大佛次郎
赤穂浪士(上)
蔭を歩く男
将軍が退出になったのは暮六《くれむ》つ近い時刻である。警衛がとかれると同時に、待ちかまえていたように外の群衆が雪崩入《なだれい》って、境内《けいだい》を埋めた松の間に白いほこりが煙のようにもうもうと起った。その上から、傾いた陽《ひ》が斜にさして、濃淡の分れた光の柳条《すじ》を一面に降らせていた。関東|新義真言《しんぎしんごん》の大本山、護持院《ごじいん》の七堂|伽藍《がらん》は、この夕陽の中に松と桜とをめぐらせて燦爛《さんらん》とつらなっていた。
空は広々として絹をひろげたように明るい。「鐘一つ売れぬ日はなし」という江戸の春である。人々は青い松の間を行く荘厳な鹵簿《ろぼ》の、槍《やり》、挟箱《はさみばこ》、打物《うちもの》、柄傘《えがさ》などが日にきらめくのを遠くから見ていた。
公方様《くぼうさま》のお日和《ひより》じゃ。と誰かいっていたが、聞いただけの者は晴れ晴れと微笑してこの太平な時世に生れたことをこの上ない幸福のように考えずにはいられなかった。境内には、護摩《ごま》のにおいが放縦《ほうじゆう》に思われるまでに漂っている。千手堂《せんじゆどう》、聖天堂《しようてんどう》、大師堂《だいしどう》、常行堂《じようぎようどう》と、人波の動くところに、燭火《しよつか》は輝いて、真言神秘《しんごんしんぴ》をつつむ厳《おご》そかな堂内の幽暗《ゆうあん》に、金色《こんじき》の扉帳《ひちよう》をひらいた仏龕《ぶつがん》を浮き上らせている。朗々たる読経《どきよう》の声は、香煙とともに堂に溢《あふ》れて、夕陽の空にのぼる。その調和ある音声《おんじよう》の高低にあわせて、厳そかな豪奢《ごうしや》と華やかな敬虔《けいけん》の気が人々の頭上に花紋《かもん》を描きながら、ゆるく鷹揚《おうよう》な波動を江戸一円の空に送っているように思われた。大門《おおもん》をくぐって入り堂と堂とをつないで動いている群衆も、花を水に浮かせて見るように、色さまざまにたとえようもなくはなやかだった。度々の華奢《かしや》の禁令も、熟《う》れきった時代の空気の醗酵《はつこう》を止めることは出来なかったと見える。程よい日光と湿気とを得て花は咲くよりほかになかったのであろう。紫、浅黄《あさぎ》、紅打《べにうち》などの染綿《そめわた》の帽子、袖口に針金を入れ綿を厚く入れてふくらみをとる工夫《くふう》までして美しく丸くきった袖も軽々と、吉弥《きちや》結びに帯を結んだ女達、流行《はやり》の小《こ》太夫《だゆう》鹿子《かのこ》、千弥染《せんやぞめ》は、そこにも、ここにも見受けられる。男も、紅鳶《べにとび》、縹《はなだ》、茶、空色などの羽織《はおり》、下着の緋無垢《ひむく》、着物の裏にも燃えるばかりの紅絹《もみ》をつけたのが多く、熊谷笠《くまがいがさ》のお武家の後には鎌ひげつけ毛脛《けずね》を出した奴《やつこ》がお供、さては黒縮緬《くろちりめん》のひとえ羽織を着たお医者など、師宣《もろのぶ》の絵から脱け出して来たといえば一番わかりの早い、華奢をつくし優婉《ゆうえん》の限りの姿をした男や女達が、いきいきとして話したりほほ笑《え》んだりして間断なくざわざわいう足音をきかせながら、この色の波を押し動かして行くのである。
その若い浪人者は、大門の脇に立ってこの雑沓《ざつとう》を眺めていた。
他にも道の脇へ出て通る人間を見ているものは男女ともに多い。が、この若者の切長の目にはどこか人と違うものがあった。齢《とし》は二十《はたち》を出たくらいであろう。鼻筋がとおって彫《ほり》の深いはっきりとした顔立をしている。服装《なり》を当今風にさせたならば、あるいは人目をひくだけの美貌ではなかろうかと思われる。が、顔全体の表情が、齢に似ずおっとりしたところがなくて、けわしいといいたい位つめたく冴えて見えた。目付がそれを代表している。切長の、はっきりした美《い》い形をしていながら、この華やかな雑沓を眺めても他の者のように浮いた色を見せることもなく、終始、水のようにひややかな一色に止まっている。いや、時にその冷たい色が凝《じつ》と重なり合って来て、冬の水の底にきらりとする魚のうろこのように色なく閃《ひらめ》く時がある。その刹那《せつな》に、肉の薄い形のいい唇が、隅のところで心持|反《そ》って、さげすむような微笑を含むのである。
「あ、あすこへ来た男を知っているか?」
傍《そば》で、それまでも何か話していた商人《あきんど》風の二人連れの一人が急にこういったので、若者は聴耳を立てた。
「ど、どれ?」
「それ、そこへ……奴を連れて、いやに威張って来る男さ」
男があごでさす方角を、若者ものび上るようにしてのぞいて見た。
「ふうむ、知りませぬな……どこかの御典医ですか?」と連れは怪訝《けげん》らしかった。
話題にのぼっていた男は、実際、御典医らしい風采《ふうさい》で、その豪奢で寛濶《かんかつ》な姿には人目をひくものがあった。供には、奴のほか、弟子らしい男がこれもお古を頂戴に及んだらしい黒|縮緬《ちりめん》の紋付をぞろりと着て、うやうやしく跟《つ》いている。
「知らないのか? あれが箸屋《はしや》の伝助《でんすけ》という男さ」
「箸屋の?」
「野暮《やぼ》な声をしなさんな。きこえたら尋常なことでは済みますまい。もとは箸削りでも、今はれっきとしたお犬医者、滅多なことをいうて見なさい。遠島《えんとう》で済めばよいが、二つとない笠の台が飛ぶかも知れぬ」と、ひそひそという。
若者は、無論きこえない振りをしていたが、「ははあ」と思ったらしく、ちょうど前を通り抜けて大門をくぐって行く医者の後姿をずっと見送った。例のつめたいあざけりを含んだ微笑が、静かに唇に匂っていたのである。
箸屋の伝助という男の突飛《とつぴ》な出世振りは、ひと頃二人以上人間の集まるところではどこでも噂の種にされたものだ。誰も、口ではさげすんだようにいいながら、内心は伝助の幸運をうらやんでいたのに違いない。伝助のように短日月の間に目も鮮かな出世を見せた者は、何時の時代にもそう滅多にあろうとは思われなかったからだ。それというのもずっと以前からの生類憐愍《しようるいれんびん》の御布令《おふれ》からだった。これもこの護持院の大僧正隆光《だいそうじようりゆうこう》が信心の念|篤《あつ》い将軍家にお勧めしたからだという。生類の中でも、犬が、将軍|綱吉《つなよし》が戌《いぬ》の年だからというので、特別のまるで気違いじみた保護を受けることに成っていた。野良犬を殺したからといって死罪になった者は珍しくない。飼犬が子供を生めば強制的に一々毛色まで書いて届けさせる。役所には市中の犬の戸籍がちゃんと出来ているし、野良犬を収容するために中野に周囲百町もある囲い地を作り犬小屋を建てた。小屋は柿葺《こけらぶき》の屋根で天井にも床にも板を敷いた立派なものである。炊出所《たきだしじよ》がある。役人番人の小屋がある。日々役人付添いの上でかなりの人数が節のない檜《ひのき》で作った箱に綿の厚い蒲団《ふとん》を入れたものを担《にな》って市中を歩き、野良犬がいれば丁寧に収めて中野まで荷なって帰るのである。小屋へ行けば毎日炊出しをして不足なく食事させる。犬一匹一日に白米三合、十匹について一日味噌五百目、乾鰯一升《ほしかいつしよう》ずつときめてあった。勿論病気になれば小屋に医者が二人いて直《す》ぐと手当てをしてくれるのである。
この箸屋伝助というのは、麹町《こうじまち》三丁目で箸削りを生業《なりわい》として、しがない暮しをしていた男だったが、近所の犬達で病気になったものに薬をこしらえてやったところが、それがよく利《き》いたという評判がお上《かみ》にきこえてから数年前犬医者に取り立てられて地所の付いた屋敷まで拝領することに成った。患者があって迎いがあれば、ものものしく駕籠《かご》に乗って診察に行くのである。
箸屋伝助改め丸岡朴庵《まるおかぼくあん》の後姿は、やがて大門の内に消えた。若者のくちからも、例のなぞのような微笑が消えている。寺ではちょうど、暮六つの鐘をつきはじめている。
若者は黙々として雑沓の中を歩き出した。
将軍の幾度目かのお成《なり》を仰いで光栄に輝いたこの護持院が、その夜危うく猛火になめられようとしたのである。最初火を見つけたのは、その頃|鎌倉河岸《かまくらがし》の脇に住んでいた仙吉《せんきち》といって相当名のきこえた御用聞《ごようき》きだった。
仙吉は、麹町に用があって、更けてから寂しい濠端《ほりばた》を一人で帰って来たものだったが、護持院の土塀《どべい》に沿って、一層暗い道を歩いていると、行手の土塀の内側がぱっと明るくなって、その一角の樹立《こだち》の青い色と堂の丹塗《にぬり》の色を闇に浮かせながら、火の粉があがって、ぱちぱちと物の燃える音がきこえた。
まさか放火とは気がつかず、焚火だとばかり思っていたのだが、その途端に土塀の上に黒い人影が現れて、ひらりと外へ飛び降りたのを見ると、ぎょっとして身体《からだ》をかたくしながら、流石《さすが》に稼業《かぎよう》で、急に地にうずくまって様子をうかがった。幸いと、その人間はこちらへ歩いて来る。二本差している……と見るか見ないかのうちに、
「火事だ!」という声が土塀の内で聞えた。
はっとした時、向うは、すたすたと急ぎ足で通り過ぎようとするのだ。
仙吉が、地を蹴って立つ。と同時に、武士の方でも、急に人の気配を知って振り返る。
と見て、
「もし!」と軽く何でもないような調子で声をかけたのは、流石に呼吸を心得たもの、相手の出端《でばな》を巧《たくみ》にはずしたのだ。
「鷹匠町《たかしようちよう》へまいるには……どうまいったら宜《よろ》しゅうございましょう……」
相手は確かにまごついて、咄嗟《とつさ》の措置《そち》を取り損じたのだが、
「鷹匠町か?」と聞き返しながら、これも曲者《くせもの》、仙吉に右へ廻る気配を感じると、つと体をひらきざま抜き討とうとしたが、それを感付かぬ仙吉でなく、急に飛びすさって、
「危ねえ!」と叫ぶと一緒に、繭《まゆ》から出た糸のように仙吉の手から走り出た縄が、武士の頭上にきりりと舞って、腕にからんでいた。
「むむ」
夜目に白く颯《さつ》と刀身が流れる。よろめいて仆《たお》れるばかりのところで仙吉は踏み止った。
その間にばたばたと相手は駈け出していたのだ。
「畜生!」と唸る。
手首にからむ斬られた縄の端をかなぐり棄《す》てて、早速に自分も後から駈け出していた。
護持院《ごじいん》では今、頻《しきり》と火に水を掛けているらしい。わいわい騒ぐ声の間にざぶんざぶんと水の音や、何かでたたいている音がきこえている。幸いと見付け方が早かったのと、何しろ護摩堂に綱吉自筆の『護持院』の額《がく》があって、その非常の場合の立退きの用意として役夫料《やくぶりよう》三百人|扶持《ぶち》を受けていたことなので、手も揃っていたと見える。火は縁の下をこがしたぐらいで大事にならず消し止めることが出来た。
過失ではない。あきらかに放火である。将軍家の帰依《きえ》浅からぬ護持院を焼こうとしたとは、容易ならぬ事件だった。
間もなく知らせによって寺社|奉行《ぶぎよう》が馬を走らせて来て、暗い樹立の間を提灯《ちようちん》の灯がいくつも飛んで来ていた。
爼橋《まないたばし》へ出るまでに、武士は、駈けながら刀を鞘《さや》におさめていた。
ちょっと立ち止って、振り返って、闇の中に近寄って来る足音を聞くと「うるさいな」というように舌打ちしたが、また走って、角を曲るとかたわらの路地の木戸を押した。
木戸はゆれながら開いた。
直《す》ぐと、内へ入ると、今度は、もとどおり内側から木戸をしめた。
間もなく、仙吉が息せき切って駈けて来たが、この町角まで来て、はたと途方に暮れたように立ち止った。
途《みち》は三本に別れている。
地面に匍《は》うようにして、跼《しやが》んで、闇を透《す》かして見たが、目あての人影は見えなかった。
すこし先に、自身番小屋があって、闇の中にぽーッと黄ばんで明るく、障子《しようじ》が見える。
仙吉は急に思い立ったように、そちらへ駈けて行った。
「爺《とつ》つあん、爺つあん……」と寝込んでいる番太《ばんた》を起しているらしい。
その間に、こちらで木戸が音もなくあいて、先刻の武士の姿を吐き出した。
武士は足音を忍ばせて橋を渡った。それから、また急ぎ足になって間もなく九段坂を登ると、馬場を右手に三番町通りを歩いて御厩谷《おんまやだに》へ降りて行った。
黒板塀が陰気につづく、屋敷町の深夜はひっそりとして夜気が時々立木のこずえを動かすだけである。武士は黙々として歩いて行って、とある屋敷の前に立ち止まると、そっとくぐり戸を押して見た。
あかないのを見て、
「佐助《さすけ》! 佐助!」と近所を憚《はばか》るような低い声で呼ぶ。
門番小屋の窓を灯影《ほかげ》が明るくした。間もなく、がたびしと戸の開く音がする。
「どなた様じゃ」
「私じゃ」
ぎーッと、重い音をたてて潜戸《くぐりど》があいた。
「気の毒したな」
武士は、こういって、内へ入った。
直ぐと正面に玄関がある。しかし、武士はその右手にある木戸をおして、暗い庭に入った。かなり広い、樹立の深い庭である。
雨戸を閉じてしんとしている母屋《おもや》について廻ると、繁みの奥に小さい離屋《はなれ》がある。
武士はそばまで来てからまた低い声で呼んだ。
「母上……母上……」
直ぐと、雨戸の内側に人の気配がして、雨戸があく。
「隼人《はやと》か?」
「左様にござりまする」
「今、灯火《あかり》をつけます」
いそいそとうれしそうな顔が暗い中でも想像出来るような声音《こわね》であった。
「いえ、……御寝《おやす》みになっておいでだったので御座りましょう。こんなに遅く申し訳御座りませぬ」
こういいながら、武士は頭巾《ずきん》をぬいで、衣服の裾《すそ》のほこりを払いにかかった。
間もなく雨戸のすきからもれて来たやわらかい灯影は武士の横顔を明るくした。これは今日の夕方護持院の雑沓の中に立っていた若い浪人者である。
「ほんに、三日も四日もたよりがないのでどうおしかと思うていた」
母は、ぼんぼりを差し向けながら、また、こういった。
「お腹は空《す》いていないのかえ」
母は、久し振りで来た息子に、三日分も四日分もたまっていた慈愛を一度に振り撒《ま》こうとして心をくだいている模様だった。
「もう、火も消えかけている。お湯もさめている……」
「いえ、何も欲しくはありませぬ。早く寝みたいと思います」と答えてまた急に、
「叔父上は、また御立腹で御座りましょうな」
「いえ……」と当惑顔で、
「お前が来たら何か話があるとはおっしゃっていられた。家を出たきりにして無沙汰にしておいでなのをよくは思っていらっしゃらぬようだ」
「でも、家にいても仕方ありませぬ。叱言《こごと》をいわれる叔父上が御無理じゃ。今の世の中は働きたいにも遊んでいなければならぬように出来ている」
隼人は、寂しく微笑しながら、
「知恵があっても、腕があってもじゃ。……いっそ犬医者になって犬の脈でもとりましょうか?」
「馬鹿をおいいでない」
母は、息子の冗談とも真面目ともつかぬ語調に驚いたらしく、こういってから重苦しくだまり込んで火鉢の灰に眸を落した。
「いえ……決して馬鹿になりませぬ。今日も護持院で一人見ましたが、いや、なかなかの勢いで御座ります。今の世の中で暮しいいのは商人《あきんど》と犬とで御座りましょう。武士ならば家柄と身分とが入用で御座います。それでも商人の金の力に頭を抑えられます。両刀たばさんでおめおめと野良犬の番人をしている者も御座ります」
「それでも、何時の世になろうとも武士ばかりがまことの人じゃ。商人ずれが如何に成り上ろうと比較《くらべもの》にならぬ。商人は石川六兵衛《いしかわろくべえ》ほどの金持でも、贅沢が分《ぶん》に超えたというので欠所《けつしよ》になったではないか。上に武士あっての民百姓じゃ」
「さて、いつまで、このままでおりましょう。世の中は人も知らぬ間に変りまする」
これはむしろ、その変化を望んでいるような口吻《くちぶり》に聞えたので、母は再び驚きの目をみはって、無言で隼人の顔を見詰める。隼人は冷やかな微笑に唇をそらせているのである。
「ほんに、お父様が昔のとおりでいて下すったら……」と思わず女らしい愚痴が出る。
「いや、おっしゃいますな。私は、父上がおなくなりに成ったのは父上のお倖せだと思うております」
「何といやる?」
「御立腹なさりますな。これは、まことのことで御座りまする。父上のように一徹な武士|気質《かたぎ》の方が如何《どう》して今の時世に向きましょう。父上に犬の番が出来ましょうや、また今の世間では極く当然のこととされている賄賂《わいろ》を、何で、あの清いお心持に我慢なされましょうや。三河武士は名のみ、形のみ。まことの武士がだんだんと住みにくくなる御時世じゃ。これを世間が悪くなった故とは思いませぬ。こうなるのが自然の勢いなので御座りましょう。真の武士は世の中に無用のものとなりました。さればこそ、あたら父上ほどの武士が、たかが材木三、四本のために……」
「隼人、またそれを……」
母は、きっとして烈しくいいながら、その目は知らず知らず涙ぐんで来ていた。隼人も、悲痛を押えて黙然《もくねん》とうつ向く。母のためには亡き夫、隼人には亡き父、堀田甚《ほつたじん》右衛門《えもん》の最期《さいご》のことが、二人の胸を一杯にしたのである。
甚右衛門は、そもそもの初め護持院|建立《こんりゆう》の時に普請奉行《ふしんぶぎよう》を勤めた人だったが、知足院本坊《ちそくいんほんぼう》の普請に用いた木が他の諸堂に比べて、用材がやや粗末だったのを、御奉行|向念入《むきねんい》れざる仕方|不埒《ふらち》というので、甚右衛門は三宅島《みやけじま》へ遠島になり、配所に病死したのである。隼人のいったとおり、まことにたかが材木三、四本のことであった。それから母子《おやこ》の者はこの叔父の家のかかり人《うど》となっているのだった。
二人とも床へ入ってから、隼人は枕もとの行燈《あんどん》を吹き消した。春の夜の、厚ぼったいやみが、隼人の顔の上にある。何となく息苦しい気持である。そばでは、母が、あたりが暗くなってからはじめて心の用心の鍵がはずれたように、急にいつもより愚痴っぽく涙っぽくなって、いろいろの不平をのべはじめていた。
「いつまでも、この家の厄介になっているわけにも行かないのだから……いっそどこか田舎《いなか》へ引っ込んでしまった方がいいように思うこともあるよ。けれど、お母さんはそれでいいとしても、お前はまだ若いし……兎《と》に角《かく》これからなのだから……ほんとうに何といっても江戸だからね。子供の内から何をやっても他人様《ひとさま》に負けたことがなく、よく出来たお前だもの、自棄《やけ》を起さないで辛抱強くしていたら、きっといいことがあると思っていますよ。ほんとうに、お母さんには、お前だけなんだから……」
「わかっています」
いらいらした声が答える。闇の中で寝返りをうつ気配がした。
母はさびしく無言になったが、
「草臥《くたび》れているところを悪かったね。眠かったろう……つい愚痴が出てしまって」
隼人は決して眠くはなかった。頭の芯《しん》に熱を持って目は冴えていた。
母が可哀相だとは思う。しかし自分の方が余計可哀相な気がした。母はまだわが子の出世に期待を持っているが、自分にはそんな希望は皆目感じられない。ただ、灰色の厚い壁が目の前に立ちふさがっているのが感じられる。たたこうが、押そうが、びくともしない岩畳《がんじよう》な壁である。毀《こわ》したい。何もかもたたき潰《つぶ》すよりほかにこの息苦しい気持から逃《のが》れる法はないような気がする。ちょうど着物の裾《すそ》に火がついたようにじっとしていられないように思う。
隼人は、熱した額《ひたい》を急に掻巻《かいまき》の襟《えり》に埋めた。何か知らず夜具を蹴飛ばして起き上りたい気持を押し殺すために息をつめたのだった。
闇の中に、先刻の不浄役人《ふじようやくにん》の烈しい顔付がちらちら浮んで来た。
とうとう来るところへ来てしまったというような気がしている。
頭巾に貌《かお》をつつんでいても、先方では職掌柄たしかにこっちの顔を見てしまったらしい。道をきく振りをしてそばへ寄って来たのだ。
(なぜ、あの時、斬《き》ってしまわなかったのか?)
急にこう考えて、われながらその考えの恐ろしさにふるえた。それでも、この恐怖を乗り切って何とかしなければいけないということは確かだった。この考えは、朝のしらじらとした色が雨戸の隙から洩《も》れはじめる頃までに、堀田隼人の頭に、次第にはっきりとした形をとってかたまって来ていた。
それから、ぐっすりと、まるで死んだようになって眠ってしまった。
鎌倉河岸にある仙吉の家には、早朝から子分の目明《めあか》しが詰め掛けて来ていた。
「ともかく、こりゃア洒落《しやれ》や冗談でやった仕事じゃない。はたいてみたらどんな大物が飛び出すかわからねえンだ。いいか、紋《もん》は鷹《たか》の羽で、まだ若《わ》けえ男だ。多分浪人もんだろうと思う。手ぬかりなくやってくれ。おれも一風呂あびたら出掛けるつもりだ」
仙吉は、元気よくこういって、手拭と楊子《ようじ》をつかんで立ちあがった。
花の雨
「障子をあけるぜ。こう、むしむししてはたまらない。すこし風を入れなけりゃア……」
「だから勝手だっていうンですよ」
「なにが?」と顔を見合せてお互ににっとする。
暗くなって来た障子の面《おもて》に庭木の緑がほのかに明るい。犬医者の丸岡|朴庵《ぼくあん》は、たてつづけに煙草を二、三服しながら立って帯を直している妾《めかけ》のお千賀《ちか》をものうい目をして眺めていた。
外は、花時にある曇り空だった。朝、朴庵が家を出る時から、ひと雨ありそうな気がしていたのだが晴れるとも降るともつかず今まで持ち越して、汗ばんで、むしむしと暑い。大気は、悪い酒のようにどんよりと頭に重かった。
部屋全体が小暗い中に、立っているお千賀だけは明るく見える。その白い手が器用に働いて、畳に蛇のようにうねっている竜門の帯を、くるくると、しなやかに胴に巻いている間中、派手《はで》な着物の裾が五彩の色の渦《うず》を流して目もあやに動いているのだった。
ぼんやりと見ている朴庵を、当世風の、ふっくらした白い顔が明るく笑いながら振り返った。
「水木結《みずきむす》びですわ」と、背中の帯の結び目を見せる。
「ふうむ、なるほど変っているな。流行《はやり》なのか?」
「ええ」
明るくうなずく。
「だんだん世間の女が綺麗になって来るなあ。ひと頃にくらべると随分派手作りで贅沢になったものだ。俺《おれ》も、十年遅く生れたらもっといいことがあったろうと思うよ。これからの若い者は倖せだ」
「あら……そんなお年でも御座いませんわ。随分お年寄りくさい事をおっしゃいますね」
お千賀が笑ったので、朴庵も笑った。
五十に手の届いている朴庵に比べて、お千賀は、まだ二十《はたち》になっていない。この年の隔たりが時折朴庵の憂鬱《ゆううつ》をそそることがある。しかし考えてみれば自分が麹町で箸を削っている頃、どうしてお千賀のような若い美しい女が自分の所有《もの》になると空想出来たろう。思えば夢のような気持がする。夢といえば、今の結構な境遇になってからも、時々、自分の昔のように、廂《ひさし》の低い棟割《むねわり》長屋で箸を削っている夢を見て、ぞっとすることがあった。直《す》ぐ傍の溝《どぶ》の、すっぱいような臭気まで夢の中でにおっていたものである。今では、それがなくなって、初めから今の身分だったような気がしているが、……何といっても御時世だ。この御時世でなかったらおれは一生浮びあがらずに一生箸を削っていたろう。お千賀だって、おれを振り向きもしなかったろう……と、つくづく考えて自分が世の中での果報者のように思われるのだ。
お千賀は、膝を崩して坐って、朴庵の煙草を吸いはじめた。まだ顔にどこか稚《おさ》ないところが残っている癖に、色っぽい所作《しよさ》である。
(誰でもない、おれが、仕込んだのだ)
朴庵は、こう考えて、いうばかりなく満足に思いながら障子をあけた。
「こりゃア、いよいよ降って来るな。蛙《かわず》がないているぜ」
「そうですねえ、どうしても、いらっしゃらなければ、いけないんですか?」
「うむ、折角のおよばれだからな。しかし流石《さすが》は三国屋《みくにや》さんだ。桜がまだすっかり咲き揃わぬというのに、牡丹《ぼたん》を見せようという。どうやって咲かせたものか知らないが、やはり花も金の力で咲くと見える。豪勢なものだなあ」といったが、
「うむ、大分御身分のある方がお揃いの筈だ。そういう場所へは、なるべく行くことさ。犬も歩けば棒にあたるというから……」
丸岡朴庵が、三国屋の別荘のある向島《むこうじま》へ着いたのは今の午後四時頃だった。一時今にも泣き出しそうに見えた空は、雲が切れて薄日をもらし、大川に銀鼠の色を流している。土手の桜は七分というところだったが、気の早い花見舟が三味線や太鼓に川面《かわも》を騒がせて幾隻《いくせき》も上り下りして行く。土手の上には、無論、真黒な人出が、埃《ほこり》をあびて、ざわざわと涯《はてし》なくつづいていた。
朴庵の駕籠《かご》は、白髯《しらひげ》の渡《わたし》を渡ってから道を右に折れた。間もなく古い土塀や、繁りに繁った生垣《いけがき》の間を行く。樹立《こだち》の深い、大名の下屋敷《しもやしき》や寺などが並んでいて、一町とはなれない土手の雑沓とは比較にならぬくらい深閑としていた。
どこかで鶯《うぐいす》の声が聞えた。
(そうだ)とふと思い出したことがある。
近頃|発句《ほつく》をはじめているのである。地位が出来、金が出来た上は、風流の道の心得がひととおり必要なのである。朴庵はそれに気がついて、近頃|謡曲《ようきよく》と発句の稽古をはじめている。明日《あす》は宗匠《そうしよう》が来る。この前の時今度までに作って置くようにと渡された題が鶯だったのを、すっかり忘れていた。風流とは、なかなかいそがしいものである。
「鶯や……」と思わず口誦《くちずさ》む。
「へえ……」と駕籠かきが返事をした。
「何かおっしゃいまして御座いますか……」
「いや」と、相手の無風流を怒ったような声で答えて、腕を組む。
(鶯や……)
である。
しかし、この鶯が、二声と啼《な》かない内に駕籠は、三国屋の別荘の門をくぐって、幽邃《ゆうすい》な樹立の間の道を玄関まで通った。玄関の左右には立派な駕籠が幾つもならんでいる。この危うい空模様に、これだけの客を集めたのは、流石三国屋の金の力と感心しながら、丁度駕籠が地に降りたので、外へ出た。
「や、これは、先生……」
こういって、駈けよったのは、三国屋の亭主だが、今日は羽織袴《はおりはかま》で扇子《せんす》を持って、きちんとしている。
「よく、おいで下さいました」
「いや、今日はお招きに預かりまして……」
「さあさあ」と、振り返ると、傍《かたわら》に控えていた御守殿粧《ごしゆでんづくり》の腰元が、牡丹の模様のある長い袖をひるがえし案内に立とうとする。
その間に、三国屋は、別に入って来た客を迎えに走り出ている。これは、宗匠風の、渋い服装《なり》をした老人で、駕籠にも乗らず若い侍を供に連れて徒歩《かち》で来たのだが、三国屋が、その前に出て砂をなめそうにしてお辞儀をしているのは余程の大身《たいしん》の御隠居だと見える。やせぎすの、枯れた顔立だが、目が大きくて、ぎょろぎょろしている。
「どなた様だね?」
朴庵はそっと、腰元に尋ねた。
「はい」と、つつましく、
「吉良《きら》様で御座りまする」
成程と思った。
吉良|義央《よしなか》、上野介《こうずけのすけ》、禄《ろく》は四千二百|石《こく》だが、従四位上、高家《こうけ》の肝煎《きもい》りとして、一部に非常な勢力があると聞いている。
高家といえば普通の大名とは違う、今でいえば式部職《しきぶしよく》の家柄で公武往来、儀式典礼の事などをつかさどる。禄は五千石を越えることはないが官位は大々名よりは上で、城中でも雁《がん》の間祗候《ましこう》、十万石の大名と同班であって、格式は上だ。殊にどんな大諸侯でも営中の式事に当る時など、万事専門の高家から援《たす》けてもらわないと手違いなど起して面目《めんぼく》にかかわることになる。また元来高家が位ばかり高くて禄が薄いところからむやみに威張って、妙に意地が悪いというようなことが珍しくなく、大名の方から余程うまくして置かないと、際《きわ》どいところでひどい目にあわされることがある。吉良家というのが、その高家の一つだが、肝煎りといって月番を勤めているし、当主上野介義央というのは、従四位上の少将、妻は米沢《よねざわ》の大名上杉氏から出て、また長子の綱憲《つなのり》というのが母の実家上杉氏を継いでいるのであるからこの方面の背景もあり、加うるに今将軍綱吉の寵臣としてその勢力飛ぶ鳥をおとす柳沢吉保《やなぎさわよしやす》に巧に取り入っているとかで、なかなかの勢力があるとは、成り上りの犬医者丸岡朴庵でも噂に聞いて知っていたのだ。
「ははあ、あの方が」と他愛なく目をまるくした。
「どうぞ、こちらへ……」
案内の腰元が傍からいう。
「は、はい」
ぽかんとしていたところだったので、思わず返事を重ねて、赤面した。もっとどっしりと落着きを見せて万事|鷹揚《おうよう》にしていなくてはいけなかったのだ。
朴庵が三国屋と知合いになったのは、五年ばかり以前に三国屋の犬が病気にかかったのを診察に行ってからだった。その頃の三国屋は米の相場であてた出来星《できぼし》の金持というだけのことだったが、その時|会話《はなし》の間に自分が護持院の大僧正様《だいそうじようさま》と懇意だというようにふと朴庵が口をすべらすと、それから三国屋が毎日のように物を持って訪ねて来たり、他所へ招いたりしてから是非一度大僧正様にお目にかかれるようにしてくれというたのみで朴庵が骨を折ってやったのだが、多分それからのことだったろうと思う。三国屋が柳沢様を始め方々の大々名に出入りがかなって、めきめきと今の身上《しんしよう》を作り上げてしまった。今では、かえって朴庵などより上流に顔がひろくなっていることは、今日の客の顔ぶれを見ても大凡《おおよそ》想像が出来ることだった。
この寮なども大したものである。度々の御禁令で外構えは質素に普通の別荘とかわりはないが、さて内へ入って見ると、あまり目立たないところに金がかけてあって、造作《ぞうさく》にしろ調度にしろ、大々名物ばかり、朴庵など、内へ入ると妙に圧迫されるような気がして腰が浮いていけない。
(商人も、こうなりゃアたいしたもの。大名以上だな。それにしても吉良様などと、どうやって因縁《いんねん》を結んだものか……とにかく、すばしこいことといえば、目から鼻へ抜けるような男だ)と思う間もなく、それまでの内廊下が切れて広い庭が目の前にひらけた。
これはまた素晴らしいものだ、勿論いずれ名のある造庭家の設計になったものであろうが、絵に見るような削り立った岩山が空に聳《そび》えていて、その裾《すそ》に木々が鬱蒼《うつそう》たるばかりに枝を交えて立っていて、小暗いところに白く滝が落ちてさえいるではないか?
「これは、これは!」と朴庵が茫然とした。
と、後で、
「こりゃア三国屋、すこし過ぎはしまいか?」
こういったのは、何時の間にか朴庵の後に追いついていた上野介である。
「おとがめを受けるのも馬鹿らしいぞ」
「いえ、一晩でこしらえた山で御座りまする。明朝までには、お目ざわりにならぬようのけることに致しておりますので」と、亭主が手をもみながら、いよいよ驚くべき言葉である。
「なに、一晩で?」
上野介もあきれたらしく、無言でいたが急に笑い出して、
「は、は……金だのう。じゃが、随分とかかったであろう」
「いえ、左様《さよう》なことは御座りませぬ。種をおあかしすれば、樹木や石は庭に御座いましたものをそのまま用いましたゆえ、あとは、ただ人間の手間だけで御座りますから、……仕事をこまかく分けまして人数を多く用い、手順をきめて、一番手の仕事が終れば直《す》ぐ二番手がかかるという風に、采配《さいはい》一つの働き。一人一人の仕事は僅かのもので、手間も至って僅少《きんしよう》で済みまして御座りまする」
「成程、それもそうだな。いや、金の力に知恵が結びついたのだ。これ以上恐ろしいものはあるまい。その方、なかなか軍師だな。いずれ、その費用も十倍百倍となって懐中《ふところ》へ戻って来る企画《もくろみ》がおありだろう。いや当節は万事金だ」
「何事もお武家様あっての町人に御座りまする」と、亭主は何所《どこ》までも腰が低い。が、吉良様という方もなかなかさばけた、きさくな御仁《ごじん》らしい。朴庵は道をあけて目立たぬように小さくなっていながら、ひそかに感心していた。
「が、牡丹《ぼたん》はどこにある」
上野介のこの不審はもっともであった。眺め渡したところ花の色はどこにもない。曇天《どんてん》の鈍い日ざしをはじいている鼠色の岩肌と、苔と、黒いまでに繁った樹木があるばかり、ながめは閑雅《かんが》というのに近く、またほかに客らしい人影も見えなかったのだ。
亭主がにっこりして、
「ただ今、御案内つかまつりまする」と振り返ると、それまで、つつましやかにそばに控えていた腰元が用意の新しい福草履《ふくぞうり》を出して沓脱石《くつぬぎいし》の上に揃える。
その時、上野介が振り返って朴庵の方を見て笑いながら、
「さ、御一緒にまいろう」
「いえ、手前は……」と、おずおず尻込みしながら、感激のあまり顔をあかくしていたが、三国屋もすすめるので自分も草履をはいて、恐る恐る、ずっと離れて、後から美しい腰元達と一緒にお供することにした。
庭石を踏んで行くと、間もなく樹立の間に入る。砂の上に薄日が樹木の影を描いていて、滝の音は次第に近くなる。間もなく鬱蒼《うつそう》とした繁みの間に、流れの水が見えた。その岸まで出ると、三国屋の亭主が、ぽんぽんと手を打った。その音が木魂《こだま》を呼んだくらい四辺《あたり》は静かで樹立が深い。朴庵はただびっくりして、この幅|二間《にけん》ほどもあって、ゆるく、なみなみとした水に両岸の樹影の碧《みどり》や岩の形をうつしている有様に見とれている。そこへざぶんと竿《さお》で水を切る音がして、下流の崖の蔭からすーッと舟の舳先《へさき》が現れた。艫《とも》に立って竿を押しているのも御守殿風に粧《つく》った十六、七の、すぐれて美しい器量の娘である。
「これは、これは、優しい船頭《せんどう》どのだな」
上野介は、枯れた顔に笑いを含んだ。例のぎょろりとした、大きな目が、糸のように細くなって皺《しわ》の中へ隠れてしまっている。
三人が乗り込むと、娘の、白いしなやかな腕は、水の上に滑らかに舟を送り出した。
両岸の樹立は次第に深くなる。折から雲を出て急に輝きはじめた陽射《ひざし》は繁みに漉《こ》されてあおざめて見える。そこから船は急に洞窟に入った。ひやりと水気を含んだ風が頬にあたる。あたりは薄暗くて僅かに水が光っているだけだが、娘は巧《たく》みに竿を捌《さば》いて、乗手にすこしも不安を与えない。暗い中で静かに舳先が方向を変えたかと思うと、忽《たちま》ち洞窟の出口が舟の行手に光を滲ませてあらわれた。
間もなく、洞窟の闇になれた目に、眩《まば》ゆいばかりの絢爛《けんらん》たる眺めが忽然《こつぜん》として目の前にひらけた。舟の進むにつれ移って行く両岸に繚乱《りようらん》と咲きみだれた無数の牡丹の花が、狂い咲きの花冠《かかん》を重たげに今にも水にこぼれ落ちそうに見えたのである。
「やあ!」
「これは、これは!」
あまりの見事さに、上野介の後から朴庵までが、それまでの慎みも忘れて思わず感嘆の声をもらしていた。
何という巧な設計であろう。この牡丹の咲いている場所へ出る前に、わざと暗い洞窟の中を通らせるというのも、先ず見る者の目を闇になれさせてから、急に花のある所へ連れ出して、ただでさえ鮮麗《せんれい》な花の色を一段とはなやかに感じさせるために、わざわざ謀《たく》らんだことに違いなかったのである。
その計画どおり、上野介も朴庵も、ただ目がくらみそうに美しい花の色に圧倒されて、暫くがほどは口もきけないくらいだった。
「如何で御座りまする。お気に召しまして御座りまするか?」
亭主は、内心の得意をつつんで、こういう。
「いや、驚き入った」
「見事なもので御座りまする」
両名が口を極めて賞《ほ》めそやす。その間にも若い娘が静かに差す竿に舟はゆったりと水に漂いながら、火のような緋牡丹の次に、白い花の咲く土手の間を通る。白に続いて、淡紅、次は紅白のみだれ咲き。花の色は水にも流れて文句どおり応接にいとまのない美観だった。
その内、亭主が、
「あ、その辺へ着けてくれ!」という。
声に応じて舟が、すーッと岸に寄ってとまったところから花の間を細い坂道が登っている。
「先生、先生は、どうぞ、ここでお降り下すって……」
随分と差別的な待遇だが、相手が従四位上、もとより朴庵小さくなって肩が張っていたところだし、文句なしに、
「おっと……」と立ち上って、
「どうも、失礼つかまつりまして……」と、そこそこに上へあがる。
ところへ、その声を聞きつけたらしく、花の上から、ひょっくりと、女の白い顔が出て、
「どうぞ、こちらへ!」という。どうも抜け目のない饗応《もてなし》ぶりだ。
女の案内で、両側からしっとりともたれかかる花を分けて坂をあがって行くと、茶室風の凝《こ》った家が樹立に囲まれて建ててある。
あがれといわれて、上へあがると、釜に湯が沸《たぎ》っている音がさわやかに聞えた。通された奥の部屋は六畳ばかりの、小ぢんまりして天井の低い小暗い建て方だが、濡縁に出ると花の勾配の下に今舟で来た流れの一部が見える。上野介を乗せた舟は? と覗《のぞ》いて見たが、流れがすこし先へ行ってから急に曲っているので、もう見えなくなっている。代りに向う岸の土手の蔭にも繁みにも目隠しをされてこの家と同じような小さい屋根が、そこかしこにあるのが見付かった。
朴庵は、ははあと思いあたった。
これは客を一人ずつ、一つの家へ案内してそれで饗応しようという仕組に相違ない。一軒の家に一人の女だ。三国屋がこの向島の寮に手を尽して美人を狩り集めていて、商売のためになるような役人を籠絡《ろうらく》する囮《おとり》に使っているとは、かねて噂に聞いていたところである。
朴庵は、この噂を思い出しながら、にわかに興味深く女を眺めた。
女は綺麗な襟《えり》あしを覗かせて、静かな手付で茶を立てている。まだ十六か十七らしい。初花《はつはな》のやさしい姿である。
もやもやした湯気のようなものが朴庵の頭につまって来た。朴庵はふと目をそらして直ぐ向う岸にある家に簾《みす》がさがって内が見えなくなっているのを見て、またこの縁にもそれがさげられるように成っているのに気がついた。
低い廂《ひさし》の彼方に、空は、またどんよりと息苦しく曇って来ていた。
これは牡丹の川のずっと下流に同じように凝った建て方だが、朴庵の通された家よりは際《きわ》立って立派な数寄屋風の一棟《ひとむね》である。この奥の間に上野介は南天の床柱《とこばしら》を背にうち寛《くつろ》いで坐っていた。
この部屋には、上野介と他に亭主がずっと離れて下座に畳へ手を突いているだけで、他の者はいない。これは二人の話の済むのを待って家の裏手に集まって音を忍んでたわむれている、三人いてどれをどう見ても女に、或いは女にもまれに美しく見えるやさしい顔立で白粉をつけて化粧した男達である。服装も袖の長い模様をつけたやさしい姿で頭に紫色の帽子を乗せ帯の結び様も女達とは変らない。これは、この子供達が女の真似をしているわけではなく、江戸の若い娘が競《きそ》って、この若衆達の仲間の吉村吉弥《よしむらきちや》という役者の帯の結び方をまねしていたからで、この三人とも京から下《くだ》って来て江戸の男女を熱狂させている役者で、今日上野介の接待役をするように三国屋がわざわざ雇《やと》って来たものだった。三国屋は、上野介が女よりも若衆好きだということを例のすばしこい耳に早くも聞き込んでいたのである。
三人は服装や顔立ばかりではなく、気性までが女のように繊《こまか》く働くと見えて、話の間にもお互に相手の着付の美しさや様子の作り方に不断の観察を働かして、ひそかに嫉《ねた》んだり、まねしようとしたりして、出来るだけ自分を美しく見せるように工夫《くふう》しているらしかった。
その内一人が待ちくたびれたと見えて、そっと奥の様子をのぞきに行く。その及び腰になった細い腰に結んで垂らしてある帯を、別の一人が後からそっと引っ張ると、振り返って目をいからせてやさしく睨《にら》めて、気色《きしよく》悪そうに直しかかった。別の二人は、目を見合せて意地の悪い微笑をかわしている。
そこへ奥から主人の声がきこえて来た。
「それで御勅使様の御接待はどなた様におきまりで御座りまする?」
「浅野《あさの》だ」
客の声が言葉短くいう。
「あ、内匠《たくみの》頭様《かみさま》で、赤穂《あこう》五万三千五百石、大層御裕福なお方だそうで御座りまするな」
「いや、裕福だとは私も聞いていたが……ありゃア礼儀も作法《さほう》も心得のない田舎者じゃよ。まあ、大名といえば、どこのも、わかりの悪い土偶《でくのぼう》のようなものと相場はきまっているのだが、浅野はひどい。家来までが人に物を頼む作法をとんと心得ぬのだから呆れる。何のために主人に仕えているのだと申してやりたいくらいだ」
「へえ、左様で御座りまするか?」
「そうとも、私も何も付届けがないから、どうというのではないが、ひとに厄介になろうというのには、やはり道があり、ちゃんとするだけのことをして、はじめて人間じゃ。それを踏まぬというのはこちらを馬鹿にしているわけだ。先方は先方で理窟もあろう。それアわかっているわな。いくら二本差しているからといって、昔と今とは時世が違うぐらいのことが分らぬのは馬鹿だ。武士が金銭に恬淡《てんたん》なるもよい。昔はたしかにそれがよいことじゃった。が昔でも、金銭に恬淡だということと、なすべき礼を尽すということとは自《おのず》から違う話で、そこはよく区別《けじめ》をつけて考えなければならぬことだ。ところで当節は殊に礼儀の世の中なのだから、するだけのことをしないのは相手を侮辱するのも同然なことで、甚だ怪《け》しからぬ話だ。浅野がそれだな。今度の勅使御饗応掛《ちよくしごきようおうがかり》になって、私のところへ、どんな挨拶があったと思う。田舎大名の愚《おぞ》ましさにも程があろうと思うて、よい加減腹を立てているところだ」
「左様で御座いましたか、それは呆れまして御座りまするな。しかし……」と、亭主が急に声を落したのは、客の激しい調子をおさえて、何かそれまでの話の本筋にもどろうとしたものらしい。
梯子段
「何をする? 片田《かただ》!」
一人が、驚いて、腕をつかんだ。不浄へ立って行った片田という男が帰って来るなり大刀を握って血相《けつそう》をかえて出て行こうとしたのだ。
「えい、放せ」
「待て! どうしたのだ?」
こういったのは正面に床柱を背に静かに酒杯を傾けていた男ざかりの筋肉|悍《たく》ましき武士である。その他の者は驚いて席を立って、外へ出ようと身をもがいている片田という男を制《と》めにかかっていた。一座は七人、上杉の家中《かちゆう》だということで、この神田川|縁《べり》の「しのぶ」へ夕方来て今まで飲みつづけだった。酒は大分まわっていたのである。
「わけをいえ」
その男が動こうともせずまたいった。小林平七という、上杉の家中に高名の剣士である。
「無礼……無礼な奴がいたのだ」
片田は、ひどく激した様子で、色の変った唇をふるわせながらいった。
「何をしたのだ? 何者だ?」
小林は、落着きはらっていう。視線は、指にささえている酒杯に落ちている。相手の吃《ども》った返事がきこえる前にそれを静かに口に持って行った。
「拙者が、梯子《はしご》を降りようとした。酔ってないとはいわぬ。踏みはずしてはならぬと思うて壁に捉《つかま》って降りて行ったのだ。そ、それを彼奴《きやつ》……」
片田は、ふたたび猛然と立ちかけて一同に制せられながら、
「ゆ、行きずりに、泰平の御時世はありがたいな……と吐《ぬ》かした」
「何者だ?」
傍《かたわら》から一人が片田の憤慨に組した。
「し、階下《した》にいる若い浪人だ。せ、拙者を見て嘲弄しおったのだ。が、我慢ならぬ」
「騒ぐな!」
小林は、きっぱりといってあくまで冷静に、
「場所を考えるがよい。また先方もさぞかし酔っていたのだろう。些細《ささい》なことからお家の名を出してはならぬ。それよりは、さあ、もっと飲め! 飲め!」
「いや、棄《す》ておけぬ、先方ではわれわれを上杉家の者と存じていったらしいのだ」
片田はこういって膝の上に置いた拳《こぶし》をふるわせた。
「何?」
さすがに一同がきッとする。
「何かいっていたのか?」
「うむ。無礼にも、せいぜい御主人大切におつとめなされといいおった」
「ふむ」
小林は微笑する。
「それだけでは、上杉家と分ったかどうか? まあ、よい。黙っておれ。拙者に考えがある。聞けば浪人者だというではないか? 宿なし犬を相手に争ったところで始まらぬ」
片田は、つと立ち上った。
「拙者は帰る」
「帰る?」
じろりと顔を見る。
「うむ、お言葉はよく分った。御懸念《ごけねん》はいらぬ。ただ興《きよう》ざめて、これ以上飲む気がしないから一足先へ失礼したいのだ」
「困った男だな。致し方がない。御同道したいが、まだ酒に未練がある。それに、とうとう降り出したようではないか?」
成程、耳を澄ませると雨垂《あまだ》れの音が聞える。花ぐもりの空はついに泣き出したと見える。一同は真暗な、天と地とをつないでいる白いこまやかな雨の糸を思いうかべた。
この雨の音の中に、ひとり小林は片田の心を見抜いていた。これは途中待ち伏せようと思っているのに違いない。しかし、小林もそれは片田の勝手だと思った。要は主人の家の名が出ぬことにある。それ以外は武士は勇ましいほどよいのではないか?
堀田隼人も廂《ひさし》に雨の音を聞きながら盃を口にふくんでいる。
やや冴えて来た頃に、
(よしなきことをした!)
とは思うものの、自分の放言を取り消す気持は毛頭なかった。勿論酒も手伝っていたことだが、立派な武士がしどろに酔って梯子段を降りて来る恰好《かつこう》を見ては、つい何かいって見たくなった。口を滑《すべ》らしたのは酒のせいとしてもいった言葉は本心である。取り消すことはない。どうにでもなれ……である。
例の冷やかな微笑は口にのぼった。
「大丈夫でございますか?」
女がいった。
「何が?」と、長い睫毛《まつげ》の下で切長の目が笑う。
「でも、あんなに……」と、いったのは二階の騒ぎだ。何かしきりといい罵って騒いでいるのである。
「ふむ。……おれなンぞ相手にしまいよ。先方には身分がある。金がある。何か持っている者ほど弱いものだ。無一物、浪人のおれと心中《しんじゆう》してもつまるまい」
雨の音のなかに静かな声だ。盃のふちに、細い色の白い指がある。
女は、急におびえた目付をした。荒々しい足音が廊下を近づいて来るのである。
「御免!」と外から太い男の声でいった。
(来たな)と思いながら、
「さ、どうぞ」
静かな声である。
障子があくと、ぬっと鴨居《かもい》につかえそうな立派な男が入って来た。隼人の嘲弄の的《まと》になった男ではない。
「小林平七と申す」
「堀田隼人」と名乗りながら、この小林という男が尋常な人物でないことは一瞥《いちべつ》してわかった。先刻の男などとは段違いであろう。
「ともあれ……」と女に新しく盃を持って来させようとした時、
「いや、それには及ばぬ。ただ一言お話しいたして失礼つかまつろう」
「と仰せられるのは……」
「朋友《ほうゆう》の一人が貴殿に何か御挨拶いたしたいことがあるらしく、すこし前に出て行ったのだが……」
「…………?」
「勿論貴殿の不意をつくような卑怯なことを致す男ではなかろうと思うが、今夜は大分酔っておる模様、万一を思って拙者から御挨拶致しておきます」
「それは御丁寧に」と落着いた返事である。
「話というのは、それだけじゃ。いや、とんだお邪魔を」
「それは、何の雑作《ぞうさ》もなく……」と、立って小林を送り出しながら、
「この雨に、御朋友を長くお待たせするのもお気の毒じゃ。拙者も直ぐと参ることに致そう」
隼人はこうつけ加えて、小林と顔を見合せてふたりながら微笑した。
廂に、雨の音がひときわ激しい。
暗い往来には無数の雨脚が白い。隼人は跣《はだし》で、傘の柄をしっかり握りながら油断なく歩いて行く。場所は、神田川べり。この川は近年掘ったもので、川底の土をしゃくい上げたのが道の脇に小山を作って、雨に打たれている。
(どの辺で出るかな?)
今か、今か? と思われるのである。
真剣の勝負、命の果し合いは、隼人は泰平な時世に生れたお蔭で、これが初めてなのだ。ちょっと胸がわくわくしているが、存外、確かだと思う気持が強い。何もその場のこと、出たとこ勝負だ。どうせ、生きていたって、あんまり面白いこともなさそうだと、いつもの料簡が変に度胸になっている。
(だが、小林とかいった、あの男もちょっと面白い奴だ。男らしくて気持がいい。ほんとうの武士というのだろう……)
丁度|聖廟《せいびよう》の土塀に沿って歩いているところだった。
「待て!」と、急に呼び止められた。
(出たな)
ぱさっと傘をつぼめて、左手に持ちかえりながら振り返る。
「なんだ!」
「先刻のことを忘れまい?」
片田もそばへ寄って来ながら傘をつぼめた。
「うーむ、梯子段の一件か?」
つめたい声だ。
相手は、かッとしたらしく、
「覚えたかッ!」
声と同時に、傘は、脇へ投げ棄てられて、雨の中に、さらに白くさッと刀身が閃く。抜き合せる間もなく、隼人が傘で受けて、
「本心だな。いやさ、酔いは醒めたのか?」
「なにを!」
ひきはずして、お互がぱっと別れた。その刹那に隼人も抜いて片手正眼、構えながらに左手は働いて着衣の裾を帯にはさもうとしている。
じわじわと、なめるようにして双方の切尖ははい寄って行く。
次の刹那、いずれから仕掛けていずれが受けたか、刀身は宙におどって、さえた音に十字にかみ合った。刀をさかいに、双方が丈《たけ》をぬすんでつま先立ち、じりじりと漆膠付《しつこうつき》に、漸く必死のすさまじい形相《ぎようそう》を、鼻と鼻と突き合せた。
さーッと雨が加わった。明るい雨脚である。
「うぬ」と片田の荒い息。
右にまわって打ちおろして来る刀を隼人が丸橋に受けて、つと退く。
その時だった。
この雨の中を急ぎ足に来た通り駕籠。つい間近まで雨の音に消され闇に遮《さえぎ》られてこの場の出来事を知らず通りかけたのが、思いがけない白刃の光を目の前に見て、
「あああッ!」と先棒から。
「どうした?」と駕籠の中からいったが、どしんと投げ出すように駕籠は地に置かれる。駕籠屋は足を宙に、一目散である。
駕籠の内には三国屋の寮から帰りの丸岡朴庵が、悦楽に疲れた頭を駕籠の背にもたらせてうとうとと好《い》い夢を見ていたところだったが、脛《すね》の骨を折りそうに荒く駕籠を棄てられて驚いて匍《は》い出ようとしたところへ、目に入る白刃の光。さッと暗い宙に動いて、何者か、ばったりと濘《ぬかる》む道に匍《は》った様子に、思わず、うわッという。
「お、お助け、お助け!」
朴庵は意気地《いくじ》なく泥の中に手をついた。
抜き身を提《さ》げた男は、無言で傍まで寄って来て闇をすかしてじっと見ていたが、
「犬か?」と軽蔑した口調《くちよう》でいった。
堀田隼人は、相手が犬医者の丸岡朴庵なのを見て思わず、こういったのである。
朴庵は、まだ慄えながら、
「い、命ばかりは……お助け、お助け……」
「貴様など殺したところで仕方ない」
投げつけるような声がいった。
「は、はい……」と、一議もなくぺこぺこする。
隼人は、その様子を見て冷たく笑ってから、傍の地面に雨に打たれてふんぞりかえっている片田の死体の方へ視線を移したが、先刻棄てた傘を拾い上げて、
「おい!」
「へ、へい……」
またかと、頸《くび》がちぢまる。
「この先に『しのぶ』という料理屋があるから、そこへ行って二階にいる小林とおっしゃる方へ、先刻の男だが聖廟脇でお待ち申していると伝えてくれ」
「こ、小林さま……でござりまするか」
「そうだ」
きっぱりした返事である。
朴庵は、恐る恐る駕籠につかまって立ち上った。腰の骨が浮いていて、自分の身体とは思われない。早くこの場を逃げたいのだが、自由がきかないのだ。
隼人は、傘をひろげて雨を避けながら、冷たい眸でこの様子を見ている。
朴庵は、やっと歩き出した。
「逃げると承知せぬぞ。その方の名前も家も知っておるのだ」
後から、こういわれた。
夢中で一、二町駈けて来て、行手の闇の中に人声を聴いて、ほッとした。向うも急ぎ足で来る。近づいて、それが先刻逃げた駕籠屋だとわかった。
「お、おーい……」と呼ぶ、向うでは急に立ち止ったが、
「あッ」といって、ばらばらと駈け寄りながら、
「旦那様でござりましたか?」
朴庵は声を揚げて泣きたかった。
「もう大丈夫でございます。丁度そこで親分さんにお目にかかりまして来て頂きましたから」
駕籠屋にこういわれて、見ると、町方《まちかた》らしいきりっとした男前の人間が傍へ寄って来た。
これは鎌倉河岸の仙吉だった。
「まだ、いますかね」
「おります、おります」
「武士《りやんこ》だっていう話ですが……そのとおりでしょうな。で、別にこちらへは何もしなかったので?」
仙吉ははや口でいう。
朴庵がまだわくわくしながら始終を話すと、仙吉は時々頷きながら注意深く耳を傾けている。
話が終ると、
「そりゃア果し合いかな」と独語《ひとりごと》のようにいって、
「とにかく、行って見よう」と、見るからに頼もしく、すたすたと闇の中へ歩み入った。
隼人が朴庵を使いにして小林平七を呼びにやったというのも、小林の先刻の厚意に対して、自分を朋友の仇《かたき》として討《う》つ意向が先方にある場合を考えてのことだった。もとより逃げ隠れする心持はない。この場を去らず相手になろうとけな気《げ》な覚悟からだった。隼人には、小林の男らしい態度が気に入っていた。いまの時世では珍しい、見上げた武士だと思っている。
一座は相当の人数らしい。また小林という男一人見ても、目のすわり方がその尋常でない腕前を物語っている。
(いよいよ今夜という今夜で、おれもこの世界からおさらばとなるか!)
傘をつたわってぽたぽたと地に落ちる白いしずくを見つめながら、他人事《ひとごと》のように冷やかに、こうも考えられた。
母には如何《いか》にも気の毒である。が母の待っているような出世の機会なぞ、この世間にはまったくないのだ。武士などというものは段々と世の中にいらなくなって来ている。今夜ここで死ぬるとしたら……かえって武士らしく生涯の幕を鎖《とざ》すことになったものかも知れぬ。よろこんでいいことかも知れない。
土塀の上の黒い繁みを風がゆさぶっている。川一筋を隔てた駿河台《するがだい》は雨に煙っている。空は鉛の一色だ。
暫くじっと耳を傾けていたが地面を打つ雨の音の中にぴたぴたと泥濘《ぬかるみ》を踏んで急ぎ足で来る足音を聞いて、振り返った。小林かと思ったが、そうでないらしい。
雨と闇をへだてて、目と目が、お互に相手を見据えようと凝乎《じつ》と合った。
その刹那《せつな》に、
「あ!」と向うから、驚いたように口走る。その時隼人も相手が何者か急に悟って、本能的に身をひるがえして逃げようとしたのだ。
が、いつかの晩、終夜考え抜いてたどり着いた思案が、むっくりと胸に動く。
「下郎ッ!」
仙吉がはっとして、身をひるがえした時、颯《さつ》と風を呼んで、白いものが宙に流れる。
「人殺しッ」
この声が反《かえ》って、隼人をかッとさせて、逃げる仙吉の後から、やや、あわて気味の二の太刀《たち》を肩口へおろした。
「ううむ……」と、身を反《そ》らせた。隼人の切長の目がじっと見ている前で、仙吉は棒を倒したように泥濘の中へ転がった。そして暫くひくひくもがいていたが、間もなく、ひっそりと動かなくなって、雨の音、流れの音が急にのぼって来る。
隼人は、急に四囲《あたり》を見まわしたが、つかつかと寄って、仙吉の着物の裾で刀身を拭った。何者かに後を追っ駈けられているような忙しい気持である。たった今自分のしたことが心にとけきらず妙に落着かない。
刀を鞘におさめざま、すたすたと急ぎ足で歩き出した。
暫く行って、小林のことを考えて、しまったと思った。しかしまた引き返すこともなく、姿を雨夜の闇の中へ隠した。
丸岡朴庵は、汁粉《しるこ》のような泥濘の中へ膝を突いてはい廻ったこととて、着物も身体もまるで溝へ落ちたような散々な姿で、湯島にある妾の家へ駈け込んだ。
お千賀《ちか》は、もう床へはいっていたところで、寝間着に細帯ひとつのしどけない姿で出て迎えた。
「ど、どうも驚いたよ。と、とんでもない目にあった」
朴庵の話を聞くと、お千賀もびっくりした。着物をすっかりぬいで鉄瓶の湯を桶へとって、身体拭く間も、それからお千賀の寝間へ入ってからも、朴庵は昂奮した様子で、ひとつ話を繰り返し繰り返し話すのだった。ただ自分が醜くおびえたことは割愛して、どんなに沈着に振る舞ったかということになっている。
「丁度都合よく町方の者にあったので、詳しい話をして帰って来たが……その男が向ったことだし、その乱暴者も何とか始末したろう」
「それは、あぶないことで御座いました。でもお怪我がなかったのは何よりで御座いますわ。それはそうと三国屋さんの方は?」
「三国屋……」といったが急に何か思い出したように狼狽して、
「これはしたり。とんでもないことをした。ちと、頂戴物をしたのをその騒ぎで駕籠の中へ置いて来たのだ」
それは、菓子であったが、受け取った時ずっしりと重く手にこたえた加減から、箱が二重になっていて上が菓子、下は山吹色と直ぐと呑み込むことが出来たものだ。朴庵が狼狽したのも無理はない。
お千賀は、そんなお土産《みやげ》とは知らないから、
「それア、おっつけ駕籠屋さんが届けてまいりましょう。もう、お寝みなすっては?」
「そ、そうだ……いや、困ったことを致したな。そのまま手をつけず届けてくれればよいが……顔は知っている男だが、何しろ今日は内の駕籠ではなかったから……」
「それは御心配は御座いますまい」
お千賀は立って行って戸棚から夜具を出して来て自分の分とならべて敷いてから、
「そう、お水を持って来て置きましょうね」と、色っぽい目付を見せて笑って、階下へ降りて行く。
朴庵は落着かない。金はもらったものだからなくなったところで貰わない昔と諦れば済む。しかしひょっと、あの菓子箱のからくりが上役人の目にふれたなら……これア困る。まア吉良|様《さま》のような御大身《ごたいしん》とお仲間だからいいようなものの、このことから三国屋が睨まれるようなことになればどんなに恨まれて、あるいはこれまでどおりのつきあいに行かぬようになろうとも知れぬ。それではどうも損害《いたで》である。
「これは困った……」と、いささか青くなる。
その間にお千賀は、水差と湯呑《ゆのみ》とを盆にのせてきて、
「お先へ……」と、すらりとした腰を掻《か》い巻の間にすべり入れた。油にぬれた髪が、しっとりと枕紙の上に寝る。
いつものことだが、自然とそれに惹かれて、朴庵も立ち上った時、どん、どん……どんと門を叩く音がきこえて来た。
(誰だろう、今頃?)
朴庵は、妙に臆病になって、落着かない目付でお千賀の顔を見た。
階下《した》では、勝手のことをしている老婆が起きて出て行ったらしい。戸をあける音がしている。
話声がきこえる。
「丸岡先生のお宅はこちらさんで……」
太い男の声だった。
「夜中恐れいりますが、鎌倉河岸の尾張屋《おわりや》の者でございますが、ちょっと先生に……」
鎌倉河岸の尾張屋、さあ誰だろう? 首をひねって見たがわからない。
そこへ老婆があがって来た。
「あの、御用のお方でございますが……」
「あ、そうか、階下へお通しして置いてくれ、丁寧にな」と急いで起きて、お千賀が出してくれた羽織を着て降りて行く。
「えへん!」と癖で、咳《せき》ばらいをしてから襖《ふすま》をあけて入って行くと、客は二人で、どちらも手先らしい。朴庵の姿を見ると坐りなれない膝を急にかためてかしこまった。
「手前が丸岡です」
こういいながら坐ると、先方は丁寧にこんなに遅く騒がして申し訳ないと挨拶してから、さて話し出したことは朴庵には初耳で驚くべきことだった。先刻朴庵があった町方の者が殺されていたという。二人は、その仙吉という男の子分だった。つまり、その下手人《げしゆにん》だと思われる浪人者の風体なり人相の特徴をききに来たわけだ。
「なるほどそりゃア驚きましたな。いや、あの男の仕業《しわざ》に違いない。……まだ若い、細面の、なかなか好男子でした。左様服装はよくわかりませんが、紋服《もんぷく》を着流していました」
「その紋が何かお覚えにはなりませんか?」
若い方の男が膝を進めた。
「さあ、はっきりとは……」
「もしや、鷹《たか》の羽《は》では御座いませんでしたろうか?」
「あ、如何《いか》にも、そうおっしゃられて見ると鷹の羽のようでした」
手先達は、何か思いあたることがあったと見えて目をしめし合せてうなずいた。
「いや、どうも有難う存じました」と一人がいって、立ち掛ける。
「あ、ちょっと、お待ちなさい」
朴庵が急にこういったのは思い出したことがあったからだ。それは、その浪人者が話していた『しのぶ』にいる小林という人間のことだ。『しのぶ』へ行って、あたって見たら、その男がどの藩《はん》の者かわかろうし、それから浪人者の名も素姓《すじよう》もわかるだろう。朴庵は、それを力説した。
「なるほど、そりゃア耳寄りなお話を承わりました。私どもには親分のかたき、それと鷹の羽の紋の浪人者にはちょいと曰《いわ》くが御座いましてね。とうから探していたんでございます。それだけ承われば目鼻がつきましたわけで、いやどうも……その内改めてお礼に伺いますようになることでございましょう」
こういって、くれぐれも礼をいって、立ちかけたが、
「おお」といって、後から出したのが、朴庵が駕籠の中へ忘れて来た菓子の折だ。
「こりゃアこちらさんので……」
「いやア……」と、流石に顔を赧《あか》くしながら、
「左様でございますよ。どうも……」
何かいわれるかと思ったが、そうでなく、あっさりと返して立って行く。朴庵、ちょっと拍子抜《ひようしぬ》けがしてどぎまぎしたが、見送りに立って、ふと気がつくと急いで引き返し紙入から小粒《こつぶ》を出して包むと、老婆に持たせて二人の後を追いかけさせて、自分は、折の底を調べて手をつけた様子もない山吹色を覗《のぞ》いて見てからにこりとした。
やがて老婆が帰って来て表の戸締りをしている様子だったので、声をかけた。
「どうだい。受取ったか?」
「へい、そりゃアもう」
「そうだろう」と、また、にこにこした。こういう付届けは、朴庵の考えでは、雨が降れば地面が濡《ぬれ》るというのと同じことで、極めて自然で、疑いをいれる余地のないものだった。
吉良上野介が呉服橋内にある屋敷へ帰ったのは夜も四つ過ぎて大分経ってからだった。雨もちょうど小降りになって雲のきれ目を月が彩《いろど》っている。玄関まで迎いに出た用人の松原|多仲《たちゆう》は、上野介が駕籠から出た時ぷんと酒が匂うのを知った。
上野介は平常|齢《とし》相応に無口で始終むずかしい顔をしている方だが何かいいことがあると、だらしなく思われるくらい機嫌よく人あたりがよくなる。今駕籠から出たところはむっとしたように厳しい顔をしていて、出迎いの家来達をろくろく見返りもせず、すたすた居間の方へ入って行ったのだが、多仲の睨《にら》んだところではこれは、ほかの家来達の手前をつくろっているだけのことで、今夜は極上の機嫌でいるらしく思われた。
果して他の者を退《さが》らせて、多仲が主人のあとを追って居間へ入って見ると、上野介は腰元が運んで来た湯呑を手でかこいながら、ゆったりと脇息《きようそく》に臂《ひじ》をかけて微笑を含んで多仲を迎えた。
「如何でござりました」
「いや……」と、大分いいことがあった証拠ににやりとしたが、話にはふれず、
「疲れた。直ぐ寝よう」
「左様遊ばされませ」と、いって目配せすると、腰元はうやうやしく礼をして襖から外へ出て行く。その静かな足音が廊下を遠くなってから、
「御留守中、浅野様より御使者に御座りました」
「浅野、ほう!」と、にわかに注意深い目付になる。
「挨拶か?」
「左様に御座りまする。御勅使御饗応掛《おんちよくしごきようおうがかり》を仰せつかりましたにつきましては何卒《なにとぞ》よろしくとのことで……」
「誰が来た?」
「家老安井|彦右衛門《ひこうえもん》、藤井|又左衛門《またざえもん》の両人に御座りまする。粗末ながら御前へとのことで……」
「…………?」
「巻絹《まきぎぬ》一台を持参つかまつりましてござりまする」
無言であった。
齢の割に滑らかな白い細い指は脇息のふちを癇性《かんしよう》らしくこまかくたたいている。枯れた顔は瞬間に化石したようにかたい感じを見せた。
「まあ、よかろう」
不機嫌な口調でぽつりといった。
「そちも寝ろ!」
「は……」
多仲は、ちょっと主人の表情《かお》をうかがったが、それ以上話のいと口を見つけるひまのない厳格な顔付をしているので、うやうやしく一礼して退って行った。
数日前、院使の饗応掛となった伊達左京亮村豊《だてさきようのすけむらとよ》からは加賀絹《かがぎぬ》数巻、黄金百枚、並びに狩野探幽《かのうたんゆう》の双軸《そうじく》を贈って来たところである。伊達家の伊予《いよ》吉田三万石にくらべて浅野家は播州《ばんしゆう》赤穂《あこう》五万三千五百石、いわんや裕福のきこえある名家である。そこから巻絹一台の贈物とはまるで話が逆で、さぞかし主人が立腹することと、多仲は幾分残酷に近い期待を持って上野介の帰りを待っていたのだが、上野介がとりあわないのが、あてが外れたような不快な気持を残した。しかし主人の性質を考えて、
「なアに、明日《あす》になって見なければわからぬて……」と自ら慰めるように呟やいて暗い廊下をさがって来た。
「巻絹一台……」
ちょっと笑いたかったくらい。
たいてい、そんなことだろうとは、今日という今日が日まで、挨拶がなかったことで考えないでもなかったが、いささか呆れざるを得なかった。
(これが、礼か?)と、ぐッときた。
話を取り次いだ多仲まで、その差し出がましい面付《つらつき》を腹に据えかねて呶鳴《どな》りつけてやりたかったくらい腹が立っていた。三国屋の行き届いた心づくしで、ひどく快い気持だったところをつまらぬ話で打ちこわしおった……と思う。
が、
(よかろう)である。
明日は明日、今日は今日だ。浅野のことは勿論このままで済ませていい筈のものではない。
上野介は年寄らしく口の中で陰気にぶつぶつ呟やきながら立ちあがった。思い出したのは三国屋が寄越した土産《みやげ》の菓子折である。お邪魔でござりましょうが……という挨拶であった。供の侍が受け取った時の手付が如何にも重そうに見えたが……腰元が運んで部屋の隅に置いてあったのを、初めて自分で持って、行燈《あんどん》の傍まで運んで来た。
成程、重い。
上野介は紅白の紐《ひも》を解いて見た。
朴庵がもらったのは二重底になっていたが、これは三重底で、底も深い。上野介は、一々|蓋《ふた》をあけて内を覗いて行くうちに、段々と、いま多仲から聞いた不愉快な話は忘れて、自然と顔の筋がゆるんで来るのを知った。
「むむ」と頷く。
紐は、もとどおり丁寧に結んだ。こうしているところを見ると、ほくほくしてまことに好々爺《こうこうや》であった。丁度子供が何か買ってもらって、その晩は枕もとへ置いて次の朝を楽しみにして寝るように、上野介もこれを重そうに抱えて寝間へ入ったが、流石《さすが》に違い棚の上へ置いただけであった。機嫌はすっかりなおっている。
寝間には、毎晩のことで着がえを手伝うために若い腰元が、淑《しと》やかに控えている。上野介が帯を解き始めると、爽やかに傍へ寄って来て、寝間着を後から掛けてくれる。
その袖に手を通しながら、
「どうだな。ねむかったろう」
にこにこして、やさしい声でいう。
「いいえ」
寝間の小暗くおどんだ空気の中で白い顔が微笑する。
「あしたは、うんと寝坊するがよい。しかられたら私が許したというのだ。若い時分はねむたいものじゃ」
こういいながら、厚い蒲団の上へ痩《や》せた身体を寝かして、癇性らしくしきりと枕の位置を頭の下でかえていたが、今自分が脱ぎ棄てた着物を、優しい手付でたたんでいる腰元の方を見て、
「そうじゃ」と何か思い出したらしい。
「お前、堺町《さかいまち》の芝居を見たことがあるか?」
腰元は赧《あか》くなって口の中で答えた。
「いいえ、ござりませぬ」
「そうかい、あそこには、なかなか綺麗な子供がいる……」
蒲団の中の暖味がここちよく手足にのぼって来る。上野介が恍惚《うつとり》としながら思い浮べたのは今日の昼間見た三人の色若衆であった。梨の花のようにすこし蒼味を帯びた白い肌をしていて、黒く長い眉毛の蔭にどんよりとものうい色をたたえた目にあふれるような媚《こび》を含んでいる。上野介のような老人から見るといたいたしいような感じを抱かせる美しい子供達であった。
この昼浅野家から吉良へ使者に来た安井彦右衛門は藤井又左衛門と同道で鉄砲洲《てつぽうず》の屋敷へ帰る途中何か相談があるといって、供の者を帰して二人だけになってから最寄《もよ》りの料理屋の二階へあがって酒を呼んだ。
安井の方が上席ではあるが二人とも江戸家老、どちらも相当の家柄に生れたお蔭で、年を加えるとともに別に働きもなく今の地位に登ったもので、境遇が同じせいか性格まで共通していて、ただおとなしい一方で、役目の上の落度を何より恐れ、因循に御奉公大切に心得ている男達だった。
「お話とおっしゃるのは?」と藤井がいう。
「いや、吉良殿のことだがね、今日あちらで応待に出た松原という男の様子にお気がつかれなかったか?」
「さて……別に……」
藤井は怪訝《けげん》らしい表情になって安井の顔を見て、
「何か御不審がおありでしたかな」
「いや、別に不審と申すまでのことはないのだが……」
安井は至って自信のない口吻《くちぶり》で、
「あるいは、進物が不足ではなかったかと思いましてな」
これは、藤井の耳に、やや意外のように響いた言葉だった。というのは、数日前主人の内匠頭《たくみのかみ》から今度勅使|御馳走人《ごちそうにん》になったから吉良への挨拶をよろしく計《はか》らえという言葉で二人が先様は御歴々のことだし前以《まえもつ》て進物を持って行くなどは賄賂《わいろ》のようで不敬にあたろうからそれは御役儀|滞《とどこ》おりなく済んだ後のことにし印《しるし》だけの音物《いんもつ》をお届けしておけばよかろうといいだしたのは、安井だったからである。
先方は四位の少将という高い身分の方である。藤井も安井の意見をもっともだと思い、二人して御前へ出てその考えを申し上げると内匠頭はもとより一議なく「そうだ、よく気がついた。早速そのとおりに致せ」との仰せで、たった今、使いを済ませて帰って来たばかりのところではないか?
「そりゃア、前夜の御意見どおりで宜しいのでは御座るまいか? 殊に、御指南を仰ぐといっても、これは私事ではない高家御役儀の表のことでも御座れば……進物の多寡《たか》などはもとより問題では御座るまい……」と、藤井がいう。
「左様、わしもその意見でおるが……先刻あの松原という男が、ひとを小馬鹿にしたような顔をしたように思いましたので喃《のう》」と、安井は、まだ浮かぬ口調で、
「そうだ、伊達家などでは、どういう風になされたか? 分るとよいが」
「いや、それは、まさか尋ねるわけにも行きますまい。しかし、そう御心配になることもないと思うが……私が先例を調べましたところでは、御記録にはただ高家へ挨拶に使者を出したということが書いてあるだけじゃった。まして、今日のことは殿もそれでよかろうと仰せられたことなのだから……」
成程それには違いなかった。殿の、御許しを得て取り計らったことである。自分達は、ただ適当と信じた意見を立てて言上《ごんじよう》しただけのことで、それをそうせいとおきめ遊ばしたのは殿である。
「うむ。そりゃアそうだが……いやこれは拙者の思い過ごしかも知れぬな。殊に一両日中に殿も上野介殿を御訪ねの上御懇談になることなのだから……」と安井もはじめて気が軽くなったらしい。
両名の頭には、どこまでも先方が四位の少将の高貴な身分だということが抜けないでいる。この世間には裏に裏のあることなど、泰平に生れておっとりと育って鰻《うなぎ》のぼりにのぼって来た人達だけに、気がつかないでいるらしかった。
その翌日の朝、浅野内匠頭は上野介の屋敷の客間にあるじの出て来るのを待っていた。昨夜家老の安井と藤井とが、しきりとすすめた結果である。
駕籠が門を入ろうとした時、今度内匠頭と同時に仙洞使《せんとうし》の饗応係を仰せつかった伊達左京亮村豊が丁度門内から出て来るところだった。左京亮も上野介にあって挨拶して帰るところと見える。双方の駕籠がすれ違った時、二人は好意ある微笑を以て会釈《えしやく》をかわした。上野介が他行《たぎよう》でないことは、左京亮が出て来たことでもわかる。しかも内匠頭は先刻から凡《およ》そ三十分ほど待たされている。内匠頭|長矩《ながのり》は、三十五歳の男ざかりにあたっていたが、色の白い、やや長い顔立は、実際の年齢よりも若く見せている。九歳の折父|長友《ながとも》の死に逢って直《ただ》ちに赤穂《あこう》五万三千五百石の領主となって以来今日に至っているので、生れつき潔白でかんの強いところへ若年《じやくねん》から人の上に立ったせいもあり、今でもかなりわがままで烈しい気性をしている。とりたてて発明と思われるところもない。他の一般の大名と同じように自分が生れて来た環境の規律に住むことになれて、世界が別の秩序によって規律されることがあろうなどとは考えられない。世間はこういうものと考えがきまるようになってから直ぐとこうなくてはいけないものとかたく信じるようになった。この確信はかつて動いたことがなく、家中へも終始この方針で臨んで来ている。長矩が武士道を尊び家来を愛していたのも、悉《ことごと》くこの考えからである。
上野介はまだ出て来ない。
(何をしておるのか?)
内匠頭は、審《いぶか》しく思いながら、膝を動かした。
客を長く待たせて置くのは礼儀ではない。勿論何か相当のわけがあって、こう待たせるのだろうとは思ったが、主人側が故意にこうして待たせているのだとは空想も出来なかった。まして、そこに悪意がひそんでいようなどとは、どうして考えられたろう。
ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ……と遠くで、時圭《とけい》がものうく鳴った。邸内は、ひっそりとしている。ひさしを歩く雀の足音がきこえている。たてきって、おどんだ空気の内に蠅《はえ》が一匹、ゆるく輪をかいて飛んでいる。
見るともなく、その緩慢な運動に目を向けていたが、それにも疲れてわれにかえる。
これまで待たせておくなら一言の挨拶あって然《しか》るべきだが、それさえない。
「無礼なッ!」とはじめて思った。
途端、つと、側面の襖があいた。上野介である。
「これは、お待たせ致した」
畳の上に軽く風を呼んで、裾裏がさやさやと鳴る。上野介は、何ゆえか、ひどく不機嫌な顔つきで席に着いた。
内匠頭は、いよいよ不愉快になったが、強《し》いて、慇懃《いんぎん》に挨拶した。
「長矩、計らずもこの度重き御役儀を仰せつけられました。若年とは申し未熟者、堂上方《どうじようがた》の御格式も存ぜぬゆえ、万事御指図願いとう存じまする」
「いや、別段御指図申すことも御座るまい」
ぽつりと、取りつく島もなく煩《うる》さそうにいって、かたわらを見返ると、ついていた小姓が、長い煙管《きせる》をさし出した。無言でそれを受けとって、白い指で火皿へ煙草を詰めはじめる。どこまでも冷淡な態度だった。
上野介が謙遜していったものだとも思われなかった。内匠頭は、相手の真意を疑いながら、妙に突っ放されたような感じが抜けなかった。そればかりではない、そもそも最初からあった変にゆがんだ不愉快な空気が急に濃密になって来て、烏賊《いか》の吐いた墨のように胸を囲んで来るのを知った。
息苦しい無言の瞬間があった。その間に上野介は、いやに落着いた手つきで煙管をあつかって、かおりの高い煙を細くして一服している。
「ごもっともなる仰せ……」
内匠頭は努めて静かにこういって、微笑を作った。
「さりながら、諸事お指図を受けよと御老中より申されておりまする。お引廻しのほど平《ひら》に……お願い致します」
「うむ」と息が、煙とともにもれる。
急に何か別の考えが頭にはいって来たと見える。上野介の顔がにわかに明るくなって、
「なるほど、然らば差し当って心づいたことをお話し致そうか。……勅使御|逗留《とうりゆう》の間は、毎日御進物を差し上げるように。何よりも、その御機嫌取りが大切。その点を……な」
「は……」
ちと、意味が受け取りかねて、じっと見る。上野介は、にやにやしておわかりかな? と目つきにいわせている。
わざとかけた謎である。言葉の表より裏に含ませた隠れた意味の方が大切なのである。
「心持のことで御座るよ。その点をお忘れなくば余事は……御指南の何のと申すほどのことも御座らぬ」
狡猾《こうかつ》に、こうつけ加えた。調子も、急に変って、おだやかだし、にこにこと微笑を含んでやさしい目つきだった。
もとより冗談をいっている筈はなかろうが、毎日の進物とはいささか怪訝《けげん》……とは思ったが、それ以上聞き返すことも如何と思って礼を述べて、なおこの上のことを頼んで立ち上る。上野介は最初と変って、玄関まで送って来て、ひどく機嫌がよかった。
それから駕籠にゆられて戻りながら、内匠頭からは疑いの霧がはれなかった。どう考えても、上野介の言葉が真実とは思われぬのである。上野介の態度の変りかたにも不審はあった。
(あるいは、まことしやかにいっておれを愚弄しおったか?)
ふと、こう思う。
一徹の気性だった。
「御月番土屋殿の屋敷へ」と、いら立った声で駕籠の中から命令する。
老中の月番土屋|相模守《さがみのかみ》は折よく在宅で内匠頭の不時の来訪を意外に思ったらしかったが話を聞くと、これも不審の眉《まゆ》を寄せた。
「日々御進物致すと? ……左様な先例はない。御饗応掛は、御饗応にお手ぬかりなければそれで結構で御座ろう。……上野介が何で左様なことを申したか」
相模守はこういったが、実は上野介の心中をよく読んでいたのである。
内匠頭は、相模守が年少の自分をあわれむように見ているのを感じて顔を赧らめながら、上野介がほのめかした謎をはじめて解くことを得て急に憤《いきどお》りを感じていた。
あの雨の晩に思い設けず目明しの仙吉を手にかけて以来堀田隼人の覚悟が変った。どこへ行こうが、自分を見張っている目を感じる。誰か、そっと、こちらの行動をうかがっているように思われて、無気味なのである。
あれからたった一度例の『しのぶ』へ小林平七という侍がどこの家中の者だか聞きに行った。その時も、この間の晩から度々役人が来て隼人の顔の特徴や年の頃を聞いて帰ったといつかの女が隼人の無謀に驚きながら、そっと話してくれた。隼人は笑っただけである。小林平七が上杉の家中なら、あの夜の果し合いの相手も上杉の家来であろう。遺族があったら討《う》たれてやってもいい、いのちなんぞ、どうでもいいくらいに思っていたのだ。しかし、日がたって見るとこの考えが作り物だったということが分った。
やっぱり生きていたいのだ。あの夜以来、妙に臆病になっている自分を振り返って、その事をはじめて悟った。死んでもいいと思っている人間が、庭の植込みの蔭や、襖の後に誰かかくれているように考えて始終何かの危険を感じる筈はないわけである。
(そうかなあ……)と、われながら不思議なような気がした。これは新しい発見だった。
この世の中を、とうから呪《のろ》っていた自分である。それこそそもそも生れて来たのが間違いだったように考えて、たとえば往来を歩いている時思いがけずそばの石の塀が倒れて来て自分が潰《つぶ》されようが、別に「しまった」とも思わず死ぬる事が出来るように空想していた。それが違っていて、まだ生きていたいと願っている。この心の裏をはじめて覗いて見て、むしろ意外な気がした。森の中に積み重なっている朽葉《くちば》をどけている内に、下にこんこんとわき上っている清水《しみず》でも見つけたら、あるいはこんな気持がするかも知れない。泉は人に知られずに動いて生きていたのだ。隼人は、珍しそうに、自分の手を見た。弾力を含んで曲ったりのびたりする肘を見た。ややあお味を帯びて白くなめらかな皮膚を指でそっとつまんで見た。
何もかも、まったく新しい物を見るような、もの珍しさを感じる。この皮の下に、いのちがある。生きようとして、どんな危険にも、怖れおののいているいのちがあるのだ。
意外と思う心持は、いつの間にか遠のいている。代りにこの手や、肘が……いや、自分の体ぜんたいが可愛らしくてたまらないような気持がこみ上げて来る。
わが心ながら知らずにいた。と思えばしみじみとした気持だった。
だが、今の隼人は、もっとも生きにくいことになっている。敵を持っているしまた御用の目に睨まれている。次の瞬間にもその何《いず》れかが襲いかかって来ようかも知れぬ。
ところがそれを考えると、余計死にたくなくなって来た。
無言で天井を睨んでいた。天井には前の川の、水の影がゆらゆらとゆれている。隼人は、大分前から、この水道端の町道場に寝泊りして稽古を手伝っていたのである。
「堀田先生」と、その時、下から呼ばれた。
「先生……」と、梯子段の降口から上半身を出したのは藤野という内弟子だった。
「なんだ」
「お客です。堀田先生にお目にかかり度《た》いと申しております」
「名前は?」
「お目にかかって申し上げるというんですが……」
隼人は、いよいよ不審に思った。自分がこの家にいることは母が知っているだけで誰にも明《あか》してない。
(母が誰か使いによこしたか?)
とも考えたが、これまでそんなことはなかったし、また先日会ったところでは、使いをよこすほどの用事も考えられなかった。
「どんな人間だ?」
「さあ、まだ若い町人でございますが、……ひょっとすると、町方の手先か何かと思われるところが御座います」
「ふむ……」と、はッと、胸に白くひらめいたものがありながら、さりげなく、「ああ、そうか、じゃ、上げて待たして置いてくれ。……直ぐ降りて行く」
「畏《かしこ》まりました」
「先生はいらっしゃるのか?」
「先ほど、矢来《やらい》へお出かけになりましたが……」
「そうか、よし、よし……」
藤野が降りて行ってしまうと、はじめて、わくわくした。
「来たな!」と思ったのである。
自分がここにいる……と、どうして突き止めて来たかはもう問題ではない。大切なのは「来た」ということだ。
「よかろう!」とつぶやいて、大小を拾い上げる。
勿論逃げられるだけ逃げようと思うのだ。ただ一度そいつと会ったものか、どうか? 上役人かどうかも、それまではわからない。
隼人は、梯子段の方へ行きかけて、また、ためらった。
そこへ、みしッ……と、梯子段の中段あたりの板が鳴るのが聞えた。誰か獣のように足音を忍んで梯子を登って来るのである。
咄嗟《とつさ》に、隼人の覚悟がきまった。
さっと、おもてに朱をさしたが、にわかに冷やかに戸棚のそばへ寄って戸をあけると、何か探し物をする振りを作る。大小は戸棚へさし込んで、いざとなったらいつでも手に取れるようにしてある。先方の出様ひとつで……と思ったのである。
梯子段には背を向けているがそこの壁の小暗いおもてに影が動いて、鋭い目がさしのぞいたのが気配に感じられる。
突如、猛然ととびかかって来た。
「御用!」
振り返りざま抜き打った。畳の上にまくように血をほとばしらせて殪《たお》れるのを見返りもせず、つと、窓を越えて屋根へ出る。北側へまわると、下は紺屋のほし場だ。
ひらりと飛び降りる。
両手を黒く染めた紺屋の職人が馬鹿のような顔をして立って見ているかたわらを急ぎ足で通り抜けた。陽影《ひかげ》にくっきりと明暗を彩《いろど》られて雑沓している往来を横切って路地から人のいない小日向台《こひなただい》へのぼった。
幸いと誰も後をつけて来ない。丁度あった寺の生垣越しに井戸を見つけて、はいって行って釣瓶《つるべ》をたぐって水を飲んだ。つばきがねばって口が乾いていた。
大勢で経を読んでいる声が聞える。日があたっている本堂の表の方で葬式の人夫が、草の上へかたまって腰をおろして煙管《きせる》をくわえて休んでいる。葬式が来ているらしい。井戸をはなれて、歩き出すと、墓地で、墓掘が穴を掘っているのが見えた。鍬《くわ》が光っている。
この景色が、妙に心を落着かせた。
今まで、何かに後を追われているようにせわしなくことこと鳴っていた心臓の鼓動も平常に戻った隼人は、ふところ手をして、ぶらぶら歩き出した。
どこへ行く?
まったくあてはない。
ただ、どこか静かなところへ行って、よく考えて見たいと思った。これから、どうするか……である。
母親のことがしきりに気になっている。しかしこれはなるべく考えずにいるようにした。
土塀にはさまれた白い道に風がほこりを舞わせている。上は、濁った春の空だ。いつもと同じ昼間である。
ふと、隼人は、自分の少し前を歩いて行く男を何気なく見て、それが例の丸岡朴庵なのを知って立ち止った。
意外だったし、見つけられてはと考えたが、それほど驚きもしない。
奴! と思って、微笑さえ動いた。
いつかの晩の醜態を思い出すと危険よりも滑稽が感じられる。急に出て、前へ立ちふさがったら、どんなにびっくりするだろうと思われた。
朴庵は、今日は供を連れていない。間もなくかたわらの、黒い板塀に囲まれた家の耳門《くぐり》をあけて内にはいって行くのが見えた。隼人は幾分興味を持って、その家の前まで行って構えを眺めた。
小ぢんまりした二階建で、隠宅風である。門の脇に桜の木があって、白い花を往来にこぼしている。塀越しに深い植込みの青々とした頭が見えた。
隼人は、いきな爪《つま》びきの音を聞いて、微笑した。音は、すぐに途絶《とだ》えた。多分、そのぬしが朴庵を玄関に迎えるために、三味線を畳の上に置いて立ったものであろう。
隼人も、笑い顔のまま、歩き出したが、角店の看板を見て、いつの間にか湯島へ出ていたのに驚いた。
江戸を離れた方がいいのだが、さて、どこへ行こう? いやそれよりも前に路金を何としよう?
隼人は、路の脇の空地で遊んでいる子供達を所在なく眺めながらそれを考えた。
その思案の結果だったと見える。その夜ふけてから、昼間見た朴庵の妾宅の塀外に再び立った。
闇の世界
夜の庭には静かな夜気にしっとりした花のにおいが漂っている。暗い植込みの蔭にしゃがんで暫く家の内と塀の外との気配に耳を傾けていた。春曇りの空に上野の鐘が含み声で鳴る。
かち……
と、遠くの辻を火の番のねむたげな声が浮いて過ぎて、後は前よりもひっそりとする。木《こ》の葉が夜気にそよぐばかり、家の内にも先刻から物音のないのは寝しずまった証拠、時分はよしと、隼人は、昼間用意の紫の布にすっぽりと顔をつつんで、立ち上った。
賊は今夜が初店だった。さすがに胸は騒ぐが……計画は昼の間ひまなままに、例のかみそりのようにさえた頭でこまかく順序をたててある。いざとなった時の逃げ道は、夕方からこの辺の路地を一々吟味して覚えてあるし、先が、こう出たらこうと目算《もくさん》もたててある。しかも相手は朴庵、その度胸がほども前夜でわかっているし、どうせ三人まで人をあやめた隼人、犬を道連れにして行けば、地獄への道中がまぎれてよいかも知れぬ……の肚《はら》だ。
手順どおり、音を忍んで、庭の木戸をあけ、門のかんぬきをはずしてから、また引き返してはいって小柄《こづか》を用いて雨戸を一枚はずした。
家の中は暗かったが、廊下の一角にぽーッと明るいのは、二階の灯が梯子段からもれて来るのだ。しかし、人が起きている模様はない。
廊下にあがってから、また蹲《うずくま》って地獄耳をたてる。勝手の方に誰か寝ていることは確かだ。あるじ達は無論二階であろう。
浮いた腰をささえて、廊下に突いていた片手を杖に、立ち直る。そっと足を踏んで、廊下について、勝手へまわる。
むしていたせいか、障子はあけッぱなしだ。暗いなかに疲れたようないびきの声がする。それをたよりに、おどりかかって、声も立てさせず、当て落した。薄い寝間着をとおして、年寄りらしい女のだぶだぶの腹にさわった手がたまらなく気色悪く、急な場合だが思わず着物の前身でこすりながら再び廊下へ影のようにすべり出る。
あとは二階だ。
灯影《ほかげ》が薄く壁を色どっている。
隼人は、思い切った様子で、刀を抜いて、すたすたと足音にかまわず梯子段を上って行った。二階には二間あって、灯影は、その奥の方の障子を明るくしている。
「婆《ば》アやかい?」
急に、その部屋から若い声がこういったが、答えもせずさッと障子をあけた。
「あ!」
「静かにしろ!」
低いが強い声でいって、白刃を突きつけたが、燈芯《とうしん》が燃え尽きようとしている有明行燈《ありあけあんどん》が春の夜やみにもうろうと浮き上らせたなまめかしい世界には、とぼけた朴庵のくわい頭は見あたらず、火焔《かえん》のように派手《はで》な花模様の夜具は割れ、寝みだれて胸もあらわな若い女のしなやかな上半身を吐き出していた。恐怖に色を失って紙のように白い顔が、目を見張っていた。
「犬はいないのか……」
隼人は、急にきまりが悪いような気持に囚《とら》われながら、乾いた声でいった。
「金を出せ」
抜刀《ぬきみ》を畳に杖にして立って、こういった。
ほかに好い言葉はなかったのか! かなりきまりきった文句で、隼人もいいながら、多少くすぐったい気持がしないでもなかった。そこで直ぐ後から思わず弁解の様に一層声をはげまして付け加えた。
「すこし入用があるのだ」
いよいよ悪い。
それまで、恐ろしさに紙のように蒼ざめて見えたお千賀の顔に急に薄い血の色が動く。
お千賀は、初めて、身体《からだ》を動かして、はだけていた胸へ手をやった。雪を重ねたように白く厚ぼったい肉付である。
「お待ちなさいましな」
静かにこういって微笑を顔にふくみながら敷蒲団をまくってそこに隠してあった財布《さいふ》を隼人の方に押しやった。
(度胸はあっても素人《しろうと》なンだ、この人……)
曇天の水の面《おもて》にゆらゆらする薄日の影のようにものうく明るい考えが胸にゆらぐ。もうこわいなどとは感じられない。膝が出そうに崩れていた着物の前身を静かに指でひき寄せながら坐り直して、隼人が金をかぞえている間も、軽く茶化すような眼差しを投げて、その姿をやさしくいたわるようにくるんでいた。
(若いひと!)と見る。
指の長い華奢《きやしや》な手をしている。覆面《ふくめん》の下からのぞいている切長の目にまつげが長く美しい。齢《とし》はお千賀より四つ五つ上かも知れないけれど、その時お千賀は、齢の点でも、世の中の経験からいっても、自分の方がずっと上のように考えられた。その内、ふと今この若い押込《おしこみ》に渡した財布の中に、あられもない絵がたたんで入っていたことに急に気がついた時も、はッとして顔へ血がのぼって来たのは一瞬のことで、すぐと、却《かえ》ってその前よりも悪く度胸が落着いた。
お千賀は肉の厚いくちびるに笑いを含んで、わざとにもふてぶてしく無言で腕をのばして、枕もとにあった長ぎせるを取った。その絵を、この押込がどんな風にして見るか、その瞬間がこわいような楽しみなような気がしていた。この期待が、酒に酔った時のように、血行をはやめて、どんよりと重く実のつまったような感じを身体全体に与えた。火皿にきざみを詰め始めている指は汗ばんでものうく、指同士からんでしまうように感じられた。この春の夜の、女部屋の空気はひっそりとおどんだ裡《うち》に、なにものかうごめく気配をのせて、なまめかしく息苦しい。
隼人はたたんだ紙を見つけて、ひろげて見た。
お千賀は、その刹那にこの若い押込の表情が動いたように思って、鳩尾《みぞおち》のあたりにくすっといたずらな微笑がわき上って来るのを感じた。
(知ってて、何だか……?)
こういってやりたいくらい、相手がお坊ちゃんに見えたのだ。
隼人が、難かしい顔をして、その紙片を棄てたのは意外だった。さらに、意外だったのは、
(では……)というように顔付で示して、財布ぐるみ金を懐中してから、それまで畳に刺してあった刀身を拭って鞘におさめはじめたことだ。
(帰るつもりかしら? このひと!)
お千賀は肥《ふと》った膝を動かした。いつも、どこか遠い疲労のようなものを見せて、倦怠の色に柔らかくくもっていた目に、いらいらしたような光が添った。
隼人は、それを見ない。無言で障子をあけて廊下へ出て行った。有明行燈の光は、お千賀の目の前に厚ぼったい壁とも思われる白の一色が立ちふさがるのを見せた。途端に、細ひも一つの腰が何かに突きあげられたように宙にあがっていた。
ふけた夜がにわかに身にしみる。
軽い足音は、この静けさの底をもう梯子段の降口まで遠ざかっていた。
「ちょっと……」
乾いた声で呼び止めた。何の用があって呼び止めたのか? これは当人でさえ、言葉がくちびるをはなれてしまって初めてさとったものだった。
急に顔から火が出たように思った。お千賀は行燈を吹き消した。部屋の内の屏風《びようぶ》から調度の類まで、今まで目のあたりにあったものの形が、黄ばんだ残像を僅かの間残したばかり、びろうどのように濃く、肌ざわりのやわらかい闇がにわかに起って来て、お千賀をとりかこんだ。
胸に鼓動が、決勝点に近づいた足のように迅《はや》い。お千賀は、重苦しくだまったまま手さぐりで障子をあけて、自分も静かに廊下へすべり出た。
廊下も暗い。
しかし梯子段の上に、帰ろうとして覆面をといた後の、白い顔をこちらへ向けて身動きもしないでいる男の立姿が夢のようにぼッと浮かんで見えていた。
春信あたりが描いたら、側にひそかに戯《たわむ》れている美しい若衆と娘の優婉な姿の引立て役として、ここだけ度の低い虫目鏡で見たように釣合《つりあい》のとれない大きな首をして、ぼそぼそと無精たく切株のようなひげをあごにはやした親仁《おやじ》どのである。この暖かい陽気に鼻汁《はな》をすすっては手に持った柝《き》を撃《う》ちあわして暗い通りに、帯に釣った提灯《ちようちん》の光を薄く投げて、ゆらゆらとゆりながら来る。
時折立ち止ると、吃驚《びつくり》するように、はめをはずした声で、
「火のばアん!」と、どなるのである。
この丸岡の妾宅の前まで来て、門の戸が夜風に煽《あお》られて、暗いところでぎいぎいと鳴っているのに気がついて立ち止りながら、二階を見た。
空は、さっきより曇って、低い。ぽん……と吐月峰《はいふき》を煙管でたたく音が含み声で二階から聞えた。
家人はまだ起きているらしい。
「門があいてますぜ!」
野暮《やぼ》な声で下から呶鳴《どな》りあげた。
意地と必要
勅使、院使が愈々《いよいよ》明後日江戸へ着くという三月の九日のことであった。旅館は辰の口の伝奏屋敷《でんそうやしき》にさだめられている。御馳走《ごちそう》人は、その前日中に各自の屋敷から、ここへ饗応に必要な什器《じゆうき》をはこび入れ、清掃装飾を施し、万端の準備をしなければならない。鉄砲洲にある浅野の屋敷では、朝から家臣達が手分して、その準備にいそがしかったが、予定よりも早く正午《ひる》には、もう運び出すまでに支度が出来上っていた。
家老の藤井又左衛門は、什器の品目を書類に読み合せて点検を終えてから、部屋へ戻って一服していた。仕事はもう残す所はない。しかし、どちらかというと、至って気のせわしい質《たち》なので、まだ何か仕残してあるような気がして、どうにも気が落着かない。いろいろのことを頭の中で虻《あぶ》のようにがあがあいっているのである。たばこも自宅でのむのと外でのむのとは、どうも味が違って感じられる。自分でも損な性質だと思っているがこれだけはどうも出来ないのである。
又左衛門は、その、うまくない方のたばこを二、三服した。そこへ同僚の安井彦右衛門が入って来た。
「やあ……」といって見ると、安井も、妙にせかせか落着かない様子で、
「な、なンだ、ちょ、ちょいと聞き込んだことがあるのでね。お手前を探していたところだ……」
「ふーむ、どういう……」
「いや、実は、つてを得て、伊達家の方をさぐって見たのだが……」
「ふむ!」と、又左衛門もにわかに熱心になって、膝を進める。
安井は安井で、禿《は》げ上った額の汗を手拭でおさえながら、
「どうも、困ったことになったものだ。あちらでは高家へ大分のことをなされた模様なのだ。何でも、進物《しんもつ》が絹に黄金百枚、それに探幽《たんゆう》の双軸じゃという」
又左衛門も顔色をかえて無言だった。
三万石の伊達家で、それだけの事をしたならば……こちらからの巻絹一台は、あまりに僅少である。
(これは弱った、とんでもない……)と両名の思ったのは無理はない。同じく指南を仰ごうとしていて、これでは、あまりの相違である。
「どうも、まずいが……」と安井がいう。
「これからでも、何とかせねばならぬように思うのだ」
「うむ、……左様それよりほかに、致し方ござるまいな。実は、拙者も、あの後に聞いたのだが、少将殿(吉良)は、平気で進物の類《たぐい》を受けられるという話だ」
「いや、そういうことならば、却って安心じゃ。どうも体裁は悪いが、早速何とか方法を講じるように致そう。しかしこれはやはり一応殿へ言上《ごんじよう》つかまつらねばなるまいか?」
「おっしゃるまでもない。遺漏《いろう》なく手順を踏むに越したことは御座るまい。事がなければそれでもよいが、万一不慮のことがあった折われわれの立場がなくなります。無論御前へ御披露に及び申そう」
そこで二人は、更に勘定方の者を呼んで予算の関係などを細心に熟議の上、揃って内匠頭の居間へ伺候に及んだ。
内匠頭は、無言で二人の家老の提言を聞いたが、不快の色が顔にうかんで来るのを禁じ得なかった。
二人のながながしい話が終ると、
「その要はない」と言葉短くいった。
この、不機嫌らしい語調が、安井と藤井とを驚かせて、返す言葉を失わしめた。
しかし……これは、このままで、ひきさがることの出来ない重大問題だった。今一応との考えは、安井にも藤井にもあって、ただお互に、安井は藤井が、藤井は安井が再び口を切るのを待っているのである。
内匠頭は、上野介のことを考え出すだけでも不愉快になるのだった。
勅使の饗応の心得に托して、「何よりも、その、御機嫌取りが大切……」と、謎を掛けて、おのれのきたない腹を見せた。あの時の、上野介の顔が目に見える。あの臆面ない催促がましさ。考えるだけで、一徹の気象は胸に据《す》えかねた。あるいは、あの催促を受けずにいたら、今日の二人の話にもうなずいて見せたかも知れないのだが……
「恐れながら……」
安井は、ほんとうに恐れ入ったようにいい出した。
「伊達様は三万石……」
「いうな!」
一言に、はねつけた。
「伊達は伊達、当家は当家だ。犬の如き奴に頭をさげることはない」
「仰せでもござりますが……」
こんどは、藤井だった。
「これはもとより些細《ささい》のことで御座りまするが、斯様《かよう》なことから、この度のお役目の上に……万一のことがござりましては、一大事でござります故……」
この不安は、藤井がいい出すまでもなく内匠頭自身、誰よりもさきに感じていたところだった。大切な、この度のお役目、上野介において悪意あってもしものことがあっては?……と時折暗く考えられた。考えれば考えるほど、一層暗く、悪く感じられる、といって、上野介にまた頭をさげて行く覚悟はどんなことがあろうと持てそうもなく、ただ、それを考えまいとするよりほかに救いはなかった。藤井の言葉は、内匠頭が家来達に隠している痛いところに触れていた。この弱味を、
「如何にもその方の申すとおりだ。俺もそれを考えている」と柔順に認めることはむずかしい。行きがかりは逆に、意地にもそれを隠そうとさせた。
「左様なこともなかろう」
内匠頭は、語勢を強めていい切って、こともなげに笑って見せた。しかしその笑いがわれながら力なく歪《ゆが》んだものだったのを自分から感じると、同時にわれひとともに向けた勃然《ぼつぜん》たる憤怒が胸にわいた。内匠頭は、殊に不機嫌な顔付になって、それ以上何もいわなくなった。そこで、二人の家老達も黙礼してお次へさがって来るより外はなかった。
藤井又左衛門は、「これはお上へ申し上げずと自分達の独存で計るべきことだったかな?」と急に気がついていた。しかし、こんなことは、一緒に歩いている同僚にも今更いえた話ではない。
ただ困った、困ったと思った。
内匠頭は家来達二人が廊下を遠ざかって行く足音を黙然として聞くともなく、聞いていた。
急に妙にさびしい気持がした。何だか、自分だけ独りぼっちに置いて行かれたような心持である。たった今二人の家老の前で激しく主張していた我《が》が、心弱く折れてしまっている。勁《つよ》いだけに、また脆《もろ》い性質である。
無言で庭へ目を向けた。
春三月の日ざしが、やわらかくとけて、樹立《こだち》の空に溢《あふ》れている。日なたの石の上に雀が一匹いる。ちいさい趾《あし》を動かしていそがしく歩いては何かを喙《ついば》んでいる。時折はねを動かして光をこなごなに砕くだけで、いうばかりなく静かな無心の姿である。
(わるかったか?……)と、ふと、わが心にたずねた。
しかし、この迷いはすぐと打ち消すことが出来た。内匠頭は、自分が二人の家老の提言をしりぞけたのは正しいことだと思っている。進物するしないは些細な問題で、二人の家老のいうとおりにしたところで差支えはないようなものだが、卑しい人間の心に阿《おもね》るのは自分までを卑しくするものだ。
家風のこともある。
(おれが正しい……)と、はっきりということが出来た。
だが、この、わけもないさびしさはどこから来ているのだろう? 正しい道を歩く者の心は、空のようにほがらかであっていい筈ではないか?
上野介の顔が頭に浮かんだ。
かれの悪意をおそれているのか?
違う。
ただ、かれの如き小人の指図を受けねばならぬことが考えても不愉快なのだ。しかし、役目の上のこと、まして日数も十日にみたぬ間のことだ。ただ、その不快をおさえて、大切につとめるよりほかはない。
(家のためだ!)
内匠頭は身体《からだ》を動かした。
雀は何に驚いてか、ぱッと翅音《はおと》をたてて飛び立った。
「源五右衛門を呼べ」
そばに控えていた小姓を振り返って、急にこういった。
小姓は、すぐに立って行く。
内匠頭は、再び黙然として庭へ目を向けながら、「呼ばなくてもよかったのだ」と気がついた。別にいいつける用事もない。ただ、藤井や安井とは肌合が違って、いつも寡言《かげん》で沈着な片岡源五右衛門の姿が、鳥影のように心に浮かんだだけなのである。
その間に源五右衛門は来て、廊下に平伏した。
「お召しでござりましたか?」
「うむ」と、うなずきながら、内匠頭は、この男の姿を見ただけで、それまでの重苦しい気持が、にわかに消えて行ったのを感じた。
「別に用事ではない。……内蔵助《くらのすけ》に手紙を書いてもらおうと思ったのだ」
内匠頭の顔には微笑がのぼっている。
この源五右衛門といい、また国にいる家老の大石内蔵助といい、どこか一脈通じたものがあって、どんな場合にもその場にいるということだけで、主人の安心となるような家来達だった。
予感
庭に多い、松の梢が時折さやさやとかすかな音をたてるので、僅かに風があると知るばかりの静かな午後である。池は、明るい鏡となってくっきりした樹々の姿を空の碧《みどり》の上に描いている。時にばさっと鯉のはねる音が、波紋を送るばかり。砂にしるされた松の影とともに庭は閑寂というのに近い。
若者は、柴折戸《しおりど》をあけて、いそぎ足で、この庭へはいって来た。見たところ、十六、七に見える素直にのびのびと育った立派な若者であるが、まだ前髪があるところを見ると実際はそれ以下であろう。色の白い下ぶくれの、ゆったりした顔立に、若々しい、きびきびした表情をしている。
若者が入って来ると、その足音を聞いて庭に向いて明けはなした障子の内に、人の動く気配がした。明るい外から見ると、篠竹《しのだけ》の蔭になっている濡縁《ぬれえん》から奥は小暗い。
「父上!」
若者は、近寄りながらこういった。
障子の蔭に机に向って書《かき》ものをしていた四十をすこし出たぐらいの年配の武士が静かに顔をあげた。流石《さすが》親子で若者とよく似た目鼻立ちの肉の厚い、おっとりした柔和な相《そう》である。赤穂《あこう》の城代家老《じようだいがろう》大石内蔵助だった。
内蔵助は父親らしい慈愛と満足とを姿ににおわせながら、無言で立って、竹の蔭が倒れている縁に出て来た。丁度、手紙も書き上げたし、お前の相手をしてやってもいいのだという様子である。
「父上、妙なものを見て参りました」
若者は、内蔵助の嫡子《ちやくし》主税《ちから》であったが、その声音《こわね》にも、姿にも父親に対する謹慎のほかに何か新しいものを発見した時の少年らしい熱情がひらめいていた。
「何を見た?」
父親は、ぽつりという。
「蜂のいくさでございます」と熱心にいう。
内蔵助は、なんだ! と蔑んだように目を笑わせて無言である。
「大手のところは見物人で一杯で御座います。二の丸の御門のひさしの裏に、このくらいの、大きな巣が出来ているのです。昨日《きのう》はなかったが一晩の内にこれだけ出来たと門番の足軽《あしがる》が話していましたけれど、まことに笊《ざる》ぐらいの大きさがあって、誰でも珍しがって朝から見物人が来ていたそうで御座いますが、もう、少し前に何所《どこ》からとなく他の蜂が沢山集まって攻めて来て両方が大戦になったのです。どのくらいいるか、わかりません。まるで、黒い煙のようになって、両方いりみだれて闘っているので、見ていると怪我をしたのや死んだのがばらばら雨のように落ちて来て、地面が直ぐと黒くなったので御座います」
「ふむ」
内蔵助は、まだ笑っていて、
「それで、どちらが勝った?」
「巣にいた方が負けました。攻めて来た方が山蜂で体もずっと大きかったのです……お城の方のがすっかり殺されてしまうと、皆で揃ってどこかへ引き上げてまいりました。珍しいことで御座います。何事かある前兆《ぜんちよう》ではないかと心配している者も御座います」
明るい庭に静かに松の花粉が散っている。内蔵助は、主税が話している間、こずえの上の空に向けていた視線を落して主税を見た。
「それは面白いものを見たな。蜜の奪い合いをしていたものと見える」と、はっきりした声で言葉短くいってから、
「私も大分前に一度見たことがあった。春さきにはよくあることだ」
蜂の戦を別に珍しくも思っていないような口調《くちよう》である。
「大三郎《だいさぶろう》も見に行ったか?」
「はい、八介《はちすけ》におぶさってまいりました」
「そうか」といって、庭下駄をはいて、地に降りながら、
「花も大分咲いたのう。……九日か……いよいよ明日は勅使が御着到になる日取だ。殿様御苦労のことじゃ。われ等遠く離れておるとはいえ安閑《あんかん》としてはいられぬ。この度の御役儀|首尾《しゆび》よく終らせられるよう、一同寸時も祈念を忘れてはならぬことだ」
「心得ておりまする」
父親は、子供のけな気《げ》な言葉に微笑しながら歩き出して、池のほとりまで行った。
人の足音を聞いて一旦底に沈んだ鯉は、主人と見て、なれた調子でゆったりと尾を動かして日があたっている水面に浮き上って来る。
その悠々とした動作を見まもりながら、内蔵助の額には深い思案の皺《しわ》が描かれていた。主税には背を向けて、数日来心にさしていた影をじっと見つめたのである。
いつもは前兆などというものは信じられない。これは多く異変があってから、後で人が勝手に思いあわせて「そういえばこんなことがあったが」などと、さかしらに付会《ふかい》するのである。誰が平凡な人間に天命の動きを指さすことが出来るといおう……
しかし……
主君の一徹な御気象はよく存じておる。と同時に、上野介が如何なる人物かも、かねて噂に聞いている。おそばに片岡以下の忠義な家来がいることではあるが、城中の儀式のことで主君が単身直接に上野介にお会いになる機会が多い。
その折何事もなければよいが……と思うのだ。ならば、自分が江戸へ上ってこの度の御奉公の介添《かいぞえ》をつとめたかったのだが、お留守を預かる身のそれを出来ず、山河幾百里を隔ててただ御無事にと祈るばかり、ひとまかせのことで、考えれば考えるだけの不安があった。実をいえば、主税が「何かの前兆」と不用意にいった言葉にさえ、内蔵助の胸を刺すものがあった。
(不吉なッ!)とわれとわが胸を叱責した。
元禄屏風
小袖のゆきを短く無反《むぞり》の刀を閂《かんぬき》にさし大手を振って江戸の街を歩いた六方組は昔の話だ。度々の穿鑿《せんさく》で、町奴《まちやつこ》も段々と衰えて昔の勢いはないが、元来これも都会の産物、さかり場へ行けば承応の唐犬権兵衛《とうけんごんべえ》、夢の市郎兵衛《いちろべえ》、寛文《かんもん》の深見十左衛門《ふかみじゆうざえもん》の流れをくんで、誰々の乾児《こぶん》の、そのまた乾児のそのまた乾児というようなのが威張っていた。これはその一人で、明神下の棟割《むねわり》長屋に住んでいる唐獅子《からじし》の藤九郎《とうくろう》という男。この界隈《かいわい》から湯島まで、かなり顔は売れていて、どこの料理屋へ顔を出しても、まず女達がお世辞の一つもいって、きちんとお神酒《みき》をそなえてくれる。その代りよその土地から無頼漢でも入って来た時は知らせのあり次第、尻をあおって毛脛《けずね》を出して駈け付けて来て話をつけてくれる。唐獅子という異名《いみよう》は、背中一面に牡丹《ぼたん》と獅子の刺青《いれずみ》をしていたのと、口をあけると金歯がならんでいたからである。
この唐獅子という男が、どこで飲んだか一杯機嫌の千鳥足《ちどりあし》でふらふらふらと、むな毛の森に風を入れながら、聖堂の脇を歩いている時のことだった。夜も大分まわっていたが、春らしいおぼろ月が屋根の上からのぞいていて、往来はしっとりとした光につつまれ土塀や木立のやわらかい影をななめに倒している。
その男が足音をたてずに、土塀にそって、丁度その蔭をひろって歩いて来たせいであろう。陶然となっていた唐獅子は向うから人が来たとは、すぐそばへ来るまで気がつかなかった。
最初ただ月の光に青いゆったりした着物が見えたので、はッとして目を据えたのだが、気がついた時は一度に血がこおって足はその場に釘付《くぎづけ》になった。
青い天神……ではない。広袖を胸にたたんで、裾の長い青い着物に惣《そう》なでつけの髪、どじょうひげを生《は》やした異様な姿は場所が聖堂脇の暗がりだけに絵で見たことのある本尊の孔子様《こうしさま》とやらの木像が、月に浮かれて人影なくがらんとした広庭に沓《くつ》の踵《かかと》を鳴らしてことことと外へ出て来たとしか思われなかったのだ。
息を詰めている間にもさやさやと裾を鳴らしてそばへ寄って来る。
と、見た途端《とたん》。
「こんばんは……」と間の抜けた声が、どじょうひげの下から聞えて、また、さやさやと通りぬけて行く。
ぽかんとしていたが、無論もう酔いがさめていた頭はにわかにはっきりとした。唐人《とうじん》の耳の垢《あか》取りだ。よく辻に立って、もったいらしい顔付と手付で人の耳の垢をほじくっているのを見掛けていた。
「チェッ!」と思わず口走る。
何でえ、野郎! 人をびっくりさせやがる。急に腹が立つやらおかしいやらで、唐獅子は突っ立ったまま腹の筋をよった。唐人は、われ関せず焉《えん》と月光の中を滑《すべ》って行くのだ。
「うむ!」
唐獅子は、何を思い出したのかぽんと膝を打った。そして裾を端折って、そっと後をつけはじめた。
流行《はやり》というものは可笑《おか》しい。この元禄《げんろく》の頃はやった野天の耳の垢取りがそれである。世間では唐人でないと、よく耳の掃除が出来ないように思って、例の町ッ子の物好きからくすぐったいのを我慢して争ってほじってもらう。神田紺屋町三丁目の一官《いつかん》という唐人が一番有名で、間もなく、これをまねて、さかり場へ行くと一人や二人必ず絵本三国志の劉備《りゆうび》のようなどじょうひげが店を張っていた。其角《きかく》に、「観音《かんのん》で耳をほらせてほととぎす」の句がある。耳の垢取りのほかに「猫ののみ取り」「鍋の底洗い」というような至極ゆったりした商売が商売になっていた。世は泰平で人は寛濶《かんかつ》だったのである。
唐獅子が後をつけた唐人は、湯島へ来て狭い路地へ入った。丁度崖の蔭になっているきたない棟割長屋が両側にならんでいる。唐人は崖とは逆側《ぎやくがわ》にある一軒の雨戸をあけて内へはいった。
その前まで行くと、家の内は一、二度明るくなったり暗くなったりしてから、やがて灯影《ほかげ》が漏《も》れはじめた。何をしているのかのぞいて見たいと思ったが、雨戸の蔭には内側から目張りがしてあって見えない。
唐獅子は一寸ためらったようにして、そのまま引き返そうとしたが、また立ち止った。黒い犬が、出て来て怪しい奴だというようにかたわらまで来て鼻を寄せる。
ううううッ!
と唸った。
「今晩は!」
急に覚悟がきまったらしく、戸口によって声をかけた。
「だれですか……」
内から、ふわっとした声でいう。
「親方、ちょっと、あけてくれ。話があるんだ」
「だれですか?」
「おれか? おりゃア明神下の藤九郎ッていうもンだ」
戸はあいた。
「あ!」と向うで覚えていたらしい。
薄ぎたなくよごれて暗い行燈《あんどん》が、四畳半をぼっと明るくしている。唐人は、わが国のゆかたに着かえている。ぬぎすてた分の唐服は、奥の壁にだらしなくさがっている。
唐獅子は上《あが》りはなへ腰をおろして、腰の煙草入れをさぐりながらじろりと、この部屋の中を見廻した。片隅に膳や茶わんがあるだけでそれと思われるものもない。
「おはなし……とおっしゃるのは?」
唐人は客の来意を怪《あや》しむような顔つきでいった。膝を円めてきちんと坐っている。
「なアにね」と、きせる筒をぬきながら、
「お前さんの名前を聞きに来たのさ」
「わたくしの名前?」
「うむ、そうだよ」と、じろりと顔を見る。行燈《あんどん》のそばで見た唐人の顔は、恐ろしく長く見えた。でっぷりと肉の厚い顔で、濃い太い眉毛の下に大きな目をしている。
「わたくし……一官といいますが……」
「そうじゃねえ」
唐獅子は、金歯を見せてせせら笑った。
「そりゃア商売の表《おもて》、いわば源氏名《げんじな》だろう。おりゃアお前の親がつけた日本名前がききてえのさ」
一官は顔色を動かさなかった。間が抜けて見えるくらい、ゆったりとした表情で、微かに瞬《またた》きしただけである。
「わたくし、日本人ない……」と、ぽつんと、答えた。
「ヘッ!」
唐獅子は、あざ笑った。
「おい、いい加減に相手を見て物をいってくれ。その芝居も他の人間には通用しようが、この唐獅子の眼力《がんりき》はくらませめえぜ。手前がいかさまぐらい、俺アとうから、ちゃんと睨んでいたんだ。それとも、まだしらを切ろうっていうのなら、さあ足を見せてくれ。生れつき唐人なら鼻緒《はなお》ずれはない筈だ。さ、見せねえか? えい、さっさと見せやがれ」
もとより、いつもの手であろう。声は段々とせり上げて来る。
「うむ、お目にかけよう」というのが返答だった。
一官はやおらたち上ったと思うとくるりと尻をまくって、悍《たくま》しい脚《あし》をまるで投げ出すように唐獅子の前へ出した。指の叉を見せるだけには、あまりの大業《おおぎよう》な動作。何となくぎょっとして瞠《みは》る目に映ったのは、一官の太腿《ふともも》を埋めて膝に及んでいる見事な墨のぼかしぼりだった。しかも、その片腿には槍の突き傷とも見えるひっつりまである物すごさ。
気を呑まれて、
「あ!」と口走った時、
「小僧!」
低いが、匕首《どす》を突きつけられたように凄味のある声だった。
「話は、この辺で一杯やりながら、しよう。ついて来い」
「……………」
ぎょろっと大きな目が底の知れぬ笑いを含んで睨めた。ぐうの音もなく唐獅子はちぢこまる。こうなっては普通の人間より弱くなるのが、こうした種類の人間の常である。
(とんでもねえ人間にぶつかった……)と、やっと気がつく内に一官は、浴衣《ゆかた》をぬいでくるくると巻いて棄《す》てて壁の唐服を取って着ている。先刻《さつき》、唐獅子が聖堂脇で見た時と同じことで、悠々閑々《ゆうゆうかんかん》たる姿に、たった今の険しい権幕《けんまく》はまるでこちらの目の誤りだったかと思われたくらい、綺麗に消えてしまっている。
「さ、まいろう……」
唐獅子は、夢を見ているような心持で、外へ出た。
「お見それ致しました。お名前をお聞かせなすって……」
「名は、一官よ。さっき、聞かせた筈だ。忘れたか……」
「へえ……」
役者が違う。何たる奴だ。この唐獅子をまるで子供あしらいである。
(さあ、何だろう、此奴《こやつ》……)と、いよいよ以て薄気味が悪い。
度胸のほどは、いやに落ちつきはらった態度でそれとわかる。無論腕にも余程の覚えがあろう。筋肉の一つ一つがもり上って松の木のように悍しい手や脚だ。考えれば考えるだけ、えたいが知れない。いずれ、歴《れつ》きとした名前のある小父《おじ》さんだろうが……
「お前さんの名は、なンていったっけなあ?」
逆寄《さかよ》せである。
「藤九郎と申しやす。この辺の、地廻《じまわ》りで……」
「地廻り? あは、は、は……」と、笑った。
「それじゃアこの先の犬医者の妾《めかけ》が、若い浪人者を引き入れているのを知っていなさるか?」
月を見て、振り返りもせず、静かな声である。
自分から地廻りと名乗って出た唐獅子が、これは初耳だったらしい。
「へ?」と、驚いたようにいって、
「さ、左様で御座いますか?」
「左様で御座いますかは心細いな。そんな目先きの見えねえ地廻りがあるか? 耳の垢取りのようなしがねえ世渡りの者をいたぶるより、そこらへ目をつけた方が、ぐんと割がよかろうぜ」
「へえ……恐れ入りまして御座います」
骨灰《こつばい》である。それにつけても、いよいよ疑わしいのは相手の素姓《すじよう》だ。
(何だろう?)
ちっとやそっとの悪党じゃない。何とかして名前を聞きたい。
歩きながらそればかり考えている内に、はたと膝を打たないばかりに思い当った名前があった。
「もし……」と思わず、
「お見それいたしましたが、旦那は蜘蛛《くも》の親分様じゃ御座いませぬか?」
唐人が振り返ったが、ぎょろりと目を光らせた。
「どうして、わかった?」
「へい、そりゃアもう、お人柄といい、また先程ちらと拝見させて頂きました御立派な刺青《いれずみ》は、たしかに女郎蜘蛛《じよろうぐも》の肢《あし》……御評判だけは、とうから存じておりました」
「むむ」
憂鬱にうなずいて、
「油断もすきもならねえ奴だ。だが、他言は一切無用だぜ」
「そりゃアもう……心得ておりまする」といったが、もしやと思って挙げた名が意外に|ほし《ヽヽ》をつらぬいていたことには、唐獅子も驚いていた。
(このひとが……)と今更のように感心もし、これまでに数倍して恐ろしくもなった。
蜘蛛の陣十郎なら名うての大名荒しの賊、九州浪人で腕は出来るし度胸はよし、やり口の水際立《みずぎわだ》って大胆なことと、上役人の躍起の追跡をものともせず神出鬼没の働きを示していることから、こういうことが好物の江戸っ児の人気を少なからず集めていた男だ。一時さかんに売れた読み売りの一枚にも、ものものしい大名屋敷の屋根の上で、肢《あし》の長い女郎蜘蛛の上に立って印《いん》を結んでいる物すごい浪人姿を書いて陣十郎が山の手のさる大々名の屋敷へ忍び込んだことを利《き》かしてあった。これは勿論禁止になって何でも版元《はんもと》が手錠《てじよう》をはめられることになったそうだが、それを見ても、陣十郎の人気の程は知れる。
その男だ。
唐獅子は、急に先刻《さつき》見た槍の突き傷にも思い合すものがあった。去年の冬の大雪の晩、陣十郎が小石川の水戸の屋敷へ忍び込んで、塀を越える際下から近侍《きんじ》が突き出した槍を受けて、雪の上へ血をたらしてどこへか逃げたと次の朝やかましい噂が立ったのを覚えていたのである。
その後、この大賊の消息を聞くことがなくなった。その晩の傷がもとで死んだと説を立てる者も出て来た。間もなく、例によって世間の記憶から拭《ぬぐ》い去られてしまったのである。その蜘蛛の陣十郎が達者でいて、しかも耳の垢取りの唐人にばけて、人の雑沓する辻に平気で立っていたとは、まことに驚くべきことだった。
世間がそれを知ったらどんなに驚いて、ひと頃に幾倍した熱狂を示すことだろう……と、ひそかに考えて唐獅子が愉快になっていた時、陣十郎が立ち止った。
「気の毒だがな……」という。
「へい」と答えると、
「手前《てめえ》の命をくれ」
「…………」
ぎょっとして、相手の顔を見た。何でもないことをいっているように淡々とした言葉の調子が、その意味する恐るべき内容と違い過ぎていて、まこととは思われなかった。
「ご、ご冗談を……」
「冗談じゃねえ。真気《ほんき》の話だ。いいか、おれを蜘蛛と見抜かれて、手前を生かしとけねえぐらいのことが、わからねえのか?」
「もし……そ、そりゃア……あ、あんまりで御座ります」
他愛もなく、こちらは慄え声になった。折悪しく場所は、月が照っているとはいえ、人家に遠く他に誰もいない原っぱの真中だった。
「昔から下郎《げろう》に口さがないのは極り文句。手前がおれを蜘蛛の陣十郎と知って、だまっていられないぐらい、ちゃんと見とおしなんだ。おれの尻尾を握った気で、さぞかし好い気合でいるだろうが、こちらにとっては大の迷惑、棄てて置けねえというものだ。得物はおれが支度して来た。どっちでも好き勝手にえらんで、斬り込んで来るがいい」
言葉なかばに、間の地面にからりと投げ出されたのはどきどきするような匕首《あいくち》が二本、月にあおざめて、草の上にきらりと光る。
「親方……そりゃア大丈夫だ。おいらに限って、そんな……ねえ、堪忍《かんにん》しておくんなさい。決して、他へ洩らすようなことはしませんや。親方……」
「…………」
「まったくだ。ねえ……こ、こいつアおしまいなすって。……おいらア齢《とし》をとったお袋も御座りますし……」
それまで、腕を組んで銅像のように身動きもしないで立っていた陣十郎が、これを聞くと、ぷッ……と、ふき出した。
「お袋……変なものを持ち出したぜ。手前のようなやくざな奴が、たまにアお袋のことを考えることもあるのか? ふふ……」
「拝みます。拝みます……」
陣十郎が自分に向けているひややかな目が恐ろしくてたまらなかった。唐獅子は、実際に手をあわせて、拝んでいる。つめたい脂汗が額ににじんでいる。
その様子を暫く見ていたが、
「嘘はいわねえな」
「へ、へい……」
「よかろう、我慢してやろう、その代り、おれが、どんなすごい人間かよく覚えて置け。この約束を破ったら牛王《ごおう》のたたりより恐ろしいことになるのは承知だろうな。いいか……」
「へ、有難う存じます。有難う存じます」
蜘蛛の陣十郎は無言で、地にかがんで匕首を拾い上げたが、それをふところへしまい込んだ同じ手で財布《さいふ》を出して来た。
「さ、これをやる」
「へ、へい……」
「もういいから、行け」
唐獅子は、ぺこぺこ頭をさげて離れて行った。
陣十郎も歩き出したが、何か深い思案の重荷を負っているようにのろい歩き方だった。
と、立ち止って、
「うむ」と、頷く。
それからにわかにすたすたと急ぎ足になって家とは逆の方角に姿を消した。
蜘蛛の陣十郎は、例の犬医者丸岡朴庵の妾宅の付近まで来て立ち止った。夜も深く往来には、ただ月の光と影とがあるばかりである。陣十郎は、朴庵の妾宅とは逆側の黒い板塀に身を寄せて、暫く左右を眺めていたが、人の来る気配のないのを見て、急に身をおどらせて塀の上によじあがりながら、内側へ飛び降りた。まるで猿のように身軽い動作である。
二、三分後には、この家の奥の一間に入って主人らしい三十がらみの、前身はそれ者《しや》と思われる垢《あか》ぬけのした女と、行燈《あんどん》を隔ててうちくつろぎながら話していた。
「真逆《まさか》と思っていたが、油断は出来ない。とにかく、いやに利《き》いた風にぬかしゃがるので、つい年甲斐もなく、おどかす気になったンだが……例の刺青《いたずら》を見られて、とうとう化《ばけ》の皮がはげてしまった。は、は……」
「それじゃア、お前……」
女が、憂い顔でいうと、
「なアに、そこは存分おどかして、よくだめを押しておいたから、三日や四日はうかとしゃべることもなかろう。どうせ、けちがついたのだ。この髯《ひげ》ともいよいよお別れだ」
こういって部屋の隅に立ててあった鏡の前へ行って、髯を撫《な》でながら、鏡の中で豪放に笑って見せた。
「かみそりは?」
「あ、こちら……」
女は、裾長く立って行って、戸棚からかみそりを出して来て渡したが、直ぐと、茶碗に鉄瓶の湯をとって、持って来る。
陣十郎は、その湯でひげをしめして、惜し気もなくかみそりをあてはじめた。ふけた夜の静寂《しじま》にじょりじょりと寒いような音をたてて、髯は落ちて行く。
「じゃア、これから旅へお出なさるのかい?」
女は覗きながらいう。
「さア、そいつは、まだ、どっちともきめないが……何しろ隠れるなら江戸に限る。他国へ行けば、並の人間でも人目につき易《やす》くなるからな」
「なら、この家においでな」
「うむ、おれも、その気でいる」といって、また急に何か考えたらしく、
「前の家はその後どうだ?」
「相変らずさ」
女も、意味ありげに、にやりとして、
「でも可愛いやね。まったくの忍ぶ恋路なんだもの。それに二人とも、若くって、ほんとうに絵にしたいように綺麗なんだものね」
「冗談じゃない。犬のお医者の身になって見ろ、まったくこりゃア飼犬に手をかまれたという奴だ……は、は……あ、切った!」
「それ御覧な。あぶないじゃアないか。たくさん?」
「なアに……ちょっと、引っ掛けただけだ。しかし……おりゃア悪いことを言ってしまったよ。つい口を滑《すべ》らしたンだが、前の二人のことを今夜の奴に話してしまった」
「あら……罪なことをするじゃないか?」
「うむ……だが、どっち途《みち》、今のままではいられない二人だ。これをしおに、きれるとも逃げるともきっぱりした方が身のためだろう。いずれ、こっちから顔を出して話だけはしておいてやろう。余計なことのようだが、おれがしゃべったばかりに可哀想な目にあっても気の毒だ。おお、何か寝間着を出してくれ」
髯は綺麗に落ちて、青い丸いあごを指の腹でなぜて、剃り残しはないかとみている。
「髪は、あした、お前に直してもらうことにしよう。今夜は流石《さすが》にねむい。床は敷いて置いてくれたろうね」
こういいながら、後ろで箪笥《たんす》をあけている女の方を振り返って見た顔はもう耳の垢取りの唐人一官ではなかった。
「何を考えていらっしゃいますの」
お千賀の、こういった声を聞きその手がやさしく置かれるのを膝に感じて、隼人《はやと》は急にそれまでの屈託を破られながら、
「いや……なに……」と、微笑に濁らせた。
絹行燈のやわらかい光は酒にみだれた部屋の有様を照らし出している。
「つまらぬことだ。ただ縁ということが、ふと考えられて、つくづくと不思議な心持がしたまでだ……」
お千賀も豊かな顔を笑《え》ませた。
「それなら、いいんですけれど、妾《わたし》、もしか、あなたがおいやになったのかと思って……こんなことに成ったのを御後悔になっていらっしゃるのでは御座いますまいね……」
「後悔?」
隼人は、笑った。だが、その笑顔は、蔭につつもうとしていた本心を裏切って、妙に力弱く見えはしなかったろうか?
「何も後悔することはなかろうではないか……」
急に弁解するもののように、こういい足した。
「こうなるように出来ていたものであろう。なるようにしかならぬのが人間であろう」
「妾《わたし》も、もとはそう思っておりましたの。でも今は、……ほんとうに自分が倖なのだという気がしていますの。もう何時《いつ》死んでも惜しいと思いませぬ」
お千賀は、声に火を含んでいた。漠然と待っていたものを、はっきりとつかんだ時の歓喜が、からだを燃やしている。烈しい感動が絶えず波のうねりのようにこみ上げて来て、体をじっとしていられないような気持にさせていた。
隼人はこれと違っていた。
(これだけのものか!)とそもそもの最初から感じられた。
もっと何かあるような気がしていたのだ。今日で四日になる。この、不満は、癒《い》やされることなしに却《かえ》ってひろがって来ていた。この心の裂目を風が吹いてとおる……日の目を見ない草の葉のようにしらけたものが、かさかさに胸に詰っている。
暗い。
鉛のように重い心持だ。沼だ。曇り空の下にまどろむ泥沼だ。降らず照らず動かぬ空だ。さッ! と天地を覆《くつがえ》して降る雨がほしい。
こんなでいて、ほかに、もっと明るい朗らかな生き方を考えられないとは、みじめなことだ。追い詰められたのだ。一歩、一歩、暗い梯子段を降りて来たわけだ。といって、上へ引き返すわけには行かない……
「もしものことがあったら……」
お千賀は、一尺とはなれないところに凄いくらいにひき締った顔を近寄せて隼人の顔を差しのぞきながらこういった。蛇のようにしなやかな腕は、もう再び解けまいとするものの如く男の首にからんでいる。
「どうなさる、おつもり?」
乾いた声だ。
隼人も重苦しくくちびるを動かした。
「私にはわからない! それは、その時のことだ。……私は、元来そんな男なのだ」
自分をあざけるような口吻《くちぶり》でこういって強《し》いて笑顔を作った。手は働いて、杯《さかずき》を取り上げている。お千賀の顔は動かなかった。ただの一度に血の気《け》を消して紙のように白くなった。
「その時、もし妾を棄ててお逃げなさるようでしたら……」
息を喘《あえ》いで、こういった。涙が顔に輝いた筋をえがいて落ちた。
「殺すか?」
隼人は、急にこう叫んだ。そして荒々しく、両手にはさんでお千賀の顔を起しながら、じっと、その上に目を据えた。兇暴な笑いが腹の底からゆり上げて来ている。ただ、五寸と離れないところにあるお千賀の顔は、かすんでおぼろに白く見えただけだった。涙は、隼人の目にも光っていたのだ。
「お千賀! おい!」
突然意外にも朴庵の声で庭からこう叫んだ。
はっとした。
まったく不意のことだった。また心の油断から、あまり暖かい晩なので、階下《した》は、まだ確か雨戸をすっかり締め切ってなかった。
「おい!」と、二度目に朴庵の声は屋の内に聞えた。お千賀も隼人も思わずうろたえて、立ちかけた。隼人はいざとなった際の女の度胸をはじめて知った。お千賀は急に行燈《あんどん》を吹き消したのである。しっとりと厚ぼったい春の夜やみが、このひと間から廊下に流れた。
隼人は一段一段と暗い階段をさぐりながら登って来る朴庵の足音に耳を立てながら、このやみの中でお千賀が急に自分の腕をつかんだのを知った。肉の厚い、やわらかい手である。ただかすかにふるえているのは是非もない。
「ころして……殺しておしまいなさい……」
熱にうかされたような低い声が、息をはずませて、耳もとで、こうささやいた。
隼人は、お千賀のいった意味を悟ると、電気にうたれたように愕然として、その刹那に何とも名状し難い恐怖が突っかけて来るのを知った。
「灯をつけろ!」
重苦しい声でいった。
その声を聞きつけたらしく、朴庵はぎょっとして廊下に立ちすくみながら、
「誰れだ!」という。
さすがに返事に詰ってこちらも無言である。
「誰れだ、誰れだ!」
朴庵は、子供のように足ずりして叫んだ。こわいこともこわいがお千賀の部屋にしかも灯を消して他の男がいると知っては、血がわかずにはいられなかったのだ。
「待て、今、あかしをつける!」
隼人は、はじめて、いつもの冷やかさに戻って、こう答えた。
朴庵は、あまり平気でいる相手に、度胆《どぎも》をぬかれて、暫く口がきけなかったが、お千賀もいるに違いないと思うと、憤然として叫び出した。
「お千賀! お千賀はいるのか?」
お千賀は、無言で灯をともした。もう、どうにでもなれと思っていた。
灯影《ほかげ》は、部屋の内にあるもの総てを明るく浮き上らせた。
「あッ!」と叫んだのは朴庵である。朴庵は、隼人の顔を忘れていなかった。腑甲斐《ふがい》なく崩れようとする膝を押えて思わず立ちすくむ。
お千賀は、行燈の脇に坐ったまま、石になったような冷やかな姿でいた。袖口から、白い腕がぬけ出して、ほつれたびんを直しにかかっている。
隼人は隼人でさすがにいう言葉もなく気まずく無言でいた。ただ(いよいよ落ちて来たな)という考えが頭のどこかにあった。沼の泥に足を踏み込んだように、一寸二寸と泥に食われて行く自分である。
が、この無気味な三すくみの状態を破って、朴庵が先ず動いた。
「泥棒だッ!」と、急に叫びながら身をひるがえして逃げようとする。
隼人も立ち上って、猶予なく廊下へ出た。
その時すでに梯子段の降り口まで行っていた朴庵が足を踏み外《はず》したらしく、ど、ど、ど、どッと凄じい音。
「助けてくれッ!」
下で、尻餅を突いたまま、また叫ぶ。
隼人は、狼狽した。これも突き飛ばされたように朴庵の後から梯子をかけ降りた。
「泥棒だア! うわーッ!」と、また聞えた。
無論、隼人は朴庵を殺しに行ったものと思われた。しかし、お千賀が上からのぞき込むと、はいずり廻って逃げる朴庵の後を追おうともせず、隼人がまっしぐらに外へ出て行くのが見えた。
「あ!」と思わず口走る。
その刹那に全身の血が凍ったような心持がした。それが過ぎた時、烈しいめまいがして、お千賀はぺッたりと梯子の中段に腰を落していた。まるでつむじ風の真ん中にすわらせられたように、そこらにあるものがぐるぐると烈しく廻っている。自分が腰かけている梯子さえ、うねりながらむくむくと宙に浮いて上からかぶさって来るように思われた。
隼人が門まで駈け出て行く間に、もう朴庵の声を聞きつけたと見え、隣近所で人の騒ぎはじめた気配がした。
猶予なく、外へ出て、足にまかせて歩き出す。途端に、その辺に人間がいると気がつかなかった場所から急に呼び止められた。
「おい」
ぎょっとして、ただ一撃と身構えた。
声の主は、かたわらの板塀にあった木戸を細目にあけ、目だけのぞいているのだった。
「なに、心配はないものだ。かくまって進ぜよう。滅多に歩いては却《かえ》って危ういというものだぜ……」
低い声だったが、たよって大丈夫のように聞えた。また何事もこうなっては、まったく運賦天賦《うんぷてんぷ》だ。
「かたじけない」といって、その木戸から入る。
内にいた男は直ぐに戸の桟《さん》をかけて振り返る。見れば四十がらみのかっぷくのいい商人《あきんど》ていの男で寝間着姿でいるのは、この家の者で騒ぎを聞いて起きて来たらしい。これが稀代《きだい》の大盗|蜘蛛《くも》の陣十郎《じんじゆうろう》だとは、もとより隼人は知るよしもない。
塀の外には、もう、ばたばたと人の駈けて来る足音がしている。まったく間一髪《かんいつぱつ》のところだったのだ。
陣十郎は振り返って隼人を見た。
「まさかこの家に隠れたと思う者はあるまい。親船に乗った気でいられるがよい。さ、こちらへ……」
あきんどにしては威張った口のきき方だ。そればかりではない。賊と知っていてなぜ自分をかくまおうとするのか……隼人は、亭主の後から歩き出しながら、ますます怪訝《けげん》に考えずにはいられなかった。
庭石を踏んで、すこし歩くと、勾配のゆるい屋根が月をあびて白く光っている。小ぢんまりした平家建で、今この男があけて出て来たところと見え、雨戸一枚があいていて、そこから漏れて来る内の灯影が前栽《せんざい》の植えこみの一部を明るくしている。
「お柳《りゆう》!」
陣十郎が低い声で呼ぶと、家の内で人の立ち上る気配がした。
「お連れ申したよ」といって振り返って、
「さあ、あがりなさい」
隼人が内へ通って見たのは、富裕な商人の隠宅にふさわしい座敷だったが、床も調度の類《たぐい》も閑雅《かんが》というのに近く、住む人のゆかしい心栄《こころば》えを匂わせていて、隼人にいよいよ狐につままれたような感じを与えた。
妾《めかけ》らしい、櫛巻《くしまき》の姿の美しい女が、たばこ盆や茶を運んで出て来る。
「さ、おたいらに……」と亭主にいわれたが、隼人はあんどんの前へ坐ってはじめて一途《いちず》に面《おも》はゆく思われて、膝を固めて坐ったまま顔をうつ向けているのだった。
「姓名の儀はお許し願い度い。穴あらば入りたき心持で御座る」
「いや、いや……」
亭主の陣十郎は、いそいでこれを制して、
「若い内には誰にもあることだ。左様なことをわれわれに御斟酌《ごしんしやく》なさることはない。実は一度は通った道で、御様子を知って蔭ながら御心配申し上げていた位。まず、それはそれとして、今夜はゆっくりやすまれて、何かのお話は明朝にでも承《うけたまわ》ることにしましょう。まず、御自分で御思案になるのが第一じゃ。私で役に立つことがあるなら、無論御相談にも乗りましょう」
「したが、賊の拙者《せつしや》をそれまでに……」
「何、……賊……とおっしゃる?」
陣十郎は、はじめて腑《ふ》に落ちぬ様子を示してじろりと、この若い客の顔に目をそそいだ。この部屋の静けさにひきかえて外では、役人も来たらしく、がやがやと何となく騒がしかった。
丸岡の妾宅では、声をあげて助けを呼んだ朴庵でさえ予期していなかったくらいの騒ぎになっていた。隣近所から人が駈けつけて来たばかりではなく、様子を知って町方《まちかた》も提灯《ちようちん》をつけてやって来て、直ぐと手配をする。まるで蜂の巣を突ついたような騒ぎだった。
最初の内あった恐怖も過ぎて、朴庵はただうろうろしながら今更のようになるべく穏便《おんびん》に事件を済ませたいと考えて、役人連の問いにも、ただ押し込みが、女ばかりのところへ入って来たもので、折りよく自分が来たために何も取らずに逃げたと答えるようにしている。それというのも自分の現在の世間での地位を考えて、お千賀の不始末を出来るだけかくして置かなくてはならないと思ったからだ。
お千賀は二階から降りて来ない。
朴庵もそれからそれと来る見舞客や役人への応待をせねばならず、まだ二階へあがる閑《ひま》がない。他人《ひと》と話している間もお千賀のことを考えると、嫉妬やら怒りやらで頭がかっと熱を持って来て、いうことも、ついとんちんかんになってしまった。
だが、二階でお千賀があんまりひっそりしているので、その内だんだんと心配になって来た。
「おい、婆や、二階に行っていてくれ!」
町方の者と話しながら振り返って怒ったような権幕でこういった。この婆やも無論同罪と見ていた。
婆やはあがって行ったが別に、大きな声を立てる様子もなかった。先ず短気なことを考えることもなかったなと、安心もするし、またこんなに心配せずにはいられない自分に腹が立った。これでは、甘いといわれても仕方がない。
(ともかくも、一応厳重にいいきかせて、よく将来を戒《いまし》めなければならぬ)と思った。
間もなく町方の者は、朴庵のいつもの術《て》で、袖の下を使われて、何か事情がありそうだと怪しみながら深くききもせず帰った。
朴庵は、自分で出て行って、門に閂《かんぬき》を差してから、人々が帰って行って急に風の落ちた後のような静けさに返った庭の真中に立った。いつもと同じ晩である。高いところにおぼろ月がある。暗い繁みは、もの静かな夜気を呼吸している。
朴庵は、垣根のそばへ寄って、それまで我慢していた小用《こよう》をたした。下腹部にあったこわばったような感じがだんだんと気持よく解けて行くのを味わいながら、仰いで空の月を見た。
その時、ふと、別に意味もなく、
「やれやれ……」と口から出た。
体を軽くすると一緒に心持もいくらか軽くなったようである。存外自分が落着いているのもうれしかった。
しかし……話は、これからだった。
二階を見ると、きちんとたてた雨戸の上に月がひさしの影を静かにしるしている。お千賀も婆やも何をしているのか相変らずひっそりと音をたてないでいるのだ。
(婆やは無論出してしまう)
第一に、こうきめた。
では、お千賀は?
この問題なら、朴庵はいつの間にか解いていた。今も、お千賀はその最も誘惑的な姿をして朴庵の脳裡《あたま》に浮んでいた。土用波のうねりうねりを乗せたように情欲の嵐に動かされている白い身体である。その美しさは、他のどんな欠点をも補って余りあるであろう。
また、何事につけ堪忍《かんにん》ということはあまねく世渡りの鍵だ。これがあって出世も出来れば金も出来る。いわんや、総ての生物の中で最も御《ぎよ》しにくい女を扱う上には殊に大切な覚悟がこれだった。
(そうだ。何事も、堪忍、堪忍!)
朴庵は、そうでなくとも、もう軟化していた自分にこういいきかせながら、家の中へ入って梯子の中段で、えへんと声高に咳《せき》ばらいしてから二階へあがって行った。
歩一歩
内匠頭《たくみのかみ》は、上野介《こうずけのすけ》のことを考えるのはそれだけで不愉快になるので、努《つと》めて考えまいとしていた。しかし、この努力は、上野介に対する不快な気持を却って募《つの》らせた傾きがある。考えまいとすればする程、上野介のしわだらけの額が目にちらついた。あの、老人とは思われぬほど精悍な、よく動く大きな目が、絶えず、自分をあざけり笑っているような気がして、いらいらせずにはいられなかった。
しかし、この度の役目は重い。私情に走って万一のことがあっては、家の大事となる。短気は破滅の基《もと》である。
内匠頭は、何事も堪忍しようと思った。
しかし、こういう、平静を欠いた心持で、やがて、いやでも上野介と接触しなければならなくなるというのは、不幸でもあり不安のことでもあった。
三月十一日が来た。
勅使|柳原 前大納言 資廉《やなぎわらさきのだいなごんすけかど》、高野中納言保春《たかのちゆうなごんやすはる》、院使|清閑寺《せいかんじ》前大納言|熙定《ひろさだ》の三卿が江戸に着いて、旅館伝奏屋敷に入った。
内匠頭は、上野介や左京亮《さきようのすけ》等係の者と並んでこれを出迎えた。
上野介は、今日こそ晴れの場所というように威儀を正して、見た目に流石《さすが》とうなずかせる堂々たる態度でいた。すべて人も物も、その本来の位置についているのを見るのは、眺めていて感じがいいものである。今日の上野介がそれだった。
儀式のことは、高家《こうけ》代々の職分とはいえ、丁度水を得た魚のように、ここは私の領分だと充分の自信を以て動いている様子は人々にいうばかりなく安心を感じさせるし、また、流石数代の洗練を経て磨き上げられて来た格式にかなった動作は見る目に非常に心地よく感じられた。実際にこの瞬間の上野介は、その卑小な性格を考えられないほど一挙一動に完全な形式の美しさを示して、平常とは見違えるくらい厳《おご》そかな姿で座を圧して見えた。
上野介も、それに気がついて得意でいるらしく、ひどく機嫌がよい。内匠頭が幾分不安を感じていたような悪意のあることはしそうにも見えず、内匠頭へも何かと指図するし、ただ一途《いちず》に遺漏《いろう》ないように努めている様子だった。
が、椿事《ちんじ》は意外なところから起った。
上野介が書院に入って見ると中に墨絵の屏風が立てつらねてあった。狩野法眼元信《かのうほうげんもとのぶ》の描いた竜虎である。
「これは?」
上野介は、立ち止って、こう叫んだ。
「これは、いずれからの品だ?」
その声には、意地悪い怒りがこもっていた。
折りからそばに控えていた番士が怪しみながら、
「浅野内匠頭様から……」と答える。
「何、内匠頭?」
上野介は顔色を変えた。
「怪《け》しからぬことだ! 御公儀第一の大礼に墨絵の屏風とは不覚千万、早々取り替えるようにいわっしゃい」
こういいながら、思わず手に持っていた扇子《せんす》で屏風を打った。上野介は、これまでの上機嫌な状態が急に損《そこな》われたような気持がしていらいらしたのだ。
そこへ内匠頭が知らせを聞いて、いそいで駈けつけて来た。先日からの不愉快な行掛りのある二人が、この小さい事件を機会として、面と向い合ったのだ。内匠頭の神経質らしい蒼白な顔を見た刹那に上野介の胸に、その行掛りのことがにわかに浮き上って来て、不快の度を二倍三倍に加えた。
屏風は直ぐに取り替えられた。
上野介の態度は、はたから見ても、無法に思われた。ただ尋常に間違っている点を注意するだけで済む話だったのである。それを声高にいいののしって、まして扇子で屏風を打つまでのことはなかったのだ。
内匠頭は、覚悟していたことがとうとう来たなと思われた。相手は明らかに自分に悪意を持っている。漠然と抱いていた予感が、今はいやでも動かすことの出来ないはっきりとした形をとって来ている……
内匠頭は、家来達には何も告げなかった。何事も自分一つの胸におさめて最後までじっとこらえているほかはないと思っていたのだが、心持は自然と顔色に出る。家来達は、主人が、烈しく動揺している心持を沈痛な微笑の裏に隠しているのを知って自分達でどうにも出来ないことだけにはらはらしていた。悪いことはこうして、一部の家来達までが、いつか神経過敏な状態に置かれたことだった。
第二の事件は、この間に起った。
同じ夕方のことだ。
安井彦右衛門があわただしく御前へ出て申し上げた。
「不審の儀が御座りまする。伊達様においては御宿坊のお畳替《たたみが》えをなされました。しかも、これは上野介殿御指図とのことに御座りまする」
「何?」と内匠頭は額をけわしくした。
「左様なことはあるまい。そのことについて過日上野介殿に尋ねて、障子壁等の破損は修復の要あるも、畳は破れておらずば表替《おもてが》えに及ばぬとの指図ではなかったか?」
「仰せに御座りまする。然しながら、伊達様へは表替えをせよとの御指図に御座りましたとか……」
「上野、われをたばかりしか?」
内匠頭は、面に朱をそそいで、こう叫びながらくちびるをかんだ。
まさかそれまでの悪意は……と考えられたが、伊達家が表替えをしたとすれば、上野介からの指図があったものであろう。さらば、こちらは、わざと失態を演じさせようための嘘言《きよげん》。勅使院使が上野寛永寺から芝増上寺へ参詣になる折、御休息になる宿坊の準備、大切に心得てわざわざ指図を仰いで遺憾なきを期した。役目の上のことである。
(それを……)
何んたる醜陋《しゆうろう》な人間であろう。
(よし、これはだまっていられぬ。明日は面と向うて詰問してやる!)
が、宿坊の準備下検分は明日と定められているのだ。何んとでもして、それまでに畳の表替えをすまさねば、役目の落ち度、猶予はならなかった。
「彦右衛門、早速にこよいの内に、手配せよ」といら立つ。
「さ……」
彦右衛門は当惑せずにはいられなかった。宿坊の畳は二百枚を超《こ》えた数、今という今になって、夜の中にその全部の表替えをせよなどとは、殆ど不可能な事である。
「恐れながら、それは……」
「かなわぬと申すか?」
「殿!」と、叫んで、畳へ手をついた者がある。用人片岡源五右衛門である。
「源五右衛門か?」
「は、はッ!」
「頼むぞよ」
「勿体《もつたい》なき仰せ……」
源五右衛門は涙ぐんだ。
「恐れながら御安堵なされませ。……安井殿、猶予はなりませぬ」と、安井を引き立てるようにして立って、お次へ退く。間もなく屋敷の門を開いて、家臣の面々が夕闇の中へ八方に散って、手の届く限り畳|刺《さ》しを狩り集めて来た。
宿坊、観智院《かんちいん》の庭には、昼間のように明るく高張り提灯《ちようちん》をともした。
「たのむぞ。是非ともこよいの中に!」
源五右衛門はじめ家中《かちゆう》の者がつきそって必死に督励して廻る。あたかも戦場のような有様になった。
集まった畳屋達も、いつか家臣達の熱心に動かされるようになった。提灯の灯を受けて、きらきらと光りながら針はいそがしく動く。明るいのは手もとと身のまわりだけで、頭の上にはおぼろ月が次第に西に傾いて行くのが暗い松が枝《え》越しに見える。
侍達は時折、月の歩みを空に見て、暗い額をあわせて、ひそひそとささやいていた。
「百三十畳……あと八十畳ばかり。もうひと息だ、たのむぞ」
「褒美《ほうび》は望みどおりとらせる!」
月は落ちた。
空も、人の心も、暗い。
間もなく、この空に水色がさして次第に明るくなることだ。それを思えば、寝ぼけがらすの啼声《なきごえ》にも胸の芯《しん》に今畳屋達がせわしく動かしている針が沈む心持。今は、「頼むぞよ」の口もきけず、たたずみながら息を詰めて針の運びを見まもっているのみである。
「三十畳!」
この声が電流のように伝わった。
空は静かにしらんで、星の光も色あせる。暁《あかつき》の風が、不眠の額にさわやかに触れた。
片岡源五右衛門は、腕を組んで、銅像のように身動きもせずに立っていた。しらじらとした朝の光が、その沈痛の表情をすこしずつ蒼白く浮かせて行く。言語に絶して切迫した心持が、見る者の胸をさし貫かずにはいない。それを、じっと押し殺して動かぬすがたはむしろ苦行僧のそれを思わせて森厳《しんげん》であった。
一つずつ、星は消えた。
空は次第に明るい水色を流して来て、近い木の枝に雀がさえずり出した。松のこずえをばら色の日が明るくけずる。
今か今か……と思われた鐘は、やがて一同の胸に撞木《しゆもく》をあてて鳴りはじめた。
「出来ました、あと一畳ずつ!」
「おお」
源五右衛門の表情がさっと動く。若い侍達は突っかけて来た火のように熱い涙の一滴をぐっと奥歯にかむ。
鐘は鳴り続けた。
今は勝利の歌だった。
「出来ました、出来ました!」
「御苦労、御苦労であった!」
源五右衛門は言葉すくなく答えて、
「あとのことは頼みましたぞ」と、つと、門を出て、待たせて置いた馬の背にのぼる。朝の途は白い。まだ大方は雨戸を閉ざしたままの町並を一散に馬を走らせながら、源五右衛門は、今五彩の雲の漂っている空へ乗り上げて行く心持だった。
屋敷に着いて馬を棄てて入ると、待ち構えていたように、家臣達が走り出て来て口々に様子を尋ねた。ここでも、涙を含んだ微笑が人々の顔をいろどる。
「殿は?」
「昨夜からお寝みもない御様子。お知らせ致しましょう」
寝所間近いところまで廊下を行くと、内匠頭の声がした。
「源五右衛門か!」
「はッ!」
源五右衛門は、静かにふすまの外に平伏した。
「如何であった。待っていたぞ」
「御安堵……遊ばされませ。仰せどおりに」
「むむ……うれしいぞよ」
「…………」
無言で、額を畳にすりつけていた。が、
「恐れながら……殿、何事も御堪忍遊ばされますよう……」
「わかっておる! わかっておる!」
内匠頭の声はうるんでいた。
「疲れたであろう。早うやすめ……余《よ》がことは心配はない……」
乗合舟
隼人《はやと》が「賊の拙者」といった言葉を聞いて、蜘蛛《くも》の陣十郎《じんじゆうろう》は、この若い浪人者の表情をさぐろうとするもののように無言で鋭い目を働かしていたが、構えていたまま燃え切った煙管《きせる》を膝に寄せた煙草盆でぽんとたたいて、
「そりゃア妙なお話ですねえ。そんなことをなさりそうにも見えないが……」と静かな口調《くちよう》でいって、
「は、は……なアる程、他人の女を盗んだとおっしゃる?」
「いや……」と、こちらは顔をあからめながら、
「ちと仔細《しさい》あって、不浄役人に追わるる日蔭者じゃ。長居はどんな御迷惑になろうとも知れぬこと。御親切はかたじけのう存ずるが勝手ながらそろそろおいとまつかまつろう」
「おッと……。そりゃア気が早すぎる。外じゃアまだあいつらが血眼《ちまなこ》ですぜ。素人《しろうと》のお前さんには、それを抜けるのは骨だ。ここを出て行かっしゃる時は、こちらで、ちゃんと出るようにして進ぜましょう。場合によれば道案内も致しましょうさ。……だがね、なンで、お前さんがそんなに世間を狭くしていなさるか? それが伺いたいねえ。お打ち明けになったところで、傍《わき》へ漏らすような人間じゃありません。御承知かも知れない。蜘蛛の陣十郎というのが、私さ。……」
「なに、蜘蛛の……」と思わず声を高くすれば、
「野暮《やぼ》な……声だ」と低くおさえて、にこりとした。
「その、陣十郎さ。お前さんよりもずんとあぶない橋を渡っている男だ。御心配ないというのも、それ。しつこいようだが、おいやでなかったらおまかせなさい。悪いようには、きっとしますまい」
隼人は、蜘蛛の陣十郎の名前ならばとうから知っていた。これは陣十郎の隠れ家であろう。妙な人間の厄介《やつかい》になったことだと思いながら、不思議と心安さを覚えて微笑した。
「お柳!」
陣十郎は振り返って妾に外の様子を見て来いといった。妾が出て行くと、促すように隼人の顔を見る。その間に隼人の覚悟も出来ていた。自分と鼻を突き合せて坐っている男こそ、自分がだんだんと追い込まれて来た闇の世界では王座にいて外の世間を睥睨《へいげい》している人物である。打ち明けて大事ないように思われた。
父親の遠島のこと、護持院に火をつけようとして失敗した事からはじめて、その後の流浪の始末を言葉短く物語って行くと、腕組みして耳を傾けている陣十郎はだんだんと愉快そうな表情になって来る。話が終ると、
「むむ、で、これからは? どうなさるおつもりか?」
「別して思案もなし、行掛りから手に掛けた上杉の家来の身寄りを探して、敵《かたき》と名乗って討たれようかと思うているが、それも気向風向《きむきかぜむき》。まず生きていられる道さえあれば、生きていたいと思うています」
「ふむ」と、また唸る。
陣十郎にも、この若い浪人者が一風変っていることは、わかった。妙な男だが、素直なところが感じがいい。
「面白い、こりゃアどうでしょう。気が向いたら私と一緒に暮してみませんか……実は、近頃ちともくろんでいる仕事がありましてね。そっちの方を片棒|担《にな》って頂けると有難いンだが……」
「それが叶えばしあわせ」と隼人は答えながら、いよいよ自分の生活が世間の裏にあるやみの世界に腰をおろすことになったと思った。順当な、世間の生活の軌道《きどう》からはとうに棄てられた自分だが、さてここまで来ようとはわれながら意外だった。
蜘蛛の陣十郎は、隼人の髪の形から衣類までそっくりかえて、若いすっきりした町人を作り出した。隼人は、この恰好《かつこう》で、陣十郎が支配している不思議な世界の一員となることになった。
「うむ、なかなかよく似合いなさる。誰かにちょっと見せたいね」
陣十郎が、こういったのは、無論お千賀のことをさしている。隼人は顔をあからめて、笑った。陣十郎がお千賀のことをいったのは、前後にたったこの時だけだった。隼人がお千賀との関係を、このままきろうとしていることは、様子から早くも見て取っていたのだ。
二人は次の朝暗い内に湯島をはなれた。
「だまってついて来なさいよ。誰に会っても口かずをすくなくしている方がいい」
筋違御門まで来る時分には河岸へ行く魚屋の威勢のよいすがたに夜はまったく明けはなれている。いつもと同じ朝である。ただ隼人は如何にも不思議な心持にとらわれていた。こうした姿で、旦那のお供の手代《てだい》という恰好で、陣十郎の後から自分が歩いていることさえ夢の続きのような気がしていた。これまで幾度か通ったことのあるここらの通りの眺めさえ他国へ来たような目新しい心持で眺められたばかりではない、自分の直ぐ前を歩いている十徳《じつとく》姿の男が稀代の大盗蜘蛛の陣十郎だということさえ、まるでうそのように思われる。むしろ、この男が支那の怪談によくあるような幻術師だと聞かされたら、その方が信じられたであろう。実際陣十郎が案内してくれた世界は世にも不思議なものだった。
陣十郎が隼人を連れて入って行ったのは、一石橋《いつこくばし》を渡って外濠《そとぼり》に向いた表通りに、間口《まぐち》五間ほどもある大きな呉服店だった。
「ここだ!」と、振り返っていわれた時も、隼人は、まさか、この家が陣十郎の隠れ家の一軒だとは想像もつかず、ただぼんやりと、小僧や手代が大勢で立ったり坐ったりして働いている活気のある店の様子を見ただけであったが、驚いたことには陣十郎が入って行くと、十人近くの手代や小僧が一度に迎いに出て来たことだった。
「お帰りなさいまし」
「いや、大分長く留守にしました」と陣十郎はいって、奥へ通じている土間を、つかつかと入って行って、山城屋《やましろや》と書いた暖簾《のれん》をくぐる。呆れながら、隼人も後に続くと、暖簾の奥には蔵《くら》の入口が二つばかりならんでいて、その奥が茶の間、丁度朝の食事をしていたでっぷりした男が振り返って見たが、
「や、こりゃア兄さん」と驚いたように立って出て来る。
「珍しいだろう。また厄介になりに来た。奥はあいているだろうね?」
「へえ、ちゃんと……掃除をさせてありますよ。もうそろそろおいでなさる頃と思いましてね」
「そうか、そりゃア有難い、おまんまが済んだら来てくれ。この男のことで頼みがある」
隼人は、話が自分のことになったから、つとめて町人らしく腰を低くして、その男に挨拶した。その間に陣十郎は、かたわらの戸口から庭へ出ていた。
隼人も続いて出る。
土一升金一升といわれるこの辺では贅沢な五十坪ばかりの庭に、下町好みでせせこましく曲りくねった松を植え、石を置き、池を作って燈籠《とうろう》もある。陣十郎が、草履《ぞうり》をぬいだのは、この庭を横切って、二階建の主屋《おもや》から渡り廊下をつけた離れ座敷。中二階で、数寄《すき》をこらした普請《ふしん》だった。
「さ、おあがり。ここが私の隠居所さ、それから今のがこの店を委《まか》してある人間で、表向きは私の弟ということになっているのだから、そのつもりで……」
陣十郎はでっぷりした男のことをこう説明した。
この隠れ家の窓の障子を開けると、忍び返しをつけた黒い板塀越しに外の路地が見え、遠く呉服橋御門の石崖が濠の水に浮んで見える。ところで、その青い松の蔭に見える屋根は北町奉行所。これと濠一つ隔てて蜘蛛の陣十郎の隠れ家があろうとは神ならぬ身の役人も気がつかなかったと見える。陣十郎の不敵なやり方は、総て、これだった。現に陣十郎がこうして乾児《こぶん》の者に表向き堅気《かたぎ》な店をやらせて世間を欺《あざむ》いているのは、決してこの石町《こくちよう》の太物屋《たんものや》だけではない。江戸の町の各所に散らばっていて、その在所《ありか》は陣十郎一人が知っているばかり、乾児達にもあかしてない。湯島の妾は石町の呉服店を知らず、石町の山城屋金蔵(これがでっぷりしたこの家の亭主の名だった)は陣十郎が唐人の耳の垢取りに化《ば》けて辻に立っていたことを知らない。陣十郎は巧みな変装で乾児達までを欺いて日本橋の呉服屋の隠居になりすましているかと思うと忽然《こつぜん》と姿を消して、深川あたりの茶屋の内所《ないしよ》に坐り込んでいるという風にまったく神出鬼没に、自分一人で不思議な世界を作り、その地理は自分だけが分るようにして縦横に活躍しているのだ。この家でもあたりまえなら自分が采配《さいはい》を振るところだが商人の癖に遊芸を好んで商売のいざこざが嫌いだというので店の方は一切弟にまかして若隠居同様の身の上、交際も趣味の同じ気楽人に限り、茶席をひらく発句《ほつく》に凝《こ》る、また自分で画筆も握る……というわけで金蔵以外の店の者も隠居が幾日留守になろうがまたはじまったくらいに思って、怪しんだこともない。また、陣十郎は鋭く知恵の廻る男で、どの乾児にも店の方は正直でかたい一方にきびしく取締っているから問屋筋隣近所の受けもよく、町人になり終《おお》せている者さえあるくらい。こうして隠れた不思議な勢力で今の世間の組織に食い込んでいて、自分のやみの中での活躍を巧みに塗りつぶしているのである。
「気が向いたら、この店で我慢していなさるがいい。ここなら安心なものだ」
陣十郎は、こういった。
隼人は、今更ながら、この男が持っている奇怪な勢力に驚いていた。堅気な生活をしようとすればいつでも出来る男ではないか? しかも求めて危険な生活をしているのは勿論必要からではない。世間とは行き方を違えたいとする幾分道楽からであろう。
それをいうと、陣十郎が笑った。
「道楽……さあ、そうだったかも知れませんな。しかし、もう倦《あ》いている。ひと頃のように世間で私の噂をしないことも御承知でしょう。齢のせいで、やきが廻ったせいか、もとほど仕事が面白くなくなりましたよ。ただ、昔からの念願で死ぬまでに一度世間があッと驚くようなことをして見たいと思っている。因果でしょう。それだけが願い。実をいえば、あなたと近付きになったのも、その底意があってのことだ。つまり、そいつを手伝っていただきたかったのだ」
「といわれるのは?」
「お城です。江戸城」と平然といった。
(なに、江戸城へ!)
隼人はあやうく、こう叫ぶところだった。
「盗人の虚栄でしょう。それと……天下様と思って威張りくさっている男の面《つら》が憎い。それから世間があんまり泰平すぎる」
陣十郎は、こういいながら、隼人にすすめるために静かな手つきで茶をかきたてている。余程由緒あるものらしい。古びて品のいい形をした茶碗は、外の薄日の色を肌に沈めて美しい。
「貴方の前だが、私は元来武士が嫌いなンだ。なぜ、町人より偉いのか、その理由《わけ》が今以てわからないでいます」
この言葉には隼人も頷くことが出来た。
呉服屋の隠居、また湯島の妾宅の主《あるじ》として見た陣十郎は、ただの市井《しせい》の好々爺《こうこうや》に過ぎないのだが、一旦やみの領域へ入ると、不思議な転身が行われる。この世界では陣十郎には望んで叶わぬことがないようである。いわば一種の魔力を働かせて、自在に、例えば人が話している天井裏でも影のように音をたてず歩くことぐらい平気でやる。また如何に厳重な錠前でもこの指にかかるとまるで風化した人骨のように、ばらばらと他愛なく解けてしまうのである。幾人かの乾児の統率のようなことは、この魔力を以てすれば、何の苦もないことだった。乾児達の陣十郎を畏敬していることは、その不思議な性格から来る人徳にも無論よることだろうが、一旦この親分から敵として憎悪せられた場合、国守《こくしゆ》大名の勢力を以てしてもその復讐の匕首《ひしゆ》を防ぐ手段はないものと信じていたからである。
同じ魔力が、今、堀田隼人に働きかけている。一両日後の雨もよいの一夜、当時神田橋内にあった柳沢出羽守保明《やなぎさわでわのかみやすあき》の邸内に隼人を忍び入らせたのも、陣十郎の不思議な魔力が然らしめたものだった。
柳沢出羽守は当時|若年寄《わかどしより》の上席、将軍の寵臣として柳営における勢力は殆ど飛ぶ鳥を落さんばかり、後一年にして松平の称号と将軍の諱《いみな》の一字を賜わり松平|美濃守吉保《みののかみよしやす》と改めたことは人の知るところだ。百六十石の小身《しようしん》から僅かの間に十五万石の大名になった異例の出世は、将軍の寵遇が如何に深かったかを示しているが、またこの人物が無類の才物だった証拠にもなる。その幸運をねたむ者、成上り者とひそかに蔑《さげす》む者はあってもそれは間接に出羽守の勢力を認めているわけで、その権勢|双《なら》ぶ者なき点は誰しも知っていた筈である。
隼人も、陣十郎が、柳沢の屋敷へといった時自分の耳を疑ったくらいだった。また陣十郎は如何にも何でもないことを話しているように見えたのである。
「手初めは易しいところからの方がいいから……こりゃアただの修業さ。物は盗らなくてもいい。あの屋敷を見物に行くと思うんだな。大きいところをやると度胸がつく……なアに自分で自分を偉いと思っている人間ほど油断があるンだから……相手は当時さかんの柳沢出羽、気楽なものさ」
実際、あたって見ると、嘘のように楽々とした仕事だった。
陣十郎と隼人は、神田橋内にある柳沢の邸内へ入って、暗い庭の一隅に先刻《さつき》からひそんでいる。
雨もよいの暗い空だが、見上げると、丁度芽ぶいた榎のこずえが薄く金泥《きんでい》をぼかしたようにぽうッと明るい。十日ばかりの月が、その辺の雲の後ろにあるわけである。
流石|驕奢《きようしや》をきわめた庭だった。ただ二人をこうして繁みの蔭にいつまでも止めているのは、客のある様子で奥殿についている灯影《ほかげ》だった。
「客が、好きな男だから……」
陣十郎は、薄くつぶやくようにこういった。
これは隼人も、かねて聞いていた。
この邸の主、柳沢出羽守は、いい意味でも悪い意味でも当世流なのだ。時代の潮にたくみに棹《さお》さして先走らず遅れず時流にぴたりと呼吸を合せて進退するところ、天晴《あつぱ》れ元禄男の魁《さきがけ》である。時勢の動きに対してはまるで磁石《じしやく》のように敏感な神経を持っており、また自らも新しい潮流の代表者を以て任じている。それというのも、今こそ大身《たいしん》となって双《なら》ぶ者なき羽振りを持っているが、その権勢の源《みなもと》が他の人の場合のように「過去」にない。先祖は無名、家柄もあまりよくなく、普通ならばずっと下積みになっていて、他の名門出の凡庸《ぼんよう》の徒《やから》に引き廻されていなければならなかった筈だ。それが出羽守の今日《こんにち》あるのは、一に将軍の寵遇によることだが、それを得たのは、自分が新しい時世の流にすぐれた選手だったからである。多分出羽守が古い勢力から、成上り者として蔑視せられていることも充分承知していたからであろう。出羽守は、今の地位を利用して、人心の収攬《しゆうらん》にはひととおりでなく力を入れている。味方に厚く、一旦敵と見た者は飽くまで蹴落《けおと》さねばやまないのである。今では出羽守の権勢は誰にも恐れられている。この、神田橋内の屋敷がひっきりない来客で賑っているのは、あまねく世間の知るところだった。主は隙《ひま》さえあれば快く客を引見《いんけん》する。えらいのは、出羽守が、誰にも他の者より自分が殊に主の信任を得ているような感じを持たせて帰す特殊の手腕を持っていたことだった。人々はそれを信じて、いよいよこの人に取り入ろうとするのである。
「出羽守を御覧になったことがありますか?」
隼人は、主の居間と思われるものから目を移して、こう尋ねた。
「そりゃアありますよ。お前さんは?」
「まだ……見たことがない。どんな人間です?」
「さア……」
一口にはいえないというものらしく、
「わきへよってのぞいて御覧なさる方が早い。窓があいているようじゃアありませんか?」
陣十郎は、笑いながら、こういった。
隼人も、笑いながら、繁みの間からそっと首をのばして、主屋《おもや》の方をのぞいて見た。
漁色家《ぎよしよくか》の将軍の歓心を買うために自分の娘ばかりではなく妻までおとりに使ったと伝えられた。また度々のお成《なり》を仰ぐ毎に趣向をかえて、ある時は邸内を吉原の揚屋《あげや》に仕立て、自分は茶屋亭主に仮装して綱吉《つなよし》をもてなしたとまで噂のある出羽守。どんな男か見たいものだが、賊に入って真逆《まさか》それも出来なかろうとおもっていると、そばから、
「行って見ようじゃありませんか?」と、いう。
隼人は、あきれた顔付だった。
「大丈夫ですか?」
「出来ないとお思いなさるか? いや、それサ、先方でもそう思っているのだ。だから出来る」
成程、陣十郎にも理窟はあった。
「貴方は、窓からのぞいて御覧なさい。私はあの部屋の天井《てんじよう》へあがって見せよう」
「…………」
「天井で、ことりと音をさせてみます、主が天井を見たら、私が、上にいるわけだ」
あきれている隼人を残して、蜘蛛の陣十郎は忽然と、姿を消した。黒い蝶のようにひらひらと木立の間を抜けて行くのが、空の薄あかりに見える。
何たる不敵な度胸であろう。
しかし、隼人も、否応なく窓の傍まで行って見なければならなくなった。
隼人は度胸を据えて、匍《は》うようにして繁みの下を潜《くぐ》って行った。
成程、窓があいて、灯影《ほかげ》が庭に落ちている。内に皺だらけの老人の客が、主人らしい男と何か話しているのが、遠くから見えた。
客も主も、何か興に入って笑っている。
隼人は、胸をおどらせながら、一歩一歩と繁みの底を匍って行って、そっと、首を持ち上げて、大丈夫と見てから立ち上った。
初めて、主の顔も見えた。
中肉の、ひきしまった顔立だが、ゆったりとした円満な表情で、絶えずかすかな笑いを口もとにただよわせて視線を話の相手から脇の一点にそらしている。
客は六十過ぎた老人で、細面《ほそおもて》の、年寄りに持前の無愛想な表情だが、よく動く顔を努めて動かして、主の機嫌を迎えようとしている様子がよくわかった。
(高家《こうけ》だな)
隼人の、この判断に過《あやま》ちなく、客は吉良上野介だった。
上野介ならば、柳沢とは、特別の関係を結んでいた。柳沢のとりまきの一人で、将軍御成の時など、部屋詰として大いに斡旋《あつせん》に努めるばかりでなく、高家の家柄から京都の事情に精通していて、柳沢の京都に関した方面では、各種の運動にいろいろ周旋《しゆうせん》して役に立っている。出羽守も、これを徳として、特に目を掛けてやっているわけだ。
隼人は、そっと天井を見た。
どこから入るつもりか知らないが、陣十郎がこの天井の上へ出て来ようとは、どうしても信じられなかった。だが、当人が、あれだけにいって出て行ったからには、もとより自信あってのことであろう。考えれば考えるだけ不思議な男だ。まったく蜘蛛のように、人のいる座敷へでも知らない間に匍《は》い込んで来るのだろうか?
今か、今か……と思われる。どうも気が気でない。
そこへ、ふと話頭を転じた様子で、主の出羽守の声でいうのが聞えた。
「時に、浅野はどうだ?」
「いや、まるでお話になりませぬな」
上野介は、必要以上に苦々しい顔付を作って、こう答えた。
「まことの田舎大名で……礼儀など、いささかも心得ないようです。武士はただ強ければよいと思っていられるのでしょうが……この度の御饗応掛《ごきようおうがかり》はちと役が勝ち過ぎました。師匠番の私など、余計、骨が折れます」
「むむ、そんなか?」
「左様、何事につけ、武士は、かようなことを知らずとも恥にならぬというやり方ですから……」
「そりゃア困るな、……まだ若い男だが、いつまでも元亀天正《げんきてんしよう》の夢を見ているものと見える。よくある奴だ。時世が違って来たことなど気がつかぬものか?」
「左様に御座りまするとも、治《ち》にいて乱を忘れぬのは、そりゃア大切でも御座ろうが、この泰平の御代《みよ》になれば別のこと、御公儀御威勢は、すべて文《ぶん》によってさだめられるもの……と私など、考えております。形式も、また一つの力、礼儀あっての御政道で御座りましょう。時勢にうといと申すべきか、つまりは野武士。これからのお役には立ちますまい。悪いのは、当人がそれに心付かず、逆恨《さかうら》みに、物のわかる人物を快く思っておらぬことに御座りまするな」
慨嘆《がいたん》にたえぬという口吻《くちぶり》である。
主の出羽守は、口をつぐんで、何か別のことを考えていたように見えたが、急に、目を醒ましたように上野介を見て、薄く笑った。
「構わぬからいじめてやりなさい」
上野介は主のいう意味が、よくわからなかったように茫漠とした表情を示した。実はよくわかっていたばかりではない、この言葉を心ひそかに先刻《さつき》から待っていたのだ。
「ほかの、頑固な奴等にも、よい見せしめとなるであろう」
出羽守は、こういったが、ふと何に気づいてか、注意深い顔付になって天井を見た。
外では、隼人が、はッとした。
主人の動作につられて、上野介も何気なく天井を見る。
途端《とたん》。
「何か音を聞かなかったか?」
出羽守は、こういった。
上野介は、
「いや、別に……」と答えて不安らしい目付をした。
外にいる隼人は胸騒ぎがしている。
突然、出羽守は、部屋の一隅に駈け寄って長押《なげし》の槍をつかんで、鞘《さや》を飛ばした。隼人は愕然とした時すでに、穂さきはぶつりと天井の一角をつらぬいている。上野介も仰天して立ち上った。手ごたえはなかったようである。だが、
「権太夫《ごんだゆう》!」
出羽守が声高く家来を呼ぶ声を聞いて隼人は万事休すと悟った。と同時に逃げる動作に移っている。
廊下を急ぐ大勢の足音を聞いて、あわてて、道を戻る。万一の時は別々に逃げようと、前に打ち合せが出来ていた。
最初忍び入った箇所を、よく覚えていた。それまで出て、ひらりと塀にあがる。
気のせいばかりでなく、邸内にも最早人の走り廻る音がしている。それを背後に、外へ飛ぶ。
ところへ、思いがけず、
「曲者《くせもの》!」と、暗がりからおどり出て組みついた者があった。はっとして、身を沈めざまどうと投げて、立ち上るところへ一刀あびせた。ばらばらッと駈けだす。
塀と海鼠壁《なまこかべ》ばかり並んだ屋敷町、夜は暗くひっそりしていて、駈けながら自分の息の音を聞くばかりである。
神田橋御門をそれて、道を東へとる。近くの濠《ほり》へ出て、水を泳いで、見付の外へ出るつもり。暫く行ってから追手《おつて》のないのを見て一枚ぬいで用意の町人風に変る。ぬぎ棄てた分の着物と刀をかたわらの天水桶《てんすいおけ》の下へ突っ込む。
蜘蛛の陣十郎はどうなったろう? 出羽守に、流石油断はなかった。これだけは陣十郎も、すこし甘く見過ぎていたようである。あれから、無事に逃げおおせたかどうか?
(むずかしいな!)と思われたが兎も角も、人のいる座敷の天井へ登って行くだけの珍しい度胸を持った男だ。案外、うまくぬけ出たかも知れない。
その間に行手に橋が見えた。
地形から、道三橋《どうさんばし》だなと気がつく。隠れ家のある一石橋《いつこくばし》へはもうあまり遠くない。すたすたと歩いて行くと、今度は、四、五人ばらばらと往来にこぼれて、はッと身構えた隼人を前後からつつんだ。
南無三《なむさん》!
と思ったが遅い。
「何者だ?」
一人がこういいながら、かたわらへ寄って来た。
隼人は返答の仕様もなく、側へ寄ったら抜こうと、ふところに呑《の》んだ短刀《たんとう》の柄《つか》をひそかに握りながら相手を見詰めた。
町役人ではないらしい。一人が消して手に持っていた提灯《ちようちん》の紋《もん》は鷹《たか》の羽《は》。隼人はその形から浅野家のものだと気がついた。なるほど浅野家が勅使の旅館伝奏屋敷の付近を警戒しているのに不思議はない。
(こりゃア悪い相手だ?)と急に悟った。
現に、相手は隼人の挙動を怪しく思った様子で、油断のない態度でいる。動けば抜き打ちに……の気合がはっきりとわかった。
隼人は抵抗を断念した。短刀を持っていても所詮この相手では無手《むて》と同じこと、無駄とわかった。
「名乗れ!」
真向から、こういわれた。
「御随意に」とわるびれもしなかった。
「何者だ?」
「お察しのとおりの賊、ただ姓名の儀は、たとい如何《いかが》なされようとも、おあかし申す訳には行かぬ」
浅野家の武士達は顔を見合せたが、足軽《あしがる》両名に隼人の腕を取らせた。
不思議な男だ。町人の姿をしているが、もとより武士あがりと見える。
萱野《かやの》三平、武林唯七《たけばやしただしち》、今夜の出役《しゆつやく》はこの二人、隼人に詰め寄ったのは三平の方で、唯七は、無言で提灯に灯を入れようとしている。
雨気を含んだ、しめっぽい風が火をつけにくくしている。
空は暗い。
灯が入ると、唯七は、提灯をかかげて、隼人の面をじっと見た。
(落着いた男だな)と隼人は見る。
唯七は、隼人には一言もいわず足軽達に曳いて行けというように指図した。
「あいや……」
隼人は急にいった。
「町方《まちかた》へお渡しなさる御所存か」
「もとより」きッとして、短く答える。
「然らば……その前に、お耳に入れて置きたいことがある。各々方は浅野家御家中で御座りましょうがな」
「如何にも」と、いって不審そうに見る。
「御要心大切じゃ。高家には柳沢の後押しがありまするぞ」
「…………?」
最初、あまり突然なことで、何の意味か解し難かったらしい。しかし、唯七は、直ぐと足軽をしりぞけて、改めていった。
「何のお話か?」
隼人は、柳沢の屋敷へ忍び込んで偶然聞いた密談の内容を物語った。
唯七は、最後まで黙々として聞いた。
いつわりとも思われぬ。多少予期出来ぬことではなかった。
暗い。
ぽつりと、提灯の上に落ちた。
「降って来たな」
すこし離れたところで、三平がこういっているのが聞えた。そのすぐ後で、やみの中に何者か大勢で来る気配が感じられた。隼人も唯七も、その方角を振り返って灯影《ほかげ》を見出しながら、柳沢の追手と咄嗟《とつさ》に直覚した。
「行かれい!」
唯七が急にいった。
さては逃してくれようというのだ。
「かたじけない!」
隼人は動きかけて、また立ち止る。
「失礼ながら、御姓名は?」
「武林唯七」
「堀田隼人」
その声はすでにやみの中から、かすかな足音を地に聞かせて忽ち姿は消える。
息をつく間もなく、案のとおりの柳沢の家中《かちゆう》の者が来て、怪しい人間を見掛けなかったかと尋ねた。
「いや、何者も!」
唯七は、銅像のように前に立ちふさがってこう答えた。
武林唯七とて、賊の言葉をそのまま受け取るということには躊躇《ちゆうちよ》を感じていたのだが、柳沢の家中から追手が出たということに、賊の言葉の半分がいつわりでなかったことはわかった。賊が今夜柳沢の屋敷を襲ったということは真実だったのである。
では後の半分は?
柳沢出羽守に、上野介を煽動《せんどう》するような口吻《くちぶり》があったということは? 事実とすれば容易ならぬことではないか?
「何ゆえ、今の者をお逃しになったか?」
萱野三平は、そばへ寄って来て、不審そうにこう尋ねた。
「われわれ役目に関係なき賊じゃ」
唯七の返事は、気重い響きを持っている。
それから無言で、巡視を続けた。
霧のようにこまかく降る雨に、提灯の灯は黄ばんで朦朧《もうろう》としている。空は相変らず暗くて、雲の去来がはやい。
唯七は、屋敷へ帰ると、直ぐ片岡源五右衛門に会って、始終を話した。
源五右衛門も暫く無言でいたが、
「武林、お身の他に誰々がいたのか? その人々も、話を聞いたわけか?」
「いや、話を聞きましたのは拙者一人、同僚にも申してありませぬ」
「それは、よく計らってくれた。軽率《けいそつ》に真偽をさだめ難いことだ。いわんや、出羽殿のような性格として、話のはずみから心にもなきことを口外されることもあろう。人あたりの好過ぎる人物だという」
「……したが、吉良殿がこのことによって増長せられるようなことは……?」
「ない……とはいえぬ。拙者も、それを恐れている。しかし、浮説《ふせつ》によって、家中の者の動揺を招くことは、吉良殿の増長慢心よりも憂うべきことだ。しかし、なあ……」
源五右衛門の声は曇る。
「殿に、これ以上の御隠忍をお願いすることは……ただただおいたわしい。おれもつらいのだ」
「…………」
「叶うことならば……」
何事でも、身をも命をも、といいたかったのであろう。が、語尾は、それまで抑えていた感動に嗄《か》れてぽつりときれる。
二人は、暗い額を合せて、無言でいた。
「は、は……」と、源五右衛門はにわかに笑った。
「これは、われ等からして、こんなことでは困る。総ての大事は、懸念から生れるものだ。お互いに自重しよう。ただ一心……あるのみじゃ」
唯七も微笑を以て答えて、立ち上った。
この家中を挙げての懸命な心持を、内匠頭も、はっきりと感じていた。自分が出仕の折玄関に見送る家来達の目に、一様にかれ等の主思いの心持がにじんで見える。
「そうだ、この家来達のためにも!」
如何な試練にも耐えようと思うのである。この頃の空のようにどこか落着きはなくとも、ものやわらかな光が心にあふれていた。
松の廊下
内匠頭は、例の畳の件を上野介にあった時一度はいってやりたく思っていた。最初は難詰したいくらいに烈しく考えていたのだが、家来の事を思うと自分の感情を抑えないわけには行かなかった。
自分では正当と思っていることを行為に移し得ないことは、まことに不愉快である。努めて平静にしていたいのだが不快の情はこの努力と並行して加わって来ている。内匠頭は自分の心持を糸にたよって宙にさがっている蜘蛛《くも》のように想像した、どちらにとまるともなく、しきりと左右にゆれているのである。これでは、いけないと思う。いら立つ心持をおさえるために無言でいることが多くなった。どこか、誰も人のいない所へ一人で行き度い気持がしている。自分のことを暗に憂えているらしい家来達の様子を見ても、済まないことだとは知りながら妙に腹が立って来ることがある。
御宿坊の検分の時、内匠頭は上野介に会った。例によってこちらを白眼で見ているように思われる。内匠頭はついだまっていられなくなった。ただ途中で気がついて、表面は慇懃《いんぎん》な調子を忘れなかっただけである。
「過日は、御宿坊掃除の儀御指南に預かりかたじけのう御座った。ただ畳の表がえはその儀に及ばずとの仰せであったが、伊達との振合いもあり、昨夜中にわかに手配いたし、漸《ようや》く今朝の間に合わせました。御検分を願いたい」
余人ならば顔をあからめ返答に窮したでもあろう。が、上野介は、何をいうのかというようにじっと内匠頭の面《おもて》を見詰めた。
内匠頭もじっと見返す。
非はおのれにある。流石に上野介は最後までとぼけとおすことは出来ずに臆病らしく目をそらしたが、その刹那にがらりと変って自分の弱味を笑い濁した。
「ふ、ふ、ふ……それは、それは! 流石《さすが》に御裕福な向《むき》は違いますな。いや、結構、結構じゃ……」
くるりと背を向けて歩き出しながら、あたりに聞えよがしの声で、
「兎角《とかく》それ、それ! 金で御座る、金じゃ、金じゃ……」
傍に人もいたことだ。
内匠頭は顔から火が出たように全身がかッとした。その冷めた時血相かえて拳《こぶし》をふるわせている自分に気が付いて、強《し》いて静かに立ち上った。人々が自分を憐れむように見ているのが、よくわかった。
「我慢! 我慢じゃッ!」と、思いながら、胸は煮えくり返るようである。
それでも屋敷へ戻ってから、よくあの無念をこらえることが出来たと思った。つくづくと、出来ない我慢だったのだ。案外自分の理性がたよりに成るように思われる。
まことに、この我慢を放さずに、最後までお役儀大切と思うことだった。わずかの時日の間だけのことである。相手を人間と思わずにいればよい。それだけのこと、ただその一心あるのみである。この考え方が内匠頭にはだんだんと、「救い」になって来た。いつか心も前よりも幾分落ちついて来ていたのは事実だった。
無事の日が二日続いて、三月十三日の晩のことである。内匠頭は、家老の藤井又左衛門が居間に入って来たのを見た時も、例になく晴れ晴れとした心持でいた。
「何か?」
「殿、容易ならぬ噂を聞き込みました」
藤井は恐る恐るこういった。
その時、別に理由なく、内匠頭は心に暗い影を感じて、きッと藤井の面を見ながら、無言で、その次の言葉を待った。
藤井は、困り切ったような顔付をしていて、様子も妙に落ちついていなかった。その噂とやらの内容についていうのをためらっている様子だ。
「どんな噂だ?」
「は……実は、上野介殿に、柳沢様あと押し遊ばされているように、申しておる者が御座りまして」
「…………?」
暫く無言でいたが沸然《ふつぜん》として、
「それが余《よ》に何の関係がある……何者が左様なことを申し立てたのか?」
「小者《こもの》に御座りまするが、このことは武林も存じておるような話。武林をお召し遊ばしてお尋ね下さいまし」
下郎の口さがなし。あの夜の足軽の一人は、小耳にはさんだ堀田隼人の最初の言葉を何かの折に他へ漏《も》らしたらしい。藤井に、片岡源五右衛門の深慮なく、このことが内匠頭の心持に如何な影響を与えるかも考えず、忠義顔して主人に披露に及んだのである。
内匠頭は、再び重苦しい沈黙に戻っていた。
まんざら根拠のない説とも思われなかったのである。上野介と柳沢との関係は薄々知っていたし、これは特に表面にあらわれた事例はなくとも、内匠頭は柳沢出羽守と自分との心持の相違をかなりはっきりと感じていた。忌憚《きたん》なくいえばこちらは柳沢を浮薄な当世流の才子と見てその出世振りにはむしろ軽蔑を感じていたし、柳沢の権勢にこびて追従《ついしよう》する者の多いことを苦々しいくらいに思っていたことだ。無論求めてかれに接近しようなどとは考えたこともない。先方がこちらを固陋《ころう》な田舎大名と思っているだろうことも幾分感じていた。肌合が違う。それのみか悪いことには、上野介の最近の態度に、それと思い合せられるようなものを考えて考えられぬことはない。こちらが偏《ひとえ》に役目大切の下手《したて》に出ているのに対し、法外の傲慢《ごうまん》無礼、露骨に意地の悪い仕打ちは? ただ事でなく考えられていたのである。
あるいはそれか?
内匠頭は、思わず苛立《いらだ》った。
「唯七を呼べ!」
藤井は立って行った。
内匠頭は、数日来の確信が遽《にわか》に動揺して来たのを感じた。敵は上野介一人ではない。もっと大きな根の深いものだった。二つの流れが考えられる。一つは武門の伝統を守る昔からの水である。一つは近く起って川床へ流れ入って来た新しい水である。内匠頭は古い水に住んで、その昔ながらの清らかさを愛し、これでなくてはいけないのだと父祖以来の確信を持っている。しかし、古い水は新しい水の勢いに蔽われている。世を挙げて文弱に赴き剛毅廉潔《ごうきれんけつ》の風のすたれたことは我ひとともに認めるところだ。内匠頭はこの新旧二つの流れが相合し相噛《あいか》み相闘うところに、知らぬ間に自分が立っているのをこの刹那に急に感じたのである。
波は騒ぐ。二つの流れはもつれて渦を巻きながら、互に相手を沈めようと必死である。その烈しい水音は胸に伝わって来る。
辛抱……辛抱と、今までのように胸をさすって恥辱をこらえるのも、こりゃ考えもの。無念を忍んで譲る一歩は、おのれが上野介に譲るのではない。武門の衰微の一段を降るのだ。
こう考えられるのである。
内匠頭は、畳の上に足音を聞いて、急に目を見ひらいた。
武林唯七と、片岡源五右衛門であった。
武林唯七は、時ならぬ殿のお召が何を意味するか藤井から聞くと、これは困ったことが出来たと心から憂いて取敢ず源五右衛門にはかった。先夜の隼人の話は自分が聞いただけで一緒にいた萱野に打ち明けなかったことだし、なお足軽達にも隼人のことは他言せぬよう戒《いまし》めて置いたのである。だから片岡から訊かれた時も他に洩れる心配はないと答えて置いた。そのことが洩れたのは自分の責任のように感じられて悄然《しようぜん》とせざるを得なかった。
源五右衛門は唯七を慰めてから、覚悟するところもあるようにきっぱりと、
「これは浮説だ、左様なことは断じてなかったと申し上げることだ。君を欺《あざむ》き奉《たてまつ》るようだが、そうでない」といった。
藤井はまことに困ったことをお耳に入れてくれた。軽率である。御潔癖で感じ易い殿の御気象《ごきしよう》にこのことがどんなに影響するか?
それを考えて沈黙していたのである。
どこまで信じてよいかが第一に問題なのだから。
源五右衛門は頻《しき》りとこういってなお不安なので唯七について御前へ出て来たのである。
「左様なことは覚え御座りませぬ」
唯七は、つめたい汗を脇の下に感じながら、こうお答えした。
「なに?」
内匠頭は、この返事を意外に思ったらしく眉をひそめた。
「いつわりだというのか? 左様なことはなかったと申すのか?」
「は」と、苦しかった。
「おかしいな」と、じろりと、二人の顔を見た。
両人は身体《からだ》をかたくしながら、このまぶしいような視線を真向《まつこう》に耐えた。
冷汗の思いとは、これ。この場に一分の心のすきでもひらめかせては、折角の苦衷《くちゆう》も水の泡、金輪際《こんりんざい》譲るまいとして必死の二人であったが、当面の唯七におのずからくずれる色が見えた。
「唯七!」と、きッとした内匠頭の声に、
「はッ!」と答えながら、思わず崩れて、がっぱと畳にひれ伏す。今は、とめどもあえぬ涙であった。
「よい……」
内匠頭の声はやさしかった。それまで両名の胸の底まで刺しつらぬくように烈しく見えた目はにわかにうるんでいる。
「わかった。……安心しておれ。左様に心をつかってくれいでもよい。大事ないのだ。余も飽くまでこらえよう」
あげる面もなく、額を伏せたままである。
この家来、この君……と、主従が心にじっと思う。しばしがほど無言であったが、
「立て!」
との仰せに、ほとばしろうとする感動をおさえて静かに退る。
時に、
「源五右衛門、唯七」
「は!」と、敷居際にうずくまる。
が、内匠頭は、二人を呼び止めまでしていおうとしたことを、何故か急に思い直したらしく、
「いや……よし、よし。行け!」と微笑した。
暗い廊下をさがって来ながら、源五右衛門も唯七も心に重い涙の一滴を感じていた。
(この君に、武門の意気地《いきじ》を立てさせて差し上げぬ我等は?)
ただ、このこころであった。
内匠頭は、二人を呼び止めて何をいおうとしたのか? これは遂にわからなかった。何故か内匠頭はそれをいうのを憚《はばか》ったからである。
ただ源五右衛門は、その折の、君の様子、殊にその躊躇《ちゆうちよ》を含んだ目付から、ついに語られずに終ったその言葉の匂いを感じることが出来た。内匠頭は何事かについて、両名の理解を求めていた様子である。その内容はわかりようがない。しかし、「これこれのことはお前達わかってくれような」こういう意味ではなかろうか?
明日《あす》は白木書院《しらきしよいん》において勅使院使へ将軍が奉答の式日、三家三卿をはじめとして在府の大名小名総登場すべき大切の盛典である。無事御用済みとなるように! 源五右衛門はこの祈願に目瞼《まぶた》も合わず夜明を迎えた。
この日の装束《しようぞく》は念のため使をやって上野介にただしてあったが、長裃《なががみしも》でよいという手軽な返事であった。しかし、これは儀式の大切なことから考えてやや不審に思われた。また例の意地の悪い手段かとも思われたのである。気の利《き》いた家来の案で烏帽子素袍《えぼしすおう》を別に用意することになっていた。登城の時刻になって、源五右衛門がそれとなく内匠頭の様子を見ると、いつもよりもやや顔色が悪いように思われたが、心持は平静らしく見えた。玄関に送りに出られた夫人に微笑しながら何か言葉を掛けていられる。御機嫌よいようである。
行列は、清められた朝の路をしずしずと動き出した。
空は明るい。
大名小路大手《だいみようこうじおおて》付近の往来には、諸家の登城の行列が輻湊《ふくそう》していた。槍《やり》、挟箱《はさみばこ》などを、うららかな春日にかがやかせて、ずっと見とおしの広い道を遠くから続々と集まってくるのである。
さかんなる時世……の感が、あるだけの人々の胸をひたしている。
松は静かだった。
内匠頭が城へ着いて見ると、諸大名の装束は総て烏帽子素袍である。
「またしても!」と思われた。
控えの間《ま》に着換えに退《しりぞ》きながら、構えていた心も動いた。
(いや、いや……)と思いしずめながら、無念の心は、むくむくと胸元に込みあげてくる。自分の意のままにならぬ小さい動物が、みぞおちのあたりにいるような気持である。
昨夜よく眠れなかったことが考えられた。
外の日ざしが目に痛い。乾いて、ゆとりのない心だ。弾力を失ったゴムのようにこわばった感じである……次の瞬間にも、ぽっきりと折れはせぬか……の不安が胸をむしばんでいる。
(これでは!)と思う。
廊下を戻りながら、じっと押ししずめた。
玄関に出て見ると、上野介が立っていて振り返ってぎょろりと、大きな目で一瞥した。
黙礼して、そばに控えた。
双方とも無言である。しかし内匠頭に自分のことで上野介が例の如く腹黒い思案を廻《めぐ》らしていることがよくわかるし、また上野介に内匠頭がこちらを意識して変にいらいらしていることがよくわかった。何かいわずには済まないような息苦しさが、同時に二人をとらえていたのだ。
そこへ、御台所《みだいどころ》の御付|梶川与惣兵衛《かじかわよそべえ》が用事ありげに、出て来た。
梶川与惣兵衛は、天朝《てんちよう》から将軍の御生母|桂昌院殿《けいしよういんでん》にいろいろと御恩賜があったので、勅答式の後にこちらからも御礼申し上げるための打ち合せに出て来たものだった。この松の廊下には接伴係の浅野伊達の両侯と高家の人々が、勅使院使の御登営を待っている。与惣兵衛は内匠頭の姿を見て、そばへ寄って来た。
「上様御勅答の御式済ませられましたならばその旨手前《むねてまえ》までお知らせ下さるよう」
「かしこまってござる」
内匠頭は静かに答えた。
与惣兵衛は一礼して立ち掛けたが、途端《とたん》に上野介が浮び止めた。
「何のお打ち合せかは存ぜぬが、お尋ねのことがおわさば上野承わるで御座ろう」
これだけでも如何にも内匠頭を無視した言葉だった。しかも上野介は、これで満足しない。
「内匠頭殿に何事がおわかりになろう」
憎さげに、こういい放って並みいる人々を見廻した。
満座の中である。
カッとして、それまで堪《こら》えに堪えて来た忍耐の緒《お》は切れた。
「覚えたか!」
思わず大喝《たいかつ》して、腰なる小刀抜く手も見せず、上野介の真向めがけて斬《き》りつける。
「あッ!」と打つ伏せた。
切尖《きつさき》は烏帽子の骨にあたって戞《かつ》と鳴る。続く二の太刀《たち》は肩から背を斬ったが、咄嗟《とつさ》のこと、且《かつ》は間も離れていて、傷も軽く上野介は仰天の余り、恥もなく、
「うわッ!」と叫んで、よろめきながら走り去る。
血は面をぬらして、肩先から大紋《だいもん》まで唐紅《からくれない》に見えた。仕損じたと見て内匠頭も血刀を振って追いすがる。
時に、むんずと背後から抱きとめられた。
「御乱心!」
振り放そうと|※[#「足へん+宛」]《もが》いたが、梶川与惣兵衛は旗本《はたもと》の中にも聞えた大力である。
「お放しなされ。お放しなされ」
悲痛極まる声であった。
「御場所柄で御座る」
与惣兵衛は組み付いたまま動かない。折から松の間を掃いていたお坊主|関久和《せききゆうわ》も走り出て来て飛び掛かって内匠頭の太刀《たち》持つ手を押えた。
無念や。上野介は、その間に奥へ逃れている。内匠頭は、顔色こそ未だ平常でないが、まったく抵抗を思い止った。人々が、ばらばらと走り出て来る。青天の霹靂《へきれき》である。殿中はまるで鼎《かなえ》の沸くような騒ぎになっていた。
内匠頭は、まだ自分に組み付いたまま離れない与惣兵衛を振り返った。
「乱心はつかまつらぬ。かく打ち損じた上は尋常にお仕置きを待つばかり。烏帽子大紋をも直したし、お手をお放し下さい」
落着いた口調《くちよう》だった。
しかし与惣兵衛は、まだ危険だと思ったのか押えた手を緩《ゆる》めようともしない。
「お気遣《きづか》いはさらに御座らぬ。上に対し手向いつかまつる拙者ではない」
内匠頭は、重ねて静かにいった。
運命に従順な者の冷静さが、水のように明るくその面を彩《いろど》っている。内匠頭は、人々の狼狽にうつろの目を向けている内に日頃可愛がっていた家来達のことが悲しく胸に思い浮んだ。ただかれ等のために、目頭《めがしら》の熱くうるんで来るのを、どうにも出来なかった。
上野介は桜の間の板縁まで逃げて来て、べったりと腰を落した。血塗《ちまみ》れになった顔は恐怖にゆがめられている。腰に力なく、手足の関節が他愛なくがたがたふるえているのである。
内匠頭は人に抑えられたと見え、もう後を追って来ない。しかし素袍《すおう》を染めている血に気がつくと愕然とした。
「お医者……お医者……」
もつれた舌を動かして、夢中で、こう叫んだ。
品川豊後守《しながわぶんごのかみ》を始め人々が駈け寄って来てとりあえず高家衆詰所へ引きさげて手当てするように扶《たす》け起しにかかった。
ふるえはまだ止んでいない。
人々が立たそうとしても、一、二度膝を突いて、よろよろした。あせた唇は土色をしている。
廊下を退って来ると、播州竜野《ばんしゆうたつの》の城主|脇坂淡路守安照《わきざかあわじのかみやすてる》が通りかかって、この様子を見て皮肉な微笑を含みながらあたり憚らぬ大声でいった。
「甲冑《かつちゆう》の血に染まったのを見るのは珍しくないが、素袍の血染は滅多に見られるものではありませぬぞ」
聞いただけの人々が、この騒ぎの中にも思わずくすりと笑った。
淡路守の皮肉な言葉は上野介の耳にも入った。上野介は、これに腹を立てるよりも、一層こわくなった。一同が内匠頭の肩を持って、何をするかわからないような気がしたのだ。顎《あご》ががたがた鳴っていた。
詰所へ行ってから外科|御典医坂本養貞《ごてんいさかもとようてい》が手当てした。背の傷は五寸ばかりの長さ、やや重かったが、額《ひたい》の傷は烏帽子《えぼし》の鉄輪が切尖《きつさき》を受け止めたので極めて軽かった。軽いとわかって、上野介も、やっと落ち着いた。それまでは自分が死にそうに思われていたのだ。
折から御目付《おめつけ》の者が来て、蘇鉄《そてつ》の間《ま》へ来るようにといった。今度は他人の肩を借りずに、自分で立ち上った。
蘇鉄の間に入ると、隅に屏風を引き廻してある。吟味の終るまで、この内に謹慎を命ぜられることになっている。しかし、上野介は、ふと同じ部屋の別の隅にも屏風が立て廻してあるのに気がつくと、にわかにぎょッとしたらしく顔色をかえて立ち止った。
「あ、あれは……?」
「内匠頭殿じゃ」
一人が答えた。
すこし前に内匠頭は、これへ案内され衣紋《えもん》を直して、神妙に控えたのである。屏風の内は、人が坐っているとは思われぬほど、ひっそりとしていた。
上野介は驚愕した。
「そ、それはなりませぬ、き、危険なこと……もしも、これへ出てまいったれば、如何《いかが》なことになるかも知れませぬ……」と、おろおろする。
「お気遣いない!」
目付の一人が、きっぱりといった。
「そのために、われわれが控えておりますのじゃ」
上野介は、それでもなお落着かなかった。向うの屏風の内がしんとしているだけにますますこわくて耐《た》まらないのである。あの乱暴者が何時、屏風を蹴って飛び掛かって来るかわからないと思うのだった。
異変は、おいおい城外にも伝わった。誰が、また誰を斬ったのか知らず、刃傷《にんじよう》の声が大手桜田の下馬先《げばさき》に伝えられると、ここに屯《たむろ》していた諸侯の供廻りの面々がわッと一時に騒いだ。
いずれも自分の主人の身を案じたのである。忽ち、列はくずれて先きを争って、門につめかける。
埃《ほこり》はもうもうと起った。
大手門から見ると、門内へなだれ入ろうとして群衆は真黒な波のように寄せて来るのだ。それと見て、忽ち門扉はとざされる。間一髪に群衆は門外に溢れて口々にわめいた。
その中に、ひときわ蒼白に見えたのは内匠頭の側用人《そばようにん》片岡源五右衛門であった。人波にもまれながら、墓石のように無言、ただ胸にひしと思いあたるものがあって、
(南無三!)
とのおもい。人を掻き分けて、門へ近寄った。扉はかたくとざされたまま、番士の姿も見えぬ。さらば……と急に引っ返して、主人の副馬浅妻《のりかえあさづま》の背に跨《また》がる。一鞭《ひとむち》あててほこりを蹴って走り出した行手は、桜田門である。ここも早くもとざされていて、ただ扉に押し寄せた諸家の供廻りが、口々にわめいているばかりであった。
失望して、また急に馬を返す。
間もなく大手門のくぐり戸があいて、何人か出て来た様子。
それと見て、群衆はうわッ! とまた寄る。
「しずまれッ! しずまれッ!」と大音声。
御目付《おめつけ》、鈴木源五右衛門である。
「喧嘩の相手は、浅野内匠頭殿と吉良上野介殿! その余の方々に別状はない」
うわッと声が揚《あ》がる。
後ろの方にいて聞えなかった連中が争って前へ出ようとしたのである。
それと見て御徒目付《おかちめつけ》が三、四人走り出て、同じことを呼ばわる。続いて大きな板に裏表に筆太に事実を書いたものを下馬下馬に掲げさせたので、秩序はやがて回復した。
源五右衛門は、暫く馬上に身動きもしなかった。刃傷の声に驚いて、さてはと幾分の予期はしていたことながら万一の僥倖《ぎようこう》を望む心はあった。幾度、熱を持った目に、掲示《けいじ》の文を凝視したことか?
「片岡氏」と呼ばれて、振り返ると、やや青ざめた武林唯七のじっと激動を押し殺した一途《いちず》な表情にふれて、にわかによろめく心をこらえて暫時無言でいたが、
「おやりなされた。おやりなされた!」とほとばしるようにいった。
この言葉を聞いて唯七は、はじめて我慢なく涙ぐんだまま、夢中でうなずくばかりであった。殿のこの度のことをむしろ是認するように響いた源五右衛門の今の一語が、唯七がおさえていた感動を一時に押し流したのである。
「一同を落着かせて置いていただこう。拙者はこれより御目付にあって、殿の御安否《ごあんぴ》、また前後の詳しい事情を承《うけたま》わってまいらねばならぬ」
源五右衛門は、落着いた口調でこういってから御門の方へ急いだ。
源五右衛門は、御目付|多門伝八郎《おかどでんぱちろう》が立っているのを見て、そばへ寄って行った。
「内匠頭家来、片岡源五右衛門に御座りまする」
こう名乗ると、
「おお」と振り返って伝八郎の眸《ひとみ》は輝いた。
その多門伝八郎は硬骨を以て営中に鳴った男で、上野介の陋劣《ろうれつ》な心中をかねてから憎み、今日の場合にも内匠頭に同情を禁じ得ないでいたところだった。ただ、役目の上から、その心持を面にあらわさない。源五右衛門の問いに対しては短い明瞭な言葉で事実を物語ったのみである。
これに対して、源五右衛門も、いささかも取り乱したところはなかった。
「……流石《さすが》は内匠頭殿、神妙なるお姿は、伝八郎ただただ感服仕った」
源五右衛門は、つと、面を挙げて、相手の顔を熟視したが、
「して、上野介……どのは?」
「うむ」と、答も重く、
「心中《しんちゆう》察するが……浅手なれば一命は……」
「…………」
然らば、殿が後遺恨《ごいこん》は? 源五右衛門の胸は締木《しめぎ》をかけられたようにぐっと迫っていた。
前夜、唯七とおのれに、あれまでに、「安心せよ」とまで仰せられた。その御堪忍をお破りなされたのは、よくよくの御事と思われるのに、敵は浅手、一命無事! あれまでにお心を労して顧《かえり》みられたお家も、まった御一命さえ、なげうたれての御覚悟御大切に、御無念……如何ばかりであろう? と思えば伝八郎の前をもはばからずはらはらと血の涙であったが(所詮、今は面会の儀は許されぬこと)と思い直して一礼してひきさがるや、再び馬上の人となって一散に伝奏屋敷へ馳せ帰る。
それを見て、家中の者がばらばらと走り出る。内にも家老の安井彦右衛門が、
「片岡氏、どうも大変なことになったものじゃ。様子はどうじゃ」と、おろおろする。
「いや、何事にもあれ、家中静粛に致して後の御沙汰《おさた》を待つより他はない。くれぐれもお騒ぎあるな」
源五右衛門は、安井の、とりみだしたさまをにがにがしく見て、たしなめてから、
「早打ちの支度を!」と、かたわらに控えた人に言葉短くいう。
何はともあれ、本国に注進せねばなるまいと思ったのである。直ちに筆を走らせて、事件の概略を認《したた》めてから、なお、追々注進奉るべく候《そうろう》。恐惶謹言《きようこうきんげん》と書き、三月十四日|巳下刻《みのげこく》、片岡源五右衛門高房として花押《かおう》をしるす。
宛名は大石《おおいし》内蔵助《くらのすけ》。
「萱野氏《かやのうじ》、早水氏《はやみうじ》」と居合した二人、萱野三平と早水|藤左衛門《とうざえもん》を呼んで、
「御苦労ながら、赤穂《あこう》へ馳せ帰り、これを御城代《ごじようだい》にお手渡しあられたい」
「畏《かしこ》まって御座る」
二人は、家へ帰って旅支度をする猶予《ゆうよ》もなく上下熨斗目《かみしものしめ》のまま用意の早駕籠《はやかご》に飛び乗る。
「さらば」
との言葉を投げ置いて駕籠は一散に走り出る。百七十五里の長旅を、播州赤穂まで一気に走ろうとするのである。
暗闘
柳沢出羽守保明は、松の廊下の事変を聞くと「やったな!」と心に思い当るところがあるように見えた。
折から将軍綱吉は、勅使を迎えて奉答するために、行水《ぎようずい》をつかって身体をきよめている最中だった。勅使院使も間もなく御登営になろうとする時間である。固《もと》より内匠頭を今のまま御饗応掛にして置くことは出来ず、また血に汚れた白木書院を式場に用うることも出来ない。人々は狼狽して、将軍にすこしも早く、このことを言上《ごんじよう》しようとしてお湯殿まで来た。出羽守はお側用人として、折よくお湯殿のお次に控えていたのである。
「お騒ぎあるな」と、人々を制して置いて将軍の行水も済みお髪上《ぐしあ》げも終って装束《しようぞく》を着けようとせられる時を待ってから、自分から静かに顛末《てんまつ》を言上した。
「ただ今、松の廊下において、浅野内匠頭事、吉良上野介へ刃傷に及び、薄手を負わせてござりまするが、取敢ず内匠頭を取りおさえさせ上野介は介抱させ、御廊下の穢《けが》れは清めさせて置きましたけれど、一命にかかわるほどの傷にはござりませぬ。が、差当って御饗応掛の後は何人に仰せつけましょうや、また御勅答の御席はそのまま御白書院を用いまして宜《よろ》しきものにござりましょうや? 伺い奉りまする」
意外の事件に綱吉は、驚いたように見えた。だが、出羽守の如何にも落着きはらった姿を見て、いつものことだが、たのむに足るというような安心を覚えたらしい。
比較的に落着いた口調で、
「もう程なくおいでになる頃だろう」といった。
「左様にござりまする」
こちらも静かに答える。
取敢ず、下総佐倉《しもうささくら》の城主|戸田能登守忠真《とだのとのかみただざね》を内匠頭に代る勅使御饗応掛に、また儀式は黒木書院で行われることにきまった。出羽守は機敏に、この命令を伝えて手落ちなく準備を整えさせた。
こうして儀式は無事に終ったというものの何といっても、これは失態であった。この不敬の原因となった者が現に御饗応掛の者だったということが綱吉には心外に思われる。常殿《じようでん》に戻ってからは、内匠頭の不埒《ふらち》を憤《いきどお》る気持からいらいらしているように見えた。出羽守は殊に静かにおそばに控えて様子を眺めている。
「但馬《たじま》を呼べ――」
老中|秋元但馬守喬朝《あきもとたじまのかみたかとも》が召し出される。早速に厳重に吟味せよとの命令が降った。内匠頭の究明には御目付多門伝八郎、近藤平八郎の両人があたることになった。
内匠頭は麻《あさ》上下に服装を改め、御徒目付《おかちめつけ》六人に差しはさまれて檜《ひのき》の間へ出頭した。
嵐はすでに過ぎていうばかりなく静かな姿である。
多門伝八郎は穏かに挨拶した。
「今日の意趣相ただすよう、われわれ両人に仰せつかって御座る。御定法どおり言葉を改めます。左様お心得ありたい」
内匠頭は、はじめて面《おもて》を動かした。やさしき武士に逢うことかなと思ったのであろう。静かに面を伏せて畏《かしこ》まる。
伝八郎も容《すがた》を正した。
「その方儀お場所柄をもわきまえず、上野介に対し刃傷に及びたるは、如何なる仔細《しさい》か? つつまず申し立てよ」
今は覚悟の内匠頭である。
「上野介より数度|堪《こら》え難き恥辱を加えられましたるによって、ただ私の遺恨《いこん》より前後を忘れ刃傷に及びましたるは、御場所柄をも憚らざりし段|千万《せんばん》おそれ入り奉る。今更申し上ぐべき言葉も御座りませぬ。この上は御法どおり仰せつけくださりますよう」
いささかも悪びれぬ。この人が今日の大事を惹き起したとは思われぬくらい落着いて神妙な姿であった。
内匠頭の吟味が終って、もとの蘇鉄の間へ返されると、代って上野介が、これも熨斗目《のしめ》に着替えて召し出された。御目付|久留《くる》十左衛門、大久保|権《ごん》右衛門《えもん》の両人がお掛りである。
上野介は、何の恨みがあって刃傷を仕掛けられたか、覚えがあろう……という訊問《じんもん》に答えて申し上げた。
「拙者は老体の身、殊《こと》に内匠頭に対し何の意趣遺恨も御座りませず、先方より怨みを受くべき覚えもありませぬ。察するところ、内匠頭乱心と相見えまする」
この意味のことを繰り返していうだけのことだった。
糾問にあたった御目付から、この旨《むね》を老中に復命して、今度は老中から綱吉に言上に及んだ。間もなく綱吉から、それぞれ沙汰があって、内匠頭は詮議中田村|右京《うきよう》太夫《だゆう》に預けられることになる。と同時に高家詰所にいた上野介へは、お目付|仙石伯耆守《せんごくほうきのかみ》から、
「公儀を重んじ、急難に臨みながら、時節をわきまえ場所を慎しんだことは神妙に思召さる。これによって何のお構いもなし、手疵療養《てきずりようよう》致すようにとの御上意《ごじようい》である」と言い渡した。
上野介には何もおとがめない事になったのである。本人でさえお叱《しか》りぐらいは受ける事と覚悟していたところへ、逆にこの有難い御諚《ごじよう》だった。
ほッとして顔を挙げると、伯耆守の傍にいつの間に入って来たのか柳沢出羽守の白い顔が微笑を含んで自分の方を見ていた。
「ただ今仰せ出されたとおりの御上意なれば本復《ほんぷく》の上は相変らず御出勤になるように」
出羽守は傍から、こう言葉を添えた。
(成程、出羽殿のおとりなしだな)
上野介もはじめて頷くことが出来た。
それでなければ喧嘩両成敗、手出しこそしなかったが上野介から仕向けた喧嘩なのである。お構いなしというのは不思議なくらいであった。
そこで上々の首尾で駕籠に乗せられ、呉服橋内の屋敷へ引き取ることが出来た。
別に梶川与惣兵衛と関久和へはその場の働き神妙という仰せで、後に与惣兵衛には五百石の御加増、久和には銀子《ぎんす》三十枚を賜《たま》わることになった。
喧嘩の片方、それも裏面の消息に通じた者から見れば、あきらかに発頭人である上野介に何もおとがめなかったところから考えて、これは内匠頭の御処分にも幾分お手加減あることであろうと人々は眉をひらいた。人々の内心の同情は、内匠頭に集まっている。しかもこの予測は誤っていた。
内匠頭の処分は追ってのこと、今日の御沙汰はこれまで一段落と思われたところへ、急に老中達が御前に召し出された。
「内匠頭に切腹申しつけよ」
上意はこれであった。
人々ははッとした。
切腹となれば、当然に家名は断絶、城地は没収される。誰が見ても、これはあまりに苛酷な御処分であった。まして、事の起りは上野介にある。しかも上野介に何等お構いなしとあって、内匠頭に切腹……喧嘩両成敗は家康以来、厳《おごそ》かに守られて来た幕府の典則《てんそく》である。……あまりに御公平を失した御沙汰の感が老中達の胸をついた。
人々は暫く無言でいたが、末席にいた稲葉丹後守正道《いなばたんごのかみまさみち》が先ず口をひらいた。
「御諚《ごじよう》には御座りますれど、また内匠頭の所為如何にも不届き至極には御座りますれど、内匠頭は乱心の体に見受けられまする。御処分の儀は暫時御猶予遊ばされては如何かと存ぜられまする」
乱心発狂とあらば罪は内匠頭一人にとどまり、浅野の家には及ばないのである。丹後守の主張は、公平でもあり、武士の情にもかなった意見で深く人々を動かした。同列の秋元但馬守喬朝、土屋《つちや》相模《さがみの》守政直《かみまさなお》も、続いて丹後守の意見に賛成だと口々に申し出た。
一座は、緊張し切って、綱吉の言葉を待っている。綱吉は、不機嫌な顔付になってだまっている中に、ふと、その視線がかたわらに控えていた柳沢出羽守の目と会った。
出羽守は薄い笑いを目に含んで、綱吉を見たが、また直ぐと視線を外《そ》らした。端《はた》の者が見たら何でもない動作である。しかし、かなり親しく接触《ふれあ》っている人間の間ではごく僅かな表情の変化によっても何かの意味を伝えることが出来る。その者が、その意味を伝えようとしたかどうかは別として、こちらが相手の心の動き方を読むことは出来る。
出羽守の方では直ぐまぎらそうとしたように見えたが、その刹那の表情が、
(お上《かみ》は、お迷い遊ばされていられますな?)と物語っていたように綱吉には見えた。こちらに確信のないことを別に悪意はなしに軽くからかっているように見えたのである。
と見て、綱吉はさッと顔色をかえて立ち上った。一言もいわない。つと内へ入ると、仕切りの唐戸《からど》を音高く閉《た》てた。
ただならぬ御気色《みけしき》に、熱心に御諚を待っていた丹後守以下が、はッとする、たったその間の出来事であった。
人々は茫然とした。
丹後守、但馬守、相模守の三人は、恐懼《きようく》して罪を待つために直ぐに退出した。
綱吉の決心の堅いことは、これで、はっきりとわかった。将軍の意思である。たとい処分が不公平であろうとどうだろうと、こうなっては如何ともなし難い。間もなく月番老中《つきばんろうじゆう》土屋政直が改めて召し出されて、即刻内匠頭を切腹せしめよと仰せ付かって来た。検使は大目付|荘田下総守安利《そうだしもうさのかみやすとし》、副使は御目付多門伝八郎、大久保権右衛門の両人と決って、それぞれ申し渡された。
伝八郎は、自分の耳を疑った。
五万三千五百石は決して大身《たいしん》ではないが兎に角大名である。簡単なる一回の糾問《きゆうもん》によって直ちに罪がきまり、しかも即刻刑を執行しようとするのは手軽に過ぎる。ただの個人を処分するのではない。影響は浅野の一家中に及ぶのである。それのみか、喧嘩の相手の上野介は何のおとがめがあるどころか御称美に預かっている。片手落ちも甚だしいのだ。
伝八郎は、上野介がかねてから柳沢出羽守の腰巾着《こしぎんちやく》になっているのを、よく知っていたし、今日の御処置には総て側用人の柳沢が裏面に策動しているものと薄々睨んでいた。元来が、武士気質の硬骨漢、腹が立ってたまらないのである。直ぐと、若年寄《わかどしより》 稲垣《いながき》対馬守《つしまのかみ》、加藤越中守の前へ出て、今一応の御詮議を願い出た。
勿論、この願いは取り上げられなかった。一旦御決着の上は今更変改など出来ないというのである。
伝八郎は、臆せず出羽守の前へ出て行った。
「御決着とは上様の御思召しに御座りましょうや。それならば是非も御座りませぬ。然しながら若し出羽守殿御一存によることならば、あまりに片手落ちの御仕置き、今一応の糾問《きゆうもん》仰せ付けられますよう」
出羽守は、はッとしたように顔色をかえひらき直った。
「奇怪なる申《もう》し条《じよう》。お退《さが》りなされ」
「あいや」
伝八郎はなおもいい立てようとする。人々が驚いて、これをとどめた。
伝八郎は徐《しず》かに部屋へ帰って謹慎した。
今度の事件から偶然に、営中における柳沢派非柳沢派の旗色が明らかに分れたように見えた。刃傷の前夜内匠頭がはっきりと感じ、また刃傷にあたって暗示となって働いた二つの潮流の対立が、事毎に表面にあらわれはじめたのである。
伝八郎にも味方する者が相当あった。この人々の尽力で、別にお咎めもなく差控えを解かれて検使の役に加わることが出来た。
主従
この日、浅野の家にくだった運命の槌《つち》は、まことに青天の霹靂《へきれき》というに近い突然のものだった。
事の機微に触れていた片岡源五右衛門等にしても、どうして、今日のことがあろうと予期出来たろうか? いわんや、ほかの家臣達には、暫くただ白日の悪夢としか思われないような出来事であった。今日のような静かな朝に、誰が斯《か》かる打撃を期待し得たろうか? 家中が暫く言葉を奪われて見えたのも無理はなかった。
しかし、沈黙の内に人々は立ち直った。悲痛な覚悟が各自の胸をひきしめている。先ず、今自分達を見舞った運命を、まともにはっきりと見ることであった。たとい、それが最悪のものであっても目《め》まじろぎもせず見ようとするのである。武士として多年養われて来た勇気と、節制と、不撓《ふとう》の意志が、急に呼び出されたのである。
これは、不可能の打撃に対する、最後の武装であった。
人々は、かたく口を噤《つぐ》んだ。
そして、見た。
一個体の生物のように、家中が一体をなして呼吸し生活していたかれ等である。父祖代々の伝承とまたこの時代を支配していた信念から、(自ら意識していたかどうかは別として)この統制の原動力は実に主人から出ていた。主人との関係から離れて、自分だけの生活というものなど空想もしていなかったかれ等である。主人を失うということは、死を意味した。いや、死以上の悪「命の涸渇《こかつ》」だった。内匠頭を引き抜かれたといってもよいのである。
かれ等から切りはなされた主人が、もとどおりかれ等のところへ戻って来るかどうか? これは全く疑問だったし、悲しいことには、自分達の力で何とも出来ないことだった。内匠頭の運命は、控訴《こうそ》も抗告も許されない最高の法廷で、絶対の力を持つ裁判官達に議せられている。
傍聴すらも許されない裁判である。
許されているのは、その裁判の結果を是非に拘らず受け取ることである。
いじらしくも、かれ等は耐えた。
爪で傷つけても吹き出そうと鬱血《うつけつ》している胸を押し鎮《しず》めて、近づいて来る最悪の運命の跫音《あしおと》を聞いていたのだ。
御目付鈴木源五右衛門が来て、伝奏屋敷引払いの命令を伝えたのが、その跫音の最初のおとずれであった。
「委細|畏《かしこ》まり奉る」という静かな返事が、応接に出た堀部安兵衛《ほりべやすべえ》の口から語られた。
内匠頭に代って御饗応掛となった戸田能登守の臣下がすでに屏風|幔幕《まんまく》その他の器物を運んで来ようとしているのだ。
撤去は急を要する。この悲痛な運命の鞭の下にある時に、足下《あしもと》から鳥の起つような運命だった。
しかし、安兵衛が退《さが》って来て原惣右衛門にこれを伝える。と、命令一下伝奏屋敷から辰の口まで、足軽がずらりとならんで護衛に立つ。その間に道三橋の下に舟の支度が出来、十人の人足《にんそく》が手足のように動いて続々と荷物を担《にな》い出しては、これに積み込む。神速とは、このことであろう。寸時に撤退は終っている。舟は眠る掘割の水を分けて、静かにすべり出る。足軽達は陸を、これは粛々《しゆくしゆく》と列を正して鉄砲洲《てつぽうず》の屋敷へ向った。
「いざ!」という慇懃《いんぎん》な言葉が、原惣右衛門の、戸田家の家臣達への挨拶だった。
内匠頭は錠を卸し網をかけた駕籠に入れられて、厳しい護衛の下《もと》に平川門を出た。大手下馬先、八代洲河岸《やしろずがし》、日比谷御門《ひびやごもん》、桜田……駕籠の中から見る外の景色はいつものとおりだ。春に濁った明るい空が上にある。濠《ほり》の水は、静かなひかりにたゆたゆとゆれている。柳の枝が風とたわむれている。
恐らくは、もはや再び、この見なれた景色をも見られぬことであろう。
いや、この景色だけではない……内匠頭の疲れた頭の中には、領地赤穂の景色が影のようにさびしく過ぎて行った。城の本丸《ほんまる》に立って眺めた広く明るい光の空間、内海沿岸特有の乾いた空気、ひろびろとした塩田のひろがり、と、その間に白い帯のようにうねっている熊見川《くまみがわ》の流れ。ずっと地平の薄い靄《もや》の中につらなる山脈の姿。庭を暗くしている老松の風にうそぶく音。毎年の夏に聞いたしんしんとしみるような蝉の声が今も耳の底で遠く聞えていた。
いや、それらの景色よりも、この風物の中にいても蟻のようにちいさく動いている百姓町人たち、殊に自分に忠実にしてくれた家来達のことであった……
それを思えば、目頭《めがしら》が自然と熱くなる。思うまいとして幾度心を持ち直しても、ただそれのみが……胸に熱鉄をあてられる心持なのだ。
この家来達を、自分は棄てた! しかも、家を忘れ身を棄てての一心不乱の切先《きつさき》に怨敵《おんてき》を打ち損じたおのれは! 畢竟《ひつきよう》武運|窮《きわ》まるところとはいえ、無念である。それを思えば胸は湧く。
死ねぬ。……このままでは死ねぬ。
いやいや、今更何が出来よう? この上未練は、かえって世上のものわらい……目をつぶろう。武士らしく……
暗い、また火のように熱い涙が、胸に一杯にひろがって、駕籠の動揺につれ、目、鼻、口から溢れ出ようとしていた。内匠頭はそれを抑えるのに一心だった。
田村右京太夫の屋敷は愛宕下《あたごした》通り、駕籠が着くと、内匠頭は板囲いの一間へ通されて坐った。便所も部屋の一隅にある。数人の番士をつけて警戒厳重である。
内匠頭は、主人右京太夫が出て来て慰めた時も慇懃《いんぎん》に会釈して、もはや覚悟をきめている様子で心静かに見えた。食事を出すと好意を謝して箸《はし》をとる。その他の時は黙然と、あたかも自分の運命と向い合っているもののように坐っているだけである。
その心の中に、どんな事が去来していたか? これは、かたわらにひかえて静粛にしている番士達の知らないところだった。
ただ一度、内匠頭は急にいった。
「家来の者へ手紙を遣《つか》わしたいが、お構い御座るまいか」
語調は懇願するもののように聞えた。また内匠頭は、これをいい出すまでに幾度かためらっていたものらしい。遂に、たまらなくなっていって出たようなところが見えていた。
番士は、お互いに顔を見合せたが一人が答えた。
「一応御目付衆へ伺わずば……」
内匠頭は悲しく微笑した。
「是非に及ばぬ」
伺い立ててききとどけられることではなかった。
「ならば口上《こうじよう》にても苦しゅう御座らぬ。家来片岡源五右衛門、磯貝《いそがい》十郎左衛門の両人へお伝え願いたいのじゃ」
「然らば、承わって覚え書に致して置きましょう」
こういって筆を執《と》る。
内匠頭は沈んだ顔付で何か思案していたが、やがて言葉短く、
「かねて知らせて置きたかったのだが、その遑《いとま》もなかった。今日のことはやむを得ずにこうなったことだ。さだめし不審に思ったろうと考えている」という意味を語った。
これが内匠頭の家臣達へ送った唯一の遺言《ゆいごん》であった。他人の手を通じて送ることで、あらわな言葉を避けている。しかしそれだけにこの短い言葉は無量の感慨にぬれて片岡、磯貝両人のもとへ届けられた。
検使荘田下総守安利が、多門伝八郎、大久保権右衛門両名の副使並びに介錯人《かいしやくにん》磯田武太夫以下を連れ愛宕下の田村右京太夫の屋敷へ着いたのは申《さる》の刻《こく》を過ぎた時だった。屋敷の家老用人達が門前に出迎え主人も玄関まで出ている。一同は大書院へ案内されて休息した。
多門伝八郎は、あくまで今日の御沙汰には不満ながら、もはや事が確定した上は致し方なく、ただ検使としての役目大切に思って、正使の後に控えている。正使下総守が柳沢の息がかかっている男だったので、伝八郎は特に用心を肝腎《かんじん》に思っていた。
下総守は、右京太夫に告げた。
「浅野内匠頭儀その方へお預けのところ切腹仰せつけられることに相成った。早々用意せられたい」
右京太夫は直ぐと家来達に命令を伝えて用意にかからせ、それが終ってから改めてその旨を報告した。あとは内匠頭を呼び出して正使下総守から上意を申し渡して直ちに刑を行えばいいのである。下総守は直ちに立ちかけた。伝八郎は驚いて声をかけた。
「あいや……」
「何事で御座るか?」
「場所の御検分は?」
「いや、それは拙者すでに絵図面によって済ましてある。改めて検分に及ぶことも御座るまい」
下総守は笑った。
が、伝八郎はそれではあまり心もとないと思った。
「いや御貴殿の御検分はそれでも宜しゅう御座ろうが、副使の拙者は未だ何の模様も承わっておりませぬ。役目の上に落度あってはならず、今一応の検分を致し度く存じます」
下総守はにわかに気色《けしき》をかけた。
「大検使の拙者が検分を遂《と》げたのじゃ。この上の御指図御無用で御座ろう。但し御目付の役柄としての御検分なれば、そりゃ御随意でもあろう」
針を含んだ言葉である。
しかし、役目を大切に思う伝八郎が、この上役の威嚇《いかく》をはばかる必要はない。伝八郎は権右衛門と静かに立ち上った。
驚いたことには、二人が案内されたのは小書院前の白洲《しらす》。地に蓆《むしろ》を敷き畳を置いて、その上を毛氈《もうせん》で蔽ってある。周囲には幕を打ちめぐらしてあるだけである。如何に手厚くとも庭は庭である。
「これは!」と伝八郎が叫んだ。
振り返って見ると、あるじの田村右京太夫が跟《つ》いて来ている。伝八郎は、烈しい語気でいった。
「今日の御預け人は一城のあるじで御座る。殊に武士道の御仕置き仰せつけられたものじゃ。さるを庭上において切腹とは、武門の作法には御座るまい。如何なる御存慮あってのことか? 承わろう」
右京太夫は、はッとしたが、
「恐れながら、これは一旦絵図面を作り大目付へ伺い出でて、御指図を受けましたるもの。御預けの内匠頭儀は上様御厳譴《うえさまごげんけん》に触れたる者ゆえ、一般大名に死を賜《たも》う時の作法に則《のつと》るには及ばずとのこと……」
「そのとおりじゃ。当然のことで御座ろう」と、これも幾分気になったものか後から出て来た下総守が厳しくいった。
伝八郎は屈しない。
「奇怪なる仰せ。武門の作法にあるまじきことを当然のこととは今更驚き入るの外は御座らぬ。以ての外なる違法の取り計らい。何が当然か、承わりたい!」
理は如何にも伝八郎にある。下総守は面を朱に染めいい詰まったが憤然として叫んだ。
「今日大検使の役は拙者で御座るぞ。拙者において差支えなしと申すに、用なき御忠言、おひかえなされ」
さすがに伝八郎もそれ以上あらそうことは出来ず、かかる取り計らいに対し自分は責任を持つことは出来ないと言明して口を噤《つぐ》んだ。一緒にいた大久保権右衛門もやはり気概のある人物で、伝八郎に賛成して自分もそう思うといい放った。
下総守は急に狼狽しながら、それまで大検使を笠に着て威張っていたこととて、意地にも二人の言葉を無視した風を示して無言で控えの間へ戻って行った。伝八郎も権右衛門も、詮方《せんかた》なくその後に従った。二人は、内匠頭が死の瞬間にまで不当の取り扱いを受けることかと思うと気の毒でたまらないし、また憤慨にたえなかったのである。
折から右京太夫から、こういうことを申し出た。
「ただ今内匠頭家来片岡源五右衛門と申す者主従の別れにひと目内匠頭を見たいとの旨願い出て御座りまするが、これは如何《いかが》取り計らいましょうや」
それまで、石のように無言でいた伝八郎は、これを聞くと下総守が口を開く前に断乎たる口調《くちよう》でいい切った。
「それは苦しからぬ。武士の情じゃ。伝八郎聞き届け置きます」
そして、その権幕に驚いて茫然としている下総守を振り返ると、
「如何|思《おぼ》し召す?」と、いった。
もとより伝八郎明日は退役と覚悟の上のこと、憚るところのない烈しい語気には、如何《いか》な圧迫にも断じて屈すまじきかたき決意がひらめいていたのである。
仕方なく下総守はにがりきって答えた。
「御随意に」
伝八郎は、無論のことだ……といいたげに見えて、振り返っていった。
「許すと仰せられたい」
右京太夫もよろこんだ様子でさがって行った。
源五右衛門は無刀となし、右京太夫の家来がつきそって小書院の庭に待たして置くこととなった。もとより内匠頭と言葉を交えることは許されない。ただ、それとなく主の死出の旅を見送ることが許されたのである。
その間に支度は成った。
白の小袖《こそで》に浅黄《あさぎ》無紋の姿に改めた内匠頭は、この大書院に一同が粛然たる裡《うち》にいささかも臆した様子もなく静かにはいって来て、末席《ばつせき》に平伏した。
「浅野内匠頭」
外よりも早く、くれかけて薄暗くなっていた大書院の内に下総守の声はおごそかに響いた。上意である。
「その方儀、今日殿中において御場所柄を弁《わき》まえず、自分の宿意を以て吉良上野介へ刃傷《にんじよう》に及び候《そうろう》段不届きに思し召し候、これにより切腹仰せつけらるるものなり」
内匠頭は、
「上意|畏《おそれい》り奉る。今日の不調法《ぶちようほう》、如何様にも仰せつけらるべきのところ、御慈悲を以て切腹仰せつけられあり難く存じ奉りまする。各々様検使としてお立ちあいの段お役目とは申しながら御大儀に御座りまする」と静かに答えたが、ふと言葉を改めて、
「ただ承わりたき儀は……上野介は如何相成りまして御座りましょうや」と、やや暗き額をあげて、静かに、検使の方を仰ぎ見る。
家を棄て身を棄てての今日のことに、内匠頭がただひとつの恨みこそ、この敵を仕止め得なかったことにあろう、無理もなき言葉……と権右衛門、伝八郎は惻隠《そくいん》の心に動かされた。
「上野介は老人のこと、浅手には御座れど傷は二カ所、殊に急所なれば、なかなかの重体にて、一命のほど覚束《おぼつか》ないように思われますぞ」と、情ある言葉を口々に語る。
内匠頭はさもうれしげににこりとして、再び静かに平伏した。立ちあっていたものが、ひとしくおもてを曇らせたほどの、あまりにいたいたしい姿であった。
時刻は酉《とり》の上刻《じようこく》、今の午後六時である。
右京太夫の目くばせを見て、用人が立って行って静かにふすまをあけた。そこには春のくれがたの漸《ようや》く薄れて行く外光にいろどられて長い廊下が横たわっていた。内匠頭の最期《さいご》の場所へ続いているのである。
昼間の光は松のこずえのかなたの空に退いて、花のように白い十四日の月が東の空に描かれている。近づいて来る夏のぬくみが明るい靄《もや》となって庭の土からのぼっているのが感じられる。
導《みちび》かれるままに内匠頭は静かな歩みを廊下に移した。
芭蕉《ばしよう》のむら葉は、あるともない微風にそよいでいた。石は静かに、花はかすかである。内匠頭の静かな額は、自然と庭を向いた。この水のように明るい空、葉を繁らせた樹木、静かな石を見ることも、これが最後であった。
ふと、内匠頭は、思わずはッとして息を途切りながら瞳を凝《こら》している。この庭に影のように蹲《うずく》まっている人の姿に、わが目を疑うものを見たからである。
おのれが家来片岡源五右衛門……
と見た刹那に、ぐっと胸をつらぬいたものがあった。足は廊下に縫いつけられた。千万無量の心持に無言で見下ろすあるじの目を、これは源五右衛門がおののく胸を必死に押えて、じっと見上げる。
主従が今生《こんじよう》の別れであった。ひたとあう目と目に、破れて血を流そうとしている二人の心持がにじんだ。
一瞬石に化して見えた内匠頭の表情はまたほぐれた。涙を含んだやさしい微笑である。(あえてうれしかった)と声なき言葉であった。
源五右衛門のくちびるは顫《ふる》えた。
その時内匠頭は気づいたように、急に歩き出している。源五右衛門は我慢も忘れて溢《あふ》れ落ちる涙のおもてを砂に埋めたのである。
君の足音は、その間に静かに過ぎ去って行った。源五右衛門は、気を取り直して、退いたが、一歩一歩に夕暗が濃く迫るのが感じられた。
まったく夜になってから内匠頭の実弟浅野大学長広にあてて右京太夫から書状が届いた。
浅野内匠、ただ今私宅において荘田下総守、大久保権右衛門、多門伝八郎まいられ切腹仰せつけられ候、死骸は近き親族中に遠慮なく引き取り候よう申し遣わすべき旨三人もうされ候、尤《もつと》も御老中へも申し上げ候由に候間、御勝手次第早々御引き取りなさるべく候、
という文言である。
内匠頭の家来|粕谷勘左衛門《かすやかんざえもん》、建部喜六《たてべきろく》、片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門の六人が急いで田村邸へ向った。
おぼろな月が黒い屋根の上にある。家々の窓はあけはなたれ、人の話し声があかるく外に浮いている春の晩のことであった。
浮草
「だが思い切って、やったものさ」
蜘蛛の陣十郎は、感心したようにこういう。話は、市中がそれで持ち切っていると同じく殿中における内匠頭の刃傷一件であった。陣十郎も、また連れの堀田隼人も、丁度刃傷の前夜柳沢出羽守の屋敷へ忍び込んで密談を偶然に聞いていたことから、今度の事件には特別の興味を感じていたらしい。この二、三日は何かと、話がこの題目に落ちて行くのだった。
この晩二人は、近頃暴富の噂高い三国屋の、向島の寮を襲う計画で夜に入ってから山谷《さんや》へ来て、この舟宿の二階に時刻の移るのを待っていたのである。
「浅野という大名はどんな男か知らないがひどくいじめられたものに違いない。殿中の刃傷などとは、よくよくのことだ」
「そうですな」
隼人は、口数すくない。この男には事件の珍しさよりも、別のことが考えられるのだ。あの晩あわただしく別れた武林唯七という男のことは、まだ記憶になまなましかった。自分を逃してくれたからというのではない。どこか、きびきびしていて気持のよい武士であった。……今度は、あの男だけではない、浅野に幾百人とある家来が悉《ことごと》く自分と同様に扶持《ふち》をはなれて浪々する。隼人が考えたのは、その点だった。この沢山の人々の身の上に同情も出来るが、また自分と同じ水準にさげられて来たということに、何だか仲間がふえて来たような愉快な気もするのである。
「また浪人がふえます」
隼人は、ぽつりといった。
「その人々がこれからどうなって行くかと考えると、やや暗い気持になりますな。浪人の生活がどんなものかは、手前よく存じております」
陣十郎は笑った。
「成程、あんたらしい物の見かただ。だがね、私アまたいつもの伝だが……むしろ武家全体が浪人になる日を望んでいるンですよ」
軽い悪意の籠《こも》った笑い方である。
「そんなことでもないと百姓町人はいつまでも浮ぶ瀬がありませんからね」
これはまたこの男らしい。隼人が、思わず苦笑すると、陣十郎はやや真面目になっていった。
「そうじゃありませんか? 大名だって同じ人間のわけです。ところで、そのひとりの人間が、たとえば今度の浅野のようなもので、何か罪があったとする、それだけならいいが、そのため幾百人幾千人かの人間が路頭《ろとう》に迷う。こりゃアよく考えればおかしなことだ。大名の方では、いつも食わしてやっているのだから、たまにそんなことがあろうと、こりゃアあたりまえの話だというでしょうがね。また家来の面々《めんめん》もこれに何も不思議はないと思ってだまってあきらめることにきまっていますが……こいつがどうも私には腑《ふ》に落ちない。つまりそういう仕組みが見当が違っているンじゃないかと思うのです。だが、これなんぞはまだまだちいさいことだ。とにかく、武士の世界だけの出来事ですからね」
と、ぽつりと切って、盃をふくむ。
次に、陣十郎は、急に話題を転じた。
「浅野の家来がかたき討ちをやるなンて、大分方々でいっていますが、あんたは、どうお考えですか?」
「かたき討ち?」
隼人はおうむ返しにけげんらしくいったが、にやりとして、
「赤穂《あこう》浪士《ろうし》が亡君の仇《あだ》を討つ……とでも噂しているのですか?」
「左様」と陣十郎はまた相手の真意を怪しむもののように眉を顰《ひそ》める。
隼人は、依然として薄く微笑しながら、
「さあそんなことがありましょうかな? 十年前二十年前とは大分時世が違って来ている。人の心も変って来ていますから」
「すると……あんたのお考えではそんなことはないとおっしゃる?」
「まず……多分なかろうと思われまする。血族の仇というようなのとは違う。たとえ主人とはいえ公儀の権勢の発動によって刑せられた者のために多人数が団結して動くとすれば、これは徒党です。謀叛《むほん》といってもよい。こういう冒険は二人や三人の小人数であったら出来ましょうが、十人二十人いやそれ以上の多数が結束してそれだけの大事を遂げようということは、まず以て出来ますまい。めいめいが生身《なまみ》の人間なのです。めいめい妻もあり子もあるのです。人間の気持というものはその日その日、いや時々刻々に、その住んでいる世界の影響を受けて変って行くものですし……殊に浪人の身ほど不安定な気持でいるものはありませんから」
「成程こりゃア理窟だ」
陣十郎もこういって笑ったが、
「しかし、あすこのお国家老大石内蔵助というのは、なかなかの大人物だというではありませんか? 私アとにかく何かありそうな気がするね」
「そうでしょうか?」
隼人は、否定的な微笑をもらして静かに杯を拾い上げた。
噂の赤穂浪士の復讐などは断じてあり得ないことだと思っている。しかし、隼人の気持としては、元来そんなことはどうでもいいことで別に陣十郎を相手に争う心は毛頭なかった。
「どうでしょう。もうそろそろ出かけては?」
「そうですな。もういいかも知れない」
陣十郎は、坐ったまま軒越しに空の月を見てこう答える。
間もなく二人は、女達の提灯《ちようちん》に送られて庭に降りた。舟の支度はもう出来ている。
舟が月影を砕いて水の上へすべり出てから陣十郎は煙草盆の火を煙管《きせる》に移しながら、船頭に、「神田川へ入れてくれ」といって楽々と横になった。目あての方角とは逆に川を下って行くのもこの男の用心からだった。
置いた猪口《ちよく》の酒をこぼさぬほどに漕《こ》ぐのは船頭の身上、舟はすべるように大川を出て月の差す方角も変る。時刻は四つをすこしばかり廻ったところで、こちらの舟より少し前を花見舟の名ごりと見える屋根舟がひっそりとした川面を三味線太鼓で流して行く。
隼人は陣十郎が煙管をくわえて無言でいるので、所在なく、提灯を沢山つけて明るいその舟をぼんやりと、見詰めていた。風の加減もありこちらの舟は騒々しい向うの歌声をあびながらついて行くのである。
間もなく行手の月あかりの中に両国橋が墨の一はけに浮きあがって来る。
船頭は櫓《ろ》を一押しして舳《へ》先を曲げた。神田川へ入ろうとしたのである。折悪しく、例の騒ぎをのせた船がすこし前に入って狭い川づらに一杯になっているのだった。
「ちぇッ!」と船頭が舌打ちして櫓の手をやすめた。
「よかろう。その辺のどこでもいいから着けてくれ」
陣十郎が、こういった時は、向うの舟の騒ぎで耳も聾《ろう》せんばかりになっていたばかりではない、幾つとなくつるした提灯の灯影で、こちらの船房の内まで明るくなっていた。船頭が早速手近い岸へ舟を寄せる。
「どうも申し訳ありません」
船頭が自分の罪のようにいってわびるのを「なアに!」というように鷹揚《おうよう》に笑って、ひらりと岸へ飛びあがって酒手《さかて》を渡してやるために紙入れをさぐる。
さて、こちらの花見舟の中から、この様子をじっと覗いて見ていたのが、例の唐獅子の藤九郎だ。
(はてな?)という顔つき。
どこかで見た人間、特に、ぎょろりとしたその目玉が……
と見た折から、岸へ飛びあがる刹那《せつな》に風に煽《あお》られた裾から、ちらと見えたもの。膝の上の刺青《ほりもの》だった。
「う……む」とうなりながらにわかに酔いも醒めた気持。思い出したのは、いつかの月の晩の耳の垢《あか》取り唐人一官、ひきぬけば蜘蛛の陣十郎、凄い小父《おじ》さんだった。
まさか……。
と見る。
見れば見るほど、体つき、肩のこなし、笑った時の目。……藤九郎にはこの上なくすごい記憶の、なまなましくからんでいるものばかり。
その間に、こちらの舟は、ちゃんちき、ちゃんちきと景気よく、離れて行く。岸へあがった二人は、どこかへ歩き出して行く様子。
「おっと……おっと……」
藤九郎がにわかにあわてて、舟の中を見廻して探したのは、丁度乗り合せていた外神田で名うての岡ッ引|連 雀 町《れんじやくちよう》の但馬屋仁兵衛《たじまやにへえ》。
「親分、親分……」
「何だい?」
「ちょいと、お話があります。あんまり確かじゃありませんが、どうもそれらしいってものがありますんで」
「何がさ? 妙な話だな」と耳をかしたが、これもぎょっとした様子で、
「まったくか?」
「へい……顔が変って居りますんで……たしかとは申せませんが……」
「よし」と立ち上った。
と船頭のところへ来て、
「ちょっと舳先だけ岸へ寄せてくれ。おれと唐獅子だけあがるンだ。他の連中にはわからない方がいい」
「親分、手前も……」
唐獅子は、やや心細かったらしい。無理もない、あの月夜の晩の草の上に投げ出されたどきどきするような二本|匕首《あいくち》があたまにうかんでいたのだ。
「そうとも、迷惑だろうが来てくれ」
その間に、岸がぐッと寄ッて来た。
仁兵衛がひらりと飛ぶ。詮方《せんかた》なく唐獅子もこれに続いた。
「柳沢様のお声がかりだ。それときまったら藤九郎どん、こりゃアしこたま御褒美《ごほうび》がさがることだぜ」
暗い河岸縁《かしべり》を引き返しながら、仁兵衛の言葉だった。
こういう追跡はお手のもの。妹脊山《いもせやま》のお三輪《みわ》のように、糸をかけて手《た》ぐって行くのにひとしい。
こちらの影はまったく潜めて、さて、通り道の番小屋自身番へ、ちょっと声をかけて行くだけで、暗い辻を駈け抜け、裏路地抜け裏から陣十郎隼人の行手に先廻りしてばらばらと人間がくばられる。それが、また子に子を生んで、次第に数を増しながら生垣の背後、石崖の下、天水桶《てんすいおけ》の中、塀の覗き穴と、棄て石同然に、目あての二人に見つからぬところへ隠れる。
仁兵衛は、道をたどって行って、それらの伏勢から情勢を聞き取るのである。
「真っ直ぐだな」
「へい」
すこし行くと、別の男が路地からこぼれ出て、
「右へ!」
「よし」
その男は、路地づたいに、また先へ走り抜け仁兵衛と唐獅子は道を右へ折れる。
実に見事な組織である。こうして相手が気づかぬ内に三重四重の目に見えぬ人網がくばられて、仁兵衛の最後の命令を待って一度にかかる筈だった。
「どこへ行く気かな、向島じゃないか……小梅辺りの粋《いき》な寮へ隠れていやがったのか?」
仁兵衛は得意だ。
ところで、一緒に歩いている唐獅子の藤九郎は浮かない顔色で、
「ねえ、親分、あいつア私をいざという時はだき込むなんていっていたんですが……大丈夫間違いは御座いますまいねえ、そいつが心配で……」
「そりゃア心配はない。おれが口をきいてやらあな」
「お願い申します」
その間もすたすたと歩いて行く。
と、ぎょっとして足を止めたのは、もう誰かいそうなものだと思われた地点、暗い路上に長くなって倒れている人影がある!
はッとして、
「どうした?」と駈け寄る。
その刹那全部の事情があたまにひらめいた。もとより返事はない。鋭い匕首の一突きに急所をやられて虫の息だ。
やったな! と思う。
網の一角は破られたのである。仁兵衛が思わずうろたえて叫ぼうとした。が、これも腹の出来た男で騒げばかえって不覚を取ると思い直したらしい。
無言で、すたすたと前へ出る。
小半町も行くと、かたわらの塀の蔭から、
「こちらへは来ませんよ」
「そうか。動いちゃいけねえ、なおよく見張っていてくれ」
どちらも低い声である。
そこから、道を脇へ切れて、路地から別の往来へ出ると、
「親分……」と一人、そばへ寄って来た。
「あの家です。塀を越えてはいって行きました。たった今!」
「なに!」と飛び立つ思いで、
「すぐと、みんなをかり集めて、二重三重にかこんでくれ」
こう命令する間も、目あての二人が忍び込んだという板塀をめぐらした相当大きな屋敷から目を放さない。
その屋敷へ入ったと見せて、実は籠《かご》抜けであった。捕手《とりて》が騒いで囲んでいる間に、陣十郎と隼人とは、ずっと遠くの暗い路地をいそぎ足で歩いていた。
「驚いたな。どうして感づきやがったか?」
陣十郎には、これが不審だったらしい。独言《ひとりごと》のようにこう呟やいて首を傾《かし》げた。
「あの花見舟の中に誰かいたのか、わしを蜘蛛と知っている奴が? そんなわけはない筈だが……そう考えるよりほかに考え方はない。こりゃアいよいよ当座の息抜きに旅へ出るよりほかはないかな……」
いつもと違って、変に気が弱い。この男にこんなところがあるのだろうか? 隼人はだまって肩を並べて歩きながら、ひとりでに考えていた。いつもの、暴君のような確信を持った態度とはまるで違う。仕事にかけては絶対の自信を持っていて、これと計画をたてたら実に気軽く愉快そうに魔手を揮《ふる》うのだった。仕事の遂行そのものに喜びを感じていて、危険な点などはてんで無視していたようである。
「三国屋の方は?」
隼人が、ふと尋ねた。
「今夜はやめです」と投げたような調子で答えた。
「じゃ、帰りますか?」
「帰りましょう。呼吸《いき》のものですからね。ちょっとでも、けちがついたらその時はやめることですよ。無理に行ったところで、どうせろくなことはない。……しかし、どうも気になる。どこで、誰に見られたものか……間の悪い晩だ」
二人は、遠廻りをして道を引き返した。
暫く来てから、
「堀田さん」といって急に立ち止る。
「済まないが先へ帰っておくんなさい。私アどうもこのまま帰っても落着いていられない。どうしてばれたか、そいつを突き止めるまでは安心出来ないンです。ちょいと行って来ますから」
そんなあぶないことはよした方がいい……といいたかったが、止めて肯《き》くような相手ではない。
隼人は、別れて帰った。
一人になった陣十郎は、傾いた月の蔭をひろって道を戻った。危険はもとより覚悟の上である。
暫く行ったところで不意とかたわらの路地から出て来た男があって陣十郎を驚かせた。警戒しながら通り過ぎようとすると、
「あ!」と向うからいう。その時は、陣十郎の方でも相手が誰か見て取って、はッとしたところだった。
「これは山城屋《やましろや》さんじゃないか?」
「宗匠ですか?」
陣十郎は、その坊主頭の男をこう呼びかけて立ち止った。男は陣十郎の俳諧《はいかい》の師匠で当時有名な其角《きかく》だった。
「なんで今時分この辺へ……?」
「桃暁子《からしし》の家がこの奥でしてね。今まで大一座で酒です。やっとぬけだして来たところだ。いい晩だね。しかし、こちらは?」
「珍しく店の用でこの先まで……じゃ、いそぎますから……」と、そこそこに、別れて歩き出した。振り返って見ると、其角はかなり酔っているらしく、ふらふらと足もとあやうくおぼろ月の川端の柳の傍を歩いて行く。
陣十郎は、自分が知らない間に立ち止って懐中の匕首《あいくち》の柄《え》を握っているのに気がついた。
例の呉服橋外の隠れ家へ人々が帰って間もなく陣十郎は浮かない顔付で戻って来た。
「どうでした?」
「どうでしたじゃない。すっかりけちが付きましてね。そりゃアそうと、もうこの家にはいられません。ともあれ、このまま湯島へ引き揚げることにしましょう」と、如何にも急な話だ。
「直ぐにですか!」
「左様」
隼人は狐につままれたような顔付でいた。しかし話をきいてみれば成程とうなずくことが出来た。実際運わるく陣十郎は俳諧師の其角に顔を見られてしまった。其角には、この呉服橋の山城屋の隠居として教えを受けていたのである。
「私アね。外の人間だったらその場で消してだまらせたところだった。現に匕首の柄まで握っていたのだが、相手が他人じゃない。あの宗匠だ。ちょいと、それまでにこちらの横車を押す元気がなくなりましたよ。そうだといってひょっと役人に聴かれたら呉服橋の山城屋の隠居に会ったといわないでくれと、ひらきなおるわけにもゆかず……えい、ままよ、柳沢屋敷でしくじってから直ぐにも半年や一年旅へ出る覚悟でいたところだ。今夜の不の字も多分そうしろとの謎だろうと考え直してだまって帰って来たのさ」
「しかし、宗匠が役人の網にかかるとは限りますまい」
「そうじゃない。今夜の勢いでは、橋という橋、辻々の要所要所に張り込んでいますさ。どいつの采配か近頃にないすごい勢いだった」
陣十郎は、こういって考え込んでいるように見えたが、
「無論柳沢からきびしい沙汰があったことでしょう。どうも、こちらの悪戯《いたずら》もすこし度が過ぎていたには違いないが……ま、この家は睨《にら》まれるものと見ていい」
陣十郎は、こういって、手文庫をひきよせて、中に入れてあった書付などを、いそがしく破いては火鉢へくべて燃やしている。多く、証文や手紙などである。これはもしもの時に知人に累《るい》を及ぼすまいとする用心からであろう。
隼人は、頼まれて、主家《おもや》へ金蔵《きんぞう》を起しに行って来た。
金蔵が、起きて来ると、
「おい、ひょっとすると明日あたり、やられるぜ。俺ア一足先へ抜けるから、あとのところはたのむぜ」
「よろしゅう御座います」
金蔵という男も動じない。
「もう、そろそろ夜があける頃だな」
陣十郎は、こういって雨戸を一枚あけて外を見たが、忽ちはッとした様子。無言で戸を閉めて振り返ると低い声で、
「もう来やがったな! 路地に影が差したぜ」
「へえ」と金蔵が顔を見て、
「じゃア私も一緒だ。火を掛けましょうか?」
「まさか……よ。どうも手廻しのいい奴等だ。どのくらいの人数か知らないが、抜かるな、明後日《あさつて》の午《ひる》、奥沢の九品仏《くほんぶつ》で集まろう」
「よござんす」
隼人は、無言で両人のすることを見ていた。
陣十郎は戸棚の隅から新しい脚絆《きやはん》草鞋《わらじ》をつかみ出して来る。脚《あし》ごしらえはまたたくまに出来上る。その時すでに表の戸を、どんどんどんとたたく音が聞えて来た。
猶予《ゆうよ》なく陣十郎が立ち上って、部屋の一隅にきってあった小さい戸口をひらく。そこを出ると、土蔵の間を狭い道が通っている。三人は足音を忍んで歩き出したが、その時は最早手が廻っていて、突如、暗い蔭から獣のように躍り出した者があった。
「御用!」
はっとした時|十手《じつて》が陣十郎の襟に絡《から》んでいる。
無言で振り放して、
「それ!」という。
こうなったら、もう乱脈だ。金蔵も隼人も脇差を抜いて一散に走り出る。
陣十郎の手にも匕首《あいくち》がひらめく。捕手《とりて》は声もなく地にはった。
板塀の一角を左手で突けば、ばたりと覆《おお》って秘密の通路をひらいた。外はすぐと路地。構えていた捕手が、それと見てばらばらと寄るのを、臆せず無言で立って、じっと睨み返した。
「神妙にしろ」
「しゃらくせえ!」
何たる賊か? 逆にじりじりと寄る。隼人と金蔵が逃げた方角でも今は足音叫び声が騒然と重なり合って手に取るように聞えた。
「うぬ!」
ぱッと打ち込む十手をかわして、右に手繰《たぐ》る。泳ぐのを振り向きもせず走り出て、匕首を口に、身を躍らせたと見えて、かたわらの板塀にのぼっている。そこから屋根へ。蜘蛛の異名にそむかず驚くばかりの早業《はやわざ》だ。
「それッ」と騒ぐ捕手を冷やかに見おろして、あかつき近き屋上の闇を悠々と歩き出す。
「蜘蛛はこっちだ!」
「提灯! 提灯!」
捕手は気が狂ったようである。
隼人は、夢中で斬って出て、濠端《ほりばた》へ逃げのびていた。金蔵はどうなったか、陣十郎はどうなったか?
振り返る暇もない。追手の足音はすぐ背後に迫っていたのだ。
ひゅッ! とうなり声をたてて、六尺棒が肩を掠《かす》めて飛ぶ。
南無三!
と思って、前後の思慮なくかたわらの路地へ、駈け込むなり振り返りざま追い迫る一人をさッと斬って、急に木戸を閉めた。間一髪に他の追手が殺到する。
木戸を隔てて、隼人は、白刃を挙《あ》げてこれを威嚇《いかく》して路地の奥へ駈け込んだ。この路地に抜道があるかどうかできまる運命である。
隼人は遂に助かった。
次の日の昼、隼人は広尾の原の草の中にぐっすり寝ていた。まるで死んでしまったように深い眠りである。
午《ひる》近く目をさまして白金台《しろがねだい》、目黒の丘を陽炎《かげろう》の向うに見た。草のにおい、なまなましい土のにおいが、あたりに漂っている。隼人には自分がこんなところにいるのが急におかしくなった。昨夜《ゆうべ》のことが、全部今の一睡の間の夢のように思われたのである。
白いふわりとした雲が空に見つかった。
その雲は、輝いた水蒸気にぬれた空をはうようにして動いて行くのである。
隼人は、暫くそのものうい動きに目をとめていた。不思議と、自分の心の奥行がどんどんのびて行くような気持である。何も屈託のない、実にのびやかな心持だ。よく寝足りたせいかも知れない。身体の芯《しん》に、まだ形も方向もきまらない力がどんよりとうごめいている。
草の中に眠っている牛の生活を想った。意思もなく目的もない暢《のん》びりした生活である。喉がかわいたら水際へ降りて行くであろう。草で腹が一杯になったら、いながらうとうとと眠り込むであろう。
眩しい日を閉ざした瞼の外に感じながら、隼人は自分が段々とその牛に化《な》って行くような気持がした。幸福である。誰か人が三、四人がさがさと草を踏んで、直ぐ脇を通って行くようだったが、目をあけて見る気もしないでいた。
遠くで人の話声がしている。
「その辺……その辺でよろしい」
誰か大きな声で、こう呼ばわるのが聞えたので、隼人はむくりと首を持ち上げて見た。
遠矢《とおや》を試みるためらしい。どこの家中の者か若侍が五、六人で来ている。仲間《ちゆうげん》が三人、径六尺ほどの大的を担《にな》って、丁度隼人のかたわらを通り過ぎたところである。仲間達は、草の穂のきらきら光っている中に立って的をたてようとしている。
隼人の寝ているところは丁度矢の通り路にあたる。牛の生活を暢気《のんき》に空想していることはもう許されない。
折角いい心持でいたところを中断されて不愉快だったが、仕方なく立ち上って、すこし離れた椎《しい》の木の下へ退いた。
的は立って、若侍は肌を脱いで肉塊のたくましく盛り上った肩を日にさらした。間もなく一人が、身構えて、弓を一杯にひきしぼる。
ひゅーッ! とうなりながら、矢は、輝いた空間にひくく弧《こ》を描いて走ったが、的までは行かず、すこし手前の草の中に羽を薄《すすき》の穂のように白くして立った。
侍達は晴々と笑って、代って、別の一人が出た。
これは、的の外輪を貫《つらぬ》いて、ひきさがる。それから順に他の者が出た。的にあたれば引き続いて第二射を試みる。外《はず》れれば引きさがるのである。これは、こういう約束のもとに技を競《くら》べているらしい。誰もあまりうまくない。
ひろびろとした空間をつらぬいて走る矢を眺めるのは心持よいものである。隼人は、気楽な空想を妨げられた不快をさほどにも思わず見物に立ちながら、一種心のしまるのを感じていた。
しかし、あまりにあたらない。
だらしなさすぎる……と妙に腹が立って来た。いつか最初の不快が、二倍三倍に加わって、まるで水面に油を落したようにすきまなく心持にかぶさって来るのだった。
(禄《ろく》をもらっているとは有難いことだな)
例の、棘《とげ》を含んだ考え方が、胸に萌《きざ》す。
そうだ。この晴天に、暢気に下手な弓をひいていられるのも扶持《ふち》を受け禄をいただいている身の余裕からではないか? 一朝、事ある秋《とき》のためだというのか?
(そうではない。遊びだ!)
烈しく、こう思う。
折から、白金台から降りて来る坂道の草の上に、人の頭が二つ出た。やがて全身が見える箇所へ出て来た。遠矢の仲間で遅れて来たものらしい。隼人は、その右側の一人を、たしかにどこかで見た覚えがあるように思った。
誰だったろう?
隼人は、首を傾《かし》げて考えてみたが、どうも思い出せなかった。その内、その男も無雑作に片肌を脱いで競技に加わった。
体格も大きい。弓を引き絞って、ぴたりときまった姿勢は、遠見ながら名工の鑿《のみ》に彫《ほ》り上げられた執金剛《しゆうこんごう》の立像を見るようにたくましく感じられる。
やがて、弦音《つるおと》に送られて、矢は走り出て、心地よいばかりに的の中心にぷつり……と音高く立った。
人々は喝采した。
隼人も微笑する。
第二の矢も第一の矢とほとんどすれすれに立つ。
見事なものだ。見物に立っていた町人達も魅せられたように矢の放たれる毎に顔を見合せて、ささやいている。偶然隼人の傍に来て立っていた一人が話したことが、それまで思い出せなかったことを急に思い出させてくれた。
「上杉様の御家中だぜ、豪勢なものじゃないか……?」
(上杉の家中?)
ははあ、そうか! たしか小林平七とかいっていたな。
とはじめて頷いたが、隼人の額にだんだんと沈んだ思案の陰影がさした。
「討たれてやってもいいな」と、ふと、この考え。
明日。午に奥沢九品仏《おくさわくほんぶつ》で顔を揃えようとは蜘蛛の陣十郎からの話であったが、本当をいえば、そこまで行くことさえ、何がなし臆劫《おつくう》な気がしている。さて、それからあてのない旅へ出ることになるらしいが……それがまた如何にも面倒。
変心には違いない。陣十郎が君臨している闇の世界の生活が、今は隼人に最初ほどの魅力を持っていなかった。
どうせ通常の世間から追われて仕方なく入った世界だったが、思ったほど落着くことも出来なかったと見える。陣十郎のように卓抜した技倆を持っていて仕事が生活になりきればこれは住んで如何にも面白い世界だろうが……盗みということを、たとえ仕方なく許されるとしても、やはり一種の罪悪として見るよりほかない隼人に、陣十郎が感じているような興味や熱意をどうしても味わえなかったらしい。隼人は陣十郎の奇怪な生活振りに好奇の目をみはりながら、早くも二人の間にある溝《みぞ》を感じていた。
隼人は、意味もなく立ち上って草の中を歩きだした。白い蝶が、ひらひらして、隼人の身のまわりに従う。やや小高いところへ出て見ると、一面の草の光っている野面《のづら》に雲の影が渡って行くのが見えた。
「どう、しよう?」
ぽつりと、自分の心に尋ねた。
問いも、さして真剣でない。答える方でも、どっちでもいいような心持でいる。ゆるい気流に漂っている草の種子のような心だ。
奥沢の九品仏までは、日射の暑いほこりの白い道が長い。
多分、それを考えたからだろう。
暫くして、隼人は足を踏み戻して、遠矢の連中のいるところへ近付いて行った。
「小林平七どのには御座りませぬか?」
丁度|憩《やす》んでいた平七は、この見なれぬ町人ていの男が話し掛けて来たのを怪訝《けげん》に思ったらしく振り返って見た。
「誰だ」
隼人は薄く微笑を含んで、この前平七に会った時自分は浪人の風をしていた。その時たしか名前を申し上げたつもりだが堀田隼人という者だと名乗った。
「むむ……」
平七も初めて思い出したらしく頷きながら、さて、なお隼人が出て来たことを怪しく思った様子で目を光らせた。
平七は、隼人が申し出た話を聞いて、ちょっとこの男の本心を疑う心持になった。しかし隼人は至極真面目だし、話は立派すぎるくらい立派なものだった。隼人は過日手を掛けた平七の友人に遺族があって自分を讐《かたき》として討つ者があるならば尋常に討たれようというのだった。
「とにかく、ここでは話が出来ない」
平七はこういって、白金台にある上杉の屋敷の中にあった自宅へ隼人を連れて戻りながら、それとなく、この妙な若者の様子を注意深く観察した。
「まだお若いに、命を惜しいとも思われぬのだな?」
平七は、こういった。
隼人は微笑しただけである。
平七は、いよいよこの若者の気持がわからなくなった。
「御志は御殊勝だが……」といった。
「貴方《あなた》に斬られた片田は独り者、妻もなし子もない。また親戚があったようにも聞いていない。さすれば敵《かたき》討ちの役目は朋友の拙者を除いてないように思うが、それにても御異存なかろうな」
「仰せまでもない」
小憎らしいくらい落着きはらって、ひややかに答える。
平七は何がなしに嘲弄されているような心持になって、急にこの若者に憤怒を感じた。こんなに立派な口を利いていて、あるいは、いざとなれば逃げ出すのではないかとも思われる。
殺された片田も相当の腕前だった男。これと斬り結んで勝ったこの若者に余程心得がなくてはならぬ。嚇《おどか》しに斬り掛けても勿論はずすに違いない。
(よし、真心《ほんしん》をためしてくれよう)
平七は、こう思って、それとなくいった。
「どうも無駄なことのようだな。拙者にも片田の讐《かたき》を討つ気はない。また貴方にしろ、まだお若いのだ。もうすこし命を大切になさった方がよかろう」
「誰のために?」
「動くなッ!」
平七は急に大喝して、脇差の鞘《さや》を走らせざま、さっと抜き打っていた。もとより、相手がこの一刀の下を潜って庭へ走り出ることを予期していたのである。
しかし、若者は本能的に身をそらそうとしたのをかえって、とめて動かなかった。
はッとしたのは平七であった。止めようとして残る切尖《きつさき》は隼人の左の肩にさッと入る。血は迸《ほとばし》って背後の襖《ふすま》へかかった。
驚いて平七が立った時、隼人は白い襟足《えりあし》を見せて畳の上にがっくりと肩を突いているのだった。
何たることか? 流石《さすが》の平七も狼狽した。その間にも肩口から血は流れ出でて畳を染めて行く。しかもこの若者は無言だった。平七には圧倒的に感じられる恐ろしき無言である。
「待て!」
急に平七は突き上げられたようにこう叫んで戸棚へ走り寄って、ありあわせた布を引きずり出して来て傷口を繃帯《ほうたい》にかかった。
隼人は、すごいように蒼白な面に切長の目の光を一点に集め、相変らず無言でいる。臆した気色もない。また、この平七が手当てしようとするのに反抗する模様もない。
平七には、いよいよこの男の心持がわからなかった。しかし今は、とにかくこの男の命を取り止めようとして夢中でいた。
「三平、三平!」と若党の名を呼んで、これが走り出て来ると、
「医者を、すぐにと申せ!」と吩《い》い付けて、丁度繃帯を終った隼人を静かに仰向けに寝かせた。
「妙だ男だ。そんなに死にたいのか?」
こういいながら平七は、自分が理由なく涙ぐましい気持になって来ているのを知った。
千坂兵部
小林平七が、上杉家の江戸家老|千坂兵部《ちさかひようぶ》の役宅を訪れたのは、その夜も四つに近い時刻だった。
兵部は、四十がらみのやせた男である。細おもての、彫《ほり》の深い顔立で、細く通った鼻筋、薄いくちびる、大きくみひらく目に、針のように鋭いものがあった。いきいきとして、よく動く顔立である。
壁に古い書籍の類をうず高く積み床の間に簡古《かんこ》か何かの拓本《たくほん》を掲げやや殺風景に近い装飾も何もない部屋に平七がはいって行くと、あるじは横ざまに畳の上に寝ころんで何かしていたところだったが、起き直って振り返った。
「小林か? 坐れ」
こういって、無作法に、また寝そべった。いつもの事である。平七は微笑しながら静かに坐って、兵部が何をしているのか、はじめて見た。
子猫が三匹畳の上をはいずり廻っている。どれも、まだ生れてから間もないらしく毛色もはっきりしていないうすぎたない猫達だった。兵部の大きな手が遠くへはって行くのを首をつまんで外の奴の上にのせると二匹が一かたまりになってもつれて争っていたが、やがて離れて不揃いな毛の生えた背中をたてお互いに相手を威嚇しようとするもののように弧をえがいて廻った。別の一匹は、よちよちと壁の方へ歩いて行っている。
「こいつら、まだ目もろくろく見えない癖に喧嘩だけは知っているのだ。これは生れつきらしい」
兵部は、平七の来意を尋ねようともしないで、こういった。
猫が歩くと、畳に爪が鳴る。
「爪を引っ込めることを知らないのだ」
また、こう笑いながらいって、爪の跡が細く血をにじませている手の甲を見せる。目は依然として子猫達の運動にそそがれて、可愛くてたまらないというように細められているのだった。
「何か用事があるのか?」
兵部ははじめてこういい出した。
平七は隼人のいきさつを話しはじめた。
この話の間も兵部は、猫を弄《いじ》くっている。よほど猫が好きらしい。しかし明らかに平七の話に興味を感じたらしく、やがて起きなおると、猫達を膝の上に囲って注意深く平七を見た。
話は終った。
「妙な男だな?」と、隼人を批評して、ぽつりと、こういった。
「どういう量見か?」
「手前にもわかりませぬ」
平七はすこし怒っているような口調だった。
兵部は、ちらと、目の隅で、この正直で強いだけの武士を見て、新しく微笑した。
「そりゃア仕事がないからだよ。浪人者にありそうな心持だ。むむ」
その後は、急に無言になって、手だけ働かせて膝の上の猫をなでていた。猫は、ころころとのどを鳴らしている。
兵部は、にわかに考え深い目付になっていたが暫くしてから翻然《ほんぜん》としていった。
「小林」
「…………」
「その男をおれのところへよこせ」
「如何なされます」
「赤穂へやるのだ」
「赤穂へ?」
「そうだ」
兵部は重く頷いたが、丁度親猫が障子の外へ来てないたので、障子をあけて入れてやりに立って行きながら、
「浅野へ隠密《おんみつ》にやるのだ」
「浅野へ隠密に!」
これは、それまでに空想もしなかったことだったので、平七はその理由を怪《あや》しむもののようにこう叫んだがその時はじめて、自分の主人の実家吉良上野介と浅野との先頃の葛藤を思い出した。
「上野介様御為に御座りますか?」
「いや、米沢十五万石、当家の為だ」
兵部の返答には断乎たるものがあった。
米沢十五万石と浅野の遺臣との間に何の関係があるだろうか? 平七には、兵部の言葉が不審に感じられた。
吉良家と当上杉家とは並の親戚ではない。上杉家の当主|綱憲《つなのり》は上野介の長子。上野介の妻は上杉家の女《むすめ》だった。それのみか、綱憲の二子春千代は吉良家の養子となっている。縁は三重である。然しながら……吉良浅野両家の間に紛争があったにしろ、それが何ゆえに上杉十五万石にかかわるのか?
平七にはわからなかった。
「小林」
兵部は、厳粛な面持になっていった。
「浅野の家老は大石内蔵助という男だ。人は知らぬ。したが、私の知っているところでは、彼奴《きやつ》は恐るべき人物だ。潰《つぶ》された浅野五万石の復讐として、米沢十五万石を潰そうとかかるかも知れぬ。……私の恐れているのはそれだ」
「…………」
平七は呆れたように無言で兵部の面を見詰めているばかりだった。
「御公儀の御措置が片手落ちに過ぎた。上野介殿へも一応御謹慎を仰せ付けられて然るべきだったのだ。それのみか、内匠頭は切腹国土は没収。誰が見てもこれは公平を欠いた御沙汰だ。私達にさえそう思われる。ましてかれ等は食扶持をはなれて野犬になったのだ。飢えた者が尋常以上に怒り易くなるは当りまえのことだ。しかも、かれ等が如何に怒ろうとも充分に理由があることだから」
「然らば、世上の噂の如く、復讐を?」
「恐らく、いや、無論その挙に出ずることと思われる」
兵部の声は沈痛に響いた。
「赤穂の城を枕に討死《うちじに》と覚悟をきめてくれるようならば有難い。したが、大石内蔵助の如き傑物をいただくかれ等だ。恐らくその妄挙には出まい。必ず尋常に城を明け渡す。城を明け渡すようならば、最早復讐の密謀ありと見て間違いないのだ」
「然しながら御家のあることに御座りますれば……」
「そこだよ。小林、私の恐れているのは?……また大石内蔵助ほどの男が何でその点を利用せずにいよう。上野介殿のお命を狙うばかりか、御当家十五万石を渦中に抱き込むことをもくろむのだ。出来ないことではない。若《も》し位置をかえて私が大石の立場に立ったならば必ずやる。是非とも仕遂げて見せる。御孝心あつきお上は、赤穂浪士に復讐の挙ありと思し召さば当上杉のお家を棄てても上野介殿を御庇護遊ばされようとなさるに違いない。武道の意気地《いきじ》のためにも、また御孝道を全うせらるるためにも、誰が見てもそう遊ばされるのが当然とせられるのだ。しかし、な、小林、そうなったら米沢十五万石がやせ浪人と心中することになるのだ。大石からいえば、そこが付け目だ。お家からいえばこりゃア恐るべき陥穽《おとしあな》だ。私が心から恐れているのは実にそれなのだ!」
兵部は、こういってから、目を移して、親猫を囲んでいる子猫達を見た。それまで話の間に一語毎に熱して来て、二つの目に火花のようにひらめいていた昂奮が、猫達の無心な動作を眺めている内に段々しずまって来たようである。
やや間をおいて静かな声でいった。
「私は、松の廊下の変あった後直ちに赤穂へ隠密を入らせ、その後も三人ばかり人を急行させた。やがて、かれ等から様子を知らせて来る筈だが、その文面によっては更に秘密に手を廻して大石等の計画をそごせしめるように計らねばならぬのだ」
「とにかく、わしは、お家のことを考えるよりほかはない。そこで今度のことでも甚だ困ったことだと思っている。そうではないか、われわれは望まずして敵役に廻ることになったのだ。世間からは憎まれるよ」
兵部はこういって微笑した。
「憎まれるのは平気だが……世間では御当家の一挙一動を見張っていて、何か非難のほこを向ける材料はないか、探しにかかる。赤穂の浪人と十五万石のお家とを比べては、弱い者に味方したがるのが世間だから、どうもわれわれ余程歩が悪い。よほど巧に動かぬと、とんだ目にあうだろう。上野介殿の御身に万一のことがあれば十五万石の上杉がついていてという話になる。なお、お家から御加勢していてそのことがあれば、これはお家の名にかかわる。わしが心中といったのは、その点だ。まかり間違えば、あがきのつかぬことになるからなあ。
だから、わしは、表面から上野介殿に御加勢することは、なるべく避けたいと思うのだ。お上の御孝道のこともあり、これは至難のことだ。恐らくお上は上野介殿お身柄をお引き取りになり赤穂の浪人が指一本さすことの出来ぬようになさろうと遊ばされるであろう。これが最も危険なことなのだ。自ら望んで敵に挑戦するのと同じことだからな。これだけはわしもおとめするつもりだ。そこでわしの考えたのは、裏面の働きだ。世間には感づかれぬように隠密に事を計って、赤穂の復讐の計画を突きくずしてしまいたいと思うのだ。あの事変があって以来、わしはこのことばかり考えて来た。今ではどうやら自信も出来た。わしと大石との相撲《すもう》だよ。不足のない相手だ。わしも死物狂いでかかるつもりだ」
静かな言葉であるが、激しい覚悟の火花が感じられる。十五万石第一の知者として人に知られた名家老、これだけに断言するからには、もとより充分なる確信と秘策を胸にたたんでいたことであろう。
その胸に、兵部はおとなしい親猫をだいていた。鼻づらから口の内まで黒い純粋な烏猫《からすねこ》である。毛はつやつやとしていて、あるじが撫でる手の下から黒びろうどの輝きを見せている。その枯淡なる部屋のたたずまいの中に、この猫ばかりが、ひとり豪奢な存在のように思われた。
「その男の傷は重いのか? なにさほどでもない? 腕はよほど出来るのだな? 一癖ありげな奴だな?」
兵部はまだ見たことのない隼人に、大分興味を感じているらしく、いろいろと尋ねる。そして傷のなおり次第連れて来るように……といって、その晩は平七を引き取らせた。
四、五日して、まだ顔色の蒼白い隼人が平七に連れられて来た。
「当分この屋敷にいなさい」
兵部は、その日は、これだけいっただけだった。
大石内蔵助
第一の早打ち、早水藤左衛門《はやみとうざえもん》、萱野三平《かやのさんぺい》の両名が片岡源五右衛門の書状を携えて赤穂に着いたのは十八日の夜のことだった。百七十五里の間を、江戸を出て四日半の短時日に馳《は》せおうせたのである。
大手門を駈け入ると、直ちに城代大石内蔵助の玄関に着ける。駕籠からまろび出るように出た二人は、四日間昼夜をおかず駕籠に揉まれて来たことで、心身とも綿のように疲れ、鬢髪《びんぱつ》みだれた蒼白な姿で、べたべたと敷台に坐った。
「一大事……太夫《たゆう》御在宅か?」
藤左衛門は、目をぎらぎらと光らせて、息を喘《あえ》ぎながらいう。
大石の用人、若党が二人を助けて、対面の間《ま》へ案内して、静かに手当てを加えた。
その間にも二人は、太夫は? 太夫はと繰り返していう。
寝所にある内蔵助へはすでにこのことが通じられていた。
「早駕《はや》が……?」
内蔵助は、こういって、静かに起き直った。
「誰が、はせた?」
「早水藤左衛門どの、萱野三平どの……」
「いつ江戸を出たか、聞いたか?」
「十四日……と仰せられました」
「十四日だな?」と、繰り返した。
十四日ならば勅使御饗応《ちよくしごきようおう》の当日である。内蔵助はかすかに額を曇らせた。
やがて、
「静かに休ませて置け」といって、用人をさがらせた。
ひとりになってから内蔵助は、衣類をあらためた。帯を結びながら、沈んだ顔色をしていた。何事があったかは勿論わかりようはないが、輪郭のない影が茫漠と感じられるのである。その影のひやりとした感味と匂いとが、すでに心をとり囲んでいるように思われるのである。
廊下を歩きながら閉めきった屋内《おくない》にも春が感じられた。こんな晩に……という感じがふと心の表面をかすめて過ぎる。いうばかりなく、ものやわらかな春の晩だった。
内蔵助は、いつも客にあいに出て行く時と同じように、静かな姿で対面の間へ入った。最初目に入ったのは、早水、萱野の異常に昂奮した様子である。この二人には、腹立たしく思われたくらい内蔵助は冷淡に見えた。
坐る。
二人は両手をついたが、途端に思わずはらはらと涙を流した。
「片岡の手紙を持参いたしたと」
内蔵助は、二人の涙には関わりあいない様子でこういった。
二人は、怒ったように顔色をかえて、坐り直した。萱野は懐中していた源五右衛門の手紙を荒荒しく出して、内蔵助の前へ進めた。そして、内蔵助の静かな指が封を切るのを凝っと睨みすえていた。
内蔵助は、黙読をはじめた。
御勅使柳原大納言様、高野中納言様、御院使清閑寺中納言様、御道中御機嫌よく、当月十一日御到着、十二日御登城遊ばされ、十三日御饗応御能相済み、翌十四日御白書院に於て御勅答の式に相成り候て、御執事《ごしつじ》御役人諸侯残らず御登城、折から松の廊下に於て吉良上野介殿不尽の過言を以て恥辱をあたえられ之に依って君|刃傷《にんじよう》に及ばる、然るところ梶川殿押し隔てられ多勢を以て白刃を奪い取り吉良殿を打ち留め申さず、双方とも御存命にて上野介殿は大友|近江守《おうみのかみ》殿へ御介抱御養生仰せ付けられ即時|欽命《きんめい》これあり、君は田村右京太夫殿へ御預けに候、伝奏饗応司は即刻戸田能登守殿へ仰せ付けさせられ候。有増《あらまし》右の通りに候条いかにも御家大切の時節に候ゆえ、御注進として早水藤左衛門、萱野三平右両人馳せ登り申し候。この日取り急ぎ書中一一する能《あた》わず両人|委曲言上《いきよくごんじよう》仕るべく候、なお追々注進奉るべく候。恐惶謹言《きようこうきんげん》
三月十四日|巳下刻《みのげこく》
[#地付き]片岡源五右衛門|高房《たかふさ》
一字一句を、はっきりと読み取った、内蔵助は木彫の面のように動かぬ顔色で、何か心を一点にとめているらしく、思案深い顔をして、暫く無言でいた。
「遠路大儀であった」
重いくちびるから開かれた時、早水、萱野をいたわるような口調でこういった。
「様子を聞こう」
そこで二人は、口々に話し出したが、何だか石の地蔵に話しているような感じに打たれた。内蔵助は、うむ、うむ……とうなずくだけで、殆ど何もいわない。顔色もいつもどおりなのである。
話が終ると、
「そうか?」とはっきりといって、二人に、なおよく休息するようにといって、静かに席を立って居間へ戻って行って、襖をたてた。
何の物音もしない、間もなく、用人が呼ばれて行って見ると、内蔵助は、部屋の真ん中に、ぴたりと坐っていた。
「家中一同に即刻集まるように申せ」
用人が、さがって、直ちに家中総出仕の触れを廻すように手配してから、内蔵助の居間へ報告に戻って見ると微な鼾《いびき》の声が襖の外に漏れていた。
そっと音をさせぬように、開いて見ると、内蔵助は畳の上に大の字になって眠っている。
(風邪をおひきになってはならぬ)
用人は、こう思って、傍へ寄って、そっと顔を覗き込んだが、最早あけ近くの暗い行燈《あんどん》の光を受けたその頬に涙が一筋あとを残しているのを見て、思わずはッとした。
見てはならぬものを見たように思って、自分の不謹慎を愧《はじ》る心持が用人の胸を蔽《おお》うた。恐る恐る、退《さが》ろうとすると、内蔵助が急に大きな目をあけて見た。
「主税《ちから》は寝ているのか?」
何を思ったのか、こういった。
用人が、そのとおりだというと、
「むむ」と頷いて、
「一同が集まる時分になったら、わしを起しに来るようにいってくれ」
こういって寝返りを打って、また瞼《まぶた》をとじた。用人が気がついて羽織をかけてやった時には、もうすやすやと静かな寝息が聞えていた。
主税が、父親をゆり起しに来たのは、若党等が雨戸をあけて、拭き込んだ縁側から障子の裾へ朝の日射を迎え入れた後だった。
主税は、父親がいつもどおりに顔を洗うのを眺めていた。少年の心にも、お家の大事ということが深く刻まれている。それと同時に父親の責任が如何に重大であるかということも聡明な頭に理解出来ていた。父親が、いつもと、あまり変りなさすぎるのが、やや物足りなく思われたくらいだった。
内蔵助は、ずっと無言でいた。洗面をおえると、縁端に出て爪を剪《き》った。白い手の中で鋏《はさみ》がきらきら光っている。梢の向うは、光を溶《と》いた春の空なのである。ぱちん、ぱちん……と、冴た鋏の音が聞える毎に爪は、庭の土の上へはね落ちて行った。
ふと、内蔵助は振り返って主税を見た。主税には、父親の顔付がかつて見たことのないむずかしい恐ろしいものに見えた。
「主税!」と、いう。
「は」と、身体《からだ》を堅くした。
「武鑑《ぶかん》を持って来てくれ」
爪を剪っている間に急に何か思い出した様子である。
主税が立って行って武鑑を携《たずさ》えて戻って来ると、
「米沢の上杉の家老職は、誰だ?」という。
主税は、膝の上に武鑑を披《ひろ》げて探しにかかった。
「千坂兵部がいるだろう?」
「左様に御座りまする」
主税は、本を見ていた目を父親の顔へ向けた。
内蔵助は、だまって、頷いたまま、又何か考え込んでいるらしかったが、それから直ぐと支度にかかって、触れによって家中の者が集まっている城内の大広間へ出て行った。
昨夜中の早打ちの噂は、触れをきいて出仕した人々に電流の如く伝わっていた。その内容はわからないが何事か容易ならぬことと察せられたのである。大広間には家中三百余人の者が列を正して居並びながら、内蔵助が来るのを待っていた。
内蔵助は、静かに席にすわった。そして人々の期待に緊張しきった沈黙の裡《うち》に一座を見廻しながら口をひらいた。
「今日これへ御招き申せしは別儀ではない」
語気は自《おのず》からに沈んだ。内蔵助自身、またあたらしく、事件の重大さが俄《にわか》に胸を犯すのを感じて、言葉を途切らせたのである。しかし直ぐと言葉を継いで、昨夜の早打ちがもたらした江戸表の事変を、低いがはっきりした語調で一同へ知らせた。
「取敢ずこの儀お知らせ申す。何《いず》れも謹慎して後報を待たれるように」というのが最後の言葉だった。
この青天の霹靂《へきれき》ともいうべき事件に、一座もただ愕然として、一語を発する者もなかった。内蔵助は、その中から萩原文左衛門、荒井安右衛門の両人を指名して直ちに江戸へ向うようにいいつけた。しかしこれと殆ど行き違いに、第二の早駕籠に揺りぬかれて、原惣右衛門、大石瀬左衛門の両人が江戸から着いていた。
城代屋敷の玄関に駕籠から吐き出された二人は、白木綿に腹を緊《し》め、袴《はかま》の襞もよれよれな姿で、蹌踉《そうろう》として刀を杖に敷台へ登る。惨たるその姿、髪をふりみだした蒼白な顔色に、早くも人々の胸をえぐるものがあった。
二人が、対面の間《ま》にうずくまるように坐る。間もなく、さっと襖をひらいて内蔵助が出て来た。
「殿は?」
流石《さすが》に、その口をわって最初に迸《ほとばし》り出たのは、この言葉であった。
「無念至極……に御座りまする」
二人は血を吐くような声で、こう答えてがっくりと、顔を畳に押し付けた。駕籠にゆられてみだれた髪はわなわなとふるえているのである。
予期しなかったことではなかったが、内蔵助の胸も一時にぐっと塞《ふさ》がって、暫く無言でいるばかりだった。
「落着け。……書状を持参致したのか?」
内蔵助は、老人の惣右衛門が痩せて骨ばった手に握っていた書面を取って、披《ひら》いて見た。内匠頭の実弟大学並びに戸田|采女正《うねめのしよう》、浅野|美濃守《みののかみ》三人連署のものである。
主君は切腹……お家は断絶……
思わぬことではなかった。しかし、幾分なりとも万一に御公儀の御慈悲を期待する心持はあったのである。事の起りは相手の横道《おうどう》にあった。……しかも敵《かたき》上野介は一命無事、本復《ほんぷく》次第出仕の筈だという。
むらむらと、焔《ほのお》に似たものが走って、内蔵助の全身を熱くした。
これが御政道か!
どこかで、この声が叫んでいる。
この声に内蔵助は、目をふさいで、化石したように、左の膝へ扇を突いたまま深く黙然としていたが、やがて、かっと瞠《みひら》いた目に惣右衛門、瀬左衛門の二人を見詰めて、
「話せ!」と言葉短くいった。
惣右衛門はかすれた声で経過を物語った。抑えつけていた悲痛の念が話の間にも、はね上って来て、涙となって幾度も声を塞ぐのである。その度毎に瀬左衛門が代る。またこの瀬左衛門が万感胸に迫って言葉を奪われる。じっと石像のように動かずにいる内蔵助さえ、波の紆《うねり》に乗せられているような心持であった。
「是非もなきこと……」
最後に内蔵助は悲痛を押し切って、こういって、立ち上った。人々は、内蔵助がひとりで仏間へ入って、障子を閉したのを見ていた。
悄然《しようぜん》として誰も口をきくものもない。家の外を領《し》める麗らかな春の光にひきかえて、邸内は小暗《おぐら》くひっそりとしていた。風の松の梢を揺さぶる声がしているばかりである。内蔵助は、主税がやや心配になったくらい永い間仏間に籠《こも》って出て来なかった。何をしているのか、ひっそりとして気配さえ感じられなかったのである。
その内玄関の方で人声がしていたが、用人が入って来て、主税に家老大野九郎兵衛が来て内蔵助に面会を求めているといった。
主税は、これをよい機《しお》に襖《ふすま》の外から声を掛けた。
「父上」
「……なんだ?」
内蔵助の声が内からすぐと答えたが、やや性急に「そこをあけてはならぬ。今暫く誰もここへはいって来ることはならぬのだ。すぐ出てまいる」
例になく嶮《けわ》しい声音に聞えた。
「…………」
仕方なく主税は、取次を差し控えたが、妙に不安な淋しい気持に襲われて、すぐとその場を立ち去りかねた。
聞くともなく耳を傾ける襖の奥には、またもや、人がいるとも思われぬ冷たい沈黙が感じられただけだ。
内蔵助は、仏間にはいってから、燈明をあげて静かに仏前に額《ぬかず》いた。
それまでじっと押し殺していた激しい感動が、はじめて、堰《せき》を切られた水のように一度に胸にこみ上げて来た。肩ぎぬがこまかくふるえている。
ただ、涙はなかった。涙以上の、石のように堅いかたまりが胸を塞いでいた。
(もし、私めがおそばにありましたならば……)
ひたすらにこう思うのである。座にいたたまらぬように苦しい胸の中である。むしろ鈍い刃物でこの胸を突き破られた方が如何ほど望ましかったろう。
(内蔵助! 主君に今日《こんにち》のことあらしめたのはお前ではないか?)
この声が!
打て、殺せ! と畳をけって襟をひろげ天に地に叫び上げたいもの狂おしい心持である。われひとともに許し難い憤怒だ。悲痛に破れようとする胸である。その胸を腕にせばめてまるでたたきつけられたように畳に蹲《うずくま》って動かないのだった。
君は御切腹、お家は断絶……しかも敵上野介に御称美《ごしようび》の御沙汰とは! 君、御最期の折の御無念如何ばかりにおわしたであろう。
我慢なく、火よりも熱いものが、目、鼻、口からあふれ出ようとする。
(不覚!)と、ぐッと奥歯に噛む。微塵《みじん》動くまいとした。
動けば我慢が破れよう。
石だ! 鉄の心だ!
任は重い、恐らく君、御臨終の御懸念は家中幾百の者の上にあったことであろう。御仁慈深き主君であった。……
また後の事は?
見える。御姿が、見える。
「内蔵助、そちにたのむ」
お口癖であった。その御信頼が、如何に見えぬ鞭《むち》となっておのれを動かして来たことか!
そうだ、内蔵助!
今日こそ、内蔵助の最後の御奉公をおもとめ遊ばしているのではなかろうか?
「わが君!」
声なき声がこう叫ぶ。
いつものように、「畏《かしこ》まって御座りまする」と充分の自信を以てお答え申し上げたのである。
ただ、今は、
「お心安らかに!」と、いった時、はらはらと血のような涙が頬を蔽《おお》った。
女郎蜘蛛
堀田隼人も自分が上杉の隠密となって赤穂へ行くことになろうなどとは、まったく空想もしていなかったことだった。しかし、千坂兵部からこの話を切り出されてみると隼人はすぐと承諾する気になった。浅野の家臣のことは、すこし前に蜘蛛の陣十郎とも話し合って、復讐が世間の噂のように出来るものではないと主張したことがある。自分が、この渦の中へ飛び込んで当面の人になることは、不思議な因縁のように思われるし、また自分でも充分興味が持てる事件なのでいつになく一議に及ばず引き受けることにしたのである。
入用の金はいくらでも呉《く》れるということだった。また隼人のほかにも隠密が入り込んでいて、右手の小指に墨で黒子《ほくろ》を書いてあるのがお互いの目印《めじるし》だということを聞かされた。
千坂という家老が極めて綿密な頭脳を持っていることは、話している内に隼人によくわかった。今度の計画でもその行き届いていることは実に驚くべきものである。平常は至って無口で無雑作な人で、勤めがしまうと植木の世話をしたり、また飼猫をからかったりしている。猫には目がなくて、屋敷に大猫小猫まぜて五、六匹。あるじの寵《ちよう》を集めて、無遠慮に床の間に寝たり襖で爪をといだりして、のさばっている。兵部は至って人あたりがいいが、どこか底の知れない凄いところがあるように思われた。
二日ばかり後に、この猫だらけの家の裏口から隼人は出立した。みなりは純然たる商人《あきんど》の旅姿である。
外は朝の光で明るかった。
隼人はこの新しい門出《かどで》に天気のいいのをよろこびながら、古川の方へ坂を降りて行った。これは、最初兵部から話のあった時、こんな仕事こそあの蜘蛛の陣十郎には持って来いだと思われ陣十郎もどうせ旅へ出て用事のあるからだではなし誘ったら手伝ってくれそうに思われたので、日は遅れているし無駄かも知れないが約束の九品仏《くほんぶつ》まで行って、どっちの方角へ落ちたものか書置きでもあったらそれを見て道順だったら後を追い駈けて話して見るつもりだった。多分、陣十郎もこの仕事には興味を持つに違いなかろうと思われたのである。
原の草には、まだ露《つゆ》がつめたくて、隼人が穿《は》いている新しい草鞋《わらじ》を重くした。だが気持はこの空のように晴れ晴れとして軽いし、これまでになかった満足が胸をひきしめているのがわかった。隼人は調子をつけて、すたすたと歩いて行った。
しかし、隼人から半町ばかり遅れて、いつどこから出て来たとなく一人の男が現れて同じ方角へ歩き出した。
隼人は気がつかなかったが、男は歩速を加減しているばかりか隼人に感づかれないように、なるべく蔭を拾って歩いている。隼人の後を跟《つ》けているには相違なかったが、町役人の変装とは見えない。手甲脚絆《てつこうきやはん》に、笠をかぶって、これも商人の道中姿。しゃくれたあごひげのあとのなまなましく蒼《あお》いきりりとした男である。
隼人が、この男にふと気を止めたのは、世田ガ谷で昼食《ちゆうじき》した時だったが、(妙な奴)と思っただけで、まさか自分が跟けられていようとは気がつかない。そのまま忘れて、菜の花の黄いろくほこりの白いだらだら坂をゆるい丘の屈曲に沿ってたどり続けた。
間もなく、春らしく濁った空の下、若い麦畑の中から目あての九品仏の屋根が見えて来た。
屋根が見えてからも、暫く日ざしの暑い道を歩かなければならなかった。門を入ると、銀杏《いちよう》がみずみずしい若葉をふいて、影を作っている。
隼人は、その蔭にはいって汗をぬぐってから境内《けいだい》を見廻した。夏は、もうその辺に来ているように思われた。深閑とした境内には人の気配なく石甃《いしだたみ》を蔽うて蒸している青草を烈しい日ざしがぬくめている。紙のように乾いた白い蝶《ちよう》がひらひら葉末に翻《ひるがえ》っていた。
堂は三棟建っている。一棟に三体ずつの像をおさめて横に長い建物だが、これも大分荒れて、傾いた屋根に草が生えている。隼人がそばへ寄ってのぞき込むと、堂内の、ほこりの匂いを含んだ幽暗《ゆうあん》の中に静かな金色《こんじき》の肌を光らせて本尊の坐っているのが見えた。
(書置きはしていないだろうか?)
隼人は、三つの堂を順に注意深く見てまわったが、やがて一番右にある堂の、側面の壁の前に立ち止った。さまざまの楽書がしてある中に、ひときわ新しく、達者な筆で、
駿府本町通り 丸太屋十兵衛
と書いてあるのを見つけたのである。その上に、親指ほどの大きさのある女郎蜘蛛《じよろうぐも》の死骸が、古い釘《くぎ》でとめてある。
蜘蛛は、もう乾いてしなびているが、恐らくは陣十郎は早速の頓知《とんち》に、その辺の軒に巣をかけていた一匹をとって、秘密の目印にはり着けて行ったものと見える。無論この丸太屋という家へ来いという意味に理解された。廻り路をして、ここへ寄った効《かい》があったわけである。
隼人は、ほッとして、これから溝の口へ出て厚木街道を西へくだることに思案をきめた。
飛ぶ鳥を落す勢いといわれる柳沢出羽守の居間の天井《てんじよう》へ忍び込むほどの不思議な術にたけている陣十郎ではないか? この人が一緒に行ってくれれば、如何に警戒きびしい密談の席をも自在にうかがうことが出来て、この上なく心丈夫なことのように思われる。是非とも陣十郎を説いて納得させるつもりだった。
ふと、隼人は、垣根の外に人影がさしたような気がして振り返ったが、向うで、慌てたように歩き出して行った後姿を見ると、はてなと思った。
間違いない。世田ガ谷の茶屋で見た迂散臭《うさんくさ》い奴だ。
「ふ――む?」と棒立ちになった。
(無論、こちらの後をつけて来たのに相違ない。蛇《じや》の道は蛇《へび》で感づきやがったかな?)
男は、草間をすたすたと歩いて行く。
(よしこの間に!)
きッと、こう思う。
隼人は、直ぐにかたわらに落ちていた石を拾うと、壁に残っていた陣十郎の書置きを、蜘蛛のミイラぐるみごしごしと削り落した。
男の姿は、もうどこかへ隠れている。たいてい、そこらの木の蔭に隠れて、こちらの様子を偵《さぐ》っていることであろう。
(なアに一人なら苦もない!)
隼人は、こう思って、肩をゆすって、せせら笑った。
その男は、その後隼人が充分気を配って歩いていたが、とうとう姿をみせなくなった。感づかれたと見て、断念して引き返して行ったものだろうか?
隼人も、それと信じて気にとめずにいたのだが、その夕方溝の口の宿屋にとまって、何気なく二階の廊下から往来を見おろしていると、その男が、きょろきょろしながら歩いて来るのを見て驚いた。
男が自分の後をつけていることに最早疑いはないのである。
(うるさい奴だ!)と、舌打ちした。
どうも油断がならない。うっかりしていて寝込みへ踏み込まれぬものでもない。
隼人は、思案をきめて、夜更けてから急に発つといい出した。
それから桑畑の間の、暗い道を提灯《ちようちん》をたよりにすたすたと歩きながら、耳を立てて絶えず自分のうしろに注意を払っていた。
気のせいでなく、この夜道を自分の後から来るものがある。もちろん、追跡の岡っ引であろう。
隼人は、手に持っている提灯が邪魔になって来た。今更消すのもこちらが追跡を感づいたようにとられて面白くない。引き寄せて置いて、邪魔を払うつもりなのである。間もなく、道は、暗い森の間へはいって行った。その出口の星あかりが朧《おぼ》ろに前面にあらわれて来る頃になって、雑木林をめぐらした辻堂が右手に見つかった。
隼人の覚悟はきまった。
提灯の火を吹き消しながら、つかつかと堂へ近づいて行く。が、その時、にわかに暗くなった目にそれまで気がつかなかった人の形を堂の縁側に見て、思わず、ぎょっとして、立ち止った。
「旦那……」と向うから声をかけられた時、隼人は、その人間が今日の昼間から自分を跟《つ》けまわしていた男だったのを見て、ひどく意外を感じていたところだった。いつの間にか自分よりさきへ出ていたのである。
「火をお持ちになりませんか?」
持ってないと答えたかったが、自分から提灯を吹き消したところで、また点《つ》ける火打道具の用意のないわけはない。
隼人は、先方が急に飛びかかって来ることを予想して左手で火打道具を渡してやった。
男は、礼をいって、煙管《きせる》へ火を移しはじめた。別に害心あるようにも見えない。これは手段を変え、わざと、うちとけておれと道連れになるつもりだな……と、隼人は考えた。だが、これも違っている。男は、さも、うまそうに一服してから急にいった。
「旦那は、あっしのことを、もうお気がつきになりましたね」
「お前のこと?」
隼人は、なお警戒しながらきき返した。
「今朝からおれの後を跟けているということか?」
「へえ」というのが男の返事だった。
あまりに、ぬけぬけと平気な返事だったので隼人もすこし呆れて相手の顔を見ると、妙に顎《あご》がしゃくれている癖に、目の玉のきょろりとした愛嬌のある顔立で、
「ねえ、堀田さん」と今度は、また、いやに、狎々《なれなれ》しい。隼人が驚いたのは、相手が自分の名を知っているらしいことだった。
「実は、そのことで、ここで御相談申し上げたいンですが……」
「どういうんだ? その前に訊《き》くが、一体お主《ぬし》は何で俺の後を跟けている。町方より来たのじゃないのか?」
隼人は、怪しみながら、こういった。
「おまち?」
男は隼人の顔を覗き込んで、急に笑い出した。
「違いますよ。だが、そう気をお廻しなさるところを見ると、旦那も何か思いあたる疵《きず》を持っていなさいますね。なアに、私ア千坂様に頼まれて来ましたのさ」
「千坂殿に?」
隼人はまた驚いて、
「何事をたのまれて来たのだ?」
「つまり旦那の後をつけて、動静《ようす》を一々千坂様へお知らせする隠密の役目ですよ」
「ふうむ」
隼人は思わずうなった。
千坂兵部が隠密の自分にまた隠密をつけているのである。男が隼人の後をこっそりと跟けて来たのに無理はない。驚くべきことは端倪《たんげい》を許さぬ兵部の用心だ。それまで権謀のある男だったということは今の今、知った。
隼人は、苦笑いを感じた。
「隠密の隠密か? そりゃアおれには内密にして置かねば役に立たぬことではないか?」
「ですが、旦那はもう御存じでいらっしゃいますからね」
男は、こういって改まった。
「私ア目玉の金助と申しやす。どうぞ何分よろしく」
「……いや奇妙な挨拶だぞ。それで、これからどうするつもりだ?」
「すみませんが御一緒にお連れ下さいな。旦那……。初手から旦那に見抜かれては隠密の役が務まりようがありませんし、……ここは旦那におすがりして、うまく話をつけるよりほかはありませんので、これから途中で私をまいてしまうなんて意地の悪いことをなさらないで、おしまいまで、どうぞ目をかけてやっておくんなさい。千坂様は恐ろしいお方なんですから、この縮尻《しくじり》が知れると、手前は飯の食い上げなんです」
「分ったよ」
隼人は、微笑した。
「おれも、今度の役目は自分でも、正直、気を入れていることだし、目付のような男を跟けられたのは痛くない腹を探られるようなもので心外に思うが、……丁度いい道連れだろう。一緒に来るがいい」
目玉の金助は、隼人のやさしい言葉を聞いてすっかり安心したらしい。親切に隼人の荷物を持とうといい出した。なかなか、はしこそうな若い者だ。
「じゃア出掛けようか? おれもお主を町方だとばかり思ったから、邪魔をなくすつもりで、こんな夜道におびき出したわけだ。あぶないところだった。こう話がきまって見れば宿の見付かり次第、泊るとしようか?」
隼人も笑いながらこういって、この新しい道連れと歩き出した。が、この二人の姿が、林の外へ出て、話声も遠くなった時になって、突然、その辻堂の稲荷《いなり》格子《ごうし》の一枚がぎーッと内側からあけられた。
意外だったのは、内側からその扉を押し開けている白いきゃしゃな手だった。誰がこの深夜の辻堂に人がいたとは気がつこう。しかも歩いて行く隼人達を見送るもののように扉の蔭からそっと外を覗き見た姿は、夜目にもぞっとすごいばかりに美しい女の顔だった。
雑木林は暗い。風のない夜は、新しい木の芽をおどませて、森《しん》としているばかりである。
扉は、再び、音もなくしまってその白い手と鋭く輝いた目をこの真夜中の野中の夢と思わせたのだが、……今度は、すらりとした姿を送り出して縁に立たせた。
狐ではない。
れっきとした商人の女房と見える道中姿で、裾《すそ》をひるがえして地に降りると、急ぎ足に今隼人達が行った方角へ丁度二人の姿を追うようにして歩き出した。夜道を恐れる様子など、さらにない。いやそれが怖くて、この深夜の野中の堂に泊れるものではない。
ただ、奇怪なのは、そのなりにふさわしくない大胆な振舞いだった。
道は、低い丘の背をつたわって走っていた。ひろびろとした夜空は、点々とした星の光に濡《ぬ》れているが地面は暗い。遠い雑木林が畑の間に黒い毛虫がはっているように見える。
隼人達はすこし先を歩いているらしい。話声が段々と近くなって来た。間もなく赤土をきって、じめじめした崖の間をくだるだらだら坂を降りかけると、坂の下で二人が立ち止って提灯に火をともそうとしているのが見えた。
女は、何気ない様子で傍へ寄って行った。
目玉の金助は、急に闇の中から現れ出た女の姿にぎょっとしたらしく顔を長くして、今、点《つ》けたばかりの提灯を息を詰めて、さし向けた。
「こんばんは」
女の声は明るく、両側の崖にあたった。
「び、びっくらさせやがる!」
金助は吃《ども》った。
「ふ、不意に出たンでまったく、どきっとしたぜ。だが……」と、なおまじまじと見詰めたのは、やわらかい火につつまれた女の姿が世にも稀《まれ》に美しかったからである。
「どちらまで、おいでになるので御座いましょう」
女はやさしくこういった。
「まことに申し兼ねますが、その辺までお供をさせていただけますまいか? 病人が御座いまして出てまいりましたが、……何ですか気味がわるくて」
「むむ」と金助は唸《うな》った。
「そりゃアごもっとものお話だ、御遠慮はいりませんや。ねえ旦那!」
「そうさ」
隼人もけげんらしく女から目を離さずにいたが、
「道がひとつなら、御一緒に行こうよ。どちらまで?」
「あの……厚木……の在《ざい》で御座います」
女は、媚《こび》をふくんで、こう答えたが、その間もすばしこく目を働かせて、隼人の様子を注意深く見た。
ひとり、すっかり陽気になったのは金助で例の目玉をくりくり動かしながら、女に荷物があったら持ってやろうといいたかったのだが、これはあいにくと、女は竹の杖を一本持っているだけだった。
「だが、この夜道をよくおいでなさったね。どうして、男でも気味のわりいくらいだ」
金助は、しきりと女に話し掛ける。
「そ、それ、石がありますよ。躓《つまず》いたら、怪我をなさる!」
どうも念入りに親切だ。隼人は苦笑しながら歩いている。しかし美しい連れが出来て、この朧夜《おぼろよ》の畑の間の道が相当にぎやかになったことは、事実だ。女は、きさくに、金助の話相手になっているのである。聞けば、江戸は牛込藁店《うしごめわらだな》で商売は小間物屋。後家だという。厚木というのは実家だということだった。
「で、御病人は?」
「はい、妹なんで御座います」
「そりゃア」
なにが、そりゃア……だ?……隼人は、こういってやりたかった。
けれど、ぼんやりと二人の話を聞いている内に、隼人がふと気になったのは相当の商人家《あきんどや》の女房なら、たとえ夜道を行くにしろ、なぜ駕籠を雇《やと》って行かないかということだった。そればかりではない。供がいないことも、考えればおかしかった。
が、それをいうのも、段々と疲れが出て眠くなっていたせいか懶《ものう》く思われたので、だまって歩いているだけである。
「どちらまで?」
女がきいている。
「へえ、ちょいと上方筋まで」
「まあ、大層お遠いところまでいらっしゃいますのね。おや、月が出ました」
なるほど、ずっとはるかな地平の森の蔭が薄く黄ばんでいる。
そろそろ夜があけて来るのじゃあるまいかと、隼人は、こう考えながら、なま欠伸《あくび》を噛み殺した。
その様子を、女は、美しい目の隅で、ちらりと窃《ぬす》むように見て話し掛けて来た。
「こちらさんは……お草臥《くたび》れになったようですこと」
「むむ」
隼人は、はじめて無言の行《ぎよう》を破ったが、あまり、とりあいもせず、また口を噤《つぐ》む。目玉の金助もどうやら喋《しやべ》りくたびれたらしく口重くなって来ている。三人は、漸《ようや》く無言で、ただせっせと歩いていた。こんなに、何かに追われているように、急いで歩くことはなかったのだ。隼人は、今夜の邂逅《かいこう》が全部何となく拍子《ひようし》の違った落着かないものに思われて仕方がない。女がどうするか知らないが、その内そこらの村へ出て泊るところがあったら、金助にいって是非とも朝まで睡りたいもんだと思った。不眠の目に、遠くが明るくて身のまわりがまた妙に暗い、変にふわふわした気持の晩だった。
「あッ!」と、金助が何かに急に驚いたように頓狂《とんきよう》な声をあげたのも、それから間もないことだった。
無言で、振り返って見る途端、
「変な姿じゃありませんか?」という。
その時、隼人も女が忽然《こつぜん》と姿を消しているのに気がついた。金助が及び腰になって覗き込んでいる方角を見た。
目の下にゆるい傾斜を作った段々畑が、雑木の繁った底地まで降りている。女は、これを駈け降りて行って丁度雑木林の闇に隠れようとしているところだった。
「どうしたんだ?」
「どうしたンだって……急に物もいわず逃げて行ったンで」
金助は、ぽかんとしたように、こう説明してから、急に、
「ほーい、ほーい!」と、声を揚げて、女を呼んだ。
金助の呼ぶ声は、ひっそりとした夜の広野をわたって行って遠い丘にこだました。突然の出来事に呆れながらも隼人に腹の底からの笑いを誘ったもの悲しいような声だった。
その間に女の姿は雑木林の中に呑まれて見えなくなってしまっている。勿論、金助の声はまったく顧みられなかったのである。
金助は不平そうに口をとがらせていた。
「もう、いいじゃないか? 行こう」
隼人は笑いながら、こういった。
「でも、変じゃありませんか? なんてえ奴でしょう? おかしな真似《まね》をしやがる」
「狐だろうよ」
「へッ!」と、これは、ひどく真《ま》に受けて気味わるそうに傍へ寄って来た。
「狐でしょうか?」
隼人は急にこの男が可愛らしくなって来た。
「ほんものの狐でないとしても、それからあまり遠くないものだろう。何もなくなってはいないだろうな?」
金助がにわかに慌てて懐中を改めにかかる折から、急に提灯の光がさして誰か来る様子なので二人は振り返ったが、その御用提灯なのを見て、隼人が気色《けしき》をかえて、低い声でいった。
「何もいうな。おれが応待する」
御用提灯は二つ。一つずつ手先が提《さ》げて上役らしい男の足もとを照らして、急ぎ足で来る。
近付いて、提灯が宙にあがる。隼人と金助が真向《まつこう》からその光を受けた。
「旅人だな?」と、向うからいった。
「へい……」
隼人は、低く腰をかがめた。
「この辺で誰にも逢わなかったか? 女房ていの女だ」
「いいえ、別に……」
金助が吃驚《びつくり》したくらい隼人は平気で、こう答えた。
「今、声を揚げていたのは、お前達か?」
「恐れ入りまして御座りまする。あまりさびしゅう御座いましたので……」
「むむ」と、むずかしい顔色でじっと見ていたが、
「行け」という。
無言で頭をさげて歩きだして、また、
「もし、その女というのは、一体何者で御座りまするか?」
「賊だ」という返事である。
こちらの二人は顔を見合せた。
「へ、女で?」と、いい出したのは金助だった。滅多なことをいい出されてはと隼人が、
「おい、行こう……」
ずっと歩き出して、御用提灯とは大分はなれてから、
「驚いたな」
「驚きましたね。彼女《あいつ》が……そういえば、はじめからどうも様子が妙でしたよ」
隼人は、金助の気のいいのに呆れながら、今の奇怪な女賊が自分達よりも早く提灯に気がついて急いで逃げ出したものにちがいないと、はじめて悟ることが出来た。
何にしても、妙な晩だった。だが如何にも旅へ出たというような感じに打たれずにはいられない。
黄色い月は、森をはなれて、埃の多い道に二人の影を細長く倒していた。振り返って、女が隠れた雑木林の方を見ると、これは薄い靄《もや》の底に銀色に、ひっそりと沈んでいる。役人達の提灯が、明るくなった丘の中腹にまだまごまごしているのが見えた。
「けッ」と、金助は軽蔑したように舌を鳴らした。
駿府《すんぷ》に着いて宿に目玉の金助を残して探しに出ると蜘蛛の陣十郎の隠れ家はすぐ見付かった。
「どうしなすった? 心配していたところだ」と相変らずの調子で迎えてくれる。
隼人が赤穂行のことを話すと、にこにこしながら聞いて、
「どうも、道中でも大分評判を聞いたが……世間ではかなり興味を持って見ているらしいね。城を枕に討ち死するだろうというような噂も聞いた。だが、お前さんがいつの間にかその渦の中へ飛び込んでいるとは思い掛けなかった」と微笑する。
「千坂というのだね、その御家老の名は? ……どうも恐ろしく手廻しのいい人だ。ほんとうのやり手というのだろうな」
幾分性格が似ているせいだったかも知れない、陣十郎は千坂兵部の話に特に興味を感じたらしく、兵部のことをしきりと隼人に尋ねた。年配だの、顔の特徴だの毎日どんな風にしているかだの、こまかいことまで聞くのである。
兵部が、隠密をいい付けた隼人に、また尾行を付け、隼人は今その男と仲好くして一緒の宿にいると話すと、陣十郎は腹を抱えて笑い出した。
「そりゃア面白い。千坂さんというのも、そこまで気がつかないでいるだろう。だから人間という奴は信用出来ないよ……しかしお前さんも弁当向う持で、いいお供が出来たわけだね」とひどく上機嫌だった。
丁度具合よく思ったので、隼人が赤穂行を誘ってみると、陣十郎は用のない身体《からだ》だし一緒に行ってもよいという。
話は万事都合よく運んだ。
陣十郎が一緒に来てくれれば、百人千人の味方を得たよりも心強いわけである。何しろ赤穂へは間もなく受城使が下ろうとしているのだから、出立はなるべく早い方がいい。もとより気軽な陣十郎のことだから、早速明日にも出掛けようということになった。
この日は、まだ夕方には間があったし、窓の外はうららかな春光が城の壁をぬくめ濠端《ほりばた》の柳の緑を萌《も》え立たせていた。
「どこか、その辺へ行ってゆっくり飯でも食おう」というので、二人は外へ出た。
陣十郎は、
「そうだ、そのお供も呼んでやろうじゃないか?」という。
そこで二人は金助を迎いに隼人の宿まで行った。隼人が内へ呼びに入っている間、陣十郎は外の柳の蔭に立って、織るように賑っている往来を眺めていた。街道筋にあたっているせいもあろう。種々雑多な人間がいそがしそうに往来している。
しかし、こうして人を見て立っている陣十郎は、先程から自分を見て立っている人間が、すこし離れた露店の入口にいたろうとは気がつかないでいた。この油断は、隼人が、あの夜あった謎の女賊のことをまだ陣十郎に話してなかったことから来ている。
その女が、いつの間にか、この駿府へ来ているのだった。
昼行燈
十九日の朝着いた早打ちによって、君侯《くんこう》の切腹、主家の断絶は明らかとなった。直《ただち》に家中一統に総出仕《そうしゆつし》の触《ふ》れが出る。三百余の藩士は憂色を面にあらわして続々と参集した。やがて座が定まってから内蔵助が低く、しかしはっきりとした言葉でこの大事を伝えた。
凄惨の気が座をつつむ。
君、御切腹と語る時、内蔵助の音声に抑え抑えた血のような涙の一滴が感じられた。満座声なく身動きする者もない。内蔵助の声は一語毎に沈痛となる。ただ流石《さすが》に秋毫《しゆうごう》も乱れたところなく、言葉短くさりながら、千万言を費《ついや》すより明らかに報告をおえた。
ぴたりと、水を打ったような沈黙が、これに続いた。しかし、これは、やがて起る慷慨《こうがい》悲憤の暴風の嵐の前の静寂だったのである。この呪術にかけられたような沈黙が破られると忽ち涙があった。切歯扼腕《せつしやくわん》があった。
「上野介殿《こうずけのすけどの》、まざまざ生存しおわすと!」
「事の起りは上野介殿じゃ。喧嘩両成敗は古来の御定法。お上にお咎《とが》めがあって上野介殿にお咎めなしとは何たる片手落ちの御沙汰《ごさた》じゃ。お上泉下《かみせんげ》の御無念如何ばかりで御座ろう。もとよりわれ等、臣子《しんし》の節に死すべき折ぞ」
「そうとも、よくぞ仰せられた。ましては藩祖の築きたまえるこの城を、闇々と官吏に差し上げ、立ち退《の》くなどとは……武道の意気地もある。なんの面目あって亡君にまみえよう」
「そうだ。籠城《ろうじよう》じゃ。矢玉《やだま》のあらん限り、太刀の目釘《めくぎ》の続かん限り。たとえ討ち死するとも武士たるものの本望でござろう」
「いやいや、上野介殿|存生《ぞんじよう》で御座るぞ。もとよりわれ等これより江戸に馳《は》せ上《のぼ》り、上野介殿の御《おん》首級《しるし》を得て殿の御無念晴らし申さねばなるまい。御存慮どうじゃ」
「何の異存あろう」「いや待たれい。そうでない。先君の御志は御公儀への忠節にあった。妄動してはならぬ」
「何? 何といわるる?」「いやさ、上野介殿へも何《いず》れお咎めがあることであろう。このままで済むことはあるまい。まだわれ等は、血気の勇に過《あやま》つよりは静かに思慮して、お家の再興を計《はか》るが何より大切じゃ。幸いと御舎弟大学殿《ごしやていだいがくどの》のおわすことじゃ。その方のお取り立てを願い上げるが道であろう」
誰の目にも昂奮の色がある。議論は次から次と湧き上って来る。誰も溢れるばかりの悲痛と憤慨を胸に感じていたのである。火のように熱した言葉が飛ぶ。蒼白い額がある。血走って輝いた目がある。
(無理もない。……)
先刻より黙然として腕を組んだままの内蔵助は、冷たいくらいに静かな姿でこの有様を見ながら、こう思っているのだった。
どうすればよいのか? この人々をどの方角へ引き廻せばよいのか?
そんなことはまるで内蔵助の頭になかった。この士気の激昂《げつこう》を何がおさえられようか? ただの意見の衝突ではない。国が破れたのだ。人々は突如として生存の途を断たれたのだ。今かれ等が最後の道として叫んでいるものが、後に孤独の冷静に戻った時も果してその確信を持ち続けて行くことが出来るかどうか?
それを疑う。
(現におれは白紙だ!)
内蔵助は一同に向いあっているが、その網膜《もうまく》には昂奮を色に現している人々の姿を漠然と映しているだけである。鋭利な匕首《あいくち》の如く縦横に飛ぶ様々の主張についてもそれであった。みんな尤《もつと》もだと思う。しかし、これは冷静な思慮と虚心平気の心とを持って、なお節度を踏み外し易い問題である。いわんや、今きめる必要はない。総ての相談は、この憤激の嵐が過ぎて後の冷静の時を待たなくてはならない。その時はじめて知恵が語るであろう。昂奮の力を借りずと、自分達に何が出来るかまた如何にすべきか? をはじめて悟るであろう。今は、ただ嘆くのがよい。悲しむのがよい。総ては、それらの波が心を洗い去って、さばさばとして後のことだ。
内蔵助が、こうして、一同の悲憤をぼんやりと見ている隣に、同じく家老の大野九郎兵衛が坐っていた。九郎兵衛も先刻から何も発言しないでいたが他の者と同じように甚だしく昂奮していることは顔色や素振《そぶ》りに現れていた。前かがみの姿勢で落着かない様子で坐って、しきりと爪を噛んでいるのである。これは、何か激しい感情にとらわれた時の九郎兵衛の癖だった。九郎兵衛は、位置こそ内蔵助の次席にある仕置家老《しおきかろう》だったが、内蔵助が昔|昼行燈《ひるあんどん》とあだ名されたくらい恬淡《てんたん》な性格から自から用いるところがなく、仕事など他人の手で済むことはこれに功を譲るといったような悠々たる態度でいたのに比べて、細心で事務上の手腕にすぐれている上に経済に明るくて内匠頭には重く用いられていた人物である。性格というものは争われないもので、この席でも内蔵助がぼんやりして見えるくらいいつもと同じ顔付で坐っているのに比べて、九郎兵衛は妙に苛《い》ら立《だ》ってせわしく見えるのだった。
九郎兵衛が、今度の事件から感じたことは主君の死を悲しむ心持は無論のことだが、これと同時に自分が禄《ろく》からはなれるばかりでなくまだ手を着けたまま完成してない仕事や、またその他の計画が全部中断される苦痛であった。不毛地開墾《ふもうちかいこん》のこともある。塩田拡張のこともある。これを実現すれば一藩の財政が今日以上裕福になる予定で、主君にも内密に申し上げてあったのである。これが無残に廃絶することになった。この意味から、主君の不慮の御最期は二重の遺憾《いかん》であった。
愚痴には違いないが、ただ情ない気がした。と同時に、勿体ないとは思いながら、殿中で御刃傷《ごにんじよう》などとは御軽率のようにしか考えられない。主君の死を悲しみながら、何となく腹が立ってたまらなかったのである。
このことさえなければ、山寄りの茶色なあれ地に青いものを繁らせ面目を改めることが出来た。塩の産額も今の五割の増額を示した筈である。
打撃は、真に青天の霹靂《へきれき》であった。
誰もそれを考えている様子はなく、復讐だ、城を枕に討ち死だ……という。この人々の激昂から、九郎兵衛の心持は遠かった。
(みんな、自暴自棄になっているのではないか? これが本心なのか?)と、怪しまれるのである。
九郎兵衛には、この人々の昂奮がいよいよ事態を悪くして行くような気がして、不安でたまらないのであった。
「太夫」と、九郎兵衛が形を改めて呼びかけたのは、結局議論の終るところを知らず明日の再会を約して一同が退出した後のことだった。
内蔵助が向きなおると二人だけ内密に談合したいという。
こちらにもとより異存はなかった。
「どうも、とんでもないことに成りましたな。まことに困ったものじゃ。家中の者も如何に血の気が多いとは申せ、もちっと冷静に考えなければならぬ時期なのに今日のように軽々しく、復讐の、城を枕に討ち死の……と口走るは、どうも宜《よろ》しくないように思われるが……」
「まことに」と、内蔵助は微笑したが、
「しかし、これは是非もなきことであろう」
「それはおっしゃるまでもない。――だが、あまりに感情論に過ぎる。熱し過ぎていると思われるが……」
「やがては冷静になりましょうぞ。いつまでも今のままでいられるものではない。とにかく、考えねばならぬことが山ほど持ち上っているのだから……人間が新しい境遇に慣れることは、実際驚くばかり早いものだ」と静かな語調である。
「……幸いとお家は藩祖以来代々|士《さむらい》を養うに力を用いて来ている。私は今日の様子を見ていてむしろ安心を覚えたくらいだ。これは内輪のことだから申すのじゃが、今度のことが所をかえて他家に起ったならば、なかなかこれだけでは済まなかったろう。赤穂《あこう》にはさすが武士が多い」
九郎兵衛は、相手の調子があまり暢気《のんき》なので、かえって苛ら立った。昔から、こんな男だったには違いないが、何といってもこの際に、よくも、気楽にそんなことをいっていられるものだ……
「それは、そのとおりかも知れぬが……左様に安閑としていられますかな? 武士が多いとおっしゃるが、その地位さえ奪われることになった今日じゃ」
「浪人しても武士は武士に相違なかろう。……私が武士というのは、境遇の変転によって節をかえない人間のことだ、いや、境遇が人に及ぼす恐ろしい力は勿論私も認めているが……しかし武士はその上にある。逆にいえば、実はそのために武士として認められているのだろうと思う。決して刀を二本さしているからではない。並の人間なら支配を受けるより他はない境遇に向って逆に克服して節を守る。道にしたがって境遇を変えることもするのだ。武士が並の人間より上に位するようになっているのはそのためだ。この意味の武士は赤穂にすくなくないように思うが……」
こんな講釈のようなものを聞こうと思っていたのではなかった。九郎兵衛はますます不愉快になって来るばかりだった。この危急存亡の時に、人を愚弄しようとしているのか? 相変らず性根をつかみ難い歯がゆさを残している。昼行燈《ひるあんどん》である。九郎兵衛は心中に相手を軽蔑した笑いを作ってまぎらそうとしたが、肩をすかされたような不快は、なかなか消えなかった。
強《し》いて、これをおさえて、話の撚《より》を戻そうと試みた。
「とにかく、事を穏やかに収めたい。拙者はこの意見だが」
「その儀は私も同様」
内蔵助は笑った。
「……ただ、出来ることならば……じゃ」
「無論じゃとも」
こちらは苦虫を潰《つぶ》したような顔で、是非なく、こう答える。それ以上話を続ける元気さえなくなっていた。
会議は、十九日、二十日、二十一日の三日にわたった。この三日間に江戸からの情報は次第に詳細に確定的になって来た。内蔵助は、はっきりと事件の核心をつかむことが出来た。衝突の原因は上野介の悪意から出ているが、その背後に隠れた勢力を無視することは出来ない。主君は、その隠れた勢力の贄《にえ》にあげられたのである。
内蔵助は頷いた。深く期するところがあるようである。敵は一|高家《こうけ》ではない。表面には現れていないが更に大きいものではなかったか?
(それもよし)と、沈痛な微笑がうかんだ。
ただ主君の御遺志が奈辺《なへん》におわしたか? これだけがまだ判然していなかった。ただあらかたの輪郭を御生前を知る自分として推量申し上げていたばかりである。しかし、これは、片岡源五右衛門の手紙によって、ほぼ明らかとなった。主君は、その隠れた敵を御承知だったのである。ただの御短慮ではなかった。御一徹とはいいながら、如何《どん》な場合にも家来のこと、一藩全体のことをお忘れ遊ばすような君ではなかった。それをかけての御刃傷、もとより尋常ではないこととお察し申し上げていたのである。
内蔵助の鉄の如き意志に、方向を与えられた。案はすでに成った。これを、如何にして多人数の実現に移し入れるか? 内蔵助の行く手には、なおこの難問が横たわっていたのである。
第三日の会議に、内蔵助は相変らず昼あんどん然ともうろうとして着席して、徐《おもむろ》に人々の心の動きを観察していた。いよいよ自分の発言の時が来たと思われる。人々は目に見えて冷静になって来ている。と同時に枝葉《しよう》の議論を避けて漸く硬軟二派の旗色あきらかに落着こうとしている様子が見えていたのである。
しかし、内蔵助と一緒に、大野九郎兵衛の意志もこの日になって急に腰を据《す》えて来ていた。九郎兵衛は、家中の者が漸く将来に不安を抱くようになって来たのを観察して、自分が決して孤立しているわけではないのを心強く感じた。岡林|杢之助《もくのすけ》、玉虫七郎右衛門、伊藤五右衛門、戸村源左衛門、近藤源八など相当の地位にある者達がひそかに九郎兵衛に賛意を寄せて来ていた。中には極端に過激な意見を主張していた者さえいるのである。
(なアに、誰しも強いことをいいたいものだが、究極になれば自分や妻子の衣食が先だ)
九郎兵衛は、この頭で、かなり楽観して会議へ出て来た。
現在の不幸は、最早《もはや》如何《いかん》ともし難《がた》いのである。聡明なみちは、情に走ってこの不幸の上塗りをすることなく、一時も早く綺麗に抜けて不幸の度を和《やわ》らげることにある。匹夫《ひつぷ》の勇は卑しむべきことだった。……
人々が寡黙《かもく》に冷静になって来ていただけに、自から凄惨な緊張が、この第三日の会議をしめていた。人々は、内蔵助が何事か語り出そうとして、徐《おもむろ》に膝を進めたのを見た。前よりも深く重い沈黙がくだる。
内蔵助は、静かに口をひらいた。
内蔵助自身も、今自分の口から発せられようとしている意見が、未だ動揺の中にある家中の空気に如何に決定的な働きをするものであるかよく知っていた。恐らく空気は更に灼熱《しやくねつ》して火花を呼ぶことであろう。然しながら、内蔵助の期待は、この新しい動揺の次に至るものにあった。かれの目は、ずっとはるかなものに注《そそ》がれていたのである。
内蔵助はいった。
「江戸城よりの来状によれば、城地受取の上使《じようし》も遠からず出張せらるるようである。先日来各々の御所存を承《うけたまわ》るところ、何れも城を枕に討ち死せんとのお志、至極同意に御座るが……人臣としてなお国に益すべき一事は、先君は御生害お家は断絶に及ばれたれど、なお御舎弟大学殿のおわしませば、絶えたるを継ぎ、亡びたるを興すこそ、第一の急務と存ぜらるる」
明らかに、座にある過激論者の面に、ひとしく嶮《けわ》しい色がのぼる。
内蔵助は平然として確信の響ある言葉を続けた。
「御先祖以来代々の御忠勤を申し立て、われ等死を決して御公儀に嘆願し奉《たてまつ》らば、あるいは御詮議《ごせんぎ》の次第あらせられぬとも限らぬ。たとい一万石にてもあれ大学殿お取立ての恩命を蒙《こうむ》らば臣下の先君に対し奉る分義相立つと申すもの。もしこの嘆願の御採用なき時こそ、最早それまで、一同城を枕に討ち死して地下の先君に御奉公申し上げるのみじゃ。内蔵助の存じ寄りかくのとおりであるが、方々の思召《おぼしめ》しは?」
「さすれば本城に立て籠《こも》って、大学殿御取立てを嘆願なされようと仰せらるるのか?」と、にわかに烈しくいって膝を進めたのは大野九郎兵衛である。
「如何にも」
「そりゃア太夫とも存ぜられぬ軽率なる御意見であろう。われ等この城によって御跡目《おんあとめ》を願うとすれば、これは嘆願ではない。御公儀へ要請し奉ることとなり、穏やかならぬ儀。万一これがために謀叛《むほん》の罪を蒙らば何と召さるる。これこそ日頃御忠節にあらせられた先君を辱しめ奉るもの、以ての外のことで御座る。この際は、城を開き一同謹慎して御跡目の事を嘆願するのほかはない。各々如何思し召すか?」
「大野氏、仰せのとおりと思う。この際御公義の憎しみを重ねることは、畢竟《ひつきよう》成ることも強いて叶わぬように致すも同じこと、忠義に似て不忠。甚だ不穏当と存ぜられる」
これは玉虫七郎右衛門の意見だ。
「然らば、謹慎のほかに道はないと仰せらるるか?」
誰か、憤慨に耐えぬように、こう絶叫した者がある。座は騒然として動いた。しかし、その時、
「大野氏……」と、再び内蔵助が静かに口をひらいている。
「御分別一応御尤ものようであるが……大学殿お取立ては未必《みひつ》のこと、その嘆願のために闇々と城を棄てて立ち去るのはどうか? 赤穂士を養うこと数世、しかも変に際し一人国に殉《じゆん》ずるものなしと評せらるるも致し方あるまい。これこそ先君並に代々の御先祖を辱かしめ奉るもの。武士たるものの作法は左様なものではない」
九郎兵衛は、流石《さすが》にぐっといい詰まったが、
「然しながら……大学殿お取立てを願うものならば……なるべく穏当にせねば、反《かえ》って悪いと存ぜらるるが……」
「大野氏……内蔵助が存じ寄りを申さば、御跡目の儀は、十中の九まで叶《かの》うまいと思われるのだ」
しかも九郎兵衛ばかりではない聞く者すべてがこの沈痛な言葉に含まれていた恐るべき内容を感じた刹那に、思わず、ぎょっとして内蔵助を見詰めたのである。
「何と仰せらるる、御跡目お取立ての儀は所詮《しよせん》及ばぬことと見らるると?」
九郎兵衛は思わず色を作《な》した。
「そのように存ぜられるのだ。この度の御公儀の御措置《ごそち》に悪意はおわさなんだか? 内蔵助はそれを疑う」
「さすれば……」
九郎兵衛は、いよいよ驚愕した顔色で、
「……成らぬと存じていながら城に拠《よ》って御公儀に迫る。成らずば何となさる御所存か? よもや、御公儀に弓を引く思召しでは御座るまいが……」
「いや、内蔵助もとより籠城の覚悟だ」ときっぱりいった。何んと驚くべき言葉か? 明らかに御公儀に謀叛するという。九郎兵衛は忽ち紙のような顔色となって膝に置いた手をふるわせた。
「不謹慎きわまる。太夫の仰せとも思われぬ」というのが乾いた唇の間から押し出された言葉であった。
「なぜに?」と振り返る。
「御代々御忠節の名を何となされるのだ?」
九郎兵衛は語気を烈しくした。
「時による。場合による。繰り返していうが、御公儀この度の御措置には、あきらかに悪意があった」
一種、輝く焔《ほのお》があって、内蔵助の両眼にも点ぜられていた。
「武士道は御公儀のある前からあったのだ!」
座に声はない。誰が内蔵助に、この無遠慮とのみ思われる断乎たる言葉を期待し得たろうか? 火だ。なんと傍若無人《ぼうじやくぶじん》に語ることであろう。幕府も天下も、その眼中になかったのである。
九郎兵衛は更に何かいい出そうとしたが、内蔵助の次の言葉がこれを遮《さえぎ》った。
「無謀とは存じておる。ただ自分一個はこの信条の下に死ぬるつもりだ。内蔵助に御同心下さる方はないか?」
「太夫!」と叫ぶ声があった。原惣《はらそう》右衛門《えもん》の悲壮な顔が見えた。続いて、われもわれもと同意の叫び声があがった。
九郎兵衛は臆病らしく目を動かして、かねて志を通じていた玉虫、戸村などを見た。かれ等もまた座に落着かぬ不安な様子を示している。
内蔵助の顔には微笑がうかんでいる。
突然、
「大野殿は?」と、はるか末席《ばつせき》から叫び上げた者がある。
「そうだ! 御同心か否か?」
「承ろう」と、他の者が続いていう。
九郎兵衛は、気の毒なくらい狼狽した様子で何かいい出そうとした。しかし、その時既に、短気の原惣右衛門が、立ち上ってつかつかと自分に詰め寄って来たのを見て、思わず反射的に身を退いた。
「お立ちなさい」
惣右衛門がいう。いざといえばただ一刀……という意気込みが見える。
「ここにおる者は全部|御城代《ごじようだい》に同心の者ばかりだ。御異存あらば同席御無用で御座る」
九郎兵衛は、臆病らしく目の色を濁らせたが、やがて内蔵助の方を振り返った。
「いずれ手前の存じ寄りは御了解願うつもりだ。今は申し上げられぬ」と、いって、立ち上った。玉虫以下の者もこれにならって立ち上った。瞬間に今にも火を呼んで爆発しそうな嶮《けわ》しい空気が座にあふれた。
ひとり、内蔵助が冷静そのものに見える。
(これも仕方がないことだ!)
こう考えるからであった。九郎兵衛の苦境にも幾分の同情は持っているのである。しかし、今は双方の岐《わか》れ路《みち》に立っている。分別はあっても勇気のないものとは離れるより外はない。
内蔵助が向おうとする道を辿《たど》るには、天下を敵に廻すだけの勇気を第一に必要としていた。昼行灯《ひるあんどん》は、二筋道の分れ目にあって、その双方を照らしていたのである。
九郎兵衛は屋敷に帰る途中も昂奮していた。自分が危《あや》ぶんでいたとおり事態がいよいよ悪化して来たと考えるよりほかはなかった。
「血気の若者のいうことなら兎に角、一藩の家老ともあろう者があんな妄言《もうげん》を吐くものではない。正気の沙汰《さた》とも思われぬ。大石はのぼせあがって前後がわからなくなっているのだ」
「それに相違ありませぬとも。しかし、困ったことです。われわれは如何《いかが》相成りますのか?」
連れになった近藤源八は、むしろ悄然《しようぜん》としてこういった。
一旦こうなった以上は、まことに天運とあきらめるよりほかはないまでも、大石のやることは真実常規からはずれている。一つの組織の中に住んでいたら、どんなことがあろうと上層の権力には唯々《いい》として従うよりほかはない。柔順にさえしていれば、他日同じ組織の中に別の地位なり幸運を得ることが出来て今日の不幸をつぐなう途も出来ようというものである。大石は逆に組織の制裁《せいさい》に向って反抗しようとしている。馬鹿につける膏薬《こうやく》はないとは、よくいったものだが……そのためにわれわれは、どうなるのか? その巻添えを食って、今よりも、とんだ目にあうことではないか?
二人は、同時にこの恐ろしい不安に胸を蝕《むしば》まれているのだった。
「兎に角気違いだ! そりゃア自分は好きでやるのだから、それでよかろうが……われわれ……のみならず城下の者のこともよく考えてやらなければならぬ。そうではないか? お上がああいうことを遊ばしただけで下々《しもじも》の者はどんなに迷惑をしているかわからぬところへ、籠城じゃ、いくさじゃ。これではたまったものではない。第一、藩の札《さつ》は無論今のままにして置くことだろうが、ただの反古《ほご》同様びた一文にも通用しなくなることだ。城下ではもう騒いでいることだろう。勿論籠城ときまればいくさにも先立つものは金銀じゃから、引換えなど行うものでない。……この調子ではわれわれまで府庫《ふこ》の金銀の分配にあずかるわけに行かず貯《たくわ》えだけを握って浪人致すわけかな」
九郎兵衛は自ら嘲《あざ》けるように苦々しく笑って見せた。
「これは、御家老には……」
近藤は驚いた声音だった。
「その引換えを、昨日から札場でやっておりますのを御存じ御座らぬのか?」
これは意外だった。
「左様、札座奉行《さつざぶぎよう》の岡島氏の手で札一貫目につき六百匁の割を以て、制限なく引き換えておるように承っておりますが?」
九郎兵衛は呆然とした。
「すれば、太夫の命令にて……」
足もとから暗い影があがって来るのが感じられた。
国が亡びたことで、在来藩で発行し流通していた札が、俄《にわか》にほご同然の無価値となり、城下の市場が混乱することを九郎兵衛はだれよりも先に考えていたのだ。
その救済は急を要する。もし情を知りながら仕置家老《しおきかろう》の九郎兵衛がその措置に出なかったのは、非常の時であることを名目に、なるべく金銀を府庫に残して置きたかったからだ。府庫に金銀が多ければ後の離散の時の分配に有利だったのである。
その九郎兵衛には、平素財政のことに盲目とのみ思われていた内蔵助にこの周到《しゆうとう》な手腕があったとはまことに意外だった。また内蔵助がこの艱難《かんなん》の時にこの挙に出でたのは城下の動揺をおもんぱかってのことであることはいうまでもない。
(恐ろしい男だ……)と、心中に舌を巻きながら、ひそかに一種失望に似たものを感ぜずにはいなかった。
九郎兵衛は、何となく自分が無視せられているように考えずにはいられなかった。この非常の際に城代の内蔵助に権力が集まるのは仕方がないとして、今日の自分はあまりにみじめな位置に置かれたといってよい。なかばは自分の小心な性質から出たものには違いないが、正当な主張を暴力によって塞がれたことも事実である。まして内蔵助に、それを煽動《せんどう》した傾きがあったのも事実である。
あるいは、手段を設《もう》けておれを疎外しようとしているのではないか?
こう思うと、じりじりして来た。
次の日になって見ると、前夜籠城説に加担《かたん》して後に残った一人が訪ねて来て、籠城説が殉死《じゆんし》に急変したと伝えた。しかもそれをいい出したのは内蔵助だ……と、その男が幾分憤慨した語気を洩らした。聞くところによれば不平の者がまだ他にも大分あるようである。
「そりゃアおかしいじゃないか? 昨夜はあれほど意気込んでいて……」と、九郎兵衛は、太い眉をひそめた。
「どういう理由で、籠城をやめたのだ?」
「どうもはっきりしませんが、結局御公儀に対し穏《おだ》やかでないというのでしょう、そこで穏やかな方法……として選ばれたのが苦衷《くちゆう》のあるところを公儀に上申し、一統《いつとう》城の大手で切腹して、嘆願しようというのです。どうも落胆しました」
その若者は実際に失望したような様子に見えた。
血気にまかせて熱狂していた若者としては無理もない話だった。籠城ははなやかで勇ましい、人々の熱狂を煽ることも容易である。また嘆願のための切腹にそれだけの人気のないのは当然のことだった。内蔵助が予期したのもそれである。内蔵助が求めたのは一時的な昂奮や熱狂から加わる同志ではない。時期を得るまでは水のように冷静に湛《たた》えられたままでいる節度ある勇気だった。踏み切りの板なしに静かに死に投じ得る真の勇気である。これがなくて、実現の時が二年さきになるか三年後に来るかも分らない仕事に、どうして、ともに艱苦《かんく》を分つことが出来よう……
若者は、この深い計画を解し得ない一人だった。
九郎兵衛には、また内蔵助のやり方がいよいよ怪訝《けげん》に思われて来るのである。
「どうも、わからぬな。……何をいっているのだか? こりゃアその殉死も、やがて、とりやめになるのだろう。人間の考えることには、結局そう大したちがいなどのあるものではない。昂奮がさめると自然に落着くところへ落着くものだ」
「そうかも知れません」
若者も気のない笑いを見せた。
九郎兵衛も、自分の解釈が確かにあたっているように思って来た。それと同時に気がついたことは、これは引っ込んでいてはいけない……ということだった。昼行灯と信じられて来た内蔵助に意外に策があって自分を除外しようとしているのは必ず何かためにする底意あってのことに違いない。これは油断出来ないと考えられたのだ。
幸いと輿論《よろん》は一部を除いて内蔵助から離れて来たようである。九郎兵衛はこれをたのみにして、臆面《おくめん》なく出仕を続けることにした。
内蔵助は、また平気でこれを迎えて、事務上のいい相談相手にしている。ただ、全体の方針については、今までと変って全部その方寸《ほうすん》から生み出して、決して他人の容喙《ようかい》を許さない。これは九郎兵衛が不平に思うところだったが、暫く隠忍《いんにん》して、油断なく様子を見ていることにした。
驚くべきことは昼行灯の内蔵助の断乎として確信のある態度であった。その周到なる用意と、事務にかけての絶倫《ぜつりん》なる手腕であった。これまでこの男を、幸運に家老職の家に生れただけの凡《ぼん》くらの人間と見ていたのは、決して九郎兵衛だけではなかったのだが……だれも、まるで別人のように見える内蔵助の確固たる足どりを眺めて、ただ驚きながら敬服せずにはいられなかった。
水の上
大阪を暮方に出た便船が夕焼けの色を流した水の上を走っていた時である。煙草の煙のもうもうとこもった胴《どう》の間《ま》に諸国の商人や旅人などが集まって旅の徒然《つれづれ》に四方山《よもやま》の話にふけって笑い興じている中に、
「中村氏……失礼じゃが、中村|弥太之丞《やたのじよう》どのではないか?」と、にわかに改まった声でいったものがあって、周囲の人の注意をひいた。見ると男は、この便船が出ようとする時にあわててかけ込んで来た背の高い浪人者で、ものものしく背負っていた鎧櫃《よろいびつ》を置き、その前に大あぐらをかいてほかの客がどんなに声高に話そうがにこりともせず口をつぐんでいた男だった。長く浪々していたと見え、姿も貧しい。まだどこかに凜《りん》として冒《おか》し難いものを持っていて、ほかの客達に何となく近寄り難い感じを抱かせていた。
この男が口をきいたので、自然と人々はその相手を見た。
これは、やはり浪人者で板壁によりかかったまま手槍《てやり》を抱いて眠っている。外の微光がさも疲れたような寝顔を彩《いろど》っているのである。
「中村氏!」
こちらは、またいったが、醒《さ》めようとする気配もない。その隣にいた伊勢まいりの帰り途の男が、気の毒になって揺り起そうかとも思ったがさし控《ひか》えていると、浪人は立って行って肩へ手をかけた。
「おい!」
はじめて、こちらも、ぱっと目をあけて、自分にかぶさるようにしてのぞいている顔を暫く見ていたが、
「お!」と、急に思い出して驚いたように坐り直して、
「井関氏か? こりゃア珍しい」
「久し振りじゃったなあ」
二人は感慨に堪えぬらしく、うるんだ目を見合せている。
「ここで会おうとは思わなかった。何年になる?」
「うむ、うむ」
井関という男の方は頷《うなず》いているだけだったが、
「貴公も赤穂へか?」
「もちろんだとも。貴公もか? いよいよ籠城するというじゃないか? むむ……とんだことだったな。しかし、お蔭で古い友達の顔が見られることだ。今までどこにいた。なに京に。そうか。そりゃアよかった。御内室《ごないしつ》は? なに、置いて来た。そうか……わしも老母を伜《せがれ》にたのんで来た。なに、一緒にいたところで、ためになる父親ではない。ははは……だが、実に久し振りだった。八年、そうか、もうそんなになるか? たまに便りをする気はあったが、何さま、御承知のとおりの有様でな」
ひそひそと声をひそめての話であったが、一人が浅野の浪人で主家の急を聞き、駈けつける途中にあるものだということは自らほかの者にもわかった。この泰平の世に古びたる鎧櫃手槍が唯一の持ち物である点もはじめて頷くことが出来て、忽ち人々はこれまであれほど熱中していた雑談を棄て、何事か小声で囁きながら、この劇的な邂逅《かいこう》をした二人の浪人から目を放さない。赤穂でいくさがあるとは、もうこの辺では噂の高いところだったが、現にそのいくさに駈けつける人人と同じ船へ乗り合わそうとは多分自分達の一生にあまりない事件のように思われたのである。
いつか、夜の相模野《さがみの》で隼人《はやと》を驚かした女が偶然にこの中にいた。人の肩越しに、例の明るい目を瞠《みひら》いて、二人の様子をじっと見つめているのだった。
「ここは蒸《む》すから、上に出て、海風に吹かれながら話しあかそうじゃないか?」
井関がこういい出して、二人は胴の間から出て行った。井関は鎧櫃を、中村は手槍と不恰好《ぶかつこう》な風呂敷包を、忘れずに持って出て行くような武士であった。
「いよいよ籠城をなさるのか?」
「浪人をしておいでた方らしいが、噂を聞いて赤穂へお駈けつけになるものと見える。いや、流石《さすが》、御武家は違ったものだ」
あとには、乗合の男達が感心しきったように口々に話しだした。それからの話題は今度の浅野の改易《かいえき》のことに集められた。めいめい知ったかぶりに噂に聞いていた限りのことを話しはじめたのである。
女は笑いを含んで、そっと立ち上って外へ出て行った。
夕焼雲は消えて、淡路《あわじ》の島影が黒い輪郭《りんかく》だけを水の上に残している明るさだった。舟に近い逆側《ぎやくがわ》の長い渚《なぎさ》にはぽつぽつと灯がともって影を水に映している。女は微風がなぶる鬢《びん》のほつれを白い静かな手で直しながら、あたりを見廻して二人の浪人者の姿を尋ねた。
二人は、船首に近くあぐらをかいて向いあっている。女は、水を覗《のぞ》き込むふりをして、二人の話声が聞えるあたりまで行って物の蔭に立ち止った。
「中村、相変らず酒《こつち》の方は……」
「いや、だめだ。やめたよ。貴公は?」
「すこしは飲《や》る。どうだ、久し振りだ。すこしはよかろう。舟の中で売っているだろうと思う。ほんの、すこしだ」
「よかろう、すこし……なら」
一人が立って行ったが、やがて徳利《とくり》を提《さ》げて帰って来た。
「さ」
「いや、貴公から……こりゃア好い酒だ」「本場だろうな」「うまい」「まったく久し振りだったな。愉快《ゆかい》だ、だが……貴公。いよいよわれわれの時代になったとは思わないか? おれはそう思っている。このまま廃《すた》れるのだと思っていたがそうではなかった。まだまだおれ達でも役に立つことがあったのだな、愉快だ」「私もさ。武士がだんだんと商人のようになって行く世間に実際もう用のない身体《からだ》だとあきらめていたのだが……この槍《やり》も苦しい中に取って置いてよかったよ」「むむ。さ、飲め……」「もうないじゃないか? 今度はおれが買って来る」「それは済まないな。すこしでいい。沢山は要らないぞ」
その間にも濃《こ》くなって来ていた夕闇の中に、また一人が立って行く。
(好きなのね)
女は、暗い水に向けた顔を匂うほど微笑《ほほえ》ませる。
(でも、加減して……飲んでいらっしゃる)
目の前を帆《ほ》だけ夢のように白い船が通って行く、暗い胴の間で昆炉《こんろ》を煽《あお》いでいる船頭らしい男が火のほてりに赤銅色《しやくどういろ》の悍《たくま》しい胸と顔をぽッと浮かせて、そのまま過ぎる。しばらくみだれていた波も消えて、あとは、もとどおり暗く平らかに鏡のような内海の水に、のたりのたりと、白く滲《にじ》む星の影を長くしたり縮《ちぢ》めたりしているだけである。
酒が、あちらの二人の話にだんだんと熱を持たせて行ったようである。
女は静かにそれから離れて、艫《とも》の方へ歩き出した。帆が、ばたばた鳴っている。女は、風にひるがえる着物の前身《まえみ》をおさえた。そこへ、暗がりから、つと、出て来て寄り添った黒い影があった。
「へ、へ、へ、へ……」と脳天へ抜ける声に驚いたが、女はすぐと、胴の間で自分の隣に坐っていて離れて坐る余地があるのにいやに膝《ひざ》をすりよせて来て迷惑を感じさせた、どこかの金持の旦那らしい目尻のさがったあぶらっこい中年の男だとさとった。
「おさびしくはありませんか? どちらまで、いらっしゃいます?」
「まだ、きめておりません」
女の返事はかなり男を驚かせたが、この男はひどく善意に解釈したらしい。
「いや」と頭を叩かないばかりにいって、
「そりゃアどうも……なンで御座いましたらどちらか、その辺を御案内致しましょうか? 手前も、まったく遊山旅《ゆさんたび》で……へ、へ、へ、……」
女の顔にちらと稲妻《いなずま》が添《そ》ったように見えたが……また急に思案をかえたようである、にこりと目を笑わせて立ち止った。
「結構で御座いますこと……」と海を向く。
「結構……へ、へ、へ、へ……」
男は体を動かしながら寄り添って、そっと女の手を取った。不思議は、女が平気でそれを許していることである。
「旦那……」
「なんですね?」
男の、まるで吸盤《きゆうばん》でもありそうに幅広な掌《てのひら》は、女の腕の円味《まるみ》をさぐって肘《ひじ》までのぼって行こうとしたところで、今度は例のへ、へ、へ、へも出ず至って生真面目な、上顎《うわあご》の乾いたような声だった。
女は、消え入りそうにして腕をひいた。
「あの、旦那からお乗合の皆さんにお話してあの御浪人さん達の門出《かどで》を祝ってあげなさいましな。御酒はこの船で売っているので御座いましょう……」
「…………」
「ねえ……」
「結構だね」
男は、幾分顔の寸を伸して、また女の手を握ったが……その儘《まま》、とろとろと引かれて離れたのは人の集っている胴の間だった。女は目付で「さあいえ」という。
男は幾分きまり悪そうに、その意味のことをいって出た。
「そりゃアいい」と、金毘羅詣《こんぴらまい》りの若い男が第一にいいだした。誰も、乗合の赤穂《あこう》の人々へ誠意を示すことに異存はなかった。忽《たちま》ち、いくらかずつ出して相当な額になる。そこで金毘羅まいりが代表になって大きな徳利をうやうやしく上へ持って行ったが、やがて、顔を輝かして降りて来た。
「いや、お堅《かた》いンでね、お志だけでというのを無理にお納《おさ》め願って来ました。礼にいらっしゃるとお二人で立ち上ったのさ。そりゃアかえって痛み入りますから手前から皆さんにそう申しますって無理やりおとめして来ましてね」
みんな好い気持だった。
金毘羅詣りは今度は奮発《ふんぱつ》して自分で酒を買って来て仲間で飲みはじめた。座は興に乗っていよいよ話の花を咲かせている。例の男は、女がもう一度暗い舷側《げんそく》へ出て行かないのが、ひどく不平らしかったが、女の方ではそんなことには平気で、きさくに話の聴手《ききて》になって、いつまでもねむろうとしないでいる。男が仕方なくその腰のところにごろりと寝ると、その恨めしそうな顔をしたことなどにはかまわず、そっと腰を上げて離れて壁際に坐り直している。
翌朝、舟が新浜御崎《しんはまみさき》に着くと、女は急に仕度《したく》をして降りて行った。無論二人の浪士達もここで降りている。例の助平《すけひら》朝臣《あそん》は、他愛なく口をあいて白河夜舟の最中だった。
新浜御崎から二十町、朝日が斜にさしている松原を歩きながら、この井関紋左衛門、中村弥太之丞の両人は、久し振りで故郷の土を踏む感激をおさえて黙々としていた。赤穂の城下がどんな混乱の下にあることだろうと空想される。とにかく国が破れたのだ。家中《かちゆう》を挙げて籠城のことに余念ないことはいうまでもない……しかし……朝早いせいもあったろう……途中には昔と同じように、ひっそりして、閑雅《かんが》な景色が展《ひら》けていた。はるかな塩田には、豆粒《まめつぶ》のような人影が平和に動いている。山々の花崗岩《かこうがん》の肌を朝日が染めている。松がある。木蔭に腰をおろして煙草を燻《くゆら》している百姓があった。
城下へ入ると、流石に何となく緊張した空気が街々をつつんでいた。行きあう町びと達は敬虔《けいけん》に近い目射《まなざし》を投げて二人を見送っている。しかも全体がいうばかりなく静かで、むしろ人の喪《も》を思わせていた。
「すぐと城へ行くか?」
中村がいった。
「そうだな」と井関は考え込んだような顔付になって、
「いや、この風体《ふうてい》では、あまりものものしいような感じがないでもない。誰かの邸《やしき》へ行くのもよいが、まずその辺に宿をとってからにしようではないか?」
「よかろう」
宿を取ってから、二人は汗を拭《ぬぐ》い衣服を改めて、中村勘助の邸の玄関に立った。
名前をいうと勘助が、走り出て来ていった。
「来たな」
「はは、はは……」
二人はうれしかった。
勘助は、心なしか、額をくもらせて、静かに二人を座敷へ招《しよう》じ入れた。
「駄目だよ。御城代《ごじようだい》の考えはわれわれにもわからない。籠城《ろうじよう》はしないということだ」
「なに!」
二人は顔色をかえている。
「そんな馬鹿な奴があるか? ではどうするというのだ」
「殉死《じゆんし》だそうだ」
「ふむ」
「不平らしい連中が多い。どうなることかな。とにかく御城代の意見が朦朧《もうろう》として判然《はつきり》しない。困るよ……」
「ふむ、そりゃア変だな。やっぱり昼行燈《ひるあんどん》か? じゃアほかのことも滅茶苦茶だろう」
「ところがそうでない。事件以来御政治向のことは一切御城代の一存に集められている。今まで、仕事の出来る人でないという話だったな。それが、大野殿のきりまわしていた頃より下々の評判はよいし、いや、われわれが見ていても実によく切れる。不思議な人物だ」
「…………」
中村も井関も、たより薄い顔付になって、日があたっている庭へ目を向けた。
籠城は動かし難いと、われも見、世間も許していたことである。城代大石内蔵助は大野九郎兵衛に比べて才能はないが、武人としての覚悟のある頼むに足《た》る人物のように信じられて来たし、この平時においては用なき特質が今日の様な異変の時にこそ光をまして現れるものと考えられていたのだ。
俗吏《ぞくり》の才能があったとて、それがなんだ? それだけの人間だったのか?
暗かった。中村も井関も、自分が浪人したのは異変の際にしか働けない旧式の武士だったのが原因だと信じていた人間である。折角《せつかく》望みをかけてはるばると頼って来た内蔵助が、やはり当世流《とうせいりゆう》の武士だったかと考えると落胆せずにはいられなかった。
「まあ、よかろう!」
やや長く重苦しい沈黙の後に井関は急にこういった。
「勘助、酒があったら出してくれ」
「いや、その前に大石殿に会って、われわれの存じ寄りを話そうじゃないか?」
中村弥太之丞は、組んでいた腕を解いて沈痛にいった。
手紙
茶室にいた内蔵助は、快く中村、井関に会ってくれたが、籠城の人数に加わりたいという二人の願いは、その誠意には深く動かされながら却《しりぞ》けた。各々を迎い入れては、浪人を集めて公儀に手向うように思われて、面白くないというのである。
二人は、あからさまに失望したように見えた。
「しからば、御籠城はなさりませぬのか?」
「無益《むやく》に民百姓の難儀を招きたくない。どうせ破れるのはわかっている相手だからのう」
「…………」
「そこで切腹ときめた」
「武、武士道はすたれ申した!」
突然に井関が、我慢なりかねたように、こう叫んだ。眼は爛々《らんらん》として輝いて、内蔵助を睨《にら》み据《す》えているのである。
内蔵助は静かにこの激しい視線を迎えながら、心に好意の籠った微笑を禁じ得なかった。
(可愛らしい奴!)と思うのである。まことにこの男が信じているような素朴な士道は廃《すた》れている。……しかしそれが悲しむべきこととも思われない。士道は態度ではないか? いつまでも元亀《げんき》、天正《てんしよう》の狭いものを守って、次第に分解し複雑化して行く世相に常に牙を向ける……そんな保守的なものであったならばとうに亡びている筈であった。世の進展とともに抱擁の力を拡充して、その態度において変質を受けぬひろい理解と消化力。明鏡止水の心に映ずる姿を悉《ことごと》く拒まず禅機《ぜんき》と一致していた朗らかな鎌倉の昔に、むしろその真実の姿が見られなかったか?
内蔵助は無言でいる。さわやかに釜《かま》に沸《たぎ》る湯の音が、外の叢竹《むらたけ》に蒼味を帯びたこの部屋の静けさに一層の深味を加えているのである。
荒々しく二人は立って外へ出た。向けどころのない憤慨が一歩毎に胸に突ッかけて来た。
(見そこなった!)
真直に宿へ帰る。
怒りながら、この憤慨の次に来る失望落胆の苦い味が、二人をおびやかしていた。貧しいながら久しい静穏《せいおん》な生活を振り棄てて来た二人である。
「酒を持って来い!」と、呶鳴《どな》って荒々しく障子をしめる。
しかし、二人が座に落着く間もなく、この障子があいて、日に焼けたたくましい男の立姿を見せている。
「おッ!」
「御両所だな。どうも聞いたような声だと思った」
こういって入って来たのは、やはり二人と前後して浪人した大岡|清九郎《せいくろう》という男だった。
「誰かと思った。これは意外だ。また何でこの地へ?」
「なんで……とはひどい。勿論、浪人致しておっても当家の御恩を忘れる大岡ではない。この度の大変を承って、籠城の人数に加わりたく思って駈けつけたのだ」
中村、井関の二人は、この言葉を聞いている内に、何となく泣きたいような気持になって来ている。
「駄目だよ」
「駄目だ。駄目だ!」
二人、異口同音《いくどうおん》にこう叫んだが、にわかに最初の憤慨が二倍三倍になって湧き上って来るのだった。
「酒! 酒はどうした?」
丁度廊下を来た女に、こうあびせかける。
「はい、ただ今……」といいながら、障子をあけてさし出したのは一通の書状だった。
「お手紙で御座います」
中村様へ……という。しかも、なまめかしい女の手跡《しゆせき》である。
「おれにか?」
中村は不審そうにこういって、手に持って裏を返して見た。
その女文字なのを見て大岡清九郎はにやりとした。
「なンだ、あけて見ろ」
「どうも、おれがここへ来たのを、まだ誰も知っている筈はないし、妙だな。だがあて名の中村弥太之丞はおれに違いない」
中村は封じ目を切って、拡《ひろ》げて見た。井関も大岡も覗き込む。
女にしてもやさしいきれいな筆跡である。
吉良の間者《かんじや》が当地に入っていることをお知らせいたします、宿は御城下の稲葉屋、裏二階にいます。
これだけの文言。差出人の女の名は書いていない。
「なンだ。こりゃア……」
三人は、また口の中で読み返して、顔を見合せる。
「悪戯《いたずら》だろう、誰かの」
大岡は、取り上げないで火鉢の上にかがんで煙管《きせる》のやにを吹きはじめた。
「悪戯かな? それにしても聞き棄て置き難いことだ。……おい!」
井関は手を打って女中を呼んでいる。
「こりゃアどんな人間が持って来たのだ?」
その女中は知らなかった。しかし、中村の命令で帳場へ降りて行って尋ねて来て、通りがかりの男がその辺で頼まれたからといって置いて行ったものだと伝えた。
酒は来ていた。しかし、この妙な手紙が変にそれまでの気分をみだして落着かなくしていた。
「おかしいな。ま、飲みながら、よく相談しようではないか?」
「むむ」
酒はいい酒だった。
「大岡は、当地へ何年振りだ? たしか俺より半年ぐらい前に浪人したように覚えているが……」
「まあ、待て、それよりこの手紙のことだ……とにかく真偽をただした上で御城代へ申し上げるのがよかろう」
「城代。駄目だよ。あの人間は。……武士の風上《かざかみ》へ置けた奴じゃない。拙者は泣きたいくらい腹が立っている。赤穂《あこう》の武士道は廃《すた》っていたのだ。時世には勝てぬものと見える。おれは今朝どんな心持でこの故郷の山河を眺めたことか? 八年前といささかも変らぬ姿を。まことに、国破れて山河ありじゃ……人はすっかり変った!」
「よせ、よせ、愚痴だ。それよりこの手紙だが……冗談にしろ吉良の間者とあっては棄て置き難い気がするのだ。誑《だま》されたと思って探って見てはどうだ? 真実、吉良の間者がいるならば、せめてわれわれの孤忠《こちゆう》を以て亡君の尊霊を慰め奉るために、かれを斬って退散しよう」
「うむ」
中村も大岡も揃って膝を打つ。
「よくいった。どうもこのままで帰ることは出来ないと思っていたのだ」
そうきめてみれば、これまでの真偽を疑《うたぐ》っていたこの差出人不明の手紙が、真実を物語っているもので、吉良の間者がこの城下に入っていてくれればいいと思う。
「面白い、面白い……」
中村は現金に見えるくらい急に元気を回復して来た。
三人が連れだって宿を出たのはもう夕方に近い時刻である。稲葉屋という宿屋はすぐと町はずれに見つかった。三人が、ずらりと通る。帳場にいた番頭が泊り客と見て走り出て来ると、これは違った。
「宿帳を見せよ」と、中村がいう。
三人揃って見上げるように大きい体格だった上に、中村の語気には否応《いやおう》を許さぬ烈しいものがある。番頭は、この客達の素姓《すじよう》を考える前に兎に角夢中で宿帳を運んで来ていた。
中村がひらく。三人が同時にのぞき込んで、まだよごしてない白紙の部分から逆に、そこに様様の字体で書いてある人名をずっと見る。
その内六つの目が、揃ってじっと、とまった名がある。江戸麹町三丁目、飯能屋《はんのうや》栄吉、二十六歳、同じく金助三十四歳とあるのがそれだった。
「これだ!」
中村の骨太い指がくだる。
「むむ。筆跡、町人ではない。勿論この男であろう」
井関も大岡も、番頭の不安らしく落着かない目の前で、こういった。
「この男か、裏二階にいるのは?」
「さ、左様に御座りますが……」
「ほかに裏二階に客は?」
「裏二階はそのお方だけで……」
「むむ。在宿《ざいしゆく》だろうな」
「いえ、おひと方は今すこし前にお出ましになりました。ただ今はおひと方だけおいでで御座りまするが、何か御用で御座りましたならば、お取次いたしましょう」
「いや、取次はいらぬ、案内いたせ!」
ずかずかと上り込んだ。
正面が拭《ふ》き込んで、ぴかぴかと光った梯子段《はしごだん》。登りつめると、中庭の椎《しい》の大木を隔てて裏二階が見える。庭をめぐっている廊下に、秋になると、この椎の葉が風で舞い込むのだった。三人は、梯子段をあがって、この廊下の板を軋《きし》ませながら歩いて行く。その時、丁度、その中庭を隔てた向うの廊下を、湯上りらしいゆかた姿で欄干《らんかん》にもたれて庭を見ていた女客が、こちらの様子を見て、はッとしたらしく、白い顔をあげたのが見えた。
姿が変っていたし、また、女には元来無関心な質《たち》だった中村も井関も、遂に気がつかずに過ぎたが、来る途中で舟で一緒になった不思議な女に違いない。
気がつかれはしまいか……と思った最初の不安が過ぎると、女は、何でもないように心持首をかしげて、椎の葉越しに、こちらを眺める。その緑の枝の、夕日を受けた部分は明るい影を裏二階の障子《しようじ》の裾《すそ》に描いているのである。
「こちらさんで……」と番頭がいう間もなく、井関の手が、その障子にかかって、荒々しくあける。中には丁度何か書き物をしていた目玉の金助が、ぎょっとしたように振り返って、畳の上の夕日とともに飛び込んで来た長い影のぬしをびっくりしたように見上げたのだった。
「や、違いましょう……」と、こちらが座敷を間違えたと思ったらしい。金助は筆もおかず、目をくりくりさせて、こういった。
それにも関《かかわ》らず三人の武骨な客は、一言の挨拶もなくぶしつけにぬッと座敷へ入って来ている。はじめて、こりゃアおかしいなと気がついた金助は急に不安な顔色になって、腰を浮かせた。ここまで室を案内して来た番頭も、何事がはじまることかとおびえながら、障子の脇から離れずに廊下にいた。
「町人!」と、井関がいう。
呶鳴《どな》られると一緒に、金助は事件を直覚して咄嗟《とつさ》に書きかけの手紙を握ったまま、窓へ駈け上っている。井関が猿臂《えんぴ》をのばして押えようとしたが遅かった。まるでころがるように屋根をすべって下へ落ちるのが、三人の目に映じた。
直ぐと中村が続いて、どたどたと屋根を鳴らしたが、下へ飛び降りて、顔をしかめて手紙を呑んで逃げようとする金助を地にねじ伏せた。
「押えたぞ、早く来い!」
「よし」と上からいった。
金助は、まだ逃げようともがいていたが間もなく苦もなく両腕をねじられて、下緒《さげお》の鹿皮《しかがわ》にくくり上げられた。
「堪忍《かんにん》だ……堪忍……」
「うるさい!」
金助の鼻面のすぐ前を弁慶蟹《べんけいがに》が鋏《はさみ》を立てて横に走った。
井関、大岡も刀を提《ひつさ》げて、庭から廻って来る。方々《ほうぼう》の部屋の障子が急にあいて騒ぎに驚いた客の様子を覗かせる。金助はこれには閉口《へいこう》した。いそがしい中に、こりゃア泥棒か胡麻《ごま》の蠅《はえ》としか見られまいと思って、愧《はずか》しくなったのだ。
「ひとを……なにをするんだ! おれが何をしたンだ?」
思わず、巻舌《まきじた》で、江戸ッ児らしく喚《わめ》き出したが、ききめがない。中村達は、金助を引き立てて行って、近くにあった松の木の下へ据《す》えている。
「一応こいつ等の持物をお調べ願おう」
中村も改《あらた》まった口調になっている。
井関と大岡とは直ぐ引き返して、二階へ上って行った。
間もなく二人は失望したように帰って来て何も見あたらなかったといった。
「人違いですよ。人違いですよ。私がお前さん達にこんな目にあわされる筈はない」
金助は呶鳴った。
「だまれ! 連れは何所《どこ》へ行った!」
「連れ?」
「貴様は何て名だ?」
「さ、金助でさあ!」
「では飯能屋《はんのうや》とかいう奴だ」
「旦那なら、その辺へ用たしにいらしってます!」
「じゃ、間もなく戻って来るのだな」
「…………」
さあ、弱った。金助ははじめて悄気込《しよげこ》んでしまった。飯能屋栄吉……と名乗る堀田隼人は別の宿屋に隠れている蜘蛛の陣十郎と打合せがあって出かけたのだが、ひょっとすると城へ忍び込むことになるかも知れず、そうなると帰りは何時《いつ》になるか分ったものではない。いや、また隼人が帰って来てくれたところで、相手がこの三人では、どうしてくれることも出来なかろう……。
「返答せい。何ゆえいわぬ?」
井関は目を瞋《いか》らして叱咤《しつた》した。
「へい、もう戻る頃と存ぜられますが……見物がてらの用事でして……」
「此奴《こやつ》は、何か呑み込んだように見えたが……」と、大岡がいい出した。
金助はぎょっとした。書きかけていたのは千坂兵部にあてた第一回の報告である。
「あれは、何だった? 何でわれわれを見て隠すように呑み込んだ? いえ!」
「へえ……」と目をきょろつかせる。
その時偶然に金助は、まったく意外だったものを見た。それは廊下に雀押《すずめお》しに出て来て眺めている小憎らしい見物の中に、いつ来たのか蜘蛛の陣十郎が柱の根もとにうずくまって、一服しようとするものらしく、静かに腰の煙管筒《きせるづつ》をさぐっていたことだ。
ながながとのどかな紫色の煙が陣十郎の鼻の孔から出ている。表情《かお》は? というと実に悠々として、ほかの見物と同様に、この降ってわいた騒ぎを、旅の無聊《ぶりよう》を慰める思いがけない拾い物のように考えているとしか見えなかった。隼人と、どこで行き違ったのか? それを考える前に金助は、この男の無情に近い顔付を怒らずにはいられなかった。
(どういう気持なのだろう? まさかおれを見殺しにするつもりではあるまいが……)
金助は、恨めしそうな顔付になった。
陣十郎は、遠くからその顔付を平気で眺めている。かかりあいなど、まったくない様子である。
中村以下の三人は、確実と思われる証拠をつかみ得なかったのであきらかにあせりはじめていた。
「しぶとい奴だ。所詮《しよせん》痛い目を見せずば白状致すまい」
井関は、憎々しげに金助を睨んで、鞘《さや》ぐるみ刀を抜いて、金助を縛《いまし》めてある下緒《さげお》にからめた。
「どうだ? 痛い目を見せるが承知か? それとも潔《いさぎよ》く申し立てるか?」
「何を……で御座りまする? 何も知らぬ手前を、あまりに御無体《ごむたい》な……」
「いうなッ!」
中村が烈しくいう。井関は、刀をひねりはじめた。
「あいツツツツ……」
「町人……飯能屋某とはいつわり、吉良の間者であろう。真直《まつす》ぐに申せ」
「いえ、そんな……」
「えい、剛情《ごうじよう》な!」
見物人もいることだ。三人は、次第に躍起《やつき》になって来て、是が非でも、何か確実なものを聞きとらずにはこの場の幕を引けないような心持になっている。金助は幾度か苦痛に顔をゆがめて呻《うめ》いた。
「どうだ! これでもか?」
「あいツツツツ……」
この上責められては、どうも我慢出来そうもない。しかし白状するといっても、その結果はどうなるだろうか? いやいやそれよりも蜘蛛の陣十郎は飽くまで自分を見殺しにする気なのだろうか?……何しろ、留めようがないので、ただこちらが白状するかどうか見張っているのではなかろうか?
陣十郎は依然として冷静そのもので、ほかの客達がこの拷問《ごうもん》を見かねて、一人二人ずつ立ち去ったにもかかわらず、悠々として煙管を口から放さない……
しかし、偶然に陣十郎の視線が、ほかの、これは美しい目と触れた。まばらに残った見物中に、これは若い女の身で、恐れるところもなく、残っていた一人の目である。女は金助と三人の武士達の方を見ずに、思いがけなく、先刻から自分の方を眺めていたのではないか?
陣十郎の視線とあった時、女は急に目をそらした。けれども、そのとっさの運動の間にその美しい目は、陣十郎を蔑《さげす》んだように薄くほほえんだように思われる。
(はてな?)
自然と煙管はくちびるからはなれた。
廂《ひさし》の長さだけの夕やみの中に白く浮んでいる女の横顔は、こうした方面の鑑賞にたけた陣十郎の目にも、「これは!」と思わせるものがあった。だが、陣十郎が目をつけたのは、江戸をはなれて滅多に見なかったこのすぐれた容貌ではなく、女が薄い唇に含んでいるなぞの微笑だった。女は金助のみじめな様子を眺めながらかたわら自分を見詰めている陣十郎を充分に意識しているように思われた。微笑は、恐らくそのためらしいのである。
流石《さすが》、年配だけに陣十郎は色気で眼が狂うことがない。
(おかしいな。なんだって、人の顔を見てにやにやするんだろう? 妙な女だ)
見ている内に、女のくちびるがお壺口《ちよぼぐち》に外へもりあがって来る。何か、ひどく笑いたいことをおさえていて我慢が出来なくなったような模様である。その唇がもう笑いに吹っ切れるというところまで来て、女は陣十郎の方へくるりと顔を向けていた。
「可哀相に思いませんの?」
突然の言葉だった。ちょっと意味がとりかねて、陣十郎が、
「え?」と聞き返す。が、その刹那に、女が貌《かお》にもらした軽い悪意のこもった笑いが、陣十郎をはっとさせている。
(知っているな!)
縛られている金助と、これを眺めている陣十郎との関係を……である。どこで見たのか? 女は承知しているらしいではないか? これは、こちらには不意打ちだった。
「可哀相……? 誰がさ?」
からくも立ち直った形だが、われながらまずい。相手の素姓から何から皆目闇の陣十郎は、いよいよ奇怪な感じに打たれて不覚にまごつきながら、何でも早く相手の本体をつかもうとしたが、さて、女は、小憎らしく、
(ふむ……)というように笑う。
知っているくせに……という笑い方だった。蜘蛛といわれた男が、軽く肩をはずされて前へ泳《およ》いだ形である。
しまった!……と、心に。
「なアる程、あの男ですかね?」と、さりげなくいったものの、どうも無気味で、滅多に物がいえないような心持がする。おれが、連れ……金助……を見殺しにしているのを、こいつ、からかっている。そうとしか考えられない。
おかしい。
ただの女じゃない……
陣十郎は警戒しながら、女の顔から目を放さない。女は、相変らず、美しい横顔を存分に見せて、軽く笑っているだけである。だまっていて説明を与えてくれないだけに、こちらは辛く、針のむしろに坐る心持だった。
だが、突然に、女は最後の宣告をたたきつけた。
「御存じなければいいんです。でも、あの人は可哀相ですわ」
これだけの言葉だった。いい終るや否やに女はつと歩き出して、離れて行くのだった。
充分であった。なんで、それ以上をきく必要があろう。確実に、女は陣十郎と金助とが宿こそ違え味方同士だと知っていたし、金助が折檻《せつかん》されているのをだまって見ている陣十郎の卑怯をなじっていたのだ。しかも、女独得の意地の悪いやり方で。
それと知る、途端に、かッと血が顔へのぼる。……女は、その間に廊下の奥へ姿を消していた。
何者だろう? ただの女ではあるまい。
茫然となりながらも考えたのは、これだった。陣十郎は隼人と行き違ってこの宿屋へ来て偶然この事件を知ったのだが、相手の権幕を見てこりゃア迂濶《うかつ》に手を出せない、暫く様子を見て……と、わざとにも糞落着《くそおちつ》きに落着いていたばかり、決して金助を見殺しにするつもりではなかったのだが、誰知る者もなかろうと思っていたのこそ、とんだ間違い。これは思わぬ不意打ちだった。残念ながら、これは卑怯と見られたところで仕方がない。まったく、この衆人環視の中で、この三人が相手では何が出来よう? 悪くすれば一党の破滅と考えられたのである。しかし……いつもは瓢軽《ひようきん》な男で大事の時の役には立ちそうにも見えなかった金助が、意外に我慢強く折檻をこらえて白状しないでいてくれる。その苦痛を目の前に見ていてかなり心を動かされていたところだ。二人の関係を知っている者が脇にいて卑怯と見られては、流石にこたえる。
だが……
あんな女にいわれて……の心持もあった。ここは一番もっともっと冷酷に、金助をまことの見殺しにしてくれようか? 裏の裏行く魂胆に、小憎らしい彼奴の優肝《やさぎも》を挫《くじ》いてくれるのだ。
(いやいや、そうじゃない……)
陣十郎はおだやかに角《つの》を折った。
その刹那に急に湧いた思案がある。
(うむ……)と、膝を打たないばかり、手ばやく煙管を筒に戻して立った。
「おい番頭さん!」と傍に不安な顔付をして立って眺めていた番頭に呼びかける。
「今、ここに立っていた御内儀風《おないぎふう》のは、やはりここの客か?」
「へい」
「案内してくれ。ちょっと、話したいことがあるのだ」
「へい、畏まりまして御座りまする」
番頭は、陣十郎が金助の部屋を訪ねて来た客だと知っていたし、気の毒やら薄気味《うすきみ》わるいやらの心持でいながら、何といってよいものか、まごついていたところだった。
「まことに……どうも……」と、歩きながら恐る恐るいう。
「なアに……何か勘違いしているらしい。気違いに刃物だ。うっかり口もきけねえのさ」
「へい。……あの、こちら様で……」と、立ち止ったのは、入って中庭の左手の廊下の途中。
「うむ……」
もういいから……と目付で知らせて、陣十郎は一人になった。
「ちょっと、御免なさいよ」
「さあさあおはいンなさいまし」
障子の内から愛想よく女の声が聞えて来る。こちらの来るのを待っていたようにもとれる。
何たる奴だ……と思いながら、陣十郎も臆せず障子をあけた。女は、火鉢のわきに立膝で、長煙管にきざみを詰めていたところで、その姿勢のまま陣十郎を見あげて、にこりとした。
「おいでになりましたね。何御用!」
「ちと、御相談したいことがありましてね……」
陣十郎は、こういいながら、鷹揚な態度で坐った。
「あたくしへ……?」
女はどこまでも落着きはらっている。撮《つま》み上げたように細く高い鼻の下から、紫色の煙が静かに横に流れた。
「そうなンですよ。ほかのことじゃありません。御承知のあの男のことだ。一番、あんたに助けてやってもらいたいのですが……」
「ほほ、女の妾《わたし》を捉《つかま》えて……」
「そうじゃありません。どうも、手前などより大分ひろく世間を見ておいでのようだ。どうでしょう。ひとつ知恵を貸してはくれますまいか?」
やんわりとした懇願的な調子なのだが、こうして話しているこの男のどこかに凄いものがあって相手にかぶさって来るのは、さすがだった。
「何しろ、相手が相手ですからな。あんたからやさしく話をしていただいたら……と、とんだ御迷惑なお願いだが……どうでしょう。ここらで助けてやってくださらないか?」
女の、美しい目に鋭い影がにわかに添って、じっと注意深く、陣十郎のおもてを見詰めた。女は、この客が笑顔につつんで隠している無気味な力を感じて、はてなと思ったらしいのである。
この瞬間の緊張がほぐれると、にこりと、あでやかに笑った。
「ただじゃいやですよ。親分」
親分……となっている。
陣十郎は臆せず、にこりとして、
「そりゃアお礼はいくらでも……」
「いえ、礼がほしいとはいいません。親分、他人にものをお頼みなさるのだ。相手がいくら女の妾でも、先へ名前ぐらいおっしゃっていただきたいものですね」
「こりゃア悪う御座んした。相模《さがみ》屋仁兵衛《やにへえ》と申します」
陣十郎は、おだやかに折れて出たが、たいらでない心持だった。ところへ、女は意地悪く、じろりと目をあげた。
「親分!」
「…………」
「妾の承わりたいといったのは、御本名ですよ。相模屋さんとおっしゃるより、もっと大きいお名前があるじゃありませんか? そんなものはないとおっしゃいますか? そんならそれで、よ御座んす。代りにこれから妾と一緒に下へ行ってひと風呂おあびになるンですよ。お背中を流してさし上げますから」
その背中には、異名の蜘蛛《くも》の刺青《ほりもの》がある! それさえ見抜いている女だ。
「あやまったね」
陣十郎は笑った。
「まったく、こりゃアお見それしました。何とも面目がない。改めて蜘蛛の陣十郎からおたのみしよう。あの男を何とかしてやっておくんなさい」
「そうおっしゃって下されば……ね。女って馬鹿なものですよ。ちょっとでも持ち上げられると調子に乗ってしまうンですから。でも正直な話、有名な親分をあやまらしたのはうれしい。まさか、こちらが、あの親分だとは、ちっとも存じませんでしたよ。……じゃアとにかく出来るか出来ないか、あたって見ましょうか……」
不思議な女は立ち上った。
陣十郎は、憂鬱な顔付をして笑って見せた。これで女が行って金助が助かるかどうかというよりも、つくづくと油断がならないと考えられた。
女は障子の傍まで行ってふり返った。
「もう一人のひとが帰って来ないようになさらないと、いけませんよ」
それには違いない……としても、散々だった。
「ほんとうに失礼いたしまして……」
妙な女は、心から恐れ入ったように、畳に手を突いてわびているのだった。もう外の光りが退いて障子にうつる行燈《あんどん》の光りが段々と明るくなって来る時刻、この女の部屋に招き入れられた中村、大岡、井関の三人は、前にならべられた手を尽した酒肴《しゆこう》と、女とを、かわるがわる見ながらまだ落着かない様子で、かたくなっている。
「すると今日の手紙は、あんたが中村にあててお寄越《よこ》しになったものか?」
井関が、こういって、疑いの糸の一本目をさぐる。
「はい……」
「…………」
三人は顔を見合せた。
「けれど、そのためにかえって……皆さまにとんだ御迷惑をおかけ致しまして……そのおわびのおしるし……と申し上げては失礼で御座いますが、どうぞ、おひとつ……」
細い白い指が鮮かに猪口《ちよく》を起して、すすめた。
しかし、三人は、まだ、それを受ける気にはなれなかった。
金助が剛情で、いくら何といっても、知らぬ存ぜぬという。もとよりこういう吟味に慣れない三人が……中でも短気の井関が否応《いやおう》なく斬るとまでいい出して、中村も大岡もやや持てあましているところへ、この女がふらりと現れて、自分が昼間の手紙のぬしだと名乗り金助は人違いだからゆるしてやってくれといって出たのだった。金助はどなり出す。引っ込みがつかなくなった三人を自分の部屋へ送って、金助の後始末を引き受けたのもこの女だ。女は、幾重《いくえ》にも疑問の渦《うず》の中に住んでいる。
「まったく……女らしくしてさしでがましいことは慎んでおれば宜しかったので御座いますけれど、道中で襖一重に泊り合せた客の話声を、耳について眠れませぬものからふと聞けば、そのお人が上杉様やら吉良様の間者《かんじや》で、赤穂へ行くとやら、その時は何気なく聞き流して、ただ何となく顔だけは忘れまいと朝たち際に見ておりましたのが……こちら様はお忘れで御座いましょうが、お二人様とひとつ舟で大阪からまいり、舟の中でお二人様の御様子を拝見し、ほんとうにこんな御忠義の方があるものか……と、失礼で御座いますが、ただもう恐れ入りまして、それについていつかの間者のことを申し上げようか、いや、いや、いらない女のさしで口は……と迷っております内に、こちら様が新浜《しんはま》でお降り遊ばしたので、ふと御城下を拝見する気持になり、それと、その間者のことも気になって、こちら様がお宿へお入り遊ばすところまですっかりと……」
「ふむ。そうおっしゃれば、どこかで見たことのある方と思うていた。では、あの舟の中で……?」
中村は膝を打ったが、
「しかし、あのお手紙じゃが……あれにあった吉良の間者とやらの人相なり年恰好《としかつこう》なりはよく覚えておいでなのか?」
「それは……もう、その者の顔さえ見ればそれとお話し出来まする。けれども……今日のような人違いをしても大変で御座います。……後姿から着物の縞柄《しまがら》までそっくり同じものでしたから、おやと思ってつい、もう間違いはないものと思いまして……、ほんとうに穴があったらはいりたいようで御座います」
「いやいや、それというのもわれわれ浪士のためを思って下さったからだ。かえってわれわれからお礼を申し述べねばならぬ」
「いいえ、とんでもない!」といって、
「さ、おひとつ……」
「折角のことだ。中村、どうだ?」
井関は、そろそろ飲みたくなったらしく膝を動かした。
一度猪口を取り上げたら斗酒《としゆ》何ぞ辞せんというような人々だった。それに、女の、すすめ方も水際立《みずぎわだ》ってたくみで、間もなく陶然たる酔いが座を明るくした。故郷に容れられない恨みを持っていた三人に、この隠れた同情者を、しかも、このように美しい女の形で見出したことは、素朴で単純な胸に何といってもうれしいことには違いなかった。
酒の間に女は、自分の今度の旅が金毘羅詣《こんぴらもう》でにあることをあかした。江戸に家があって、かなり手びろく商売をしているが、夫を三年前に亡くして後は、そちらの方は番頭まかせで自分はいつ何所《どこ》へ遊びに行ってもいい身分でいるらしいことが話の間に、こちらの三人にも段々とわかった。
三人の話は、いつの間にか悲憤慷慨《ひふんこうがい》の調子を帯びて当面の問題に触れて来ている。女はつつましくこれに耳を傾けながら、酌《しやく》の手をやすめない。不断に、三人の杯には、黄金色の酒が縁《ふち》をひたしていた。
「先刻の男は、どうしたでしょう。まだ、いるようですか?」
「いいえ」
女は、美しい目を笑わせた。
「お気の毒に、大層お怒りになって、すぐほかの宿へいらしったようでした」
「は、は、は、は、は……どうもとんだ縮尻《しくじり》をやったものだ。なに、あんたのせい計《ばか》りではない。われわれの短気の致すところだ。しかし真物の吉良の間者がこのことを聞いたら、よい加減驚くであろう」
「いや、井関。これは笑いごとではない。何とかして、敵の間者を探し出したいものではないか?」
「それはそうだ。まだ、それらしい奴がいたら、こちらにお知らせ願いたいものだな」
「いえ、また、今日のような……」
「なアに構うことはありません。そうじゃないか、われわれは赤穂の士気を鼓舞《こぶ》して籠城を決行させるとともに、城下から敵の間者を探し出して、存分にやッつけることだ。これで、腰抜けの城代の政策に不平の徒はかなりいるのだから……」
「おい、声が高い」
「馬鹿いえ! 貴様、不服か?」
「不服はない。おれは最初から籠城の覚悟で鎧《よろい》を担《かつ》いで来たのだ。文弱《ぶんじやく》に流れて衰えた藩の士気を振い起たせるのに何の異存があろう。大いにやるべしだ。しかし、大石殿だけは見そこなったなあ」
「いうな、いうな。口にのぼすだけでも不愉快だ」
「大石様とおっしゃいますと?」と、女がいった。
「藩の首席家老です。なに家老の家に生れたというだけで、今日のような時にはただその無能を暴露《ばくろ》するだけの人間じゃ。……大学殿お取立てを願い出たそうな。何とかして禄をつなぎたいと思っているのだな。何か物を持っている奴ほどこういう時は弱いよ。幾分でも残るかも知れぬとの懐思案《ふところじあん》が、思い切った覚悟をにぶらせるのだ。大事を成就出来るものは本来無一物の人間に限る。現に、今度籠城説を強硬に唱《とな》えたのは、微禄の者に多いというぞ」
酒が次第に会話の調子をたかめて来ている。女は、自分が口を出すところではないと思ったのか、ずっと、つつましく話を聞いているだけだったが、並の女には見られない熱情が静かな眉の間に時々|閃《ひらめ》いて見えた。
障子の外は、もう、とっぷりとくれて、星の銀砂が散った空に、例の椎《しい》の大木が黒々とこずえを巻き上げている。その葉蔭の太い股に両足をかけて、いつの間に忍んでいたものか、蜘蛛の陣十郎が目を光らせて、こちらの話を聞いているのだった。
隼人と金助とは、暗い辻に立って陣十郎を待っていた。隼人は事件のあらましを既に聞いて不安を感じていた。
間もなく、すたすたと歩いて来た者があるので、蔭に隠れて様子をうかがっていると、陣十郎だった。
「どうでした?」
「いや、とんでもない奴だ」
陣十郎は、こういって笑った。
「今まで、あの椎の木の上に隠れて、内の話を聞いていたンだが、どうも油断のならぬことになりましたよ」
「女の畜生は?」
「それがわからない……なアに、江戸の何所《どこ》かの商人の後家だなンて手前の口からいっていたが、そんな奴じゃない。金さんのいっていたとおり二人があったとかいうこちとらと同じ稼《かせ》ぎ人……が見当だろう。どうして、なかなかの曲者《くせもの》で酒をすすめるだけであまり物をいわないが、いう言葉が急所を掴んでいて、口数のすくない癖に目にたたないように話を鼻面でひき廻して、手際よく注文をつけているンだから」
「驚きましたな。それで、どうしようというのでしょう」
「どうも様子が、あの連中を焚《た》き付けて、結局おれ達を苛《いじ》める算段だ。あの連中ばかりでなく、ここの家来達で不平を持っている仲間まで抱き込もうとしている。兎に角、凄い腕だね」
「そりゃア、どうも……うっかり油断出来なくなりましたね」
「まったくだ。赤穂くんだりまで来て、こんな目にあうとは思わなかった。一体何て奴だろう……だがね、堀田さん、却って私ア面白くなったと思っている。実をいうと閑《ひま》な身だからついて来たようなものだが、たといただの手伝いにしろ、頼まれもしない仕事にそんなに気を入れる心持はなかったンだ。こう成ったら、やるね。頼まれなくても自分から買って出る。相手はどういう見当で邪魔を入れるか知れないが、張り合って見るつもりだ。女だと思って、甘く見ていられないのだから……曲者さ」
陣十郎は、力を入れて、こういった。
隼人も笑った。
「そりゃアかえって私のために幸いになったわけだ。しかし、これから……貴方の宿屋へでも行きますか?」
「それが出来ない。隠れ場所は別にこしらえるのだ。服装も多分変えた方がいいだろう。面倒なことだが、城下から離れよう。しかし邪魔の入らない内に一度城の中を見て来ようじゃないか?」
「今夜?」
「そう、これからさ」
陣十郎は、平気でこう答えてから、暫く何か考え込んだ様子で、黙って歩いている。
間もなく、濠《ほり》を隔てて城の石垣の見えるところへ出ている。最早夜も更けていることで付近に人影はなく、星影を映した黒い水とその向うに高い壁の様に屹立《きつりつ》している石崖に櫓《やぐら》の屋根が黒々と夜空に聳《そび》えているだけで、あたりをこめている森厳《しんげん》に近い寂寞が隼人の胸に触れた。
陣十郎は、腕を組んだまま立ち止っている。土俵に登って相手を睨んで立っている力士のように見えた。
暫くして、
「金公は、どこへでも行って宿をとって寝るがいい」という。
先手
城の南、狐川を泳ぎ渡って、陣十郎と隼人は城壁の下に着いた。左手に夜の干潟《ひがた》が星空をうつしているのが見える。二人は、石崖が交錯して暗い蔭を作っているところを選んで上へ攀《よ》じ登った。
弓鉄砲の狭間《はざま》が白い壁に行儀よくならんでいる。陣十郎は、その一つに顔をあてて、暫く内を覗き込んでいた。
内部は二の丸である。広場の彼方に、更に高く本丸の石崖が見え、その空に天守台の聳《そび》えているのが見えた。無論その周囲には更に濠があることであろう。
「幸い、夜警の姿も見えない」
陣十郎は、銃眼《じゆうがん》から眼を放して右手の星空の面に南沖櫓《みなみおきやぐら》を仰ぎながら、低い声でこういった。
それから、こちらへ……と隼人に目配《めくば》せして、壁を匍《は》う守宮《やもり》のように、石崖の細い隙間を踏んで、櫓に近づく。間もなく空にからりと鳴る音がしたのは、陣十郎の投げた縄梯子《なわばしご》の一端が櫓の屋根にからんだのだった。
陣十郎は、縄をたぐってその抵抗を試みていたが、
(よし!)と見てか、足をかけて、するすると、のぼる。見るまに曲輪囲《くるわがこ》いの屋根の上に出て、下の隼人を見おろしながら、「続け」と、差しまねく。
隼人も、直ぐと、陣十郎にならった。
梯子は宙に、あやしくゆれた……だが、隼人は、自分の身体に一種の魔力が溢れているように感じられる。不思議と自分のしていることに信仰を持っていられるのだ。
一段を踏む毎に、背後に、星を鏤《ちりば》めた空が広くなっているような気がした。空気に汐がにおっている。夜の平地を熊見川《くまみがわ》の水がうねりながら流れて行くのが見える。陣十郎は、たくましい腕をのばして、隼人を扶《たす》け上げた。
本丸が直ぐ目の前に見えた。
「降りよう」
身軽く、内側へ降りた。
二人は暫く、物蔭にひそんで様子をうかがっていた。
城内も深夜の寂寞が領している。風もなく、松もひっそりと枝を鳴らさない、星ばかりが白く、まばたいているのである。
ぽつりと、陣十郎がいった。
「どうも、あの女のことが気にかかる」
ずっと無言でいるあいだ中、そのことを考えていたのだろうか?
「どう?」
隼人は疑った。
陣十郎は、やや不機嫌な様子で、
「どう……ってこともないが、ただ、漫然とだね」
「不思議ですね。あなたらしくもない」
「そうだ」と、断言的口調でいってから、
「いや、思い過ごしだろう。行こう」
二人は、這《は》うようにして歩き出した。
間もなく広場を横ぎって、本丸をめぐる濠の縁へ出た。刎橋《はねばし》があるが、おろしてあって、突き当りに厳重な鉄門があった。天守台はその右手にそびえて、静かな白堊《はくあ》の影を、暗い濠の水に映している。
突如、二人は、はッと身をすくめるようにして地に伏した。
これは鼕々《とうとう》と、時刻を告げる太鼓《たいこ》の音であった。
「ふふ……」と、陣十郎が、地面から顔をもたげて、笑う。
「いや……度胸のない話だ。本丸へ渡ろう!」
本丸へ?
不敵なことである。
濠について仕切門の方角へひそかに歩き出したが、太鼓櫓《たいこやぐら》の太鼓が鳴りやんでから、夜は、ひときわふけたように思われた。石、水、壁……静けさは、身に沁みるようで、どこかその辺に警固の侍達がいるようにも思われない。一段と石崖が高い本丸は、呼べば反応《こだま》をはじき返しそうに儼然と威圧的に見える。
噎《す》えたような馬糧の臭気が夜気に漂っている。木の床を蹴る馬の蹄《ひづめ》の音が、近くにある建物が厩舎《うまや》だと知らせた。馬場もある。それらのものを隼人が見ている間もずっと、本丸の方を睨《にら》んでいた陣十郎が急に立ち止ったので、隼人が顔を見ると、難しい顔色で首をひねっているのだった。
何かいい出すだろうと思って待っていたが、陣十郎は唇を一文字に結んだまま無言でいる。仕事がかなり難しいと睨んだらしいのである。
隼人も濠の向側を見た。
丁度二人が隠れている前面に、天守台が来ていた。その部分の石崖の上には松が繁っているだけで狭間がない。陣十郎がここで立ち止ったのは、乗り越えるのが容易だと見たからに違いなかった。しかし、それならば、何故|躊躇《ちゆうちよ》しているのだろう? と怪しむ。
「駄目だ!」と、急に陣十郎が投げたような語気を漏《も》らした。
(何故!)と、隼人がきき返す間もなかった。その刹那に一本の箭《や》が鏃《やじり》に風を切って、二人の頭上に飛んで来ている。
二人が、鳥が飛び立つように走り出す姿勢を採る。その時、遥か濠を隔てた石崖の上から声を掛けたものがあった。
「その矢を、忘るな!」
二人は同時に振り返って、石崖の上にその声の主の黒い影を見た。言葉の意味は、逃げて行く手の地面に立っている矢を見た瞬間にわかっている。その矢には、夜目にも白く、蝶のように結びつけてある矢文らしいものが見付かったのだ。
何者? 何のために? 一時に脳裏に閃《ひらめ》いたこれらの疑問も今は顧みていられなかった。今まで深閑としていた天地の間に忽然と湧き上った多勢の人数の足音が二人の耳に入っている。陣十郎は狐につままれたような心持ながら、その矢を抜き取って走り出る。
突然に、それまで人間がいるとも思われなかった厩舎に、うわッと四、五人の男達の笑いが爆発した。
二人は夢中で、屋根へよじ登るなり、下に見える濠へ飛び込んだ。
と、見ると、厩舎の戸をあけ放して、若侍達が四人、笑いながらどっと走り出て、大筒《おおづつ》の狭間《はざま》へ飛びつくようにして下を覗き込んだ。
陣十郎と隼人も、今夢中で狐川を泳ぎわたっている。侍達は、またしても、どっと囃《はや》し立てた。
「だが、なかなかの、したたか者ではないか? これだけ高いところから飛び降りたのだ」と、一人がいえば、
「いや、もう命がけだ」と、別の男が、狭間から顔をはなさず嬉々として子供のように叫ぶ。
「どうした?」
別の一人が、一散に走り寄って来ながら遠くから叫んだ。これはこみ上げて来る笑いの波に苦しげに息をはずませている大石《おおいし》主税《ちから》だった。手には、半弓《はんきゆう》を握っていたのである。
主税は、三の丸にある父の屋敷へ戻ると、柴折戸《しおりど》をおして庭を横切った。家中寝しずまって後の庭には、微《かす》かな花のにおいが当世風にまるくたった袂《たもと》に絡《から》むばかりである。
「父上!」
主税は呼んだ。
若々しい声に、身内に溢れる満足が響いている。
縁に雨戸一枚をあけて内側のあかりを障子に滲《にじ》ませている所に父親内蔵助が姿を見せた。
「来たか?」
「まいりました二人……」
主税は明るく笑った。
「では、あの手紙はいつわりではなかったのだな。それで如何《いかが》致した」
「仰せどおりに、手紙を渡して、放して帰らせました。矢に結びまして……二人ともころがるように走って帰りました。余程驚いた様子に御座りまする」
「ふむ。怪我もさせなかったのだな」
「はい、こちらからは別に……仰せどおり、ただおどかしたばかりで御座います」
「そうか。よし、よし」
父親は満足らしく繰り返して頷きながら、座敷へ戻る。
主税がはいって行って見ると、今まで何か書き物をしていたらしく机の上に硯箱《すずりばこ》のふたがあいていて書きかけの紙を文鎮《ぶんちん》でおさえてある。内蔵助は、墨を立てて、静かにすりはじめた。その横顔を、まだ微笑があかるくしているのである。主税も、若々しい笑いをおさえて、すこしはなれて行儀《ぎようぎ》よく坐った。
「どんな風をしていた?」
「町人ていの者であったように聞きました。私は、遠くにおりましたので、はっきりと見ておりませぬ」
「それでよい。見る必要はない。うるさい奴等だ」
「父上さえお許し下さりましたならば、捕えて御覧に入れましたものを」
「いや、捕えたところで何の役に立つものでもない。蠅《はえ》のようなもので、棄てに行く苦労がふえるだけだ。逃げて行ったら、それでよいのだ。……あの手紙は持って帰ったのだな? むむ。……あれを見れば、二度と今夜のような乱暴は出来なくなるだろう。棄《す》てて置け。棄てて置け」
内蔵助は、こういってから、筆をとって何かさらさらと書きはじめた。
主税は、書き物の邪魔にならないように口を噤《つぐ》んで控《ひか》えていたが、敵方上杉の間者《かんじや》と知って捕えようともしない父親の心持を、まだよくわからないでいるのだった。城下に上杉の間者がはいっている。忍《しの》びの術《じゆつ》にたけている者達のことであるから、あるいは城へ忍び入るかも知れぬと察せられる。御警戒になった方がいい……と、父親にあてて女の筆跡で知らせて来た者があったのだ。女は自分の名前の代りに、「名もなきお味方の一人より」と書いて来ていた。自分達に対する同情から、知らせてくれたものに違いなかったのである。
「父上……」
主税は、内蔵助が筆を置いたのを見てから、膝を進めた。
「あの手紙を、敵にお渡しになりましたために片方の人に迷惑となるようなことが御座りますまいか? 折角われわれの味方をして下さる方に……」
「味方? 味方はいらないさ」
内蔵助はむしろ不機嫌な調子で答えた。しかし顔をあげてわが子の方を見た時には、いつもの、ゆたかな感じのする微笑を口もとに匂わせている。
「ねむくはないのか?……この間から、すこし話したいと思っていたこともあるのだが……」
父親が話し出そうとしていることが、極めて重大なものだということが、主税に明瞭《はつき》りと感じられた。
「は……」と口の中で答えて、自然と体をかたくして父親を見る。
内蔵助は何か考え込んだような顔付で、机に左の肘《ひじ》を凭《もた》れ、指で、その角を軽く、ゆるやかにたたきながら暫く無言でいた。
内蔵助は、うっとりと夢のようなぼんやりした心持で、大きくなったものだな、こいつも……と考えているのだった。そこらを、あぶなッかしくよちよちと歩いていたのが、ついこの間内《あいだうち》のような気がするのである……
輝いた大きな目が、主税をやさしく見た。
「お前は、どう思う? これから、どうしたら一番いいのだと思う? おれの訊《き》きたいのはお前の考えだ。というのは他人《ひと》がどう考えていようが別として、お前だけの心持を聞いて置きたいと思うのだ。お前にも自分だけの思案があるだろう」
主税は無言でいた。ただ、薄く顔へのぼって来た血の色が、父親の目に映った。
内蔵助も暫く無言で返事を待っていた。
「主税は……何事も、父上次第で御座りまする」
「そりゃアいけない」と、やや烈しくいった。
「お前も、もう子供ではないのだから……一人前の思案があっていい筈だ。それをいったらよかろう。兄弟でも、十年、間がはなれていると大分違う。おれは、お前が必ず父親のように考えろとは決していわないつもりだ。遠慮は無用……というよりも、自分の考えをはっきりいえないのは、恥ずべきことだ」
いつか父親の目からいつくしみが消えて、火のように烈しい光りに代っているのが見えた。にわかに突き放されたような心持が、瞬間の混乱を招いた。主税は、父親の射すくめるように烈しい視線を真向《まつこう》に受けて、じっと持ちこたえていた。が、突然に、胸にむっくりとわき上って来たものがあって、それをいった。
「父上は、どう遊ばすお考えで御座りまするか?」
「おれか?」と、きッと見る。
主税の目に、父親を非難するような色が描かれていた。
(こいつも! こいつも、家中の者一般と同じく、おれが肚《はら》に成案なくいたずらに優柔にしていると思うてか!)
咄嗟《とつさ》に、内蔵助の胸に閃《ひらめ》いたものは、これであった。何かあって、胸の芯《しん》に、うごく。にわかに固くつかえたものが、熱しながら溶けて動きはじめたのだ。そいつが棒のように咽喉《のど》へ出て来る。
「馬鹿ッ!」
火花のようにほとばしった。
「貴様はどうする気だ! おれはそれを訊いている」
「私は……」と喘《あえ》ぎながら、眸はらんらんと輝いて、父親の目から離れなかった。膝に置いた腕がかすかにふるえた。
「私は、お上の御遺恨《ごいこん》を晴らしたく存じまする」
「…………」
一つの波がたって、内蔵助の胸を動かした。瞬間に眸の光は、硝子の柱が砕けたような混濁《こんだく》を示しながら、やがて、これまでよりも冷やかな刃の色にさえて、この若者の情熱を一蹴《いつしゆう》する気配を見せた。
「若い、お前達が、そんなことを考えるのかな?」
このあざけるような言葉を聞いた時、勃然《ぼつぜん》として憎悪の焔《ほのお》に近い光が主税の目に点じられたのだ。
(こいつが、こいつが……)
内蔵助は、主税を突き転ばしてこう叫びたい衝動を押し殺していた。水の中の気泡のように、つーッと鼻へあがって来ようとして動いている涙の一滴がある。辛くも、それを抑えて、睨《にら》みすえていたのだが……やっぱり自然と口もとにのぼる微笑を禁じ得なかったと見える。
「よせ!」と、意味を知らずにいった。
「そんな目をして親を睨む奴があるか?」
「…………」
「わかった」と、力を籠《こ》めていった。
主税の顔が急にくしゃくしゃになって、泣き出しそうに見えた。内蔵助は目をそらしている。笑っている。陽があたっている水のように明るく動く微笑の影が、肉の厚い頬にある。
「何もおれはお前をためすつもりで、こんなことをいったのではない」と、やさしくいった。
「ただおれには、お前との齢の隔《へだ》たりから来る不安があった。おれがお前ぐらいだった頃の時世と今とは、まるで違っているのだから……おれがいいと信じていることをそのままお前に押し付けていいものかどうか疑わしく思ったのだ。……そうか、お前も、そう考えるのか?」
主税がかつてこの父親に期待したことがなかったまでの、沁々《しみじみ》したものが、この時の内蔵助の語調ににじんでいた。何かの目的に向って動き出すと、大きな鉄の車輪のように緩慢《かんまん》ながら確実な歩みを進める、わが父ながら偉大な父親であった、いつに似ぬこの語調が不覚に主税の胸をうるませた。
内蔵助は、続けていった。
「おれは嬉しい。これがお前のためになることかどうかは知らないが、お前の中に、やはりおれが住んでいたのだな」
「…………」
「ただ一つ、お前のことだけがおれの心配になっていたのだ。これでよい、これでよい……父の存じ寄りはやがて話すであろう。多分お前らの信頼に背《そむ》く父親ではなかろうと思う」と、笑った。
「寝ろ!」
主税は静かに礼をして立ち上ったが、障子をあけて外へ出ようとして、また呼び止められている。
「身長《たけ》はどのくらいある?」
父親は立っている自分を眺めていたのだ。主税は顔を赧《あか》らめて、五尺七寸あると答えた。
「七寸!」と、目をまるくした。
「大きくなったものだな。おれなどとは比べ物にならぬ。誰に似たのか?」と笑いながらいってから、行けというように目でいった。
廊下を足音が遠ざかって行く。
内蔵助は、暗くなった燈心《とうしん》をかき立てようとして行燈《あんどん》に顔を近寄せた。春である。若い蛙《かわず》が、ころころと、のどかな声で啼いているのがきこえていた。
陣十郎と隼人は敗北を認めて、ずっと城下から離れた田舎《いなか》へ逃げ込んだ。二人のためには極端に憂鬱な日が幾日か続いた。顔をあわせていても滅多に笑顔を見せることがない。目玉の金助も、江戸の千坂兵部へ送る報告の書きようがなくて弱っていた。しかし、この雌伏《しふく》の幾日かの間に陣十郎の不撓《ふとう》の意思が呼びさまされて来た様子である。
「お前さん、あの女を消してくださらないか?」
隼人は、突然にこういう相談を受けた。
金助が城下へ行って探って来たことによれば、女はこの危険を感じていないらしく、まだ椎《しい》の木の宿屋に滞在していた例の浪士達を通じて藩内の過激派の人達としきりと交通している模様だ。目的が何にあるかは判明しないが、こちらに取っては脅威である。陣十郎はもっと早くこの覚悟をかためて然るべきだったのだ。
「よろしい」
隼人は、眉を動かしもせずにこう答えた。その夕方、街道の並木が墨の色に塗《ぬ》り潰《つぶ》される頃になって二人は連れ立って城下へ向った。
「私は城代の屋敷へ忍び込んで様子を見て来るつもりだ」
陣十郎は、別れしなに、こういって闇の中へ姿を消した。隼人はぶらぶらもとの宿屋の方へ歩いて行った。もう夜も更《ふ》けていたし界隈《かいわい》では戸をとざして、ひっそりしているのにも拘《かかわ》らず、この家ばかりは灯影《ほかげ》を往来に寝かせて、内がざわざわしていた。上りはなの土間に男の下駄や草履が沢山ぬいである。勝手の方をのぞいて見ると男や女達がいそがしそうに働いている。評判のような女のところへ客が集まっているものに違いなかった。
これでは仕方がない。隼人は、その前を通り過ぎてあてもなく歩いて時刻の移るのを待つことにした。
城の方へも行って見た。城下の辻から辻を一々歩いて見た。時刻を計って引き返して見ると、客達はもう帰って、番頭が大戸を下しているところだ。台所の方でざーッと水を流す音がしている。
通りを隔《へだ》てた路地のやみに姿をひそめて間もなく、漸く物音も寂《せき》ばくとした夜に吸い込まれていって、段々と寝しずまった様子。そっと近寄って、戸のすき間から中をのぞいて見た。
帳場の行燈が一つともっていて、その脇に顔見知りの肥《ふと》った番頭がひとり起きて頻《しき》りにそろばんをはじいている。今夜の勘定であろう。
ふと、隼人は思いついたことがあって、わざと声をかけて、戸を叩きながら、呶鳴った。
「今晩は、今晩は?」
番頭が目をきらりと光らせて、怪訝《けげん》らしい顔をあげた。
「はい」
「水野からまいりましたが、主人はもう帰りまして御座いましょうか?」
「水野さん?……」と、首をかしげた。わかる筈はない。もとより出鱈目《でたらめ》の名前だった。
「今夜のお客様なら皆さんさきほどお帰りになりましたが……」
しめた!……聞きたいのはその事実だった。誰か泊ってはいまいかと思われたのだ。
「左様でございますか? そりゃアその辺で行き違ったものと見えます。どうも、おやかましゅう御座いました」
隼人は、その足で裏の方へ廻った。
庭の植込みの蔭に暫く隠れて家の中の様子を偵《さぐ》っていたが、いつか陣十郎が隠れたことのある椎の木にそっとよじのぼった。下の廊下は雨戸のしまりがあるが、二階は明け放しなので、枝から廂《ひさし》へ乗り移れば楽々と二階の廊下へ出られる……出がけに陣十郎はこう教えてくれていたのである。
いつか江戸で丸岡朴庵の妾宅へ忍び入った時の記憶が、なまめかしく隼人の頭にうかんだ。今夜は最初から血を見るつもりなのだが、かえってあの晩よりも心が落ち着いているのがわかった。この一月ばかりの間に、わが心持ながら変って来たものだと思う。今夜の仕事などに不思議と熱中している自分を振り返ってそれがわかった。……自分一人としては別に恩怨《おんえん》のない冷淡にして置いてよい女だが、仕事の邪魔になるというだけで、その一命を絶つ理由が充分あるように信じられるのである。
見わたしたところどの部屋にも灯影は残っていない。外は星あかりを受けて、たてきった障子が闇にしろじろと浮いているだけだ。誰も昼間の疲れで、横になるなりねむりたかったのであろう。
にこりとして廂へ乗り移ろうとする。その時はじめて、いつもの覆面《ふくめん》に使う黒い布を忘れて来たことに気がついて、ちょっとちゅうちょを感じた……。ふと思いついて、手近い椎《しい》の小枝の、葉も暗く夜露に重くしっとりとしているのを、音をさせぬように折り取る。そのまま口にくわえれば、まず顔の半分は隠れた。
(よし……)と笑った顔は葉蔭の闇にものすごい。ひらりと枝をはなれて、廂に移った。
それから忍び足、女の部屋の障子にすり寄って、そっと内の気配に耳をすます。と、ぎょッとしたのは、障子のすき間からもれて流れる薄い煙草のにおいだ。
(起きているな……)
その場へ釘づけにされたように立ち止まる。途端《とたん》だった。障子の内で、ぽんと、音高く吐月峰《はいふき》を打って、女の声で、
「誰だい?」と低くいう。
「…………」
椎の小枝を口にくわえているせいばかりでなく、これは、返事が出来なかった。……が、代りに下から突き上げられたような衝動的な動作で、がらりと障子をあけてしゃにむにおどり入る。
「あ!」と、叫ぶ女の声がたより、水をかくような一太刀をおろしたが空を斬った。暗い中に、かいまきがなまぬるい風をあおって飛ぶ。女は廊下へばたばたと駈け出している。
何か叫んだようであるが、意味は聞き取れず夢中に続く。
逃げながら女は気丈に振り返って匕首《あいくち》か何か投げた。おもてを振ってよければ、耳をかすめて廊下に落ちる。その間に、再び二人の間隔が分れたのを隼人が猛然と追いすがろうとした時に、騒ぎを聞いたらしく近くの障子をあけて駈け出して来た男が急に間を隔てた。
隼人は白刃で威嚇《いかく》したが、向うも臆せず、さげている刀を抜いて迎える。邪魔なッと、動こうとする相手へ目にもとまらぬ一太刀《ひとたち》を送ってばっさりと欄干《らんかん》越しに斬って落した。
だが、この間に女ははしごを駈けおりて逃れているし、今は家中が起きて口々に騒ぎ立てているのだった。
隼人は梯子段の降り口まで走って行って見た。しかし階下で人々が狼狽《ろうばい》しながら点《つ》けようとしている灯影の明滅を見たばかりで、女はどこへ隠れたのかわからない。
思わず切歯《せつし》して、くわえていた椎の小枝をかんだ。
猶予《ゆうよ》はならない。血刀をさげたまま、傍の部屋に入って窓から屋根へ抜ける。その時、人が、どたどたと駈けて来る音がして、
「どこだ、どこだ?」と呶鳴っているのが聞えた。
隼人は下へ飛び降りて、一散に駈け出した。暫く行ってから振り返って見たが誰も後を追って来る様子がない。
はじめて、小枝を口から離して無意識にこれを踏みにじった。
残念である。だが仕様がないと諦《あきら》めて、帰ることにした。家へ着いたのは、夜が次第にあおざめてやがて空が明るくなろうとする時刻である。蜘蛛の陣十郎はまだ帰っていず、留守番の金助が、寝相《ねぞう》わるくふとんから乗り出して、なぐろうが蹴ろうが醒めそうもないような深い熟睡《じゆくすい》を貪《むさぼ》っているのだった。
このまま、眠れそうもない。陣十郎の帰りの遅いのも気がかりである。あの男だからまさかと思うが、今夜に限らず、ずっと仕事に妙にけちが付いているから、何事かあったのではなかろうかと不安に思われた。隼人は、冷や酒を飲みながら、待っていることにした。
間もなく夜があけた。
炉端《ろばた》から見える山の若葉を朝日が燃えたたせる。雀が、やかましく啼《な》きはじめる。陣十郎はまだ帰って来ない。不安は、漸く募《つの》って来た。
隼人は金助をゆり起した。
「いい加減にしろ。もう日がかんかんあたっているのだぜ、それに、蜘蛛の親分がどうしたのか昨夜から帰って来ないのだ。飯を食ったら直ぐ城下へ行って様子を見て来てくれないか?」
「へえ……」
金助は、いそいで顔を洗いに井戸へ出て行った。しかし、その引っ返して来る前に、隼人はきたならしい乞食がきょろきょろしながら入って来るのを見た。
「こちらに……金さんて方がいらっしゃいましょうか?」
隼人は警戒しながら立って行って、
「うむ、いるよ。何か用か?」
「ゆうべ、こちらの旦那にこれをおとどけするようにたのまれましてね。持って参じました」といいながら、手に握っていた手紙を渡しながら、
「駄賃はこちらでいただくようにというお話で御座いました」
陣十郎からの手紙だ。
「よし、よし」
隼人は、小粒《こつぶ》を一つやって、喜んでいる乞食を帰してから、いそいで、手紙をひろげて見た。
今夜はしくじりましたね、世間の騒ぎで聞きました、致し方ないことだが、これでいよいよ仕事はむずかしくなるように思います。それについて、私は今夜からこの家の床下《ゆかした》に住むことにします。ついては食物を毎夜九つを廻った頃に届《とど》けて頂きたい。その場所は大手《おおて》の枡形《ますがた》東側三つ目の狭間《はざま》ときめて置きましょう。それから出来ることなら貴方は人足《にんそく》になって城内へ入るようにしては如何《いかが》。委細《いさい》は明夜でも狭間でお目にかかって話します。都合悪く私の出られぬ時は、弁当は投げ込んで下さればよろしい。私の身についての御心配は無用。
こう書いてあるのだ。いつものことだが、この男の手廻しがいいことには驚かされた。
籠城と殉死
目付《めつけ》荒木十左衛門、榊原采女《さかきばらうねめ》にあてた内蔵助の哀願書を江戸へもたらしたのは、多川九左衛門、月岡|治《じ》右衛門《えもん》の両人であった。荒木十左衛門と榊原采女は、この度の城地受取りの御目付を仰せつけられ間もなく江戸を出立しようとしているのである。多川も月岡も、両目付の出立前に江戸へ着いて内蔵助の嘆願書を差し出さなければならなかった。
二人は、四月四日に江戸へ着いて、二日違いの一昨日榊原、荒木の両目付が赤穂へ発向《はつこう》したのを知った。二人が狼狽したのも無理はなかった。藩全体の人々から託せられて来た大切な使命が、二日違いで手遅れになったのである。
「どうしたものであろう?」
「どうも弱ったな。二十九日に赤穂を出て五日目の今日江戸へ着いたのだから……我々とて出来るだけのことをしたわけだ。しかし……どうも困ったことになった」
城代の大石内蔵助が大学様お取立てのことは難かしかろうといっていたことまでが思い出された。然しながら、溺《おぼ》れた子供は藁《わら》にでもすがろうとするのである。藩士達も今度の嘆願の効果を危ぶみながらその万一に熱心な期待を持っていることは動かすことの出来ない事実である。それを考えると二人は悄然《しようぜん》とせずにはいられなかった。
「何とか、いい才覚《さいかく》はないか?」
月岡は気の弱い調子でいった。
「こちらの御家老達に相談して、指図《さしず》を仰ぐよりほかはないだろう」
「しかし、われわれ出立の折に御城代は、この願書をその筋《すじ》に差し出す前に、江戸家老安井、藤井|御両所《ごりようしよ》に会って話さぬ方がよかろうと仰せられたのだ」
成程、城代が、特にその点を入念に自分達に諭《さと》していた記憶がある。多川も無言になれば月岡も腕を拱《こまね》いて黙然と考え込むばかりだった。
暫くして、月岡は、その腕を解《と》いて熱心にいい出した。
「だが、兎《と》に角《かく》、非常の時のことだし、われわれとしては、こちらの御家老から指図を受けるよりほかはなかろうではないか?」
「どうも、そんな気がするな」
二人は、直ぐと、江戸家老の安井彦右衛門、藤井又左衛門の二人を訪ねて、万事を打ち明けた。
二人の家老は、驚いた様子だった。
「その願書の副本《ふくほん》をお持ちだろうな」
月岡と多川は、すぐと、それを出して、この家老達に見せた。願書の内容は安井、藤井の両人が驚愕《きようがく》すべき性質のものを言葉の裏に潜《ひそ》めていた。
左に掲《かか》げる数行がその主眼である。
……相手上野介様御|卒去《そつきよ》の上、内匠頭《たくみのかみ》切腹仰せ付けられ候儀《そうろうぎ》と存じ奉り罷《まか》り在《あ》り候ところ、追っての御沙汰|承《うけたまわ》り候えば上野介様御卒去これなき段承知仕り候。家中の侍共は無骨の者どもひと筋に主人一人を存じ御法式の儀も存ぜず、相手方|御恙《おんつつが》なき段これを承り、城地離散候儀を嘆き申し候。年寄りども頭だち候者ども末々まで教訓仕り候ても無骨の者ども安心仕らず候。この上年寄り共|了簡《りようけん》を以て宥《なだ》め申し難く候間、憚《はばか》りを顧みず申し上候儀上野介様へ御仕置願い奉ると申す儀にて御座なく候。御両所様の御働きを以て家中|納得《なつとく》仕るべき筋御立てくだされ候わば有難く存じ奉るべく候。当表《とうおもて》へ御上着の上、言上仕り候ては城お受け取りなされ候|滞《とどこ》おりにも罷《まか》り成り候こと如何と存じ候ゆえただ言上仕り候。以上
日付は三月二十九日、宛名は「荒木十左衛門様、榊原采女様」両人の目付である。ずっと読みくだしながら、藤井も安井も顔色をかえて、
「とんでもない!」と思わず叫んでいた。
御両所様の御働きを以て、家中納得つかまつるべき筋御立てくだされ候わば……
「家中納得つかまつるべき筋御立て……」
藤井は繰り返して読んだ。
その家中なるものが……偏談頑愚《へんだんがんぐ》、ただひと筋に主人のことばかり考えている人達ばかりで、順逆の分を諭《さと》しても、これによって一同の意見を変えさせるのは難しい……という。そこで、御両所の御働きを以て一同が得心出来るようにして頂きたい……
「こ、こりゃア!」
安井彦右衛門は、驚きのあまり吃《ども》りながら叫んだ。
「……嘆願ではない脅迫じゃ。これをその筋へ差し出すなどとは滅相もない」
「そうじゃとも、そうじゃとも、御公儀の御威光を恐れざる致し方だ」と、藤井もこれに和した。
家中納得つかまつるべき筋……云々《うんぬん》に、昼行燈《ひるあんどん》の面目が躍如《やくじよ》として見えている。この二人の江戸家老達の頭には、大石内蔵助の茫漠として底の知れない風格が、真昼に夢見ている象のように間の抜けたものに浮き上って見えて、とんでもないことだと思いながら、どこか失笑を禁じ得ないような心持が残っている。(世間知らずの田舎漢《いなかもの》が!)と、軽蔑した心持さえ加わるのであった。
「お目付方が二日前に出立なされて反って幸いだったのだ。盲《めくら》、蛇《へび》におじずとはこのことであろう。いや、あぶないところであった」
「…………」
月岡も、多川も、それでも、まだ不安な心持でいた。二人の江戸家老の話を聞いて、それもそうだと思いながら、出立前に聞いた内蔵助の言葉も気懸《きがか》りになっていた。「家中納得仕るべき筋」云々に、反ってあの人物の雄大な気宇《きう》と測り知れぬ計画が籠《こも》っているように思われるのである。お上に悪意があったと極言さえした城代であった。
安井と藤井の方でも二人の沈黙を見ている内に、また新しく心配になって来た。
「すると国表《くにおもて》は、……噂のとおり籠城するような話が出ているのだろうか? どうもこの文言ではそうとしか思われないが……」と、安井から不安そうに尋ねる。
月岡と多川は恐る恐る仰せのとおりだと答えて、再び、二人を愕然とさせて、暫く言葉をなくさせた。
「いや、とんでもない。左様なことにでもなれば、大学様始めわれわれに至るまで、如何《どん》な災難にかかろうやも知れぬ」
家老達は、まったく狼狽して立ち上った。すぐと御親戚の戸田|采女正《うねめのしよう》と内匠頭《たくみのかみ》の実弟大学のもとへ、このことを知らせる。果して両家ともに驚いて醜いくらいに狼狽した。
翌五日の早朝に、月岡と多川は戸田家の要職中川甚五兵衛の宅へ呼び出されて、甚五兵衛と、近習番高岡代右衛門の両人から改めて、今度の出府について調べられた。
「それは、内匠頭様の忠節も水の泡となるばかりか、大学様はじめ御一門中の御難儀となること眼前ではないか? 内蔵助等家中一同の致すことは忠義のように見えて、実は不忠至極のことだ!」
甚五兵衛と代右衛門は、こう叱咤《しつた》して、かわるがわるただただお上の御趣意に従いこの際|妄動《もうどう》することはないように諭《さと》すばかりであった。
お上御親類として恃《たの》みにして来た戸田采女正の意見が開城にあると同時に、お上の御実弟大学殿からも一日も早く開城いたせとお言葉があった。江戸の、しかも主筋にある人々を支配していた空気は、まったく意外のもので、二人をいうばかりなく狼狽させるばかりだった。
倉皇《そうこう》として二人は、再び五十三次を駈け戻ることになった。大切な嘆願の使命を果さなかったばかりではない、家中にあてて戸田采女正の開城諭告《かいじようゆこく》の書簡と同じ趣旨の大学殿のお言葉をもって帰るのである。来る時の意気込みと代って、暗澹《あんたん》たるものが胸にあった。
隼人は、次の日真夜中九つに、食糧を包んで約束の場所へ行った。間もなく陣十郎が出て来て、元気のいい顔を見せた。
「こちらへ……」と、連れ込んだのは、納屋《なや》か何か大きな建物の蔭で、地面に苔《こけ》などはえてじめじめしたところだった。
陣十郎は、隼人が渡した握り飯をむさぼるように食べながら、至極元気で、仕事に自信を持っているらしかった。
「今度は大丈夫だよ。まさか、私のような人間が城代の邸《やしき》の床下に住んでいるとは思うまい。犬が一匹いるが暢気《のんき》な奴で、すぐ友達となることが出来た。手撫《てな》ずけ方など、我ながらうまいものだね。昨夜から一緒に寝ているのさ」という。
「何か耳寄《みみよ》りの話でも聞きましたか?」と、隼人が訪ねると、
「いや、まだまだ。別に客も来なければ密談らしいものをしている様子も聞かない。しかし、何しろ、たった一晩だけのことだからね。これからだよ。口幅《くちはば》ったいようだが、私の鼻はすこし先のことならたいていは嗅ぎ分けられる。それによれば、こうしていれば遠からず大きな獲物《えもの》がありそうなのだ。つまり、もう匂いがしているというわけさ」
隼人がいつも不思議に思っていることだが、この男は妙に迷信深くて、問題にならないようなくだらない事に気持を支配されるのだった。たとえば、仕事の出掛けに女にあうと今日は駄目だといって引き返すようなことが多い。しかし逆に今度はいいと思うような事にぶつかると、実に自信が強くって平素の二倍も三倍も度胸がついて、失敗するようなことは決してない。陣十郎は今その充分な確信を持っているようである。隼人もこの様子を見て愉快になった。
「だがね、あの女のことだ。いや、お前さんのしくじったのは仕方ないとして、私がここにいることだけは知られたくない。なアにこうして弁当を持って来てもらうところだけ見付からなけりゃア心配はないのだから、そのところを間違いのないようにしておくんなさりゃアいい。それだけだ。……こっちの方はどうも籠城ときまったのじゃないかと思う。今日の昼も頻《しき》りに人夫を使って兵粮《ひようろう》を動かしていた。それから古い書類を集めて焼いていた模様だ。お前さんが人夫に化けて城の中へ入って下さると都合がいいンだが……」
「早速そうするように致しましょう」
「なアに、誰か人夫に酒でも飲ませて旅の者だが働きたいのだといえば、うまく世話してくれますよ。あの連中は金や位《くらい》のある人達と違って、まことに親身に親切にしてくれるからね」
永く話していられなかった。隼人は、すぐと引き返して濠《ほり》を渡った。
真夜中のことである。雨もよいの空は暗いし、無論人の影はない。隼人はこちらの岸に隠して置いた合羽《かつぱ》を着、提灯《ちようちん》に火を点けて、すたすた歩き出した。
しかし、誰あろう、例の女が、濠に沿った土塀《どべい》の蔭に立っていて、皮肉な目つきでこの様子をじっと眺めているのだった。
隼人のさげた提灯が遠くの闇に消えてしまうと女は歩き出している。どこと、別に行く先をきめていない様子で、この、風もない温柔な春の夜のなまめかしさにそこらの庭の花が浮かれ出たとしか思われぬ艶《えん》な姿であった。
女の周囲には、いろいろの人間が集まっていた。最初からの因縁《いんねん》ある井関紋右衛門、中村弥太之丞のほかに、他藩の浪人者で、何か事の起るのを待っているような連中が、出入りして、しきりと慷慨悲憤《こうがいひふん》していた。
女は、「そんなことは妾ども女の存じたことじゃ御座いませんわ」という態度で、まったく無関係のように見せている。しかし、事実はいつの間にかこの一味の隠密《おんみつ》の指揮者になっていたのだから恐ろしい。
隼人に斬り込まれて後も、女はこの城下から立ち去ろうとしなかった。といって、過激浪士の中から護衛を志願して出たものがあったのを辞退もしていない。また、これがために宿屋の支払いがふえたことなど無論苦にしていない。そればかりでなく、一味の集会がある時など自分は出席しなくても、酒食の代金などは全部女のふところから出ているのだった。金は無限に自由になったらしい。ふところがさみしくなると江戸から飛脚《ひきやく》で取り寄せるのである。浪士達には、いつの間にか、なくてはならない保護者になっていた。
浪士達は、藩論を刺戟して、籠城を決行させるのを自分達の使命と信じていた。城代大石内蔵助以下、藩の重役を怒っている者が城内にも尠《すくな》くない。これらの不平の徒に、この過激論は次第に勢力を占めて行くし、城下に入っている諸々の間諜《かんちよう》等には、この一味は恐るべき脅威となっている。その内、藩の者で続々と江戸を引き上げて帰って来る者がある。この人々は、江戸表の事件に立ち会っていたことで、なまなましい憎悪の悲憤をもたらして来ていた。
事件の模様が、興奮した口調で語られる。上野介が如何に貪欲《どんよく》で横暴であったか? また主君がいかに御隠忍遊ばされたか? 御公儀の御仕置きがどれほど無道で公平を欠いていたか? 人々は、飽くことなく同じ話に耳を傾け、その度毎に切歯扼腕《せつしやくわん》した。話は、人の口から口へ語りつがれる間に幾分の誇張を免《まぬが》れることは出来ない。波紋は、ひろがるにつれて、人々の理性を溺《おぼ》らせ激昂《げつこう》の火を招いて行くのである。
「棄てて置け。棄てて置け」
内蔵助は、親近の者がこの過激浪士達の策動を伝えた時に、ただこういったと伝えられた。
内蔵助の一存は、殉死にあるらしい。殉死するくらいなら、何故城を枕に討ち死の覚悟になれないのか? 人々の不平はこの点にあった。
三月の末になって、再び内蔵助が家中の者を召集した。前の殉死の決議に続いて、再び人々の覚悟を求めるためであると伝えられる。
籠城をすることなら進んでしようが、殉死では……という者が多い。会議に出席した者は五十余人の小人数であった。前回の三百人に比べて、ひどい減り方である。出席して来た者も、意外に思ったものが多いらしい。さびしい空気がはじめから一同の肩にかぶさって感じられていた。
この小人数になったことを内蔵助は別に怪しむ様子もなかった。人数はすくないが、この人々こそは、死につくのに帰するが如き平常の心を以てすることが出来る沈勇の人々であった。内蔵助の今度の計画には、それだけの恒心《こうしん》を入用としていた。その実現はいつの時になるかわかったものではなく、困難に堪えて最後まで団結を保って行くためには、暴虎馮河《ぼうこひようが》の勇、熱しやすき頭脳は、かえって障碍《しようがい》になるのだった。その意味から冷静沈着の人五十人を得たことは決してすくない人数ではなかった。
「これだけの方々が、殉死に御同心くださるのか?」
内蔵助は、こういいながら一座を見廻して、かねてからこの人と思った者達の顔を多く見出して、この上なく悦こばしく思った。小山(源五右衛門)がいる。間瀬(久太夫)がいる。岡野(金右衛門)近松(勘六)がいる。その大部分が大身よりも小身の者に多いのは涙ぐましく感じられたことだった。
「籠城を唱えられる向が多いようだが、一城を以て天下の大兵に当ろうとするのは、まことに竜車《りゆうしや》にむかう蟷螂《とうろう》の斧《おの》。所詮《しよせん》は、よく防ぎ得たりとするも一日二日を争うのみ、徒らに笑いを天下後世に貽《のこ》し城下民百姓の迷惑となることはかえって亡君の御遺志に背き奉《たてまつ》るもののように思われます。内蔵助が存じ寄りは、お上御忠節に殉《なら》い御上使を待ってわれ等が微衷《びちゆう》を訴え、然る後に城中に自殺して泉下《せんげ》の君に御供仕りたいと思うのだが……各々の御所存は?」
人々が粛然《しゆくぜん》として頷くのが見えた。
「然らば御誓約くださるか?」
内蔵助は、重ねて、こういった。
再び人々は頷きながら、誓約に異議なしといった。ただ二人、先頃江戸から馳《は》せ帰って来た片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門の両人は、何ゆえか難しい顔色をして控えたまま無言でいるのだった。
内蔵助は、懐中《かいちゆう》から誓書を出して、まず自らこれに署名血判して、次席にいた奥野将監《おくのしようげん》に廻した。将監もこれにならって、河村伝兵衛に渡す。河村以下またこれにならって、誓書は片岡源五右衛門の前に廻って来た。
源五右衛門は誓書をちらと見ただけで、直ぐとこれを次の者に廻した。
「あいや」と大高源吾《おおたかげんご》が叫んだ。
「片岡氏は?」
「拙者《せつしや》はこの連判《れんぱん》には加わりませぬ」
きっぱりとしすぎた返事だった。
人々は眉をひそめた。
源五右衛門は、わざわざ江戸から馳せ戻って、この会議に出席したのだし、また、その忠誠は平素から人が畏敬《いけい》していたところだったので、人々はこの態度を怪しんだ。
源五右衛門は、相変らず難しい顔付をしていて、なぜ連判を拒《こば》んだか説明をしようともしなかった。そこへ、磯貝十郎左衛門が、
「拙者も遠慮申す」といった。が、多分片岡より角《かど》のない性格が然らしめたのであろう。十郎左衛門は、その理由をこう説明した。
「片岡と拙者は、先君|御生害《ごしようがい》の折|泉岳寺《せんがくじ》へお供仕り、御霊前において泉下の御恨みを必ず霽《はら》し奉ろうとかたく約束いたしました。当表《とうおもて》へ馳せ戻りしも、まったく各々様もこの御志と思い、ともどもに本望を遂げようと存ぜしため。然るに只今承るところによれば御殉死と御決定の様子であるが、これはわれ等の存じ寄りとはまったく違うことなれば、今日の連判は仕《つかまつ》りませぬ。各々様は各々様、われ等はわれ等。片岡、どうだ、失礼しよう」
「うむ」
源五右衛門も頷いただけで、立ち上っている。
人々は内蔵助が何かいい出すだろうと思って、内蔵助の方を見た。しかし、内蔵助は二人が出て行くのを平気でいて、台所方の小役人を招いて食事の支度を吩《い》いつけているのだった。
片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門の二人が席をたって去ってから間もなく血判が終った。内蔵助はこれを手に取って低音のはっきりした声で読みあげた。人々は自分の名を呼ばれた時、わずかに点頭《てんとう》して、これに答えるのみである。四方をたてきって、なおがらんとした大広間の空気は荘厳《そうごん》で沈痛であった。これだけの人々が甘んじて死につこうというのである。誰も、自らこの途をえらんだという自覚に沈んだ誇りを感じて従容《しようよう》としていた。
六十一人……すくなくはない。
内蔵助は、風のない日の明るい水のそよぎに似た快心の微笑を胸に感じていた。が、道は遠いのである。この瞬間における六十一人各自の誠意は疑う余地はないまでも、これと、この厳粛な覚悟を最後まで持って行くこととの間には大きな隔たりのあることを考えなくてはならない。誰が「明日」というものを信じられようか? 内蔵助は自分の前に横たわっているこの大敵の力量を知っていた。その傍《かたわら》に立っては御公儀の権勢《けんせい》と雖《いえど》も物の数ならぬ恐るべき敵、「時間」である。これこそ、如何なる堅固《けんご》な人の心にも知らぬ間に牙を入れて、すこしずつ、恰《あたか》も湿気が石を腐蝕《ふしよく》し風化させるように、崩して行く、まことに恐るべき敵ではなかったろうか?
この六十一人の内の幾人が、よくこの敵と闘い得て、最後まで今の感激を保つことが出来るか? この感激を冷厳なる意志とかえて時間が加える凌辱《りようじよく》と闘うのである。これはむずかしい戦だ。ましてや内蔵助が計画しているところは、滔々《とうとう》として世をおおうて行く時世の流れに刃向うことにある。時世は移って行くのである。これは、手近く、一般の武士の風俗が日一日と変って行くのを見ても、自《おのず》からわかることだった。武士らしい武士は、次第に棲《す》みにくくなり、昔華やかだった素朴な武士道は漸《ようや》く田舎《いなか》に追い込められて来て、代りに形式の武士道が虚礼に扮飾《ふんしよく》せられて中央を支配するに至っている。心より形である。現に今世にときめく柳沢美濃守《やなぎさわみののかみ》は、この新しい武士道の先達。この元禄《げんろく》という時代が自然と咲かせた華奢な花なのではないか? 内蔵助はこれを知らないのではない。むしろ、この推移のやむを得ざるを充分に認めていたのである。今度の計画について、年齢の隔《へだ》たりあるわが子の主税《ちから》に第一の不安を感じたわけもそれである。年少の主税に、この新しい時代の芽を期待したのは、内蔵助としては当然に考えられることであった。
意外にも、主税は内蔵助のこの不安を一掃してくれた。内蔵助は今は充分の自信を以てこの計画の進行に当ろうとしている。時流との闘いである。いわば、ものの総てを押し流そうとする川の中へ、一つの殿堂《でんどう》を築こうとする努力にひとしい。今は、時世によって亡ぼされようとしている一つの信仰の最後の支持者として、水の上にいしずえを置き、柱を建て、人間に許される限りの永遠の記念を残そうと思うのである。
激しい流れは、六十一人の大工をすきさえあれば押し流して水に溺れさせようとするであろう。この建築は完成出来るかどうか? それはわからない、また後の世間が、この河心《かしん》にあらわれた奇異な殿堂をどんな目で迎えるか? それも問うところではない。この勇敢な棟梁《とうりよう》は、自分達の仕事として、それをやって見たいと思うのである。自分達の墓碑《ぼひ》として、また亡びようとしている素朴な精神の「武士道」の記念碑として。
この難工事にあたろうとする大工が、ここに六十一人出来た。内蔵助は、自分の計画を話してよい時だと思った。
六十一人の人々は、城代が連判状《れんぱんじよう》を片寄せ静かに一座を見廻して、何かいい出そうとしているのを迎えた。
「各々の御心中、これにてはっきりとわかりました。ついては、ここに改めて内々御相談致したきは……」と、じろりと一座を見渡した。烱々《けいけい》たる眼の光りである。
「先君の仇《あだ》、上野介殿《こうずけのすけどの》の儀じゃ」
はッとして一座が動く。
底力のある内蔵助の声がこれにかぶさるように続いた。
「主君の今日あるも上野介殿あるがため、御家の今日あるも上野介殿のため……君地下の御無念は申すまでもなし、上野介殿こそ正しくわれ等が不倶戴天《ふぐたいてん》の讐《かたき》じゃ。われ等ここに先君の御後を慕《した》い死を誓いたるもの、むなしく死せんよりは君の仇上野介殿の御《おん》首級《しるし》をいただき、泉下《せんげ》の御恨みを霽《はら》し奉《たてまつ》って後《のち》に死ぬるが臣下の道に適《かな》っているように考えられるが、各々の御意見は如何《いかが》か?」
ぴたりと、水を打ったように静かであった座が、内蔵助の言葉が終るとともに騒然と動いている。歓喜の波が湧き上ったのである。それまでひたすらに冷静厳粛に見えた人々のおもてに快心の微笑がかがやく、抑《おさ》えていた息が漏《も》れる。誰もそれを考えていたのだが……孤立しては不可能なことと諦めて、むしろ武士としての訓練と節度に従って友人と心をあわせ城中に死することを求めていたのである。かれ等の城代がその意見であったならば? またここにいる友人達がその覚悟でお互いが手をとり合って一団となって進むことが出来るならば? 人々は雀躍《こおどり》したような心持で、もとより異議なしと口々に叫んで、輝いた目を見合せるのであった。
と、座中の老人|原惣《はらそう》右衛門《えもん》が膝を進めた。
「拙者《せつしや》とても、もとより異議のある筈はないが、復讐のことは元来困難であるのみか、殊にこの多勢を以てこれを行おうとすれば、いつ謀《はかりごと》が漏れぬものとも限らぬように思われる。また上野介殿は御承知のとおり高齢のことにあれば、われ等が志を遂《と》げる前に失《う》せられぬとも限らぬ。覚悟はよいとして、万一そのことがあってわれ等の望みも水泡に帰してはかえって世のもの笑いとなるように思う。それよりもむしろ最初どおり殉死した方がよろしくはありませぬか?」
これは老人らしい、もっともな意見であった。
仇、上野介が事前に死ぬる……これは内蔵助も最初から考えて、今もなお不安に思っている点であった。
しかし、内蔵助は明快に答えた。同志が多勢であるから復讐が困難だというのは事実だが、これも不可能だというのではない。その困難は同志の覚悟一つで征服出来ることである。また仇は上野介一人に限ることはない。上野介が死んだら、その子を狙《ねら》おう……という意味だった。
今度は先刻殉死に反対して退席した片岡、磯貝の二人を何故とめなかったかと不審をもらした者がある。
内蔵助は、笑って、これに答えた。
「あの二人は、いつでも同志に加えることが出来る正直一途《しようじきいちず》の人々だし、二人が最初から復讐を唱《とな》えていることは世間でよく知っていることだ。そこで今日の決議を絶対の秘密に護るため当分われわれとあの二人とは別個の行動をとる方がよいように思われる。とにかく今日のことは、くれぐれも他人にさとられぬように他言は堅く無用である。世間ていは飽くまで殉死の決議として置かねばならぬ」
人々は、内蔵助の深謀に敬服して、改めて、機密を堅く守ることを誓約した。赤穂浪士が復讐の決意は初めてここにかためられたのである。
「とうとう殉死の決議をして連判までしたというぞ」
外から入って来た一人が、障子をあけるなり、立ったままでこういった。
内では、例の女を中心に、二人の髯武者《ひげむしや》が酒を飲みながら、何か話し込んでいたところである。これを聞くと、
「うーむ」とうなったが、
「ば、馬鹿なッ!」と一人が舌打ちした。
「五万石の家に骨のある人間がいないのか? なんたる態《ざま》だ」
「まあ、そういうな。われわれ三人だけの間だからいいが――この土地の人間が聞いたら、あまり面白くないだろう」と、別の一人が笑いながらなだめて、これも考え込んだように腕を組む。
三人の二人までが越後《えちご》の浪人、今入って来た男はもと久留米《くるめ》に仕えていたとか、これも浪人で、武士は相見互いとやら、赤穂に事ありと見て乗り込んで来た特志の人達であった。
「しかし、腰抜けには違いないぞ。こんなことと知ったらおれも来るのじゃなかった。駄目だなあ、泰平が続くと、人間がこうまで懦弱《だじやく》となるものか?」
「つまり、上の奴が悪いのだな」
久留米の浪人、原木重二郎は、投げたようにいって、片手をふところへ入れたまま、坐り込む。
もう大分、まわっていたらしい目もとを美しく桜色にしていた女は、自分の猪口《ちよく》を拾って杯洗《はいせん》の水にすすいでから、原木に渡した。
「失礼……ただ今、持ってまいらせますから……」
「いや、いつも御馳走になる」
「とんでも御座いませぬ」といってから、
「あの……皆さまが御殉死遊ばすというのは、たしかなお話でございましょうか?」
「会議に出た人間から聞いたのだから確かなものです」
「何とも残念至極なことだな」
越後の柏原《かしわばら》一平が、腕を扼《やく》した。
女はまだ信じられないような顔付でいたが、原木の視線を受けると、それを、いつもの色っぽい微笑でにごして、手を拍《う》って女中を呼んで原木のために膳《ぜん》の支度を吩《い》いつけている。次に女がこの問題に触れたのは、男達の手に猪口がいそがしく動き出してからだった。
「妾《わたし》は、こんな風に考えるのですが如何で御座いましょう。殉死ときめたとおっしゃるのは表向きのお話。これは、皆様で先の殿様の仇《あだ》を討《う》つことになすったのでは御座いますまいか?」
「いや……そんな!」
「いえ、どうも、そうらしく存じられますわ。大石様は底の知れないおえらい方だというお話ですし、とにかく殿様がああいうことになりお家もお城もお取潰《とりつぶ》しになったと申すのは吉良様のせいで御座いますもの。そりゃアそのくらいの御覚悟はあります。いえ、ほかの方なら兎《と》に角《かく》、御忠義の方がおそろいの、こちらのお城で御座いますもの」と、妙に熱心な口調である。
「いやあ、こりゃア大分ひいき目な見方ですな。だが、どうだろうな、原木……」
「うむ、われわれもそう見たいが、それならたとえ表向きにしろ殉死を決議するわけがない。仇を討つつもりならば当然|穏《おだや》かに城を明《あ》け渡《わた》すだろう。それがないところを見れば、やはり腰ぬけさ」
これも一理がある。
女は、ちょっとの間だまったが、ぐッと猪口《ちよく》をあけてから、大分酔ったような調子で、ものうく膝を動かして、
「それなら、いっそ、御城代様を殺してしまいなさいな。皆さんで……」
「なに!」
流石《さすが》に三人の男達は、ぎょっとしたように盃《さかずき》の手をとめた。
「城代を!」
押しつぶしたような声で柏原がいって、男たち三人が顔を見合せた。
「酔ってます。あたし……」
女は、こういいながら、火のように熱い息を漏らしながら、ほてった頬にさわる遅《おく》れ毛《げ》をさもうるさそうにしなやかな指をあげて直したが、
「でも、お酒の力を借りればこそ、女だてらに、こんなことを申し上げられますのね」となまめかしく、にこりとした。それまでにもしどけなく膝がわれて、じゅばんの緋色《ひいろ》を燃えるようにうかがわせていたのである。
「そうじゃありませんか、ねえ、あたしがこれまでに皆さんにどうしろと申し上げたことが御座いますか? 女だからさし出口は……と思って、これでも慎しんでいたンですもの。でも、これじゃああんまり皆さんが腑甲斐《ふがい》なく思われますもの。はい、御城代には限りません。腰の弱い御重役の方々を……思い切って血祭りにしたら、いやも応もなく籠城ときまるのじゃありませんか? 女の考え方とお蔑《さげす》みでしょうが、間違っていましょうかしら」
「むむ」
煙に巻かれたような無言の呪縛《じゆばく》をまず破ったのが柏原だった。
「恐れ入った。……原木、どう思う。こういっては失礼だが、負うた子に浅瀬を教えてもらったのも同然、われわれがそこへ気がつかなかったのはまことに汗顔《かんがん》の至りじゃ」
「うむ、つまり、一刀両断の策だな、面白い。成程そこまでやらなければ嘘だった。しかしなア、おれ達他国の者がそれだけの覚悟をするのは容易だが、ここの連中はどうだろうな。うまく同心《どうしん》してくれるか。どうか?」
「うむ」
いつか猪口は棄《す》てられたままで、膳の上でさめていた。息苦しいまでの緊張が座にみなぎっているのである。
クーデーターである。暗殺によって藩論を覆《くつがえ》す。当然そこまで行かなければならなかったのだ。それに気が付かず、殆ど三人が見込なしと見て絶望していたものに、女が与えた恐るべき暗示はまことに空谷《くうこく》の跫音《きようおん》であった。しかし、この赤穂の人々に同様の英断が出来るかどうか? 如何にもこれは疑問であった。
「でも……」と、女がまたいう。
「そりゃアこちらさんだけで出来ることじゃ御座いませんか?」
「そういってしまえば簡単だが……大石をやっつけた後のこともあるから出来ることならこの計画にはここの連中にも入っていてもらいたいな。随分城代の態度に不満を抱いている者があるのだから、同志を募《つの》ることは思ったより容易に出来るかも知れないぞ」
「そうでしょうか! あたしは、こういうことは、なるべく小人数でやった方が間違いがないように思うのです」
「そりゃアそうだ。しかし、こりゃアまずわれわれにまかして置いていただこう。なアに、主人がなくなって浪人になった上は、家老も足軽《あしがる》も同等な人間なのだ。まして忠義のためにやることなら、どんなことでも許さるべきじゃ。大丈夫ですとも。ここの連中にも、きっと有力な味方が出来ます」
柏原がしきりとこういう傍から、原木も、松村も、どうしてもこの陰謀には赤穂の人間を同心させる必要のあること、またその可能なことを繰り返して主張するのである。
女は浮かない顔付だったが、とうとう折れて出た。
「じゃアとにかく、どなたにお話しするにしろこりゃアほんとうに内証《ないしよ》に遊ばさないと……却《かえ》って皆さまのお身の上に危いことが起りそうな気がしますから。あたくし、とんだことを申し上げてしまいましたわね」
最後にこういって、もうわがままが出来なくなったように酔い潰れて、
「失礼……」と横になったが、すぐとまぶたを閉じて、間もなく軽いいびきを聞かせた。しかし、その、酔いを含んで淡紅《うすべに》に染まって花びらのように見えるまぶたは、かすかにふるえていた。これは女がまことは睡《ねむ》っていないで、起きている三人の会話をそっと聞いていた証拠と見れば、見られたのである。
話に熱中していた三人の男達が、どうしてこれに気がつこう。顔のこわい柏原は戸棚から薄いかいまきを出して来て、女の足にかけてやった。
蜘蛛の陣十郎は平気で大石の屋敷の床の下に住んでいる。夜になると縁の下まで出て来て来客や話の様子に地獄耳をたてているのである。無論これは久しい間に得た体験が知らせるのであるが、陣十郎は壁をへだてて、向う側にいる人間が何をしているのか、たいていわかった。特に陣十郎は自分の「鼻」に自信を持っていた。「こりゃア出来そうだぞ」とあたりをつけると、先ず、たいてい、はずれないのである。
今度も、その自信が強烈に動いていたことは、度々隼人にも漏らしていたとおりだが、籠城か殉死か、または復讐か? 城代の決心を裏書きする何かが、何となく間もなく手に入りそうな気がしているのだった。ただ恐れていたのは、例の女が、また邪魔を入れはしまいかということだったが、三日間を床の下に暮して、まだ家人にさとられたような気配もない。
(やれやれ、今度アどうやら出来たらしいな……)
家人が寝鎮《ねしず》まると、悠然と庭へ出て泉水を眺めたり、花の匂いをかいだり、昼間中不足していた外気をすって、これまた吸えないのを唯一の難儀に思っている煙草を存分にすぱすぱとやるのだった。
しかし、陣十郎も、この家の主人大石内蔵助が、思ったより手ごわい敵だということは充分に認めていた。とにかく国が破れて城を明け渡すという際だから、たいていどんな出来た人間でも不用意なところが出ていい筈だし、日常生活も当然に調子が乱れなければならない筈である。
しかし、陣十郎が伺い得たところでは、内蔵助の生活は、来る日も来る日も、整然たる規律の下に行われていた。事件の突発前もその後も殆ど変りない様に思われるのである。これだけの事件がこの男に何等影響を与えていないのだろうか? 計画があって、わざとやっているようにも思われない。腹のわからない男である。
城中の会議の結果は、殉死ときまったようである。家族達の間に幾分しめやかな空気がくだったのを陣十郎は感じた。召使の女などが、ひそひそと声をひそめて話し合っては主人に隠れて泣いているのが感じられた。主人達の様子は、すこしも常と変るところがない。殊に内蔵助夫妻は、いつものとおりである。一番上の、大きな息子はだまっているが、他のちいさい子供達は、父親の留守を家中駈け廻ってにぎやかに遊んでいるのである。
陣十郎は、これでも辛抱し床下住いを続けていた。例の嗅覚が、「その内何かあるぞ」と確信を与えているのである。
遂に、その機会は来た。陣十郎の鼻は確実に嗅ぎあてたのである。
ある晩のことだった。陣十郎はいつものように内蔵助の居間の下へ来て、じっと、様子をうかがっていた。
夕方から内蔵助は独りでいて、文庫や戸棚をあけては古い反古《ほご》をまとめて、びりびり音をさせて被いていた。手紙だの書付の類を整理しているらしいのである。この事実は、何事か、これらのものの始末を必要としている事情が近く起って来ることを意味していた。
(来たな)と思われる。陣十郎は緊張した心持になって、辛抱強く、耳を立てていた。
やがて内蔵助は庭へ降り、主税に手伝わせて、裂いた紙片を積んで焼きはじめた。陣十郎には、燃えてる火と、これに照らされた父子の着物の裾《すそ》だけが見える。父親が黙々としていれば息子も無言でいる。息子が手に持って火を掻き起している竹の棒の尖端《さき》に火がついてちいさく燃えているだけである。
燃え切ると父親は、縁に上って、
「あとは水をかけて置け。風もあるから」といった。
「それから八介《はちすけ》を呼んでくれ」
主税は、そのとおりにした。陣十郎が聞耳をたてている内に、庭口から年寄りの下男が入って来てうずくまった。
「旦那様」
「明朝早く使いに行ってもらい度い。行く先は京じゃ。手紙を書いて置くから、それを届けてもらうのだ」
「畏《かしこ》まって御座りまする」
はてな……陣十郎は何となく胸をおどらせた。京への使者、何でもないことのようにも思われるが、さて、例の、「鼻」がさかんに動きはじめている。
どこへ行くのだろう?
どんな文面であろう?
内蔵助が冷静沈着の貌《すがた》の裏に隠した秘密が、これによってうかがい得られるような気持がするのである。
その夜陰《やいん》、隼人に会った時に、陣十郎はこの話をして、隼人に内蔵助の使者を尾行して途中でその手紙を見てくれと頼んだ。
「私が行ってもいいのだが、まだこちらの様子を見ていたいから」
「よろしい。いって見ましょう、しかし、どんな風にして手紙を見たらいいのでしょう。途中で奪ってしまってもいいのですか?」
「さあ、荒っぽくやるのは、ほかに仕様がなくなってからですね。出来ることなら、見られたと向うに気がつかれないように、うまくやって下さい」
「出来るだけ、やって見ましょう」
その晩は、これで別れた。
そこで直ぐ、旅支度を整えて隼人は城の通用門の付近へ行って、内蔵助の下僕の出て来るのを待っていた。漸く夜がしらじらとあけ、太鼓《たいこ》が鳴って城門がひらくと、第一番にかいがいしく旅ごしらえをした八介が出て来た。
城下の町も目覚《めざ》めて朝の活気を見せている。八介は陸路をとる様子で、新浜御崎《しんはまみさき》へ行く道とは逆の縄手《なわて》をすたすた歩き出している。やや間隔を置いて隼人が尾行した。
誰知るまいと思われたこの事実を先刻から注意深く眺めていた乞食があった。これがこの様子を見届けて、すぐと引っ返したかと思うと、例の女のいる宿屋へ入って行った。
乞食は、直ぐと庭へ廻って、廊下をふいていた下女に怪しまれもせずに迎えられた。下女が二階へ上って行くと、間もなく、例の女が寝みだれた艶《えん》な姿を、裳裾《もすそ》から梯子段にあらわしている。
「御苦労だったね」といって、
「何かあったのかい?」
「へい、……城代様のお屋敷から出た御仲間《おちゆうげん》らしい旅支度をしたおひとを、例のが、跟《つ》けて出て行くのを見ましたもので……」
「例のって?」
「若い、いい男の方で……」
「ふむ」と、いう。
女は考え込んだ。
目の前の椎《しい》の若葉を朝の日射が、すこしずつ明るくして来ている。庭を隔《へだ》てた向うの部屋で女中が障子にはたきをかけている音がしていた。風のない静かな朝である。
女は、急にあせったような顔色になって、薄い血の色を顔にのぼした。
「そう。じゃ、御苦労だけど、お前さん、また、そいつのあとを、どこまでも跟けて行ってみておくれな。妾《わたし》は、ちょっとほかの用事をすまして行くからね。それまでのつなぎをしていて、行衛《ゆくえ》を見失わないようにしてくれればいいのさ。こりゃア路銀」
こういって、いくらか出して渡して、
「こっちは、お前さんへのお礼だよ。それから、ちょいと待っておくれよ」
きびきびと気持がいい。乞食の方でかえってまごまごしている内に、とんとんと梯子を駈《か》け上って、何か取りに行ったと思うと、またすぐ帰って来て、
「通って行く道へね、あたしが目につくように、これで何かしるしをつけて置いておくれな。そう、ただのまるで結構」
矢立《やたて》である。
「じゃア気をつけてね。手ぬかりのないようにしておくれよ。わかったね?」
「…………」
乞食が、庭口から出て行ってしまうと、女は廊下であった下女にいった。
「すぐお風呂をたてて下さいな。出来るだけ熱くして、それからあたし四、五日わきへ行って来ますから、お帳場へいって、これまでの分をすぐお勘定してくださいって」
いそがしい……だが、驚くばかり、てきぱきと動く頭だ。
部屋に帰ると、すこしばかりあった荷物を始末して、ただ匕首《あいくち》一本を持って行くように、外出の着物の間に隠して床の間に置いた。
さて、立って、隣の部屋の障子をあけて入って行く。ここには、例の特志浪士の中で腕っききの柏原が女を護衛するために、ずっと以前から泊り込んでいたのである。
「柏原さん」
柏原は行儀悪く毛ずねを出して掻巻《かいまき》をかぶって正体なくいびきをかいている。
あきれたように女は眉根を寄せたが、思い直したように縁に出て静かに障子をしめ、自分の部屋に戻って煙草盆を膝にかこんで煙管をとった。
もう障子一面に朝日があかるい。紫色の煙をくゆらしながら、女の空想もあかるい様子だった。
人のふところにある手紙を、持主に気付かれぬように読むのである。これは、至極《しごく》むずかしいことだった。
何としよう?
隼人は、大石の僕《しもべ》、八介の後を跟《つ》けて道中を歩きながらいろいろと思案した。八介……と名前は知らないが、頑固《がんこ》らしい爺《おやじ》で足腰はひどく達者に見えた。ぎょろぎょろ光った大きな目が、人を見たら泥棒と思っている様子で、気味が悪い。
第一夜は、姫路《ひめじ》の城下へ泊る。同じ宿屋へ隼人も泊ったが、棟《むね》が別で手の下しようもない。第二夜は兵庫《ひようご》、これはうまく隣合せた部屋へ入ることが出来て、ふすまを隔てて様子をうかがっていたが、手紙はどうやら肌身はなさず持っているらしく、巧妙な胡麻《ごま》の蠅《はえ》でも抜き取ることはむずかしいように思われた。
面倒臭い。どこか人のいない原っぱあたりで刀をぬいて嚇《おど》した方が早手廻しなのである。なるべく気がつかないようにとは、陣十郎もむずかしい注文をつけたものだ。
(そうだ、風呂へ入った時……)
隼人は、こう考えた。しかし、この爺さんは大切な使命を考えて四日か五日の道中に風呂へはいることをしない。宿へ着くと水をとってもらって肌ぬぎになって汗をふくぐらいが関の山である。またしても失望を感じさせられた。
考えて見れば、京へは、あと三日か四日の内に着いてしまう。暢気《のんき》にしていることは出来ないのである。
(仕方がない今日こそ)
こう思案をきめたのは、西の宮に泊ってたった四日目の朝のことだった。武庫川《むこがわ》の土手か、神崎あたりの原中で、人のいないのを見すまして……と、きっと考える。あの辺は今でも淋しい。荒れた畑地や、原の間を道が通って、ところどころに水のない川床が、松にかこまれて往来を横切っているのだ。
隼人は、ひと足先に出て道を急いで、ここならばと思う地点を見付けた。武庫川の土手で、やや小高く松のこんもりとした場所、すこし歩くと、大阪へ行く道も西の宮から来る道も曇天の鈍い日射しの下にかげろうを舞わせてながめられるのである。願わくば、あの爺《おやじ》どのが独《ひと》りでここへ差しかかってくれることだ。隼人は、松の根もとの積みわらの蔭に佇《たたず》んで、じっと目を光らせていた。
甲山《かぶとやま》を前景に六甲の山々が、濁った霞《かすみ》の奥に遠くならんでいる。平地にところどころ黄いろいのは菜種《なたね》の花である。酒屋の庫《くら》が将棋の駒をならべたように見える。
待つ間もなく、八介の来るのが見えた。しかしこれは如何に、これと前後して一挺《いつちよう》の駕籠《かご》が来る。
隼人は舌打ちしながら、まだ希望を棄てなかった。これからも人通りのすくない原が続くからである。
しかし、何ということだろう。八介が憩《やす》めば、その駕籠もすこしはなれて休む。何となく、わざと隼人の計画を妨害しているように見えるのだ。
それでも、この日はまだ駕籠を怪《あや》しむまでには行かなかった。ただの偶然だとばかり信じたのである。しかし、伊丹《いたみ》へ泊った次の朝になって昨日と同じ駕籠がどこからともなく出て来て八介と前後して同じ方角へ歩きはじめた頃から隼人は漸《ようや》く、
(はてな?)と思いはじめた。
それとなく駕籠のそばへ寄って並行して歩きながら、内に乗っている人間を見極めようとした。それと気がついてか駕籠の内にとがめるように咳《せき》ばらいの声が起ったので、覗くことも出来かねた。
しかし、京は遠くない。今日一日の勝負なのである。隼人は次第にあせりはじめて来た。右手の平地に淀川《よどがわ》の水が光っている。初夏の光りが、遠い山脈《やまなみ》に遮《さえぎ》られた平野の上の広い空間を輝かしている。山畑に麦が青い。この辺一帯に多い竹藪《たけやぶ》は、丁度《ちようど》竹の秋で、乾いた葉が光りにひるがえりながらほこりの白い道の土に散って来るのである。
山崎へ半みち……と傍示杭《ぼうじぐい》に読んだ頃から隼人は段々と嶮しい表情になって来た。しかし、またここへ、とんでもない邪魔がはいって来た。道の脇の雑木林から、この辺の百姓らしい男が鉄砲をになって降りて来て、明るい空の下を野良声をあげて話しながら同じ道を歩き出したのである。意味の取りにくい土語だったが、何でも猪《いのしし》か何か出て畑を荒らしているような話だった。
隼人は、うんざりしてしまった。猪狩りの仲間は、この辺の野山へ散らばっている様子である。これでは刀を抜いて強奪しようにも、八介なり駕籠屋の悲鳴を聞けば、どこからでも人が出て来る。まかり間違えば猪のかわりに鉄砲を向けられるだろう。
やれやれ……と投げた気持だ。懐手をしたまま歩いている内に、八介は猪狩りの連中と別れて道を本道からはずれて右へ折れている。はッとして、すぐ、これに続いた。
だらだらとした道が淀川へ導く。
駕籠はと見ると、やはり本街道を行ったと見え、姿を隠している。隼人は、八介が渡し舟に乗ったので、自分もいそいで乗り込んだ。舟は向う岸へ渡って、石清水八幡参詣《いわしみずはちまんさんけい》の旅びとと一緒に二人をおろした。
(どこへ行くのだろう?)
漸く隼人の胸にこの疑念が湧《わ》いて来ている。主人の使いに来て途中八幡の参詣でもなかろうと思われる。しかし、八介は八幡詣での人達と一緒に男山の坂を登りはじめているのである。無論隼人も見え隠れに後をついて嶮しい坂を登って行った。
明るい枝の上に鳩がないていて静寂の気が山をおおうている。一歩を登る毎に、木立の間に麓《ふもと》の広い展望がひらけて行くのである。
果して八介は、八幡へ参詣に来たのではなかった。門の前ではるかにうやうやしく頭をさげただけで八幡詣での人々に別れて、脇の道へ入って行く。
(ふむ……)
隼人は、何となく満足の息を漏《も》らして、樹蔭《こかげ》に立って目を放さなかった。
内蔵助の手紙を持って八介がはいって行ったのは、石清水八幡の僧坊、大西坊である。大西坊には内蔵助の曽祖父|大石貞勝《おおいしさだかつ》がもといたことがあって、その後代々大石家から住持《じゆうじ》が出ている。つい三、四年前に死んだ専貞《せんてい》というのは内蔵助の弟で、今はその子供の証讚《しようさん》が八幡|大菩薩《だいぼさつ》につかえている。内蔵助は、この甥《おい》のところへ手紙を寄越したのだった。
八介は、青い苔《こけ》にかこまれた敷石を踏んで玄関に立った。上り口に古びてくすんだ銀の衝立《ついたて》が、庭木の緑を静かな光りに反射している。
「お頼み申します」
八介は声をかけた。
返事がない。家の中は、がらんとして人の気配なく感じられるのである。
「お頼み申します」
やや高くいってから耳を澄ました。山の中だからであろう、しっとりと感じられる空気は相変らず静かだった。ただ、その静寂の底から、コーン、コーン……と木をわっている音がのぼって来る。これは裏口の方から聞えて来る。八介は、そちらへ廻って見ることにした。
卯《う》の花の白くこぼれている庭の石を渡って行くと、崖が落ちて日があたっている杉の勾配が見えた。この崖に向った裏口のせまい空地に僧形の人が袖をまくって、しきりと焚木《たきぎ》を割っているのである。たくましくまるい肩がどこか内蔵助に似ている。これが住持の証讚であった。
「おお」といって薪割《まきわり》を提げたまま立ち上った。
「ちっとも知らなかった。今日はみんな出ている。さ、あがってくれ。伯父上は御達者か……こんどは、とんだことであったのう。御心労をお察し申し上げていたところだ」
証讚は健康そうな顔の汗を拭きながら機嫌よくこういって、傍《そば》の岩にひいてある竹樋《たけとい》から落ちる清水で手を洗った。
「昨夜は伊丹、そうか、爺《じい》やも相変らず達者なことだな、なに伯父上からお手紙を……そうか、よし、よし。ここで足を洗うがいい。履物《はきもの》は、今わしが持って来て進ぜよう」
清水は、染《し》みるように冷たかった。上へあがると、炉端に坐らせられた。
「まあ、よい。ここへお坐り」
手ずから茶を淹《い》れてくれる。空腹ではないかという。空腹ではないというと、もうじき誰か帰って来るから何かこしらえさせようという。
八介が手紙を出して渡すと、坐りなおして静かに封を切って、黙読をはじめた。外はもうくれかけていて、傾いた日が、杉林を燃えるような赤い色で染めて、土間まで差し込んで来ている。炉の炭は白い灰をかぶっていて、鉄瓶にたぎっている湯の音が、このがらんとした僧坊を領《し》める寂《せき》ばくに一層の静けさを加えていた。八介は、知らず知らずこの男ざかりの坊様とその伯父である八介の主人との生活を比べて考えはじめている、しかし、こういう自然とありがたくなるような寂しい場所に住んでいる甥御《おいご》と、あの人の出入りのせわしく、いつもせわしく暮している内蔵助との間に、肉親の相似《そうじ》以外に何かひどく共通しているものがあるように考えられて来るのだった。
証讚は無言でいる。内蔵助によく似かよっている広い額《ひたい》に小じわを寄せて、熱心に手紙を読んでいるのだった。
(なんだ。坊主へあてた手紙だったのか?)
隼人は、様子を偵《うかが》っていて軽い失望を感じずにはいられなかった。これでは蜘蛛の陣十郎自慢の「鼻」もあまりあてに出来ないようである。しかし、折角《せつかく》ここまで来たのだから、兎《と》に角《かく》その内容を知り度いと思って、機会を狙っていることにした。
間もなくふもとから夜がのぼって、僧坊に灯がともった。所化《しよけ》達が、ものを煮たきする煙が杉の勾配《こうばい》をつたわって、低く、暗い谷に流れる。八介は一晩泊ることにしたらしく動く様子がない。住職が居間で机に向って筆を走らせているのは内蔵助へあてて明日八介に持たせてやる返書であろう。内蔵助から来た手紙は同じ机の上に文鎮でおさえて置いてあるのである。
隼人が、植込みの間から立ち上ったのは住持の証讚が風呂に立った後であった。五日間の苦心はあまりに簡単に報《むく》いられている。隼人は、手紙を掴《つか》むなり、またそっと脱け出して、まだ動悸している胸を、木立の下にある常夜燈《じようやとう》の下まで来てやっとしずめた。
前を見廻したが、山は森閑として暗く遠くの峰をわたる風の声を聞くばかりである。隼人は、いそがしく指を動かして、常夜燈のたより薄い灯影《ほかげ》に内蔵助の手紙を読んだ。
急ぎ一紙申し入れ候。しかればここ元の儀御承知下さるべく、存じ寄らざる是非なき次第、われ等家中一同の心底お察し下さるべく候。様子はその元にはお聞きこれあるべく候。何方《いずかた》へも片付申すべき了簡《りようけん》に候えども何所《いずこ》へ罷越《まかりこ》し申すべき心当りかつてこれなく、難儀に及び候。それにつき、その辺岡崎辺か、山科辺、上下十四、五人もおり申したく、上方の儀不案内にこれあり候ゆえ、浪人など住所に悪きも計《はか》り難く存ぜられ候。この段了簡いたされこれあるべく候。伏見《ふしみ》か大津辺と存じ候。同じくは貴僧近所と存ぜられ候。その段お聞き賜わるべく候。以上。
[#地付き]大石内蔵助
と署名して花押《かおう》もある。
読みながら隼人は躍り上りたい心持をおさえるのに苦しんでいた。
籠城?
嘘だ。
殉死?
嘘だ。
籠城し殉死する者が、なんで、住居の周旋《しゆうせん》を人に頼もうか? 上下十四、五人……の人数だという。千坂兵部が睨《にら》んでいたとおり復讐を企《くわだ》てているかどうかは別として赤穂は開城にきめていることは事実だ。この手紙がそれを証明しているのである。
これでもういい。今度の小さい旅は無事に目的を果したわけである。この手紙は最初の計画どおり大西坊へそっと返して置こう。
したが……
と急に考え直して、懐紙と矢立をとり出して膝の上でいそいで手紙を写しはじめた。
証拠は明瞭なほどよいのである。
写し終ると、再び大西坊へ忍び入って住持の居間をのぞいてみたが、まだ風呂から戻って来ていない。庫裏《くり》の方で住持が誰かと声高に話している声がきこえているだけである。いそいで、手紙をもとの場所へ置いて、文鎮でおさえてその足で、夕方のぼって来た坂道をすたすたと降った。
足も軽く心も軽かった。
しかし、何から何までいいということはないと見える。隼人は遂に知らずに来たが赤穂から尾行して来た例の女が、道の脇の木立の蔭に身をひそめてこの様子を注意深く観察しているのだった。
淀《よど》から川舟で大阪へくだるつもりで隼人はその晩ここの一番大きい宿屋を選んでとまった。折りよく風呂がまだ新しいというので、よろこんで、女中の案内で風呂場へ立って行った。それから、すこしばかり酒を呑んでいい気持で蒲団の上に手足をのべる。
大成功だった。帰って話したら蜘蛛の陣十郎もどんなによろこぶことであろう。いやいや多分またこれをかぎ出した鼻の自慢をはじめることであろう。だが、こりゃアいくら威張られても仕方がない。兎に角大した獲物だった。内蔵助の手紙の写しは蒲団の下へ敷いてある。天下の視聴の的になっている赤穂浪士の進退の秘密はおれが握っているわけだ。
だが、復讐の計画があるのだろうか?
つまらない意地じゃないか? 正気でそんなことを考える人間がまだいるのか? 赤穂も田舎だなあ。敵の首を取ったからってどうなるのだ? なアるほど世間が喝采する。どんな時代になったところで世の中は愚劣で雷同する。しかし、いくら受けたところでくだらない芝居だ。人間て、そんなものじゃない。そんな作り事の気持がいつまで続くものか? きちんきちんと禄をもらっていてくらしに不自由がなければそんな冗談事を生真面目らしく考えるゆとりもあろうが、浪人してみれば、兎に角第一に真剣にならなければいけないのがめしのことだ。敵討ちなど末の話だ。その日その日の、目の前にぶらさがっている必要が、ほかに、いくらもある。それを考えないで敵討ちのことばかり考えている者があったら、そりゃア人間じゃない神様だろう。神様にしても不正直の神様なのだ……
隼人は愉快だった。
上杉の家老千坂兵部が心配しているような復讐の計画が赤穂にないとは隼人は思わない。それはある。しかし、これは決して危惧する必要のない目下の興奮の産物で、主人は切腹城地は没収というような突然の展開の際になくてはかなわぬことだった。何も彼も一朝になくした人達は、あわてふためきながら、すがる柱を探しているのだった。しかし、この計画と、その実現との間には恐ろしい間隔がある。これで皆が浪人して半年もたって生活もすっかり変ると一緒に、当然に一同の心持も変化して来たならば勿論今の興奮などは昔の夢だ。「左様、左様そんな話しもありましたな」などということになる。
これも自然の話だ。
しかし、大石内蔵助は、非常に傑《すぐ》れた人物だという。もし、人間のこの弱点をよく見ていて、あらかじめこれに対策を作って計画にあたったならば……?
いや、赤穂あたりの家老に何で、そこまでこまかい神経が働くものか。昼行燈の異名さえある、ぼッとしていて神経などはない男らしい。これに気がつくくらいなら、復讐などという無理な計画は最初からたてはしない。まあ何をするか、お手並拝見だな。
ひややかだった。
とまり客もあまりないらしい。まだそんな時刻ではあるまいと思うのに、宿の者達の話し声さえ聞えないのはもう寝込んだものだろうか? ねむろうとして、瞼をとじていると、天上をことこと鼠の駈ける音がしている。それにさまたげられて、じれながらうとうとと寝入ったように記憶していたが……ふと夢うつつに誰か枕もとをとおって出て行ったように感じて、ぼんやりと目が醒《さ》める。
(夢だったろう……)と思いなおしながら、蒲団《ふとん》の下に敷いてあった金のことを考えて、ものうく頭をおこす。これはどういうのだ。たしかにしめて寝ていた筈の枕もとの障子があいている。
驚いて、まさかと思いながら急いで起きて、蒲団をまくって見ると胴巻はあったが折角の密書の写しがなくなっていた。
はッとして、思わず顔色を変えて、それでもまだ自分の思い違いかと思って胴巻の中までさぐって見たが、ない。
茫然とした。
何者がしたことか? もとより並の賊ではない。一緒に置いてあった胴巻は手をつけずに残っているのだ。
(女……)
例の奴だ……と咄嗟《とつさ》にひらめいたが、どうして、それが信ぜられよう、あの女ならばまだ赤穂にいる筈……それとも自分を尾行して来たのだろうか?
(そうだッ!)
思わず隼人は叫ぶところだった。来る途中偶然か否か、こちらの仕事を邪魔していた駕籠《かご》のことがにわかに思い出されたのだ。
そう考えれば、あの駕籠の中に聞えたせきばらいの声も、ひくかったが女だったように思われる。
(またしても……)と、考えれば、知らずに拳《こぶし》をかためている。
何のためにしていることか知らぬが、重ねがさね、憎い奴。寝る前まで感じていた誇りが大きかっただけに、これは、惨《みじ》めだ。猛然と隼人は廊下へ走り出ている。
「賊だ、起きてくれ」
思わず、変装を裏切った言葉になる。
騒然として、女中から亭主まで寝ぼけ眼《まなこ》で起き出でた。
戸締りに異状はない。
「客は? 幾組もあったのか?」
「いえ、昨晩は、こちら様と、もうひと方、お女中のかたが……」
それだ、何たる不敵な。
「そのお女中の部屋へ案内してください。どんな方だね」
あからさまにその女客を賊と見ているらしい客の権幕《けんまく》が、亭主を狼狽《ろうばい》させた。
「いえ、もう、そちら様は至って、おしとやかな、お堅い方で、決して、もう、間違いなど御座りませぬ」
「とにかく、どんなひとかひと目でいい、見せてもらいたいな。こちらの迷惑になるようなことはしない。ただ、見るだけじゃ」
「でも、何分に夜中のことで御座りますから……」
亭主は途方にくれて、ぺこぺこする。さすがに、これを押し切って我をとおすことも出来かねたが、その客というのが例の女だろうということは、どうも間違いないことのような気がして、あきらめられなかった。
「御亭主、そういわっしゃるが、ためしに見て来るがいい。その客というのは多分もう部屋にいなくなっていようぜ」
「いえ、いらっしゃいます。ただ今番頭がお見舞に伺っておりますから」
これは嘘ではなかった。番頭というのはやがて手を揉《も》みながら廊下を戻って来ている。しかも驚くべきことを隼人につたえた。
「あの、あちら様でおっしゃるので御座りまするが、何かおなくなりになったのなら、このままでたつのもどうやら気色がわるい。御迷惑で御座いませんでしたら一応荷物をお目にかけたいと……こういうお話で……はい」
亭主は、それ御覧なさいといわぬばかりに、むッとふくれた顔をした。勿論この客もあちらの謙遜な申し出に恐縮して、それには及ばぬ、かえってお騒がせしてお気の毒だったとことわると思ったのだ。
しかし隼人は、番頭の言葉を聞いて半信半疑になりながら、乗りかかった舟で臆病な心持をつつんできっぱりといって出た。
「じゃ、その部屋へ、案内してください」
家内中の無言の憤慨の裡《うち》に、隼人は番頭に案内されて、廊下を折れてずっと奥にある部屋の前に立った。ここだけ障子があかるくて、内に人の気配があった。
「御免くださいまし」
番頭が廊下に膝を突いて、恐縮しきったように声をかけてからそろそろと障子をあける。
灰文字
「さあ、さあ」と内から気さくらしい明るい返事がきこえて来た。この聞きおぼえのある声を聞いただけで隼人はやっぱりと頷きながら、女の図々しさにはほとほとあきれて思わず拳《こぶし》を握った。が、それとなく、わざと何も知らぬ顔でむっつりとだまり込んで突っ立っていて、ひょっとすると、こりゃアもうどこかへ隠してしまって、ぬけぬけとおれに会うつもりか……とも考えている。
「おや!」と、女はさも驚いたようにこちらを覗いて、
「まあ、堀田さんじゃありませんか? どうも……妙なところでお目にかかりましたわねえ」
「…………」
隼人は無言で睨《にら》みつけているだけだったが、女の方では明るく目を瞠《みひ》らいて、ほんとうに奇遇に驚いたような様子で、番頭の手前たくみに穴をあけなかった。
「番頭さん……この方なら、とうの昔から御懇意に願っているンですよ。ほんとうにびっくりしたじゃありませんか?」
「それは、それは……左様で御座りましたか。いや……どうも、手前どももそれで安心つかまつりました。へい……」
番頭は驚いた様子で二人を見くらべる。
「ま、堀田さん、いつまでもそこに立っていらっしゃらないで……番頭さん、じゃアもうよ御座んすから」
「へえ、へえ……御用がおありでしたらどうぞお手をお打ちなさいまして……もうそちこち女達の毎朝起きる刻限《こくげん》で御座りますから……」と手を揉《も》みながらいって、
「ですが、こちら様の御盗難の方は……」
「あ」と、それさえ女が笑いを含んで引き取った。
「そりゃア表沙汰にしない方がいいでしょう。あたくしからこちらさんへそうお願いしておきますからね」
「どうも……左様に願えますれば手前どもの方はまことに結構で御座りまする、何分にも……」
「ああ、いいから……」
「ちょっと」
隼人はにがりきった様子で急にこう呼び止めた。腰から障子の外へすべり出そうとしていた番頭が驚いたように顔をあげると、
「俺アいやだ」と、だだッ児がすねたようにいって、
「第一、こちらの方にゃ……そう御懇意に願っている覚えはない。最初の話どおりばんとうさんに立ち会ってもらって、お荷物を拝見して帰るとしようよ」
「へえ……」と、きょろきょろして、思わず二人の顔を見くらべる。さて、女は平気で、
「堀田さん……そうあたしに恥をかかせなくてもいいでしょう」と、ちょっと真剣な気合でいって、隼人がまごまごしている間に振り返ると、「うるさいね。早くお引込み」というように突慳貪《つつけんどん》に、
「いいよ」
もじもじしていた番頭も「ははあ」とはじめて手前勝手に別の合点《がてん》をさぐりあてたらしい。
「いや……へい、へい。然らば、御免くださいまし」
隼人を残してもっそりと首を引っ込めたと思うと、障子がすーッとしまる。
「然らば……ですって……」
番頭がまだ障子の外にいるのに女は、まるで隼人にあまえているようにきこえるなまめかしい口調でこういって、まだにがりきった様子で突っ立っている男の顔を、流眄《ながしめ》で見上げたのだったが、
「おおこりになって。堪忍《かんにん》して頂戴な。……こりゃアお返し申しますから」
何たることだ。細帯でくくった胸へ白い手をやったと思うと、ぽんと畳の上へ置いたのが、今盗まれた密書の写しだった。
わからないのは端倪《たんげい》を許さぬ女の胸の中だ。知恵もなく隼人は棒のように突っ立ったまま、手紙もそれと見ただけで手を出しもしなかった。
「まあ、おすわンなさいまし、決して口説《くど》こうとは申しません」
女は気楽な調子でこういう。
「なんで、これを盗った!」
隼人は急に意気込んでいる。それも女は煙のように軽く躱《かわ》した。高い声をたしなめるようにやさしく睨めて立って、障子の外に聞く者はないか、静かにのぞきに行ったのである。外を見て誰もいないと見ると振り返って、もとどおり音もたてず背中に障子をたてながら、
「堀田さん、話は坐ったって出来るンですよ」
やさしい口調だが、ずばりと……にわかに荒い。かと思えば、それでいうことを肯《き》くより反《かえ》ってむくれて片意地になる男と睨んで、ぷんと袖《そで》になまあったかいときめきを煽《あお》って隼人が躱す間もなく藤の花のように肩にすがっている。
「おすわんなさいな。……じれったい子だねえ」
熱い息が隼人の耳の裏をくすぐった。隼人も千万致し方なく坐った。
「聞こう」と、ひらきなおる。
「お話しいたしましょう」と今度は、いやにおとなしい。手をのばして煙管を拾って、しなやかな細い指でもてあそぶ。
「別に悪い気持でやったわけじゃありません。あなたと一度ゆっくりお話しいたしたいと思って……いわばそのきっかけにしたわけなんです。……堀田さん、この間の晩は、あぶない真似をなさいましたのね。びっくりしましたよ。梯子段からすべり落ちて腰を打って、まだいたんでいますわ」
煙管を棄てて、女の手は腰をさすった。
「お前さんの方で、そうされても仕方がないようなことをしたからだ。それにしても、何で、どこまでも我々の邪魔をしようとするのだ?」
「まだ、おわかりになりませんの?」
目を笑わしたが、たった今、密書の写しを出した内懐《うちぶところ》から、別に一通の手紙を出している。
「御覧なさいまし」
その上書に女の筆蹟で江戸白金上杉様屋敷内千坂様と読んだ。
「千坂……千坂兵部どのを……」と、思わず吃《ども》った。裏をかえすと、例の椎《しい》の木の宿屋の名を書いて、仙《せん》と認《したた》めてある。お仙というのがこの女の名前だと見える。
「あたしも皆さんのお仲間なンです」と静かに、女の口から聞くまでもなく、これは隼人にも咄嗟《とつさ》に推量出来ていたところだった。しかし、しかし……心得がたいことは、女が度々こちらの仕事に邪魔を入れていたことだ。浪士達を煽動《せんどう》して目玉の金助をあやめたのがその一つである。次に隼人と陣十郎とが城内へ忍び込む計画を内蔵助に手紙をやって密告している。それでも仲間……千坂兵部が赤穂の城下へ忍び入らせた間者の一人といい得るのか?
「これまでのことは、みんな水に流してくださいましな。悪気があってやったことじゃありません。ただ、ああやらなければ、とても赤穂の内懐へ食いさがれませんでしたもの。でもお蔭で、あたし、大分あちらさんでは信用されています。改めて……」と、にこりとして、
「お礼も申し上げますし、お詫《わび》もいたします。ほかの方達じゃないお二人さんだから大丈夫と思って致したことなのですから。……でもほんとうにお怒りになって、あたしを殺そうとなさいましたのね」
あっさりと……実にあっさりとした弁明であった。
始め、性もなく狐につままれたような心持でいた隼人も漸く裏面へ理解の目をとおして、自分の立場が如何に皮肉で、他愛なく間の抜けたものだったか段々とわかって来ている。やれやれ……と、にがり切っていた心持も思わずほぐれた。自分の惨めさを顧みるより蜘蛛の陣十郎にこの報告をもたらす瞬間を明るく空想したのである。
「驚きましたな」と苦笑する。
「ほんとうに、失礼ばかりして……でも、もう千坂様から、おふたりと一緒になってやれとお許しをいただきましたから……」
お仙は、こういってから、そっと顔を寄せて声をひくめた。
「この大石の手紙のなかは、まだ、わたくし拝見してありませんが……何かおためになることが書いて御座いましたか……」隼人は漸くこの女に「仲間としての親しみ」を感じて来ながら、初めて胸襟《きようきん》をひらいて手紙の内容を話した。
「やっぱり……」と、女は思いあたったことがあるように深く頷いて見せた。
「わたしも、どうも、その見当じゃないかと気を揉《も》んでおりました。殉死《じゆんし》ときめたというのも世間を欺《あざむ》くように思えて、ほんとうとは信じられず、このままわからなければ、いっそ大石を……と、実はもうそろそろ血の気の多い人達をつッ突いていたところなンです。そうですか、やはり城をあけ渡して赤穂を退散するつもりなんですか……」と、じっと、片膝の上に手をかさねて思案にふけるのを眺めながら隼人は、いよいよお仙を不思議な女と見ずにはいられなかった。
「失礼なことをおききするようですが、千坂どのとは……」
どうして知っているか、それを訊《き》きたかった。お仙は、よく表情の動く顔を美しくにこりとさせただけである。
「どうとでも、御推量におまかせ致します。ただ大層御恩になっておりますので、あの方のためになら命がけで働かなければいけない人間なのです」
「ふむ、よほど以前からの……」
「ええ、今年で三年ぐらいになりましょうか?」
三年とは随分古い。お仙が女賊だとは、西へ上る途中で聞いていたことだが……一藩の家老と女賊と、これは不思議な取りあわせである。あるいは、あのどことなく深い影を持っていて、腹の知れない家老は猫を沢山飼っているように、お仙のような人間を常に手なずけておいて不時の用に備えているのだろうか? 幕府にも秘密警察の制度もあるというし、殊に柳沢の如き権謀家は忍術に長《た》けた者をひそかに養って、政治の裏面に策動する手足としているような評判もあることだから、あれだけの策士にこれがないとはいい得ないのである。
隼人は、いつか小林平七に連れられて会った千坂兵部の風貌を思いうかべながら、お仙を見て、
「あなたやわれわれのほかに、まだ誰か赤穂へ入っている者がいましょうか?」と、当然に胸に湧いた疑問を打ち明けた。
「います」
お仙は反響《こだま》の応ずるように、はっきりと答えた。
「しかし、それが誰で、何をしているかわたくしなどにはとても分りようもありません。でも……」と、半眼のまぶたの動きに内蔵助の手紙の写しをさして、
「これだけのものを手に入れた人がほかにあろうとは思いません。ほんとうのお手柄《てがら》でした。お羨ましいぐらいですわ……けれどその内、あたしも皆さんが吃驚《びつくり》なさるようなことをしてお目にかけます」
「城代を……」
「あら、あたし、もう口をすべらせていましたのね」
お仙は、いろっぽいくらいの目付で隼人を睨《にら》んでまた笑った。
江戸の白金の屋敷で、千坂兵部は、客と火鉢をかこんでいた。梅雨時《つゆどき》のように二、三日じとじとと降り続いた雨が、この辺は市中よりか樹木の多いせいか家の内をひどく陰気にして壁や畳をしけさしていたのが、この男の癇《かん》にさわったらしい。今日は朝からよくおこした炭を運ばせて部屋を乾燥させるようにしていたのだった。しかし二人が火鉢の傍へ寄ったのは、たった今のことである。兵部は火箸《ひばし》をとって無言で灰の上に何か文字を書く。客はこれをのぞき込んでいて兵部が一字を書く毎に頷いて見せるのであった。
「わかったか?」
最後に兵部は急に口でいった。
客は、はッといって、畏《かしこ》まって頭をさげる。服装はみすぼらしいが、精悍な面構《つらがま》えの男だった。
「頼むぞ」と、再び兵部は重い声でいって、ふと目をそらして軒端《のきば》の点滴のあなたに灰色の空を見た、が、やがてつぶやくように、
「よく降る……」と、いう。
このぽつりとした言葉は、次に客の顔を見ていった言葉と裏面では連絡があった。
「いつ、たつか?」
「今夕《こんせき》にも」
「大儀《たいぎ》だな。何分うまくやってくれ」
肩をたたきそうな親しげな語調であった。
客が帰って行くと、兵部は厠《かわや》に立って、その帰りに湯殿へ行って戸をあけた。もはや風呂を沸かしていたと見え、ぬくもった湯気が木の香とともに主の顔をなでる。
風呂|桶《おけ》の蓋《ふた》の上に、いつかの子猫達が三匹かたまってまるくなって寝ていた。主の入って来た物音を聞いて、そっと薄目をあけて見る。
(よく寝ているな)といいそうな、微笑が、兵部の痩《や》せた頬にのぼった。兵部は、風呂の蓋《ふた》がすこし曲っているのを見て、流しに降りて直してやったが、それだけの動揺にも体を動かしてぬっとものうげに手足をのばして弓のようにそりかえった一匹の腹をやさしく撫ではじめた。
「あたたかいだろう?」と、人に物をいうようにいう。猫はいい気になって欠伸《あくび》をした。屋根を打つ雨の音がきこえる。湯殿の空気は加減よく暖かくなっている。兵部は、指の腹にさわる柔かい毛の感触を楽しむように目をほそめていたが、その間にも何か、風のように頭の中に動いている屈託《くつたく》があったと見え、瞼《まぶた》が神経的にひくひく動いていた。外では、風が出たらしく、濡れて重くなった木立がゆれて、雫《しずく》の地に落ちる音がしている。
再び猫がまるくなって寝込んだのを見て兵部は手を引っ込めた。それから湯殿を出て静かに戸をひらいている。部屋に帰ろうとして廊下を歩いて来ると、兵部を探して歩いていた用人に出会った。
「松原様おいでに御座りまする」
「松原?」と、いって、眉根を寄せた。松原多仲、吉良上野介の用人である。
「待たして置け!」と、素気《そつけ》なく答えた。
振り向きもせず部屋へ戻ると、火鉢のそばに坐って再び火箸を握った。それで何か文字を書いては神経的に消す。また書く、消す……何か頭に浮ぶことを書いては、教室で黒板に問を書き出された学生のように、その解決を考え込んでいるらしい。火気をおびている額《ひたい》に幾筋も濃《こ》い皺《しわ》がえがかれて思案に暗い顔付だった。松原多仲はがらんとした客間に雨の音を聞きながらぼんやりと待っている。
「これは……お待たせいたしました」
主の兵部は、随分待たせてからにこにこして入って来て、こういった。すわる……と、手を拍って、出て来た若侍に熱い茶を持って来るように命じている。
「よく降りますな」
「左様……」と客の多仲も答えて、膝を動かす。何か急な話があるらしいのである。
「この辺は市中と違って、道が悪いから、三日も降れば、あと四、五日は外出する毎に難儀|仕《つかまつ》ります」
兵部はこういいながら、若侍が運んで来た茶をすすめた。
多仲は、すすめられるままに茶碗を掌《たなごころ》にかこんだが落着かない様子で、何かいいかけて、兵部の言葉に遮《さえぎ》られた。
「少将様は……御健勝にて……」
「有難う御座りまする。実は、本日もお上から、たって伺えとのことで……」
「ほう」
「あちらの方は……どんな具合かお尋ねしてまいれと仰せられますので……」
「あちら?」と問い返されて、術《すべ》なげに、
「赤穂の方の様子で?」
「いや、それは……つまり、開城か籠城かと仰せられる?」
「は」
「これは手前どもへ、どうもお尋ねくださってもわかりかねるお話じゃ。しかし、いずれにしろ左様に御心配になることは御座りますまい」
「然しながら……お上は、手前の口から申し上げるのも如何かと存ぜられまするが、どうも極端に、かれ等に……復讐の如き計画がないか御心痛遊ばされておりまするので、それについては毎毎申し上げますとおり、御当家とはほかの縁合ではなし、殊にお上がただ一つのお心だのみとしておいでなので……」
「存じおります」兵部は、深く頷いて見せた。
「が、これは、ほかのこととは違い他家のことでもあり、赤穂で如何するものか、今暫く様子を見ておらねばわかりかねることだが、勿論世間の噂は兎《と》に角《かく》、元禄の今日城を枕に討ち死ということも御座るまい。しかし城を明け渡したと申しても左様に復讐を御心配になることはなかろうと存じます。二十年三十年前と違って人間もわるく悧口になっておることですし、殊に御公儀の御処置によって起ったことでもあり、まずお心にとめ置くことはないように存ぜられるが……それは、何様多勢の人間だから二人、三人過激なものが出ても、痩浪人が何が出来ましょうぞ、いや、悪くお騒ぎになっては、かえって世間のものわらいとなりましょう」
「しかし、お上が……」
「側近の貴方がたから、左様なことは断じてないと申し上げて、お心安くあらせられるよう致されることですな。勿論われわれも外部から及ぶ限りのことは致します。が、まだ兎に角海のものとも山のものともわからぬのじゃ」
「ごもっともで……」
実はこの多仲自身上野介と一緒に今更のように雲行の急なことに恐れをなしていたのである。兵部はそれを知って苦々しいことに思っていたのだ。
多仲がだまり込んだのを、兵部はひややかな目で眺めていたが、脇を向いてぽつりと、とどめを刺すようにいった。
「それでよろしかろう。何よりも、そのことじゃ。おそばの方々から、そんなことを問題になさるのが一番いけない。これは悪いたとえだが位置をかえて貴方が赤穂の人間だったら、復讐などお考えになりますかな?」
多仲は困ったような顔付で微笑した。なるほど、これは凡《およ》そこの地上で最も起り得る可能性のないことに違いない。
(馬鹿め!)
兵部は微笑を含んだ表情の蔭で心から相手に蔑《さげす》みを感じている。
(貴様はおれに辱《はずかし》められているとはわからないのか?)
しかし、丁度《ちようど》この時、若侍が入って来て隼人から届いた密書を兵部に渡した。内には例の内蔵助の手紙の写しが入っていた。
兵部は、客に話を中断する失礼をわびてから、先ず隼人の手紙を読み、次に内蔵助の密書の写しを注意深く繰り返して読んだ。驚くべき文面である。開城ときまれば復讐の事は必定《ひつじよう》とかねてから見ていた兵部である。予期はしていたことだが、「来たな!」とぐっと胸を衝《つ》いたものがあった。
松原多仲もこの手紙が何だろうと疑ったらしく主の顔色に鋭い視線を送っていた。しかし多仲が見たかぎりでは、兵部は眉一つ動かさず二通の手紙を読み終って、何事もなかったようにこれをさらさらと巻きかえしながら、再び静かな笑顔を客の方へ向けた。
「これが主君が相手方に討《う》たれたという場合であって見れば、無論貴方も復讐をお考えになるだろうが、今度の場合は御公儀権力の発動によって制裁を加えられたもので、これに復讐しようとするのは天下の秩序をみだして御公儀に刃向おうとするにひとしい。これは謀叛《むほん》だ。常識のある人間ならば組しない。そうでしょう。赤穂の人間が悉く常識のないものだとお考えですかな?」
今の話の続きである。諭《さと》すような穏かな口調で相変らず復讐の起り得ないことを語っているのである。松原多仲は成程、成程……と頷いて行く内にいつの間にか相手のいうとおり復讐などあり得るものでないと思うようになって来ている。兵部は雄弁だったし確信のある口調だった。
「いや、恐れ入りました。それで手前も……」と思わず正直な話をして、
「では、まず絶対にないことで御座りまするな?」
相手の顔を覗き込むような目付をした。
兵部は、いつもと同じ顔色だったが、ぽんと突き放している。
「……とは申せません」
「は?」
「とにかく、これは、幾度もいうようだが、他家のことです」
自分で、しかも、気楽に、前言を覆《くつがえ》しているのだ。いい加減引き廻されてぽいとはなされた形で、多仲はぼんやりして相手の顔を見詰めるばかりだった。
「と、申しますると……」
「絶対にないとはいえないのです。いい方法がある」
「は」と乗り出した。
兵部も、相手があまりまともに乗気になって来たのには驚きながら、こりゃア罪だったな……と考えたが、
「いや……少将様のお働きを以《もつ》て浅野の家の存続をお計らいなさるか、あるいは扶持《ふち》をはなれた浪士どもをそれぞれ他家へ召抱えになるようなさるのだな。飯を食わして置けば人間はだまります。腹がへれば気持がとがって狂犬のようになります」
「…………」
「及ぶべくんば左様に致すが万全の策じゃ」
語調はどこまでも厳しいほど真面目なのである。また浅野の家が立つようになれば成程恐らく復讐のことは起るまい。真理である。しかし、これは出来ない相談ではなかろうか?
「浅野の家存続のことが困難ならば、大石以下、采配《さいはい》をとれる人物五人ばかりでよい。他家が高禄を以て召し抱えるように御周旋《ごしゆうせん》なさるのだな。手前はそれを考えてお上へおすすめ致しております。松原氏からも少将殿へおすすめ願いたいのだ。出来れば、それに越したことはない。野犬は棄てて置けばいつまでも野犬で、人を見るたびに牙をむきます……」
驚くべき言葉だ。兵部は赤穂浪士の口入れまで考えていたのだ。
客が帰ってから兵部は、またむっつりとして居間へ戻る。一旦火鉢の脇へ坐ったが、あまり熱すぎる火気をよけて畳に腹ばいになっている。さて、懐中《かいちゆう》からさっきの隼人の手紙を出して注意深く、黙読した。次に、内蔵助の密書の写しを精《くわ》しく見る。
ふうむ……と思う。
(やるな!)火のようにひらめいたのは、この考えである。内蔵助ほどの男が当然ここまで持って来るとはもとより覚悟の上だった。そうだ。代っておれの位置に置いても必ずこうやる。
(ただ、おれならば、迂濶《うかつ》にこんな手紙を書くまい)
これを思った時、兵部の顔がにわかに明るくなっている。優越の自覚である。この相撲はおれの注文で立った……と思う。得意の手を充分に用いることも出来るのである。
寝返りを打って天井を睨《にら》みながら、ゆるやかな微笑が口にのぼっている。しかし、この微笑は、間もなく消えて、いうばかりなくけわしい表情になった。丁度のこの頃雨の中を吉良邸への帰途にある松原多仲の姿が脳裏に描かれたのである。
(馬鹿め!)と、叫ぶものがある。
次に、少将……上野介の風貌がそれから流石骨肉の父子で面差似《おもざしに》かよったわが君の姿が……
兵部の眉根は次第に暗く寄って来る。
危ういかな、危ういかな……という感じだった。
俺に一切をまかして置いてほしい。それならば充分に勝味のある相撲だ。だが、もしこの御親子において悪足掻《わるあがき》遊ばされたならば……
多分また内蔵助はそれを狙《ねら》うであろう。いやいや多分ではない必定《ひつじよう》のことだ。無一文になった人間と十五万石の家禄にあわせ世をはばかり人を慮《おもんぱ》かっている者との相撲では、こりゃ初手から話にならぬ。勝っても、悪くすれば泥をかけられる。十五万石のお家にひびが入らぬともいえぬ。それだけでも恐らく相手は本望なのである。
悪い、恐ろしく悪い……
いやいや、つまり俺だな。俺の腕一つだ。わが君は御幼年殊に御孝心あついことで、御親子の情に動かされ易《やす》いのは当然のこと、この難局に舵《かじ》をとって巧みに抜けるのは一切船頭のおれ一人の腕なのだ。なんの、やろう、やって見せよう。内蔵助がなんだ?
むっくりと、兵部は起き上っていた。身内に漲《みなぎ》っている力が、自然とじっとしていられなくしたのである。腕を後にまわして昂然と胸をそらしながら、広くもない室内を鉄檻《てつおり》の中の豹のように縦横に行ったり来たりするのである。
すでに赤穂に忍び入らせている十幾人の間者こそ、自分の号令次第で手足の動く者達だ。歩きながら、兵部は、この手足をこれから、どう動かそうかと考える。外に急に雨がやんで、雲を出た太陽が庭の若葉の一枚一枚を、きらきら光らせている。兵部が、廊下に出て立ち止るとともに、ぬれた土を気持悪そうに踏んで庭を横切って行く親猫の姿が見えた。
哀願の使命を帯びて江戸へ赴《おもむ》いた多川九左衛門、月岡治右衛門の二人が、敷居の高いおもいで赤穂へ戻って来たのは四月十一日のことだった。藩士全体の期待を受けて自分達も責任の重いことを充分に自覚しながら悲壮な覚悟を以て出て行った時とこれは反対に、二人は故郷に近くなるほど、鉛《なまり》を呑んだような重い感じに心をおかされて口数すくなくだまり込むことが多くなった。特に二人の良心を責めていたのは、出立の際に内蔵助からくれぐれも江戸家老、安井、藤井の両人には見せるなといわれた嘆願書を、たとい不運にも受城使の出発と行き違ったにもせよ二人に見せてしまったことである。
ああすればよかった、こうすればよかった……
様々の思案が遅ればせに浮んで来る。しかし、まことに後悔さきに立たずである。途中で受城使の一行にも追い付いていたが、御親戚の戸田采女正様、大学様のいずれからも藩士一同にあてた諭書《さとしがき》を預かって来ている身であってみれば、それを棄てて最初どおりの嘆願も出来かねるように思われた。行きと違って帰りの道中は実に短く感じられた。内蔵助が如何に激怒することかと思うと、魂《たましい》身にそわず悄然とした。
内蔵助は、采女正の諭書をよんだ。
多川九左衛門、月岡治右衛門両使を以て書付|差越《さしこ》し候《そうろう》紙面の趣《おもむき》家中の面々|無骨《ぶこつ》の至《いたり》、御当地不案内の故に候。内匠《たくみ》日ごろ公儀を重んじ奉り勤仕《きんし》いたされ候段は各々存知のことに候。内匠へ家来中奉公の筋はすみやかにその地を引払い城|滞《とどこお》りなく相渡され候段、公儀を重んじ奉り内匠日ごろの存念に相叶《あいかな》うべく候間申すに及ばず候えども、おいおい指図《さしず》のとおりこれを相守られ早速|穏便《おんびん》に退かれ候段、肝要のことに候。この旨家中の面々これを承知し納得あるべきもの也。
[#地付き]巳四月五日戸田采女正 判
浅野内匠家老中 番頭中 用人中 目付中 惣家中
追啓 御当地に詰合候面々は、最初より右の旨《むね》談ずることに候。以上。
ただただ城を開け渡せというのである。これは采女正様からのお手紙と聞いた時、内蔵助にはわかっていたことだった。内匠頭の弟大学の手紙も同じようなことをいって来ている。最後に、江戸家老安井、藤井の両人からも嘆願など以てのほかのことだと、くどくどしく書いて来ていた。
内蔵助は、この全部を読んで、微笑した。
「なるほど、これは御親戚らしい御意見だな」ただ簡単にこういった。
何ゆえおれが最初いったとおりやらなかったか? これは愚痴である。この二人をもっと覚悟のある人間のように信じたのは、あきらかに自分の眼鏡違いであった。何もいわず、内蔵助は二人を立ち去らせた。
御親戚の意見など今更|承《うけたまわ》らずともよくわかっているのである。この度内匠頭がしたことだけでも迷惑しているところへ、今度はその家来達が何かやると聞いては、親戚たるものがいよいよ狼狽するのに無理はない話である。
次の日になると、戸田家の家臣|正木笹兵衛《まさきささべえ》、荒渡《あらわたり》平右衛門の二人が采女正の別の手紙を持って、赤穂へ乗り込んで来た。采女正は、多川、月岡に渡した手紙だけでは不安になって、またこの二人を寄越《よこ》したのだった。
二人が来たと、主税が父親のところへ知らせると、内蔵助は、やれやれうるさいなというような顔付で皮肉な微笑を漏《も》らして立ち上った。
開城……
内蔵助が突然に提議したのはこれであった。四月十二日、戸田采女正の使者が江戸から来た日のことである。籠城をやめ殉死をやめ城を明け渡す理由として、内蔵助は「御親戚方の御意見」をたてにしていた。その主筋にあたる方々の御意見はかくかくである。これを無視することは如何か? 自分達のすることが御親類方殊に御舎弟《ごしやてい》大学様に影響を及ぼすことをよく考えて見ねばなるまいというのである。
この日は、江戸へ嘆願に行った多川、月岡の両人が昨日戻って来たと知れわたっていたことで、江戸の首尾は如何かと、藩士は殆ど漏れなく通知に応じて参集していたので、大広間は人が溢れていた。
開城……
座に電流の如く、わたったものがある。高さも平均して揃った稲田を眺めるように規則的にならんで遠くなるほど濃《こ》く見えた|※[#「衣へん」+「上」]※[#「衣へん」+「下」]《かみしも》の肩が波のように動いた。幾百となくならんだ顔が、めいめいに興奮の色を泛《うか》べて動いている。突如として、その一角がふくれ上るように突起を作ったのは、顔を赤くして立って大声で叫び出した者があったのを周囲の者が争って制したのである。その者の声は聞きとれなかった。座は騒然として湧いている。別の方角から、
「それが御家老の御量見か?」と叫んだ者がある。これは内蔵助の耳にもはっきりと聞えた。また、これを制している者が見えた。内蔵助は、風のわたる雑木林を見ているような心持だった。
過日の連判に加わった者が、不安を抑えた目付で、自分の方を見詰めていることも知っていた。また隣に小さくなって坐っていた次席の大野九郎兵衛が、興奮した様子でにわかに前へ乗り出して、しきりと膝を動かして爪を噛んでいるのも知っていた。
(あらし……あらし……)
胸の中でどういうものか、こうつぶやいている自分に気がついて、思わず微笑を感じた。
成程これは嵐だ。しかし、困難は、むしろこの後に来るのである。こんな嵐はすぐと過ぎる。騒ぐのは無理もないが、また馬鹿である。静かに、静かに……内蔵助の大きいひとみは、こう語りながら、海を照らす燈台の光のように座を押えている。
何か叫びながら、荒々しく席を蹴って出て行った者もあって、この大広間を一つの水盤としてその水のようにゆれ動いていた一座も、やがて段々と静かになって来た。
「御意見は?」
ぽつりと、重いくちびるが動いた。
「いや、御城代の仰せ、御尤千万《ごもつともせんばん》。われ等にさらに異存は御座らぬ」
勇ましくこういい出したのは大野九郎兵衛だった。
「御親類がたの御迷惑も一方ならぬ儀じゃ。先君の御忠節もこれによって相立つ。御承知のとおり拙者《せつしや》は、そもそものはじめからこの意見でした」その勝ち誇ったらしい様子が内蔵助の腹の底に微笑を呼んだ。
頷《うなず》く者がある。「千万致し方御座らぬ」といい出す者がある。内蔵助は、厳粛に「では、これを藩としての意見ときめる。向後《こうご》も城の明渡しの済むまでは自分一存の指揮に従ってもらいたい」といって、立ち上った。
と見て、ばらばらと立って帰る者が多かった。家には妻子が事の成行を気遣って待っているのである。籠城だの殉死だのと様々の説が行われて、去月来《きよげつらい》いうばかりなく落着きのない不安な日が続いていた。浪人になろうという好くない運命にしろ、きっぱりと定ってしまえばまた一肩おりた心持で、これから、どうするか? 早くきめた方が勝だ、と何となく先を争わねばならぬような気持も働いて来る。しかし、また心から絶望を感じたように俄《にわか》に動こうともせず、席に残って黙然《もくねん》とうずくまっている人々もあった。
(あらし、あらし……)
内蔵助は、心持うるんだ声でこうつぶやきながらいつもより厳《いか》めしく顔の筋肉をひきしめて、廊下をさがって来るのだった。
大野九郎兵衛も、すぐは屋敷へ帰らずに城中に帰っていた。九郎兵衛は、開城ときまって、やれやれと安心した方の一人だが、散会となって内蔵助が立って行くと同時に、自分も立ちながら、付近に坐っていた玉虫七郎右衛門に目くばせして廊下へ出た。
「やられましたな。まんまと、一ぱい食わされた」九郎兵衛は苦虫を潰したような顔付になって吐き出すようにこういった。
玉虫が、この言葉の意味がよくわからなかったように無言でいると、
「つまり……」と、丁度廊下の行手に曲ろうとしている内蔵助をあごでさして、
「寛厚《かんこう》をよそおっているが、実に驚くべき策士だ。心にもなく殉死の籠城のといい立てていたのはわれわれを疎外するためにきまっている。今の今となって、開城とはよくいえたものだ。われわれも正直すぎた」
「左様でしょうか?」
「そうだとも、そうだとも、それに違いない。近頃のかれの専横《せんおう》振りはどうだ? 先君御在世のみぎりは、何事も不肖この九郎兵衛をおたのみ遊ばされ殊に金銭の出納《すいとう》について、殖産について及ばずながら私が一切のきりもりをして来ている。ところが、この度のことあってにわかにかれがのさばり出て永年の経験から出た私の意見など風馬牛《ふうばぎゆう》の態度をとるようになったのは、いわれなくてはかなわぬところだと思っていた。いや、今日になってかれの肚《はら》も知れた。実に呆れはてたる人物だ。つまりはわれわれが小心なことを承知で、籠城じゃ殉死じゃと血の気の多い無法者達の人気をとって巧妙にわれわれを圧迫して沈黙させ、蔭で独存でうまく利をはかったのは知れたことだ。油断はなりませぬぞ。遅蒔《おそまき》ながら今日以後は言うべきことは言って、厳重に監視せねば……とんだ目を見ますぞ。ほかの場合ではない。これから一同が扶持《ふち》をはなれて浪人しようとする際に、いや、実に怪《け》しからぬ男だ」
「あるいは、そんなことだったかも知れませぬな。何しろ、このどさくさの際ですから、やろうと思えば何でも出来る。金穀《きんこく》の分配について、殊に下の者に厚くしようとしたことなど、やはり人気取りの策でしたろう」
「そうだとも、それにきまっている。実に驚き入ったる根性だ。われわれの多年の功労など、最初から知って知らぬ顔じゃ、無論、あの男だから相当味方を手なずけてそれとわからぬように巧みにやっていましょうが、この際何とかせねばならぬ自衛の問題だ。岡林氏外村氏にも、話して置きたいが……」
「お、外村があれへ……」
まことに外村源左衛門が誰か人を探している様子で、大広間の入口にあたりを見廻しながら立っているのが見えた。
「外村氏……」と、玉虫が呼ぶとはッとした様子でいそぎ足で来て、
「御家老、すばしこい奴がいます。札座役人《さつざやくにん》の中で小判をつかんで行方《ゆくえ》をくらました男があるといいます」
「えッ?」
「開城ときまる……と早速ですからあきれます。すぐと、奉行の岡島から訴《うつた》え出て、追っ手を出したそうですが……ひどい奴があるものじゃありませんか?」
「そ、それだ! そのくらいなことはあるよ。だからいわないことじゃない。よほどの大金か? 一体、誰だ? ふむ、そりゃア小役人どもばかりのしたことじゃない。奉行だって、どんなものか……」
「もし、原がいます」と外村が注意した。
原惣右衛門は札座奉行岡島|八十《やそ》右衛門《えもん》の家兄にあたる。九郎兵衛の声を聞いて、惣右衛門がきッとして振り返ったのが見えたのだ。
「むむ」と九郎兵衛は口をつぐんだが、二人をさそって歩きだしながらまた小声で、
「油断ならぬよ、火事場泥棒という奴だ。どこにどう蔓《つる》がつながっているかわかるものか……用心が大切じゃ」
廊下をまがろうとしたところでまた気になってそっと振り返って見ると、惣右衛門が立ち上るのが見えた。九郎兵衛はぎょっとしたらしくふとった玉虫の躯の蔭に隠れるようにして、にわかに小刻みにいそぎ足になった。
すこし行って、また振り返って見ると、惣右衛門はつかつかといそぎ足で後を追って来る。
九郎兵衛は、狼狽していよいよ足をはやめて、玄関へ出ると、真ッ直ぐに屋敷へ帰った。
「玄関をしめて置け。今日は誰が来ても不在だというのだ。誰にも会わぬぞ」
門番にいいきかせて、そこそこに家にあがる。間もなく、惣右衛門が来たらしく、門内で門番と高声で話しているのが聞えて来た。
「御他出か……? 然らば、後刻舎弟八十右衛門が参上つかまつるゆえ、必ず御在宅を願うとお伝え置き下さい」
九郎兵衛は蒼くなった。
殊に、金穀の第二回の分配が最近にあろうというので、その割当について内蔵助に主張したこともあるのだが、これは、意外の口禍《こうか》である。
「郡《ぐん》右衛門《えもん》、郡右衛門……」と長男を呼びだした。
「早速だがな、うう、これからお城へまいって玉虫氏、外村氏に会って、ちとお話致したいことがあるからおいで願いたいと……あ、いやいや、御両所が来られては、私のいることが知れてまずい。うう……おお、こうじゃ。この度の配分の目安はな、前のように知行高《ちぎようだか》の多いほど率を減ずるというのは、穏当でない。大身には大身の分限《ぶんげん》あって、小身とは違い、入用も多い、なるべくならばこの度は知行高に応じて割り当てるように致すのが公平と思うゆえ方々の御尽力を仰ぎたい、この際同志の結束を堅くして連名でこれを申し出たいから、しかるべく願う……とな。うう、それから、誰か一人、味方の者が必ず役所に居残って、不正のなきよう充分用心する手筈をとってくれるよう……よくお話致して来い。私の考えは、その方よく存じておるな?……うむ、やはり、誰か一人来てもらおう。失礼ながら、裏口から、と申せ、さ、さ、早く」
が、このままで、いつまでも留守をつかっているわけにも行かない。自分で出て行って万事監視しておらぬと、どんなことが起ろうかも知れないように思われる。
九郎兵衛がしきりと爪をかんで考え込んでいるうちに、
「たのもう」と玄関で呼ばわる者がある。
札座奉行岡島八十右衛門の声だ。
(来たな!)と、九郎兵衛は仰天して、
「留守といえ。何で、門内へ通したのか? 他出だ、他出だ」
「たのもう!」
玄関では、ひときわ高くいう。
岡島は、兄から始終を聞いて、烈火の如く立腹して来たのだ。
「ただ今、主人は他出中に御座りまする」
「他出? ふむ、何刻《なんどき》ごろ戻られるか?」
「それも、ちと、わかりかねまするが……」
「八十右衛門、至急拝顔を得たい儀があって参上つかまつった。御帰宅あったれば必ず早々お知らせ願いたい。明日ということはなりませぬ。火急の用事じゃ。御案内なくば、手前の方から伺います」
清廉《せいれん》で気骨のある男だ。殊にこの度の大変にあたって九郎兵衛が示した卑劣な態度をかねて憤慨していたところへ、痛くない腹をさぐられ賊呼ばわりされたことで、返答によっては一刀両断と思い詰めて掛合いに来ている。
「真蒼なお顔色をしておいででした」取次の者が九郎兵衛にこう報告した。これを聞く九郎兵衛の顔色といったらなかった。
弱った、弱った……と思っている内に日がくれる。弱った、弱った……は、来るぞ、来るぞ……とまるで尻尾に火がついたような脅迫観念と変って、門口の方に足音のする度に席から腰を浮かせた。
「戸、戸を締めてしまえ。それから岡島のところへ使をやり、今宵は差し迫った用事が御座れば、お目にかかり難いといわせて来い」
九郎兵衛は、自分の臆病な心持がなさけなかった。これは確に自分の性格の唯一の弱点である。他の点では、自分は正しいのだが、小心だということはこんな場合にはまったく致命的だ。もっと勇気があって闘争を敢て辞さない人間に出来ていたら、岡島如き暴漢を恐れぬばかりか今度のことなど大石づれに勝手に掻き廻されずに済んだのである。
まったく人間というものは、どれだけ時世が進んでも、やはり腕力が最後の勝を占めるものだろうか?
九郎兵衛は、それを考えると、つくづくと情《なさけ》なくなるのだった。
「頼もう!」意外に、岡島の声が玄関で聞えた。
「病気だ……病気だといってことわってくれ……」と、あわてて、家人にいった。
短気の岡島は、玄関の戸へ手を掛けて、がたがた鳴らしている。
「至急の用で御座る。おやすみになっていられてもこちらは差支《さしつかえ》御座らぬ。おあけ下さい」
戸を隔《へだ》てて押問答をしているのである。
九郎兵衛は、実際恥を忘れて戸棚の中へ隠れたくなった。
岡島の声がまたいった。
「九郎兵衛殿にはお城において、この八十右衛門が札座の御用金を私したかのように噂せられたと承る。武士の恥辱この上はござらぬ。右につき、しかと御所存承りたいのだ。なに、左様な覚えはないといわれる? よろしい、証人を連れて改めて参上仕ろう」
岡島八十右衛門は最後にこういい放って帰って行った。ほッとも出来ない。改めて証人というからには原惣右衛門を連れて来るであろう? ところで、この原というのが、ひととおりでなく強い上に、いつか会議の席で九郎兵衛に迫って退席を命じたのもこの男だった。
「どうしよう。相手が悪い」
「これは、今夜の内にひとまず、どちらかへ御退散になる方がよろしいでしょう。お城へは病気保養のためと届け出て置けば、全然縁が切れるというものでも御座りませず、家財はまとめて、然るべき町人に預けることに致しましたなら……」
倅《せがれ》の郡右衛門がこういい出した。
「そ、そうだ。早速そういたそう。とにかくいつまでおったところでいいことはない。乗物をたのむ。荷物のことは舎弟にたのもう。しかしお前はどうする?」
「私も無論こうしてはいられますまい。父上がいらっしゃらなくなると、今度は息子の私が憎まれる番ですから」
「うう、もっともじゃ。だが、親子一緒に逃げるのは如何《いかが》かな?」
「いや、それは別々にやらねば人目にかかります。幸い荷ごしらえをしてあったのは何よりでした」
よく似た親子だった。
家財は大分前から何時でも運び出せるように支度してあって、九郎兵衛の分が七十幾箇、郡右衛門の分が九十幾箇ある。郡右衛門は直ぐ叔父の伊藤五右衛門のところへ行って、この荷物の保管をたのんで帰って来た。
駕籠はもう来ている。九郎兵衛の分は女の乗物だった。
「こりゃアいい。これなら滅多に人に怪しまれはしまい」と、こっそり匍《は》い込んだ。
間もなく暁近く一層濃い闇の中をぴたぴたと足音のみ聞かせて、九郎兵衛を乗せた女駕籠は国境に向った。
郡右衛門の駕籠の支度が出来た。これには女房同伴である。あわてて、駕籠へ乗ってから気がついたのは、乳母《うば》に抱かせて寝かしてあった乳呑児《ちのみご》のことであった。
「ばあや、ばあや……」と女房が庭口から呼んだが返事がない。
「早くせぬか!」
駕籠の中から郡右衛門が呶鳴《どな》った。
「あ、どなたか提灯《ちようちん》をつけていらっしゃいました」供の者が駈けて来ていう。
「岡島かも知れぬ。こうしてはいられぬ。おい早く来ぬか! 赤児は後でどうにでもなる……」
「でも……」
「えい、愚図愚図いたすな。とんでもないことに成る……それ、やってくれ!」
よく眠っていた乳母にだかれて子供は何も知らなかった。その提灯も岡島が来たわけでもなく、ただ通りすがりのものだった。
夜があけると、九郎兵衛から田中清兵衛、同じく権右衛門にあてて、「病気保養のため尾崎新浜付近へ当分まいります。このことを御一統へお伝え下さい」と使いを寄越《よこ》して来た。そこで直ぐこの二人から内蔵助へ届けて来た。その内に昨夜大野父子が舟で他領へ逃げたことを各方面から知らせて来た。
内蔵助は、これには流石に呆れて、暫く口がきけなかった。
「何という人々であろう。かりそめにも一藩の家老が、城の明渡しもすまぬ内に逃げるとは無責任きわまる話だ。殊に外へのきこえもある」
内蔵助は、これまで九郎兵衛の財政上の手腕をかなり高く買って好意をおしまなかった。事変以来疎外する傾きのあったのは、ただこの非常の際に独断専行を必要としたからで、平時における九郎兵衛の奉公ぶりに敬意を失っていたわけではない。
「困った人だ」といった。
直ぐと、内蔵助の命令を受けて片岡源五右衛門が、大野の親戚伊藤五右衛門、八島|犇《ひし》右衛門《えもん》のところへ駈けつけた。
「お城明渡しのすむまで他領へ行かれることはお差止めになる。このことを大野父子にお伝え下さい。そうそう帰宅あるように」
「それは手前どもが承るべき筋合ではありませぬ。大野がいずれへまいったものか、一向に存じませぬ」
伊藤、八島両家の返事はこれで至極冷淡なものだった。両家とも情を知っていて大野の行方を隠していたことは、後に伊藤が大野の家財の管理にあたっていたのでもわかった。
父子の家財は、大津屋十右衛門、木屋庄兵衛の二軒に隠してあることを、誰かさぐり出して来た。また郡右衛門が赤ン坊を置きざりにして行ったので、乳母が困っていると知らせて来た者がある。
「みさげはてた人々だ」
内蔵助もこうなると腹が立つよりも、むしろあきれてしまった。
「大津屋、木屋にある荷物は悉く差し押えて、封印をほどこし、こちらから許可を与えぬ内は、本人にも渡さぬようにいい付けて置け」といったが、笑って、
「乳のみ児に封印をつけるわけには行くまいな。然るべき者に預けて扶養《ふよう》させて置いてやりなさい。その内、取りに来るであろう」
大野父子の醜い仕打ちを怒っていた足軽《あしがる》達は喜んで、大津屋、木屋の二軒へ出かけ、必要以上に厳重に封印しながら、こりゃア痛かろうと口々にののしって笑った。
大野親子はその後行方がわからなくなった。恐らく一味の者から赤穂でどんなに悪い評判がたっているかを聞いて流石に帰れなくなったものであろう。京都辺にいるような噂もつたわったが真偽は誰も知らない。そこで、赤穂の城の明渡しがすみ、顔馴染《かおなじみ》の人達が離散して行方が知れなくなってからも、城下の大津屋と木屋の二軒の家に、九郎兵衛父子の家財は荷ごしらえをして封印をほどこしたまま残っていた。
「邪魔で困りますよ」
両家の者は、こぼしていた。梅雨時になって壁が黴臭《かびくさ》くなった時分にも、ほどいて日に干すわけにも行かなかった。しかし、その時分はまだ町内の者が、大野が取りに戻って来るのを楽しみにしていて、
「大津屋さん、どんなことがあっても渡しちゃいけませんぜ」と、話のある毎に、妙な|だめ《ヽヽ》を押した。この荷物を保管して置くのが大津屋、木屋二軒の責任というより、町内中の晴れやかな義務のように心得ているらしかった。
来るぞ、来るぞ、……と思って待ち構えているのにいつまでも九郎兵衛が出て来ないので、流石に人々は待ちくたびれて、内海特有のむし暑い夏が来て夕涼みの縁台に団扇《うちわ》を動かしながらの話にも、九郎兵衛の荷物のことは、もとのように人々の関心をそそらなかった。
その内八月に入って秋風のたちはじめた二十六日のことである。月のない暗い辻をこっそり歩いて来て大津屋の暖簾《のれん》をくぐって入った二人の道中姿の武士があると思うと、これが意外にも九郎兵衛父子だった。
「久し振りだの」
九郎兵衛は、昔のように横柄《おうへい》な様子でこういった。
家財を引き渡してくれというのである。
大津屋の亭主は、町内中の後押しがあると思うから内蔵助の厳命をたてにとってきっぱりと断った。
「何と申す?」
九郎兵衛は大きな目をむいて怒った。
「手前が預けたものを引き取るのに何で他人の許しがいる、まして城代城代という大石がどこへいっているかもわからぬ。そんな人間に一々挨拶していてたまるものか? たわけも休み休み申せ」
「そりゃア御理解ごもっともで御座りましょうが……手前はそれでよろしいとして後に町内の者が何と申すかわかりませぬ。一つ誰かやりまして一同を呼び集めてまいりますゆえ暫くお待ちを」
「あ、……それには及ばぬわさ。これ十右衛門、ききわけの悪い男だな。誰も呼ばなくともよい……な、このたびは忍びで来たのじゃ。表向になるのを好まぬのじゃて。……うう、私も昔どおりならば、これだけの家財は何でもないが、知ってのとおりの仕儀でここ半年ばかり浪々している間にたくわえの金も手薄くなり、どうも、まことに尾羽打《おはう》ち枯らして難渋《なんじゆう》しておる。そちも昔のよしみを思いわれわれを気の毒じゃと思うて、渡してくれい。たのむ。な、おい十右衛門、どうじゃ?」
「で御座りますから、町内の衆と談合《だんごう》仕りました上で……」
「や、待て待て……どうも、そんな変屈な人間とは思わなかったが……それでは、よい。思い切ろう。改めて大石氏から証文をもらって出直してまいろう、……駄目かな十右衛門……礼は致すが……」
大津屋は頑《がん》としてきかないのである。
刀を抜いておどかすわけにも行かない、九郎兵衛も郡右衛門も仕方なく、では、今夜一晩だけ泊めてくれというのだ。
流石に、これは承知した。
九郎兵衛と郡右衛門とは、その夜家内の寝鎮《ねしずま》ったのを見て、預けておいた刀箱の中から金をつかんで闇にまぎれ逃走した。
それと見て大津屋が町内をたたき起してあるいた。
「なに、来た?」
みんな愉快がって出て来た。あてをなくして、落胆していた楽しみに、急にまた熱中して、棒や竹切れを持って親子の後を追いはじめたのである。
地理に明らかな追手は間道づたいに出て九郎兵衛父子の駕籠を待ち伏せた。待つほどもなくあけがた前の闇に提灯《ちようちん》もつけず、ぴたぴたと足音のみ地面に聞かせて、近寄って来る。
うわーッと出た。
その不意に驚いて駕籠は投げ出された。父子はころげるように外へ出て、抜くばかりに刀を構えた。
「何者だ!」
追手は名乗ろうにも自分達の一団をさす名称が見付からないのでだまっていたが、相手をなんと呼んでいいかは知っていた。ぬすっと、どろぼう……類似《るいじ》の呼び声がどっと起った。打ちおろすばかりに棒を振り上げているものもある。人数もおよそ三十ばかりの大勢だ。
「慮外《りよがい》なッ!」
郡右衛門が叫んで、抜こうとした。その手をかえって九郎兵衛が抑《おさ》えた。
「ま、待て……待て」
九郎兵衛が動転している中にも、ここでこちらから抜いては大変だと気がついていた。相手が悪い。またその人数は加わる一方なのである。
「賊とはなんだ?」
「大津屋から金を盗んで来たろう?」「どろぼうだ。禄盗人《ろくぬすつと》だ」「なぐれ、なぐれッ!」
大勢の口が競《きそ》ってこうわめきだした。
「あ、これ……」
九郎兵衛は泳《およ》ぐような手付をしていった。
「それは間違いじゃ。その金というのは、誰のものでもない私のものだから……私が持って来たのに不思議はないのだ……」
「嘘だ」「ありゃア町内で御城代様からお預かりしたものだ。挨拶なく持って行くのはぬすっとだ」「連れてけ。城下へ連れて帰れ!」「そうだ、引っ張ってけ」
事態は険悪になるばかりである。この原因を九郎兵衛は階級的な反感に帰して、余計恐しくなった。理窟はかれ等の耳に通じようもないのである。
(相手が悪い、相手が悪い……)
知らず、知らず、膝の関節がふるえて来ていた。
「か、金を返したらいいだろう?」といった。
「駄目だ、ひっぱって帰れ!」
「金だけの話じゃない」
郡右衛門は虚勢を張って腕を組んで立っていたが、これも父親が申し出たことに反対しようともしない。
「ま、ま、それで勘弁してくれ。な、私達が断りなく持って来たのが重々わるい。あやまる、あやまる。穏便にしてくれ。金子が、ここにある……うう、昔のよしみもあることじゃ。な、たのむ。悪かった。重々わるかった……」
「どうする?」
金を受けとった男が振り返ってこうきいた。一同も迷った様子である。案外に|しっ《ヽヽ》腰なく下手から出られてあきれたばかりか、これが半年前にこちらがびくびくして威勢に恐れた相手だっただけに、これだけでも大勝利だとも思われるのである。
「いい加減にしてやろうか?」
大きく、こういって出たのは、町内の顔役になっている樽屋《たるや》の亭主だった。まだ、口ぎたなく罵《ののし》っている者もいたが、大体話はこれでまとまって、やがてしらじらと明けて行く松並木を、この連中はぞろぞろ引き上げて行った。
父子の者はその前に逃げるようにして歩き出している。暫く行って、郡右衛門がぶりぶりしたようにいった。
「お父さんは、あんまり気が弱すぎる」
九郎兵衛は不機嫌に口をへの字に曲げて泣きそうな顔付になった。自分達ぐらいこの世で不仕合せなものがあろうとは思われなかった。
すこしずつ、朝日が並木の松を明るくして来る。ほこりの白い道が二人の目の前に、ずっと遠くまで走っていた。
九郎兵衛ぐらい醜く狼狽したものは、ほかになかったにしても、開城ときまって人々が不安を感じたのは一様だった。
これまで続いて来て夢にも変ろうとは思わないで来た生活の道が中断される。是が非でも人々は新しく、くらしを建て直さなければならなかった。
「おれアもう主取りはしない。どこか田舎へ引っ込んで畑でも耕そうと思う」
妻に向って、投げたようにこういっている者もある。妻は、また前途の不安を感じながら無心に乳を呑んでいる子供の顔を見つめているのである。
仲のいい同士、額《ひたい》を集めて、日夜行末の相談をしている人々もあった。
「こうなると、籠城ときまった方が思い切りがよくて、よかったな」
「そりゃアそうだ。おれ達だけだったら」
さびしい笑いにいろどられて、こんな言葉がかわされた。
所詮《しよせん》各自がめいめいに道を拓《ひら》いて行くよりほかはない。主人に限らず、誰か他人にたよって生活するのは安気のようでいて決してそうでない。やはり人間は自分の掌の汗で獲《え》たものでくらすのがほんとうの道ではないか……などと、今まで城下の町人や百姓に無制限に威張ることの出来た武士という地位を、何か不合理なもののように振り返って考える人々もあった。物の見方考え方が昨日と違って来ているのである。かねて、覚悟のこととはいえ、動揺はなかなかしずまらなかった。
城代として責任のある地位にある内蔵助が最も心を苦しめたのもこの点にあった。藩全体を襲うた不幸を出来るだけ軽くしてやるということは、あるいは復讐よりも大切な最後の御奉公であろう。赤穂の浪人と、どこまでも藩の名をつけて呼ばれる限り、たとい諸国に離散していても不名誉なことがあっては、お家の恥辱、亡君の御名にかかることで、殊にこの際醜いことのないように、おもむろに向後《こうご》の計画をたてられるよう落着かせてやらなければならないと思うのだった。復讐に加わる加わらないで忠不忠の区別をたてようとは思わない。みんな朋輩なのである。いわんや、ともにこの度の不幸を受けたものである。
内蔵助が、受城使の来る前に、ありとある仕事を解決して置きたいと思う内にも、特に心を用いたのは右の点だった。未納の租税《そぜい》、貸下《かしさげ》の国庫金の徴収《ちようしゆう》はもとより、大阪の蔵屋敷から出ている資金を悉く回収させ、これを人々の経済を救うために用いた。
人々は内蔵助の心づくしに感ぜざるを得ない。この困難の時だけに、身にしみてうれしかったのである。しかし過激な不平家から見れば、こんなことはどうでもいいのである。ただ、おめおめと開城しようとしている内蔵助に段々と執拗な敵意をかためて来たのである。
この春ばかりはかえり見られることもなかった八重桜が、一本だけ松に混って十四日の朧《おぼ》ろ月夜に寂しく散っている……この土手から見ると、右も左もひろびろと平らにひろがる塩浜で、四つ過ぎての夜は、潮をたく人々も去って森《しん》というばかりなく寂しかったが、この時刻に町の方角から土手にぽつりとあらわれた影法師があって、すたすたと松の間をいそぎ足で来た。
朧ろな月影が、男の恰幅《かつぷく》のいい肩にあたっている。すこし前から何か探している様子で、あたりを見返りながら来たが、
「親分さん……」と、あだっぽい声を先ず聞かせて、これこそこの朧ろ月夜に浮かれて峰の桜が降りて来たように、土手の下の塩屋の前に立ったのが、お仙だった。
「お!」
「こちら……」
「いや、お待たせしましたね」
幅のある声は蜘蛛の陣十郎だった。
「いい晩ですな」
「ほんとうに、好いお月様ですこと」
「お月様はいいが、なんだか、こりゃア……村の兄貴《あにい》が、いいひとに会いに来たような景色だね。もっとも、このあんちゃん、もう大分|薹《とう》がたち過ぎているが……」
「さア、どちらのことですか……」
お仙は笑いを含みながら、土手へあがって来た。
「どちらでお話しましょう」
「まあ……ここらなら、持ってこいの場所でしょう。誰かに見とがめられても、まったく男と女の一組だ。ここらへお掛けなさい」といって、自分は、すこし離れて、まともに降る月光の下にしゃがみながら、腰の煙管をさぐった。土手の下で、ころころと、蛙《かわず》が鳴いている。
「変ったことがありましたかね?」
これは、今までの冗談口とは改まった言葉だった。
「別に……でも、例の方のが、どうやら薬がきいてまいりましてね。ただもう城代が城の外へ出るのを待っているばかりなンです。何しろ、これまで、ひと足だってお城の外へ出ないンですから……」
「うむ」
うなずく陣十郎の鼻の穴から月に青白く煙草の煙が漏《も》れて、横に流れた。
「いったい、幾人ぐらい……」
「七人なんです」と、お仙が答えた。
「七人?……赤穂の人もはいってるンですかい?」
「ええ、三人だけ」
「まあ、七人いりゃアものになるでしょう。だが余程段取りよく運ばないと逃しますぜ。どうもこの四、五日、えらい警戒だ。ひっきりなく……足軽が組になって廻っているし、おふれでも出たと見え町々の夜番もずっと夜明しのような騒ぎだ。なんでも城受取りの御上使が兵庫あたりまで来ているというから、この際|粗相《そそう》のないようにしようというンでしょうがね。お蔭で私達も碌碌《ろくろく》歩けなくなっているが、あんたの方も念には念を入れないとしくじりますぜ。江戸からお寄越しになったお武士衆《さむらいしゆう》にやっていただくのなら、その心配もあるまいけれど、兎に角|土偶人形《でくにんぎよう》を踊らせるのじゃア……人形つかいのあんたが、よくよくしっかりしないといけない」
「ええ、実をいえば、あたしも、それが心配なンです。でもこの前お話したとおり千坂様から、じかにおれの息のかかっている人間は当分使わずにやれ……というお話なンですから……」
「そりゃアごもっともなことさ。まかり間違えばお家の名前が出ることだからね。いずれ二段三段の構えをたてておいでなすって、よくよくの時までは、あちらのお手が入っているたア、相手に知られたくないのさ。でなけれア、まるでこちらから喧嘩を吹っ掛けるようなことになるからね。流石は、先の先までよく行き届いた御計略だなあ……だがよ、それにしても、大事なのはその人形のほうだが……」
陣十郎は内蔵助刺殺の目的でお仙が煽動《せんどう》した七人の過激な男達が、どの程度までやれるか、まだあまり信用出来ないでいるらしい口裏で、
「無論、口止の方は充分しておありだろうね? いやさ……元気な人に限って、えて口が軽いもんだからね」
お仙もそれによく注意していた。大言壮語はあの連中の常習だが、かれ等は一面普通人にはない、ひたむきの素朴な心持に支配されているから、一度暗示を与えて置くと、馬鹿正直なくらい律義《りちぎ》にこれを守る。だから、その点も御心配になるほどのことはなかろうと思う、というのだった。
「それに……」と、お仙は笑って、
「とにかく、明日か明後日の晩のことなのですから……行くとはっきりわかっているわけではありませんが、城代が華岳寺《かがくじ》というお寺の和尚《おしよう》様と懇意《こんい》で、よく話に行く。近頃、多用で行かないが、もういろいろの仕事のけりもついたので、明晩あたり出掛けるらしいという話なンです、その道はあたしも見て来ましたが、ほんとうにおあつらえ向きに淋しいところで、夜になれば滅多に人通りがないンですから……」
「ふむ」
「それに千坂様がお寄越しになったお武士衆にもおいでを願って、遠巻きに邪魔がはいらないようにして戴きますから……口幅《くちはば》ったいようで御座いますけれど、つまり袋の鼠で、どうやら都合よく行きそうな気もいたします」
「むむ。なるほど……」
陣十郎は膝を打たないばかりにいった。
「それまでに、よく手配がしておありなら、こりゃア安心なものだ。うむ、よくおやんなすった」
「おほほほ、こんどはいやに油をお掛けなさいますね、親分」
「そうじゃない、度胸といい頭の働きといい、まったく女には惜しい、見上げたものさ。どりゃ、堀田さんにも早く話してよろこばせてやろう。……うまくおやんなさい。吉左右を待っていますぜ」
「有難う存じます」
お仙も立ち上った。
「じゃ、そこいらまで御一緒に」
月の明るい土手づたいに、ぶらぶらと、この二人は歩き出していた。夜どおしで働いているものと見え火が赤く燃えている塩屋もあって、白い煙が月光に流れて、ぼやけた丘の輪郭に靄《もや》のようにかかっている。景色は、歩いている二人の胸に描かれている物騒な陰謀にはかかりあいなく、まったく夢のように美しかった。
「人が歩いてたように思ったが……」
ふと、陣十郎が不審そうにいいだした。
「そうでしたね」
お仙も、たしかに、ずっと一列の松の木の影を倒した行手の月あかりに、人影を見たように思っていたのである。
「急に消えたのはおかしい」
「塩の人足だったのじゃありませんかしら?」
「そうかも知れないが……」
まだ気になる様子で、塩浜のあぜ道をずっと見廻したが、それらしい影をとらえ得なかった。
「あ、きっと松の影だったンですよ」とお仙がいった。
しかし、これは、やはり陣十郎が見たとおり人だった。塩屋の釜で焚《た》くためにこの土手道の片側に小山のように積んで乾かしてある、枯れ松葉や海草の束の蔭に、一人の乞食が莚をかぶってもそもそして寝ようとしていたのがこれであろう。なアンだ! と思いながら陣十郎は、遠く離れて江戸にいる宗匠《そうしよう》の其角《きかく》のことや、また遂にものにならなかった自分の俳諧《はいかい》のことを思い出して苦笑を感じはじめた。
上使は一両日の後に赤穂領内へ到着のことになっていた。これを迎えて城を明け渡すまでの万般の事務は内蔵助の指揮によって無事に終った。不用の書類は焼き棄て、武器、糧米など城の所属の物品で城と同時に引き渡す筈のものは一々|目録《もくろく》を作って厳重に管理する。あとは掃除が残っているだけで、これも、城内はもとより上使の通る国境までの街道を醜いところのないよう、人夫を督《とく》して浄《きよ》めてある。この三日間内蔵助は殆ど不眠不休だった。が、暮方|入日《いりひ》に明るい城内をひととおり廻って見てから、久しぶりで屋敷へ帰って来て一睡した。
子供の主税が見ても、面やつれがして、痩《や》せたように思われる。機嫌が悪くて、むっつりと口重かった。主税は、久し振りで父の顔を見て悦んではしゃいでいる弟達をたしなめて、父親の睡りを妨《さまた》げぬようにした。しかし、灯ともし頃になると、もう父親は起きて来ていた。睡ったのは半刻《はんとき》ぐらいのものであろう。ぬっと子供達のいるところへ入って来て坐ったが、主税に、
「風呂が湧いているか、きいて来てくれ」といった。
主税が引き返して来て見ると、父親は珍しく弟や妹達を相手に何事か笑いながら話している。一番ちいさい三歳になる妹は父親の膝《ひざ》に抱き上げられているのだった。
「もうわいているそうで御座います」
「うむ」とうなずいたが、容易に立たなかった。
「吉千代《きちちよ》はもう十一になるのだから、母上にお世話を焼かしてはいけないぞ。何でも自分のことは自分でするようにおし。本はいまどの辺を読んでいる? よく覚えているかな?」
父親の腕からのがれた末の妹は、よちよち歩いて襖《ふすま》の方へ行ったかと思うと、くるりと振り返る。また、よちよち歩いて来る。そのたんびに転びそうになるのを、父親は、主税の弟に話しかけながら絶えず目で追っているのだった。
父親を子供の部屋に見ることは近ごろ珍しいことだった。主税は、なんとなくうれしい中にも、やがて当然に来る別離を父親もこの瞬間に心に描いているのではないかと想像して、静かに一隅に坐って眺めながら、胸に迫って来るものを禁じ得なかった。
間もなく風呂へ入って食事を終ると、内蔵助は、
「華岳寺さんへ行って来る」といい出した。
華岳寺は浅野家の香華院《こうげいん》で、この十四日にも亡君の御命日で法会《ほうえ》を執行して一同で参詣している。しかし、今夜は、平素から仲のいい和尚を訪ねて、久し振りで話そうというのである。これは、大変の起るまでは、珍しいことではなかった。妻女がすぐに立って行って袴《はかま》を持って来た。
「供は要《い》るまい」と、内蔵助がいう。
「でも、お連れなさいました方が……」
内蔵助が玄関へ出ると、老僕の八介が定紋のついた提灯をつけて待っていた。外は昼間のように明るい月である。
「消して行ってよい」と、笑いながらいって下へ降りた。
門のくぐり戸がばたんと音高く鳴ってから、主税は母親達と一緒に部屋に帰って来た。
「今夜は来ると思う……」
土塀《どべい》の蔭に立って腕組みした男がぽつりとこういった。三人連れの武士で、かいがいしく草鞋《わらじ》で足をかためた、揃って身丈《たけ》もあり、がっしりした男達であった。
「手が出せないのが業腹《ごうはら》だな」
別の一人が笑いながら呟いたが誰か歩いて来た様子を見て、急にしめしあわせて傍の路地へ隠れた。間もなく来たのはお仙だった。と見て三人も安心したように出て来る。
「来ました」
お仙はいった。
「今、お寺へ入ったのを見て、すぐ、あちらへ知らせましたから……もう直ぐ皆してまいります」
「むむ、そりゃアよかった。いよいよ本望《ほんもう》が叶《かな》うか? お働きであったな」
「でも、こちらさんも、見とがめられないようにして下さいましよ。折角のところで、からくりがばれては何にもなりませんもの」
「心得ているよ。だが随分と辛抱役だな。今もつらいといっていたところだ」
「まあ、多分うまくまいるだろうと思っていますけれど、一体相手はいくらか出来るのでしょうか?」
「腕前か? 東軍流の皆伝《かいでん》だと聞くが……太平の今日の家老職だ。真剣で立ち合ったことは無論なかろうし……まあ、家のおやじと同じことだろう」
「千坂様のことですか?」
「そうさ」
「じゃ、七人でかかったら……」
「邪魔の入らない限り大丈夫だ」
「その邪魔の方はお願いいたしますよ、ただすぐひき上げてくださらないと……」
「大丈夫だ。このとおり、このままですぐと旅立てるようにしてある」
月に、お仙は凄艶《せいえん》に笑って、また道を引っ返していった。道がきれると、畑地で、太い赤松の並木が月の夜空を分けている。行手にこんもりとして小暗くわだかまっている中に華岳寺の屋根が見える。内蔵助は、たった今八介を連れて、この道を行った。帰りも、もとよりこれへ来るのである。
お仙は楽しそうに月を眺めた。
間もなく人の来る気配がしたので、いそいで出迎えた。
「柏原《かしわばら》さん?」
「うむ」
七人は、屈強の男達だった。
「ここは見とおしですから」
お仙は、こういって、土手の下の、月には蔭になっているところへ一同を誘った。刺客《しかく》達は一様に口重く、一様に覆面《ふくめん》していたし、動作も何となくぎこちなくて、お仙に陣十郎がいっていた「土偶人形《でくにんぎよう》」という言葉を思い出させて可笑《おか》しかった。
「すこし、月があかるすぎますね」
「そのかわり仕損じはない」
原木がたのもしい返事を聞かせた。
「ではこちらの三君は後へ廻って頂こう。それから……喜田氏《きだうじ》はかねて打ち合せたとおり……」
「よろしい」
一人が頷いた。喜田重兵衛は、古尾谷《こびや》、恒川《つねかわ》の二人とともに当城の者で、内蔵助の方でも顔を知っている。開城の決議の日に席を蹴って帰った剽悍粗暴《ひようかんそぼう》な男である。三人の中で、居合に巧みな喜田が偶然行きあった顔をして近寄りざまの一刀をあびせるのが合図、六人の伏兵が前後から同時にかかろうというのだ。
「あ、来ました」と、お仙がいう。
なるほど、華岳寺の門を提灯が出て来た。人影は二つ。この並木道へ、ぶらぶらと来る。
「それッ!」
誰となく叫ぶと、さっと二手に別れて、三人は萱《かや》を分けて進み、三人は、地にうずくまって、喜田重兵衛一人が頭巾を脱ぎながら道にのぼる。お仙は、裾《すそ》をまくって、藺草《いぐさ》の蔭へ走り込んだ。
寺の門を出たところで、内蔵助は、すぐ傍《かたわら》に枝を垂れている松の蔭に人影を見た。莚《むしろ》を被《き》た乞食……と見た時に、意外にもその乞食がこちらを呼び掛けて来ていた。
「旦那様……」
物を乞《こ》うのにはこうは呼ばない筈である。
内蔵助は無言で立ち止まった。
「変な奴等が旦那様を待ち伏せておりますよ。お気をつけなさいまし」
「どこに?」
内蔵助は目を据《す》えてこの男を見た。汚らしいが骨格たくましい若者で太い竹杖を持っている。
「この先で御座ります」
内蔵助は懐手《ふところで》をしたまま、ものうげに月あかりの並木道を見た。その手を出したと思うと地面に金の鳴る音がした。
「よいわ。人の恨みを買った覚えはない。鼠賊《そぞく》であろう」
こともなげな様子である。
「あいや」
不思議は乞食がこう叫んで片膝をうかせたことであった。
「御大切なお身体では御座りませぬか?」
「私がか?」
鋭く内蔵助はいって、じっと乞食の顔を見た。さあッと松風がわたった。
「とんでもない」
笑いを含んで、つといい放つ。そのまま、あるいは酒気があったのかも知れぬ、肩をひるがえして静かに歩き出した。乞食は無言で退いた。
「旦那様……何か?」
八介がいった。
「むむ、出るらしいぞ。出たら逃げろ」
「でも……」
「大丈夫だ。馬鹿者の一人や二人……」
「…………」
風が出たのである。藺草の畑が波のようにゆれている。月は雲に浮き沈みして、光を明るく、暗くした。
「提灯を消して、畑から逃げるのだぞ」
ひくくいいながら、前方から来る人影に目をつけた。
(喜田が。ほほう……この男か?)
喜田重兵衛は近寄って来た。
「これは……」
挨拶すると見せて、そばへ寄りざま、得意の一手だ。ぱっと刀に手の掛かった刹那《せつな》に、肘《ひじ》が動かなかった。軽く、内蔵助が押えていたのである。
「逃げろ、八介!」
八介は、下の畑へ飛び込んだ。喜田はもがいている。大磐石《だいばんじやく》だ。並の凡くらの家老ではない、讃州《さんしゆう》高松の奥村権左衛門の門に入って東軍流|免許皆伝《めんきよかいでん》の腕である。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿……」
「…………」
あせって、振り切る。咄嗟《とつさ》に後にさがる内蔵助を追って、抜き打ったが、月光を斜にきっている。が、これを合図に、どッと六人の伏兵が起っていた。
「奸賊《かんぞく》!」
との叫び声を聞いた。
内蔵助は飛びすさって、早速に傍の松に寄ったが、はやくも抜いて構えた一刀は、主のために楯《たて》となって、烈しく迫る先頭の白刃を横に受け流していた。息つぐ間もなく敵は続いた。七人の多勢とはやや意外だったし、また揃いも揃って鋭い太刀筋だ。
内蔵助もわれを忘れた。月下に数条の刀身は入りみだれて、夜気はにわかに灼熱《しやくねつ》した鉄の匂いを漲《みなぎ》らせる。路上の土は埃を舞わせて、寸時もとまることなく相闘っているこの一団を包みながら、並木に添って動いて行く……これは、逃れようとする一人の内蔵助へ、七人が必死に追いすがるのであった。
「やるな、やるな!」
「うむ、面白い」
自ずと左の手が刀を握りしめる。月光は三人の影を土塀の面に描いていた。千坂兵部が廻して来た三人の剣客達である。その頭巾《ずきん》の陰に光らせた目にも、並木の中の形勢は満足なものに映じたのである。
「もう、一息だ!」
息込んで一人が腕を組んだ。かつて、江戸白金の屋敷で兵部から灰文字の指令を受けた男の顔だった。
が、続いて、三人は同時にはッとした。
内蔵助は叶わぬと知って逃げたのではない。多勢を迎える為に背面《はいめん》を襲《おそ》われる危険を避けようとして、その場所を求めていたのだった。そこは、やや小高く背後に二人の腕では抱えきれぬ太い松が根を張ってわだかまっているところだ。そこまで来ると、内蔵助が猛然と振り返りざまに月光を粉砕《ふんさい》して刀を振りおろしたのが見え、最も肉薄していた一人がどうと地に這ったのが見えた。
(悪い……)
内蔵助は今や刀を反してぴたりと青眼《せいがん》にとった。松を小楯《こだて》に持久の策である。その積極に出まいと心掛けていることは今討たれた一人が背打《みねう》ちを受けただけなのを見ても、それとわかる。その男は、すごすごと起き上って列から離れた。
悪い。悪い……、刺客達は逆に窮地に蹴落されたのだ。手間取っている内に誰か通りかかり、どんな邪魔がはいるかもわからないのだ。事は急を要する、多勢の力をたのんで一挙にけりをつけてほしいのだ。
それには長蛇《ちようだ》の戦法……
噛むと見せて尾でたたき、たたくと見せて牙を寄せる……それだ。が、これは、この烏合《うごう》の七人に望み得べきことではなかった。内蔵助は地の利によって一本の剣に多勢の敵を抑《おさ》え、まるでその場に縫いつけたように近寄らせないのである。味方はあきらかにあせって来ている。無理もない。かれ等も永びくことの不利な所以《ゆえん》を知っているのだ。じわじわと這うように寄る六本の切尖《きつさき》に、破綻《はたん》が見える。それへ付け入らぬのは、内蔵助の側に闘志がないからであろう。城受取りの上使の入来近き今、さらぬだに動き易くゆれ易い城下の人心を思えば、これは流せぬ血と思うたのであろう。
天晴《あつぱ》れの敵……が、それで済まされぬことだった。
「やろう」
灰文字の男がうめくようにいって組んでいた腕をほどく。
ほかの二人もさっと動く気勢を示した。が、これは、千坂兵部が堅く禁じていたところである。二人はからくも思慮を働かした。
「いや……」という。
「そうじゃない。結局万一の際われわれの身もとを断じて知られねばよいのだ。それよりも、ほんの一太刀だ。それで万事の解決がつく。絶好の機会だぞ」
「あせるな……」
制《と》める方は気弱かった。これも充分の食欲があって、ただ控えているだけ……獲物は目の前にそなえられている。
そうだ、断の一字。
疾風迅雷《しつぷうじんらい》の境に内蔵助をたおす。あとは夜の内に赤穂領外へ逃れるのみだ。
「よかろう!」
「うむ」
下緒《さげお》を解いて肩に投げる。くるくるとまたたく間にたすきにかけたが、突如ほこりをまいて地を蹴って進んだ。兵部の眼鏡で引き抜かれて来た名誉の闘士等、ただ剣のために生れ、剣のために生きているような人々であった。
上杉の間者がにらんでいたとおり、内蔵助にはこの無謀な刺客達を斬る意思は毛頭なかった。ただ身を護りながらこのうるさい男達をどうかして追い払おうとしていた。
「帰れ! 愚者《おろかもの》が!」
知っている顔が三つまで見つかった。
相手がたは無言で、切尖《きつさき》を寄せて来るだけである。
(馬鹿、馬鹿、馬鹿……)と、ただそれのみの焦慮《しようりよ》であった。
八介は逃げて行って急を告げたものに違いない。間もなく主税か誰かが押取刀《おつとりがたな》で駈けつけて来る……騒ぎは大きくなるばかりである。
(よし、それまでに……)
かれ等を蹴散《けち》らそう、逃がしてやろうとの思案だった。猛然として内蔵助が動く。と見て、こちらも一度に動く気勢を示した。その刹那に敵の有力な新手がどっと駈け寄って来たのだ。
はッとする。
その時風を切って喜田重兵衛の刀が真向に落ちて来て、小びんをかすめた。面を振りながら内蔵助は横ざまに飛んで、猶予《ゆうよ》なく追って来る喜田の隣にいた男の刀を地に払い落している。
上杉の間者達はその間に肉薄して来ていた。見知らぬ男達である。内蔵助はきっとして睨んだ。
途端《とたん》に、どっと敵は足並をみだした。何者か背後から衝《つ》き入ったのである。内蔵助は新手の敵の切尖を払いのけながら、先刻の乞食が自分を助勢してくれるのを見た。
「怪我すな。のけ!」と叫ぶ。
「引き受けました。お委《まか》せください」
これが、返事だった。
強い男である。例の太い竹の杖が、びゅうびゅうとうなって、敵を左右に分れさせている。並の竹杖でないことは、斬り掛ける敵の刀身に削《しの》ぎ落されぬばかりか、かえってすさまじい勢いでこれをはねかえしているのでもわかった。その打撃にあって、刀が否応なく手から放れて地におどっている。内蔵助をかこんでいた男達も狼狽して避けた。乞食はすぐと内蔵助に近寄って、たてのように敵の矢面に立ちふさがった。
刺客達は落ちた刀を拾って、どっと黒い波のように走り出した。
と見て、その乞食は猛然として後を追おうとした。内蔵助は急にその腕をつかんで制めた。
「棄て置け!」
「いや」と振りほどこうとした。
「一人引っ捕えて、何人の差尺《さしがね》か白状いたさせましょう」
「わかっている!」
内蔵助は叱咤《しつた》した。
「それよりも貴方は誰だ!」
「…………」
内蔵助の目は鋭く光って、その男の面を凝視《ぎようし》していた。鼻筋がとおって、両眼の輝いた精悍《せいかん》な面構えの男だった。年齢も二十七、八であろう。きたならしい服装《みなり》とても、無論世間の目を潜《くぐ》ろうがために相違あるまい。
「味方《みかた》です」
男は、きっぱりと言葉短く答えて、腕をひいた。竹の杖が地にたてられた時、ずしんと重い音をさせた。鉛か何か流し込んであるらしい。それだけでもこの男の素姓がいよいよ怪しく思われて、内蔵助は油断なく相手を見つめたが、
「味方とは……何のために」と、ひややかに思われたくらい落着いた口調だった。
乞食はこれに答えるまえに杖を持った手を急に振った。杖は風をきって下の藺草《いぐさ》の畑へ飛んで行く。さッとその個所の草が二つに分れて、驚いてたった人の姿を月あかりにさらし出した。
お仙である。うろたえて逃げて行くのが内蔵助にも見えた。
「あれを何と思召《おぼしめ》す?」
乞食は、静かにいった。
「それは知らぬ。したが、どうせ碌《ろく》な奴ではあるまい」
「上杉の間者で御座りまするぞ。また今宵のこの発頭人《ほつとうにん》……」
「ほう……また何で、上杉が手前の命を狙《ねら》わせるのか?」
内蔵助は、こういって笑ったが、
「したが、あんたは? いずれから来られた? また何のためにこの浪人者をかばって下さる。……お志は千万かたじけないが、向後《こうご》は御無用のことだ」
いずれこれも例の特志浪士と、大よその見当をつけて、内蔵助は深く話を進める心持は毛頭《もうとう》持たなかった。乞食は、無言で内蔵助のおもてを熟視している。内蔵助は懐紙《かいし》を出して静かに刀身をぬぐって鞘《さや》に納めながら、
(こいつ、おこって来るかな?)と思っていた。
だが相手は、静かに身をひいて、いった。
「御迷惑とは存じておりました。失礼させていただきましょう」
そのまま帰って行こうとするのであろう。土手を降りて、今の杖を拾いに行った。
内蔵助は不思議な感じに打たれた。ただの男ではないような気がするのである。
「お名乗りくださるまいか?」
自然と語調があらたまった。
男は振り返った。
「無用のことと思われます」
「いや!」
内蔵助はあせった。
「是非とも、今宵の恩人を、御尊名をも承らずお帰し致すわけにはまいらぬ」
「主命にも御座りますれば、その儀は……」
乞食は、きっぱりとこう答えて、内蔵助をまた驚かした。
主命? 主命とは? 何人か内蔵助の志を憐《あわ》れんで、隠れた庇護《ひご》を与えてくれようというのか? いよいよ奇怪である。惑《まど》いながら内蔵助はいった。
「これは異なお話を承る。いずれのお方か知らぬが、失礼ながら内蔵助を大分に買いかぶっていられるようなお話だ。左様な方が多いので手前も、いわば痛くない腹をさぐられるようなもので、今夜の如き仕儀《しぎ》もあり、いたく迷惑つかまつっております。お帰りなされたら、左様お話願いたいものだ。お志はまことにかたじけないが今は浪人の内蔵助にかえって有難迷惑の儀と御披露ください。は、は……この結構な御治世に招かずば何の危険が来りましょうや」
男は、無言で内蔵助を見詰めているばかりであったが、やがて、松の向うに誰か駈けて来るのを見て、
「御免!」と、いっただけで、背中を見せてすたすたと帰って行くのだった。
「父上!」
内蔵助は主税が呼ぶのを聞いた。主税は八介の注進を聞いて、息せききって駈けつけて来たのだった。
「これにおる」
内蔵助は、こう答えながら、藺草の蔭を歩み去る今の乞食から暫く目をはなさずにいた。
万の峠
それから間もなく、その乞食は、城内三の丸にある堀部弥兵衛《ほりべやへえ》の屋敷の塀外《へいがい》へ来て、地を蹴ってひらりと塀を乗り越していた。夜盗に類した所為《しよい》である。植込みの蔭を潜《くぐ》って、足音を忍ばせて進むと、間もなく、丸窓の下へ出る。ここだけ雨戸一枚があいていた。
「安兵衛《やすべえ》」と、低い声でいった。月が障子に男の影法師を明るく描いた。
「うむ……」
内からも低く答えて、人の起き上る気配がした。
「帰って来たか?」
声の主こそ、当家の養子安兵衛|武庸《たけつね》であった。
「どうだった。うまく行ったか?」
「うむ、兎に角蹴散らして来た」
乞食は丸窓から半身を中に入れて、笑いを含んで、こう答える。
「あちらにお怪我もなく……」
「御城代か……あたりまえのことだ。……出来るなあ。おれが出なくても済んだらしい。ただ何ゆえか、相手を斬るまいとしていられたので、こりゃアおれの棒に限ると思ったから飛び出した」
この会話の間に、乞食は中へ入った。窓の下にそのぬいだ草履《ぞうり》と例の竹の杖を月が浮き出させている。
安兵衛がつけた有明行燈の光は、間もなくこの不似合な主客の向いあって坐った姿を照し出していた。
「相手は幾たりだ?」
安兵衛は、蒲団《ふとん》の上に戻って、あぐらをかきながらきく。
「十人」と答えたが、
「羨《うらや》ましかろう?」という。
「ふふ……」
安兵衛は肩をゆすって笑った。
「斬れないのじゃア羨ましかあないよ。だが名前をきかれたろう」
「うむ、遂《つい》に、いわずさ」
「主人の名もか?」
「あたりまえだ。それをいったら、すぐ尻を持ち込んで行きそうな権幕《けんまく》だったぞ、余計なことをしてくれるなと頭からしかられた」
「そうだったろう。そういう人だ」
「肚のわからぬ人物だな」
「それでいて、眼力は実に確なものだ。おぬしの身もとなど、もう見抜いていられるかも知れぬ。……したが、そりゃアわかってもいいが、おれの名を出してくれては困るぞ」
「大丈夫、大丈夫!」
「それ、そんな大きな声をする。年寄りは癇《かん》が強くて目ざといから……」
安兵衛が急に声をひくくして、たしなめたのは、棟《むね》続きに寝ている養父弥兵衛のことをさしていたらしい。客は首をすくめて、いたずらそうに目を光らしていたが、
「窮屈だな。小糠《こぬか》三合持ったらという奴か……?」
「馬鹿、馬鹿!」
安兵衛は、急にこう叫んで、客に吹き出させた。
「そ、そう腹を立てるなよ、とにかく、きちんとしてこの屋敷にいるお主を見るとおかしい、いつも気の毒になるのだ。どうも昔のような長屋住いの方が貴様には根が似合っているらしい」
「ふふ……失礼な!」
安兵衛は口をとがらせたが、
「実はおれも時にそう思う。よくしたものだ。また、そうなることになったからな。しかも今度は、おやじ付きだ」
「なるほど。なるほど……」
客は、初めて、また安兵衛が浪人することに気がついたらしい。膝を打たないばかりにこういって笑いだした。
「いや、おやじ殿も、いい養子を持ったものだ。お主がついていれば、いくら浪人しても苦労はないぞ」
「こいつ!」と、いったが、はッとしたのは、養父弥兵衛のせきばらいが聞えたからだった。
みし、みし……と足音が廊下を近づいて来たが、やがて、ばたん……と音高く厠《かわや》の戸をあける音がした。
「帰れよ!」
安兵衛が客を促《うなが》した。
「待て、大切な話がある。……ここへ入って来るか?」
「大丈夫だろうと思うが、……暫く静かにしていろ」
安兵衛は、あんどんを吹っ消した。月が丸窓の障子をぽっと明るく浮かせる。客は暗い壁ぎわへそっといざり寄った。
暫く二人は沈黙を守っていて、弥兵衛が廊下を戻って行ってから再び、前よりも声をひそめて話しはじめた。
「なンだ?」
「城の明渡しは、いつになった?」
「よくは知らぬ、二、三日内だろう」
「ふむ……こりゃア余計なことだろうと思うが、聞いておいてよく用心してくれ。明渡しとなれば、竜野《たつの》やその他の軍勢が城下へ入って来る。その場合のことだがな。……こちらで穏かに城を渡す了簡《りようけん》でも、何者かあって城の方から、この軍勢に一発でも鉄砲をうって見ろ」
「むむ」
「先方も籠城の声を聞いて気が立っていることだ。まかり間違うと、その一発でいくさになるのだ。多分大石殿はそれに気がついていられるだろうが、用心には用心だ。手を廻して城下は勿論、国境の出入をつぶさに調べて一挺《いつちよう》なりともないようにして置かねばならぬ。それだ」
「わかった。よくいってくれた」
「今夜の奴等は、恐らく今頃は国境を越えて逃げているだろうと思うが、まだ、どんな奴がいるかも知れぬ。おれもよく見張っているつもりだが……こりゃアくれぐれも用心してくれ」
「うむ。朝になったら御城代へ申し上げて、よく取り締ることにしよう。城下の吟味《ぎんみ》は充分に出来ている筈だが、大切なことだ。幾たびなりとも調べさせるようにしよう」
「絵図があるか?」
「領内のか? ある」
「見せてくれ」
安兵衛は、再び灯をつけて、文庫の中から絵図を取り出して来た。客は、これを畳の上にひろげて、じっと見る。
「本街道からは無論運び入れるわけはない。あぶないのは、海寄りと間道だ」
客は、こうつぶやきながら、鋭いひとみを放って、絵図の国境をひとわたり見た。
「人間の通る道は、どんな細径でも、すべて書き入れてあるのだろうな?」
「ある。細い線でしるしてあるのがそれだ」
「さすれば、一番あやういのは、これとこの道だろう。無駄だと思って足軽を四、五人ずつやって置いた方がいい。無論、運び入れるとすれば夜中のことだ」
「あやういことだなあ」
「まったくだよ。決して油断は出来ぬ。九仭《きゆうじん》の功を一簣《いつき》に欠くものだ。人間の知恵など、大抵似たり寄ったりなものだから、こちらで何か気がついたことがあれば、当然敵もそれを考えていると見ていいようだ。まだまだ骨が折れるぞ……」
「うむ」
あるじも客も、行燈を隔《へだ》てて、憂《うれ》い深いまなざしをじっと見合せた。
美作《みまさか》との国境の万《よろず》の峠《とうげ》に続く山の中に、人里からずっと離れて南に向いた谷に猟師の仁兵衛《にへえ》が住んでいた。仁兵衛はもう三十年もこの山の中に住んでいて、城下へは月に一度出るか出ないかであるが、数日前に万の峠を越える富山の薬売りと山の中で道連れになって赤穂に起った騒ぎを聞いた。けれども仁兵衛にとっては、領主が誰になろうがそう苦にもならないことだし、子供の頃から噂だけで聞いていてひどく遠いもののように考えている江戸で、ここの領主が人を斬ってそのためお家が断絶になったと聞いても何だか作り話のように気疎《けうと》いものに考えられるのだった。一番気になる自分の生活に直接影響のないような模様なので、山を降りて様子を見に行く気にもなれず、相変らず毎日のように鉄砲をかついで峰づたいに歩き廻っているのだった。
この四月十六日の朝もまだ夜明けに大分間もあろうというのに火縄《ひなわ》を振って家を出た。なれた道でいくら暗くても迷うことはない。前夜見当をつけて置いた沼の縁《ふち》まで出た頃は、丁度月も落ちた後で、あかつき前の闇がしっとりと付近をつつんでいた。
仁兵衛は、付近から乾いた枯れた枝や落葉を集めて来て、火をつけた。間もなく火はすさまじい勢いで燃えはじめて、付近の林や崖を赤く染めた。そのそばに立って静かに鉄砲を構えている。これは寝ぼけて集まって来る鳥を狙《ねら》うのだ。
身のまわりがかッと明るくなっただけに、空は一層暗く見えて星の姿さえ数えられない。その闇に、間もなくばたばたいう鳥の羽ばたきが起った。焚火《たきび》の上に来る時だけ、動いている翼の裏や白い腹が見えて、その他の時はただ羽ばたきの音が暗く聞えるだけである。
仁兵衛は、その中に、かなり大きい雉《きじ》を見つけて、一発放した。銃声は、遠い山にしなやかな鞭で打ったような反響を呼んだ。雉は美しい羽根をひろげたまま、火の粉の散っている暗い宙をふって来て、そばの草の中に落ちた。
それを拾う間もなく、鉄砲を立てて、第二のたまをこめた。今射ち落した雉の連れらしいのが頭の上をしきりと舞っているのである。
これも打ち止めることが出来た。仁兵衛は満足らしく笑った。しかし、そこへ、草を踏んで誰か人が来たらしいので、時刻が時刻、怪訝《けげん》に思って振り返って見た。
これは、この辺にあまり見かけたことのない道中姿の武士が二人連れで歩み寄って来るのだった。
「これ、これ、今、鉄砲を打ったのは、お前か?」
「左様に御座りまする」
名は何という、連れはないのか? 鉄砲はこの一挺《いつちよう》よりないのか? こんなことを立続けにきかれた。仁兵衛がまごまごして返事をしていると、二人の武士は互に何かしめし合せるような目つきを交してから、自分達はお城から来たものだが、この鉄砲は三日四日お上でお取り上げになる、というのだった。
仁兵衛は仰天して、それでは稼業が立たないというと、一人の武士が刀へ手をかけて目をいからせて|叱※[#「口へん+它」]《しつた》した。
「お上の御用だ。つべこべと申すな」
それで仕方なく渡してしまったが、田舎の人間だけにしつこく御印《おしるし》のある受取を戴きたいといって出た。
間違いはない……と、役人は振り切った。間もなく仁兵衛を棄てて鉄砲を持って帰って行った。
仁兵衛は何だか不安でたまらない。しかし御用の筋とあっては、どうも出来ない。力なく二羽の雉を拾って自分も帰ろうとすると、漸くしらんで来た林の間を今の役人の一人が急ぎ足で引っ返して来るのが見えた。
「これ!」
「…………」
「受取はやれぬが、代りに金子を取らせる。新しく一挺を求め得られるだけやって置く。鉄砲も御用済になれば返し与えるがその節この金子を取ろうとはいわぬ。つまり借り受ける代金だが……これを渡すについては、その方がただ今から直ぐ国境を越えて、四、五日の間隣国|美作《みまさか》へ行っていてもらいたいのだ。それに不服なければ与える金子じゃ」
いよいよ不思議な話だった。しかも、武士が仁兵衛の面前で、紙入れを取り出して、かなり沢山《たくさん》の小粒《こつぶ》をつまみ出して見せたのは、疑うことの出来ない事実だった。
仁兵衛は、ぼんやりしながら、掌にずっしりと重い山吹色の光を見た。夢ではないとわかると、反射的な動作でペコペコお辞儀をしてしまった。
それから小半ときも後に、仁兵衛は美作へ出る山道をたどっている。金が出来ると町の方へ降りて行きたくなるのが自然だが、今度は逆に国越えしろという命令を受けている。と、間もなく行手から、この辺に見かけない商人ていの男が二人、鉄砲を三挺たばねて抱えて逆に山を降りて来るのに会った。
これが隼人と金助だとは知ってない。ただその鉄砲に目をつけて、仁兵衛は話かけたくなった。
「どこまで行かっしゃる」
隼人は返事を濁らせた。
「赤穂へ出るンだが、お前さんは?」
「さあ、あてなしに美作へ越えて行くんだが……変な話でしてね。だが、これから鉄砲を持って行かっしゃるとお取上げになりますぜ。おいらも、実ア、たった今、やられたところなンだ……」
隼人は、目を光らせて、わけをきいたが、聞いている内に、段々とくすぐったい顔付になって来て、
「なアに、そりゃアいよいよ赤穂で、戦が始まりそうだからさ。実をいうと私達もこれを買出しに行って来たんでね。なアに、心配はないから、ゆっくり遊んで来なさるがいい。金子は充分くださったろう。うむ、そりゃアよかった。ただでお取上げになっても文句はいえねえところなんだ」
まだ話したいらしい仁兵衛を捨てて歩き出すと、
「誰か来たと見えるな。山のこっちに猟師がいたのなら、おれ達もわざわざ山越えしなくてもよかったんだ」
「そうでしたねえ、何しろ、これから道中は日中はつらいや。江戸より大分暑いじゃありませんか?」
金助はくびの汗をふいた。
「重いからな」と、隼人もいって、
「だが、これから先、どうやってこいつを城下へ持ち込むかが思案だ。折角ここまで来て、見つかって怪しまれたのじゃ、まったく骨折り損のくたびれ儲けだから……」
「そうですねえ、ほかの仲間はどういうことにしましたか……」
だまって考え込みながら、二人は、道について、とある山の肩を越えた。途端に二人は、はっとしたように立ち止っている。これはずっと下って見える千草川の川床で、今や必死に斬り結んでいる一塊りの人数に気がついたからだ。
「おッ!」
「見付かったらしいな。まずいことを……」
味方と思われるのは二人で、これを七人ばかりの人数が取り巻いているのだ。刀を抜いている二人に、捕手は棒でかかっている。多分、たった今あった猟師から鉄砲を買い取って帰るさに発覚して囲まれたものであろう。隼人はこの二人は逃れられぬものと睨んで、きっぱりといった。
「金公。おれ達も、こいつを何とか始末してしまうよりほかないぞ」
「へえ」
「どこか、その辺の草むらへ隠して置いて、夜になったら、また取りに来るんだな。立木へ目じるしでもつけて置けばいい」
すぐと、二人はかたわらの赤松の密林の中へ駈け込んだ。
去年のまま立ち枯れた草がからみあって、二人の足の下でがさがさ鳴っている。隼人は、ずっと奥まで行ってこんもりとして日もくらい個所に立ち止ると、持っていた鉄砲を無雑作《むぞうさ》に藪《やぶ》に突っ込んで、見えないように草をかぶせた。
千草川の川床で、足軽達に囲《かこ》まれたのは例の特志浪士の原木重二郎と柏原一平だった。二人は仁兵衛から鉄砲を奪って戻って来るところを、取締りに歩いている一行に見とがめられたのである。
足軽と見て柏原は抜刀して威嚇《いかく》しようとした。足軽達は所持の棒で、得物をたたき落して逮捕しようとした。柏原は刀を、原木は銃身を振り廻して防ぎながら、逃げ路を求めたが、足場が悪くついに川まで追い詰められた。
「致し方ない。斬ろう」
柏原が叫んだ。
しかし、その時、城下の方角からばらばら土手を駈け降りて来たものがある。一人は立派な武士で、一人は乞食で竹の杖を携《たずさ》えている。原木も柏原も、前夜の奴と急にさとって、狼狽した。この乞食の腕ならば、よくわかっていたのである。
「ああ、こ奴等か?」
乞食の方でも顔を見覚えていたらしい。にやにやしながらそばへ寄って来た。
「安兵衛、怪我があってはならない。お主やれ」
これは低い声でいった。
堀部安兵衛は、聞えなかったような顔付で、つかつかと一直線に進んでいた。
「退《の》け、私がやる。その方達は、なおよく山の方を見廻ってまいれ」
乞食は傍から例の竹の杖を渡した。安兵衛はこれをぶうんと一振りした。
「待った!」
柏原が叫んだ。
「われわれは赤穂の諸君の義を立てさせようと骨を折っている。秋毫《しゆうごう》も私心はないことだ。誤解して下さっては困る」
「誰がそれをたのんだ。赤穂のことは家中の者の手でやる。余計なことをしてくれるな。穏かにその鉄砲を渡して国外へ退散しろ」
「……貴公にはわれわれの誠意はわからぬ」
かッ……と安兵衛の咽喉《のど》がなった。咄嗟《とつさ》に柏原が構えた太刀は、目にもとまらぬ一撃に払い落されて、河原の石にあたって躍《おど》った。柏原はすぐと脇差《わきざし》へ手を掛けたが、手がしびれていて急に抜けない。代って原木が烈しく銃身を振ってかかって来た。
乞食は相変らずにやにやしながら、安兵衛がそれを左右にかわしているのを眺めている。間もなく安兵衛が銃をたたき落すと、
「どうだ、なかなか具合がいいだろう」という。
これは、自分が貸した杖のことをいっていたらしい。
原木も柏原も所詮《しよせん》及ばぬ相手と見てか、刀に手をかけながら茫然として立っている。安兵衛は振り返った。
「どうしよう?」
「おれにきく奴があるか? 赤穂のことはお主達の手でやる筈だ」
「だが、この二人は、あの方の者じゃないのか?」
「上杉の間者か……違う。うまくあやつられているだけの正直な先生達だ」
「じゃ、ほっとけ」
「可愛い奴等だよ。こんなところにうろうろしていないで故郷へ帰ったらいいのだ」
乞食は安兵衛から杖を受け取った。
原木と柏原とは、二人が振り返りもせず土手をあがって行くのを見て、ぼんやりしていたが、
「御両所!」と、原木が急に水の迸《ほとばし》り出るように呼び止めた。
「上杉の間者云々とただ今おおせられましたのは……」
「ふむ……」と、乞食が笑いながらいった。
「すこし、目があいて来たようだ。その流れの水で顔でも洗って、よくお考えなさい」
「いいのか、捨てて置いて」と、安兵衛が繰り返す。
「むむ。なアに血のめぐりが遅いだけで別段悪い人間じゃない」
二人は、万《よろず》の峠《とうげ》の登り口にあたる雑木林の中を歩いていた。足軽達は、すこし前に、これを登って行ったのである。
「上杉が寄越した間者達は、もう退散したのかもしれないな。向うでも自分達が入っていることが発覚したら、逆にこちらへ挑戦するようなものだとよく心得ているだろうから」
乞食も、こういって、晴れやかな笑顔を見せた。
「しかしなお用心することに越したことはない」
安兵衛は、こういって分どりの鉄砲を肩にかつぎかえた。
その時、道の行手からすたすた急ぎ足で降りて来る人影が二人の目に映じた。目玉の金助が、草鞋《わらじ》を結びなおしている隼人を置いて先へ独りで来たものだった。
「見た奴だぞ」
乞食はつぶやいた。
金助は、強そうな武士が乞食と道連れで来たので「変だなあ」と思いながら、無気味になって、例の大きな目玉が不安そうにくりくり動いた。
その間にも両方の間隔がつまって来た。安兵衛と乞食は歩きながら、じっと金助の顔から目をはなさない。
(いけねえ、いけねえ……)
金助は薄氷《うすごおり》を踏む心持だった。
すれ違おうとして、急に
「おい!」と乞食が叫んで、立ち止まった。
うわッ! と金助は、意味のない叫び声をあげて走り出している。安兵衛がすぐ後を追ったが、逃げることにかけては金助の方がはやかった。二、三町追って断念して立ち止まると、上で乞食が例の竹の杖をついて、微笑している。
金助はもう、ずっと下の杉並木の間を弾丸のように走っていた。
「すばしこい奴だ」
崖の上と下で、笑った。
「行こう、行こう、虫けらだ」
乞食はこういって、また坂を登りはじめた。安兵衛もいそぎ足で後を追った。
草鞋を結んでいた隼人は、金助のただならぬ叫び声を耳にとめて、キッとして顔をあげていた。
丁度目の前にある山の肩が、視界を遮《さえぎ》っているが、誰か来たらしいことはわかる。隼人は、すぐと隠れることを考えて、四辺を見廻したが都合悪く裸山の中腹にあたっていて、ところどころに大きな石の塊が土から出ているだけだった。
後へ戻っても見とがめられることは必定《ひつじよう》である。隼人は覚悟をきめた。腕も充分の自信がある。
急に前へ進むと、丁度その山の肩にあたって、瘤《こぶ》のように屹立《きつりつ》している大きな石の蔭に素早く身を隠した。
その間に、もう、足音は、向う側に迫って来ていた。二人のように聞いていたが、その足音は一人だった。
「早くしろ」
その男が振り返って連れを呼んでいた。
じっと凝《こ》らすひとみに、人影がさした。つと地を蹴りざまの抜き打ち、目にもとまらずただ白くさっとくだる。
相手は、後に飛んで、その鋭い切尖《きつさき》を避けた。
「いたな!」
言下に、隼人は第二撃を送った、はっしと、例の竹杖が受ける。しかし隼人の手練の腕は、これを真二つにきっている。鉄をしんに鉛を流し入れた杖の尖端《せんたん》は、きり口を光らせて、道の上に落ちた。
息を継がせず隼人は殺到した。
坂の下から安兵衛がそれと見て駈け上って来る。
武器を折られた乞食は、さすがにその方へ逃げだしている。ただ不敵にいつもの微笑を口から消していない。額が心持ちあおざめて見えただけである。埃を捲いて隼人は追いすがった。山の中腹に桟橋の如くわたる細い道である。意気込んで駈けて来る安兵衛と逃げる乞食と、からだを打ちつけそうにしてすれ違った。
「たのむ、安兵衛」
「む」
ぴたりと構えながら、かばうように立つ。隼人も立ち上りながら、切長の目に光をさえさせてじっと見た。
出来るな。
双方同時に相手の腕前を見て取った。
「見事だ」
乞食は、いつの間にか自分が当事者でないような言葉つき顔つきになっていた。
その間にも二条の刀身は、相いどみ相寄る二筋の白蛇のように、春日を溶《と》いた宙《ちゆう》に、はい寄って行く。
さっと風を起して安兵衛が動く。宙におどった白き閃《ひらめ》きは、ぱちんと鳴って、そのまま十字に組んで動かない。次いで、突然にこれが氷の柱のように陽に砕けた。押し切って、安兵衛の切尖が追う。
かッと再び鳴る。
払われて安兵衛が泳《およ》いで、あわやと思われたが、さすがに飛燕《ひえん》のように身をひるがえしざま、無鉄砲な片手なぐりの一撃をくれていた。隼人はこれを避けて後に飛んでいる。同時に足場の土の崩れるのを感じた。知らぬ間に崖の方へ廻っていたのである。
隼人が体をそらしたのが見えた。
安兵衛は奮然と突進している。しかしその切尖のとどく前に、隼人の姿は忽然《こつぜん》とその場所から消えて、崖際の土に小さいほこりが舞っているだけであった。
「しまった!」
二人は駈け寄って、下をのぞいた。
砂煙をたてて隼人は転落して行く。しかしやがて、とまって、むっくりと起き上るのが見えた。
急に安兵衛は自分もその急な勾配を駈け降りて行きそうな気配を見せた。連れは、これをとめている。
「よせ」
「無念じゃないか!」
「なアに、またその内あうだろう。だが出来る奴だなあ。おれの杖を見事真二つにしてしまったぞ、今までの奴とは格段の相違だ」
この天晴《あつぱれ》な敵は、焼畑の間を下へ下へと降りて行って段々ちいさくなって行くのだった。
「なアに鉄砲さえ持ち込んで来なければいいのさ」
乞食は暢気な口調で、こういって、さあ行こうというように安兵衛を促した。
安兵衛も歩き出したが、
「いや、待て、待て。鉄砲を持ち込んで、どこかその辺に隠して置かぬとも限らぬ。きゃつ一人だけでもひッ捕えて吟味いたしたかったなあ」
「いや、斬ることは出来ても生け捕ることはむずかしい敵だった。そんなに心配なら、足軽達にその辺を探させよう。それから、これは無論のことだが、明後日《あさつて》までに城下の大掃除をやるのだな。あいまいな人間には一々監視をつけるか国外へ追い払うのだ」
「むむ」
明後日という言葉が安兵衛の心を暗くした。
この日こそ、住みなれた城をいよいよ他人に明け渡さなければならないのである。
二人は再び密林へ入って行った。間もなく足軽達が木蔭に休んでいるのが見えた。
「今、行った二人連れにはどの辺で出会ったのか?」
安兵衛は近寄って行ってきいた。
「この曲り角の……あれに見える赤松の林のところでした」
「この道を、国境の方から来た様子か?」
「左様に御座りました」
安兵衛は考え込んでいる。
乞食は道の脇の草の上に腰をおろしてだまっていた。
「では、二人だけここへ残って後の者はこの辺の林の中をよく見てくれ。どこかその辺に隠してあるかも知れない」
すぐに捜索がはじめられた。
乞食も、未練に拾い上げて持っていた竹の杖の切れっぱしで、草を分けながら、林の中へ入って行った。
暫く歩いている内に、乞食は、目の前の松の幹に、一カ所皮をはいで白い木肌をのぞかせているものを見つけた。
傍へ寄って、さわって見ると、たしかに新しく刀をあてて削ったあとで、涙のようににじみ出た樹脂《やに》も、まだかたまっていない。乞食は満足らしく微笑して、はなれている安兵衛の方を振り返った。安兵衛が足軽を連れて熱心に草を分けながら探しているのが見えたが、何もいわず、すぐと目を落して、また別の幹に同じような白い傷痕《きずあと》を見つけた。
乞食はそれからそれと同じようなしるしを探し歩いて行く。間もなく、やや繁みの深い小暗い木蔭に、不自然に草が地面を蔽《おお》うているところが見つかった。
(これだ!)
直ぐと、竹杖は、その草むらに沈んで、かたい手当りを伝えた。かがんで、腕を突っ込んで見ると冷い鉄にふれた。三挺もある。乞食は満足らしく微笑したが、何思ってか直ぐと、もとどおり草をかぶせて知らぬ顔で立ち上っている。
「安兵衛、あったか?」
「ない。……あったか?」
「ないなあ」というのが乞食の返事だった。
「もう、いい加減にしよう。おれ達の思い過ごしかも知れぬ」
その晩暗くなってから遅い月がのぼるのを待ってお仙は万の峠へ登った。隼人が昼間草の中へ隠して来た鉄砲三挺を取って帰るためだった。
陣十郎は隼人の話を聞いていたし、危険なことだから思い切った方がいいといっていた。きかぬ気性のお仙は、一同に無断で、そっと隠れ家を出ていた。隠れ家では夜の中に城下へ帰るために隼人も陣十郎も引払いの支度にいそがしかったのである。
夜の山道は、ずっと下に谷川の流れの音がきこえているだけで、男でも無気味なくらいさびしい。谷を隔てた向うの山の蔭にあたっていて、月は、まだ山のずっと上の方を明るくしているだけだった。立ち止まると、頭上に枝を交えている木の葉の吐息さえ聞けそうな静けさが山々を支配していた。
多分山の上に見張りが出ているだろうという話だったし、見付けられる危険は自分でも予期していたがお仙はこの上なく真剣だった。いよいよ明後日が開城ときまっているのである。この鉄砲を城下に運び入れて、城受取の軍勢と城方との衝突のきっかけをつくる。それ以外に、お仙が使命をはたす途は最早残っていなかった。陣十郎達が、これさえ危険と見てこのまま引き揚げて行こうとしていることを、お仙は心外に思っていた。
とにかく、やってみたい。
この一心から間もなく、月が草をぼっと明るくしている山腹へ出た。鉄砲が隠してある所は、立木のない山腹をめぐって、やがて出る赤松の森の中、松の幹に刀でしるしが付けてあると聞いていた。
その森はすぐそれとわかった。
人の気配なくしんとした森の中は、あかるい月が光と影の斑《ふ》を散らして下草を染めている。お仙は、立ち止って付近の木の幹を注意深く見廻したが、夜目にもそれらしく思われるものを探しあてた。それから、糸を手繰《たぐ》るようにして、一本の木の根に草のこんもりと深くなっているところを探しあてるのは苦もないことだった。草を分けて見ると、はたして鉄砲があった。
ほッとして、取り上げる。突然に、その腕をむんずとつかまれた。
「あ!」
夢中で逃れようとするのを相手は地に突き倒した。お仙は、つめたい草の上に崩れるようにすわった。その時、この敵が、いつか内蔵助を要撃しようとした晩に急に立ちあらわれて妨害《ぼうがい》した奇怪な乞食だったのを悟った。
乞食は、隼人がそいだ杖の残りでお仙の着物の裾を地面に縫いつけて、動けぬようにした。
「待っていたぞ」
烈しい声が勝ち誇ったようにいった。
最初、起って逃げようとしていたお仙も駄目だと思うと、悪怯《わるび》れなかった。
「さ、お殺しな」
「殺したってはじまらない。その前に尋ねることがあるから尋常に話して仕舞え」
「なんのことさ。あたしアお前さんと口をきくのがいやなンだ。……何を訊《き》いたって無駄だよ」
お仙は、そっぽを向いた。葉末を漏《も》れて来る月の光が、美しい横顔を蒼《あお》ざめて見せていた。
「剛情な女だな。おれは痛い目にあわせたくないから、おとなしく話しているのだぞ」
「ひとの、痛い痛くないが、どうしてお前さんにわかるのさ? 不思議な話だね」
「…………」
乞食は、流石《さすが》に呆れた様子で、暫くだまり込んでいたが、
「よし」とうなずいて、
「おーい……」と、大きく、よくとおる声で誰か人を呼んだ。
そのすきをねらって、お仙は隠して持っていた短刀を抜いていた。それに気がついて、こちらがはッとする。もとより斬りかけて来ることと思ったのだ。
しかし、これは……お仙がねらったのは自分の乳の上だった。
「なにをする!」
乞食はおどりかかって短刀を持つ手をつかまえていた。
「馬鹿!」
お仙は倒れたまま相手を睨《にら》めて執《しつ》こくだまっていた。
言語に絶して寂《せき》ばくとした時間があった。
月影の中に暗い繁みがかすかにおののいていた。
「死なずともよい」
短刀を取り上げた乞食は立ちながら、静かにいった。
「帰れ。人が来ては、まずい」
乞食は急にこういった。
その顔を、驚いたように見開いた目が見上げた。
「放してやるというンですか?」
「そうだ。お前の血を見たところで何になる。早く、どこへなりと行け。……それ、もう来たようだ」
森の向うを、いそいで来る足音が聞えていた。
お仙は、急に立ち上りそうにも見えなかったが、また、乞食に促されてすごすごと森の一角へ姿を隠してしまった。
「お呼びでしたか?」
すこしはなれたところに夜番をしていた足軽が二人、草をがさがさ踏みながら傍へ寄って来て、いった。
「いやお骨折りだがね。ここに鉄砲が三挺隠してあるから、叩きこわしてしまってもらいたいのさ。それだけの用事だ」
「畏《かしこ》まりました」
足軽二人は、草の中から鉄砲を拾いあげて、逆さまに持って立木の幹を力一杯に打ちはじめた。幹はやに臭い白い肌をのぞかせて、頻《しきり》と樹皮《じゆひ》を飛ばす。間もなく三挺の鉄砲は、用にたたぬ程度に曲って、月が濡《ぬ》らしている草の間に投げ出されていた。
「御苦労だった。なお、よく番をしていて下さい。多分これが君達の最後の御奉公になるのだろうからな」
乞食はやさしくこういって足軽達と一緒に木立の間を抜けた。道へ出てから別れて、自分の影とひっそりした山道をくだって行く。
(だが、えらい女だったな)と思うにつけ、今度内蔵助以下の浪士達が敵にまわしたものが、予期以上にすごい勢力を持っていることを考えずにはいられない。乞食は、自分に命令してこの地へ来させた人のことを考えた。その先見の明に、今更|畏敬《いけい》を感じたのである。
間もなく、水音が聞えて月光に輝いている千草川が立木の間から見えて来た。
日はくれようとしている。見渡す限りのひろびろとした空間に斜《ななめ》の光を投げて、燃える花園のように見せていた夕日は漸《ようや》く衰え、代ってなごやかな薄暮の明るみが夕焼け雲のもとに地上に溢れる。影さえも消えるこのほのかな明るみの底に、ものの彩色はやさしく浮き上る。やがて来て墨一色に惜しげなく塗り潰《つぶ》す夜を控えて、これは万物の、はなやかな最後の化粧《けしよう》であった。入江にさす汐《しお》の匂いをのせ塩屋にたく白い煙をたなびかせて、いつもどおりの静かな夕闇が今日も訪れて来ている。
今日……これは最後の一日であった。あすは城を明け渡す……受城使|脇坂淡路守《わきざかあわじのかみ》が率《ひき》いる軍勢はこの昼すでに城下に入って来て、大手門外に部伍整然《ぶごせいぜん》たる陣を敷いていたのである。松の間に見える馬標《うまじるし》がそれであった。
この、ひとときを、内蔵助は天守の窓によっていた。すべての準備は終り、明け渡しの時とさだめた明朝|卯《う》のときを待つばかりであった。全藩の士卒は、住みなれた城の最後の夜を守るために、胸に満つる無限の感想をつつんで粛然とその持ち場についている。この窓から見下すと、かれ等の黙々と城門の脇にたむろしているさまも、広場を横切って行く姿も一々見えるのである。復讐の決議に加わった者ばかりではない、心弱くして妻子のために又わがために前途の不安におびえていた者達も、今日は何事も棄ててこの城に集まっていた。城は、かれ等全体の家であった。他国へ出て国境の峠《とうげ》から天守の白堊《はくあ》の壁を見た時、「やれやれ帰って来た」との感じはここにいる誰の胸をもやわらげた。いざという時は、これによって命をおとす筈の城だった。また大方の者は、その稚《おさ》ない時にかれ等の祖父、父親が日々|大手《おおて》の橋を渡って行くのを見ていて、後にその死後に自分がこの城へ通うように成長して来たものだった。古い家に、そこに住んだ人の悲しみもよろこびもついて残されているように、この城の一木一石にも壁にきざまれた傷痕にも藩の者全体の、悲喜それぞれの、いずれにしても過ぎてしまえばなつかしい、さまざまの思い出が従っている。人々は、今それらとも別れようとしているのだった。
最後……
(いや、最初なのだ!)
内蔵助は力強くこれを信じていた。
(永遠の月日の流れの上に、おれ達はこの城に代る記念を建てようとしている。この城よりもおれ達にふさわしく、また、もっともっと堅固な家だ。風も雨も火も滅すことの出来ぬ、まことの金城湯池《きんじようとうち》だ。この城で迎える最後の朝は、われ等の新しい門出《かどで》の朝だ)
烈しく、心に、こう思うのだ。
しかも、なお、ひとりこのやぐらに登って見なれた山河のすがたを眺めた時、人には見せられぬ静かな涙が自《おのず》から胸をうるました。
(さらばじゃ)
はや暮靄《ぼあい》に沈む山、とまり舟の灯《ひ》をともした海、塩田のひろがり、城下の屋並、樹々、平野のはてにうねる川の流れ。……せまり来る夜は、すこしずつすこしずつその姿をかすかにして、やがて、夏の近さを思わせる明るい星屑《ほしくず》が空につらなりながら次第に浮き上って、しろじろとした色の銀河を天心に描くのだった。海は暗く、なま暖かい風を送って来た。内蔵助は、壁をさぐりながらはしごを降りた。二の丸を廻る火の番の柝《き》の音が聞える。今夜は無論のこと、人は徹夜することになっていた。
どの窓にも灯がともっていて、きちんとした侍達の姿が外から見えた。仕事は無論もう片付いて引き渡すばかりになっていて、さて誰も今日まで病気の時のほかは毎日出勤して事務を執《と》った場所や机や棚やまた廊下に、いざ離れるとなって、はなれ難い愛着を感じたように見えた。ここは日あたりが悪いといって他の部屋をほしがっていた者達も、自分達の部屋のつめたい畳の肌《はだ》ざわりや、壁に描かれた汚染《しみ》に過ぎて行った長い月日を感じて、自然と話を途切らせがちに、遠い部屋のしわぶきの声に聞き入ることが多かった。
やがて有明《ありあけ》の月が東の空にあがった。木立の向うに城の壁の白い色が浮き上る。広場の砂の上には林の影がえがき出された。
人々がかわるがわる立って、本丸の御在所に置いた御位牌《ごいはい》に最後の焼香《しようこう》をする頃になって、夜は静かに明けはなれて来た。内蔵助が御位牌を帛紗《ふくさ》につつんでおさめてから、人々は、蝋燭《ろうそく》を消して外の光を導き入れた。庭の雀《すずめ》の囀《さえず》りがきこえる。夜の名残りにまだ足もとの小暗《おぐら》い廊下を通って、一同は外へ出て行った。朝の庭は露にしめって清らかである。天主の屋根に舞う鳩の羽根を、陽が染めている。一同が粛々《しゆくしゆく》と横切って行く広場にはまだ日がさしていない。爽やかな空気が不眠の額にふれた。
間もなく櫓《やぐら》の上でとうとうと太鼓が鳴りはじめてこの静かな大気を揺がした。予定の時刻である。内蔵助の命令で、前後の城門がさッとあけられた。
大手からは脇坂淡路守、搦手《からめて》からは木下肥後守《きのしたひごのかみ》が各自兵隊をひきいて緊張した様子で入城して来た。内蔵助はこれを迎え大書院《だいしよいん》に受城使を招き入れて改めて引渡しの目録《もくろく》を渡した。続いて、城の者が持場持場から撤退《てつたい》する。すぐ、今入城の兵士がこれにかわった。
城の者、いや、たった今城と別れることになった者達は、静粛《せいしゆく》に川口門のところに集まった。間もなく内蔵助も出て来て、再び渡ることのない橋を一同揃って、黙々と渡りはじめた。初めて、涙が駈け出して来ようとしているのが感じられた。幾度も振り返って、城を見る者もある。藩祖《はんそ》が築いて以来五十七年の城は半面に光を受け半面に濃い影を抱《いだ》いて、明るく澄み渡った朝空に山の塊《かたまり》のようにそびえて見えていた。
濠端《ほりばた》には、城下の者が名残りを惜しんで並んで見送っていた。この声のない人垣の間を、色も同じ裃《かみしも》の波が粛々と流れて行った。先頭に大石内蔵助が、いつも見掛ける姿勢で悠然とふとった小柄な体を運んで行く。見送る者が軽い失望を感じたくらい、何でもない顔付をしていた。
一同は一旦華岳寺へ引き揚げてから、そこで解散することになっていた。
またたび
「死ぬようなことはないかな」
上野介は、こういって、蒲団《ふとん》の中に寝たままじっと動かずにいる愛犬の顔を覗き込んだ。
お犬医者の丸岡朴庵は仔細らしく目をつぶって犬の脈をとっているところだが、急に上野介に話し掛けられて、目をあけて大丈夫だというようにお愛想《あいそ》の微笑を見せたために、折角の勘定《かんじよう》を忘れて脈をもう一度とりなおさなければならなかった。脈を見てしまってから、ああん……といわないだけで自分もすこし口をあけながら、犬の口を指であけてのぞいて見た。
「お通じの方はいかがで?」と、上野介の顔を見た。
「通じ……?」
上野介は苦笑しながら、次の間にいる松原多仲を呼んだ。
「多仲……駒《こま》のふんしは、どうだ? あったか?」
「さて……お待ち下さいませ」
多仲は言って、犬の世話をしているお末の者に聞きに立って行った。
「いや、これは大したことは御座りませぬ。決して御心配なさいませぬように」
「左様か……では、やはり……」
「はい、やはり外傷がもとで。……これからは時候が悪う御座いますが、膿《う》むことさえなければ両三日で快方に向われましょう。時々湿布をお替え願いまして……けれども、どうなさいましたのか? 大分ひどくいためていられまするな?」
朴庵は、もう一度、蒲団をまくって、傷付いている犬の股《また》をのぞいて見た。
「誰が致したものか、外からびっこをひいて帰って来ましてのう」
上野介は答えながら、不機嫌な顔付を見せた。この犬の怪我《けが》にも、浅野の事件以来急に世間が自分に寄せはじめたように見える敵意反感のあらわれが見えるように思うのだった。犬は、昨夜外へ出て行って誰かになぐられて帰って来たのである。
「それは、怪《け》しかりませぬ」
朴庵はいきまいた。
「早速町方の方へお話なさいまして御座りまするか?」
「いや、別に、まだ……」
「では帰りしなに手前から届けて置きましょう。左様な乱暴者は、やはり十分に罰してやるように致した方が天下の見せしめになりまする。とんだことで御座りました。ふうむ」
朴庵は心底から憤慨しているようにこういった。
そこへ多仲が戻って来たので、駒の糞便《ふんべん》の模様をひととおり聞いてから、お次で待っていた弟子を呼んで立派な薬箱を運んで来させた。これには針箱のように沢山|抽出《ひきだ》しが付いていて、その一番上のをひきだすと小さい乳棒《にゆうぼう》や乳鉢《にゆうばち》、さじ、小刀、錐《きり》などがびろうどの枕の上に行儀よくならんで光っているし、二段目から下には各種の薬が小さい畳紙《たとう》に入れて二側に整然とならべてあった。人間を患者とする薬箱とすこしも違っていないようである。
上野介が感心して見ていると、朴庵は器用な手付で、散薬を六服つつみ、最後に一番下の厚いひき出しから小さい水薬の瓶《びん》を出して、多仲に水をもらって、わって、濁《にご》った茶色の薬を作り出した。
「こちらが食前、こちらが食後。二日分御座ります。口をわって投げ込んで暫く吐き出さぬようにおさえていて頂《いただ》きとう存じます。いや、なに、これを召し上って一日すれば御元気になりますから」
勿体《もつたい》らしく話している朴庵を、犬は蒲団の中からものうげな目付で見詰めていた。多仲は、上野介が笑いをこらえている様子を見て、自分も危うく吹き出しそうになった。
しかし、上野介は、また真面目な顔付になって多仲を振り返った。
「多仲、千坂の家の猫が、風呂の中へ落ちて風邪をひいたということだったな?」
「左様なお話で御座りました」と多仲が答えた。
多仲は、つい二、三日前に千坂を訪ねて、丁度風呂のふたが何かの拍子《ひようし》にはずれ、上に戯《たわむ》れていた子猫たちが一度に湯の中へ落ちたために、猫気狂いの主が拭《ぬぐ》ったり蒲団にくるんで火の上にかざして乾かさせたりしている騒ぎを見て来ていたのである。
上野介は朴庵が薬箱を片付けているのを眺めながら、何か思案しているような面持《おももち》でいた。
「あんたは、猫の診察はなさらぬのか?」
「は、すこしは……いや、猫を可愛がる方も大分ありますので、たのまれて時々|診《み》ますが……」
「それは都合がいい。実は私の倅《せがれ》のところの家老が、こいつ気狂いで、なめるように猫を可愛がっている。多仲……今一体何匹いるのだ」
「は、たしか、七匹」
「七匹」
枯れた顔に微笑がのぼる。
「そのとおりじゃ……風邪をひくと騒いでいたそうだが、……どうじゃ多仲、こちらに御足労ついでに見舞いに廻って頂こうと思うが」
「いや、それがよろしゅう御座りましょう。先生、御迷惑で御座りましょうが……」
「いや、手前は決して……畏《かしこ》まりましたとも。して、どちら様で」
「上杉の家老、千坂じゃ。吉良《きら》から頼まれて見舞いにまいったといってやって下さい」
「は」
朴庵は悦んだ。
上野介は、朴庵が多仲に案内されて退《さが》って行くのを見て自分の居間へ戻って来た。これも満足な心持でいた。犬の容態が大して心配を必要としていなかったためではない。犬は将軍家をはじめ上流の流行につれて飼っているので、特別な愛情を持っているわけではない。それよりも千坂のところへ朴庵を見舞いにやった急な思いつきがうれしかったのである。
上野介には、兵部《ひようぶ》という人間が何となく煙たく思われていた。上杉の当主は自分のせがれで、意のままになるようでいて、家付の家老千坂兵部がいわば小姑《こじゆうと》の感じで控えていて、こちらがあまり勝手が出来ないような具合になっている。並の時ならばよいが、赤穂の浪人達が自分を主人の讐《かたき》として狙っているような噂さえある時、上野介が直接にたよりに思うのは、この上杉家の勢力だけである。上杉家は米沢十五万石、富裕《ふゆう》の上に勇士も多く養っており、その勢力を用いて楯《たて》にすれば、浪士の襲撃など毫《すこし》も恐れることはなかったのである。それについては、家老の千坂をうまく手なずけて味方にたのむ。……上野介は早くからこれを考えて、事件以来つとめて接近を計って来ている。ところで、千坂という男は、どうもどれだけ信用していいのか肚《はら》の知れない無気味な人間で安心が出来ないでいた。
たのむ……といえば御安堵《ごあんど》遊ばされませと答えて来る。それでいて何だか奥歯に物がはさまっているような、落着かない心持があとへ残っている。変な奴だ……どうもたのみにならぬ。といって済まされなかった。赤穂は最早開城して浪士たちは八方へ離散したという。どこでどう団結して何時自分の命を脅《おびや》かすか、はかり知れないことだった。
(猫の見舞いはよかった!)
上野介は、兵部が猫気狂いだけに、その弱点へ付け入ることが先方の好意を誘うことを信じて疑わない。どんなに冷酷な人間でも、人間である以上、どこかに弱いところがあって、それに付け入れば意外なくらいにもろく、ころりとなるのが世の常だ。
(つまり、彼奴《きやつ》のは猫だ)
上野介はこう思うのだった。
千坂兵部は赤穂から帰って来たお仙と向いあって居間に坐っていた。
「いや、御苦労、御苦労……」兵部は、こう繰り返していうだけで、あまり詳《くわ》しい話に入ろうとはしない。
「ほんとうに何もお役をしませんで……」
お仙は、はじらうように、こういった。
「そんなことはない。失敗したにしろ、それまでにやって怪我人を出さなかったというのは手柄だよ。お骨折だったな、話は、これからなのだ。また何かとお前にたのむことになるだろう。とにかく、赤穂へ残っている連中から何か知らせのあるまで、当分ゆっくりと構えて待つ方がよろしい」
至極《しごく》機嫌がよかった。
「もう道中も暑かろうな。早いものだ。やがて梅雨《つゆ》だ」
兵部は庭へ向きながら、静かな手付で煙管を口へ運んで行った。庭は、はや青葉だ。酒のように濃い晩春の光に浴して、青い反映はこの部屋の中にも漂《ただよ》い入っていたのである。お仙はそばに置いてあった包みを膝の上で解きはじめていたが、
「お猫ちゃんは?」という。
兵部の顔が明るく動いた。
「達者だ。この間風呂へ落ちてのう。風邪をひくかと思ったが、それほどでもなかった。ちいさいから風呂の縁へ爪をかけることも知らず、底までずぼんと沈んだのだから驚く。幸いとまだぬるかったからよかった」
まあ……というようにお仙は驚いたように見えたが、丁度包から出した何か紙袋へ入れたものを兵部の前へ差し出した。
「お猫ちゃんへ。お約束のもので御座います」
「ふむ?」といって手に取ったが、
「おお、またたびか? これは有難い。よく忘れないでいてくれたな」
兵部は、早速袋の口をあけて、内を見ている。内には、乾いた木天蓼《またたび》の実が一杯はいっていた。これを粉末にしたものは江戸でも手に入るが、果実のままほしたものは西国へ行かないとない。兵部にいわせると猫も粉にしたものよりもこれを喜ぶとかで、お仙がこちらを立つ時帰りの土産《みやげ》にたのんだのだった。
折から廊下へ用人が来て、うやうやしく手をついていった。
「申し上げます。吉良様より猫のお見舞に丸岡朴庵先生がお越しで御座ります」
「ふむ」
兵部は眉を寄せたが、
「お通し申して置け」
「は」
立ち去ろうとすると、
「待て」という。
兵部の目には狡猾な微笑が浮んでいた。
「ただ今、主人が出るといってな。それから……」と、後《うし》ろを向いて手をのばして床の間から蒔絵《まきえ》の香箱を取って、中身を懐紙《ふところがみ》の上へあけてしまうと、代りに木天蓼の一粒を入れた。
「これを、先生にお目にかけて、これは何の木の実かお伺《うかが》い致して来い。その方から伺うようにいうのだ」
真面目な口調である。早くも兵部の皮肉な思いつきをさとったお仙は、こみ上げて来た笑いをこらえている。
兵部は自分も笑いながら、笑うなというように目くばせした。
「悪いことをなさいます」
「そうじゃない。大切な猫達を診《み》ていただくのだから……」と、すましていた。
「虫干《むしぼし》を致しましてな。手前宅の棚の上から出ましたものに御座りまするが……何か木の実かと思われます……」
前口上がこれで、勿体《もつたい》らしく出された香箱を、
「それは、それは……拝見つかまつりましょう」
威儀を正して控《ひか》えていた朴庵は手に取ってふたをあけて見た。
「ふうむ……」
わからなかった。猫の好物、木天蓼の実とは何で知ろう。けれど、わからない、とここで茶筅頭《ちやせんあたま》を下げるのは医者の信用にかかるような気もして、額に皺《しわ》を寄せ、ためつすがめつ見ていた。つまんで鼻へ持って行ってかいでもみたが、乾いた埃の匂いがしただけである。
「これは……」
「はい……」
「珍しいものをお持ちですな」
「一体なんで?」
「左様……滅多にこの辺に見受けませんが、木曽あたりの深山幽谷へまいると時折見掛けます。本草の方では、むずかしい名前がつけてありますが、俗に……左様さ、かちの木と申す……」
「かちの木?」
「左様」
これは冷汗ものだった。しかし相手は感心したように聞いている。朴庵も、|かち《ヽヽ》という名なら、どうも木の名前のような気がして、とっさの際によく出たものだと自分でも安心した。
「何かお薬になるものでしょうか」
「いや、これは別に何にもなりませんが、珍しいものです」
早くしまってくれればいいがと思っている。用人は、また丁寧に函におさめて、礼をいってさがって行った。
「かちの木」は、いつも苦虫を潰したような顔をしている兵部を抱腹絶倒《ほうふくぜつとう》させた。
「とんでもない先生だぞ。こりゃア病気の猫を預けたら勿体らしく何を飲ませるかわかったものではない」と、まだ笑いがとまらず、
「そうだ、玉をやれ。あいつは野良猫上りで一番ふとっているし丈夫だから、たいていの目にあっても平気だろう。風邪をひいているのは、こいつで御座るというのだ。どんなやぶどのでも、あいつを見れば最早御全快だというだろうよ。それから、おれは出ない。急にお呼び出しが来て御前へ行くことになったからといって、その方が諸事|鄭重《ていちよう》に応対して帰らせてくれ。は、は……」
愉快そうである。にこにこしながら煙管を詰めにかかったが、
「とんでもない奴が舞い込んで来たなあ。御厚志《ごこうし》いたみ入ったことだ」
お仙も、さっきから笑い続けていた。
「でも、吉良様では随分こちらをお頼りになっていらっしゃる御様子では御座いませぬか?」
兵部は、急に不機嫌な表情になって、暫く答えなかった。
「そりゃア、私もよく考えている」と、ぽつりといった。
兵部が猫を可愛がることは、他家の猫から野良猫にまで及んでいる。しかし一旦自分の家の猫と他家の猫と喧嘩をすれば、このあるじは火箸《ひばし》を握ってはだしで庭へ飛び降りて行くこともする。また同じく食物を与えて飼っている猫達の間にも親疎《しんそ》の別をつけて、一定した愛情の階段をつけていた。兵部に一番可愛がられているのは、そもそもの初めからこの屋敷にいた純黒の牝猫《めすねこ》である。次に位するのは、この腹に出来た子供達で、生れた順序に従って兄弟の秩序を正した待遇《たいぐう》を受ける。これだけがいわば譜代《ふだい》の猫で、更にその下に外様猫《とざまねこ》としてやや劣る待遇を受ける猫がいた。これは、野良猫がまぎれ込んで、この屋敷に飼われることになったものである。兵部は、この連中を家の猫の家来と扱っていて、食事の折主人の皿へ首を出すような不謹慎なことがあると、
「家来の癖に、なんだ!」と頭をひっぱたく。重罪を犯した猫は追放せられることがある。有罪無罪を決定する標準として人間の道徳が用いられるのである。母親に対して不倫《ふりん》のことのないように牡の子猫は全部去勢することにしてあるくらいだった。兵部は人間の世界に封建制度を唯一のものとして信仰しているように、猫の世界にも、この秩序をたて、奉公を第一の美徳としているのに違いなかった。猫の方では、多分武士道より畜生道を好んでいたことであろう。しかし、あるじは儼然《げんぜん》として「それはならぬ」と信じているのである。
そこで朴庵の前に、この家来猫の中から最も粗食で悍《たくま》しいぶち猫が、風邪をひいた華奢《きやしや》な猫の身代りとなってだいて行かれた。これは飯を充分やってある癖に芥溜《ごみため》をあさって不潔なものを食べなれている下郎だから、多分この名医がどんな変てこな薬を飲ましても平気でいるだろうと思われたのである。
兵部はお仙をかえしてから座蒲団を枕に寝て、ぼんやりと天井《てんじよう》を見詰めていた。
赤穂浪士に復讐の計画があることは最早疑いをいれる余地のないことだった。また、世間が暗にこれを望み、浪士たちに味方する心持でいることも否《いな》み難《がた》い事実である。いや、兵部自身にしろ仮に位置をかえて第三者の立場にあったならば、熱心にかれ等に味方して自分で出来ることならいくらでも便宜《べんぎ》をはかってやる気持になることだろう。
要求は如何にも正当なのである。非は誰が何んといおうと上野介殿にあることだし、またよしんばこれがかれ等の主人の失策から起ったことにしろ、武士道は復讐を是認《ぜにん》しているのである。
しかし、同じ武士道が、兵部には上野介の身辺を守護して浪士たちの計画を打破することを要求している。
これは何んのためか?
お家のためである。一国のためである。これは兵部が信仰している封建の社会制度の下においては絶対の要求である。「お家」の名のもとに行われることは、すべて漏れなく善であり真であり、美でもある。
かく観ずれば赤穂浪士との衝突はまことに必然のことといわなければならない。のっぴきならぬいくさなのだ。
したが上杉家が上野介殿を守護するのは、君の御実父上野介殿を討たせては、子として君御孝道にもとり、これがひいてお家の面目にかかわるからである。御孝道はお上の私事である。上杉家の家老として自分が最も重く見なければならないのは「お家」の一事であって、御孝道のことはその次のものでなくてはならない。と、すれば、万一お家の安泰《あんたい》を計るために君の御孝道をも犠牲とせねばならぬ羽目《はめ》となったならば……
ないとはいえない。起り得ることだ。その時、家臣としておのれは何とすればよい? むざと君に不孝の汚名をかぶらせてお家を護ったものか?
さ、それは?
理屈の答えるところは簡単で明瞭であった。
「したが、家来として……」
それは忍びぬことではないか?
兵部は額を曇らせた。間もなく朴庵の相手をしていた用人が来て「玉」があばれて朴庵の手を滅茶苦茶に引っ掻いたことを知らせて来た。兵部は端座したままにこりともしなかった。そのそばに木天蓼《またたび》の袋が倒れて、中身を畳の上にこぼしていた。
外桜田にある上杉の上屋敷で、兵部は、主人|弾正大弼綱憲《だんじようのだいひつつなのり》の前にすわっていた。綱憲がお城から戻ったのを迎えると、何か緊急のお話があるらしく俄《にわか》に人払いを仰せ出されたのである。
綱憲は、四十にとどく男ざかりであったが、優形《やさがた》の顔立をしているのみならず、病身で皮膚が目立って白いために実際の年齢よりも若く見えていた。上野介の長男に生れ、二歳の時上杉家を養子相続したのだが、父親の上野介よりも上杉家から嫁《とつ》いだ母親に面差《おもざし》が似ていて、気性も吉良家のものよりも上杉家の代々、殊に祖父の上杉定勝《うえすぎさだかつ》に似ているということだった。多血質だが、病弱な体に似合わしからぬ熱情と敢為《かんい》の性質をそなえていて、謙信《けんしん》以来武勇の名ある家にふさわしい人物である。
兵部は、主の顔にいつもと変る興奮の色を認めて、これはお城で何事かあったなと見た。其の推量通り綱憲は今日お城の廊下で、偶然に旗本《はたもと》達が高声で赤穂の浪人のことを話しているのを聞いたのだった。
自分の父親に関係した話なので、綱憲は自然と歩みをゆるめながら、襖越《ふすまご》しに耳を立てた。どんな風にいうか、気になったのである。
「やった方がいいさ!」
誰か力を入れてこういった。
「そうだ、士気が振うからな。今のままではいけない。泰平過ぎて、人間がなまになる一方だ。ひと夕立ほしいというところだな。世間がみな、その気持でいるのだ。一方の御成敗《ごせいばい》が重すぎて、片っ方が何のおとがめなかったのも原因になっているだろう。私の知っている限りの人間は、浅野の肩を持って、大石の人物を論じている。この人気もつまり同情から来ているのだろう。愉快だ」
「御用部屋でも話が出ることがあるそうだ、お坊主から聞いたのだが……相州《そうしゆう》など、やらせた方がいいという意見だそうだ」
「天の声だな。例の方があるから、誰も公然とそれをいうものはなかろうが、自然と、どこへ行ってもその気分が変っているから面白い。無責任な市中で殊にやかましい評判らしいぞ。現に私のところの足軽がしつこく、どうなるかと訊く。おかしいと思って聞いてみたが、こりゃア出入りの酒屋米屋の小僧までがうるさく訊いて困るからだそうだ。いや、高家《こうけ》もえらく不人気だぞ」
「すこしいい気になりすぎているからな。それも致し方あるまい」
話は最後まで聞かず、綱憲は立ち去った。
はしたない様を人に見とがめられたくなかったばかりではない。自分の、我慢が信じられなかった。それでなくとも血は沸いて顔にのぼっていたのである。現在の父親のことであった。他家の人と成っていても骨肉の情は別である。況《いわ》んや綱憲の実子佐兵衛は、祖父の上野介の養子となって吉良家《きらけ》にいる。赤穂の浪士は、父親上野介を狙《ねら》うのみならず現在の子供にも刃をあてるであろう。なんで綱憲が黙して、これを見ていられようか? たとい世を挙げて浅野の遺臣に与《くみ》するとも、おのれは血の最後の一滴をしぼっても、楯《たて》をつこう! もとより、この覚悟ある綱憲であった。
綱憲は兵部と向いあってから、暫く無言でいたが、口をひらいたかと思うと、
「父上のことを頼むぞよ。私が胸の内を察してくれい」といった。
「は」
意外なばかりに、しみじみとしたお言葉である。兵部も、ちょっと不意を衝《つ》かれた形で平伏したが、やがて静かに面をあげて主の顔を凝《じつ》とうかがった。
「仰《おお》せまでもなきこと」
はっきりした声がこう答えた。
が、何があったか? とまだ疑いは残っていた。
綱憲は微笑を作った。
「浅野は、大分の人気じゃのう? そちは、知っておるか?」
はじめて兵部は思いあたった心持だ。
「左様なことも御座りましょう。人の口は是非もなきことに御座りまする。何かお聞き遊ばされましたか?」
「…………」
綱憲は、目をそらせてこれに答えなかったが、ややあって、またにわかに、我慢のせきも切れたようにいった。
「たとい父上に如何ほどのことがあろうとも、子として親のことを悪様《あしざま》にいわれては、……よし相手が戸をたて難き人の口であろうとも、聞き捨て難い。父上がさほど憎まれていられようとは私は知らなかったぞ」
兵部は、肩に百斤《ひやつきん》の重量をかけられたように、ひくく頭《こうべ》を垂れたきりであった。
つゆ空
堀部安兵衛は、開城の二日後に同志の高田郡兵衛と赤穂をたって江戸に向った。やがて来ようとしている梅雨にかかっては道中が困難になるのみか、内蔵助から明かされた大事を江戸にいる同志の者に、一刻も早く伝えたかったのである。
木の芽にむせるような箱根山を越えた。大磯あたりを通る頃から、空は陰気に曇って、間もなく、霧のような雨が二人の笠を濡《ぬ》らし、砂丘の間を行く松並木を煙らせて、街道筋の民家の屋根に咲くいちはつの紫の色を鮮やかにしていた。
この離れていた僅かの間に、江戸の同志の間にも変化はあった。いつの間にか行方知れずになっている者もある。会って話してみても、早くも最初の興奮から醒《さ》めていて迷惑らしい様子を見せる者もある。安兵衛も郡兵衛も人を訪れる毎に、あとで腹を立てたり嘆息したりした。しかし、また赤埴《あかはに》源蔵、奥田兵左衛門、磯貝十郎左衛門、小山田庄左衛門、間《はざま》新六、武林唯七などの、硬骨児《こうこつじ》で、あの時以来復讐のことよりほかには考えていないというような人達がいた。この人々に会うのは悦《うれ》しいことだった。
「御城代もその御意見だぞ。開城もそのためじゃ」
こう打ち明ける人々の目に感激の光が流れた。
江戸に残っていた同志の者は、殆ど漏れなく、若くて意気さかんだった。亡君の仇は、目の前に生きていて、しかも、安穏《あんのん》に旧《もと》どおり御城へ勤めているのだ。それのみかどこへ行っても赤穂浪士に対する市民の同情が周囲の空気を熱せしめて鉄と火の匂いを漂わせている。これが、強いだけにまた情熱のひた向きな若者達の元気をどんなに鼓舞《こぶ》してくれることかわからない。
毎日のように誰かの家に集まった。同志の消息、仇の動静などが熱した語気を以て語られる。
安兵衛がその中心になっていた。昔、禄高《ろくだか》が上だったからではない。文武両道に秀でている上に、もと浪人暮しを江戸でした経験があって、同志の者が知らずに来た市井《しせい》の事情によく通じている。何事の相談にあたっても安兵衛の意見は重きをなしていた。
梅雨《つゆ》は執《しつ》こく降り続いた。
その内に、同志の者の三人ばかりが賊に襲われた。どれも不在の時を狙って、金ばかりでなく手文庫をかきまわして、往復の手紙や日記の類を盗んで行っている。また高田郡兵衛の家では、床下へ人の入った形跡が発見された。
「こりゃア用心しなければならぬ」
同志はしめし合せて、互いの交通にはなるべく書状を用いないことにした。用いても読んで、すぐ焼き棄てることに申し合せた。同時に都合のつく者からはじめて、同志の所在をくらますことにした。これまでの家は、そのまま借りて置いて未だ住んでいるように見せかけながら別に住居を作った者もある。手ばやく服装をかえて町人になりすました者もある。なるべく三人四人とかたまって住む方針がとられた。敵の動静をさぐるのも、上杉と吉良と二手に分けて持分をきめた。
その内、上杉家で剣道の出来る浪人者を抱えはじめたという噂が聞えて来た。
「どうだ。ひとつ誰か行ってたのんで抱えられてみぬか?」
安兵衛が、こういい出したので皆ふき出した。
内蔵助は城明渡しが無事に済んでから、ひと先ず城の東方の郊外尾崎村に仮寓《かぐう》を営んだ。城地引渡しの後にもいろいろの事務が残っていた。未納の租税を集めたり、その他民政の諸事務を新しい代官に引き渡す用件もある。ほとんど席の暖まる間もない繁忙が続いた。
やがて、それも一段落がついて、家へ帰って、初めて一家が灯を囲んで顔を揃えた。外には、春らしい雨の音が聞えていた。戸をあけると、外は暗く、梅の実の青い匂いがしめった空気にのせられて漂い入って来る季節である。
「どうも、すこし痛むが……」
内蔵助は、左の腕をまくって、数日前から出来ていた腫物《はれもの》をさすって見た。指をあてて見ると、かたく根を張っている。内蔵助は妻子が心配そうにのぞいているのを見ると、笑って、
「明日は誰かにみてもらおう」といった。
その晩から熱が出た。多分月余の間気を張りつめて激務に従っていたのが、一段落ついてほッとして、にわかに疲れが出て来たせいもあるらしい。その小さい腫物が耐え難く痛んだ。
翌朝、雨の野道を突っ切って、着物の膝から下をぐっしょりぬらして来た医者は、これは疔《ちよう》だと診断した。熱も高い。起ち居もものうい。それから数日を内蔵助は床の中で暮した。
最早、人々はおおむね城下から立ち去っている。また残っている者があっても、皆それぞれの身のふりの思案にいそがしかったからであろう。訪れて来る者もない。主税をはじめ一家はどこか遠い島に取り残されたように淋しく、重病の父をかこんでいた。狭い病室を雨の音がうずめている。しずくの垂れている軒のかなたに野良はけむって、立木も影のように見えていた。
主税が気がかりだったのは、江戸からひっきりなく届く同志の手紙だった。どれも一日も早く御|出府《しゆつぷ》をと望んで来る。また江戸の形勢が如何に自分達に有利であるかを、こまかく書いて知らせて来た者もあった。主税は、この手紙を暫く父に秘《かく》して置いた。内蔵助は熱のある赤い顔を天井に向けて無言でいるのである。戸棚も壁も黴《かび》の匂いをさせ、雨は人の心まで腐らせそうに、執こくしとしとと降り続いた。内蔵助は、天井にとまったまま死んだ蠅《はえ》の骸《なきがら》を見続けているのだった。
主税が、江戸の同志の焦躁《しようそう》をなるべく伝えまいとしていたのと同時に、内蔵助もまた、そういうことから離れて、全然別のことを考えているようにした。何がなしに、もっとよく考えなければならぬことがあるような心持が、ずっと、心のどこかにひそんでいたのを、この臥床《がしよう》をよい機会に、出来るだけ掘り下げて行って見たいと思ったのである。出来ることなら妻子もかたわらにいないようにして、こんな野中の家にひとりでこの雨の音を聞いて見たいと思う。
しかし、間もなく、妻も主税も、内蔵助にはいてもいなくても同じことになった。ただ雨の音がある。その他は、影になった。足音を忍んで入って来て、そっと自分の顔を差しのぞいて帰って行く影だった。影達が心に持っている感情は、おのれの心に移って動かすこともない。内蔵助はひとりの心持でいる。自由にのびのびと天地の間にふさがっているのである。法悦《ほうえつ》に似た感動が胸にあふれている。何がなしに、心は、いいなあ、いいなあ……と呟いているのである。これから醒めて、影が実体となって映じて来る時、内蔵助は自分が、生れかわったように新しい目で主税達を見ているのを感じた。
熱も去り痛みもとれてから、ある日主税が江戸の手紙を読んで聞かせた。
「うむ」と、内蔵助はいう。
「よし、よし……」
そうして、雨がやんで、にわかに夏らしい色にかわった庭の日影を、静かな微笑を頬にふくんで眺めるのだった。
遠目鏡
お城から帰って来た上野介は、留守中に千坂兵部が来て奥方と会ってすこし前に帰ったのを知った。
「千坂が来たそうではないか?」
すぐと奥方の富子《とみこ》の部屋へ行って、こう尋ねた。富子は上杉家から来た人で、先代の綱勝《つなかつ》とは同胞《きようだい》であるし、また実家の家老千坂兵部をよく知っていたのである。
「はい」
「丁寧にして帰してやったろうな? 何か用事であったか?」
「綱憲《つなのり》どのの名代《みようだい》で見えられたので御座いまする」
「むむ、何か……」
「綱憲どのは、御公儀《ごこうぎ》の有難き仰せはさることながら、世の憚《はばか》りもあり、あなた様が御役御免をお願い遊ばしては如何《いかが》かと申してまいりました」
上野介は、にわかに難しい顔付になってだまっていたが、
「何故じゃ?」と、大きい目をぎょろりとさせて、白眼を見せた。
「私が職をやめる。とんでもない! お上の思召《おぼしめし》もあることだ。富、私が浅野の痩《や》せ浪人を恐れていると思うのか? 馬鹿な! かれ等に何が出来ると思うのだ。内匠頭は御公儀|御厳譴《ごげんけん》を蒙《こうむ》っておのれは切腹し、城地は没収となったもの。もとよりかれの不徳より招いたことで、私の知ったことではない。恨むならその主人を恨むのが至当《しとう》だ。それとも痩せ犬めらが御公儀に弓をひこうと思うのか?」
顔が真赤になっていた。
「いえ……」
「私を主人の仇と思うたら、そりゃア卑怯なことだぞ。明日のこともわからぬ老弱の身ながら、私には御公儀の後楯《うしろだて》がある、とんでもないことだ」
「仰《おお》せ……ごもっともに御座りますれど、綱憲どのも父上のお身を思うてこそ、かように申し越されたもので御座りましょう。その孝心をむげにおしりぞけなさるのも如何で御座りましょうか? あなた様に直々に申し上げずと、まず母の私へ申してまいりましたのも、ためろうて後よくよくのことのように存ぜられまする。御理窟はあなた様に御座りましょうとも、兎角世の中のことは、それのみでは済まぬこともあるように存ぜられまする」
富子は臆《おく》するところなくいった。静かな言葉におかし難い気品があった。また、これは道理であった。綱憲は父に集まる世の憎しみをやわらげようとして、父の辞職をすすめて来たのである。たとい自発的にもせよ上野介が職を退けば、まだ片手落のそしりは免れ得ぬものながら、喧嘩両成敗の公平が曲りなりにも立って世間の激昂を和げることも出来ることだろうと思うのである。この綱憲の真意は上野介にもわかった。しかも、なお、この弱いくせに傲岸《ごうがん》な老人は、さらに憤然としていい放っていた。
「綱憲は、私が職をやめれば、何も出来ぬというのか?」
「…………」
「不孝者がッ!」
これが最後の言葉だった。上野介は荒々しく立って廊下へ出て行った。富子は、途方にくれて見送っているだけだった。
柳沢吉保は、遠目鏡を携《たずさ》えて、邸内の高殿《たかどの》へあがって行った。これは、今日西国のさる大名から、近頃オランダから舶載《はくさい》して来たものだといって、ちんた酒、竜脳《りゆうのう》、紅ごろふくりん等と一緒に贈って来たものであるが、中で目鏡が一番吉保の気に入っていた。一尺ばかりの長さで、伸縮が出来る仕掛けになっていた。
高殿は三層をなしている。上へ出ると、緑を渡って来る初夏の風が錦《にしき》の縁《ふち》をとった簾《すだれ》をさわやかに動かしている。広々とした眺めは眉ものびる心持だった。晴れ渡った夏空の下に、どこを向いても、青い色が見えた。護持院《ごじいん》の屋根、濠《ほり》にかけた橋、見付の白い壁は、箱庭のように見え、蜂の巣のように黒くよごれて続く町家の屋根は地平まで続き、その果てに裾《すそ》に行くほど薄くなる淡い碧《あお》の一刷毛《ひとはけ》で、やさしい姿の筑波山《つくばさん》がえがき出されているのだった。
目鏡の度をあわせてゆくと、初め朦朧《もうろう》と見えたものの形が次第にはっきりとして、遠い町家の看板の文字が見え、いそがしそうに往来を歩いている服装《なり》もさまざまな行人の姿が、豆人形のように見える。護持院の破風《はふ》には鳩がとまって羽搏《はばた》きしている。近いところでは、金襴《きんらん》の袈裟《けさ》をかけた坊様が日射を中啓《ちゆうけい》でよけながら濠端《ほりばた》を歩いて来る。橋の上には、どこかの大名が毛槍を立てて通って行く。
これは面白い。
吉保は、飽かず目鏡をのぞいて方々を眺めていたが、やがて、やや疲れて、欄干《らんかん》にもたれて、庭の緑に目を移した。
燃え上る青い焔《ほのお》を見るようである。池の水はぎらぎら反射して、鯉達も涼しい底の岩蔭に隠れているらしく姿は見えなかった。この高殿の上も、なれて来れば、風はなま暖くむっとしていた。吉保は、間もなく葉蔭に見え隠れして庭を横切って来る赤い帯を見た。腰元の誰かと思いながら、目鏡をあげて覗き込んで来た。うまく見当がつかないで、繁みの色ばかりが見えた。やがて、鏡玉《たま》におさめたと思うと、吉保はにわかに熱心になって、じいっと手を動かさなかった。
はじめて見た顔である。伏目がちに歩いて来る顔は白い花のように美しかった。ふと、娘は顔をあげて、吉保が目鏡で見ているのを認めた。はッとして薄く血の色が顔にのぼるのさえ吉保に見えた。目が笑った。娘はしとやかに腰を折って黙礼したが、今度は見られているという意識も手伝って、そわそわと逃げるような動作で、こちらへ背を向けて歩き出している。男の視線からかばおうとするもののようにしなやかな腰に片手をあてているのが見えた。
吉保は、満足したように微笑して、丁度茶碗を持ってあがって来た老女を振り返って見た。
「これ、あれは誰だ?」
「幸《さち》に御座りまする」
「これへ呼べ」
何かお目ざわりなことでもあったのかと思ったが、そうでもないらしい主の様子であった。
老女は、すぐと降りて行った。
間もなく、かすかな衣《きぬ》ずれの音が襖の外にきこえて、さっき目鏡で見た娘がおそるおそる姿を現わした。
「お召で御座いましたか?」と消えぬばかりにいう。
「むむ」笑いを含みながら、大胆な目でこの若い腰元の顔を見詰めた。思ったよりもみずみずしく美しい。何よりも、場なれぬおどおどした様子から悲しげにさえ見える、ういういしさであった。
欄干に腰をもたせかけながら吉保は、自信のある猟師のみが持っているゆったりとした心持で、
「これへ、まいれ、よいものを見せてやる」と、さしまねいた。
娘は、遠目鏡を渡された。
「のぞいて見ろ。京大阪まで見えるぞ」
吉保はま近く梅花の油の強いにおいをかいだ。どんよりと血が動いて来る。直ぐ目の前に、すこしのぞいて見える背筋《せすじ》に続いて細い襟《えり》あしがあった。白粉《おしろい》もつけずに白い肌理《きめ》のこまかい皮膚に、その一重下《ひとえした》を通っている血の色がぽっと桜色に散っている。おどおどしている娘の様子が、かえって、吉保の胸にからかいたい欲望を生んでいた。見れば見るほど、やさしい娘だった。帯でしめた胸を、短くせわしない息が動かしている。
「どうだ、見えるか!」
吉保の声は、咽喉《のど》にからんでいた。日射に熱した赤銅《しやくどう》の樋《とい》の中を雀がことこと音をさせて歩いている。空気は乾いていた。突然に乱暴な動作が吉保を動かした。ほっそりとした娘の肩は荒々しく引き寄せられていた。
目鏡は廊下に音をたてて落ちた。意外に感じたことは、この娘が吉保の腕を振りほどいて逃れようとしていることだった。こんな小娘が……と思いながら、娘がそり身になって突ッ張っている細い腕が、吉保の意のままにさせないのだった。息をあえいでいる美しい顔が、すぐ目の前にある。可憐な必死の抵抗をして、もがいているしなやかな躯《からだ》は腕の中にある。吉保はあせった。かつて、こういう際に逢ったことのないこの強い反抗が、かえって征服の欲を強めているのだった。が、突然に吉保の頭に、ここは端近《はしちか》くしかもこの開けひろげた高殿では、どこから誰にこの有様を見られないとも限らないように閃《ひらめ》いた。このとっさの心のすきに、娘は、素早く吉保の腕から逃れていた。
「冗談じゃ」と狼狽して叫んだが、娘は、血相をかえ裾《すそ》をみだしたまま、梯子《はしご》を駈け降りて行った。
吉保は、ちょっとの間呆然として立っていたが、にがり切って笑った。
飲まずに置いた茶碗がくつがえって、畳の上に茶をこぼしている。目鏡は別に傷もついていない。救いようのない不機嫌な心持が急に胸にひろがって来るのを覚えた。威厳のこともある。獲物を逸した恨《うら》みもある。運の悪いことに、そこへ、誰かがあがって来たなと思って見ると、これは奥方であった。
つめたいさげすむような顔付を見ただけで、今のことがもう知れているとわかった。
「御立派なことで御座います」
極めて静かな声で、こういわれた。
「何がよ?」
吉保は、わざととぼけてこう答えて、手に持っていた遠目鏡をひょいと上げて、奥方の顔をのぞいた。けれども、この道化《どうけ》た所作《しよさ》も、この場の険悪な空気をやわらげてくれなかった。目鏡にうつって拡大された奥方の顔は、まことに不機嫌そのものに見える。
「ほほう、お前、角《つの》がはえているな」といった。
相手はにこりともしない。吉保は、失敗を自覚して、自分もむやみに腹が立って来た。目鏡を通じてけわしい気色《けしき》はいつもの四、五倍大にひろがって感じられたのである。それから急に不機嫌に口をつぐんで、目にあてたまま目鏡の度をかえて行った。睨《にら》めるように見詰めている奥方の顔が段々とぼやけて来るのである。
折よく誰かあがって来たので、目鏡は急にその方へ向けられた。
これは用人の権太夫であった。
「吉良様おいでに御座りまする」
助け舟だった。
上野介が今日吉保を訪ねて来たのには特別の意味があった。
先日、千坂兵部が使者に立って倅《せがれ》上杉綱憲から申し入れて来た御役御免を願い出る儀、あの時剛情に突っ放して終ったというものの、小心な本心に復《かえ》って思案して見ると、この際綱憲なり兵部なりと衝突しては面白くないと悟ったのである。しかし、また一方に上野介が頼みに思っているものに当家の主吉保の庇護《ひご》がある。この勢力家が自分を庇《かば》ってくれている上は、世間の悪評も、ものの数ではないとする思案であった。
客間に待つほどもなく、吉保が出て来た。「や」と無雑作な会釈《えしやく》をくれて坐ったところはいつもどおりだったが、吉保は不機嫌らしい顔色で、むっつりしていて話し掛けて見ても、何かほかのことを考えてでもいるのか、うまく話に乗ってくれなかった。
これが、上野介を不安にした。相手が何かの理由で気を悪くしているのではないかとも思われる。
「実は、……余の儀には御座りませぬ。いろいろ考えましたところ手前がひいた方がよろしくはないかと存じまして、御意見を伺いにまいった次第で御座りますが……」
上野介は、こういい出した。
吉保は、眉を動かしただけで暫くだまっていてからはじめて答えた。
「そりゃアそこもとの御随意であろう」
上野介は、
「はッ」といった。
これは、かなり意外な返事だった。上野介は今のようにいったら吉保は必ず、「その要はあるまい」といって、とめてくれるものとのみ信じていたのだ。あるいは「私が付いている。何も心配することはなかろうではないか」とまでいってくれそうな期待もあったのである。
しかし吉保の方では、奥方との衝突で好い加減機嫌を悪くしているところへ、上野介がこちらが目をかけてやっていることを全然没却したようなことをいいだしたのが何でもなく妙に腹に据《す》えかねて、思わず冷淡にいい放ってしまったのだった。が、いいなおすまでの気持は動かない。余計気重くなってだまり込んで、庭の方を見た。
(あの小娘は生意気な奴だ。奥は、すぐにひまを取らせたであろうが……残念な……すこし手荒かったことは確かだったな……)
庭に燃える緑の焔は主の頭に客を捨てておいて、こんな妄想を描き出させていた。精一杯の抵抗に上気した綺麗な目が、烈しくせまった息をひろげている。花びらのような鼻翼《こばな》が、網膜にからんで残っていて、吉保に見えていた。それも最早手の及ばぬものになったと思えば、余計残り惜しく、また得難く美しいものだったように思われて来るのである。
「御多用中を……」と上野介がいい出した。辞し去ろうとする気配を示した。
「や、まだよろしかろう」
「いや、いずれまた……」
「左様で御座るか……」と、手を打って用人を呼んだが、
「今のことは、なおよく御思案なさるのがよかろう」と、わずかにいった。
帰り道の、駕籠に揺られながら、上野介は日頃|傲慢《ごうまん》な気性だけにまた極端に悄然として考え込んでしまった。
吉保に見はなされたとしか考えられなかった。浮気な才子で、いざとなったら頼みに出来るかどうか疑わしく思うこともあったが、兎に角今は勢力絶頂にある人、この人の機嫌さえ損じなかったらば安心なものと思っていたのである。
急にああ冷淡になったのは、やはり世間の評判を知って、それこそ目から鼻へ抜けそうに悧口だから、急に私によそよそしくするのだな。軽薄な!
腹も立つ。しかし、やはり、受けた打撃の方が強くて、気は滅入るばかりだ。
あんなお上手者《じようずもの》と知ったら……やはり最後に頼みになるのは肉身の者だ。血の繋《つな》がりだった。誰がどうなろうと綱憲一人ついていてくれれば大丈夫じゃ。あれは孝行者だから、私のことをよく考えてくれている。それに何といっても米沢《よねざわ》十五万石、上杉謙信以来武勇の家柄だ。痩浪人ごとき何百人かかって来ようと、びくともするものでない。こうなったら年寄りらしく何事もあれのいうとおりにして置けば間違いない。
(なアに……)と、いくらか気も軽くなった。
(綱憲が、役をひけとすすめて来たのも、まったく、こちらのためを思うてくれればこそだ。それに、人の噂も七十五日の道理、今とやこういっている世間でもいずれ何事も忘れてしまうのは必定《ひつじよう》のことだ。そうだ。これからは子供まかせで、悠々と茶にでも遊ぶことにしよう。つとめろといっても、もう、こちらから御免じゃ。その代り、何か儀式のことでわからぬことが出来ても私はもう知らぬぞ。……京都へ行って、うまく取り成して来てくれと頼まれてももう動かぬ。高齢《とし》をたてに断ってやるだけの話だ。誰が、柳沢のような軽薄人のために骨を折ってやるものか? ふむ、あとになってから悔むことがあるだろう……)
いつの間にか駕籠は屋敷についている。上野介は家来達に迎えられて入ると、すぐに綱憲にあてて手紙を認めた。
私は老人だし多病の身だ。向後《こうご》は何事もお前の指図どおりにするから万事宜しく頼む。という意味を、なるべく綱憲の同情をひくように、これまでとはにわかに変った折れた調子でながながと書き送ったのである。
吉保は上野介が帰ってから、庭づたいに離屋《はなれ》へ行った。ほどなく、そこへ家臣の細井次郎太夫が来て、お目にかかりたいといった。細井は広沢《こうたく》と号して儒者《じゆしや》として知られている。が、学は経学百家《けいがくひやつか》に通じているばかりでなく天文《てんもん》算数にもくわしく、しかも武芸は堀内源太左衛門の門下として名誉の者で、世間一般の学者に類のない快男児だった。吉保も、わが家来ながら次郎太夫の識見《しつけん》には日頃から敬服していたので、何用かと思って引見した。
次郎太夫は、ただ今高家がお見えになったように聞いて来たが、お差支えなくばどんなお話があったか承わりたい。というのは、赤穂浪人との葛藤《かつとう》にどんな形でも御関係になることは御名のために面白くないように思われるから……というのだった。
これは吉保も、漠然とながら感じていたところだった。
「それは、私もよく考えている。上野が今日の話というのも、役を退《ひ》こうと思うが如何なものかと、私が制《と》めるのを予期して相談に来た様子であった。うるさいから、それがよかろうと返事して置いた。私もあまりかかりあいたくないと思っている」
「恐れ入り奉りました」
次郎太夫は低く頭をたれた。そして向後もその御方針でいられるようにと勧めて退って行った。
次郎太夫は、赤穂浪士の中、堀部安兵衛と同門の関係で親しい。義挙《ぎきよ》の隠れた味方だったことは人の知るところである。
「太夫から何かいって寄越されたか?」
座敷へ通ると直ぐ立ったままこの言葉だった。日射《ひざ》しの烈しい外を歩いて来た奥田兵左衛門は顔中に汗をかいて、まるで湯気がたちそうに赤い色をしている。
「来たぞ。今朝がた着いた」
主の安兵衛は傍《かたわら》にいる高田郡兵衛と顔を見合せて、意味ありげに笑いながらこう答えている。
「来るには来たが、例によって例の如しだ。さっきまで高田と二人で、さんざっぱら腹を立てているところだ」
「ふむ?……」
兵左衛門も、それだけで、大石内蔵助からどんな手紙が来たかわかったらしい。駄目だなあ……というように投げたような顔付で、無言で袴《はかま》を脱ぎはじめた。
「失礼する。どうも、きびしい暑さだ」
「そうだろう、すっかり夏になったな。朝顔屋が来るようになったから……裸になって顔を洗って来たらどうだ。いい水だぞ」と、郡兵衛がいう。
「いや、なアに、それほどでもない。……だが、どんな模様だ? これで早速|下向《げこう》とでもいって来られたのだと、暑さなど、ふッ飛んでしまうのだが……」
「くさるなあ……浪人したせいか今年の夏はいやに暑いような気がする」
郡兵衛がこういいながら立って行って、長押《なげし》の裏にかくしてあった内蔵助の手紙をおろして来て渡すと、兵左衛門は、膝を正して坐ってひろげて読みはじめた。
幾度か三人が連名で、内蔵助に早く出て来てくれといってやったのである。内蔵助さえ江戸へ来たらすぐにも大事を決行出来るのである。しかし、内蔵助の最初の返事は病気をして当分動けないということだった。次には大学殿の御安否《ごあんぴ》さだまるまでは、江戸へは出ない。せかずに成行を待つがいいという……折返して、江戸の形勢を説き、この際断行した方がいい。書面では事情を尽すことが出来ないから、いずれ、当方からお話に伺うつもりだといってやったのに対し、今朝着いた返事だ。
「自分の意見はその後もかわりない。上京せられることは無用である。大学殿の御安否が決し、一挙のやむべからざるを見てから諸君とともに働く考えでいる。今は一人一人の我意を立てる時ではない」
内蔵助は、こういって来ている。兵左衛門は、読み終って、むっとしたように、
「な、なんだ! 太夫は、大学様お取立てのことになれば、例の件をやめる積りなのだろうか? え!」
「そこだよ」
郡兵衛は不平の火の手をあげた。
「御名跡《ごみようせき》のことばかり頭にあるらしいな、おれは、たとい大学様お取立てになっても先君の仇《あだ》は仇だと思う」
「無論のことだ」
兵左衛門も力を入れてこういっている。それまで無言でいた安兵衛も、この時口をひらいた。
「もう一本、書こう。こうなったら我々の意見が貫徹できるまで手紙も書く、押し掛けても行こう。たとい日本に天竺《てんじく》を添えて大学様に下し賜わろうとも上野介を生かして置くことは出来ないのだ。御公儀においても我々の志すところを幾分察していることだろうし、大学様のお取立てなど百年待ってもあるものか?」
そこへ、武林唯七が入って来た。
「方々、上野介が御役御免を願い出て、聞き届けられたということですぞ」
「え!」
異口同音《いくどうおん》に三人は驚いて叫んでいた。
あの傲岸《ごうがん》な老人が自ら進んで職を退くとは? これはまことに意外なことであった。
夕顔
「暑い、暑い……」
格子《こうし》をあけるなり、丸岡朴庵は叫んだが、その声を聞いて駈け出て来るものと期待していたお千賀は姿を見せないで、代りに婆やが迎いに出た。
「お帰りなさいまし」
「千賀は?」というと、
「こちらで御座います」と、湯殿から返事が聞こえた。湯の香に白粉《おしろい》がほんのりとにおって来る。
「ほう」と、目尻に皺《しわ》が寄って、
「おめかしか?」
「いえ、あんまりお暑いものですから行水《ぎようずい》を召していらっしゃいます」
「いや、暑いなあ」といいながら、奥へ入ると、いつの間にか障子が簀戸《すど》にかえられて、外の青葉の色が畳にさしている。
「こりゃア……」と珍しげに眺めまわしながら、羽織をぬぐ、足袋《たび》をとる。早くも襦袢《じゆばん》一枚になって、
「これ、このとおりの汗だ」
婆やが団扇《うちわ》をとってくれた。
「私も後でつかわしてもらいたいな」というところへ、早くももうあがって来たお千賀が、涼しい浴衣《ゆかた》の帯もなまめかしい姿で、ぬれ手拭《てぬぐい》で襟《えり》の汗をふきながら、
「あら、あたし、すっかりお釜のお湯をつかってしまって……」
「むむ……お前のつかったあとでもいいが……あけないであるのか?」
「そいじゃア、なんですもの……」
「なあに、かまうものか? 内々のことだ」
朴庵は団扇を捨てて、立ったと思うと、汗でよれよれになった襦袢をぬぎ、その肩のところをつまんで、ぶらさげながら、
「こいつを、ちょいと乾かしておいてもらいたい。汗でぐしょぐしょになっている」
「いいえ、ちょっと婆やにゆすがせましょうよ。今晩はお宅へお帰りにならなくっても宜しいンで御座いましょう」
「むむ。そりゃアいいンだとも……実は、吉良様が急にお役をおひきになったンでな。この暑いのに、お見舞に伺ったのさ」
「そりゃアまあ……」
鏡の前に、襟をすべらして、まるい白い肩をひき出してお化粧最中のお千賀は、刷毛《はけ》で口のあたりをたたいていたところだったので、もごもごした声は途中で消えている。
湯殿の前の廊下には、みだれ箱からこぼれて、お千賀がぬぎすてたままの着物が、派手な裏を見せていた。帯も、すこし離れてすっぽりと体を抜いたまま、とぐろを巻いている。本宅にいる時は、糟糠《そうこう》の妻がもしこんな自堕落《じだらく》なことをしているのを発見すれば、目を三角にして、
「身分を考えろ、お前はいつになったら長屋の女房らしいところが抜けるのだ?」と、烈しくきめつける朴庵だったが、事がお千賀の場合であってみると、こういう自堕落さがまた一つの魅惑になって、朴庵をうれしがらせた。
のりのついた浴衣に着替えて、
「ああ、さばさばした」と朴庵が戻って来た時は、お千賀はもう、すっかり綺麗になっていて、かいがいしく座蒲団を縁ばなへ敷いてくれる。その上へ、どっかと胡座《あぐら》をかいた時、
「あ、今、これを……」と、お千賀が、届いたばかりの手紙を持って来た。
受け取って、裏を返すと、柳沢の用人曽根権太夫からだ。
「ほう……」といって封を切る。読む。と、さッと顔色が変っている。
「こ、こりゃアこまったことが出来た」
朴庵は泣きそうな顔付になって、急にこう口走った。
「どうしたので御座います」
お千賀も驚いて、それまで朴庵を煽《あお》いでいた団扇の手をとめて、覗き込むようにした。
「お前に話したろうと思うが、この間、柳沢様へお世話した……それ飯田町の長屋にいる浪人者の娘がとんだ不埒《ふらち》をしてくれたのだ」
飯田町の長屋というのは、この春、もとの持主から朴庵がうんと格安に買ってお千賀の名義にして置いたものだった。そこに、越後の浪人者で、ひどく貧乏している者がいたが、かねてから曽根権太夫と親しくしている朴庵が、何でも器量のいい娘がいたら世話してくれとたのまれていたところから、その浪人者の娘が貧しいに似ず綺麗なので、早速に朴庵が話し込み、わざわざ請人《うけにん》にまでなって柳沢様へ御奉公に出したのである。
お千賀もそれを知っていた。
「とんでもない女だ。奉公にあがって置きながら、あちらの殿様が大層お気に召して何か冗談を仰せられたところが、手ひどくはねつけて恥をかかせたばかりか、その日の内にお屋敷から脱け出してしまったというのだ……」
「まあ」
お千賀の目には羨望の色が流れている。
「馬鹿な子ですこと」
「馬鹿さ、大たわけだ。おっしゃるとおりにすれば、それこそ氏なくして乗る玉《たま》の輿《こし》だ。出世は望み放題じゃないか。それを……まあ、なんという奴だろう。あきれて物がいえやしない」
「…………」
「こりゃア宅へ帰ったのにきまっている。ほかへ逃げるなンて才覚のある女じゃない。こうしてはいられない。殿様御立腹だというし、これから早速|父親《てておや》に会ってきびしく話してやらなければならぬ。おとなしくしていれば、世話をした私まで、どの位都合のいいことか知れぬのだ。なアに、そこをよく話したら、父親だってよくわかるだろう。親子で立身出世が出来ることだ」
話なかばから朴庵は立ち上っている。
「おっと、着物、着物」
「あら、お襦袢をもう水へつけちまいましたでしょうよ」
お千賀は自分と同じ女の中で誰かそんな出世をするなんて面白く思わなかった様子で、返事も冷淡だった。団扇がゆるく動いている。
「ほかのがあるだろう」
ぷいとしてお千賀は次の間へ立って行ったが、がたぴしと荒く箪笥《たんす》の引出しをあける音が聞えた。
いつの間にか、陽がかげって軒端《のきば》に蚊柱《かばしら》が立っている。庭は夏の薄暮の色につつまれて、まだあかるかった。
「なアに手間の取れる話じゃなし、すぐ引き返して来るからね」
朴庵は、お千賀の機嫌が急に変ったのを、とんでもない用事が自分をさらって行くためだとばかり信じて、襦袢に手をとおしながら、なだめるような口調で優しくこういうのだった。
「そうだ、鰻《うなぎ》でもとっといてもらおうかな」
崖に西北を遮られて風通しが悪いせいか、夜もそちこち八つというのに、まだ昼間の暑さが温気《うんき》となって両側から庇《ひさし》のかぶさった路地にむっとこもっている。これに蚊燻《かいぶ》しに焚《た》いた木片の煙、溝《どぶ》の臭気が雑然と混じて朴庵の鼻を襲《おそ》って来る。有難いことにざっと三十年も、こういうところに暮した経験がある朴庵には、この臭気もさして苦にはならない。提灯《ちようちん》を持って案内に立っている差配の男を棄てて、すたすたと先に路地を入って行くのである。
「おッと、こちらで御座います」
行き過ぎようとして、こう呼び止められて立ったのは、からたちの垣根をめぐらして二軒|一棟《ひとむね》の、小ぢんまりした長屋の格子戸の前だった。
無言で、目くばせすると、差配の男が腰をかがめて、格子をあける。
「今晩は……へい、お頼み申します」
障子の蔭で誰か人の動く気配がした。何かひそひそと話しているようだったが、やがて灯影《ほかげ》がさし大きな影法師がひろがって、障子があく。
出て来たのは、やせて、鬢《びん》も月代《さかやき》ものびるにまかせた、やつれた姿の浪人者だった。
「これは……」
「丸岡先生を御案内いたしてまいりました。何かお話し申し上げたいことがおありだそうで……へい……」
「それは、それは、よく御入来《ごじゆらい》なされた。失礼ながら、庭からおまわり下されたい。ここはとり散らして御座るゆえ」
疲れたような顔付だが、話はしっかりしていた。
差配の案内で、かたわらの木戸を押して入ると宵闇《よいやみ》の中に夕顔の白く咲いているのが朴庵の目に映じた。雨戸はまだあいていて、何もなくがらんとした六畳一間を主がさげて来た行燈《あんどん》があかるくした。
「さ、おあがり」
朴庵はわざと大風《おおふう》に会釈《えしやく》して、招ぜらるるままに床を背にして坐る。煙草盆の代りに小さい火を入れた鉄火鉢が運び出された。
行燈のそばを見ると流石に窮乏の様子がそれと見てわかる。着物もつくろいだらけなら、顔色も悪く、貧しい者に特有の、異様に光るが落着きのない臆病らしい目付をしているのがわかった。年は四十五、六であろう。
朴庵は煙管を出して詰めながら、襖《ふすま》の裏に一件の娘がいるらしいのを気配に感じてわざと静かに話し掛けた。
「ほかのことじゃありません。お娘御のことですが……」
「は」
「お世話いたした手前もまことに困却仕っておりまするが……こちら様ではどういうお考えなんで御座いましょう? それを伺いたいと存じましてな」
「そのことは」
幸《さち》の父親|穂積惣《ほづみそう》右衛門《えもん》は、膝をかためて、
「御貴殿の御迷惑もよく存じておるが、手前も娘を行儀見習いということにて奉公に出しましたもので……痩せても枯れても武士のはしくれ、様子を聞いて見れば、折角の御周旋《ごしゆうせん》ながら二度とあちらへ奉公に出す心持はありませぬ。貴殿がたから、よしなに御披露《ごひろう》ねがいたいと存じおります。一言の御挨拶もなく戻りましたのは娘の不調法、これは手前よりくれぐれおわび仕ります」
はっきりしすぎているから朴庵はあきれて物がいえないでいた。一体この浪人者は正気でこんなことをいっているのだろうか? それさえ疑われる。しかし相手が真面目とわかると、にわかに湧き返った血がのぼって顔が熱く、息がせまって感じられた。
「もし……相手は柳沢様ですぜ。ほ、ほかの方じゃありません。どうも冗談も、やすみやすみいっていただかないと」
「冗談!」
一点の焔が、惣右衛門の両眼に宿った。が、惣右衛門はすぐと思い直したらしい。努めて穏かな声で、
「くどいようで御座るが、手前には二度と娘を奉公に出す料簡《りようけん》はありませぬ。理由は申し上げますまい」と、ぽつりといって、
「貴殿方にもこれ限りお手をひき下され」というのだ。
朴庵は、聞いていて、赤くなったり青くなったりした。話せば一議もないこと、娘は兎に角、親は困っていることだし、飛びつくようにして乗って来ることとばかり思い込んでいたのだ。あまり意外の返事だった。
「とんでもない!」と思わず叫んだ。
「そ、そりゃアあまりにお手前勝手のお話ではありませんか? ええ?」
「…………」
「こちらは、それでよろしいかも知れませぬが、請人《うけにん》にまでなった手前の顔をなんとしてくださる? さき様は当時飛ぶ鳥を落す勢いの柳沢様で御座るぞ」
朴庵はこれだけの理由だけで、もう充分だと確信しているらしかった。いや、柳沢様というとき、弘法大師の御名を口にする時の僧侶のように、顔に敬虔《けいけん》の色さえ描かれていたのである。
「これは!」と惣右衛門はいった。
「よし、先方が何ぴとにもせよ、穂積惣右衛門、娘をけがらわしい奉公に出すほど腐ってはおりませぬ。また、そういう約束ではなかった」
きっぱりとした返答だ。
朴庵は、あきれはてたように、目をみはってもごもご口を動かしただけで返事が出来ない。そこへ差配《さはい》の石屋の源六という男が、そっと膝を動かして、
「もし、……」と、とりなすように言葉を入れた。
「へえ……ごもっともで御座りまするが……こちらの旦那もよくお考え遊ばしては如何で御座います。そりゃアもう流石は御武家様、ご綺麗なものだと源六など承っておりまして、ただ恐れ入りましたが……そう、お堅くばかりお考えなさるのも如何で御座いますかねえ。へい。……あ、いや、お待ちくださいまし、へえ、失礼で御座いますが、手前もいつも女房とお噂申し上げておりますので、穂積様は今の御時世には珍しい御立派なお方だ。あんな立派な方がなンでまあ、ああ御苦労遊ばしていらっしゃるかってね。へえ、……どうもこちら様も世間並に遊ばしたところで、決して誰もとやこう申す者は御座りませぬので、それでもって、旦那様のお心持を疑う方がどこに御座りましょう。悪いことは申しませぬ。よく御思案なさいましては如何で御座りましょう。下上《しもかみ》にならえとやらで……世間の評判では牧野様の御出世は、お嬢様ばかりか奥様まで公方様《くぼうさま》へ……」
「黙れ、黙れッ!」
惣右衛門は最早堪忍袋も破れたように急に、満面に朱をそそいで叱咤《しつた》した。
「さ、左様な汚らわしいことを! えい、とっとと去れ。去らずばそのままに捨て置かぬぞ」
「面白《おもし》れい。斬《き》るっていうンだな」
朴庵が驚いたことには、源六は浴衣の裾をまくって突っ立っていた。毛むくじゃらの尻がまる出しになっている。
「さあ、斬ってくれ。おれも石屋の源六だ。そのくれえのことが恐ろしくって、この裏店《うらだな》の差配がしていられるかい。源六は、けちな野郎でも、てえしたお方が影身についているンだ。さあ、すっぱりやってくんねえ。庖丁《ほうちよう》がへえったら、すこしゃア涼しくなるかも知れねえ。さあ、すっぱりやってくれ」
一緒に来た朴庵までが驚いておろおろしてしまったくらいのおそろしい権幕で、源六は、どっかりとあぐらをかいた。
棟続きの隣の家で、蚊遣《かや》りの煙が薄くたなびいている縁端に出て、蒸し暑く眠られぬ宵を団扇を動かして涼んでいた若い男がいた。
源六の声があまり高くなったので、庭へ降りて、境の垣に近寄ってのぞき込んだ。路地の溝板を鳴らして通る人も立ち止って聞いているらしい。気の毒なと思う気持が、男の胸にのぼっていた。十日ばかり前に、近江屋伝吉と名乗って、この家へ移って来た町人だが、これはもと浅野の家来、小山田庄左衛門だった。
「源六、これさ、そう腹を立てなくともよい。おだやかに話せば……」と、丁度朴庵が立って頻《しきり》となだめているところだった。
「なアに、おだやかな話がわかる人間じゃありませんや。あんまり人を踏みつけにしている。斬られましょう。その方がさっぱりしている。お武士《さむらい》と相対死《あいたいじに》になりゃア惜しくない命でさあ」
「まア、待て、待て」
朴庵はこう喧嘩腰に出られては、まとまる話でもまとまらなくなって仕舞うだろうと思って、この男を連れて来たのを、すこし後悔しはじめていた。
穂積惣右衛門の方は、一時かッとしたものの斬られるものでもないと反省が働いて、騒ぎが大きくなったのに困りながら、これも虚勢を張って刀を引き付けたままで睨めているのだった。
「手前は帰れ!」
朴庵は、急に平常のたしなみを忘れ、地声を出して源六の肩を突いた。
「し、失礼な野郎だ。こちら様へは私からよくおわびをして置く。今夜はこれでいいから、帰るがいい」
「だって……」
「なにが、だってだ? さあ外へ行っていろ!」
睨みつけながら、それとなく目配せをしたらしい。源六が、ふくれ面で、縁側から降りて行くと、朴庵はにわかに腰をひくく、手を揉《も》みながら、
「へえ、とんでもねえ野郎で……さぞ御迷惑で御座りましたろう? なアに手前はおだやかにお話いたしたいと思って伺ったのだが、いやもう、下郎はあれだから困ります」
「なに……」
「いえ、さぞかしお腹も立ちましょうが、手前から、お詫び仕りますから、なにとぞ……」
「いやいや、それはこちらから申すことじゃ。そうおっしゃられるとかえって痛み入る。よしなきことを致して……」
「いえ、何もかも御尤もで御座いますとも」
いやに殊勝だから、これで帰るのかと思うと、そうでない。煙管筒をぬいて、悪落着《わるおちつき》に落ちつきはらった手付で、ゆっくりと一服しにかかっている。
それから惣右衛門には気詰まりな無言の時間が続いた。朴庵はこころよげに、紫色の煙を吐いてだまりこんでいるのである。
「さて」
かちり……と、かけ火鉢のふちをたたいて、しまいにかかりながら、
「思い掛けない長座をいたしまして……ところで、先刻のお話で御座りますが、あちら様も大分御熱心のことで、なんとか手前の顔も相立つように、御思案くださいますわけにはまいりますまいか?」
これは、ひどく慇懃《いんぎん》な調子だった。
「さ」
惣右衛門は、またかというようににがり切った。
「折角のお話だが、それだけは」
「ならぬ……とおっしゃる?」
じろりと白眼が動いたが、
「そりゃアどうもあきらめるよりほかは御座りませぬかな? いや、それならば致し方ないことで……」といって、やはり帰るのでもない。
垣の、こちらからのぞいている、小山田庄左衛門が観察したところでは、医者どのはてこでも動かぬ主の態度を見てすっかり匙《さじ》を投げたらしかった。それ以後は、まるっきり最初の話にふれないで、滞《とどこお》っている家賃のことをいい、早速それを払ってほかへ移ってもらいたい、といい出したのがその証拠であろう。しかもこの無体な要求を、朴庵はきわめておだやかな言葉で申し出て、表面は如何にもおとなしく引き揚げて行ったところに、この家主の陰険で、またそれゆえに一旦にらんだらどこまでもねばり強く相手も苦しめずにはいない執こい気性がよく見えているように思われた。
若い庄左衛門には、憤激の心が湧いている。その場へ出て行って金をたたきつけ明日にもどこかへ移れるようにしてやりたく思ったのだが、それも、あまり差出がましく考えられて、これは無論ただその瞬間に考えただけのことだった。
多分は虚勢で、隣の主はきっぱりと、仰せのとおりにするといって、朴庵を送り返した。あとですぐ、自分で縁の雨戸を音高くたてはじめている。庄左衛門は、はしたなくすき見をしていた後めたさに足音を忍ばせて、縁に戻って来た。
路地に立っていた人々も、もとのように足音を忍んで散りながら、がたぴしした溝板《どぶいた》を不用意に鳴らしていた。その後はひっそりとして、暗い崖から、上にかさなり合っている屋根の上の空に、いつもの銀河が夏の夜らしく白々とした色に眺められるのだった。
庄左衛門は、団扇を動かしながら、知らず知らず隣の家の中の気配に耳を傾けている。そこからは忍び泣く娘の声に、それをしかりつける父親のいらだったような短い言葉が時々はさまって、かすかに洩れて聞える。またしても庄左衛門は、横道《おうどう》な家主に耐えがたい憤怒《ふんぬ》を感ぜずにはいられなかった。
思って見れば、他人の身の上ではない。同じく浪々の身のおのれに、いつ、これと似寄った苦労がないものでもあるまい。
仇を持つおのれは復讐を遂げるまでの命で、その時までにさほどの窮乏に陥ることもあるまいし、また、よし困ったにしても間近いものとして思っている快挙のことを思えば、それだけの感激がどんな窮乏をも笑って済ますだけの力を与えてくれることであろう。したが、その感激もなく再び主取をするあてとても別段になく、いわば命に引きずられて生きている浪人は、なんというみじめな境遇であろうか?
庄左衛門は、隣との境の垣根に白い花を見た。これは、娘がまいて蔓《つる》のはい込んだ夕顔の花だ。暗い夜の庭に可憐な花を咲かせたのである。
娘も……
(さみしそうな、影のある女だな)
ぽつりと、この考えが湧いて来ていた。
夜がふけて来るとともに、藪蚊《やぶか》も大分出て来たようである。庄左衛門は、上へあがって戸をしめにかかった。
床も敷いてある。蚊帳《かや》も釣ってある。
(そうだ、あした様子を見て、都合がつかぬようなら金子を用立ててやろう)
こう思いながら、裾に寄る蚊をはらって一人きりの蚊帳の中へ入った。
炎天
翌《あく》る日も朝から蒸していて、寝足りぬ心持ながら、目は早くからさめている。庄左衛門は起きようとして、隣の家で雨戸をあける音を聞いた。昨夜の不快な事件のことが頭にうかんで他人のことだが妙に気になった。金を出してやるのもいいが、ほんの隣同士で顔が会ったら挨拶するだけの関係で、ぶっきらぼうに出て行って、先方で都合がつくかどうか尋ねるのも、あまりおせっかいだし失礼な話である。気にはなりながら、
(まあ、いいや……)と、捨てて置くことにきまって、自分も雨戸をあけにかかった。
崖の、乾いた土に、まともに朝日がさしている。空は早くもぎらぎらと明るい。風もない。車、人の足音、話声……。町の響きがどんよりと往来の方に聞え始めている。庄左衛門の日々の仕事といえば、朝起きて顔を洗って煙草《たばこ》でもくゆらせば、すぐと、どこか下町のお店へ通うような恰好《かつこう》をして路地を出て、同志の誰かの家へ出掛けるのである。男手の一人住いに、食事もたいていは外ですまして面倒を避けている。家といってもただ寝るだけ、それもここに何時まで腰を据えているのかも不確実なので、家に馴染《なじ》もうとする心持さえ動かずにいる、落着かない生活だった。とにかく一日も早く讐《かたき》を討ちたいこの本願のほかに、すべてのことは、どうだっていい話だった。
今朝も台所へ降りて、無雑作にたらいをさげて、裏へ出た。
井戸は共同《もやい》になっている。そこで偶然に隣の娘にあったが、娘は、庄左衛門の姿を見ると下を向いたまま会釈しただけで、羞しそうに逃げるように自分の家の勝手口へ姿を隠してしまった。
庄左衛門は幾分気の毒に思いながら、水をくんで顔をあらいはじめた。そこへ誰か来たように思って濡《ぬ》れた顔をあげて見ると、昨夜の、差配の石屋の小僧が隣の勝手口から入ろうとしているのだ。
用向きはわかっている。
「おい」と思わず、武士口調が出ていた。
「ちょいと、小僧さん、話がある。家へ来てくれ」
「へ……じゃア、あとで……」
「あとでじゃない、さきへおれの家へ来てくれ」
なかば笑顔をまじえて、小僧を自分の家の方へ引っ張って来てしまった。
「さ、入っておくんなさい」
「へえ」
薄気味が悪そうだ。
むっつりと、ふとって金太郎のようないい体格をした小僧だが、あまり頭のまわりのいい方でもないらしかった。
「小遣《こづか》いをやろう」
「へ」
にやにやしている。庄左衛門も思わず微笑して蚊帳の釣手《つりて》をはずしながら奥へはいって行って財布《さいふ》を出して来た。
「さ、これだけやる」
「ありがとう御座います」
「それからだ。ちょっと、ここで待っていてくれ。隣へ家賃をとりに来たンだろうな」
「そうなンです」
「間違いなく、くれるよ。その前に私が用があるンだから、済むまでここで待っていてくれ」
「へえ」
小遣い銭のきき目はあったらしい。小僧はおとなしく承知した。庄左衛門はいそいで着物を着かえて、なかば自分のおせっかいを苦笑しながら、まあ兎に角乗り掛けた舟だと勇気を起して、帯を結びかえながら土間へ降りた。
「待ってくれよ、すぐなンだ」
石屋の源六は、玉川から砂利《じやり》の車が来たので、若い者を指図して、場所をふさいでいる玉石をどけさせていた。
日は暑い。半纏《はんてん》をぬいだ男達の背中は汗でぬれている。源六も時々手を出して手伝うが、石は、もうこれまで来た日射《ひざ》しにぬくめられて、すっかり熱くなっていた。
そこへ、朝の内に、昨夜の浪人者の家へ家賃を取り立てにやった小僧が、のこのこ帰って来るのが見えた。
無論、先方で算段のつかないのはわかっていて、いわばこの小僧を先陣に、あとからあとからと店の者を催促《さいそく》にやる計画になっていた。
「どうだった? くれやしめえが?」
「くれました」
「くれたって?」
源六は驚いた。
「みんなか?」
だまって小僧は、とどこおっていた五カ月の家賃を出して渡した。
源六は、呆れた顔色で、金をあらためた。確かに、それも請求額より多く今月一杯の分まできちんと入れてある。
よいしょ、よいしょ……
石を運ぶ男たちのかけ声が輝いた空にのぼっていた。
「いやに、……あっさりくれやがったなあ」と口をとがらせた。くれたのが使いの小僧の罪だったようにむずかしい顔付である。
これで昨晩帰り途に聞かされた朴庵の意地の悪いたくらみも、すっかりおじゃんになったといってよい。朴庵は、払えない金と見込んで執《しつ》こく催促しながら、誰か人に口をきかせて、いやでも娘を奉公に出すようにさせる計画だったのである。
「それで……親方」と小僧がいった。
「引っ越す先が見付かるまで三、四日あの家にいるから……っていうンですけど」
「そりゃア仕方があるまい」と、いって置いて、また、
「そいつも丸岡様へ申し上げてからのことだ……」といいなおした。まさか、それまでいけないとはいうまいと思われる。しかし、それにしても、朴庵がこの知らせを聞いたら、さぞかしあんぐりすることだろう。この考えが源六を落着かせなかった。玉石をどけたあとへ、車を引き入れて砂利をあけさせている間に「なんでえ、べらぼうな」と、成り上り者の癖にいやに威張っている朴庵のことが変に腹が立って来た。
毎月取り立てる家賃の、たった五分をもらうだけで、へいこらして使い歩きまでさせられるのでは、やりきれたものじゃない。まかり間違ったら差配を断るだけだ。ゆうべ、尻をまくってたんかをきった事さえ急に羞しくなって来た。
「親方!」と呼ばれて振り返ると、問題の浪人者の家の隣に入っている近江屋という男が来ていた。
「急に二、三日中に越さなけりゃアいけないことになってね」
小山田庄左衛門の近江屋が、こういったので源六は驚いた。
「へ!」
思わず顔をのぞく。と、近江屋の皮肉な目付から、これも昨夜のことが原因《もと》で他人ながら腹を立てて引っ越す気になったのだとすぐとわかった。
「ようがす」
源六は勢いよく答えた。
「あんな家に、永くいることアありませんや。どんどんお越しなさい」
これは、逆に庄左衛門を驚かした返事だった。
この客が帰って行ってから源六は急に力が出たらしく見えて、自分も半纏を地面へかなぐり棄てて男達にまじって荒っぽく働きはじめていた。朴庵とはいよいよ喧嘩だと度胸がきまっていた。
山科《やましな》にも乾いた夏が来ていた。
内蔵助が屋敷を買ったのは、街道からやや離れた西の山村だった。付近には樹木が多く竹藪が多い。山は緑で燃えるようだった。書見に疲れてねむる頃にほととぎすの啼《な》くのがよく聞えた。その声は、今、真昼のしんしんと山や森が鳴るように思われるせみの声にかわっている。田舎づくりの、がっしりして、檐《のき》の深い小暗い家の内に、緑を渡る風が忍び入って来て、床の間に懸けた軸《じく》を静かにゆする。
内蔵助は心を澄ましてしみじみとこの閑日を味わっていた。茶を煮ながら好むところの書をひもといて、やや疲れれば庭に鬱蒼《うつそう》たる楓《かえで》や椎《しい》や蒼梧《あおぎり》の樹に目を向ける。山の小鳥が降りて来て、日向《ひなた》に星をまいたような松葉牡丹《まつばぼたん》の根に虫をついばんでいる姿を見ることがある。またこの明窓のほとりの人となってから内蔵助は平凡と見えた木々の姿にも、人間の顔にあらわれているようなそれぞれの個性がいみじく現れていることに気がつくようになった。ひとつ木でも晴れた日または灰色に曇った空の下に見るときは自《おのず》から木そのものも心持をかえて、晴れ晴れと楽しげに見えることもあれば悲しく沈黙を守っていることもあり、葉をすりあわせて何かひそひそとさざめきあっているように感じられることもある。内蔵助には、これは一つの発見だった。人間の住む世界というものは、大方は知らずに過ごしてしまうこの種の秘密を、いかばかりか多く蔵していることか? 味わえば味わうほど深いこまやかな味をいくらでもにじみ出して来るのではあるまいか?
とりわけて内蔵助は、牡丹の花を愛した。
時世に裏切っているように見えていて、やはり元禄という時代の華やかさが自然と心持を豊かにしていたためであろうか? 日に傲《おご》って咲くこの豪奢《ごうしや》な花に、自分の心持に通うものがあるように思われて、赤穂にいる頃から年々培養につとめていたのだが、こちらへ移る時も苦心して運ばせて植えつけたし、また新しい株を取り寄せて、庭の日あたりのいい場所を選んで妻子に手伝わせ、枝ぶりをため水をやっている姿を見ることも珍しくなかった。田地も屋敷の周囲にひろく買い求めるし、京から大工を呼んで好みに従って瀟洒《しようしや》な離室《はなれ》を普請《ふしん》させる。誰の目にも妻子と団らんし悠々と余生を送ろうとしているとしか思えないのだった。
今日は江戸からまた手紙が来ていた。
「太夫には、大学殿御安否お見届けの上|御賢慮《ごけんりよ》あることと拝察し奉る。さればそれをお見届けなされた後は亡君の御志をなされまするか? お互に亡君|海嶽《かいがく》の御洪恩《ごこうおん》を蒙《こうむ》り、今日まで面皮ある武士として来たりながら、百の苦心も真の忠節とは相成らぬと確信仕る。且大学殿は御連枝におわせずすでに御別家として立たせられる。われ等の主君はただ冷光院殿《れいこういんでん》でござる。その主君、金玉の御身と名家の御家を擲《なげう》たせられ、御鬱憤《ごうつぷん》を散ぜられんとしてその事成らず、憾《うらみ》を黄泉に飲ませられるに、臣下として当の敵を見のがし、ひたすら御分地の大学殿を世に出し奉ることのみに従事せば、一世の人は、赤穂の遺臣達は名を大学殿の擁立《ようりつ》にかりて、その生を貪《むさぼ》るとより外は申さざらん、かくては武士の道が相立たぬではござらぬか」
これだけのことを、文字と文字の間に烈《はげ》しい憤怒をにじませて、いい寄越して来たのである。
堀部安兵衛、小山田庄左衛門、武林唯七、高田郡兵衛、その他、血気さかんな壮士達のじれきっている様子が、目に見えるように思われる。
「われ等の主君は、ただ冷光院殿でござる」
安兵衛だな……と、思わず微笑した。この前の手紙に、
「たとい日本に天竺《てんじく》を添えて大学殿に下し賜わるとも、上野生存は許されぬこと」といって来たのも、かれであった。
かほどまでに、ひたむきに先君の御上を思いおりくれるのである。……内蔵助は手紙を巻き返すことも忘れて、庭に向けた顔に目を自然とうるませて来ていた。しかも、口には、明るい水のそよぎに似て、とどめかねた微笑がゆるやかに動いているのである。
この若い人々の純真な心持は、内蔵助の心に目に見えぬ鞭《むち》となって感じられる。この人々の清らかな心を思う時、自分の心持があまりに世なれて策の多いことが振り返られ、いとわしいように思われることがあった。少年の折から、寛厚とされ長者の風があるようにいわれて来たことに、これは即ち生れつき自分に世の中と折合うことに馴れた卑屈な性質があったためではないか……と時たま考えるのは、みなこういう瞬間であった。人は、もっと過失がなくてはならないのではないか? 振り返って考えると、自分には余り失敗がなさすぎた。世間づらが綺麗すぎた。多少のおこがましさがあってこその若さではあるまいか? 自分の過去に人並の過失のなかったことが、時には寂しくも考えられたのである。しかもこれに気がつくようになった今、事情は否応なくこれまでよりも政略を用いねばならぬ立場に自分を置いているのだった。復讐のことは、この世間という何よりも扱いにくい怪物を相手としているのである。敵が放つ諜者《ちようじや》がある。いや、それよりも多勢の同志の個々の希望を抑え、一つの団体、いき物となして、復讐の一事を目標に整然たる統制のもとにおさめて置かなくてはならない。何よりも自分の政治家としての手腕にたよらなければならないのである。
これは今、おのれが、何よりも嫌って捨てたく思っている才能ではなかったか?
この苦悶は疔《ちよう》を病んで尾崎村の仮寓《かぐう》に生死の境をさまよっていた時に内蔵助が最も烈しく感じたものであった。ある時は、復讐の志が果して自分の本心から自然に出たものであったか、あるいは幾分でも無理があり虚栄の働いてのことではなかったかとさえ疑われて、ためらう心持をしかって、これを見極めようと努めたのである。それは、たとえようもなく恐ろしい時間であった。
梅雨は晴れた。心の曇りも拭われた五月空《さつきぞら》である。
自然に。
自然に……
内蔵助はこれだけを考えていることにした。心の、無理のない動きに従うことである。前途は茫漠《ぼうばく》としている。しかし、心は、この霧の中にも正しい路を知っていて必ずそれを探し出して行くことであろう、その確信はある。未《いま》だ見えないが太陽はこの霧の中にある。いや、おのれの心の中に有る! 自分の下根《げこん》の知恵は、ただこれの手足であった。
されば、安兵衛達の手紙とて、今の内蔵助に快い感動を与えても、これによってその心眼の曇らせられることは決してない。
「若いぞ、君達は」
自分の世知を誇るのではなく、ただ心からの好意を以てやさしくこう叫びかけているのだった。
「もっと自分をなくしてくれ。名前は私《わたくし》のことだ。その私を棄てて、もっと根元を見てくれたならば、世の中がどんな風に俺達を批判しようと、何の頓着も要らぬことではないか?」
内蔵助は、庭の木々を眺めながら、うっとりとしてこう考えているのだった。
丁度そこへ原惣右衛門が訪ねて来たので、内蔵助は手紙を見せた。蔭のない野道を歩いて来た惣右衛門は半白のびんににじむ汗をぬぐいながら、黙読しはじめた。
惣右衛門のみに限らずこの付近から京都にかけて集まっている同志の者は、内蔵助とはよく会うし江戸の人々にくらべて、どこまでもこの人を信頼していて冷静にかまえているのだった。
「これから返事を書こうと思っていたところだ。私が、出来ることなら大学様を立てようとしているのは、無論浅野の御名跡《ごみようせき》のことを考えるからで、大学様の御為というわけではない。いわんや、これに名をかりて生を偸《ぬす》んでいるわけでもない。また世間の毀誉《きよ》の如きは最初から問題ではない。江戸の連中がやきもきしていることはよくわかる。場所が場所で世間の口がやかましいから、若いだけにどうしても影響されずにはいないのだろう。皆こちらへ連れて来てしまえば一番いいのかも知れませぬな。今度はひとつ、すこし強くいってやろうかと思うている。当分すっかり忘れていてくれればいいのだ」
「いや、それは!」
惣右衛門も笑った。
「左様なことを仰せられたら、どんなに立腹するかわかりませぬぞ。……まあ、若い者はこの元気でいいのでしょう。私の心配しているのはむしろ、どれも血気さかんで純粋な人々ばかりだから、今こんなに力を入れていても、急にがらりと違う方角へ向ってしまうことです。ないことではありません。この元気、この一徹な考え方でいてくれれば何よりです。若い時分は誘惑が多いから……こうして誠心誠意このことを思い詰めていてくれれば、まことにその心配はない」
「いや、原氏、私の考えは別です。めいめいがもっと気楽に構えて、したいことをしていてくれればいいと思っています。こりゃア難かしいことでしょうかな」
「さア……そう手際よく仕分けられますかな。兎に角若いのだから……」
「そうかなあ」
内蔵助は笑いながら立って行って碁盤《ごばん》を持ち出して来て据《す》えた。
「本心をいえば、いずれ天寿に背《そむ》いて死なせる人々だと思うと、何だか、今からそのことばかり考えさせて置くのが気の毒なように思われる。短いときまった命を、もっとくつろいで、したいことをして待っていてもらいたい……ように、思うのさ」
「仕事のことだけお考えになっては如何です。感情はぬきです」
「そうなれれば達人だろう」
ぱちりと、先手を置いた。
「この間のかたきだ」
「見事、討ちますか?」
「討つ、討つ!」
五十四歳の惣右衛門の心臓に、急に大きな掌で握られたような衝動がわたった。石をさぐりながら思わず口を一文字にひきしめている。
ふたりの無言の境に、蝉《せみ》時雨《しぐれ》が碁盤のおもてをおおった。
よく拭き込んだ格子へ手をかけて小山田庄左衛門の近江屋伝吉は、内へはいった。日ざかりの往来を歩いて来た目に、家の中は暗かった。
「御免くださいまし」と、声をかける。
「あいよ」と、奥の方で女の声で答えたが、すぐ出て来なかった。ほかに人はいないらしい。真昼のしじまが簀戸《すど》に遮《さえぎ》られた奥まで領《し》めているのがわかる。かしらの家らしい豪勢《ごうせい》な縁起棚《えんぎだな》におみき徳利の腹が光っている。煮物の匂いが庄左衛門の鼻にとおった。声のぬしは今、昼食の支度《したく》をしていて手が放せないのだろう。
「かしらのお宅はこちらでございますか?」
「そうですよ」といって、土間の下駄《げた》の歯が鳴って、髪を櫛巻《くしまき》にした、すらりとした姐御《あねご》が、のれんを分けて勝手の方から出て来た。
「あの、この先の酒屋さんで伺ってまいりましたが、あちらの家をこちらさんでお貸しなさいますのだそうで、拝見させて頂きたいと存じますが……」
「さあさあ、御遠慮なくおはいんなさって……」ときさくにいって、
「鍵がかかっていましょうか?」
「いえ……外から拝見いたしましただけで、一応こちらさまへ……」
「さっき四つ谷に火事が出たもので、家中出て行ってしまいましてね、まだ、あけてないかも知れません。あたしがこの家をあけるわけにも行きませんから、この鍵をお持ちになって御遠慮なく、御覧なさいまし」
よ組と書いた木札のさがった鍵を受け取って庄左衛門は外に出た。かッとまぶしい日があたっている辻の、柳の蔭に、穂積《ほづみ》の娘は待っていて、庄左衛門が出て来たのを見て、やさしくほほ笑んだ。
「暑かったでしょう?」といいながら鍵を見せる。
二人は肩をならべて、すこし行って「貸家」と書いて、ななめにはった、名ばかりの門をあけてなかへ入った。
松葉の散った道が生垣《いけがき》に沿って通っていて家の入口へ導く。ひろくはないが、植込みの繁った庭もあって、二階建の、ちんまりした家である。二階のあるということが大切だった。下が穂積親子、上を庄左衛門の近江屋伝吉が借りる話になっている。庄左衛門は、錠前《じようまえ》を鳴らして入口の戸をあけた。格子をあけると土間で、すぐと上へあがれる。
「さ、おはいりなさいまし」
庄左衛門は、あくまで町人のようにしているので、いくら自分が金を立て替えてやったにしろ終始娘にいんぎんで腰のひくい態度に出るのを忘れていない。幸《さち》の方では、そのたんびに困ってはにかむのだった。
「いいえ……どうぞ」
「じゃア失礼いたします」
面倒臭いから、自分から先へ入る。この炎天にしめ切ってあったせいか、内はむっといきれて、ほこりのにおいがこもっていた。庄左衛門は庭に向いた縁の方へ出て、戸を一枚あけて振り返る。幸もあとからあがって、何ともなくがらんとして殺風景な暗いところに、齢《とし》としては地味だろうけれどさすが娘らしい明るい色を添えて、つつましくたたずんでいるのだった。
「すこし天井がひくいようですけれど、なかなかいい家じゃございませんか?」
庄左衛門が天井を見上げると、幸もまたきゃしゃな喉《のど》をのぞかせて天井を見る。でも、ほんとうに他に誰もいないで二人きりで、こんな戸をしめ切った静かな家の中にいるということが、確かにこの若い娘の意識につきまとっている。庄左衛門の近江屋は、若いし、きれいだし、また、自分達親子にあんなにやさしくしてくれた人だった。それだけ幸の処女らしい本能が、何かしら不安なものを感じて、わざと平気にしようと努めていて、かえって変に動作をかたくするようなことになっていたのは事実だった。
「二階を見ましょう」
庄左衛門はいった。
庄左衛門も今の自分の立場を妙なものに思っていた。あの時少しばかりの金子《きんす》を用立ててやって、私もこんな家主のところにいたくないからどこか家を探して越すといったことから、一軒の家を借りて私が二階へ置いていただくようにしたらといい出す結果になってしまった。若い娘のいる家に、これは確かに軽率であった。と後に気がついても、なアに大事を控えているおれに、そんな心配はなかろう。まして、赤穂浪人という自分の身分をつつんで置くのには、この親子と同居することが案外便利かも知れない……と、後から正当らしい理由をつけて考えているのだった。
今の自分にはただ君家の讐《あだ》を報《むく》いる以外に何があろう? その時までの命、いわば自分のものではなくなっている命、生きていても死人同様のおれだ。色でもあるまい、恋でもあるまい。
こう思って、むしろ、先廻りして妙な心配をする自分を笑っていたのである。このがらんとしたあき家の、夏の真昼の沈黙《しじま》のなかに二人だけでいると……考えはまた別であった。第一に気がついたのは、何もない家のはだかの壁の前に置いて、幸の初々《ういうい》しい姿が不思議と心をひくことである。それほどに綺麗な娘とも思っていなかったのだが……
あきらかに幸も、こちらを変に意識に置いているらしいのがわかっていた。
(おれが、くどきでもすると思っているのだろうか?)
暗いはしごを二階へあがりながら、庄左衛門は、この案を頭の中でもてあそんでいた。火薬のまりをもてあそんでいるような危険の予感がある。
庄左衛門はいつの間にか変に気重くだまり込んで、二階に立った。
上ったところに窓があって、外の日光が戸のすきから漏れている。庄左衛門は、この戸をあけた。
風が吹き込んで来た。
「こりゃア涼しい」と、のぞき込む。
よごれた人家の屋根が、熱日に濁った夏空の下に重なり合って眺め渡された。方角からいえば四つ谷の台である。
「あ!」と思わずいった。
その人家の間から、ざらざらした空の一角へ、真黒な煙がのぼって風に流れているのである。
火事……今、かしらの家で聞いたことを急に思い出して、
「火事ですよ」と振り返る。
幸の白い顔が驚いたように動いて、窓へ寄り添った。むくむくとわき上る煙を、無言で二人は並んで見詰めた。
遠い半鐘《はんしよう》の音が、聞えて来た。人の騒ぐ声もきこえる。
「遠い……」
庄左衛門が笑って幸を振り返った時、娘のしなやかな肩がせまった息で荒々しくきざまれているのを見た。不安らしく輝いた美しい目がある。薄くあいて短く息をもらしているぬれたくちびるがある。庄左衛門は、また無言になって、かわいた煙に目をやった。しかし、今度は、その、動いている肩と美しい襟あしが男の意識をとらえて、はなさないでいた。
口がかわいている。
頭の上の天井を、鼠がことこと可愛らしい足音をさせて駈けた。
幸は、そっと天井を見た。二人の目が合って、かすかに笑った。
「鼠ですね?」
「ええ」と、口の中でいう。
この鼠が、二人の息ぐるしい気持を解いてくれて、かなり自由な、話のいと口がひらけた。
「どの辺で御座いましょう?」
幸は煙から目をはなさずにいう。この、音のきこえない遠い昼間の火事が、心の調子をいつもと違うものにさせていたのは確かである。
「さあ、四つ谷のように申しておりましたけれど……大分遠いから……」
「…………」
「あちらを、あけて見ましょうか?」
庄左衛門は窓口からはなれて、逆の、庭に向いた縁側へ、座敷を横ぎって行った。幸の喉には急に、もの足りないような味がのぼった。よりかかっていたものを不意と取られたような、軽い驚きである。いつまでも二人並んで、その遠い火事の煙を見ていられるように思っていたのだろうか? 二人さしあいの息苦しい感じも、不意と過ぎてみれば甘美な味を持っていたのがわかる。幸は動こうともせず、近江屋という男の、若い逞《たくま》しい肩を見送っていた。何かしら暖いものが差す潮《しお》のように胸をふくらませている。庄左衛門の近江屋は、がらがら音をさせて戸をあけて、この狭い二階の一間を、雨戸一枚一枚の明るさに明るくして行った。
「八畳ですね。……こりゃア床の間も戸棚もある」と叫んだ。
「こりゃア手前ひとりには勿体《もつたい》ないくらいです。夜帰るだけのところですから、……日もよくあたるし、風も通るし、これなら申し分ありませんが……お嬢様の方は?」
「結構で御座います。このお家なら……」
「でも、旦那様にはいかがでしょう? それも町人の手前が二階では、どうも……」
「左様なことは御座いませぬ」
「とにかく、一度旦那様をこちらへ御案内してお目にかけるように致しましょう、多分お気に召すことと存じますが……」
「いいえ、ほかの場合では御座いません。もう住む家さえ見付かりましたら……」
幸は、にわかに顔をくもらした。朴庵の来た晩のことが、それから、浮世のさまざまの辛いことが急に胸にひろがって来たのだった。
庄左衛門は、いじらしい気持にとらわれたが、それとは見せず、じゃアというように笑って見せて、また、雨戸を締めにかかっている。幸も、また、気をとりなおして窓の戸をひき寄せた。
「あ、こりゃア暗い」
真暗だし、また急にむッと暑くなっていた。
「お気をおつけになって……お降りなさいましよ」
庄左衛門は、こう声をかけて、あきらかにこの真暗な中で幸に追いつくのを心に憚《はばか》っているらしく、適当の間隔《かんかく》をおいて遅れて、梯子段の板をかすかにきしませながら幸が下へ降りて行くのを待って、自分も降りて行った。
暗い家の中から出ると、外の、青葉にあたる日射しは目に痛いくらいだった。幸は、来た時よりも余計だまり込んで、気のせいか気持が急に沈んでしまったように見える。庄左衛門は庄左衛門で、何か、今の家へ忘れものをして来たような物足りなさを感じながら、これもだまり込んで、家賃やその他のことを話すために、もとの頭の家へ引き返して行くのだった。
堀部安兵衛、高田郡兵衛を中心にする江戸の同志はじりじりして来ていた。復讐というこの上なくはっきりした目標があって殆ど毎日顔をあわしていながら、肝腎《かんじん》の内蔵助が急に動くようにも見えずひとりのん気に構えているので、一体何をしていいのかもわからず、毎日毎日が実にとりとめのない変なものに成っているのである。
幾度か寄越して来た手紙を綜合して見ると内蔵助は、第一に浅野の名跡《みようせき》を立てるために大学殿お取立の運動をつづけ、成る成らぬは別として、その結果を知ってから復讐の挙《きよ》に出でて亡君の御面目を立てようというのらしい。御名跡と御面目の二つを立てようとするのだ。安兵衛達が不服なのは、これである。なぜ、真直ぐに仇を狙《ねら》わないのか? 亡君の御舎弟には相違ないが大学殿は御分家である。その人をわざわざ連れて来て御名跡を立てたところで、それがおれ達になんだというのだ? そんな姑息《こそく》なことをしても昔どおりのお家が興るわけでなし、いわんや、亡君はお家もお国もなげうつまでの御覚悟をなされ、御無念を晴らそうとして、それが叶わなかったのである。今更御名跡のことを問題にしなくてもいいわけである。御存生《ごぞんしよう》の折は、勿体なくも君の御手御足と思うて働いていたわれ等である。その心持は今とても変らないし、お上の御無念はわれ等の無念である。お上の敵はわれ等の敵である。復讐以外に何があるというのだ?
顔のあうたびに、一同の意見は結局ここに帰着した。それ以外に何もない。毎日同じ話をして別れるだけでもいい加減つらいのに、暑気は例年よりも強くて、一同をなやました。
その内、こう幾度も集まらなくてもいいだろう! といい出す者もあれば、いや話はなくても毎日顔をあわしている方が士気が衰えなくていいという者も出る。こんなつまらない議論が簡単に個人同士の不和の原因になるくらいに険悪な空気がかもされている。待ちくたびれたと見えて、断りなしに行方をくらましてしまう者も出て来る。安兵衛や郡兵衛が、心配していたことが漸く起って来ていた。
「こういうことは、人間が、いきり立っている時にやるのが一番いいのだ。間を置いたらきっと脱走する人間が出る」
奥田兵左衛門も、こういっていた。
同じ意味のことを山科で内蔵助に説いた者があった。内蔵助は、これに微笑をむくいて答えている。
「仇を討つということだけ考えたら、そりゃアそうかも知れない。どんな匹夫下人《ひつぷげにん》でも、憤怒の力を借りればかなりのことをするから……けれど、これは酒に力を借りて、素面《しらふ》では出来ないことをやるようなものではないか? 私たちに、その要があるか?」
客が赤面したのを見て、内蔵助は、おだやかにいった。
「上野介殿のお首を頂戴するだけのことなら誰か一人行けば、それで済むことだ。いや、かえって一人でやる方がやりいいことだろう。武芸には縁の遠い高家で、年寄りで、いわば敵として取るに足らぬ人間ではないか? たとい上杉家の保護があるとしても人間のやることだから、隙《すき》をさがそうとすれば必ず見付かる。気のきいた忍びの者を一人やれば、それでけりのつく話ではないか? われわれはそんなことで苦労をしているのでない。国が亡び人が離散しても相当の数の人間が結束して、徒党として動いて亡君の敵《かたき》をむくいる……むずかしいことだが、これが大切なことだ。われわれの面目がこれにあるといってよい。それには団体の一人一人がまことの武士でなくてはいけないし、一時の感激なり興奮の力を借りて団結したのではなく、不抜《ふばつ》の覚悟を持っての行動なのだ。私なども、これは、一つの修業と見てもいいと思っている。脱走する者は脱走させるがよい。砂金をとるのに先ず砂を流してしまうようなもので純粋な金だけが後に残る。こう考えているから私は楽観している。赤穂には流石《さすが》、ほんものの武士が多いのだから……」
内蔵助のこの言葉は江戸に送られて、江戸の同志がつつまれている炎熱をやわらげる働きをした。山静かな山科から遥かに送られて来た爽やかな風がこれであった。
「やっぱり偉いよ、太夫は」と安兵衛が頭を掻いて笑ったが、
「しかし、やっぱり早い方がいいな」という。
これが丁度一同の若い、正直な気持だったので、皆、一せいに頷《うなず》いて陽気に笑い出した。
涼亭
上野介は、傲慢《ごうまん》な気性の一面を滅多に人には感じさせないが、ずっと不安な日をくらしていた。襖《ふすま》の陰にも誰か隠れているように感じられるし、また人を見ると、あいくちでもかくして持ってはいないかと思う。絶えず、このことが頭にあって、役を退いてから滅多に外に出ないようにすると同時に、新しく人を置く時は、必ず領地の三河から出た者で身もとの確かな者の外は使わないことにきめた。ここに大問題は、今の屋敷が呉服橋内にあるが、役もなく、こんな重要な場所に住んでいることは一般の慣例から見てはばかり多く、上地《じようち》を願い出て他へ移るのが順当なのだが、上野介の心持ではこれには相当の覚悟がいることだった。ここは丸の内で、夜は見付《みつけ》見付の門を閉じ外部から人が入れぬばかりか、万一赤穂浪士が討ち入りするとすれば、江戸城内へ乱入したことになり容易ならぬ罪となるので、上野介からいえば、間接に御公儀の保護を受けているようなもので至極安全な場所だったのである。これを棄てて、外濠の外へ移るというのは、この便利を棄てることになる。といって、いつまでも、ここにねばっているのは、如何にも無遠慮のようで、そのために老中方から睨まれても困ると考えるし、世間体もあって、久しく上野介は頭をなやましていた。ある日、上杉|綱憲《つなのり》を訪ねてそれとなく、意見をきいてみた。
「上地を願い出ようと思うが……どうであろう」
「私もそれを考えておりました」
綱憲はいった。
「元来もっと早くお願い出になるべきではなかったのでしょうか?」
「いや、そりゃアわしも考えていたがどんなところへ屋敷替えを仰せ付かるかわからぬと思ってな。弾生大弼《だんじようのだいひつ》どのの近所へ参れば申し分ないのだが……齢をとると気が弱くなるせいか、なるべく子供の傍にいたくなるよ。だが、こりゃアそう、思うように行くものではないから……」
綱憲に会っている時になると、いつもの我儘なところがすっかり消えて、急に年寄りらしく、弱々しい調子が出るし、綱憲はまたこれをいたいたしく見るのだった。
「それは、御隠居でもなさいましたら御遠慮なく、私の屋敷へおいで下さいまし」
「そうだな。そりゃアそうだ。そうなりゃア私もほんとうの楽隠居になれる。もういい加減世の中のことは、あきたよ。茶でも楽しんで歌でも作ってゆっくりとくらして見たい……まったく世間はうるさい。こんなに、頭が白くなって、まだ苦労があるのじゃアやりきれないからな」
「その御苦労は、みな、私におまかせ下さればよろしいので御座りまする」
「そうも行くまい」
上野介は笑って見せた。
「だが、浅野の方はまったく正気で私をかたきだと思っているのだろうか? 馬鹿な話だと思うがな。けれど……左様さ、馬鹿ほどこわいものはないのだからな。私も、とんだ目にあうものさ。これでお城から外へ屋敷替えになったら、夜分ゆっくり寝ることも出来なかろうではないか? は、は、は、は、は……」
歯のかけた口に愛嬌《あいきよう》がある。
綱憲も微笑した。父親の、この冗談のような言葉の裏に隠れてふるえている臆病な心持を嫌いながらも、さげすむことは出来なかった。
「いや、父上が、お城の外へお住いになれば却って手前の方も好都合で御座りましょう。万一の際は、手勢を連れて綱憲が伺うことも出来ましょうから……お城の内では、その儀がかないませぬよ」
これも笑いながら、冗談のように話しかけたのであるが、
「むむ。は、は、は、は……」と、受けた上野介の口は笑って、目には真剣な光が宿っている。
「そ、それもそうじゃな。いや、しかし、その必要もなかろうて。お城の外にしろ、お膝もとを騒がせればこりゃア徒党じゃ。田舎家老でもそのくらいは知っていようさ。まあ、よろしくたのみます。わしは老人じゃ。隠居、隠居のことじゃ、は、は……」
綱憲も気弱く笑った。
上野介は、この話の間に、急に、あのまま無沙汰にしているが、また柳沢を訪ねて見ようと思いついた。
柳沢吉保の下屋敷の庭に、変った普請《ふしん》が出来上った。
これは、出入りの商人三国屋が、吉保を通じて江戸城内の或る大工事を引き受けることになった謝礼の意で、主人が自身出馬して設計した世にも珍しい工事である。一体この話は三国屋がどんな形式で吉保へ礼をしようかと思案に悩んでいるところへ、去る年あたり「天文図解」などを読んでから渾天儀《こんてんぎ》を据えつけさせて天文のことに熱中していた吉保が、今年は太陽の黒子は多いから旱天《かんてん》で暑気が烈しかろうと会う人毎に得意で話していたのを、いつもの早耳で聞いて早速思い立ったのがこの前代未聞《ぜんだいみもん》の亭《ちん》の設計であった。
建物は規模は大きくないが唐様《からよう》を模《も》した豪麗《ごうれい》なもので、地を掘り下げて丁度|擂鉢《すりばち》のように作った底地の中央に池をめぐらして建ててあって、これに入るのには花崗岩《かこうがん》の石階《いしだん》を降り、端に相|睥睨《へいげい》する唐獅子《からじし》をきざんだ勾欄《こうらん》のある石橋をわたって行くのである。屋蓋《おくがい》は瓦葺入母屋造《かわらぶきいりもやづく》りの、単層《たんそう》の建物であるが、天は高く、壁は悉く唐草模様をすかしぼりにした障子をはめ、室内にいながらにして外が眺められるし、また四面から風が吹通しの涼しさの上に、三国屋は周囲の崖に面白く石を置き苔《こけ》を植え、絶えずこの勾配《こうばい》に水がしたたり落ちるような仕かけにするし、あるじの姓にちなむ楊柳《ようりゆう》の枝が、軒を音ずますまでの工夫をこらしてあったので、広間の中には床に敷きつめた石の肌もいつもぬれ色にかがやいているくらいに清涼に出来上った。日光は僅かに欄間《らんま》から忍び入って格天井《ごうてんじよう》の五彩の花の紋様《もんよう》を明るくし、聯《れん》をかけた丹塗《にぬり》の柱の上部を暖《ぬく》めているだけで、広間を明るくしているのは柳の緑にこされ、砂が清く水の浅い池に反射して練絹《ねりぎぬ》のようにやわらげられた光があるばかりだった。工事がおわって引きわたす当日には三国屋が抜け目なく長崎へ飛脚《ひきやく》をやって呼んでおいた唐人の楽師らが明楽《みんがく》を奏し、また例の向島の寮に集めてある女達が髪も唐風に結い、衣服から沓《くつ》まで異国の女をまねて酒間《しゆかん》の斡旋《あつせん》に従った。吉保の満足はいうまでもない。この上は、ことしの夏が例年よりも暑くならなくては困るが……といって笑っていた。
吉保の天文にあやまちなく、この暑気だった。それだけに、この建物が吉保の気に入っている。
上野介が訪ねて下屋敷の方にいられると聞いて、来て見ると、吉保は寛濶《かんかつ》な支那服を着た姿で玉簾《たますだれ》の蔭の寝椅子から機嫌よく立ち上って来た。ここははじめてで驚いて目を見はっている上野介を招じ入れて黒檀《こくたん》の床几《しようぎ》をすすめ、小姓《こしよう》を呼び茶を運ばせてすすめた。
壁の唐草の彫《ほり》をすかして、木蔭の岩をつたわる清水のしたたり落ちるさまが眺められるばかりではない。広間は、水の底に坐っているような清涼の気を沈め、あるじが長い裾をさやさやとならして歩く時その沓音は高い天井にこだまを呼んでいる。
話は上野介の口をついて出る感嘆の声で暫く埋められた。
吉保は、ゆるやかに芭蕉扇《ばしようせん》を動かしながら始終微笑を口に含んで、子供のような喜悦に目を輝かしている。上野介はこれはよい時に来たと思いながら、やがて何気ないようにして自分の用件を持ち出して見た。自分も齢が齢だから煩《わずら》わしいことを避け、遠からず隠居をして家督《かとく》を養子左兵衛に譲ろうかと思っている。といって、呉服橋内の今の屋敷上地のことを話したのだった。
吉保は、これを聞いた時に、すこし前まで今上野介が腰をかけている床几にいて、自分と話していた男のことを思いだした。これは、いつかも上野介のことで向後《こうご》交渉に入らぬようにすすめたことのある家来の細井次郎太夫であった。
吉保は寛濶な袖を合せて腕を組みながら自然と眉根《まゆね》を寄せて来たが、
「そりゃアいいだろう」といって、
「替地のことは私も出来るだけのことをしよう」と答えた。
これは上野介には頼りにしていいのかどうかわからない返事だった。隠居はまだ早いだろうといって、ひき止めてくれれば上乗《じようじよう》のことだったが、主にはすくなくともそれだけの親切はないらしい。こちらがそれを望んでいるように話し出したことだけれども、上野介は幾分失望して、力なく笑いながら、
「よろしくお願いいたします……とにかく近頃迷惑な噂もありますことで……」
「浅野のことか?」
吉保は、急にいくらか不機嫌な口調になった。それをいわれると、多少は良心がとがめられる。それとなく上野介に「やれやれ」とけしかけた記憶を、吉保はまだはっきりと持っていた。無論松の廊下の事変のような大事になるとは考えず、旧式な武士|気質《かたぎ》の浅野がこの機会に多少いじめられてもいいと思ってしたことである。これは今とても変りない考え方である。しかし、自分のあの時の放言を上野介が何か言質《げんしつ》でも取ったように考えているならば、それは怪《け》しからんことだと思われた。あの時の裁断にあたって、自分が蔭ながらかばったゆえに上野介におとがめはなかった。それだけの恩で充分ではないか? もし上野介がそれ以上を要求しているとすれば、これは恩になれたものといわなくてはならない。
しかし、この考えでいる吉保が見たところでも、上野介はそんな強請《きようせい》を敢てする心持は毛頭なく、それよりも役を離れ隠居の身になって風説の復讐の計画にいよいよ危険を感じ、これにおびえているとしか見えなかった。
それから吉保も考え込んだ。
賢明な細井次郎太夫は、松の廊下の事変があってから、世論が犠牲になった浅野に同情し反動的に硬骨の士風を慕うようになって来たことをほのめかし、これまで新世紀の指導者としてすることなすこと順調に過ぎた吉保にそれとなく、今暫く何もなさらぬ方が宜しいと諫《いさ》めたのである。吉保も顧みて、すこしやりすぎたと思わぬでもなし、元来が悧口《りこう》で将軍の殊寵《しゆちよう》のみを頼って世論を敵にするような無鉄砲はやらないつもりでいた。だが、内心をいえば、この反動的な風潮を快く思えないことは事実である。
浅野の遺臣の復讐がただの風説にとどまるならばよい。しかし、これが現実に計算されているものとすれば天下の目から見て容易ならぬことといわなければならない。これが御公儀をないがしろにした行動であることは無論、また折角今日までに進んで整えられた秩序もこの暴挙によって破れ、時世は干戈《かんか》の昔に逆行するに違いない。またもや武力を至上のものとする者達が横行することになろうし、吉保等が苦心して据えた太平の礎《いしずえ》が動かされないと限らない。
吉保も、これだけは憂えずにはいられなかった。
「そりゃア噂だけのものだろう」と、一笑に付するもののように笑った。
「別に心配もなかろうではないか? たかが五万石の田舎大名の家来達が……こりゃア徒党|謀叛《むほん》も同じことだからな。まず、ないことだ。あっても、多勢の藩中だから気違い同然にそればかり考えているような人間が二人三人いて、それが来るぐらいのものではなかろうか?」
「左様で御座りましょうか?」
上野介はなお不安らしく見えるのだった。
「そうさ」
吉保は力を入れていった。
「徒党などであったら、勿論御公儀において棄て置き難いことだから充分取り締るが、まずないことだな。御心配ほどのものでもなかろう。なお考えて置くから……」
これは上野介には有難いことだった。枯れた顔にもいつの間にか晴れやかな色がうかんで、やはり今日これへ来たことはよかったと思わずにはいられなかった。
この前にこの男を軽薄とのみ見て腹を立てたのは、自分の早計であったに違いない。
吉保もまた噂の赤穂浪士の復讐があるものとすれば、世間の風潮がいちじるしく変って存外の影響が自分の身辺にも及ぶものだということを、漠然と不安に思うようになっていた。上野介が見ていると寝椅子から急に身を起した吉保の目には、にわかに烈しい火が点ぜられているのだった。
吉保は立ち上って、無言で広間の中を歩き出した。沓の音は再び天井にひくい反響を呼んでいる。快楽に向う時はいつも晴れ晴れとして齢よりもずっと若く見える顔が、この亭《ちん》をかこむ青葉の反射を受けているせいか妙に色が悪くふけた感じを与えていた。
「とにかく、今日《こんにち》の泰平と秩序を作るまでには、ひととおりでなく骨が折れたのだから……」
吉保は、呟くようにいい出した。
「ここまで運んで来て、つまらない障碍《しようがい》につまずいてはならない。元来これが時勢の自然と進む途《みち》だったのだが、やはりいつまでも古い固陋《ころう》な心持でいる人間が多いのだからやりきれない。私は私で考えもある。たとい、如何《いか》な動機から出たものにせよ、御公儀の処置を不服に思い、武力に訴えて我意を貫こうというのは、決して許して置けることではない。実際にそういう話があるならば、勿論これは未然に防止せねばならぬことだ」
この分ならば大丈夫だ……と上野介はよろこんで、無論|上地《じようち》のことも自分が満足出来るようにとり計らってもらえることと信じながら、あまりくどくなってもと考えて、今日はまたとそのことにふれず、いろいろ礼を述べて、帰って行った。上野介を送り出してから、吉保は、なお屈託《くつたく》の糸をたどる様子で、寝椅子に腹這いに寝たままでいた。
若い小姓が、影のようにはいって来て、香をくべて、また静かに出て行こうとした。急に吉保はこれを呼び止めた。
「次郎太夫は、もう帰ったのか?」
「はい、御退出になりました」
「うむ」と起き直りながら、
「権太夫を呼べ」
それから、小姓が日のあたっている石橋をさがって行くのを漠然と見送りながら、吉保は、また考え込んでいた。
早速の措置《そち》は、噂のとおりか否かを探って見ることにある。その上で公権を用いて禁圧するか、また別の方法によっておさえるかする。とにかく復讐を実現させてはならないのである。しかし、この探索もこれを表面から行えばまた反動的に利用されて、いよいようるさいことにならぬとも限らぬ、隠密に裏面に働く心利いた者をやって探らせるよりほかはない。無論吉保には、こういう時の用に、いつも扶持《ふち》をあたえて遊ばせてある男が幾人かいた。その誰がいいかと思うのである。
二人侍
「旦那……そいつあ……ねえ、あすこだけは勘弁しておくんなさい。お願いだ」
ずっと前に耳の垢取《あかと》りに化けていた蜘蛛の陣十郎をおどかそうとして、逆にさんざんの目にあわされた明神下の地廻《じまわ》り唐獅子の藤九郎が、これはまた弱りきったような顔色で哀れっぽく、こういう。上座に坐った男は、三十がらみのちょっと小意気な、色の浅黒い苦味走った武士だが、充分道楽者らしくひらたくあぐらをかいて、楊子《ようじ》をかみながら、にやにやして唐獅子の様子を見ている。
「いいじゃアねえか?」というのが、返事だ。
「どうも、弱りましたねえ、あっしア飲むと口が軽くなるもンで、つい、うっかりすべらしてしまって……」
唐獅子はすっかりしょげた様子だった。目の前に、さんざっぱら飲み散らし食い散らしたあとの、狼藉《ろうぜき》たる皿や小鉢にも、今はうらめしげな目を向けているのである。
陶然としていた武士は肩をゆさぶって笑った。
「そう困ることもなかろうじゃねえか? なにかお前のふところが痛むわけでもなし……」といって、
「ははあ、こいつあ、お前、ちょくちょく行って口止めの小遣い銭ぐらいせびっているというわけか」
「ま、まあ……そんなもンなので」
「あきれた野郎だ。そんな、けちけちした量見だから、いつまでたっても芽が出ねえのさ。こう、今夜はひとつおれが手本を見せて教えてやらあな。だまってついて来な」
「いけねえ、いけねえ……」
藤九郎は、あわてて手を振った。
「ばれて御覧なさい。背中へ手が廻ります。あっしアまだ、そんな……」
ふン……と、武士はあざけるように笑った。
「唐獅子。おれが連れなンだぜ。つがもねえ相沢新之助さまだ。始終、ふところは風車でもいざとなりゃア立派な後押しがついている。不浄役人など、びくともしたもンじゃねえ。とやこういったら逆にうぬ等が首になるのさ」
「酔ってるンだ、旦那」
「酔ってる。馬鹿いうな。これっぽっちの酒で……」
「ですがねえ、旦那……そりゃア、当時飛ぶ鳥を落す柳沢様の息がかかっておいでだから、旦那はそれでよ御座んしょうが、それだけに、いざとなりゃア貧乏籖《びんぼうくじ》にはあっしひとりが廻るンで……そいつが、困りますよ」
「へん、可哀相な野郎だな。まあ、いいやな、勘定《かんじよう》をいいつけてくれ」
「そりゃアよ御座んすが……」
「くどい。いいってことよ」
「どうも……」
藤九郎は、いよいよ弱りきった様子でいたが、手をうって女を呼んだ。相沢という男は、女持ちの財布を出して、勘定を器用に払った。
「有難う存じました」
「行こうか?」
「おっと、きせるをお忘れになっちゃいけません」
「知ってらあな」
酔っていることは確かに酔っているらしかった。銀の伸《のべ》煙管《ぎせる》はしまって行ったが、どかどか音をさせてはしごを降りて行ったあとに、女は膳部《ぜんぶ》を片づけようとして、相沢が坐っていた座蒲団の蔭に、さいころが一つ落ちているのを見つけた。
ひろい上げて後を追おうとして、よしこれが忘れ物には違いないとしても、届けて却ってお客が赤面するようなものだ、と気がついてやめにした。
「旦那、おっと……」
下の往来でまだ藤九郎の声が聞えている。
「そ、そっちじゃア方角違いでさあ」
「うるせえ! だまって、ついて来いというのだ」
「いけねえな、どうも旦那……お願いですから……」
相沢は、無言でかまわず、すたすた先へ歩いて行く。唐獅子は仕方なく後について来ながら、また鼻を鳴らした。
「ねえ、後生ですから……」
あかるい夏の月が、更けた町の、屋根の火の見の上に残っている。
「じゃア帰んな」と急にいわれた。
「おれ一人でも結構さ。だがよ、おれア正直に唐獅子から聞いて伺いました、といってやるぜ」
「あ……」
「そウれ見ろ。来るか?」
「弱ったな……とにかく、いざとなると損はあっしの一人かぶりなんですから……」
「なアに、これがおおっぴらなことに成るものか? 相手は、物持ちの旦那衆ぞろいだといったじゃねえか? うむ、それじゃ、こうしろ。手前は、表口から廻って、戸をたたいておどかしてくれ。御用だ、御用だとどなってくれれば余計いいのだが……」
「そいつがねえ……あのうちのお内儀《かみ》さんていうのが、あっしの声をよく知っているンで……」
「声ぐらい、太くも細くもかえられそうなものだ」
「…………」
「じゃア、たたくだけでいいから、やってくれ。おれア裏へまわるからな。どこか戸があいたら逃げていい。……むむ、先へおれの家へ行って、火をおこして、待っててくれ。無駄骨折はさせねえ。ちゃんとわり前はやるよ。そりゃアそうと、今夜集まっていることには間違いはないンだな」
「へえ……」
「橘町《たちばなちよう》の伊勢屋《いせや》、蔵前《くらまえ》の松田屋なンかが集まるのじゃ、こちとらの遊びと違って勝負も大きかろう。これが知らねえ昔ならいざ知らず、おれの耳に入ったからにゃ見のがせるものか!」
相沢は上機嫌だ。
話の間に二人は、筋違橋《すじかいばし》を右に見てお成道《なりみち》を突っ切っていた。人ッ子一人にあわず、間もなく立ち止ったのは、やがて和泉橋《いずみばし》に出るというところの、左側に舟板塀《ふないたべい》をめぐらした寮風の家の門の外だった。門の屋根には牡蠣殻《かきがら》が月に光っている。
「裏口は?」と相沢が、声をひそめていうと、唐獅子はすこし先にある路地を指さした。
「よし、おれが内へ入った頃を見はからって……やってくれ」
「じゃア、お宅へ行って、待ってますから……」
「むむ」
その間に、懐中《かいちゆう》の煙草入を出して、煙管を抜いた相沢は、それを袖口から、ちょっとのぞかせて、さす月にぴかりと光らせて見せた。
「どうだ? 十手《じつて》に見えるだろう」
唐獅子は仕方がないような顔付で笑った。
そのまま相沢は、忍び返しをつけた板塀に沿って路地へ入っている。行けば間もなく、空地に向いた裏側の塀に木戸が見つかった。そっと押して見るとあいて、手入れの行届いた植込みに月のあかるい庭が見える。そこから、のそりと内へ入った。
この家の裏二階で近頃、裕福な商人達が集まって手慰みをしていると唐獅子から聞いたのである。相沢が庭へ入って、月には蔭になっている二階を見上げてみると、成程、戸の隙から灯影が漏れていて、大分多勢集まっている様子だ。
「よし」と、思う。ところへ、ど、ど、どどん……と表口をたたく音が起った。
御用だ。……といったらしい唐獅子の声が聞えた。相沢が目をつけていた二階の灯はふッと消えている。続いて、どかどか立って、あわてながら廊下からはしご段へなだれ降りて来る音が起った。
相沢は、急いで戸袋の蔭に身を寄せた。戸の内側では四、五人が押し合いながら戸のさるをあげた音がしたが、急に戸があく。途端にぬッと出て、廊下から庭へとこぼれ落ちようとする人々の前へ立ちふさがった。袖口から用意の煙管を先っぽだけ出して光らせていたのである。
「神妙にしろ!」
戸の中に人間は四、五人いたが、あまり急な驚きが言葉を失わせている。いやに森《しん》としたものだった。
「すっかり手が廻してある。じたばたすると、かえってためにならぬぞ」といって、灯をつけろと命令した。
しゃあしゃあとしたものだ。相沢は、例の十手をそのまま袖口から引っ込めて、草履《ぞうり》をぬいでそこから上った。
「さあ二階へ戻れ」
廊下の暗がりに息を詰めていた人々は、はしご段へ追い上げられている。その後から片手を懐に入れたまま自分もあがって行った。直ぐ前を、もそもそして動いて行く影のかたまりが、相沢にはとんだ笑いものに考えられた。
「あかしは、どうした!」と、またどなった。
やがて、灯の入ったあんどんは現場の証拠として、山吹色の散らばった畳の上に平ぐものようにはって平伏している五人の男達と、三人の女の姿を浮き上らせた。それを冷やかに見ながら、悠然と内へ入って上座にぴたりと坐った。
「この家のあるじは?」
かすかな、まるで息のような返事をして、いよいよ額を畳に押しつけたのは、一番左手に平伏していたふとった爺だった。
「おもてを上げい」
かなり好い気持で、こういった。血の気をなくした、肉の厚ぼったい顔が、恐る恐るあがったかと思うと、またさがった。
「不心得者めが! 見苦しい、不浄《ふじよう》の金を取りまとめよ」
爺は黙々とはい出して来て、ふるえている手で、散らばっている金をまとめはじめた。
小判も大分まじっている。
(かなり、好い商売だな)
相沢は可笑しくてたまらなかったが、膝も崩さず、どこまでも儼然《げんぜん》と、腕組みをしたまま、黙って睨みつけている。
金をまとめているこの家のあるじのほかの者も、どれも成程大家の旦那らしく、衣類も贅沢だし裕福らしく見えたが、ただもう恐れ入って態もなく平伏したまま、顔もあげられないでいるのだった。女達も、様子が、この連中の女房や妾《めかけ》らしく、これも無論、男達の後に、隠れるようにしてうずくまっているのだった。
相沢は視線を動かして行く内、ふと、その最後の一人の美しい目に急に合った刹那に、何となく、はっと思った。女はすぐと、もとどおりに顔を伏せてしまったが、相沢の胸はにわかに動悸をはじめていた。これは他の者全部が顔もあげられずにいるのに、この女一人が顔をあげていたために驚いたのではない。相沢には、女がこちらを胡散《うさん》と見抜いて、わざとじっと見つめていたような気がしたのである。これは、充分度胸をきめて来たことでいて、ぎょっとせずにはいられなかったことだし、またその刹那のこちらの急に臆病になった心持をあるいは見られはしなかったかの不安もあって、相沢も最初の内のような気合には、またとなれなくなった。知らず知らず顔色は険しく変って来ていた。
ただ、この女が上杉の家老千坂兵部に度々隠密に使われるお仙という女だったことは、無論この男が知らないことだった。
「蔵前の松田屋は? 貴様か? 伊勢屋は? うむ、名前はいずれも調べ上っているぞ。相当分別もある年配でいて、お上を恐れざる不届至極の者だ」
相沢はおもおもしくこういいながら、目をいからして睨みつけた。主は金子《きんす》を拾い集めて恐る恐る相沢の前へ差し出した。これを無言で袱紗《ふくさ》にくるんで内懐へ入れながら、相沢は、どうも、この女のことが気になっていた。しかし、見わたしたところ、誰もただ心から恐れ入っているように見えた。
「いずれ、差紙《さしがみ》が行くから……各自家へ戻って慎んでいるがよい。逃げ隠れするとためにならぬぞ」と、射すくめるような目でじろりと見てから立ち上った。
相沢の胸には、その女の目がまだ不安なものを残していた。いやこの立ち上った刹那に急にそれを感じている。ひょっとすると、こいつ、おれが偽者だと見ていて、何かいい出しはしまいかと思われたのである。
だが、その時はひらき直って、
(おれがいつ上役人だといった? 難癖をつける気なら、どうでもしてくれ)と坐り込んで、場合によったら主人の柳沢出羽守の名をかつぎ出して動かないだけの度胸はあった。これがまた町人達に対しては、よく効くのである。出羽守の威勢は、町人達でもよく知っているのだった。
だが、お仙は、とうとう何もいい出さなかった。出て行く相沢を無言で見送っているだけのことだった。ただし、お仙はほかの者と同様に恐れ入った様に見えていたのは最初からの芝居だったと見える。相沢が出て行って、後に一同が青息吐息で人心地もなくだまっている中に、皮肉な目付で笑って、最初に口をきいたのもこの女だった。
「とんだ者が舞い込んで来ましたねえ。でも御心配になることは御座いません。こちらで二度とやらなけりゃアそれで済む話ですもの」
「いや、改めて、お呼び出しが来るようなお話だったじゃありませんか?」と、主が蒼い顔でいった。
「なアに、そんなことも御座いますまい。ありゃア町方じゃありません。こちらに弱味があるからだまって帰してやりましたけれど、どうせ食わせ者ですよ。どこからかこちらさんのことを聞いて悪戯《いたずら》に来たのに違いありません。ひどい奴って……」
お仙は、こういいながら、立ち上っていた。
「まあ、お話は後のことにして……どこの馬の骨か、ちょいと後をつけて見てやりましょう。まアそんなこともありますまいけれど、こんどはほんとうの町方へ話さないとも限りませんからね。そんなことのないよう|だめ《ヽヽ》を押しといても無駄じゃ御座いますまい。金をかたって持って行ったのが、さきの弱味になっていますから、今はこちらの方が歩《ぶ》がいいわけ。人のいないところで話したら、多分おとなしくいうことをきくだろうと思います」
「そりゃアよろしいが……お前さんにお怪我でもあったら」
「いえ、大丈夫……」
とんとんとんとんと、軽く、急いで梯子段を降りて、開いていた雨戸から外の月影の中へ出る。しんとした真夜中の往来に立って、あちらこちら透かし見ると、相沢らしい人影が角を曲って行くのが見えた。お仙は、駈けるようにしてあとを追いながら、
(なアに、しゃらくせえ、あんな青い奴に……)と思うのだった。
相沢は、また、誰か後を追って来る様子なので、ひょっと唐獅子がその辺に隠れて待っていたのではないかと思って、立ち止って振り返って見たが、すぐと、今の女と知って、警戒した態度《ものごし》になって、近づくのを待った。
お仙は臆せず、白い顔に笑いを含んで傍へ寄って来た。
「旦那……」
「なんだ?」
「いいえ、ちょいとおはなしして置きたいことが御座いましてね……どちらへお帰りなさいますの?」
「…………」
「あ、悪くおとりになっては困りますわ。ただ、旦那のためにも、私どものためにも、今夜のことはよそへお漏《も》らしにならない方がよろしいように存じましてね」
「どういうンだ? わからないな」
「あら、そこまでいわせては話にいらない角《かど》がつくじゃありませんか? 御自分でお考えくださって、成程とお気がおつきになったら、よかろう、わかった……と、それで結構なンです。如何《いかが》なもので御座いましょう?」
お仙は、やんわりとこういいながら、万一の抜打にそなえて相沢の左側に身を寄せているのだった。
相沢新之助の家は湯島|三組町《みくみちよう》の崖の下にある。逃げるようにして先へ帰った唐獅子の藤九郎は、門をあけて入ると、すぐ、家の中にあんどんがついているし雨戸があいているのを見て、不審に思った。相沢の生活なら唐獅子はよく知っていた。道楽者できちんとした家内《かない》を迎えたことがなく、時々|白粉《おしろい》臭い妙な女を連れ込んでいることがあっても、それも永続きがせず、またそんな風だから奉公人を置いてもいついたことがないばかりか、相沢はかえってこれをいいことにして、金さえあれば雨戸をしめて外へ出て贅沢な食事をして暮しているのだった。
けさ、唐獅子が来た時は、この家には相沢以外に誰もいなかったし、近頃誰かまた新しい女が入っているようにも聞いていない。
現に今も別れ際に、相沢は、火をおこして置いてくれ、といっていたのである。
おかしいな……ぬすっとじゃあるまいな。とにかく、あんどんをつけているンだ。すると誰か新しく、女が来る約束になっていたンだろうか?
唐獅子は疑った。そのほかに、人の留守に来て、いけしゃあしゃあと上り込んで、あんどんを点《とも》し雨戸をあけて、こんな真夜中まで落ちついている奴はなさそうである。
生垣《いけがき》越しにのぞいて見ると、青く蚊帳《かや》が釣《つ》ってあるのが見えたが、あんどんがその前に置いてあるので、内のことはわからない。誰か寝ているのはたしからしく、団扇《うちわ》が白くゆるやかに動いているのだった。
唐獅子は、相沢のいいつけがあったことだから、構わないと思って、がらりと格子をあけた。
「こんばんは」
ふざけて、わざと大きな声でいいながら、顔をふすまの蔭から出してのぞき込んだ。
蚊帳の中にいた人間は、格子のあいた音を聞いて起きなおったところだったが、唐獅子の金歯を並べた異様な面態《めんてい》がぬッと不意に出たのには驚いたらしい。
「誰だ!」と、ふとい、荒っぽい声でとがめた。
この男よりも唐獅子はびっくりしてすくんでいた。家を間違えたのではないかと思った。蚊帳の中にいるのは、世にも気難しそうな恐い顔をした中年のさむらいだった。
「誰だ?」
「へい……」
唐獅子は、おずおずしながら、あたりを眺めて、この家に違いないと確めたところで、
「こちらの、旦那様に御懇意に願っております……藤九郎と申す者で御座います」
「むむ」
武士はうなずきながら、また睨むようにして、唐獅子を見つめている。
「相沢は、どこへまいった?」
「へい、もう間もなくお帰りで御座います。たった今、お別れして手前だけ先へ戻りましたので……」
「そうか、この夜中まで、どこを歩いているのだ? わしは夕方から来て待っている。あまり蚊が多いから、蚊帳を出して、入ったところだ」
「それは、それは……して、こちら様は……」
唐獅子が、こういうと、蚊帳をあおって出て来た武士は、
「さればじゃ。相沢の叔父じゃ」と答えた。
「へえ……」
唐獅子は思わず、ちいさくなって、とんだところへ舞い込んで来たものだと思った。どう見ても気難しそうな、恐ろしく厳格そうな武士なのである。
「相沢と懇意にしているといったが、出入りの者か?」
「ま、まあ、左様なもので御座います」
「相沢も大分悪いつきあいがあって、どうも身持がよくないように聞いている。今夜はみっちり意見をしたいと思って来たのだ。この夜中まだうちをあけているとはまことに評判以上だ。度々いいきかせても、なおらぬのだから、返答の仕様によっては今夜は切腹させる。生かして置いては、家名にかかわることを仕出かさぬとも限らぬわい」
唐獅子はふるえた。にがりきりながら武士が出した煙管は、これも恐ろしく古風な、握りぶとなものだった。
「火がない。おこしてくれ」といわれた。
唐獅子は、すっかり顛倒《てんとう》してしまった。
わくわくしながら、台所へ出て火を起しにかかったが、こりゃア相沢さんへは不人情のようでも早く逃げるに越したことはないと思った。だが、もう間もなく、相沢は何も知らずに、帰って来る筈だった。切腹といった。とにかく凄いことになってしまったものである。
うちわで、ばたばた火を煽《あお》ぎながら、のぞいて見ると、叔父というのはどこから探し出したものか、毛抜きを出してあんどんのそばで頻《しき》りとひげを抜いている。それがしんとした夜半だったせいもあろう、妙にすごく見えた。
そこへ、外に、足音が聞えて来た。
帰って来た……
唐獅子がうちわを投げ出して逃げ出したく思っていると、がらりと格子をあけて、果して相沢があがって来ている。唐獅子は思わず息を詰めた。
「お、こりゃア……」と、相沢が客の姿を見て驚いたようにこう叫んだ。
「珍しいな……」
「待たせるではないか? どこへ行っていたのだ?」
これが叔父さんの言葉だが、おだやかなものだったし、相沢も気楽に立ったままでいる。
「夕方から三度も来て、帰らぬから勝手に上へあがって、待っていることにした」
「何か火急な……」
「左様さ。是非とも今夜の内に話して置かねばならぬことが出来てな。まず、帰ってくれてよかった。間にあうまいかと思って心配していたところだ」
「ふむ?」といって聞こうとしたが、相手は今毛抜きをあてていた顎《あご》と目をつかって、台所にいる唐獅子のことを知らせた。何か他聞を憚《はばか》っていることのように見える。相沢はうなずいて立ち上って、台所へ出て来た。
唐獅子も、すこし模様が違うので、狐につままれたような気持で見上げた。
「や、御苦労」
相沢は、こう声をかけてから、そばへ寄って来て、ひくい声で、
「あいにくの来客だ。今夜は一緒に飲もうと思っていたンだが、あしたのことにしてくれ。こいつをやろう」
小粒《こつぶ》を出して渡した。
「へえ。ですが……」
「話も、あしたさ」
「いいえ……あちらは、旦那の叔父御様でございますか?」
「叔父?」
相沢は怪《け》げんらしかった。
「そんなことはない」
「でも、御当人が……そうおっしゃいましたぜ」
「はは、はは、はは……」
相沢は急に声を揚《あ》げて笑い出して、客の方を振り返った。
「おい、岩瀬さん、この男に何かおいいなさったのか?」
「左様さ。尊公《そんこう》に悪い仲間がついて身持がなおらぬからきつく意見しに来たといってな。叔父だといったら顔色をかえていたようだった」
客も笑いながら、こう答えて来た。
「唐獅子、だまされたンだ。さあ、帰るがいい。あしたア早く来い」
「どうも、ひとが悪いや」
「はは、はは、はは……こりゃア真に受ける方もよかアないようだ。どうして、身持のことならおれの方から意見したいくらいのお方さ」
「そりゃア違うだろう……これ、唐獅子とかいう男も、あしたに出直して来るがいいぜ」
顔がこわく出来ている癖に、客の岩瀬というのも、急にさばけた口調になっている。藤九郎はただ、あきれていたが、しまいには、きまりが悪くなって、明日の駄目を押しておとなしく帰って行った。
「おかしな男さ」
相沢が、こういって席に着くと、
「だが、相沢、明日という話が出ていたようだが、われわれ二人は明日は早朝旅立たねばならぬのだ」
「へえ、どこへ?」
「京は山科《やましな》……今日の昼、御用人が見えられて殿の御沙汰だといって急な話さ。山科には、もと浅野の家老大石内蔵助がいる。あんたも御承知だろうが、例の赤穂浪人の復讐の噂、あれに根拠があるかどうかを調べに行くのだ。なかなか大切な役目らしいぞ」
「むむ」
相沢も、真剣な顔色になって、
「殿からの御沙汰だと!」
「うむ、噂のとおり復讐の計画があるとわかったら、大石を刺すことになるらしい。そんなことで貴公がやられるわけさ」
「はて……」といって考え込んだが、急にじろりと目が動いて、台所の方を振り返って見た。相沢はその方角に人の気配を感じたのだった。
「唐獅子か?」と叫びながら急に立ち上っている。
相沢新之助は刀を取って、台所口から外へ走り出た。客の岩瀬勘解由《いわせかげゆ》も板の間まで出て来てのぞいて見た。
すぐ裏は崖になっていて月が上の方を明るくしていた。相沢は日ごろ商人が御用聞きに出入りする路地づたいに小走りに出て行ったが、唐獅子はもとより別に怪しい人影も見えず、町は森閑として真夜中の月に照らされていた。
たしかに人が立っていて、内の様子をうかがっていたように感じられたのである。
「誰かいたのか?」
岩瀬は、やみの中を帰って来た相沢を見てこういった。
「いや……気のせいだったろう」
むむ……と首を引っ込めようとした時、相沢が急に立ち止って地にかがむのが見えた。何か見つけて拾ったようである。
だまっていると、気のせいか、相沢は何となく落着かない様子を見せた。
「なンだ?」
「やはり、いたンだ」
「誰がよ」
相沢は考え込みながら、今、拾ったものを岩瀬に見せた。これは銀脚《ぎんあし》の、さんごのかんざしだった。
「女か?」
「ここらの長屋の内儀《かみ》さん達が差す付物《つけもの》とア違う」
「うウむ……心あたりがあるのか?」
「ある」と、気重いように答えた。
これを拾い上げた刹那に、さっきの女……と相沢の頭にひらめいていた。これは多分間違いのないらしい推定だった。ただ、何で、あの女がここまでつけて来たのか?
話は済んできれいに別れて来たのである。それで後の因縁《いんねん》は残っていない筈だった。やはり女だけに疑い深く、兎も角も後のためにこちらの住居を突き止めて置こうとしたものであろうか?
これだけが不審に思われた。
「誰だ? そりゃア……」
あがって、あんどんのそばまで戻ってから、岩瀬は太い眉根を寄せて、尋ねた。
「なアに……よし今の話を聞かれたところで、心配はない奴さ」
「は、はあ、じゃア近頃の新しい口だな……図星だろう」
「どうして、そんな粋筋《いきすじ》じゃありませんや」
相沢は肩をゆすって笑った。かんざしは畳の上へ投げ出されてつめたい色に光った。
「ところで今の話……」
「おっと……」と、岩瀬は気がついたように立って行って、蚊帳の蔭から大きな包みを出して来ながら、
「おおよそ、こんなことだろうと思って、この家からすぐと立てるように支度して来たのだ」
「そりゃア済みませんでしたね」
相沢は、こういいながら、包みから出るきゃはんやたびを目新しく珍しそうに眺めて笑った。だが、こんなことはなれていたものと見える。すぐ二人は旅支度にかかって、やがて、まだ夜のままでいる往来に、新しい草鞋を踏みしめて出て行った。
唐獅子の藤九郎は、これを知らない。約束のあしたを楽しみに、路地の裏の自分の家で、はだかで蒲団をよじって抱き込んで、ぐっすりと寝込んでいた。
唐獅子が目をさまして見ると、日ざしがもうかやの裾まで来ていた。どこかで醤油《しようゆ》のこげるにおいがしている。ひょっとすると、これは午《ひる》近いのではあるまいか。
「婆アさん……」と、まだ蒲団の上にぼんやりとすわったままで、隣の糊屋《のりや》の婆アさんを呼んだ。長屋住いの便利のよいことには、壁ごしに隣と話が出来るのである。
「なにかこげているぜ。……もうなン刻《どき》ごろだろう」
「おやおや、まだ寝ているのかい。こんにち様に勿体ないじゃないか? もうそちこちお午さ」
「お午! そいつあ、いけねえ」と、蚊帳から出た。
昨夜は、あいにくと、あの、変なお客がいて引き揚げて来てしまったが、相沢から例の方の報告を聞いていない。機嫌がよかったところを見ると、確かにうまく行って、かなりのものをつかんで帰って来たのに違いないし、また元来が自分の縄張《なわば》り内を、つまらなく口をすべらしてさらわれたことだから、是非とも出かけて幾分の分前《わけまえ》をもらって来なければいけなかった。
相沢の気性はあらかたわかっていたが、持たして出したら、すっかりはたいて、すっからかんになるまで帰って来るような人間ではなかった。もとより唐獅子にやる分として、別にとりのけて置くほど親切気を持ち合せている筈はなく、
(おい、この次に、うめあわせをするからな、まあ、勘弁しな)
あっさりと、これだけで、済まされる危険が充分あった。
(寝過ぎた)
相沢だって、あの客がいて更《ふか》したことだから多分まだ寝ているだろうとは思いながら、そのことがあるのに気がせいて、顔も洗わず寝ぼけ眼で、かッとまぶしいくらい明るい外へ出た。
だが、相沢の家の外まで来て生垣《いけがき》の外からのぞいて見ると、一枚あけてあるだけの雨戸に日がかんかんあたっている。あまり暑いので戸だけ一枚あけに出て、また寝たものと見える。なんでえ、相変らずだな……とたのもしく思いながら入った。
「おはようござい……」
おどけたつらを、ぬっと縁側から差し入れた。
「だアれ?」
女の声だった。
蚊帳はつったままだったし、へーえ……と思ったきり、引っ込みのつかない形で、
「旦那さまは……」
「おるすだよ」
「…………」
「用なら、また来ておくれな」
「ど、どちらへ……」
「知らないねえ」
唐獅子は、ふくれ上って、すぐ目の前で蚊帳の裾が風にあおられているのを見つめた。声のぬしの女は、蚊帳の中にいるのではない。こちらからは蔭になっている戸棚をあけて何か探し物でもしていたらしく立っていて、蚊帳越しにこちらを見ているのだった。
(どんな女だろう)
この、いくらか色っぽい興味が動いて来て、最初の落胆から救ってくれた。
「一体、いつごろ……? もう大分前にお出かけになったンでしょうか? あっしア今朝来いというお話で伺ったンですが……」
「あたしもさ」と、女は平気で答えて来た。
「来たら、もういないンだもの。折角、来てやったのに腹が立つッたら……」
ごもっともというように、唐獅子はおおきに同感の意を表した。
「あの旦那の、わるい癖ですよ。どうも、あのずぼらにも困ったもんでしてね」というところへ、女ははじめて姿をあらわした。誰でもない、お仙である。だが唐獅子は美しい年増《としま》だなあと柄になくうっとりとしただけで、女の素姓を疑うどころか、行くとして可ならざるはない相沢の手腕を今更うらやましく思うのだった。
お仙は、唐獅子を組しやすいと見てとっていたらしい。平気で、端近く出て、しゃがんで、
「ひょっとすると……お屋敷へ行ったのじゃないかしら……」と、かまをかけた。
「あ、そうかも知れませんねえ。それでなけりゃアこんなに早く起きることのないひとだ。それにね、ゆうべ遅く、お屋敷の人らしいのが見えてましたから……」
「そう?」と、こぼれるような目付を見せて、
「お屋敷って、どこなの? あたし、まだ聞いていないのさ」
「へえ?」
唐獅子は目をまるくして、
「柳沢様ですよ」
「出羽守《でわのかみ》さま」
お仙は、肉の豊かなあごを動かして、にたりとした。実は、今朝わざわざこの家へ来たのだって、それを知りたかったからだった。
お仙は、その足で千坂兵部《ちさかひようぶ》を訪ねて、この話をした。
柳沢出羽守の家来らしい者両名が山科へ向けて出立した。話の模様が大石内蔵助の動静をさぐるにあるらしいと、いうのである。
話を聞いている内に兵部の目が鋭く輝いた。
「どんな者たちだ?」という。
お仙はくわしく説明した。
兵部は、硯箱《すずりばこ》をおろして来て、話を聞きながら、さらさらと筆を走らせている。書き終ると厳重に封をして満足らしく上から、ぽんと、たたいた。
「むむ……」と枯れた顔を割って、
「いや、この上ない、よい話を聞くものだ。私も、出羽守殿のことを考えなかったわけではない。多分、そのふたりはお前の察しのとおり大石の様子を見に行ったものであろう。ないことではない。当然に、なくてはならないことであった。ともあれ、これを京都へ知らせて、なお、真偽を堀田達に調べさせることにしよう」
「堀田さん……は、じゃアずっと、あちらに……」
「そうだよ、なかなかよく気のきく男だな。あれの働きで私はこの座敷から一歩も出ないで、百里向うの山科で大石が何をしているか、よくわかる。大石は、近頃茶屋遊びをはじめているそうだぞ」
兵部は笑った。
「妻子を実家へ返したそうだから暢気《のんき》なものさ、茶屋の名もわかっている。妓《おんな》の名も知らせて来た。しかし、なあ、大石内蔵助といわれた男が見えすいたことをするではないか? そんなことでわれわれの目がくらませるものか、底の知れた話だ」
お仙も笑った。
兵部は手をうって、用人をよび出して、今書いた手紙を渡した。京都の例のところへ……という。飛脚《ひきやく》の者が、すぐとこれを受け取って五十三次を走って行くことであろう。
その間に、お仙は邸内のどこからとなく聞えて来る、烈しく竹刀《しない》を打ち合す音を聞いていたが、兵部がまた話し出したので、その方を見た。
「今朝、出て行ったのだな?」
これは柳沢の二人の隠密《おんみつ》のことであろう。
「左様で御座います」
「ふうむ」
兵部は、五十三次の旅を一日ずつに分けて、胸でかぞえていた。
「先方の歩き方にもよるが……多分|駿府《すんぷ》あたりで、こちらの飛脚の方が先へ出ることだろう。その二人が京へ出る頃には、堀田が迎いに出る都合になるな。だが、こちらから人が出ていることを知られては面白くない。だまって、むこうのすることを拝見するのだ。いよいよいそがしくなる。またお前に行ってもらうことになるかも知れぬぞ」
堀部安兵衛以下の同志は、所在なさに困りきっていた。誰かが上杉の白金《しろがね》の下屋敷で上野介をかくまうために穴倉を作っているという風説を知らせて来たことがあった。一同は、こんな時は大よろこびで江戸の大工や左官で白金の屋敷へ入っている者はないか、手分けしてさぐるのだった。しかし、この時も、炎天の下を駈けまわって結局風説が根拠のないものだとわかっただけのことで、一同は笑った。しかし、この事件に笑いきれぬものが残っている。力を入れて突っかかって行って軽くはずされたようなものである。なんとなく、頼りない心持があとに残った。まるで、影と相撲《すもう》を取っているようなものだった。
かたき上野介は別に安穏《あんのん》でいて、それを狙うことが許されないばかりに……せめて、その影を追っている。内蔵助の計画には心服していながら、一同は自分達の立場のみじめなことを考えた。さすがにひと頃ほど口に出していわないまでも、また、それだけに、一同は変に憂鬱な気持にならずにはいられなかった。
こうした或る日、安兵衛は唯七と関口へ行って、茶屋で冷酒を飲みながら、都塵《とじん》に遠い静かな眺めを見て徒然《つれづれ》を慰めていた。
すぐ下を、井の頭から来る上水《じようすい》が流れていて、これと並んで関口の滝の水が鬱蒼たる木蔭に見える。この水の音を区切って水車の緩慢《かんまん》な響きが遠いものに聞えて来る。葉蔭を漏れる日かげは、きらきらと水にたわむれて、水底に洗われたきれいな石を明るくしている。
二人は、酒をくみながら、対岸の稲田へ目を向けてだまり込んでいることが多かった。静けさを聴くということは、二人とも近頃忘れていたよろこびだった。
「上方の連中は毎日何をしているだろう?」
ぽつんと安兵衛がいった。
唯七は、さあ? というように静かに微笑むだけである。問いかけた安兵衛の方でも、別に返事を期待していなかったと見え、そのまま黙り込んだ。目の前の上水に誰が棄てたか野菊の花が流れて過ぎた。
急に安兵衛がのび上って、何かをのぞくようにして川の方を見た。その視線を追って唯七も見れば、向うの岸の道を立派な武士と町人風の男が二人連れで歩いて来るのである。
「小山田氏《おやまだうじ》ですね」
唯七は、町人になりきっている小山田庄左衛門の姿を認めて立ち上る。
安兵衛も立ち上って、
「連れは私の友達で柳沢の家中|細井広沢《ほそいこうたく》先生だ」
「あの方ですか?」
唯七も、広沢の名前を知っていた。
安兵衛は、欄干《らんかん》から乗り出して声をかけると、向うの岸の二人も気がついて立ち止った。広沢細井次郎太夫は、持っていた白扇《はくせん》をあげて、応えた。二人は、こちらへ来ようとして、川縁まで出て見廻したが、ずっと下へ戻って橋を渡るよりほかに道はない。四人は川を隔てて、笑った。
笑いながら細井と小山田はいそぎ足で道を戻って竹藪の蔭に消えた。暫くして、今度は同じ岸について来るのが見えた。
「やあ、御苦労さま」
安兵衛は元気よく迎えに出る。
「うまくお目にかかれたものですな」
「まったく……」と、広沢は、学者らしい聡明そうな額の汗をぬぐって答えたが、
「しかし、こちらの方角へ行かれたと小山田氏から伺って、わざわざまいったのだから、こりゃア逢うのがあたりまえだろう」
「むむ、じゃ宅へ?」
「左様さ。面白くないことが出来《しゆつたい》いたしましてな」
広沢は、日なたで、裾のほこりをはらいながら心持むずかしい顔付になって、こういうのだった。
ふむ? というように、安兵衛は相手の顔色を見た。
どういうのだろう?
唯七は側から不安らしく見る。
細井広沢は、ひくくたれた木の枝に縁を取った明るい川床をのぞきながら、座に着いたが、
「どうも、面白くない……」
「あちらの?」
安兵衛が差したのは、広沢の主人、柳沢出羽守のことだった。
広沢はさびしげに笑った。
「そりゃア私の口からはいえないよ。ただ御一同に自重していただきたいのだ。とにかく、方々は、国のおきてに背こうとしていられることだから……おわかりだろうな?」
「…………」
安兵衛は無言でいた。ただ相手の顔色に向けた視線をくずさない。肩を押しつけるような無言の底に軒端《のきば》の枝がそよいでいた。
「さとられてはいけない。それだ……方々よりも大石殿の身辺に、よく気をつけるようにしていただこう。どうせ、求めておきての敵になろうとする方々だ。御覚悟のこととは思うがな、油断はなりませぬぞ。……私としては、これ以上を申し上げることは出来ないが」
広沢は、こころ苦しげに安兵衛の目を避けて、こういうのだった。
わかる……細井は主人柳沢出羽守のことなので、多くを語れないのだ。安兵衛とは剣道の同門のよしみを以て、これまで仲間の者のために、いろいろと心配してくれている広沢であった。自分の主人に対する忠節と、安兵衛に対する友情、いや赤穂浪士全体に対する好意との間にせかれて、広沢の立場は苦しい。安兵衛には、それがよくわかった。しかし、今日の広沢の言葉は、あまりに茫漠とした不安を残していた。柳沢氏が国権の力を以て、自分達の計画を圧迫しようとしていることだけがわかって、それがどの程度のもので、どんな形であらわれるものかは判然しない。広沢は、それをいわないのである。
「柳沢どのが……」
突然に武林唯七が、こう口走っていた。
唯七は、松の廊下の変ある前に堀田隼人と名乗る男から、柳沢吉保が吉良上野介と、どんな関係にあるか聞かされていたし、その全部を真と見ないまでも、怨敵《おんてき》上野介の背後に柳沢の影を感じずにはいられなかったのである。広沢の言葉は、耳を傾けていて、この男の血を揺ぶらずにはいなかった。
安兵衛は、振り返って目を異様に光らせている唯七の様子に気がついた。広沢の手前も、そっと、たしなめるようにこれを睨んで、それまで組んでいた腕を解くと、
「いや、御厚志|忝《かたじ》けない。もとより覚悟のことでした。太夫はああいう方ゆえ心ぬかりは御座るまいが拙者から、それとなく注意致して置きましょう」
「それは、私の知ったことではない」
「や」と叫んで、安兵衛は、ははははと快活な笑い声をあげた。
その太い指は杯洗《はいせん》の中から猪口《ちよく》を拾い上げて、広沢に差した。
「冷酒だが……」
「結構」
すだれ越しの青葉の影を沈めていた杯洗の水は揺れた。
邪道
細井広沢がそれとなくほのめかしたことが、この夜安兵衛の家に集まった同志の者を興奮させた。武林唯七などは、讐《かたき》が吉良上野介一人でなく柳沢出羽守もそれと見て然るべきだと極言している。血気の若者達は、この意見に加わった。郡兵衛と安兵衛がこれを制して、取敢ず山科へ事情を知らせに人を走らせることにした。
「とにかく、きまりきったことだ。御公儀としては、そう出るのが当然じゃないか? 不平をいうことはない。それより、これからの用心だ」
安兵衛は、これを繰り返した。
「だが御公儀の政策だろうか? あるいは柳沢氏の一存だろうか?」と、誰かいった。
「柳沢の一存が即ち御公儀の政策さ」と、冷嘲《れいちよう》するようにいう者がある。
「どっちだっていい。どっちだっていい」と叫んで安兵衛は、話がむずかしくなりそうなのを、制《と》めた。
「どちらにしても用心大切なのだ。太夫が何といわれるかそれを待とうではないか?」
「待つ? いや、それでなくても待つことがはやるので困っているのだ」
この不平を漏らしたのは、小山田庄左衛門だった。
「まあ、そういうな。おれだって随分辛抱しているのだぞ。気の短いことは親譲りなのだが……今度という今度は、一生懸命で癇癪《かんしやく》の虫を殺している」
努めて快活らしくいったのだが、安兵衛の声には悲壮なものが響いていて、人々を沈黙させた。
「太夫を……信頼していよう」
郡兵衛が、ぽつりと、こういった。
間もなく人々は散会した。
小山田庄左衛門は、新しく借りた家が市が谷だったので、同じ方角の赤坂にいる高田郡兵衛と連れになった。二人とも変に気重くなっている。御公儀が自分達を睨むことになれば、またやむを得ず復讐が先へのびることになる……との考えが、すくなからず前途を暗くしているのだった。
「まあ、仕方がないことだ」
別れ際に、郡兵衛は、憂鬱な調子で、こういった。
「どうせ、お上に差し上げた躯だ。生きているとは思うまい。死びとだ、死びとの修業だ。とにかくお互に自重しよう」
庄左衛門も、目を笑わして、頷《うなず》いた。
死びと……郡兵衛は、うまいことをいった。元来ならば亡君に殉《したが》って死んでいる自分達だった。庄左衛門はこの言葉を心に反芻《はんすう》しながら、大分前に浅草の寺で見た死蝋《しろう》の見世物のことを思い出した。これは駿府の在《ざい》から出たものだそうで、承応年間《しようおうねんかん》に死んだ男だというから、ざっと五十年も昔の死体が、臨終《りんじゆう》の時のままの姿で土の中から出て来たのをわざわざ江戸へ運んで来て公衆に見せたのである。庄左衛門も好奇心に駆られて見に行ったが、経《きよう》帷子《かたびら》こそ新しく作って無理に恰好わるく着せたものだったが、死体の老人の皮膚が透《す》きとおるように美しく黄ばんでいるだけで、睫毛《まつげ》も鬚《ひげ》もそのままに物見高くのぞき込む見物の非礼をとがめることもなく、いわんや賽銭《さいせん》にはまったく無関心に、一種冷やかな静けさを持って瞑目合掌《めいもくがつしよう》していたのである。
庄左衛門は、いよいよ沈んで考え込みながらわが家の路地へ入って、急に行く手の闇に白く団扇《うちわ》の動くのを見た。誰かいるなと思って、近くなると、これは一緒にいる穂積惣右衛門の娘、幸《さち》であった。
「お帰りで御座いましたか……」
幸は臆病らしく、しかも、うれしげに声をかけて来た。
「これは、お嬢さまで御座りましたか?」
庄左衛門は、つとめて、町人らしく腰をひくくして挨拶しながら、この夜更けに外へ出ている幸を訝《あや》しんだ。だが、このわけは庄左衛門にもわかっていないことはない筈である。訝しんだのは、このいじらしいくらい内気な乙女にそれだけの大胆《だいたん》さがあらわれたことだった。
偶然のめぐりあわせから、一つ棟の下に住むこととなって、庄左衛門が始終家をあけているとはいうものの、朝夕に顔をあわしている内に、やはり自然は、こうした境遇に起り得ることを、いつの間にか幸の胸に植えつけていた。老いた父親とのわびしいだけの暮しになれた乙女の胸に、庄左衛門は明るい春の光をもたらしている。ぬれて来た土は自然とぬくめられて、今まで自分の中にあるとも知らず過して来た草の芽が、身内にうずいて来たのを感じた。ふくらむ胸をわってこれを地上の光の中へ送り出すのを待っておののいているのである。男のただ一言を待っているのである。庄左衛門はこれを、変って来た娘の容子《ようす》に感じて、いじらしいものに思っているのだった。
幸は、この家へ来てから急に美しくなった。よく顔を染める。長く美しい睫毛《まつげ》の下に濡《ぬ》れ色の目が輝いている。庄左衛門といる時、息が苦しそうに見える。
(わるかったな)
庄左衛門は、同じ家に住むことにした自分の軽率に後悔に似たものを感じることもあった。が、それといって、急にこの家を出る……これはいい出しにくいことだったし、また自分の本心もいつかこの初々《ういうい》しい娘に惹《ひ》きつけられていて、別れ難い心持になっているのがわかった。
では、一歩進めるか?
これは、おさえている手をはなして、坂道に石をころがすのも同じことで、自分の情熱がどこまで自分を進ませるかわからないような不安がある。庄左衛門は、ひたむきの自分の性格をよく知っていた。一旦、何かに溺れたらどこまでも落ち込んで行く性質だった。
では……
つまりは、今のままでいつまでもいたい。お互いの恋らしい、何かあるようなないような雰囲気の中に住んでいるのである。はっきりと形のない、美酒の香のような世界である。和《なご》めいた薄暮《はくぼ》の明るみである。庄左衛門は、自分ではやむを得ないことのように考えて、この、どっちつかずな立場を取っているのだった。
けれども、こうして庄左衛門が無意識にとっている男性に有り勝ちな利己的《りこてき》な方法が、幸にはいよいよ苦痛を与えると共に、隠れて燃えている焔を次第に烈しくして来た。恋とは、想《おも》う人と自分との間の間隙《かんげき》を埋めて終うことだ。解決のない恋などというものを、女は考えることが出来ないのである。内気で、しとやかな性格でいても、幸も女だった。見えない焔は燃え続けている。外へ漏れないだけに烈しい焔であった。このままでいたら、自分の身も、心もどうして燃え切らずにいよう、と思われるのである。
幸は、それでも臆病らしく、消え入りそうに見えた。庄左衛門は、いつか、間《あい》の垣根に見た白い夕顔の花をふいと思い出しながら、この娘にいじらしいような気持をそそられて、やさしくいった。
「お父様は……」
「もう、さきほど、寝《やす》みました」
遠くで犬がないている。ふけた夜の町はしんとしている。二人は、だまって、わが家の方へ歩き出した。頭の上で、桐《きり》のひろ葉が、かすかに身じろぎした。しめった夜空に、秋ちかい星がにじんでいるのが見える。
急に、幸が立ち止った。
庄左衛門は、幸が団扇をとり落したのを見た。娘は、袖を顔にあてている。
泣いているのだ……声は聞えないけれど、息遣《いきづか》いと肩のゆれ具合がそれと知らせた。
庄左衛門は、咽喉《のど》へ何かつかえたように思いながら、とがめるようにいった。
「どう、なさいました……」
何となく腹が立って来て、わざと無言で見詰めていたが、幸が、倒れるのではないかと思われた。
「さ、家へ入りましょう……」と、肩を抱くようにした。
幸は、我慢も出来なくなったように嗚咽《おえつ》の声を漏らした。庄左衛門の腕の下で、やさしい肩が烈しくふるえた。
急に、庄左衛門は、その肩を引き寄せた。非難は消えて、何か荒々しいものが、男のからだにあふれていた。庄左衛門は、しっとりした髪の匂いをかぎながら、無理やりに幸の顔を上へ向かせた。
拒《こば》みながら、袖が落ちて、泣きぬれた美しい顔が見えた。瞼が、薄い花びらのようにふるえては涙を流している。形のいい唇が燃えながら、かすかにひらいて上を向いている。
庄左衛門の目は酔っているように見えた。自然と腕に力がこめられて、幸の肩は折れそうにだきしめられた。
幸はかすかに歯を鳴らした。一塊になっている二人を、烈しい嵐がさらって行くよりほかには見えなかった……
が、その刹那に、庄左衛門のあたまに思いがけないものが閃《ひらめ》いていた。見世物の、あの死蝋の老人である。
死びと……
庄左衛門は、四囲《あたり》にしんとしずまりかえっている夜気をにわかに聞いた。高田郡兵衛の沈んだ顔付が見えた。単衣《ひとえ》の下に熱しきっているのが感じられる幸の背にめぐらしてあった腕から、にわかに力が抜けた。それから腕が落ちた。
「まいりましょう」
庄左衛門は、自分の正直な心持が顔に出るのを恐れながら、かわいた声で、こういっていた。
幸は、突き落されたように思った。
影が裾から匐《は》いあがって来る。幸はもう魂がぬけたようになっていて、ただ庄左衛門のするとおりになって足を動かしていた。
庄左衛門は、寝ているという惣右衛門に気兼ねしながら幸を家の中へ連れ戻した。そして、哀願するような目付で、
(堪忍してくださいよ)といって、二階へ逃げあがって行った。
幸は、行燈の傍に坐ったまま、暗い宙を見詰めて、身動きもしない。もはや涙もない。真蒼になった額におくれ毛がかすかにふるえているのだった。
庄左衛門は眠れなかった。
自分が、ああしたのはよかったのだ、と是認《ぜにん》する気持が強くなった。復讐を前に控えて何の色恋があろう。一命を亡君に捧げている自分であると烈しく考える。しかし、自分が今夜したことが全部正しいと考えることは出来ないのだった。これが庄左衛門の良心を責めていた。
娘の胸の中を思うと、しみじみといとしかった。また、自分が、あの発作《ほつさ》のような動作に出たのも、おのれの心持が正直に動作にあらわれたもので、決していつわりや、芝居気からしたことではない。復讐ということさえなくば、よろこんで、この恋に溺《おぼ》れた自分である。
幸は、もう寝床に入っているだろう。下は灯が消えて真暗だった。
泣いているのではあるまいか?
庄左衛門は、胸を騒がせながら、耳をすました。
夜は、しんとしている。
やはり、この家には、もう、いられない。自分の理性を守るためにも……また幸にこの上の不幸をまねかぬためにも……何か口実を設けて、他所《よそ》へ移るよりほかはないと思案した。
「幸」と、目を醒ましたと見えて、惣右衛門の声がした。
庄左衛門は、娘が、かすかにこれに答える声を聞いた。
「もう、戻られたのか?」
「はい、……さきほど」
声を聞いただけで、庄左衛門は、すこし安心出来たような気がした。
翌朝、庄左衛門はいつものように何気ない姿で外へ出た。幸が台所にいて、出て来なかったのは、仕合せのようにも思われたが、寂しい気持もした。
その足で堀部安兵衛を訪ねて、京都へ行って様子を見て来ようといい出した。
「急に……」と安兵衛は昨夜会った時そんな気振りもなかったことなので、驚いていた。
「そりゃア丁度いい。太夫にお目にかかってよくお話して来てくれ。実は、昨日の件も誰かにたのんでお知らせしようと思っていたところだ……今日のような形勢では、こちらにいても面白いことはないよ。まあ、ゆっくり行って来たまえ」
「一と月ばかり、不在にするつもりです」
庄左衛門は、こういってから、硯箱《すずりばこ》を借りて、幸にあてた手紙を書き出した。
幾たびも書き損じ、紙を無駄にして、結局、惣右衛門に宛て、きわめて事務的に簡単な文句で、店の用事で急に、上方へ行くことになり御挨拶せず旅立つ。不在中は宜《よろ》しくお願いする。二階戸棚の蒲団の中にある金子《きんす》はお預かり願っておきますから、御入用の折御遠慮なくお使いください、というのである。
「どこへ?」と、安兵衛が尋ねた。
「宿の主人さ」
「でも家へも帰らずに、ここから出て行くのか? ひどくせわしいな」
「うむ」
庄左衛門は、憂鬱な顔付になって、気重い返事を聞かせて封をした。
安兵衛は、何かわけがありそうなことだと思いながら、それ以上尋ねもせずに、読みさしの漢籍《かんせき》に目を落した。
「京へ行けば、やがて秋だな」
庄左衛門は、独語《ひとりごと》のように、こう呟いて、縁に差す日の色を見詰めていた。
支度にかかっているところへ、同志の二、三の者も顔が見えて話している間に、安兵衛から明朝にしてはどうだといわれて、庄左衛門もその気になって腰を据えた。穂積惣右衛門のところへ手紙を持たしてやった老爺《おやじ》が帰って来て、たしかにお届けいたしてまいりました。と知らせて来たのは夕刻である。幸の憂いに沈んだ姿が庄左衛門のこころに悲しく描かれた。
幸があの手紙をどんな心持で読むだろうか? 早くこの嘆きから脱け出て欲しい。庄左衛門の考えていることはこれであった。不思議と幸の事が気にかかる。後髪をひかれるというのだろうか? わけもない胸騒ぎが、不吉な想像さえさせるのである。
高声で笑いながら、いつものとおり談論風発のおもむきある安兵衛達の会話から、知らぬ間に取り残されているのである。
庄左衛門は、思い切って昼の中に出立しなかったことを悔いた。自分の心弱さをわらいながら、見えぬ手が段々と強く心を掴んで来るのを感じるのである。
「いやにだまっているな」
庄左衛門の様子が、郡兵衛の注意をひいたと見えた。
気弱く、庄左衛門は笑って見せたが、その時急に、
「もう一軒、暇乞《いとまごい》に行く家があった。まだ宵だし、ちょっと顔を出して来ようかと思う」といい出した。
庄左衛門は、旅へ出るので、髪も形を改め、もとの武士風に戻っていたのである。この風で行けば、穂積の家の近所を歩いても昼間の近江屋伝吉と見とがめられることもなかろうと思われる。その上の用意に、笠もあった。
まだ人通りもある夏の夜の町をいそぎ足で市が谷に向った。元来が屋敷町の裏にあたって閑静《かんせい》な一郭《いつかく》であったし、家に近くなるにつれて夜は暗いしさびしくなった。と、とある角を曲った時であった。
誰か女連れで向うから来る者があった。
「可哀相さ。あんな若くて……それに、たった一人あとに残ったお年寄りだって……」
「どういうンで御座いましょうねえ」
男の言葉の方が丁寧だった。
「なにしろ、器量のいい娘さんだったので、忠公や松公が、遠くからわいわいさわいでいましたっけが……」
すれ違った。
女が、いつかこの家を探しに来た時逢ったかしらの家の姐《ねえ》さんと見る前に、庄左衛門の胸は破れそうに動悸を打っていたのだ。
やったか?
どんと、暗いところへ突き落されたようにこう思った。
その瞬間にぎょっとしてからだを堅くしていた。それがとけて来た時、身も心も一度に押し流してしまいそうな悲痛がのぼって来た。
やがて、僅かに残っていた理性が回復出来るまで、息を詰め、声を呑んで棒のように突っ立ったままでいた。
夜ふけた空には、間近い秋の色が流れていて、星の色はつめたかった。おごそかと思われるまでにつめたいのである。
庄左衛門は、自分が今朝出て来た路地《ろじ》を、そっと入って行った。
暗い生垣の外に立って、内をのぞくと、雨戸はとざしてあっても灯影が漏れていて、家の内には人の起きている気配が感じられた。
ひょっと、今の話が、自分の早合点で、この家のことでなかったら……
庄左衛門は、手をあわせて、それを神仏に念じたいくらいに考えた。しかし、暗く庭木のそよぐ中からしめやかな鉦《かね》の音が聞えて、僧侶らしい声が薄くせきばらいをして、やがてひくい読経《どきよう》の声がのぼって来た。知らず識らず涙がわいて顔をぬらしていた。それに気がついた時、庄左衛門は心を励ましてそこからはなれて歩き出していた。一歩一歩の闇の中へ、夢中で突き進んで行くのだった。
その夜の中に江戸を立った。
どこまでも、どこまでも、疲れて倒れるところまで歩くつもりでいた。
あのやさしい娘をお前が殺した。
庄左衛門は、この声を耳に聞いていた。
といって、自分は決して幸を憎んだりきらったりしていたわけではない。むしろ好いていた。復讐のことがなければ、自分から境を破って踏み出して行って、この甘美な恋におぼれたものに違いないのである。
おれは正しかった筈だ。それならば、よいわけではないか? しかも、襲いかかるこの無限のさびしさは、どこから来るものであろうか?
庄左衛門は、これを考えた。
六郷川《ろくごうがわ》にかかる頃、夜があけて、日は次第に明るくなって来る。やがて間もなく残りの暑さに乾いて白い野面の中を道はどこまでも続いた。
死びと、死びと……
なんということだろう。その、死びとの庄左衛門に恋した乙女は、庄左衛門より先に死んだのである。しかし、間もなく庄左衛門も幸の後を追って行く筈である。二人の恋は、あの世で結ばれるわけではないか?
庄左衛門は、やっとのことでこの考えにたどり着いて、さびしく微笑した。それでも往来を行く若い男女の旅人の姿が、庄左衛門の目をひいた。
月夜鴉
ふと、内蔵助はうたた寝の夢からさめたが、まだ、ものうくて、目をあけずにいた。片頬に、まるく、しなやかな女の膝の感触があった。ほどよいぬく味が衣をへだてて伝わって来るのである。
(夕霧だな?)と、その膝のぬしの、花のように白い顔が浮んで来たが、まだ目をあけない。からだの寒くないのは、女がうちかけの裳裾《もすそ》をかけてくれていたからである。薄い蘭麝《らんじや》のにおいのほかに、脂粉《しふん》の香があたりにただよっている。
夜もふけたようである。遠い三味線太鼓の騒ぎも、騒々しいなかにしっとりしたものが聞える。秋の夜の町には灯影がかすんで、露が降りていることだろう。今夜は月が明るい筈だな……と思う。しかし、その月の色を思っても、これを初秋のさえた色に想像することは出来なかった。内蔵助が考えたのは、空気がよくかもした酒のように濃くて頭にものうい、晩春のどんよりと明るい月であった。
身うちのしびれるような酒の酔いが、睡気《ねむけ》とからんで、また、とろとろとさせる。家をあけて五日目であった。撞木町《しゆもくまち》の茶屋に三日酔いしれて、駕籠を呼ばせてこの廓《くるわ》へ繰り込んだのである。
ここは別世界であった。
女どもを集めて盆踊りをさせて眺めていたが、興に乗って自分も立って、皆の手振りをまねて踊った。
ゆうべであったろうな、いやいや今夜のことだったろうか?
どちらでもよいことじゃ。
酒、酒……
女じゃ……
また、うつうつとしたなかに、肩がくたびれたらしく寝返りを打って、ほてった顔に夕霧が帯の金糸のさわやかさを愛《め》で、腕は自然とのびて、女のやさしい腰をめぐっていた。
「うき様……」
夕霧がささやくように呼んだ。
「うき様……」
「なんじゃ、客か……客ならば、角立《かどだ》たぬようにして返してくりゃ」と、また、とろとろとしながら、ふいと、なんまいだ、なんまいだ……と、まるで年寄りが加減のいい風呂へ入った時のように、何のこともなく、口の中でつぶやいて、これには自分もおやと思って、顔の筋がゆるんだ。
客といえば、大方わかっていた。素姓《すじよう》の知れぬ浪人者で、目に角立てて、不倶戴天《ふぐたいてん》の仇《かたき》を何となさるがきまり文句。近頃では、仕方なくそういう客に会う時は、この不倶戴天が今出るか、今出るか……と、面倒臭いなかに楽しみなような気がしている。ところで、また、間違いなく、それが出て来るのだからおかしい。
あれは何とかいう唐人《とうじん》の作ったものだった。日本の武士たちが誰れでもこの言葉を知っているのだから、えらいものだな。だが、おれには、どうもたいくつ至極の言葉だ。わかっているよ。顔を見るなりこう言ってやりたい。酒を飲む、女遊びにおぼれるのがなぜ悪い? その「不倶戴天の仇」をいつか討てばいいのだろう? それまではおれのからだだ。神主だって女房を持って悪いことはないのと同じことで、おれが何をしようが、このからだが、どんなに白粉《おしろい》くさくなろうが、ひと風呂さあッとあびれば、きれいに汚れが落ちることじゃないか? おせっかいはよしたまえ。余計なことは心配しないで君も一つ、小いろでもこしらえるのだ。野暮《やぼ》という奴だろう。
夕霧は、くたびれたと見え、そっと膝を動かして、女に煙管を取らせた。
「まだか?」
こういって亭主に催促したのは江戸から来た柳沢の隠密相沢新之助だった。例の岩瀬勘解由と、先刻から升屋の、すこし離れた座敷にあがって、赤穂の大石内蔵助どのに会いたいと亭主を通じて申し入れてあったのである。内蔵助はひどく酔って寝ているから、またのことにして頂きたいというのが亭主のもたらした返事であった。二人は、どうせ用のないからだだしお目覚めになるのを待っていたいからよろしく頼むといっていた。
酒がいいし、女が美しい京である。それも狙《ねら》う相手の大石内蔵助が家をあけて遊里《ゆうり》にいりびたっているので、二人も自然と、この世界へ入ることになった。
「役得《やくとく》だぜ」と新之助はいって、連れの岩瀬を苦笑させていた。
二人は、伏見の撞木町《しゆもくまち》、島原と内蔵助の遊んで歩くところを遊びまわって、それとなく鋭く偵察した。内蔵助がどんな遊び方をしているかも、幇間《たいこ》末社《まつしや》の噂から手に取るように知ることが出来た。うき様、うき大尽《だいじん》といえば京の廓で知らぬ者はない。沙汰の限りの遊びざまであった。もとよりこれは世間の目を欺くための遊びであろう。二人が特に目をつけたのは、内蔵助と、もとの浅野の浪人達との交通であった。内蔵助の本心を突きとめる鍵は、たしかに、この点にあるものと見なければならなかった。
しかし、京へ来てから日はまだ浅いが、二人が極力さぐったところでは、案外なくらいに内蔵助と浪人達との交通が稀薄になっているのだった。
特に会合を催すような様子も見えない。訪ねてくる者があっても極くおだやかに碁《ご》でも打つか、茶でもたてて、くつろいだ時間を過して別れるだけで、まったく閑地《かんち》にある浪人同士の交際としか見えないのである。それも、伏見や京にいる少数の人々に限ったことで、遠方の同志とは交通すらないように見えた。
「どういうのだろう」
「わからんね。しかし、おいおいわかるだろうさ。それにつけてもこれまでのように遠巻きにしてばかりいては、いつまでたっても同じだろうから、ひとつ、そろそろ当人にぶつかって見ようか?」
この相談があって二人は、今夜、面会を求めたのだった。
「どういうンだ。もう、朝まで、このまま寝てしまうつもりじゃないか? 亭主、もう一度行って話してみてくれ」
「さあ、あのお方様のことで御座りまするから……」
「だが、折角われわれ両人が高名の大石どのにお目にかかりたくて、まいったことでもあれば、そこは亭主、なんとか、うまく取り次いでくれ。いや、待てというなら朝までも待つがな……」
岩瀬は、流石|老巧《ろうこう》に、やんわりと説いた。
そこへ、廊下の外に、女の声で、
「あれ、うき様、おあぶのう御座ります」というのが聞えた。
岩瀬と相沢は顔を見合せた。
「あぶない……はははは、はは……」
内蔵助だ。
「お客さまは、どちらじゃ? 六兵衛、案内、あなアい」
まるで太鼓でも入りそうな陽気な調子を、相沢は、にやりとつめたく笑って聞きながら、居ずまいをただした。
障子をあけて入って来た男は、中年の商家の隠居とも見える福々しい相をしていた。とろんとしてなかば眠っているような目の色に、量をすごした酒の酔いが、それとすぐわかるのだった。
「これは……」
岩瀬と相沢が、しとねをすべらせて、挨拶しようとすると、
「あ、いや、いや……」
泳ぐような手付でとめた。
「われ等ことは……」
「これ、これ。われ等ことはか……いや、お堅い、お堅い。お名前、承わらずとも内蔵助とくに存じおります」
膝にささえていた手がすべる。がっくりと前へうっ伏しそうになって、
「あは、はは、はは……」と驚くような高声をあげて、笑い出した。
名乗らずとも知っているといわれて、相沢も岩瀬もちょっと、はっと思ったところだった。思わず心をいましめる緊張し切った空気を、内蔵助は、何がそんなにおかしいのか、その途方もない馬鹿笑いでさんざんに掻き廻していた。相沢も岩瀬も何がなんだかわからずに、妙な不安に襲われながら、相手の顔色を見詰めていた。知っていることは、こちらの素姓《すじよう》をか? 相沢は若いだけにけわしい目の色にならずにはいられない。
しかし、当の相手はからくも身を起して、再び今にも倒れそうにふらふらしながら、目をつぶってうとうとしている模様である。
真実、酔っているのだろうか?
老巧の岩瀬は、わざとにやにやしながらじっと注意深い目をはなさず、煙管をさぐって、口へ持って行きかけると、突然、相沢が吐き出すように、
「無礼な!」と立ち上りそうな気勢を見せたので、
「おっと……おっと……酔って眠っていられる方をわざと起したのはわれ等が悪い。場所もあろう。貴公も野暮だな」
「野暮、誰れが野暮だ?……」
内蔵助は、目をつぶったまま大きな声で、こういって出ている。
「早野《はやの》、近松、ささ、杯はどうした? 早う、くれぬか……」
早野、近松……これは誰れか、ほかの者と人違いしているのだろうか? いやいやいくら酒に酔っても……酔ったふりをしてごまかすとしても、余りにそらぞらしいことだ。
相沢はだまっていたが、岩瀬は早速、
「これはこれはまことに慮外《りよがい》。――だが、大石どの、今夜は大分に酔っていられる御様子だが……みごと、お受け下さるかな?」
「仰せまでもない。討死したなりゃ骨は|てきめ《ヽヽヽ》が拾ってくれましょうて」と、からから、笑った。
杯を受ける内蔵助の手は、ひどく、ふたしかだった。酌《しやく》に立った女童《おんなわらべ》は、亭主の目くばせを見て、加減して注いだ。それと見て岩瀬は、これは人を払って、飲みつぶさせてやろうと急に思っていた。
注《さ》す、注される。
内蔵助は半分眠って、意識は朦朧《もうろう》としていたのだが、手だけは頻《しき》りと動かして二人の相手になっていた。ふと気がついて、相手の顔を見る。これは、まったく知らぬ顔だという顔になった。内蔵助は、実際二人が、早野、近松の両人と信じていたのらしい。
「ほう……」
相沢と岩瀬は、内蔵助が、不思議そうにしてこちらの顔を、とろんとした目で、一人ずつ穴のあくほど見詰めているのを見た。
「これは……」と、立ちかけて、よろよろと崩れて片手を突いた。
「とんだ慮外。座敷を間違えたような……とんでもない。こ、これは酔っている……」
「あ、いや」
また立ちかける内蔵助を、岩瀬が呼び止めた。岩瀬も相沢も、まだ狐につままれたような心持ながら初めて内蔵助が真実酔っていたのかと気がついたのである。
「お目にかかるのは初めてながら……これは、まったくの他人では御座らぬ。赤穂の太夫がおいでと承って、かねがね存じ寄るところもあり、またなき機会と思い、先刻亭主に話し入れ、こちらへお招きいたしたわれ等で御座る。慮外の、無礼のとは御無用の沙汰じゃ」
「ふうむ」
まだ怪訝らしい、熟柿《じゆくし》のにおう太い息であったが、
「いや、それは……かさねがさねとんでもないところを……初めてお目にかかる方々に御覧に入れた。いや、痛み入る。痛み入ります。御挨拶は明日のこと。酔いどれのことで御座る。見苦しきことは、ひらに御容赦《ごようしや》」
前に、後に、ふらふらとからだを動かしながら、助けを呼ぼうとして、酔眼で左右を見廻す様子だ。
(逃げるな?)
相沢が、こう考えていると、岩瀬もそれと見たらしい。
「あ、いや……これは大分お酔いなされている様子だ。したが御介抱のことはわれわれ両人でつかまつる。これ、大石どの、かねてから御高名を慕うわれわれ両人で御座る。ここは、左様な御斟酌《ごしんしやく》はぬきで……御気楽におくつろぎ願いたいのだ。申し遅れましたが拙者は作州津山《さくしゆうつやま》の藩にて小田切藤十郎、これなるは……」
「そ、それも、明日。いま承ったところで、どなたが、どなたやら、なんで覚えられましょうや。いやはやまことに見苦しきところをお目にかけ赧顔《たんがん》の至り、あ、これこれ亭主、誰かおらぬか……失礼御免、七日七夜の酒で御座るわ。はははははは……」
「…………」
流石に、これ以上はとめかねた。いまいましくもあり、あきれもして、無言で見ている間に、今の内蔵助の声を聞いて廊下を大勢が小走りに来るし、立とうとした内蔵助は、今度はくたくたと崩れてしまったきりで、やがて幇間《たいこ》や末社《まつしや》に抱き起されるまで、顔もあげようとしないのだった。
抱き起されると、腕も肩も骨がなくなったように、ずるずると他愛なくずっこけた。一同は大騒ぎをして兎に角、手を取り足を取って廊下へ運び出して行っている。
岩瀬も相沢も、役目を忘れて、思わずにがにがしい顔付になっていたが、廊下の騒ぎの遠ざかるのを聞いて、じろりと、お互の心持をさぐりあうようなすごい目付を見合せた。
「わからぬ」と、岩瀬が、まず吐き出すように呟いて、むずかしい顔付を極端に険しくした。
あくる日も、最早|午《ひる》に近い日が、一目にさやけく秋を感じられる色合の空に、五重の塔の形をくっきりと浮き上らせている清水《きよみず》の舞台の下で、相沢と岩瀬は、島原から連れて出た茶屋の若者久兵衛というのを供に、茶屋の床几《しようぎ》へ腰掛けて、頻《しき》りと杯を挙げていた。
「いつも、あんなに、だらしなく酔っているのか?」
相沢が、こういったのは、内蔵助の話が出たときだった。
「左様で御座いますよ。あんな御機嫌のいい御酒は、まず、御座いませぬな。へい、まことの太平楽、結構なことで御座います」
「結構……だわい」
相沢は肩をあげた。
久兵衛も笑って、
「仰有《おつしや》ることが面白いじゃ御座いませんか? 酒をのむならおれのように底抜けに酔わねば嘘じゃ。酔っている間は浮世の苦労も忘れ天下に恐れるものが何もなくなる。これが極楽じゃ……と、お口癖で御座います。召し上っていらっしゃるところを拝見いたしましても、まことにお嬉しそうで御座いますな」
これを聞いて岩瀬も相沢も変にだまり込んでいた。
音羽《おとわ》の滝の落ちる音が、木立の間から、森《しん》と聞えていた。石段には、明るく澄んだ日を浴びて、鳩がたわむれている。夏の涼み客の賑《にぎわ》いが過ぎて、秋のおのぼりさん達が出る頃までにはまだ少し間のある時節で、舞台に人影がちらほら動いているだけで境内はさびしいくらいであった。
といって、宿酔《ふつかよい》の頭に、このひろびろとして妙に明るい景色が変にしらけて写って、二人に沈黙を強いていたわけではない。廓《くるわ》育ちでどこか狡猾《こうかつ》で強欲そうに見える若者から、なんとかしていい手掛かりを得たいとあせっていながら、若者の話がどれも自分達が望んでいることとは反対なことになるので、多少いらいらしたような気持になっているのだった。
「もっと遠慮なく飲んでくれ」
岩瀬は、とって付けたような調子でいってからわざわざ銚子《ちようし》を取って酌《しやく》をしてやった。
「とにかく……面白い方だ。私もまた昨夜の対面ですっかりほれ込んでしまったよ。一国の家老をしていた人で、あれだけの粋人《すいじん》はまず以てあるまいな。珍しい人物だ。殊に、それぞれ世間の噂では御主人の仇を討とうと志していられるということだが、それがまことなら忠義の道はそれとして立て、遊びの道は遊びの道としてちゃんと別に仕分ける。こりゃア並の人間には出来ないことだ。なア、そうとは思わぬか?」
「左様さ。私なら、どちらか一方だけだな。両刀づかいは骨だろう」と、相沢はうまく合せて、
「尊公《そんこう》なら、どちらをやる?」
「まず、仇のことだけを考えて暮すな」
「はは、うまく、そう行くかな。が、また実際のところ、それが一番難のない話だろうな。敵も討つ遊びも底抜けにやる。こりゃア難しいことだ。現に私の昨夜睨んだだけでも、大石どのは底抜けに溺れているようで、やはり、心《しん》はしっかりしたものだ。あれだけの人物になると、どんなに溺れても、いざとなれば踏み止まるだけのくぎりをちゃんとつけているものだ。いや、そいつが、よくわかるて。……酔っているように見えて、決して心まで酔っているわけじゃないのだ」
「私はそうは思わない。たとえば昨夜の様子でも、若《も》し私達が敵側から様子をさぐりに入った間者《かんじや》で異心を持っていたら、一刺《ひとさ》しに刺し殺せぬことはなかったぞ。敵を討つ覚悟なら、あの油断はない筈だ」
「違う、違う! あれでいて、いざとなればきりっと正気に戻るのさ。どうだ、お前は、どちらに味方する。大石どのの本心と思われるものを拝見したことはないか?」
「へえ……」と、若者は、どっちつかずの顔でにやにやした。
「左様で御座いますねえ……一度こんなことをおっしゃったことが御座いました。どこの御浪人様で御座いましたか、やはり宅へおあがり遊ばしまして、大石様に是非ともお目にかかりたいとおっしゃって、お会いなされた時のことで御座いました」
「ほう」
二人は、急に熱心になったのだが、そこへすこし前に静かに石段を降りて来た若い立派な武士が、この茶店へぬっと入って来て、直ぐかたわらの床几《しようぎ》へ腰をおろしたのだ。これは二人にとっては、ひどく都合の悪いことだったし、またこの武士の素姓《すじよう》を知ったら余計狼狽したことに違いない。姿はがらりと変っていても、これは赤穂開城の折城下のやみに出没して、上杉の隠密たちを散々に悩ました不思議な乞食の変った姿であった。
それとは知らなくとも、
「うう」と岩瀬は顎をしゃくった。
「そりゃアそうと、ううむ、もう、なン刻《どき》ごろであろう。そろそろ屋敷へ帰らずばなるまい。出掛けようかな。……あ、これこれ、女房、勘定をたのむぞ」
急に話の腰を折られた若者は、何だかわけがわからず、岩瀬や相沢の様子をきょろきょろ見ているのである。武士は立って、遠くにあった煙草盆をひき寄せながら、目の隅でこの様子を見た。
その晩、祇園《ぎおん》を出た辻駕籠《つじかご》が京の町を外《はず》れ、にわかに月のいいことを感じるさびしい千本通りへかかった時、大分前からこれに影のように従って来た一人の武士が、前後を見わたして人通りがないのを見ると、急に足をはやめて、つかつかと駕籠に追いついて来た。
「おい」と呼び止める。
何気なく駕籠屋が振り返ると、頭巾《ずきん》を眉深《まぶか》くかぶった大きな武士で、急にきらりと白刄が光った。駕籠は、投げ出されたように地についた。
夢中で、駕籠屋は逃げている。
「お、おいおい、おい……」
駕籠の中から驚いて呶鳴《どな》ったのは、今朝相沢と岩瀬に連れられて出て、清水から祇園へまわった升屋《ますや》の若い衆久兵衛だった。
「ら、乱暴なことをしては困るぜ、ひとが折角いい心持になって、うとうとしているところを……首が……あ!」
言葉なかばに、垂れをすかして見て、外の月に明るい路の上に、駕籠に寄り添って白刄を光らせて立っている大男の姿が目に入っていたのである。
「うわあッ……」と、思わず叫んだのに、
「騒ぐな」と、かぶせた。
「命をとろうとはいわぬ。有金がほしいというのでない。話がある。これへ出ろ」
「いえ、いえ……お、お助け、お助け……お人違いで御座りまする。て、手前は升屋の久兵衛と申します……」
「その久兵衛なればこそ、話があるといっているのだ」
頭巾の蔭で大きな目が笑って、刀身《とうしん》を静かに鞘《さや》におさめながら、
「これならばよかろう。さあ、出てまいれ」
「へえ、しかし……」
「心配ないと申すに。殺すつもりならば駕籠の上からずぶりとやる方がやりいいのだ。……さ、出ろ」
「…………」
恐る恐る、久兵衛ははい出して来て、地面に蹲《うずくま》った。頭巾の蔭に光っている二つの目が、相変らず笑いながら、この様子を見ていた。
「別の話ではない。今夜、祇園でどんなことをたのまれて来た? と、いうのだ」
至極おだやかな口調であったが、久兵衛は、どぎどぎした匕首《あいくち》の刃のように鋭いものを感じて、口がきけなかった。
「それ、今朝清水の茶屋へ貴様を連れて行った二人の客が、あれから祇園へ連れ込んで酒の間に話したことがあるだろう。それを隠さず申せというのだ」
「それは……」
「誰にもいうな……といわれて来たろう。それも承知で、訊く」
何もかも、見とおしらしく見えた。
久兵衛は、慄《ふる》え声で今夜の二人の客と話したことを吐き出した。久兵衛の見たところでは二人の客は一方ならず大石様の肩を持っているらしく、久兵衛の知っている限りの内蔵助の遊び振りを話せというので、それを申し上げた。……お客様は、大石様が誰か連れて来ることがあるか? また、外から手紙を届けて来ることがあるか? その時すぐ見ないで、人に隠すようにして見ることはないか? などと、いろいろこまかくお尋ねになった――というのである。
「ふむ」
武士は満足らしく見えたが、
「それから……貴様がたのまれたことがあるだろう」
「へい……」と、もじもじした。
「いえ」と、武士は烈しくいって、左手で刀を握って見せた。
「は、はい……われわれは大石どののお味方じゃ。あちらが酒色《しゆしよく》に溺れて武士のつとめをお忘れになるようなことのなきよう他所《よそ》ながら怠らず見ていたいのだからとおっしゃいまして、そのことで手前にも色々やってもらいたいことがあるだろうから味方をしろと……そ、それだけで御座ります……」
「金をくれた筈だぞ」
「は、はい……申し訳御座りませぬ」
「何もおれにあやまることはないだろう。おれだって貴様に金をやろうと思っているのだ」
武士の言葉はまことに意外なものだった。
「…………」
「ただでやるわけではない。たのみがある。……これから先あの二人が何かお主《ぬし》にたのんで来たらそれをそっと私に知らせてもらいたい。先方への返事は一々私が教えてやろうというのだ」
おかしい。どうも妙な晩だ……と思いながら久兵衛はぽかんとして相手の顔を見上げるのだった。
武士は相変らず笑っていた。
「こちら様は?」
「おれか……いや、おれだって大石どののお味方だが……その、武士のつとめというやつを出来るだけ忘れさせて差し上げたく思っているだけ、違う」
これだけでは、久兵衛には、相手の心持がわからなかった。しかし、何にせよ、金になるのはいいことだとは、そもそもの初めから知っているのだ。
「とおっしゃいますと……」と熱心だった。
この作品は昭和三十九年一月新潮文庫版が刊行された。