碧眼の女神
アルス・マグナ3 大いなる秘法
千葉暁&伸童舎チームA.M.
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)千葉《ちば》 暁《さとし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|闇の錬金道士《アルケー・アデプト》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)救世主[#「救世主」に傍点]
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〈カバー〉
千葉《ちば》 暁《さとし》
●略歴=一九六〇年一月五日、東京都に生まれる。山羊座。血液型B。法政大学中退。雑誌編集ディレクター、ゲーム・デザイナーなどを経て、「聖刻1092 旋風の狩猟機」(朝日ソノラマ刊)で作家デビュー。女性読者獲得の願いを秘めて、「アルス・マグナ」に挑む。
碧眼の女神 アルス・マグナ3
破壊と殺戮の一夜が明けた。迷信故に迫害される純白の美少年ヨシュア、彼を護るアイラとガルー、そして狼少女のティア――狂気に駆られて暴徒と化した街人《まちびと》に狩り出され、四人は再び樹海へと旅立った。荒廃と絶望に沈むダスターニャの街に、入れかわるかのように黒装束の使徒を従えた救世主[#「救世主」に傍点]が現われた。その美女グラシアの面差しはヨシュアと瓜二つ、神々しいまでに気高く、流れる髪は黄金色に輝く。ヨシュアは人の世に災いをもたらす魔王なのか。ヨシュアたちの運命を弄《もてあそ》ぶ|闇の錬金道士《アルケー・アデプト》デルの狙いとは? 樹海の大地を揺るがす謎が今解き明かされようとしていた。
[#改ページ]
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碧眼《へきがん》の女神
アルスマグナ3 大いなる秘法
[#地付き]千葉暁&伸童舎チームA.M.
[#地から1字上げ]角川文庫
目次
第一章 女神降臨
第二章 闇の錬金道士《アルケー・アデプト》
第三章 別れ道
第四章 対決
あとがき
企画・原案 千葉暁&伸童舎チームA.M.
構成・文 千葉暁
構成協力 千葉悦子
地図作図・小道具設定 シイバケンジ
ロゴ・本文デザイン しいばみつお
制作進行 清水章一
プロデューサー 野崎欣宏
――――――――――――
キャラクターデザイン
口絵・本文イラスト 小林智美
[#改ページ]
[#挿絵(img/03_005.jpg)入る]
『錬金術師《アルケス》』
彼ら――〈錬金術師〉は、|樹海の地《エルマナ》において、ごくありふれた存在でありながら、同時に実体が捉えにくい、謎めいた人々である。
辺境の田舎町ですら、錬金術師の看板を掲げている家は一〇やそこらではきかない。さらに、身分を隠して、夜な夜な不可解な実験を繰り返す者たちは、それに倍する数に及ぶといわれる。
看板を掲げる錬金術師の大半は、住民に対する『奉仕』と称して、さまざまな品を売って生計を立てている。中でも医療品、火薬、〈火酒《サラマンドラ》〉と呼ばれる蒸留酒の三つは、彼らの代表的な商品である。裏の商売として、非合法の毒薬や贋金作りに手を染める者も少なくない。
副業に関してはいざ知らず、こと本業とされる黄金の生成については、一般大衆にはうさん臭く見られている。もし、本当に金が作れるのならば、前述の副業に精を出す必要はなく、もっと豪勢な暮らしをしているはず、というごく単純な理屈だ。
とはいえ、錬金術師は副業面においてだけでも、社会にとり必要不可欠とされ、錬金術師の黄金生成を信じて疑わない、熱心な信徒の数も決して少なくなかった。
錬金術師は、秘密結社的な〈組織〉のいずれかに属している。その数は大陸全土で五〇〇にも上るという。中でも〈鋼鉄の心臓〉〈逆十字〉〈紫水晶〉〈金の三角〉〈混沌の庭〉は、五指に入る巨大な組織で、傘下に多くの小組織を抱えている。
だが、すべての錬金術師が〈大災厄〉以前からの〈術《アルス》〉を伝えているわけではない。
古エルマナ文明の礎であった〈大いなる叡知〉は、大陸規模で起こった災害により、ほとんどが失われた。だが、〈大災厄〉を予見していた賢人が、ごくわずかながらいたのだ。賢人はいかなる災害にも耐え得る強固な城――〈叡知の塔〉を築き、後世に遺産を伝えたのである。
その〈大いなる叡知〉を受け継いだ者こそ、今日、真正の錬金術師と呼ばれる人々であった。彼らは、大多数の『黄金を造る』ことしか頭にない〈叡知〉の真髄を理解せず、ただ富や世俗の栄誉を求める輩を、贋の錬金術師と呼び軽蔑していた。
では、真の錬金術の違いとはなにか――
贋の錬金術とは、いわゆる『黄金を造る術』であり、錬金術師の大多数がこれに属する。
真の錬金術においては、黄金――というより物質に、そう高い価値を見出しているわけではない。反対に、黄金それ自体に象徴される霊的な真理を尊ぶのである。その過程において、噂に高い〈人造小人〉〈万能融化薬〉〈霊薬〉などが生まれる。だが、それらはあくまで副産物に過ぎない。
真の錬金術師は、物質の変容を試みることにより、森羅万象の本質と起源、存在理由を明らかにし、全宇宙を司る大いなる理の解明を目指している。そして、自己の精神を肉体より高次の存在へと変容させ、『完全なる知』『真の力』『不滅の肉体』を得る奥義を掴むのである。
その奥義は〈大いなる秘法〉――アルス・マグナと呼ばれた。
[#改ページ]
【第一章 女神降臨】
斜めになった柱の上に、ひとりの男が腰かけていた。
男は首をうなだらせ、雨に打たれている。
ギャア、ギャア、ギャア……
間断なく続く雨音に混じって、鳥たちの甲高《かんだか》い鳴き声が聞こえてきた。
男は首をもたげ、うつろな目であたりを見渡した。
「……もう朝か……」
男はぼそりと呟《つぶや》いた。
見上げると、空は白々と明るい。常ならば、朝市の準備をする商人たちが、広場で忙しく立ち働いている時刻だろう。
「……きょうは……休むか……」
男は口元に自嘲《じちょう》めいた笑みを浮かべた。
この男も小さな露店を持ち、公営農場から仕入れた野菜を商いしている。一〇年もの間、風の日も雨の日も、一日として店を閉めたことがない。それが男の唯一といってよい自慢だった。
ずいぶん長い間雨の中にいたようだ。冷たい雨が容赦なく体温を奪い去り、男の指先は蝋《ろう》のように白かった。
けれど、男はその場を離れようとしない。焼け落ち、柱と梁《はり》だけとなった家の残骸《ざんがい》を、放心したように見つめていた。
ふいに男が顔をしかめた。髪の毛を黒く染めていた煤《すす》が、目に流れ込んだのだ。
男はしきりに目元をこすった。
ぬぐっても、ぬぐっても、目の奥から際限なく熱い雫《しずく》が溢《あふ》れてくる。
いつしか手は止まり、代わって呻《うめ》きにも似た嗚咽《おえつ》が洩《も》れてきた。
男の膝《ひざ》ががっくりと落ちた。そして、体を折り曲げ、拳《こぶし》を地面に打ちつけた。
家には家族がいた。最愛の妻と、ついこの間よちよち歩きを始めた娘だ。
今、ふたりは瓦礫《がれき》の下にいる。
男の目からは、黒い涙が流れ続けた……。
その日、樹海の町ダスターニャは、悲嘆と絶望が、霞《かすみ》となってたちこめていた。
灰と炭と化した焼け跡からは、未《いま》だ煙がくすぶり、我が家を失った人々が、その前で呆然《ぼうぜん》と座り込んでいた。
親の姿を求めてすすり泣く子ども――
ひどい痛みに呻《うめ》く怪我人――
道端に座り込み、酒瓶を片手に乾いた笑いを上げる飲んだくれ――
戦火の跡を彷彿《ほうふつ》させる情景が、あちこちで見られた。
もっとも、町すべてが焼き尽くされたわけではない。
夜明け近くに降り出した強い雨のお陰で、火は勢いを弱め、日の出を過ぎたあたりには、ほぼ消し止めることができた。
それでも、この火事によって、市街のおよそ六分の一が焼失。少なく見積もっても一〇〇〇を越える住民が焼け出された。
焼け跡から離れた大通りや広場は、避難民と、命からがら持ち出した家財道具に埋め尽くされている。
むろん朝市は中止だ。
避難のドサクサで露店は壊され、その天幕は彼らが雨避けに使っている。露店商たちにしてみれば、力ずくでも取り返したいところだろうが、相手はなにしろ数が多い。しかも、家や家族を失い、気が立った連中を前にしては、尻込《しりご》みするのも無理はなかった。
「――外に出ちゃ駄目っていったろ!」
遊びに出ようとした子どもが、母親に襟首を掴《つか》まれ、家に引きずり込まれた。すぐさま戸が閉ざされ、内側からガチャリと閂《かんぬき》がかけられた。
類焼を免れた地区の住民は、外出を控えている。今のところは避難民も大人《おとな》しくしているが、いつ何時《なんどき》自暴自棄になって暴れ出すかわからない、と恐れているのだ。
ターン、ターン
遠くから銃声が響いてくる。
『お屋敷町』の方角だ。
町の富裕層が住むこの地区では、四つ辻に銃を帯びた用心棒たちを立たせ、警戒を露《あらわ》にしていた。金持ち相手の大店、公営農場も同様だ。
まだ空に向かって撃つ威嚇だけだが、銃声の間隔は、時とともに短くなっていた。
避難民は、どこからも救いの手が差し伸べられないことを悟っていた。夜明けを迎えても、毛布一枚、パン一個として差し入れられない現実が、それを物語っている。
そもそもダスターニャは、町という器いっぱいに人を詰め込んでいた。ここに限らず、樹海に散在する町は、どこも慢性的な人口過密状態にある。器からはみ出せば、どこにも行き場がないのだ。
はみ出す数が少なければ、誰にも気づかれぬまま、ゆっくりと淘汰《とうた》され、一定の人口を保つだろう。これまでそうしてきたように……。
だが、一時に一〇〇〇人もの人間がはみ出した場合――これは町の存亡に拘《かか》わる大きな問題となる。
一〇〇〇人が暴徒と化せば、鎮圧は不可能だ。町のいたるところで掠奪《りゃくだつ》が始まり、再び火が放たれる。町は灰燼《かいじん》に帰し、遠からず樹海に没するだろう。
それも、どうやら時間の問題のようだ。
町の南側に、砦《とりで》のような櫓門《ろうもん》がそびえたつ。高い塀に囲まれた町にあって、唯一の出入口である。
ここには、樹海に生息する狂暴な獣から町を守るため、常時多数の衛士が詰めている……はずだった。
上のほうで大きなくしゃみが上がった。門の上に設けられた見張り台からだ。
「――ずいぶん冷えるじゃねえか」
髭面《ひげづら》の衛士が、鼻水をすすり上げながら、火桶《ひおけ》を引き寄せる。見張り台には一応屋根もあるが、吹き込む雨までは防げない。
「ちっ、ホントだったら、今頃はあったけえ娘っ子の柔肌《やわはだ》に包まれて、高イビキを上げているところだったのによ」
〈髭面〉がしみじみと呟《つぶや》く。
「しかし、当直の連中も情けねえ。なん十人も雁首揃《がんくびそろ》えて、やすやす門破りを許しちまうとはな。おまけにまとめて皆殺しか。ハッ――お陰でこっちはとんだ災難だ。血の臭いがきつ過ぎて、とても中にゃいられねえ。この寒空の中、吹きっさらしで見張りときた――おい、聞いてんのか?」
「なんかいったかい」
遠くの景色を眺めていた若い衛士――ロンが振り返る。
「おめえ、さっきからなに見ていやがる。女の尻《けつ》でも覗《のぞ》けるってか」
「か、からかわないでくれよ。いつもと変わりゃしない。どこを向いても、空と森だけさ」
「それにしちゃ、ずいぶん熱心じゃねえか。人の話も聞こえねえぐれえによ」
〈髭面《ひげづら》〉の皮肉混じりの口振りに、ロンは頭を掻《か》く。
「参ったな。本当になんでもないんだ。ただ、なんとなく……」
「なんとなく――なんだ?」
「〈街道〉の方角から、なにか……いや、誰かがやってくるような気がするんだ」
若い衛士は躊躇《とまど》い気味に答えた。
「こんな朝っぱらにか」
〈髭面〉は呆《あき》れ声を上げた。
「笑うなよ。我ながらどうかしてるって思ってんだから……」
「気持ちはわかるぜ。こんなろくでもねえ景色を眺めていれば、人恋しさも募るってもんさ。そういえば、俺《おれ》も若い頃は森に女の幻を見たっけ。木々の梢《こずえ》を裸の女が駆けていくのさ。もっとも目を凝らすと、毛むくじゃらの猿野郎だったがな」
そういって〈髭面〉は大笑いした。うまい冗談と思っているのだろう。
ロンも一緒に笑っているが、目は醒《さ》めている。内心、笑い飛ばされたことを面白く思っていないようだ。
「……それにしても、今日来る『お客』は運がねえ。生きちゃ出られねえだろう」
急に〈髭面〉が真面目《まじめ》な声を出す。
ロンは沈んだ顔で、
「やっぱり……暴動が?」
「このままいけば……な。前にも話したろう。昔、俺がいた町とそっくり同《おんな》じになってきやがった」
「トリモン……だったね」
「ケオナとボラドの途中にあった、ちっぽけな町よ。それでも、気のいい連中が揃《そろ》っていたっけ」
〈髭面〉は遠い昔を懐かしむ目をした。
「一五年にもなるか……やはり火事が起きてな。翌日には住民総出で殺し合いよ。へっ、滅びる時ってのはあんなもんかね。呆気《あっけ》ねえもんだった」
「…………」
「おめえも覚悟しておきな。いいか、町なかに火の手が上がったら、厩舎《きゅうしゃ》から馬車でも馬でもかっさらって、どこでもいいから逃げろ。間違っても、騒動を鎮めようなんて馬鹿な料簡《りょうけん》は起こすんじゃねえぞ。若いんだ。おっ死《ち》ぬには早え」
「あんたは?」
「俺か? 俺はどうでもいいさ。命が惜しけりゃ逃げるし、面倒臭けりゃここに残る。まあ、そん時の気分次第だな。家族もいねえし、気楽なもんよ。へへへ……」
ロンはかける言葉が出てこなかった。以前、〈髭面〉がひどく酔った時、暴動で家族を失ったと話してくれた――ようやく、それを思い出したのだ。
タン、タン、ターン
空気を震わし銃声が伝わってくる。
〈髭面〉の予言通り、町は時とともに険悪さを増しているようだ。
それを区切りに話が跡切《とぎ》れた。〈髭面〉は瞼《まぶた》を閉じて椅子《いす》に体を沈める。昨夜は火事騒ぎでほとんど寝れなかった。若い相棒に見張りを任せ、しばしうたた寝を決め込む。
ロンは再び南の空に目をやった。
先程の予感はまだ持続していた。それどころか、かえって強まっているようだ。
樹海の木々に阻まれ、街道を直接見ることはできない。けれど、ロンには見知らぬ来訪者が今どこを歩いているか、わかる気がした。
――いったい、どんな人なんだろう。
町が滅ぶかどうかという瀬戸際に、ロンは不思議な期待に胸を踊らせていた。
どれくらい時が過ぎただろう。浅い眠りに就いていた〈髭面《ひげづら》〉が、軽い呻《うめ》きを漏《も》らして、身を起こした。
無意識に額を拭《ぬぐ》う。べったり張りついたぬめるような水滴は汗だった。そういえば、まわりが妙に明るくて生暖かい。雨も止んでいるようだ。
顔を上げると、見張り台の手すりから身を乗り出す若い相棒が目に入る。
「どうした?」
「見てくれよ、あれ――!」
ロンは顔を輝かせ、南の空を指差す。
天を覆い尽くす雨雲に、ぽっかり丸い穴が開いていた。そこから目映《まばゆ》い太陽の光が差し込み、地上を照している。
「こりゃ……」
〈髭面〉は眉《まゆ》をひそめた。晴れ間の少ない樹海では、日の光を瑞相《ずいそう》といって歓迎するが、周囲の雲を押し退けて広がる穴の様子に、不自然なものを感じたのだ。
「どうだい、俺《おれ》のいった通りだろ」
脇《わき》でロンが勝ち誇った声を上げる。
「なにが」
「『お客さん』だよ。この町を訪ねてきたんだ」
「『客』だと。どこにそんな連中が」
「あんたには、わかんないだろうな。あの光の下を歩いているんだ。もうすぐ姿を見せてくれるさ」
相棒の異様な目の輝きに〈髭面〉は気づいた。
あたりが一際目映い光に包まれた。雲の穴が門の頭上まできたのだ。
あまりの眩《まぶ》しさに〈髭面〉は目を細める。夏でもこれほど強い日差しが照りつけることはない。明らかに異常であった。
「――ほら、あれ!」
ロンが下方を指差した。
いつの間にか正門前に八つの人影がいた。目がくらんだ一瞬の隙《すき》に現われたとしか思えない。
それにしても怪しげな風体《ふうてい》だ。全員が頭からつま先まで覆い隠す外套《がいとう》をまとっている。ひとりを除き、みな漆黒《しっこく》の衣だ。しかも、中央にいる青き衣の人物の脇《わき》には、大きな黒豹《くろひょう》がいるではないか。金色の首輪をつけているが、人には絶対になつかぬ猛獣を、どうやって飼い慣らしたのだろう。
観察を続けるうちに〈髭面〉ははたと気づいた。馬や馬車の姿がどこにもない。誰ひとり荷物すら帯びていないのだ。まさか、野獣が我がもの顔で徘徊《はいかい》する街道を、徒歩で旅してきたとでもいうのだろうか。
驚きから醒《さ》めない〈髭面〉を尻目《しりめ》に、若い衛士は見張り台の梯子《はしご》を降りていた。
「おい、どこに行く!」
慌てて〈髭面〉が呼び止める。
「決まってるだろ。あの人たちを出迎えるんだよ。早く門を開けてあげなきゃ失礼だよ」
「アホぬかせ。規則を忘れたか!」
だが、ロンはそんな言葉など、耳に入らなかったように、梯子から飛び降りた。
「あんにゃろめ、なに血迷ってやがる」
〈髭面〉は歯をギリリと噛《か》み鳴らし、相棒の後ろ姿を追った。
「……我が主よ」
黒い頭巾《ずきん》を目深《まぶか》に被った長身の男が、一行の中でひとり青き衣をまとう人物の耳元に顔を寄せる。
「……お考え直しいただけませぬか。あの者たちが、すでにこの町を去ったことは明らかにございます。わざわざお立ち寄りになる必要はないかと……」
けれど、青き衣の人物は振り向こうともしない。その足元で腹ばいになっていた黒豹《くろひょう》が、真っ赤な口を大きく開き、あくびをした。
黒頭巾の男は、説得を諦《あきら》めたのか、恭《うやうや》しく頭を下げて後ろに退いた。
会話の間、他の六人は彫像のようにピクリとも動かない。それは訓練が行き届いた兵士を思わせた。
不意に黒豹が低く唸《うな》りを洩らす。
直後、正面の門でガチャガチャと音がした。大扉の下にある通用口の内側で、誰かが閂《かんぬき》を開けているようだ。
扉から息せき切ったロンが姿を現わす。
「あ、あ、あの……」
一行の前に出た途端、ロンは体が竦《すく》み上がり、口がきけなくなった。
黒衣の者たちは、特に凄《すご》むわけではないが、周囲に恐ろしいまでの威圧をまき散らしていた。あたりの空気が固体化し、金縛りにあったように身動きできない。
列の間から黒豹《くろひょう》がのそりと出る。片方の目は病気なのか白濁している。しかし、もう片方の目に明らかな攻撃の意志を宿して、ゆっくりとロンに近づいていった。
「あ、あ、あ……」
ロンは恐怖に顔を引きつらせた。
銃声が轟《とどろ》き、咄嗟《とっさ》に飛びずさった黒豹の足元に土煙が上がる。
「大丈夫か!」
雷発銃を持った〈髭面《ひげづら》〉が、相棒のそばに駆け寄る。
すると、ものいわぬ像となっていた者たちが、突如として黒い疾風と化した。
半分が青き衣を囲む。我が身を盾とするためだ。そして、残り半分は、衛士ふたりを抹殺せんと手元に刃《やいば》を覗《のぞ》かせる。
「およしなさい!」
冴《さ》え冴《ざ》えとした女性の声が響き渡る。
今まさに、衛士ふたりの息の根を断たんとしていた、黒衣の者たちの動きが凍りつく。
眼前に突きつけられた鋭い切っ先を見て、〈髭面〉とロンは、固い唾《つば》を飲み下した。
黒衣の者たちは無言で衛士の体から離れた。
解放されたふたりは、へなへなとその場に座り込む。
〈髭面《ひげづら》〉は震えが止まらない。早撃ち自慢の彼が、引き金にかけた指に力を入れる暇すら与えられなかったのだ。
愛用の短銃が、すぐそばに転がっている。銃身が雑巾《ぞうきん》を絞ったように捩《ね》じれ、もはや役には立たない。いったい、どれほどの力を加えれば、鋼《はがね》の銃があのような姿になるというのか。
壁になっていた黒衣の者たちが、左右に分かれた。そして、青き衣を真ん中に挟むように列を組み直した。
ギギギギギ……
軋《きし》みを上げながら大扉が開き始める。
――いったい、誰が!
〈髭面〉は目を見張った。今、この正門には、ここにいるふたりだけのはずだ。それとも門に意志が芽生え、謎《なぞ》の一行を迎え入れようとしているとでもいうのか!
来訪者たちは、当然のことのように受け入れ、門に向かって歩を進めた。
間にいた衛士ふたりは、慌てふためいて門の脇《わき》に退く。素性《すじょう》のわからぬ者を通さないことも、正門に詰める衛士の仕事だが、今は命あっての物種というしかなかった。
ふたりの傍《かたわ》らを、整然と黒衣の列が通り過ぎていく。黒豹《くろひょう》も一緒にだ。もはや衛士たちに一片の関心も示さない。道ばたに転がっている石程度に思っているようだ。屈辱的だが、そう思われても仕方ないほど、力の隔たりがあった。たとえ、常のように三〇人からの衛士が詰めていても、結果が変わったかどうか――〈髭面〉には自信がない。
不意に列が止まった。
主である青き衣の女に歩を合わせたのだ。
女は手を頭に回し、頭巾を後ろにずらした。すると、詰め込められていた豊かな髪が溢《あふ》れ出す。降り注ぐ陽光を浴びて、金色に輝きながらふわりと広がる様は、幻想的なまでに美しかった。
髪ばかりではない。
透き通るまでに白く瑞々《みずみず》しい肌、艶やかな真紅《しんく》の唇、あらゆるものが、非の打ちどころがない完璧《かんぺき》な美、そのものだった。
しかし、なによりも目を惹《ひ》くのは、神秘的な色合いを浮かべる青き瞳《ひとみ》であった。
その瞳が、地べたに座るふたりの衛士を捉えた。
男たちの体に、電流のような衝撃が駆け抜ける。体の自由は失われ、瞼《まぶた》の瞬きすらできない。そして頭の中が一挙に熱くなり、目の前が真っ白になった。
今ここがどこで、自分がなにをしているかもわからない状態だ。
意識が跡切れる寸前、目映《まばゆ》い白い光に浮かぶ、ふたつの青き瞳が脳裏に焼き付く。
行列が再び歩き出した。
地に伏して動かなくなったふたりの衛士を残して……。
巨大な門をくぐりながら、グラシアは人差し指を立て、人を呼び寄せる仕草を見せた。すると、すぐ後ろに控えていた精悍《せいかん》な顔つきの男が傍《かたわ》らに寄る。
この人物はグラシアの側近役、ヘルマー・アフラサクス・フィラレトス・テラルである。
「御用でしょうか」
真紅の唇が品のよい笑みを形作る。
「不思議なこと……あの者たちの頭の中に、いじられた痕《あと》を見つけましたよ」
ヘルマーの歩みが一瞬乱れる。だが、整った彫像を思わせる風貌《ふうぼう》に、変化は現われなかった。
「と申しますと……?」
「記憶の操作です。〈白子〉に関する記憶が欠落し、火事の心象が強調されていました。つじつま合わせというところね……」
グラシアはおもしろがるようにいった。
「誰がそのような真似を……むこうの〈使徒〉の仕業でしょうか」
ヘルマーはなんの感情も覗《のぞ》かせずに答える。
「さあ……それを調べるのは、あなたの役目ではないかしら」
「はっ……」
ヘルマーはすぐに列の中から部下を呼び、小声でなにか命じた。
「それにしても……」
と、グラシアが続ける。
「姿を見せませんね」
「どなたをお探しでしょう……」
「フフフ、あなたも内心気になっているのでしょう。先の側近役、デル・イグナチウス殿が、ここにお暮しと伺ってますよ……」
「申し訳ありません」
「どうして、あなたが謝るのかしら。親子といっても、あなたがたは別々の人間でしょう。親の罪を子が償《つぐな》う。そのような考えは、悪き古い風習です」
「はっ……」
「それに……わたしは出迎えがない、と怒っているのではありません。幼少の頃よりお世話をかけたイグナチウス殿に、一目|逢《あ》ってご挨拶《あいさつ》しておきたい、ただそれだけ。居場所がわかるならば、こちらからお訪ねすればよいことです」
「畏《おそ》れ多きこと。早速にも使いを出し、足を運ぶよう命じます」
「無理に連れ出そうとしては駄目よ。隠居した者ならば、そっとしておきましょう。それに……そのほうが、あなたも都合がよろしいのでしょう」
グラシアは意味ありげな言葉を添えた。けれど、ヘルマーはなんら悪びれることなく、「恐れ入ります」と、頭を下げた。
黄金の髪の女は、うっすらと笑みを浮かべ、再び顔を前に戻した。
門を通り抜けた一行は、そのまま町の中心に向かって進み、大通りを埋め尽くす避難民の群れに差しかかろうとしていた。
避難民の側も、近づいてくる奇妙な来訪者たちに早々《はやばや》と気づいていた。
「――どなたかしら」
「――あの高貴な美しさは、都の貴婦人か」
「――日を浴びて黄金に髪が輝いているぞ」
「――なんと神々しい姿だ」
避難民はひと時、我が身の苦悩を忘れて囁《ささや》き合った。
彼らの好奇と羨望《せんぼう》の目は、ただ一点――行列の真ん中を歩くグラシアひとりに注がれていた。どれほど美しかろうと、容姿だけではこれほど衆目を惹《ひ》きつけられない。むしろ容姿など副次的な要素といってよかった。
グラシアを見た者は、一目で彼女がなにかしら人並外れた、特別な存在である、と悟ったに違いない。それは彼女の魂から直接放射される〈力〉だ。そして、距離が狭まるにつれて、ますますその想《おも》いは強められていく。
通りを塞《ふさ》ぐ群衆を前にしても、一行は歩みを緩めなかった。町の衛士隊も恐れ、近寄ることすらできないというのに。
するとどうだろう――
避難民の間に亀裂《きれつ》が生まれ、葦《あし》の原が左右に分かれるように道ができた。誰かに命令されたわけではなく、まして物騒な気配をまき散らす黒装束の男たちに恐れをなしたわけでもない。群衆が自発的に道を譲ったのだ。
謎《なぞ》めいた来訪者たちは、左右に並ぶ人垣の間に足を踏み入れた。刺すような群衆の注視を浴びながらも、平然と人の波を抜けていく。
中でも黄金の髪をなびかせる美しき娘は、群衆に向かって挨拶《あいさつ》するかのように、口元に上品な笑みをたたえていた。
人垣に動きが生じた。
突然、年端もゆかない少女が、人垣の間から一行の前に躍り出たのだ。
幼女は道の真ん中からボロ布の固まりを拾い上げ、嬉《うれ》しそうに抱き締めた。それは群衆が押し合いながら道を空けた時に、幼女が落としてしまった人形だった。
「――駄目よ、ユウリィ!」
人垣から母親の叫びが上がる。
黒装束の男たちが、すぐそばまで迫っていた。しかも男たちは道に座り込む子どもなど目に入らぬのか歩調を緩めようとはしない。そもそも、子どものひとりやふたり、足下に踏みしだこうと、まったく痛痒《つうよう》を感じない――そんな非情な雰囲気を彼らは全身に滲《にじ》ませていた。
母親は子どもを連れ戻しにいこうとしたが、密集した人波に阻まれ身動きできない。
「――早く、こっちに!」
けれど、幼女はきょとんとした目で、近づいてくる黒装束の男たちを見つめているだけだ。
人垣の後ろから「誰か、助けろ」と声が飛ぶ。道に面した人々にしても、助けたい気持ちはある。だが、足が金縛りにあったように竦《すく》み、前に一歩も踏み出せなかったのだ。
誰もが幼女の死を予感した。
だが――
幼女の眼前で黒装束の男が足を止めた。
その直前に背後から「止せ」と命令が飛んだためだ。
側近のヘルマーが進み出る。
「……御前であるぞ。おみ足を血で汚してはならぬ。脇《わき》にどけるのだ」
先頭の男たちはうなずき、幼女に黒い手袋をはめた手を伸ばす。
初めて幼女の顔に恐れが現われる。
「――グラシアさま?」
後光にも似た金色の光に包まれたグラシアがゆっくりと前に進む。
すると周囲の従者たちは、一斉にその場に跪《ひざまず》き、頭を低くした。それは側近のヘルマーも例外ではない。
グラシアはべそをかく幼女に歩み寄り、その頬《ほお》をたおやかな指先で撫《な》でた。
「お名前は?」
「……ユウリィ……」
「……いい名ね。その子の名前も教えてくれるかしら」
と、グラシアは人形の頭に手を乗せる。
幼女の顔が喜びに輝く。
「ミィよ。一番の仲良しなの」
「そう……」
グラシアは幼女の小さな体を抱き上げた。青き衣が煤《すす》や泥に汚れる。だが、彼女は気にした様子もない。
「おおお……」
ため息のような声が群衆から湧《わ》く。
グラシアは幼女を抱いたまま歩き出した。従者たちも主に倣《なら》い再び行進につく。
そして、間を置かず、あたりから驚きと喜びの叫びが上がる。
「――見とくれ! ウチの人が目を開けたよ」
「――おおお、痛みが消えていく!」
「――坊やが! ああ、神さま!」
「――立てるっ! 立てるぞっ! ハハハハ」
一行の歩みに沿うかのように、周囲の避難民の傷が次々に癒《い》えていった。
包帯を取り去り、火脹《ひぶく》れが消える様子を、まわりの人に見せる者もいた。また怪我ばかりではなく、もともとの病人にも、はっきりとした回復の兆しが現われていた。
まさに奇跡である。
そして誰もが、この気高き美しさを具《そな》えた娘が、奇跡をもたらしたと信じた。
[#挿絵(img/03_035.jpg)入る]
群衆の目が変わった。
好奇は去り、歓喜と敬愛の念をこめてグラシアを見つめた。中には涙を浮かべている者もいる。彼女を聖者、あるいは神として崇《あが》める目だ。
群衆のひとりが地にひれ伏した。
ひとりが始めたこの行為は、やがて皆が倣い、来訪者たちが町の中心部である広場に辿《たど》り着いた時、地に立つ者は彼らだけになっていた。
広場がしんと静まり返った。
「……お姉ちゃん?」
幼女がグラシアの顔を覗《のぞ》き込んだ。
だが、彼女の心はこの場にはなかった。
降臨した女神の青き瞳《ひとみ》には、地に伏す信奉者の群れも、胸に抱いた幼子《おさなご》すら映っていなかった。
「――我が主は、長旅で疲れております。そろそろお引き取りいただきとうございます」
ヘルマーの穏やかだが、明らかな拒絶の態度に、客たちはようやく重い腰を上げた。
客は揃《そろ》って身なりがよい。町長に助役、都から派遣されてきた監察官、近隣の町で隆盛を誇る宗派の祭司、それに商工組合の会長など、俗にいう有力者ばかりであった。
彼らはグラシアに向かって、なおもくどくどと別れの挨拶《あいさつ》を述べるが、彼女は一言も応じようとはしない。会見の間も、すべて同席したヘルマーが、代わって受け答えしていたくらいだ。
「グルルルルルルル……」
今まで床に寝そべっていた黒豹《くろひょう》パイジャが、のそりと起き上がり、客に向かって牙《きば》を剥《む》き出しにした。
これには厚顔な客たちもまいったようで、引きつった顔に冷や汗を浮かべ、逃げるように広間を出ていった。
「グル」
パイジャは満足そうに唸《うな》ると、元の場所に戻ってまた横になった。
「落ちこぼれの使徒にも、使い道があったようですな」
ヘルマーは冷たい笑みを黒豹に投げかけた。
パイジャは怒らない。というより、獣から戻れなくなった彼には、人語を解するだけの知能が失われていた。
「おやめなさい……ヘルマー」
この屋敷に来て、初めてグラシアが口を開いた。
女神の髪は、直射日光が差さぬ広間でも輝きを保っていた。反射による輝きではないようだ。
「はっ……」
若き側近は頭を垂れた。もはやそれが習慣であるかのように……。
窓の外から銃声が聞こえてくる。次いで群衆の怒号が湧《わ》き上がる。
「民衆は、あなたさまを盗られたと思い込み、屋敷を取り巻いております。そこで先程の連中が、衛士に指図して追い払おうと――いかがいたしましょう。お耳障りでしたら、直ちに使徒に命じて鎮めさせますが……」
「気遣いは結構よ。音を消すなど、わたくしには造作もないこと。あなたに任せれば、余計に騒々しくなりそう……」
グラシアは柔らかな椅子《いす》の背もたれに体を預け、気だるげにいった。
ヘルマーは苦笑を浮かべ、
「いつになく手厳しい仰《おっしゃ》りようですな。なにかご不満な点でもございますか」
そして、食卓に並んだ贅《ぜい》を尽くした料理をちらりと眺め、
「確かに――このような田舎料理では、お手をつけられぬのももっとも。さっそくにも作り直させましょう。それよりも、直接〈塔〉より料理を運ばせましょうか。そのほうが間違いございませんが」
慇懃《いんぎん》な申し様だったが、そこには不遜《ふそん》な響きが含まれていた。
「あなたこそ、気にいらないことがおありのようですね」
「滅相もございませぬ。下僕たるわたくしが、至上の主に対して――」
グラシアは相手の言葉に覆い被せるように、
「わたくしに、嘘《うそ》やごまかしが通用しないことを、よく知っているでしょう」
「……ならば申し上げましょう。この町でのあなたさまのなさりよう――これはいかなるお戯《たわむ》れにございますか」
「…………」
「この町は臨終を迎えておりました。我らが立ち寄らなければ、すでに滅びていたでしょう。なのに、あなたさまは超常の力をお使いになり、争いを鎮めてしまわれた。されど、それになんの意味があるのです。確かに、あなたさまがこの地にお留《とど》まりになられる間は、町も祝福を与えられ、命を長らえるでしょう。が、我らが立ち去った時、再び住民同士争いを始め、今度こそ町は滅びるでしょう。
そう、気紛れに抱き上げたあの幼子《おさなご》も含めて……」
「わたくしは、〈力〉を使っておりません」
グラシアは静かに、そしてきっぱりと告げた。
「存じております。あなたさまに、町を救うご意志はないと。また、住民の傷が癒《い》えたのも、あなたさまが無意識に放つ〈力〉の余波に過ぎぬことも。
ですから、敢《あ》えてお尋ね申し上げるのです。いかなる理由で、この地にお立ち寄りになられたのかと……」
グラシアの口元に笑みが上る。
「……あなたはその答えを知っているはず。そして、わたくしがなにを悩んでいるかも……それでも、わたくしの口から語らせたいのですか」
ヘルマーの眼差《まなざ》しが変わった。まるで刃のような鋭さを帯びる。
「この町に足をお運びになられた理由は……ひとえにあの者[#「あの者」に傍点]の行動、そして住民に与えた影響を知るため……ですな。そのために〈過去視〉をお使いになられた。
さりながら、期待した事実は浮かび上がらず、かえって〈伝承《カバラ》〉を裏付ける結果となった……違いますか」
「あなたの推察は正しいわ。完璧《かんぺき》ではないけれど……」
「誤りがございましたか」
「干渉がありました」
「先程の……」
「あれは証拠を隠そうとしただけのこと。なに者かが、住民の意識をある方向に動かそうとした……そのため、影響を客観的に計るすべを失いました」
ヘルマーの眉《まゆ》が引きつった。
グラシアは側近の表情を探る目をして、
「あなたにも、その不届き者の見当はついているのでしょう」
「……はい」
苦渋が込められた一言だった。
その時、広間に面した中庭から鳥が羽ばたくような音が上がった。
「ティファが戻ってきたようね。よい報告だといいけれど」
ヘルマーは相槌《あいづち》すら打たなかった。
「……遅くなりました」
広間に入ってきたのは女だった。
頭には一房の髪もない。頬骨《ほおぼね》が張り出して、細い喉《のど》はほとんど皮ばかりだ。柔らかみはおよそ皆無という痩《や》せこけた女だ。
第六使徒ティファレイである。
グラシアの『親衛隊』というべき直属の配下――〈十二使徒〉には、三人の女が混じっている。ティファレイはその中で二番目に位している。
「ティファ、肩になにかついていますよ」
くすくす笑いながら、グラシアがいった。
「あ……これは」
黒い外套《がいとう》に茶色の鳥の羽が付着していた。かなり大きな鳥のものだ。
「失礼いたしました」
ティファはかすかに頬《ほお》を赤らめ、羽を懐にしまった。
「気にすることはないわ。さあ、こちらにいらっしゃい……」
グラシアは己の従者を招き寄せた。
ティファは主と側近に向かって跪《ひざまず》く。
「ご苦労でした。では、話を聞かせておくれ」
女使徒は戸惑いを示し、ちらりとグラシアの斜め後ろに立つ側近に視線を投げかけた。
「躊躇《ためら》うことはない。全能なるグラシアさまは、すべてを見通されている。そなたが調べたことも、この御方にとっては、単なる確認に過ぎんのだ。包み隠さず真実をお話しするがよい」
「はい……」
ティファレイは目をまっすぐ主に向けて、報告を始めた。
「わたくしが命じられた任務は二つです。住民に意識操作が施された形跡があるか。そして、事実が確認された場合、それを行った人物を突き止めること」
グラシアが頷《うなず》く。
「ひとつめはクロです。正直申し上げまして、疑惑を抱いて探らなければ欺《あざむ》かれたでしょう。それほど巧妙な隠蔽《いんぺい》でした。同時に、新たな疑問も湧《わ》きます。昨夜行われた〈狩り〉は、多くの死傷者を生じており、また町の二か所に爆発穴も残されてます。いかに記憶を歪《ゆが》めようと、いずれ時間の問題で住民すべてが真実を取り戻すでしょう」
「……それが狙《ねら》いなのでしょうね」
グラシアが微笑《ほほえ》む。だが、それ以上語ろうとはせず「続けなさい」と話を促す。
「ふたつめはまだ確証には至ってません。人心を探った段階では、術者の手がかりは皆無でした――けれど、一〇〇〇を越える人々の意識を、そうそう動かせるものでしょうか。グラシアさまの他に、そのような〈力〉の持ち主がいるとは考えられません。そこで補助的な手段が用いられたのではないかと仮定して、町なかを調べてみました」
「目のつけどころがよろしいですね。ヘルマー、あなたのお仕込みですか」
側近は「恐縮です」と頭を垂れる。
「で――証拠はみつかりましたか」
「八か所の井戸から、秘薬《アルカナ》イルミナールと思われる成分が検出されました。ご存知の通り、この薬は精神を不安定にして、暗示にかかりやすくします。そして……」
そこでティファレイはいい澱《よど》む。
「……わたくしめの知る限り、イルミナールは我らが組織独自の秘薬です。それも製法を知る者はごく一部に限られます……」
グラシアに驚いた様子はない。
「先の側近、デル・イグナチウス殿なら当然ご存知だった……ティファ、あなたも確かめにいったのでしょう」
「参りました。けれど、イグナチウス殿はすでに逐電《ちくでん》されたあとでした」
「ただお留守だったのではなくて」
「いえ、屋敷には毒殺された徒弟の死体が転がっており、目ぼしい文献、試料はすべて持ち去られておりました。また地下室には、バルドの――第一〇使徒の変わり果てた姿が――!」
ティファレイのとがった爪《つめ》が、板張りの床に食い込む。
「そう……あの者が死んだことは存じていましたが、そのような場所に……きちんと弔いをしてあげなくてはね」
「――グラシアさま!」
女使徒は激したように叫んだ。
「イグナチウスめは、バルドの体を切り刻み、標本を作っていたのです!」
強靭《きょうじん》な自制心をもって、無表情を通してきたヘルマーであったが、さすがにその告発には驚きを禁じえなかった。
「……あやつめは……そこまで……」
一方、ティファレイの顔、そして外套《がいとう》から覗《のぞ》く腕に変化が生じていた。
剃《そ》り上げられた頭に白い羽毛が湧《わ》き、床に食い込んだ指先が、獰猛《どうもう》な鳥の足に変わっていく。
デルへの怒りが、獣化を促したのだ。
「控えよ! 御前であるぞっ!」
遅ればせながら気づいた側近が、厳しい叱咤《しった》の声を張り上げた。
「お、お許しを――!」
我に返ったティファレイは、額を床に擦りつけるように平伏した。
なおも叱《しか》りつけようとする側近を、女主人はすばやく制し、穏やかな声で、
「報告は終わりましたね、ティファ。ご苦労ですが、あなたは他の使徒とともに、もう一度イグナチウスの家に赴《おもむ》き、バルドの亡骸《なきがら》を運んでくるように――」
そこで言葉を切り、側近に顔を向ける。
「この町には、別の〈組織〉も入っていますか?」
「辺境につき、中央に連なる者たちはわずかと聞き及んでおります。それでも〈鋼鉄の心臓〉〈逆十字〉〈紫水晶〉〈金の三角〉などの諸派に属する錬金術師《アルケス》たちが居を構えているとか」
「では、主が失せた研究室を処分せねばなりませんね。とるに足りない術《アルス》でも外への流出は避けるべきです」
「仰《おお》せの通りです――第六使徒ティファレイ、グラシアさまの命に従い、裏切り者イグナチウスの屋敷を灰も残さず始末するのだ。いや、火はまずい。薬を使え。万能融化液《アルカエスト》ぐらい残っているはず」
「……はい」
打ちしおれたようにティファレイは、広間を退出した。
グラシアは青い瞳《ひとみ》に悲哀の色を浮かべ、女使徒が出ていった扉を見つめていた。
「……気の毒なこと。ティファは死んだバルドを好いていたのよ。胸の裡《うち》に秘めていたようだけれど……でも、それだけにやり切れない想《おも》いなのでしょう」
ヘルマーがグラシアの前に跪《ひざまず》く。
「お願いがございます」
「わかっています。父親の後を追いたいのでしょう」
「はっ、捕らえて、きゃつめの魂胆を吐かせようと思います。むろん、私事につき〈使徒〉は伴いません」
「気にすることはないわ。ティファぐらい連れていってはいかが。でも、あなたがたは親子の間柄。余人を挟みたくないかしらね……」
「いえ、きゃつが側近の座を追われ、わたくしめがその後任に就いた時より、肉親の縁は切れております。今思えば、隠居などという甘い処分ではなく、抹殺しておけばよかった、と深く後悔しております」
「まあ、恐ろしいことをいわないで。世の中に肉親が憎しみ合い、血を流し合うほど不幸なことはないのよ……」
輝くばかりのグラシアの顔に、束の間|翳《かげ》りがよぎった。
「……気が済むようになさい。わたくしは、数日この町に留まり、暝想《めいそう》にいそしむことにいたしましょう」
「そ、それは……」
「なにか不都合でも」
「繰り返しご進言申し上げております通り――一刻も早く〈白子〉を始末していただきとう存じます」
「わたくしとて、なん度となく申したはず――『未《いま》だ結論に至っていない』と。暝想はそのために必要な儀式です」
グラシアはきっぱりといった。だが、ヘルマーも容易《たやす》く退きはしない。
「お気持ちはお察しいたします。されど、時を経るに従い、あの者は〈魔王〉として覚醒《かくせい》していきます。今ならば赤子の首を捻《ひね》るがごとく、息の根を止めることができます。のちのちに禍根を残さぬよう、ご決断ください」
グラシアはため息を洩《も》らす。
「……あなたがた親子は、まるで正反対のことをいうのね。だからこそ、争うことになったのでしょうが……」
「恐れ入ります。そうした争いの末、デルが去り、わたくしめが残りました。すなわち、わたくしの意志が、我らが〈混沌《こんとん》の庭〉全体の意志とお考えいただきますように。もちろん、至高の主のご意志に背くものではございませんが……」
「もうよい。下がりなさい」
グラシアは手振りも添えて命じた。
「はっ……」
立ち去りかけたヘルマーが、不意に扉の前で足を止めて振り返った。
「ひとつ、お尋ねしたいのですが……」
「なんでしょう」
「もし、デルの干渉がなければ、〈白子狩り〉は起こらなかったのでしょうか」
グラシアの顔が曇る。
「いえ……あれは抑圧されてきた民衆の潜在意識が求めたもの。あたかも、この町自体が錬金炉《アタノール》となったように、内部では火と水がぶつかり合い、せめぎ合う状態でした。
〈白子〉はそこに投じられた触媒――爆発寸前まで高まった蒸気を世に放つ役割を果たしました。
いうなれば、イグナチウスの行為は、より高い確実性を求めて、外部から手を加えたに過ぎません。
あの者が手を下さずとも、また突き詰めていけば、〈白子〉がいなくとも、いずれ民衆は爆発したでしょう」
「いずれにしろ『魔王は争乱を招く』……まさに〈伝承〉通りですな」
ヘルマーは意味ありげな笑みを残して、美しき女神の前から去っていった。
グラシアは瞼《まぶた》を閉じて、沈痛な面持ちで物想いに耽《ふけ》った。
すると、寝ていた黒豹《くろひょう》が、膝《ひざ》の上に甘えるようにその首を乗せてきた。
「……心配してくれているのね……」
彼女の白い指先が黒豹の喉《のど》を掻《か》く。豹は目を細め、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
グラシアは面を上げ、遠くを見つめる目をした。
「お父さま、お母さま……わたくしはいったい、どうしたらよいのでしょうか……」
大地を覆い尽くす、太古さながらの原生林――エルマナの人々は、恐れを込めて〈樹海〉と呼ぶ。
上空から地上を眺めれば、背の高い密林が見渡す限り――地平線の彼方《かなた》まで広がる。まさに緑の海原の名に恥じぬ景観といえよう。
樹海の植物は、平地や山岳、湿地といった地形を選ばない。およそ根を張ることが無理と思える固い岩にさえ、彼らは緑の集落を作る。岩の隙間《すきま》に溜《た》まったわずかな土に根付くもの、遠くから蔓《つる》を伸ばすもの、さらには苔《こけ》やカビ、キノコまでが生きる場所を求めて、どっと群がってくるのだ。
また、樹海の植物の半分は、羊歯《しだ》類を主とした胞子《ほうし》植物だ。長い雨季が終わると、彼らは一斉に葉の裏の胞子|嚢《のう》を破り、風に乗せて埃《ほこり》のような胞子を飛ばす。その時期は、密林全体が黄色に煙るが、樹海に住む人々にとっては、悪夢の光景と映る。
町にふりかかった胞子は、農場の畑はもちろんとして、街路の石畳や屋根|瓦《がわら》の隙間、果ては家の土塀からも発芽する。これを放置すれば、作物は壊滅し、家屋は倒壊し、町は日を置かず植物の群れに乗っ取られる。
密林は植物だけのものではない。さまざまな動物や虫たち、土壌の菌類《きんるい》をも含めた、複合的な生物群落だ。そして、それらは相互に補完し合う関係にある。
明らかに人間ははみ出した存在だ。なぜならば、樹海という巨大な生物群落の中で、『町』という異なる生態系を維持しようと、飽くなき闘争を繰り広げているからだ。
高い塀を築いて森と町を分け、迫りくる木を切り倒し、胞子を焼き、地面を石畳で覆い隠す――が、蟷螂《とうろう》の斧《おの》を振るうがごとく、そこには空しさが伴う。
弱肉強食が、この世の非情にして絶対的な理《ことわり》とするならば、人は滅びることが定められた種に見えた。
しかし――
樹海の真っただ中にあって、植物に埋没することなく威容を誇る人の遺物があった。
――〈街道〉である。
この石畳が敷き詰められた道は、植物を遠ざける力が具《そな》わっていた。それがいかなるものか、あるいはいつ築かれたものか、はっきりと答えられる者はいない。
市井の錬金術師《アルケス》は、〈大災厄〉以前の旧文明が遺したものといい、歴史に造詣《ぞうけい》の深い学者は、三国に分裂する前のエルマナ王国が築いたものと力説する。また、とある僧侶《そうりょ》は、樹海創成と同時に神が生み出したもうた、と確信を込めて説いた。
いずれにしろ、樹海に点在する町が、どうにかこうにかこれまで生き長らえてこれたのは、〈街道〉のお陰であることは間違いない。たとえ万を数える人がいても、完全に閉ざされた世界は、短い歳月の間に滅びる運命にあるのだから。
その街道を旅する一行がいた。
小雨がぱらつく薄暗い木々の洞窟《どうくつ》を、二頭の馬が緩やかな足取りで進む。
前を歩くのが牝《めす》の黒馬、後ろは牡の栗毛馬だ。それぞれに、毛布を雨具のように被った大人と子どもが、一組ずつ分乗している。
蹄《ひづめ》の音は小さく聞こえる。二頭とも蹄鉄《ていてつ》がはめられているが、天蓋《てんがい》のように頭上まで枝葉を張り出した沿道の木々が、音を吸収しているのだ。
前を進む黒馬の首には、小さなカンテラがぶら下げられ、中に入った蝋燭《ろうそく》の火が路上を照している。照明器具としては、あまりに弱々しい光だ。けれど、かすかな明かりでも、どれほど旅人の心を慰めるか。この永遠に続くかに思える薄暮の中を、旅したことのない者にはわかるまい。
ただでさえ街道は、旅人に夥《おびただ》しい緊張を強いる危険な場所なのだから……。
ギャア、ギャア、ギャア!
不意に頭上から騒々しい奇声と羽ばたきが上がった。
後方の栗毛馬が怯《おび》えたようにいななき、首を振った。馬上の男は、手綱を絞ると同時に鞍《くら》から巨大な銃を抜いた。
「――落ち着きな、ガルー! なんでもないよ」
黒馬に乗った若い女が、振り向いて仲間を制した。
「あ、ああ……」
銃を構えたまま、ガルーは荒い息を繰り返した。
アイラは仲間のそばに馬を寄せる。そして、ひらひらと舞い降りてきた赤い羽を宙で掴《つか》み取った。
「ほら、パウパウ鳥じゃない。珍しくもないでしょ」
「わ、わかってるさ。だから晩飯に添えようと思って――」
「なにいってるの。そんな銃で撃ったら、肉も残らず消し飛んじまうよ」
「そ、そうか……そうだよな」
ガルーはいくぶん慌てたように、三つの銃身を重ね合わせた大型雷発銃を鞍に収めた。
アイラの黒目がちの瞳《ひとみ》が、じっと仲間の顔を覗《のぞ》き込む。
「……どうしたんだい。妙にビクついているじゃないか」
ガルーの顔にさっと朱が混じる。
「――ば、馬鹿いえ、この俺《おれ》さまに恐いものなどあるものか」
「……そう。だったら、なるたけ静かに頼むよ。できるだけ、この子を刺激したくないんだ」
アイラの前には、純白の髪をした美しい少年が座っていた。
ヨシュアは目覚めていた。
けれど、薄く開いた瞳はうつろで、アイラが頭巾《ずきん》代わりの毛布越しに頭を撫《な》でても、なんの反応も返ってこない。
アイラは唇を噛《か》むと、馬の向きを元に戻した。先程の言葉とは裏腹に、荒っぽさを感じる手綱|捌《さば》きだった。
取り残されたガルーは、しばしアイラの背を見送っていたが、相手に振り向く気配がないと知ると、馬の腹を蹴《け》ってあとを追った。
すぐそばで寝言のような声が上がる。
ガルーは鞍《くら》の前を覆う毛布を剥《む》いた。
そこには、馬の首を枕《まくら》がわりに寝ている赤毛の少女ティアがいた。今の騒ぎでも、まったく目覚める様子がない。
――まったく、呑気《のんき》に寝てくさりやがって。
ガルーは忌々《いまいま》しげに睨《にら》んだ。けれど、雨が少女に降りかかるのを見て、また元通り毛布を被《かぶ》せるのだった。
夕暮れとともに、あたりは一際暗さを増した。黒馬エディラにつけたカンテラの光が、くっきりと浮かび上がっている。
「アイラ、そろそろ野営の支度に取りかかったほうがいいんじゃないか」
ガルーが馬を真横に寄せて声をかける。
アイラは改めてあたりを見て、ようやく気づいたように、うなずいた。
ヨシュアの血を飲んで若返って以来、アイラの目は、夜行性の獣のように夜目が効くようになっていた。むしろ眩《まぶ》しい光のほうが苦手なくらいで、今もカンテラの弱い光だけで、充分先まで見通すことができた。それは獣人の仔《こ》であるティアも、血を飲んで逞《たくま》しい肉体を得たガルーも変わらないはずだった。
一行は馬を路肩《ろかた》に止めた。
野営の支度といっても、そう大げさなものではない。そこらに転がっている枝を支柱にして、雨具に使っていた毛布を被せて天幕にするだけだ。土砂降りになれば、ひとたまりもないだろうが、周囲の木々が傘となってくれるお陰で、今までそのような目にはあっていない。
「……食料が残り少なくなってきたわね」
天幕の中で荷を開けていたアイラが、呟《つぶや》くようにいった。そして、日の沈み加減を確かめるようにあたりを見回す。
「ガルー、さっきの話じゃないけど、狩りに行っておくれな」
ガルーがぎょっとした顔になる。
「――今からか。ちょっと遅過ぎやしないか」
「なにいってんのさ。まだ充分見えるじゃない。そりゃもう鳥たちは無理だろうけど、獣はこれから動き出す時刻さ。見なさいよ、あの娘《こ》の元気なこと」
ティアはずぶ濡《ぬ》れになることもお構いなしに、石畳の上で跳ね回っていた。生まれも育ちも野性の少女には、寝てばかりといっても、馬上の旅は窮屈極まりないのだろう。
ガルーはため息を吐くと、腰の銃帯から短銃を取り出し、円筒状の弾倉を確かめる。濡れてはいるが、薬莢《やっきょう》ごと油脂で塗り固めてあり、火薬が湿気《しけ》ることはまずない。
「行ってくるぜ。ただし、獲物は期待するな。この長雨じゃ、獣だって巣穴から出やしないだろうからな」
雨の下に出た途端、ガルーは足をふらつかせた。
「――大丈夫? まだ撃たれた傷が痛むのかい」
「足が滑っただけさ」
と、ガルーは軽く答えた。
「調子が悪いんだったら、無理しなくていいよ。まだ少しは蓄えもあるんだから」
アイラは心配そうにいった。
ガルーは笑顔を作り、
「おかしな気を回すなって。俺《おれ》はこの通りピンピンしているぜ」
拳《こぶし》でドンと胸を鳴らし、ガルーは密林に向かって駆け出していった。
ティアは密林に分け入るガルーに気づき、跳ね回るのを止めた。どちらを取るか迷うように、密林と天幕を交互に見る。
「……ほら、こんなに濡《ぬ》れて……早く着替えようね……」
天幕の中では、アイラがヨシュアの面倒をみていた。
「…………」
少女は束の間寂しげな表情で立ち竦《すく》む。そして思いを振り払うかのように、水たまりを蹴立《けた》てて走り出す。
アイラは目の端で、ティアの姿を捉えるが、特に関心を覚えたようでもなく、またヨシュアの世話に専念した。
「まいったな……」
ガルーは瞼《まぶた》の上からゴシゴシと目を擦った。
勇んで出てきたものの、予想外に密林の中は暗く、獲物を探すどころか、自分の足元すらおぼつかない状態だった。
「どういうことだ、こりゃ?」
ダスターニャの町を出て以来、彼の体は少しずつ変調を来していた。
暴徒に撃たれた弾傷はすぐに塞《ふさ》がった。獣人並みとまではいかないまでも、常人には起こりえない驚くべき回復力だ。けれど、傷が癒《い》えた代わりに、変身してこのかた、常に体を満たしていた力の充足感が、すっかり影をひそめてしまっていた。
しかも、時が経つにつれて、じょじょにだが、力が衰えていく感じがした。
――まさか、このまま力が消えちまうんじゃないだろうな。
ぞっとする想像だった。
ガルーは、昔の自分に戻ることをなによりも恐れていた。痩《や》せっぽちで、力がなく、近眼で、人前ではろくに口もきけない――そんな自分に……。
「そんなはずはないっ!」
ガルーの拳が傍《かたわ》らの木の幹に叩《たた》き込まれた。
木全体が大きく震え、頭上から滝のような水が降り注いだ。
「へへへへへ……そうさ、そんなはずはないのさ……」
体中から雫《しずく》を滴らしながら、ガルーは薄笑いを浮かべた。
竜鱗《りゅうりん》に覆われた太い幹には、拳の形に陥没した跡が残されていた。どうやら力そのものは衰えていないようだ。
ペキッ。
背後で枯れ枝を踏み折る音がした。
反射的にガルーは短銃を引き抜き、後ろに振り向いた。
「ちっ――脅かしやがって」
突きつけた銃口の先には、ティアがきょとんとした顔で立っていた。
ガルーは銃を腰帯に戻し、大きく嘆息を洩《も》らす。
「なんだって、こっちに来たんだ。向こうにはヨシュアがいるだろうに」
少女はしゅんとなる。言葉はわからないはずだが、不思議とこちらがいったことに理解を示す。ただし、いいつけをきくきかないは別の問題だったが。
「ははん……さては、またちょっかい出そうとして、アイラに叱《しか》られたな。もういい加減|諦《あきら》めろや。ヨシュアがあんな風になってからというもの、以前にも増して過保護ぶりがひどくなっている。おまえなんざ、邪魔なお荷物でしかないのさ」
ティアはますますしょげかえる。
すると、少女の赤い髪の上にごつい手が乗せられた。
「元気を出すんだな。余計者は俺も一緒さ。召し使いみたいに顎《あご》で使われてよ。惚《ほ》れていなけりゃ、とっくにおさらばしているぜ」
ティアは目を丸くして見上げた。
ガルーはニヤリと笑い、少女の髪をくしゃくしゃにかき回した。
「まあ、いいさ。こっちだって足手まといになるが、連れてってやるよ。邪魔すんじゃないぞ」
そういって、ガルーは歩き出した。
ティアが喜び勇んで、その後ろを追っかけたことはいうまでもない。
天幕の前でパチパチと火がはぜる。
ガルーとティアが森に分け入ってしばらくすると、雨がぴたりと止んだ。そこで、アイラは近くで落ち枝を集め、火を焚《た》いたのだ。
湿った枝は、もうもうと白い煙を吹き上げたが、それでも近くに火があるとないとでは、気分的にも大違いだった。
ふと、アイラは天幕に目をやった。
暗闇《くらやみ》の中で、ヨシュアが毛布にくるまって穏やかな寝息を立てていた。
アイラは入口を閉じて深いため息を吐《つ》いた。
町を出て以来、少年は完全に殻の中にとじこもってしまった。
話しかけても、髪を撫《な》でても、まったく反応を示さない。まるで魂のない人形のように、されるままになっている。
無理もない、とアイラは思う。
銃を持った暴徒に追い回され、殺されかかった。しかもアレク教の寺院では、見るからに善良そうな僧侶《そうりょ》に、刃《やいば》を突きつけられたのだ。
少年の繊細で無垢《むく》な心が、どれほど傷ついただろうか。
それを思うとアイラの胸は痛んだ。
他にも不安の材料はある。
ケブという名の若き僧は、死ぬ前にこういい残した。
『〈白き魔王〉は目覚めの時まで、魔性とは正反対の性を持つ。そしてひとたび髪が銀色に輝くことがあれば……』
その言葉が耳に残るうちに、ヨシュアの髪は銀色の光を発し、謎《なぞ》の刺客――〈豹《ひょう》〉のパイジャを退けた。
確かにヨシュアには、不思議な力がある。少年の体内を流れる血は、死の淵《ふち》にいる者を甦《よみがえ》らせ、超人的な力を与えることができる。それによって、自分やガルーは救われたが、ふたりの力はヨシュアを守ることだけに使われている、といえないか。
ティアにしてもそうだ。子どもであろうと、魔性の権化《ごんげ》というべき獣人が、なぜヨシュアになつくのか。
もし、僧がいったことが本当で、ヨシュアが世界を破滅に導く魔物の王になるとしたら……。
「嘘《うそ》よっ、魔王だなんて、でたらめだわっ!」
アイラは首を激しく振って、その考えを頭から払い落とそうとした。
街道に出てからというもの、彼女はなん度同じことを自問したか。そのたびに、不安に苛《さいな》まれ、もはや耐え切れない、というところまできていた。
そして、いつしかアイラは、
――本当のことを知りたい。たとえ、坊やが魔王になると定められているとしても……。
と、思うようになっていた。
そこにガルーとティアが、泥にまみれて戻ってきた。
アイラは素速く目頭《めがしら》を拭《ぬぐ》う。
「見てくれよ、この獲物を――おい、どうした。目が赤いぜ」
「ああ、煙のせいよ。目に滲《し》みちゃって――そんなことより、凄《すご》いじゃない」
ガルーとティアは、満足そうな笑みを浮かべ、獲物の数々を突き出した。
丸々と太った森ネズミが二匹、パウパウ鳥が一羽、胴の部分が平べったいザブトン蛇が一匹、それに蔓《つる》で繋《つな》がった森芋と青い木苺《きいちご》――いつにない大収穫だった。
「なァに、みんなこいつのお陰さ」
ガルーはティアの頭を荒っぽくかき回した。
少女は天性の狩猟者であった。
暗がりに潜む獲物を探し出す目や鼻、気配を断ち、風下からひっそりと素速く獲物に近づく身のこなし、襲いかかる際の機敏さ、どれをとっても人間には真似のできないものだ。
ティアも褒《ほ》めてもらったことがわかるのか、ご満悦顔だ。
「へえ……」
アイラは感嘆の声を洩《も》らす。だが同時に、意識したわけではないが、少女に妬《ねた》ましい気持ちが湧いたのも事実だ。なんの役にも立っていないヨシュアと、つい比べてしまったのだろう。
「……まあ、獣人の仔《こ》なら、このくらいはね」
と、蔑《さげす》みの目を泥だらけの少女に向ける。
すかさずガルーが、
「よせよ、そんないいかたは。こいつ、こっちの言葉はわかるんだぜ」
「おや、庇《かば》うのかい。いつも邪魔者扱いしている癖に。それに……言葉がわかったところでどうだっていうんだい。どうせ、獣人じゃないか。傷つく心があるってわけじゃなし」
ティアの手からポトリとネズミが落ちた。
「――アイラ!」
「怒鳴らないでよ! あたしは男に怒鳴られるのが、なによりも嫌いなんだ!」
ガルーはアイラの様子が普通でないと気づいた。荒ぶる心を抑え込もうと、静かに息を吐き出す。
「……わかったよ。もう大声は出さないようにする。けど、いわせてもらえば、さっきの言葉はひど過ぎるぞ。ティアは確かに獣人だが、普通の人間のように心がある。今までの旅ではっきりしてるじゃないか。それに、ヨシュアの願いを聞き入れて、こいつを連れて行こうといったのは、おまえだろう」
ガルーは語気を和らげ、諭すようにいった。
アイラはぷいと視線を逸《そら》すと、ガルーの腰のあたりに顔を埋《うず》めているティアの姿が目に入った。
「…………」
いい過ぎを悟ったのか、アイラは顔を俯《うつむ》かせる。
「なにが面白くないかわからんが、ティアに当たるのはよすんだな。ヨシュアのたったひとりの友達じゃないか」
最後の一言が、彼女の心を逆なでる。
その瞬間、アイラの体に青白い電光が走ったかのように見えた。
「――汚らわしい! 坊やとその子を一緒にしないでおくれっ!」
「ど、どうしたんだ、いったい――」
突然の豹変《ひょうへん》ぶりにガルーは戸惑う。
「どうしたも、こうしたもあるもんかね。あたしの坊やは、髪や肌が白かろうと、まっとうな人間なんだ。見かけはうまく人に化けようが、獣人|風情《ふぜい》と友達扱いされたら、ウチの子まで化け物に見られちまうんだよ!」
あまりに猛々しく、毒を含んだ言葉だった。
ガルーは腰にしがみつくティアが、びくっと体を震わしたのを感じた。
「アイラ……いくらなんでも、そいつァあんまりだぜ……」
「ふん、拳《こぶし》なんて握り締めて、なにをする気だい。あたしを殴ろうってつもりだろ。上等じゃない。力を振るえば、女が思いのままになると思ってるんなら、やってみればいいさ。男なんてみんな同じよ。どいつもこいつも、ろくでなしの役立たずだっ!」
「――――!」
頭に血が上ったガルーが、発作的に右腕を振り上げる。
すると、その腕に背後からティアが体ごと飛びついた。
「離せったら!」
ガルーは力任せに振りほどこうとするが、ティアはウーウー唸《うな》りを上げながら必死にしがみつく。
アイラは少女の心を計りかねて唖然《あぜん》とする。
「――――」
ティアの唸り声の中に、なにかが混じって聞こえた。
冷水を頭から被ったように、ガルーの血の温度が下がり、振り回す腕を止めた。
「――ダ・メ――」
ティアは涙を浮かべ「駄目」といったのだ。
初めて口にした人間の言葉だった。
ゆっくりと地に降ろされはしたが、少女はなおも腕を離そうとはしなかった。
ガルーは唇を強く噛《か》み、自由な手で少女の髪を優しく撫《な》でる。そして、立ち尽くすアイラに冷たい視線を向けた。
「……これでも……これでも心がないっていうのか。傷つく心がないって……」
アイラは腰が抜けたようにその場に座り込み、首をうなだれさせた。
「人間さまがそんなに偉いのかよ。獣人だろうと魔物だろうと、害なすものはすべて悪きものと決めつけているんじゃないか。それに――おまえの大事な坊や[#「坊や」に傍点]を殺そうとしたのは、そのまっとう[#「まっとう」に傍点]な人間じゃなかったのか」
「……ごめん……あたしが悪かったよ……」
アイラは顔を上げぬまま、蚊の鳴くような声でいった。
だが、ガルーはとうてい鉾《ほこ》を収める気にはなれなかった。
その時だ――あの〈声〉が聞こえてきたのは。
『――そのくらいで許してやってくれぬか。わたしからもお願いする』
三人は同時にバラバラの方向に顔を巡らせた。普通の声でなかった証拠だ。その〈声〉は、三人の頭の中に鳴り響いたのである。
「――どこなの。ぜひ聞きたいことがあるのよ。姿を見せて!」
と、アイラは叫んだ。彼女だけは〈声〉の主が誰かを即座にわかっていた。
近くに繋《つな》いでおいた栗毛馬が、怯《おび》えたようにいななきを上げ、逃げようと暴れた。しかし、もう一頭の黒馬は静かなままだ。
暗い街道の先で、大きな影がのそりと動いた。足音も立てず、影はゆっくりと近づき、焚《た》き火の光の中にその巨体を現わす。
それは、自ら『ヨシュアの父』と名乗り、これまでいくたびかアイラたちの危機を救った、純白の獅子《しし》だった。
「……白獅子……」
アイラは涙ぐみ、獅子の首にしがみつく。両手をいっぱいに広げたが、抱え切れないほど獅子の首は太かった。
「……どうして、どうして、あたしたちを置いて行っちまったのさ。どんなにか心細かったことか」
アイラはなじるようにいった。
端《はた》で見るガルーは、そこに今まで見せたことのない強い甘えを感じた。メルカにも甘えはあったのだろうが、本質的にそれとは違うような気がした。
獅子はそれに答えず、白いたてがみに縁取られた顔をガルーに向けた。
初めて白獅子に対面したティアが、総毛立つように震え上がり、さっとガルーの背後に逃げ込む。
「――アイラを責めないでやってくれるかね。彼女がこうなったのも、わたしに責任があるのだ」
獅子の口から明瞭《めいりょう》な人の言葉が流れ出した。
「あ、あんた、喋《しゃべ》れるようになったのか!」
「つい最近ね。どうにか、この口を操れるようになってきたよ」
アイラは驚きのあまり泣くのを忘れ、獅子のたてがみの中から顔を上げた。
「本当は〈念話〉を使ったほうが楽なのだが、誰にでも通じるわけではないのでね。それに……それに内容を傍受される危険が高い」
「傍受? 誰にだ」
「それは後にしよう。先程の話に戻すが……どうかね、アイラを許してやってくれないか」
ガルーは面食らったように、
「お、俺は別に……アイラも後悔しているみたいだし……」
と、腰にへばりつく少女に目を移した。「ティアが許せば」という意味だろう。
獅子が視線を向けると、少女は相手が口にするより早く、首をなん度も頷《うなず》かせた。狼獣人であるティアは、獅子の強さを――それも桁違《けたちが》いの――肌で感じ取っていたに違いない。
「……済まなかった。アイラは我が息子の身を気遣い、ずっと胸を痛めていたのだ。わたしがもっと早く、すべてを君たちに伝えることができればよかったのだが……」
「今だったら教えてくれるの」
と、アイラが身を乗り出す。
獅子は頷いた。
「……すべてというわけにはいかないがね」
ガルーはいきり立ち、
「なぜ、もったいをつける。包み隠さず話してくれたっていいだろう。俺たちには知る権利があるはずだ。あんたに代わって、息子を守ってやっているんだからな」
獅子はその場に腰を落ち着け、
「事情は説明するが……長い話になるだろう。先に腹ごしらえをしてはどうかね。せっかく、捕ってきた獲物ではないか。ああ、わたしのことは気にしないでいい。この体はなん日も食い溜《だ》めがきくのでね」
グググ……と、ガルーの腹が鳴った。つられたようにティアの腹の虫も唱和する。
「……ごめんよ。すぐ支度するからね……」
アイラは獅子から離れ、泣き疲れたような顔で、水たまりに散乱した食料を拾い始めた。
ガルーは手伝いかけるが、直前で思いとどまる。すぐに甘い顔をしては、男の沽券《こけん》に拘《かか》わるとでもいいたげだ。
ティアがガルーから離れた。そして、森ネズミの尻尾を掴《つか》み、アイラに手渡そうとした。
差し出されたネズミを、アイラは震える手で受け取る。
「……あ、ありがとうよ……」
やっと、それだけをいうことができた。
ティアは嬉《うれ》しそうに笑った。
次の瞬間、アイラの顔は崩れ、ティアの小さな体を抱き締めていた。
ガルーは鼻をすすり上げ、顔を逸《そら》すように獅子に向き直った。
「あんた、これが狙《ねら》いで、土壇場まで面を出さなかったんじゃないのか」
獅子は答えない。
ガルーには、獅子の表情を読み取ることはできない。だが、その顔はほくそ笑んでいるような気がした。
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【第二章 闇の錬金道士《アルケー・アデプト》】
樹海に夜の帳《とばり》が降りた。
月の光も星の瞬きも、天を覆う厚い雲、そして幾重もの枝葉に遮《さえぎ》られ、地面まで届かない。まさに闇《やみ》に閉ざされた世界だ。
しかし――
闇の中にもあまたの生き物が息づき、情も憎しみもない、ただ己が生きるためだけの闘争を繰り広げていた。
ここは〈街道〉から離れた密林の奥――
とある木の枝で、一羽の夜鳥が羽を休めていた。夜鳥はその名のごとく、獣と同じ夜行性だ。お碗《わん》を逆さまにしたような丸い頭、目は大きく、表情は愛くるしい。けれど、見かけに惑わされてはいけない。足の爪《つめ》は鋭く、時には自分の体より大きな相手にも襲いかかる気性の荒い猛禽《もうきん》なのだ。
枝に止まっているのは牝《めす》だ。翼を畳み、丸い頭を胴体に半ば埋《うず》めている。どうやら眠っているようだが……。
遥《はる》か下方のくさむらで葉が揺れた。風にそよいだ程度のかすかな動きだ。
夜鳥の目が爛と輝きを発し、次の瞬間には大きく翼を広げて、宙に身を投げ出していた。
羽ばたきはしない。密集した木立ちの間を、右に左にと避けながら、音もなく降りてゆく。
夜鳥がくさむらに突っ込んだ。
鋭い爪《つめ》が潜んでいた獲物をがっちと捕らえる。
争う気配は数秒も続かなかった。
翼を羽ばたかせて、夜鳥はくさむらを飛び立つ。足に息絶えたマダラ蛇をぶら下げて。
夜鳥は意気揚々と帰路についた。
すぐにも獲物を引き裂き、腹に詰め込みたいところだったが、地上に留《とど》まっていては、いつ敵に襲われるかわからない。それに、巣穴には腹を空かした雛《ひな》たちが待っている。
夜鳥は羽ばたきを速めた。
その時、夜鳥は殺気を覚えた。耳目とは拘《かか》わりなく危険を察知する、第六感とでもいうべきものだ。きっと血の臭いを嗅《か》ぎつけたものがいるのだろう。
地上のくさむらに、金色に光る二つの点が垣間《かいま》見えた。
頭に浮かんだ意識を人間風に表わすなら、
――なんだい、狼《おおかみ》かい。
となる。これが森狐《もりぎつね》ならば、墜落を覚悟して木の枝から飛びかかることもあるだろう。だが、いかに狂暴であっても、地上を這《は》い回るしか能がない狼なら、その心配はなかった。
だが――
くさむらから枝葉をまき散らして、なにかが躍り出る。それは驚くべき跳躍力で宙を飛び、さらに、木の幹を踏み台にして、夜鳥に迫った。
――そ、そんな!
咄嗟《とっさ》に翼を斜めに傾け、身をかわす。どれほどの跳躍力を持とうが、空中で翼を具《そな》えた鳥にかなうはずがない。だが、襲撃者の反射神経は夜鳥を上回っていた。体から伸びた腕らしきものが、翼をしっかと捕らえた。
宙に夥《おびただ》しい羽が舞った。
――なぜ、こいつが!
森のしじまを破るように、甲高《かんだか》い断末魔の叫びが上がった。同時にそれは、巣で親鳥の帰りを待つ数羽の雛にも死が訪れたことを意味した。
襲撃者は夜鳥を抱えたまま、ぬかるんだ地面に落ち、盛大に泥を跳ね上げた。
すぐに二つの[#「二つの」に傍点]足で立ち上がる。あれだけの高さから地面に叩《たた》きつけられたにも拘《かかわ》らず、ふらつきもしない。
早速捕らえた獲物を食べにかかる。
夜鳥がぶら下げていたマダラ蛇を、前菜とばかりに咥《くわ》える。
ゴリゴリ……
強靭《きょうじん》な歯が、蛇の体を皮や骨ごと噛《か》み砕いていく。溢《あふ》れ出る血が胸を赤く染める。
あっという間に、おまけのような獲物を食い尽くし、本命に取りかかろうという時――。
突然、襲撃者はあたりを見渡す。
臭いを嗅《か》ぎ、耳をそばだてるが、特別な気配は感じられない。
だが、間違いなくなにものかが近寄っていた。相手はかなり狡猾《こうかつ》な奴らしい。気配を断ち風下から近づいてくる。
襲撃者は威嚇の唸《うな》りを発した。
すると、相手は察知されたことを悟ってか、堂々と木立の間から姿を現わす。
狼の頭に人間の四肢――まったく同じ姿をした獣が、正面から向き合う。
半獣半人の生き物――彼らこそ、樹海に君臨する王者〈獣人《ヴイージヤ》〉であった。
泥にまみれた獣人は、真っ赤な狼の口を開き、唸り声を上げ、五本の指の先から、鋭利な刃物を思わせる鈎爪《かぎづめ》を剥《む》き出しにした。
それに呼応するかのように、もう一匹の獣人も戦いに備える。
闇《やみ》の中に対峙《たいじ》する狼獣人たちは、互いに目を血走らせて睨《にら》み合い、喉《のど》から洩《も》れる唸りを高めながら、じりじりと距離を縮めていった。
両者ともに一歩も引く気配はない。もはや戦いは避けられないかに見えた。
コォォォォォン
いきなり、尾を引く金属音が木立の間に響き渡る。鐘の音よりも澄んだ高い音色だ。
二匹の狼獣人の体がびくっと硬直する。同時に、両者の間で爆発寸前まで高まっていた闘気がふっと消えた。
コォォォォォン
もう一度鳴った。
獣人の手から獲物の鳥が落ちる。
二匹は連れ添うように音のする方向に駆けていった。あたかも、鐘の音に呼び寄せられるようにと……。
余談になるが――
ぬかるみにうち捨てられた夜鳥の死骸《しがい》は、時を置かずして通りがかった森狐に食い千切られた。また狐の食い残しは、入れ違いのように現われた森ネズミの群れによって羽も残さず始末された。
そして、ネズミの多くは、別の夜鳥やマダラ蛇に食われる運命が定まっていた。
同時刻――
狼獣人が出現した場所から、さほど離れていない〈街道〉では、アイラたちが焚《た》き火を囲んでいた。
夕食はすでに終わっている。
もっとも、交わす言葉も少なく、和《なご》やかな雰囲気とはいいかねた。
喧嘩《けんか》の後の気まずさというより、後に控える白獅子《しろじし》の話に、アイラもガルーも気持ちが先にいってしまっているようだ。
ふたりは、突然現われた白獅子の真意を掴《つか》みかね、料理を口に運ぶ間もちらちらと巨大な獣に目をやった。お陰でせっかくの料理もろくに味わっていない。
また、探りを入れるように、なん度か話しかけもしたが、
「……慌てることもなかろう。夜はまだ長い」
と、はぐらかされてしまうのだ。
――できるだけ先延ばしにしたいのかもしれない。
そんな獅子の躊躇《ためら》いめいたものを、アイラたちは肌で感じ取っていた。
ところで、ティアは――といえば。
この狼少女はいつもと変わりない旺盛《おうせい》な食欲を見せた。初めのうちは獅子が身近にいることで、ビクビクしていたが、アイラが未だ危なげな包丁|捌《さば》きで支度をしている間に、すっかり慣れ親しみ、皿に料理が盛られる頃には、獅子の広い背中で遊び出す始末だ。
天真爛漫《てんしんらんまん》といえばよいのだろうか、ティアは驚くほど順応性の高い娘だった。食事にしても、今では生肉より、多少なりとも火を通し塩を振ったもののほうを好むようになっていた。ガルーやアイラも、獣人に対する先入観を改めざるをえなかった。もっとも、ティアが特殊な毛並が違うということも充分考えられるが……。
[#挿絵(img/03_081.jpg)入る]
後かたづけを終え、天幕に眠るヨシュアの様子を見届けると、アイラは一同が待つ焚《た》き火のそばに戻ってきた。
ガルーは手持ち無沙汰《ぶさた》な時間を、銃の手入れに充てていた。雨だらけの街道では、少しでも手入れを怠れば、銃は錆《さ》びつき、薬莢《やっきょう》の火薬が湿ってしまう。
そして、ティアは食事が終わってすぐに、その場に横たわり寝てしまっている。
アイラが道の脇《わき》に転がった倒木に腰を降ろすと、ガルーは手早く銃の手入れ道具をまとめた。
ふたりは黙って、獅子《しし》に顔を向けた。
獅子とて、いつまでも口を閉ざしているわけにはいかなかった。
「さて、どこから話せばよいか……」
樹海の天井に向かってたなびき上る煙を見つめながら、獅子は呟《つぶや》くようにいった。
「なら、名前を教えて」
と、アイラが尋ねる。
「わたしの……かね?」
「そうよ。あなたが姿を現わす時って、判で押したように戦いの場、それも生死の境といった土壇場じゃない。用事が済むと、さっさと消えちゃうし――ゆっくり話もできやしなかったわ」
獅子の喉《のど》から、奇妙な短い断続的な唸《うな》りが洩《も》れる。おそらく、これが獅子の笑い声なのだろう。
「それはうっかりした。とうに名乗ったつもりだったのだが」
「謝ることはないわ。ようやく機会が巡ってきたというだけ」
「済まない。わたしの名はアダモだ」
「アダモ……それだけか?」
と、ガルー。
「ん? アダモだけでいい」
「呼ぶ時はそれで構わんだろうが、どうせなら下の名――姓もうかがっときたいな」
「…………」
「どうした? 姓がないってわけじゃないんだろう」
すると、やおら獅子は口を開き、
「過去の一切とともに、かつての名も捨て去った……今のわたしは、他に名乗るべき名を持たない」
会話が途絶え、あたりが静まり返った。樹海の傘から地面に落ちる雨垂れの音が、やけに響いて聞こえる。
不意に焚《た》き火から薪の燃え差しが転がり出た。そして水たまりに落ちて白い煙を上げる。
すると、横になっていたティアが、意味不明の寝言を呟《つぶや》きながら、ゴロリと寝返りを打った。
張り詰めた空気が緩み、ガルーは吹き出すように笑った。
アイラは軽い口調で、
「まあ、いいじゃない。みんな、それぞれに過去があるわ。話したくないことや、思い出したくもないこと。お互い追及するのはよそうよ。ほら、ガルーだって、〈都〉にいた頃の話は避けようとするでしょ」
「お、俺《おれ》は別に……」
ガルーは思わず口ごもり、面白くないように顔を逸《そら》した。
「ありがとう、アイラ」
アダモは頷《うなず》くように巨大な獅子頭《ししがしら》を下げた。
「だが……」
と、アダモは続ける。
「忌まわしき過去であっても、目を背けることはできない。いや、許されていない。この獅子の肉体同様、わたしに課せられた罰なのだよ……」
アイラはあたりの闇《やみ》を窺《うかが》う素振りを見せ、声をひそめるように、
「の、呪《のろ》いでもかけられたの」
「呪い……かね?」
獅子は当惑の声を洩《も》らし、
「……そういえなくもないが……」
と、返事に困ったように口ごもった。
すかさず、ガルーは、
「つまらんことをいうなよ。獅子のおっさん、返事に困っているじゃないか」
「なによ偉そうに。自分だって、名前なんかにこだわったじゃない」
「仲直りしたばかりで、すぐまた喧嘩《けんか》かね」
と、獅子はふたりをなだめる。
「だって……」
首を竦《すく》めながらも、アイラは口を尖《とが》らせたままだ。
「いかんな。きみたちは今後も助け合っていかねばならぬ仲間だ。時には喧嘩もいいだろう。だが、お互いを傷つけるような言動は避けるべきだね」
優しく教え諭す口調だったが、その低い声には、あらがい難い王者の威厳ともいうべきものが具《そな》わっていた。
アイラは首をこくりと素直に下げて返事とし、ムウの伝道師《グリフィン》にあれだけ反抗的な態度を取ったガルーすら、不承不承にしろ、アイラに「悪かったよ」と謝ったのである。
「――結構」
獅子は目を細めて満足げに頷《うなず》く。
ガルーは舌打ちして、枝をふたつ折りにして焚《た》き火に放り入れた。
「――まあ、なんでもいいから、話を始めてくれや。いくら夜が長いといっても、こちとら朝になれば、旅立たなければならぬ身だ。少しは寝ておく必要もある。そう腰を落ち着けられちゃ、たまったもんじゃないぜ」
「済まない。きみたちが急《せ》く気持ちもわかるのだが……先刻来より、どこから話せばよいものかと悩んでいる」
「悩むこたァないだろ。ことの次第を初めっから順を追って話せばいい。そうだな――あんたがいったいなに者で、なにをしでかして、獣の姿に変えられたのかをな」
と、ガルーは容赦がない。
「これは隠しておこうとか、中途半端にするから、喋《しゃべ》れなくなるんじゃないのか」
グリフィンに示す彼の反抗は、いわば妬心《としん》の表われだったが、実をいえば、アダモについても似た感情が働いている。アイラの妙な傾倒ぶり――甘えているような態度――が、どうにも引っかかるのだ。確かに、外見上アダモは、男というより牡なのだが……。
果たして、アイラは目くじらを立てる。
獅子はそれをとどめ、
「よいのだ。彼の言葉は正鵠《せいこく》を射ている。もはや隠しておけないとわかっていながら、なおも躊躇《ためら》いがある。本心を打ち明けるなら――わたしは恐れている、口に出すことが恐いのだ」
その声は、内心の怯《おび》えを現わすように震えていた。
アイラは獅子にとりすがり、体を揺する。
「どうしたのよ。なにをそんなに恐れるの。あたしたちにもいえないことって、いったいなんなの」
けれど、白獅子は瞼《まぶた》を塞《ふさ》ぎ、答えようとはしなかった。
その時だ――
「ククククク……」
突然、周囲の闇《やみ》から不気味な嘲笑《ちょうしょう》が湧き上がる。
怯《おび》えた栗毛馬が、狂ったようにいななきを張り上げた。焚《た》き火のそばで寝ていたティアも、一瞬に跳ね起きた。
アイラたちは一斉にあたりを見回す。
「ど、どこからだ」
ガルーは短銃を引き抜き、笑い声の出所を探すが、嘲笑は前後左右、あらゆる方向から聞こえてくる。まるで、なん十人かにまわりを囲まれたかに思えるほどだ。
「……どこに目を向けているのかね。わしは姿を見せているではないか。おまえたちのすぐそばにな」
嘲《あざけ》るような男の声が間近で響く。
「――――!」
アイラたちの視線が一点に集中した。
言葉通り、声の主はごく近くにいた。
その異様な姿に、一同は声を失い、目を疑う。
なんと、焚《た》き火から吹き上がる煙の中に、その男はゆらゆらと漂っていた。
鷹《たか》のような鋭い風貌《ふうぼう》を持つ壮年の男だ。額には皺《しわ》が刻まれ、目の光は高い知性を感じさせ、口元には整った髭《ひげ》が生えている。
アイラはその顔、被った帽子、まとう黒い長衣に見覚えがあった。さらにこの耳障りな声にも……。
「き、きさまは――!」
アダモが怒りに満ちた唸《うな》りを発し、白い体毛がざわっと逆立つ。
問答無用とばかりに、ガルーの手元から火が吹いた。
弾丸が貫くと同時に、男の体は弾けるように霧散した。
森に響き渡る轟音《ごうおん》に、眠りにつく鳥たちや、息を潜めていた獣たちが一斉に逃げ出し、あたりは騒然とした。
ガルーは違和感を覚えていた。たとえ銃であっても当たれば、感触が銃把《じゅうは》を通して伝わってくるはずだが。
そして、案の定というべきか、弾丸がかき乱した空気が収まるに従い、再び男は元の姿を取り戻していく。
煙の中の男は、侮蔑《ぶべつ》の視線をガルーに投げかけ、腹の底から可笑《おか》しそうに笑い声を上げた。
「――この野郎っ!」
怒り心頭に達したガルーは、短銃を腰に戻し、地面に置いていた巨大な雷発銃を掴《つか》む。その三つ並んだ太い銃身から発射される弾丸は、小型の砲弾ともいうべき破壊力を秘めている。どんな相手だろうが一撃で倒す自信があった。
それぞれの銃身の尻《しり》についた、金槌《かなづち》のような撃鉄を三つとも起こし、焚《た》き火の上に浮かぶ男に狙《ねら》いを合わせる。
だが――
引き金を絞ろうとする寸前に、素速くアダモが両者の間に体を割り込ませた。
「無駄だ。こいつは〈影〉だ。いわば煙に映し出された虚像に過ぎん。奴の実体は別の場所にある。見せ物の幻灯器を知っていよう。あれと似たものだ」
「これがか?」
ガルーはまじまじと煙の男を見つめる。
幽霊のごとく姿が半ば透けているが、妙に生々しい。息遣いまで聞こえてきそうだ。そしてなにより、角度を変えて眺めれば、ちゃんと背中もあるのだ。
「――のようなもの、といったはず。その理屈は一口にいえぬほど複雑だ」
アダモは苛立《いらだ》ちを露《あらわ》にしていた。
煙に映る幻影が、獅子を見降ろす。
「……面倒がらず、教えてやったらどうかね。この者たちは、きみの息子を守ってくれる大事な用心棒ではないか。それぐらいの労を払っても、罰は当たらぬと思うがね……」
「黙れっ!――きさま、よくもぬけぬけと、わたしの前に姿を現わせたものだ」
獅子の毛が逆立ち、体から放たれる殺意にも似た怒りが、肌にびりびりと伝わってくる。竦《すく》み上がったティアが、ガルーの背後に逃げ込む。
まさに『吠《ほ》えるがごとく』――である。
だが、矛先を向けられた当の本人は、口元に笑みを浮かべて涼しげな顔だった。むろん、実体ではないという強みからかも知れないが。
「……ずいぶんな挨拶《あいさつ》だな。それが三〇年来の旧友に対する態度かね。アダモ・イリアステル・ルスパニス……我が敬愛する〈道士《アデプト》〉よ」
「よさぬか! その名でわたしを呼ぶな」
「名を捨てただけで、過去を清算したつもりかね……それは余りに虫がよすぎるというものではないかな」
獅子は一瞬ひるみを見せた。
「……そうかもしれぬ。だが、きさまにいわれる筋合いはない!」
ガルーは目を白黒させて、謎《なぞ》の人物と獅子の会話に聞き入った。
――こいつらは知り合いなのか。〈道士《アデプト》〉? いったいなんのことだ。
アイラが「あっ!」と大きな声を出して、煙の男を指差す。
「どうしたっ!」
「……こ、こいつ、ダスターニャにいた錬金術師《アルケス》よ……確か名前は……デルとか……」
すると、謎の男が、アイラのほうに向き直って挨拶した。
「あんたは、わしの家を訪ねた踊り娘《こ》だな。名前を憶えていてくれたか。そういえば、我が秘薬《アルカナ》を試してもらえなかったようだね。お陰で〈豹《ひょう》〉のパイジャや〈虎《とら》〉のバルドは、あんたの居場所を探し当てるのにさんざん苦労したそうだ」
アイラは背筋に悪寒を覚え、思わずあとずさった。
「な、なんなのよ、こいつ――」
獅子が告げる。
「そやつの名は、デル・イグナチウス・フィラレトス・アトル――〈混沌《こんとん》の庭〉の錬金道士《アルケー・アデプト》だ」
――と。
哄笑《こうしょう》が樹海に響き渡る。
牡の栗毛馬は、鼻面から泡を吹き、止め綱を引き千切らんばかりに暴れている。本来、馬は臆病《おくびょう》な動物だ。隣の黒馬エディラの落ち着きのほうが、かえって異様といえよう。
エディラが尾を操り、雄馬の背を鞭《むち》のごとくピシャリと叩《たた》いた。
すると、嘘《うそ》のように栗毛馬の興奮は鎮まり、大人《おとな》しくなった。まだ息を吐き散らしているが、騒ぎ立てようとはしない。エディラが無理矢理栗毛馬を抑えつけている、といった様子だ。
「さすが……というべきかね。そのような姿になり果てても、〈力〉が使えるのか」
煙に浮かぶ錬金道士《アルケー・アデプト》が、いつの間にかエディラのほうを向いていた。
途端に、黒馬がデルに向かって巨大な前足を踏み鳴らし、鼻からはフーフーと哮《たけ》り立った息を洩《も》らした。あたかも、デルの言葉を理解したように――。
「……エディラ?」
アイラは呆然《ぼうぜん》と愛馬を見つめる。
「おや、踊り娘《こ》の顔つきから察するに、まだ正体を明かしていないのかね。これはこれは――」
といって、デルは笑いを噛《か》みこらえる。
アイラの目が白獅子《しろじし》に向く。
獅子は困ったように顔を逸《そら》すが、すぐに思い直し、
「……エディラは――そうなのだ。きみが付けた名は彼女の本当の名だ――エディラは、わたしと同じように元は人間だった[#「だった」に傍点]」
アダモは沈痛な面持ちで答えた。
「えっ!」
アイラは振り返る。今は愛馬も鎮まり、瞳《ひとみ》に哀《かな》しみの色を浮かべていた。
「エディラ……」
「クククク……その女は、我々が〈使徒〉と呼ぶ、人を越えた能力者のひとりだよ。正確にいえば、〈使徒〉を生み出す研究の過程でできた実験体。それでも、確か〈第四使徒〉の称号が与えられたのではなかったか……だが、そのようなことより、もっと重要な事実を告げていないのでは――」
すると、デルの言葉を遮《さえぎ》るように、突然、アダモが牙が並ぶ真っ赤な口を開き、樹海の木々を震撼《しんかん》させる咆哮《ほうこう》を上げた。
獅子吼《ししこう》は、衝撃波となってデルの虚像を煙ごと、焚《た》き火ごと瞬時に吹き飛ばす。
〈街道〉に静けさが戻った。
森に生きる獣たちも、すでに逃げ去っているのか、はたまた息を潜めているのか――いずれにしろ、深い闇《やみ》は生き物の気配が絶え、耳が痛くなるような静寂に包まれた。
像を映し込む煙がなくなったせいか、デルの姿は復元されない。また、あの哄笑《こうしょう》もぱったりと途絶えていた。
路上に散乱した焚き火の燃え差しは、水たまりに浸《つ》かり、煙ひとつ立てていない。唯一残った明かりは、天幕の入口にぶら下げたカンテラひとつだけだ。
アイラ、ガルー、ティア、獅子のアダモ、黒馬のエディラ、それに栗毛馬――それぞれが弱々しい蝋燭《ろうそく》の光に照《て》らされ、ぼんやりと浮かび上がっていた。
緊張の糸がぷつりと切れたのか、アイラはへなへなと座り込む。
エディラが人間だと知った驚きと、魂を揺さぶるような獅子の咆哮によって、なにも考えられない状態だった。
ガルーとて同様だ。耳鳴りが止まず、膝《ひざ》が笑ったように震えているが、男の意地とばかりに、辛うじて両足で踏みとどまっていた。
脇腹《わきばら》から上がる痛みが、彼に活を入れる。
腰にしがみつくティアの爪《つめ》が、食い込んでいた。
怒鳴るのを思いとどまる。
少女は歯を打ち鳴らすほど怯《おび》えていたのだ。
ガルーの目が獅子に向く。
そして、ティアを腰から無理に引き剥《は》がすことなく、獅子の元に荒々しい足取りで歩み寄る。
「――説明してくれ」
獅子は俯《うつむ》かせていた顔を上げる。
「今の男のことかね……」
「あの錬金術師《アルケス》と、あんたたちは知り合いだったのか。奴は俺たちとどう拘《かか》わっている。そもそも〈混沌《こんとん》の庭〉とはなんなんだ。そいつらが俺たちの敵なのか」
ガルーの頭の中は、止めどなく湧き上がる疑問でせめぎ合っていた。
「――どうやら、思っていた以上に事態は切迫しているようだ。手短に話そう」
「え?」
ガルーは肩透かしを食らわされた気分だ。
「急に口が軽くなったとでもいうのか。切迫とは、どういうことだ。野郎がまた出てくるっていうのか」
「わからない……だが、追っ手が我々の位置を掴《つか》んでいることは、これで確実となった。悠長に悩んでいる暇はない……済まないが、それを降ろしてもらえるかね。落ち着かないのでな」
ガルーは銃の筒先を、獅子の顔面に突きつけていたと気づく。
「――わ、悪い」
暴発を防ぐため銃の撃鉄を戻してから、革帯を肩にかけ、銃を背中に回した。
アダモは笑みを浮かべ、ガルーの問いかけに答え始めた。
「――〈混沌《こんとん》の庭〉、彼らは〈大災厄〉により滅び去った旧世界より、貴重な〈術《アルス》〉を今に伝える錬金術師の一派だ。組織は数あれど、実際に〈|真なる道《アルス・マグナ》〉に近づいているのは、ここと、あとひとつ、ふたつといったところだ」
「アルス・マグナ……?」
ガルーはオウム返しに呟《つぶや》く。
「あらゆる錬金術師が追い求める、究極の秘儀だ。〈大いなる秘法〉、〈王者の術〉などさまざまな呼称がある。奴がいった〈道士《アデプト》〉とは、秘儀に通じた錬金術師をさす称号なのだ。もっとも、他の組織では意味も知らずに乱発されているようだがね……」
「あんたら、錬金術師だったんだな」
「その通りだ。わたしとデルは、〈混沌の庭〉で〈道《アルス》〉を究めようと、互いに手を携えて秘儀の解明に励んだ。きみやアイラは知らんだろう。錬金術師は己の研究を絶対に他人に明かさず、徹底して秘密にする。たとえ師と弟子の間柄でもそれは変わりない。その意味では、奴がいう通り、わたしたちは友以上の間柄だった……」
ガルーは「なるほど」とばかりに頷《うなず》く。
「ところが、最後になって仲たがいしてしまったというわけだな。あの野郎が功をひとり占めにしようと、あんたを罠《わな》にはめ、ものいえぬ獅子の姿に変えて、組織から追い落とした――ってとこか」
獅子は自嘲《じちょう》めいた笑い声を上げる。
「残念だが、見当違いだ。デルがそのような偏狭な男であったなら、ことはわたしだけの問題で済んだ。獣に変えられようと、樹海の中で心穏やかに生きることができたろう……」
「どういうことだ?」
「秘儀を解き明かしていくにつれ、隠されていた真の姿が見えてきた。そして、ふたりの主張は真っ向から対立した。
わたしは中止を訴えたが、デルは聞き入れなかった。奴はわたしが得た知識と資料をすべて握っていた。たとえ、こちらが一方的に研究を打ち切り、それまでの成果を無に帰そうとも、独力で完成させることができただろう。
加えて、奴は組織を掌握する指導者のひとりだった。〈真なる道〉は秘儀中の秘儀だ。実験ひとつにしても、組織の後ろ盾なくして実現できるものではない。つまりは初めからかなう相手ではなかったのだ。
わたしは一計を案じた。表面的にはおとなしく従う振りをして実験を続け、完成した段階で、成果を持ち去ろうとしたのだ。
企てはうまくいったかに見えた。だが、それすら奴が思い描く絵図面に記されていたことだった!」
獅子は吐き捨てるようにいった。
「ど、どういうことだ。うまく逃げ出すことができなかったのか」
「そうではない。わたしが実験の成果を持って組織から逃亡する――それを奴は望んでいたのだ」
ガルーは頭を掻《か》き乱し、
「さっぱり要領を得ないぜ。あの錬金術師はなにを企んでいる。だいたいからして、あんたはなにを持ち出し――!」
脳裏にひとつの考えが閃《ひらめ》いた。だが、それはあまりに――。
「お、おい……まさか……成果って……」
ガルーの顔は歪《ゆが》んでいた。
答えを拒むがごとく、獅子は顔を逸《そら》した。
だが――
「……坊や[#「坊や」に傍点]ね……そうでしょ」
獅子の背後に、いつの間にかアイラが佇《たたず》んでいた。顔の半分を覆った乱れ髪をそのままに、表情のないうつろな目を向けてくる。
寒気を催す陰惨な顔だ。
「――おまえ、聞いてたのか」
ガルーの声など耳に入らぬかのように、アイラは一心に獅子を見つめた。
「……その通りだ」
ついに獅子は認めた。
ふたりの口から呻《うめ》き声が洩《も》れる。ことにアイラの受けた衝撃は大きい。世界が足元から崩れ去っていく感覚を味わった。
息詰まる沈黙ののち、ガルーがたまりかねたように口を開く。
「その実験とやらは、なにを目的としたものだったんだ。いや、それよりなにより、あいつは――ヨシュアは本当の人間[#「本当の人間」に傍点]なのか」
突然、ガルーの前髪が青白く燃え上がった。
「うわあっ!」
アイラが瞳《ひとみ》に涙を浮かべてガルーを睨《にら》みつけている。
「よせ、アイラ!」
アダモの叱咤《しった》の声で、彼女ははっと我に返り、〈憎しみの炎〉は消えた。
ガルーは石畳の上にひっくり返り、大きく息を吐いた。そして、全身の毛穴からどっと冷や汗が吹き出してくるのを感じた。
髪の一部が焦げた程度で済んだのは幸運だった。アイラがまだ抑制していた証拠だ。ダスターニャでは、なん十人もの暴徒が、骨も残さずに焼き殺されている。
ふと脇《わき》を見ると、心配そうに覗《のぞ》き込むティアの姿があった。
アイラは消え入りそうな声で、
「ご、ごめん……あたし、思わずかっとなって……」
その傷ついた顔を見て、ガルーは責める気を失った。
「い、いいんだ。お、俺のほうこそ無神経なことをいった」
ガルーはアイラが差し伸べた手を掴《つか》み、地面から体を起こした。
その手は氷のように冷たかった。
獅子はアイラに向かって、
「……聞きたくはないだろうが、こうなったら最後まで、真実を知るべきだ。そのために、息子を疎《うと》むようになろうとも……」
アイラは目頭《めがしら》の涙を拭《ぬぐ》い、
「そんな、疎むだなんて。あたしはね――世間のみんながあの子に石を投げようと、あたしだけは盾になるんだ――そう、心に誓ったんだよ。なにを聞こうと、その気持ちは変わりゃしないさ」
と、自分にいい聞かせるようにいった。
「我が息子――ヨシュアはれっきとした人間だ。まずこれだけはいっておこう」
アダモはふたりに向かってそういい切った。
先程は気丈なところを見せたアイラだったが、それを聞いて安堵《あんど》の息を吐かずにはいられなかった。
「されど――なにをもって人と呼ぶか。それによって見解は分かれるだろう。自然の摂理に従って、父母の間にできた子と限定するならば、明らかにヨシュアは人以外のものとなる」
一転して、アイラとガルーの顔が険しさを増す。
「あの子には、純粋な意味での父母は存在しない」
「じゃ、じゃあ、あんたは――!」
「わたしは父親のつもりでいる。だが、あの子との血の拘《かか》わりは、きみたちが考えるものと大きく異なる」
「???」
「詳しい説明は無理だ。きみたちには生命の原理について理解する素地がない」
そういわれては二の句が継げない。
すると、アイラが思いつめた顔で、
「――なら、母親は?」
獅子は黙って横に首を振った。
「そんな馬鹿なことって! 母親から産まれない子がいるはずがないでしょ。それともなにかい。あの子は魔女みたいに木の股《また》から産まれてきたとでも!」
「似たようなものかも知れぬ……」
「えっ!」
「ヨシュアは、目に見えぬほど小さな受精卵の状態から新生児として誕生するまで、硝子《ガラス》製の透明な人工子宮の中で育てられた。あの子は人に創られた子どもなのだ……」
聞いた瞬間、アイラは視力が失せたように目の前が真っ暗になった。
「……な、なんてことを……」
夜が更けるにつれ、忍び寄ってくる冷気に凍えるかのように、アイラの体は小刻みに震えていた。立っていられるのが不思議なほど、彼女の動揺は激しい。
「……わかっている。これが神の領域を冒す行為だということは……その当時のわたしは、真理の探究以外、まったく関心を払わなかった。そして、気づいた時には、子宮内の子どもたち[#「たち」に傍点]は、命を断つには忍びないまで大きくなっていた……」
アダモの声音は、心底から己の罪を悔いる者のものだ。
「――子どもたち[#「たち」に傍点]だと?」
ガルーは耳ざとく、相手がうっかり口を滑らせた言葉を捉えていた。
「――――!」
獅子の顔にはっきりと動揺が現われる。
「はっきりと聞いたぞ。あんたは『たち』といった」
「そ、それは……」
「どうやら、まんざらケブの言葉も嘘《うそ》じゃなかったらしいな」
茫然自失《ぼうぜんじしつ》としていたアイラが、はっと振り向く。
「ケブ?……誰だ」
「ダスターニャで逢《あ》った、アレク僧会の若い坊さんだよ」
「ヨシュアを殺そうとした僧侶《そうりょ》だな」
「ああ、その坊さんが死ぬ前に――俺に撃ち殺される前に――こういい残したのさ。『白子は双子で産まれたはずだ。その片割れは金色の髪を持つ』とね。そして『白子は〈魔王〉に、もうひとりは〈救世主〉になる』ともな。なんでも教典に記された預言だそうだが……どうだい、符丁が合いそうじゃないか」
押し黙る獅子に、アイラは体をぶつけるようにして取りすがる。
「どうしたのさ! なぜ答えてくれないの。まさかその預言が本当だとでも。そんなの嘘でしょ。でたらめに決まってるよ!」
「そのへんにしておけって」
と、ガルー。
アイラは振り返って睨《にら》みつけ、
「なんでさ。まだ答えてもらってないわ」
「そんなこといってもな……」
ガルーはため息を吐きながら、自分の頭を掻《か》く。
「黙っている、答えられないってことは、認めたと同じことだぜ」
すると、いきなりアダモは血相を変えて、
「違う! 違うのだ、ガルー」
「どこが違うっていうんだ!」
負けじとガルーも顔を凄《すご》ませる。
「ヨシュアが魔王になると決まったわけではないのだ。今後の成り行き次第で、変わる可能性も残されている」
「へえ……つまり大筋は認めるってわけだ。ヨシュアには双子の片割れがいて、どちらかが魔王に、どちらかが救世主さまになる運命にあると――」
獅子は挑発に乗せられたと気づくが、今となってはあとの祭りだ。
アダモは懊悩《おうのう》に顔を歪《ゆが》め、
「……あの子を悪き道に進ませてはならない」
とだけ答えた。
「なぜ……なぜ、もっと早く教えてくれなかったんだい。前もって聞いておけば、こんなに苦しみはしなかったよ……」
アイラは恨みがましい言葉を唱えた。
「……知れば余計に辛《つら》くなることもある。まさに、今がその時ではないのかね。わたしとて悩んだのだ。どこまでを伝え、どこまでを隠せばよいかと。しかし、結局はすべてを話すことになった……」
「いや、すべてじゃないぜ」
と、ガルーが口を差し挟む。
「まだまだ、わけがわからないことばかりじゃないのか。ことにアルス・マグナ[#「アルス・マグナ」に傍点]だ。
なぜ、ヨシュアともうひとりを産み出したのか。なぜ、双子が魔王と救世主になるのか。なぜ、そのことが、預言としてエルマナに伝わっているのか。なぜ、あんたとデルが仲たがいしたのか……。
どうやら、その秘儀とやらに、すべてを解き明かす鍵《かぎ》が隠されている、と俺は見た」
獅子は動揺を露《あらわ》にした。どうやら、ガルーの言葉が急所を衝いたようだ。
「なぜ黙っている。あんたはすべてを明かすとかいって、肝心なことを喋《しゃべ》っていないんだぜ」
だが、獅子は苦しげな呻《うめ》きを洩《も》らすだけで、いっこうに口を開こうとはしない。
ガルーの顔に苛立《いらだ》ちが浮かぶ。
「断っておくがな。俺は腹を割って話さない奴は仲間とは認めないし、信用もしない。あんたとヨシュアには、命を救ってもらった恩もあるが、もとはといえば、あんたのガキのせいで死にかけたんだぜ。ここまで義理を果たせば、充分恩は返したことになるはず。もし、この先もガキの面倒をみて欲しいと思ってるなら、隠しごとは一切なしだ。さもなきゃ――俺は勝手にさせてもらうぜ」
それを聞いて、アイラが眉《まゆ》をひそめる。
「そりゃどういう意味だい」
「どうもこうもないだろう。すっぱりこの件から手を引かせてもらうのさ。考えてもみろよ。ここまでいって喋《しゃべ》らないってことは、俺たちを信用してないって意味だぜ。さもなきゃ、よほど甘くみているのか。はっ――冗談じゃないぜ」
芝居ではなく、ガルーは本気で怒っている口振りだ。
「待ってくれ。それは誤解だ――」
慌ててアダモはいった。
「誤解も糞《くそ》もあるか。さっきいった通りだ。話すのか話さないのかはっきりしろよ。俺はまどるっこしいことが大嫌いなんだ」
すると、獅子は声を詰らせて、
「……もう少し猶予が欲しい。話すにしても時を置く必要があるのだ……」
ガルーが鼻で笑う。
「そう来ると思ったよ。どうせ、先送りにする理由もいえないんだろ。ああ、わかってるぜ」
「…………」
「いくらなんでも、いい過ぎだよ、ガルー」
「なにいってる。俺たちはわけもわからずこき使われているんだぜ。おまえだって腹が立ってるだろう」
「そりゃ少しはね……けど、そんな脅迫|紛《まが》いのいい方はよくないよ。それに、アダモにしたって、きっと話すに話せないわけがあるんだよ。あたしはそう信じている」
ガルーは大げさに肩を竦《すく》め、
「おまえが、そんなお人好しだったとは知らなかったぜ」
「そんないい方ってないだろう。あんた、ここんところおかしいよ。妙にビクビクしてさ――わかったよ、あんた怖《お》じ気づいちまったんじゃないのかい」
「お、俺がか――!」
「そうよ、ああだこうだと難癖つけて、逃げたがっているのさ。ダスターニャじゃ、パイジャとかいう半獣人に手も足も出なかったろう。恐れをなしちまったのさ」
「なんてこといいやがる。あの時は足に弾を食らって動けなかったんだよ。さもなきゃ、あんな奴――」
「口じゃなんとでもいえるよ。男だろ。行動で示してみな」
ガルーの顔が見る間に赤く染っていく。
「――よさぬか、ふたりとも!」
獅子が叱《しか》りつける。
ガルーは歯を剥《む》き出しにして、獅子を睨《にら》み返す。
「偉そうに命令するな! だいたい喧嘩《けんか》の原因はあんただろうが」
「仲間同士争っている場合ではない。気づかぬのか、ふたりとも――」
「えっ?」
低い唸《うな》り声が聞こえる。
ティアだ。
少女の体に変化が生じていた。真っ赤な髪がいたるところで毛先を跳ね上げ、袖《そで》なしの服から覗《のぞ》く細い腕に獣の毛が生えていく。
「――囲まれている!」
アイラは素速くまわりを見回して叫んだ。
「なんだと!」
ガルーにはわからない。
ようやく栗毛馬が騒ぎ出した。
「――獣人だ。狼獣人の群れが森からこちらを窺《うかが》っている。奴が操っているに違いない」
「奴?」
「デルに決まっている。やはり、あのまま引き下がりはしなかったか」
獅子の言葉とともに、あの耳障りな嘲笑《ちょうしょう》が再び聞こえてきた。
ダスターニャ方向の街道に、淡い光が湧き、デルの姿が浮かび上がった。
デルは口元に笑みを張り付け、ゆっくりとアイラたちに向かって近づいてくる。
「油断するな。あれは実体だ」
と、アダモが警告した。
「本当か」
「間違いない。奴には足音がある」
「だったら――」
舌嘗《したな》めずりして、ガルーは腰に手を伸ばす。
「よせっ、無駄だ」
制止の声も間に合わない。ガルーは手練の迅業《はやわざ》というべき手の動きで、腰帯から短銃を引き抜き、続け様に弾丸を撃ち込んでいた。
短銃の有効射程いっぱいの距離だったが、吸い込まれるようにことごとくがデルの体に命中したはずだ。腕力ばかりでなく、武器に対する天性の勘が具《そな》わっている、としかいいようがない。
だが――
撃った鉛玉は、すべてデルの目の前で空中に静止していた。
ガルーは目を見張った。
弾き返すか、受け止めるかの違いはあるが、あれはムウの伝道師《ナーカル》グリフィンが身にまとう『見えない壁』と同じものだ。
「――ちっ」
思い切りよく、ガルーは空になった短銃を路上に投げ捨てる。そして、肩にかけた細い革帯を掴《つか》み、背負っていた大型銃の筒先を体の前に持ってきた。
「ガルー!」
獅子の声に耳も貸さず、重い引き金を絞った。
ドゴォォォォォォン
鼓膜をつんざく銃声を轟《とどろ》かせ、大型銃が火を吹く。あたりが一瞬だけ目も眩《くら》む光に照らし出された。
もの凄《すご》い反動がガルーを襲う。体が後方に持っていかれるが、足を路面に引きずり、転倒をこらえた。
この銃は威力が大きい反面、反動が凄《すさま》じく、並みの人間には扱える品ではない。まして今は、グリフィンから貰《もら》った添加剤を混ぜ、威力、反動ともに倍増していた。
しかし、結果に変わりはなかった。
「クククククク……」
靴音とともに、嘲笑《ちょうしょう》が響く。
貫通できずとも、弾着の衝撃で痛手を与えられるはず――と踏んでいたガルーにとり、にわかには信じれなかった。
老人といってもよいデルの歩みすら、止めることができなかったのだ。
「……だからいったのだ、無駄だと。あの防護障壁は、ムウやアトランティスのものより、遥《はる》かに強力なのだぞ。たとえ砲弾をぶつけたところで、あれは決して破れない」
「手がないわけではなかろう……」
これはデルの声だ。
錬金術師は声がらくに聞こえる距離で足を止めている。獅子ならば一足飛びで襲いかかれる間合いだ。
「……きみなら気づくはずだ」
「なにっ?」
ガルーの目が獅子に向く。
「アイラが持つオリハルコンの剣を使えば、一時的に防護障壁は中和される。むろん、剣はその段階で力を使い果たすが、わたしなりガルーが間髪を置かず攻撃すれば、確実にきさまの命を奪える……」
「フフフ……さすがは我が旧友というべきか。ならば、なぜ実行しない。先程はあれほど敵意を剥《む》き出しにしたというのに」
「興味を抱いたからだ」
「ほう……」
デルは笑みを浮かべる。
「きさまのことだ、防護障壁の他にも、身を守る手立てを用意しているだろう。しかし、〈影〉を送り込むのと違い、絶対に安全とはいい切れぬ。あえて危険を冒して、我が前に現われるには、それなりの理由があろう」
「畜生に堕ちても、その頭脳は健在か。安心したぞ」
「悠然とされても困るな。成り行き次第では、その首、すぐにも貰《もら》い受ける。この間合いならば、きさまが森に配した獣人たちが、助けにくる前に片がついている」
アダモの言葉には殺気が滲《にじ》んでいた。アイラに目を移せば、腰の細剣の柄《つか》に手を置き、すぐにも抜き放てるよう身構えている。
「おお……恐い恐い」
「では、話を聞かせてもらおうか」
「なに……手を結ぼうと思ってな。こうして現われたのだ」
獅子の頬《ほお》がぴくっと引きつる。
「おや、気に入らぬかね。悪い申し出ではないと思うが」
「信じられると思うか。過去の経緯《いきさつ》を忘れたわけではあるまい」
「過去は過去でしかない。利にさとい者なら、常に目は未来に向けるべきだ。きみたちにしても、組織の手が迫る今、味方はひとりでも多いほうがよいのではないかな。まあ、疑う気持ちもわかる。わしの現在の境遇を知っておろう。昔の地位は実の息子に奪われ、隠居同然の扱いよ。きみたちと手を結べば、返り咲くことも可能だ」
「……信用を得たいのなら、もっとましな理由をいったらどうだ。きさまは、地位などに拘泥《こうでい》する男ではない。それは誰よりもわたしが知っている」
「フフフ……先日、同じことを〈豹《パイジャ》〉にもいわれたよ。確かに組織の地位などどうでもよい。だが、同じ錬金道士《アルケー・アデプト》ならば、半生を賭《か》けた研究を完成間際に奪われた、わしの口惜しさは理解できよう。しかも、我が息子ヘルマーは、おのが野心に燃え、研究を目茶苦茶にしようとしている。これは見過ごすわけにはいかぬ」
「幾分はもっともらしくなったが……やはり見え透いた嘘《うそ》としかいいようがない。組織の力に比べ、わたしたちは明らかに劣勢だ。勝ち目のない側に、きさまが肩入れするとも思えぬ」
デルは落胆のため息を吐く。
「今度は正直にいったつもりだよ。このままでは、遠からずきみたちは全員この世から抹殺される。それでは困る[#「困る」に傍点]のだ……せめて四分六分の勝負ができるよう、ヨシュアには成長してもらいたい」
獅子の顔に怒りが走る。
「――きさまの魂胆が見えたぞ。あの子[#「あの子」に傍点]と対等に戦わせるために、ヨシュアを魔王として目覚めさせるつもりだな」
すると、デルは目を細め、唇の両端を吊《つ》り上げた。
それはまさに悪魔の微笑《ほほえ》みだった。
「イァァァァァァァ――!」
裂帛《れっぱく》の気合いとともにアイラが飛んだ。
――ヨシュアを魔王なんかにしてたまるもんか!
アイラは気づいていた。このデルこそ、メルカの死に際して、自分を狂気に誘《いざな》おうと耳元で囁《ささや》いていた〈声〉の主だということに――!
オリハルコンの剣が目映《まばゆ》い光を放った。この異国の剣は、持ち主の闘志が高まれば高まるほど輝きを強める。
振り下ろされた剣がデルの頭上で止まる。
その瞬間、錬金術師の体を覆っていた障壁が、明滅することでその輪郭を現わした。
剣と見えない障壁が互いに反発し、エネルギーを放出する。
燃え尽きる寸前の蝋燭《ろうそく》が、最後に輝きを増すように、両者の間で目も眩《くら》む閃光《せんこう》が生じた。
アイラは弾き飛ばされ、地面に叩《たた》きつけられた。エネルギーが逆流したのか、右腕が痺《しび》れて動かない。剣は輝きを失った上に、剣身から白い煙がたち上っていた。
デルは転倒こそしなかったが、胸の服の下からやはり煙が吹いている。『見えない壁』の発生器が過熱したのだろう。
「――かつての恨み、晴らさせてもらう!」
獅子が咆哮《ほうこう》を上げて、飛びかかる。
デルは恐怖で竦《すく》んでいるのか、一歩も動かない。
獅子の巨体が胸に乗り、錬金術師は肋骨ごと内臓を押し潰《つぶ》されて圧死した。
呆気《あっけ》ないほどの最期だった。
その間、ガルーとティアは、森に潜む獣人の襲来に備え、油断なく身構えていた。だが、彼らはいっこうに姿を現わそうとしない。ティアが緊張を解かないことから、まだ近くに潜んでいるのは間違いないのだろうが……。
「や、やったのね……」
アイラが荒い息とともに歓喜の声を上げた。
オリハルコンの剣は、確かに凄《すさま》じいまでの攻撃力を秘めているが、渾身《こんしん》の一撃を加えた時、蓄えた〈力〉を一挙に残らず放出する。しかも、持ち主の体力と気力まで根こそぎ奪ってしまうのだ。まさに諸刃の剣であった。
「――ち、違う」
獅子は声を震わせた。
「こやつは、デルではない」
「なんですって!」
獅子はデルの体を見せるため脇《わき》に退いた。
死体の顔はすでに面変わりしていた。ミイラとなったように肉が削げて顔の骨格が浮き出し、落ち窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》や口、鼻、耳といった穴から黒い煙が吹き上がっていた。
あたりに強烈な腐敗臭が広がる。
「……な、なによ……こいつ……」
アイラは口を塞ぎ、胃から込み上げる吐き気をこらえた。
「〈人造矮人《ホムンクルス》〉だ。あやつは己の複製をよこしたのだ。道理で落ち着き払っていたはず――」
アダモは唸《うな》るがごとくいった。胸中は騙《だま》された悔しさで、煮え滾《たぎ》っているに違いない。
すると――
闇《やみ》からあの哄笑《こうしょう》が湧《わ》き上がる。
「――なかなかの見ものだった。アダモ、そしてアイラよ」
おどろおどろしい声が、街道に響き渡る。〈影〉を煙に映し出した時のように、あらゆる方向から聞こえてくる。
「きさま! いったいなんの真似だ。われらを嘲弄《ちょうろう》するのが目的か!」
獅子が姿なき敵に向かって吠《ほ》える。
「フフフ……とんでもない。きみたちの助力をするといったばかりではないか。もっとも、そちらには拒まれたが……どのみち同意をもらうつもりはなかった。わしは勝手に手を貸すことにする」
「なんだと?」
「これから先、わしはきみたちの行く先々でさまざまな罠《わな》を仕掛ける。すべてが命に拘《かか》わる危険な罠だ。むろん手加減などしない。だが、それを乗り越えていけば、きみたちは必然的に強く逞《たくま》しくなっているだろう」
「きさまの掌で踊らされてたまるか」
と、ガルーが叫ぶ。
「乗るも乗らぬもきみたちの自由だ。しかし、選択の自由はないぞ。戦わなければ、殺されるだけなのだからな……」
獅子の顔が怒りに歪《ゆが》む。
コォォォォォォン……
離れた森で、二匹の獣人を呼び寄せた鐘の音が響く。
すると、街道の両側の木立の奥で無数の獣の唸《うな》りが上がる。
闇の中に金色に光る野獣の目が浮かぶ。
「まずは手始めだ。そこの小娘の同族である狼獣人の群れと戦いたまえ。なに、ほんの一五、六匹だ。体慣らしとしては、適当な相手だと思うがね」
といって、デルは腹の底から楽しそうに笑い声を上げた。
「……ちくしょうめ」
ガルーは呻《うめ》きを洩《も》らした。
体慣らし、とはとんでもない言い種だ。
アイラとガルーは、たった一匹の狼獣人によって、駅馬車の警護にあたる十数名からなる完全武装の衛士が、皆殺しにされた光景を目撃している。
ガルーは構えた大型雷発銃に目を移す。
――弾は残り二発……。
恐らくこの強力な弾丸ならば、獣人を倒すことができるだろう。だが、頭に命中しなければ完全に倒したことにはならない。眉唾話《まゆつばばなし》かも知れないが、たとえ心臓を撃ち抜いたところで、しばらくは戦えると聞いたことがある。恐ろしく素速い獣人を相手に、さらに的の小さな頭に狙《ねら》いをつけるなど、至難の技以外のなにものでもなかった。
――まさにお先、真っ暗って奴か……。
ガルーは暗澹《あんたん》たる思いがした。
獅子が獣人の群れを睨《にら》んだまま、アイラの名を呼んだ。
「――この場は、わたしが食い止める。きみたちは、ヨシュアを連れて逃げてくれ」
「そんな、あたしたちも戦うわよ!」
アイラはよろめきながらも立ち上がった。しかし、構えた剣に輝きは戻っていない。
「心配するな。わたしは獣人相手に死ぬつもりはない。きみたちまで、デルの挑発に乗って戦ってはまずい。パイジャと戦った時を思い出すのだ」
アイラの脳裏に、黒馬に跨《また》がり、銀色に髪を輝かせたヨシュアの姿が浮かぶ。その幻想的なまでに美しく、妖《あや》しい光景は生涯忘れられそうもない。
「よいか、きみたちが命の危険に晒《さら》されれば、ヨシュアは無意識の裡《うち》に眠れる〈力〉を用いて救おうとする。それ自体は悪きことではない。〈力〉は使えば使うほど高まっていく。だが、そこに〈力〉を制御する〈心〉の成長が伴っていかぬ。そのことが危険なのだ。もし大きくその均衡が崩れた時――ヨシュアは〈魔王〉として目覚める!」
その言葉は、アイラの胸に氷の刃となって突き立った。
そこにデルの笑いが響いてくる。
「フフフ……それでも構わないではないか。〈魔王〉――すなわち〈闇の救世主〉として目覚めたところで、己の〈使徒〉に危害は加えんよ。むしろ、〈魔王〉の強大な加護を得て振るまい易くなる。この世は思いのままになるぞ」
「冗談じゃないわ!」
アイラは大声で叫んだ。爛《らん》と輝く瞳が闇に潜むデルの姿を追い求める。
「あんたの思惑に乗ってたまるもんか――あたしは絶対に坊やを守ってみせる」
「結構――きみと白子の絆《きずな》が強ければ強いほど、〈魔王〉発現は早くなると心得ろよ。では踊り娘よ、せいぜい頑張るがいい」
デルは大きな笑い声を残して去った。
コォォォォォン……
鐘の音が鳴り響く。それは獣人たちに戦いを命じる合図だった。
一五対一の凄《すさま》じい戦いが始まった。
アダモは咆哮《ほうこう》を上げ、狼獣人の群れに踊りかかった。
獅子の強さを悟った獣人たちは、アイラたちには見向きもせず、獅子一匹に攻撃を集中した。
その間に、アイラたちはヨシュアを連れて馬に跨《また》がる。
獅子の鋭い牙と爪《つめ》が、押し寄せる獣人たちを薙《な》ぎ払っていく。白い疾風が吹き荒れるような、壮絶な戦いっぷりだ。
そこには、知性と優しさを感じさせたアダモはいない。食うか食われるか――激しい闘争本能に突き動かされた一匹の獣がいるだけだ。
獣人たちは腕を引き千切られ、足をもがれようとまったく気にすることなく、獅子に向かっていく。これにはアダモも手を焼き、次第に純白だった体が、返り血以外の血で赤く染っていく。
「――アダモ!」
アイラは馬上から悲鳴のような叫びを張り上げた。彼女の前にはヨシュアがいる。だが、白き少年の瞳は、必死の戦いを続ける父親の姿を見ても、なんの反応もなかった。
「なにをしている。早く行かんか」
アダモが戦いながら、怒鳴りつける。
「だって、だって――!」
「行け――エディラ!」
獅子が叫んだ。
すると、アイラとヨシュアを乗せた黒馬が、大きくいななきを発し、蹄《ひづめ》を蹴立《けた》てて走り出した。その後ろをガルーとティアが乗る栗毛馬が続く。
二頭の馬は全力で石畳の街道を駆けた。
アイラは背後に顔を向けていたが、すぐに白い獅子の姿は見えなくなってしまった。
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【第三章 別れ道】
「ちっ……こいつはもう駄目だな」
栗毛馬の前足あたりに屈み込んでいたガルーが、顔を上げて忌々《いまいま》しげに呟《つぶや》いた。
しばらく前のことだ。街道の途中で栗毛馬が急に立ち止まり、一歩も動かなくなった。疲れたせいかと思っていたが、休ませても効き目がなく、轡《くつわ》を掴《つか》んでも頑強に歩くことを拒んだ。
調べてみると、左前足のすねが異常に熱を持っている。どうやら骨が折れているようだ。
あたりは次第に暗くなってきている。決断は早めに下さねばならなかった。
ガルーは短銃を抜き、弾倉を開けて弾を確認する。
「こ、殺しちゃうのかい」
アイラがぎょっとした顔でいった。
「妙な情けはやめろって。骨が折れてるんだぜ。顔に出しちゃいないが、ひどく痛むに違いない。ひと思いに死なせてやったほうがいいのさ。それが、今まで乗せて貰《もら》った礼になるんだ」
救いを求めるように、アイラは黒馬を見る。けれど、エディラは哀《かな》しそうな目をするだけだ。
銃声が樹海に響き渡る。
その瞬間、アイラは自分の体を弾が貫いたように感じた。
眉間《みけん》を撃ち抜かれた栗毛馬は、短いいななきを上げ、石畳の上に横倒しになった。
ガルーは馬の亡骸《なきがら》に屈み、腰から鉈《なた》のようにごつい短刀を引き抜いた。
「なにするのさ」
アイラが咎《とが》める声を上げる。
「決まってるだろ。とっとと肉を捌《さば》いて、塩でも振っておかないと、腐っちまうぜ。ああ、血も少し抜いとくか。疲れを取るにはもってこいっていうからな」
「よしとくれよ、そんな――」
アイラは顔を背けた。
「おいおい、どうしちまったんだよ。まさか、かわいそうだから食べられない、とかいうんじゃないだろうな」
「うるさいね。だったらどうだってのさ」
ガルーは呆《あき》れ顔で頭を掻《か》く。
「馬鹿げてるぜ。食い物が残り少ないって嘆いていたのはどいつだ。これで今日明日は森に分け入らずに済むんだぜ。それに、俺《おれ》たちが食わなけりゃ、代わりに森の獣たちが食べ散らかすだけさ」
「わかってるわよ、そんなこと。くどくど理屈をいわないで」
アイラは荒々しい足取りで、その場を去っていった。
ガルーは一度深いため息を吐いてから、横たわる馬に向き直り、後ろ足の腿《もも》に短刀を突き立てた。
肉の表面に油が浮き上がり、あたりにプーンと香ばしい匂《にお》いが広がる。
火のまわりには、串に刺した肉の塊がなん本も並ぶ。焚《た》き火を使ったあぶり焼きである。味付けは岩塩と煙だ。新鮮な馬肉は、生でも食べられるが、街道ではあらゆるものに火を通したほうが安心といわれる。
「よし、こんなもんだろ」
焼き具合いを確かめたガルーは、よだれを浮かべて待ちわびるティアに串ごと手渡した。
少女は息をフーフーと吹きかけ、少し冷ましてから齧《かじ》りついた。これも一緒に旅をするようになって憶《おぼ》えたことだ。初めの頃は、よく口の中を火傷《やけど》して、あたりを走り回っていたものだ。
ガルーの傍らには、肉の小山ができている。それでも切り出した量は馬の足一本分にも満たない。樹海では町以上にものが腐りやすく、手を尽くしたところで、二日ぐらいしか保たないのだ。
馬の亡骸《なきがら》は、そのまま放置してきた。今頃は血の匂いに引きつけられた獣たちによって、骨ばかりにされていることだろう。埋葬など女々しい感傷に過ぎないことを、ガルーはよく知っていた。
その目にアイラの姿が止まる。
彼女は視線を合わさぬように顔を背け、ひとり固くなった薄焼きパンを食べていた。今は亡きメルカが持たせてくれた心尽くしの食料はこれで底をつく。
「……いつまでも意地を張るなって。食ってやるのも供養のうちだぜ」
と、ガルーが声をかける。
「いいんだよ。放っておいておくれ」
アイラは無愛想に答えた。
ガルーは口をつぐむことにした。
アイラにはひどく頑《かたく》ななところがある。下手に慰めようとすれば、かえって喧嘩《けんか》になるのがオチだ。辛抱強く、向こうから心を開いてくるのを待つしかないのだ。
久しぶりに腹をいっぱいに満たせるというのに、ガルーやティアの顔に笑みはない。
考えてみれば、ダスターニャを出てからこのかた、息詰まる空気の中にいるようなものだ。危険な樹海のただ中にいて寛《くつろ》げるほうが不思議だが、同行者がこれほどピリピリしていては、なおのこと気が休まらない。
特にデルの襲撃以後は、余計に苛立《いらだ》ちを強め、めっきり口数が減った。たまに口を開けば、さっきのように喧嘩腰となる。
悔しいが、彼女の心を解きほぐすことのできるのはアダモをおいていない、と認めねばならなかった。
けれど、あの日を境に、白き獅子《しし》は姿を消した。
ガルーたちは襲撃現場に戻ってみたが、石畳に夥《おびただ》しい血痕《けっこん》が広がるだけで、獅子はおろか狼獣人の死体も見当たらなかった。むろん、戦いに敗れて、食われたとも考えられる。
しかし、アイラは――
「絶対に生きているわよ。ヨシュアやあたしたちを置いて死ぬわけがないでしょ」
と、声を震わせ、頑強にいい張った。
――仮に生きていれば、真っ先に自分たちの前に姿を現わすはずだが。
と、ガルーはその時思ったが、今はアイラの言葉のほうを信じたくなっていた。
ガルーは自分の腹を満たす一方で、明日《あす》と明後日《あさって》に回す肉に多目に塩を振り、火を通していた。そして生焼け状態の肉を、木の皮と油紙で二重に包む。
そのままでは食べられないほど辛く、固くなってしまうが、取りあえず、二日分の食料は確保できたことになる。
「……なによ」
ガルーの視線に気づき、アイラは刺々《とげとげ》しい声を出す。彼女の前には、手つかずの肉が残っている。どうやら無駄になりそうだ。
「いや、この先どうするか……と思ってね」
ガルーはあくまでも低姿勢だ。
「どうするって?」
「この通り、旅の足は食い物に化けちまった。メルカがくれた保存食も切れたし、弾用の鉛も火薬も残りわずかだ……」
「……だから?」
「このまま旅を続けるのは無理ってことさ。もうすぐペルーテの町だ。立ち寄って、食い物やもろもろ、買い求めなきゃならん」
一瞬、アイラの息が止まったように見えた。そして、踊り娘《こ》はしばしの沈黙ののち、
「――あたしは行かないよ」
ガルーの片側の眉《まゆ》がひくつく。
「どういうことだ」
「町なんてもうごめんさ。ダスターニャでどんな目に遭ったか、あんただって忘れちゃいないだろ」
「気持ちもわからんじゃないが……現実問題として、いつまでも街道を彷徨《さまよ》うのは無理だ。俺《おれ》たちはまだしもヨシュアがな。今のところは大丈夫のようだが、食も細いし、旅が体にいいわけがない。いずれ病気になってしまうんじゃないか」
アイラの顔が目に見えて青ざめる。痛いところを衝いたようだ。
「別にペルーテである必要はないが、先々はどこかの町で腰を落ち着けなければな。それともなにか、永久に人里離れた森ん中で暮す気か」
アイラは唇を噛《か》み締め、
「先のことなんか、考えちゃいないさ。とにかく、嫌なんだよ! 恐いんだよ! もう、誰にも逢《あ》いたくないんだよ!」
途方に暮れる思いがした。
今のアイラはまるで駄々っ子だった。「嫌だ、嫌だ」で現実を見ようともしない。
「……なあ、アイラ」
ガルーは幼子《おさなご》を相手にする気持ちで、優しく語りかけた。
「せめて、町の近くまで一緒にきてくれ。俺が旅に必要なものを揃《そろ》えてくる。その間、おまえはヨシュアとティアと街道で待っていればいい。なに、買物だけだ。すぐに戻ってこれる」
だが、アイラの返事は、
「――嫌よ」
取りつく島もないといった感じだ。
「なんでだよ。町に入れっていってるんじゃないぞ」
「近くにいたら、誰かと出会うかも知れないでしょ」
「そんなこといってたら、街道だって歩けやしないだろうが。わがままはいわないでくれ」
「しつこいわね。嫌なものは嫌なの。どうしてもっていうなら、あんただけ行けばいいでしょ。とめはしないわ」
忍耐の糸が切れかかり、握り締めた拳《こぶし》がわなわなと震える。
「――勝手にしろ!」
ガルーは立ち上がり、焚《た》き火のそばから離れた。こらえられたのは奇跡に近かった。
「ええ、ええ、勝手にさせてもらうわよ!」
背後からアイラの怒鳴り声が聞こえる。次いで、取っておいた肉を地面に叩《たた》きつける音が上がる。
体内の血が一、二度上がったような気がしたが、ガルーは黙殺することにした。これ以上相手をしていたら、今度こそ『切れて』しまう。
――そうなったら、もうおしまいだ。
ガルーは自分の毛布を被り、道端に寝転んだ。いつもは簡単に眠りに就けるのだが、今宵に限ってなかなか寝つけなかった。
翌日は朝から雨だった。
一行は霧雨をついて慌ただしく出発した。黒馬はアイラとヨシュアを乗せ、街道をゆっくりと進む。その後ろから、ガルーとティアが徒歩でついていく。旅の足がなくなった今、この先ふたりはずっと歩きになる。無理をすれば、もうひとり、ティアぐらい馬に乗れるだろうが、本人が嫌がった。アイラを怖がっていることははっきりしていた。
「――坊や、大丈夫? 濡《ぬ》れてないかい」
アイラが少年に話しかける。返事がないとわかっていても……だ。
街道で出会った頃も、少年はなにもできない子どもだった。それでも、苦しい時や悲しい時には泣き、楽しい時や嬉《うれ》しい時には笑う――アイラはそれとともに一喜一憂したものだ。
今のヨシュアは人形だった。
口に食べ物を運べば飲み込む。疲れれば眠り、そうでない時は瞼《まぶた》を開けている。もっとも、そのうつろな瞳《ひとみ》にはなにも映っていない。
ひ弱な幼子のようだった以前と比べれば、泣き出さない分、世話の手間はかからない。それに熱も出さず、食べ物を戻したり、下痢をすることもなくなっている。また、ガルーがいう通り、じょじょに痩《や》せてきているが、衰弱したという感じではない。病んだ心と裏腹に、少年のか細い肉体は、不思議な強さを示していたのである。
だからといって、こんな状態がアイラにとり好ましいはずがない。
――手間なんかいくらかけてもいい。一日中泣いていたって構わない。お願いだから、声を聞かせてちょうだい。
踊り娘《こ》は祈るような気持ちを込めて、毎日話しかけていた。
だが、アイラは気づいていない。
頑《かたく》なに閉ざされたヨシュアの心を元に戻そうと願う自分自身が、少年とふたりだけの世界を作り、殻の中に閉じこもっているということを……。
いつの間にか、黒馬と後ろからついていくガルーたちの距離が開いていた。
ティアの歩みが、少しずつゆっくりになっていたためだ。少女の顔は俯《うつむ》き気味で、真っ直ぐ前を見ていない。足取りも危なげで、先程から右に左に蛇行していた。
そして、ティアの体がぐらっと傾く。
脇《わき》を歩いていたガルーが腕を掴《つか》んで支える。
「――どうした。疲れたのか」
ティアは目を擦り、欠伸《あくび》を洩《も》らした。どうやら、歩きながら眠りかけていたようだ。人間の習慣に慣れてきても、まだ生活周期は夜主体だ。いつもなら、馬の背に揺られて寝ている時間である。
ガルーは渋い顔で、
「困った奴だぜ……」
頭から被っていた毛布を脱ぎ、きょとんとする少女に背を向けてしゃがみ込む。
「ほれ」
ガルーはぶっきらぼうにいった。だが、少女にはその意味がわからない。
「ほれ、早くしろって。おぶってやるよ」
ティアは、ブルブル首を振った。
「ぐずぐずするなよ。ほら、アイラたち、あんなに先に行っちまったじゃないか」
ガルーは少女の腕を取って、無理矢理自分の首に巻きつけさせる。そして、後ろ手に尻《しり》を抱えて、そのまま立ち上がった。
驚いた少女は、ガルーの背にぎゅっとしがみつく。
「こ、こら、痛いだろうが。か、髪を掴むな。ハゲたらどうする」
今度はいきなり手を放して、頭から落ちそうになる。
「――たく、面倒ばっかりかけやがって」
ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、ガルーは背負ったティアも隠れるように毛布をまとい直した。
「ほら、しばらく寝てていいぞ。ただし、夕方近くなったら、自分の足で歩いてもらうからな」
真っ暗な毛布の中で、ティアはガルーの声を聞いた。
ガルーの背中はごつごつと固く、お世辞にも寝やすい場所とはいえない。その上、鼻を刺すような汗の匂《にお》いに、むせかえりそうになった。
けれど、揺られているうちに、次第にこの匂いが気にならなくなっていった。それどころか妙に懐かしい、心が落ち着く気分になる。
そして、いつしかティアは眠りに落ちていた。
急に重みが増し、ガルーは背負った少女が寝たと知った。
「ちっ……いい気なもんだぜ」
呟きとは裏腹に、ガルーの目は暖かだった。
どれほど歩いたか……。
ガルーは、雨に煙る街道の向こうに、先にいったはずの黒馬の姿を認めた。
――へえ、待ってくれたのか。
ガルーの足は自然と小走りになった。
近づいてみるとヨシュアを鞍《くら》に残し、アイラだけが地面に降りている。
アイラは冷たい視線を投げかけ、
「やっと追いついたね。なにもたもたしてたんだい」
ガルーはむっとする。優しい言葉を期待していただけに、裏切られたような気分だ。
「待つのが嫌だったら、先に行ってりゃいいだろうが」
「そうしたいのは山々だけどね。エディラがここで止まっちまったんだよ。はぐれちゃいけないと思ったんだろうさ」
「はぐれるだと? ここは一本道――」
遅ればせながらガルーは、道が前方でふたつに分かれていることに気づく。雨で視界が悪く、左に伸びる側道が目に入らなかったのだ。
「ほう……やっと分岐路まで辿《たど》り着いたってわけか。けど、迷うことはないだろう。左の道は〈南の僻地《へきち》〉に出ちまう。このまま真っ直ぐに進めばよかったんだ。そこの道しるべにも書いてある」
と、ガルーは道端に置かれた石板を指差す。石畳の一部を剥《は》がして、旅人のための道標としたものだ。普通の石板ではすぐに苔《こけ》むして読めなくなる。
「そういうだろうと思ったわ」
アイラがため息混じりに呟《つぶや》く。
「まさか、おまえ、左の道に行くと――」
「あたしの望みは知っているでしょ」
ガルーは驚きに目を見開く。
「冗談じゃない。南の僻地がどんな場所か知っているのか。町がないことも、それだけの理由があるんだ」
「なによ、行ったこともないくせに。知ったか振りはよして。あたしだって、昔、御者連中から噂ぐらい聞いたわよ」
ガルーは歯噛《はが》みしてアイラを睨《にら》みつける。すると、争う気配で目を覚ましたのか、背中のティアがもぞもぞ動き出す。
ティアが地面に降り立つ。寝起きでぼんやりしていたが、ふたりの間に流れる険悪な空気に触れ、表情を固くして立ち竦《すく》む。
「まあいい……そこまでいうなら、俺も従うさ。だが、こっちの意見も聞き入れろよ。南の僻地は武器なしには通れない。まず、ペルーテの町に立ち寄って、弾の材料や食料その他を仕入れてからにしてくれ」
ガルーとしては、ぎりぎりの譲歩のつもりだった。だが、相手の返事は、その気持ちをまったく酌んでいなかった。
アイラは嘲笑《あざわら》うがごとく、
「銃がなんの役に立つのさ。そりゃ、小さな獣を捕らえるにはちょうどいいでしょうけど、あのデルや獣人にはまるで歯が立たないじゃない。あんたも、そのごたいそうな銃と一緒よ。アダモがいてくれれば――ううん、グリフィンでもいいわ――どれほど安心していられることか」
その瞬間、ガルーの全身の毛がざわっと逆立ったように見えた。
思わずアイラは気圧《けお》されたように後ずさる。
「――な、なによ、やるっていうの。面白いじゃない。いつも女が男のいいなりになんかならないことを教えてやるわ」
アイラは凄《すご》んだ顔で、腰の剣に手を当てる。
だが、ガルーは一瞬氷のような冷ややかな視線を投げかけると、くるりと踵《きびす》を返して、黒馬に近づいた。
ガルーは馬上のヨシュアに目を向ける。
白い肌、白い髪の少年は、南の僻地の方角を見つめている。白獅子《しろじし》の危機にも眉《まゆ》ひとつ動かさなかったように、ふたりの諍《いさか》いにもまったく関心を示していない。
心の病《やまい》だからと、今までは諦《あきら》めもしてきたが、この時ガルーは無性にやる瀬なかった。
――なんのために、俺は体を張って戦ってきたんだ。
ガルーはそのまま黒馬の脇《わき》を通り過ぎて、街道を真っ直ぐに進んだ。
呆然《ぼうぜん》と眺めていたアイラが、はっと我に返る。
「――ど、どこに行くのよ。まさか、ここでおさらばする気じゃないでしょうね」
ガルーは足を止めるどころか、振り返りもしない。
アイラの顔が醜く歪《ゆが》む。
「――はっ、勝手にすればいいじゃない。あたしひとりだってヨシュアは守っていける。あんたみたいな見かけ倒し、いないほうがせいせいするわ。どこへなりと行っちまいな」
と、声を荒げて罵《ののし》った。
ガルーは背を向けたまま、無言で遠ざかり、霧雨の中に消えかかっていた。
不意にアイラの顔から怒気が消え、代わって不安と悲しみが入り交じった表情が浮かび上がる。
アイラの手が、去りゆくガルーの後ろ姿に向かって伸ばされ、あとを追おうと足が前に踏み出しかかる。
不意に正気に返ったように思いとどまる。
ティアの存在に気づいたからだ。
少女は今にも泣き出しそうな顔で、立ち竦《すく》んでいた。頬《ほお》を伝わって落ちる水滴は、涙のように見えた。
「なんでおまえがここにいるのよ!」
アイラが殺気だった怒鳴り声を上げ、ティアは雷に打たれたように飛び上がる。
「おまえも一緒に行けばいい。さあ行きな。行っちまいな!」
けれど、ティアは後ずさりしながらも、去ろうとはしなかった。
業《ごう》を煮やしたアイラが、腰の剣を抜き放った。
その輝きの恐ろしさは、ティアも嫌というほど見ている。少女は悲鳴を上げて黒馬の後ろに逃げる。
アイラは情け容赦なく少女を追った。完全に追い払う気のようだ。
すると、ヨシュアを乗せたエディラが、怒ったようないななきを鼻から洩《も》らして、アイラの前に立ちはだかった。
「――どいて、エディラ!」
だが、黒馬は頑として動かない。アイラの命令に従わなかったのは、これが初めてのことだ。
その間に、ティアは霧の中に去った。
手から細剣が離れる。
地面に落ちた剣が、見る間に輝きを失っていく。
「ああっ――」
アイラは掌で顔を覆った。
指の間から涙が溢《あふ》れていく。
どうしてこんなことになったのか、踊り娘《こ》にはわからない。自分の言動を振り返る余裕すら、今の彼女にはなかった。
ただ、無性に悲しく、そして寂しかった。
すると、霧雨の向こうから狼の悲しげな遠吠《とおぼ》えが聞こえてきた。
ティアの声に違いない。
――剣で追い払うなんて。なんとひどいことをしたんだろう。
アイラは自分のしでかしたことを悔い、そして恥じた。
遠吠えが次第に遠ざかっていく。
けれど、アイラは追うことができなかった。
贅《ぜい》を尽くした屋敷の広間に、四人の男女が集まっていた。
四人の視線は奥の扉に注がれている。閉ざされた扉の向こうには、彼らの主《あるじ》が籠《こも》っていた。
[#挿絵(img/03_145.jpg)入る]
「もう八日にもなる……これほど続いた暝想《めいそう》は初めてではないか」
第五使徒〈牛〉のゲープラが、不安げな声を上げた。
「それだけ、お苦しみということだ」
第四使徒〈馬〉のケセドが、沈痛な面持ちで深いため息を吐いた。
両使徒は、死んだ〈虎〉のバルド以上の巨漢だ。厚手の外套《がいとう》の上からも、はっきりと肩や胸の盛り上がりがわかる。尋常でない膂力《りょりょく》の持ち主であろう。
「……別に心配することもないんじゃないの。きっとのんびり休んでいるんだよ」
柔らかそうな巻毛の少年が、赤い果実を齧《かじ》りながら軽口を叩《たた》く。年の頃は一三、四。まだあどけなさが残る紅顔の美少年だ。
子どもにしか見えぬが、〈一二使徒〉でも上位に当たる、第三使徒〈山猫〉のテューレである。
果たして、ゲープラがじろりと少年を睨《にら》む。
「きさま、不謹慎だぞ」
すると、テューレは悪戯《いたずら》っ子のように歯を剥《む》いてニヤニヤと笑った。
腹を立てたゲープラが、少年に向かって丸太のような腕を伸ばした。捕まえて折檻《せっかん》を加えようという腹だ。
掴《つか》んだと思った瞬間、少年の体がかき消える。一瞬の残像を残し、目にも止まらぬ速さで移動したのだ。
「ぐっ――悪たれ小僧め、どこに隠れた!」
〈牛〉はあたりを見回した。
真っ白な肌の艶《なま》めかしい美女が目に入る。見慣れた仲間であっても、彼女と視線を合わせると、背筋にゾクゾクッと戦慄《せんりつ》のようなものが走る。
この美女こそ、第二使徒〈蛇〉のネフシスである。
彼ら使徒の至上の主であるグラシアが、女神のような犯しがたい神聖な清らかさだとすれば、ネフシスはまったくの逆だ。破滅を覚悟しても手を出したくなる蠱惑《こわく》の美しさを持っている。
陽と陰の差はあれど、ネフシスがグラシアに匹敵する美女であることは、畏れ多くて口をはばかるとしても、内心誰もが認めるところだ。
ネフシスが紅の唇に妖《あや》しい微笑《ほほえ》みを浮かべ、
「……ここよ。わたしの背中に隠れているわ」
すると、彼女の背後から、ひょいとテューレが顔を突き出す。
「〈鈍牛〉が、俺《おれ》さまを捕《つか》まえられるわけがないだろ」
と、さらに挑発する。
「き、きさまァ……」
ゲープラの脳天から湯気が上がる。
ネフシスは笑みを崩さない。ふたりのやりとりを面白がっているようだ。
「よさぬか、ゲープラ」
ケセドが肩を掴《つか》む。この〈猛牛〉を力で押さえられるのは、〈十二使徒〉の中でもこの男ぐらいのものだ。
ネフシスも口を揃《そろ》える。
「そうね、これ以上はよしたほうがいいわ。ここで騒ぎを起こせば、我らが主の暝想《めいそう》の妨げになるでしょう」
「そうやって、きさまらが甘やかすから、ますます小僧が図に乗るのだ」
ゲープラは声を荒げた。
その時、廊下側の扉が開き、長身の青年が姿を現わす。歳はケセド、ゲープラより若そうだが、周囲を圧する堂々たる威厳を滲《にじ》ませていた。
第一使徒〈獅子《しし》〉のタイフォンである。
「――なんの騒ぎか」
その鋭い眼光に射すくめられて、さすがのゲープラもたじろぐ。
「いや、小僧が、また生意気なことをいって……」
タイフォンの目が、ネフシスの陰に隠れるテューレを捉える。
目が合った途端、少年は怯《おび》えたようにまた首を引っ込める。
「だからといって、主のおそば近くを騒がしてよい理由にはならぬ。側近殿がこの場におわしたら、ただでは済まぬところだぞ。両名とも反省しろ」
ゲープラはぷいと顔を背けた。面白くはないが、さりとて相手が第一使徒では口応《くちごた》えもできない、といったところだ。
一方のテューレは、ネフシスの背中に張りついたまま出てこない。この悪戯《いたずら》少年でも、タイフォンと現側近のヘルマーの前では、悪ふざけを抑えざるを得ない。
〈馬〉のケセドがタイフォンの前に進み出る。
「側近殿からの連絡はまだないのか」
「先程、第六使徒ティファレイの伝書鳥が着いた。それによると、前側近デル・イグナチウスを追って、西のペルーテに入ったとのことだ。むろん側近殿もご同行されている」
「そうか……ならば、お戻りはしばらく先のことになるな」
「ん、なにか用件でもあるのか」
「いや、グラシアさまのご様子が気がかりなだけだ。アフラサクス殿ならば、そのあたりのこと、おわかりになるだろうと思ってな」
「ケセドよ……グラシアさまは、地上に降臨された女神であらせられる。その深慮遠謀は下々の我々が計りえるものではない。気に病む必要はないのではないか」
「うむ……」
ケセドは重々しく頷《うなず》いた。
その時――
居合わせた使徒全員の身の裡《うち》に、なにかが貫いた。
奥の間に通じる扉に一〇の目が集まる。
扉の隙間《すきま》から厳かな光が洩《も》れ出る。
五人の使徒は、素速く扉の左右に並び、頭《こうべ》を深々と垂れて主を待った。
観音開きの扉が開け放たれる。
まず露払いのように、一匹の黒豹《パイジャ》が扉から出てくる。グラシアの寵愛《ちょうあい》をよいことに、このところ他の使徒に傲慢《ごうまん》なふるまいを見せるようになっていた。この時も平伏する使徒の前を、わざわざゆっくりと通り過ぎていくのだ。使徒とて内心苦々しく思っているだろうが、鉄の自制心で表には出さない。
豪奢《ごうしゃ》な波打つ髪から燦然《さんぜん》と黄金の輝きを放つ女神が現われた。
髪の輝きは、アイラが持つオリハルコンの剣と同様に、グラシアの〈力〉の高まりを示すものだ。
そして、八日間に及ぶ暝想《めいそう》を経た女神の髪は、これまでにないほど輝きを強めていた。
「……タイフォン」
「――はっ」
第一使徒が顔を上げることなく、グラシアの足元に進み出る。
「わたくしはこの地を去ります。すみやかに用意を整えなさい」
女神の玲瓏《れいろう》たる声が広間に響く。
「すでに整っております。ご下知《げじ》あらば、いつでもお発《た》ちになれます。――して、いずこに向かわれますか」
「南西の方角へ。そこにあれ[#「あれ」に傍点]がおります」
居合わせた者、すべてが一瞬息を飲んだ。
「ついにご決断あそばされましたか。側近殿もお喜びになられるでしょう」
「あの者にも、知らせておかねばなりませんね。ゲープラ、使いを頼めますか」
「はっ、直ちに向かいます」
〈牛〉は喜び勇んで答えた。
「なお、屋敷はグラシアさまを慕う住民で、幾重にも取り囲まれてます。お発ちになられる際は、天に昇るが面倒がないかと」
「任せます……」
グラシアは固い仮面のような表情で答えた。
その直後、『お屋敷町』の路地という路地を埋め尽くす群衆が、空を見上げて喚声を上げた。
女神たちの一行が滞在する屋敷から、三匹の獣が飛び立ったのである。
黒獅子《くろじし》、白牛、黒馬――その三匹ともに翼を生やし、雲間より光が降り注ぐ明るい空を力強く羽ばたいていた。
群衆は黒馬の背に輝く黄金の髪を認め、歓呼の声を上げた。それこそ、女神グラシアの印だからだ。
空に七色の虹が架かった。
群衆はさらに声を高める。虹は瑞相《ずいそう》中の瑞相といわれ、エルマナでは一〇年に一度見れるかどうかの現象である。それも、町を覆うかのような巨大な虹は、地上の誰ひとりとして見たことがなかった。
群衆はこれを神の祝福だと思い込んでいた。
すると、白牛が群れから離れ、真っ直ぐ西の方角に飛んで行った。
群衆が戸惑う中を、今度は黒馬と黒獅子が、虹の架け橋の下を二度旋回した後、南西に向かって飛び去った。
その途端、頭上に暗雲が広がり、グラシア一行が現われて以来、八日にわたって続いた晴れ間が消えていく。
群衆は知った。
女神が立ち去り、この町が神の加護を失ったことを……。
群衆の歓喜は、瞬く間に悲嘆へと変わっていった。
場面は、同じ樹海の町ペルーテに移る。
町の規模、構造、人口、抱える諸問題――みなダスターニャと大差ない。強いて違いを上げるなら、この町にはヨシュアもグラシアも立ち寄っていない、という点だろう。
そのためか、悪魔の手も神の手も未だ伸びず、住民は平穏に暮していた。
「――悪いけど、他を当たっとくれ」
鼻先で、ぴしゃりと扉が閉ざされた。
ガルーはむかっ腹が立つのを抑えて、宿屋の前を立ち去った。
部屋を断られたのはこれで三軒目だ。
ダスターニャでは誰もがガルーを恐れ、いいなりになったというのに、この町では少し凄《すご》んだくらいでは怖がりもしない。
どうやら神通力が失せたようだ。
「仕方ない。先に用事を済ませておくか。ほれ、ちゃんとついてくるんだぞ」
きょろきょろと落ち着きのないティアを呼び寄せる。
――とんだお荷物をしょいこんじまったぜ。
どんよりと曇った空を見上げて、ガルーはため息を吐いた。
アイラと街道の分岐路で喧嘩別《けんかわか》れした時には、正直いって、この狼少女のことまで考えていなかった。だが、ヨシュアのことしか頭にないアイラが、好いてもいないティアの面倒を見るわけもなく、そのお鉢が自分のほうに回ってくることは、予《あらかじ》め読めたことだ。
先々どうするかは、しばらく町に滞在してじっくり考えるとしても、ティアをどうするかによって道は変わってくるだろう。
一番手間がかからず、後腐れがないのは、ティアに元の棲《す》み家である樹海に帰ってもらうことだが、まず本人にそのつもりがないようだ。
少女を伴ったガルーは、町の中心部に向かった。広場にはところ狭しと露店が並ぶ。樹海の町ならどこも同じなのか、ペルーテでもここが商いの中心のようだ。
市場の雑踏を抜けて、ちゃんとした構えの店が軒を列ねる商店街に出た。金持ち相手の高級品を扱う店がほとんどだが、ガルーの目に止まらない。目当ては露店が扱っていない火薬と銃の店である。
一軒の銃砲店を見つけ、中に入ろうとした時、ティアがいないことに気づく。市場ではぐれたのだろう。
「ま、心配ないか」
ガルーはあっさりと店の扉をくぐった。ティアの鼻のよさはわかっている。むこうから自分の匂《にお》いを辿《たど》って追い付くだろう、とたかをくくったのだ。
そこは無愛想な親父《おやじ》がひとりという小さな店だ。中は狭くて暗く、壁を床から天井まで埋め尽くす棚には、中古と思える短銃や長銃、それに数は少ないが剣なども並んでいる。中古といっても埃《ほこり》を被ったものは一丁たりとなく、すべて手入れが行き届いた品のようだ。
火薬と独特の機械油の匂いがかぐわしい。
ガルーは一目でこの店が気に入った。
「――なにか用かね」
短銃の分解掃除をしていた店の親父が、ようやく声をかけてきた。
「ああ、火薬と鉛、それにランプ用燃料をくれ」
親父はむすっとした顔で、注文の品を台の上に並べていく。
「親父さん、ここはいい店だな」
「そうかい。お世辞をいってもお代は変わらんぞ」
「そんなつもりはない。本当にそう思っただけさ」
ガルーは言い値のまま代金を払った。ダスターニャの店と比べて、安かったからだ。
「まいど」
「ちょっと、見せてもらっていいか」
「構わんよ。不届きな料簡を起こさん限りな。断っておくが、わしは若い頃速撃ちで知られた男だ。下手な素振りを見せたら容赦なく背中からでもズドンといくぞ」
といって、親父は腰にぶら下げた短銃を叩《たた》く。
ガルーはますます気に入った。
この直後、親父の態度が一変する。
「お、おい、あんた。その銃はなんだい」
親父がガルーの背に向かって叫ぶ。
「ああ、これかい」
ガルーは背負った大型雷発銃を台の上に降ろした。
「……こりゃ、凄い代物《しろもの》だの……」
親父が銃の構造を調べて感嘆の声を洩《も》らす。
「威力もとんでもないぜ。獣人にも充分効くしな」
「おまえさん、獣人と戦ったのか!」
「ああ、こいつで顔と腹に一発ずつぶち込んだ。もっとも、そのまま逃げられちまったがな」
と、パイジャとの一戦を語った。
「獣人を追い払っただと。本当か。ホラじゃなかろうな」
ガルーはニヤリと笑って、上着のボタンを外して胸を曝《さら》け出す。
そこには胸から腹にかけて大きな鈎裂《かぎざ》きのような傷が走っている。
「こりゃまさしく、獣人の爪跡《つめあと》だ。いや、疑って悪かったよ。確かにおまえさんは勇者だよ」
「よしてくれよ。勇者だなんて照れるじゃないか」
「頼みがあるんだが」
親父がガルーの銃を握り締めて、身を乗り出した。
「こいつを譲ってくれ!――といいたいが、あんたほどの男が手放すとも思えん。だから代わりにしばらく貸してもらえんか。礼はする」
ガルーは怪訝《けげん》な顔で、
「なにをする気だ」
「複製を取るんだ。獣人を退けたという銃なら欲しがる奴は多かろう。なに、腕のいい鍛冶《かじ》職人を使うから、決してこいつを痛めることはせんよ。それに威力があり過ぎるせいだろうな。撃鉄や弾倉に少しガタがきている。新品同様に直すと約束しよう。なあ、どうだ」
ガルーは「うーん」と唸《うな》りを上げて考え込んだ。
「よし、三日間だけならいいだろう」
「三日かね。せめて一週間にしてくれんかね」
「なら話もご破算だ。それ以上この町にいないかもしれない」
「わかったよ。職人には徹夜でやれといっておく」
「それに条件がある。礼なんかいらないから、予備の弾倉を作って俺《おれ》にくれ。弾数《たまかず》が少な過ぎて、群れに囲まれた時はどうしようもない」
「群れだと、そんなことがあったのか」
「ほんの数日前にな。尻尾《しっぽ》を巻いて逃げるしかなかったよ」
親父はまじまじとガルーを見つめた。獣人の群れに囲まれて生き延びた者など聞いたこともなかったのだ。
「ああ……複製型さえできればわけはない。頼んでおこう。それでいいのか」
「あと、もうひとつ」
「なんだ」
「こいつの筒先に、剣を付けられるようにしてくれ。短くてもいいが、華奢《きゃしゃ》じゃ困る。肉厚のある鋭い刃がいい」
「これにか? ただでさえくそ重いというのに、この上銃剣などつけたら、とても持てなくなるぞ」
「平気だ。獣人は強靭な鎧をまとっているようなもんだ。普通の剣じゃ軽過ぎる。銃の重さを加えてちょうどいいくらいなんだ。それに……いくらこの俺でも、右手に銃、左手に剣ってわけにはいかんのさ」
諦《あきら》めたように親父は肩を竦《すく》める。
「なんでもいう通りやるさ。どうやらおまえさんは、わしらの常識じゃ計りしれんお人のようだからな」
ガルーは意気揚々と店を出た。
思わぬ成り行きで、銃の弱点を補うことができたのだ。
「へへへ……もう『役立たず』なんぞといわしゃしないぞ」
だが、急にガルーの顔が暗くなる。もうアイラには逢《あ》うこともない、と気がついたからだ。
「ちっ――せいせいしたのは、こっちのほうだ。あの坊主と別れれば、二度と命を狙《ねら》われることもなくなる。気楽に生きていくさ」
そう強がりをいっても、ガルーの心の傷は癒《い》えていない。胸にぽっかり空いた穴を埋めるには、まだまだ時間がかかりそうだった。
ガルーの足は広場に向かっていた。はぐれたティアを探すためだ。
広場に近づくと、騒々しい叫び声が聞こえてきた。
「――そいつを捕まえてくれ!」
「――向こうに逃げたぞ」
「――きゃあ、なにすんのよ」
掻《か》っ払いかスリが追われているらしい。
ガルーは嫌な予感を覚えて、広場に向かって走った。
悪い予感は的中した。
薄汚れた服をきた赤毛の少女が、男たちに追われていた。なんと、逃げる少女の口には、鶏の首が咥《くわ》えられていたのだ。
ティアがガルーの姿を見つけ、鶏の羽をまき散らしながらすっ飛んでくる。
そして、ガルーの足元に鶏を置いて、にこっと笑顔を見せた。きっと、獲物を捕《つか》まえてきたつもりなのだろう。
「おまえなあ……」
ガルーは顔を掌で覆った。
褒めてくれると期待していたティアは、怪訝《けげん》な顔を浮かべる。
そこに、鶏の持ち主らしい男が、数人の地回り風の男たちを率いて飛んできた。
ティアはさっとガルーの背後に隠れる。
「おうおう、兄さん。そこのガキを渡してもらおうか」
男たちは凄味《すごみ》ある目付きで睨《にら》んだ。
「この子は俺の連れなんだ。盗んだものは弁償するから、それで許してくれないか」
と、ガルー。
「そうはいかねえ。この市で騒ぎを起こした野郎には、ちゃんと焼きを入れる掟《おきて》よ。ガキといっても容赦はできねえ」
「話し合いじゃ、解決しないってことか」
ガルーは両手を合わせて、ボキボキと指の関節を鳴らした。鬱憤《うっぷん》が溜《た》まって、少し体を動かしたいと思っていた矢先だった。
「に、兄さん、やる気かよ」
及び腰気味になりながらも、男たちは短銃や剣を抜いた。
だが、ガルーはまったく動じることなく、歯を剥《む》いてにやりと笑った。
ガルーは集まった野次馬の視線を背に受けながら市を後にした。その後ろにティアがとぼとぼとついていく。
「――いいか、ここは森の中じゃないんだ。勝手に物を取ったら駄目だぞ」
などと口でいいながら、ティアが町のしきたりを理解できる、とガルーも思っていない。そもそも、お金というものが、さっぱりわからないのだからどうしようもない。
「と、とにかくだ。欲しいものがあっても、手を触れるな。必ず俺《おれ》に訊《き》いてからだ。それに絶対に暴れたりするんじゃないぞ。変身なんてもってのほかだ」
最後のほうは声をひそめてだ。あたりは人が多い。もしティアの正体がばれたら大変な騒動になるだろう。
赤毛の少女は、頭を押さえてコクリと首を頷《うなず》かせる。拳骨《げんこつ》が落ちたところが、まだ痛むのだろう。目にはうっすらと涙が滲《にじ》んでいる。
ガルーの良心が疼《うず》く。
――知らなかったんだから、責めてもかわいそうなんだが。かといって、体にわからせるのが一番てっとり早いしな……。
そこに食欲をそそる匂《にお》いが漂ってきた。
キュルルル……
ティアの腹が鳴った。
「なんだ。おまえ、腹が減っていたのか。それで鶏を――」
ティアは恥かしそうに顔を赤らめ、下に俯《うつむ》いてしまった。
ガルーは「おや」と思った。少女が見せた仕草が、いつになく人間臭かったのだ。
それもそのはず――恥という感情は人間固有のものだ。ならば、狼獣人の仔《こ》も人間ということになるが、ガルーもそこまでは洞察が及ばない。
「そうかそうか。今、腹いっぱい食わしてやるからな」
途端に――
ティアは瞳《ひとみ》を輝かせ、ガルーの手を掴《つか》んで、匂いが漂ってくるほうに引っ張っていく。
「やれやれ……」
と頭を掻《か》きながら、ガルーは少女の強い力に引きずられていった。
匂いの出所は市場に隣接した屋台街だった。
焼き魚、串焼き肉、汁もの、パン、麺《めん》など種々雑多な屋台が、狭い路地の両脇《りょうわき》に軒《のき》を列ねている。雨の多い樹海の店らしく、天幕が店の前に張られてあり、その下に並べた長卓と椅子《いす》で、客は座って食べることができる。
夕暮れ刻にはまだ早いせいか、椅子に座る客はまばらだ。代わりに惣菜《そうざい》として器《うつわ》持参で買い求めにきた婦人の姿が目につく。
ガルーは『ギザトの店』と看板の出た屋台に引き寄せられていった。理由は単純だ。そこが一番匂いが良かったからだ。
卓につくなり、ガルーとティアの前に赤い焼き魚が置かれた。ぎざぎざのヒレに、ひと際大きな目玉をしたトートという川魚だ。
ティアは魚の目に驚き、危うく椅子からひっくり返るところだった。
「――こいつは店の奢《おご》りだよ。遠慮なく食っとくれ」
樽《たる》のような腹をした女将《おかみ》が、人懐っこい笑みを浮かべていた。屋台に目をやると、店の親父《おやじ》――恐らくはこの男の名がギザトなのだろう――もこっちを見て笑っている。どうやら夫婦でやっているようだ。
「ずいぶん気前がいい店だな。一見《いちげん》の客にまでふるまってくれるのか」
そういいつつも、ガルーは魚が盛られた皿を手元に引き寄せていた。
「今日は特別さ。見たわよ、さっきの大立回り。すごいじゃないの。あっという間に叩《たた》きのめしちまって。胸がスカッとしたわ」
「なるほど、奴《やつ》らは嫌われ者らしいな」
「自分じゃ、市《いち》の用心棒とかいってるけど、ならず者と変わりないわよ。ウチもずいぶんタダで飲み食いされたっけ。集まった野次馬も、口には出さないけど、胸ん中で喝采《かっさい》を上げてただろうね」
「そうと知っていれば、手加減などしなかったものを」
女将が呆《あき》れたような顔で、
「ありゃま、あれで加減したっていうのかい。兄さん、よっぽど強いんだね」
「へっ、大したことはないさ」
そう答えながらも、ガルーは満更《まんざら》ではなかった。
なにしろ、ついこの間まで、暴力|沙汰《ざた》を極力避けてきた。殴られることはあっても、殴り返すことなど皆無だった。人に「強い」と羨望《せんぼう》の目で見られることが、これほど気持ちのよいとは思わなかった。
改めて注文した料理の品々が卓に並べられ、ふたりは端から順に次々と平らげていった。店の夫婦が呆気《あっけ》に取られるほど凄《すさま》じい食べっぷりだ。
「――ところで」
ガルーは最後の皿を置き、女将《おかみ》に話しかける。
「実は、部屋を断られて困ってるんだ。どこかいい宿を教えてくれないか」
「あんたがかね。金は充分持っているようだし、どこだってふたつ返事だと思うけどね」
「俺もそう思うんだが、現に三軒も門前払いをくっているんだ」
女将はちょっと考え込んだが、ティアを見て、すぐに納得《なっとく》がいったようだ。
「たぶん間違いないね。原因はこの子だよ」
「ティアか?」
「男衆じゃ無理もないけどね。もう少し格好に気を遣ってやるべきじゃないのかい。これじゃ、まるで浮浪児だよ。それにいつから体を洗ってやってないんだい。ずいぶん匂《にお》うよ」
そういえば――と、ガルーはティアの姿をしげしげと見つめた。
確かに、全身泥にまみれて真っ黒だし、髪も固まったようにゴワゴワだ。服にしても、鈎裂《かぎざ》きだらけだし、そもそも服に慣れていないから、着崩れしてどうにも不格好だ。
考えてみれば、鳥舟の船内で、裸でうろつかれては困るからと無理矢理着せて以来、一度も替えていない。
――本当は女のアイラが気を遣ってやるべきなんだろうが。まあ、あいつの目にはヨシュアしか映っていないか。
アイラのことを思い出し、ガルーはまた不機嫌になった。
「体を洗って、きれいな服を着せてあげなよ。きっと女の子らしくなるよ。結構、顔立ちもいいし……ちょっと行儀は悪いけどね」
皿を嘗《な》めていたティアが目をパチクリする。
それを聞いて、ガルーは吹き出す。
――こいつの正体を知ったら、この人のいい女将《おかみ》、どんな顔をするかね。
ガルーには『女の子らしいティア』など、まるで想像もつかないようだった。
女将に教えてもらった宿屋は、確かに客の身なりなどにこだわる上等なところではなかった。
金さえ払えば、あとはなにもかも泊り客の自由。部屋を貸すだけの下宿屋に近いやり方だ。廊下は汚れ放題だし、部屋には寝台はあっても毛布がない。必要な品は別料金を支払って買うか借りるかするしかない。
気分晴らしに贅沢《ぜいたく》しようと思っていたガルーには、期待外れもいいところだった。反面、ティアの正体を隠すには、こういった客に無関心な宿のほうが向いていると認めねばならない。
「さてと……」
部屋に荷物を置いたガルーが、寝台の上で跳ねる少女を横目でチラリと見た。
その途端、殺気を覚えたようにティアの動きが止まる。
「いい子だからおとなしくしろよ」
ガルーが両手を広げてにじり寄る。
ティアは追い詰められた獣のように、歯を剥《む》き、威嚇《いかく》の唸《うな》りを洩《も》らした。
「凄《すご》んだって無駄だぞ。絶対、きれいにしてやるからな」
その後、数分にわたって激しい格闘が続いた。天井から埃《ほこり》が落ち、荷物は散らばり、備え付けの卓や椅子《いす》が倒れる大立回りだった。
狼少女がようやくおとなしくなったのは、宿の中庭に置かれた大たらいに放り込まれ、頭から湯をかぶせられた時だ。
その瞬間、ティアの体が硬直し、首筋から尻《しり》のあたりまで続く、髪の毛と繋《つな》がったたてがみ風の紅毛を逆立てた。
放心状態になった少女は、ぺたりとたらいに溜《た》まった湯の中に尻をつき、泣きベソをかき出した。
[#挿絵(img/03_169.jpg)入る]
「くそっ、泣くんじゃない。まるで俺が苛《いじ》めているみたいじゃないか」
立回りの派手さを物語るように、ガルーの顔は引っ掻《か》かれた傷でいっぱいだった。その恨みを晴らすかのように、ガルーは石鹸《せっけん》を片手に、ゴシゴシと容赦なく少女の髪や体を擦り始めた。
泡立ちが悪く、たらいの水が瞬く間に真っ黒になる。少女の肌はアカが層になっているようだ。さらにたらいの水面には小さな虫のようなものが動いている。
ガルーは思わず呻《うめ》いた。
「蚤《のみ》までいたのか!」
見ているだけで、痒《かゆ》くなってくる。ティアの次は、自分の体を洗おうと固く心に決める。あれだけ街道では、少女がへばりついていたのだ。絶対に自分にも移っているに違いない。
「な、なんだ、この髪は。ガチガチに固まっているじゃないか」
ガルーは力任せにティアの赤い髪を洗った。指が髪に引っかかる上に、泡が目に入り放題なため、少女はぎゃあぎゃあ喚《わめ》いて暴れた。
「――駄目だよ。そんな乱暴なやり方じゃ、痛がるのも無理ないよ」
背後から女の声が聞こえた。
振り向くと、ちょっとトウが立った水商売風の女が、恐い目でこちらを睨《にら》んでいた。化粧もしておらず、髪も服も乱れた感じだ。夕暮れ近いが、どうやら起き抜けのようだ。そのせいか、ぞくっとするような色気がある。
「あ、あんたは……」
女はガルーの問いかけに答えず、石鹸を奪うように取ると、屈み込んでティアの髪を洗い始めた。
「こりゃ、ひと月以上洗ってないね。かわいそうに。女の子なんだから、もっと面倒みてあげなきゃ」
「ああ……」
ガルーは力なく頷《うなず》いた。
女は手際よく、かつ丁寧に髪を洗っていった。目に石鹸《せっけん》が入ることもない。ティアは気持ちがいいのか、おとなしくされるがままになっている。
「あんた、ぼうっと突っ立ってないで、お湯の追加を頼んできな。これじゃ足りないよ。それに湯上がりに使う布は?――ないって。どうすんのさ。この子風邪引いちまうよ。しょうがないねえ。あたしの部屋に行って、箪笥《たんす》の一番下の引き出しから二、三枚取ってきな。部屋はあんたたちの隣だよ。鍵《かぎ》は開いたままだから。ああ、他はいじるんじゃないよ」
ガルーは女の迫力に負け、命じられた通りに駆け回った。どうにも逆らえないものを女に感じていたのだ。
湯が入った桶《おけ》と布を抱えて戻ってくると、すでに女はティアの髪を洗い終わり、体のほうに移っていた。
「この子、あんたの妹かい?」
と、女が背を向けたまま訊《き》いてきた。
「へっ――俺の妹だって。冗談じゃない」
ガルーは呆《あき》れたようにいった。
「ずいぶん、はっきりいうじゃない……で、妹じゃなければなんなのさ。まさか、娘ってんじゃ」
「よしてくれ。俺はまだそんな年じゃないぜ。こ、こいつは――そう、知り合いの子さ。預かっているんだ」
ガルーは咄嗟《とっさ》に嘘《うそ》をでっち上げる。
「駅馬車で街道を旅する途中、獣に襲われて、こいつの親はふたりとも死んじまったのさ。それで仕方なく俺が面倒みているんだ」
女は感心したようにガルーを見つめ、
「ふーん……見かけによらず、あんたも人がいいんだ。同じ馬車に乗り合わせた程度なら、見捨ちまうもんだけどね。じゃあ、この子が言葉を喋《しゃべ》れないのも、そのせいかい」
「あ、ああ、恐ろしい目にあったからな」
「そうだろうね。まだ小さいもの。目の前で親が殺されれば、どっかおかしくなるよ」
言葉のことをいわれた時は焦ったが、女のほうが勝手に納得してくれた。
「――はい、これで終わりよ。布を貸して」
女は最後にすすぎ湯をティアの頭からかけると、厚い生地の布を被せ、その上から体を擦るようにして水気を拭《ふ》き取りにかかった。
「ねえ、着替えはどこにあるんだい。まさか、これじゃないだろうね」
と、たらいのそばに置いてある、しわくちゃの服を横目に見る。
「駄目なのか。ここに来る途中、古着を扱う露店で買ったんだが……」
女はじろりとガルーを睨《にら》みつけた。
「着れりゃいいってもんじゃないよ。寸法も合ってないみたいだし、色も柄《がら》もひどいね。だいいち、下着はどうしたのさ」
「下着だと! そんなもん、男の俺が買えるわけないだろ」
女は疲れたようにため息を吐《つ》いた。
「いいわよ。あたしがなんとかするから……」
「そうはいかないぜ。見ず知らずの人に、そこまでしてもらうわけには――」
「好きでするんだ。礼を寄越せとはいわないよ。それに、あんたのためじゃない。この子のためにやるんだ。そこんところを間違えないでおくれよ」
ガルーは、なぜこの女に逆らえないものを感じたか、その理由に気づいた。
この水商売風の女は、どこかアイラに雰囲気が似ていたのだ。
女の名前はルーザという。やはり、最初の印象通り、近くの酒場で女給をしていた。仕事時間は夕方から深夜にかけて。起き抜けという点も当たっていた。
それをいうとルーザは、
「――あんたたちが部屋で暴れるから、いつもより早く目が醒《さ》めちまったんだよ。とんでもない奴《やつ》が入ってきた、と呆《あき》れたさ」
ガルーは頭を下げるしかなかった。
「いいんだよ。こうやってお客になってくれたんだ。今晩はどうにかお茶を挽《ひ》かずに済むよ」
ルーザは媚《こ》びを含んだ笑みを浮かべ、ガルーの肩にしなだれかかった。
ガルーはティアを宿に残して、ルーザが勤める酒場に来ていた。
そこは酒と女を楽しむ店で、三、四人が囲める卓ひとつに最低ひとりは女給がつく。唇をべっとり赤く塗り、胸元を大きく開けた衣裳《いしょう》をまとう女たちが、下卑《げび》た男たちの首に腕をからませ、しきりに嬌声《きょうせい》を上げていた。
ガルーは別に金を払って、ルーザを指名した。世話をかけた礼の意味もあったが、自分も酒の力を借りて、嫌なことを忘れたかったというのが本当のところだ。
だが問題は、いくら飲んでも、まったく酔いが回ってこないことだ。
「あんた、酒が強いんだね……」
「そうか?」
ガルーはケロリとして答え、手に持った盃《さかずき》を一口で飲み干した。
三杯飲んだら目を回してひっくり返るといわれる〈火酒《サラマンドラ》〉を、すでにもう一瓶空けていた。ルーザが目を剥《む》くのも無理はなかった。
実をいえば、ガルーが酒を口にするのは、これで二回目だ。五年ほど前になるが、初めて酒――それも度の弱い葡萄酒《ぶどうしゅ》――を飲み、たった一杯で、ひどい二日酔いにかかり、それ以来、匂《にお》いを嗅《か》ぐのも嫌になっていた。
ヨシュアの血のお陰で、逞《たくま》しい肉体を手に入れたが、酒に酔えないという欠点が生じるとは、本人も予想しなかった。
ガルーは、自分を見つめるルーザの目が、次第に潤んできていることに気づいていた。どこまで商売なのか、女遊びなどしたことがないガルーにはわからないが、悪い気はしない。相手がアイラに似ていることが、むしろ自虐的な気分をそそるようだ。
ルーザの紅《べに》を引いた唇が近づいてきた。
一瞬、咎《とが》める意識が湧《わ》いたが、すぐにどうでもいいや、という気に変わった。
――もしかしたら、酔いが回っているのかな。
そんなことを考えながら、ガルーは瞼《まぶた》を閉じて、ルーザの唇を待ち受けた。
だが、いつまでたっても、唇になんの感触もなかった。
不審に思い、瞼を開けると、目の前にルーザの化粧の濃い顔があった。
すぐに様子がおかしいことに気づく。相手はガルーの口づけを待っているわけでもない。ピクリともしないのだ。
「おい、どうしたんだ」
声をかけても答えない。眠っているかのようだ。
そして、遅ればせながら気づく。酒場特有の耳が痛くなるような喧噪《けんそう》が途絶えて、静まり返っているではないか。
ガルーは慌ててあたりを見回す。
客はいた。ただし、みなぴくりとも動かない。隣の卓の客などは、盃を口に運んだまま動きを凍りつかしている。
「……こりゃいったい、なにが起きたんだ」
ガルーは呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》いた。
近くで急にゴトッと椅子《いす》を引く音がした。
心臓が止まりそうな驚きを覚え、ガルーは身を翻すように振り返った。
黒い頭巾《ずきん》を目深《まぶか》に被った男が席を立ってこちらを見ていた。
いつから、そんな風体の人物が店にいたのか、ガルーはまったく気づかなかった。
「クククク……また逢《あ》ったね。ガルー・シャンよ」
男の口元から不気味な声が流れ出た。
聞き覚えのある声だ。いや、忘れようとしても、そう簡単には忘れられない声である。
「――おまえは! デル・イグナチウス!」
男は低い笑い声を上げながら、頭巾をずちし、その素顔を曝《さら》け出した。
鷹《たか》のように鋭い双眸《そうぼう》、そして整った顎髭《あごひげ》――街道に突如現われた、謎《なぞ》の錬金道士デルだった。
――なぜ、奴がここに!
ガルーは反射的に腰の短銃に手をかけようとした。ところが、指先が痺《しび》れて、銃が床に落ちてしまった。
「う……」
立ったままの姿勢で、体が固まっていく感じだ。どれほど渾身《こんしん》の力を振り絞ろうと、首から下は指一本動かすことができない。
デルがにやりと笑う。
「申し訳ないが、酒に一服盛らして貰《もら》ったよ。なに、毒ではない。時間が経てば、元に戻るはずだ。飲み過ぎた後のように少々頭痛が残るがね。少しの間、きみと穏やかに話をしたくてね。こういった処置を取らさせて貰ったのだ」
「今更、なにを話すことがある」
「説得にきたのだ。〈使徒〉が主《あるじ》から離れてはいかん……とね」
「使徒? 主? なるほど――そういえば、おまえはヨシュアに肩入れするとかぬかしていたな。俺があいつを見捨てると、守る者が減って困るというわけだ」
「まあ……そういったところだ。どうだね、戻ってはくれないか」
「お断りだ。俺は好きなように生きるつもりだ。あんなガキの犠牲になってたまるか」
ガルーは吐き捨てるようにいった。
デルが笑った。
「なにがおかしい。いっておくが、脅迫しても無駄だぞ。殺されたところで、おまえのいうことなどきくもんか」
「物騒なことだね。わしは根本的には平和主義者だ。必要がなければ暴力を行使したりはせんよ……それにどのみち、わしの話を聞けば、きみは戻らざるを得なくなる。なにほんの一言だ。『〈使徒〉は主から離れて生きることはできない』――よく憶《おぼ》えておくことだね」
「どういう意味だ」
「きみはパイジャに腹を裂かれ、暴徒の銃撃を足に浴び、ずいぶんと血を流した。どうかね、そろそろ影響が出始めているはずだが……」
ガルーの心臓が高鳴った。
「おや、図星だったようだね」
デルが陰険な笑いを洩《も》らす。
「よいかね――きみがその肉体に変貌《へんぼう》したのは、ひとえにヨシュアの血が持つ奇跡の力によるものだ。したがって、血が体外に流出すれば、あるいは血に潜む〈力〉を使い尽くせば、新たに血を補給せねばならない。単純な理屈だろう。
頑固なきみのことだ。それでも戻らないといい張るかもしれない。だから、もうひとつ教えてやろう。奇跡の血の効力が失われれば、きみの体は元の痩《や》せっぽちに戻る。いや、そればかりではない。〈力〉を多用した影響で、老化が急速に進む。つまり、老いさらばえて死ぬのさ」
ガルーは声も出なかった。「嘘《うそ》だ」と大声で否定したかったが、錬金道士の声には、そうさせない魔力が込められていた。
「あとはきみの気持ち次第だ。信じなければそれも結構。時が経てば、体にはっきりした兆候が現われる。それからでも、急げばヨシュアの元に駆けつけられぬことはない。命を失う危険を冒すことになるだろうが――」
ガルーは、デルの言葉を最後まで聞くことができなかった。
「くっ……くそっ」
盛られた薬のせいだろう、不意に視界が暗くなり、同時に意識も暗黒の底に飲み込まれていった。
「……ガルー……ガルー」
遠くから響いてくる女の声が、ガルーの意識を目覚めさせていく。
「ん……なんだ……アイラか……」
ガルーは寝惚《ねぼ》け声を上げた。
「誰よ……アイラって」
突然頭から冷たい水がかけられた。
がばっとガルーは起き上がった。
周囲をきょろきょろ見回す。
紫煙と喧噪《けんそう》が渦巻く酒場の中だ。
隣に目を移すと、ルーザがツンと鼻を尖《とが》らせてそっぽを向いている。女の名を口から滑らせたことが、面白くないのだろう。
「……俺は……夢を見ていたのか」
ぼんやりとガルーは呟《つぶや》いた。
「さぞや、楽しい夢だったんでしょうよ。隣にこんないい女がいるっていうのに、あんたときたら、卓に突っ伏して寝てるなんて。酒に強いが聞いて呆《あき》れるよ。夢の中で、昔の女でも抱いていたんだろ。もう商売はやめだよ。こうなったら飲んでやる。もちろん払いはあんただからね――」
と、勝手にまくしたて、ルーザは赤い葡萄酒《ぶどうしゅ》がなみなみと入った盃《さかずき》を一気に飲み干した。
ガルーは女をなだめる気が起きなかった。頭の芯《しん》がズキズキと痛む。
はっと気になって、腰に手を回す。あるべき場所に銃がなかった。
卓の下を覗《のぞ》いてみると、短銃が床に転がっていた。
あの出来事は、やはり夢ではなかった。
「……気分でも悪いのかい。顔が青いよ」
ルーザが心配そうにガルーの顔を覗き込む。
ふと、男の手元に目を落とす。
透明な火酒《サラマンドラ》が、卓にこぼれて黒い染みを作っていた。
ガルーの盃を持つ手が、小刻みに震えていたのだ。
ガルーは雨音に目を覚ました。
早く起きなきゃ――と思った途端、ここが街道ではなく、ペルーテの宿屋だということに気づいた。
激しく屋根に降りつける雨音。そして、壊れた雨どいが、外で騒々しく軋《きし》んでいるが、閉め切った部屋の中では、かえって気分を穏やかにしてくれる心地よい音色に聞こえる。
蒲団《ふとん》は柔らかく、体を覆う毛布は暖かかった。そして、この鼻腔《びくう》をくすぐるような香水の匂《にお》いも……。
「――――!」
突然、寝返りを打つように、ガルーは寝台の中で体の向きを変えた。
手になにか柔らかいものが当たった。
「……ど……どうしたの……もう……起きたのかい……」
寝惚《ねぼ》けた女の声が上がる。
目に一糸まとわぬ女の艶《なま》めかしい白い背中が飛び込んでくる。
ガルーの心臓は早鐘のように鳴り響いた。
「――あ、ああ」
驚愕《きょうがく》を抑えて、ガルーは返事をした。
「早いお目覚めだね……あたしゃ、まだ酒が残ってるよ……もう少し寝かせておくれな……」
ルーザは背を向けたままだ。
もしかしたら、寝起きの顔を見られるのが嫌なのかも、とガルーは思った。
「起こしちまって悪かったな……俺、部屋に戻るよ」
ガルーはそっと寝台を降りた。すると、ルーザは体に巻きつけるように毛布を引き寄せた。
床に散らばった衣服を集め、全裸の体にまとっていく。革の長靴を手に持ったまま、足音を立てぬよう気を遣って、そっと薄暗い部屋を抜け出していった。
後ろ手に扉を閉めると、そのまま背をもたれさせ、大きく息を吐いた。
――やはり酒が回っていたか。
記憶が混沌《こんとん》として、どこからが夢で、どこまでが現実《うつつ》か判然としなかった。だが、これだけははっきりしている。
昨夜、自分は子どものように闇《やみ》に怯え、震えながら女の胸に、暖かな柔肌にしがみついた。そしてルーザは、ひたすら優しくすべてを受け止めてくれたのだ。
――ルーザがいてくれなかったら、頭が変になっていたかも知れないな。
ガルーは、言葉ではいい表わせない恩をルーザから受けたと感じた。
後ろめたい気分を抱いて、ガルーは自分の部屋の鍵《かぎ》を開けた。朝帰りをした亭主の気持ちとはこんなものかも、などと下らないことを考えつく。
扉に隙間《すきま》を作って中の様子を窺《うかが》う。
部屋はしんと静まり返っていた。ひとつしかない寝台の上には、毛布がくしゃくしゃのまま投げ出されてあり、ティアの姿はどこにも見当たらない。備え付けの丸卓や椅子も床に倒れたまま放ったらかしだ。
――あれ、あいつめ、どこ行ったんだ。
扉を開けて、部屋に入った。
すると、寝台からゴンと物音が上がり、小さな悲鳴が聞こえた。
寝台に駆け寄り、その下を覗《のぞ》き込んだ。
真っ暗な闇の中に、金色のふたつの瞳《ひとみ》が光っていた。
「なんだ。そんなところに隠れていたのか。どうして上で休まなかったんだ。床《ゆか》なんかよりよっぽどいいぞ。今、頭ぶつけなかったか。寝惚《ねぼ》けるんじゃないぞ。おや、どうした? さっさと出てこいよ――」
瞳に向かって腕を伸ばした途端、いきなり爪《つめ》に引っ掻《か》かれる。
昨日《きのう》つけられた顔の爪痕《つめあと》も癒《い》え切っていないというのに、さらに手の甲に傷を加えられたわけだ。
「こいつ、なにする!」
ガルーは怒鳴った。だが、怒りはすぐに戸惑いに変わる。
寝台の下から、少女の啜《すす》り泣きが聞こえてきたからだ。
どっと後悔の念が湧《わ》き上がってくる。少女は一晩放ったらかしにされたことを、涙ながらに責めているのだ。
――泣く子と女には勝てないって世間じゃいうが、こいつはその両方だもんな。
腹の底からしみじみと息を吐き、再び寝台の下に籠《こも》るティアに話しかけた。
「俺が悪かったよ。これこの通りだ。謝るから、機嫌を直してくれ。そうだ。飯を食いに行こうぜ。なんでも好きなもの食わしてやるからさ」
懸命に呼びかけを続けるが、少女は出てくる気配すら見せなかった。
業を煮やしたガルーは一計を案じる。
「――じゃあ、勝手にするんだな。いつまでも、そこにいればいいさ」
怒った素振りで、寝台に背を向け、ゆっくりと戸口に歩いていく。
背後から少女が慌てて這《は》い出してくる気配がするが、もちろん無視を決め込む。
「イ・イッチャ・ヤダ……」
ティアの言葉に、思わずガルーは振り返り、次いで目を見張った。
見慣れた狼少女の姿はなく、赤い髪をきれいに結い上げた、つぶらな瞳《ひとみ》の少女が立っていた。身にまとった服も、多少の着崩れがあるものの、体形に合った可愛らしいものだ。
ガルーは、苦心|惨憺《さんたん》してルーザが磨いた作品を拝む前に、酒場に出かけてしまったのだ。
「へえ……馬子《まご》にも衣裳《いしょう》とかいうが、よく化けたもんだ。ちゃんと人間の女の子に見えるぜ。うん、似合っているぜ」
涙を浮かべ立ち竦《すく》む少女の姿を、ガルーは穴が開くような目で、頭のてっぺんからつま先まで見つめた。
そして、ハタと気づいた。
「おい……もしかして。その姿を見せるために、一晩中、俺の帰りを待っていたんじゃないだろうな……」
その途端、ティアはわっと火がついたように泣き出し、ガルーの胸に飛び込んだ。
ガルーは自責の念で身を焼かれるような思いがした。
街道でアイラの仕打ちを責めたが、自分もこの少女を、傷つきやすい心を持った人間と認めていなかったのでは――
かける言葉が見つからず、少女の頭を優しく撫《な》でてやった。それしか、慰める方法を知らなかったのだ。
ティアの泣き声がだんだんと小さくなり、ほっと胸を撫で降ろす。だが、泣き止んだティアが、胸に顔を埋《うず》めたまま、クンクンと鼻を鳴らした。どうやら、体に染みついたルーザの匂《にお》いを嗅《か》ぎ取ったようだ。
狼の唸《うな》りが上がる。
「――い、いや、違うんだ。誤解だ。別にあいつとは。こら、爪《つめ》を剥《む》くんじゃない。可愛い顔が台無しだぞ。あ、謝る。謝るから。よ、よせよ。やめてくれ――」
狼狽《ろうばい》し切ったガルーは、もはや自分がなにを口走っているのかもわかっていなかった。
「――もう、これくらいにしといたら」
ルーザが〈火酒《サラマンドラ》〉の瓶を、ガルーの手元から遠ざけた。
「な、なに馬鹿なこといってる。まだ宵の口じゃないか。これから腰を落ち着けて飲むんだよ」
ろれつの回らなくなった口で、ガルーはいい張った。
ルーザは眉《まゆ》をひそめ、
「かれこれ、三日連続じゃないか。こう毎晩じゃ体だって保《も》たないだろ。せめて〈火酒《サラマンドラ》〉はやめて普通のにおしよ」
「うるさいな。ここは酒を売る店だろ。客の心配なんかしないで、好きなだけ飲ませろって。ああ、懐の心配はしなくていいぞ。まだまだ金はあるんだ」
「客と思ってないからいってんのさ」
と、ルーザが小声で呟く。
「えっ――なんかいったか」
「聞こえなきゃいいよ。この酔っ払い」
「まったく、口やかましい女だ。まるでどっかの誰かさんみたいだぜ」
「はいはい、昔の女の話は聞き飽きたわよ」
「あんな奴、俺の女であるもんか。可愛げがなくて、手が早くて、浮気症で――二度と顔も見たくないね」
ガルーはずるずると卓に突っ伏して、管《くだ》を巻き始めた。
ルーザは呆《あき》れたようにため息を吐《つ》いた。
「そろそろ部屋に帰っておやりよ。可愛い子を残してきているじゃないの。あの子、あんたが戻るまで、一睡もせずに待っているんでしょ。昨日《きのう》なんか、わざわざ迎えにきてくれたじゃない。あんまり心配かけちゃ駄目だよ」
だが、ガルーは煩《わずら》わしげに顔を背け、
「いいんだ。俺のことは放っておいてくれよ」
と、叫んだ。
ルーザは呆れ果て、赤い液体が入った盃をグイと干した。
ガルーの夜遊びは連夜に及んだ。
朝のうちは、今日こそ酒は飲まないと心に誓っても、夕闇《ゆうやみ》が迫る黄昏時《たそがれどき》になると、素面《しらふ》ではとてもいられなくなり、自然と足が酒場に向いている。
その胸の裡《うち》には、自分でも消化しきれない、さまざまな思いが渦を巻いていた。
――アイラのこと?
当然、比重を占める大きな悩みだ。あの踊り娘《こ》のことを思い出すたびに、ガルーは息苦しさとともに、やるせなく切ない思いに駆られる。
剣を振るって戦う雄々しき姿、ヨシュアを見つめる愛情に満ちた眼差《まなざ》し、悲しみに涙する姿――彼女が見せた一挙一動が、鮮烈に心に焼きついている。いや、たぶんアイラが血を飲んで若返る以前、病にやつれていた頃から、虜《とりこ》になっていたに違いない。
しかし、踊り娘に寄せる愛情が、強ければ強いほど、逆にガルーの胸は締めつけられる。どれほど尽くそうが、彼女の目が自分に向けられることはない、と思い知るためだ。
ガルーがアイラのもとから去ったのも、それが最も大きな理由だ。認めたくはないが、その苦しみから逃げ出したのだ。
だが、離れれば楽になる、苦しみから解き放たれる、と考えたのは明らかな間違いだった。反対にアイラの存在は、ガルーの中で日増しに大きくなり、胸の空虚さも広がっていった。
――デルの不気味な予言?
それもある。ガルーが恐れているのは、元の自分に戻ってしまうことだ。しかし、表面的な肉体のことばかりではなかった。
人も羨《うらや》む今の肉体は、腹を撃ち抜かれ、死にかけたとはいえ、所詮《しょせん》労苦を払わずに得たものだ。修練と実戦を繰り返し、肉体と精神を鍛え上げた者と違い、根本的な自信というものが伴っていない。
初めてそれを自覚したのは、豹獣人《ひょうじゅうじん》パイジャと戦った時だ。強敵を前にして、揺らぐはずがない自信が、呆気《あっけ》ないまでに音を立てて崩れてしまった。意表を衝いて撃ち放った銃弾がパイジャを退けなければ、泣き叫びながら逃げ惑っていたかもしれない。
ヨシュアの血によって、肉体と一緒に精神も獣のように強く猛々《たけだけ》しくなったと思い込んでいたが、どうやら錯覚に過ぎなかったようだ。薄っぺらな自信が剥《は》げれば、その後ろには昔と変わらぬ臆病《おくびょう》な自分がいたのだ。
もしかすれば、大型雷発銃を始めとする銃器に固執するのも、折れた心の牙を物で補おうとしているのかも。そう考えると、情けなくなって涙が出てくる。
代償を払わずに得たものは、容易《たやす》く手から去っていってしまう。
ガルーは目に見えぬ恐怖に怯《おび》えていたのだ。
「……情けないぜ。なにもかも……」
ガルーがむくりと顔を起こした。
「どうしたの? 寝てたと思ったのに」
ルーザが心配そうに顔を窺《うかが》う。
「……なに、寝ながら考え事をしてたんだ」
そういって、ガルーは席から腰を上げた。
「おや、帰るのかい。そうだね。そのほうがいいよ」
「いや……」
ガルーは懐から金袋を出し、それをルーザに渡した。
「ちょっと、外の風を浴びてくる。このまま戻らなかったら、勘定を払っておいてくれ」
「そんなに酔ってたんじゃ危ないよ。あたしもついていくから、ちょっとお待ちな」
「いいんだ……ひとりで歩きながら考えたいことがあるんだ」
ガルーは振り払うように女を置いて、酒場を出ていった。
「『酒じゃ寂しさは埋められない』――か。昔の連中はうまいこというぜ」
ガルーはふらふらと夜の路地を歩き回った。不夜城の飲み屋街を抜けると、町は眠りについたように静まり返っている。むろん、窓辺から洩《も》れる明かりもない。
幸い今宵は夜空を覆う雲が薄く、弱々しいながらも月の光が地上を照している。そのお陰で、夜目が効かなくなったガルーでも、どうにかぬかるみに足を取られることなく、夜の散歩と洒落《しゃれ》込めるのだ。
「いつまでも、酒と女に溺《おぼ》れちゃいられないぜ。そろそろ、ビシッと決めなきゃな――」
ガルーは、うっすらと輝く月を見上げ、己にいい聞かすように呟《つぶや》いた。
ビチャ――
背後で足音がした。
ゆっくりとガルーは振り返った。
三人のならず者風の男が立っていた。
「どこかで見た顔だな……」
三日前、市場でこてんぱんに叩《たた》きのめした地回りの男たちだった。
「あん時は世話になったな、兄さんよ」
兄貴格の男が薄笑いを浮かべた。
「なんだ、お礼参りか。よくもまあ、性懲りもなく現われたもんだな。また、地べたに這《は》わせてもらいたいのか」
と、ガルーは余裕を見せた。
だが、男たちは不思議な自信を体から滲《にじ》ませていた。
「――やっちまえ!」
かけ声とともに男たちが向かってきた。
真っ先に兄貴格の男の拳《こぶし》が飛んでくる。ガルーの目には、きっちりと拳の動きが見えていた。首を横に傾げて、拳をかわし、相手のがら空きの腹に軽く膝蹴《ひざげ》りを入れよう――と考えていた。
しかし――
頭の回転に、なぜか体がついていかない。よけられるはずの拳が、まともに頬《ほお》と顎《あご》の中間あたりに命中した。
目の前に火花が散った。
ぐらりと体が傾き、ぬかるんだ地面に倒れる。
――なぜだ! あんな拳で、どうして俺が倒れるんだ。
ガルーは信じられぬ思いがした。
悠長に戸惑っている暇はない。別の男が倒れたガルーの胸めがけて、足を踏み降ろしてくる。
咄嗟《とっさ》にガルーは、両手で受け止めた。そのまま力で押し戻し、相手をひっくり返してやるつもりだった。だが、思ったように力が出ない。逆にじりじりと押されていく。
そこに別の足が飛んできて、ガルーの脇腹《わきばら》につま先を叩き込む。
呻きが洩れ、一瞬呼吸ができなくなる。
受け止めていた足が外れ、胸の上に踵《かかと》が落ちる。
後は、ほぼ無抵抗の状態で、殴る蹴《け》るの暴行が加わった。
ガルーは途中から痛みをまるで感じなくなった。まるで魂が肉体から離れたように感じるが、死んだわけでもないようだ。
目は見えないが、耳は使える。もっとも殴られ過ぎて耳鳴りがひどいが――。
ようやく男たちの攻撃が止まり、頭の上から男たちの声が、切れ切れに聞こえてきた。
「――兄貴、こんなもんでいいでしょう。やり過ぎると、死んじまいますぜ」
「――そうですよ。殺さないように痛めつけるのが条件ですぜ。残りの金が貰《もら》えなくなりますよ」
「――うるせえ。俺たちゃ、この野郎にこっぴどく恥を掻《か》かされたんだ。生かしちゃおけねえ」
銃の撃鉄が起こされる音がした。
不思議と恐怖はなかった。情けない死に様と思わぬでもないが、死に高潔も下劣もあるものか、と意識の一部が囁《ささや》く。むろん悔いが残らぬでもない。それは、ティアをたったひとり残していくことだった。
こめかみに冷たい銃口が押しつけられた。
ガルーは覚悟を決めた。
「――なんだ。こいつは!」
男たちが狼狽《ろうばい》する気配が感じられた。
耳鳴りの中に、獣の唸《うな》りのようなものが混じっている。
ガルーは体が凍りつくような寒気を覚えた。
――まさか、ティアが!
その途端、遊離しかかっていたガルーの魂が肉体に戻った。だがそれは切り離されていた全身の痛みが、一斉に襲いかかってくることを意味する。
想像を絶する苦痛だった。息ひとつ吐くのも多大な労力を要した。パイジャに腹を裂かれた時も、暴徒の銃弾を足に浴びた時も、これほどではなかったと思える。どうやら、苦痛に対する耐性が薄らいでいるようだ。
無理矢理、瞼《まぶた》をこじ開ける。
霞《かす》む視界に少女の姿が映った。間違いなくティアだ。まだ獣化に至っていないが、その瞳《ひとみ》は狂暴な光を帯びていた。
――いかん!
ガルーは意志の力で激痛を抑え込み、立ち上がろうとした。なんとしても、ティアの正体を隠さねば――その一心だった。
「――こ、こいつ起きようとしてるぜ」
「――ふん、おとなしく寝てりゃ、楽に死ねたものを」
兄貴格の男が、再び銃口をガルーの顔面に突きつけた。
それを見たティアは、咄嗟《とっさ》に飛びかかろうと身をかがめる。だが、あろうことか、足が地面に釘《くぎ》で打ち付けられたように離れない。
男は引き金を絞った。
撃鉄が落ちる瞬間、男は喜悦の笑みを浮かべた。
夜の町に銃声が鳴り響いた。
しかし、地に倒れたのは、ガルーではなく、ならず者のほうだった。
暴発である。短銃は銃身と回転弾倉が裂け、飛び散った破片が、すべて撃った男の顔や上半身に食い込んでいた。ほぼ即死の状態だった。
「てめえ――!」
残ったふたりが血相を変え、兄貴の敵《かたき》とばかりに、ガルーめがけて銃を撃つ。
続けざまに二発の銃声が轟《とどろ》く。
そして、やはり二丁とも暴発を起こし、ふたりとも声もなく絶命した。
がっくりとガルーの顔がぬかるみに落ちた。すると、ティアの足を繋《つな》ぎ止めていた力が失せる。
少女はガルーの元に駆け寄った。
抱え上げられたガルーは、泥にまみれ半ば形が変わった顔で、
「こ、こら……どうして部屋を出てきたんだ……待っていろって、いったはずだぞ……」
と、声に力なく叱《しか》った。
ティアの瞳から涙が溢《あふ》れる。そして、ガルーの首に体ごとしがみつき、嗚咽《おえつ》を上げた。
それ以上、ガルーはなにもいわない。ただ、少女の小さな背を軽く叩《たた》くだけだった。
「――よしよし」
ふたりがいる路地から、遠く離れた屋根の上で、黒い長衣をまとった男がほくそ笑んでいた。錬金道士のデルだ。
ならず者をけしかけたのは、この男に他ならない。ガルーに肉体の衰えをわからせるためであったが、予想外の成果を得たようだ。
「ガルーめは、独力で新たな〈使徒〉の力を引き出した。これでヨシュアと合流すれば、さらにもう一段階昇りつめるだろう。さすれば――」
デルの言葉が不意に跡切れた。
その顔は驚愕《きょうがく》に凍りついている。
「――『さすれば』どうなるのでしょう? その続きを、是非伺いたいものですな」
いつの間にか、デルの背後に似たような黒衣をまとった男が、影法師のように佇《たたず》んでいた。
さらにもうひとり――空中より鳥の羽ばたきを上げて、長身の女が屋根の上に降り立つ。
デルは呻《うめ》きを上げてふたりから後ずさった。
「まさか、おまえが逢《あ》いにくるとは思わなんだぞ。いつここに――」
すると黒衣の男が口元に微笑《ほほえ》みを浮かべる。
「おや、お気づきになりませんでしたか。ティファレイとわたしは、四日も前にこの町に来ていたのですよ。そして、ずっとあなたの監視を続けてきた。やはりお年を召されたようですね――父上」
グラシアの側近、ヘルマー・アフラサクスは、一年振りに実の父親と再会を果たした。
けれど、それは互いに喜びをもたらす出会いではなかった。
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【第四章 対決】
ヒュルルルル――
樹海から冷たい風が渡ってきた。
風はペルーテの上空に立ち込める雲をも動かし、それに応じて地表に投げかけられる月光にも明るさにむらが出る。
時刻は真夜中である。ペルーテの家並みは、すっかり寝静まっている。
石畳の通りにヒタヒタと足音が響く。
「――ちくしょうめ。オケラは相手もできねえってか」
小さなカンテラをぶら下げて、ひとりの男が家路を急いでいた。男は今まで一杯の酒で酒場に居座っていたが、とうとう店の用心棒に腕ずくで叩《たた》き出されてしまった。あと一歩のところで、狙《ねら》っていた女給を口説《くど》き落とせるところだった――と本人は信じている――だけに憤りは激しい。もっとも、腕っぷしに自信がなかったので、すごすごと退散してきたわけだが……。
「やけに底冷えがするぜ……」
男の息は白い。
時間を引き延ばそうと、一杯の安酒をチビリチビリ飲《や》っていたため、ほとんど酔ってはいない。わずかな酒気も、表の冷気に触れた途端、あっという間に消えてしまった。
また、背筋を這《は》い上ってくる悪寒《おかん》は、寒さのせいばかりでもないようだ。
人気《ひとけ》が絶えた町並みは、ただでさえ恐怖心を誘う、独特の不気味さに包まれている。そこかしこにある暗がりから、じっとなに者かに、見つめられているような気がしてならないものだ。ことに今宵は、月の光が生み出す影が、雲の流れに合わせて蠢《うごめ》くように揺れ動いている。それはあたかも、影の中に魔物が息を潜めているようだ。
「ちっ、素面《しらふ》で夜の町をうろつくもんじゃねえな」
男は小走りになって、帰宅を急いだ。
「…………!」
その時、どこからか人の声が聞こえてきた。
ぎょっとして男は立ち止まる。自分に向かって呼びかけられたように思ったからだ。
男はあたりを見渡す。けれど、通りに面した家の戸や窓は固く閉ざされ、路地や暗がりなど、どこにも人影はない。
動くものといえば、風に揺られて、玄関の上に飾られた魔除けの車輪が、キィキィと音を立てているだけだ。
「気のせいかよ……」
男は安堵《あんど》の息を吐いた。
ほっとしたのも束《つか》の間、また声が聞こえ、男は空に顔を向けた。
「――――!」
とある家の屋根の上に、月光を浴びて三つの人影が浮かび上がっていた。
そのうちのひとりが路上の男に気づき、無髪の頭を巡らした。
ぎらりと光る眼光が、男の体を石に変える。
恐怖のあまり、声も出ず、身動きひとつできないまま男は立ち竦《すく》んだ。
ヒュン!
風を裂いて、なにかが飛んだ。
次の瞬間、男の額に白い羽が突き立つ。
男は目を見開いたまま、ゆっくりと体を傾ける。すでにその目から光は失せていた。
ガシャン!
石畳に倒れた男の体が、まるで陶器のように砕け散った。
「……すぐ立ち去れば、見逃してあげたというのに」
無髪の女――〈鷲《わし》〉のティファレイは、路上に散らばった破片を一瞥《いちべつ》すると、すぐに興味を失い、屋根に立つ初老の男に視線を戻した。
「人体石化薬《クロティール》を羽に仕込んでいるのか……」
ふたつ目の影、デル・イグナチウスは、呻《うめ》くようにいった。
ティファレイの薄い唇が、左右に吊《つ》り上がり笑みの形をなす。
「仰《おっしゃ》る通りですわ。そういえば、クロティールは、あなたさまが初めて調合に成功させた秘薬《アルカナ》でしたわね。でも、お断りしておきますが、薬を後から加えたわけではありません。これはわたくしの体内で生み出したものです」
デルはまじまじと女使徒を見つめた。
すると、笑い声が傍らから上がる。
みっつ目の影、ヘルマー・アフラサクスの口から洩《も》れたものだ。
「……父上の知識はもはや過去のもの。〈一二使徒〉とて、一年前からは想像もできない成長と変貌《へんぼう》を遂げております。ティファレイの体は、いわば錬金炉《アタノール》――材料を与え、調合法を教えれば、いかなる薬物とて体内で合成できます。瀕死の病人をたちどころに治す薬から、一〇〇〇人を数秒で死に至らしめる毒まで、我が組織が有するあらゆる秘薬が、この者の体内に貯蔵されているとお考えください」
「なんと……」
デルは目を見張った。
「バルドとパイジャの体を調べて、安堵《あんど》していたのでしょうが……あの者らは〈一二使徒〉でも末席に位した者。〈獣士〉に毛の生えた程度の力しか持ち合わせておりません。まあ……わたくしが〈処理〉を施せば、少しは使えるようになったのですが……これも父上のせいですぞ」
ヘルマーの目がすっと細まり、怜悧《れいり》な光が宿る。
「ぐ……」
デルは殺気を覚えたように、じりっと後ずさった。だが、足場とする屋根はそこで跡切れている。
「念のために申し上げれば……父上の装備は役に立ちませんよ。お疑いでしたら、そこから飛び降りてごらんなさい。そのまま、地面に叩《たた》きつけられますよ」
「結界を張ったと申すか……」
デルは苦渋に顔を歪《ゆが》める。
「父上の恐ろしさは、骨身に染みております。その長衣の下には、さぞや物騒な代物《しろもの》をいろいろ隠し持っておられるのでしょう。その前に姿を現わすとなれば、こちらもそれなりの支度を整えませんと……ああ、お足元に気をつけて、落ちますよ」
いきなり平衡感覚が失せたように、デルが屋根の端で体をよろけさせ、その場にしゃがみ込んでしまった。たかが二階家とはいえ、普通[#「普通」に傍点]の人間ならば、落ちればただではすまない高さだ。
ヘルマーは酷薄な笑みを浮かべて、父親の無様《ぶざま》な姿を見つめた。
「お気をつけてください。ろくに話もせずに、死なれては困ります」
デルは唇を噛《か》み締め、実の息子を睨《にら》みつける。
「今更、なにを話せというのだ。おまえとは、さんざん語りおうたはずだ。わしが側近の座を追われる前にな」
「父上のお考えは、よく存じております」
ヘルマーはあっさりといった。
「ならば、わしが決してグラシアさまに背いているのではない、とわかるはずだ。むしろ、あのかたのおんために働いていると――」
「父上のお考えではそうでしょう。されど、ご存知の通り、わたくしの考えと反します。端的に申し上げますと、目障りな存在なのですよ。あなたが唱える〈伝承《カバラ》〉の成就《じょうじゅ》など、わたくしにはまったく意義を見出せません。もし預言通り〈白子〉が魔王となる定めとするなら、それ以前に始末すればよいこと。わざわざ〈白子〉に力を持たせ、互いを戦わせようなど、愚の骨頂と申し上げる他ございませんな」
「違う!――おまえは〈伝承〉に隠された秘密を、〈|大いなる秘法《アルス・マグナ》〉のなんたるかを、まるで理解しておらん!」
デルは激したように叫んだ。
ところが、ヘルマーは氷のように冷めた目で、
「よしましょう、父上。議論はし尽くしたでしょう。そして、決して相入れぬと互いに結論したはず」
「そうともよ――ならば、なぜ、すぐさまわしを始末せぬ。なぜ、四日も監視など続けていた。短気なおまえらしくもないではないか」
「決断が早い、といって貰《もら》いたいものですな――父上」
「もう、その呼びかたはよせ。おまえとて、わしを父などとは思うていまい」
ヘルマーは含み笑いを洩《も》らす。
「ならば『前[#「前」に傍点]側近殿』――お尋ねの件に答えましょう。わたくしは、あなたに不審なものを感じるのです。それをつきとめるために、あなたを泳がせておいた」
「不審? なにが怪しいというのだ。わしの行動は首尾一貫しておるはずだ」
「いえいえ、行動というより、背景と申し上げるべきですかな」
「どういうことだ?」
「一年前、あなたは側近の座を失うと同時に、事実上組織からも放逐された。すなわち、一切の力を失ったに等しいということ。むろん、老いた頭脳に蓄えられた知識と経験は別ですが……」
「…………」
デルは急に押し黙った。
「わたくしは、あなたの血を継ぐ者なのですよ。たとえ肉親の縁を切り、互いに憎しみ合うようになっても、性格は誰よりも把握している。そして、わたくしが知るあなたは――」
ヘルマーはわざと言葉を切った。相手を嬲《なぶ》るためであることはいうまでもない。
「――臆病者《おくびょうもの》だ。それも根っからのね。あなたは理想に殉じる人ではない。もし行動を起こすとすれば、必ず勝算があり、しかも我が身に危険が及ばぬと確信した時だけに限ります。
もうひとつは、自らの手を汚さぬこと。ダスターニャでは住民を陰から扇動し、パイジャをそそのかして戦わせた。実にらしいやり口ですよ。しかし、それも裏を返せば、人の力を借りなければ、あなたご自身だけではなにもできないということです。
ご友人であったアダモ・イリアステル殿とは、まったく性格を異とすると申し上げる他はありませんな」
デルの眉《まゆ》が神経質にひくついた。アダモと比較されたことが、彼の誇りを傷つけたようだ。むろん、ヘルマーにとり、それも計算に含まれている。
「背景と申し上げた意味が、おわかりいただけましたでしょうか。あなたの後ろには誰がいるのです? いえ、企てそのものは、あなたの頭脳から発したことだとしても、必ず後ろ盾があるはず。わたくしはそれを知りたいのです」
「知っていかがする。そのようなものがあったらの話だが……」
ヘルマーの口元に自信に満ちた笑みが上る。
「むろん……潰《つぶ》しますよ。我ら〈混沌《こんとん》の庭〉に公然と楯突くものは、いかなる相手であろうと見逃すわけにはまいりません。あなたと手を結んだ愚か者は誰です? 〈鋼鉄の心臓〉? それとも〈金の三角〉ですかな」
「わざわざ名を確かめる必要もあるまい。今挙げた組織は、遠からず叩《たた》き潰す腹づもりでいるのだろう」
「ええ、我が主が〈白子〉を始末して、真の救世主となられた暁には――ですが、あなたの態度から推察するに、どうやら相手はもっと大物のようだ。そうですね」
デルは表情に出さぬよう、完全に感情を殺している。
ヘルマーはあからさまな嘲笑《ちょうしょう》を上げた。その声は驚くほど父親に似ていた。
「フフフ……父上、今更隠しても遅いですよ。わたくしにはもう目星がつきました。あとはふたつのうち、どちらかということ。では、お答えいただきましょう。〈ムウ〉か〈アトランティス〉か――さあ、どちらです!」
ヘルマーがずいと足を踏み出す。呼応するようにティファレイも前に進む。
「う……」
デルは顔色を失っていた。
「お答えいただけなければ、この者をけしかけますよ。ティファレイは、あなたが〈虎〉の。バルドの死体を弄《もてあそ》んだことで、深い憤りを抱いてます。女の恨みがどれほど恐ろしいか、その身で味わってみますか……」
デルは女に目を移す。
ティファレイの目は憎しみに燃え、デルに向かって突き出された手は、巨大な爪《つめ》を具えた鳥の爪へと変貌《へんぼう》していく。
「ま、待ってくれ!――」
へなへなとデルの腰が砕け、命乞《いのちご》いをするように手を合わせた。
ヘルマーは跪《ひざまず》く父親に侮蔑《ぶべつ》の視線を投げかけると、素速く部下を手で制止した。女使徒は不満の表情を顔に閃《ひらめ》かせるが、側近の目配せを見て、ひとまず鉾《ほこ》を収めた。その意味するものは――「喋《しゃべ》るまで待て」だ。
「では――お話ししていただきましょう。さあ、どちらです?」
デルは恐怖のあまり、満足に口が動かなくなったように、言葉にならないうわずった声を上げた。真に迫ったものであり、ヘルマーもティファレイも、それが演技とは見抜けなかった。
あたりが急に暗闇《くらやみ》に包まれた。
ちょうど天にかかる月に、流れてきた厚い雲が覆い被さったのだ。月を背後にしたヘルマーたちには予測できなかった。
その一瞬の隙《すき》をデルは待っていた。
いきなり、デルは後ろ向きに飛んだ。そこに足場はない。
ヘルマーはおのが眼《まなこ》を疑った。このあたり一帯に張った結界には、防御障壁発生装置や浮遊装置、その他の錬金術の産物を無効化する働きがある。そのことはデルとて百も承知しているはずだ。それとも、殺されることを悟り、自ら命を断とうとしたのか。
ところが――
黒衣をはためかせて真っ逆様に落下するデルが、激突間際にまるで猫のように回転して、地面に足から降り立った。見事な身のこなしだった。
そして、デルは呆然《ぼうぜん》と屋根から見降ろすヘルマーたちに向けて、にやりと口端を曲げて見せると、脱兎《だっと》のごとく駆け出した。老境に差しかかった男とは思えない脚力だった。
「な、なにをしている――追え! 絶対に逃がすでないぞ!」
ティファレイは、甲高い鳥の奇声を上げて跳躍した。
宙で黒い外套《がいとう》を脱ぎ捨てると、女使徒の体は瞬時に変化《へんげ》を終え、人頭鳥体《ハーピィ》となって夜空に羽ばたいた。
遠ざかる部下の姿を見送りながら、ヘルマーは口惜しさに端正な顔を歪《ゆが》ませていた。
空を飛ぶティファレイのほうが確実に速い。しかし、暗闇《くらやみ》では彼女の視力は著しく落ちる。デルはその弱点を知っていて、月が隠れるのを待っていたのだ。暗がり伝いに移動されては、姿を捉《とら》えることも難しい。そして、結界の効力が及ぶ範囲から脱してしまえば、あとはどこへなりと容易に逃げおおせる。
今後は、デルもいっそうの用心をするはず。そうなっては、グラシアの〈力〉を借りない限り、所在を掴《つか》むことも難しくなる。
ヘルマーは決してデルを甘く見てはいないつもりだった。父親から学んだ多くの事柄のうち、彼自身最も重んじている教えは、いかなる相手も見くびらない。相手を過小評価すれば、必ず足をすくわれるということだ。だが、縁を切った父親から、改めてそれを教えられる結果となった。
――それにしても、あの身のこなしは。
不意にヘルマーは顔を強ばらせる。
――まさか。奴め、己の肉体を……いや、そんなはずはない。奴にそのような度胸は……。
若き側近は、身を切るように冷たい風に吹かれながら、いつまでもその場に佇《たたず》んでいた。
ここで時は少し戻る。
黒馬に乗ったアイラは、ものいわぬヨシュアを懐に抱え、〈南の僻地《へきち》〉に向かって街道を進んでいた。
馬上のアイラは、目の焦点も定まらぬ様子で手綱を握っている。瞼《まぶた》は開いているが、実際は寝ているにも等しい。黒馬は背に乗せた主を気遣い、できるだけ揺れを少なくしようと、ゆっくりと歩いていた。
ガルーたちと別れて、いく日も経たぬというのに、アイラの顔には疲れの色が濃く出ていた。
ヨシュアの世話に加えて、食料の調達と保存、湧《わ》き水探し、薪拾い、天幕の設営、食事の支度と後片付け、見張りなど――どれひとつをとっても、面倒だからと省いてよいものはない。仲間ふたりの不在は、彼女が考えていたよりずっと大変であった。
いや、見方を変えれば、今までヨシュアにかまけて、いかに仕事をガルーやティアに押しつけていたか、身をもって思い知らされているわけだ。
けれど、
――冗談じゃないわよ。あたしひとりでだって、ヨシュアは守ってみせるわ。
アイラにも女の意地がある。泣き言をこぼす気はまったくなかった。
もっとも、こぼしたくとも、聞いてくれる相手がいないのだが……。
いななきが上がり、アイラは浅い眠りから呼び覚まされた。
いつの間にか、あたりは闇《やみ》が深まっていた。樹海の傘のせいで、街道では実際の陽の高さより暗くなるのが早い。
黒馬エディラは、石造りの小さなあずま屋の前で止まっていた。街道のところどころに建てられた休憩所のようなものだ。恐らく、ここで野営してはどうか、といっているのだろう。
恐いほど頭がよい馬だ。
それもそのはずで、謎《なぞ》の錬金道士デルの言によれば、元は人間だという。獅子《しし》のアダモも肯定した。
衝撃の事実であった。
けれど、アイラの黒馬に対する態度、接し方に変化はない。まるで最初からそんな話は聞かなかったかのように振るまっている。だが、両者の間に目に見えぬある種の緊張感が漂うようになったのは事実だ。
アイラはあずま屋の床に毛布を敷いて仮の寝床をつくると、ヨシュアを横たえた。
「――坊やを頼むよ」
エディラに向かっていうと、アイラは泥まみれの麻袋を持って、森の中に分け入った。
食料の調達のためだ。
彼女にしてみれば、愛《いと》し子を残していきたくはないが、さりとて、街道以上に危険が多い森の中に連れていくなど論外だ。
エディラには護衛役として信じるに足りる力がある。つい先日も、彼女の留守を狙《ねら》うように襲ってきた灰色狼を、蹄《ひづめ》で蹴《け》り殺したばかりだ。いずれにしろ、不安をすべて拭《ぬぐ》い去ることは無理だが、選択の余地は残されていない。
鬱蒼《うっそう》とした森に足を踏み込むと、いつものようにアイラの神経は研ぎ澄まされ、戦いを前にするように心臓の鼓動が早まる。森自体から敵意めいたものを感じ、体が勝手に反応してゆくのだ。
右手は常に自由にして、いつでも左腰に下げたオリハルコンの細剣を引き抜けるように身構える。
こう遮蔽物《しゃへいぶつ》が多い場所では、獲物を探すのにあまり視覚は役に立たない。むしろ、皮膚を鋭敏にして全身で感じ取ったほうがよい、と経験でわかってきた。ただし、自らに極度の緊張を強いるわけで、数分もすると神経が焼き切れそうになる。
近くのくさむらや木立の陰で息を潜める獣の気配を捉える。幸い、人間目がけて襲いかかってくるような大型の肉食獣ではない。もっと小さなネズミかなにかのようだ。獲物としては適当な大きさだが……
アイラはすうと息を吸い込むと、剣の柄《つか》に手を添えた。
実際、自分でやってみるまで、狩りがこれほど難しいものとは思っていなかった。
超人的な反射神経と素速さを持っていても、ぬかるんだ獣道やくさむらでは、どうしても動きが鈍くなる。だが、それ以上に、彼女は狩りがなんたるかを知らない。鼻が効く動物相手に風上から、しかも足を忍ばせもせず、くさむらをかき分けて近づけば、姿を捉《とら》える前に遠くに逃げている。
それでも飛び道具があれば、その優れた視力を生かして、パウパウ鳥の一羽も獲れたかもしれない。別れ際に、ガルーはちゃんと弾丸を残していったが、銃を軽んじていた彼女は日々の手入れを怠り、弾を湿気《しけ》らせた上に、銃を錆《さ》びつかせて早々に使い物にならなくしてしまっていた。
アイラは次第に暗さを増す森を歩き回りながら、
――どうやら、今晩も森芋と木苺《きいちご》で飢えを凌《しの》ぐことになりそうね。
と、落胆の色を深めていた。
獣道を歩いていたアイラが、不意に顔をしかめる。
――なにかしら、この匂《にお》い?
森の奥から花の匂いが漂ってきた。それも香水をさらに濃縮したような、鼻孔から頭のてっぺんに突き抜ける刺激臭だ。
嗅《か》いでいるうちに、頭の芯《しん》が痺《しび》れるような感覚を覚えた。だんだんと匂いのきつさが気にならなくなっていく。肩から力が抜け、全身に張り詰めた緊張がほぐれていくようだ。それはちょうど酒に酔った時の感じに似ていた。
手から麻袋が落ち、袋の口から芋が転がり出た。そして、匂いに導かれるように彼女は歩き始めた。
どれぐらい歩いたのだろう。
アイラにはそれを考えるだけの思考力も残されていなかった。体がフワフワ浮くようなよい気持ちのまま、森の奥へと引き込まれていった。
今の無防備なアイラならば、小さな狐にすら倒されてしまうだろう。だが、そうはならない。なぜならば、匂いに惹《ひ》かれていくのは彼女ばかりではなかった。足元をネズミの群れが追い抜き、別の道を目をとろんとさせた狼が、同じ方角を目指して駆けていく。この一帯にいる動物すべてが、アイラと同じ状態にあるようだ。
行く手に光が見えた。森の中にぽっかりと開いた広場のような場所に、上空からさんさんと陽光が降り注いでいる。
アイラは光に向かって駆け寄った。
「まあ……」
感嘆の声が洩《も》れる。
そこは一面の花畑であった。色とりどりのきれいな花が咲き乱れ、その上を蝶《ちょう》や小鳥が飛び交う。そして、集まった動物たちは、日溜《ひだ》まりの中で、気持ちよさそうに横になっている。互いの生き残りを賭《か》けた熾烈《しれつ》な闘争も、ここは無縁の世界のようだ。
アイラにもその気持ちはわかる。このような楽園にいて、どうして争いが起きるのだろう。
彼女は花の上に身を投げ出した。花びらが舞い、かぐわしい匂いがどっと湧《わ》き立つ。
地面は暖かく、まるで湯に浸かっているかのようだ。体の疲れが消えて、代わって眠気が襲ってきた。
「……ヨシュアをここに……でも、もう少し休んでから……」
アイラの瞼がゆっくりと下がってきた。すると、それを思いとどめさせようとするかのように、腰の剣が鞘《さや》の中でビリビリと震えた。
けれど、もはやアイラには、剣の警告を理解する判断力がなかった。
『――アイラっ!』
いきなり、頭の中に鑼《どら》を打ち鳴らしたような叫び声が響く。深い眠りに落ちかけていたアイラは、ぎょっとして身を起こした。
再び瞼《まぶた》を開けた時、あたりの光景は一変していた。
「な、なんなのよ、これは――」
日の光も、花も蝶《ちょう》も鳥も消え失せ、暗く湿った空間が広がっていた。そして、彼女が横たわっていた地面も、ごつごつとした尖《とが》った石が敷き詰められていた。
手の下にあった大きめの石を拾い上げる。異様な形が気にかかったのだ。
アイラの顔が引きつった。
それは鋭い牙《きば》を上下に生やした肉食獣の頭骸骨《ずがいこつ》だった。
「――――!」
背後から鞭《むち》のようなものがアイラの首に巻きつき、そのまま後ろに引き倒される。倒れた瞬間、地面に堆積する骨の破片が体に食い込むが、喉《のど》を締め上げられて、悲鳴も出せない。
ザザザザ――
骨の上をアイラの体が引きずられる。服が裂け、直《じか》に柔肌に破片が刺さる。呼吸を断たれた上に、首の血管を塞《ふさ》がれ、意識を失う寸前だった。とても首に巻きつくものを解く力はない。
するとその時――
森の木立の中から、大きな影が踊り出す。
それは野獣の雄叫《おたけ》びを上げて、アイラの上を飛び越えていった。
ビシッ
その音とともに、首に巻きつく鞭状のものが緩んだ。アイラが激しく咳《せ》き込む。同時に新鮮な血液が脳にどっと流れ込み、頭の中で破《わ》れ鐘が鳴り響く。
近くでなにものかが争っている気配がするのだが、起き上がるどころか、目も見えない状態だった。
アイラはなすすべもなく、地面に横たわって、荒い息を繰り返した。
急に静寂が戻った。戦いは終わったらしい。
敷き詰められた骨を踏みしだいて、足音が近づいてくる。
アイラは腰の剣に手を伸ばした。短い休息だったが、かなり体は回復しているはずだ。
「――アイラ」
その呼びかけを耳にして、アイラはがばっと身を起こした。
彼女の前に、あの白き獅子アダモが四つの足で立っていた。
アイラの瞳《ひとみ》から、ぽろぽろと大粒の涙が溢《あふ》れた。
「……大丈夫かね……」
温かみのある声が獅子の口から出た。
その途端、アイラは堰《せき》を切ったように泣き出し、アダモの首にしがみついた。
抱きしめる手を持ち合わせない獅子は、相手の思うがままにさせるしか慰める方法がなかった……。
アイラが落ち着きを取り戻すために、しばらく時間を要した。
「……どうだね。少しは気分も晴れたかな」
獅子は娘を見るような優しい目をしていた。
アイラは布切れで涙を拭《ぬぐ》うと、恥かしげに笑った。さんざん泣き腫《は》らして、目のまわりや鼻の頭は真っ赤だったが、どこか清々した顔だ。
「……ごめんなさい……穴があったら入りたいとはこのことね。あたしったら、子どもみたいに泣きじゃくって。でも、こんなに声を上げて泣くなんて、ホント久しぶりのような気がする。この前はガルーたちがいたし――」
アイラは急にはっとした。そして、悪戯《いたずら》を親に見咎《みとが》められた子どものように、おずおずと身を竦《すく》める。
「ガルーたちと喧嘩別《けんかわか》れしたことを気にしているのかね」
「し、知ってたの!」
獅子は頷《うなず》く。
「エディラが〈念話〉で知らせてくれたよ。ただその時、わたしは狼獣人との戦いで傷つき一歩も動けない状態だった。それで駆けつけることができなかった。許してくれたまえ。またきみに負担をかけたようだ……」
アイラは恐る恐るといった様子で、
「……怒らないの」
と尋ねる。
「なぜ、怒られると思うのかね」
「だって……喧嘩しちゃ駄目って……」
獅子は喉《のど》をごろごろと鳴らした。笑っているのだ。
「きみたちはもう立派な大人ではないか。わたしとしても、意見を述べても、強制まではできんよ。まして叱《しか》るなど――」
アイラは頬《ほお》を赤らめ、顔を俯《うつむ》かせた。いわれてみれば、もっともな話だ。なぜ、そんな風に思い込んだのか、自分でもわからなかった。
「さて――」
獅子が腰を上げた。
「ここに長居をしても仕方がない。息子のところに戻ろうではないか」
「ええ、でも……あたし食べ物を集めなけりゃ。狩りはさっぱりだし、採った芋も途中でなくしてしまったようだし……」
獅子がまた笑った。
「まわりを見たまえ。抱えきれないほど獲物が転がっているではないか」
アダモがいった通り、骨の地面にたくさんの獣が倒れている。とうに死んで腐っているものもいるが、寝ているだけのものも多い。
「こ、ここはなんなの。獣の墓場みたい」
「あれを見るがいい」
獅子が顎《あご》をしゃくった。
広場の中心に巨大な赤い花があった。花びら一枚だけでも座布団並みの大きさだ。真ん中の花弁に当たる部分は、口のように開き、そこから太い蔦《つた》が四方に伸びている。もっとも、アダモと戦って敗れたようで、花びらも弦も爪《つめ》で引き裂かれ、無残な姿と化していたが……
「〈ラフレシア〉という食肉植物の一種だ。催眠性を持った分泌物の匂《にお》いで動物を引き寄せ、己の養分にするのだ。そして、途中で目覚めた獲物はあの蔦《つた》で締め殺す。恐ろしい怪物だよ」
アイラは青ざめた顔で、
「なら、あたしが見た光景は?」
「幻覚だろう。こいつには原始的な精神感応力がある。それ自体は大した力ではないが、催眠性分泌物と併用すると効果的だ。きみは心身ともに疲れ切っていた。そのため抵抗できなかったのだ」
「ずいぶん詳しいのね」
「こいつは二〇〇年ほど前、とある錬金術師《アルケス》が作った人工生命だ。いくぶん話に聞いたものと違っている。野性化して、変質したようだな」
アイラの顔が急に暗くなる。
「……ヨシュアと結びつけたのかね。同じ〈生み出された者〉として……」
「――そ、そんな、違うわ」
と、強く否定するが、アイラの目は地面に打ち萎《しお》れたラフレシアの花から離れない。
「……複雑な気持ちだ、わたしにしてもね……だが、ヨシュアとこの怪物は決定的な違いがある。わかるかね?」
アイラは首を横に振った。
「こいつは誰からも愛されない。しかし、ヨシュアは……」
[#挿絵(img/03_225.jpg)入る]
獅子はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
アイラは戸惑った表情を浮かべるが、次の瞬間、心の底からの笑みを見せた。
最悪の目覚めであった。
胃の中身が逆流するかのような嘔吐感《おうとかん》に襲われて意識を取り戻したが、ガルーはすぐに「気を失ったままでいたかった」と悔やむことになる。
体中、火がついたような痛みで、身じろぎひとつできない。息をするだけでも、胸に激痛が走る。どうやら肋骨《ろっこつ》にひびが入っているようだ。
「……気がついたのかい」
近くでルーザの声が聞こえた。
首を横に倒して、彼女の姿を見ようとした。たったそれだけのことなのに、瞼《まぶた》の裏に火花が散り、口から呻《うめ》きが洩《も》れる。
情けなくて涙が出そうだった。
「ほら、無理しちゃ駄目だよ。ひどい有り様なんだからさ」
ルーザの顔が覆い被さるが、焦点がなかなか定まらない。
目もどうかしてしまったらしい。
「……ヒ、ヒアは……」
やっとの思いで声が出た。
「ひあ? ああティアね。心配しないで。あんたの足のところにいるわよ」
ぼやけた目には、赤いものとしか映らないが、確かに左足に人の重みを感じる。
ティアが頭を乗せてうたた寝しているのだ。
思わず安堵《あんど》の息が出る。
「あたしの寝台に寝かそうとしたんだけど、ここを離れようとしないのさ。あんたをずっと見守っていたんだよ。ようやく、眠ったんだから、起こしちゃ駄目だよ」
額に乗せられていた濡《ぬ》れ布が取り払われた。耳元で水音がする。ルーザがたらい[#「たらい」に傍点]かなにかで布をゆすいでいるのだろう。
ひんやりと冷たく湿った布が、頬《ほお》や首筋を撫《な》でる。傷口が擦れて痛かったが、汗が拭《ぬぐ》われてさっぱりした。
「……すまん……世話をかけるな」
「気にするんじゃないの。店でずいぶん散財させちまったからね。これぐらいしなきゃバチが当たるってもんさ」
「なんだ……まだ客扱いかよ。つれないこった」
「な、なにいってんのさ」
ルーザが荒っぽく、額に濡れ布を戻した。
ガルーは呻《うめ》きをこらえ切れなかった。
「軽口を叩《たた》けるくらいなら、心配いらないようだね。でも、この子が店に飛び込んできた時はびっくりしたよ」
「ティアが?」
「こんな小さな子が、気を失ったあんたをひとりで店の前までかついできたんだよ。『シンジャウ、シンジャウ』って大騒ぎだったんだから」
「そうか……こいつが……」
ガルーは痛みをこらえて、寝息を立てている少女に手を伸ばし、赤い髪を優しく撫《な》でた。すると、ティアの口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「……俺《おれ》はどれくらい寝ていたんだ?」
窓辺に首を回す。開け放たれた窓に灰色の空が見える。
「そうね、半日くらいかしら。ずっと呻いていたのよ。お医者を呼ぼうかしらって思ったぐらい」
「へっ……喧嘩《けんか》ぐらいで、医者にかかれるかよ」
ルーザは呆《あき》れ顔で、
「強がりもいいけど。体中|青痣《あおあざ》だらけなんだよ。いく分かはマシになったけど、最初見た時は別人かと思ったほど、顔が腫《は》れ上がっていたんだから。まあ、これに懲《こ》りてしばらく酒は控えることね」
「ああ、そうするつもりだ」
と、ガルーは素直にいった。
「あら、どうした風の吹き回し」
「別に……酒に逃げたところで、どうしようもないって気づいただけさ。俺も馬鹿だぜ。痛い目を見なけりゃわからないんだからな……」
ルーザは眉《まゆ》を曇らせ、寂しげな表情に変わる。けれど、目がまともでないガルーには、それが見えない。
「……ん、どうかしたのか?」
ルーザは首を振り、陽気な笑顔を作った。
「ううん、なんでもないよ」
そして、ルーザはごまかすように手を打ち鳴らす。
「――そういえば、寝ている間にお役人が訪ねてきたわよ」
ガルーが眉をしかめた。
「大丈夫。相手は札付きのワルだったし、三人とも自分の銃の暴発で死んだんだから、お咎《とが》めはないわよ」
「そりゃそうだろうな……だが、なんでわざわざここまで足を運ぶんだ。ここの役人はそんなに暇なのか。喧嘩《けんか》で人死にが出たところで、いちいち出向いてくるかな」
「暴発した銃ね、三丁とも銃身の先っぽが見事に折れ曲がっていたんですって。欠陥品が出回ってるんじゃないかと心配しているみたい――どう、心当たりある?」
「ああ、俺がやったんだ」
「ホントに? どうやって?」
ガルーはニヤリと笑う。
「銃口を睨《にら》んで、『曲がれ、曲がっちまえ』って念じたんだ。ただ、それだけさ」
ルーザは呆《あき》れたように、
「――ったく、負け惜しみが強いこと。コテンパンにのされたからって、見え透いた嘘《うそ》をついてまで、見栄張らなくたっていいのに」
ガルーはそれ以上なにもいわなかった。是非とも信じてもらいたかったわけではない。ただ、世話になったルーザに、嘘をつきたくなかっただけだ。
空が暗くなり始める頃には、傷の痛みもずっと薄らぎ、寝台の上に体を起こせるぐらいにまで回復した。けれど、目は相変わらずぼやけたままだ。
こうなっては、ガルーも目の異常が打撲によるものではない、と認めないわけにはいかなかった。
血の効力が消えたのだ――と。
ティアに頼んで、荷袋を寝台まで運んでもらう。着れなくなった昔の服を取り出し、膝《ひざ》の上に広げる。すると、その中から眼鏡が出てくる。ダスターニャの商人と争って壊れたものとは、また別の品だ。
予備の――というわけではなく、前に使っていた古い眼鏡だ。近視の度が進行したため新しいものに換えたが、長い間顔の一部であっただけに捨てるに捨てられず、ずっと荷物の隅に入れてあったのだ。
――まさか、またこいつのご厄介になるとはな。
ガルーは眼鏡を見つめ、自嘲《じちょう》するように笑った。
顔にはめてみると、はっきりとあたりが見える。やはり昔の視力に戻っているのだ。
ティアが変な顔で、ガルーを覗《のぞ》き込んでいる。眼鏡をかけた顔が奇妙に映るのだろう。少女は昔のガルーを知らない。
「……似合わないか」
ティアは小さく首を頷《うなず》かせた。
「そうか……」
ガルーは苦笑いを浮かべ、少女の頭を掻《か》き乱した。
もう、ルーザが苦心の末整えた髪も、それ以後まったく櫛《くし》を通していないため元のボサボサに戻っている。したがって、髪を乱すことになんの躊躇《ためら》いも感じない。
不思議なことに、ガルーはあまり恐怖を感じなかった。もっと取り乱すだろうと予想していたのだが……。
開き直ったのか、はたまた達観できるようになったのか――。
ガルーは己の心を見つめ、どちらでもないとわかった。
――そう、俺は諦《あきら》めていないのさ、まだな[#「まだな」に傍点]。
「さてと――」
ガルーは足を寝台の下に降ろした。だが、立ち上がろうとして、急に貧血でも起こしたように体をふらつかせる。
ティアが脇《わき》から支えようと抱きつく。その顔は「寝てなきゃダメ」と怒っているようだ。
大きな掌が少女の頭に被せられた。
ティアは意味をはかりかねて、ガルーの顔を見上げる。
ガルーは一言こう告げた。
「――戻るぞ」
と。
ティアはこれまでにないほど喜びに顔を輝かせた。
少女の手を借りて、ガルーは出発の支度を急いだ。体を動かすと、また傷の痛みがぶり返してきたが、かまっていられる状態ではなかった。
腰に銃帯を巻き、弾倉に弾が入っているか確認してから短銃を帯に収める。さらに片刃の剣を鞘《さや》ごと銃帯に吊《つ》るす。
これは銃砲店の親父に頼んで特注した銃剣だ。短剣と長剣の中間の長さで、大型三連装雷発銃の先に取り付けられる上、そのまま手に持っても使える。受け取りに出向いた際、使い勝手を試したが、頭に描いていた以上の仕上がりだ。
切っ先は鋭く研ぎ澄まされ、刀身は長剣並みの厚みがあって頑丈だ。これならばそう容易《たやす》く折れはしないだろう。そして、なによりも気に入ったのは重いということだ。同じ長さの剣の優に二倍はある。肉厚のせいばかりではないようだ。それを尋ねてみると、店の親父はニンマリと笑い、
「――よくぞ訊《き》いてくれたな。こいつは隕鉄《いんてつ》で作ってあるのよ」
と、答えた。
隕鉄とは、空から落ちてくる鉄の塊だという。めったに手に入るものではなく、また含有成分が地上の鉄鉱石と異なり、加工が難しいため、なまじな刀鍛冶《かたなかじ》では手に負えない代物《しろもの》だ。名人と謳《うた》われる刀鍛冶でも、ひと振りの剣を作るのに二、三年はかかる、と教えてくれた。
その話を聞いてガルーは、よく三日でできたものだと感心する。すると――
「実をいえば、この剣は以前から刀鍛冶の工房にあったんだ。わしがあんたの話をしたところ、そこの親父が『ならば、これを』と大事にしまい込んでいたこいつを出してきたんだよ。なんでも、祖父の代に作られた品だが、剣に相応《ふさわ》しい持ち主が見つからず、孫の代まで受け継がれてきたそうだ。まあ、雷発銃ばかりがもてはやされて、剣や刀は時代遅れといわれているからな。へそを曲げていたんだろうさ。だから、新たに手を加えたのは、柄頭《つかがしら》に付けた銃に取り付ける金具だけだ」
さらに親父は、こうつけ加えた。
「こいつは〈流星剣〉というそうだ。どうだい、趣のある名じゃないか。それに、隕鉄《いんてつ》でできた剣は魔除けになるという。獣人と戦うあんたにはうってつけの剣だろう――」
――うってつけか……。
ガルーは心の中で親父の言葉を思い返していた。
自分に相応《ふさわ》しい品と思ったのはその時だけだ。今の衰えた体では、満足に振ることもできないだろう。背中にしょった大型三連装雷発銃もずっしりと重く感じる今となっては……。
気がつくと、傍らでティアが不安そうに見つめていた。
――いかん、いかん。こんなことでどうする。
ガルーは己を戒めると、元気よく荷袋を担いで、部屋を出た。
扉の外にはルーザが立っていた。彼女は男がこの町を去るとわかっていたに違いない。
ガルーは罪の意識に苛《さいな》まれた。自分のことばかりで、この世話になった女のことをなにも考えていなかったのだ。もし、ここで出会わなければ、黙って去ってしまうことになっただろう。
ふたりはしばし無言で見つめ合った。
「……いくんだね」
「ああ……」
「戻って……こないよね」
「たぶん……」
「……そう」
ルーザはくるりと背を向けた。
「……あんたには」
「――いいんだよ! なにもいわないでおくれ」
ルーザは強い口調でいった。
「そうだな……」
去っていく者が、優しい言葉をかけたところでなんになろう。かえって相手を苦しめることになる――その程度は、女心に疎《うと》いガルーでも理解できた。
「じゃあ……いくわ」
ガルーはそのまま女の脇《わき》を通り過ぎていく。決してルーザを見ては駄目だ、と心にいい聞かせながら。廊下のつき当たりまで歩いて、ティアがついてきていないことに気づく。
ガルーは戒めを破って後ろを振り向いた。
ルーザがしゃがみ込んでティアを抱擁していた。ふたりのすすり泣く声が、かすかに聞こえてくる。短い間だったが、ふたりの間には通い合うものがあったのだろう。
「――さあ、お行き」
ルーザがティアを送り出す。
少女はガルーに向かって走り寄る。だが、途中で足を止めて振り返る。
ルーザは涙に濡《ぬ》れた顔で微笑《ほほえ》みを浮かべ、手を振った。ティアは声を上げて泣きながらガルーのもとに駆けていった。
――じゃあな……。
ガルーは胸の中で別れを告げると、泣きじゃくる少女の手を引き、宿屋の門をくぐった。
通りに出て、そのまま町の正門の方角に進む。あたりはすっかり暗くなり、道沿いの店や家の窓辺に、明かりがともり始めていた。
角を曲がろうとした時、ガルーは最後だからと振り返った。
宿屋のガルーたちがいた部屋の窓に明かりが見えた。ルーザが灯《とも》したに違いない。
ガルーはたぎるような情念に胸を焦がした。命が尽きるまでの数日を、ルーザとともに過ごしたい。それは、あらがい難い誘惑であった。
だが――
ガルーは踵《きびす》を返して歩き出した。
一時の情念にかられて行動すれば、ルーザをより深い悲しみへと落とす結果になるとわかっていたからだ。
それからすぐに、ガルーは金を残らずはたいて、厩舎《きゅうしゃ》で最も丈夫そうな馬を買い、正門に乗りつけた。衛士は「無謀だ。朝まで出発を待て」と忠告してくれたが、ガルーは無視して町を出ていった。
「――ペルーテか。今まで住んだ町で一番いい町だったよな」
馬を飛ばしながら、ガルーが大声で叫んだ。
すると、前に座るティアが振り返って、うれしそうに笑った。
それは、ガルーがすべてをふっ切ったことを知った喜びだった。
ガルーが駆る馬は、途中、徒歩で街道を進む旅人たちを追い抜いていった。
三人とも真っ黒な外套《がいとう》を着込み、人相風体はわからない。
ガルーは奇異に思ったが、すぐに忘れ去ってしまった。だが、ティアは通り過ぎる一瞬に悪寒《おかん》のようなものが背筋を突き抜けるのを感じていた。
「――いかがいたしましょう」
黒装束の旅人のひとり、〈牛〉のゲープラが野太い声で尋ねる。
「お許しがあれば、あの者たちを始末して参りますが」
すかさず〈鷲《わし》〉のティファレイも進み出る。
「――その役目、是非わたくしめに。デルを捕らえ損なった上は、せめて奴らを倒すことで、汚名をそそぎとうございます」
「両名とも待つがよい」
ヘルマーがふたりを押しとどめる。
「死に損ないの〈使徒〉と獣人の小娘を始末したところで、なんになるのだ。主がついに〈白子〉との対決を決意された今、我らは一刻も早く合流を果たさねばならん。そうではないのか――」
「……はっ」
ふたりの〈使徒〉は、その場に片膝《かたひざ》をつき、側近に頭《こうべ》を低く垂れた。
「それに……」
ヘルマーは、ガルーたちが消えた街道の先を見つめ、酷薄な笑みを浮かべる。
「どうせ、奴らは間に合わぬ……ついた頃には〈白子〉は、我が主の手にかかっているだろうて……」
再び時は遡《さかのぼ》り、同日の昼間――
アイラたちは〈南の僻地《へきち》〉と呼ばれる一帯に辿《たど》り着いていた。
ケオナで踊り娘《こ》をしていた頃、アイラは旅の行商人や駅馬車の衛士から、この地についてずいぶん噂話《うわさばなし》を聞かされた。
草木も生えぬ不毛の荒野。悪鬼や亡霊が徘徊《はいかい》する地獄のような場所。瘴気《しょうき》が漂い、一息でも吸い込めばたちまち気が狂う――など、当時はヨタ話の類と、一笑にふしたものだが、いざその前に立ってみると、噂がすべて真実に思えてくる。
街道を進むと、前触れもなく密林と石畳の道が跡切れ、急に視界が開ける。だが、その先は見渡す限り荒涼とした岩場が広がる。
この荒野こそ、〈南の僻地〉であった。
人気《ひとけ》どころか、生き物の気配がまるで感じられず、白い灰のような砂埃《すなぼこり》が舞う地面には、雑草ひとつ生えていない。少なくとも不毛の荒野という噂は正しかったようだ。
ヒュルルル……
でこぼこの荒れ地を渡ってきた冷たい風が、たちまち体を凍えさせる。
――あたしは、なんという場所に踏み込もうとしていたのだろう。
アイラは黒馬の背に乗ったまま、身を竦《すく》ませていた。
すると、のそりと白獅子が前に進み、なにげなく森と荒野を分ける境界を越えた。
アイラはぎょっとした。
「――ね、ねえ、どうする気なの!」
アダモが振り返る。
「おや、この地に行くのだ、と頑強にいい張ったのは、きみではなかったのかね」
と、珍しく意地の悪いいい方をした。
「そ、そんなこといったって……ま、まさか、こんなところとは、夢にも思わなかったから……」
獅子が笑みを浮かべる。
「尻込《しりご》みする気持ちもわかるが、われわれはこの先に行かねばならない。きみの思惑とは別の理由でね」
アイラは目を見張る。
「行かねばならないって――あなた、ここを知っているの」
「……ずいぶん昔になるが、わたしは長期に渡ってここに滞在していた。そして、つい最近訪れている」
そう答えると、獅子は宙を飛ぶように、ごつごつした岩場を進んでいった。
「ま、待って――」
呼び止める暇もなかった。しかも、今度は命じもしないのに、黒馬が獅子のあとを追いかけるがごとく地を蹴《け》った。
「――エ、エディラ、危ないわ、もっとゆっくり」
舗装された石畳の道を進むのと違い、岩場を走れば、どうしても乗り心地は悪くなる。その上、なぜかわからぬが、アダモもエディラも、背後からなに者かに追われているかのように地を蹴っていく。
乗っているアイラは、愛馬を鎮めるどころか、ヨシュアを落としてなるものかと、それだけを考え、必死にエディラの背にしがみついていた。
どれほど走っただろう。唐突にエディラは走るのを止めた。
アイラはずるずると滑り落ちるように鞍《くら》から地面に降りた。むろん、ヨシュアも一緒に。地に足がつくと、膝《ひざ》から力が抜け、そのまま尻餅《しりもち》をつく。長い間、力を込めてしがみついていたために、すっかり手足が硬直していた。
「――見たまえ。あれを」
荒い息を吐《は》いていたアイラが、獅子の声に従って顔を上げた。
そして――息を飲み込んだ。
目の前にすり鉢状に陥没した巨大な穴があった。どれほどの大きさか、すぐには見当がつかないほどだ。反対側の淵《ふち》が、かすんで見えるのだから相当なものだろう。ダスターニャくらいの町なら、十やそこらは軽く飲み込むほどの大きさだ。
アイラの驚きは、穴の大きさばかりではない。
穴の底には廃墟《はいきょ》があった。それも樹海の町とはまったく違う、大きな崩れかけた石造りの建物が立ち並んでいた。
アイラの脳裏に、グリフィンが空中から見せてくれた古エルマナ文明の〈都市〉の光景が浮かんだ。
「――な、なんなのよ。こんなものがあるなんて聞いたこともないわ」
アイラが獅子に食ってかかるようにいった。
「当然だろう。この廃墟を中心にして、暗示波が放射されている。近づこうとすれば、激しい恐怖感にかられ、大方の者はここまで辿《たど》り着く前に逃げ出している。無理に進もうとすれば、幻覚に襲われ、下手をすれば発狂する。きみが耳にしたという数々の噂《うわさ》は、そこから生まれたものだろう」
いわれて見れば、荒野の入口にいた時と比べて、ずっと気分が落ち着いている。今でも足が竦《すく》む感じだが、その時ほどではない。
獅子は続ける。
「――われわれが急いで岩場を駆け抜けたのは、暗示波を浴びる時間を短くするためだ。ここまでくればもう大丈夫だ。懐に飛び込んだようなものだからね」
アイラは不安にかられたように、傍らに立つ、白き髪、白き肌の少年に目を移した。
「坊やは――ヨシュアは平気かしら。病気がひどくなるってことはないでしょうね」
「心配は無用だ。暗示波は、息子にまったく影響を及ぼさない。案じていたのはアイラ、きみについてだけだ」
「本当に?」
獅子は自信ありげに頷《うなず》いた。
「ならいいけど……」
そうはいったものの、アイラは釈然としない。どうしてはっきり断言できるのか。そもそも、アダモはなにを見せようとしているか。最近までここにいたという意味は――。
間違いなくいえることは、ここがアダモにとり、因縁浅からぬ地だということだ。さらに、もしかしたらヨシュアにとっても。
ヨシュアは淵《ふち》に立ち、じっと穴の底の廃墟《はいきょ》を見降ろしている。ダスターニャを出て以来、なにかに関心を示すのは、初めてのことではないか。
「――失われた記憶が、呼び覚まされているのかも知れない」
獅子の呟《つぶや》きをアイラは聞き咎《とが》める。
「どういうこと?」
「それは……いや、追い追い話していこう。さあ、エディラに乗りたまえ。廃墟に降りるのだ」
といって、獅子は斜面を下っていった。
ふと、アイラは逃げられたという感触を抱いた。
崩れかけた建物――というより、巨大な墓石というほうが相応しい――その間を、アイラたちはゆっくりと進んだ。
下から見上げると、よけいに立ち並ぶ建造物の威容に圧倒される。自分がちっぽけな存在に思え、押し潰されそうな気分になる。
確かに樹海も恐ろしい場所だが、この寂寞《せきばく》とした死の町に比べれば、遥《はる》かに居心地がよい――とアイラは思った。
始終どこかでガラガラと、岩山で石が転げ落ちるような音が上がる。すり鉢の底にいるせいか、あるいは石の建物に囲まれているせいか、音があたりにこだまする。耳うるさいほどだ。建物の中には、すでに瓦礫《がれき》の山と化したものも少なくない。遠からず、廃墟のすべてが崩れ去る日が訪れるのだろう。
「――ここは、かつてエルマナでも有数の都市だった。正確にはその中心街だがね。名前は……いや、人が住まぬ町では名など意味はないな」
獅子は歩きながら、寂しげにいった。
「あなた、この町にいたといってたわね。なんだってまた、こんなところに……」
アイラが馬上から尋ねた。
「わたしだけではない。一〇年ほど前までは、一〇〇を越える錬金術師が詰めていた。この都市では〈大災厄〉以後も〈炉〉が生きていた数少ない場所だ。他にも理由があるが、実験場所を選ぶに当たって、最も条件が整っていたのがここだった」
「実験って……まさか」
前を進む獅子が立ち止まって、アイラたちに向かって振り向いた。
「そう――ヨシュアは一〇年前この地で生まれたのだ。双子の妹[#「妹」に傍点]グラシアとともに」
アイラは驚きのあまり声も出なかった。
「妹のグラシアは、生後すぐヨシュアから引き離され、〈混沌《こんとん》の庭〉の本拠というべき〈塔〉に移った。錬金術師たちとともにね。だが、この子は一〇年もの間、穴の底から一歩も出してもらえなかった。事実上の幽閉といってよいだろう。先程の『失われた記憶』という意味をわかってくれたかね。ここは息子にとっての故郷なのだよ」
「……故郷って……こんなところが……」
アイラは改めてあたりを見渡した。ここは滅びた世界だ。動くものといえば、地を這う砂埃のみ。聞こえてくるのは、墓石のような建物を抜ける風の音だけ。
あまりに寒々しい光景ではないか。
アイラの目から涙がこぼれ、その雫《しずく》が抱きしめたヨシュアの頭に落ちた。
獅子はつらそうに顔を歪《ゆが》めた。
「……あなた親なんでしょ。なんとかしてあげられなかったの。こ、こんなところに一〇年も……あんまりよ。哀れじゃない」
アイラは声を詰まらせながらいった。アダモを責める気などなかったが、言葉にすれば結局なじる口調になってしまう。
獅子は一言も弁解しなかった。
その後、アイラたちはヨシュアたちが産まれたという建物に足を運んだ。
だが、そこはすでに崩れ落ち、瓦礫《がれき》の山と化していた。どのみち、人工子宮その他重要な器材は、一〇年前に〈塔〉に移され、それ以外の品も、万能融解液《アルカエスト》によって液体に変えられたという。
術《アルス》の秘守には細心の注意を払う錬金術師たちが、そのまま残していくはずがなかった。
もっとも、アイラがそんなものに興味を抱くわけもない……。
次に向かったのは、ヨシュアが赤ん坊の頃から一〇年間過ごしたという場所だった。
アダモは案内を躊躇《ためら》うが、アイラの要望に押し切られた形となった。
そこは比較的小さな――それでもアイラの基準では充分大きな――建物の地下にあった。
そして、地下にはアダモとアイラだけが、降りていくことになった。
元より馬のエディラに階段は無理としても、問題はヨシュアだった。
今まで、人形のようにされるがままになっていた少年が、この建物を目にした途端、急に怯《おび》えて馬から飛び降りようとした。アイラが咄嗟《とっさ》に背後から抱き止めねば、地面に落ちて怪我をしていたかも知れない。
少年は自分が住んでいたという建物に近づくことを全身で拒んだ。仕方なく、エディラと一緒に外に残し、ふたりだけで中に入ることにしたのだ。
壊れた鉄の扉をくぐる際、アダモはアイラに向かって、
「――恐らく、きみは見なければよかったと後悔するだろう。それでも行くかね」
と、念を押した。
少年のただごとではない怯え方を見て、アイラはアダモのいう通りだろうと思った。
だが、愛《いと》し子がどのような暮しをしたのか、なんとしても知りたい、この目で見たい――という欲求を抑えることはできなかった。
カンテラの明かりが階段を照らす。だが、奥まで光が届かない。光が弱いというより、階段が恐ろしく長いせいだ。途中、頑丈な鉄扉《てっぴ》を三つも越えている。なのにまだ辿《たど》り着けない。澱《よど》んだ空気はすでに息苦しさを感じる。
本当に、こんな日も差さぬ地下にヨシュアはいたのだろうか。愛し子の苦しみを思い、アイラの胸は痛んだ。
「――ここだ。この向こうがそうだ」
ようやく階段が跡切れ、ふたりは最後の扉の前に立った。よく見ると、扉には獣の爪痕が縦横無尽に走っている。なにか下に描かれた図形を消そうとしたようだ。
問いかけるようなアイラの目が、獅子に向いた。爪痕の大きさからして、アダモの仕業に違いない。
獅子は視線に気づいているだろうに、なにも喋ろうとはしなかった。
鍵《かぎ》は壊れているが、扉は固く閉ざされている。アイラが取っ手を掴《つか》んで引いた。蝶番《ちょうつがい》の油が切れており、びくともしない。押し戸ならともかく、引き戸では獅子は手を出しようがない。アイラは顔を真っ赤にして力を込めた。
ギ、ギギ……
扉に隙間《すきま》ができた。途端に奥から吐き気をもよおす腐臭が湧《わ》き出し、アイラは顔をしかめた。
アダモができた隙間に前足を差し込み、手助けをする獅子の力は強く、一気に扉は開いた。
「――ひどい匂《にお》いね」
アイラは鼻を押さえた。
「ヨシュアを救い出す際、警護役の〈獣士《ル・ヴィード》〉を数体倒した。死骸《しがい》が転がったままなのだろう」
カンテラで奥を照らすと、獅子の言葉通り、首と胴が切り離された死体がいくつか倒れていた。獣の頭らしいことは間違いないが、半ばミイラ化した状態であり、一瞥《いちべつ》しただけでは特定できない。アイラにしても、しげしげと眺める気はなかった。
「……ここが?」
アイラは明かりをかざして、さほど広くもない地下室を見渡した。扉は入ってきた出入口のものがひとつ。他に部屋はないようだ。むろん地下室に窓があるわけもない。鉄格子でもあれば、監獄そのものの雰囲気だ。
奥の壁際に寝台がひとつ。脇には蓋が被せられたかめ[#「かめ」に傍点]がある。恐らく糞尿を入れるためのものだろう。卓の上には粗末な食器がいくつか。どう見ても、まともな食事は与えられなかったようだ。
そして、断ち切られた鎖と鉄輪――。
街道で出会った時、ヨシュアの左足首にはなにかを巻いた痕があった。やはり、鎖で繋《つな》がれていたようだ。
アイラは小さな衣類箪笥がアイラの目に入った。
中を開けると、子どものものと思える服が雑然と放り込まれていた。そのひとつをアイラは取った。五歳児くらいの小さな上着だ。シミだらけの上、肘の部分に穴が開いている。
アイラの手がわなわなと震えていた。行き場所のない憤りが、悲しみが彼女の胸でせめぎ合っていた。
「……ひどい……ひど過ぎるよ……」
獅子は大きな頭をうなだらせて、
「……このような扱いを受けていると知っていれば、わたしたちは、無理をしてでも、もっと早く救い出していただろう……人並みの暮しをさせている、というデルの言葉に欺かれていたのだ……」
アイラの瞳に禍々しい青白い光が宿る。〈憎しみの炎〉を燃え上がらせる前兆だ。
「……あの男なの……坊やにこんな仕打ちをしたのは……」
アイラの口から呪詛《じゅそ》にも似た声が洩れ出る。さしもの、獅子も一瞬背筋が凍りつく。
獅子は服の裾を咥《くわ》えてアイラの体を揺さぶった。
「落ち着け。落ち着くのだ。そのようなことではデルの思う壺だ。怒りを抑え、心を鎮めるのだ。どのみち、ここにデルはいないのだぞ」
獅子は懸命にアイラをなだめた。
そのかいがあってか、瞳の輝きは急速に衰えていった。
途端にアイラの顔が歪む。そしてヨシュアの小さな服を握り締めて、その場にうずくまった。
「う、う、う、う……」
狭く暗い地下室に嗚咽が響く。
「……やはり、きみはここを訪れるべきではなかった……ヨシュアの苦しみと悲しみに満ちたこの部屋に……」
アイラは打ちひしがれた表情で、出口に向かった。もうこれ以上、この地下室にとどまることはできなかった。気遣うように獅子が彼女のそばに寄り添う。
出口近くで、アイラは床に落ちていた棒のようなものを蹴飛ばしてしまう。
アダモがはっと息を飲んだ。
「これは……?」
正体に気づいた瞬間、アイラの体を悪寒が貫く。
家畜用の焼き印であった。しかも、その円と五芒星《ごぼうせい》を組合わせた印の形は、少年の背に刻まれていた惨《むご》たらしい火傷の痕と、完全に一致した。
アイラの手からカンテラが離れ、覆いの硝子《ガラス》が砕け散った。次いで彼女自身も傾く。
咄嗟《とっさ》に獅子が背でアイラを受け止める。だが、彼女の体はそのままずるずると床に崩れてしまった。
アイラは夢を見ていた。
小さなヨシュアの夢だ。
真っ暗な世界にヨシュアは横たわっていた。床は硬く冷たい石畳。体には古びた毛布が一枚かかっているだけだ。
幼いヨシュアの顔は、眠りながらも苦しみを訴えていた。
寒いのか、痛いのか、ひもじいのか――アイラにはわからない。
とにかく、今すぐにも駆け寄り、小さなヨシュアを抱き締めてあげたかった。寒いというなら暖め、お腹が空いたというなら我が身を削ってでも与えてあげたかった。だが、夢の中だというのに――いや、夢だからこそ思いのままにならないのかも――そばに寄るどころか、声をかけてあげることもできない。
もどかしかった。狂おしいほどに。なにも手が出せないなら、いっそ見なければいい。そう思いつつも、自分から目を背けられない、とアイラはわかっていた。
まして、ヨシュアが、今よりも幼いヨシュアが苦しんでいるとなればなおさらだ。そんな見捨てるような真似ができようか。
夢の中のヨシュアが、もぞもぞと身じろぐ。そして、つぶらな瞳《ひとみ》がぱっちりと開いた。ヨシュアが体を起こし、まわりを見渡した。
「…………」
唇が動いた。なにかをいっているようだ。しかし、アイラには聞こえない。
瞳から涙が溢《あふ》れ、鼻をすすり上げる。そしてなおも叫ぶ。
不意にアイラは理解した。ヨシュアが母親を呼んでいるのだ、と。
周囲の闇《やみ》には誰も現われない。けれど、アイラは正直|安堵《あんど》していた。
本当の母親がヨシュアを抱き締める。そのような光景を目の当たりにしたら……。
アイラは自分を抑える自信がなかった。もしかしたら、母子もろとも殺してしまうかもしれない……
ぞっとする想像だった。どうして、これほど愛するヨシュアを殺すことができるのか。しかし、その子に裏切られたとしたら……考えれば考えるほど胸が苦しくなった。
前触れもなく、闇《やみ》に目映《まばゆ》い光が差した。
その光の下に、もうひとりのヨシュアが照らし出された。まるでうりふたつだ。
けれど、そのヨシュアはふっくらと肉付きがよく、柔らかく暖かそうな蒲団《ふとん》にくるまって眠っていた。寝顔も安らかで、なんの苦しみの色も見出すことができない。
多くの愛情を注がれて育った子どもの顔だ。
アイラは一瞬、自分の願望が形になって現われたのか、と思った。しかし、その脇《わき》には母を求めて泣くヨシュアも、依然として存在する。なぜ、同時にふたりのヨシュアが出てきたのか。それもまったく正反対の境遇のふたりが……。
泣いていたヨシュアが、光に包まれる自分に気づいた。信じられないものを見るような目だ。そして、泣き濡《ぬ》れた顔が喜びに輝く。
ヨシュアは毛布をはねのけ、光に向かって駆け出そうとした。
だが――
突然、ヨシュアが前のめりに倒れた。
左足が鎖に繋《つな》がれていたのだ。
ヨシュアは鎖を抜こうと引っ張る。しかし、鎖も足にはめられた輪もびくともしない。
そうしているうちに、光のヨシュアがだんだんと遠ざかっていく。
鎖に繋がれた闇のヨシュアは、倒れたままもうひとりの自分に向かって懸命に手を伸ばした。
だが、光のヨシュアは、哀れなもうひとりの自分に気づくことなく、完全に姿を消してしまった。
闇の世界に取り残されたヨシュアは、地に伏して泣いた。
闇に生まれ、闇に育った者は、闇のつらさを嘆いていても、そこに生きる己を哀れとは思うまい。
だが、もし光を知ってしまったとしたら。光の中にいる自分を見てしまったら……
アイラは唐突に目覚めた。
恐らくは寝ながら泣いていたのだろう。目も鼻も濡れていた。
目の前に大きな馬の顔があった。その優しさに満ちた瞳《ひとみ》がじっと覗《のぞ》き込んでいた。
アイラは毛布から手を抜き、その顔を撫《な》でた。
「……ありがとう。心配してくれてたんだね」
黒馬は舌を出し、涙を拭《ぬぐ》うようにアイラの頬《ほお》を嘗《な》めた。
「ふふ……エディラったら」
アイラはあたりを見渡した。
いつの間にか夜になっていた。雲間から差す細い月の光で、かろうじてものが判別できる。ここは廃墟《はいきょ》の中だ。あのヨシュアが暮していたという建物から離れているようだが、それ以上は見当がつかない。まったく土地勘がないのだから仕方がない。
あたりは不気味な静寂に包まれていた。樹海の街道と違い、葉が擦れ合う音も虫の音も聞こえないのだ。
「ねえ、ここは――」
ようやく、アイラはアダモの姿がないことに気づいた。それにヨシュアも。
「ヨシュアたちは?」
と、エディラに訊《き》く。
すると、黒馬は蹄《ひづめ》の音を響かせてゆっくりと歩き出した。
アイラは毛布を跳ねのけ、そのあとをついて行くことにした。
ヨシュアの姿はすぐに見つかった。
大きな瓦礫《がれき》が折り重なってできた小高い山の上に、ひとりで立っていた。
「危ないわよ。早く降りてきなさい」
アイラが下から叫んだ。無駄だろうと思いつつも、声をかけずにはいられないのだ。
だが、少年はまるで彼女の声が聞こえないかのように、遠くを見つめている。
――ん?
アイラはどこか少年の雰囲気が変わったような気がする。離れているのではっきりしないが、うつろな表情が消え、その姿はどこか凜々《りり》しさを感じさせた。
ともあれ、アイラは迎えにいこうと瓦礫に足をかけた。
すると、足元の瓦礫の隙間から、獅子の巨体がぬっと現われた。体がすっかり濡《ぬ》れて、雄々しいたてがみもだらりと垂れてしまっている。
「ど、どうしたの。その格好は?」
アイラは目を見張った。
瓦礫の下から這《は》い出すと、獅子は体を激しく振って、水滴を飛ばした。
「きゃ!」
「すまん。かかったかね」
「かかったじゃないわよ。息子を置き去りにして、水遊びでもしてたの」
「別に遊んでいたわけではない。大事な調査だ」
「どういうこと?」
「この瓦礫の下に〈駅〉がある。それを使ってわれわれは移動する。ここに来た本当の目的がこれだ」
「待ってよ。〈駅〉ってなによ。まさか馬車かなにかが埋っているとでもいうの」
獅子は声を出して笑った。
「確かに乗り物には違いないが……まあ、説明するより実際見たほうが早いだろう。どうだね、一緒に下に行ってみるかね」
「あとで結構よ。それより、移動って、どこに行くつもり」
「乗り継ぎがうまくいくかわからないが……一応、最終目的地は大陸の中心だ。きみたちは一度行ったはずだ」
アイラは顔を青ざめさせる。鳥舟に乗って味わった恐怖が身の裡《うち》に蘇《よみがえ》っていた。
「だ、だって、あそこは……」
「危険だというのかね。だが、あれ[#「あれ」に傍点]をどうにかしなければ、この大地に住む生きとし生けるものすべてが死に絶える。ヨシュアが魔王とならず、救世主として歩むならば、いずれ通らねばならぬ道なのだ。むろん、今の、覚醒《かくせい》前のヨシュアでは到底不可能とわかっている。しかし、デルが介入してきたとなれば、ゆっくりとはしておれぬ。目をくらますためにも、急いで移動するべきだ」
「で、でも……」
アイラはなおも躊躇《ためら》いを示した。
その胸の裡《うち》を読み取ったように、獅子はいった。
「大丈夫だ。今すぐに、というわけではない。ガルーたちの到着を待って出発する」
「――ベ、別に、あいつのことなんか気にしてないわ」
アイラは慌てていった。
獅子はため息を吐き、
「自分の気持ちに素直になってはどうかね。きみは、喧嘩別《けんかわか》れしたことを後悔しているのだろう」
「だ、だって――むこうが、あたしたちを見捨てたんだよ!」
「相手を怒らせたのは、きみではないのか。少なくとも、エディラはそう思っているようだ」
「――――!」
アイラは黒馬を睨《にら》みつけようとした。だが、その顔に浮かぶ哀しげな表情にぶつかると、見る間に怒りが萎《しぼ》んでしまった。
「ガルーと逢《あ》えたら、きみから謝るのだ。お互いのためにね」
獅子は優しく諭した。
「でも、戻ってくるわけがないわ。あんなに怒ってたんだし……それにくるとしたって、いつになるか……」
「心配はない。ガルーにしても、きみの気持ちはわかっているはずだ。それに……彼のほうにも、戻らねばならぬ理由があるのだ。それも早急《さっきゅう》にね。遅れれば彼の命にも拘《かか》わる」
アイラは獅子に向かって身を乗り出した。
「命に拘わるってどういうことよ! ガルーの身になにが起きたの!」
「気づかなかったのかね、体の変調に。確かに彼も隠していたのだろうが……」
獅子はヨシュアの血と使徒の関係を教えた。その内容は、デルがガルーに告げたこととほぼ同じだった。
アイラの体がガタガタと震え出した。
「こ、こうしちゃいられないわ……ヨシュアを連れて戻らなきゃ……」
「落ち着きたまえ。気持ちはわかるが、今となっては、ここを動かないほうがいい。彼もここを目指しているはずだ」
「そんなこといったって……」
「信じるのだ、彼を。ヨシュアを通じて結ばれた縁《えにし》は、そう容易《たやす》く切れるものではない。運も彼に味方してくれるはずだ」
獅子は力強く訴えた。
「縁……」
アイラは救いを求めるように、瓦礫《がれき》の上に立つヨシュアに目を向けた。
そして異変に気づいた。
「――――!」
頭上から一筋の煌《きら》めく月光が降り注ぎ、ヨシュアの体を包み込み、髪を銀色に輝かしていた。
獅子が唸《うな》りを上げた。
明らかに攻撃的な意志を持つなに者かの気配を察知したのだ。
傾いた建物の陰からなにかが飛来した。
それはアイラたちのそばを目にも止まらぬ速さでかすめると、瓦礫の上のヨシュアに向かった。だが、それは大きな翼を少年の頭上で羽ばたかせるだけにとどめ、あらぬ方向に飛び去った。
「――なによ、今の!」
だが、獅子はひどく動揺し、答えることができない。
アイラは先にヨシュアのそばに駆けつけることにした。もし、今の敵が本気で攻撃をかけてくれば、無防備なヨシュアはひとたまりもない。
オリハルコンの剣を抜くと、アイラは瓦礫を駆け上がろうとした。
「――駄目だよ、お姉ちゃん。じたばた動かないでくれる」
いつの間にか瓦礫の上に――ちょうど、ヨシュアとアイラを結ぶ線上の中間に――黒い外套《がいとう》に身をつつんだ少年がいた。少女と見紛うきれいな顔立ちだったが、相手を小馬鹿にするような憎々しい笑みを浮かべている。
「――おどき! 子どもといえど容赦はしないよ」
アイラは殺気を込めて、輝く剣の切っ先を少年に向けた。
少年はたじろぎもせず、腹を抱えて笑った。
「あははは、そんなオモチャが役に立つと思ってるんだ」
頭に血が上ったアイラは剣を振るった。外套を切り裂くつもりで。
ところが――
切っ先が届く寸前で、少年の姿が霞《かすみ》のごとく消え失せた。そして、少し離れた場所に再び姿を現わす。まるで宙に湧《わ》いたように見えた。
「無駄だよ、無駄。お姉ちゃんじゃ、ぼくの動きだって追えないでしょ。その剣で〈虎《バルド》〉を倒したそうだけど。あんなのろまと一緒に考えないでよ」
「――あんた、誰なの」
アイラは愕然《がくぜん》とした顔で問う。
「ぼく? ぼくの名はテューレ。〈山猫〉のテューレさ。憶えておいて……といっても意味ないか。どうせ、お姉ちゃんたち、みんなすぐ死んじゃうんだからね」
「なんですって!」
「怒らない、怒らない。せっかくのビボウが台無しだよ」
「このませガキっ!」
アイラは大きく踏み込み、本気で斬《き》りつけた。だが、少年はまた消えた。
その時、アイラの背後から光が湧《わ》いてきた。ヨシュアを照す怜悧《れいり》な月光とは違い、柔らかな暖かさを感じさせる光だ。
そして、大勢の足音が聞こえてくる。
通りの向こうから、先程のテューレと名乗った少年と同じ黒い外套をまとう一団がやってきた。光はその間から湧いている。
黒装束の男たちは、アダモたちのすぐそばで行進を止めた。
列が左右に割れ、髪を黄金に輝かせた美女が前に進み出てきた。
アイラは目を疑った。その女の顔が、ヨシュアと生き写しであったからだ。
――まさか、ヨシュアと一緒に生まれた……で、でも、この女が妹のはずがない。今のあたしとさほど違わない年に見えるわ。
女は聖母のような微笑《ほほえ》みをたたえて、アダモとエディラに向かい合った。
「お久しぶりですわ。お父さま、そして……」
「まさか、おまえが出てくるとはな……」
獅子は苦渋に満ちた声を洩《も》らした。
女神グラシアは、その青き瞳《ひとみ》を瓦礫の上に立つ双子の兄に向けた。
アイラはぞっと寒気がするような気配を感じて振り返った。
すると、ヨシュアの髪がダスターニャの時と同じように逆立ち、自ら銀色に輝き出していた。
ただ、ひとつ違う点は――ヨシュアの目は、明らかに双子の妹を敵として認識していた。
[#改ページ]
あとがき
『アルス・マグナ』第三巻『碧眼の女神』をお届けします。
どうやら今回は「タイトルに偽りあり」にならずにすみました。細かい点を除けば、ほぼプロット通りに展開できたといえます。もっとも、これで当初思い描いていた第一巻の内容を消化できたわけで、まだまだ先は長そうです。
ともあれ――
この巻はスケジュール的、肉体的にも苦しみましたが、反面、書いていて楽しいという感覚を持続できた、わたしにとっても珍しい一冊となりました。読者のみなさまにも楽しんでいただければ、ありがたいのですが。
さて、この巻は新キャラが数多く登場します。
前の巻の最後にチラリと顔を出した、グラシア、ヘルマーも事実上新登場といえます。予定外は〈十二使徒〉――〈獅子〉のタイフォン、〈蛇〉のネフシス、〈山猫〉のテューレ、〈馬〉のケセド、〈牛〉のゲープラ、〈鷲〉のティファレイです。
始めは登場させるにしても、もっと目立たせない書き方をするつもりでいました。しかし、いざ描写し始めると、もう筆が走ること。結局、以前から頭に描いていたキャラとは、まったくの別人となりました。
まあ、わたしとしてはよくあることで、本人はさほど気にもしていなかったのですが、小林智美さんに、ご迷惑をおかけしてしまいました。
後日、編集担当氏から事情を伺ったのですが、わたしの原稿に先行して(というより原稿が遅れていたので仕方なく)カバーイラストを進めておられたところ、〈十二使徒〉登場のシーンの原稿が届き、九分九厘完成されたというのに、全面的に描き直しをされたそうです。
お陰で――と申しますが、神々しいまでのグラシアさんのお姿がカバーを飾ることになりました。毎回思いますが、文庫サイズまで縮小するのがもったいない出来映えです。小林さんには、お詫びとともに心からお礼を申し上げます。
新キャラといえば、今回初めて脇役で名を与えられたにも拘らず、作者に殺されずにすんだキャラが出ました。人に指摘されて気づいたのですが、この人の場合、ヨシュアには逢っていない――それが命を長らえた理由に違いありません。そのせいか、ダスターニャに比べ、ペルーテはなんと明るいことでしょう。雰囲気がそこだけ違っている感じですね。実際、書いて楽で楽しいシーンが多かったのも事実です。一部で『寝たきり主人公』と陰口を叩かれる『ヨシュ坊』――仲間内ではこう呼ばれてます――ですが、目立たぬように見えて、影響力だけはやたら大きいと実感しました。
余談になりますが、もうひとつのわたしのシリーズ『聖刻1092』では、ジュレ・ミィという少女が、本にして三巻半、実に一年八ヵ月(作中では一週間程度)も眠り続けた例もあります。それに比べれば、ヨシュ坊は目が開いているだけましというものです(開き直ってどうするんだ、といわれそう)。
さて、前回追伸に書いたように、三巻まで書いた段階で『アルス・マグナ』はちょっとお休みして、『聖刻1092』第二部の執筆に入ります。そして『アルス・マグナ』第四巻は、一応来年の二月刊行を予定しています。少し間が開きますが、お待ちください。
[#地から1字上げ]一九九二年七月二三日 仕事場にて
[#地から1字上げ]千葉 暁
[#改ページ]
追記:〈十二使徒〉全氏名
第1使徒〈獅子〉のタイフォン  ♂
第2使徒〈蛇〉のネフシス    ♀
第3使徒〈山猫〉のテューレ   ♂
第4使徒〈馬〉のケセド     ♂
第5使徒〈牛〉のゲープラ    ♂
第6使徒〈鷲〉のティファレイ  ♀
第7使徒〈鰐〉のネツァク    ♂
第8使徒〈亀〉のザクス     ♂
第9使徒〈猿〉のイエソド    ♂
第10使徒〈虎〉のバルド     ♂
第11使徒〈豹〉のパイジャ    ♂
第12使徒〈?〉のイエルネ    ♀
[#改ページ]
[#挿絵(img/03_270.jpg)入る]
[#挿絵(img/03_271.jpg)入る]
底本
角川スニーカー文庫
碧眼《へきがん》の女神《めがみ》 アルス・マグナ3
著者 千葉暁《ちばさとし》&伸童舎《しんどうしゃ》チームA.M.
平成四年九月一日  初版発行
発行者――角川春樹
発行所――株式会社 角川書店
[#地付き]2008年8月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
・暝想
・躊躇《とまど》い気味
・万能融化液《アルカエスト》
・万能融解液《アルカエスト》
修正
《→ 〈
》→ 〉
ダスータニャ→ ダスターニャ
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
鹸《※》 ※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]「鹵+僉」、第3水準1-94-74
箪《※》 ※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94