大宅壮一
炎は流れる2 明治と昭和の谷間
目 次
[#小見出し] 清国の実情と危機感
「開国のための攘夷」という奇妙な結論を出した高杉晋作
[#小見出し] 急進攘夷派の実行力
理由なき殺人におびえる在留外人と薩摩藩士のテロ意識
[#小見出し] 維新の序曲「天誅」
威嚇的効果を狙った暗殺がさいごにはリンチとなった理由
[#小見出し] 宙に浮いた大義名分
生きるために手段を選ばなくなった志士のなかの夾雑物
[#小見出し] 一橋慶喜と渋沢栄一
精神的な動揺期のなかから生まれた相反する二人の人物
[#小見出し] 欧米文化との初接触
漂流という異常な体験から判断される民族の素質テスト
[#小見出し] 遣米使の見たハワイ
太平洋同盟の話もあった日本とハワイの意外に深い関係
[#小見出し] ハワイに残る忠誠心
戦前の日本がたいせつに保存されているハワイ島の現状分析
[#小見出し] 遣米使の意義と価値
アメリカとの大きな文化的落差を埋めた使節団の諸記録
[#小見出し] 開拓精神の過小評価
劣等感・優越感・抵抗感のカクテルでのぞいたアメリカ
[#小見出し] 日本開国二人の主役
日本を動かしたペリーの軍艦大砲・ハリスの勇気と誠意
[#小見出し] 使節団と米国の反省
観察者と同時に被観察者≠ナあった一行が与えた印象
あ と が き
[#改ページ]
[#中見出し]清国の実情と危機感
――「開国のための攘夷」という奇妙な結論を出した高杉晋作――
[#小見出し]五百両を使い果たす
文久二年正月、高杉晋作は喜び勇んで江戸を立って長崎についたが、幕府が外国貿易にのり出すというのははじめてのことであり、準備やら手違いやらでのびのびになって、「千歳丸」が長崎を出帆したのは、四月二十七日である。
高杉にとってはそのほうがかえって好都合で、そのあいだに精力的に動きまわり、予備知識を仕入れることに専念した。
長崎の崇福寺に、日本語のできるアメリカの宣教師がふたりいるときいて、彼はさっそくたずねて行った。ひとりはウィリアムス、もうひとりはフルベッキといった。フルベッキはオランダ生まれで、大隈重信、副島種臣《そえじまたねおみ》などもその教えをうけたが、のちに東京へ出て、大学南校(東大の前身)の教頭となり、明治政府にもいろいろと献策し、日本人同様の特典を与えられ、明治三十一年東京でなくなった。
アメリカで南北戦争がはじまったのは一八六一年、すなわちこの前の年で、これらふたりのアメリカ人は、いずれも南方側に属しているとか、シナでは長髪賊の乱がますますはげしくなって、李鴻章《りこうしよう》が手をやいているとか、アメリカもシナも、外国との戦争はやっと片づいたけれど、もっとおそろしいのはそのあとにくる内乱である、といったようなことを教えられたと、高杉は日記に書いている。
「日本では、武士と百姓町人と、階級がわかれているが、アメリカはどうなっていますか」
という高杉の質問にたいし、ウィリアムスは、
「わたしの国には、階級などというものはありません。選ばれて国王に相当する地位についても、一定の時期がたつとまたもとの平民にかえります。たとえばあの有名なワシントンにしても、一市民から選ばれて大統領になりましたが、のちにやめて市民となり、ふたたび大統領に選ばれました」
さらに高杉は、アメリカの産物などについて、あれこれときいたが、話のタネがきれそうになると、相手はすぐヤソ教(キリスト教)をもち出してくるので、早々に引きあげた。かれらが日本語を学ぶというのは口実で、ほんとのねらいはヤソ教をひろめることにあるので、要路の役人も油断はできないと、高杉は書いている。
当時、長崎には、ロレイロといって、フランスとポルトガルの領事を兼ねているのがいた。高杉はこれに会って、ヨーロッパ諸国の国情、国力についてきいた。その結果、イギリスは島国で、人間は少ないけれど、大きな軍艦をたくさんもっていて強い、フランスはこれと競争しているが、とてもかなわないということを知った。のちに幕府がフランスの援助をうけたのに反し、長州が薩摩とともにイギリスに結びついたのも、ひとつはこういった知識と打算からきているのではあるまいか。
ある日の夕方、高杉がロレイロの家の前を通ると、領事が自分で花壇の手入れをしているのが目についた。
「あなたのような身分の人が、どうしてこんなことを使用人にやらせないで、自分でするのですか」
ときいたところ、ロレイロは両手をヒザの上において、ふんぞりかえり、
「日本のお役人たちはいつもこうしているでしょう」
といって笑った。
これを裏返しにしたような話を、わたくしは、エチオピアの日本大使館できいた。日本の大使が、自分でクワをもって花壇をつくっているのを、エチオピア人に見られ、すっかり軽蔑されたという。アジアやアフリカの後進国では、役人はもちろん、身分の高いものや高等の教育をうけたものは、決して労働すべきでないという考えかたに、今も支配されているが、これがこれらの国々の発展をさまたげているのだ。
上海行きの支度金として、高杉に藩から支給された金は五百両だった。今の金にすると何百万円にも相当する大金だ。ところが、彼の身分は、貿易使節の随員ということになっていて、幕府の役人たちに頭が上がらない。しかし、高杉の目から見れば、かれらはみなハナモチならぬ俗物で、支度金を目あてにやってきたとしか思えないような連中である。そこで、高杉は、長崎につくなり、一行全員を丸山遊廓に招待し、思いきった大尽遊びをやってのけて、まずかれらのドギモをぬいた。そのあと宏壮な邸宅を借りうけ、長崎一といわれる名妓を身うけして、そこでいっしょに住み、召使いも大勢やといこんで、豪勢な生活をはじめた。
そのため、所持金をすっかり使いはたし、いよいよ出発という段になって、のこったのは借金ばかりであった。そこで、芸者をもとの抱え主に売りとばし、その金をもって上海にむかった。
このやりかたは、いかにも無軌道のようにみえるが、その裏には、高杉らしい奇略と打算が秘められていた。というのは、これによって幕府の役人や諸藩からの同行者に、長州人の豪胆ぶりを示す一方、そのご、かれらと遊びを共にしなくてすんだから、けっきょく、このほうが安上がりだったというわけだ。
日本人が船を仕立てて外国貿易にのり出すというのは、まさに「寛永以来の壮挙」だと高杉はいっているが、全乗組員の意気ごみが思いやられる。
日本の鎖国≠ヘ、寛永十六年(一六三九年)から嘉永六年(一八五三年)まで、二百十四年間つづいたのであるが、こういった国際的孤立は、なにも日本ばかりではなかった。清国、朝鮮、琉球なども、だいたい同じような政策をとっていたのであって、これは後進国の自衛策でもあった。とくにこれらの国々の政府が、その支配権を守る対内策からも、これが必要とされたのである。鎖国の目的は、キリスト教の侵入を防止することにあったと考えられているが、それだけでなく、特定の国と政府との貿易独占による利益も、見のがすことはできないものである。
当時、西洋人にとって東洋貿易は、経済的に孤立している国々を相手におこなわれるのだから、あつかう商品の価格差が大きく、ひとつの地域から他の地域へうつすだけで、なん倍もの利益をあげることができた。対日貿易の独占を認められたオランダの立場は、この点で幕府と利害が一致したわけで、だからこそ、この独占的なアベック貿易が二百年以上もつづいたのである。
ポルトガルやスペインが日本からしめ出されたのは、ちょうどこの時代がヨーロッパ諸国の勢力交代期で、キリスト教と結びついたポルトガルやスペインの植民地略取、さらにこれと並行しておこなわれた掠奪的な貿易が行きづまり、プロテスタントで純然たる商業主義の上に立つオランダ、ついでイギリスの勢力がのびてきたのだ。
鎖国≠ニいうことばは、ドイツ人でオランダ東印度会社につとめ、長崎出島の商館づき医師として日本にきたケンプェルがその著書『日本誌』のなかでつかったオランダ語を、通訳の志筑《しちく》忠雄が日本語に訳したのが最初である。ケンプェルが日本にきたのは元禄時代で、鎖国日本の最隆盛期だったから、鎖国は決して悪いものではないという見方をしている。
しかし、一般には、その後の日本民族の発展の上に、鎖国は大きなさまたげになったと考えられている。
ところが、日本経済史の権威内田銀蔵は、明治にはいって日本が目ざましい発展をとげたのは、鎖国時代に蓄積された国力に基づいていると論じている。国史学者の中村孝也、南蛮研究家の新村出《しんむらいずる》なども、当時の日本にとっては鎖国が必要であり、有意義でもあったと見ている。しかし、第二次大戦後に出た和辻哲郎の『鎖国』によると、日本の悲劇≠ヘ、日本人に合理的、科学的精神が欠けているところからきたもので、これをつちかい、助長したのが鎖国だということになっている。
今となっては、鎖国の是非は死児の齢《よわい》をかぞえるようなものだが、けっきょく、一長一短ということになる。それにしても、二世紀半にわたってこの列島に平和がつづいたというのは、世界史上に珍しい例で、これも鎖国と切りはなせないものである。この日本にも、ついに新しい世界の波がおしよせてきたのだ。
[#小見出し]うまい汁は外人に
「千歳丸」という船は、長さ二十間(約三七メートル)、幅四間(七メートル強)ばかりで、これに幕府の勘定方(経理官)根立《ねだて》助七郎をはじめ、日本人が五十一人、ほかにイギリス人十五人、オランダ人一人がのりこんだ。旧船主のリチャードソンというのが、船長として雇われていた。
各藩の便乗者は、幕府の役人の従者≠烽オくは従僕≠ニいう名目で、高杉は犬塚という目付の従者≠ニなっていた。海軍参謀部長(のちの軍令部長相当)となった海軍中将子爵|中牟田《なかむた》倉之助は、鍋島藩士で、高杉と同じような資格でのりこんでいた。
薩摩藩士で、のちに関西財界で活躍、「大阪商法会議所」を創立した五代友厚《ごだいともあつ》(当時は才助といった)は、旅行準備にひまどっているうちに、従者≠フ地位がなくなって、水夫にバケてもぐりこんでいた。五代は前から高杉の評判をきいていて、長崎で高杉を訪ねたのだが、病気中で会えなかった。それが船のなかで互いに名のりあい、たちまちにして肝胆相照らし、大いに談じあったことはいうまでもない。
この船につみこんだ商品は、石炭、ニンジン、干したナマコ、アワビ、フカのヒレ、カンテン、コンブ、ショウノウ、生糸など、前から長崎で貿易していたものだ。これらの積み荷は、すべてオランダ領事に委託して販売することになっていた。
もともと、この貿易計画そのものが、長崎の商人たちのもくろんだもので、幕府の役人は商人のいうままに上申し、商人は通訳まかせ、通訳は外国人のいいなりに動くというわけで、けっきょく、うまい汁はすべてオランダ人やイギリス人に吸われる仕組みになっていた。このカラクリを見ぬいた高杉は、日記のなかで大いにふんがいしている。
この上海旅行については、高杉の『遊清五録』、中牟田の『上海行日記』をはじめ、肥前小城藩士|納富介次郎《のうとみかいじろう》の『上海雑記』、尾州藩士日比野|輝寛《てるひろ》の『没鼻筆語』などの記録がのこされている。
当時、高杉は二十三歳、中牟田は二十五歳、日比野は二十四歳、五代が二十七歳、いずれも三十歳以下の青年で、各藩の選んだ精鋭分子である。幕府の役人のように、支度金が目あてではなく、それぞれ藩命をおびて軍艦、鉄砲などの武器を仕入れるとか、すでに日本にも伝えられていた「長髪賊の乱」の実態をきわめるとか、洋夷≠ノよって植民地化された清国の姿を見とどけくるとか、なんでも見てやろう℃ョの好奇心と気魄《きはく》にみちていたことは、かれらののこした日記類によくあらわれている。
[#小見出し]渦巻く上海租界
上海は揚子江の河口近く、黄浦江と合流する地点にできた町だが、上海≠ニいう名は、黄浦江に注いでいたふたつのクリーク、上海浦と下海浦のひとつからきている。はじめは名もなき漁村であったが、すでに十二世紀の宋の時代には貿易港となり、元の時代には江南の米を北京方面へ送り出す起点として栄えた。一五五三年から倭寇《わこう》におそわれ出して城壁を築いたが、一九〇六年に、発展のじゃまになるというのでとりのぞいた。
一八四〇年におこった「アヘン戦争」では、上海は英軍に占領され、四二年の南京条約によって開港させられた。そのころはまだ三流都市であったが、開港直後にここを訪れたスコットランドの植物学者で旅行者としても知られたロバート・フォーチューンは、上海の将来性について、つぎのごとく書いている。
「上海が杭州、蘇州、古都南京に近いこと、内陸との取り引きが大きいこと、すなわち河川や運河によって奥地との交通が便利なこと、茶や生糸をもち出すのに広州(広東)よりも容易なこと、さらにこの土地がわが国(英国)の綿製品の巨大な市場であること、こういった点を考えるならば、数年のうちに広州に匹敵するばかりか、それ以上の重要な土地となるにちがいない」
このあと彼は、台湾や日本を訪れて養蚕《ようさん》などを研究し、東洋の植物をたくさんヨーロッパヘもちこんだ。
上海は、ひとくちにいって、アジアにヨーロッパがもちこまれたようなもので、ほとんど外国資本でつくられた。南京条約の第二条では、
「清国皇帝陛下は、英国臣民がその家族従者をたずさえて、広州、厦門《アモイ》、福州、上海の町において、商業に従事するため、迫害または拘束をこうむることなく居住するをえせしむべきことを約す」
となっている。これにもとづいて、一八四五年に、まずイギリス租界、ついで四九年にフランス租界、五三年にアメリカ租界ができ、六三年に英米の両租界が合併して共同租界となった。これは高杉らが上海に行った翌年のことである。
上海がこのような形で発展して行っても、中国側では大して主権の侵害とは考えてはいなかった。二代目上海領事から初代駐日総領事に転じて、幕末の対日外交界に活躍し、さらに中国公使となったオールコックのごときも、租界は「ひとつの独立した自治共和国」だといっている。中国が近代的な民族主義を目ざめ、幕末日本の攘夷≠ノ相当する排外運動が、上海を中心にして、全中国にひろがったのは、ずっとのちのことだ。
高杉にしても、上海から帰国後、無謀な外艦砲撃を断行して惨敗し、オールコックを向こうにまわして講和談判をおこなったとき、彦島(現下関市内)の租借問題をもち出された。しかし、高杉には租借≠フ意味がよくわからなくて、見当ちがいの意見をまくしたてたのであるが、結果においては、これが日本に幸いしたのである。
だが、英国人の書いたものによれば、
「上海も、はじめは手ごろな英国の居留地にすぎなかったこのドングリが大きなカシの木に成長したことは、近代史の興味深い物語りのひとつである」
このドングリは、少しおくれて横浜などにもまかれたのである。日本ではついに発芽し成長するにいたらなかったのは、これをうけいれる気候と風土――民族的、経済的条件が、中国とはちがっていたからだ。
上海に租界がつくられた当初、そのなかに中国人は、ごく少数の外人住宅の使用人をのぞいて、住まわせないという建て前であった。上海が開港してまる十年たった一八五三年に、租界内に居住する中国人はせいぜい五百人程度であった。
ところが、一八五一年にはじまった「長髪賊の乱」が、六〇年ごろには江南一帯にひろがり、中国人の難民が、外国人に防衛されたこの安全地帯≠ノなだれこんできたため、上海の中国人人口は、たちまち五十万以上にふくれあがった。これにともなって、いろんな問題が渦まいていた。
そういうところへ、高杉らをのせた「千歳丸」が日本からやってきたのである。
[#小見出し]乱政を臭気で知る
「千歳丸」が上海についたのは、五月六日で、まる九日かかっている。長崎を出るとき、日比野は
「ああ万里のわかれ、また何のときに会すべき」
と、悲壮な気持ちを日記に書いている。五島列島をすぎて、船がひどくゆれ出した。外人乗組員は平気で運転をつづけたが、日本人水夫たちはみなぶったおれて、飯のしたくどころではなかった。「大丈夫も腹がへっては、パンに手をつけざるをえない」と、強がりをいっていたのが、いよいよ苦しくなると、長崎で仕入れてきた酒石酸を口に入れた。しかし高杉は船に強かったらしい。
それでも、波がおさまれば、気のあった連中が船室にあつまって、
「門を出るなお不慮にそなう。いわんや、わが国遣唐後初めて西土にわたるをや。且《かつ》この辺海賊ありときく。不慮にそなえざらんや。わが輩腰間の日本刀あり。満心の勇義(気)をもってこれをふるう。ささたる海賊、何ぞ恐れん」
といった調子で、大いに気炎をあげた。
船が黄浦江にはいっていくと、両側の村落、樹木は日本とほとんどかわらない。麦畑は青々として、堤には牛がねそべっている。魚をとる四つ手網も、日本と同じである。
ところが、港に近づいて、日本人一同驚いた。なん千という商船や軍艦で埋まって、煙突や帆柱が林立している。そして埠頭には、城郭のような高層建築がずらりとならび、日本人たちを威圧した。その目に映ったものは、アジアでなくてヨーロッパそのものである。
「千歳丸」が蒸汽船にひかれて波止場についたのを見て、中国人が大勢見物にやってきた。そして日本人が町を歩くと、あとがらゾロゾロとつきまとった。中国人がまず驚いたのは、日本人の頭のマゲで、これを指さして笑いこけたが、日本人のほうでも、中国人は「頭に数尺の尾をたれ(弁髪のことをいう)、その姿容実に抱腹にたえず」と書いている。
上海は豪壮だといっても、それは表通りだけで、ちょっと裏街にはいると「塵糞うずたかく、足をふむところなし。人またこれを掃《はら》うことなし」というありさまである。
一行がいちばん困ったのは水である。黄浦江はきたなく濁っていて、イヌ、ウマ、ヒツジなどの死体が浮かんでいるが、これに人間の死体もまじっている。しかも中国人はこの水をのんでいるのだ。当時、上海にはコレラがはやっていて、日本人のなかからも三人の死者が出た。
納富も日比野も、コレラにかかったと書いている。どっちも一時は重体におちいったが、奇跡的に助かったらしい。
死体はムシロに包んで道ばたにすてられていて、炎暑のおりから「臭気鼻をうがつばかり、清国の乱政、これをもって知るべし」というわけだ。
だが、高杉は、
「一歩国を出れば、死はすでに覚悟の前である。しかし犬死は無益だ。故に自分の身は、自分で気をつけて守るよりほかはない」
といっている。
イギリスの領事館に行って見ると、
「その境内はなはだ広く、そのうちに白き帆木綿のごときものを張りたる百余あり。内に兵卒の四、五人ずつも入りたるべし。またある説に、清の軍営にもかくのごときものを用うと。これ皇朝古代の張房と同製にして、今の陣中小屋がけよりも、いたって造作なき仕方なるべし」
イギリス駐留軍のテントを見て、その便利なのに感心し、むかし日本にもこれに似たものがあったとのべている。
日本人を見て琉球人と思ったものも少なくなかった。琉球の使節や商品をのせてきた船に、薩摩人がこっそりとのりこんでいて、琉球人だといつわっていたのであろうと見ている。
そうかと思うと、日本人がきたというので、わざわざホテルヘ訪れてくる中国人もいた。かれらと筆談をしたが、それによると、日本の船がまだつく前、上海人のあいだに、こんなウワサがながれていた。
「今般英人、東洋(日本)の援兵を請いきたり、清倭英仏の兵を合し、長髪賊を亡ぼさんとす。東洋軍艦何の日か到ると、これを待つこと久し。且奇異の諺《ことわざ》(ここではウワサ)あり、東洋兵のなかに奇術をおこなうもの二人あり。一人はよく一日に千里を往還し、一人は雲にかけり、水に歩す。今君らを見るに、さらに異なるところなし」
「千歳丸」が上海についたとき、見物人がおしよせてきたのはこのためで、倭寇《わこう》以来東洋鬼《トンヤンキー》≠キなわち日本人は戦争に強いという考えが、中国人のあいだに広く深く浸透していたことはこれでもわかる。
[#小見出し]アヘンで乱れた清国
幕府は、外国貿易の小手調べに「千歳丸」を上海に送ったのであるが、これに便乗してきた各藩精鋭分子の目的は、もっと政治性の強いもので、かれらの最大の関心事は、「アヘン戦争」と「長髪賊の乱」であった。幕府の崩壊を前にして、自藩の戦力強化を計るだけでなく、超藩的な国民意識が発生し、日本の危機感といったようなものを抱いていた。その危機感をそそったのは、清国におこった「アヘン戦争」で、清国のつぎにねらわれているのは日本だというところから、この戦争の実相と、その後の清国のありかたを知りたいという意欲が、とくに強かった。
清国が無条件降服のような形で、イギリスと「南京条約」を結んだのは、一八四二年であるが、二年後の四四年(弘化元年)には、オランダのウィリアムニ世が、ヨーロッパの情勢と「アヘン戦争」の原因や結果を幕府に知らせて、鎖国をつづけることの不利、不可能を説いている。幕府はこの警告をうけいれなかったが、幕末日本の知識層のあいだには、欧米諸国の帝国主義的侵略についての知識が、相当普及していたことは明らかで、それがまた攘夷℃v想に油をそそいだのだ。
アヘンというのはアラビア語のアフューン(Afyun)ら出たもので、ギリシャでは主として麻酔剤につかわれていた。中国にはいったのは元の時代で、陸路中央アジアを通ってきたともいわれているが、これを吸う習慣が大衆化したのはずっとのちである。スペイン人によってまずフィリピンに伝えられ、さらに台湾にはいって、マラリアの特効薬として歓迎されたのが、享楽用に転化し、福建あたりから中国全土にひろがっていったものらしい。「阿芙蓉」とか「紫霞膏」(紫霞とは仙境の意)とかいう字をあてているのを見ても、現実を逃避して夢幻境に引きいれる効果をよくあらわしている。
中国のアヘン常用者は、主として社会の上層と下層で、中間層は比較的少ない。上層はこれによって人生の享楽度を高めようとし、下層は現実の苦痛からのがれようとしたのである。いずれも、政治の貧困と切りはなすことのできないものだ。
当初、清国も鎖国政策をとっていた。貿易はむかしながらの朝貢《ちようこう》≠ニいう形で、広東一か所に限定され、それもほとんどポルトガル人の独占となっていた。徳川時代の日本の対西欧貿易が、長崎でオランダ一国にのみ許されていたのと同じである。ポルトガルとかオランダとかいう小国は、貿易の利益を独占するために、自尊心の強い後進国政府がもち出すどんな屈辱的な貿易形式にも甘んじていた。
そこへ、新興の意気にもえるイギリスが、強引にわりこんできたのだ。産業革命で大量生産された綿製品その他の商品の新しい市場としての中国を見のがすわけはなかったが、それよりも中国から大量に輸入した茶や絹の代償として、銀のかわりに、インドのベンガル地方でつくらせたアヘンを、中国におしつけたのである。これを拒否しようとして、中国の湖広総督|林則徐《りんそくじよ》は、アヘンの大量焼却という非常手段に訴えたのであるが、これがかえってイギリスに、史上最大の非人道的戦争をおこす口実を与えたのである。これによってイギリスは、アヘンという毒物で、中国の生産物を貿易の名において掠奪する行為をつづけたばかりでなく、日本の開国に強圧を加える威嚇《いかく》的効果をもりあげることができたわけだ。
天保十一年(一八四〇年)、長崎の町年寄で日本における近代的砲術の先駆者となった高島秋帆が、長崎奉行に提出した上申書のなかで、「唐国広東の騒乱」についてのべ、「大清国が褊少《へんしよう》なるエゲレス国」と戦って、英国側には「一人の死亡もなく」完敗したが、それというのも、「まったく唐国の砲術は児戯」にひとしかったからで、さらに高島は日本の砲術家たちの技術についても、「西洋にてすでに数百年前に棄廃仕り候遅鈍の術、あるいは無稽の華法などをもって各門戸を立て、たがいに奇秘仕り、いたずらに観美を競い候事ども少なからざるやに存じ奉り候」と、痛烈な批判をくだしている。
かように「アヘン戦争」は、清国の弱体をバクロしただけにおわったが、清国軍はあちこちでずいぶんコッケイな手をつかっている。たとえば杭州湾岸の戦いで、清兵の一部が鬼の面をかむって英兵をおどかそうとしたのも、そのひとつだ。またサルに爆薬を背負わせて、英艦にとびこませるという、のちに日本軍が上海戦で試みたバクダン三勇士≠フ真似ごとみたいな計画を立てたが、そのサルをつれて英艦に近づくものがいなくて、これは未遂におわったという。それに、清国の役人、軍人、民衆のあいだには、英軍に内通するものが多く、なんでもつつぬけになっていたらしい。
「千歳丸」で上海に行った日本人も、その日記のなかで、「清国近年またアヘンを吃《きつ》するものはなはだ多く、官府よりもついに制禁すること能《あた》わず」と書いている。
[#小見出し]高杉の見た太平天国の乱
高杉らが上海についた日の明けがた近く、どこからともなく、小銃の音が聞こえてきた。近くで長髪賊≠ニの戦争がはじまっているのだ。それから二、三日たつと、長髪賊≠ェ上海にせまってきたから、明朝あたり、きっと大砲の音がきかれるだろうというニュースをきいて、幕府の役人どもはびっくりしたが、高杉らは絶好のチャンスとばかり、待ちうけていたけれど、ついに実戦を目撃することはできなかった。
長髪賊≠ニいうのは、満州族の清が明を滅ぼして中国を支配するようになって、風俗も満州式に改め、頭の毛を剃《そ》ったが、これに反抗して漢民族本来の風習にかえり、毛を長くのばしたところからきたものだ。もともと、上帝会≠ニいって、キリスト教と民間信仰をつきまぜた新興宗教の一種から発展したのである。
その中心人物の洪秀全《こうしゆうぜん》は、中農の三男だが、科挙の試験に四度も落第して、清朝の官吏になることをあきらめたインテリで、上帝会≠ノはいったのは、清朝が「アヘン戦争」に敗れた翌年である。その後、彼は、広東でロバーツというアメリカの宣教師についてキリスト教を研究し、新しい三位一体説をうちたてた。すなわち、トップが天父で、ぞのつぎがキリスト、第三位がキリストの弟である彼自身だというわけだ。それとともに、単なる新興宗教から脱皮して、中国に太平天国≠もたらす革命運動に転化した。
これが漢民族の反満感情に投じるとともに、「アヘン戦争」後の物価騰貴や飢饉によって生じた大量の難民を吸収して、見る見るふくれあがり、強大な軍事組織をもって、腐敗し弱体化した官軍をいたるところでうち破った。そして一八五三年には、南京を攻略して、ここを天府≠ニ定め、洪秀全自身は天王≠ニ称し、幹部級には王号を与えた。
その一方、彼はいろいろと新しい制度をつくった。男女の雑居を禁じたのは、中国古来の風習を復活させたにすぎないけれど、土地私有を廃止して均分制をうち立てたり、銀十|両《テール》以上の私蔵を認めなかったり、婦人の纒足《てんそく》、奴隷売買、蓄妾の習慣などを停止したりした点は、社会主義に近い。そのためか、いま中共では、この運動を「清朝を中心とする地主的社会経済体制に対立するもの」、「人民革命の偉大なる先駆」として、高く評価している。
このように、卑俗な民間信仰から出た新興宗教にインテリ失業者が加わって、理論≠ェ与えられ、その性格がかわってくることは、日本でもしばしば見られる現象である。戦後、出口直のお筆先≠ゥら生まれた大本《おおもと》教の一部が、進歩的知識人≠加えて、革新陣営に参加するようになったのも、その一例である。
それはさておいて、「千歳丸」が上海についたのは、この太平天国≠フ軍隊が、ちょうど上海の近郊にせまってきたときであった。清国軍の総帥となった曾国藩《そうこくはん》は、弟の曾|国※[#「竹/全」、unicode7b4c]《こくぜん》、左宗棠《さそうどう》、日清戦争後の講和会議で中国側の代表となった李鴻章などに、これを討伐させたが、太平軍≠フ勢力あなどりがたく、上海はいよいよ危機に直面した。
これにたいして、上海に租界をもつ英、仏、米その他の諸国は、はじめ中立主義をとっていたが、「千歳丸」がきた年、断然清国側に加わった。その前、浙江財閥が金を出して、ウォードというアメリカの船員を雇い、これを指揮官に、中国人を加えて洋槍隊=i小銃部隊)を編成し、太平軍≠ノあたらせた。これが戦えば必ず勝つというので、常勝軍≠ニ呼ばれていた。のちに諸外国はこの軍隊を強化して、ついに江南地域いったいを奪還したのであるが、有名なゴルドン将軍は、この常勝軍≠フさいごの指揮官である。彼はイギリスの工兵少佐で、一本のムチと一個の双眼鏡をもって、いつでも先頭に立って進み、英語で号令をかけた。
一八六四年、ついに南京が陥落し、洪秀全は毒を仰いで死に、その子の洪福《こうほく》は捕えられて殺された。
常勝軍≠ヘ解散して、ゴルドンはアフリカに去り、スーダンのハルツームで黒人の刃に倒れた。明治三十四年に徳冨蘆花が、ゴルドンの勇気と徳を絶賛した伝記を出版しているが、当時の日本では、キリスト教的信仰と、イギリス的ヒューマニズムと、植民地侵略戦争とが、なんの矛盾も感じられないで、すなおにうけとられていたのである。
明治維新の内乱においても、諸外国は中立主義をとっていたが、この内乱がもっと長びいて、かれらの権益を危うくするにいたったならば、日本でも常勝軍≠ェつくられたにちがいない。でなければ、諸外国が幕府側と朝廷側にわかれて、この内乱に介入し、事態がもっと紛糾し、複雑化して、日本の植民地への道を開いたであろう。
いずれにしても、上海で高杉らの見たものは、日本にせまりつつある運命であった。
[#小見出し]清国の衰弱ここにいたる
高杉らの一行が上海についたころの清国政府のありかたは、いろんな点で、高杉らが日本を出たときの徳川幕府に似ていた。
せいぜい十万くらいの満州族が、厖大な漢民族を征服して全中国の支配者となったのは、長く辺地にあって簡素な生活のなかできたえた精悍《せいかん》な民族性と、優れた武力と、強い民族意識がものをいったのである。しかし、清朝政府ができてからは、満州族のほとんど全部が中国本土に移住し、特権的な生活に慣れるとともに、すっかり漢民族化してしまった。のちに日本が清朝の廃帝|溥儀《ふぎ》をかついで満州国をつくったとき、漢民族に対抗できるような満州族はほとんどいなくなっていた。
清朝政府を軍事的にささえていたのは、満州八旗≠キなわち八つの軍団で、これが北京をはじめ、全中国の要所を固めて、政治や経済の面でも支配権をにぎっていた。徳川の旗本八万騎≠ノ相当するものだ。旗本の総数は約五千であったが、家来を加えた総動員力はそれくらいになったのであろう。それが幕末には、すっかりサラリーマン化し、貨幣経済の発達で生活が苦しくなるとともに、戦闘力を失ってしまったのである。
当時の満州八旗≠焉Aこれに似た状態にあったのが、「アヘン戦争」や「長髪賊の乱」で、すっかりその弱点をバクロしたのだ。それでも、清朝がこのあとまだ半世紀近くも命脈を保つことができたというのは、日本と比べて一元的なナショナリズムの発展がおくれたこと、列国の干渉で各種勢力間にバランスが保たれたことなどに帰すべきであろう。
ところで、高杉らは、上海滞在中、別にこれという用事もないので、精力的にあちこち見学してまわった。
一日、西門の外に清国軍の陣地があって、訓練がおこなわれているときいて見に行った。むろん、長髪賊≠ノそなえたもので、陣屋だけは西洋をまねているが、銃砲類は、日本人から見ても旧式だった。そのへんにいた中国人を相手に筆談を試みたところ、
「清国軍でも、西洋の武器をもたせたら、あえて敵を恐れることはないのだが、なんといってもこの装備ではかなわない」
と、いうことだった。
町を歩いていて、西洋人が向こうからやってくると、中国人はたいてい道をゆずっているのを見て、高杉はふんがいした。
「ここは中国の土地であるが、実質はまったく英仏の属国である。もっとも、首都北京はここから三百里もはなれているから、あるいは中華の美風がのこっているのかもしれないが、しかし、これは中国だけの問題ではない。いまに、日本もこの国の二の舞いをふむことになりそうだから、ゆだんは禁物だ」
上海の城壁は、高さが一丈五尺(約五メートル)くらい、周囲が約一里半、ヤグラには清国旗がひるがえり、大砲をそなえつけているが、城門を守っているのは、英仏の軍隊である。そこにいあわせた中国人たちにむかって、納富が、
「中国では、どうして外人に城を守らせているのか」
ときくと、みんなだまりこんだ。そのうち、ひとりが答えた。
「この前、長髪賊≠ェ攻めこんできたとき、李鴻章はまだこないし、清国軍は遠くはなれたところにいたので、やむをえず英仏の力を借りたのだ」
そこで、納富はさらに問うた。
「それにしても、どうして外人のバッコをおさえないのだ。これでは、かえって清朝が外人におさえられていることになりはしないか」
これにたいして、だれも答えるものはなかった。
別な日に、城内を見物してかえろうとすると、すでに城門がしまっていた。しかし、仏人たちは日本人と見て、門を開いて通してくれた。すると、中国人がこれに便乗して通ろうとしたが、許さなかった。ちょうど、そこへ中国の役人が外からカゴにのってやってきて、仏人が制止するのもきかず、通りぬけようとしたので、仏人はムチでたたきのめし、ひきさがらせた。これを見て納富は日記に書いている。
「ああ清国の衰弱ここにいたる。嘆ずべきことにあらずや」
この時代にも、西洋人のあいだで、日本人と中国人はこのような差別待遇をうけていたらしい。
[#小見出し]よかった対日感情
一方、幕府の役人たちは、積み荷の処理などで、毎日忙しそうにとび歩いていた。ある日の午後、各国の領事館をまわるから、いっしょに行ってみないかと幕吏に誘われて、高杉はついていった。
まず、フランス領事館に行ったが、先方では大歓迎で、幕吏はさっそく二階に通された。従者≠フ高杉は階下で待たされているあいだ、珍しい酒や菓子をごちそうになった。「階下でも、これだけの接待をうけるのだから階上の美酒佳肴は思いやられる」と書いている。
フランス領事館を出た幕吏と高杉は、こんどはイギリス領事館に行った。門衛が銃剣を肩に、いかめしく立っていて、門内には野砲、小銃などがずらりとならべてあった。
この近くに、新大橋≠ニいうのがある。これは英人のかけたもので、中国人がわたると、一人一回一銭ずつとっていた。
つぎに、アメリカ領事館へ行ったが、フランス領事館ほど優遇はしなかった。しかし、さいごのロシア領事館では、フランス領事館以上のもてなしをした。
この記録は、各国領事館のありかたや対日感情、というよりも、対日政策がよくあらわれていて興味がある。
そのころ、日本と清国のあいだは、まだ通商条約が結ばれていなかったので、こんどの対支貿易にしても、オランダの名義でおこなわれたのであるが、当時オランダはフランスの勢力下にあった。したがって、この貿易でいちばんうまい汁をすっていたのはフランスであった。フランスが幕府を支持して、その存続を図ったのも、こういった利害関係からきていることはいうまでもない。一方、ロシアが日本に秋波をおくっていたことも、これでよくわかる。
当時の上海の一般情勢について、高杉はつぎのような観察をくだしている。
「上海は支那南辺の海隅僻地にして、かつて英夷にうばわれしところ、津港繁盛といえども、みな外国人やその商船による。城外城内も、外国の商館多きが故に、繁盛するなり。支那人の居所を見るに、多くは貧者にて、その不潔なること言語に絶し、あるいは年中船に住するものあり、ただ富めるものは、外国人の商館に雇われているものなり。少しく学力ある有志者はみな北京あたりへ去り、ただ日雇の人が銭をとり、一日一日の糊口《ここう》(食生活)となすもの多し。もと上海は土地より人多けれども、みないわゆる日雇、非人《ひにん》(コジキ)などのみ」
さすがに高杉は、上海の実態をよくつかんでいるが、これを読むと、終戦直後の東京を思わせる。このころの中国には、別に北京というものがあって、そこでは中国本来の姿が保存されていたのであるが、終戦直後の日本では、首都東京そのものが上海化したのである。
日比野は、上海についたころ「小袴《しようこ》(ハカマ)を着し、天公(カサ)をいただき、長刀をよこたえ、拳をふるって、意気揚々、市街を歩すれば、行人前途をひらく」といった調子で、毎日見物して歩いたが、急に胸が苦しくなり、食物がノドに通らず、ひどい下痢がつづいた。
「夜に入りて、手足|拘攣《こうれん》(ヒキツケ)、舌端固縮し、脈の有無弁じがたし」という状態におちいった。医者をよんでみてもらうと、コレラにかかったのだという。しかし、四、五日で全快しているところを見れば、あるいはアミーバ赤痢だったのかもしれない。
親しくなった中国人の家へ招かれて、食事を共にした。長い象牙のハシも珍しかったが、それよりは、食事をするにも、「男女席を異にし、女子は奥室にて吃《きつ》す。その別はなはだ厳なり」ということに、異様な感じを抱いたらしい。
食後、この家の主人が小刀をもちだして、
「これは貴国の刀ですが、ひとつご鑑定願いたい」
といった。日比野は笑って
「これは日本刀などというものではない。紙を切ったり、木をけずったりするものですよ」
といって、自分のさしている刀を示し
「鞘《さや》を脱すれば虎吠え、猛獣手に応じて倒る」
と、大きく出た。そこで、主人はそれを抜いて見せてくれといった。すると、日比野は、顔色を正して、
「わが国抜刀を禁ず。故に鞘を脱すれば必ず鮮血をそそぐ。兄、鮮血を与うるか」
といっておどした。
このような日支交歓があちこちでおこなわれたのであるが、中国人のあいだでは、
「日本人は温和にて親しむべし、ただ腰間の物に近よるべからず」
という風評が立っていたという。
のちに日比野が清国の有力な役人の家へ行ったとき、応接室に日本刀がりっぱな錦《にしき》の袋に入れて飾ってあったので、ぬいて見ると、すっかりサビついていた。
「千歳丸」で航海中にも、イギリス人が長崎で仕人れてきたという短刀をふりまわして威ばっていた。日比野の見たところでは、お話にならぬ鈍刀である。
「すべて洋夷はサビをきらい、一点のサビあれば、利刀にてもたっとばず、サビなくば、鈍刀にても珍重すと聞く。あまり愚なるごとく」
と、きめつけている。それでいて、明治政府が廃刀令を出すと、あっさり刀をすてて、西洋の武器に切りかえたところ、すこぶる日本的である。
[#小見出し]西洋文化になじめず
納富が病気で寝ていたときに、中国人の書生がやってきて、同室の日本人たちと筆談をした。中国人はいった。
「あなたがたは聖書というものを見たことがないでしょう。差し上げようと思って、ここへ一冊もってきました」
手にとってひらいてみると、邪教書≠ナある。そこで、日本人たちは大いに腹を立て、その書物を床に役げつけるとともに、これをもってきた書生を扉の外に追い出した。あくる日、その書生がまたきたけれど、すぐ追いかえしてしまった。中国人のあいだでは、このようにキリスト教が普及しているのを知って、納富は、
「ああ、清国、書を読むものすら、すでにこれを尊奉す。いわんや愚民らにおいておや」
と、慨嘆している。このあと彼は、キリスト教について、いろいろと知識を仕入れたらしく、
「西洋人初めてヤソ堂を上海に造創せしは、道光二十年(西暦一八四〇年、「アヘン戦争」のはじまった年)のことなりしとぞ。しかして、はじめ愚民らをその教えに入らしむるには、まず多くの金銀を与えたりし由。故に窮民らは、宗法の善悪を論せず、糊口の助けなれば、これを尊ぶもの多く、その教ついに天下に盛んなりという。また聞く、洋人上海において、病院を造営し、数多《あまた》の病人をあつめ、療養を施し与え、薬剤等におけるも、上帝の命授するところとし、その病の治するも、また上帝の救助したまうといい、必ずしも医師の功とせず。これをもって天主のありがたきをさとし、その教を導くとし、洋人らはもとより医術にくわしければ、清国の庸医《ようい》(ヤブ医者)らが及ばざる妙療をなす故、愚民はその命の助かりえしをよろこぶあまり、実に上帝の救助ならんと思い、自《おのずか》らこれを尊敬するようになりしものか」
というわけで、後進地帯におけるヤソ教伝道の手口をのべているが、日比野にいたっては、もっと手きびしい批判をくだしている。
「それ洋夷のヨダレを流し、万里の波濤をきたる。あに些々《ささ》たる利益にあらんや。その素謀(真のねらい)を察するに、交易和親を名とし、その地を借り、その地に家し、城郭すでに成る。ここにおいて金をもってその民をなずけ、虚喝をもってその民をおどし、これにつぐ邪教、アヘンをもってその民の耳目を塗塞し、その心腸を問う蕩漾《とうよう》(とろかす)す。その術すでにおこなわる。ここにおいて、漸々《ぜんぜん》にその地を蚕食《さんしよく》し、その国を併呑す。かくのごとくせざれば飽かざるなり。清国すでにその術中におちいり、いたらざるところなく、邪教に化し、アヘンにおぼる。ああ危いかな」
宗教とアヘンが侵略の道具につかわれている姿を目のあたりに見たのだから、こういう感じを抱いたのもむりはない。しかし、日本人たちは、はじめて接した西洋文化に目を見はりながらも、これに迎合しないで、逆に攘夷≠フ決意を固めたのである。
この点は、幕府の使節または留学生としてロンドン、パリ、ニューヨークを訪れた日本人の場合とちがっている。同じ西欧文化でも、その本国で見たのと、その出先で、とくに植民地侵略の現場で見たのでは、ことなった印象をうけるのである。このことは共産主義文化についてもいえるのであって、ソ連や中国で見た共産主義のありかたと、その衛星国≠スとえばポーランド、ハンガリー、ルーマニア、北朝鮮などで見たものとは、決して同じではない。また、ひさしく清朝の支配下にあった中国人と、かつて外国人の支配をうけたことのない日本人と比べて、洋夷≠ノたいする考えかたが、おのずからちがってくるのは当然といえよう。
日比野がすっかり健康をとりもどして、市街へ散歩に出た。すると、ひとりの中国人があらわれ、彼の袖をひいて、
「おもしろいところへご案内しましょう」
という。そのあとについて行くと、古い笛を売っている店の前に出た。尺八に似ているが、穴が小さく、なかなかいい音が出る。
さらに行くと、壮大美麗な建物の前に出た。楼上には丹青(赤色と青色)の手すりがついていて、これにすごい美人がよりかかっている。入り口はいくつもあって、これにカーテンがかかり、その前に十二、三歳の少女が立っている。
そのカーテンのなかで、鏡にむかって化粧をしている美人の姿がみえる。
「なんだ、これは青楼(遊廓)じゃないか」
と、日比野がいった。案内人がそうだといったので、驚いて表へとび出した。
「西洋人もここで遊ぶのか」
ときくと、それは許されていない、つまり、オフ・リミット≠ノなっているが、かれらの多くは、広東の女を妾にしているという返事で、
「実にさもあるべきなり」
と、日比野は書いている。
[#小見出し]蒸汽船まで買込む
当時、上海は大インフレで、物価は日に日にあがっていた。とくに土地ブームはすごかった。
それというのも長髪賊≠フ乱で、全中国にわたって社会不安は増大しつつあったが、上海は、外国の武力に守られているから、住むにも商売するにも安全だと見られ、人間とともに資本も、急激に流れこんできたからである。食料そのほか生活必需品の値上がりもこれに劣らず、中国人の生活は極度に窮迫していた。
納富の宿へ、中国人の書生が訪ねてきて、ウルシぬりのフタのついたスズリを差し出し、これを買ってくれと泣きついた。彼の村が長髪賊≠ノ犯されたので、年とった母とともに上海へ逃げてきたのであるが、これを売って老母の飢えを救いたいというのである。そこで値段を奮発して買ってやると、三拝九拝してかえって行った。すると、翌日水晶の印材をもってまたやってきていうには、きのうはスズリを高く買って頂いて心苦しいから、これを追加したいというわけだ。そんなことをする必要はないとことわったが、それでは気がすまぬといって、おいて行った。
こういうことは、日本人の多くが、終戦前後に経験したことであるが、中国人にはこういう律義《りちぎ》な面があるのだ。納富は、そのころの中国人のひどい窮乏を描いて、
「その命、懸糸(細い糸にぶらさがっている形容)のごとし。憐れむにたえざる衰世なり」
といっている。
日比野のところにも、十二、三歳の少年が古いスズリをひとつもって売りにきた。
「ああ、民を塗炭に苦しむるもの、それ誰《た》ぞや」
と書いている。こんなのを見ると、フランスの海軍士官で作家になったクロード・ファレールのいったつぎのことばが思い出される。
「シナは民族としてすでに死亡している。いまのシナはその屍《しかばね》にすぎない。上海あたりにいる英米人は、その屍にたかっているハエだ」
ところで、これらの日本人たちが、上海で積極的に買いあさったものは、まず第一に書物である。かれらは英語を話すことはもちろん、読むこともほとんどできなかったが、漢文だとたいてい読みこなした。それにほかのものに比べて、書画、骨董の類は格安でもあった。
高杉は、『上海新報』という新聞をはじめ、代数書、地図から通商条約や匪賊《ひぞく》にかんするものなど、広範囲にわたって、多くの書物を仕入れている。
あるとき、中国人のインテリがきて、外国人に売ってはならぬという書物を見せた。清国の現状を解説したものだが、持主は上海に避難してきた県令で、借り出すのにも骨がおれたという。相手は頑固なじじいでなかなか手放しそうにはないけれど、いっぱいのませて交渉すれば、話がつかぬこともなかろうというわけで、高杉のほうでは、ほしくてたまらぬものだから、その通りにして、やっと手に入れることができた。これは中国人のよくつかう手で、高杉も、これにひっかかったのであろう。
書物のほかに、高杉はピストルや度量衡器のようなものまで買いこんでいる。
ここでも洋銀≠キなわちメキシコ・ドルが通用している。レートは日本の一両が約二ドルに相当した。メキシコ・ドルというのは、スペインがメキシコの銀山を開発してつくった銀貨で、これがたちまちヨーロッパをはじめ全世界にひろがり、標準貨幣のようになっていて、日本にも田沼意次《たぬまおきつぐ》時代(一七八〇年前後)に大量にはいっていた。
当時、上海では、銀貨はすべて目方で通用していた。清国政府でつくったものも、外国のも、また民間でつくったのも純銀であればすべて同じで、表面に刻まれている文字や模様がちがっていてもかまわなかった。ただし、その品位の鑑定が大切で、あやしいと見ると、ひとつひとつテーブルの上におとし、その音でよりわけるのである。この習慣は、中共の時代までつづいていて、そういうことに慣れない日本人は、ニセ札ばかりでなく、品質の悪い銀貨をよくつかませられたものだ。しかし、悪ければ悪いなりの値段で通用していた。
一行のなかで、いちばん大きな買い物をしたのは、水夫にバケてきた五代才助《ごだいさいすけ》で、十二万五千ドルも支払って蒸汽船を購入している。彼は薩摩藩では、蒸汽船の副将格だったが、帰国後、この蒸汽船の修理という名目で、上海へ単独貿易にのり出し、これが成功すれば、ロシア、イギリス、アメリカにもわたる計画をもっていると、高杉にもらした。
そればかりでなく、五代はいつも単独行動をとり、上海の対岸の浦東あたりに出かけて行って長髪賊%「伐戦の実況を目撃している。このように五代が外国ずれがしていたというのは、もともと薩摩藩では、幕府の鎖国令を忠実に守っていなかったことを物語るものであろう。
[#小見出し]威力発揮した大砲
ある朝、日比野が町を歩いていると、六、七歳の中国人のこどもが出てきて、日本語で、
「オハヨウ」
といった。おそらく長崎か横浜にきたことのあるものであろう。
また、ある晩、中国人が訪ねてきて、きょうイギリスの船が上海に入港したが、これがもたらしたニュースによると、日本の伏見でたいへんな事件がおこったという。これは寺田屋事件≠フことだと思うが、伏見の薩摩藩御用の船宿寺田屋で大乱闘がおこなわれたのは、この年(文久二年)の四月二十三日で、「千歳丸」が長崎を出たのは同じ月の二十七日だから、今ならとっくにわかっているはずだが、上海にきてこれを知ったということは、彼にとっては大きな驚きであった。
「今や万里を絶し、その虚実知るべからざるも、洋夷の速かにわが国事を知って流言する、実に悪《にく》むべく、また恐るべし。ああ」
といっている。
さらに、西洋の品物が大量に中国へ輸入されるのを見て、
「その舶来するもの、何ぞ日用に欠くべからざるものならんや。ただ愚者の耳目を驚惑する新奇の器、あるいは奢侈《しやし》を教ゆる玩物にて、あに有無相通ずるものならんや。たとえ一二とるべきものあるも、その害これより甚だしきものあり」
と慨嘆している。ところが、それから十年もたたぬうちに、なんでも舶来品≠ナないと、夜も日もあけぬという時代が、日本にきたのである。最近、貿易自由化≠迎える日本人の心の底にも、いくらかこれに似た気持がただよっていることは、第二の黒船襲来≠ニいうことばのなかにあらわれている。
日比野は茘枝《れいし》というくだものをはじめて食べて、こう書いている。
「これ揚貴妃《ようきひ》の好みしものなり。駅をおいて千里|長安《ちようあん》(唐の都)に送りしよし。いたって珍果なり」
茘枝は南支の特産だが、揚貴妃の大好物で、この実がなっている木を、根のついたまま駅伝で長安まで送らせたといわれているものだ。日比野もよほど気に入ったとみえて、これを主題にして一編の詩をつくったばかりでなく、このタネを日本にもってかえっている。わたくし自身も、これに似た経験をもっているが、日本の気候風土にはむかないらしい。
高杉は中牟田とともに、イギリス人の築いた砲台を視察して、はじめてアームストロング砲を見ている。この大砲は、イギリス人の技師ウィリアム・アームストロングの発明したものだが、弾丸はもとごめで、砲身の内側に鋼線をラセン状にまいて、射弾にヒネリが加わるようになっている。このために、射程、精度、発射速度が画期的に高められた。これが「アヘン戦争」や長髪賊≠フ討伐などで大いに威力を発揮し、彼の創立したアームストロング会社はクルップ(ドイツの会社)につぐ大兵器会社となり、アームストロングはナイト≠フ位を与えられ、貴族に列したのだ。
この新式の大砲が、いかに中国側に恐れられたかということは、H・V・ドーミエの漫画によって想像できる。ドーミエはフランス漫画界の帝王で、鉛筆で再製されたナポレオン≠ニいわれるほど恐れられたのであるが、彼ののこした作品のなかには、イギリスの非人道的なアジア侵略と、清国側の無知尊大ぶりを痛烈に諷刺したものが多い。中国製の旧式大砲の砲身の外側にスミでスジを引いて、わが国にも旋条砲《せんじようほう》があるといったり、兵卒にシマもようの軍服をきせて、わが国には旋条兵≠ワであるぞとふんぞりかえっている漫画などがそれだ。こういうところに、日本人と中国人のちがいがよくあらわれている。
中牟田は肥前鍋島藩士で、この上海渡航も、藩主|鍋島閑叟《なべしまかんそう》の命にしたがったものである。ところで、維新の変革において、各藩の演じた役割りは、薩、長、土、肥の順になっているが、あまりパッとしなかった鍋島藩が第四位にくいこむことができたというのは、同藩でいちはやく入手した二門のアームストロング砲が、上野の彰義隊との戦争で大いにものをいったのと、中牟田を船将とする鍋島藩の軍艦が、官軍の東征に大きな役割りをはたしたからだといわれている。
こうなると、中牟田の上海行きは、鍋島藩にとってはもちろんのこと、維新政府にとっても、重大な意義をもったことになる。
かように鍋島藩が国土防衛に熱心だったのは、文化五年(一八○八年)の「フェートン号事件」で苦い経験をなめているからである。当時オランダ本国はフランスに併合され、その植民地や商船は、英仏でうばいあいになっていた。長崎のオランダ船をねらってやってきた英艦「フェートン号」が、高飛車に出て、日本側をおどかしたのにたいし、長崎警備の任にあたっていた鍋島藩が恐れをなして、英艦の不当な要求をいれた責任を問われ、同藩の家老以下が切腹させられた。上海にきた日本人たちの排外思想の強さ、洋式の武器を入手し、その戦術を究めようとする異常な熱意は、ここから出ているのだ。
[#小見出し]主体性なき中国の悲劇
高杉たちの上海滞在は、約二か月にすぎなかったが、そのあいだの見聞によって、彼の頭にわいた疑問は、
「シナは堯舜《ぎようしゆん》以来、りっぱな正気の国≠ニいわれてきたが、現在ろくでもない洋夷蛮狄《よういばんてき》(異国人)のために、好きなようにされているのはどういうわけか」
ということである。親しくなった中国人にこの質問を発したところ、相手はこう答えた。
「いまの中国は、国運のうつりかわるときで、唐がウィグル(トルコ族)に、宋が金(ツングース族)にやられたのと同じである」
これにたいして高杉はいっている。
「そうではない。国運がかわるというのは、一に君臣の道をえないからだ。貴国の衰微は、他国のためではなく、自ら災いを招いたのである。決して天命などに帰すべきものではない」
そして、さいごに、つぎのような結論をくだしているが、これはいかにも高杉らしい。「伯夷叔斉《はくいしゆくせい》が西山にワラビをとってくらしたのも、陶淵明《とうえんめい》が東籬《とうり》(東のかき根)に菊づくりにふけったのも、これみな気ちがいざたである。しかるに、近頃の中国には、こういった気ちがいがいない。だからこそ、聖人の道が衰退するはずである。」
これで見ると、高杉の気ちがい≠ニいうのは、強烈な主体性に基づいて行動することで、中国人はそれが欠けているというわけだ。
それより興味があるのは、日本人の中国観が、しばしば急角度にかわっていることである。徳川中期までの漢学全盛時代には、荻生徂徠《おぎうそらい》のような大学者までが、戦後、日本の芸能人のあいだでカタカナ名がハンランしたように、名前を中国ふうに改める(物狙徠と三字名にした)ほど、中国文化に心酔していたのが、「アヘン戦争」でだらしなく負けたということがわかってから、中国軽蔑時代が長くつづき、日清戦争で日本が予想外の大勝利をえて、この傾向がいっそう強められた。
ところが、ロシアの東亜侵略が露骨になってくるにつれて、さまざまな形で、日本と中国との接近運動が展開された。明治三十年には近衛文麿《このえふみまろ》の父|篤麿《あつまろ》によって、日清同盟論≠ウえ提唱されるにいたった。篤麿はこの主張の裏づけとして、東京に「同文会」を創立し、日清の文化的、政治的交流に必要な人材の養成を計ったが、のちにこれが上海にうつって、大学令による大学「東亜同文書院」にまで発展した。
このほか、頭山満《とうやまみつる》らの「玄洋社」、内田良平らの「黒竜会」、幸徳秋水らの「東亜和親会」、石原|莞爾《かんじ》らの「東亜聯盟」など、思想的立場やねらいはちがっているが、アジア諸民族の運命共同体的な考えから発している点で相通じるものがある。そしていずれも、東京とともに上海をこの工作の基地としていたことにはかわりはなかった。
こういう形の日中接近運動が、日本の敗戦と中共政権の成立によって雲散霧消してしてしまったことはいうまでもない。その一方で、例のアメリカ帝国主義を日中共同の敵≠ニ見る「浅沼声明」のような立場に基づく新しい日中関係をうちたてようとする動きが、日本でも一時はたいへん有力であった。しかし、これまた中ソの対立が現実化してくるとともに、影がうすくなってきたことは争えない。
上海の日本人は、幕末に密出国して住みついたものがいくらかいたようであるが、明治十四、五年には、それが六十人くらいになっていた。それも、ほとんど商人であった。そのころ、東本願寺の別院ができて、これが在留日本人の冠婚葬祭の場であるとともに、その一室をつかって寺子屋式の教育がなされていた。
日清戦争後は、日本人の数が急にふえて約二千人になり、正式の日本人小学校もできた。大正四年に約一万人、昭和のはじめには二万人前後だったのが、上海事変の後には、たちまち、軍人、軍属を別にしても、八万人をこえた。外国租界でも日本語が通用し、郵便物も内地なみで、重要産業はほとんど日本人の手にうつり、紡績関係だけでも、「太平洋戦争」の直前には、九社三十工場に達した。長崎県上海市≠ネどといわれたのはそのころのことだ。長崎で乗船して、ひと眠りすれば、もう上海についていた。むろん、旅券や査証などというものは、ぜんぜんいらなかった。
いずれにしても、高杉らが行ったときの上海や中国のことを考えると、日本が同じような目にあわなかったのは、奇跡のような気がする。しかし、それだけの理由がなかったわけではない。マルコ・ポーロやコロンブスが期待していたように、貴金属その他の重要資源が日本にないことがあきらかになったことと、日本人の民族意識と抵抗力が強くて、これを攻略しても、犠牲の大きさに比して得るところ少なく、採算があわぬと見たからであろうが、当時の日本の支配層が清国の官僚ほど腐敗していなかったという事実も見のがせない。
[#小見出し]鋭い高杉の報告書
「千歳丸」は、七月五日上海を出航した。呉淞《ウースン》までは蒸汽船にひかれて進むのだが、その途中、中国の小舟が蒸汽船のおこす波にまきこまれて沈没した。これにのっていた中国人が、水のなかで浮いたり、沈んだりしていたが、やっと同船に救いあげられた。
水先案内の中国人が、日本人たちのそばにきてアヘンをのんだ。どういうふうにしてのむのかと見ていると、キセルの先にアヘンをつめて吸うのだが、目をとじ、口を開いて、いかにも気持ちがよさそうだったが、まもなく死んだようになった。しばらくして、目を開き、また吸おうとした。日本人のひとりが刀に手をかけて、どなりつけたので、恐れをなしてやめた。これについて日比野は、つぎのように書いている。
「余ひそかにきくに、水路の主人一月の利二百金余の由。しかるに貧苦の出。如何《いかん》となればアヘンの費莫大の由。ただ貧苦のみならず、朝に吃《きつ》すれば、夕に死するも恐れざる由。ああ、その害の大にして、生民を惑溺《わくでき》する、如何に甚だしきや」
また、こんなことも書いている。
「洋中へ出れば、水の貴き実に一滴千金なり。伝聞するに、海水の塩味を脱し、あるいは水晶をもって水をとるの術ある由。余いまだこれを知らず。航海に志あるもの、ひろく学び、つまびらかに問うて、その術を知るべきなり」
当時の日本人の知識欲が、いかにさかんであったかがわかる。
長崎に入港したのは、十四日の晩で、ちょうどお盆だったから、長崎の山は灯籠《とうろう》で埋まり、山火事のようにみえた。
あくる朝、日比野は早くおきて、故国の水で顔を洗った。その水の清潔で冷ややかなこと、ああ、こんな水が上海にあったなら、と思わず嘆声を発している。これは今でも、アジアの国々を旅行して日本にかえりついたものが、だれでも感じることだ。
ところが、安着の祝いをのべにやってきた日比野の友人は、彼がひどくやつれているのに驚き、どうしたのかときいた。そういわれて鏡を見ると、目がくぼみ、オトガイがとがり、顔は土色になっていた。これも、戦時中に大陸へわたった日本人の多くが経験したことだ。ひとつは日比野が上海でコレラにかかったからでもあるが、日本の水は、日本人の精神生活にも、とくに日本人特有の潔癖に関係がありそうである。
高杉のほうは、長崎につくと、この旅行の報告書を長州藩庁に提出している。それによると、彼の観察はすこぶる政治的、軍事的である。
第一に、西欧の近代的な軍隊組織、兵器、訓練を、清国軍や太平天国軍≠ニの比較において検討し、後者に比べれば、日本軍のほうが強いという自信はもったようであるが、このままでは日本軍といえども、西欧の軍隊に歯がたたないから、兵器ばかりでなく、軍隊組織そのものにも大改革をおこなう必要のあることを知った。
第二に、新しい陸軍とともに、強力な海軍をもたねばならぬことを痛感している。鎖国以後、日本には、幕府をはじめ、各藩にも海軍らしいものがほとんどなかったのであるが、そのあいだに世界の海軍は異常な進歩を示している事実を目撃したからだ。
第三に、長髪賊≠めぐる内乱の実態と、西欧のアジア侵略との関係を研究し、近い将来にせまりつつある日本の姿を見出している。内乱をおさえるのに、外国の経済的、軍事的援助を求めるというのは、けっきょく、国をほろぼすもとだということを痛感しているのだが、それは維新の変革を前にして、日本にとっては何よりも大きな教訓であり、おみやげであったことはいうまでもない。
しかし、高杉は長髪賊≠フ乱の性格を正しくつかむことができなかった。清朝から見れば、かれらは賊≠ナあるが、高杉も同じ立場でかれらを見ている。これはまちがいで、長髪賊≠アそ、中国人民のために、英仏の侵略者を相手に戦ったのであって、これが見ぬけなかったのは、いわゆる維新の志士∴齡ハの限界点であるというのが、左翼的立場に立つ歴史家の新しい♂釈である。
だが、当時の高杉にそういうものを求めるのは、求めるほうが無理であろう。いわゆる。進歩的≠ネ歴史家の見解には、この種のないものねだり≠ェ多い。
それはさておいて、この上海旅行で得た結論を、長崎でさっそく実行するようなことを、彼はやってのけた。というのは、十二万三千ドル(日本金にして約七万両)もする蒸汽船を独断で買いつけたことだ。これを知って藩庁があわてたことはいうまでもない。いまでいうと、平社員が出張先で、勝手に会社の名でなん億もの購入契約をしてきたようなものだが、そういうことのできた時代でもあったのだ。
長州藩では、すでに安政二年に、萩の小畑浦に造船所を設け、スクナー型の船を一隻つくって「丙辰丸《へいしんまる》」と名づけた。万延元年に、もう一隻「庚申丸《こうしんまる》」をつくり、これで海軍の訓練をおこなっていたのだが、どっちも帆船であった。
上海の港で、大砲をのせて火力で走る軍艦がずらりとならんでいるのを見た高杉は、これからの海戦はこれでなければダメだと思った。長崎につくと、さっそく、蒸汽船を一隻買いつけたのだが、藩庁はあきれて、高杉に破約を命じた。これにたいして高杉は、
「それはできない。しいて破約せよというなら、切腹するほかない」
といって拒否した。重役のなかでの進歩派|周布政之助《すふまさのすけ》がこれをきいて、
「しかたがない。殿さまの不用な道具類でも売り払って金をつくってやろう」
ということになった。こういった事情を知ったアメリカの商人は驚き、自分のほうから破約を申し出たので、この取り引きは解消された。
ところが、長州をめぐる内外の情勢がいよいよ切迫してきて、こんどはどうしても蒸汽船が必要だということになり、横浜の英商「一番館」を通じ、十五万ドル(約八万両)を投じて、三〇〇馬力のものを一隻購入した。これが「壬戌丸《じんじゆつまる》」で、その代価は、非常時にそなえて、江戸の藩邸にたくわえてあった穴蔵金≠ナ支払われた。こうなると、高杉のほうに、先見の明があったということになる。
しかし、こういう型の人物は、会社でも、社員としてはあつかいにくいものだ。上海からかえってまもない七月末、長州藩は高杉をもてあまして、江戸勤務を命じた。
上海での見聞によって、これまでのような単純素朴な攘夷ではやっていけないことを知った。長い鎖国中にできた西欧との文化的、軍事的立ちおくれを、急速にとりもどすために、日本も開国しなければならないことはわかりきっているのであるが、それにはまず日本が一体化しなければならぬ。その一体化をさまたげているのは幕府だから、これを倒すことが先決問題だということになる。そのための有効な手段は何かというと、さしあたり攘夷の実行である。といっても、組織的な攘夷は、藩をあげておこなわねばならないが、藩主や重役たちがこれに賛成して、すぐにふみきるとは思えない。
だが、集団的なテロなら、数人の同志が結束すればできる。だれかが率先して西洋人に危害を加えるとか、その本拠を焼き払うことによって、藩を攘夷にひきずることも不可能ではない。これが失敗しても、賠償その他の問題で、幕府を窮地におとしいれることができる。かくて開国のための攘夷≠ニいう妙な結論に達した。形のうえからいうと、もとの単純素朴な攘夷とかわらないものとなった。
[#改ページ]
[#中見出し]急進攘夷派の実行力
――理由なき殺人におびえる在留外人と薩摩藩士のテロ意識――
[#小見出し]一番打者の憤死
まるで高杉の帰国を待ちうけていたかのように、文久二年の下半期から翌三年にかけて、日本は国をあげてテロ時代≠現出した。文久三年三月は、将軍|家茂《いえもち》が上京するときで、これを期して各藩勤皇の若者たちがいっせいにきおいたった姿は、昭和三十五年六月、アイゼンハワー大統領訪日前の全学連の動きを思わせる。
革命≠フ伝統と実績からいって、いちはやく「新人会」をつくり、麻生久《あそうひさし》、森戸辰男、大内兵衛などを出した東大が水戸藩だとすれば、「建設者同盟」などを中心に、大山|郁夫《いくお》、浅沼稲次郎をはじめ、幾多の輝かしき闘士≠生んだ早大は長州藩に相当する。日本の革新陣営の指導権は、これら両大学出身者のせりあいのような形になっているが、維新の変革においても、薩摩が急にのり出してくるまでは、水戸と長州の間で、はげしい勤皇競争≠ェ演じられた。
ところが、長州藩では、藩主父子、長井《ながい》雅楽《うた》などがわざわざ江戸にのりこみ、公武一和∞航海遠略≠ネどといい出して、朝幕間の調停役を買って出たものだから、幕府からは友藩≠フあつかいをうける一方、勤皇派グループのあいだでは、長州は「勤皇の仮面をかむった佐幕党」ということになった。長藩勤皇派の青年たちはこれがくやしくてたまらず、長井の暗殺を企てたりしたが、そんなことでは、他藩の信頼と人気をとりもどすことができず、この辺で何かひとつ、世間をあっと驚かせるようなことをやってのける必要があった。
そこで攘夷の一番打者≠ニしての栄誉を他藩にゆずるまいとして、ひそかに計画を立てたのが来原良蔵《くるはらりようぞう》である。前に来原は、ひそかに薩摩の情勢を偵察に行って驚いた。島津|斉彬《なりあきら》の死後、その弟久光の長子|茂久《しげひさ》(のち忠義)があとをつぎ、その後見役となっていた久光が、勤皇派に転向して、大島に流されていた西郷吉之助(隆盛)をよびもどし、これに大久保一蔵(利通)などをつけて、京都にむけて先発せしめ、自分は一千の兵をひきいて上京するというのだ。
前にも攘夷≠フ名のもとに外人を殺傷した事件は、いろいろとあった。なかでも文久元年五月二十八日、水戸浪士十四名が、イギリス公使館になっていた江戸高輪東禅寺を襲撃した事件など、その代表的なものである。そのさい、オールコック公使は危うくまぬかれたが、イギリスの長崎領事が肩先を切られた。
これを決行した浪士は、事件後あるいは自刃し、あるいは捕えられて牢死し、生きのこったものも、中山|忠光《ただみつ》の天誅組≠ニか、武田耕雲斎《たけだこううんさい》の筑波山事件≠ネどに参加して、水戸の勤皇派≠ヘほとんど全滅の形となった。
これにかわって、長藩攘夷派の一番打者もしくはピンチ・ヒッターの役を自ら買って出たのが来原良蔵である。彼は吉田松陰の親友で、同志でもあった。率先して西洋式の武術を修め、安政三年外国船が下田にきたときには、長藩に割りあてられた警備地区の監督を命じられた。その配下に属していたのが当時十五歳の伊藤利助(博文)で、来原にかわいがられ、毎朝暗いうちにおこされて、勤務に出る前、馬上ちょうちんの光りで書物をよむことを教えられた。そして、翌年伊藤は、来原の添書をもって松陰の門下生に加わることができたのである。
かように来原は、長藩激徒≠フなかでも錚々《そうそう》たるものであったが、彼の言動は周囲から疑いの目をもって見られるようになった。というのは、高杉、久坂、井上、伊藤などに比べて、藩内における彼の地位が高く、それに、長藩最大の姦物《かんぶつ》≠ニしてこれら激徒≠スちから目の敵にされていた長井雅楽とは叔父|甥《おい》の間柄でもあった。年齢の点でも、他の若者たちより五つ六つ年長で、思慮分別もあり、世界情勢にかんする知識もずばぬけていた。
それで、この誤解をとくためには攘夷手始め≠キなわち率先して攘夷を実行するほかはないと考え、横浜の外人街焼き払いの計画を立てた。といって、ひとりではできそうもないから、協力者を見つけねばならなかった。
こういう秘密の相談ごとは、明治・大正時代には待合や料亭、近ごろはカフェー、バー、ナイト・クラブでおこなわれることが多いが、当時は主として遊廓がつかわれた。とくに長州の若者たちは、品川の「土蔵《どぞう》相模《さがみ》」を愛用した。戦前、わたくしはこの「土蔵相模」に一度行ってみたことがあるが、古い建物で、広い廊下のなかほどが溝《みぞ》のようにへこみ、歩くたびに、家ぜんたいがゆれるような気がした。
ある晩、来原はここへ親友の|楢崎《ならざき》弥八郎をつれこんで、この計画をうちあけた。楢崎は攘夷狂≠ニまでいわれた男だから、すぐ賛成するものと思ったのだ。
ところが、予想に反して楢崎は、攘夷そのものには反対しないが、今はその時期ではないといって、来原の自重を求めた。ふたりの立場が、ふだんとは逆になってしまったのだ。楢崎としては、こういうことで来原のような人物を殺したくないと思ったからでもあろう。
しかし、来原はどうしてもこれを実行するといってきかないので、楢崎のほうでも、それなら死をともにしようということになり、明晩|鮫洲《さめず》の川崎屋で会って具体的な案を立てようということで、ふたりはわかれた。
その晩、楢崎はまんじりともしなかったが、ついに意を決して藩邸に出かけ、来原の計画を知らせた。みんな驚いた。来原の妹を妻にしている桂小五郎(木戸|孝允《たかよし》)を先頭に、波多野金吾(広沢|真臣《まおみ》)など、数名の同志が川崎屋へおしかけて、来原の説得につとめた。しかし、来原はこれに耳を傾けようとしなかった。
それでやむをえず、彼をむりやりにカゴにのせ、藩邸につれもどった。世子|定広《さだひろ》も加わり、口をそろえてその無謀をさとしたが、いまさら思いとどまるというのは、男子恥辱であるといいはるばかりであった。
そのあと、来原は一室に退いて、りっぱに自刃した。ときに二十七歳であった。
来原には二人の男子があって、兄を彦太郎(孝正)、弟を正二(次)郎といった。明治政府で長州派の最高指導者となった木戸孝允には嗣子がなかったので、甥にあたる正二郎がそのあとをついだ。これが明治十七年に亡《な》くなって、こんどは兄の孝正がそのあとがまに迎えられ、侯爵家の当主となった。戦後、A級戦犯になった木戸幸一は孝正の長男で、来原良蔵の孫にあたる。元勲≠フ血と家を守るということは大切かもしれないが、弟の死んだあとへその実兄を迎えるというのは妙なもので、来原家をまったく無視したやりかただ。
ところで、来原を諌《いさ》めた楢崎は、このあと京都にのぼり、三条|実美《さねとみ》が勅使となって江戸にくだるとき、その供人に列した。しかし、のちに長藩政府が俗論党≠フ手にうつるとともに、捕えられて処刑され、これまた二十七歳で世を去った。
[#小見出し]長藩壮士に焦燥ムード
来原良蔵の自刃は、長藩攘夷派から見れば、大きな外野飛球がファウルになって、しかもとられたようなものであった。
高杉が江戸についたのはその前だが、窮屈な藩邸勤めがいやになり、無断で脱走して、あちこちとびまわっていた。あとで、来原自刃のいきさつをきいて、たいへん残念がり、志道聞多《しじもんた》(井上馨)をつかまえていった。
「楢崎が気がきかぬために、来原を犬死にさせてしまった。僕がおれば、りっぱに焼き討ちをさせてやるところだったのに」
高杉自身も、何か世間をあっといわせるようなことをやってのけて、死に花を咲かせたいものだと思っていた。この気持ちは、そのころ、このグループの大部分に共通したものだった。というのは、来原の死の直前、有名な「生麦《なまむぎ》事件」がおこって、攘夷の本家のつもりでいた長藩が、薩摩にそのお株をうばわれたようなことになってしまったからだ。
いうまでもなく「生麦事件」というのは、文久二年八月二十一日、江戸から京都に向かう島津久光の行列が、神奈川の生麦(現在は横浜市鶴見区内)にさしかかったとき、四人のイギリス人がその行列の前を横ぎったというので、そのうちのひとりが殺され、ふたりが傷ついた事件である。殺されたのはリチャードソンといって、高杉らが上海に行ったときの乗船「千歳丸」のもとの持ち主で、船長でもあった。
この下手人は、薩摩藩士|奈良原喜左衛門《ならはらきざえもん》、海江田武次《かいえだたけじ》(のちに信義と改め、子爵、枢密顧問官に任ぜらる)らであったが、当時のイギリス代理公使ニールは犯人逮捕を幕府を通して要求した。薩摩ではこれを拒否し、どうしても犯人を出せというなら、三百人のお供を全部出すほかはないとトボケたり、架空の人物の名前をあげたりして、幕府をからかった。
この際、ニールが直接報復の手段をとらなかったのは、当時の日英条約では、こういうばあいの犯人は日本当局が逮捕し、日本の法律で処罰することになっていたからだ。
これが原因となって薩英戦争≠ノまで発展したのであるが、そのため幕府の雄藩にたいする無力がバクロされるとともに、この戦争のあと、薩摩や長藩がイギリスと結びつくチャンスが生まれた。
そういう点からいうと「生麦事件」は、攘夷派というよりも倒幕派にとって、ホームランといえないまでも、たしかに適時安打だったといえる。少なくとも、結果においてはそうなっている。現に、当時世間は、薩藩のこの英雄的行為≠たたえ、逆に口ばかりたっしゃで実行のともなわない長藩の無力をわらったものだ。
こういった空気のなかで、長藩壮士の焦燥感はますます高められ、何かしなければおさまりがつかなくなった。このムードは、昭和二十七年血のメーデー≠ニなって暴発したころの日本の左翼陣営のそれに似ている。これをあおりたてたのが、天才的なアジテーター高杉晋作である。
この年の十一月二十七日、三条実美が勅使、姉小路《あねのこうじ》公知《きんとも》が副使となって江戸に到着、攘夷の勅命を将軍に伝えることになった。これら勅使の江戸滞在中こそ、攘夷を実行するには、まさに絶好のチャンスである。いわば勅使歓迎の花火だ。そして、これがノロシとなって、各藩攘夷派の蹶起《けつき》をうながし、世論をわきたたせ、幕府をもこの抗しがたい流れにまきこんでしまうことができればしめたもので、これまでの長藩の立ちおくれや不人気をいっきょにとりもどせるというわけだ。
かつてわたくしは、昭和初期の左翼運動全盛時代に左翼的虚栄心≠ニいうことばをつかってその動きを批評したことがあるが、大義名分のはっきりした運動においても、よくいえば競争心、悪くいえば虚栄心が作用することは争えない。このころの長藩壮士の心理にもそれが多分に見いだされる。
かくて、高杉を中心に、攘夷実行の血盟団が生まれた。その顔ぶれは久坂玄瑞《くさかげんずい》、大和《やまと》弥八郎、長嶺《ながみね》内蔵太《くらた》、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉《ありよし》熊次郎、赤根幹之丞《あかねみきのじよう》、山尾庸三《ようぞう》、品川弥二郎などの面々である。
かれらは例によって、品川の「土蔵相模」にあつまり、具体案を練った。その結果、横浜の外人たちは、毎週土曜から日曜にかけて、レクリエーションのため金沢八景≠ナ知られた景勝の地、金沢にやってくるから、ここを襲撃して、片っぱしからたたき切ってしまえば、国際的な大問題をひきおこし、これをキッカケに幕府を奮起させることができないにしても、幕府を窮地においこむことができる、ということで、意見の一致を見た。そして、その場で血盟書をつくって血判をおし、実行はきたる十一月十三日の日曜ということにきめた。
だが、ここでひとつ難問題がおこった。というのは「土蔵相模」の借金が、つもりつもって六十両ばかりになっていて、これを払っておかないと、妓楼の支払いに窮して、やむをえずこの暴挙に出たといわれては、末代までの恥であるということに気がついたのだ。
[#小見出し]金策の名人井上馨
金沢の外人を襲撃するには、「土蔵相模」の借金のほか、支度金、前祝いの費用などを合わせると、どうしても、百両の金が必要だが、同志たちにはそんな金のもちあわせはなかった。志道、大和、長嶺の三人は、英学修業の資金として、藩庁から百両支給されていたけれど、同志の会合や遊興費につかったり、高杉に借りられたりして、ほとんど文なしになっていた。
けっきょく、藩邸に行って、なんとか口実をもうけて借り出すほかはなかった。といっても、高杉は脱走の身で出入りができないので、あとの三人で藤八拳《とうはちけん》をおこない、負けたものが行くことにした。
負けた志道が、桜田の藩邸に行って、まず周布政之助の宿舎を訪れると、会計主任の矢倉|頭人《とうじん》、長藩きっての豪傑|来島又兵衛《きじままたべえ》などがきて、飲んでいるところであった。
志道が、学資がなくなったので、百両貸して頂けないかと切り出すと、周布と来島は、かんかんに怒って、
「何をいうか。きくところによると、君らは連日品川でいつづけをしているというが、実にけしからん話だ。ビタ銭一文貸すわけにはいかん」
としかりつけた。志道は、
「実はまだわれわれの宿舎が見つからないので、妓楼へ泊ったこともないではありませんが、やっと横浜で手ごろな家を見つけました。そこで、われわれ三人のほかに高杉をも加え、英学修業にとりかかることになったのですが、借家の修理などに、どうしても百両いるのです」
と、平身低頭して懇願したが、相手はガンとしてうけつけない。実は、周布のほうは泣きつけばなんとかなるが、手ごわいのは来島で、これをくどきおとす方法について研究した結果、来島もときどき「土蔵相模」へ行くし、なじみの女もできているということを知っているので、その女から来島あてのラブレターを偽造してふところへ入れてきたのだ。これは女文字に巧みな大和が書いたもので、その内容は、エビス講に金がかかって困っているから、いくらか恵んで頂けないか、といったようなことがメンメンと書いてあった。
そこで、来島の怒りが絶頂に達したころを見はらかって、志道はこの手紙をとり出し、
「実はこんなものをことづかってきたのですが」
といって差し出した。来島は封をきって、ざっと目を通すと、またまいてふところへ入れたまま、だまりこんでしまった。
しばらくたつと、来島はひょいと立ちあがって、室の外へ出てしまった。志道もすかさずそのあとを追うて出た。そして彼の宿舎に行って、この願いをきいてもらえないと切腹するほかはないといった。来島もついに折れて出て、「君がそうまでいうところを見ると、よほどさしせまった事情があるらしい。といって、政府の金を貸すわけにいかないから、僕の金をたてかえてやろう」
といって、五十両の金を出し、そのかわり、二度と妓楼へはいかぬと誓わせた。
しかし、これでは足りないので、あとの五十両をどうしてつくるかということで、志道は考えぬいたあげく、江戸で世子定広の番頭役をしていた高杉の父|小忠太《こちゆうた》が、帰国に際し、定広の顧問になっていた儒者|山県半蔵《やまがたはんぞう》に、金を五十両預けていったという話を思い出した。脱走した高杉が、改心してあやまってきたら、帰国の旅費として与えてくれとたのんでいったのである。
志道がこれに気がついたのは、すでに夜の十二時ごろだったが、攘夷断行ときめた十三日は二日後にせまっているので、寝ている山県をたたきおこし、困ったことができた、実は高杉が品川の妓楼で桶伏《おけぶせ》≠ノなっている、これを救い出すために金を出して頂きたいといった。桶伏≠ニいうのは、そのころの遊廓の習慣で、支払いの金が足りなかった場合、だれかが金をもって救いにくるまで、その男をひきとめて大きな桶をかぶせておくのである。
これをきいて山県は、そんなことに預かり金を出すことはできないといったが、晋作も前非を悔い、これから自分らと英学修業をすることに決心しているのだから、ここのところをなんとかして助けてもらいたいと、志道はおがみ倒して、やっと五十両の金を手に入れた。
こういうことにかけては、まったく志道聞多すなわちのちの井上馨の独壇場で、その後も経済的な面では、高杉以下、しばしば彼の厄介になっている。維新後においても、三井財閥の基礎を築いた三野村利左衛門《みのむらりざえもん》、益田孝《ますだたかし》などを彼は徹底的に援助し、ときには政府の秘密情報を流したりして、三井を破産から救ったこともある。そのさい、世間がなんと非難しようとも気にしなかった。三井物産は井上のおとし子だともいわれたし、原敬のひきいる政友会は、井上を通じて三井の代弁者となっていた。井上馨のこういった性格と才能は、このころすでに、このような形で発揮されていたのだ。
[#小見出し]高杉の機転で命びろい
さて、百両の金を手に入れた志道が、同志の集会所になっていた新橋の朝陽亭にくると、高杉と久坂が大激論をはじめていた。
久坂の主張するところをきくと、こんどの計画は無謀にすぎるから、いちおう延期し、もっと準備をととのえて、大規模の攘夷を実行すべきだというのである。高杉はおこって、実行をあすにひかえて、そういうことをいい出すとはけしからんというわけで、抜刀して久坂にせまった。
これを見た志道は、その場にあった盃洗に酒をなみなみとついで、一気にのみほし、
「僕が苦心さんたんして金をつくってきたのに、その苦労を察しないで、酒をくらって仲間ゲンカをするとは何事だ」
とわめいて、席にあった膳《ぜん》を片っぱしからけとばし、徳利やサラを手当たり次第に投げつけた。この勢いにのまれて、高杉も久坂も、逆に志道を制止にかかり、ケンカはふっとんでしまった。これだけの大事を議するのに、こういう場所を選び、刀に手をかけて争ったりするところを見ると、かれらの大胆不敵さとともに、幕府警察の無力にあきれざるをえない。
とにかく、この場は志道の機知でおさまりがつき、その晩は「土蔵相模」で一泊、翌日は神奈川の下田屋に出かけた。ここで一同勢ぞろいして、金沢襲撃の準備をしていると、この付近を幕兵が三々五々うろついているという知らせがあった。
そこへ、勅使三条実美、副使姉小路公知の使者というのがやってきて、その志には感心するが、今決行されると、朝旨貫徹のさまたげになるから、幕府が攘夷の勅命を奉ずるまで待ってほしいという両勅使の意思を伝えた。
そこで、この計画は一時中止と決定した。代々木に剣客斎藤|弥九郎《やくろう》の別荘がある、そこへ行って再挙を議することになった。
神奈川の宿までくると、山県半蔵、寺内|外記《げき》のふたりが世子定広の使者としてきたのに出あった。定広は一同をなだめるため、馬にのって大森まで出かけてきたという。
定広は大森の「梅屋敷」で待ちうけていた。一同がくると、
「この重大な時期に、お前たちにすてられた自分はどうすればいいのか」
といわれて、一同は思わず感涙にむせんだ。ただし高杉だけは、一滴の涙も流さず、昂然《こうぜん》としてこんどのくわだての目的や意義についてまくし立てた。
とにかく、酒でものんで再考するがいいということで、一同ひきさがろうとしたとき、土佐藩士数人がやってきた。山内容堂《やまのうちようどう》の命をうけて、高杉らの計画を制止するようにと勧告にきたのである。定広に随行してきた周布政之助は、「梅屋敷」を出てすでに馬上にあったが、土佐藩士を見て、容堂の立場があいまいで、何がなんだかわからん、長州の若者がこういうくわだてをするのも、ひとつは容堂の態度が明朗を欠いているからだ、という意味のことをいった。
これを聞いた土佐藩士は、いきり立ち、刀に手をかけて周布にせまった。
これを見て高杉は、そのあいだにおどりこみ、大声をはりあげて、
「周布はけしからん、しかし、成敗は君らの手を借りない」
と叫ぶなり、刀をぬいて周布に切ってかかった。その切っ先が馬の尻尾にふれたとたん、馬はびっくりして走り出した。
こういう危機にのぞんでの当意即妙の処理は、高杉でないとできない芸当である。彼はいくたびも他を救い、自分も命びろいをしている。
しかし、翌日、容堂の使者が長州藩邸にやってきて、周布の身柄を要求した。これにたいして定広は、
「周布のことばは、おわびのしようがありません。こちらで手討ちにして首をお届けします」
といって、その使者を引きとらせた。しかし、土佐藩の当主山内|豊範《とよのり》の夫人は、長州藩主|毛利敬親《もうりたかちか》の養女喜久子で、両家は親類のあいだ柄であり、一方周布は、長州藩にとってなくてはならぬ人物である。そこで、表むきは処分したことにし、実は名前を麻田公輔《あさだこうすけ》と改めただけで、その後も江戸において政務に参画させた。改名すれば別人になるという便利な事態収拾法が、封建社会には通用したのだ。
ところで、高杉の外人襲撃計画が、こんなに早く各方面で知るところとなったのは、久坂玄瑞が土佐藩の同志|武市半平太《たけちはんぺいた》にもらしたからだ。武市が、これを容堂につげると、当時幕政に参与していた容堂は、幕府に内報するとともに、定広にも通知して、よってたかって、これを未然に防いだのである。
高杉たちは、これで大いに男をあげ、しかも七日間の謹慎で釈放された。そこで、第二の計画にうつった。
[#小見出し]巧みな伊藤と井上の働き
金沢の外人襲撃は不発におわったが、このグループは結束を固め、高杉を盟主にして御楯組《みたてぐみ》≠ニ名のった。
当時、各国の公使館は、江戸や横浜の寺院などをつかって、方々に散在していた。そのため、警衛が不じゅうぶんで、アメリカ公使館の通訳をしていたオランダ人のヒュースケンが殺されたり、東禅寺のイギリス公使館がおそわれたり、物騒な事件がつづけざまにおこって、そのたびに幕府が責任を問われて手を焼いた。
そこで、英、米、仏、露、蘭五か国の公使館を品川の御殿山に新築し、ひとまとめにして防護することになった。この年(文久二年)十二月、まずイギリス公使館が総工費三万両をかけて落成した。これに目をつけたのは高杉である。
その前、三条、姉小路の両勅使は、将軍と会って攘夷即行を命じ、十二月七日に江戸をたって京都へかえって行った。幕府は勅命を奉じながら、一方で外国公使館を新築するとは何事だ、というのが高杉らのいい分である。
高杉は、例によって同志たちを品川の「土蔵相模」に召集した。前の金沢襲撃組のほか、新たに伊藤|俊輔《しゆんすけ》(博文)などが加わって、総勢十三人となった。そこで高杉が、イギリス公使館焼き打ち計画を語り、それぞれの分担をきめた。
焼弾《やきだま》の製造をひきうけたのは福原|乙之進《おとのしん》(伊藤博文の伝記では寺島忠三郎となっている)で、長州藩出入りの薬種商から硝石と硫黄を買ってきて、これに切り炭を粉にしたものを加え、紙に包んで、大きなダンゴみたいなものをいくつかつくった。導火線もつけた。これは爆弾ではないが、それに似たものだ。暗殺用の爆弾を発明したのは、ロシアの化学者キバルキッチで、イタリア人オルシニが、これにダイナマイトをつめこんで手投げ弾をつくり、ナポレオン三世に投じたのは、一八五八年のことである。これは未遂におわったが、このあとナポレオン三世はすっかり落ち目になった。ダイナマイトというのは、ノーベル賞≠ナ知られたスウェーデンの化学者A・B・ノーベルの発明した特殊爆薬で、はじめは商品名だった。日本でも明治時代には、政治的テロにこれが愛用されたけれど、維新前にはまだ刀が幅をきかしていた。
しかし、これでみると、爆弾製造の知識は今よりも普及していたらしい。
ところで、福原がこの焼弾をもって、決行前の会合所にきめられた「土蔵相模」にくる途中、辻番のそばで立ち小便してとがめられ、辻番小屋に押しこまれた。福原は焼弾を見つけられてはおしまいだと思い、いろいろと知恵をしぼったが、ほかに方法がないので、少しずつ口に入れて、のこらずのみこんでしまった。そのおかげで、取り調べをうけたけれど、証拠がなくて放免されたという。
この話は、少々マユツバものである。それに、現場へ焼弾をもちこんでつかっているところを見ると、別に寺島のほうでもつくったのかもしれない。
決行は十二月十二日の夜半ときめられていた。早くきたものは、遊女を相手に洒をのんでいた。伊藤は何を思いついたか、ひょいと外に出てノコギリを一挺買ってきて、楼前の天水桶のなかへかくしておいた。
やがて、予定の時刻がきたので、ここを出て、三々五々御殿山にむかった。
イギリス公使館にきてみると、周囲に堀ができていて、その内側に高い柵《さく》がめぐらしてあった。堀にはまだ水がはいっていなかったので、難なくこせたが、柵にはちょっと困った。伊藤はかねて用意のノコギリで柵を二、三本切り、突破口兼退路をつくった。
そこへ巡査が、アオイの紋のついた提灯をもってやってきた。高杉が刀をぬいて切りつけようとすると、びっくりして逃げてしまった。さっそく館内に入り、建具類をつみかさね、これに焼弾を配置して、導火線に点火した。そして、焼えあがるのを見とどけて、各自ばらばらにその場を去ったが、志道聞多だけはあとにのこって、じっと火勢を見守っていた。炎ののぼりかたがじゅうぶんでないことがわかったので、もういちど館内にはいり、こんどは階段の下に、可燃性のものをたくさんつみかさね、その下にもうひとつのこしておいた焼弾をおいて火をつけた。たちまち、ものすごい勢いで燃えあがった。
このあと、かれらは、かけつける消防夫のあいだを巧みにくぐりぬけ、御殿山の火事をかえりみて快哉《かいさい》を叫びながら、もとの妓楼に引き揚げて祝杯をあげた。
当時、幕府の外国奉行をしていた水野筑後守|忠徳《ただのり》が書きのこしたものによると、放火犯人の遺留品として、ノコギリ一挺、ゲタ片足などのほかに、遊女の手紙一通≠ェあげられている。今ならいずれも有力な手がかりになるものばかりだ。
それはさておいて、こういう場合にのぞんでの伊藤、井上の機転、用意周到、目的追求精神の強さを考えると、かれらがさいごまで生きのこって、明治政府で権力をほしいままにしたのも、決して偶然ではないことがわかる。
[#小見出し]殺される理由がわからぬ
イギリス公使館の通訳で、のちに駐日公使となり、日英外交史上に重要な役割を果たしたアーネスト・サトウは、その『回想記』のなかで、当時の外人のありかたについて、つぎのごとく語っている。
「在留外人は、日本の各藩と同じ立場の集団で、それぞれ本国の支配をうけ、本国はかれらの刑事、民事の問題を処理し、かれらの生命を保護する責任を負うていた」
ところが、その実情は、どうか。
「神奈川や横浜にやってきた多数の外人たちは、日本人を見くだしたような態度をとった。これが気位の高いサムライの怒りを買った。サムライは、もみ手をしてペコペコ頭をさげる日本の商人たちとは、まったくちがった存在であった」
「日本刀はカミソリのように鋭利で、おそるべき傷を与える。おまけに日本人は、切る以上は、息の根をとめずにはおかない。だから西洋人は、刀を二本さした男を見れば、刺客ではないかと思い、通りすぎて命があれば、ほっとして神に感謝したものである」
「(サムライが外人に危害を加えるのは)ことごとく計画的兇行であったが、被害者のほうでは、なんのために殺されたのかわからなかった。兇行の動機は政治的なもので、加害者はだれも罰せられなかった。したがって、日本という国は、外人が自分の生命を自分の手ににぎって歩く″曹ニして知られるようになり、居留民はいつ殺されるかわからぬという恐怖を抱くにいたった」
そこで、居留民たちは、居留地外へ出るときは必ずピストルを携行し、寝るときにもマクラの下に入れたものである。しかし、サトウの長い日本滞在中、ピストルで人が殺された例は、たった一件しかないといっている。
サムライたちにねらわれたのは、外人ばかりではなかった。外人に使われている中国人や日本人もヤリ玉にあがった。フランス副領事の召使いが横浜居留地内で、またイギリス公使オールコックの日本人通訳が江戸公使館の門前で殺されたが、こういう例はかぞえきれないほどであった。中国人や日本人のあいだから犠牲者が出ても、幕府当局はほとんど問題にしなかったからだ。
この時代の日本における外人のありかたは、昭和十二年支那事変がおこったころの中国における日本人のありかたに似ている。当時は、日本人よりも、中国を裏切って日本に通じたと見られた中国人が、漢奸≠ニよばれて、中国各地で中国のテロ団にねらわれた。
日本の海軍機による広東爆撃がさかんだったころ、わたくしはマカオを訪れ、日本の軍艦に物資を供給していると見られた中国人の商人が、店頭で暴漢におそわれ、射殺されるのを見た。また香港では、二階電車にのって市内見物中、わたくしを案内してくれた日本人の顔が中国人そっくりだったので、車内の中国人から漢奸≠ニ見られ、リンチをうけそうになって、走る電車からとびおり、命からがら逃げおおせたこともある。幕末に日本を訪れた外人の記録を読んで、わたくしは二十数年前のにがい経験を思い浮かべた。
そのころ、日本の攘夷派の目から見れば、勅許を待たずに開国した将軍をはじめ、その周辺の人物、相談にのっている学者、外人に使われている日本人など、すべて漢奸≠ナはなくて日奸≠ニいうことになる。したがって、日奸狩り≠焉A中国の場合とほとんど同じであった。
つゆをだにいとうやまとのおみなえし
ふるあめりかにそではぬらさじ
という有名な歌がある。横浜遊廓「岩亀楼《がんきろう》」の遊女喜遊《きゆう》≠ェ、楼主に強いられて、アメリカ人にはべらねばならなくなったとき、この歌をのこして自害したということになっている。しかし、当時外人相手の遊廓は大いに繁盛していたし、外人に身うけされて、ラシャメン≠ノなったものも多かった。その点は、終戦直後の日本と大してかわりはなかったはずで、そのなかからこういう女性が出たとすれば、実に珍しい例だといわねばならぬ。
しかし、この喜遊≠ノついて書いたものはたくさんあるが、彼女の両親、本名、相手の外人などみなちがっているし、ふるあめりか≠フ歌にしても、類似のものがいくつもあって、どれがほんとうだかわからない。たしかなことは、当時横浜の遊廓に喜遊≠ニいう遊女がいたこと、彼女がなにかの理由で自殺したことくらいである。
これだけの事実をもとにして、勤皇派の学者|大橋順蔵《おおはしじゆんぞう》(訥庵)が、排外思想をあおりたてる目的で、このストーリーぜんたいを創作したというのが、もっとも真相に近いようである。
これによると、彼女を死にみちびいた外人は伊留宇須≠ニなっている。戦後、占領軍の命をおびて、日本の各大学を講演して歩き、いたるところで反対のデモにあったアメリカの学者も、たしかイールズ≠ニいった。
[#小見出し]芽ばえる資本主義
「ふるあめりかに そではぬらさじ」の歌やストーリーの創作者だといわれる大橋順蔵は、そのころ江戸でおこったさまざまな事件の企画演出者であり、スポンサーであった。
順蔵は清水|赤城《せきじよう》という貧しい兵学者の三男であったが、佐藤|一斎《いつさい》の門にはいってその才能を認められ、豪商大橋|淡雅《たんが》の養子に迎えられた。「思誠塾」を開いて子弟を教育していたが、熱烈な勤皇派で、名声が高くなるとともに、憂国の志士≠スちがさかんに出入りした。幕府からも目をつけられていたけれど、安政の大獄≠ノはあやうく検挙をまぬがれた。
井伊|直弼《なおすけ》のあとをうけて幕政を担当し、和宮《かずのみや》降嫁を実現した老中安藤|信正《のぶまさ》が、文久二年正月十五日、登城しようとして坂下門にさしかかったとき、水戸浪士におそわれ、背に傷を負った事件は、世間に大きなショックを与えたが、このときの斬奸《ざんかん》状には、安藤の罪状をつぎのようにならべたてている。
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一、和宮の降嫁を強要したこと
一、孝明天皇の退位を計ったこと
一、外国人に日本近海の測量を許したこと
一、品川の御殿山を外国人に貸し、江戸のノドもとをかれらににぎられたこと
一、巨額の公金を費やして外国公館を建てたこと
一、英国公使を役宅に招き、美人をかりあつめて枕席に侍《はべ》らせたこと
[#ここで字下げ終わり]
この斬奸状は順蔵の書いたものだということになっている。ほんとの筆者は水戸浪士のひとりだという説もあるが、浪士の書いたものに、順蔵が手を加えたというのが真相であろう。いずれにしても、この斬奸状の底に流れているものは、戦後の米軍基地反対闘争≠ノかかげられた各種のスローガンに通じるものがある。
ここにあげられた安藤の罪状≠フなかで、とくに尊皇派の血をわかしたのは廃帝説≠ナある。井伊大老の命をうけて堀田|正睦《まさよし》が上京するさい、もしも勅許が出なかった場合には、孝明天皇を廃して祐宮《さちのみや》(睦仁親王すなわち明治天皇)を立てるか、あるいは天皇を伊勢神宮の祭主にせよという内意をもらしたとか、堀田に随行した川路左衛門尉《かわじさえもんのじよう》(聖謨《としあきら》)や禁裏つきの都築峰重《つづきみねしげ》らが、承久《じようきゆう》の乱の例を引いて朝廷をおどかしたとかいうウワサが、たちまち京都中にひろがった。尊皇派が計画的に流したのかもしれない。
現に孝明天皇も、堀田がこういう使命をおびてやってくるという知らせをきいて、お手紙のなかに、
「(堀田)上京候えば、もはや地獄と存じ候間、鬼のこん間に逃げ出したく存じ候」
と、退位の内意をもらされている。この時期には、幕府はまだこれだけの力をもっていたわけだ。
とにかく、こういう空気が勤皇派を刺激し、「坂下門の変」を誘発したのであって、これに参加した浪士たちの背後で、順蔵がタクトをふっていたことは明らかである。
その前にも順蔵は、各藩の浪士をあつめて、いろんな陰謀を計画している。輪王寺宮《りんのうじのみや》を戴いて義兵をあげるとか、一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》を擁立して水戸藩の蹶起をうながすとかいったたぐいである。
長州の桂小五郎も、このグループに属していたが、順蔵の煽動には、そうかんたんにのらなかった。あまり大きなことを計画しても失敗する公算が大きい。それよりも小規模のテロをくりかえして幕府を手こずらせるほうが、この時点においては効果的だというわけだ。
また順蔵の身辺には、菊地澹如《きくちたんじよ》、小山春山《おやましゆんざん》のようなふうがわりな学者がいた。澹如は順蔵の養父淡雅のむすこである。淡雅はもとの姓を大橋といい、宇都宮在の農家に生まれたが、親戚《しんせき》の菊池家をついで商人となり、二十六歳のとき江戸に出て絹をあきなって巨利を博した。当時、佐野屋といえば、江戸でも指折りの豪商であったが、天保の大|飢饉《ききん》のさいには所蔵米をことごとく放出して貧民を救済している。そのむすこの澹如は宇都宮の本家をつぎ、各地に支店をもうけ、手びろく商売をして、これまた巨富をつんだ。安政のころ、自家資金で荒地を開墾し、良田二百八十町歩をえて、士分にとりたてられた。
それでいて、この父子は、ソロバンをもつ手に書物を放さず、学者としても相当なもので、著書もなん冊か出している。それに、順蔵のところにあつまってくる志士≠スちは、たいていこの父子から経済的な援助をうけていた。
春山は下野《しもつけ》国|真岡《もうか》の商家に生まれたが、勤皇の志を立て、水戸の会沢正志斎《あいざわせいしさい》の門にはいり、藤田東湖などどまじわった。元治元年、藤田小四郎らが筑波山に兵をあげるや、彼もこれに加わって捕えられ、江戸伝馬町の牢屋に入れられた。同房に高島嘉《たかしまか》右衛門《えもん》が、密貿易でつかまってはいっていた。これが春山から易学の手ほどきをうけて、のちに高島易断≠フ元祖となったのだ。
このように商人中でのインテリが、勤皇派のスポンサーとなり、みずからもその実践にのり出したということは、徳川時代の封建的な閉鎖経済の雪がとけて、その下に新しい資本主義の芽が吹き出していたことを物語るものである。
[#小見出し]波瀾にとんだ若き博文
この時代に、勤皇派の志士≠スちは、気軽に脱藩して、国事に奔走≠キるものが多かったが、かれらの生活費は、いったいどうなっていたのであろうか。生活費ばかりでなく、全国を股にかけてとび歩く費用とか、秘密の会合費とか、そのたびに酒をのんだり、女を買ったりする金はどこから出ていたのかというのは、だれもが抱く疑問である。
それにはスポンサーがいろいろいたと思うが、封建主義の胎内で育ちつつあった新しい商業主義によって富を築いたもの、たとえば大橋順蔵の義父菊池淡雅、澹如父子がそのいい例である。このほか、勤皇を看板にしている雄藩、たとえば長州藩のごときは、藩の機密費から、自藩を脱したものばかりでなく、他藩の浪士たちでも将来有望と見たものには、小遣い銭や酒代を与えていた。今のことばでいうと、藩の高等政策のための工作費、もしくはPR費だ。長州藩の場合でいうとこの面を担当していた重役が周布政之助で、現在有力な会社にはどこでも、宣伝もしくは政治献金担当の重役がいるのと同じである。周布の下で、秘書のような地位にあって金を与える人物を見わけたり、その金額を査定したりする役目をしていたのが桂小五郎である。桂が浪人たちのあいだで、にらみがきき、人気があったというのも、ひとつはそこからきているのだ。
さらに、桂の下にいて、その金を相手に直接手わたしたり、使い走りをしたりしていたのが伊藤俊輔である。伊藤は年も若かったが、身分が低く、桂の部下として士分にとりたてられたのは文久三年、二十二歳のときで、今でいうとやっと正社員になれたのである。維新の元勲≠スちのなかで、名誉欲、肩書き欲がもっとも強かったのは伊藤で、三浦梧楼将軍のことばにしたがえば、「まるで三、四歳のこどものごとし」であった。この点は豊臣秀吉などの場合と同じで、もとの身分の低さからきた劣等感が、さいごまでつきまとうのであろう。しかし、桂などのあとにくっついてとび歩いていたころの伊藤は、正式の給与は少なかったけれど、金には決して不自由しなかったと述懐している。機密費につながるものの強みで、社用族≠ネらぬ藩用族≠セったのだ。
ところで、「坂下門の変」の三日前、大橋順蔵をはじめ、義弟の菊池澹如、長州の浪士|多賀谷勇《たがやいさむ》など、大橋グループは一網打尽に検挙された。
これはてっきり同志≠フなかに幕府のスパイがいて密告したにちがいないということになった。怪しいとおぼしきものをせんさくした結果、水戸の浪士と称する宇野東桜《うのとうおう》という男が、北町奉行所に出入りしているという事実が判明した。
ここのところ、手もちぶたさで困っていた高杉晋作は、これに天誅≠加えずにおかないといい出した。幸い長藩の白井小助《しらいこすけ》が東桜と飲み友だちというので、白井に意をふくめて東桜に酒をすすめ、酔っぱらったところを長州藩邸につれてこさせた。刀自慢の東桜に、刀の話をもち出して、
「ちょっと拝見」
と、彼の刀を大小ともとりあげ、まず高杉が脇差で東桜の胸板をついた。そのとたんに伊藤は、大刀をふりあげて、その首をうちおとした。死体は俵に入れて近くの堀へ投げこんだ。
つぎは、安藤信正の命をうけて廃帝≠フ前例を調べたという塙《はなわ》次郎にたいする天誅≠ナある。
塙次郎というのは、盲人で一流の国学者となった塙|保己一《ほきのいち》のむすこである。これが廃帝≠フ前例を調べたというので、勤皇派を憤激させたのであるが、その後和宮降嫁が実現し、この事件に関係した幕府の要人も処分されたので、次郎への憎しみも自然にうすれてしまった。それに、次郎が廃帝≠フ前例を調べたということも、単なるウワサにすぎず、実は信正の依頼をうけて、寛永の鎖国以前に幕府が外人をどのようにあつかったかという先例を調べたことが、誤り伝えられたのだともいわれている。もしかすると、この話も大橋順蔵あたりが創作したデマかもしれない。
それはさておいて、御殿山の公使館焼き打ちのあと、退屈していた高杉が、突如として、年末の景気づけに、塙次郎へ天誅≠加えようじゃないかといい出した。
久坂玄瑞がさっそくこれに賛成した。しかし高杉や久坂にしてみれば、自分で次郎を切るのはおとなげないというので、これまた伊藤俊輔におハチがまわった。伊藤はひとりでじゅうぶんだといったが、けっきょく、山尾庸三とふたりで出かけた。
文久二年もおしつまった十二月二十二日の晩、次郎が家にもどってくるところを待ちうけて、うしろから切りつけた。そしてその首に、かねて用意の斬奸状をつけて、九段坂上の黒板べいの忍びがえしにさらした。
これが従一位大勲位公爵伊藤博文の若き日の所行である。山尾はのちに工部卿、宮中顧問官、法制局長官などを歴任して子爵を授けられた。
[#改ページ]
[#中見出し]維新の序曲「天誅」
――威嚇的効果を狙った暗殺がさいごにはリンチとなった理由――
[#小見出し]井伊大老暗殺の地方版
戦争にも正しい戦争≠ニ正しくない戦争≠ニ、区別しなければならぬという考えかたがある。同様に殺人にも正しい殺人≠ニ正しくない殺人≠ニいう考えに基づいて、ある種の殺人が認められるばかりでなく、義務づけられ、神聖視されることもある。戦場における殺人がそのいい例で、戦場では敵を殺すことが許されるばかりでなく、義務にさえなっている。
こういう現象は、他の国家、他の民族との戦争の場合にのみおこるのではない。ときには同じ国家、同じ民族のあいだでもおこりうる。国内に革命、内乱、クーデターなどと呼ばれる異常事態の発生した場合にも同じである。
明治維新は、三百年近くも日本を支配していた封建制度がくずれて、官僚主義に基づく新しい支配体制が生まれたということになっている。それにしては、権力の交代に避けがたい内乱の期間が、比較的短く、流された血の量も少ないほうであった。だが、人間のからだにたとえていうと、大きな発作の前の小さなケイレンに近いものがくりかえしおこった。それが個人、あるいは小さな集団によるテロであり、暗殺である。これをイデオロギー的に裏うちしたものが天誅≠ナある。
この風潮が絶頂に達したのは文久二年から三年にかけてであって、維新の内戦は、すでに、こういう形で、小出しにはじまっていたともいえる。
この種のテロは、主として組織的な権力、すなわち軍事力や警察力をまだにぎっていない側の旧体制にたいする攻撃、それもはじめは威嚇《いかく》的効果をねらっておこなわれた。したがって、その目標も、外人とか、旧体制の中枢にいる幕府や要人やその手先とかに限られていたのであるが、のちには同じ藩、同じグループのなかでも、意見を異にするものに、裏切り者≠フレッテルをはって、かつての同志≠フ生命をうばう場合も多くなった。これは、共産党の粛清≠ニ同じで、一種のリンチだともいえる。ただし、粛清≠ヘ、権力のあるものが、ないものにたいしておこなうものだけれど、テロはその反対である。
文久二年四月八日、土佐藩の執政吉田|東洋《とうよう》暗殺は、井伊直弼暗殺の地方版であり、十六ミリ版ともいえよう。
土佐は、長曾我部元親《ちようそかべもとちか》が長年にわたってつちかった領土で、関ヶ原の戦いに豊臣がたを助けてほろぼされたあとへ、掛川六万石の山内|一豊《かずとよ》が二十六万石を与えられてのりこんできたのであって、長州の毛利家の場合とは、徳川にたいする立場が逆になっている。また、土佐藩士というのは、もと長曾我部の家来で帰農していた郷士派≠ニ、山内直系の主流派と、二重構造になっていて、この点も長州藩とはちがっていた。土佐藩の勤皇派というのは、主としてこの郷士′nで、両者の対立は歴史的、伝統的なものだけに深刻でもあった。藩主山内容堂も執政吉田東洋も、ときには時代の風潮に染まって勤皇≠口にしたこともあるが、それはどこまでもつけ焼き刃にすぎなかった。容堂が長州の周布政之助あたりから、「腹は佐幕、口先だけの勤皇」などといわれても、しかたがなかったのだ。
そこで、藩内の勤皇派としては、藩籍を脱して、フリーな形で他藩の同士とまじわり、倒幕勢力の結集を計るほかはなかった。その中心になっていたのが武市《たけち》半平太である。藩としての主体性が弱いだけに、その動きが個人的で、へたするとブローカー的な存在になる。といって、容堂の頭を切りかえるわけにいかないから、これを動かしている東洋をのぞくことが先決問題だ、ということになった。
そのため、武市などが中心になって、東洋暗殺の計画が立てられ、三組のテロ団が編成された。四月八日には東洋が藩主に「日本外史」を進講することになっていたが、とくにその日は参覲をひかえて、かえりがおそくなるだろうという情報がはいった。三番目のテロ団がそのかえりを待ちうけて、ついに目的を達した。
東洋は剛直で、自負心が強かった。かつて山内家の親類で幕府の有力な旗本といっしょに酒をのんでいたとき、その旗本が冗談に東洋の頭に手をかけたところ、
「酔狂とはいえ、一国の政治をあずかるものの頭に、手をふれるとは何事だ」
といって、相手をなぐりつけ、そのため閉門を仰せつけられたこともあった。
だが、このワンマンをとりのぞいても、土佐藩の性格には、武市らが期待していたような変化はおこらなかった。東洋は私塾を開いて、多くの人材を養成したが、そのなかから東洋の甥で、その有力な後継者となった後藤象二郎、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎、「五箇条御誓文」の草案起草者|福岡孝弟《ふくおかたかちか》などが出ている。
一方、武市は藩主にむかって勤皇の大義≠熱烈に説きつづけたがいれられず、ついに後藤の手で捕えられ、切腹させられた。けっきょく維新の変革に土佐藩の演じた役割りといえば、坂本|龍馬《りようま》、中岡慎太郎によって薩長連合≠ニいう大芝居をうったくらいのもので、個人的なプレーにおわった。
[#小見出し]島田左近に天誅≠ュだす
戦後にできた新憲法で、天皇は日本の象徴≠ニいうことになったが、歴代の天皇のなかから、象徴≠ナなかったのを見つけるのがむずかしいくらいである。もともと日本の皇室では、重大な問題に直面した場合には、たいてい関白その他堂上公卿の合議によって決裁することになっていた。一種の集団指導≠ナある。そこで、朝議を左右するには、この集団のなかで、もっとも発言権の強いものをつかむことが先決問題であった。
孝明天皇も、決してワンマン型の実力者≠ナはなかった。開国問題で朝廷の立場がしばしばぐらついたり、和宮降嫁の問題で幕府におしきられたりしたのも、決して天皇個人の責任ではなかった。
それに、有力な公卿には、たいてい雄藩のヒモがついていた。たとえば薩藩と三条家などがそれだ。このヒモは縁組や経済的援助で強化されていた。
当時は、幕府と朝廷のあいだにも、一本の大きなパイプが通っていた。そのパイプの役割りを演じて、江戸関白≠ニ呼ばれていたのは関白九条|尚忠《ひさただ》である。これが勤皇派の志士≠スちにねらわれないはずはないのであるが、天誅≠加えるには身分が高貴にすぎるというので、関白の手足となって動いた島田|左近《さこん》が、まずヤリ玉にあがった。こういうところが日本的だった。
左近の出生については、石見国の農家に生まれたとか、美濃国の神主、または山伏の子だとか、いろいろいわれているが、いずれも伝説にすぎない。こういった人物には伝説がつきもので、ラオスで行くえ不明になった辻政信についても、すでに同じような伝説が生まれている。
京都に出た左近は、はじめ商家に奉公していたが、公卿動めを希望して、その口をさがした。いちはやく、朝廷株の値上がりに目をつけたところは、さすがである。たまたま、九条家の老女|千賀《ちか》の浦《うら》と近づきになるや、巧みにとり入って、同家の婿養子に迎えられた。将を射んとして、まず馬を射たようなもので、老女のつてで九条家に仕えると、とんとん拍手に出世して、関白を自由にあやつった。こういう素姓のはっきりしない人物でも、たちまちにしてこういう地位につけたというのは、この時代の性格を物語っている。
井伊直弼のもとで、同じような地位にいたのが長野|主膳《しゆぜん》である。ただし、主膳のほうはインテリで、歌もつくったし、著書も多い。とにかく、このふたりが組んで幕府の手先となり、安政の大獄、和宮降嫁などを企画演出したことになっている。
左近の出世ぶりは、当時としては異常だったので、今太閤≠ニいわれた。蓄財も十万両をこえたというが、話半分としてもたいへんなものだ。こんなのに天誅≠ェくだるのは当然だということになる。
まず清河八郎、小河一敏《おごうかずとし》、村上俊平など、「寺田屋騒動」の残党にねらわれて、中国にのがれたり、彦根に潜伏したりしていたが、文久二年七月二十日、京都に舞いもどり、木屋町のかくれ家で、君香《きみか》という愛人を相手に、ふんどしひとつで酒をのんでいるところへふみこまれた。第一撃をくらって、よろめきながら庭へとびおり、泉水をまわって、外へのがれようと、へいにしがみついたところをバッサリ切られた。
左近と同じく九条家に仕えていた宇郷玄蕃《うごうげんば》にも、同じ運命が待っていた。宇郷は、はじめ三条|実萬《さねつむ》に仕え、どっちかというと勤皇派に属していたが、「安政の大獄」で大検挙がはじまると、転向して九条家の臣となり、主膳や左近とともに、共同謀議をこらしたり、幕府側に情報を流したりしていた。
左近がやられると、玄蕃も恐れをなして、家にはよりつかず、九条家の邸内から一歩も出なかったのであるが、彼をねらう志士≠スちは根気よく彼の家を見張っていた。たまたま、魚屋がその家へはいっていくところを見られたのが運のつきで、うむをいわせず切りつけられた。このときの刺客の一人で、土佐藩士の五十嵐《いがらし》敬之《たかゆき》ののこした記録によると、その現場に、がんぜないこどもがいて、いきなりフトンをかぶり、
「かあちゃん、坊はこうしていれば大事ないかい」
と、おろおろ声で叫んだという。
左近や玄蕃の手足となって動いたのが、幕末を背景にした小説や映画によく出てくる目明し文吉《ぶんきち》である。行動がすばしこいので、ましら(猿)の文吉≠ニも呼ばれた。
文吉は洛北|御菩薩池《みぞろいけ》村の農家に生まれたが、博徒の仲間にはいって、あちこち流れ歩いているうちに、目明しにとり立てられた。情報の仕事で、左近や玄蕃の家に出入りするとともに、愛人の世話をしたり、妓楼を経営したり、左近や玄蕃の金を預かって高利にまわしたりして、あくどくかせいだ。左近の愛人の君香も、文吉の養女であった。
まもなく、文吉も天誅≠うけたが、こんなのを切るのは刀の汚れだというので、細引きでしめ殺された。前にあげた五十嵐の記録では、こういう場合に、細引きを結んでしめてはよくしまらない、首にまわして両方からひっぱるに限ると書かれている。
一方、長野主膳は、もっとも安全と見た彦根にかえったが、すぐ捕えられて処刑された。直弼が死に、京都の情勢もかわったので、彦根藩では彼をもてあましたのだ。かれらを待ちうけている運命は、いずれにしても大してかわりはなかった。
[#小見出し]志士に殺し屋′X向
戦前の上海には殺し屋≠ニいう特殊な職業があった。これは殺人請け負い業で、金をもらって殺人を代行するのである。終戦後の東京にも、これに似たものがあらわれたというので評判になったこともあるが、さすがに日本では、職業として成り立たなかった。
徳川末期にも、殺人マニア≠ェいた。報酬を目あてに人を殺すのではないから殺し屋≠ニはいえないが、人を殺すことに異常な興味をもっていることにかわりはない。これには天誅≠ニいう大義名分もあったが、どっちかというと性格的なものであろう。というよりも、殺人をくりかえしているうちに、習い性となって、殺人にともなうスリルが忘れられなくて常習化し、次第にサディズム的傾向が強められていったのであろう。
当時、この種の殺人マニア≠ェ各藩にいた。土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛など、その代表的なもので、人切り名人≠ニ呼ばれた。岡田ははじめ勝麟太郎(海舟)の用心棒、今のことばでいうとボデー・ガードに雇われ、京都で勝が三人の兇漢におそわれたとき、三人ともみごとに切り伏せたという。前にあげた島田左近、宇郷玄蕃、目明し文吉の場合をはじめ、文久二、三年ごろ、京阪地方でおこなわれた数多くの天誅≠フ下手人はほとんどつかまらなかったが、その大部分は、岡田、田中の両人、あるいはどっちかが直接手をくだしたか、それともなんらかの形で、関係していたといわれている。
長藩で、殺人魔≠ニして知られていたのは神代直人《かもしろなおと》である。若いころ伊藤博文、井上馨などは、彼にねらわれて、農家に潜伏したり、別府あたりまで逃げて歩いたりしたものだ。
しかし、殺し屋≠ニか殺人マニア≠ニかいっても程度の問題で、当時の志士≠スちの多くが、殺人マニア%I傾向をおびていたのである。同じ人間が加害者にもなり、被害者にもなる可能性をそなえていたのだ。事実、人を殺した経験をもたない志士≠ヘ、ホームランを打ったことのないプロ野球の選手みたいなものだということにもなる。
文久二年四月、薩摩の島津|久光《ひさみつ》が兵をひきいて上京することになっていたが、これに呼応して伏見挙兵計画≠ニいうものが立てられた。これは幕府に味方した中川宮(のちの久邇宮朝彦親王)を幽閉し、九条関白と京都所司代酒井|若狭守忠義《わかさのかみただよし》に天誅≠加えるとともに、伏見に兵をあげて、まず井伊直弼の居城彦根をおとしいれ、勤皇のさきがけをしようというのである。
この計画は、各藩の浪士たちによって立案されたもので、清河八郎なども参加していたといわれているが、このグループに本間精一郎というのがいた。
本間は越後寺泊の出身で江戸に出て川路聖謨に仕え、老中堀田正睦が開国の勅許をうけるための陳情に上京したさいには、そのお供のなかに加わっていたというから、明らかに幕府方であった。それが勤皇派に転向して、朝廷から水戸藩への密勅の伝達者として知られた日下部伊三治《くさかべいさじ》、中山忠光の天誅組≠フ首謀者となった松本謙三郎(奎堂)、博徒の親分でいて、勤皇家で、高杉晋作をかくまったことで有名になった日柳燕石《くさなぎえんせき》などとまじわり、勤皇派中での最左翼になった。本間は武芸に通じ、文学に秀で、とくに弁舌はもっとも得意とするところで、東久世通禧《ひがしくぜみちよし》によると、「身体|魁偉《かいい》強壮で、衣服もすこぶる立派なものをよそおい、言論|流暢《りゆうちよう》、咳唾《がいだ》珠をなすというべき」人物であった。今のことばでいうと、申し分のない怪物≠ナある。
彼は他の勤皇派の同志たちとともに、全国各地を遊説して歩いていたが、その服装は、「紫チリメンの羽織に、白の太ひも、ものものしい大タブサで、朱鞘の大刀」といったふうで、虚喝漢≠キなわちコケオドシという印象を与えた。薩摩や長州では、しきりに挙兵をすすめたが、信用されなかったようである。
本間が怪しいという評判が立ったのは、彼が薩藩へ七百両の借金を申しこんで、ことわられてからである。その腹いせに、彼は公卿たちのあいだに薩長の悪口をいいふらし、両藩の離間を計ったというので、こんなやつは切ってしまえということになったのだ。
文久二年|閏《うるう》八月二十日の夜、本間が祇園の「一力」から芸者をつれ出し、先斗《ぽんと》町の「大文字屋」へ行って四時ごろまで遊び、出てきたところを待ちうけていた八人の浪士にとりかこまれて切られた。
下手人は、のちに天誅組≠フ首謀者となった吉村|寅太郎《とらたろう》だという説もあるが、やはり田中新兵衛、岡田以蔵など、殺人マニア≠フ手にかかったというのが定説になっている。そして田中、岡田のうしろに土佐の武市半平太がいたことは、武市の『在京日記』の閏八月二十日のところで、この事件をほのめかしているのを見ても明らかである。
共産党の場合でもそうだが、がいして過激すぎる意見をはくもの、転向角度の大きいもの、交友範囲の広すぎるもの、私生活がはでで金づかいの荒いものは、裏切り者、もしくは裏切る公算の大きいものと見てよい。
天誅≠フ対象となったのは、男性ばかりではなかった。井伊直弼のふところ刀となっていた長野主膳が、直弼の死後、彦根藩で処刑されたことは前にのべたが、直弼がまだ部屋住みのころ。その寵愛《ちようあい》をうけていたというのが村山|加寿江《かずえ》という女である。
井伊家の家法によると、相続人以外のものは、たいてい他家を継ぐことになっていたが、それもできなかったものは、ひどく質素な生活をさせられた。直弼は十四男で、十六歳で父を失ったが、養子に行くチャンスを逸し、十五年間も日陰のくらしがつづいた。しかし、そのお陰で兄の養子に迎えられ、井伊家を相続したばかりでなく、さらに中央に出て大老となり、幕政をその手におさめることができたのである。
主膳は、直弼の部屋住み時代の友人で、直弼が本家をつぐことになって、主膳に加寿江のあと始末をたのんだところ、たちまち主膳と意気投合したのだともいわれている。彼女は江州多賀神社の神主の娘で、文筆に秀でていたうえに、美人でもあった。
一説によると、主膳が多賀神社の近くで国学の塾を開いていたとき、そこへ加寿江が出入りして、二人は結ばれた。直弼との関係はそのあとで、彼女を通じて主膳は直弼にとりいったということになっている。
井伊の公卿工作は、主膳に命じて、まず九条関白にむけられ、ついで中立派の二条|斉敬《なりゆき》を抱きこむことに成功した。斉敬は藤原氏さいごの関白摂政で、文久三年八月十八日のクーデターでは、中川宮、近衛|忠煕《ただひろ》らと組んで、長州をはじめ攘夷派の勢力を朝廷から一掃するうえに大きな役割りを果した。そのため王政復古とともに参朝(宮中に出入りすること)を停止され、維新後は不遇のままで一生をおえた。この斉敬を手に入れるためにつかわれたのが加寿江で、主膳の意を体して二条家に仕えると、その美貌《びぼう》と教養をもってたちまち奥女中に出世し、斉敬の愛と信頼をえて、和宮降嫁のさいには、重要な陰の人物となったといわれている。
しかし、こういった主膳、左近、加寿江などにかんする記録は、ほとんど勤皇派の立場から書かれたもので、悪意と憎悪にみたされていて、ほんとのことはよくわからない。いずれにしても、女性では加寿江が天誅≠フ対象の筆頭としてねらわれていたことは明らかである。
その過程については、下手人のひとりである土佐藩士|依岡権吉《よりおかごんきち》というのが、比較的くわしい記録をのこしている。
それによると、文久二年十一月十四日の夜、北野天満宮の境内に、各藩の浪士が二十人ばかりあつまって共同謀議のうえ、かねて入手しておいた情報に基づいて、加寿江の家を襲撃した。それは島原遊廓に近い裏長屋で、そのころは彼女もすっかりおちぶれていたらしい。
ふみこんでみると、四十五、六歳の女がひとり寝ていたので、えりがみをつかんでひっぱり出した。見れば、色の白い、小柄で面長の女であった。長屋の人たちは、この騒ぎに気がつかぬはずはないのだが、後難をおそれてか、ひとりも出てこなかった。
ところで、加寿江には多田帯刀《ただたてわき》というむすこがいた。金閣寺の代官多田源左衛門とのあいだにできたもので、スパイにつかわれていた。勤皇派の機密書類を開封して密告したというから、おそらくダブル・スパイであったのであろう。志士≠スちがふみこんだとき、家に帯刀の姿が見えなかったので、家主を呼びだし、
「明晩三条大橋まで帯刀をつれてこい。もしこなければお前の命はないぞ」
とおどかした。
さて、加寿江のほうは、そのまま三条大橋までひっぱって行ったが、女のことだから、殺すまでもなかろうということになり、まる裸にして橋の東端の柱にしばりつけ、生きたままさらした。これにつけられた斬奸状には、彼女の罪状を書きつらねたうえ、この女を手先につかった幕吏≠ヘ、女の自白によってわかっているから、近く厳刑を加えるであろうと予告されていた。
さて、その翌晩、家主はああいったものの、よもや帯刀をつれてくるようなことはあるまいと思ったが、念のため、三条大橋へ行ってみると、家主が約束どおりつれてきた。しかし、その場で殺しては目立ちすぎるし、御所の近くで血を流すのもおそれ多いというので、蹴上《けあげ》までひっぱって行って首をはね、近くの立ち木にもとどりを結びつけてさらした。
そのとき、依岡のはかまにべットリと血のりがついたが、これがおちなくて困ったと書いている。
これでみても、当時の京都がいかに無警察の状態にあったかがわかる。
[#小見出し]京都の治安は野放し状態
当時、京都所司代として治安保持の任にあたっていたのは、若狭小浜《わかさおばま》の藩主酒井|忠義《ただよし》であった。父の忠進《ただゆき》は二条の所司代屋敷で生まれたというから、父子三代つづきの所司代ということになる。その役目は、市内警備の監督ばかりでなく、皇室や公卿を監視する立場にあって、幕府内では老中につぐ高官で、もっぱら譜代大名のなかから任命されていた。
忠義が就任した当座、天皇の日用品が八十年前にきめた値段でおさえられているので、質がひどくおちていることを知り、その改訂を幕府に建議したがいれられず、見るに見かねた忠義は、不足分は自腹をきって納めたという。和宮降嫁のさいの働きを認められて、左近衛権少将《さこんえのごんしようしよう》に任ぜられたが、朝幕の抗争がはげしくなってくると、幕府から見て、彼のやりかたは生ぬるいということになり、罷免《ひめん》のうえ、隠居させられた。その後任には、大坂城代松平|伯耆守《ほうきのかみ》をすえたが、さらに情勢が切迫してくると、もっと大物をもってこなければならぬということになり、徳川一門のホープと見られていた会津藩主松平|容保《かたもり》が京都守護職に任ぜられた。彼が着任するときの行列は一里におよんだという。むろん、これは、勤皇派にたいする大デモであった。
このころの京都は、政治的台風の目になっていて、各藩の工作隊や浪士が続々とあつまり、幕府や雄藩の工作費がバラまかれ、治安が悪くなる一方、インフレの様相を呈し、頽廃《たいはい》的な傾向が日ましに加わった。もともと質朴剛健で知られていた会津藩士がこの風潮に染み、容保がやめて、そのあとに越前藩主松平|慶永《よしなが》(春嶽)が守護職の地位についても、会津藩士は京都を去ることをいやがった。鳥羽伏見の戦いにもろくも敗れたのは、ひとつは京都化しすぎたためだといわれている。一方、会津では藩財政がこれで赤字になり、領民を誅求《ちゆうきゆう》しすぎて一揆《いつき》の原因ともなった。
ところで志士≠スちの天誅≠焉A大物が一段落すると、こんどは小物にむけられた。
京都の与力《よりき》で、安政の大獄にさいし志士≠フ逮捕に功労のあった森孫六、大河原十蔵、渡辺金三部、上田|助之丞《すけのじよう》などは、京都の情勢がかわってくると、こんどは自分たちの命があぶなくなってきた。そこで、幕府のほうでも御用召≠ニいうことにして、かれらを江戸へ引きあげさせることになった。左翼や右翼ににらまれた警官や裁判官を転勤させるようなもので、これでは治安対策を放棄したも同じである。
与力たちの京都出発は秘密になっていたが、津和野藩士|福羽文三郎《ふくはぶんざぶろう》(美静《よししず》)がこれをかぎつけて、武市半平太のところへ知らせた。これは武市の『在京日記』に出ているからまちがいない。福羽は国学者で、のちに東京学士院会員、元老院議官となり、子爵を授けられている。武市は、さっそく二十四人の同志に召集令を発した。その顔ぶれは『在京日記』のなかに、たとえば堀内賢之進なら賢≠ニいうふうに、名前の一字だけがフチョウのように記入されている。この大がかりなテロ団の案内役を買って出たのは中島|永吉《ながよし》(錫胤)で、これまたのちに元老院議官、男爵になっている。
さて、与力たちの一行は、朝早く京都を立って、その日は江州石部で別々に宿をとった。尾行してきたテロ団のほうでも、四組にわかれて、四軒の宿をおそい、三人を討ちとった。森だけは家来とまちがえられてあやうく助かった。テロ団は、三つの首をもってその日のうちに京都へ引きあげ、粟田口の刑場にさらした。
同じころ、人夫周旋業の平野屋重三郎、鞍馬《くらま》口のせんべい屋半兵衛というのが、ならべてヤリ玉にあがっている。このふたりは、勅使が関東へ下向のさい、お供をして、人夫賃の頭をハネたり、宿場役人に難題をふっかけたりして、あくどい金もうけをしたというのがその理由である。しかし殺しはしないで、裸にして加茂川の木綿をさらす柱にしばりつけ、にぎり飯を首にぶらさげて、生きざらしにした。
岩倉|具視《ともみ》、久我建通《こがたけみち》とともに、和宮降嫁をあっせんして三奸《さんかん》≠ニ呼ばれた千種有文《ちぐさありぶみ》の家令賀川|肇《はじめ》が、天誅≠ノあったことは前にのべた。ところが、文久三年二月、公武一和#hの巨頭山内容堂が上京してまもないころ、河原町にあった土佐藩の邸門に、ひとつの生首が更紗《さらさ》のふろしきに包んで投げこまれた。これには紙片がついていて、
「土佐のご隠居に生首一つ献上申し候」
と書いてあった。
これは、唐崎村の庄屋惣助の首で、惣助はしばしば千種家に出入りし、賀川などの用を弁じていたというので志士≠スちがおもしろ半分に血祭りにあげたものらしい。
この日、容堂が松平春嶽のもとに出した手紙に、こう書いている。
「今朝僕の門内へ首一つ献じ有之候、酒の肴にもならず、無益の殺生、可憐々々」
このテロ団をあやつっていたのが、ほかならぬ土佐藩士武市半平太だとすると、妙なことになる。
[#小見出し]テロ行為あとをたたず
天誅≠ニいう名のテロの下手人は、各藩の浪士であるが、かれらをうしろからあやつっているのは、主として薩、長、土など雄藩の実力者≠ナある。かれらの多くは、脱藩者ということで自由勝手な行動をするが、問題がおこっても、藩にはめいわくをおよぼさないようになっていた。生活費や機密費は、藩に残留している同志≠ゥら引き出せるし、藩内の空気がかわって、かれらを受けいれてくれるようになれば、すぐ藩に復帰して要職につき、都合が悪くなれば、また脱藩する。これをなん度もくりかえしているものが多かった。
この時代のテロの下手人は、勤皇≠ニいう大義名分で動いているのであって、報酬が目的ではないから、殺し屋≠ニはいえないと前にのべたが、結果においては、それに近いものになっている。かれらがほとんどつかまらないのも、幕府の警察力が無力化したからでもあるが、雄藩はたいてい江戸、京都、大坂などに、広大な藩邸をもっていて、そこへもぐりこんでしまえば、幕府の役人は手出しができない。犯人がそこにかくまわれているということがわかっていても、正式にかけあうことができない。完全なる治外法権を呈している点で、戦後の大学の比ではなく、かつての上海、広東における外国租界に近かった。
文久三年にはいっても、テロはますますさかんになるばかりだった。それも公然たる勤皇の敵ばかりでなく、かつての同志で、途中から転向したと見られるものにも、ホコ先がむけられるようになった。池内大学《いけうちだいがく》も、その犠牲者のひとりである。
大学の身もとはよくわからないが、かつては梁川星巌《やながわせいがん》、春日《かすが》潜庵《せんあん》(讃岐守)などとならび称せられた勤皇派の学者で、中川宮《なかがわのみや》(のちの久邇宮朝彦親王)や三条|実萬《さねつむ》などの知遇をうけ、そのブレーンのような立場で意見をのべていた。水戸藩の勤皇家で幕府ににらまれて処刑された茅根伊予之助《ちのねいよのすけ》、鵜飼吉左衛門、幸吉父子がたよってきたときなどは、ずいぶん面倒を見たものである。水戸藩に攘夷の詔勅がくだったさいには、かげで大いに動いた人物のひとりだ。
したがって、幕府から見れば、大学は頼三樹三郎《らいみきさぶろう》、梅田|雲浜《うんぴん》などとともにA級の危険人物≠セった。第一回の検挙はうまくのがれたが、逃げおおせるわけにはいくまいと考えて、自首して出た。こういう場合には、生命と交換に、いろいろと取り引きがなされるものだが、大学も中追放≠ニいう軽い判決がくだされたところを見ると、相当の取り引きがあったのであろう。そのあと、彼は名を退蔵《たいぞう》と改め、居を大坂にうつした。そのため古い同志たちから裏切り者≠つかいされたことはいうまでもない。
文久三年の春、将軍家茂の上京が決定し、幕政参与の一橋慶喜、松平春嶽、伊達宗城《だてむねき》とともに山内容堂も、公武周旋≠フため、京都にあつまることになった。容堂は、筑前藩から借りた蒸汽船「大鵬丸」で、江戸から大坂について、長堀の藩邸にはいった。
その翌晩、藩邸で安着祝いの宴がひらかれ、大学もこれに招かれた。権力者というものは、こういった学者≠酒宴にはべらせて、芸人あつかいすることが好きである。
大学は容堂の「命に応じて恭《うやうや》しく詩を賦し」、金一封をいただいて退出した。そしてカゴで難波橋にさしかかったとき、つけてきた四、五人の怪漢におそわれた。
その場で、死体から両方の耳が切りとられ、死体は難波橋の上にさらされた。大坂で天誅≠ェおこなわれたのは、これがはじめてだというので、たいへんな評判になり、見物人がワンサとおしかけたという。
切りとられた耳は、正親《おおぎ》町三条実愛《まちさんじようさねなる》と中山|忠能《ただやす》の両大納言の家へ投げこまれた。これには添状がついていて、「岩倉具視、千種有文などと腹をあわせ、所司代を助け、ワイロをむさぼった罪は許せない、三日以内に辞職しなければ、この耳のごとくにし奉らむ」と書かれていた。
これを見た両大納言は、恐れをなして、隠退の決意をした。いうまでもなく中山忠能は、明治天皇を生んだ慶子権典侍《よしこごんのてんじ》の父で、天誅組≠フ盟主忠光はその第五子である。
このときの下手人ははっきりしないが、当時、容堂の侍臣|小笠原唯八《おがさわらただはち》が、留守宅へ出した手紙に、
「何故にや、何者の仕業にや、相わからず候えども、恐らくはわが藩軽格の仕業にてはこれなきや」
と書いている。のちに、この首謀者は土佐藩の岡田以蔵だとわかったが、そのうしろに武市半平太がいたことは明らかである。
こうなってくると、幕府が雄藩をおさえることができなくなったと同じように、雄藩のほうでも、その藩士たちの行動に手出しができなくなっていたのだ。
[#小見出し]木像に及んだ天誅
歴史上の人物にも、悪玉と善玉がある。日本歴史での最大の悪玉は、なんといっても足利尊氏《あしかがたかうじ》である。しかし、その悪≠フ度合い、これにたいする憎しみは、その時代の性格、風潮によってずいぶんちがってくる。
昭和九年、斎藤|実《まこと》内閣の商工大臣中島|久万吉《くまきち》が、前に発表した足利尊氏にかんする感想文が突然問題になり、そのため貴衆両院でつるしあげをくい、病気を理由に、辞任するにいたった。さらに、その後まもなくおこった「帝人事件」に連坐して、起訴収容され、四年後に無罪の判決をうけたが、そのあいだに、時代はこういった自由主義者に不利な方向にすすみ、彼が政、財界にかえり咲く機会は、終戦後まで与えられなかった。
中島の感想文にしても、別に尊氏をほめたわけではないが、憎しみをもって書かれなかったのが悪かったのだ。それ以来尊氏のタブー的性格は、ますます強められた。
尊氏の反対が楠正成で、このふたりは二つのツルベのような形になり、正成株があがったときには尊氏株が暴落することになっている。
幕末、王政復古の直前には、正成株が記録的な高値を呼び、尊氏株は暴落を通りこして、取り引き停止の状態にあった。尊氏をはじめ、義詮《よしあきら》、義満《よしみつ》のいわゆる足利三代≠フ木像に天誅≠ェ加えられたのは、このときのことである。
この事件には直接関係しなかったけれど、同じグループのなかにいて、のちに伯爵宮内大臣となった田中|光顕《みつあき》が、当時の思い出を語っている。田中は乃木大将より前の学習院院長でもあった。
田中が京都に出たころ天誅#Mがこうさかんになってくると、自分たちも何かしなくてはならぬという気持ちになったが、目ぼしい奸賊≠ヘほとんどやられてしまったし、のこっているものも、恐れをなして姿を見せなくなった。手もちぶさたで困っているときに、
「洛西等持院に足利十三代の木像がまつってあるが、これに天誅≠加えてさらしものにしてはどうか」
といい出すものがあった。これはおもしろいと一同賛成し、決行の日どりは二月二十二日(文久三年)ときめて、三、四人の同志が等持院へ潜入すると、意外にも、すでに他の同志が木像の首をきって、さらっていったあとだった。おそらく、これは偶然の一致というよりは、この計画が他の同志にもれて、先をこされたのであろう。
田中らに先んじたグループは十七人で、切りとった三つの首を三条河原にさらしたが、これについていた立札には、長い文章が書かれた。それは賊魁′ケ頼朝以来の武家専横の歴史からはじまって、
「我々不敏なりといえども、五百年昔の世に出でたらんには、生首を引きぬかんものをと、握拳切歯、片時もやむ能《あた》わざるなり」
といっている。むろん、そのねらいは、死んでいる尊氏らではなく、生きている徳川将軍にむけられているのであって、
「その罪悪足利らの右に出づ」
ときめつけて、
「その積悪をつぐなうの処置なくんば、満天下の有志、ついに大挙して罪を糺《ただ》すべきものなり」と結んでいる。
これを見て、かんかんに腹を立てた京都守護職松平|容保《かたもり》は、所司代や奉行を督励して、たちまち、十七人の下手人のうち十一人まで逮捕した。というのは、このグループのなかに、大庭恭平《おおばきようへい》という会津藩士がいて、容保に自首して出て、情報を提供したからである。
容保としては、全被告を極刑に処したかったのであるが、木像の首を切ったものを殺人犯あつかいして極刑を課したという前例はない。窮したあげく、
「朝廷から高位高官を贈られている尊氏らの木像にたいして、無礼をはたらくのは、とりもなおさず、朝廷をないがしろにするものである」
という妙な判決をくだした。そこで、長州の山県狂介《やまがたきようすけ》、入江|九一《くいち》、土佐の吉村寅太郎をはじめ、勤皇派の浪士たちが総蹶起し、連名で朝廷に陳情書を提出した。朝廷でもこれを認めて、木像の首を切ったのは正義者だから釈放せよということになった。
すると、こんどは、会津藩のほうで騒ぎ出し、朝廷をおどかした。勤皇派もこれに対抗して、のちに自由民権運動のリーダーとなった古沢|滋《しげる》や田中光顕などが、老中首席|板倉勝静《いたくらかつきよ》の邸におしかけ、面会をことわられて、ゲタばきのまま座敷にあがりこみ、追い出された。
けっきょく、姉小路《あねのこうじ》公知《きんとも》、長州藩の世子毛利定広などが調停役を買って出て、木像事件の下手人は、極刑にすべきところ、情状を酌量して領主預けとするということでケリがついた。
こういう記録を見ると、安保騒動のときの新聞記事でも読んでいるような気がする。
[#小見出し]幕末のナゾ姉小路の暗殺
明治の新政府で新しい職制をつくったときに、
「公卿や大名に一省の長たるべき人物は、ほとんど見当たらなかったにもかかわらず、そういう名門のものが多く高い官職を占めていた」
これはイギリス公使館の通訳官アーネスト・サトウの『回想記』に出ていることばである。これまでは、単なるアクセサリーのように見られた公卿の家柄、官職、位階などが、幕末にいたって、急にものをいうようになって、大いに権威づけられたものの、多年無為徒食になれた公卿には人材が乏しかった。とくに国際情勢の認識という点になると、幕府側に歯が立たなかったことは事実である。それでいて、王政復古におしきることができたというのは、その推進力となった下級武士の爆発的なエネルギーというよりも、時代の流れに帰すべきであろう。
こういった公卿たちのあいだで、少壮有為の人物として早くから頭角をあらわしていたのが、三条|実美《さねとみ》と姉小路公知である。このふたりは、朝廷における尊攘派の中核体として、諸藩や浪人の積極的分子と結び、運動をすすめてきたのである。
文久二年、朝廷から幕府へ攘夷督促の勅使として派遺された大原|重徳《しげのり》が失敗してかえったあと、おりかえし三条が正使、姉小路が副使として江戸へ送られたのであるが、このとき三条は二十五歳、姉小路は二十三歳だった。ふたりは将軍|家茂《いえもち》に会って朝意を伝えたが、これにたいする将軍の奉答文の署名は臣家茂≠ニなっていた。戦後、吉田茂も臣茂≠ニ名のって評判になったが、将軍の名前の上に臣≠つけさせたのは、これがはじめてだというので、大いに人気を博したものだ。
当時、京わらべのあいだでは、三条は白豆=A姉小路は黒豆≠ニ呼ばれていた。というのは、三条はアーネスト・サトウの表現にしたがえば、「色の青白い、女のような小男」であったが、姉小路は色黒で、剛愎で、精悍《せいかん》なところがあり、公卿らしくなかったからだ。勅使としても、年下で身分も低い姉小路が、三条をリードしていたらしい。
人もあろうに、この姉小路に天誅≠ェ加えられたのだから、世間が驚いたのもムリはない。文久三年五月二十日の午後九時ごろ、姉小路は御前会議をおえて退出、朔平《さくへい》門前にきたときくらがりから躍り出た怪漢に切りつけられた。剛気な彼は笏《しやく》をもって防ぎながら、相手の刀をうばったけれど、すでに致命傷をうけていたとみえて、五、六町はなれた自宅へたどりつくと同時に絶命した。
その晩、三条もねらわれていた。帰宅の途中、お供の戸田《とだ》雅楽《うた》に、
「今なん時ごろか」
ときいた。これから中川宮のところへまわるつもりらしいと察した戸田は、それではたまらんと思って、
「さア、もう夜半になりましょうか」
と、わざとトボけた返事をした。
それでカゴを急がせたのが、ケガの功名となって、難をまぬかれたのだといわれている。戸田はのちに尾崎|三郎《さぶろう》と改名、元老院議官、法制局長官、男爵となったが、慶応三年十一月、京都の宿で坂本龍馬が殺される直前まで、いっしょにいて、これまたあやうくまぬかれている。
さてその翌日、当時京都御所の建春門外にあった学習院の扉に、三条は「姉小路と同腹、公武一和を名として、実は天下の争論を好むものにつき、急速隠居謹慎いたさず候ては、旬日ならず天誅を加え、殺戮《さつりく》するものなり」という張り紙が出た。
問題はこの事件の下手人で、右か左か、佐幕派か勤皇派かということだ。
この春、将軍が上京して、大坂、兵庫の警備を視察したとき、姉小路も朝廷を代表して出かけたが、勝海舟は彼を大いに歓待するとともに、幕艦「順動丸」にのせて海上につれ出し、西欧諸国の兵器、戦術の進歩と、その偉大な威力を実地に体験させたうえ、新式弾丸の見本をもたせてかえした。さらに、そのあと姉小路邸に坂本龍馬を派遣して、セバストポールの戦闘図などを見せ、啓蒙《けいもう》につとめたため、いくらか開国論に傾いたというウワサが、勤皇派につたわり、かれらを憤激させたのだともいわれている。
しかし、その一方で、勤皇派のなかでも、肥後の轟武兵衛《とどろきぶへい》、宮部|鼎蔵《ていぞう》、土佐の土方楠左衛門《ひじかたくすざえもん》(久元)などは、必死になって下手人の捜査をおこなった。姉小路がうばいとった刀や現場におちていた柄頭の銘などによって、下手人は薩摩人、それとも田中新兵衛の一味だという目星がついた。手わけして新兵術の行くえをさがした結果、薩摩藩士|仁礼源之丞《にれげんのじよう》(景範、のちの海軍中将子爵)といっしょに住んでいるところを見つけて、泰行所へひっぱってきた。
幕府の元外国奉行の地位にあった永井|尚志《なおむね》が、直接新兵衛を調べたけれど、彼は否認しつづけた。そこで、証拠の刀を見せた。すると、彼はいきなりこれを手にとって自害してしまった。この刀は、彼が料亭で盗まれたもので、武士としてこれを恥じたのだということになっているが、それだけの理由で死ぬのもおかしい。
要するに、この事件は、幕末日本における大きな謎のひとつとなっている。
[#小見出し]朝廷をめぐる薩長の争い
藩の性格を佐幕≠ニ勤皇≠ニかにふるいわけるのはまちがいで、どの藩でも、幕府に大きく傾斜しているときもあれば、朝廷への傾斜がはげしいときもあった。また藩主もしくは藩実力者の交替によって、藩の性格がガラリとかわる場合も多かった。さらに、藩そのものが、ふたつにも三つにも分裂し、そのなかにはげしい対立のあるのが普通であった。原則として、藩内の下層分子は、だいたい勤皇の線で通しているのに反し、藩主およびその周辺の人物は、公武一和≠ノ傾くか、絶えず動揺するか、どっちかであった。
薩、長、土の三藩が、維新の変革に大きな役割りを演じたことは明らかである。しかし、藩主の勤皇性という点からいうと、まったく別な評価がなされねばならない。文久二、三年ごろの薩摩藩は、実力者島津久光を中心に、幕府への大きな傾斜を示していた。そこで、前にのべた姉小路公知の暗殺も、三条、姉小路のためお株をうばわれた大原重徳と薩摩藩上層部との合作だという見方も出てくる。そういうふうに推理すれば、田中新兵衛が自殺したのもうなずけないことはない。現に大原が勅使として江戸へ下ったとき、道中を護衛したのは島津久光であった。
いずれにしても、この事件で、薩摩は朝廷の信用を失い、禁門守備の任をとかれた。ところが、そのあとに八月十八日のクーデターがおこり、長州の勢力も朝廷から一掃されてしまった。これは中川宮、前関白近衛|忠煕《ただひろ》、右大臣二条|斉敬《なりゆき》、内大臣|徳大寺公純《とくだいじきんいと》、京都守護職松平容保などによって計画されたものであるが、実質的には、朝廷をめぐる薩長の勢力争いで、幕府がこれを利用したにすぎなかった。
中川宮は、伏見宮邦家親王の第四王子で、青蓮院宮、粟田宮、獅子王院宮、賀陽《かや》宮、尹宮《いんのみや》、尊融法親王など、称号がいろいろとかわったが、さいごに久邇宮家を創立して朝彦親王と名のったかたである。
宮は維新史上最大の惑星の一つにかぞえられている。かつては勤皇派にかつがれて活躍、大塔宮|護良《もりなが》親王の再来とまでいわれたが、このころは、日本の国力を考えないでガムシャラに攘夷を強行しようとする長州にたいする反撥から、薩摩との関係が深くなっていたので、勤皇派の人気がガタおちになった。宮は表面に出るよりも、陰で動くことが多く、しかも立場がよくかわるので、「ご英邁なれど、お移り気なり」といわれていた。
たまたま宮が還俗《げんぞく》されて、冠や烏帽子《えぼし》が必要になった。その調製を命じられた職人が、そのヒナ形を見たところ、どことなく帝冠に似ているというので、空おそろしくなり、その少し前、都おちをした三条実美など七卿のあとを追って、長州へ逃げたというウワサが、まことしやかに流布された。
また、ちょうどそのころ、石清水八幡宮の境内にある双樹院の住職で如雲《じようん》というのが、中川宮の使い役をしていた薩摩藩士中村源吾なるもののいいつけで、キジをいけにえに、おだやかならぬ修法《ずほう》をおこなっているという評判が立った。
これが、議奏|正親《おおぎ》町実徳《まちさねのり》の耳にはいり、すておくわけにはいかぬというので、出入りの土佐藩士|北添正佶《きたぞえまさただ》、能勢《のせ》達太郎などを薩摩に関係あるものに仕立てて、如雲を訪問させたところ、うかつにも、如雲はかれらを信用して、中村あての手紙を託した。さっそくこれを開封してみると、
「ぜひ朔日《ついたち》には参殿の心組に候、この節精々ご祈願仕り候こと、内々ご言上下さるべく候」
という文句が見つかった。この朔日≠ニいうのは、てっきり満願の日を意味するにちがいないということになった。そのころ、北添が家族へ出した手紙に、
「畏れ多くも天子を調伏《ちようぶく》(祈り倒す)し奉り、尹宮を位につかせ申す祈願に相違これなく候」
と書いてあるところを見ると、かれらはそう思いこんでいたにちがいない。
そこで、かれらはさっそく双樹院にとってかえし、如雲の首を切りおとした。しかし、警戒厳重で、その首を京都へもってかえることはできなかったから、耳をきりとって、如雲の手紙とともに、正親町家へのみやげとした。このいきさつが、正親町を通じて主上の耳にはいったときいて、能勢は大いに感激し、家族への手紙のなかで、
「さる御方の奸計については、その証拠顕然たりといえども」、あまり恐れ多くて今は書けない。しかし、これに関係したものの姓名は、せんだって、「雲上の御方よりご密奏の節、叡聞《えいぶん》に達し候、実に草莽《そうもう》の身として何とも感激に堪え申さず」と書いている。
これでみると、いかにもこういう事実があったようにも思えるが、これまた勤皇派の念のいった謀略宣伝だったのかもしれない。
当時、京都では、「坊主頭にキンカンのせて、のるかのらぬかのせて見ん」という童謡が流行した。むろん、これは中川宮の陰謀を諷《ふう》したものだ。これにたいして、宮は、
「恐懼《きようく》おくところを知らず、闕下《けつか》に伏し、謝して身の潔白を奏す、『朕《ちん》さらに意とせず、卿、ねがわくば心に介するなかれ』と、宮、天恩の厚きに感泣せり」と伝えられている。
[#小見出し]とばっちりをうけた国学者
非合法運動においては、いつでも、どこでもそうだが、情勢が猛烈になってくると、スパイの潜入する可能性が多くなるとともに、同志間の疑心や指導権争いが強くなり、少しでも理論的なくいちがいができたり、行動の面で怪しいと見られる面が出てくると、さっそく粛清の対象になることが多い。それも大部分は単なるウワサやテマに基づいているのである。
ソ連でも、フルシチョフの時代になって、スターリンに粛清されたものの名誉回復≠ェおこなわれている。同じことが幕末の混乱期に天誅≠うけた人々についてもいえるのであって、のちにその無実が明らかにされ、贈位の恩典に浴したものも多い。
廃帝≠フ問題は塙次郎の天誅′繧ノも尾を引いた。平田篤胤とならび称せられた国学者鈴木|重胤《しげたね》も、塙と同じ理由で、八か月後の文久三年八月十五日、ヤリ玉にあがった。
重胤は淡路の国の出身だが、代々国学者として知られた家に生まれただけに、忠孝の道にあつく、孝明天皇にもしばしば拝謁し、口ぐせのように幕府の専横をいきどおっていた。著書には『日本書紀伝』四百余巻があり、歌学にも精通していた。それが突然、自宅へたずねてきたふたりの武士に、うむをいわせず切りつけられたのである。
翌日、江戸土橋のつじにつぎのような張り紙が出た。
鈴木 重胤
[#この行1字下げ]このもの儀、年来皇国の学を奉じ、口に正名を唱え、御国体をわきまえながら、奸吏《かんり》どもに通じ、正義のものを害せんといたし候段、ふとどき至極につき、昨夜ふみこみ、天誅を加うるものなり
先年、わたくしは共産圏を旅行して、こんな一口話をきいた。ある有力な共産党幹部が党員にたいして、
「君は共産主義のABCも知らぬのか」
としかりつけた。すると、その党員はすかさず、
「共産主義のABC≠ェ二十何年も前に粛清されたことは、あなたもご存じでしょう」
いうまでもなく、『共産主義のABC』という書物は、共産主義の聖典として、世界的に読まれ、もっとも大きな影響力をもったものであるが、その著者ブハーリンは、一九三八年、トロツキーとともに国家顛覆の陰謀をくわだてたという疑いをうけて処刑されてしまった。わたくしは重胤の伝記を読んで、そのことを思い出したのだ。
重胤は、大正八年に正五位を贈られているが、この天誅≠フ下手人は明らかでない。幕吏のしわざとも、平田学派の重胤にたいするねたみから出た殺人だともいわれている。いずれも天誅≠ウわぎに便乗したということになる。ありえないことではない。
廃帝≠フ問題でねらわれていたのが、ほかにもたくさんいた。前田|夏蔭《なつかげ》という国学者もそのひとりであるが、幸いにして難をまぬかれた。幕府の命をうけてエゾ(北海道)開拓に参加し、アイヌ語の地名に、現在用いられているような漢字をあてはめたのは、ほとんど彼の仕事だといわれている。
一説によると、重胤を殺したのは、肥前島原藩士梅村真一郎で、武州の儒者桃井|儀八《ぎはち》が上州赤城山で勤皇の旗上げをしたときに参加したが、失敗して潜伏中、不満のはけ口をここに求めたというわけだ。その足で、彼は、常州府中に出かけた。そこの遊廓で、ちょうど京都からのかえり、筑波山挙兵を画策中の藤田|小四郎《こしろう》に会って、この話をした。藤田は手をうって喜んだが、
「まだ中村|敬輔《けいすけ》がのこっている。だれか、これを殺《や》るものはいないか」
といった。これに応じたのが薄井龍之《うすいたつゆき》と関口隆吉で、ふたりが敬輔の家にのりこみ、いきなり、切りつけようとしたところへ、隣の室から母親がころがり出ていった。
「お疑いのことは、確かな証拠があってのことでしょうか。もしそうだとすれば、人手は借りませぬ。この母が成敗します。らちもない世上の風説をきいておいでになったとすれば、もう一度お調べを願います」
そこで、ふたりの刺客は、なるほどとうなずいて引き揚げた。
薄井はのちに、福島県令三島|通庸《みちつね》の下で腕をふるい、重罪裁判所長になった。関口は後の静岡県知事で、文学博士|新村出《しんむらいずる》、理学博士関口|鯉吉《りきち》の父である。
あとでこの報告をきいて、藤田はいった。
「天誅には問答無益である。ただ断あるのみ。敬輔の母は、江川太郎左衛門《えがわたろうざえもん》の腰元をつとめ、門番と結婚して五十両の金をため、ご家人の株を買って、むすこをあれまで仕上げた女だ。君らを手玉にとるくらいは、へいちゃらだよ」
明治初年の出版界で驚異的なベストセラーとなった『西国立志篇』(スマイルスの『セルフ・ヘルプ』の翻訳)『自出之理』などの著者中村敬宇は、この敬輔のことである。
[#改ページ]
[#中見出し]宙に浮いた大義名分
――生きるために手段を選ばなくなった志士のなかの夾雑物――
[#小見出し]奇怪な浪人部隊の編成
当時の志士≠スちの頭は、尊皇∞攘夷∞討幕≠フ三つの要素によって構成されていたが、そのコンビ、強弱の度合いは、人によってちがっている。また同一の人間においても、重点はときと場合によって移動しているのが普通であった。
マルクス主義の立場に立つ歴史家の解釈によれば、維新の変革も、経済的発展の必然的な過程ということになるが、討幕のために身を挺した人々は、そういうことを意識していたわけではない。かれらの行動の原動力として、もっとも強く作用したものは、外国の侵略にたいする日本の危機感、今のことばでいえばナショナリズムである。現状打破、すなわち幕府を中心とする古い国家体制では、この危機をのりこえることができないというところから、討幕≠ノ重点がおかれるようになったのであって、それまでは、かれらの頭のなかで、尊皇∞攘夷∞討幕≠ェくっついたり、はなれたりしていたのである。
文久三年二月二十一日、足利三代の木像の首きりがおこなわれた前日、幕府で編成した浪人の大部隊が、将軍家茂上京の前ぶれであるとともに、その側面的援護者ということで、江戸から京都に到着しているが、これは実に奇々怪々なる部隊であった。これを組織したのが有名な清河《きよかわ》八郎で、そのなかから新選組≠ニいう奇怪なものが生まれ出たのであるが、実は清河らのためにいっぱいくわされたのは幕府のほうであった。
清河は幕末における有力な佐幕藩の一つにかぞえられている庄内藩の出身で、吉田松陰や大久保|利通《としみち》と同年生まれである。十七歳のとき両親に無断で江戸に出て、剣を千葉周作に、学問を安積艮斎《あさかごんさい》に学んだが、剣のほうは、のちに山岡|鉄舟《てつしゆう》とならび称せられる腕前となった。昌平黌《しようへいこう》(当時の官学)にもはいったけれど、ここはたいてい藩主の命をうけて入学、二、三年でかえって行くものが大部分で、「古来聖堂より大豪傑の出たることさらになし」といって、すぐやめてしまった。
二十五歳のとき、文武修行のため京都、大坂に出て、藤沢|南岳《なんがく》、篠崎|小竹《しようちく》、広瀬|旭荘《きよくそう》、梁川星巌など、当時の有名な学者の門をたたいた。南岳は高松藩の漢学者で、維新の際、同藩が佐幕で固まっていたところへ、帰国してこれをくつがえし、佐幕派の家老ふたりを自決せしめ、その首を鎮撫《ちんぶ》使に提出して許しを乞《こ》うた人物である。作家藤沢|桓夫《たけお》はその孫だ。
それから八郎は、九州各地をまわって長崎に出た。宿の主人の好意で、オランダ屋敷を見ることができたが、オランダ人についてつぎのように書いている。
「蘭人の顔はほとんど猿《さる》に類し、これに近づけば、汚臭犬のごとし。その服するところは美なるも、その食するところ、もとより卑なるが故か」
というわけで、ブドウ酒をすすめられて
「苦酸のむべからず」
といっている。極端な攘夷論者は、すべてこういうことになるのであって、いまの日本人の海外旅行記にも、これに似たものがないではない。
江戸にかえって、同志とともに江戸、横浜の夷人館焼打ちなどを計画していたが、たまたま水戸藩有志との会合のかえり、日本橋で向こうからケンカを売ってきた町人ふうの男を切ったため、江戸におれなくなった。
同志|安積《あさか》五郎とともに、奥州、関西、九州、さらに関西と、各地をまたにかけてとび歩き、中山忠能の嗣子|忠愛《ただなる》、「寺田屋事件」の元兇と見られた田中|河内介《かわちのすけ》、肥後の松村|大成《たいせい》、河上|彦斎《げんさい》、轟武兵衛、宮部鼎蔵、久留米の真木《まき》和泉《いずみ》、筑前の平野|国臣《くにおみ》などと会い、あれこれと画策したが、ことごとく失敗し、またこっそりと江戸に舞いもどった。そのあいだに、逮捕されていた多くの同志を救い出すため、思いついたのだが、幕府の政治総裁松平|慶永《よしなが》(春嶽)への上書である。これは清河が書いて、山岡鉄舟などの手を通じて提出されたもので、大赦の請願であると同時に、浪士をあつめて、幕府のために、働かせることの有利なことを建言したものだ。
当時の幕府は、三条、姉小路の勅使をうけて、攘夷を誓った以上、攘夷論者を罰することは大義名分に反した。それよりも、この機会に、おひざもとで騒ぎ立てる志士≠スちに、いくらかエサをまいて、これを逆用することを考えたのであろう。
井伊直弼の強硬政策が失敗したあとをうけて宥和《ゆうわ》政策に傾いていた幕府は、この上書をうけいれて、八郎の同志たちを釈放するとともに、松平|忠敏《ただよし》を起用して浪人募集に当たらしめた。忠敏は家康の六男松平|忠輝《ただてる》の子孫であるが、忠輝は乱暴者だったので、家康や秀忠にきらわれ、その子孫にいたるまで徳川の一門あつかいをうけていなかったのが、こんどオオカミの番人みたいな役を仰せつかったのである。
困ったのはそれまでお尋ねものだった八郎の待遇である。けっきょく客分≠ニしてあつかうことになったが、忠敏の名で町奉行に出した文書によると、八郎は「有名の英士にて文武兼備、尽忠報国の志厚き者」となつている。
昭和の中ごろ、左翼の転向者が、政府高官の推薦で、愛国者≠ニして満州の国策会社などへ大量に送りこまれたのと似ている。
[#小見出し]不満派が新選組を結成
武士というものは、世襲的な休職軍人である。日本の財政は、農民の収穫の約半分をとりあげたものによって、まかなわれていたが、その九割までが禄≠ニいうものになって、これら休職軍人を養うために費やされていた。しかも武士の多くは、平時においては何もすることがなかった。その平時≠ェ二百何十年もつづいたのだ。
ところが、いよいよ国をあげて攘夷≠断行するという段になり、浪士≠ニいう名の失業武士、血の気の多い農民、都会のならずものなどを狩りあつめねばならなくなったのだから、この一事をもってしても、家康以来の体制はすでに存在理由を失っていることがわかる。
この浪士募集は、二千五百両の予算で、さしあたり試みに、五十人あつめる予定だったのが、ふたをあけてみると、なんど二百数十人もおしよせてきた。そのため松平忠敏は辞表を提出し、前に米使ペリーやハリスの接待役をしていた鵜殿長鋭《うどのながとし》(鳩翁)が、かわって浪士奉行≠ニなり、山岡鉄舟と松岡|萬《つもる》が浪人取締≠ニいう肩書きでこれを助けた。松岡は幕府の鷹匠《たかじよう》だったが、これを起用したところを見ると、浪士も猛禽《もうきん》類の一種と見たのかもしれない。しかし、松岡は明治にはいって大警部となり、明治の大岡越前守≠ニいわれた。
幕府としては、本気で攘夷≠実行するつもりはないので、この浪士群をもてあまし、厄介ものを追い払うような形で京都へ送りこむことになった。編成がおわったのは二月六日で、八日にはすでに江戸を立った。彼らは木曾路を通ったが、清河だけは高ゲタをはいて、隊列から少しはなれて歩いたという。
さて、京都について、壬生《みぶ》の新徳寺を本部としたものの、御所を守護するのか、それとも幕府の京都守護職の配下に属して、勤皇派の公卿や浪人を取り締るのか、目的や任務がはっきりしなかった,そこで清河は、一同をあつめて自分たちはこれから尊皇攘夷のさきがけになるのだと宣言しそのむねを朝廷に上書するのだといって、かねて起草しておいたものを読みあげた。このけんまくに恐れをなしてか隊員の大部分は何がなんだかわからないままに連判状に署名させられた。そして翌朝、六人の代表が学習院に出頭して、この上書を提出した。学習院というのは、公卿の子弟を教育するため、天保十三年京都の御所内に設立されたものであるが、幕末には勤皇派の政治結社のようなものになっていた。
この上書にたいして朝廷からは、これが「上聞に達して叡感《えいかん》ななめならず」という意味のごさたがあった。これを知って驚いたのは幕府である。こういう形で草莽《そうもう》≠フ輩と朝廷とのあいだに意見の直接交換がおこなわれる道がひらけてきてはたいへんだ。そこで到着したばかりの浪人組をすぐまた江戸へおくりかえすことになった。
これに異議を唱えたのが、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨《せりざわかも》などの十三名で、かれらはそのまま京都に残留し、新選組≠ニ称するテロ団体を組織して、守護職の手先となり、勤皇派の志士狩り≠ノ猛威をふるったことは有名である。かれらにしてみれば、ゆくゆくは旗本にでも取り立ててもらうつもりで、応募したのであるが、すっかりあてがはずれたし、江戸にかえっても、清河などに牛耳られていたのでは、うだつがあがらないと思ったのだ。
さて、清河にひきいられた浪士組は、三月二十八日江戸にもどった。まるで上書のために京都へ行ったようなものだ。江戸では本所であき家になっていた旗本屋敷を与えられて、これを本拠としたが、清河は伝通院裏にあった山岡鉄太郎の家の一室を借りて、そこに寝とまりした。
鉄舟は、代々幕府に仕えた槍術家山岡|正視《まさみ》(静山)の妹|英子《ふさこ》の婿で、山岡家をついだものである。正視は、厳冬でも深夜氷を割って水を浴び、日光廟を拝して黙祷をささげたうえで、ヤリのけいこをはじめるといったような、忠実無比の幕臣であった。その弟に高橋|泥舟《でいしゆう》というのがいて、浪士取扱となっていた。鉄舟、泥舟は、勝海舟とともに幕末の三舟≠ニ呼ばれた。泥舟は、山岡家の隣に住んでいた。このような極端な勤幕一家≠ェ、清河のような極端な勤皇派と同居して、浪士組をあやつっていたのだから、考えてみると、まったく妙なものである。
四月十三日、八郎が気のあった同志金子与三郎を、麻布一の橋にたずねてのかえりみち、浪士組の佐々木唯三郎、速見《はやみ》又四郎に出あい、カサをとってあいさつしようとしたところを、うしろから、やはり浪士組の窪田《くぼた》千太郎、中山周助、高久安次郎などに切りつけられた。
どうしてこういうことになったかというと、前に朝廷から浪士代表にくだされた攘夷の勅諚は、山岡を通じて鵜殿にとりあげられてしまったが、清河はうるさくその返還を求めた。幕府としては、こんなものをふりまわされてはたいへんだというので、清河がさいごまで信用していた金子を抱きこんで、清河をおびきよせ、これに刺客をさしむけたのだ。ほんとは清河の立場や行動に矛盾と無理があるのであって、攘夷≠ニ勤皇≠ニは同居できても、討幕≠ニは対立しなければならぬときがきたのだと見るべきであろう。下手人は、すべて講武所の剣客であった。
[#小見出し]横浜放火と黒船襲撃案
清河八郎が殺されたという知らせをきいて、同志の石坂周造がさっそく現場へかけつけてみると、役人が死体を見はっていて、そばへよせつけない。石坂は大声で、
「清河は不倶戴天《ふぐたいてん》の敵だ。せめて死体にでも恨みの一太刀を加えずにおくものか」
と叫んで、一刀を引きぬいてつめよった。役人たちがびっくりしてたじろいだすきに、一寸ばかりくっついていた清河の首を切りとって、死人の羽織に包んだ。
だが、石坂のねらったのは、清河のふところにあった同志の連名帳である。これを手に入れて、首といっしょに、山岡鉄舟のところへとどけた。
石坂は彦根の浪人で、宗順といって医者だった。高橋泥舟の妹で、桂子といって清河と婚約していたのが、清河の死後、石坂と結婚した。
それはさておいて、山岡は清河の首を砂糖づけにして、押し入れにかくしたが、近所をうろついている目明しに、そのにおいをかぎつけられてはたいへんだというので、わざとゴミ箱に入れたけれど、やはりくさい。けっきょく、庭のグミの木の下を深く掘って、そこへ埋めた。あとでこれを伝通院の子院処世院の墓地にうつし、清河の愛人のお蓮《れん》とならべて埋め、比翼塚が建てられた。
お蓮は羽前《うぜん》(現山形県の一部)の医者の娘だったが、たちの悪い養父のため、鶴岡の娼家《しようか》に売られた。それが清河にうけだされ、江戸にきて同居していたが、清河が行くえをくらましたあと、幕吏に捕えられて獄死したのである。清河が死の直前、郷里の母に送った手紙の中で、
「私の本妻同様に思召し、おたむけのほどひとえに願上げ申し候」
と書いている。蓮≠ニいう名は彼のつけたもので、泥中のハチス≠ニいう意味である。
清河が殺される前、浪士組の総数は五百名に達していた。清河らが京都のほうに行ったあとにも、新加盟者があったのだ。
清河は鉄舟、泥舟を説得し、このふたりを通じて老中板倉|勝静《かつきよ》に攘夷をせまったが、もともと幕府にこれをおこなう意思のないことは、はじめからわかっている。逆に、浪士組のなかでも幕府派に属する連中は、清河を討幕派と見て、その処分を板倉に建言した。
このままでいくと、幕府につかまって処刑されるほかはないと見てとった清河らは、自分だけで攘夷断行にとりかかった。
かれらの立てた計画というのは、まず横浜に行って市街に放火し、そのドサクサに乗じて外人を切り、港にとまっている黒船を焼き、神奈川にあった幕府の出張所を襲撃して、金や食糧をうばい、それから厚木街道を通って甲州にむかい、甲府をおとしいれてここを本拠とし、勤皇攘夷の旗上げをして、全国から同志をつのり、勅旨を実行したことを朝廷に報告して、それからさきは、朝廷の指揮をうけようというのであった。
これには、相当まとまった資金が必要である。制服として、まず、そろいの赤い陣羽織をつくることにしたが、それだけでも千五百両はかかる。その金を手に入れる方法について協議した結果、外人を相手にして不浄の金をもうけている奸商《かんしよう》とか、禄米を担保に武士に金を貸しつけて、高利をむさぼっている蔵前の札差《ふださし》などをおどかして、金をまきあげてもさしつかえあるまいということになった。
このグループのひとり、草野剛三の自伝によると、さっそくこれを実行して一夜に約一万両を手に入れた。そのあと、さらに、いつでも求めに応じて献金するという承諾書をとって歩いたが、その予約金額が二万両ないし三万両に達した、と書いている。
こういった情報が幕府側に達しないはずがない。といって、相手が相手だけに、かれらを検挙したり、解散を命じたりすれば、どんな事態が発生しないとも限らない。そこで考えついたのが、毒をもって毒を制することである。これは小栗上《おぐりこうずけ》野介《のすけ》の案だというが、幕府は別に、ならずものの親分|神戸《かんべ》六郎、朽葉《くちば》新吉に命じ、その子分を大勢動員して、思いきって乱暴なことをさせ、それはすべて浪士組のしたことにして宣伝し、世論をあおり立てて、浪士組の処罰、もしくは解散の口実にしようというわけだ。一例をあげると、当時両国の広小路にゾウのみせものが出ていたが、そこへかれらはおしかけて行って、ゾウの鼻を切らせろといったような難題をふっかけ、興行主から金をゆすって、一同吉原へくりこんだという。
この対策について考えた清河は、神戸や朽葉らをつかまえ、浪士組の本部へ引っぱってきて、小栗にたのまれてやったという口述書をとり、血判をおさせた。これをもって浪士取締の高橋泥舟が幕府にねじこんだ。幕府はろうばいしてかれらの引き渡しを要求したが、清河は先手をうって、神戸、朽葉を切り、その首に罪状書をつけて両国広小路にさらした。
その晩、清河は部下をひきいて小栗邸に夜襲をかける計画をたてていたが、その直前に殺されてしまったのだ。
[#小見出し]幕府も討幕派も大混乱
社会が非常事態に直面したさい、治安維持の責任ある立場にたつものが、ときに非常手段をとるというよりも、反間苦肉の策に出る例が珍しくない。一説によると、大正十二年の関東大震災に、朝鮮人暴動≠フデマが、内務省関係から計画的に流布されたともいわれている。これによって、一般大衆のあいだに、より大きな治安破壊の動きが発生するのを防止しようというわけで、フランス革命のときなどにもよく用いられた手だ。
また、治安維持という名目のもとに、憲兵や警察の手で、テロがおこなわれるばあいもありうる。やはり関東大震災のさい、甘粕《あまかす》憲兵大尉によって無政府主義者|大杉栄《おおすぎさかえ》夫妻が殺され、亀戸警察署では十数人の社会主義者が殺された。もっとも、甘粕のばあいは、下手人は彼の部下の下士官で、これを命じたものは明らかにされていないが、甘粕がその罪を背負って刑に服したというのが真相のようだ。徳川時代には家老が藩主の身がわりになって切腹するケースが多かったが、それと同じである。
清河が殺されたあと、浪人奉行鵜殿長鋭は取締り不行届きということで罷免された。鉄舟と泥舟は閉居謹慎、石坂周造以下の勤皇派は、奉行所で取り調べの上、出身藩に預けられて禁錮刑に処せられた。釈放されたのは明治になってからである。
維新のさい、鉄舟は勝海舟とともに、官軍と幕府のあいだをあっせんし、西郷隆盛を説いて江戸を戦火から救ったことは有名で、のちに明恰天皇の侍従となって子爵を授けられたが、泥舟のほうは世に出なかった。明治政府に仕えて枢密顧問官となり、伯爵を授かった海舟については改めていうまでもない。こういうふうに見てくると、かつては幕末の三舟≠ニいわれて同じような条件のもとにあったものでも、その後の生きかたが、ずいぶんちがっていることがわかる。
これはずっとあとのことで、清河なきあとの浪士組は、大整理がおこなわれて、その性格がすっかりかわり、名も新徴組≠ニ改められた。そして皮肉にも清河の出身地である庄内藩主酒井|繁之丞《しげのじよう》の指揮下におかれ、取締りには松平忠敏と中条金之助が任命された。忠敏は浪士組ができたときに、その責任者となってすぐやめさせられた人物だ。
清河暗殺の功労者として、佐々本唯三郎は千石、速見又四郎は五百石、以下それぞれ恩賞にあずかった。新徴組≠フ隊員も約二百名に減らされて、幕府のもとで立身出世を望むものか、あるいはこれで生活の保証を求めるものだけがのこり、名実ともに幕府御用のテロ団体となった。
また清河を裏切って、彼をおびき出すことに一役買った金子与三郎は、清河の弟の斎藤熊三郎から兄の仇としてねらわれて逃げまわっていたが、慶応三年十二月、薩摩藩邸焼き打ちのさい、流れ弾にあたって死んだ。
清河一派が幕府の給与をうけながら、ひそかに幕府を倒す運動を展開しようとしたり、富豪をおどかして軍資金をあつめたりする一方、幕府側でも、小栗上野介がならずものを雇って乱暴を働かせてその罪を浪士組におっかぶせるというような苦肉の策を講じたりしたのは、もしこれが事実だとすれば、どっちも目的のために手段を選ばないもので、討幕運動も、これをうけて立つ幕府の対策も、すでに末期的段階にはいっていたことを示しているにはちがいないのであるが、その忠誠心が互いに交錯し、矛盾し、ときには混乱状態におちいっていたのである。
清河派で逮捕をまぬかれたものは、中山忠光らの「天誅組」、平野国臣らの「生野の変」、藤田小四郎らの「筑波山の挙兵」などに参加した。
清河はなくなったとき三十三歳だったが、四年後に高杉晋作は二十八歳でなくなっている。いずれも幕末の生んだ変わりダネであるが、明治まで生きのこっていたならば、高杉よりは清河のほうが大をなし、東北を代表するただ一人の元勲≠ノなりえたかもしれない。
清河が死んで六年たった明治二年十一月、坊城俊章《ぼうじようとしあき》が巡察使として東北巡行のみぎり、八郎の実父斎藤治兵衛は、つぎのようなことばを受けている。
[#この行1字下げ]「その方|伜《せがれ》八郎儀、王綱紐を解き(政治が乱れる意)、武門権を弄するときにあたって、よく身を回天に奮い、節を匪躬《ひきゆう》(忠義をつくす)にいたし、ついに中途に命をおとすにいたる。その志実に可憐、今般王政新たに復し、首として表忠旗烈(忠烈を表彰する)の典をあげさせら候折柄、巡察として当地を巡歴いたし候につき、とりあえず祭祀料として金二千匹下賜候事」
「金二千匹」というのは五円のことである。金額はそれでいいとして、この文章は当時の官民間の距離の大きさを物語っている。坊城は明治四年山形県知事となり、伯爵を授かった。
巡察使というのは、中国唐代の官職で、その報告にもとづき地方官に賞罰を加えたものである。明治の新政府も、この肩書きで、皇化に浴することのうすかった奥羽、北陸地方に公卿を送って、新政府のデモやPRの役割りを果たさせたのであるが、短期間で廃止された。
[#小見出し]ズレてきた大義名分
「堂上家おおむね薄禄《はくろく》なるをもって、すこぶる窮乏をきわめ、中には職業を営みて、生計に資するものあり、この輩つねに幕吏のゆたかなるを妬《ねた》みつつありしに、攘夷の論おこりしより、幕府の処置、当を失するものあるをもって、浮浪の徒、これに入説|煽動《せんどう》して、物議の紛擾《ふんじよう》をきわむるにいたる」
これは京都取締りの任にあった会津藩の公卿観である。さらに、勤皇の志士≠スちも、会津藩の目から見れば浮浪の徒≠ニいうことになる。
「商家に乱入して、金銀を掠奪《りやくだつ》するなど,大凡《おおよそ》日に二三、かくのごとき訴えなきはあらず、ここにいたりて、彼徒の兇暴その極に達し、口を尊皇攘夷にかりて、実は酒色の資に賊をなすもの比々これなり」
清河八郎が江戸で浪士組をつくったときに、野心家やならずものや食いつめものがこれに加わった。勤皇≠ナも佐幕≠ナもどっちでもいいというのが多かったことは前にのべたが、当時京都にあつまってきた志士≠スちのなかにも、いかがわしい夾雑物がはいりこんでいたことは明らかである。はじめは純真な気持ちから京都に出てきて国事に奔走≠オようとしたものでも、大義名分に名を借りて、実は生きるためには手段を選ばぬものが出てくる。数が多くなれば同一陣営のなかでも、ホンモノとニセモノの区別がつきかねるとともに、正反対の立場に立っていても、やっていることは大してちがいはないということになる。共通している点は自他の生命軽視、テロリズムヘの異常な情熱だけが、波がしらのようになってあらわれてくるのである。
天誅≠焉Aはじめは純然たる尊皇攘夷の大義名分から発していたのが、のちには金銭問題のからんでくる度合いが多くなってくる。先年わたくしは、スターリンの郷里グルジャのトビリシという町を訪れたが、そこで地下運動をしていた若いころのスターリンが、銀行を襲撃して巨額の金をうばったという話をきいた。日本でも、左翼運動が非合法化して、資金網をたたれたときには、銀行ギャング≠ネどというものがあらわれたこともある。
文久三年七月二十五日、大藤幽叟《おおふじゆうそう》なるものが天誅≠うけて、その首が京都の三条にさらされたが、このケースはこれまでのと少しかわっている。彼は「備中国吉備津前神主大藤下総守」という名義で、大阪、堺、神戸の豪商たちに、つぎのような書状を送って献金を求めた。
「攘夷決行は五月十日ときまったが、なんどき各国が申し合わせて大挙してやってくるかもしれないので、朝廷は日夜|宸襟《しんきん》を安んぜられないし、幕府は兵備を急いでいる。
最大の急務は、摂津の海の防衛である。ここで戦争がおこり、万一夷人が上陸するようなことにでもなれば、四民ことごとく身命をなげうって抗戦することであろうが、皇国の安危はまさにここにかかっている。あとでホゾをかむようなことがあってはならないと、その防衛について当局にしばしば建白しているのだが、何分守備範囲が広く、これに要する金の調達もたいへんだと考え、富裕な方々に呼びかけて、その周旋をしたいと申し入れたところ、奇特なことだというわけで、ご威光をふりまわすようなことなく、個人として募金することは差しつかえないということになった。ついては、貴下のご高名はかねて承っているので、一度お目にかかってご協力をお願いしたい」
と結んでいる。
彼のプランは、淡路から由良にかけて、日本の船の通路だけをのこし、あとはすっかり閉鎖しようというのであって、とてつもない大規模のものである。したがって、巨額の金を要するが、それだけその効果も大きい。むろん、提供した金額に応じて恩賞のあることはいうまでもない。誠忠を当局や天下に示すには絶好のチャンスで、このさい、大いに奮発してもらいたい、というわけだ。
こうしてあつめた金を着服したというので、ヤリ玉にあがったのであるが、下手人はよくわからない。この募金運動は、老中板倉|周防守《すおうのかみ》、同水野|和泉守《いずみのかみ》(忠精《ただやす》)の許可をうけたし、本人の身もとについて疑わしい点があれば、安井|九兵衛《くへい》に問いあわせてくれともいっている。安井九兵衛というのは、大坂の道頓《どうとん》堀を開いた安井道頓の従弟で、この事業を完成したものであるが、初代九兵衛は寛文三年(一六六三年)に八十三歳でなくなってから、ここに登場する九兵衛はそのなん代目かで大阪の名門、代々南組総年寄りの地位にあった。
大藤幽叟は、ほんとの名は小原祐乗《おはらゆうじよう》といって、もと東本願寺の用人だったともいわれ、身もとは不明である。僧侶から神主に転向したりするところを見ると、山師性をおびた才人で、時局便乗の詐欺師だったのかもしれない。
同じころ、西本願寺の用人松井|中務《なかつかさ》も天誅≠ノあっている。もともと彼は勤皇派だったが、松平春嶽が京都守護職として上京してきたとき、本願寺境内にその宿を提供したというので、ねらわれたのだ。
[#小見出し]猛威ふるう新選組
近ごろ、警察の無能、無力がよく話題になるが、社会にとってそれよりも危険なことは、現存する警察の無能、無力を口実にして、もう一つの警察≠ェつくられたり、発生したりすることである。戦時中の憲兵は、もう一つの警察≠ニいうよりも、警察の上の警察≠ニもいうべき存在となって、取締りの対象を軍隊の外にまでひろげてきたが、戦後の日本には、警察力の真空地帯ができて、銀座警察≠ニか渋谷警察≠ニか呼ばれた暴力組織がその穴を埋めた時期があった。
幕末、勤皇派の天誅≠ェ猛威をふるったのは、幕府の手にあった警察力の無能、無力に乗じたものである。これに反して近藤勇、芹沢鴨、土方歳三などのひきいる「新選粗」は、明らかにもう一つの警察≠ナある。こうなると、相互のあいだに勢力争いがおこるのは当然で、警察の多元化は、治安を維持するよりは、これをみだすことに拍車を加えるだけである。幕府は清河八郎の建言で浪士組をつくり、飼い犬に手をかまれたような結果を招いたが、さらに「新選組」をつくることによって、奉行、与力を主体とするこれまでの警察制度を崩壊にみちびき、幕府を中心とする社会組織そのものの解体を促進することになったのである。
天誅≠ニいう名のテロをはじめたのは明らかに勤皇派で、その舞台もはじめは主として江戸や京都であったが、のちにはそれが大坂のほうにうつってきた。江戸はなんといっても将軍のおひざもとだし、京都には所司代、守護職、見廻組のほかに「新選組」ができ、取締りが強化され、その三重、四重の網の目をくぐることがむずかしくなったからだ。
そこで勤皇派の一部が大坂に移動し、藩邸などを根城にして、さまざまな陰謀をたくらむにいたった。こういうことに不慣れな町奉行の手におえないというので、「新選組」というもう一つの警察≠ェ大坂へ出張することになったが、これはヒツジ群のなかヘオオカミを放ったような結果を招いた。
文久三年七月十五日、芹沢鴨以下八名の隊士が夕涼みに出て、何か事あれかしと思いながら、ブラブラ歩いていると、向こうから大きな力士がひとりやってきた。芹沢が例によって高飛車に、
「おい、片よれ」
というと、力士のほうでも、
「片よれとはなんだ」
と、くってかかった。その瞬間、芹沢の刀がさっとサヤをはなれて、力士の大きな図体がもんどりうって倒れた。
そのあと、芹沢らが北の新地の住吉楼というのに登ってのんでいるところへ、相撲部屋の力士たちが、仇討ちだといって、大勢でおしかけてきた。しかし、腕じまんの「新選組」隊士を向こうにまわして、力士が八角棒をふりまわして勝てるものではない。隊士側にもいくらか負傷者が出たが、力士側では、即死五名、重軽傷十六名を出した。
いくら「新選組」でも、これだけの大事件をおこして、ほおかむりで通すわけにはいかないので、大阪西町奉行松平|大隅守《おおすみのかみ》(信敏)へ、近藤勇が隊を代表して届け出た。力士が無礼を働いたから切りすてたというわけだ。
奉行所でこの事件をあつかったのが与力の内山彦次郎である。内山は天保八年大塩平八郎が乱をおこしたとき、大いに活躍したという男で、ハラができていた。前後の事情を取り調べようとすると、近藤は、
「われわれは守護職の支配に属するもので、与力輩から取り調べをうける身分ではない」
とつっぱねて、さっさと引きあげた。
その翌年、五月二十日の夜十時ごろ、役所を退いた内山がカゴにのって天神橋にさしかかると、突然、両側から五人の刺客がおそいかかった。古今東西を問わず、暗殺は橋のたもとや道の曲がりかどでおこなわれることが多い。第一次大戦の発火点となったオーストリア皇太子夫妻暗殺の場所は、サラエボ(元ボスニア・ヘルツェゴビナの首都、現ユーゴ領)の橋のたもとだったし、ナチス占領下のチェコ総督ラインハルト・ハイドリッヒが手投げ弾で殺されたところは、チェコのプラハの広い道路の曲がりかどだった。こういう地点は、見通しがきくから、暗殺には都合がいいわけだ。
内山の場合は、下手人のひとり永倉新八がのちに語ったところによると、最初の一撃を加えたのは土方歳三で、首をハネたのは近藤勇だった。折りから、提灯をさげた人影の近づいてくるのが目についたので、近藤はさっそく「天下の義士これを誅す」と走り書きして、これを死体の上にのせ、一同その場を立ち去ったという。
内山が殺された理由としては、幕吏でいて勤皇派の手先になったということ、米価をつりあげたり、灯油の買い占めをしたことなどがあげられているが、おそらくこれはコジツケで、力士事件に端を発した対立感情に基づいていると見るべきであろう。それにしても、経済犯が暗殺の口実になっているということは、当時の経済情勢の悪化を物語るものである。
[#小見出し]押し借り≠ナ資金集め
近藤勇のひきいる「新選組」と、中山忠光を盟主に頂く「天誅組」は、いずれも文久三年同じ社会情勢を背景に生まれたものだけに、立場は逆で、佐幕と勤皇の両極を示したものであるが、その性格や行動に相通じる点がないでもない。
清河八郎らが江戸へ引きあげたあと、京都に残留した十三人が、
「恐れながら城外夜廻りなどのご警衛御命じ下され候わば、ありがたき仕合せにご座候」
という嘆願書を守護職に出したのは、この年三月十三日のことである。これが即日ききとどけられ、一同「会津侯お預かり」ということになって、その身分と生活がいちおう保証された。当時二十八歳の若さで守護職という重要な地位にあった松平容保は、勤皇派の傍若無人のふるまいに手を焼いて、これに対抗しうる強力な集団をいかに求めていたかがわかる。大正八年十月、原内閣の内相|床次《とこなみ》竹二郎のキモいりで、全国的にもりあがってきた労働運動に対抗するため、関東、関西のヤクザの親分を総動員し、杉浦|重剛《しげたか》を名づけ親にして結成された「大日本国粋会」を思わせる。
洛外壬生村の郷士の家を借りて「壬生浪士屯所」の看板をかかげたものの、容保の機密費から出るお手当てでは、思うように酒ものめなかった。芹沢鴨、近藤勇、新見錦《にいみにしき》の三人が局長≠ニなり、一種の集団指導制をとっていたが、当時近藤が郷里の実兄などに、五両送ってくれという無心の手紙を出しているところを見ても、かれらのふところぐあいがわかる。
隊士はふえる一方で、どうにもやりくりがつかなくなった。そこで局長筆頭の芹沢が、隊士七名を引きつれて、大阪の鴻池《こうのいけ》本家におしかけ、二百両を借り出した。いわゆる押し借り≠セ。
これでさっそく「新選組」の制服をつくろうというわけで、大丸呉服店を呼びつけて、そろいの麻の羽織、紋付きのひとえ、小倉のはかまを注文した。とくに、羽織は、浅黄地の袖《そで》にダンダラ染めという派手なものにした。服装の上でも威嚇《いかく》的な効果を発揮しようというわけだ。
あとでこれを知った容保は、こんなことをされては守護職の威厳にかかわるというので、手もと金二百両を支出し、鴻池家に返済させた。それやこれやで、「新選組」の評判はますます高くなった。
同じ年の八月十四日、勤皇左派の藤本鉄石、吉村寅太郎、松本|奎堂《けいどう》などが、十八歳の中山忠光を頂いて、洛東方広寺で討幕の旗上げをした。この寺は、家康が豊臣家を滅ぼす口実とした国家安康≠フ銘のはいった鐘のあったところだ。この挙兵に要する資金獲得のため、その前月の二十四日、「新選組」の芹沢、近藤以下が大坂に出張している留守に、仏光寺高倉の油商八幡屋卯兵衛を千本西野につれ出し、首を切って三条の橋のたもとにさらした。暴利をむさぼった奸商の代表として、これに天誅≠加えるというのだが、そのときの斬奸状には、八幡屋ばかりでなく、
「大和屋庄兵衛及び外両三名の巨商も、同罪たれば今日|梟《きよう》すべし」
と書いてあった。ひとりをヤリ玉にあげれば、他の同類は恐れをなして、自発的に献金するこをねらったものだ。驚いた大和屋は、八方手をつくして勤皇派にコネのある人間をさがしたあげく、醍醐家の臣で薬屋をしている板倉|筑前介《ちくぜんのすけ》というのが、勤皇派に顔が売れていることを知り、その手を通じて朝廷に一万両、天誅≠フほうにも、相当まとまった金を差し出して、ことなきをえた。
このことを耳にはさんだ芹沢は、八月十三日、隊士数名をひきつれて、葭屋町一条通りの大和屋にのりこんで、隊費を貸してくれと強談におよんだ。大和屋では、主人が旅行中だといってことわったところ、芹沢は隊の大砲をもち出して、大和屋の土蔵にうちこんだ。土蔵はかんたんに燃えなかったが、近くの建て物に火がついて、半鐘が鳴り、火消し役がかけつけた。
ところが、現場には「新選組」隊士が刀をぬいて監視していて、消火を許さず、芹沢は屋根の上で快哉を叫びながら隊士を指揮した。翌日の午後四時ごろまでかかって、土蔵をめちゃめちゃにこわした上、壬生《みぶ》に引き揚げた。焼跡には、つぎのような立て札がたてられた。
「当家の主人は大奸物なり、諸民の困難をいとわず、利欲にふけり、外国と交易なす、大罪人の所有物焼払うべし、これ天命なり」
外国貿易に反対していたのは勤皇派だから、これも勤皇派のしわざに見せかけようとしたのであろう。外観はどっちにしても大してちがいはなかった。
[#小見出し]ニヒリズムの代表芹沢鴨
オールド・ファンにはなつかしい映画のひとつに、イバニエス原作、バレンチノ主演の「血と砂」がある。このなかで主人公の闘牛士が、牛の角にひっかけられて死ぬ直前幼友だちの山賊にむかって、
「貧しい家に育ったものが、いっきょに富と栄誉を獲得するには、闘牛士か山賊にでもなるほかはない。どっちも命がけの商売だ」
というセリフがある。アメリカの西部劇もこれと同じで、いわば生命の危機がスポーツ化されたものである。そこから発生するスリルが多くのファンを吸収するのだ。日本の時代劇、とくに剣劇と名づけられているものがこれに相当する。その剣劇のなかでも「新選組」をあつかったものが最大のドル箱となっていて、むしかえし製作されている。平和憲法≠フもとにおいても、この魅力はおとろえないらしい。
今のプロ野球、相撲、プロレス、プロボクシンクなども、同じような魅力に基づいている。これらは、別に生命そのものの危険をともなうわけではないが、一度致命的な負傷でもすれば、この種の職業人としては殺されたも同然である。そのかわり、その世界のトップ・クラスになると、とてつもない収入が得られる。
「新選組」の場合も、月々の手当てが、局長は五十両、以下四十両、三十両となっていた。この時代の一両は、だいたい今の一万円に相当する。
明治以後、「新選組」といえば、幕府御用の殺し屋≠ニいうことになっていた。維新の元勲たちの同類の多くが、かれらの手にかかり、王政復古を見ないで死んでいったからだ。
しかし、「新選組」にたいする別な観点からの批判もないわけではない。元東大総長、男爵山川健次郎博士の説によれば「新選組」は守護職の命をうけて行動した適法の警察隊であって、かれらが治安維持のためにとった処置を見て暴力団あつかいするのはまちがいだというわけだ。
近藤勇についても、戦後は新しい評価がなされている。ただ立身出世だけが目的で、幕府に奉仕したのではないとか、経済観念も発達していて、彼の郷里の武州調布に良種のクリのタネをまかせたところ、のちにこれがこの地方の名産になったとか、いったたぐいである。
農家の三男に生まれて、あれだけの武芸を身につけ、三百人もの無法者を統率する力を示したのを見ると、非凡な人物であったことは明らかである。薩摩や長州のような雄藩に属していたならば、もっと大きな仕事をしたにちがいない。こういうボルテージの高い人物を既存の組織が吸収して、その能力を正しい形で発揮させることができなかったということは、すでにこの組織の存在理由が失われていたことを意味するものだ。
「新選組」の基本的性格とみられる兇暴性は、一種のニヒリズム(虚無思想)から出ていると思うが、この面を代表しているのが芹沢鴨である。
芹沢は、本名を本村|継次《つぐじ》といって、水戸の浪士で、しかも熱烈な尊皇攘夷論者として、烈公・徳川斉昭に深く傾倒していたものだ。それが幕府のイヌ≠ニののしられる立場に身をおくことになったのだから、いわば転向者である。本来、暴力的なことの好きな男であったようだが、これまでの生活をささえてきた信念を失うとともに、いよいよ自暴自棄となり、無軌道な面が強く出てきたのであろう。「新選組」が結成されたとき、芹沢は局長≠フ筆頭で、近藤勇の上に立っていた。経歴と武芸がものをいったのである。近藤は、のちに真剣勝負で恐るべき実力を発揮したが、試合では神道無念流の免許皆伝という芹沢にはかなわなかったらしい。
芹沢が鴻池から二百両ゆすりとった話は前に書いたが、その前、彼は、島原の角屋で大あばれにあばれている。客あしらいが悪いといって、尽忠報国≠フ大鉄扇をふりまわし、出された料理を手当たり次第に投げとばし、二階のランカンを引きぬき、酒ダルをわり、料理場の器物を片っぱしからぶちこわした。おまけに、「新選組」の名において、
「角屋徳右衛門ふらちの所為あるにつき、七日間謹慎申しつける」
といいわたした。営業停止だ。
さらに、芹沢は四条堀川の太物問屋菱屋の女房お梅を見染め、部下に命じて彼女を誘拐させ、壬生の本営で同居するにいたった。そこへもってきて、前にのべた大和屋の土蔵ぶちこわし事件がおこった。
これでは、山川博士のいう適法の警察隊≠ヌころではない。完全な暴力団であり、治安の破壊者である。毒をもって毒を制する建て前の守護職も、芹沢にはすっかり手を焼いて、ひそかに処分せよと近藤らに命じた。
長州派の勢力を一掃した八月十八日のクーデターでは、芹沢も大いに活躍したが、それからちょうど一月後に、彼は壬生の本営で死体となっていた。さいごは「血と砂」の主人公と大してかわりがない点で、のちに官軍につかまって板橋で切られた近藤の場合も同じである。
[#小見出し]幕府にかかえられた象山
「新選組」では、芹沢鴨が殺される少し前、芹沢と同じく水戸出身で局長≠フひとりだった新見錦が、祇園の妓楼で近藤勇派のために詰め腹を切らされている。隊費と称して金をゆすって歩いたり、隊務を怠って遊興にふけったりしたのが、隊規≠ノ反するというのだ。しかし口実はなんとでもつく。芹沢のひきいる水戸派を一掃し、近藤が総長≠ニして独裁制を確立することが目的だったことは、このあと、のこった准水戸派の伊東甲子太郎《いとうかしたろう》(きねたろうともいう)、近藤の腹心の土方歳三や沖田総司《おきたそうじ》と対立した山南敬助《やまなみけいすけ》など反近藤派とみなされた幹部が、つぎつぎに粛清されていったのを見ても明らかである。
この粛清の過程は、規模は小さいが、スターリンの場合とよく似ている。権力と粛清は切りはなすことのできないものらしい。
ところで、「新選組」活躍のクライマックスは、なんといっても、元治元年六月五日の「池田屋乱闘」であるが、その翌月の十一日に佐久間象山《さくましようざん》が勤皇派の手にかかって京都で殺されている。
象山≠フよみかたは、古くからぞうざん#hとしょうざん#hにわかれている。象山という号をつかい出したのは、天保七年正月江戸から松代にかえってからであるが、彼の家の近くに、象山恵明寺という黄檗宗《おうばくしゆう》の寺があって、そこからとったものとすれば、ぞうざん≠ナある。しかし必ずしもその通りよむ必要がない。学者の号は漢音でよむのが普通だし、現に彼の門人などもしょうざん≠ニいっている。
おそらく象山の生きているときから両方のよみかたがなされていたと思うが、彼自身はどちらでもいいと思っていたか、それともわざと世間をまどわせておもしろがっていたか、どっちかであろう。とにかく象山という男は、たしかにまれにみる天才ではあったが、ハッタリやケレンも多かった。ガラス、石灰、ブドウ酒などから、速射砲、電信機、カメラまで独力でつくり出し、横須賀にアメリカ兵が上陸してきたときに、手製のカメラをむけて、かれらを驚かしたという。ブタも飼ったし、ニンジンも栽培した。琴はひくし、端唄《はうた》もうまかった。勝海舟の妹と結婚したが、女道楽はやめなかった。梁川星巌がなくなってから五日めに、その未亡人にむかって、「妾を世話してくれ」と頼んだという話は有名である。
松代に近い滋野というところは、不世出の強剛力士|雷電為《らいでんため》右衛門《えもん》の出生地で、そこに象山の書いた記念碑が立っている。この碑はわたくしも行ってみたが、これができたときに、雷電のノボリをつくることになり、象山のところへ、三反の布をもってたのみにきた。すると象山は自分でさらに二反買い足して、バカでかいノボリをつくり、悦に入っていたという。彼にはこういう稚気があった。
象山のもっとも得意とするところは兵学で、
「おれの兵学は、高島秋帆《たかしましゆうはん》や江川太郎左衛門から教わったものではない。西洋直伝で、日本一である」
と威張っていた。実は長崎の通詞|吉尾作之丞《よしおさくのじよう》から、新しくはいったオランダの兵書を手に入れて、大切にしまいこんで誰にも見せず、これをタネにして、ふきまくっていたのだと、山路愛山《やまじあいざん》がその著『勝海舟』のなかで書いている。これは明治以後今にいたるまで、日本の学者の多くがつかってきた手で、象山はそのせんべんをつけたにすぎない。
吉田松陰の密航事件に連坐して、謹慎を命ぜられた象山は、九年後の文久二年十二月になって、やっとゆるされた。これをきいて、長州から山県半蔵(のちの子爵|宍戸※[#「王+幾」、unicode74a3]《ししどたまき》)と久坂玄瑞、土佐から衣斐小平《いびこへい》と原四郎が、いずれも藩政の顧問として迎えるべく、わざわざ松代までやってきたが、藩主は象山を手放そうとしなかった。
このとき、土佐の中岡慎太郎も久坂についてきて、象山に会った。久坂も中岡も熱烈な攘夷論者だったが、象山の開国論をきいているうちに、すっかり感心し、かえりがけには、
「象山先生の話をきいていると、頭のシコリがとれて、持病の脳病がすっかりなおったような気がする」
といったという。それでいて、ふたりとも攘夷論をすてなかったところを見ると、かれらを動かしているものは、理論でないことが明らかである。
このあと、朝廷から伝奏|飛鳥《あすか》井雅典《いまさのり》の名でお召しあがり、幕府からも至急上京せよという命令が出た。そこで象山が銃手、用人など十六名をしたがえて、愛馬「江月」にまたがり、京都についたのは元治元年三月十七日である。さっそく、おりから上洛中の将軍家茂や慶喜に謁見《えつけん》、海軍御備向御用雇という職名のもとに、禄四百石を給せられた。かつての共産党幹部が、たちまち海軍省の高級嘱託になったようなもので、これが勤皇の志士たちを憤激させた。
[#小見出し]真昼間の暗殺
元治元年七月十一日といえば、維新の変革における大きなピークのひとつとなった「蛤《はまぐり》御門の変」の一週間前である。長州藩の家老|福原越後《ふくはらえちご》、国司《くにし》信濃《しなの》、益田|右衛門介《うえもんのすけ》が兵をひきいて上京する一方、「池田屋事件」で勤皇派の陰謀の根が深く、そのうしろに長州藩のひかえていることを知った幕府は、いっきょにこれをたたきつぶそうと待ちかまえていた。
こういったけわしい空気のなかで、佐久間象山は、山階宮《やましなのみや》(晃《あきら》親王、中川宮の兄)を訪れてのかえりみち、三条通木屋町までやってきた。そのときの服装は、白チヂミのひとえに紺縞《こんじま》のハカマ、黒絽《くろろ》の肩衣《かたぎぬ》、白柄《しらつか》の太刀をさして、馬には西洋式の馬具をつけていた。もともと彼は背が高く、顔の造作も大きくて、人目につきやすい上に、ふだんでもドンスのハオリに古代錦のハカマといったような服装をしていたというが、全国から勤皇派の志士がワンサとあつまっているところにきて、こういう姿で出歩いたのだから、かれらに挑戦しているようなものだ。
通行人のなかから、ふたりの刺客がとび出して切りつけた。傷は浅かったが、馬は驚いて棒立ちになった。追いすがった刺客のひとりが、馬に一太刀あびせると、象山はもんどりうって落馬した。そこへさらに数人の刺客がかけつけて、めった切りにした。そのあと、刺客は、祇園(八坂)神社の境内にはいり、そこで斬奸状をしたためて社前に掲示し、ゆうゆうと立ち去った。真昼間のできごとだ。
この事件の少し前、西郷吉之助と高崎|猪太郎《いたろう》(五六と改め、東京府知事・男爵となった)が、島津久光の命をうけて象山に会い、薩摩藩に身をよせることをすすめた。のちに高崎が述懐したところによると、当時の京都で大っぴらに開国論を唱え、異様な服装で出歩くのは危険この上もないから、鹿児島にでも行って、しばらく天下の形勢をながめていたほうがよくはないかといったところ、象山は答えた。
「正直にいうと、じつは逆の手をうっているのだ。かくしだてをすると、かえって危険だから、すべて大っぴらにやってのけて、それでわざわいをまぬがれようというわけだ」
「だが、今の暴れもの相手では、その手は通用しませんよ」
「ご忠告はありがたいが、回天の大事業というのは、英雄豪傑の百や二百が埋め草にならないとできるものではない。わたくしはその覚悟だから、心配してくださるな」
「それにしても、用心されるにこしたことはありませんよ」
ということで、かれらはわかれたという。この問答のなかに、象山の性格や人柄がよくあらわれている。
当時、京都では、朝廷をめぐって勤皇、佐幕の両勢力が、文字通りにツバぜりあいを演じていた。将軍後見役の一橋慶喜は京都にのりこみ、禁裡御守衛総督≠ニいう肩書きで、守護職松平容保などを督励し、御所警護の任にあったが、その実、天皇を勤皇派の手にわたすまいとしていたのだ。そこへ象山があらわれて、幕府の肩をもって開国論を唱えるばかりでなく、山階宮、中川宮などを説いて、天皇を一時彦根城にうつし、会津、彦根の兵力でこれを防衛することを建言したというウワサが伝わったので、勤皇派では、生かしてはおけぬということになったのである。
象山を殺した下手人として確実に知られているのは、肥後の河上|彦斎《げんさい》だけで、その他は因州の前田伊右衛門、隠岐の南次郎など、いろいろあげられているが、はっきりしない。
一説によると、象山への天誅≠けしかけたのは、久坂玄瑞だという。しかし、象山は久坂の恩師吉田松陰の先生で、長州藩の顧問として迎えるため、わざわざ松代まで足をはこんだことがあるほど、象山に傾倒していた久坂が、そういうことをするとはちょっと考えられない。この計画をきいて久坂のほうでおさえようとしたけれど、おさえきれなかったというのが真相であろう。
それはさておいて、河上は象山を切ったあとで、つぎのような感想をもたらしたと伝えられている。
「わが輩にとって人を切るのは、デク(木偶)を切るようなものであるが、象山をやったときには、はじめて人を切るという思いがして、全身の毛が逆立ちするようであった。まったく象山という絶世の大人物にこちらが気おされて、わが輩の前途もみえてきた、これをさいごに人殺しはやめよう、と思ったくらいだ」
河上は人切り彦斎≠フ異名をとり、土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛とともに、殺人マニアとして恐れられたものであるが、彼の殺人フォームは独特のものであった。まず右脚を前に出して少しおりまげ、左脚はうしろへ一直線にのばし、膝が地面にすれすれになったまま、左手は柄を放し、右手だけで切りつけたという。
この殺人フォームは、プロ野球における王選手の打撃フォームを想わせるものである。
[#小見出し]尊皇攘夷のお手本
長州人には、木戸孝允や山県有朋のような権力追求型と乃木希典のような権力否定型があって、どっちも極端な形をとっていることは前にのべたが、熊本人にもそれがある。徳富蘇峰《とくとみそほう》によって代表される融通|無碍《むげ》、時局便乗の大天才が出ている一方、貞節無比の烈婦のように、共産主義にすべてをささげて動じない蔵原惟人《くらはらこれひと》のような人物も生んでいる。日本左翼陣営で、共産主義的純度のもっとも高いものを求めるならば、わたくしの知っている限りでは、死者、現存者を通じて、そのトップといえないまでも、ベスト・スリーのなかに蔵原がはいることは確かだ。そればかりでなく、共産主義者に多い権力追求型でないという点でも、蔵原は異例に属する。
頑固一徹の人物のことを熊本ではモッコス≠ニいうそうだが、蔵原はその近代版、左翼版ともいえよう。佐久間象山を切った河上彦斎もその一種で、尊皇攘夷≠フ見本みたいな人物であった。薩長から出た維新の元勲≠スちは、幕府を倒して政権をとると同時に開国論者となったが、河上はさいごまでこれに同調しなかった。
河上は天保五年の生まれで、嘉永二年十六歳のとき、江戸の細川藩邸の掃除坊主として仕えることになった。嘉永二年といえば、乃木希典の生まれた年だ。嘉永六年二月に大地震があったが、河上はおちついて、藩邸を火から救ったという。同藩の林桜園《はやしおうえん》(有通)の門にはいり、尊皇、敬神の思想につぎこまれた。
一度、洋行の計画を立てたこともあるが、藩の許しがえられなくてあきらめた。こういう人物が若くして外国を知ったならば、はたしてどういうことになったであろうか。
万延元年、井伊直弼を襲撃した水戸浪士のなかで、最初にピストルをうった森|五六郎《ごろくろう》、大関和七郎など数名が、血まみれになって細川邸に自首してきたさい、率先して取りつぎに出て、その事情をくわしくきいたのが河上で、細川藩士たちはその胆力に舌をまいたという。
翌文久元年、九州各地を遊説中の清河八郎らを迎えて、肥後藩の勤皇派は、こういった浮浪の徒≠フ煽動にのってはならぬと警戒したが、河上はすすんで清河と会い、ふたりはたちまち意気投合した。思想そのものよりも、ボルテージの高い点で一致したのであろう。
文久三年、老中小笠原|長行《ながみち》、板倉勝静が上京して朝廷にせまり、攘夷派を圧伏する目的で伏見まできたということを知った河上は、盛装して飾り太刀をよこたえ、従僕に長柄の傘をもたせて下賀茂神社に参拝、徹夜で祈ったうえ、つぎの三か条について神意をうかがった。
一、今すぐ幕使を旅館に襲撃してこれを切るべきか
二、幕使の入京を待って手をくだすべきか
三、朝廷の親兵にまかせるべきか
この三か条を書いた三つの紙片を社頭の手洗川に投じたところ、第一は流れ去り、第三は沈んだが、第二は浮いたままであった。そこで彼は死を決して小笠原らの入京を待ちうけたが、京都のけわしい空気に恐れをなしてか、一行は江戸へ引きかえしてしまった。
当時、河上は京都の因州藩邸で居候していた。ある日、彼はかえってくるなり、井戸端へ行って足を洗った。ところが、そばにあった彼のゲタに血のりがついているのを見て、藩邸のものがどうしたのかときいた。
「道ばたで犬をきったので――」
と、トボけたが、
「これは犬の血とは思えませんね」
と追及すると、
「実はたった今、ひとり切ってきたところですよ」
と、ニタニタ笑いながら答えたという。
またある晩、彼の仲間が数人、料亭で酒をのんでいるときに、そのなかのひとりが、ある幕吏の名をあげて、あいつはけしからんやつだと、しきりにふんがいした。そのうちに河上の姿が見えなくなった。二、三時間たって、仲間が引きあげようとしているところへ、河上はもどってきたが、袖の下から血のしたたる生首を出していった。
「君らの問題にしている幕吏というのはこいつじゃないか。これをサカナにしてのみなおそう」
王政復古成って、その前から投獄されていた河上は釈放され、東北諸藩を遊説して歩いた。松代藩にきたとき、有志の歓迎会の席上で、地元のひとりがいった。
「当藩には佐久間象山という大人物がいたが、貴藩の河上彦斎に殺されました。その遺児は慶之助といって当年十六歳ですが、目下仇討ちのために国を出ています」
そのとき、河上は「高田源兵衛」と改名していたので、土地のものは気がつかなかったのだ。
世はご維新となっても、河上は断じて攘夷思想をすてようとしないのでもてあまされ、政府顛覆の陰謀≠くわだてたという疑いのもとに、また捕えられて、明治四年十二月処刑された。
[#改ページ]
[#中見出し]一橋慶喜と渋沢栄一
――精神的な動揺期のなかから生まれた相反する二人の人物――
[#小見出し]維新史上の最大奇跡
清河八郎が熊本へ勤皇の遊説にきたとき、
「肥後人は議論多くして実用なしと申し、その座をけたてて発足仕候」
と書かれているが、熊本人にはたしかにそういうところがある。のちに、この地方から、池辺三山《いけべさんざん》、鳥居素川《とりいそせん》、本山彦一、徳富蘇峰、城戸|元亮《もとすけ》、長谷部|忠《ただす》、細川|隆元《たかもと》など、多くのジャーナリスト、言論人が出たというのも、ひとつは熊本人がこういった性格と関係がありそうである。維新のさいにも、「実学党」だの、「敬神党」だのにわかれて、さいごまで意見の一致を見なかった。
その前にも、藩主、幕府、朝廷のいずれに忠誠心の重点をおくべきかについて争ったあげく、到達した結論というのはこうであった。つまり、藩主は父、幕府は祖父、朝廷は曾祖父ということになる。そこで、父と祖父をあとまわしにして、曾祖父に忠誠をつくすのは、僭越であり、心得ちがいであるというわけだ。近ごろ日本の左翼陣営も忠誠心の対象の選択に迷っているようだが、この論法でいけば、日本共産党は父、中共は祖父、ソ連は曾祖父ということになるかもしれない。
こういった意見の対立は、熊本藩ばかりではなく、当時は多かれ少なかれ、どこの藩にもあったのである。この三つの忠誠心の対立と矛盾をひとつの人格のなかに秘めて、動揺しつづけたあげく、徳川のさいごの将軍となった悲劇的人物が慶喜だということになる。
いうまでもなく水戸は、光圀《みつくに》以来、勤皇の家元で、この精神をうけついで攘夷の火つけ役となったのは烈公(斉昭)である。そのむすこの慶喜が、幕末日本が生んだ最大のリベラリスト(自由主義者)、もしくはオポチュニスト(機会主義者)になったというのも、これら三つの忠誠心のなかでもみくちゃにされた結果であろう。
これに反して、「主義にそむくも宗家にそむくべからず、主家をすてて宗家のために忠節なるを真の忠節とす」ということを家憲とする会津藩から、松平容保のような幕府一辺倒の藩主があらわれ、「新選組」のようなテロ団がその支配下におかれたのであるが、慶喜の信念は、「朝廷にはどこまでも刃向かわず、そして政権ご委任のもとに、徳川の天下を永続化しよう」というのであった。しかし、このような両刃の剣はけっきょく自分自身を傷つけることにならざるをえないのだ。慶喜がこの困難な時代に、このむずかしい立場を守りつづけて、明治まで生きのびたというのは、維新史上の最大の奇跡といえよう。
そのかわり、慶喜の周囲から三人の犠牲者を出している。その理由はいずれも、慶喜の優柔不断≠ノあるのだが、ねらわれる人物の身分や地位が高すぎる場合には、その周辺にいるものをヤリ玉にあげることによって、威圧的効果をあげ、本来の目的を達しようというのであって、これは日本における政治的テロの重要な特色である。
最初の犠牲者は、中根《なかね》長十郎といって、慶喜の側用人、即ち秘書課長ともいうべき地位にあったものだ。文久三年十月、慶喜が対朝廷工作のため上京する直前、中根は雉子橋《きじばし》門外で襲われた。このときの下手人も、暗殺の目的もはっきりしないが、中根自身は個人的な恨みをうけるような人物ではなかったから、攘夷派の浪士の慶喜にたいするいやがらせと見るほかはない。当時の風説によると、中根の同僚で、彼と競争の立場にあった平岡円四郎が、慶喜は中根の意見に左右されることが多いといったようなことを人に語ったのが世間につたわった結果だともいわれている。ところがこんどは平岡のほうにもおハチがまわってきた。
中根は一橋家の生えぬきで、慶喜が水戸家から養子に迎えられる前から同家に仕えていたものだが、平岡は旗本の四男に生まれた。幼少時代からかわったところがあって、頭のはたらきが鋭かった,これを認めたのが、彼の父の友人で、当時の幕府系人物のなかではもっとも傑出していた川路聖謨である。川路の紹介で、平岡は水戸の藤田東湖や戸田忠太夫を知り、藤田の推薦で慶喜に仕えることになると、たちまち慶喜の信任をえて、同僚黒川嘉兵衛とともに一橋家を動かす実力者≠ノノシあがった。
「天下の権、朝廷にあるべくしてあらず、幕府にあり、幕府にあるべくしてあらず、一橋にあり。一橋にあるべくしてあらず、平岡、黒川にあり」
といわれたものだ。平岡が一橋家に仕えたのは嘉永六年だが、十年後の元治元年には諸太夫(総務長官)に栄進した。当時、尊攘派から憎悪の対象にされたものとして、一橋慶喜をはじめ、幕府の対外交渉を指揮していた小笠原長行、外国奉行水野忠徳とともに、平岡の名があげられているのを見ても、彼の実力がわかる。
その平岡が元治元年六月、京都で暗殺された。下手人は水戸藩の林忠五郎、江幡貞七郎のふたりであった。
[#小見出し]天誅のウラに出世欲
ひとつの企業のなかでも、たとえば専務に見こまれて起用されたものが、その後ぐんぐんノシてきて、直接社長にとり入り、専務を失脚させて、そのあとがまにすわったかと思うと、こんどはその新専務の部下から、もっとすごい腕をもったのが出てきて、自分を引き立ててくれた人物を追い出し、その企業の支配権をにぎる、といったような例は珍しくない。
藩の政治も、一種の企業体であることに変わりはないが、幕末のような混乱期になると、家老その他の重臣の子弟にはボンクラが多く、身分の低いものや新しく召しかかえられたもののなかから、実力者≠フ出てくることが多かった。前にのべた平岡円四郎もそういった人物であるが、平岡の死後、一橋家の実権をにぎった原市之進は、学者としても、政治的手腕においても、平岡よりはずっと上であった。
一説によると、平岡が殺されたのも、中根の場合同様、慶喜は平岡のロボットだという風説が因をなしているのであって、こういう風説を計画的に流したのは、実は原だったというわけだ。幕末の暗殺には、風説に基づく場合が多かったが、そのなかには競争相手を倒すのに、この風潮を利用したものも少なくなかったといわれている。
原は藤田東湖の従弟にあたり、父は水戸藩の勘定奉行として百五十石とっていたというから、身分の低いほうではなかった。早くから東湖について学び、江戸に出て羽倉簡堂《はぐらかんどう》、塩谷宕陰《しおのやとういん》、藤森|弘庵《こうあん》など、国防問題に強い関心をもつ学者たちに師事した。ロシアの使節プチャーチンが長崎にきたときには、幕府の談判委員筒井|政憲《まさのり》、川路聖謨に随行したこともある。
原は多方面に才能を発揮した人物で、学者としても、水戸の実学を代表するもののひとりにかぞえられているが、水戸藩に仕えてからも奥祐筆頭取《おくゆうひつとうどり》として、藩の財政整理に大きな役割りを果たした。しかし、彼のもっとも得意とするところは政治的な面で、水戸藩攘夷派のリーダーのひとりとして、同藩の武田耕雲斎、大場一真斎、梶清次衛門などと結び、長藩の桂小五郎、備中松山藩の山田|方谷《ほうこく》などとまじわって国事に奔走した。
文久二年正月、老中安藤信正が坂下門外で浪士に襲撃されたが、そのさい浪士がもっていた斬奸状は原が書いたのだともいわれている。真相はわからないが、この事件に彼も関係していたことは事実らしい。とにかくこのころまでの原は、尊攘派の闘士として同志間に知られていた。
原がはじめて慶喜と会ったのは、慶喜が将軍の後見役として上京することになり、小石川の水戸藩邸へ暇乞いにきたときで、慶喜は原の意見をきいてすっかり感心し、一橋家へ迎えることになったのだ。むろん、このころは、まだ平岡が慶喜の側近として権力をふるっていた。
平岡の死後、原は先輩の黒川嘉兵衛をぬいてぐんぐん出世し、慶喜が十五代将軍についたときには、その最高のブレーンとなっていた。一日に五度も新しい辞令をもらって、スピード出世の驚異的な記録をつくったともいわれている。この一例をもってもわかることは、それほど幕府に人材が乏しかったということではなくて、慶喜に主体性が欠けていたということだ。
原という人物は、眉目清秀で、態度もやわらかいが、決断力を身につけていた。それで慶喜の盲点をついたのだ。
当時の幕府にとって、もっとも重大な問題は、兵庫の開港と長州の処分であったが、このとき慶喜はかつて見られなかった政治力を発揮して、薩藩などの反対をおしきった。それというのも、原が裏で有力な公卿に手をまわし、薩藩の大久保一蔵(利通)などの策謀をおさえた結果だと見られた。
慶応三年八月十四日、原が出仕を前にして髪を結っているところへ、水戸藩兵の名をかたってたずねてきたふたりの刺客に切られた。下手人は幕府の陸軍奉行竹中|重固《しげかた》の配下に属していた鈴木豊次郎と依田《よだ》雄太郎であった。
この事件にも裏があって、この刺客を送ったのは山岡鉄舟、松岡萬、関口隆吉など、前に清河八郎らと浪士組をつくった幕府内の尊攘派グループで、君側の奸≠のぞくのがねらいだったともいわれている。もっとうがった説によると、やはりこのグループの高橋泥舟が目付になろうとして失敗したが、これは原がじゃましているからだと思いこみ、血の気の多い連中の大勢いるところで、原を罵倒し、暗殺をそそのかした結果だというわけだ。
後日、鉄舟がかつての同志薄井龍之に、このころ自分のやったことは軽率にすぎたと述懐したという。
天誅≠ニいう名の政治的暗殺も、この時期になると、大義名分がくずれているし、どっちが敵で、どっちが味方だかもはっきりせず、まったく混戦状態であった。
[#小見出し]暴走した青年渋沢
先年、わたくしがベルリンに行ったとき、日本の全学連の幹部数名が、行くえ不明になっている辻政信につれられてやってきて、そのなかの一人が東ベルリンにもぐりこみ、ズラかってしまったということをきいた。これは日本の左翼学生に外国の実態を見せて、愛国心をよびおこさせるという目的のもとに、辻が企画し、その経費を某財界人から出させたのだという。
その後、日本国内でも、日本の左翼運動がもっとも暴力化したときのリーダーだった田中清玄と、全学連幹部とのあいだに密接なつながりのあることがわかって、各方面に大きなショックをあたえた。戦後の日本で全学連とはまったく正反対の動きを見せてきた田中も、三十年前にはちょうど同じ年輩で、同じような立場にたち、同じくらい高いスタミナをもって活躍していたのだ。
明治、大正、昭和の三代を通じて、日本資本主義の育ての親となったばかりでなく、人格円満で、日本人の理想像として完璧に近いものの一つにかぞえられている渋沢栄一も、若いころには暴力革命≠フ首謀者になったこともある。彼は天保十一年、埼玉県の本庄市と深谷市の中ほどにある血洗島という部落に生まれた。生家は農家で藍《あい》商を兼ね、金貸しもしていた。いわば資本主義の幼虫だ。
七歳で叔父|尾高藍香《おだからんこう》(惇忠《あつただ》)について学問を身につけ、十二歳から神道無念流の剣法を修業したというから、農家であり、商人であるとともに、インテリでもあり、なかば武士でもあった。当時はこんなのが全国にたくさん発生して、維新の変革に大きな役割りを果たしていたのである。
早くから家業を手伝って、藍玉の売買などで、おとなも驚くほどの手腕を発揮したが、十六歳のとき、領主の不合理な御用金徴発と侮辱に憤激して、抵抗精神をうえつけられた。たまたまアメリカから軍艦がきて開港となり、インフレが促進されて、国内は物情騒然となった。
翌年、藍香の妹ちよと結婚して、なに一つ不自由のない生活をしていた栄一も、このアラシにまきこまれた。藍香、その弟の東寧《とうねい》(長七郎)、栄一、同じ一族の渋沢喜作などが中心になって、とてつもない計画が立てられた。これは文久三年十一月二十三日を期して兵をあげ、まず高崎城をのっとり、ついで横浜にのりこみ、外人たちをみな殺しにして、攘夷のさきがけをしようというのである。一年前、高杉晋作、久坂玄瑞らが立てた計画とよく似ている。
このときの檄文《げきぶん》は、藍香が書いたもので、神託≠ニ称し、各方面にバラまいた。
神 託
一 近日高天ヶ原より神兵天降り
[#この行1字下げ] 皇天子十年来憂慮したもう横浜、箱館、長崎三ヶ所に住居いたす外夷の畜生どもを残らず踏み殺し、天下追々彼の欺きにおちいり、石瓦同様の泥銀にて日用衣食のものを買いとられ、自然困窮のいたりにて、畜生の手下に相成るべく苦難をお救いなされ候間、神国の大恩相弁じ、異人はすべて狐狸同様と心得、征伐のお供いたすべきものなり
この文書を手に入れたものは、すぐ写しとって、各村々ヘ配布すべきで、すてたりすれば、立ちどころに神罰があたるぞとおどかしている。
このグループは、天朝組≠ニいって、メンバーは約七十人くらいだった。こういう大それた計画を立てながら、表むきは平常通りソロバンをはじき、田畑を耕していたので、土地の代官も気がつかなかったらしい。
戦後の日本でも、これに似たムードが一部で発生し、職場放棄≠ワでなされたこともあるが、当時はこの部落のほかにも、同じような目的をもった秘密結社ができていた。このほうは赤城山のふもとで兵をあげることになっていたが、変心者が出たため、盟主の桃井儀八というのが自首して出てつぶされた。
藍香たちのほうでも、蹶起直前になって、東寧が京都からかえってきて、この年八月の天誅組≠フ失敗を例にとり、挙兵の無謀を説いたので、やっと思いとどまった。この会議において、いちばんいきり立ったのは栄一で、東寧を殺してでも決行するといい、一時は二人で刺しちがいもやりかねない形勢になった。後年の渋沢栄一のイメージをもってしては考えられないことだ。
けっきょく、しばらく天下の形勢を見てからにしようということになり、栄一と喜作は、お伊勢参り≠ニ称して京都に出かけた。一種の亡命である。ところが、京都にくると、二人は百八十度転換して、幕府に仕える身となった。
[#小見出し]一転して幕府のスパイ
一橋家に平岡円四郎という家来がいて、これが慶喜をあやつっているというので暗殺されたことは前にのべたが、渋沢栄一も喜作も、江戸遊学のさい、平岡を訪うてその才能を認められていた。二人が京都への亡命を思い立ったとき、平岡は慶喜について京都に行って江戸にはいなかったが、二人はその留守宅を訪うて、平岡の家来ということにしてもらった。関所などで取り調べをうけた場合を考えてのことだ。
現に東寧も二人のあとを追って上京する途中、幕吏らしい男につけねらわれて、これを切りすてたため、捕えられて江戸の牢屋に入れられた。東寧の殺人は、発作的な精神錯乱ということになったが、栄一たちにしてみれば、いつ容疑が自分たちのほうに、およんでこないとも限らない。そこで、二人は正式に一橋の家臣となることを希望していれられた。元治元年二月のことで、ときに栄一は二十四歳、名前は篤太夫《とくだゆう》と改めた。はじめは「奥口番」という下っぱの役で、四石二人扶持、このほかに滞京手当てを月々四両一分支給された。
勤め先の近くの長屋を借りて、二人で自炊していたが、そこではさかんにネズミが出た。暇にあかしてこれを退治したものの、すてるのももったいないというので、みんな食ってしまったという。夜は貸しブトンを一人分だけ借りて、これに二人がくるまって寝た。こういう生活をしながら、京都にきたときの借金をまもなく返したところをみると、のちに財界人として大をなす素質は、身にそなわっていたのである。この点は、高杉晋作、桂小五郎、伊藤俊輔など、藩費で料亭通いをしながら、国事に奔走≠オていた雄藩の志士≠スちとはスタートからちがっていた。
栄一たちは採用になるとき、平岡のすすめで意見書を書き、慶喜に提出したのであるが、その内容は、この国家非常時において、人材登用が先決問題であることを論じたものであった。まさか、ほんとのハラのなかは攘夷討幕だとも書けなかったので、こういう抽象的ないいまわしをしたのであろうが、これに慶喜がひっかかって、こういう身もとのはっきりしない人間に自分で会って、家来にしたところを見ると、栄一には一見して人材≠ニ思わせるような面があったか、慶喜に人を見る明があったか、彼の身辺に目ぼしい人物がいなかったか、いずれかであろう。
それにしても、人間心理の動きは微妙なもので、本来なら敵と見なすべき人物でも、自分の才能が認められたとなると、これにたいする忠誠心がおのずからわいてくるのである。スパイが多くの場合、ダブル・スパイとなって、両建ての忠誠心のなかで泳ぐという危い芸当をしなければならなくなるのも、報酬問題だけで解決されるべきものではない。平岡や慶喜にたいする栄一の気持ちは、これに似た複雑なものであったろう。
事実、攘夷討幕のサキガケをするという大計画に生命と情熱をささげていた栄一が、これを中止して半年もたたないうちに、こんどは幕府のためにスパイの役を買って出ている。というのは、薩摩の洋式砲術家|折田要蔵《おりたようぞう》(年秀)が、幕府の砲台御用掛として迎えられ、大坂湾の砲台づくりにきたとき、栄一は住み込みの内デシにバケて、折田ならびに薩摩の動静をさぐることになったのである。そのころの薩摩は、勤皇か佐幕かはっきりせず、幕府としてはどの程度に信用していいかわからなかったのだ。
折田は蘭学を箕作阮甫《みつくりげんぽ》に学んでいたが、嘉永六年来艦が浦賀にきたとき、これに飲料水をはこぶ水夫にまじって、その機関や砲門を調べた。また安政元年十一月の大ツナミでロシアの軍艦「ディアナ号」が下田で沈没し、その修理がおこなわれることになると、彼はさっそく鍛冶屋となって、その現場に通った。文久三年七月の薩英戦争のさいには、大砲鋳造の主任として大きな役割りを果たし、この方面の大家となっていた。
当時、折田は大坂土佐堀の大きな旅館に陣どって、「摂海防禦御台場築造御用掛 折田要蔵」と書いた大看板をかかげ、玄関に紫の幔幕《まんまく》をはりわたして、大いに威容を示していたが、栄一はそこで書類を写したり、設計の下絵を書いたりしているうちに、折田は西郷隆盛と関係が深いこと、えらそうにかまえているが、実は大した人物でないことを探知し、そのむねを慶喜に報告した。
その後、折田は明治政府に仕えたけれど、まもなくやめて、名も「三国屋要七」と改め、京都で銃砲店を開いた。これが失敗して、明治六年湊川神社の宮司にあげられた。
一方、この任務を果たした栄一は、「関東人選御用」ということで、喜作とともに関東へ出張を命ぜられた。関西の風雲いよいよ急をつげたので、人材募集≠キなわち人買い≠ノ行けということになったのだ。これも栄一が平岡に提案して採用されたもので、実は郷里にのこしてきた家族や旧同志たちの消息を知りたかったのだ。
[#小見出し]すでに財界指導者の芽
慶喜の家来となった渋沢栄一、喜作のニ人が、関東へ人材募集≠ノ出かけたというのは、前の年、攘夷、討幕の暴力革命を計画したときに目をつけていた人物を説得して、幕府に仕えさせようというのが主たるねらいだった。これは前に清河八郎が幕府の金で勤皇派の浪士をあつめたのと同じで、形の上からいうと、会社の人事係が共産党員を大量に雇い入れるために出張したようなものである。
だが、栄一らが江戸につく一か月ばかり前に、目ぼしいところはたいてい、「筑波の挙兵」に参加してしまって、たずねようがなく、すっかりあてがはずれた。それでも八方奔走して、剣客、学者など五十人ばかりあつめることができた。これでわかることは、当時はいかにアブレモノが多かったかということ、そしてその大部分は、勤皇でも佐幕でもよく、現状を打破することしか考えていなかったということである。
栄一たちは、郷里の家族に会いたいと思ったが、領内で二人は今も謀叛《むほん》人あつかいされているというので断念し、家族のほうから、妻沼《めぬま》(埼玉県)というところまで出むいてもらって、非合法に面会した。当時は藩が独立国のようになっていて、他藩におれば安全だが、領内に足を入れるとつかまったのだ。この点はアメリカの連邦警察制度と似ている。日本のような狭い国で、戦後にその真似をしたため、失敗したのである。
さて、栄一たちが江戸を引き揚げようとしたときに、平岡円四郎が京都で暗殺されたという知らせがきた。もとは平岡も攘夷派だったのだが、橋本|左内《さない》に説得されて開港説に傾き、一橋家に仕えることによって、開港説に転向したのであろう。
栄一がまだ熱烈な攘夷派だったころ、江戸柳橋の料亭で同志の会合があったが、その席上で、平岡の転向が話題にのぼり、
「平岡の野郎はけしからん。これから押しかけてぶった切ろう」
ということになった。そのさい、栄一は平岡と懇意だというので、平岡家への案内役を仰せつかった。これには栄一も困った。といってへたに反対すると、自分の命が危いので、案内の途中、この刺客を別な料亭につれこみ、酒をのましてまいてしまった。この時代の暗殺は、これほど手軽におこなわれた。結果から見て、平岡と栄一は、互いに命の恩人≠セったが、平岡のほうはついに助からなかったわけだ。
平岡が死んでも、そのあとをついだ黒川嘉兵衛が、平岡同様に栄一たちを引き立ててくれたから困らなかった。それどころか、黒川のお気に入りだというので、慶喜を利用しようとする諸藩の接待政策の手が、栄一たちにまでおよんできた。当時の京都は、さながら革命前夜≠ニいう様相を呈し、各藩各派の工作隊やスパイが入りみだれて暗躍し、料亭はどこもかしこも、連日連夜、客どめの盛況を呈していた。
当時、慶喜は「禁裏御守衛総督」の大任をおびていたが、手もちの兵が少なく、万一の場合を考えると心細かった。といって、急に武士を増員するわけにいかないので、所領の摂津、和泉、播磨、備中の四か国から、農兵を募集することになった。常備軍の増強には、このほうが手っとり早くて安上がりだというので、他の藩でもすでにこの手をつかっていた。
栄一が備中にのりこんで、城下町を通行すると、「下におろう」という先ぶれがついたというから、驚くべき出世である。かつては代官からひどい侮辱をうけたが、こんどは代官たちに膝をつかせる立場に立ったのだ。古い社会制度がくずれつつあるとき、才能のあるものが権力の側につけば、こういうことになるという見本みたいなものである。
ところが、かんじんの農兵応募者はほとんどなかった。内情をさぐると、代官や庄屋のことなかれ主義から、ひそかに農民の応募を禁じていることがわかった。そこで栄一は、土地の有名な剣客や学者を訪ね、剣術の試合をしたり、詩文のやりとりをしたり、青年をあつめて時事を談じたり、タイ網をひかせたり、あの手、この手をつかって、今のことばでいうPRにつとめた。
後年の広島藩の儒者|阪谷朗盧《さかたにろうろ》と会ったのもこのときだ。朗盧は男爵阪谷|芳郎《よしろう》の父で、芳郎は栄一の二女琴の婿となっているが、両家のつながりはここに端を発しているのである。
とにかくその結果、栄一は三百余名の農兵をあつめることに成功したばかりでなく、土地の孝子、節婦、義僕などの顕彰をもおこなっている。将来の社会教育家としての素質が、ここに早くも芽を出しているのであって、かつての暴力革命の首謀者とは思えないかわりかたである。
さらに、彼は、摂津、播磨の年貢米を灘の酒造家に売ったり、播磨の白木綿を大坂へまわしたり、備中の硝石の利用法を講じたり、藩札の発行を考えたり、のちの日本の財界指導者としての才能と手腕をこのときすでに完全に発揮している。
そのころ、幕府の御書院番士の大沢源次郎というのが、勤皇派の手先になっているという訴えが陸軍奉行から出た。これの逮捕に、渋沢栄一が奉行の名代として、「新選組」の剣士数名をつれて行くことになり、近藤勇との打合わせによって、隊長には土方歳三が任命された。結果は大沢がおとなしく縛についたためあっけなくおわったが、つい二、三年前まで追われる身であった栄一としては、さぞくすぐったい思いをしたことであろう。こういったゴーゴリの『検察官』を想わせるような事件は、変革期にはつきもので、必ずしもロシア特有の現象ではないのだ。
第二次長州征伐のさいには、栄一も慶喜について出征することになり、郷里にのこしてきた妻へ、遺書めいた手紙とともに短刀をおくっているが、将軍家茂が死んでこれは中止となり、慶喜がそのあとをつぐことになった。そのとき栄一は、首席用人の原市之進を通じて、慶喜が宗家を相続することに極力反対している。栄一の四男秀雄の書いたものによると、
「父は幕府の崩壊を確信していたから、生恩の主君を怨嵯《えんさ》の府に送って、今にも沈没する巨船の船長たらしめるに忍びなかった」
ということになっている。しかし、わたくしたちが知りたいと思うのは、この「沈み行く巨船」のなかで、重く用いられている栄一の偽らざる気持ちである。破産寸前の会社で、その破産を確信しながら、ひたすら忠勤をぬきんでる新入社員の心理は、新しい社会小説のテーマにならないであろうか。
以上は、文久から元治にかけて、天誅≠ニいう名の個人的、集団的テロの横行した時代、人間の生命がもっともぞんざいにあつかわれた時代の主なケースをとりあげて、そのあらましをのべたものである。
あの時期に、同じような事件がつづけざまにおこったということは、明らかに一種の流行であり、社会的な連鎖反応である。問題はその流行や連鎖反応の底に何があったかということだ。
勤皇派の志士≠スち、さらにその精神をうけついでいる人々にいわせると、こういったテロは、形の上では児戯にひとしいように思えるが、実は勤皇の正気≠ゥら出たもので、「鬱結したる天地の気圧が爆発して、ときには暴風となり、また豪雨となることは、天地自然の理、おさえんとしておさゆべからず、止めんとしてとめるべからざるもの」だ。しかし、「寺田屋事件」をおこさせた薩藩の島津久光のごときは、これら勤皇派の行動を匹夫野人の蛮行≠ニののしっている。
わたくしの見るところでは、維新の変革は、文久時代からはじまって、テロの形をとりながら、なしくずしに進行していたのである。この変革にしても、実は幕府、朝廷、薩摩、長州の四角戦争≠ニもいうべきもので、「鳥羽、伏見の戦」や「江戸城明けわたし」は、この政権移動劇の大詰めというよりも、そのころはすでにほとんどおわっていたともいえるのだ。
二百五十年もつづいた制度の変革が、こういうふうになしくずしにおこなわれ、最小限の犠牲ですんだということは、外国の歴史には例のないことである。この点でわたくしは、このテロの果した役割りと意義を認めるものである。たとえていうと、命とりになりかねないような病気を注射で散らし、大手術の危険を省略することができたようなものである。
それというのも、日本は古くから単一民族で構成されていて、近代的民族主義へ脱皮する素地が、早くから準備されていたからであろう。ネール、スカルノ、ナセル、エンクルマ、トーレにひきいられるインド、インドネシア、エジプト、ガーナ、ギニアなど、アジア、アフリカの新興国のばあいはそうはいかないのであって、その責任はこれらの指導者にのみ帰すべきではない。個人的能力という点からいうと、これらの指導者のなかには、維新の元勲たちにまさるとも劣らないものが幾人もいるとわたくしは見ている。
ところで、慶応二年十一月といえば、孝明天皇がなくなられる一月前である。そろそろこのへんで、幕臣を辞してもとの浪人にかえろうとしていた渋沢栄一のところへ、原市之進から呼び出しの使いがきた。行ってみると、こんど徳川民部《とくがわみんぶ》大輔《たいふ》昭武《あきたけ》(慶喜の弟)がフランスヘ行くことになったので、これに随行せよというわけだ。これが彼のおかれた皮肉な運命の大詰め、総仕上げともなって、これを機会に彼は本来の渋沢栄一にかえった。これまではあまり好ましくもないエサに手を出していたのが、こんどのエサはとびきり上等だったので、渋沢はとびあがってパクついたのだ。
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[#中見出し]欧米文化との初接触
――漂流という異常な体験から判断される民族の素質テスト――
[#小見出し]ズバぬけた両沢
幕末に海外へ出て、新しい欧米文化に接した日本人を、尾佐竹猛《おさたけたけし》博士はつぎの四種類にわけている。
第一、外交上の使節または特命理事官として派遣されたもの
第二、留学生として行ったもの
第三、各藩から、または個人的に、秘密に、国禁を犯して出かけたもの
第四、漂流の末、偶然に助けられて海外に足を印したもの
この分類で行くと、前にのべた高杉晋作らの上海渡航などは、幕府の貿易に便乗したのであって、第一種に属するものといえよう。
ながい鎖国ののちに、まったくちがった国家、民族、文化、制度、風俗、習慣に接したときの驚き、感動は、想像するにかたくない。近い将来に、人類が月や火星に到達することができるようになったとしても、その前すでに、無人の人工衛星などによって、目的地の調査、研究は相当すすんでいるはずだから、それほどの驚異とはならないかもしれない。
ところで、幕末の海外渡航者のなかで、明治以後の日本の文化、産業に大きな貢献をしたのは、正使、副使、目付、勘定方などの役名つきで行った幕府の高官ではなくて、用人、給人、通辞などとなって随行したもの、もしくは留学生、漂流者のたぐいである。外国に行って新しい知識を吸収するというのは、いわば将来への投資であって、今も日本の産業界、学界、その他各分野にわたってさかんにおこなわれているが、若いものほど効果的だとわたくしは見ている。社会的地位の高いものの場合は、単なる観光におわることが多い。
それはさておいて、当時幕府が正式に海外へ使節を派遣したのはつぎの五回である。
第一回、万延元年の新見《しんみ》豊前守《ぶぜんのかみ》一行(遣米)
第二回、文久二年の竹内|下野守《しもつけのかみ》一行(遣欧)
第三回、文久三年の池田筑後守一行(遣仏)
第四回、慶応二年の小出大和守一行(遣露)
第五回、慶応三年の徳川民部大輔一行(遣仏)
これらの幕末の海外渡航者は、大した数ではない。密航者や漂流者をふくめても、千人をこえないであろう。そのなかで、このとき獲得した新知識によって最大の役割りを果たしたものは、文化面における福沢諭吉、産業面における渋沢栄一である。ほかにもたくさんあるが、福沢、渋沢の両沢≠ヘズバぬけている。いわば両横綱だ。
満州事変以後、国際連盟脱退、日華事変、太平洋戦争を経て、敗戦にいたるまでの日本は、一種の鎖国¥態にあったともいえる。そこで、幕末海外使節団の目に、当時のアメリカやヨーローパがどのようにうつったかということを、かれらがのこした日記などを通じてふりかえってみるのは、貿易の自由化を迎えた日本人にとって、興味をそそる点が多い。
これら海外使節団の見聞記のなかで、いまの日本人にとって、もっとも興味があるのは、なんといっても、万延元年の遣米使節団である。とくにわたくしにとっては興味深い。というのは、この一行のコースは、ハワイ、サンフランシスコ、パナマ、ワシントン、ニューヨーク、喜望峰、モーリシャス島、ジャワ、マラッカ海峡、香港などを経由しているが、これらの土地はそれからちょうど百年後に、わたくし自身が訪れたところである。万延元年は一八六〇年だから、昭和三十五年はその百年後にあたる。そのころわたくしは、三回目の世界旅行に出て、南ア連邦の首都ヨハネスブルグから、インド洋の孤島モーリシャス島を経て、オーストラリアのシドニーにとんでいた。
わたくしがこの旅行をおえて羽田空港についたとき、新聞社の自動車が迎えにきて、国会議事堂につれていかれた。その周辺で安保反対の大デモがおこなわれているから、外国を見てきたばかりの目で、これを見た印象を語ってくれというわけだ。
いうまでもなく、安保闘争は、日米間に成立した安全保障条約の批准に反対したもので、全学連や総評を中心に、戦後最大のデモが展開されたのである。ところが、万延元年の遣米使節は、安政五年(一八五八年)に調印した日米通商条約批准書交換のため、日本代表がアメリカの軍艦にのせられ、費用はほとんど先方もちで、アメリカに出かけて行ったのである。
百年後の安保反対闘争もはげしいもので、ついにデモ団から死者まで出したが、当時の排外闘争は攘夷≠ニいう名においておこなわれ、天誅≠ニいう形で多くの犠牲者を出したことは、すでにくわしくのべた通りである。
この遣米使節の一行が日本を出発したのは、万延元年一月十八日で、品川沖にかえりついたのは九月二十七日である。そこでかれらは、留守中に井伊大老が殺されたことをはじめて知った。井伊大老が殺されて、岸首相が殺されなかったということが、この百年間における日本の進歩≠示していることになるのであろうか。
[#小見出し]ロシアの極東侵略
万延元年の第一回使節の正使は新見豊前守|正興《まさおき》、副使は村垣淡路守|範正《のりまさ》で、ともに当時の外国奉行であった。
この二人が外国奉行に任ぜられた裏には、こんないきさつがある。当時、帝政ロシアは、クリミア戦争に敗れて、バルカン地方への進出を阻止されたため、東部シベリア総督ムラビヨフ・アムールスキーが中心となって、積極的な極東侵略政策をすすめていた。清国が「長髪賊の乱」に苦しんでいるのに乗じて、安政五年(一八五八年)すなわち日本が露、蘭、仏、英、米の五か国と通商条約を結んだ前の年、清国にせまってアイグン条約を結び、黒竜江左岸を露領とし、さらに二年後には北京条約を結んで、ウスリー地方を手に入れたのであるが、これら二つの条約締結に成功した中間の安政六年に日本にやってきたのである。そのねらいは、諸外国と朝廷のあいだにはさまって、身動きのできない状態にある幕府を相手に、清国の場合と同じ手で、懸案の国境問題解決、というよりも、領土権のはっきりしないカラフト全体を露領として承認させることにあった。
彼は七隻の艦隊を品川沖にのり入れ、幕府を威圧してかかったが、たまたま、買い物に上陸したロシアの海軍士官が日本の浪士におそわれて殺されるという事件がおこった。殺されたのはモフエトという少尉で、ほかに水兵が一人重傷を負わされた。
十三歳で漂流してアメリカ船に助けられ、アメリカの教育をうけ、アメリカ国籍をえて帰国、当時アメリカ領事館の通訳をしていた浜田|彦蔵《ひこぞう》(アメリカ彦蔵∞ジョセフ・ヒコ≠ネどともいった)の書いたものによると、このロシア士官の葬式には、横浜在留外人の大部分が参列して、国際葬の形をとった。これに外国奉行も参加するようにとムラビヨフは要請したが、奉行のほうでは前例がないといってことわった。しかし、けっきょく彼の強硬な態度に屈し、奉行が十二名の部下をつれて参列した。
このあと、ムラビヨフはさっそくこの事件を利用して、幕府につぎの要求を提出した。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
一、刺客をその場で捕えることができなかった責任を問うて、外国奉行を罷免すること
二、この補償としてサハリン島(カラフト)の半分をロシアに割譲すること
三、下手人の逮捕、処罰に、時間、労力、出費を惜しまぬこと
[#ここで字下げ終わり]
ムラビヨフの目的とするところは、むろん第二項であるが、人間一人の生命の代償としてカラフトを半分よこせというのは、あまりにも過大な要求で、この談判ほ進展せず、軍艦一隻をのこして、彼はひとまず日本を去った。そして、さらにその主張を裏づけるために、囚人をどしどしカラフトに送りこむ一方、清国領の獲得に力を入れたのである。
カラフトは半島でシベリアとつながっていると思われていたのが、間宮林蔵《まみやりんぞう》の文化五年(一八○八年)から六年にわたる実地踏査によって、島であることがわかった。しかし、この島の領有は、安政元年(一八五四年)の「日露和親条約」で「日露間に界をわかたず、これまでの仕きたりの通り」ということになり、さらに慶応三年(一八六七年)の「カラフト島仮規則」で日露共有≠ニされ、明治にもちこした。そして明治八年(一八七五年)駐露公使|榎本武揚《えのもとたけあき》がロシア外相ゴルチャコフと折衝をかさねた末、カラフト全島を露領とし、ウルプ島以北の露領千島を日本領とするすることで話がまとまった。
日露戦争の結果、カラフト南半が日本にもどったが、太平洋戦争後は、全千島、全カラフトはもちろん、ハボマイ、シコタンまで、ソ連の支配下におかれていることは改めていうまでもない。
ムラビヨフは一八八一年(明治十四年)に死んだが、東亜侵略の功により、伯爵に叙せられ、ハバロフスクに銅像を建てられた。領土的被害の点では、日本よりも中国のほうが比べものにならないほど甚大である。
中立主義、平和主義の権化のように見られていたインドのネールも、国境問題ではついに中国と戦いをまじえるにいたったが、ますます深刻化しつつある中ソ対立の裏にも、清国や帝政ロシアからうけついだ領土問題がひそんでいることは明らかで、これが表面化してくるのも、そう遠いことではあるまい。
ところで、ムラビヨフが幕府につきつけた三条件のうち、一つだけは幕府が承認し、実行した。それは奉行の更迭で、酒井隠岐守と水野忠徳が退き、そのあとに新見正興と村垣範正が任命された。結果からいうと、ロシアの士官が殺されて、新見と村垣が外国奉行となり、第一回使節としてアメリカに派遣される栄誉をになったということになる。
この一行の旅行記その他の資料は、三十種ばかりものこっているが、そのなかで、もっとも興味のあるのは、村垣の『航海日記』である。コロムビア専属の作曲家レイモンド・服部氏は、この村垣の曾孫にあたる。
幕府が第一回遣外使節をアメリカにおくったいきさつはこうだ。
日本が外国と最初に通商修交条約を結んだのはアメリカだから、大使を派遣するのもまずアメリカからということになって、アメリカ側もたいへん喜んだ。これがアメリカの対日感情の底流となって、のちのちまでものこった。
本条約≠キなわち批准交換は、ワシントンでおこなうことになっていたが、これについては幕府側にも深い考えがあった。当時、幕府の外務大臣ともいうべき地位にあった岩瀬忠震《いわせただなり》は、外国事情認識の第一人者で、弁舌も立ち、自分の名前くらいはローマ字で書いた。これを補佐していたのが水野忠徳で、この二人は、この機会に幕臣のなかから少壮有為の人物を物色し、これらを引きつれて海外に出かけ、日本の文明開化を促進するつもりでいた。老中の堀田|正睦《まさよし》もこれに賛成したが、国内事情が切迫して、実現を見なかった。
かわりに新見、村垣、小栗の三人を選んだのであるが、この人選はあまり成功したとはいえない。これについて福地源一郎(桜痴)は『懐往事談』のなかで、つぎのごとくのべている。
「新見は奥の衆とて将軍家の左右に侍したる御小姓の出身、その人物は温厚の長者なれども、決して良吏の方に非ず。村垣は純乎たる俗吏にて、いささか経験をつみたる人物なれども、もとよりその器に非ず。ひとり小栗は活溌にして機敏の才に富みたりしかば、三人中にてわずかに小栗が幕末の難局にあたりてよくこれに堪えたるも、米国におもむきてその見聞を広めたりしもの、冥々裏《めいめいり》にその効果ありしものか」
新見も村垣もいわば事務官で、政治家の素質をもったのは小栗だけだったということになる。小栗については、小栗夫人道子の実妹の子で、その甥にあたる法学博士|蜷川新《にながわあらた》が、小栗を幕末日本最大の傑物としてもちあげている。たしかに、小栗には傑出した面もあったと思うが、小栗をほめるため、明治の変革は何から何まで薩長の政権欲から出た陰謀と見なし、そのカイライとされた皇室にまであたりちらしているのは感心しない。維新の仇《あだ》を昭和に討っているという感じだ。
福地はさらに、
「この使節一行は、かの地において非常の待遇をこうむり、見聞広くしたれども、公使その器に非ざりしが上に、その帰朝せしときは、時勢またとみに一変したるをもって、かれらはみな口を緘《とざ》して米国にて見聞せしことを説かず、その地位を保つに汲汲《きゆうきゆう》たりければ、到底、岩瀬、水野諸人の苦心も、このため水泡に帰したりき」
これらの使節よりも、身分のずっと低かった福沢諭吉、渋沢栄一の二人が、その後の日本の文化、産業面で、大きな役割りを果たしたことは前にのべた。
[#小見出し]漂流民の予想外の能力
ところが、かれらに先だって、漂流≠ニいう異常な条件のもとに、アメリカ文化と接触し、これを吸収することに驚くべき才能を発揮したものがある。その代表が、前にもちょっとふれた浜田彦蔵と中浜万次郎である。
漂流の歴史は古い。日本民族の大きな部分が、各種の漂着者によって構成されているともいえるが、逆にこの日本列島から流失したものも少なくないであろう。
アラスカに北洋のパリ≠ニもいわれた美しい町がある。日本の出資による「アラスカ・パルプ」の工場のあるところだが、この町に近い小さな島は、潮流の関係で、古くから日本の漁船がしばしば流れつくので、「ヤポンスキー島」と呼ばれている。井伏鱒二《いぶせますじ》の『漂民宇三郎』や『重吉漂流譚』などにも出てくるし、今も時々日本の漁師のもちものが流れつくという。
チリとペルーの国境にあるアリカという町には、十五世紀のはじめ、日本人がここに漂着して住みついた形跡があるといってこれを裏づける地名や遺跡を研究している人がいる。アリカ州の元知事アルフレッド・ライテリー氏で、彼の説によれば、当時日本の皇子の一人が皇位継承の争いからのがれ、海外に新しい土地を求めて船出し、ここでその在りか≠発見したというわけだ。
ハワイの伝説によると、一二五八年と一二七〇年(いずれも鎌倉時代)に、日本の漁船らしいものが漂着したことになっている。あとの船は「ママラ」といって、男女各二名がのっていた。いずれも現住民と結婚してここに住みついた。ハワイの判事で人種学者フォルナンダー氏はこれを日本人と推定し、ハワイにおける皮膚の色のそう黒くない種族の祖先と見ている。
西洋種の美しい花をつけるバラの木も、野バラの根につぎ木したものが多い。果樹でも、外来種や改良種は、同じ品種の野生のものや、むかしからその土地にあったものにつぎ木したほうが、育ちがよくて、病虫害にも強いときいている。
ゴムの原産地はブラジルのアマゾン地方で、二十世紀のはじめには、お伽《とぎ》話のようなゴム・ブームを現出したが、マラヤその他でゴムの栽培が始まると、これにすっかり圧倒された。アマゾンでは、天然のゴムを採取しているあいだはよかったが、栽培するとなると、採算がとれないのである。そこで、野生のゴムの木の根に、もっとも汁がたくさんとれる改良種をついだところ、葉の部分が病虫害に弱いことがわかったので、さらに抵抗力の強い品種を上につぎ、三段がまえにした。理論的には、これで申し分がないわけだが、結果はよくなかった。アメリカのフォード会社はこの事業に何億ドルという金をつぎこんだけれど、けっきょく失敗におわり、このゴム園をブラジル政府に無償で譲渡したが、もらったほうでももてあました。この地方の土質がこれに適さないのだ。
ちがった新しい文化の移植、うけいれについても同じことがいえるのではなかろうか。その点で、幕末の日本人と欧米文化との接触は、貴重な実験であった。これで日本の文化的土質、日本人の能力がテストされたのである。しかも、このテストに合格したのは、福沢や渋沢のような士族や地主出身のものだけではなかった。浜田彦蔵や中浜万次郎のような零細漁民の子弟でも、新しい土地にうつされ、新しい文化に接すれば、予想外の能力を発揮する素質のあることが証明されたのだ。
移民の場合にも同じことがいえよう。アドレナリンやタカヂアスターゼの発明者|高峰譲吉《たかみねじようきち》、黄熱病研究の世界的権威野口|英世《ひでよ》などは留学生であるが、農業移民として、奴隷に近い条件で合衆国や南米にわたったもののなかにも、日本を出るときには夢想もしなかったような才能を示しているものが少なくない。わたくしは各地でそういう人々にあったが、今のように教育の普及していない時代に、人間形成のなされたもののあいだから、そういった潜在的能力の点で、すぐれたものが多く出ているように思われた。
遭難当時、彦蔵も万次郎も、かぞえ年の十五歳であったが、彦蔵には実父も実母もなく、万次郎には実父がなく、どっちも早くから一家をささえていた。その後におそいかかったあらゆる困難に二人が耐え、自らの手でその運命をきり開いていくことができたのも、そのためだと思う。
のちにアメリカ国籍を獲得して日系アメリカ市民¢謌鼾となった彦蔵は、天保十年(一八三九年)、播磨国加古郡|阿閇村《あへむら》に生まれた。嘉永三年(一八五〇年)江戸からかえる途中、嵐にあって五十日間漂流の末、アメリカ船に救われてサンフランシスコにつき、サンダースという篤志家に引きとられて、アメリカ式の教育をうけた。当時アメリカは、ペリーの日本遠征を準備していたので、この利巧そうな少年を仕込めば、将来役に立つと考えたのであろう。彼は英文の『回想記』を書きのこしているが、そのなかから、興味のある点を三つ四つひろって紹介することにしよう。
漂流中、千両箱を船室にもちこみ、その金で賭博をした。余命いくばくもないことを知りながら、はじめは真剣に勝負を争ったが、興奮がおさまると、だれも金に手をふれるものはなかった。これはそのまま映画やテレビ・ドラマになりそうな場面である。
サンフランシスコで、税関長が彦蔵たちに握手しながら、「ハウ・アー・ユー」
といったのが、「かわい」ときこえたので、相手は日本語を知っていると思いこみ、日本語で話しかけたけれど、ちっとも通じなくて、がっかりした。
それよりも興味があるのは、彼がリンカーン大統領に会っていることである。それは一八六二年、すなわち南北戦争のはじまった翌年の三月十二日で、大統領はからだがいくつあっても足りなかったと思うが、シワード国務長官の紹介で、この東洋の小さな国の青年に会っている。
彼が大統領室にはいっていくと、クビになった騎兵大佐が、復職について陳情にきていた。リンカーンは「肘掛椅子に腰をかけていたが、そっくりかえって、両足首を組みかさねて前の机の上に出し、眼鏡を額までずりあげていた」という。
それから三年後の一八六五年の四月、リンカーンが暗殺されたとき、彦蔵は日本からシワード長官あてにくやみ状を出している。
元治元年、彦蔵は横浜で『海外新聞』を発行した。発行部数は百部で、月刊ではあるが、定期的に出された日本最初の新聞である。
[#小見出し]捕鯨がうながした開国
一四九二年八月、コロンブスがカリブ海諸島の一つについたとき、原住民をつかまえて、しきりにジパング≠ヘどこかときいているところを見ても、彼のねらいは、マルコ・ポーロによって伝えられた黄金の国%本にあったことは明らかである。
十七世紀のオランダの偉大な航海者で、ニュージーランドやフィジー諸島を発見したタスマンも、ポルトガル人から、日本の近海に、金の島∞銀の島≠ェあるときいて、その探検を思い立ち、一六三九年(寛永十六年)小笠原群島につき、さらに北進して日本列島がかすかにみえるところまできたが、船の故障で台湾のオランダ基地安平に引き返してしまった。
一五二〇年、西洋人としてはじめて太平洋に船をのりいれ、平和な海≠ニ命名したのは有名なマゼランである。しかし、それより七年前に、スペインの探検家バルボアが、パナマ地峡をこえて、太平洋を望見し、南の海≠ニ名づけた。この報告をきいたイスパニア宮廷の高僧たちは、「人間のためにつくられた世界の半分以上が、人間にとってなんの役にもたたぬ大洋におおわれているなどというのはありえないことで、神を冒涜《ぼうとく》するものだ」といって、まっこうからこれを否定した。
鎖国時代の日本にとっても、太平洋はまったく無用の長物であった。日本の漁船が太平洋へ積極的にのり出したのは、文化以後、すなわち十九世紀にはいってからで、それも主として捕鯨のため小笠原群島付近まで出かけたのである。
ところが、このころから日本船の遭難が急にふえてきている。それも捕鯨船ばかりではなく、近海輸送や沿岸漁業に従事していたものが、あらしにあって漂流の末、ハワイ諸島やアメリカ大陸の太平洋岸に流れついたり、アメリカ船に救助されたりしたケースが多い。幕末に近づいて、日本人の海上活動が活溌になったからでもあるが、アメリカ船に救助されるものがふえたというのは、このころになって太平洋におけるアメリカの海上活動も活撥になったことを裏書きしている。かれらの目的も、はじめは主として捕鯨であった。これが日本の開国とつながっているのである。というのは、アメリカが日本に開国をせまったはじめの動機は、捕鯨船のため、飲料水、食料、燃料などの補給地を手に入れようとしたのである。
捕鯨の黄金時代というのが、これまでに三回あった。第一回は十七、八世紀ごろで、北極海がその舞台になっていた。二回目は十九世紀の中ごろで、アメリカ捕鯨の全盛期である。三回目は二十世紀になってはじまったもので、南極海が中心となり、現在のところ、日本がこれをリードしている。
太平洋捕鯨の選手権は、まずオランダ、ついでイギリスの手にうつり、十九世紀にはいって、おくれてスタートしたアメリカの優勝となった。アメリカが捕鯨に力をそそぐようになったのは、ロウソクの原料、機械油、食用などとして鯨油の需要が急激に増大したからである。一八四六年にはホノルルに来航した捕鯨船が五百九十六隻に達したという。のちにこれがおとろえたのは、乱獲でクジラが少なくなったのと、石油の生産と用途が増大した結果である。
天保十二年正月、土佐の沖ヘカツオつりに出た船が、漁師伝蔵、重助、五右衛門、寅右衛門、万次郎の五人をのせて漂流し、七日目にたどりついた島は、八丈島に属する無人島の一つで、五か月後にそこからかれらを救い出してくれたのは、アメリカの捕鯨船であった。実は、この島に正覚坊(海ガメ)がいるかどうかを確かめようとしてボートをおろしたところ、そこに死にかかった人間を見いだしたのである。
遭難者のなかでいちばん元気だったのは万次郎で、ホイットフィールド船長にかわいがられ、彼の郷里ニュー・ベッドフォードヘつれて行かれた。ほかの四人はハワイにのこったが、重助はまもなく死んだ。万次郎は船長の養子のような形で、カトリックの学校にはいることになったけれど、有色人種にたいする偏見が強く、「ニグロに近いものを教会で同席させるわけにいかない」といわれた。そこで、船長は、自分の籍(当時戸籍は教会にあった)をわざわざユニテリアン教会にうつし、そこの学校に万次郎を入れた。このあと万次郎は、私立の中学校に三年通学して、英語ばかりでなく、数学、航海学、測量術などを学び、首席で卒業した。
彦蔵がアメリカの国籍をとった日本人第一号とすれば、万次郎はアメリカで正式に教育された最初の日本人である。それに彼は、はじめて汽車や汽船で旅行した日本人でもあった。
一八四九年、そのころ、全アメリカ人の血をわかせたゴールド・ラッシュの熱にうかされて、友人とともにカリフォルニアにやってきた彼は、サンフランシスコで、できたばかりの外輪汽船にのってサクラメントに行き、そこから汽車で奥地へはいった。
第一回遣米使節の一行が、パナマ地峡を汽車で通過したのは一八六〇年だから、それよりは十一年早く、東京・横浜間に鉄道が開通した明治五年(一八七二年)よりは、二十三年も早かった。
[#小見出し]万次郎から新知識吸収
その前、万次郎が十九歳になったとき、捕鯨船「フランクリン号」が、近日、日本近海へむけて出発するということをきいて、さっそくその船の乗組員に加えてもらった。「フランクリン号」は、東シナ海のクジラを追いながら、琉球についた。彼は前もって日本風のキモノやハチマキにする白布などを用意してきたのだが、上陸する決心がつかなかった。
このあと、奥州の沖合い二百五十キロばかりのところで、偶然にも日本の漁船群と出あった。そのうち二隻が「フランクリン号」のほうへ近づいてきたので、万次郎はキモノにきかえ、手ぬぐいで日本式のハチマキをして、甲板から大きな声で、
「お前さんたちはどこからきましたか」
と叫んだが、なん年ぶりかで日本語を話したので、舌がもつれて、よく通じなかったらしい。それでもくりかえしわめいているうちに、
「スンダイ、スンダイ」
という答えがあった。仙台≠フことだと気がついて、すぐボートをおろして船頭に、
「その船は土佐へ行かないか」
と尋ねたが、
「知らねえ」
といって、こぎ去った。多分、異国船にのっている怪しげな人間とかかりあいになりたくなかったのであろう。
その翌年、グァム島を経て、マニラに向う途中、突然船長が発狂した。全乗組員が投票で後任船長を選んだところ、一等運転士が当選し、二位の万次郎が副船長になった。
万次郎が金鉱に行ったのはこのあとで、約二か月間に銀六百枚をかせいだ。この金をもってハワイに行って、いっしょに遭難して助けられた仲間とおちあった。そしてアメリカの商船で日本へかえる相談をしたが、寅右衛門はすでにハワイ人と結婚していたので、ハワイにのこるといった。もう一人の若者の五右衛門も結婚してキリスト教の信者になっていたけれど、いっしょに帰国することになった。これを知って彼の妻は嘆き悲しんだが、あきらめて、また会える日がくるまで待つことになった。
一八五〇年、いよいよ帰国ときまると、万次郎は、船が日本近海を通ったとき、本船をはなれて上陸するため、帆柱一本ついたボートを一隻手にいれ、「アドベンチュア号」(冒険号)と名づけて、船につみこんだ。のちにこれが日本人の手ではじめてつくられた西洋式ボート、バッテラ≠フヒナ型となった。
翌年正月、船が琉球の沖合い五キロほどのところへきたとき、船をとめてもらって、万次郎らは「アドベンチュア号」で上陸した。こぎつけたところは、沖縄島の南端の小さな部落だったが、ことばはさっぱり通じなかった。そのうち薩摩の役人がやってきて、船で薩摩の山川港に送られ、そこからさらに鹿児島に送られた。
鹿児島では、藩主島津斉彬が万次郎らをねんごろにもてなした上、人ばらいをして、じきじきに取り調べをした。開国主義者で外国文化の取り入れに熱心だった斉彬は、アメリカの政治、教育、軍事などから、風俗、習慣にいたるまでくわしくきいた。伝蔵や五右衛門は、殿さまの前に出たというだけで、ろくに口もきけなかったけれど、万次郎はなにを問われてもはきはきと答えた。アメリカでは、人間の尊重は身分によってではなく、才能によってきまるといった。
この取り調べは四十八日もかかった。取り調べという形で、実は主として万次郎が身につけてきた新しい知識を吸収しようとしたのである。そして、こんどは長崎へ送られた。
長崎では、奉行|牧志摩守《まきしまのかみ》が主となって、三人の身もと、遭難から帰国までの事情はもちろん、蒸汽車=A電信機=Aアメリカ式算数≠ネどについて訊問し、くわしい調書をつくった。ハワイについては、
「メリケン得取り候えば、イギリス承知つかまらず、イギリス得取り候えば、イスパニア承知つかまつらず、いたって小国に候えども、いずかたへも属すこと相成り申さず」
と、各国勢力のバランスの上に立っていることをのべた。また日本とアメリカの関係については、
「いったい日本人は短気にて、彼の国は寛仁なるのみならず、ただいま開き中の国がらなれば、なかなか他国をうかがいとるたくみなど決してなし」
といいきっている。
取り調べがすむと、こんどは踏み絵≠ナある。万次郎はキリスト教の学校に通ったし、五右衛門は洗礼までうけていたが、なにくわぬ顔して、青銅のキリスト像の上に足をのせた。
これで、国法にふれる点はないということになったが、いちおう揚がり屋≠ノ入れられた。未決監だ。タ方になると、浄るり、傀儡《くぐつ》、祭文《さいもん》語りなどの芸人がやってきたというから、今の拘置所よりは待遇がよかったらしい。そして三日後に釈放された。
しかし、アメリカからもってかえったもので、「アドベンチュア号」をはじめ、ピストル、六分儀、砂金、洋書類などは没収された。その洋書のなかには、万次郎の愛読書『ワシントン伝』があった。
[#小見出し]自由民権の種まく
漂流という形で、より高い文化にふれるというのは、民族の素質テストの点では、製品のぬきとり検査≠フようなものである。留学のばあいは、育った環境、能力、素質などの上で、どっちかというと恵まれた条件のもとにあるものが、より高い学問、教養、技術を身につけるため、計画的に、一種の投資として、文化の発達した国へ出かけるのである。これに反して漂流は、決して本人が希望したのではなく、まったく偶然の幸運によって、九死に一生をえたものである。しかも、その大部分は、もともと文化や教養とあまり関係のない、いわば社会の底辺に属するものだ。
したがって、そういうものが高度の文化に接したときの反応は、留学のばあいよりも、民族的素質の深部につながっている点で、より大きな意義をもつことになる。
かくて万次郎らは、日本をはなれてから十二年目、琉球についてから一年半たって、生まれ故郷の土佐にかえりつくことができた。
万次郎の母はまだ生きていた。カルフォルニアの金鉱で自分で掘ってきた砂金は、長崎奉行にとりあげられたが、あとで日本の金に換算してかえしてくれた。母はこの金を押しいただき、涙を流して喜んだ。
土佐でも、藩主山内|豊信《とよしげ》(容堂)に召されて、同じようなことをきかれた。そのあと武士の末端に加えられ、苗字帯刀《みようじたいとう》をゆるされた。もはやジョン・マン≠ナはなく、生まれた部落の名をとって、「中の浜万次郎」となった。
万次郎にとって、大きな兇器を腰につけて歩くということは、ちっともうれしくないばかりか、逆に野蛮人になったような気がした。そこで、大小を手ぬぐいでしばり、手にブラさげて家にかえった。
この姿を見て、郷里の人々は、万次郎が思いがけない出世をして気がふれたのだろうといった。
そのうちに、彼は、藩校「教授館」に出仕を命ぜられた。名目は助教のようなものだが、海外事情にかんする知識と見識はずばぬけていたので、英語ばかりでなく、わからないこと、疑問に思う点はなんでもききにきた。そのなかには、吉田東洋、坂本龍馬、岩崎弥太郎、それから当時十五歳の後藤象二郎もいた。維新の変革で、薩長が優勝を争っているすきに、土佐が少数の精鋭分子をもって、一時はこれら両藩をリードし、けっきよく第三位にくいこむことができたのも、万次郎の知識に負うところが多い。のちに、土佐の藩論ともなった「合議政体論」をはじめ、明治初期の日本を風靡した自由民権思想は、万次郎のもたらしたアメリカ式デモクラシーとつながっている。つまり、漂流者万次郎が、アメリカからもってかえったデモクラシーの一粒のたねが、まず土佐でまかれ、それが日本的民主主義として成長し、明治二十二年の憲法発布、二十三年の国会召集となって、いちおう実を結んだということになる。さらに進んで、明治四十三年に「大逆事件」をおこした幸徳秋水にまでこれが尾をひいていると見られないこともない。
翌嘉永六年六月、ペリーが四隻の黒船≠ひきいて浦賀にやってくると、幕府は急にあわて出した。前に「モリソン号」や「マンハッタン号」がきたときには、大砲をぶっ放して追っぱらったけれど、こんどはペリーを久里浜で引見して、アメリカ大統領の親書をうけざるをえなかった。
このさわぎの最中に、十二代将軍|家慶《いえよし》がなくなって、幕府の内部では、老中阿部|正弘《まさひろ》の進歩・開国論と、水戸藩主徳川斉昭の保守・攘夷論とが、はげしく対立した。いずれにしても、この議論は、アメリカの国情、新しい世界情勢にたいする正しい知識の上に立って展開されねばならぬのに、幕府首脳部にはそれが欠けていた。
たまたま、その前年、アメリカからかえってきた万次郎の漂流談が、写本となって幾種類も世間に流布していたので、たちまち彼は時の人≠ニして大きくクローズアップされた。そこでさっそく土佐から江戸によびよせられ、二十俵二人扶持の御|普請《ふしん》役格ということで、いちはやく旗本にとりたてられた。
万次郎の起用を林大学頭(復斎)を通じて幕府に建言したのは、大槻磐渓《おおつきばんけい》である。彼ははじめ儒者だったが、蘭学に志し、「西洋砲術を学び、支那の文学を本業とし、西洋の武技を副業とし、文武両刀使いたらん」と決心して、そのとおりになった。
日本の外交については、磐渓は親露排英説を唱え、いちはやく開国説を主張した。もともと仙台藩の出身で、明治のはじめ、仙台を盟主にして奥羽諸藩が官軍に抗したとき、その宣言文などを起草したというので投獄、明治四年釈放されたが、その後は亡国の遺臣≠ニして生涯をおえた。明治から昭和にかけての碩学大槻|如電《じよでん》はその長男、国語学の権威で『大言海』の著者大槻文彦はその二男である。
[#小見出し]通訳の重要性を認めず
万次郎のような新知識の出現を誰よりも喜んだのは、幕末最大の兵術家江川太郎左衛門である。彼は高島秋帆などを通じて近代砲術を学んだが、その研究はなかば手さぐりのようなものであった。そこへ、アメリカの航海、測量、造船などの技術を身につけた万次郎があらわれたのだから、さっそく幕府に願い出て、名目は手附、すなわち助手だが、実は技師長として迎えた。そして、まず彼がもってかえった「アドベンチュア号」を長崎からとりよせ、これをモデルにして同じようなものをつくらせた。
来春またくるといって去ったペリーは、翌嘉永七年一月十四日、前よりも大規模の艦隊をひきいてまたやってきて、浦賀を通過し、江戸湾にイカリをおろした。幕府はペリーとの折衝役として江川を任命した。
江川は阿部老中を訪ねて、
「これまで通訳には蘭学者を用いていましたが、アメリカ人相手では、英語から蘭語へ、蘭語から日本語へと二重になるので、たいへん不便です。幸い、こんどは英語をアメリカ人同様に話せる中浜万次郎がおりますから、これを使いたいと思いますが、いかがでしょうか」
と伺いを立てた。阿部はこれに賛成したが、念のため他の閣僚にはかったところ、万次郎をいちはやく直参にとりたてたことを、苦々しく思っているものもあって、難色を示した。とくに強く反対したのは、水戸烈公(斉昭)で、阿部もこれをおさえることはできなかった。
こういうところに、幕府衰亡のキザシがあらわれているともいえる。当時、新しい世界情勢の認識においては、朝廷よりも幕府のほうがはるかに進んでいたことはたしかであるが、それでいて国内では、逆に、古い身分制度、古い特権をそのまま維持しようとする意欲も強かった。一方、朝廷を正面におしたてて、幕府を倒そうとする薩長側にもさまざまな矛盾が内在していたけれど、より多く古いものを背負いこんでいる幕府が敗北したということになる。
もしも、幕府が、通訳に万次郎を起用していたならば、このとき結ばれた神奈川条約の内容は、日本にとって、もっと有利なものになっていたのではなかろうか。このような時代の対外折衝においては、相互に正しい認識を欠いている点が多いのだから、通訳の演ずる役割りが、今とは比べものにならないほど大きかったのである。そういった認識さえも、幕府には欠けていたのだ。
それはさておいて、ペリーが幕府に献上したもののなかに、模型の蒸汽車や電信機があった。この蒸汽車は模型といっても、こどもがのれるくらいの大きさだったが、幕府の高官たちは客車の屋根にまたがってのった。それは、応接所の裏畑にしかれたレールの上を、一時間二十マイルのスピードで走った。ほんものの汽車を知っている万次郎にはおかしかった。万次郎の身分は低いけれど、知識の上ではとびはなれていて、いわば貴族であった。
安政二年正月、江川は五十四歳でなくなった。つづいて、阿部正弘も老中首席の地位を退き、二年後に三十八歳で死んだ。
ほろび行く組織のなかで生きることの望みを失った万次郎の心に、広々とした大洋への郷愁が頭をもたげてきた。もともと彼は漁師の子であり、アメリカの船にのって大きなクジラを追っかけまわしていたころの楽しい思い出がよみがえってきた。
ある日、彼は、江川の親友で同じような立場にあった川路|聖謨《としあきら》を訪ねて、幕府が捕鯨業を直営するように建言した。自分の体験に基づいて、この事業が莫大な利益をもたらすばかりでなく、海員養成のためにも役立つことを力説した。当時、勘定奉行の地位にあって、幕府の財政窮乏に悩んでいた川路はこれにとびついた。
安政四年十月、万次郎は箱館奉行の手附として、与力次席の待遇で箱館に赴任し、捕鯨事業の準備にとりかかった。二年後に「鯨漁御用」を命じるという辞令が出た。
そこで、まず必要なのは船だが、幸い幕府のスクーネル船(帆船の一タイプ)が一隻手にはいった。これはロシアの提督プチャーチンがのってきた軍艦「ディアナ」が下田で津波にあって沈没し、新しい船を伊豆君沢郡|戸田《へた》村でつくったときに、これに協力した日本の大工が同型の船を六隻つくったが、そのなかの一隻で、「君沢型一番御船」と呼ばれたものだ。
安政六年三月、万次郎はこの国産黒船¢謌鼾の船長として、小笠原近海にむかって出漁した。しかし、大きなあらしにあって、命からがら下田にかえりついた。この一度の失敗で、幕府はこの事業を放棄した。
その翌年すなわち万延元年、万次郎は遣米使節の通訳として、再度渡米したが、これについてはのちにくわしくのべる。帰国してみると、日本はたいへんな英語ブームになっていて、知識欲にもえた青年たちが彼のところへ殺到した。そのなかから、のちにそろって男爵となった細川|潤次郎《じゆんじろう》、大鳥|圭介《けいすけ》、箕作麟祥《みつくりりんしよう》をはじめ、明治日本の各界で活躍した多くの人材が出た。
[#小見出し]恵まれなかった万次郎
万次郎の家庭生活は、恵まれたほうではなかった。
本所亀沢町で剣道の道場を開いていた団野《だんの》源之進の娘お鉄と結婚したのは、万次郎が三十八歳、お鉄が十七歳のときであった。そのあいだに一男二女をもうけたが、お鉄はそのころ流行したハシカにかかって死んだ。
そのあと、樋口|立卓《りつたく》という医者の娘で、細川越中守の奥女中をしていたお琴と再婚して、二人の男の子をつくったけれど、これとは離婚した。晩年に三婚して、さらに二人の男の子をもうけた。
このように彼の結婚生活がうまくいかなかったのは、彼の人間形成がアメリカでなされたために、日本的な生活にしっくりととけこむことができなかったのではないかと思われる。
同様に、幕府の役人としての生活も、順調ではなかった。遣米使節の通訳として渡米したときには、使節団一同から、たいへん重宝がられたけれど、帰国して三か月たつとお払い箱になった。
その理由は、外人のパーティーなどに招待されると、どこへでも出かけて行くこと、日本人を見下している外人と対等でつきあっているということが、彼の上に立つ役人たちにとっては、お高くとまってあつかいにくいという印象を与えたのである。
彼はアメリカから、ウェブスターの大辞典をはじめ、裁縫用のミシン、写真器などを買ってかえったが、役人をやめて暇ができたので、写真の撮影をはじめた、といっても、希望者の求めに応じたという程度で、まだ職業化するにいたらなかった。現像用の薬品などは、書物に基づいて調合した。ただし、この写真器で人間を写すと、着物は左前にうつるので、刀を右の腰にささねばならなかった。
写真器を日本へ初めて輸入したのは、長崎の上野|俊之丞《としのじよう》である。現代写真術の発明者は、フランスのダゲールということになっているが、彼がダゲロタイプ法≠完成したのは一八三九年で、それから二年後の四一年(天保十二年)には、俊之丞が早くもこれを手に入れて、撮影を試みている。彼は煙硝製作所を経営していたので、この製品を薩摩藩に納めていたため、この珍しい機械を島津|斉興《なりおき》に献上した。そのあとをついだ斉彬が写真にこった話は有名である。
日本ではじめて写真屋を開業したのは、俊之丞の息子の彦馬《ひこま》で、文久二年のことである。当時は写形術≠ニいった。これによって、幕末、長崎に遊んだ維新の志上たちは、若き日の姿をのこした。明治十年、西南戦争がおこると、彦馬は官軍に従軍して、戦争の現場を撮った。日本の従軍カメラマン第一号である。
一方関東で、職業的写真家の創始者となったのは、伊豆の下田に生まれた下岡|蓮杖《れんじよう》である。彼は画家としてすでに一家をなしていたが、たまたま銀板写真を見て、こんなものができたのでは、毛筆で絵をかいているのはバカらしいというわけで、初代アメリカ総領事ハリスの通訳ヒュースケンから写真術を学び、慶応三年横浜弁天町で開業した。横山松三郎、鈴木真一、江崎礼二など日本写真界の草わけといわれる人々の多くは、彼の門下生である。
こういう長い伝統と歴史の上に立っているのだから、戦後日本の写真産業が、急激にのびて、西独やアメリカと世界市場を争うところまできたというのは決して偶然ではない。
ミシンについても同じことがいえる。裁縫の機械化は、十八世紀の産業革命以後、すでにイギリスでさかんに試みられたのであるが、これに画期的な改良を加えて特許をとり、大量生産をおこなって、月賦という新しい販売法で普及にのりだしたのはシンガーである。これも、万次郎によって、はじめて日本に輸入された。万延元年に遣外使節に選ばれて渡米した日本人の総数は、百五十名をこえていたが、アメリカのこういった新しい生活文化を日本にもたらしたものは、万次郎のほかにほとんどなかった。
元治元年十月、万次郎は薩摩藩に招かれて、航海術や英語を教えた。明治になると、開成学校(東大の前身)に二等教授として迎えられた。
明治三年八月、普仏戦争の現地視察のため、大山弥助(のちの元帥大山巌)、品川弥二郎、池田弥一、板垣退助らとともに、万次郎は欧州に派遣された。アメリカ経由だったので、ニューヨーク滞在中、万次郎だけは一行からはなれて、マサチューセッツ州のニュー・ベッドフォードに近いフェアヘブンに出かけた。命の恩人ホイットフィールド船長に会うためである。土地の新聞は、この二人の二十年ぶりの劇的な再会について書きたてた。
十月の末、一行はロンドンについたが、フランスでは、九月にセダンが陥落し、ナポレオン三世はドイツ軍に捕えられて帝政が廃止され、第三共和国が成立した。十二月には、西園寺公望《さいおんじきんもち》が留学のためパリについた。「パリ・コンミューン」として知られている革命政権が生まれたのは翌年の三月で、これは七十二日間つづいた。
[#小見出し]ルーズベルトとの奇縁
戦後、日本人の外国留学はさかんであるが、帰国後に日本の社会で生活するということを考えれば、幼少にして日本をはなれ、外人社会で人間形成がなされると、二世化、もしくは混血児化して、日本にかえってから、日本人社会に適応することがむずかしい。
日本そのものが、もっと国際化すればいいわけだが、現状では、早期もしくは長期にわたる外国留学は、当人にとってむしろ不幸である場合が多い。生活態度や、発想法が一般日本人とちがいすぎて、異分子あつかいされるからだ。これに反して、高校以上の教育を日本でうけたものは、少々長く外国にいても、帰国すればすぐもとの日本人になる。
明治四年春、万次郎はロンドンで足に潰瘍《かいよう》ができたため、一行に先んじて帰国した。その後の彼の生活は、あまりパッとしなかった。軽い脳出血をわずらったりしたからでもあるが、明治にはいって文明開化≠ェ一般化し、彼の稀少価値がうすれてしまったからであろう。なくなったのは明治三十一年十一月十五日で、七十二歳だった。漂流という異常な条件のもとに、日本民族の優秀な素質を発揮したという点で、彼はきわめて貴重な、砂金のような存在だったといえよう。
万次郎の長男|東一郎《とういちろう》は、明治十四年東大医学部を出た。森鴎外《おうがい》と同級で、北里柴三郎《きたざとしばさぶろう》よりも二年上である。内務省技師として防疫を担当、東京衛生試験所長となり、回生病院を設立した。
大正七年、東一郎は、亡父の恩人ホイットフィールドの出身地フェアヘブンの町に、ときの駐米大使石井菊次郎を通じて、日本刀ひとふりをおくった。
それから十五年たった昭和八年、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトから、東一郎のところにつぎのような手紙がとどいた。
「あなたはおそらくご存じないと思うが、わたくしはあなたのお父さんをフェアヘブンヘおつれしたホイットフィールド船長と共同で捕鯨船をもっていたワレン・デラノの孫であります。わたくしの幼いころ、デラノ家の家族といっしょに教会へ行った日本の少年について、祖父が話してくれたことをよくおぼえています」
いうまでもなく、彼は三十二代目の大統領だが、一九三三年から四五年まで、十三年間もその地位にあって、大統領四選というアメリカ史上空前の記録をつくった人物である。その間、三十年代≠フ大恐慌をニューディール政策をもって切りぬけ、周辺に進歩的な学者をあつめてブレーン・トラスト≠構成し、アメリカの伝統的国是となっていた自由競争の原則をすてて福祉国家への道を開いた。一九三三年にはソ連を承認し、第二次大戦がおこると、民主主義の兵器|廠《しよう》≠ニしての役割りを果たし、日本の真珠湾攻撃とともに、ついに参戦にふみきった。そしてチャーチル、スターリンを加えた三巨頭で大戦を指導してきたが、一九四五年、終戦を前にして、国際連合の生まれる二週間前に脳出血でなくなったことは、われわれの記憶に新しいところである。
この大統領は、かつての日本の最大の敵、日本を敗戦においこんだ下手人ともいえるのであるが、彼と日本人とのあいだには、中浜万次郎という一漂流者を通じて、このようなつながりをもっていたことを知っている日本人は、戦時中も今も少ない。
漂流者の話はこのへんでうちきって、遣外使節のほうにうつりたいと思うが、その前にもう一つつけ加えておきたいことがある。それは女性の漂流者もいたということだ。
安政六年(一八五九年)「小染《こそめ》」という江戸の芸者が、浦賀から船にのって上方に出かける途中、遠州灘の入り口で大あらしにあって、六十日間漂流しているうちに、乗組員はほとんど餓死してしまったが、彼女は奇跡的に助かってハワイに流れついた。アナタハンの比嘉和子《ひかかずこ》の幕末版みたいなもので、漂流中にも特別に優遇された結果かもしれない。
それに、彼女の上方旅行も、ただの見学ではなかった。もともと彼女は神田今川橋の大きな材木屋津之国屋惣兵衛のひとり娘だったが、美貌がわざわいして自ら進んで芸者になり、柳橋に出た。彼女には、二人の恋人があった。一人は、もと実家の小僧で、のちに寺侍となった美男、もう一人は与力で、彼女にしつこくつきまとい、ついに深い仲になったものだ。
ところが、寺侍は宮さまのお手もと金を費消し、与力はかくしていた身分がバレて、どっちも斬罪に処せられた。そこで、彼女は世をはかなみ、二人の恋人の菩提を葬うため、旅に出て遭難したのである。
その後、彼女はジャンセーという宣教師にサンフランシスコヘつれていかれ、信仰と教養を与えられ、保母となって、清らかな生涯をおえた。
そのころ、もう一人、女性の漂流者がいた。幕府の通訳として、小栗上野介などに重宝がられたミス・ハルマル≠アとお春がそれだ。彼女は鹿児島の漁師の娘で、これまたアメリカに流れついて帰国したものである。
[#小見出し]しらぬ国にも名をや残さん
安政六年九月十三日。
突然、江戸城|芙蓉《ふよう》の間に、正使|新見正興《しんみまさおき》(神奈川在勤のため赤松範忠《あかまつのりただ》が代理)、副使|村垣範正《むらがきのりまさ》、監察|小栗忠順《おぐりただまさ》の三人が呼びだされ、井伊直弼以下幕府首脳部がずらりとならんでいるところで、老中|間部詮勝《まなべあきかつ》から、日米通商条約の批准交換のため、アメリカヘ出張を命ずると申しわたされた。辞令は、老中脇坂|安宅《やすより》からわたされた。
村垣の日記によると、夕方家にかえってその話をしたところ、家族のものは、ありがたいことだといわずに、いかにせん、いかにせん、とうちしおれるしまつである。むかしの遣唐使の場合は隣の国だが、メリケンは一万里もはなれていて、昼と夜が日本とは逆になっているところだ。そういう土地へ、前例のない大任を負わされて出かけるというのは、男に生まれたかいがあるとはいうものの、万一君命をはずかしめようものなら、神州を汚すことになると思うと胸が苦しくなってくる。
玉の緒は君と神とにまかせつつ
しらぬ国にも名をや残さん
これが、日本官吏の海外出張第一号の心がまえである。三人の使節は、それぞれ九人の家来をつれ、総数七十七人の大一座だから、文字どおりに大名旅行だ。
乗船はアメリカのフリゲート艦「ポーハタン号」で、前の年の六月十九日、日米両国の全権によって条約の調印がなされたのも、この艦上においてである。それから八十七年後に、やはりアメリカの軍艦「ミズリー号」の上で、日本降伏の調印がおこなわれた。
フリゲートというのは、軽快で、しかも長距離の航海に耐えるようになっている軍艦で、第一次、第二次大戦中にも、その改良型が大量につくられ、船団の護衛や海上警備につかわれた。日本に海上自衛隊が創設されたとき、アメリカから貸与されたのもこれで、幕府の遣米使節をのせて行ったのと同じ系統の船が、軍備を放棄した日本海軍≠フ主力艦となっているのも、妙な運命のめぐりあわせである。
「ポーハタン号」には、病室から牢屋まで備わっていたが、日本人一行のため、甲板に飯たき所をつくってくれた。帆柱の近くには、食用のヒツジ、ブタなどがたくさん飼ってあった。
これとは別に、幕府の軍艦「咸臨丸」が、日本人の手で運転して太平洋をわたることになった。これは、三本マストの木造スクーナー型で、オランダから二万五千両で買ったものだ。軍艦といっても三、四百トンていどのもので、百馬力のエンジンがついていたけれど、燃料を大量につみこむことができなかったから、洋上に出ると帆走することになっていた。
この軍艦は、はじめ「日本号」といい、のちに「咸臨丸」と改めたのであるが、「咸臨」というのは『易経』から出たことばで「君臣互いに親しむ」という意味である。
遣米使節はアメリカの軍艦で行くことになっていたのに、別に日本の軍艦を仕立てるというのは、はじめ使節に任命されて、のちに取り消された外国奉行水野忠徳、永井尚志、目付津田|正路《まさみち》、加藤|則著《のりあき》が幕府に願い出たもので、一度却下されそうになったが、やっと許可になったのである。日本が黒船≠ノ驚かされてから七年、汽船の操縦を習いはじめてから、やっと五年にしかならないけれど、この晴れの舞台に出て行くのに外国の船だけにたよるという法はないというわけだ。幕府はおとろえたといっても、一部にはこういった意欲にもえたものがいたという事実を見のがすことはできない。
「咸臨丸」には、軍艦奉行木村|摂津守《せつつのかみ》(芥舟)、船将勝麟太郎(海舟)以下日本人九十一人がのりこんだ。このなかには福沢諭吉や中浜万次郎もいた。
木村は、当時三十歳の若さで、幕府の海軍長官ともいうべき地位にあった。浜御殿奉行の家に生まれ、十三歳で奉行見習を仰せつかったというから、よほどの秀才だったらしい。永井尚志のあとをうけて海軍伝習の監督になったのは、二十六歳のときだ。勝より七年も年少でその上にすわったのも、家柄のせいばかりではなかった。
勝にいわせると、「この人温厚にしてよく衆言をいれ、威権をはらざるをもって、多人数たりといえども、内に紛擾の憂えなく、みなそのところをえたり」というわけで、勝とのあいだもうまく行っていたようである。サンフランシスコの新聞でも、「頭上より足の指先まで貴人の相貌あり」と書いているところを見ても、申し分のないエリートだったことがわかる。
旅行中の諸雑費として、幕府から七千六百両と洋銀八万枚を支給されたが、木村は家から千両箱をいくつももち出して、海がひどく荒れたりしたときには、士官や水夫に金を与えて激励したり、労をねぎらったりしたので、同家の財産をこの旅行でほとんどなくしたという。
帰国後、木村は海軍所頭取に任ぜられたが、幕府が倒れてからは、新政府から召されても固辞してうけなかった。明治三十四年、七十二歳でなくなったけれど、三男浩吉は海軍にはいって少将まですすんだ。
[#小見出し]士官は無知、水夫は無能
福沢諭吉が木村摂津守の従者として、遣米使節団のなかに、わりこむことができたいきさつはこうである。
福沢は前の年大坂から出てきたばかりで、幕府の役人にはまったくコネがなかった。幸い桂川国興《かつらがわくにおき》といって、大坂の緒方洪庵《おがたこうあん》とならび称せられた蘭医の大家がいたが、桂川家と木村家は近い親類になっていた。福沢は大坂で緒方塾にいた関係で、江戸にくると桂川家に出入りしていた。そこで、桂川の紹介状をもらって木村をたずね、その希望をのべた。木村の家来でも、外国行きときいてしりごみをするものが多いのに、自分から進んで行きたいというのは感心だというわけで、さっそくお供のなかに加えてもらった。
さて、あすはいよいよ出帆という前の晩、福沢は同船のものと浦賀に上陸、妓楼でおわかれパーティーを開いたが、かえりがけに、廊下のタナの上にあった女郎のうがい茶碗を一つ失敬して船へもちこんだ。あとで海が荒れたとき、これに飯をいっぱいもり、その上に汁でもなんでもぶっかけて食べたが、たいへん役に立ったと自伝に書いている。慶応義塾の開祖でも、若いころはこういうことをやってのけたのだ。
水夫には、讃岐|塩飽島《しあくじま》出身のものが多くのりこんだ。この島は瀬戸内海交通の十字路にあたり、古くから海賊や水軍の根拠地として知られていたが、源平合戦や倭寇《わこう》にも、島人が多く参加し、秀吉の朝鮮出兵にも大きな役割りを果たした。そこで、徳川時代になっても、この島は大名の領地にはいれられず、人名《にんみよう》≠ニいう制度のもとに、幕府直属のご用役をつとめ、一種の自治が認められていた。
そのなかの一人で「帆仕立《ほじたて》役」の石川政太郎というのが、『安政七年日記』(この年三月十八日に「万延」と改元)をのこしている。水夫の書いたものではこれだけだが、文章も筋が通っているし、自筆のさし絵までついていて、貴重な資料である。
政太郎の弟の大助も、「咸臨丸」にのりこんでいるが、この兄弟の父利三郎は、国産の洋式軍艦第一号といわれる「鳳凰丸」ができあがったとき、塩飽の水夫三十人をひきいてのり組んだべテランである。政太郎がはじめて太平洋をわたったのは二十七歳のときで、帰国後は「幡竜《ばんりよう》丸」「黒竜丸」「回天丸」「翔鶴《しようかく》丸」「朝陽丸」など、幕府の軍艦にはたいていのっている。明治元年には、榎本艦隊に加わって箱館に脱走したが、その後横須賀造船所につとめ、十八年に「海軍四等工長」で退官した。明治維新史をあつかったものは多いけれど、その底辺に生きたこのような人物の生涯にふれたものは少ない。
「咸臨丸」には、十一人の外人がのりこんだ。このなかには、ブルック船長をはじめ、コキアサンという黒人もいた。
ブルックはアメリカの測量船「クーパー号」の船長で、前に浜田彦蔵などの日本人漂流者を見習い水夫としてこれにのり組ませ、日本に送りとどけようとしたことがある。彦蔵はひどい船酔いのためハワイで下船して、別な船で帰国した。その後、横浜でブルックとおちあったとき、ドールというアメリカの税関船の船長が彦蔵を面罵《めんば》するのを見かねて、ブルックはドールに決闘を申しこんだくらい親しい間柄となった。
そのころは日本の金貨がおびただしく海外へ流出しつつあるときであった。幕府の無知から、洋銀と日本の金貨、銀貨との交換率が、日本にとってきわめて不利になっていて、横浜や長崎の外人たちは、この交換のサヤだけで、最低五割から最高二十四割の利益をえていた。「ポーハタン号」乗組員は、この方法で三万ドルに相当する小判を手に入れて、香港にもち去った。
安政四年六月、幕府はやっとこれに気がついて、一人あたりの交換額に制限を加えたが、「クーパー号」乗組のソルバーン大尉のごときは、部下の名義を借りて、多額の交換をおこない、九千ドルもかせいだという。
ところで、ブルックが江戸へ行っている留守中、「クーパー号」が暴風のため浅瀬にのりあげ、修理もできないほど大破してしまったので、競売に付された。そこへ「咸臨丸」の自力渡航≠フ話がもちあがり、ちょうどいい機会だということで、万一の場合にそなえて、ブルック船長以下「クーパー号」の乗組員が、「咸臨丸」にのりこんで、アメリカヘかえることになったのだ。
これを進言したのは、軍艦奉行木村摂津守で、いざとなると不安になってきたのであろう。果たして、ブルックの日記によると、「日本人は出港の翌日には全員が船酔いでたおれてしまい、士官はさっぱり無知だし、水夫は無能で使いものにならず、司令官までが航海いっさいをブルックにたよりきっていた」というありさまだった。
それでも、日本の軍艦で日章旗をかかげて外国にわたったのは、これがはじめてである。
[#小見出し]大気炎の福翁自伝
この航海のために、「咸臨丸」につみこんだ品々は、『海軍歴史』によると、ざっとつぎのとおりである。
米七十五石、水百石、灯油一石、ロウソク千丁のほか、用紙、薪炭、ミソ、ショウユ、ウメボシから、ホウキ、付け木にまでおよんでいた。別に、アメリカ人の食用のため、ブタ二頭もつんでいたので、船内は足のふみ場もなかったらしい。水夫はみな筒袖《つつそで》にワラジばきで、ワラジをなん千足も用意して行ったが、サンフランシスコについてから、勝艦長が奮発して、長グツを一足ずつ買ってやったので、いくらか船員らしくなったという。
それでも、日本人一行の意気ごみは大したものだった。福沢諭吉はその自伝において、
「少しも他人の手をかりずに出かけて行こうと決断したその勇気といい、その技術といい、これだけは日本国の名誉として世界に誇るに足る事実だろうとおもう。航海中はいっさい外国人の甲比丹《カピタン》(大将株)ブルックの助力はかりないというので、測量するにも日本人自身で測量する。アメリカ人もまた自分で測量している。たがいに測量したものを後で見せるだけの話で、決してアメリカに助けてもらうということはちょっとでもなかった。それだけは大いに誇ってもよいことだと思う。今の朝鮮人、支那人、東洋ぜんたいを見わたしたところで、航海術を五年学んで太平洋をのりこそうというその事業、その勇気のあるものは決してありはしない。それどころではない。昔々ロシアのピョートル大帝が和蘭《オランダ》に行って航海術を学んだというが、ピョートル大帝でもこのことはできなかったろう。たとえ大帝は一種絶倫の人傑なりとするも、当時のロシアにおいて、日本人のごとく大胆にしてかつ学問思想の緻密《ちみつ》なる国民は容易になかろうと思われる」
といった調子で、大気炎をあげているが、これは前にあげたブルックの日記とはかなりくいちがっている。それどころか、ブルックの日記では、日本人の無経験による不手際《ふてぎわ》にはあきれかえったとか、あらしがやってきたときに帆の上げ下ろしがぜんぜんできないとか、舵手《だしゆ》は向かい風のときの舵のとりかたを知らぬとか、船内での秩序がまったく見られない、といったようなことがあちこちに書かれている。
ところで、福沢のこの自伝は、口述速記に手を加えたもので、これが『時事新報』に掲載されたのは、明治三十一年七月一日から翌年二月十六日までである。いうまでもなく、当時の日本は日清戦争に勝ち、日露戦争を前にして、民族主義、愛国心が最高潮に達しようとしていたときである。したがって、これを口述している福沢の頭には、日本人の自信を強め、自尊心を高めようとする意図のあったことは明らかである。朝鮮人、支那人と比較したり、ロシア民族の偶像となっていたピョートル大帝を引きあいに出したりしているのを見ても、それは明らかである。
意識的に事実をまげようとするつもりはなかったとしても、前述の意図に基づいて筆がすべりすぎたか、彼は航海中ほとんど船室にいて技術的な面に接することがなかったためか、どっちかであろう。
いずれにしても、ブルックの記述は日記で、他人に見せるために書かれたものでないのに反し、福沢のほうは三十八年後に、国民大衆を目あてに書いた思い出話である。福沢にしても、当時の生々しい体験とそこからくる鮮烈な印象を日記の形で書きのこしていたならば、認識不足に基づく見当ちがいがあったとしても、内容はもっと別なものになっていたにちがいない。
この場合に限らず、日記の記録的、資料的価値はそこにある。時≠ヘいつも政治性を加えるものだという一つの見本的ケースだといえよう。
といっても、ブルックが日本人の能力をまったく認めなかったわけではない。中浜万次郎の通訳としての能力や人柄には、最大級の賛辞を呈し、外人乗組員と日本人のあいだがうまくいって、事故らしい事故がなかったのは、万次郎に負うところが多いことを認めている。また、日本人乗組員のなかでは、測量を担当した小野友五郎に、「優秀な船乗り」として折り紙をつけている。
小野は常陸笠間藩士で、安政二年、幕府が長崎に「海軍伝習所」をつくったときの第一期生である。二年後、築地に「軍艦操練所」ができると、彼はそこの教授に迎えられ、航海術、蒸汽学、造船学、洋算などを教えた。文久三年には、石川島で日本最初の蒸汽軍艦である「千代田」をつくった。維新後は工部省に仕えて、東京・横浜間の鉄道など、諸鉄道の測量に従事し、明治三十一年八十一歳でなくなった。
ところで、「咸臨丸」は、万延元年一月十三日、「ポーハタン号」より早く品川を出帆して、サンフランシスコに直航し、二月二十二日無事到着したが、どっとおしよせてきたアメリカの新聞記者にたいし、ブルックは日本人の技術をほめたたえた。
[#小見出し]咸臨丸に絶大の信頼感
戦後の日本では、海外旅行者への外貨の割り当ては、制限をうけているし、日本金も自由に持ち出せなくなっているが、香港、シンガポールなどに行くと、両替店が軒をつらねていて、ごくかんたんに円を外貨にかえることができる。ここで日本人旅行者の多くは、腹巻きから円を出してドルにかえるのであるが、とくに日本の中小企業の社長級の団体がやってきたときは壮観である。
一人あたり平均百万円の両替えをするとしても、三十人なら三千万円、五十人なら五千万円がどっと流出するわけで、そのため円が市場にダブついて下落する。外国人がこれを買って日本に行くと、日本で正式に円を入手するよりは、一割ないし二割安くなる。
「ポーハタン号」や「咸臨丸」でアメリカヘ行くことになったものの手当ては、はじめての海外出張なので、どれくらい出していいか、幕府としても見当がつかなかったけれど、けっきょく長崎出張の二倍ということにきまった。
しかし、そんなことでは向こうで買い物ができないし、何を買ってかえっても日本では珍しがられ、大いにもうかるということはわかっていた。木村摂津守のように千両箱をいくつも船にもちこんだのは例外だとしても、各自があつめられるだけの金をかきあつめてきたことは明らかである。そういった面では別に制限はなかったらしい。
ところが、日本をはなれると、連日悪天候がつづき、百馬力のエンジンがついていても、これを使うのは港に出はいりするときだけで、あとは帆走しなければならぬ「咸臨丸」のごときは、まるで木の葉のようなもので、四隻つんでいたボートの二隻までが波にさらわれてしまった。
福沢は木村の秘書のような形で身辺の用を弁じていたが、ある朝、木村の室に行ったところ、室いっぱいにドル貨が散乱していた。前夜の大あらしで、袋に入れて戸棚につみあげてあったのが、戸や袋を破ってとび出したのである。むろん、当時の日本人には外国為替などという考えがなかったから、必要と思っただけの金額を現金でもって行ったのだ。
船に強い福沢は、いくらゆれても平気で、こんな冗談口をきいていた。
「これは、なんのことはない、牢屋《ろうや》にはいって毎日毎夜大地震にあっていると思えばいいじゃないか」
それというのも、一つは身体が丈夫だからでもあるが、それよりは彼の精神力、というよりも、
「西洋を信ずる念が骨に徹していた」からで、「船が沈もうということはちょいとも考えたことはない」と書いている。
西洋文化にたいする信仰が、このように強く、純粋な形であらわれた例は珍しく、これが明治日本の原動力となったのだ。
この安心感は、この船にブルックという航海術に秀でたアメリカ人がのっていることに基づいているのであろうか。それとも、習いたての日本人の技術を、それほど信用していたのであろうか。ほんとはそのいずれでもなく、西洋文化を代表している「咸臨丸」という船に絶大の信頼感を抱いていたのであるまいか。
ところが、実はこれはオランダが古材でつくったボロ船で、サンフランシスコに入港すると、さっそくアメリカ海軍のドックに入れ、二万五千ドルもかけて大修理をしたのである。そうでないと、かえりには使いものにならなかったのだ。
信仰≠ニいうのは、ある程度の無知につながる場合が多い。福沢の西洋文化にたいするこのような強烈な信仰も、西洋文化への認識が精度を増すにつれて冷却し、逆に民族主義的傾向が強くなってきている。
それはさておいて、この航海中、福沢がブルックの態度にひどく感激したことがある。この船にのりこんでいるアメリカ人水夫が水を濫費《らんぴ》するのを見て、ブルックに訴えたところ、彼はいった。
「その現場を見つけたら、すぐその場で射殺してください。共同の敵ですから、説諭したり、理由をきいたりする必要はありません」
これをきいて、福沢の頭に、これまで日本にはほとんどなかった新しい道徳、公共精神、共同の敵≠ニいう概念が強く深くうえつけられたのである。
一方、船将≠フ勝鱗太郎は、日本海軍の生みの親ということになっているが、船にはたいへん弱く、航海中は病人同様で、船室からはほとんど出なかった。それでもサンフランシスコにつくと、先方では祝砲をうってくるので、こちらもこれに応じなければならないということになった。しかし、勝にはその自信がなく、うちそこなって恥をかくよりはうたぬがよいといった。すると、佐々倉桐太郎《ささくらきりたろう》が、「うてないことはない、おれがうってみせる」といいはった。そこで勝は「バカいえ、きさまたちにうまくうてたら、おれの首をやる」とまでいったけれど、結果は実にみごとだったので、佐々倉は「勝の首はおれのものだ」といばり出した。
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[#中見出し]遣米使の見たハワイ
――太平洋同盟の話もあった日本とハワイの意外に深い関係――
[#小見出し]文明に敗れた島
正使一行をのせた「ポーハタン号」というのは、六年前の安政元年三月二十七日、吉田松陰が密航を企てて失敗したアメリカの軍艦である。二四〇〇トン、乗組員四百名、外輪の蒸汽船で、「咸臨丸」とは比べものにならない。
これもはじめはサンフランシスコヘ直航する予定であったが、途中逆風にあって難航をつづけたため、燃料補給と修理の必要から、ホノルルに寄港することになったのである。
太平洋の楽園<nワイは、太平洋の十字路≠ナもある。ここの原住民はポリネシア系のカナカ族に属し、サモア人、タヒチ人、マオリ人につながっているが、メラネシア人やミクロネシア人よりも、文化の程度は高い。ハワイという島名は、むかしここへたどりついたハワイ・ロアという曾長からきているというが、かれらはずいぶん古くから、二隻つなぐことによって安定性を加えた二重カヌー≠のりまわし、三〇〇〇キロも隔てたタヒチ、ニュージーランドなどの島々とのあいだに一定の航路を確保していたともいわれている。この二重カヌー≠フ船団には、多数の家族はもちろん、長期の航海に耐える食料や飲料水、家畜などもつみこんでいたらしい。現に、かれらの古い歌には、南方の島々の名が多く読みこまれているという。その後、約五百年間、他の島々との交渉が絶えてしまったようであるが、その原因や事情を知る手がかりになるものは、なんにものこっていない。
ホノルルというのは、ハワイ語の Hono(豊富)LuLo(平和)という二つのことばから成り立っている。
ハワイは一七七八年イギリスの有名な航海者キャプテン・ゼームス・クックによって発見されたということになっている。しかしその前にイスパニアの船がここについて、その報告を本国に出している。また一六〇〇年、すなわち関ヶ原の役のあった年、豊後の海岸に漂着し、徳川家康に仕えて二百五十石を給せられ、三浦|按針《あんじん》という日本名を名のって、日本で死んだイギリス人ウィリアム・アダムスは、一五九九年四月、オランダ船「チャリティ号」で航海中、暴風雨にあって見知らぬ島についたが、この島はハワイ群島の一つであろうと、その手記のなかに書いている。
クックがハワイについたころ、ハワイ諸島は三つにわかれて争っていたが、一八一○年、酋長カメハメハがこれを統一して、王国を建設し、ホノルルを首府とした。
もともと、この島には、文宇がなく、ただ点と線と、それに人間や物をかたどったもので、用を弁じていた。それに鉄というものがぜんぜんなく、まだ石器をつかっていた。そういうところヘクックがきて、鉄製のナタを一個発見したのであるが、多分これは日本の漁師が漂着したときにもってきたものであろうといわれている。
翌年、クックは原住民に殺されたが、彼はこの島をサンドウィッチ島≠ニ名づけた。当時のイギリス海軍長官でサンドウィッチ伯≠フ異名をとったエドワード・モンターギュ伯爵にちなんだものだ。
その後、この島は英、仏、米、露、西の各勢力のバランスの上に、辛うじて独立を保っていたが、原住民の数は減少する一方であった。久しく楽園$カ活になれて、勤労意欲も抵抗力も欠いているところへ、新しい文化とともに新しい伝染病がもちこまれたからである。
一方では、砂糖の需要が増大するにつれて、アメリカその他の外国資本が投入され、労働力の不足をつげたので、外国移民を入れる計画がすすめられた。まず大量にはいってきたのは中国の苦力《クーリー》で、それはドレイにひとしいものであった。
中国人は、ハワイのことを檀香山≠ニ呼んでいる。かれらのくる前、この島は中国人の珍重する白檀、紫檀、黄檀などでおおわれていたのであるが、たちまちこれを切りつくしてしまった。そしてこの白檀ブーム≠ェ、あらしのようにすぎ去ったあと、のこったものは、ただ貧困だけであった。
白檀の前には、北方から毛皮業者がやってきて、ここで取り引きをおこなっていたが、白檀がなくなってからは、捕鯨基地として繁盛した。浜田彦蔵や中浜万次郎がきたのはこの時期である。しかし、まもなく捕鯨業もおとろえて、産業の重点を農業に切りかえる必要にせまられた。
こういった情勢のもとに、一八六〇年三月五日(以下洋暦にしたがう)、日本の使節団をのせた「ポーハタン号」が、ホノルルに入港したのである。
一時ハワイはイギリスに占領されたこともあるが、当時は立憲君主国として、米、英、仏など八か国の承認をえていちおう独立を確保していた。しかし日本とはまだ国交がなかったので、使節団は、上陸を辞退したのであるが、ハワイ王室では国賓として一行を迎えることになった。ホノルル駐在のアメリカ公使のあっせんもあったが、ハワイ王室のほうでも、日本との修好に、この機会を利用しようとする下心があったのだ。
ときのハワイ王カメハメハ四世は、第一世の孫で、王妃エンマ・ルークは、第一世に仕えた英国人ジョン・ヤングの孫娘である。
[#小見出し]王妃は大はだぬぎ
ハワイについた一行は、人家はもとより、草木鳥獣すべて見なれないものばかりで、竜宮にきたのではないかと驚いている。
四方の景色をながめると、春だというのに青葉が涼しく茂っているので、ホトトギスが鳴きはしないかと思い、朝夕の風の音に秋がふけたのかと疑い、おりおり時雨《しぐれ》もようで、雲がはしって村雨《むらさめ》が降ってくるさまは、四季の区別のつかぬ風景である。青葉を見てホトトギスを思い出し、スコールのことを「時雨」とか「村雨」とかいうことばで表現しているところが面白い。
ホノルルのホテルは板屋根二階づくりで、まわりに縁側(バルコニーのこと)がついているが、入り口は開き戸で総板敷き、へやごとに寝床があり、白い薄もの(シーツ)をかけている。「わが国の仏寺のごとし」とある。この式の建て物は、今のアメリカの都市にはほとんど見られないが、パナマのコロンとか、フィリピンのセブなどにはまだのこっている。
島の王カメハメハ四世が、日本使節団に会いたいといってきた。ことわるのも礼を失するというので出かけた。王といっても島の酋長≠フようなものなので、旅衣のままで行くことにしたと、副使の村垣が日記に書いている。
王は少し高い台の上に立っていた。黒ラシャの筒袖をきて、メリケンの風俗とかわらないが、金のタスキめいたものを肩にかけている。王妃は年のころは二十四、五、顔の色は黒いが、おのずから品格がある。両肩をあらわし、薄ものをまとい、乳のあたりをかくし、腰から下は美しい錦のハカマのようなものをまとい、首にはつらねた玉の飾りをつけて、生きたアミダ仏かと疑うほどである。そこで村垣はこんな歌をつくった。
わだつみの竜の宮ともいわまほし
うつし絵に見し浦島がさま
ご亭主はたすきがけなり おくさんは
大はだぬぎで珍客にあう
村垣は前に箱館奉行をしていて、へーツというアメリカ人の医者と知りあいになり、家のことなどで世話をしたが、その父親がホノルルにいて、村垣を自宅に招待した。ごちそうしたうえ、へーツの妹が「ビヤナ(ピアノ)という琴に等しい糸数条をおして音を発するもの」を演奏したが、オルゴールに似た調子である。やがて歌いはじめると、その声は「夜ふけてイヌのほえるがごとし」と書いている。
これがはじめて西洋の声楽を耳にしたものの感想である。こみあげてくる笑いをおさえかねて、そこにいた幼いこどもに手遊び(オモチャ)を与えて、これをまぎらしたという。
書店へ立ちよってみると、そこで新聞を印刷しているのが目についた。
「かたわらに一人が立って車をまわすと、数々の車が運転し、スミをつけるところもある。また紙をはさんで引き入れると、下より押しあげて文字あらわれ、そのままむこうへそらして、紙を入れかえれば、またはさんで引きこむ。すみやかに車をまわせば、見とどめるまもなく、見る見るうちに数百枚を刷りあげる。しかけの奇なること、筆にはつくしがたい」
かんたんな平版印刷機で、今なら日本のどんないなかの新聞社でも、もう見られないものだが、当時はたいへんな驚異だったのだ。
食べものについては、森田岡太郎の『亜行日記』に、ソーセージのことを書いている。
「豚の油煮ことのほか味よろしくおぼゆ。これは豚の腸のうちヒャクヒロ(百尋)の汚物をのぞき、豚肉の正味ヘコショウ粉を混和し、ヒャクヒロヘつめこみ、油にて煮候ものの由」
といってかれらは、何を見ても感心しているわけではない。村垣は「土地の産物は少しもなく、サツマイモを常食としている」と書いているが、日高為美《ひだかためよし》の『米行日誌』には「この地十二、三年以前までは、人家もまれにて人肉を食う」となっている。村垣の日記には同じ話が「百年前」のこととして出ているから、恐らく日高のききそこないであろう。日高は旗本で、文久二年の遣欧使節にも随行している。
「外国奉行所小買物用達伊勢屋平作の手代」としてこの遣米使節団に加わった加藤|素毛《そもう》の話をきいて、尾張藩士水野|正信《まさのぶ》の書いた『二夜語』によると、ホノルルでは、カ、ハエの多いのには困った。ニワトリは朝早くから嗚きたてて、「疲れし身にも眠られぬほどのことなり」といっているが、これも話が少し大きすぎるようである。もっとも、わたくし自身の体験では、先年、南米パラグアイの首都アスンションのホテルで、ニワトリの声をきいて目をさましたことがある。一国の首都の代表的ホテルで、ニワトリの声がきけるのはここくらいのものだ。
だいたいこれで、このころのハワイの実情が想像できる。
[#小見出し]位でいえば漁師の親方
日本人が日本のことをいう場合に「わが国」というのが普通である。ところが、戦前、日本の知識人のあいだに、日本を「この国」と呼ぶものがいた。新居格《にいいたる》などはそのいい例で、決して「わが国」とはいわなかった。コスモポリタンをもって任じている彼にとっては、日本を別格あつかいしないで、ほかの国々と同じ平面において客観的に見たほうがピッタリくると思ったのであろう。
これに反して、幕末遣外使節の日記などを見ると、日本のことを「御国」と書いている。
「御国にかえってこのよし言上する」といった調子である。中国人の中華≠ルどではないが、日本はりっぱな国で、日本人は優れた民族だという自信にあふれている感じだ。
「咸臨丸」はサンフランシスコに直航し、かえりにホノルルに寄港して、やはり王宮を訪ねているが、これにのりこんでいた福沢諭吉の目に、ハワイはつぎのように映った。
「土人の風俗は汚ないありさまで、一見蛮民というよりほかしかたがない。王さまにも遇うたが、これも国王陛下といえば大層なようだけれども、そこへ行って見れば、驚くほどのことはない。夫婦連れで出てきて、国王はただラシャの服をきているというくらいなこと、家も日本でいえば中ぐらいの西洋づくり、宝物を見せるというから何かと思ったら、鳥の羽でこしらえた敷物をもってきて、これが一番のお宝物だという。あれが皇帝か、その皇弟がザルをさげて買物に行くようなわけで、まあ村の漁師の親方ぐらいのものであった」
こういう点で、明治以後の日本人の考えかたはかわってきている。外国の王さまとか、王族とかにたいして、一種の錯覚にとらわれる場合が多い。今でもラオスやカンボジアの王室などは、このころのハワイの王室以上のものではないのであるが、王さまとか王族とかいうことばをきいただけで、日本人は催眠術にでもかかったような心理状態におちいるらしい。王族というとすぐ殿下≠ニいうことになるが、東南アジアやアラブ諸国など、古くから一夫多妻制度のおこなわれていた国々には、王室とつながっているものがおびただしくいる。タイなどでは、どこかに石を投げれば、イヌか坊主か殿下にあたるといわれているくらいだ。そのなかには、低い生活をしているもの、いやしい職業についているものもたくさんいる。
戦前、日本の華族のお嬢さんがエチオピアの王族と結婚することになったとかで大騒ぎをしたこともあるが、これは王族というものにたいする日本的な解釈から出たもので、この結婚が成立していたならば、たいへんな悲劇におわったであろう。自分でエチオピアという国に行って見て、わたくしははじめてこのことに気がついたわけだ。
したがって、ハワイの王さまの弟が、ザルをさげて買い物に出かけたとしても、別にふしぎでもなんでもないのである。一方、外国人のほうでも、当時の日本の皇室や将軍のありかたがよくのみこめなかったらしい。
日本を代表してアメリカと条約を結んだのは、将軍すなわち大君《タイクン》≠ナ、これが日本の主権者だと先方では考えていた。したがって、His Majesty the Tycoon,the Emperor of Japan(日本皇帝なる大君陛下)というのは、将軍を意味していた。ところが、日本人にはこの大君≠フ上にミカド≠ニいうのがいて、条約にはその勅許が必要だといわれ、アメリカ側では了解に苦しんだのである。
さらに、日本使節団の肩書きについても、アメリカの新聞は妙な訳語をつけた。つまり、正使新見豊前守、副使村垣淡路守、目付小栗豊後守のことを、
Prince of Buzen
Prince of Awaji
Prince of Bungo
といった調子で、すべてプリンス≠つかいしている。プリンス≠セとすると、世襲でなければならないという意見も出て、物議をかもしたけれど、けっきょく、この場合のプリンス≠ヘ、イギリスのデューク、フランスのマーキスに相当し、単なる称号にすぎないということで、けりがついた。また「目付」という職名の実体がつかめなかったらしく、Censor(監察官)、Advisor(顧問)、Spy(諜報者)などと訳している。
三月二十四日、使節一行がいよいよハワイを去るというときに、「ポーハタン号」の艦上で、おわかれパーティーが盛大に開かれたが、その席上、ハワイのウィリー外相が、日本の内裏さま=iミカド)と公方さま=iタイクン)の両方に敬意を表して乾杯している。当日発行のハワイの新聞にこの記事が出ているが、これは前もって通訳|名村五八郎《なむらごはちろう》に校正刷りを見せた結果、こうなったのだという。
アメリカ本土にわたってからは、「日本皇帝なる大君陛下」で統一している。この点は使節団のほうでも、ほおかむりで通したのであろう。
[#小見出し]日本皇族を婿に欲しい
「ポーハタン号」の使節団は六日間ハワイに滞在した。ホテルは一人一泊四ドルで、七十六人分だと一日三百四ドル、六日間で千八百二十四ドル、一ドルを金三分として、千三百六十八両となる。
勘定方の森田岡太郎がこれを支払おうとすると、ホテルでは、王室の招待客だからといって、うけとらなかった。王のほうに、日本と国交を結びたいという下心があったからだ。
「咸臨丸」がホノルルに寄港したときにも、本村摂津守や勝海舟が王宮に招かれたが、そのときの様子が『海軍歴史』にはつぎのようにしるされている。
「カメハメハ王は土人なれども、状貌雄偉にして、儼然国王の儀容そなわれり。式おわって懇話あり、またいわるるよう、明年は予日本皇帝を訪問し、貴国にいたるべし」
王は聡明で独立の意欲が強かったけれど、狂暴なところがあって、酒の上で従臣をうち殺したりしたが、ついに一八六三年、すなわち日本の使節と会ってから三年目に狂死した。彼の兄がそのあとをついでカメハメハ五世と名のった。これも九年後に死亡し、あとをつぐものがなくて、カメハメハ王家は断絶した。
政府首脳部が協議の結果、公選によって新しい王をきめることになった。これに立候補したのは、ルナリロとカラカウアの二人で、どっちも太平洋のナポレオン≠ニいわれたカメハメハ一世を補佐した名門の出身である。
開票の結果はルナリロの勝利となり、一八七三年一月、盛大な即位式をおこなった。閣員にはアメリカ系の人物を多く採用したが、在位一年余で早世した。そのつぎの公選で王位についたのは、歴代ハワイ王のなかで、日本との縁故がもっとも深いカラカウアで、カメハメハ四世の日本訪問の宿願も、この王によって実現された。
一八八一年(明治十四年)、カラカウア王は、国務大臣アームストロングと式部長官ジャットをしたがえて、世界漫遊の途にのばった。その目的はつぎの三点にあったと見られている。
第一に、世界を一周した最初の王になりたいという、いささかこどもじみた野心
第二、日本もしくはロシアと結んで、アメリカの併合をまぬがれ、ハワイの独立をたもとうとする計画
第三、ハワイ民族の衰亡を防ぐため、勤勉で生活力のさかんな他民族の血を移入したいという下心
第一の目的はつけたりで、王のほんとのねらいは第二、第三にあったことは、旅行中の彼の言動によって明らかである。しかし、これは彼の随員たちにも、極力秘密にしていた。
現にアームストロングの『世界漫遊記』によると、王はオーストリアのウィーンで、新聞記者と会見したさい、ヨーローパ諸国は連合してハワイ王国の独立を保障すべきであるとのべた。これをきいたアームストロングは驚いて、さっそくウィーン駐在のアメリカ公使に注進し、王がこういう不謹慎なことばを二度と口にしないよう警告させた。また王はロシアを訪問しようとする意思表示をしたが、随員たちが奇計をめぐらしてこれを中止させたという。
ところで、王は日本にくると国賓のあつかいをうけ、芝の延遼館《えんりようかん》に宿をとっていたが、随員たちには内密で、そのころ皇居にあてられていた赤坂離宮に、明治天皇を訪問した。三月十日のことである。
王は天皇にたいして、手厚いもてなしを感謝し、日本の文化をたたえ、日本の印象などあれこれと語ったあと、急にことばを改めて、重大な申し入れをした。それは王の姪《めい》カイウラニの婿《むこ》として、日本の皇族を迎えたいというのである。
これについて、明治日本が産んだ偉大な経世家で旅行者でもあった志賀重昂《しがしげたか》はつぎのごとく書いている。
「弊国固有の人民は、比年いよいよ減少し、西洋人はますます増加しきたり、この勢いよりおせば、弊国の命脈は今より測り知らるべし。あわれ、日本皇帝陛下には、この間の消息を酌量したまい、弊国の滅亡を未然に救われたし。しかるに我には王子なく、王姪カイウラニの存するのみなるに、このカイウラニは婉《しとやか》なる性質なれば、いずれ英国に修業せしめ、品格、学問を兼ねそなわらしめたるうえ、やがては王嗣と定め、我れ百年の後、ハワイに君臨せしむべし。ついては卒爾《そつじ》がましき申し分ながら、これに婿たるべきものを、日本の皇族中より申しうけられまじく候や。願わくば……」
というわけで、王のほうからもち出したのが、当時十四歳で海軍兵学校に在学中の|山階宮定麿 親王《やましなのみやさだまろしんのう》、のちの元帥海軍大将東伏見宮|依仁《よりひと》親王である。
[#小見出し]太平洋同盟の夢消える
このことについては、小笠原|長生《ながのり》の『聖将東郷平八郎伝』にも、つぎのようにのべられている。「山階宮定麿親王は、接待役として度々お宿をご訪問あそばされ、かれこれと王との間にお物語りがあった。王姪に若宮殿下を配して、王位を継承したいというのであった」
王は宮によほど親しみを感じたらしく、愛用のポケット磁石を記念としておくり、帰国後には乗馬をおくってきた。随員のアームストロングは、これについてつぎのごとくのべている。
「王はアメリカ合衆国が、近い将来にハワイ王国を征服するやもしれずという不安を抱いておられた。故に姪《めい》にあたらせられるカイウラニ王女に、日本皇室の親王を婿に迎えて王の後継となし、その結果として日本政府の勢力をいれて、米布合併運動を破らんとなされたのである。王は我々随員が、この計画に大反対することをご存じであったから、単独で秘密行動をとられたのである」
のちにアメリカの作家ジャック・ロンドンが、『コスモポリタン』という雑誌にこの物語りを発表して、全米に大きなセンセーションをまきおこした。むろんこれは、ハワイがアメリカに合併されてからのことであるが、当時のハワイ県庁の文書監督官ライデッカーは、この事実を否定し、架空の物語りにすぎないと発表した。その理由としては、
一、カラカウア王が日本を訪問したとき、カイウラニ王女はわずか六歳で、婚約話のおこるはずがないこと
二、ハワイ王国の憲法によれば、国王はその存命中に自分の後継者を指定しなければならぬことになっているが、当時リリウオカラニ王女がすでにその指定をうけていたこと
という二点をあげている。しかし、カラカウア王が日本の皇族を迎えたいという意思表示をした事実は、ラィデッカー自身も、のちには認めざるをえなかったという。
カラカウア王は、このように日本の皇族を熱望したというのも、明治天皇を盟主にして太平洋同盟≠フようなものをつくり、これによってアメリカヘの吸収合併をまぬかれようとしたことは明らかだ。
当時、この申し出にたいして、明治天皇は三条実美、岩倉具視などの重臣たちとご相談になったが、日本の皇族と外国王族との婚儀は前例がないという理由から、これは辞退するほかはないということになった。この返事をもって、王の接待にあたった式部長官長崎省吾がハワイを訪れた。王の提案した太平洋同盟≠焉Aそのころの日本の地位、実力、国際情勢などからいって、おいそれとのり出すわけにいかなかったのである。
しかし、カラカウアにしてみれば、開国後の日本の目ざましい発展、強い独立意欲、国民と皇室の一体化した姿を見て、ハワイもこの方式で進もうと考えたらしい。そして帰国後まもなく、王は神の子孫であるという宣伝をはじめるとともに、王の威厳を加えるため、大金を投じて盛大な戴冠式を挙行する計画を立てた。
王位についてからすでに六年もたっているのに、いまさら戴冠式でもあるまいと、アームストロングなどは強く反対して、ついに辞表を出すところまで行った。それでも、王は腹心の議員たちを動かして、その費用の支出を国会で可決させた。この戴冠式に、日本からは杉|孫七郎《まごしちろう》が特命全権公使として派遣された。杉は下関戦争のさい、高杉晋作らとともに休戦交渉のため外艦におもむいた長州藩士で、のちに子爵を授けられ、枢密顧問官となった。
ところで、この太平洋のロマンス≠ェ実を結んでいたとすれば、その後の日米関係はどうなっていたであろうか。
ハワイは王室を通じて日本と結びつき、のちには朝鮮の場合と同じように、日本との合邦にこぎつけたかもしれない。そうなれば、日本軍による真珠湾攻撃もなく、したがって「太平洋戦争」はさけられたであろう、という見方も成りたたぬことはない。
だが、実際問題としては、このような日本とハワイとの接近をアメリカが黙って見のがすはずはなく、太平洋戦争≠フずっと前に「日米戦争」のおこる公算のほうが大きかったと見るべきであろう。
一八九八年、キューバ島の問題からアメリカはスペインと戦い、フィリピンを占領してその領土としたが、アメリカにとってハワイは、太平洋のキューバ≠ナある。またハワイの軍事的、経済的価値はフィリピンの比ではない。
現に、米西戦争の結果、マニラとの連絡の上で、ハワイの軍事的価値が急に高まり、一八九八年八月十二日、アメリカはついにハワイを合併するにいたった。
それより前、カラカウア王は、妹のリリウオカラニに王位をゆずって隠退していたが、一八九一年サンフランシスコで死亡、それから八年後に、カイウラニ王女も胸をわずらって二十三歳でなくなった。
[#小見出し]明治四年に通商条約
日本の文献にハワイがはじめて登場したのは、一八〇四年(文化元年、家斉時代)仙台領寒風沢の船頭浅太夫が漂流したときの見聞記である。
「島の長さは伊豆の大島ほどもあるべきか。男は髪を残切《ざんぎ》りにし、その甚だ奇怪なるは、前歯二枚をぬきたり。丈けは日本人ほどあるべし。女は髪長く、額上のところ少し残切りにし、そのあとの髪の毛真白なり、これ自然なるか、また白きものをつけたるか、確かに見とめず。木の皮のごときものを前へまきつけたり」
これはカメハメハ一世が全ハワイを統一してまもないころで、当時の風俗や生活の程度がわかる。前歯をぬいたりしているのは、そのころコレラが流行して、酋長たちが多く死んだため、こういう形で喪に服していたのだという。
ハワイヘの日本移民は、一八六八年(明治元年)、日本駐在のハワイ領事バン・リードが、八方奔走してかきあつめ、百五十三名送ったのが最初である。これは元年者≠ニ呼ばれ、たいへんな物議をかもしたものだ。
この前の年、ハワイ王カメハメハ五世は、日本と通商条約を結ぼうとして、国書を日本政府に提出したが、ちょうど政権の交代期で、日本側はそんなことどころではなかった。このドサクサまぎれに、バン・リードは徳川幕府から許可をとって、日本移民を英国船にのせてしまったのだが、乗船後三日目に、政権は明治政府の手にうつったのである。
このときの雇用条件は、食事つき一か月四ドルで、三年契約になっていた。慶応四年二月、柳河春三《やながわしゆんぞう》の創刊した『中外新聞』によれば、これは「黒奴売買の所業にひとしきこと」であった。新政府でも、「わが国民を掠奪した海賊的行為」だとして非難した。
そこで、新政府の外国事務総督|東久世通禧《ひがしくぜみちよし》が主となって、この移民をよびもどすとともに、バン・リードを国外に追放することを考えたが、治外法権≠フ壁につきあたり、どうにもならなかった。一方、ハワイの移民たちからは、ひどい労働と暑さに耐えかねて救いを求めてきたので、上野|敬介《けいすけ》(景範)と三輪|甫一《もとかず》がハワイにむけて出発した。軍艦を派遣しようという説も出たが、それはどのこともあるまいというので、外輪船「ジャンソン号」で横浜を立って、まずサンフランシスコに直航した。
サンフランシスコでは、前に「咸臨丸」にのりこんで遣米使節を送って行ったブルックが、日本領事を嘱託されていたので、これと打ち合わせの上、ホノルルにおもむいた。
この談判は、かんたんにはいかなかったけれど、けっきょく、約四十名の帰国希望者は日本側の負担で日本に送りかえし、残留者は契約期限終了後にハワイ政府の費用で日本にかえすことに話がまとまり、米国公使と英国領事を保証人として調印した。バン・リードは日本側の抗議で免官となった。
このように日布関係は、出発点において大きなつまずきを見せたが、それでも明治四年、日布修交通商条約が結ばれた。この交渉は、米国公使デロングがハワイ公使を兼任していて、その手でおこなわれた。
カラカウアの太平洋同盟≠フ夢が破れたことは前にのべたが、せめて日本から移民を多く入れたいという王の意思に基づいて明治十七年、両国政府の契約にしたがい、日本からハワイヘ、多数の移民が送りこまれた。官約移民≠ニ呼ばれているものがこれだ。
このことで大いに尽力したアルウィンというのは、幕末に横浜で開業していたアメリカの商館「ウォールシ・ホール」の書記で、のちに三井財閥の大番頭となった益田孝も一時そこにつとめたこともあり、アルウィンと親しかった。益田はアルウィンから、どの地方の日本人が移民に適するかときかれ、広島県と山口県大島郡のものならまちがいない、熊本県人はよく働くけれど、事件をおこす心配があると答えた。結果はその通りだったと、益田はその自伝のなかでのべている。
五十歳でカラカウア王のあとをついだリリウオカラニ女王は、男まさりの女丈夫で、前王の志をつぎ、王権の拡張を計り、その独裁制を強化するため、憲法改正に手をつけようとしたが、内外の情勢は王室にとってますます不利となった。一八九二年、議会で王党と民党が正面衝突し、ついで開かれた国民大会では、女王および閣臣の不信任が決議され、ハワイ王朝は、ついにさいごの幕をとじるにいたった。
そのあと、すぐ臨時政府が組織され、米国と合併することがハワイにとっての最善の道であるという宣言をおこなった。これより前、アメリカは軍艦「ボストン号」をハワイに派遣し、在留米国市民保護の名目のもとに、陸戦隊を上陸させて、王党派の動きを牽制《けんせい》した。
強大国が弱小国を併合するときの手口は、いつでも、どこでも、だいたい同じであることがこれでわかる。ただし、ハワイの合併が実現したのは、これより六年後のことである。ここまでくれば、アメリカとしてはそうあわてる必要もないので、より民主的≠ネ手段を選んだわけだ。
[#小見出し]女王が「アロハオエ」を作曲
ハワイ王朝は滅びたが、いつまでも滅びないで、ハワイにのこっているものが一つある。それは有名な「アロハオエ」という歌だ。この作詩作曲者は、ハワイの最後の王となったリリウオカラニ女王である。
一八七八年というと、女王が王位につく前のことだが、数人のお供をつれて、乗馬で遠出を試みた。かえりがけに、一軒の田舎家に立ちよってひと休みした。そこで、まごころのこもったもてなしをうけた。一行はあつく礼をのべ、くびにレイをかけてもらって、その家を出た。
しばらく行って、人数が一人欠けていることに気がついた。ふりかえってみると、ボイドという王室付きの若者が、休んだ家の門のところで、美しい娘にレイをかけられ、愛情のこもった抱擁をつづけている姿が目についた。
これを見て王女は、たいへん心をうたれたらしく、黙々と馬をすすめていたが、ヌアヌという谷にかかったとき、口のなかで何かつぶやいているようであった。ウィルソンという侍臣が、これに気がついて尋ねた。
「いまおうたいになっている歌は、なんというのですか」
「ちょっと心に浮かんだままをうたったまでよ」
と彼女は答えた。それからけわしい峠をこえて、また一休みということになった。そこで王女は、新しい歌ができたことを披露し、自分で歌ってみせた。
※[#歌記号、unicode303d]また会う日まで、
君がかいなに抱かれて――
侍臣たちは、この魅惑的な歌詞と美しいメロデーに感動し、口をそろえて歌った。そこから王宮にたどりつくまで、これをくりかえしうたっているうちに、すっかりおぼえてしまった。
その夜、王女はこの歌をハワイ語で書き、ウィルソンに見せて、その英訳を求めた。ハワイの代表的名曲「アロハオエ」はこのようにして生まれたのである。
それはさておいて、一八九二年ハワイの王制が廃止されてから、一八九八年アメリカに合併されるまでの六年間は、ハワイの国情のもっとも不安定な時代であった。アメリカが居留民保護の名目のもとに軍艦「ボストン号」を派遣し、陸戦隊を上陸せしめ、この民主革命≠側面から援助したことは前にのべたが、日本も巡洋艦「浪速《なにわ》」をホノルルに特派した。一八九三年(明治二十六年)のことだ。
当時、ハワイの日本人はおよそ二万五千人で、全人口の約四分の一をしめていた。王朝の倒れたあとに、臨時政府ができたのであるが、これはアメリカのロボットであった。国内の秩序はみだれ、日本人の生命、財産は危険にさらされているというので、急に軍艦を送ることになったのである。その軍艦の艦長は、のちに日本海海戦で国民的英雄となり、世界的名声をはせた東郷平八郎《とうごうへいはちろう》元帥で、そのころは大佐であった。これにはまた、かつてカラカウア王からカイウラニ王女の婿にと懇望された山階宮定麿親王が、海軍少尉小松宮依仁親王となってのりくんでおられたのも、ふしぎな縁であった。
その前に日本の練習艦「金剛」が、サンフランシスコから回航していた。アメリカの軍艦も、「ボストン号」のほかに、「モヒカン号」、「アリアンス号」をつけ加え、無言の威圧を加えていた。
そこへ突如として「浪速」が姿をあらわしたことは、大きなセンセーションをまきおこした。日系移民はもちろん、王党派や原住民も、救世主を迎えたように喜んだ。このように日米の軍艦がホノルル港内にならんでイカリをおろしているという状態が、なんか月もつづいた。
ある日、王党の首領と旧閣員が四人もそろって「浪速」に東郷艦長をたずね、一時間ばかり懇談してかえって行った。そこからいろんなデマが発生してみだれとんだ。近く日本がハワイを占領するとか、東郷がリリウオカラニ前女王の黒幕となって策謀しているとか、いうのがそれだ。
もっと具体的なのになると、ホノルル付近の日系移民のなかには、日本海軍の後備役が千人以上もいて、「浪速」から信号が出るやいなや、すぐかけつけて日本水兵と合流し、武装蹶起してホノルルを占領することになっているといったような風説が、まことしやかに流された。新聞も筆をそろえて、日本の脅威≠ノついて書きたてた。
それでも、ハワイの状態がいちおう平穏に復したので、「浪速」は日本に引きあげた。その翌年、王党と原住民党がいっしょになって反乱をおこしたけれど、すぐたたきつぶされ、王政復古の夢は完全に消え去った。
[#小見出し]トーゴーは超人の代名詞
昭和十一年ごろ、わたくしは台湾、フィリピンから、パラオ、ヤップ、テニアン、サイパンなど、当時日本の委任統治になっていた内南洋諸島を回遊したことがある。島内を車でまわっていると、「南洋庁農場」という標柱が立っているところが、実は飛行場であったり、格納庫に「農業倉庫」の看板が出ていたりして、戦争への準備工作がすでに着々とすすんでいる姿が目についた。
パラオ島で、公学校≠キなわち原住民の小学校を参観したところ、わたくしたちを迎えるために、学芸会がおこなわれていて、児童の習字や図画が陳列されていたが、いずれも予想外にうまいのに驚いた。それよりも児童の作品に書いてある名前がふるっていた。かれらには姓がなくて名前だけが書かれているのだが、そのなかにはナポレオン、ビスマークをはじめ、古今東西の英雄の名がほとんどそろっていた。イトウサン、タナカサン、ヨシエサンなど、たぶん親たちの知りあいの日本人の名と思われるものを、しかも「サン」つきでつかっているのに興味を感じた。なかでとくに多く目についたのは、トーゴーゲンスイとノギタイショウで、これまた「ゲンスイ」や「タイショウ」をつけたまま名前になっているのだ。たぶん日本人からきいた話のなかで印象の深かった人物の呼び名をそのまま自分の子につけたのであろう。
東郷が「浪速」艦長としてハワイを訪れたときも、同じような現象がおこった。そのころ生まれた原住民のこどもには、トウゴウ、ナニワ、エイユウということばが超人≠ニか偉大≠ニかいう意味にも用いられた。内南洋の原住民も、ハワイ人と同じカナカ族で、心理的に共通点があるのかもしれない。
東郷が世界的英雄となったのは、日本海海戦以後のことであるが、当時すでに大東郷%Iな素質が彼の人柄にあらわれていたのであろう。同じ傑出した日本型の軍人でも、東郷や乃木は、シンガポールで敵将パーシバルを威圧した山下|奉文《ともゆき》などとはちがった型に属している。とくに東郷は、西郷隆盛や大山|巌《いわお》などと同じように、茫洋《ぼうよう》としていて、しかもどこかに毅然《きぜん》としたところがあり、それがはじめて会った人々をひきつけ、なんとなく偉大≠ニいう感じを与えるのであろう。
東郷のハワイ訪問は前後二回で、合わせて七か月ばかり滞在していた。二度目は、ハワイの革命一周年にさいし、何か不穏な事件がおこりそうだというので、同じ年にまた派遣されてきたのである。
その前、ハワイの臨時政府は、ワシントンに委員を送って合併の交渉を開始していた。たまたまアメリカ大統領の改選があり、新大統領のクリーブランドはハワイに調査団を送ったけれど、クリーブランドの属している民主党が反対して、合併は早急に実現しそうもなかった。
そこでハワイでは、とりあえず共和政府をつくることになり、一八九四年七月、新しい憲法が制定されて、ドールというのが初代大統領に選ばれた。
革命一周年記念祭が挙行されたのは、その年の一月十四日で、ハワイ政府から、ホノルル港内に停泊している軍艦は、すべて満艦飾をほどこし、礼砲を放ってほしいという申し入れがあった。これにたいして東郷艦長は、その必要を認めずといって断乎これを拒絶したばかりでなく、同じ港内に停泊しているアメリカの軍艦にも、このむねを通達して、これに同調させた。このことを伝えきいて、ハワイの王党派や原住民たちは、涙を流して喜んだ。
この年三月、日本から巡洋艦「高干穂」が来航して、「浪速」と交代した。このときの「高千穂」艦長野村貞(のち少将)は、のちに真珠湾の奇襲攻撃でアメリカ太平洋艦隊を撃滅した日本の連合艦隊司令長官山本五十六元帥の叔父にあたる。野村は日本海軍きっての豪傑で、アメリカ海軍との合同交歓会の席上、かくし芸を所望され、さっそく素裸になり、食卓の上でみごとにシャチホコ立ちをやってのけ、アメリカの士官たちのドギモをぬいたという。
このころ、日本と清国との風雲とみに険悪となり、この年八月一日、ついに宣戦となった。それに先立つ七月二十五日、東郷を艦長とする「浪速」は、僚艦「吉野」「秋津洲《あきつしま》」とともに、朝鮮の豊島沖で清艦「済遠」「広乙」を撃破し、さらに清兵をのせた英国汽船「高陞号《こうしようごう》」を独断をもって撃沈し、一時日本の朝野を震駭《しんがい》させたが、これでたちまち東郷は全国民の偶像となった。
日本が大国シナを負かしたということがわかると、ハワイの日本人の熱狂ぶりはすさまじいものであった。盛大な戦勝祝賀会が催され、日本人の男性はことごとく陸海軍人に仮装し、音楽隊を先頭に大行列をつくり、ホノルル市内をねり歩いた。歩兵隊もあれば、砲兵隊、騎馬隊もあった。女性は従軍看護婦の服装で参加した。
これまではよかったが、このあとでとんでもない大事件がおこった。
[#小見出し]ハワイ島を占領すべし
ハワイの中国人は、移民としての歴史も古く、日本人にたいして優越感を抱いていた。それが日清戦争の結果、逆になった。
一八九八年(明治三十一年)一人の日本人が中国人のために袋だたきにあった。これを知った日本人は、手に手にケーン・ナイフ(サトウキビの茎をきる大型の庖丁)をもち、トキの声をあげて中国人キャンプを襲撃し、中国人側に数人の死者と多数の重傷者を出した。これを指揮した山根某という男は、白馬にまたがり、芝居がかりで采配《さいはい》をふったという。
これに似た出来事が、終戦直後のブラジルでもおこった。ただし、これは日本人相互の争いで、日本の敗戦を認めようとしない勝ち組≠ェ負け組≠おそい、たちまち二十人に近い同胞を血祭りにあげたのである。祖国を遠くはなれたところで、長く隔離されたような生活をしていると、祖国への忠誠心が過熱し、ときにはこのような形で暴発することが珍しくない。現に勝ち組≠ヘブラジルばかりでなく、南米の日本人移住地にはたいてい発生している。多数の日本人二世を進駐軍として祖国に送りこんだハワイにもこれが見られたし、ペルーではいまも日本人社会で勝ち組≠ェ相当の勢力を占めている。
ところで、明治十九年に結ばれた「日布渡航条約」では、日本人にも選挙、被選挙権を与えることになっていたのだが、日系勢力の増大に不安を感じ出したハワイの白人たちは、翌年カラカウア王にせまり、東洋人種には公民権を与えないという条項をふくんだ新憲法を公布せしめた。日本人移民は、これに強硬な抗議をするとともに、祖国にも大いに訴えたのであるが、当時の外相井上馨は一片の抗議もおこなわず、翌年大隈重信が外相となって、熱心に交渉したけれど、ときすでにおそく、ついに成功しなかった。
それでも明治二十七年以後の五年間に、約五万人の日本人移民がハワイに流れこんだ。砂糖産業の発展で、労働力が急に必要になってきたからでもあるが、ハワイがアメリカに合併されると、農園経営者にとって有利な契約移民≠入れられなくなることを見こしてのことであった。その一方、日本移民の流入をおさえねばならぬという動きも強くなってきた。
一八九七年(明治三十年)三月、「神洲丸」でやってきた日本移民六百人のうち、四百四十九人は資格がないという理由で上陸を拒否された。つづいて「佐倉丸」、「畿内丸」、「白山丸」にのってきたものも、同様な目にあった。そこで日本政府は、ハワイの総領事館を公使館に、島村久総領事を弁理公使に昇格して、その発言権を強化し、アメリカとハワイに抗議させた。文字通りに火事ドロ的なやりかただが、アメリカではマッキンレーが大統領になって、急に膨脹政策をとり出した。
当時、日本公使としてワシントンに駐在していたのは星亨《ほしとおる》で、アメリカのハワイ合併に抗議するとともに、軍艦をハワイに送ってこれを占領するよう日本政府に進言した。ときの外相大隈重信は、英、仏、独などの国々がこれを見のがすことがあるまいし、日本の抗議も通るものと見て、過激な手段に出ることをひかえた。
それでも、日本政府はまたも軍艦「浪速」をハワイに派遣した。これで三度目だが、こんどの艦長は東郷でなくて黒岡|帯刀《たてわき》(のちに中将)だった。外務省からは秋山|雅之介《まさのすけ》参事官(国際法学者で、のちに法政大学学長)、新聞特派員としては、国民新聞から古谷重綱《ふるやしげつな》、中央新聞から石川|半山《はんざん》、時事新報から西師意《にししい》、万朝報から鈴木省吾、毎日新聞から関|巳代吉《みよきち》の五人が派遣されたのを見ても、いかにこの事件が重大視されていたかがわかる。古谷重綱は伊藤博文の秘書として知られた古谷|久綱《ひさつな》の弟で、現在評論家として活躍している綱武《つなたけ》、綱正《つなまさ》の父であるが、その後外交官となり、退職後はブラジルで農園を経営していて、勝ち組≠ノおそわれ、女中さんの機転で命びろいをした話を、わたくしは現地でご当人の口からきいた。彼は当年八十七歳で、今もブラジルで健在である。
かくて軍艦をくり出しての交渉も、アメリカがひかえているだけになかなか進まず、日本の記者団はしびれをきらして、交渉の途中で帰国してしまった。
けっきょく、日本側は併合問題には歯がたたず、上陸を拒否された日本移民への賠償として要求した二十五万円を十五万円にけずられてやっと解決した。ハワイが正式に併合されたのは、それから一か月後で、当時のもようを矢野涼花《やのりようか》という新聞記者が、つぎのごとく報じている。
「一八九八年八月十二日午前十一時、ハワイ国大統領ドールは、全ハワイを代表して壇上に立ち、アメリカ代表のハワイ公使スオールに、ハワイの主権を献上した。
これを見て、カメハメハ一世の銅像の下にうずくまっていた原住民老若男女は、あるいはすすり泣き、あるいは号泣した。そのあと、ハワイ国歌の演奏につれて、ハワイ国旗が引きおろされ、かわって星条旗がかかげられた。
それまで一点の雲もなく晴れわたっていた空が、このころから急にくもって、細い雨がふり出し、やがてスコールとなって、満場ぬれネズミと化した」
[#小見出し]乱れ切った風紀
かつて上海は、長崎県上海市≠ニいうことばまで生まれたほど、日本人にとって身近なものとなっていたこともあるが、今は政治的、思想的、軍事的に、日本からすっかり切りはなされてアメリカよりも、ずっと遠い地域になってしまった。
これに反して、ハワイは、東京都ハワイ区≠ニまではいえないにしても、八丈島や札幌あたりへ行くのと大してちがわないような気軽さで往来ができるようになった。
終戦直後につくられた「あこがれのハワイ航路」という流行歌が、今もすたらないのは、ワイキキの浜辺、フラダンス、ウクレレなどによって代表されるハワイ情緒につながるものだ。熱帯を失った日本人にとって、この太平洋の楽園≠ェ大きな魅力となっていることは争えないが、全人口の四〇%までが日系人によって構成されているという事実を見のがすことはできない。為替自由化の実現とともに、日本人の生活水準が高くなれば、日本とハワイの距離は、まだまだちぢめられるであろう。
しかし、それにしては、一般日本人のハワイに関する知識は予想外に浅い。とくに、ハワイとの歴史的なつながり、真珠湾攻撃のおこなわれる前、ハワイの日本人がどういう経済的、心理的状態にあったかということを知っている人は比較的少ない。
ハワイにおける日本人のありかたは、つぎの三つの時代にわけることができる。
(第一期)出かせぎ時代、明治元年からはじまって明治四十一年(一九〇八年)に新移民の渡航が禁止になるまで
(第二期)定着時代、明治四十一年以後、大正十三年(一九二四年)にアメリカが排日移民法を実施するまで
(第三期)永住時代、大正十三年以後現在まで
日本からハワイヘの移民が本格的におこなわれたのは、明治十八年にはじまった官約移民∴ネ後のことであるが、これは三か年契約で、一か月に二十六日間働き、賃金は十二ドル五十セントであった。文字通りに牛馬のごとくこきつかわれ、かせぎためた金をもって日本にかえることしか考えていなかった。
だが、日本にかえっても、思わしい仕事がなくて、再渡航するものもあれば、労働条件のよりよいアメリカ大陸へ転航するものもあって、移動のはげしい時代がつづいた。このころさかんに歌われたのが「ホレホレ節」である。
「行こかメリケン、もどろか日本、ここが思案のハワイ国」
「一回二回でよ、かえらぬものは、すえは、ハワイの甘蔗の肥《こやし》」
「ホレホレ」とはカナカ語で、甘蔗(サトウキビ)の下葉をむしりとることで、一日三十五セント、もっとも低い賃労働であった。
この出かせぎ時代に、日本からきた移民の総数は約二十万人、そのうち三割は帰国し、二割はアメリカ大陸へうつり、約五割がハワイに定着したという。
かれらは雇い主がつくった掘立て小屋みたいなキャンプ(館府)に住んでいたが、移入される男女の数には制限があって、だいたい男百人について女二十五人の割り合いになっていた。それがせまい一室に雑魚寝《ざこね》をしていたのだから、風紀がみだれるのは当然である。女房が売買されたり、トバクによる借金の抵当になったりするのは珍しいことではなかった。馬と女房を交換したという話さえのこっている。
むろん、売笑もさかんで、売笑窟もできた。それとともに嬪夫《ぴんぷ》≠ニ呼ばれる不良分子が発生し横行した。男の月収が十五ドル以下の時代に、女は月に百五十ドルから二百ドルもかせぐものだから、その周辺に、その用心棒みたいな形で、飲酒、トバク、ケンカ、暴行、脅迫、ゆすりなどで、その日その日をおくるダニのような存在が生まれてくるわけだ。香港、マニラ、シンガポール、ペナンから、遠くインド、アフリカの港々まで、日本|娘子軍《ろうしぐん》≠フ行く先々に、嬪夫≠ヘつきものであったが、ホノルルでもこれが「日の出クラブ」「義侠クラブ」「一心クラブ」などというグループを結成し、それぞれナワばりをきめて、『日の出新聞』などという機関紙まで出していた。
これを粛清しようとして「日本人同盟会」をつくったのが、当時の移民監督官|日向《ひなた》輝武《てるたけ》である。日向は帰国後政界にのり出し、尾崎|行雄《ゆきお》、加藤|高明《たかあき》などとともに、「同志研究会」をつくったりして活躍したが、このハワイの魔窟退治はついに成功しなかった。
大正時代の先端女性として、原|阿佐緒《あさお》、丹《たん》いね子、尾竹|紅吉《こうきち》、川上|貞奴《さだやつこ》、山田順子、松井|須磨子《すまこ》などとともに、美貌と才知をうたわれ、しばしばマスコミをにぎわした日向|欣子《きんこ》と彼は結婚したけれど、これも長つづきしなかった。
ところが、明治三十三年、ホノルルにペストが発生し、患者の家を焼却しようとしたところ、折りからの強風にあおられて、火が八方にもえひろがり、この近くにあった日本人街とともに、魔窟もすっかり焼き払われた。
[#改ページ]
[#中見出し]ハワイに残る忠誠心
――戦前の日本がたいせつに保存されているハワイ島の現状分析――
[#小見出し]自衛隊員こそ日本人だ
戦後、日本はアメリカの占領下にあって急激に、民主化≠ウれたが、ハワイでは逆に、戦前の日本が大切に保存されているのを見て驚くことが多い。
わたくしの会ったホノルルの書店主の話では、戦後に出た大衆文学のなかに、荒木又右衛門の三十六人斬り≠ヘウソだと書かれているのを見て、こんなインチキな小説を売るとはなにごとだ、とねじこんできたものもあるという。
また、戦後はじめて日本の海上自衛隊の練習艦がホノルルに入港したとき、日系人の歓迎は異常なものであったときいている。乗組員を争って各自の家に招き、まごころこめてもてなしたうえ、「自衛隊員こそほんとの日本人だ」といったとか。これを裏がえせば、アメリカ化した戦後の日本人の大部分はニセモノだということにもなる。とにかくこういう気持ちが、ハワイの日系人の心の底に流れていることは否定できない。むろん、これはほとんど一世に限られている。
戦前、日本軍艦のハワイ寄港は、万延元年の「咸臨丸」以来、昭和十四年十月の練習艦隊「八雲」「磐手」(司令官は沢本頼維中将)まで入れて延べ四十五回におよんでいる。そのたびに、日系移民は、感激の涙をもってこれを迎えたのだから、この記憶はそうかんたんに消え去るものではあるまい。
さらに大正三年十月には、ドイツの巡洋艦「ガイヤー号」が、南洋方面から日英艦隊に迫われてホノルル港内に逃げこむという事件があった。当時の日本総領事は有田八郎で、アメリカの税関長に抗議したが、そのころアメリカはまだ連合国側に参加していなかったので、「ガイヤー号」にたいしては寛大な処置をとった。
これを追って日本の戦艦「肥前」、つづいて巡洋艦「浅間」が、第一艦隊司令長官加藤友三郎中将(のちに元帥)の命をうけて、ホノルル港外に姿をあらわし、これを監視した。その間に「ガイヤー号」は、艦底に穴をあけて自沈を計ったが、アメリカ軍がこれを予知して制止した。けっきょく、この問題は、ワシントンにうつされ、アメリカ大使|珍田捨巳《ちんだすてみ》の手で解決を計ったが、同年十一月六日、東亜におけるドイツの拠点青島が陥落するにおよんで、その翌日、「ガイヤー号」は武装を解除された。
かつてリンカーン大統領のもとで名国務長官として知られたシワードは、
「太平洋、太平洋岸、その先の広大なる地域は、将来世界の大事件の舞台となるであろう」
といった。これを補足して『ロンドン・タイムズ』は
「真珠湾を占領し、そこに艦隊を碇泊《ていはく》させる国は、北太平洋のカギをにぎることになろう」
とのべた。真珠湾は、前に真珠川≠ニいったところで、アメリカは一八六〇年に早くもこの地の重要性に目をつけ、まず石炭貯蔵所をもうけ、さらに一八七五年、ハワイ王を威圧し、関税互恵条約をエサに、これを軍事基地として使用する権利を獲得したのである。
その後、日本からの移民が多くなるにつれて、アメリカはいよいよ神経質になった。とくに日露戦争直後、日本から大量の移民がきたが、その多くは帰還兵だというところから、その裏で日本側になにか特別の目的や計画でもあるように、アメリカはカンぐった。事実、当時の日本移民のなかには、戦勝気分にひたって、そういう誤解を招くような言動をあえてするものもないではなかった。そして、それがハワイやアメリカ本土の排日運動家に、有力な口実を与えたことは争えない。
大正元年にW・A・ゲーツという男が、つぎのように書いている。
「カリフォルニアのどこでも、四十八時間以内に、日本の古参兵をもって五万人の兵団を組織することは容易である。同じことがハワイについてもいえる」
昭和八年には、『リバテイ』誌上に、つぎのような記事が出た。
「ハワイの日本人の多くは予備軍人で、戦争がおこれば、いつでも武器をとって立つ用意をしており、その住宅をコンクリートで固め、必要に応じて砲台化するようになっている」
昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃直後、東京で開かれた国民大会で、当時の情報局次長奥村喜和男が、欧米からの帰途、ホノルルに寄港したさい、彼を訪れた日本の一老人から、つぎのような決意をきいたと語っている。
「日本の飛行機で、私の泊っているホテルはもちろん、ハワイ軍港や飛行場が木ッ葉みじんになることを朝夕念願している。日本の海の荒ワシが鵬翼をつらねてハワイを爆撃するのを一目でも見て私は死にたいのである」(『写真週報』昭和十七年一月七日号)
[#小見出し]消えない忠誠心
戦前、ハワイの日系移民から、日本に送られた金が二億六千百五十万円、もってかえった金が一億一千八十万円、日本での預金が六千万円、合計四億三千二百三十万円に達した。いまの金に換算すれば、三百倍としてざっと千三百億円、五百倍なら二千二百億円となる。これが日本の貿易じりの赤字を埋め、和歌山、広島、山口、沖繩など、移民を送り出した地方の経済を、大いにうるおしたことはいうまでもない。
それが明治四十一年となると、アメリカ大陸への移住が禁止され、新しい移民の入国も不可能となって、大部分はハワイに永住する覚悟をきめた。ここにいたって、これまで不満に思っていたハワイの生活に、魅力を感じ出した。北米や南米でも、日本の移民はたいていこの過程を通ってきているのだ。
ところが、その一方で、また、いろいろと困難な問題がつぎつぎにおこった。第一は人種問題、第二は経済問題、第三は忠誠心の問題である。
第一の人種問題は、今でも黒人を相手に、血なまぐさい事件をくりかえしているくらい、アメリカ社会に深く根をおろしている難問題であるが、ハワイはもともと有色人種を主体とし、そのなかでも日本人が圧倒的優位を占めているので、アメリカ大陸のばあいとは事情を異にしている。
第二の経済問題は、すでに明治二十年ごろ、サンフランシスコ市長候補者オードンネルが唱え出したもので、日本人の生活水準が低く、勤勉で、どんな悪い条件でも働くから、白人労働者はこれと競争することができないというのだ。この点も、白人労働者の比較的少ないハワイでは、それほど痛切な問題にはならなかった。
これに反して、ハワイの日本人をめぐる問題で、解決がもっともむずかしいとされたのは、日本人の非同化性ということである。まず風俗、習慣の面でいうと、日本人は祖国からもちこんだものを容易にすてようとしないが、この点は中国人も同じである。それよりも精神的な面、日本人特有の根強い愛国心、民族意識、とくに天皇への忠誠心にいたっては、白人の目からは異常と見られ、日本人の頭から、これをぬぐい去ることは不可能だと考えられた。
ハワイの日本語学校では、日本語だけでなくて、日本への忠誠心をうえつけるというので、しばしば物議をかもした。カリフォルニア大学のホイラー名誉総長は、日本の国民性についてつぎのごとくのべた。
「日米両文明は融和不可能である。かれらはアメリカ文明を理解することができないし、またそれをしないであろう。日本人は、世界中どこにいても、天皇に従属していることを感じ、帝国政府の後援によって、その属領の家来のごとく、かれらの大君主より得る補助と交換的に、忠誠をつくすのである」
この傾向は、とくにハワイでは日本人が多く、地理的にも日本と近接しているだけに、アメリカ大陸よりもはげしいものがあった。昭和十五年以後、ハワイの公立学校では、「ワン・カンツリー(一つの国)、ワン・フラッグ(一つの旗)、ワン・ランゲージ(一つの国語)」のスローガンをかかげ、毎朝全学童を校庭にあつめ、星条旗をかかげてこれに敬礼させた。この旗をかかげるために、屋根にのぼって作業中、日本人校長が墜落して死んだ事件もあった。また日本人指導者の側でも、二世教育の目標は良き日系市民≠つくる、すなわち完全にアメリカ化することに重点をおくことになったのであるが、現実はなかなかそうはいかなかった。
こういった状態で、日米開戦を迎えるにいたったのであるが、つぎにかかげる挿話《そうわ》は、当時の日本人の心理状態を知るうえに有力な手がかりとなるものである。
ハワイのある白人の家庭で、日本人のメード(女中)が主婦にむかって、
「五年とたたないうちに、日本人がハワイぜんたいを支配するでしょう」
といった。これをきいた主婦はカンカンに怒って、メードを押し入れのなかにおしこみ、合衆国探偵局に電話をかけた。
ある家庭に雇われているカナカ人のヤード・ボーイ(園丁)が主人にいった。
「近ごろ、島中どこへ行っても、日本人に会うと、ぼくらの肩をたたいて、いまにハワイにはハオレ(白人)なんか一人もいなくなるというんですよ。おかしいですな」
白人の一女性が、ドライブの途中、ガソリン・スタンドに立ちよったところ、そこの日本人ボーイたちが立ち話をしていて、ながながと待たされた。そこで彼女は皮肉のつもりで、
「日本語がわかると、すてきね」
といった。すると、ボーイがいいかえした。
「いまにあんたがた、みんな日本語を話すようになりますよ」
[#小見出し]忠誠心も環境次第
戦前、ハワイを訪れたさいごの日本の軍艦は、昭和十四年十月にホノルルヘ入港した練習艦「八雲」「磐手」であったことは前にのべたが、このとき日本海軍には珍しい不祥事≠ェおこった。
「八雲」の艦長は山崎|重暉《しげあき》大佐であったが、ヒロに停泊中、同艦乗組の三等水兵佐藤|萬里夫《まりお》が脱走して行くえ不明となった。
佐藤は南米のペルーで生まれたが、父の本籍は、群馬県利根郡水上村にあって、就学のため帰国中に徴兵検査をうけ、海軍にはいったものだ。スペイン語と英語はたっしゃだが、日本語がよくしゃべれなくて、勤務が辛かったらしく、出港まぎわに身をかくしたのである。「八雲」のほうでは、彼の行くえをさがしたけれど、どうしても見つからないので、そのまま出港してしまった。
この事件は、ワシントンにうつされ、当時の日本大使堀内謙介からアメリカ政府に佐藤の身柄引き渡しを要求したが、アメリカ側では、当人は二重国籍者で、日本で就学中兵役を強制されたという彼の供述に重点をおき、本件を単なる移民法違反事件と認め、出生地ペルーヘ自費で帰国することを許した。
こうなると、アメリカ人のあいだで、がぜん佐藤への同情がつまり、多額の金が寄せられアメリカ大陸経由で、ペルーヘかえって行った。この事件は、忠誠心≠ニいうものは、からだのなかに流れている血≠謔閧焉A育った環境や教育に負うところが多いことを物語っている。
これに似たケースが、かつて南米ウルグアイの首都モンテビデオでもあった。日本の軍艦「生駒」がここに停泊していたとき、一人の水兵が脱走し、現地の警察につかまって保護された。日本側で折衝をかさねた結果、この水兵をウルグアイの船にのせ、ラプラタ川のちょうどまんなかまで運んで行って、日本側に引き渡すということになったところ、日本の軍規によれば、脱走兵は銃殺に処せられるというので、ウルグアイの世論がわきたち、ついに政府を動かして引き渡しを拒否させた。その後、この脱走兵は、いちやく人気ものとなり、現地人と結婚して、平和な生涯をおえたと、わたくしが、同地を訪れたときにきいた。
ただし、この水兵は、ハワイの場合とちがって、普通の日本人で、その脱走にも深い計画があったわけではない。南米のモナコ≠ニいわれたモンテビデオでつい遊びすぎて、艦にかえりそびれたのだというから、事情も条件も同じではない。
それはさておいて、日本人のアメリカ化を図ることは、金とエネルギーの浪費にすぎないというのが、アメリカを支配する世論のようになっていた時期もあった。それでも、第一次大戦で、アメリカが参戦すると、日系市民によっても、選抜徴兵令に基づいて一個中隊が編成され、ハワイ国民軍司令官サミュエル・ジョンソン少将のもとに配属された。戦後、ハワイ議会の上院議長に選ばれた築山長松《つきやまちようまつ》は、このときの日系兵士の一人で、当時は軍曹であった。
これが星条旗に忠誠を誓った最初の日本人部隊である。むろん、かれらは二世たちだ。一世は「日米条約」に基づいて、アメリカの兵役を拒否することができたのであるが、その権利を放棄して志願するならばフレンドリー・エーリエン=i友好的外人)として入隊することを許された。当時、この形で兵役に服した日本人一世も少なくなかった。
日華事変中、アメリカ大陸では、南方諸地域と同じように、中国人による日本品のボイコットがおこなわれ、日本人と中国人の衝突事件もあちこちでおこったが、ハワイでは比較的平穏であった。当時ハワイの日本人は十五万をこえていたのに反し、中国人は三万人足らずで、数のうえで勝負にならなかったからでもあろう。
昭和十五年(一九四〇年)四月、アメリカの主力艦百五十隻が真珠湾に集結し、当分ハワイ水域にとどまることになった。五月にはいると、防空演習がおこなわれ、はじめて灯火管制が実施された。しかし、このころはまだ戦争はおこらないであろうという観測が有力であった。賀川豊彦《かがわとよひこ》が日米開戦を強く否定したとか、小玉呑象《こだまどんしよう》という易者が日米戦わずとの占断を発表したとかいうニュースが日本から伝えられた。ホノルルでは、「国際劇場」という日本映画館が開場した。
翌十六年三月には、ハワイ全島から日本人二世が続々と応召し、各地で盛大な壮行会がおこなわれた。いよいよ入隊というときには、祝入営≠フ旗をおし立て、ブラスバンドを先頭に、長い行列をつくったが、これは日清、日露の戦争とまったく同じであった。日系壮丁のなかには、体格検査で不合格となり、声をたてて泣くものもあって、アメリカ人を驚かせた。
[#小見出し]戦争でかえって生活向上
『日布時事』(『布哇《ハワイ》タイムス』の前身)の元社長相賀安太郎が戦後に出した『五十年間のハワイ回顧』のなかで、一九四一年(昭和十六年)十二月七日前後のハワイの状況について、つぎのように語っている。
その前日付けの『布哇タイムス』は、第一面のトップに、「ワシントン発電」として、極東危機やや緩和、少なくともここ数週間に戦争起らず≠ニいう大見出しの記事をかかげていた。
したがって、真珠湾攻撃は、ハワイの日本人にとっても、まったく寝耳に水であった。日系人側にも、死者十数名、重軽傷合わせて二十数名の犠牲者を出したが、これはすべて米軍高射砲の弾片のためであった。
開戦と同時に逮捕されて監禁された日系人は百六十四人で、いずれも前からマークされていたものばかりであった。その後に追加されたものもあって、ハワイ、北米を通じて、監禁された日系人の総数はざっと千三百人であった。ジャワ、スマトラなど、日本軍の占領下におかれた南方諸地域で敵性人≠フほとんどすべてが監禁されたのとたいへんなちがいである。このようにハワイでは、日系人の監禁が最小限におさえられたのは、ハワイの米軍司令官エモンス中将の達見≠ニいうことになっているが、実際問題として、ハワイの全日系人を監禁するということは不可能だったからである。当時ハワイの日系人の総数は約十六万人で、これだけの人間を収容するところがないし、そんなことをすれば、ハワイの機構がすべてマヒして、大混乱におちいったにちがいない。
これに反して、アメリカ本土の太平洋岸における日系人は約十一万人で、これらはほとんど強制的に立ちのかされ、奥地へうつされた。いずれにしても、ハワイの日系人が、戦時中を通じて、これまでの生活をつづけることができたというのは、この上もない幸福であった。それというのも、日系人の数が大きかった、つまり、数は力である≠ニいうことの一つの例証といえよう。
ところで、ハワイの日本語新聞は、真珠湾攻撃直後もつづけて出していたが、四日目に発行停止の命令が出た。新聞社のほうでも、戦争がおわるまで再刊の見こみはないとあきらめていたところ、一か月たって、逆に米軍のほうから再刊を強要された。日系人のなかには、英字紙のよめないものが多く、戒厳令下にあって、やつぎばやに出る多くの命令や法規が、日系人のあいだに徹底しなくて、当局は困ったのだ。
新聞社のなかに米軍検閲部がもうけられ、記事原稿はもちろん、広告まで一々検閲するとともに、宣伝用の社説、日本の軍部や皇室をからかった漫画などを提供し、これを拒否することは許さなかった。
抑留をまぬがれた日系人でも、つぎつぎに呼び出されたり、家宅捜索をうけたりした。そこで、日本語の書物、手紙、レコード、日本人のうつっている写真などを焼きすてるものが多かった。その一方で、妙な現象がおこった。アメリカ人の家に雇われている日本人の待遇が目立ってよくなった。それはどういうわけかというと、万一日本軍がハワイに上陸してきたときに、親日米人≠ニして申告されることを期待したからだという。
そればかりではない。戦局がすすむにつれて、日系人の生活がぐんぐんよくなった。仕事はふえる一方、人手は足りなくなる一方で、とくにこどもの多い日系人の家庭では、総収入が法外の額に達した。レストランや理髪店に働く娘たちは、続々とやってくるアメリカ兵からもらうチップだけでも、週間百ドルをこえた。見すぼらしい借家に高価な家具やピアノを買いこんだり、沖縄出身の老婆の節くれ立った指に、大きなダイヤの指環が光っているというような異常な風景が見られた。
ワイキキ公園には、大正天皇御即位記念事業の一つとして、鳳凰型の噴水塔が、日系人からあつめた金でつくられ、ホノルルの名物になっていた。これをとりのぞくべきかどうかということで、英字新聞の紙面で論争がつづけられている最中、夜なかに大勢やってきて、跡かたもなくとりこわしてしまった。またコナという町にあった大神宮さま≠ヘ、鳥居も唐獅子《からじし》も撤去して、米軍の宿舎にあてられた。
第二次大戦中、パリ、ローマをはじめ、ドイツ軍の占領下にあったヨーローパ各地では、たいていどこでも、レジスタンスの地下組織ができていたけれど、ハワイにはそんなものはぜんぜんなかった。真珠湾が爆撃されたとき、ハワイ海軍区司令官の地位にあったキンメル少将が、ハワイに日系の第五列≠ェ存在したかのごとき口ぶりをもらしたのにたいし、ハワイにおけるFBI(連邦検察局)の責任者シバースは、日系人のあいだでは、第五列≠ヌころか、サボタージュさえも絶無であったと声明した。
これは日本人として喜ぶべきことであろうか、それとも悲しむべきことであろうか。
[#小見出し]二世はアメリカ人だった
一九四三年(昭和十八年)一月二十二日というと、日本軍のガダルカナル撤退が公表される少し前であるが、アメリカの大統領フランクリン・D・ルーズベルトは、つぎのような声明を発表した。
「忠誠なる日系市民をもって、戦闘部隊を編成するという陸軍省の計画にたいして、私は満腔の賛意を表する。合衆国の忠誠なる市民は、その祖先の血統にかかわりなく、市民としての責任を果たす民主的権利を拒否さるべきでない」
かくて編成されたのが、のちに全米にその勇名をとどろかした「四四二部隊」その他の日系二世部隊である。これは志願兵制度によって、まず徴兵適齢期の青年を登録したのだが、この登録票は二十八の項目について記入するようになっていて、この項目のなかには、つぎのようなのもふくまれていた。
「貴下は合衆国に無条件で忠誠を誓い、外国または国内の外敵に抗し、合衆国の防衛に全面的に参与するか。同時に日本の天皇あるいは他国政府および団体にたいし、忠誠と服従を拒絶するか」
これが日本人としてのこるか、名実ともにアメリカ人になりきるかのわかれめで、いわば一種の踏み絵である。この戦争に突入する前、全米いたるところで日米親善≠ニ日米戦争≠フ渦がまいていたころ、ある日本人一世はいった。
「万一不幸にして日米間に戦争がおこった場合、私は両軍の中間に立って、日米両軍の弾にあたって死ぬ覚悟をきめました」
このような事態が、ついに現実となってあらわれたのである。これに直面した日系人のあいだで、いかにはげしい不安、動揺、論争、混乱がおこったかは想像するにかたくない。
この忠誠登録≠ヘ、徴兵適齢期の青年ばかりでなく、一世や婦女子にたいしてもおこなわれた。その結果、全登録者七万五千名中、アメリカヘの忠誠を公然と拒否したものは約八千五百名であった。かれらは敵性人≠ニして抑留所に送られた。
同年十一月、アメリカ陸軍省は、日系市民に、真珠湾攻撃直後剥奪した市民権を返還し、正式にかれらを合衆国陸軍に採用することになった。「四四二部隊」が訓練中に抜群の成績を示したからである。
翌四四年五月、この部隊はイタリア戦線に送られ、廃墟になったナポリに上陸、すぐ最前線に出た。
オビル・C・シャーレイ著「四四二部隊」によると、ムネモリ上等兵は、ドイツ軍の機銃座二つを手榴弾で粉砕し、二人の部下がかくれている砲弾の穴にたどりついたとき、敵の手榴弾が彼のヘルメットにあたってハネかえり、部下のほうへころがったのを見て、自分のからだを投げ出してこれをおさえ、部下の命を救った。こういった武勇談が、この書物には無数に紹介されている。
翌四五年七月、地中海地区で訓練中のアメリカ陸軍が水泳大会を開いた。これに出た「四四二部隊」の選手は、一種目をのぞいた全種目に優勝した。
ドイツが降服して、ヨーロッパが一段落つくと、「四四二部隊」に属する歴戦の勇士≠スちは、太平洋方面の戦闘に志願しはじめた。これは単なるアメリカにたいする忠誠心の発露ばかりではなかった。シャーレイにしたがえば、「かれらは太平洋の敵(日本人)によく似た忌むべき民族的外装≠生まれながらにもっていた」ので、これをぬぐいおとしたいという特別の動機≠ェあったのだ。
もっとも多くの犠牲者を出したのは、徴兵制に基づいて編成され、「四四二部隊」の前にヨーロッパ戦線に送られた「第百大隊」という二世部隊で、千五百名中、千七百五十名の負傷者を出した。というのは、一人でなん回も負傷したということだ。戦死者は百六十九名で、さいごは三百名足らずになってしまった。逃亡者は一人もなく、逆に病院から前線にむかって脱走するものさえ出た。これはアメリカ戦史に前例のないことだ。
ハワイの男性で、開戦から終戦までのあいだに、軍務についていて死亡したものの総数は八百六名であるが、このうちおもなものを人種別にすると、
日本人 五〇六(六二・七%)
白人 一六六(二〇・六%)
混血ハワイ人 四〇(四・九%)
中国人 二四(二・九%)
フィリピン人 二四(二・九%)
ハワイ人 一六(一・九%)
朝鮮人 一一(一・三%)
ハワイ人口の四割を占める日本人のなかから、六割二分の戦死者を出したのだ。その結果、
「二世はアメリカ人だった」
という結論が出たとシャーレイは書いている。
[#小見出し]ハワイにも勝ち組
昭和二十年(一九四五年)八月十五日(アメリカでは十四日)の終戦をハワイの日系人は、どのような形で迎えたか。
同じころ、ブラジルでは臣道連盟≠ニ称する勝ち組≠ェ発生し、あばれまわって、たちまち二十人に近い日本人を殺傷したことは前にのべたが、ハワイにも勝ち組≠ェいた。「ハワイ必勝会」「東部同志会」「カリヒ八紘会」などというのがそれだ。
なかでもいちばん強力だったのは「ハワイ必勝会」で、三千五百人ないし四千人の会員がいた。入会金は十ドルだが、日本の三大節≠ニか、近く日本から客さまがくるとかいっては、寄付をあつめた。「生長の家」のハワイ支部なども、これにつながっていたという。
「ハワイ必勝会」の会規第三条には、
「本会は皇道を奉戴し、聖旨を遵守し、日本精神を発揮するをもって目的とす」
となっているが、終戦直後の九月一日付けで同会が発行したものを見ると、
「日本は連戦連勝、敵はわが軍門に降服しているのが事実なるに、ハワイの放送、新聞記事は、みな虚構、迷宣伝にて、日本の敗戦を伝えているのは、けしからん話である」
と書いている。同会からは毎日トウシャ刷りのニュースを出していたが、それによると、
「日本は大勝利だ。ハワイ近海三〇〇マイルのところに、運送船二十五隻、軍艦十数隻、航空母艦一隻が待機し、一週一回、真珠湾へ物資補給にきている」
といった調子である。また、当時アメリカやハワイから、「ララ」「ケア」などの救援物資が敗戦日本にむけてどしどし送り出されていたが、「ハワイ必勝会」の説にしたがえば、これは敗戦国アメリカの賠償で、勝利国にあまり粗末なものを送るのは失礼にあたると宣伝した。
アメリカに忠誠を誓うことを拒否した日系人は、アメリカ本土の数か所で監禁されていたが、そのなかでの日系人の動きは、いっそう勇ましいものであった。
一九四五年三月、二世の特攻隊が、イタリアやフランスの戦線で血みどろの戦いをつづけ、米軍の手ではどうにもならなかった部隊の救出に成功したというニュースが、全米の新聞に大きく出たころ、ツールレーキに監禁されていた日系人は、この新聞記事を見て、
「なんだ、国賊どもが!」
とののしった。そして、そこで隔離されていた日系市民七千名のうち、六千名までがアメリカの市民権離脱の申請をした。この監禁所のなかでは、「報国青年団」「即時帰国委員会」などが設立されたが、その団規には、
一、男子は頭髪を五分刈りとし、女子はおさげにすること
一、胸に旭日の団章をつけること
一、日の丸のハチマキをなし、早朝宮城遙拝をすること
一、毎日ワッショイ、ワッショイとかけ声をかけて場内をねりまわること
などというのがあって、この仲間はワッショイ組≠ニ呼ばれた。
そのうちに、八月十四日がきて、日本の無条件降服が伝えられた。
アメリカ人は、この日をVJデー=i対日勝利の日)として祝った。天皇の詔勅を短波できいたものもあったが、大多数の日系人はそれを信じようとしなかった。日本には敗戦≠ニいうものはありえないというのだ。
だが、こうなると、日本にかえることに意味がなくなった。その一方、アメリカの市民権も放棄してしまった。
「これからおれたちはどこの国の人間になるんだ」
サンタフェ監禁所の日系人のあいだでも、同じようなことがおこった。ここには約二千名の日系人が収容されていたが、そのなかで戦局の経過について正しい認識をもっていたものは、せいぜい五十名程度だったといわれている。
神道の教師、仏教各派の布教師、日本語学校教師など、日系人に影響力をもっていたものは、少数の例外をのぞいて、ほとんど勝ち組≠ノ属していた。キリスト教宣教師のなかにまで勝ち組≠ェいたというから、驚かざるをえない。
それが敗戦の現実に直面して精神に異常を呈したり、自殺を企てたりするものも少なからず出たという。
ブラジルやペルーのように、日本からもアメリカからも遠くはなれていて、正しいニュースの伝わりにくいところに住んでいた人々のあいだに、勝ち組≠ェ発生するというのは、うなずけないこともないが、太平洋戦線や日本占領軍に、多数の日系二世を送りこんでいるハワイで、終戦後においても有力な勝ち組≠ェいたということは、日本人の精神構造を知る上に見のがすことのできない重要な事実である。
[#小見出し]勝ち組の背後にユダヤ人
戦死率、戦傷率、受勲率などの面で、ハワイの日系二世部隊は、アメリカ戦史の記録をことごとく破ったばかりでなく、これらの記録は、こんご白人や黒人によって破れないだろうといわれている。
もしもかれらが日本にいて、日本軍に応召し、日本の軍人として前線に出たとしても、果たしてこれほどの忠誠心を発揮したであろうか。ハワイという土地、アメリカという国が、かれらにとってそれほど強い吸引力をもっているのであろうか。多年にわたって展開された排日運動のなかで生きてきたかれらが、かれら自身やその子孫の生活の保障を獲得するためには、これほどまですて身にならねばならないものであろうか。
これとはまったく別な見方も成りたたぬことはない。というのは、ハワイの日系一世の大部分は、明治人もしくは大正人で、明治大正的な忠君愛国の精神が、ハワイの一世の頭のなかで凍結されていて、その純度を失わずに、そのまま二世の頭にうつされ、アメリカヘの忠誠心となって爆発したと見るのである。
しかしながら、この場合、日系二世にとって新しい異常な忠誠心の対象となったものが、一世の祖国日本を敵にまわして戦うアメリカであるだけに、割りきれないもの、後味の悪いものが、わたくしたちの心の底に、ニガリのようにたまる。前線に送られた二世部隊が、驚異的な忠誠心の新記録をつくりつつあるとき、監禁されていた一世や二世は、どこまでも日本への忠誠心をすてようとせず、日本の勝利を信じて疑わなかったという事実は、いかにも両極端のようにみえるけれど、どっちも日本人の民族的性格の基礎をなしているもので、いわば盾の両面にすぎないともいえるのだ。
ところで、「ハワイ必勝会」その他の動きにたいして、アメリカ当局はどのような態度をとったかというに、ひそかに内偵をすすめている程度で、これらの団体に解散を命じたり、積極的な干渉を加えたりするようなことはなかった。この点は、ブラジルの場合も同じで、日本人相互の争いと見て、へたに手出しをすると、かえって事態を悪化すると考えたのであろう。
だが、このときに発生した日系社会の分裂、対立感情は大きなシコリとなって、ながく尾を引いた。ブラジルでも、反対派にたいしては強い敵意をもち、道であっても口をきかないし、相互に縁組もしないというふうであった。
日系の知識人にとっては、勝ち組≠フ存在は、いわば恥部≠フようなものであった。しかし、勝ち組≠ノ属するものの大部分は、人間としては正直で、素朴で、善良な人々であった。そのうしろにいて、かれらを踊らせていたものに、きわめて悪質な人間がいたのだ。
太平洋戦線における日本の敗戦が決定的と見られたのは、一九四五年(昭和二十年)一月、米軍がルソン島に上陸し、二月に硫黄島の日本軍が全滅したときで、上海、香港あたりでは、この戦局を反映して、日本紙幣が暴落した。その前から中国にいるユダヤ商人が、上海、香港でダブついている百円紙幣を買い占めて、ハワイ、アメリカ、ブラジルなど、日系移民の多い地域へ送ってボロもうけをする計画をすすめていたが、戦局の決定的悪化とともに、これを実行にうつしたのである。
日系移民にとって、日本の百円紙幣は、祖国への信頼感の象徴のようなものであった。それが紙屑同然になるというのは、夢にも考えられないことであった。この盲点をついて、上海や香港で安く仕入れた百円紙幣を日系移民に高く売りつけたのである。
勝ち組≠フ発生した動機や原因はいろいろあるが、もっとも悪質でもっとも強力なもの、直接の原動力となったものは、この百円紙幣の売りこみである。この目的のために、日本が負けたというのは、敵国のデマ宣伝だという大宣伝が、日系社会に計画的に流されたのである。
当時、上海の自由市場では、十円以下で取り引きされていた百円紙幣が、ブラジルにもってくると、額面通りに売買された。そして勝ち組≠フ勢力が絶頂に達したころには、三百五、六十円くらいまで暴騰した。
ハワイでは、それほどではなかったが、百円につき二十五ドルの割で銀行の円預金証書を売約せしめ、巨利を博したものがあったという。
以上の事実は、日本人の盲点、とくに忠誠心をめぐる盲点についての重要なテスト・ケースであった。明治維新の変革にさいしては、忠誠心の対象が藩主、幕府、朝廷の三つに分裂し、大きな混乱を招いたのであるが、ハワイでは、祖国日本と敵国アメリカのあいだに、それがおこったのだ。
[#小見出し]めざましい日系人の進出
アメリカ軍のなかには通訳部隊≠ニいうのがあった。これには通訳兵、訊問兵、翻訳兵が属していたが、その養成をはじめたのは、一九四一年十一月一日というから、真珠湾攻撃の六週間前である。
これより少しおくれて、わたくしも徴用令書をうけて麻布三連隊の兵舎に入られた。そこには阿部|知二《ともじ》、武田麟太郎、富沢有為男《とみさわういお》、北原武夫、浅野|晃《あきら》、大木|惇夫《あつお》、小野|佐世男《させお》、横山隆一、河野|鷹思《たかし》、飯田信夫などの作家、詩人、画家、音楽家をはじめ、新聞記者、映画監督、カメラマンなどが続々はいってきて、百数十人の文化人部隊が、宣伝班≠フ名のもとに編成され、新兵と同じようにあつかわれて、毎日軍事教練をうけた。ゲートルをほどけないようにまくことをおぼえるだけでも容易ではなかった。そして、いよいよ戦争がはじまると、輸送船にのせられて、ジャワ島に送られた。上陸直前、バンタム沖で敵の魚雷艇におそわれ、のっていた船が沈んで、数時間海上をただよったうえ、味方の船に救いあげられ、裸で上陸したのである。
これで見ると、真珠湾攻撃の数週間前には、日本もアメリカも、日米戦争必至と見て、その準備をしていたことは明らかである。アメリカ軍の日本語教授法は、きわめて科学的で、ごく短期間に相当多くの漢字をおぼさせ、二世にはニガ手の行書や草書も一通りわかるところまでこぎつけた。そして卒業生をどしどし前線へ送りこんだ。世界でもっともむずかしいことばの一つだといわれる日本語の速成教授が、このような形でおこなわれたというのも、二世相手なればこそである。
これまで目のカタキにしていた日本語が思いがけなく役に立ったわけだ。
逆に日本では、開戦とともに英語が目のカタキにされたが、戦前は中等学校以上では英語が必修科目となっていた。それがものをいって、たとえば東南アジアの日本軍占領地域では、日本軍は将校ばかりでなく、兵隊までが英語を知っているというので、現地人から尊敬された。原住民の指導、管理に英語が役立ったことは争えない。
それはさておいて、終戦の年の十月末、ハワイの陸軍語学校では、まだ四千七百人の兵士が日本語を学んでいたが、そのうちの約半数はハワイ出身者であった。つまり、ハワイの二世の多くは、戦争のおかげで、アメリカ軍によって正しい日本語を教えられたという皮肉な結果を生んだのである。
ホノルルの周辺をドライブすると、真珠湾をはじめ、ヒッカム飛行場、スコーフィールド兵営など、開戦当時を思い出させる地名にぶっつかるけれど、戦後の日本で人間形成のなされた世代には、ワイキキの浜のほうが、ずっと親しみ深いものとなっていることはいうまでもない。
日本の捕虜第一号≠フ酒巻少尉が発見されたというワイマナロの浜もこれにつづいている。ポンチボールの丘には、ヨーロッパや南太平洋の島々で、星条旗のもとに「みずく屍《かばね》、草むす屍」となった日本人の墓がずらりとならんでいる。といっても、石塔もなければ十字架もなく、広々とした芝生のなかに、マンホールのフタみたいなものが埋めてあるだけだ。
日本人捕虜は、スコーフィールド兵営外など三か所に収容されていたが、戦局の進展とともにだんだんふえて、さいごは七千人をこえた。これらは三大隊にわけられ、川畑一夫(鹿児島県人)、菊山次郎(福岡県人)、秋山|雄《ゆう》(東京人)、陳一康《ちんかずやす》(実名浜島実、東京人)などが、大隊長となっていたというが、はたして実名かどうか疑わしい。
捕虜はいずれも、頭は五分刈りで、背なかに白字でPW(Prisoner of War)と大きく染めぬいた青い服を着せられていた。朝鮮人の捕虜もいて、このほうにはKoreanと書いてあった。朝鮮は連合国に属しているというので、敵国人のあつかいをうけなかった。
捕虜たちは、自由を拘束されているだけで、虐待されるようなことはなかった。慰問品の差し入れが認められ、面会も日をきめて許されていた。敵国といっても、自由な生活をしている日本人が近くにたくさんいるので、ハワイの日本人捕虜は恵まれていた。とくに捕虜の慰問というよりも激励に力コブを入れたのは、前にのべた勝ち組≠ノ属する人々である。戦局をよく知っている捕虜たちにしてみれば、かれらの親切には感謝するが、その無知にあきれ、くすぐったい思いをしたようだ。
一九四六年十月以後、これらの捕虜たちは、アメリカの軍用船で日本に送られた。ハワイ生活の記念として、歌集『潮騒』、句集『再土』がのこされた。
一九三〇年(昭和五年)の選挙で、ハワイの県議会下院に山城正義《やましろまさよし》、岡多作《おかたさく》の二人がはじめて当選して以来、日系人の政界、官界への進出は目ざましいものがあった。ハワイがアメリカの州に昇格できないのも、日系人が多すぎるからだとさえいわれた。しかし、ハワイがすでに州となった現在、連邦議会の上院にダニエル・K・井上、下院にスパーク・M・松永を送りこみ、日系人が全ハワイを代表している。
万延元年の遣米使節一行をのせた船がホノルルに寄港したことから、日本とハワイの歴史的、民族的なつながりについて長々と書いたのは、
第一に、日本本土以外で、日系人が全人口の四割も占めているところはほかにないこと
第二に、そこでは太平洋戦争中に、日系人の忠誠心が真っ二つに分裂し、しかも両方の面で驚異的な記録をつくったこと
第三に、日本占領軍に多数の二世を参加させたハワイで、日本の敗戦を信じない勝ち組≠ェ発生したこと
といったような諸点に、わたくしはたいへん興味をもったからである。この問題は、もっと豊富な資料に基づき、もっと深く掘りさげて研究すべきだとわたくしは考えている。そういうことは別にしても、いろいろな点で日本にもっとも近いこの太平洋の楽園≠ノついて、一般日本人がもっと知識と関心をもつべきでなかろうか。
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[#中見出し]遣米使の意義と価値
――アメリカとの大きな文化的落差を埋めた使節団の諸記録――
[#小見出し]出色の『遣米使日記』
ここで話は本筋にもどって、この遣米使節の一行が、アメリカ本土に上陸してから、どのようにあつかわれ、どのような印象をうけたかという点にふれねばならなくなったのだが、これにかんする資料は予想外に多く残っている。主としてこれに参加した人々の日記、メモ、スケッチ、手紙、新聞記事の類で、その大部分は昭和三十六年に「日米修好通商百年記念行事運営会」によって編集された『万延元年遣米使節史料集成』(全七巻)におさめられている。
これを通読して感じることは、この使節団のほとんど全員が、猛烈な知識欲にもえ、何事によらず見のがすまい、ききのがすまいとし、わからないことはなんでもきくという心がまえで、この旅にのぞんだということである。一行をのせた米艦「ポーハタン号」の乗組員で、ワシントンまで同行したジョンストン中尉は、日記のなかでつぎのように書いている。
「かれらは乗組員の姓名と官位とを乗船後二十四時間ですっかりおぼえこんでしまった。というのは、かれらはいつも控え帳とライティング・ケース(矢立て)とを用意していて、だれのところへでも遠慮なくやってきては、ちょっとヒジでつついて注意をうながし、お名前は≠ニくりかえすのである。そしてわれわれの返事をきくやいなや、独特の文字で手帳にうつしとり、正確にこれを発音するまでは、なん度でもこれをくりかえす。そしてこれをおぼえることの早いこと、一度おぼえこむとその記憶の正確なことは、ただ驚嘆のほかはなかった」
一行中には、文筆に長じたものや、絵心のあるものが少なからずいた。正使新見正興の『亜行詠』は紀貫之《きのつらゆき》の『土佐日記』をまねた擬古文で、短歌をふんだんに入れているが、はじめて異質の文明に接したものの記録としては、少々場ちがいの感じである。副使村垣|淡路守範正《あわじのかみのりまさ》の『遣米使日記』は、出色のもので、このときの代表作としてひろく知られているが、絵はほとんどはいっていない。
そのかわり彼の従者|野々村忠実《ののむらただざね》の『航海日録』には、しろうとばなれしたさし絵がふんだんにはいっているばかりでなく、別に港々の風景などをスケッチした絵巻物一巻をのこしている。彼の父|治平《じへい》は大坂町奉行所につとめたこともあり、筆まめだったとみえて、大塩平八郎の乱にかんする記録や随筆などの著作がある。忠実は、維新後、この旅行の経験を生かして、本郷で洋品店を開いた。
讃岐|塩飽島《しあくじま》出身の水夫石川政太郎の『安政七年日記』にスケッチがたくさん出ていることは前にものべたが、加藤|素毛《そもう》と水野|正信《まさのぶ》の合作『二夜語』である。
素毛は「外国奉行所小買物用達伊勢屋平作の手代」ということで、遣米使節団に加えられたのであるが、伊勢屋と深い関係があったわけでもなかった。飛騨の旧家の生まれで、飛騨郡代|小野高福《おのたかとみ》(山岡鉄舟の父)の公用人となったというから、そのほうのコネで運動したのであろう。
素毛は、アメリカからかえって、洋行談を語って歩いたところ、これをきいた尾張藩士水野正信が筆記し、素毛自身の書いた『合衆国視聴録』を加えて書物にしたのが『二夜語』である。
もともと素毛は俳句のたしなみがあり、絵も正式に習っているので、こういう出色の記録が生まれたのであろう。内容は正確で、資料としての評価も高い。
そこへ行くと、勘定方組頭森田|清行《きよゆき》の『亜行日記』、徒士《かち》目付日高為善《めつけひだかためよし》の『米行日誌』には、ところどころにカットがついている程度である。
ジョンストン中尉の日記では、
「船中の士官たちは、すべて日本の墨の線でスケッチされたが、その墨絵を見ても、これが自分であるとは思えなかった」
といっている。しかし、ホノルルでは、スケッチに熱心のあまり、いろいろと失敗を演じている。
[#小見出し]熱心なあまり無作法も
外国では、カメラをもつ、もたないが、日本人と中国人を区別する一つの基準になっていると古くからいわれている。ところが、最近、ソ連にいる日本人たちは、計画的に、外出には必ずカメラをもつことにしているという。というのは、このところ、ソ連と中国の関係がひどく悪化してきたので、中国人とまちがわれたくないためである。
幕末の遣米使節も、いまのようにカメラを手軽に買えたら、ひとりのこらずもって行ったにちがいない。そのかわりに、かれらは矢立てと手帳を手からはなさなかった。
ホノルル滞在中のことであるが、使節団の一人が、往来ですばらしい美人に出あった。いまなら、さっそくカメラをむけるところだが、手まねで、
「ちょっとそこでとまってください」
と頼み、大急ぎで、帽子ののっかっている頭から足もとまで、スケッチしはじめた。その女性は、一時足をとめたものの、異様な姿をした人物によって、自分の姿が異様な画風で描き出されているのを見て、うす気味悪く感じたとみえ、だまって歩み去った。のこされた日本人は、呆然自失のていであったが、そこへ馬車が通りかかったので、こんどはそばへよって行って、これをかきはじめた。むろん、そのころのハワイには自動車はなく、乗り物はすべてノロノロと動いていたので、御者は別に苦情もいわず、むしろ好奇心にかられて、かきおえるまでじっとしていてくれた。
この使節団員のこういった熱心さは、現在世界各国の街頭で小型カメラや八ミリ・カメラをもち、夢中でシャッターをきっている日本人旅行者と、ちっとも変っていない。
知識欲のさかんなことは、一行中の下級官や従僕も同じで、ときとしてはずいぶん無作法なこともやってのけた。
これもハワイで実際あったことで、ある婦人が、一時間ばかり家をあけてかえってみると、彼女のへやに物好きな東洋人の一団がはいりこんで、熱心に女性のメーキャップの秘密をさぐろうとしていた。そのなかの一人は、美しい絹の衣裳を身につけ、もう一人はボンネットを手にとって、これは何につかうのかと考えこんでいるようすであった。もっとも当惑したような顔をしていたのは、大きなタガのはいったスカートをはいている男で、その用途についてあれこれと思案したあげく、多分西洋婦人が逃げ出さぬための鳥カゴか、それともなにかの危険を防ぐ道具かもしれぬと思いこんだらしい。
この乱暴狼藉を見ても、この主婦は、大して驚きもせず、おちついて、やさしい微笑を浮かべながら、このセンサク好きの客のほうに進み、これらの品々は女性の装身具であることを知らせるために、身ぶり手まねで親切に説明した。それでこの闖入者《ちんにゆうしや》も満足し、おじぎをして引きあげていった。
「咸臨丸」には、アメリカがえりの中浜万次郎が通訳としてのりこんでいたが、「ポーハタン号」の通訳主任は名村五八郎《なむらごはちろう》である。ジョンストン中尉にいわせると、彼は使節随員中もっとも利発な男で、航海中にも、アメリカおよびアメリカ人についてできるだけ多くの知識を吸収しようと努力した。あるとき、中尉から聖書を読んでみないかとすすめられたことがキッカケとなって、日本にキリスト教を入れることの可否につき、大激論をたたかわした。
名村には、キリスト教の説く教義のすぐれていることはわかっていたようだが、自分で聖書を読むことを拒否したばかりでなく、中尉が彼にきかせるために声を出して読むこともことわった。それどころか、キリスト教について議論しているあいだ、なん度も戸口のほうに目をやって、だれかが立ちぎぎしていないかと気をつかった。徳川政府のキリスト教にたいする弾圧がいかにはげしかったかが、これでよくわかる。
名村家は長崎の名門で、代々オランダ通詞をつとめていた。大審院検事長として「加波山事件」を手がけて名をあげ、退官後築地活版製造所の社長となった名村泰蔵はその養子である。
船中でも、上陸後も、重要な折衝は監察の小栗|忠順《ただまさ》が一手に引きうけていた。しかし彼はまとまって記録をのこしていない。現実処理にいそがしく、筆をとる暇も興味もなかったのであろう。
ところで、使節団の日記やメモの類は、驚くべきたんねんさであるが、あまりにもたんねんすぎるうえに類型的である。何月何日、北緯何度何分何秒を通過といったようなことを、だれもが毎日書いている。ハワイの位置、島の数、民家の構造などにかんする記述も、だれかの説明をきいて、そのまま書いたとしか思えないようなものが多い。修学旅行に出た中学生が、案内人や先生の話を口うつしに書いているような感じで、個性的なものが乏しい。といって、そのなかに砂金のようにキラリと光るものはないわけではない。それをさがすのは骨がおれるけれど、楽しみでもある。
[#小見出し]ポーハタン号シスコヘ
「ポーハタン号」がホノルル港を出帆したのは二月十七日で、三月七日、北緯六十三度辺にきたときのことである。
「今暁二時、北の方にありて、都下にて火事の雲に映ずるごとく、およそ三里ばかりのあいだ、空の赤きこと紅《べに》のごとくなりしが、小半時(一時間)ばかりにして消えうせたり、かかることは風波の前兆などいえるものもあれど、そはおろかなることにて、こは北閃《ほくせん》≠ニて、必ず北緯四十度の辺より北には、ままあることなりとて、北は陰気勝ちで、陽気をおさえるまま、地方(陸地)近き辺には陽気を蒸発するゆえなりとぞ。あやしむことなかれと、士官水夫等まで人々に告げけるよし。おのれは寝て知らず、きょうそのことをきさて遺憾なり。またありなば告げよといいしが、その後そのことさらになし」
と村垣副使が書いている。同じ現象を野々村忠実は、
「今暁三時より四時までのあいだ、北の方光ること焔《ほのお》のごとし。自国の人(日本人)これを見て、地方近し、山焼ならんという。蘭書には北光≠ニあるのみ」
と記している。これは明らかにオーロラ(極光)であるが、村垣は前に箱館奉行をしていて、ロシア人などとも接していたから、これについての予備知識が多少あったらしく、自分の目で見なかったことを残念がっている。
わたくしがはじめてオーロラを見たのは、サンフランシスコからアラスカにむかう飛行機のなかであるが、「アラスカ・パルプ」の工場ができているシトカのホテルの窓からも見た。
いうまでもなくオーロラは、北極や南極に近いところで、夜空にあらわれる美しい光りである。高空における天然の放電現象の一種だというが、大きさも形もまちまちである。色は黄緑色、青白色、赤色など、見るごとにちがっている。シマのような模様のついているのもあれば、ついてないのもある。見たことのない人には、ちょっと説明しにくいが、かんたんにいうと、色のついた噴水のとてつもなく大きいのを遠くからながめたようなものだと思えばまちがいない。この世のものとは思えないあやしい美しさである。
さて、「ポーハタン号」は、オーロラを見てから二日後の明け方近く、サンフランシスコについた。港の入り口の山上には常夜灯=i灯台)が輝いていた。「咸臨丸」はすでに十五日前について待ちかまえていたが、「ポーハタン号」の到着をテレガラフ(電信)で知らされ、軍艦奉行木村摂津守、艦長勝海舟などがさっそく訪ねてきて、互いに無事を祝った。
サンフランシスコは、ハワイとちがって、緯度も御国≠フ下総あたりと同じで、気候もたいしてちがわないし、とくに珍しい草木も目につかない。花のなかに少しかわったものがあるくらいだ。
夕方、サンフランシスコの統領(市長)があいさつにきた。あす、使節一行を招待したいというのである。
「統領はこの部落の総督にして、もっとも高官なるが、かく案内もなく、忽卒《こつそつ》にきたりしは、懇信をあらわして、礼儀はなきことなるべし」
と、村垣は日記に書いている。親切な気持はわかるが、礼儀をわきまえないというのだ。その晩、村垣は正使の新見正興《しんみまさおき》とともに散歩に出ると、春の月が故国と同じようにかすんでみえた。
とつくにといえども同じ天の原
ふりさけ見ればかすむ夜の月
阿倍仲麻呂《あべのなかまろ》にでもなったような気分にひたったらしい。近いうちに日本へむかって出る船があるときいて、手紙を託し、そのなかにきょうつんだ珍しい花を紙におしてはさんだ。
ふるさとの人に見せんととつくにの
ことなる花をおくるひともと
当時、村垣は四十七歳だったが、距離感というものは、人間をこのようにセンチにするのである。
使節団一行の歓迎手配は、「咸臨丸」にのってきたブルックがすべてやってくれた。福沢諭吉が八年後にふたたび渡米して、きいたところによると、「ボーハタン号」がつく前に、どのような形で一行を歓迎していいものかということで、アメリカ側に議論があった。ブルックが陸軍の出張所に出かけて、それならワシントンに伺いを立てねばならぬということになった。しかし、その返事を待っていては間にあわぬというので、こんどはサンフランシスコの義勇兵のところへ話をもちこんだ。義勇兵というのは、一般市民からなっていて、大将は医者、少将は染め物屋の主人といったようなものだ。それでも、軍服や武器はちゃんとそろっていて、日曜とか月夜とかに操練していたけれど、ふだんは晴れの軍服姿を見せる機会がなく、手もちぶさたで困っているところだったから、ブルックの話をきいて、義勇兵が主体となり、思いきった大歓迎をしようということになった。
[#小見出し]ブルックの深い親愛感
「咸臨丸」にブルックたちがのりこんでいなかったならば、アメリカにつくまでに難破する公算が大きかった。
『福翁自伝』によると、「咸臨丸」の日本人乗組員は、これにアメリカ人をのせることに極力反対した。かれらについて行ってもらったように思われては、日本人の名誉にかかるというわけだ。「それを無理おしつけにして同船させたのは、政府(幕府)の長老も、内実は日本士官の技量をおぼつかなく思い、一人でも米国の航海士が同船したらば、まさかのときに何かの便利になろうという老婆心であった」のであるが、これを進言したのは、ほかならぬ軍艦奉行の木村摂津守で、彼には自信がなかったのだ。
艦長でいて船に弱い勝は、浦賀出帆の日から病気≠ニ称して、船室にほとんど寝たきりであった。木村にいたっては、ブルックの日記のなかで、「提督は船舶運用にかんして何一つ知っていない」「彼は船のりではない」と書かれている。
また日本人乗組員は、「尉官級の六人の士官のうち、なん人かは職務にまったく無知である。提督は能力のあるものを当直につけたがらない。つまり、かれらは能力があっても身分が高くないからというのである」外人の目はきびしく、当時の日本人社会における地位と能力の分裂、封建的身分制度からくる退化現象をついている。
通訳の中浜万次郎は、日本人とアメリカ人のあいだにはさまって、しばしば困った立場におかれたらしい。「万次郎はだれはばかるところなく自由に話すが、また同時に、なにか不安そうだ。彼はとても危険な地位にあり、非常に注意してあつれきをさけねばならないのだ」とブルックは書いている。
アメリカ人のことばや習慣に通じない日本人の誤解から、中にはいった万次郎が恨みを買って、バッサリやられる恐れがあった。
この事態にごうをにやしたブルックが、あるとき、万次郎をよんでいった。
「もしもわたしが、部下を当直からはずし、船の仕事を拒否したとしたら、提督はどうするだろう」
「さっそく船を沈めてしまうでしょうよ」
と万次郎は答えた。しかし、万次郎自身は、そんなことで死ぬのはいやだといった。
あるま夜なかのこと、ふと目をさましたブルックは、船のようすがどうもおかしいので、デッキに行ってみると、万次郎が水夫を指揮していた。アメリカ仕込みで、前に捕鯨船を仕立てて大洋に出たこともあり、自信も腕もあるので、だまって見ておれなかったのであろう。
ときどき、むかっ腹を立てることはあっても、ブルックの心の底には、日本人にたいする暖かい気持ちがあった。ある日、船にとんできたアホウドリを日本人たちがとらえたが、万次郎は「生来の親切さから逃がしてやった。りっぱな特質である」と書いている。ブルックは前に、測量船「フェニモア・クーパー号」の船長として、浜田彦蔵を書記につかったこともあって、日本人の長所、短所をよく知っていたのだ。
とにかく、古材でつくったこのボロ船が、なんども大あらしにあい、満身創痍《まんしんそうい》のような形で、やっとサンフランシスコにたどりつくことができたのは、主としてブルックの長い経験、すぐれた技術、不屈の船のり魂、日本人への深い親愛感のおかげである。そして、この船をアメリカの海軍造船所のドックに入れて、大修理を加え、日本への帰航につかえるようにしてくれたのもブルックであった。
幕府の海軍長官ともいうべき地位にあった木村が、自分の家の千両箱をいくつも「咸臨丸」にもちこみ、部下の労をねぎらったことは前にのべたが、サンフランシスコで、ワシントンにむかうブルックともいよいよわかれねばならなくなったとき、木村は送別会を催し、その前夜に、八万ドルはいっている鉄の箱をブルックに示し、感謝の意をこめて、そのなかからほしいだけの金額をとり出すようにすすめた。しかし、ブルックはこれに応じなかった。
「彼はこの異邦の珍客を自国および自国民に紹介する先駆者になったということに満足し、ほかにはなにも報酬を求めるつもりはなかったからだ」
ジョン・マーサー・ブルックは、一八二六年フロリダの陸軍基地で生まれた。父は陸軍少将、母はマサチューセッツ州の出で、「南部のローマン的、男性的な気質と、北部の発明家的、実際的の気質」をうけついで、船のりとなったが、専門は測量、砲術、天文学で、ブルック式深海測量器≠竍ブルック砲≠ネどを発明している。
ブルックが「咸臨丸」で帰国した翌年、南北戦争がおこった。彼は南部同盟海軍の砲術と測量部の長官となり、北軍を相手に、世界最初の甲鉄艦海戦をおこなった。
この戦争がおわると、彼はバージニア陸軍大学の教授に迎えられ、一九〇六年八十歳で死んだ。そのむすこは大正のはじめ、駐日アメリカ大使館付き武官として勤務し、そのさい東京で生まれた娘(ブルックの孫)も、太平洋戦争の直前まで、アメリカ大使館につとめていた。このようにブルックの日本へのつながりは、三代もつづいたほど強かったのである。
かりに「咸臨丸」が日本人乗組員だけで運航して沈没し、勝海舟や福沢諭吉が船と運命を共にしていたならば、幕末日本史も明治文化史も、かなりちがったものになっていたであろう。
[#小見出し]妻はあるじの如し
「咸臨丸」は、サンフランシスコに近いメーア・アイランドの海軍ドックに入れられたが、これにのってきた日本人一行の宿舎として、ドック付属の官舎をあてがわれた。サービスはいたれりつくせりだった。洋食は口にあわないというので、食事は自分たちでまかなったところ、毎日魚をとどけてくるし、ふろも毎日たててくれた。
ときどき、サンフランシスコの町に招かれて、ホテルでごちそうになった。道路は中央の幅十間ぐらいが車道になっていて、そこに厚い板をしき、両側の店舗に面したところが歩道で、ここにも板がしいてあった。カナダ、アラスカ、シベリアなど、寒い地方の開拓地はどこでも、近代的な舗装ができるまでは、たいていそうなっていた。
ここで日本人ははじめて馬車というものを見た。車があってウマがついておれば、乗り物だということがわかりそうなものだが、戸をあけてはいると、ウマがかけ出したので、なるほどこれはウマのひく車だと気がついたと福沢諭吉は書いている。
日本人はみな大小をさして、麻裏ゾウリをはいていたが、ホテルに案内されると、美しいジュウタンがしきつめてある。この織物は、日本では、よほどのぜいたく者が一寸四方いくらという金を出して手に入れ、紙入れやタバコ入れにする貴重品である。これが八畳も十畳もの広い室いちめんにしきつめてあって、その上をクツやゾウリのままで歩くなどというのは、考えられないことであった。
もっとも、アメリカ人のほうでも、日本人の身につけているものをひどく珍重し、むやみにほしがった。木村摂津守の従者長尾幸作は、サンフランシスコのガラス屋の主人に、自分の羽織を与えたが、ほかにも希望者が続出したので、はかまを小さくきってみなにわけてやったという。
ホテルでは、まず酒が出たが、徳利《びん》の口をぬくと、恐ろしい音がしたので、すっかりたまげた。シャンパンだ。これをコップについで各自の前に出されたが、妙なものが浮いている。口に入れてみて、キモをつぶし、はき出すものもあれば、ガリガリとかんでいるものもあった。春だというのに、氷が出るとは思いもよらなかったのだ。
アイスクリームも出た。勝海舟はこれを雪≠ニか氷≠ニか呼んでいたが、アメリカ人から、
「日本ではなんといいますか」
ときかれ、
「ベリー・グード」
と答えたと、サンフランシスコの新聞に出た。海舟にはこの質問の意味がよく通じなかったか、それとも負けおしみか、どっちかであろう。しかし、
「日本軍艦の艦長(海舟)は、書物を読むような調子で英語を話す」
と書いているところを見ると、いちおう通じたものと見るべきである。
ところで、福沢はタバコをのみたいと思ったが、タバコ盆も灰吹きもない。ストーブの火をつけてのんだものの、スイガラをすてるところがない。そこで、ふところから紙を出し、よくもみ消して、これに包んで、たもとに入れた。しばらくして、たもとから煙が出てきて、キモをつぶしたという。『福翁自伝』のなかで、この旅行にかんする部分には、しばしばキモをつぶした≠ニいう表現にぶつかる。
それでいて、電信、製鉄、砂糖精製の現場など、日本人の夢にも知らないことだろうと思って見せてくれたところが、こちらはちゃんと知っている。すでに日本で研究していたことだから、少しも驚くに足らないと、福沢は書いている。それよりも彼が驚いたのは、アメリカに鉄の多いことだ。
「江戸に火事があると、焼けクギひろいがウヤウヤ出ている。ところで、アメリカに行ってみると、鉄はまるでゴミ同様にすててあるので、どうも不思議だと思った」
ある日、木村摂津守がオランダ人の医者から招待をうけた。福沢がおともをして行ってみると、そこの主婦が座敷にすわりこみ、客の相手をして、主人はもっぱら雑用をしている。日本とはまるでアベコベだ。村垣の日記でも、アメリカでは「妻はあるじのごとく、あるじはしもべのごとし」と書いている。
やがて、ごちそうが出たが、これはなんと、ブタの子のまる煮である。まるで安達ヶ原に行ったようだと、またもキモをつぶした。
「すべてこんなことばかりで、私は生まれてから嫁入りしたことはないが、花嫁が勝手のわからぬ家に住みこんで、見ず知らずの人にとりかこまれてチヤホヤいわれて、笑うものもあれば、雑談をいうものもあるそのなかで、お嫁さんばかりひとり静かにしてお行儀をつくろい、人に笑われぬようにしようとして、かえってまごついて顔を赤くするその苦しさはこんなものであろうと、およそ推察ができました」
と、福沢はこのときの気持をのべている。
[#小見出し]浮世絵で訴えられる
ある朝のこと、サンフランシスコ裁判所から「咸臨丸」艦長勝麟太郎あてに召喚状がきて、使節団一行をあわてさせた。
「尋問の節これあり、明十五日午前九時、当裁判所へ出頭せられたし」
というので、その晩、勝はまんじりともしなかった。別にこれという心当たりはないけれど、船員のなかで、乱暴をはたらいたり、罪を犯したりしたものがないとも限らないからだ。
あくる朝、勝は正装して、指定の時刻に出頭すると、法衣をまとうた裁判官が三、四人あらわれた。そのなかには夜会の席などで紹介されて、懇意になったものもいた。
やがて、裁判長以下が席について、威儀を正し、型通り、勝の国籍、年齢、職業などを調べた。心のなかで勝は、困ったことになったもんだと思った。
すると、裁判長は二、三冊の書物を高くささげて、
「そのほうはこれをなんと見るか」
といいながら、中を開いて勝の目の前につきつけた。見れば、なんと、それは日本の浮世絵で、しかも男女の秘戯を描いたものであった。勝はわざとおちつき払って、
「これは日本の芸術品ですが、それがどうしたというのですか」
と逆襲した。そこで、裁判長は、いちだんと声をはげまし、
「そのほうを呼び出したのはほかでもない。実は、きのう、サンフランシスコ公園で、二人のレディーが散歩していたところ、日本の水兵が乱暴にも、この書物を彼女らにしいて与えようとした。そこで、彼女らは大いに怒り、ただちに侮辱の訴えを当法廷におこしたから、法律によって取り調ベ、至急処分することになった」
というわけである。なんだ、バカバカしいと勝は思ったが、法律とあればしかたがない。
「申しわけがありません。この証拠品をもちかえり、さっそく処分いたしましょう」
といって、退出しようとすると、裁判長はまァまァといって、勝を別室にひっぱりこみ、茶菓子などを出してもてなしたうえ、声を低くして切り出した。
「これは個人としてのお話ですが、あの書物はまったく珍しいものです。訴えをおこしたレディーもたいへんほしがっていますし、できれば私も一冊頂きたいのです」
「なんだ、いまいましい、そんなにほしいくせに訴訟までするとは何事だ。またその訴訟をとりあげる裁判長も裁判長だが、公私の区別を重んじるところは実に感心である」
と勝は思った。
そして船にかえって船員を調べると、すぐ事情がわかった。しかし、勝の腹の虫がおさまらなかった。
その翌日、勝提督≠フ名で、裁判長をはじめ、サンフランシスコの各界代表を「咸臨丸」に招待した。宴まさにたけなわなるとき、勝は裁判長をさしまねき、
「昨日、貴下が要求された品を本日この場で貴下ならびに二人のレディーにおわたしいたします」
といって、貴顕紳士のいならぶ前で、いとも厳粛に贈呈式をおこなった。これで勝以下、日本使節団の全員が溜飲をさげたというわけだ。
この話は、『幕末の壮挙咸臨丸』というのに出ているのだが、あまりうまくできすぎているので、疑問の余地があるけれど、勝海舟自身の口からきいたらしい書きぶりであるから、無下《むげ》にすてるべきではないと尾佐竹猛博士が書いている。いくらか潤色されたところがあるとしても、これに似たことはあったのであろう。
「ポーハタン号」でサンフランシスコについたものは、インターナショナル・ホテルにはいったが、そこで火事にあっている。といっても、ホテルの向かい側の商店から火が出て、消防隊がきて消すところを窓から見ただけであるが、そのときのもようを勘定方組頭の森田岡太郎がおもしろく書いている。
「火事あり。処々に釣りさげこれある鐘を鳴らす。釣鐘は撞木《しゆもく》打ちにはこれなく、鐘のうちに舌あり、繩にて鐘を下より引けば、舌左右にあたりひびき出づ。夷人東西に奔走す。車上にポンプをのす。一車左右にひき繩ありて、八、九人ずつにて引き出し、火事あるところへいたり、下水のフタを引きあげ、たたえこれある海水を革袋にて走らせ、暫時に防止。余が旅館風下にて、窓より煙入りくるくらいなれども、主人はじめ、旅客さらに驚く気色なく、火元隣家の婦人など、つねのごとく仕事いたしており、混雑の様子もこれなく、レンガ屋故、飛火、移火の患なき故という」
江戸っ子の森田の目には、これが異様にうつったらしい。
[#小見出し]アバタで警戒される
使節団一行を迎えて、現地新聞の記者団がドッとおしよせてきたことはいうまでもない。
「ポーハタン号」できたものは、すでにホノルルで経験ずみなので、それほど驚きはしなかった。一行にかんする記事が新聞に出たのを見ると、いまの日本人にも興味のある点が少なくない。日本人について、
「これらの人々は、カリフォルニア州にいるシナ人よりも、ずっと教養があるようにみえた。船のなかは万事よく整頓し、規律正しく、清潔であった」
と書いたのもあった。
日本の鎖国以前にも、インド、ジャワ、シナなどを経て、日本を訪れた西欧人は多かったが、かれらが日本からうけた第一印象として共通している点は清潔≠ニいうことであった。ここでもそれが指摘されている。
ところが、『ハーバー週報』というのは、日本人のあまり自慢にならぬ点をもついている。
「使節一行のほとんど半分は、多かれ少なかれ、顔に天然痘のあとをとどめている。かれらはすべて皮が厚く、色がうす黒く、一般に竹の散歩杖の色をしている。しかしこのなかの三人(正使、副使、監察)の顔は、赤色をおびていて、はなはだていさいよく、いずれもおちつきと威厳がうまく組み合わされているのが見られる」
いまの日本人の大半がメガネをかけているように、この時代の日本人にアバタの多かったことが、これでわかる。この点は、のちにヨーロッパヘ派遣された日本使節団の場合も同じで、そのためとくに警戒されたようである。この航海中にも、「ポーハタン号」の乗組員のなかから、天然痘患者を一人出している。吉田松陰や高杉晋作の顔にもアバタがあった。
戦前、朝鮮で育って日本にきた人々の多くがそうであったことが思い出される。これでみると、衛生条件の点では、日本と朝鮮のあいだに、半世紀の開きがあったのであろう。
イギリスのジェンナーが種痘を試みたのは、一七九五年(寛政七年)であるが、日本でも、安房の海辺では、古くから天然痘のカサブタをとって人にうえる習慣がおこなわれていたという。西洋式の種痘が日本につたわったのは文政年代(一八一八年頃)であるが、これを奨励したのは、佐賀藩主|鍋島閑叟《なべしまかんそう》で、自分の娘にもこれを試みている。あまり効果がなくて、普及しなかったのは、西洋からとりよせた種痘の苗が、日本につくまでに変質していたからだ。
内田|魯庵《ろあん》が、幕末明治の画家|淡島椿岳《あわしまちんがく》について書いたものによると、江戸時代には「麻疹《はしか》は命定め、疱瘡《ほうそう》は容貌定め」といわれ、こどもが生きて世のなかに出るには、どうしてもこの二つの関門を通りぬけねばならなかった。どっちも年中流行していたらしい。
疱瘡にかかると、なにからなにまで赤いものずくめで、着物もフトンも赤い布でつくられ、オモチャには真っ赤な張り子のミミズクやダルマが与えられ、読み物にも紅刷りの絵本をあてがわれた。食べものとしては、ケシの実入りの軽焼きが売り出されていたが、これは大厄を軽々とすまし、ケシほどのアバタものこさぬという縁起をかついだものである。この軽焼きの本舗として知られた淡島屋の養子に迎えられたのが椿岳で、明治の文人画家として知られた淡島|寒月《かんげつ》はそのむすこである。
ところで、主任通訳の名村五八郎が、航海中ジョンストン中尉からキリスト教の話をもち出されただけで、だれかにきかれてはいないかと気をつかったことは前にのべたが、「咸臨丸」の火焚小頭《ひだきこがしら》(火夫長)で嘉八《かはち》というのが書いた『異国の言の葉』という旅行記では、キリスト教にたいする態度がたいへんちがっている。
サンフランシスコでドンタク(日曜)に、アメリカ人が大勢あつまり、涙を流して説教をきいているのを見て、「この宗旨、日本にてはごく悪しきことばかりのように相心えおり候えども、決してさようの宗旨にてはこれなき証拠など、いろいろこれあり候こと」
と、好意的な見かたをしている。名村は長崎人として、キリスト教弾圧の恐ろしさを身にしみて知っていたからであろうが、嘉八はきわめて大胆である。もっとも、この日記は、火夫の書いたものにしては、文章がととのいすぎているので、本人の話に基づいて別人が書いたか、手を加えたか、どっちかであろうといわれている。それにしても、人前でこんな話をして、これを書きとめたとすると、当時すでにこの程度の表現の自由が許されていたのであろうか。それとも、無知から出たものであろうか。
「ポーハタン号」できた使節団一行のサンフランシスコ滞在は十日足らずで、そのあいだに市長の招宴にのぞんだが、そのときの印象を副使の村垣は、日記につぎのように書いている。
「人々うちよりて、きょうのことども語りあうてうち笑う。すべて懇親を表したる礼と見れば、真実と見えけれど、またそしりて見れば、江戸の市店などにトビ人足などいえるものの、酒もりせるはかくもあるべしと思わる」
市長のせっかくの盛宴も、日本人の目には、トビ人足の酒もりとうつったのだ。
[#小見出し]大きかった洋行の収穫
「一両輩きたりてシナ人の戯場(劇場)に見物せんというものあり。僕もしたがい行きてこれを見る。音楽の器十品ばかりを用い、そのもよう復讐などの体にて、言語を解せずといえどもほぼ察すべし。衣装もよほど奇麗なり。見物人は多分シナ人にして、男女相混ず。まれにはアメリカ人およびその他の西洋人もあり」
と、佐野|鼎《かなえ》の『訪米日記』に出ている。また「一街ありてことごとくシナ人のみなり」と書いているのを見ると、名物のチャイナ・タウンもすでにできていたらしい。
もともとサンフランシスコは、スペインの宣教師の伝道基地になっていたところで、一八二一年にメキシコが独立してからメキシコに属していたが、一八四六年のメキシコ戦争でアメリカ海軍に占領されてアメリカ領となった。その後、ゴールドラッシュで急にふくれあがったのだが、治安が悪く、一時はほとんど無警察に近い状態だった。日本使節団のくる十年前に市政がしかれ、九年後に最初の大陸横断鉄道が開通して、近代都市らしくなった。使節団がきたころは、人口十万以下であったが、新聞は十三紙くらい出ていたという。この十数年間にサンフランシスコがあまり変わっていたので、中浜万次郎は驚いている。
前にあげた森田清行の『亜行日記』に、
「このところ遊女これある由、一人揚げ代十五ドルより二十ドルまでの由」
と出ている。これ以上のことはなにも書いていないが、江戸の吉原などとは、比較にならないほど高価で、日本人には手が出なかったのではあるまいか。
アメリカ建国の父≠フワシントンのことは、日本人のあいだでもよく知られていたが、そのワシントンの子孫は現在どうなっているかということを、福沢諭吉は気にして、あちこちできいている。ところが、ワシントンには娘がいて、だれかと結婚しているはずだ、というくらいの知識しか与えられなかった。
「これは不思議だ。もちろん私も、アメリカは共和国、大統領は四年交代ということは百も承知のことながら、ワシントンの子孫といえば、たいへんなものにちがいないと思うたのは、こちらの脳中には源頼朝《みなもとのよりとも》、徳川家康というような考えがあって、それから割り出してきいたところが、今の通りの答えに驚いて、それは不思議と思うたことは今でもよくおぼえている」(『福翁自伝』)
数世紀にわたる封建的な統一政権の基礎を築いた頼朝や家康と、近代的な民主主義国家をつくりあげたワシントンの区別、民衆のうけとりかたが、理屈としてはいちおうわかっている福沢にも、実感としてのみこめなかったのである。
洋行≠ニ呼ばれてきた外国旅行の意義と価値は、出かける人物なり、時代なりによってずいぶんちがってくるものであるが、原則的には、相手国との文化的落差によってきまる。福沢のばあいは、その落差が最大で、したがってその意義も価値も最大であったといえよう。頼朝や家康とワシントンとのちがいを、アメリカの民衆のなかから学びとったというだけでも、福沢のこの洋行≠フ収穫は大きく、近代日本の建設にたいへん役立ったことはいうまでもない。
旅行者が頭のなかに仕入れてきたものばかりでなく、もってかえったトランクの中身を調べてみれば、その旅行の価値はだいたい見当がつくものだ。なにを買いこんできたかということで、その旅行を評価できる。もっとも、現在では、なにも買わずにかえってくるというのも、りっぱな見識だといえる。
前にアメリカ生活の経験のある中浜万次郎が、ミシンやカメラを買ってかえったことはすでにのべた。ウェブスターの辞書を買ったのは、中浜と福沢だけである。ということは、この土佐の漁師のセガレが、ひと足前にアメリカと接触することによって、福沢に近い知的水準に達していたということだ。
ところが、「咸臨丸」提督の木村摂津守はコウモリガサを買った。これが彼の目に、もっとも魅惑的なアメリカ文明の利器としてうつったのであろう。
すると、このコウモリガサのまわりに、日本人が大勢あつまってきて、これは珍しいとばかり、各自手にとって見ながらいった。
「これを日本にもって帰ってさして歩いたとしたら、どういうことになるだろう」
「それはわかりきっているじゃないか。新銭座にある木村の家から日本橋まで行くあいだに、浪人ものに切られてしまうにちがいない。家のなかで、ときどきひろげて見るよりほかに用のないシロモノだ」
という結論に到達したと福沢は書いている。
そのころ、日本からアメリカの商船「ローバー号」がサンフランシスコについて、日本商品の競売が催され、一種の日本ブーム≠ェ発生した。
[#小見出し]咸臨丸ぶじ帰国
この遣米使節団の経費はどうなっていたか。
「咸臨丸」の場合は、木村摂津守の報告によると、往復の諸経費約七千六百両と見つもられ、さらに諸物価の高いアメリカのことだし、船の修理その他の臨時支出のことも考えて、別に洋銀八万枚を用意して行った。しかし、約二万五千ドルかかった船の修理費をはじめ、滞在費、交通費など、ほとんどアメリカ側で負担してくれたので、約五千七百両と洋銀七万九百枚をもってかえった。差し引きしてつかった分は、二千両と洋銀一万枚ということになる。むろん、個人的な出費は別だ。
これだけの金で、総勢九十六人が五か月にわたる大旅行をやってのけたのであって、頭割りにするといくらもかかっていない。招待旅行のありがたさだ。
戦後の日本でも、招待旅行はさかんてあるが、この遣米使節団は、いわばそのハシリである。
木村としては、これでは心苦しいというので、せめて船の修理費だけでも払いたいと申し出たが、これは日本の大君《たいくん》=i将軍)にたいするアメリカ大統領の心づくしだということでうけとらなかった。修理に関係した人々にでも、慰労の意味でいくらかおくろうとしたが、これもことわられた。そこで、サンフランシスコの公共団体に寄付をして、帰国後、大統領以下へそれぞれ謝礼の品をおくった。
さて、「咸臨丸」の修理もできて、いよいよ帰国ということになったが、困ったことには、乗組員のなかから病人がたくさん出た。塩飽島《しあくじま》出身の水夫源之助、富蔵、長崎出身の火夫峰吉の三人が死亡し、病人八人と付き添い二人、合わせて十人がサンフランシスコの病院にのこされた。
こんなに病人が多く出たのは、日本を出るときは、真冬で寒かったが、途中から急に暑くなった。つまり、気候の変化に適応できなかった結果だと見られている。病名がいずれも熱病≠ニなっているところを見ると、天然痘、チフスのたぐいであろう。
三人の死者は、サンフランシスコのローレル・ヒルの墓地に葬られ、のちにサン・マテオの日本人共同墓地にうつされた。墓碑は大理石で、一基三十七ドルかかったという。「咸臨丸」の船医でその治療にあたった牧山修卿《まきやましゆうけい》が一首詠んではなむけとした。
されば世にのこるうらみもあらざらん
ここをいくさの庭と思えば
この歌を見て、勝海舟は、
「戦場にて打死なしたるより高名なり」
といった。ほかに、健康なもので、アメリカにのこることを希望したものもあったと、メーア島の「海軍造船所」の記録に出ている。
かくて「咸臨丸」は、太陽暦の五月八日、故国にむけて出発したが、これにもアメリカ人水夫が五人のりこんでいた。死亡したり、病気になったりした日本人水夫の補充ということになっているが、実は「咸臨丸」がサンフランシスコにつく前の日に、木村提督から、帰航にもアメリカ人水夫を八人雇い入れたいと申し出ている。これはブルックの日記にも書かれているからまちがいない。
やはり自信がなかったのであろう。
それでも、福沢諭吉にいわせると、
「水夫は二、三人アメリカからつれてきたけれども、甲比丹《かぴたん》(キャプテン)ブルックはおらず、ほんとうの日本人ばかりで、どうやらこうやらハワイをさがし出して、そこに寄港して、三、四日|逗留《とうりゆう》した」
となっている。
ところで、ホノルルを出航してまもなく、船内で、大珍事がおこった。というのは、「花柳にたわむれるなどということは、かりそめにも身を犯したことのないのみならず、口でもそんないかがわしい話をしたこともない」福沢が、アメリカの女性といっしょにとっている写真を見せて、「君らはサンフランシスコに長くいたが、こんな芸当はできなかったろう。口では大きなことばかりいっても、実行しなければ話にならないじゃないか」
とタンカをきって、船内にセンセーションをまきおこしたのである。このタネあかしは、福沢自身でしているが、写真屋の娘にいっしょにとらないかといったら、気軽に応じたというだけのことだ。サンフランシスコで日本人にこの話をしたら、真似をするものがあるのでだまっていたのだという。
船が赤道に近づくと、猛烈な暑さで、「火焚一同疲れはて、汗も出切り候」というところから、「格別の手当」要求の歎願書を差し出されたりしたが、幸い天候に恵まれ、六月二十三日無事浦賀についた。
この重大な任務を果たした「咸臨丸」は、その後、ロシアの軍艦が対馬を侵したときに談判委員をのせて行ったり、小笠原島調査に派遣されたりした。戊辰の役には、北海道へ脱走した榎本武揚の艦隊に加わったが、途中あらしにあって清水港に難をさけたところ、官軍に見つかって砲撃をうけた。そのときの戦死者を清水次郎長が手厚く葬ったという話は有名である。
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[#中見出し]開拓精神の過小評価
――劣等感・優越感・抵抗感のカクテルでのぞいたアメリカ――
[#小見出し]汽車に驚異の目
日米条約批准書を首都ワシントンにとどけねばならぬ正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順らの一行は、四月八日「ポーハタン号」でサンフランシスコを出帆、パナマにむかった。
この航海中、日本からもってきた木炭が品切れになり、船室でタバコの火がつけられなくて困った。アメリカ人のつかう炭は石炭だから、役にたたぬとこぼしている。
船はカリフォルニアからメキシコにそってすすんだが、連日快晴がつづいた。ブペといってアホウドリに似た愚かな鳥≠ェ船にとんできて、かんたんにつかまえることができた。一同これを相手にたわむれた。
あすはパナマにつくという前の晩「ポーハタン号」の乗組員たちが、日本人のへやにきて名ごりをおしんだ。この船は、パナマで日本人一行をおろし、サンフランシスコにひきかえして修理することになっているのだが、かれらはワシントンを出て三年になるという。せっかく郷里の近くまでもどってきながら、妻子にも会わず、また別なところに出かけねばならぬかれらの心中を察し、日本人たちは大いに同情している。
サンフランシスコから十八日目にパナマについた。パナマ運河が開通したのは一九一四年(大正三年)だから、半世紀以上ものちのことであるが、鉄道のほうはすでに五年前から通じていた。
はじめて汽車というものにのった感想は、
「いかがあらんと舟とはかわりて案じけるうち、すさまじき車の音して走り出でたり。ただちに人家をはなれで、次第に早くなれば、車の轟音、雷の鳴りはためくごとく、左右を見れば、三、四尺のあいだは、草木も縞《しま》のように見えて、七、八間先を見れば、さのみ目のまわるほどのこともなく、馬の走れるにのるがごとし。さらに話もきこえず、殺風景のものなり」
と、村垣副使は書いている。
機関車のところに、日本とアメリカの国旗をたてて、歓迎の意を表していた。
雲にうかぶ仙人もかくいかずちの
車は知らじ岡ごえの道
この鉄道をはじめて利用した日本人は浜田彦蔵で、使節団がここを通る二年前であることはすでにのべた。
大西洋側に出る中程まで行ったときに、汽車がとまり、一同下車して休憩した。茶店のようなものがあって、ブドウ酒に氷をつけて出した。寒暖計を見ると九十五度である。氷はアメリカの北のほうの山から船ではこんでくるのだという。食事も出た。
「麺餅(パン)ははなはだ簡にして、携行に便なり。食しなれるにしたがいて、腹の保《も》ちもよろしきものなり」
と書いているものもある。このころになると、日本人もパン食になれてきたらしい。
やがて終点のアスピンワル(現在はコロン)についた。この町は、わたくしも訪ねたことがあるが、かつては黄熱病で知られ、世界でもっとも非衛生的な土地の一つとされていたところである。
ここから使節団をワシントンにはこぶために、「ロアノーク号」というアメリカの軍艦が待機していた。これは三千四百トンで、「ポーハタン号」よりも大きい。この船には、鉄をねじった車(スクリューのこと)がかじの下の水中についていて、これを旋回して船をすすめる仕掛けになっている。車輪式に比べて水を圧する力が弱いけれど、これだと船の中央に砲をそなえつける余地が多く、軍艦には有利である。また、風むきのいいときには、蒸汽をとめて帆を用いるのにもつごうがいいという説明をきいて、一行は感心している。
ここを出たのは午前九時ごろで、タ方ポルト・ベロという小さな港にはいった。コロンブスが西印度諸島を経て、アメリカ大陸に第一歩を印したのはこのへんだといわれている。船舶用の石炭や飲料水の供給所になっていて、岩清水の流れ出るところに船をつなぎ、その水をトイで船に入れるのであるが、アメリカ人夫婦が近くの小屋に住んで、これを管理していた。水代は一ガロンについて一セントとなっている。
ここで身分の低い日本人たちは、久しぶりで水浴をしたり、せんたくをしたりした。船中で行水のできるのは、お目見え(旗本)以上に限られ、それも時計ではかって、一人一秒間以内ときめられていたと、森田清行の『亜行日記』に出ている。しかし、いくらなんでも一秒ではどうにもなるまいから、これはまちがいであろう。
このへんの細流に、三尺ほどもあるトカゲのようなのが泳いでいた。ワニの子らしい。サルもたくさんいた。これは珍しいサルで、手足も尾も長く、尾の先が自由にはたらき、木の枝などに尾でぶらさがる。立って歩きもするが、そのかっこうがおかしい。顔はまっ黒だ。
この夜、おおかみのほえる声がきこえた。
[#小見出し]甘くみたアメリカ魂
ポルト・ベロをでてまもなく「ロアノーク号」の水兵が二人死んで、水葬がおこなわれた。その方法は、帆木綿でつくった袋に死体を入れて、足に弾丸をつける。これを板の上にのせて、布でおおい、大勢の水兵でかついで海のなかへ投げこむのであるが、その前に艦長以下が甲板《かんぱん》にあつまって脱帽、音楽を奏し、僧官がお経を唱えて引導をわたした。パナマを通るときに、日本人のなかからも病人が出ているのだが、この葬式のことは知らせなかったという。
「水兵ごときものにも、コモドール(司令官)まで出ておくりしを見て、わが国人はあやしみけるは、彼は礼儀もなく、上下の別もなく、ただ真実をあらわして治むる国なれば、かくせしことと見ゆ」
と、村垣副使は書いている。当時の日本人にとって礼儀≠ニいうのは、ただ上下の別≠守ることだった。
艦内で、日本人がつかっているキセルのラオダケを見て、アメリカ人はたいへん珍しがった。アメリカにはタケがぜんぜんないときいて、これを与えると大喜びだ。また日本人からウメボシのタネをもらいうけ、家にもってかえって庭にまくというのもいた。
キューバ島を右に、フロリダ半島を左に見て、「ロアノーク号」は進んだ。
五月十日、ニューヨークの入り口まできたところ、ブキャナン大統領からの命令が伝えられ、ワシントンヘ引きかえすことになった。ワシントンはアメリカの正面玄関で、使節団は、まずそこで迎えるべきだというわけだ。
三日後、ポトマック川の川口につくと「ヒラデルヒア号」という船が、日米両国旗をかかげて一行を迎えにきた。接待係のなかには、ペリーとともに日本にきたものも大勢いて、大いになつかしがった。
ここで合衆国第一の砲台≠見学した。前に箱館奉行をしていた村垣副使は、これに強い関心を示し、五稜郭に新しく築いたのと比較している。
この砲台は、周囲一里、キキョウの形につくられていて、大砲はよくみがかれていた。「おのれは砲台のことは深く知らねば、得失の論はいわず」とことわりながら、村垣はつぎのような批判を下している。
「目あてもなき海面へむかい、川口ははるかはなれたれば、実用にはいかがあらん。所々の砲台を見しが、多くは飾りものにして実用うすし。実備は軍艦のほうはるかに勝りしなるべし。総じて彼の軍法は虚にして実なし。ロアノーク号∞ポーハタン号∞ナイヤガラ号≠ンな彼の誇りし大艦なれど、精兵はわずかに十二、三人、その余はみなソルタート(ソルジャー=兵士)マタロス(マドロス=水夫)、みな日雇いかせぎも同じ。すべて何事も進退すみやかなるゆえに、わが国人恐れけれど、大砲の業に熟せしはまれなり。西洋一般の法なるゆえ、何国の人を何国へ雇うても、手足のごとく進退せしゆえなり。わが国の義をもって一度彼をみじんにするは安きことなりとひそかに思いけり」
これは相当の見識で、見るべきものはちゃんと見ぬいている。それでいて、もう一つ重大な面、新興国アメリカのなかにひそむ爆発的なエネルギー、一朝ことあるときに発揮されるアメリカ人魂といったようなものを見おとさないまでも、軽く見すぎているきらいがある。アメリカ、アメリカ人、アメリカ軍にたいするこういった考えかたは、明治以後においても、一般日本人の頭からぬけきらなかったのであるが、そのみなもとは古く遠く、この使節団に発していることが、これでよくわかる。「わが国の義」すなわち日本人特有の大和魂≠もってすれば、「彼をみじんにするは安きことなり」というところから大東亜戦争≠ノもふみきったのであって、アメリカ魂≠過小評価する伝統は、このへんから発生したと見られないこともない。
ところで、この使節団が書きのこした日記類を読んで、強く感じることが一つある。これらのほとんどすべてに共通している点があることで、それは身分の高いものも低いものも、武官はもちろん文官から通訳にいたるまで、おしなべて、軍事的な目をもって、いいかえれば祖国防衛の観念をもって、ものを見ているということである。当時の日本人が、四方から日本にせまりつつあった外国の圧力をいかに強く感じていたかが、これでよくわかる。村垣の日記に見られる一種の強がり≠焉Aそこに根ざした劣等感、優越感、抵抗感のカクテルと見るべきであろう。
一行をのせた船は、ポトマック川をさかのぼった。
「この川筋、左右は更に山なし、平原雑木繁茂して見どころなし。折ふし小屋掛の人家ありて、わがエゾの石狩川にひとし。川水は遅流にして濁水なり。このごろ雨ふりて出水せしにやと人々いうけれど、おのれは左にあらずと思う」
といって村垣は、エゾの川を引き合いに出し、上流は広野で、「合衆国は不毛の地多き証なるべし」と断定している。
[#小見出し]女性の同席におどろく
船がワシントンの郷里の近くを通ったとき、こんもりした木立ちのなかに大きなお堂がみえた。さらに行くと、砲台のようなものがあって、ワシントンの墓だという。ここを通るときは、必ず船をとめ、音楽を奏し、それぞれ帽子をぬいで、礼拝することになっている。
「礼なき胡国《ここく》(えびすのくに)といえど、かくするは自然の理なるべし」
と、村垣副使は書いている。
一行は、サンフランシスコの場合同様、ひとまずネビイ・ヤード(海軍造船所)に船をつけて、それからワシントンにむかった。見物の群衆が殺到し、沿道はもちろん、家の内外、屋根の上まで、人間で埋まった。
家々の窓から、一行をのせた車の上に、花束がさかんに投げられた。こんなに大勢見物があつまったのは、ワシントンが開かれて以来のことだという。
一行を迎えたホテルはウイラードといって、屋上には日章旗がひるがえっていた。二年後に浜田彦蔵も泊まったところで、今ものこっている。わたくしは泊まらなかったが、友人を訪ねたことがある。
「室中には、天井および壁上に燭を焼くものを設く。これは煤炭の気を用う」
とある。ガス灯のことだ。
「北越七奇事≠フうちに自然火《じねんか》≠フことありて、管を用いて火を点ずという。同轍《どうてつ》の理ならん」
と、北陸出身の佐野|鼎《かなえ》が書いている。越後では古くから天然ガスを灯火や煮たきにつかっていることを知っているので、別に驚いてはいない。点火につかうマッチのことを早付木《はやつけぎ》≠ニ呼んでいる。
「用水は地下に鋳鉄の大いなる筒を通じ、河その他より清水を引きて街中に通ず」
と説明しているし、浴場や便所などの構造も、正確につかんでいる。
「浴場は、広き湯壺といえども、一人ずつなり。如何となれば、彼の国の俗、肌を他人に見することを男子といえどもはなはだ恥とす。故に夏天炎熱のときも、匹夫すら裸体をあらわすことなし」
ハリスが伊豆の下田で、男女混浴の姿を見て驚いたのと反対である。
さて、大統領謁見の日どりがきまり、その前日、うちあわせのため、使節団代表が国務省にカス長官を訪ねた。カスのへやにはいると、
「書籍などとりちらして、少しもとりつくろうようすもなく、ただ平常の体にて面会し、カスの聟《むこ》その他高官の人々五、六人きたり、はたカスの孫女そのほか婦女にあまた引合わせてあいさつせしが、かかる公館に婦人の出るはあやしみけるが、後には国風なることを知る」
それにしても、
「外国の使節に初に対面せしに、いささかの礼もなく、平常懇志の人のきたりしがごとく、茶さえ出さずすみぬるは、実に胡国の名はのがれがたきものと思わる」
このあと、あすの謁見の礼式について質問したが、先方にはなんの心得もなく、日本式にやればいいという返事である。そこでハリスが将軍に拝謁したときの礼式にならうこととした。ついては習礼≠ニいって、予行演習のようなものをやりたいといったところ、そんな前例はないが、大統領にきいてみるという返事だった。
ヨーロッパの古い伝統から脱出してきた人々によって、新大陸に自由≠旗じるしとしてつくり出されたものと、久しく封建制度の殻のなかに閉じこもっていたものと、まったく異質的な二つの文化が、いまここで、こういう形でぶつかりあっているのだと思うと、この反応はすこぶる興味がある。
国書捧呈式は、五月十八日(邦暦では閏三月二十八日)正午、ホワイト・ハウス(大統領官邸)でおこなわれた。使節団の服装はというと、正使、副使、監察は狩衣《かりぎぬ》に烏帽子《えぼし》、その下は布衣《ほい》、素袍《すおう》、通訳は麻の上下《かみしも》である。アメリカ人たちは、これを見てさぞ異様に感じたことと思うが、当人たちは「胡国に行きて皇国の光をかがやかせし心地」といっているところを見ると、大いに得意だったらしい。
これからまる十年後の明治四年、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らが、このときの条約を改正する目的で、特命全権大使としてアメリカを訪ねたときも、衣冠束帯姿であった。しかし、当時ワシントンには森|有礼《ありのり》が小弁務使(のちに代理公使)として在勤していて、一行を出迎えたが、「こんな野蛮ななりをしていて、条約改正などとはとんでもない」
といって、認識不足の先輩たちをこっぴどくやっつけたものだ。岩倉たちもこれにはカブトをぬぎ、さっそく西洋式の大礼服を新調、大統領との会見式にのぞんだという。
現在でも、日本の女性が海外旅行に出る場合は、たいていハデな和服姿である。その理由としては、
一、日本女性の肉体的欠点をかくすことができる
一、外人の異国趣味に訴える
一、飛行機旅行が多いので、それほど不便でない
といったような点をあげることができよう。
[#小見出し]親書は和文を使う
当時のアメリカの新聞記事によると、条約書は真四角なウルシぬりの箱にはいっていたが、大きさといい、屋根といい、狗舎(犬小屋)そっくりで、公衆に見えないように、赤い色の油紙でおおわれていた。その内部には、三つの箱がおさめられていて、その一つは大君(将軍)より大統領への親書、もう一つは日本語の条約書、三番目は英文の写しで、大統領の印をもらうためにもってきたものである(この条約の原書は、のちに江戸城出火のさい焼失した)。
ところで、この将軍から大統領への親書は、漢文か英文か、それとも和文にするかということで意見がわかれ、ずいぶん議論をたたかわしたようである。けっきょく、大老井伊直弼のツルのひと声で、和文ということに決定した。原文は国学者前田|夏蔭《なつかげ》が書き、一部修正の上、将軍の右筆《ゆうひつ》佐藤清五郎が、金蒔絵《きんまきえ》の模様のついた特製の鳥の子紙に清書したものである。
「うやうやしく亜墨利加《アメリカ》合衆国のみもとにまをす。さきに下田奉行信濃守源|清直《きよなお》(井上清直)、目付肥後守藤原|忠震《ただなり》(岩瀬忠震)におをせて、そのくにの欽差全権巴児利斯(ハリス)とはかり、むつびののりをさだめて、ものうりかふべきちぎりのしるしふみをあたへ、江戸のつかさにゆきかひせしむ。いままたここに、奉行豊前守源正興、淡路守源範正、目付豊後守源忠順等に、ちぎりのしるしふみをもたしめて、華盛頓(ワシントン)のつかさにいたらしむ」
といった調子で、まるで神道の祈祷文をよむようである。それに、ここに登場する人物が、岩瀬をのぞいて、ことごとく源$ゥを名のっているのもおもしろい。のちに乃木大将が学習院院長に就任したとき、学内訓示に「源朝臣希典《みなもとのあそんまれすけ》」と書いて、近衛文麿などがこれに抵抗心をそそられたということは前に書いたが、こういう伝統は、徳川時代を通じて、武士階級の精神的な支柱の一つとなっていたのであろう。
前田は幕末の代表的なエゾ学者でもあって、北海道の地名に現在用いられている漢字をあてはめたのは主として彼の仕事であるが、三年後の文久三年におこった廃帝事件≠ナは、尊皇派にねらわれて、塙《はなわ》次郎とともにあやうく命をおとすところであった。
それにしても、この大切な大統領あての親書を書かせるために、井伊直弼がどうして前田のような人物を起用したのかというと、実は井伊自身が、どっちかというと神がかりに近い保守思想の持ちぬしだったのだ。勅許を待たずに通商条約に調印したというので、彼は進歩主義者、開国の恩人≠フように見られているが、ほんとはその反対であった。ただし、彼は水戸|斉昭《なりあき》が大きらいで、斉昭の強引な攘夷論に、将軍家の後嗣問題がからみ、斉昭に劣らぬ強引な性格から、開国にふみきったにすぎない。人間はときどき、第二義的な原因や理由に基づいて、本来の意図や目的に反したことをやってのけるものだ。井伊の手で日本の開国がなされたというのも、その一例である。
当時、幕府内で渉外の仕事を担当し、世界情勢にかんするもっとも正確な認識をもって、開国派を代表していたのが、前にあげた井上と岩瀬で、実はアメリカヘの使節団派遣のことも、この二人がハリスとの交渉中にもち出して、ハリスが大賛成をしたのである。むろん、この二人が正副使として出かけるつもりだったのが、政権が井伊の手にうつるとともに、下田奉行や目付の地位を追われ、新見、村垣、小栗にお株をうばわれたのだ。それというのも、井上、岩瀬は斉昭派に属していると見られたからである。権力のあるところ、必ず派閥はつきものであるが、このころは斉昭と井伊の冷たい戦争≠ェ絶頂に達していた。安政の大獄≠ニ呼ばれているものも、この派閥争いの産物で、勤皇の志士≠スちはそのまきぞえをくったのだ。
ところで日本から使節団がもってきた大統領あての親書であるが、その末尾は、
「ともにまごころをのべて、ことはかられよかし。すべてしたしみをあつくし、またそのくにたひらけく、やすけからむことおもふにこそ。
安政七年正月十八日                   源御諱   御判」
となっていて、勅語の御名御璽≠ニほとんど同じである。それはさておいて、このようなやまとことば≠読めるものは、そのころ、アメリカじゅうをさがしても、ひとりもいなかったであろう。これについて尾佐竹猛博士は『国際法より観たる幕末外交物語』のなかで、つぎのようにのべている。
「これはきわめて卓見で、ワシントン会議における加藤全権の日本語演説とともに、外交史上の一異彩である」
いうまでもなく「ワシントン会議」というのは、大正十年十一月、やはりこのワシントンで開かれた海軍軍縮会議のことで、日本も加藤友三郎海軍大将(死後元帥)を首席全権として参加、英、米、日の主力艦保有総トン数の比率を五・五・三ときめた。彼の日本語演説が果して卓見≠ナあるかどうかは、見る人によってちがうが、そのころ最高潮に達していた日本の民族主義の波がしらを示したことは明らかである。
[#小見出し]使節は泰然自若
当時の日本人は、アメリカの大統領≠ニいうものをどのように理解していたか。
一八五〇年(嘉永三年)中浜万次郎が日本にかえりついて、長崎奉行牧志摩守の取り調べをうけたとき大統領≠ノついては、つぎのように答えている。
「(アメリカでは)代々の国王と申すはこれなく、学問才覚これあり候を選び出し、王に相成り、四年にしてまた他人にゆずり申し候。政事よく行きとどき、衆人の惜しみ候は年つぎをもって八年王位にまかりあり候。いたって軽き暮らしかたにて、往来には馬にのり、従者ただひとり、馬のあとをまいり申し候。役人ていの人もこれあり候えども、権威をとるなどと申すことなく、いずれが役人やも知れ申さず」
水戸藩『鶴峰戊申の上書』のなかでは、
「亜米利加合衆国は、億万人の聖賢たるべき人を入札《いりふだ》(選挙)にいたし候て彼の国王といたし候由。右の通り億万人の見立候国王ゆえ、不義のことをばなすべからず。彼国元来|禽獣《きんじゆう》に近き風俗にてもこれあるべく候えども、西洋究理の道を学び、新たに国を建立仕り候ことゆえ、旧習不便のことはことごとく相改め、万事行きとどき候うちにも、人をあつかうことを第一にいたし候。大いなる儀と存じられ候」
これは明らかに東洋的な考えから出たもので、大統領≠尭舜《ぎようしゆん》などと同じように見ているところがおもしろい。
徳川末期の地理学者|箕作《みつくり》省吾が弘化三年(一八四六年)に出した『坤輿図識補』では、共和政治について解説しているが、大統領≠フことを日本流に太政官≠ニ書き、ワシントンに活聖東≠フ字をあてている。村垣副使の従者野々村|忠実《ただざね》の日記では、ワシントンを中国流に高祖≠ニ呼んでいる。
また大統領≠総統領∞国君≠ネどと訳し、就任のことを即位≠ニ書いているのもある。
さて、この大統領≠目のあたりに見て、日本人たちはどういう印象をうけたか。
当時の大統領は、十五代目のジェームズ・ブキャナンで六十九歳の老人。村垣の日記には、つぎのように描かれている。
「白髪穏和にして威権もあり。されど商人も同じく、黒ラシャの筒袖股引《つつそでももひき》、何の飾りもなく、太刀もなし。高官の人々とても文官はみなおなじ。武官はイポレット(金にてつくりたる房のごときものを両肩につけて、官の高下によりて長短あるなり)をつけ袖に金筋あり、太刀もおびたり」
ブキャナンはペンシルバニア州出身で、民主党に属し、南部の奴隷のもち主たちに推されて大統領になったのであるが、この年十二月、サウスカロライナ州が合衆国から分離したとき、南部の圧力によって、同州の復帰に有効な手段をとることができず、ついに翌年南北戦争をおこすにいたった。このあとをついだのがリンカーンである。
この使節団の謁見式には、有名なスコット将軍も列席した。そのころ八十二歳だったが、身長六尺五寸の偉丈夫で、南北戦争には首都ワシントンの防衛を担当した。
この年の十月一日に大統領の改選があるときいて村垣が、つぎの大統領は誰かとたずねたところ、有力候補者の名をあげて、これがきっと当選するであろうという。入札だから前に知ることができないはずではないかと問いかえすと、現大統領と縁故のあるものだからという返事である。そこで村垣は「この建国の法も、永くはつづくまじ」という断定をくだしている。
当時のワシントンの人口は八万くらいだったが、日本使節団を迎えて、全市民の熱狂ぶりはたいへんなものだった。「あらゆる階級の人々は、月世界より使者がくるとも、これほどのことはあるまじと思われるばかりの熱心を示した。いかめしき上院議員、大風《おおふう》なシャレもの、優美な婦人、街にむらがる市民、いずれも趣味ある題目として日本使節のことを口にのぼさぬものとてはなく、物見高き群衆は、町家辻々をみたした。しかるに、使節の人々は、かれらの周囲にののしりさわぐ混雑をば少しも意に介せざるもののごとく、泰然自若とかまえ、かれらをとりまける多数の昂奮せる顔や、おちつきのない人々を冷静にうち眺める、そのありさまは、あたかも無数のアリの右往左往に立ちさわぐのを、じっと見つめているアリ塚研究の学生のようであった」
と、ジョンストン中尉は書いているが、これはいささかひいきのひき倒しの感がないでもない。
「日本人旅宿の窓下へ朝より子供または大人ども群集す。男児手まねいたし、銭またはキセル、日本紙などもらいたがるものおびただしく、石なげ悪口など決して致さず」
と、森田清行の日記にも出ているが、すごい人気をよんでいたことは明らかである。ということは、それほど珍しがられたということだ。
[#小見出し]日本品は奪い合い
ブキャナン大統領は、奴隷制度の支持者であることは前にのべたが、日本人の目に、白人と黒人の関係がどのようにうつったか。
使節団の随員、従僕などは、ホテルの従業員などに、日本からもってきた扇子、錦絵などをチップがわりに与えたところ、それがこどもたちのあいだでまでうばいあいとなり、日本品をもたないものは肩身がせまいというさわぎになった。
ある日、勘定方組頭森田清行の従僕のなかで、少しは英語のわかるもののところへ、黒人の女がやってきて、
「天然の形状黒貌とはいいながら、人々にきらわれ、もの一つもらうことならず、身を恨み候よりほかこれなく」
と、涙ながらに訴えたので、扇子を一本与えたところ、ことのほかありがたがったという。白人はきれいだがずるく、黒人はみにくくておろかだから、白人はいつも黒人をさげすんでいるが、白黒の夫婦もあって、その子の肉色は白黒のあいだであると、森田は書いている。
これでみると、日本人は黒人に同情しながらも、白人の黒人軽視にまきこまれていることがわかる。
とにかくワシントンは、すさまじい日本ブームで、日本使節団の泊まっているホテルの前の店では、日本の錦絵の複製をつくって売り出した。「日本扇子あり」という看板が出ているので、のぞいてみると、シナ扇をならべていた。日本の蛇《じや》の目《め》傘、会津ぬりの吸物椀《すいものわん》なども目についたが、傘《からかさ》は一本十ドル、椀は一個一ドルというベラボウな値段である。
ところで、日本人の身なりや身につけている品々が、アメリカ人の目にどのようにうつったか。ワシントンの新聞は、つぎのように解説している。
頭髪。両側と後方をのぞいた部分をすっかり削《そ》って、のこった髪は長くたばねられて天辺《てつぺん》にいたり、ここで白い糸で結ばれ、三、四インチの房をのこし、これを油でかため、前額《まえびたえ》のほうにもって行ってとめられている。(こういった髪の手入れのために、髪ゆいが二人も使節団に参加していた)
衣服。かれらは種々の色の絹、またはチリメンの下衣と、同じ品質のゆるやかな外衣をきている。後者の色はたいてい藍色で、前者の上に投げかけて、折りかさねている。(この外衣とは羽織のことらしい)
両刀。かれらのチリメンの帯には、二本の刀をさしているが、一本は短く(これは腹切り用で平民はもてない)、一本は長い。これらの武器は、どこの鋼鉄よりも精度の高い鋼鉄でつくられ、黄金および宝玉の飾りのついた肉厚のサヤにおさめられている。
ズボン。広くて短く、地面より五、六インチのところまでさがっている。絹でつくられ、ときとして花鳥の美しい刺繍《ししゆう》でおおわれていることもある。平たいひもで保たれているが、このひもは腰の後部で結ばれ、その周囲にはチリメンの帯がまわされている。(このズボンというのは袴のことである)
たびと草履。かれらの足の上には、白い布のおおいがある。これは短グツ下のようでもあり、ゲートルのようでもあって、足に密着し、ひもでゆわえられている。かれらのハキモノはワラ製で、足をのせる小さな平らな畳と二本のひもより成り、一本は足背上を走り、一本は親指とつぎの指とのあいだを走り、畳が動かないようになっている。
アメリカ人がとくに異様に感じたのは、日本人が袂《たもと》とふところにものを入れる習慣である。
「ポケット代用として、かれらはすらりとたれたる袖の一部分および帯の上方なる着物の前を使用す。後者には、かれらの習慣として、かなりの大きさの包みを入れおるゆえに、一見せしところにては、まったく不思議なる胃のはりだしの観あらしむ」
と、日本人をカンガルーかなにかのように見ている。
アメリカ人のもっとも珍しがったのはタバコ入れであるが、
「諸公および官吏の最多数は、オランダより求めたる時計を所持せり」
と新聞に書いているところを見ると、日本人が時計、カメラ、万年筆など、外国製の高級品をもちたがるくせは、明治以後にはじまったものでないことがわかる。
このように、アメリカ人はなにからなにまで珍しがったのであるが、日本人のほうではまた逆の見かたをしている。村垣の日記では、
「(大統領は)国君にあらざれど、御国書をつかわされければ、国王の礼を用いけるが、上下の別もなく、礼儀は絶えてなきことなれば、狩衣《かりぎぬ》せしも無益のことと思われける」
というわけで、こんな相手を国王≠つかいしても無益だというのである。そして、
えみしらもあふぎてぞ見よ 東なる
わが日本の国の光を
実に自信満々たるものだ。
[#小見出し]議会は魚市ソックリ
国書捧呈がおわったあと、使節団はワシントンの「コンゲレス館」(議事堂)に案内された。
「正面高きところに副大統領、前の少し高き台に書記官二人、その前に円く椅子をならべ、各机書籍おびただしく設け、およそ四、五十人|並《な》みいて、そのうち一人立ちて大音声にののしり、手まねなどして狂人のごとし。何かいいおわりて、また一人立ちて前のごとし。何事なるやとといければ、国事を衆議し、各意中をのこさず建白せしを、副大統領ききて決するよし」
「二階にのぼりて、またこの桟敷(傍聴席)にて一見せよとて椅子にかかりて見る。衆議最中なり。国政のやんごとなき評議なりと、例の股引筒袖にて大音にののしるさま、副大統領の高きところにいる体《てい》など、わが日本橋の魚市のさまによく似たりとひそかに語りあいたり」
と、村垣は書いているが、議事堂を見て魚河岸を連想しているところがおもしろい。たしかに国会は政治のマーケット、政策をせり売るところだといえないこともない。日本の国会のように乱闘がおこったならば、なんと書いたであろう。それはさておいて、すでに。衆議≠ニいうことばなり、その概念なりが、この使節団の頭のなかにあったことが、これでわかる。
アメリカ人側はこれをどう見たか。
「一行は議事堂をくまなく案内され、華麗をきわめた天井を示されたが、アメリカ人たちの驚いたことには、何よりも一行が興味深くおぼえたようにみえたのは、建物にも非ず、天井にも非ず、実に立法手続の議事進行法そのものであった。一行はほんのしばらくとどまったにすぎず、やがて退場したが、そのあとを追うように、議員たちの哄笑《こうしよう》が爆発し、傍聴席からは、男子も婦人も先を争うて、どっとばかりひしめきあうて廊下にとび出し、あとはほとんどガラあきの体となった」
と、『レズリー絵入新聞』は報じている。
江戸城や東照宮の華麗さを知っている日本人は、議事堂を見せられても、アメリカ人が期待したほど驚かなかったことはわかる。それよりも、国家の重大事が、大衆の面前で、魚市のように大声をはりあげて論ぜられている姿には、それこそキモをつぶしたらしい。さらに、一行が退場したあとの議員や傍聴人の無作法な態度にたいし、新聞がそれとなく筆誅《ひつちゆう》を加えているところに、アメリカ側の反応があらわれている。
それにしても、アメリカが使節団の歓迎にこれほど力を入れるのはどういうわけか。
ペリーのあとにきて日米通商条約を結んだハリスにいわせると、日本人は「喜望峰以東のもっとも優れた人民」であるが、その日本の鎖国を打破して国際社会に引き入れることは、十九世紀世界外交の最大の課題であり、しかもこれを平和な手段でなしとげたのはアメリカだという誇りと満足から出ている。これはアメリカの伝統的な使命観ともいうべきもので、すでにワシントン大統領時代の副大統領で一七九六年(寛政八年、家斉時代)二代目大統領となったジョン・アダムスは「いかなる国も全人類の福祉にたいして、ひそかに貢献することを回避する権利はないという見地から、日本を開国することはキリスト教国の義務であり、それに応じることは日本の義務である」という意見をのべている。
実利的な面でも、むろんアメリカは日本の開国に大きな望みをよせていた。この使節団を迎えてアメリカの新聞は、
「これは国家的にも商業的にも最高の重大事件である。そもそも日本人はアジアのイギリス人である。イギリス本国のわれらの祖先たちと同じく、日本人ももともと島国人であり、島国人特有の美徳も偏見もことごとくそなえている。日本人は異国人を軽蔑《けいべつ》するが、一面において独立自営の能力もたしかにもっている。その風習には、われわれから見ても、なんともバカらしいものも多いが、日本人はこれをまじめに信じ、徹底して遵奉している。日本の国産には、アメリカにおいて売れる品物がたくさんあるし、またわれわれの生産品で日本において消費されるものもどっさりある。商業交易の道をわれわれと開くことが、日本人に利益になることをかれらに納得させれば、十分価値ある貿易が成立するであろう」とのべているし、つぎのように論じているものもあった。
「こういった商業上の利益をはなれて考えても、日本人と友好関係を開くことは、きっとわが太平洋沿岸諸州に大きな利益をもたらすにちがいない。遠く海をへだてた隣人たちのなかで、日本人こそ、もっとも親近する価値ある国民である。やがては両国のあいだで、各種の商品のみならず、人間の交換もおこなわれるであろう。わが国人は日本におもむき、アメリカ人の性格の最善の面を日本人に示そうと努力するであろうし、日本のほうでも、移民をアメリカ領土に送って、日本村を建設するにいたるであろう。われわれは文明国たることを誇称しているとはいえ、日本人から学ぶことのできる事柄も多々あろう。少なくとも遵法の義務は、かれらに学ぶことができる」
このころのアメリカは、南北戦争の直前で、遵法≠ニいう点では、三世紀近くもつづいた徳川の封建制度できたえられた日本国民に劣ることを正直に認めているのだ。
[#小見出し]ミイラを見て夷狄論
約五千年前、南日本から太平洋をわたって南米のエクアドルヘ航海がおこなわれていたということが、最近、アメリカの「スミソニアン研究所」から発表された。縄文文化の類似から、そういう結論が出たのであるが、これはじゅうぶんありうることで、アメリカ大陸の太平洋岸には、日本に似た地名とともに、日本人がきたという伝説がのこっていることは前にのべた。
ところで、この「スミソニアン研究所」というのは、一八三五年アメリカのワシントンに、ジェームズ・スミソンという篤志家の遺産を基にしてつくられたもので、この使節団もこれを訪問している。
この建て物は周囲に生け垣があり、日本の別荘に似て、「市中の人家とはまったく異なり、按ずるに宝蔵の類ならん」と佐野鼎が書いている。そしてそこには、
「鳥獣魚|鼈《べつ》などすべて奇珍なるものを、あるいは肉をぬき乾し、または焼酎漬などにし、ガラス壜に入れ、また大いなるものは戸棚をもうけてそのなかにおき、玻璃《ハリ》障子をもってとざしなどするなり。また一棚あり。ことごとくわが国の物品のみをおき、先年水師提督ペルリに賜わりたる無紋の熨斗目《のしめ》、婦人の打掛・白無垢の下着など、衣服の類を多くあつむ。また他の一所に刀剣の類をあつめ、長刀《なぎなた》・白鞘の新身《あらみ》そのほか農具のうち鍬、鋤などこれあり。わが国のものすでにかくのごとし、いわんや従来通交の他国の物品をや。天下万国の奇珍異物ここに集簇《しゆうぞく》す。何のためなるや考うる能わず。按ずるに、諸物を多くあつめて衆民に示し、人の識見を広からしむるものならんか」
村垣もここを訪ね、ミイラを見て驚いて、例の夷狄《いてき》論をもち出している。
「ガラスをおおいたるなかに人間の乾物三つあり。千年も経しものという。野ざらしのごときものにはなし。肉皮とも乾きて全骸立ちたり。男女といえど見わけがたし。天地間の万物を究理するゆえ、かくのごときにいたるといえど、鳥獣虫魚とひとしく人骸をならべおくは言語に絶したり。夷狄の名はのがれぬなるべし」
つぎに「特許局」で、各種の機械、兵器類を見たうえ、刑務所を訪れている。ここでは日本のように首切りや切腹がおこなわれていないことを知った。
「かの国にて、身首ところを異にするは、天理の自然に違うを恐れてなり。故にみな縊死《いし》せしむ。その所置、繩を輪にし、その一端を高所に結びおき、繩輪を罪人の首にかけ、後に脚下にある台を引きぬきて落下せしむるなり」
と、絞首刑の方法を説明している。むろん、この時代にはまだ電気イス≠ネどというものはなかった。
海軍造船所では、船ばかりでなく、大砲も鋳造されているのを見た。使節のお土産《みやげ》として日本におくるため、艦船用ホイッスル砲、新発明のライフル砲も製作中であった。
所内を見学してから、佐野は所長室を訪ねて、あれこれと質問したが、さすがオランダ式砲術の専門家だけに、その質問はツボを射ていたらしい。所長はいちいち懇切に答え、各種兵器の得失を論じ、大砲製作の図面などを見せてくれた。そしてかえりに彼の著書『ボート・アーマメント』(船の武装)というのを一冊くれた。
これに返礼したいと思ったが、出先のこととてなにもないので、ホテルにかえってから、磁器の杯と錦絵をおくった。このような贈りものの交換は、わかれてからも、その品物によって本人を思い出させようというわけだが、「滞留中に物を贈らるるは当惑の次第なり」と書いている。
さらに、「貧院」と「幼院」を訪ねている。こういう施設ができているために、市内に乞食は目につかなかった。
佐野は普請役益頭俊次郎《ふしんやくますずしゆんじろう》の従僕という形で参加したのだが、当時外国に出るのは、幕府の役人か、その家臣に限られていたので、諸藩のものはこういう手段をえらばざるをえなかった。翌文久二年、竹内|下野守《しもつけのかみ》の一行が欧州に派遣されたときにも、益頭は正使に属する二等官として、佐野は小使兼|賄方《まかないかた》として、これに加わっている。
加賀藩に属する佐野は、藩命で長崎に出て蘭学を研究するにしても、一時離藩の形をとっていたくらいで、外国へ出かけることを願い出ても、前例がないといって、藩の重臣たちは相手にしなかったが、藩主前田|斉泰《なりやす》の英断によって許可になり、支度金百両を貸与された。これは三十年年賦で返済することになっていたが、帰国後帳消しにしてもらったという。
前田斉泰は、銭屋五兵衛《ぜにやごへい》父子が河北潟埋め立て事件で処刑されたときの藩主である。佐野は明治になって共立学校を創立した。これは後の開成中学校の前身で、校長は高橋|是清《これきよ》であった。
[#小見出し]こは合衆国の証なり
十九歳で監察小栗忠順の従僕としてこの一行に加わった福島|義言《よしのり》というのが、『花旗航海日誌』なるものを書きのこしている。文章はたどたどしいけれど、内容には興味がある。ワシントンでは大して用事もなく、同じような身分の相棒とともに、自由に歩きまわったらしい。
ある日、ホテルを出て、通りから通りへと一里ばかりも行くと、六階建ての大きな家の前に出た。入り口に女の大きな像があって、なかで洒を売っている。主人とおぼしきものが、手をあげて招くので、はいってみると、大いに喜び、茶や菓子を出してもてなした。
その家のようすを見ると、普通の商家とはたいへんちがっている。楼上には十六、七歳から二十二、三歳までの女性ばかりあつまって、何か歌をうたっている。彼女らは普通の女性よりも風俗が悪いようにみえる。そこで福島らは疑いをいだき、案内のアメリカ人にきくと、ここはホール・ハウスだという。妓楼のことである。こういうところへ出入りすることは、正使からきびしく禁じられているので、しばらくでも足をとどめているのは申しわけないと思い、わかれをつげて外へ出た。それから町々を歩きまわって申《さる》の刻(午後四時)ホテルにかえった。
当時のワシントンには、このような公娼に近いものがあったのだ。サンフランシスコでも、売笑婦の値段などを日記に書いているものがあったが、ここではその現場に出かけている。物好きなアメリカ人が、おもしろ半分に、若い連中をこういうところへつれて行ったのであろう。
この福島少年は、アメリカ人からうけた印象を率直に語っている。
「人気はなはだ寛にして正直、他邦の人を見れども、嘲笑《あざわら》いまた軽しむる様少しも見えず、万事気長く、その質日本の田舎人いまだ都下を見ざるもののごとし」
といった調子で、アメリカ人を田舎ものあつかいしているところがおもしろい。これに反してイギリス人はというと、
「英人はその人気風俗はなはだ悪く、かつ狡猾にして、人をあなどり軽しめ、虚妄をなし、無礼をなす様あり。たとえ通商を許し、交際をなすとも、卑諺《ひげん》のいわゆる肌身はゆるすべからざるなり」
と、イギリスをののしっている。といって、この少年がイギリス人たちとそんなに深い交渉があったとは思えないから、多分これはアメリカ人のうけ売りであろう。さらに、こんなことも書いている。
「このたび日本使節当国にくるを英人ひそかに心中これを妬《ねた》み、和親をさまたぐる意あり。ゆえに華盛頓《ワシントン》風説書に、米利幹《めりけん》人日本人の手をとり行く、英人傍にありて泣くところの図を示す」
ワシントンの新聞に、こういう漫画が出ていたのであろうが、これはアメリカ人の対日感情とともに、対英感情をも物語るものである。アメリカがイギリスから独立して以来、すでに一世紀近くたっているが、イギリスにたいする敵意、というよりも競争心はまだ消えていないのだ。タウンゼンド・ハリスの伝記を読むと、彼の祖母は、独立戦争時代のことを話してきかせたあとでは、きっと、
「真実を語れ、神を畏れよ、イギリスを憎め」
と教えたと出ている。またハリスは少年時代に、英国製のナイフを手にしなかったし、英国製の布でつくった衣服をきることを好まなかったという。
またアメリカ人による日本関係の著書のなかでは名著の一つになっている『菊と刀』の著者ルース・ベネディクトの祖父は、カナダに住んでいたが、公開の席上で、ジョージ・ワシントンのために乾杯したことが大問題となり、国事犯としてインドに放逐されるところをあぶなくまぬがれ、一家をあげて合衆国に亡命した。当時の米英関係はそれほど険悪だったのだ。
一夕、大統領官邸で使節歓迎会が催されるというので、行って見ると、茶もタバコも出さず、バルコニーに立たされ、下の芝生にあつまったなん万人という群衆の前にさらされた。前に大統領と謁見したときには、中官以上のものに使節を対面させたが、こんどは下官以下や人民大衆に対面させようというわけで、
「国君にあらざる大統領ゆえ、一人にうけし使節にあらず。国中の人民まで、もるるかたなく饗する心なるべし。こは合衆国の証なり」
合衆国≠スるゆえんがこれでわかったと村垣は書いている。
これがおわって使節団は大統領官邸の内部を見てまわったが、その感想がまたふるっている。
「わが寺院の無住の本堂に似たり。所々の鴨居の上に、白石もてつくりたる首あり。代々の大統領の首なるよし。わが国の刑罰場に見しにひとし」
歴代大統領の大理石像を見て、日本の刑場のさらし首を連想したのだ。
[#改ページ]
[#中見出し]日本開国二人の主役
――日本を動かしたペリーの軍艦大砲・ハリスの勇気と誠意――
[#小見出し]招待外交に弱い日本人
ポトマック河のほとりに、ワシントン記念塔というのがそそり立っている。高さの点では、東京タワーと比べものにならないけれど、ワシントンでは古くから最大の名所の一つとなっているが、この建設には日本もひと役買っているのだ。というのは、その礎石を世界各国からあつめることになって、たまたまそのころ下田にきていたペリーに託し、日本の石をおくった。これには、お家流の字で、
「嘉永|甲寅《きのえとら》のとし(嘉永七年すなわち安政元年)五月、伊豆の国下田より出す」
と刻まれている。
話はちがうが、歴代学習院長のなかで、もっとも異色のあるのは乃木大将であるが、彼の院内宿舎は「乃木館」と呼ばれて、今も保存されている。小ぢんまりした木造家屋で、学生コンパなどにつかわれているが、その入り口にお榊壇《さかきだん》≠ニいうのがある。これは外地をふくめた当時の日本全土から石をあつめてつくったもので、その中央にサカキが一本うえてあるが、これはワシントン記念塔と同じ着想から出ていることはいうまでもない。
これに似て、さらに規模雄大なものが、日本にもう一つできている。皇紀二千六百年(昭和十五年)記念事業として、日本民族発祥地といわれる宮崎市の近くにつくられた「八紘台《はつこうだい》」がそれだ。この礎石は、全国の都道府県、日本の新領土や占領地をはじめ、世界各国からあつめられた。これは八紘之基柱≠ニいって、四隅に四魂像≠ェはめこまれた。戦局がきびしくなるにつれて、艦砲射撃には絶好の目標になるというので、軍隊の手でこわされるところだったが、あぶなく助かった。しかし、戦争がおわると、四魂像≠フなかの荒御魂像《あらみたまぞう》≠ヘ、軍国主義の象徴ということになり、たたきこわして地中に埋められたけれど、その後また、逆コースの波にのって復元された。
ところで、もしも大東亜戦争≠ノ日本が勝って、日本軍がアメリカの首都をおとしいれるようなことがあったとしたら、このワシントン記念塔は果たしてどうなったであろう。
このあと、使節団がニューヨークについたとき、ペリー提督の娘婿のオーガスト・ベルモントというのがホテルに訪ねてきて、正使、副使、監察の三人に、ゲーベル銃を一挺ずつおくった。これには三人の名を日本字とローマ字で彫りこんであった。
二日後に使節たちは、べルモントの家に招かれ、ついでに近所に住んでいるペリーの後家=i未亡人)を訪ねた。彼女は「温順にして威もある老婆」だった。ペリーは日米間に和親をとり結ぶという大功を立てて厚く賞されたが、三年前に死亡し、そのむすこは海軍中尉で、目下航海中とのことだった。
「こたび使節参りけるは、この人の功とてまた新しく唱えけるよし語りければ、はからずもこの家にきたり、ありし世なればといいければ、老婆涙ぐみてことばもなかりけり」
ここで手厚いもてなしをうけ、さらにベルモントの家に行くと、男女数百人の客が招かれていて、豪華な歓迎パーティーが催された。当家の主人は、人物はお粗末だけれど、各国の為替を手広くあつかっていて、この町第一の大富豪で、ペリー提督の娘をむすこの嫁にむかえることができたのである。その晩、村垣は日記につぎのような感懐をのべている。
「客舎にかえりてひとりつくづくこしかたを考えれば、わが国人|米利堅《めりけん》は南北極にわたりし大州とのみききて、合衆国あるをも知らざりしに、六とせ先ペリー渡来せしときは、わが国の武をもてはらわんと議せしものも多くありて、いかにやと思ううち、寛大の仁徳をもて、ついに和親の国となり、かく内命をこうむりてこの国にきたり、そのペリーの親族に饗せらるるも、実に奇遇だともいうべきか。宇内《うだい》のありさま、時勢のしからしむるところと思いうかべてふしけり」
ペリーの脅迫外交に屈したことを寛大の仁徳もて≠ネどといっているのはおかしいが、この旅行で認識を新たにし、すっかり開国主義者になったことは明らかである。これは招待外交≠ノ弱い日本人の一面を如実に語るもので、終戦直後、アメリカ、ソ連、中国などに招かれて行った日本人の旅行記のなかに、これに似たものを随所に見出すことができる。
ニューヨークでは、使節団歓迎の意味で、日本開国のいきさつを芝居にして上演した。
「コムドル・ペルリ(ペリー提督)日本下田に渡来して応接(談判)の次第を狂言にす。毎夜見物人雲のごとし」
と、加藤素毛の『二夜語』に出ている。
かように、この使節団の来訪で、日本ブームがわきおこるとともに、忘れられようとしていたペリーが、また急に世間からもてはやされたようである。
このころ、日本開国のもう一人の立役者タウンゼンド・ハリスは、まだ日本にとどまって、日米修好通商条約批准書の交換を待っていた。
[#小見出し]唐人お吉はヌレギヌ
外国を旅行していると、見知らぬ人物から話しかけられ、日本人からもらった名刺を見せて、この人を知っているかときかれることが珍しくない。とくにアメリカ人にこの傾向が強い。それだけ日本人に親近感をもっているのであろうが、なれないうちは少々きみが悪く、一面識の人に名刺を与えるのは考えものだという気がする。
佐野鼎の『訪米日記』に、
「かならず人にあうときは、彼のほうより名札を与えおき、後このほうの名札を乞う。しかりといえども、彼我文字を解する能わず、ただ彼の許多《あまた》の人中に出でて、われこそは日本人に接して名札をえたりなどと自賛するのみ。また或るものあり。某は先年提督ペリーに属して貴国にいたりしとき、誰々に面会し、その名札を今に所持す。某人は今なお平安なるかなどと問えり」
と書いているところを見ると、こういう日本ファンが、ずいぶんおしかけてきたらしい。
日本人なら他の日本人をみんな知っているとでも思いこんでいるような人間の質問に、彼も相当へきえきしたらしい。
村垣副使も同じめにあっている。フィラデルフィアからニューヨークに向かう船中でのことだが、
「同船の米人に提督ペリーが初めてわが朝へ渡来のとき、ともにきたりし医師あり。下田港出張諸役の名札を所持す。実名をしたたむるものあり、また弥次郎兵衛、喜多八など書し、また種々の雑言《ぞうごん》を書くあり、笑うべし。しかれども、彼はわが朝の文字を知らざれば大切に所持なす」
と書いているのを見ると、日本人のいたずら好きは、今にはじまったことではないらしい。
これについて村垣は、
「愚按するに、亜人はじめてわが朝へ渡来せしは、今年にいたって七年余の星霜をすぎぬ。しかるに一片の紙片だもかくのごとく大切に所持なすの条、質朴なることこれにて知るべし。すでにわれらワシントン以来、亜人の名札をうる何十枚なるを知るべからず。しかるに時日をすぎれば、これを道路の塵となして、今日にいたっては一枚をものこさず、ああ彼は実魂(昵懇)せんためにやりしを空しく道路にすてるのふるまい、われながら恥ずべきのいたりなり」
と反省している。実際問題として、旅先で知りあった人々と交際をつづけて行くことはむずかしいが、せめて名刺くらいは、知りあったときと所を書きこんで、大切に保存すべきであろう。それはいいとして、明治以後、ロンドン、パリ、ベルリンなどに多く見られる日本人相手の売笑婦のなかには、ハンドバッグのなかに、日本人の名刺をしこたましまいこんでいるのが珍しくない。これには大学教授、重役の肩書き、学位、官職名などのついているもの、大まじめに愛情を語っているもの、ふざけたもの、いろいろあるが、人からもらった名刺を与えているものもあるようだ。
また話は使節のほうにもどるが、ワシントンのホテルで、タウンゼンド・ハリスの甥《おい》というのが訪《たず》ねてきた。少しでも日本に縁故のあるものは、会って話をしたい、消息を知りたいというのは人情で、わたくし自身も、戦後にかつての日本の占領地を訪ねて経験したことだ。
ハリスというとすぐ唐人お吉≠思い出すが、この物語りはハリスにとってヌレギヌだったようである。これは下田の開業医で郷上史研究家でもあった村井|春水《しゆんすい》が、長いあいだかかってあつめた資料を十一谷義三郎《じゆういちやぎさぶろう》がゆずりうけ、小説に書いて大当たりをとったもので、その後、流行歌、映画、演劇などにもなって、たちまち有名になったのであるが、別に確実な資料があるわけでもない。村松という人にはわたくしも会ったことがあるが、文学老年といったような感じで、もともと自分で小説に書くつもりだったらしい。
ハリスの使命は、前にペリーが結んだ和親条約を改訂して通商条約を結ぶことにあったのだが、幕府は言を左右にしてこれに応じようとしないので、つぎに米艦がきたとき、ハリスはこれで江戸へのりこみ、膝づめ談判をする気勢を示した。そんなことをされてはたいへんだというところから、下田奉行がハリスにはお吉、通訳のヒュースケンにはお福という女をあてがったことは事実である。お吉の本名は斎藤きちといって、老母のきわとともに、船頭たちのすすぎせんたくをしてくらしをたてていた、というよりも、一種の売笑婦だったのだ。これに奉行は二十五両という大金を与えてなっとくさせ、ハリスたちの住んでいた玉泉寺におくりこんだのである。その名目は、当時下田奉行から老中におくった上申書によると、ハリスの病気看護≠ニいうことになっていた。というのは、、たまたまハリスが病気にかかったからだ。看病をさせられたヒュースケンが困ったあげく、出入りの役人に、看護婦を世話してくれとたのんだ。むろん、若いヒュースケンには、自分もこれに便乗して女を手に入れようとする下心があったと見るべきであろう。
だが、ハリスは敬虔《けいけん》なプロテスタントの家庭に育ち、しかも生涯独身で通した男である。母の、あるいは母への愛情が強すぎて、彼の結婚をさまたげたのだともいわれている。東洋にあこがれてくる欧米人には、同性愛の傾向をおびたものが多いが、ハリスとヒュースケンのあいだにも、そういう面があったのかもしれない。
お福とヒュースケンのあいだはうまくいったようだが、お吉は玉泉寺にきて三日目に暇を出された。彼女のからだにオデキができているのを見て、極端に潔癖なたちのハリスが遠ざけたのだ。
それでも、お吉が異人館に迎えられたということは世間にすっかり知れわたっていたので、そこを出てきても、彼女はこれまでの生活をつづけることができなかった。というよりも、これを口実にして、「なにとぞ破格のご仁恵をもって、ご慈悲のご沙汰を懇願」という形で、三十両の慰謝料を要求し、これをうけとっている。この嘆願書や受領書は、玉泉寺の先代住職村上|文機《ぶんき》が下田村役場で保管していた古文書のなかから発見し、こういった事情が明らかになった。
ハリスが下田についたのは一八五六年(安政三年)八月二十一日(太陽暦)で、帰国のため江戸を去ったのは一八六二年(文久二年)五月八日であるが、通商条約調印の大任を果たすまで、たんねんに日記をつけている。これを読むと、彼の人柄とともに、日本および日本人からどういう印象をうけ、どういう気持で幕府相手の折衝をつづけたかということがよくわかる。
前に、彼はサンフランシスコで皮革貿易をしていたもので、完成された商人≠ナあった,それが中年から外交官を志したのであるが、徳富蘇峰が日本開国の宣教師≠ニいっているように、彼は日本を西欧社会に引き入れることに、宗教的な情熱と犠牲的精神と功名心を抱いていた。はじめから「外交官の手腕をふるうべき国」として日本を選び、当時のアメリカ大統領フランクリン・ピアース(十四代目、リンカーンの二代前)や国務長官ウィリアム・マーシーなどに猛運動をしている。日本に着任する前、シャム国と通商条約を結ぶことに成功しているが、シャムはきらいで、先方でも歓迎されなかったらしく、「二度とこの国へ派遣されないことを望む」と日記に書いている。中国の開港場|寧波《ニンポー》の領事に任命されたこともあるが、ついに赴任せずじまいだった。
下田についたときの第一印象もよかった。
「貧寒な漁村だが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度もていねいである」
世界中どこへ行っても、貧乏と不潔は切りはなせないものだが、日本は例外であった。それに「土地が一インチものこさずに耕されている」のに驚いている。
日本人の礼儀正しいのには感心したが、男女混浴の風習を見て、
「男女、老若とも同じ風呂にはいり、まっ裸になってからだを洗う。何事にもまちがいのない国民が、どうしてこのように品の悪いことをするのか判断に苦しむ」
といっている。
さらに、ヒュースケンが、相当な身分の日本人の家へ招かれて行ったところ、そこの主人は、「いろいろなものについて多くの名称をきいてから、彼の着物の前をひらき、陰部を手にもって――女たちが見ているところで、各部分の英語の名称をきいた」
という報告をうけて、ハリスはたまげているが、いくらなんでもこれはおかしい。この報告≠ノは、作為もしくは誇張があるのではないだろうか。
ハリスはまた、日本では神社や仏閣、僧侶や神官がやたらに目につくけれど、日本の上層階級のものはおしなべて無神論者だと書いている。これは、幕府の反キリスト教政策が長期にわたって徹底したため、日本人の多くが宗教的不感症におちいったものと見るべきであろう。それが宗教心の厚い家庭に育ったハリスには異様に感じられたのだと思われる。
それに、幕府相手の交渉がちっともはかどらないので、ハリスはごうをにやし、「日本の役人は地上における最大のウソつき」とののしっているが、その一方、「日本は東洋でもっとも統一的な政府と優秀な民族とをもった国家」であることを認めているばかりでなく、当時の日本をまるで地上の天国≠ナでもあるかのようにたたえている。
「かれらはよく太り、みなりもよく、幸福そうである。見たところ、富者も貧者もない。人民の本当の幸福というのは、多分こういうものであろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進することに役立つかどうか、疑わしくなってくる。質素と正直の黄金時代を、他のいずれの国におけるよりも、より多く日本で私は見出す。生命と財産の安全、一般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」
これは現実の日本の姿というよりは、彼の心のなかで求めているもの、アメリカその他の国々で求めてえられなかったものを、この国に見出そうとする気持ちの表白と見るべきであろう。中国にアヘンをもちこんだイギリス人を憎み、日本に中国の轍をふませたくないため、「アヘン禁輸」を条約の一条項として明記することをすすめたのも、日本への深い愛情、彼の心の底にひめられている強い理想主義から出たものといえよう。
[#小見出し]幕府を動かした誠意
ハリスは、「外交官の資格で江戸を訪れた最初の外国人」という誇りと殉教者の覚悟をもって、下田から江戸にのりこんだ。沿道の警戒は厳重をきわめた。
彼の宿舎には「蕃書調所《ばんしよしらべしよ》」があてられた。これは九段坂下の牛ヶ淵にあった。安政四年に勝海舟、川路聖謨、箕作阮甫などによって創立されたもので、幕府の洋学研究、翻訳、教習の機関である。頭取は幕府はえぬきの洋学者|古賀謹一郎《こがきんいちろう》、教官には箕作阮甫、杉田|成卿《せいきよう》、西周《にしあまね》、津田|真道《しんどう》、加藤弘之、神田孝平、柳河春三《やながわしゆんぞう》など、洋学界のお歴々がそろっていた。
はじめはオランダ語専門であったが、文久二年の幕政改革で英仏独語科もおかれ、化学、数学、地理、機械、物産などから、のちには哲学、政治学、経済学なども講ずるようになった。名前も「洋書調所」と改められ、さらに「開成所」「開成学校」「大学南校」とかわり、さいごは「東京医学校」と合併して「東京大学」となった。日本における洋学と官学の苗床である。
安政四年十月二十一日、ハリスは江戸堀で将軍|家定《いえさだ》に謁見《えつけん》、ピアース大統領の親書を捧呈したが、このときの将軍の服装は、
「絹でできていて、少しばかリ金の刺繍《ししゆう》がしてあった。燦然《さんぜん》たる宝石も、精巧な黄金の飾りも、柄にダイヤをちりばめた刀もなかった。その点では、むしろ私の服装のほうがはるかに高価であったといっても過言ではない」
と、ハリスの日記に出ている。それに、このときのハリスの態度は堂々としていて、オランダ人のように卑屈なところは少しもなく、さすが大国の代表だと、同席した諸大名や幕府の役人たちを感心させた。
このあと、新条約のための談判が、八十七日間、十四回にわたっておこなわれたのであるが、国際的慣例や経済の原則を知らない日本代表を相手のことだから、ずいぶん骨がおれたようである。たとえば輸出税は産業の発達をさまたげて日本側に不利だから、輸入税だけにしたほうがいいと、いくら説明しても理解されなかった。
それでも、日本にせまりつつある英仏露の脅威を説き、これを巧みに利用して、やっと妥結にまでこぎつけたのであるが、いよいよ調印となると、こんどはミカドの許可が必要ということになって、幕府は三か月の猶予を求めた。そして閣老の堀田正睦を「精神的皇帝への特使」として京都へ派遣したが、ハリスのほうでは、もしもミカドが拒否したらどうする、幕府に実権がないのなら、自分で京都へ出むくまでだ、といって幕府をあわてさせた。
ハリスがもっとも恐れたのは、調印が手まどっているあいだに、英仏やロシアの艦隊が日本にやってきて、武力を背景に幕府を屈服させ、さっさと条約の締結も調印もすませてしまうことである。そうなると、辛抱強く平和的′渉をつづけてきたハリスは世界のもの笑いとなり、アメリカの面目はまるつぶれだ。
けっきょく、幕府の対京都工作が失敗し、堀田たちは失脚したのであるが、その原因は、朝廷を甘く見すぎ、金さえまけばなんとかなると考えていたところにあった。天皇の側近たちも、もはや金では動かせない、というよりも動けないご時勢になっていたのだ。
それでも、井伊直弼の独断≠ノよって、やっと条約の調印がおこなわれ、ハリスはその目的を達することができた。その間、彼の身辺は絶えず危険にさらされていた。現に水戸藩のテロ団が彼をつけねらい、そのうちの三人は自首して出た。
しかし、ハリスは少しも恐れず、ヒュースケンが殺されて、英仏蘭の代表が江戸を退去してからも、ひとりで江戸にふみとどまった。一時はチフスに似た熱病にかかって重体におちいったけれど、快方にむかってからは、運動のため、毎日堀端に馬を走らせた。かつて彼は、食人種の住んでいる南方の島で、酋長の家にとめてもらい、人骨の飾ってあるところで一夜をあかしたこともあるし、「江戸の人間よりもずっとたちの悪い人間のあつまっている東洋の町々」を歩いてきているから、別に恐ろしいことはないというのが、彼の口ぐせだった。新興国アメリカのフロンティア精神が、こういった面でも発揮されて、幕府の役人たちを感心させた。
とはいえ、幕府では万一を恐れて、特別の騎馬隊を編成し、彼を警護させていた。これを別手組≠ニいった。のちに明治の教育家として知られ、麻布中学校の創立者となった江原素六《えばらそろく》もこれに属していた。
徳富蘇峰にいわせると、
「ペリーの軍艦大砲よりも、ハリスの弁舌のほうが、むしろ日本政府当局者の心を動かすには有力であり、かつ有効であった」
ということになっている。しかし、わたくしの見るところでは、ハリスの弁舌≠謔閧ヘ、その人柄、勇気、誠意が、これに接した日本人たちを動かしたのではないかと思う。
[#小見出し]富士山を勲章代りに
ソ連を旅行した人々、たとえば竹山道雄、桶谷《おけたに》繁雄などの書いたものを見ると、ソ連では地図が手にはいらないということが、ソ連文化の本質を語るキメ手のようになっている。しかし、わたくしの経験によると、観光案内図程度のものなら、モスクワでもレニングラードでも、かんたんに手にはいるようになっているけれど、それが品切れになっている場合が多い。むしろ、この点に現在のソ連文化の特性があるとわたくしはいいたい。
ところで、ハリスも、江戸の地図を一枚ほしいと幕府に申し出ている。しかし、地図をめぐっては、前に大事件をおこしたことがあるので、なかなか与えようとしなかった。この事件というのは、文政九年有名なドイツ人の医者シーボルトが、長崎のオランダ商館長について江戸にきたとき、日本の洋学者や大名と交歓して、日本にかんする研究資料を手に入れたところ、帰国のさいに押えられ、そのなかに日本近海の測量図が発見されて、これを与えた幕府天文方の高橋作左衛門(景保)は捕えられて獄死した。
こういった事情を知っているハリスは、ブドウ酒やリキュール酒にそえて、そのころ航海者の虎の巻になっていたブラント著『沿海水先案内書』を幕府に献上し、これはどこにでも売っていて、だれでも自由に買えるものであるが、これさえあれば、どこでも安全に航行できることを説明した。
そこで、幕府のほうでも、秘密主義のおろかしさに気がついて、ハリスの要求をいれたのであるが、これには、「他人に与えたり、複写したりしない」という条件がついていたばかりでなく、与えた地図にもつぎのような小細工がなされていた。
一、本所、深川、大川筋は加えない
一、江戸城をはじめ、葵《あおい》の紋のついている場所は、紋を消してしまう
一、郭外の町家はくわしくすりこむに及ばぬ
この地図は、あちこち墨《すみ》でぬりつぶした終戦直後の日本の国定教科書のようなものだったらしい。
今日の世界で、こういった封建的な自己閉鎖的な性格をまだすてきらない国を求めるならば、ソ連の衛星国から脱して中共系の人民共和国≠フ一つとなったアルバニア、中世的な回教王国でいて、まずソ連や中共と「友好通商条約」を結んだイエーメンなどがそれだ。
スターリン時代のソ連が、きびしい秘密主義の殻に包まれていて、外国とくに資本主義国を夷狄℃汲オていた点では、徳川時代を思わせるものがある。それがフルシチョフの代になって、こういった性格に大きな変化がおこったとすれば、さしずめフルシチョフはソ連の井伊直弼≠ニいうことになる。殺されない直弼≠セ。
ところで、ハリスが日本を去ったのは文久二年五月で、有名な「生麦事件」がおこったのはその直後である。東海道に面した神奈川は、こういった事故がおこりやすいというので、外国奉行の水野忠徳はこれをさけ、横浜開港を強く主張したが、ハリスはさいごまでこれに同意しなかった。そこで、彼が香港方面へ旅行に出ている留守中に、幕府はシャニムニ工事をすすめ、そのころ人家が六十戸ばかりしかなかった漁村を開港場にしてしまったのである。そのためハリスは、ついに横浜の土地を一度もふまずじまいだったという。
長谷川伸の『よこはま百話』に、
「(横浜の)廓《くるわ》をつくったのは、アメリカの駐日総領事(のちに公使)タウンセット(正しくはタウンゼンド)・ハリスが、非公式に幕府に勧告したことに基づく。海路遠くきたった外国人に、セックスの処理をなさしめる機関をもうけないと、あるいは日本の良家の女性が過誤の対象となるおそれがあるという趣旨であったという」
と出ているが、ハリスの人柄とか、前にのべたような事情からいって、こういうことは考えられない。それほど融通のきく人物ではなかったのだ。
それはさておいて、ハリスが下田に上陸して以来、ずっと彼と接していた下田奉行の井上清直、目付の岩瀬忠震などは、ハリスの清廉潔白な人格にすっかり傾倒し、人間的な親近感をいだいていたようである。
その後、彼の健康がすぐれず、辞意をもらしたときには、幕府はあわてて、向こう三年間彼の留任を希望するむねをアメリカ大統領に申し入れている。そして、彼の退去が確定したときにも、国務長官あてに、ハリスの再任を要望する手紙を全閣老の連名でおくり、さらに将軍家茂の名で、大統領あてにハリスの功績をたたえる親書を出している。
いよいよハリスが日本を去るにのぞんでは、今でいうと外相にあたる安藤信正が、彼のために送別会を開いて、
「貴下の偉大な功績にたいして何をもって報ゆべきか。これに足るものは、ただ富士山あるのみ」
とまでいっている。勲章として富士山を与えるというのは少々大げさだが、幕府当局の感謝の気持ちがよくあらわれている。
[#小見出し]誇りと満足の生涯
ハリスが七年ぶりで帰国したとき、アメリカは南北戦争のまっさいちゅうであった。それに大統領も、民主党のピアースから共和党のリンカーンにかわっていた。完全に独身で、しかも長く異郷でくらしてきた彼をあたたかく迎えてくれる家族、親類、友人はほとんどなくなっていた。
現在のアメリカでは、共和党とか民主党とかいっても、政策の面では大してちがいはないが、そのころは両党が、政策の面でも人間関係においても、尖鋭に対立していた。今でも中南米諸国ではこれに似た状態にあって、各家族、各個人の政党政派に基づく対立が、きわめて露骨で、しかもある程度固定していて、比較的精確な分布図がかけるようになっているところが多い。日本でも、かつてはそうであった。
ハリスの場合は、母方が共和党に属し、連邦主義、中央集権主義であったが、父方の影響をうけたハリスは、熱烈な民主党員で、地方自治を支持し、革新的傾向が強かった。彼が外交官としてのキャリアを断念する気になったのも、少し年をとったせいもあるが(やめたとき五十七歳)、大統領が交代して、中央政府に彼の支持者がいなくなったからである。
晩年のハリスは、ニューヨークの四番街に下宿し、質素で孤独な生活を送ったが、さしあたり経済的に困るようなことはなかった。というのは、総領事の年俸は五千ドルで、公使に昇格してからさらにあがったろうし、相当貯蓄もできていたからだ。これから六年後の明治元年に、日本からハワイに送られた移民の給与は、月四ドルの契約だったから、年額にして約五十ドルで、ハリスの年俸は、ちょうどその百倍に相当する。もっとも、このうちからハリスは、通訳のヒュースケンに千五百ドル与えた。
しかし、アメリカでは、内乱のため物価があがって、彼の生活は苦しくなってきた。さいわいアメリカの下院が、彼の功績を認めて、おくればせながら、彼に年金を与えることを決議したので助かった。
ハリスがいたころの日本は、外患がせまりつつあると同時に、内乱前夜のような様相を呈していたのであるが、帰国してみると、彼の祖国アメリカに内乱がおこり、内外の情勢は、彼の理想から遠ざかりつつあるように思えた。そのなかで彼は、日本に西欧文化への窓を開いたという誇りと満足に生きたのであるが、彼の隣人たちは、彼にオールド・タイクン=i老大君)というアダ名をつけた。
一八六五年(慶応元年)四月九日、南北戦争は北軍の勝利でおわった。北軍の最高司令官で、この戦いの最大の殊勲者として、当時人気の絶頂にあったグラント将軍に、ハリスは日本からもってかえった名刀をおくった。これは公使辞任のあいさつのため江戸城に伺候したさい、将軍家茂からおくられたものだ。グラントは、その後、二度も大統領にえらばれたが、在職中に汚職事件が続出し、政治家としては大失敗だった。引退してから世界一周の旅に出て日本を訪れ、朝野の大歓迎をうけたが、怪しげな事業に投資して破産、失意のうちになくなった。
明治四年十月、岩倉具視が特命全権大使として、条約改正打診のため、木戸孝允、大久保利通ら総勢百人におよぶお供をつれて、アメリカからヨーロッパ諸国を歴訪したが、ニューヨークでは、随行の福地源一郎がハリスに面会してその意見をたたいている。
ハリスの語るところによれば、彼の結んだ条約のなかの最大の問題点、すなわち、日本人にたいしてアメリカ人が罪を犯した場合は、アメリカの法律によって領事が罰し、アメリカ人にたいして日本人が罪を犯した場合には、日本の法律によって日本の役人が罰するという条項は、治外法権≠ニいうことで、その後日本で大騒ぎになったのであるが、そのころの日本の法規、たとえば十両以上の金をぬすむと打ち首となり、大名の行列を横切ったというだけでその場で切りすてになるといったような残酷な規定は、欧米人に適用できるものではないというわけで、日本人としては、この条約の改正を要求する前、こういった法規や習慣を改廃することのほうが先決問題だと、福地はハリスから懇々と諭された。
それに、外国人が日本にきて日本の国法を犯した場合には、日本の法律や裁判によらずに、相手国の法律と責任によって罰するというのが、馭外《ぎよがい》の法≠ニいって、家康以来の祖法≠キなわち原則になっていたのだ。といったようなわけで、ハリスとしては、アメリカの利益だけを考えて、こういう条項をふくんだ条約を結んだのではないというのである。
一八七八年(明治十一年)二月二十五日、ハリスの冒険的、意欲的な生涯の幕はとじられた。行年七十四歳で、遺産は遺言に基づいて姪のベッシー・ハリスが相続した。墓碑には、つぎのようなことばが刻まれた。
「彼は自国にたいして忠実であったのみならず、外交官としての彼の全経歴は、任地の人民にたいしても、心からの尊敬の念を抱いていたことを証明し、日本国民の権利を尊重したため、かれらから日本の友≠ニいう称号をえた」
[#小見出し]井伊大老暗殺を知る
幕府の遣米大使がペリー未亡人や娘婿の家を訪れて大歓迎をうけたことは前にのべたが、そのさい書きおとしたことが一つある。それはペリーの遺族以上に使節を歓迎したものが出現したということだ。新見正使の随員柳川兼三郎の日記につぎのようなことが記されている。
「(ペリーの家は)家作美麗にして、また日本の器物|数多《あまた》あり。日本へ先年渡来の節、写真鏡をもって所々の真景をうつしとりし額なども数多あり。惣じて家内の諸器物ともに美をつくせり。酒菓などを出して馳走す。また二疋の狆《ちん》きたりて衣類をかぎ、日本人なるを知り、大いに悦び、躍ることきわまりなし。膝へ上がり、袂《たもと》をふくみ、さらに側をはなれず。これ先年ペリーはじめて渡来せしとき、わが国において狆を求めかえり、今なおその家に存在して日本人を見てかけきたり、よろこびしたうことかくのごとし。またかえりにのぞんでは、別れをおしみ、あとをしたうさま人のごとし。語らざるばかりなり。その情人間に異なることなし。また大いに吠え、あるいは泣き、そのさま実にふびんにして、われらにいたるまで落涙におよび、その家を出づ」
その場の光景が目にみえるようである。この犬は、幕府からおくられたもので、将軍から外人への進物には、米、干魚とともに犬を加えることが、古くから一種の儀礼のようになっていたらしい。一六一三年英艦が日本にきたときも、サリス艦長を通じて、家康からジェームス一世に犬をおくっている。ペリーの犬は、アメリカにつれられてきてまる五年もたつのに、日本のにおいを忘れないで、日本人につきまとったのだ。
ところで、桜田門で井伊直弼が暗殺されたニュースをいちばん早くきいて日記に書いているのは、佐野鼎である。閏《うるう》三月二十日(アメリカでは五月十日)の夜、使節団をのせた「ロアノーク号」がニューヨークの港にはいったとき、水先案内をのせた船が本船に近づいてきたが、その乗組員に新聞を見せてもらって、三月三日の江戸の変≠知ったというのである。これが事実だとすると、三月三日から閏《うるう》三月二十日まで、かれこれ四十日ばかりかかって、このニーヨークに伝えられたことになるのだが、村垣副使の『遣米使日記』をはじめ、ほかのものの日記には、この重大なニュースがぜんぜん記されていない。他の団員には知らされず、知らされても日記に書かなかったということは考えられないから、これは佐野の思いちがいで、あとから書きこんだのかもしれない。
しかし、この翌日には、ハリスが江戸で病死したという記事が新聞に出ている。むろん、これは誤報で重態≠ェ死亡≠ノなったのであろう。
さらに、四月二十三日(洋暦では六月十二日)になると、村垣の日記につぎのように記されている。
「きょうの新聞紙とて通弁者の見せしが、いささかわが都府(江戸)のことを記してありければ、わけをききけるに、心にかかることなれど、とうべき人もなく、うちよりては案じけれど、もとより街説をしるして信ずるにたらぬものとうちすてても、早春にわが国をはなれてより、風のたよりだになければ、かかる風説をきいては、さすが寝ざめにかかりぬ」
これは使節一行がフィラデルフィア市に滞在中、『インクアイラー紙』に出たもので、はじめは大君=i将軍)暗殺説が伝えられ、のちにその訂正として井伊の死が報ぜられたのである。当時の日本人は、新聞記事を街説≠ワたは、風説≠ニ見て、信ずるに足らぬもの≠ニ考えていたのであるが、それでもひどく気にしていることは、この文章にもよくあらわれている。アメリカの歓迎委員会のほうでも、日本人の気持ちが動揺しないように、ただウワサだから気にしないようにといいきかせたのであろう。
事実そのころのアメリカの新聞には、日本で、オランダの将官が殺され、この恨みはきっとむくいるとオランダ人がいきまいているとか、ロシアが十七隻の軍艦をひきいてやってきて、エゾを買いとる交渉をすすめているとかいったような記事が出たけれど、これらはあとで虚談≠ニわかったと佐野鼎が書いている。
使節団のなかには、宮崎|立元《りゆうげん》、村山|伯元《はくげん》、川崎|通民《つうみん》という三人の医者が加わっていたが、ワシントンの医師会代表に招かれて、意見の交換をおこなった。
まずアメリカ側から、日本の医学教育について質問が出て、宮崎がこれに答えたあと、日本における医療法の現状を説明した。日本の医者は、血液が脈管を循環する原理をすでに知っていて、血をとる必要のある場合には、前にはヒルを用いたが、近ごろは西欧式の方法によっているとのべた。解剖術は最近はじまったばかりであるが、切断術はまだおこなわれていないとのことだった。精神的療法または占星術については、上流階級や知識階級はなんの効果もないことを知っているが、下層階級にはまだこの種の迷信がおこなわれていると語ったら、アメリカも同だといわれた。
[#小見出し]色白きメリケン女よし
使節たちはまた、地図製作所に案内され、顕微鏡を見せられて驚いている。
「白砂ひとつまみ盆上にのせうかがえば、砂にあらず貝なり。紫紋白理巨細にあらわる。本体よりはその大六十五倍に見ゆという」
ここで、『江戸絵図銅板縮図』もつくられていた。
使節団がワシントンをはなれる日がせまって、大統領とのさいごの会見がおこなわれた。記念として、正使、副使、監察には金メダル、役員二十名には銀メダル、従者五十名には銅メダルがおくられた。
使節のほうでも、大統領へのおみやげとしてもってきた真太刀《まだち》一振り、馬具一そろい、掛け物十幅、翠簾屏風《すいれんびようぶ》十双などを贈呈した。このなかでもっとも珍しがられたのは、タケでできた翠簾《すいれん》屏風である。欧米にはタケがないからだ。
ところで、アメリカの習償によると、大統領をはじめ、官吏への公式に贈られたものは、かれらのものにはならず、すべて百物館=i博物館)に納めるのである。ただし、
「いかなる品も、ワイフ(妻女のことなり)へとておくれば、わがものとなるよしなり」
ワイフといえば、ブキャナン大統領が使節団を官邸に招いたときに、夫人のほかに三人の姪《めい》が出てきて接待をした。その姪の一人のレエンというのは、
「何くれとはからいもてなし、権もあるさま女王のごとく、大統領は宰相のようにみえける。盃をすすめながら、わが国のことも問いけるが、かれの風習に比して問いけるゆえ、答えもならぬこと多し。将軍の侍女は何人ばかりありしや、風俗はいかなるさまなりや、など問えども、ほどよくあしらいおきぬ」
それはいいとして、
「女はお国(日本)とメリケンとはいずれが勝《すぐ》れるやという。さすが女の問いぶりと、いとおかし。メリケンのほう色白くしてよしと答えければ、よろこびあえり。愚直の性質なるべし」
日本の女よりもアメリカ女のほうが美しいとお世辞をいったところ、これを真にうけて喜んだのは愚直≠セといって村垣はわらっている。しかし、この姪たちには、帯地と羽二重をおくった。
さて食事がおわって、
「ガラスの大なる椀に水を入れ、白布をそえて出しけり。こはいかなるものかと、そこら見まわせば、レエン手を洗い、口のあたりをそそぎけるまま、その真似したり。森田(勘定方組頭)手ばやくとりて水をのみけるまま、忠順(小栗)かたわらにありて、袖をひきければ、心づきて手を洗いけり。顔見合わせて笑いをこらゆるもくるし」
これは日本人のよくやる失敗だが、森田はその第一号といえよう。
使節のワシントン滞在は二十五日間であった。出発の前の日の夕方、国務長官カスのところへ暇乞いに行くと、たいへん名ごりを惜しんだので、日本にきませんかといったところ、
「いと恐るるさまなり。彼の国といえども、航海は海軍方ばかりにして、富裕の士官はさらなり、商人も航海はせぬものと見ゆ」
と、村垣は書いている。
六月九日、いよいよ出発の日がきた。
「旅館中のものはいうにおよばず、日々きたりて知れるものまで、ことごとく日本人ののれる車のそばにきたりて、別れをおしみ、手をにぎりて涙を流すもの多し」
一行はホテルを出て、蒸気車の小屋=i停車場)につき、汽車にのると
「路傍には見物大勢群集し、冠(帽子)をぬぎ、礼をなし、遠方なるは大声にてグウドバアイ(離別の辞)と唱うるもの多し」
汽車の形、大きさはパナマでのったのと同じだが、
「車の内面天井には、綿布の幕に日の丸のつきたるものをはり、また車の先頭には日の丸の国旗を立てたり」
さらに、沿道には「大日本」と書いた旗をふるものが多く見られた。これは英語で書いたものか、それとも漢字か、わたくしの手もとの資料でははっきりしないが、いずれにしてもこの旗は、アメリカ政府でつくって配ったものであろう。この一事をもってしても、日本の意を迎えることに、アメリカがいかに熱心であったかがわかる。
[#改ページ]
[#中見出し]使節団と米国の反省
――観察者と同時に被観察者≠ナあった一行が与えた印象――
[#小見出し]公衆の面前でキッス
ワシントンからボルティモアまで四〇マイル、沿道の風景は単調で、
「麦畑少しずつありけるが、わがエゾ人のつくりたる畑のごとくつたなきことなり」
北海道を知っている村垣の目に、当時のアメリカの農業はこううつった。
ボルティモアでは、騎兵、銃卒、楽隊合わせて三大隊をくり出して使節を歓迎し、「青草をもて注連《しめ》のごとく、また霊《たま》祭りの籬垣《ませがき》のごとく」飾り立てた市庁舎に案内した。そして食事後、消防隊の防火演習や花火を見せた。
ところが、この日、徒士《かち》目付《めつけ》日高|為善《ためよし》の家来が脇差をぬすまれたり、そのほかにも、いろいろな珍事がおこった。
使節団一行が、ボルティモアのホテルにかえりついたとき、消防夫の一群がバルコニーから窓をこえて、正使、副使の室になだれこんできた。それはまだいいとして、
「このいたずらものの一人が、自分のかぶっている水のしたたる重い消火帽をぬいで、人もあろうに、正使の頭上にかぶせるという、かれら一流のいたずらをやってのけた。これがドッと笑いをまきおこしたので、図にのって、さらに他の二人の道化者の消防夫が、同じく自分たちの帽子を他の使節らの頭上にかぶせたので、拍手かっさいは鳴りもやまぬ体《てい》であった。日本使節一行は、この耐えられそうもない非礼にあいながら、平然として、いささかもとりみだした風を示さなかったが、一行の記録係は必ずやこの事件に関し、将軍への復命書のなかには、彼自身の評語を加えることであろう」
と、アメリカの新聞は書いている。しかし、村垣の日記には、防火演習や花火を見たことだけしか出ていない。
ボルティモアは一泊だけで、翌日汽車でフィラデルフィアにむかった。途中、大きな川のところまでくると、案内のアメリカ人が、このまま行くか、それとも船で行くかときいた。妙なことをいうものだと、返事もしないで、周囲を見まわしているうちに、汽車にのったまま、早くも川のなかに出てしまった。
「いかなるやととえば、長き平面なる渡し船は蒸気船なり。蒸気車走りて蒸気船にのりたれば、車の蒸気はとまりて、船の蒸気もて走る。川のむこう岸に大いなる桟橋のはねたるをおろし、船の舳《みよし》をおしつければ、車の蒸気を運転して陸にはせたり。奇なること驚くばかりなり。眠りもよおしたるものは、この大河をわたりしをしらですぎけり」
なんのことはない、フェリー・ボートに汽車をのせてわたっただけのことであるが、日本人たちはこんなに驚いたのである。
線路の両側は、この東洋の珍客を見ようとして近在からかけつけた群衆で埋まった。これにたいして正使たちはおうようにかまえていたが、随員たちは窓を開いて手をたたき、おぼえたての英語をありったけ口にして、歓呼に答えた。そのため、ときどき汽車は徐行した。進駐軍が日本にはいってきたときの逆の現象が見られたわけだ。
あるところで、汽車が一時停車して、使節たちに機関車を見る機会を与えることになった。希望者は機関車にのって行ってもいいということになったが、これに応じたのは立石斧次郎《たていしおのじろう》一人だった。
斧次郎は、二等通訳官立石得十郎の養子で、当時十七歳の少年である。たいへんな愛敬もので「ポーハタン号」にのりこむとすぐ、外人の船員たちからトミー≠ニいう愛称――斧次郎は米田為八と名のっていたが、為八をなまってトミー≠ニ呼ばれ、みんなから可愛がられた。
彼は長崎でオランダ人の学校にはいったといっても、英語の単語をほんの少しおぼえたばかりだった。それでも横浜へつれてこられて、税関の通訳に採用された。機敏で、あいそがよく、人の気持ちをくみとることが早く、だれの気にも入るように心がけて、いつも愉快そうに、こまめに働くので、税関の役人や出入りの商人たちに好評を博し、通訳見習≠ニいうことで選にはいったのである。
ジョンストン中尉の書いたものによると、斧次郎にトミー≠ニいう愛称を与えたのは、「ポーハタン号」の檣楼《しようろう》長である。彼はユーモラスな男で、檣楼の下を通るものを見つけるとすぐ、適切なアダ名をつけるくせがあった。斧次郎につけたトミー≠焉Aたちまち船内に普及した。
トミーは、水兵に出あうごとに、
「ハウ・ドウ・ユー・ドウ」(ごきげんよう)
と話しかけ、一日に平均十一、二回士官室に出入りし、ほかの日本人が船酔いで困っているときにも、安楽イスでこどものように熟睡し、目がさめると、
「グード・モーニング・オール・ゼントルメン」(お早うみなさん)
というのである。このあいさつは、夕方でもかわらなかった。いつもそわそわして、おちつきがなく、一つのことにうちこむことができなかった。
トミーは早熟で、女性の前に出ても、決してテレるようなことはなかった。ホノルルで、ある家庭ヘダンス・パーテーに招かれたとき、同席の婦人にじっと視線をそそいだ。そして彼女がカドリル(方舞)を踊ったあと、立ちつづけているのを見るや、彼女のドレスをそっと引っぱって、媚《こ》びるような調子で、ここへおかけなさいといった。しかし彼女のほうでは、うるさいといわんばかりの一瞥《いちべつ》を与えただけだった。
このときはみごとに、ひじ鉄砲をくって、ちょっとあわてたようだったが、アメリカ本土につくと、彼のふるまいはますます大胆になって、公衆の面前でアメリカの女性と口づけするところまで行った。
一行をのせた汽車はフィラデルフィアについた。道の両側は、日の丸や「大日本」と書いた旗をもった群衆で埋まった。歓迎委員の胸には「我等日本朋友の来るを祝す」と記したリボンがついていた。
見わたすかぎり、人間の顔の海で、それが前後左右に、大きく波をうって動いた。この熱狂する群衆を前にして、正使たちの表情はほとんど変化を見せなかったが、随員たちは笑顔をもってこれに答えた。
そのなかでただひとり、例によって大胆なふるまいを見せて、周囲の人々に驚きの目を見はらせたのはトミーである。一行の進行中、さしのべてきた若い婦人の手をぐっとにぎってひきよせ、そのほおに口づけした。こんなふうで彼は、ホテルについてからも、アメリカ婦人とすすんで接触したから、彼女たちには大もてで、たちまち多くのファンができた。一行が帰国するころには、ガール・フレンドもできたようで、ついに彼だけはアメリカにとどまることになった。
彼は帰国後、長野桂次郎と改名、アメリカ通として知られた。明治日本が生んだハイカラ党≠フナンバー・ワンである。
[#小見出し]気球に鋭い観察眼
さて、一行はホテルについたが、その日は汽車のなかでパンを食べただけなので、空腹でたまらない。室はりっぱだし、器物は金銀ずくめで、サービスも満点だけれども、料理は例によって肉ものばかりである。ふたのついたものが出たので、これこれと思って開いてみると、はいっているのはポートル(バター)で、いくら腹がへっても、こればかりは手がつけられない。通訳を通して飯を注文したが、もってきたのをみると、砂糖をまぶしてあって、ノドに通らない。けっきょく、またパンを食べてすましたと、村垣は書いてある。
フィラデルフィアには一週間滞在、そのあいだにいろんなものを見た。
まずベンジャミン・フランクリンの墓にもうでた。フランクリンはボストンに生まれたが、その生涯の大部分をフィラデルフィアですごし、この町の発展には最大の貢献をした。
一行を迎えてのアトラクションとしては、花火とか、写画(幻灯)とか、いろいろ準備されていたが、もっとも日本人を驚かしたのは気球である。これを風船∞空気船≠ネどと呼んでいるが、その構造については、つぎのように説明している。
「ガスをたくわうる袋は、うす帛《はく》をぬりたるものにて製し、色|桐油《とうゆ》のごとし。大きさは四間四方ばかりなる丸袋にして、長き口あり。かたわらの家のなかに石炭を焼き、ガスを鉄管にて送り、袋の入口にあて入る。袋の上に網袋をかけ、四方に許多《あまた》の緒をさげ、鉄をおもりとし、ガスを入るるにしたがいて袋膨脹し、またザルのごとき船に人を一人ずつ入る。砂袋にて船の重軽をのっとる。ガスの中にみつるころ、網の緒に鉄をつけたるとき、船の四方に結びつけ放せば、袋口は結ばずして下にたれてガス出でず。カジをとりてすみやかに上登す。日の丸の旗、米国の旗ふりて、およそ一里ばかり登りて、東北の方に去り見えず。これよりニューヨークまで、わが五十里、わずか半時(一時間)にて達すという。またいう、風船に蒸気をしかけたるあり。もっとも速かなり。これより日本の遠きも、六昼夜に達す。風船は人あまり高きに上り、空気のうすきところにいたり、死にいたるもの多し。その他害多く、よって常には官禁じて用いず。やむことなきときに用う。このたびは日本人に見せんため用いたりとぞ。そも風船の速かなる人の知るところ、これ強いてこれをもって用を達するに非ず。人力の工夫かくのごときにいたるを見するのみといえり」
と、野々村|忠実《ただざね》が書いている。彼は粋人で、この旅行中にも、
※[#歌記号、unicode303d]キイス(口づけ)したさに
人目をしのび
廊下まわれば腹がへる
などといったような、英語入りの大津絵節をつくったりしているが、見るべきものはちゃんと見ている。これがドイツのツェッペリン伯爵によって完成し、第一次大戦に威力を発揮したのであるが、この当時の気球のありかた、製法、用途、速度、安全度などが、これでよくわかる。
同じ日の日記に、佐野鼎はやはり気球の説明をした上で、つぎのようなことを書き加えている。
「フランス国当代の帝ナポレオン氏(仏国偽帝ナポレオン・ボナパルトより三代目)も、祖父の風ありて英主なりときく。仏国は去年|欧羅巴《ヨーロツパ》のオオストリヤ国と戦争のとき、仏帝風船(原名バルウン)を用いて、敵陣の動静をうかがい、利をえたることあり。世人評して新奇の戦略なりと称すときけり」
いずれ、だれかからきいた話をそのまま書いているのであろうが、ナポレオン三世は正帝≠ナ、一世のほうを偽帝≠つかいしているところがおもしろい。
[#小見出し]小栗上野の見識
使節団の使命としては、条約書批准交換のほかに、アメリカの軍事科学の視察、貨幣交換率の確定があった。
フィラデルフィアで、村垣、小栗以下勘定方の役人たちが、アメリカの金座(造幣局)を訪問した。そこで、貴金属の塊《かたまり》が溶かされて、金貨、銀貨になって行く過程を見せられたが、特別に仕切られた場所にも、日本人たちははいることを許された。
見学がいちおうすんだあと、貨幣の品質を検査するため、日本人の財布のなかの日本の貨幣とアメリカの貨幣を出させ、その一部をけずりとって、精巧な試験|秤《はかり》にかけた。これにたいして小栗は異議を申し立てた。
「かかる小片を試験せしのみにては、日本政府は満足せざるべし。少なくとも一個の貨幣について試験せざるべからず。もしできうべくんば、なお多量の貨幣について試験せよ」
一定量の貨幣のなかから、純金だけをぬきとってその量を計り、もとの量と比較すれば、その貨幣の価値がわかることは明らかであるが、こうなると試験でなくて分析で、これには相当時間がかかる。しかし、「理論でかれらの意見をひるがえさせることはできなかった。かれらはいんぎんに、しかも断乎として、自説を主張した」
と、ジョンストン中尉は書いている。この要求をいれて分析の結果、日米両国の貨幣にふくまれている金、銀、銅の量を確かめ、その価格を比較する方法を立てて、使節もついに満足の意を表した。
こういうところにも、徳川慶喜、勝海舟、榎本武揚などとちがって、あくまで幕府の立場を主張し、ついに官軍の手で殺された小栗(上野介)の性格、財政家としての見識と責任感がよくあらわれている。
これに反して、村垣副使のほうは、ワシントンで、商業会議所の議員が一行をたずねてきて、あれこれと質問したとき、つぎのようなあつかいかたをしている。
「わが国物産の多寡、価の高下など問いけれど、商売のことは知らねば、ほどよく答えおきぬ」
かつて老中|間部詮勝《まなべあきかつ》が、イギリス公使から、金銀貨幣の品位量目のことを質問されて
「拙者は日本にて大名と申すものなり。政府の理財事務はご勘定奉行これをつかさどり、領内のことは家老これをつかさどるをもって、かつてかかる金銀のことを自らききたることなし」
と答えた。これをきいたイギリス公使は、
「さてさて日本はうらやましきお国柄なり。それにて事務執政のご職掌が相すむとは結構の次第なり」
と皮肉ったというが、今の日本にも、この大名≠ノ似た役人や政治家はそう珍しくない。
佐野鼎は、身分は低いけれど、技術者だけに、技術者の目で市内を見て歩いている。
ホテルの向かい側に大きな時計店があった。時計の値段は十ドルから四、五百ドルまでで、十年間かけ通しというのもある。もっとも高価なのは、内部の機関がすべてプラチナでできていて、なん十年もの間、少しも狂うことがない。また航海用の時計というのは、ロンドンで正午にあわせておくと、その後どこへ行っても、船の運転をやめさえしなければ、東西にどれくらい走ったか、正確にわかるようになっている。この店にはまた、測量機械その他航海に必要なものがなんでもそろっていた。
「なかんずく驚くべきは、わが国の四辺の海岸および諸所の港を測量して、浅深を詳《つまびら》かにしたる切絵図数十枚あり。いずれの船も、わが国の港にいたらんとするときは、度数を測知し、彼の図に照らしあわせて、航海路をうるなり。この図ははなはだ宝とすべきものなり」
こんなものを見ると、幕府の秘密政策がバカらしく感じられたにちがいない。太平洋戦争の場合でも、日本の要塞や軍港付近では、写真はもちろん、小、中学生の図画まで禁止されていたが、アメリカ側では、空中写真などによって、、小さな物置きまで出ているような地図をつくっていたのである。
当時、すでにアメリカ屈指の工業都市として知られていたフィラデルフィア市では、使節団へのみやげに、ここでつくられた機械類をおくった。そのなかに、
「高さ四尺ばかりの覗き目鏡あり。玻璃《はり》(ガラス)の板七十枚ばかりに、この街の風景または山河の景さまざま写真鏡にうつしたるものなれば、人物鳥獣も生けるがごとく、この地の風景を実見するにたるものなり。帰国の後、内献上(将軍に)せしが、お側をはなしたまわずとひそかにもれきこえける」
と、村垣は書いている。当時の将軍は十四代家茂で十四歳、まだのぞきメガネのうれしい年ごろであった。皇妹和宮内親王の降嫁されたのは、この翌年のことである。
[#小見出し]あわや切り捨て
一行のなかに、婦人から指輪をもらったつもりでもってかえってきたものがあった。これは結婚記念の指輪とかで、その婦人がホテルにやってきて、返却を求めた。
一方、アメリカの群衆の一部が、各地で使節団に加えた非礼、侮辱はひどいものであった。ジョンストン中尉の書いたものによると、ワシントンについたとき、
「余は不思議な縁で二人の日本官吏と馬車に同乗するの光栄に浴した。そのさい、軍隊が馬車の前を徐行したため、われわれの進行がとめられた。そこで、せんさく好きの婦人たちから、余の同伴者は男子なりや、あるいは女子なりや教えられよとせまられた。これにたいして余は、余が知るところ、また信ずるところによれば、かれらは吾人が通常男子と呼ぶ階級に属するものなることをのべ、また余の説明の正確なることを信頼せらるべし、われわれは六十日間、かれらと同船したるをもって、かれらがいかに巧みなる変装術により女子なりと偽るも、余はこれを看破することをうるものであると答えた」
日本人はすべてマゲをつけていたので、男だか女だかわからなかったのだ。この程度なら許せるとしても、フィラデルフィアで、
「一行の行列が順路を通過して行く道すがら、黒山のごとくあつまった民衆は、思いきり悪罵毒舌をぶつけてきた。ことに下町方面、いわゆる民主国の支配階級≠フもっとも多く雲集する方面でこれがはなはだしかった。たとえば、某地点では、案内の海軍委員の一人にむかって『おい、肩章のついているの、君のつれてるのは君の猿かい』と話しかけてきた。しかもこれは群衆の放った無数の悪質なシャレの一つにすぎない。とくに残念なことは、かかるあくたいの多くが、使節団の一部の人々に明白に理解されたことである」
このような記事をかかげて、アメリカの新聞は民衆をいましめたのであるが、日本のほうでも、アメリカ側に抗議した。
「アメリカ民衆の言動から察するに、自分たちの姿はさぞ異様にみえたことと思うが、逆に自分たちから見れば、アメリカ人の服装や風習は、同じように笑いたくなるような面も多いのだから、ひどい嘲罵はつつしんでもらいたい」
というわけだ。
そのほか、一紳士が自分の帽子をとって、日本人の目がかくれるくらい深くかぶせたり、一淑女が日本人の泊っているホテルの室の窓口に立ちふさがったり、道で出あった日本人の顔を穴があくほどのぞきこんだり、日本人を黒ん坊≠ニ呼んだり、車のなかからひきずりおろしたり、あちこちでいろいろなめにあわせているが、とくにひどいのはつぎのケースである。
「一人の酔漢は日本人と対談中、不用意にも拳銃をぶっ放したので、日本人はおのれを殺さんとするものと解して、怒り心頭に発し、腰の刀をぬいて、この無礼ものに切りつけた。かたわらにいた人々がこれを押えなかったら、この酔漢の首はとんでしまうところであった」
これは『ハーバー』という週刊新聞に出た記事である。
がいしてアメリカの新聞の態度は、日本人にたいして同情的、というよりも、アメリカ人の無作法を責めるものが多かった。まず大統領と使節の会見については、
「この会見は、一般に馬鹿馬鹿しい、またおかしなものになるだろうと予想されていたのに反し、いかにも厳粛荘重そのものであった。衣服、言語、風習のちがいこそ、人の目をそばだたしむるものがあったけれど、それにもかかわらず、使節たちはいずれも、品格高く、威厳をそなえ、聡明にしてたしなみ深き人物であり、新世界の全智能をもってするとも、とうていかかる人物に、礼節の細目についても、はたまたこの栄ある役目の責任感についても、何んら加うることの不可能なることは明白であった」
とまで激賞するとともに、はげしいことばでアメリカ人の反省をうながす記事をかかげている。
「もっともわらうべきは、われわれアメリカ人が、日本人をあたかも未開野蛮の劣等人なるかのごとくいいなす一事である。、われわれは自ら優等人をもって任じている。しかし、かの日本使節一行の紳士たちが、この晴れの会見の席上、古今に通じ、万国にほどこし、いやしくも紳士たる威厳と聡明と教養とに一瞬たりとも欠くるところがあったという記事を、われわれはいまだ寡聞にして読むをえないのである。未開野蛮の劣等人のふるまいこそ、まったくわれわれ自身のものであったのだ! だからして、使節一行の人々が果たして、日本がその古き伝統をふりすてて国を開き、この劣等なる西洋文明の恐るべき汚毒をほしいままに流入せしむるにいたったことを衷心より遺憾とし、帰国するようなことにならないであろうか。実に疑問となすべきである」
[#小見出し]全市あげて大歓迎
使節団がニューヨークにむかって出発の前夜、花火大会が催された。
「数百の手花火から発射された火の雨に驚いて、室内に逃げこんだものもあった。またおちてくる火の粉で頭を焼れてはたいへんだと頭をおおうものもあったが、その火が少しも危険でないことがすぐわかり、おちついてその美しい光景を観賞した」
と、ジョンストン中尉は書いている。チョンマゲ頭に火がつきはしまいかと、あわてた姿が目にみえるようである。
翌六月十七日(和暦では四月二十九日)、一行は川蒸汽でニューヨークについた。
「岸頭に小砲隊を列し、外に十三、四歳より十七、八歳までの少女を男装になし、小旗をたずさえて左右に列す。その数二、三十人なり。容色きわめて美にして、わが国山王祭礼の鉄杖子《かなぼうひき》に彷彿《ほうふつ》たり」
港に碇泊中のアメリカの軍艦数十隻は、いずれも日の丸とアメリカの旗をかかげ、一隻ごとに二十一発の祝砲を放った。砲台もこれに応じ、「百雷地におちるかといぶかる」くらいであった。
それから一行はブロードウェー、グランド・ストリート、バウアリーからユニオン・スクェアヘと行進した。
「御条約箱は美麓に花を飾り、旭章花旗をたてたる台にのせ、下司、通弁者のりそう四輪車を四馬にて引きたり」
このはでな演出は、アメリカ側でやってのけたものであろう。さすがアメリカ第一の大都会だけに、万事大げさで、陸軍は全員出動し、十二大隊でおよそ八千人という。ただし、
「騎馬兵は士官なれども、歩卒は過半商人にて役《えき》に出るよし。武の実なきことを知るべし」
と、村垣は例によって皮肉っている。彼が帰国して数年後には、幕府も民間から兵士をつのるようになったのであるが、当時の彼は、武士≠ニいう名の世襲的職業軍人以外に、軍事はまかせられないと思いこんでいたのである。
「市中の家屋は、各戸商売をやめ、日の丸のつきたる旗と米国の旗と並立せしめ、ウェルコム・ジァッパネイズ・エムバッスセイ(はなはだ善き日本使節の到着といえる義なり)と大書し、男女老幼を論ぜず、おのおの白き片布をふりて、祝詞を唱う。その群衆さながら江戸表の山王権現または神田明神の祭礼のときに、練りものを見物するがごとくにして、群衆はヒレドルヒヤ府に十倍す」
と、佐野鼎の日記に出ている。
この群衆のなかに、アメリカが生んだもっとも特異な詩人ウォルト・ホイットマンがいて、『ブロードウェー・ページェント』と題する長い詩を書いているところを見ると、強い感銘をうけたにちがいない。
もともとホイットマンは、東洋諸国、とくに日本にたいして大きな関心をもっていたとみえて、一八五六年(ペリーの来日後三年)に書いた『世界へのあいさつ』という詩のなかには、『日本の海』『日本の男女』といったようなことばが出てくるが、この『ブロードウェー・ページェント』においても、使節団の行列を見て、
「北京、広東、ベナレス、デリー、カルカツタ、江戸の群衆の姿が目の前にうかんでくる」
と歌っている。そして五年後の六五年に、彼は国務省インド大局の書記に採用されたが、その前に出した卑猥な詩集=w草の葉』の著者であることがわかって、たちまちクビになった。これはかつて有島武郎《ありしまたけお》が、「原文で読める程度の教養あるものには弊害があるまい」という条件つきで、日本に紹介したものだ。当時、中学生のわたくしは、それほどの教養≠ェあったとは思えないが、原文がやさしかったので、意味がよくわかり、その大胆な性描写に異常なショックをうけたことを今もおぼえている。
ところで、使節団一行が前日まで滞在していたフィラデルフィアは、明治の代表的民権論者|馬場辰猪《ばばたつい》が明治二十一年に客死したところである。死ぬ前に彼がアメリカにきて出版した『日本の政治的現状』というパンフレットを読んだホイットマンは、これを貸してくれた友人のトラウべルに、つぎのごとく語っている。
「世にも不思議な制度の国もあるもんだ。その実態は、その国に生まれたものでないとわからないと思うが、そんな国があるということは知っておく必要がある」
馬場は、大石|正巳《まさみ》とともに、英人モリソンから爆弾のことをきいただけでつかまってひどいめにあったのであるが、そういった明治初期の苛烈な専制政治のありかたは、アメリカの独立宜言≠文学の形でおこなったといわれるホイットマンには、「世にも不思議な制度」と見られたのである。
[#小見出し]舞踏会に一万人
使節団のニューヨークでの宿はメトロポリタン・ホテルで、約二週間滞在した。ここまでくると、たいていホテル生活や洋食にもなれてきた。それでも、下級役人や従者たちは、地下室にもうけられた炊事場で、勝手に自分たちのほしいものをつくって食べた。
市内見物のための外出は自由で、従者にも馬車が提供され、かならず案内人がつけられた。ニューヨークは外国人が多いので、出先で事故がおこることを恐れたからだ。
ホテルの主人はレイランドといって大金持ちだが、佐野鼎とすっかり親しくなった。レイランドはもと軍人で、クリミヤ戦争には、大隊長としてセバストポールで戦った。そのときの体験をしばしば話してきかせたが、ある日、佐野たちをオシの学校に案内してくれた。
この学校は、ハドソン川を十里ばかりさかのばったところにあった。日本人たちは、その規模が大きく、設備のととのっているのに驚き、さらにその教授ぶりを見て感嘆した。
まずアルファベットを書きとらせ、つぎにその一つ一つの音を教えるのであるが、手をのばしたり屈したりして字の形を示したあと、たとえば人の姓名を知らせるときには、字を一つずつつらねて行くのである。この方法だとすぐ文章が書けるようになり、ふつうの人にたいしては、筆談ができるわけだ。オシの人同士は、いつも手まねで話しているが、これには一定の法則があるので、早く了解ができてまちがいがない。日本でオシの人たちが器用でやってのけるのとは、ぜんぜんちがうと感心している。
そこで、生徒に日本人を紹介し、この人たちは重要な使命をおびて遠くの国からはるばるきたのだと説明して、わかったものはそのことを文章に書きなさいといったところ、生徒のなかから五人ばかり立って、石板にそのむねを正しく書いた。日本人たちはここではじめて石板というものを見たのである。
「かの国の学校に、大いなる黒色の平らかなる薄き板のごとき石を壁上に立ておき、石の細筆にて書するものあり」
とあるが、黒板に白墨で書くようになったのはのちのことで、このころはまだ石板に蝋石で書いていたのだ。
この学校でつかっている教科書は、絵がふんだんにはいっていて、外国人が英語を学ぶのに便利だから、一部ゆずりうけて、
「帰国の後、同志と謀《はか》り、翻刻して英語を学ぶものにわかたんと欲す」
と、佐野は書いている。
別の日本人たちが、盲人学校を訪問、点字の書物を見て、つぎのように解説している。
「紙に高く文字を浮起せしめ、手をもってこれをさがして読ましむ」
こういった小さなことが、すべてアメリカの文明、アメリカの文化を代表し、日本人の目に驚異として映ったのである。
動物園にも行った。
「禽獣の観場あり、珍禽奇獣名を知らず。あるいは鉄鎖をもって縛し、あるいは鉄欄中に入る。獅子、虎は活物に非ず、毛皮をもってその形を象《かたど》る。虎はわが国の画虎にやや似たり。獅子は大いに異なり、頸辺長毛あるのみにして、外みな短毛なり、尾もっとも細くして長し。また虎の子を見る。斑文ならず、面は猫のごとくにして、毛はうす赤、大いさ五、六尺なり」
これでみると、このころの動物園は、ライオンとトラは剥製でまにあわせていたことがわかる。ただし、「面色生けるがごとし」とある。トラは日本でも実物を見る機会がないでもなく、絵にもよくかかれていて、日本人のイメージとだいたい似ていたが、ライオンは唐獅子《からじし》≠フ絵で想像していただけだから、ずいぶんくいちがっていたらしい。
一行がニューヨークにわかれをつげる数日前、メトロポリタン・ホテルのホールで、使節団歓迎の最大行事となっていた大舞踏会が催された。これは「善つくし、美つくし、豪奢、華美、壮麗のかぎりをつくしたもので、ニューヨーク始まって以来、これほどのにぎわいは見なかった」という。自尊心のきわめて強いこの東洋の未開民族の代表に、自分たちの優れた文明と豪華な生活を誇示して、ドギモをぬくという意図のもとに計画されたものであろうが、一万をこえたという参加者は、この珍客をちょっとでも見ようとする好奇心と、その前でバカさわぎを演じてみたいというヤンキー気質から、おしかけてきたものと見てよい。日本人一行が、舞台にもうけられた特別席に姿をせると、
「来賓たちはことごとく総立ちとなり、日本人、日本人!≠ニいう叫び声が、広大な場内にあまねくつたわり、目という目は皿のごとく見開かれ、全員がこの天下無類の外交使節団の人々を見ようと背のびをした」
と、当時の新聞が書いている。一方、村垣副使の日記では、
「かかる大ダンスは、彼は大饗宴なるよしにて、新聞紙にも記してほこりけれど、はなはだめいわくのことなり」
と、二、三行で片づけている。
[#小見出し]申し分のない礼節
日本人たちは、馬車でニューヨークの郊外に出た。
いたるところに、石をとり出したあとがあり、そこが池になっていて、白鳥が浮かんでいた。最近ヨーロッパからうつしたものだ。あちこちに杉の木がうわっているが、これも日本から苗木をとりよせて英国で育て、ここへもってきたものだという。
この辺にきても、日本人を見ようとしておしかけてくるものが多く、沿道には一町くらいへだてて町の役人が立ち、群衆を制止しなければならないほどだった。
またボストンの市長がわざわざニューヨークにきて、ぜひ使節一行を招待し、合衆国第一の名所となっているナイヤガラの滝へも案内したいといった。地元ではすでに歓迎の準備万端ととのっているので、ことわられては市長の顔がたたぬといって、しきりにすすめたけれど、ついに応じなかった。すると記念に、ボストン製のたもと時計(懐中時計)を二個、正使と副使にといっておいていった。盤面に横文字と日本字が書いてあるところを見ると、わざわざつくらせたもので、その写真が新聞にも出た。
そのほか、おみやげには、ミシンからトランプまで、どっさりもらった。
また少しでも横文字の読めるものは、書物を相当買いこんだが、それは辞書、旅行案内、アメリカ市街一覧、風景画帳など、どっちかというと実用的なものばかりで、文学上の古典とか、評判になっている小説とかいったようなものには目もくれなかったと、ジョンストン中尉は書いている。一つはそういうものに興味や予備知識をもったものが一行のなかにほとんど加わっていなかったからでもあろうが、そのころの日本の情勢がそういう精神的なゆとりをもたせなかったのであろう。
サンフランシスコで、「咸臨丸」の修理費をぜんぜんとらなかったことは前にのべたが、「ポーハタン号」一行の各地の滞在費、交通費なども、すべて無料だった。
そこで、いよいよ帰国という段になって、アメリカ政府のつけてくれた歓迎委員に、ホテルの従業員や警衛の任にあたった下級の役人たちへの祝い酒=iチップ)として、使節は二万ドルさし出して、適当にわけてくれといった。
委員のほうでは、さっそくワシントンに電報をうって、大統領の指示を仰いだところ、うけとってはならぬという返事がきた。といって、こちらも一度出したものを納めることはできぬと押し問答したあげく、ペリーの娘婿のベルモントがニューヨークでは相当の顔役だというので、彼に一任することにした。
ところで、使節団の到着から出発まで、アメリカの新聞は、日刊紙も週刊紙も、特派員をつけて、その動静をくわしく報道した。アメリカを見にきた日本人たちは、アメリカからも見られたわけで、「観察者であると同時に被観察者」でもあったのだ。その結果、日本人たちは、アメリカ人にどのようにうけとられたか。
日本人の顔にはアバタが多いけれど、「おちつきと威厳がうまく組みあわされている」と指摘していることは前にのべたが、
「アメリカ婦人にして、この使節中の主なる人々の形と顔がたいへん美しいというので、熱烈なる恋におちいるものも、けだし少なからざるべし」
といっている。しかし、日本人と深く接したジョンストン中尉などは、つぎのような観察をしている。
「日本人の動作を見るに、申し分のない正しい礼節の要素をそなえ、不遜、出しゃばり、尊大の態度は絶無で、社交場においては、時として苦痛を感じ、あるいは心中いらいらすることあるも、強い忍耐力があって、胸中深くこれを蔵し、かかる感情を顔色にあらわすことはない。かれらは常にきげんよく、内に蔵せる心の光りは、外柔和にして温雅なる面貌に輝き、かの文明をもって誇る西洋知識階級に絶えず見るがごとき憂い、疲れ、不平の表情とは正反対で、知的優越の地位に立ち、精神的文化を有する吾人は、実にこの平和と内心の満足との秘訣を、この非基督教的国民より学ばざるをえないのである。かれらには外かれらを拘束する法則なきも、しかも内己れ自らを律する法則あり、かれらは常に人と交わるに快活の態度をもってし、かつ官紀を守ること厳にして、私事もしくは楽しみごとと、国家無上の威力をもって命じる政治上の公事との間に、厳然たる区別を立て、あえてこれを犯すことはない」
少々ほめすぎのきらいはあるが、アメリカ人には欠けていて、かつての日本人が身につけていたいい面をよく見ぬいているともいえる。さらに、『ライフ』という絵入り新聞では、『我々は文明人か』と題する論説をかかげ、ボルチモアなどにおけるアメリカ人の態度を非難し、
「日本人は野蛮な基督教徒を仏教に改宗させるため、布教団を送ってよこすかもしれない」
とまでいっている。
[#地付き]〈炎は流れる二 了〉
[#改ページ]
[#小見出し] あ と が き
この巻では、寛永十六年(一六三九年)から、ペリー渡来の嘉永六年(一八五三年)まで、ざっと二百十五年間、鎖国≠フ状態におかれていた日本民族が、新しい西欧文化に接触して、どのような反応を呈したか、というところに重点がおかれている。
戦後に独立した東南アジアやアフリカなどの新興国の大統領、首相、その他の指導者たちに会うと、かれらはたいてい、日本の明治維新≠ノついて若干の知識をもっていて、開国後における日本の近代化の驚異的な成功の理由が話題になることが多い。
そういう場合に、わたくしはいつも答えるのだが、なるほど日本は久しく鎖国≠フ状態にあったけれど、そのあいだにも、長崎という窓口を通して、西欧文化とのつながりを保っていた。それよりも重要なことは、二世紀半にわたる徳川時代の封建制度は、世界のどこの国の封建制度にも負けないくらい完全に近いもので、日本は一定の規準のもとに、日本人自身の手で統治されてきたのである。しかもそのあいだに、外国と戦いをまじえたことは一度もなく、完全に平和な生活をつづけたのであって、こういう例は、世界歴史のなかでも、ちょっと見あたらない。
この期間につちかわれ、日本民族のなかにたくわえられてきた知識、経験、その他の能力が、明治の開国とともに芽を吹いて、異常なスピードをもって成長したのである。この点で、幾世紀にもわたって他の国家、他の民族の支配をうけ、自治のチャンスと経験をほとんどもたなかったアジア・アフリカの新興国の場合とは、まったく条件がちがっているのだ。
そのいい例は、浜田彦蔵、中浜万次郎など、いわゆる漂流民≠フ場合である。留学生≠フ場合には、育った環境の点でも、才能の上でも、とくにえらばれた精鋭分子が多いのであるが、漂流民≠ニなると、たいてい漁師の下働きかなにかで、社会の底辺に育ったものである。それが船の難破という災厄にあって、漂流をつづけ、外国船に助けられたり、外国に流れついたりして、偶然にも、新しい文化と接するチャンスを与えられると、たちまち、化学反応のような形で、その才能を発揮することになる。
したがって、こういう場合の才能は、これを発揮した個人のものというよりは、彼の属している民族そのものがもっている潜在的能力が、偶然の機会に露呈したものともいえよう。たとえていうと、これは製品のぬきとり検査≠フようなものだ。
漂流民≠フ場合ほどでもないが、幕末に欧米へ送られた使節、留学生などの場合も、民族の潜在能力を顕在化するチャンスとなったのであって、書き古されたと思われている幕末日本も、こういう面からみると、ちがった興味がわいてくる。
「大正史」を目ざしているわたくしが、こういうところで、つい道ぐさをくった理由も、一つはここにある。わたくしのこういった道ぐさ癖は、これからもしばしば出てきそうである。というよりも、人生の大部分を旅≠フ形ですごしてきたわたくしの体験によると、旅行の妙味は、ひいては人生そのものの妙味は、むしろ道ぐさ≠ノあると、わたくしは信じている。
[#地付き]大 宅 壮 一
[#地付き](昭和三十九年四月、文藝春秋新社)
〈底 本〉文春文庫 昭和五十年十月二十五日刊