独自な風《ふ》情《ぜい》を感じたことは深い意味がある。
ゆふされば衣《ころも》手《で》さむしみ吉野の
吉野の山にみ雪ふるらし
よみ人しらず
ならの京《みやこ》にまかれりける時に、やどれりける所にてよめる
みよしのの山の白雪つもるらし
ふる里さむくなりまさるなり
坂《さかの》上《うえの》是《これ》則《のり》
みよしのの山の白雪ふみわけて
入《い》りにし人のおとづれもせぬ
壬《み》生《ぶの》忠《ただ》岑《みね》
いずれも『古今集』巻六の冬歌である。忠岑の「みよしのの山の白雪ふみわけて入りにし人のおとづれもせぬ」という歌の、「入りにし人」というのは、山の白雪を踏《ふ》みわけて修《しゆ》行《ぎよう》のために山に入っていった人。どこからも、おとずれがない、便りもない、そういう奥深い山で雪に閉じこめられながら修行している人の姿を思いやっている歌である。
また同じ『古今集』巻六には、『百《ひやく》人《にん》一《いつ》首《しゆ》』にとられている、坂上是則の吉野の歌も見える。
大和《 や ま と》の国にまかれりける時に、雪の降りけるを見てよめる
朝ぼらけ有《あり》明《あけ》の月と見るまでに
吉野の里にふれる白雪
坂上是則
「まかる」というのは退去するという意味で、ここでは、是則が京から大和に下ったことをさす。大和の吉野で、旅寝の朝、目をさましてみると外がぼうっと明るんでいる。有明の月の光がさしこんでいるのかしら、といぶかって見ると、夜の間に一面に薄《うす》雪《ゆき》が降りしいていたのだった。という感動が作のモチーフである。
坂上是則は、坂上田《た》村《むら》麻《ま》呂《ろ》(平安初期の武将、征《せい》夷《い》大将軍として蝦夷《 え み し》を平定した)の四代の孫好《よし》蔭《かげ》の子とされ、『後《ご》撰《せん》集《しゆう》』の撰者、望《もち》城《き》の父である。
近代歌人の中で、冬歌にすぐれた作を遺《のこ》している筆頭は、北海道に深いゆかりのある石《いし》川《かわ》啄《たく》木《ぼく》ではないだろうか。
しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧《くし》路《ろ》の海の冬の月かな
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
いずれも『一《いち》握《あく》の砂《すな》』(明治四十三年刊)にある歌だ。故郷岩手県の渋《しぶ》民《たみ》村を去った啄木は北海道にわたり、函《はこ》館《だて》、札《さつ》幌《ぽろ》、小《お》樽《たる》、釧路など各地を転々とした。これらの歌は、極《ごつ》寒《かん》の釧路に職を求めて到着した時のことを、のち東京にあって想い起こしつつ作った歌である。啄木には「しらしらと」の歌のような純粋な叙景歌は珍《めずら》しく、悶《もん》々《もん》の思いを無《む》造《ぞう》作《さ》な表現で短歌に盛ったものが多い。
初雪の畳ざはりや椶《しゆ》櫚《ろ》 箒《はうき》
川《かわ》井《い》智《ち》月《げつ》
川井智月は芭《ば》蕉《しよう》の葬儀の時、弟乙《おと》州《くに》の妻とともに芭蕉の浄衣を縫ったという。芭蕉の忠実な女弟子の一人だった。
初雪の積もった朝、棕《しゆ》梠《ろ》の毛を束ねて作った箒で、人の通る玄関先や石畳を掃いていると、まるで畳の上を掃いているのとそっくりな感じがするというのである。
「畳ざはり」という、いかにも細やかな物質感と生活感のある言葉で、初雪の印象を捉《とら》えた所がいい。
(『玉藻集』)
初雪を誉《ほ》めぬむすこが物《もの》に成《なり》
武《む》玉《たま》川《がわ》
初雪を誉めるような風流心がある息子では、とても商売人として成功はおぼつかないというのである。せちがらい考え方と思えるが、江戸時代の勤勉な町人気質の一面をよく示している句である。
一方働くだけが能といったそういう人物を軽《けい》蔑《べつ》するのも、町人気質のもう一つの面だった。
『武玉川』は江戸座俳《はい》諧《かい》宗《そう》匠《しよう》の慶《けい》紀《き》逸《いつ》の撰《せん》した俳諧付《つけ》句《く》秀《しゆう》逸《いつ》集で、五七五あり七七あり、いずれも人情の機微をうがって興味深い句が多く、大いに好評を博した。やがて川《せん》柳《りゆう》が発生してくるのも、こういう地固めがあってのことだった。
世《よの》間《なか》は霰《あられ》よなう 笹《ささ》の葉の上の さらさらさつと 降るよなう
閑《かん》吟《ぎん》集《しゆう》
「降る」に同音の「経る」をかくして、世の中は、あられが笹にさらさらさっとあとも残さず流れ落ちるようなもの、とうたう。
室《むろ》町《まち》期の小《こ》歌《うた》は一《ひと》節《よ》切《ぎり》の尺八を伴奏楽器としてうたわれたもので、形式、律調ともに変化に富んでいる。つぶやきに近い述懐もあれば対《つい》句《く》調の表現もあり、題材は恋愛歌が多い。庶民感情が微妙な陰影をもってうたわれ、無常感や、そこから生じる諦《てい》念《ねん》、享楽主義などが、俗語、擬《ぎ》態《たい》語、擬《ぎ》声《せい》語などを用い、省略技法を駆使して鮮やかに表現されている。
呼《よび》かへす鮒《ふな》売《うり》見えぬあられかな
野《の》沢《ざわ》凡《ぼん》兆《ちよう》
鮒を売って歩く男の威勢のいい声がする。急いで戸をあけて「おーい」と呼びかえすのだが、どちらへ行ってしまったのか、影も形も見えない。曇った冬空から激しくあられが降りしきっている。なあんだ、と拍《ひよう》子《し》抜《ぬ》けするが、おかしくておのずと笑いがこみあげてくる。あられは激しく降って鮒売りの姿をさえぎり、鮒売りは鮒売りで足を早めてすたすた駆《か》け去ってしまったのだ。
凡兆は近代の写生俳句の祖といってもいいほど印象鮮明な句を作る元《げん》禄《ろく》の名手だった。芥川龍之介のような近代の作家・俳人を魅了し、影響も与えたみごとな写生句を作った。
(『猿蓑』)
山や雪知らぬ鳥鳴く都かな
心《しん》敬《けい》
山はもう雪なのだろうか、山から降りてきたらしい知らぬ鳥が、都で鳴いているではないか、という意味に一応とってよかろうが、そのように理由づけをしてよむとただそれだけの句になってしまうおそれがある。むしろ、知らぬ鳥が都に鳴いている事実と、山は雪だろうかという思いとが、それぞれ不即不離の関係において並べられていると考えた方が趣《おもむき》があろう。
心敬は室《むろ》町《まち》時代の歌僧で連《れん》歌《が》の理論の大《おお》立《だて》物《もの》だった人。その弟《で》子《し》の有名な連歌師宗《そう》祇《ぎ》の著『吾《あ》妻《づま》問《もん》答《どう》』に、「比類なき風《ふ》情《ぜい》」の句の例としてこの句があげられている。同書によるとこれは連歌の発《ほつ》句《く》として作られたものである。
(『吾妻問答』)
しんしんと寒さがたのし歩みゆく
星《ほし》野《の》立《たつ》子《こ》
高浜虚《きよ》子《し》の次女として生まれた立子は自由闊《かつ》達《たつ》な才能を父からも大いに愛された。十代後半から句を作りはじめ、「まゝ事の飯もおさいも土筆《つくし》かな」がその処女作だという。眼前の出来事をそのまま句にしてそこに俳味が横《おう》溢《いつ》しているのはみごとなもの。
右の句は立子二十九歳当時の作で、気持ちの若々しい躍動をあやまたず句の中に盛りこむことに成功している。無《む》造《ぞう》作《さ》にみえて実際には類例の少ない俳句だろう。作者の資質の貴重さを示しているものだ。
(『立子句集』)
足《あし》軽《がる》のかたまつて行く寒さかな
井《いの》上《うえ》士《し》朗《ろう》
士朗は江戸後期の俳人。尾《お》張《わり》生まれ、名古屋で産科医を開業し、医名を専《せん》庵《あん》といった。琵《び》琶《わ》を善《よ》くし、国学を本《もと》居《おり》宣《のり》長《なが》に学び、俳《はい》諧《かい》は当時蕪《ぶ》村《そん》よりはるかに声名のあった暁《きよう》台《たい》に師事した。
足軽とは最下位の武士で、戦場では粗《そ》末《まつ》な足軽具《ぐ》足《そく》をつけて歩兵となり、平時は走り使いの雑《ざつ》役《えき》に従事した。足軽の意味は足軽く疾走する者というのである。
冬のうそ寒い町なかを足軽が寄り添《そ》い合ってひたすら歩いてゆく。かたまって急ぎ足で通り過ぎるその無言の群れに、冬の寒さはひとしおである。
(『縦のならび』)
クレヨンの赤青の雪降らせゐる
四歳《 よ つ つ》の姉と三《み》歳《つ》のおとうと
石《いし》川《かわ》不《ふ》二《じ》子《こ》
赤や青の色で雪を描いている四歳の姉と三歳の弟の無心の遊びは、大人にとって微《ほほ》笑《え》ましいものに映る。雪は白いという常識があるからだ。
けれども、その時二人の子どもにとっては、雪の色は赤のクレヨン、青のクレヨンが示してくれる赤や青の色以外の何ものでもない。白との比較対照というような弁別作用は、絵に夢中な幼童にはないのである。そういう子どもを眺《なが》めていると、いとしさ、いじらしさ、そして淡《あわ》い哀《あい》愁《しゆう》のごときものも湧《わ》く。
この歌で作者はどんな感情表現をも表面的にはしていないが、それがかえってさまざまな思いを誘《さそ》う。歌というものの不思議さであろう。
(『牧歌』)
更《ふ》くる夜や炭もて炭を砕《くだ》く音
大《おお》島《しま》蓼《りよう》太《た》
夜更け、火鉢に火をつぐため、炭を炭でたたいて折る。高く響《ひび》く音に、冬の夜のひきしまった寒さがある。
蓼太は江戸時代中興期の俳人。出身地には諸説あるが、江戸に出て藤屋平助と称して幕府御用の縫《ぬい》物《もの》師《し》であった。江戸の俳《はい》諧《かい》宗《そう》匠《しよう》 雪《せつ》 中《ちゆう》 庵《あん》二世の吏《り》登《とう》に師事、雪中庵三世を継《つ》いだ。
宝《たから》井《い》(榎《えの》本《もと》)其《き》角《かく》の流れを汲《く》む豪《ごう》放《ほう》華《か》麗《れい》、洒《しや》脱《だつ》な機智を特徴とする江戸座一派に対抗して、蕉《しよう》門《もん》の服《はつ》部《とり》嵐《らん》雪《せつ》(別号雪中庵・吏登の師)一門の興隆につとめた。芭《ば》蕉《しよう》の顕彰に尽力するとともに、俳壇の一大勢力となって、いわゆる天《てん》明《めい》の復興の立《たて》役《やく》者《しや》となった。
(『蓼太句集』)
沫《あわ》雪《ゆき》のほどろほどろに降り敷けば
平《な》城《ら》の京《みやこ》し思ほゆるかも
大《おお》伴《ともの》旅《たび》人《と》
大《だ》宰《ざい》府《ふ》長官として赴任していた旅人が、沫雪の日、故郷奈良の都を思って歌う。「ほどろ」のホドはホドクなどのホドと同じだという。あわあわと降る雪の形容としていかにもぴったりくる。ホドロホドロとくり返す音調がいい。作者の天性の詩才を感じさせる。
雪が降り敷くのを見ると、人はふしぎに澄んだ気持ちになるものだが、それが望郷の念を自然によび起こしているのも、心の動き方としてよくわかり、共感を誘う。
旅人は古代豪族の一門として、とりわけ武門の名門である大伴家の当主として、一方の藤原家の隆々たる勢いをもった台頭ぶりには、たぶん強い危機感をもっていただろう。大宰府長官として遠く九州に逐《お》いやられたという意識も彼の中にはあったと考えられる。そういう人物が「平《な》城《ら》の京《みやこ》」を強い望郷の念とともに歌っているのである。
(『万葉集』)
人影を雪間に遠く見出でつつ
わが訪《と》はるるに定めてぞ待つ
野《の》村《むら》望《ぼう》東《とう》尼《に》
望東尼は幕末の女流歌人、勤皇家。名はもと。福岡藩士野村貞貫の後妻となったが、愛する夫に先立たれ、剃《てい》髪《はつ》した。
高《たか》杉《すぎ》晋《しん》作《さく》、西《さい》郷《ごう》隆《たか》盛《もり》ら志士と交わり、捕えられて姫島に流されもした。この配所での日記も残る。行動は男まさりの女傑だが、優しい情感の流露する歌を作った。
雪の晴れ間に遠く人影を見たのである。ああ、あれはきっと私を訪ねて来る人、とそう心に決めて心待ちにしている。人懐かしさがにおうような歌である。
(『向陵集』)
おうおうといへど敲《たた》くや雪の門《かど》
向《むか》井《い》去《きよ》来《らい》
去来は師の芭《ば》蕉《しよう》が興じて「関西の俳《はい》諧《かい》奉《ぶ》行《ぎよう》」とよんだほどの、蕉門最高の弟子の一人。嵯《さ》峨《が》野《の》の落《らく》柿《し》舎《しや》の旧主。
青年時代武芸を修めたが、もともとは儒学の家柄で、みずからも師の俳論を祖述した『去来抄《しよう》』その他重要な著述を残した。後世の蕉風理解の基礎を作ってくれた恩人である。
この句、代表作として有名である。降りしきる雪の日の訪問者。内から「おうおう」と答えても、待ちきれぬのか聞こえぬのか、せわしく門を叩《たた》き続ける。
(『去来発句集』)
本買へば表紙が匂《にほ》ふ雪の暮《くれ》
大《おお》野《の》林《りん》火《か》
こういう句は青年時代でなければ作れまいという感じがする。本を買うことそのものに、一種の心のときめきを感じる年齢の句だろう。雪の暮れに買った新刊本の表紙がかすかににおっている、そんな小さな発見にさえ満ち足りて帰りを急ぐ青年。
この句を収める『海門』は第一句集だが、この句と同時期の作に「霜夜来し髪のしめりの愛《かな》しけれ」という愛の句もあり、ういういしい感傷が貴重な味わいとなっている。
大野林火は明治三十七年(一九〇四)横浜に生まれ、昭和五十七年(一九八二)七十八歳で死去した。臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》の門人で、「石楠《しやくなげ》」の有力同人となり、のち昭和二十一年(一九四六)「濱《はま》」を創刊主宰した。「俳句研究」や「俳句」の編集をつとめ、新進俳人たちを育てあげた功績は大きい。
(『海門』)
あげまきがうかるる声もおもしろし
ふれふれ粉《こ》雪《ゆき》山つくるまで
加《か》納《のう》諸《もろ》平《ひら》
諸平は本《もと》居《おり》宣《のり》長《なが》の学統を継いだ幕末の歌人・国学者。宣長系の学者の中ではたぶん最も詩人的素質に恵まれていた人。
「あげまき」は子ども。童《わらべ》らが大喜びして叫ぶ声に、さあ地上にこんもり山となるまで降りつもれと粉雪によびかけている。
兼《けん》好《こう》の『徒《つれ》然《づれ》草《ぐさ》』百八十一段に、「ふれふれこゆき、たんばのこゆき」という古くからの童謡の話題があるが、諸平はそれをも踏んで歌ったのかもしれない。
(『柿園詠草』)
雪に来て美《み》事《ごと》な鳥のだまり居る
原《はら》 石《せき》鼎《てい》
出世作の一つ「頂上や殊《こと》に野菊の吹かれ居り」もそうだったが、石鼎は自然界の一点を押さえ、周囲を大胆に省略して対象をきわだたせる才能において抜群だった。これは後期の昭和九年(一九三四)作。無造作でいて華やか、まさに練達の芸である。ところでこの鳥は何鳥だろうか。「美事な」の形容からして、五《ご》位《い》鷺《さぎ》などある程度の大きさの鳥だろうが、枝の上にいるのか、地上にいるのか、それについてすら、作者自身が「だまり居る」のが心憎い。
石鼎は明治十九年(一八八六)島根県塩《えん》冶《や》村(現出雲市塩冶町)に生まれ、昭和二十六年、六十五歳で没した。医学校に入学したが中途で退学、吉野で一時期村の診療所をあずかりなどしながら俳句を作り、高浜虚《きよ》子《し》に激賞され、結局ホトトギス社に入社した。しかし長続きせず、やがて俳誌「鹿《か》火《び》屋《や》」の主宰者となった。神経衰弱の徴候など、病で苦しんだ人。彼の句は神経の鋭敏な人が美意識を張りつめて作っていることが実感される。
(『花影』)
闘うて鷹《たか》のゑぐりし深《み》雪《ゆき》なり
村《むら》越《こし》化《か》石《せき》
村越化石は大正十一年(一九二二)、静岡県生まれの俳人。大野林《りん》火《か》門。青年期にハンセン病を発病、一眼を失い、第一句集『独眼』を出す。のちには残る一眼も失明。この句を収める句集『山国抄』は失明後の第二句集である。
俳号は、自らを化石となってしまった存在と見なす覚悟を示すものだが、それだけに俳句にひたすら打ち込んだ。積もった雪の上で闘い合う鷹が、雪を翼でえぐる。その激しさを、見えない目の奥で、激しく感じている。
(『山国抄』)
となん一つ手紙のはしに雪のこと
西《にし》山《やま》宗《そう》因《いん》
江戸前期の連歌師・俳《はい》諧《かい》師。蕉《しよう》風《ふう》興隆以前に、軽妙な口調、奇抜な着想で人気を得た談《だん》林《りん》派俳諧の祖。
「となん」は「何々となん」の何々が略されたもの。手紙を書き終えて、折からの雪景色のことをちょっと書き添えたというのが句意。ただし雪の様子をどんな風に描写したかはわざと省き、読者の想像に任せる形をとっている。意表をつく談林風の造り。この軽やかさが受けた。
(『梅翁宗因発句集』)
竹ほど直《すぐ》なる 物はなけれども
ゆきゆき積《つも》れば 末はなびくに
隆《りゆう》達《たつ》小《こ》歌《うた》
「ゆきゆき」は「雪々」に「行々」をかけている。いかにまっすぐ立っていようとも、雪が積もれば竹だとてしまいには枝を垂《た》れなびかせる。同じようにあのひとだって、このおれが行き行き繁《しげ》く通《かよ》えばそのうちには……。
『隆達小歌』は、室《むろ》町《まち》末期、堺《さかい》の富商の家に生まれ、若くして出《しゆつ》家《け》した高《たか》三《さぶ》隆達という粋《いき》な教養人が集録した当時の流行小歌の集である。歌謡の通性で恋の歌が多いが、これもその一つ。
是《これ》がまあつひの栖《すみか》か雪五尺
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
「柏《かしは》原《ばら》を死所と定めて」と前《まえ》書《がき》があるように、十代半ばで北信《しな》濃《の》の郷里柏原を出た一茶は、漂泊三十六年を経て、肉親縁者との紛争多い故郷に帰住した。これはその時の吟《ぎん》である。
肉親や親族たちとのさまざまな葛《かつ》藤《とう》曲折の末ようやく家郷を再び見出したというのに、これはまた何たる死場所であろうか、雪は深々と五尺も積もって。
日本全土の中でもとくに積雪の多い地方に生まれた一茶の晩年の眼には、詠《えい》嘆《たん》の向うにぽかっとひらかれた空虚な明るさも同時に見えているようである。
(『七番日記』)
雪山の道おのづからあはれなり
猪《しし》は猪の道杣《そま》は杣の道
穂《ほ》積《づみ》 忠《きよし》
雪の降り積もった山を詠《よ》んだ歌は古来数多いが、その光景の「あはれ」深さをこの歌のような観点から詠んでいる作はほとんど思い浮かばない。
「杣」は木《き》樵《こ》りのこと。音絶えた白一色の世界。猪は猪の道を、人は人の道を通ってゆき、その痕《こん》跡《せき》をありありと残している。おのおのの痕跡は、いわば生命がそこを通ったことを示すものだが、何と寂しく、そして懐《なつ》かしい光景であろうか。
作者は北《きた》原《はら》白《はく》秋《しゆう》、ついで釈《しやく》迢《ちよう》空《くう》の二人を師とした人で、この代表作も歌風は白秋、取材は迢空の血脈を引くことを感じさせる。
(『雪祭』)
いくたびも雪の深さを尋《たづ》ねけり
正《まさ》岡《おか》子《し》規《き》
「病中雪」と前《まえ》書《がき》のある四句のうちの一つ。
子規は青年期に得た結核のため、多年病《びよう》臥《が》の身であった。晩年には脊《せき》椎《つい》カリエスからくる腰痛でほとんど病床を離れ得ぬほどの重症となった。
この句は、東京に大雪が降った日、戸外の景《け》色《しき》を思いえがきつつ、看護の母や妹に、何度も雪がどれほど積もっているかたずねているのだ。戸外のさまを空想している病人の心のはずみ、あこがれが、俳句の省略された語法の中でいきいきと伝わってくる。
(『寒山落木』)
ゆきふるといひしばかりの人しづか
室《むろ》生《う》犀《さい》星《せい》
この句の「場」を考えてみると、「雪が降っていますね」といった「人」も、それを聞いている相手、すなわち句の作者自身も、部屋の中にいて、おそらくは障《しよう》子《じ》も閉めきったまま静かに対座しているのだろう。
あるいは別の情景も考えられるだろうが、いずれにせよ、雪が降るのをじかに目撃しているのではない。障子の外側の世界を鋭《えい》敏《びん》に感じとって、ひとこと発したまま、また黙ってしまった人。そのため、部屋の中には充ち足りた情感の世界が一層濃《こ》く形づくられてゆく。
「人」は女性でなければなるまい。
(『犀星発句集』)
降る雪や明治は遠くなりにけり
中《なか》村《むら》草《くさ》田《た》男《お》
草田男の数多い句の中でもとりわけ有名な作。今では作者名さえ知らずにこの句を口にしている人も多かろう。
句の由来は、昭和六年(一九三一)、作者が二十年ぶりに東京で小学校上級生当時通学した母校青南小学校(東京、青山高《たか》樹《ぎ》町《ちよう》在住当時)を訪《たず》ね、往時を回想して作ったものという。
初案は「雪は降り」だった。「降る雪や」という上《かみの》句《く》が、「明治は遠く」という中七に、離れつつ大きく転じてゆくところにこの句の秘密があり、有名になりすぎたにもかかわらず、あるういういしい感《かん》慨《がい》の所在が紛《まぎ》れずに保たれているのもそのためだろう。
(『長子』)
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
橋《はし》本《もと》多《た》佳《か》子《こ》
多佳子は杉田久《ひさ》女《じよ》に俳句の手ほどきを受け、のち山口誓《せい》子《し》に学んだ。女性の情感のほとばしりや揺《ゆ》らぎを的確にとらえて表現した俳人で、その没後も人気は高い。対象を即物的に鋭《するど》くとらえるきびしさと句の表情の豊かさでは、近代女流中有数の人といってよい。三十代後半に夫に先立たれたが、追《つい》慕《ぼ》の句に秀《しゆう》吟《ぎん》が多く、これもその一つである。
はげしく雪の降りしきるのを見つめながら、その景《け》色《しき》に呼び覚まされるように、かつて強く抱かれて息もつまった時のことを思い出している。
(『紅絲』)
君かへす朝の鋪《しき》石《いし》さくさくと
雪よ林《りん》檎《ご》の香《か》のごとくふれ
北《きた》原《はら》白《はく》秋《しゆう》
明治末年、二冊の詩集『邪《じや》宗《しゆう》門《もん》』『思ひ出』で近代詩史に新時代を画した白秋は『桐《きり》の花』で歌人としても時の人となった。新風という意味でも、また『桐の花』哀《あい》傷《しよう》篇《へん》でうたわれているような、人妻との恋による未決監拘《こう》置《ち》事件という一身上の大変化という意味でも、時の人となった。
彼は当時の文章で「短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である」といい、これに「近代の新しいそして繊《せん》細《さい》な五官の汗と静こころなき青年の濃《こまや》かな気息に依て染《しみ》々《じみ》とした特殊の光沢を付け加へたい」(『桐の花』冒頭の散文「桐の花とカステラ」より)といったが、天性の官能的表現の名手であった彼の特質は、この恋の歓喜の歌にいかんなく発揮されている。
(『桐の花』)
最《も》上《がみ》川《がは》逆《さか》白《しら》波《なみ》のたつまでに
ふぶくゆふべとなりにけるかも
斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》
茂吉は昭和二十一、二年当時、生まれ故郷に近い山形県大石田町の知人のもとに疎《そ》開《かい》して独居生活をおくっていた。敗戦後、戦時中に詠《よ》んだ多くの戦争詠《えい》について批判を受け、それが茂吉に深い打撃を与えていた。重病にもかかった。その孤独の中で、最晩年の絶唱ともいうべきこのような歌が生まれた。
最上川の急流は大石田あたりではゆったりとした流れになるのだが、そこにさえ「逆白波」が立つほどの猛《もう》吹雪《 ふ ぶ き》の冬。北国のすさまじい川波を見つめる老歌人は、心うつろにそれに見入っているが、歌は彼の心境をうたわず、ひたすら外景をうたうことによって、悲《ひ》愴《そう》な壮大さを獲得している。
(『白き山』)
しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧《くし》路《ろ》の海の冬の月かな
石《いし》川《かわ》啄《たく》木《ぼく》
明治四十年(一九〇七)、故郷岩手県の渋《しぶ》民《たみ》村を、追われるようにして去った啄木は、北海道にわたり、函館、札幌、小《お》樽《たる》、釧路など、職を求めて転々とした。文学に大きな野心をいだきながら生活苦にたえず追われる流《る》浪《ろう》の暮らしは、彼の心を懊《おう》悩《のう》と寂《せき》寥《りよう》でさいなんだ。極寒の釧路に職を求めており立った時のことを、四十一年に再度上京したのち、想い起こしつつ作った歌である。啄木には珍しい叙景歌。
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
(『一握の砂』)
斧《をの》入れて香《か》に驚くや冬《ふゆ》木《こ》立《だち》
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
蕪村に実際にこのような体験があるのかどうか、一応疑ってみることもできそうである。「冬木立」に斧を入れた場合、春や夏のような強い芳《ほう》香《こう》がパッとあたりに散ることは、一般的にいうと、考えにくい。あるいは純然たる空想句かもしれない。もっとも、木《き》樵《こ》りなどの実話をきいて作ったと考えてもいいわけだ。いずれにせよ、句の主眼は、ありえそうもないことが目の前で生じたことへの驚き、感興にあった。
古歌では梅であれ橘《たちばな》であれ菊であれ、花の香はうたわれたが、木の幹《みき》の香《かお》りをうたったものは、もしあったとしても稀《け》有《う》だろう。蕪村の「俳」がそこにもあった。
(『蕪村句集』)
奥《おく》白《しら》根《ね》かの世の雪をかゞやかす
前《まえ》田《だ》普《ふ》羅《ら》
鬼《き》城《じよう》、蛇《だ》笏《こつ》、石《せき》鼎《てい》と並んで、大正期の虚《きよ》子《し》門四天王の一人。
都会育ちでありながら大自然の峻《しゆん》烈《れつ》な相に惹《ひ》かれ、山岳詠に秀《しゆう》吟《ぎん》を多く遺《のこ》した。昭和十二年(一九三七)発表の「甲《か》斐《ひ》の山々」連作五句はとくに有名で、これはその結びの一句である。
雪におおわれた奥白根を遠く望み、毅《き》然《ぜん》と孤立して空に輝く山の、この世のものとも思えぬ浄《きよ》らかさを、「かの世の雪」といいとめたのは絶妙である。
(『定本普羅句集』)
雪明りあかるき閨《ねや》は又《また》寒し
建《たけ》部《べ》巣《そう》兆《ちよう》
巣兆は夏目成《せい》美《び》・鈴木道《みち》彦《ひこ》と共に文《ぶん》化《か》文《ぶん》政《せい》期の江戸三大家と称された人だが、画を谷文《ぶん》晁《ちよう》に学んでこれまた有名だった。
江戸本《ほん》石《ごく》町《ちよう》の名《な》主《ぬし》の子。儒者亀田鵬《ほう》斎《さい》、俳人画家酒井抱《ほう》一《いつ》の親友で、両人が彼の遺句集である『曾《そ》波《ば》可《か》理《り》』にいい序文を寄せている。「かれ盃を挙れば、われ餅を食ふ」(抱一)。
酒を愛する高雅な人格で、句にも俗《ぞく》塵《じん》の気がない。右の句、当たり前のことを詠《よ》んで句になっている。
(『曾波可理』)
雪の夜の紅茶の色を愛しけり
日《ひ》野《の》草《そう》城《じよう》
日野草城は明治三十四年(一九〇一)東京生まれ、昭和三十一年(一九五六)没の俳人。早熟の才で、三高生のころすでにぬきんでて清新な句の作者だった。これも初期の句。
俳句形式が一度に盛りこめる材料は限られている。その条件を逆に生かして、さりげない造りの中に心にくいゆとりを感じさせる句だ。
外は雪。すなわち純白の世界。眼前には紅茶の色。薄く硬い磁器の茶碗の輝く白を紅茶の色の背後に感じとらせる所に、この句の秘密の一つがあろう。
(『花氷』)
雪刷《は》きておのれ幽《かす》めり夜の山
相《そう》馬《ま》遷《せん》子《し》
「刷く」は、はけや筆で軽くなでるように塗ることで、女性の眉《まゆ》の化粧などにも言うが、この場合には山が薄く雪化粧している姿である。
作者は明治四十一年(一九〇八)長野県に生まれ、昭和五十一年(一九七六)六十七歳で没した。内科医だった。俳句は水原 秋《しゆう》桜《おう》子《し》の愛弟子で、「馬《あ》醉《し》木《び》」では高原派などと呼ばれ、師ゆずりの清澄な自然描写を得意とした。
右の句の夜の山の静かなたたずまいは、見方によれば、望ましい自画像でもあっただろう。
(『雪嶺』)
魚《うお》眠るふる雪のかげ背にかさね
金《かな》尾《お》梅《うめ》の門《かど》
古風な俳号の人だが、明治三十三年(一九〇〇)富山市に生まれ、昭和五十五年(一九八〇)八十歳で没した。
売薬行商人、薬専(現富山大学)の事務職などの後、東京の出版社に勤めた。新鮮な観察の句を作り、背景の生活経験の豊かさを感じさせる俳人である。
右の句、たぶん鯉《こい》だろうが、じっと動かぬ(「魚眠る」)池の魚の上にあとからあとから雪が降っては消えてゆく。稀《き》薄《はく》そのものの陰影を活写し得た句といえよう。
(『鴉』)
氷《こほり》水《すい》面《めん》に封《ほう》じて聞くに浪《なみ》なし
雪《ゆき》林《りん》頭《とう》に点《てん》じて見るに花あり
菅《すが》原《わら》道《のみち》真《ざね》
「臘《ろう》月《げつ》(十二月)独興」と題する七言律詩より。
氷は水面を閉ざして浪の音もない。雪は林の梢《こずえ》に降りかかって、見れば美しい花だ、と。
旧暦の臘月は冬の最後の月。この詩は別の個所で、歳月の容赦ない歩みを嘆きながら、同時に春の訪れを待つ喜びを歌う。
右の二行は『和《わ》漢《かん》朗《ろう》詠《えい》集《しゆう》』にも採られ、その美しさを愛されたが、この詩を作った時、のちの天神様は御年なんと十四歳。
(『菅家文草』)
鱈《たら》船《ぶね》や比《ひ》良《ら》より北は雪げしき
河《こう》野《の》李《り》由《ゆう》
李由は芭《ば》蕉《しよう》門人の僧《そう》侶《りよ》。寛《かん》文《ぶん》二年(一六六二)に生まれ、宝《ほう》永《えい》二年(一七〇五)四十四歳で没した。
琵《び》琶《わ》湖の西、比良の雪景色は「比良の暮《ぼ》雪《せつ》」として有名な近江《おうみ》八景の一つである。高い峰の北側は雪景色だが、そのきびしい景色の中を、北陸などで獲《と》れた鱈を積んだ鱈船が下ってくる光景。
この句の成り立ちについて、作者の親友森川許《きよ》六《りく》の説がある。李由がまず七五を得た。すると師芭蕉が、初五を「鱈船や」と付けたのだとか。いわば句作りの手本のような逸話。
(『韻塞』)
誰か来るみつしアウみつしと雪の門
川《かわ》端《ばた》茅《ぼう》舎《しや》
川端茅舎は明治三十年(一八九七)東京日本橋に生まれ、昭和十六年(一九四一)四十五歳で没した。岸田劉《りゆう》生《せい》に師事し、画家を志したが、昭和五年ごろから病気がちとなり、絵をあきらめて俳句一筋に精進、松本たかしと並んで四S時代の次の時期の代表俳人と目されるようになった。高浜虚《きよ》子《し》が茅舎に与えた「花鳥諷詠真骨頂漢」の呼称は有名である。
芭《ば》蕉《しよう》の高弟向《むか》井《い》去《きよ》来《らい》に「おうおうといへど敲《たた》くや雪の門《かど》」という句がある。雪の日の情景が鮮やかに浮かぶが、近代の茅舎の句も、みっしみっしと歩み寄る人の気配をとらえただけで、雪が深く積もっていることを感じとらせる。省略され隠されている部分が逆に生きてくる面白さ。茅舎には擬音語が意外なほど多い。作句技術の秘密の一つだろう。
(『川端茅舎句集』)
牝《めん》鶏《どり》はねむり牡《をん》鶏《どり》雪をかむ
前《まえ》田《だ》普《ふ》羅《ら》
前田普羅は明治十七年(一八八四)横浜(東京とも)に生まれ、昭和二十九年(一九五四)七十歳で没した。
雪国に憧《あこが》れ、報知新聞富山支局長として転住して以後、飛《ひ》騨《だ》・能《の》登《と》・佐渡その他にしきりに旅して山の秀句を数々残した。この句を収める句集『飛騨紬』は、飛騨を歩いて得た句のみを収めた句集。奥飛騨でふと見かけた雪中の鶏の写生である。とりたてて珍しい光景でも何でもないが、雌雄二態、ただこれだけで生彩ある描写になっているのはさすが。雪を「かむ」という言葉が、動かし難い。
(『飛騨紬』)
微《ほほ》笑《えみ》が妻の慟《どう》哭《こく》 雪しんしん
折《おり》笠《がさ》美《び》秋《しゆう》
折笠美秋は昭和九年(一九三四)神奈川県横須賀に生まれ、平成二年(一九九〇)五十五歳で没した。
東京新聞の記者で、俳人高《たか》柳《やなぎ》重《しげ》信《のぶ》に師事、その信頼篤《あつ》く、重信を中心とする「俳句評論」の編集にも携わったが、筋《きん》萎《い》縮《しゆく》性側《そく》索《さく》硬《こう》化《か》症《しよう》という難病にかかり、全身の筋肉が不随になるという絶望的な不運に襲われた。人工呼吸器で命を保った。目と口は動かせるが声は出せない。そんな状態で七年余り闘病し、その間も句を作って死んだ。句は夫人が書きとった。「微笑が妻の慟哭」の一句、正に肺《はい》腑《ふ》をつく。
(『君なら蝶に』)
山ふかみ春とも知らぬ松の戸に
たえだえかかる雪の玉《たま》水《みづ》
式《しき》子《し》内《ない》親《しん》王《のう》
春立つころの山家。山が深いので春が到来したとはまだ思えないほどだが、それでも、松の枝や板で作った粗末な戸の上には、とぎれとぎれに、日にとけた雪のしずくが落ちかかっている。
松の緑に配するに、きらきら光る雪どけのしずくをもってしたところに、『新古今集』好みの絵画美がある。作者は山家のものさびしさを「玉水」の艶《あで》やかさによって包み、春の味わいをいわば複雑にした。
(『新古今集』)
一《いつ》盞《さん》の寒《かん》燈《とう》は雲《うん》外《ぐわい》の夜《よ》
数《す》杯《はい》の温《うん》酎《ちう》は雪の中《うち》の春
白《はく》居《きよ》易《い》
雲上に突き出ているかとさえ思われる深山。一皿の粗末な灯火がともり、雪の夜はしんしんと冷える。だが、地酒を温めて数杯傾ければ、はや雪中に春がきたようではないか。
「一盞」に「数杯」、「寒燈」に「温酎」、「雲外の夜」に「雪の中の春」が呼応しつつ、賞すべき酒《さか》祝《ほ》ぎの詩句をかなでる。
朗《ろう》詠《えい》集《しゆう》の読み(付訓)は古写本の訓を今でも踏襲している。現在の発音と違うところがあるのはそのためである。
(『和漢朗詠集』)
氷《こおり》
日本の二月は一年のうちの極《ごつ》寒《かん》の季節といっていいが、「歳《さい》時《じ》記《き》」の分類では初春ということになる。
しかし、気象学上での春は三月からであろうし、私たちの常識でも、春は三月からだろう。つまり二月という月は、名前は初春でも中身は厳寒で、そこにこの月の独特な性格が感じられる。
木のひかり二月の畦《あぜ》は壊《く》えやすし
加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》
この「木のひかり」は、冬の刺《さ》すような白い光のなごりとも、春さきのややおぼめいた光ともとれる。「二月の畦は壊えやすし」とつづくとき、霜《しも》柱《ばしら》の冷たさや、春の柔《やわ》らかくなりはじめた土の身じろぎを感じさせながら、ようやく長い冬を越えはじめた大気の様《よう》子《す》を、まだ暖かみを持たない光によって伝えてくる。「木のひかり」と「二月の畦」との間の、切れて繋《つな》がる呼吸には、間髪を容《い》れぬ鋭さがある。
斧《をの》入れて香《か》に驚くや冬《ふゆ》木《こ》立《だち》
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
詩《しい》歌《か》における嗅《きゆう》覚《かく》の現れ方は興味深い。古歌は、梅・橘《たちばな》・桜・菊その他、花の芳《ほう》香《こう》をたたえる歌には事欠かないが、木の幹《みき》の香《かお》りをうたうようなところにまで目が届いた歌人は、ほとんどいないだろう。
蕪村の俳句の絵画的な印象の鮮やかさはよくいわれるところだが、彼は鼻粘膜の感覚においても秀《ひい》でていた。右の句、冬になって樹液の流れもとだえているかと思われるほど静かに立つ冬木が、意外にも生き生きとした芳香をつんと発した驚きをとらえる。
雪のうちに春は来にけり鶯《うぐひす》の
氷れる涙いまや解くらむ
二《に》 条《じようの》 后《きさき》
『古《こ》今《きん》集《しゆう》』では、巻一「春歌上」におかれている歌である。
一歌の発想は、東《こ》風《ち》が氷を解くという暦《こよみ》の上の知識によるもので、「雪のうちに春は来にけり」の「雪」は、眼前の実景を詠《よ》んだものであろう。一方、当時の人々の考えでは、うぐいすは冬のあいだ谷間にこもり、春が来るとまっさきに里に現れて春の到来を告げる春《はる》告《つげ》鳥《どり》とされていた。
まだ雪に閉ざされてはいるが、暦の上では季節はもう春が来ている。そのよろこびを三句以下の、「鶯の氷れる涙いまや解くらむ」にいいとめた着想が印象的である。眼前の実景から「鶯の氷れる涙」という想像の世界へとおのずと心が動いて、一つの心象風景を盛りたたせた。この「鶯の涙」というイメージの効果的な感傷性は、当時の人々に新鮮なものとして受けとめられ、後世の歌にも影響を与えることになった。
たとえば、『新《しん》古《こ》今《きん》集《しゆう》』の春の部におかれている惟《これ》明《あきら》 親王(高《たか》倉《くら》天皇第三皇子・後《ご》鳥《と》羽《ば》天皇の兄)の歌などはその一例である。
百首歌たてまつりし時
鶯《うぐひす》の涙の冰《つらら》うちとけて
ふるすながらや春を知るらむ
あきらかに二条后の歌を踏《ふ》まえているが、『新古今集』になると、うぐいすの涙に更につららを加え、より感覚的に明確さを求めている。そして「ふるすながらや春を知るらむ」と、うぐいすの居場所も古巣と明記して、芸の細かさを打ち出している。
さて、二条后であるが、名前を高《たかい》子《こ》といい、藤原長《なが》良《よし》の娘だった。清《せい》和《わ》天皇の皇后になり、陽《よう》成《ぜい》天皇の生母となった方だが、のち、ある僧《そう》侶《りよ》と密通したという汚名をおわされて后の位を停止された。位はのちにまた本位に復しているが、作者のそのような経歴のかげり、孤独感もこの歌に感じられないわけではない。
『伊《い》勢《せ》物《もの》語《がたり》』は、在《あり》原《わらの》業《なり》平《ひら》らしき人物を主たるモデルにして書かれている物語であるが、その業平らしき人物が恋した高貴な女性が高子だったといわれている。二人の恋をはばんだ藤原摂《せつ》関《かん》家《け》の権威は、彼女の叔《お》父《じ》の良《よし》房《ふさ》、兄の基《もと》経《つね》たちであった。彼らは業平と別れさせた高子を清和天皇の女《によう》御《ご》として入《じゆ》内《だい》させたのだった。
はつとしてわれに返れば満《まん》目《もく》の
冬草山をわが歩み居り
若《わか》山《やま》牧《ぼく》水《すい》
牧水は早《わ》稲《せ》田《だ》大学在学中に園田小《さ》枝《え》子《こ》という美《び》貌《ぼう》の女性と偶然知り合い、ほぼ五年間熱愛したが、結局別れた。相手の側に複雑な事情があったためだが、悲恋の苦悩は結果として若き大歌人を誕生せしめた。
旅というものは、牧水にとって、小枝子との不幸な恋愛のほとんど不《ふ》可《か》避《ひ》的な産物だった。元来旅好きな歌人であるが、悲恋が半ば運命的に彼を山野へ、海へ、渓谷へと追いたてるきっかけをなしたように思われる。
その牧水の歌に、業平と高子の悲恋を模したといわれる『伊勢物語』第六段の中の歌を、換《かん》骨《こつ》奪《だつ》胎《たい》したようなものがある。冬の歌ではないが、「白《しら》つゆか玉《たま》かとも見よわだの原青きうへゆき人恋ふる身を」である。
『伊勢物語』のこの有名な章は、さるやんごとない女性に多年恋いわたっていながら逢《あ》えずにいた男の物語である。男はようやく女と心をかよわせて彼女を盗み出すことに成功する。夜《や》陰《いん》にまぎれて芥《あくた》川《がわ》という川のほとりを逃げてゆく時、女が草に置いた露《つゆ》を見て、あれは何ですか、と問う。それほどうぶな女なのである。しかし先を急ぐ男はそれに答える余裕もない。路《みち》は遠く雨も激しく降り、雷さえ鳴りはじめたので、男は途中で見つけた荒れはてた倉に入り、女を奥に隠し、自分は戸口に立って一晩中外を見張っていた。ところがそこは鬼の棲《すみ》家《か》だったため、女はたちまち鬼に食い殺されてしまったのである。女は、ああ、と声をたてたのだが、雷鳴にかき消されて男の耳には聞こえなかった。朝になって男はこのことに気づき、足《あし》摺《ず》りをして泣いたけれどもその甲《か》斐《い》はなく、そこで「白玉かなにぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを」という痛《つう》恨《こん》の歌を詠《よ》んだというのである。
もちろん牧水はごく即興的に「白つゆ」とか「玉」という言葉をこの古歌から拝借したのであろう。しかし彼の心の動きの底に、はかない恋の予感がまったくなかったといえば、必ずしもそうはいえないように思われる。
木に花咲き君わが妻とならむ日の
四月なかなか遠くもあるかな
前《まえ》田《だ》夕《ゆう》暮《ぐれ》
今はまだ冬。木にも花は咲いていない。しかし四月が来れば、木に花は咲き、佳《よ》き人はわが妻になるのだ。明治四十二年(一九〇九)、夕暮二十六歳当時の作。四十三年刊の『収穫』に収められている。春の待ち遠しさをいうこの歌には、やや訥《とつ》弁《べん》の調べにさえ、愛すべきういういしさが溢《あふ》れている。
津の国の難波《なには》の春はゆめなれや
葦《あし》のかれ葉に風わたるなり
西《さい》行《ぎよう》法《ほう》師《し》
西行は平安末期の代表的遁《とん》世《せい》者《しや》・歌人で、『新《しん》古《こ》今《きん》集《しゆう》』入集数は集中最高の九十四首にのぼる。この歌は平安中期の歌人で、遁世者としては先達にあたる能《のう》因《いん》法《ほう》師《し》の作、「心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを」を本《ほん》歌《か》にしている。
難波の海の春《はる》景《げ》色《しき》は、広大な葦原の美しさとともによく知られている。しかし今は冬のまっただなか。春ならばあれほどにも讃《さん》美《び》される一帯の風光も、葦の枯《かれ》葉《は》を荒《こう》涼《りよう》たる寒風が吹きわたるのみである。
いわば逆説的に「難波の春」をたたえた歌だが、何よりも声調のよさで傑出した歌である。叙景の中に人生観《かん》照《しよう》があることも、もう一つの美質であろう。
(『新古今集』)
枯《か》れ蘆《あし》の日に日に折れて流れけり
高《たか》桑《くわ》闌《らん》更《こう》
「枯蘆の翁《おきな》」というあだ名が作者につくきっかけをなした代表作。
夏には水辺一面をおおって、人の背丈を越すほどにも生《お》い茂《しげ》っていた蘆原が、冬ともなれば葉はすべて枯れ落ち、わずかに立ちすくんでいた枯れた茎《くき》も、一日一日折れて流れて消えてゆく。
「日に日に」の表現がよく効《き》いているが、江戸中・後期俳《はい》諧《かい》にはこのほかにもすぐれた作例があって、「こがらしや日に日に鴛《を》鴦《し》のうつくしき」(井上士朗)、「落《おち》鮎《あゆ》や日に日に水のおそろしき」(千代女)が有名。
闌更には「星きらアウきら氷となれるみをつくし」など、印象鮮やかな句が少なくない。
(『半化坊発句集』)
冬山の青《せい》岸《がん》渡《と》寺《じ》の庭にいでて
風にかたむく那《な》智《ち》の滝みゆ
佐《さ》藤《とう》佐《さ》太《た》郎《ろう》
佐藤佐太郎は斎藤茂《も》吉《きち》に師事し、茂吉に関する著作も多い。
西《さい》国《ごく》三十三所第一番の札《ふだ》所《しよ》青岸渡寺から那智の滝を遠望すると、ちょうど夢の中ででも見るような感じで、一《ひと》筋《すじ》の白い滝の帯が岸壁にかかる。作者は折からの冬《ふゆ》景《げ》色《しき》の中で、滝が風を受けてふっと傾《かたむ》くのを見たと直覚したのである。
「庭にいでて」とあれば結句は「那智の滝みる」となるのが、文法的にいえば自然に思われる。それを「みゆ」とした時、滝はいわば見る者と見られる物という対比を超えて、ごく自然に見る者の中に入りこんできた。
(『形影』)
夜を凍《し》みる古き倉かも酒搾《しぼり》場《ば》の
燈《ひ》のくらがりに高鳴る締《しめ》木《ぎ》
中《なか》村《むら》憲《けん》吉《きち》
中村憲吉は広島の酒造業の家に生まれた。東大在学中から「アララギ」の新進歌人として活躍したが、家の事情に迫《せま》られて心ならずも家業を継《つ》いだ。
しかし文《ぶん》筆《ぴつ》の魅力は大きく、一時大阪に出て新聞記者になる。これもまた長続きせず、故郷に戻って酒造りに専念することになった。中期以降の歌には、その間の苦悩や孤独がにじんでいる。写生を根に、都会的繊《せん》細《さい》さから水《すい》墨《ぼく》画《が》的味わいの歌境へ進んだといえる。
酒造りの倉の夜の寒気に、きしって高鳴る締木(木で造った搾《しぼ》り器)。冬の酒造りの現場を、鍛《きた》えられた写生の眼できりっととらえた。
(『しがらみ』)
難《なに》波《は》潟《がた》あしまの氷消《け》ぬがうへに
雪降りかさぬ面《おも》白《しろ》の身や
源《みなもとの》 俊《とし》頼《より》
源俊頼は源経《つね》信《のぶ》の子で平安後期の代表歌人。作風は平安和歌伝統の中では破格に自由奔放な所があり、特に言葉の働きに対する鋭敏な感覚は、やがてきたるべき『新《しん》古《こ》今《きん》集《しゆう》』の世界を予告している。
難波の蘆《あし》間《ま》に薄氷が張っている。それがまだ消えないうちに新たに雪が降り重なる。何ということもないがそれが面白い。人生そのものに思いが及んで、それがまた面白い、という心だろう。
(『新勅撰集』)
志《し》賀《が》の浦や遠ざかりゆく波間より
凍《こほ》りていづる有《あり》明《あけ》の月
藤《ふじ》原《わらの》家《いえ》隆《たか》
藤原家隆は新古今時代を代表する歌人の一人で、藤原定家と並び称された。隠《お》岐《き》へ流された後鳥羽院に忠節を尽くした点でもよく知られる。この歌は、左大臣藤原良《よし》経《つね》邸の歌《うた》合《あわせ》に「湖上冬月」の題で出詠。
志賀の浦は琵《び》琶《わ》湖《こ》の浦の一つ。厳冬未明の湖面にのぼる月をえがく。寒気のきわまる未明には、なぎさがしだいに凍結するので、波は岸辺から「遠ざかりゆく」のである。その遠くなった波間から、夜ふけて出る有明月が、鋭く身を細め、しんと凍って立ち現れる。澄明さと寂しさと強さの一体化。『後《ご》拾《しゆう》遺《い》集《しゆう》』冬「小《さ》夜《よ》ふくるままに汀《なぎさ》や凍《こほ》るらむ遠ざかりゆく志賀の浦波」が本《ほん》歌《か》である。
(『新古今集』)
大《おほ》髭《ひげ》に剃《かみ》刀《そり》の飛ぶ寒さ哉《かな》
森《もり》川《かわ》許《きよ》六《りく》
なるほど寒そうな光景だと読者が納得するなら、この句の勝利ということになろう。一歩まちがえば大げさでこけおどしの句ともなる。そうならずにすんだのは、剃刀の動きを「飛ぶ」と言いとめた語感のよさによる。この一語のおかげで、この人物のひげはさぞかし大物なんだろう、と察しがつく。
元《げん》禄《ろく》時代なればこその豪《ごう》傑《けつ》ひげで、現代生活ではまず見られない光景。仮にあっても、あまり勇壮な感じにはなりそうもない。
(『韻塞』)
獄凍《い》てぬ妻きてわれに礼をなす
秋《あき》元《もと》不《ふ》死《じ》男《お》
秋元不死男は昭和十年代半ば「俳句事件」で検挙され、二年間獄中で過ごした。この事件は、無季俳句の唱導は無政府主義に通じる、などの理不尽極まる理由で、新興俳句系俳人が大量検挙された事件である。作者は戦後、記憶をたどって百数十句の獄中吟を詠《よ》んだ。
凍てつく獄に面会に来た妻がかしこまってお辞儀する。「礼をなす」の表現にいとしさが溢《あふ》れる。保釈出獄時の句に「獄を出て触れし枯木と聖き妻」という秀吟もある。
(『瘤』)
海見ざるごとくに冬を構へけり
金《かな》尾《お》梅《うめ》の門《かど》
金尾梅の門は、昭和五十五年(一九八〇)八十歳で没した富山市生まれの俳人。父は売薬業。みずからも二十歳前後の数年間、関東各地に売薬行商をした。投稿から句作に入り、大《おお》須《す》賀《が》乙《おつ》字《じ》他に師事。
この句はそのころの作で、作者にとっては初学時代のものだが、北国の海辺に住む人々の生活を描いて風格がある。
日本海の風雪は厳しい。その海をあえて見ないかのように、防風のため家の海側を一軒一軒高い樹木で囲って暮らす人々。そこに、北国独自の「構え」がある。
(『古志の歌』)
流氷や宗《そう》谷《や》の門《と》波《なみ》荒れやまず
山《やま》口《ぐち》誓《せい》子《し》
山口誓子は明治三十四年(一九〇一)、京都に生まれ、平成六年(一九九四)九十二歳で没した。母に不幸があり、小学五年時から中学四年時まで、外祖父のもと、樺《から》太《ふと》(サハリン)で過ごした。
流氷相打ち流れる宗谷海峡の春。暗く荒れる門波を見つめている少年の、孤独なまなざし。「門波」は瀬戸(海峡)に立つ波のことで『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』にある語。
作は大正十五年(一九二六)で、かつての少年時を回想した句だが、流氷・宗谷・門波と並ぶ硬質の用語が描写に活気と緊張感を盛りあげる。空にはきっと北を指す雁の姿もあっただろう。
(『凍港』)
かつ氷《こほ》りかつはくだくる山《やま》河《がは》の
岩間にむせぶあかつきの声
藤《ふじ》原《わらの》 俊《しゆん》成《ぜい》
『和《わ》漢《かん》朗《ろう》詠《えい》集《しゆう》』「管《かん》絃《げん》」の項に採られた『白《はく》氏《し》文《もん》集《じゆう》』「五絃弾《ごくゑんたん》」の「第《だい》五《ごの》 絃《くゑんの》 声《こゑは》 最《もつとも》 掩《えん》 抑《よくせり》 隴《ろう》水《すい》 凍《こほり》 咽《むせびて》 流 不 得《ながるることをえず》」を典拠としている歌である。
厳寒の暁《あかつき》、山中を流れる川水は氷を結ぼうとして結びえず、かつは凍り、かつは砕《くだ》けつつ岩間を走る。「むせぶ」は嗚《お》咽《えつ》であるが、この場合は水の声。冬の暁は、もっとも寒気のきびしい時刻であり静かな時でもあるので、水声も一段と高く聞こえる。
「むせぶ」という一語が、暁《ぎよう》闇《あん》の時刻の激しい水音の性格をみごとに表現している。叙景と情念が一体になって平安末期和歌の新しい抒《じよ》情《じよう》 性を生んだのである。
(『新古今集』)
月清《きよ》み瀬《せ》々《ぜ》の網《あ》代《じろ》に寄る氷《ひ》魚《を》は
玉《たま》藻《も》にさゆる氷なりけり
源《みなもとの》 経《つね》信《のぶ》
平安後期の歌人。正《しよう》二《に》位《い》、大《だい》納《な》言《ごん》。和歌はもとより、漢詩文、管《かん》絃《げん》、有《ゆう》職《そく》、蹴《け》鞠《まり》にも長じていた博学多能の人で、多くの歌《うた》合《あわせ》の判《はん》者《じや》もつとめた。『金《きん》葉《よう》集《しゆう》』の撰《せん》者《じや》源俊《とし》頼《より》の父でもある。
「網代」は宇治川の有名な景物である。漁獲のため川に仕掛けたその網代を、冬の月が照らしている。きらりと光りながら氷魚(鮎《あゆ》の稚魚で半透明)が寄ってくる。と見るや、それは藻にさえざえと光っている氷だった。一見わかりやすい自然描写と見えて、半透明な氷魚と氷のイメージが月によって結ばれ、新鮮な感覚を定着している。
(『金葉集』)
消えかへり岩間にまよふ水の泡《あわ》の
しばし宿かる薄《うす》氷かな
藤《ふじ》原《わらの》良《よし》経《つね》
「消えかへり」は、消えてはまたよみがえり。岩間を流れてゆく水は、たえず泡を生んでは消し、消しては生む。泡は、流れつつ薄氷にふと吸い寄せられ、しばしのあいだそこに宿って、たちまち消えてしまう。水の泡もはかなければ薄氷もはかない。はかない物同士のあいだで束《つか》の間《ま》結ばれるえにし。
作者良経は叙景歌としてこれを作り、『新《しん》古《こ》今《きん》集《しゆう》』でも「冬歌」に分類されているが、人生無常をうたう述懐歌としてもよめる。事実かれは、摂《せつ》政《しよう》 太《だい》 政《じよう》大《だい》臣《じん》として『新古今集』成立の最も大きな支柱の一つでもあった人だが、三十八歳で一夜にして急死した。
(『新古今集』)
冬ざれやものを言ひしは籠《かご》の鳥
高《たか》橋《はし》淡《あわ》路《じ》女《じよ》
「冬ざれ」とは、草木も枯《か》れ果て、天地の間に蕭《しよう》々《しよう》として寂しい気分がみなぎっている冬の光景をいう。そんな荒《こう》涼《りよう》とした冬の一日、しんと静まりかえった家の中で、言葉を発したのは籠に飼われている鳥だけ。飼主にはものをいう相手もない。鳥は九官鳥ででもあろうか、人語を発するのが鳥であるということが、飼主の孤独な日常を一層鮮《あざ》やかに浮《うき》彫《ぼ》りにしている。
高橋淡路女は飯田蛇《だ》笏《こつ》に師事したホトトギス婦人句会出身の俳人。若い時に夫を失い、一児を育てつつ自活し、生涯再婚しなかった。
(『梶の葉』)
水《みづ》洟《ばな》や鼻の先だけ暮れ残る
芥《あくた》川《がわ》龍《りゆう》之《の》介《すけ》
「自《じ》嘲《ちよう》」と題する。
大正八、九年頃の作とも、没年頃の作ともいわれている。昭和二年(一九二七)七月に自殺した芥川は、死ぬ前にこの句を短《たん》冊《ざく》に書いて主治医に贈ったという。それが事実であるとすれば、気持ちとしては辞世だったようにも受けとれるが、しかし、これが大正八、九年頃の作となれば見方もすこし変わってくるかもしれない。辞世の句の重さよりは、むしろ自己批評の面《おも》白《しろ》味《み》が前面に出るからだ。
いずれにせよ、世は暮れはて、冬《ふゆ》景《げ》色《しき》の中で鼻先だけが暮れ残って水洟をたれているという落《らく》魄《はく》の自画像は、軽みと笑いをふくんだ自己諷《ふう》刺《し》といえるだろう。
(『澄江堂句集』)
みづうみの氷は解けてなほ寒し
三日月の影《かげ》波にうつろふ
島《しま》木《ぎ》赤《あか》彦《ひこ》
「一月」と題する五首のうちの一首で、「諏《す》訪《わ》湖《こ》畔《はん》」の小題がある。大正十三年(一九二四)の作。
島木赤彦は長野県上《かみ》諏《す》訪《わ》町の塚原家に生まれ、下諏訪町の久保田家の養子となった。小学校長や郡視学などを歴任したのち、大正三年退職し上京、「アララギ」の編集に専念、アララギ派の歌壇における位置の確立に大きな功績があった。最晩年は重病のため下諏訪に帰り、そこで逝《せい》去《きよ》した。
赤彦は諏訪湖を愛し、数々の湖《こ》畔《はん》吟《ぎん》を遺《のこ》しているが、厳寒の湖に繊《せん》月《げつ》の光がうつろっている景を詠《よ》んだこの歌は、晩年のといわず、赤彦の一代の代表作としてよく知られているものである。
(『太虚集』)
唇《くちびる》で冊《さう》子《し》かへすやふゆごもり
建《たけ》部《べ》涼《りよう》袋《たい》
江戸中期の文人。別号に綾《あや》足《たり》他。弘《ひろ》前《さき》藩家老の家に生まれたが、嫂《あによめ》と通じたため二十歳の時出奔、日本各地を遊歴して数奇な半生を送った。後半生は江戸浅草に住む。
綾足は和歌、国学、絵、小説と多方面に才をふるい、五七七の十九音の古詩形「片《かた》歌《うた》」を復活させたのは有名。句風は平明な描写をむねとするが、表現には新味を盛る工夫があった。
こたつで本を読んでいるのだろう。寒くて手を出すのも面倒なのだ。当時の家の寒さが作らせたおかしみの句。
(『古今俳諧明題集』)
炭《すみ》竈《がま》に塗《ぬり》込《こ》めし火や山眠る
松《まつ》本《もと》たかし
松本たかしは明治三十九年(一九〇六)神田猿楽町の宝生流能役者の家に生まれ、能で立つことを宿命づけられていたが、病のため断念、高浜虚《きよ》子《し》について俳人となり、「ホトトギス」の代表的な俳人にまでなった。昭和三十一年(一九五六)、五十歳で没した。
「山眠る」は冬の季語。「山笑ふ」は春、「山 粧《よそほ》ふ」は秋。炭を作るには、炭がまにぎっしり薪《まき》をつめ、火をつけてから炭がまの口を泥でしっかりふさぐ。中の火の不完全燃焼によって炭が作られる。この句は、かまに密封された火がその内側で燃え続けるさまを想いえがいているのだが、「塗込めし火や」に有無をいわせぬ言葉の力がある。象徴的な深さ、大きささえも感じられる句だ。
(『野守』)
暮れのこる寒空の下戸《と》をさせる
わが家を見たりこれは又《また》さびし
木《きの》下《した》利《り》玄《げん》
利玄は明治十九年(一八八六)岡山に生まれ、大正十四年(一九二五)三十九歳で没した歌人。学習院に学び「白《しら》樺《かば》」同人となる。歌は佐《さ》佐《さ》木《き》信《のぶ》綱《つな》門。
白樺派ただ一人の歌人だが、自然と人間とを結びつける親和力の存在に強くひかれ、両者の融合境を独自の口語的発想で追求した点で、たしかに白樺派の歌人だと思わせる。四十にも満たずに死んだのが惜しまれる、すぐれた資質の持主だった。
これは最晩年の歌。結句に、通常の短歌的詠嘆を突き抜けた驚異がある。
(『李青集』)
星きらアウきら氷となれるみをつくし
高《たか》桑《くわ》闌《らん》更《こう》
高桑闌更は、江戸中興期俳壇に、出身地加賀および京都で、芭《ば》蕉《しよう》復帰を唱え活躍した。「枯れ蘆の日に日に折れて流れけり」の吟で名高く、「枯蘆の翁《おきな》」とあだ名されたほどだが、その『半化坊発句集』には他にも佳句が少なくない。
「みをつくし」は通行する船に水深のある通り道を教えるため立てた杭《くい》。寒夜、杭の水面に出た部分が凍って星にきらめく。「星きらきら」という表現には現代的な感覚の清新さが感じられる。
(『半化坊発句集』)
おのが灰おのれ被《かぶ》りて消えてゆく
木炭の火にたぐへて思ふ
太《おお》田《た》水《みず》穂《ほ》
太田水穂は島木赤《あか》彦《ひこ》や窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》と同じく信州出身の歌人で同世代。和歌史、俳《はい》諧《かい》史の研究にも多くの業績がある。右は最晩年の作。
炭火はあかあかと燃え、しだいに表面からふうわりと柔らかい灰に変わってゆく。自らを、白い灰をかぶりつつ静かに消えてゆく炭の命にたぐえて、自分の生涯のはての日を思いやっているが、決して単にひえびえとした寂《せき》寥《りよう》を歌っているのではない。作者の死生観だけでなく、芸術観を示す歌でもあろう。
(『老蘇の森』)
ふゆの夜や針うしなふておそろしき
桜《さくら》井《い》梅《ばい》室《しつ》
桜井梅室は幕末俳壇の大家。加賀(金沢)藩の研刀師だったが、文《ぶん》化《か》四年(一八〇七)京に出て俳人となった。文《ぶん》政《せい》、天《てん》保《ぽう》年間、江戸に十余年住んで俳名をあげ、京に帰って天下の巨《きよ》匠《しよう》と仰《あお》がれた。
連句作法の簡易化をすすめ、自作も、いわゆる月《つき》並《なみ》調《ちよう》といわれる平俗でわかりやすい句を作っている。そのため、明治になって俳句・短歌の革新運動を推進した正岡子《し》規《き》の攻撃を受けるところとなった。
しかし右の句など、さすがに名声を得た人の代表作らしく、冴《さ》えた語感の中に冬の夜の鋭《するど》くひきしまった感じが鮮やかにとらえられている。
(『梅室家集』)
我が寝たを首上げて見る寒さ哉《かな》
小《こ》西《にし》来《らい》山《ざん》
しんしんとこごえる寒夜、いったんふとんに入ってしまえば、身動きひとつするのも億《おつ》劫《くう》というのが、ろくな暖房設備もなかった時代の冬の暮らしだった。この句はそんな寒夜の情景を笑いを含んで描いている。
首にふとんをしっかり巻きつけ、さて、ふと首をあげてわれとわが寝姿を見下ろしてみる。そこに生じるある種のおかしみは、いわば独《ひと》り笑いのおかしみである。独り笑いだからそこにある落ちついた情趣も湧《わ》いている。来山は芭《ば》蕉《しよう》と同時代の大坂出身の俳人。
(『続今宮草』)
次の間《ま》の灯《ひ》で膳《ぜん》につく寒さかな
小《こ》林《ばやし》一《いつ》茶《さ》
前《まえ》書《がき》に「一人旅」とある。
一茶は半生を漂泊放浪に送った。貧しい旅人が宿でも冷たくあしらわれ、一人さむざむと晩飯をたべているわびしさ。それを隣の部屋から洩《も》れてくる灯《ほ》影《かげ》をたよりに膳についている男を描写することで、みごとに浮かびあがらせる。
この句は初め「次の間の灯で飯をくふ夜寒かな」だった。それだと季語「夜寒」は秋季だが、のち心理を一層的確に表すため冬季の「寒さ」に改めた。
(『一茶発句集』)
木《で》偶《く》の眼のかたりとねむる寒夜かな
郡《ぐん》司《じ》正《まさ》勝《かつ》
大正二年(一九一三)札幌市生まれ、平成十年(一九九八)没の演劇学者・演出家。俳号は西朔。しかし句集は本名で刊行した。歌《か》舞《ぶ》伎《き》研究に令名高いが、創作舞踊やテレビドラマ・戯曲の台本、歌舞伎の演出にも活躍した。句集も二冊。右の句を収める著書『かぶき夢幻』は、それらを古《こ》稀《き》記念創作集として編んだもの。句は「文楽を思う」と前書きする戦中の作。
寒夜の闇《やみ》に人形の眼が「かたりとねむる」さまに思いをこらす。作者半生の仕事をほうふつさせるような佳句である。
(『かぶき夢幻』)
大《だい》名《みやう》の寝《ね》間《ま》にもねたる寒さかな
森《もり》川《かわ》許《きよ》六《りく》
許六は三百石取りの彦根藩士。最初談《だん》林《りん》俳《はい》諧《かい》を学ぶが、蕉《しよう》風《ふう》にあこがれ、芭《ば》蕉《しよう》最晩年の弟子となる。絵画や漢詩にすぐれ、画では芭蕉の師匠格だった。藩主の供で江戸滞在の日も多かった。
この句は江戸から彦根へ帰国途中の体験を詠《よ》む。ある宿屋で上段の間に通され、寝室だけは大名なみの一夜を送った。しかし何となく落ちつかず、寝つかれない一夜だったのである。「寒さかな」は言葉としては単純だが、複雑な心理のかげがあって面白い。
(『蕉門名家句集』)
桐《きり》の木高く月さゆる也《なり》
野《や》坡《ば》
門しめてだまつてねたる面《おも》白《しろ》さ
芭《ば》蕉《しよう 》
芭蕉最晩年の元《げん》禄《ろく》七年(一六九四)初頭、野坡との両《りよう》吟《ぎん》で巻いた連句の一節である。
芭蕉の付《つけ》句《く》は四季に関係ない雑《ぞう》の句であるが、前句である野坡の句は、冬の季語「さゆる(冴ゆる)」を中心においた月の座の句である。
冬の夜空を見あげて、思わず月の冴え渡っているさまに嘆《たん》声《せい》を発した形の野坡の句に、芭蕉は、門を閉めきって留《る》守《す》の振りをし、黙って寝ころびながら月を見あげている閑《かん》居《きよ》の人物を配している。いわゆる「軽み」の気分をそこによみとることもできよう。
(『炭俵』)
一本の蝋《らふ》燃《もや》しつつ妻も吾《あ》も
暗き泉を聴《き》くごとくゐる
宮《みや》 柊《しゆう》二《じ》
宮柊二は明治四十五年(一九一二)新潟県に生まれ、昭和六十一年(一九八六)七十四歳で没した歌人。この歌は、敗戦直後の作で、「不安」という九首中の一首。
中国大陸から復員した作者には、多くの日本人同様、生活上精神上の深刻な不安があった。停電の夜、一本の蝋《ろう》燭《そく》を中心に妻とじっと坐《すわ》っている。火の周囲だけがぽっと明るく、その他はすべて闇《やみ》の静かさである。蝋燭の炎《ほのお》の孤独な燃え方が、まるで泉のよう、ただし「暗き泉」のようである。
蝋燭の炎を見つめていると、あたかも「暗き泉」を「聴くごとくゐる」ようだという結句が、思いを秘めて深い。
(『小紺珠』)
うづみ火にすこし春あるここちして
夜ぶかき冬をなぐさむるかな
藤《ふじ》原《わらの》 俊《しゆん》成《ぜい》
平安末期の歌人で『千《せん》載《ざい》集《しゆう》』撰《せん》者《じや》。俊成・定《てい》家《か》父子の歌と歌論が後世に及ぼした影響は大きく、「幽《ゆう》玄《げん》」などの中国伝来の語も、俊成が好《この》んで用いたことから日本に根づいた。
火《ひ》桶《おけ》の埋《うず》み火《び》の感触を「すこし春あるここちして」と見ているところに、感覚の繊《せん》細《さい》な働きがある。
元来この歌は『白《はく》氏《し》文《もん》集《じゆう》』の「二月山寒ウシテ少シク有リレ春二月山寒ウシテ少シク春有リ」を踏《ふ》まえた句である。同時にまた、清《せい》少《しよう》納《な》言《ごん》があるとき人から「すこし春あるここちこそすれ」という句を示されて付《つけ》句《く》を求められ、「空さむみ花にまがへてちる雪に」という上《かみの》句《く》を付けて返したことを語っている『枕《まくらの》草《そう》子《し》』百二段の挿《そう》話《わ》をも踏まえている。
(『風雅集』)
清《きよ》盛《もり》の文《ふみ》張つてある火《ひ》桶《をけ》かな
大《おお》伴《とも》大《おお》江《え》丸《まる》
「尼《あま》といふ題にて」と前《まえ》書《がき》がある。
平《たいらの》 清《きよ》盛《もり》の寵《ちよう》愛《あい》をほしいままにしたのち仏《ほとけ》御《ご》前《ぜん》の出現によって捨てられ、尼《に》僧《そう》となって嵯《さ》峨《が》に住んだという『平《へい》家《け》物《もの》語《がたり》』で有名な遊女祇《ぎ》王《おう》・祇《ぎ》女《によ》の話がこの句の背景をなしているのだろう。
美しい庵《あん》主《じゆ》さんのかたわらにある火《ひ》鉢《ばち》、その脇《わき》腹《ばら》に無《む》造《ぞう》作《さ》に張ってある反《ほ》故《ご》をよく見れば、むかし清盛から送られてきた数々の手紙だったという。もとよりまったくの空想の句である。大江丸は古典のもじりや口語調の句にすぐれ、江戸時代中興期俳《はい》諧《かい》の異才だった。彼の句の古典のもじりには意外性と機智が光っているが、独特の品のよさが印象的。
(『俳懺悔』)
雪《ゆき》達磨《 だ る ま》とけゆく魂《たま》のなかりけり
西《にし》島《じま》麦《ばく》南《なん》
西島麦南は「雲《うん》母《も》」草創期からの飯田蛇《だ》笏《こつ》の門人である。大正五年(一九一六)には武《む》者《しやの》小《こう》路《じ》実《さね》篤《あつ》の「新しき村」に参加、以後数年日《ひゆ》向《うが》で農耕生活に従事したこともある。その後約半世紀間、岩波書店社員として校正一《ひと》筋《すじ》に生き、出版界における校正第一人者として知られた。生《しよう》涯《がい》の作句数は決して多い方ではなかったが、最晩年にいたるまで洗練された気品ある句を作っている。
雪だるまを見つつ、この雪塊の中には「とけゆく魂」はないのだと感じとった時の、一瞬の深い感《かん》銘《めい》。当然そこには、自分自身の「魂《たましい》」の、やがてとけてゆく行方《ゆくえ》を思う気持ちがある。その思いが句を余情となって包んでいる。
(『西島麦南全句集』)
冬《とう》麗《れい》の微《み》塵《ぢん》となりて去らんとす
相《そう》馬《ま》遷《せん》子《し》
相馬遷子は明治四十一年(一九〇八)長野県生まれ。水原 秋《しゆう》桜《おう》子《し》門で、師と同様医師であった。この句は胃《い》癌《がん》切除をうけ、病《やまい》の床で死を間近に見つめていた最晩年の作。
麗《うら》らかに晴れ渡った冬の日、大空に満ちて光そのものと化している塵《ちり》。その微塵とわが身をなして、私はこの世を去ろうとしている。
辞《じ》世《せい》の心をよんだ句の最上のものの一つであろう。「冬麗の微塵となりて」が、いいようもなく澄んでいる。同じ頃の作に「死の床に死病を学ぶ師《し》走《はす》かな」がある。遷子はこれらの句を作ってまもなく、昭和五十一年(一九七六)一月十九日に亡《な》くなった。
(『山河』)
湯《ゆ》豆《どう》腐《ふ》やいのちのはてのうすあかり
久《く》保《ぼ》田《た》万《まん》太《た》郎《ろう》
久保田万太郎は昭和三十八年(一九六三)七十三歳で没した。小説家、劇作家として活躍したが、余技と言ってもよかった俳句に没頭、今ではむしろ俳人として盛名をもっている。
家庭環境は必ずしも幸福ではなく、晩年子供を失い、それを機に家を出て赤坂に隠れ住んだ。起居のかたわらには一人の女性がいたが、彼女が三十七年末に急死した。万太郎は深い孤独におちいり、自《みずか》らも半年後に急《きゆう》逝《せい》した。これは相手の女性の死後詠《よ》んだ句の一つ。
湯豆腐の白い揺れを見つめつつ、一場の夢にすぎない人生を眼前に見ているような気《け》配《はい》を伝える句である。「いのちのはてのうすあかり」が句の眼目だが、空《くう》漠《ばく》かつ幽《ゆう》遠《えん》である。
(『流寓抄以後』)
白き巨船きたれり春も遠からず
大《おお》野《の》林《りん》火《か》
大野林火の俳句の洒《しや》脱《だつ》で清潔な感じ、都会的な抒《じよ》 情《じよう》性は、作者が横浜に生まれ育ったことと深く関わっていると思われる。洗練された向《こう》日《じつ》的感覚には、港町の光と風が感じられる。
この句の場合にもそれはよく現れていて、「白き巨船」が運んでくる光はまさしく横浜の港の光であろう。
「白き巨船」がやってきた事実と、「春も遠からず」という感覚の間には、かならずしも論理的な因果関係はないのだが、感覚的には何の違和感もなく結びついている。
(『海門』)
冬の水一《いつ》枝《し》の影も欺かず
中《なか》村《むら》草《くさ》田《た》男《お》
冴《さ》え冴《ざ》えと澄んだ冬の大気の中、水に映る枝の一本一本が、ありのままに影を落としている。春夏秋冬いつでも変わりがないようだが、実際には冬が最もこの光景にふさわしい。ひとつには、冬は雑木の葉も落ち尽くし、枯れ色が風景を明るくして、視野全体が簡潔に落ちついてくるからである。そしてまた、寒気もある。草田男が住もうと願った精神世界を象徴するような光景ではないかと感じられる。
水原 秋《しゆう》桜《おう》子《し》の名作「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」(『霜林』)にも相通ずる世界だと感じられる。
(『長子』)
富《とみ》人《ひと》の家の児《こ》どもの着る身《み》無《な》み
腐《くた》し棄《す》つらむ〓《きぬ》綿《わた》らはも
山《やまの》上《うえの》憶《おく》良《ら》
憶良は万葉諸歌人中、きわだって率直に家族への愛や暮らしむきの貧しさを歌った人である。この歌も、老いて長らく病床にある身で、子らのことを思う苦しさを歌った連作の一首。
富んだ家の子は着物がたくさんあり、それを着尽くすには体が足りないので、むざむざ腐らして捨てているであろう、その絹よ、その綿よと、世の不公平を嘆く。
「〓」は太さや織り方の不ぞろいな絹をいう。
(『万葉集』)
最《さい》澄《ちよう》の瞑《めい》目《もく》つづく冬の畦《あぜ》
宇《う》佐《さ》美《み》魚《ぎよ》目《もく》
宇佐美魚目は大正十五年(一九二六)愛知県生まれの俳人。
枯れはてた冬田の畦。その静寂なひろがりの中に、最澄すなわち伝《でん》教《ぎよう》大《だい》師《し》の瞑目しつづける姿がほうふつとしたのである。瞑目する最澄と冬田と、連想は飛躍しているが、いかにもしっくりくる感じがある。それはたぶん、最澄・瞑目・冬の畦の像の結ばれ方に、ある内的必然があるからだろう。
この情景にことさら平安の昔を考える必要はない。今、この眼前で、最澄の瞑目は続いているのである。
(『秋収冬蔵』)
灯《ともし》火《び》に氷《こほ》れる筆を焦《こが》しけり
吉《よし》分《わけ》大《たい》魯《ろ》
吉分大魯はもと阿《あ》波《わ》徳島の藩士。京に出て俳《はい》諧《かい》師《し》となり、蕪《ぶ》村《そん》の門に入った。
蕪村は大魯に送った手紙の中でこの句をあげ、自作の句「歯あらはに筆の氷を噛《か》む夜かな」の「貧生独夜の感」と大魯の句とが相通じているところに、共感している。
寒夜、筆の穂先がかたく氷りついているのを溶かそうとして、つい筆をこがしてしまったのである。古人の詩も文章も、すべてそんな生活の中から生まれたのだった。
(『芦陰句選』)
ほそぼそと氷の下をゆく水の
己《おの》れをとほす音のさやけさ
若《わか》山《やま》喜《き》志《し》子《こ》
若山牧水夫人として内助の功を尽くしたのみか、牧水が昭和初年に没したのちは、「創作」誌を率いて大活躍し、みずからの歌でも歌境を深めて女性歌人の第一人者の名にふさわしかった人である。
若山喜志子の晩年の歌は時に凄《すご》みさえある。昭和四十三年(一九六八)、八十歳で永眠する年の作に、「眉《まゆ》逆だち三角まなこ窪《くぼ》みたるこの面つくるに八十年かかりし」という歌がある。彼女の顔は気品ある立派な美しい顔だったが、部分部分をとって誇張すればこの歌のようだった。自己執着を脱して、余人の遠く及ばぬ境地に達した人の歌である。その人の心の風景を常に流れていたに違いない、「己れをとほす」氷の下水。
(『眺望』)
父よりも母に親しき冬夜かな
佐《さ》藤《とう》紅《こう》緑《ろく》
『あゝ玉杯に花うけて』の流行作家佐藤紅緑はまた、正岡子《し》規《き》門の俳人として、一時期は虚《きよ》子《し》や碧《へき》梧《ご》桐《とう》と並び称された人でもあった。明治二十七年(一八九四)から半世紀に及ぶ厖《ぼう》大《だい》な句を集めて出した第一句集が、『花紅柳緑』。なぜ句集を早くに出さなかったのか不思議に思うが、作品は静かに口ずさむに足る落ちついた句がなかなか多い。
これは少年時代回顧の句だろう。冬の夜は、なぜか父よりも母が親しい。
(『花紅柳緑』)
正《しよう》 月《がつ》
正月という月は、ふだん見なれているものが、ほんの少しあらたまって見えるところがうれしい。大いにあらたまって、ではなく、ほんの少しあらたまって見えるのがいい。その新年の句や歌をいくつか見てみよう。
去《こ》年《ぞ》今《こ》年《とし》貫《つらぬ》く棒の如《ごと》きもの
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
虚子一代の代表作とされる有名な句である。私は久しいあいだ、ここにいう「去年今年」が新年の季語であることを知らずに愛《あい》誦《しよう》していた。去年から今年にかけて、長い歳月を貫いて、一本のぬっとした棒の如きもの――たとえば、鬼の鉄《かな》棒《ぼう》のような――が貫いているというイメージを思いうかべ、それにうたれたからである。
ところが、「去年今年」という言葉は、漠《ばく》然《ぜん》たる一般概念としての去年および今年ということではなく、旧《ふる》い年が新しい年にあらたまる特定の瞬間をさす季語だった。これに気づいた時は恥ずかしい思いをしたが、あらためて考え直してみれば、「去年今年」なる季語は、むしろ虚子のこの一句によって初めて、一つの季語として定着したのではないか、というような気もする。このような季語は、約束の上に成り立った特殊な術語という条件のもとで、自然界という、いってみればのっぺらぼうに広がっている多様性の世界を、特定の尺度によって切りとり、鮮やかに一新してみせるのである。虚子の句はその意味で、自然界の類型的な分類語としての季語を新鮮に生かした一例といえよう。
虚子という俳人は、俳句を花《か》鳥《ちよう》諷《ふう》詠《えい》の詩と定義した人であり、そのためか、何となく古めかしい感覚の人であるかのように錯覚されている節《ふし》もあるが、「去年今年」の句の、強《ごう》引《いん》な力わざともいえるほどの魅力は、漠然たる印象のあやまりをただすに十分だろう。去年をも今年をも丸《まる》抱《がか》えにして貫流する天地自然の理《ことわり》への思いを、一つの季語を使って、直観的な形象把《は》握《あく》の鋭《するど》さでぐいっととらえているからである。
いざや寝ん元日はまたあすのこと
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
尾形 仂《つとむ》編著の『蕪村自筆句帳』(昭和四十九年刊)で広く紹介された句で、蕪村としてはぐっと砕《くだ》けたらいらくな作である。自筆句帳は、蕪村が最晩年に自ら録していた自作句集。会心とする作には〇印を施《ほどこ》しており、これもその一つ。晩年の蕪村の心のあり様《よう》をうかがわせるような句である。
長《ちやう》松《まつ》が親の名で来る御《ぎよ》慶《けい》かな
志《し》太《だ》野《や》坡《ば》
志太野坡は芭《ば》蕉《しよう》晩年の愛《まな》弟《で》子《し》。江戸の両《りよう》 替《がえ》店越《えち》後《ご》屋《や》の手《て》代《だい》だった。蕉風の「軽み」を代表するとされる『炭《すみ》俵《だわら》』を越後屋同僚の孤《こ》屋《おく》・利《り》牛《ぎゆう》と共《きよう》撰《せん》した。この句も『炭俵』に収める。
「長松」は当時よく丁《でつ》稚《ち》につけた名前。丁稚奉公の年季があけて実家に帰った少年の、奉公していた店への年始参りである。親の名を襲《しゆう》名《めい》して、何の太《た》郎《ろ》兵《べ》衛《え》になってやって来た。店の人々にあらたまった様《よう》子《す》で御慶を申しのべるさまも、ついこのあいだまでの少年とは思えない。頬《ほほ》笑《え》ましくもまた新年らしいめでたさをよく表現した句だ。長松という名がまためでたい。
羽子板の重きが嬉《うれ》し突かで立つ
長《は》谷《せ》川《がわ》かな女《じよ》
大正俳壇は虚《きよ》子《し》指導のもとに女性俳句の隆《りゆう》昌《しよう》を見た。かな女は、その先頭に立った一人である。これは句を作りはじめてまだ数年という頃の大正二年(一九一三)の作。昭和四年(一九二九)出版の『龍《りん》胆《どう》』に収められている。
虚子に「女でなければ感じ得ない情緒の句」と評され、やがてかな女の代表作の一つとなった。羽子板が重いということは、突いて遊ぶには大きすぎるほどりっぱな羽子板だということである。しかし、特別製の大きな羽子板をただじっと抱《かか》えて立っていることの得意さは、突くこととはまた別の嬉しさだった。正月気分がそこに横《おう》溢《いつ》する。
新《あたら》しき年の始《はじめ》の初春の
今日降る雪のいや重《し》け吉《よ》事《ごと》
大《おお》伴《ともの》家《やか》持《もち》
『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』巻二十の巻尾の歌である。天《てん》平《ぴよう》宝《ほう》字《じ》三年(七五九)元日、因《いな》幡《ば》(鳥取県)の国守として赴《ふ》任《にん》していた時に詠《よ》んだものである。『万葉集』はこの歌をもって全巻の幕を閉じる。
「いや重《し》け」は、いよいよ重《かさ》なれよで、命令。「吉《よ》事《ごと》」は、めでたいこと。
新年とあるが、現代の陽暦では二月半ばに当たる。新春の雪が降り積もる。そのようにめでたいこともいよいよ積み重なれよ、と祈願をこめてうたう。家持の因幡行きは左《さ》遷《せん》だったが、この賀《がの》歌《うた》は国守にふさわしい堂々たる風格があると感じられる。
次いで賀歌の代表的な歌。
題しらず
わが君は千《ち》代《よ》に八千代にさざれ石の
いはほとなりて苔《こけ》のむすまで
よみ人しらず
「君が代」の原歌で、『古《こ》今《きん》集《しゆう》』巻七賀歌の最初にある歌である。新年の歌ではないが、長寿を祝う祝賀の代表歌としてとりあげる。「わが君は」という言葉が、現在のような「君が代《よ》は」という形になったのはいつごろからだろうか。正確にはわからないが、『古今集』から百年ほどのちの、藤《ふじ》原《わら》公《のきん》任《とう》の編《へん》纂《さん》した『和《わ》漢《かん》朗《ろう》詠《えい》集《しゆう》』の中ではすでに「君が代は」に変わっている。
「わが君」というのは、かならずしも天皇をさしているわけではない。一般に自分の仕《つか》える主君などをさす場合が多い。この「君が代」の「代」も「千代に八千代に」の「代」と同じことで「あなたさまの齢《よわい》は、千年も八千年も」という意味である。八千年とは、八という末広がりのめでたさを数字で表しているだけで、つまり無限にということ。「さざれ石」というのは、小さな石ころ。それがついに巌《いわお》となって、なおかつ苔が生えるまで長く長寿を保ってくれるように祝い願う歌だった。
雪の降りけるをよみける
冬ながら空より花のちりくるは
雲のあなたは春にやあるらむ
清《きよ》原《はら》深《のふか》養《や》父《ぶ》
『古今集』巻六の歌。「空より花の」の「花」は、雪をたとえたもの。冬でありながら、空から花の散ってくるのは、「雲のあなた」、すなわち空の方では、すでに春なのであろうか。想像の歌だが、雪のちらちら降る状態を、桜の花が散ってくるのと重ね合わせて、冬の中にいながら、春の桜を想いみているのである。
雪の木に降りかかれりけるをよめる
冬ごもり思ひがけぬを木《こ》の間《ま》より
花と見るまで雪ぞ降りける
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
この歌も、雪に花の面《おも》影《かげ》をとらえて、冬の中に明るい華《はな》やぎを運びこんでいる。『古今集』巻六では深養父の歌の次に並べておかれている歌。
門前の小《こ》家《いへ》もあそぶ冬《とう》至《じ》哉《かな》
野《の》沢《ざわ》凡《ぼん》兆《ちよう》
凡兆が向《むか》井《い》去《きよ》来《らい》と共同で編んだ芭《ば》蕉《しよう》七部集の一つ『猿《さる》蓑《みの》』の中に収められた発《ほつ》句《く》の一つ。
「門前」は寺の門前。江戸時代には、一般に冬至の日には仕事を休む習慣があった。寺院でも僧にその日は暇《ひま》を与える習わしだった。寺の門前で商《あきな》いなどしている小家も、今日は一日中遊んでいる。実態としては仕事をしていないというにすぎないが、「小家もあそぶ」と表現されると、この「あそぶ」から静かな動きとのどかさがにおい立ってくるようだ。印象の鮮やかさを生みだす凡兆の手腕がみごとに発揮されている。
(『猿蓑』)
百《ゆ》合《り》根《ね》煮て冬《ふゆ》日《ひ》のごとき妻たらむ
石《いし》田《だ》あき子《こ》
石田波郷夫人。大正四年(一九一五)埼玉県に生まれ、昭和五十年(一九七五)五十九歳で没。
戦中の軍隊生活で結核となったため除隊して以来、石田波郷の戦後は、療養と度重なる手術の繰り返しの生活だった。その間に俳人として幾多の傑出した仕事をなしとげたのは偉業だった。それを献身的な看護で支えたのが妻のあき子。俳句はその間に始めたらしいが、やがて豊かな存在感ある俳人として大成した。この句は代表作の一つ。「冬日のごとき妻」が味わい深い。
(『見舞籠』)
餅《もち》搗《つき》によみがへる蠅《はへ》ありにけり
五《い》十《か》崎《ざき》古《こ》郷《きよう》
明治二十九年(一八九六)松山市郊外に生まれ、昭和十年(一九三五)四十歳で没した俳人。
水原 秋《しゆう》桜《おう》子《し》に師事、松山中学の後輩石田哲大を俳句に開眼させ、波《は》郷《きよう》の号を与える。波郷に「亡師ひとり老師ひとりや竜の玉」という一句がある。「亡師」が古郷、「老師」は秋桜子を指す。
結核で若死にしたため、古郷の句は少ない。しかし句には自然の発する微光を柔らかくとらえているよさがある。右の句がとらえた微笑の世界もそれ。
(『芙蓉の朝』)
お奉《ぶ》行《ぎやう》の名さへおぼえずとし暮れぬ
小《こ》西《にし》来《らい》山《ざん》
小西来山は大坂平野町の薬種商の家に承《じよう》応《おう》三年(一六五四)に生まれ、享《きよう》保《ほう》元年(一七一六)六十三歳で没した。
少年の時から談《だん》林《りん》俳《はい》諧《かい》を学び、十八歳で宗《そう》匠《しよう》の身分を許されたほどの逸材。しかも「生涯醒《さ》めたる日なく」と書かれるほどの酒豪でもあった。その人にしてこの句のあるのは当然という感じがする。
「大坂も大坂、まん中に住みて」と前《まえ》書《がき》がある。大坂の商売繁盛、また文人たる心意気を一句にこめて、歳晩の感懐を勢いよく吟じた。
(『今宮草』)
冬の日や臥《ふ》して見あぐる琴の丈《たけ》
野《の》澤《ざわ》節《せつ》子《こ》
野澤節子は大正九年(一九二〇)横浜に生まれ、平成七年(一九九五)七十五歳で没した。女学校在学中にカリエスを病み、以来約二十五年間という長い期間闘病生活を送らねばならなかった。孤独で不安な病床でとぎすまされた感受性は、時には激《はげ》しく、時には切《せつ》々《せつ》たる思いとともに句に吐《と》露《ろ》された。
短い冬の一日、病室に淡《あわ》々《あわ》しく差し入る光の中で、作者は寝たまま、床の間に立てかけて久しい琴を見あげている。小さい時から習っていた琴であろう。いつになったら再び弾奏できるのかわからない身で、横になったまま毎日その琴を見あげている思いが、「琴の丈」という言葉に凝《ぎよう》縮《しゆく》している。
(『未明音』)
去《こ》年《ぞ》今《こ》年《とし》貫《つらぬ》く棒の如《ごと》きもの
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
高浜虚子は明治七年(一八七四)松山市に生まれ、昭和三十四年(一九五九)八十五歳で没した。明治以降の近代俳句を代表する巨匠である。
昭和二十五年十二月二十日、新春放送用に作った句という。「去年今年」は新年の季語。去年と今年を大きく展望しながら、旧《ふる》い年と新しい年が入れかわる瞬間をとらえて成句にしたもので、あらたまる年への希望をこめた季語である。
しかし、「去年今年」という大きな時の流れを踏《ふ》まえた語であるだけに、季語として用いることは意外に難《むずか》しいだろう。虚子のこの句は、「貫く棒の如きもの」という、意欲的でまた意外性をもった強い影像をむんずとつかみとり、それによって季語そのものを最大限に生かしえた名句である。
(『六百五十句』)
いざや寝ん元日はまたあすのこと
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
尾形 仂《つとむ》編著『蕪村自筆句帳』に収める。
蕪村の句といえば「菜の花や月は東に日は西に」の大らかな叙景、「夕風や水青《あを》鷺《さぎ》の脛《はぎ》をうつ」の清新な描写、「愁ひつゝ岡《をか》に登れば花いばら」の郷愁の情緒、「高《こ》麗《ま》船《ぶね》の寄らで過ぎ行く霞《かすみ》かな」の空想趣味など、きわめて多彩華麗である。
その人の、これはまたぐっと砕けてらいらくな晩年の作。自筆句帳は蕪村が最晩年に自ら録していた自作句集で、会心作とする作には〇印を施しており、これもその一つ。
(『蕪村自筆句帳』)
除《ぢよ》夜《や》の妻白鳥のごと湯《ゆ》浴《あ》みをり
森《もり》 澄《すみ》雄《お》
森澄雄は大正八年(一九一九)兵庫県に生まれた。昭和十九年(一九四四)陸軍少尉としてボルネオ戦線に従軍、辛《かろ》うじて生還し、療養生活ののち教職についた。
この句を作った昭和二十九年当時、森家の人々は武蔵《 む さ し》野《の》の片《かた》隅《すみ》で、板敷きの六畳一間に親子五人暮らしていたという。土間にすえた風《ふ》呂《ろ》で、除夜の夜、妻が湯を浴びている。切りつめた生活の一年がまた過ぎ去ろうとしている。物質的には何の豊かさもなくとも、「白鳥のごと湯浴み」する妻の裸身が、たしかにそこにあるのだ。
(『雪櫟』)
化《け》粧《は》ふれば女は湯ざめ知らぬなり
竹《たけ》下《した》しづの女《じよ》
竹下しづの女は明治二十年(一八八七)福岡県に生まれ、昭和二十六年(一九五一)六十四歳で没した。
湯あがりでよく暖まった体が、ふと油断して仕事に熱中したりしていると、急に湯ざめを覚えてぞくぞくとしてくる。「湯ざめ」が冬の季語となるのは、このような変化に冬の季節感がよくあらわれているからである。しづの女のこの句は、そういう湯ざめをも感じさせないほどのものとして女の化《け》粧《しよう》をとらえている。
彼女は「ホトトギス」に輩《はい》出《しゆつ》した女流俳人たちの中でも、とくに男まさりの知的・意志的な句の作者としてきわだった存在だったが、このような句には女性的な鋭《するど》い観察があって興味深い。
(『颯』)
元日や暗き空より風が吹く
青《あお》木《き》月《げつ》斗《と》
青木月斗は明治十二年(一八七九)大阪に生まれ、昭和二十四年(一九四九)六十九歳で没した俳人。家業は薬種商。
「俳《はい》諧《かい》の西の奉《ぶ》行《ぎやう》や月の秋」の句を子《し》規《き》から贈られたほど関西の子規門で重視された。
古来、元日の句は佳句にとぼしいきらいがある。その中での、清新にして幽遠の趣ある異色作。「暗き空より風が吹く」のは何も元日に限らないが、それをとらえて深く生かした所に、生と句の接する機微を見る思いがある。
(『月斗翁句抄』)
春立《たつ》や新年ふるき米《こめ》五《ご》升《しよう》
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
江戸深川の草庵に住む芭蕉の新春詠。門人の記録によると、当時芭蕉庵には茶わん十個、庖《ほう》 丁《ちよう》一本、それに門人がくれた大きなひょうたん一個があった。ひょうたんは「四山」と命名され、米がちょうど五升入った。
「ふるき」米とは旧年中に人が入れてくれた米の意。さあ、わが家のひさごには五升の米も入って、心豊かな新春がやってきた、と。
「新年ふるき」に一夜明けての「新」と旧年の「古」を対比するのも、わずか五升の米を誇るのも、清貧の諧《かい》謔《ぎやく》と風雅。
(『三冊子』)
新《あたら》しき年の始《はじめ》の初春の
今日降る雪のいや重《し》け吉《よ》事《ごと》
大《おお》伴《ともの》家《やか》持《もち》
『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』巻二十の巻尾の歌である。家持はこの歌を作った天《てん》平《ぴよう》宝《ほう》字《じ》三年(七五九)元日、因《いな》幡《ば》(鳥取県)の国守として赴《ふ》任《にん》していた。政界事情を反映した左《さ》遷《せん》的な措《そ》置《ち》だったが、家持自身は国守としての任務を誠実に遂《すい》行《こう》していたと思われる。
これは国庁の役人たちを集めて恒《こう》例《れい》の新年の祝宴を催《もよお》した時の賀《がの》歌《うた》である。折から新春早々の雪が降っていた。この新雪が積もるのと同様、めでたいこともいよいよ積み重なれよと希望をこめてうたう。
『万葉集』はこの歌を最後において、全巻の幕を閉じる。
(『万葉集』)
日の春をさすがに鶴《つる》の歩みかな
榎《えの》本《もと》其《き》角《かく》
「日の春」は元日の朝日をさす季語だが、其角の造語であるらしい。
元日の朝日を一身に浴びてたかだかと鶴が歩む。一見唐《とう》突《とつ》で強《ごう》引《いん》な語法と思われるが、「さすがに」の一語に、鶴の美しさへの感《かん》嘆《たん》をこめる。
其角は、日本橋の医師の子として生まれ、十代半ばで芭《ば》蕉《しよう》に入門、蕉門の筆頭とうたわれた。若年から書や画にすぐれ、儒《じゆ》学《がく》や易《えき》学《がく》も学んだというが、その派《は》手《で》好《ごの》みの文人気質は、酒好きと相まって江戸っ子の間に人気を博した。師の芭蕉とはおよそ対照的な性格で、言動も生活の環境も異質だったが、そこにかえって二人を結びつける要素もあったのかもしれない。この句にはそんな其角の面《おも》影《かげ》がよく出ていよう。
(『続虚栗』)
正月の雪真《ま》清《し》水《みづ》の中に落つ
廣《ひろ》瀬《せ》直《なお》人《と》
廣瀬直人は昭和四年(一九二九)山梨県生まれの俳人で、土地柄《がら》ずっと飯田蛇《だ》笏《こつ》・龍《りゆう》太《た》父子に師事して作句してきた。甲州の風土と生活を見つめつづけることを通じて自らの俳句の骨格を養ってきた人である。
正月の真清水にまっすぐ落ちる雪。一瞬にして澄みきった清水に消えてしまう。雪は、現実のものでありながらまた幻《まぼろし》のようでもある。一切の汚濁を吸いとって浄化してしまうかのようなその姿は、「正月」のこよなきみものだといえよう。
(『日の鳥』)
一つ松幾《いく》代《よ》か経《へ》ぬる吹く風の
音の清きは年深みかも
市《いち》原《はらの》 王《おおきみ》
天《てん》平《ぴよう》十六年(七四四)正月十一日、大《おお》伴《ともの》家《やか》持《もち》らとともに活《いく》道《ぢ》の岡《おか》に登り、一本の老松の下で宴を開いた日の歌とある。
吹きわたる風がこの松のまわりではとりわけ清らかな音をたてている、それは松の齢《よわい》が久しい歳月を経ているからであろうか、というのである。
「年深みかも」は松が長寿を保ってきたためだろうか、の意だが、簡潔な表現の中に豊かなふくらみを感じさせ、一首の歌に風格と清らかなひびきをもたらしている。
(『万葉集』)
鐘《かね》ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
榎《えの》本《もと》其《き》角《かく》
其角は才智にすぐれ気質豪放な江戸っ子だった。酒豪の蕩《とう》児《じ》でもあった彼に、酒もろくにたしなまなかった師芭《ば》蕉《しよう》の深みや閑寂を求めるのは、もともと無理なことだが、他面彼の句の華麗な装いは、ある種の江戸趣味の極致でもあり、人気は当代抜群だった。
これも得意の奇想の句。寺の鐘のような、めったに売れないものでさえ、毎日売れぬ日はないほどの、江戸の新春のめでたさよ、というのである。豪語も時に愛《あい》嬌《きよう》となるのが、俳《はい》諧《かい》。
(『其角発句集』)
人よむに如《し》かず正月諷詠詩
飯《いい》田《だ》蛇《だ》笏《こつ》
飯田蛇笏は明治十八年(一八八五)山梨県の境川村に生まれ、昭和三十七年(一九六二)七十七歳で没した。高浜虚《きよ》子《し》門の最初期からの俊才として有名だった。
正月の俳句は人を詠《よ》むのが一番、というのだが、そこに深い意味があるのか、それともふと口をついて出た句なのか、どちらとも決めかねる作。謎《なぞ》めいていて、しかも妙に心にかかる句である。
蛇笏逝《せい》去《きよ》の三年前の句で、最晩年の思想を語っている。「わらんべの溺《おぼ》るゝばかり初湯かな」「酪農の娘《こ》が恋しりて初日記」など、彼の新年人事句には暖かい手触りがある。
(『椿花集』)
立《たつ》や年既に白《しら》髪《が》のみどり子ぞ
吉《きつ》川《かわ》五《ご》明《めい》
「年立つ」は年が改まり、新年になること。句には前《まえ》書《がき》がある。「本《ほん》卦《け》にかへりければ」、つまり本卦還《がえ》りして生まれ年の干《え》支《と》になったので、というので、還暦の年の作である。
数え年六十一で再び赤ん坊に還る時は、もう白髪の生えた赤ちゃんさ、というのだが、句に自《じ》嘲《ちよう》の響きはない。「白髪」の「みどり子」(嬰《えい》児《じ》)と、色彩語を並べたところにも一つのねらいどころがある。
吉川五明は秋田の人。父那波祐洋は京都の商人だったが、秋田藩主の招きで秋田に移住し、五明はその五男だったが、秋田藩の御用商人吉川家の養子となり、商業に従事した。その豊かさにも支えられて全国に知られる俳人となり、姿勢のいい句を残した。文政三年(一八二〇)七十二歳で没。
(『佳気悲南多』)
生《なま》酔《ゑひ》の礼《れい》者《しや》をみれば大《だい》道《だう》を
横すぢかひに春はきにけり
四《よ》方《もの》赤《あか》良《ら》
四方赤良は江戸後期の代表的文人大《おお》田《た》蜀《しよく》山《さん》人《じん》の狂《きよう》歌《か》師《し》としての号。
彼は現実生活では幕臣として五十年余りを過ごした。若い時から狂詩や狂歌、小説、随筆類の著作きわめて多く、文化界に広範な影響を与えたが、中でも天《てん》明《めい》期大流行したいわゆる天明狂歌においては第一人者であった。
生《なま》酔《よ》いの年始回りの千《ち》鳥《どり》足《あし》が、ふらりふらりと新春を運んでいる。酔った人の足どりを、そのまま「横すぢかひに春はきにけり」ととらえたところにおかしみがある。天下太平の大江戸の新春の気分をよくとらえた狂歌だ。
(『狂歌才蔵集』)
長《ちやう》松《まつ》が親の名で来る御《ぎよ》慶《けい》かな
志《し》太《だ》野《や》坡《ば》
「長松」は江戸時代にはよく丁《でつ》稚《ち》につけた名前だった。丁稚奉公があけて実家に帰った少年が、奉公していた店へあらたまった様《よう》子《す》で年始参りにやって来る。親の名前を襲《しゆう》名《めい》して、いかにもりっぱな何の太《た》郎《ろ》兵《べ》衛《え》、何の何《なに》衛《え》門《もん》になってやって来たのである。新年らしい、頬《ほほ》笑《え》ましくもまためでたい光景である。
志太野坡は江戸の両《りよう》 替《がえ》店越《えち》後《ご》屋《や》の手《て》代《だい》だった。同僚の孤《こ》屋《おく》・利《り》牛《ぎゆう》と共《きよう》撰《せん》で芭《ば》蕉《しよう》晩年の蕉門の代表的な撰集『炭《すみ》俵《だわら》』を刊行した。蕉風の軽みを代表する集とされている。
(『炭俵』)
一月の川一月の谷の中
飯《いい》田《だ》龍《りゆう》太《た》
飯田龍太は大正九年(一九二〇)、山梨県境川村で飯田蛇《だ》笏《こつ》を父として生まれた。五人兄弟の四男だったが、三人の兄が、戦死(長兄・三兄)、病死(次兄)と次々に早世したため、龍太が父のあとを継いだ。
俳句形式はわずか五七五音から成る世界最短の定型詩である。この短さでは、散文と同じような形での「描写」は成り立たない。むしろ俳人は「描写の省略」によって対象を一挙にとらえるという行き方に賭《か》けているといっていい。虚《きよ》子《し》の唱導した「写生」はまさしくそのようなものとして近代以降の俳句に一つの王道をしいた。龍太のこの句は、しかし虚子流の写生をさえ乗りこえてしまっている。形容も詠《えい》嘆《たん》も一切取り払ってしまい、ただ一つの状態をのべているだけだが、それがかえって、「一月の川」というものを丸ごとつかんでみせる結果になった。
(『春の道』)
篠《ささ》の葉に 雪降りつもる 冬の夜に 豊《とよ》の遊びを するが愉《たの》しさ
神楽《 か ぐ ら》歌《うた》
「豊の遊び」は、新《にい》嘗《なめ》祭《さい》の翌日、陰暦十一月の辰《たつ》の日に宮中で行う豊《とよの》明《あかり》節《のせち》会《え》の日の遊宴の神楽をさすとみられる。古代、宮中で神楽を奏するのは多く冬だったため、この歌詞がある。
左右に分かれた楽《がく》人《じん》の本《もと》方《かた》(先に唱《とな》えうたう側)がこれをうたうと、末《すえ》方《かた》は「瑞《みづ》垣《がき》の 神の御《み》代《よ》より 篠《ささ》の葉を 手《た》ぶさに取りて 遊びけらしも」と唱和した。古代から、祭の場に神《しん》霊《れい》を招く時は、手に笹《ささ》をもって乱舞し、神がかりになるのが普通だった。右の歌詞に「篠《ささ》」が出るのもそれと関係があるかもしれない。
加《か》留《る》多《た》歌《うた》老いて肯《うべな》ふ恋あまた
殿《との》村《むら》菟《と》絲《し》子《こ》
殿村菟絲子は明治四十一年(一九〇八)東京に生まれた。
「加留多」は歌がるたの小《お》倉《ぐら》百《ひやく》人《にん》一《いつ》首《しゆ》のこと。普通「歌《か》留《る》多《た》」と書くが、ここではカルタ歌となるために字の重複を避けて「加」を使ったのだと思われる。
小倉百人一首には恋歌が少なくとも四十三首ある。正月の遊びでカルタをとっていた若い日には、ただ無心に競《きそ》って取りあっただけの札《ふだ》であった。しかし人生の年齢を重《かさ》ねてきて、あらためてじっくりそれらの恋歌を味わってみると、それぞれにうなずける恋、それも悲しみの味わい深い恋のすがたが多いことに気づくのだ。
(『晩緑』)
竹馬やいろはにほへとちりイウぢりに
久《く》保《ぼ》田《た》万《まん》太《た》郎《ろう》
久保田万太郎は明治二十二年(一八八九)東京に生まれ、昭和三十八年(一九六三)七十三歳で没した。
竹馬はかつて子供の遊び、特に冬の遊びだった。幼な友達を竹《ちく》馬《ば》の友というのもここから出ているが、長ずれば皆それぞれに散ってゆくのが世のさだめである。「いろはにほへと」を一緒に習った仲間が、「色はにほへど散りぬる」さまに散ってゆく。万太郎は浅草に生まれ育った人だが、この句の下町少年の感傷はまた万《ばん》人《にん》の感傷であろう。
明治四十四年(一九一一)、小説『朝顔』が永《なが》井《い》荷《か》風《ふう》に、戯曲『プロロオグ』が小《お》山《さ》内《ない》薫《かおる》に認められ、文壇に登場した万太郎は、俳句は小説・戯曲の余技との考えを変えなかったが、下町の情緒や雰《ふん》囲《い》気《き》、人情の機微をとらえた句には他の追《つい》随《ずい》を許さぬ趣《おもむき》がある。
(『道芝』)
羽子板の重きが嬉《うれ》し突かで立つ
長《は》谷《せ》川《がわ》かな女《じよ》
長谷川かな女は明治二十年(一八八七)日本橋に生まれ、昭和四十四年(一九六九)八十一歳で没したが、これは句を作りはじめてまだ数年の頃の大正二年の作。
女の子がりっぱな羽子板を胸に抱《かか》えて立っている。みんなで羽根つきをしている仲良しの友だちの楽しいかけ声を聞きながら、今日ばかりは仲間にも入ろうとしないで立っている。抱えた羽子板は大きくて重い。その嬉しさをじっといつまでもかみしめて立っている。
「女でなければ感じ得ない情緒の句」と虚《きよ》子《し》に推賞された、作者の初期代表作である。
(『龍胆』)
咳《せき》の子のなぞなぞあそびきりもなや
中《なか》村《むら》汀《てい》女《じよ》
中村汀女は明治三十三年(一九〇〇)熊本市に生まれ、昭和六十三年(一九八八)八十八歳で没した。
家庭の主婦であることと句作とを最も幸福な形で調和させ得た俳人といえば、まずこの作者であろう。子供を詠《よ》んだ句が多く、しかもそれがすぐれているのは、自らの身辺をごく自然に深く愛し、いつくしむことができる資質に加えて、観察力の鋭《えい》敏《びん》さがあずかっている。
せきこみながらも、次から次へとなぞなぞ遊びをしかけては母親を離そうとはしない子供の姿に、子供という小さな存在の生態がみごとにとらえられている。
(『汀女句集』)
独《ひと》り碁《ご》や笹《ささ》に粉《こ》雪《ゆき》のつもる日に
中《なか》 勘《かん》助《すけ》
中勘助は明治十八年(一八八五)東京に生まれ、昭和四十年(一九六五)七十九歳で没した。
『銀の匙《さじ》』などの小説で知られるこの作家は、詩人としては詩集『琅《ろう》〓《かん》』をもち、短歌や俳句をも愛してすぐれた作品を遺《のこ》している。
閑居の人がただ独りで碁をうっている冬の一日。「笹に粉雪のつもる日に」というとらえ方が心にくいほどその一日の雰《ふん》囲《い》気《き》を暗示している。吹《ふ》雪《ぶ》いていてはこの句の情趣もなかろう。
孤独な瞑《めい》想《そう》者としての中勘助の作風は、「山居しぐれてけづる午《ご》蒡《ぼう》のかをり哉《かな》」「粕《かす》やいて鳥の話を書く夜かな」などにも共通している。近世歌謡の「世《よの》間《なか》は霰《あられ》よなう 笹の葉の上の さらさらさつと 降るよなう」(『閑《かん》吟《ぎん》集《しゆう》』)なども思い合わされる。
(『中勘助全集』)
しらぬひ筑《つく》紫《し》の綿《わた》は身につけて
いまだは著《き》ねど暖かに見ゆ
沙《さ》弥《み》満《まん》誓《せい》
「沙弥」は出《しゆつ》家《け》した男子の呼称の一つ。作者の俗名は笠《かさの》朝《あそ》臣《み》麻《ま》呂《ろ》。美《み》濃《のの》守《かみ》、尾《おわ》張《りの》守《かみ》をつとめたのち、大《だ》宰《ざい》府《ふ》観《かん》世《ぜ》音《おん》寺《じ》造営の長として九州に派遣されていた官吏である。『万葉集』の歌人の中では、こまやかな情緒の作品できわだっている一人である。
奈良の都びとにとっては、九州でとれる真《ま》綿《わた》は珍《めずら》しいものだっただろう。真綿は当時貴重品だった。「しらぬひ」は筑紫の枕《まくら》詞《ことば》。その筑紫が産する綿、まだ著てみたことはないが、暖かそうなものだなと。格別の技巧を費《ついや》した歌ではないが、はじめて見る品物に対するすなおな驚き、さらには筑紫という土地に対する愛情のこもった讃《さん》美《び》が、この歌を気持ちのいい歌にしている。
(『万葉集』)
几《いか》巾《のぼり》まだつめたいか山の空
岩《いわ》間《ま》乙《おつ》二《に》
岩間乙二は宝《ほう》暦《れき》五年(一七五五)に生まれ、文《ぶん》政《せい》六年(一八二三)六十九歳で没した近世俳人。
イカノボリは凧《たこ》。凧の字は「風」の省略形「几」と、布きれの意の「巾」を合わせて作った国字で、右の句の表記はこれを別々に書いたもの。
陸前(宮城)白《しろ》石《いし》の寺の住職だった乙二は、文《ぶん》化《か》文政期の東北にその人ありと知られた文人。東北各地や北陸を行《あん》脚《ぎや》し、蕪《ぶ》村《そん》研究の先駆者だった。
凧あげは春の気分のものだが、山国の空はまだ冷たい。何の構えもない素朴な語調が、かえって時代をこえている
(『松窓乙二発句集』)
七《なな》草《くさ》や女《め》夫《をと》アウ女夫に孫《まご》女《め》夫《をと》
志《し》太《だ》野《や》坡《ば》
長い前《まえ》書《がき》がある。子福者の知人にあてた句で、その人の児孫が各地から集まり、正月の一族再会を喜び合っているのを祝っている。子供の世代が夫婦づれであるばかりか、孫の世代も夫婦づれである。
七草のように別々である夫婦が、七草粥《がゆ》のように一緒にまじり合って、互いの息災を祝っている図。
野坡は今なら大銀行あるいは大百貨店の重役といった地位にあったが、温厚な人だったらしい。芭《ば》蕉《しよう》晩年の愛《まな》弟《で》子《し》だった。
(『蕉門名家句集』)
母《はは》許《がり》や春七《なな》草《くさ》の籠《かご》下《さ》げて
星《ほし》野《の》立《たつ》子《こ》
星野立子は高浜虚《きよ》子《し》の次女として、明治三十六年(一九〇三)東京に生まれ、昭和五十九年(一九八四)八十歳で没した。早くから俳句作者として知られていた。
「母がり」は古語で、母のもとへ。内容からして古風な雰囲気の語がふさわしく、確かな語感である。「七草」は七《く》種《さ》とも。普通、芹《せり》・なずな・五《ご》形《ぎよう》・はこべら・仏の座・すずな・すずしろ(大根)の七種の菜をいう。正月七日の粥《かゆ》に入れて食べる。きわめて古くからある正月の行事。
この句は昭和三十六年正月の作だが、父の虚子は同三十四年春没したから、母は一人淋《さび》しく正月を迎えていた。
(『句日記〓』)
俗名と戒名睦《むつ》む小春かな
中《なか》村《むら》苑《その》子《こ》
中村苑子は大正二年(一九一三)静岡県伊豆に生まれた。はじめ久保田万太郎に師事して「春《しゆん》燈《とう》」の同人だったが、昭和三十三年(一九五八)「俳句評論」の創刊に加わり、以後同誌の終刊(昭和五十八年)まで高《たか》柳《やなぎ》重《しげ》信《のぶ》と行動を共にした。
右の句、あとがきに、夫であった俳人高柳重信の「十年の忌日を迎えて、やっと本来の自分に還《かえ》った思い」とある。この句の俗名・戒名も、それに関わりがあるのだろう。
意表をつく題材を扱ってしっとりした味わいの句にしている。「小春」という季語が生きているのである。俳句は季語の命を最大限に生かす芸術だという真理をあらためて思い知らされる。
「風邪寝して真水のごとく覚めてをり」。
(『吟遊』)
亡師ひとり老師ひとりや竜《りゆう》の玉
石《いし》田《だ》波《は》郷《きよう》
「亡師」とは松山で少年波郷の俳句の師だった五《い》十《か》崎《ざき》古《こ》郷《きよう》、「老師」は水原 秋《しゆう》桜《おう》子《し》。「竜の玉」は庭などに密集して生える常緑の細長い草「竜のひげ」の実。冬、碧《へき》 玉《ぎよく》色の堅い実をつける。
波郷は中学の末期に自分を俳句に導いてくれた結核の病俳人古郷に対して、終生特別の思いを持っていたようだ。いま、古郷旧居の庭には、古郷・波郷の師弟の句を一つの石に彫った句碑がつつましく建っている。
(『酒中花』)
双《すご》六《ろく》の賽《さい》に雪の気《け》かよひけり
久《く》保《ぼ》田《た》万《まん》太《た》郎《ろう》
サイコロの白く冷たい握り心地と、降り始めた雪のひえびえする気配が通い合う。鋭い感覚と語感が結びついて、一瞬に過ぎさる情緒の揺らぎをことばに結晶させた。いうまでもなく、久保田万太郎の表芸は小説・戯曲だったが、自称余技の俳句が示す洗練ぶりはまた格別である。この句の情緒は、彼が少年期に熱愛した樋《ひ》口《ぐち》一《いち》葉《よう》の、たとえば『たけくらべ』、あの少年少女の哀愁にも通うところがありはしないか。
(『草の丈』)
寄る計《ばかり》引く事のない年の浪《なみ》
武《む》玉《たま》川《がわ》
「寄る」とは普通何かに近づいてゆくことだが、「年寄り」というときの「寄る」は年が積もり重なる意。句はその二様の意味をうまく利用して作ってある。もとをただせば「寄る年波」という決まり文句を句に仕立てたもの。ただし決まり文句の「年波」をわざと大まじめにとって、波ならば寄せては返すものなのに、なんと年の波だけは寄せてくるばかり、いっかな引く事がない、と嘆いてみせた。
『武玉川』は俳《はい》諧《かい》の付句の秀逸を集めて編んだ付句集で、前句をはぶき、高点を得た付句ばかりを集めて大人気を博し、短句(七・七)作品に特に軽妙洒《しや》脱《だつ》な作が多く、川柳の成立にも大きな影響を与えた。五・七・五の長句と七・七の短句を、自由に選んで並べた無造作な編集にも特色がある。
渓《たに》の水 汝《なんぢ》も若《わか》しよき事の
外《よそ》にあるごと山出でて行く
与《よ》謝《さ》野《の》寛《ひろし》
かつての「明星」指導者与謝野寛の最後の主宰誌「冬《とう》柏《はく》」昭和九年(一九三四)十月刊の号にのった「四《し》万《ま》の秋」より。秋の歌だが、新春にふさわしい風趣もある。四万温泉に旅した折、そこで見た四万川の渓流を歌ったものだろう。渓流の清《せい》冽《れつ》な若々しさをたたえつつも、「よき事の外にあるごと」と、若さのもつ定めないあこがれ心を揶《や》揄《ゆ》してみせることも忘れない。寛自身そういう若さを最もよく知り、生きた人だった。軽やかだが思いは深い。半年後の十年三月に死去。
与謝野寛は明治六年(一八七三)京都府岡崎村に寺の住職の四男として生まれ、昭和十年、六十二歳で没した詩人・歌人。鉄幹と号した。明治文壇の風雲児で、自然主義興隆後は声望 凋《ちよう》落《らく》したが、それ以前の浪漫主義の時代を主導した才能豊かな人だった。
鯛《たひ》焼《やき》やいつか極《ごく》道《だう》身を離《はな》る
五《ご》所《しよ》平《へい》之《の》助《すけ》
五所平之助は明治三十五年(一九〇二)東京神《かん》田《だ》に生まれ、昭和五十六年(一九八一)七十九歳で没した。映画監督・俳人。「マダムと女房」「伊《い》豆《ず》の踊子」「今ひとたびの」他で知られる映画界の大御所だが、俳歴も大正八年(一九一九)、学生時代からで長い。久保田万太郎の指導を受ける。
幼少年期寂しい生い立ちだったためか、作品に孤独感と人恋しさが漂う。これは古《こ》稀《き》を迎えた時の、心によぎる感慨を詠んだ句。ある日ふと、老いに気づいてうなずくのだ、そういえばいつのまにか極道もしなくなった、と。
(『わが旅路』)
玉《たま》の緒《を》のがくりと絶ゆる傀《く》儡《ぐつ》かな
西《にし》島《じま》麦《ばく》南《なん》
明治二十八年(一八九五)熊本県に生まれ、昭和五十六年(一九八一)八十六歳で没した俳人。青年時代武《む》者《しやの》小《こう》路《じ》実《さね》篤《あつ》の「新しき村」の理想に共鳴、これに参加して日《ひゆ》向《うが》に暮らした。多年岩波書店に勤め校正の神様とまでいわれた。飯田蛇《だ》笏《こつ》に師事。「玉の緒」は魂の緒で、命のこと。新年の門《かど》付《づ》けのくぐつ師が、首にかけた人形箱の人形を舞わせて歩く。動きが終わった瞬間、がくりと命が絶える人形、その一瞬を鋭くとらえた。剛直な詠《よ》みぶりからほとばしる情感。
(『人音』)
襟《えり》巻《まき》に一片浮ける朱《しゆ》唇《しん》かな
原《はら》 石《せき》鼎《てい》
「一片」はヒトヒラと読むのかイッペンなのか、原文にはふりがながなくて決めかねる。句の姿からはヒトヒラだろうと思われる。
口紅を刷《は》いた唇を、「一片浮ける」ととらえたところは手練の技というほかない。豪華な襟巻をしている女性だろうが、人格はかき消されて朱唇だけが活写されている。それでいて句にあくどさがないのは、「一片浮ける」という表現のみごとな軽さのためである。
(『花影』)
かなしみのきわまるときしさまざまに
物象顕《た》ちて寒《かん》の虹《にじ》ある
坪《つぼ》野《の》哲《てつ》久《きゆう》
坪野哲久は明治三十九年(一九〇六)石川県高浜町に生まれ、昭和六十三年(一九八八)八十二歳で没した歌人。
俳句の季語としては「虹」は夏季のものである。日本での気象条件からすると、高温多雨の夏季に虹が多いのは当然である。
この「寒の虹」の歌はそういう点から見てもおもしろい。雨と太陽光線とがあって虹が立つのが普通だが、坪野哲久は「物象顕ちて寒の虹」が立つとうたっている。あるいは作者の心が空に立たせた幻《まぼろし》の虹かとさえ思われる。それは「かなしみのきわまるときし」(「し」は強調の助詞)という強い上《かみの》句《く》とも釣り合って、一首に独特な孤高性と浪《ろう》漫《まん》性をもたらしている。
(『碧巌』)
鴨《かも》
かの行くは 雁《かり》か 鵠《くぐひ》か 雁ならば ハレヤ
トウトウ 雁ならば 名《な》宣《の》りぞせまし
なほ鵠なりや トウトウ
風《ふ》俗《ぞく》歌《うた》
「風俗歌」とは平安時代、東国主体の諸国民謡を宮廷・貴族社会が取り入れ、宴遊その他の場で愛《あい》誦《しよう》したものである。「鵠《くぐい》」は白鳥。高い空を鳥がゆく。あれは雁か、白鳥か。雁ならばカリカリとかガンガンとか鳴きながら名乗ってゆくだろうに。声なく渡ってゆくところを見れば、やはり白鳥だろうかな。
はやしことばの間《ま》のよさ、ひなびた味わいの上品さは、古歌の新鮮さを再認識させるに十分である。ちなみに、「カリ」とか「ガン」とかの名は、その鳴き声の印象からついたといわれている。
大鳥の羽根に ヤレナ 霜《しも》降れり ヤレナ
誰《たれ》かさ言ふ 千《ち》鳥《どり》ぞさ言ふ〓《かやぐき》ぞさ言ふ
蒼《みと》鷺《さぎ》ぞ 京《みやこ》より来てさ言ふ
風俗歌
「大鳥」は鶴《つる》とか白鳥とか大型の鳥の総称である。「〓《かやぐき》」はカヤクグリ(燕《えん》 雀《じやく》目の小鳥。体は大体暗《あん》褐《かつ》色《しよく》。高山帯で繁殖し、冬は低地に漂行する)の古名。「蒼《みと》鷺《さぎ》」はサギの一種。歌の大意は、もう京では大鳥の羽根に霜が降りたよ、寒くなるよ、と田舎《 い な か》にやってきた小型の鳥どもが告げているというのである。
民謡は個人の思いをひたぶるにのべる抒情詩とは違い、作の背後に複数の人がいる。自然に問答体となる場合も多い。この歌謡の場合もその一例で、「誰かさ言ふ」というのは別人が質問をはさんだ形。とぼけた稚《ち》拙《せつ》さがおおらかな味を引き出して、冬の民謡の秀《しゆう》逸《いつ》といえる。
常に消えせぬ雪の島 蛍《ほたる》こそ消えせぬ火はともせ
巫鳥《 し と と》といへど濡《ぬ》れぬ鳥かな 一《ひと》声《こゑ》なれど千鳥とか
梁《りよう》塵《じん》秘《ひ》抄《しよう》
物の名と実体が示す食い違いの面《おも》白《しろ》さをうたった機《き》智《ち》の歌謡である。「雪の島」は壱《い》岐《き》の島のこと。「巫鳥《 し と と》」はホオジロの異称、あるいはスズメ科の小鳥、ホオアカ・アオジ・クロジなどの総称だが、びしょ濡れになるという意味の「シトト」または「シトド」に掛けた。
雪の島「壱岐の島」というのにちっとも消えない島。火というのに一向に消えないホタルの火。シトトというのに濡れていない鳥。一声しか鳴かなくとも千の鳥というチドリ。他《た》愛《わい》ない言葉の遊びも、歌になってうたわれると楽しいものである。
風さやぐさ夜《よ》の寝《ね》覚《ざ》めのさびしきは
はだれ霜《しも》ふり鶴《つる》さはに鳴く
藤《ふじ》原《わらの》 俊《しゆん》成《ぜい》
俊成は平安末期の代表歌人で、勅《ちよく》撰《せん》和歌集『千《せん》載《ざい》集《しゆう》』の撰者。また有名な歌論書『古《こ》来《らい》風《ふう》体《てい》抄《しよう》』によって、中世歌論の出発点を示した。この歌は『長《ちよう》秋《しゆう》詠《えい》藻《そう》』に収められている一首である。
夜は深いというのに、眠りをやぶられ闇《やみ》の音をきく寂《さび》しさ。霜は早くもまだらに(「はだれ」)地を染め、鶴がしきりに(「多《さは》に」)鳴いている。音感の鋭かった歌人らしく、耳にしみ入るサ行を多用して、冬の夜半の寂しさをうたっている。
山びとの 言ひ行くことのかそけさよ。
きその夜、鹿の 峰をわたりし
釈《しやく》 迢《ちよう》空《くう》
釈迢空、すなわち折《おり》口《くち》信《しの》夫《ぶ》は、民俗学者としてよく山村を旅行した。この歌は昭和二十三年(一九四八)の歌集『水の上』にある。「山びと」は木こり、炭焼きなど山に住む人々。「きそ」は昨日。
作者の泊《と》まっていた宿に、朝立寄っていった山びとだろうか。ゆうべ峰を鹿が渡っていったよ、と語って去った山びとの言葉が、旅の「かそけさ」の思いを急に深めたのである。月明りの峰をゆく鹿の気《け》配《はい》まで伝わってくるような「かそけさ」をとらえた歌で、これまた冬の気分がよく伝わってくる。
鵯《ひよどり》のそれきり鳴かず雪の暮
臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》
亜浪は明治十二年(一八七九)に長野県に生まれ、昭和二十六年に死去した。前半生は新聞記者だった。俳句は最初虚《きよ》子《し》門だったが、俳句表現の主観性を重視する立場から離反、「ホトトギス」に対抗して「石楠《しやくなげ》」を創刊主宰、多くの俳人を育てた。
この句は昭和十二年刊行の『旅人』にある。一声かん高く鳴いて、あとは森《しん》閑《かん》たる静けさに没してしまったヒヨドリ。結句「雪の暮」が深《しん》沈《ちん》とした情感に明確な形を与えている。客観描写によって一つの精神風景をも表現しえているといえよう。
鶏《とり》の嘴《はし》に氷こぼるる菜《な》屑《くづ》かな
加《か》舎《や》白《しら》雄《お》
寒さのため菜っぱの切れはしも凍《い》てついてしまった。鶏がそれをくちばしでつついては、地べたからむしりとっている。むしりとるたびに、氷のかけらがきらきら光りながら、鶏のくちばしから散りこぼれる。
加舎白雄は、十八世紀後半に活躍した江戸中期の俳人。繊《せん》細《さい》、鋭《えい》敏《びん》な作風は、観察のこまやかさにおいて時代を抜き、今日なお新鮮である。
鴨《かも》のゐるみぎはのあしは霜《しも》枯《が》れて
己《おの》が羽音ぞ独《ひと》り寒けき
塙《はなわ》保《ほ》己《き》一《いち》
塙保己一は武《むさ》蔵《しの》国《くに》の農家に生まれた江戸後期の国学者。五歳のころ、肝臓を病み七歳で失明。江戸で三《しや》味《み》線《せん》や鍼《はり》を学んだが身につかず、生来の読書好きから国漢の師について学んだ。古典籍の集成『群《ぐん》書《しよ》類《るい》従《じゆう》』の編を志し、数十年の刻《こつ》苦《く》研《けん》鑽《さん》の末、五三〇巻編刊の大業を実現した。これはさらに『続群書類従』へと受けつがれる。
保己一の和歌は新《しん》古《こ》今《きん》調《ちよう》で華《か》麗《れい》鮮《せん》明《めい》な影像に富み、盲目の人の作とは思えぬほどである。この歌一首を見てもそれは知れよう。下《しも》句《のく》の細みに内省的な情感がこもっている。
たわたわとうすら氷《ひ》にのる鴨《かも》の脚《あし》
松《まつ》村《むら》蒼《そう》石《せき》
明治二十年滋賀県に生まれ、昭和五十七年、九十四歳で没した俳人。この句は昭和三十五年刊の『露』にある。飯田蛇《だ》笏《こつ》門。
鴨が北から渡ってきて湖沼に棲《す》みつく冬。寒気がきびしくなるとともに、岸《きし》辺《べ》からしだいに薄《うす》氷《ごおり》が張りはじめる。また、極寒の時期を過ぎて氷も薄氷になってゆく時期、一羽の鴨がふと水を出て薄氷に上がった。今にも割れそうな氷の上に、みずかきを広げて鴨はそっと乗っている。その、脚。鴨の重みと薄い氷の間に生じている危《あや》うい均《きん》衡《こう》と緊張を「たわたわ」の一語がみごとに生かした。なお「薄《うす》氷《らひ》」は俳句の季語としては冬でなく、初春を意味する。春先に薄っすらと張る氷、あるいは解け残っている薄い氷をもいう。
海暮れて鴨《かも》の声ほのかに白し
松《まつ》尾《お》芭《ば》蕉《しよう》
気《き》鋭《えい》の人として江戸で名をあげつつあった芭蕉は、貞《じよう》 享《きよう》元年(一六八四)四十一歳の時、門人千里を伴《ともな》って『野ざらし紀行』の旅に出発した。蕉風確立の基礎をなす撰《せん》集《しゆう》『冬の日』を尾《お》張《わり》で生んだ記念的な旅であった。右の句はその滞在中のものである。海辺で一日を過《す》ごした時の作と自注している。
とっぷりと暮れた海づらを、鴨の声が渡ってくる。「白し」は「顕《しる》し」を内に含んでおり、感覚の鋭《するど》さがこのような用語法にあらわれている。その白く顕きものが、「ほのかに」海をわたってくるから余情が広がったのである。この五五七の破調の句は、ゆっくり区切ってよむのがいいように思われる。
(『野ざらし紀行』)
水《みな》底《そこ》を見て来た顔の小《こ》鴨《がも》かな
内《ない》藤《とう》丈《じよう》草《そう》
丈草は芭《ば》蕉《しよう》の高弟で、禅《ぜん》に学ぶところ深く、芭蕉とはとりわけ心の通じ合う門弟だったと思われる。尾《お》張《わり》犬山藩士だったが、病弱のため遁《とん》世《せい》した。
鴨が水にもぐってはついと浮かぶ。そのけろりと澄《す》ました表情に、「水底を見て来た顔」を見てとったところがおもしろい。
丈草の俳《はい》諧《かい》作者としての天分は、蕉門の数ある作者たちの中でも抜群だった。彼は芭蕉の「さび」の精神をもっともよく伝えた弟子といわれるが、飄《ひよ》逸《ういつ》な俳味においてもぬきんでていた。その笑いには品格の高さと洒《しや》脱《だつ》さがあって、つねに独特の風味をたたえている。
(『丈草発句集』)
葦《あし》辺《べ》行く鴨《かも》の羽がひに霜《しも》降りて
寒き夕べは大《やま》和《と》し思ほゆ
志《し》貴《きの》皇《み》子《こ》
志貴皇子は天《てん》智《じ》天皇第七皇子。光《こう》仁《にん》天皇の父。『万《まん》葉《よう》集《しゆう》』に短歌六首を遺《のこ》す。皇族の万葉歌人たちのうちでも、調べの流麗さは群を抜いている。
右の歌は、文《もん》武《む》天皇(天《てん》武《む》・持《じ》統《とう》帝の孫)の、大《やま》和《と》から難《なに》波《わ》離宮への行《ぎよう》幸《こう》に随行した折の作である。難波の水辺は古くから葦原として有名だった。
「羽がひ」は鳥の左右の翼《つばさ》が交差し合うところから、ここでは背中をいうのにこの印象的な言葉を使った。しんしんと冷える夜、旅寝の寒さの中で暖かい家郷はひとしお恋しい。しみじみとした情感のある歌である。
(『万葉集』)
こがらしや日に日に鴛《を》鴦《し》のうつくしき
井《いの》上《うえ》士《し》朗《ろう》
井上士朗は江戸後期名古屋の俳人。産科医。絵画、平曲、漢学にも一家をなし、編著も多い。
木《こ》枯《が》らしが吹くごとに森は落葉し、池のオシドリは日ごとに羽色を美しくしてゆく。森《しん》閑《かん》とした空の下、雄の冬羽が美しい橙《だいだい》色《いろ》にかわる様子に着目するあたり、画人らしい色彩感がある。「日に日に」が効果的だが、これは加《か》賀《がの》千《ち》代《よ》女《じよ》の「落《おち》鮎《あゆ》や日に日に水のおそろしき」、高《たか》桑《くわ》闌《らん》更《こう》の「枯《か》れ蘆《あし》の日に日に折れて流れけり」をついだ語法だろう。三作ともそれぞれの作者の代表作になっているのはおもしろい。
(『枇杷園句集』)
水鳥やむかふの岸へつういつい
広《ひろ》瀬《せ》惟《い》然《ぜん》
放浪の俳人惟然は美《み》濃《の》(岐阜県)の酒造業の家に生まれたが、妻子をすてて家出し、剃《てい》髪《はつ》して芭《ば》蕉《しよう》晩年の門人となる。惟然坊と通称された。
天《てん》真《しん》爛《らん》漫《まん》に行動する風狂な人となりは、句作にもそのまま現れ、口語の擬《ぎ》声《せい》、擬態語を多用して、対象を活写する技法を開発した。これは、つと口をついて出る心の動きをとらえる上ですぐれた技法だった。
「梅の花赤いは《 (わ) 》赤いは赤いはな」のような句がよく知られる。右の句でも水鳥の生態を「つういつい」に活写したが、常にこれが成功するわけではない。擬音語や擬態語は印象が強いだけに、惰《だ》性《せい》的に用いるならたちまち陳《ちん》腐《ぷ》なものになってしまうからである。
(『惟然坊句集』)
暁《あかつき》と夜《よ》とのさかひの少《せう》安《あん》に
水をわたりて来る鳥のこゑ
松《まつ》村《むら》英《えい》一《いち》
松村英一は明治二十二年(一八八九)大《おお》晦《みそ》日《か》に生まれ、昭和五十六年(一九八一)九十一歳で没した歌人。窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》門。長らく歌誌「国民文学」を主宰した。
「少安」はふだんあまり見慣れない語だが、ここでは夜と朝とが入れ替わる境にある安らかなひとときという意味だろう。そのひとときがいわば細い帯のように横たわっている。その帯状の境目に添うて、低く鳥の声が水面を渡ってくる。「水をわたりて」がこの歌の味わいを決めている眼目の部分である。
(『石に咲く花』)
水鳥のしづかに己《おの》が身を流す
柴《しば》田《た》白《はく》葉《よう》女《じよ》
明治三十九年(一九〇六)神戸市に生まれ、昭和五十九年(一九八四)七十七歳で没した俳人。東北帝大国文科を出た関係で、同大独文教授だった小宮豊《とよ》隆《たか》の句会に加わる。のち父の俳句の師飯田蛇《だ》笏《こつ》に師事した。
作風は情感をほしいままに流露させる行き方ではない。自然界を見つめることがたえず自己内面を見つめることに転じてゆく作風といえようか。
流れのままに流されてゆくかにみえて、水鳥はしずかに自分を流しているのである。
(『岬の日』)
鳥どもも寝入つてゐるか余《よ》吾《ご》の海
斎《いん》部《べ》路《ろ》通《つう》
芭《ば》蕉《しよう》門人。多年放浪の旅を重ねた。句は漂泊生活の底から湧《わ》く寂《せき》寥《りよう》をにじませ独特の静けさをみせる。
「余吾の海」は琵《び》琶《わ》湖《こ》の北の小湖。美観をもって知られる。「鳥」とあるのは「水鳥」の意で、冬の季語。
寄るべない旅人が独り夜の湖畔にたたずんでいる。彼は静まりかえった枯《かれ》芦《あし》のあたりを透かし見ながら、水鳥が結ぶ安らかな夢を思い描いている。漂泊の旅人の、ひとときの安らぎ。
(『猿蓑』)
ぬばたまの夜《よ》の更《ふ》けゆけば久《ひさ》木《き》生《お》ふる
清き川原に千鳥しば鳴く
山《やま》部《べの》赤《あか》人《ひと》
古来 柿《かきの》本《もとの》人《ひと》麻《ま》呂《ろ》と並び称せられてきた万《まん》葉《よう》歌人だが、現在の目で見ると、赤人は繊《せん》細《さい》なすぐれた歌を作ったが、人麻呂のような幽暗な世界をかかえこんでいる歌人のもつ大きさはなかった。
赤人は自然詠にすぐれていた。目も耳も深く澄んでいるのがその歌の特徴である。
「ぬばたまの」は夜にかかる枕《まくら》詞《ことば》。「久木」はアカメガシワの木というが、別の説もある。吉《よし》野《の》の宮滝近くに当時あった離宮への行幸に随行した赤人が、周辺の風物をたたえた歌である。同時作の「み吉野の象《きさ》山《やま》の際《ま》の木《こ》末《ぬれ》にはここだもさわく鳥の声かも」もよく知られている名歌。
(『万葉集』)
思ひかね妹《いも》がり行けば冬の夜の
河風寒み千《ち》鳥《どり》なくなり
紀《きの》 貫《つら》之《ゆき》
紀貫之は九世紀後半から十世紀前半の日本を代表する歌人で、七十歳代前半で没したと考えられている。彼は『古《こ》今《きん》集《しゆう》』の撰者の中心であり、とくにその仮《か》名《な》序《じよ》の筆者とされてきたため、以後の日本の和歌や歌学に対する影響は甚大だった。そのため、二十世紀初頭に至って正岡子《し》規《き》が『古今集』のスタイルや代表者貫之をとりあげ、痛烈に攻撃したことは画期的な変化を意味していた。
右の歌は、貫之を痛《つう》罵《ば》した正岡子規が、この歌だけはまあ認められるとした作であるが、いうまでもなく貫之にはほかにもいい歌は少なくない。
この歌は元来、承《じよう》平《へい》六年(九三六)春、左《さ》衛《え》門《もんの》督《かみ》 藤《ふじ》原《わらの》 実《さね》頼《より》の依頼で詠《よ》んだ屏《びよう》風《ぶ》歌。それと知ってよめばいかにも屏風絵の情景に適《かな》った絵画的世界が現れる。葦《あし》も枯《か》れた冬の川原に夜がせまり、千鳥が鳴いて寒さは一層身にしみる。恋しさは一層つのり、女のもとに急ぐ男心。「思ひかね」は思っていることにもうたえられず。「妹がり」は妹のもとに、恋人のもとに。
(『拾遺和歌集』)
雪《ゆき》曇《ぐもり》 身の上を啼《な》く烏《からす》かな
内《ない》藤《とう》丈《じよう》草《そう》
丈草の名が蕉《しよう》門《もん》の書物に登場するのは『猿《さる》蓑《みの》』(元《げん》禄《ろく》四年)からであるが、この時すでに其《き》角《かく》の序文に対して跋《ばつ》文《ぶん》を草している。入門後まだ日が浅かったはずの丈草の厚《こう》遇《ぐう》ぶりがわかる。
芭《ば》蕉《しよう》没後、粟《あわ》津《づ》の仏幻庵で追《つい》善《ぜん》供《く》養《よう》につとめていた丈草のもとへ、ある日去《きよ》来《らい》が訪《たず》ねてきた。句の前《まえ》書《がき》には「去来が庵を訪ひ来たれるに別るるとて」とある。ただでさえ別れは寂しいものなのに、まして師もなくなってしまったあとの親しい門弟同士。思いは複雑である。その思いを直接にいうことはせず、烏を詠《よ》んで痛切な気持ちを吐《と》露《ろ》することに成功している。「身の上を啼く烏」という表現が、奇抜で的確。
(『丈草発句集』)
鵯《ひよどり》のそれきり鳴かず雪の暮
臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》
臼田亜浪は明治十二年(一八七九)長野県小《こ》諸《もろ》町に生まれ、昭和二十六年(一九五一)七十二歳で没した。その句の重厚かつ勤直な性格は生まれた土地柄からもきているかと思われる。
歌は与《よ》謝《さ》野《の》鉄《てつ》幹《かん》に、俳句は高浜虚《きよ》子《し》に師事した。しかし俳句における主観性を重んじる立場から独立、「ホトトギス」に対抗して「石楠《しやくなげ》」を創刊主宰し、多くの俳人を育てた。前半生は「やまと新聞」などの記者生活をもおくっている。
思い出したように高く鳴いて、それきり静かになってしまったヒヨドリ。その一《ひと》声《こえ》の生み出した深い沈黙のために、「雪の暮」がかえって急に実感されてくる。
(『旅人』)
鶏《とり》の嘴《はし》に氷こぼるる菜《な》屑《くづ》かな
加《か》舎《や》白《しら》雄《お》
白雄は信《しな》濃《の》国上田藩の藩士の次男として江戸の同藩邸で生まれた。十八世紀中期から後期にかけて活躍した俳人で、没したのは寛《かん》政《せい》三年(一七九一)、五十四歳だった。俳論書『加《か》佐《ざ》里《り》那《な》止《し》』などで、技巧を排して自然につくべしと説くが、実際彼の句は、平明な表現の中に豊かに働いている観察力の深さによって、時代を抜いて今なお新鮮なものがある。
冬の寒さのため菜っぱの切れはしも氷《こお》りついてしまった。鶏はその菜っぱをくちばしでつついてはほじり出している。つつくたび、氷のかけらがきらきら光りながら、くちばしから散りこぼれる。絵画における印象派の着眼点であった「光」が、ここで早くも生き生きととらえられている。
(『白雄句集』)
鷹《たか》の目の枯《かれ》野《の》に居《すわ》るあらしかな
内《ない》藤《とう》丈《じよう》草《そう》
この鷹は山野を自由に飛《ひ》翔《しよう》する野生の鷹ではなく、鷹《たか》匠《じよう》の手に据えられて獲物を待ちかまえている鷹だと古くから解されている。その通りだろう。ただ、一句を鑑賞するためには必ずしもそう限定する必要はない。
スワルという語には、「ひとへにすわりたる心」「肝のすわった人」といった用法があって、沈着で動じない様をいう。この鷹は、静けさの中に限りない鋭さを秘めて、木枯らし吹きすさぶ枯野を、その眼光で支配している。
(『丈草発句集』)
寒《かん》雀《すずめ》 身を細うして闘《たたか》へり
前《まえ》田《だ》普《ふ》羅《ら》
前田普羅は大正ホトトギス黄金時代の代表的俳人。演劇を愛し、晩年謡曲の作もあるという。「面《めん》体《てい》をつゝめど二月役者かな」の句など、演劇好きにしてはじめて出せるような艶がある。
厳寒期の雀はふくら雀ともいうように、軒下などで羽ふくらませて丸まっている。それが吹きつける寒風と身を細めて闘っている姿だろうか。作者の人生観を吐き出したような気迫がある。
(『普羅句集』)
冬《ふゆ》籠《ごも》り虫けらまでも穴かしこ
松《まつ》永《なが》貞《てい》徳《とく》
松永貞徳は江戸初期の歌人で俳《はい》諧《かい》師《し》。元《げん》亀《き》二年(一五七一)に生まれ、承《じよう》応《おう》二年(一六五三)に没した。すぐれた歌学者でもあり、晩年、世に俳諧が盛んになるや、古典の教養をもってこの新興文芸に投じ、いわゆる貞《てい》門《もん》俳諧の祖となった。芭《ば》蕉《しよう》も元をたどればその流れから出た。
「穴かしこ」は手紙の終わりにつくあいさつ語「あなかしこ」のもじり。虫が冬ごもりのあいさつに「あなかしこ」と言って穴にこもるという滑《こつ》稽《けい》である。俳句も元はこういうもじりや語《ご》呂《ろ》合わせの滑稽を楽しむ文芸から出てきたのだった。
(『犬子集』)
むさゝびの小鳥食《は》み居る枯《かれ》野《の》哉《かな》
与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》
蕪村には怪奇趣味ともいうべき句がかなりある。これもその一つといえようか。
枯野の一隅で、ムササビが小鳥を噛《か》み砕いている。骨の音まで低く響いてきそうな句である。「草枯れて狐《きつね》の飛脚通りけり」のような句もまたある。
いずれも空想世界に遊んでいるが、たとえば芭《ば》蕉《しよう》には、こんな趣向に遊ぶ句は見当たらない。元《げん》禄《ろく》から天《てん》明《めい》へ、百年足らずの間に、俳句「文学」も相応に変化したわけである。
(『蕪村句集』)
小《こ》春《はる》日《び》や石を噛《か》み居《ゐ》る赤《あか》蜻蛉《と ん ぼ》
村《むら》上《かみ》鬼《き》城《じよう》
「赤とんぼ」は秋の季題だが、この句の季語は「小春日」で冬。小春は陰暦十月の異称で、初冬だが春めいて穏やかな時節をこういった。実際、十一月(陰暦)の時期は気象も安定し、良い日《ひ》和《より》の日が続くものである。
秋を生きのびた弱々しい赤とんぼが、石にはりついて動かない。鬼城自身の境涯にこの初冬の赤とんぼを思わせるような所があったから、感情移入も強かったのだろう。それにしても「石を噛み居る」という表現は、強い印象を与えて非凡である。
(『鬼城句集』)
冬の蜘《く》蛛《も》ある夜動きて殺されぬ
加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》
加藤楸邨は俳句初学時代、村上鬼《き》城《じよう》の句を愛読し、影響も受けた。本がぐずぐずになるまで愛読していたようである。やがて水原 秋《しゆう》桜《おう》子《し》に師事したが、作品を通じての感化という点では鬼城の句のそれが決定的だったようである。
右の句などには「痩《やせ》馬《うま》のあはれ機《き》嫌《げん》や秋高し」「闘鶏の眼《まなこ》つぶれて飼はれけり」その他、鬼城の句に横《おう》溢《いつ》する生の不条理の感覚と相通じるものがある。それはつまるところ生の宿命を凝視する感覚だった。
(『吹越』)
冬草も見えぬ雪野のしらさぎは
おのが姿に身をかくしけり
道《どう》元《げん》
日本曹《そう》洞《とう》宗《しゆう》の開祖道元禅師。父は内大臣久《こ》我《が》通《みち》親《ちか》。二十四歳の時宋《そう》に渡り、如《によ》浄《じよう》から禅《ぜん》宗《しゆう》の一派である曹洞宗を伝え受けた。帰国後、建仁寺に入ったが、やがて叡《えい》山《ざん》の圧迫を受け、越《えち》前《ぜん》に下り、永平寺を建《こん》立《りゆう》した。
大著『正《しよう》法《ぼう》眼《げん》蔵《ぞう》』は、門弟に仏法の真《しん》髄《ずい》を説くために著《あらわ》したものであるが、文学また哲学の書としても卓絶している。
禅は言説や理《ことわり》を超《こ》えた世界に徹して悟《さと》りを求めるが、その修《しゆ》証《しよう》の心構えはしばしば文学や和歌によっても説かれる。道歌、道《どう》詠《えい》とよばれるものがそれである。この歌は「礼拝」と題して、おのれを無にして礼拝に没頭する清《しよう》 浄《じよう》 心《しん》を詠《よ》んだものである。白の中なる白の清浄心。
(『傘松道詠』)
尾《を》頭《かしら》の心もとなき海鼠《 な ま こ》哉《かな》
向《むか》井《い》去《きよ》来《らい》
海鼠はやや平たい円筒形で、どちらが頭でどちらが尻《しつ》尾《ぽ》か、よくわからない。その姿を見てふと口をついて出たという感じの句である。「心もとなき」は、つかみどころがはっきりせず、いかにも頼りない感じをいう。
去来は数ある芭《ば》蕉《しよう》の門人たちの中で、人《ひと》柄《がら》も作風もきわだって真《ま》面《じ》目《め》で端正な感じを与える人だが、こういうとぼけた味わいのある句をも作っている。ただ単に海鼠の形状のおかしみを詠《よ》んだだけではなく、「尾頭の心もとなき」海の生物に対する去来自身の親しみが、このような詠みぶりにこもっている。
(『去来発句集』)
憂《う》きことを海月《 く ら げ》に語る海鼠《 な ま こ》かな
黒《くろ》 柳《やなぎ》 召《しよう》波《は》
黒柳召波は江戸中期の俳人。与《よ》謝《さ》蕪《ぶ》村《そん》の高弟で、春《しゆん》泥《でい》舎《しや》とも号した。
ナマコとクラゲの対話という珍しい趣向のうちに、「あはれ」と「をかし」という二つの詩的要素をもりこんで成功している。理屈をいえば、海底にいるにもかかわらず人間の食用にされてしまうナマコが、水面に浮遊していても特殊な料理をのぞけばあまり食用向きでないために、比較的安全なクラゲに愚《ぐ》痴《ち》をこぼしている図とも解されようが、それ程理《り》詰《づ》めに見ずとも、浮遊しているものと這《は》っているものとの対話として洒《しや》落《れ》た面《おも》白《しろ》味《み》のある句である。
(『春泥発句集』)
魚《うを》食うて口 腥《なまぐさ》し昼の雪
夏《なつ》目《め》成《せい》美《び》
夏目成美は江戸後期の俳人。蓼《りよう》太《た》、暁《きよう》台《たい》、白《しら》雄《お》らと親しく交わったが、「俳《はい》諧《かい》独行の旅人」と自称して特定の流派には属さなかった。
「なまぐさ」は和歌の世界では歓迎されない語であったが、俳諧師たちはたとえば魚の匂《にお》いなど、一歩あやまれば、下品となりやすい領域の表現をも積極的にとり入れた。和歌のお上品ぶりに対する一つの批評でもあったろう。
成美のこの句も「昼の雪」となまぐさの取合せの中に斬《ざん》新《しん》さがあり、さらになお、気品を失わぬ洗練がある。江戸前の粋《いき》な感覚と爛《らん》熟《じゆく》した文明の香《かお》りがそこにある。
(『成美家集』)
牡《か》蠣《き》殻《がら》や磯《いそ》に久しき岩一つ
河《かわ》東《ひがし》碧《へき》梧《ご》桐《とう》
河東碧梧桐は、明治六年(一八七三)松山に生まれ、昭和十二年(一九三七)没の俳人。高浜虚《きよ》子《し》と同郷。二人で同じ松山出の先輩正岡子《し》規《き》をたすけ、三者一体で俳句革新運動の原動力となった。碧梧桐は終始花鳥諷《ふう》詠《えい》の道を守った虚子とは対照的に、子規没後、新傾向俳句運動に熱中し、伝統派の虚子と対立するにいたる。この句はそれ以前の作。
磯に大岩が一つ太古から動かない。牡蠣殻が根元にびっしり付着している。時がそこに張りついている。冬の波がうつ。
(『春夏秋冬』)
暁《あかつき》や鯨《くぢら》の吼《ほ》ゆるしもの海
加《か》藤《とう》暁《きよう》台《たい》
加藤暁台は、江戸中期、享《きよう》保《ほう》十七年(一七三二)尾《お》張《わり》藩士の子として名古屋に生まれ、寛《かん》政《せい》四年(一七九二)六十一歳で没した。青年期には尾張徳川家に仕えたこともある。
事物を観察する時の目の働かせ方に独特の生気があった。厳しい寒さで霜があたり一面に降り、海も冷え静まっている暁、くじらが豪快に潮を吹きあげている。「吼ゆる」は潮を吹くさまをいったのだろう。空想句だろうが、趣向がおもしろい。言葉のめりはりがきいた快さがある。
(『暁台句集』)
蘭《らん》鋳《ちう》の痩《や》せたれど風《か》邪《ぜ》は引かざらむ
林《はやし》原《ばら》耒《らい》井《せい》
昭和五十年(一九七五)、八十七歳で没した福井県生まれの俳人。旧姓岡田、名は耕三。漱《そう》石《せき》晩年の愛弟子だった英文学者で、師に信頼され作品の校正を任された。俳句は臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》門。論客としても知られた。独自の韻律観に基づく『俳句形式論』があり、自作でもそれを実践している。
これは背中の丸いずんぐりした金魚ランチュウを詠んだ句。「痩せたれど風邪は引かざらむ」は、蘭鋳だけに意表をつくおかしみがある。大人の機智と童心の出会いに「俳」の心が噴きあげる。
(『蘭鋳』)
鮟《あん》鱇《かう》の骨まで凍《い》ててぶち切らる
加《か》藤《とう》楸《しゆう》邨《そん》
鮟鱇という魚は、魚屋で売られるときにはぶら下げたままでぶち切られ、切身にされる。そのグロテスクな形はともあれ、冬の美味の一つである。この句、「骨まで凍てて」は誇張だが、「ぶち切らる」と思いきりよい言葉で受けとめて、動かしがたい表現を得た。悲《ひ》愴《そう》感《かん》と複雑な笑いがこもっている。
加藤楸邨の代表作として名高いこの句は、戦後肋《ろく》膜《まく》炎《えん》で長い病《びよう》臥《が》の生活をおくっていた時期の作だという。するとこれは、病床での想像の作かもしれない。そうだとすれば、この凍《こお》りついてぶち切られる鮟鱇には、作者の自画像の要素も色濃《こ》く投げこまれていると考えられる。
(『起伏』)
流れゆく大根の葉の早さかな
高《たか》浜《はま》虚《きよ》子《し》
昭和三年(一九二八)の初冬、東京西郊へ吟《ぎん》行《こう》におもむいた折の作だという。小川の上にかかった橋からふと見おろすと、冬の澄んだ水の中を流れ去る大根の葉がある。それが意外な早さであるのに軽いおどろきを感じたのである。虚子はその「早さ」の印象だけを句で語った。その結果、単に大根の葉を詠《よ》んだだけの句が、生の無常迅《じん》速《そく》を暗示する句にさえなった。
事物の動きの一瞬をすくいとることによって、かえって長い時間の経過の中にある生の一様相を鮮明にとらえうることがある。この句が虚子の代表作の一つになったのはそのためである。
(『五百句』)
冬菊のまとふはおのがひかりのみ
水《みず》原《はら》秋《しゆう》桜《おう》子《し》
作者の高弟石田波《は》郷《きよう》が、秋桜子先生の句を一つだけあげるならこの句だといい、その理由として「洗練されきった叙法、明澄な気品」をあげたことは有名である。
他の花がしだいに失せたあと、ひとり咲く菊の花に、われとわが身から湧《わ》く光をまとって立つものの、厳しさとすがすがしさを見ている。寂しいといえば寂しいが、その毅《き》然《ぜん》たるさまに、作者自身の好み、性向が共鳴したところからこの句が生まれた。
ある意味では、作者秋桜子の自画像ではないかとさえ思われるほど、この冬菊のたたずまいは端《たん》正《せい》で高雅である。
(『霜林』)
ふと咲けば山茶《 さ ざ ん》花《くわ》の散りはじめかな
平《ひら》井《い》照《しよう》敏《びん》
照敏は昭和六年(一九三一)に東京で生まれた。最初現代詩を作り、詩集や詩論集で活躍したが、加藤 楸《しゆう》邨《そん》と同じく青山学院女子短大で教壇に立った縁などから楸邨に師事するようになり、「寒雷」編集長をもつとめた。
詩論や詩人論、フランス現代詩の翻《ほん》訳《やく》、研究も多く、俳人となってからも俳論や俳句啓《けい》蒙《もう》の面で精力的な活動を示している。
初冬の彩《いろど》りである山茶花に眼をとめ、咲いたと見るやもう散りはじめているような花のさだめに、ものの命のあわれさ、不思議さを見たのである。
(『天上大風』)
はらはらと黄の冬ばらの崩《くづ》れ去る
かりそめならぬことの如《ごと》くに
窪《くぼ》田《た》空《うつ》穂《ぼ》
窪田空穂は草創期の「明《みよう》星《じよう》」に参加したこともある歌人だが、九十年の生《しよう》涯《がい》にわたって独往自尊の態度をつらぬき通した人だった。主要歌集だけでも十九冊に及ぶが、他にも最初の作品集である詩歌集『まひる野』や自然主義系の小説集、また厖《ぼう》大《だい》な古典研究・註《ちゆう》 釈《しやく》 書がある。
この歌は作者八十三歳の時のもの。庭に咲く冬ばらの花が命を終えてはらはらと散るのをふと見かけた時、その花の崩れゆくさまがあたかも意志あるものの如くに見えて、心うたれたのである。日常のありふれた情景が、作者の深い洞《どう》察《さつ》によって、かりそめならぬ生命を与えられている。
(『老槻の下』)
冬《ふゆ》蜂《ばち》の死にどころなく歩きけり
村《むら》上《かみ》鬼《き》城《じよう》
慶《けい》応《おう》元年(一八六五)に生まれ、昭和十三年(一九三八)に没した鬼城は、自分より年下の子《し》規《き》、ついで虚《きよ》子《し》に師事し、近代俳句にまったく独自な地位を占めるにいたった。
三十年にわたり高崎裁判所の代書人だったが、青年時代からの極度の難聴に加え、十人の子を抱《かか》えた生活は五十代にいたるまで不安定なものだった。しかし彼はその貧しさの中ですぐれた境《きよう》涯《がい》吟《ぎん》をぞくぞくと作った。
冬まで生き残った蜂の、飛ぶことさえすでに出来なくなって這《は》い歩いている姿を淡々と写しているが、その印象は痛切である。
(『鬼城句集』)
土《ど》堤《て》を外《そ》れ枯《かれ》野《の》の犬となりゆけり
山《やま》口《ぐち》誓《せい》子《し》
昭和二十年(一九四五)初頭の作。山口誓子は当時の胸を病み、孤独な状態で長期療養をつづけていた。この句は一頭の犬を詠《よ》んでいるにすぎないが、ふしぎなくらい戦争末期の多数の日本人の心《しん》象《しよう》風景でもあるように感じられる。
冬枯れの土手を歩む犬がふと下りていき、枯野に入っていった。何の変哲もない景《け》色《しき》だが、「土堤を外れ」という表現の切れ味のいいイメージによって、「枯野の犬」の表現に強いリアリティが生じている。
そのためこの犬は荒《こう》涼《りよう》たる枯野を歩みつづけるいのちの姿そのものになったかのようだ。
(『遠星』)
白きうさぎ雪の山より出でて来て
殺されたれば眼《め》を開き居《を》り
斎《さい》藤《とう》 史《ふみ》
一読しただけである残《ざん》酷《こく》な事件の結末という印象がせまってくる歌である。その原因は、白い兎《うさぎ》が雪の山から出てきて殺されたので、という前提と、「眼を開き居り」という結果が、決して必然的に結びつかないところから来ているだろう。
実際、雪の山から出て来て殺されたのではない兎でも、眼を開《あ》けたまま死んでいる場合はいくらでもあろう。逆に、それだからこそこの歌の一見強《ごう》引《いん》な叙法は、戦後まもない時期にあって、衝撃的な新鮮さをもって話題になったのである。
「白きうさぎ」の惨《さん》劇《げき》は無《む》垢《く》な人の魂《たましい》の受難劇の象徴でもありえた。
(『うたのゆくへ』)
冬の蠅《はへ》二つになりぬあたたかし
臼《うす》田《だ》亜《あ》浪《ろう》
「木《き》曾《そ》路《じ》ゆく我れも旅人散る木の葉」や「今日も暮るる吹雪《ふぶき》の底の大日輪」「郭《くわつ》公《こう》や何《ど》処《こ》までゆかば人に逢《あ》はむ」など、第一句集『亜浪句鈔』の中の世評高い代表作には、肩ひじ張って孤独な句が多いが、同じころの作にこのような句もあることは、珍しく、またほっとする感じもある。
これは冬の句だが、結句の「あたたかし」は実は春の季語。蠅の動作と季語の働きの微妙な重なり合い。
(『亜浪句鈔』)
広《ひろ》沢《さは》やひとりしぐるゝ沼太郎
中《なか》村《むら》史《ふみ》邦《くに》
中村史邦は蕉《しよう》門《もん》の高弟向《むか》井《い》去《きよ》来《らい》の手引きで、元禄初年代に芭蕉に入門した俳人。『猿《さる》蓑《みの》』はじめ蕉門の句集で活躍、芭蕉にも重んじられたようで、自画像などを与えられている。作者としては動物の句にすぐれたものがあった。
雁《がん》の一種にヒシクイ(菱食)がある。シベリア東部からやってきて越冬する天然記念物の大型の雁で、沼太郎の異称がある。「広沢」は京都嵯《さ》峨《が》の東にある有名な池。その池に一羽、沼太郎が浮かんでいて、時雨《 し ぐ れ》に包まれている。この句の面白さは、言うまでもなく「沼太郎」という呼び名が広沢の池の時雨にしっくりかなっている点にある。
(『猿蓑』)
句歌索引
●あ
暁と夜とのさかひの少安に
水をわたりて来る鳥のこゑ
松 村 英 一
暁や鯨の吼ゆるしもの海
加 藤 暁 台
あげまきがうかるる声のおもしろし
ふれふれ粉雪山つくるまで
加 納 諸 平
足軽のかたまつて行く寒さかな
井 上 士 朗
葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて
寒き夕べは大和し思ほゆ
志 貴 皇 子
新しき年の始の初春の
今日降る雪のいや重け吉事
大 伴 家 持
沫雪のほどろほどろに降り敷けば
平城の京し思ほゆるかも
大 伴 旅 人
鮟鱇の骨まで凍ててぶち切らる
加 藤 楸 邨
家毎に柿吊るし干す高木村
住み古りにけり夢のごとくに
久保田不二子
家康公逃げ廻りたる冬田打つ
富 安 風 生
几巾まだつめたいか山の空
岩 間 乙 二
いくたびも雪の深さを尋ねけり
正 岡 子 規
いざや寝ん元日はまたあすのこと
与 謝 蕪 村
一月の川一月の谷の中
飯 田 龍 太
一枚の落葉となりて昏睡す
野見山朱鳥
一盞の寒燈は雲外の夜
数杯の温酎は雪の中の春
白 居 易
一本の蝋燃しつつ妻も吾も
暗き泉を聴くごとくゐる
宮 柊 二
いみじくもかゞやく柚子や神の留守
阿波野青畝
魚食うて口腥し昼の雪
夏 目 成 美
魚眠るふる雪のかげ背にかさね
金尾梅の門
憂きことを海月に語る海鼠かな
黒 柳 召 波
失ひしわれの乳房に似し丘あり
冬は枯れたる花が飾らむ
中城ふみ子
うづみ火にすこし春あるここちして
夜ぶかき冬をなぐさむるかな
藤 原 俊 成
海暮れて鴨の声ほのかに白し
松 尾 芭 蕉
海見ざるごとくに冬を構へけり
金尾梅の門
襟巻に一片浮ける朱唇かな
原 石 鼎
おうおうといへど敲くや雪の門
向 井 去 来
尾頭の心もとなき海鼠哉
向 井 去 来
奥白根かの世の雪をかゞやかす
前 田 普 羅
落葉たく煙の香まとふ幼子の
ひとときうたふわが膝にきて
木 俣 修
斧入れて香に驚くや冬木立
与 謝 蕪 村
おのが灰おのれ被りて消えてゆく
木炭の火にたぐへて思ふ
太 田 水 穂
大髭に剃刀の飛ぶ寒さ哉
森 川 許 六
お奉行の名さへおぼえずとし暮れぬ
小 西 来 山
思ひかね妹がり行けば冬の夜の
河風寒み千鳥なくなり
紀 貫 之
●か
牡蠣殻や磯に久しき岩一つ
河東碧梧桐
かつ氷りかつはくだくる山河の
岩間にむせぶあかつきの声
藤 原 俊 成
かなしみのきわまるときしさまざまに
物象顕ちて寒の虹ある
坪 野 哲 久
鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
榎 本 其 角
神無月降りみ降らずみ定めなき
時雨ぞ冬のはじめなりける
よみ人しらず
加留多歌老いて肯ふ恋あまた
殿村菟絲子
枯蘆に曇れば水の眠りけり
阿部みどり女
枯れ蘆の日に日に折れて流れけり
高 桑 闌 更
枯枝ほきほき折るによし
尾 崎 放 哉
枯れにける草はなかなか安げなり
残る小笹の霜さやぐころ
賀 茂 真 淵
枯野哉つばなの時の女櫛
井 原 西 鶴
枯野くるひとりは嗄れし死者の声
河原枇杷男
元日や暗き空より風が吹く
青 木 月 斗
寒雀身を細うして闘へり
前 田 普 羅
消えかへり岩間にまよふ水の泡の
しばし宿かる薄氷かな
藤 原 良 経
君かへす朝の鋪石さくさくと
雪よ林檎の香のごとくふれ
北 原 白 秋
清盛の文張つてある火桶かな
大伴大江丸
桐の木高く月さゆる也
志 太 野 坡
草枯や海士が墓皆海に向く
石 井 露 月
唇で冊子かへすやふゆごもり
建 部 涼 袋
暮れのこる寒空の下戸をさせる
わが家を見たりこれは又さびし
木 下 利 玄
クレヨンの赤青の雪降らせゐる
四歳の姉と三歳のおとうと
石川不二子
化粧ふれば女は湯ざめ知らぬなり
竹下しづの女
氷水面に封じて聞くに浪なし
雪林頭に点じて見るに花あり
菅 原 道 真
凩の一日吹いて居りにけり
岩 田 涼 菟
凩の地にもおとさぬしぐれ哉
向 井 去 来
こがらしや日に日に鴛鴦のうつくしき
井 上 士 朗
木がらしや目刺にのこる海のいろ
芥川龍之介
木枯よなれがゆくへのしづけさの
おもかげゆめみいざこの夜ねむ
落 合 直 文
獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす
秋元不死男
去年今年貫く棒の如きもの
高 浜 虚 子
小春日や石を噛み居る赤蜻蛉
村 上 鬼 城
是がまあつひの栖か雪五尺
小 林 一 茶
●さ
最澄の瞑目つづく冬の畦
宇佐美魚目
篠の葉に 雪降りつもる 冬の夜に
豊の遊びを するが愉しさ
神 楽 歌
里人の渡り候ふか橋の霜
西 山 宗 因
淋しさの底ぬけて降るみぞれかな
内 藤 丈 草
小夜時雨溝に湯をぬく匂ひ哉
藤 野 古 白
さんさ時雨と 萱野の雨は
音もせで来て 降りかゝる
鄙 廼 一 曲
志賀の浦や遠ざかりゆく波間より
凍りていづる有明の月
藤 原 家 隆
しぐるるや駅に西口東口
安 住 敦
時雨そめ黒木になるは何々ぞ
椎 本 才 麿
しぐれふるみちのくに大き仏あり
水原秋桜子
正月の雪真清水の中に落つ
廣 瀬 直 人
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり
森 澄 雄
しらしらと氷かがやき/千鳥なく/
釧路の海の冬の月かな
石 川 啄 木
しらぬひ筑紫の綿は身につけて
いまだは著ねど暖かに見ゆ
沙 弥 満 誓
白きうさぎ雪の山より出でて来て
殺されたれば眼を開き居り
斎 藤 史
白き巨船きたれり春も遠からず
大 野 林 火
しんしんと寒さがたのし歩みゆく
星 野 立 子
双六の賽に雪の気かよひけり
久保田万太郎
炭竈に塗込めし火や山眠る
松本たかし
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや
中 村 汀 女
咳をしても一人
尾 崎 放 哉
せめて時雨よかし ひとり板屋の淋しきに
閑 吟 集
俗名と戒名睦む小春かな
中 村 苑 子
●た
大名の寝間にもねたる寒さかな
森 川 許 六
鯛焼やいつか極道身を離る
五所平之助
鷹の目の枯野に居るあらしかな
内 藤 丈 草
竹馬やいろはにほへとちりイウぢりに
久保田万太郎
竹ほど直なる 物はなけれども
ゆきゆき積れば 末はなびくに
隆 達 小 歌
闘うて鷹のゑぐりし深雪なり
村 越 化 石
立や年既に白髪のみどり子ぞ
吉 川 五 明
渓の水汝も若しよき事の
外にあるごと山出でて行く
与謝野 寛
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
松 尾 芭 蕉
玉の緒のがくりと絶ゆる傀儡かな
西 島 麦 南
鱈船や比良より北は雪げしき
河 野 李 由
誰か来るみつしアウみつしと雪の門
川 端 茅 舎
力つくして山越えし夢露か霜か
石 田 波 郷
父よりも母に親しき冬夜かな
佐 藤 紅 緑
長松が親の名で来る御慶かな
志 太 野 坡
月清み瀬々の網代に寄る氷魚は
玉藻にさゆる氷なりけり
源 経 信
次の間の灯で膳につく寒さかな
小 林 一 茶
津の国の難波の春はゆめなれや
葦のかれ葉に風わたるなり
西 行 法 師
木偶の眼のかたりとねむる寒夜かな
郡 司 正 勝
冬麗の微塵となりて去らんとす
相 馬 遷 子
遠山に日の当りたる枯野かな
高 浜 虚 子
牀寒く枕冷にして 明に到ること遅し
更めて起きて……
菅 原 道 真
とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな
松本たかし
土堤を外れ枯野の犬となりゆけり
山 口 誓 子
となん一つ手紙のはしに雪のこと
西 山 宗 因
とまり舟苫のしづくの音絶えて
夜半のしぐれぞ雪になりゆく
村 田 春 海
富人の家の児どもの着る身無み
腐し棄つらむ嘸綿らはも
山 上 憶 良
灯火に氷れる筆を焦しけり
吉 分 大 魯
灯火のすわりて氷る霜夜かな
松 岡 青 蘿
鳥どもも寝入つてゐるか余吾の海
斎 部 路 通
鶏の嘴に氷こぼるる菜屑かな
加 舎 白 雄
●な
流れゆく大根の葉の早さかな
高 浜 虚 子
七草や女夫アウ女夫に孫女夫
志 太 野 坡
難波潟あしまの氷消ぬがうへに
雪降りかさぬ面白の身や
源 俊 頼
生酔の礼者をみれば大道を
横すぢかひに春はきにけり
四 方 赤 良
ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる
清き川原に千鳥しば鳴く
山 部 赤 人
●は
羽子板の重きが嬉し突かで立つ
長谷川かな女
はつとしてわれに返れば満目の
冬草山をわが歩み居り
若 山 牧 水
初雪の畳ざはりや椶櫚箒
川 井 智 月
初雪を誉めぬむすこが物に成
武 玉 川
母許や春七草の籠下げて
星 野 立 子
はらはらと黄の冬ばらの崩れ去る
かりそめならぬことの如くに
窪 田 空 穂
春立や新年ふるき米五升
松 尾 芭 蕉
ひだるさに馴れてよく寝る霜夜かな
広 瀬 惟 然
人影を雪間に遠く見出でつつ
わが訪はるるに定めてぞ待つ
野村望東尼
一つ松幾代か経ぬる吹く風の
音の清きは年深みかも
市 原 王
人よむに如かず正月諷詠詩
飯 田 蛇 笏
独り碁や笹に粉雪のつもる日に
中 勘 助
日の春をさすがに鶴の歩みかな
榎 本 其 角
鵯のそれきり鳴かず雪の暮
臼 田 亜 浪
広沢やひとりしぐるゝ沼太郎
中 村 史 邦
更くる夜や炭もて炭を砕く音
大 島 蓼 太
ふと咲けば山茶花の散りはじめかな
平 井 照 敏
冬が来た。白い樹樹の光を体のうちに
蓄積しておいて、夜ふかく眠る
前 田 夕 暮
冬枯や平等院の庭の面
上 島 鬼 貫
冬菊のまとふはおのがひかりのみ
水原秋桜子
冬草も見えぬ雪野のしらさぎは
おのが姿に身をかくしけり
道 元
冬籠り虫けらまでも穴かしこ
松 永 貞 徳
冬ざれやものを言ひしは籠の鳥
高橋淡路女
冬の蜘蛛ある夜動きて殺されぬ
加 藤 楸 邨
冬の蝶睦む影なくしづみけり
西 島 麦 南
冬の蠅二つになりぬあたたかし
臼 田 亜 浪
冬の日や臥して見あぐる琴の丈
野 澤 節 子
冬の水一枝の影も欺かず
中村草田男
ふゆの夜や針うしなふておそろしき
桜 井 梅 室
冬蜂の死にどころなく歩きけり
村 上 鬼 城
冬山の青岸渡寺の庭にいでて
風にかたむく那智の滝みゆ
佐藤佐太郎
ふりむけば障子の桟に夜の深さ
長谷川素逝
降る雪や明治は遠くなりにけり
中村草田男
亡師ひとり老師ひとりや竜の玉
石 田 波 郷
星きらアウきら氷となれるみをつくし
高 桑 闌 更
ほそぼそと氷の下をゆく水の
己れをとほす音のさやけさ
若山喜志子
微笑が妻の慟哭 雪しんしん
折 笠 美 秋
本買へば表紙が匂ふ雪の暮
大 野 林 火
●ま
みづうみの氷は解けてなほ寒し
三日月の影波にうつろふ
島 木 赤 彦
水鳥のしづかに己が身を流す
柴田白葉女
水鳥やむかふの岸へつういつい
広 瀬 惟 然
水洟や鼻の先だけ暮れ残る
芥川龍之介
水底を見て来た顔の小鴨かな
内 藤 丈 草
むさゝびの小鳥食み居る枯野哉
与 謝 蕪 村
牝鶏はねむり牡鶏雪をかむ
前 田 普 羅
最上川逆白波のたつまでに
ふぶくゆふべとなりにけるかも
斎 藤 茂 吉
餅搗によみがへる蠅ありにけり
五十崎古郷
門しめてだまつてねたる面白さ
松 尾 芭 蕉
門前の小家もあそぶ冬至哉
野 沢 凡 兆
●や
山ふかみ春とも知らぬ松の戸に
たえだえかかる雪の玉水
式子内親王
山や雪知らぬ鳥鳴く都かな
心 敬
雪明りあかるき閨は又寒し
建 部 巣 兆
雪曇身の上を啼く烏かな
内 藤 丈 草
雪達磨とけゆく魂のなかりけり
西 島 麦 南
雪に来て美事な鳥のだまり居る
原 石 鼎
雪の夜の紅茶の色を愛しけり
日 野 草 城
雪刷きておのれ幽めり夜の山
相 馬 遷 子
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
橋本多佳子
ゆきふるといひしばかりの人しづか
室 生 犀 星
雪山の道おのづからあはれなり
猪は猪の道杣は杣の道
穂 積 忠
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
久保田万太郎
百合根煮て冬日のごとき妻たらむ
石田あき子
世間は霰よなう 笹の葉の上の
さらさらさつと 降るよなう
閑 吟 集
世間を憂しとやさしと思へども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
山 上 憶 良
夜のほどに降りしや雨の庭たづみ
落葉をとぢてけさは氷れる
上 田 秋 成
呼かへす鮒売見えぬあられかな
野 沢 凡 兆
寄る計引く事のない年の浪
武 玉 川
夜を凍みる古き倉かも酒搾場の
燈のくらがりに高鳴る締木
中 村 憲 吉
●ら
蘭鋳の痩せたれど風邪は引かざらむ
林 原 耒 井
流氷や宗谷の門波荒れやまず
山 口 誓 子
ルノアルの女に毛糸編ませたし
阿波野青畝
●わ
我が寝たを首上げて見る寒さ哉
小 西 来 山
*本書は一九九一年十二月に学習研究社から刊行された『四季 歌ごよみ〈冬〉』に、新たに書き下ろしたものを加えて再編集しました。 名《めい》句《く》 歌《うた》ごよみ[冬《ふゆ》・新《しん》年《ねん》]
大《おお》岡《おか》 信《まこと》
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平成14年1月11日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Makoto OOKA 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『名句歌ごよみ[冬・新年]』平成12年2月25日初版発行