邪教の都
アルス・マグナ4 大いなる秘法
千葉暁&伸童舎チームA.M.
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)千葉《ちば》 暁《さとし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|愛し子《ヨシュア》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)体験させた[#「体験させた」に丸傍点]
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〈カバー〉
千葉《ちば》 暁《さとし》
●略歴=一九六〇年一月五日、東京都に生まれる。山羊座。血液型B。法政大学中退。雑誌編集ディレクター、ゲーム・デザイナーなどを経て、「聖刻1092 旋風の狩猟機」(朝日ソノラマ刊)で作家デビュー。女性読者獲得の願いを秘めて、「アルス・マグナ」に挑む。
邪教の都
アルス・マグナ4 大いなる秘法
南の僻地で、両極の運命を担う双生児はついに対峙した。救世主として崇められてきたグラシアが、生まれたときから魔王として幽閉されてきたヨシュアを倒すという。しかし、かつては〈混沌の庭〉の道士《アデプト》であった二人の父、白獅子アダモは「運命は決《けっ》していない」と二人の対決を止めようとする。
|愛し子《ヨシュア》をめぐる彼らの話をほとんど理解できないアイラは、怒り狂った。それを見たグラシアは、ガルーとティアを転移させて呼び寄せると彼らに『真実』を体験させた[#「体験させた」に丸傍点]――。
ヨシュアとグラシア、世界の趨勢《すうせい》を握る双生児の対決は避けられないのか!? 待望の第四弾。
[#改ページ]
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邪教の都
アルスマグナ4 大いなる秘法
[#地付き]千葉暁&伸童舎チームA.M.
[#地から1字上げ]角川文庫
目次
第一章 伝承――カバラ
第二章 仮面――ペルソナ
第三章 地下水道
あとがき
企画・原案 千葉暁&伸童舎チームA.M.
・
構成・文 千葉暁
構成協力 千葉悦子
地図作図・小道具設定 シイバケンジ
ロゴ・本文デザイン しいばみつお
制作進行 清水章一
プロデューサー 野崎欣宏
――――――――――――
キャラクターデザイン
口絵・本文イラスト 小林智美
[#改ページ]
[#挿絵(img/04_005.jpg)入る]
序
『MU《ムウ》』
●
西暦一九三一年、ニューヨークにて『失われたムー大陸』と題する本が出版された。空前のベストセラーとなり、世界に超古代研究ブームを引きおこした一冊である。
著者は元イギリス陸軍士官ジェームズ・チャーチワード。彼は駐在仕官としてインドに赴いた際、とある古僧院の倉庫から古い粘土板を発見した。解読の末、それがかつて太平洋上に存在した伝説の大陸〈MU〉から渡ってきた伝道師(ナーカル)が、当時植民都市であったインドに伝えた碑文板『聖なる霊感の書』の一部であることをつきとめた。退役後、チャーチワードは世界各地の遺跡や神話、伝承、古写本を調査し、全世界に版図を広げた巨大文明圏〈MU〉の実在を確信するに至った――という。
チャーチワードは『失われたムー大陸』を始めとする一連の著作で、今から一万二〇〇〇年前、突然の地殻変動によって太平洋の海に没した巨大大陸〈MU〉の姿を鮮明に描写している。
彼の考えでは、〈MU〉は東西八〇〇〇キロ、南北五〇〇〇キロに亙《わた》る広大な大陸で、太平洋の面積の半分を占めていた、という。その論拠として、ミクロネシアやポリネシアといった太平洋に点在する島々で発見された遺跡群をあげている。これらの島々は沈まずに残った大陸の一部であった、と主張している。
中でも興味深い点は、中米の古代マヤやオリエント、インドといった有史以後の古代文明を調べ、神話や文字、記号の共通点から、これらの文明がすべて〈MU〉を祖とする植民地であった、と大胆な仮説を打ちたてたことだ。その中には大西洋に沈んだ伝説の大陸アトランティスや日本も含まれている。
さらに前述の『聖なる霊感の書』は、〈MU〉の宗教的教義と科学を、植民地に流布する目的で作られたもので、歪《ゆが》められた形にしろ、今日我々が知る世界規模の宗教にも受け継がれている、という。また〈MU〉の超科学――〈冷磁力〉(宇宙力の一種)についても言及されており、その力によって現代人の目には奇跡にしか映らないようなこともできた、と述べている。
●
この大胆にして壮大な仮説は、当然のごとく学会から無視同然の扱いを受けた。重要な証拠となるナーカル碑文が、僧院側が拒否したという理由で、公開はおろか僧院の所在地さえ明らかにされていない。また補足に用いた古代マヤの『トロアノ古写本』にしても、翻訳そのものに信が置かれていなかった。つまり検証に値する証拠を欠くどころか、それ以前の法螺話《ほらばなし》と判断されたのだ。
加えるに、近年の地球物理学の発展や海底調査から、太平洋上にチャーチワードが主張するような巨大大陸は存在しなかったことが明らかになっている。また太平洋上の島々に残る遺跡にしても、放射線炭素測定法による調査で、一〇〇〇年を超えるものではない、と結論されている。
●
このようにチャーチワードの説は根底から覆された。
だが、彼の説が否定されたからといって、〈MU〉の存在そのものが否定されたわけではない。チャーチワードが〈MU〉の遺跡だと主張する巨石像(モアイ)にしても、誰が、いつ、どのような目的で作ったものなのか、現代の学者はその謎《なぞ》に応えることができないのだ……。
[#改ページ]
【第一章 伝承――カバラ】
1
大理石の列柱に囲まれた広間に、七人の男女が向かいあっていた。
外は熱帯植物が生い茂る美しい庭園だ。木には果実がたわわに実り、極彩色の蝶《ちょう》が舞う。澄みきった蒼《あお》い空には雲ひとつなく、強烈な日差しが白い蓮《はす》の花が咲き乱れる池の水面《みなも》を輝かせていた。
ここはムウの聖都ヒラプニラ――
時を遡《さかのぼ》ること一万二〇〇〇年、かつて太平洋上に存在したと伝えられる巨大文明の中心地である。
霊峰ヒラプニラ山の麓《ふもと》に広がる湖沼地帯に、大小五〇余りの島が点在する。どの島にも必ず石造りの神殿が設けられ、薄布を腰に巻く陽《ひ》に焼けた人々――ミューロア(ムウ)人が住んでいた。家はどれも小さく、未舗装の道を仔牛《こうし》ほどの犬に引かれた犬車《けんしゃ》が行き交いする。一見すると文化水準は低く映るが、空に目を転じてみれば、舟の形をした飛翔艇《スポエグ》の群れが鳥よりも速く飛んでいる。そしてなによりも飢えた人々の姿がなく、誰もが明るい顔をしていた。
最も大きな島が聖都ヒラプニラの中心である。ここには太陽神《ラア》を祭る白亜の大神殿を始めとして「透明神殿」なる名で後世に伝わる天井のない大礼拝堂の他、数々の神殿、僧院が立ちならぶ。聖都は〈天帝〉と称されるムウの皇帝が、直接統治する宗教都市であり、全ミューロア人の信仰を集める聖地であった。
この広間に集う者は、皇帝を補佐する司祭たちだ。政教一致体制のムウでは最高指導者層といえる。普段はオエニク、アイアス、ファラの三国に散らばり、それぞれの地の統治にあたっている。彼らが一堂に会する時――それは国運に関わる重大な問題を論じる場合だけだった。
禿頭《とくとう》の司祭たちは車座になって、輝く水晶珠《すいしょうだま》をじっと見入っていた。珠から発せられる複雑なパターンの光彩になにか意味があるようだ。
さわさわという葉ずれの音と共に心地好い風が広間を吹きぬける。しかしながら、彼らに風に耳を傾ける余裕はなかった。そう、黒髪を肩まで垂らしたひとりの青年を除いては……。
不意に水晶珠の輝きが跡切《とぎ》れた。
司祭たちは目をしばたたかせ、それからお互い顔を見あわせる。先程《さきほど》までの張り詰めた緊張感が消えて、安堵《あんど》の空気が漂う。
「これが今度の[#「今度の」に丸傍点]〈救世主《メサイア》〉かね」
老司祭が長い耳たぶを弄《もてあそ》びながらいった。聖都にある二大神殿のひとつ、太陽《ラア》神殿を司《つかさど》るイム・トブレ祭司長だ。居並ぶ七人の司祭の中で最も位が高いとされる。
「は、はあ……」
ムウ伝道会の長、マウ・マオピは狼狽《ろうばい》を隠せない。
代わって大学都市ロウエンの司祭、グア・バルデビが発言する。ムウ最高の頭脳と謳《うた》われる人物だ。この国の学問研究は彼の指導の許《もと》に行なわれている。
「体組織、骨格、脳波……あらゆる点で検査結果は異常なしとしている。遺伝子にも操作の痕跡《こんせき》は見当たらず、マギ値も一般人並み……どのような理由で伝道会がこの少年を被疑者としたのか、理解に苦しみますな」
伝道会の長はぎょっとして、
「どっ、どのように弁明したものか。実を申しますと、わたくしも調査結果を見るのはこれが初めてでございまして……」
老司祭が煩《わずら》わしげに手を振り、相手の口を封じる。マオピは平伏した格好で、ちらりと斜め後ろに控える青年――車座から外れた、いわば八人目の人物――に憎しみのこもった目線を向ける。司祭らが水晶珠に見入っている間、ひとり門外漢とでもいいたげに列柱の向こうに見える庭園を眺めていた青年だ。
青年は肝《きも》が据わっているというべきか、睨《にら》まれたからといって目を逸《そら》しもしなければ、身を竦《すく》めたりもしない。それどころか涼しげな顔で微笑《ほほえ》みを返したほどだ。
マオピの顔が見る間に紅潮する。場所が場所でなければ掴《つか》みかかっていたかもしれない。二〇〇〇人もの派遣僧を抱える伝道会の長といっても、本国の、それも名高い司祭たちと比べれば明らかに格が下だ。彼らの前で醜態を演じるわけにはいかなかった。
青年の名をグリフィンという。ムウの植民地で原住民の教化を行なう〈伝道師《ナーカル》〉という肩書きを持つ――が、その正体はエルマナの地を探索する間諜《かんちょう》だ。
伝道師の姿を借りた間諜は他にも大勢いるが、彼ほどの凄腕《すごうで》はふたりといない。居並ぶ七人の司祭全員が認めるところだ。
そのグリフィンに向かって、トブレ祭司長が直接声をかける。
「きみほどの者が、禁を破ってまで接触した人物だ。今度こそ本物かと思っていたぞ」
「申しわけありません」
さすがの彼も今度は神妙に頭《こうべ》を垂れた。
「勘違いをしないで欲しい。責めているのではないのだ。誤った報告をした伝道師をいちいち処罰していたら、とうの昔に伝道会から人がいなくなっておる。なあ、そうであろう」
「は、はあ……さようで」
伝道会の長は身の置きどころがないようだ。
トブレは再びグリフィンに面《おもて》を向ける。
「――が、今回の行動にはなにやら不審なものを覚えるな。もちろんムウに対する忠誠心をいささかなりとも疑ってはおらぬよ。なにしろきみは逆らいたくとも逆らえない身であるからな。のう、兄弟バルデビ……」
「確かに……」
ふたりの司祭は含み笑いを交わす。
「説明してもらおう――なぜ少年を含む四人のエルマナ人を鳥舟《ふね》に乗せたのか。さらには、なぜ彼らを乗せて〈大深淵《だいしんえん》〉に向かったのか――を」
エルマナに派遣された鳥舟の行動は、常に本国の監視下に置かれている。特に登録された乗員以外が出入りした場合、船内の警報器が即刻本国に通報するようになっている。グリフィンはヨシュアたちを乗せた瞬間より、今日のこの時を覚悟していた。
「精密検査を施すためです。肉体及び精神に人為的な操作が加わっているかどうか、それを調べるためには鳥舟に乗船させる必要がありました。第二の点も同じ理由です。検査器《ウィク・ラ》に現われた数値だけでは不足と考え、彼《か》の地に連れていきました。少年が救世主であるならば、必ず〈穴〉は通常とは異なる反応を示すはずです」
バルデビが身を乗り出す。
「興味深い話だ。確かに〈大深淵〉との間に因果関係が確認できたとすれば、大きな証明材料となる。しかし先程の報告にはその部分が抜けていたが」
「残念ながら放電現象が激しく、途中で観測機器が壊れました。不完全な資料を提出するわけにはまいりません」
「自分の目があるだろう。きみは何度となく、あの地に赴いたはずだ」
黒髪の伝道師はわずかに逡巡《しゅんじゅん》を示した。
「あえて私見を申し上げるならば……〈穴〉から『怒り』を感じました」
バルデビは眉《まゆ》をひそめる。
「怒り?……鳥舟《ふね》を襲った放電現象のことか」
「いえ、観測機器に現われるような具体的現象ではありません。そう感じただけです」
「直感というやつかね。間諜《かんちょう》が使う言葉とは思えんな」
「…………」
「よいではないか。無理に喋《しゃべ》らせたのはきみだぞ。それに、わたしの話はまだ終わっていない」
トブレの命に、バルデビは大人しく従う。
「〈グリフィン〉よ、先程の供述が事実ならば、きみは罪を問われることになる。それは承知しているな」
「はっ……」
グリフィンは恭《うやうや》しく頭を下げた。
「きみに授けた使命は、エルマナで密《ひそ》かに進行する計画の実体を掴《つか》むことだ。救世主探しは他の者の仕事ではないかね。むろんきみには現地において独自の判断を下す裁量権が――それも通常の伝道師よりはるかに幅広い権限が――委《ゆだ》ねられている。しかしそれにも限度がある。きみは現地人同士の争いに間接的にしろ関与し、あまつさえ四人の現地人を重要機密である鳥舟に乗船させた。これは重大な越権行為といわねばなるまい」
そこでトブレは語調を和らげ、
「哀れな子どもを見殺しにできなかった――きみの心情は理解する。が、情実によって法を曲げるわけにはいかぬ。兄弟マオピ、伝道会はいかなる罰を与えるか」
「称号|剥奪《はくだつ》、五年以下の神殿奉仕、ならびに一年の沈黙行が相応《ふさわ》しいかと」
伝道会の長は淡々と述べた。声に喜びが滲《にじ》まないよう注意した。
トブレ祭司長の口許《くちもと》に皮肉っぽい笑みがのぼる。
「奉仕や苦行はともかく、称号の剥奪は厳しすぎるのではないかね」
「伝道師として最も許されざる行ないは傲慢《ごうまん》です。今回の一件は、彼の心に芽生えた慢心が招いた結果と考えますが」
トブレは黙ってうなずくと、マオピの後ろで平伏するグリフィンに目を移す。
「潔く罰を受け入れるかね。きみのように極めて優秀な間諜《かんちょう》を失うことは、我らにとっても大きな損失となるのだが……」
グリフィンがゆっくりと頭《こうべ》を起こした。ほつれた黒髪が目の前にかかる。
「……仕方ありませんな」
ため息をつくように呟《つぶや》くと懐《ふところ》から輝く円盤を出した。
「もう少し証拠を掴《つか》んでから報告しようと思っていたのですが……」
老司祭は満足そうな笑みを浮かべる。グリフィンほどの間諜が、理由もなく禁を破るとは思っていなかった。まして情実に流され判断を誤るなど到底考えられない。
車座の中央に進みでたグリフィンは、床下からせり上がってきた水晶珠《すいしょうだま》の基部に輝く円盤を挿入した。
水晶に光がともり、複雑な瞬きが起きる。同時に全員の眼前に黒斑《くろぶち》の犬《ガウ》が出現する。これは輝く円盤に記録された映像だ。水晶珠から放射された光線が、目の網膜に像を結ぶからくりになっている。
「ムウで収録したものか」
と、トブレが呟く。黒斑の犬は仔牛《こうし》ほどもある大型種で、ムウ固有の家畜である。進んだ文明を持つにいたった現在でも、農耕の役畜や乗用として幅広く使われている。
背景は隙間《すきま》のない石板だ。どうやら密閉された石室《いしむろ》に閉じこめられているらしい。扉が開き、グリフィンが姿を見せる。犬は長い舌を垂らし棒状の尻尾《しっぽ》を振って擦りよる。恐ろしげな面構えだが、意外と気性は穏やかなようだ。
グリフィンは顎《あご》の下を掻《か》いて犬を床にしゃがませると、袖《そで》から注射器を取りだす。中には赤い液体が入っていた。
「――あれはなにかね。血か?」
バルデビの問いかけに黒髪の伝道師は応《こた》えない。
映像のグリフィンが犬の背筋に注射器の針を刺す。ゆっくりと赤い液体が犬の体内に注入される。犬は人間を信頼しているのか、暴れもせず喉《のど》を鳴らし続けた。
尻尾が力なく垂れた。見れば犬の目のまわりが厚ぼったい。呼吸も忙《せわ》しなくなってきたようだ。映像のグリフィンは優しく犬の頭を撫《な》でながらなにかを告げた。音声はない。だが撮影装置は唇の動きを捉《とら》えていた。
『ごめんよ』――と読めた。
撮影装置の枠外にグリフィンが移動した。石室を出たのだろう。
犬の具合は悪化の一途をたどる。巨体を横にして忙しない呼吸を続けた。目は濁りなにも見えてはいないだろう。犬の苦悶《くもん》が映像を見る者に伝わってくる。七人の司祭全員が胃に焼けるような思いを味わっていることだろう。
四肢に痙攣《けいれん》が走る。それが最後だった。呼吸が途絶えて、犬はピクリとも動かなくなった。
広間がざわめく。一同が強い不快感を覚えているのは間違いない。
「……なんの真似《まね》かね」
トブレは圧《お》し殺した声でいった。司祭全員の刺すような視線が黒髪の伝道師に集中する。
「――問題は、この後です」
グリフィンは感情のない冷淡な顔で告げた。
「なんだと?」
司祭全員の顔が水晶珠《すいしょうだま》に向いた。
戦慄《せんりつ》の光景が網膜に焼きつく。
いつの間にか死んだはずの犬が起きあがっていた。その目は赤く染まり、見るからに狂暴な光を宿している。
犬が壁に向かって突進した。化け物じみた凄《すさま》じい力だ。一撃で鋼鉄よりも硬《かた》いとされるムウの石板に亀裂《きれつ》が生じる。二度、三度と体当たりを繰り返すたびに映像が大きくブレた。
「こ、これはいったい!――」
司祭たちの顔からすっかり血の気が引いていた。
突然、犬の動きがとまった。ばたりと倒れた犬は床の上で苦しげに身をよじる。背や腹、四肢にいくつも瘤《こぶ》が隆起する。人間の頭大まで膨らんだ時、それは一斉に破裂した。
列柱の広間に悲鳴が響く。
鮮血に染まる石室の中に奇怪な生き物が蠢《うごめ》いていた。哺乳類《ほにゅうるい》、鳥類、爬虫類《はちゅうるい》、魚類――人間が知るありとあらゆる動物の特長を合わせもった複合体《キマイラ》だ。なんと人間の顔にそっくりな部位まで具《そな》えている。
怪物に炎が浴びせかけられた。石室の四隅に備えつけられた火炎放射器が作動したのだ。怪物は紅蓮《ぐれん》の炎の中でのたうち回った。全身が灰になる寸前まで、その動きはとまらなかった。
七人の司祭は水晶珠の輝きが消えても、しばらく口をきくことができず、葦《あし》を編んだ円座の上で荒い息をついていた。同席する女司祭などは吐き気をこらえるのがやっとの様子だ。
「……あ、あれはなんだ。なにが起きたというのだね」
最初に言葉を回復したのは、やはりトブレ祭司長だった。
「遺伝子の暴走現象――と思われます」
と、グリフィンはいった。
優れたムウの科学でも、生物の根幹をなす遺伝子をすべて解明したわけではなかった。働きが立証されているのはほんの一部であり、大半を占める残りの部分は、なんのために存在しているのかもわかっていなかった。
グリフィンは、この部分にあらゆる生物の形質が記憶されており、触媒《しょくばい》を与えたことにより眠っていた遺伝子が一挙に目覚めたのではないか、と語った。
「――もちろん、以上はわたくしの推測に過ぎません」
最後にこういって、グリフィンは言葉を締めくくった。
「注射したあの赤い液体が触媒に当たるわけだな。さあもったいをつけずに、正体を教えてくれたまえ」
「先程ご覧に入れた少年――ヨシュアから採取した血液です」
バルデビの顔色が変わる。
「――ばかなっ! 血液にはなんの異常も認められなかった。いやそればかりか、あらゆる分析値があの〈白子《アルピノ》〉を正常体であることを物語っている。それともなにか、提出された資料が偽物だというのかね」
「いいえ、間違いなくヨシュアを検査した際の資料です。また検査方法にいささかの過ちもなかったと確信しております」
「そんなはずがないっ! ムウの科学はすでに古エルマナ文明を凌駕《りょうが》しておる。あのような現象を引き起こす因子が血液に紛れているならば、必ず発見できるはずだ」
「だから恐ろしい――とは思いませんか。調査を開始して二〇〇年、救世主と思われる被疑者の報告は千件を越えるでしょう。しかし最新検査機器を用いても発見不可能な謎《なぞ》の因子を持つ少年――このような事例が報告されたことが一度でもありましたでしょうか」
バルデビは声を詰まらせた。ムウ最高の学者としての誇りが肯定をためらわせていた。
「なぜ、このように重大な発見を隠していたのかね」
グリフィンを見つめるトブレの目は、聖職者とは思えぬほど険しかった。
「先程も申しあげたように不完全だからです。なぜこのような現象が起きるのか。そもそもあの少年は何者なのか――それをつきとめてから報告するつもりでした。不完全な情報の提出は無用な混乱を招きます。間諜《かんちょう》として避けたかった。こう申すほかはありません」
息詰まるような沈黙が続く。その間、グリフィンは老司祭の目を見据えて微動だにしなかった。
トブレの顔が緩む。
「――職業倫理とやらかね。よかろう。信じようではないか。しかし、今後はこの少年に関する情報は逐次本国に送るように。どのような些細《ささい》なことでも構わぬ」
「トブレさま――」
伝道会のマオピが頓狂《とんきょう》な声をあげる。
「ト、トブレさまは、この男に任務を続けさせるおつもりですか」
「これほどの発見をもたらした者を罰することなどできようか。伝道会としても、できうる限りの支援を行なうのだ」
マオピは返す言葉がなかった。
「お申し出は大変|嬉《うれ》しいのですが……」
と、グリフィンが口を挟む。
「不要と申すか?」
「はい、いたずらに人員を動かせば敵対組織に気どられるかと。叶《かな》うならば、今後もわたくしひとりで行動したく思います。アトランティスも薄々気づき始めたようですので……」
「アトランティスだと! 戦《いくさ》好きの蛮族どもが」
トブレは気色ばんだ声をあげた。
「……わかった。きみの好きなようにするがよかろう。その代わり、絶対に奴らに先を越されてはならぬ」
「はっ……」
即座に立ちあがる。すぐにでもエルマナに舞い戻りそうな気配だ。
「〈グリフィン〉……」
立ち去りかけた間諜をトブレが呼びとめる。
「最後に尋ねたい。あの少年は〈伝承《カバラ》〉が語る救い主か。それとも……」
振りかえったグリフィンの顔に翳《かげ》りが窺《うかが》えた。
「今後の調査で判明することでしょうが……わたくしの直感では、閣下が言い淀《よど》まれた後者であるように思います」
「……そうか。ならば我らも相応の覚悟をせねばなるまいな。きみの活躍に期待しよう」
黒髪の伝道師は列柱の間を抜け、庭園の木洩《こも》れ陽《び》の中に消えた。
その後ろ姿を目で追っていた七人の司祭が向きなおる。
「……あの者、しばらく見ぬうちに雰囲気が変わったの」
と、トブレ祭司長が呟《つぶや》くようにいった。
「左様でございますか? 相変わらずの傍若無人さ。ほとほと手を焼きます」
マオピ伝道会代表が憎々しげに応えた。
「とらえどころのない飄々《ひょうひょう》たる態度はそのままだが、確固たる核のようなものが具《そな》わってきた。兄弟バルデビ、念を押すようだが、異常はなかったのだろうな?」
「はっ……出頭した際に型通りの検査を行ないましたが、なんら問題は」
「正直申しまして、わたくしは今でも賛同しかねますな。あのような者[#「あのような者」に丸傍点]を伝道師として派遣するなど」
マオピは不満を滲《にじ》ませていた。
「仕方あるまい。きみの子飼いの僧たちが、当てにならぬとあっては」
「い、いえ、決してそのようなことは……みなムウの教えを実践する敬虔《けいけん》な神の下僕です。これまで数々の植民地での働きをお忘れになったわけではありますまい」
「功績は認めよう……だがエルマナは例外だ。彼《か》の地に派遣された伝道師の実情を知らぬ者はおらぬよ。退廃にとり憑《つ》かれ、快楽と欲望の虜《とりこ》と化しておる。最早栄えあるムウの僧とはいえぬ。だからグリフィンのような者を送らねばならぬのだ」
「し、しかし――」
「わかっておる。別にきみを責めているのではないのだ。原因は彼の地にある。まさにエルマナは魔性の地。皇帝陛下が未《いま》だ封鎖の禁を解かれぬのも道理よ」
バルデビが身を乗りだす。その顔は真剣そのものだ。
「そうはおっしゃられても、アトランティスめは多数の〈竜船〉を送りこんでおります。先に古エルマナの遺産を奪われでもしたらいかがなさいます」
「それほど遺産とやらが重要かね。先程のきみの言葉と矛盾するが」
「ムウの学問は人と自然の調和を目的とした健全なるもの。その方面ではいささかも劣らぬと自負しております。ですが、こと破壊を目的とした学問――すなわち兵器に関しては遠く及びません」
「ムウは戦をせぬ」
トブレは強い語調でいい切った。
「もちろんです。しかし|蛮族ども《アトランティス》が、古エルマナ文明をひと夜にして滅亡たらしめた謎《なぞ》の破壊兵器を手に入れたらいかがなさいます。奴らがその矛先を我らに向けぬという保証がございますでしょうか」
重苦しい沈黙が立ちこめた。
古エルマナ崩壊後、ムウとアトランティスは競うように各大陸に植民地を広げていた。山岳を好むムウ、海を好むアトランティスと、生活圏の違いから今までは両者が衝突することはなかった。しかしながら、すでに本国より植民地の人口が大幅に上回った現在、近い将来植民地同士での争いは避けられない、と予測されていた。そしてひとたび戦端が開かれれば、互いの本国を巻きこむ大戦争に発展することは間違いない。かねてよりムウは外交による平和的打開策を模索してきたが、強硬な姿勢を崩さないアトランティスが相手では望みは薄かった。
来るべき時を予測して、ムウも兵力を整えていた。戦うためではなく、抑止力としての効果を狙《ねら》ったものだ。アトランティスの戦闘兵器とムウの防御兵器の力は、ほぼ拮抗《きっこう》しており、敵も迂闊《うかつ》に攻めこめないという状況を作りだしていた。
だが、ここでアトランティスに未知の超兵器が渡ったとしたら……ムウの指導者たちはなによりもそれを恐れていた。
「……兄弟バルデビ。きみの意見を聞こう」
老司祭の声音は重かった。
「エルマナの周辺に軍を配置しておくべきと心得ます。異変が生じた場合、すぐさま介入できるように」
「アトランティスを挑発することになるぞ。向こうも手をこまねいて見てはいまい。下手をすれば戦争だ」
「では、このまま黙って見過ごすおつもりですか」
「……わかった。採決に入ろう」
伝道会の代表を除く、六人の司祭が軍の派遣について採決をとった。賛成四、反対一、棄権一。賛成多数で、軍の派遣を上申することになり、ムウ皇帝もそれを認可した。
グリフィンが広間を退出して数時間後――
霊峰ヒラプニラ山の中腹にある巨大な洞窟《どうくつ》から一|隻《せき》の鳥舟が飛び立った。
人面円盤から左右に伸びた翼が、強烈な陽光を受けて煌《きら》めく。伝道師グリフィンが乗る〈黄金の翼〉号である。〈大深淵《だいしんえん》〉で被った傷は跡形もなく消えていた。
グリフィンの船は聖都上空を旋回したのち、針路を南にとる。
果てしなく続く沃野《よくや》。空から眺めるムウの地は楽園そのものだ。
途中、数十隻の鳥舟の群れとすれ違う。どの船体にも太陽を表わす日輪の印が飾られている。アンチボテス(南米)大陸の植民地に向かう飛翔《ひしょう》船団だ。植民開始から二〇〇年を経過しているが、本国の援助なしにやっていけるまでまだ相当の歳月を要するだろう。この植民地の名を〈マヤ〉という。
〈黄金の翼〉号は海上に抜ける直前で高度をとり、厚い雲海の中に隠れた。いかにムウの近海とはいえ、海は宿敵アトランティスの領域だ。どこに監視の目が光っているかわからない。逆に世界中の空がムウの領域といえる。光も届かぬ深海を航行できるアトランティスの竜船も雲の上までは手だしできない。
真っ暗な雲の中を矢のような速度で鳥舟は突きすすむ。
静寂に満ちた船内で、グリフィンは物憂げな表情をしていた。操船は船自身に委《ゆだ》ねている。放っておいても鳥舟はエルマナに着くだろう。
彼の手には使いふるした赤い舞踊靴が握られていた。それも片方だけ。ダスターニャ上空で、別れしなにアイラがくれたものだ。
『もう一度、あたしの踊りが見たいのなら返しにきて』
と、踊り娘《こ》はいった。
燃えあがるような情熱を秘めた女だった。
この靴を見ていると、グリフィンは自分でも不可解な気分になる。当たり前の人間であった頃《ころ》の感情を取り戻せる――そんな気分に。
2
真っ暗な石畳の道を一頭の馬が疾駆する。
手綱を握るのは屈強な男だ。袖《そで》のない外套《がいとう》から覗《のぞ》く腕は太く、鞍《くら》から尻《しり》を浮かせた前かがみの騎乗姿勢で休みなく馬に鞭《むち》を振るう。体にまとう雰囲気からして、衛士あるいは用心棒といった荒事を生業《なりわい》にする人種に違いない。それにしては、いかつい鼻にのった瓶底のような眼鏡《めがね》がそぐわないのだが……。
後ろには十《とお》にも満たぬ少女が乗っている。どちらかといえば、男の首にしがみつく、といったほうが的確だ。綱の一本も巻いてあるわけではない。一見すると激しい揺れに翻弄《ほんろう》され、今にも振り落とされそうだが、馬の動きに合わせてバランスをとっている。抜群の運動神経と大人顔負けの体力がなければできる芸当ではなかった。
少女の風体《ふうたい》は浮浪児そのものだ。櫛《くし》を通したこともないようなボサボサの髪は燃えあがる炎の色。灰色の貫衣から突き出た手足はまるで肉がない。目つきも年の頃からすれば少々鋭過ぎるようだ。
男の年格好は二四、五。親子にしては年が近過ぎるし、兄妹にしては離れ過ぎている。奇妙な組み合わせだ。それ以上に、こんな夜更《よふ》けに馬を飛ばすことのほうが余程《よほど》奇妙といえるのだが……。
暗闇《くらやみ》に光が乱舞する。
馬首の下にくくりつけたカンテラの光だ。月光も届かぬ〈街道《かいどう》〉にあっては唯一《ゆいいつ》の光源といえる。こんなか細い光では馬も乗り手もろくに前が見えないだろうが、馬の走りは苦を感じさせない。石畳の道がほぼ一直線に続いているお蔭《かげ》だろう。
道の両脇《りょうわき》には、天に届こうかという高い木々が連なる。竜の鱗《うろこ》のような紋様を幹に刻んだ羊歯《しだ》の巨木ばかりだ。はるか上方には道の両側から張り出した枝葉が厚い層をなして自然の天蓋《てんがい》を作る。まさに深き森を貫く隧道《トンネル》だ。空からはわからないが、エルマナの大地を覆う〈樹海〉の下には、こうした人工とも天然ともつかぬ道が網の目のようにはり巡らされていた。
哮《たけ》り狂ったように走っていた馬の足が急激に鈍る。鞍《くら》の上で男と少女が争っているようだ。
「――なにしやがる。このバカ助がっ!」
男の腕に少女が咬《か》みついていた。
全力で疾走する馬の上で下手に騒げばどうなるか。男は痛みをこらえながら、馬を驚かせない程度に手綱を絞っていった。
馬が止まると同時に少女が離れる。男の二の腕にはくっきりと歯型が刻みこまれていた。上下の犬歯に当たる箇所は一際大きな穴が残り、大きな血玉が湧《わ》いてきた。
男はかっとなり拳《こぶし》を振りあげる。
「――――!」
[#挿絵(img/04_033.jpg)入る]
拳が空を切った。馬上から飛んだ少女は、空中でくるりと身を翻《ひるがえ》して石畳の地面に降りたった。軽業師顔負けの身のこなしだ。
鞍から降りた男は、憤怒の形相で睨《にら》みつける。
「狂暴な狼娘《おおかみむすめ》が! いきなり咬みつきやがって、いったいどういう料簡《りょうけん》してやがる! 腹が減ったとでもいうのか!」
少女は今にも泣きそうな顔で首を振る。
「違ウ。アタイ、がるー、食べナイ。肉カタイ、マズイ」
「『不味い』だとォ。見ろ、俺《おれ》さまの腕を。血まみれにしやがって。少しは人間らしい心があるのかと見直してやればこのザマだ。人の皮を着ても獣は獣だな」
いい過ぎた、と思ったのだろう。ガルーは慌てて自分の口を押さえた。
赤毛の少女――ティアの顔が凍りついていた。
静まりかえった森に木枯らしが渡り、ざわざわと音をたてる。ガルーの背筋にぞっと悪寒めいたものがはいのぼる。
見開いた瞳《ひとみ》から大粒の涙が、ぽろりとこぼれ落ちる。次の瞬間、ティアは樹海中に響き渡るような大声で泣きだしていた。
すると――
あたりの梢《こずえ》から一斉に鳥が飛びたち、森の奥からは獣の遠吠《とおぼ》えが続けざまにあがる。
驚きのあまり心臓がとまるかと思ったほどだ。
ここが樹海、しかも夜中だということを今更ながらに実感する。夜は獣たちが活発に動きまわる時間帯だ。まともな旅人ならば、盛大に火を焚《た》いて獣を寄せつけないようにするだろう。
にもかかわらず、こちらはまったく備えをしていない。馬首にくくりつけたカンテラの光など、かえって獣を引き寄せる目印《めじるし》となる。
ガルーは慌ててティアの口を塞《ふさ》いだ。
「――悪かった。今のは失言だった。謝る。頭を下げる。これこの通りだ。だから頼む。泣くな。泣きやんでくれ〜〜〜」
見栄も外聞もなかった。森のざわめきは少女の泣き声に呼応して激しさを増し、今にも暗がりから獰猛《どうもう》な獣の群れが飛びだしてきそうな気配だ。
「ひっく、ひっく……」
泣き声が小さくなるにつれて、森も元の静けさを取り戻していく。
ガルーは少女の前にへなへなと座りこみ、大きく息をついた。情けない話だが、すっかり肝《きも》っ玉を縮みあがらせていたのだ。恐慌をきたしていたといってもよい。単に獣の襲撃を恐れただけではこうはならない。もっと根源的な恐怖を森に感じたのだ。
「おまえ……森とつるんでいるのか。はっ、考えてみりゃ当たり前か。なんてったって、ここがおまえの故郷《ふるさと》だもんな」
その言葉に反応して、ティアの小さな体にびくっと震えが走り、同時に森がざわめく。葉ずれの音ひとつ起きたわけではない。ガルーの本能に直接訴える敵意の波動だ。
「――待て。また失言だった。謝る。訂正する。おまえは俺《おれ》と同じ人間だ」
「ニンゲン嫌イ……」
ティアは怨《うら》みがましい目でガルーを睨《にら》んだ。無理もないと思う。聞いた話では、ティアは人間に捕らえられ、見せ物小屋に売られたという。狼《おおかみ》獣人といっても、まだほんの子どもだ。抗《あらが》うこともできず、鞭《むち》で打たれ続けたらしい。もっとも小屋を抜け出す際、小屋の主の手首を食い千切り、復讐《ふくしゅう》を果たしたそうだが……。
「がるー、モウ怒ラナイカ?……」
「ああ、怒らないし、おまえを傷つけるようなことはもう口にしない」
ガルーは赤ん坊をあやすような気分で忍耐強くいった。
相変わらずティアは鼻をすすっているが、笑みが戻りつつある。どうやら最悪の事態だけは避けられたようだ。
ほっとした反面、ガルーは徒労感を覚えた。
こんな場所で、ぐずぐずしている場合ではないはずだ。一刻も早くアイラたちと合流しなければ俺の体は……いや、そんなことよりも……。
ガルーは真剣な顔で少女に向きなおり、その両肩に手を置いた。
「……いいか、俺《おれ》たちは急いでアイラやヨシュアに追いつかなけりゃならん。あいつらは狙《ねら》われているんだ。憶《おぼ》えているか、この前街道で出逢《であ》った錬金術師《アルケス》のことを。奴の本当の狙いはヨシュアだ。俺たちが追いつく前に襲われたら大変だ。だから、わかってくれるな。こんな場所でもめている場合じゃないってことを」
少女は泣き腫《は》らした目でうなずいた。
「そうか……ならいい」
ガルーはにっこり笑って、ぼさぼさの赤毛を掻《か》き乱す。この親愛を表わす仕草は癖となりつつある。
背後から苦しげないななきが聞こえた。
乗ってきた馬の様子がおかしい。馬首をだらりと垂らし、全身に汗をかいているではないか。
「どうした――あっ!」
体に触ってみて驚いた。かなり熱を帯びている。原因は――考えるまでもない。走り過ぎだ。樹海の町ペルーテを出発してからというもの、休みなく駆け通してきたのだ。こうなるのも無理はない。早くアイラたちと合流しなければ、というガルーの焦《あせ》りが馬に苛酷《かこく》な走りを強いたのだ。
――危なかった。このまま走り続けたら、完全に潰《つぶ》れていたところだ。
はっとした表情でガルーは傍《かたわ》らの少女に目を向けた。
「……ひょっとして、このことを伝えたくて俺に咬《か》みついたのか」
ティアはこくりと小首をうなずかせる。
「……オ馬サン、言ッテタ。『苦シイ、モウ走リタクナイ』ッテ……アタシ、ナン度モ言ッタヨ。デモ、がるー、聞イテクレナカッタ……」
胸に苦い思いがこみあげてくる。ガルーはしゃがみこんで小さな娘を抱き締めた。
今、ガルーとティアは、一度は喧嘩《けんか》別れした仲間――アイラとヨシュアの許《もと》に戻ろうと〈南の僻地《へきち》〉と呼ばれる荒野に向かっていた。
噂《うわさ》によると、そこは〈大災厄〉以前にあった都市の廃墟《はいきょ》であり、旧世界の亡霊が徘徊《はいかい》して、近づく者を狂気の淵《ふち》に誘《いざな》うという。
なぜ、アイラはそのような恐ろしい土地に行ったのか?
ダスターニャの町で、一行は狂気の群衆に襲われた。そのためアイラはすっかり人間嫌いになり、二度と人里には近づくまいと頑《かたく》なにいい張った。確かに昨日までの優しい隣人が、目の色を変えて襲ってくるのだからたまらない。肉親以上に慕ったメルカを眼前で暴徒に殺され、ヨシュアも心に深い傷を負ってひどい自閉症になった。これではアイラでなくともそう思うようになる。
もっとも、これが仲たがいした直接の原因とはいえない。ガルー自身も相応の理由を抱えていた。
ガルーがアイラの許を去ったのは、ひとえに嫉妬《しっと》からだ。愛情をすべてヨシュアに注ぎ、困難にあっては白獅子《しろじし》アダモやムウの伝道師《ナーカル》グリフィンの力を頼みにする。そんな彼女のそばにいることが辛《つら》くなったのだ。
街道《かいどう》の分岐路で別れてからすでに丸三日が経《た》つ。だが、アイラたちはまだそこにいる、とガルーは確信していた。
――俺たちを置いて、行方をくらましたりはしないさ。
自惚《うぬぼ》れかもしれない。現にガルーがペルーテの町に向かって歩きだしても、アイラは引きとめもしなかった。ティアにいたっては剣で追い払われたのだ。たとえ運よく再会できたとしても、アイラは「帰れ」と冷たく拒絶するかもしれない。別れた時の剣幕から推して、むしろそうなる可能性のほうが大きい。
――その時はその時だ。
アイラの態度がどうであれ、ガルーの肚《はら》はすでに決まっていた。距離を置いたことで、自分にとりアイラがどんな存在か、はっきりとわかった。
――俺《おれ》はアイラに惚《ほ》れている。べた惚れだ。容姿ばかりじゃない。男勝りの激しい気性や気《き》っ風のよさ。つれない素振りもな。あいつのいいところも悪いところも全部ひっくるめて好きになったんだ。そう、多分最初|出逢《であ》った時から……。
わずか三日間の別離だ。もちろんその間の苦しみたるや筆舌には尽くし難い。ましてや謎《なぞ》の錬金道士《アルケー・アデプト》デルに「元の貧弱な肉体に戻る」と宣告されてからは尚更《なおさら》だった。
しかしながら、だからこそ、アイラへの想《おも》いを再確認すると同時に、自分の弱さを率直に認めることができたといえる。
――結局、俺は弱虫のままだったんだ。小僧《ヨシュア》の力で逞《たくま》しい肉体を得ようが、俺の腐った性根までは直らなかった。想いを打ち明けもせずに、相手《アイラ》の心が自分に向いていない、と腹を立てる。これじゃ甘ったれのガキだ。小僧を笑っちゃいられないぜ。
馬上でガルーは自嘲《じちょう》の笑いを洩《も》らした。
あれからいくらも移動していない。小休止を挟んでからも亀《かめ》の歩みを続けている。気が急《せ》いても、馬を潰《つぶ》しては元も子もなかった。
ガルー自身疲れを感じていた。
以前のような無尽蔵の体力があるわけではない。原動力ともいうべき〈救世主の血〉の神通力が切れかかっているのだ。
鼻にのった不似合いの眼鏡がその顕《あらわ》れだ。闇夜《やみよ》を見通せた夜行動物の目は失われ、今では眼鏡なしでは満足にものが見えない。血を飲んで生まれ変わる以前の視力に戻っているのだ。
ペルーテの町に出現した錬金道士デルは、完全に血の効力が消えれば死ぬ、と不吉な予言を残した。真実とすれば、ガルーの命は風前の灯火《ともしび》ということになる。まだ〈南の僻地《へきち》〉まで遠い。果たして、ヨシュアと合流するまで保《も》つかどうか、はなはだ疑問だった。
視線に気づき頭《こうべ》を巡らす。すると、背後にいるティアが不安げに眉《まゆ》をひそませている。ガルーの懊悩《おうのう》を肌で感じ取ったのかもしれない。
ガルーが笑いかけると、少女は安堵《あんど》したように顔をほころばせた。心|和《なご》む純真な笑顔だった。
――こいつのどこが獣だっていうんだ。人間そのものじゃないか。さっきはひどいことをいってしまったな。
ガルーは自責の念にかられた。
すると――
「アタイ、平気。がるー、笑ウ、ウレシイ」
眼《まなこ》が見開く。ティアが心の声に応《こた》えた驚きだ。
これではっきりした。この狼獣人の娘は、相手の心を読んでいるのだ。そう考えれば、馬の異常に気づいたことも、急速に言葉を覚えてきたことも納得がゆく。
獣人について、また新たな認識を得た。もっとも、このことが獣人すべてに当てはまることなのか、それともティアという個体に限るのか、知るすべはないのだが……。
「ドウシタ、がるー?」
「い、いや、なんでもないさ」
「難シイ言葉イッパイ。ヨク、ワカラナイ」
ほっとした。ティアの読心能力は相手の表層意識にとどまるようだ。感情に関しては敏感に反応するが、論理的な内容は把握できないでいる。のべつまくなしに心を読まれては、たまったものではない。
「――そうだ!」
考えが閃《ひらめ》く。うまくいくかどうかわからないが、試してみる価値はある。
「おまえ、最初に心が通じたのはヨシュアだったな。あいつは遠く離れた宿にいて、見せ物小屋にいるおまえの声が聞こえたといっていた」
ティアは訳もわからずうなずいた。
「そこでだ。距離はあるが、ここからヨシュアの心は読めないか。心を閉ざしていても、様子ぐらいはわかるだろう」
少女は困惑顔に変わる。
「無理は承知だ。でも、試すぐらいはいいだろう。頼む。やってみてくれ。あいつらが〈南の僻地〉にいるかどうか、確認できるだけでもいいんだ」
初めはティアも迷っていたが、ガルーの熱意に動かされたのか、瞼《まぶた》を閉じて頭をややうつむかせた。
馬をとめた。静かなほうが精神を集中しやすかろうと思ったからだ。
ガルーは怪訝《けげん》な顔で周囲を見渡す。
森がしんと静まり返っている。夜鳥のさえずりひとつ、虫の音ひとつ聞こえない。不気味なまでの静寂だ。森やそこに棲《す》む獣たちがじっと息を殺しているような緊張感が漂っていた。
肌が粟立《あわだ》つのも寒さのせいだけだろうか。
――へっ、臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれるとは情けない。この調子じゃ枯れ枝を幽霊と見間違えるかもしれないな。
しばらくティアはぴくりともしなかった。表情にもなんの変化も現われない。
ガルーが諦《あきら》めかけた頃、不意に少女の唇が動いた。
「コ・ワ・イ……」
少女の口から洩《も》れた蚊《か》の鳴くような呟《つぶや》きを、ガルーは聞き逃さなかった。
「……ヨシュア、トッテモ、怖《こわ》ガッテイル……誰力、来ル……オ父サン、オ母サン……ボク、怖イ……助ケテ……」
次第にティアの声は緊迫の度を増していく。それと共に少女の体に小刻みな震えが走る。
森にも異変が生じていた。風もないのに木々が揺れ、なん千、なん万もの虫の大群が頭上を移動する。鳥や獣も同じだ。狂ったような鳴き声をあげて逃げていく。狼《おおかみ》とおぼしき四つ足の群れが街道に姿を見せるが、こちらのことなど見向きもせずに足元を駆けぬけていった。
そう、〈南の僻地《へきち》〉から遠ざかろうとしているのだ。ティアが感じとる恐怖と無関係ではあるまい。
「もういい。やめるんだ、ティア!」
少女の頬《ほお》を叩《たた》く。だが、ヨシュアとの心理的接触は切れない。遠く離れた少年が抱く、恐れと不安がそのままティアに伝染していた。
突然、狼少女の眼が開き、甲高い悲鳴をあげた。断末魔の絶叫に匹敵する凄《すさま》じさだ。
肝《きも》を潰《つぶ》した馬が暴れる。なだめる暇もなかった。気づいた瞬間にはふたりとも鞍《くら》から放り出されていた。
ガルーは咄嗟《とっさ》に少女を抱え、背から落ちる。衝撃は大きかった。背骨が折れたかと思ったほどで、しばらく息がつけなかった。背負っていた大型三連装雷発銃が間に入ったせいだ。体力が衰えているだけにきつかった。
体を起こすとあたりは真っ暗だ。馬が灯火ごと消え失《う》せたからだ。すでに蹄《ひづめ》の音は遠い。今から追いかけても無駄だろう。
森に静けさが戻っている。しかし元通りとはいい難い。ガルーは鳥や獣、それに虫たちの気配がすっかり消えていると知った。逃げられるものはすべて逃げさった後だ。とり残された樹海の植物は不安に震えていた。
――なぜ、そんなことがわかるのだ。
ガルーはいぶかった。五官の衰えとは裏腹に、ある種の超感覚――第六感が研ぎ澄まされている、と彼は気づいていない。
自分の身に生じている変化よりも差し迫った問題がある。
野営道具や代えの衣服、食料など一切合財失った。背中の大型雷発銃の他、腰の銃帯に差した短銃や銃剣、予備の弾倉など武器類が手元に残ったことが唯一《ゆいいつ》の慰めだ。
ティアは無事だ。意識はないが、落馬のせいではあるまい。恐らくティアの心に途方もない衝撃が加わり、負荷に耐えかねて意識を失ったのだろう。
ともあれ、あの様子からして、アイラたちの身に異変――それも重大な危機――が生じていることは確実だ。
馬に逃げられたことが悔やまれてならない。どのみち、遠く離れた〈南の僻地《へきち》〉まで保《も》ちはしなかっただろうが……。
ガルーはティアを背負って駆けだした。間にあうかどうかの問題ではない。アイラの危機を感じた今、とてもじっとしてはいられなかったのだ。
息が切れ、目が霞《かす》む。背中のティアや雷発銃が耐えきれないほど重くのしかかる。体の節々が悲鳴をあげる。それでもガルーは走り続けた。
不意に眩暈《めまい》を覚える。全身から血の気が退《ひ》くような感覚だ。がっくりと膝《ひざ》をつく。
「くそったれ――こんな時に」
ガルーは呻《うめ》いた。ついに恐れていた時が、〈血〉の効力が完全に切れる時が訪れたと思いこんだ。
「なにもできないうちに、俺《おれ》は死ぬのかよ」
唇を咬《か》む。無念だった。死ぬことよりも、アイラに逢《あ》えぬまま斃《たお》れることがだ。
あたりの空間がぐにゃりと歪《ゆが》む――出来の悪い硝子《ガラス》瓶を通して見たような光景だ。眩暈などという生易《なまやさ》しいものではない。
持ちあげられる感覚。事実、ガルーと意識のないティアまでが地面から浮く。
「――なんだと?」
ここにきて、自分の体に起きている異変が、血の枯渇とは無関係の現象と気づく。そして、自分を包みこむ〈力〉に、なに者かの意志を感じとった。
抗《あらが》い難い高圧的な〈力〉の前に、意識が暗黒に引きずりこまれていく。
チャリーン
石畳の上になにかが落ちた。
ガルーとティアは忽然《こつぜん》と姿を消す。
その場にはひびの入った眼鏡だけが残された。
3
〈南の僻地《へきち》〉――
そこは古エルマナ文明の遺跡が眠る地だ。かつては大陸でも有数の都市のひとつに数えられ、万を越える人々が住んでいたという。
前文明の滅亡は、たかだか五〇〇年前――樹海を探せばいたるところに崩れ落ち苔《こけ》むした都市の痕跡を見出すことができるだろう。今の人間が居住する〈町〉も、多くが旧世界の建造物に手を加えて使っている。
ことさら〈南の僻地〉が特異とされるのは、樹海の植物がまったくない荒野だからだ。樹海と接する周辺部は、大規模な伐採が行なわれた後のように境界がはっきりと分かれている。樹海植物の生長の早さ、繁殖力の旺盛《おうせい》さは誰もが知るところで、火事であたり一面の焼野原になろうが、ものの一〇日も経《た》たぬうちに鬱蒼《うっそう》とした密林に戻る。たとえ草木が根付かぬ瓦礫《がれき》が地表を覆っていようとも同じだ。地下から根を伸ばし瓦礫を押し除《の》けて地表に顔を出す。またわずかな土壌でも根をつける草花や、岩肌でも繁殖する地衣類の姿まで見当たらないとあっては異常という他はない。毒でも撒《ま》かれているのでは、という噂《うわさ》は案外的を射ているのかもしれない。
巨岩が散乱する周辺部を越えると、大きな陥没に出食わす。ダスターニャ程度の町なら一〇やそこらは飲みこむ巨大な穴だ。旧文明を滅ぼした〈大災厄〉の影響なのか、はたまた元よりこうした形だったのか。ともあれ擂《す》り鉢《ばち》状に窪《くぼ》んだ穴の底に、かつての都市の中心街があった。
中心街には巨大な石と鉄の建造物が林立する。建物の壁面には華麗な彫刻が施され、街路には勇壮な武神像が飾られていた。古エルマナ文明の偉大さを示す記念碑といえる。
いや――失われた文明を悼む墓碑なのかもしれない。
風が吹くたびにどこかで崩落の音があがる。地面には瓦礫が堆積《たいせき》し、かつては荘厳な都も今は見る影もない。半身を削りとられた像が哀れに映る。
荒涼たる光景だ。見る者に寂寞《せきばく》とした思いを抱かせる。この廃墟の姿は、人の営みの虚《むな》しさを顕《あらわ》している。数百年、数千年の歳月をかけて築きあげたものが塵芥《ちりあくた》にかえる。盛者必衰は世の常とはいえ、あまりに無情である。人とは、あるいは文明とは、あくことなく誕生と滅亡を繰り返すことを運命づけられているのだろうか。
分かたれた双生児――ヨシュアとグラシアが、この地を戦いの場所に選んだのも、なにかの因縁《いんねん》なのかもしれない。
ふたりが対峙《たいじ》するのは、かつて古エルマナの市民が、憩いの場所とした庭園の跡だ。
〈大災厄〉の影響か、奇怪な形にねじ曲がったまま立ち枯れした樹林が残り、倒壊したあずま屋の残骸《ざんがい》とおぼしき瓦礫が小山を成していた。
ふたりの他にも人間がいる。それに獣も。いや元[#「元」に丸傍点]人間だった者たちだ。この場に居合わせた者たちは、ヨシュアとグラシアいずれかを守るために存在する。
ヨシュアは瓦礫の上に立ち、一心にグラシアを見つめる。少年の髪は逆立ち、月光にも似た冴《さ》え冴《ざ》えとした銀色の輝きを発していた。
「坊や……」
アイラは呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》く。
ダスターニャの町で住民総出の〈白子《アルピノ》狩り〉に遭《あ》ってからというもの、ヨシュアは外界の刺激にまったく反応を示さぬ人形になってしまった。心に受けた衝撃のあまりの強さに、少年の純真|無垢《むく》な魂は耐えきれなかったのだ。
だが、今見せている顔の凜々《りり》しさといったらどうだ。恐《おそ》ろしいまでの威圧をまき散らす黒装束の男たちを前にして、いささかも怯《ひる》んでいない。風の音にも怯《おび》えた幼子《おさなご》は、いったいどこにいってしまったのか。
アイラは一方のグラシアに目を移す。
暗がりの中で彼女の姿だけが鮮麗に浮きあがっている。金色《こんじき》の後光《オーラ》に包まれているのだ。
――なんて美しさ、神々しさなの。
一筋の乱れもない輝く黄金の髪、宝石のような碧《あお》き瞳《ひとみ》。肌は陶磁器を思わせる艶《つや》やかな白さ。足元に漆黒《しっこく》の豹《ひょう》をはべらした姿はまるで絵画のようだ。同性の厳しい審美眼をもってしても非の打ちどころがない。ここまで完璧《かんぺき》だと妬心《としん》が湧《わ》かず、ただただ見蕩《みと》れるばかりとなる。
確かに容貌《ようぼう》はヨシュアと酷似している。だが、ふたりの印象は正反対だ。翳《かげ》りが強いヨシュアに対して、グラシアはまったく陰の要素がない。気品と優雅さに溢《あふ》れ、俗世の夾雑物《きょうざつぶつ》を一切拒絶した生まれながらの貴婦人だ。
血の繋《つな》がりを否定できない。が、ヨシュアの妹であるはずがない。グラシアは成熟した女だ。ヨシュアの正確な齢《とし》は知らないが、恐らく一二、三歳といったところ。齢若い兄など聞いたことがなかった。
「くすくす……」
アイラの耳元で含み笑いがあがる。
ぎょっとして振り向くと、息が吹きかかるほど近くに顔があった。それも逆さまの。あろうことか、ヨシュアと同じ年頃《としごろ》の子どもが天地反対になって宙に浮いているではないか。
グラシアが引き連れてきた五人の〈使徒〉のひとりで、自ら〈山猫〉のテューレと名乗る少年だった。
「な、なによっ! あんたは!」
抜き身の細剣《レイピア》で斬《き》りつけるが、少年は余裕で躱《かわ》す。空中でも自由自在。しかもアイラよりも速く動けるようだ。
テューレは肩を竦《すく》める。
「嫌だなァ、これでも親切のつもりだよ。グラシアさまのお姿に見蕩れる気持ちはわかるけど、うっかりすると正体をなくすよ」
なんと小憎らしい口だ。実際、傍《かたわ》らに近づかれながら気づかないほど隙《すき》だらけになっていたのだから、尚更《なおさら》に腹立たしい。
「――主の御前である。控えておれ」
グラシアの脇《わき》に従う男がテューレに命じる。精悍《せいかん》な顔つき、威風堂々たる態度。静かな口調であっても自《おの》ずと風格が滲《にじ》みでる。彼の名はタイフォン。〈獅子《しし》〉の異名を持つ第一の使徒である。
第三使徒テューレは口を尖《とが》らして、
「別にいーじゃん。グラシアさまがお命じになったのは、こいつらに手を出すなってことだけ。この通り、指一本触れちゃいないさ」
タイフォンの目がすっと細くなる。
すると、体を支えていた見えない糸が突然断ち切られ、少年は無様に地面に落ちた。
「なにすんだよ! いきなりひどいじゃないか」
テューレは涙の滲む目でタイフォンを睨《にら》んだ。
「くく……」
女の笑い声があがる。グラシアを挟みタイフォンの反対側に立つ、第二使徒〈蛇〉のネフシスだ。
アイラは黒|頭巾《ずきん》の下に妖艶《ようえん》な女の顔を認めた。グラシアには及ばないとしても尋常ではない美しさだ。それも彼女を巡って男どもが殺しあう――いわゆる『傾国の美女』の類《たぐい》だろう。
そのネフシスと目が合った。テューレに向けられる一瞬の間だったが、アイラは自分に向けられた蔑《さげす》みを感じた。
かっと頭が熱くなる。グラシアの場合と違って、ネフシスのような女には本能的な敵愾心《てきがいしん》をかき立てられる。
「悪ふざけが過ぎてよ。タイフォンを怒らせると後が怖《こわ》いわよ。あなただって、お尻《しり》を叩《たた》かれるのは嫌でしょ」
と、ネフシス。
「わかったよ――」
テューレは不貞腐《ふてくさ》れたようにいうと、土埃《つちぼこり》を残して姿を消した。叱《しか》られてバツが悪くなったのだろう。
アイラが握るオリハルコンの細剣が輝きを増す。これは心中の怒りを表わしている。
グラシアの部下は、アイラを対等な敵どころか道端に転がっている石程度にしか思っていない。だから平気で隙を見せる。手を出せるものならやってみろ、といっているのだ。
アイラは黙っていられなかった。剣を握る手に力がこもる。
「――いかん!」
鋭い叱咤《しった》の声がアイラの耳朶《じだ》を打つ。
背後から純白の獅子が近寄ってくる。
「アダモ……」
後世、強者の象徴として紋章等に飾られる雄獅子の姿は、アイラに限りない安堵《あんど》をもたらした。ぎりぎりまで張り詰めた神経が緩み、息をつけるようになる。
いななきが聞こえる。アダモの背後にいる漆黒の牝馬があげたものだ。
「エディラ……」
自分がひとりではないことを、今更ながらに思いだした。
「ここはわたしに任せろ。きみはさがっていたまえ」
獅子は穏やかにいった。
「でも……」
アイラは逡巡《しゅんじゅん》を示した。確かにアダモは強い。樹海の王者といわれる獣人よりも。しかし敵の力は未知数だ。
「ヨシュアを守ってくれ」
このひと言が彼女を決断させた。
「ええ」
アイラは瓦礫《がれき》を駆けあがろうとした。
だが――
黒い旋風《つむじかぜ》が巻きおこり、アイラの前に使徒のひとりが出現した。
雲をつくような長身。馬のたてがみのような髪型をした男が、無表情にアイラを見下ろす。
第四使徒〈馬〉のケセドである。
「お退《ど》きっ! 退かないと刺し殺すからね」
アイラは炎のような気迫を見せた。愛《いと》し子を守ろうとする時、彼女は限界を越えた力を発揮する。
「戦ってはならぬ!」
アダモの叫びは届かなかった。
目にもとまらぬ迅《はや》さでアイラは輝く剣を繰り出す。
狙《ねら》い違わず剣の切っ先が黒い外套《がいとう》を貫く。が、手ごたえがない。神速の突きも着衣を裂くにとどまった。
ケセドの手が彼女の腕を捉《とら》える。
「は、離して」
さして力を入れているようには見えないのに、押しても引いてもびくともしない。まるで万力に挟まれたようだ。
反射的に白獅子と黒馬が飛びだそうとするが、ケセドのひと睨《にら》みで足留めを食らう。
――動けば、女を殺す。
凄味《すごみ》ある目はそう語っていた。
「騒がないでもらおう。きさまらの処分は後でグラシアさまがお決めになる。それまでおとなしくしているのだ」
アイラの顔に朱が差す。
「馬鹿にするんじゃないよ!」
自由な左手が拳《こぶし》を作る。密着した今の状態なら躱《かわ》すことはできないはず。渾身《こんしん》の力をこめて拳をケセドの腹に叩《たた》きこむ。
女の細腕と侮るなかれ、ヨシュアの血を飲んだ彼女は、屈強な男をも凌《しの》ぐ筋力を得ている。繰り出す拳には、常人が食らえば内臓が破裂するほどの威力があった。
充分な手ごたえが拳から伝わる。だがケセドは顔を歪《ゆが》めるどころか、眉《まゆ》ひとつ動かさない。
「……痒《かゆ》いな。魔王《サタネル》の使徒とはこの程度か。下級の獣士《ル・ヴィード》にも劣る」
ケセドの目に蔑《さげす》みがよぎる。
「ちくしょうめ」
アイラは手足をバタつかせて暴れる。見苦しいなどとは思わない。剣を持っていても、彼女は踊り娘《こ》という自負がある。誇りを貫く場所は舞台の上と決めていた。
「騒ぐなといったはずだ……」
ケセドの口から圧《お》し殺した声が洩《も》れる。
アイラの手首から総毛立つような鈍い音があがる。細剣が瓦礫《がれき》の上に落ちた。
「あ……あ……」
がっくりとアイラは腰を落とし、背を丸めて呻《うめ》く。右手が歪んでいた。手首の関節を砕かれたのだ。
獅子が駆けつける。
「だ、大丈夫……」
それだけ答えるのがやっとだった。
アダモがケセドを睨《にら》む。たてがみが逆立ち、牙《きば》が並んだ口から唸《うな》りが洩れる。常人なら失禁しかねない迫力だろうが、ケセドは平然としている。
「命を奪ってもよかった。それをしなかったのは、無用な流血を避けたい、という主の意志に従ったまで」
「グラシアの意志?……」
たてがみに覆われた頭を実の娘に向ける。
後光に包まれたグラシアは、相変わらずヨシュアと静かなる対決を続けていた。
はた目にはただ見つめあっているように映る。だが、アダモには見える。対峙《たいじ》するふたりの間には凄《すさま》じいばかりの〈気《マギ》〉が満ちている。
ピシッ!
突然、足元にある瓦礫《がれき》が音を立てて爆《は》ぜた。これも戦いの余波であろう。
「お父さま……」
グラシアの顔がアダモに向く。ヨシュアから気を逸《そら》しても、力はいささかも減じていない。ぶつかり合う〈気《マギ》〉は両者の中間で拮抗《きっこう》した状態を保っている。対してヨシュアのほうは力を維持するために全神経を集中している。これは兄妹の力に大きな隔たりがあることを意味した。
「教えてくれ。おまえはなんの目的で、わたしたちの前に現われた。ヨシュアの正体を見極めるためなのか」
獅子の問いかけに、グラシアは少し哀しげに微笑《ほほえ》む。
「そのことならば、すでに結論は出ておりますわ。わたくしは暝想《めいそう》で得た結論に従ってこの場所に赴きました」
「ヨシュアを、血を分けた実の兄を殺すためにか」
獅子の声は震えていた。それを聞いて、アイラは束《つか》の間《ま》手の痛みを忘れる。
グラシアは否定も肯定もしなかった。
「今のところ、兄自身に〈魔〉の因子は見出せません。しかし放置すれば、邪《よこしま》な勢力を糾合する中心的存在となることは確かです」
「なぜだ。なぜそういい切れる」
アダモは吠《ほ》えるがごとくいった。
「兄は赤ん坊と一緒です。ことの善悪を理解する力が欠けています。そうした者は周囲の波動に染まりやすい。現に影響を被りはじめています」
グラシアの視線が、髪を逆立て闘気を漲《みなぎ》らせるヨシュアを捉《とら》える。髪の輝きはさらに増している。
「ご覧なさい、あの姿を。〈伝承《カバラ》〉に記された禍々《まがまが》しい魔王《サタネル》そのものではありませんか」
「あの子の責任ではないぞ。組織がそのように育てたのだ。それに、そこにいる豹《ひょう》がデルと組み、ダスターニャの住民を煽《あお》り立てた。ヨシュアの変貌《へんぼう》はその結果ではないか」
グラシアの足元で、黒豹《くろひょう》パイジャが牙《きば》を剥《む》きだしにして吠える。人間としての意識を消失していても、自分に向けられた非難だと察したようだ。
「お父さまがおっしゃる通りです。しかしながら、誰に罪があるかなど、この際関係ありません」
「関係がないだと。ヨシュアを魔王に仕立てあげようと目論む一派がいるのだ。兄を討とうとする前に、その者たちを始末すべきではないのか」
「それで魔王の覚醒《かくせい》を防げるとおっしゃるならば……でも、結局は同じことですわ。ダスターニャの事件がよい例です。たとえ他者の干渉がなくとも暴動は起こりました。兄には人の心を揺さぶる〈力《マギ》〉があります。あえて邪な力とは申しません。ですが、虐《しいた》げられた人々は心の底で秩序の破壊を欲している。兄は無意識の裡《うち》に人々の願いを叶《かな》えてしまう。抑圧からの解放です。これは誰の罪でしょうか」
「…………」
「お父さま、わかってください。わたしたちの対決が遅れれば遅れるほど犠牲者が多く出ます。〈伝承《カバラ》〉は、それを告げているではありませんか」
アイラはカバラという響きに聞きおぼえがあった。
――確か、ヨシュアを殺そうとした、あの若い僧がいっていた。
獅子は言葉に窮したように唸《うな》りをあげた。
「な、ならば、どうしてひと思いに我らを始末せん。おまえ自身が迷いを覚えているからではないのか」
「違います」
グラシアはきっぱりといい切った。
「このようにお話をしている理由は、お父さまや他の方々の命を救おうと思ってのことです。組織は兄に与《くみ》する者すべてを抹殺しようとしております。わたくしはそれを避けたい」
女神はそういって、うずくまるアイラに向けて手をかざす。すると砕けた手首の痛みが腫《は》れと共に退《ひ》く。
アイラは信じられないといった顔で、右手をぶらぶらさせた。完全に折れる前の状態に戻っている。奇異な現象が日常茶飯事になった彼女もこれには驚いた。
昔、なん度か「救世主物語」と題した芝居を観《み》たことがある。祭りの際、寺院の境内に立つ興行で、大筋はどれも聖者が世に害毒を流す魔物を討ち滅ぼし人々を救うというもので、教典に記された物語がネタ元になっている。大衆にも受けるように脚色して娯楽性を強めているが、やはりどこか説教臭く、大仰な科白《せりふ》が多いためアイラの好みではない。
物語そのものはいくつかのバリエーションがあり、主人公もそのつど変わる。髭《ひげ》もじゃの老人や痩《や》せた求道者、若い娘だったこともある。だが、すべてに共通して、例外なく主人公は金髪[#「金髪」に丸傍点]で、病や怪我《けが》に苦しむ人々を聖なる力でたちまち癒《いや》すという場面が必ずあった。なぜだろう、と別段疑問も抱かず見過ごしてきたが、後光に包まれるグラシアを目の当たりにすると納得がゆく。
教典が救世主グラシアの登場を予言しているということを。
「わかっていただけますか。わたくしと兄の対決が避けられない運命ならば、よけいな犠牲者は出したくありません。兄のことはどうか諦《あきら》めてください」
「――黙っていりゃいい気になって!」
アイラがいきり立つ。ケセドが動く気配を見せるが、主はそれを制した。
「冗談じゃないよ。あたしがヨシュアを見殺しにできるわけないだろ。だいたい、なんで兄妹同士で戦わなきゃなんないのさ。魔王ってなに? 救世主ってなに? なにもかもわからないことだらけよ!」
グラシアが微笑《ほほえ》む。
「あなたがそうおっしゃることはわかっていました。いいでしょう。わたしたち兄妹がどうして創られたか[#「創られたか」に丸傍点]、お教えいたしましょう。ですが、その前に……」
グラシアの視線が宙をさまよう。すると突然アイラの傍《かたわ》らに旋風《つむじかぜ》が生じて盛大な土埃《つちぼこり》が立つ。
その中で激しく咳《せ》き込む声があがる。
「な、なんだい。いきなり――」
「――ガルー!」
アイラは思わず土埃の中の人影に飛びついていた。
「わっ、わっ、なんでおまえが――」
ガルーは動転していた。街道《かいどう》で気が遠くなった途端、周囲の光景が一変し、しかも恋い焦がれたアイラが、首にしがみついているのだ。頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。
「嫌だ。あたしったら――」
ふと我に返ったのか、アイラはガルーを突き飛ばした。ガルーは気を失っていたティアの上に倒れた。
「いててて……なんて乱暴な」
ガルーの顔が強《こわ》ばる。遅ればせながら、黒装束の使徒たちの存在に気づいた。眼鏡を失っても気配でわかる。それは意識を取り戻したティアも同じだ。ひしとガルーにしがみつき、がたがたと震えている。
「へへっ……とんでもない場所にきてしまったようだな」
身を貫く戦慄《せんりつ》におののきながらも、ガルーは不敵な笑いを口元に浮かべていた。
4
即座にガルーは戦闘に備える。
背負った大型三連装雷発銃を降ろし、銃体側面の金具を引く。すると六角形の銃身が基部から勢いよく折れ曲がり、弾倉が剥《む》きだしになる。薬室の実包を素速く確認。弾《たま》が湿気《しけ》っていないか、油脂の状態を指で調べる。重い発条《バネ》仕掛けに逆らい銃身を押し戻す。ガチャ――と小気味よい音があがり、中折れしていた銃身が台座に固定される。
次に右|大腿部《だいたいぶ》の鞘《さや》から諸刃《もろは》の短剣を抜き、銃身下に取りつける。装弾数《たまかず》がわずか三発という欠点を補うために、ペルーテの町であつらえた銃剣だ。黒光りする刀身はずっしりと重い。最後に逆三角形に並んだ金槌《かなづち》状の撃鉄を次々に起こす。
これで準備完了だ。後は狙《ねら》いを定め、用心鉄に覆われた引き金を絞れば、轟音《ごうおん》と共に三つの銃口から小型の砲弾ともいえる鉛玉が発射される。その威力たるや――いや、それは実際に使った時に語るべきだろう。
一連の作業は五秒とかかっていない。迅速にして正確。まさに手練の迅業《はやわざ》である。かつて青白き役人だった彼が、銃器を手にするようになってまだ日は浅い。が、たちまち絶大なる破壊力を秘めた雷発銃の魅力にとり憑《つ》かれ、今では銃器全般の扱いに精通する第一級の戦士になっていた。
ただし問題は眼鏡を失い、著しく視力が低下していることだ。気配を頼りにぶっ放すしかない。当たればめっけものという、はなはだ心許《こころもと》ない状況だった。
「――待って」
アイラが逸《はや》るガルーを押しとどめる。
「今すぐ事情を飲みこめ、といっても無理だろうけど、とにかく待って」
ガルーは怪訝《けげん》な顔をしながらも、言葉に従って銃口を下げた。
危なかった。もし制止がほんの少しでも遅かったら、グラシアの周囲を囲む使徒たちが一斉に飛びだしていただろう。彼らは主に危害が及ぶ可能性がわずかでもあれば、命令があろうがなかろうが躊躇《ちゅうちょ》なく制圧行動に移る。
アイラとて、むざむざやられるつもりはないが、彼らは底知れぬ強さを秘めている。ダスターニャで戦った〈虎《バルド》〉や〈豹《パイジャ》〉が赤子と思えるほどだ。味方がひとりふたり増えたところで、勝てる相手とは思えなかった。全員が生き残るためには、戦わずに逃げる――それしかない。
「なぜ、ガルーを?」
アイラがグラシアに問いかけた。
「どうせならば、ご一緒のほうがよいかと思いまして。それにガルー殿は急いで向かわれているご様子と推察いたしました。余計なお世話でしたでしょうか」
女神は容貌《ようぼう》に相応《ふさわ》しき玲瓏《れいろう》たる声で応《こた》えた。
遠く離れた場所にいる人間を一瞬で移動させたのだ。それも造作なく!――これが錬金術によるものか、それ以外の力なのか、アイラには区別がつかない。
しかし間違いなくいえることは、目の前のたおやかな淑女は、アイラやガルーをまったく恐れていない。さもなくば、敵をわざわざ増やしはしないだろう。
「では……」
そう呟《つぶや》くと、グラシアは両手を合掌し、祈るように瞑目《めいもく》した。
アイラとガルーは一瞬気が遠くなる。その途端に、あたりの光景が変わった。
古エルマナの廃墟《はいきょ》が流れるように消えて、代わって無数の光点を散りばめた夜空が現われる。そして足元は――
ふたりは揃《そろ》って悲鳴をあげた。
そこに地面はなかった。
体は宙に浮き、はるか下方にところどころ白い靄《もや》が被る青い地表が見えた。
霞《かす》んだように光る地平線はなだらかな曲線を描き、とてつもなく巨大な球の上にいるのだとわかる。
「――これが〈地球《ガイア》〉。わたしたちが生きる世界の姿です。あなたがたは鳥でさえ昇れぬ高みから世界を一望しています」
いずこからかグラシアの声が聞こえた。上下左右どこにも姿が見当たらない。耳元で囁《ささや》かれたようにも、はるか遠くから聞こえてきたようにも思える。
「では、ここは〈宇宙《ソラン》〉か」
と、ガルー。
「博識ですこと。エルマナ人のほとんどが、足元の地面が球体であることさえ忘れてしまったというのに」
「古い書物で読んだだけだ。そんな荒唐無稽《こうとうむけい》な説など信じていなかったがね」
ガルーはぶっきらぼうにいった。
アイラは周囲を見渡し、ヨシュアやアダモ、エディラが、それにガルーにしがみついていたはずのティアまでがいないことに気づく。
「――ヨシュアは、他のみんなはどこにいったの!」
「ご心配なく。みな元の場所を一歩も動いていません。あなたがたも含めて」
「俺《おれ》たちは幻覚を見させられているのか」
「そうではありません。ここにいるのはあなたがたの幽体――馴染《なじ》まないのならば魂でも結構です。肉体は地上に残っています」
いきなりアイラとガルーは廃墟《はいきょ》に引き戻される。先程と同様に移動した感覚はなく、瞬時に周囲の光景が切りかわる。
紅毛の少女ティアが地面に倒れるガルーにとりすがり、なにごとか叫んでいる。アイラには獅子と黒馬が心配そうに様子を窺《うかが》っている。
己《おのれ》の体を見下ろすのは奇妙な気分だった。よく見れば、宙に浮く自分と地面に伏した自分の間に白銀色の輝く糸のようなものが繋《つな》がっている。直感的に母体と胎児を結ぶへその緒の類《たぐい》だとわかる。それが切れないうちは肉体に戻ることができるのだ。
遅ればせながら、ガルーは眼鏡がないにもかかわらず、ものが明瞭《めいりょう》に見えることに気づいた。魂の状態では視力に頼らないようだ。体の節々の痛みも消え、実に快適な気分だ。
今まで味わったことのない高揚感と解放感と共に、ふたりはゆっくりと地表から離れる。「魂の緒」も尽きることなくどこまでも延びていく。
巨大な建造物の間を抜け、擂《す》り鉢《ばち》の形をした陥没の上空に出る。
樹海が一望できる。真っ黒な絨毯《じゅうたん》がどこまでも続く。ガルーが数日過ごしたペルーテの町が近くにあるはずだが、深夜でもあり識別は難しい。
さらに高みに昇る。すると彼方に樹海の境界が見えた。大地の果て――海岸線である。ダスターニャ、ケオナ、ペルーテ等の町は下エルマナ王国の辺境区に属する。これより南には人間の町はない。
ふたりとも海を目にするのは初めてだ。想像とはかなり違っている。凍てつく吹雪が吹きすさび、白い氷が海面を覆う。それもかなり厚い。岸壁周辺には押しあげられた氷が、樹海の木々よりも高い山を作っていた。
――なぜ、あんなものが。
ガルーは訝《いぶか》った。
昔のエルマナ――ほんの[#「ほんの」に丸傍点]五〇〇年前までのことだ――は温暖な土地だった。冬でも滅多に雪が舞うことはなかったという。歴史書を通じて得た知識だ。「岸辺を打ちつける波、湿った潮風、降りそそぐ日差し」という海のイメージもそこからきている。
古エルマナ文明を一掃した〈大災厄〉を挟み気候は一変した。どす黒い分厚い雲が頭上にのしかかり、稀《まれ》にしか晴れ間を拝むことができない。四季による気温の差は乏しく、一年中底冷えする天気が続いた。
しかし――
氷に覆われた海の寒さは、そんな生易《なまやさ》しいものではない。荒れくるう氷雪の雄叫《おたけ》びがここまで届きそうだ。人間が、いや獣でさえ生きていけるとは思えぬ苛酷《かこく》な世界だ。
鬱蒼《うっそう》と生い茂る樹海の木々が、防風林の役割を果たし、冷気の侵入を阻んでいる。いや、それだけではない。大地をすっぽりと覆う樹海が傘となって地熱の大気拡散を抑えている。地面の下に張り巡らされた植物の根や、鬱陶《うっとう》しいだけと思っていた厚い雲も蓄熱効果の一助となっている。これらがなかったら、とうの昔にエルマナは氷づけになっていただろう。
『――大地《エルマナ》は、樹海に守られているのだ』
ガルーは次から次に覚えのない知識が湧《わ》いてくることに戸惑いながらも、今までの固定概念を根底から覆す新しい洞察に心奪われていた。見かけは蛮勇の徒だが、本来の気質は好奇心|溢《あふ》れる学者のそれだった。
突然、真っ暗な闇《やみ》に包まれて思考が中断した。樹海上空の雲に入ったのだ。加速度的に上昇速度を増しているふたりは、あっという間に雲海の上に抜けた。月光に照らされて輝く雲の世界は、ムウの鳥舟から眺めたお馴染《なじ》みの景観だ。
――故郷《ムウ》に帰ったあの人。また逢《あ》えるかしら。
ふとアイラは謎《なぞ》めいた微笑《ほほえ》みを浮かべる黒髪の伝道師《ナーカル》の顔を思いだす。別れたのはほんの数日前なのに、ひどく遠い昔のことのように思えた。
こうしている間にもふたりは上昇を続ける。それに比例して空気が薄くなっていると感じるが、呼吸に支障はない。
対流圏から成層圏に、その上の電離圏を越えて、ついには星の領域まで昇りつめた。眼下に青き地球《ガイア》を見おろす、最初に飛ばされた場所だ。
ただし先程とは、ふたりの認識――世界を見る目は大きく異なっていた。
地球は大気を循環させながら回転する、途方もなく大きな球だ。さらにふたつの月[#「ふたつの月」に丸傍点]――イリスとディアナを周回させながら、遠く離れた太陽を中心に長大な円軌道を描いている。他にも、地球と同じように太陽を周回する――火星《マルス》、金星《ウエヌス》、木星《ユピトウル》、| 土星 《サルトウヌス》等の惑星も正しく捉《とら》えていた。また煌《きら》めく星々すべてが、太陽と同じように自ら燃えて光と熱を放つ恒星だということもわかっていた[#「わかっていた」に丸傍点]。
地上に転ずれば――隣の陸地アントエキ(豪大陸)が、その彼方にはミューロア(ムウ)が見える。アントエキの東には南北に細長いアンチボテス(南米)が、後ろを向けば北半球の大部分を占めるオイクメネ(アジア、アフリカ)の一部がある。今のふたりは、目に映らぬ地球の裏側にあるベルオエキ(北米)やアトランティスを含むすべての大陸を知っていた[#「知っていた」に丸傍点]。さらには、それらの大陸にどのような人々が住み、どのような暮らしをしているか、事細かく並べたてることもできた。
当代のエルマナ人が、ましてや満足に教育を受けていないアイラが、絶対に持ちえない宇宙的広がりを持った認識だ。高度な飛行技術を有したミューロア人にしても、活動領域は大気圏内にとどまり、星々の世界には手が届かないでいる。
――これは|あの女《グラシア》の認識だ。
ガルーは唐突に理解した。意図は定かではないが、彼女は自分たちに世界の有り様を教えているのだ。
「――世界を正しく認知しなければ、あたくしたちがこの世に生を受けた理由を理解できません」
グラシアの〈声〉が届く。肉声ではなく、彼女の意志が媒介物を通さず直接伝わってきているのだ、とふたりは気づく。
「少し大げさじゃないか」
ガルーは乾いた笑いを発した。グラシアはそれを無視して、
「――地球《ガイア》に新たなる災厄がふりかかろうとしています」
と、厳かに語り始めた。
ガルーは笑い飛ばそうとしたが、意志に反して喉《のど》の機能が停止していた。足元から不気味な鳴動を感じたのは、その直後だ。
エルマナ大陸を覆う雲が渦を巻きはじめた。動きを速める雲は見る間に縮まっていく。中心部に吸いこまれているのだ。
「あ、あれは――!」
ふたりは気づいた。あの位置にはグリフィンの鳥舟に乗って空中から目撃したあれ[#「あれ」に丸傍点]がある。
――〈大深淵《だいしんえん》〉。大地に穿《うが》たれた巨大な底なしの穴だ。
アイラたちの体に初めて見た時の戦慄《せんりつ》が生々しく甦《よみがえ》る。ただの穴ではなかった。底に潜む漆黒《しっこく》の闇《やみ》は、あらゆるものを吸いこむ虚無だ。見ているだけで魂までが引きこまれそうになった。事実、体の力が奪われていくのを感じた。鳥舟がその場から遠ざかった後も、しばらく息をすることさえ苦痛だった。
雲が完全に消失した。巨大な〈大深淵〉もこの高さでは黒い点にしか見えない――はずだった。
「……大きくなっている」
穴の底から暗黒の球体が浮上していた。それは物体ではない。一種の力場としか説明しようがなく、正確には色も形も重さももたなかった。
雲を飲みこんだそれは、同時に地表のあらゆるものを引きよせて膨張を続けた。視直径に比例して大地に及ぼす影響も増大していく。
エルマナ大陸は、未《いま》だかつてない巨大地震に見舞われた。逆巻く嵐《あらし》が地を駆けぬけ、洪水が森を押しながす。いたるところに裂け目が走り、巨木が地の底に飲みこまれる。休止していた火山が一斉に目覚め、火の柱が立つ。火山弾が火の雨となって降りそそぎ、灼熱《しゃくねつ》の岩漿《がんしょう》が溢《あふ》れだした。
樹海が燃える。逃げまどう鳥や獣が炎に焼かれ、黒煙に巻かれ、倒木に潰《つぶ》された。もちろん樹海に点在する人間の町も同じ運命を辿《たど》る。運よく生き延びた者がいても、しょせん膨張の一途を遂げる〈闇〉に飲みこまれるまでの命だった。
アイラとガルーは声もなく、虚空からエルマナ大陸の崩壊するさまを見つめていた。
「――う、嘘《うそ》だ。ま、幻に決まっている」
ガルーは震える声でいった。アイラに向けて、というより自分にいい聞かせるためだ。幻と思いこまなければ正気を保っていられない。
「――見て! 月が」
アイラが叫んだ。
近軌道を回っていた小さい月、ディアナが地球に接近していた。すでにエルマナを覆いつくすまでに巨大化した〈大深淵〉に引きよせられているのだ。
痘《あばた》だらけの衛星表面に亀裂《きれつ》が幾重《いくえ》にも走る。
「――わ、割れるぞ!」
あっという間の出来事だった。亀裂から閃光《せんこう》があがったと思った途端、無数の破片に分解した。
月《ディアナ》の破片は大気圏に入ると同時に明るく輝きながら長い尾を引く。大半はエルマナを覆う〈大深淵〉の中に消えたが、いくつかは軌道を逸《そ》れて大洋に向かう。
ミューロア大陸に巨大な火柱が屹立《きつりつ》する。最も大きな破片が落下したのだ。核兵器の数万、数億倍のエネルギーが一挙に爆発し、ミューロアは地上から姿を消した。ムウの人々は死ぬ直前に天が落ちる壮大な光景を目の当たりにしたはずだ。
隕石《いんせき》の直撃を免れた人々にも災厄が襲いかかる。大洋に落ちた巨大隕石は沿岸部に高さ数百メートルにも及ぶ大津波をもたらした。一時的にしろ山岳地帯を除く陸地の全域が水没したに違いない。人類史上最大の洪水によって、文明は痕跡《こんせき》なきまでに洗いながされた。最も被害が大きかったのは、海岸線沿いに都市を設けていたアトランティスとその植民地群だった。
地殻を揺さぶられ、地球全土に大火山活動が誘発する。火山帯に沿って山々が噴火を始める。硫黄《いおう》の匂《にお》いがしない場所は地上のどこにも存在しなかった。海底火山の爆発で海はぐらぐらと煮えたぎり、あらゆる海洋生物は死に絶えた。
「――やめて。もう見たくない」
アイラは喘《あえ》ぐようにいった。だが、幽体である彼らは閉じる目を持たなかった。いやでも地上の地獄を見せつけられることになる。
荒れ狂う大洋と地殻を割って吹き出した灼熱《しゃくねつ》の岩漿《がんしょう》が交わる。多量の水蒸気が噴きあがり、数万個分の台風を合わせたような嵐《あらし》が、もの凄《すご》い勢いで大気を流動させる。もはや天変地異などという形容は不適当であろう。火の玉だった地球に原始の海が生じた太古の時代――地球創成を彷彿《ほうふつ》させる光景だった。
かつてはなん億年も続いた水と火の闘争も、今回はごく短期間で終わった。どちらが勝利をおさめることなく、星そのものが砕け散ったのだ。
たちまち宇宙は静寂を取りもどす。無限の広がりの中に無数の天体を抱える宇宙にあっては、一惑星の崩壊など瑣末《さまつ》な出来事に過ぎなかった。今まで地球のあった空間には、数えきれぬ岩塊が小惑星となり軌道上に長大な帯を形成していた。
しかし、それで終わったわけではない。
地球が砕けても〈闇《やみ》〉は残った。宇宙に漂う破片を引き寄せながらなおも膨張を続けていた。
5
地球爆発と同時に、アイラとガルーの魂は肉体に回帰していた。
「――がるー!」
呆《ほう》けた顔で身を起こしたガルーの首に、なにかがしがみついた。ぼやけた視界を赤いものが埋める。それがティアの髪の毛だと気づくのにしばしの時間を要した。
脇《わき》を見ると、白獅子《しろじし》に見守られたアイラが目を覚ますところだった。
「あたし、夢でも見ていたの……」
「きみたちは地球《ガイア》の破滅を目撃したのだ」
と、アダモ。
アイラは身を震わす。あの恐ろしい光景が生々しく身の裡《うち》に甦《よみがえ》ったのだ。
あたりを見渡す。古エルマナの廃墟《はいきょ》の中だ。全員の変わらない姿がそこにあった。金色に輝くグラシアや黒装束の側近たちもいた。
「でも、みんないるじゃない。ほら地面だってちゃんとある。あれはやっぱり幻だったのよ」
獅子は首を振った。
「きみたちは破滅の現場に居あわせた。これは事実だ。ただしあれが起こるのは未来のこと。きみたちは時を越えて、あの光景を見たのだ。グラシアの導きによってね……」
「あなたも見たの。一緒にいなかったみたいだったけど」
「わたしは知識として得ているだけだ。きみたちが見た光景は〈伝承《カバラ》〉に記された内容と一致するはずだ」
「カバラとはなんだ?」
と、ガルーが問う。体が鉛を飲んだように重い。衰弱しているせいばかりではない。霊体における解放感を知った今では、肉体にとどまることはそれ自体が苦痛だった。グラシアが「肉の檻《おり》」と表現した理由がよくわかる。
獅子は顔を歪《ゆが》めるガルーを気遣うように、
「相当弱っているようだな。残念だが、今すぐヨシュアから血を貰《もら》うというわけにはいかないぞ」
「そんなことはどうでもいい。とっとと答えろ!」
ガルーは殺気だっていた。
「〈伝承《カバラ》〉とは古エルマナの錬金道士《アルケー・アデプト》らが遺《のこ》した予言の書だ。そこには次なる〈大災厄〉によって滅びる世界の姿が克明に記されている。また終末を避ける方法もな」
「ならば、滅びると決まったわけじゃないのか」
「その通りだ。きみたちが見た地球崩壊の光景も、理論上無限に存在する時間軸のひとつに過ぎない。したがって滅びに至らぬ未来も存在するのだ」
「はあ?」
肉体に復帰し、グラシアとの回線も切られた今となっては、望めばすぐに必要な知識を得られるというわけにいかない。
「――滅びに至る確率は、刻一刻と増大していますわ、お父さま」
グラシアが前に進みでる。
「『ヨシュアを放置すれば』か。その言葉は聞きあきたぞ。おまえとあの子は血を分けた兄妹、いやおまえの半身ではないか」
「情に訴えても無駄ですわ。わたくしは救世主として破滅に立ちむかう決意を固めました。世界と兄を天秤《てんびん》にかければ、どちらに傾くか、おわかりになるでしょう」
「そもそも前提がおかしいのだ。確かに世界を救わねばならぬ。だが、おまえが救世主になるか決まったわけではない。今まさに魔王として断罪されようとするヨシュアこそ、真の救世主かもしれんのだぞ!」
グラシアの顔に動揺めいたものがよぎる。初めてのことだ。
「ど、どういうことなの?」
アイラは獅子にすがりつく。
「それは〈伝承《カバラ》〉から始まった――」
と、アダモは語りはじめた。
予言の書は、世界の滅亡を阻止する救世主《メサイア》の出現を記していた。同時に世界を滅亡に導く魔王《サタネル》の出現をも。そして両者は世界の運命を賭《か》けて戦うことが運命づけられていた。
〈伝承《カバラ》〉に記された救世主の姿は『輝く金色の髪をなびかせ、清らかな湖水のごとく青き瞳《ひとみ》を持つ者』。まさにグラシアの姿そのものだ。また魔王は『銀色の髪と血を彷彿《ほうふつ》させる赤き瞳を持つ者』。瞳の色を別とすれば、今のヨシュアがそれに当たる。
「――かつてわたしが属した錬金術師《アルケス》の組織〈混沌《こんとん》の庭〉は、救世主を生みだそうとした。当時のわたしは若かった。世界を救う使命感に燃えていた。いや、そんなものより〈秘儀《アルス》〉の解明、それ自体の魅力にとり憑《つ》かれていたのかもしれぬ」
獅子の言葉は自嘲《じちょう》の響きに満ちていた。
まだ人間だった当時、アダモはデル・イグナチウスと共に救世主の創造に全力を傾けた。
それは――神のごとき〈力《マギ》〉を持った超人の創造であった。
〈伝承《カバラ》〉には容貌《ようぼう》を別にすれば、救世主や魔王がいったいいかなる者か説明がなかった。肝心な部分がなぜか[#「なぜか」に丸傍点]ぼかされているのだ。
彼らは「救世主は人の腹から産まれぬ」という記述から人工生物あるいは人体改造ではないか、と推測した。事実、〈大災厄〉以前に古エルマナの錬金道士たちが、盛んに超人を生みだす研究をしていたという記録が、研究資料と一緒に残っていた。もちろん、秘儀の多くがそうであるように、伝わる資料のことごとくが記号化、抽象化され、解読は困難を極めた。どうにか研究を進められたのは、〈混沌の庭〉が多くの組織の中で最も古エルマナ文明の精髄を受け継いでいたからに他ならない。
「――一〇年前、多くの犠牲を払って、人工子宮の羊水の中に小さな胎児が漂った。そう、この廃墟《はいきょ》の地下で」
アダモは遠い昔を懐かしむようにいった。
当初、胎児はひとりだった。アダモとデルは落胆した。〈伝承《カバラ》〉には「救世主と魔王は同じ腹から産まれる」と記されていたからだ。〈伝承〉は絶対であり、双子《ふたご》でなければ、どちらになる可能性もなかった。
失敗作とわかっても、胎児はすぐに処分されなかった。情けからではない。続行することで次の実験に有益な資料をもたらすと考えられたからだ。
だが――
あろうことか、成長過程で突然胎児がふたつに分裂した。この表現は正確さを欠く。いつの間にか人工子宮の中に寸分違わぬ別の胎児が並んでいたのだ。アダモとデル以外にも多くの錬金術師が現場に詰めていた。それにも拘らず、誰ひとりとしてその瞬間を見ていなかった。この時期、胎児は性的に未分化の段階であり、のちの性別をもって、どちらが元からいたほうなのか見分けることができなかった。
そのふたつの胎児こそ、ヨシュアとグラシアだった。
「――人工子宮を割り、ふたりが産声をあげた瞬間の胸震える感動を今でも忘れない。父性愛なるものが明確に形を結んだのはその時だ。それまで……そう、羊水の中で漂うおまえたちが人らしくなるまで、単なる実験動物としか目に映っていなかったのだよ」
獅子《しし》は恥じいるように呟《つぶや》いた。
アイラは改めて瓦礫《がれき》に立つヨシュアとその麓《ふもと》にいるグラシアを見比べる。ヨシュアはともかく、あの妙齢の美女がまだ一〇歳とはとうてい信じられない。
顔に出たのだろうか。グラシアがその疑問に答えた。
「姿形など現世《うつしよ》の化生《けしょう》に過ぎません。されど姿形は本性を表わすとも申します。わたくしは自覚と共にこの姿を得ました。兄が童形のままでいるのは、苦難に立ち向かう気構えがないから、心が幼いからに他なりません」
語調は柔らかいが、ヨシュアに向けた痛烈な批判に違いなかった。
アイラは腹が立った。自分ができたからといって、できない人間を責めるのは理不尽だ。踊り娘《こ》をしていた昔、出来の悪い妹分たちを根気よく面倒みていた彼女は、理屈ではなく経験でそれを知っていた。
「我が娘よ――人はそれぞれ成長の歩みが異なるのだ。先んじたからといって驕《おご》ってはならぬ」
獅子がアイラの気持ちを代弁する。
すると、グラシアが問う。
「わたくしたちは、人でしょうか?」
言葉は短いが、自分たちを生みだした者――人工子宮にいる間、実験体としか見なかった冷徹な父親への批判とも受けとれる。
「決まっておる。『救世主は人の世から生じる』と〈伝承《カバラ》〉は記している。神が人を救うのではない。人が人を救うのだ。立場は正反対なれど魔王も同じだ。人の世を滅ぼすのはやはり人よ」
逃げている――とアイラは感じた。獅子は〈伝承〉の引用にとどめ、自らの言葉では語ろうとしなかった。
グラシアは口を閉ざし、それ以上の言及を避けた。あるいはとうの昔に答えを得ているのかもしれない。己《おのれ》がいかなる存在か……を。
アダモの側もそれを知ってか知らずにいるのか、その件には深入りせず、話の流れを戻した。
「突然の変節――組織の連中はわたしの心に生じた変化を不思議に思っただろうよ。なにしろ組織が掲げる標語『錬金術師《アルケス》は、秘儀《アルス》の解明に身命を賭《と》す求道者である』の、わたしは善き手本だったからな。事実、親が子に示す情愛どころか男女の愛すら、己には関わりなきことと決めつけていた。それが大きな誤りと気づくまでに……」
そこでアダモは言葉を切り、ため息をついた。
「……もしやと思う時があるよ。おまえたちのどちらかかが、あるいは両方が、自分の身を守るために、わたしの心に情愛を植えつけたのではないか……とね」
急にガルーが顔を強《こわ》ばらせる。彼自身、ヨシュアのためならば命も惜しまぬアイラの姿に、不審を覚えずにはいられなかったのだ。アイラを独占する|ヨシュア《やつ》に嫉妬《しっと》しているのさ――と打ちけしてきたが、血の繋《つな》がりがあるアダモまでが同じ疑問を抱いていたとは……。
もしヨシュアが無意識にしろ〈力〉を行使し、自分を守らせるため手近にいたアイラの心を縛ったとしたら。さらには彼女が偽りの愛情と気づいたとしたら。果たして、アイラは今まで通り少年を愛することができるのだろうか。
目の端でアイラの顔を捉《とら》える。が、彼女の表情に変化は見出せなかった。そこまで考えが至らなかったのか。それとも疑問をさしはさむ余地が残されていないほど、ヨシュアに向けられた愛情が強固なのか。
――穿《うが》ち過ぎだ。
と、ガルーは頭を振って追いはらおうとした。だが、一度抱いた疑念は黒いシミとなって心に残った。
恐らくは真実を知る唯一《ゆいいつ》の人物であるグラシアは沈黙を守り、神秘的な輝きに満ちた青い瞳《ひとみ》をじっと父親に向けていた。
その視線に耐えられなくなったように、アダモは顔を背けた。
「……埒《らち》もないことをいった。いくら救世主候補とはいえ、産声をあげたばかりの新生児にそのような力があろうはずもない。それにわたし自身信じたい。一〇年前にとった選択が間違っていなかったことをな」
獅子《しし》は自分にいい聞かせるようにいった。その隣でアイラが熱意をこめてなん度もうなずいた。
アダモは回想に戻った。
道士[#「道士」に丸傍点]アダモは、心中に生じた変化を圧《お》し隠した。数十人からの錬金術師が携わる組織を挙げての大計画だ。いくら中心人物であっても、組織の方針に反する思想の持ち主と知れれば、即座に計画から外されてしまうだろう。ふたりを守るためにも、それはなんとしても避けたかった。
「だが、それも無駄な努力だった。なぜならば、とうにデルは気づいていたのだ」
ヨシュアとグラシア――ふたりは共に大いなる資質を具《そな》えているはずだった。古《いにしえ》の伝承に倣《なら》うならば、どちらかが救世主であり、どちらかが魔王である。しかしなにをもって分けるのか。この時点において判断基準などありはしなかった。
「わたしは時をかけるべきだと主張した。分け隔てなくふたりを育て、成長した段階で、聖魔いずれに分かれるのか判断すべきだと。だが、わたしの唱える正論は通らず、組織は――いやデルは、ヨシュアを魔王と定めた。それも産まれ落ちる以前にだ」
獅子の声音は呪詛《じゅそ》の響きを秘めていた。
「――なぜ!」
アイラが声を荒らげる。
「あの子が先天的な〈白子《アルピノ》〉だったからだ」
胸に名状し難い憤りが込みあげる。
――肌や髪が白いって、そんなに悪いことなの! 白かろうが黒かろうが、関係ないじゃないか。産まれる前の罪もない子どもが、どうしてそんなことで差別されなきゃならないのさ。
声にならない心の叫びに、アダモはこう答えた。「理由などない」――と。
金髪と碧眼《へきがん》は確かに救世主の証《あかし》だ。グラシアとて生まれながらに髪が金色に輝いていたわけではなかった。
「わたしはこう解釈している。白とは本来忌むべき者の証ではなく、どの色にも染まる可能性を秘めている者のことを意味すると。しかし――!」
一瞬、獅子の体が青白き炎に包まれたように見えた。
「デルは民間に広がる迷信をもってヨシュアを魔王と決めつけた。そして産まれたばかりの赤子の背に〈魔王の烙印《らくいん》〉を押し、陽《ひ》も差さぬ地下牢《ちかろう》にとじこめたのだ」
アイラの脳裏に忌まわしき光景が甦《よみがえ》った。わずか数時間前の体験だ。忘れようとしても忘れられない。いや長い歳月を経ても色あせることはあるまい。
ここからいくらも離れていない崩れかけた建物の下に、その場所はあった。
地の底に通じているような長い階段を延々とくだり、重々しい鉄の扉をいくつもくぐり、ようやく辿《たど》りつく。
冷たい石壁に囲まれた暗い小部屋――一〇年もの間、ヨシュアは外界から遮断されて暮らしてきた。
部屋には暖をとる火もなく、少年は一枚の毛布にくるまって寒さをしのいだ。粗末な衣服は穴だらけ。洗濯しないため常にすえた匂《にお》いがした。家畜の餌《えさ》なみの食事は、ぎりぎり生を保つだけの量しか与えられない。そして目にする人間といえば、一片の情も持ちあわせない看守だけ。
ヨシュアは囚人としてどころか、人間として扱われていなかった。そもそもアダモに救出されるまで、一度も陽の光を見たことがなかったという。
それを知った時、アイラの胸は形容し難い憎しみと悲しみがせめぎあい、とても正気を保てなかった。そして心底から呪《のろ》った――ヨシュアを暗黒の牢獄《ろうごく》に追いやった張本人デルを。
「未来の救世主として認められたおまえは、なんの不自由もなく、一国の王女のように人々にかしずかれて暮らしてきた」
一転して、アダモの口調は訴えかけるものとなった。組織を弾劾《だんがい》しようとしても、直接の当事者が不在では空回《からまわ》りするだけだ。
「責めているのではない。周囲の人間はみな固く口を閉ざしていただろう。おまえとて覚醒《かくせい》するまでは、同じ星の下《もと》に産まれながら、正反対の境遇に置かれた者の存在に気づかなかったはず。少しでも兄に哀れみを感じたならば、父の願いを聞きとどけてくれ。今少しの猶予をあの子に与えてくれ」
「――そうはまいりませんわ」
と、グラシアは応《こた》える。感情を殺した抑揚のない響きが、ひどく冷淡に聞こえた。
「お父さまがどうおっしゃろうと、わたくしの心は動きません。それに……お考えになったことがありますか。兄を救世主と看做《みな》すことは、すなわちわたくしが魔王になるとおっしゃっているも同じだと」
グラシアの投げかけた言葉に、獅子はひどく動揺を示した。
負けじとアイラが叫ぶ。
「なんだい。虫も殺さぬ善良そうな面《つら》をして。結局のところ、自分可愛さにヨシュアを殺そうとしているんじゃないか。なにが救世主だい。聞いて呆《あき》れるよ」
――いわせておけば!
使徒ケセドの胸に、どす黒いものが広がる。横目で主の顔色を窺《うかが》う。主と下僕の間には精神的な強い繋《つな》がりがあり、距離にかかわらず瞬時に意志を伝達できる。しかしグラシアがその糸を断ちきると、使徒の側から感情を知るすべはなくなるのだ。
手だししてよいものか、ケセドはためらいを覚えた。
その時だ。
「我が至高の主に対する暴言の数々――黙っていられませんな」
暗がりから声が飛ぶ。
ザザザザ――ッ!
同時にアイラたちの頭上を羽ばたきの音と共に通りすぎる。
その後になにかがひらひらと舞った。
「これは……鳥の羽根?」
驚き醒《さ》めぬアイラたちの前に、声の人物が姿を見せる――背後に山のような巨漢を従えて。
その横に両の腕を鷲《わし》の翼に変えた女が舞い降りる。女は巨漢から黒い薄手の布を受けとると、白い羽毛に覆われた細身の体に巻きつける。すると一枚の布に過ぎなかったそれが、見る間に立派な仕立ての外套《がいとう》と化した。
ふたりの従者を引きつれた男が、頭巾《ずきん》を後ろにずらす。眼光が異常に鋭く、口元に酷薄の笑みを浮かべている。猛禽《もうきん》類を思わせる目と鼻の形が、ある人物を想起させる。
「――き、きさまは」
獅子の顔が強《こわ》ばっていた。
見覚えがあるも道理だ。彼こそはグラシアの現側近にて、デル・イグナチウスの息子――ヘルマー・アフラサクスであった。
[#挿絵(img/04_087.jpg)入る]
6
部下が現われても、グラシアはまったく驚いた様子がない。宇宙的視野を持った彼女である。部下の動きなど、意識せずとも手に取るようにわかるのだろう。
ヘルマーは主に一礼してのち、アイラたちの前に進みでた。
「お久しぶりです、〈道士《アデプト》〉アダモ・イリアステル・ルスパニス殿。そのお姿に変わってからは、初めてお逢《あ》いしますな」
道士《アデプト》とは、奥義を極めた錬金術師《アルケス》に対する尊称である。ヘルマーの口調は慇懃《いんぎん》だったが、口元に張りついた薄笑いを隠そうとはしていない。
獅子《しし》が敵意の唸《うな》りを発する。
「……やっと顔を見せたか。この場にそなたが居合わせぬはずがない。念願|叶《かな》い、ようやくグラシアが重い腰をあげたのだ。ヨシュアの抹殺を望んでいたそなたにしてみれば、小躍りしたいほどの喜びだろう」
ヘルマーは肩を竦《すく》める仕草を見せた。
「とんでもない。目障《めざわ》りな小石を脇《わき》に蹴飛《けと》ばす程度のことで誰が喜ぶものですか。だいいち、グラシアさまが自らお出ましになられる必要がどこにあります。我らにひと言命じるだけで済んだ話です。〈使徒〉が手を下すまでもない。〈獣士《ル・ヴィード》〉でも、あなたがたを一掃するには充分というもの」
両脇《りょうわき》に控えるふたりの従者――第五使徒〈牛〉のゲープラと、第六使徒〈鷲《わし》〉のティファレイ――が、喉《のど》を鳴らすごとく嘲笑《ちょうしょう》を洩《も》らした。
ガルーの血が怒りに滾《たぎ》る。無意識に大型雷発銃の筒先をあげかけるが、素速くアイラが制した。
遅れてきたガルーにも、救世主と称する女と黒装束の部下たちの力が、片鱗《へんりん》なりと見えてきている。そこに新たに三名の敵が加わったのだ。感情に任せて動けば、どのような結果をもたらすか、火を見るより明らかだ。
ガルーは改めてヘルマーに目をやった。彼が知っているのは、デルの実の息子であり、父親を追い落として今の地位に就《つ》いたということだけだ。恐らくは同じ錬金術師であろう。
デルは不気味な男だった。確かに配下の獣人は強敵であり、魔法のごとき錬金術《アルケミー》には対処のしようがない。
が、ガルーにとり畏怖《いふ》の対象にはなりえなかった。正面から斬《き》りむすばぬ相手は、いかに力があろうとただの臆病《おくびょう》者であり卑怯《ひきょう》者に過ぎぬ。あれが錬金術師というものなら、ものの数ではない、と思った。
見くびるのではない。戦士としての自負が、デルを敵とみなすことに強い忌避感を抱かせるのだ。
だが――
若い錬金術師の目に捉《とら》えられた瞬間、ガルーは首筋に刃《やいば》を当てられたような気がした。居並ぶ使徒たちとは明らかに異質な存在だ。
使徒には威圧感を覚える。恐らくは未《いま》だ〈力〉を抑えているのだろうが、それでも息詰まる。対してヘルマーに感じるものは恐怖だ。理屈抜きに「怖《こわ》い」と体が訴えている。近寄ったが最後、なにを仕掛けてくるかわからない。実際の話、萎縮《いしゅく》しそうになる肝《きも》っ玉《たま》を奮いたたせておくのは至難の業だった。
ヘルマーは父親《デル》とは違う。少なくともホムンクルスなる人造|矮人《わいじん》を身代わりに寄越すような真似《まね》はするまい。この場でも、部下の力を当てにしているとは思えない。悠然たる態度は、自己に大いなる自信を持つ者のそれだった。
だとしても、自信の拠《よ》りどころがどこにあるのか――錬金術を用いた奇跡の道具なのか、はたまた本人自身の力なのか――今の段階では判断しようがなかった。
「加えるに」
と、ヘルマーが続ける。
「あなたはまるでわたしがすべてを仕組んだように申されるが、我が至高の主は、側近ごときの言に惑わされる御方ではありませんぞ。もちろん、我が子を憎めぬ、親心はご理解いたしますが……」
獅子はフンと鼻を鳴らした。
「片腹痛いわ。ふたりの使徒〈虎《バルド》〉と〈豹《パイジャ》〉を動かし、ヨシュアを襲わせたこともグラシアの命令だといい張るのか」
「わたしは『監視にとどめよ』といい渡した。彼らは錬金術師デル・イグナチウスの口車に乗り、我が命《めい》を破ったのだ」
ヘルマーは慇懃《いんぎん》さを捨て、平素の言葉遣いに戻した。
「ほう……するとそなたは、組織に弓引く充分な動機がある男の許《もと》に、大事な使徒を送りつけながら、予防措置をまったく取らなかった、と申すのだな。血の繋《つな》がりとやらも、存外当てにならぬとみえる」
「迂闊《うかつ》であった、と認めよう。だが、組織を追われた者に批判を受ける筋合いはない」
「では、わたしやエディラを檻《おり》から出し、この地に幽閉されていたヨシュアを救いださせたのはなんのためだ」
アイラとガルーの眼《まなこ》が大きく見開く。アダモたちが敵に囚《とら》われていたとは初耳だ。しかも敵の手で解きはなたれたなどありうることなのだろうか……。
ヘルマーが冷笑を浮かべた。
「ふふ……わたしの仕業というのかね。反対に伺いたいものだ。それがわたしになんの得がある」
「いいだろう。しらをきるというならば、わたしが教えてやろう。そなたはヨシュアを始末したがっていた。それも一刻も早くな」
「否定はしない。魔王など救世主を際立たせるために配された敵役だ。いずれは倒す相手ならば、力が弱いうちに叩《たた》けば苦労も少ない。実に明瞭《めいりょう》な理屈ではないか。我が敬愛する前側近殿は、〈伝承《カバラ》〉を歪《ゆが》める行為だ、と散々にわたしを罵倒《ばとう》したが、あなたもご同類か」
「……その点に関してはな」
獅子は不機嫌に応《こた》えた。デルの同類といわれて面白いはずがない。
「そなたがことを急ぐ理由は他にもある」
「ほう……それは?」
「他の錬金術組織の存在だ。彼らも〈伝承〉に従い救世主の創造を試みている。確かに、グラシアを擁する〈混沌《こんとん》の庭〉が一歩も二歩も先んじていよう。が、ここで停滞しては〈金の三角〉や〈鋼鉄の心臓〉に追いつかれてしまう」
ヘルマーは笑いだした。
「くく……奴らが創《つく》りだす救世主など紛《まが》いものよ。よくできた贋作《がんさく》も所詮《しょせん》本物の前では輝きを失う。そのことは、この時代で唯《ただ》ひとり〈|大いなる秘法《アルス・マグナ》〉を極めた、あなたが一番知っているのではないかね」
「お褒《ほ》めにあずかって恐縮するが、古エルマナの叡知《えいち》を受けつぐのは、なにもわたしひとりではない。〈混沌の庭〉が有利であることは動かし難い事実だ。しかし、彼らとて時間を費やせば、真の叡知に辿《たど》りつく可能性はある。それに……」
アダモは思わせ振りに笑った。
「去年、上エルマナに出現した救世主……なかなかに民衆の人気を集めているようではないか。多くの僧会、神殿が帰依《きえ》したそうだな。確か……あの地は〈金の三角〉のお膝元《ひざもと》のはず」
「む……」
ヘルマーの顔色が初めて変わった。
「たとえあれが贋物《にせもの》としても、民衆が支持すれば本物となりうる。後から出てきた者にとっては、やりにくいことこの上ないだろう。下手をすれば、互いに救世主を奉じて殺しあう宗教戦争に発展する。もっとも、次なる〈大災厄〉を回避できたとしての話だ。大地が消えてしまえば元も子もあるまい」
「…………」
「グラシアを救世主――いや、神として祭りあげ民衆の支持を得る。その力を背景にして他の錬金術組織を含めて旧体制を一掃する。そしてグラシアを頂点とする強力な神権政治体制を築く。夢想家どもが描く千年王国《ミレニアム》の完成だ。そのためにも、そなたはグラシアが救世主として早く世に出ることを望んでいた。
ところが、いくら説いてもグラシアは一向に首を縦に振らなかった。ヨシュアが本当に魔王となるか、確信が持てなかったからだ。そこで、そなたはヨシュアの危険性を目に見える形で示そうとした。今の[#「今の」に丸傍点]あの子を野に放てば、人の社会に少なからぬ混乱をもたらす。〈白子《アルピノ》〉という外見ではない。身の裡《うち》に潜む〈力《マギ》〉がそうさせるのだ」
アダモは死に絶えた街並《まちな》みを見渡して、
「しかし人間社会から隔離されていてはそれも叶《かな》わぬ。幽閉を解こうにも、ヨシュアの処置はグラシアに委《ゆだ》ねられている。いくらそなたでも、主の意に逆らう真似《まね》はできぬ。
そこで一計を案じた。〈塔《ストウパ》〉の警備をわざと緩めて我らを檻《おり》から解き放つ。さすれば、放っておいても、ヨシュアを外界に連れだすに違いない……とね。
わたしはマンマと乗せられた。それ以外とる途《みち》が閉ざされていたというべきか。そなたの思惑通りにわたしとエディラは動くしかなかった。
ダスターニャにおけるデルも駒《こま》のひとつだ――いや、そうではないな。そなたたち親子の仲はとうに修復不可能だ。『ヨシュアを魔王に仕立てあげる』という点において、ふたりの利害がたまたま一致したと見るべきだろう。奴もまた内心|歯噛《はが》みしながらも、息子の思惑に乗らざるをえなかったのだ。
ダスターニャの暴動は、子どもたちを明瞭《めいりょう》に色分けした。ヨシュアは暴動を誘発させた張本人として憎悪の対象とされ、グラシアは暗澹《あんたん》に暮れる人々に光明をもたらす救い主となる。辺境区の小さな町とはいえ、〈都〉から派遣された高級官吏もいる。責任を免れるためにも罪をヨシュアひとりに押しつけるだろう。また町と町を繋《つな》ぐ交易商人が『白き魔王の出現と、女神の降臨』の報を声高に触れてまわるに違いない。そなたにしてみれば、父親は期待以上の働きをしてくれたわけだ。
そして、グラシアは暴動直後のダスターニャを視察し、ついにはヨシュアを討つ決意を固めた……実に見事としかいいようがない。悪魔にまさる狡猾《こうかつ》さだよ」
アダモは言葉を締めくくり、「どうだ」とばかりに相手を睨《にら》む。だが若き錬金術師は、いささかも動揺を示さない。それどころか笑いの衝動をこらえるかのように、低く喉《のど》を鳴らしていた。
「――だからどうした、というのかね」
口端を吊《つ》りあげたその笑顔は、驚くほど父親《デル》に酷似していた。
獅子は息を飲む。
「裏切りを認めるのか!」
「笑止。わたしがなにを企もうと、グラシアさまの〈神の目〉を欺けると思うのか。隠すも隠さぬもない。至上の主はすべてを見通されておられる。我が忠誠心も含めてね。わたしのとった行動が、主君への裏切りに当たるならば、とうの昔に処罰されているのではないかね」
「う……」
「わたしはグラシアさまの願望に添って動いていただけだよ。あえて申すならば、わたしの行動は、主の意志そのものだ」
アダモはグラシアをまじまじと見つめる。微笑《ほほえ》みという名の「仮面」は余人に心を窺《うかが》わせない。が、なによりも否定も肯定もしない態度が雄弁に語っているではないか。
「堕《お》ちたものだ」
ヘルマーが唾棄《だき》するようにいった。
「奥義を極めた大道士《アデプト》ともあろう者が、そのような自明の理もわからぬとは。見かけ通り、頭の中身まで畜生に成りはてたか」
「き、きさま……」
獅子のたてがみがざわっと逆立つ。
「それ、そのようにすぐに血をのぼらせるが証《あかし》よ。幼少のわたしに『冷徹な心こそ錬金術師に不可欠な素養』とのたまわったのは誰であったかな。血の繋《つな》がりなどという俗人の感情を抱いた時から、おまえの破滅は決まっていたのだ」
「ぐっ……」
目も眩《くら》むような怒りが湧《わ》きあがり、にわかに声が出ない。
「――お父さま、なにをおっしゃられても無駄ですわ」
グラシアが進みでる。
「先程も申しあげましたでしょう。誰に罪があるかなど関係がないと。わたくしはわたくしの信念に基づいて行動するだけです」
「むう……」
獅子が気圧《けお》されたようにあとずさる。グラシアの決意は鋼《はがね》のように堅固だ。翻意を促す試みは失敗に終わった。だとすれば、もはや戦いしか残された途《みち》はない。最も恐れた兄妹同士の争いが始まろうとしている。こうなってはアダモも肚《はら》を据える他はない。
グラシアの視線が父親から、その傍《かたわ》らに立つアイラたちに移る。
「父は兄に殉じる覚悟を決めたようです。あなたがたはどういたしますか。この場を去りますか。それとも――」
「わざわざ念を押す必要はないよ」
アイラは拾いあげていた細剣を構えた。誤解しようもない明確な意思表示である。
「あんたはどうする? 坊やを嫌っているんだろ」
「もちろん大嫌いだ」
ガルーはニヤリと笑い、雷発銃の筒先をあげる仕草を見せた。
「けれど、あのガキが死んだら俺《おれ》の命もおしまいだ。守ってやるしかねえだろう。それに逃げるにしても、こいつが納得してくれないからな」
「がるー!」
赤毛の少女が喜びの声をあげて抱きつく。そのぼさぼさの髪をガルーは荒っぽくかき乱した。アイラは艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》み、
「おや、いつの間にそんなに仲良くなったんだい。でもがっかりだねェ。嘘《うそ》でもあたしのためといって欲しかったよ」
ガルーが真っ赤になる。外見がどう変わろうと中身は昔のままだ。それを見たティアはむっと顔をしかめる。
「アイラ、それにガルー」
と、アダモが呼びかける。
「よいのか? 勝ち目はまるでないのだぞ。去ったとしても恨みはしない。それどころか、ここまでよくやってくれた、と礼をいいたいくらいだ」
「縁起が悪いぜ、獅子《しし》のおっさん。俺たちは諦《あきら》めちゃいない。あんたの不肖の息子も含め、まだまだ死ぬには若過ぎるってもんだ」
「そうよ。口先ばかりの正義を唱える連中のいいなりになる気はないわ。救世主がなによ。世界を救う? 正直、聞いてて虫酸が走ったわ。坊やを魔王と決めつけるならそれもいい。こんな腐りきった世界、滅びたって、あたしゃ全然胸が痛まないわ。いっそ、きれいさっぱりなくなったほうがせいせいするってもんよ」
「魔女め……ついに本性を顕《あらわ》したか。やはり魔王の手下というべきだな」
巨漢ゲープラが苦々しい声を吐く。
アイラは気にもとめない。それどころかグラシアに向かってなおも啖呵《たんか》を切る。
「世間知らずのお嬢ちゃん。もしあんたが救世主だっていうなら、まず世の中をなんとかしてごらん。この寒空の下、居場所もなく凍えている人間がごまんといるんだよ。奇跡の〈力《マギ》〉とやらで、家や食べ物を与えてごらんよ。それができるんだったら、あんたの前に跪《ひざまず》き、足に接吻《せっぷん》してやるさ」
「いっ、いわしておけば――」
ゲープラの顔が見る間に紅潮する。飾りと思っていた帽子の両側に生えた角が、さらに大きさを増す。鳥女ティファレイも顔に変化《へんげ》が生じる。鼻と口が前にせり出し、鳥の嘴《くちばし》の形をなしていく。同時に髪が一本もない頭に綿のような羽毛が生じる。
主の命令も待たず、飛びだす気配だ。
「両名とも控えよ」
ヘルマーが体で遮るごとく、アイラたちとの間に割って入る。
「この期に及んでためらう必要があろうか。いくら主が海よりも広く寛大であらせられるとしても、これ以上好き勝手に喋《しゃべ》らせるわけにはいかん」
ゲープラの鼻息は荒い。
「その通りだ。しかしおまえたち使徒が手をくだすまでもない」
ティファレイは側近の企みを察し、目に喜悦の輝きを宿す。
「高みの見物としゃれこむと? ふふ、それも一興でしょう。ですが、踊り娘《こ》の息の根を止める役は、是非ともわたくしめに譲っていただきとうございます」
「なるほど、|想い人《バルド》の敵討ちというわけか。よかろう、その役は任せよう。自慢の爪《つめ》で五体を引きちぎってやるがいい」
「おい、勝手に話を進めるな」
ゲープラが食ってかかる。
「連中に命じるくらいならわしにやらせろ。不完全とはいえ、あいつらも〈使徒〉だ。少しは骨があるだろうさ。連中に渡すにはもったいない」
「――そいつはどうかな? 鈍牛には過ぎたオモチャなんじゃない」
突然、ゲープラの頭の上に紫色の髪をした少年が現われた。姿をくらましていた〈山猫〉のテューレである。
「き、きさま、どこに腰かけている。こら、わしの角に触るな。とっとと降りんかっ!」
頭上に伸びたゲープラの腕に掴《つか》まれる寸前、少年の姿がかき消えた。そして一瞬のうちに地面に降りたっていた。
「テューレ、きさま、今までどこで遊びほうけていた」
「あんまり退屈だもんで、そこらをうろついていただけだよ。でも、そろそろ面白くなってきそうな気配じゃない。だから慌ててすっ飛んできたのさ」
「きさま、遊びと勘違いしているではないか。不謹慎もはなはだしいぞ」
「さっきから『きさま、きさま』と気やすいんだよ。あんたは第五使徒。俺《おれ》さまはタイフォン、ネフシスに次ぐ第三位だぜ。言葉には気を遣ってもらいたいな」
「こ、このォ……口の減らない根性曲がりのマセガキが」
ゲープラは湯気が立ちそうなほど、頭に熱い血をのぼらせていた。細いテューレの体は、ゲープラの足一本分の大きさもない。端で見ていると、火薬庫の前で火遊びする子どものような危うさがあった。もっとも、ふたりの喧嘩《けんか》は日常茶飯事なのだろう。グラシアの使徒たちは眉《まゆ》ひとつ動かさない。
「そこまでにしておくのだな」
と、ヘルマー。叱《しか》るでもなく諫《いさ》めるでもない平板な口調だが、ゲープラの血の気が見る間に退《ひ》く。怖《こわ》いもの知らずのテューレまでが思わず口を噤《つぐ》んだ。若き側近を、心の底から恐れている証拠である。
「両名とも一切の手出しを禁じる。処罰を受けたくないならば、大人しく見物していることだ」
ヘルマーは膨らんだ袖《そで》の中から小さな筒のようなものを取りだす。
アイラたちの体に緊張が走る。ガルーは錬金術師に狙《ねら》いをつけ、いつでも必殺の鉛玉を浴びせられるように構えた。
手に握られているのは銀製の笛だ。口に咥《くわ》え、息を吹きこむ。音は出なかった。少なくともアイラとガルーには聞こえなかった。
アダモとティアが顔をしかめ、エディラが短いいななき[#「いななき」に丸傍点]と共に首を振り、尖《とが》ったふたつの耳を神経質にひくつかせた。
人間の可聴範囲を越えた高音域の音だ。ヘルマーが咥える笛から発せられている。猟師が犬を呼びよせる際に使う犬笛の類《たぐい》であろう。
笛の音を合図にして、廃墟《はいきょ》の陰に身を潜めていたなにか[#「なにか」に丸傍点]が一斉に活動を始めた。声もあげず、走る足音も立てず、瓦礫《がれき》の上を吹きぬける風と化して音のする方向を目指した。アイラたちが気づいた時には、庭園は姿を見せぬ影によって幾重《いくえ》にも囲まれていた。
獅子が牙《きば》を剥《む》く。
「我らを〈獣士《ル・ヴィード》〉と戦わせるつもりか!」
若き錬金術師がせせら笑う。
「力量を正当に評価しただけだ。末席近いバルドやパイジャならいざ知らず、グラシアさまのおそばに仕える栄誉を与えられた高弟と、まともに張りあえるものか」
「むう……」
ヘルマーは背後にいる主に目を向けた。皆殺しの許しを得るため――というより、最後に残った情のかけらを捨てさせるためだ。
果たして、グラシアの輝く黄金の髪が内心の葛藤《かっとう》を表わすかのように明滅する。が、それもわずかな間のことだった。
高貴な笑みを浮かべたまま、はっきりと女神は首をうなずかせた。
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【第二章 仮面――ペルソナ】
1
ドゴォォォォォォン!
廃墟《はいきょ》に銃声が轟《とどろ》く。音が吸収される樹海と違い、巨大な墓標のような石の建物が林立するこの地では、こだまとなって残響する。
暗闇《くらやみ》から躍りでた獣人《ヴィージャ》の腹に鉛弾丸《なまりだま》が命中した。ガルーの大型三連装雷発銃から発射されたものだ。獣人はまるで猛牛の体当たりを食らったように宙を飛んだ。
これが死闘の幕開けとなった。
現われた敵は、灰色の剛毛に覆われた人間の体に狼《おおかみ》の頭を乗せた「狼|獣人《じゅうじん》」だ。
下エルマナに出没する獣人の多くがこれだ。性格は残忍にして狂暴。力ばかりではなく動きの素速さが信条である。また集団戦を得意とし、狩りのごとく一糸乱れず確実に獲物を追いつめる。眷族《けんぞく》たる狼の群れを率いることもある。
アイラとガルーを乗せた装甲馬車を襲撃したのも狼獣人で、完全武装の衛士十数名がわずか一匹の獣人に皆殺しにされている。また、デルが野営中の一行を襲わせたのもこれだ。
白い獅子《しし》が咆哮《ほうこう》をあげて駆ける。顎《あご》をいっぱいに開き、獣人の喉《のど》に食らいつく。上下に並んだ鋭い牙《きば》が柔らかい喉に食いこむ。頸動脈《けいどうみゃく》が破れ、口内に生暖かい鉄の味がする液体が広がる。そのまま獅子は容赦なく気道ごと喉を引き裂いた。
ひゅーという空気が抜ける音がして、獣人は息絶えた。
休む間もなく前方から別の獣人が迫る。巨躯《きょく》を活かして体当たり。地に転がった敵の胸板を踏み潰《つぶ》し、とどめとばかりに前肢の爪《つめ》で喉を裂く。相手は不死身と称される化け物である。こうしない限り、いつまた復活してくるかわからない。
複数の敵が襲いかかってきた。今度は避けようもない。牙や爪を立てられ、純白の毛並みが見る間に赤く染まる。
たてがみが逆立つ。まるで獅子の体に高圧の電流でも流れたかのように、食いついていた獣人たちが慌てて飛びずさる。
獅子が喉を鳴らして首を巡らす。すると遠巻きにしていた獣人たちが身を竦《すく》ませた。明らかに恐れをなした仕草だ。
アダモは怒りの雄叫《おたけ》びをあげ、獣人の群れに躍りかかった。
「イヤァァァァァァ!」
裂帛《れっぱく》の気合いが響き、七色の光が乱舞する。黒髪の美女が打ちふるうオリハルコンの細剣が放つ輝きだ。このアトランティス製の武器は、所有者の気力や生命力といったものをエネルギーに転化して、通常の剣では不可能な凄《すさま》じいばかりの切れ味を生む。斧《おの》をも弾《はじ》く硬い木だろうが、まるでバターのように斬《き》りさくことができるのだ。
剣が一閃《いっせん》するたびに獣人は五体のどこかを斬られ、血|飛沫《しぶき》をあげる。的確に急所を狙《ねら》えないのは、剣技の未熟さ故だが、体|捌《さば》きと剣速は達人級である。獣人たちはアイラに指一本触れられず、いたずらに傷を増やしていった。
「グォォォォォォッ!」
一匹の獣人が、なんと真正面から突進してきた。それも羽ばたく鳥のように両手を広げて。相手が隊商の衛士ならば怯《ひる》みもしようが、この場合は無謀という他はない。
アイラはためらわず獣人の胸を、それも急所である心臓めがけて細剣を繰りだす。電光石火の突き。鋭い切っ先は厚い胸板をいともたやすく破り、確実に心臓を刺し貫く。
が――
心臓を貫かれ死ぬはずの獣人が、広げた両手をアイラの背に回して抱きしめる。
「ああっ!」
体を締めつけられ、アイラは苦悶《くもん》の呻《うめ》きを発した。かろうじて剣を離さずにいるが、まったく身動きがとれない。
「グァ!」
遠巻きにしていた仲間に向かって吠《ほ》える。「俺《おれ》に構わず攻撃しろ」という意味だろう。獣人たちは牙《きば》を剥《む》き、自由を失ったアイラに向かって襲いかかる。
白い疾風が駆けぬけ、獣人が次々に跳ねとばされていく。アダモだ。仲間の窮地を救うべく白獅子《しろじし》が駆けつけたのだ。しかし彼にしても、群れを一時的に遠ざけることは可能でも、密着した獣人をアイラから引きはがすことはできない。獣人もろともアイラを傷つける危険性が高い。
仲間の助けが得られぬと知った獣人は、独力で獲物をしとめる気になった。
狼《おおかみ》の口から多量の血が溢《あふ》れる。一秒ごとに全身から血の気が退《ひ》くのがわかる。化け物といわれようと獣人も生き物である。心臓を破壊されれば死ぬ。ただ脅威的な生命力で、少しばかり生きながらえているだけの話だ。
残り少ない力を注ぎこみ、抱いた獲物の締めつけを強める。弱っていようと、華奢《きゃしゃ》な人間の女ごとき、全身の骨を粉々にできるはずだ。確かに普通の人間ならば、その通りの結果に終わり、この獣人も満足して死んでいっただろう。
しかしアイラは外見こそ華奢《きゃしゃ》な女だったが、普通の人間ではなかった。体が軋《きし》みをあげながらも、骨は一本も折れず、獣人の締めつけに耐えている。むしろ力を強めれば強めるほど、抵抗が増していくようだ。
毛むくじゃらの腕が、じわりじわりと外に広がる。アイラがその細い腕で締めつけを解きにかかっているのだ。
なんという力――!
「いつまで抱きついてんのさ!」
オリハルコンの細剣が目映《まばゆ》い閃光《せんこう》を放つ。爆発的なエネルギーが放出され、剣身の周囲の肉や骨、内臓を瞬時に蒸発させる。獣人の胴体に大穴が開き、肉が焼けた匂《にお》いがあたりに漂う。獣人は息絶えてその場に崩れる。
アイラは体を屈《かが》めて荒い息をつく。この攻撃は著しく体力を消耗し、一時的に無防備になる欠点がある。アダモの援護がなければやられていただろう。
アイラが頭を起こす。顔面は紅潮し、びっしりと玉のような汗が浮かんでいた。
握る剣に輝きが戻る。彼女が剣を使いこなしてきている証拠だ。先程の攻撃では、必要以上のエネルギー消費を抑えることができたのだ。
顔にかかった髪を後ろに撥《は》ねのけ、獣人の群れをきっと睨《にら》みつける。
「――こんなところで死んでたまるか」
返り血を全身に浴び、輝く剣を構えた姿は、息を飲むほど美しかった。
甲高《かんだか》いいななきがあがる。
黒馬エディラの背に獣人が飛びついた。太い首に腕を回し、牙《きば》を食いこませる。動きがとまった黒馬に、あたりにいた獣人が一斉に飛びつく。
「――エディラ!」
アイラが助けに駆けつけようとした。
だが助けなど不要だった。
エディラが脚力にものをいわせ、背を埋め尽くす敵を乗せたまま宙に高々と飛びあがった。翼が生えたのかと思えるほどに。
最初の跳躍では一匹しか振りおとせない。二度、三度と続いては、さしもの獣人も耐えられなかった。地面に叩《たた》きつけられた獣人は体を起こす暇もなく、次々に馬蹄《ばてい》にかけられ頭蓋《ずがい》を割られていった。
エディラの戦闘力は予想外に高い。蹴《け》り、噛《か》みつき、体当たりする。元来馬は臆病な生き物だが、エディラには当てはまらない。長い漆黒のたてがみを振り乱し、勇猛果敢に戦うその姿は「地獄の悍馬《かんば》」そのものだった。
ガルーも負けてはいない。弾倉に込められた三発の銃弾は、ことごとくが敵に命中。斃《たお》せないまでも重傷を負わせて行動力を大きく減じさせた。始末はアダモなりアイラなりに任せばいい。
この衰えた目と力でよく、と誰よりも本人が感心する。そして大型雷発銃の殺傷力は期待を裏切らなかった。
『雷発銃は獣人《ヴィージャ》に通用しない』――これが樹海の民の常識だ。
強靭《きょうじん》にして柔軟な筋肉と毛皮が、鉛弾丸《なまりだま》の貫通力を大きく減衰させるのだ。もちろんまったく手傷を負わないわけではないが、常識外れの生命力が、小さな傷ならばたちどころに再生させ、食いこんだ鉛弾丸を体外に排出してしまう。獣人が不死身の怪物と噂《うわさ》される所以《ゆえん》である。
ガルーが使う大型雷発銃は、通常の短銃よりはるかに大きい。口径にして実に四倍! 発射火薬の量も桁違《けたちが》いだ。しかも火薬の燃焼力を倍増させる添加薬を混入している。その威力たるや、まさに小型の砲弾と呼ぶに相応《ふさわ》しい。
ドコォォォォォォン!
四[#「四」に丸傍点]発目が獣人の肩に当たる。もんどり打って地面を転がる。致命傷ではあるまい。それでも凄《すさま》じい衝撃波が全身に広がり、内臓や神経にも大きな痛手を負わせたはずだ。やわな人間ならば、どこに当たろうとショック死している。野生動物に比べて神経が繊細過ぎるのだ。
獣人が幽鬼のごとくゆらりと起きあがる。肩の関節ごと肉を削《そ》ぎとられ、腕は皮一枚で繋《つな》がっている状態だ。傷口から夥《おびただ》しい血が吹きだし、出血死は時間の問題に思える。しかしガルーを睨《にら》む目は戦闘意欲を失うどころか、復讐心《ふくしゅうしん》を滾《たぎ》らせている。
ガルーの背にぞっと寒気が走った。
「――おっ死《ち》んでろ!」
雄叫《おたけ》びと共に五発目を撃つ。眉間《みけん》を狙《ねら》った弾丸はわずかに狙いを逸《そ》れて、顔半分を吹きとばす。
「きゃう!」
腰にへばりつくティアが短い悲鳴をあげる。
振りかえると、眼前に灰色の毛に包まれた狼獣人が迫っていた。
腰だめに構えた銃の筒先を向け、重い引き金を絞る。並んだ撃鉄のひとつが弾《はじ》け、弾倉内の実包の尻《しり》にある雷管を強打する。
鼓膜をつん裂く銃声。銃身内を灼熱《しゃくねつ》のガスと一緒に鉛弾丸が目にも止まらぬ速さで駆けぬける。強烈な反動が襲いかかり、ガルーは体ごと後方に飛ばされそうになる。
音速を越え衝撃波の尾を引いた鉛弾丸は、虚《むな》しく獣人の頭上を飛びさった。正確に狙いをつけたが、発射の瞬間、反動で銃口が跳ねあがってしまったのだ。構えが不充分というより、体力が尽きかけているせいだろう。今のガルーは暴れ馬のようなこの銃を抑えこむ力が欠けていた。
獣人の口端がわずかに歪《ゆが》む。「笑み」であろう。彼らは獣よりはるかに狡猾《こうかつ》である。雷発銃の弾が尽きたことを見抜いたのだ。
咄嗟《とっさ》にガルーはティアを脇《わき》に突きとばす。巻き添えを恐れて――だ。
獣人が無防備に等しいガルーに襲いかかる。ふたりはもつれあうように倒れた。
「ぐわああああああ」
悲鳴があがる。それは組み敷かれたガルーの喉《のど》から発したものではなかった。
馬乗りになった獣人の胸に、銃の先端に取りつけた短剣が深々と突きたっていた。
獣人とてそれが目に入らなかったわけではない。なんのへんてつもない短剣が、自慢の肉の鎧《よろい》を貫くとは思わなかったのだろう。確かに、隕鉄《いんてつ》を鍛えた〈流星剣〉でなければ、また咄嗟にガルーが侵入面に対して垂直に刃を立てなければ、根元からぽっきりと折れていたはずだ。
「嘗《な》めるなよ。弾丸《たま》が切れたって、牙《きば》を失ったわけじゃないんだぜ」
ガルーは組み敷かれた体勢のまま渾身《こんしん》の力を振りしぼり、銃ごと剣を押しさげる。肋骨《ろっこつ》を断ち肺を斬《き》りさく気だ。
獣人の口から血泡が弾《はじ》け、ガルーの顔面に唾液《だえき》混じりの鮮血が振りそそぐ。
しかし――
獣人が焼けた銃身を掴《つか》む。ジュジュッと掌の皮が焦げるが、獣人はなんの痛痒《つうよう》も覚えないようだ。状況は先程のアイラの場合と似ている。だが彼には相手を跳ね返す力がない上に、馬乗りにされてろくに身動きできない。有利な点といえば、敵の数が減り、他の獣人が襲ってこないことぐらいだろう。
顔面めがけて五本の爪《つめ》が迫る。ガルーは反射的に首を捻《ひね》り、それを躱《かわ》す。
ドカッ!
頭の脇に深々と陥没が生じ、ガルーも頬《ほお》を裂かれた。まともに当たれば頭蓋骨《ずがいこつ》を粉砕されていただろう。肺をひとつ潰《つぶ》されているのに、なんという怪力だ。
――くそったれ! 体がまともならば、てめえを真っ二つにしてやったのに!
ガルーは胸の中で悪態をついた。獣人の体重が腹にかかり、満足に呼吸もできない状態だ。
獣人が拳《こぶし》を振りかぶった。
その時だ――
獣人の背に子どもの狼獣人が飛びかかる。炎のような赤い毛並み、身にまとう泥まみれの貫衣――すっかり面変わりしているが、ティアに違いない。ガルーを救うために、今再び獣人に変身したのだ。
ティアは獣人の首の後ろに食らいつく。その小さな牙では皮を破れたかどうかも疑わしい。が、少女の決死の行為は、ガルーに逆転の機会をもたらす。
小うるさいティアを振りはらおうと獣人が腕を回す。その際、腰がわずかに浮き、押さえこんだガルーの体に自由が戻った。
――しめた!
即座に腰の銃帯に手を伸ばす。ペルーテで作らせた予備の弾倉が指先に当たる。獣人の胸に銃を突き立てたまま、台座側面の止め金を引き、空の弾倉を剥《む》きだしにする。素速く新しい弾倉に交換。元通りに台座を戻す。
「離れろ、ティア!」
ガルーの声に反応し、狼《おおかみ》少女は獣人の手を振りきって大きく飛びのく。
慌てた獣人が、再度ガルーを押さえこもうとする刹那《せつな》、銃口から火を吹いた。
ドコォォォォォォン!
灼熱《しゃくねつ》の弾丸が獣人の胸を突きぬけ、大きな風穴を残した。残った肺が破裂し、背骨を完全に粉砕した。ついに獣人は力尽きた。
「こいつ、まだ生きていやがる……」
逃れでたガルーは、斃《たお》した相手がまだ生きていることに気づいた。屍《しかばね》同然というのに、まだ四肢は起きあがろうとあがいている。
胃から酸っぱいものが込みあげてくる。
吐き気をこらえて、ガルーは獣人の頭にとどめの銃弾を撃ちこんだ。
「がるー!」
ティアが飛んでくる。見れば人間の姿に戻っている。つい数日前までは、かなり苦労しなければ変身できなかったのに、今はいとも容易《たやす》くやってのける。人間の言語を修得しはじめたことといい、驚かされることばかりだ。
「足手まといのお荷物と思っていたが、結構やるじゃないか」
内心感謝していても、素直に礼がいえないガルーだった。もっとも相手の思考を読んでいるティアには関係がなかった。
気づくと戦いは終わっていた。
夥《おびただ》しい数の骸《むくろ》が散乱し、むっとするような臭気が漂っている。酸鼻を極める光景だ。
アダモやエディラ、それにアイラも健在だった。激しい戦闘を物語るように、みな体を真っ赤に染めていた。むろん返り血ばかりではないだろう。ガルーやティアも例外ではなかった。
パンパンと拍手が聞こえた。
「――お見事。予想外の戦いぶりだったよ」
ヘルマーだ。
血まみれのアイラが、剣の切っ先を若き錬金術師に向かって突きつける。
「〈獣士《ル・ヴィード》〉とやらは全部始末したわ。今度はあんたたちの番よ」
戦闘時の興奮状態が持続しているせいか、疲れをまったく感じない。今ならば使徒たちにも勝てる気がする。
黒装束の使徒たちが揃《そろ》って哄笑《こうしょう》をあげる。
「なにがおかしいのよ!」
獅子《しし》が傍らに寄ってくる。
「アイラ、違うのだ。手ごたえがなさ過ぎる。こやつらは獣士ではない」
「なんですって!」
「そう、きみたちが斃《たお》した者どもは、樹海に徘徊《はいかい》する野生の獣人よ。脳を少しばかりいじって、我々の命令に従うようにしたがな」
アイラは眩暈《めまい》を覚えた。この上に敵が控えているかと思った途端、どっと疲れがのしかかってきた。
アダモが前に進みでて、
「我らを嘲弄《ちょうろう》する気か。それとも出し惜しみしたとでもいうのか」
「どちらでもない。そうだな、商人どもが使う『在庫整理』という言葉が近いのではないか。この獣人どもは、年寄りばかりでもう使い途《みち》がない。それでも雑兵《ぞうひょう》として組織のために今までよく働いてくれた。ならば最後に華々しく活躍させてやろうと思ってね。なにしろ戦うしか能がない連中だからな。まあ、舞台を盛りあげるための『前座』といったところか」
「な、なんてことを……」
アイラは憎しみしか覚えなかった獣人たちが急に哀れに思えた。彼らとて、錬金術師のおもちゃとなるために生まれてきたのではないはずだ。
ヘルマーが聞きとがめる。
「残酷といいたいのかね? 愚かしい感傷だ。踊り娘《こ》よ、きみも薬を買ったことぐらいあるだろう。病気を治すために飲んだ一包の薬が、どれほどの生き物の犠牲によって作られたものか、わかっているかね。いや薬ばかりではない。人間の社会は他の生き物の犠牲によって成りたつのだ。それも必要以上のな。処理場で殺される家畜と、きみたちに斃された獣人のどこが違うのかね。死は死だ。貶《おとし》める必要も、取りつくろう必要もないのだ」
「――――!」
アイラは返す言葉が見つからず、ただ唇を噛《か》んだ。すると獅子が慰撫《いぶ》するように、
「相手にするな。あの者たちとは住む世界が違うのだ。永遠に平行線を辿《たど》るだけだ」
「組織の中核にいた〈大道士《アデプト》〉の口から、そのような言葉を聞くとはね」
間髪を入れず揶揄《やゆ》が飛ぶ。
アダモが睨《にら》みつけるが、ヘルマーは平然と視線を受けながす。そして――
「お待たせしたね。では、獣士の登場といこう」
銀の笛を咥《くわ》えた。前と違って吹く時間は短い。
闇《やみ》の中に夜行動物の目とおぼしき光がいくつも浮かびあがる。
厚い雲の隙間《すきま》から差しこむ月光の下に、縞《しま》の毛皮に包まれた巨体が現われた。狼獣人よりふた回りは大きい。首の下だけをとっても先程の敵とは格が違う。そして肩の上には、虎《とら》の頭が乗っていた。
――虎獣人《とらじゅうじん》!
思わずアイラは生唾《なまつば》を飲み、ティアは悲鳴を洩《も》らしてガルーの陰に逃げこむ。ふたりの脳裏にダスターニャで戦った十二使徒のひとり〈虎〉のバルドの記憶が甦《よみがえ》っていた。とんでもない怪力と、巨体に似あわぬ身の軽さが印象的だった。敵にとって予想外の武器、オリハルコンの細剣があったとはいえ、斃《たお》すことができたのは僥倖《ぎょうこう》以外のなにものでもなかった。
「頭がすげ変わっただけじゃないのか」
と、軽口を叩《たた》いたのはガルーだ。虎獣人との戦闘経験がない。その彼にしても見かけ倒しでないことは察している。息詰まるような緊張に耐えられなかっただけだ。
「ふふ……確かに、このままでは芸がないというものだ」
ヘルマーは銀の笛を袖《そで》にしまい、代わってYの字型の金属棒を取りだした。
「なに、ただの音叉《おんさ》だよ。叩けば音が出るだけのな……当然、アダモ殿はご存じだろう。いかなる用途に使われているかね」
「錬金術師が使役獣人を制御する際に用いる道具だ。獣人の脳髄には特殊な〈針〉が埋めこまれており、音叉が放つ特定の波長に共振して脳髄の一部を刺激する」
「そう、〈針〉は一本ではなく、打ちこむ部位を変えることで、さまざまな指令を送ることができる。たとえば『死の音叉』というものがある。これを鳴らすと、いかに不死身の獣人でも脳を破壊されて死ぬ。人間にも応用が利く技術だ。これを打たれた者は絶対に裏切れない。洗脳の必要がなくなるわけだ。また『快楽の音叉』は、脳に麻薬に似た物質を生みだす。奴隷にもたまには飴《あめ》をしゃぶらせる必要がある。そんな時に便利だ。もっとも回数が過ぎると廃人になってしまうがな」
ヘルマーは薄笑いを浮かべる。
まさに悪魔の技だ、とアイラは思った。
「そして、この音叉だ。最近実用化されたばかりの〈針〉でね。長い間|牢暮《ろうぐら》しだったアダモ殿はご存じないだろう。まあ口で語るより、実際にその目で見てもらったほうがよかろう」
コォォォォォォン
静寂の廃墟《はいきょ》に甲高《かんだか》い金属音が響きわたる。
覚えがある音だ。デルが狼獣人を率いてきた際、〈街道〉で耳にした音に似ている。
虎獣人が一斉に苦しみだした。頭を押さえてうずくまる。頭蓋骨《ずがいこつ》の中に埋めこまれた〈針〉が悪魔の指令を伝えているに違いない。
縞《しま》の毛皮が変色――いや、全身の毛穴から汗のようなものが吹きだし、体を染めている。水銀のように光沢と粘りを持った液体だ。それが自ら意志を持つごとく、体表を移動し、特定の形をなしていく。
「おおお……」
アダモが目を瞠《みは》る。
虎獣人がなにもなかったように立ちあがる。その体には黒く輝く金属製の鎧《よろい》と兜《かぶと》が覆っていた。
2
硬化した液体金属が形成する黒い鎧は、まるで鏡のように艶《つや》やかだ。止め金や紐《ひも》の類は一切見えず、文字通り体と一体化している。意匠も無骨一辺倒の武具とは思えず、獣人の盛りあがった筋肉にそって優美な曲線を作っている。兜と肩当ての部分を除けば、紙のごとき薄さであり、とても装甲の役割を果たせるとは思えない。が、錬金術師が作ったものとなれば、見た目以上の強度を具《そな》えているのかもしれない。
「〈鎧獣人《よろいじゅうじん》〉……実用化に成功したのか」
アダモが発した声は、驚きよりもむしろ喜びを感じさせた。
「ふふふ……お蔭《かげ》さまでね」
ヘルマーが意味ありげに笑う。
「どういうこと?」
アイラの問いに獅子《しし》は顔を曇らせる。
「……あれは、わたしが考えだしたものなのだ。〈鋼鉄の心臓〉が擁する機械兵に対抗するには、獣士の防御力をさらに向上させなければならなかった。もっとも重い鎧をまとうことで極端に動きが鈍くなり、さらには鎧そのものの耐久度を高められないなど、数多くの解決不能な問題を抱えて、研究を断念していたのだが……」
「五年かかったよ」
と、ヘルマーが誇らしげに応《こた》える。
「では、そなたが?」
「まだまだ改良の余地は残されているが、この先、世代を重ねるごとに強さを増していく。そうだな、実験してみようか――そこのきみ」と、ガルーを指差す。
「俺《おれ》のことか?」
「そうだ。きみのご自慢の大砲をどれでも構わない、奴らに撃ちこんでみたまえ」
ガルーは屈辱感に身を震わせた。
「上等だ。やってやろうじゃないか」
大型雷発銃を腰だめに構える。まだ弾倉には実包が一発残っている。
筒先をヘルマーに向ける。単なる脅しだ。小憎らしいことに、相手は悠然たる態度を崩さない。
恐らくはデルが使っていた〈障壁〉を張りめぐらせているのだろう。残念だが、この銃でも「見えない壁」を破ることはできない。今のところアイラの剣だけが、それも全力を注いだ渾身《こんしん》の一撃だけが唯一の手段であった。
筒先を横に移動し、鎧獣人の一体に狙《ねら》いをつける。
ガルーは舌嘗《したな》めずりした。ヘルマーは鎧《よろい》の強度を試させる気だろうが、馬鹿正直に鎧に当てるつもりはなかった。頭や喉《のど》、胸、腹といった急所は覆われているが、体の動きを妨げない配慮か、関節部を始めとして鎧がない部分も多い。
その中から選んだ箇所は、虎《とら》の口が猛々《たけだけ》しく突きだす顔面であった。
ドゴォォォォォォン!
雷発銃が咆哮《ほうこう》する。
高温のガスと共に銃口から排出された鉛弾丸《なまりだま》は、獣士の顔に吸いこまれるように飛んだ。
ズガッ!
「――なにィ!」
命中する寸前、獣士が目にも止まらぬ速さで腕を顔面に移動させ、籠手《こて》で鉛弾丸を受けた。音速を越えて飛来する弾丸を捉《とら》える反射神経といい、真っ向から受けとめて小揺るぎすらしない強靭《きょうじん》な肉体といい、まさに桁違《けたちが》いという他はない。
煙立つ籠手から弾丸が落ちる。弾着の激しさを示すようにひしゃげていた。
獣士が腕に力を込める。すると弾着のへこみが戻り、焼け焦げすら残らなかった。鎧の材質それ自体に修復能力があるようだ。
ガルーががっくりと膝《ひざ》をつく。己の牙《きば》とたのむ雷発銃がまったく通用しない、と実証されたのだから無理もない。
「ふふふ……ご覧の通りだ。〈大道士《アデプト》〉が匙《さじ》を投げた諸問題を、わたしはことごとく解決した。新たなる獣士は、来るべき五大組織の闘争でも、充分な働きをしてくれるだろうよ」
ヘルマーが勝ち誇る。彼がかつて「最高の叡知《えいち》」と称えられたアダモに、内心強い対抗意識を抱いていることは間違いない。
アイラは敵の言葉など聞いていなかった。その視線はうな垂れ、肩を震わすガルーに注がれていた。
――あんたの敵《かたき》は、あたしがとってやるよ。
哀しみの色を浮かべる瞳《め》に、一転して闘志の炎が揺らめき、剣を握る手に力がこもる。
獣士に向かって足を踏みだそうとした時、気配を察したのか、いち早く獅子《しし》が行く手を遮る。
「どうして? 嘗《な》められっ放しでいろっていうの」
「きみのアトランティス製の剣ならばあるいは――。しかし、それと引き換えに、きみは残る体力を最後の一滴まで失うことになる」
アダモの言葉は正しい。あの獣士相手に力を加減する余裕はあるまい。渾身《こんしん》の一撃を放てば、その先戦うどころか立っていられるかどうかも危うい。
「自暴自棄になってはいかん。本当の敵と戦う時まで、力を残しておくのだ」
「そんなこといったって、ここでやられたらどうすんのさ。先のことまで考えていられないよ」
「わたしが戦う。必ずや血路を開いてみせる」
アダモは決死の覚悟を固めていた。
「無茶よ、ひとりで戦うなんて」
背後でガチャっと音があがる。ガルーが銃に新しい弾倉をつけ替えた音だ。
「そうだ。自分ひとりが犠牲になろうなんて、格好つけ過ぎだ。今どき三文芝居だって演《や》りゃしない。端《はな》っから不利はわかりきっているんだ。死に急ぐこたァないぜ」
ガルーの顔に精気が甦《よみがえ》っていた。わずかな間に己の悟性をとり戻したのだ。
「……強くなったな、きみは」
獅子は感慨深げにいった。
「よしてくれ……見ろよ、お粗末な姿じゃないか」
銃がカタカタと小刻みに震えていた。醜態である。惚《ほ》れた女に晒《さら》す姿ではない。
すると獅子は優しげな眼差《まなざ》しで、
「武者震いではないのか。わたしの目にはそう映るが」
ガルーの顔がぱっと輝く。
「そ、そうか。こいつが武者震いってやつか。へっ、へへっ――」
獅子の心遣いが嬉《うれ》しかった。
奇妙なもので、口に笑みが戻った途端、手の震えがぴたりと収まった。
くくっと喉《のど》を震わす笑い声が聞こえた。ヘルマーである。
アイラたちの怒りが一身に注がれる。
「まだ闘志を残しているようだね。結構、そうでなくては困る。この時に合わせて、わざわざ部隊を呼びよせたのだ。一方的な虐殺ではおもしろくない。善戦を期待したいものだ」
「……ヘルマー」
これまで黙ってなりゆきを見守っていたグラシアが口を開く。あの高貴な微笑《ほほえ》みは陰をひそめ、トナカイの産毛のような形のよい眉《まゆ》をくもらせている。
「あなたにすべてを任せた以上、言葉をさし挟むつもりはありませんでしたが……」
「なにか不手際でもございましたでしょうか」
若き側近は、主の心の裡《うち》を知りながらあえて尋ねた。
「嬲《なぶ》るがごとき振るまいはおやめなさい。不愉快です」
「……はっ」
側近は恭しく頭を垂れた。が、主の不興を被ったというのに、恐縮した様子はない。
「では、ひと息に殲滅《せんめつ》いたしましょう。それで宜《よろ》しゅうございますか……」
グラシアは側近の言葉など耳に入らぬかのように空を見つめていた。そこには厚い雲から覗《のぞ》く満月しかない。
「……主よ?」
怪訝《けげん》な顔でヘルマーが呼びかけるが、女神は不可解な沈黙を続けた。
少し遅れて、主の両脇《りょうわき》を固めるタイフォンとネフシスが、さらに遅れて他の使徒たちも気づく。そして、アダモやエディラも――
「――鳥?」
テューレが呟《つぶや》く。
不意にグラシアが側近に向きなおり、極上の微笑《ほほえ》みを見せる。
「余裕を見せるのも考えものですね。のんびり構えているうちに、向こうにも援軍が駆けつけてしまいましたよ」
「援軍ですと!」
ヘルマーは空を見上げた。
雲の間でなにかが光っている。明らかに月光とは異なる黄金の輝きだ。
ヒュィィィィン……
空から風を切るような音が聞こえてきた。
「まさか……あれって」
アイラが喜びに震える。
突如として、巨大な輝く翼が雲を突きやぶり、廃墟《はいきょ》上空に出現する。地上は真昼のような明るさとなった。
「ムウの鳥舟だと――馬鹿な、奴らが公然と介入してくるはずがないっ!」
ヘルマーは拳《こぶし》を振りあげて喚《わめ》いた。
頭上に巨大な人面円盤が浮かぶ。そこが鳥舟の船底部に当たる。その左右に鳥の羽根の模様を意匠に取りいれた翼が伸びる。また地上からは見えないが、円盤の真上には洋上を進む船の形をした船体が乗っている。
人面円盤の口を模した部分が上下に開き、中の船倉から地上に向けて次々になにかを投下していった。
ヒュゥゥゥゥゥン
「なんだとォ!」
見るからに重そうな岩の塊が降ってきた。思わずガルーはティアと一緒に伏せた。
ズズーン!
地響きがたて続けにあがる。
鳥舟から投下された七個の岩塊は、アイラたちを囲む獣士たちの円の外側――さらに庭園を逸《そ》れて道路に落ちた。風化が進み脆《もろ》くなった建物が落下の衝撃で崩れる。もうもうとあがる土煙が庭園のアイラたちがいる場所にまで押しよせた。
「あの気障《きざ》野郎め、いったいなにを落としやがったんだ。俺《おれ》たちを潰《つぶ》す気かっ!」
ガルーが咳《せ》きこみながら喚《わめ》きちらす。
突然、あたりが目映《まばゆ》い光に照された。人面円盤の目の部分から地上に向かって一条の光が投げかけられる。その光の管を通ってゆっくりと降りてくる人影が見えた。
その人物が地上に降りたつと同時に光は消える。
肩まで伸ばした艶《つや》やかな黒髪、たっぷりと布地を使った長衣、そしてなによりも、女心を惹《ひ》きつけずにはいない黒い瞳――
間違いなく、ムウの伝道師《ナーカル》グリフィンその人であった。
「――どうやら、ぎりぎり間に合いましたね。よかった、みなさんご無事で」
貴族的ともいえる端整な顔が、ひとりアイラに向かって笑いかける。
その脇《わき》では、ガルーがこれ見よがしに顔をしかめている。恋敵の出現が、気落ちしていた彼を奮いたたせたようだ。
「で、でも、どうしてここに?」
アイラは戸惑いの色を隠せない。
「詳しい話は後でゆっくりと。まずはこの場を切りぬけませんと」
そういって、グリフィンは〈混沌《こんとん》の庭〉の面々に向きなおった。
ヘルマーが鋭い目つきで睨《にら》んでいる。
「――伝道師風情がなんの真似だ。きさまら腐肉獣《ハイエナ》は遺跡のガラクタを漁《あさ》っていればいいのだ。調子に乗ってしゃしゃり出るな」
グリフィンは肩を竦《すく》め、
「腐肉獣とはひどいおっしゃりようだ。確かに、あなたがたがお目こぼしをしてくださるお蔭《かげ》で古エルマナ文明の調査ができるわけですが……」
「わかっているならば、とっとと失《う》せるがいい。ムウ伝道会との約定がなければ、その命で償わせるところだ」
「そうはいきません。わたしに与えられた任務は、救世主《メサイア》の有力候補たるヨシュアと、その一行を守ること。必要とあらば、武力に訴えても彼らを守ります」
グリフィンは恐れも見せず、きっぱりといいきった。
「ほう、それがムウの結論か。古《いにしえ》の約定を破る。それがどのような結果をもたらすか、わかっておるだろうな」
「先に破っているのは、あなたがたではありませんか」
「……なんのことだ」
「エルマナ各地に散る我が兄弟たちが、どのような目に遭《あ》っているか。ムウ本国が気づかぬとお思いか」
ヘルマーは鼻を鳴らして笑った。
「我らの与《あずか》り知らぬことよ。生臭坊主《なまぐさぼうず》に関心はない」
「しらを切るならば、それも結構。どの途《みち》、有名無実の取り決めです。失ったところで困る者はいない」
錬金術師の目に剣呑《けんのん》な光が宿る。
「よかろう……あくまで歯向かう、と申すならば相手をしてやる。今日《こんにち》のムウの隆盛が誰のお蔭《かげ》か思いださせてやろう」
「あなたがたと違い、ムウの文明は歩みを止めておりません。いつまでも属国のままと侮っていると足をすくわれますよ」
と、グリフィンも負けていない。
「生意気な坊主めが――」
ヘルマーは銀の笛を咥《くわ》えた。それを鳴らせば、繋《つな》ぎとめている獣士の鎖を一斉に解きはなつことになる。
「わたしのそばに集まって。早く――」
グリフィンは急いで一同を呼びあつめる。ガルーは恋敵の指示に従うことに抵抗を覚えるが――
「なに、ぐずぐずしてんのさ」
と、強引にアイラが引っぱる。複雑な男心を理解できないようだ。
人の耳には聞こえない笛の音が流れる。同時に、十数体の鎧獣人は雄叫《おたけ》びをあげて襲いかかった。
迅《はや》い――!
地を駆けるその動きは、重い鎧をまとっているとは思えない。
四方から鎧獣人の巨体が押しよせる。
アイラとガルー、ティアの三人は、思わず目をつぶり身を屈《かが》めた。
獣士の接近は、直前で周囲に張りめぐらされた力場に阻まれた。
錬金術師たちが使う〈防護障壁〉と原理を等しくするものだ。もちろん本家はエルマナであるが、ムウも改良を加えている。障壁面に接触した物体に電撃を浴びせる機能はムウだけのものだ。
常ならば、即座に跳ねとばされるはずだ。しかし獣士は高圧電流に身を焼かれながらも、「見えない壁」に爪《つめ》を立て、なおも突破を試みる。
死をも恐れぬ凄《すさま》じい戦いぶりに、さしものグリフィンも顔が青くなる。服の内側に隠しもつ力場発生器が異音を発しはじめている。エルマナにもムウにも、絶対の防御壁など存在しない。力場を形成するエネルギー以上の負荷が加われば必ず崩壊する。
グリフィンは袂《たもと》に手を入れる。そして瞬間的に発生器の出力を倍にあげた。
その瞬間、見えないはずの「壁」が白く輝き、球形の輪郭を現わした。
「ギャアアアアアア!」
断末魔の悲鳴があがり、壁に取りついていた獣士たちが、雷の直撃に等しい電撃を食らって跳ねとばされた。
鎧《よろい》ごと黒焦げになった獣士の体から煙がたなびき昇る。これでなおも立ちあがるというなら、もはや生き物とはいえない。正真正銘の「怪物」だ。
グリフィンはほっと息をつき、力場発生器の出力を正常値までさげた。あと数秒、敵が持ちこたえていたら、火を吹いていたところだった。
手下が全滅したというのに、ヘルマーはまったく動揺を示さない。
「〈障壁〉で全員を包んだか。しかしそのまま亀《かめ》のごとく甲羅に隠れていても解決にはならぬ。上空の船に吊《つ》りあげてもらうか」
「そうしたいのは山々ですが、黙って見送ってもらえるほど、あなたがたが慈悲深いとは思えません。それに……大事な人間を残していくわけにはまいりません」
そういって、グリフィンは瓦礫《がれき》の上に立つ銀色の髪の少年に目をやった。
わずか数日の間に、ヨシュアは「化けて」いた。髪の色ではない。上空から探査装置を向けたところ、計器の針が振りきってしまった。黄金の髪を持つ絶世の美女《グラシア》も同様である。
膨大な〈力《マギ》〉を放出する人間に、牽引《けんいん》光線を向ければどのような結果となるか。下手をすれば、船が制御を失い墜落してしまうだろう。
「よくわかっているではないか。我らを倒さぬ限り、逃げることも叶《かな》わぬ。船の火砲を使うかね。もっともこう敵味方が入り乱れていては、きさまらもただでは済むまい。威力があり過ぎるというのも困りものだな」
「…………」
グリフィンの袖《そで》が引かれた。見ると、蒼白《そうはく》になったアイラが、黒焦げになった獣士を指差している。
ぴくぴくと四肢が動いている。あれほどの電撃を浴びてまだ生きていたのだ。
「グァァ……」
口から呻《うめ》きが洩《も》れ、ゆっくりと身を起こす。鎧が液状に還《かえ》り、再び硬化すると元の輝きを取りもどす。炭化した毛皮が落ちていく。体内でも驚くほどの速度で新陳代謝が進行しているのだろう。両足で立った時には新しい毛並みが生えそろっていた。
「我が獣士は、あの程度の電撃では死なぬよ。もう一度同じ攻撃を繰り返してみようか。断わっておくが、復活した奴らは、高圧電流に対する耐性がさらに強まったはずだ。今度も障壁が保《も》つといいがね」
伝道師の額に汗が伝わりおちる。
「五大組織の中でも最大といわれる〈混沌《こんとん》の庭〉の兵士だけのことはあるようですね。化け物じみた生命力には目を瞠《みは》ります。ならば、こちらも兵士《モアイ》を投入するといたしましょう」
グリフィンは袂《たもと》から出した小さな金属板の表面を指先でなぞる。遠隔操縦器である。これ一枚で巨大な鳥舟を思いのままに操ることができる。ただし今送った信号は、母船に向けてではなかった。
ウィィィィィィン
土埃《つちぼこり》の中から独楽《こま》のように高速で回転する物体が飛びだしてくる。先程、ムウの鳥舟から投下された岩塊が落ちた場所だ。七個と数も合う。その物体は耳障りな唸《うな》りをあげながら、庭園上空へと移動する。
グリフィンが操縦器に触る。すると謎《なぞ》の物体の回転速度が急激に落ちていく。
それは石像だった。しかも首だけの。単純な線と面で構成され、洗練とか優美とかいう言葉からおよそかけ離れた代物だ。額は張りだし、耳朶《じだ》は長く垂れさがり、唇は薄い。高さは成人男子より頭ふたつほど上回るぐらい。
回転が止まると同時に、奇妙な頭部像は浮力を失い落下する。
ズズーン
相当な重さなのだろう。七つの像は地面に深くめり込んだ。船から投下した際といい、随分と扱いが乱暴だ。
石像に裂け目が走る。割れたのかと思いきや、両側面から細い腕が、基部からふたつの足が、頂部から椰子《やし》の実状の小さな頭が起きる。まがりなりにも手足を具《そな》えた人型《ひとがた》に変わった。
ズシン、ズシン
巨体を揺さぶって石の像が歩く。下手な操り人形のようなぎくしゃくした動きだ。
呆気《あっけ》にとられていたヘルマーが、いきなり高笑いをあげる。
「それがムウの兵士かね。不格好な岩の塊がなんの役に立つ」
「立つか立たぬか、試したらどうですか」
グリフィンの挑発にヘルマーは乗った。
笛の合図で、鎧獣人らは一斉に石像兵士《モアイ》に向かって襲いかかった。
戦いと呼ぶにはためらいを覚えるような、奇妙な光景が展開する。
数で勝る獣士が、岩の巨人を取り巻き頻《しき》りに攻撃を加える。巨人は抵抗もせず、ただ打たれるままになっている。もっとも反撃しようにも、疾風のごとき獣士に触ることも難しい。
どのような材質でできているのか、岩の体には傷ひとつ入らない。鋼より硬いとされる獣人の爪《つめ》や牙《きば》を弾《はじ》いてしまう。殴っても蹴《け》っても無駄だ。ひびが入るどころか小揺るぎすらしない。腕を引きぬこうとした獣士がいたが、逆に地面に叩《たた》きつけられてしまった。力は巨人のほうが勝《まさ》っているようだ。
苛立《いらだ》ったヘルマーが音叉《おんさ》を鳴らす。
獣士の籠手《こて》から爪状の突起物が伸びる。
鎧もそうだが、武具を使う獣人など前例がなかった。群を抜いた戦闘力を持つ故に必要がなかった――と、いってしまえばそれまでだが、正直なところ、獣人を用いる側がその訓練を施せなかったことが一番の理由だ。その意味でも、ヘルマーが作りだした「鎧《よろい》の獣士」は、画期的な存在であった。
ガチッ――!
鉄の爪が石像に打ちこまれ、四本の溝が刻まれる。
しかしながら、石像兵士《モアイ》は痛いとか痒《かゆ》いとか感じる神経がないようだ。実際の話、岩の巨人には急所や弱点の類が存在しない。ただの岩と一緒で、表面にいくら傷を入れられようが一向に気にしなかった。
これでは負けこそしないが、勝つこともできない。敵が草臥《くたび》れるのを待っているとでもいうのだろうか。見守るアイラやガルーも呆《あき》れ顔だ。
一方、ヘルマーは腹わたが煮えくりかえる思いだ。自分が作りだした超兵士が破壊できない相手が存在する――それ自体が許しがたいことだった。
グリフィンが操縦器に触れた。攻勢に転ずる時がきたのだ。
石像兵士《モアイ》は脚部を胴体に引きこむ。その直後|杭打《くいう》ち機のように地面を叩《たた》いた。
ババン!
七つの石像が高々と宙に躍りあがった。
突然の動きに戸惑い、獣士の反応が遅れた。
ズズーン!
獣士は石像の下敷きとなった。石像からはみ出した腕が空を掴《つか》む。頭や胴体を押し潰《つぶ》されながら、まだ獣士は生きていた。
だがしかし――
石像が地を蹴《け》る。その飛び去った後には、全身の骨を砕かれ、ぺしゃんこになった獣士が転がっていた。母体の死と同時に鎧《よろい》は液体に戻り、血に混じって土に染みこんでいった。
ズシンズシンと石像はあたり一面を地ならしするかのように跳ねまわる。が、この戦法が通用したのは最初の一回だけだ。人間相手ならば、恐怖心を煽《あお》るといった心理的効果も期待できようが、そういった感情が欠如する獣士にしてみれば、楽々と躱《かわ》せる単調な攻撃でしかない。
石像兵士《モアイ》が両手を横に広げ、左右の足を引きこめて台座に戻した。そして、先程のように横回転を始める。
ウィィィィィィン
土埃《つちぼこり》を巻きあげ、右に左に揺れながら地上を滑るように移動する。その動きは独楽《こま》そのもの――しかも迅《はや》い。
「な、なにをしようというのだ!」
アダモが当惑の声を洩《も》らす。敵とはいえ、彼の頭脳から端を発したものだ。アイラたちのように単純に勝った負けたとはしゃぐことができない。
「ぎゃっ!」
回転する石像兵士《モアイ》の腕が、獣士の首を切断する。まるで移動する回転|鋸《のこぎり》だ。
頭の切れた獣士の一体が、身を低くして近づき、石像の足に飛びかかる。回転をとめようという肚《はら》だ。しかし手をかけた瞬間に跳ねとばされる。あまりに回転が速く、獣士の指は残らず根元から落ちていた。
七体の岩の巨人は意志が通じあっているかのように連係し、逃げまどう獣士たちを巧みに追いつめ、切り裂いていく。
見る間に獣士は数を減じ、戦いは一方的な展開となった。
3
「――ヘルマーよ、このまま好き勝手に暴れさせるつもりか」
髭面《ひげづら》の巨漢が野太い声でいった。苛立《いらだ》つ口調ではない。不遜《ふそん》にも楽しげにさえ聞こえる響きだ。
側近の殺気だった眼光に射られ、ゲープラは思わず身を竦《すく》ませる。
「めくじらを立てるな。わしは少しばかり体を動かしたいだけなのだ」
ヘルマーは体内の荒ぶる気を鎮めるように息をつく。
「〈牛〉よ、そなたがそこまで申すならばもはや止めはしない……が、伝道師には手を出すな。奴はわたしが相手をする」
ゲープラは大仰に驚く。
「側近殿が自ら戦う!――だと。よほど腹に据えかねたとみえる。ああ、わかった。いいつけは守るとも。だからそう凄《すご》むな」
許しを得たゲープラが、ズンと大きな足を踏みだす。戦いを前に高まる興奮からか、早くもその顔は赤らみ、ひしゃげた鼻からは荒い息が出入りする。目は期待に輝き、赤味がかった口元の髭が笑みの形を作る。
彼は戦いに生きがいを見出す、骨の髄からの戦士であった。
テューレとティファレイも戦いたいと訴えたが、側近にすげなく拒絶された。
「正規の〈使徒〉がぞろぞろ出ては、我らの沽券《こけん》に関わる」という理由だ。
「けっ――いい気になるなよ。あんたが出るのは、俺《おれ》たちの中で一番格下だからだぜ」
巌《いわお》のような背に向かって少年が喚《わめ》く。妬《ねた》みであることはいうまでもない。テューレにしても体がうずうずして仕方がないのだ。
「うるさい。ガキはおとなしく飴《あめ》でもしゃぶっていろ」
黒い外套《がいとう》を脱ぎ捨てる。獣人にも勝《まさ》ろうかという力強い肉体が表に出る。特に肩回りの盛りあがりが凄い。まるで瘤《こぶ》のように膨らんでいる。
――あれに体当たりをされたら……。
ガルーは想像しただけで寒気が走った。次から次にとんでもない連中が現われる。つい先日まで「この世で一番強い」と自惚《うぬぼ》れていたのが嘘《うそ》のようだ。
ゲープラが戦斧を手にする。巨大な半円形の斧頭《おのがしら》を具《そな》え、通常の二倍近い厚みがある。それだけでも相当な重量があるはずだ。斧頭に差した柄《つか》は短く、刃先よりわずかに伸びた程度の長さしかない。
戦斧を手にさげたまま、ゲープラはゆっくりとした歩みで戦場に近づいていく。途中、ちらりとアイラたちに視線を投げかける。「きさまらなど問題にしていない」とでもいいたげな見下した目だ。
「ふん!」
いきなり、ゲープラが石像兵士《モアイ》に向かって戦斧を投げつけた。
豪快に唸《うな》りをあげて斧《おの》が飛ぶ。
――ガッ!
衝撃音が響き、宙に浮いた石像が、大きく後ろにもっていかれる。
回転が目に見えて衰えていく。石像の腹に戦斧が食いこみ、軸がずれたことが原因だ。
浮力を失い地面に落ちた。その途端、突きたった戦斧の上下に深い裂け目が走る。
「――なんと!」
グリフィンは己《おの》が目を疑った。
石像兵士《モアイ》は真っぷたつに裂け、地響きをたてて倒れた。切断面は隙間《すきま》なく岩が占めている。機械めいたものは皆無だ。いったいどのような原理で動いているのだろうか。
ゲープラは豪快な笑い声をあげた。
「岩には必ず『目』がある。そこに楔《くさび》を打ちこめば、どんな岩も破壊できるツボのようなものだな。闇雲《やみくも》に叩《たた》けばよいというものではない。そこが低能な獣士どもにはわからんのだ」
理屈は正しかろう。が、高速で回転する石像の「目」を見極め、さらに正確に斧を打ちこむなど果たして可能なのか。いや、目の前で実証してみせた以上、疑っても仕方がない。
グリフィンは操縦器を通して、配下の兵士に新たな指令を送る。
六体の石像が、残った獣士の掃討を中断して、ゲープラひとりに狙《ねら》いを定める。悠然と佇《たたず》む巨漢を中心に、巨大な独楽《こま》が周回する。
包囲の輪が縮まる。すると、うち一体が輪から離れて高々と舞いあがった。他の五体が退路を断ち、逃げ場を奪った上で、空中から押し潰《つぶ》す戦法だ。
恐怖で竦《すく》んだのか、ゲープラは逃げる気配を見せない。
石像が覆いかぶさった途端、足元で激しい土煙が立つ。
なんと、ゲープラが両腕で石像を受けとめた!――そればかりか、片足を軸にしてもう一方の足で地面を削りこみながら、石像の回転を止めようとしている。
「――無茶な!」
強引な戦いぶりに、グリフィンは驚くというより呆《あき》れかえった。いくら力に自信があるとはいえ、自殺行為としか思えない。
きな臭い匂《にお》いが漂ってくる。皮が焼けたような匂いだ。
舌打ちの音が土煙の向こうから聞こえた。
「靴を駄目にしたか。くそっ、上等の品だったのに――」
空耳ではないか、とグリフィンは疑う。
確認のため五体の石像兵士を遠ざける。未だ「まさか」という思いが支配的だ。
黄色みがかった靄《もや》の中に人影が見えた。角を生やした巨漢が、頭上に石像を持ちあげたまま出てくる。両足の革靴はどちらも摩擦で消しとんでいた。
「……凄《すご》い」
グリフィンは呻《うめ》くように呟《つぶや》いた。が、その瞳によぎる色は賞賛である。
ゲープラが抱えた石像を軽々と放りなげる。魔力を断たれ生気を失った石像は、回転を続ける仲間にぶつかり、死出の道連れを増やした。
なにごともなかったかのように、巨漢は手の埃《ほこり》を払う。そして最初に破壊した石像の残骸《ざんがい》に歩みよって戦斧を拾いあげ、
「一体ずつ相手をしていてはまどろっこしい。まとめてかかってこい」
と、吠《ほ》えるがごとく叫んだ。
残った四体の石像兵士《モアイ》が前後左右から迫る。四方から挟撃をかけ、高速回転する腕で切りきざむ気だ。
ゲープラはまたも避けようとしない。敵を誘った上で、返り討ちにするつもりだろう。
「はぁぁぁぁぁぁ」
全身に気合いを漲《みなぎ》らせる。すると節榑《ふしくれ》だった体が、さらにぐんと膨らみを増す。筋肉ばかりではなく骨格から巨大化しているようだ。風船が破裂するように着衣がちぎれ飛ぶと、黒い短毛に覆われた体が表に出た。
顔が奇怪に変形《へんぎょう》していく。額が瘤《こぶ》のように盛りあがり、鼻と口が前方に伸びる。そして体と同じ黒い毛に包まれた耳が、角の裏側に後退する。
瞬くほどの間に、ゲープラは牛頭人身の獣人体に変身を遂げた。
側頭部から伸びた二本の角が、力の象徴のごとく猛々《たけだけ》しくそびえたつ。
――が
変身はこれで終わったわけではない。
牛の鼻から蒸気のように息を吹く。腰を屈《かが》め、戦斧を握る腕に力を込める。
全身の毛が一度に抜けおち、そして黒く光沢を持った金属質の体に変わっていく。
そこに四つの巨大|独楽《ごま》が押しよせ、ゲープラの姿が視界から消える。回転|鋸《のこぎり》の四重攻撃に遭《あ》えば、瞬時に血まみれの肉塊に変えることができる――はずだ。
ガガガガガッ!
中心で灼熱《しゃくねつ》の火花が散った。独楽がぐらぐらと揺れる。
なにかがグリフィンたち目がけて飛んできた。近くに棒のようなものが突きたつ。
石像兵士の腕だ。付け根からへし折れている。
第四使徒〈牛〉のゲープラは、己の意志により体組織を構造変換し、鋼鉄の体になることができる。最大硬度は金剛石《ダイヤモンド》の二〇倍――これでは石像の腕がもげるのも当然というものだ。
四つの独楽が離れる。それを追ってゲープラが地を蹴《け》る。
獣士に比べれば明らかに加速に劣る。が、その走りは前方に立ちはだかるあらゆるものを蹴散らす、怒濤《どとう》のごとき勢いがあった。
まさに野牛の突進である。
「そぉぉぉぉりゃぁぁぁ!」
走りながら水平に戦斧を振る。
ズガガガガッ!
回転方向に沿って半月形の斧頭《おのがしら》が食いこむ。今度は「目」も糞《くそ》もない。剛力にものをいわせ、強引に石像の裂け目を広げていく。
戦斧を振りぬく。
石像が上下に分断する。制御を失ったふたつの岩の塊が、あたりに散乱する獣人の屍《しかばね》を跳ねとばしながら地面を駆けまわり、庭園外へと飛びだす。
ザッザザザザ――
鋼鉄の野牛は、足で土に溝を掘りながら勢いを減じる。なん倍にも体重が増えた体は小回りがきかない。
次なる獲物を求めて方向を変えた。
一体、また一体と、ムウの兵士が斃《たお》されていく。使徒の恐るべき戦闘力を見せつけられ、アイラたちは声も出ない。一度は優位に立ったと確信していただけに、落胆もひとしおだ。
「……アイラ」
不意に耳元でグリフィンの甘い声が囁《ささや》く。このような緊迫した状況にも拘《かかわ》らず、アイラの胸は大きく高鳴った。
返事をするより早く、手に縦長の箱を押しつけられた。内部から律動を感じる。なにかの機械のようだ。
「これは?」
「わたしたちを包む防御障壁の発生器です。あなたにお預けします」
アイラは瞼《まぶた》を瞬かせた。
「あ、あたしが持ってどうするのさ。使い方なんかわからないよ」
「頭を悩ませるようなものではありません。操作は簡単。このボタンが動力の点滅器《スイッチ》、このつまみで出力を調整――」
「そんなこと訊《き》いているんじゃない。預けてどうするのか、といいたいのさ」
グリフィンは目を細めて微笑《ほほえ》む。そして遠隔操縦器を指で操作する。
すると――
伝道師を除く全員の体が、突如として重さを失い、空に向かって吊《つ》りあげられる。上空の鳥舟から差しだされた見えざる手に掴《つか》まれたのだ。
「――なにするんだい!」
アイラがグリフィンに向かって手を伸ばすが、宙に浮いた状態では自由が利かない。
「一時船に避難していてください。あなたがたを守りながら戦えるほど、わたしは器用ではありません」
「冗談じゃない。あたしも戦うわよ。足手まといだなんて絶対にいわせない。さあ、早く降ろして」
が、グリフィンは地上を離れゆくアイラに手を振る。
「大丈夫、必ずあなたの大事な『坊や』を守ってみせます」
だが――
先程、グリフィンが口にした通り、敵の脱出を黙って見過ごすほど、〈混沌《こんとん》の庭〉は慈悲深くなかった。
「逃《のが》しゃしないよ!」
ティファレイが駆けながら外套《がいとう》を脱ぎ捨てる。一糸まとわぬ裸が表に出る。
地を蹴《け》る!
力強いはばたきと共に鳥の羽が散る。
一瞬にて人頭鳥体《ハーピイ》に獣化したティファレイが、鳥舟に向かって昇るアイラ一行を追った。
迅《はや》い!
まるで強い上昇気流にでも乗ったかのように、鳥獣人《ハーピイ》はあっという間にアイラたちと同じ高さに達した。
脳から生じる強い〈念動〉を推力に加えているのだ。いくら獣化したとはいえ、人間の重さを飛ばすには筋肉の力だけでは無理だ。強靭《きょうじん》な獣人の筋肉でも、地表から離れることさえ難しい。むしろ翼は舵《かじ》の役割程度と見るべきだろう。
人の頭を鷲掴《わしづか》みにできそうな巨大な鳥の足がアイラの目前に迫る。
鉤状《かぎじょう》の爪《つめ》が見えない障壁面に触れた途端、白光に包まれ、割れ鐘のような音が響く。
唐突に衝撃がおさまる。障壁が発する電撃によって、丸焼きにしたかと思いきや、平然と旋回する鳥獣人の姿が見えた。高圧電流を遮断する手段を持っているのだろうか。
ティファレイが両腕の翼をはばたかせ、アイラたちの近くをわざとかすめるように昇っていく。障壁が邪魔になり、内側からは攻撃できない。それを知っての挑発だ。
鳥獣人は上空から真っ逆さまに急降下してきた。また「壁」が打ちふるえた。前の攻撃より激しい。アイラの手に握られた発生器が熱を帯びる。見えないはずの障壁面が、頼りなげに明滅を繰りかえす。
「――いかん。次は保《も》たんぞ」
アダモが逼迫《ひっぱく》した声をあげる。障壁が消失すれば丸裸も同然となる。そうなれば、空中を自由に駆ける鳥獣人にかなうわけがない。
「『壁』を消せっ!」
短銃を構えたガルーが怒鳴る。意図を悟ったアイラがすぐさま動力を切る。
パパパーン!
たて続けに五連装の短銃が火を吹く。大型三連装雷発銃に比べれば豆鉄砲のようなものだが、足元の定まらない空中で使える飛び道具はこれしかない。
ババッ!
ティファレイの羽が飛びちった。運よく一発か二発が翼をかすめたらしい。致命傷にはほど遠いが、相手の反撃など念頭になかった鳥獣人をひるませた。
「またきたぞ――」
目の色を変えたティファレイが、ガルーの背後から回りこんで接近する。船の牽引《けんいん》装置に吊《つ》りあげられた状態では、体の向きを変えることも難しい。ガルーは後ろに体を捻《ひね》り、銃撃を試みる。が、体勢が悪い上に、今度は敵も右に左に体を振って狙《ねら》いをつけにくくしている。輪胴弾倉に残っていた弾丸《たま》はあっという間に撃ちつくし、かすめもしなかった。
「『壁』を張れっ! く、くるぞっ!」
アイラは力場発生器のスイッチを入れた。
鳥獣人の足が「壁」に大きな爪痕《つめあと》を刻みつけていく。障壁面に目映《まばゆ》い電光が走り、アイラの手の中で発生器が白熱する。
「ああっ」
煙を吹いて発生器が壊れた。同時に周囲を包んでいた障壁が消滅する。
ティファレイがゆっくりと周囲を旋回する。ちらりと覗《のぞ》かせた瞳《め》は勝利を確信し、あとはどう料理してやろうか、と舌嘗《したな》めずりしていた。
かっとなったガルーが短銃を向けるが、虚《むな》しく撃鉄が鳴るだけだ。もう弾丸《たま》は撃ちつくしていた。薬莢《やっきょう》を詰めかえている暇はあるまい。
「ぐる……」
エディラが短いいななきを発した。黒い理知的な瞳がなにかを訴えている。
獅子《しし》が振りかえり、
「いや、おまえ[#「おまえ」に丸傍点]は残れ。この場はわたしが出る」
今までなかった、なにか[#「なにか」に丸傍点]をやろうとしている――アイラはそう直感した。
赤に染まった獅子の肉体に緊張が走る。
「ウオォォォォ……」
低くこもった唸《うな》りと共に、獅子の背に瘤《こぶ》のようなものが盛りあがってくる。
しかし獅子の試みも間に合いそうもない。
ティファレイが、大きな翼をはばたかせて襲いかかってきたのだ。
が――
突然、鳥獣人が体をくの字に曲げて、羽をまき散らした。背に細い棒のようなものが突きたっている。棒の尻《しり》に羽根がついている。矢に違いない。
「――見ろ、あれを」
ガルーが上空を指差す。
輝く船体を背に、数えきれないほどの影が浮いている。人の形をしていたが、背に翼のごときものが見える。
キェェェェェ、キェェェェェ
頭に響く甲高《かんだか》い鳴き声をあげて、有翼の物体が群れをなして降下してきた。
――鳥人!
アイラは目を疑った。彼らの頭は鎌《かま》のような細長い嘴《くちばし》を伸ばした鳥のものだ。そして彼らは生き物ではなかった。その体は木でできていたのだ。
「あれが噂《うわさ》に聞く、ムウの鳥人《タンガタ》か」
アダモは呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》く。新たなる味方の登場に変身を中断していた。
有翼の兵士は思い思いの武器を手にして、傷ついたティファレイに襲いかかる。
「不細工な人形どもが……」
うっすらと羽毛に覆われたティファレイの顔が怒りに歪《ゆが》む。
鳥人《タンガタ》が弓を放つ。鋭い矢尻をつけた矢が、空をつんざいて鳥獣人に迫る。
ティファレイが翼を振った。途端に巻きおこる旋風《つむじかぜ》が矢を吹きとばす。そればかりか、弓を構えた飛行兵をきりきり舞いさせる。
その背後から放電する槍を抱えた飛行兵が、怪鳥の雄叫《おたけ》びを張りあげて襲いかかる。
ティファレイは翼を傾けて急降下。素速く体勢を整えて、右の翼を振る。先端から抜けた白い羽が、投げ短剣のように飛び、鳥人《タンガタ》の背に刺さる。
鳥人の体がたちまち硬化する。羽に染みこんだ人体石化薬《クロティール》が木を石に変えたのだ。鳥人は動きを凍りつかせたまま真っ逆さまに墜落し、地面に破片をまき散らした。
第六使徒〈鷲《わし》〉のティファレイの超能力のひとつである。彼女の体は錬金炉《アタノール》と同じ働きを持ち、さまざまな錬金薬《エリクシー》を体内で精製することが可能だ。そして翼には石化薬を仕込んだ〈白羽〉を含めて七種類の羽手裏剣を具《そな》えていた。
激しい空中戦が展開される。
ティファレイは、接近戦では両足の爪《つめ》で、飛び道具を使う相手には羽手裏剣で応戦した。彼女の優勢は揺るぎないが、次から次に湧《わ》いてでる鳥人に手を焼き、アイラたちに近づくことができない。
このままでは鳥舟に逃げこまれてしまう。
「――こうなれば!」
業を煮やしたティファレイは、なにを思ったか空中で翼を畳み、体を縮める。感情を持たぬ人造の兵士たちは、戸惑うことを知らず、即座に攻撃を仕掛ける。が、相手は渦巻く風に守られており、接近もままならなかった。
縮めた体を一気に広げる。同時に蓄えた力を一気に解放する。
全身の羽毛が弾《はじ》けとび、灼熱《しゃくねつ》の風が爆発的な勢いで四方に広がる。
巨大な鳥舟が煽《あお》られて傾《かし》ぎ、熱波に包まれた鳥人《タンガタ》が焼かれていく。
高温の爆風が、今まさに船底の搭乗口に収容されようとするアイラたちに迫る。
が――
間一髪、一行は人面円盤の「左目」に潜りこみ、熱波をやり過ごすことができた。
4
その頃地上では、ただひとり残ったグリフィンが、ヘルマーらと対峙《たいじ》していた。
[#挿絵(img/04_153.jpg)入る]
伝道師の背後には、すべての石像を斃《たお》したゲープラが、変身を解かず悠然と佇《たたず》んでいる。側近との約束を守るつもりなのか、手出しする様子はない。
空中戦を眺めていた若き錬金術師《アルケス》が、グリフィンに向きなおる。
「石像兵士《モアイ》に木像鳥人《タンガタ》か……堅物で知られたムウの坊主にしては、なかなかに凝った趣向ではないか」
「別にあなたがたを楽しませるつもりはありませんよ。持てる兵力を逐次投入しているだけです」
黒髪の伝道師《ナーカル》はなんの気負いもなく応《こた》えた。
「きさまはなぜ残った? まさか我らと戦うつもりではなかろうな」
「いけませんか」
「そうはいわぬ……が、一介の僧に過ぎぬきさまがどうやって戦う。それとも、服の下に物騒な武器でも隠しているのか」
グリフィンは優美な仕草でお辞儀した。
「わたくしどもムウの伝道師は、戒律によって武器の携帯を禁じられております。『異教徒には、剣よりも友愛をもってあたれ』――これがわたくしどもの信条です。あなたがた錬金術師とは違います」
「笑わせてくれる。愛を口にする者が、兵士を同行させるものか。鳥舟一隻で軽々と〈都〉の軍隊を一掃できる」
「ムウは戦いを好みません……それにわたくしは、伝道師と名乗りましても、兄弟たちのような布教活動からは、とんと縁遠い身です。罪深きことですが、使命遂行のために、あのような兵士を連れ歩かねばなりません」
ヘルマーの眉《まゆ》がぴくりと跳ねる。
「墓荒し、あるいは間諜《かんちょう》の類とみていたが……とんだ考え違いをしていたようだな。名を聞かせてもらおうか」
「ご挨拶《あいさつ》が遅れました。わたくし、名をグリフィンと申します。以後、お見知りおきを」
ヘルマーの顔がわずかに強ばる。
「……やはり、きさまが名高い〈閃光《せんこう》の伝道師〉だったか」
白皙《はくせき》の顔に品のよい笑みがのぼる。
「あまり好ましい噂《うわさ》ではなさそうですね。出所はアトランティスの連中ではありませんか。まったく、あの野蛮人どもときたら、わたくしを悪《あ》しざまに罵《ののし》ることを生きがいとしていますからね。お蔭《かげ》で、行く先々で噂を消すのが大変です」
ヘルマーの目が輝く。
「――おもしろい。きさまがあの[#「あの」に丸傍点]〈グリフィン〉とわかったからには、よけい他の者に任すわけにはいかぬ。噂に聞く力、どの程度のものか、とくと拝見させてもらおう」
「ええっ、そんなァ」
傍らに控える紫色の髪の少年が、思わず不満の声をあげた。
「あいつのほうが楽しめると思って、残っていたんだぜ。なあ、俺《おれ》にやらせてくれよ」
「テューレ、我が儘《まま》を申すな」と、牛頭の巨人が怒鳴る。「わしとてこらえているのだ。おまえもそうしろ」
少年の顔がかっと赤くなる。
「口を挟むな、バカ力しか能のないデクノボウがっ! あんたはいいだろうさ。石の人形相手に暴れられたんだからな。けど、俺はなんにもやってない。なにかするたびに『おとなしく』しろだ。頭ごなしに命令されるのは飽き飽きだ。罰がなんだい。そんなもん怖かないよーだ。もう勝手にやらせてもらうからね」
子どもっぽい癇癪《かんしゃく》を起こしたテューレは、制止の声も聞かず飛びだした。こうなったら誰にも止められない。動きの速さに限るならば、十二使徒の中でテューレにかなう者はいない。
走る途中で、少年の姿がかき消えた。
同時に、グリフィンの足元に旋風《つむじかぜ》がわき、たっぷりとした僧衣に次々と裂け目が生じる。まるでカマイタチが駆けめぐったようだ。
「へっへへーだ」
得意げな声と共にテューレが姿を現わす。
「どうしたんだい、伝道師のお兄ちゃん。つっ立っているだけじゃおもしろくない。少しは遊ばさせてくれよ」
少年は指先から短剣のように伸びた爪《つめ》をぺろりと嘗《な》めた。
グリフィンが着衣の埃《ほこり》を払い、
「弱りましたね。わたしは騒々しい子どもが苦手でして。悪いけれど、他の人に遊んでもらいなさい」
テューレはむっとして、
「お兄ちゃん、余裕見せている状況じゃないんだよ。今だって、その気になれば体中をズタズタにできたんだからね」
グリフィンはため息をつく。
「だから子どもは……そう思うならば、やってみなさい」
「知らないから――ねっと!」
と叫ぶなり、少年が消える。目にも止まらぬ超高速の動きに入ったのだ。
グリフィンが両手をあげ、手刀の形を作る。その手がぼんやりと光る。
再び風が伝道師の体を包む。渦巻く土埃の中で閃光《せんこう》が乱舞する。テューレが放つ数百回もの斬撃《ざんげき》をことごとく素手で撥《は》ねのけていた。
「なんだと――!」
牛頭のゲープラが目を瞠《みは》る。
旋風《つむじかぜ》が弾《はじ》け、熱い風が見物人たちの頬《ほお》を打つ。
逆立ったグリフィンの長い黒髪が、風が鎮まると共にゆっくりと下に降りる。驚いたことに、あれほどの動きにも拘《かかわ》らず、彼はまったく呼吸を乱していなかった。
正面のなにもない空間を、指で押す真似をする。指先につんと感触を覚える。その途端、宙に浮いたテューレが姿を現わす。額を押され、そのまま少年は地面に尻餅《しりもち》をついた。茫然《ぼうぜん》自失といった態《てい》で、身じろぎひとつしない。
「あらあら、かわいそうに……」
グラシアの脇《わき》に控える妖艶《ようえん》な美女――〈蛇〉のネフシスが微笑《ほほえ》む。
「いい薬だ」
と、〈獅子《しし》〉のタイフォンは素っ気ない。
女神に仕える高弟ふたりは、ムウの伝道師が示した力に、なんの興味も覚えていないようだ。
グリフィンが少年に向かって手を差しだす。
「まだ遊び足りないかね」
その言葉が、呆《ほう》けていたテューレを正気に戻す。
「バカにすんな」
伝道師の手を払う。そして後ろに跳んで大きく間合いをとる。
薄笑いが消え、目を吊《つ》りあげていた。なりは小さくとも、気性の荒さは豹《ひょう》と化したパイジャと肩を並べる。同じ猫科の動物の血が流れるだけはある。
グリフィンの背後から地響きがあがる。
牛頭のゲープラが突進してきた。
垣間見せたグリフィンの力が、彼の闘争本能に火をつけ、側近との約束を忘れさせてしまった。
「汚いぞ、牛野郎!」
先を越され、テューレは地団駄を踏む。
牛頭の巨人は走りながら戦斧を投げすて、体を低く屈《かが》めて角の先端を向けた。生身での勝負を挑んでいるのだ。「これを躱《かわ》すなら、戦士として認めぬ」――そういった思いが込められている。
その一方的な挑戦を、グリフィンは正しく汲みとり、そして受けた。
地を震わせて一直線につっ込んでくる野牛を、真正面から受けとめる。眼前に迫るふたつの角を両腕で掴《つか》み、両足を地面に踏んばり突進の勢いを削《そ》ぐ。
靴底が地面に溝を掘り、後方にもっていかれる。体格差からして、両者は大人と子ども以上の開きがある。こらえるどころか、瞬時に跳ねとばされて当然だった。
が――
勢いが見る間に衰える。グリフィンの力はゲープラのそれに匹敵することを意味する。
そして両者は動きを凍りつかせた。
「思った通りだ。見かけはどうあれ、きさまの体内には、わしと同じ戦士の血が流れている。わかるか、わしの喜びが。きさまのような強者が、この世にいると知ってどれほど嬉《うれ》しいか。歓喜の涙が溢《あふ》れてきそうだ」
「褒めて欲しくありません。自分の愚かさ加減に愛想が尽きているのですから」
グリフィンは端麗な顔を歪《ゆが》ませる。貴族的な優雅さしか知らぬ者が見れば、唖然《あぜん》とするだろう。
「正直で結構だ」
足の筋肉がさらに張りを増す。決して今の突進は全力ではなかった。相手の力量を計るために多少なりとも手心を加えていた。
伝道師が後退する。角の先端が今にも胸に食いこみそうだ。
この時点でも、グリフィンは逃げることができる。超高速の動きをもってすれば造作もない。一方でゲープラも、空いている腕で殴りかかれば容易に決着がつく。
だが互いに「力をふり絞る」――それ以外の方法をまったく思いつかないようだ。
ふたりの組みあいを見つめるヘルマーの目が、妖《あや》しい輝きを帯びる。
袂《たもと》から小さな硝子瓶《フラスコ》を取りだす。中にはほのかな炎が揺れていた。
空ではアイラとガルーが、鳥舟の搭乗口から下界の戦いを見降ろしていた。
本来、素通しであるはずの床に、グリフィンとゲープラが大写しされている。肌ににじむ汗まで見えるほどの高い鮮明度で。お蔭《かげ》で、視力が落ちたガルーでも、離れた地表の光景を間近に見ることができた。
「……や、奴はいったい、な、なに者なんだ」
ガルーは愕然《がくぜん》とした。牛頭の使徒と角を突き合せ、一歩も退《ひ》かぬとは。グリフィンの力は人間のものとは思えなかった。
「なにをバカなこといっているの。早く助けに行かなくちゃ。いくら彼が強くたって、ひとりじゃ無理よ。奴ら全員が、化け物のような強さなんだから」
「そんなこといわれてもな……どうやって下に降りるんだ。床の開け方だってわからないんだぜ」
「あんた、彼を助ける気がないんじゃない。このまま死んでしまえと思っているんだわ。きっとそうよ」
ガルーは本心を衝《つ》かれた気分がした。少なくとも、気が進まないのは事実だ。
「ぬかせ。そんなに料簡《りょうけん》が狭い男かよ」
「だったら、早く外に出られるようにしてよ。飛びおりたって駆けつけるんだから」
ガルーは途方に暮れる。アイラの我が儘《まま》さは、時を経るにつれて激しくなってきているようだ。
「無茶いうなよ。獅子《しし》のおっさんだって操作がわからんって匙《さじ》投げているんだぜ。ただの役人だった俺《おれ》になにができる」
興奮したアイラが、ガルーの胸倉を掴《つか》み、首を揺さぶる。
「最初から諦《あきら》めてちゃなにもできないわ。ぼんやりしていないで、少しはアダモを手伝ったらどう」
「床から離れて――」
黒い石柱に前肢を乗せたアダモが、アイラたちに注意を促す。
「わかったの、操作が」
現金なもので、途端にアイラは顔を明るくする。
大きな脚が不器用に石柱に刻まれたムウの象形文字を辿《たど》る。上を通った文字の部分が順々に点灯する。床が光を失い素通しの硝子《ガラス》に戻り、ゆっくりと開いていく。冷たい外気が船内に吹きこみ、髪や着衣をはためかせた。
獅子が制御柱から離れた。
「残念だが、わかったのは床の開け方だけだ。祖を同じくするとはいえ、ムウは独自の発展を遂げている。わたしにはこれ以上どうにもならん」
「――で、どうするよ。飛びおりるか」
ガルーがアイラに意地悪くいった。が、即座に肘鉄《ひじてつ》をみぞおちに食らい、からかったことを後悔する。
「心配ない。無事に降りる方法はある。だが――」
アダモの表情が曇る。
「どうしたの? まさか、この期に及んで、まだあたしたちの心配をしているんじゃなかろうね。下にはグリフィンだけじゃない、ヨシュアも残っているんだよ。こんな場所で、のほほんとしていられないさ」
隣でティアが、うんうんと首をうなずかせている。ガルーは腹を抱え、涙をにじませながらも賛意を表わす。
「――わかった。全員でいこう。アイラはわたしの背に、ガルーとティアはエディラに乗りたまえ。ああ、先にエディラの馬具を取りのぞいて欲しい。手綱はそのままでいい。鞍《くら》だけを外すのだ」
「どうしようっていうの?」
「すぐにわかる。早くしたまえ」
いぶかりながらも、アイラたちは獅子《しし》の指示に従った。二匹の獣は人を乗せたまま、ぽっかりと口を開けた穴の淵《ふち》に歩みよる。
「お、おい、まさか、本当に飛びおりる気じゃなかろうな」
馬上のガルーが怯《おび》えたようにいった。背中のティアがぎゅっと首にしがみつく。狼《おおかみ》少女は、これからなにが起きるか、ちゃんとわかっているようだ。
「いくぞ――!」
委細構わず、アイラを乗せた獅子は地上に向かって身を投じた。黒馬がそれに続く。
「きゃぁぁぁぁ」
「うわぁぁぁぁ」
ふたりの悲鳴が夜空に尾を引いた。
黄金に輝く巨大な翼の下で、ムウの鳥人《タンガタ》と戦っていたティファレイは、信じられないものを目撃した。
有翼の白獅子と黒馬である。二匹の獣は背に大きな翼を生やし、人を乗せたまま地上に向かって滑空していくではないか。
「奴らは〈調整〉を受けていないはずなのに――」
驚きのあまり、ティファレイは戦いの最中だということを忘れた。
「あっ!」
腹に熱いものを感じた。鳥人の槍の穂先が柔らかなティファレイの腹に埋没していた。
「くっ……」
報復とばかりに、白羽《クロティール》で眼前の敵を石に変える。しかし敵を葬っても槍は残る。銃弾ならばいざしらず、銛状《もりじょう》の穂先では、自然に抜けおちることは決してない。時を経れば、周辺の肉が穂先を締めつけ、よけい抜けにくくなる。
斬《き》りつけてきた鳥人を、体を躱《かわ》して避ける。
途端に腹に激痛が走る。動いた弾みに腹筋を貫いた槍《やり》の穂先が内臓を傷つけたに違いない。いくら強靭《きょうじん》な肉体を誇るとはいえ、動くたびに内側から傷つけられてはたまらない。その上、槍から内部に伝わる電流が、彼女の集中力を削《そ》ぐ。
ひとまず退《ひ》くべきだ、と理性が告げる。標的とする魔王の使徒が地上に戻った以上、雑兵《ぞうひょう》ごときと刃を交える理由はなくなった。
だが彼女の矜持《きょうじ》が退却を許さない。女神グラシアに仕える栄光の戦士が、負けを認めるわけにはいかない。自分を傷つけた鳥人を一兵残らず始末して、初めて仲間の許《もと》に帰れるのだ。
その時、ティファレイは巨大な敵の姿を見出した。あまりに大きく、目に入っていながら見過ごしていた存在である。
――そう、あれ[#「あれ」に丸傍点]を墜とせば。
束《つか》の間、ティファレイは痛みを忘れ、喜悦の笑みを浮かべた。
地上では、ムウの伝道師と第五使徒の戦い――いや「力比べ」が続いていた。
両者の力は拮抗《きっこう》している、かに見える[#「見える」に丸傍点]。グラシアの使徒たちは、ゲープラが本気を出せばグリフィンなど数秒と保《も》たず一蹴《いっしゅう》されるに違いない――と信じて疑わなかった。
実のところ、牛頭の巨人は焦燥を覚えていた。己の角を掴《つか》む黒髪の青年の力は、予測をはるかに上回っていると認めざるをえない。
とうにゲープラの口元から笑みが消えていた。全身の筋肉を限界まで膨らませ、骨が軋《きし》みをあげるほどの力を注いでいる。足元の深く掘りさげられた溝がその証《あかし》だ。
山をも動かす力が自慢の角に加わっているはず――にも拘《かかわ》らず、未だグリフィンの胸を貫くことができない。「力比べ」を挑んだゲープラにとり、屈辱以外のなにものでもなかった。
「戯れが過ぎるぞ。いい加減に決着をつけぬか」
実情を知らぬケセドが苛立《いらだ》ちの声をあげる。
ゲープラが手に拳《こぶし》を作る。相手は無防備に腹を晒《さら》している。空いた拳をふるえば一発でケリがつく。稀《まれ》に見る好敵手をこのような形で葬るのは惜しい。が、これ以上勝負を長引かせるわけにもいかなかった。
「――グリフィン!」
ふたりの頭上を影が横切る。有翼の獅子《しし》と馬である。二匹の背にはアイラたちが分乗している。
――なぜ、船を離れたのか!
動揺がグリフィンの気を鈍らせる。
その期を逃さず、鋼鉄の野牛は固く握りこんだ拳を相手の腹めがけてふるう。
「ぐわっ!」
呻《うめ》きをあげたのはゲープラの側だった。繰りだした拳は、グリフィンの膝頭《ひざがしら》に阻まれていた。驚くべきは膝の硬さであろう。岩をも砕くゲープラの鉄拳《てっけん》に亀裂《きれつ》が生じていた。
――こやつの体はっ!
「はぁぁぁぁぁ」
気合いと共に角を掴むグリフィンの手が、ほのかな光を発した。
すると――
途轍《とてつ》もない力が角に加わり、ゲープラは首を捩《ねじ》られた。逆に動揺を衝《つ》かれたのだ。抵抗しようにも体の平衡を崩し、力が入らない。そのまま一気に横倒しにされた。
地響きがあがる。
なにが起きたか理解できぬまま、ゲープラは、地べたを嘗《な》めさせられていた。
「――やったわ!」
アイラは獅子《しし》の背から飛びおり、歓声をあげて勝利者の許《もと》に駆けよろうとする。
「きてはいけない!」
グリフィンが血相を変えて怒鳴った。
その時、目の端に飛来する小さな火球が映った。業を煮やしたヘルマーの手元から放たれたものだ。
網膜を焦がす爆光が起こる。
続けて押しよせる熱をはらんだ爆風に、アダモたちはなすすべもなく吹きとばされた。
5
巨躯《きょく》が起きる。
獅子は足元をふらつかせた。体中火がついたように熱い。多量に羽を失った翼を上下にはばたかせてみる。片側の翼に激痛が走る。折れてはいまい。が、癒《い》えるまでの間は邪魔な飾りものにしかならない。
グリフィンとゲープラがいたあたりは、広い範囲に亙《わた》って陥没し、そこから黒々とした煙があがっている。えぐりとられたような穴の底には、溶けた岩がぐつぐつと煮立ち、今なお穴から頬《ほお》を焦がす熱気が伝わってくる。
これでは、ふたりとも助かるわけがない。爆発前に退避した可能性もあるだろうが、爆風を浴びて少なからぬ傷を負ったはずだ。
限定空間にこれほどの凄《すさま》じい熱エネルギーを発する武器とは――アダモが知る限りひとつしかなかった。
――〈| 火 精 弾 《サラマンドル・ナッソ》〉を使ったな。万が一にも〈炉〉に被害が及んだらなんとするのか。
獅子《しし》の口から歯ぎしりの音があがる。
廃墟《はいきょ》の地下には、かつて都市にエネルギーを供給していた〈陰陽炉《おんみょうろ》〉が眠っている。ヨシュアとグラシアの生誕の地として、ここが選ばれた理由も、実験に膨大なエネルギーを必要としたからだ。もしその力が解放されたら、と思うとぞっとする。最悪の場合、大陸の形が変わっていた。
背後で足音が聞こえた。ガルーである。
「おっさん……」
額から頬にかけて血の筋がついている。
「大丈夫か」
「俺《おれ》はね。エディラが咄嗟《とっさ》に遮蔽物《しゃへいぶつ》になってくれたお蔭《かげ》さ」
「エディラは? それにティアはどうした?」
「むこうにいる。エディラが爆風をまともに浴びてしまったが、『しばらくじっとしていれば動ける』と本人がいっている。ティアが懸命になって傷口を嘗《な》めているよ」
「じ、自分でそういったのか」
「ティアは他の動物や人間の心を読めるんだ。〈遠感〉ってやつだ」
獅子はほっと息をつく。
ガルーがきょろきょろとあたりを見渡す。
「アイラはどうしたんだ。あんたと一緒じゃなかったのか」
「いや、着地寸前にわたしの背から飛びおりて、ムウの伝道師の許《もと》へ」
「ま、まさか、爆発に巻きこまれたんじゃないだろうな」
ガルーは鬼のような形相で獅子に掴《つか》みかかった。
その時、頭上から声がした。
「ご心配なさらずに。お仲間は無事です」
見上げると、焼けただれた外套《がいとう》を頭からすっぽりと被《かぶ》る、グリフィンの姿があった。牽引《けんいん》装置の力なのか、当然のように空中に静止している。
外套が風に乗って飛ばされる。その下は無傷に等しい。布きれ一枚であの熱波を防いだというのだろうか。
グリフィンの腕にアイラが抱かれている。爆発の衝撃によるものか、彼女はぐったりしている。ふたりを見つめるガルーは、安堵《あんど》から嫉妬《しっと》へと目まぐるしく表情が変わる。
伝道師は地面に降りたつと、睨《にら》みつけるガルーにアイラを委《ゆだ》ねた。
「怪我《けが》は負っていないはずです。ただ超高速で爆発圏外に逃れたため、かなりの重圧がこの女《ひと》の体にかかりました。瞬《まばた》きほどの間ですので、大したことはないでしょうが……」
冷静な口調がよけいガルーの怒りを煽《あお》る。しかも着衣があちこち裂けているだけで、本人はまったく傷ついていない。髪さえ櫛《くし》を通しなおしたように整っている。それが一層腹立たしかった。
「……ガルー」
腕の中でアイラが蚊の鳴くような声をあげた。
「おい、しっかりしろ。痛いところはないか」
「あ……頭がくらくらする……だけ……悪かったのはあたし……グリフィン……せいじゃない」
そういい残して、アイラは意識を失った。ガルーは細い体を抱きしめた。彼女が苦しまないように力を加減して……。
グリフィンがガルーに話しかける。
「いろいろとわたしに思うところがおありだろうが……」
「ぐだぐだぬかすな。てめえとの話は生き残ってからだ。あとできっちりカタをつけてやる」
と、ガルーは吠《ほ》えるがごとくいった。
一方〈混沌《こんとん》の庭〉の側でも、不協和音が生じていた。
「――いったい、なんの真似だよ」
第三使徒のテューレが側近に噛《か》みついていた。
「よさぬか、テューレ」
人間に戻ったゲープラが、後ろからテューレを押さえこむ。グリフィンがアイラを助けたように、爆発寸前、近くにいたテューレが瞬間移動して仲間を救いだしたのだ。
命懸けの行為だった。それは紫色の髪がチリチリに縮れていることでわかる。構造変化したゲープラの体は、アイラとは比較にならないほど重い。
「黙ってな。グズな牛野郎のために、文句をつけているわけじゃないんだ」
ゲープラの手が空を掴《つか》む。瞬間移動したテューレが側近の目の前に現われる。
「あんた、俺《おれ》たち使徒をなんだと思っているんだ。使い捨ての獣士と一緒に考えてもらっちゃ困るぜ。俺たちがあんたの命令に従うのは、グラシアさまの側近と思えばこそだ。鈍《のろ》まな牛が、いくら命令に背こうが、いくら無様な戦いを見せようが、一存で始末していいわけないんだ」
少年は畳みこむように喚《わめ》いた。
錬金術師はなにも応えようとはしない。それどころか、視界に少年の姿が入っているかも疑わしい。その目は爆煙の向こうにいるグリフィンたちに注がれていた。
「もう、そのくらいにしておきなさい」
時の氏神のごとく、ネフシスが声をかける。
ゲープラが安堵《あんど》の息をつく。主であるグラシアを別格とすれば、ネフシスの言葉だけは気性の荒い〈山猫〉も聞く。
「けど――」
なおも少年は鉾《ほこ》をおさめかねていたが、明らかに勢いは鈍った。
「〈山猫〉よ……」
ヘルマーが氷のような視線を投げかける。
テューレの体に戦慄《せんりつ》が走る。
「な、なんだよ」
「その言葉、肝に命じておこう。使徒は我が主、グラシアさまの大事な手足[#「大事な手足」に丸傍点]だということをな。が、そなたも忘れているようだ。獣化能力しかなかったそなたに、誰が優れた〈力〉を授けたのかを……な」
「う……」
少年が怯《ひる》む。一時の激昂《げっこう》から醒《さ》め、今更ながらに側近の恐ろしさを思いだしていた。
確かに超高速の動きも、瞬間移動――すなわち亜空間を通りぬける空間転移も、いわば後天的な、目の前にいる若き側近が引きだした〈力《マギ》〉だった。側近はこれを〈調整〉と呼称している。末席近い〈虎《バルド》〉と〈豹《パイジャ》〉以外の使徒は、全員が調整を経て、それぞれ特異な超能力を得ている。〈鷲《ティファ》〉の体内における薬物合成能力もそのひとつだ。
決してヘルマーは、実力なくして側近の座に就いたわけではないのだ。
「ケセドよ」
側近は第四使徒を呼ぶ。
「はっ……」
〈馬〉は重々しく応えた。
「〈鷲〉を援護せよ。あの体で船を墜とす気でいる。傷つけられ、冷静な判断力が失せたようだ」
ケセドは空を見上げた。巨大な翼の下で、ティファレイと鳥人《タンガタ》たちの戦闘が未だ続いている。
「ティファめを退《ひ》かせばよろしいか? それとも、目障りな兵隊もろとも母船を墜とそうか?」
「任せる。いや船ごと墜としてもらおうか。澄まし屋の若僧がどのような顔をするか、見てみたい」
「わかった……」
ケセドが四つんばいになり獣化を始める。
ヒヒィィィン
高らかにいななきをあげる。
暗褐色の黒鹿毛《くろかげ》に覆われた天馬に変身を遂げた。背にはエディラと同じ翼が伸びる。一見しただけでは二頭の馬は見分けがつかない。が、こちらのほうが脚が太く、馬体もひと回り大きい。しかし品格という点ではエディラのほうが勝っているように思える。またケセドには目と目の間に菱型《ひしがた》の白斑《はくはん》があった。
ケセドは蹄《ひづめ》の音も軽やかに走りだした。助走をつけてふたつの翼をはばたかせる。瓦礫《がれき》を踏み台にして跳躍。そのまま天に向かって伸びる階《きざはし》を駆けのぼっていった。
その姿を見送りながらヘルマーは呟《つぶや》く。
「いちいち面倒をかけることよ。使徒などと偉そうに申しても、暴れ回るしか能がないのか。これでは我が配下《ル・ヴィード》となんら変わるところがない」
「な――!」
テューレとゲープラが揃《そろ》って息を飲む。
「覚えておいてもらおう。〈魔王《ヨシュア》〉を抹殺した暁は、我が主は世界救済の偉業に着手される。その際、そなたらは名代としてエルマナ各地に赴かねばならぬ。だが、己も律することもできぬ、このていたらくでは、とても名代が務まるとは思えぬ。弟子の恥は師の恥――そう心得ておくのだな」
使徒ふたりは声もなく、顔をうつむかせた。
それで関心を失ったように側近は使徒から顔を逸《そら》し、再び視線を煙の向こうのグリフィンらに戻す。
ヘルマーは口端を吊《つ》りあげて笑った。険しい目が一瞬喜悦の輝きを宿す。両手にはいつの間にか先程と同じ硝子瓶《フラスコ》が握られていた。ただし瓶の中身は異なる。右手には一片の氷、左手にはなにも入っていない。〈| 水 精 弾 《オンディーヌ・ナッソ》〉と〈風精弾《シルフ・ナッソ》〉である。
「――側近殿、いずこへ」
慌ててゲープラが呼びかける。問うまでもない。ヘルマーは自らの手で伝道師と魔王の使徒にとどめをさそうとしているのだ。
「危険ではないか。奴の力は未知数だぞ」
「あの者の正体ならば、とうに掴《つか》んでおる。つまらぬ代物よ」
と、振りむきもせずに応えた。
ヘルマーが動きだすやいなや、グリフィンは駆けだした。攻撃を我が身に引きつけるためだ。
錬金術師《アルケス》は、つま先を浮かし、地面すれすれを滑るように接近してくる。携帯用の浮遊装置を装備しているに違いない。
伝道師《ナーカル》は走りながら掌を相手にかざし、閃光《せんこう》を放った。一条の光線がまっしぐらにヘルマーに向かってつき進む。敵は透明障壁を張りめぐらしているに違いない。だが「見えない壁」は光を通す。
ヘルマーを包む球形の障壁が鏡に変わる。そして光線をあさっての方向に反射させた。
ズズーン
弾《はじ》かれた光線が遠くの建物を一撃で崩壊させた。風化して脆《もろ》くなっているとはいえ凄《すご》い威力だ。
ヘルマーが手にした硝子瓶《フラスコ》をアイラたちに向かって投じる。
グリフィンに爆弾の類は通用しない。超高速の動きで殺傷圏外に逃れることができるからだ。だが、アイラたちはそうはいかない。グリフィンが彼らを庇《かば》おうとすれば、一緒に葬ることができる。そこまで錬金術師はしたたかに計算していた。
果たして、グリフィンは放物線を描《えが》いて飛ぶ硝子瓶に向かって走る。ひとたび放たれた〈精霊弾〉は、わずかの衝撃を加えただけでも中に凝縮された力を解放する。投げかえそうと受けとめた時が最期だ。
グリフィンは袖《そで》から布を取りだす。〈火精弾〉を浴びた時、自分とアイラを守った外套《がいとう》と同じものだ。
跳躍し、空中で素速く〈精霊弾〉を包みこむ。
――カッ!
布の中で硝子瓶が弾けた。核となる氷片が爆発的な勢いで膨張を開始する。あらゆる物体を氷に包みこむ冷凍爆弾だ。たとえ氷から逃れても吹きあがる吹雪《ふぶき》によって少なからぬダメージを被る。
布を裂いてイガ栗のように氷の槍《やり》が突きでる。が、膨張もそこまでだった。〈水精弾〉は大幅に威力を減衰させられ、地面に虚《むな》しく氷片をまき散らした。
「楽しませてくれる――」
ヘルマーはいささかも動じていなかった。
残った〈風精弾〉を足元の地面に叩《たた》きつける。
すると、砕けた硝子《ガラス》のかけらを舞いあげて、旋風《つむじかぜ》が生じる。それはたちまちにして空に向かって屹立《きつりつ》する空気の柱――竜巻に成長を遂げる。
伝道師は竜巻に向かって布を投じる。折り畳まれていた布は空中でなん十倍もの面積に広がっていくが、包みこむ前に空気の渦に巻きこまれ、天高く飛ばされてしまった。
ガルーたちの眼前から、グリフィンが消えた。ひとり逃げたのか、と思いきや、竜巻を外からとり巻くように逆の流れの風が生じる。竜巻は見る間に勢いを鈍らせて消滅した。超高速の動きで周囲を走り、起こした風で竜巻を相殺《そうさい》したのだ。
ビュン――
風の唸《うな》りを発して、グリフィンは錬金術師との間合いを一瞬にして詰めた。先程光線を放った手が手刀の形を作る。
また障壁の表面が鏡に変わり、ヘルマーの姿が隠れた。委細構わずグリフィンは輝く手刀を振りおろす。
手刀が力場に食いこむ。途端に湧きあがる目も眩《くら》む白光――障壁に触れた伝道師の片袖が瞬時にちぎれ飛ぶ。
「――死ぬ気かよ!」
思わずガルーが叫ぶ。障壁を挟んだ両者の間には、落雷に匹敵するエネルギーが迸《ほとばし》っているはず。黒焦げとなった鎧獣士の姿を、あの男は忘れたのか。
銀色の泡が一際大きくなる。その直後、古エルマナの鏡面障壁は衝撃を放って弾《はじ》けた。
中に隠れていた錬金術師の姿が表に出る。なんとグリフィンは、素手[#「素手」に丸傍点]で障壁を破ったのだ。
しかし、それは勝利を意味するものではなかった。
ヘルマーは手に短い棒のようなものを握っていた。棒の先端から水が迸る。鉄砲水のごとき奔流が空中にいた伝道師の腹に撃ちこまれる。
グリフィンの体が「く」の字に折れる。常人ならば内臓が破裂する衝撃が加わったに違いない。地面に叩きつけられる寸前、伝道師は体《たい》を捻《ひね》って着地。間髪を入れず跳躍して大きく間合いをとった。飛燕《ひえん》のごとき身のこなしとはこのことだ。
「――さすがだな、〈閃光《せんこう》の伝道師〉よ」
ヘルマーは壊れた障壁発生器を無雑作に投げすてる。身を守る盾を失ったに等しいが、余裕の態度は崩れない。
グリフィンとて同じだ。息ひとつ乱していない。戦いの後を偲ばせるものは、剥きだしになった右腕からたなびきのぼる白煙だけだ。
「だが」ヘルマーが不気味に笑う。「きさまの活躍もここまでよ」
ドドーン
突然、上空から爆発音が響く。
廃墟《はいきょ》の上に滞空する〈黄金の翼〉号の船体から火が吹きあげていた。
地上で錬金術師と伝道師が戦いを始めた頃――
天馬と化したケセドが、乱戦の真っ只中《ただなか》に飛びこんだ。
「――退《ひ》け!」
予想通りというべきか、ティファレイは呼びかけを無視して戦いつづける。
ならばとばかり、天馬は蹄《ひづめ》で鳥人《タンガタ》を蹴散《けち》らし、鳥舟への血路を開く。鳥獣人《ハーピイ》はその後を追った。
ケセドの戦闘力はティファレイをはるかに凌駕《りょうが》する。本気になれば、鳥人など瞬く間に駆逐できる。が、彼はそうしなかった。ムウの有翼兵士を引きつけながら、戦闘空域を鳥舟の上方へと移していく。
船の防衛機構が働き、船体や翼に収納されていた数十もの砲塔が現われる。ひとつひとつが恐るべき破壊力を秘めている。しかし味方の兵が邪魔になり砲を撃てない。
これがケセドの狙《ねら》いだ。そして船体に充分近づいたところで、一気に鳥人の群れを屠《ほふ》る。
轡《くつわ》を外された砲塔が一斉に牙《きば》を剥《む》く。実体を伴わぬ純粋なエネルギーが、砲弾となって襲いかかる。至近距離をかすめただけで鞭打《むちう》たれるような衝撃が浴びせられる。
「――ああっ!」
ティファレイが片側の翼を折られ、きりもみして墜落する。黒天馬《ケセド》が素速く回りこみ、仲間を背で受けとめる。
船の防御火力は予想外に高い。が、どうにか火箭《かせん》をくぐり抜け、鳥舟の翼にとりつく。懐に飛びこんでしまえば、もう突入に成功したも同じだ。案の定、砲は沈黙した。
天馬はティファレイを乗せたまま翼の上を風のごとく駆けた。体当たりで外壁を破り、船体への侵入を果たす。
一糸まとわぬ裸体が、絨毯《じゅうたん》敷きの床にずり落ちる。
変身を解いたケセドは、介抱どころか助け起こそうともしない。下手な手だしは、彼女の誇りを傷つけると知っているのだ。
ティファレイは自力で応急処置に取りかかる。まず腹に刺さった槍《やり》を無理矢理引きぬく。どっと血が傷穴から吹きだすが、蛇口の栓を閉じるように血はとまり、周囲の肉が盛りあがって穴を塞《ふさ》ぐ。次に折れた腕にとりかかる。二の腕の骨が折れて中途半端に癒着しかかっている。これを一度伸ばすようにして骨を剥《は》がし、再び繋《つな》ぎなおした。とんでもない荒技だが、彼女は呻《うめ》き声ひとつあげなかった。
「どうだ?」
ケセドが口数少なく問う。
「もちろん」
接ぎなおした腕を振ってみせる。顔色は決してよくはない。多量の出血で体力が著しく低下しているのだ。
ケセドが先頭に立って進む。行く手を阻む隔壁を破るのも彼の仕事だ。無言の気遣いにティファレイは心の中で感謝した。
ふたりは駆動機関を探す。船を飛ばす推進装置を破壊すれば、簡単に墜ちるはず――そう考えたのだ。
しかし、狙《ねら》いをつけた船体後部には、それに該当するものは見つからなかった。他の区域にあるのか、あるいは彼らが考えるような駆動方式を採っていないのか。古エルマナとは異質な文明を築くムウの船ならば、それも考えられる。なにしろざっと見たところでも、当然用いるべき金属部品が、木材や石材に置き換えられている。どうして、こんなものが空中に浮いていられるか、と頭を傾《かし》げてしまう。
ティファレイが胃袋の中にしまいこんでいる硝子瓶《フラスコ》を吐きだす。破壊工作用に常から用意してあるものだ。
船体や翼から一斉に爆発が生じる。火災は瞬く間に広がり、豪奢《ごうしゃ》なムウの調度が灰と化していく。消火栓が懸命に散水するが、火の勢いを食いとめることはできなかった。
煙の量が増すにつれて外壁の輝きが衰えていく。誰の目にも墜落は避けられない事実に見えた。
カチッ――
〈黄金の翼〉号の制御機構が、中継器を通じてひとつの命令を発した。
ゴゴゴゴ……
鳥舟がゆっくりと廃墟《はいきょ》上空から離れる。もし万が一、墜落によって、船体に蓄えられた膨大なエネルギーが一挙に解放されることになれば――まして廃墟の地下には、古エルマナの〈炉〉が設置されているのだ。地上に降りた主を守るためには、できうる限り遠くに離れなければならなかった。
「……顔色が悪いぞ、ムウの伝道師《ナーカル》よ」
ヘルマーは嬲《なぶ》るようにいった。
「…………」
グリフィンは口を噤《つぐ》み、なにも応えない。いつになく険しい表情だ。
「どうしたんだ、奴は……船をやられたのが、そんなに辛《つら》いのか」
ガルーがもどかしげにいった。
「違う」傍らの獅子《しし》が口を開く。「彼は力の源を失ったのだ」
「どういうこと?」
意識をとり戻したアイラが問いかける。
だがアダモは憐憫《れんびん》の視線をグリフィンに注ぐだけだった。
鳥舟は〈南の僻地《へきち》〉と称される荒野を飛びこえ、樹海の上に抜けでた。
船内の火災はますます勢いを増し、船尾から黒煙の長い尾を引いた。船体の損傷がひどくこれ以上速度をあげるどころか、高度を維持することも難しい。船の制御機構は船体を不時着場所に海を望んだが、そこまで辿《たど》りつくことは不可能と結論した。
主翼の一部が脱落する。制御機構の命令によるものだ。この区域には砲塔が収納されている。エネルギーが蓄積された区域を切りはなすことで、墜落時の被害を最小限に食いとめようとしているのだ。
切りはなされた構造体が密林に突っこむ。最も小さいものでも四、五階建ての住宅に相当する大きさがある。いくら鉄よりはるかに比重の軽い木を主構材に用いているとはいえ、落下速度も加えた衝突エネルギーは決して少なくはない。鳥舟が通過した森には、長く深い爪痕《つめあと》がいくつも刻みつけられていった。
後方で閃光《せんこう》が走った。押しよせる爆風で翼が揺れた。地上に落ちた砲塔のひとつが、幾重にもかけられた安全装置の甲斐《かい》もなく爆発したのだ。
周辺が瞬時に吹きとび、広い範囲で木々が横倒しになった。小都市なら一発で壊滅する破壊力だ。もし三〇の砲塔を載せたまま墜落し、連鎖爆発を起こしたら――そう考えれば、船の制御機構がとった処置がいかに適切なものかわかるだろう。
船体を切りはなしたことで、よけいに高度の維持が難しくなる。
船底部が樹海の木々を擦りはじめた。これ以上空にとどまることは不可能だ。すでに減速する力も残されていない。
ドガガガガ――!
巨木をへし折りながら、鳥舟は樹海をつき進む。左側の主翼が衝撃に耐えかねて根元から折れた。直進していた船の向きが右に曲がる。
船が停止した。懸念されていた爆発は起こらない。延焼が進んだ区域を投下したことで、船内の火災もほぼ鎮火した。どうやら樹海に火が燃えうつる心配はなさそうだ。
役目を終えた制御機構が眠りに就く。もはや再び目覚めることはない。翼が折れた鳥は、もう空に戻ることはできないのだ……。
6
墜落の衝撃が地響きとなって古エルマナの廃墟《はいきょ》にまで伝わってきた。
グリフィンはがっくりと肩を落とした。
水流が襲いかかる。伝道師はまともに食らい地を転げまわる。不意を衝《つ》かれたのではない。ヘルマーが錫杖《しゃくじょう》を向けたことに気づいていながら、躱《かわ》せなかったのだ。
身を起こそうとするグリフィンに向かって二度、三度と水の鞭《むち》が叩《たた》きつけられる。
「どうした、〈閃光《せんこう》の伝道師〉ともあろう男が――」
ヘルマーは哄笑《こうしょう》をあげた。
我慢の限界とばかりに、アイラはガルーの手を振りきって飛びだす。獅子《しし》が続く。仕方なくガルーも仲間の後を追いかけた。
「愚か者めが」
ヘルマーは錫杖をアイラたちに向けて振った。噴きだした水流は、霧となって駆けつける者たちを包んだ。
アイラは足をとめた。一寸先も見えぬ白い闇《やみ》に囲まれていた。あたりを見渡したのがいけなかった。方向感覚を失い、どこに向かっていたかもあやふやになる。
しん……と静寂が耳を打つ。すぐ後ろをアダモが走っていたはずなのに、今は気配すら感じられなかった。
「アダモ、ガルー、グリフィーン!」
仲間の名を呼ぶが、霧に吸収されて声はいくらも届かない。
アイラは胸を締めつけられるような孤独感に苛《さいな》まれた。霧の結界には精神の平衡を崩す働きもあるようだ。
正面に人影が浮かびあがった。駆けつけたくなる衝動を無理矢理に抑える。どう考えても罠《わな》の可能性のほうが高い。
果たして、影から陰湿な笑い声があがる。アイラはオリハルコンの剣で斬《き》りかかる。
「――――!」
寸前で切っ先がとまる。そこにいたのはアイラ自身であった。霧が鏡と化したように、うりふたつの自分がいた。
贋《にせ》のアイラが顔を歪《ゆが》めて笑う。
「おまえはここで冷たい骸《むくろ》となるのよ」
嫌悪をそそる声だ。他人の耳には自分の声がこのように響くのだろうか。
躊躇《ちゅうちょ》なく己の影を貫く。手ごたえはなかったが、贋物は断末魔の形相を残して消えた。
アイラは悪寒を覚える。どうやら心理的なものばかりではないようだ。
気温が急激に下降している。まとわりつく水の粒子が霜となって体に付着し、針がつき立ったような痛みが湧《わ》く。
早く霧の中から逃げださなければ――そう頭で考えても、すでに体の自由が利かない。
地面に膝《ひざ》がつく。強くぶつけたというのに痛みを感じない。感覚が鈍くなっているのだ。所有者の気力と体力を示すオリハルコンの輝きが、今にも消えそうに明滅する。
苦痛はなかった。ただ意識が遠のいていくだけだ。このまま逆らいもせず身を任せていれば、眠るように死ねるのだろう。
――もういい。最初からかなう相手じゃなかったのよ。眠ろう。みんなと一緒なら怖くないわ。
瞼《まぶた》がゆっくりと閉じられた。
闇《やみ》の中で、二八年の人生が次々に現われては消えた。物心ついた時にはすでに始めていた踊りの稽古《けいこ》、厳しかったお師匠さん、膝が震えるほど緊張した初舞台、メルカ姉さんの心づくしの手料理、鳴りやまぬ拍手と歓声、いつも泣きべそをかいていたヒルマ、そして初めて臥所《ふしど》を共にした男……。
不意にアイラの瞼が開く。
今、彼女の耳には赤ん坊の泣き声が聞こえていた。幻聴だろうか。いや、そうではないという根拠なき確信があった。
他の誰でもない。これは「坊や」の声だ。寒い雪降る夜、涙と共に流れた……産声すらあげなかった、あたしの坊や……
アイラの瞳に熱い涙が溢《あふ》れる。
なぜ諦《あきら》めようとしたのか。自分は誓ったのではなかったのか。たったひとりになろうが、世界をすべて敵に回そうが「坊や」を守ると――!
「うわぁぁぁぁぁ!」
突然、静寂を破る悲鳴が響く。同時に白い闇が嘘《うそ》のように消えた。
ヘルマーの手が青白い炎に包まれていた。泡を食って錫杖《しゃくじょう》を捨てる。が、手に宿った炎は消えない。
霧が晴れると同時に、アイラは体の自由をとり戻す。手を伸ばせば届くような近くにいたガルーたちも地面から身を剥《は》がした。
「アイラ……きみが」
獅子《しし》が尋ねる。あの炎はアイラが激した時に放つ発火能力――〈憎しみの炎〉に相違ない。だとすれば、ヘルマーの肉体が燃えつきるまで絶対に消えることはないはずだ。
「わからない。相手の姿も見えなかったし……」
もし彼女の仕業ならば、初めて憎しみ以外の感情が引き金になったことを意味する。
「テューレ、ゲープラ、ああっ誰でもよい。わたしの腕を斬《き》りおとせっ!」
ヘルマーは見栄も外聞もなく喚《わめ》いた。さすがに使徒は逡巡《しゅんじゅん》する。側近は獣人でもなければ使徒でもない。下手をすればショック死するだろう。
「は、早く、火がこれ以上広がらぬうちに」
意を決してテューレが飛ぶ。伸びた爪《つめ》が一刀のもとに右腕の肘《ひじ》から先を切断する。恐らくヘルマーは斬られた瞬間、痛みを感じなかったはずだ。骨や筋肉、血管などどれも潰《つぶ》れていない。見事な切断面だった。
荒れた敷石に血だまりができる。
ヘルマーは歯を食いしばり、腕の付け根に一本の針を打ちこむ。止血と痛みどめを兼ねた「鍼《はり》」だ。見る間に血の量が減っていく。
「……よ、よくも、やってくれたな……」
冷血動物と思いこんでいた錬金術師が、初めて見せた感情の発露だった。
テューレ、ゲープラ、ケセド、ティファレイの四使徒が、アイラたちの退路を断つがごとく四方を囲む。
アイラ、ガルー、アダモ、そしてグリフィンは、背中合せに寄りそった。示し合せたわけではない。使徒の闘気に押され、自然にこうなっただけだ。
「申し訳ありません……どうやら約束を、あなたがたを守るという約束を果すことができないようだ」
伝道師は乱れた髪もそのままに、弱々しい声をあげた。
「てめえには似合わない科白《せりふ》だぜ。気障《きざ》で自信たっぷりな伊達男《だておとこ》はどこに消えうせた」
ガルーが憎まれ口を叩《たた》く。
グリフィンの口元に笑みが戻る。
「ありがとう。奮いたたせようとしてくれるのですね。でも心配はいりません。わたしはまだ戦えます」
伝道師の肌が透き通っていく。皮膚の下に肉も骨も見えない。全身が硝子《ガラス》でできているようだ。
アイラやガルーは呆気《あっけ》にとられた。アダモが痛々しそうに目を細める。錬金術師であった彼もまた、グリフィンの正体を見抜いていた。
「見苦しい姿をお見せして恐縮です。しかし必ずや彼らのうちなん人かと差しちがえてみせましょう。あとはみなさんのお力で――」
グリフィンは金属質な声でそう告げた。
結晶化した肉体の中心――ちょうど服に隠れた胸のあたりで光が明滅する。その間隔は心臓の鼓動と同調している。
エネルギーの高まりを感じる。明滅の間隔が短くなるにつれて、透き通った顔に苦悶《くもん》の表情が浮かびあがる。彼はまさしく最期の力を絞りだそうとしているのだ。
「やめて!」
アイラは敵の存在を忘れ、結晶人間にとりすがった。布地越しに感じた体は、石のように硬く、そして冷やかだった。
「あなたの気持ちは嬉《うれ》しい。船を失ったわたしは、いずれにしろそう長くは生きられない身なのです。どの途《みち》、死ぬならばここで――」
「絶対に放さない! もう誰ひとりあたしの目の前で死なせはしない!」
アイラは悲痛の叫びをあげた。姉とも思うメルカを群衆に殺されてから、まだ一週間と過ぎていない。あのような想いを味わうならば、自分が犠牲になったほうがましだった。
不意に、抱きしめるグリフィンの体が元の柔らかな肉の体に戻っていく。
アイラの懇願に負けた――いや、そうではない。当の伝道師自身戸惑っているようだ。
冴《さ》え冴《ざ》えとした白光が一同を照らしていた。
敵も味方も揃《そろ》って光差す方向に顔を向ける。
そして彼らは見た――
天に向かって揺らめく目映いばかりの銀色の髪を。
堆《うずたか》く積まれた瓦礫《がれき》の上に漆黒の馬がいた。その背に小柄な少年が跨《また》がる。
ヨシュアである。
白子《アルピノ》の眼差《まなざ》しは、双子の妹グラシアから離れ、アイラたちに注がれていた。
獅子《しし》は「信じられぬ」とばかりにまじまじと見つめる。エディラは〈火精弾〉の爆風を浴びて、ティアと共に傷ついた身を休めていたのではなかったのか。
加えるに――
ヨシュアはグラシアと余人には理解できぬ不可思議な、そして静かなる戦いを続け、今までまったく関心を示さなかった。アイラやガルーが殺されかかった時でさえだ。それがなぜ今になって。
[#挿絵(img/04_193.jpg)入る]
「……坊や」
アイラの脳裏にダスターニャでの光景が甦《よみがえ》る。〈豹《パイジャ》〉に襲われ、絶体絶命の危機に陥った時、やはりヨシュアの髪が銀色に輝き、〈豹〉を追いはらった。その時もヨシュアはエディラに乗っていた。
やはりふたり[#「ふたり」に丸傍点]の間には、まだアイラが知らぬ絆《きずな》があるのだろうか。
グリフィンは、眩《まぶ》しげにヨシュアの輝く髪を見つめる。彼の体には母船に搭載されているものよりは数段精度に劣るが、〈力《マギ》〉――すなわち「神の力」を感知する機能が具《そな》わっていた。
「〈マギ〉が高まっている……?」
伝道師は驚きに目を瞠《みは》る。明らかに劣ると思いこんでいたヨシュアがグラシアを凌《しの》ごうか、という勢いで〈力〉を高めている。
その放出される〈マギ〉が自分の体に干渉し、体内エネルギーの制御が利かなくなったのでは、と彼は類推した。
かたやガルーは、他の面々と違ってヨシュアやエディラに関心を示さなかった。
「――ったく、どこに隠れやがったんだ、あの娘《バカ》は」
彼の目は、姿の見えぬティアを追いもとめてあたりをさまよっていた。
暖かな金色《こんじき》の光があたりを照す。
負けじとばかりに、グラシアも髪の輝きを強めた。その前にはヨシュアも光を失う。陽が昇るにつれて夜空の月や星々が姿を隠す――それと同じ理屈だ。
ヨシュアが再び敵意のこもった目をグラシアに向ける。
空気が固体化したようだ。この場に居合せた誰もが、物音ひとつ、咳払《せきばら》いひとつ立てず、体を凍りつかせていた。
グラシアが瓦礫《がれき》の山に立つヨシュアに向かって歩を踏み出した。常につき従う高弟、タイフォンとネフシスが黙って続く。
「さがっていなさい」
主の命《めい》に口ごたえなどしない。女神に対する絶対的信頼の顕《あらわ》れともいえる。高弟ふたりは恭しく一礼し、その場に残った。
なおもグラシアは歩を詰める。不思議なことに彼女の足元は、崩れやすい瓦礫だというのに、かけらひとつ落ちない。普通に歩いているように見えて、実は靴と足場の間に薄い髪ほどの隙間《すきま》が空いていた。無意識に働く〈力〉のひとつだ。
距離が縮まるにつれて、ふたりの髪はまるで呼応するかのように輝きを強めていく。
ぶつかり合う陰陽の〈力〉が、周囲の空間に不思議な現象を噴出させる。
触れもせずに瓦礫が爆《は》ぜ、透明な巨人が歩き回ったように陥没が生じる。枯死していた樹木に青々とした葉が茂り、雑草が伸びる。さらには、首がもげかかった狼獣人の死骸《しがい》がいきなり起きあがり、奇怪な叫びを発して走りさった。
ヒュン――!
地面に転がっていた瓦礫のかけらが、前触れもなくアイラの顔面目がけて弾丸《だんがん》のごとき速度で飛びかかった。突然のことに、彼女は身を竦《すく》ませて動けない。
パシッ!
傍らから伸びた掌に収まる。
「……い、痛え」
ガルーが顔を歪《ゆが》めている。ジーンと痺《しび》れた指の間からかけらが落ちた。
アイラが当惑の表情を浮かべる。弱りきっていた彼が、なぜ受けとめられたのか。
「へ、変なんだ。急にはっきりものが見えるようになって……うっ、か、体が熱い」
ガルーが自分の体を抱えるようにうずくまる。
汗にまみれた肩に触れてみる。
「ひ、ひどい熱よ! どうしたの急に」
「ヨシュアが放つ〈力《マギ》〉が流入しているのです。ヨシュアとグラシア――ふたりはすでに戦いを始めている。衝突の余波がふり被《かぶ》ってきているのでしょう」
と、グリフィン。
いわれてみて、初めてアイラは体の変調を自覚した。心臓が高鳴り、全身が熱くなってきている。眩暈《めまい》もしてきた。
「ひとまず離れたほうがよいでしょう」
グリフィンが肩を掴《つか》んで促す。
「そうはいかないわ。戦いが始まるというのなら、よけいそばにいなくちゃ」
「あなたになにができるのです!」
初めて見せたグリフィンの激しさに、アイラは面食らった。
「……失言でした。しかし厳然たる事実です。彼らは共に想像を絶する『神の力』を有している。わたしたちでは足手まといになるばかりだ」
「あ、足手まとい――あ、あたしが!」
アイラは愕然《がくぜん》とした。無理もない。ヨシュアと出合ってからというもの、彼女は常に少年に対して庇護者《ひごしゃ》の立場をとってきた。守らねばならない、という使命感にも似た強い思いが、今まで彼女を支えてきた。それが一転して無用の存在に落ちてしまったのだ。
「残酷なようだが、それが現実だ」
獅子《しし》が説得に加わる。
「もうこうなっては、誰にもとめることはできない。父親として情けない限りだが……今は祈ることしかできぬ」
「で、でもエディラは――」
「あれ[#「あれ」に丸傍点]にはあれ[#「あれ」に丸傍点]の考えがあるのだろう。わたしには口を出せぬ。だが、きみやガルーには死に急いで欲しくない。わかってくれ」
アダモの血を吐くような言葉に動かされて、アイラは仲間とこの場を離れた。
状況はヘルマーたち〈混沌《こんとん》の庭〉も変わらない。
「なに、これ……」
テューレは自分の手を見て愕然とした。黄色い地毛に茶色の斑《まだら》がついた山猫の前肢に獣化していたのだ。無意識に、それも部分的に変わるなど初めてのことだ。
ヘルマーは使徒全員に後退を命じた。誰にも介入できない、「神々の戦い」と呼ぶべき高次元の対決が、今まさに始まろうとしているのだと肌で感じていた。
7
遠くから雷の音が伝わってきた。それとも地の底から響いてくるのだろうか。
上空の厚い雲は渦巻き状に流れ、廃墟《はいきょ》のあちこちで建物の崩落がひっきりなしに続く。だがこれもほんの前触れに過ぎないことを、居合せたすべての人間が知っていた。
敵味方の注視の中で、グラシアが足をとめる。直《じか》に声が届く距離だ。
「我が同胞《はらから》よ。ようやく言葉を交わす気になってくれたか」
先に口を開いたのは、ヨシュアのほうだった。それも大人びた口調で。
アイラは心臓がとまるほど驚く。
これまでもヨシュアはさまざまな「顔」を見せてきた。赤子から幼児、少年へと数えるほどの日々に、著しい成長を遂げてきた。きっかけを与えれば、言葉遣いから顔つき、性格まで一変する。
どのように変わっても「らしさ」は残っていた。アイラだけがそれを知る。強いて形容するならば、人間としての垢《あか》を廃した「純粋さ」という言葉が最も近い。それもグラシアとは違い、誰かが守ってやらねば喪《うしな》われるはかなげなものだ。
今、黒馬の背に跨《また》がる少年に、アイラがこの上なくいとおしんだ「坊や」の面影は痕跡《こんせき》さえ残っていない。姿形は同じでも、彼女の目にはまったくの別人として映っていた。
それは足元の地面が崩れるほどの衝撃だった。
倒れかけたアイラの体をガルーが支えた。
グラシアが応える。
「わたくしを同胞と呼ぶあなたは、いったいどなたかしら」
玲瓏《れいろう》たる声が廃墟にこだました。
打ちしおれたアイラの顔があがる。あの女《ひと》は、いったいなにをいおうとしているのか……。
馬上のヨシュアが、傲岸《ごうがん》な眼差《まなざ》しをグラシアに向ける。
「俺《おれ》は俺だ。他の誰だというのだ」
「あなたは……少なくとも、わたくしが知る兄ではありません」
「ふふふ、最初から角を尖《とが》らせるな。お互いこの世にたったひとりの兄妹ではないか。生まれて初めての対面だ。いろいろ誤解もあろう」
グラシアの口元にかすかな笑みがよぎる。
「おもしろい人だこと……それで、なにをおっしゃりたいのかしら、あなた[#「あなた」に丸傍点]は……」
ヨシュアは肩を竦《すく》める仕草を見せた。
「別に。このままでは、なんの語らいもなくどちらかが消滅するだけだ。虚《むな》しいだろう、そのような戦いは」
「奇遇ですわね。わたくしも同じ想いを抱いてました。もっとも、やっと顔を見せてくれたと思ったら、別のかたでしたが……」
少年の髪が輝きを増した。
その途端、天空に雷光が煌《きら》めき、臓腑に響くような轟音《ごうおん》が鳴り渡る。
「ヨシュア以外の誰が、このような〈力〉を持っているというのか! これこそおまえの〈対極〉である証《あかし》ではないか!」
「……対極」
グラシアはおうむ返しに呟《つぶや》く。
「そうよ。おまえと俺は、一対となるべく分かたれた存在よ。俺が光ならばおまえは影。俺が魔ならばおまえは聖。どちらになろうが、等しい〈力〉を持つように定められた者だ。戦えば必ず勝てるなどと自惚《うぬぼ》れぬほうがよい。おまえが〈力〉を高めれば、それに匹敵する〈力〉が俺にもたらされる。そのように定められているのだ[#「定められているのだ」に丸傍点]」
ヨシュアは目をぎらぎらと輝かせた。
が、女神はまったく意に介していない。
「……つまり、あなたはわたくしを脅かしているのね。随分と遠回しなことをなさるのね」
「な――!」
少年の顔色が変わった。
「これ以上、あなたのお喋《しゃべ》りにつき合う気はありません」
グラシアは穏やかに、それでいて反論を許さぬ口調でいい放った。そして、もうそれで興味が失せたのか視線を逸《そら》した。
グラシアの目は漆黒の馬に注がれた。
対するエディラの瞳に敵意はない。ただグラシア同様にじっと見返すだけだ。
不可解な――そして見守る者たちには息詰まる――沈黙が続く。
馬上の少年は明らかに焦《じ》れていたが、金縛りにあったように指一本動かすどころか、声を発することさえできないでいた。
ほう……と、グラシアの真紅の唇からため息が洩《も》れる。
「では、どうあっても、お考えなおしいただけないのですね」
その言葉は、眼前のエディラに向けたものとしか思えなかった。
不意に、グラシアはヨシュアに一瞥《いちべつ》もくれず瓦礫《がれき》の山を降りはじめた。
無防備に背を向けている。後ろから襲われるなどまったく考えていないかのようだ。
事実、ヨシュアは仕掛けない。いや、金縛りが続き、仕掛けられなかった、と見るべきだろう。
麓《ふもと》に辿《たど》りついたところで、再びグラシアが向きなおった。
「では……始めましょうか」
気負いのかけらもない、冷めきった声音だった。
同時に、ヨシュアを縛る鎖が切れた。
足元で小石が跳ねた。
それをきっかけにするかのように、瓦礫が土砂と共に盛りあがり少年の頭上で鎌首《かまくび》をもたげる巨大な蛇の形を作った。
さらに――
あろうことか、瓦礫の集まりが血肉を具《そな》えた大蛇に変化《へんげ》した。蛇は細い先割れした舌を出し、盛んに瘴気《しょうき》を吐きちらす。黒い息に包まれた途端、緑の葉が茂る樹木が一斉に丸裸に戻った。
大蛇が牙《きば》を剥《む》いてグラシアに襲いかかる。大きく開いた口で丸呑みにしようか、という勢いだ。敵も味方も誰もが一瞬息を飲んだ。例外もいる。最も近い位置に控えるタイフォンとネフシスのふたりだ。
グラシアが優雅に手を差しだす。すると巨大な蛇がたちまち小さな白蛇に変わった。
己《おの》が手に巻きついた蛇を指先で愛しむ。
女神の手から蛇が消えた。
次の瞬間、ヨシュアの頭上から多量の瓦礫が振りそそぐ。舞いあがった土煙によって黒馬もろとも少年の姿が隠れた。
突如、土煙の端に黒馬に跨《また》がったヨシュアが現われる。瓦礫に潰《つぶ》される寸前に、愛馬もろとも虚空を「跳んだ」のであろう。
少年は手綱を引き愛馬を後ろ脚で立たせる。
廃墟《はいきょ》にエディラのいななきが響く。
ふり降ろした前脚で地面を叩《たた》く。
ズーン!
廃園に地響きが広がる。蹄《ひづめ》の先から生じた地割れが走り、グラシアの足元まで達した。
突如として、地面が大きく口を開けた。
裂け目の向こうに、無数の光が散りばめられた闇《やみ》が広がる。その美しさとは裏腹に、一秒とて生物が生きていられない真空と極寒の〈宇宙〉だった。
周辺の瓦礫や土砂がごうと音を立てて吸いこまれる。
グラシアは空間断層の上で悠然と浮いていた。激しく流れこむ空気も衣の裾《すそ》を揺らすことさえできない。しかし遠ざかろうともしない余裕の態度に、ヨシュアのつけ入る隙があった。
少年は片側の口端を吊りあげるように笑った。
地割れの縁から鳥の嘴《くちばし》のように土砂が上に伸び、両側から女神を包みこむように閉じた。嘴はグラシアを咥《くわ》えたまま地面に戻る。空間断層は閉じられ、地面には痕跡《こんせき》さえ見出せなかった。
「――ああっ!」
〈混沌《こんとん》の庭〉側で悲鳴にも似た声があがる。
「うろたえるな」
側近の叱咤《しった》の声が響く。
「ですが――」
「見ろ。我が主は微動だにしておられぬ」
ヘルマーのいった通り、グラシアは裂け目があった場所を一歩も動かず、悠然と佇《たたず》んでいた。あれは集団幻覚だったのだろうか。
「我が主が負けるはずがなかろう。太陽があってこそ月は輝くのだ」
側近は主の勝利を確信していた。
「かわいそうなお兄さま……」
グラシアは哀れみのこもった微笑《ほほえ》みを投げかける。
「な、なんだと」
ヨシュアの顔つきが変わる。ますます少年らしさが失われ、大人びた表情を覗《のぞ》かせるようになる。
「小技をひとつふたつ躱《かわ》したからといって大きな口を叩《たた》くな。俺《おれ》が本気を出せば、この廃墟《はいきょ》どころか、大地《エルマナ》をふっ飛ばすこともできるのだぞ」
「遠慮はいりません。お好きなだけ力を振るえばよろしいでしょう」
グラシアは穏やかに応えた。
「脅しだというのか。ほ、本当に使うぞ。構わないのか。おまえは救世主になりたいのだろう。エルマナに生きる数万の民を見捨てるというのか」
「どうぞ。できるものなら……」
「できる! 決まっている! 俺はおまえの対極に位置する者だ。おまえができることならば、俺もできるはずだ」
「確かに……でも、あなたにはできません。なぜならば、あなたは我が兄、ヨシュアではないのだから」
ヨシュアは息を飲む。
「――ば、馬鹿を申すな。では、ここにいる俺はなんだというのだ」
「あなたは、臆病な兄の心が生み出した仮面《ペルソナ》――偽りの人格ですわ。本当の兄は心の奥底に引きこんで震えています。わたしには哀れな兄の姿が見えるのです」
ヨシュアは言葉を失い、身を凍らせた。
「偽りの人格に動かされた体では、わたくしに勝つことはできません。そして、わたくしもそのような結末は望みません。お兄さま――薄っぺらな仮面など外して出ていらっしゃい」
といって、たおやかな手を差しのべる。
「ち、違う!」
手から逃げるようにヨシュアは馬から飛びずさった。
「俺は偽りの人格なんかじゃない。や、奴は逃げてしまった。おまえの気配を感じた途端、巣穴に隠れてしまった。そんな卑怯者《ひきょうもの》に天が与えた尊き使命を果せるわけがない。だから、今は俺《おれ》が、この俺さまが、本物のヨシュアなんだ」
「兄は卑怯で臆病です。けれど、最後まで現実から顔を背けていることは許されません。いえ、このわたくしが許しません。さあ、兄が出てこないならば、あなたが退きなさい」
「い・や・だ! これは俺の体だ。奴には絶対に返さん」
グラシアは息をつく。
「しかたありません。力ずくでも、あなたを追いだしましょう」
「そんな真似はさせない!」
激昂《げっこう》したヨシュアの体が炎に包まれ、まとっていた衣類が燃えつきる。自分の肉体を灼熱化《しゃくねつか》させているのだ。
凄じい熱波だ。たちまち立ち枯れした廃園の樹林が燃えあがる。エディラはとどまることができず、天馬の翼をはばたかせ空中へと退避した。
白熱化したヨシュアが、煮えたぎる岩漿《がんしょう》と化した地面を一歩、また一歩と近づいていく。
女神は涼しい顔だ。無意識に張りめぐらす〈障壁〉は、彼女を害するあらゆる力を完璧《かんぺき》に遮断する。
「今のお兄さまには――まして偽りの人格であるあなたには――わたくしの髪の毛ひと筋すら傷つけることはできませんわ」
ヨシュアに向かって、ふうと息を吹きかける。それは強烈な吹雪《ふぶき》と変わり、少年を包みこむ。
岩をも溶かす超高熱が一気に冷め、そればかりか少年の体を骨の髄から凍りつかす。
「くっ――!」
身動きした途端、氷の手足に亀裂《きれつ》が入る。次の瞬間、氷像は粉微塵《こなみじん》に砕けちった。だがそれは体を覆った氷雪に過ぎない。本体はいち早く転移して遠くに逃れていた。
ヨシュアは虚空で荒い息をつく。
周囲は無数の星々が瞬き、下方には月光に照らされ、時をとめたような雲の絨毯《じゅうたん》が果てしなく広がる。
天と地の狭間《はざま》で少年は震えた。
肉体を支配する意識は、初めて克服しがたい恐怖が存在することを知った。こんなはずではなかった、という思いが胸の奥底から込みあげる。〈自分〉が肉体の主導権を握れば、少なくとも負けはしない、と確信していたのだ。ところが、蓋《ふた》を開けてみれば、術は完璧に封じられ、相手に指一本触れることもできない。
――逃げようか。このままどこか遠くに。世界には人跡未踏の地がいくらでもある。エルマナを離れれば、あれ[#「あれ」に丸傍点]も追っては来るまい。
その時、目に刺すような光が飛びこんでくる。緩い曲線を描《えが》く地平線に金色の光が広がっていく。
――夜明けか。いや違う。日の出の時刻には早過ぎる。
丸みを帯びた輝く物体が、地平線の彼方《かなた》から昇ってきた。途轍《とてつ》もなく大きい。星のいくつかを覆いかくすほどだ。
――げぇ!
ヨシュアは恐れおののいた。
最初に見えた物体は、人間の頭、それも黄金《こんじき》の髪に覆われた頂の部分に過ぎなかった。その下には高貴な笑みを浮かべる女の顔が現われた。
グラシアであった。
巨大な――恐らくは峰よりも大きな――唇が動く。同時にヨシュアの脳裏に〈声〉が響く。
『――どうなさったのかしら。もう逃げる算段を立てているの』
ヨシュアの頭は痺《しび》れた。閉ざすこともできない強烈な思考波だ。
『逃げ場などどこにもなくてよ。あなたが行けるところは、わたくしにも行ける。そうではなくて』
追いつめられたヨシュアは、全身を気張らせ、〈力〉を導きだそうとした。
長い髪が輝きに満ちる。
だが――
体の奥底から湧きあがる〈力〉は、形を結ぶ前にいずこかに消失してしまう。
『無駄よ。あなたの〈力〉は、わたくしが封じています』
ヨシュアは掌の上で弄《もてあそ》ばされていたことを思い知らされる。
『さあ、もう諦《あきら》めて心の奥にさがっていなさい。わたくしが逢《あ》いたいのは、あなたではないのだから』
地平線の彼方から巨大な手が伸びてくる。ヨシュアをその手で掴《つか》むつもりだ。
「ま、待て!」
ヨシュアが慌てて叫ぶ。
「俺《おれ》と手を組まぬか」
正直なところ、グラシアは呆気《あっけ》にとられた。
少年は卑屈な笑いを浮かべた。
「そうだ。おまえに遠く及ばないとしても、俺の力は実証済みだ。ふたりが手を携えれば、向かうところ敵なしだろう。決して悪い申し出ではないと思うが……」
グラシアが呆《あき》れたようにため息をつく。無言で手を伸ばす。
「よ、よせっ、よしてくれ。わかった。家来になる。おまえを主と呼ぼう。だ、だから――!」
グラシアの手はとまらない。ヨシュアは逃亡を試みる。が、すでに〈力〉は完全に封じられていた。空間転移どころか、浮遊する力もなくなり、真っ逆さまに雲海に落ちた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ」
少年は雲を突きぬけ、地上に向かって墜落する。そこに翼を広げた天馬《エディラ》が駆けつけた。どうにか空中で少年を背に乗せたが、地上が目前に迫っていた。今から引き起こしたところで、激突は免れない。
見守る誰もがそう思った。
地面に叩《たた》きつけられる寸前、天馬が空中にぴたりと静止する。不自然な姿勢で凍りついたまま、グラシアの前に運ばれる。
彼女は一瞬たりと姿を消していない。あの星よりも巨大な姿は幻影だったのか、それともあれもまた実体だったのだろうか……。
エディラの蹄《ひづめ》が地面を踏む。
髪の輝きが消えてヨシュアは、臆病な子どもに戻った。
離れていてもアイラにはそれがわかった。冷えきった胸に暖かな希望の火がともる。
だが、戦いが終わったわけではない。ゆっくりとグラシアが近寄っていく。
「あ、あ……」
鬼の姿を見たかのように、ヨシュアは馬首にしがみつく。
それを見たグラシアの顔から笑みが消える。目尻《めじり》が吊《つ》りあがり、憎しみの気が迸《ほとばし》る。
「さあ、早く降りなさい。もう逃げ場はどこにもありません。自分の足で立つのです」
その声は使徒でさえおののくほどの苛烈《かれつ》さだった。
一層、ヨシュアが怯《おび》え、うわ言のような意味を持たぬ声を発した。
エディラが鼻息を荒くして女神に立ちはだかる。
グラシアの髪が不安定に輝く。
「あなたがそんなだから――!」
途中で言葉を飲みこむ。怒りをこらえていても、握りしめた手が波打つ心中を物語っていた。
少年が馬の背を離れ、地面に投げだされた。グラシアの念の力だ。エディラが助けに走ろうとするが、足が地面に張りつき一歩も動くことができない。
ヨシュアの許《もと》にグラシアが歩みよる。少年は逃げようとするが、腰が抜けでもしたのか、地面を這《は》うことしかできない。
「――もう、見ちゃいられない!」
アイラが物陰から飛びだそうとした。それより早く白い影が彼女の脇《わき》を駆けぬけていく。
アダモだ。
今までアイラを抑える役に徹していた彼も、我が子の危機を目の当たりにして、我慢の限界を越えたに違いない。
アイラ、グリフィンが獅子《しし》に続くと、ガルーも舌打ちして後を追う。
矢のような速さで疾駆するアダモの視界に、黒い影がよぎる。
グラシアの高弟ふたり、タイフォンとネフシスが、アダモの前に立ちはだかる。
獅子は足を緩めない。このまま蹴散《けち》らす気だ。
タイフォンがにやりと笑った。口端から鋭い肉食獣の牙《きば》が覗《のぞ》く。
アダモの獣としての本能が、最大級の警鐘を鳴らす。全身の体毛がざわっと逆立つ。
タイフォンが吠《ほ》えた。
鉄壁に頭から突っこんだような激しい衝撃がアダモに襲いかかる。タイフォンの喉《のど》から発した衝撃波だ。
巨体が土煙を巻きあげて地を転がる。
「アダモっ!」
血相を変えて、アイラたちが駆けよる。
傷だらけになりながらも、獅子は自力で地面から身を引きはがす。
「がっ――」
口から血へどを吐きだす。衝撃波は直《じか》に内臓を傷つける。
「くそがぁぁぁ!」
ガルーは大型雷発銃の銃口をタイフォンらに向ける。が、ネフシスの眼光に捉《とら》えられた途端、体の自由が利かなくなった。
「お、俺《おれ》の手が――」
あろうことか、引き金に乗せた指が石に変わっていく。
ネフシスの視線を遮るように、ガルーの前でグリフィンが壁となる。魔力が解けて、ガルーは倒れる。肘《ひじ》近くまで石化された右手が元に戻った。
「――動けば殺す」
タイフォンの圧《お》し殺したひと言に、一同は体を凍りつかす。高弟ふたりの力はまさに圧倒的だ。心も体も萎縮《いしゅく》し、身動きひとつできなくなった。
そうこうしている間に、グラシアはヨシュアを捕まえた。少女と見紛う細い肩を掴《つか》み、その色素の乏しい瞳を覗きこむ。
「……どうして、こんなにきれいな目をしているの。産まれてからずっと陽の差さぬ牢獄《ろうごく》にとじ込められていたというのに……運命を呪《のろ》ったことはないの。陽の下で育った妹の存在に気づいていたでしょう。わたしを恨みはしなかったの」
ヨシュアは声もなく、なん度も首を横に振った。
「……わたしはなんの不自由もなく育ったわ。痛みも寒さも飢えも、知識として理解しているだけ……でも、だから幸せだったとは思わないで欲しいの。
わたしの周囲にいた者たちは、この体に流れる救世主の血を欲していただけ……愛情のかけらもなかった。〈目覚め〉を迎えなければ、ただの失敗作として始末されていたでしょう。
わたしはお兄さまが、牢獄に繋がれていたお兄さまが羨《うらやま》しかった。妬《ねた》ましいと思ったほど。たとえ、離されていても、お父さまやお母さまの愛情を一身に受けていたのですもの。誰かひとりでもいい。愛を注いでくださる人がいてくれたら……わたしは〈魔王《サタネス》〉と呼ばれてもよかった」
不意に、グラシアの碧《あお》き瞳が怒気を孕《はら》む。その手が少年の首にかかった。
ヨシュアは振りほどこうとあがく。
「……お願いよ。じっとしていて。できるならば、もっと苦しまない方法でこの世から消してあげたかった。でも、駄目なの……仮面の人格がいったように、お兄さまはわたしの対極に位置する者……〈力〉によって消しさろうとすれば、反動によってわたしまで消えてしまう。最初からお兄さまが出てきたら……怖かったのは、震えていたのは、むしろわたしのほう」
喋《しゃべ》る間に、グラシアの瞳は病的な輝きを増していった。
「ごめんなさい、お兄さま……わたしが、わたしとして生きるため……死んでください」
ヨシュアの顔が土気色に染っていく、その命は風前の灯火《ともしび》に思えた。
が、その時だ――
天に異変が起きる。
廃墟《はいきょ》上空の厚い雲が消え、極光《オーロラ》が現われる。満天の星々を背景に赤い光の薄布が揺れる。この場に居合せた全員――グラシアまでも――が、束《つか》の間戦いを忘れて空を見上げた。
首の締めつけが解け、ヨシュアは体を屈めて激しく咳《せ》き込《こ》む。
「おお……あの夜と同じだ」
獅子《しし》はうわ言のようにいった。
「あの夜?」
アイラが聞きとがめる。
「そうだ……ふたり目の胎児が人工子宮内に出現した時も、あのように空が輝いていた」
「〈聖双生児〉の生誕を告げる天の啓示……〈伝承《カバラ》〉ですね」
と、グリフィン。
獅子はまじまじと伝道師を見つめる。
「そうだったな。ムウやアトランティスが知っていようと不思議はない」
「ですが……あの色は存じません。十三年前に発生した極光は青だったはず」
「そうだ。古エルマナでは、青は神聖を、そして生命や喜びを表わす尊き色だった」
伝道師として派遣されたグリフィンは、古《いにしえ》のエルマナの文化風習に造詣《ぞうけい》が深い。
「赤はその逆の意味を持つ……魔性、死、怒り」
獅子は重々しくうなずいた。
異変はさらに続く。天のざわめきと呼応するかのように、荒野をとり囲む樹海にもこれまで見られなかった現象が起きる。
ブン!
羽音を唸《うな》らせ、一匹の甲殻虫がゲープラ目がけて飛来する。
ビシッ!
虫はまったく勢いを弱めようともせず、巌《いわお》のごとき背に当たって四散した。
甲殻虫は別名「樹海の殺し屋」と呼ばれる危険な生き物だ。目にもとまらぬ速さで体当たりをかけ、その威力は大型獣の頭蓋《ずがい》をも粉砕する。もっとも危害を加えない限り、滅多に向こうから襲ってくることはないはずだが……。
ブン、ブブン――!
続けざまに使徒の脇《わき》を甲殻虫がすり抜ける。その方向には、ヨシュアの前に屈《かが》みこむグラシアがいた。
タイフォンが盾になり、手刀で虫を叩《たた》き落とす。虫ごときが、グラシアを包む絶対障壁を破れるわけもないが、体液が飛びちり女神の目を汚すことになる。
「どういうことだ。この地に一匹たりと虫が迷いこむわけがない」
隻腕《せきわん》の錬金術師は、困惑を露《あらわ》にしていた。
実をいえば、地下深くに眠る〈炉〉から生物に有害な放射線が洩《も》れている。繁殖力旺盛な樹海植物が廃墟《はいきょ》周辺に根づかぬ理由はこれだ。侵入者撃退用に敷かれた結界がなくとも、危険を回避する本能に優れた虫や獣は決して近づくことはないはずだ。
誰もが、なにか予想外の事態が進展していると感じた。
ブオオオオオオオ
巨大な擂《す》り鉢の縁を越えて、黒い雲のごときものが四方から押しよせる。
虫だ。樹海から溢《あふ》れたなん万、なん十万という虫の集団が大挙して襲いかかってきたのだ。
ヘルマーが投じた〈精霊弾〉が、あちこちで激しい火勢をあげる。光に引きよせられ、火中に身を投じる虫も多いが、全体から見ればごくわずかだ。庭園は虫の大群によって埋め尽くされた。
「どういうこと?」
アイラの周囲を虫が避けて通る。アダモやグリフィン、ガルー、エディラも同じだ。逆に敵の使徒たちは集中的に襲われ、姿が隠れるほどだ。
ガルーが怒鳴る。
「ボヤボヤするな。なにが起きているか知らないが、混乱に乗じて脱出するんだ」
「そんなこといったって、ヨシュアが――」
「獅子《しし》のおっさんが助けに向かった。俺《おれ》たちは先に行けとよ」
「で、でも――」
「ええい、いい争っている暇はないんだよ」
業を煮やしたガルーは、アイラの手を掴《つか》んで無理矢理引きずっていった。
ちょうどその頃――
アダモはエディラと共にグラシアの前に立っていた。周囲の空間は、女神の神秘の力が働いているのか、台風の目のように静かだった。なん万もの虫が立てる羽音もここには届かない。
「――ヨシュアは連れていく。よいな」
アダモは厳しい声音でいった。
少年は獅子の背に乗り、白いたてがみの中に顔を埋めて震えている。
グラシアは、心ここにあらずといった風情で立ちすくんでいた。
「……わたくしが間違っていたのですか」
その声はひどくうつろに響いた。
獅子が首を横に振る。
「わからない。わたしとて、定められた理《ことわり》の中に生きる――生かされているちっぽけな存在に過ぎぬ。おまえのほうが、はるかに世界が見えるだろう……ただ、これだけはいえる。おまえたちの戦いを望まぬ者が、わたしたちの他にもいる、ということだ」
「……それは、神、でしょうか」
グラシアはためらい気味に尋ねた。「神」という言葉に恐れが感じられた。
「さて……側近《ヘルマー》にでも訊いてみるといい。なにせ神を創ろうとする男だ。わたしよりも上手に答えるだろう」
そう告げると、アダモは背を向けた。エディラがちらりと悲しげな瞳でグラシアを見たのちその後に続く。
「――お父さま、お母さま!」
こらえていた感情が、一気に吹きだしたような叫びがあがる。
アダモらが頭《こうべ》を巡らす。するとそこにはヨシュアと酷似した少女が、すがるような目で立っていた。
いや、それは一瞬の幻だった。
背後には気高き女神が、微笑《ほほえ》みを浮かべて佇《たたず》んでいた。
そこにタイフォン、ネフシスのふたりが虫の壁を越えて現われた。
「行かせておあげなさい」
女神が告げる。ふたりの高弟はおとなしく主の脇《わき》にさがった。
獣に変えられた父母[#「父母」に丸傍点]は、振りかえることなく、虫が飛びまわる黒い雲の中に姿を消した。
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【第三章 地下水道】
1
カッ、カッ……
地下通路に足音が響く。
深く掘りさげられた「擂《す》り鉢」のさらに下――文字通りの「地の底」に潜ってからというもの、アイラ、ガルー、グリフィンの三人は、ろくに言葉を交わさず、惰性のように足を動かしつづけた。
辛うじて戦場を逃げられたものの、いつ追撃の手がかかるかわからない。はぐれた仲間の安否も気遣われる。とても手をとり合って喜ぶ気分にはなれなかった。
伝道師の掌から放たれる光が、荒廃した通路を照らしだす。一行にとり唯一の明かりだ。彼がいなければ、暗闇《くらやみ》の中で一歩も前に進めなかっただろう。常人より夜目がきくといっても、真の闇では変わらないのだ。
先頭を進んでいたアイラが、歩をとめて振りかえる。
「ほ・ん・と・う・に、この道でいいんだろうね?」
なん度か繰り返された問いだ。
「わからん……わかるわけがない」
応えるガルーの言葉も判で押したように同じだ。もっとも回数を経るごとに、声に苛立《いらだ》ちが増していくのだが。
「なんで、落ちあう場所を決めておかなかったの」
「そんな暇があったかよ。おっさんは『地下へ逃げろ』としかいわなかった。だから手近な穴に飛びこんだのさ。俺《おれ》のほうこそ、前もってしめし合せてあるかと思ったぜ」
「人のせいにしないで」
「どっちが」
と堂々巡りになり、結局は出逢《であ》うまで歩きつづけるしかない、と結論するのだ。
不毛ないい争いだとふたりともわかっている。しかし時折こうしてなにかで発散させないと気が変になりそうなのだ。
廃墟《はいきょ》の地下は巨大な迷宮だった。
五〇〇年前の〈大災厄〉のせいか、多くの通路が途中で塞がれており、そのたびに他の道を探さなければならなかった。地下では時間感覚も方向感覚も狂う。いったい、ここがどこで、どれだけの間さまよっているのか、まったく見当もつかない。時と共に疲労と焦燥は増すばかりだ。
緊張の種は他にもある。列の最後尾につき、ふたりが喧嘩《けんか》している最中も、まったく口を挟まぬグリフィンの存在だ。
彼は危険を顧みず助けてくれた。そのため空飛ぶ船を失う結果となった。ガルーにしても、もうこちらに害意があるとは考えていない。
が、いったい彼はなにもの[#「なにもの」に丸傍点]なのか。またなんの目的で近づいてきたのか。本人の口からは未だ語られず、またふたりのほうから切りだすのもはばかられた。
そして静寂に満ちた通路を歩いている間に気づいたことだが、彼は息をしていなかった。
螺旋《らせん》通路の途中にある踊り場めいた場所で、グリフィンが立ちどまった。
「ど、どうした?」
前を歩いていたふたりが戻る。
「案内板のようです」
地下に降りてから初めてグリフィンが喋《しゃべ》った。アイラとガルーは思わず顔を見合せる。口には出さないが、お互いの顔に安堵《あんど》の色が窺《うかが》える。
グリフィンが壁の埃《ほこり》を払うと、下から金属板が現われた。
「こ、これがそうなのか。で、なんと書いてある。ここはどのあたりなんだ」
「さあ……」
意外な返事にガルーは戸惑う。
「だって案内板なんだろ。せめて地図ぐらいついてないのか」
「ご覧になりますか」
ガルーは目を近づける。薄い真鍮板《しんちゅうばん》に文字が刻まれているが、半分以上は見たこともない。古エルマナ時代のものだろう。〈大災厄〉以後、文字数は大幅に減ったし、文法も随分と簡素化されている。もはや僧侶《そうりょ》か錬金術師以外読むことはできない。
「少々お待ちを……」
そういって、グリフィンは腰帯につけた小型炉から被膜された線を引きだし、先端の金具を金属板のそばに開いた穴に差しこむ。
「動力を入れます。規格は異なりますが、なんとかなるでしょう」
炉がブーンと唸《うな》る。すると天井の明かりが次々に点灯し、通路が眩《まぶ》しいほどに照らされた。同時に足元の床が流れるように動きだした。
「きゃあ!」
「な、なんだ!」
アイラとガルーが走路の上に転び、そのまま下に運ばれていく。一方、グリフィンは最初から予期していたのか、壁際に避難していた。
ふたりはかなり下まで行ったのち、壁伝いに戻ってきた。
「なんなんだ、こいつは!」
ガルーがグリフィンに噛《か》みつく。
「……なんだとおっしゃられても。見た通りのものとしか。今更、驚くような代物ではないでしょう」
「地面が動くなんて気持ち悪いんだよ。さっさととめろ」
言葉には出さないが、表情から察するにアイラも同意見のようだ。
「はあ……」
被膜線を抜き動力を断った途端、闇《やみ》と静けさが戻る。
「――で、なにかわかったのかよ」
「この案内板は、使用者の手が触れると直接頭の中に情報を伝える仕組みになっています。それにしても、五〇〇年の歳月に耐えるとは、大したものです」
「御託はいい。ここはどこだ」
ガルーは癇癪《かんしゃく》を抑えて訊《き》いた。
「都市の地下に埋設された〈陰陽炉《おんみょうろ》〉をとり巻く作業通路のひとつです。深さ二〇〇|肘尺《キュビク》(一〇〇メートル)といったところでしょう」
なにか思いついたのか、アイラがガルーを押しのけて身を乗りだす。
「近くに〈駅〉はない?」
「駅だとォ。地の底を馬車が走るっていうのか」
「うるさいわね。思いだしたのよ。あの連中が来る前、アダモが地下に潜って駅を探していたの。そこから例の〈穴〉に向かうって。『地下に逃げろ』って『駅に向かえ』って意味じゃないかしら」
ガルーは呆気《あっけ》にとられる。
「そんな大事なことを、どうして思いださないんだ」
「しょうがないでしょ。忘れていたんだから」
喧嘩《けんか》に発展しそうな気配を察したのか、グリフィンが言葉を続ける。
「確かに、最下層に〈駅〉と表示された区域がありました。しかもそこだけ動力が目覚めています。誰かが回線を復旧させたのでしょう」
アイラの顔が輝く。
「じゃあ、アダモたちが――」
グリフィンは首を傾《かし》げ、
「そうとばかりは。〈混沌《こんとん》の庭〉の面々が先回りしている可能性もあります。どちらにしても、行って確かめるしかありませんが」
ガルーが勢いづく。
「よっしゃ、そうと決まったら先を急ごうぜ。ここをくだればいいのか」
「螺旋《らせん》通路でも辿《たど》りつけないことはありませんが」
「が?」
「かなり遠回りになるでしょうね。お急ぎでしたら別の道を進んだほうがよろしいかと……」
ついに辛抱が切れた。
「急ぐに決まっているだろうが! どこもかしこも気に食わないが、その回りくどい喋《しゃべ》り方が三番目に嫌いだ」
端麗な顔に笑みが浮かぶ。それはいつもの[#「いつもの」に丸傍点]グリフィンだった。
「気をつけましょう。ちなみに……一番と二番は?」
「顔と性格」
ガルーは吐きすてるようにいった。
「この管が近道ってか」
壁に並んだ穴の前で、ガルーは立ちすくむ。
「はい……」
グリフィンが微笑《ほほえ》む。
管は滑り台式になっており、最下層まで繋《つな》がっているという。本来は緊急時にしか使われない通路だそうだが、真っ暗な穴の中に飛びこむのは度胸がいる。
「なんなら、あたしから」
と、アイラが申しでる。
ガルーはぶるぶると顔を振る。惚《ほ》れた女に怖《お》じけづいたと思われるくらいなら、死んだほうがましだ。
大型雷発銃を背中から降ろし手に抱える。そして、腰の高さに開いた四角い穴の入口に足を突っこむ。ごうという唸《うな》りと共に冷たい風が吹きあげてくる。心臓がせりあがり、口から出そうになる。
意を決して穴に飛びこむ。男の面子《メンツ》ばかりではない。彼にしても早くヨシュアらと合流しなければならない理由があった。
暗闇《くらやみ》の中をどこまでも落ちていく。ぐんぐん速度が増し、気圧の変化からか耳の奥が痛くなる。
「きゃああああああ」
頭の上のほうから甲高い悲鳴が聞こえる。後に続くアイラのものだ。女ならば可愛《かわい》げもあるというものだが、男となるとそうはいかない。
ガルーは意地でも「声は出さん」と歯を食いしばった。
しばらくすると傾斜が心持ち緩やかになり、背中が摩擦で熱くなってきた。出口が近い証拠だろう。
――と思った途端、ガルーは宙に投げだされていた。
「うわああああああ」
バッシャーン
盛大な水音を立てる。しこたま水を飲み、慌てて水面に浮かびあがろうとする。ところがあっさりと立てる。腰ほどの深さしかなかった。
「きゃああああああ」
頭上からアイラの悲鳴があがる。受けとめようとしたが間に合わなかった。手前の水面に派手な水|飛沫《しぶき》を立てて落ちた。
「な、なんなのよ」
助けおこされたアイラは、まるでガルーのせいかのように喚《わめ》いた。
ガルーは大きなくしゃみをした。音が反響し、長く尾を引いた。
まわりを見渡す。岩壁がはるか頭上まで延びている。巨大な洞窟《どうくつ》のようだ。全体の広さは見当もつかない。奥のほうから光が洩《も》れており、辛うじてものが見える。どこからかザーザーと滝の音が聞こえてくる。この地下水道に流れこむ水の音だろう。
「大丈夫ですか」
振りかえると、滑り台の出口からグリフィンが顔を覗《のぞ》かせていた。
「大丈夫じゃないだろが! ここを勧めたおまえが、どうしてボチャリといかない」
「すみません。水音が続けてあがったので、つい……」
グリフィンは壁際の岸に降りたち、巨大な洞窟を見渡す。
「五〇〇年前に比べてかなり様相が変わってしまったようですね。地下にこんな川ができているとは思いもしませんでした」
ガルーは怒りが収まらず、なおも水の中で伝道師を睨《にら》みつけた。
「しっ――」
アイラが警告を発した。光差す方向に生じた小さな水音を捉《とら》えたのだ。
ガルーは岸辺にあがる。雷発銃は水に浸《つ》かり、不発となる可能性が高い。代わりに隕鉄製《いんてつせい》の銃剣を鞘《さや》から抜く。
アイラは腰の剣に手をかける。まだ抜けない。オリハルコンの輝きを発すれば、敵に待ちかまえていると気どられるからだ。
だが、グリフィンは大人然と、
「敵ではありませんよ」
と、告げる。彼の目には、まだ姿さえ見えぬ相手が映っているのだろうか。
曲がり角から小さな影が躍りでる。逆光になって顔を識別できないが、華奢《きゃしゃ》な手足といい大きく膨らんだ髪といい、一見しただけで誰かわかる。
「――ティアじゃないか!」
赤毛の少女が一目散に駆けより、濡《ぬ》れネズミとなったガルーに飛びつく。そして舌で顔を嘗《な》めまわした。
「こら、よさないか、ははっ」
口では嫌がっているが、ガルーの手は少女の髪の中に伸び、くしゃくしゃにかき回す。
「どうして、おまえがここにいるんだ。今までどこに雲隠れしていたんだ、ええ?」
ティアは小首を傾《かし》げて考えこむ。読心によって相手の考えを理解できても、言葉にして返すことは難しい。
「アナ、入ッテイタヨ、アタシ。暗イ、暗イ、穴。怖カッタ。デモ、ジットシテタ。イイツケ、守ッタヨ」
どうやらティアはなに者かに命じられて、地下通路の入口で待っていたようだ。
「誰だ? 誰がおまえにそんなことをいったんだ」
先程の問いかけに比べれば簡単だった。
「えでぃら」
と、少女は間髪を入れず返事をした。
ガルーは眉《まゆ》をしかめる。
「えでぃらって、『お馬さん[#「お馬さん」に丸傍点]』のエディラか」
少女は怪訝《けげん》な顔をした。ガルーの驚きが理解できないのだ。
「早ク、早ク」
と、ガルーの手を引く。
「うるさい。今、考え事をしているんだ」
「デモ……ミンナ、待ッテイルヨ」
「みんなって誰っ!」
突然、アイラが会話に割りこむ。
「ヨシュアでしょ。無事でいるんでしょ」
あまりの剣幕に、少女は失語症にかかってしまったかのように口ごもる。
「よせよ。驚いているだろう」
咄嗟《とっさ》にガルーが庇《かば》う。
アイラは謝りもせず、ティアが来た方向に向かって駆けだした。
ガルーは頭をかきながら、遠ざかる後ろ姿を見送る。
「――たく、しょうがねえな。ヨシュアのこととなると、人が変わってしまうんだから」
「この様子ならば、ひとりで行かせても危険はないでしょう」
そういって、グリフィンは横目でガルーを見た。
「……それにお互い、体力は貴重になっています」
ガルーは驚いた顔をするが、すぐに目が緩む。
「……ああ、まったくだ」
残された三人は、ゆっくりと後を追った。
アイラは川沿いの道を風のような速さで駆けた。
一心に願うのはヨシュアの無事だ。恐らくは生きているに違いない。「坊や」の身に万が一の事態が起きていたら、たとえ離れていても胸をさし貫くものがあったはず。
とはいうものの、元気な姿を直《じか》に見なければ、暖かな体を抱きしめてみなければ、心から安心などできない。
樹海の街道で出逢《であ》ってからというもの、アイラは片時たりとヨシュアから離れていられなくなっていた。
洞窟《どうくつ》の向こうに目映い光が見えた。前方は一段と広くなっており、高い天井の一部が輝いているようだ。そこがアダモがいっていた〈駅〉に違いない。
[#挿絵(img/04_235.jpg)入る]
光の中に巨大な生き物の影が浮かびあがる。宙に高く伸びた竜の首、平べったい胴体、その脇《わき》には折りたたまれた翼のようなものが見える。岸に乗りあげ、ぴくりともしない。
アイラの足がとまりかかる。すると怪物の傍らに横たわる黒馬が目に入った。怪我《けが》をして動けないのか、と思いきや、馬の腹に体をあずけて眠るヨシュアの姿が見えた。
不思議な、それでいて心休まる光景だ。
見つめているうちに、アイラの胸に針で刺したような痛みが生じた。それが「嫉妬《しっと》」だと、なかなか気づくことができなかった。
エディラが低いいななきを発した。
アイラは人差し指を口元に立て、そっと忍び足で近づく。片時もヨシュアから目が離れない。
悲しみも苦しみもない安らかな寝顔だ。その幼子のような表情は、以前のままのヨシュアだった。
目の前が霞《かす》む。知らず知らずに溢《あふ》れでた熱い涙が頬《ほお》を伝わりおちる。気持ちのよい涙だ。胸に溜《た》まった懊悩《おうのう》ごと一緒に流れだすような気がした。
眠りを妨げてはいけない、と心にいい聞かせていたアイラだったが、間近で少年を見た途端、戒めはいずこかにふっ飛んだ。
背後に遅れてやってきたガルーたちが立っていても、巨大な生き物に見えた「船」の上に白獅子《しろじし》アダモが現われても、アイラは少年の細くしなやかな体を抱きしめ、嗚咽《おえつ》をあげ続けた。
2
「――どうか追撃のご下知を」
地上では黄金の女神《グラシア》を前にして隻腕《せきわん》のヘルマーが跪《ひざまず》いていた。
とうに虫の群れは飛びさり、廃墟《はいきょ》は静けさをとり戻している。六名の使徒は全員が大した傷も負わず無事だった。タイフォン、ネフシスの両名に至っては、女神同様に着衣の乱れすら見当たらない。これは他の使徒との間に大きな力の差があることを物語っている。
「――このまま逃がしては後々面倒になります。どうか我らに下知を」
ヘルマーは重ねて訴える。
しかしグラシアはまるで暝想《めいそう》に耽《ふけ》るかのように目も耳も閉ざし、懸命の訴えになんの反応も示さなかった。故意に無視しているのか、別の意味があるのか――側近といえど、グラシアの心中を窺《うかが》いしることはできなかった。
ヘルマーは気が気ではなかった。もしここでヨシュアをとり逃せば「救世主計画」に大幅な遅れをきたすことになる。
叶《かな》うならば、廃墟ごと吹きとばしてでも始末をつけたいところだが、地下に〈炉〉があっては危険が大き過ぎる。そのために戦いにおいても、個人火器程度に威力を弱めた武器しか使わなかったくらいだ。ここは是非とも使徒を討伐に派遣しなければならなかった。
ところが――
女神の体から存在感が薄れる。肉体を通して背後が透けて見える。
「――グラシアさま!」
ヘルマーが腕を伸ばしてとめようとしたが、グラシアは気配も残さず霞《かすみ》のごとく消えさった。
驚くほどのことではない。彼女は幼少の頃より理由もなく忽然《こつぜん》と消えてしまうことがしばしばあった。それは女神の風格を身につけてからも変わらない。あるいは気紛れも神性の一要素なのかもしれない。
しかしながら、ヘルマーにとり、単なる気紛れでは済ませられない。
「いずこへまいられたのか?」
「恐らくは〈塔《ストウパ》〉へ」
と、第一使徒タイフォンが告げる。
〈塔〉とは旧世紀末期に建てられた正四面体の積層建造物のことだ。〈大災厄〉を予見した当時の錬金術師らが、後世に貴重な知識《アルス》を伝えることを目的にして、エルマナ各地に建てたといわれる。現存する〈塔〉はおよそ三〇。すべてが五大錬金術組織の厳重な管理下にある。
〈混沌《こんとん》の庭〉は五大組織の中で最も多い、七つの〈塔〉を掌握《しょうあく》し、そのうちのひとつが居城として女神に与えられていた。
グラシアが単身居城に引きあげた。なにも告げずに。だが、考えようによっては好都合かも知れぬ、とヘルマーは内心ほくそ笑む。この場にいないのならば、自由に使徒に命じることができる。
ヘルマーは落ち着きをとり戻し、
「お帰りになられたのならば仕方あるまい。我が主に代わって命じる。早急に逃げた魔王一派を討つのだ。奴らは傷つき、力を失っている。今ならばそなたらでも斃《たお》せるはずだ」
「待たれよ、側近殿」
タイフォンが遮る。
「いかにアフラサクス殿とはいえ、我が主のご意志に反する命令はくだせませんぞ」
「たわけたことを。魔王を討つことが主の意に添わぬと申すのか」
「然《しか》り……側近殿はご存じなかろうが、我が主は魔性の子にとどめを刺せたにも拘《かかわ》らず、あえて命を助けられたのだ」
ヘルマーの顔が歪《ゆが》む。やはりという思いが強い。それでもあえて口にする。「なにかの間違いではないのか」と。
すると女神の右側に立つ、第二使徒ネフシスが艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》み、
「はっきりとこの耳で聞きましたわ。『なぜ?』とお尋ねにならないでくださいませ。下僕たるわたしどもは、黙って主の命《めい》に従うだけ……」
ヘルマーは頭《こうべ》をうな垂れた。グラシアの高弟ふたりが口を揃《そろ》えていう以上、反駁《はんばく》の余地は残されていない。だとしても、このまま大人しく見過ごすわけにはいかなかった。
「主の命とあらば従うしかあるまい。しかし臣下の務めとして、きゃつらの足取りだけでも掴《つか》んでおく必要がある」
タイフォンは鼻を鳴らす。
「ふふん、側近とはつくづく気苦労の絶えぬものらしい。我が主の〈神の目〉から逃れられる者などいないというに。しかしそれで側近殿の気が休まるならば仰せの通りにしよう」
「…………」
ヘルマーは鉄の自制心で、いささかも表情を変えなかったが、腹の中は煮えくりかえっていた。
そもそも側近と使徒の関係は微妙であった。側近がいくら組織内で高い地位についていようと、〈救世主《メサイア》〉の直属である使徒に対して直接の命令権はない。あくまでグラシアの委任においてのみ許されていた。それでも今までは、グラシアが些事《さじ》に拘らぬことから慣例的に側近が代行者として命令をくだし、十二人の使徒も唯々諾々《いいだくだく》と従ってきたのだが……。
第一使徒の不遜《ふそん》な物言いは、使徒側の反発、あるいは台頭の兆しとして見るべきだろう。
「さて問題は誰をつけるかだが……」
タイフォンは四人の使徒を順ぐりに見る。第四使徒ケセド、第五使徒ゲープラの両名は真っ先に除外する。ふたりの特性はずば抜けた攻撃力にあり、適任とはいえない。加えてケセドには主を運ぶ馬としての尊き役目がある。グラシアの許《もと》を離れることは許されない。
次に第六使徒ティファレイに視線を向ける。返す目は「是非、自分を」と訴えていた。本来、この種の仕事は、持ち前の移動力の高さや沈着冷静な判断力を具《そな》えた彼女の独壇場だった。が、先の戦闘で傷つき休養が必要だ。
そして最後に骨細の少年に視線がとまる。
「テューレ、おまえにしよう」
「任せてよ」
第三使徒は胸躍るような気分だった。あのムウの伝道師に仕返しする機会が早くも巡ってきたのだ。しかも単独行というのがいい。主のそばに仕えることは名誉には違いないが、遊び盛りの子どもにとっては退屈窮まりない。
するとゲープラが見透かしたように、
「待てよ、タイフォン。このきかん坊が大人しくしていると思うのか。監視に飽きたらず、必ずや奴らにちょっかい出すぞ」
テューレは口の中で「喧《やかま》しい牛野郎が!」と罵《ののし》る。
タイフォンは厳格な面持ちで、
「任務さえ全《まっと》うできるのならば、後は本人の裁量に任す。上の位階が与えられている者が、いつまでもおしめのとれぬ赤子では、そなたにしても納得がいくまい。そろそろひとり立ちをさせてもよい時期ではないか」
正論である。ゲープラもにわかに返す言葉が見つからない。
「それに」
そう呟《つぶや》くタイフォンの口元に笑みがのぼっていた。
「テューレひとりに命を落とす魔王ならば、我が主がお気にとめられる価値がない。そうではないかな、側近殿?」
「……そなたの申す通りだ」
ヘルマーはこの時はっきりとタイフォンを敵だと認知した。
ふたりの視線が交錯し、目に見えぬ火花が飛びちる。無関心を装う使徒の中で、ただひとりネフシスだけは、心から嬉《うれ》しそうに目を細めてふたりの睨《にら》みあいを見つめていた。
その頃、地下の〈駅〉では――
鱗状《うろこじょう》の模様が入った胴体が唸《うな》りをあげる。
竜の目に光がともる。
軽く身震いすると「怪物」は乗りあげた岸辺から空中に浮かび、地底の川に着水した。緩やかな流れに乗って進む。
「どうやら、出発できそうだ。発動機の慣らし運転を続けてからだが」
怪物の内部で、白獅子《しろじし》がほっとしたように呟いた。
「素晴らしい。五〇〇年も放置されていたとは、とても思えません」
隣でアダモの操作を眺めていたグリフィンは感嘆の声をあげた。
「水を差すようで悪いが、この船は一〇年前にも整備をしている。わたしがまだ人間だった頃、これを使って本部である〈塔《ストウパ》〉との間を往復していたのだ」
この大洞窟《だいどうくつ》は古エルマナ文明の最盛期に築かれた人工の地下道だ。〈大災厄〉の影響で寸断されてしまったが、かつては大陸全土の都市を結ぶ交通の大動脈だった。
「だとしても、驚きに変わりはありません。船体そのものは古エルマナ時代に作られたものでしょう」
獅子はため息をつく。
「確かに。今日《こんにち》の我々には整備はできても、同じものを再現する技《アルス》はない。つくづく失われたものの貴重さを思いしるよ」
「完全に失ったわけではないでしょう。たとえばこの船を深く研究すれば」
「やってみるかね。なんならきみに進呈しても構わない。ムウの科学者とやらが総動員しても、手も足も出ないと思うが……いや悪かった。決してお国の方々を愚弄《ぐろう》するつもりはないのだが」
ムウきっての間諜《かんちょう》は、静かに首を横に振る。
「そうかもしれません。わたし自身、多くの資料を本国に持ちかえりましたが、原理すら解明できないものばかりです」
「よいではないか。ムウは古エルマナとは異なる技――『生命科学』だったな――を生みだし発展させている。わたしが失った技を惜しむのは、わたしがエルマナの人間であり、偉大なる先人が悠久の時を費やし積みかさねた成果のごく一部を受けついだ錬金術師《アルケス》の端くれだからだ。きみたちは己《おの》が力で築きあげたものをもっと誇りにしたまえ。きみが賛美するこの船にしても、いずれ消えゆく文明の残滓《ざんし》に過ぎないのだ」
獅子の言葉には盤石の重みと、そして深い悲しみが込められていた。命令とはいえ、遺跡調査という名の「墓荒し」を行なっているグリフィンとしては、ただただ恥じいるばかりだ。
アダモは笑った。
「埒《らち》もないことをいった。聞きながしてくれるかね」
「叶《かな》うならば、本国の指導者たちに伝えたいと思います。恐らく無理でしょうが……」
グリフィンの秀麗な顔に陰りが窺《うかが》える。
「諦《あきら》めるのは早いのではないか。命を長らえる方法はあるはずだ。そう……〈都〉には伝道師《ナーカル》がいる。彼らの船でムウに帰れば」
「それまでこの体が保《も》てば、の話です」
伝道師は自嘲《じちょう》気味に笑う。
「――どうゆうこった!」
怒鳴るような声が操縦室の扉の向こうから聞こえた。
扉が荒々しく開けはなたれ、ガルーが入ってくる。後からティアが続く。
「安静にしていなければ駄目だ」
と、獅子《しし》が叱《しか》る。
ガルーの体には新たなヨシュアの血が注がれていた。しかし枯渇寸前まで、老化現象が起きる一歩手前まで至ったせいか、最初のように劇的な効果は現われなかった。
「俺《おれ》のことはどうでもいい。とりあえず死ぬことは免れたんだ。それよりも、おまえのことだ。本当に死にかけているのか」
ガルーは背を壁にもたせながらいった。顔色も悪いし、全身汗まみれだ。とても回復したようには見えない。付き添う少女は泣きべそをかいている。制止を無視して操縦室までやってきたのだろう。
「……話は後でゆっくりと。今は体を休めることです」
グリフィンは船倉に戻そうとした。
かっとなったガルーが、差しのべられた手を荒々しく振りはらう。その拍子にグリフィンが壁に叩《たた》きつけられる。壁がへこむほどの勢いだ。
「きみの体は充分に復調していない。力の制御が利かないのだ。無理をしてはいかん」
「す、すまん……」
我に返ったガルーが、うずくまるグリフィンを助け起こす。その際、伝道師の袖《そで》からばらりと硝子《ガラス》片がこぼれる。
「こ、これは――」
グリフィンは黙って己の袖《そで》をまくった。
ガルーは目を剥《む》く。
手首から二の腕にかけての広い範囲で結晶化を起こしていた。そして今の衝撃からか、肘《ひじ》の部分に亀裂《きれつ》が入っていた。
「これでわかったでしょう。もうこの体は壊れかけているのです。鳥舟を破壊された段階で……」
「……お、おまえ、な、なにものだ」
やっとの思いでガルーは口にした。腿《もも》のところにティアが怯《おび》えてしがみついている。
グリフィンが微笑《ほほえ》む。
「当人はこれでも人間のつもりでいますが、とてもそうは見えないでしょうね」
ガルーは繰りかえしうなずいた。
「彼はムウの〈闘士〉だ」
と、獅子《しし》が代わって教える。
「わかりやすくいえば、人造の肉体に幽体《たましい》を移植したものだ。彼の場合はさらに特殊だ。鳥舟をエネルギー供給源として、通常の〈闘士〉よりも優れた力を発揮する」
「今のわたしは、体内に蓄積されたエネルギーによって辛うじて生きながらえています。補給は――覚えていますか〈ウィ・クラ〉を。あれは本来そのためにあるのです」
ガルーの脳裏に鳥舟の〈樹の間〉の光景が浮かぶ。傷ついたヨシュアは、そこにある黒い浴槽の中に漬けられて回復した。
「『えねるぎー』とやらが切れたらどうなるんだ」
「粉々になるでしょうね」
グリフィンはあっさりと告げた。
「むごい話だ。なんだってそんなものをムウの連中は作るんだ。『ムウは平和を尊ぶ』んじゃなかったのか」
ガルーは吐き気をこらえていった。
「この方法を採れば、誰も死なない戦争ができる。たとえ体を破壊されても、幽体――魂は元の肉体に戻すことができる」
「残念ながら、わたしには戻る肉体はありません。五〇年ほど前に、事故で修復が利かないほど損傷してしまいました。死んだらそれっきりです」
「予備の体は用意していなかったのかね」
「処分してしまいました。元の体を含めれば七〇年は生きています。もう充分だと思いましたので……」
「その口調は、悔いが残っているように見えるが」
グリフィンはなにも応えない。
「……アイラのことだろ」
と、ガルーが真顔でいった。
「…………」
「おまえ、アイラに惚《ほ》れているんだろ。好きなんだろ。だったら本音を吐けよ。もっと生きていたい、と――」
グリフィンが俯《うつむ》いた顔を起こす。
「おっしゃる通り、悔いはあります。彼女のことばかりではありませんが……」
ガルーは自分の髪をかきむしる。
「素直じゃないな。もっとも、俺《おれ》も人のことを偉そうにいえたもんじゃない」
「あなたの場合は、意気地がない、といったところですか」
「いってくれるじゃないか」
ガルーはグリフィンの胸を拳《こぶし》でこづこうとして思いとどまる。また力余って壁に叩《たた》きつけるかもしれない。
「ひとつ、お願いがあります」
「みなまでいうなって。アイラには黙っていろっていうんだろ」
ふたりは見つめあい笑みを交わした。生まれも境遇も性格も、すべてが違うふたりだったが、この瞬間互いの胸に通じあうものが確かに通った。
「さて、下に戻るとするか。もっとも誰も心配などしちゃくれていないがね」
ガルーは肩をすくめる。すると、足にへばりつくティアが抗議の唸《うな》りをあげた。
「怒ってますよ」
「こいつに好かれてもな」
わざとらしく嘆息を洩《も》らすが、顔は満更でもない。
船が揺れた。
両舷《りょうげん》の翼を開くと同時に揚力が発生し、船が離水する。
ガルーたちが振りむくと、アダモが前足を制御板に乗せて不器用に操作している。
「出発できるのか」
「うむ、発動機の調子もよくなってきた」
規則的な律動が床を通して伝わってくる。律動が高まると共に体を後ろにもっていく力がかかる。徐々に船が加速しているのだろう。宙を飛んでいるため水上船のような揺れはない。
「ところで聞くのを忘れていたが、どこに向かうんだ」
「最終目的地は、大陸の中心だ」
「〈大深淵《だいしんえん》〉かっ!」
「そうだ。ヨシュアが聖魔いずれの途《みち》を選ぶにしろ、大きな関わりがあることに違いはない。〈大深淵〉の正体を見極めれば、おのずと隠された〈伝承《カバラ》〉の謎が解明されるだろう」
思わずガルーの体に震えが走る。地球《ガイア》崩壊の光景を目撃しただけではない。あの穴には根源的な恐怖を誘うなにか[#「なにか」に丸傍点]がある。
大きくため息をつく。
「乗りかかった船ってのは、こういうことを指すんだろうな。今更途中で降ろせとはいえやしない」
ぼやきが出た。体力の回復と共に本来の悟性を取り戻してきたようだ。
「ところで、最終目的地なんぞともったいをつけたいい方をしたが、寄り道でもするのか」
獅子《しし》がうなずく。
「グリフィンのためだ」
「こいつの?」
「彼の肉体を修復するには、ムウの技術が必要だ。恐らくは本国に運ばなければなるまい。ムウの伝道師は必ず鳥型の飛行船を持っているという。その船を使う。このあたりは辺境域であり伝道師がどこにでもいるわけではない。間違いなく彼らがいる場所は――」
「冗談じゃない!」
突然、ガルーの態度が変わった。迸《ほとばし》る怒気にティアが離れた。
「どうしたのだ、いったい?」
「〈都〉に行く気だな」
「……その通りだが」
「俺は絶対行かないぞ。あんなところに行くぐらいなら、俺は今すぐ船から降りる」
アダモにはガルーの怒りの理由が皆目見当がつかない。すると横からグリフィンが、
「この人はダスターニャに赴任する以前〈都〉の役人だったと伺いました。その際、わたくしたちの兄弟《ナーカル》と、なにかあったようなのですが……」
その言葉は火に油を注ぐ結果となった。
「賢《さか》しい口を叩《たた》きやがって。おまえら、ムウの坊主はみなくたばればいいんだ。とっととエルマナから出ていけ」
戦いの中でようやく芽生えたふたりの友情は、束の間でしかなかった。今やグリフィンを見つめるガルーの目は憎悪しか感じられない。
ガルーは荒々しい足取りで操縦室から去った。怯《おび》えた目をしたティアが後を追った。
獅子《しし》が問いかける。
「……わたしは一〇年に亙《わた》って幽閉状態だった。お蔭ですっかり世事には疎《うと》くなっている。それでもわずかなりと〈都〉の風聞を耳にしているが……」
グリフィンは自嘲気味に笑う。
「恐らくは噂通り、あるいはそれ以上の状態でしょう」
「それほどにひどいのかね」
「ええ、『背徳の都』という言葉は、あの地をさすためにあるようなものです。そしてなによりも我が兄弟《ナーカル》らが、都の退廃に手を貸しているのです。ガルーが伝道師に向ける憎悪も、そこに原因があるはず。もしそうだとすれば、わたしは兄弟に代わって、彼に詫びねばなりません。それで済むとは思いませんが……」
獅子《しし》が唸《うな》った。このまま〈都〉に向かうべきかどうか悩んでいるのだろう。するとグリフィンが、
「〈都〉を訪ねるべきだと思います。いえ、命惜しさに申しあげているのではありません。みなさまがたに、特にヨシュアに関係すると思われる動きが生じつつあるのです」
「息子に?」
「ここ数年、貧しい人々の間で怪しげな地下宗教が急速に広まっています。なんでも世界の終末を願う考えとやらで、〈魔王《サタネル》〉を主《しゅ》と仰ぐとか……反社会的な邪教それ自体は珍しくもありませんが、信徒の熱狂度はかなりのもの、とわたしは見ます」
獅子《しし》はなにか思いあたるふしがあるのか、眉をひそめじっと考えこんでいる。
「いかがです。気にかかりませんか」
と、グリフィンが問う。
〈救世主〉や〈魔王〉という存在は、決して当人――この場合はヨシュアとグラシア――の資質だけでつけられるものではない。必ずふたりを支える社会という背景があって成りたつ。そもそも〈魔王〉とは、すなわち〈魔物〉を統《す》べる頂点たる王を意味する言葉だ。魔物とはなにも獣人のように怪物じみた容貌と能力を持つ者とは限らない。日常的に行なわれる〈魔女狩り〉にしても、処刑された罪人の大半は力なき人々である。
いずれにしろ〈大深淵〉の調査は必要だろう。が、表には出ない社会の潮流を見極めることはもっと重要と思えてきた。
ややあって、獅子は応えた。
「――わかった。〈都〉に行こう。行って、その邪教の正体を掴《つか》んでおくのだ」
竜を模した船は速力をあげ、闇《やみ》の回廊を疾駆する。この速さなら日をおかず、大陸の中心に辿《たど》りつけるだろう。
操縦室をくだった船倉には、アイラの膝《ひざ》であどけなく眠るヨシュアの姿があった。
アイラは少年の背を撫《な》でさすりながら、子守り歌を口ずさんでいた。死んだ母親が歌ってくれた曲だ。おかしなことに、親の顔も覚えていないのに、曲だけは忘れずにいる。
いつしか手がとまり、歌もやんだ。
アイラの目は少年から離れ、反対側の壁際で腹這《はらば》いになる黒馬に注がれていた。エディラが顔を逸《そら》す。彼女の問いかけるような視線に耐えかねたように。
不意にアイラは話しかける。
「ねえ、エディラ……あなた、ヨシュアの本当のお母さんなんでしょ」
――と。
[#改ページ]
あとがき
長らくお待たせしました。アルス・マグナ第四巻をお届けします。
本文をお読みいただいた方は、もうおわかりのように、また[#「また」に傍点]『タイトルに偽りあり』の内容になってしまいました。理由は予想をはるかに越えて第一章、第二章が膨らみ、予定していた第四章――下エルマナの〈都〉でのエピソードが入りきらなくなったためです(実は第三章も予定の半分だったりする)。脱稿した時点では、スケジュール的にタイトルの修正はきかず、校正段階で慌てて本文をほんの少し手直ししました。とはいっても、とても直しきれるものではなく、読者のみなさま方にはタイトルを無視[#「無視」に傍点]してお読みいただく他はありません。どうもすいません。
加えるに、予告より一年ンヵ月も遅れたことも謝らなければなりません。決してサボっていたわけではないのですが(ああっ、毎度の繰り言となりつつある)。性根を入れ替え次の巻こそは――(ああっ、これもだ!)。いい加減にしないと、狼少年(「狼がくるぞ」のほう)と思われてしまいそう。
えっ? とっくにそう思っているって?
ええ、そうでしょうとも。でも開きなおる気は毛頭ありません。元々筆が遅い人間が諦《あきら》めたら、よけい締め切りを守れなくなります。がんばりますので見捨てずおつき合いしてください。
毎度のことながら、こんな見苦しい『あとがき』を書くのは自分くらいのものでしょうね。タイトルにしても、前半の内容を元にするなり、どうとでもとれる無難なものにするなり、それ以前に、自分で決めた『あらすじ』通りにするなり、変更がきくよう早く原稿をあげるなりすればいいはずです。
しかし、それができない。バカというか、頑固というか。理想を高く掲げないとやる気が起きない。それで読者のみなさまを始めとして、製作に関わった方々、全員に迷惑をかけているのですから、どうしようもありません(ああっ、暗いなァ)。
さて――
気をとり直して、第四巻の内容に触れておきましょう。
今回はわたしの作品としては極めて[#「極めて」に傍点]珍しく、名もなき通行人を含めて誰ひとりお亡くなりになりませんでした(先にあとがきを読んだ方は、興醒《きょうざ》めしてしまうかな)。実に本文の半分が戦闘シーンだというのに。予定ではひとり(というか、一匹というか)ご退場願うつもりだったのですが、作者の意志に逆らい生き長らえてしまいました。
わたしの作品ではよくあることで、作者がどのように願っていても、その死に相応《ふさわ》しい状況を作りだせない限り、絶対に死んでくれません。逆に状況さえできてしまえば、あっさりお亡くなりになります。第二巻のメルカさんがよい例です。
恐らくわたし自身、状況に納得できず無意識に「待った」をかけてしまうのでしょうね。仕方なく自分を納得させる状況を作ろうと原稿の分量を費やし、結果として退場が先に延びてしまう、というわけです。キャラクターは作者の自由にはならないものなのです。もっとも単に扱いが下手なだけかも知れませんが……。
なにはともあれ、キャラクターが予定外に作品に居座ることは、作者にとり都合がよくありません。特に新しいキャラの登場が予定されている時は尚更です。登場人物が多ければ多いほど煩雑な印象になりますし、物語の終わりには、やはり全員にそれぞれラストに相応しいオチをつけなければならないからです。
『アルス』の場合、もうひとつのシリーズ『聖刻1092』以上に、キャラひとりひとりに思い入れがあるだけに、一層頭が痛いことになりそうです。
泣き言、いいわけだらけになりましたが、ようやく物語も主要メンバーが揃《そろ》ったことですし、佳境に向かって全速力で突っ走りたい、と意気込んでいます。
[#地付き]一九九四年某月某日 仕事場にて
[#地付き]千葉 暁
追伸、角川書店のゲーム専門誌『コンプRPG』で、本作品の誌上ゲームの連載が始まっています。もちろんゲーム担当は〈チームA.M.〉のメンバーです。わたしも『ワースブレイド』同様、原作者というより文芸スタッフのひとりとして制作に参加してます。聞くところによれば、マニアックなシステムながら好評を得ているとか。連載は読者参加型のゲームですが、いずれテーブルトークRPGとして本の形でまとめる予定だそうです。
[#改ページ]
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底本
角川スニーカー文庫
邪教《じゃきょう》の都《みやこ》 アルス・マグナ4
著者 千葉暁《ちばさとし》&伸童舎《しんどうしゃ》チームA.M.
平成六年四月一日 初版発行
発行者――角川歴彦
発行所――株式会社 角川書店
[#地付き]2008年8月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
・暝想
・魔王《サタネス》
・魔王《サタネル》
修正
《→ 〈
》→ 〉
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94