『アルファベット・パズラーズ』 大山誠一郎 東京創元社
目 次
Pの妄想
Fの告発
Yの誘拐
Pの妄想
1
「自分が毒殺されると思い込んでいる人に会ったこと、ある?」
奈良井明世《ならい あきよ》はそう言うと、三人の仲間たちを見回した。
「あるよ」
そう答えたのは後藤慎司《ごとう しんじ》だった。
「毒殺だけじゃなく、絞め殺されるとか撃ち殺されるとか思い込んでいるタイプにもね。警視庁には毎月、自分が殺されるって訴える人間が何人もやってくるんだ。そういう人間は、親切に、同情をもって、しかしきっぱりとした態度で扱っている。話を聞いてやり、安心を与えて、それからお引き取り願うんだ。今のところ、自分が殺されるって訴えてきた人間が殺された例は一つもないね」
「診察室でときどきお会いします。被毒妄想の患者さんですね」
にっこり笑って答えたのは竹野理恵《たけの りえ》。
「被毒妄想?」
「自分の食べ物や飲み物に毒が入っていると妄想する症状です。幻味や幻臭――つまり、実際にはなんともないのに、変な味や臭いがするという思いこみを伴うときもあるんですよ」
「あなたの知人に、自分が毒殺されると思い込んでいる人がいるのですか?」
そう言ったのは、部屋の主の峰原卓《みねはら たく》。
「ええ、実はそうなんです。あたしの同業者に、西川珠美《にしかわ たまみ》という人がいるんです。資産家の一族で、目白にある古いお屋敷に住んでいるんですけど、毒殺されるという妄想に憑かれている見たいなんです――自分の家政婦に毒殺されるという妄想に」
*
東京、三鷹の井の頭公園近くに、〈AHM〉という四階建てのマンションがある。
茶色い煉瓦タイルを貼り詰めた落ちついた雰囲気の建物だ。
駅にも商店街にも近く、立地条件はなかなかよい。
〈AHM〉とは変わった名称だが、エントランスの御影石に彫られた Apartment House of Minehara という文字を見れば、その疑問も氷解する。
築十年で、一つの階に2DKが三戸入っている。
マンション全体では十戸。
四階建てなのになぜ十戸なのかといえば、最上階すべてがオーナーの住居となっているからである。
七月四日、金曜日の夜。
奈良井明世と三人の仲間たちは、この最上階の一室でくつろいでいた。
〈AHM〉は各階に2DKが三戸あるので、それらをすべて合わせたかたちのオーナーの住まいは相当の広さがあった。
玄関、居間、書斎、キッチン、寝室、客室、どれもがたっぷりとした空間を与えられている。
明世たちが今いるのは書斎だった。
広さは十二畳ほどもあるだろうか。
北側と西側の壁に接してオーナーメイドの歌詞の本棚が置かれ、そこに法律書、美術書、文学書、歴史書などがびっしりと詰め込まれている。
居間へ通じるドアがある南側の壁には、アンティーク時計と、部屋の主が弁護士資格を持っていることを示す書状、そして温和な老婦人の顔写真が掛けられている。
遺産を残してくれた伯母だそうで、オーナーはその遺産でこのマンションを建てたのだという。
東側の壁には大きな出窓があり、居間はカーテンで閉ざされているが、日中は遠くに井の頭公園を見ることができて、とても眺めがいい。
明世たちはソファに腰を下ろし、ガラステーブルの上にはオーナーが手ずから淹れてくれた紅茶と、クッキーを持った皿。
明世は翻訳家で、このマンションの三階に住んでいる。
その隣りに座って、優雅な仕草で紅茶を飲んでいるのが竹野理恵。
中央医科大学付属病院に勤務する精神科医で、二階の住人だ。
一方、優雅とは言いかねる仕草でクッキーを頬張っているのが、後藤慎司。
警視庁捜査一課の刑事で、一階に住んでいる。
三人とも揃って三十二歳である。
そして、穏やかな微笑を浮かべながら、紅茶の香りを楽しんでいるのが、マンションのオーナーでありこの部屋の主である峰原卓だった。
年齢は五十代半ばだろうか。
やせすぎで、身長は百八十センチ近くある。
日本人離れした彫りの深い顔立ちで、眼差しは穏やかだが、ときおりはっとするほど冷徹な光が宿ることがある。
声は知的で、低いがよく響いた。
舞台俳優になっても成功しただろう。
長年のあいだ民事弁護士をしていた峰原は、伯母の遺産が入ったのを機に仕事を辞め、このマンションを建てたのだった。
そして、管理人として悠々自適の生活に入り、趣味の犯罪研究に打ち込むようになったのである。
明世は犯罪やミステリ関係の翻訳家、理恵は精神科医、慎司は刑事と、三人とも仕事柄犯罪に関心があることから、峰原と親しくなり、しばしばその住居に遊びに行くようになった。
今日も峰原が淹れてくれた紅茶を飲みながら、取り留めのない雑談をしていた。
明世はふと知人のことを思い出し、皆に持ち出してみたのである。
「西川珠美という女性はなぜ、自分が毒殺されると思い込んでいるのですか」
理恵がのんびりした口調で尋ねた。
彼女が言うと、どんな話題も切迫感を失ってしまう。
精神科医として有能なのは、ひとえにそのためかもしれない。
「そこのところがよくわからないの。ただ、誰に毒殺されると思っているかはわかっている。住み込みの家政婦。その家政婦――富樫加寿子《とがし かずこ》さんというんだけど――が、あたしに教えてくれたの」
「詳しく話してくれますか」
「あたしが珠美さんの妄想のことを知ったのは、一ヶ月ほど前のことだった。稀覯本《きこうぼん》の洋書を借りに珠美さんの屋敷を訪ねて、紅茶をご馳走になったんだけど、それがとても変だったの」
「変というと?」
「缶入りだったのよ」
慎司が不審そうな顔をした。
「どこが変なんだよ」
「珠美さんはね、あんたみたいに食生活の貧しい人間じゃないの。紅茶にすごく凝ってるのよ。ダージリンやアッサムやらウバやら、そのほかいろいろな種類の茶葉をガラスの小瓶に入れて置いてあって、毎日それをイギリス式のやり方で入れていた。お湯の温度や時間をきっちり計ってね。ティーポットとカップにも凝っていて、ロイヤル・ダルトンのものを使っていた。そんな人が缶紅茶なんて、どう考えてもおかしいじゃない」
紅茶に一家言ある峰原も興味を持ったらしい。
カップをテーブルに置くと、穏やかな声で尋ねてきた。
「なぜ缶紅茶を飲むのか、理由を訊いてみましたか」
「ええ。そうしたら、珠美さんは、『お手軽な缶入りのも、結構おいしいじゃない』って。そう言うときの表情が硬いし、声も不自然で、どう見ても嘘をついているみたいなんですけど、それ以上訊いたら失礼かと思って、穿鑿はしませんでした。だけど、帰り際に加寿子さんが……」
「先ほど名前の出た家政婦ですね」
「そうです。二十年近くも珠代さんの屋敷に住み込んで働いている人なんですけど、その加寿子さんが、悲しそうな顔でそっと耳打ちしてくれたんです。『奥様は、わたしが毒を入れると思っていらっしゃるんです』って」
峰原がうなずいた。
「なるほど。だから、缶紅茶というわけですか。ティーポットやカップ、あるいは茶葉の容器だったら、毒を入れられることもありうるが、缶だったらそうした恐れはない。缶だから、毒を注射することもできない。缶の口は小さいから、口を開けたらあとに毒を投じることも難しい」
「加寿子さんが珠美さんの妄想のことをあたしに明かしたとき、悲しそうな顔をしていたのも当然ですよね。長年使えてきたのに、毒を入れると疑われているんだもの」
「珠美さんが毒殺されると思い込むようになったのはいつ頃なのか、家政婦は言っていましたか」
「今年の三月二日からだとか。朝食のとき、珠美さんが、加寿子さんの入れた紅茶を、変な臭いがすると言って飲まなかったそうなんです。そして翌日からは缶入りのものを買ってくるようになった。加寿子さんがたまりかねて、どうしてそんなことをなさるのですかと訊いたら、珠美さんは加寿子さんを睨みつけて、あんたが毒を入れているからよ、と答えたそうなんです。冗談じゃなく、本気でそう信じている様子で。加寿子さんは茫然として、そんなことするはずないじゃありませんかと言ったけど、珠美さんは聞く耳を持たなかった。あんたはわたしのことを憎んでる、遺産が欲しいんだろう、こっそり毒を入れて殺そうとしているんだよ、の一点張り。同時に、飲み物だけじゃなく食事も、加寿子さんの作るものを食べなくなった。全部外食なんだそうです。だから、食事がとても偏ってしまったと加寿子さんは嘆いていました。とにかく、少しでも珠美さんの手を経たものは、いっさい口に入れないんだそうです」
「三月一日までは、珠美さんは変わりなかったのですね?」
「ええ。二日の朝食から、いきなりおかしくなったって。加寿子さん、すっかり疲れてしまった様子で、本当に気の毒だった。二十年近くも珠美さんのところで働いてきたのに、よりによって毒を入れるなんて疑われているんですから」
「その珠美という女性は、警察に行こうとか思わないのかい?」
慎司が尋ねた。
「そうみたい。警察に行っても、毒味役をつけてくれるわけじゃないし、何の役にも立たないと思っているんでしょう。それよりは自衛した方がいいと考えているんじゃないのかな」
「警察に来ないというのは、帰って困りものだな。警察に来たなら、こんこんと説教して、毒殺されるというのがどれほど馬鹿げた妄想か教えてやることもできるんだが。まさか警察の方から説教しに出向くわけにもいかないしね」
「そういえば、さっき被毒妄想とか言ってたよね。詳しく教えてくれる?」
明世は理恵に尋ねた。
これはやはり精神科医である理恵の領分だろう。
「被毒妄想―― delusion of poisoning というんですけれど――は、統合失調症の一種なんです」
「統合失調症?」
「以前は精神分裂病と呼ばれていた病気です。特徴的な症状としては、妄想、幻覚、思考障害、感情の平板化、会話の貧困、発動性の欠如などが挙げられます。もちろん、一人の患者さんにこれらの症状のすべてが出るわけではなくて、一人一人症状は違いますけれど」
「妄想って、たとえばどんな?」
「誰かに迫害されているという迫害妄想。配偶者が浮気しているという嫉妬妄想。重い病にかかってしまったという心気妄想。罪を犯してしまったという罪責妄想。自分の思考が他人に読まれているという思考伝播。道にゴミが落ちている、だから世界の終わりが近い、というように、まったく関係のない出来事を結びつけてしまう関係妄想。自分は神や異人の子孫だという血統妄想。そのほかにも妄想の内容によっていろいろ格付けられていますね。
被毒妄想の患者さんの場合は、ささいなことをすぐに、飲食物に毒が入っているという思い込みと結び付けてしまう。ほんの少しでも味がおかしければ、それは毒が入っている証。皿の位置がいつもと少しでもずれていれば、それは毒が入っている証――とにかくあらゆる事が毒の入っている証となります。傍から見てどれほどおかしくても、少なくとも患者さんの主観においては紛れてもない真実と感じられます。さらに、幻味や幻臭といって、実際には存在しない味や臭いを感じ取ってしまうこともある。これは、患者さんにとっても周囲の人にとっても、とても苦しい経験です」
理恵はにこにこしながら語る。
外見と言葉の内容がなんともアンバランスである。
「原因は何なの?」
「実を言うと、原因はまだはっきりとはわかっていないんです。ただ、患者さんの脳内では、神経刺激を神経細胞から神経細胞へと伝える伝播《でんぱ》物質の一つであるドーパミンが過剰になっていることがわかっています。ドーパミンの過剰という気質的な原因に、ストレス、性格形成の偏りなどが複雑に絡み合って発症すると考えられていますけれど、具体的にどういうメカニズムで発症するのかはまだはっきりしていません。もともと発症しやすい素質があって、ストレスでその素質が活性化され、それがさらにストレスを生み、症状が悪化する……という過程を踏むと考えられます」
「治るの?」
「きちんと治療すれば治ります。統合失調所の患者さんが人口に占める割合は一パーセント前後で、決して特殊な病気ではないんですよ。これは、胃潰瘍や十二指腸潰瘍を合わせた消化性潰瘍の患者さんの割合とほぼ同じです。それぐらいありふれているんです。決して怖い病気ではありませんし、不治の病でもありません」
「専門のお医者さんに診察してもらえば、統合失調症かどうかは判断できるんだよね?」
「ええ。一度、うちの病院に連れていらっしゃったらいかがですか?」
「そうできたらいいんだけどね。珠美さんに、お医者さんに診てもらったら、なんて言ったら、怒るだろうなぁ。何しろ、妙なところでプライドの高い人だから……」
そこで、明世はあることを思いついた。
「そうだ。明日、珠美さんの屋敷でお茶会があって、あたしも招待されてるの。理恵さん、もしよかったら、一緒に出席して、珠美さんの症状をこっそり診断してくれないかな」
「いいですけれど。お茶会というと、やはりイギリス式のものですか」
「うん。珠美さんのお祖父様が、若い頃イギリスに留学していて、そのときにアフタヌーン・ティーの習慣を身に付けて、帰国してからも続けていたんだって。珠美さんはお祖父様に可愛がられて、幼い頃からその習慣に慣れ親しんできたから、今でもアフタヌーン・ティーをしていて、ときどきは知人を招待したりするの。――よかったら峰原さんもいかがですか?」
明世はそう誘ってみた。
長身で紳士的な峰原がアフタヌーン・ティーの席についたら、さぞかし似合うだろう。
その姿を見てみたいという子供っぽい思いに駆られたのだ。
「いえ、私は遠慮しておきます。あなたの連れがあまり増えたら怪しまれるかもしれない」
峰原は微笑してそう答えた。
「俺も行っていい?」
と慎司が言う。
「あんたは駄目。珠美さんは礼儀作法にうるさいの。あんたみたいながさつな人間はお断り」
「俺ががさつだって? 君に言われたくはないね。理恵さんに比べれば、そっちだってがさつもいいところじゃないか」
「うるさいなぁ。だいたいあんた明日も仕事があるんじゃないの? お・こ・と・わ・り」
だが、結局は慎司も西川珠美の屋敷を訪れることになったのである。
客としてではなく刑事として。
2
翌日の午後三時前。
JR目白駅に降り立った明世と理恵は、駅前でタクシーを拾った。
「西川さんのお屋敷へ」と言うと、それだけで運転手に通じた。
珠美の屋敷はそれほど有名なのだ。
雲一つなくよく晴れた日で、辺りには夏の午後の陽光が降り注いでいた。
明世はいつものようにブルージーンズとTシャツという格好をしたかったが、お茶会ということで、さすがにそれはやめた。
ベージュのストレートパンツに白のブラウスという、彼女にしてはおとなしい服装である。
理恵の方は白のロングのワンピース。
明世が暑さにうんざりしているのに、日差しを浴びてつややかに輝き、同性の明世から見てもとてもきれいだった。
タクシーは目白通りを東へ走り、やがて右に折れた。
閑静な住宅街に広がる中に、ひときわ目を引くものがあった。
年代物のコンクリート塀が延々と続いているのだ。
そこが珠美の屋敷だった。
おそらく千坪はあるだろう。
珠美は明世と同じく翻訳家だが、生活のために働く必要はなく、あくまでも趣味としてやっているのだった。
コンクリート塀の中央に、唐草模様で飾られた大きな鉄製の門がある。
正門だった。
そこでタクシーを停めてもらう。
屋敷の向かいの空き地では、堀削工事が行われていた。
表示を見ると、高層マンションを建設中だという。
タクシーを降りると、むっとするような熱気が熱気が身体を包み込み、たちまち汗が噴き出してきた。
門を押し開けて敷地に足を踏み入れた。
柘植の植え込みに挟まれた砂利敷きの小道が、まっすぐ前に延びている。
その先に、二階建ての煉瓦作りの洋館がこちらに正面を向けて建っていた。
アール・ヌーボ調の華麗な装飾が施されている。
窓は古風な上下窓で、その大きさから、天井がかなり高いことが分かる。
壁や周囲の地面には蔦や雑草一本見えず、よく手入れされていることがうかがえた。
柘植の植え込みの両側には庭が広がり、さまざまな木々や花々が植えられていた。
屋敷は正面を南に向け、庭はその前に広がっている。
だから庭には屋敷の影がかかることもなく、一日中日が差して、木々や花々は見事に成長していた。
しかし、屋敷の向かいに高層マンションができたら、影ができることになる。
明世は少し心配になった。
今の季節、庭には赤や紫や白の薔薇が色鮮やかに咲き誇っている。
二人はそうした光景に見とれながら進んだ。
「映画に出てきそうなお屋敷ですね」
理恵が優雅な足取りで歩きながら言う。
日傘を差してこの屋敷の庭を歩かせたら、さぞかし似合うだろう。
彼女自身、映画に出てきそうな姿だった。
「でしょう。西川物産って知ってるかな。昭和四十年代まであった中堅の貿易商で、大手の商社に吸収されて、今はもうないんだけど。珠美さんのお祖父様はそこの社長で、昭和十年頃にこの屋敷を建てたの。珠美さんはこの屋敷で生まれ育った。屋敷のことをものすごく誇りにしていて、ちょっとでもけちをつけると本気で怒り出すから注意しておいてね。ところで、理恵さんの職業、何にしておこうか。本当のことを言うわけにはいかないよね」
「自動車修理工はどうでしょうか」
「自動車修理工?」
理恵はにっこり笑って、「わたし、子供の頃から、機械いじりが大好きだったんですよ」
「却下。ぜんぜん見えない」
「じゃあ、絵描き」
「絵はうまいの?」
「かぼちゃをデッサンしたら、トマトと間違えられたことがあります」
「あのねえ。幼稚園の保母さんということにしておきなよ。それなら理恵さんにお似合いだから」
砂利敷きの小道を二十メートルほど歩き、屋敷の玄関にたどり着いた。
玄関ドアは重厚な樫でできており、青銅のライオンのノッカーが付いている。
明世はそれを鳴らした。
しばらく待っているとドアが開き、家政婦の富樫加寿子が現れた。
四十代の後半で、小太りで丸顔の女性である。
珠美に毒を盛ると疑われているのがこたえているのか、いくらかやつれていた。
「ようこそいらっしゃいました」
加寿子は深々と頭を下げると、「どうぞこちらへ」と先頭に立って歩きだした。
玄関を入ると、そこはホールになっていた。
ひんやりとした空気がからだを包み込む。
ホールの奥には、幅の広い階段が二階へと延びていた。
飴色の光沢を放つ木製の階段である。
だが、そばに小型のリフトが設けられているのがなんともちぐはぐだった。
珠美は十年前に交通事故で下半身不随になり、車椅子生活を余儀なくされているのだ。
このリフトは珠美が二階と行き来するためのものだった。
屋敷を大切にしている珠美はリフトの設置をずいぶん嫌がったらしいが、日常生活を円滑に送るためにはやむをえなかった。
加寿子はホールの東側にある両開きの扉を開き、明世たちを通した。
そこは食堂だった。
中央には木製の円形テーブルが置かれ、それを四人の男女が取り囲んで座っている。
「明世さん、よく来てくれたわね」
四人の中にいた珠美が甲高い声を出した。
ふっくらとしたからだつきで、車椅子に乗っている。
今年で五十五歳になるはずだ。
「こちらが、友人の竹野理恵さん。同じマンションに住んでいるんですよ」
明世は紹介した。
珠美は理恵を見やると、大仰に歓声を上げた。
「きれいな方ね。明世さんのお友達は、わたしのお友達よ。ゆっくりしていってね」
そして、芝居がかった仕草で、残りの三人の男女に手を向けた。
「竹野さんに紹介しておくわね。こちらがわたしの顧問弁護士の古沢清吾《ふるさわ せいご》先生」
古沢清吾は六十過ぎ、背広を一分の隙もなく着込み、いかにも謹厳そうだ。
理恵をじろりと一瞥し、「どうも」とだけ言った。
「こちらが甥の真一。総合病院で内科医をしているの。わたしの主治医でもあるのよ」
真一は長身で、四十前後。
なかなかの美男子だが、それを鼻にかけている様子があからさまだった。
理恵に目を向けると、「明世さんのお友達にこんなすてきな女性がいたとはね。あなた、女優さん? それともモデルさんかな?」
理恵はにっこり微笑んで、「幼稚園の保母をしています」
「保母さんですか。小さな子供の相手をするのも大変でしょう」
「いえ、楽しいですよ。皆さん、それはもういろいろな妄想を抱えていらっしゃるから、退屈しません」
「妄想?」
真一が怪訝《けげん》な顔をする。
明世は慌てて理恵を肘でつついて黙らせた。
「そしてこちらが姪の福島芳子《ふくしま ようこ》。インテリアショップを経営しているよの」
福島芳子は小太りで、三十代半ばの女性だった。
あまり趣味のよくないオレンジ色のワンピースを着ている。
「このお屋敷のインテリア、ご覧になった? 素晴らしいわよ。わたし、こちらに来るたびにあちこち勝手に見学させていただいているの。とても勉強になるわ」
そこで珠美に向かい、「そういえば、先ほど客室の一つを覗いたら、絨毯がなくなっていたけれど、どうしたんですの?」
珠美は加寿子を見やると、それまでとは打って変わった冷ややかな声で尋ねた。
「加寿子さん、どういうことなの」
「申し訳ありません。掃除のときに汚してしまいまして……。ただ今、クリーニングに出しております」
「気をきをつけてね。何年この屋敷で働いていると思っているの。そろそろお茶の用意をしてちょうだい」
「かしこまりました」
加寿子は食堂に隣接したキッチンに姿を消し、すぐに戻ってきた。
以前なら、ロイヤル・ダルトンのティーポットとカップを盆に載せて運んでくるところだが、今日はアイスペールを手にしていた。
それをテーブルの上に置く。
アイスペールの中には砕いた氷が敷き詰められ、そこにストレートティとミルクティとレモンティの缶紅茶がそれぞれ二、三本ずつ入っていた。
加寿子は続いてマフィンを盛った大皿を運んできた。
このマフィンは珠美が行きつけのパン屋で買ってくるものだ。
加寿子が作ったものではないから、珠美もこれには毒が入ってないと思っているのだろう。
「夏だからアイスティにしてみたわ。たまには缶紅茶もいいでしょ。皆さん、お好きなものを取ってちょうだい」
珠美が一同を見回しながら言う。
明世は内心ため息をついた。
珠美の被毒妄想はいっこうによくなっていないようだ。
しかし、下手に突っ込むのはまずい。
珠美は苦しい嘘をついて、加寿子に毒殺されるという恐れをひた隠しにしているのだ。
その恐れを明らかにせざるをえなくなったら、ひどい屈辱を感じるだろう。
「たまには缶紅茶もいいですよね」
愛想笑いして、明世はレモンティを、理恵はミルクティを手に取った。
缶はよく冷やされ、汗をかいている。
真一も古沢も芳子も、珠美が被毒妄想だと加寿子から事前に聞いているようだった。
紅茶が缶入りであることについて、珠美に問いただすことはなく、何事もないようにアイスペールに手を伸ばした。
真一はレモンティを、古沢はストレートティを、芳子はミルクティを手に取る。
最後に珠美がストレートティを手にした。
「それでは、いただきましょう」
珠美が言い、一同はプルタブを起こした。
古沢は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべ、真一は苦笑し、芳子は取り澄ました顔をし、理恵はおっとりと微笑んでいる。
一同はいっせいに缶を掲げ、紅茶を喉に流し込んだ。
それからいっせいに缶をテーブルに置いた。
あまりの滑稽さに、明世は思わず吹き出しそうになった。
カップの紅茶を上品に飲む作法ならわかるが、缶の紅茶を上品に飲むにはどうしたらいいのだろう、と思う。
『不思議な国のアリス』の台詞を口にしたくなった――「こんなに馬鹿馬鹿しいお茶会なんて、見たことも聞いたこともないわ!」
明世はそのとき、珠美が一同をこっそりと見回していることに気がついた。
強張った笑みを浮かべつつ、客たちをさり気なく観察しているのだ。
珠美は何を気にしているのだろう。
まさか、客の中に自分を毒殺する人間がいるとでも思っているのだろうか? 珠美の被毒妄想の対象は加寿子だけのはずだ。
対象が広まったというのだろうか。
3
お茶会の会話をリードしたのは真一だった。
巧みな話術で、内科医として経験した面白い逸話を次から次へと披露する。
福島芳子は何度もけたたましい笑い声を上げ、謹厳そうな古沢清吾もときおり微笑した。
だが、珠美はお義理に強張った笑みを浮かべるだけだった。
午後五時になったとき、珠美が言った。
「申し訳ないけれど、一時間ほど失礼させていただけるかしら。年のせいか、疲れやすくなってしまって……」
五時から六時まで休むのが、ここ数年の珠美の習慣である。
女主人の声を聞いて、加寿子がキッチンから現れた。
珠美の車椅子を押していこうとする。
だが、慌てていたのか、食堂の扉に激しくぶつけてしまった。
珠美は車椅子から投げ出されそうになった。
「何をするのよ。扉が壊れたらどうするつもり?」
珠美が険しい声を出して加寿子を睨みつける。
加寿子は珠美を助け起こそうとした。
「申し訳ありません」
「このどじ! わたしに触らないでよ!」
その場の雰囲気が凍りついた。
このままでは、珠美が加寿子に向かい、あんたはわたしに毒を盛ろうとしているなどとなじり始めかねない。
明世は慌てて立ち上がった。
「あの、あたしがお手伝いします」
「まあ、明世さん、ごめんなさいね」
珠美がころりと声を変えた。
「あなたに手伝ってもらえば安心だわ。それに比べて、うちの加寿子さんと来たら……」
珠美がまだ悪口を並べそうになったので、明世は大急ぎで車椅子を押して食堂を出た。
階段そばに設置された小型のリフトに車椅子を乗せて二階へ上がる。
廊下が東西に延びていた。
南側(屋敷の正面に当たる側)に、いくつもドアが並んでいる。
すべて客室である。
そして西へ進んだ突き当たりに、珠美の部屋のドアがあった。
珠美の部屋は、絵画室と寝室の二部屋だった。
廊下の突き当たりにあるのは絵画室で、その奥に寝室が位置している。
したがって、寝室に入るには必ず絵画室を通らなければならない。
明世はドアを開け、壁のスイッチを入れて灯りを点けた。
絵画室の広さは八畳ほどで、壁にさまざまな絵が掛けられている。
モネ、ドガ、ルノワールなど印象派の小品ばかれりで、これだけでも一財産だろう。
貿易商だった珠美の祖父が、戦前に買い集めたものだという。
入って左手、南側の壁は前面がガラス張りになっている。
屋敷の前庭を一望にできて、薔薇が咲き乱れるこの季節はとても美しいのだが、あいにく今は濃紺のビロードのカーテンで完全に閉ざされていた。
絵画室という性質上、この部屋にはまったく家具が置かれていない。
床には毛足の短い純白の絨毯が敷かれていた。
以前は毛足の長いふかふかしたものが敷かれていたが、十年前に珠美が事故で車椅子生活を余儀なくされたとき、毛足が長いと車椅子が動きにくいということで、屋敷の中の絨毯を取り替えたらしい。
明世はドアを開け、車椅子を奥の寝室へ押していった。
こちらも広さは八畳ほど。
ベッド、ソファ、衣装箪笥、化粧台、籐椅子が置かれ、絵画室と同じ絨毯が敷かれている。
「ソファに移してくださる?」
珠美が言い、明世は彼女のからだを車椅子からソファに移した。
珠美はからだをソファに深々と沈めた。
「どうもありがとう。私も年ね。すっかり疲れてしまって……。六時になったら、迎えをお願いできるかしら。加寿子さんにまたどじなことをされたら嫌だから」
「わかりました。あの……」
「何かしら」
「加寿子さんにあまりきつく当たらない方がいいんじゃないでしょうか。加寿子さんも、一生懸命働いてくれているんですし。あんないい人、めったにいませんよ」
珠美の加寿子に対する被毒妄想のことを、暗にたしなめたつもりだった。
珠美は「そうね」と呟き、目を閉じた。
これ以上話をするつもりはないらしい。
明世は内心ため息をついて、珠美の部屋を出た。
食堂に戻ると、古沢清吾と福島芳子が、珠美の奇妙な行動について話していた。
「加寿子さんから聞いたよ。よりによって加寿子さんに毒を盛られるのを怖がっているとはね。とても心配だ」
古沢清吾が言う。
福島芳子がしきりにうなずき、「缶紅茶ばかり飲んでいるとはね。叔母様は紅茶に凝っていらしたのに、本当にお気の毒ね」
お気の毒と言いながらも、その口調はどこかうれしそうだった。
理恵はと見ると、西川真一に捕まってしきりに何か口説かれている。
明世はそちらに近づき、「女同士の話があるから」
そう言って理恵を助け出した。
隅に引っ張っていくと、小声で問いかけた。
「珠美さんを見てどう思った? やっぱり被毒妄想よね?」
「どんな治療をすればいいの?」
「主に薬物療法ですね。幻覚や妄想などの症状に対してもっともよく使われるのは、以前ならクロールプロマジン、現在ならハロペリドールという薬です。昨日も話したように、脳内の神経細胞から神経細胞へと刺激を伝える伝達物質の一つにドーパミンというものがあって、統合失調症ではどういうわけかこれが過剰になっているんですけれど、クロールプロマジンやハロペリドールはこのドーパミンの働きを抑えるんです。ただし、こうした薬はあくまでも症状を軽減するだけです。大切なのは、症状を軽減することによって、患者さんのからだと心に余裕と自己治癒力を取り戻させることなんです」
「もしこのまま治療せずほうっておいたらどうなるの?」
「症状はどんどん重くなって、社会生活が困難になります。最終的には人格荒廃に至ります」
理恵は怖いことをあくまでもにこやかに言う。
「人格荒廃? 嫌だなぁ……、珠美さんに何とか治療を受けさせなきゃならないよね。どうしたらいいんだろう……」
それから六時まで、明世の胸の中では不安がますます膨らんでいった。
古沢清吾は五時十分頃に、図書室に行くと言って食堂を出て行った。
福島芳子はそのあと五分ほどして、このお屋敷のお部屋を見せてもらうと言って、やはり食堂を出ていった。
西川真一はしきりに理恵にちょっかいを出していたが、そのたびに明世に睨みつけられ、とうとうあきらめたのか食堂からいなくなった。
どこへ行ったのかと思っていると、庭をぶらぶらと散策しているのが見えた。
ときおり薔薇に顔を寄せては、香りを嗅いだりしている。
その姿がなかなかさまになっていることを、明世は認めざるをえなかった。
加寿子はテーブルの上のアイスペールを片付け、食堂やキッチンでせっせと掃除や洗い物をしていた。
明世と理恵は食堂にいて、取り留めのない話をしたり、ときどき加寿子を手伝ったりしていた。
六時になると、加寿子がキッチンから出てきた。
「珠美さんを迎えにいくんですか?」
明世の問いに、加寿子は「はい」と答えた。
「なんだったら、あたしが迎えにいきますよ。珠美さん、今日は機嫌が悪いみたい」
加寿子は寂しげに微笑した。
「――すみません。では、お願いいたします」
「わたしもお手伝いします」
理恵も立ち上がった。
明世と理恵は食堂を出ると、玄関ホールにある階段を上がり、二階の廊下を進んだ。
明世は絵画室のドアを開け、足を踏み入れた。
そのとたん、絨毯の上に妙なものが転がっているのが目に入った。
思わず理恵と顔を見合わせた。
「……何、これ」
人って右手の壁際に、缶紅茶が転がっていたのだ。
開いた口から流れ出た赤茶色の液体が、ロールシャッハテストのようなかたちを描いて純白の絨毯を汚していた。
流れてからしばらく経つらしく、すでに絨毯に染み込んでいる。
この屋敷を大事にしている珠美が、缶を床に放り投げて絨毯を汚すような真似をするはずがない。
何があったのだろう。
明世と理恵は缶茶の染みを迂回して進んだ。
左手の壁は前面ガラス張りだが、あいかわらず濃紺のビロードのカーテンで完全に閉ざされたままだ。
寝室のドアをノックした。
「珠美さん、入っていいですか」
返事はない。
もう一度ノックしたがやはり返事はなかった。
明世はまた理恵と顔を見合わせた。
「寝ているのかな。入ってみようか」
ドアを開け、寝室に入った。
珠美がソファのすぐそばに倒れていたのだ。
口元に吐瀉《としゃ》物の痕がある。
明世は足がすくんで動けなかった。
理恵が素早く珠美に近寄った。
珠美の右腕を取り、脈を探る。
次いで胸に耳を当て、最後に閉じた瞼を開けて瞳を覗き込んだ。
医師だけあって、こういうときの対応はさすがに速かった。
理恵は振る返ると、明世に向かってゆっくりと首を振った。
「亡くなっています」
「――ほんと?」
「ええ。外傷が見当たらない点と、口元の吐瀉物から考えて、毒死かもしれません」
「毒死? でも、珠美さんは被毒妄想に憑かれていたんだよ。そんな人が毒を飲むなんて……」
明世ははっとした。
毒殺を恐れていた人間が自分から毒を飲むとは考えられない。
とすれば――。
理恵が言った。
「珠美さんは誰かに毒を飲まされたのかもしれません。絵画室の絨毯に口の開いた缶紅茶が転がっていましたよね。あの中に毒が入っていたのかも」
「……とにかく、警察に知らせなきゃ」
明世は携帯を取り出すと、一一〇番通報した。
4
明世と理恵は、まず富樫加寿子に女主人が亡くなったことを告げ、それから他の三人の客たちに知らせた。
古沢清吾は屋敷の一階の西端にある図書室で椅子に座り、テーブルの上に大判の本を開いて眺めていたが、珠美が死んだと聞いてかすかに眉をひそめ、本をばたりと閉じ、明世たちについてきた。
西川真一は前庭のベンチに座り、煙草を吸っていた。
知らせを聞くと、いかにも医者らしく、「本当に亡くなったんですか? 僕が確認しよう」
と言って屋敷に駆け込み、二階へ向かった。
福島芳子を捜し出すのは少し手間取った。
どこにいるのかわからなかったのだ。
やがて、二階東側の客室でインテリアをうっとり眺めているのが見つかった。
伯母の死を聞くと、派手な悲鳴を上げた。
一同は食堂で警察の到着を持つことになった。
真一が二階から下りてくると、一同に首を振ってみせた。
「……駄目だ。どうやら毒を飲んだらしい。亡くなったから三十分近く経っている」
警察に通報してから十分ほどして、玄関のノッカーが鳴らされた。
富樫加寿子がそちらに向かい、刑事たちを案内して戻ってきた。
所轄署の刑事たちだった。
彼らは加寿子に案内されて、二階の現場へ向かった。
さらに二十分後、今度は警視庁の捜査班が到着した。
四十代末の男が一団を率いている。
小柄で華奢なからだつきが、顔はいかにも気が強そうだ。
その後ろに慎司の姿を認めて明世は驚いた。
なんと、慎司たちの班が捜査を担当することになったのだ。
明世は片手を小さく振ったが、慎司は知らん顔をしている。くそ、と明世は胸の中で罵った。
あいつ、何を澄ました顔してるんだ。
警視庁の刑事たちは所轄署の刑事たちと話しているようだったが、やがて四十代末の小柄で華奢な男と慎司が食堂に入ってきた。
小柄で華奢な男は警視庁捜査一課の大槻警部と名乗った。
慎司がその傍らでメモ帳を構える。
「まず、皆さんのお名前と、こちらにいらっしゃる事情をうかがえますか」
警部がどすの利いた声で言う。
小さな子供だったら泣きだしそうな声だった。
明世たちは自己紹介し、珠美にお茶会に招待されていたことを話した。
「伯母の死因は何だったんですか?」
西川真一が尋ねた。
「青酸カリによるものでした。床に転がっていた缶紅茶の中に、青酸カリが入っていた。亡くなったのは五時半頃と思われます。遺体を発見したのはどうなたですか」
明世と理恵は手を挙げ、事情を簡単に説明した。
五時に明世が珠美を二階へ連れていったときは、絵画室の絨毯には何の異常もなかったこと。
六時に明世と理恵が珠美を迎えにいったときは、缶紅茶が絵画室の右手の壁際の床に転がり絨毯を汚していたこと。
二人が寝室に入ると、珠美が絶命していたこと……。
大槻警部はあいづちを打ちながら聞き、慎司は奇妙な顔でメモを取っていた。
「珠美さんは……殺されたんですよね?」
明世は恐る恐る尋ねた。
警部がぎょろりとした目を向けてきた。
「そうです。珠美さんは寝室で亡くなっていたのに、青酸カリの入った缶紅茶は絵画室に転がっていた。青酸カリは即効性の毒薬です。珠美さんが寝室で紅茶を飲んだあと、缶を絵画室に置きに行けたわけがない。つまり、缶を絵画室に置いた人物――犯人がいるということです。また、缶には珠美さんの指紋が付いていたが、それ以外の指紋はいっさいなかった。流通経路で当然付くはずの指紋がまったくないということは、いったん指紋が念入りに拭き消されたことを意味している。五時から六時のあいだに、犯人は珠美さんの部屋を訪れ、青酸カリ入りの缶紅茶を飲ませた。珠美さんが飲んでいた缶紅茶に隙を見て毒を投じたか、それともあらかじめ開けて毒を入れておいた缶紅茶を勧めたか、どちらかでしょう。犯人は絶命を確認して部屋を出たが、そのときうっかりして、遺体のある寝室ではなく絵画室に缶を置いてしまった」
「あたしが他殺だと思ったのは、別の理由からなんです」
「ほう、どんな理由です?」
明世は理恵に、「専門家から説明してあげてよ」と言った。
「専門家……?」
西川真一が訝《いぶか》しげに眉を寄せた。
「あなら、幼稚園の保母さんじゃなかったんですか」
理恵はにっこり笑った。
「実は、精神科医なんです」
古沢と芳子は驚いたように理恵を見た。
真一が興味深そうに言った。
「これはこれは。あなたのような女性が精神科医。うちの病院の精神科にも、あなたのような人がいてくれればと思いますよ。しかし、なぜ精神科医であることを隠していたのです?」
「珠美さんが、被毒妄想かどうか診断するよう、明世さんに頼まれていたからです」
美男子の内科医は納得したようにうなずいた。
「被毒妄想――なるほど、統合失調症の一つですね。確かにそのとおりだ」
大槻警部が咳払いした。
「話が免れているようですな。他殺だと思ったのには別の理由がある、という話だったはずだが」
真一が言った。
「警部さん、だからその理由というのが被毒妄想なんですよ」
「被毒妄想? 何です、それは?」
「ご存じないですか」
真一は大槻警部に、被毒妄想について手際よく説明して、「叔母は、この被毒妄想にかかってたんです。お茶会も、いつもならティーポットとカップを使ってイギリス式にきちんと紅茶を淹れるのに、今日はなんと缶紅茶だった。缶入りなら毒を入れられる恐れはないと思い込んでいたのですよ」
「缶入りの紅茶? 本当ですか」
明世たちはうなずいた。警部はそれでようやく被毒妄想を受け入れたようだった。
「確かに、毒殺を恐れている人間が自ら毒を飲むことはありえませんな。それも他殺を示す有力な証拠となるでしょう。
ところで――被害者は誰に毒殺されると思っていたのです?」
気まずい沈黙が広がった。
やがて、加寿子が意を決したように口を開いた。
「……わたしにでございます」
大槻警部は家政婦をしげしげとみつめた。
「あなたですか」
「はい。三月始めの朝食で、わたしの淹れたお茶が変な味がするとおっしゃったのがきっかけでした。翌日から缶入りのものを買ってこられて、理由をお尋ねすると、わたしが毒を入れているととんでもないことをおっしゃるんです。いくら否定しても信じていただけなくて。それ以後、わたしがお茶を淹れても、お料理を作っても、いっさい口になさらなくなりました。すべて外食。わたしはもう情けなくて……。これ以上こんなことを続いたら、お暇をいただこうと思っておりました」
「失礼ですが、五時から六時まで何をしていたのか、話していただけますか」
一同の視線の加寿子に集中した。
明世は警部にちらりを目を走らせた。
まさか、珠美が加寿子に毒殺されるという妄想に憑かれていたからといって、本当に加寿子が犯人だというつもりだろうか。
家政婦はわずかに顔を強張らせて答えた。
「その時間は、食堂やキッチンで働いておりました」
「それを証明してくれる方はいますか」
加寿子が答えようとしたとき、「富樫さんは犯人ではありません」
理恵がおっとりと口を挟んだ。
「五時から六時の間、富樫さんは食堂やキッチンから一歩も離れませんでした。わたしは絶えず彼女の姿を目にしていました。明世さん――いえ、奈良井さんもわたしの証言を裏付けてくれます。そもそも、珠美さんが缶紅茶ばかり飲んでいたのは、富樫さんに毒殺されると思い込んでいたからです。珠美さんは富樫さんの前では自分の缶から絶対に目を離さなかったはずですし、富樫さんの勧める缶など決して飲まなかったはずです。富樫さんに毒は投じることなど無理だったんでしょう」
ぼうっとして見える理恵だが、喋る内容は実に整然としている。
加寿子は寂しげに微笑み、理恵に「ありがとうございます」と言った。
「確かにそうですな」
大槻警部はうなずき、続いて一同をじろりと見回した。
「失礼ですが、五時から六時までのあいだ、皆さんが何をしていたのか、お話ししていただけますか」
古沢清吾が気色ばんだ。
「ちょっと待ってくれたまえ、警部。われわれの中に犯人がいると考えているのかね?」
警部は弁護士を見返した。
「残念ながら、そうです。外部の人間がこの屋敷に入り込んで珠美さんを殺害するなど、まず考えられません」
「しかし、われわれがなぜ、珠美さんを毒殺しなければならないのだ?」
「あなたたちは珠美さんの甥、姪、顧問弁護士でいらっしゃる。つまり、珠美さんの利害関係者だ」
「まあ、失礼ね。わたしがお金目立てで珠美叔母様に毒を飲ませたというの?」
福島芳子が金切り声を上げた。
「そうでないことを確かめるために、皆さんに五時から六時までの行動をお聞きしているのです」
古沢清吾が不機嫌な顔で答えた。
「わたしはずっと図書室にいた」
「図書室にほかにどなたかいらっしゃいましたか」
「いや。あいにく、私独りだった。だから、証人はいない」
西川真一が薄笑いを浮かべながら言った。
「僕は庭をぶらぶらしていました。薔薇を眺めていたんです。残念ながら、独りだった」
福島芳子がしぶしぶ口を開いた。
「わたしはあちこちのお部屋のインテリアを拝見していました。とてもすてきですの。でも、わたしが叔母様に毒を盛るわけがないじゃありませんか。古沢先生にしたって、真一さんにしたってそう。叔母様が自分で毒を飲んだという可能性は本当にないのですの?」
「まったくありません」
大槻警部は言い、一同を改めてじろりと見回した。
5
「――というわけなんです」
翌日の午前十時過ぎ。
明世は峰原に、昨夜の出来事を語り終えたところだった。
隣には理恵が座っている。
昨夜、警察の事情聴衆が終わったのは午前九時過ぎで、明世は理恵とともに、三鷹市の〈AHM〉にくたくたになって戻ってきたのだった。
事件のことをすぐにも峰原に話したかったが、さすがにその時間帯ではぶしつけに訪問するのは気がひけた。
朝になるのを待って、理恵と一緒に最上階にある峰原の住居に押しかけたのである。
慎司も誘うおうとしたが留守だった。
峰原は香りの高いコーヒーを淹れてくれ、クッキー出してくれた。
明世は飲んだり食べたりしつつ、事件のことを話した。
ときおり、理恵がおっとりした口調で補足する。
犯罪研究を趣味とする峰原が、この事件に対してどんな意見を述べるのか。
明世はそれが知りたくてたまらなかった。
話し終えたところで、玄関のチャイムが鳴った。
峰原が立ちあがり、慎司を連れて戻ってきた。
「二人ともやっぱりこちらでしたね。たぶんそうじゃないかと思ってたんだ」
刑事はそう言うと、欠伸をしながらソファに座り込んだ。
「すみません、峰原さん、俺にもコーヒーをいただけますか? もう眠たくて眠たくて」
峰原がコーヒーを盆に載せて運んできた。
慎司は、「あ、どうもすみません」と言い、一口啜ると、「うーん、やっぱり峰原さんの淹れるコーヒーは絶品ですね」
とうなった。
峰原が淹れるコーヒーが絶品であることには明世も同感だったが、慎司の太平楽な顔を見ていると、つい突っかかりたくなってくる。
「あんた、ここは喫茶店じゃないのよ。ずうずうしくコーヒーをねだったりして、峰原さんに失礼じゃない」
「うるさいなあ。君だって飲んでるじゃないか」
マンションオーナーが微笑しながら口を挟んだ。
「私はコーヒーや紅茶を淹れるのが趣味ですから、気にしないでどんどんねだってくれてかまいませんよ」
「ほら、峰原さんだってこう言ってくれている」
「あんたの辞書には遠慮って言葉がないみたいね。ところで、あんた、昨日の晩あたしが珠美さんの屋敷で合図しても知らん顔してたじゃない。あの態度は何よ」
「当たり前だろ。刑事は、知人が事件関係者の場合、捜査から外されることになってるんだよ。知り合いだって警部に知られるわけにはいかなかったんだ。事件現場に着いたら、君と理恵さんがいるんで驚いたよ」
「驚いたのはこっちよ。あんたが捜査班の一員だと知って、目の前が真っ暗になったわよ」
そこで明世は慎司の服装をしげしげと見ると、「あら、昨日と同じ服じゃない。おまけによれよれになってる。もしかして家に帰れなかったの?」
慎司はうんざりしたようにうなずいた。
「そう。あのあと捜査会議があってね。会議のあとは本庁で仮眠さ。着替えを取りに戻ってきたんだけど、なんだかその前に峰原さんに事件のことを話したくて、立ち寄ったんだ」
「峰原さんには、あたしたちがもう話したわよ。警察の見解はどうなの。教えなさいよ」
「おいおい、人に頼みごとをするときは、それなりの言い方ってものがあるんじゃないのか」
「あんた公僕でしょ。あたしたちの税金から給料もらってるんだよ。言ってみれば、あたしたちはあんたの雇い主なの。雇い主の言うことには従いなさい」
「大した税金払ってないくせに、言うことだけはでかいな」
慎司は肩をすくめると、「犯人は、古沢清吾、西川真一、福島芳子、それに……奈良井明世と竹野理恵の五人の中にいるという捜査本部の見解だ」
「何ですって? 何であたしと理恵さんまで容疑者になるのよ!」
「事件当時のあの屋敷にいた者全員が容疑者なんだよ。平等だろ」
「ちょっと、あたしと理恵さんの容疑は取り消しなさいよ!」
慎司はにやりとして、「冗談だよ。君たち二人には動機がないから、捜査本部でも容疑者とは見なしていない」
「当たり前でしょう!」
「犯人は、古沢清吾、西川真一、福島芳子の三人のうちの誰かだ。
古沢は謹厳そうな見かけによらず、いろいろよからぬ噂がある。自分が管理している顧客の資産を密かに流用しているというのもそうした噂の一つだ。
真一は医師で収入は多いけれど、別れた妻二人の慰謝料を払わなければならないのと、高級外車好きという趣味のせいで、金にはいつも困っている。
芳子は経営した なら、被害者を殺す充分な理由があるということになる。真一と芳子は多額の遺産を受け取るから、これも充分な理由だ。
犯人は被害者が家政婦に毒殺されるという妄想に憑かれていることを知って、被害者を毒殺すれば嫌疑は家政婦にかかると考え、反抗に及んだんだ。被害者は家政婦に毒殺されることを恐れてはいた。でも、他の人間のことはまったく疑っていなかった。他の人間の勧める缶紅茶なら、何の疑いもなく手にしただろう。古沢は図書室に、真一は庭に、芳子は屋敷のあちこちの部屋にいたというけれど、三人とも独りだったから、証言を裏付けるものは何もない。被害者の部屋にこっそり向かうことは十分可能だったんだ」
「青酸カリが入っていた缶紅茶の出所は? よく見る余裕がなかったんだけど、お茶会で出されたものと同じだった?」
「いや、違う。別メーカーのものだった。ごく最近発売されたもので、イギリスの有名な紅茶会社との提携を謳った、高級志向の缶紅茶さ。これは、犯人が密かに持ち込んだものだ。五時台、犯人はこの缶紅茶を持って被害者の部屋を訪れた。そして、高級志向の新商品ですが飲んでみませんか、とでも言って、プルタブを起こし、こっそりと青酸カリを入れて被害者に手渡しした。被害者は別に飲みたくなかったかもしれないけれど、『お手軽な缶入りのも、結構おいしいじゃない』なんて言っている手前、飲まざるをえなかったんだよね?」
「缶には珠美さんの指紋しか付いていなかったんだよね?」
「ああ。犯人は指紋が付かないようにしたんだ。室内だから手袋をするわけにはいかない。指先に接着剤を塗って乾かし、指紋が付かないようにしたんだろうね」
そこで慎司は峰原を見ると、「峰原さんは事件の話を聞いて、どう思いました?」
マンションオーナーは微笑し、低くよく響く声で言った。
「一つ理解できないことがあります。犯人はなぜ、青酸カリ入りの缶紅茶を寝室ではなく、絵画室に置いたのかということです。珠美さんが寝室で絶命したあと、犯人は缶を隣の絵画室に持っていった。どうしてそんなことをする必要があったのでしょう。缶を珠美さんのそばに置いておけば、ほんの少しでも自殺に見えたかもしれない。しかし、隣の部屋に持っていったことで、自殺の可能性は完全に否定されてしまった。犯人はなぜ、そんな不可解なことをしたのか」
慎司が答えた。
「犯人は一刻も早く現場を離れたくて、細かいところまで気を配る余裕がなかったんでしょう。それで、絵画室に置いたのは、犯人の意図的な行為ではなかったかと思うのです」
「意図的な行為? どんな意図があったというんですか?」
理恵がのんびりとした口調で言った。
「犯人は、絵画室の絨毯に付いた何かの痕跡を、紅茶の染みで消してしまいたかったのではないでしょうか」
慎司が身を乗り出した。
「その痕跡とは?」
「犯人の血ですね。犯行の緊張で鼻血が出たか何かして、絨毯に血が付いてしまった。血液を分析すれば誰のものかわかるから、そのままでは犯人が現場を訪れたことがばれてしまう。そこで紅茶を流して血を隠してしまうことにした。
紅茶の染みをよく分析したら、きっと血の成分が見つかるのではないでしょうか」
「それはいい考えだ。さっそく鑑識に頼んで調べてもらいます」
慎司が感心したようにうなずいて立ちあがった。
慌しくいとまを告げて出ていこうとする慎司に、峰原が「ついでに調べてほしいことがあるのです」と呼びかけた。
峰原は手近のメモ帳にボールペンで何かを書き込むと、慎司に手渡した。
「申し訳ないが、この二点についても調べてもらえませんか」
慎司はメモに目を落とし、訝しげな顔になった。
「これはどういうことなんです? 事件と何の関係が?」
すると峰原は、こともなげにこう答えたのだった。
「もしもその二点が正しければ、事件は解決です」
6
それから二時間後、慎司から興奮した口調で電話が入り、峰原がメモに記した二点が、その通りだったことが確認された。
残念ながら、紅茶の染みからは血液の成分は検出されず、理恵の説の方は否定された。
峰原は続いて犯人としてある人物の名を口にした。
慎司が「すぐに逮捕状を取ります!」と叫んで電話を切るのが、電話のそばにいた明世にも聞こえた。
明世は茫然としていた。峰原が調べるように指示した二点が何なのか、どうしてその人物が犯人なのか、さっぱりわからない。
理恵も、ぼうっとした顔をいつも以上にぼうっとさせている。
峰原は二人に微笑みかけた。
「秘密めかしてすみませんでした。あなたたちが事件について話してくださるのを聞いて、ある推理が思い浮かんだのです。ただ、確証もないまま披露して、間違いだったとわかって恥ずかしいと思って、後藤さんに調査をお願いしたのです。確認も取れたことですから、お話しすることにしましょう。ちょっと待っていてください」
峰原はキッチンに立った。
しばらくして、ティーポットとカップを盆に載せて戻ってきた。
「紅茶にまつわる事件を話すなら、やはり紅茶を飲みながらがいいでしょう。これは、ダージリンです」
峰原はティーポットからカップに透き通ったオレンジ色の液体を注いだ。
豊かな香りが立ち昇る。
明世と理恵は礼を言ってカップに口を付けた。
渋すぎず薄すぎず、深みのある絶妙な味わいだった。
峰原もしばらく紅茶を楽しんでいるようだったが、やがて穏やかな声で語り始めた。
「明世さんは一昨日、珠美さんが毒殺を恐れていることを話してくれましたね。大の紅茶好きだというのに、家政婦に毒を入れられることを恐れて、缶紅茶を飲んでいるのだと。私はそれを聞いているうちに、ある疑問を抱くようになった。というのも、珠美さんの行動は、被毒妄想の人間にしては非常に奇妙だからです」
「どこが奇妙なんですか。被毒妄想の人間の行動そのものだと思いますけど」
「被毒妄想の人間にしては不合理で不徹底だ、と言い換えてもいい」
「不合理で不徹底?」
「いいですか。毒殺を恐れているなら、缶の紅茶ではなく、ペットボトルの紅茶でもいいはずなのです。しかも、缶はいったん口を開けたらそのままですが、ペットボトルは蓋ができる。投毒を防ぐという点では、ペットボトルの方が、缶より遙かに優れているのです。毒殺を恐れているのなら、なぜそちらの方を選ばなかったのでしょうか?」
明世ははっとした。
言われてみればそのおとりだ。
「被毒妄想の人間にしては不合理で不徹底だ。とはそういう意味です。珠美さんは本当に毒殺されることを恐れていたのだろうか? 私はそう疑い始めました」
「被毒妄想ではなかったというんですか」
珠美に診断を下した理恵が、驚いたように目をぱちぱちさせた。
「でも、被毒妄想でなかったから、珠美さんが缶紅茶ばかり飲んでいたことをどう説明するんですか」
「ここで意味を持つのが、珠美さんがペットボトルを選ばず、缶だけを選んだということです。そこで私は缶にはあるがペットボトルにはない特徴というものを考えてみることにしました。その特徴があるからこそ、珠美さんは缶入りばかりを飲んだはずだからです」
「――缶にはあるがペットボトルにはない特徴?」
明世と理恵は顔を見合わせた。
「材質……ですか? 缶はスチール缶にせよアルミ缶にせよ金属製ですよね。金属であることが重要だったとか」
では、金属であることがどう重要だったのだろう。
磁石にくっつくかどうかだろうか。
しかし、スチールはくっつくが、アルミはくっつかない。
強度はどうだろうか。
確かにスチール缶は強度があるが、アルミ缶はペットボトルよりはるかに弱い。
同じ金属でも、スチール缶とアルミ缶では大きな違いがある。
缶にはあるがペットボトルにはない特徴として取り上げられるような性質とは、いったい何なのだろう? 明世たちの困惑した顔を峰原は微笑して見回していたが、やがて口を開いた。
「私が着目した特徴は、透明ではない、ということです。プラスチックは透明だが、アルミやスチールはそうではない。つまり、珠美さんがペットボトルではなく缶を用いたのは、中身が見えてほしくなかったからではないか。私はそう考えたのです」
「中身が見えてほしくなかった? どうしてですか? 中の液体が変なものだったからとか」
「そうではありません。市販のものを買ったのだから、中の液体が変なものだったということはないでしょう。とすれば、考えられることはただ一つ。中身が見えてほしくなかったのは、液体であること、まさにそのためだったのではないか」
「中身が液体だと、なぜに見えたら困るんですか」
峰原は微笑して手にしたティーカップをいくぶん斜めにしてみせた。
カップの中で、透き通ったオレンジ色の液体がゆるやかに傾く。
「液体は、水準器の役割を果たすのですよ」
明世ははっとした。
「水準器っていうと、まさか……」
「おわかりですね。珠美さんが恐れていたのは毒殺ではない。彼女が恐れていたのは……屋敷が傾いているのを知られることだったのです」
「……屋敷が傾いていた?」
「そうです。私が慎司さんい調査をお願いした第一点は、このことでした。先ほどの電話では、確かに傾いているそうです。専門家に調べてもらったところ、屋敷が正面から裏手へ五度ほど傾斜していることのでした。地盤地下――それも、局所的に発生する不同沈下と呼ばれる現象のせいらしい。地中の水分が横に逃げ、水分の失われた体積分だけ地盤沈下し、建物が次第に傾いていく現象です。昭和十年頃に建てられて以来、何の異常もなかったのに、突然不同沈下が生じたのは、最近になって近所で大量の盛土や地盤の堀削や地下水の汲み上げが行われたためではないか、ということでした」
明世はそこで、珠美の屋敷に着いたときの情景を思い出した。
「――そういえば、屋敷の向かいで、高層マンションを建てるため堀削工事が行われていました」
峰原はうなずいて、「おそらく、その工事のために、屋敷の地盤に不同沈下が生じてしまったのでしょうね。あなたたち来客が屋敷に着いたとき、傾きに気がつかなかったのは、屋敷が左右にではなく、前後に傾いているからでしょう。前後に傾いているなら、屋敷を正面から眺める限り、傾きに気づくことはありませんから。屋敷が傾いているとわかれば、珠美さんの奇妙な行動は説明できます。ティーポットで紅茶を淹れるのをやめたのは、カップに注ぐと屋敷の傾きがばれてしまうからです。ペットボトルでなく缶を選んだのは、中の紅茶が見えては困るからです。珠美さんは自分が生まれ育った屋敷を心から誇りにしていた。屋敷は完全無欠なものでなければならなかった。ところが、その屋敷が今年になって不同沈下のため傾いてしまった。珠美さんがそれを隠そうとしたのは無理もありません。
傾きを隠そうとするなら、屋敷に客を招いてお茶会を開くのは非常に危険です。カップの中の紅茶から、傾きがばれてしまかもしれない。しかし、珠美さんにとってお茶会を中止することなど思いも寄らなかった。自分を可愛がってくれた祖父の影響で、幼少の頃から慣れ親しんできた習慣なのですから。屋敷の傾きを隠したい、しかしお茶会は行われなければならない――このジレンマを解決するために珠美さんが考え出したのが、屋敷の傾きを知られないよう、紅茶を缶入りにしてしまうことでした。珠美さんはお茶会で、一同が缶紅茶を飲むのをこっそりと観察していたそうですが、それは、誰かが屋敷の傾きに気づきはしないかと不安に思っていたからです。さて、珠美さんが毒殺を恐れていたのではないとすると、ある人物が嘘をついていたことに気づきます」
「……加寿子さんですか」
「はい。彼女は明世さんに、珠美さんの奇妙な行動について、毒殺を恐れているからと言ったそうですね。しかし実際には、屋敷が傾いていることを隠すためだった。加寿子自身も珠美さんに嘘を教えられていたという可能性もいちおう考えられますが、仮にそうだとしても、加寿子はそれが嘘であることにすぐに気づいたはずです。毎日、屋敷で暮らしていれば、傾きに気づかずにいるなどということはありえない。炊事、洗濯、風呂、洗面所と、水を使う機会はいくらでもあるのですから。そして、珠美さんの奇妙な行動の理由がすぐに理解できたはずです。加寿子は珠美さんに毒を入れていると難詰されたそうですが、それはまことしやかな嘘だった。珠美さんが加寿子の作った食事を嫌い、すべて外食に頼っていたというのも嘘です。珠美さんは、客が来たときだけ、お茶を缶入りにしていたにすぎない。
加寿子の嘘がばれる恐れはまずありません。珠美さんの振る舞いを目にした人間が、『どうして缶入りなのですか』と珠美さんにきいたところで、珠美さんは本当のことは言わず、『お手軽な缶入りのも、結構おいしいじゃない』と答えるだけです。そのあと加寿子から、実は奥様はわたしに毒殺されることを恐れているのです。とこっそり聞かされれば、たいていの人間はぎょっとして、二度と缶紅茶のことを話題にしなくなる。『あなたは加寿子さんに毒殺されることを恐れているのですか』と、珠美さんに面と向かって訊く人間などまずいない」
そのとおりだ。
明世がまさにそうだった。
「加寿子はなぜこんな嘘をついたのか。考えられることはただ一つ。のちに珠美さんが缶紅茶を飲んで毒殺されたとき、警察にこう思わせるためです――被害者は加寿子に毒殺されると恐れていたのだから、加寿子の手渡す缶を飲んだはずはない、したがって加寿子は犯人ではない、と。珠美さんが加寿子に対して被毒妄想を抱いていたというフィクションを、一種の心理的なアリバイにしようとしたのです」
「……加寿子さんが犯人だというのですか」
「そうです」
「彼女には犯行は不可能です。犯人は五時から六時のあいだに珠美さんの部屋に足を運び、珠美さんに青酸カリ入りの缶紅茶を飲ませ、それを絵画室の床に転がした。でも加寿子さんはそのあいだずっと職場やキッチンにいたんですよ」
「絵画室に転がっていた缶紅茶の青酸カリで、珠美さんが死んだとは限らない。青酸カリを実際にはカプセルに入れて与えたと考えれば、服毒は死亡時刻より何時間も前だったとしてもおかしくなはい。五時から六時のあいだに珠美さんの部屋に行く必要はないのです」
「確かにそうですけど……、でも、絨毯の上に転がっていた空き缶や、紅茶の流れ出た染みはどうなるんですか。
あれは、犯人が現場に足を運んだ何よりの証拠でしょう」
「五時から六時のあいだに、絨毯の上に何らかの方法で空き缶と染みを出現させることができれば、犯人は現場に足を運ばなくてもいいわけですね」
「出現させるってどうやって? 共犯者の手でも借りたんですか」
「違います。共犯者の手を借りたのでは、アリバイ工作の意味がない。ちょっとしたから仕掛けを用いたのです」
「からくり仕掛け? あたしと理恵さんが六時に珠美さんの部屋に入ったとき、そんなものはありませんでした」
「あなたたちが入ったときは、仕掛けは消滅していたからです。これは、作動すると同時に消滅するからくり仕掛けなのです」
明世はさっぱりわからなかった。
「加寿子のからくり仕掛けはこうでした――まず、珠美さんが自室を離れているあいだに、絵画室の絨毯の上に、同じ絨毯をもう一枚重ねておく。他の部屋のものを持ってきたのでしょう。お茶会の始まる前、福島芳子が、客室の一つの絨毯がなくなっているがどうしたのか、と訊いたそうですね。加寿子は、掃除のときに汚してしまったのでクリーニングに出していると答えたが、実際には絵画室の絨毯の上に重ねていたのです。お茶会が始まる前、加寿子は珠美さんに、青酸カリ入りのカプセルを何かの薬だと偽って飲ませます。珠美さんは被毒妄想に憑かれていたわけではないのだから、加寿子に渡されたカプセルを何の疑いもなく飲んだでしょう。そのあと加寿子は絵画室に行き、缶紅茶を開け、青酸カリを入れると、その紅茶を部屋の右手の壁際に近い絨毯の上に流した。もちろん、この絨毯は一枚目であり、その下の二枚目の絨毯――つまり、もともと絵画室にあった絨毯はきれいなままです。そして、一枚目の絨毯を右端から左端へと巻き上げた。絵画室には家具がまったくないから、それが可能です。そのままだと、床が傾斜しているので絨毯はほどけて元に戻ってしまう。そこで砕いた氷をかませてストッパーにした。お茶会ではアイスペールに砕いた氷を入れて缶紅茶を冷やしていたそうですが、その氷を用いたのでしょう。また、紅茶の空き缶を、巻かれた絨毯の中心にできる空洞に入れておいた。巻かれた絨毯は、絵画室の左端に位置することになる。絨毯は毛足が短い種類のものだそうだから、うまく捲けばかなりコンパクトになるでしょう。そして、左手の壁は全面がガラス張りで、カーテンで閉ざされていたそうだから、巻かれた絨毯はそのカーテンの背後に隠れて、よほど注意深く見ない限り気づかれることはないはずです。
午後五時、明世さんは珠美さんを自室へ連れて行く。カーテンに視線をさえぎられて、明世さんも珠美さんも、絵画室の左端に捲かれた絨毯があることには気づかない。明世さんたちが目にするのは、もともと絵画室にあるきれいなままの絨毯です。五時半頃、珠美さんの胃の中でカプセルが溶け、青酸カリが作用して珠美さんは死亡する。一方、絵画室ではストッパーの氷が融ける。床の傾斜のため、巻かれた絨毯は部屋の左側から右側へと自動的にほどけていき、元に戻った。そして、紅茶の空き缶と、青酸カリ入りの紅茶の染みが右手の壁際の絨毯の上に出現した」
作動すると同時に消滅するからくり仕掛け――まさに峰原の言うとおりだった。
「こうして、六時に明世さんと理恵さんが珠美さんの部屋に行ったときには、犯人が現場に出入りしたかのような状況が作られていたのです。私が慎司さんに頼んだ調査の二点目は、絵画室の絨毯が二枚重ねられているかどうかの確認でした。そのとおりでした。絨毯と氷という家庭的なものを用いた。いかにも家政婦らしいアリバイ工作といえます。彼女は、ストッパーの氷が融け、巻かれた絨毯が元に戻るのにどれぐらいかかるのか、何度も実験を繰り返したに違いない。
その時間と、青酸カリ入りのカプセルが溶けるのに要する時間を把握してさえいれば、珠美さんが毎日午後五時から六時まで自室で休むことはわかっているのですから、アリバイ工作の計画を立てることは簡単だっでしょう。五時に珠美さんを自室へ連れていく仕事と、六時に迎えに行く仕事は、加寿子がやるわけにはいかない。その仕事は第三者に代わってもらい、五時の時点では絵画室の絨毯の上に空き缶も染みもなかったこと、ところが六時の時点では空き缶と染みがあったことを目撃してもらわなくてはならない。そこで加寿子は五時に珠美さんを自室へ連れて行くとき、車椅子をわざと食堂の扉にぶつけたのです。そうすれば、癇症の珠美さんは、加寿子に連れていってもらうことを嫌がるでしょうし、誰かほかの人が代わってくれるでしょう。加寿子は明世さんが人助けをいとわない性格であることを読んでいて、お茶会の客のうち、少なくとも明世さんは代わってくれると踏んでいたのかもしれません」
明世は何とも複雑な気持ちになった。
喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかわからない。
「それにしても、加寿子さんはなぜ、珠美さんを殺したんでしょう?」
「動機については、加寿子自身がすでに口にしています。彼女は珠美さんに、『あんたはわたしのことを憎んでる、遺産が欲しいんだろう、こっそり毒を入れて殺そうとしているんだよ』と難詰されたと言った、もちろん、この台詞自体は加寿子の作り上げた嘘であって、真実ではない。しかし、事実ではあったのです。明世さんの話を聞くだけでも、珠美さんが加寿子を邪険に扱っていることはわかった。加寿子は長年にわたって珠美さんに仕えるうちに、女主人の憎み、その死によって得られる遺産を望むようになったに違いない。嘘をつくとき、思わず事情を吐露してしまったのでしょう」
明世はやりきれない気分でため息をついた。
しばらく三人とも黙っていたが、やがて、理恵が気を取り直すような口調で言った。
「もしもこの事件が探偵小説だとしたら『Pの妄想』という題を付けたいところですね」
「どうして?」
「わたしは珠美さんが被毒妄想―― delusion of poisoningにかかっていると診断しましたけれど、その診断こそ妄想でした。精神科医の妄想―― delusion of psyshiatrist だったんです。そして、『P』という文字は、犯人のアリバイ工作を暗示してもいるのではないでしょうか」
「アリバイ工作を暗示?」
「巻かれた絨毯がほどけていくさまを想像してください。それを側面から見たら、このようだと思いませんか」
理恵はにっこり笑うと、テーブルの上に指で描いてみせた――横倒しのP。
Fの告発
1
凍てつく夜の空気の中で、パトカーの赤色灯が建物の壁を赤く染めていた。
周囲の松林が闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。
後藤慎司はパトカーから降り立つと、身震いし、コートの裾を掻き合わせた。
それでも寒さはからだに染み通ってきた。
暖房の効いた捜査一課の部屋が恋しかった。
続いて大槻警部が車から降りた。
年齢は四十代末、小柄で華奢で、警官の規定身長ぎりぎりの背丈しかない。
しかし、いかにも気の強そうな顔をしており、負けん気の強さは人一倍である。
ひとたび捜査対象に喰らいついたら、二度と放さない。
部下たちからは〈軍鶏《しゃも》〉というあだ名を密かに奉られている。
「この年齢になると、夜の捜査はつらいですな……」
パトカーのドアを閉めた森川部長刑事がぼそっと言う。
森川五十代末で、身長、眼光も鋭く、どこから見ても刑事という風貌だった。
大槻警部の片腕であることを自他ともに認めている。
「鬼のモリさんが、情けないことを言ってくれるじゃないか。孫が生まれてから気が弱くなるんじゃないか」
森川はたちまち相好を崩した。
「いやあ、孫というのは本当に可愛いもんですな。このあいだも……」
大槻警部は苦笑して、「孫自慢は本庁に戻ってからだ。さあ、行くぞ」
捜査班の一行は現場に向けて歩きだした。
一月二十七日火曜日、午前零時二十三分。
大槻警部率いる警視庁捜査一課の第三班は、殺人現場に到着したところだった。
昨日二十六日は、慎司たちが属する第三班が夜勤の当番だった。
次々と事件の舞い込む捜査一課にしては珍しく平穏な一日で、何事もなく過ぎ去るかと思えたが、午前零時ちょうど、その静けさは破られた。
警視庁の通信指令センターに、一本の電話がかかってきたのである。
「〈仲代彫刻美術館〉の特別収蔵品室で、室崎純平《むろさき じゅんぺい》という学芸員が殺された」
相手はそう言うなり電話を切った。
電話を受けたオペレーターの話では、ハンカチで口を押さえたようなくぐもった声で、とっさのことだったので男とも女とも判断がつかなかったという。
悪戯とも思われたが、当直の第三班に念のため連絡がなされた。
大槻警部が〈仲代彫刻美術館〉に電話してみると、深夜にもかかわらず女性職員が出た。
職員は初めは半信半疑の様子で、「室崎さんなら元気にお仕事をしています」と答えたが、警部が「室室さんを出してください」と言うと、しぶしぶ呼びに行った。
三分ほどして職員が再び電話に出たときは、声がすっかり狼狽していた。
室室純平の姿が見当たらないという。
館長に頼んで特別収蔵品室を見てもらいます、と相手が言うのを警部は押し留め、警察が到着するまで何もしないように要請した。
午前零時ちょうどの電話は悪戯ではないと判断したのだった。
〈仲代彫刻美術館)は杉並区の善光寺公園のそばにあった。
松林に囲まれた五百坪ほどの敷地に建つ鉄筋コンクリート二階建てで、白い直方体をいくつもつなげたようなかたちをしている。
建物の周囲は芝生で覆われ、ところどころに現代彫刻が置かれていた。
捜査班が正面玄関からロビーに入ると暖かな空気がからだを包み込んだ。
慎司はほっと息をついた。
ロビーには三人の職員が不安そうな表情で立っていた。
五十過ぎに見える禿頭の男、四十前後の女、それに三十代後半の男だ。
大槻警部が警察手帳を見せた。
「警視庁捜査一課の者です」
三十代前後の男が神経質な咳払いをしてから答えた。
「ごくろうさまです。僕はここの学芸員で、神谷信吾《かみや しんご》といいます」
そして禿頭の男を紹介した。
「こちらが館長の仲代哲志《なかだい てつし》です。館長は数年前に事故に遭って声帯を除去しているので、口がきけません。その代わりに、モバイルノートで皆さんに言葉を伝えます」
館長と紹介されたのは、頬が膨らんだ中肉中背の男で、頭はきれいに禿げているのに口ひげを生やしているのがなんともおかしい。
画家が屋外でスケッチするときに使うような画板を革紐で首からかけ、その画板の上にモバイルノートを置いていた。
「先ほどこちらに連絡したとき、電話に出られたのはあなたのですか?」
大槻警部が四十前後の女に尋ねた。
女は青ざめた不安そうな表情でうなずいた。
「香川伸子といいます。館長の秘書をしております」
「室崎純平さんの姿はやはり見当たらないのですね?」
三人がうなずいた。
「特別収蔵品室はどちらです?」
館長が手を挙げ、先頭に立って歩き出した。
香川伸子はその場に残り、神谷信吾が館長のあとに続いた。
捜査班の一行がそれを追う。
ロビーの隅に、Staff Only と記された両開きのドアがある。
それを引き開けると、大型のエレベーターがあった。
幅、奥行きともに三メートルはあり、かなりの大きさだ。
おそらく、美術品を運搬するためのものだろう。
一行が乗り込むと、館長はエレベーターを下降させた。
ドアを開け、外に出ると、廊下が十メートルほど延びていた。
廊下の左右には、〈収蔵品室〉と表示の出た両開きのドアがいくつもあり、それぞれ番号を割り振られている。
そして廊下の一番奥に、〈特別収蔵品室〉と記されたドアがあった。
館長はそのドアの前で足を止めた。
捜査班の一行は手袋をはめた。
いよいよこれから現場に入るのだ。
慎司は鼓動が遠くなるのを感じ、ごくりと唾を飲みこんだ。
大槻警部が特別収蔵品室のドアを開けようとして、首をかしげた。
ほかの収蔵品室のドアとは違っているのだ。
ほかの部屋のドアは両開きで、ハンドルが付いているのに、このドアは蝶番が付いておらず、ハンドルもない。
スライド式らしい。
「このドアはどうやって開けるのですか」
館長はモバイルノートの画面を指さして慎司たちの注意を引き、キーを叩き始めた。
打ち慣れているのか、非常に速い。
画面に文字が浮かび出ては変換されていく。
――個人の指紋を記憶して、その指紋の持ち主がセンサーに触れたときだけ、ドアが開くようになっている。
いってみれば、指紋を鍵代わりにした錠ですよ。Fは fingerprint の略です。
そして館長は、ドアの脇の壁に取りつけられた奇妙な装置を指さした。
それは、縦十センチ、横七センチほどの平べったい長方形の箱だった。
丈夫に液晶画面、その下に楕円形の浅いくぼみがある。
警部が嫌な顔をした。
ハイテク音痴なのだ。
携帯電話もパソコンも持っていないし、噂によると自宅ではビデオの録画設定すらできず、中学生の娘に呆れられているという。
館長が楕円形の浅いくぼみに人差し指を触れた。
それがセンサーらしい。
ピッという軽い電子音とともに液晶画面に〈OK〉の文字が浮かび出て、ドアがスライドした。
館長が室内に足を踏み入れた。
捜査班の一行が続き、そのあとへっぴり腰の神谷信吾が恐る恐るついていく。
二十畳ほどの広さの部屋だった。
地下にあるので、当然ながら窓は一つもなく、天井の蛍光灯が辺りを白々と照らし出している。
ドアと並行にスチールラックが何列も並べられ、棚にはさまざまな品が置かれていた。
古代ギリシャやローマのものと思われる彫像、古代メソポタミアのものらしいレリーフ、仲裁ヨーロッパの武具や剣、古代中国のものらしい青銅の動物像、精巧な模様が彫られた青銅の鏡……。
「この部屋は特別収蔵品室ということでしたね。貴重な収蔵品を保管する部屋ということですか」
警部の問いに、館長はうなずいた。
――そうです。だから、この部屋にだけ、Fシステムを備えているのです。
捜査班は二手で分かれ、スチールラックの両側の通路を歩き始めた。
三十代末の小男。
茶色のセーターに、ベージュ色のズボンを身に着けている。
左胸が赤黒く染まっており、辺りには大量の血が流れていた。
ラックにもところどころ血の飛沫が付いている。
死後数時間経つらしく、血はすでに乾いていた。
「室崎純平さんですか」
大槻警部が館長と神谷信吾に問うと、館長は沈鬱な表情で、神谷信吾は青ざめた顔でうなずいた。
死体の脇には凶器が転がっていた。
柄に複雑な装備が施され、宝石がいくつも埋め込まれたナイフだ。
刃は血で赤黒く染まっていたが、美しく湾曲しており、優に一個の芸術品といってよかった。
「もしかして……このナイフも収蔵品の一つですか?」
森川部長刑事の問いに、館長はうなずいた。
――十五世紀のトルコのものです。当時の王族が貴族が護身用に所持していたと思われる。極めて貴重なものです。
この美術館では、こうしたものも彫刻芸術の一つと見なして収蔵しています。
「すみません……外に出てきます……」
不意に神谷信吾が口を押さえると、ドアの方へ走っていった。
ドアの脇のセンサーに指を当ててドアを開け、廊下へ飛び出していく。
入室するときだけでなく退室するときも、センサーに指を当てる必要があるらしい。
鑑識班が作業を開始した。
指紋検出用の粉を撒き、死体やその周辺の写真を撮る。
それが終わると、今度は監察医の杉田が検死を始めた。
室内ではときおりうなり声が響いていた。
杉田がうなりながら検死しているのだ。
まるでグレン・グールドである。
年齢は五十代の半ば、偏屈で無愛想な人物だが、仕事の腕は確かで、死亡推定時刻を極めて性格に特定するという名人芸の持ち主だった。
「先生、どうですか」
大槻警部が過ぎたに声をかけた。
「うむ。被害者の死因は失血死。左胸をナイフで三回刺されている。死亡推定時刻は……そうだな、昨日の午後八時から九時のあいだだ」
警部はうなずくと、ふたたび館長に向き、「ところで、この部屋に備え付けられている装置――Fシステムですか、要するに、それに指紋を記憶させている人間だけしか、この部屋には入れないわけですな?」
――そうです。入るときだけでなく出るときも、センサーに指紋を認識させなければドアは開きません。
「指紋を記憶させているのはどなたです?」
――館長の私。神谷信吾君。ここにはいないが、松尾大輔《まつお だいすけ》君。それに亡くなった室崎君ですよ。
「誰が出入りしたかは記録されるのですか」
――もちろんです。
「その記録を見せていただけますか」
館長はためらいながらうなずいた。
捜査班が何を考えているのか、ようやくわかったらしい。
事件はこれで解決だな、と慎司は思った。
犯行現場へ出入りできる人間が限られており、しかもそれが逐一記録されているなら、犯人はすぐにわかる。
実に簡単な事件だ。
しかし、その期待は大きく裏切られることになる。
2
館長に先導されて、捜査班は一階に上がった。
神谷信吾が、真っ青な顔でロビーの長椅子に座り込んでいた。
館長がその肩をいたわるように叩くと、神谷は弱々しい笑みを浮かべて頭を下げた。
ロビー受付の背後に、〈事務室〉と表示の出たドアがあった。
捜査班は館長に案内されて中に入った。
神谷信吾も一緒についてきた。
そこは八畳ほどの広さの部屋だった。
机が二脚置かれ、デスクトップ型のパソコンが載っている。
部屋の隅には書類を保管するらしいキャビネットが置かれていた。
香川伸子が不安そうな表情で椅子に座っていた。
一同が入っていくと、彼女ははっと顔を上げた。
女性にしては大柄なからだつきで、百七十センチ近くありそうだった。
しかし、控えめな雰囲気で、あまり目立たない。
ほとんど化粧をしていなかったが、矯正な顔立ちをしていた。
館長は彼女に向かって優しく微笑むと、モバイルノートの画面を見せた。
――香川君、Fシステムの画面を開いてくれないか。システムに指紋を登録している者の一覧と、昨日、特別収蔵品室に出入りした者の記録を見せてほしい。
香川伸子はパソコンに向かうと、マウスを開かれた。
彼女がキーをいくつか叩いてウィンドウの空欄を埋めると、〈Fシステム〉と表示のある画面になった。
画面にはアイコンがいくつも並んでおり、それぞれのアイコンの右隣に、〈登録作業〉、〈登録者一覧〉、〈入退室記録〉といった説明が付いている。
香川伸子は〈登録者一覧〉のアイコンをクリックした。
画面が変わり、四人の名前が現れた。
(氏名) (登録年月日)
仲代哲志 2000年2月19日
松尾大輔 2000年3月27日
神谷信吾 2000年4月11日
室崎純平 2000年5月16日
「ここに名前の挙がっているのが、指紋を登録されている方たちですか?」
大槻警部が尋ねる。
――そうです。ここに表示されている四人だけです。
このうち、被害者の室崎純平を除いた残りの三人が容疑者ということだ。
「昨日、現場に出入りした方の記録を見せてもらえますか」
香川伸子がマウスを動かし、〈入退室記録〉のアイコンをクリックした。
画面が変わり、日付を打ち込むウィンドウが現れた。
彼女は昨日の日付、すなわち2004年1月26日を打ち込んだ。
〈1月26日入退室記録〉という画面が現れた。
(氏名) (入室時刻) (退室時刻)
神谷信吾 20:07 20:23
仲代哲志 20:34 20:56
松尾大輔 21:11 21:18
これが三人の容疑者が犯行現場へ出入りした記録だった。
「昨日は三人とも特別収蔵品室に出入りしていますな。この記録は削除できるのですか?」
――できません。一度、入退室が記録されたら、二度と取り消すことはできない仕組みになっています。昨日、特別収蔵品室に出入りしたのは、ここに名前の挙がっている者だけということです。
大槻警部はにやりとした。
小柄で華奢な身体が不意に大きく膨らんだようだった。
「なるほど。とすれば、犯人はこの三人の中にいることになる。犯人は被害者を連れて特別収蔵品室に入り、殺害した。
被害者の死亡推定時刻は、昨日の午後八時から九時のあいだ。三人のうち、松尾大輔さんが出入りした時刻は、被害者の死亡推定時刻よりあとだから、犯人候補から除外してよいでしょう。残るは二人。仲代哲志さんか、神谷信吾さんだ」
館長は穏やかに微笑した。
――私は犯人ではありませんよ。私には室崎君を殺害する動機がない。第一、医者に問い合わせてもらえればわかるが、私は右肩を捻挫していて、ナイフを振ることなどとうていできない状態なのです。
「右肩を捻挫? あとで調べさせてもらいましょう」
神谷信吾は真っ青な顔になっていた。
「確かに僕の出入りしたのは室崎君が殺された時刻です。でも、僕は犯人じゃない。僕だって室崎君を殺す動機なんかない。第一、僕は先端恐怖症なんです。ナイフを見るだけで耐えられなくなる。ましてや、ナイフを握るなんて絶対にできない」
「――先端恐怖症?」
大槻警部が疑わしげな顔をした。
「本当なんです。ほかの人たちに聞いてみてください。僕がレストランでナイフやフォークを見て真っ青になったのを目撃しているはずだ」
――神谷君が先端恐怖症なのは事実です。
と館長がキーを叩いた。
――うちの職員の間では有名ですよ。とにかく尖ったものが駄目なのだそうです。
「それもあとで調べさせてもらいましょう。仲代さん、あなたは昨夜は何をしておられました?」
――午後七時過ぎにこの美術館に来て、館長室で香川君とずっと仕事をしていました。
「館長室はどこです?」
――この事務室の隣です。
「八時三十四分から五十六分まで、特別収蔵品室に入室しましたね」
――はい。収蔵品の一つに用があったので。
「その時室内で異常に気づきませんでしたか。もし神谷さんが犯人ならば、あなたが入室した時刻、被害者は室内ですでに殺されていたことになるが」
「僕は犯人じゃない!」
神谷信吾が抗議した。
――何の異常も気づきませんでした。私は二列目のスチールラックに用があったので、室崎君が殺されていた五列目のそばには行っていないのです。
「そのあとは?」
――また館長室に戻って仕事を続けました。午前零時過ぎになって、隣の事務室で電話が鳴り出した。香川君が電話に出ると、あなたたち警察からで、室崎が殺されたという通報が入ったという。私も香川君も初めは人騒がせな悪戯だと思ったが、念のために室崎君の部屋に行ってみた。とろこが彼の姿が見えない。これはおかしいと思いました。結局、あなたたちがこちらに来るということになったので、ロビーに出て、皆さんが到着するのを待っていたのです。
「午前零時過ぎまでここに残っておられたのはどうしてです?」
――明日、いや、今日ですか、今日二十七日から、新しい展示が始まるのです。その準備です。
「なるほど。神谷さん、あなたは?」
神谷信吾はそわそわしていたが、早口で喋り出した。
「昨日は昼過ぎに休日出勤して、自分の部屋でずっと仕事をしていました。学芸員は一人一人部屋を削り当てられているんです」
「あなたの部屋はどこです?」
「一階です」
「八時七分から二十三分まで、特別収蔵品室に入室しましたね」
「え、ええ。でも、僕は犯人じゃない。本当に先端恐怖症なんです。信じてください」
「しかし、あなたが犯人でないなら、仲代さんが犯人ということになる」
「そ、それは……」
神谷は目をきょときょとさせたが、「そうだ、松尾君が犯人なんですよ。あの男は室崎君とひどく仲が悪かったんですから。館長も僕も犯人じゃないんだから、残るはあの男しかいない」
「しかし、彼にはアリバイがあるのですよ。彼が特別収蔵品室に出入りしたのは、被害者の死亡推定時刻のあとなのだから」
「それがどうしたっていうんです? 特別収蔵品室の外で室崎君を殺害し、そのあとで死体を運び込めばいいだけのことじゃないですか」
早口でそうまくしたてた。
どうやら、神谷は松尾大輔という男をきらっているらしい。
大槻警部は首を振った。
「それは無理です。あなたも先ほど御覧になったように、現場には大量の血が流れているし、ラックにも血の飛沫が付いている。あの状況から見て、被害者があの場所で殺害されたことは間違いない。ところで、松尾さんは今この場にいないようだが、もうお帰りになったのですね。昨夜は何をしていたのか、ご存じないですか」
「知りませんね」
神谷は吐きすてるような口調で、「あの男、いつの間にかいなくなっていた。館長が夜遅くまで仕事をなさっているというのに、勝手に帰ってしまったんです」
香川伸子が控えめな声で口を挟んだ。
「松尾さんは昨夜九時四十分頃に、館長室に顔を出されて、館長とわたしに挨拶をして帰られました」
「なるほど。松尾さんを呼び寄せてもらえませんか。彼は現場に出入りできた人間の一人だ。夜分に申し訳ないが、話を聞かせていただきたい」
館長は香川伸子を見ると、モバイルノートのキーを叩いた。
――松尾君に電話をかけてくれないか。夜遅くですまないが、こちらに来てもらえないだろうか、と言ってほしい。
伸子は「はい」と答え、携帯電話を取り出した。
「もしもし、松尾さんですか? 香川です……寝ていた? それはすみません。実は大変なことが起きたんです。
室崎さんが殺されているのが先ほど発見されて……いえ、本当なんです。今、警察の方たちが来て捜査しています。
室崎さんが殺されていた場所が問題なんです。特別収蔵品室なんです。あの部屋に入れる人は限られています。
室崎さんを除けば、館長と松尾さんと神谷さんだけです。それで、警察は松尾さんの話も聞きたいというんです。
夜遅くですまないが、こちらに来てもらえないだろうか、と館長がおっしゃっています。今、自宅ではない? 恋人の部屋にいる? 彼女が引き止めるから行けない? 朝まで待ってろと警察に伝えておけ? それはちょっと困り……ああ、きれてしまいました」
香川伸子はため息をつくと、館長に向かい首を振ってみせた。
館長は苦笑すると、警部に向かって、――申し訳ない。松尾君はこちらには来られないらしい。
警部は小さな子供が見たら泣きだしそうな狂暴な笑みを浮かべた。
「なかなかユニークな方のようですな」
「まったく、松尾君は非常識な男だ」
神谷が憤懣やる方ない口調で、「館長、なぜあの男をあんなに甘やかしておくんです? 規則は守らない。傍若無人な振る舞いをする、同僚のことは徹底的に馬鹿にする、館長がいらっしゃるときに限って仕事を休む……とうにクビになさってもいいぐらいだ」
館長は神谷の肩をなだめるように叩いた。
――松尾君にはいろいろ変わったところがあるが、悪意はないのだよ。それに、仕事に関しては非常に優秀でもある。
大槻警部が三人の職員を見回した。
「ところで、警察が事件のことを知ったのは、午前零時ちょうどに、『〈仲代彫刻美術館〉の特別収蔵品室で、室崎純平という学芸員が殺された』という電話がかかってきたからです。電話をかけたのは、今晩この美術館にいた方たち――つまり、あなたたち三人か、あるいは松尾大輔さんだと思われる。あなたたちの中で電話をかけた方がいたら、素直に申し出ていただきたい」
館長も神谷信吾も香川伸子も黙ったままだった。
「電話をかけた方は、犯人が室崎さんを連れて特別収蔵品室に入るのを目撃したか、あるいは自身が特別収蔵品室に入ったとき、室崎さんの死体を発見したと思われる。それで、警察に通報したのでしょう。同じ職場の人間を犯人だと告発したくない気持ちはわかります。しかし、すべた明るみ出すことが、結局は犯人のためにもなるのです。電話をかけた方は、どうか申し出ていただきたい」
それでも三人は黙ったままだった。
「仲代さん。あなたは午後八時三十四分から五十六分にかけて特別収蔵品室に出入りしたとき、本当は室崎さんの遺体を発見したのではないですか。それで、警察に通報したのではないですか」
館長はゆっくりと首を振った。
「神谷さん、香川さん。あなたたちは、犯人が室崎さんを連れて特別収蔵品室に入ったのを見たのではないですか」
「見ておりません」
香川伸子が答えた。
「わたしはずっと館長室か事務室にいました。特別収蔵品室には近づいてもいません」
「僕だって犯人の姿なんか見ていませんよ。電話をかけたのも松尾君に違いない」
と神谷信吾が言う。
都合の悪いことはすべて松尾のせいにしようとしているようだった。
大槻警部は三人を睨め回したが、質問を変えた。
「皆さんが室崎さんを最後に御覧になったのはいつ頃ですか」
館長がモバイルノートのキーを叩いた。
――午後七時過ぎ、私がこちらに来てすぐロビーで会いました。
「神谷さん、あなたはいかがです?」
「七時半頃、トイレでたまたま出くわしました」
「そのときの室崎さんの様子は?」
「特に変わったところはなかった。というより、なんだか意気揚々としているみたいでした」
「香川さん、あなたは?」
「午後三時過ぎに、給湯室でお見かけしました。それが最後です」
「室崎さんの経歴についてお話しいただけますか」
――室崎君がこの美術館に来たのは、四年前、二〇〇〇年の五月でした。私は二十代の頃からずっとアメリカで暮らしていたのですが、五年前に帰国してこの美術館を建て、学芸員の募集をしたのです。そのとき、最初に応募してきたのが松尾君、二人目がここにいる神谷君、そして三人目が室崎君でした。いまでこそこの美術館もある程度名が知られていますが、設立当初は海のものとも山のものとも知れなかった。室崎君はそのときに応募してきてくれたのだから、とてもありがたかった。
「室崎さんはそれまでどこで働いていたのですか」
――大田区美術館です。そこで人間関係を巡るトラブルがあって、辞めたということでした。
「室崎さんはどんな人間でした?」
――真面目で、礼儀正しくて、こつこつと仕事をするタイプでした。彼の専門は中世から近代にかけてのヨーロッパの彫刻なのですが、海外の有名美術館と交渉しては、その時期の展示品をうちで借り受ける契約を交わしてきてくれたりもした。そのときの特別展は大盛況でしたよ。また、美術雑誌や紀要に研究論文もきちんと書いていた。
神谷がふと思い出したように言った。
「そういえば……室崎君は、一週間ほど前、妙なことを頼んできました」
「妙なこと?」
「〈眠れるスフィンクス〉を僕に手渡して、おかしなところがないか見てくれないか、と言うんです」
「眠れるスフィンクス〉とは何です」
「特別収蔵品室に保管されているブロンズ像です。作者は不明だが、十七世紀イタリアの作とされている」
「それのどこが妙なのです?」
「室崎君の専門は、中世から近代にかけてのヨーロッパの彫刻なんです。〈眠れるスフィンクス〉も彼の守備範囲だ。それなのにどうして、専門外の僕に尋ねたんでしょう? 僕の専門はオリエントなのに」
大槻警部は館長と香川伸子に目をやった。
「あなたたちはいかがです?」
「わたしもやはり同じことを言われました」
香川伸子がおずおずと発言した。
――私もです。
と館長がキーを叩いた。
――神谷君の言葉で思い出したが、一週間ほど前、たまたまここに顔を出したら、室崎君に〈眠れるスフィンクス〉を手渡されて、おかしなところはないかと訊かれましたよ。
「あなたたちはおかしな点に気づきましたか」
館長も神谷も伸子も揃って首を振った。
「その〈眠れぬスフィンクス〉という彫刻を見せていただけませんか」
一同はふたたび地下の特別収蔵品室に向かった。
館長がセンサーに指を触れてドアを開けた。
神谷信吾はびくびくしていたが、もちろん室崎純平の死体はすでに運び去られていた。
〈眠れるスフィンクス〉はドアから数えて三列目のスチールラックに置かれていた。
ギリシャ神話に登場する女怪スフィンクスが目を閉じてうずくまった姿。
四肢を折り曲げ、翼をたたんでいる。
身の丈は三十センチ、高さは二十センチ、横幅は十センチほどだ。
表面はなめらかで、鋭い光沢を放っていた。
神話によれば、スフィンクスは道行く者たちに謎をかけ、答えられない者を殺害したという。
それと同様、〈眠れるスフィンクス〉も人々に問いかけているようだった――室崎純平は、わたしのここがおかしいと気づいたのか?
3
館長と神谷信吾、香川伸子の三人は、午前三時前に警察の尋問から解放され、疲れきった様子で帰っていった。
捜査班も、現場に見張りの警官を残し、警視庁に戻ることにした。
「おい、午前零時ちょうどの電話をどう思う?」
深夜の道路を走るパトカーの中で、大槻警部が慎司に問いかけてきた。
ステアリングを握る慎司は欠伸をこらえながら、「午前零時ちょうどの電話?」
「『〈仲代彫刻美術館〉の特別収蔵品室で、室崎純平という学芸員が殺された』という電話だよ。あの電話について、どう思う?」
「職員の誰かが、犯人が被害者を連れて特別収蔵品室に入るのを目撃したか、あるいは自身が特別収蔵品室に入ったときに被害者の死体を発見して、警察に通報したんでしょう」
「いや、俺はそう思わん」
「どうしてですか」
「さっき三人の職員たちを前にしたときは、善意の第三者が室崎の死を知って警察に通報した……という線で訊いたが、実際にはそんなことはありえない、通報したのは犯人だ」
「……犯人が? どうしてそうわかるんですか」
「電話がかかってきたのが、午前零時ちょうどだったからだよ。たまたま死体を発見した通報者なら、ちょうどにかけてくるはずがない。通報の時刻はもっと中途半端な時間になっただろう。ちょうどにかけてきたということには、何らかの計画性が感じられる。電話をかけたのは犯人だと見て間違いない」
慎司ははっとさせられた。
大槻警部が警視庁の捜査班を率いているのは伊達ではない。
「問題というと?」
「犯人が電話をかけた目的はいったい何なんだ?」
「目的って……被害者の死体を早く発見してほしかったんじゃありませんか」
「普通に考えればそうなる。しかしな、被害者の死体を早く発見してほしかったのなら、もっと早く電話してくるはずだろう。被害者の死亡推定時刻は午後八時から九時のあいだだぞ。なんで、犯行後三時間から四時間もまたなくちゃならなかったんだ?」
「犯行後三時間から四時間も待たなくてはならない、何らかの事情があったんじゃないでしょうか」
「何らかの事情って、どんな事情だよ」
「うーん……犯人は現場に何らかの痕跡を残してしまっていて、その痕跡が消えるには三時間から四時間待たなければならなかったとか」
「どんな痕跡だ?」
「分かりませんね。警部の意見は?」
「おれにもわからん。ただ、電話をかけるのを遅らせたという点が、時間を解決する重要な手がかりだという気がする……」
*
警視庁で仮眠を取った捜査班は、午前十時過ぎ、ふたたび現場に赴いた。
もちろん美術館は閉館で、来館者が正面玄関に貼られた〈休館〉の札を目にして首をかしげながら帰っていく光景がときおり見られた。
大槻警部と森川部長刑事は見張りの警官に「ごくろうさん」と声をかけると、正面玄関からロビーに入った。
信じた部下があとに続く。
ロビーは五、六人の職員がたむろしていた。
皆、衝撃を隠しきれない様子で、ひそひそと言葉を交わしている。
館長と神谷信吾と香川伸子は今日は休むつもりなのか、姿が見えなかった。
捜査班の姿を目にすると、職員たちは一様に黙り込んだ。
彼らの中から、一人の男が捜査班の方へ大股に近づいてきた。
四十前後の中肉中背の男だった。
髪を肩の辺りまで伸ばしている。
口元には人を喰ったような微笑を浮かべていた。
大きく欠伸をすると、軽い口調で大槻警部に言った。
「俺に会いたがってるそうじゃないか。どうも、お待たせした」
「あなたは?」
「松尾大輔さ。零時過ぎに電話をもらったときは、恋人の部屋にいてね。彼女に引き止められて帰れなかったんだ。悪く思わないでくれよ」
警部はしかめっ面をした。
気に喰わない野郎だ――警部の顔にはそう書いてあった。
「ところで、特別収蔵品室に入ってもいいのかい? 収蔵品が必要なんだ」
「警察が付き添わせてもらいますよ」
森川部長刑事と慎司が松尾に付き添って特別収蔵品室に向かった。
松尾がセンサーに指を触れてドアを開ける。
三人は室内に入った。
松尾は二列目のスチールラックから左手で青銅鏡を取り上げた。
それが目当ての品らしい。
左手を伸ばしたとき、袖口からローレックスの腕時計が覗いた。
「室崎が殺されていたのはどこだい?」
森川部長刑事は少しためらって答えた。
「五列目のスチールラックの後ろですよ」
松尾はそちらへ歩いていった。
大量の血が流れた跡がはっきりと残り、死体の輪郭をかたどった白線も残っている。
「……なるほど、室崎はここで殺されていたのか」
松尾がそれを見下ろしながら、静かな声で言った。
傍若無人な彼も、さすがにある種の感慨を覚えているようだった。
「昨夜九時十一分にあなたがこの部屋に入ったとき、室崎さんの死体はすでにここにあった。それなのにあなたは気がつかなかったのですか」
部長刑事の質問に、松尾は肩をすくめると、「残念ながら気がつかなかった。この部屋にはスチールラックが何列も並んでいる。今見ると、死体は五列目のラックの陰にあったんじゃないか。昨夜九時十一分にこの部屋に入ったとき、俺は二列目のラックの収蔵品に用があったんだ。
五列目のラックのところまでは行っていないから、死体に気づくわけがない。それに、俺にはアリバイがある。室崎が殺されたのは、昨日の午後八時から九時のあいだだそうだな。俺がこの部屋に出入りしたのは、そのあとだ。俺に殺せたはずがない」
それから松尾はまた大きな欠伸をした。
「失礼。何しろ昨晩は、彼女が寝かせてくれなくて」
「それはまた結構なことでしたな」
部長刑事は仏頂面で応じると、「ところで、あなたから見て、室崎さんはどんな人間でしたか」
「ろくな人間じゃなかったな。こすっからくて、おもてじゃもっともらしい顔をしながら、陰でこそこそ企むタイプだ」
「あなたと室崎さんは仲が悪かったそうですが」
「神谷の奴が言ったんだろ。確かに俺と室崎は仲が悪かったけれど、室崎が一方的に俺を嫌っていただけでね。俺にしてみれば、室崎なんてどうでもよかった」
「神谷さんも室崎さんもあなたのことを嫌っているようですね」
「俺が館長のお気に入りだから嫉妬しているのさ」
「嫉妬?」
「そう。館長は月に二、三度しかここに姿を見せなくて、運営をすべて俺たち職員に任せてくれているんだが、中でも俺に対する信頼が一番厚くてね」
松尾はにぬけぬけとそう言った。
どうやら本気でそう信じているようだった。
「室崎さんは一週間ほど前、同僚たちに〈眠れるスフィンクス〉を手渡して、おかしなところがないか見てくれないか、と言ったそうですね。あなたも手渡されましたか?」
「ああ。普段は俺と必要最小限しか口をきかないし、助言を求めてくることなんて絶対にないんで、不思議に思ったな」
「〈眠れるスフィンクス〉におかしなところはありましたか」
「いや、なかった。俺の専門は古代中国なんだ。十七世紀イタリアの代物なんて持ってこられたって分かるわけがない。そう言って室崎に突き返したよ」
「あなたは昨夜は何をしてましたか?」
「夕方五時頃に休日出勤してから、自室でずっと仕事をしていた。特別収蔵品室に用があったんで、九時十一分から十八分まで入室した。そのあと、四十分頃に館長室に顔を出して館長と香川さんに帰りの挨拶をして、あとは彼女のところへ一直線さ。――さあ、外に出ようじゃないか」
松尾はFシステムのセンサーに指を当て、ドアを開けると、左手で青銅鏡を持ってさっさと廊下に出た。
このままでは閉じこめられてしまう。
森川部長刑事と慎司も慌ててあとを追った。
4
室内には紅茶の快い香りが漂っていた。
窓の外は冷たい風が吹いていたが、厚いカーテンで閉ざされたこの部屋は暖かい。
もたれているソファは柔らかく、一日の疲れを心地よく癒してくれる。
峰原卓は百八十センチ近くあるやせぎすのからだをソファに深々と沈め、目を閉じて慎司の話を聞いていた。
彫りの深い顔立ちは、まるで瞑想しているようだ。
明世はさかんに茶々を入れていた。
極端に短いショートヘアとジーンズの上下のせいもあって、一見したところでは声の甲高い少年のようだ。
理恵はストレートのロングヘアの頭を軽くかたむけ、おっとりと微笑みながら聞いている。
「――というわけなんです」
慎司は話し終えると、三人の仲間たちを見回した。
「Fシステムの記録から見て、犯人が仲代哲志、神谷信吾、松尾大輔の三人の中にいることは間違いいない。それなのに、三人とも何らかの条件で犯人候補から除外されてしまうんです。医者に問い合わせた結果、仲代哲志が右肩を捻挫しているというのは本当であることがわかりました。ナイフを振るうことなど絶対に無理だという。おまけに仲代は右利きなんです。神谷信吾が本当に先端恐怖症であることも確認が取れました。職場の同僚たちも、学生時代の友人たちも、神谷が先端恐怖症だと口を揃えていっています。ナイフを振れるとはとうてい思えない。松尾大輔が現場に出入りしたのは、被害者の死亡推定時刻のあとだから、犯行は不可能です。また、血の流れ具合から見て、被害者が現場で殺害されたことは確かだから、現場の外で犯行を行い、あとで死体を運び込んだという可能性も考えられない。
事件当日、現場に出入りすることのできた三人は、いずれも犯人ではありえないということになるんです。捜査は行き詰まってしまいましてね。大槻警部は頭を抱えていますよ」
二月十四日土曜日、午後八時過ぎ。
ところはいつものように、〈AHM〉の最上階にある峰原卓の書斎。
慎司、明世、理恵、峰原の四人は、ガラステーブルを囲んで座っていた。
テーブルの上には、これまたいつものように峰原が淹れてくれた紅茶の入ったカップがある。
慎司がこうして仲間たちに話しているのは、彼らの助言――正確に言えば峰原卓の助言が欲しいからだった。
昨年の七月に起きた西川珠美の毒殺事件の際、峰原は見事な推理で真相を指摘したのである。
あのときのように、峰原がまた推理を披露してくれないだろうか。
慎司はそう期待していた。
「仲代哲志は一九五〇生まれ。大学卒業後、アメリカへ渡り、寿司屋の店員、農場労働者など、さまざまな職を経験したらしい。三十五歳のとき、オクラホマ州の石油成金の一人娘と結婚したが、六年前に妻は癌で死亡。五年前、二十数年ぶりに日本に帰国。妻から受け継いだ一千万ドルにも及ぶ莫大な遺産の大半を投じて、〈仲代彫刻美術館〉を設立しました。穏やかな性格で、人当たりはいいんですが、人間嫌いというのか、館長なのに月に二、三度しか美術館に顔を見せないそうです。運営はほとんどすべて職員たちに任せているらしい。
神谷信吾は一九六五年生まれ。大学の美学美術史学科で助手として働いたあと、二〇〇〇年の三月に、〈仲代彫刻美術館〉に学芸員として入りました。
松尾大輔は一九六三年生まれ。神奈川県の美術館で働いたあと、二〇〇〇年の二月に、〈仲代彫刻美術館〉に学芸員として入った。仲代とは昔から親しくて、仲代が美術館を建てるときも、いろいろ相談に乗ったらしい。なんでも、松尾が十年前アメリカに旅行したときに、たまたま仲代と知り合って、意気投合したということでした」
明世が口を開いた。
「まず確かめておきたいんだけど、Fシステムに登録しているのは、本当にその三人だけなのね? ほかにも登録している人間がいるなんてことはない?」
「ないね。システムを納入したメーカーから担当者を呼んで、調べてもらったけれど、登録しているのがこの三人だけであることは間違いない。過去に登録を追加したり取り消したりした形跡がないこともわかっている」
「三人が実際にセンサーに指を振れてドアを開けるところは見た?」
「君が何を言いたいかはわかるよ。彼らの名を借りて、実は別の人間が指紋を登録しているんじゃないかというんだろ。
それはありえない。三人がセンサーに指を触れてドアを開けたところを俺たちは見ている。三人が実際に指紋を登録していることは間違いない」
「三人の指紋をゴムか何かに写し取ってセンサーに触れることで、ドアを開けることはできない? そうしたら、ほかの人間にもドアを開けられるんじゃないの」
「それは無理だ。捜査班も同じ疑問を持って、メーカーに聞いてみたんだが、センサーの感度はとても鋭くて、生きている人間の指特有の弾力、湿度を伴っていない限り、絶対に作動しないようになっているそうだ」
「それを確認しておきたかったの。推理の前提となる事実をはっきりさせておかなきゃね。――あたしとしては、神谷信吾が犯人だと思うなぁ。先端恐怖症っていうけど、どうも信用できない。理恵さん、本当にそんな病気あるの?」
理恵は中央医科大学付属病院に勤務する精神科医である。
彼女はにっこり笑うと、「あります。恐怖症――何か特定のものに対して、一般の人より強い恐怖を感じる症状の一つですね。対人恐怖症、閉所恐怖症、高所恐怖症、不潔恐怖症、乗り物恐怖症、帰宅恐怖症などなど、さまざまなものを刺激源とする症状が知られています」
「仮に先端恐怖症だとしても、ナイフが握れないほどひどいことなんてあるの?」
「個人差がありますね。後藤さん、神谷信吾という人の症状はどれほどのものなんでしょうか」
「職場の同僚や学生時代の友人の話を聞くと、相当ひどいらしい。レストランに行っても、フォークやナイフの入ったバスケットを見るだけで真っ青になるそうだし、病院で注射を打たれるときも、小さな子供みたいに泣きだすとか。
どう見ても演技とは思えないということだった」
明世が腕組みをした。
「うーん、そうすると神谷信吾は犯人じゃないのかなぁ……。じゃあ、次は仲代哲志。仲代の右肩の捻挫について、医者に問い合わせたというけれど、その医者は仲代のかかりつけの医者でしょ。仲代とぐるだったということはないの?」
「警察を甘く見るなよ。警察病院の医者にも調べてもらったさ。その結果、仲代は確かに右肩を捻挫していることがわかった。右腕の指を動かすことはできるけれど、右手を持ち上げることはできないんだ。ましてナイフを持って振り回すことなんてできやしない。おまけに仲代は右利きだから、左手での犯行は無理だ」
「残るは松尾大輔か。現場に大量の血が流れた跡さえなければ、現場の外で犯行を行って、そのあとで死体を運び込んだという可能性を考えるところだけど……。現場の血の跡って、本当に傷口から噴き出したものだったの? 犯人が被害者の血を保存しておいて、あとから撒いたということはない?」
「ないね。あの痕跡はどう見ても傷口から噴き出したものだ」
明世はがくりと肩を落とした。
「そうすると、現場に出入りできた三人は、いずれも犯人ではないということになってしまうよね……うーん、わからないなぁ」
「そう簡単にわかってたまるか。警察が二週間以上も悩んでいる事件なんだぜ」
「あんたね、自分たち警察の無能さを棚に上げて変ないばり方しないでよ」
理恵がおっとりした口調で、「あのう、こういうことは考えられないでしょうか。仲代哲志さんと松尾大輔さんが、指紋を逆に登録していたらどうでしょうか?」
「指紋を逆に登録していた?」
明世が訝しげな顔をする。
「仲代さんが自分の指紋を松尾さんの名前で、松尾さんが自分の指紋を仲代さんの名前で登録していたということです。
もしそうだったら。仲代さんが午後八時三十四分から五十六分にかけて特別収蔵品室に出入りしたという記録は、実際には松尾さんの行動だったことになります。仲代さんは右肩を捻挫していて犯行が不可能だったけれど、松尾さんならば、犯行は可能です。二人は共犯なのではないでしょうか。仲代さんと松尾さんは昔から仲がいいということですし」
「さすが理恵さん、頭いい」
明世が歓声を上げ、「それで間違いないよ。事件が解決したんじゃない」
慎司は苦笑した。
「実は、捜査班も同じことを考えたんです。ただし、理恵さんとは違って、思いつくまで三日かかりましたけどね。
一時はこれで解決かと思いましたよ。でも、調べてみたら駄目だった」
「というと?」
「松尾大輔に頼んで、特別収蔵品室に出入りしてもらったんです。そのあろ、メーカー担当者に、当日のFシステムの入退室記録を調べてもらった。すると、松尾大輔の入退室は、確かに彼の名前で記録されていた。松尾と仲代が指紋と名前を交換していたということはなかったんです」
理恵はうふふと笑い、「また推理を間違っちゃいました」
と言った。
「いや、それでも、その推理を即座に思いつくだけでも大したものですよ。明世とはえらい違いだ」
「ちょっと、なんでそこであたしを引き合いに出すのよ!」
明世がガラステーブルを叩いたので、紅茶の入ったカップががちゃがちゃと音を立てた。
明世は慌てて、「あ、すみません」
と峰原に謝った。
マンションオーナーは何も言わずに微笑した。
理恵が尋ねた。
「被害者が殺害された理由については、何かわかりましたか?」
「室崎はどうやら、〈眠れるスフィンクス〉について何かおかしなところを見出したらしいんです。それで、同僚たちに、いろいろ聞いて回っていた。しかし、いったい何がおかしいのか、それがまったくわからない」
「たとえば、〈眠れるスフィンクス〉が偽物だったということはありませんか。実は、三人の容疑者のうちの一人が、偽造したかどこかで見つけたかはわかりませんけれど、偽物を美術館に高額で買わせ、私服を肥やしていた。室崎はそことに気づいたので、殺害されたとか」
「それはない。ほかの美術館の学芸員を呼んで調べてもらったんだけど、〈眠れるスフィンクス〉は本物で、どこにもおかしなところはないそうなんです」
慎司はそこで峰原に目を向けた。
マンションオーナーはそれまで、ソファに深々と身を沈めたまま、店子たちのやり取りを黙って聞いていたのだった。
「峰原さん、何かお考えは?」
峰原は背筋を伸ばすと、低いがよく響く声で尋ねてきた。
「あなたの上司は、犯人が二十七日午前零時ちょうどに警察に駆けてきた電話に疑問を持っているそうですね。普通に考えれば、犯人は被害者の死体を早く発見してほしかったということになる。しかし、それならばなぜ、犯行後三時間から四時間も経過した午前零時という時刻にかけてきたのか? その点を不思議に思っているそうですね」
「ええ」
「その後、謎は解けましたか?」
「いえ、ぜんぜん。犯人が現場に何らかの痕跡を残してしまっていて、それが消えるのに三時間から四時間かかったのではないか、とも考えたんですが、その痕跡というのがさっぱりわからなくて。その後、いい考えはまったく浮かんでいません」
峰原はうなずくと、彫りの深い顔に微笑みを浮かべた。
「犯人が犯行後三時間から四時間も経ってから電話をかけてきた理由がわかったような気がします」
「どんな理由なんですか」
「そうしないと、犯人が誰か、すぐにわかってしまうからですよ」
慎司、明世、理恵の三人は顔を見合わせた。
「――峰原さんは、犯人が誰かわかっているんですか?」
「ええ。そこで、後藤さんにお願いしたいことがある。行動を逐一監視してほしい人物がいるのです」
「誰ですか?」
峰原が挙げた名前は、問題の三人のうち一人の男のものだった。
5
それから一週間後の、二月二十一日土曜日、午後八時過ぎ。
峰原の書斎に、いつものメンバーが集まった。
室崎純平を殺害した犯人はすでに逮捕され、自供していた。
今日こうして集まったのは、なぜその人物が犯人だとわかったのか、事件の真相はどのようなものだったのか、詳しい説明を峰原から聞くためだった。
慎司は犯人の自供から事件のおおよそのことを知っていたが、明世と理恵は犯人が誰なのかすら聞かされていないので、好奇心ではちきれそうになっていた。
「峰原さんは、松尾大輔の行動を逐一監視するようにと言いましたね。彼を疑うきっかけは何だったんですか?」
慎司が問うと、峰原は穏やかな口調で語り始めた。
「私が気になったのは、松尾大輔の振る舞いがいささか常軌を逸しているのではないか、ということでした。規則を守らない。傍若無人な振る舞いをする。同僚たちを徹底的に馬鹿にする。館長の指示には従わない。それどころか、館長が来るときに限って仕事を休んだりもするという。彼はなぜ、そこまで傍若無人に振る舞えるのでしょうか。彼の勤務しているのは私立の美術館です。公立の美術館ではないから、公務員と違って手厚い身分保証もない。館長の一存で簡単に解雇されるのです。松尾は自分がクビになるかもしれないという不安をまったく抱かなかったのでしょうか」
「わかった!」
明世が目を輝かせた。
「松尾は仲代の秘密を握っていたんですね。だから、松尾がどれほど傍若無人に振る舞おうと、仲代は松尾をクビにできなかった」
峰原は微笑した。
「なるほど。そうも考えられますね。しかし、秘密を握っていたなら、松尾はなぜ、仲代が来るときに限って仕事を休んだのでしょうか。どれほど傍若無人に振る舞ってもいいのなら、館長の面前でこそそうするのではないでしょうか。
仲代に対してどれほど横暴なことをしても、相手が抗議一つできない様子を見る方が同僚たちを馬鹿にするよりはるかに満足できるのではないでしょうか?」
「うーん、確かにそうですよね」
「考えているうちに、私の脳裏には、非常に大胆な仮説が浮かび上がったのです」
「大胆な仮説?」
「仲代哲志と松尾大輔は、実は同一人物なのだ、ということです」
「――同一人物?」
明世と理恵がユニゾンで驚きの声を上げた。
「そうです。仲代哲志が来るときに限って松尾大輔が仕事を休んだのは、仲代と松尾が同一人物だからです。仲代であるときは、当然ながら松尾は存在できません。松尾が傍若無人に振る舞ったのは、仲代との違いを際立たせるためです。穏やかな仲代と傍若無人な松尾――二人が別人だと強調するために、両極端の演技をしていたのでしょう。仲代=松尾を示す手がかりはほかにもある。事件の翌朝、松尾は捜査班の姿を見ると近づいてきて、大槻警部に『俺に会いたがっているそうじゃないか。どうも、お待たせした』と言ったそうですね。しかし、考えてみると変なのですよ」
「どこが変なんですか」
明世が訝しげな顔をした。
「捜査班は皆私服で、階級章は着けていない。しかも、大槻警部が四十代末で小柄で華奢なのに対し、部下の森川部長刑事は五十代末で長身で眼光鋭く、いかにも刑事というタイプだという。初対面のはずの松尾は、初めから大槻警部がリーダーだとわかっていた。なぜなのか。それは、仲代哲志としてすでに警部に会っていたからだとしか考えられません」
「ああ……」
「事件の翌朝、美術館に出勤してきた松尾は、何度も欠伸していたそうですね。それは、本人が言うように、『昨晩は彼女が寝かせてくれ』なかったからではなく、未明まで仲代として警察の事情聴衆に付き合ったため、眠くて仕方なかったからです。松尾は左手に腕時計をしていたそうですから、右利きです。ところが、事件の翌朝、特別収蔵品室で、彼は左手で青銅鏡を取ったそうですね。右利きなのになぜ左手で? それは松尾が、仲代であり、右肩を捻挫していたからです」
「でも、仲代と松尾は見た目がまったく違うそうじゃないですか。仲代は頬が膨らんでいて、頭が奇麗に禿げ、口ひげを生やしている。一方、松尾は肩の辺りまでの長髪だって」
「頬を膨らませるには、口に綿を含めばいい。また、松尾はもともと禿頭なのでしょう。館長として振る舞うときはそのままの頭で、松尾として振る舞うときは長髪のかつらを着けているに違いない。口ひげは付けひげです。松尾は四十前後ですが、皺や染みを描き込むことで、五十過ぎに見せかけることもできる。仲代が事故で声帯を除去し、口がきけないというのは嘘です。容姿は変装である程度変えることができますが、声だけはそうはいかない。プロの声優でもない限り、声を使い分けることはできません。そこで、仲代=松尾を気づかれないために、仲代は口がきけない、ということにしたのです。仲代は被害者の室崎純平のことを、『真面目で礼儀正しくて、こつこつと仕事をタイプでした』と評し、松尾は『ろくな人間じゃなかったな。こすっからくて、表じゃもっともらしい顔をしながら、陰でこそこそ企むタイプだ』と評したという。これも意図的に正反対の評をしてみせることにより、評する人間の個性の違いを際立たせようという考えによるものでした」
明世と理恵はなおも茫然としている。
「信じられないかもしれないけれど、本当なんだ」
と慎司は口を挟んだ。
「峰原さんに頼まれたとおり、俺たち捜査班は松尾大輔を監視した。四日目のことだった。松尾が中野のマンションに戻って一時間後、今度はそのマンションから仲代が出てきたんだ。俺が仲代に、『松尾さん』と声をかけると、彼は一瞬否定しようとしたけれど、それから観念したようにうなずいた」
「仲代さんと松尾さんが同一人物だとすると……どちらが本来の姿なんですか?」
理恵が目をぱちぱちさせて尋ねた。
「仲代は美術館の運営を職員に任せ、月に二、三度しか姿を見せないという。そこから考えて、松尾大輔の方が本来の姿だと思われる。彼は一人二役により、仲代哲志という人物を作り上げたのです。松尾は普段は本来の姿で美術館に出勤し、月に二、三度だけ、仲代哲志に変装して館長として姿を現した。もしろん、このときには松尾は欠勤しなければなりません」
「じゃあ、仲代哲志がFシステムのセンサーに触れるときは……」
「システムは彼を松尾大輔として認識し、ドアを開けていたのですよ」
「そうすると……仲代さんの指紋だとこれまで思われていたのは、別人のものだったんですね」
「そうです。そして、それがわかれば、三人の容疑者の誰にも犯行が不可能だったという謎も簡単に解ける。三人の容疑者――松尾大輔、仲代哲志、神谷信吾のうち、松尾は死亡時刻のあとで現場に出入りしたので、犯行は無理だった。
神谷は先端恐怖症なので、犯行は無理。残る仲代は、右肩を捻挫していてこれまた犯行は無理だとされていた。しかし今や、仲代哲志は松尾大輔であることがわかっています。右肩を捻挫しているのは松尾であり、仲代哲志の指紋の持ち主とは別人なのです。仲代哲志を犯人候補から除外するときに用いられた、右肩の捻挫という条件は、仲代哲志の指紋の持ち主には当てはまりません。つまり、仲代哲志の指紋の持ち主が犯人なのです」
「では、仲代哲志の指紋の持ち主はいったい誰だったんですか?」
「ここで思い出すのが、松尾大輔と仲代哲志の両方に同時に会ったという人物がいたことです」
「誰ですか?」
「香川伸子です。彼女はこう言ったそうですね――『松尾さんは昨夜九時四十分頃に、館長室に顔を出されて、館長とわたしに挨拶をして帰られました』と。彼女は明らかに嘘をついている。要するに、仲代=松尾の秘密に加担しているのです。とすれば、彼女こそ、仲代哲志の指紋の提供者だと考えられはしないでしょうか? 指紋の提供者――すなわち犯人です」
慎司は峰原の頭脳に改めて感嘆した。
捜査反すら見逃していたささいな言葉から、峰原は犯人を特定してみせたのだ。
明世が尋ねた。
「室崎純平は同僚たちに〈眠れるスフィンクス〉を渡して、おかしなところがないか見てくれないかと頼みましたよね。あれはどういうことだったんですか?」
「室崎は〈眠れるスフィンクス〉を同僚たちに渡すことで、指紋を採集していたのですよ」
「指紋を採取?」
「室崎は何かのきっかけで、仲代哲志と松尾大輔が同一人物ではないかと疑うようになったのでしょう。二人の人間が同一人物であることを確認するもっとも簡単な方法は、指紋を照合することです。〈眠れるスフィンクス〉はブロンズ製で、表面が滑らかだそうですから、指紋が付きやすい。室崎はこの像を手渡すことで、相手の指紋を採取していたのです。仲代と松尾の指紋を採取すれば目的は達せられますが、二人――いや、本当は一人ですが――だけに〈眠れるスフィンクス〉を渡したのでは怪しまれますから、カモフラージュのために、ほかの職員たちにも渡した。室崎はこうして仲代=松尾を確認しました。室崎が次に抱く疑問は、仲代の指紋を提供しているのは誰なのか、ということです。そのとき彼の脳裏に、香川伸子のことが浮かんだ。香川伸子は、館長と仕事をしているときに松尾がやってきたというような言葉を、以前にも口にしたことがあるのでしょう。室崎はその言葉を思い出し、伸子が嘘をついていたことを知った。そこから、彼女が仲代=松尾の秘密に加担していること、仲代哲志の指紋を提供したのは彼女であろうことを見抜いた。伸子にしてみれば、仲代と松尾が別人であることを強調しようとして言ったのでしょうが、それが逆に自分の首を絞めることになったのです。一月二十六日の午後八時台、室崎は特別収蔵品室の前に香川伸子を呼び出し、Fシステムのセンサーに彼女の指を無理やり押し当ててドアを開けさせた。仲代哲志の指紋を提供しているのが伸子であることを確認した室崎は、特別収蔵品室の中で彼女を脅迫した。伸子は衝動的に室崎を収蔵品の一つである十五世紀トルコのナイフで刺殺してしまう。それから我に返り、ナイフを投げ捨てると、茫然として特別収蔵品室を出た。Fシステムには二十六日の午後八時三十四分から五十六分にかけて、仲代哲志が特別収蔵品室に出入りしたと記録されているが、実際には香川伸子が出入りしたのです」
慎司は補足した。
「香川伸子の自供によれば、室崎は彼女に交際を迫ったんだそうです。伸子が松尾をかばうために、自らを犠牲にするだろうと室崎は踏んできたんでしょう。松尾と伸子、どちらが脅迫しやすいかといえば、伸子の方ですからね」
「なるほど。伸子は特別収蔵品室を出ると、松尾大輔に犯行を告白したのでしょう。松尾は彼女を守ることを決意した。
松尾はまず、現場の様子を確認することにし、特別収蔵品室に入った。これが、Fシステムに記録されている松尾の午後九時十一分から十八分にかけての入退室です。このときに、伸子が犯人だとわかってしまうような手がかりを現場に残していないかどうか、確かめたのでしょう。ナイフの指紋を消したのも彼かもしれない。また、伸子が八時三十四分から五十六分にかけて特別収蔵品室に出入りしたのは、Fシステムの記録上は仲代哲志の行動となっている。したがって、仲代哲志が美術館に姿を現さなければならない。仲代の姿が美術館にないのに、記録だけ残っていたら、不審に思われてしまいますから。そこで松尾は館長室に入ると、仲代哲志に変装した。――そういえば、館長室から変装道具が見つからなかったそうですね?」
慎司はうなずいて、「館長の服や、口に入れて頬を膨らませるための綿、付けひげ、メーキャップ用の化粧品などが発見されました。いざというときに仲代哲志になれるよう、常備していたみたいです」
「仲代哲志となった松尾は、神谷信吾の前に姿を現し、午後七時過ぎから美術館に来て館長室で香川君と一緒に仕事をしていたんだよ、とでも告げる。八時三十四分から五十六分にかけて特別収蔵品室に出入りしたと付け加えれば、完璧です。
神谷は館長のことを尊敬しているようですから、仲代哲志の告げることなら何でも信じたでしょう。一方、松尾は帰宅したということにしなければならない。どこで、九時四十分に館長室に顔を出したあとで帰った。香川伸子は捜査陣の前で、松尾大輔に携帯から電話をかけたが、あれは迫真の演技でした。もちろん電話はどこにもつながっておらず、すべては彼女の一人芝居だったのです。捜査陣は松尾大輔から事情徴収したがっているが、松尾は現在、仲代哲志なのだから、すぐに姿を現すことはできない。そこで伸子は、電話をかけるふりをし、いもしない恋人のところに松尾がいるという演技をして、朝になったら現場に来るということにした。そのときには仲代哲志は警察の捜査から解放され、帰宅を許されているでしょうから、松尾として登場することが可能です。敦夫は警察が自分を事情徴収したがるだろうことを予測して、携帯電話による演技をするよう伸子に教えて置いたのでしょう」
明世が感慨深げな口調で言った。
「松尾は伸子を徹底的に守ろうとしたんですね。自分が殺人の事後従犯になる危険まで冒して、そこまでしたということは……ひょっとして、松尾と伸子は恋人同士だったとか?」
「そのとおりだ」
と慎司は答えた。
「松尾と伸子は高校時代、恋人同士だった。ささいなことで別れ、別々の大学に進み、それぞれ結婚して何年もの歳月が流れた。それが五年前、久しぶりに開かれた高校の同窓会で再会したそうなんだ。その頃には、松尾は妻を事故で亡くし、伸子は夫の浮気が原因で離婚していた。二人はよりを戻し、かつてのように付き合うようになったという。お互いに深く愛し合っているみたいだ。今も、少しでも相手の罪を軽くしようとお互いかばい合う供述をしているよ」
「松尾大輔はそもそもなぜ、仲代哲志との一人二役をするようになったの?」
「松尾は十年前にアメリカに旅行したときに仲代とたまたま知り合って、意気投合した。六年前、仲代の妻が癌で死亡すると、二人は仲代の妻の遺産で日本に美術館を建てる夢を抱いた。その実現のため、五年前に仲代は日本に帰国した。ところが、その直後、仲代は急死してしまった。もともと心臓が悪くて、心不全を起こしたらしい。
まずいことに、仲代は遺言状を残していなかった。このままでは、仲代の財産は国に没収されてしまう。そこで松尾は、仲代との一人二役を始めることにした。大胆極まりない計画だけれど、仲代は二十数年もアメリカで暮らしていて、日本での知り合いは松尾だけだったから、何とかうまくいった。仲代の遺体は、深夜、車に積んで運び、山中に埋めたそうだ。美術館が完成し、Fシステムに仲代哲志の指紋が必要になったとき、伸子は自分の指紋を提供した。
仲代哲志という存在は、松尾が変装した肉体と、伸子の指紋から成り立っていた。二人が共同で作り上げた存在だったんだ」
「二十七日の午前零時ちょうどに警視庁にかかってきた電話は、誰がかけたものだったの?」
「松尾だそうだ。電話をかけた目的だけど、松尾は警察に、死亡推定時刻をできるだけ正確に割り出してほしかったんだ。もし死体発見が遅れたら、割り出される死亡推定時刻はそれだけ不正確になる。松尾が現場に出入りした時刻にまで死亡推定時刻の範囲が広がってしまったら、松尾は自分を犯人候補から除外する条件を失ってしまう。そうならないためには、死亡推定時刻をできるだけ正確に割り出してもらう必要があった」
「でも、それならなぜ、犯行後三時間から四時間も経過した午前零時という時刻に電話をかけたの? もっと早くかけた方がよかったのに」
明世の疑問に理恵もうなずいて、「そうだわ。峰原さんは、そうしないと、犯人が誰か、すぐにわかってしまうから、とおっしゃいましたけれど、あれはどういうことなんでしょう?」
マンションオーナーは紅茶の香りを楽しんでいたが、カップを置くと、微笑しながら答えた。
「犯人はできるだけ早く電話をかける必要があったのに、なぜ犯行後三時間から四時間も待たなければならなかったのか? それは、二十七日になってから警察に捜査をしてほしかったからです」
「――二十七日になってから警察に捜査をしてほしかったの?」
「いいですか。仲代哲志がFシステムのセンサーに触れると、それは松尾の行動として記録されます。警察が到着したら、仲代哲志は館長として現場に案内しなければならず、当然センサーに指を触れる必要がある。もしそれが事件当日の二十六日のうちに行われたらどうでしょうか? 警察は二十六日における特別収蔵品室の入退室の記録を調べます。そして、仲代哲志が警察を現場に案内してセンサーに触れた時刻に、それが松尾の行動として記録されていることを知る。
仲代=松尾がばれてしまうのです。それを避けるためには、仲代哲志が警察を現場に案内してセンサーに触れる時刻は、二十七日のものにしなければならない。そうすれば、二十六日の記録だけに注目する警察に気づかれることはない。だから、犯人は犯行後三時間から四時間も待ち、日付が変わってから電話をしたのです」
Yの誘拐
第一部 鳴瀬正雄の手記
二〇〇四年三月病室にて
1
私のベッドのサイドテーブルには、一枚の写真が写真立てに入れて飾られている。
あの事件の直前に香苗《かなえ》さんが撮ってくれたものだ。
春の日の午後。
鴨川の河川敷に三人の人間が立っている。
まだ若い男女と幼い少年だ。
背後には緑なす北山連邦と、|糺ノ森《ただすのもり》、賀茂大橋、そして川の土手で淡く輝く桜並木。
暖かな日差しが降り注ぐ中、三人はこちらに向けて笑いかけている。
どこにでもいるような平凡な家族の光景。
十二年前の私と早紀子《さきこ》と悦夫《えつお》だ。
もしもあのとき予言者が私に向かって、お前は遠からず愛する者を奪われることになると告げたとしても、私はきっと笑い飛ばしていたことだろう。
不幸の影など、私の周りには一片たりとてなかったのだから。
何と無知で傲慢だったことか。
そのときの私は知らなかったのだ。
春の日が翳るように、人の行く手にも運命が不意に暗い影を落とすということを。
この手記を読んでくださっているあなたは、今から十二年前のことをどれほど覚えておられるだろうか。
一九九二年。
バルセロナオリンピックが開かれた年だった。
水泳やマラソンでの日本人選手の活躍に、日本中が沸き返った。
あの年の四月、私たちの息子は誘拐されたのだ。
四月十八日土曜日。
よく晴れた日だった。
空には雲一つなく、至るところに光が満ちていた。
日差しは柔らかく、さわやかなそよ風が吹き、庭に咲いたツツジの花を穏やかに揺らしていた。
悦夫は小学二年生になったばかりだった。
近所の公立ではなく少し離れた私立に通わせたので、独りでバス通学をしていた。
七歳の少年が一人で通えるやや不安だったのだが、悦夫は毎朝冒険でも楽しむように元気に出かけていた。
あの朝、悦夫はいつものように八時ちょうどに家を出た。
今で新聞を読む私に「行ってきます」と告げ、小さな背中には不釣り合いなほど大きなランドセルを背負って。
「おとうさん、今日は絶対に自転車の乗り方教えてね」
悦夫は出がけにそう言った。
その日、私は悦夫が帰ったら、車に自転車を積んで鴨川の河川敷に出かけ、補助輪なしで自転車に乗る練習をさせる約束をしていたのだ。
「ああ、絶対だ」と私は答えた。
それまで何度も約束をしていたのだが、仕事が忙しく、いつも悦夫を失望させていた。
「絶対に絶対だよ」
「絶対に絶対だ」
「やった!」
悦夫はにこにこしながら修学院道のバス停へ駆け出していった。
ランドセルがかたかたと軽い音を立てていたのを、今でもはっきりと覚えている。
それが、生きている息子を見た最後となった。
あの日以後、私はなぜ悦夫の姿をもっとよく見ておかなかったのだろうと何万回となく後悔した。
それが見納めだとわかっていれば、息子の姿を、その声を、記憶にしっかりと焼き付けていただろう。
いや、息子を一歩も外へ出しはしなかっただろう。
だが、私は運命に欺かれ、悦夫を送り出してしまったのだ。
そして――午前十時、悪夢が始まった。
悦夫を送り出してから、私は書斎にこもり、のんびりと本を読んでいた。
不意に居間で電話が鳴り出すのが聞こえた。
早紀子が受話器を取って何か受け答えしていたが、急に驚いた声を出した。
妻は青ざめた顔で書斎に入ってきた。
「――悦夫がまだ学校に着いていないんですって」
「何だって?」
「担任の檜山《ひやま》先生から電話。悦夫が学校にまだ来ないんですって」
私は本を投げ出すと、居間に駆け込み受話器を取り上げた。
「お電話代わりました。悦夫の父です。どういうことなんでしょう?」
「悦夫君は急病で休まれているわけではないのですね。今朝、いつもどおりおうちを出たのですね」
父兄参観のとき一度会ったことのある四十代の女性教諭の声が聞こえてきた。
「ええ、いつもどおりに出ました」
「ホームルームが終わって一時間目になっても悦夫君が来ないので、急病で休まれているのかと思ったんです。それでお電話を差し上げたんですけれど……」
「もしかしたら、迷子になったのかもしれません」
湧き上がる不安を抑えながら言った。
「悦夫の通学路を来るまで捜してみます」
「きっと何でもないでしょう。悦夫君は道草を食っているだけですわ」
檜山先生も必死に不安を抑えようとしているようだった。
「悦夫君が来たら、お電話します」
「こちらも、悦夫が見つかったらすぐにお電話します」
受話器を置いた。
「車で捜してみる」
傍らで不安そうに立っていた早紀子に言った。
「わたしも行くわ」
車のキーを手にして居間を出ようとしたときだった。
突然電話が鳴り始めた。
壁の時計を見ると、午前十時ちょうどだった。
担任からだろうか。
悦夫がようやく姿を見せたという知らせだろうか。
だが、その期待はすぐに消えた。
受話器を取っても、相手は何も喋りはしなかった。
「成瀬《なるせ》です。どちら様ですか?」
相手はしばらく黙っていた。ただ、気配だけが伝わってくる。
もう一度言った。
「成瀬です。どちら様ですか?」
「成瀬|正雄《まさお》だな? 〈メディア・ナウ〉社長の」
ようやく声がした。
聞き覚えのない男の声だった。
「そうですが」
「登校途中のあんたの息子を誘拐した。無事帰してほしかったら、金を払ってもらいたい」
「――誰だか知らないが、悪戯はやめてもらいたいな」
男は含み笑いをした。
「悪戯なんかじゃない。郵便受けを覗いて見ろ。息子の名札を入れておいた」
「何だと!?」
私は受話器を放り出すと、呆気に取られている早紀子を残したまま居間を飛び出した。
門の郵便受けに駆け寄り、震える手で蓋を開ける。
間違いなかった。
『2ねん3くみ なるせ えつお』――早紀子が書いてやったきれいな文字。
悦夫の名札だ。
再び居間に戻り、受話器を取り上げた。
「どうだ、わかったか」
受話器に男の声が響いた。
腹の底から恐怖と怒りが滲み出てきた。
「――息子におかしなことはしていないだろうな」
「こっちの要求を呑んでくれれば、何もするつもりはない」
「悦夫の声を聞かせてくれ」
「駄目だ」
男は冷たく言った。
「では、金の話に入ろう。明日の午後四時までに、使い古しの一万円札で一億円用意してもらいたい」
「明日の午後四時までに一億円だと? そんな、無理だ。いったいどうやったら――」
男はせせら笑った。
「うるさい。あんたはまがりなりにも社長だろうが。それくらい何とかしろ」
「しかし――」
「子供の命を値切るつもりか? とにかく用意するんだ」
「――わかった。何とかする」
「用意した金はボストンバッグに詰めておけ。二ついるはずだ。そのあとのことについてはまた明日電話する。
言っておくが、警察には絶対知らせるなよ」
「ああ」
「もしあなたが金を払わなかったり、警察に知らせたりしたら、息子がどうなるか教えてやろう。こっちは息子をある場所に監禁している。そこには時限爆弾が仕掛けられていて、明日の午後七時に爆発することになっている。
あんたがこっちの言うとおりにすれば、時限爆弾は解除される。だが、もしあんたが約束を破ったら――どうなるかはわかるな。息子は木っ端微塵になるのさ」
受話器を握り締めた。
自分でも顔が青ざめるのがわかった。
「息子が監禁されている場所を捜そうとしても無駄だ。見つかりっこないからな。もう一度繰り返す。明日の午後四時までに使い古しの紙幣で一億円。金はボストンバッグに二つに詰めておくこと。警察には知らせない。わかったか?」
「――わかった」
「また明日連絡する」
電話は切れた。
茫然として受話器を握り締めていた。
居間の電話が幻聴でないとはとうてい信じられなかった。
だが、相手の声はまだ耳に谺している。
まぎれもない現実だった。
ふと気がついて、傍らの早紀子に目をやった。
電話の内容を説明するまでもなかった。
早紀子の白い肌からはすっかり血の気が引き、大きく目を見開いて私をまじまじと見上げている。
妻も電話の内容ははっきりと聞こえていたのだった。
「――悦夫は誘拐されたのね? 誘拐されてしまったのね」
「あ、ああ」
私は落ち着かせようと妻の手を握り締めた。
いや、落ち着きを欲しているのは私の方だった。
「心配することはない、要求通り金を払えば、悦夫は無事に戻ってくる」
犯人とのやり取りを詳しく話す。
「――明日の午後四時までに一億円を用意できるかしら?」
「この家を担保にすれば、ぎりぎり一億円ぐらいは貸してくれるはずだ」
一億円を払ったあとの経済状態については、あまり考えたくなかった。
だが、悦夫を取り戻すためならば、たとえこの二倍の金額でも支払うつもりだった。
土曜日なので〈メディア・ナウ〉の取引先である明応銀行は休みだった。
そこで、京都市店の支店長の自宅に電話をかけた。
支店長が出ると、この家を担保にして、明日の午後四時までに一億円を用立ててくるように頼んだ。
担保に必要な土地や家屋の権利証はあとで必ず持っていくから、まず一億円を融資してほしい、と言う。
支店長はあまりに急なのを不審に思ったようで、あれこれ使い道を聞いてきた。
やむなく、息子が誘拐されたことを告げた。
支店長は絶句し、必ず用意しますと答えた。
とりあえずこれで金は確保できた。
しかし、問題はもう一つあった。
警察に通報するか否かという問題である。
犯人の要求に従うならば、警察に知らせるなどもってのほかだ。
しかし私は、何の後ろ盾もなしに犯人と交渉することに不安を感じていた。
何か取り返しのつかない失敗をして、悦夫を取り戻せなくなるのではないかと恐れていた。
どうすればいいのだ、と自問した。
いったいどうすればいいのだ? 〈メディア・ナウ〉を大学時代から親友、柏木武史《かしわぎ たけし》と興して以来五年、判断に迷う選択に直面したことは何度もあった。
間違った決断をすれば、事業に失敗するほかないという状況に追い込まれたこともある。
しかし、これほど苦しい選択を迫られたことはかつてなかった。
賭けられているのは社運ではなく、それより遙かに大切な悦夫の命なのだ。
どれほど考えていたかはわからない。
やがて、私は絞り出すように言った。
「――警察に通報しよう」
早紀子は驚いたように私を見た。
「でも、犯人は警察に知らせたら悦夫を……」
明らかに妻は警察に通報することなど考えてもいなかったのだ。
私は先ほどの考えを話した。
「それに、警察は自分たちが介入していると悟られるようなへまはしないはずだ」
「万が一警察が失敗したら?」
決断が揺らぎそうになった。
半ば自分に言い聞かせるように答えた。
「――警察を信じるしかない」
早紀子は長いあいだ私を見上げていた。
いつも私を信頼してくれる美しい瞳が、不安の色を湛えていた。
やがて、妻は小さくうなずいた。
「――そうね。あなたの言うとおりにする」
本当にこれで正しかったのか? 心の中で問いかける声が聞こえた。
だが、私はその声を押し殺すと、再び、受話器を手に取り、一一〇番に通報した。
応答した警官の声が、ただちにそちらに刑事を差し向けると告げた。
のちに私は、このときの決断を心から悔やむことになる。
2
通報して二十分後、四人の刑事が裏口からやってきた。
先頭に立っていた四十代半ばの男が警察手帳をみせた。
「京都府警捜査一課の岩崎《いわさき》と言います。私が被害者対策班の指揮を執ります」
中肉中背の、ごく平凡な容貌の男だった。
群衆の中にまぎれ込めばすぐにわからなくなるだろう。
無表情な顔の中で目だけが鋭く光っていた。
手帳のあとで差し出した名刺を見ると、階級は警部補だった。
「ごくろうさまです。家に入るのを見られはしなかったでしょうね?」
「大丈夫です。付近に不審な車や人物が見当たらないのを確認してあります」
刑事たちは脱いだ靴を手に持って上がり込んだ。
居間に通すと、テーブルの前に座っていた早紀子がハッと顔を上げた。
岩崎警部補がいたわるように声をかけた。
「お子さんのお母様ですか」
「――ええ」
「お子さんのことはご心配なく。われわれが必ず助け出します。府警ではすでに身代金目的誘拐事件の捜査本部を設置しています。また、記者クラブとのあいだで報道協定を締結しましたので、お子さんが無事救出されるまで、事件の取材や報道が行われることはいっさいありません」
「――どうか、よろしくお願いします」
「まず、窓のカーテンを閉めていただけますか。警察の介入を犯人に悟られる危険性を少しでも減らしたいので」
私と早紀子は家のカーテンをすべて閉ざした。
続いて岩崎が居間のお電話を指さした。
「犯人から連絡があったのはこの電話ですか?」
「はい」
警部補は童顔の若い刑事に目を向けた。
「水島《みずしま》、用意してくれ」
水島と呼ばれた刑事は、手に提げていた大型の鞄から機材をいくつも取り出すと、素早い手つきで電話と接続し始めた。
続いて水島はNTTに誘拐事件の発生を告げ、捜査への協力を要請した。
それが終わると、岩崎は残り二名の刑事を紹介した。
がっしりと体格で、柔道の猛者を思わせる三十代男が大庭《おおば》刑事。
小柄でぱっとしない風采だが、老練そうな雰囲気の五十代の男が会田《あいだ》部長刑事だった。
岩崎警部補は手帳を構えると、私と早紀子を等分に見た。
「では、事件の詳しい経緯を話していただけますか」
私は十時にかかってきた電話の内容を話した。
岩崎はあいづちを打ちながらメモを取っていく。
時限爆弾と聞いて刑事たちのあいだに緊張が走った。
「一億円払うおつもりですか?」
「ええ。この家を担保にします。銀行にはすでに連絡を取って、明日の午後四時までに必ず持ってくるように頼んであります」
「ボストンバッグの用意は」
「まだです。これから買いに行きます」
「お子さんの監禁場所について、犯人は何かほのめかしませんでしたか?」
「いえ、何も」
「犯人の声に聞き覚えは?」
「初めて聞く声でした」
「声に訛りは?」
「関西の訛りとしかわかりません。私は関東出身なもので、あまり区別がつかないんです」
「犯人の声の背後で何か物音がしませんでしたか。たとえば、自動車の走る音や駅のアナウンスなどです。犯人が電話をかけた場所を特定する手がかりになるのですが」
私は考え込み、数十分前のやり取りを頭の中で再現しようとした。
だが、男の前の背後で聞こえていた音はまったく思い出せない。唇をかみしめ黙って首を振った。
「悦夫君の写真はありませんか」
早紀子がアルバムを取り出し、数枚剥がして岩崎に手渡した。
梅小路蒸気機関車館の機関車の前で、お気に入りのバスケットを手に提げて立つ悦夫の写真だ。
岩崎はそれをファックスで捜査本部に送信した。
続いて悦夫について質問し始めた。
これらの質問には私に代わって早紀子が答えた。
――身長一メートル十センチ。
体重二十五キロ。
今日の服装は黄色のポロシャツにブルージーンズの半ズボン。
私立東邦小学校の二年生。
登下校はいつも独り。
今朝自宅を出たのは八時ちょうど。
修学院道のバス停で市バスに乗り、五条坂の小学校に着くのに二十分ほどかかる……。
それだけ訊くと、岩崎は無線機を取り出し、捜査本部に悦夫についての情報を伝えた。
巨大な捜査機関が、悦夫の姿を求めて京都中を動き出したはずだった。
「ところで、成瀬さんのお仕事は?」
岩崎が質問を答えた。
「〈メディア・ナウ〉という会社を経営しています」
「あの〈メディア・ナウ〉ですか!」
水島刑事が驚きの声を上げ、ほかの三人の刑事が訝しげにそちらを見やった。
若い水島はコンピュータに詳しいようだったが、残り三人はそうではないようだ。
先輩刑事たちの注目を浴びた水島は赤面しながら説明した。
「〈メディア・ナウ〉というのは、パソコン業界では有名なソフトハウスなんです」
「ソフトハウス?」
大庭刑事が訝しげな顔をした。
「柔らかい家という意味か? 意味がわからんぞ」
「ソフトというのはですね、コンピュータを動かすプログラムのことです。それを制作する会社をソフトハウスというんです」
大学時代からの親友、柏木武史と二人で、その五年前に始めた会社だった。
私たちは大学の情報工学科を卒業したあと、大阪に本社のある植松電器に就職したが、そこを六年前で辞めて〈メディア・ナウ〉を設立したのだ。
会社はパソコンの普及とともに順調に発展し、当時は年商八億、社員三十人に達していた。
いわゆるベンチャー企業の旗手として、経済誌で何度か特殊されたこともある。
「〈メディア・ナウ〉の社長にお会いできるなんて光栄です。確か、パソコン通信ソフトも手がかけておこられましたよね。すごいなあ」
「お前、ここにいるのは捜査のためだぞ。忘れるな」
大庭に注意され、水島は頭を掻いた。
「コンピュータですか。どうもそうした方面には疎いものですから……」
と岩崎が苦笑した。
「失礼ですが、お仕事絡みで恨まれているということはありませんか。時限爆弾を使うという手口から見ても、この仕事には怨恨が絡んでいるように思えるのですが」
「人の恨みを買った覚えなどありません。なぜうちが狙われなければならないのか、さっぱりわからないんです」
「トラブルを起こして辞めた社員などは?」
記憶を探った末、首を振った。
「これまで嫌がらせの手紙や電話が来たことは?」
「何度かあります。しかし、ある程度世間に名を知られた会社ならば、それは付き物ではないでしょうか。それに、そうした嫌がらせをする人間は案外臆病で、実行には移さないと思いますが」
「念のために調べておきましょう。手紙や電話の内容などは保管してありますか?」
「会社の総務部に保管させています」
「あとで目を通させていただきます」
岩崎は早紀子に目を向けた。
「奥様はいかがです? どなたかとトラブルを起こされた覚えは?」
「いえ、ありません」
「失礼ですが、隣近所ともめているとか、お子さんのクラスメートの父兄同士の争いのようなものは?」
早紀子は困惑したように首を振った。
そのときだった。
不意に居間の電話が鳴り始めた。
一瞬、息が詰まりそうになった。犯人からか? 四人の刑事がすばやく各自の持ち場についた。
傍受用レシーバーを着けた岩崎警部補が小声で言った。
「通話はなるべく引き延ばしてください。逆探知にはある程度の時間が必要ですから」
うなずくと、深呼吸をして、受話器を取った。
「はい、成瀬です」
「檜山です。悦夫君はまだ来ないんですけれど、そちらは?」
はっとした。
誘拐の件を学校に知らせるのをすっかり忘れていた。
送話口を手でふさぐと、岩崎に囁《ささや》いた。
「息子の担任教師からです。誘拐の件を知らせていいでしょうか?」
「知らせてください。ただし、クラスメートには悦夫君は風邪で休みだと伝えるように。それから校長に、府警の捜査本部に連絡するように言って下さい。学校としての対応を捜査本部の方から指示します」
そのとおりに檜山先生に伝えた。
誘拐と聞いて彼女は息を呑んだ。
「――わかりました。学校の方でもきちんと対応しておきますから、どうぞご心配なく。悦夫君は必ず無事に戻ってきますわ。困ったことがありましたから、いつでもご連絡ください。わたしたちも陰ながら応援させていただきます。奥様にも、わたしたちが応援しているとお伝えください」
私は礼を言って電話を切った。
そのあと、近所のスポーツ用品店にボストンバッグを買いに出かけた。
空は青く晴れ、街には昼の陽光がのどかに降り注いでいた。
それが信じられぬことのように思われた。
そのあいだにも岩崎警部補は無線機で捜査本部と連絡を取っていた。
悦夫の通学ルート沿いの聞き込みがすでに開始されていた。
悦夫は八時ちょうどにこの家を出て、修学院道のバス停に駆けていった。
だが、バスの運転手に問い合わせたところ、悦夫はいつも乗る八時七分のバスに乗らなかったことがわかった。
悦夫は八時ちょうどから七分のあいだに誘拐されたのだ。
しかし、この七分の悦夫は誰にも目撃されていなかったし、犯人らしき不審な人物も目撃されていなかった。
この七分間、まるで異空間に呑み込まれたように、私の家の周辺では人通りが絶えていたのである。
「悦夫が監禁されている場所を突き止めることはできませんか?」
岩崎は残念そうに首を振った。
「――現時点では無理だと思われます。悦夫君が誘拐されたのは、八時からの七分間。一方、犯人から電話がかかってきたのは十時です。つまり、犯人は悦夫君を監禁現場に連れていくのに二時間の余裕があった。犯人はおそらく車を使ったはずです。車で二時間も走れば、百キロは行くことができる。半径百キロの地域を捜査するというのは、時間の点からも人員の点からも、現時点ではとうてい不可能です。そもそも、犯人が電話をかけてきた時点で、悦夫君が監禁されていたとは限らない。もしかしたら、電話の時点ではまだ車に閉じこめられており、そのあとで監禁現場にが運ばれたのかもしれない。その場合、監禁現場は更に遠くにある可能性も出てきます」
「時限爆弾が仕掛けられているということは、ある程度人里離れた場所と考えていいのではないですか?」
「ええ。しかし、地域が絞り込まれていないのだから、場所を特定しようがありません。それに、時限爆弾というのが嘘である可能すら考えられる。監禁現場はどこかのアパートの一室であってもおかしくない」
警察が自らの限界を認めていることが気に入らなかった。
私は苛立ちのあまり声を荒げた。
「――あなたは否定的なことばかり言うが、何とかできないのか!」
刑事たちと妻がこちらを注視した。
岩崎は目に憐憫の色を浮かべると、諭すように言った。
「申し訳ないが、今は犯人が次の行動を起こすのを持つしかないのです」
「しかし、息子が誘拐されたというのにこうしてじっとしているなんて……」
妻が私の腕にそっと触れた。
心配そうな顔をしていた。
私は息を吐くと、「大丈夫だ」
と微笑んでみせた。
落ち着け、と自分に言い聞かせた。
警察の言うことは全面的に正しい。
現時点では悦夫の監禁現場を捜し出すのは不可能に近いし、できるのはただ犯人の出方を待つことだけだ。
刑事たちも私と妻も黙り込み、今のテーブルを囲んで座り続けた。
ときおり岩崎が捜査本部と無線機で交わすやり取りが、沈黙を絞るだけだった。
閉ざされたカーテンの隙間からわずかに流し込む日差しは昼のものから午後のものへと移りゆき、黄昏の赤い光となり、やがて外は闇一色に塗り潰された。
午後七時を過ぎたとき、早紀子がキッチンに立ち、六人分の夕食を作った。
刑事たちは礼を言って口にしたが、私も早紀子もほどんど食欲が湧かず、わずかに箸をつけただけだった。
「悦夫はもう寝たかしら?」
十時になったとき、早紀子が壁の時計をちらりと見上げて呟いた。
いつもなら悦夫が寝る時間だった。
悦夫が今いるところはどこなのだろう、と私は思った。
腹を空かせてはいないだろうか。
ちゃんと眠らせてもらえるのだろうか――。
午前零時前になって、岩崎警部が私と早紀子に寝ることを勧めた。
「明日は身代金の受け渡しが行われます。とうてい眠れないかもしれませんが、明日に備えて少しでもお休みになった方がいい」
私と妻は二階の寝室に上がった。
寝室には居間の電話の子機があるので、深夜に不意に犯人が電話をかけてきても対応できるはずだった。
ベッドに横たわったが、睡魔は訪れなかった。
肉体はくたくたに疲れているのに、意識は病的に冴えたままだった。
隣のベッドで妻が嗚咽した。
朝からずっと張り詰めていた緊張の糸がついに切れたのだった。
「大丈夫だ、悦夫は必ず無事に帰ってくる」
私は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
3
目が覚めると、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
悦夫を連れて散歩に行こう。
天気もいいし。
ぼんやりとそう思った。
前日の記憶が一気に蘇ったのはそのときだった。
不意に奈落の底に突き落とされたような気がした。
悦夫が散歩に連れていくことはできない。
悦夫は昨日、誘拐されたのだから。
隣のベッドを見ると、早紀子の姿はすでになかった。
一階に下りると、刑事たちは四人ともすでに今の電話の前で陣取っていた。
キッチンで早紀子が朝食を作っていた。
早紀子の顔色が悪いのがきにかかった。
妻はもともとからだが丈夫な方ではないのだ。
前日は気丈に持ちこたえていたが、一夜明けて急にショックが襲ってきたのかもしれない。
大丈夫か、と訊くと、早紀子は弱々しい笑みを浮かべて、ええ、と答えた。
だが、無理をしているのは明らかだった。
ひたすら待ち時間が続いた。
一億円は本当に午後四時まで銀行から届けられるのか。
犯人は金を受け取ったら、ただひたすら待つしかないのだ。
焦燥のあまり気が狂いそうだった。
午前十時過ぎ、玄関のインターフォンのカメラ映像を見た。
そこに映っていたのは柏木武史と香苗さんだった。
なぜ二人が? 玄関に行ってドアを開けた。
「義兄さん、おはよう」
香苗さんが明るい声で言った。
「――やあ、おはよう。今日はどうしたんだ」
香苗さんは大きな目で睨みつけてきた。
「今日はどうしたんだとは恐れ入るわね、嫌になっちゃう。たまには一緒に飯でも食おうかと言ったのは義兄さんじゃないの。忘れたの?」
はっとした。
すっかり忘れていた。
ここしばらく四人揃って会うことがなかったので、久しぶりに集まらないかと二週間前ほどに提案していたのだ。
そこで香苗さんは私の様子がおかしいことに気づいたようだった。
「義兄さん、どうしたの? 顔が青いみたいだけど」
「――実は、悦夫が昨日、誘拐されたんだ」
「――誘拐?」
香苗さんと柏木が息を呑んだ。
柏木が実際家らしくすぐに問いかけてきた。
「警察には連絡したのか?」
「ああ。今うちにいる」
「身代金はいくらなんだ?」
「一億円だ」
「……一億円? 大丈夫なのか」
「大丈夫だ。この家を担保にして銀行から借りる。今日、銀行から持ってきてもらうことになっている。とにかく、中に入ってくれ」
二人を連れて居間に戻った。
早紀子がはっと顔を上げ、「香苗……」
と呟いた。
香苗さんはそちらに近寄ると、そつと声をかけた。
「姉さん、心配しないで。悦夫君はきっと戻ってくるから」
そして早紀子の方に腕を回し、その耳元で子供をあやすように何事か優しく語り始めた。
「こちらはどなたです?」
岩崎警部補が鋭い目つきで尋ねた。
「妻の妹の香苗さんと、その夫で〈メディア・ナウ〉副社長の柏木武史です。いてもらっていいですね?」
岩崎は渋い顔でうなずいた。
捜査の現場に余計な人間がいるのが嫌なのだろう。
「――まあ、いいでしょう。ただし、柏木さんご夫妻には、事件のことを絶対に口外しないようにしていただきたい」
柏木武史と香苗さんが「わかりました」
と答えた。
私は犯人からかかってきた電話の内容を詳しく話した。
「……時限爆弾?」
柏木が驚きの声を上げた。
そして岩崎警部補に詰め寄るようにして尋ねた。
「悦夫君が監禁されている場所はわからないのですか? 不審な車の目撃情報は?」
岩崎は渋い顔で首を振った。
「監禁現場がどこなのかはわかりません。想定される範囲が広すぎるのです。不審な車の目撃情報もまったく得られていません」
柏木は椅子に座り込み、苛立ちを必死で抑えているようだった。
柏木は子供好きで、悦夫を可愛がってくれていたのだ。
自分たち夫婦に子供ができないことをいつも残念がっていた。
午後一時過ぎ、玄関のインターフォンが再び鳴った。
――明央銀行の者です。
来た。
私は玄関へ走ってドアを開けた。
京都支店の支店長が、銀色に光るジュラルミンケースを足下に置いて立っていた。
居間に通すと、支店長はテーブルを囲む四人の刑事たちを見て驚いたようだった。
岩崎が、誘拐事件が進行中であることを告げ、秘密を厳守するよう要請すると、支店長は慌てて何度もうなずいた。
私は借用書を書いて捺印してから、ジュラルミンケースを受け取った。
「急なことを言って申し訳ない。担保にするこの家の権利書はできるだけ早くお届けします」
「お子さまが無事戻ってくることを祈っております」
支店長は深々と頭を下げると、帰っていった。
とりあえず、これで身代金は確保できた。
次はボストンバッグに移さなければならない。
前日に購入した二つのボストンバッグはテーブルの下に保管してあった。
私がボストンバッグに手を伸ばすと、岩崎が「待ってください」
と言った。
「これから紙幣番号を控えなければならない」
「紙幣番号? しかし、犯人は午後四時にまた連絡すると言っていました。番号を控えている時間は――」
「ご心配なく」
岩崎は水島刑事を見やった。
水島がうなずき、鞄からカメラを取り出した。
それで番号を一気に撮影していくらしい。
私はジュラルミンケースを開けると、紙幣の束を取り出し、束ねていった紙を破って紙幣を一枚一枚テーブルに並べ始めた。
それを水島が撮影し、岩崎がボストンバッグに詰めていく。
これが大変な作業だった。
午後三時半にすべてを終えたときは、目と手に激しい疲労感を覚えていた。
岩崎は身代金の準備ができたことを捜査本部に無線機で報告した。
午後四時ちょうど、電話が鳴り始めた。
四人の刑事がそれぞれ持ち場につく。
私は深呼吸すると、受話器を取った。
「はい、成瀬です」
「俺だ」
誘拐犯の声がした。
「一億円は用意できたか」
「できた。それより息子の声を聞かせてくれ。無事なんだろうな」
「そんなことをしている暇はない。いいか、よく聞けよ。東山三条の南に〈ラ・ファルーカ〉という喫茶店がある。
四時十分までにそこへ行くんだ」
「もう一度説明してくれ、何という店――」
電話は切れた。
「逆探知は?」
傍受用レシーバーを外しながら岩崎が水島に尋ねた。
水島は首を振った。
「駄目ですね。通話時間が短すぎます」
「とにかく急がなければ」
私はボストンバッグ二つを手にして立ち上がった。
あまりの重さに一瞬よろめく。
鼓動が速まり、微かな吐き気が込み上げてきた。
「待ってください」
岩崎がボタンのようなものを取り出した。
「これを身に着けてください」
「それは?」
「局地無線と呼ばれる超小型のワイヤレスマイクです。これを胸ポケットに入れてください。犯人が今後どういう出方をしてくるかはわかりませんが、犯人と直接会った場所、このマイクはあなたの声だけでなく、犯人の声も拾い上げてくれます。犯人と電話で話す場合は、相手の言葉の要点を復唱するようにしてください。
いいですね?」
うなずくと、それを受け取って胸ポケットに入れた。
「あなたのワイヤレスマイクの電波を受信するために、会田刑事をあなたの車の後部座先の下に潜ませます。会田は聞き取った内容を府警の総合対策室へデジタル無線機で送信します。
それから、覆面車で追尾させてください」
「――覆面車ですか」
ためらった。
「やめてください。あまりに危険すぎる」
「何台も車を使いますから犯人に気づかれる恐れはありません。お願いします」
「――わかりました。その代わり、細心の注意を払ってください」
早紀子に目をやった。
「必ず悦夫を助け出す」
妻がすがるように私を見上げた。
「――気をつけてね」
「絶対うまくいって」と香苗さんが言い、
「悦夫君が解放されるまで、お前にこの家の敷居をまたがせないからな」と冗談めかして柏木が言う。
二人の励ましが心に染みた。
二つのボストンバッグを両手に提げ、会田刑事を従えてガレージに向かった。
片隅に悦夫の小さな自転車がぽつんと置かれているのが目に入った。
わけもなく胸騒ぎに襲われた。
何でもない、と言い聞かせた。
きっとうまくいくはずだ。
ボルボの助手席にバッグを置き、後部座席の下の狭い空間に会田刑事が横たわった。
ダッシュボードの時計は四時二分を示していた。
指定された喫茶店まであと八分で行かねばならない。
エンジンをかけるとアクセルを踏み、修学院の自宅を走り出た。
白川通をひたすら下った。
右折して丸太町通に入り、熊野神社の交差点で左折して東大寺通に入る。
空には微かな藍色が混ざり始めていた。
指定された喫茶店は東山三条の交差点を二十メートルほど過ぎたところにあった。
時刻は四時十分ちょうど。
店の前に車を停めると路上に飛び出した。
後続の車がクラクションを慣らすが、そんなものにかまっている場合ではない。
店内に飛び込むと、ウェイトレスが困ったような顔で各テーブルを回っていた。
成瀬正雄様はいらっしゃいますか? と尋ねている。
「私だ」
片手を挙げると、ウェイトレスは怪訝そうな顔で、お電話がかかっておりますと言い、レジの電話に案内した。
私は受話器を取り上げた。
「成瀬だ」
「出るのが遅いじゃないか」
相手の声は苛立っているようだった。
「あと五秒遅かったら、電話を切るつもりだった」
「この店を見つけるのに手間取ったんだ」
「まさか、出かける前に警察と打ち合わせをして遅れたんじゃないだろうな?」
受話器をきつく握り締めた。
「違う。警察など呼んでいない」
「本当だろうな。警察を呼んだらあんたの息子は死ぬんだぞ」
いっそのこと、警察を呼んだことを白状して、犯人の許しを請おうかと思った。
警察にはもっともらしい嘘をつき、犯人と密かに裏取引をするのだ。
だが、その考えはあまりに非現実的だった。
いったん警察を介入させた以上、もう引き返すことはできないのだ。
「――本当に呼んでいないんだ」
かすかなためらいが声に混じらなかったか、ひどく不安だった。
「――信じておこう。では、次の連絡場所を言う」
「次の連絡場所? おい、いつまで引き回すつもり――」
「北山の植物園前に〈シェ・ムラキ〉というレストランがある。今は四時十二分だ。三十分までにそこに行くんだ」
電話は切れた。
受話器を叩きつけると、唖然としたウェイトレスを尻目に店を飛び出した。
車に乗り込み、東大寺通を急発進させる。
「犯人は何と言ってました?」
後部座席の下から会田刑事が尋ねてきた。
興奮のあまりワイヤレスマイクで伝えるのを忘れていたことに気がついた。
「三十分までに、北山の植物園前の〈シェ・ムラキ〉というレストランへ行け、と」
会田が無線機で交信し始めた。
私は右折して小道に入ると、三条通に出た。
会田が「了解」と言って通話を打ち切った。
「〈シェ・ムラキ〉の周辺および店内に、通行人や客を装った捜査員を配慮します。このレストランで取引が行われる場合でも、犯人をすぐに逮捕できます」
「無線を犯人が盗聴しているということはありませんか?」
「大丈夫です」
と会田は断言した。
「これはデジタル無線なので、盗聴は極めて困難です。犯人が盗聴している可能性はまずないと言っていいでしょう」
4
予想に反して、〈シェ・ムラキ〉でも取引は行われなかった。
四時三十分ちょうどに〈シェ・ムラキ〉の店内に駆け込むと、レジの電話が鳴り出した。
犯人からの電話だった。
犯人は続いてJR二条駅近くの喫茶店の次は、近鉄十条駅のそばにあるコンビニエンスストア、その次は西京極通勤公園前のレストラン……犯人が指定する中継地点に、決められた時間内に行き、電話に出るのだ。
会田刑事の話では、これは誘拐犯がしばしばとる手段で、警察の介入の有無を探ったり、警察の追尾を振り切ったりするのだという。
午後五時五十六分、JR山科駅前のレストランのことだった。
「どうやら、警察は本当に介入していないようだな」
と相手が言った。
「さっきからそう言っているだろう」
相手の口調に緊迫した響きが増した。
「よし。これから身代金の受け渡し場所を言う。よく聞いておけ。間違えるんじゃないぞ」
ついに来た。
全身を耳にした。
「国道161号線は知っているか? 琵琶湖の西岸を走る道だ」
「ああ」
「161号線の下坂本の辺りにさしかかると、太間町のバス停を過ぎてすぐのところに右へ折れる道がある。その道を三百メートルほど進むと、大宮川という小川にぶつかる。その手前を右へ曲がるんだ」
「大宮川の手前を右だな」
「そこに、去年倒産した井田証券の保養施設がある。敷地の端には、琵琶湖に面してボート格納庫が建っている」
「ボート格納庫?」
「そうだ。シャッターは閉じているが、鍵はかかっていない。シャッターを上げて中に入れ、プレジャーボートが一隻、置かれている。
その脇に身代金の入ったボストンバッグを置くんだ。帰るときは必ずシャッターを下ろせ。わかったか?」
わかった、と言い、相手の言葉を復唱した。
私の声はワイヤレスマイクで会田刑事に伝わり、会田がそれをデジタル無線機で京都府警の総合対策室に伝えているはずだった。
「時限爆弾の作動時刻は午後七時だ。折れるんじゃないぞ。じゃあな」
電話は切れた。
車に駆け戻った。
国道1号線に出て、東へ向かう。
「警察はこのあとどうするのですか」
後部座席の下にいる会田に問いかけた。
「問題の保養施設の周辺に捜査員を配置します。もちろん見つからないようにですが」
「――そんなにうまくいくでしょうか」
「われわれは、過去何度も成功してきています」
こちらの不安を断ち切るような口調だった。
「ボート格納庫に身代金を持ってくるように指示したということは、犯人はボートで琵琶湖を逃走するつもりなのでしょうか」
「おそらくそうでしょう。しかしご心配なく。滋賀県警に協力を要請して、こちらも警備艇を何隻か現場周辺に配置する予定です」
国道1号線は滋賀県に入った。
京阪電鉄京津線と併走するようにして、東山連邦へと分け入っていく。
道路と路線の左右に、緑の山々がそびえ始めた。
人家は山裾にへばりつくようにしてまばらに建っているだけだ。
逢坂のY字路で左折して国道161号線に入った。
山々は退き、人家が多くなった。
京津線の踏切を過ぎ、新幹線の高架をくぐり、JR東海道本線の上を越えた。
そして、ゆるい坂道を下りながら大津の街を通り抜けた。
京阪浜大津駅や琵琶湖遊覧船の発着場を右手に見ながら左折し、琵琶湖の西岸を北上し始めた。
右手の湖岸に建つ建物が途切れるたびに、湖面が見えた。
ヨットやボートが停泊したマリーナがいくつもある。
その向こうには、白い帆を立てて優雅にセーリングしているヨットや、波を蹴立てて走るモーターボートも見えた。
どこまでものどかな、週末の夕暮れ時の琵琶湖。
人々が享受しているささやかな幸福が、自分にはとうてい手の届かぬものに思われた。
「こりら総合対策室」
六時十二分、無線機から捜査員の声が流れ出た。
「取引現場監視班の状況を報告せよ」
「こちら取引現場監視班、配置完了しました」
別の捜査員の声がした。
「保養施設の周囲の林、二つの地点から問題のボート格納庫を監視しています。格納庫までの距離はおよそ百メートル。今のところ敷地内には何の動きも見られません」
「了解。追尾班は?」
また別の捜査員の声が無線機から響いた。
「現在、四号車が五十メートルほどの距離を置いて現金運搬車を追尾しています。陸上自衛隊大津駐屯所の脇を通過中です。不審な車両やバイクは一台も見かけていません」
「了解。取引現場に到着する直前に離れるように」
バックミラーに目をやると、車が三台、映っていた。
白のカローラ、赤のファミリア、それにタクシーだ。
そのことを口にすると、「タクシーが警察の車です」
と会田が答えた。
「捜査員が運転手を装って乗り込んでいます」
「まったく気づきませんでした」
「何台もの車でこちらを追尾していますからね。同じ車両が長時間追尾していると犯人に気づかれる危険性があるので、定期的に車両を入れ替えているのです。
警察のやり方は完璧だと思われた。
これなら犯人に警察の介入を悟られることはあるまい。
左手にそびえる東山連邦の中に、ひときわ高い山が見えてきた。
比叡山だ。
まもなく太間町のバス停が目に入った。
犯人に指定されたとおり、その先で右折した。
両脇に人家がぽつんぽつん流れていた。
これが大宮川だろう。
その手前には右手に折れる道があり、そのすぐ先に保養施設らしき建物の建つ敷地があった。
鉄製の門が閉められていた。
私はその前で車を停めた。
コンクリートの門柱に、〈井田証券琵琶湖荘〉と刻んだプレートが埋め込まれていた。
車を降り、門に手をかけた。
施錠されておらず、微かな軋み音を立てながら開いた。
車に戻り、敷地の中へ進んだ。
五台分ほどの広さの駐車場があったので、そこに車を停め、エンジンを切った。
ダッシュボードの時計は午後六時二十分を示していた。
敷地は六百坪ほどで、三方を松の木立に囲まれていた。
敷地の右手には二階建ての建物。
窓を大きく取り、バルコニーもついた白塗りの瀟洒《しょうしゃ》な造りだが、荒廃した気配が感じられた。
地面にも雑草が生い茂っていた。
管理されなくなって半年は経つようだった。
敷地の残り一方は琵琶湖に面していた。
夕陽を浴びて黄金色に染まった湖面には、無数の縮緬皺《ちりめんじわ》が刻まれていた。
はるか彼方には、対岸の草津の街が、そしてその向こうにそびえる山々が、小さくうっすらと望まれた。
敷地の端の岸辺に、プレハブ二階建ての建物があった。
あれが犯人の指定したボート格納庫だろう。
辺りには人影一つ見当たらない。
「気をつけてください」
会田の囁きに無言でうなずく。
運転席のドアを開けて降り立つと、前をぐるりと回って助手席のドアを開け、二つのボストンバッグを取り上げた。
ボストンバッグを提げて岸辺のボート格納庫へ向かった。
湖面に近づくと、風が強くなった。
生い茂った雑草が風にそよぐ。
岸辺に小さな波が打ち寄せ、ざぶりざぶりと音を立てていた。
格納庫の前の岸辺はコンクリートで固められた水路となり、格納庫からボートを出しやすい用になっていた。
犯人はこの格納庫のボートで逃走するつもりだろう。
おそらく、どこからか、私の動きをじっと見つめているに違いなかった。
それをおもうとからだの動きがぎこちなくなった。
辺りを見回したい衝動をこらえ、足を進めた。
格納庫のシャッターを上げた。
出入り口は東に面しているので、シャッターを開けても格納庫の中にはあまり光が入らず、薄暗いままだった。
壁に電気のスイッチがあったので入れてみたが、電気が通っていないのか、天井の蛍光灯は点灯しなかった。
白いプレジャーボートが車輪付きの台に載せられていた。
壁際にはボートの燃料を入れるらしいポリタンクがいくつも並べられていた。
指示されたとおり、二つのボストンバッグをプレジャーボートの脇に置いた。
格納庫の隅には二階へ上がる階段があった。
一瞬、上がろうかと思ったが、勝手な行動は慎んだ方がいいと考え直した。
悦夫を無事取り戻すまでは、犯人に言われたとおりにしなければならない。
格納庫を出ると、シャッターを下ろし、車へ戻った。
運転席に身を滑り込ませると、後部座席の下から会田刑事が小声で問いかけてきた。
「格納庫の中に犯人は?」
「誰もいませんでした。白い大型のプレジャーボードが一隻置いてあるだけです。もしかしたら、どこかから見張っているのかもしれない」
「あとは取引現場監視班の仕事です。きっとうまくやってくれるはずだ」
エンジンを始動させ、アクセルを踏み込んだ。ぐるりとUターンし、門を抜け、来た道を引き返し始める。
ドアミラーの中で、黄昏の光を浴びた白い建物が次第に小さくなっていった。
終わった、と思った。
できることはすべてやったのだ。
だが、安堵の念は訪れなかった。
いくつもの不安が脳裏で渦巻いていた。
犯人が警察の監視に気がついたら? やはり警察に通報すべきではなかったのかもしれない。
あるいは、何の関係もない第三者がたまたまあの格納庫を訪れ、神経過敏になった犯人がそれを刑事と誤解したら? あるいは、犯人が身代金を奪う前に事故や急病で動けなくなり、時限爆弾が解除されなかったら? 不安を抱えながら、私は夕闇の中を走り続けていた。
5
京阪浜大津駅前を右折したのが、六時四十分。
追分のバス停前を通過したのが五十分。
だが、犯人が姿を見せたという取引現場監視班からの報告はいっこうに入らなかった。
「どうなっているんですか」
会田刑事に問いかけた。
「ひょっとして、犯人に警察の介入を気づかれたということは……」
「まさか、その可能性はないと思いますが……」
だが、そう答える会田の声には苦渋の色が滲んでいた。
不安は恐怖に変わっていた。
背中を冷たい汗が伝うのを感じた。
ステアリングを握る手が汗で湿るのを感じた。
五十三分、五十四分……時計の針は刻々とタイムリミットに近づいていく。
それなのに、犯人が現れたという報告は依然として入らない。
時計に気を取られて、このままでは事故を起こしそうだった。
「――ちょっと休むことにします」
京セラの社屋を過ぎたところで会田刑事に声をかけると、車を国道1号線の路肩に停めた。
気分を落ち着かせようと深呼吸したが、何の効果もなかった。
「犯人の動きは? 捜査本部に問い合わせてくれませんか」
私はせかせかと言った。
会田が無線機で総合対策室に問いかけた。
だが、戻ってきた返事は否定的なものだった。
総合対策室の捜査員の声が不安に尖っているのがはっきりとわかった。
五十六分になった。
警察に通報したのは間違いだったのかもしれない。
唇をかみしめながらそう思った。
だが、もうどうすることもできない。
今さら警察に事件から手を引いてもらうことはできないのだ。
前日の午前十時過ぎ、警察に通報することを決めたときから、私は精密な機械のスイッチを入れてしまったのだ。
ひとたび動き出したら、二度とその動きを止めることない機械のスイッチを。
五十七分。
鼓動はこれ以上ないほど激しくなっていた。
心臓が喉から飛び出しそうだった。
時計を見るのが恐ろしくたまらないのに、どうしてもそこから目を離すことができなかった。
五十八分。
頼むから現れて金を受け取ってくれ、心の中で犯人に呼びかけた。
金がほしいならいくらでもやる、頼むから姿を見せてくれ。
五十九分。
必ず悦夫を助け出す、家を出るとき早紀子に誓った言葉が脳裏に谺した。
もし悦夫に何かあったら、妻に何と詫びればいい? 五十九分三十秒。
私はステアリングの上に突っ伏し、悦夫、と呟いた。
悦夫、無事でいてくれ。
そして、午後七時。
数秒後、会田刑事の無線機から叫び声が聞こえてきた。
「こちら取引現場監視班! ボート格納庫が爆発しました! 消防車をお願いします!」
爆発? なぜボート格納庫が爆発するのだ? 次の瞬間、私はその意味することを理解した。
顔から血の気が失せていくのを感じた。
悦夫が監禁され、時限爆弾が仕掛けられていた場所とは、ほかでもないあの格納庫だったのだ。
遠方からうかがっていた犯人は安全を確認したら格納庫に入り、時限爆弾を解除し、身代金をボートに積んで琵琶湖を逃走するつもりだったのだろう。
だが、警察の介入に気がつき、時限爆弾の解除をしないまま逃亡したのだ。
私と同じことに気づいたのか、「それから、救急車もお願いします!」
という声が無線機から聞こえた。
後部座席の下で会田刑事が息を呑んだ。
「了解、すぐ消防車と救急車をそちらに向かわせる」
狼狽した総合対策室のものらしい声が無線機から飛び出した。
「格納庫に入ることはできないのか?」
「入ろうとしましたが、とうてい無理です。格納庫全体にあっという間に火が回りはじめています!」
「くそ、何とかしてみるんだ!」
気がつくと、目一杯アクセルを踏み込んでいた。
ステアリングを思い切り右に切った。
タイヤが悲鳴を上げ、車はスリップしながら百八十度回転した。
対向車のクラクションを浴びながら再びアクセルを踏み込むと、下坂本目指して走り出す。
悦夫が生きていることだけをひたすら祈り続けた。
心の中は絶望と後悔で荒れ狂っていた。
犯人は警察の介入に気がつき、時限爆弾の解除をやめた。
いったいどの時点で介入に気がついたのだ? 犯人からの最後の電話では、相手はまだ警察の介入に気づいてはいなかった。
とすれば、取引現場監視班が格納庫を監視し始めてからであることは明らかだ。
班には監視する刑事たちの姿に気づいたのだ。
警察はとんでもない失策を犯したのだった。
それにしても、悦夫はいったいどこに監禁されていたのか? 格納庫の隅にあった二階へ上がる階段がそのとき脳裏に蘇《よみがえ》った。
悦夫は二階に監禁されていたに違いない。
あのとき二階に上がってさえいたら……自分の愚かさに対する怒りが胸の中で抑えようもないほど膨れ上がった。
クラクションとブレーキの音を四方八方から浴びながら、国道1号線と161号線を車で駆け抜けた。
赤信号を無視し、通行人をきわどくかすめ、前の車を強引に追い越していく。
会田刑事が後部座席の下から起き上がり、なだめるようにしきりに喋りかけてきたが、私の耳には雑音も同然だった。
下坂本へ戻るにつれて、闇の一角が赤く染まり、真っ黒な煙が吹き上がるのが見えてきた。
アクセルを踏む足が、ステアリングを握る手がどうしようもなく震えた。
〈井田証券琵琶湖荘〉の門を抜けたとたん、その光景が目に飛び込んできた。
燃えていた。
ボート格納庫が紅蓮《ぐれん》の炎を吹き上げて燃えていた。
取引現場監視班の刑事らしい男が二人、茫然としてそれを見つめていた。
急ブレーキをかけると、車のドアを開けて外へ飛び出した。
背後で会田刑事が慌てて呼び止める声がした。
炎は格納庫全体を包み、ごうごうと音を立てていた。
火の粉が飛び散り、建築材が崩れ落ちる鈍い音が響く。
すさまじい熱気が押し寄せてきた。
私の喉を押し開けて絶叫がほとばしった。
炎に向けてやみくもに駆け出した。
誰かに腰にタックルされ、私は地面に転がった。
顔を上げると、取引現場監視班の刑事の一人が必死の形相で私を押さえつけていた。
刑事を押しのけようともがいた。
刑事が叫んだ。
「危険です! やめてください!」
「この中に息子がいるんだ!」
「もう助かるはずがない! あきらめてください!」
全身から力が抜けた。
そうだ。
時限爆弾の直撃を受けて生きていられるはずがなかった。
燃えさかる炎の中で生きていられるはずがなかった。
それは、格納庫の爆発を知らされた時点でわかっていたことではなかったか。
ただ、私がそれを認めたくないだけのことだったのだ。
不意に腹の底から憤怒がこみ上げてきた。
刑事を押しのけて立ち上がり、胸ぐらをつかんで揺さぶった。
「私が身代金を置いたあと、いったい何があったんだ!」
刑事は狼狽を隠しながら答えた。
「あなたの車が走り去ったあと、われわれは犯人が姿を見せるのを待ち受けていたんです。犯人に気づかれていない自信は充分ありました。ところが犯人は現れないで……とうとう七時になり、格納庫が爆発した……駆けつけてお子さんを救い出そうとしましたが、あっという間に火が回り手がつけられませんでした……」
私は拳を握りしめた。
「――犯人はあなたたちの監視に気づいたんだ」
「気づかれていない自信がありました」
刑事は強情に首を振った。
「今さら何を言うんだ……」
私は相手の刑事を殴りつけようとする衝動と必死で闘わなければならなかった。
車から降りてきた会田刑事が雰囲気を察して、さり気なく私の腕に手をかける。
だが、相手を殴りつけなかったのは会田刑事のためではなかった。
心の中で執拗に聞こえる声のせいだったのだ。
悦夫はお前が殺したのだ。
声はそう囁いていた。
お前が犯人の警告を無視して警察に通報しなければ、悦夫は死なずにすんだのだと。
刑事の胸倉をつかんでいた手を力なく落とすと、燃えさかる格納庫を茫然として見つめた。
遠くから消防車のサイレンが聞こえてきた。
現場に到着した三台の消防車の活動で、二十分後、火は完全に消し止められた。
黒く焼けた建築材がねじ曲がり、折れ重なり、消化剤の白い泡にまみれた。
その頃になって、何台ものパトカーが敷地を滑り込んできた。
次々にドアが開き、岩崎警部補を初めとして十数名の刑事が降り立った。
そして、大庭刑事に付き添われた早紀子の姿が。
岩崎と、五十代初めの男がこちらに歩いてきた。
操り人形よりもぎこちない歩き方だった。
五十代初めの男が京都府警の刑事部長だと名乗り、二人は沈痛な表情で深々と頭を下げた。
「――何と申し上げたらよいか、本当にお詫びのしようもございません。警察の介入を犯人に悟られてしまったようです。
こうなった上は全力を挙げて必ず犯人を逮捕いたします。どうか……」
刑事部長はくどくど謝罪し続けた。
だが、それも今はわずらわしいだけだった。
「――しばらくそっとしておいてもらえませんか」
私はそう呟くと、早紀子の方へ歩いていった。
彼女に付き添っていた大庭刑事がそっと離れた。
妻は、嵐に翻弄される花のように頼りなく立っていた。
頬を涙が静かに伝わっていた。
必ず悦夫を助け出す――家を出るとき、妻にそう誓った。
だが、その誓いを守ることはできなかった。
「――早紀子、許してくれ。もし君の言うとおり警察に通報するのをやめていたら、悦夫は死なずにすんだ……」
妻はいやいやをするように首を振った。
「悦夫は死んでいない。きっと何かの間違いよ。悦夫はきっとほかのところにいるの……」
だが、そう言いながらも、早紀子は涙を流していた。
彼女も自分の言葉を信じてはいないのだった。
6
焼け跡がある程度冷え、現場検証が開始されたのは、それから三時間後のことだ。
辺りは完全に闇に包まれていた。
私と妻はパトカーの一台の中で休んでいた。
自宅に戻るよう勧められたのだが、とうていそんな気になれなかった。
格納庫の残骸が、闇の中に白く浮かび上がった。
周囲に何台も設置された投光器が点灯されたのだ。
ヘルメットをかぶった鑑識課員と消防士たちが、折り重なった建築材をどけ始めた。
白い光の中で黙々と作業を続ける彼らは、鎮魂の儀式を執り行う古代の僧侶たちのようだった。
そうして四十分ほどたっただろうか。
不意に一人の鑑識課員が興奮したように足下を指差した。
口を開けて何か叫んでいた。
ほかの課員たちがそちらへ近寄っていくのが見えた。
喉が干上がり、鼓動が早くなるを感じた。
傍らの早紀子が私の手を強く握り締めた。
何が見つかったのか、それは明らかだった。
私たちはパトカーのドアを開け、鑑識課員たちが寄り集まっている方へ、ほとんど無意識のうちに歩きだしていた。
足が震えて、まともに歩くことすらできなかった。
格納庫の焼け跡に踏み込むと、ざくざくと建築材の破片が崩れる音がして、まだ消えやらない微かな熱が伝わってきた。
鑑識課員の一人が振り返り、痛ましそうな顔で脇にどいた。
彼らの中心にあるものが見えた。
建築材の下から黒い棒が覗いていた。
棒ではなかった。
黒こげの左腕だった。
建築材がどけられていくたびに、胴体、頭、右腕、両脚が現れた。
どこも真っ黒に焼け焦げ、顔は人相もわからなくなっていた。
これが、これが悦夫だというのか? 悲しみが爆発し、心が粉々に砕け散った。
熱い塊が胸にこみ上げ、からだがどうしようもなく震えた。
拳を握りしめ、歯を食いしばって耐えていた。
じっと立ち尽くしていた。
早紀子が嗚咽し始めた。
黙って妻のからだを抱き寄せた。
早紀子の涙が私のシャツの胸に染み透り、からだの震えがさざなみのように伝わってきた。
荒れ狂う悲しみの中から、やがて真の憎悪が姿を現した。
これ比べれば、それまでの怒りなど物の数ではなかった。
私は悦夫を殺した犯人を憎んだ。
失態を演じた警察を憎んだ。
そして何より、犯人の警告を無視した自分自身を憎んだ。
次々とのけられていく建築材の下から、溶けたプラスチック材の巨大な塊が現れた。
その傍らには大量の紙幣の燃え滓《かす》。
プレジャーボートと一億円の成れの果てだった。
この身代金を調達するために自宅を担保にした。
それは大きな打撃となって跳ね返ってくるはずだった。
そんなことはしかしどうでもいい。
悦夫を救えなかったならば、身代金が残ろうと焼けて消え失せようと何の違いもなかった。
私は血の滲むほど唇を噛みしめ、一瞬でも放せば永遠に失われてしまうのかのように、妻の手を握り締めていた。
鑑識課員一人が私たちに向かい、遠慮がちな声で、焼け跡から離れるように言った。
私と早紀子は後ろに下がり、投光器に照らされての作業を茫然として眺めた。
鑑識課員の一人が悦夫の遺体の写真を撮り、ほかの課員たちは残骸を掘り起こして細かな証拠品を採集していた。
「……これから、遺体を京都府立医大病院の方へ運ばせます」
いつの間にか傍らに立っていた岩崎が言った。
見ると、灰色のヴァンが現場に到着していた。
白衣を着た男二人、担架を持って格納庫跡へと近づいていく。
二人は悦夫の遺体を大人の等身大の袋に収め、ファスナーを閉めると、担架に乗せてヴァンへと運んだ。
担架を収容しヴァンは走り去った。
岩崎は闇の中に消えていくテールライトをじっと見つめていたが、やがてこちらに向き直った。
「現在、鑑識課が遺留品を捜索しています。犯人つながる手がかりが必ず残っているはずです」
「――必ず逮捕してください」
腹の底から絞り出すように言った。
「悦夫にこんなことをした奴に、必ず罪を償わせてください」
「必ず逮捕します」
警部補は苦渋に満ちた表情で断言した。
それから腕時計をちらりと見た。
「こんなことは申し上げにくいのですが、その……悦夫君が亡くなった以上、あと二、三時間のうちに報道協定を解除せざるをえません。各報道機関には朝まで取材を自粛するよう要請するつもりですが、取材が殺到することは間違いない。それまで少しでもからだを休めておかれた方がよいでしょう。もうお戻りになったらいかがですか。
会田刑事に送らせます」
「……帰ろうか」
私が言うと、早紀子は頬に伝う涙を拭い、そっとうなずいた。
岩崎が会田を呼び、私たちは彼と一緒に車の方へ歩きだした。
立ち去る前に、一度振り返った。
投光器の光を浴び、闇の中に白々と浮かび上がる異形の姿がそこにあった。
それは、私の無力さと愚かさの証だった。
死のときまで消えぬだろう悔恨の碑だった。
修学院の自宅に戻ったのは午前零時前だったと思う。
ガレージの片隅に悦夫の小さな自転車がぽつんと置かれているのが目に入った。
前日の朝、悦夫に補助輪なしで自転車に乗る練習をさせる約束したのを思い出した。
もうその自転車に乗る者はいないのだ。
柏木武史と香苗さん、水島刑事が留守番をしてくれていた。
水島の童顔は一気に老け込んだように見え、訪問者も電話もありませんでした、と沈んだ声で報告した。
会田刑事は水島を連れて壁際に行き、現場の状況を小声で説明し始めた。
「姉さん……」
香苗さんは早紀子に向かって口を開いたが、そのあとは言葉にならなかった。
ただ黙って早紀子の肩を抱き、嗚咽した。
柏木は憤怒の表情を浮かべ、会田刑事に詰め寄った。
「いったいどういうことなんだ? 犯人に警察の介入を悟られたそうじゃないか。警察は何をやってるんだ!」
間は深々と頭を下げた。
「――お詫びのしようもありません」
柏木はなおもなじろうとしたが、険しい表情で口を閉ざした。
そして、のろのろとした足取りで私に近づいてきた。
「……成瀬……本当に何と言ったらいいのか……ああ、すまん……うまく気持ちを伝えられないなんてこと、初めてだ……」
柏木は髪の毛を苦しそうにかき回した。
大柄なからだから発散されるいつもの陽気さは消え、小さくしぼんだように見えた。
「……今はこんなこと話すときじゃないかもしれないが……しばらくのあいだ、会社を休んでくれ。当分は俺が社長代理で何とかやっていけると思う」
ありがとう、と私は礼を言った。
会田刑事と水島刑事はいかにも居心地の悪そうな様子で、今の電話に接続した捜査機材を取り外しにかかった。
そのときだ。
不意に電話が鳴り始めた。
誰もがびくっとしてそちらを見つめるほど、その響きは禍々しく感じられた。
会田と水島が一瞬顔を見合わせ、会田が傍受用レシーバーを急いで着けた。
私は受話器を取った。
「はい、成瀬です」
「俺だ」
誘拐犯の声。
全身の血が逆流するような気がした。
「なぜ息子を殺した! 身代金はちゃんと届けたんだぞ!」
「ああ、あんたが来たのは拝ませてもらったよ。ボストンバッグをプレジャーボートの脇に置くのも見届けた」
「それならなぜ時限爆弾を解除しなかったんだ!」
「なぜ解除しなかっただと? ふざけるんじゃない」
誘拐犯の声は凍てつくように冷ややかだった。
「おまわりが何人も格納庫を監視してるのを俺が気づかなかったとでも思ってるのか? いったいどうやって金を取りに行けというんだ? 警察に知らせるなとあれほど言っておいたはずだ。あんたはその約束を破った。
あんたの息子が死んだのはそのせいだ。息子を殺したのはあんたなんだよ」
電話は切れた。
それは、果てしなく長く苦しい一日の終わりに加えられた最後の一撃だった。
7
その夜香苗さんが泊まってくれることになり、柏木武史と会田刑事、水島刑事は引き揚げた。
なかなか眠れなかった。
息子を殺したのはあんたなんだよ……犯人の言葉が脳裏で何度も谺し、私を苦しめた。
それが言いがかりだということは、理性でわかっている。
だが、感情は犯人の言葉に鋭い痛みを覚えるのだ。
私が警察に通報しなければ、悦夫が死ぬことはなかっただろう。
その意味では、犯人の言葉はまぎれもない真実なのだった。
明け方少し眠ったらしい。
気がついたときは、午前七時過ぎになっていた。
目覚めると同時に、前夜の光景が、悦夫がもうこの世にいないという事実が、針のように全身に突き刺さってきた。
私は思わずうめき声をもらし、頭を抱えて身を丸めた。
目覚めていることが苦痛だった。
存在していることが苦痛だった。
私は苦痛の海で独り溺れかけていた。
「……正雄さん?」
隣のベッドから、おずおずと声がかけられた。
早紀子が身を起こし、こちらを不安そうに見つめていた。
どれほど前に目覚めたのだろう。
目を赤く泣き腫らしていた。
同伴者がいる。
そう思った。
私と妻は苦痛の海に浮かぶちっぽけな船の立った二人の乗客だ。
だが、独りではない。
「……大丈夫だ」
妻に微笑みかけ、立ち上がった。
カーテンを開いて茫然とした。
社旗を立てた車やテレビ中継車が路上に所狭しと停まり、記者やカメラマンやレポーターが十人以上も玄関先にたむろしていたのだ。
未明に報道協定が解除され、捜査本部の記者会見が行われて、マスコミ各社が取材に集まってきたのだった。
一階に下りると、キッチンで朝食を作っていた香苗さんが、おはよう、と声をかけてきた。
ことさらに慰めの言葉をかけてくることもなく、変に萎縮することもなく、控えめでありながら自然な態度だった。
それがありがたかった。
カーテンが開いたのをめざとく見つけた者がいたらしく、玄関のインターフォンが鳴り始め、取材を求める声が相次いで聞こえた。
ひたすら無視していたが、インターフォンは鳴りやまない。
とうとう香苗さんが癇癪《かんしゃく》を起こし、玄関のドアを開け放つと、目の前に立っていた数人の記者やレポーターにバケツで水を浴びせかけた。
記者たちは悲鳴を上げて飛びのいた。
朝食のあと、私と早紀子はどうしたらよいのかわからず、ぼんやりと座ったままだった。
すべてを引き受けてくれたのは香苗さんだった。
ニュースで事件を知った知人や親戚からかかってくる電話に出ては事情を説明し、葬儀社に連絡して、通夜や葬儀についても取り決めてくれた。
彼女がいなかったらどうなっていただろうと、今さらながら思う。
午後三時頃、京都府立医大病院から悦夫の遺体が戻っていた。
係員が遺体の入った柩を玄関から運び込むと、カメラマンがいっせいにシャッターを切った。
午後四時過ぎ、岩崎警部補と大庭刑事が訪れた。
二人は深々と頭を下げ、警察の失態を改めて詫びた。
「お手数ですが、府警の方へ起こし願えないでしょうか。身代金を確認していただきたいのですが」
私と早紀子は香苗さんを留守番に残し、二人の刑事とともに家を出た。
玄関先にあいかわらずたむろしていた報道陣のあいだにざわめきが起きた。
カメラがいっせいにこちらへ向けられ、マイクが何本も突き出された。
「成瀬さん、どちらへ行かれるんですか?」
「何か一言!」
言葉が飛び跳ね、カメラのシャッター音が響いた。
私と早紀子は罪人のように両側を岩崎と大庭に挟まれ、うつむいたままパトカーに乗り込んだ。
京都府警本部に着くと、一室に案内された。
部屋の中央に青いビニールシートが広げられ、そこに紙の燃え滓が積まれていた。
部屋の隅には明央銀行京都支店長があり、私たちを見ると深々と頭を下げ、お悔やみを申し上げます、と言った。
「これが身代金の燃え滓ですか」
「はい。残念ながら、完全に燃えておりまして、私どもとしては交換することは……」
一億円は失われたということだった。
だが、悦夫が死んだ今となっては、そんなものはどうでもいい。
〈メディア・ナウ〉の業績なら、いずれ一億円は取り戻せるだろうが、悦夫は二度と帰ってこないのだ。
私と早紀子は応接室に移り、岩崎警部補から捜査報告を聞いた。「親御さんにはつらい話になると思いますが、よろしいですか?」
「かまいません。息子の死に様を知るのは、親として最低限の義務ですから」
「悦夫君の監禁現場からお話ししましょう。監禁現場はボート格納庫の二階でした。悦夫君はロープで椅子に縛り付けられ、猿轡をされ、足元に時限爆弾を置かれていました。亡くなったのは爆発の起きた午後七時。
即死でした」
私は手をきつく握り締めた。
思っていたとおりだった。
身代金を届けたとき、悦夫は二階に監禁されていたのだ。
もし私が二階へ上がってさえすれば、悦夫は助かったのだ。
爆弾を足音に置かれ、どれほど恐ろしかったことだろう?
それを思うと、全身の血が逆流するような気がした。
爪が手のひらに刺さる痛みだけが、私をかろうじて正気に保たせていた。
「悦夫は誘拐されたあと、ちゃんと食事を与えられていたのですか?」
妻が小さな声で尋ねた。
「ええ。亡くなる数時間前に、菓子パンと牛乳を与えられていたようです。それ以前にも定期的に食事を与えられていたと思われます」
「悦夫は……暴行を受けたりはしていなかったのですね?」
「そうした形跡はありませんでした」
だが、それは何の慰めにもならない。
悦夫が誘拐されてから死ぬまでに味わった精神的苦痛は、まぎれもなく暴行そのものだ。
「あの保護施設は井田証券のものでしたね」
と私は言った。
「はい。昨年井田証券が倒産して以来、銀行が担保に取り上げています。人が来ることはめったにありませんから、犯人にとっては打ってつけの場所だったでしょう」
「犯人の遺留品は?」
「残念ながらありませんでした。格納庫が炎上したため、何も残らなかったのです。格納庫にはボートの燃料が入ったポリタンクがいくつも放置されていて、爆発でそれらに引火しました」
「犯人はどこから監視していたのでしょう?」
「犯人からかかってきた最後の電話に、それを示す手がかりがありました。犯人は『ボストンバッグをプレジャーボートの脇に置くのも見届けた』と言っています。あの格納庫には窓が一つもなく、外から中を覗くにはシャッターのある出入り口しかない。とすれば、犯人は成瀬さんの行動を、出入り口を通して見ていたことになる。
つまり、琵琶湖からということです。犯人は湖上のボートから、双眼鏡で成瀬さんの動きを見守っていたのでしょう。
安全を確認したらボートを接岸させ、格納庫に入って身代金を取り、ボートで琵琶湖を逃走するつもりだった。
しかし……」
岩崎警部補は苦渋に満ちた表情で言葉を切った。
……しかし、格納庫を監視する刑事の姿に気づき、身代金を取らないまま逃走したのだ。
幼い命を爆死の運命にゆだねたまま。
8
悦夫の葬儀と告別式は、翌二十一日の午後二時から、六条山の麓にある京都市中央斎場で執り行われた。
その日も空は青く晴れ渡っていた。
空はどこまでも青く澄み、斎場を取り囲む木々から、小鳥のさえずりが聞こえていた。
大勢の人たちが参列してくれた。
悦夫のクラスメートとその保護者たち。
担任の檜山先生と校長。
近所の人々。
〈メディア・ナウ〉の取引先企業の代表や京都商工会議所の代表。
柏木武史と香苗さん。
身代金を用意した明央銀行京都支店も、支店長は近畿地方の支店長会議があるということで参列できなかったものの、部下の行員が代理として来てくれた。
捜査本部からも、岩崎警部補を始めとして五名の刑事が出席した。
記帳の受付は、〈メディア・ナウ〉の社員が担当してくれることとなった。
私と早紀子は最前列の喪主席に座り、その隣りに柏木と香苗さんが座った。
目の前の祭壇には柩が置かれ、黒枠に囲まれた悦夫の写真が飾られていた。
春の遠足のときに撮った写真を引き伸ばしたものだった。
悦夫は自分の運命も知らず、無邪気に笑っていた。
葬儀は私の希望で無宗教式だった。
私はいかなる宗教も信じていない。
信じていないのに、僧侶の読経や神父の祈りで送り出すことは、悦夫に対する冒涜のように思われたのだ。
天国があるのならば、悦夫は必ずそこへ行ける。
天国がないならば、人々の心の中に思い出となって生き続けるがいい。
悦夫は素直な子だったから、多くの人々に愛された。
だからきっと、多くの人々の心の中に生き続けるだろう……。
バーバーの『弦楽のためのアダージョ』が流れる中、献花が行われた。
檜山先生を先頭にして、悦夫の三十七名の同級生たちが献花に立った。
誰もが幼い顔に厳粛な表情を浮かべ、女子生徒の中には目を赤く泣き腫らしている子もいた。
彼らにとってそれは初めて身近で見る死だったのだろう。
いつの日か大人になったとき、小学校の同級生に成瀬悦夫という少年がいたことを、心の片隅にでもいいから憶えていてほしい。
私はそう願った。
献花が終わり、私は乱れそうになる声を何とか保って喪主の挨拶をし、葬儀・告別式は幕を閉じた。
私と柏木、〈メディア・ナウ〉の社員二人が祭壇から小さな柩を下ろすと、四隅を抱えて持ち、会場を横切って出口へ向かった。
柩は悲しいほど軽かった。
出口で待ち受けていた二人の職員が柩を受け取り、台車に乗せ、ゆっくりと火葬場へ押していった。
私たちは黙ってそれに続いた。
辺りにはまるで何の不幸も起こらなかったかのように明るい日差しが降り注いでいた。
そうだ、世間の大多数の人々にとっては、事実なんの不幸も起こってはいないのだった。
不幸は私たちだけに起こったのだ。
火葬場の炉の前に着くと、職員たちは柩の中に滑り込ませ……そして、静かに扉を閉じた。
参列者たちの多くは帰り、私と早紀子、柏木と香苗さんだけが遺族控え室に移った。
畳敷きの部屋にぼんやりと座り、私たちは悦夫の亡骸が灰に還るのを待った。
しばらくすると、喪服姿の岩崎警部補が現れ、お悔やみを申し上げます、と深々頭を下げた。
そして、周囲を見回してほかに誰もいないことを確認すると、小声で言った。
「五分ほどお時間をいただけますか」
私の隣りに座っていた柏木が岩崎を睨んだ。
「おい、こんなときに何を言っているんだ。遺族の気持ちも少しは考えろ!」
柏木はもともと警察嫌いだったが、事件での警察の失態でそれに拍車がかかったようだった。
岩崎は柏木を見返した。
「一刻も早く、成瀬さんにお伝えすべき話があるのです。捜査陣から悦夫君へのせめてもの供養としてお聞きいただきたい」
「どうしたのですか」
私は柏木を目で制すると、岩崎に問いかけた。
「実は、犯人に関する有力な手がかりが得られたのです」
「……有力な手がかり?」
私も早紀子も柏木も香苗さんもはっとして岩崎を見た。
「お宅にかかってきた犯人の電話の声を分析した結果、大まかな犯人像が浮かび上がりました。年齢は二十代から三十代。身長は一メートル六十五センチから七十五センチ。京都南部で生まれ育ったと思われます」
「……どうやってそんなことが分かったのです?」
「われわれが協力を依頼した音声科学の研究所には、十数万人分の声のデーターベースが作られていて、声と肉体的特徴との一般的関係が研究されています。研究所の話によると、人間の声には、口や喉などの筋肉の老化状態がそのまま反映されるのだそうです。犯人の声はまだ若く、二十代から三十代ということでした。
また一般に、声の周波数が低いほど身長が高く、声の周波数が高いほど身長が低いという反比例の関係が成立しているのですが、そこから判断すると、犯人の身長は一メートル六十五から七十五センチの範囲内だそうです。
もちろんこれは十数万人分の声のデータベースから導き出した平均値ですから、例外もありうるとのことですが」
現在の科学捜査は門外漢が想像する以上に進んでいるようだ。
私たちは茫然として放しに聞き入っていた。
「次は、鑑識課が時限爆弾を分析した結果です。時限爆弾は、ダイナマイト五本と電気雷管一本、六時間式のタイムスイッチ一個から構成されていました。タイムスイッチが六時間式である以上、時限爆弾が作動し始めたのは午後一時頃ということになります。犯人はダイナマイトや電気雷管を手に入れられる人間、つまり、工事現場や化学メーカーの火薬製造部門で働く人間だと思われます」
「……そこまでわかっているのだったら、犯人逮捕も間近ですね?」
「はい。近いうちに、犯人像と併せて脅迫電話の声を一般公開するつもりです。犯人の知人から通報が入る可能性は極めて高いと思います」
控え室に斎場の職場が現れた。
悦夫の亡骸が灰に還ったことを告げに来たのだった。
のちにわかったことが、この日の夜、犯人は身を守るため決定的な行動に出ていたのである。
しかし、私たちがそれを知ったのは、その二日後のことだった……。
9
葬儀の翌日、私と早紀子は朝から、悦夫の部屋を片付けにかかった。
身を切られるようにつらかったが、今やっておかなければ永久にできない、そう思ったのだった。
部屋の中は、四日前の朝、悦夫が学校に出かけたときのままだった。
電車。
竜のぬいぐるみ。
レゴブロック。
悦夫のお気に入りの玩具たちが床に転がっていた。
しばらくのあいだ、私と妻は何もできずにそれらを眺めていた。
これらの持ち主が二度と帰ってこないことが信じられなかった。
今すぐにも部屋のドアが開き、ランドセルを背負った悦夫が「ただいま」と言って飛び込んできそうな気がした。
レゴブロックを手に取った。
形作られているのは船だろうか。
飛行機、家、ロボット……悦夫の指先から、さまざまなものが作り出されたものだ。
あれだけの才能があっらら、あの子は大きくなったら設計士か彫刻家にでもなったかもしれない。
そう思い、それから自嘲した。
何ということだ、俺はすっかり親馬鹿になっている。
このままでは我が子が神童だったと思いかねない。
だが、そのどこが悪いのだ?
いいではないか。
悦夫はもういない。
ありえたかもしれない我が子の将来ぐらい、好きなように想像させてもらおう。
早紀子は悦夫の机の上のブックエンドに置かれていた児童向けの学習ノートを手に取り、一冊ずつ開いてはぼんやりと眺めていた。
私は妻に寄り添い、そのノートを覗き込んだ。
算数。
国語。
総合学習。学校の指導で毎週月曜日に提出することになっていた日記……。
どれも、子供らしい奔放な字で書き込まれていた。
日記の最後の記述が目に入った。
四月十七日(金)あしたは、おとうさんがじてんしゃののりかたをおしえてくれます。ほじょりんなしののりかたです。
あしたがまちどおしいです。
その先のページは空白だった。
そして、その空白が埋められることは二度とない。
早紀子が嗚咽した。
私の頬にも涙が伝わっていた。
私は妻の身体を抱き締めた。
しんと静まり返った部屋の中で、私たちは悦夫の声を聞き取ろうとするかのように、そのままの姿勢でいつまでもじっとしていた。
岩崎警部補と水島刑事が思いもよらぬ情報を持って尋ねてきたのは、翌日の夜のことである。
刑事たちの顔を見たとたん、何か進展があったのだとわかった。
若い水島の顔には抑えきれない興奮の色が浮かび、岩崎の無表情な顔にも獲物を嗅ぎつけた猟犬のような鋭さが感じられたのだ。
応接間に通し、早紀子と並んで刑事たちを向かい合った。
岩崎がさり気ない口調で話を切りだした。
「柳沢幸一《やなぎさわ こういち》という男をご存じですか」
「柳沢幸一?」
「出町柳に住む三十三歳の印刷業者です。テレビや新聞でご覧になりませんでしたか。強盗殺人事件の被害者ですよ」
「テレビや新聞を見る気にはなれないのです。悦夫の事件を報じてばかりで、まるで傷をえぐられるような気がして……」
岩崎は唇をかみしめてうなずいた。
「おっしゃるとおりですね。親御さんなら、とても見る気にはなれないでしょう」
「その男がどうしたのですか?」
「捜査の結果、この男が誘拐事件の犯人であることが判明したのです」
「――犯人?」
「正確に言えば、犯人の一人です」
話の展開が急すぎてついていけなかった。
「ちょっと待ってください。最初から詳しく話してもらえませんか」
「柳沢幸一の死体が出町柳の自宅マンションで発見されてのは、昨日の朝九時過ぎのことでした。宅配便の配達員が荷物を届けに来て、不在のようだっただ、ドアの鍵がかかっていないので試しに開けたところ、ダイニングキッチンの床に倒れている柳沢を発見したのです。柳沢は鈍器で後頭部を殴られ昏倒したあと、ロープで絞殺されていました。死亡推定時刻はのその前日、二十一日の午後十一時頃でした」
「――二十一日の午後十一時頃?」
悦夫の葬儀の日の夜だ。
午後十一時といえば、私も早紀子も疲れ切ってベッドに入ったところだった。
ちょうどあの時刻、事件の共犯者が殺されたというのか。
「柳沢の部屋にはあちこち物色した跡があり、クレジットカードや預金通帳が持ち去られ、財布からは紙幣が全部抜き取られていました。捜査班は当時、物取りの犯行と見なしました。しかし、それにしてはおかしな点が一つだけあった。通常の社会生活を営んでいる人間なら誰でも持っているものが現場にはなかったのです」
「というと?」
「住所録です。現場には住所録がなかった。これは犯人が持ち去ったとしか考えられない。そして、その目的は柳沢とのつながりを隠すためだとしか考えられない。単なる強盗ならそんなことをする必要はないはずです。
物取りの犯行というのは、真の目的を隠蔽する偽装である可能性が強まってきました。捜査を進めるうちに、柳沢は三年前まで親和化学に勤めていたことがわかった。それも火薬を専門に扱う部署でした。さらに柳沢は京都市で生まれ育ち、年齢三十三歳、身長一メートル七十二センチであることもわかった。柳沢殺しを担当していた捜査班はここに至って、被害者が悦夫君誘拐殺害事件の犯人たる条件を満たしていることに気づき、念のためにわれわれの捜査班に連絡を取ったのです。柳沢の知人たちに犯人の電話の声を聞かせたところ、誰もが口を揃えて柳沢のものだと断言しました。柳沢が脅迫電話をかけてきた人物であることは間違いありません。まら、柳沢が近いうちに大金が入るとほのめかしているのを、複数の知人が耳にしています」
岩崎を背広のポケットから一枚の写真を取り出し、ガラステーブルの上に置いた。
眼鏡をかけた三十過ぎの男の顔が写っていた。
柳沢幸一だろう。
なかなかの二枚目だが、思い込みが激しそうな顔立ちだ。
薄い唇の辺りには、世の中が自分の才能を認めてくれないとでも言いたげな、不満そうな雰囲気を漂わせていた。
受話器の向こうの声が脳裏に蘇った。
あれはこの男だったのか。
悦夫を殺したのはこの男だったのか。
「もう一人犯人がいると判断したのはなぜです?」
「柳沢には、悦夫君が誘拐された時刻と、犯人が身代金を奪うためボート格納庫を監視していた時刻に、完璧なアリバイがあったのです」
「――完璧なアリバイ?」
「悦夫君が誘拐されたのは、十八日午前八時からの七分間ですが、柳沢のこの時刻、自宅マンションの近くにある〈シャレード〉という行きつけの喫茶店で朝食を取っていた。八時の開店と同時に顔を見せて、モーニングサービスを食べ、そのあとマスターや常連客数人と半頃までずっと話し込んでいたそうです。また、翌十九日、犯人がボート格納庫を監視していたと思われるのは、午後六時から七時のあいだですが、柳沢はこの時間帯にも、〈シャレード〉で夕食を取っていた」
「その喫茶店のマスターの証言は信頼できるのですか?」
「ええ。かなり突っ込んで尋ねたのですが、証言は確かなものでした。とすれば、この事件は複数犯の犯行だったことになります。柳沢が脅迫電話をかけるのを担当し、もう一人――主犯ともいうべき人物が、悦夫君の誘拐・監禁と身代金の奪取を担当したのです」
「分業することによって、お互いにアリバイを確保した、と?」
「そうです。十九日の夜。主犯は成瀬さんが身代金を届けたのを見届けると、それを奪おうと目論んでいた。
しかし、取引現場監視班の姿を発見し、身代金を取らないまま立ち去り、失敗を柳沢に伝えた。柳沢はそれを受けて取引打ち切りの電話をこちらのお宅にかけてきたのでしょう。身代金奪取失敗した犯人たちは、その後、仲間割れを起こし、主犯が柳沢を殺害したのです」
「柳沢の知人の中に主犯らしき人物は?」
「残念ながら、まだ見つかっていません。しかし、住所録を持ち去ったところから見て、主犯が柳沢とある程度親しい関係にあったことは間違いない。現在、柳沢の交遊関係を徹底的に洗い出しています。主犯はその中に必ず潜んでいるはずです」
共犯者が主犯に殺害されたことは、翌日の新聞やテレビでさっそく報じられた。
柳沢幸一の殺害は、この事件に対するマスコミの熱狂をいっそう強めたようだった。
身代金奪取の失敗。
幼い人質の死。
仲間割れ。
共犯者を情け容赦なく殺害する冷酷な主犯。
確かに、マスコミが熱狂する要素は揃っていた。
警察の方でも、人質を死なせたという大失態を少しでも挽回しようと考えたのか、柳沢幸一については積極的にマスコミに公開しその後二、三週間のあいだ、口を封じられた愚かな共犯者の話題が、テレビのワイドショーや週刊誌をにぎわせた。
だが、私たちはそれを見る気にはなれなかった。
興味本位で伝えられるさまざまなニュースは苦痛をもたらすだけだった。
その代わりに、岩崎が定期的に訪れては、柳沢についてわかったことを教えてくれた。
それによれば、柳沢幸一は一九五九年生まれ。
高校まで京都で過ごしたあと、一橋大学経済学部に進学。
卒業後は親和化学に入社、広島支社の製品管理課に配属される。
しかし七年後、一身上の都合で退社。
同僚や上司の話を総合すると、柳沢は優秀であるものの協調性がまったくなく、周囲とトラブルを起こしてばかりだったという。
退社した柳沢は出町柳の実家に戻り、実家の印刷会社を継いだ。
二年後、両親が旅行先の能登でバス事故により死亡。
柳沢は家業の会社でもまた周囲とトラブルを起こしたらしく、両親の死の直後、五人の授業員が全員辞めてしまう。
事件の半年前からまったく仕事をしておらず、印刷会社は休業状態だった。
柳沢はこの間、かなり荒れた生活をしていたようで、一月上旬には、居酒屋で隣の客と口論になり、相手を殴って二週間の怪我をさせたとして傷害罪で逮捕されてもいる。
このときは書類送検だけで起訴はされていない。
だが、こうして情報にもかかわらず、どうしてもわからないことがあった。
それは、柳沢がなぜ私たちの家庭を狙ったのかということだった。
というのも、警察やマスコミの徹底的な調査にもかかわらず、柳沢と私たちの家庭とはなんの接点も見出せなかった。
柳沢と私たちとは赤の他人だった。
柳沢が以前勤めていた親和化学も、実家の印刷会社も、〈メディア・ナウ〉とは何の関係も取引もない。
〈メディア・ナウ〉とは何の関係も取引もない。
〈メディア・ナウ〉の社員が柳沢の知人だったということもない。
柳沢の通った学校と、私や早紀子、悦夫が通った学校は違う。
柳沢の自宅や印刷会社と、私たちの家や〈メディア・ナウ〉の社屋は遠く離れている。
柳沢の自宅と印刷会社は出町柳だし、私たちの家は修学院、〈メディア・ナウ〉の社屋は堀川丸太町だ。
営利誘拐は、金銭目的という性質上、加害者と被害者のあいだに何の接点もなくとも起こりうる。
被害者の家庭が裕福であることを知っている人物なら、誰でも犯人たりうるのだ。
しかし実際には、犯人は被害者の家庭と何らかの接点があることが多いという。
営利誘拐をするには、被害者の家庭の家族構成や資産状況、誘拐すべき相手の日常の行動などを知悉《ちしつ》していなければならない。
とすれば必然的に、犯人が誘拐のターゲットに選ぶのは身近にいる資産家の家庭ということになる。
さらに、誘拐は何らかの怨恨感情から起こされる場合もある。
その場合でも、やはりターゲットとなるのは身近な相手ということになる。
だが、柳沢と私たちの家庭のあいだには何の接点もなかった。
京都市には資産家はいくらでもいる。
その中で誘拐の対象に適した小さな子供のいる家庭もいくらでもあるだろう。
柳沢はそれらの中でなぜ、私たちの家庭を選んだのか? 何の接点もないのに、いったいなぜ? あるいは、私たちの家庭と接点があるのは、柳沢でなく、主犯なのかもしれない。
柳沢自身は私たちの家庭とは何の関係もなく、主犯の指示に従っただけなのかもしれない。
しかし、警察とマスコミの調査にもかかわらず、柳沢の身近の主犯と思しき人物はまったく浮かび上がらなかったのである。
10
葬儀から一週間後、私は初めて〈メディア・ナウ〉に出社した。
社員たちが口々にお悔やみを述べてくれた。
私は礼を言い、仕事に没頭しようと努めた。
柏木と香苗さんは、休日になると私と早紀子を街へ連れ出した。
事件の話はしなかった。
私と柏木が〈メディア・ナウ〉の話をし、香苗さんが今取り組んでいる翻訳の話をした。
そして、私と柏木の早紀子と早苗さんに出会った頃のことを語り合った。
陽気な会話がふと途切れたあいまに、幼い子がどこかで父親と母親を呼ぶ声のするときがある。
そんなとき、それが悦夫のような気がして、私と早紀子は思わず振り返ってしまうのだった。
だが、その子が呼びかけているのは、笑いかけているのは、駆け寄っていくのは、いつもほかの誰かのなのだ。
私たちはそこで、自分たちはもう子供がいないことを思い出す。
一瞬の幻想は消え去り、静かな悲しみが私たちを包み込むのだった。
事件から二ヶ月後、警察の地道な捜査がついに一つの実を結んだ。
主犯がただ一度だけ、柳沢の身近に姿を現していたことを突き止めたのである。
その日の夜も、岩崎は捜査状況の報告のために、私たちの家を訪れてくれた。
「柳沢の交遊関係が虱潰しに調べているところです。小学校、中学校、高校、大学の友人や教師、親和科学時代の同僚、印刷会社を経営するようになってからの取引先、とにかく柳沢の知人を徹底的に調べています」
「主犯らしき人物は見つかりましたか?」
岩崎は渋い顔で首を振った。
「今のところはまだ。ただ、例の〈シャレード〉のマスターに再度話を聞いたとき、奇妙な話を耳にしましてね。聞き出した捜査員も初めは重要だと思わず、手持ちの材料が乏しかったので捜査会議で発表しただけのことでした。
しかし、そこから思わぬ手がかりを得ることができたのです」
「――奇妙な話?」
「マスターは事件の十日前、四月八日の午後、京都駅の鳥丸口で柳沢に出くわした。柳沢は新幹線で広島に行くということでした。マスターが柳沢と切符売り場に向かったのは、広島方面に向かう下り列車が出る直前でした。
そのとき、柳沢が土産を買うのを忘れたと言い出した。先に行ってくれと言って、柳沢は切符売り場近くの土産物屋まで走り、和菓子の〈八つ橋〉を買って戻った。これで数十秒、時間を食ったため、切符を買ってプラットホームに上がったときは、彼の乗ろうとしていた列車は出てしまったいた。マスターは東京へ行くつもりだったので、柳沢と別れて上がりの新幹線に乗った。ですから柳沢がそのあとどうしたかは知らないそうです」
「それがどこの奇妙なのですか」
「柳沢の行動には作為が感じられませんか」
「作為?」
「いいですか。柳沢が土産に買ったのは〈八つ橋〉だったのです。これなら改札口付近だけでなく、プラットホームのキオスクでも売っています。大量生産品ですから、売り場によって味が違うということもない。列車が今にも発車しそうなら、プラットホームのキオスクで買えばよさそうなものではありませんか」
はっとした。
そのとおりである。
「では、柳沢はなぜそんなことを……?」
「考えられることは一つしかない。柳沢は芝居をして意図的に一列車遅らせたのです。土産を買いに走ったのは、列車に乗り遅れるための時間稼ぎとしか考えられない」
「しかし、なぜ乗り遅れなければならなかったのです?」
「おそらく、柳沢は鳥丸口で誰かと落ち合う予定だったのです。ところが、その人物はまだ来ていなかった。そこで柳沢は一列車遅らせたのでしょう」
「それなら、待ち合わせしている人間が来ていないので一列車遅らせるとマスターに言えばいいだけのことでしょう。何も土産を買って時間稼ぎをしなくてもいいはずです」
「普通ならそうです。しかし、待ち合わせしている相手を見られたくなかったら?」
「――、待ち合わせをしている相手を見られたくなかった?」
不意に、途方もない考えが脳裏に閃いた。
「――柳沢は、誘拐事件の主犯と待ち合わせていたのですね」
「そうだと思います。柳沢は鳥丸口で主犯と待ち合わせ、広島へ行くつもりだったのです。そこでたまたま、知り合いのマスターと出くわしてしまった。ところが、主犯の方は現れない。一列車遅らせなければならないが、マスターに待ち合わせのことを言うわけには行かない。マスターが待ち合わせの相手を見たがるかも知れないからです。もちろん、主犯の姿をマスターに見られるわけにはいかない。柳沢はとっさの判断で、土産を買い忘れたふりをして時間稼ぎをし、待ち合わせの件を口にすることなく、一列車遅らせた」
「しかし、柳沢は何のために広島へ?」
「誘拐事件で使用するダイナマイトと電気雷管を入手するためです。柳沢は親和化学に勤めていた七年間、広島支社の製品管理課に配属されていました。親和化学は広島に火薬工場を持ち、柳沢はそこで製品管理にあたっていた。
ダイナマイトや電気雷管の保管管理場所、さらに警備の状況も熟知していたでしょう。柳沢は主犯の助けを借りて工場倉庫に盗みに入ったのです。広島支社に問い合わせたところ、四月末の数量検査で、ダイナマイト五本と電気雷管一本がなくなっているのが判明したそうです」
「南側の八条口ではなく北側の鳥丸口を待ち合わせに利用したところから見て、主犯は京都駅以北に住んでいると考えられませんか」
「ええ。これで主犯の居住地域は大幅に限定されます。今後は左京区、右京区、中京区、上京区、北区、重点を置いてローラー式の捜査を行っていくつもりです」
私は興奮がこみ上げてくるのを感じた。
これで主犯を特定する有力な条件が二つ浮かんだのだ。
第一は、京都駅以北に住んでいること。
第二は、四月八日の午後にアリバイがないこと。
岩崎警部補が、ためらいがちに口を開いた。
「実は、このマスターから聞いた話はもう一つあるのです。ただし、こちらの方ははたして事件と関係あるかどうかわからないのですが……」
喋る価値があるかどうか迷っているような口調だった。
「どんな話です?」
「事件の一週間前、四月十一日、柳沢は〈シャレード〉から帰るときに、奇妙なことを口にしたというのです。
『誰も気がついていないようだが、Yという奴が偽物なんだ』と」
「Yという奴が偽物……?」
「念のため、柳沢の身近にYというイニシャルの人間がいるかどうか調べてみましたが、一人もいませんでした。まあ、事件と関係あるとはとうてい思えませんが」
確かに、事件と関係あるとは思えない話だった。
だが、柳沢は誘拐事件の共犯だった。
とすれば、彼のどんな言葉も、事件とつながりのある可能性がある。
「いずれにせよ、主犯について有力な手がかりが得られました。柳沢の交遊関係をさらに調べれば、主犯は必ず浮かび上がります。逮捕も間近ですよ」
11
だが、そうはならなかった。
それ以後、捜査行き詰まってしまったのだ。
誘拐犯には、悦夫の監禁現場にも柳沢の殺害現場にも手がかり一つ残していなかった。
主犯の正体は不明のままだった。
柳沢の身近には、京都駅以北に住んでいる人間こそ何人もいたものの、その中で事件の十日前、四月八日に広島方面に出かけた人物は一人もいなかった。
悦夫が誘拐された時刻には誰にもアリバイが成立したし、金に困っている人物も浮かび上がらなかった。
半年が過ぎ、一年が過ぎた。
警察の必死の捜査にもかかわらず、主犯は依然突き止めることができなかった、二年が過ぎ、三年が過ぎた。
やがて私と早紀子の心は深く沈みこんだ。
おもてから見たのではわからないだろうが、悲しみはしばしば姿を現し、心を切り裂いた。
そして――四年前、二〇〇〇年の十月十五日。
家の近所で買い物帰り、白川通を歩いていた早紀子は、居眠り運転の車が歩道の幼稚園児に突っ込んでいくのを見て、とっさに走り出て幼稚園児を突き飛ばした。おかげで幼稚園児はかすり傷を負っただけで助かったが、早紀子は車を避けきれずにはねられた。
そして、近くの病院に運び込まれたのだった。
〈メディア・ナウ〉にいた私が病院から知らせを受けて駆けつけたとき、早紀子は緊急手術を済ませたばかりだった。
私は船岡山の自宅で翻訳の仕事をしていた香苗さんにも連絡し、香苗さんはすぐさま病院に飛んできた。
私たちは病院のロビーで、手術を担当した医師に妻の容態を聞いた。
右腕と肋骨の骨折、脳震盪のほか、車にはねられた衝撃で内臓で傷め、あちこちに擦過傷を負っているという。
私は医師の胸倉をつかむようにして尋ねた。
「先生、どうなのでしょうか。妻は助かるのでしょうか」
医師は目を伏せ、慎重な口ぶりで答えた。
「――手術も無事済みました。大丈夫だと思います」
私は医師の肩をつかんで揺さぶった。
医師の首ががくがくと揺れた。
「お願いです。どうか妻を助けてください」
医師は私の剣幕に驚いてあとずさった。
「われわれはできる限りの手を尽くしています」
そう言うと、そそくさと立ち去った。
私たちは病室の前の長椅子に移動し、不安に苛まれながら待ち続けた。
妻は一人息子を失っただけでなく、今は自らが重傷を負い、明日をも知れないからだとなっている。
なぜ早紀子がこんな目に遭わなければならない? 誰よりも心優しく、誰一人傷つけることを望まなかった妻が、なぜこんな運命に見舞われなければならない? 夕方になって、担当の医師が看護婦を従えて病室に入った。
しばらくして出てくると、私と香苗さんにうなずいてみせた。
「五分だけなら面会してくださって結構です」
私たちは長椅子から弾かれたように立ち上がった。
病室のドアに手をかけたとき、かすかな不安と気後れを感じた。
早紀子は変わり果てた姿になっているかもしれない。
だが、たとえどんな姿になろうと早紀子は早紀子だ。
私は病室のドアをゆっくりと引き開けた。
妻はベッドに横たわり、胸元まで毛布をかけられていた。
頭には包帯を巻き、右腕にギプス、左腕には点滴の装置を付けられていた。
早紀子はドアが開けられたのに気づくと、枕に横たえた頭を動かして私と香苗さんに目を向けた。
顔色は青ざめていたものの、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔だった。
「姉さんの馬鹿!」
香苗さんがつかつかとベッドに歩み寄ると、いきなり怒鳴りつけた。
「車の前に飛び出すなんてどういうつもり。死んだらどうするのよ!」
「心配かけてごめんなさい」
「ごめんなさいですんだら警察いらないわよ。これで怪我してるんじゃなかったら、頭を叩いてやるところよ。馬鹿、馬鹿、馬鹿!」
香苗さんは息もつかずにまくしたて、不意にぼろぼろと涙をこぼした。
くるりと背を向けると、ティッシュを取り出して鼻をかんだ。
私は精一杯軽い口調で言った。
「とにかく無事でよかった。包帯姿もなかなか魅力的だ」
「まあ、ありがとう!」
「だけど、やることがちょっと無謀だったね。君は陸上競技のスプリンターじゃないんだから」
「本当にごめんなさい。でも、車があの子に突っ込んでいくのを見たとき、あの子が一瞬悦夫に見えたの。
悦夫を助けなきゃ……そう思って、気がついたら勝手に動いていた。だけど、運動神経が鈍いから、自分がはれられちゃった。ドジね、わたしって……」
妻はくすりと笑った。
それから心配そうな表情になると、「ねえ、あの子は大丈夫だったの?」
「ああ。かすり傷ですんだそうだ」
「よかった……」
自分が重傷を負ったというのに、他人のことだけを考えている。
それがたまらなかった。
香苗さんはティッシュをゴミ箱に放り込むと、鼻をすすり上げ、えへんと咳払いした。
「お邪魔虫は退散しますから、あとはお二人でごゆっくり」
おどけた口調で言うと、病室を出ていく。
私と妻はしばらくのあいだ、お互いの顔を見つめていた。
「お願いだから、もうこんなことはしないでくれ。君がいなくなったら、僕は独りになってしまう」
「そんなにつらそうな顔をしないで。わたし、絶対に死なないわ。悦夫の分まで生きる。髪が真っ白になる日まで、あなたと一緒に生きるのよ」
「本当だね? 約束してくれるね?」
「約束する。わたしがこれまであなたとの約束を破ったことがある?」
「じゃあ、指切りしてくれないか」
そして私たちは、幼い少年と少女のように、互いの小指を絡ませ合った。
妻の小指は白く華奢だった。
私のすべての力がこの指を伝って早紀子のからだに流れ込めばいい、心からそう願った。
ドアが開き、看護婦が入ってきた。
「今日の面会はこれで終わりにさせていただきます。患者さんが疲れますので」
私は後ろ髪を引かれる思いでベッドを離れた。
病室を出るとき、妻の方を振り返った。
「明日また来るよ」
早紀子はにこりと微笑んだ。
それが、私が目にした最後の笑顔となった。
その夜は遅くまで寝付くことができず、明け方少し眠っただけだった。
朝の七時過ぎ、病院から連絡を受けた。
早紀子の容態が急変したという。
不意に世界が暗転したように感じられた。
病室には私に続いて柏木と香苗さんも駆けつけた。
柏木は私を痛ましそうに見つめ、香苗さんは唇をかみしめて涙をこらえていた。
早紀子は昏睡状態に陥り、医師や看護婦がベッドの周りを慌ただしく動いていた。
傷ついていた脳の血管が破れたということだった。
ベッドの脇には心電図のモニターが置かれ、規則正しい電子音とともに、光の波形を描き出していた。
信じられなかった。
昨日あれほどはっきりと言葉を交わすことのできた早紀子が、今朝はものも言えなくなっているとは。
そして――。
午前十時五十一分。
心電図の光の線が波打つのをやめ、凪の海のように平らになった。
それは二度と波打つことはなかった。
早紀子の表情は安らかで、まるで眠っているかのようだった。
だが、シ−ツのような顔の白さが、それが偽りであることを告げていた。
医師が臨終を告げたとき、私は全身の血が引いていくのを感じた。
視界がかすみ、からだが震えた。
周囲の人々の存在が意識から消え去り、私は変わらぬ妻と二人で白い闇の中を漂っていた。
早紀子が死んだ。
十七年間連れ添い、心から愛し合った妻が妻が死んだのだ。
それは、私が死んだのと同じことだった。
早紀子の言葉がふと蘇る。
――階が真っ白になる日まで、あなたと一緒に生きるのよ。
彼女は一つだけ約束破ったのだ。
人は誰でも、かけがえのない存在を持っている。
世界に意味を与えているのはそうした存在のだ。
恋する者にとってそれは恋人、音楽家にとってそれは音楽かもしれない。
私にとって、それは悦夫と早紀子だった。
二人がこの世から奪い去られたとき、私にとって世界はその意味を喪失したのだ。
早紀子の葬儀のあと、私は文字どおり魂の抜け殻と化した。
私はそのとき四十二歳だった。
やがては五十になり六十になり、老い、そして死んでいくだろう。
それまで早紀子と悦夫なしで過ごさなければならない空虚な歳月の長さを思うと、気が狂いそうだった。
それから逃れようとして、私は仕事に没頭した。
柏木は毎朝〈メディア・ナウ〉で顔を合わせるたびに、心配そうな顔でなにか言おうとした。
だが、そのたびにもぐもぐと口をつぐみ、仕事の話に移るのだった。
私としてもその方がよかった。
悔やみの言葉など聞きたくはなかった。
窓の外に広がる西の空が赤く染まる頃になると、私の不安は増していく。
帰宅するのが恐ろしかった。
誰もいない空っぽの家に帰るのが恐ろしかった。
私は毎晩遅くまでオフィスに残り、社員が一人一人挨拶をして引き揚げていくのを脇目にひたすら仕事に没頭していた。
柏木はいつも最後まで付き合ってくれた。
窓のプラインドを下ろし、静まり返ったオフィスで、私たちはほとんど言葉を交わさないまま、キーボードを叩き続けた。
やがて柏木もちらりと時計を見ると、ため息をついて立ち上がり、帰り支度を始めるのだった。
別れの挨拶を呟いて、友人はオフィスから消えていく。
香苗さんの持つ暖かな家に帰るために。
午前零時を目前にする頃、私はようやくオフィスをあとにする。
深夜の道路を車で走り、明かりの灯らない家に帰り着く。
ろくな食事も取らずに酒を飲み始める。
やがて意識を失い、泥のような眠りに落ちる。
朝、頭痛とともに目を覚まし、洗面台の鏡の中に見出すのは、青白くやせ衰え、目を血走らせた幽鬼のような男の顔だ。
一番持てあますのは休日だった。
誰もいない家にいるのに耐えられず、かといってオフィスに出れば、ビルの警備員に呆れ顔をされる。
私は車に乗ったり歩いたりして、あてどもなく京都の街をさ迷った。
だが、それは痛む歯を舌で触るような行為でもあった。
京都の街の至るところに早紀子と悦夫の思い出があった。
早紀子と初めて口づけを交わした木陰のある京都御苑。
彼女とよく行った新京極の映画館。
寄り添いながら歩いた鴨川べり。
一日借り切って結婚式を挙げた北山レストラン。
二人で暮らし始めた下鴨のマンション。
悦夫が生まれた北大路の病院。
悦夫を連れて出かけた四条河原町のデパート……。
何もかもが記憶を蘇らせ、還らぬ二人を思い出させた。
私が心安らげる場所はどこにもなかった。
11
警察の捜査が行き詰まってかなりの月日が経っていた。
このまま空虚な人生が続き、やがて事件に時効が成立し、世間の誰もが事件を忘れ去るのだろう……そう思い始めた頃だ。
何気なく受けた癌検診で、私は悪性の膵臓癌に蝕まれていることを告げられた。
膵臓癌は胃癌や大腸癌と違い、早期発見が難しく、発見されたときは手遅れになっていることが多い。
私の場合もそうだった。
〈メディア・ナウ〉の社長の座を柏木に譲り、ただちに京大病院に入院した。
それから今日まで、半年間の経緯については多くを記すまい。
私も大方の癌患者と同じ道をたどった。
最初はどうしても信じられなかった。
誤診ではないかと何度も医師に問いただしたものだ。
誤診ではないとわかったとき、足元が崩れおちるような恐怖に襲われた。
しばらく前までは早紀子と悦夫のあとを追いたいとすら考えたこともあったが、そうした死への想いなど、しょせんは想像に過ぎなかったのだ。
現実的な可能性となって目前に迫った死はおぞましく不可能で、耐えられないほどの恐怖をもたらした。
次いでやってきたのは怒りだった。
なぜほかの誰かではなく私が死ななければならないのか。
なぜ三十年先ではなく今死ななければならないのか。
世界に対する怒りが私を焼き尽くした。
周囲の人々に怒りをぶつけたいという衝動を懸命に抑えなければならなかった。
私は少しでも長く生きることに望みをつないだ。
インターネットでさまざまな医療サイトを閲覧しては、少しでも有望そうな治療法をチェックした。
たとえ一ヶ月でも、一週間でも長く生きたい。
そう願って、どれほど怪しげな治療法でも担当医師に問いかけた。
そのどれもが命を長引かせることはできないとわかったとき、底知れぬ憂愁が心を閉ざした。
情動が鈍り、私は自閉症のようにおのれのうちに閉じこもった。
自分の人生が、これまで為してきたことのすべてが、無意味であるように思われた。
そうした葛藤の末、ついに私はおのれの死を、穏やかな諦念とともに受け入れた。
そのとき、世界はかつてないほど美しく輝き始めた。
病室の窓から眺める風景も、窓の外でさえずる小鳥の鳴き声も、人々のざわめきも、驟雨《しゅうう》に濡れた土の香りも――何もかもが新鮮で美しかった。
まるで、一瞬の中に永遠が宿っているかのようだった。
私は幼子のように世界の姿に目を瞠《みは》っていた。
そして、自分が為すべきことを悟った。
それは、自らの想いを書き記すことである。
死の最も残酷な意味は、肉体が滅びることではなくて、すべての想いが消え去ることだ。
かつて一人の人間が喜び、怒り、悲しみ、楽しんだ想いも、かつてその人間が心から愛した者たちについての想いも、すべては死とともに跡形もなく消えてしまう。
これに抵抗できるものはただ一つ――書くことだ。
書くことで、人の想いは死と時間を超えて永遠に存在し続けるのである。だから私はこうしてキーボードを叩いている。
妻と息子がどれほど理不尽に奪われていったのか、その嘆きと怒りを記するために。
二人への愛を記すために。
病室の窓から見える東山連邦の新婦が、春の日差しに光り輝いている。
中継を行き交う人々の足取りも軽やかになってきた。
この手記をノートパソコンで書き始めてからもう一ヶ月近くなるのだ。
今日は公証人に病室に来てもらい、遺言状を作成した。
私が所有している〈メディア・ナウ〉の株式と銀行預金、土地、家屋のすべてを柏木に寄贈するという内容だ。
すべてを合わせれば、時価にして五億円にはなるだろう。
私の肉体はまもなく消え去るが、私が心血注いだ〈メディア・ナウ〉はそのあとも存続する。
それは、私の一部が生き続けるということではないだろうか。
私の地獄遍歴もようやく終わりを迎えようとしている。
すべての想いをこの手記に書き記した今、私の心は母の胸に抱かれた嬰児のように安らかだ。
ただ、事件が解決しないことだけが私を苦しめる。
岩崎警部補を始めとする捜査班の人々は、今でも病室を訪れては捜査報告をしてくれる。
捜査に投入された人員は延べ五千人の及ぶという。
だが、主犯が誰なのかわかっていない。
彼らは悔しそうに告げ、唇をかみしめて帰っていく。
ふと夢見ることがある。
私は柏木と香苗さんに頼んで、この手記をウェブサイトで公開してもらうつもりだ。
いつの日か、これを読んだ誰かが、警察とは違う角度から事件を再調査してくれるかもしれない。
そのときこそ、事件は解決されるのかもしれない。
しかし、私が生きてその日を抑えることはない。
からだの痛みは日増しにひどくなっている。
岸が全身に転移して、鎮痛剤が効かなくなってきたのだ。
私の命も永くはない。
枕元の写真に目をやる。
十二年前の春、鴨川の岸辺で撮った私と妻と息子の姿。
早紀子。
悦夫。
もうすぐお前たちのところへ行く。
また三人で一緒に暮らそう。
萌いずる木々の縁。
晴れた空の青さ。
こんなにも美しい季節に死ねることを、私は幸せに思う。
第二章 再調査
1
「十二年前の春、何をしていたか憶えています?」
奈良井明世はそう言うと、三人の仲間たちを見回した。
「十二年前?」
と慎司は応じて、「大学の二年生だったな。毎日雀荘に入り浸って、授業にはほとんど出なかった」
「さぞかし親が嘆いていたでしょうね。あんたみたいな人間が刑事になってることが信じられないわよ。
学部はどこだっけ?」
「法学部」
「法学部始まって以来最低の学生だったんじゃないの。あんた、よく卒業できたわね。理恵さんはもちろん真面目に授業に出ていたよね」
理恵はにっこりと微笑して、「ええ。わたしは医学部の二年生でしたけれど、毎日授業に出ていました。人体の構造を学んだり、解剖実習をしたり、とても面白かったですよ」
「おっとりした理恵さんがそういうことを言うとすごくシュールだな。峰原さんは?」
マンションオーナーは、手にしていた紅茶のカップを置くと、「私はまだ弁護士をしていました。ちょうど大きな民事訴訟を抱えていて、忙しく働いていましたよ。明世さんは何をしていました?」
「あたしも大学の二年生だった。イギリスに一年間交換留学していました」
五月十五日土曜日の夜。
ところはいつものように〈AHM〉の最上階にある峰原卓の書斎。
慎司、明世、理恵、峰原の四人はガラステーブルを囲み、ソファに腰を下ろしてくつろいでいた。
テーブルの上には、これまたいつものように峰原が淹れてくれた紅茶のカップが載っている。
今日は四人でフランス料理を食べに行き、そのあと峰原の住居に立ち寄ったのだった。
東側の壁にある大きな出窓を開け放してあるので、そこから心地よい、風が吹き込んでくる。
お腹はいっぱい、気候も一年で一番よい季節とあって、慎司はゆったりと穏やかな気分になっていた。
明世の罵詈雑言もまったく気にはならない。
「で、十二年前の春がどうしたっていうんだい?」
慎司が問うと、明世は待ってましたとばかりに、「その頃、京都で児童誘拐事件が起きたのを憶えてない?」
「児童誘拐事件? 憶えてないなあ。誘拐事件なんて、毎年何件も起きるからね、よほど大規模か、よほど悲惨な事件でない限り、いちいち憶えていられない」
「あんた本当に刑事なの? 誘拐事件が毎年何件も起きるのは警察が無能だからじゃないの」
「日本での誘拐事件の解決率は九割を超えているんだぜ。無能呼ばわりされるいわれはないね」
「男の子が爆殺された事件ではなかったでしょうか?」
と理恵が口を挟む。
「そう。さすが理恵さん、よく憶えているね」
「男の子がとてもかわいそうでした。わらし、男の子の冥福を祈って毎日お祈りしておりました」
ほかの人間が言ったなら冗談だろうが、理恵の場合は真面目である。
「思い出しましたよ」
峰原がうなずきながら言った。
「テレビや新聞で大きく取り上げられたのを憶えています。悲しい事件でした。私の所属していた東京弁護士会のあいだでも、かなりの話題になっていた。その事件がどうかしたのですか?」
「実はですね、誘拐された子供の父親が、インターネットで手記を公開しているんです」
「ほう、手記ですか」
峰原の彫りの深い顔に、微かな驚きの色が浮かんだ。
「今あたしが手がけている仕事が、犯罪者の自伝の翻訳なんですよ。それで、犯罪関係のサイトをよく見るようになったんですけど、そこでたまたまその手記のことが紹介されていて。今日はその手記を読んでもらおうと思って、パソコンを持ってきたんです」
明世は鞄からモバイルノートを取り出すと、ガラステーブルの上に置き、起動させた。
PCカードスロットに、カード型のPHSが差し込んである。
インターネットに接続し、〈お気に入り〉から一つ選んでクリックした。
慎司と峰原と理恵は画面を覗き込んだ。
白地の画面の真ん中に一枚の写真が映っていた。
春の日の午後。
河川敷に三人の人間が立っている。
三十過ぎの男女と、幼い少年だ。
背後には緑なす山々と森と橋、そして土手で淡く輝く桜並木。
暖かな日差しの降り注ぐ中、三人はこちらに向けて笑いかけている。
どこにでもいるような平凡な家庭の光景である。
写真の上には、〈竜を愛した少年〉というサイトの名前。
写真の下には竜を模したアイコンが四つあり、それぞれ〈このサイトについて〉、〈事件の概要〉、〈成瀬正雄の手記〉、〈情報ください〉と題されている。
開設日は今年の四月十四日だが、画面右下にあるカウンター表示はすでに千に達している。
かなりの訪問者があるサイトのようだった。
明世が〈このサイトについて〉をクリックすると画面が変わり、説明の文章が現れた。
「平成四年四月十八日、京都で小学二年生の少年が誘拐されました。犯人は少年を琵琶湖畔のボート格納庫に監禁し、時限爆弾を仕掛けて身代金を要求。父親は身代金を届けましたが、警察の介入に気づいた犯人は時限爆弾を解除しないまま逃亡し、少年は亡くなりました。事件は現在も未解決のままです。少年の名は成瀬悦夫。成瀬正雄と早紀子夫妻のあいだに生まれた一人息子でした。成瀬正雄は今年〈平成十六年)四月に四十六歳の若さで膵臓癌により他界しましたが、その直前に手記を遺しました。ここは、その手記を紹介するサイトです。このサイトの管理人である私たちは、柏木武史と香苗という夫婦です。柏木は成瀬正雄の親友であり、香苗は早紀子の妹です。私たちは成瀬正雄の遺志を受けて、彼の遺した手記を公開しています。十二年前の春の日、幸福な一家を襲った悲劇を、一人でも多くの人に知っていただきたい。そして、事件解決のために情報を寄せていただきたいのです」
明世が続いて〈事件の概要〉をクリックすると画面が変わり、平成四年四月十八日の朝に成瀬悦夫が誘拐されてから十九日の午後七時に死亡するまでの事件の経緯が、ドキュメント風にまとめられていた。
慎司もようやく思いだした。
あの頃は授業にほんのときおり出席して、あとは雀荘に入り浸るという生活だったのだが、巨額の身代金と、子供を爆殺するという残酷な手口が、友人たちのあいだでも話題になっていた。
あの頃はまさか自分が将来刑事になると思ってもいなかった。
明世が次いで〈成瀬正雄の手記〉をクリックする。
アクロバットリーダーが起動し、PDFが開かれた。
「二〇〇四年三月 病室にて」と冒頭にあるところから見て、成瀬正雄はこの手記を膵臓癌で入院中に書いたらしい。
「で、この手記がどうしたっていうんだい?」
慎司が問うと、明世は悪戯っぽい表情で、「実は、みんなで手記を読んで推理合戦でもしてみようかなって思ったの。サイトの管理人も、『事件解決のために情報を寄せていただきたいのです』って書いてるし」
「推理合戦?」
「うん。あたしたちはこれまで、二件の事件を見事に解決してきたでしょ。珠美さんの事件と〈仲代彫刻美術館〉の事件と」
「あたしたち、じゃなくて、峰原さんが、だろ」
慎司の突っ込みに明世はえへへと笑って、「そう、峰原さんが、だけどね。でも、名探偵だって、ワトソン役が誤った推理をするからこそ事実を見破れるんじゃないかな。とにかく、峰原さんの知恵を借りて、みんなで推理してみようっていうのがあたしの考え。で、なにかいい推理が生まれたら、サイトの管理人にメールするの」
明世は期待を込めて峰原を見る。
だが、当の峰原は苦笑して首を振った。
「残念ながら、私にできることは何もありません」
「えー、どうしてですか? 峰原さん、謙遜しないでくださいよ」
「謙遜しているわけではない。誘拐事件は、これまでの二件の事件とは根本的に違うのです」
「根本的に違う?」
「そうです。西川珠美さんの事件も〈仲代彫刻美術館〉の事件も、舞台が限定されており、容疑者はわずか数人しかいませんでした。だからこそ、私のような素人探偵にも対処できたし、推理を働かせる余地もあった。しかし、誘拐事件はそうではない。被害者が裕福であることを知っていた人間なら、誰でも容疑者たりうるのです。極端な話、日本中の人間が容疑者たりえます。犯人は、浜辺の砂のように膨大な数の群衆の中に身を潜めている。犯人を捜すのは、立った一粒の砂を捜そうとするのに等しい。そうした事件に対応できるのは、大量の人員と時間を投入し、一人一人虱潰しにしていく警察の組織力だけです。素人探偵には歯が立たない。もちろん、推理によって犯人像をある程度絞り込むことは可能かもしれませんが、それでもその対象となるのは数千人、数万人はいるはずです。こうした事件に対しては、素人探偵は何の役にも立たないのです」
「うーん、そうなのかな……」
明世はがっかりした顔になる。
慎司は、刑事たる自分も警察の名誉のためにいささか発言しておかなければと思い、「警察だって馬鹿じゃないんだぜ。その警察が十二年かかって解決できなかった事件を、素人探偵がほいほい解決できるものか」
「あんたがクビにならずにいることで、あたしの警察に対する信頼は地に落ちてるんだけどね」
と明世が言い返す。
理恵がにこにこしながら発言した。
「でも、せっかく明世さんがパソコンを持ってきてくださったんですし、手記を読んでみるのもいいんじゃありません?」
「理恵さん、ありがとう。優しいね」
慎司も峰原も理恵の提案には逆らえない。
かくして一同は、明世の肩越しに両面を覗きつつ、PDFを読むことになったのである。
静かな悲しみに満ちた手記だった。
息子と妻を理不尽なかたちで失っていく姿が、淡々として筆到で描かれている。
それだけに、成瀬正雄の悲しみはより強く胸に迫ってくるのだった。
それと同時に、慎司は自分がこのときの京都府警の刑事ではなくてよかったと心から思った。
これまで誘拐事件の捜査班に加わったことは一度もないが、捜査一課の刑事にとって、誘拐事件ほど緊張を強いられるものはない。
殺人や障害や窃盗はすでに起きてしまった事件だが、誘拐は今起きつつある事件なのだ。
事件が無事終結するのか、人質が無事帰ってくるのか、それはすべて捜査に当たる刑事たちの判断にかかっている。
一つでも判断を間違えば、取り返しのつかない結果になる。
そのいい例(悪い例?)が、捜査員が「キツネ目の男」を目撃しながら取り逃してしまったグリコ・森永事件であり、取引現場監視班の姿を犯人に目撃されて取引を打ち切られてしまったこの事件だ。
一同が読み終えたのを確認すると、明世はPDFを閉じ、トップページに戻した。
慎司はそこにある成瀬一家の写真を再び目にして、それが手記の冒頭で触れられていたものであることに気がついた。
十二年前、事件の直前に柏木香苗が河川敷で撮ったという写真。
死を前にした成瀬が、ベッドのサイドテーブルに飾っていたという写真。
成瀬正雄は長身で、端正な顔立ちをしていた。
享年四十六歳というから、このとき三十四歳だったはずだ。
髪を短く刈り込み、広い額に、知的な眼差しをしている。
口元は強い意志を示すように引き締まっていた。
その右隣には早紀子が立っている。
すらりとしたからだつきで、夫より、二、三歳年下に見える顎の辺りで切り揃えたつややかな黒髪が、色白で小作りな顔によく似合っている。
夢見るような瞳、こぢんまりとした鼻、ふっくらとした頬、笑みをたたえたかたちのよい唇。
控えめだが、見る者の心を暖かくするような美しさの持ち主だった。
二人の前には幼い少年が立っていた。
悦夫だった。
利発そうな顔立ちで、目元は母親似、口元は父親似だ。
両肩に父と母の手を置かれ、生真面目な表情でこちらを見つめている。
春の日差しを浴びる三人は、不幸の影一つない、幸福な家族だった。
だが、この直後、悲劇がこの一家を襲ったのだ。
「どうですか、皆さん。何か推理は浮かびました?」
明世が振り返って言う。
物語じゃあるまいし、そう簡単に推理が浮かぶものか。
慎司はいささか呆れて、「手記を読む限り、事件後の京都府警の捜査は徹底している。それだけ徹底しながら、犯人はいまだに捕まらないんだ。部外者が手記を読んだだけで推理しようなんて無理だよ」
「峰原さんは?」
マンションオーナーは微笑して首を振った。
「駄目ですね。これまでの二つの事件での私の推理は、フロックだったようです」
「峰原さんも駄目か……。理恵さんは?」
女精神科医はこたえなかった。
焦点の合わぬ眼差しでぼんやりと宙を見つめている。
明世が理恵の顔の前でひらひらと手を振った。
「理恵さん、大丈夫? なんだか、いつにも増してぼうっとしてるよ」
理恵は目をぱちぱちさせると、にっこりと微笑んだ。
「ええ……大丈夫です。ただ、手記を読んで気になることが二点あって……」
明世は身を乗り出した。
「気になることが二点? 何それ」
「第一点は、犯人が、身代金の届け先を悦夫君の監禁現場に指定したことです」
「それのどこがおかしの。犯人が身代金を奪うのと、悦夫のそばに置いた時限爆弾を解除するのと、一挙にできるんだから、犯人にとってはとても都合がいいじゃない」
理恵は小首をかしげると、「都合がいい? 本当にそうでしょうか。身代金の届け先を悦夫君の監禁現場に指定した結果、どうなったと思いますか。
警察がそこを監視したため、犯人は身代金を奪えなかった上に、時限爆弾の解除もできなくなり、悦夫君は死亡しました。ですけど、こうした事態が起こりうることは、犯人にも予測がついたはずなんです。それなのに、犯人は身代金の届け先を悦夫の監禁現場に指定しました。おかしくはないでしょうか?」
「……確かにそうよね」
「犯人はなぜ、身代金の届け先と悦夫君の監禁現場を別々にしなかったのでしょうか。そうすれば、仮に身代金の届け先を警察が監視したところで、犯人は時限爆弾を解除して、取引のやり直しを要求することができます。犯人にとって人質はとても大切な存在です。身代金を要求できるのは人質があってこそですから。それに、人質を死なせれば、刑法上の罪は一気に重くなります。犯人にしたところで、人質の死亡はできるだけ避けたい事態のはずです。それなのに犯人はなぜ、人質の時限爆弾を解除できないような状況を自ら作り出したのでしょうか?」
言われてみれば、もっともな疑問だった。
理恵がぼうっとした外見とは裏腹にとても頭の切れる女性であることは、これまでの付き合いから慎司たちもよく承知している。
「わたしにはまるで……犯人が取引の失敗を望んでいたように思えるんです」
「取引の失敗を望んでいた? 何で取引の失敗を望むの。理屈に合わないじゃない」
「合いませんね」
「気になることの二つ目は?」
「第二点は、実際に時限爆弾を仕掛けたことです」
「実際に仕掛けて何がおかしいのよ」
「時限爆弾を仕掛けたと脅すのにしても、実際に仕掛ける必要なんてないんです。仕掛けたと信じさせるだけでいい。
たとえば、時限爆弾を成瀬さんのところに送りつけて、これと同じものを息子の監禁現場にセットした、と脅すとか。
それに、身代金の取引が何らかの理由で延期された場合、もし実際に時限爆弾をセットしたら、わざわざそれを解除しなければならなくなります。犯人だって、一回の取引で身代金を受け取れるとは限らないことはわかっていたはずです。それなのになぜ、実際に時限爆弾をセットしたんでしょう?」
二人のやり取りを黙って聞いていた峰原が、そのときおもむろに口を開いた。
まるで舞台俳優のように、その声は書斎に響き渡った。
「なるほど。私もわかりましたよ。その二点から導き出される結論は、ただ一つ。犯人は身代金を奪うつもりなどなかった。悦夫の殺害こそが真の目的だったということですね」
2
慎司は最初、何を言われたのかわからなかった。
次いで、峰原の言葉が脳裏に浸透するに連れて、驚きがじわじわと広がっていった。
明世もぽかんと口を開けている。
二点の疑問をあげた当人である理恵は、うすうす気づいていたことにようやく明確な結論が与えられたという面持ちだった。
峰原は穏やかな声で続けた。
「第一点から見てみましょう。身代金の届け先を悦夫の監禁現場に指定したのはなぜか。そんなことをすれば、届け先を警察が監視し、時限爆弾を解除できなくなり、身代金を奪えない上に貴重な人質まで失ってしまうというのに。悦夫を殺すことが目的だとすれば、この疑問が説明できます。犯人は、時限爆弾を解除できなくなり、悦夫の命が失われる事態を望んでいたのです。身代金を受け取るつもりなど初めからなかった。理恵さんの言葉を借りれば、犯人は取引が失敗に終わることを望んでいた。第二点、時限爆弾を仕掛けたと脅すにしても、実際に仕掛ける必要はなく、成瀬正雄に仕掛けたと信じさせるだけでいいのではないか? この疑問も悦夫の殺害が真の目的だとすれば説明できます。
悦夫を殺すためには、当然のことながら時限爆弾は実際に仕掛けなければならない。もう一点、指摘しておきましょうか。
犯人は成瀬に、身代金を届けて去るときはボート格納庫のシャッターを必ず閉めるよう指示しています。あれは、シャッターを閉めることにより、時限爆弾が爆発したとき悦夫の救出が遅れ、確実に悦夫が死ぬようにするためだったのです。犯人は悦夫を殺したい動機があった。そして、その動機はかなり明白なものだったのでしょう。単に殺したのでは、すぐに動機に気づかれ、ひいては犯人を特定される恐れがあった。そこで犯人は、〈誘拐での身代金受け渡し失敗による人質死亡〉というフィクションを作り上げたのです。身代金誘拐の中で悦夫が死んだと見なされる限り、捜査陣は犯人の動機を見逃すことになります。犯人は――というよりは主犯は、身代金誘拐の偽装をするために、共犯者を必要とし、柳沢幸一に白羽の矢を立てた。柳沢は近いうちに大金が入ると複数の知人にほのめかしていたそうです。主犯が犯行計画をどこまで柳沢に明かしていたのかはわからない。悦夫殺害まで打ち明け、大金を約束して犯行に引き込んだのかもしれないし、あるいは柳沢は身代金を奪うことが目的だと信じ込んでいたのかもしれない」
慎司は茫然としていた。
峰原の導き出した結論は、刑事としての慎司の経験に真っ向から反対するような突飛なものだ。
しかし完璧に論理的で、一点の隙も見出せない。
それでも、反論を試みた。
「……犯人には悦夫を殺したい動機があったといっても、幼い子供を殺すような動機なんてありますか? それも、誘拐の偽装までして」
「一つだけあるじゃない」
と、明世が目を輝かせながら言った。
「幼い子供を殺す動機が、一つだけあるじゃないの」
「何だい」
「相続人を消すという動機よ」
「相続人を消す」
「成瀬正雄はかなりの資産家だった。そして、悦夫はその相続人だった。悦夫がいなくなれば、成瀬の資産は別の人間に受け継がれることになる」
「……柏木武史と香苗か」
「そう。二人は成瀬の相続人である悦夫を殺害し、そのあとに成瀬と早紀子を殺害し、遺産をすべて自分たちのものにするつもりだったんじゃないかな。成瀬の手記の終わり近くにこんな記述がある。『今日は公証人に病室に来てもらい、遺言状を作成した。私が所有している〈メディア・ナウ〉の株式と銀行預金、土地、家屋のすべてを柏木に寄贈するという内容だ。すべてを合わせれば、時価にして五億円にはなるだろう』。成瀬が死んだら、共同経営者の柏木武史が遺産を受け継ぐということよ。もちろん、成瀬が先に死んだら早紀子に遺産が行ってしまうから、早紀子を成瀬より先に殺しておかなければならない。まあ、仮に早紀子に遺産が行ってしまったとしても、早紀子を殺せば、妹である香苗が遺産を相続するから大丈夫なんだけど、そうすると相続税を余計に取られることになるから、まず早紀子、次いで成瀬という順番で殺したい方がいいことは言うまでもないよね。もっとも、柏木夫婦にとっては幸運なことに、成瀬と早紀子はそれぞれ病死と事故死で世を去ったので、直接手を下さずにすんだ。しかもおあつらえ向きに、まず早紀子、次いで成瀬という順番で死んでいくれた。動機以外の点からも、柏木夫婦が犯人だと分かる。主犯が柳沢に電話をかけさせたのは、自分のアリバイを確保するためだった。つまり、主犯は柳沢が電話をかけた時刻にアリバイのある人物なのよ。事件二日目、成瀬家にいた柏木夫婦は、その条件に当てはまる。犯人から被害者の家に電話のかかってきた時刻に、当の被害者の家にいるなんて、最高のアリバイじゃない? 成瀬正雄の手記を紹介するサイトをこうして作ったのは、柏木夫婦のせめてもの罪滅ぼしなのかもしれない。あるいは、悪く考えれば、サイトで事件についての情報提供を呼びかけることで、自分たちの犯行にとって都合の悪い目撃者がいないかどうか、確かめようとしているのかもしれない」
なるほど、と慎司は感心した。
明世の推理能力はまったく買っていないのだが、今度ばかりは正解かもしれない。
だが、峰原は首をかしげた。
「その説にはちょっと納得できませんね」
「どうしてですか?」
明世が不満そうな顔をする。
「成瀬の相続人である悦夫を消し、そのあと成瀬と早紀子も殺して遺産を独占する、と言いましたね。しかしそれなら、悦夫を殺したあとすぐに成瀬と早紀子も死なせなくてはまずい。悦夫が死んだ時点では、成瀬も早紀子もまだ三十代だった。第二子、第三子が生まれる可能性もあった。新たな相続人が生まれる前に、成瀬と早紀子を消すべきでしょう。ところが、早紀子が事故死したのは事件から八年目。成瀬が病死したのは事件から十二年目で、それまで二人の命を狙う行動はまったく取られていない。とすれば、柏木夫婦犯人説は怪しくなってくる」
「……そうですよね」
明世はがくりと肩を落とした。
「相続人を消すんじゃないとすると、犯人の動機はいったい何なんだろう……」
理恵がのんびりした口調で言った。
「あのう、ちょっといいですか。手記によれば、柳沢さんは事件の一週間前、〈シャレード〉という喫茶店から帰るとき、『誰も気がついていないようだが、Yいう奴が偽物なんだ』と店のマスターに言ったそうですね。あの言葉についてはどう思いますか」
共犯者だった柳沢幸一にまで「さん」付けするところがいかにも理恵らしい。
とにかく口調が馬鹿丁寧なのだ。
「事件とは別に関係ないんじゃないかな」
と慎司は答えた。
「俺の記憶では、マスコミもあの言葉については報道しなかったと思う。マスコミは知っていたけれど価値がないと思って報道しなかったのか、あるいは京都府警がそもそもマスコミに発表しなかったのか、そこまではわからないけど。
いずれにせよ、価値がない情報だと見なされたわけでしょう。事件と関係あるとは思えない。だいたい、Yという奴が偽物であることと、児童誘拐――いや、児童殺害とのあいだにどんな関係があるというんです?」
「Yが、事件の主犯だと仮定してみたらどうでしょう」
「――事件の主犯?」
「悦夫君は主犯が何らかの意味で『偽物』であることを知り、口封じのために殺されたのではないでしょうか。名前を偽っているとか、身分を偽っているとか、そういう意味での『偽物』です。口封じだと考えれば、幼い子供が殺害されたことにも説明がつきます」
慎司ははっとした。
そのとおりだった。
明世がぽんと手を打ち、「それそれ、口封じよ」
と叫ぶ。
「たぶん、柳沢さんは軽率な人だったのだと思います。それで、主犯にとっては致命的な秘密、それを守るためなら幼い少年を殺害しさえする秘密――『Yという奴が偽物なんだ』――をマスターに喋ってしまったのでしょう。Yとイニシャルにしたのだから誰だかわからない、大丈夫だろうと思ったのかもしれません。――峰原さん、この推理はいかがですか?」
マンションオーナーは微笑した。
「見事ですね。私も口封じ説が正しいと思います」
明世が興奮した口調で言った。
「悦夫が口封じで殺されたのだとすると、容疑者も限定できるんじゃないかな。悦夫が主犯の秘密を知りえた以上、主犯は悦夫の身近にいる人物でなくちゃならないもの。そして、容疑者が限定されたっていうことは、素人探偵にも再調査ができるってことじゃない」
「再調査?」
慎司は驚いて問いかえした。
「そう、再調査。今までの推理で、いくつものことがわかったでしょ。第一に、犯人の真の目的は悦夫を殺すことだった。第二に、犯人は何らかの意味で『偽物』であることを悦夫に知られたため口を封じた。第三に犯人のイニシャルはYである。手記を読むだけで、ここまでわかったのよ。このままで終わらせるのはもったいないよ。京都に足を運んで、再調査をするべきよ。ひょっとしたら、主犯を突き止めることだってできるかもしれない」
「おいおい、ちょっと誇大妄想じゃないのか」
「手記にも書いてあったよね、『いつの日か、これを読んだ誰かが、警察とは違う角度から事件を再調査してくれるかもしれない。そのときこそ、事件は解決されるのかもしれない』って。あたしたち、成瀬正雄の願いに応えられるかもしれないんだよ。再調査をやろうよ。理恵さんはどう?」
「やりましょう」
と理恵が微笑む。
慎司は明世の無謀さに呆れて、「俺はごめんだぞ。これまでわかったことを京都府警に知らせるだけで充分だろ。あとは彼らに任せておけばいい」
「何言ってるのよ。あたしたちが手記を読んだだけであっという間に事件を逆転させたというのに、京都府警は十二年かけていまだに何もできないじゃない。そんな連中に後を任せるなんてまっぴら。あたしたちが事件を逆転させた以上、主犯を突き止めるのもあたしたちでなくちゃ。あんたが行かないのなら、あたしと理恵さんだけでも行っちゃうよ。峰原さんはどうですか?」
峰原は少し考えていたが、苦笑して頷いた。
「私もご一緒しましょう」
やったー、と明世は歓声を上げ、「あんたはどうする?」
と慎司に訊いてきた。
「この事件は京都府警の管轄だからね。警視庁の刑事が再調査に加わるというのはどうも……」
「警視庁の刑事だってわからなければいいじゃないの。あんたみたいな平刑事、京都府警に顔が知られているわけじゃないでしょ? まあ、あんたはいてもいなくても変わらないから、置いてけぼりにしてあげようか」
いてもいなくても変わらないのはそっちだって同じだろうが。
慎司はむっとして、思わず「俺も行くよ」と言ってしまった。
「さて、再調査の対象ですが……」
と峰原が言う。
明世は指を折って数えながら、「まず第一に、成瀬の遺族である柏木夫婦ですね。あと、悦夫の担任教師。悦夫が知った秘密に心当たりがあるかもしれないし。共犯者の柳沢について知るということで、柳沢の知人だった喫茶店のマスター。それから、京都府警の捜査官に会って捜査の進行状況を訊くべきでしょう。教えてくれるかどうかわからないけど」
峰原はうなずくと、「再調査は、二組に分かれ行った方が効率的でしょうね。私と明世さんの組と、後藤さんと理恵さんの組でどうでしょうか」
慎司たちは同意した。
峰原は言葉を続けた。
「では、私と明世さんの組が悦夫の担任教師と喫茶店のマスターを、後藤さんと理恵さんの組が京都府警と柏木夫婦を担当すると言うことでどうでしょう」
「え、俺と理恵さんの組が京都府警と柏木夫婦を担当するんですか。俺は立場が立場ですから、警察にはあまり行きたくないんですよ。できれば峰原さんたちの組に担当してもらった方が……」
「実は、手記を読んで思いついた仮説があるのです。それを確かめるには、担任教師と喫茶店のマスターに会う必要がある。申し訳ないが、京都府警と柏木夫婦はそちらでお願いします」
「手記を読んで思いついた仮説? 何ですかそれ」
明世が勢い込んで尋ねる。
しかし峰原は穏やかに微笑して首を振った。
「まだお話しするわけにはいきません。充分な確証が得られてからです」
3
地下鉄の昇降口を上ると、そこは四車線道路同士の十字路だった。
十字路の四隅には、それぞれマクドナルド、ファミリーレストラン、オフィスビル、そして古びた石垣で囲まれた敷地がある。
石垣の傍らには、白壁に黒い瓦屋根の日本家屋風の交番があり、いかにも京都らしかった。
古びた石垣は二方へ延々と続き、端が見えなかった。
よほど広大な敷地らしい。
敷地には木々が鬱蒼と生い茂っている。
どうやらここが京都御苑のようだ。
五月二十三日日曜日の正午前。
空はよく晴れ、辺りには心地よい日差しが降り注いでいる。
新幹線で京都駅に到着した一行は、そこで二手に別れ、慎司と理恵の組は地下鉄烏丸線に乗り、丸太町駅で下車したのだった。
理恵は日差しを浴びると、幸せそうな表情でにっこりと微笑んだ。
慎司はその姿に思わず見とれた。
今日の理恵はコスモスの花を散らした黒地のワンピースに白のカーディガンという服装だった。
手にはベージュ色のハンドバッグを提げている。
慎司は青系統のチェックのシャツにベージュのコットンパンツだ。
「わたしの顔に何か付いていますか」
あまりに見つめすぎたのか、理恵が訝《いぶか》しそうに問いかけてきた。
「あ、いえいえ、何も付いていないですよ」
慎司は咳払いしてごまかすと、慌てて地図を取り出し、「ええと……ここが京都御苑で、この道路が丸太町通、この道路が烏丸通だから……京都府警はこっちだな」
理恵をうながし、烏丸通を京都御苑に沿って歩き始めた。
「明世と二人きりで行動しなくちゃならないとは、峰原さんも気の毒に。今頃は明世がきゃあきゃあ騒いで、さぞかし閉口しているだろうな」
京都駅で別れたときの明世の様子を思い出しながら慎司は言った。
明世は峰原と一緒に行動できるのが嬉しいのか、やたらにこにこしていた。
「前から思っていたんですけれど、後藤さんと明世さんはとても仲がよろしいですね」
理恵がおっとりと言う。
慎司はびっくりして、「仲がいい? 冗談じゃないですよ」
「でも、いつもよく話されていますけれど」
「あいつが突っかかってくるから、応戦しているだけです」
理恵はくすくす笑った。
「応戦ですか。まるで戦争みたい」
「前世では、あいつとおれはきっと敵同士だったんじゃないかと思います」
御苑の西側を北上する烏丸通を赤煉瓦の教会の隅で左に折れ、下立売通と標識の出た道に入った。
学校らしき建物の脇を通り、数百メートル歩くと、そこが京都府警本部だった。
警察情報センター、府警広報センター、総合相談室、京都交通反則通告センターの入った近代的な六階建ての建物。
本館と記された、大学の古めかしい校舎を思わせる三階建ての建物。
そして、通信センターの入った近代的な六階建ての建物である。
通信センターの入った建物の前で立ち止まった。
中を覗き込むと、玄関口の左側に、受付の制服警官が座っているのが見えた。
「理恵さん、入りますが、覚悟はいいですか」
理恵はうふふと笑い、「はい」と答えた。
慎司は、俺は民間人だと三度呟いてから自動ドアを開けて中に入った。
眼鏡をかけた制服警官が声をかけたきた。
「何かご用でしょうか」
実ににこやかな声である。
愛される警察を大言しようとしているのかもしれない。
「実はですね、十二年前に京都で起きた誘拐事件に関する重要な情報があるので、担当の刑事さんにお話ししたいのですが……」
「ちょっとお待ちください」
制服警官は内線電話で何か話し始めた。
それを見ていると、慎司は一目散に逃げ出したくなった。
自分のような平刑事の顔が京都府警に知られているはずはないと思いつつも、自分の身分がばれ、警視庁に抗議が行き、上司の大槻警部に大目玉を食らう光景が脳裏にちらつき始めた。
大槻警部に奉られた〈軍鶏《しゃも》〉のあだ名は伊達ではないのだ。
傍らの理恵をちらりと見やると、いつものようにぼうっとした顔で周囲を興味深そうに眺めている。
慌てるとか狼狽するとかいったことをどこかに置き忘れてきたような女性である。
やがて、五十代後半の中肉中背の男が現れ、こちらに近づいてきた。
髪は白髪交じりで、平凡な顔立ちだが、目だけは鋭く光っている。
一目見て優秀な刑事であることがわかった。
部下には厳しいが、それ以上に自分に厳しいタイプだろう。
「事件について新しい情報があるというのはあなたたちですか?」
穏やかだがどこか冷やりとさせる声だった。
「はい、後藤慎司といいます」
「竹野理恵です」
さり気なく観察されていることを意識しながら、自己紹介した。
男は名刺を出した。京都府警捜査一課警部補、岩崎光也とある。
成瀬の手記によく名前の出てきた岩崎という刑事はこの人物なのだ。
慎司と理恵は応接室に案内された。
ソファに腰を下ろすと、岩崎が問いかけてきた。
「さて、新しい情報というのはどんなものでしょうか」
「新しい情報というより手記を読んでいて気がついてことなんですが……」
「手記?」
「ご存じありませんか? 成瀬正雄が死の直前に書き残した手記です。現在、ウェブサイトで公開されていますよ」
「ああ、あれですか。捜査本部でもプリントアウトして資料にしています」
「警察の方が読んでいかがです? あの手記は正確なんでしょうか?」
「非常に正確ですね。こと警察の捜査に関する限り、成瀬正雄は極めてよく記憶している」
「実は、あの手記を読んで気がついたことなんですが……」
慎司は、例の二つの疑問点を挙げ、そこから悦夫の殺害こそが主犯の目的だったという仮説を導き出したことを話した。
「子供を殺すことが真の目的だった?」
岩崎は呆れたように言った。
「はい。警察としてはどう思います?」
「とうてい信じられませんね」
にべもない口調だった。
「どうしてです? 世の中には子供を殺す事件がないわけじゃないでしょう」
「確かに。しかし子供殺しの大半は、うるさいとかわずらわしいとか妬ましいといった理由で、衝動的、短絡的に行われるものばかりです。あなたの説だと、犯人はかなりの時間をかけて身代金誘拐の偽装をしたことになる。そこまで計画的な犯行は、子供殺しではありえない」
「共犯者の柳沢幸一は、事件の一週間前、行きつけの喫茶店のマスターに向かって、『Yという奴が偽者なんだ』と言っています。Yというのが犯人だとしたらどうです? 悦夫は犯人が何らかの意味で『偽者』であることを知ったために殺された――僕たちはそう考えているんです。それなら、犯人が身代金誘拐の偽装をしてまで悦夫を殺したことも納得できるでしょう」
「身代金誘拐の偽装する暇があったら、なぜ悦夫をさっさと殺害しなかったのです?」
「たぶん、悦夫は自分の知った秘密を、誰かに喋るか書き留めるかしていたんでしょう。もちろん、それが重大な秘密とは気づかないまま。その場合、単に悦夫を殺害したのでは、秘密を聞かされていた人物がひょっとして……と気づいたり、あるいは秘密を書き留めたものが見つかったりしたとき、犯人がすぐにわかってしまう。だからこそ、身代金誘拐の偽装が必要だった」
「あなたたちの説はあまりに空想じみている。現実の犯罪者は、そこまで気を回したりはしないものです。
身代金誘拐は偽装ではなく、犯人の本来の目的だったのだと私は思います」
「でも、悦夫の監禁現場に身代金を届けさせるのは明らかにおかしいんじゃないでうか。監禁現場を警察が監視したら、犯人は身代金を受け取れなくなるだけでなく、時限爆弾を解除できなくなって悦夫を死なせてしまうことになる。
この疑問を説明するには、悦夫殺害が犯人の目的だったと考えるしかないのでは?」
「犯人はそれまで、喫茶店、レストラン、コンビニエンスストアと、成瀬正雄をさんざん引き回しています。それにより、警察の介入がないことを完全に確認できると考えていたのでしょう。だから、悦夫の監禁現場に刑事が張り込むとは考えていなかった」
慎司は内心ため息をついた。岩崎は有能な刑事かもしれないが、自分の経験にあまりにとらわれすぎて、柔軟な思考ができなくなっているのではないか? それに、警察は何よりも面子を重んじる組織だ。
十二年間堅持した捜査方針を、外部からの指摘でそう簡単に転換するとは思えない。
悦夫殺害が犯人の目的だったことを京都府警に認めさせるのは、想像していた以上に困難なようだった。
「Yという人間は、柳沢の周囲には見つかったんですか」
「一人もいませんでいした。Yというイニシャルの人間はもちろん、Yというあだ名の人間すらいませんでしたよ」
岩崎は皮肉っぽく答えた。
「捜査の進み具合についてお尋ねしてよろしいですか?」
理恵がおっとりした口調で訊いた。
岩崎は慇懃《いんぎん》無礼な調子をやや改めた。
「主犯が柳沢の殺害現場から住所録を持ち去った以上、主犯は柳沢の身近にいたはずです。ところが、いくら捜査しても主犯が浮かび上がらない。柳沢の交遊関係は徹底的に調べました。幼稚園から始まって、小学校、中学校、高校、大学時代の友人や教師、親和化学の同僚や上司、印刷会社を継いでからの顧客まで、それこそ徹底的に掘り起こして、柳沢と付き合いのあった人間をリストアップしましてね。その数は百人以上になります。彼らのアリバイや経済状況を調べ、特に不審な者については尾行も行った。しかし、主犯と思われる人物は一人もいなかったのです」
「柳沢さんが京都駅烏丸口で主犯と落ち合ったときの目撃者は、結局見つからなかったんですの?」
「ええ。一日何万人もの人間が利用するのですから、それも無理はないですが」
慎司と理恵は顔を見合わせ、ため息をついた。
「新しい情報というのはそれだけですか?」
「……はあ」
「悪いことは言わないから、素人探偵の真似事はやめることです。私たちも忙しいのでね、そろそろお帰りいただきましょうか」
4
窓の外には五条バイパスの高架が、その向こうには西大谷本廟の広大な敷地が見える。
近代的な高架と古代ゆかしい寺との組み合わせがちぐはぐだが、こうしたちぐはぐさが京都の魅力の一つだと明世は思う。
同日、同時刻。
峰原と明世は五条坂の交差点近くにある〈坂屋〉という喫茶店にいた。
京都駅で慎司と理恵と別れた明世たちは、駅前で市バスに乗り、五条坂までやってきたのだった。
五条坂のバス停では、清水寺へ行くらしい観光客たちが何人も降りていった。
峰原はときおりコーヒーを口にしながら、何か考え込んでいた。
今日は茶系統のチェックの長袖シャツに、同じく茶色のコーデュロイのズボンという服装だ。
明世の方は、グレイのパーカーにブルージーンズという格好である。
飲んでいるのは冷たい抹茶ミルク。
「慎司と理恵さんの組には負けられませんよね。まあ、峰原さんがいれば大丈夫ですけど」
京都駅で別れた二人の様子を思い出しながら明世は言った。
理恵はいつものようにぼうっとしていて、何かに興味を引かれるとそちらに目が行ってしまうので、駅構内を行き交う人々にぶつからないように明世が注意してやらなくてはならなかった。
慎司は理恵と行動できるのがうれしいのか、顔をほころばせっぱなしだった。
「しかし、二人とも優秀ですよ。後藤さんは警視庁捜査一課の刑事だし、理恵さんは中央医科大学付属病院の精神科医です。どちらも、優秀な頭脳を持たなくてはつとまらない仕事です」
「うーん、確かにそうですけどね」
理恵のことは得がたい親友だと思っている明世だが、峰原が彼女をほめるのを聞くと、なぜか素直に同調できない。
ひょっとして、嫉妬しているのだろうか? そのとき、ドアが開いて五十代初めの女が入ってきた。
ほっそりとしたからだつきで、ベージュのスーツを身に着けている。
彫りの深い顔立ちは、一見近づきがたそうだが、目には穏やかな光を湛《たた》え、口元は優しそうだった。
女は店内を見回し、明世と峰原に目を留めると、ためらいがちな足取りで近づいてきた。
「あの……事件について取材したいというのはあなたたちですか?」
峰原が立ち上がった。
「峰原卓といいます。こちらは助手の奈良井明世。このたびはわざわざ会っていただいてありがとうございます」
折り目正しく頭を下げる。
明世も慌てて立ち上がり、頭を下げた。
二日前、悦夫が通っていた東邦小学校へ電話すると、担任だった檜山|遼子《りょうこ》は現在もそこで勤務していることが判明した。
峰原は事件を調べているフリージャーナリストだと名乗り、お会いできないかと言った。
彼女は当初、会うのを渋っているようだったが、穏やかで知的な峰原の声が魔法のような効果を発揮した。
二分ほど話しているうちに、檜山遼子は会うことに同意した。
そして会見場所として学校の近所にあるこの喫茶店を指定してきたのである。
檜山遼子は峰原を一目見て信用したようだった。
「フリージャーナリストということでしたね」
「はい。悦夫君の父親の手記がウェブサイトで公開されていうことはご存じですか」
「ええ。わたし自身はインターネットには疎いのですが、同僚がプリントアウトしてくれました」
「私たちはその手記を読んで、独自に事件を取材してみようと思っているのです」
峰原は、例の二つの疑問を挙げ、そこから悦夫の殺害こそが主犯の目的だったという仮説を導き出したことを話した。
「――悦夫君を殺すことが目的だった?」
檜山遼子は目を瞠った。
「信じられませんか?」
「ええ……。悦夫君は素直で利発な、人に憎まれることの決してない子でした。そんな子がいったいなぜ……」
「悦夫君は犯人の秘密を知ったために殺されたのではないかと、私たちは考えているのです。それならば、悦夫君自身は憎まれる理由はともかく、殺害されたことが納得できます」
「――犯人の秘密?」
「悦夫君が、Yという人間について口にしたことは?」
「ありません。Yというと……」
そこで檜山遼子ははっとしたように、「そういえば、事件の共犯者が、Yという奴が偽者だとか奇妙なことを口にしたと、手記にありましたね。あのYですか?」
「はい。Yが主犯ではなかったかというのが私たちの考えです。悦夫君が知った秘密とは、Yが何らかの意味で偽者だということではなかったか、と」
「何らかの意味で偽者……?」
「たとえば、名前を偽っているとか、身分を偽っているとか、そんなことです」
檜山遼子は考え込んだが、やがて首を振った。
「――いえ、悦夫君がそうしたことを口にした記憶はまったくありません」
「事件同時のことを話していただけますか」
「土曜日の朝、悦夫君が登校してこないので二度ほどお宅に問い合わせて、誘拐のことを知らされました。捜査を担当した京都府警に指示を仰ぎ、校長と相談した上で、クラスの子たちには、悦夫君は風邪で休んでいるのと伝えました。ひどい風邪でうつるといけないので、お見舞いには来ないでとご両親が言っている、と言って。次の日は日曜日でしたけど、教職員全員が朝から職員室に待機していました。午後六時半頃に、お父様が無事身代金を届けたという連絡が警察から入って、教職員は一度はほっとしたんです。それなのに、七時過ぎに、身代金の受け渡しに失敗、ボート格納庫が爆発したという知らせが入って……」
当時のことを思い出したのか、檜山遼子の目がかすかに潤んだ。
「明くる月曜日には、子供たちに悦夫君の死を知らせなければなりませんでした。泣きだす子が何人もいました。悦夫君はみんなに人気がありましたから。男の子の中には、おまわりさんになって悦夫君を殺した奴を捕まえてやるんだと誓う子もいました。火曜日には、生徒たちを引率して悦夫君のお葬式に出席しました。教師生活の中で、あれほどつらいことはありませんでした。ご両親はひどく憔悴《しょうすい》されて、見ていられないほどでした。わたしはその後毎年、悦夫君の命日にはご両親をお訪ねして、悦夫君の冥福をお祈りしました。ご両親は少しずつ悲しみを克服されていたようですけれど、でも、悦夫君がいなくなったことで、お二人の人生は永遠に変わってしまいしました」
檜山遼子は窓の外を眺めながら呟くように言った。
「昔の教え子たちから、今でも年賀状をもらうことがあります。悦夫君の同級生たちも、今はもう大学生になったり、就職して社会人になったりしている。でも、悦夫君は七歳の少年のままです。人々の思い出の中で、いつまでも年を取らない。当たり前だけれど、とても残酷で、悲しいことだと思います……」
5
柏木家は、船岡山にほど近い閑静な住宅街の一角にあった。
二階建てだが、ほかの住宅に比べて一回り大きい。
〈メディア・ナウ〉の業績は順調のようだった。
玄関のブザーを鳴らすと、四十前後の女がドアを開けた。
豊満なからだつきで、長くつややかな髪にゆるくウェーブをかけている。
〈竜を愛した少年〉の写真で見た成瀬早紀子とどこか顔立ちが似ていることから、妹の柏木香苗だとすぐにわかった。
だが、早紀子が野に咲く雛菊のような控えめな美しさであるのに対し、香苗の方は大輪の薔薇のような華やかな美しさだった。
「メールでご連絡しました後藤慎司と竹野理恵です」
慎司と理恵は頭を下げた。
「わざわざ会っていただいてありがとうございます」
香苗は値踏みするように慎司たちをしげしげと眺めた。
それから合格したというようににこりと笑い、はきはきした声で言った。
「今でも事件に関心を持ってくれる人がいるだけでうれしいわ。上がってちょうだい」
慎司たちは香苗に案内されて応接間に入った。
ソファに四十代後半の男が座っていた。
大柄でがっしりしたからだつきの男で、ごつごつした顔をしている。
お世辞にも二枚目とは言えないが、不思議な愛嬌があった。
「こちらは夫の柏木武史、義兄さんの親友よ」
慎司と理恵は柏木とも挨拶を交わした。
「やあ、新しい情報があるというのは君たちか」
柏木は快活な声で言った。
「君たちが、重大な情報だとメールに記していたので、すっかり好奇心をそそられてしまったよ」
二人とも、遺産を独占するために幼い相続人を殺害するような人間には見えなかった。
外見で人を判断できないことは刑事としての経験からよくわかっているが、明世の唱えた柏木夫婦犯人説は、やはり間違いであるように思えた。
「ウェブサイトで公開した手記を読んでくれたそうね?」
「はい。静かな悲しみに満ちた手記だと思いました。特にあれが、死を前にした方の残したものだと思うと、身が引き締まるような気がします」
「義兄さんは去年十月に入院したときから、病室にノートパソコンを持ち込んで、ネットでいろいろな病棟サイトを読んだりしていたの。それが今年の三月になって、自分でも何か書き始めた。そのときにはもう数ヶ月の命と診断されていたから、時間との闘いだった。義兄さんは憑《つ》かれたように毎日キーボードを叩いていたわ。三週間ほどして――三月二十一日だったわね――義兄さんは事件についての手記ができたと言って、自分が死んだらこの手記をウェブサイトで公開するようにと指示したの。『書くことで、人の想いは死と時間を超えて永遠に存在し続けるのである』と手記にはある。少しでも多くの人に、自分の想いを知ってもらおうとしたのね」
「死を前にしているのに、とても抑制の効いた筆致ですね。僕ならとてもああはいかない」
「義兄さんはもともと、自制心がとても強い人だった。末期癌と告げられたときも、もちろん内心葛藤はあったのだろうけれど少なくとも外面的にほとんど変わらなかった。これほど克己心《こつきしん》の強い患者さんは珍しいって担当の先生も驚いていたぐらいよ」
「成瀬さんが亡くなったのは四月だったそうですね」
「正確に言うと、四月十日。癌が全身に転移して、鎮痛剤もほとんど効かなくなっていた。想像を絶する痛さだったと思うけれど、義兄さんは泣き言一つこぼさなかったよ。九日の夕方から昏睡状態に陥って、十日の午前七時過ぎ、息を引き取った……」
香苗の目がふっと潤んだ。
それから、感傷に浸った自分を恥じるように顔を引き締めた。
「ところで、あなたたちは、何か新しい情報があると言っていたわね?」
「新しい情報というか、手記を読んで気がついたことなんですが……」
慎司は、例の二つの疑問点を挙げ、そこから悦夫の殺害こそが主犯の目的だったという仮説を導き出したことを話した。
「悦夫を殺すことが犯人の目的だった?」
香苗も柏木も驚いたように目を瞠った。
「はい。二つの疑問点からは、その結論しか導けないんです。共犯者の柳沢幸一は事件の一週間前、『Yという奴が偽者なんだ』と口にしています。Yとは主犯のことで、悦夫君は主犯が何らかの意味で偽者であることを知ったために殺害された――僕たちはそう考えているんです」
香苗も柏木も真剣な表情で考え込んでいる。
京都府警のように、一笑に付されるのだろうか。
慎司は不安な気持ちで待ち受けた。
やがて香苗も柏木もうなずいた。
「……とても突飛な説ではあるけど、筋は通っているわ。どこにも問題はない。もしかしたら、その説、正しいのかもしれない」
「俺もそう思う。これまで誰も思いつかなかったのが不思議なくらいだ」
どうやら受け入れてくれたようだ。
慎司はほっとした。
「悦夫君が誰かが偽者だとか、Yという言葉を口にしたことはありませんか」
香苗も柏木もしばらく考え込む。
そらからお互いの顔を見やった。
「どうだったっけ。悦夫がそんなことを口にしたことってあったかしら」
と香苗。
「いや、ちょっと思い出せないな」
と柏木。
「犯人が身代金誘拐というフィクションを作り上げたのは、悦夫君を殺しただけではすぐに動機に気づかれてしまうと危惧してたからです。つまり、犯人の動機はそれだけわかりやすいものだったと考えられる」
「わかりやすいものだった……? でも、何も思いつかないわ」
「犯人はすぐに悦夫君の口封じをせず、誘拐の偽装にかなりの時間をかけている。そこから考えて、悦夫君は自分の知った秘密を、誰かに話すか書き留めるかしていたと思われます」
「そう言われてもね、わからないものはわからないわ」
「悦夫君には日記をつける習慣はありませんでしたか?」
「日記……?」
香苗ははっとしたようだった。
「そういえば、悦夫は日記をつけていたわ。通っていた小学校の方針で、国語力をつけるために日記を書かせて、毎週月曜日に先生に提出させていたの。悦夫の遺品の中にあると思う。ちょっと待っていて。捜してくるから」
十分ほどして、香苗は小学生用の学習ノートを手にして戻ってきた。
慎司はそれを受け取ると、扉を開いた。
いかにも子供らしい奔放な字が並んでいた。
日記の記述は四月六日から始まっていた。
感心なことに、毎日欠かさず書いている。
4月6日(月)きょうは、しぎょうしきでした。
ぼくは2ねんせいになりました。
がっこうのかえり、まーくんやみっちゃんとこうえんでかくれんぼをしてあそびました。
ぼくのかくれていた木のそばで、ふたりのひとがベンチにすわってはなしをしていました。
家族や親戚の話題が出てくる日もある。
4月8日(木)おとうさんが、せんだいというところにしゅっしょうして、おみやげをかってきてくれました。
ささかまぼこです。
4月11日(土)きょうは、おひるごはんをたべたあと、おとうさんとおかあさんとかしわぎのおばちゃんにつれられて、かもがわへピクニックにいきました。
さくらがとてもきれいでした。
しゃしんをたくさんとりました。
4月17日(金)あしたは、おとうさんがじてんしゃののりかたをおしえてくれます。
ほじょりんなしののりかたです。
あしたがまちどおしいです。
そのあとのページは空白のままだった。
翌日、悦夫は誘拐され、二度と帰ってこなかったのだ。
「四月六日の記述が気になりますね。悦夫君は公園でかくれんぼをしているときに、すぐそばのベンチで二人の人間が話をしているのに気づいたという。もしかしたら、二人のうちの一人がYで、悦夫君はこのときYが何らかの意味で偽者だということを聞いてしまったのではないでしょうか?」
「ありえるわね」
香苗が真剣な顔でうなずいた。
「でも、日記には『ふたりのひと』とあるだけで、どんな人物なのかはまったくわからない」
Yが何らかの意味で偽者であることを知ったために悦夫は殺されたという仮説は、悦夫の日記を読んで信憑性を増した。
だが、どんな意味で偽者なのか、Yが誰なのか、それは依然としてわからないのだ。
「四月十一日には、両親と香苗さんに連れられて、鴨川へピクニックに行ったとありますね。写真をたくさん撮ったと悦夫君は書いてますが、そのときの写真の一枚が、成瀬さんが手記で触れ、〈竜を愛した少年〉のサイトのトップページにも掲げられていた写真ですか」
「そう。あの写真は私が撮ったの。あのとき、まさか一週間後に悦夫が誘拐されるなんて思ってもみなかった。あれが、悦夫の最後の写真になってしまった……。義兄さんは死の床で、あの写真を枕元に飾ってあかず眺めていたわ。
義兄さんにとって、あの写真は幸せだった日々の象徴だったのでしょう。だから、わたしと柏木は手記を紹介するサイトを立ち上げるとき、トップページにあの写真を掲げることにしたの」
慎司は理恵に質問のバトンタッチをした。
理恵はおっとりした口調で問いかけた。
「事件の二日目に、成瀬さんのお宅を訪れたそうですね」
「事件の二週間ほど前、義兄さんに、久しぶりに飯でも一緒に食おうって言われていたの。義兄さんと姉さん、わたしと柏木が揃って顔を合わせる機会が最近めったにないからって。午前十時過ぎに柏木と一緒に行ってみたら、悦夫が誘拐されたっていうじゃない」
「さぞかしびっくりされたでしょう」
「ええ。誘拐が身近で起きるなんて誰も思わないもの。冷静沈着なはずの義兄さんは強張った顔でうろうろしているし、姉さんは魂が抜かれてしまったみたいだったし。うちの柏木は子供好きで、悦夫のことを溺愛していたから、すっかり参ってしまうし」
柏木が口を開いた。
「幸い。身代金を用意することができたんで、成瀬は午後四時過ぎに車で出かけた。六時半には、成瀬の車に乗っていた刑事から、身代金を犯人が指定したボート格納庫に置いたという連絡が入った。これで悦夫君も無事に帰ってくる……そう思った。だけど七時過ぎになって、格納庫が爆発したという連絡が入ったんだ。早紀子さんは真っ青になって、椅子に倒れ込んだ。居間に詰めていた刑事たちは騒然として、捜査本部と無線でやり取りしていた。しばらくして捜査本部からパトカーが回されてきたので、刑事たちは早紀子さんと一緒にパトカーに乗って現場へ向かった……」
輪唱のように、香苗が言葉を継いだ。
「まるで悪い夢でも見ているようだったわ。あまりに急な展開で、現実とは思えなかった。私と夫は、留守番役の刑事と一緒に、次の連絡を入るのをひたすら待っていた。格納庫が爆発したというけれど、きっと何かの間違いで、そこに悦夫がいるはずはない、そう祈っていた。だけど……やっぱり間違いじゃなかった。十一時過ぎになって、格納庫の残骸から悦夫の遺体がみつかったという連絡が入った……」
「午前零時前になって、成瀬と早紀子さんが帰宅した。二人とも十歳も歳を取ったようだったよ」
応接間に沈黙が下りた。
やがて香苗が気を取りなしたように慎司たちに言った。
「情報をありがとう。事件の新しい局面が開けたような気がする。あなたたちの説、きっと正しいと思う。
これからどうするつもり?」
「僕たちの仲間が、悦夫君の担任だった先生と、事件の共犯者の柳沢幸一の知人に会う予定なんです。ことあと落ち合って、情報を交換します。今日、僕たちが得た情報と、仲間が得た情報を組み合わせることで、さらなる進展があるかもしれない。進展があり次第、またご連絡します」
よろしく頼むね、と柏木夫妻は言った。
6
成瀬正雄の手記のよれば、柳沢幸一がアリバイを確保した行きつけの喫茶店の名前は、〈シャレード〉だという。
五条坂の喫茶店〈坂屋〉を出た峰原と明世は、近くの電話ボックスに入り、京都市の電話帳を調べた。
幸いなことに、事件から十二年後の現在も、〈シャレード〉という店名は載っていた。
住所は出町柳のものだから、同じ名前の別の店という可能性もないだろう。
峰原が住所をメモ帳に書き写し、通りかかったタクシーに手を挙げた。
東大路通をひたすら北上した。
四条、三条、二条と上り、やがて京都大学の校舎や医学部付属病院が立ち並ぶ一帯にさしかかった。
百万遍の交差点で左折し、今出川通に入る。
鴨川にかかる賀茂大橋の手前で右へ折れて川端通と少し上り、比叡山電鉄町柳沢駅の前で停まった。
駅の向かいに、ケーキショップ、レンタルビデオ屋、ラーメン屋などが軒を連ねている。
〈シャレード〉はそのうちの一軒だった。
すぐそばを川が流れている。
土手には柳の並木。
タクシーを下りた明世と峰原は、水と緑の組み合わせのあまりの美しさに魅せられて、〈シャレード〉に入るのは後回しにし、そちらの方へ歩いていた。
川にかかる小さな橋を渡る。
その向こうにももう一本、川が流れており、すぐ左手で二本の川は合流していた。
合流する辺りは緑の芝で覆われたデルタとなっている。
「これは、鴨川ですか?」
水面にきらめく光を眺めながら峰原が問う。
京都へ何度か遊びに来たことのある明世は答えた。
「正確に言うと、そうじゃないんです。今渡ったのが高野川。向こうにあるのが賀茂川――年賀状の賀に茂ると書く賀茂川です。この二本がそこのデルタで合流して鴨川になるんです。そうそう、面白いことがあるんですよ。高野川と賀茂川はY字型に合流して鴨川になるんですけど、地図で見ると、それがとてもきれいなYの字なの。京都いう街は、東側に巨大なYの字を抱えているんですね」
峰原は微笑した。
「巨大なYの字を抱えている、ですか。面白いですね。その京都で、Yという字にまつわる誘拐事件が起きたのも、何か因縁めいて感じられる」
それから二人は南の方角、二本の川が合流し鴨川となって流れていく方が眺めた。
デルタの芝生では、ピクニックに来た人々が敷物を敷いて座っている。
その向こうに賀茂大橋があり、ひっきりなしに車が行き来している。
振り返れば、下川神社の|糺ノ森《ただすのもり》が、その彼方には北山連邦が見えた。
「そういえば、成瀬正雄が手記で触れていた写真が撮られたのは、ここからもう何百メートルか下流に行ったところですよね。背後に北山連邦と糺ノ森と賀茂大橋が写っていたから」
明世はふと気がついて言った。
十二年前の春の日、成瀬正雄と早紀子と悦夫もこの景色を眺めたのだ。
明世と峰原は比叡山電鉄出町柳駅方へ戻り、〈シャレード〉に入った。
店内にはほかに客はいなかった。
カウンターの中で、ダルマのような顔の五十代のマスターがグラスを磨いている。
ウェイトレスもいないようだ。
峰原と明世はカウンター席に座った。
「いらっしゃい。何にします?」
マスターがのっそりした声で言う。
見事なまでの大阪弁だった。
峰原はコーヒーを、明世はチョコレートパフェを注文した。
女に生まれてよかったと思うのは、この瞬間である。
男だったら恥ずかしくてパフェは注文できないだろう。
やがて出てきた品を見て、明世はそのヴォリュームに感激した。
峰原はコーヒーを一口すすると、落ち着いた口調でマスターに声をかけた。
「柳沢幸一さんは、こちらのお店の常連客だったそうですね」
マスターはグラスを磨く手をぴたりと止めた。
「……柳沢幸一? お客さん、古い名前を持ち出すなあ。あんら、なんで柳沢のこと知っとるんや?」
「実は、私たちは、柳沢さんが関わった十二年前が事件を新たな角度から再調査しているフリージャーナリストなのです。よろしければ、お話をうかがえないかと思いまして」
「フリージャーナリスト?」
マスターはグラスをカウンターに置くと、峰原と明世をじろりと見つめてきた。
「あんたら、東京者やな? 言葉も格好もえらい垢抜けとんな。東京のフリージャーナリストいうんはみなそんなんかいな。しかし、ジャーナリストいうんにはほとほとうんざりしていてなあ。十二年前の事件のとき、共犯者が常連客だった店だというんで、テレビや週刊誌や新聞の連中がこの店にどっと押しかけてきて、えらい迷惑したで」
再調査を断られるのかもしれない。
明世は不安になり、熱を込めて言った。
「お店の名前を出すことはありませんから、決してご迷惑はかけません。ただ、柳沢さんについていくつかうかがいたいだけなんです。お願いします!」
深々と頭を下げたが、勢いよすぎてカウンターに額をぶつけてしまった。
ごつんと音がする。
慌てて顔を上げると、マスターは苦笑していた。
「元気なお嬢さんやな。まあ、こっちも暇やさかい、付き合ったげるわ」
峰原が、例の二つの疑問点を挙げ、そこから導き出される推理を話した。
「子供を殺すことが本当の目的だった? 確かに、そう考えた方が筋は通るわな……。柳沢はそのことを承知で犯行に加わったんやろうか?」
「二通りの可能性が考えられますね。第一は、すべて承知だったという可能性。その場合、柳沢さんが近いうちに大金が入るのとほのめかしていたことから、主犯は柳沢さんを金で殺人に引き込んだことになる。第二は、柳沢さんは主犯に騙され、身代金目的だと信じ込んでいたという可能性」
「こっちとしては、第二の可能性だったと信じたいところやね。確かに柳沢は犯罪者でろくでもない奴やったけど、子供を殺すことが本当の目的やとわかってて犯行に加わるほどひどい奴やったとは思いたくないから」
「柳沢さんは金目当ての犯行に加わるほど、経済的に困っていたんですか?」
「ああ。柳沢は事件の三年前に親和化学を退職して、京都に戻って家業の印刷会社を継いだんやが、その会社の業績があまりようなくてな。銀行から融資を受けて印刷工場を拡張する話が持ち上がってたんやけど、両親が能登で観光旅行の途中、バスの転落事故で亡くなって、融資の話も立ち消えになった。柳沢は銀行のことをしきりに怒ってたけど、柳沢の仕事ぶりがあまりにいい加減なので銀行側が不安を抱いたというのが本当のところらしい。
その証拠に、柳沢があとを継ぐとすぐ、それまでの従業員が全員辞めてしもうたし。みんな柳沢に反発したみたいやな」
「四月十八日の朝八時から八時半にかけてと、十九日の夕方六時から七時にかけて、柳沢さんはこの店で食事をしてアリバイを確保したそうですね。そのときの柳沢さんの様子は?」
「あとから考えれば、ひどく落ち着きがなかったなあ。時計ばかり気にして、こっちが何か話しかけてもとんちんかんな返事したりして。そんなに気になることがあるなら、とっっとと帰ればええのに、店に腰を据えたままいっこうに帰らへん。いったいどないしたんやと思った。どもども、十八日の朝、モーニングサービスを食べに来たことからしておかしかったんや」
「というと?」
「柳沢はあの頃、仕事をまったくしよらんで、毎日昼過ぎまで寝とるという生活やった。モーニングサービスを食べに来るなんてことはまずあれへんかった。一時頃に顔を出して、朝昼兼用の飯を食べるのが習慣やったんや。だから、十八日の朝に顔を見せたときはびっくりしたで。あとで警察に、柳沢はあの時刻、この店でアリバイを確保したんや言われて、そうやったかとようやく理解できたけど」
峰原が明世を見て、「あなたも質問をしたらどうです」
と言ってくれたので、明世はスプーンを置いて口を開いた。
「事件の十日前、四月八日に、京都駅烏丸口で柳沢さんと出くわされたそうですね。そのときのことを話していただけますか」
「あのとき、こっちは新幹線で東京へ行くところやったんや。バスで京都駅に着いて烏丸口に入ったら、柳沢にばったり出くわしてなあ。こっちが先に気づいて、ぽんと肩叩いたら、びっくりして振り返ってな。柳沢も同じバスに乗ってたけど、京都駅に着くまでお互い気がつかなかったんや」
「柳沢さんは、誰かほかの人に肩を叩かれたのだと思った様子でしたか?」
「他の人いうのは、要するに事件の主犯やな? うーん、どうなんやろうな……。その辺りはよくわからん。こっちは新幹線が出るまでしばらく時間があったんで、世間話でもしようかと思ったんやが、あの男、自分が乗る下りの新幹線がすぐに出るからぐずぐずしておられん言うてな。ところが、そう言うておきながら、土産の〈八つ橋〉を買いに走るんや。あれはどう見てもおかしかったで。あとで、事件の主犯と鳥丸口で待ち合わせしていたんやと警察に教えられて、なるほとど思うた。待ち合わせの相手がまだ来とらんから、新幹線を一本遅らせなならん。そやけど、人と待ち合わせしとる言うわけにはいかん。そない言うたら、こっちがその待ち合わせの相手いうのを見たがるかもしれんから。もちろん、待ち合わせの相手は事件の主犯なんやから、こっちに絶対に見られるわけにはいかん。困った末、土産を買い忘れたふりして時間稼ぎして、新幹線を一本遅らせたわけやな」
「マスターは、そのあとどれぐらい上りの新幹線にお乗りになったんですか」
「十分ほどしてからかな」
もしそのとき、マスターが新幹線に乗らず、柳沢をこっそりと観察していたら、彼が主犯と落ち合うところを目撃できただろう、と明世は思った。
そして、事件はとうの昔に解決していたに違いない。
「柳沢さんは事件の一週間前、こちらのお店からの帰り際に、『誰も気がついていないようだが、Yという奴が偽者なんだ』と言ったそうですね?」
「Yという奴が偽者……?」
マスターはしばらく頭を捻り、不意にぽんと手を叩いた。
「そやそや、思い出した。あの男、帰り際に、にやにや笑いながらそう言ったんや。人を馬鹿にしたような、優越感に浸ったような、気色悪い笑い方でなあ。何やこいつと思うた。それにしてもあんた、そんなことよう知っとるなあ」
「子供の父親が書いた手記に書いてありました」
「手記……? へえ、そんなものがあるんかいな」
「Yが誰か、心当たりはありませんか?」
「うーん、ないなあ。あの頃、警察にも同じこと聞かれたけど、まったく思い当たらんかった。柳沢の知り合い全部を知っとるわけやないけど、少なくともあの男がこの店で知り合った人間には、Yというイニシャルの奴はおらんかったで」
明世はいささかがっかりしたが、これで容疑者を減らせたのだと考え直すことにした。
少なくとも、この店の常連客の中には、Y――事件の主犯はいないことが明らかになったのだ。
峰原が店内を見回した。
明世はさりげなくその横顔を眺めた。
峰原の横顔を眺めるのが好きだった。
彫りの深いその横顔が、不意に引き締まった。
視線が一点に注がれている。
突然、何かに気を引かれたようだった。
どうしたのだろう? 明世は峰原の視線を追った。
峰原が見つめているのは店のドアだった。
何の変哲もないガラスのドアだ。
外には比叡山電鉄出町柳駅が見えた。
電車が到着したところなのか、駅舎から乗客たちが次々と吐き出されてくる。
「柳沢さんがYについて口にしたのは、帰り際だったそうですね」
峰原が静かな口調で言った。
興奮を抑えているのが感じられた。
「そうや。レジで金を払ったあとでな」
「だったら、ドアのすぐそばでということですね」
「ああ、ドアのすぐそばやった」
「ならば、こうは考えられないでしょうか――柳沢さんは、ドアの外をYが通っていくのを見た。それで『Yという奴が偽者なんだ』と言ったのだ、と」
明世ははっとした。
マスターは腕組みをして、「ふーん、面白い考えやな。それ、正解かもしれん。そやけど、どうしてYとかいう奴にそんなにこだわるんや?」
明世は勢い込んで言った。
「実は、Yというのが事件の主犯ではないかってあたしたちは考えているんです。Yは何らかの意味で『偽者』で、それは誰にも知られてはならない秘密だった。ところが、どうやってかはわからないけど、悦夫君はその秘密を知ってしまった。そこで、Yは身代金誘拐に見せかけて悦夫君を殺害することにした」
「すると、あの日、事件の主犯が、この店の前を通ったちゅうわけか……」
「柳沢さんが『Yという奴が偽者なんだ』と言ってのは何時頃か、憶えておられますか?」
「一時半頃やったかなあ。さっきも言うたけど、あの男、毎日昼過ぎまで寝とる生活をしとってな。一時頃にここに顔を出して、朝昼兼用の飯を食べ終わるのがだいたい半頃やった。そやから、あの日、帰り際に妙なことを言ったのも、一時半頃やったと思う」
一時半頃……。
これで犯人を特定する条件がまた一つ増えた。
犯人は、事件の一週間前、四月十一日の午後一時半頃に〈シャレード〉の前を通った人物なのだ。
「しかし、Yが偽者であることがそんなに重大な秘密なら、柳沢はなんで喋ったんや?」
「これまで柳沢さんについて知ったことから判断すると、柳沢さんはかなり軽率な人だったようですね。それで、ちょうど店の前をYが通ったとき、Yが『偽者』であることを口にせずにはいられなかったのでしょう」
「うん、柳沢の正確からして、それは充分考えられるな。あの男、ほんまに軽率な奴やったからな」
軽率な男――それが、柳沢幸一の墓碑銘のようだった。
7
午後五時前、慎司と理恵が逗留予定の河原町御池のホテルに着くと、峰原と明世はすでにチェックインしていて、ラウンジでお茶を飲んでいた。
峰原と慎司、明世と理恵という組み合わせでそれぞれツインルームを取ってある。
慎司と理恵は各自の部屋に荷物を置き、峰原と明世に合流した。
明世は意気揚々としていた。
慎司と理恵の顔を見るなり、「あたしたち、すごい発見をしたんだよ」
と言う。
「すごい発見? どんな発見だよ」
「Y――事件の主犯をとくていする条件を、また一つ突き止めたの。そうですよね、峰原さん」
傍らに座るマンションオーナーに同意を求める。
峰原は微笑してうなずいた。
「ふん。こっちだって、悦夫がいつどこでYの秘密を知ったのか、突き止めたぞ。そうですよね、理恵さん」
女精神科医はにこにこしてうなずいた。
明世と慎司はこれまでにわかったことを報告し合った。
峰原と理恵が脇から補足する。
事件を担当した捜査官の話。
殺された少年の担任教師の話。
少年の叔父と叔母の話。
共犯者の知人の話。
そして、少年の父親の遺した手記。
これまではマスコミの報道でしか知らなかった十二年前の事件が、五つの物語によってさまざまな姿を見せ始めたように感じられた。
事件というのは多面体なのだ、と慎司は思った。
自分たちは今、事件の面を五つ手に入れている。
ほかにも多くの面があることだろう。
その中で自分たちが手に入れなければならないのは、主犯の面なのだ。
主犯の目から見たとき、事件はどのような姿を見せるのだろう? 「理恵さん、何かの推理は思いついた?」
明世が尋ねる。
理恵はにっこり笑ってうなずいた。
「はい、犯人がわかったと思います」
慎司は驚いた。
刑事たる自分が五里霧中なのに、素人の理恵はまがりなりにも仮説があるらしい。
明世は慎司を見ると、「しけた顔をしているところを見ると、あんたの方は何も思いつかなかったみたいね」
「そういう君はどうなんだ?」
明世はエヘヘと笑った。
「あたしも同じ。さっぱりだめ。でも、峰原さんには、手記を読んで思いついた仮説があるんですよね。その仮説を確かめたいとおっしゃってましたけど、確認は取れました?」
「取れました」
と峰原は答えた。
だが、彫りの深いその顔には満足の色はなく、どこか沈鬱なものすら感じられた。
何事かが、心に重くのしかかっているようだった。
夕食後、四人は峰原と慎司の部屋に集まった。
明世と理恵は部屋に備え付けの椅子に座り、峰原と慎司はそれぞれのベッドに腰掛けた。
近所の坂屋で買ったシャブリの栓を抜き、部屋に備え付けあるグラスや茶碗に注ぐ。
推理合戦の先行は理恵が努めることになった。
理恵はぼうっとして浮世離れした笑みを浮かべつつシャブリを飲んでいた。
そのままワインの宣伝に使えそうな優雅な姿だ。
グラスをテーブルにことんと置くと、おっとりと話し始めた。
「わたしがこの事件で着目したのは、事件の十日前の柳沢さんの京都駅での行動です。あの日、柳沢さんは主犯と待ち合わせた。だけど、京都駅に柳沢さんが着いたとき、主犯はまだ来ていなかった。しかも運の悪いことに、〈シャレード〉のマスターに出くわしてしまう。主犯が来ていないので一列車遅らせなければならないけれど、待ち合わせのことを言うわけにはいかない。マスターが待ち合わせの相手を見たがるかもしれないから。そこで柳沢さんは、土産を買って時間稼ぎをすることで、待ち合わせの件をマスターに言うことなく、一列車遅らせることにした……。でも、よく考えてみると変なんです。仮にマスターが柳沢さんの待ち合わせの相手を見たところで、マスターはそれが主犯だなんて思わないはずでしょう? 柳沢さんが捜査線上にうかんだところで、マスターは、あの日、京都駅で柳沢さんと落ち合った人物が主犯だとはまず思わないんじゃありません?」
明世がうなずいた。
「そう言われてみれば、そうよね。柳沢が会った人間が即、主犯だなんて決め付けるわけもないもの。そんな決め付け方をされたら、世の中容疑者だらけになっちゃう」
「とすると、こうは考えられないでしょうか。柳沢さんが会った人物は、柳沢さんと会ったというだけで怪しまれる立場にあったのだと」
「柳沢さん――じゃなかった、柳沢と会ったというだけで怪しまれる立場にあった? 誰よ、それ」
「刑事さんだったのではないでしょうか」
その場にいた全員が驚きの声を上げた。
理恵はにこやかに微笑んで、「刑事さんだったら、柳沢さんが捜査線上に浮かんだあと、マスターのところへ聞き込みにやらされる可能性があります。マスターは刑事さんの顔を見て気づくことでしょう――それが、あの日柳沢さんと会っていた人物であることに。
刑事さんはいつも二人一組で行動します。マスタ−は柳沢さんと会っていた刑事さんに、あなた、あの日京都駅で柳沢と会っていましたね、と言うでしょうし、もう一人の刑事さんはそれを聞いて、同僚に疑惑を抱くでしょう。柳沢さんはそうなることを恐れた。だからこそ、自分が会う相手をマスターに見られまいとしたのです」
見事な解釈だった。
慎司も明世も峰原も、ワインを飲むのを忘れて耳を傾けている。
「わたし、これまで不思議に思っていたことがあったんです。成瀬さんが仮に警察にしなかった場合、警察の監視を理由に悦夫君は爆殺したら、悦夫君殺害が真の目的だとばれてしましまいすよね。主犯はそうした危険性をどう回避するつもりだったのでしょうか。刑事さんが犯人だとすれば、この疑問も解消します。警察に通報が入らなければ、犯行を中止すればいいのです。柳沢さんと主犯とのつながりですが、柳沢さんは九二年の一月上旬に、居酒屋で隣の客と口論になり、相手を殴って二週間の怪我を負わせて傷害罪で逮捕されたそうですね。問題の刑事さんは、このとき柳沢さんを取り調べたのではないでしょうか。そして柳沢さんが共犯者として打ってつけだと目をつけ、のちに連絡を取って犯行に引き入れたのでしょう。さて問題の刑事さんは、どんな人なのでしょうか。まず言えるのは、京都府警、それも捜査一課に勤務していて、誘拐事件が発生した場合、捜査本部に加わる可能性のある人物だということです。
次に言えるのは、その刑事さんは、自ら積極的に捜査本部に加わるだろうということです。捜査本部に加われば、捜査がどこまで進んでいるかわかります。犯人にとってこれほどいいことはありません。捜査本部に加わるのは難しいことではありません。その刑事さんが当番の日に事件が発生するようにすれば、自動的にその刑事さんは捜査本部に組み込まれます。第三に言えるのは、柳沢さんが脅迫電話をかけるのを担当して主犯のアリバイを確保した以上、問題の刑事さんには、脅迫電話をかけるのを担当して主犯のアリバイを確保した以上、問題の刑事さんには、脅迫電話の時刻、鉄壁のアリバイがあったはずということです。鉄壁のアリバイを持とうとしたら、一番いいのは、脅迫電話の時刻、被害者の家にいることです。問題の刑事さんは、成瀬さんの家を訪れた四人の刑事さんの一人だったのではないでしょうか。では、四人のうち誰だったのでしょう?」
理恵はそこでハンドバッグをごそごそと探り始めた。
携帯電話を取り出し、手帳を取り出し、財布を取りだし、コンパクトと口紅を取り出し、バンドエイドを取り出し、ハンカチを取り出し、ティッシュを取り出す。
何をしているのかと訝しんでいると、最後にようやく、岩崎警部補からもらった名刺を取り出した。
「岩崎さんの下の名前を見てください。光也といいます。みつや――三ツ矢。Yという字は三本の矢を組み合わせたようにみえないでしょうか。Y=岩崎さんだったんです。悦夫君の日記によると、四月六日、公園でかくれんぼをしていた悦夫君は、すぐそばのベンチで二人の人間が話をしているのをたまたま耳にした。このとき、悦夫君は犯人の秘密を知ってしまったのです。それは、岩崎さんの警部補の階級が不正な行為によって得られたものということでした。
昇進試験でカンニングをしたか、人事担当者に賄賂を贈ったか。悦夫君はそれを知ったために殺害されたのです。『Yという奴が偽者』という柳沢さんの言葉は、警部補の階級が偽りのものという意味だったのでしょう」
「でも、岩崎は、自分の秘密が悦夫に知られたことをどうやって知ったの?」
と明世が尋ねた。
「もちろん、悦夫君の日記によってです。悦夫君の担任の檜山先生は、岩崎さんと親しい関係にあったのでしょう。
彼女は何気なく、自分の教え子が書いた日記のことを岩崎さんに話した。彼はそれを聞いて、自分と人事担当者の話が子供に聞かれていたことを知った。秘密を守るためには、悦夫君を殺害しなければならない。しかし、単に殺しただけでは、日記の記述に檜山先生が不審の念を抱くかもしれない。そこで、身代金誘拐の偽装をしたのです」
岩崎が犯人だとすると、今日の昼間の京都府警での岩崎の対応もまったく別の意味を持つことに慎司は気がついた。
悦夫殺害が犯人の真の目的だったという仮説を岩崎が受け入れようとしなかったのは、警察の面子に関わるからではなく、岩崎が犯人で、真相を認めることができなかったからだ。
慎司はためらいながら言った。
「理恵さんの岩崎犯人説は、とてもよくできている。京都駅での柳沢の行動も、きれいに説明できています。同じ刑事として認めたくはないんですが、岩崎は本当に犯人かもしれない。――峰原さんはどう思います?」
マンションオーナーは何事か考え込んでいるようだったが、物柔らかに答えた。
「残念ながら、私は理恵さんの推理には納得できません」
「うわぁ、面白くなってきたじゃない」
明世がわくわくしたように言う。
「じゃあ、次は峰原さんの推理を聞かせてくださいよ」
8
峰原はすぐには口を開かなかった。
ワインの入ったグラスを見つめたまま、じっと考え込んでいるようだった。
その長身から漂う沈鬱な雰囲気は、先ほどよりさらに強く感じられた。
「峰原さん?」
明世が心配そうに声をかけた。
峰原はため息をつくと、悲しげに微笑した。
「すみません。別に焦らしているわけではないのです。ただ、私の推理があまりに信じがたいものなので……私のことを大嘘つきだ、ほら吹きだと言われても、あなたたちを責めるわけにはいかないほどなのです」
あまりにも異様な前置きに、慎司たちは驚いた。
峰原はいったい何を言おうとしているのだろう。
やがて峰原は、決心したように背筋を伸ばした。
三人の仲間たちを見回し、低く穏やかな声で語り始めた。
「理恵さんの推理を聞いていると、三つの点が推理を導く着眼点になっている。第一点――『柳沢が京都駅で一列車遅らせたとき、待ち合わせの事実を口にせず、土産を買うことで時間稼ぎをしたのは、主犯と会うところをマスターに見られないためだった。しかし、なぜそこまでして主犯と会うのを見られまいとしたのか。柳沢が捜査線上に浮かび上がったところで、マスターは、あの日、京都駅で柳沢と落ち合った人物が主犯だとはまず思わないはずだ』。
理恵さんはこの疑問に対し、主犯は柳沢に会ったというだけで怪しまれる立場だった、という解答を出しました。つまり、刑事だったのだと。刑事だったら、柳沢が捜査線上に浮かんだとき、マスターのところへ聞き込みにやらされる可能性がある。マスターは刑事の顔を見て、あなた、あの日京都駅で柳沢と会っていましたね、と言うだろうし、刑事の同僚はそれを聞いて疑問を抱くだろう……。第二点――『成瀬が仮に警察に通報しなかった場合、警察の監視を理由に悦夫を爆殺したら、悦夫殺害が真の目的であることがばれてしまう。主犯はそうした危険性をどう回避するつもりだったのか』。理恵さんはこの疑問に対し、主犯が刑事なら大丈夫だと解答を出しました。警察に通報が入らなければ、犯行を中止すればいいのだと。第三点――『柳沢が脅迫電話をかけるのを担当したのは、主犯のアリバイを確保するためだった。したがって、主犯は電話がかかってきた時刻、鉄壁のアリバイを持つ人物である』。
理恵さんはその人物として、岩崎刑事を挙げました。理恵さんの推理はよくできていると思います。しかし、私は手記を読んだとき、この三点について、違う結論を出したのです」
「違う結論を?」
「第一点。柳沢のあったのが刑事だったという理恵さんの解答には、私は納得できません。捜査員は何百人もいるのだから、主犯がマスターのところへ聞き込みにやらされる可能性は極めて低いはずです。仮に柳沢の会った相手が刑事であったところで、マスターがその人物を刑事だと認識する可能性はほとんどないと思われる。そもそも、柳沢は自分が捜査線上に浮かび、マスターのところへ刑事が聞き込みに行くという可能性をどこまで真剣に考えていたのか。
ほとんどありえないことだと思っていたはずです。柳沢があれほど恐れたからには、あの日、柳沢と落ち合った人物の顔をマスターが認識する可能性は極めて高かったと考えなければならない。刑事説では納得できません」
「では、誰だというんですか?」
と慎司は訊いた。
「柳沢と落ち合った人物の顔をマスターが認識する可能性が極めて高かったということは、その人物はマスターの知人だったんですか?」
「そうではない。警察もマスターの知人は徹底的に調べたはずです。知人の中に主犯がいれば、とうの昔に捕まっていたでしょう」
慎司たちは困惑して顔を見合わせた。
問題の人物はマスターの知人ではない。
にもかかわらず、マスターがその人物の顔を認識する可能性は極めて高かったというのだ。
いったい誰なのか。
理恵がふと思いついたように言った。
「マスターの知人ではないけれど、マスターがその人物の顔を認識する可能性が極めて高かったということは……その人物は、何らかの有名人だったということですか。知人ではない不特定多数の人々にも顔が知られているような有名人」
「そのおとり。主犯は何らかの有名人だった――それが唯一の結論です」
明世が首をかしげて、「でも、一口に有名人といってもいろいろいますよね。ある人にとっては有名でも、ほかの人にはまったく無名ということもある。サッカーに興味のある人にはサッカー選手は有名人でも、興味のない人にとってはそうじゃない。
無条件で有名人といえるのは、売れっ子俳優とか国民的歌手とか大物政治家とか、ほんの一握りでしょう。これで総理大臣が犯人だったりしたらすごいけど」
峰原は微笑した。
「確かにすごいですね。さすがに私もそこまでは言いませんよ」
「とにかく、無条件で有名人といえるのはごくわずかで、あとは興味のある人にとってのみ有名人というのが大多数なんですから、一口に有名人といっても範囲が広すぎるんじゃありませんか」
「そのとおりですね。しかし、事件関係者の中には、無条件で有名人といえる存在がいたのですよ」
明世はショートヘアの頭をごしごしと掻いて、「え――? そんな有名人なんていました?」
「こう考えてみたらどうでしょう。柳沢が主犯と京都駅であった時点では、主犯はまだ有名ではなかった。しかし、近い将来、有名になる人物だったのだ、と」
「――近い将来、有名になる人物?」
「柳沢は近い将来、何をしようとしていたのか。もちろん犯罪事件です。そして、犯罪事件のあと、誰もがテレビや新聞や雑誌で目にすることになる人物がいます」
「――誰もがテレビや新聞や雑誌で目にすることになる人物?」
慎司は不意に愕然とした。
峰原がほのめかしている人物にようやく思い当たったのだ。
「……被害者の遺族のことですか」
峰原は沈鬱な顔でうなずいた。
「そうです。この国では、悲しいことに、被害者の遺族はマスコミの格好の餌食となる。成瀬の手記の記述を思い出してください。事件の翌日、成瀬家の玄関先には報道陣が押し寄せた。成瀬夫妻が姿を現すと、いっせいにカメラが向けられ、マイクが突き出された。あのとき、成瀬夫婦は一時的にせよ国民的な有名人となったのです。子供を失った悲劇の主人公として。日本中の人々が、テレビや新聞や雑誌まで二人の姿を目にしたに違いない。もしもマスターが、京都駅で柳沢と成瀬夫妻のどちらかが会うのを見ていたとしたら、大変なことになる。マスターはマスコミが報じるニュースを見た瞬間、事件の共犯者と被害者の親が待ち合わせしていたと気づくことになるのですから。柳沢が恐れたのはその事態でした」
「――柳沢が京都駅で待ち合わせしたのは、成瀬夫妻のどちらかだったというんですか。夫婦のどちらかが、事件の主犯だったというんですか」
「残念ながら、そうとしか考えられません」
慎司と明世と理恵は茫然として顔を見合わせた。
信じられないような結論だった。
マンションオーナーは店子たちの顔を見ると、悲しげに微笑した。
「あなたたちが信じられないのも無理はありません。推理した私ですら信じられないのですから。それこそ、私のことを大嘘つきだ、ほら吹きだと責められても文句は言えないほどの結論なのですから」
そして、静かな声で言葉を続けた。
「では、成瀬正雄と早紀子のうち、どちらが主犯だったのか。ここで意味を持つのが、第二点です。『成瀬が仮に警察に通報しなかった場合、警察の監視を理由に悦夫を爆殺したら、悦夫殺害が真の目的であることがばれてしまう。主犯はそうした危険性をどう回避するつもりだったのか』――主犯が自分から警察に通報すれば、何の問題もありません」
「……通報したのは成瀬でしたね。彼が主犯だったと?」
「はい。さらに、第三点。柳沢の脅迫電話によって、誰よりも強固なアリバイを手に入れた人物がいます。それは、柳沢と電話で言葉を交わした成瀬です」
「確かにそうですね……」
慎司は呟いた。
三つの疑問点は、確かに成瀬正雄ただ一人をぴたりと指し示しているのだ。
「悦夫の日記によれば、成瀬は事件の十日前、四月八日に仙台に出張したという、確かに仙台には行ったでしょう。
しかしまず、柳沢と京都駅で落ち合って広島へ行き、ダイナマイトと電気雷管を盗み出す手助けをしたあと、飛行機で仙台へ飛んだのです。成瀬は社長なのだから、普通のサラリーマンとは違い、出張の時間もかなり自由になったはずです。
また、成瀬家は修学院にあった。つまり、京都駅以北です。これも、主犯の条件を満たしている」
「……でも、どうして成瀬が悦夫を殺さなければならないんです? 自分の子だというのに」
「自分の子ではなかったからです」
「自分の子ではなかった? どうしてそんなことがわかるんですか?」
「柳沢が言っているからですよ。『Yという奴が偽者なんだ』と。偽者とは、父親の血を引いていないことを意味したのです」
「ちょっと待ってください。Yが悦夫だっていうんですか? 悦夫ならイニシャルはYじゃなくてEでしょう」
「悦夫という名前は、『えつお』のほかに『よしお』とも読みます。柳沢は、成瀬の子の名前は『えつお』ではなく『よしお』と読むと勘違いしていたのです。事件の一週間前、四月十一日の午後一時半頃、柳沢はYが〈シャレード〉の前を通るのを目にしました。一方、この日の昼過ぎ、悦夫は両親と香苗に連れられて、鴨川へピクニックに行っている。
成瀬の手記で言及されていた写真、事件を紹介するサイトのトップページに掲げられていた写真は、このとき撮られたものです。修学院にある成瀬家から鴨川へ行こうとすれば、修学院駅で比叡山電鉄に乗り、終点の出町柳駅で降りるのが便利です。そして、〈シャレード〉は出町柳駅の向かいにある。あの日、柳沢は、両親と香苗に連れられた悦夫が出町柳駅を出て、〈シャレード〉の目を通っていくのをたまたま目撃したのです。そして、『Yという奴が偽者なんだ』と言った」
「Yというのは、事件の主犯じゃなくて被害者のことだったんですか……」
明世が茫然として呟いた。
峰原はうなずき、低い声でよどみなく語り続けた。
「成瀬の犯行を再現してみましょう。事件一日目の朝、成瀬は悦夫を見送ったあと、すぐに車で追いかけて乗せた。
成瀬は自転車を補助輪なしで乗る練習をさせると悦夫に約束していた。今日は学校を休んで練習しに行こう、とでも言えば、悦夫は大喜びで車に乗ったことでしょう。成瀬は息子を連れて下坂本の〈井田証券琵琶湖荘〉へ行き、ボート格納庫に監禁した。帰宅した成瀬は、事前に打ち合わせておいたとおり、午前十時に柳沢からの電話を受け、アリバイを確保する。そして、警察に事件を通報した。手記では、成瀬は悦夫を見送ったあと、午前十時の電話までずっと家にいたことになっているが、それは偽りだった。早紀子はすでに亡くなっているのだから、手記に偽りを記しても気づく者はいません。自宅に詰めた捜査班の前で、成瀬は息子を誘拐されて苦しむ父親の姿を演じた。誰もそれを疑う者は誰もいません。
事件の二日目の午後四時、柳沢から第二の電話がかかってくる。成瀬はそれを受けて、身代金を車に積んで出発した。午後六時二十分過ぎ、成瀬は〈井田証券琵琶湖荘〉のボート格納庫に入った。手記では、成瀬はこのとき二階へ上がろうかと考えたが、そのまま引き返している。しかし本当は、あのとき二階に上がったのです。
そして、そのとき初めて時限爆弾のタイムスイッチを入れた。タイムスイッチが六時間式のものということから、私たちはタイムスイッチが爆発の六時間前――午後一時頃に入れられたと思い込んでいた。すると、朝起きてからずっと自宅で刑事とともにいた成瀬には、タイムスイッチを入れることはできなかったように見える。しかし本当は、タイムスイッチは爆発の直前に入れられたのです。成瀬はこうして、タイムスイッチに関して一種のアリバイを成立させた。悦夫の葬儀で、成瀬は岩崎警部補から、犯人像が浮かび上がったとの報告を受けた。柳沢が捜査線上に浮かび上がるのも間近と見た成瀬は、その夜、柳沢を殺害した。『午後十一時頃といえば、私も早紀子も疲れ切ってベッドに入ったところだった。ちょうどあの時刻、事件の共犯者が殺されたというのか』と手記には書かれているが、実際には成瀬は柳沢の口を封じに出かけていたのです。悦夫が鳴瀬の血を引いていないことを柳沢が知っていた以上、成瀬は悦夫の殺害が真の目的であることを明かしていたところから見て、成瀬は柳沢に多額の金を約束したに違いありません。もちろん、成瀬はその金を払うつもりなどまったくなかった」
「成瀬さんと柳沢さんはどうやって知り合ったんですか?」
と理恵が尋ねた。
「柳沢が悦夫の名前の読みを勘違いしていたことが手がかりとなります。ここからわかるのは、柳沢が悦夫の名前を音としてではなく、文字として知ったということです。だからこそ、読みを勘違いしたのです」
「文字として知ったというと?」
「たぶん、パソコン通信を通してでしょう。事件の起きた十二年前は、現在のようにインターネットは発達していませんでしたが、パソコン通信はあった。柳沢は犯罪関係の掲示板によく書き込みをしていたに違いない。
成瀬はそこに記された柳沢のメールアドレスを見て、彼に連絡を取り、犯行を持ちかけた。こうした文字を通してのやり取りだったからこそ、柳沢は悦夫の名前の読みを勘違いしてしまったのです。パソコン通信は十二年前にはそれほどポピュラーなものではなかったから、柳沢がパソコン通信をしていたことを警察が見逃したのも無理はありません」
明世が尋ねた。
「悦夫の本当の父親は誰だったんでしょう?」
「それを知る手がかりは、事件二日目にあります。成瀬は事件二日目の日曜日に、『たまには一緒に飯でも食おう』と言って、柏木武史と香苗の夫婦を自宅に招待する約束をしていた。成瀬が犯人なら、事件当日に柏木夫婦を自宅に招くようなことをしたのでしょう? 犯行の邪魔になるだけなのに。これには何らかの理由があるはずです。悦夫の本当の父親が柏木だったと考えれば、疑問は解消します。成瀬は悦夫の命が危険にさらされて苦しむ柏木の姿を観察するために、事件当日自宅に呼び寄せたのです。香苗ともども招いたのは、柏木だけでは不審に思われてしまうからです。
手記の記述を思い出してください。悦夫が誘拐されたことを知った柏木は、岩崎警部補に捜査状況を詰め寄るようにして尋ねたり、必死で苛立ちを隠そうとしたりしている。『柏木は子供好きで、悦夫を可愛がってくれていたのだ』と成瀬は書いていますが、柏木はそれほど落ち着かなかったのは、悦夫が自分の子供だったからです。そしてもちろん、成瀬もそのことを承知し、柏木の苦しむ姿を見て胸のうちで快哉《かいさい》を叫んでいたに違いない。
結婚後、柏木と早紀子はそれぞれ惹かれ合うようになり、密かに逢瀬を重ねたのでしょう。そして、悦夫が生まれた。柏木と早紀子はお互いの家庭が崩壊することを恐れ、逢瀬をやめた。悦夫が自分の血を引いていないことを成瀬がどうやって知ったのか、それはわかりません。もしかしたら、小学校にはいるとき悦夫が受けた血液検査によってかもしれない。それまで早紀子と悦夫のことを心底愛していただけに、裏切られていたことを知った成瀬の怒りは激しかった。彼は悦夫を殺し、早紀子に永遠の苦しみを与えることにした。そのためなら一億円を炎に投じることも惜しくはなかった。手記に記されていた悦夫と早紀子への愛も、二人を失った苦悩も、すべてが偽りだったのです」
「すべてが偽りだった……」
「そうです。事件のあと長い年月、成瀬は妻が子供を失って苦しむ姿を冷ややかな目でずっと眺めていたに違いない。
表面的には自分も嘆き悲しむ姿を演じながらも、心の中では妻の悲嘆をあざ笑っていたに違いない。事件から八年後、早紀子が幼稚園児を救おうとして自動車にはねられ、死亡しました。幼くして死んだ悦夫の幻影に導かれるようにして。
病院に運び込まれた早紀子を成瀬と香苗は見舞ったが、香苗は途中で退席し、そのあとのやり取りを聞いていない。
だから、成瀬と早紀子のあいだに、手記で描かれていたような愛情に満ちたやり取りが本当にあったかどうかはわからないのです。もしかしたら……成瀬は死を前にした早紀子に、悦夫を殺したのは自分であることを語ったのかもしれない。そうして、自分を裏切った妻に最後の一撃を与えたのかもしれない。やがて、成瀬は膵臓癌で死を目前にしました。そのとき、成瀬は事件の真相を隠蔽する最後の手段を取った、それが、あの手記でした。悦夫と早紀子を憎んでいたことを隠すために、二人への愛情、二人を失った悲しみを手記に書き込んだのです。そして、柏木夫妻に頼んで、自分の死後、それをウェブサイトで公開させた」
癌でやせ衰えた成瀬正雄が必死にキーボードを叩いている光景が目に浮かぶような気がした。
おのれの死後もなお、罪を隠そうとする男の妄執《もうしゅう》に、慎司は慄然《りつぜん》とした。
「私の推理は以上です」
峰原は疲れたように口をつぐむと、立ち上がった。
カーテンを開け、窓の下を走る御池通を見下ろす。
しばらくのあいだ、誰も口をきかなかった。
峰原の推理が正しいことを、誰もが確信していた。
峰原は振り向くと、穏やかな声で言った。
「あなたたちが警察に話すのを止めはしません。ただ、私自身はこの推理をこの場以外に広めようとは思わない。
私の推理は、何の根拠もないただの仮説に過ぎないのです」
明世が決心したように言った。
「あたしは黙っていることにします。悦夫を殺したのが成瀬だとわかっても、今さら何の得にもならない。悲しむ人たちが出てくるだけだし。それに、犯人はもう死んで、この世の罰の届かないところにいる。真相を明かす意味はないわ」
理恵が黙ってうなずいた。
三人の仲間たちが慎司に目を向ける。
慎司の腹は決まっていた。
「俺も賛成です」
と慎司は言った。
「この事件は京都府警の管轄であって、警視庁のものじゃない。俺にはこの事件に、あくまでも休暇中の一民間人として関わっただけです。京都府警に報告する義務はない」
峰原は静かな口調で言った。
「では、この事件は未解決ということですね」
9
秋も深まってきました。
いかがお過ごしでしょうか。
先日は、僕たちが三人揃って引っ越してしまったので、さぞ驚かれたことと思います。
あのときは理由を曖昧にしていましたが、実ははっきりとしたわけがあるのです。
それを語るには、あの誘拐事件をもう一度振り返ってみなければなりません。
最初に取り上げたいのは、事件の共犯者だった柳沢幸一の行動と、それについての警察の解釈です。
喫茶店〈シャレード〉のマスターは事件の十日前、四月八日の午後、京都駅烏丸口で柳沢に出くわした。
柳沢は新幹線で広島に行くということだった。
マスターが柳沢と切符売り場へ向かったのは、彼の乗る下り列車がプラットホームに到着する直前だった。
そのとき、柳沢が土産を買うのを忘れたと言い出した。
先に行ってくれと言って、柳沢は切符売り場近くの土産物屋まで走り、〈八つ橋〉を買った。
そのせいで、柳沢が切符を買ってプラットホームに上がったときは、彼の乗ろうとしていた列車は発車してしまっていた……。
警察は、プラットホームのキオスクでも売っている〈八つ橋〉をわざわざ切符売り場近くで買ったことに不審を抱き、これを一列車遅らせるための芝居だと見なしました。
柳沢は切符売り場で誰かと落ち合う予定だったが、待ち人が来ていなかったので、やむなく土産を買う芝居をして時間稼ぎをし、一列車遅らせたのだ――というわけです。
また、待ち人がいると言えばいいのにわざわざ芝居をしたところから、待ち人をマスターに見られたくなかった――つまり待ち人は事件の主犯だったのではないか、と警察は考えました。
しかし僕たちは、警察のこの解釈に次第に疑問を抱くようになったのです。
柳沢と主犯はなぜ、よりによって京都駅で待ち合わせをしたのか。
なぜ、同じ新幹線で広島へ行かなければならなかったのか。
主犯は柳沢とのつながりを極力隠したかったはずです。
それなのになぜ、京都駅で会ったり同じ列車に乗るというような、誰かに見られる恐れのある行動を取ったのか。
たとえば、広島で同じ宿に泊まることを決めておき、宿で初めて落ち合うという方がよほど安全ではないでしょうか。
あのひ、柳沢と主犯は本当に待ち合わせしていたのだろうか? 僕たちはそう疑うようになったのです。
しかし、待ち合わせをしていたのではないとすると、柳沢がプラットホームのキオスクではなく、切符売り場近くで〈八つ橋〉を買ったことには、時間稼ぎ以外の理由がなければなりません。
切符売り場近くで〈八つ橋〉を買うことには、どんな利点があったのでしょうか?
僕たちは長いあいだこの問題を考え続けた末、ようやくその利点に気づきました。
その利点とは――切符売り場近くで買うときは、改札口を通過する必要がない。
一方、プラットホームで買おうとしたら、改札口を通過しなければならない、ということです。
切符売り場近くでなら改札口を通過せずに土産を買えること――それが利点です。
さて、ここで柳沢が買った〈八つ橋〉について考えてみましょう。
警察は〈八つ橋〉を買ったのを時間稼ぎのためと見なしましたが、今は時間稼ぎ以外の理由を捜しているのですから、これにも別の理由を見つけなければなりません。
一がほしくもない品物を買うのはどんなときでしょうか?
それは、お金を崩したいときです。
柳沢は、〈八つ橋〉を買うことでお金を崩したのではないか、と僕たちは考えました。
とすれば、先ほど導き出したことと合わせて、こう結論付けられます――柳沢は改札口を通過する前にお金を崩す必要があった、と。
それでは、柳沢は切符を買うためにお金を崩したのか。
しかし、切符を買うのにそんなことをする必要はない。
券売機は一万円札でも五千円札でも、紙幣なら何でも受け付けてくれます。
切符を買うのにお金を崩す必要はない。
それなのに柳沢はお金を崩した。
考えられることは一つしかありません。
柳沢の持っていた紙幣は、券売機の受け付けないものだった。
つまり、偽札だったのです。
柳沢は印刷会社を経営していました。
彼は特別に用意した紙を使って、印刷機で偽札を大量に刷っていたのです。
柳沢の態度に反発して従業員は全員辞めてしまっていましたから、偽札作りに気づかれる恐れはまったくなかったでしょう。
〈シャレード〉のマスターと京都駅烏丸口で出くわした日、柳沢は券売機で切符を買おうとして、財布の中に偽札しか入れてこなかったことに気がついた。
偽札は人間の目はごまかせても、機械の目はごまかせません。
券売機は偽札を受け付けないでしょう。
そこでやむなく、柳沢は土産物屋で〈八つ橋〉を買ってお金を崩した。
もちろん、何も買わずに両替を頼むこともできたわけですが、それではマスターに怪しまれないともかぎらない。
切符を買うのに両替などする必要はないはずですから。
そこで柳沢は、土産を買うという、できる限り自然に見える行為の方を選んだのです。
あいにく、乗る予定の列車がちょうど到着したという偶然のせいで、自然に見えるべく選んだ行為も、マスターに怪しまれることになってしまったのですが。
警察は、柳沢が土産を買うことで列車に乗り遅れようとしたと考えましたが、実際はその逆でした。
柳沢は列車に乗り遅れまいとできる限り急いでいたのです。
それが正反対の解釈をされてしまったのは、皮肉としかいいようがありません。
あの日、柳沢は京都駅で主犯と待ち合わせなどしていなかった。
広島へダイナマイトと電気雷管を盗みに行ったのは確かですが、それは単独行動だったのです。
ここまでくれば、「Yという奴」が誰かもわかります。
Yukichi Fukuzawa――福沢諭吉のことだったのです。
一万円札に刷られている人物のことだったのです。
それが偽者とは、一万円札が偽者であることを意味します。
柳沢が「誰も気がついていないようだが、Yという奴が偽者なんだ」と〈シャレード〉のマスターに言ったのはいつかを思い出してください。
帰り際です。
帰り際――レジでお金を払ったあとです。
柳沢は支払いのため一万円札を用いたのでしょう。
マスターは何の疑いも抱かず受け取った。
そのことを指して、「誰も気がついていないようだが」と言ってのです。
マスターの言葉によれば、柳沢はそのとき、「人を馬鹿にしたような優越感に浸ったような、気色悪い笑い方」をしていたといいます。
柳沢は、目の前の人物が偽札を何の疑いも抱かず受け取ったのを見て、密かに楽しんでいたのでしょう。
そして大胆にも、偽札であることをほのめかすことさえ口にしたのです。
さて、柳沢は悦夫の誘拐殺害事件の共犯者でもありました。
一人の人間が、通貨偽造と誘拐という二つの犯罪に別々に手を染めていたとは考えられない。
二つの犯罪は必ずつながりがあるはずです。
言い換えれば、偽札は誘拐事件の中で必ず何らかのかたちで使われたはずです。
では、どのようなかたちで? 偽札というものは見られなければ効果を発揮しません。
つまり、偽札が使われたとすれば、それは紙幣が人目にさらされる場面でだったはずです。
そして、誘拐事件の中で紙幣が人目にさらされたのはただ一度――銀行から成瀬家に届けられた一億円をジュラルミンケースから取り出し、紙幣番号をカメラで撮影してボストンバッグに詰め替えたときだけです。
したがって、あのときの紙幣は偽物だったことになります。
一枚ごとに紙幣番号の異なる、一万枚の偽一万円札だったのです。
では、誰が偽札を持ってきたのか。
それは、一億円を成瀬家に届けた明央銀行京都支店長です。
彼こそが、事件の主犯だったのです。
支店長が一億円を銀行の金庫から取り出し、成瀬家に向かったときは、一億円は本物でした。
支店長はそれを途中で同額の偽札にすり替えたのです。
おそらくは、紙幣の入ったジュラルミンケースごと。
成瀬家に届けられたのは、一億円分の偽札でした。
通常の誘拐事件では、身代金の受け渡しは犯人にとって最も危険な場面となります。
金を受け取るために捜査陣の前に姿を現さなければならないからです。
しかしこの事件では、被害者宅に届けられる以前に紙幣をすり替えることにより、犯人は極めて安全に身代金を奪ったのです。
この偽札は何らかのかたちで処分しなければなりません。
時間が経てば経つほど見破られる危険性は増していきますし、もしそのまま銀行に返されれば、ほかの行員がマネーカウンターに入れた時点で偽札であることがばれてしまう。
そこで、犯人は偽札を処分する方法を考え出した。
それが悦夫の爆殺でした。
あのとき起こった出来事は、表面的にはこう見えます――犯人は刑事の監視を口実にして、ボート格納庫に監禁していた悦夫を時限爆弾で吹き飛ばした。
格納庫に届けられていた身代金は、その巻き添えとなり燃えてしまった……。
しかし、犯人の意図はまったく逆でした。
身代金を燃やすことが真の目的だったのです。
身代金を――偽一億円を燃やしてしまうために、犯人は悦夫を爆弾で吹き飛ばしたのです。
紙幣を燃やすために人間の命を犠牲にしたとは誰も考えません。
まさに悪魔的な価値観の転倒です。
格納庫にはボート用の燃料が入ったポリタンクがいくつも放置されていて、爆発で引火して格納庫を全焼させ、紙幣を完全に燃やしてしまいましたが、それこそ犯人の狙っていた効果でした。
犯人は燃料が置かれていてもおかしくない場所として、ボート格納庫を監禁場所に選んだのです。
犯人は成瀬に格納庫のシャッターを必ず閉めるように指示しましたが、これにも理由がありました。
シャッターが開いたままだと、身代金が燃えたとき偽札が風に煽られて格納庫から飛び出し、一部が焼け残る恐れがあるからです。
次に共犯者の柳沢の殺害について述べましょう。
犯人は悦夫の爆殺後、日を置かずに柳沢を殺害しました。
柳沢は、偽札を誘拐事件以外に用いようとするなど共犯者として軽率極まりない人物です。
すぐに殺害を決意したのは、主犯にしてみれば当然でした。
殺害の日が悦夫の葬儀の日と同じだったのは、不思議な偶然の一致としか言いようがありません。
柳沢の殺害現場からは、紙幣や貯金通帳やクレジットカードが盗まれていましたが、これは強盗殺人に見せかけるためではなかった。
真の目的は、柳沢が自宅に持ち込んでいた偽の一万円札を回収することにあったのです。
一万円札だけがなくなっていては不審に思われるので、カモフラージュのために金目のものをすべて持ち去ったのです。
柳沢の共犯者としての役割は、成瀬家に脅迫電話をかけることにより、主犯のアリバイを確保することだとこれまで思われてきましたが、本当はそうではなかった。
彼の役割は、偽札を用意することでした。
脅迫電話をかけるのを柳沢が担当したのは、主犯のアリバイを確保するためではなく、主犯である支店長が成瀬と面識があり、声で正体がばれる恐れがあったからです。
支店長と柳沢は、どのようにして知り合ったのでしょうか。
〈シャレード〉のマスターの話によれば、柳沢の両親の生前、銀行から融資を受けて印刷工場を拡張する話が持ち上がったそうですが、両親が事故死したあと、柳沢の仕事ぶりがあまりにいい加減だったため、立ち消えになったそうです。
この時の銀行は、明央銀行京都支店だったに違いありません。
支店長は部下の報告書から、柳沢が金に困っていること、人間的に疑わしい人物であること、従業員が柳沢に反発して全員辞めてしまったこと、かつて親和化学の製品管理課に勤務して爆発物の知識があることを知った。
これは、銀行が融資する相手としては不適格でも、支店長が計画していた犯罪の共犯者としては打ってつけでした。
支店長は言葉巧みに柳沢に接近し、計画に引きずり込んだ。
支店長は誘拐の被害者を選ぶときも、やはり自分の支店と取引のある人間の中から選びました。
幼い子供がおり、一億円を支払えるほどの資産家の家庭を。
柳沢と成瀬家のあいだにいかなる接点があるのか、警察はどうしても突き止められませんでしたが、ただ一つ接点があったのです――同じ銀行が取引先であるという接点が。
そして、主犯はその接点の中に潜んでいたのです。
主犯は、犯行にあったって自分の立場をフルに利用しました。
たとえば、悦夫が監禁されていたボート格納庫は、倒産した井田証券の保養施設のもので、銀行の担当にとられていたといいます。
その銀行は明央銀行で、主犯は校内のデータから格納庫の存在を知り、犯行に用いたに違いありません。
また、主犯は警察が事件に介入しているかどうかを知らなければなりませんでした。
もし介入していなかった場合、警察の監視を口実にして悦夫を爆殺すると、怪しまれてしまうからです、成瀬の手記を読めばわかるように、事件二日目の午後一時過ぎに支店長は身代金を届けに成瀬家を訪れ、居間に待機する刑事たちをみている。
支店長はこのとき警察の介入を確認し、警察の監視を口実に用いて大丈夫だと判断したのでしょう。
誘拐事件において、身代金を運んでくる銀行員は〈見えない人〉です。
あまりに自然なので、誰にも意識されない存在です。
警察も僕たちも、彼を完全に視野の外に置いていたのです。
僕たちが事件の真相をこうして手紙でお話ししている理由が、あなたにはおわかりのはずです。
あなたが犯人だったのですね、峰原さん。
あなたは事件当時の明央銀行京都支店の店長だった。
先日、僕たちは京都支店を訪れてそれを確認しました。
しかしその前から、あなたが問題の支店長ではないかと疑っていたのです。
あなたは再調査のとき、自分と明世の組、僕と理恵さんの組の二手に分けた。
そして、あなたと明世の組は担任教師と〈シャレード〉のマスターを、僕と理恵さんの組は京都府警と柏木夫妻を担当することになった。
僕たちが疑問を抱いたのは、このときの担当の割り振り方でした。
峰原さんは、思いついた推理を確かめたいので担任教師と〈シャレード〉のマスターを担当したい、と言った。
しかし、あとで考えてみると、この二人は峰原さんの推理――成瀬正雄犯人説とは何の関係もない。
むしろ関係があるのは、峰原さんが会わなかった岩崎警部補と柏木夫婦の方です。
彼らは事件当日、成瀬家で成瀬とともにいて、彼の言動をつぶさに目にしていた。
成瀬が犯人かどうか確かめたいなら、岩崎警部補と柏木夫婦にこそ会うべきではないでしょうか。
さらに、あなたの推理では、柏木武史を悦夫の本当の父親だとしている。
それを確認するためにも、柏木武史に会うことはあなたの推理にとって不可欠ではなかったでしょうか。
それなのにあなたはそうしなかった。
いったいなぜなのか。
僕たちは一つの疑問を抱くことになりました。
峰原さんは岩崎警部補と柏木夫婦に会いたくなかったのではないか?
峰原さんは彼らとは面識があり、なおかつそのことを知られたくなかったのではないか?
では、岩崎警部補と柏木夫婦の双方に面識があるとはどういうことか。
警部補と柏木夫婦は生活圏がまったく重ならず、彼らが唯一接点を持ったのは、誘拐事件の二日目に成瀬家にいたときと、悦夫の葬儀のときだけです。
とすれば、双方に面識があるということは、峰原さんもまた、あのとき成瀬家にいたか、あるいは葬儀に出席していたのではないか。
では、どちらだろうか?
ここで着目したいのが、悦夫の担任教師だった檜山遼子です。
彼女は葬儀に出席しているが、峰原さんは再調査のとき檜山遼子には会っている。
彼女のことは避けていない。
とすれば、峰原さんは葬儀には出席しなかったと考えていい。
したがって、峰原さんは、事件の二日目の成瀬家にいた人物ということになる。
岩崎警部補以外の刑事の一人だろうか?
しかし、成瀬の手記の記述から判断する限り、成瀬家に詰めた刑事たちの中には、峰原さんの容姿に相当する人物はいない。
とすれば、残る人物はただ一人――身代金を届けに来た明央銀行京都支店長です。
あなたは一億円を手に入れたあと、銀行を辞め、東京に来たのでしょう。
京都にいたままでは、突然大金を手に入れたことを知人に不審に思われるかもしれませんから。
あなたはかつて弁護士をしていたと言っていたが、それは嘘だった。
あなたの書斎の書棚に並んでいた法律書は経歴をもっともらしく見せるために用意されたものだし、弁護士資格を示す書状も偽者だった。
あなたが〈AHM〉を建てたのは、伯母の遺産によってではなく、成瀬家から奪った一億円によってだった。
(AHM)は築十一年です。
誘拐事件が起きたのが十二年前ですから、時期的にも符合します。
(AHM)という名称は、Apatment House Of Mineharaの略ではなく、A Hundred Milion ――一億円の略だったでのはないでしょうか?
あなたが壁に掲げていた老婦人の写真が、本当にあなたの伯母のものだったのかどうかも疑わしい。
僕たちが住んでいたマンションは、幼い少年の死と、何人もの人々の悲しみの上に築かれた偽りの楽園だったのです。
明世が成瀬正雄の手記を持ち出して推理合戦を提案したとき、峰原さんはさぞかし驚いたことでしょう。
真相を暴かれるとは思ってはいなかったでしょうが、居心地が悪いのは確かです。
あなたは、誘拐事件の容疑者は不特定多数であり、大量の人員と時間を投入できる警察の組織力だけが有効で、素人探偵の推理は何の役にも立たない、と言って、推理合戦をやめさせようとした。
しかし、手記を読んだあと、理恵さんが事件の疑問点として、身代金の届け先を悦夫の監禁現場にしたことと、実際に時限爆弾を仕掛けたことを挙げた。
峰原さんはこのとき極度の危機を感じたことでしょう。
なぜなら、この二点からは、身代金を燃やすことが本当の目的だった、という真相を導きうるからです。
そこで峰原さんは、悦夫を殺すことが本当の目的だった、という方向へミスリードすることにした。
そうすると今度は、犯人は悦夫の身近にいる、容疑者は限定され素人探偵にも活躍の余地が出てきた、ということになった。
そして明世と理恵さんが再調査に乗り気になった。
峰原さんは、すでに事件に疑問点を見出した僕たちが万が一真相に達することを恐れ、ここに至って再調査に加わる決心をしたのです。
再調査に加わり、誤った推理をすることで、僕たちを真相から遠ざけることにしたのです。
そのために、峰原さんは成瀬正雄犯人説を唱えた。
そして、真相があまりに悲劇的だということで、僕たちが再調査を断念するように仕向けたのです。
峰原さん。
僕たちはあなたが大好きでした。
あなたの知性と、穏やかな紳士的な姿を尊敬していました。
あなたとの交友は、何ものにも代えがたい喜びでした。
あなたを告発するのはとてもつらいことです。
僕たちは三日経ったら、事件の真相を記した手紙を京都府警に送ります。
それまでにどうか自首してください。
さようなら、峰原さん。
僕たちはいつまでもあなたのことを忘れません。
二〇〇四年十月二十五日
後藤慎司、奈良井明世、竹野理恵