光と闇の双生児
アルス・マグナ2 大いなる秘法
千葉暁&伸童舎チームA.M.
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)千葉《ちば》 暁《さとし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)虎|獣人《ヴィージャ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)奇跡の血[#「奇跡の血」に丸傍点]
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[#挿絵(img/02_000a.jpg)入る]
〈カバー〉
千葉《ちば》 暁《さとし》
●略歴=一九六〇年一月五日、東京都に生まれる。山羊座。血液型B。法政大学中退。雑誌編集ディレクター、ゲーム・デザイナーなどを経て、「聖刻1092 旋風の狩猟機」(朝日ソノラマ刊)で作家デビュー。女性読者獲得の願いを秘めて、「アルス・マグナ」に挑む。
光と闇の双生児 アルス・マグナ2
純白の少年ヨシュアを襲う黒い影。樹海の踊り娘《こ》アイラは死闘の末に虎|獣人《ヴィージャ》を屠《ほふ》ったが、|愛し子《ヨシュア》は瀕死の深手を負った。私の舟なら治療できる――ムウの伝道師《ナーカル》と名乗る美貌の青年の申し出に、生死の境をさ迷うヨシュアを抱いて、アイラは天空に浮かぶ鳥舟へと渡る。ガルーとの再会を果たしたものの、黒髪の伝道師《ナーカル》の微笑はあまりに妖しく謎めいていた。この男もヨシュアの宿《やど》す奇跡の血[#「奇跡の血」に丸傍点]を狙うのか――訝《いぶか》しみつつも次第に心ひかれていくアイラ。だが、彼らの行手には、錬金術師の張った狂気の罠が待ち受けているのだった――
謎に満ちた樹海の大地を揺るがす冒険ファンタジー第二弾!
[#改ページ]
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光と闇の双生児
アルスマグナ2 大いなる秘法
[#地付き]千葉暁&伸童舎チームA.M.
[#地から1字上げ]角川文庫
目次
第一章 ムウの鳥舟
第二章 黒髪の伝道師《ナーカル》
第三章 狩の街
第四章 狂乱の獣
あとがき
巻末付録
企画・原案 千葉暁&伸童舎チームA.M.
構成・文 千葉暁
構成協力 千葉悦子
地図作図・小道具設定 シイバケンジ
ロゴ・本文デザイン しいばみつお
制作進行 清水章一
プロデューサー 野崎欣宏
――――――――――――
キャラクターデザイン
口絵・本文イラスト 小林智美
[#改ページ]
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『エルマナの伝承』
太古さながらの原生林が、地表を覆い尽くす――エルマナの地。
だが、〈樹海〉が生まれたのは、そう昔に遡る出来事ではない。
暦にして、わずか五〇〇年前。――
それ以前のエルマナは、空に巨船が行き交い、美しい羽を持った鳥が舞い、地に壮麗な建物が立ち並び、色とりどりの草花が咲き乱れる――いわば、文明と自然が見事に調和した地上の楽園――『神の園エル・マナ』であった。
地球史において、最も古く、そして長き栄華を誇った文明――それが〈古エルマナ〉である。
太平洋と大西洋に二大文明を築いた――空の民ムウウと海の民アトランティスも、エルマナに比べれば、歴史浅き新興勢力に過ぎなかった。事実、両文明はエルマナに学び、エルマナを真似ることで、急速に発展したと伝えられる。
では、それほどの文明が、なぜ消え去ったのか?
後に生じたあまたの宗教は、〈大災厄〉なる天変地異の到来を、その教典に記している。
……地は火の洗礼を受けて焦土と化し、天は厚き雲に覆われ、長き冬の時代を迎えた。そして幾星霜を経て、大地のへそから森が生じ、瞬く間に広がった……と。
森は、神が差し伸べた救いの御手であった。
森から取れる実や草が、飢えに苦しむ人々の腹を満たし、切り出した樹木が、寒さをしのぐ住いの材料となった。また、森の恵みは、人ばかりではなく、同じように生き残った鳥や獣にももたらされた。
古エルマナの末裔は、長い歳月をかけて、村を、町を、国を築いた。かつての栄華は見る影もないが、間違いなく彼らは再興の道に足を踏み出していた。まだこの時期には、先の文明を支えていた〈道士〉――今でいう錬金術師たちも、いにしえの技を残し、その力を用いることができた。
だが、その輝ける道に、いつから翳りが現れたのか?
国が分裂し、戦を始めた頃だろうか。
町を広げるため、森に火をかけるようになった頃か。
それとも、森に見たこともない、奇怪な魑魅魍魎どもが徘徊するようになった頃か――
いずれにしろ、森が、〈樹海〉と畏怖の念を込めて呼ばれるようになった頃には、運命は定まっていた。
森に生じた新種のシダ植物は、〈大災厄〉直後にまさる勢いで繁殖し、高くそびえる木々の傘が、地上を昼なお暗き闇に変えた。
人々は森の侵食を食い止めるため、斧を振るい、火を用いた。それでもあまたの町が森に没し、人が生きられる場所は極度に狭まった。
そして、〈獣人《ヴィージャ》〉――
この半獣半人の生き物は、人を食らうために遣わされたとしか思えない人間の天敵であった。
不死身と称される強靭な肉体と、鋭い牙と爪を具え、狡猾さは時として人間を上回る。
彼らは、凶暴な肉食獣を眷族として従え、次々に町を襲った。人間が町を高い塀で囲み砦を築くと、今度は街道に出た隊商を狙った。自給自足ができない町は、たちどころに困窮し、時を経ずして樹海に没した。
もはや、エルマナの民の頭上には神の御手はない。輝きの道は滅びの道へと転じていたのだ。
[#改ページ]
【第一章 ムウの鳥舟】
煌々《こうこう》と輝く月の光が、厚い雲海を照す。
夜空に散りばめられた星々の瞬《またた》きの下で、雲の海原は、あたかも時が凍りついたかのように静まりかえっている。
すると、目に見えぬ風に乗って、そびえ立つ巨城のごとき雲の塊が、光輝く絨毯《じゅうたん》の上をゆっくりと流れていく。
雲の城に、ふと黒い影がよぎる。
遥《はる》か上空を渡る物体が月光を遮ったのだ。
鳥さえ上れぬ高みに、いったいなにがいるというのか――
それは、まばゆい金色の輝きを帯びた一対の〈翼〉であった。
人工物であることは疑いない。
ふたつの翼を繋《つな》ぐ胴体は、海に浮かぶ船そのものだ。もっとも帆柱の類はなく、代わって船体後部甲板に、石の列柱に囲まれた神殿風の建物が載っている。
そして、翼の下面には、鳥の羽をあしらった浮き彫りが、その翼が合わさる部分には、雲海を見降ろすかのように、人の顔を模した彫刻があった。
黄金の翼は、羽ばたきもせず、虚空を悠然と渡る。だが、実際は矢よりも速く、大気を切り裂いて飛行しているのだ。
人工物だとしても、いかなる原理で飛行しているものか、外見からは見当もつかない。ましてや、雲海の下に広がる樹海に住む人々にとっては、奇跡以外のなにものでもなかろう。
樹海の踊り娘――アイラ・モエリは、厚い氷のような硝子《ガラス》の床を通して、足下に広がる雲が作り出す峻厳《しゅんげん》な景観に見入っていた。
アイラは肌も露な衣裳《いしょう》をまとい、ぐったりとした少年を、胸にしっかと抱き締めていた。
少年の髪は老人のように白い。
そればかりか、肌も単に色白という範疇《はんちゅう》には収まらない、病的なまでの白さだ。
少年の名前をヨシュアという。樹海の民に忌み嫌われる〈白子〉であった。
ヨシュアの唇は紫に染まり、閉じられた瞼《まぶた》の下には濃い隈《くま》が浮き出ていた。そして、力なく垂れ下がった華奢《きゃしゃ》な指先からは、ポタポタと雫《しずく》が落ちている。
ふたりは髪といわず服といわず、全身|濡《ぬ》れそぼり、滴り落ちた雫が床に水溜《みずた》まりを作っていた。
よく見れば、踊り娘の呼吸は荒い。加えて、膝自体が笑っているかのように小刻みに震えている。
寒いからではない。外の寒々しい光景と裏腹に、舟の内部は汗ばむほどの暑さだ。
――な、なによ、これ。どうして、雲が下に見えるのよ。
アイラは心の中で狼狽《ろうばい》の声を上げた。
できるなら、実際に口から泡を飛ばして喚《わめ》き立てたいところだったが、喉《のど》も口も、まるで自分のものでなくなったように動かない。
そして、目も硝子越しに映る遥《はる》か下方の光景に釘づけになっていた。
もちろん、感動のため目が離せないわけではない。空を飛んでいるという、想像もしなかった非現実的な出来事に、魂までが竦《すく》み上がっていたのだ。
さらに顕著なのが足だ。まさに『薄氷を踏むごとく』という心情を、そのままに表わしていた。
舞台用の真紅の靴は、硝子床に足を降ろした時から一歩たりと動いていない。
しっかりとした硬い床の感触が伝わってくるのだが、どうしても踏み出すことができなかった。
ちょっとでも動けば、途端に足場が消え失せ、真っ逆さまに落ちてしまう――そんな妄想めいた想いにアイラはとり憑《つ》かれていた。
「――どうかなさいましたか?」
ふいに、アイラの背後から声が上がる。品のよさを感じる男の声だ。耳に慣れた、粗野で下品な男たちのそれとはまるで異なる。
その声を聞いた途端、アイラの体がビクッと大きく震えた。傍らに人がいたことを、忘れ去っていたかのように見える。
おそるおそるといった様子で、彼女は上半身と首を捻《ひね》り、顔を背後に向けた。靴底が床に張り付いたように足は微動だにしない。
開かれた扉を背に、長身の男が立っていた。扉の向こうは明るい光に満ち、逆光のせいで男の顔は黒い影に塗り潰《つぶ》されている。
だが、アイラは男の口元に上る微笑《ほほえ》みを、確かに見た。
決して冷笑、あるいはせせら笑いといった類のものではなかった。
にも拘《かかわ》らず、アイラの胸に羞恥《しゅうち》と怒りが入り交じった感情が湧《わ》き上がる。頭の中がかっと熱くなり、足腰がしゃんとなった。
「――別に。どうともしないわ」
アイラは鼻を鳴らすがごとくいった。
「雲を真上から見降ろすなんて、滅多にできることじゃないでしょ。見蕩《みと》れていたのよ」
すると、静かな室内に短い失笑が響く。
アイラは目つきをさらに険しくして、相手を睨《にら》みつけた。
その怒りに満ちた視線を、男は軽く無視して、
「では、こちらに。濡《ぬ》れたままの格好では、体に触りましょう。すぐにお召し物を用意します」
男はアイラに背を向ける。その時、廊下の明かりに照らされて、恐ろしいまでに端麗な横顔が垣間見えた。
男の名はグリフィン。ムウから来た〈伝道師《ナーカル》〉と称する人物である。そして、この〈鳥舟〉の主でもあった。
黒髪の青年の腕には、やはり意識を失った子どもが抱かれていた。
人間の子ではない。赤茶けた体毛に覆われ、狼の頭を持つ〈獣人《ヴィージャ》〉――狼獣人の仔《こ》だった。
「待って」
アイラが呼び止める。そして、胸に抱いた少年と相手を交互に見て、
「服なんてどうでもいいわ。それより早くこの子の手当を。同行したのは、そのためだってことを忘れないで」
グリフィンが振り返る。眩《まぶ》しいまでの灯火に照らされた白面の顔に、苛立《いらだ》ちめいたものはまるで感じられない。
「重々承知しておりますとも。ですから『こちらに』と申してます。ここは地上と舟を結ぶ〈虹の間〉。治療を行う〈樹の間〉は通路の向こうにございます」
淑女に対するような慇懃《いんぎん》な態度――ではあった。だが、アイラは小馬鹿にされたような不快さを覚えた。
噛《か》みついてやろうかしら、と思ったのも束の間、グリフィンはどうとでも取れる意味深な微笑《ほほえ》みを残して、扉の陰に消えた。
コツコツと靴音が遠ざかっていく。
気づくと、アイラは広間に取り残されていた。硝子《ガラス》床がかすかに震え、吹き荒ぶ風の唸《うな》りが伝わってくる。
踊り娘はふいに寒気を覚えた。
見知らぬ場所というだけではない、異世界にひとり取り残されたような、心細さを感じたのだ。
アイラは少年を強く抱き締めた。そして、グリフィンを追って広間から飛び出した。
白い僧衣の上に、黒い外套《がいとう》をはおったムウの伝道師が、幅の狭い廊下を悠然と進む。そして、その影を踏むように、アイラがぴったりと背後につき従う。
床は磨き上げられた大理石。両側の壁は木目も美しい豪奢《ごうしゃ》な板張りだ。梁《はり》や柱には見たこともない意匠の彫刻が施されている。そして、通路に添って等間隔に穿《うが》たれた天井の穴から、陽光が降り注いでいる。まるで穴のひとつひとつに、小さな太陽が入っているかのようだ。それも、常に天を厚い雲が覆い尽くす樹海では、生涯お目にかかれない強い日差しだった。
だが、アイラには周囲を観察する余裕などなかった。意識のすべてが、胸に抱いた愛し子に注がれていたのだ。
ヨシュアは死んだように眠っていた。
息はわからぬほど浅く、手から伝わるかすかな鼓動を感じなければ、すでに死んでいると思い込みそうだ。しかも、ようやく治りかけていた頭の裂傷が再び開き、傷口に当てた布きれの表側にも赤い血が染み出ていた。
――なんだってこんなことに。そうよ。あたしが舞台に出なければ、この子をほったらかしにしなければ、もっと早く駆けつけていれば。
アイラは自分の迂闊《うかつ》さ、愚かさを呪《のろ》った。
冷たい雨が降りしきる町を、愛し子がひとりで逃げ回っている間、自分はなにも知らず舞台で踊っていた。それも他人から強制されていたわけではない。観衆を前に満足がいく舞台を踏みたかった――その欲望に負けた結果がこれだった。
――ああ、坊やにもしものことがあったら、あたしはどうやって償えばいいの。
ヨシュアを狙《ねら》った虎獣人は、死闘の末に葬ることができた。だが、そんなことで、少年の命と釣り合いがとれるはずもない。彼女が救われるには、少年が再び死の淵から蘇《よみがえ》るしかなかったのだ。
ふいに、前を歩くグリフィンが立ち止まり、アイラはその広い背中にぶつかりそうになった。
彼の正面に木製の扉があった。扉のちょうど目線の高さに、丸い果実をたわわに実らせた樹木を象《かたど》った紋章が掲げられている。
ここが〈樹の間〉なのだろう。
「……○△口」
グリフィンは扉に向かって、意味不明の言葉を唱えた。
すると、音もなく扉が開き、真っ暗だった室内に照明が点《つ》いた。
――まるでお伽話《とぎばなし》に出てくる魔法だわ。
アイラは驚きの目で見つめていた。
そこは風変わりな広間だった。
釣《つ》り鐘状の高い天井。広間中央には見たこともない樹木が植えてある。木はまるで棒をねじり合せたような細い幹で、光|溢《あふ》れる天井いっぱいに緑の枝葉を茂らせていた。
樹海で見る鱗状《うろこじょう》の樹皮をつけた木々と比べ、ずっと穏やかな印象がある。
そして、木を中心として放射状に石造りの黒い浴槽が八つ据えられている。
アイラは一瞬ひやりとした。それを棺《ひつぎ》と勘違いしたのだ。
浴槽かもしれない、と思い直したのは、空のそれに、青みがかった液体がひとりでに湧《わ》き出し、中を満たしていったからだ。
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「……これが?」
アイラは怪しむ声を洩《も》らした。
胸の病を患った昔、一度だけ大金を払って医者にかかったことがある。だが、記憶に残る診療室の様子とまるで違う。傷を癒す薬や包帯はいったいどこにあるのか。
なんの説明も行わず、グリフィンは、抱えていた狼獣人の仔《こ》を、浴槽にゆっくりと浸した。浴槽の底は斜めになっており、首だけは青い水面の上に出るようになっている。
その子は虎獣人との戦いにおいて、捨身でアイラの逆転の機会を作ってくれた――いわば彼女とヨシュアの命の恩人だった。
けれど、アイラの胸には感謝の念はなく、なぜグリフィンがこの子まで連れてきたのか、といぶかる気持ちが強い。まして、愛しいヨシュアの脇《わき》に寝かさせられるかと思うと、おぞけが走る。
――よく触れるものね、あんなけだものを。
樹海の民にとり、獣人は恐怖と憎悪の対象に他ならない。この子どもが、見せ物小屋でなぶられる姿を見ても、アイラは一片の哀れみも抱かなかった。情が薄いというより、獣人の影に怯《おび》え続けて生活する住民の、ごく一般的な反応といえよう。そして、虎獣人に食いついたことも、自分たちを救おうとしたのではなく、たまたま仲間同士で争ったと思い込んでいた。
立ち尽くすアイラに向かって、グリフィンが声をかける。
「その子も同じように。ああ、着衣を脱がせて――」
顔から笑みが消えていた。
グリフィンの真剣な面持ちを見て、アイラから抗《あらが》う意志が萎《な》えていく。
「あ、ああ」
アイラはおとなしく言葉に従う。
少年を床に横たえ、上衣のボタンを上からひとつずつ外していく。そして、腹の部分が表われた時、彼女はハッと息を飲んだ。
へその上からみぞおちにかけて、黒々とした大きな痣《あざ》ができていた。見せ物小屋の興行主クロムが蹴《け》りつけた痕だ。
「ひ、ひどい……誰がこんなことを」
痣に触れてみると、その部分だけが火をつけたように熱い。そして、意識がないはずのヨシュアが苦しげに呻《うめ》く。
「ね、ねえ――あんた、早くこっちに。ぼ、坊やが――」
すっかり狼狽《ろうばい》しきったアイラが、グリフィンを呼ぶ。
やってきた伝道師は、痣を一瞥《いちべつ》すると、
「内臓が傷ついているかもしれませんね。とにかく、急いで浴槽に入れなさい」
それだけいって、グリフィンは腰を上げた。赤毛の狼のところに戻るつもりなのだ。
「お待ちよ。そんなけだものなんか放っといて、うちの坊やをもっと親身に診とくれよ」
だが、グリフィンはまるで耳に届かなかったように、もうひとりの患者の元に戻る。
「――あんたねえ!」
アイラはかっとして怒鳴る。
「争っている暇はありませんよ。こうやっている間にも、ヨシュアの命の火は、少しずつ細くなっているのです。わたしの指図に従わなければ、確実に死にます。よろしいのですか、それでも」
伝道師の言葉は、まさに刃と化してアイラの胸に突き刺さる。
彼女は慌《あわ》てて横たわる少年に屈み込み、手際よく衣服を脱がし、抱え上げる。
けれど、浴槽に入れる時に躊躇《ためら》いを覚えた。中を満たす青い液体が気になったのだ。まさか、毒じゃないだろうけど……。
「ねえ――」
グリフィンに尋ねようとして、途中で挫《くじ》ける。伝道師の背は、明らかにアイラの優柔不断さを拒んでいた。
――いいわ。なにかあったら、ただじゃ済ませないからね。
アイラは覚悟を決めた。
白い裸体が生暖かい液に浸る。
すると、グリフィンがやってきて、浴槽の縁についた黄銅色の機械を操作する。
浴槽の下からブーンという音が上がる。水面が振動し、波紋が生じた。そして、それに呼応するかのように、天井がさらに明るさを増し、光を浴びた樹木が、一斉に木の葉を揺らす。
アイラの目は、浴槽に浮かぶ少年に注がれている。
初めて出会った晩を思い出していたのだ。馬車に揺られながら、冷え切ったヨシュアを抱いて、一晩中一心不乱に祈り続けた晩のことを。
ふと彼女は、あれから一月も経っていないことに気づいた。
街道の旅は苦難の連続だった。二度殺されかけ、町では獣人と戦うはめになった。心休まる時など、ついぞなかったといってもよい。
だがしかし、アイラはヨシュアと出会う前の自分を思い起こせなくなっていた。それほどに、少年に対する彼女の愛情は強く、深まっていたのだ。
もし、ヨシュアを失うことになれば――
再び胸に込み上げてきた想いが、涙となって踊り娘の目から溢《あふ》れる。
「下がって」
ムウの伝道師は、冷徹な医師の顔となって、アイラを浴槽から遠ざける。
――なによ、偉そうに。
それでも、踊り娘は腹立ちを抑え、命令に従った。
少年の容体は、出会った時よりさらに重く、もはや自分の力では手の施しようがなかった。悔しいが、助けるには、不思議な力を持つグリフィンに頼らなければならないのだ。
アイラは壁まで下がって、青年の後ろ姿を見つめた。
相手が背を向けている安心感からか、その目には、露骨なまでの不審感が表われていた。
ムウの伝道師について知るところは少ない。
なんでも、海を隔てた別の大地からやってくる連中で、滅びに瀕《ひん》した樹海の民を救うと称して、各地で伝道活動を行っているという。
むろん、まともに取り合う人間など滅多にいないが、ムウの伝道師は不思議な術を心得ており、その恩恵にあやかろうと、うわべだけでもと従う者が結構多いそうだ。
医術はそのひとつで、死人すら蘇《よみがえ》らせることができるという。尾ひれがついた噂《うわさ》としても、そこらの町医者より遥《はる》かに腕がよいことは確かだろう。
また、ムウ人には奇怪な風聞がつきまとっている。アイラが聞いただけでも――ムウの人間は背中に羽根を持ち、空を飛ぶ鳥人である――体が石でできた従者を従えている――彼らの耳たぶは、袋のように垂れ下がっている――など耳を疑うものばかりだ。
奇しくも、アイラは彼らの舟に同乗する機会を得たが、どうやらすべて眉唾《まゆつば》だったようだ。グリフィンの背中には羽根もないし、耳も普通だ。もちろん石の従者などどこにもいない。しかし、だからといって安易に信用するわけにはいかない。
それは理屈ではなく、彼女の直感が訴えていた。
そう――彼には危険な香りが漂っていた。
なにかの魂胆を抱いて接近してきたことは疑いない。恐らくは――いや間違いなく、ヨシュアの体内に流れる『奇跡』の、そして『謎《なぞ》』の血を狙《ねら》っているのだろう。
だからこそ、アイラも誘いに応じて鳥舟に乗り込んだ。罠《わな》と承知でだ。
〈血〉が目当てならば、ヨシュアに死なれては困るはず。治療に全力を上げるだろう。
あとのことは、その場その場で考え、切り抜けるつもりだった。
――こんな優男《やさおとこ》、いざとなったらこの剣で。アイラは腰の細剣を握り締めた。
虎獣人を屠《ほふ》ったことで、彼女は知らず知らず自信が備わっていた。
もっとも、その勝利もオリハルコンの細剣があったればこそ、といえる。そして、剣を与えた者こそ、他ならぬグリフィンだったことを忘れているようだが……。
ふいにアイラは眩暈《めまい》を覚え、体をふらつかせた。
――暑い。なんだって、こんなに部屋を暑くしなけりゃならないのかね。
アイラは目を狭めて、天井を見上げた。太陽のような日差しを浴びて、生まれて初めて肌をあぶられるという感覚を味わった。
胸と腰元だけを覆った薄い衣裳《いしょう》から、とうに雨の雫《しずく》は蒸発し、代わって肌から滲《にじ》み出る汗が湿り気を与えていた。
窓のない部屋では時を計るすべはないが、アイラは治療を始めてからかなり時間が過ぎたような気がした。
グリフィンもやるべきことをすべて終えたように、ヨシュアの上に屈み込んだままじっとしている。
「どうなんだい。坊やは――ヨシュアは助かるんだろうね」
アイラはついに辛抱を切らした。
だが、黒髪の青年は動きを凍りつかせたまま一言も発しない。
息詰る沈黙が続き、踊り娘は心臓が締めつけられる痛みを覚えた。
「――ねえったら!」
焦《じ》れたように、もう一度怒鳴る。
ゆっくりとグリフィンが立ち上がった。だが、その唇は無表情に結ばれ、踊り娘を見つめる瞳はひどく冷淡に思えた。
アイラは泣く寸前のように顔を歪ませた。胸中を渦巻いていた不安が堰《せき》を切って、溢《あふ》れ出てきたのだ。
「お、教えとくれよ、坊やの具合を。わかるだろう。心配で、心配で胸が押し潰《つぶ》されそうなんだ……」
グリフィンは、己の袖《そで》にすがりつくアイラの手に目をやる。
握り締めた細い指が震えていた。
グリフィンの顔がほころぶ。感情のない人形に、いきなり暖かい魂が宿ったような劇的な変化であった。
「……ご安心なさい。命はとりとめました。ふたりともにね」
アイラは信じられないといわんばかりに、目をしばたたかせた。
伝道師の言葉を確かめようと、踊り娘は少年のもとに駆け寄った。
浴槽の傍らに跪《ひざまず》き、少年に顔を近づける。
あい変わらず顔色が悪い。けれど、苦しげだった表情が和らいでいる。それに呼吸もか細いながら安定していた。
「坊や、坊や」
アイラは少年の耳元で囁《ささや》く。
すると、少年の唇《くちびる》がかすかに動いた。
声にはなっていない。けれど、アイラは少年がなにを口にしたか、はっきり理解した。
そう、ヨシュアは「お母さん」といったのだ。
「あ……ああ……」
彼女の口から、安堵《あんど》とも嗚咽《おえつ》とも受け取れる声が洩《も》れ出る。
アイラは掌で顔を覆った。その指の間から涙が流れ落ちる。
「な、なんて礼をいってよいか……わからないよ……」
グリフィンは無言のまま、彼女の素肌|剥《む》き出しの肩に、背後から手を乗せようとした。
だが、指が触れた瞬間、アイラは激しい動きで振り向き、男の手を払い除ける。
多分に反射的な行動だったのだろう。その直後、アイラは自分の行為に驚いたように目を見開く。
グリフィンの目にも驚愕《きょうがく》が走った。
それだけではない。一瞬ではあったが、アイラに対する恐れ、そして憎しみが交錯したかに見えた。
伝道師は細い眉《まゆ》を痛みに引きつらせ、打たれた右手首を押さえた。
たかが女の――と馬鹿にはできない。ヨシュアの〈血〉を飲み、再生したアイラは、常人に倍する力を得ている。軽く放つ打撃でも、人の骨を砕く威力が優に具わっているだろう。
「……わたしとしたことが……あなたが美しき獣……決して人には慣れぬ……野生の獣であることを忘れていました」
その声は跡切れがちであった。よほど痛むのだろう。
「わ、悪かったよ。恩人に向かって手を上げるなんて。まさか、折れたりしちゃいないだろうね」
アイラはおろおろとグリフィンの顔を覗《のぞ》き込む。そして、男の瞳によぎったものを、気の迷いと頭から追い出していた。
グリフィンが顔を上げた。
「謝罪すべきはこちらのほう……ご婦人の肌に気安く手を伸ばした、わたしが悪いのです。それに……〈障壁〉を切っていなければ……」
「え……?」
「いえ、こちらのことで……」
伝道師は言葉を濁らせ、大きく息を吐いた。激痛からは解放されたようだ。
「ご心配なく……骨には異常ないようです。それに……もし折れていたとしても、〈ウィク・ラ〉にかかれば、半日と経たずに全快しますから」
「うぃくら?……なんだい、それ」
「子どもたちに用いている治療器のことです。太陽光に含まれる生命波動《ラ・ハ》を凝縮して、患者に賦与する仕組みになっています。従来の療法とは異なり、患者自身の生命力そのものを高めて病気や怪我を治します」
「はあ?」
「わかりませんか? もっと噛《か》み砕いて申し上げるなら――」
「よしとくれ。そんな小難《こむずか》しい話を聞いていたら、頭が痛くなっちまうよ。要するに、あの風呂《ふろ》の親戚みたいな奴に浸《つ》かってれば、元気になるってことだろ」
「まあ、そういうことにしておきましょう」
グリフィンの顔に笑みが戻る。無理に作ったものではなく、本当に痛みが薄らいでいるようだ。
アイラは安堵《あんど》の息を洩らした。
「――で、坊やはいつになったら元気になるんだい」
グリフィンが苦笑いする。
「おやおや、気忙しいことですね。つい先程まで、生きるか死ぬかと大騒ぎしていたかと思えば――」
踊り娘はむっと口を曲げた。
「悪いかい。坊やを救ってくれたことは、心から礼をいうけどね――正直いって、ここには長居したくないのさ」
「それはまたいかなる理由で? ここにいれば安全です。あなたがたをつけ狙《ねら》う連中も、決して手が出ません」
グリフィンの弁には、確たる自信を忍ばせていた。
「あの虎男とは、仲間じゃないみたいだけど……」
アイラは露骨に疑わしげな目を向ける。
「なにか勘違いされているようだ」
グリフィンはあっさりといった。そして、彼はぬかずくような仕草で身をかがめ、アイラの目の前に自分の顔を持っていった。互いの息が吹きかかる近さだ。
「前にも申しましたが、わたしはあなたがたの味方です。信じていただけませんか」
アイラの心臓が跳ねるように鳴った。相手に聞こえたのではないか、と心配するほどに。
真摯《しんし》な光を帯びる、琥珀色《こはくいろ》の瞳を見たせいだ。
グリフィンの瞳には、不思議な魔力が具わっていた――少なくともアイラにはそう思えた。
心臓が早鐘を打ち、頭がのぼせてなにも考えられなくなる。
「おや……おかしいね、本当に頭が……」
アイラの体がふらつく。それを支えようとグリフィンが手を伸ばすが、彼女は逃れるように後ずさった。
慌《あわ》てて動いたのがいけなかった。目の前が急に暗くなり、アイラは崩れるように床に倒れ伏した。
――いい匂《にお》い……花の香りかしら。
微睡《まどろ》みの中で、アイラは寝返りを打った。
肌に吸いつくような柔らかい敷布の感触、そして、体を包み込む蒲団《ふとん》の暖かさに、うっとりする心地よさを感じた。
病の身になってからというもの、このような安らかな眠りは絶えて久しい。
おおかたは、すえた匂いのする薄っぺらな寝具にくるまり、寒さに凍えて夜半なん度も目を覚ます。朝になっても、いくらも寝た気がしない。体は重苦しさが消えず、疲れがまったく取れていない。
起きるのは辛いが、いつも無理してでも寝台から這《は》い出ている。もう一度眠りにつくことはできないし、横たわっていると、気分まで暗く落ち込んでくるからだ。
けれど今は別だ。
この心地よさを手放すなど、考えも及ばない。いつまでもこうして、うつらうつらと微睡んでいたい、と心から願った。
だが、充分に覚め切らぬ意識の底から、なにかがしきりに「起きろ」と囁《ささや》いている。
アイラにはそれが煩《わずら》わしい。
――いいじゃない、もっと寝てたって。坊やだってまだ……。
無意識のうちに、アイラは蒲団の中で手を動かした。そばで眠りにつくヨシュアを求めてだ。
一挙に意識が覚醒した。
ここは町の安宿屋ではない。空飛ぶムウの鳥舟の中だと気づいたのだ。
「――坊や!」
アイラは上掛けを跳ね飛ばす勢いで体を起こした。
「ったく、なんて起きかただ。驚かせるんじゃない」
傍らで男の声が上がる。
ぎょっとして、アイラは振り返った。
寝台の脇《わき》に見たこともない男が座っていた。
一言で印象を語るならば、野卑な男となる。けれど、あの駅馬車の衛士たちのように、脂ぎった感じではなく、むしろ精悍《せいかん》さが際立っている。
ぼさぼさの栗色の髪は、まるで一度も櫛《くし》を通したことがないようだし、顎《あご》といい口の回りといい、見るからに剛毛な無精髭《ぶしょうひげ》が生えている。そして、体は逞《たくま》しく、全身から獣のような精気を発していた。
男は怪我をしているのか、胸から腹にかけて包帯をしばりつけている。
しかし、なによりもアイラが捉《と》らえたのは男の目だった。
寝込みを襲いに来たにしては、まるで邪気がない。
咄嗟《とっさ》に、アイラは掛け蒲団《ふとん》を男にぶつけ、猫のようにしなやかな身のこなしで、寝台の反対側に逃れた。
「おわっぷ、なにするんだよ」
男は頭から被った蒲団を跳ね除け、椅子《いす》を蹴倒《けたお》して立ち上がった。
アイラの視界の隅に壁の穴が入った。人が通り抜けられる大きさだ。その向こうに、ここと同じ作りの客間風の部屋が見える。床に木片をまき散らしていることから、向こうの部屋にいたこの髭面《ひげづら》の男が、壁を叩《たた》き壊して入ってきたのだろう。
板壁とはいえ、決して薄くはなく、堅牢《けんろう》なものだ。けれど、目の前の男なら素手でもやってのけそうだ。丸太のように太い腕、筋肉で膨らんだ厚い胸板は、尋常ではない力の持ち主であることを表している。
アイラは対峙《たいじ》する相手を油断なく見据えたまま、腰のあたりをまさぐった。
剣はなかった。
そして、ようやく自分が舞台衣裳ではなく、見慣れぬ貫衣をまとっていることに気づく。寝間着に着替えさせてくれたのだろう。しかし、問題は誰がやったのか、ということだ。薄い貫衣の下は、肌着すら取り払われた裸の状態だったのだ。
――グリフィンが? それとも女の伝道師も乗っているの。まさか、この男が。
アイラは身悶《みもだ》えするような激しい羞恥《しゅうち》を覚えた。
「おかしな奴だな。急に顔を真っ赤にして。そんなに寝顔を見られたのが、恥かしかったのか」
男は見当違いなことをいった。
アイラは怒りの眼差しで相手を睨《にら》み、
「――あ、あんた、誰よ。どうしてここにいるの!」
と、叫ぶ。
男はきょとんとする。だが、それも一瞬のことで、すぐに人間離れしたぎざぎざの歯を剥《む》き出しにして、高笑いを上げた。
「そうか、俺がわからないか。仕方ないな。俺だって初めは他人の顔にしか見えなかったものな」
そういって、腰の脇《わき》につけた物入れからなにか取り出す。
針金細工のようなものだ。潰《つぶ》れて元の形をとどめていない。
突然、天啓のようにアイラの頭に閃《ひらめ》くものがあった。だが、その想像はあまりにも突拍子もなかった。
「――えっ、あっ、まさか、あんた!」
男はにやりと笑った。
針金に見えたもの――それは樹海の街道でトランの凶弾に倒れた、ガルー・シャンがかけていた眼鏡《めがね》の残骸《ざんがい》だった。
なかなかアイラは、目の前にいる野性味に溢れた筋骨隆々の男と、記憶に残る腺病質《せんびょうしつ》で気が弱い役人が、同じ人物だということが納得できなかった。
理屈ではわかっていても、一度頭に刻み込まれた人物像は、そう簡単に訂正がきかない。外見はともかくとして、性格の豹変《ひょうへん》ぶりには仰天した。
「――ったく、惜しかったぞ。今一歩のところで、あの〈豹〉野郎にとどめを刺せたものを。まあ、俺さまの強さに、恐れをなしたというところかな。今度、現われたら必ず決着をつけてやるさ」
などと、嬉々《きき》として喋《しゃべ》るのだ。争いごとをなによりも嫌っていた男の言葉ではない。
アイラは複雑な気分だった。
ヨシュアの父――白獅子《しろじし》の言によれば、ガルーは自分とともに〈坊や〉を守る仲間のはずだ。現に町ではヨシュアを救うため命を張ったという。
今後のことを考えれば、ガルーの逞《たくま》しさは心強い。
けれど、比べてみれば、商人のトランを前に、なけなしの勇気を奮い起こしていた彼のほうが、はるかに好感を持てた。
アイラとて、仲間の選り好みなどしていられない、とわかっている。だが、それでも昔のガルーが消えてしまったことに、一抹の淋《さび》しさを覚えずにはいられなかった。
「――だが、〈豹〉よりもっと気に食わない野郎がいる。とりすましやがって、どうにも鼻持ちならない気障《きざ》男だぜ」
ガルーは吐き捨てるようにいった。
「えっ、誰だって」
と、アイラは問い返す。もの想いにふけって、話をよく聞いていなかったのだ。
「あいつだよ。髪が長くて、女みたいな面をした優男――」
「ああ、グリフィンね……」
名を口にした時、アイラの中に自分でも形容しがたい感情が湧《わ》き上がる。好感とも嫌悪ともつかぬ胸のざわめきであった。
ガルーは踊り娘の顔に走った、微妙な表情に気づかない。
忌々《いまいま》しそうに舌打ちし、
「そんな名前なのか、奴は――」
よほど毛嫌いしているようだ。
「そういえば、あんたはどうしてこの舟に」
アイラの問いに、ガルーはフンと鼻を鳴らす。
「どうもこうもない。腹を切り裂かれて地べたで唸《うな》っていたら、いきなり光の筋に照されてそのまま宙吊《ちゅうづ》りさ。天からお迎えが来たのかと思ったぜ。さすがに俺も観念を決めてな。美しい女神さまに逢《あ》えるか、と期待してみれば、出迎えたのがあの男さ」
苦々しい口ぶりだった。
「散々暴れたって聞いたけど」
「ああ、そうだ。ムウの伝道師だかなんだか知らないが、『じっとしていろ』とか命令しくさるもんだから腹が立ってな。手あたり次第にぶち壊してやったぜ」
アイラはその自慢げな口振りに、子どもっぽさを感じた。つい――
「でも、手当してもらったんだろ」
と、意地悪な言葉が出てしまう。
果たして、ガルーは痛い部分を突かれたように渋面を作った。
「そりゃあ……な。だが、俺が頼んだわけじゃない。暴れたせいで腹の出血がひどくなってな、すぐにぶっ倒れてしまったんだ。目覚めてみればこの通り。眠っている間にやったんだろう」
といって、肩をそびやかす。勝手にしたことだから、恩に着る必要はないといわんばかりだ。
「俺ばかり喋《しゃべ》っているが、そっちの話も聞かせて欲しいな。ダスターニャで、いったいなにが起きた。おまえこそ、どうしてこの舟に乗ってるんだ」
今度はアイラが、これまでの体験を語り出した。
その間、ガルーはあまり口を挟《はさ》まず、聞き役に徹していたが、虎獣人との死闘を演じ、勝利したことを伝えると、複雑な表情を見せた。
「ふーん……おまえが獣人とね……」
「嘘《うそ》だっておいいかい。じゃあ、この傷はなんだっていうのさ」
アイラは腕に巻かれた包帯を取り去る。浅手だが、くっきりと虎の爪痕《つめあと》が刻まれていた。
ガルーが顔をしかめた。自ら痛みを感じたように。
こういった傷が随所にある。もしかしたら痕が残るかもしれない。そうなれば、二度と舞台には上れない。
もっとも、彼女に踊り娘を続ける意志がなかった。少なくとも、愛し子を危険に晒《さら》したという罪の意識が残っているうちは。
「い、いや、別に戦わなかった、といっているわけじゃない。ただ、倒したってのが、どうにも納得がな……この俺さまだって〈豹〉に勝てはしなかったんだぜ」
アイラは包帯を直しながら、心の中で「ははーん」と呟《つぶや》いた。
要するにガルーは、女が獣人を退治したことを認めたくないだけなのだ。
よくいえば男の誇り、悪くいえば子どもっぽい競争心である。
――だから、男って奴は。
と、思いつつも、さほど嫌悪は覚えなかった。素直な分、世の男どもよりましというものだ。
「なにを気にしているかと思えば……」
アイラはため息混じりにいった。
「な、なんだよ」
ガルーの顔に戸惑いが表われる。
その反応を楽しむかのように、アイラの真紅の唇が笑みを作る。
「安心させてあげるよ。あたしが勝てたのは、獣人の仔《こ》の助太刀《すけだち》と、この剣のお陰さ」
彼女はざっと戦いの様子を伝え、オリハルコンの細剣を渡した。
ちなみに、剣は消えたわけではなく、眠っている間、寝台の脇《わき》に立てかけてあっただけだった。
ガルーは機嫌を直したかに見えるが、なお腑《ふ》に落ちないようだった。
「こんなやわな剣が、実戦で役に立つのかね。そもそも細剣って代物は、儀礼とか、試合に用いる――ぶっちゃけていえば、〈都〉にいる貴族どものおもちゃだぜ」
確かにガルーが持つと、剣の細さがよけいに目立つ。鞘《さや》に収めたままでも、彼ならば軽く折ってしまいそうだ。
「さっき、こいつの威力は話したろう。アトランティス人が作ったとかいう、不思議な剣なのさ」
「自ら輝きを発する不思議な金属――オリハルコン。その噂《うわさ》だったら、俺も耳にしたことがあるけどな……」
半信半疑といった体で、剣を鞘から抜いてみる。
「おや……?」
剣から輝きが失せていた。それどころか、剣身全体が濁ったように白い。
刃の部分に親指の腹を当てる。
「なんだいこりゃ、刃がついてないぜ。なまくらどころの話じゃない。これじゃ練習用の剣だぜ」
「そんな――」
ひったくるように剣を取る。
確かに、剣からは虎獣人と戦った時の脈動感が伝わってこない。
「……まだ、回復してないのかね。グリフィンの話じゃ、力を使い果たしても、休めば元に戻るとかいってたけど……」
「奴の言葉なんか信用するな。きっと偽物さ、それは――」
ガルーは急に語気を荒くした。
「馬鹿なことを。あたしは間違いなくこの剣で獣人を倒したんだよ。偽物っていうがね、オリハルコン以外に輝く剣があるのかい。あるっていうなら、教えてもらいたいもんだね」
相手の激しい剣幕に、ガルーはひるみ、声を詰らせる。
「な、なら、寝ている間に、すり替えられたんだろうさ。物騒な武器を持たしとくと危ないからな」
「人聞き悪いことおいいでないよ。あんたじゃあるまいし、あたしは恩を受けた相手には、礼儀正しく振る舞うんだよ」
ガルーの顔が見る間に赤くなる。
「ふん、なに抜かしてんだ。おまえがそのつもりでも、奴は信用していないのさ。その証拠にここの部屋だって、鍵《かぎ》がかかっているんだぜ」
「なんだって――」
アイラは眉《まゆ》をしかめる。そして、ただひとつの出入口に駆け寄った。
〈樹の間〉同様に横開きの扉のようだが、手を掛けるものはなにもない。取っ手も、鍵穴すらなかった。
グリフィンが手も触れずに開けた様子が、彼女の目には魔法に映ったものだ。
アイラは扉をこじ開けようと、とっかかりを探した。
「無駄だ。びくともしないぜ、そいつは。俺が逃げ出そうとしなかったと思うのか。さんざん試したよ」
背中からガルーの声がかかる。
アイラは振り返り、
「壁を破ればいい。ガルー、あんたならできるだろ」
と、期待に目を輝かす。
だが、ガルーは首を横に振った。
「壊せそうな壁は、俺が入ってきたそこだけだ。廊下側の壁は特に頑丈でな。よほど厚いのか、それとも見かけと違って、ただの木材じゃないか、どちらかだな」
アイラは消沈して扉に背をもたれさせた。
「……なんだか、嫌な予感がしてきたよ。あいつ、あたしらと坊やを離して、なにか企んでるんじゃないかね……嫌だ。坊やの身が心配になってきたよ」
見る間に顔が青ざめていく。
「――よっしゃ!」
ガルーが膝《ひざ》を叩《たた》いて立ち上がった。顔には不断の決意というものが現われていた。
「俺さまに任せな」
といって、扉と反対側の壁まで退く。
「なにするんだい」
「どいていろ。体当たりして扉をぶち抜いてやる」
「だって、さっきはびくともしなかったって」
「渾身《こんしん》の力ってわけじゃない。助走をつけて体ごと当たれば、なんとかなるさ」
ガルーは気合いを入れるべく、自分の顔を平手で叩く。そして、扉を睨《にら》みながら、身を低くかがめ、息を吸い込む。矢をつがえた弓を、ぎりりと引き絞っていくかのようだ。
「…………」
不安げな顔でアイラは後ろに下がる。
ガルーの胸から腹に巻かれた包帯が気になったのだ。体当たりなどして、大丈夫なのかと。
「うおおおおお!」
雄叫《おたけ》びとともに巨体が、打ち出された矢のように、扉に向かって突進した。熊のような体からは想像もつかぬ瞬発力だ。
ガルーは肩から扉にぶつかった。胴に巻いた包帯が、瞬時にして千切れ飛ぶ。
大きな激突音とともに、部屋全体に衝撃が響く。筋肉という名の鎧《よろい》をまとった巨体が、両脇《りょうわき》の壁ごと扉を外側にしならせ、接する天井と壁に亀裂《きれつ》が走った。
だが――
ぶち当たった扉は、思わぬ反発力を示し、巨体を弾き返した。
「わあああああ!」
ガルーはまるで鞠《まり》のように床を転がり、反対側の壁に叩きつけられた。
「――ガルー!」
アイラが駆け寄った。しかし、手を伸ばすより先に、ガルーは自力で身を起こした。
「……なんて扉だ……」
ガルーは心配顔のアイラなど目に入らぬように扉を見据えた。
飛び散った包帯の下――左胸から右脇腹にかけて、ぎざぎざの傷跡が走っている。〈豹〉のパイジャが刻みつけたものだ。こういった力任せに裂いた傷は、鋭い刃物で斬《き》られるよりはるかに治りが遅い。
ムウの高度な治療の成果か、すでに傷には乳児の肌のような新しい肉芽が盛り上がっていたが、今の衝撃で薄い表皮が破れ、血が滲《にじ》んでいた。
「もうよしなって。ほら、せっかく治りかけた傷が、また開きかけているじゃないか」
「……これぐらい屁《へ》でもないさ」
と、いかにも無理に作った笑みを口元に上らせる。
「――ったく、これだから男って奴は」
アイラは呆《あき》れ返ったようにいった。
ガルーはむっとして、
「なにいってやがる。おまえがあんまりガキを心配するから、俺は――」
「おや、あたしのためかい」
彼女は意外そうな顔をした。
「な、なんだよ。悪いかよ」
ガルーの目が、落ち着きを失ったように忙しく動く。
「別に悪かないけど……」
アイラはそこで言葉を切って笑みを漏《も》らす。
「惚《ほ》れても無駄だよ。あんたも知っての通り、あたしゃ大の男嫌いだからね」
ガルーは目を見開き、顔を真っ赤にする。
「――ば、ば、馬鹿いうな。お、俺はそんなつもりで」
「あら、そう。ならいいんだよ」
と、アイラはあっさり引いた。
長い踊り娘稼業の中で、彼女は男を手玉に取る術を身につけていた。男嫌いが通っていても、それだけで続けていける世界ではなかった。
ガルーは度胆を抜かれ、呆然《ぼうぜん》としている。これでむきになって体当たりを繰り返すこともないだろう。
アイラは立ち上がって爪《つめ》を噛《か》んだ。
「さて、困ったね……このままじっとはしていられないし……剣さえ元通りなら、あんな扉、ふっ飛ばしてやるのに」
と、ひとりごとのように呟《つぶや》き、扉を睨《にら》みつけた。
ふいに甲高い音が上がった。かすかで、初めは耳鳴りかと思った。
「聞こえるか」
と、ガルー。
ふたりは顔を見合せた。空耳ではない。間違いなく部屋の中から生じている。
アイラは音の出どころを求めて歩き回る。
すぐに見つかった。もともと客間には寝台と一組の卓と椅子、それに小さな引出しがついた戸棚しかなく、物探しには苦労しない場所なのだ。
「――剣が、オリハルコンの剣が鳴っているんだよ」
投げ捨てられていた剣が、床の上でカタカタと震えている。甲高い音は鞘《さや》の中から発せられているようだ。
呼び寄せられるようにアイラは剣に手を伸ばす。だが、いつの間にか起き上がっていたガルーが背後から止める。
「俺がやろう」
代わったガルーは、慎重に鞘を掴《つか》み、剣を拾い上げる。そして、剣を抜こうと、右手で見事な彫金細工が施された柄《つか》を握る。
「――うっ!」
急にガルーは短い呻《うめ》きを洩《も》らし、剣を手放した。
剣は大きな音を立てて床に落ちた。
「どうしたの!」
ガルーは痙攣《けいれん》する右手を押さえて、顔を歪めている。
「……剣の柄を握った途端、激痛が走った。まるで柄から千本の毒針が突き出たようだった。このままにして、もう触らんほうがいい」
「待って。そうじゃないよ。あんたが持ったから剣が怒ったんだ」
「あん?」
「見てて――」
いうが早いか、アイラは屈み込んで、剣を拾い上げた。根拠のない確信が、今の彼女を突き動かしていた。
「よせ!」
ガルーが止めるより早く、アイラは柄《つか》をしっかと握り締めていた。
予想された衝撃は起こらず、逆に剣の震えがぴたりと鎮まった。
「ど、どういうことだ……?」
呆然《ぼうぜん》とするガルーに向かって、アイラは勝ち誇った笑みを見せる。
「この剣は、もうあたし以外の人間に使われるのが嫌なのさ」
「なぜ、そんなことがわかる」
アイラは首を傾げる。
「なぜって……そんな気がするのさ。女の勘って奴だよ」
ガルーは絶句したように口をつぐむ。『女の勘』が出たら、もはやまともな説明を求めても無駄だと悟ったのだ。
アイラは剣を持って円形の卓に近づく。
「なにをするんだ」
「切れ味を試してみるのさ。本当になまくらかどうかね」
アイラは円卓の前で細剣を掲げ持った。左手で先細りの黒鞘《くろさや》を、右手で十字型の鍔《つば》をつけた柄を握る。
不安はなかった。
先程柄を掴《つか》んだ時、虎獣人と戦った際と同じ〈力〉を感じていたのだ。
オリハルコンは、再び息吹きを取り戻していた。
指に力を込め、わずかに剣身の根元を鞘から覗《のぞ》かせる。すると、部屋全体がまばゆい光に照らされた。
「――うっ!」
咄嗟《とっさ》にガルーは瞼《まぶた》を閉じたが、それでも目の中で七色の光が乱舞した。
「いやああああ!」
裂帛《れっぱく》の気合いとともに、剣身が鞘を滑り出る。次いで、ドンと重い物が床に落ちたような音が上がった。
「目を開けても大丈夫。もう眩《まぶ》しくないよ」
ガルーはおそるおそる瞼を上げた。
抜き身の剣をだらりと下げたアイラが立っている。剣身は輝きを保っていたが、光量はだいぶ衰えていた。
分厚い木の固まりが飛んでくる。受け取ったガルーは、すぐにはそれがなにかわからなかった。
「――あっ」
ガルーは驚きの声を洩《も》らした。
試し斬《ぎ》りに使った円卓の縁であった。
見事な切断面だ。欠けたり、ささくれた箇所がなく、まるでやすりで仕上げたような滑らかな手触りだ。しかも、細剣は刺突を目的とした武器であり、切断力はほとんどないはずだ。まして、この剣には刃がついていないと確かめてある。
手練の技というだけでは、説明がつかない。
「手ごたえを感じられなかったよ。前よりぐんと切れ味が増しているみたい。これなら、そこの扉だって、一太刀で破れるだろうさ」
と、アイラは嬉《うれ》しそうにいった。
ところが――
「――それはご遠慮願いたいもので。舟が墜落しては困ります」
ふいに、くぐもった男の声が上がった。
ふたりは同時に扉に向かって振り返る。声はその向こうから聞こえたのだ。
扉が音もなく横滑りした。そして、むせかえるような熱い空気が、どっと室内に流れ込んだ。
「――アイラ・モエリ殿、そしてガルー・シャン殿、お目覚めになられたようですね」
開かれた戸口に、黒髪の青年が立っていた。
他の誰でもない。ふたりをこの鳥舟にいざなった人物――ムウの伝道師、グリフィンその人であった。
「――野郎!」
グリフィンを認めた途端、ガルーは怒りの雄叫《おたけ》びを上げて、突進していた。
アイラが止める暇もなかった。
先程の体当たりにまさる勢いだ。まともにぶつかれば、生身の体などひとたまりもない。
しかし――
次の瞬間、ガルーはもんどり打って床にひっくり返った。
青年が避けたわけではない。彼は向かってくるガルーを見て、瞬《まばた》きひとつしていない。伝道師の前には、見えない壁のようなものが張り巡らされており、ガルーは扉に体当たりをかけた時と同様に跳ね返されたのだ。
――〈障壁〉?
アイラは〈樹の間〉でグリフィンが、つい口を滑らせた言葉を思い出していた。
グリフィンは呻《うめ》くガルーを見降ろし、
「まるで猛獣ですね……」
静かな口調であったが、嫌悪の感情が垣間見えた。
「――なんだと!」
ガルーが顔を起こす。そこには憤怒の形相が現われていた。
「この場は、あたしに任せとくれ」
ふたりの間に、素速くアイラが割って入る。
すると、グリフィンの氷のように冷やかだった視線が和らぎ、口には微笑《ほほえ》みが浮かぶ。
「これはアイラ殿、ご気分はいかが。ゆっくりお休みいただけましたでしょうか」
アイラも負けてはいない。笑みには笑みをもって対抗した。もちろん、たっぷりと皮肉を込めて。
「お陰さまでね。もっとも、監禁されていなければ、もっとましな気分でいられただろうけどさ」
グリフィンは怪訝《けげん》な顔をした。
「監禁ですと? そのようなつもりは毛頭ございませんが……あなたがたは、この舟に招かれたお客人。自由に船内を歩いて結構です」
「けど、現実にさっきまで、扉はぴくりとも動かなかったんだよ。それはどう弁解するつもり」
「開け方をご存じなかったからでしょう」
グリフィンはさらりと答える。
「この扉、いえ船内すべての扉は、鍵《かぎ》となる言葉を唱えることで開閉します。あなたもご覧になったはずですよ。〈樹の間〉に入る際、わたしが扉に向かって唱えるところを」
アイラは短く「あっ」と叫んだ。確かにその時のことは憶えている。
「で、でも、そばにいただけじゃ、わかるわけないだろ。教えてくれなければ、閉じこめていたと同じじゃないか」
「おっしゃる通りです。こちらの不手際と申し上げるしかございません」
と、あっさり頭を下げた。
「もちろん、ご案内の際、お話しするつもりでしたが……」
「ところが、その前にこっちが気を失って、教える暇がなかったと」
「はい、おふたりとも休養が必要でした。ならば、お目覚めになってからのほうがよろしいかと思いまして。不手際と申しましたのは、予想以上に意識を回復するまでの時間が、短かったということです」
会話の間、アイラは青年の表情を探っていた。嘘《うそ》があれば看破してやる、と身構えていたのだ。
けれど、鼻筋通った青年の顔に、不自然なものは一度として表われなかった。仮に、それが本心を隠す仮面とすれば、彼の自制心と演技力は相当なものだ。
「――どう思う?」
アイラは背後に控えるガルーに意見を求めた。会話のやりとりの間に、彼も頭から少しは血が下がっているだろうと踏んだのだ。
そして、その判断は間違っていなかった。
「話のつじつまは、一応合っているようだがな……」
といって、ガルーはひょいと肩をすくめる仕草を見せた。
「扉が開こうが開くまいが、俺はそんな細かいことはどうでもいい――問題は、奴の魂胆だ。俺たちを助けて、どんな利益があるかってことだな。ヨシュアの血だけが狙《ねら》いとも思えない。なぜなら、俺やアイラまで乗せる必要はまるでないからだ。まして、ご機嫌をうかがうなんて真似はな」
ガルーの目がグリフィンを捉《と》らえ、凄味《すごみ》を帯びた光を放つ。
「なあ、あんた、今話した通りだ。俺たちになにをさせたいか知らんが、それなりにわけをいったらどうだ。それに、あんたは、俺たちを襲った二匹の獣人の正体も知っているはずだ。もしかすると、坊主――ヨシュアに隠された秘密もな」
ヨシュアの名が出た途端、アイラは肩をびくっと震わせる。
正直いって、彼女自身最も知りたかったことだ。同時に、知りたくない――知ることが怖いという気持ちも強い。
グリフィンが静かに微笑《ほほえ》む。ガルーに向ける目に明らかな変化が見えた。
「ガルー殿……わたしはあなたという人物を、多少見誤っていたようです」
「ふん、獣より知恵が回るってか。嬉《うれ》しかないね、別段――」
ガルーは憮然《ぶぜん》としていった。
「ともかく、どんな悪企みを隠しているか知らんが、話せるところだけでもいってみな。嘘が混じっていたところで構わんさ。勝手に判断するからな。内容によって、こっちも態度を決める」
グリフィンは微笑んだまま、相手の目をじっと見つめている。返事に窮しているという感じではない。むしろ、ガルーという人物を興味ありげに観察しているかに見えた。
「残念ですが――」
ややあって、グリフィンが答える。
ガルーの眉《まゆ》がぴくりと跳ねる。
「なにも喋《しゃべ》ることはできない――というのか」
恫喝《どうかつ》を込めた声だった。
「いえ、まったくとは申しませんが、ご期待に添うようなお話はほとんど……実を申しまして、伝道師にも、階位や役職に応じた権限というものがありまして、わたしごとき位の低い者は、常に口を貝のように閉ざすよう義務付けられております」
ガルーはフンと鼻を鳴らす。グリフィンがなにをいおうと、頭から疑っている様子がありありと出ていた。
「なら、こっちも信用しない。舟を地上に降ろしてくれ。あんたとはこれでさよならだ」
「無理にお引き止めはしませんが……」
そこで伝道師は言葉を切り、踊り娘に視線を移す。
「ヨシュアをどういたします。まだ、動かせる状態ではありません」
アイラは相手に掴《つか》みかからんばかりの勢いで身を乗り出した。
「坊やはどうしているんだい。まさか、容体が悪くなったとか」
「未だ意識は戻っておりませんが、まずは順調に回復に向かっています。しかしながら、今無理をさせた場合、どのような結果を生むか、保証いたしかねます」
アイラはガルーに顔を向ける。そのすがるような目を見ただけで、なにを訴えたいかよくわかる。
――いとも簡単に奴の手に乗ってしまうもんだ。まあ、坊主を人質に取られちゃ、アイラにはどうしようもないか。
ガルーは心の中で嘆息を吐《つ》いていた。
「仕方ない。ヨシュアが元気になるまで、つき合うとするか」
「すまないね、ガルー」
「いいさ、これがほんとの『乗りかかった舟』って奴だろ」
ガルーはアイラに礼をいわれ、満更でもない気分だった。しかし、それは表に出さず、キッとグリフィンを睨《にら》みつける。
「今、いった通り、しばらくここにいてやるさ。だが、自由は保証してもらう。それに説明が欲しい。あんたの事情がどうだろうと、俺たちには一切関係ないことだからな」
グリフィンはうなずく。
「――では、立ち話もなんでしょう。〈宴の間〉におこしください。お口には合わないかもしれませんが、食事を用意してあります。暖め直しますので、少々お時間をいただきますが」
ガルーの目の色が変わった。
「冷めていたってかまわんさ。すぐに食わしてくれ。もう腹が減って、たまらなかったんだ」
ククッと喉《のど》を鳴らしてグリフィンは笑う。
「ならば、わたしは先に行って準備しましょう。あなたがたは着替えをなさってください。その戸棚に、ムウの衣服と地上で着ていらしたもの、両方が入っています。お好きなほうを着てお出でください。〈宴の間〉は廊下を左にまっすぐ進んだ突き当たりです」
「――待って」
アイラが去りかけたグリフィンを呼び止める。
「なにか?」
グリフィンは戸口のところで足を止める。
「食事の前に、ヨシュアの様子を見に行こうと思うんだけど。〈樹の間〉とやらは、どう行ったらいいんだい」
グリフィンがわずかに逡巡《しゅんじゅん》を見せた。
「……お出でになるのは、もちろん構いませんが……船内は広い上に込み入ってます。できますなら、のちほどにしていただけませんか。ご案内しますので」
「そ、そうかい。なら、後でもいいけど……」
「では、のちほど――」
伝道師は一礼して扉の向こうに消えた。その態度に、逃げるような雰囲気をアイラは感じた。
「――強引にでも案内させるべきだったな」
と、ガルー。
「どうしてだい」
「わからないか。ヨシュアは俺たちの泣きどころだ。特におまえにとってはな。それが野郎の手の中にある。人質を取られているも同然だぜ」
アイラの顔からさっと血の気が引く。
「ど、どうしよう……そうよ、今からでも坊やを救いに」
ガルーは舌打ちして、
「――落ち着けって。救いに行こうといったって、居場所がわからないだろう。舟の内部は広い。闇雲《やみくも》に探し回ったところで、すぐには見つからないぞ。それに、今すぐヨシュアが、どうこうされるってわけじゃない。奴にとっても、大事な切り札のはずだからな」
「だったら、なんで驚かすようなことをいうのさ」
「状況を把握しとけってことだ。あの二枚目面の奥に、どんな本性が隠れているかわかったもんじゃない。だから、なにが起ころうと、さっきみたいに動揺しないよう、心構えを作っておくんだ。わかったな」
アイラはただうなずくしかなかった。
少し前までは、力自慢の単純な男と思っていたが、彼女もまた見誤っていたと認めるしかなかった。
――これも坊やの〈血〉のお陰? それとも、もともとあった力なの?
なにはともあれ、アイラは生まれて初めて、男を仲間として受け入れる気になっていた。
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【第二章 黒髪の伝道師《ナーカル》】
煌《きら》めく陽光を浴びながら、黄金の鳥舟は巨大な翼を広げて滑空する。
白き雲海は今や遥か下方にあった。この高さまでくると、空の色は、鮮烈な青から闇《やみ》を思わせる濃紺に移り変わる。
まわりにはなにもない。
雲というにはあまりに希薄な水蒸気の固まりが、翼をかすめて、初めてそれと気づく。空気すら地表に比べれば、なきにも等しい薄さだった。
孤独な渡り鳥は、いったいどこに向かって飛んでいるのか――それは舟の持ち主である黒髪の伝道師《ナーカル》以外誰も知らない。
その疑問は、船体部の舷窓《げんそう》から外を眺める、ガルーも感じていることだ。
――いったい、奴め、俺たちをどこに連れていこうとしている。
ガルーは通路の窓|硝子《ガラス》に額をつけて、ギリリと歯を噛《か》み鳴らした。
グリフィンの顔を思い浮かべるたびに、無性に腹が立ってくる。生涯戦い続けることを宿命づけられた敵が存在するとすれば、自分にとっては、奴がそれに当たるのだ、と理由もない確信があった。
容姿も、考え方も、性格もまるで正反対のふたりだ。恐らくは、真の意味で理解し合うことはありえない。世界が違えば、争うこともないのだろうが、もし同じものを手に入れようとしたら――問題はその時だった。
ガルーは初めてグリフィンに逢《あ》った時から、それを予感していたのかも知れない。
客間の扉が開き、アイラが姿を見せた。
「――なにしてんだい。先にいっちまうよ」
「ちっ、さんざん待ちぼうけを食わしたのはどっち――」
振り返ったガルーは、途端に息を飲み、目を見張った。
アイラはすっかり様変わりしていた。
淡い黄色のたっぷりとした貫衣をまとい、蜘蛛《くも》の糸を織り合せたような白い布を肩にかけている。素肌をほとんど見せていないが、透き通った肩掛けから覗《のぞ》く二の腕や細い首筋から、えもいわれぬ色香が滲《にじ》み出ていた。
髪はきっちりと結い上げ、うなじを出し、小粒の真珠を散らした髪網と、七色の輝きを放つ貝の髪留めで飾っている。顔の化粧は、唇の紅だけだが、逆にこざっぱりとして、彼女本来の目鼻立ちを際立たせる効果に働いていた。
ガルーの無遠慮な視線を浴びて、アイラは恥かしそうに身じろぎした。
「な、なんだい……」
「い、いやァ、そのなんだ――雰囲気まで変わってしまって、お、驚いたんだ」
ガルーはドギマギして答える。
「似合わない……かね」
アイラは自信なげに訊《き》いた。部屋に備えてあった服や装飾品の中から選んだのだが、どれも見たこともない高級な品々ばかりで、最初は触れることも恐ろしかった。服を選んでは髪を直し、飾りを選んではまた服を替え、と迷いに迷って落ち着いたのが、今の姿だった。
もし、ガルーの口から否定的な言葉がひと言でも洩れれば、即座に部屋に戻り、もう一度服選びからやり直す気だった。
幸いにして、そうはならなかった。
「いやァ、悪くはないじゃないか。うん、俺には女の服のことはわからないが、結構似合っていると思うぜ」
実をいえば、『結構』どころではないのだが、元・公文書記官の豊富な語彙《ごい》の中にも、今のアイラを形容する言葉はなかった。
『この上もなく、美しい』という彼にしてみれば、はなはだ散文的な言葉を思いつくが、喉《のど》から出かかった途端、顔に火がついたように熱くなり、ついでに心臓が締めつけられて断念した。
「あ、そう」
ガルーの熱のない言葉に、アイラは不満げに口を尖《とが》らせ、くるっと背を向けて歩き出した。
「お、おい、どうしたんだ。俺、まずいこといったか――」
と、ガルーは慌てて足早に進むアイラのあとを追った。
なぜ急に腹立たしい気分になったのか、アイラ自身にもわからない。そもそも、なぜこのように手間と時間をかけて着飾ったのか、それすら定かではなかった。最初は踊り娘の衣裳でも構わないとさえ思っていたのだが……。
今にしてみれば、いかに夢中だったとはいえ、あの胸と腰を申し訳程度に覆った裸同然の姿で、町なかを駆け回ったとは――思い出しただけでも羞恥《しゅうち》で顔が熱くなる。そして、この鳥舟でも、グリフィンの前で平然としていたのだ。
――いったい、どんな女と思われていたのやら。
舞台の上であれば、たとえ乳房を曝《さら》け出したところで――実際、これまで二度ほど、踊っている間に紐《ひも》が切れるという事故があったが――まったく気にも止めないのだから、不思議だと思う。
けれど、矛盾しようがなんだろうが、感情とはわり切れるものではない。ことにこの舟に来てからの彼女は、万華鏡のように目まぐるしく移り変わり、自分でも行動や言動にまるで自信がなかったのだ。
アイラの手には、オリハルコン製の細剣が握られている。腰から吊《つ》るすことも考えたが、裾《すそ》が床まで屈くこの服には、どうしても似合わなかった。
一方、ガルーは「腰が寂しい」とぶつぶつ文句をいっている。
ダスターニャの町で手に入れた武器のうち、大振りの剣は〈豹〉のパイジャの胸に突き立ったまま持ち去られてしまったし、三連の大型短銃は気を失っている間に消えていた。危険だから、とグリフィンに没収されてしまったに違いない。
したがって、細剣が、ふたりの唯一の武器ということになる。敵か味方か、未だ見当もつかぬ相手に逢《あ》いにいくにしては、心細い限りだ。
太陽灯が照りつけ、汗ばむほどの熱さの廊下を渡り、ふたりは二枚並んだ扉の前に立った。
「オ・プン・セラミ」
アイラが教えてもらった言葉――意味はわからない。おそらくムウ語だと思うが――を唱えると、間髪を置かず、するりと扉が左右に滑るように開いた。
――気味が悪いよ。ムウの連中ってのは、なにを考えているんだか。
彼女は眉《まゆ》をしかめる。
中にもうひとつ同じような扉がある。ここは広間に至る続きの間といった感じだ。廊下の度外れた明るさと違って薄暗い。外光を取り入れる窓のない一室とすれば、これでも明る過ぎるぐらいだ。
「ようこそ、お待ち申し上げておりました」
奥の扉が開き、グリフィンが恭《うやうや》しく出迎える。そして、アイラを見ると、
「美しい。想像した通り、ムウの服もよくお似合いです」
と、賞賛の声を上げた。
それが心からのものか、はたまた世辞なのか、彼女にはわからなかった。だが、嬉《うれ》しくない、といったら嘘《うそ》になる。
「ありがとうよ」
アイラは固い表情で、グリフィンの脇《わき》を足早に通り過ぎていった。心の中を絶対に見透かされたくはなかったのだ。
〈宴の間〉はひんやりと涼しい。
天井の明かりは消され、代わって豪奢《ごうしゃ》な長卓の上に置かれたなん十本もの蝋燭《ろうそく》の火が、暗く落ち着いた雰囲気を作っていた。
「ここも窓なしね」
「なんのことでしょう」
「ううん、こっちの話」
長卓の蝋燭立ては、意匠から見て、アイラたちの世界のものらしい。他の調度の中で妙に浮いている。
居心地よくするために、グリフィンが気を遣ってくれたのだ、とアイラは思った。
卓には、部屋の調度に見劣りしない絢爛《けんらん》豪華な料理の数々が、ところ狭しと並んでいた。
香ばしく立ち上る焼けた肉の匂《にお》いに、ガルーは席につくなり、痺《しび》れを切らし、まわりに断りもせず料理にかぶりつく。そして、まさに「食い散らかす」といった表現通りに、ガルーはガツガツと手当たりしだいに胃袋の中に収めていった。
アイラは恥かしさを覚えて赤面した。
「ちょっと、その食べ方なんとかならないの」
と、脇《わき》からガルーの肘《ひじ》をつつく。
だが、ガルーは食うことに夢中で、まるで耳に届いていないようだ。毒が盛られていると聞かせても、この勢いは決して衰えないだろう。
「お気になさらずに。食事は楽しければそれでよいのです」
そうはいわれても、アイラは他人を決め込むことはできなかった。また、その一方で、自分が恥かしくない食べ方ができるかどうか心配になった。一介の踊り娘に、上流社会の作法など知るよしもない。
ぐびりと生唾《なまつば》を飲み込み、数ある食器の中からさじをとった。これが汁物に使うことは間違いなかった。
できるだけゆっくりと、大口を開けず、音を立てずに食べる。
だが、グリフィンに見られているかと思うと、緊張して胃が縮まる思いがした。正直いって、他人の目など気にしないガルーが恨めしく思えてならなかった。
料理は肉や野菜、魚、貝と彼女たちが見たこともない豪華な材料を用いていたが、基本的な味付けは、食べ慣れた自分たちの世界のものだった。
これもグリフィンの気遣いか、とアイラは思った。その証拠に、青年はほとんど手をつけず、酒のような赤い飲み物を時折口に入れるだけだ。
アイラは食事の手を休めて尋ねる。
「――ひとりも見かけないけど、他にも乗組員がいるんでしょう」
目覚めて以来、誰が服を着替えさせてくれたのか、彼女は気にかかっていた。
だが、真正直に訊《き》くわけにもいかず、こういった回りくどいいい方になる。
すると、グリフィンは、
「いえ、この舟には、わたしひとりだけです」
だとすれば、答えはひとつだ。
アイラの顔が、耳たぶまで真っ赤に染まり、手にしたさじが皿の上に落ちる。
「いかがなさいました?」
「じゃ、じゃあ、この料理は誰が――」
青年は静かに微笑《ほほえ》む。
「お味はいかがでしょう。この献立は〈都〉の王が食するものですよ。以前、わたしは身分を偽って、宮廷に料理人として入り込んだことがございます。料理はそのために習い憶えました」
アイラは目を見張った。
「伝道師って、そんなこともするのかい」
「いえいえ、本来の仕事ではありません。どうしても宮廷内に入らなければならない理由がありまして……」
「――間諜《かんちょう》って奴だろう」
皿から顔を上げて、ぽつりとガルーがいった。料理に夢中で、会話など耳に入っていないように見えたのだが……。
「?」
アイラにはなんのことかわからない。
「謀《はか》りごとを持って、敵地に潜入する連中のこった。諜報《ちょうほう》や破壊工作、ついでに暗殺。まあ、お世辞にもきれいな仕事とはいいかねるな」
アイラは驚きの目をグリフィンに向ける。
「ほんの調べごとですよ。五〇〇年ほど前に書かれた書物が、秘蔵されていると耳にして、それを閲覧させていただくためにね。内容は期待外れに終わりましたが……」
青年はまったく悪びれずに答えた。
「そんなこと、俺たちにばらしていいのかね。職務上の秘密とやらじゃないのか」
「あなたがたが、口外なさらないと信じております。それに悪い噂《うわさ》が広まったとしても、別段困りません。もともと、この〈エルマナ〉の地では、わたくしたち伝道師はうさん臭いどころか、化け物のように思っていらっしゃる方々も多い。ひとつやふたつ悪評が増えたところで、影響はありません」
アイラとガルーは、呆《あき》れてものがいえないといった顔だ。
「念のために申し上げておきますが、伝道師のすべてがわたしと同じ、とお考えになりませんように。自慢できることではありませんが、わたくしどもの組織〈ムウ伝道会〉の中でも、わたしは異端視されておりまして、いわゆる『危ない仕事』の大半を押しつけられるのです。もっとも、説法活動より、よほど好みにあっておりますが……」
と、青年は嬉《うれ》しそうにいった。
確かに伝道師と名乗りはしても、アイラにはグリフィンが僧侶《そうりょ》には見えなかった。遊び好きの貴族の子弟と聞かされたほうが、まだ信じられるというものだ。
初めは異国の人間だからと、納得もしていたが、どうやらムウの国でも、はみ出し者とされているようだ。
ガチャンと肝を潰《つぶ》す物音が上がる。
ガルーが最後の皿を、食い終えた他の皿に重ねたのだ。すでに彼の前の料理は、きれいに平らげられていた。
「――腹ごしらえができたところで、そろそろ本題に移ろうか」
と、ガルーはことさら大声でいった。注意を自分に引こうとしているようだ。
「わたしはいつでも結構ですが、アイラ殿の食事がまだお済みではありません。お待ちする間、飲み物はいかがでしょう。フーノル産の葡萄酒《ぶどうしゅ》やキャラル産の茶など、各地の名品を取り揃《そろ》えてございますが」
「そんなもん、いらんよ」
ガルーはちらりとアイラを横目に睨《にら》み、ぼそりと、
「関係ないお喋《しゃべ》りばかりしやがって――」
と、玄《つぶや》く。
アイラは慌《あわ》てて取ったさじを、また卓の上に戻す。へそを曲げたことは、いうまでもない。
「悪かったね、ぐずぐずしてさ。お待ちどうさま。あたしはもう結構だよ。残して済まなかったけど――どのみち、今は味がわからないのさ」
すると、グリフィンはいたわりを込めて、
「オリハルコンの剣を使い、体力を消耗されたと思います。無理にでも胃に収めたほうがよろしいかと」
アイラは笑みを返す。
「なら、後でいただくことにするよ。話の後でね」
ふたりの間に、親密な雰囲気が生まれていた――少なくともガルーの目にはそう映った。実をいえば、彼は先程からふたりのやりとりが気に食わず、苛立《いらだ》ちを覚えていた。
女が喜びそうな甘く美しい顔、物腰も真似ができない優雅さ――その貴公子然とした風貌《ふうぼう》に、ガルーは初めから強い引け目を感じていたのだ。
――いくら男嫌いといったって、アイラも。
つまらぬ嫉妬心である、と自覚もしている。だが、アイラの妙に華やいだ顔を見ていると、とても平静ではいられなかった。無意識のうちに、ガルーは食卓の縁を掴《つか》んでいた。
手をどけると、そこには指の形に陥没した跡ができていた。
「――さきほども申し上げました通り、わたしのごとき下位の者が、この件に関して、口にすることは許されておりません。なにしろムウ本国においても、知る者はごく一部に限られているのですから」
グリフィンは心なしか緊張気味にいった。
すると、ガルーはにやりと笑い、
「俺もいったはずだ。関係ないってね――」
脇《わき》にいるアイラが「よしなってば」と肘《ひじ》で小突く。ガルーはわずらわしげに「わかってるって」と小声で答える。
再び、彼は伝道師に顔を戻し、
「――とはいっても、禁じられていたんじゃしょうがない。俺が質問して、あんたは答えられることだけを答える――ってな形はどうだい」
グリフィンは「構いません」とだけいった。
ガルーは満足そうにうなずき、傍らのアイラに得意げな顔を向ける。
さきほどの一件で、機嫌を悪くしていた彼女は、ぷいと顔を背けた。
気分を害したガルーは、怒った顔つきを、そのままグリフィンにぶつけた。
「まず訊《き》きたいのは、あんたがなに者で、なんの目的で、俺たちに近づいたかってことだ」
黒髪の青年は、椅子《いす》の背もたれに体を預け、悠然と微笑《ほほえ》む。
「わたしは、ムウの伝道師グリフィン……お逢《あ》いした時に、そう名乗ったはずですが」
「ただの伝道師じゃないと、さっき自分で白状しただろう――それに、奴らはすべて禿頭《とくとう》のはずだ」
グリフィンが苦笑する。
「禿頭とはひどい。僧侶《そうりょ》の証として剃《そ》っているのですよ。しかし、よくご存じでしたね。ダスターニャやケオナを含む辺境下区には、伝道師が派遣されていないはずなのに――噂《うわさ》ですか、それとも?」
「この目で見たし、いけ好かん説法も聞かされたよ。散々な」
ガルーは吐き捨てるようにいった。
「ならば、ケオナ、ボラドあたりのお生まれではありますまい」
「バスールだ」
「〈都〉にほど近い町ですね。なるほど、登用試験は〈都〉でお受けになったと」
ガルーは憮然《ぶぜん》とうなずく。あまり触れられたくない話題のようだ。
隣ではアイラが目を見張っている。
ただの地方役人と思っていたガルーが、〈都〉出身と知った驚きだ。
アイラにとっての『世界』とは、つい最近までケオナの壁の内側だけだった。
彼女の場合はまだいい。商売柄、〈流れ〉――駅馬車の衛士や商人といった、他の町からの来訪者――とも接する機会が多く、壁の外にも別の人間社会があるのだ、と受け入れる素地ができていた。
それでも、交流がある近在の町までが想像の及ぶ限界で、遠い〈都〉は伝え聞くことはあっても、まるで拘《かか》わりのない別世界であった。
「過去に兄弟らと、なにやら確執があったようですね。わたしに対する反感も、原因はそのあたりにありそうだ」
グリフィンの言葉に、ガルーは顔を紅潮させ、力任せに卓を叩《たた》いた。重厚な長卓に亀裂が入り、数枚の皿が床に落ちて騒々しい音を上げた。
「ガ、ガルー!」
アイラが驚きの顔で、血で結ばれた仲間を見つめる。変身後、攻撃的性格に変貌《へんぼう》したとはいえ、これは常軌を逸している。
ガルーは怒りのこもった目で、グリフィンを睨《にら》み、荒い息を吐いている。
これだけの騒動にも拘《かかわ》らず、青年は眉《まゆ》ひとつ動かさず、口元に笑みを消すことなくガルーの視線を真っ向から受け止めていた。
先に目を逸《そら》したのはガルーのほうだった。上げかけた腰を椅子に落とし、アイラに向かって一言「済まん」と詫《わ》びた。
アイラは、自分がガルーの過去をなにも知らないことに気づいた。〈都〉出身の役人が、田舎《いなか》の町に流れてくるには、それなりのわけがあるはずだ。そして、今の出来事……。
彼女の胸の中に、ガルーを知りたいという欲求がにわかに湧《わ》いてきた。
「……なにがあったんだい」
アイラが気遣いを込めてそっと尋ねる。
「済んだことだ。今更口にしたくもない。ただ、奴がいうように、俺はムウの連中が大嫌いだ。それを思い出したよ」
ガルーは天井を仰ぎ見て、呟《つぶや》くようにいった。
その姿をグリフィンは黙って観察している。
だが、落ち込んでいるかに見えたのも、ほんの束の間だった。ガルーはすぐに旺盛な精気を蘇《よみがえ》らせ、グリフィンを睨《にら》みつける。
「――俺のことはどうでもいい。さっきいったことに答えろ」
「わたしの正体……というお話でしたね。さて、どのようにお答えすればよいものか……」
青年は考えを巡らすように、視線を宙にさまよわせ、なかなか話し出そうとしない。
本当に悩んでいるのか、単に時間稼ぎをしようとしているのか――ガルーは迷った。
重苦しい沈黙が続く。
緊張にたえられなくなったように、アイラが口を開く。
「どうして、あたしらを助けてくれたんだい。なんの得にもならないのに」
「傷ついた者を救う。ムウの国では当然の行為なのですが……まあ、そのような答えでは、ご不満でしょうね」
「当然だ」
と、ガルー。
ついにグリフィンは、決心を固めたように息を吐く。
「わたくしども〈ムウ伝道会〉は、エルマナで密かに進行する、とある計画に注目しています。あなたがたを襲ったふたりの獣人も、それを立案・推進する一派に属する者たちなのです」
「計画? 一派? どんな連中なんだ?」
矢つぎばやにガルーは問うが、グリフィンは口を閉ざし、ひと言も発しない。
「詳しくは話せないってか。困ったもんだ」
「申しわけございませんが……」
言葉とは反対に、伝道師の態度にまったく恐縮した様子はない。
「とにかく、それにヨシュアが関《かか》わっている――というわけだな」
「彼らにとり重要な存在、とだけ申しておきましょう」
「――坊主の〈血〉か?」
グリフィンはゆっくりと首を横に振る。そして、冷淡とも思える口調で、
「目当ては、命――」
アイラの背筋に冷たいものが走る。あの獣人たちが群をなして襲ってきたら! ――伝道師の言葉は、死の宣告にも等しかった。
「な、なぜだい。なぜ、坊やの命を奪おうとする。あんな小さな子どもを殺して、なんの意味があるっていうの」
「お答えできません」
と、グリフィンはあっさりいった。
「――どうして!」
「これ以上の情報提供は、わたしの権限を大きく逸脱します」
氷でできた厚い壁にぶつかっていったようなものだ。アイラは憎しみの目で睨《にら》みつけた後、
「もういい!」とばかりに顔を背けた。
手足の震えが止まらない。
もちろん恐れはある。どう強がろうと、もう一度、あの怪物にたったひとりで立ち向かう勇気はない。オリハルコンの細剣があろうとなかろうと、同じことだ。
だが、それ以上に、〈忌《い》むべき者〉として辛酸を嘗《な》めてきた愛し子に、さらなる苦難を与えようとする運命なるものに、強い憤りを覚えていた。
グリフィンはわずかに顔を曇らし、
「……もっとも、すでに処罰を受けるに充分な逸脱行為を犯していますが」
その呟《つぶや》きを、ガルーは聞き逃さなかった。
「どういうことだ?」
「〈伝道会〉は、この件について非干渉の立場を取っております。すなわち直接手を出さず、監視にとどめる、ということです。現時点では……と但《ただ》し書きがつきますが。
わたしが与えられた使命は、ヨシュアを含む、あなたがた全員を監視し、本国に報告することです。姿を現わしては監視者として失格。まして、鳥舟に乗せるなど、このまま本国に戻れば、ただでは済まないでしょうね」
と、まるで他人事のようにいった。
「――お上に背いたってわけだな」
ガルーは面白がるように鼻を鳴らす。
「だったら、半端な真似は止めて、洗いざらいぶちまけたらどうだい。町の上空にあれだけ派手に舟を乗りつけたんだ。いずれ、お仲間にも敵にも伝わるだろうさ」
「……でしょうね」
と、グリフィンも品のよい笑みを返す。
まるで動じない相手の態度に、ガルーは不審の念を募らせる。
「くそったれめ、まだなにか隠していやがるな。だが、俺にもわかったことがあるぞ。それは、おまえが罰などまったく恐れていないってことだ」
グリフィンは柳に風とばかりに聞き流す。ガルーが唸《うな》り声を上げて迫っても、まったく効き目はなかった。
――ヨシュアの親父と名乗った、あの白獅子も、肝心なことは一切教えてくれなかった。ただ『ヨシュアとアイラを守ってくれ』としか。知ってはならない秘密が、坊主にあるというのか。
「ならば、罰を承知で、俺たちに肩入れする理由とは、いったいなんだ?」
追及を諦《あきら》め、攻め口を変えてみる。
すると、グリフィンは艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》み、
「さて……それはご想像にお任せいたしましょう」
思わずガルーが身を乗り出す。
「お、おい、そんないい逃れが、通用すると思っているのか」
その拍子にガルーが座っていた椅子が倒れ、アイラはもの想いから覚める。
グリフィンは意外そうに相手を見返し、
「いい逃れもなにも、答えられることだけを答えればよい――そう、おっしゃったではありませんか。それに……」
切れ長の瞳が、アイラを捉《と》らえる。
「今のようないい回しでも、わかるかたには、わかっていただけます。ねえ、アイラ殿……」
妙に甘えた口調、蕩《とろ》けるような微笑み――明らかにグリフィンは、自分の姿がどう女の目に映るか知っていた。
「お・ま・え・な」
ガルーの額に紫色の血管が浮き出してきた。
「よしなって」
アイラが呆《あき》れたように席を立ち、グリフィンに目もくれず、入ってきた扉に向かう。
「どちらに――」
「坊やの寝顔を見に行くのさ。ここで、つまらないお喋《しゃべ》りしているより、ずっとましだからね。ああ、案内はいらないよ。勝手に探させてもらうからね」
「お、おい、話はまだ終わってないぞ」
と、ガルー。
「のらりくらりとかわされるだけさ。ムウのお兄さんは、なにも話す気がないようだ。まあ、あんたは好きなだけ喋っていればいいさ」
「待てよ、俺も一緒に行く。ここにいる間は離れないほうがいい。油断ならん場所だからな」
最後の言葉は、グリフィンに当てつけたものだ。
そして、ガルーは皿に残った手つかずの骨つき肉をいくつか掴《つか》み、アイラの後を追った。
ふたりは揃《そろ》って出入口に向かう。すると、グリフィンが、
「――〈樹の間〉は、二階層降りて、中央回廊の三番の扉です」
ガルーは振り返って睨《にら》むが、アイラはそのまま大理石の床に靴音を響かせて出ていった。
控えの間と廊下の二つの扉が閉まると、途端に広間を静寂が包み込む。
グリフィンはひびが入った長卓に頬《ほお》づえをつき、すっかり短くなった燭台《しょくだい》の蝋燭《ろうそく》を見つめていた。
蝋燭からジジジと芯《しん》が焦げる音が出る。
すると、グリフィンの口から吹き出すように息が洩《も》れ、ついにはこらえ切れぬように、高らかな笑い声が上がった。
「――ったく馬鹿にしているよ、あの若僧は」
〈宴の間〉を出るなり、アイラは頭から湯気を上げて悪しざまに罵《ののし》り出した。
「ちょっとばかし顔がいいのを鼻にかけて、女なら誰だろうと、たらし込めると思っているのさ。冷めた面して、上品ぶっていたけど、ついに化けの皮が剥《は》がれたよ。あんな安っぽい手管《てくだ》で、このアイラ姉さんが落ちるもんかい」
背後でガルーがにやにやと笑っている。
アイラの態度の急変に、いぶかるものを感じるが、グリフィンと仲たがいは、願ってもないことだ。
反面、釈然としない部分もある。あの男が、不用意な言動で、人を怒らせることがあるだろうか。思い返してみれば、聞き出したことは、すべて肝心な点がぼやけている。終始グリフィンが主導権を握ったまま、話が進められていたようだ。そして、今の出来事も、会話を打ち切るため、彼がわざとアイラを刺激して、自分もろとも席を立たせたと考えられなくもない。
――とにかく、あいつを甘くみては駄目だ。必ずしっぺ返しを食らう。俺だけならまだしも、あの手間ばかりかけさせてくれる坊主《ヨシュア》と、アイラがいるんだ。
ガルーは改めて自分を戒めた。
ふたりは自分たちがいた客間の前を通り過ぎ、奥へと進む。そして、つきあたりに開かれた入口を見つけた。螺旋《らせん》階段のようだ。
「二階下といってたね」
アイラは躊躇《ちゅうちょ》なく下方に続く階段に足を向けた。ガルーも続く。
階段を二周して一階層分下がる。都合四周して目当ての階についた。最下層らしく、階段はそこで跡切れている。
階段の前は、三方に通路が分れている。正面と左右だ。
「こっちだ」
ガルーが真正面の通路を差し示す。
アイラは無言でうなずき、足を前に踏み出した。
左右に立ち並ぶ扉をちらちらと見ながら、足早に通路を進む。
一刻も早くヨシュアに会いたいという思いが、足を急かしているのだが、同時に、一向に鎮まらないグリフィンへの腹立ちが、足取りの荒々しさとなって表われていた。
なぜ、こうも気にかかるのか、と思う。今までも憎らしい男どもはいくらでもいた。けれど、相手をするだけ馬鹿らしい、嫌なものは忘れてしまえと、念頭から追い払ってきたではないか。なぜ、あの男に限ってできない――そのもどかしさが、アイラを余計に苛立《いらだ》たせた。
「――ここじゃないのか」
後ろからガルーが呼び止める。
ハッとしてアイラは振り返る。彼が指差した扉には、覚えのある木を象《かたど》った紋章がかかっていた。
「あっ、それよ」
慌《あわ》ててアイラは戻った。
「どこに目をつけてんだ」
「うるさいわね」
アイラが鍵《かぎ》となる合言葉を唱えると、扉が横滑りして開いた。
ふたりの目に、太陽灯の下で枝葉の傘を広げる木と、床に並ぶ八つの黒い棺《ひつぎ》の形をした浴槽が入った。そして、そのひとつに横たわる子どもの白い裸体が――。
「――ああ」
アイラは喜びの声を洩《も》らし、愛し子が眠る浴槽に向かって駆け出す。
その時、彼女はヨシュアのこと以外なにも考えていなかった。そばに付き添うガルーも、グリフィンも、すべて念頭から追い払われていた。
だがゆえに、ヨシュアの隣の浴槽から、獣人の仔《こ》の姿が消えていることに気づかなかった。
いきなり、浴槽の陰から獣のような叫びが上がり、何者かが宙に跳躍する。
不意をつかれたアイラは、一瞬思考が停止する。
「――危ない」
アイラは背後からガルーに突き飛ばされ、床に倒れ込む。手加減する余裕がなかったのだろうが、背に強い衝撃を受けたアイラは息を詰らせ、すぐに起き上がることができない。
「な、なんだ、こいつ」
ガルーが狼狽《ろうばい》した声を上げる。
すぐ近くで、床を転げ回って激しく争っているようだ。
「ア、アイラ、なんとかしてくれ」
ガルーが助けを求めている。
――そんなに強い相手なの。
ようやく、アイラはヨシュアの浴槽の縁に掴《つか》まって体を起こした。そして、襲撃者の姿を見て思わず仰天した。
「――なによ、その子」
一糸まとわぬ全裸の少女が、仰向けに倒れたガルーの上に馬乗りになっていた。
獣の叫びを上げる少女は、長いたてがみのような赤茶けた髪をふり乱して、組み敷いた相手の喉《のど》に噛《か》みつこうとしている。
だが、ガルーも下から少女の両手を押さえて必死に抵抗する。
「なにやってんのさ、娘っ子相手に。そんなこっちゃ力自慢が泣くよ」
アイラは呆《あき》れた声を出した。
「ば、馬鹿いえ。こいつ、見かけによらず、凄《すご》い力なんだ。そ、それに狂暴で手がつけられない。こ、こら痛いじゃないか。よせってば――」
どうやら、ガルーは女の子を相手に本気で戦う気になれないようだ。とはいえ、顔は引っ掻《か》き傷で血だらけだし、少女の異様に尖《とが》った犬歯に首筋を食いつかれたら、軽い傷では済まないだろう。
やれやれ、とばかりにアイラは腰の剣に手を伸ばした。この輝くオリハルコンの細剣を見れば、少女もひるむに違いないと踏んでいた。
だが、アイラは剣を抜かなかった。いや、抜くことを忘れたのだ。
剣の柄《つか》に添えた手が後ろから掴まれた。弱々しい力だ。震えが伝わってくる。そして、その手は濡《ぬ》れていた。
アイラは素速く首を斜め後ろに向ける。そして、そこに見たものは――。
「……お願いです……ティアに、あの子に乱暴しないでください……」
青白い顔のヨシュアが、すがるような目でアイラを見上げていた。
目を驚きに見開いたまま凍りつくアイラの顔が、ふいに崩れる。
次の瞬間、彼女は屈み込んで、少年を抱き締めていた。
「――――!」
ヨシュアは何事が起きたか、わからないように呆然《ぼうぜん》としている。
アイラは嗚咽《おえつ》を洩《も》らし始めた。
たくさんいいたいことがあった。なによりも、おまえを置いて、舞台に上っていたことを謝らなくちゃいけない――そう、思っていた。だが、言葉にならなかった。今まで胸に重くのしかかっていた不安や悲しみが、一挙に溶けて流れ出し、熱い涙となって頬《ほお》を濡らすのを感じていた。
「――ウウ?」
ヨシュアの目覚めに気づいた少女は、一瞬争っていることを忘れた。
その隙《すき》を突いて、ガルーは跳ねるように起き上がり、素速く少女の細い腕をねじって、背後から肘を少女の首に巻きつける。
[#挿絵(img/02_095.jpg)入る]
「さんざん、てこずらせてくれたな」
少女は両足をばたばたさせて喚《わめ》き立てるが、もはや完全に拘束《こうそく》され、自由を失っていた。
「――ガルー!」
アイラが叫んだ。
「ん?」
ようやくガルーはふたりの抱擁《ほうよう》を目にした。
「その子に乱暴しちゃいけないよ」
アイラは振り向きもせずにいった。
「坊やがそう頼んでいるんだ。聞き届けておくれ」
「……ああ」
ガルーは仕方なく力を緩める。
裸の少女はするりと腕から抜け出し、ガルーに向かって牙《きば》を剥《む》く。だが、なにか匂《にお》いを嗅《か》ぎつけたのか、急に小さな鼻をひくひくさせ、あたりを見渡した。
床に骨つき肉が落ちていた。ガルーが後でアイラに食べさせようと懐に入れていたものだ。揉《も》み合った時に転げ出たようだ。
少女は目の色を変えてそれに飛びつく。
「ちっ、がっついていやがる」
ガルーは自分のことを棚に上げ、呆《あき》れたように呟《つぶや》いた。
ヨシュアの記憶は、ダスターニャの安宿で目覚めた時からのものだ。
以前の街道を旅した時、さらにはアイラたちと出会う前のことは一切憶えていなかった。
加えて、風のざわめきにすら怯《おび》えた、おさな子のようなヨシュアはいずこかに消え、代わって、歳《とし》相応の、いやそれ以上に利発な瞳の輝きを持つ少年となっていた。アイラの目には、まるで別の人格が入れ替わったように映った。
アイラの胸に一抹の寂しさが湧《わ》いた。自分が面倒みなければなにもできなかった、〈坊や〉ではなくなってしまったからだ。
――手塩にかけて育てた子どもが、親の手を離れていく時ってこんなもんかね。
急に目頭が熱くなった。
「……お姉さん?」
顔を上げると、心配そうに覗《のぞ》き込むヨシュアがいた。少年の髪は木洩《こも》れ日《び》を浴びてキラキラと輝いている。
ふたりは〈ウィク・ラ〉の浴槽の縁に、寄り添うように座っていた。
天井の太陽灯は、まだ眩《まぶ》しい光を放っていたが、頭上の枝葉が作る木陰にいると、いくぶんかは暑さが凌《しの》げた。
残るふたり――ガルーと、ヨシュアがティアと呼ぶ少女はいない。食べ物を探しに〈宴の間〉に出向いている。
少女はヨシュアと離れることを渋ったが、ガルーは引きずるように連れ出した。アイラにふたりだけの時間を与えよう、という彼なりの気遣いだろう。
「――ああ、なんでもないんだよ」
アイラは素速く涙をぬぐい、笑顔を見せた。すると、ヨシュアもほっとしたように笑う。
それを見た途端、胸がきゅんと締まる。
アイラは衝動的にヨシュアの細い体を引き寄せ、腕の中に包み込んだ。
――なにを考えていたの、アイラ。この子はなにも変わっちゃいない。優しくて、素直で、可愛い。ちょっとだけ心が育ったけど、あんたの大事な子に変わりはないじゃないか。
「お、お姉さん、苦しい……」
アイラの耳元に、ヨシュアが囁《ささや》くようにいった。少年の息が耳に吹きかかる。そのくすぐったさが気持ちよかった。
「ふふ、ごめんよ」
アイラは抱擁を解いた。けれど、完全には離さず、ヨシュアの両肩を掴《つか》んで目と目を合せた。
少年の瞳は色が薄かった。
一瞬、アイラは、この子の目に自分がどのように映っているか知りたいと思った。
「いいかい、ヨシュア。さっきも話した通り、あたしとガルーは、おまえのお父さんに頼まれたの。ああ、頼まれただけじゃない。あたしはおまえが好きよ。可愛くって仕方がないのさ。この先、どんなことが起きても、きっと守ってあげるからね。ちっとも心細いことはないんだよ」
ヨシュアの顔に戸惑いがよぎる。だが、アイラの暖かなまごころが伝わったのか、小さく形のよい顎《あご》をこくりと傾けた。
「そう、いい子だね」
アイラの顔が喜びに輝く。
「あの……」
少年がなにか尋ねたそうな表情をした。
「なんだい?」
アイラは暖かな笑顔を向ける。
「……ぼくの父さんって、どんな人。逢《あ》ったんでしょう」
「えっ――」
返事に窮した。ありのままに「おまえの父親は白い獅子よ」などと話してよいものだろうか。
「――ああ、そりゃ立派な人よ。それに、とても強いわ。なん度も危ないところを助けてくれたんだから。地上についたら、きっとお父さんに逢えるからね。楽しみに待つのよ」
結局、誤魔化すことにした。目覚めたばかりでもあり、動揺は避けたかったのだ。
「……そう」
少年の嬉《うれ》しそうな顔を見て、アイラはほっと胸をなでおろす。しかし、次の問いかけは、彼女の心に衝撃を与える。
「母さんは?」
知らずに口にしたとはいえ、彼女にとり最も酷な問いかけといえよう。
アイラの顔からさっと血の気が引く。
「お、お母さん……?」
「は、はい……」
ヨシュアは及び腰になるが、肩を固く掴《つか》まれ、逃げることは許されなかった。
「……お母さんに、逢いたいかい?」
「わ、わからない……どんな人だったか憶《おぼ》えてないし……お姉さん、ぼくの母さんを知っているの」
アイラは自分の心が鬼に変わっていくのがわかった。見も知らぬ少年の母親に殺意を覚えるほどに憎み、母親に思慕の念を寄せるヨシュアを恨めしく思った。
――しょせん、あたしは本当の母親じゃない。わかっていたのよ、そんなことは!
アイラは手を少年の肩から離し、顔を背けた。
うなだれた白い首筋が小刻みに震える。
ヨシュアがおずおずと指を伸ばした。
指先がアイラの肩にそっと触れる。すると、彼女は身を翻すように振り向き、少年を抱擁した。
「お、お姉さん……」
アイラの胸の中は、愛憎が燃え盛る炎となってせめぎあっていた。だが、間違いなくいえるのは、いずれにしろ、もうヨシュアなしには生きていけない、ということだった。
廊下に通じる扉が開いた。
ガルーが小脇《こわき》に少女の体を、反対側の手に料理を山と盛った大皿を抱えて中に入る。
「さあ、ついたぞ。おまえの分もちゃんと分けてやるからな。おとなしくしていろよ」
ガルーがティアに向かって怒鳴るようにいった。だが、少女はしかめっ面を作って唸《うな》りを上げる。
少女はだぶだぶの服を被っていた。とうてい『着ている』とはいえない乱れた姿だ。本人も煩わしいらしく、服と格闘した跡が見られる。腰に巻いた皮帯で縛りつけていなければ、とっくに脱ぎ捨てられていたに違いない。
「――聞いてくれよ、アイラ」
ガルーがたまりかねたようにいった。
「こいつ、手のつけられないじゃじゃ馬だぜ。もう、あの広間は使えない。壁は食べ滓《かす》が飛び散り、床は割れた皿やぶち撒《ま》けた食いモンでぐちゃぐちゃだ。逃げ回るこいつを取り押さえるにゃ、ずいぶん苦労させられたぜ」
部屋の惨状を物語るかのように、ガルーの顔や髪の毛は滓や汁でベトベトだった。
「そ、そうかい」
アイラは背中を向けたまま、そっと目頭をぬぐい、ヨシュアから離れた。
「なんだ、まだ泣いていたのか。気持ちもわからんでもないが、いい加減にしとけよ」
「うるさいね。女はいろいろあるんだよ」
アイラは不機嫌にいった。
ガルーは少し面食らったが、荷物を抱えたまま、ひょいと肩をすくめ、それ以上なにもいわなかった。
「さあ、お腹が空いただろう。早く食べよう」
と、アイラはヨシュアの背に手を回した。
少年は当惑した顔だが、逆らいはしなかった。
床に置いた大皿の回りに四人は集った。
皿の中身は、雑多な料理がまぜこぜになり、無残な姿になり果てていた。王侯貴族が食する高級料理も、こうなってはただの残飯だ。しかも、ガルーは食器の類をなにひとつ持ってこなかったため、全員が手づかみで食べることになる。まあ、ティアの面倒をみるのが精一杯で、とてもそんな気は回らなかったと思うが……。
アイラはまずヨシュアのために果実を取って渡した。
「よく噛《か》んで食べるんだよ。ゆっくりと、ちょっとずつね」
街道からこっち少年の腹には、アイラが口移しで与えた流動物以外入っていない。できれば、胃に負担の少ない料理を作ってあげたかったが、叶《かな》わぬとあらば仕方ない。
「グリフィンの姿は見なかったのかい」
と、アイラはガルーに向かって尋ねる。
「部屋には誰もいなかったぜ。食いかけがそのまんま残ってた」
ガルーは食べるのが忙しく、ほとんど上の空で答える。
――さっき、あれだけ食べたのに、と驚くほかはなかった。
ガルーの傍らには、ティアが床にはいつくばって肉に食らいついていた。
アイラはじろりと睨《にら》み、
「ガルー、その子をしっかり押さえといておくれ。ヨシュアを引っ掻《か》きでもしたら大変だからね」
すると、少女はアイラに向かって歯を剥《む》いて唸《うな》る。
「どうやら、本当にあの獣人が化けているようだね」
アイラは呆《あき》れ顔でいった。
状況的に見て、この少女が見せ物小屋にいた、毛むくじゃらの獣人の仔に間違いなさそうだ。しかし、なぜ人の姿に変わったのか、となると、これがさっぱりわからない。なにしろ、少女はまったく人の言葉を解さず、獣のように喚き、唸るだけだ。これでは説明を求めても無駄だろう。
「大丈夫、おとなしくするようにいうから」
すかさずヨシュアがかばう。そして、ティアに顔を向けて、
「ね、わかるだろう、ぼくのいうことが。暴れちゃいけないよ。さもないと一緒にいられないからね」
すると、少女は「キューン」と哀れな声を上げて静かになった。
アイラとガルーは目を剥《む》いた。
「『いう通りにする』って」
にっこりとヨシュアは笑った。
「お、おまえ、この子の言葉がわかるのかい」
「ん……なんとなく」
ガルーが高笑いを上げる。
「なんだ、当てずっぽうか」
「黙って!」
アイラはぴしゃりといった。そして、ヨシュアのほうを向き、穏やかな口調で、
「どうして、この子をティアと呼ぶんだい」
「自分から教えてくれたよ。『みんなにティアって呼ばれてた』って。『みんな』っていうのは、仲間のことみたいだね。この子、かわいそうなんだ。旅をしている途中、群からはぐれてしまって、群を探して街道に出た途端、人間に掴《つか》まってしまったんだって」
そして、ヨシュアは小首を傾げ、
「……でも、あまり群に戻りたがってないみたい。ずっと、一緒にいたいっていってる」
「どうして?」
「わからない。わけをいってくれないし。なんだか、仲間に苛《いじ》められていたみたいなんだけど……」
ふと、アイラはティアに目を移した。
いつの間にか、少女は食べ物を口から離し、手足を縮こめていた。その表情は悲しげで、過去に思いをはせているかに見える。
「い、いつ、そんなに話をしたんだい。おまえ、さっき起きたばっかりじゃない」
アイラの声は震えていた。
「ん……この子がいた小屋と、あとは夢の中かな。なんとなく憶《おぼ》えているよ」
ヨシュアは平然と答えた。
「……心が繋《つな》がっているようだな」
ガルーが呟《つぶや》くようにいった。
その言葉にアイラはかっとなったが、どうにかこらえる。「気持ちが悪い」などと口にすれば、ヨシュアが傷つくに違いない。
「で……おまえはどうなんだい。この子を、ティアを連れていきたいのかい」
「じょ、冗談じゃない――」
ガルーは血相を変えた。
「お黙りっ! あんたには訊《き》いてない」
アイラの口調は、ガルーにわずかな反論も許さない。
「…………」
ヨシュアは答えにくそうだ。仏頂面でそっぽを向いているガルーの前では、それも無理はなかった。
アイラは息を深く吐き、
「……わかったよ。おまえの友だちとなれば、無下《むげ》に引き離すこともできないさ。いいよ、連れていこう」
ヨシュアの表情がぱっと明るくなり、アイラの胸に抱きついた。
「ありがとう、お姉さん!」
アイラは思いがけないヨシュアの行動に驚いたが、すぐに蕩《とろ》けるような笑顔に変わって、少年の背を撫《な》でた。
ガルーはふたりを横目に見つめ、
「ちっ、こうなるんじゃないかと思ってたよ」
と、忌々《いまいま》しそうに独りごちた。
その時だ――
「ん?」
広間全体がぐらりと揺れた。
そして、床がわずかに斜めに傾いた感じになる。天井では太陽灯が明滅し、じょじょに暗くなっていく。
「ど、どうしたんだい」
アイラは思わずヨシュアを抱いた手に力をこめていた。傍らでは、ティアが四つんばいの姿勢で、低く唸《うな》りを上げている。
「舟がどこかに降りようとしているんじゃないのか」
と、ガルー。
「どこへ?」
「わかるわけないだろう。窓ひとつないんだぜ、この部屋は」
アイラは硝子《ガラス》張りの床を思い出す。
「外が見えるところがあるわ」
「近くか?」
「同じ階。部屋を出て左にまっすぐ」
「よし、行こう。ここにいても始まらない」
アイラはヨシュアを抱えたまま〈樹の間〉を出た。ガルーはもちろん、ティアもちゃんとついてきた。
舟の通路はどこも同じような形だが、彼女はグリフィンの先導で歩いた道順を、迷わず遡《さかのぼ》ることができた。
「あ、あそこのはず」
アイラは通路の先を指差す。
すると、後ろにいたティアが急に足を止め、警戒するような唸りを洩《も》らした。
「扉が開いているぜ。どうやら先客がいるようだ」
ガルーがにやりと笑った。彼もまた人の気配を察知したようだ。
暗い広間に長い黒髪の青年が立っていた。そして、アイラたちが開け放した扉から顔を覗《のぞ》かせると、初めて気づいたように振り向く。
「そろそろ、お見えになる頃だと思っていました」
といって、グリフィンは謎《なぞ》めいた微笑《ほほえ》みを浮かべた。
アイラは抱いたヨシュアの体が緊張するのを感じた。自分の体の陰にいるティアなどは、あからさまに敵意の唸《うな》りを発していた。
「――ヨシュア、それにティアだったね。初めまして。わたしはムウのグリフィン。アイラやガルーの友人だ。つまり、きみたちの友でもある。仲良くしておくれ」
グリフィンはふたりに挨拶《あいさつ》する。むろん好意的な反応など返ってこようはずもない。
「おい、誰がおまえの友だって」
ガルーがすかさず文句をつける。
「おや、もう充分親しい間柄になっていると思っていましたが。まだ交流が足りませんか」
と、鉄面皮も相変わらずだ。
「けっ」
ガルーは唾《つば》を床に吐《は》き捨てる。そういえば、硝子《ガラス》張りの床は真っ暗で、外が見えなくなっていた。
アイラはヨシュアを床に降ろし、グリフィンの前に進み出る。
「先程はどうも失礼を致しました。なれなれしい振るまいだったと反省しています。許していただけませんか」
と、先にグリフィンが口を開く。
「心にもないことを」
アイラの返事はそっけない。
「それよりも、あんたがどうしてここにいるか教えてもらいたいね。舟が下がっているんだろう。どこかに降りるのかい」
「いえ、お別れの前に、あなたがたに是非見せたいものがございまして」
「お別れ?」
青年は少し寂しげにうなずき、
「本国から帰還命令が届きました。ひとまず、故郷に戻らねばなりません」
「あ、あたしたちを助けたせい?」
「命令に補足説明はございません。いかなる理由か――出頭すればわかることです」
グリフィンは肩をすくめる。
「ようやく、おまえの顔を見なくて済むのか。はっ、こいつはありがたい」
ガルーが軽口を叩《たた》く。
すると、アイラが振り返って恐い目で睨《にら》みつける。
「なにいってんだ、この恩知らず。あたしらみんなが世話になったのは確かなんだよ」
ガルーはむっとして口をつぐむ。
「庇《かば》っていただく必要はありません、アイラ」
グリフィンは静かにいった。
「わたし自身、後ろめたい部分がなくはないのです。あなたがたの目には、怪しい人物として映ることも承知しておりますしね。ともあれ、いろいろなことを清算するためにも、一度故郷に戻る必要がありました。ですから、あなたが気に病むことはありません」
グリフィンの黒い宝石のような瞳に見つめられているうちに、アイラの中に、また息詰るような胸苦しさが蘇《よみがえ》っていた。
「で――見せたいものってなんだい」
ガルーがことさら声を大きくしていった。ふたりの間に水を差そうとしたのは明白だ。
伝道師はアイラから視線を外すと、広間の奥に進んだ。そして、膨らんだ外套《がいとう》の袖《そで》から掌に収まる大きさの金属板を取り出した。ダスターニャの町で、舟を呼ぶ時に使った道具だ。
指先が板の上を撫《な》でる。すると、足元から震動が起こり、円形の硝子《ガラス》張りの床に光が差し込んできた。船内の異様なまでの明るさに慣れた目には、さほど眩《まぶ》しさを感じない。
光の幅がどんどん広くなる。透明の床を覆っていた外装が開いているのだ。舟の外側から見ると、この円形の床は、翼の中央部にある人面の左目の部分、覆いはその黄金色に輝く瞼《まぶた》に当たる。
真っ黒に近い、濃い緑の光景が眼下に広がっていた。樹海を上空から見ているに違いない。いつの間にか、鳥舟は厚い雲の下に出ていたようだ。
短い悲鳴を上げて、ティアが床から飛び上がる。そして、広間の隅に行って、体をすくめて震えている。また、ヨシュアはアイラの腰にぴったりとへばりついた。
怖がるのも当然よ、とアイラは思った。大の大人であるガルーすら、冷や汗を満面に浮かべ、顔を青ざめさせているのだ。
「み、見せたいものってなんだ。まさか、これがそうだっていうんじゃないだろうな。樹海なんて、上から見ようが、下から見ようが変わらないぞ」
と、ガルーが怒鳴るようにいった。
アイラもまったく同感だ。けれど、この青年が意味もない行動をするとは思えない。彼女はようやくグリフィンという男をわかってきた。
「本命はもう少し先ですが……ああ、あれなども、是非ともご覧になっていただきたいものです」
グリフィンは薄い金属板に触った。すると、舟はぐるりと大きく輪を描くように旋回を始めた。
地上に丘のように盛り上がった一帯があった。縁の切れ間に白いものが見える。
「もう少し降下してみましょう」
その言葉とともに、ガクンと広間全体が揺れ、地上が迫ってきた。
「ありゃなんだ!」
ガルーが驚愕《きょうがく》の声を上げる。
丘に見えたもの――それは崩れた建物が広がる廃墟《はいきょ》だった。道を割って伸びる樹木や、建物を覆いつくす蔦《つた》のせいで、遠くからではわからなかったのだ。
木々の大きさからしか判断できないが、廃墟に立ち並ぶ建物は、例えようもなく大きい。地上に立てば、人間など蟻《あり》よりも小さく見えるのではないか、と思うほどだ。
「なによ、これは?」
と、アイラはグリフィンに問う。
「前エルマナ文明の廃墟です。すなわち、あなたがたの祖先――と申しましても、そう遠い昔ではありませんけれど――が築いたものです。大半が地に飲まれ、地表に露出しているものはごくわずか。そういった意味では貴重な資料です」
「わからないよ、そんなこといわれたって」
アイラは苛立《いらだ》ちを込めていった。
「理解せずとも結構です。どのみち、今は多くを語れません。ですから、この光景を記憶にとどめてください。のちに必要な知識となります」
舟が再び上昇した。そして、一直線に突き進む。
「このへんは、どのあたりになるんだ」
平静を取り戻してきたガルーが尋ねる。
「今、わたしたちは大陸の中心に向かっています」
「〈中エルマナ王国〉か」
「いえ、これから向かう場所は、いずこの国の領内にも属さぬ地域です」
ガルーの顔から血の気が引く。
「まさか、あそこに向かうってんじゃないだろうな」
「ほう、さすが〈都〉出身ですな。噂《うわさ》をお聞きになりましたか」
「――じょ、冗談じゃない。早く舟の方向を変えろ。引き返すんだ」
ガルーは拳《こぶし》を振り回していった。ただごとではない、とアイラの胸にも恐れが伝わる。
「どうしたのよ、いったい。そこになにがあるっていうの。危ないところなの」
ガルーが振り返る。信じがたいことだが、その顔は恐怖に歪《ゆが》んでいた。
「俺だってこの目で見たわけじゃない。だが、噂が真実だとしたら、絶対に人間がいっちゃいけない場所なんだ」
「なんなのよ、教えて! いったい、なにがあるっていうの!」
「――世界の果てだ」
ガルーが告げた途端、床が大きく傾いた。
その場に居合せた全員が――グリフィンも例外ではない――投げ出された。
咄嗟《とっさ》にアイラはヨシュアを抱きしめる。そして、アイラが床にぶつかる寸前、ガルーがその間に体を割り込ませた。
鳥舟は突然嵐の中に放り込まれたように翻弄《ほんろう》されていた。
黄金の翼のあちこちに、稲妻が走り、醜い焼け焦げを作る。
「遅かったようですね。目的地についてしまったようです」
激しい揺れの続く中、グリフィンが皆に向かっていった。
「ちくしょう! 話は後だ。早くここから抜け出すんだ」
「さて、そう簡単には。それよりもご覧なさい。見えてきましたよ、世界の果てが――」
アイラたちは一斉に床に目をやった。
驚愕《きょうがく》の叫びが広間に響き渡る。
ガルーの言葉は嘘《うそ》ではなかった。
地表に巨大な、さっき見た廃墟《はいきょ》など軽く飲み込んでしまうほど大きな穴が穿《うが》たれていた。だが、驚いたのはそんな理由ではない。
穴の中は光すら抜け出せない暗黒の洞窟《どうくつ》――そこは間違いなく地獄の口であった。
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【第三章 狩りの街】
時はしばし戻り、舞台は樹海の町、ダスターニャへと移る。
光輝く『黄金の翼』が、上空に飛来するという大騒動があったにも拘《かかわ》らず、翌日には混乱も鎮まり、少なくとも表面的には、なにも起きなかったかのように常態に復した。
その夜、住民の大多数が「大きな災厄の前兆」と不安の囁《ささや》きを交わし、眠れぬ夜を過ごした。しかし鳥舟が飛び去ってのち、これといって異変の兆候は現われず、どんよりと町全体に靄《もや》がかかった、それこそ、いつもと変わらない夜明けを迎えると、人々はあたかも憑《つ》きものが落ちたように、昨夜の出来事を忘れてしまった。
いや、正しくは忘れようとしたのだ。
直接の害が及ばない限り、よけいな憶測を巡らさず、日常に意識を埋没させる――これが樹海で生きるための信条だった。
しかし、あたかもそれを妨害するように奇怪な噂《うわさ》が町なかに広まっていた。じょじょに、そしてゆっくりとだが、それは確実に住民の心を、ある方向に歩ませていた。
大通りが交差する中央広場には、平常通り市が立ち、いつもと同じように行き交う人々で賑《にぎ》わった。
持ち主がいなくなった獣人の見せ物小屋が取り払われ、その場所を、露天商たちが当たり前のように占拠している。しかし、行き交う人々のほとんどが気づきもしない、微細な変化であった。
「さあさ、早いもん勝ちだ。買っとくれ、買っとくれ――」
夕暮れ時の市場は、その日一番の賑わいを見せる。
翌日まで持ち越せない、生鮮品の安売りが行われ、それを目当てにした客――ことに町の住民の過半数を占める貧乏人――が集まるからだ。朝つけた正札の半分程度が底値とされるが、痛みが激しい雨季の場合、市が終わる日没直前には、文字通りの投げ売りとなる。
「――赤九枚、いないか、いないか。八枚、いないか、いないか」
固唾《かたず》を飲んで見守る女たちの前で、露店の親父が少しずつ値を下げていく。ちなみに「赤」とは赤銅製の貨幣のこと。最も価値が低く、五枚で黄銅貨の「黄」一枚、一〇枚で白銅貨の「白」一枚と交換できる。また、銅貨の上には、銀貨、金貨がある。購買力としては、赤銅貨三枚で製粉済みの小麦|椀《わん》一杯が、この町での目安だ。
「ええい、二枚。これ以上負けるぐらいだったら、犬の餌《えさ》にしてやる!」
いつも最後は焼け糞《くそ》である。
すると、店の前で鈴なりになっていた女たちが、一斉に金切り声とともに金を突き出し、かっさらうように品物を取っていく。中にはドサクサに紛れ、金は渡すふりだけ見せて、品物を盗んでいく豪の者も少なくない。
広場のあちこちで、こういった小さな騒ぎが見られた。高い税金や物価高と、生活は決して楽とはいえないが、人々はそれでも逞《たくま》しく生きていた。
満足の笑みを浮かべる者、額に眉《まゆ》を寄せて重いため息を洩《も》らす者――表情に違いはあっても、女たちは食べ物を大事そうに抱え、足早に散っていく。おそらく、腹を空かした子ども、あるいは仕事から戻った亭主が、帰りを待っているのだろう。これもまた日常的に見られる光景といえよう。
「――ん」
店の片付けをしていた親父が、ふいに空を見上げる。首筋に冷たいものを感じたのだ。
一面の曇天に、真っ黒な雲が湧《わ》き出し、空を覆い尽くす勢いで広がっていく。
「こりゃいかん」
そう呟《つぶや》いた途端、ポツポツとひび割れた石畳に染みが生まれていった。
広場に残っていた客が、逃げるように散り、片付けに追われていた露天商たちも、店の天幕の下や近くの家の軒下に駆け込んだ。
ザザー
いきなり激しい雨になった。
天の雨桶《あまおけ》を一度にひっくり返したような、ひどい降りだった。
跳ねる水|飛沫《しぶき》で地面が白く煙り、雨宿りの場所を求めて逃げ惑う人々を、数秒でずぶ濡《ぬ》れにする。
広場では、細い四本の棒だけで支えられた露店の天幕が、叩《たた》きつける雨に耐え切れず、次々に倒れ伏した。
市街でも、家々のといを伝わって流れ込んだ雨水が、路地という路地を濁流渦巻く川と変えていた。
ピチャーン
天井に染み出した雨水が、雫《しずく》となって床に落ちる。
ここは狭い石壁に囲まれた地下の一室。明かりは、壁にかかる蝋燭《ろうそく》の火がひとつだけだ。窓はなく、黒鉄《くろがね》の枠をはめた頑丈そうな扉があるだけだ。
部屋の中は、霞《かすみ》がかかったように煙り、甘酸っぱい花の匂《にお》いが充満していた。ぽつんと床に置かれた小さな香炉が、煙の元なのだろうが、今は消えている。
ピチャーン
水滴がまた落ちる。今度は部屋の隅にある寝台に、それも横たわる男の胸で飛沫《しぶき》を上げた。
男は死んだように眠っている。左胸と顔の右半分に厚い包帯が巻かれ、傷口から滲《にじ》み出した血が黒い塊となっていた。
かなりの重傷のようだ。
しかも、男は寝台の脇《わき》から伸びる革帯によって幾重にも縛られ、身動きできなくされていた。
男の体を見る分には、それほど厳重に縛る必要があるのか、と疑ってしまう。貧弱とはいわないまでも、中肉中背で、さして力が強いようには見えなかった。
ピチャーン
今度の雫は、男の剥《む》き出しの頬《ほお》に落ちた。
男の目元の筋肉が痙攣《けいれん》したように動く。ゆっくりと瞼《まぶた》が開いていく。だが、まだ充分に眠りから覚めていないのか、黒い瞳は焦点を結ぶことなく、ぼんやりと天井を見ている。
ふいに、扉からガチャガチャと鍵《かぎ》を開ける音が上がる。
男は唯一動かせる首を横に倒し、視線を扉に向ける。
ギギギと蝶番《ちょうつがい》を軋《きし》ませて、重い扉に隙間《すきま》ができる。そして、口を濡《ぬ》れた布で押さえた若者が中に入ってきた。
若者は寝台に目もくれず、香炉の上に屈み込み、蓋《ふた》を取って香草を足した。炉から再び煙がたなびき立つ。それを見届けると、若者は素速く蓋を閉じて、部屋を出ようとした。
顔を上げた時、寝台に横たわる男の目とかち合った。
「――ひっ!」
濡れ布の奥から恐怖の声が洩《も》れ、若者はその場に尻餅《しりもち》をついた。
「……おまえ、イグナチウスのところの……」
男ははっきりした声でいった。
若者は肯定を示すうなずきをなん度もした。
「……ここはどこだ……どうして俺はこんなところに……」
相手に尋ねる、というより、自分の記憶を呼び覚ますためのようだ。
無意識に手を上げようとして、ようやく自分が拘束されていることに気づく。だが、軽く力をこめただけで、右腕を縛る革帯が、音を立てて千切れ飛ぶ。
手が顔半分を覆う包帯に触れる。
「……これは?」
突然、男の顔が強ばる。頭にかかっていた霞《かすみ》が一気に晴れ、眠っていた記憶が蘇《よみがえ》る。
それは決して好ましい記憶ではなかった。
手がわなわなと震え出し、喉《のど》の奥から獣じみた唸《うな》り声が湧《わ》き上がってきた。
震える右腕が変貌《へんぼう》していく。
指先の爪《つめ》が伸びて、白く尖《とが》った猛獣のそれに。そして、真っ黒な剛毛が、肘《ひじ》のあたりまで包み込んでいく。
腰を抜かしていた若者は、目を背けることもできず、ガチガチと歯を打ち鳴らして、その光景を見ていた。
人が発したものとは思えぬ怒号が、地下室に響き渡る。同時に、男を寝台に縛りつけていた残りの拘束具がすべて弾け飛んだ。
猛獣は鎖から解き放たれたのだ。
ついに意識を繋《つな》ぐ糸が、ぷつんと切れたのか、若者は白目を剥《む》いて気絶してしまった。
ビシャ
半獣人は水たまりの床に足を降ろした。
「――くそっ、つまらぬ人間の分際で、よくもこの俺さまに、恥をかかせてくれた。許さん。絶対に許さん。腹わたを引きずり出し、なぶり殺しにしてやる」
血も凍るような怨嗟《えんさ》の声が洩《も》れる。
怒りに血走った目が、床に倒れた若者の体を捉《と》らえる。
男は若者に向かって、鉤爪《かぎづめ》の手を伸ばした。
怒れる獣は、生贄《いけにえ》の血を欲していた。
「わしの徒弟《とてい》に手を出さんでくれるか」
突然、扉の隙間《すきま》から声がかかる。
不意を衝《つ》かれたのか、半獣人は驚きを露《あらわ》にして若者の体から飛びすさる。
「イグナチウス――か?」
ひとりでに扉が大きく開く。だが、扉の向こうには誰もいなかった。
「もちろんだ。他の誰だというのかね。ええ、〈豹〉のパイジャよ」
その言葉とともに、廊下の暗がりに影法師のように佇《たたず》む男の姿が浮かび上がる。
デル・イグナチウス・フィラレトス・アトル――アイラに薬を処方した、ダスターニャの裏町に住む錬金術師だ。
デルは地下室に入ると、床に置かれた香炉を靴の先で倒した。
水たまりに香炉の火種がこぼれ、ジュッと音を上げる。
「やれやれ、おまえたち〈使徒〉にかかっては、眠り草も役に立たんと見える」
デルは呆《あき》れたように呟《つぶや》く。そして、気絶した徒弟を抱え起こし、鼻に小瓶《こびん》を近づける。
「うっ」
徒弟が顔をしかめる。気付け薬のようだ。
「お、お師匠さま……」
と、薄目を開けて呟く。
だが、徒弟は目をデルの顔から、傍らに立つ半獣人に移すと、恐怖に顔を歪《ゆが》ませて、師匠の体にしがみつく。
「これこれ、怯《おび》える必要はない。わしがおるではないか。さあ、おまえは自分の部屋にいって休むがよい」
徒弟は師匠の身が気がかりなのか、扉の前で躊躇《ためら》い気味に後ろを振り返るが、半獣人の殺気ばった目を見て、一目散に逃げ出した。
デルは深々とため息を洩《も》らし、
「……出来は悪いが、今のわしにとっては、たったひとりの弟子でな……腹が減っているのだろうが、食わせるわけにはいかん……」
「あんな小僧、食う気はせん」
パイジャは不機嫌にいった。
そして、黒い剛毛に覆われた拳を震わせ、錬金術師を睨《にら》みつける。
「俺が欲しいのは……わかっているだろう」
「おまえの誇りを傷つけた男……ガルー・シャンだな」
デルがにやりと笑う。
「……ガルー? 奴の名か」
「ああ、おまえが眠っている間に調べたよ。一月前まで、ボラドの町でなんと役人をしていた男だ。駅馬車でこの町に向かう途中、白子に遭遇したらしい。町に入る時も、正門の大木戸で、衛士《えじ》相手に大立ち回りを見せたそうな」
錬金術師はククッと喉《のど》を震わせた。
「奴は今どこにいる」
「潰《つぶ》れていない左の眼《まなこ》で見たはずだ。あやつらは、ムウの鳥舟に乗っていずこかに去った。むろん白子も一緒にな……」
「くそったれめ!」
黒い拳が壁に炸裂《さくれつ》する。漆喰《しっくい》塗りの土壁ではない。硬く厚い石壁に大きな亀裂が走り、バラバラと破片が床に散らばる。
「……そ、そうだ。バルドは――〈虎〉はどうした?」
「…………」
「なぜ黙っている」
一拍置いて、デルは抑揚のない声で、
「殺《や》られたよ」
と、答えた。
「なんだと……」
パイジャは自分の耳を疑う。
「殺された……それも女の手にかかってな」
「女……まさか」
「そう、ここにも訪ねてきただろう。あの踊り娘……アイラ・モエリよ」
「馬鹿な! あんな小娘に、バルドが負けるわけはない。俺たちとは、力において天地ほどの開きがあるのだ」
「――侮《あなど》るでない」
錬金術師が鋭くいった。
「慢心がバルドを死に至らしめた。そして、おまえもそのざまよ」
パイジャは反射的に胸の傷を押さえた。
「た、確かに……なにをいわれても反駁《はんぱく》できん……」
上下の歯を軋《きし》ませて、心中の悔しさを表現した。
その様子を、デルは無表情に見つめる。
そして、不意にこう告げた。
「……おまえの主《あるじ》がこちらにお見えになる。すでに〈塔〉をお出になった。明後日にはご到着されるだろう」
ぎょっとしてパイジャは振り返る。咄嗟《とっさ》に声も出せないほどだ。
「側近殿[#「側近殿」に丸傍点]からの連絡だ。わしらには決して動くな、とのご指図を添えてな。いかがする?」
パイジャは答えない。ガタガタと胴ぶるいを起こし、返事をするどころではなかった。
「恐いのか?」
デルは嘲笑《あざわら》うがごとくいった。
パイジャの顔半分が、朱を差したように赤味を増す。しかし、怒りによってかきたてられた輝きも長続きしない。
ぷいと顔を背け、
「当たり前のことを訊《き》くな。あんただって知っているだろう、あの御方の恐ろしさを。〈十二使徒〉に名を列ねているとはいえ、しょせん、俺は代えのきく下僕《しもべ》のひとりに過ぎん。そして、わが主は失敗をお許しにならん。バルドは運がいい。生き延びて御前に出ねばならんこの俺よりな……」
半獣人の声は掠《かす》れていた。
「誤解があるようだ。おまえの主は、そのような無慈悲な方ではない」
「あんたになにがわかる!」
パイジャは激したように叫ぶ。
デルはひるまない。
「わかるさ。わしは前の側近だったからな」
「……あんたが側近だと」
「そうだ、実の息子ヘルマーに、その座を奪われる一年前まではな」
「…………」
「部下の失敗を許さない――それはヘルマーの考えよ。おまえの主は、この上もなく慈悲深き御方であらせられる」
「そ、そうなのか、いや、そんなはずは――」
期待と疑いの狭間《はざま》で、パイジャの表情は目まぐるしく変わった。それをデルは冷静な目で見つめる。
しばしの沈黙ののち、錬金術師は手をパイジャの肩に乗せた。
「どうだ――汚名を挽回《ばんかい》する気はあるか」
パイジャの左目が驚きに見開く。
「手立てがあるのか!」
デルは自信たっぷりにうなずく。
「なにゆえ、あの御方がわざわざ足をお運びになると思う。おまえの処罰のためなどではないぞ。側近のヘルマー、それに〈使徒〉の半分を引き連れてみえられるには、それだけの理由がある」
「もったいつけるな。早く、そのわけとやらを話せ」
「ふふふ、焦るな」
と、デルは親しげにパイジャの肩を叩《たた》く。「それはな、ムウの舟が戻ってくるからよ。むろん例の白子や、ガルー、アイラらを乗せてな」
「な、なんだと。本当か、それは」
パイジャは掴《つか》みかからんばかりだった。
「間違いない」
「主の〈予知〉か」
「さて、それはどうかな。ヘルマーめは余計なことはいわん。老いぼれには、なにも告げる必要はないと思っておるのだろうて。だが、わしは自分の洞察に確信を持っておる。必ず、舟は戻ってくる」
「なぜ、そうと決めつける」
「馬よ」
「うまァ?」
「そうよ、町の厩舎《きゅうしゃ》にあやつらの馬が預けられたままだ」
「なにをいうかと思えば――」
パイジャは呆《あき》れ声を上げた。
「馬の一頭や二頭、どこでも手に入るだろう。そんな曖昧《あいまい》な根拠で。くそっ、糠喜《ぬかよろこ》びさせてくれる」
すると、デルは含み笑いを洩《も》らす。
「おまえは〈使徒〉でも、終わりから二番目、第十一使徒であったな。ならば、知らされていないことも多かろうて」
そういって、デルは半獣人の耳元に顔を寄せ、なにごとか囁《ささや》いた。
パイジャは驚きの表情を閃《ひらめ》かせたのち、顔をうつむかせ、低くこもるような喜悦の笑いを上げ始めた。
「……なるほどな……そんな事情があったのか……」
パイジャの笑いは次第に大きくなり、狂躁的《きょうそうてき》な響きを強めていった。
「よかろう、あんたの話に乗ろうじゃないか。主が到着する前に、やつらを皆殺しにすれば、恥辱も雪《そそ》がれ、胸を張って主の前に立てる」
だが、デルは苦笑し、首を横に振る。
「いやいや、そう楽に事は運ばんぞ」
「なぜだ。俺が二度も遅れをとると思うのか。油断さえしなければ、あんな奴ら、束になってかかってきたところで――」
「確かに、おまえの体がまともならな」
「もう治った。この通りピンピンしている」
といって、パイジャは胸の包帯を引き千切る。高言|違《たが》わず、胸の傷はしっかり塞《ふさ》がっており、胸をどんと叩《たた》いても、大きな痛みは走らなかった。今の様子からは、幅広の剣が、肺を貫通して、背中まで切っ先が突き抜けたとは、とても思えない。
「右の目はどうだ」
デルの言葉に、パイジャは声を詰らせる。
「昨夜、手術で眼球を摘出したばかりだ。いくら不死身のおまえたちでも、複雑な神経器官の再生には時間がかかる。よいか、弾丸の破片がかなり頭蓋骨《ずがいこつ》に食い込んでいたのだ。脳に損傷がなかったのが不思議なくらいだ」
「片目が潰《つぶ》れているぐらいなんだ。奴らと戦うになんら不都合はない」
「強がっているが、おまえも薄々気づいているのではないのか」
パイジャの顔が強ばる。
「血を流し過ぎた。今のおまえは〈使徒〉として不完全な体となっている。その証拠に、自分の右腕を見ろ。あれほど激昂《げっこう》したにも拘《かかわ》らず、獣化が肘《ひじ》のところで止まっているではないか」
パイジャは黒い剛毛に覆われた己の腕をじっと見つめる。
「もはや獣人体には変化できん。いや、試みることも危険だ。制御を失い、心まで野獣と化す恐れがある。そうなればどうなるか、おまえもよく知っておろう。多くの志願者の中で〈血の試練〉を潜り抜けた、数少ない〈使徒〉なのだからな」
「人としての本性を失い、身も心もただの獣となってしまう……」
そう呟《つぶや》いた時、パイジャは背筋を貫く悪寒《おかん》を感じた。
「うむ、だからこそ眠り草を使い、深い眠りにつかせた。もっとも、計算以上におまえの回復力が強かったがな」
「……今の俺では、やつらの始末はつけられん、というのか」
「難しいな。白子にはガルーとアイラ、ふたりの〈使徒〉がついている」
「やつらとて不完全だ」
パイジャはぶっきらぼうにいった。
すると、デルは肩をすくめ、
「わかっている。だが、あの者たちの背後にはムウの連中がいる。現に〈虎〉のバルドは、オリハルコンの剣で倒された。他にも、どのような武器を授けられたかわからん」
「…………」
「よいか、事を起こす以上、万が一にも白子を逃すわけにはいかん。失敗するくらいならば、初めから手を出さぬほうが賢明というものよ」
「ならば、どうしろというのだ」
パイジャは苛立《いらだ》ちを込めていった。
「まあ、落ち着け」
デルはなだめるように相手の肩を叩く。
「わしに策がある。あの者たちが、手も足も出なくなる策がな……」
そういって、デルは喉《のど》を震わせて笑った。
「――間もなく、ダスターニャの上空です」
グリフィンが〈虹《にじ》の間〉に居合せる者たちに告げた。
誰も返事をしない。床に座ったアイラが、うなずく素振りを見せただけだ。
ガルーは壁に寄りかかってそっぽを向き、狼少女のティアは、部屋の隅で体を丸めて寝ている。そして、最後のひとりであるヨシュアは、アイラの膝《ひざ》に顔を埋めて、やはりうたた寝をしている。
大陸の中心に位置する〈穴〉から脱出してからというもの、彼らはろくに言葉を交わしていない。
あまりの衝撃に心が麻痺《まひ》し、なにも考えられなくなっているのだ。
むろん〈穴〉に誘《いざな》ったグリフィンは別格だろう。だが、この謎《なぞ》めいた白皙《はくせき》の青年も極端に言葉少なになり、時折、翳《かげ》りを秘めた表情を見せていた。
ムウの鳥舟は、真っ暗な雲を切り裂くように飛んでいる。〈穴〉から脱出する際に、ひどく損傷し、高々度の飛行ができなくなっていたのだ。美しい金色《こんじき》の船体は、あちこち黒く焼けただれ、外装が剥落《はくらく》して鉛色の地金を晒《さら》している部分もあった。それでも、飛行そのものは安定しており、船内にいて揺れはほとんど感じなかった。
そして、鳥舟は雲間から抜け出た。
「――町の灯だ」
ガルーの言葉に、アイラははっと顔を起こし、膝に寝ていたヨシュアが、軽い呻《うめ》きを洩《も》らして身じろぐ。
「さあ、着いたわよ。目を覚ましなさい」
アイラは寝惚《ねぼ》け眼《まなこ》の少年を立たせ、その細い手をとって、円形の硝子《ガラス》床の縁に歩み寄る。
透き通った床を通して、真っ暗な地表に浮かぶ無数の光が見える。家々の窓から洩れ出る灯火だ。
一際赤々と燃える火がある。
町を取り巻く外壁の上に焚《た》かれた篝火《かがりび》だ。外敵――すなわち森に潜む獣や獣人を寄せつけぬよう、夜を徹して火が焚かれるのだ。
篝火によって町の形が、ほぼ正確な八角形をしていることがわかる。また、そばに四角の形をした火の線が三つ浮かんでいる。これは町の農場に違いない。
弱々しく揺れる町の灯を見ているうちに、アイラは生まれ故郷に戻ってきたような、胸をつく懐かしさを感じた。
――三日といなかった町なのにね。
アイラは自分でも奇妙に思った。
舟が止まった。町の真上に静止したのだ。かなり低い高度だったが、真っ黒な雲を背にした状態なら、地上から肉眼で発見される危険はまずなかった。
不意に硝子《ガラス》床に映る光景が一変した。
強い光で照らし出したように、樹海や町の姿がはっきり見える。
「下の連中に気づかれないよう、そっと降ろせといったはずだ」
ガルーが怒鳴るようにいった。
グリフィンはいつもの微笑《びしょう》を口元に浮かべ、
「ご心配なく。ごく波長の短い不可視光を使っております。住民に気づかれることはありません」
「――ああ、そうかい」
と、ガルーは憎々しげに答え、ぷいと顔を背けた。
グリフィンは硝子床の縁に進み、地表を見降ろす。
「さて、あなたがたをどこに降ろしましょう」
上空から眺めると、町の構造が一目でわかる。
町並みは八角形の塀の内側に収まっている。東西南北に門が築かれ、そのうち南側が一番大きい。これがアイラたちが町に入る際にくぐった正門だ。他の三つは通用門で、市街に隣接した農場に通じている。
四つの門を結ぶように二本の大通りが走り、交差する場所が、市が立つ中央広場だ。
露店が並ぶ広場はもちろんとして、大通りぞいも、広場からはみ出た露店や、店を構える商店や酒場が集中し、ひどく雑然としている。アイラとヨシュアが泊った安宿も、大通りから奥に入る路地にあった。
まだ宵の口だからか、人が大勢通りに繰り出しているようだ。
それを見て、アイラは妙な胸騒ぎを覚えたが、なにがおかしいのかわからなかった。
もっとごみごみした場所もある。町を囲む塀と市街の間の空き地に、立錐《りっすい》の余地もなく立ち並ぶ天幕の群れ――「吹きだまり」と呼ばれる貧民|窟《くつ》である。他の町から移ってきた流民が大半だが、さまざまな理由でここに落ちてきた、元からの住民も少なくない。
貧困に苦しむ者がいれば、一方で富める者がいるのが世の常である。
金持ちが住むお屋敷町は、塀からも広場からも距離を置いた市街のど真ん中にあり、庭付きの広い豪邸を構えている。
どれだけ人が住んでいるのかわからないが、一軒分の敷地で、貧民窟の人間が優に一〇〇人は暮せる広さがあるだろう。
アイラは無性に腹が立って、空から石でも投げ込みたくなった。
食料生産を一手に引き受ける農場は、南側を除く町の三方に作られ、同様に塀によって樹海から切り離されている。
三つの農場は、それぞれ性格が分けられており、西側の農場は小麦畑を主とした穀物中心、北側は細かく畑と樹林が区分けされた野菜・果樹園、東側は家畜の放牧場と畜舎となっている。
北の農場の近くの樹林に、ぽっかりと穴が開いている。流民増加で食料が不足気味になったため、新しい農場の建設が始められているのだ。開墾《かいこん》は命懸けの仕事であり、もっぱら流民が当てられていると、ガルーが教えてくれた。
空からの眺望は、飽きることがない。
もっともアイラたちに景色を楽しむ余裕はなかった。渡すものがあるといって広間を出たグリフィンが戻るまで、降りる場所を決めなければならないからだ。
「――農場はどう? あそこなら人も少ないから、見とがめられないで、降りられると思うけど」
と、アイラが硝子《ガラス》越しに地表を指差す。
ガルーが首を横に振る。
「農場から町にどうやって入る。ふたつの通用門を越えていかなきゃならん。どこの町でもそうだが、食い物泥棒を警戒して、配置される衛士の数は、正門よりむしろ多いはずだ」
「……なら、一度森の中に降りて、朝になったら、正門から堂々と入るっていうのは?」
「初めて町を訪ねたって顔をしてか? そりゃ無理だ。衛士や役人も、俺たちの顔をまだ忘れちゃいないだろうさ。特におまえのようなべっ――」
ガルーの顔が急に赤らむ。「別嬪《べっぴん》を」といいかけて、口ごもったのだ。
「あたしがどうしたって?」
「いや、別に」
と、ガルーはごまかす。面と向かって臆気《おくき》もなくいえる度胸はなかった。屈強な肉体と野獣のごとき闘争心を手に入れても、こと女に対する苦手意識は消えていない。
幸いにして、アイラは気に止めた様子もなく、地表を睨《にら》んで考え込んだ。
「うーん、やっぱり町なかに降りるしかないのかね。人が集まる前に素速く逃げれば、なんとかなるかも」
「ふたりも手間のかかるガキを抱えているんだぜ。それより、もうしばらく空で待って、下の連中が寝鎮まった頃――」
「そりゃ駄目だよ」
と、ガルーの言葉を遮《さえぎ》る。
「なぜだ」
「時間がないでしょ。ああ、あたしらじゃなくって」
ガルーは彼女がグリフィンのことをいっているのだと察した。
「……一刻も早く、国に戻らなければならないといってたな」
「でしょ、あたしらの都合で遅らせたらまずいじゃない。ただでさえ、困った立場に置かれているみたいだし……」
だが、ガルーは素っ気なく、
「――関係ないね」
と、いい切った。
「ガルー!」
「百歩譲って、奴の苦境が俺たちを助けたせいとしても――半日分の遅れは、こっちの責任じゃない。よけいな回り道をしたあいつが悪い。気遣う必要はまったくないな」
ガルーの反発は、嫉妬以外のなにものでもないが、アイラにはそれがわからない。
「あんたって男《ひと》は!」
と、アイラは詰め寄る。だが、ガルーは固く瞼《まぶた》を閉じて無視を決め込む。まるで取り付く島もないといった様子だ。
その時、アイラは脇腹《わきばら》のあたりをぎゅっと掴《つか》まれた。
目線を落とすと、悲しそうに見つめるヨシュアの瞳にぶつかった。人が争う場面を極度に恐れるところは、以前と変わっていなかった。
彼女は慌《あわ》てて、少年の背に手を回し、
「心配しないで、喧嘩《けんか》してるわけじゃないんだから。ねえ、ガルー」
「……まあな」
不承不承といった体で、ガルーはあいづちを打つ。まさに「泣く子と女にはかなわない」という奴だ。
ふたりの顔を交互に見たヨシュアは、ようやく安堵《あんど》の笑みを浮かべる。
廊下の扉が開き、グリフィンが戻ってきた。その手に箱を抱えている。
「――決まりましたか」
「まだだ」
と、ガルーは不機嫌な声を出す。喧嘩の原因が、のこのこ顔を出したのだから無理もない。
すると、グリフィンはいつになく緊張した顔で、
「急いだほうがよろしいでしょう。黒馬に逢《あ》えたら、時を置かず脱出されることをお勧めします」
「どうして?」
「町の様子がいつもと違います。夜も更けたというのに、松明《たいまつ》を持った人々が、町なかを大勢|徘徊《はいかい》しています。まさか……とは思いますが、用心に越したことはありません」
アイラとガルーは揃《そろ》って眼下を見降ろす。
目を凝らすと、確かに通りや路地に揺らめく火が見える。
「なんだァ、奴らは。暴動でもやらかそうとしているのか」
ありえないことではない。生活の困窮や食料不足などといった理由から、町の底辺層が暴動を起こすことがある。標的は農場や金持ちの屋敷などで、食料や金品の強奪が行われる。小規模な騒ぎなら、町に雇われた衛士に鎮圧されるが、規模が大きくなった場合、手がつけられず、町そのものが崩壊する危険を孕《はら》んでいる。
「足踏みしちゃいられないようだね」
アイラは爪《つめ》を噛《か》んだ。
「もう馬のことは諦《あきら》めたらどうだ。ガキどもを連れて、この先乗り物なしじゃ辛いが。危ない思いまでして、連れ出す必要はないだろう」
と、ガルーがいい出す。
だが、途端にアイラの怒りがこもった目に睨《にら》みつけられる。
「馬鹿も休み休みおいい。あの馬はずっと坊やを守ってくれたんだ。見殺しになんかできっこないだろう。けど、あんたがその気なら構わない。安全な場所に隠れているがいいさ。無理強いはしないよ」
「ま、待てよ。わ、わかった。俺が悪かった。行くよ。一緒について行くって」
ガルーは慌《あわ》ててなだめにかかるが、彼女の憤りは、なかなか鎮まらなかった。
「――では、預っていた品物をお返しします」
グリフィンが運んできた箱に屈み込み、布包みをアイラに差し出す。
なにかと思って開いてみると、それは客間に残してきた舞台衣裳と舞踏用の靴だった。
胸が痛む。無理にでも忘れようとしていたものを、思い起こさせられたのだ。
「もう無用の品さ。そっちで処分してくれればよかったのに……」
アイラは真紅の靴に目を落とし、しんみりと呟《つぶや》くようにいった。
グリフィンは暖かい瞳で見つめ、
「いえ、やはりあなたがお持ちになるべきでしょう。踊る踊らないに拘《かかわ》らずにね……」
アイラは包みを胸に抱きしめ、小さくうなずいた。
次にグリフィンはガルーの武器を出した。
三連装雷発銃、革製の銃帯、布袋が床に並べられる。袋の中身は、鉛、火薬といった弾の材料と、手入れ用の工具などである。
「ようやく返ってきたか」
ガルーは腰に銃帯を巻き、常識外に大きい短銃を手に取った。その目の輝きは、お気に入りのオモチャが戻った子どものようだ。
「なんだ、弾は込めておいてくれなかったのか」
弾倉の中を覗《のぞ》き込んだガルーが、不満の声を上げる。
豹獣人との戦いで弾を撃ち尽くしていた。再び使えるようにするには、弾倉に火薬と鉛玉を詰めなくてはならない。
グリフィンは澄ました顔で、
「火薬式などという野蛮な武器は、わたしたちムウ人の趣味に合いませんから……」
「へえ、そうかい」
ガルーはにやりと笑い、雷発銃をグリフィンに向け、撃鉄を起こす。むろん弾倉は空だが、目の前に銃口が突きつけられれば、よい気分はしない。
「残念だったな。弾が入っていれば、獣人をもふっ飛ばしたこの銃が、あんたご自慢の〈見えない盾〉に通用するか試せたものを」
「またの機会にでも……もっとも結果は、火を見るより明らか、というものですが」
冗談にかこつけた恫喝《どうかつ》も、このムウの青年にはまるで効果がないようだ。
ガルーは舌打ちして銃を腰に収めた。
「どうせなら、こちらをお試しください」
といって、グリフィンは小さな革製の容器を渡した。火薬入れのようだ。
「中身はなんだ。火薬か」
ガルーは掌に中身を少し出してみる。
赤い粉末だ。普通の黒色火薬より、粒が細かく、鼻息がかかっただけで、飛び散ってしまいそうだ。
「火薬の添加剤として使うものだとか。以前手に入れたものですが、使い道がなく、そのまま舟の倉庫に眠っていました」
「添加剤というと、火薬の発火力を高めるものか」
「そのようで。ほんの少量混ぜただけで、驚くほど威力が増すとか。量には充分ご注意を。多過ぎると銃身が破裂するそうです」
ガルーはピューと口笛を鳴らした。
「どれほど効き目があるか疑わしいが。ま、使ってやるとするか」
言葉とは裏腹に、大事そうに容器を懐中にしまい込んだ。
「あとは……これを」
グリフィンはアイラの手に袋を握らせる。
ずっしりと重みがある。
「砂金です。身を守るに役立つものではありませんが、なにかの場合重宝するでしょう」
アイラは困惑した顔で、袋を押し戻す。
「いくらなんでも、ここまでしてもらう義理はないよ」
青年は少し寂しげな微笑《ほほえ》みを浮かべて首を横に振る。
「よいのです。これはわたしのせめてもの気持ちと思ってお受け取りください。ああそう、舞台でおっしゃったではありませんか――『贈り物を断らない主義だ』と」
すると、アイラは諦めたように息を吐き、
「こうもいったはずだよ。『物になびくような安っぽい女じゃない』ってね」
グリフィンの口から失笑が洩《も》れる。
「ええ、憶えておりますとも。しっかりと心に刻みつけてます」
「わかったわ。どんな気持ちかは知らないけど、ありがたく戴かせてもらうよ。けれど、もらいっぱなしじゃ、こっちの気が済まない――なにか礼はできないかい。もちろん、今はお互いそんな暇もないし、あたしにできることなんざ、たかが知れているけどね。また逢う時までに考えておいておくれよ」
「願いがひとつだけ」
グリフィンは躊躇《ちゅうちょ》なくいった。
「なんだい」
「いつの日か、あなたの舞いをもう一度拝見させていただきたい」
「それは……他のことじゃ駄目かい。あたしは、もう踊りは捨てると誓ったんだ」
「他に願いはありませんし、無理強いもしません。ただ一言申し上げるならば、あなたの舞いは芸術の極みです。このまま消えてしまっては、あまりにも惜しい……」
アイラの顔が輝く。
「あ、ありがとう。そういってもらえると嬉《うれ》しいよ。自分でいうのもなんだけど、あの夜の舞台は、生涯最高の出来だったと思っていたからね」
グリフィンは無言でうなずいた。
アイラ、ガルー、ヨシュア、ティアの四人が円形の硝子《ガラス》床の上に並んだ。
ティアは気分よく眠っていたところを無理に起こされ、しかも驚いて暴れ出しては困るからとガルーに抱えられて、ひどく仏頂面だ。ヨシュアがなだめているので、大人しくしているが、そうでなかったら、ガルーの顔に二、三本引っ掻《か》き傷を作っていたかもしれない。
「――では、いきます」
円の外にいるグリフィンが掌の制御板に指先を走らせる。
アイラたちの頭上の天井が開き、キラキラと輝く水晶を寄せ集めた転送機が、音もなく降りてきた。水晶から目眩《まばゆ》い光が降り注ぎ、四人を包み込む。
すると、アイラやティアの長い髪が逆立ち、全員の足が床からふわりと浮かび上がった。
「きゃあああああああ」
ティアは甲高い悲鳴を上げ、ガルーの首にしがみつく。
「こら、爪《つめ》を立てるな。痛いだろうが」
ティアと同様、舟に昇る時の記憶がないヨシュアは、前もって教えておいたおかげか、騒ぎ立てる真似はしない。それでも恐いものは恐いらしく、目を固く閉じてアイラの腰にぴったりついている。
硝子床が足元で開き始め、外の冷たい風が吹き込んでくる。
「それでは――くれぐれも御身を大切に」
風に髪を煽《あお》られるグリフィンが、右手で髪を押さえて挨拶《あいさつ》する。
「また、逢《あ》えるかい?」
と、アイラ。風の音がうるさく、声を張り上げなければ相手の耳に届かない。
「お約束はいたしかねます。国に戻れば結論が出るでしょう」
その時、青年の顔にひどく寂しげな表情がよぎった。
アイラは手に持っていたものを投げた。
グリフィンは反射的に受け取る。
真紅の靴の片方だった。
「これは――?」
アイラがにっこり笑う。
「あたしに踊って欲しいのなら、今度逢う時返して。靴が揃《そろ》わなきゃ、踊れないでしょ」
天井の水晶がさらに強い光を放つ。
その瞬間、四人は地上に伸びる一条の光とともに姿を消した。
床が自動的に閉じ、転送機が元あった場所に格納される。
乱れた髪をそのままにして、グリフィンはぼんやりとあたりを見渡す。風の音が途絶えた船内は静寂に包まれている。だが、その静けさを、青年は初めて寒々しく感じた。
ふと思い出したように赤い靴を見る。
使い込んだ古い傷だらけの靴だ。
彼はそれを大事そうに懐にしまいこんだ。
「『今度逢う時』か……かなえられればよいがな……」
と、グリフィンは呟《つぶや》き、扉に向かって歩き出した。
その顔には困難を前にした男の苦悩が現われていた。
[#挿絵(img/02_153.jpg)入る]
ダスターニャの町に降り立ったアイラたちは、人気のない路地を走っていた。
先頭はアイラ、間にティアを挟《はさ》んで、しんがりがヨシュアを背負ったガルーだ。いくつもの路地を駆け抜けたが、誰ひとり息を切らさない。アイラとガルーはもちろん、子どもとはいえ、狼獣人の化身であるティアも、ふたりに負けない体力を持つようだ。
鳥舟の転送機は、狙《ねら》い違わず正門近くの路地に降ろしてくれた。真っ直ぐ黒馬エディラを預けた厩舎《きゅうしゃ》に向かいたかったが、松明《たいまつ》を掲げ持った人の群れに出くわし、大きく迂回《うかい》せざるを得なかったのだ。
「――この道も駄目みたいだね」
アイラは闇《やみ》の中で囁《ささや》くようにいった。
先に見える路地の出口で、松明の火が揺れている。人がいる証拠だ。
どこもかしこもこの調子で、目的の場所に近づくどころか遠ざかるばかりだ。
「様子がおかしいとは思わないか」
ガルーが顔を寄せてきた。
「どうも暴動とは違うようだ。暴徒なら狙《ねら》いをつけた場所に集まるはずだ。お屋敷町よりも裏町に人が多いのも解せない。それに、衛士の風体をした連中も混じっている。あいつら、騒ぎを鎮める立場のはずだろ」
アイラは眉《まゆ》をひそめる。
「だったら、なんだっていうのさ」
「わからん」
ガルーはあっさりいった。
「――が、町全体がぴりぴりと殺気だっている。長居は無用といきたいぜ」
「それは、あたしも同じ気持ちだけどね……」
アイラは考えあぐねたように爪《つめ》を噛《か》む。
ガルーは背負ったヨシュアに首を向け、
「くそっ、おまえの髪だけでも隠せればな」
住民の目を避ける理由は、ヨシュアが白子と知られることを恐れるからだ。樹海では、生まれつき髪や肌が白い子どもを〈忌《い》むべき子〉として嫌う。この町に入る際も変装させなければ、間違いなく受け入れてもらえなかっただろう。付け加えるならば、アイラとティアの服は、ムウの貫衣であり、町では目立ち過ぎる。いずれにしろ、町を出る前にひと通りの旅支度は整えておきたかった。
「そうだ。いいことを思いついたよ」
アイラの目が輝く。
「この近くに、あたしの知り合いの家があるんだ。メルカ姉さんといって、踊り一座の座長をしている人でね。そこなら、かつらや肌に色をつける化粧道具もあるだろうさ」
「信用できるのか」
「大丈夫さ。あたしが舞台に上っている間、ヨシュアの面倒をみていてくれたお人だよ。こっちの事情もよく知っている」
「ああ、こいつが小母さんといってた人だな」
「憶えている。とてもあったかそうな人だったよ」
ヨシュアが顔を乗り出していった。
「そう……それじゃ、おまえも自分でお礼をいわなくちゃね」
アイラはそういって白い頭髪を撫《な》でると、少年は愛らしくうなずいた。
一行は再び駆け出した。
途中、後ろを走っていたガルーが、急に足を止めた。
「どうしたんだい?」
アイラが振り返って尋ねる。
彼の目は、屋根の間から覗《のぞ》く火の見|櫓《やぐら》に注がれていた。
――刺すような視線を感じたんだが……。
塀の外を警戒する物見の櫓と違い、町なかに建てられた火の見櫓は常時人が配置されているわけではない。実際、歩を止めてじっくり見ても櫓に人の気配は感じられなかった。
「いや、なんでもない。気のせいだろう」
そういって、アイラを安心させたが、ガルーは喉《のど》に刺さった小骨のように、しばらくそのことが気にかかった。
メルカの家は、猫の額のような狭い敷地に建てられた古く小さな一軒家だった。左右の家の隙間《すきま》はないに等しく、隣近所で火事になれば、あっという間に燃え移るだろう。
窓の鎧戸《よろいど》は固く閉ざされ、光が洩《も》れ出ることもない。この時刻としては、寝ているのが当たり前で、外をうろつく連中が異常なのだ。
玄関にぶら下がる紐《ひも》を引く。
家の中で、チリンチリンと呼び鈴が鳴っている。三度目に奥で起き出す気配が感じられた。そして、扉の隙間から明かりが洩れる。
「……誰だい。こんな夜更けに」
警戒を露《あらわ》にした声が扉越しに聞こえる。
「メルカ姉さん、あたしだよ」
と、アイラは声を潜めていった。
扉の向こうで息を飲む気配がした。
すぐに鍵《かぎ》が外され、寝間着姿の中年婦人が顔を出す。巨漢のガルーを見て、目を丸くするが、驚きをこらえてアイラたちを、急いで家の中に招き入れる。
「誰にも見られなかっただろうね」
扉を締めるなり、メルカは緊迫した顔でいった。
「だ、大丈夫、注意していたから」
アイラは面食らいながらもそう答えた。
メルカは大きく安堵《あんど》のため息を吐《つ》いた。
「……お姉さん?」
「まったく、この三日というもの、どこをほっつき歩いていたんだい。人に散々心配かけさせといて――」
メルカは堰《せき》を切ったようにまくしたてた。
「ご、ごめんよ。ほんとに悪かったと思ってる。けど、連絡つけようにも、つけられない場所にいて……」
すると、メルカはアイラの肩に手を回して、
「そんなこと、いいんだよ。おまえの無事な姿を見れればね。本当によかった。ほっとしたよ」
「お姉さん……」
アイラもメルカに抱きつき、涙ぐんだ。
「それにヨシュアも……」
といって、メルカは少年を引き寄せ、アイラと一緒に抱擁した。
放っておいたら、際限なく続きそうだ、と危惧を抱いたガルーが大きく咳払《せきばら》いをする。
慌《あわ》ててメルカがふたりを離す。
「あら、嫌だよ。お客さんをほったらかしにして。アイラ、この方は?」
「ガルーよ。話したでしょ――ここに来る途中、一緒に旅した人」
「えっ、この方がそうなのかい。おまえの話とだいぶ違うようだけど……」
婦人はガルーをまじまじと見つめた。
度の強い眼鏡をかけ、ガリガリに痩《や》せた気弱な男、と聞かされていたのだから、別人に思うのも無理はない。今のガルーの姿は、それとまったく正反対なのだから。
「ガルー・シャンだ。一応、公文書記官という肩書きがあるが、忘れてもらって構わない。とうに役人を辞めた身だ」
余人にはいささか尊大に映る態度で、ガルーは名乗った。
メルカはどう言葉を返してよいかわからず、強ばった笑みを浮かべて会釈した。そして、今度はガルーに首根っこを掴《つか》まれ、身動きできずに「ウーウー」唸《うな》っている赤毛の女の子に目を向ける。
「……ずいぶん、風変わりな子だね」
と、アイラの耳に小声で囁《ささや》く。
「そうね。確かに普通じゃないわ」
アイラにティアの正体を明かす気はなかった。獣人の仔《こ》と知れば、メルカとて泡を吹いて気絶するだろう。それほど樹海の民が獣人に抱く恐怖は底深い。
「――ところでお姉さん。外の様子に気づいているかい。通りという通りに、男どもが溢《あふ》れているんだけど、なにか心当たりはあるかい」
ティアに疑いの目が向かぬよう、アイラは話題を変えた。
すると、メルカは急に顔を青ざめさせる。
「なにいってんだよ。まったく呑気《のんき》にもほどがあるね。いったい今までどこにいたんだい。町にいたのなら、どこにいたって気づくはずだよ」
「ど、どういうことよ」
「本当に知らないと――」
「ええ、詳しい事情はおいおい話すけど。あたしたち、今まで町から離れて遠いところに行ってたんだよ。それで、ほんの少し前に戻ってきたところなのさ」
メルカは天井を仰ぎ見て、大きく嘆息を洩《も》らした。
「ちょ、ちょっと――」
メルカはアイラの腕を掴《つか》み、奥の台所に引っ張って行った。他の者の耳に入れたくない話のようだ。
「外の連中はね、あんたたちを探しているんだよ。それもあの子を……」
メルカは声をひそめていった。
「ど、どうして……」
アイラは目の前が暗くなる思いをこらえた。
「……あんたたちが姿を消した翌日のことだよ。奇妙な噂《うわさ》が町に流れたのさ。耳を疑うような話だけど、瞬く間に町中に広がり、みんな頭がどうにかなっちまったんだよ」
「なによ、その噂って。教えて」
「気を悪くするんじゃないよ……」
そう前置きして、メルカは語り出した。
まず、ケオナ―ダスターニャ間の駅馬車が、街道内で行方不明になった事件が、再び取り沙汰《ざた》されたことに端を発する。
「再び」というのは、すでにこの一件は、半月前に話題になり、獣人ないし、その眷族《けんぞく》たる野獣の襲撃を受け皆殺しにされた、ということで一応の決着を見ていたからだ。駅馬車の襲撃など、耳に新しい事件ではない。むしろ、道中一度も襲われなかったとすれば、そのほうが話題になるというものだ。
それが再燃したきっかけは、数日前、絶望視されていた駅馬車の乗客が、三人も町に辿《たど》り着いたことによる。
三人とは、アイラとヨシュア、それに一日遅れで到着したガルーである。ことに溢れんばかりの色香を持つ美女の存在は、噂《うわさ》を広める大きな力となった。
それに駅馬車――というより町の実力者である商人トラン――を捜索に出た衛士たちが、出発してすぐに遭難したことも加わり、その夜の酒場の話題を独占した。
だが、尾ひれをつけながら伝わっていくうちに、不審がる声が混じっていく。
「なぜ、三人だけが生き残ったのか」と。
しごく自然な反応といえる。
常識として、子ども連れの若い娘が、衛士の護衛もなしに、街道を一日でも旅できるはずがない。単に「運がよかった」だけで、納得できるものではなかった。
ろくに事情聴取もせず、アイラたちを素通りさせた正門の衛士や役人たちを、愚か者呼ばわりする連中もいたが、これは後の祭りというものだった。
そこに新たな噂が、どこからともなく伝わってくる。
町に魔物が潜りこんでいる――という心胆を寒からしめるものだった。
その噂は、輝く天空船が町の上空に飛来した夜から流れ出した。まだ住民の心が不安に揺れ動いている頃だ。
しかも、その夜は見せ物小屋の興行主、安宿の女将《おかみ》と泊り客、それに貧民窟の踊り娘母子、と続けざまに殺害された。
いくら殺人など珍しくない土地柄とはいえ、首をはねられ、頭を踏み潰《つぶ》され、あたりが血の海に変わるような惨殺死体は、そう目にできるものではない。
これを魔物の仕業と思い込むのも、ごく自然の成り行きだった。
すると真っ先に、かねてより話題の渦中にあった、三人の駅馬車の生き残りが疑われることになる。
アイラたちは目立ち過ぎた。
そもそも、平素でも周囲から浮き上がる風貌《ふうぼう》を持つ上に、彼女が踊り娘の衣裳《いしょう》で抜き身を下げ、町なかを走り回ったことや、ガルーが武器屋の前の家の屋根を、大砲のような銃で壊したことなどが、噂を肯定する材料となった。
そして、さらなる証言がもたらされる。
駅馬車の捜索隊に混じっていた衛士のひとりが、命からがら町に戻ってきたのだ。
その男は、疑惑にとどめを刺す事実を語った。
捜索隊は獣人に襲われたのではない。狂暴な白い獅子と魔眼を持つ魔女によって、全滅させられたのだ。しかも、それらを操るのは、白子の子どもだ――と。
アイラは愕然《がくぜん》とした。
足元がおぼつかなくなり、よろりと壁にもたれかかる。
「そ、そうだよ。こんな馬鹿げた話なんてあるもんかね。魔女だなんて、あんたを知らない人間のたわごとだよ」
メルカがおろおろと慰めるが、アイラの耳には届かない。最も恐れていたことが、現実のものになり、心がすっかり麻痺《まひ》していた。
台所の入口にガルーが現われた。
驚くメルカに向かって、
「ばあさんの声は大きいな。残らず聞いてしまったよ」
「あんたらならいいけど――」
そこでメルカは顔色を変え、
「子どもたちには聞かれなかっただろうね」
と、声をひそめて訊《き》く。
「心配ない。坊主は居眠りしているし、狼――おっと、ティアのほうは言葉がわからないからな。なにを聞かせても平気だ」
「よかったよ。ヨシュアに知れてごらん。どんなにか傷つくか」
その一言が、アイラの心を奮い立たせる。
――そうよ、坊やを連中の手に渡したら、どんなことになるか。今、あたしがしっかりしなくてどうするの。
アイラはもたれかかった壁から体を引き剥《は》がす。顔は血の気を失っていたが、ふたつの瞳には輝きが戻っていた。
「おっ、やる気になったな」
「当たり前でしょ、ここで挫《くじ》けるわけにいかないわ」
頼もしげに笑うガルーの顔を見て、アイラは心底から仲間がいるありがたみを感じた。
「――お姉さん、食料を少し分けてくれる。それに動きやすい服があるといいんだけど。こんな格好じゃ、樹海に出れないからね」
そういって、貫衣の裾《すそ》をまくって見せた。
「おまえ、町から出る気かい。そんな、死にに行くようなもんだよ」
「血迷った群衆より恐いものはないわ」
その顔に決意の強さを見てとったメルカは、
「わかった。あたしもできるだけのことはさせてもらうよ」
といって、胸を叩《たた》いた。
「よかったよ。宿屋からあんたたちの荷物を運んでおいで。自分の服なら寸法も合うだろう。なにせ、あたしの服じゃ布が余っちまうからね」
「まあ、お姉さんたら」
「食料もあらいざらい持っておゆき。それと水もいるね。ああ、支度はあたしがやるから、おまえは着替えておいで。二階に荷物は置いてあるよ」
アイラはメルカの手を握り締め、
「ごめんよ、お姉さん。とんだ迷惑をかけてしまって」
「いいんだよ、可愛《かわい》い妹分のためだ。なんだってしてやるさ」
メルカはアイラの髪を愛しそうに撫《な》でた。
すると、アイラは感極まったように、涙を浮かべ、メルカの胸の中に顔を埋めた。
「ま、まったく……おまえって子は、昔とちっとも変わらないね。突っ張っている癖に泣き虫なんだから……」
そういうメルカの目にも透明な雫《しずく》が溜《た》まっていた。
この時ばかりは、ガルーも「早くしろ」などと声をかける気にはならず、そっと台所から離れていった。彼にも準備しなければならないことがあったのだ。
「……予測外の行動だな」
闇《やみ》の中でパイジャが呟《つぶや》く。
「厩舎《きゅうしゃ》に現われるかと思えば、あのような家でぐずぐずしているとはな」
傍らで笑い声が上がる。
「……案ずることはない。群衆をそこに差し向ければ済むことだ。むしろ、あのあたりは袋小路が多い。獲物は身動きができまい」
と、デルが答える。
「連中に殺させる気か。それでは話が違う。始末は俺に任せてくれるはずではなかったのか」
パイジャは気色ばんだ声を上げる。
「それこそ杞憂《きゆう》というもの。そう簡単に〈使徒〉がやられるものか。群衆は勢子《せこ》として使うのよ。獲物を追いたて、疲れさせる道具。そして、おまえは弱った獲物にとどめを刺す猟師よ」
「そうか、俺は猟師か。そいつは傑作だ」
パイジャは高らかに哄笑《こうしょう》を上げた。
町のあちこちに散らばっていた一〇人単位ほどの暴徒の群れが、次第に合流を始めていた。
軍隊のように伝令が回ったわけでもない。だが、彼らは灯火に惹《ひ》かれる虫のように、町のとある場所を目指して集結しつつあった。
人数が少ないうちは、彼らも口数を増やして恐ろしさを紛らわしていたが、小さな群れが合流を続け、大きな集団になってゆくにつれ、無駄口は少しずつ途絶え、反対に石畳を打ち鳴らす靴底の響きだけが、妙に高まっていった。
そして――
誰からともなく発した呟きが、集団すべてに広がり、唱和となった。
「――殺せ、殺せ、白子を殺せ!」
「――焼ーけ、焼ーけ、魔女を焼ーけ」
一方、メルカの家では、暴徒の標的にされたことも知らず、女主人が台所と二階を忙しそうに往復していた。
一旦、腹を据えると、この中年婦人は実にてきぱきと、かつ無駄なく動き回った。
アイラたちの、長期に及ぶかも知れない旅のために必要な荷を、手際よくまとめていく。
台所の床下にしまい込まれていた保存食はすでに残らず荷に詰められている。
また、痛み易い肉には、高価な塩を惜しげもなく擦り込んだ上に、壷《つぼ》状の土釜《つちがま》に入れて焙《あぶ》り焼きにする。その間にも、小麦の粉を練って生地を作っていく。釜が空いた後、生地を平べったく伸ばして薄焼きパンを焼くのだ。
さらに備え置きの傷に効く膏薬《こうやく》、水当たりの薬、真新しい毛布、毛織の暖かな外套《がいとう》など、あれもこれもと、家にある一切合財を詰め込もうとしていた。
これではあまりにも申しわけない、とアイラは金を渡そうとした。するとメルカは額から湯気を上らせて怒り出し、
「あたしが、身内からお金を受け取る女だとお思いかい!」
と、頑として突っぱねた。
なら手伝いだけでも、と申し出ると、
「あんたみたいに家事に疎《うと》い女、役に立つどころか邪魔になるだけだよ。いいから、先に腹ごしらえしといで」
とうとう台所から追い払われてしまった。
居間は鼻を突く匂《にお》いが充満していた。
食卓に置かれた小さな鍋《なべ》が匂いの元だ。中身は溶けた鉛で、これを型に流し込み、冷えて固まったものが銃の弾丸になる。窓を開ければ、少しは匂いも薄らぐのだろうが、近所に不審がられてはまずいと鎧戸《よろいど》は閉ざしたままだ。
ティアは食卓の下で腹這《はらば》いになり、鶏の足に齧《かじ》りついているが、少しでも匂いから逃げようという表われかもしれない。
そんな中でも、ガルーは骨つき肉を頬張《ほおば》りながら、銃の薬莢《やっきょう》の弾込めを続けている。そして、ヨシュアは好奇心に目を輝かせ、じっとその手元を覗《のぞ》き込んでいた。
アイラは少年の隣に腰を降ろし、
「うまくできそう?」
と、訊《き》く。
ついこの間まで、ろくに銃の取り扱いも知らなかった男が、見よう見まねで、弾を作っているのだ。彼女が危ぶむのも当然だった。
「なんとかなるだろう。一、二発は弾が出ないかも知れないがな。ああ、そっちは終わっている」
ガルーは顎《あご》をしゃくるようにして、食卓の上の箱型の鉄の塊を示す。
銃の弾倉だ。縁の部分を蝋《ろう》で目張りした鉛玉が、三つの穴から顔を覗かせている。雨の多い樹海では、こうしておかないと、あっという間に火薬が湿気《しけ》ってしまう。
今、作っているのは、アイラの荷物に入っていた短銃用の弾だ。型に流し込んだ鉛が固まる間に、ガルーは薬莢に火薬を詰めておこうとしていた。
アイラはしばらくその作業を黙って見ていたが、不意に話しかける。
「――町から出る算段はついたかい?」
すると、ガルーは顔も上げずに、
「力ずくで門を破るしかなかろうな」
と、答える。
「ぶ、物騒な話だね」
アイラの顔は強《こわ》ばっていた。
「仕方なかろう。出ていくからといって、大人《おとな》しく通してくれるとは思えん。なんたって、俺たちは『魔に魅入られた者ども』だからな。舞い戻ったら大変だ、と是が非でも始末をつけようとするだろうさ。ま、弁解できんところが辛《つら》いな」
ガルーは自嘲《じちょう》の笑いを浮かべる。
「およしよ、そんないい方」
アイラはヨシュアの耳をおもんぱかっていった。
「…………」
ガルーは板の型から鉛玉を外し、それを火薬入りの薬莢に押し込んでいく。
危険な――命がけの試みになる。戦いに素人のアイラにも、それぐらいの判断はできる。
いくら、自分たちが超人的な肉体を持っていたとしても、不死身の獣人とはわけが違う。おびただしい弾丸をその身に浴びて、なお平然とはしていられないのだ。
まして、ヨシュアを連れては、ひどく分の悪い賭《か》けとなるは間違いない。
この家にしばらく潜み、ほとぼりを冷ましてから脱出できればよいが、メルカとの関係に気づく者がいないとは限らない。いや、この家が調べられる可能性は高いだろう。
結局、選択の余地は残されていないのだ。
「――さあ、こっちの支度は終わったよ」
重苦しい沈黙を破るように、メルカが荷物を引きずってきた。
「ご、ごめんよ。呼んでくれれば、自分で運んだのに」
と、アイラは長椅子《ながいす》から腰を上げる。
「いいんだよ。あんたたちはこれから長い旅に出る身じゃないか。少しでも体を休めることだよ」
「だって……」
「おや、ずいぶん沈んだ顔じゃないか。さっきまでの元気は、いったいどこに消えちまったんだい。一度やると決めたら、くよくよ悩んだりしない。舞台に上る前と一緒だよ。失敗を恐れちゃいられない。もう前奏が始まってるんだ。後は足を前に踏み出すことだけさ」
その励ましの言葉は、アイラの心に染みた。
――そうよ。今までだって踊り出してしまえばなんとかなったじゃない。大事なのははじめの一歩。前に出る勇気よ。
アイラは再び体の中に湧《わ》き上がる力を感じた。
「……グルルルルル」
突然、食卓の下にうずくまるティアが、唸《うな》りを上げた。
アイラの顔に緊張が走る。
「明かりを!」
と叫び、素速く窓辺に駆け寄る。
ガルーは即座に蝋燭《ろうそく》の火を吹き消した。彼もまた外の気配を察していた。
闇《やみ》の中で、短い悲鳴が上がる。メルカの声だ。
「ど、どうしたってんだい、いきなり――」
「静かに!」
鎧戸《よろいど》に隙間《すきま》を作り、アイラはそっと外を覗《のぞ》き込む。赤く揺れる光が、正面の家の壁や石畳の地面を照す。耳を澄ませば、大勢の足音が聞こえた。
白子狩りの群衆だ。
まだ遠い。
だが、彼女はたまたま通りかかった、などと淡い期待は抱かない。路地の両端から寄せてくる彼らの足取りは、この家に獲物が身を隠していると確信したものだ。
どうして?――と思い悩む暇はなかった。こうなった以上、わずかな逡巡《しゅんじゅん》が命取りになる。
「来たよ!」
発した言葉は、断定であった。
シュッ――
燐《りん》が混じった青白い光が輝き、燭台に火を灯《とも》す。
「駄目よ。真夜中に明かりが漏れていたら、それだけで不審に思われるでしょ」
アイラが鋭く叫ぶ。
だが、ガルーは落ち着き払ってマッチの小箱を燭台の脇《わき》に置く。
「どうせ、ここにいるってばれているんだろ。とんずらするにしても、連中と一戦交えるにしても支度をしとかんとな」
食卓の上から、自分の銃を掴《つか》み、そこに弾倉をはめ込む。
ジャキーン
小気味よい金属の響きが、ガルーには心地よかった。
「この家に裏口は?――ああ、そんなものあるわけないよね」
アイラは激しくかぶりを振った。
「落ち着くんだよ、アイラ。大丈夫、必ず逃げられるからね」
「で、でも――」
「心配するな。逃げ道はあるぜ」
ガルーの言葉に、女ふたりが振り向く。
「二階に路地の裏手に面した窓がある。あそこから上に出ればいい。このあたりは家が密集している。屋根伝いに逃げるなどわけないだろう」
だが、メルカは首を横に振り、
「物置に使っているあの部屋かい。駄目さ。あの窓には鉄柵《てっさく》がはまっているんだよ」
すると、ガルーは勝ち誇ったような顔で、
「確かに、柵そのものは頑丈にできているが、窓枠の部分は腐ってぼろぼろだ。ちょいと押せば簡単に外れるんだ。悪いとは思ったが、さっき試させてもらった。もう半分外れかかっているのさ」
アイラたちは目を見張る。
「さあ、ぐずぐずしていられないぞ。さっさと行こうぜ」
ガルーは食卓の下に屈み込み、狼少女を引きずり出しにかかる。
だが、すっかり興奮し切ったティアは、伸ばしたガルーの手に爪《つめ》を立てた。
「こ、こいつ!」
今まで人形のように大人《おとな》しくしていたヨシュアが、長椅子《ながいす》から降りて手を差し伸べる。
「ティア、行こう」
少年の顔を見た途端、ティアは嘘《うそ》のように落ち着きを取り戻す。そして、少年の手を掴むと自ら食卓の下から出てきた。
ガルーはみみず腫《ば》れが走る手を押さえ、忌々《いまいま》しく少女を睨《にら》むが、今はどうすることもできない。荷物を軽々と抱えて、居間を先に出た。それにヨシュアとティア、最後にアイラとメルカが続く。
だが、玄関前の廊下に出た途端、急にメルカが立ち止まる。
「どうしたの。さあ、早く」
と、アイラが手を伸ばす。
だが、メルカはピシャリとその手をはねのける。そして、決意を込めてこう告げた。
「あたしは残るよ」
――と。
なにをいい出すのか、とアイラは目を丸くする。
「あたしがついていっちゃ、足手まといになるだけさ。こんな太った体じゃ、屋根に上るなんて芸当もできないしね」
「――だ、大丈夫よ。あたしとガルーがいるんだから。お姉さんひとりぐらい軽いものよ。こう見えても、あたし、男に負けない力があるのよ」
メルカが静かに微笑《ほほえ》む。
「ありがとうよ。でも、どのみち逃げちゃいけないのさ。ここで一時にしろ姿を消したら、この先、町で商売ができなくなる。それくらいの理屈、あんたにもわかるだろう」
「そんなこといったって――あんな殺気立った連中の前に出たら、どんな目に遭《あ》わされることか。死んでしまったら、商売もなにもあったものじゃないよ。そうだ。一緒に別の町に行こうよ。お姉さんのために、あたし一生懸命踊るよ。稼ぎはみんなあげる。そうしよう、ね、ね」
アイラは必死になって説得を試みる。姉とも親ともたのむメルカを救うためなら、立てたばかりの誓いを破ることも躊躇《ちゅうちょ》しなかった。
けれど、メルカに翻意を促すことはできなかった。
「わかっておくれ。これでも、あたしは一五人の踊り娘を抱えるメルカ一座の座長なんだ。頼りにする娘たちを、見捨てて逃げ出すわけにはいかないんだよ」
「だって、だって――」
アイラの声は、悲鳴のようにうわずった。
そこにガルーが飛び込んでくる。
「――なにやってんだ。暴徒がすぐそこに迫っているんだぞ」
ぎょっとして振り向いたアイラの背を、メルカが突き飛ばす。前のめりに倒れかかるアイラを、ガルーの腕が受け止める。
「ガルーさん、この聞き分けのない妹を、早く連れてっておくれ」
「離して! 離すんだよ!」
アイラは暴れた。だが、ガルーの腕から逃れることはできない。
メルカは微笑んでみせた。
「心配すんじゃないよ。なにも必ずひどい目に遭わされる、と決まっているわけじゃあるまいし。なんとか、いい逃れてみせるよ」
玄関の扉から雷鳴の轟《とどろ》きが上がる。
ついに暴徒の群れが押し寄せてきたのだ。
「――開けろ! ここにいるのはわかっているんだ。早く開けんか! さもないと扉を打ち壊すぞ!」
憎悪と殺気に凝り固まった怒声が、扉を通して伝わってくる。
「くそっ!」
ガルーは片手を腰の銃に伸ばす。
だが、いち早くメルカが、扉を背に立ちはだかる。
「いけないよ。あたしに構わず、お行き」
メルカの決意を悟ったガルーは、無言で一礼すると、アイラの体をひっ担ぎ、踵《きびす》を返して階段に向かった。
「駄目っ! 駄目だってばっ!」
アイラは半狂乱になって喚き立て、髪を振り乱して暴れた。
ガルーは頭皮ごと髪を引きちぎられ、顔や体にいくつもの痣《あざ》を作る。だが、アイラを掴《つか》む手を緩めなかった。
玄関の扉に向かって斧《おの》が叩《たた》き込まれる。閂《かんぬき》が壊され扉が開き、どやどやと靴音を響かせて暴徒らが踏み込んでくる。
「――ぎゃああああああ!」
断末魔の絶叫が響き渡る。
ガルーはあたかも自分の体に刃が食い込んだように顔を歪《ゆが》めた。
次の瞬間、こめかみに鉄の棍棒《こんぼう》がぶち当たったような激しい衝撃が加わる。抱え上げたアイラが、突然|凄《すさま》じい力を発揮し、肘《ひじ》を叩き込んだのだ。
さしものガルーも、意識が遠退きかけ、がっくり膝《ひざ》を床につく。
戒めから逃れたアイラは、一足飛びに階段を駆け降りる。
だが、一階の廊下に躍り出た途端、アイラの動きが凍りつく。
眼前に、血走った目をした男たちがいた。その背後にも、暴徒が黒山の人だかりを作っている。
「――いたぞ、魔女だ!」
その叫びとともに、群衆の間にざわめきが駆け抜ける。
「――殺せ!」
「――魔女は火焙《ひあぶ》りと決まっている」
「――捕まえろ!」
「――近くに仲間がいるはずだ」
「――白子を探せ!」
暴徒らは、口々に怒気をはらんだ叫びを上げる。
だが、直接アイラの前に立つ男たちは、明らかに怯《ひる》んだ様子で、手を出せないでいた。放心したように立ち竦《すく》むアイラが、ひどく不気味に思えたのだ。
彼女の目は、男たちの足元に倒れたメルカを捉えたまま瞬《まばた》きすらしない。
胸や腹をめった刺しにされ、血だらけになってメルカは息絶えていた。
非業の死を遂げたというのに、その顔は不思議なくらい安らかであった。まるで、眠っているようにさえ見える。
だが、それゆえにアイラは、メルカの死を事実として認めることができなかった。
「――なにをしてる!」
「――さっさと捕らえろ!」
家の外で焦《じ》れた声が上がる。
背後から押し出された格好で、最前列にいた男たちが、アイラに詰め寄る。そして、恐らくはメルカを撃ったのであろう、前列でただひとり銃を構えた男が、床に転がる死体を足で踏みつけたのだ。
その時、凍りついていたアイラの顔に、動きが生じた。
彼女の体の奥深いところで、なにかが音を立てて切れた。
同時に、腰に吊《つ》るしたオリハルコンの細剣が、鞘《さや》の中で唸《うな》るがごとく震えた。
「ぎゃあああああああ!」
銃を持つ男の足元から蒼《あお》き火炎が吹き出し、全身を包み込む。
瞬く間に、男は服も、皮も、肉も焼け落ち、骨だけの姿に成り果てて、メルカの上に崩れ落ちた。
[#挿絵(img/02_183.jpg)入る]
それだけではない――
地獄の炎は、周囲の男たちに燃え移り、次々と白骨に変えていく。
阿鼻叫喚《あびきょうかん》を上げ、暴徒たちが逃走を図る。だが、中まで踏み込んでいた者たちは、外に出て数歩と進まずに、奇怪な屍《しかばね》を石畳に散らばらせた。潮が退くように、メルカの家の前から暴徒が離れていく。
家に火の手が上がった。
アイラが放つ〈憎しみの炎〉ではない。暴徒のひとりが、逃げる際に落とした松明《たいまつ》の火が燃え移ったのだ。
すでに、家の入口は赤々と燃えさかる炎に包まれている。暴徒たちは逃げもせず、火を消そうともせず、遠巻きに炎を凝視していた。
紅蓮《ぐれん》の炎の中でゆらりと影が動く。
炎の壁がふたつに割れ、アイラが彼らの前に姿を現わす。
炎に照らされ、鈍く光る銃口の群れが、一斉に狙《ねら》いをつける。
――殺《や》らなければ、殺《や》られる。
あたかも狂暴な野獣を前にした時のように、暴徒らの頭に警鐘が鳴り響く。
だが、彼らは引き金に指をかけたまま、金縛りにあったように体を硬直させていた。
アイラは笑っていた。
狂気めいた喜悦の笑い声が、赤い唇からとめどなく漏れ出ていた。
アイラは煩わしげに、目元にまで垂れていた柔らかそうな黒髪を後ろにかき上げる。
青白い光を放つふたつの瞳《ひとみ》が露《あらわ》になった。暴徒たちは思わず息を飲み、髪が逆立つ恐怖を覚えた。
振りかかる火の粉を浴びながら、艶然《えんぜん》と笑うアイラの姿が、恐ろしいまでに美しかったのだ。
「……ま、魔女だ……」
暴徒のひとりが、声を震わせて呟《つぶや》いた。
すると、アイラが声を上げて笑い出した。
「そうよ、あたしは魔女。おまえらを地獄の底に引きずり込むために、この町に現われた。さあ、どいつから焼き殺されたい。命を捨てたい奴からかかっておいで――」
その恫喝《どうかつ》の叫びに、取り囲む暴徒の群れが悲鳴を上げて後ずさりする。
「こないのかい。だったら、あたしから――」
アイラは腰の剣を抜き放った。
途端に湧き上がる目眩《まばゆ》い光芒《こうぼう》が、狭い路地を照らす。
アイラは半ば正気を失っていた。灼熱《しゃくねつ》の溶岩のような怒りが、出口を求めて体内を駆け巡り、爆発寸前の状態だった。
あと少し――
あと少しで、わずかに残った理性が、完全に失われ、心ゆくまま破壊と殺戮《さつりく》の快感に身を任せることができるだろう。
――殺せ!
――その刃を振るうのだ。
――さすれば、おまえは、まごうことなき魔女となる。
自分の心とも、他人の心とも判別できぬ〈声〉が、彼女を突き動かしていく。
「イヤァァァァァァァァァ――!」
アイラの口から、凄《すさま》じい獣じみた雄叫《おたけ》びが上がり、輝くオリハルコンの剣を高々と振りかざした。
その時――
『いけないよ、アイラ!』
思いがけない声が、彼女の耳朶《じだ》を打つ。
それは冷水を頭からかけたような効果をもたらした。沸騰寸前だった血液が、見る間に温度を下げる。
――チッ!
どこかで舌打ちの響きが聞こえた。
「……お、お姉さん……」
メルカは間違いなく死んでいた。しかも、損傷がひどく、ヨシュアの血を与えて蘇《よみがえ》らせることもできない。
声は二度と聞こえなかった。
だが、彼女は今の出来事を幻聴だとは考えなかった。あれは確かに、誰よりも自分を愛してくれたメルカの声に違いなかった。
アイラの震える手から、オリハルコンの剣が落ちた。剣は地面の上で不安定に明滅し、そして輝きを失った。
彼女は気づいたのだ。
メルカを死に至らしめたのは自分だと。そもそも自分たちが訪ねなければ、このような災厄に巻き込まれることもなかったのだと――
アイラの体から放射されていた、強烈な怒りの波動が途絶え、取り巻く暴徒たちは金縛りを解かれた。
消えた恐れと入れ替わりに、怒りが彼らの心を支配する。
いくつもの銃口が再び、アイラに狙《ねら》いをつけた。
「アイラァァァァ――!」
天に轟《とどろ》く雄叫びとともに、燃えさかる家の屋根から火の粉をまき散らして、なにかが降ってきた。
ガルーだ。
彼はアイラのそばに着地すると、石畳の上を転がって落下の衝撃を和《やわ》らげる。
暴徒は度胆を抜かれながらも、条件反射的に動くガルーに銃口を向け、引き金にかかる指を絞った。
雷が落ちたような轟音《ごうおん》が上がる。
地を転がるガルーの手元から火が吹き、路地の片側を埋め尽くす暴徒十数人を、一射でなぎ払った。
不死身の獣人にも立派に通用した銃だ。しかも、グリフィンからもらった粉を混ぜた火薬は、前にも増して凄じい威力を示した。
その分、発射時の反動も倍増し、不十分な体勢から撃ったガルーは、あたかも馬に蹴《け》られたようにひっくり返った。
暴徒たちが狂ったように銃を撃ってくる。
倒れたガルーの周囲に無数の火花が散る。
次の瞬間、ガルーはつむじ風に化したように消え失せた。
驚異的な瞬発力で暴徒たちの視界外に逃れたのだ。そして、銃撃を加えてきた暴徒たちに、未だ硝煙たなびく銃口を向ける。
「くそったれ、もう一発――!」
再び、耳をつんざく銃声が夜空にこだまする。
集まった暴徒のすべてを、銃一丁で撃退できるなど考えもしない。いかに強力な銃とはいえ、弾は残り一発。あとは腰に差した短銃に詰めた五発の弾だけだ。相手が怯《ひる》んだわずかの隙に、アイラともども逃げ出すしかなかった。
だが、肝心のアイラが泣き伏し、逃亡など思いもよらないようだ。
ガルーは問答無用とばかりにアイラを引き起こし、顔を平手で叩《たた》いた。
痛みよりも、頬《ほお》を叩かれたという行為に激しい怒りが湧き上がり、アイラは悲しみという呪縛《じゅばく》から抜け出す。
「文句は生き残った時に聞く。とにかく、今は逃げることだけを考えろ」
「いいんだ。あたしのことは放っておいて」
アイラは涙に汚れた顔で怒鳴る。
「自分勝手なことをいうな。自分の悲しみに溺《おぼ》れ、ヨシュアを見捨てるのか」
アイラがはっと息を飲む。
「剣を拾え!」
ガルーは強い口調で命令した。
アイラは口答えすることなく、その言葉に従った。
銃声が上がり、ふたりのそばを弾丸がかすめる。暴徒が再び勢いを盛り返し、押し寄せてきたのだ。
「行くぞ!」
ガルーはアイラの手を取った。そして、なにを思ったのか、今にも焼け落ちそうなメルカの家に飛び込んだ。
ふたりが炎の中に消えた直後に、轟音とともに玄関の梁《はり》が崩れ落ち、後を追うことは不可能になった。
暴徒たちは立ち竦《すく》み、巨大な篝火《かがりび》と化した家を呆然《ぼうぜん》と見上げた。
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【第四章 狂乱の獣】
町全体が騒然となった。
深い眠りについていた家々が、一斉に目覚める。扉や窓が開け放たれ、人々が姿を見せる。そして、火の粉を吹き上げ、天高くのびる火柱を見上げた。
白子狩りに加わらなかった住民も、火事となれば、蒲団《ふとん》を被り耳を塞《ふさ》いでいるわけにもいかない。
木造家屋がひしめき合うこの町では、火の回りが恐ろしく早い。漆喰《しっくい》で壁を覆っても正直なところ気休めでしかない。煉瓦《れんが》造りなら燃えにくいのだが、材料となる赤土が町から離れた山の麓《ふもと》でしか採れない。しょせん一部の金持ちの贅沢《ぜいたく》でしかなかった。
ひとたび火の手が上がれば、瞬く間に町全体に燃え広がり、跡にはなにも残らない。最も恐ろしいのは、塀に囲まれた町の住民には、どこにも逃げ場がないということだ。もっとも塀の外は血に飢えた獣が徘徊《はいかい》する樹海だ。一時期生き延びたとしても、結局は同じことかもしれない。
「――急げ!」
「――この家からとっかかれ!」
「――人手が足りねえ、もっと集めてこい!」
斧《おの》を持った男たちが、火元から十数軒ばかり離れた家を壊し始めた。
類焼を防ぐため、火元を中心に大きな円を描くように防火帯を作っていくのだ。小さなぼや程度なら、近所総出で水をかけて消すのだが、家一軒が丸焼けになるとこうした処置が取られる。円の内側に入った家は、もはや諦《あきら》めるしかない。少しでも家から多くの家財を運び出そうと路地はごった返した。
「――やめてくれ。隣にしてくれよ」
壊される家の前で、その家の主人が取りすがる光景があちこちで見られた。火事で失われるならまだしも、他の家を守るために壊されては泣くに泣けない。しかも、家財を持ち出す余裕すら与えてくれないのだからなおさらだ。だが、必死の懇願も殺気立った男たちには通用しない。
「――邪魔だ! どけっ!」
と、荒々しく追い払われるのが関の山だ。消火の邪魔をした者は、殺されても文句をいえない、という掟《おきて》があるくらいだ。
だが、住民の努力を嘲笑《あざわら》うかのように、折りしも強い風が吹き出し、風下に当たる町の中心部に向かって火勢を強めていった。
「――駄目だ。間に合わない。火の手がすぐそこまで迫っている!」
風下で取り壊しにかかっていた連中が、慌《あわ》てて逃げ出す。こうなったら、もっと先で防火帯を作るしかない。それでも火の回りがさらに速くなれば……。
懸命に消火に当たる男たちの頭に、暗澹《あんたん》たる思いが広がっていた。
「……〈滅びの火〉だな」
下界の混乱を高みの見物とばかりに眺めていたパイジャが、ぽつりと呟《つぶや》いた。
この櫓《やぐら》の上にも、火の粉が混じった熱風が吹き付けているというのに、ふたりはまるで動じる様子がなかった。
「ほう……少しは〈伝承〉を学んだとみえる」
隣にいたデルが、覗《のぞ》き込んでいた望遠鏡を降ろし、感心したようにいった。
「確かに……火に追われ、人々が逃げ惑うさまは、『古エルマナ崩壊』の記述を想起させられる……むろん破壊と混乱の規模たるや、この数万、数億倍にも上ろうというものだがな……」
すると、パイジャは鼻を鳴らし、
「物足りなそうな口振りだ」
相手の揶揄《やゆ》を肯定するかのように、デルは唇を曲げて笑った。赤い光に照らされたその顔は、禍々《まがまが》しさを内に秘めた悪魔のそれだ。
パイジャは眉《まゆ》をひそめた。
「あんた……いったい、なにを考えている」
「なに……とは?」
「俺《おれ》をみくびっては困る。荒事しか能がない下っ端〈獣士〉と一緒にするな。あんたが好意だけで人に手を貸すような男とは、端《はな》っから思っていない。
俺は危険はもとより承知している。だが、あんたは違う。まかり間違えば、反逆の罪に問われ抹殺されるぞ。たとえ、かつて高い地位にいたとしても、今は一介の道士に過ぎん。まして、あんたの息子とやらは、肉親の情とやらに眼を曇らせる男じゃない。それほどの危険を冒してまで、得ようとするものはなんだ」
「おまえに肩入れすることで、ヘルマーの鼻を明かしてやりたい……そういったはずだが」
「違うね」
パイジャは躊躇《ためら》いなくいった。
「そんな偏狭な男じゃない、あんたは」
デルは腹の底から高笑いを上げた。
「買いかぶりというものだ。わしは未練たらしくかつての地位を懐かしみ、それを奪った息子に憎しみを抱く男よ」
「だったら、先程の行為はなにを意味する」
「先程? なんのことかな……」
「とぼけるな。踊り娘《こ》に、なにかしただろう」
「はて……黙って眺めていただけだが。おまえの目には違うように映ったのかな」
「おうよ、尋常な様子ではなかった。体から立ち上る激しい憎悪が、そばにいた俺にまで伝わってくるほどにな。どうやってかは知らないが、踊り娘の怒りをかきたてようとしていたのだろう」
デルの目がすっとすぼまる。
「わしは錬金道士。巷《ちまた》でいわれる魔法使いなどではない。同じ組織に属するおまえまで、そのような戯言《ざれごと》を真に受けよって……」
「とことんとぼける気だな」
「おまえこそ、わけのわからぬことをいつまで繰り返す。わしを信用できぬというのならはっきりそういえばよい。いつでも手を引こうではないか」
パイジャは痛い部分を衝《つ》かれて鼻白む。アイラが示した常ならざる力を見て、心胆凍る思いをしたばかりだ。単独で彼らを倒すことは、かなり難しいと認めねばならない。
「……まあいいさ。あんたがなにを企もうと勝手だ。だが、俺を道具として利用しようなどと考えているんだったら、今のうちに改めておくんだな。裏切れば、あんたの血で贖《あがな》ってもらうからな」
「脅《おど》しか、わしに向かって……」
と、デルは不快な声を上げる。
「いや、警告だ。知っているだろう。俺は〈使徒〉の中で、最も執念深いといわれている男よ。地獄の底に落ちたとしても必ずや這《は》い上がり、この牙《きば》を相手の喉首《のどくび》に突き立てる」
そういって、パイジャは歯を剥《む》き出しにした。上下に二本ずつ並んだ犬歯は、まさに獰猛《どうもう》な肉食獣の牙そのものだった。普通の人間なら、見ただけで卒倒しかねない。
だが、デルはまるで目に入っていないかのように平然と人間の姿をした獣を見返し、口元には笑みさえ上らせた。
「今の言葉、胸に刻みつけておくことにしよう。〈使徒〉パイジャよ。だが、おまえも忘れないで欲しい。わしが心血を注ぎ込んで、おまえたち〈十二使徒〉を生み出したのだということを」
デルは握手を求めて手を差し伸べるが、パイジャは素っ気なくその手を払い除ける――「信用したわけじゃないぞ」といわんばかりに。
デルはさほど意に介した様子でもなく、ひょいと肩をそびやかすと、地上から伸びる梯子《はしご》に歩み寄った。
「どこにいく」
パイジャが問う。
「いつまでも、ここにいても仕方あるまい。あの者たち――〈白子〉の姿を見失ったし、火が近くまで迫っていることでもある。移動しようではないか」
「奴らを追うのか」
「その必要もあるまい。もはや身を隠す巣穴はなくなった。あとは町の連中が、出口へと導いてくれる。わしらはそこで気楽に待てばよい」
「出口? ああ、そうだったな」
獲物を追い詰める場面を想像し、パイジャの顔に喜悦の表情が浮かぶ。その反面、頭からデルに対する不審が薄らいでいた。狡猾《こうかつ》に見えても、しょせん彼は復讐心《ふくしゅうしん》に血を滾《たぎ》らせる一匹の獣に過ぎなかった。
そして、その単純さこそが、彼の命取りになるのだ。
一方、燃えさかる火中に身を投じたガルーとアイラは、メルカの家が崩れ落ちる前に二階に駆け登り、路地の裏手に面した窓から屋根に上がり、隣家の屋根に残しておいたヨシュアとティアと無事合流し、誰にも見咎《みとが》められることなく屋根伝いに現場を離れていた。
しかし、ある程度移動したところで、再び地上に降りなくてはならなかった。防火帯の円に行く手を阻まれたのだ。
もし、屋根を走っているところを見つかれば、不審がられるだけでは済まない。かといって、路地は家財を持って逃げ出す住民で溢《あふ》れ返っている。そこに屋根から降りてくれば、やはり怪しまれるだろう。
ガルーが機転を働かせた。
人気のない家の窓を破って中に侵入し、堂々と玄関から出て、路地を進む人の行列に紛れ込んだ。その際、見知らぬ家の寝台から毛布をかっさらい、ヨシュアに頭からすっぽり被せて人目に触れぬようにしている。
幸いにして、ガルーとアイラのちりちりに焦げた髪も、煤《すす》で汚れた顔も、火事場から命からがら逃げてきたのだ、と周囲の者に思われ、かえって心配や同情の声が寄せられたほどだ。
どこに進んでいるのかもわからない、行列の流れに身を任せてゆっくりと歩くうちに、アイラの口から嗚咽《おえつ》が洩《も》れ出てきた。
必死にこらえていた悲しみが、胸の奥からとめどなく込み上げ、抑えることができなかった。今ならば人目を気にせずに泣ける――それがありがたかった。
「アイラ……」
ガルーはかける言葉を持たず沈痛な表情で見つめるだけだ。
その震える肩を抱きしめてやりたいという衝動に駆られたが、生理的に男を嫌悪する彼女が、途端にどんな反応を起こすかわからず、こらえるしかなかった。
その代わりに、ヨシュアがアイラと結ぶ手にぎゅっと力を込める。
「お姉さん……」
少年はあの親切にしてくれた婦人が、死んだことを理解していた。メルカが暴徒の刃に倒れた瞬間、現場に居合せずとも、その心の悲鳴というべきものが、胸に届いていたのだ。
胸が潰《つぶ》れるかと思うほど苦しく、そして悲しかった。
けれど、目から涙は出なかった。
今こうしている間にも、握った手からアイラの狂おしいまでの叫びが、生々しくも伝わり、少年の心を激しく揺さぶる。
だが、それでも泣けなかった。
ヨシュアは、そんな自分が情けなく、そして奇異に思えてならなかった。
すると、少年の近くで「クーン」という犬の鳴き声に似たものが上がる。
ティアだ。
寄り添うように歩いていた狼少女が、目に大粒の涙を浮かべて少年を見つめていた。
ヨシュアは手を伸ばして、少女の体を引き寄せる。
少年は気づいたのだ。少女が自分の代わりに泣いてくれていることを……。
避難する人々の流れは、町外れの天幕が立ち並ぶ貧民|窟《くつ》に行きついた。
町の中で、家を焼け出された人たちを受け入れる余地がある場所は、ここと三か所に分散する農場しかない。安全さでいえば、農場のほうがよいのだろうが、作物を荒されることを恐れて、めったなことでは農場側の大扉は開かれない。
アイラたちが辿《たど》りついた時には、すでになん百人かの人間がひとところに固まり、腰を落ち着けていた。
固まっている理由は、貧しき先住者たちが天幕を移して空けてくれた場所が、この一角だけだったということと、避難してきた家持ちの住民も、せっかく運び出した家財を盗まれまいと警戒したからだ。
実際、貧民窟ではかっぱらい、たかり、強盗など犯罪が絶えない危険地帯であり、また貧民窟の住民のほうも、家持ちの連中を面白く思っていないわけで、あからさまな敵意こそないものの、こうしていても、互いの間にある種の緊張感が漂っていた。
アイラたちも、人々の中に腰を降ろした。
騒然とする町なかをうろついていれば、いつまた暴徒の群れに遭遇するかもしれない。それよりは、ひとまず群衆に身を隠しているほうが見つかりにくいと考えたのだ。
それに加えてもうひとつ理由があった。
「……すまないが、荷物の中から裂いてもいい布きれを出してくれないか」
石畳に座り込むなり、ガルーが呻《うめ》くようにいった。
アイラは泣き濡《ぬ》れて充血した目を見開く。
ガルーの両足が、真っ赤に染まっているではないか。
アイラを助けに躍り出た際、なん発か暴徒の銃弾を食らっていたのだ。
素速くガルーが人差し指を口の前に持ってゆき、騒ぐなと合図した。
慌ててアイラは無言でうなずく。
周囲に撃たれた傷と知られれば面倒になると気づいたのだ。
アイラは荷を開き、一番上にあった自分の白い上着を取り出した。まだいく度も袖《そで》を通していない新品だったが、なんのためらいもなく引き裂いた。
弾が食い込んでいる場所は、左の腿《もも》とふくらはぎに一発ずつ、右足は腿の裏側に一発、それ以外にも銃弾がかすった痕がなん箇所かある。
「……よく、こんな足でここまで」
アイラは囁《ささや》くような小声でいった。
「なァに、大したことないさ」
と、ガルーは強がるが、満面に脂汗を滲《にじ》ませては説得力に乏しかった。
〈救世主の血〉を飲んで、並み外れた体力を得ても、やはり彼らも生身の人間には違いなかった。
「早く弾を取り出しておかないと、鉛の毒が体に回ってしまうし、後になればなるほど、まわりの肉が締まって取りづらくなるっていうけど……」
「そんな贅沢《ぜいたく》いってる余裕はないだろ。今は止血だけしてくれれば充分だ」
アイラは裂いた布で足のつけねをきつく縛る。さすがにその瞬間は、ガルーも顔を歪《ゆが》ませ、わずかに呻《うめ》きを洩らした。
「――おやまあ、どうしたのかね」
近くにいた白髪の老婦人が、泡を食った声を上げた。
「宿から逃げる時、慌ててしまってね。鉄柵《てっさく》にひっかけてしまったんだよ。ああ、大丈夫。見た目はひどいが、血さえ止まれば大した傷じゃないから」
と、ガルーが青い顔で誤魔化しにかかる。
「そうかい。でも、縛っただけじゃね。ちゃんと手当したほうがいいよ。雨季の傷は、膿《う》みやすいっていうからね」
「ありがとうよ、婆さん。けど、こんな真夜中じゃ医者だって起きちゃいないだろう」
すると、老婦人は、曲った腰を無理に伸ばして、あたりをきょろきょろと見渡した。
「あ、いたいた。おーい、お坊さんや、こっちに来ておくれでないかい」
と、大声を上げ、遠くにいた黒っぽい服を着て、大きな籠《かご》を下げた人間を呼び寄せた。
「もう心配ないよ。ありゃ、近くの寺――アレク僧会とかいったかね――そこの坊さんでな。まだ若いけど、病気や怪我の手当についちゃ、そこらの藪《やぶ》医者よりよほど腕がいいと評判なんだよ。それに貧しい者の味方でな、今もこうして焼け出されたあたしらに、食べ物を運んで下さるのさ。あの人なら、きっと助けてくれるからね」
「そ、そりゃどうも……ご親切に」
と、ガルーは礼をいったが、内心では「お節介ババアが」と罵《ののし》っていた。どうやって傷を誤魔化すか、必死に頭を巡らした。
「――どうなさいました」
人の間を縫って僧侶姿の男がやってきた。
一瞬、アイラの目に腰が曲がり、皺《しわ》だらけの老人の姿がだぶる。
だが、幻はすぐに消え、ひどく面《おも》やつれしているものの、まだ青年ともいえる若者の顔が見えた。
「ああ、この人が足に怪我をしているんだよ。あんたのところで、手当をしてくれないかと思ってね」
僧はガルーの足を見て、眉《まゆ》をひそめた。弾傷だと気づいたのかもしれない。だが、ことさら騒ぎ立てはしなかった。
「……ああ、これはひどい。早く手当をしなくては」
「おや、あんたは」
ガルーは僧の顔を見て驚く。
パイジャに殺害された踊り娘《こ》母子の遺体の前で、祈りを捧《ささ》げていたあの僧侶だったのだ。
「あなたは……あの時お逢《あ》いした……」
相手も気づいたようだ。
「おや、知り合いだったのかね」
と、老婦人が尋ねる。
「ええ、とある場所でちょっと……」
僧は口を濁した。殺人があった現場で逢ったとは、いいにくかったのだろう。
「とにかく、ここでは手当もままなりません。寺にお連れしましょう。しかし、この傷では歩けませんね。まわりの方々に手を貸していただきましょう」
「いや、ここまで歩いてきたんだ。自分の足で立てるさ」
ガルーは意地を張って、助けを借りずに立とうとした。
だが、痛みは我慢できても、肝心な足の踏ん張りが効かなかった。立ち上がった途端、膝《ひざ》が砕けて体がよろけた。
「――危ない!」
僧が慌てて手を伸ばすが、無用だったようだ。
そばにいたアイラが、ガルーの巨体を背後からしっかと支えたからだ。
「――ったく無茶して。だから男は始末に困るんだよ」
「あ、アイラ……」
ガルーは耳を疑った。咄嗟《とっさ》のこととはいえ、彼女が自発的に体を触れてくるなど信じがたい。しかし、脇腹《わきばら》に回されたたおやかな手、そして背中に密着した乳房の感触は、アイラ以外のなに者でもありえなかった。さらに付け加えるなら体重のある自分の体を、ひとりで支える力のある女は、やはり彼女だけだ。
頭がかっと熱くなった。
――嬉《うれ》しかった。
天にも上る心地とは、今のような気分をさすのだ、とガルーは思った。その時ばかりは、足が訴える痛みなどまったく感じていなかったに違いない。
だが、陶然とした時も長くは続かない。
「イッ――!」
急に脇腹に激痛が上がり、ガルーは悲鳴を上げた。
「なに惚《ぼ》けた面してんのさ。ほら、しゃきっとしなよ」
と、アイラが耳元で怒鳴った。
煤《すす》の汚れのおかげで、誰にも気づかれずに済んでいるが、彼女の頬《ほお》は赤らんでいた。
自分のせいで傷を負った男のために――と、アイラはおぞましさをこらえて体を支えたが、いざ体が触れ合うと、予期した肌が粟立《あわだ》つ嫌悪は湧き上がらず、代わって身もだえするような恥かしさが募った。
そして、妙にガルーに腹立たしさを覚え、思わず脇腹を力一杯つねっていた。
自分でもさっぱり理解できない行動だった。
結局、ガルーは僧の手当を受けることにした。
うまく断る口実が見つからなかったこともあるが、この男なら理由も聞かずにいてくれるかもしれない、と漠然とした期待を抱いたからだ。
ガルーは両脇から僧とアイラに支えられて歩いた。その後ろを子どもふたりがついていく。
途中、僧はなん度か振り返って、真っ赤な髪の少女と、毛布を被って顔を隠す少年をちらちらと見た。そのたびにガルーとアイラは胃が縮む思いがしたが、僧は胸のうちの不審を口に上らせはしなかった。
アレク僧会の寺院は、貧民|窟《くつ》の中に建てられていた。外観は、まさにほったて小屋という表現が適当な粗末な建物だ。
中に入ると、さして広くもない礼拝堂には、椅子《いす》や床にびっしり隙間《すきま》なく人が横たわり、鼻が曲るかと思うほど強烈な匂《にお》いが充満していた。
僧はなにも説明しなかったが、アイラたちは、すぐに彼らがなに者かわかった。
天幕すらあがなうことのできない貧民窟の中でもさらに貧しき者、あるいは重い病に苦しむ者、家族に見捨てられた老人たちだ。
恐らく、ずっとこの礼拝堂は、彼らに占領され、本来の目的に使えずにいるのだろう。たとえ、一時的に別の場所に移ってもらったとしても、この糞尿《ふんにょう》混じりの匂いはたやすく消えない。熱心な信者でも、そう長くは我慢できないだろう。
礼拝堂に足を踏み入れることなく、僧は脇の扉をくぐり、奥に向かった。
驚くことに、暗い廊下にも大勢の人が横たわっていた。顔と体を壁にぴったりとつけ、人が通れる隙間を作ったまま寝ている。僧に気がねしているのだろうが、その姿は礼拝堂にいる者たちよりも、アイラたちの胸を衝《つ》いた。
「――さあ、こちらです」
廊下の突き当たりの部屋に、一行は招き入れられた。
そこが彼の私室なのだろう。狭くろくな家具はないが、整理が行き届いた清潔な部屋だ。そして、壁の一角には小さな祭壇が設けられていた。
「驚かれましたでしょう、ひどい有様に」
扉を閉めるなり、やおら僧は口を開いた。
「あんたの苦労が偲《しの》ばれるよ」
とだけ、ガルーは答えた。言葉を費やしても意味があるとは思えない。むしろ、過ぎた同情は相手に対して礼を欠くだろう。
僧のほうも、それ以上、その話題に触れようとはしない。
「――申し遅れました。拙僧はケブ・ネースミンです」
「ああ、俺はガルーだ。こっちはアイラ、それと子どもふたりが、ティアとヨシュア――」
ケブは扉の隅にうずくまる毛布を被ったヨシュアに目を止める。
「失礼ですが、お子ふたりは、あなたがたの間にできた……」
ガルーとアイラは驚いて顔を見合せた。だが、ふたりが口を開く前に、僧は自らの言葉を打ち消した。
「……まさか、そのようなことはありませんな」
それを聞いて、ガルーが仏頂面に変わる。
「なぜだ。俺たちは夫婦に見えないか」
「ガルー!」
ケブは笑みを浮かべ、
「あなたがたのお子にしては、少々大き過ぎるようで。いえ、不躾《ぶしつ》けなことを伺いました。お許しを――」
アレク僧会の若き僧は、ガルーを自分の寝台に横たわらせ、足の治療にかかった。アイラはその手伝いをするが、要はガルーが手術の最中痛みで暴れないように押さえつける役だ。
果たして、ケブは、初めから銃傷と見抜いていたようだ。血まみれの長袴《ちょうこ》は脱がさず、患部だけを露出させ、火で焼けた刃物で広げた上で、手早く鉛玉を取り出していった。
奇跡としか映らないムウの医術と違い、樹海の町での手術は、終始激痛を伴う。しかし、ガルーは脂汗を流し、眼球が飛び出るかと思うほど目を見開きながらも、泣き言もこぼさず耐え切った。
それでも、化膿《かのう》を防ぐため火薬で傷口を焼いた時は、さすがにこらえきれず、喉《のど》の奥から呻《うめ》きが洩《も》れ出た。
部屋の隅でヨシュアが耳を塞ぎ、顔を逸《そら》した。まるで自分が痛みを覚えたようにだ。傍らのティアが、キューンと鳴き声を上げて慰めているが、あまり効き目はないようだ。
「――幸いでした。どれも弾が浅くて。あと弾一個分深ければ、今の倍の長さ、傷口を裂かなければなりませんでした。そうなれば、まず痛みに耐えられません」
血にまみれた手をたらいの水で洗い落としながらケブはいった。
「今ぐらいの深さでも、大抵の方は途中で気を失っているところです」
「だろうな……」
ガルーは息もたえだえに返事をした。手術の緊張から解き放たれ、全身から力が抜けていた。とても軽口を叩《たた》ける状態ではなかった。
アイラが代わってケブに深々と頭を下げた。
「なんと礼をいったらよいか……」
「いいえ、お役に立ててよかった。しばらくじっとしていれば、元通り歩けるようになるでしょう」
「しばらくとは、どれくらい」
「……そうですね。体が頑丈そうですので、回復も早そうだ。半月も経てば」
「そんなに!」
アイラは思わず叫び声を上げた。
僧は怪訝《けげん》な顔をした。
「心配するな。小一時間もあれば、歩けるようになってみせる」
と、寝台からガルーがいった。
「無茶ですよ、いくらなんでも。いくら弾が浅かったといっても、筋肉にまで食い込んでいたのですよ。無理をしてはなりません。ここで養生してください」
だが、ガルーは首を横に振り、
「訳も訊《き》かず、手当してくれて本当に恩を感じている。だが、こっちも命がかかっているんだ。無茶だろうが、なんだろうが、ここを出ていくしかないのさ」
「事情がおありのようだ、と察していましたが、あなたがたが悪事をしでかす人たちには見えなかった。ですから、なにも尋ねずにお助けしました。されど、こうなっては訊かざるをえません。お話し下さい。納得できなければ、ここから出すわけにはまいりません」
ケブは不退転の決意を示した。
「……これ以上、俺《おれ》たちとかかわりを持たないほうがいい。助けを求めておいて、勝手ないい草と思うが、あんたのためにいうんだ」
「そうだよ。あたしたちは疫病神《やくびょうがみ》なんだ。かかわればただでは済まない。もう、充分に懲《こ》りているんだよ」
アイラは沈んだ顔で口を添えた。
「例の魔女騒ぎのことでしょうか……」
ケブが呟《つぶや》くようにいった。
噂《うわさ》はここにも届いていたのだ。
それが探りとわかっていても、ふたりは表情を完全に押し殺すことはできなかった。
「やはり……」
若き僧の目の色が変わった。穏やかで慈愛の光に満ちていた瞳《ひとみ》が、一転して恐怖と憎しみの色に染まる。
アイラは背筋に冷たいものが這《は》い上るのを感じた。ついに正体が知られてしまった。しかも、白子や魔女を最も憎む僧侶にだ。
「……我、神の忠実なる下僕として問う。汝、魔性に魂を委《ゆだ》ねたる者か……」
ケブの口から、呪詛《じゅそ》に似た響きの言葉が洩れ出る。
「――違う! あたしは魔女なんかじゃない」
アイラは声を荒げて叫んだ。
「さっき、あたしたちが悪事をしでかす人間には見えないといったろ。そんな根も葉もない噂なんて信じないで。自分の目を信じておくれな」
ケブは息を飲んだ。
アイラの言葉に、気持ちがぐらついたのだろう。だが、躊躇《ためら》いもわずかの間だった。
突然、ケブがヨシュアのそばに駆け寄り、荒々しく被った毛布を引き剥《は》がしたのだ。
短い呻《うめ》き声が上がった。
輝くばかりに白い髪、皮膚が透き通っているかに見える白い肌、そして恐怖に怯《おび》えていてもその顔は禍々《まがまが》しいまでに美しかった。
「……し、白子……まさに教典に書かれた通りの姿……」
僧の顔は醜く歪《ゆが》んでいた。
もはやいかなる弁解も通用しない――アイラは覚悟を決めて細剣の柄《つか》に手をかける。
「――動くな!」
僧が叫んだ。いつの間にか、彼の手には手術に用いた鋭い刃物が握られ、それを少年の喉《のど》につきつけた。
「う、動くんじゃない……」
しわがれた声で僧は繰り返した。
「……わかったわ。大人《おとな》しくする。だから、刃物を少しでいいから、坊やの首から離してちょうだい。そんなに手が震えてちゃ、坊やを傷つけるわ」
アイラは努めて冷静に振る舞おうとした。相手を逆上させては駄目だ、と心にいい聞かせながら。
心配なのはティアだ。
今は手出しを控えてくれているものの、いつ血気に逸《はや》って飛びかかるかもしれなかった。
以前見せ物小屋で、虎男に少年を人質に取られた時より状況がさらに悪い。
怯《おび》える男がほんの少し手に力を加えれば、ヨシュアは命を失うのだ。それを獣の心を持つ少女にわかってもらえるだろうか。
「……わ、わたしは迷っている」
僧はヨシュアを押さえたまま、落ち着きなく瞳を動かす。
「迷うってなにを?」
「こ、この子どもは間違いなく、し、白子だ……しかし、あなたたちは、魔性の者なのか。わたしには、そ、そうは見えない……この子とのかかわりを否定するなら、あなたたちだけは、助かるように尽力しよう」
「わが子を見捨てるような真似が、できるとお思いかい」
アイラは即座に答えた。
「なぜだ。あなたの実の子ではあるまい。どうしてそこまで想《おも》いを寄せる。それにこいつの正体を知らぬのか。世界を破滅に導く魔物の王になるのだぞ」
「まさか。ヨシュアは虫一匹殺せぬ優しい子だよ。そんな恐ろしい悪魔になるわけがないだろ」
「そうだ。〈闇《やみ》の救世主〉――〈白き魔王〉は、目覚めを迎える前まで、魔性と正反対の性を持つのだ。まさに教典に記された通りではないか。そしてひとたび髪が銀色に輝き、目覚めを迎えた魔王は、もはや人の力では倒すことができなくなる。だから、なん百年にもわたって、われらアレク僧会や、他の宗派が協力して、白子が産まれたら、目を開けぬうちに始末しろと民衆に説いているのだ」
アイラは顔が蒼白《そうはく》になっていた。誰もが白子を忌《い》み嫌うようになった裏には、とんでもない事情があると気づいたのだ。
しかし、そんなことで、彼女の愛情が揺らぐはずもなかった。
しっかりと正面からケブの目を見据えてアイラはいい放った。
「そんな話、絶対に信じない。信じてやるもんか」
――と。
そして、言葉を解さないはずのティアまでもが同調するかのように、敵意の唸《うな》りを発した。
ケブはぶるっと体を震わせ、後ずさった。
「ひ、ひとつ訊きたい」
「なによ」
「どのような経緯《いきさつ》で、この白子と出会ったのだ。教えてくれ」
「そんなこと、もう関係ないでしょ」
「大事なことだ。わが僧会にとり、この上なくな。白子はひとりで産まれたのか。双子ではなかったか」
アイラは眉をひそめる。
「双子? そんな話は聞かされていないわ。それに双子だったら、どうだっていうのよ。もっと不吉だっていうの」
ケブは見るからに消沈し、肩を落とした。
「……違う。この子の片割れは、産まれながらに髪が金色であるはずなのだ。そのお子は、アレク僧会のみならず、われら神を信奉するすべての僧侶にとり、五〇〇年間待ち続けた神の御使い――この滅びに瀕した大地を救う〈救世主〉となられるお方なのだ」
僧の腕の中で、ヨシュアの顔が驚きにひきつる。
「そんな話ってあるの! ひとりの女の腹から救世主と魔王が一緒に産まれるなんて」
アイラは激したように叫んだ。
「教典にはそう書かれている。いや、我が宗派だけではない。エルマナのすべての宗派の書に、ほぼ同一の預言が記されている。これは最早確定された事実なのだ」
アイラは強く首を振った。
「ヨシュアは絶対に魔王なんかにならない。絶対に――。もし、世の中みんながヨシュアのことを魔王と呼ぶなら、それはみんながおかしくなっているんだ。正義と悪が反対になっているんだよ。見なよ、この町の連中を。罪もないメルカ姉さんを殺し、町に火をかけた。これが正義だっていうのかい。正しい行いっていうのかい」
若き僧に当惑が浮かぶ。
「わ、わたしにはわからない……だが、白子を放置してはならんのだ。禍根はすべて根絶せねばならんのだ」
アイラは細剣に手を添えて、じりっとケブににじり寄った。
「く、くるな。殺してもいいのか」
ケブは体の震えを大きくして叫ぶ。
だが、アイラはなおも近づく。
「やれるものなら、やってごらん。ヨシュアの首を少しでも傷つけたら、次の瞬間、あんたの首を胴体から切り離してやる」
アイラは凄《すさま》じい気迫を漲《みなぎ》らせていった。ただの脅《おど》しではない真実味がそこにあった。
すると、ケブは目を閉じて、聖句を唱え始めた。
「……神よ、願わくば、下僕たる我に、魔を退ける力をお与え下さい……」
アイラは誤った。彼のような使命感に燃える僧には脅しが効かず、むしろ追い詰める結果になるのだ。
ケブはかっと目を見開き、刃物を持った手を大きく掲げ上げた。
「神よ! 我に力を!」
命を捨てて僧は使命を果たそうとした。
だが、いち早く銃声が鳴り響いた。
ケブの額に小さな丸い穴が穿《うが》たれた。
刃物を持った手が力を失い、だらりと垂れ、床に輝く刃を落とす。
そして、ケブの体は背後の壁に倒れ込むと、そのままヨシュアを抱えたまま沈み込んだ。
アイラは愛《いと》し子を取り返し、両腕で抱き締めた。ティアも争うように少年の体にしがみつく。
けれど、ヨシュアは顔を驚きの表情のまま凍り付かせ、瞬《またた》きすらしなかった。助かったことすら理解していない様子だった。
「……どうしたの、坊や」
アイラはヨシュアが心に大きな傷を負ったことにようやく気づいた。
その三人を横目に、ガルーが寝台から身を起こし、痛む足を引きずってケブの死体に近寄った。
ガルーは手に握り締めた短銃を、腰帯に差し込んだ。そして、横たわるケブの体にかがみ込み、見開いたままのふたつの瞼《まぶた》を掌《て》で閉じ、
「……すまなかった。短いつきあいだったが、俺はあんたのような男がいると知って、本当に嬉《うれ》しかったんだぜ……」
と、死者に向かって呟《つぶや》いた。
その時だ――
部屋の扉が、激しく打ち鳴らされた。
今の銃声を聞いて飛んできた者がいるのだ。
また、急に外が騒がしくなった。
「――アイラ、外を見てくれ」
動けぬガルーが叫ぶ。だが、彼女はヨシュアの異常に気が動転して、それどころではなかった。
「ぼ、坊や、どうしたの。あたしがわからないの――」
ガルーは舌打ちすると、無理矢理足を引きずり窓辺に急いだ。
鎧戸《よろいど》に隙間《すきま》を作って外を覗《のぞ》く。
天幕の群れの向こうで、数え切れない松明《たいまつ》の火が揺れていた。
暴徒たちは、執念深くもまだアイラたちを探し続けていたのだ。
扉はなおも強く打ち続けられている。
「ちくしょうめ、この足でまだ走らせようっていうのかよ!」
さしものガルーも、その場にしゃがみ込み、天を仰いで大きく嘆息を洩《も》らした。
その頃、正門近くの厩舎《きゅうしゃ》では、隣接した鍛冶屋《かじや》の二階にある寝所から、ようやく厩《うまや》の主《あるじ》が這《は》い出していた。
むろん、とうに火事騒ぎは耳に届いていたが、この初老の親方は「ここまでは火も届かんさ」と寝惚《ねぼ》け声を上げて、また眠りについてしまったのだ。
厩の親方がいうように、正門周辺はこの厩舎以外に一切建物はなく、たとえ風下になったところで、火が燃え移る心配はほとんどなかった。
しばらくウトウトしていると、今度は厩舎から響いてくる馬のいななきに目を覚ました。
「……馬鹿モンどもが。あんなに馬たちが怯《おび》えているじゃねえか。早く行って落ち着かせんか……」
親方は寝台の中で、別部屋にいる徒弟たちに文句をいった。
すると、隣で寝ていた女房が、
「なに、いってるのさ、おまえさん。あの子たちは出かけちまって、ここにはいないんだよ」
親方がぱっちり目を開いた。
「出かけたァ? どこに!」
「やっぱり寝惚けてたんだね。随分前のことだよ。家族が心配だからって、町のほうにみんな戻ったじゃないか。おまえさん、その口で『構わねえぞ』って許したんだよ」
自分の寝惚け癖を知っている親方は、ぐうの音も出なかった。
こうした経緯《いきさつ》があって、親方自ら馬の見回りに出かけることになった。
鍛冶場を出て、町の方向を眺めると、上空に低くたちこめた雲が、赤く光っていた。夜明けにはまだ時間がある。地上で燃えさかる火が照らしているのだ。
思った以上に火事の規模は大きいようだ。
火元からかなり離れたこのあたりも、うっすらときな臭い煙がかかっている。
「……やれやれ、雨季だってェのによ。こんな時に限って雨粒ひとつ降ってきやしねえ。おとついのような土砂降りがあれば、あっという間に消し止められるっていうのによ。こいつァ、随分と人死にが出るだろうな……」
だが、感慨にふけっている暇はなかった。厩舎から、たくさんのいななきに混じって、ドンドンと板を打ちつける響きが上がったからだ。
「――こいつァ一大事だ」
親方は血相を変えて、厩舎にすっ飛んでいった。
予期した通り、厩《うまや》の中は大騒ぎだった。
預った十数頭の馬たちは、みな興奮し切っていた。前足で地面を打ち鳴らすものなど大人《おとな》しいほうで、ひどいのになると、口から白い泡をふき、体を馬房の柵《さく》にぶつけている。外で耳にしたドンドンという響きはこれだった。
恐らくは、最も敏感で臆病《おくびょう》な馬が、火事の気配に目を覚まして騒ぎ出し、それが仲間に伝染したのだろう。
「――こら、気を鎮めろ。大丈夫だ。ここまでは火も来ない」
親方はなだめにかかるが、声をかけたぐらいでは、絶対に鎮まらない、と本人もわかっていた。けれど、こう暴れられては、近寄ることもできない。
とにかく、柵を破ろうとする馬だけでも、なんとかしなくては、と親方は奥に向かって並んだ馬房の前を駆けた。
だが、途中で親方は足を止めた。
たった一頭だけ、いななきも上げず、じっとしている馬がいたのだ。
ありえないことだった。馬は非常に繊細かつ、集団性が強い。同族がいきり立ち、狂ったように騒ぐ中で、孤高を保てるはずがなかった。
「こ、こいつァ……」
色はたてがみを含め、すべてが漆黒に染まり、体は馬房が狭く見えるほど大きく、かつ逞《たくま》しい。さらに黒光りする張りのある足は、いかに優れた脚力を持つかを如実に顕《あら》わしている。
長い馬とのつき合いでも、これほどの名馬は初めてだった。しかも、預けにきた持ち主が、色気が薫《かお》り立つような別嬪《べっぴん》とくれば、忘れるわけもない。
――確か……エディラといったはずだ。
そうこうしている間にも、周囲の騒ぎは激しさを増していった。
バキッと大きな音が上がる。柵のひとつが折れたのだ。
親方は覚悟を決めた。もはや馬たちをとどめることはできない、と。
突然、エディラが長い首をもたげ、鋭いいななきを発した。
すると、どうだろう――厩舎のすべての馬がぴたりと暴れるのを止めた。
「な、なんってこったい……」
静まり返った厩舎に驚愕《きょうがく》の呟《つぶや》きが響く。
「おまえか、エディラ。おまえが命令し――」
親方は最後まで喋《しゃべ》ることができなかった。不意に目の焦点が失われ、口がだらしなく開く。あたかも魂を抜かれたように、顔全体が弛緩《しかん》した。
黒馬の輝く瞳《ひとみ》に見据えられた途端の出来事だった。
親方がゆらりと足を前に踏み出した。そして馬房の柵を外して中に入り、壁にかけてあった大きな鞍《くら》をエディラの背に乗せた。
それは、手足に糸をつけた操り人形のような、ぎくしゃくとした動きだった。
アレクの寺院は、暴徒の群れに十重二十重《とえはたえ》に取り囲まれていた。
町なかでは、住民総出で火事を消し止めようと懸命の作業が行われているというのに、ここに集まった暴徒の数は、二〇〇を下らない。
最初の襲撃で痛い目を見たせいか、彼らも力ずくで踏み込もうとはしなかった。その代わりに、建物ごと中にいる者たちを焼き殺そうとした。
あたりの天幕から、無理矢理人が追い払われ、彼らのなけなしの財産である天幕や家具、衣服などが、寺院のまわりに積み重ねられていく。お陰で、立錐《りっすい》の余地なく天幕が並ぶ貧民|窟《くつ》に、ぽっかりと開けた空間ができてしまった。
また、暴徒たちは、準備の間に逃げ出せないように、何十もの銃口を、扉や窓といった出口に向けていた。
一度、扉が開き、老人ふたりと赤子を抱えた女、顔が土気色の病人が、中から姿を現わした。
このままとどまっていれば、巻き添えを食って殺される、と危険覚悟で抜け出してきた者たちだ。
暴徒たちは、情容赦なく鉛玉を浴びせた。
アイラたちと間違えたわけではない。銃を握る男たちは、血を流して転がる死体を眺めて、ニヤニヤと残忍な笑みを浮かべた。
暴徒の精神状態に、明らかな変化が生じていた。
メルカの家に押し寄せた暴徒は、殺気を漲《みなぎ》らせていても、どこか恐怖の色を覗《のぞ》かせていた。怒りも憎しみも、怯《おび》えの裏返しだったといえる。
今は違う。
表裏いずれの感情も影を潜め、代わって彼らを突き動かしているのは、かつて味わったことのない異様な高揚感だった。強いて近いものを求めるなら、祭りの狂躁《きょうそう》であろう。
彼らは炎と血――共に赤きものを欲するようになっていた。
でなければ、町が灰と化すかもしれないという大火を引き起こしながら、火攻めなど考えつきもしないはずだ。
準備が整った。
寺院の周囲に、うずたかく貧者の財産が積まれ、さらに油がまかれた。松明《たいまつ》を持った者が四方に立ち、合図を待っている。
イッヒヒヒヒヒ……
誰からともなく、奇怪な喜悦の笑いが生じて、瞬く間に祭り[#「祭り」に丸傍点]に参加する男たちすべてに伝染した。そのおぞましき笑いの唱和は、まともな神経の持ち主なら、およそ耐えがたいものだった。
松明が投げ入れられ、建物を黒煙が包み込むと、暴徒はどっと歓喜の雄叫《おたけ》びを上げ、銃を空に向かって撃ち鳴らした。
祭り[#「祭り」に丸傍点]は最高潮に達したのだ。
その時、半開きの状態の扉から、なにかが外に投げ出された。
小さな薬瓶のようだ。ぎっしりと黒いものが詰っている。地面で跳ねると、そのまま転がって暴徒たちの足元まで達した。
「……なんだ?」
拾い上げようと暴徒のひとりが手を伸ばす。
すると、一発の銃声が轟《とどろ》き、鉛玉が瓶に命中した。
次の瞬間、目も眩《くら》む閃光《せんこう》が、あたりを飲み込む。
凄《すさま》じい爆発が、至近距離にいた十数人を吹き飛ばし、それに倍する数の暴徒を、爆風によって地に這《は》わせた。
間髪《かんはつ》を置かず、寺院の扉が勢いよく開け放たれ、人影が躍り出す。
アイラたちだ――!
先頭を切って走るのは、ヨシュアを背負ったアイラ、次がティア、しんがりがガルーである。雷発銃用の火薬と、赤い添加剤を混ぜて作った手製爆弾は、予想を遥《はる》かに越える威力を示した。
四人は爆発跡にできた大きな穴を飛び越し、包囲の網を抜けた。
だが、暴徒たちもなす術《すべ》なく見送ったわけではない。
「――追え! 絶対に逃がすんじゃねえ!」
怒号に混じって、けたたましい銃声がこだました。
ろくに狙《ねら》いも定めずに撃った弾の数々は、大半があさっての方向に飛び去る。けれど、その内のなん発かが、アイラたちの体をかすめた。特にしんがりのガルーが、的になっているようだ。
重い傷を負った者とは思えぬ、ガルーの走りだが、痛みをこらえているのか、顔面は蒼白《そうはく》だった。
「――しっかり! もう少しだよ」
アイラは後ろを振り返って叫ぶ。
天幕の群れに紛れてしまえば、少なくとも銃火に晒《さら》されることはないはずだ。
「――馬鹿っ、前だ!」
と、ガルーが怒鳴り返す。
剣を持った男たちが、行く手を阻むように立ちはだかったのだ。
アイラは足を緩めることなく、まっしぐらに突き進む。そして、走りながらヨシュアを押さえていた手の片方を自由にする。
「――イヤァァァァァ!」
七色の光が乱舞した。
剣が折れ飛び、血潮が舞った。
アイラは抜く手も見せず、剣を繰り出し、群がる敵を瞬時に斬《き》り伏せた。
虎獣人を翻弄《ほんろう》した彼女だ。人間の動きなど、のろまな亀同然に映る。まして、剣はオリハルコン製。なまくら剣ごと胴体を両断しても、歯こぼれひとつしない。子どもひとり背負っていても、なんら負担にならなかった。
四人は立ち並ぶ天幕に飛び込んだ。
銃声が途絶えた。無数の天幕が遮蔽物《しゃへいぶつ》となり、暴徒たちからアイラたちの姿が見えなくなったのだ。
だが、代わって四方から石が飛んできた。
投げているのは暴徒ではなく、貧民|窟《くつ》の住人だ。女子どもまでも、憎しみに顔を歪《ゆが》ませて投げてくる。
「ちくしょうめ。なにもかも、俺《おれ》たちがしでかしたと思い込んでいるんだ!」
ガルーが激昂《げっこう》する。
アイラとて忿懣《ふんまん》やるかたない気分だ。
――どうして、こんなひどい仕打ちを受けるの! あたしたちがなにをしたっていうのさ! ただ逃げ回っているだけじゃない。
石が当たるたびに、怒りが体内の血液を滾《たぎ》らせていく。だが、それでも必死に自分を抑えようとした。
――いけない! 我を失っちゃだめよ。あの力はもう使っちゃいけないんだ。
なぜ、そうしなければならないのか、アイラ自身わかっていない。けれど、『あの力』を使うたびに、自分の中でなにかが変質していく――それも悪《あ》しき方向に。
メルカの魂の声も、それを戒めてくれた、とアイラは信じていた。
その時、必死の自制が破れかける出来事が起きる。
「――ああっ」
飛来した石のひとつが、背負ったヨシュアの頭に当たったのだ。
灼熱《しゃくねつ》の溶岩のごとき激しい憎しみが、身の裡《うち》を焦がし、アイラの視界が赤く染まる。内圧が一気に上昇し、爆発寸前となった。
しかし、アイラより先に、溢《あふ》れる怒りを解き放った者がいた。
すぐ後ろから、人のものとも思えぬ雄叫《おたけ》びが上がる。あたりの空気をビリビリと震わせる凄《すさま》じさだ。
ティアだった。
ヨシュアが傷つけられた途端、少女の赤い髪が炎の揺らめきのように逆立った。
狼獣人に化身しようというのだ。
全身を赤茶けた体毛が覆い尽くし、四肢の先端からは鋭い鉤爪《かぎづめ》が伸び、頭が狼のそれに変貌《へんぼう》を遂げる。
目撃した者たちは、石を握ったまま動きを凍りつかせる。取り返しのつかない過ちを犯したと気づいたのだ。
幼き姿とはいえ獣人は獣人――樹海の民にとり、現実的な恐怖そのものだ。たとえ、町から一歩も出たことのない者でも、風に乗って伝わる獣のかすかな遠吠《とおぼ》えに耳をそばだて、身を震わせる。
ティアは、まとっていた服を爪で引きちぎると、狼の雄叫びを上げて地を駆けた。
復讐《ふくしゅう》の権《ごんげ》化と化した獣人は、声を涸《か》らして逃げ惑う人々を、手当たり次第に引き裂き、邪魔な天幕を蹴散《けち》らして回った。もとよりティアに人間社会の通念などかかわりはない。女子どもすら容赦なく牙《きば》にかけた。
「――おい、なにぼやっとしている! あいつを止めるんだ」
呆然《ぼうぜん》とするアイラの頭に、ガルーの声が届く。
「ど――どうして?」
反問の言葉が口をついて出る。
「やらせておけばいいわ。あ、あいつら、ヨシュアに、石を、石をぶつけたのよ」
アイラは声を震わせて叫ぶ。ティアに出し抜かれ、怒りの暴発は防げたものの、その余波がまだ身の裡《うち》に残っている。
それに比べて、ガルーは冷静に状況を読んでいた。
「なに血迷っている。銃を持った連中が、大挙して追ってきてんだぞ。獣人といっても、まだ毛並みも揃《そろ》わないガキが、たった一匹で立ち向かえると思っているのか」
アイラははっと息を飲む。
銃声が轟《とどろ》いた。
「ギャン」
ティアは鳴き声を上げて宙を舞った。
成長した獣人と違い、少女の皮膚も筋肉も骨格も、弾丸の威力を完全に吸収するだけの強靭《きょうじん》さを持っていない。当たれば、致命傷にこそならないものの、相応に傷つき、痛みを覚える。
「――殺《や》っちまえ!」
地面に落ちたティアに向かって、鉛玉が雨あられと撃ち込まれる。
狼の敏捷《びんしょう》さをもって、咄嗟《とっさ》に天幕の陰に身を隠そうとしたが、なん発かの弾丸を、手足や腹に食らって身動きが取れなくなる。
暴徒たちは歓声を上げ、とどめを刺すべく距離を詰めてくる。
「――いわんこっちゃない!」
ガルーは片膝《かたひざ》をつき、三連装大口径雷発銃を構えた。そして、暴徒目がけて温存していた最後の一発を撃ち放った。
狙《ねら》いはやや下、津波のごとく押し寄せる暴徒たちの足元だ。
地面に炸裂《さくれつ》した小型の砲弾は、多量の土砂を巻き上げた。度胆を抜かれ、暴徒の足が止まる。同時に宙に舞った土砂が、煙幕の代わりになると計算してのことだった。
「持っててくれ」
ガルーは重い雷発銃をアイラに渡すと、脱兎《だっと》の勢いで駆け出し、地に伏したティアを拾い上げ、すぐまた引き返してくる。
「――いつまでぼやっとしている。逃げるんだろうが!」
「――ああ」
ふたりは共に子どもを抱えて、逃げにかかった。
「ティアは? 息はあるのかい?」
アイラはガルーの腕の中でぐったりする少女を横目に見る。
「こいつが、そう簡単にくたばるものか」
ガルーが怒鳴るように答えた。
今まで、ティアを邪魔者扱いしていたかに見える彼だが、アイラよりも、仲間として認めていたのかも知れない。
そのガルーに異常が起きる。走る速度ががくっと落ちたのだ。
「――ど、どうしたの!」
「すまんな。あ、足がどうにも、どうにもいうことをきかない」
今の姿になって以来、弱音をめったに吐かないガルーが、喘《あえ》ぐようにいった。
足に巻いた包帯が、解けてなくなるほど走り続けていた。その上、重い荷物とティアを抱えては、足が効かなくなるのも無理ないというものだ。負担を軽くしてやりたいと思うが、アイラ自身、手が塞《ふさ》がっている。
「仕方ないよ。荷物だけでも捨てて」
「駄目だ。こいつを捨てたら、町から出られたとしても、いくらも保《も》たない。それに、こいつには――」
ガルーは続きの言葉を飲み込む。
死んだメルカに恩義を感じている彼は、彼女の想《おも》いがこめられた荷物を、捨てられなかったのだ。
「そんなこといったって――」
銃声とともに、頭上を火線が通り過ぎる。
一旦《いったん》は突き放した暴徒の群れが、再び追いすがってきたのだ。
ついにガルーの膝《ひざ》が地面についた。傷の痛みばかりではない。血と一緒に力までもが抜け落ちていくような感じだった。
「おまえは先に行け。荷を捨てようが捨てまいが、どのみち俺の足は限界だ」
アイラは細い眉《まゆ》を吊《つ》り上げ、
「冗談じゃないよ。このアイラ姐《ねえ》さんが、大事な仲間を見捨てて逃げる、そんな薄情もんと思ってんの。おっ死《ち》ぬなら、みんな一緒と決まってるのさ」
ふたりは目と目を合せる。
アイラの髪は焦げて縮れ、顔は煤《すす》と汗で汚れていた。しかし、内側から溢《あふ》れんばかりに輝く生命力が、それを補ってあまりある。
ガルーは、脂汗にまみれた顔に笑みを浮かべる。むろん作り笑いではない。ほんの束の間だとしても、このような時が持てたことに快哉を叫びたい気分だったのだ。
「……死出の旅路の道連れとしちゃ、申し分のない相手だぜ」
「あんたもね……」
アイラもにっこり微笑《ほほえ》んだ。
地響きが足元から伝わる。暴徒はすぐ近くまで迫っていた。
「――さて、もうひと暴れするか」
ガルーは奮い立ち、短銃を腰から抜いた。
「そうね。こうなったら道連れをひとりでも増やしてやるわ。もっとも地獄への道行きは、連中と別々がいいけど」
軽口を叩《たた》きながらも、アイラは気迫を漲《みなぎ》らせてオリハルコンの剣を鞘《さや》から抜き払った。
「――ちょっと待て! ありゃなんだ」
ガルーが暴徒と正反対の方向を見て叫ぶ。
四人が向かっていた正門の方角だ。
無人となった天幕を蹴散らして、馬の群れがこちらに向かってきた。そして、先頭に見えるのは、一際大きな黒馬だった。
「エディラ――そうよ、あれはエディラよ。助けにきてくれたんだわ」
アイラは歓喜に顔を輝かす。
黒馬は、厩舎《きゅうしゃ》にいた十数頭の馬を率いて突進してきた。
アイラたちの脇《わき》を、地響きを上げて駆け抜け、いななきを上げて暴徒たちの群れに突っ込む。驚天動地の出来事に、暴徒らは戸惑い、銃で追い払うことすら思いつかなかった。
阿鼻叫喚《あびきょうかん》が渦巻く。
暴れ馬の蹄《ひづめ》にかかり、跳ね飛ばされて、彼らは戦意を失い、ちりぢりになって逃げ始めた。
黒馬ともう一頭の栗毛馬だけが、踵《きびす》を返して戻ってきた。
「――エディラ!」
アイラは黒馬の顔に抱きついた。
「ありがとうよ。まさかおまえが来てくれるなんて――」
「アイラ、他の連中はみな裸馬なのに、こいつら二頭だけ鞍《くら》がついているぜ。乗れっていってるんじゃないか」
と、ガルー。
「そうなのかい?」
アイラは黒馬の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込む。すると、黒馬は軽くいななき、返事とした。
「『そうだ』って」
「ありがたい」
そういって、ガルーは栗毛馬の背に、意識のないティアを先に乗せようとしたが、馬は獣の匂《にお》いに総毛立ち、前足を高々と上げて暴れた。
だが、エディラが栗毛の正面に回り、鋭くいななくと、すぐさま大人《おとな》しくなった。
「なんて馬だい、まったく」
ガルーは呆《あき》れかえったように黒馬を眺めた。
次はティアを乗せても栗毛は耐えてくれた。そして、自分も荷を背負い鞍に跨《また》がった。
アイラもヨシュアとともに、ひらりと黒馬の背に乗り、足をあぶみに通し、手綱を掴《つか》む。
馬の扱いなど、ろくに知らない彼女だが――エディラに任せれば大丈夫、自分はしがみついていればいい、と不安はなかった。
「――さあ、頼むよ」
アイラは馬の首筋を優しく叩《たた》いた。
すると、黒馬はいななきを上げ、駆け出した。ガルーたちを乗せた栗毛も、すぐその後を追う。
二頭の馬は、正門の方向にひた走る。それが唯一の正しい道と信じているかのように。
だが、不思議な力を持つ黒馬も、最後の難関に、罠《わな》が張り巡らされていることまでは予期していなかった。
「……妙だ。人の気配がない」
ガルーが馬上からあたりを見回す。
馬という足を得たアイラたち一行は、追っ手を振り切り、正門前の広場まで辿《たど》りついた。
もともと警備上の必要から、正門近くは厩舎《きゅうしゃ》や衛士の宿舎や武器庫、役所の出張所以外は建てられない。地面のある場所なら、どこにでも居座る露天商や貧民|窟《くつ》の住民たちも、ここばかりは諦《あきら》めていた。
だとしても、騒々しい蹄《ひづめ》の音を打ち鳴らして二頭の馬が現われれば、まず正門を固める衛士たちが、誰何《すいか》の声を上げるだろう。
だが、三階建ての巨大な櫓門《やぐらもん》は静まり返り、衛士のひとりとして顔を見せない。
門の上にある見張り台には、盛大に篝火《かがりび》が焚《た》かれ、門左右の詰め所にも明かりがともっている。人がいるのは確かだ。ここには非番を含め四〇人近くの衛士が常駐する。たとえ、暴徒の群れに加わる者がいたとしても、重要な正門を空にするわけがない。
強行突破をはかるアイラたちにしてみれば、衛士の不在は願ってもないことだが、この静けさは、むしろ警戒感を呼び覚まされた。
「――と、とにかく、近づいてみようじゃないか。ぐずぐずして暴徒たちに追いつかれでもしたら、よけい面倒なことになるよ」
アイラは馬の腹を軽く蹴《け》った。
黒馬がゆっくりと門に向かって歩き出し、ガルーとティアを乗せた栗毛馬が、勝手にその後ろについていく。
アイラは五官を研ぎ澄まして、門の様子をうかがう。
今のところ、特別な動きは感じられない。だが、体はなにかを予感して、冷たい汗がにじみ出し、全身の筋肉が緊張する。
塀の外から、時ならぬ風が吹いてきた。
アイラの形のよい鼻がクンと動き、風に混じった匂《にお》いに、さっと顔を青ざめさせる。
思わずアイラは振り向いた。
ガルーが強《こわ》ばった顔でうなずく。
間違いない。これは血の匂い――それも今しがた流されたばかりと思われる新鮮なものだ。
――ドン
いきなり近くになにかが落ちてきた。
鞠《まり》に似たものだが、まるで弾まず、その場でごろりと転がった。
「――!」
アイラは正体を知り、息を飲んだ。
それは恐怖の形相《ぎょうそう》を刻みつけた生首だった。
「……ククククククク」
門の上から男の笑い声が上がる。
ガルーはその響きに聞き覚えがあった。
「ま、まさか――おまえは!」
見張り台の上にゆらりと影が動く。
「待ちかねたぞ……狂おしいほどにな……」
人影が頭から身を投げた。外套《がいとう》をはためかせて真っ逆さまに落ち、地上すれすれでひょいと回転して足から降り立つ。あれだけの高さにも拘《かかわ》らず、着地の音はほとんど上がらない。猫科の動物を思わせる動きだ。
男は、黒い外套を全身にまとっている。目深《まぶか》に頭巾《ずきん》を被り、顔は見えない。
ヨシュアの命を狙《ねら》った、二人組の殺し屋の装束と同じだ。そして、外套は濡《ぬ》れたように光り、裾からはポタポタと赤い血が滴り落ちている。
「……やはり、生きていたか……」
ガルーが震える声でいった。
「……当然ではないか。貴様が生きているのだ。俺だけが死んでは、不公平というものだろう」
そして黒装束の男は、馬上のアイラに視線を移す。その瞬間、彼女は悪寒《おかん》を覚え、身を震わせた。
「……おまえがアイラだな。我が兄弟バルドを屠《ほふ》った踊り娘《こ》……逢《あ》いたかった……まるで、そう……恋い焦がれるような気分だった」
そういって男は、陰湿な笑い声を洩《も》らす。
「あ、あんた――」
その時、アイラの耳は、遠くから聞こえる喚声を捉えた。
「――あんた、ガルーと戦った〈豹《ひょう》〉だね」
「その通り、パイジャ……それが俺に与えられた名だ」
「なにを考えて、あたしらの前に現われたか、察しはつくよ。けどね、今は悠長にお喋《しゃべ》りしている暇はないんだ。さっさとケリをつけようじゃないか」
アイラはオリハルコンの細剣を抜いた。
だが、パイジャは身構えもせず、のんびりした口調で、
「そう慌てる必要はない。時間はあるのだ。たっぷりとな……」
アイラが右手の方向、厩舎《きゅうしゃ》と鍛冶場《かじば》の先を指差す。おびただしい数の男たちが武器を手にして、この正門を目指していた。
「あれが見えないの。暴徒どもが押し寄せてきてるのよ。狙《ねら》いはあたしらだけどね。獣人と知られれば、あんただって狩られる側に回るのよ」
パイジャは頭巾《ずきん》の下で鼻を鳴らす。
「〈使徒〉たる俺が、あのような下賤《げせん》な者どもの手にかかると思うか……だがまあ、目障《めざわ》りな虫けらには違いない」
そう呟《つぶや》くやいなや、暴徒が迫り来る方向から度胆を抜く閃光と爆発音が生じる。
アイラとガルーは見た――激しい火炎が湧き上がり、男たちが炎に巻かれてのたうち回っている光景を。
「……いっただろう、時間はあると。虫けらどもに、俺の楽しみを邪魔させはしない」
といって、パイジャは笑い声を上げる。耳にした者をぞっとさせずにはおかない、陰惨な響きだ。
アイラは覚悟を決めた。
鞍《くら》にうつろな表情のヨシュアを残し、ひらりと地面に降りる。
「――待て、俺がやる」
血相を変えてガルーが叫ぶ。
「無理よ、その傷じゃ!」
アイラは、敵を正面に見据えたままいい返した。
「……別に順番はこだわらん。どのみち行き先は一緒だ。少しばかり早いか遅いかだけの違いよ。なんなら、まとめてかかってきたって構わないぞ」
と、パイジャは強い自信を覗《のぞ》かせた。
暴徒に追いまくられ、ふたりは身も心も疲れ果てている。特にガルーは足の傷に加え、武器を失っていた。短銃が一丁残っているが、弾数はわずかに三発。それも獣人相手には通用しないことがわかっている。
錬金術師デルの策が、すべて思惑通りに運んだといえる。
「――とにかく、あたしが相手をする。いいわね」
アイラは、ガルーとパイジャ両方に向けていった。その気迫に呼応して、オリハルコンの剣が輝きを増す。
今は剣の威力に賭《か》けるしかない――と、ガルーも認めざるを得なかった。もちろん、アイラの身に万が一のことがあれば、かなわぬまでも一矢《いっし》報いる覚悟だった。
パイジャが、頭巾《ずきん》ごと外套《がいとう》を体から取り払った。
包帯はすでにない。胸の傷はほとんど痕跡《こんせき》をとどめていないし、摘出されたはずの右の眼球も、白濁してはいるが眼窩《がんか》を埋めていた。
正門を守っていた三〇人あまりの衛士たちの生血を啜《すす》ることで、再生を速めたのだ。
それよりも、アイラたちの視線は、パイジャの黒い右腕に注がれる。部分獣化も目を引くが、そこに装着された三本|爪《づめ》の熊手《くまで》に違和感を覚えた。
「これか?」
視線に気づいて、パイジャは右腕を上げる。
「フフフ……無様《ぶざま》な代物《しろもの》だが、その剣に対抗するには……まあよいわ。すぐにわかることだな」
パイジャの左目がすぼまり、ぎらぎらと殺戮《さつりく》の輝きを帯びた。
――来る!
身の裡《うち》を貫く殺気に反応し、アイラは咄嗟《とっさ》に身構えた。
まさに獣が牙《きば》を剥《む》くように、パイジャは前触れもなく襲いかかった。
瞬時に間合いを詰め、稲妻のごとき速さで熊手を繰り出す。攻撃を予測していたアイラでも、三本爪を避けるのがやっとだった。
それほどに〈豹〉の動きは疾《はや》かった。前に戦った〈虎〉など比べものにならない。
数箇所浅い傷を負わされた後、アイラは思い切って横っ飛びする。反撃に転じる間合いを得るためだ。
だが、パイジャがそうはさせじと追いすがる。息もつかせぬ連続攻撃に、アイラはたじたじになる。
「それそれ、どうした。このような腕で、本当にバルドを倒せたのか」
パイジャは嬲《なぶ》るようにいった。
その言葉にアイラは体内の血液を熱くする。
星屑《ほしくず》の煌《きら》めきがパイジャの横腹を薙《な》ぐ。
さしものパイジャも、大きく後ろに飛びずさる。
――しめた!
ようやく訪れた反撃の機会に、アイラはすかさず剣を振りかぶり、地を蹴《け》って突進する。熊手《くまで》で受け止めようと、爪《つめ》ごと切り裂く気で、すべての力を剣に注ぎ込む。
「イヤァァァァァァ!」
裂帛《れっぱく》の気合いとともに、相手の脳天目がけて輝く剣を振り下ろす。
それこそ、パイジャの思う壷《つぼ》だった。
大気を震わす衝撃波を伴う閃光《せんこう》が生じる。〈虎〉のバルドの上半身を瞬時に消滅させた破壊力が、今また吹き出したのだ。
だが、その閃光の中心で、ガキッと金属がぶつかり合う耳障りな音が響いていた。
ガルーは網膜を焼かれるような目の痛みに呻《うめ》いていた。鳥舟の中でオリハルコンの輝きを目の当たりにしていたが、今度のはさらに凄《すさま》じい。鋼の熊手ごとき、楽々と叩《たた》き折っていると確信した。
しかし――
視力が回復して見た光景は、確信を見事に覆すものだった。
オリハルコンの剣が、熊手の三本爪に受け止められていた。
アイラの顔が驚愕《きょうがく》に歪《ゆが》み、それとは対照的に、パイジャは勝ち誇った笑みを薄い唇に上らせていた。
剣身は力なく明滅を繰り返し、次第に輝きを弱めていく。
パイジャは楽々と剣を押し戻し、空いた左手でアイラの頬《ほお》を張り飛ばした。
「――きゃっ」
アイラは悲鳴を上げて転がった。
手を離れた剣が宙を舞って、切っ先を地面に突き立てる。
パイジャは高らかに嘲笑《ちょうしょう》を上げた。
「こうも思い通りに、ことが運ぶとはな」
「ど、どういうこと――」
アイラが身を起こし、憎しみのこもった目で睨《にら》みつける。
「フフフ……まだわからんのか。俺たち[#「俺たち」に丸傍点]が唯一恐れていたのは、その異人の剣よ。バルドが身をもって威力を教えてくれたのだからな。だが、オリハルコンとやらにも欠点があると知っていた。渾身《こんしん》の一撃を行うとすべての力を失い、使えるようになるまで、かなりの時間がかかるということだ。これこの通りな……」
地面に立った細剣は、すでに輝きが消え、白く濁っていた。
「そして、さらには剣の使い手も力を奪われ、ろくに動けなくなる。それ、今のおまえがそうだ」
「ふざけんじゃないよ。あたしはまだ――」
アイラは強がって立ち上がろうとしたが、途端にひどい脱力感が襲いかかり、また膝《ひざ》をつけた。
パイジャは嘲笑《あざわら》うような目で、アイラを見降ろした。
「この熊手は、まさにこのためにだけ用意したものだ。聞くところによれば、わが組織が、近頃うるさく探りにきた異人たちに備え、古《いにしえ》の書物を見て作ったものだそうだ。もともと、アトランティスもムウも、〈古エルマナ〉の学問を元に文明を築いたというからな。当然、打ち負かす手立ても、こちらにはある」
「くっ……」
アイラは歯を噛《か》み締め、石畳に爪を立てた。まんまと策に乗せられた自分が情けなかったのだ。
「もう、こんな不粋《ぶすい》なものはいらん」
パイジャは熊手を投げ捨て、鉤爪《かぎづめ》が伸びた毛むくじゃらの腕を出した。
「おまえらは、この爪で喉笛《のどぶえ》を斬《き》り裂き、息の根を止めてやる。断っておくが、ひと思いに死ねると期待するな。バルドの無念、俺が受けた屈辱を晴らすには、それ相応の苦痛の叫びを聞かせてもらわねばな……」
残虐な笑みを浮かべて、パイジャは足を前に踏み出した。
ガガガーン!
続けざまに銃声が鳴り響き、パイジャの頭、胸、腹に灼熱《しゃくねつ》の鉛玉がめり込む。
ガルーの手に握られた短銃が、火を噴いたのだ。
だが――
ゆっくりとパイジャは頭《こうべ》を巡らせる。
「……まだ、貴様の番は来てないぞ」
パイジャの口が開き、豹《ひょう》の雄叫《おたけ》びを放つ。
怯《おび》えた栗毛馬が、前足を高々と上げて、背に乗せたガルーとティアを振り落す。
ガルーは受け身もできず、肩から地面に落ちた。
呻《うめ》きを上げるガルーの眼前で、ひしゃげた鉛玉がひとつ、またひとつと落ちていく。顔を起こすと、弾丸が当たった箇所は小さな穴が開いているだけで、ろくに出血もしていない。その上、穴も見る間に塞《ふさ》がっていく。驚くべき再生力だ。しかも、パイジャは獣人体ではないのだ。
「〈使徒〉といっても、力の差は歴然としているのだ。このような策を弄《ろう》する必要もないほどにな……」
いきなり、ガルーは立ち上がりパイジャに掴《つか》みかかろうとした。
だが、パイジャは顔面に迫った手を、眉《まゆ》ひとつ動かさずによけ、黒い拳《こぶし》をガルーの腹に叩《たた》き込んだ。
「があああああああ……」
ガルーは体をくの字に曲げて呻《うめ》きを上げる。血の混じった胃液を戻し、その上でのたうち回った。
「しばらく、大人《おとな》しくしていろ。貴様は女の後だ……」
パイジャは唾《つば》をガルーの頭に吐き飛ばし、アイラのほうに体の向きを変える。
「女……どうだ、命ごいをしてみないか。気が向けば助けてやらんこともないぞ。俺は気が強い女が好きだ。まして、おまえのように美しければ、生かす価値はある」
アイラは火を宿したような目で睨《にら》みつける。
「はん、端《はな》から助ける気もない癖に。望みがあるように思わせてから、ガブッて腹だろ。まったく、陰険で腹黒い奴《やつ》が考えそうなこった」
「ククク……思った通り申し分ない女だ。お陰で楽しましてくれそうだな。今までの女は、軽く爪を立てただけで、気絶してしまい、もの足りなかったのだ」
そういって、パイジャは舌嘗《したな》めずりするような目で見た。
さすがのアイラも顔を背けた。
「……さて、どこから料理するかな……まず、その艶《つや》やかな足の皮を剥《は》ぎ、肉を食らってやろうか……どんな声を上げるか、楽しみだ……」
パイジャはずいとアイラににじり寄った。
その時だ――!
背後から突然、銀色の光が湧《わ》き上がる。
「あ……ああ……」
正面に光を見るアイラが驚愕《きょうがく》に目を見開く。
ぎょっとして、パイジャは振り返った。
「――――!」
その光は、黒馬に乗るヨシュアの髪から発したものだ。
少年の長い髪は、あたかも水面《みなも》を漂うがごとく宙に浮かび、ゆらゆらと揺れている。
不思議な輝きだ。決して目を刺すような強い光ではないのに、それを浴びたものは一切の色を失い、白と黒の明暗だけに変わってしまう。
少年の双眸《そうぼう》は、意志のない者のごとく、うつろのままだった。だが、ただひとりパイジャを捉えて離れることがない。
パイジャはよろよろと後ずさりした。
まともな左目は、恐怖に瞳孔《どうこう》が開き、口は声にならない呻《うめ》きを発し続けた。
背が正門の大扉についた。これ以上下がりようがない。
右腕の黒い毛が這《は》い伝い、体が獣人化していく。
ひと際、ヨシュアの髪が輝きを増した。
大扉の強固な閂《かんぬき》が裂け、観音開きの扉が突風を受けたように、勢いよく外側に開け放たれた。
[#挿絵(img/02_255.jpg)入る]
その瞬間、パイジャは人のものとは思えぬ叫びを上げて、暗い森に向かって駆け出していった。
ヨシュアの唇がかすかに微笑《ほほえ》みを作る。
すると、垂れ下がってきた瞼《まぶた》が、うつろな瞳《ひとみ》を覆い、少年は体をゆっくりと前に倒していく。それとともに浮き上がっていた髪も輝きを弱め、だんだんと降りてきた。
ふいに蝋燭《ろうそく》の火を吹き消したように、光が途絶え、少年の上半身もばたりと鞍《くら》の上に倒れた。
「坊や――!」
アイラは呪縛《じゅばく》から解かれたように起き上がると、黒馬に向かって駆け寄った。
ヨシュアは完全に意識を失い、深い眠りについていた。
『アイラよ――』
頭の中に〈声〉が鳴り響く。
振り返ると、開け放たれた正門の外に、純白の獅子《しし》がいた。
獅子の表情など見た目でわかるものではないが、アイラはその聡明《そうめい》な光を浮かべるふたつの瞳に、常ならぬ深い哀《かな》しみの色を見出した。
「……まずは五分の成功と見るべきか」
正門前の広場を一望できる櫓《やぐら》の上で、錬金術師デルが呟《つぶや》いた。
「破壊的ではないにしろ、〈力〉の一端を示し、髪は銀色に輝いた……だが、踊り娘《こ》だけでは無理かも知れぬ……今ひとつ決め手を欠くようだ……ならば……やはり……あれか」
デルは再び望遠鏡を覗《のぞ》き込む。そして、ガルー、ティア、獅子、アイラと対象を変え、最後に黒馬エディラを捉えて止まった。
※     ※
遠くダスターニャの町を離れた森の中で、パイジャはようやく足を止め、荒い息を吐いた。
どこをどう走ってきたか、彼には記憶がなかった。
いや、それどころか、なぜ無我夢中で森の中を駆け続けてきたのかわからなかった。
なにか、とてつもなく恐ろしいものに遭遇し、そこから尻尾《しっぽ》を巻いて逃げてきたのだ――という程度のことしか思い出せない。
彼の頭は、それ以上難しいことを考えられるようにはできていなかった。
ふいに体内から欲求が湧《わ》いた。
――腹が空いた。喉《のど》もからからだ。
一度、欲求が湧くと、もはやそれ以外のことは考えられなくなった。
彼は体を起こし、獲物の匂《にお》いを求めて、鼻を蠢《うごめ》かす。
彼の鋭敏な鼻になにかを嗅《か》ぎつけた。
――人だ。人の匂いだ。それも大勢。
彼はなによりも人肉が好きだった。他の毛むくじゃらの獣より肉は柔らかく、うまい。
彼は地を蹴《け》って駆け出した。
――他の連中に先を越されてたまるか!
彼は獲物が移動していることに気づき、先回りして、待ち伏せしようと考えた。そういったことだけは考えが回るのだ。
石畳の街道に出た。
彼は街道|脇《わき》の木に上り、道の上に張り出した枝で身を伏せた。気配を隠すことは得意だ。鈍い人間どもには絶対に気づかれないだろう。道の向こうから人が歩いてきた。
彼は期待に身を震わせた。
街道をやってきたのは八人。みな黒い外套《がいとう》をまとっている。いや、行列の中央にいる者だけは青い。街道を徒歩で旅するこの奇妙な一行は、いったい何者なのか――?
もっとも、樹上の彼は疑問を抱くことはなかった。人間とて、数ある獲物のひとつに過ぎないのだから。
けれど、彼は急に不安を覚えた。
人間たちからかすかに香る匂いに、遠い記憶を呼び覚まされたからだ。
――どこかでこの匂いを……。
人間たちが立ち止まった。どうやら彼は感付かれたようだ。先頭にいる者が指差している。声が聞こえる。
「……あれは、パイジャのようです」
「……なるほど、確かにそのようだ。しかし、すっかり知性を失っている。われらのこともわからないようだ」
「……うむ、もはや使い物になりそうもないな。いかがします。放っておきますか。それとも……」
すると、列の中央にいた青き衣の者が、すいと前に進む。
列が割れて、黒衣の者たちは素速く道の両端に立ち、深々と頭を垂れる。
最後尾にいた者が列を離れ、青き衣の後ろで跪《ひざまず》く。
「……わが主、グラシアさま、危のうございます。あの者の処置は、われらにお任せいただきとう存じます」
すると、青き衣の者は玲瓏《れいろう》たる声で、
「下がれ、ヘルマーよ。変わり果てたるとは申せ、あれもわが血を分け与えし者。わが分身のひとりよ。そなたの指図は受けぬ」
「ははっ――」
男は従順に頭をさらに下げた。
青き衣の者は、ただひとり枝のそばまでくると、上に向かって白くほっそりした指先を伸ばす。
「おいで――わが子よ」
すると、木の上から一匹の黒豹《くろひょう》が幹を伝わって降りてきた。
その豹の右の目は、病気にでもかかったように瞳《ひとみ》がなく濁っていた。
青き衣の者は、豹の前でしゃがむと頭巾《ずきん》を後ろに上げ、顔と髪を表に出した。
「かわいそうに……いったい、どうしたの。誰かに苛《いじ》められたのかい」
娘の指先が顎《あご》のあたりをさすると、豹は気持ちよさそうに喉《のど》を鳴らした。
「もう大丈夫よ、これからは、わたしのそばにいなさい。もう誰もおまえを苛《いじ》めることはできないのよ」
娘の顔は、白子の少年ヨシュアに酷似していた。その蕩《とろ》けるような美しい笑みも同一のものといってよい。
ふたりの違いを上げるなら、ひとつは性別。ひとつは年齢、娘は二〇前の最も女が生命の煌《きら》めきを示す年頃だ。外套《がいとう》の下にはどれほど美しい肢体が息づいていることか。
そして、もうひとつ。彼女の頭に流れるように伝わるものは、自ら輝きを発する――黄金の髪であった。
[#改ページ]
あとがき
『アルス・マグナ』第二巻『光と闇の双生児』をお届けします。
しかしまた「タイトルにいつわりあり」になってしまった。二回連続なので、さすがに作者も担当氏も青ざめております。八月発売予定の第三巻では、このようなことにならぬよう努力します。お許しを。
(「あとがき」を先に目を通されてる方には、きっと、なんのことかチンプンカンプンでしょうが、その際は、本文をお読みになってください。よーくわかります)
さて、その理由は――
当初に上げたプロットの最後まで辿りつけない――ただそれだけです。
では、なぜそうなるか?
予定していた前半部が、思惑を越えて膨らみ、一冊分のボリュームを持ってしまうから――であります。
作者の別作品『聖刻1092シリーズ』も似たような展開で、当初上下二巻予定が外伝まで含めると全八巻(それも第一部)まで伸びましたから、まあ、予想されていたこと――といえば、それまでですが、本シリーズでは、
「同じ轍は踏むまい。すっきりまとめるぞ」
と、高言していただけに、この現実を前に動揺を禁じえません(こりゃもうマジに)。
『聖刻1092シリーズ』のあとがきでも書いたことですが、端役(脇役ではない)に徹させようと思ったキャラが、名前を与えられた途端、結構大事なキャラとなり、そう簡単に消せなくなってしまう。第一巻でいえば、御者のルーカど商人のトランのふたりですね。
で――こいつらをようやく始末したら、今度はプロットにもなかったキャラが突然現われる。今回お亡くなりになられたふたりです(本文をお読みになっていない方のために、名前は秘しましょう)。
だいたい、グリフィンにしても、〈十二使徒〉の面々も、企画時には影も形もなかったキャラです(考えてみれば、今回は一二人も、敵を描かなければならないのか……)。
これでは、物語が作者の思惑を越えて、膨らむのも無理はないでしょう。本来、キャラを出す前に、そこらもきっちり計算するのが、本当のプロなんでしょうが、わたしの場合、プロット段階でいくら煮詰めても、実際書く段になると、なにもかもふっ飛んでしまうようです。これはもう能力というより、性格ではないか――と、最近は思うようになりました。
まあ、なにはともあれ、船は岸壁を離れてしまったわけで、作者としては、早く大海原に出ることを願いつつ、書き続けるしかないようです。
私信/小林智美さまへ
二月いっぱいで原稿を上げる、などと大見栄切ってこのザマです。スケジュールを狂わしてしまって、本当に御免なさい。三巻はなんとか巻き上げますんで、次回もよろしくお願いします。
三巻のカバーは、是非グリフィンさんかグラシアさんを!
追伸、一/二月二九日、名古屋市星野書店近鉄店さんで、スニーカーフェアサイン会が催され、小林智美さんとともに、わずかな時間でしたが、読者の皆様と交流ができました。ご参加いただきましたファンのみなさま、また星野書店のみなさま、ありがとうございました。
追伸、二/サイン会の会場でも尋ねられましたが、あっち[#「あっち」に丸傍点]のシリーズも決して忘れておりません。こっちの三巻目が終わったところで、すぐにも取りかかるつもりです。第三部まで構成と設定は組み上がっているんですけどね……ああ、自分の筆の遅さに腹が立つ。
[#地から1字上げ]一九九二年四月二九日 仕事場にて
[#地から1字上げ]千葉 暁
[#改ページ]
巻末付録
鳥舟
樹海の町
[#挿絵(img/02_269-268.jpg)入る]
[#挿絵(img/02_271-270.jpg)入る]
底本
角川スニーカー文庫
光《ひかり》と闇《やみ》の双生児《そうせいじ》 アルス・マグナ2
著者 千葉暁《ちばさとし》&伸童舎《しんどうしゃ》チームA.M.
平成四年六月一日  初版発行
発行者――角川春樹
発行所――株式会社 角川書店
[#地付き]2008年8月1日作成 hj
[#改ページ]
修正
《→ 〈
》→ 〉
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94