白き魔王
アルスマグナ1 大いなる秘法
千葉暁&伸童舎チームA.M.
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)千葉《ちば》 暁《さとし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)王者|獣人《ヴィージャ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)奴ら[#「奴ら」に丸傍点]
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〈カバー〉
千葉《ちば》 暁《さとし》
●略歴=一九六〇年一月五日、東京都に生まれる。山羊座。血液型B。法政大学中退。雑誌編集ディレクター、ゲーム・デザイナーなどを経て、「聖刻1092 旋風の狩猟機」(朝日ソノラマ刊)で作家デビュー。女性読者獲得の願いを秘めて、「アルス・マグナ」に挑む。
白き魔王 アルス・マグナ1
隊商の馬車に交じって旅する踊《おど》り娘《こ》のアイラは、樹海の深奥で一人の少年を救った。意識もないままに馬の背に結ばれ、危険に満ちた密林を彷徨《さまよ》っていたのだ。隊商の一行は不吉の証《あかし》と忌《い》み嫌う。だが、少年は限りなく純白で美しかった。不思議な愛情と使命感を覚《おぼ》えたアイラは、すべてを擲《なげう》って彼を護ろうと決意した。何故《なにゆえ》か、狂暴な狼の群、そして森の王者|獣人《ヴィージャ》が少年を襲う。背後には妖しい錬金術師の影が……。少年に宿る奇跡の力[#「奇跡の力」に丸傍点]とは何か? アイラと少年の危機に白き獅子[#「白き獅子」に丸傍点]の咆哮《ほうこう》が谺《こだま》する!
謎に満ちた樹海の大地に新たなる物語《ドラマ》の幕が開く。冒険ファンタジー第一弾!
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白き魔王
アルスマグナ1 大いなる秘法
[#地付き]千葉暁&伸童舎チームA.M.
[#地から1字上げ]角川文庫
目次
第一章 逢魔《おうま》街道
第二章 白き獅子《しし》
第三章 樹海の町
第四章 剣《つるぎ》の舞
あとがき
企画・原案 千葉暁&伸童舎チームA.M.
・
構成・文 千葉暁
構成協力 井上徹・渡辺利浩
地図作図・小道具設定 シイバケンジ
ロゴ・本文デザイン しいばみつお
制作進行 清水章一
プロデューサー 野崎欣宏
――――――――――――
キャラクターデザイン
口絵・本文イラスト 小林智美
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序
ここに一枚の古惚けた地図がある。
『フィナウスの南極地図』――一五三二年にオロンチー・フィナウスによって作製された南極大陸の地図である。
キャプテン・クックによる南極航海が一七七五年、海岸線の地図の製作が行われたのは一九世紀に入ってのことであるから、現実にはありえないもの、あるいは想像の産物ということになる。
しかし、大陸の輪郭が実際の陸地とあまりにも似ている。
偶然の一致であろうか?
それとも一六世紀以前に、船乗りたちは大海を渡り、南の果ての大陸に足跡を記していたのだろうか?
フィナウスの南極には山脈や河川、峡湾が記されている。ご存知の通り、一面氷で覆われた大陸に川があるわけがない。ひとつ可能性があるとすれば、この地図は一六世紀当時の南極ではなく、はるか昔――氷に閉ざされる以前の姿ではないかということだ。
あながち荒唐無稽とはいえない。
かつて、南極が緑の大地であったことは、氷の下から石炭層が発見され明らかになっている。
地軸や磁極は、決して固定されたものではない。これまで数万年の周期で大きな変動を迎え、現在もまた、わずかずつではあるが毎年ずれを生じているのだ。
悠久の昔からそびえたっていたかに思える両極の氷山郡も、三八億年間の地球史から見ればごく最近――およそ一万年前に形成されたものといわれる。いやそれどころか、変動によって氷河期が誘発されたのだという説があるくらいだ。
少なくとも石炭層が作られた二億年前、南の極点は今とはまったく別の場所にあったことは間違いない。
さて――
ギリシャ、ローマ時代の学者は南半球に広大な、北半球の諸大陸に匹敵する大地があると信じていた。
この『知られざる南大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)』は果たしてどのような知識に立脚して想定されたものなのだろうか?
中世の船乗りたちは、驚くほど正確な海図を用いていたという。中には大航海時代の到来により初めて発見された大陸や島までが記されているものも確認されている。
これらの地図は、古くから伝わる地図の模写であった。地中海文明華やかなりし頃作られたアレクサンドリア大図書館には、こういった古代から受け継がれた地図が多数保管されていたという。フィナウスの地図もその一枚であったと思われる。
では、地図の原本を過去に求めるとするならば、氷に閉ざされる以前――少なく見積もっても一万年以上――の南極に誰かが赴き、その知識を後世に残したということになるのだが……。
一万年前といえば、人類がようやく農耕と牧畜を始めた頃、いわゆる『超古代』に属する時代であり、そして古代のギリシャの賢人プラトンが書き記したアトランティス文明があった頃である。
果たして、アトランティスやムウが実在したか、という問題はさておき、およそ五〇〇〇年前と我々が考える文明発祥以前に、汎地球規模で存在した『超古代文明』を想定する者は少なくない。
世界各地に伝わる神話や文字の共通性、突出した高度な天文知識や学問体系、また驚くほど古い地層から発見される合金……これらの謎を解くためには、知られざる文明を認めなければならないのだ。
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【第一章 逢魔《おうま》街道】
1
密林に雨が降っていた。
天を覆《おお》い尽《つ》くす厚き雲は、ここ数日にわたり切れ間すら覗《のぞ》かせない。おかげで昼間だというのに、地上の緑はすっかり色彩《しきさい》を失い、墨《すみ》の濃淡だけで描かれた陰鬱《いんうつ》な世界と化していた。
空から見ると、真っ黒に塗《ぬ》り潰《つぶ》されたような密林の帯が、地平線の彼方《かなた》まで続き、まるで果てというものがない。そう、事実樹海はこの大地すべてに広がっていたのだ。
ガラガラと車輪が鳴る音が聞える。
耳を澄ませば馬の蹄鉄《ていてつ》の響き、そして歩みと共に奏でられる馬具の音色が混じっていた。馬車――それも複数の馬を連ねた大仕立てのもののようであった。
樹海の間を縫うように古い石畳《いしだたみ》の道が走っていた。ただし空からは見えない。道の両端にびっしりと隙間なく立ち並ぶ巨大な樹木が遥か頭上で枝葉を伸ばし、厚い天井《てんじょう》を作っているからだ。
おかげで、晴れた日中でも薄暗く、このどんよりした雨天では、夕闇《ゆうやみ》にいるがごとくであった。
しかも、密林の天井は雨のしずくまで防いでくれるわけではない。そのため馬も、それに曳《ひ》かれた車体も、冷たい雨に打たれて走るのだった。
「――火だ。火に当たらせてくれ」
乾《かわ》いた毛布に身を包んだ男が、荷が山と積まれた狭苦しい室内に転がりこんできた。髪《かみ》はびしょ濡れ、顔は血の気を失い、蒼白《そうはく》になっていた。
樽状《たるじょう》の暖炉《だんろ》の回りに陣取《じんど》っていた男たちは、ぶつぶつ文句をこぼしながらも、交代で休みにきた若い御者《ぎょしゃ》に隙間《すきま》を作ってやった。
濡れた衣服を床《ゆか》に脱《ぬ》ぎ捨て、毛布を身にまとった御者は、歯を打ち鳴らしながら、火掻《ひか》き棒で暖炉の蓋《ふた》を開いた。
「これで燃えているのかよ。もっと薪《まき》をくべてくれ。ちィとも暖まりゃしねえ」
すると、途端に激《はげ》しい煙《けむり》が吹き出し、慌てて閉めた。
「ちっ、生木じゃねえか」
「我慢《がまん》しな、ルーカ。乾いた薪は節約しねえとな。まったくこの長雨にはまいるぜ」
車座になった男たちのひとりが、忌々《いまいま》しそうにいった。
「悪いことばかりでもねえさ。雨の間は奴ら[#「奴ら」に丸傍点]もおとなしくしている。いっそのこと、次の町に着くまで続いてくれればいい、とさえ思うぜ」
これは別の男だ。座の半分が「まったくだ」とうなずく。
御者のルーカが大きなくしゃみを上げた。
「冗談じゃねえ。あんたら用心棒は楽ができるだろうが、俺ら御者は雨ン中だろうと、外に出なきゃなんねえ。このうえ雨が続いたら肺病になっちまわァ」
憤慨《ふんがい》するルーカに瓶《びん》が突《つ》きつけられた。
「やりな。こんな時は腹からあっためるこった」
酒のようだ。ルーカはひったくるように取り、瓶に直接口をつけ、ぐいっと呷《あお》る。透明な液体の中に勢いよく泡《あわ》が湧《わ》く。だが、飲み込んだ酒が胃に届くやいなや、目を見開き、むせたように咳《せ》き込んだ。
男たちは腹を抱《かか》えて笑った。
「こ、こりゃ〈火酒《サラマンドラ》〉かよ」
「どうだ、きくだろう。前の町で錬金術師《れんきんじゅつし》に分けてもらった特別製よ。もっとも味のほうはいただけねえがな」
酒瓶《さかびん》を渡した男が、口元をにやにやさせながらいった。
「そりゃねえ。三口飲んだらやべえってしろもんだぜ。おつむの血管が切れたらどうするんだ」
「続けて三口も飲めるような豪傑《ごうけつ》はそうそういねえ。てめえだって、一口でむせたじゃねえか」
若い御者は苦虫を噛《か》んだような顔で瓶を突っ返した。もっとも怒ったせいか、はたまた強烈な蒸留酒のおかげか、紙のように白かった顔に血の気が戻っていた。
「人心地ついたといいてえところだが、手足の凍《こご》えが取れねえ……肌《はだ》であっためてもらうのが一番かな」
なにを思いついたのか、ルーカの顔に好色な笑みが浮かんだ。そして、車座から離《はな》れた荷物の向こうに声をかける。
「――姐《ねえ》さん、頼まれてくんねえか。二時間も雨に打たれ続けた御者を哀《あわ》れと思うならよ」
所狭《ところせま》しと積まれた荷の奥《おく》に、まるで男たちの目を避《さ》けるように、ひとりの女がうずくまっていた。
齡《よわい》の頃は二七、八。顔は目尻《めじり》の皺《しわ》や血色の悪さを誤魔化《ごまか》すための厚い化粧《けしょう》を施し、寒さをしのぐために巻きつけた毛布から覗《のぞ》く胸元は、痛々しいほどに肉が削《そ》げ落ちていた。
「よせよせ、〈踊《おど》り娘《こ》アイラ〉は昔っから男嫌《おとこぎら》いで有名だ。金をいくら積もうが指一本触れさせたことがねえってな。ま、もっともそいつはトウが立つ前の話で、今じゃ声もかからねえだろうがな」
女は薄い唇をぎりりと結び、男たちの野卑《やひ》な笑いを黙殺《もくさつ》した。
だが、ルーカはものともせず、猫撫《ねこな》で声を上げ、よつんばいになって、踊り娘にすり寄っていった。
その手がまさに届こうかという時、踊り娘は、突然激したように立ち上がった。
「気易く触《さわ》るんじゃないよ、このスケベ野郎が!」
女ははだしの足で伸《の》ばされた御者の手を蹴り払った。
束《つか》の間、男は何が起きたかわからず惚《ほう》けた顔を浮かべたが、背後でどっと笑い声が上がると、朱《しゅ》が差したように赤くなった。
「なにしやがる!」
ルーカは怒気《どき》を帯びた声を張り上げたが、女は怯《ひる》みもしない。ドンと床《ゆか》を踏《ふ》み鳴らし、威勢《いせい》よく啖呵《たんか》を切った。
「はばかりながらこのアイラさまは、街道一と謳《うた》われた舞《ま》い手さあね。わずかの銭金《ぜにかね》で情を切り売りするそこいらの娼婦《しょうふ》と、一緒《いっしょ》にしてもらいたかないね」
相手の思わぬ激《はげ》しさに、若い御者は度胆《どぎも》を抜かれたようだ。だが、ここで引き下がっては物笑いの種になる――とばかりに拳《こぶし》を振《ふ》り上げた。
「すべたが、お高く止まるんじゃねえ!」
その時、男たちがなだめ、力ずくで引きずり戻さなければ、大変な騒動になったことだろう。とにかく、ルーカの面目は最低限のところで保たれ、暴力|沙汰《ざた》まで至らずに済んだ。
しかし、踊《おど》り娘《こ》に無礼を詫《わ》びる者は誰もいなかった。
アイラは元の場所に座ると、嫌な臭いのする薄っぺらな毛布を再び体に巻きつけた。溜息《ためいき》をひとつ漏《もら》した途端、寒気と疲れがどっとのしかかってくる。
――また、熱が出たみたい。
彼女はぐったりと額を膝頭《ひざがしら》の上に乗せた。
暖炉《だんろ》を占領した連中は、次に立ち寄る町ダスターニャの話に花を咲かせている。どこそこの酒場の女は若くて美人だとか、あそこの娼婦館《しょうふかん》にはいささか年増《としま》だが、えらく胸がでかい女がいる、といったたぐいの猥談《わいだん》だ。
当てこすられている、とアイラは思った。だが、悔《くや》しいと思う前に情けなさが先に立ち、目頭《めがしら》が熱くなってくる。
彼らがいうように、街道一の呼び声も高かったのは過去の話。女盛《おんなざか》りを過ぎると、年を重ねるごとに人気《にんき》も衰え、今では場末の酒場で踊らせてもらうのがやっとという有様だった。おまけに一年前から胸の病に取りつかれ、激しい舞《ま》いは息が続かなくなっている。
――もう永くはないかも。
アイラは瑞々《みずみず》しさを失い、痩《や》せ細った自分の指を見てそう思った。
踊っては熱を出し、少しでもよくなると床《ゆか》からはい出し舞台に上る。そんなことを繰り返していれば、治るものも治らない。あたりまえの理屈であったが、寝ていたらすぐに日干しになってしまう。踊《おど》り娘《こ》の代えなどいくらでもいるのだ。
『踊り娘は死ぬまで舞台で踊るのさ』
亡くなった師匠《ししょう》の口癖《くちぐせ》を、このところよく思い出す。
四〇を過ぎて、客の罵声《ばせい》を浴びながらも踊り続けたその女は、言葉通り舞台で血をまき散らして息絶えた。幼かったアイラは、師匠の気持ちがどうにも理解できなかった。
けれど今は違う。誰にも看取《みと》られず寝台でひっそり死ぬより、華々《はなばな》しく舞台で散るほうがどれほどましだろうか。
――そんな弱気なことじゃ駄目よ。
アイラは己を叱咤《しった》し、妄想《もうそう》めいた考えを頭から振り払おうとした。
病によって蝕《むしば》まれていく肉体であったが、生への執着《しゅうちゃく》は捨て難い。盛りが過ぎたことは認めねばならないが、花を咲かせる機会が二度と訪れない、と誰がいい切れるのだ。
「大丈夫ですか……お加減が悪いように見受けられますが」
ふいにかけられた声に、アイラはもの想いから解き放たれた。
顔を上げると目の前に、分厚い眼鏡《めがね》をかけた貧相な顔があった。レンズの奥でおどおどした目が、じっとこちらを覗《のぞ》き込んでいる。
このひどく痩《や》せた男は、同じ馬車に乗り合わせた客だった。
――名を確か……ガルー……ガルー・シャンといったわね。
「……気を遣わせてすまないね。けど、なんでもないのさ。放っといてくれ」
アイラとしては努めて優しく穏《おだ》やかに、男を遠退《とおの》けようとした。だが、相手はそれを遠慮《えんりょ》と受け止めた。
「そんなことはないでしょう。さっきから震《ふる》えているじゃないですか。それに目元も厚ぼったい。熱がおありのようですね」
踊り娘はふうと溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
――どうやら、この親切なご人には、はっきりいわないとわかってくれないみたいね。
「あんた医者かい。それとも錬金術師《れんきんじゅつし》?」
「い、いえ……」
男は怪訝《けげん》な顔をした。
「わたしは公文書記官です。前にお話ししたはずですが……」
「ああ、そうだった。つまらない役所の文書を、美句美麗《びくびれい》で飾り立てる、高尚《こうしょう》なお仕事だとかいってたね」
その言葉にガルーはむっとして口をつぐむ。
「で……医者でもないあんたが、なんでお節介《せっかい》を焼くんだい。それとも、あたしの病を治す特効薬でも持ち合わせているってのかい」
アイラがじろりと睨《にら》みつけると、途端にガルーは顔をうつむかせ、しどろもどろになった。
「……下痢《げり》止めの薬ならば。わたしの持病でして……その、これがよく効くんです。さる高名な錬金術師の先生に頼んで、特別に調合していただいたもので……」
「生憎《あいにく》と、あたしゃ下痢なんぞに悩んじゃいないんだ。気持ちだけは受け取っとくから、このまま休ませておくれ」
一方的に会話を打ち切るように、アイラは再び自分の膝頭《ひざがしら》に顔を埋《う》めた。
公文書記官は諦《あきら》め切れぬ様子であったが、アイラの拒絶《きょぜつ》がことのほか強いと悟《さと》り、引き下がった。
「へへへへ、残念だったな。優男《やさおとこ》ぶったところで、その女は落ちねえだろうさ」
ルーカが声をかけてきた。
ガルーは口の中で「そんなつもりは」と呟《つぶや》いたが、あえて抗弁《こうべん》することなく、そのままアイラの向かい側の隅に引っ込んだ。
四頭立ての大型馬車が、煙突から吐き出す白煙をたなびかせて石畳《いしだたみ》の街道を進む。その後方には、もう一台同じ仕立ての馬車が続いていた。
彼らは樹海に点在する町を結ぶ駅馬車の一行であった。
基本的に町は自給自足の態勢ができているが、わずかに余剰《よじょう》物資の交易も行なわれている。町から町に運べば、結構な高値をつける。しかし、町から一歩でも出れば危険地帯であった。武装した衛士《えじ》たちに守られなければ、街道を通ることはできない。そのため一回に運べる量は限られ、よけいに高値を生む仕組みになっていた。
むろん、その理屈は乗客にも当てはまる。横にもなれない狭《せま》さと、汚ない毛布、日に二度の貧相な食事にも拘《かか》わらず、法外といってもよい運賃をふんだくられる。
おかげで、アイラは細々と蓄えていた金の大半を失った。今までいた町はどこの舞台も――場末の酒場すら――断わられ、他に移るしか手がなかったのだ。
馴染《なじ》みの酒場の亭主《ていしゅ》は、客を取れば――つまりは娼婦《しょうふ》になれば――まだまだ稼《かせ》ぐことができると忠告してくれたが、死んでもそれだけはできなかった。
芸の誇りとか、そんな高尚《こうしょう》なものではない。男と肌を合わせることが、たまらなく嫌だっただけだ。
町を移れば舞台に上れる、と決っているわけではない。彼女にとり大きな、しかも、かなり分の悪い賭《か》けであった。
雨足が強くなってきた。
御者《ぎょしゃ》台の上で濡《ぬ》れそぼっていた男は、やれやれといった様子で手綱《たづな》を引き絞《しぼ》った。
石畳《いしだたみ》の街道は、馬車同士がすれ違える充分な道幅があった。だが、くねくねと曲りくねっており、倒木《とうぼく》が道を塞《ふさ》いでいることもあり、なにが起きても危険を回避できる速度でなければならなかった。
むしろ雨の時は無意識に気が急《せ》き、速くなってしまうものだが、年配の御者は経験の上に培《つちか》った教訓に従ったのである。
ふいに、御者は馬の異常に気付いた。手綱を絞ったにも拘《かか》わらず、四頭の馬は歩速を落とそうとしない。それどころか、御者の意に逆らうように、前へ前へと突き進もうとしているではないか。
「これ、どうした」
御者は慌《あわ》てて馬を従わせようとしたが、速度は増すばかりだった。こんなことは長い御者生活で初めてだった。
四つの車輪が宙に浮かんばかりに跳《は》ね出した。このままでは車輪が壊《こわ》れるか、さもなくば角を曲り切れず木々に突っ込むか、そのどちらかだ。車体には速度を落とす制動装置がついているが、今の速さでそれを使えば横転する恐れが高い。
御者が助けを求めるように後方を振り返る。すると、後続の馬車もまた、こちらを追い抜《ぬ》かん勢いでついてくるではないか。
――ただごとじゃねえ!
御者は身の裡《うち》に冷たいものが湧き上がるのを覚えていた。
慌てたのは御者ばかりではなかった。
馬車の中にいた衛士《えじ》たちも、突然の暴走に肝《きも》を潰《つぶ》した。その上、激しい揺れによって、暖炉《だんろ》の口から燃えた薪《まき》が飛び出したものだから、室内は煙が充満し大騒動になった。
その混乱のさなか、いきなり馬車に制動がかかり、中にいた人間や荷は、進行方向に向かって投げ出された。
衛士たちは咳き込みながら、散乱した荷の下から抜け出した。
馬車は横転をまぬがれ、止まったようだ。
男たちは煙に巻かれて、雨が降りしきる外に飛び出していった。
後ろを見ると同行する馬車が止まり、わらわらと人が出てきていた。ただし、こちらは煙を吹いていない。
アイラは最後になった。
眼鏡《めがね》を失い、馬車の中で床《ゆか》を這《は》いずり回っていたガルーを、引っ張ってきたせいだ。
しかも、この男は外に出てからも、足元がおぼつかず、彼女に抱きつき、がたがたと震えていた。彼女が振り解《ほど》こうとしても決して離れない。
「しゃんとおしよ、情けない男だね」
「す、すいません。眼鏡がないとまるで見えなくて」
アイラは情け心を出したことを後悔した。そして、容赦なく振舞《ふるま》った。
勢いよく突き飛ばしたのである。非力なガルーは、いともたやすく石畳《いしだたみ》の上を転がり、全身がずぶ濡《ぬ》れになった。
だが、この滑稽《こっけい》な姿を笑う者は、誰ひとりとしていなかった。周囲にいた男たちは、別のことに心を奪われていたのである。
最初に気付いたのは、先頭の馬車を操《あやつ》っていた年配の御者《ぎょしゃ》であった。
憑《つ》きものが去ったように、馬はおとなしくなっていた。なぜ暴走したかわからないように、止まった理由もまた皆目《かいもく》見当がつかなかった。それでも、なにはともあれ命を長らえたことに、この敬虔《けいけん》な御者は神に感謝の祈《いの》りを捧《ささ》げずにいられなかった。
聖句を唱える最中、四頭の馬が一斉《いっせい》にいななきを上げた。また走り出すのではないかと心臓がビクンと跳《は》ねた。しかし、馬が鳴いたのはそれ一度きりで、後は不気味なくらい静かにしていた。
雨の音が妙にはっきり聞える。不思議な静寂《せいじゃく》があたりを支配していた。
そして、耳に伝わってきたのである――次第に近づいてくる蹄《ひづめ》の音が……。
2
雲を突くような樹林に囲まれた街道では、立てた音はみな吸収され、遠くには届かないものだ。ましてこの雨である。石畳《いしだたみ》を打ちつける雨音が強く、なにひとつ聞き取れないはずであった。
けれど駅馬車の一行は、はっきりとそれを耳にした――そう、己の心臓の高鳴りとともに。
衛士《えじ》たちは腰から短銃《たんじゅう》を引き抜き、音のする方向、すなわち前方に銃口を向けた。
この武器は正式には〈雷発銃《らいはつじゅう》〉と呼ばれ、円筒形の回転弾倉に仕込《しこ》まれた五発の鉛玉《なまりだま》を、火薬の力で撃つことができる。その威力《いりょく》たるや弓矢の比ではなかった。
だが、強力な銃をなん丁|揃《そろ》えようと、決して安心できない相手がいた。なん人もの衛士たちが乗り込んでいる理由もそこにある。
前方からやってくるそれを、男たちは息を詰《つ》めて待ち構えた。
雨の中に巨岩《きょがん》のような大きな影が見えた。衛士たちは一斉に狙いをつける。しかし、発砲は控えた。
もし、相手が想像した通りのものであったなら、姿をはっきりと捉《とら》え、その急所に弾《たま》を集中しなければ、絶対に倒せないからだ。
蹄《ひづめ》の音はゆっくりと、そして規則正しい拍子《ひょうし》を刻《きざ》んで近づいてくる。それと共に、不確かだった輪郭《りんかく》がくっきり形をなしていった。
「――馬だ」
衛士のひとりがぽつりと呟《つぶや》いた。
真っ黒な一頭の馬であった。確かに普通より一回りは大きいが、それ以外はいたって変哲《へんてつ》がない。だが、衛士たちは警戒を解かない。人も乗せず街道を堂々と往来する馬は、それだけで奇異な存在であった。
よく見れば、口輪や鞍《くら》などといった馬具の類は一切つけていない。その代りというわけではないのだろうが、大きな背に布に包まれたなにかを乗せていた。
そして、そこから生白《なまじろ》い人の足をはみ出させていた。
だが、確かめようとする者はいなかった。
黒馬は何丁もの銃を向けられながらも、歩みを止めない。銃がなんたるかを知らなくとも、殺気を感じ取っているはずだった。
その堂々たるさまに、衛士たちは気後《きおく》れを覚え、あまつさえ無意識のうちに後ずさりをし、道を開けたのである。
黒馬が立ち止まった。それもアイラとガルーの目の前で。
なぜ、ふたりは逃げようとしなかったのか。
ガルーの場合は単純である。極度の近眼のため、馬が近寄ってきたことに気づかなかっただけだ。まわりの様子がおかしいことは、気配で察してはいたが、わざわざなにが進行しているか、彼に教えようという者がいなかったのだ。
ならばアイラのほうは、といえば――実のところ、彼女も問われたところで説明に窮《きゅう》しただろう。
黒馬の穏《おだ》やかな目を見た途端、アイラは心にあった恐れが、きれいさっぱり消えていた。そればかりか、えもいわれぬ親近感が胸の奥から湧き上がり、その長く太い首に抱きつきたくなる衝動にかられたのだ。
ふいに彼女は気づいた。この黒馬が自分に救いを求めていることに。理由などない。ふと、そう思ったのだ。
心を奪われたように立ち尽くす姿は、はたから見ていて異様でさえあった。だが、彼女に周囲の注視を気にする余裕はなかった。訴《うった》えかけてくる相手の目から、その意志を汲《く》み取ろうと必死になっていたのである。
恐る恐る近寄ってきた衛士《えじ》が、頓狂《とんきょう》な声を上げた。
「こりゃ、子どもの足だぜ。子どもが乗っているんだ」
その瞬間、アイラは呪縛《じゅばく》から解放された。
「降ろしてあげて、早く」
彼女はいうが早いか、自分でさっさと馬の背に歩み寄り、包んでいたぼろ布ごと子どもを降ろしてしまった。
わらわらと男たちが集まってきた。危険がないと判断した彼らは、代わりに好奇《こうき》の目を輝《かがや》かせた。
しかし――
石畳に横たえられた布の中身が晒《さら》された時、取り囲んだ全員が、怯《おび》えを伴った驚愕《きょうがく》の声を洩《もら》した。
その子どもは美しかった。
年は一〇を越えたぐらい。肌には汚れひとつなく、赤子のような清らかさがあった。
その形容は顔にも当てはまる。大人《おとな》になる段階で誰もが欠落する、天使の美しさが見事な形で現出していた。
ただし、子どもを囲む者たちは、美しさに息を飲んだのではない。
その子どもは白かったのである。
肌の色ばかりではない。柔らかい髪も、細く薄い眉毛《まゆげ》も、閉じられた瞼《まぶた》から伸《の》びる睫毛《まつげ》すら、色素の一切を失い真っ白であった。
「し、白子《しらこ》だ……」
誰かが呻《うめ》くように呟《つぶや》いた。
その声は悪魔を目にしたかのように震えていた。災厄《さいやく》が降りかかることを恐れて、早々にまじないの言葉を唱える者もいた。荒《あら》くれ男でも迷信深い連中はいる。
「生きているのかよ……」
いかにもそれを望んでいない問いかけが、アイラの耳に届いた。
彼女は勇気を奮《ふる》い立たせ、子どもの――おそらくは少年の――肋骨《ろっこつ》が浮き上がった平《たいら》な胸に手を当てた。
ぞっとするほど冷たかった。反射的に手を引っ込めたくなる衝動《しょうどう》を押さえつけ、心臓の鼓動《こどう》を探る。だが、脈は伝わってこない。念を入れ、少年の細い首筋に手を添《そ》えるが、やはり生きている証《あかし》は感じられなかった。
「……死んでいるわ……とっくに息絶えていたのね。かわいそうに……」
その言葉を口にした時、アイラは自分が少年の死を、心から悼《いた》み、悲しんでいることに気づいた。
だが、男たちはそんな彼女の想《おも》いなど露《つゆ》とも知らず、揃って安堵《あんど》の息を深々と吐《は》いた。
[#挿絵(img/01_031.png)入る]
「やれやれ、やっかいごとをしょい込まなくてすんだぜ」
「おおよ、よりにもよって白子《しらこ》だぜ」
「たいていは、赤ん坊のうちに始末しちまうもんだが――はてさて、どうやってこの年まで生き延びてきたものやら」
「これで双子《ふたご》だったりしてみろ、母親ともども火あぶりの刑だ」
男たちは長い緊張から――実際のところ、馬が現われて数分もたっていないのだが――解き放たれた反動で舌が軽くなっていた。
「――およしよ!」
アイラがぴしゃりと叩《たた》きつけるがごとく叫んだ。
「白子だろうとなんだろうと、人ひとり、それも子どもが亡くなったんだよ。少しは口を慎んじゃどうなんだい」
男たちは呆気《あっけ》にとられた表情で、踊《おど》り娘《こ》を見つめた。火のような剣幕《けんまく》に圧倒されたというより、彼女の双眸《そうぼう》に溜まっているものが、雨のしずくか、それとも涙《なみだ》か、判断に苦しんだためだ。
「――姐《ねえ》さんのいう通りだよ」
いつの間にか、身なりのよい初老の男が人垣《ひとがき》の外に立っていた。
「こりゃ、旦那《だんな》――」
衛士《えじ》たちはいずまいを正し、揃って頭を下げた。駅馬車が次に立ち寄る町、ダスターニャの商人トランだった。彼は後ろを走っていた馬車に乗っていた。高級な乗客として遇《ぐう》され、馬車の中には簡素ながら寝台まで持ち込んでいる。
割れた人垣の間を、トランは悠然《ゆうぜん》と進み、少年の傍《かたわ》らにやってきた。
「ふむ……これが白子の子どもかい。身元を示すようなものを、身につけていたかね」
アイラが首を振った。
「かかっていた布の下は、まったくの裸なんですよ。冷たい雨に打たれ続けて……死んじまうのも無理ないわ」
「それはまた、奇妙な話だねえ……」
トランは微笑みをたたえたまま、首をかしげる。もっとも現実家の商人らしく、対処の結論も早かった。
「……死んだ子をこれ以上|詮索《せんさく》してもしかたあるまい。早く葬《ほうむ》り、この件はおしまいにしよう」
「ここに埋《う》めちまうんですか」
アイラが驚《おどろ》きの声を上げた。
「不服かね」
「町まで運んで、墓地に葬ってあげるわけにはいきませんかね。埋めたって、ここいらじゃ森の獣《けもの》が掘り返しちまいますよ。屍《しかばね》を食われた人の魂《たましい》は、悪鬼《あっき》となって甦《よみがえ》るっていうでしょ。それじゃ、あんまりこの子がかわいそうですよ」
「……あんたの気持ちも、わからんではないがね。馬車は荷でいっぱいだ。この子を乗せる余地はないだろう」
アイラは「そんなことは」といいかけるが、商人は穏やかに制した。
「……それにだよ。町まではあとなん日かかかる。時間が経てば死体も腐ってこよう。とても馬車には乗せておけないさ。だいいち他の者が納得すまいて。ただでさえ白子《しらこ》を悪魔の子と忌《い》み嫌《きら》う者は多いからの」
アイラは周囲の男たちを見た。彼らの表情は、トランの言葉を肯定するように厳しいものだった。
「…………」
踊《おど》り娘《こ》は肩を落とし、少年に向き返った。まるで、力になれなかったことを詫《わ》びるように、少年の顔をじっと見つめた。
「誰か埋葬を手伝っておやり。わしが酒手《さかて》を出してやろうじゃないか」
そういって、トランは懐《ふところ》の金袋《かねぶくろ》から銅貨を出し、手の上でジャラジャラと鳴らした。
金に惹《ひ》かれて数人が墓掘《はかほ》りをかって出た。
誰もがトランを優しく、気前のよい人物だと思った。けれど、やはり商人は商人――なんの考えもなく、金を使いはしなかった。
彼は少年を乗せてきた黒馬に目をつけていたのだ。
「――さて、こいつの扱いはどうする。どうやら持ち主のいねえ、野性馬のようだが」
墓掘りに参加しない男たちは、不吉な少年の一件を、すでに済んだものと念頭から消し去り、残された馬に群がった。
黒馬は立ち止まってからというもの、ぴくりとも動かず、いななきひとつ上げなかった。馬具どころか、蹄鉄《ていてつ》をつけていないことから野性とみなされたが、人をまったく恐れぬ様子に、男たちはいぶかしんだ。
もっとも、おとなしいからといって、手を触れる愚《おろ》か者はいない。下手《へた》にちょっかいを出せば、暴《あば》れて逃げる恐れがあったからだ。
そして、最も馬に詳《くわ》しい御者《ぎょしゃ》が前に進み出て、間近で検分を始めた。
「見事な馬体じゃ。体が大きくとも均整が取れている。肉は引き締まっておるし、毛並《けな》みもいい。ああ、こいつは牝《めす》じゃな。これなら調教を拒《こば》んでも、いい仔《こ》を孕《はら》んでくれようて」
「じゃあ、町に連れていけば金になるな」
「うむ、結構な値をつけるのは間違《まちが》いないて。こいつは馬の女王さまじゃよ」
男たちは歓声を上げた。
「これこれ、はしゃぐんじゃないよ。おまえさんたちのものじゃないだろう」
トランが穏やかにたしなめる。
「へ――?」
「この馬は、亡くなった坊《ぼう》やのものだ。違うかな」
「そりゃそうですが……でも、この通り持ち主はおっ死に、身寄りもわからねえ。ならば、発見したみんなで山分けするってえのが筋《すじ》でしょうが」
すると、商人は微笑んだ。
「身内はいるさ。このわしだよ」
男たちが唖然《あぜん》となる。
「血がつながっていようといまいと、弔《とむら》いをあげた者が身内といって差《さ》し支《つか》えあるまい。墓掘り代はわしが出した。それも、公文書記官|殿《どの》が証人だ。どこからも文句は出まい。のう、ガルー殿――」
いきなり名指しを受け、ガルーは仰天《ぎょうてん》した。眼鏡《めがね》はないが、衛士《えじ》たちが憎《にく》しみを込めて睨んでいるのがわかる。「よく見えませんでした」と逃げたいところだったが、あいにく耳は人一倍よかったので、先程の商人のやりとりはしっかり聞えていた。
「――ええ、まあ、確かに。ほ、法律は、せ、専門外ですが、この場合、トランさんに理があると……」
やっとの思いでガルーは答えた。
荒《あら》くれ男どもを恐れはしたが、さりとて、町の実力者であるトランに逆らうなど論外だ。それに嘘《うそ》をついたわけではないので、良心は痛まない。
衛士たちは忌々《いまいま》しそうにガルーを睨みつけ、その場を散っていった。中には通り過ぎる際に、彼をこづいていく者もいた。
――なんで俺がみんなの恨《うら》みを買うんだ。やつあたりもいいところじゃないか、と彼は溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「これはとんだご迷惑をおかけいたしましたな、書記官殿」
いつの間にかトランが目の前にいた。近視でぼやける目にも、商人が満面に笑みを浮かべているとわかる。
「正直に答えただけです」
としか、ガルーは答えようがなかった。
「おかげさまで、あのように立派な馬が手に入りました。お礼を申し上げます」
トランが手を掴《つか》み、頭を下げた。
その時、ガルーはなにか握らされた。間違えようもない。それは金の感触だった。
「いえいえ、賄賂《わいろ》などとお考えなさらぬように。ほんの気持ちでございますとも。町でなにか困ったことが起こりましたら、お気軽にわたくしめにご相談ください。きっと、お力になりましょう」
一方的にしゃべるとトランは、足早に離れていった。御者《ぎょしゃ》に黒馬を車に繋《つな》ぐように命じるためだ。
取り残されたガルーは、しばし掌中《しょうちゅう》の貨幣をぼんやりと見つめた。
小さな銀貨であった。
ふいに屈辱《くつじょく》的な思いが込み上げ、石畳《いしだたみ》に叩《たた》きつけようとしたが、寸前で思いとどまった。
その小さな銀貨一枚が、己の一週間分の給金に相当する――そう考えた時、捨てられなくなったのだ。
「……ちくしょう」
ガルーはまわりに聞えないくらいの小さな声で呟《つぶや》いた。
街道脇に穴が掘られていく。
死んだ子どもを埋葬するためのものだ。
アイラのたっての頼みで、穴は深く掘り下げられている。できれば、獣《けもの》に掘り返されることなく、安らかに眠らせてやりたかったのだ。
穴のそばには、枝を払って作った墓標が転がっていた。アイラはそこに少年の名を刻めないことを悲しんだ。
腕の中に抱いた少年はひどく軽かった。
手足が異常に細い。これまでどんな暮しをしていたのか、と不憫《ふびん》に思えてならない。
また、彼女は少年の体から、気になるふたつの刻印を見出していた。
ひとつは左足首にくっきりと印された輪の痕《あと》である。これは、かつてこの少年が鎖《くさり》に繋がれていたことを示していた。
そして、もうひとつは背に――左の肩甲骨《けんこうこつ》の上にある癒《い》え切ってない火傷《やけど》の痕。円と五芒星《ごぼうせい》を組み合わせたその形は、明らかに人為的なものだ。
誰かが、真っ赤に焼けた印を、少年の柔肌《やわはだ》に押し当てたのである。
だが、少年の微笑むような死に顔には、悲しみも苦しみも、刻みつけられていなかった。少なくとも、安らかな死だったのだろう。
それが少年にとり、唯一の救いというべきなのだろうか。
少年の青白い頬《ほお》に、大粒の水滴が落ちた。
今も降り続く雨のしずくではなかった。アイラの流した同情の涙であった。
心の中にどこか醒《さ》めた部分があり、ひどく馬鹿げたことをしているという自覚をもたらしてくる。
――こんな子、自分に縁《えん》もゆかりもないではないか。
――子どもであっても、憎むべき男ではないのか。
けれど、そんな想いも、彼女の胸を苛《さいな》む深い悲しみを払うことはできなかった。
「終わったぞ。死体を運んできてくれ」
穴の底からはい上がってきた男が、彼女に向かって叫《さけ》んだ。
アイラは遺骸《いがい》を抱いたまま、立ち上がろうとした。
その時である――
アイラの動きが途中で凍《こお》りついた。
左|乳房《ちぶさ》の脇から、異様な感触が伝わってきたのである。
恐る恐る目を向けると、少年の手が彼女の衣服をしっかと握り締めていた。
――まさか!
アイラは少年を地面に降ろし、胸に直接耳を押し当てた。
聞き取りにくい、かすかな響きであったが、確かに心臓の鼓動を感じ取った。
少年の顔が苦しげに歪《ゆが》み、弱々しい息を吐《は》いた。そして、上下に胸が動き出す。
もはや、疑いようもなかった。
少年は生き返ったのである。
それから後が大騒ぎだった。
アイラは蘇生《そせい》した少年を馬車の中に運び込み、手当てを始めた。
驚きから醒《さ》めぬ男たちを、有無をいわさず指図し、ありったけの乾いた薪《まき》を暖炉《だんろ》に放り込ませ、湯を沸《わ》かさせた。
さらに、布をかき集めると、自ら少年の肌《はだ》をごしごしと赤くなるほど擦《こす》った。濡れた体を乾かすと同時に、冷え切った体を摩擦《まさつ》で暖めるためだった。
それが終わると、衣服を一枚残らず脱ぎ、手早く自分の体の水気を拭《ぬぐ》うと、ぐったりした少年を抱えて毛布を幾重《いくえ》にも巻きつけた。
恐ろしく少年は冷たかった。それを直《じか》に抱いたアイラの辛《つら》さは、いかばかりであったか。
だが、今の彼女は苦を苦とも感じなかった。消えかかったか細い命の灯を守ることに、全身全霊を注いでいたのだ。自分自身が病にかかっていることなど、きれいさっぱり忘れ去っていた。
しかし、芯《しん》から冷え切った少年の体は、彼女の祈《いの》りにも拘《かか》わらず、なかなか暖まってこなかった。
ふいに落ちた影にアイラは顔を上げた。
子どもを抱いた彼女を威圧するように、三人の男たちが立っていた。
アイラは眉《まゆ》をひそめて、睨みつける。
「なんか用? なにもなかったら、あっちに行ってて」
すると、真ん中にいた衛士《えじ》が、身を低くして顔を突き出した。
「あんた、その子をどうする気だい」
「どうするって? そんなわかり切ったこと、聞くんじゃないよ」
「助けるっていうのかい。そいつは白子《しらこ》だぜ――〈忌《い》むべき者〉だ」
男の背後で「そうだ」という声が上がった。目の前にいる三人の他にも、この場に詰めかけてきている者がいるようだ。
「迷信だよ、そんなこと。この子は生れつき色が白いってだけで苛《いじ》められてきたんだ。かわいそうな子なんだよ」
アイラの本能が奪われまいと、少年を強く抱き締めた。
「一度死んだ人間が息を吹き返す……それだけでも、俺たちには薄っ気味が悪いんだ」
「じゃあ、あんたら、せっかく生き返ったこの子を、殺そうっていうのかい」
「おっと、そこまではいわねえさ。白子といったって子どもを殺せば、いくら俺たちだって夢見《ゆめみ》が悪い。だがな、同じ馬車に乗り合わせるのはごめんこうむる。今すぐ、そいつを外に出してもらいてえ」
「なにいってんだい。同じことじゃないか」
男の目に剣呑《けんのん》な光が宿る。
「強情を張っていると……」
「ついでにあたしも放り出そうっていうんだろう。そんな脅《おど》しには屈《くっ》しないよ。やれるもんなら、やってみな。この子ともども、あんたら全員、末代まで祟《たた》ってやる」
アイラは歯を剥《む》き出しにして睨み返した。つい先刻まで、口をきくのも辛《つら》かったことが、嘘のように思える。体の奥底から無尽蔵《むじんぞう》に活力が湧き上がり、恐れるものなどなにもなかった。
全身からみなぎる迫力に、さしもの衛士たちも内心舌を巻いていた。
「――さて、ここで時の氏神《うじがみ》の出番かな」
そういって、馬車に乗り込んできたのは、商人のトランであった。
「旦那《だんな》、今度は口を挟《はさ》まんでくださいよ。これは俺たちの問題なんですから」
黒馬をかすめ取られたという悔《くや》しさが、衛士《えじ》たちには残っていた。素直にいうことを聞きそうもなかった。
だが、トランは柔和《にゅうわ》な顔をいささかも崩さず――
「そうはいかないね。この駅馬車が運んでいる荷は、すべてウチの店が買い上げる予定なんだ。この騒動がいつまでも収まらず、到着が遅れれば、待っているお客さまに迷惑がかかる。売り値にも影響が出ようて。それともなにかい。おまえさんが損金を保証してくれるっていうのかな。それなら、わしもおとなしく引き下がるがね」
「ま、待ってくださいよ、旦那」
慌《あわ》てて男はいった。町の実力者を怒らせることの愚かさを悟ったのである。トランがその気になれば、駅馬車の衛士ごときはいくらでも首にできる。
「口が過ぎやした。こちらからお願いしやす。旦那さんのお知恵を貸してください」
「そうかい。そういってくれると、わしも嬉《うれ》しいよ」
好々爺《こうこうや》然と商人はうなずいた。
微笑みを絶やさぬ柔和な顔が仮面であることを、居合《いあわ》せたすべての者が悟った。
「姐《ねえ》さん、あんたもいいね」
アイラは無言で首を縦に振った。
「まず、その子の容体を教えておくれ。どうだい、助かりそうなのかい」
「……わからないよ。とにかく、体が冷え切っていて、額だけ火がついたように熱いんだ」
「無理もないだろうね。この雨にどれほど打たれ続けたのか、わからないのだから。わしの見たところ、明日の朝までが山だな。それに、姐さんには気の毒だが、その様子では夜半までも保《も》ちはしないと思うね」
アイラは唇《くちびる》を噛《か》み、少年を抱く手に力を込めた。
「それでも、あんたは最後まで諦《あきら》める気はないんだろう」
アイラはあふれ出る涙を堪《こら》えて、繰り返しうなずいた。
「そこで、わしの提案だ。あんたはこの子を馬車に乗せる運賃を出すのさ。たとえ今宵《こよい》までの命としても、全額を払うんだよ。その金をみなで分配する。迷惑料としてな。どうだい。これなら、おまえさんがたも納得してくれると思うがね」
衛士《えじ》たちの雲行きが変わってきた。
欲に目がくらみはしたが、それ以上に一晩の命と耳にしたことが大きく心を動かした。
「けど、姐さんにそんな金を出せるのかよ。結構な金額だぜ」
多少血の巡りがよい男が念を入れる。
すると、アイラは脱《ぬ》ぎ捨てた衣服を引き寄せ、革の小袋《こぶくろ》を取り出した。中身を確かめるようにたなごころに乗せる。
これが彼女の全財産であった。病が癒えぬ身でこれを失えば、遠からず路頭に迷うことは必定である。
「持ってきな、泥棒《どろぼう》め――」
彼女は思いを振り捨て、衛士のひとりに袋を投げつけた。
「……金貨が三枚に、銀貨が五枚、小銀貨が四枚、銅貨がひの、ふの、み、三枚……と。足りねえな。半分にもならねえぜ、こりゃ」
だが、アイラは首をうなだれたまま、なにも答えなかった。答えようがなかったのだ。
「それで我慢《がまん》してもらう……というわけには、いかないようだね」
男たちの顔をひとわたり見渡したトランが、困り果てたように溜息《ためいき》をついた。
「俺っちは飲んでもいいぜ、金がわずかでもな」
そういい出したのは、アイラに肘鉄《ひじてつ》を食らった若い御者《ぎょしゃ》ルーカだった。
「ただし、条件があるがね。へへへ」
その脂下《やにさが》った顔を見ただけで、なにを持ち出すか、全員に察しがついた。
「けっ、スケベ野郎が。あと三日も辛抱《しんぼう》すれば、ダスターニャにつくじゃねえか。金さえあればよりどりみどりだぜ。なにを好き好んで、こんな痩《や》せぎすの大年増を――」
だが、ルーカはめげもせず、ふふんと鼻を鳴らす。
「その三日が大事よ。こんな危険な稼業《かぎょう》についてんだ。無事|辿《たど》り着く保証なんてどこにもあんめえ。生きているうちに楽しまにゃ損ってもんさね」
「ふむ、一理あるな……」
男たちの視線が毛布一枚を身にまとったアイラの体に集中した。彼女は危険を感じ、反射的に毛布の合わせ目を閉じる。その仕草に飢えた男たちはそそられるものを覚え股間《こかん》を熱くした。
「悪かねえ……」
男たちは目をぎらつかせ、含《ふく》み笑いを洩《もら》した。
アイラは全身に鳥肌《とりはだ》を浮かべた。
背筋を悪寒めいたものが、なん度もなん度も繰り返し這い上ってくる。これは理屈で割り切れる類《たぐい》のものではなかった。肉体そのものが、男に触れられることを拒絶《きょぜつ》しているのだ。
しかも、相手はひとりではない。なん人もの男の慰《なぐさ》みものになるなど、想像しただけでもおぞましかった。
身を固くするアイラの前に、トランが進み出る。彼女には同情を漂《ただよ》わせた商人の顔が、このうえなく憎らしかった。
「どうするね、姐《ねえ》さん。わしとしちゃ、とうてい勧《すす》められないが、みなの気持ちをなだめるには、他に手がないと思うね。まあ、賢明な道は、その子を諦《あきら》めることだがねえ」
――諦める?
その悪魔のささやきにも似た言葉に、アイラは心を動かされた。
やれるだけは、やったのだ――といういい訳めいた心が頭をもたげてくる。
アイラは改めてトランに顔を向けた。彼女の表情から悟ったのか、商人が訳知り顔でうなずく。
「あ……あの……」
アイラは少年を差し出そうとした。
乳房《ちぶさ》に痛みが走った。
意識も戻らぬ少年が、その細い指で彼女の胸を掴《つか》んだのだ。
埋《う》められる寸前、アイラの服を掴んだ時と同じように。
そして「助けて」とすがりつくように――。
その瞬間《しゅんかん》、彼女の心の底にある蓋《ふた》が、音を立てて開き始めた。
忘れ去っていた遠い日の記憶――珠《たま》のように愛らしい赤ん坊の顔、泣き声、乳を吸われる際のかすかな痛み――が鮮《あざ》やかに蘇《よみがえ》ってきたのである。
「あ……ああ……」
胸の奥底から湧き上がってきた熱い情愛が、雫《しずく》となって瞼《まぶた》からとめどもなく溢《あふ》れ出る。
涙にかすむ目に、呆《あき》れた顔で見つめる男たちの姿が映った。だが、どう思われようと気にも止めなかった。
アイラは今、なぜこの胸に抱いた少年を守らねばならないのか――はっきりとした理由を見出したのだから。
3
大方の予想に反して、あるいは期待を裏切って、白き少年は生き延びた。
夜を徹《てつ》しての看病が、効を奏したのである。
アイラ自身、昨夜はなん度も諦めかけた。だが、ひ弱そうに見える少年の体には、不思議な強さが秘められており、そのつど、ぎりぎりのところで保ち直してくれた。
外が白み始める頃には、触ると火傷《やけど》しそうな高熱もいく分か引き、息遣《いきづか》いもずっと穏やかになっていた。
峠《とうげ》は越えたのだ。
「あの、食事……ですが」
うとうとしていたアイラの鼻先に、でこぼこの金皿《かなざら》に盛った肉汁《にくじる》が差し出される。そのかぐわしい匂《にお》いに彼女は目覚めた。
「あ、ああ」
アイラは眠い目を擦《こす》り、ガルーの手から湯気の立ち昇る皿と固い石のような黒パンを受け取った。
「そ、そのまま……眠らせてあげたかったんですが……今は暖かい食事が、必要と思いまして……」
ガルーは機嫌をうかがうようにおどおどしていた。
すると、アイラは口はしだけで微笑む。
「いいんだよ。あんたのいう通りさ。腹が減ってしかたなかったんだよ」
それを聞いて、気弱な公文書記官は安堵《あんど》の息を洩した。同時に彼女の変化に戸惑《とまど》いもしていた。知り合って五日ほどにもなるが、笑顔を見たのは、これが初めてである。
「他の連中は?」
馬車の中を一瞥《いちべつ》したアイラが尋ねる。自分とガルー、そして傍《かたわ》らで眠り続ける白い少年の他は、誰も見当らない。
「みんな、外で食事をしています。久しぶりに雨が上がったので」
「そうかい」
それ以上、アイラは関心を示さなかった。
パンをちぎり、野菜と肉のかけらが沈んだ汁の中に浸《つ》けて食べる。パンにはカビが生えていたが、気に止める様子もない。樹海の民《たみ》が、カビごときで腹を壊《こわ》していては、生きていけない。
「食べないのかい」
アイラは食べ物を頬張《ほおば》りながら訊《き》いた。
「えっ、ええ、もう済ませました」
「……ありがとさん」
「な、なんです、やぶからぼうに」
「食事を分けてくれたんだろう。いつもより量が多いよ」
「い、いえ、その子の分を合せて、ふたり分を盛ってくれたんでしょう」
「ふん、奴らがそんな気を回すもんかい。きのうは坊やを殺そうとしたんだよ」
アイラは吐き捨てるようにいった。
「あ、あの、坊やの具合はどうです。目を覚ましましたか」
ガルーは強引に話題を転じる。
「ごらんの通りさ。一度は完全に心の臓が止まってたんだよ。そう簡単にはね」
少年はアイラの代え着をまとい、毛布にくるまって寝ていた。
少し苦しげな顔に気づき、アイラは食べる手を止め、額に乗せた濡れた布をひっくり返した。
「また少し熱が出てきたみたいだね。ちょっと、そこの瓶《びん》を取っておくれ」
少年の体を抱《かか》え起こし、水を含み、口移しで飲ませる。
どきりとする光景である。
裸で暖めたこともそうだが、徹底した男嫌いのはずの彼女も、この子に対してはなんら嫌忌感《けんきかん》を覚えないようだ。
――男というにはあまりに幼いしな、とガルーはひとり納得した。
「悪かったね、きのうは――」
少年を再び横たえたアイラが、謝罪の言葉を口にした。
なんのことかガルーにはピンとこない。
「心配してくれただろう。熱があるんじゃないかって。あんたも下心を持って近づいてきたんだと、変に邪推《じゃすい》しちまってね」
ガルーは気恥《きはず》かしさを覚え、顔を赤らめた。彼とてあの時下心が皆無《かいむ》というわけではなかったのだ。
「き、気にしないでください。煙に巻かれているところを、助けていただきましたし」
「水たまりに突き飛ばしたけどね」
「いいんですよ。いつまでも抱きついていたこっちが悪いんですから」
ガルーは無理に笑った。
生来のあがり性《しょう》で、女と名がつくものは苦手としてきた彼だったが、きょうは特にひどい。
原因はアイラの側にあった。
本人は気づいていないが、内面からにじみ出る溌剌《はつらつ》とした生気が、年齢を越えた美しさをもたらしていた。若い頃は美人|舞踏手《ぶとうしゅ》で知られたアイラである。看護やつれした様子も、むしろ色気を際立《きわだ》たせる役目を果していた。少年に出会う前の、あの病人然とした姿と同じ人物には見えない。
だが、ガルーには今のアイラにとり、それがよいこととは思えなかった。
アイラは衛士《えじ》たち全員に抱かれることを承諾《しょうだく》していた。昨夜までの彼女なら、半分も相手をすれば、解放してくれたかもしれない。女なら誰でもいいという好色漢ばかりではないのだ。
けれど、今の彼女では――順番を巡って、男たちの間に争いが起こりかねない。
本気で惹《ひ》かれ始めたガルーは、密かに胸を痛め、自分にもっと力があれば、という自責の念を強めるばかりだった。
アイラは若き日の旺盛《おうせい》な食欲を蘇らせ、皿の中身を平らげた。
どのみちこってりした肉汁は、弱った少年には食べられない。代わりにパンを目覚めた時のために残しておいた。
彼女は空の皿を置き、ガルーに目を向けた。
「ところで、外の連中の様子はどうだい」
ガルーの顔に戸惑いが見えた。
「教えておくれ、どんな様子だい」
繰り返しアイラが尋《たず》ねた。
「あまりいい雰囲気《ふんいき》ではありません」
「……やっぱりね。死ぬはずだった坊《ぼう》やが生きているんだ。さぞやがっかりしているだろうさ」
すると、ガルーは外の気配をうかがってから、声を潜《ひそ》めてしゃべり出した。
「実は、気になることを話してまして」
「どんなことだい」
「『今夜奴ら[#「奴ら」に丸傍点]が襲《おそ》ってきたら、それは白子のせいだ』――と」
「悪いことは、なんでも坊やのせいにする気なんだね。街道に出てこれまで一度も襲われなかったことが、奇跡じゃないのかい」
アイラは呆《あき》れ果てた声を上げる。
「わたしも同じ気持ちですが……衛士たちは本気のようです。はた目にもわかるほど、ピリピリしてます」
「まいったね……連中がそんなに迷信深かったなんて」
アイラは爪《つめ》を噛《か》んだ。
「雨も上がってしまったし、連中も『そろそろ』って予感がするんだろうね。不安があるから、坊やをはけ口にしているのさ」
「やっぱり出るということですか」
「なん日も降り続いた後だからねえ……奴ら[#「奴ら」に丸傍点]も、さぞや腹を減らしているんじゃないのかね。奴ら[#「奴ら」に丸傍点]にとっちゃ、あたしらは絶好の獲物《えもの》だよ」
アイラはひどくあっさりといった。
ガルーはつばきを飲み込む。
「こ、怖《こわ》くないんですか」
「怖い?」
アイラは意外という表情で訊《き》き返す。
「人間いつかは死ぬんだ。早いか遅いかは運次第さ。以前は上等な死に方ってもんを望んだけど。今はあまり変わりないって気がするよ。どうせ死ねば土くれさね」
「そ、そんな達観したことをおっしゃいますがね。襲われたら、その坊やだって道連れですよ」
ガルーはいささか意地悪な気持ちでいった。怯《おび》えている自分が情けなく思えたからだ。
しかし、アイラは怒り出しもしなければ、不安に顔を曇《くも》らせることもなかった。
ごく自然に、寂しげに笑ったのである。
「仕方ないだろうね。坊やもわかってくれるさ。少なくとも、あたしが最後まで見捨てなかったってことは……」
そう呟《つぶや》くようにいいながら、アイラは少年の体を愛《いと》しそうに撫《な》でた。
ガルーは呆然《ぼうぜん》とふたりを見つめた。
アイラに起きた変化は、不自然であると同時に、妙な胸騒《むなさわ》ぎをもたらす不吉さがあった。
そして、なにも知らず昏々《こんこん》と眠り続ける、少年の美しい寝顔を見ているうちに、ガルーは外で騒ぐ男たちの気持ちが、なんとなく理解できた。
街道に夜の帳《とばり》が降りた。
月光も星の光も届かぬ深い森の中では、明かりなしには一歩も進むことはできない。だが、馬車の四方にかかげた松明《たいまつ》の火は、明かりとしてはいささか大げさに思える。
普通、夜まで馬車は走らない。太陽の昇っているうちに走り、日が落ちれば人も馬も体を休めるものだ。目的地が近いというなら話もわかるが、ダスターニャの町までまだ優に二日の行程を残している。
この日は、昼間のうちになん度も長めの休憩を挟み、早目に夕食を済ませた後は、一度も馬車を止めずに進んだ。急いでいる様子はない。むしろ普段より馬をゆっくり歩かせている。なにかの襲撃を警戒した走りといってもよいだろう。御者台で手綱《たづな》を握る男も、全身を目や耳に変えて、あたりの気配をうかがっていた。
馬車の中も同じような状態である。
夜も更《ふ》けたというのに、眠りにつく者はいなかった。もっとも、こうゴトゴト、ギシギシとうるさくては、とても寝ていられるものではない。
衛士《えじ》たちは毛布を頭から被《かぶ》り、個々、銃や剣の手入れに余念がない。私語はほとんど聞かれない。言葉を交わそうとしても、自然に会話が途切れてしまうのだ。
朝、アイラがガルーに語ったように、衛士たちは職業的な勘《かん》で危険を察知していた。それも多くの修羅場《しゅらば》をくぐり抜けてきた豪《ごう》の者を、黙らせるほどの大きな危険を。
お陰《かげ》で――というべきか、アイラや少年にちょっかいを出してこなかった。いや、むしろふたりに拘《こだ》わることを、恐れているようにさえ見えた。
息の詰《つ》まるような雰囲気の中、アイラは一向に目覚める気配さえない少年を横に、毛布の中でまんじりともしないでいた。
もうひとりの乗客、ガルーはもっと落ち着きがない。分厚いレンズのついた眼鏡《めがね》を、なん度も外しては拭《ふ》き、朝が早く訪れることを念じていた。
ふいにガルーは私物の袋をあさり出した。旅立つ前、寺院や祈祷師《きとうし》、呪《まじない》屋からかき集めた魔厄《まよ》けの品々が、ちゃんとあるか確かめるためだ。
茶色に濁《にご》った水の入った小瓶《こびん》、山羊《やぎ》の蝋人形《ろうにんぎょう》、意味不明の文字や紋様《もんよう》が描かれた木札《きふだ》、それに錆《さび》の浮いた鎖や馬蹄《ばてい》まであった。手に入れた時には霊効《れいこう》ありげに思えたそれらの品々も、今はただのがらくたにしか見えない。だが、彼にはそれにすがりつくしか、平静を保つ手段がなかったのだ。
異変の兆候《ちょうこう》を感じ取ったのは、馬たちが先だった。
後方を走る馬車に繋がれた黒馬が、耳をピクピクと動かし、次の瞬間狂ったようにいなないた。その叫《さけ》びは瞬《またた》く間に他の馬に伝染し、御者《ぎょしゃ》や衛士《えじ》たち全員の知ることとなった。
「――!」
男たちは毛布を払い、持場についた。
御者が「はい」というかけ声を上げ、馬車の速度を増した。
馬車の屋根にふたりほど衛士が上り、
「それ!」
と、かけ声を上げ、屋根に這った綱に手斧《ておの》を振るう。綱が勢いよく舞い、車体を取り囲むように付いていた格子《こうし》が、外側に向かってバタンと水平の角度まで倒れ込む。その先には鋭くとがった槍《やり》の穂《ほ》がびっしり生えていた。
後方の馬車では、その前に繋ぎ留めていた黒馬を放していた。商人が怒るかも知れないが、馬がいては防護柵《ぼうごさく》が出せない。
そして、馬車の窓がすべて開き、衛士が銃を突き出した。
瞬時にして、二台の駅馬車は戦車と化したのである。
ウォォォォォォォン――
獣《けもの》の遠吠《とおぼ》えが街道にこだました。
それを合図にして、街道の両側の森から影が次々に飛び出してきた。
水たまりに飛沫《しぶき》を蹴立《けた》て、疾風《しっぷう》のように馬車に追いすがる。
灰色の体毛を持った狼《おおかみ》である。
群れは見る間に一〇、二〇と数を増し、二台の馬車を取り囲んだ。
「くそったれめが――!」
衛士が雷発銃を撃《う》ち放った。銃声の轟《とどろ》きが樹海のしじまを破る。
だが、激しく揺れる車内からの射撃は、極度に命中率を落とす。しかも、狼は襲撃慣れしており、右に左に動き、狙いをつけにくくしていた。
「次だ、代えをよこせ」
予備の銃まで弾《たま》を撃ち尽くした衛士が、ガルーに向かって怒鳴《どな》る。
「は、はい、すぐに――」
だが、慣れぬ上に恐怖と焦《あせ》りで思うように指先が動いてくれない。余程、アイラのほうが度胸が据《す》わっていた。ガルーの倍の速度で弾を込め、衛士に手渡《てわた》していった。
おびただしい弾を消耗したにも拘わらず、倒した敵の数はごくわずかだった。だが、絶え間ない銃撃と、車体の周囲に突き出した槍によって、狼たちは並走《へいそう》するのが精一杯であった。
これなら逃げ延びられる、と衛士たちは踏んだ。
だが、その時である――
「なにっ?」
先頭の馬車を操《あやつ》る御者《ぎょしゃ》が、前方の道に障害物を発見した。
倒木《とうぼく》である。
横倒しになったいくつもの立木が、道を完全に塞《ふさ》いでいた。
「こなくそ――!」
御者は思い切り手綱《たづな》を引き、同時に傍《かたわ》らの棒を引き上げた。
鉄輪《かなわ》をはめた車輪が地面を削《けず》り込《こ》み、火花を上げる。車体が尻《しり》を左右に振《ふ》って安定を失う。急激な制動と横方向のぶれに車軸《しゃじく》が保たず、左の後輪が留め金ごとふっ飛んだ。
「うわああああああ」
全員が悲鳴を上げ、手近なものにしがみつこうとする。アイラは反射的に少年の体の上に覆《おお》い被《かぶ》さった。
続けて右の後輪も飛ぶ。そして、車体後部が尻餅《しりもち》をつき、その衝撃で御者が投げ出された。御者の体は地面で大きく跳《は》ね、後続の馬車の蹄《ひづめ》に踏みつけられた。
操り手を失った馬車であったが、車体が尻をつくことで制動が強まり、倒木の手前で停止することができた。
だが、そこに後続の馬車が突っ込んだ。
馬の悲鳴と大きな衝突音が上がる。
前の馬車では、荷の綱《つな》が切れ、あらゆるものが天井や壁に叩きつけられた。
減速していたおかげで、双方《そうほう》の衝撃は小さいものだった。しかし、前後数頭の馬が足や首の骨を折って動けなくなり、残りは馬具のいましめを断ち切って逃走を図った。だが、いくらも走らぬうちに、狼たちの餌食《えじき》にされた。
横倒しになった車体から、衛士たちが呻《うめ》きを洩《もら》して這《は》い出てくる。
彼らはなにごとが起きたのか理解できないでいた。だが、破壊された馬車とその周囲を遠巻きにする狼の群れは、まぎれもない現実であった。
「――ちっ!」
衛士のひとりが、群れに発砲しようとした。
「撃《う》つな!」
仲間が慌《あわ》てて制止する。
なぜか狼たちは襲いかかる気配を見せず、距離をおいてじっと人間たちの様子をうかがっている。ここで一発でも撃てば、一斉に飛びかかってくることは明白だった。
衛士たちは獣《けもの》たちの行動にいぶかりながら、相手の次の動きを待った。
彼らが知り得なかった事実がある。
街道を塞《ふさ》いだ木は、自然に倒れたものではなかった。大人の胴《どう》に倍する木が、みな根元からへし折れていた。それも強い力が加わったように断面は荒く、新しい。そして、幹の樹皮には巨大な獣の爪跡《つめあと》が残っていた。
この木が馬車の逃走を阻止するため、意図的に置かれたことは間違いなかった。
だが、熊ですらこれほどの力はない。まして、獣がそのような知恵を働かせるのだろうか?
4
横転した馬車についた松明《たいまつ》の火だけが、森の中を照す唯一の明かりであった。野外にあってはいかにも弱々しい光である。
それを受けて、石畳《いしだたみ》の上に無数の金色に光る点が浮かんでいた。
狼たちの瞳である。
四つ足の襲撃者たちは、馬車を遠巻きにした時から、唸《うな》り声も立てず獲物《えもの》を見つめていた。
そして、衛士たちもまた、身じろぎひとつせず、息を潜《ひそ》めて、その無表情な視線に耐えた。むろん、各人の指は銃の引き金にかかっていて、不穏な動きがあれば即座に応戦できる。
だが、やり合えば、こちらが全滅する間に、半分を葬《ほうむ》れればいいところだ。それも相手がまともな狼《おおかみ》たちであれば――の話である。
動きが生じた。
群れの後方に、新たな獣の目が浮かび上がったのだ。しかも、その金色に輝く点は狼たちより遥《はる》かに高い位置にあった。
手前の狼たちが左右に割れた。その間を通り抜けて、宙に浮かぶ一対《いっつい》の目が、ゆっくりと近づいてくる。
そして、松明《たいまつ》の明かりが届く範囲にそれが入った時、衛士たちの体に戦慄《せんりつ》が走った。
「――!」
予感は的中した。襲撃してきたのはやはり奴ら[#「奴ら」に丸傍点]だったのだ。
それは奇怪な生き物であった。
人間と同じように二本の足で立ち、やはり二本の腕《うで》を備えている。ただし、長い体毛が全身をびっしりと覆い尽くしており、手足の指には鋭くとがった乳白色の爪《つめ》が伸びていた。だが、最も大きな差異は、股間《こかん》から見え隠れする尾と、胴体の上に乗った狼の頭であった。
「ヴィ、ヴィージャ……」
衛士《えじ》のひとりが掠《かす》れた声でいった。
そう――この世界の住人が、畏怖《いふ》を込めて呼ぶ〈獣人《ヴィージャ》〉であった。
彼らは人に並ぶ知能を有し、獣《けもの》の力と敏捷性《びんしょうせい》を持つ、人と獣の融合体《ゆうごうたい》である。狼、虎《とら》といった猛獣の形を模したものの他、鳥類やはちゅう類など、さまざまな種族が樹海の中に生息していた。
人間は獣人の生態、社会構造、その他をほとんど知らない。出会った者のほとんどが、観察の暇なく、その爪《つめ》や牙《きば》に引き裂《さ》かれていたからだ。
現に獣人から駅馬車を守るために雇われた衛士たちにしても、これほど間近で見た者はいないはずだった。
「うわああああああああ」
恐怖《きょうふ》に駆《か》られた衛士のひとりが、雄叫《おたけ》びと共に引き金を引いた。
ガーン!
銃声が鳴り響き、鉛玉《なまりだま》が獣人の厚い胸板に食い込んだ。
堰《せき》を切ったように全員が銃を撃った。
怯《おび》えていても狙いは確かだ。胸、腹、顔――といった急所に弾が集中し、体毛と鮮血《せんけつ》を飛び散らせる。
数秒後、雷鳴《らいめい》のような轟《とどろ》きは鎮《しず》まった。弾を撃ち尽くしたためで、ガチガチと撃鉄《げきてつ》の音が残った。
十数丁もの銃《じゅう》からたなびく煙が、獣人の姿を覆っていた。だが、薄《う》っすらとその姿が見える。無数の銃弾《じゅうだん》を浴びたにも拘《かか》わらず、獣人は二本の足で立っているではないか。
カチーン
乾《かわ》いた音を立てて、石畳《いしだたみ》にひしゃげた鉛玉が転がる。
体毛に隠れて見えにくいが、穴の奥から押し出されてきたのだ。
驚くべき強靭《きょうじん》さといってよい。
普通の獣なら容易に皮膚を破り、肉を貫き、骨を砕く、必殺の弾丸を、表層ですべて食い止めていた。
次々に地面に散らばっていく弾《たま》を見て、衛士たちは『首を切り落とさない限り、絶対に死なない』という、彼らにまつわる噂《うわさ》のひとつを思い出していた。
煙が晴れた。
獣人の全身に血痕《けっこん》があるが、すでに出血も止まっているようだ。軽く獣人が身を揺《ゆ》すると、残った弾がまとめて落ちた。
衛士たちがびくっと身ぶるいした。だが、もはや彼らは蛇《へび》に睨まれた蛙《かえる》であった。逃げ出したくとも、足が地面に張り付き、一歩も動けない。
獣人の口が奇怪な形に歪《ゆが》む。それは無理に動かぬ筋肉を動かして作った、狼《おおかみ》の笑みであった。
衛士たちの怯《おび》える顔が、さらに紙のように白くなった。
殺戮《さつりく》が始まった。
ここで話は少し前に遡《さかのぼ》る。
横転した車体から出たのは、衛士だけだった。前を走っていた馬車の内部に、四人の人間が残っていたのだ。
まず、ルーカという名の若い御者《ぎょしゃ》。彼は最初から臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれ、散乱した荷の陰に隠れて震えていた。
さらに乗客であるガルー。彼の場合は、幸いにも転倒の際にあっさり気絶してそのままだ。お陰で恐怖を味わわずに済んでいた。
残りはアイラと、名もわからぬ白子《しらこ》の少年である。ふたりは折り重なるように倒れていた。
けれど、彼女は気を失っていたわけではない。意識ははっきりしていたものの、体がいうことをきかなかったのだ。
目覚めた時には、すでに全身が麻痺《まひ》して感覚がなかった。背中の一部が火がついたように熱い。しかも、悪寒がなん度も背筋を走り、息が荒くなっていく。
――背骨を折った、と彼女は気づいた。
致命傷《ちめいしょう》である。知識はなくとも、長く命が保たないと悟った。
死に直面したにも拘わらず、恐れの心は湧いてこなかった。ここが舞台の上でないことに一抹《いちまつ》の寂しさを覚えたが、また一方で、病で痩《や》せ衰《おとろ》え、枯《か》れ木のようになる前でよかった、と安堵《あんど》めいた気持ちもある。
――それに……。
彼女は目の前にある少年の顔を見つめ、微笑みを浮かべた。そして、口元をそのままに瞼《まぶた》が閉じられていく。
その時、外で激しい銃声の轟きが、続けて人の断末魔《だんまつま》の絶叫《ぜっきょう》が上がったが、瞼は開かなかった。彼女の体はゆっくりと死に至ろうとしていたのである。
そして、暗黒に引き込まれようとするアイラの意識と反対に、少年は、今、目覚めの時を迎えようとしていた。
そこは薄暮《はくぼ》の世界だった。
白き少年は、身を丸くして微睡《まどろ》んでいた。いつ起きても、世界は変わらず暖かく、平穏《へいおん》だった。
ここは少年のために用意された世界なのだ。
重々しい鐘《かね》の音が、遠くの潮騒《しおざい》のように規則的に伝わってくる。ここに来た時から聞えてくるもので、決して耳障《みみざわ》りではなく、少年に安らぎをもたらしていた。
――起きなさい、・・・よ……。
少年は微睡みから覚めた。名を呼ばれたような気がしたからだ。
「……誰?」
寝惚《ねぼ》けたように少年はあたりを見渡した。
むろん人の姿はない。ここは彼だけの世界であり、他に人がいてはいけないのだ。
――ようやく……ようやく、わたしの声が届きましたね。
女の声がまた聞えた。
「どなたですか。ここには僕しかいないはずなのに」
――わたしがわからない?……無理もありませんね。おまえは、それだけの仕打ちを受けました。
深い悲しみを感じさせる声だった。
「あなたは、僕が知っているかたですか」
――それは大事なことではありません。
声はきっぱりといった。
――さあ、時間がないのです。おまえは早く目覚めなくてはなりません。
「どういうことですか。僕はこうやって起きていますが」
――〈外〉に出るということです。
〈外〉と聞いた途端、少年の体に形容し難い恐怖が湧き上がった。
「嫌です――ここだけが僕の居場所なんです」
そう叫ぶと、少年はその場にうずくまった。
すると、低くたちこめるような嗚咽《おえつ》が世界に響いた。
――ああ、かわいそうな子……できればこのまま眠らせてあげたい……でも、おまえを待っている人がいるのです。今はひとりですが、いつの日か全世界の人々が、おまえを必要とするでしょう。
「なにをいっているかわかりません。僕はここにいたいんです。〈外〉のことなんか関係ありません」
少年は泣きながら訴えた。
――おまえにはわかるはずです。そのたったひとりが、どれほどおまえを愛しているか。全世界の人を合せても、そのかたの愛の深さには及ばないのですよ。
「そんなこといわれたって……」
――悲しみと苦しみのあまり閉じた心を、もう一度開けてごらんなさい。ほら、聞えてくるでしょう。おまえを呼ぶ声が。
少年の顔が変わった。
声ではない。あの安らぎを与えてくれていた鐘《かね》のような音が、弱く、消え入りそうになっていることに気づいたのだ。
暖かであった世界に、冷気と闇《やみ》が忍び寄ってきていた。少年は寒気を覚え、体をぶるっと震わせた。
少年は悟った――これが心臓の鼓動《こどう》だと。そして、途切《とぎ》れた時、自分を包み込んでいた世界が消えてしまうことに。
――その通りです。おまえを待つ人は死にかけています。それもおまえを守るために。なのに、おまえはなにもしてやらないというのですか。
声から優しさが消え、容赦《ようしゃ》のない弾劾《だんがい》の響きが強まった。少年は逆らう気持ちが萎縮《いしゅく》していった。
「で、でも、僕にはなにもできません。〈外〉に出てどうしろというんです」
――今のおまえには、なんの力もないでしょう。でも、おまえの体に流れる血には、奇跡の力が潜《ひそ》んでいます。
「僕の血……?」
――けれど、その力はおまえに不幸をもたらすでしょう。なぜなら、おまえ自身が、聖魔《せいま》いずれとも定まっていないからです。そして、不安定なるがゆえに両方の人々を魅了《みりょう》し、惹《ひ》きつけます。力を隠しなさい。本当に信頼できるかたにだけ打ち明けるのです。
なにをいっているか、少年にはまるで理解できなかった。
――さあ、手遅《ておく》れにならないうちに。
「あ、待って――!」
少年は急速に遠ざかりつつある、なに者かの気配に向かって手を伸ばした。
「あなたは誰なんです。教えてください」
けれど、声はなにも答えなかった。まるで逃げるように去って行くのだった。
少年があとを追おうと駆《か》け出した時、突如《とつじょ》足元に亀裂《きれつ》が走り、その中に飲み込まれてしまった。
亀裂の向う側は暗黒であった。はるか先に一条《ひとすじ》の光があり、そこに向かって少年は落ちているのだ。
少年は泣き叫《さけ》んだ。
そこが出口だとわかったからだ。
一度出てしまえば、もはやあの暖かで平穏《へいおん》な世界には戻《もど》れない。〈外〉は苦痛に満ちており、少年はあまりの辛《つら》さに、ここに逃げ込んできたことを思い出していた。
少年はもがいた。
一秒でも出るのが遅れるようにと。
けれど、落下の速度は増すばかりで、光はすぐそこに迫っていた。
光の門をくぐった。目映《まばゆ》い光が少年の体を包み込み、意識を奪い去る。けれど、少年は最後まで泣くのを止めなかった。
少年は二度目の誕生を迎えた。
5
少年が初めて耳にした音は、人の泣き声であった。
少年が初めて嗅《か》いだ匂《にお》いは、ほのかに香《かお》る女の体臭《たいしゅう》であった。
少年が初めて得た感触《かんしょく》は、柔《やわ》らかな乳房《ちぶさ》の手触《てざわ》りであった。
そして――
少年が初めて見たものは、微笑みを凍《こお》りつかせた女の顔であった。
――誰だろう……。
白子の少年は、眠りから完全に覚めず、ぼんやりした目でアイラの顔を見つめていた。
「――こ、こいつ、目を覚ましたのか。こんな時に……」
近くで上がった声に驚き、少年は顔を上げた。倒れた女の向う側に、眼鏡《めがね》をかけた男がいた。
ガルーである。
目を腫《は》らし、頬《ほお》に涙が伝わり落ちている。彼は気絶から覚め、死にかけたアイラを見つけたのだ。少年はなぜ見知らぬ男が、自分を睨むのかわからなかった。だが、その怒りがただならぬものだという気がして、後ずさった。
「こんなガキを庇《かば》って――」
ガルーは倒れているアイラに視線を移した。
――あんまりな死に方じゃないか。
やり切れぬ想いで、胸が苦しかった。
外の戦いも片がついたようで、しんと静まり返っている。獣の鋭敏な鼻から逃げることなどできない。衛士《えじ》の死骸《しがい》を平らげた後は、馬車の中を漁《あさ》りにくるだろう。
だが、ガルーはどうでもよいという気分だった。怯《おび》えの感覚が麻痺《まひ》していたのだ。ただ、彼女の心臓の鼓動《こどう》が途絶《とだ》えるまで待って欲しいと思っていた。
自分にしてやれることはそれしかなかったからだ。そして、それもそう長い時間ではないだろう。
横たわるアイラの笑みが崩《くず》れ、苦しげに歪《ゆが》んだ。浅い息遣《いきづか》いが早くなっていく。
臨終の時がきたのだ、とガルーは悟った。
――ポタ
物音が上がった。
少年が起き上がっていた。その右手には刃《やいば》が剥《む》き出しになった短刀が握《にぎ》られていた。そして、左手の指から赤い血が玉となって盛《も》り上がり、再び滴《したた》り落ちた。
ガルーはぎょっとした。
「ぼ、坊主《ぼうず》、な、なにをしているんだ」
少年はうつろな目でガルーを見た。
「この人を助けるの……そうしなくちゃいけないっていわれたから……」
声もまたうつろであった。
――正気じゃない、とガルーは思った。夢魔《むま》に憑《つ》かれた子どもの話が頭に浮《う》かぶ。この子もそうなのか、と。
少年はしゃがみこみ、アイラの口に血が滴る左手を伸《の》ばした。
――血を飲ませる気だ。
ガルーは止めようとした。相手の行動が理解できないが、ひどく邪《よこしま》な気がしてならない。
だが、声が出なかった。しかも、体が金縛《かなしば》りにあったように、指一本動かせないことに気づいた。
少年の指がアイラの口に入った。意識はないが、舌が自律的に動き、血のしずくを嘗《な》め、喉《のど》の奥へと送り込む。
すると、急に少年が正気に返り、はっとした表情を浮かべる。自分がなにをしていたかわからなかったようだ。反射的に指を引き抜いた。
同時に、ガルーは体の自由を取り戻し、ぺたりとその場に座り込んだ。
「お、おまえ、わたしになにをした」
「あ……あああ……」
少年は首を横に振《ふ》るだけだ。その瞳の怯えは本物に見えた。
ガルーの体が震えた。衛士たちのいうことが正しかった、と確信したのだ。
――こいつは〈忌《い》むべき者〉だ。近くの者を災厄《さいやく》に巻き込む悪魔の子なのだ。衛士はみな殺され、アイラも間もなく息絶える。そして、そばにいる俺も……。
麻痺《まひ》していた恐怖心が、一挙に膨《ふく》れ上がり、爆発しかかった。だが、それを押し留める異変が起きた。
「あああああああああああああ――!」
突如《とつじょ》、アイラの肢体《したい》が跳《は》ね、身も凍《こお》るような絶叫《ぜっきょう》を上げたのだ。
ガルーと少年は悲鳴を洩《もら》し、後ろに下がった。
アイラは目を見開き、陸に上がった魚のようになん度も跳ねた。そして、喉《のど》もはり裂《さ》けよとばかりの雄叫《おたけ》びが、狭《せま》い車内に響き渡った。
数秒後、始まった時と同じように、唐突《とうとつ》に鎮《しず》まった。
ガルーが恐る恐る頭をもたげ、様子をうかがう。
アイラは仰向《あおむ》けになった姿勢で、再び体を横たえ、目を閉じていた。上下する胸の動きで、死んでいないことがわかる。それどころか、臨終間際だった者とは思えないほど、しっかりした息遣《いきづか》いだった。
「――!」
アイラの顔を覗《のぞ》き込《こ》んだガルーが、声なき叫《さけ》びを発した。
見ている前で、彼女の顔が急速に若返っていくではないか!
皮膚《ひふ》に張りが生じ、目尻《めじり》と口元の皺《しわ》が消えていく。先日まで厚化粧《あつげしょう》で隠していた青白さが血色のよい色艶《いろつや》に変わっていった。
変化は全身に及んでいるようだ。露出《ろしゅつ》している胸元や掌《て》、足といった部分だけでも、肌に瑞々《みずみず》しさが戻っていく。
ガルーは夢でも見ているのかと、自分の頭を、目を疑った。
現実かどうかを確かめるため、大きく盛り上がったアイラの胸の膨らみを、指先で押してみた。乳房を選んだのは無意識である。引き寄せられるように、指がそこに伸びたといってもよい。
張りのある山が、指に押し戻す感触を与える。この弾力《だんりょく》はわずかな彼の経験の中でも、最も若く、豊満な女を遥《はる》かに上回っていた。
乳房に与えた刺激のためか、アイラの瞼《まぶた》がしばたいた。そして軽い身じろぎと共に、口からかすかな呻《うめ》き声が洩《も》れ出る。
「ひィ」
と、ガルーは情けない悲鳴を上げ、手を引っ込めた。
アイラは薄目《うすめ》を開け、ぼんやりと天井《てんじょう》――実は左側面の壁――を見つめる。そして、ガルーの姿を捉《とら》えると、
「……あんたかい……炎《ほのお》に焼かれている夢を見ていたんだよ。ほら、夢から醒《さ》めてもこんなに汗《あせ》をかいている」
アイラは汗まみれの手をまじまじと眺めた。そして、思い出した。自分は死にかけていたのではなかったのかと――!
「おかしいよ。手が動く。それに体だって」
アイラは上半身を起こした。
「ほら、背中だってどこも痛くない。ねえ、どういうことだい」
「あ、あなた、本当にアイラさんですか、踊《おど》り娘《こ》の」
うわずった声でガルーがいった。
「なに馬鹿なこといってんだい。あたしは――」
ふいに自分の声の違《ちが》いに気づいた。二年前に喉《のど》の奥にしこりが生じてから、彼女の声はやや掠《かす》れた感じになっていた。それが消えて元の声が蘇《よみがえ》っていた。喉を探ると、しこりもきれいになくなっている。
「こりゃいったい――驚いたよ。どうしたはずみか、声が元に戻っているじゃないか」
「――アイラさん、あなた、若返っているんですよ。喉だけではなく、体も顔もすべて」
ガルーはやっとの思いでいった。
だが、アイラはきょとんとした顔だ。
「信じられないでしょうが、わたしだって同じ気持ちです。本当に若返っているんですって」
「からかうんじゃないよ」
「そんな、嘘じゃありませんて。鏡があるんなら見せたいくらいですよ。すっかり面変《おもが》わりしています。別人といってもいいくらいだ」
アイラは半信半疑で自分の顔を指先で探った。
――ない!
鏡を覗《のぞ》き込むたびに忌々《いまいま》しく思った目尻《めじり》の皺《しわ》が消えていた。そして、はたと気づいたように乳房《ちぶさ》を両手で掴《つか》む。この張りは記憶に残る|二〇《はたち》前のものだった。
「……ど、どうしてこんなことが……」
喜びと驚きが心の中でせめぎあい、呆気《あっけ》に取られた顔になった。
「あなたは死にかけていた。それは確かです。ところが、そこの坊主《ぼうず》が自分の血をあなたに飲ませた。すると、あなたが――」
ガルーは最後までいえなかった。突然《とつぜん》、血相を変えたアイラが、彼の両腕を掴んだのだ。
「坊や! 坊やはどこ!」
ガルーの顔が歪んだ。腕が潰《つぶ》れるのでは、と思うほどの力で握られていた。
「……そ、そこに。その荷物の向こうに」
悲鳴を堪《こら》えて彼はいった。
アイラはガルーを荒々しく突き離《はな》すと、身を翻《ひるがえ》すように振り返った。
少年がいた。
その姿を認め、アイラは安堵の息を吐いた。
「……坊や、やっと目を開けてくれたのね」
アイラは鼻をすすった。
けれど、少年は怯《おび》えた小動物のような目で彼女を見つめた。
「怖《こわ》がらなくてもいいのよ。あたしはあなたを苛《いじ》めたりしないわ。いらっしゃい、こっちに。指から血が出ているじゃない。手当してあげるわ」
「……だめだよ」
と、少年はか細い声でいって、左手を後ろに隠した。
年の頃から見れば、もっと大人《おとな》のしゃべりかたができるはずだったが、まるで三つか、四つの幼子《おさなご》のようだ。
けれど、アイラにはその幼さがむしろ好ましく思えた。
「なにが駄目《だめ》なの。いいから、おいで」
「血をあげたら、お姉ちゃん、変わっちゃった。ぼく、怖い……」
「怖くなんかないのよ。外見が少しぐらい変わっても、あたしはあたし。――ああ、あなたの血は嘗《な》めたりしないわ。約束する」
アイラは辛抱強くいった。無理に近寄れば、少年に強い恐怖を抱《いだ》かせる、と本能的に悟っていたのだ。
「ね、お願いだから、こっちにきてちょうだい」
アイラは逸《はや》る気持ちを抑《おさ》えて、笑みを浮かべた。
すると、少年はこわごわと近づいてきた。アイラは両手を広げ、その細い体を胸に抱き締めた。
「ああん」
少年が悲鳴を洩《もら》した。慌《あわ》ててアイラは力を緩《ゆる》めた。そんなに力を入れていたのか、といぶかしむが、胸から湧き上がる幸福な気分によって、すぐに押し流されてしまった。
「アイラさん、ちょ、ちょっと――」
ガルーが大声で呼んだ。
至福の時を邪魔《じゃま》されたことで、彼女は舌打ちしたい気分になった。
「どうしたんだい。変な声出して」
と、事実それに近いいいかたをした。
「外の様子が変なんです。まるで、人の、いえ獣の気配すら感じられません」
ガルーは後ろの搬入口に隙間を開け、そこから外を覗き見ていた。
「坊や、ここで待っているんだよ。大丈夫、怖いことなんかないからね」
アイラは蕩《とろ》けるような笑顔を浮かべていった。
少年はこくりとうなずく。心から打ち解けたとはいえないものの、危害を与える人ではない、といった程度の信頼は得たようだ。
ガルーの脇に来た時には、すでにアイラから笑みは消えていた。緊張して、鋭い目つきになっていた。
手には短銃が握られている。途中《とちゅう》で拾ったもので、弾丸《だんがん》が込められていることも確認してある。いざとなれば少年を守るために戦いも辞さぬ心構えであった。
「気を失う寸前、立て続けに銃を撃《う》ち鳴らす音、それに、男どもの悲鳴が聞えたよ。その後は――あんたわかるかい」
「どれくらい時間のずれがあるか……わたしは、狼《おおかみ》たちの吠《ほ》える声で目を覚ましたんです。争うような気配も感じましたが、とても恐ろしくて外をうかがうことは……」
アイラは隙間から外を見た。松明《たいまつ》の火はまだ消えておらず、かなり遠くまで見通すことができた。いや、常人ならば到底見えぬ暗がりを、彼女の目は捉《とら》えていたのだ。むろん自覚はない。
そして、石畳《いしだたみ》の路上に点在する、数多くの血溜《ちだ》まりを認めた。目を凝《こ》らすと衛士《えじ》の死体ばかりでなく、狼のそれが多い。
奇妙なことに狼の死体は、銃で撃たれたものではなかった。首や腹を裂かれた傷が見える。
「……同士|討《う》ちしたということなのかね」
アイラは呟《つぶや》くようにいった。
「なにか見えたんですか」
と、ガルー。
「あの狼たちの死に様《ざま》を見て、なにも考えることはないのかい」
ガルーは彼女が指差した方向に目を凝らすが、彼の目には闇《やみ》ばかりでなにも見えない。
「すみません、わたしには……」
「近眼にも困ったものだね」
自分の目が特別だということに気づかず、アイラは見たままを口で描写した。だが、ガルーにその謎が解けるわけもなかった。
「しかたないね……」
しばらく様子をうかがっていたアイラは、馬車を出ようとした。危ないと思わぬでもなかったが、武装した衛士たちを全滅させた連中ならば、中に閉じこもっていたところで、安全とはいえない。
ガルーは目の色を変えて反対したが、アイラは従わなかった。いるのかいないのかわからぬ敵に怯《おび》えて夜を明かすなど、我慢《がまん》できない。
外見のみならず、心にまで若返りの影響が及《およ》んでいるようだ。
アイラは短銃を手に、単身外に出た。
銃など撃ったことがないが、素手よりは幾分かはましだろうと思う。
ふと、彼女の心に剣《けん》が欲しいという意識が浮かんだ。全盛の頃、彼女は剣の舞いを得意としていた。その炎《ほのお》が燃え盛《さか》るような激しい踊りに、観客は熱狂的な歓声を上げたものだ。
――今ならば、あの踊りだってできるかもしれない。
アイラはそんなことを考えていた。
外は静かだった。静か過ぎるくらいといってもよいだろう。森には狼などの獣の他、無数の生き物がいる。夜行性の鳥の鳴き声や虫の音ぐらい聞えてきそうなものだ。
衛士《えじ》の死体に近づいた。
ひどいものだった。もの凄《すご》い力で猛打《もうだ》され、頭が破裂《はれつ》したもの、腹を爪で引き裂かれ、内臓がはみ出したもの、首と胴が別れ別れになったものなど、いずれも無残な死に様《ざま》だ。
アイラは喉《のど》に出かかった吐《は》き気を堪《こら》えるのに苦労した。
さらに動き回り、彼女は意外なものを発見した。
なんと、| 狼 獣 人 《おおかみじゅうじん》の死骸《しがい》であった。
なに者かと格闘した痕《あと》、すなわち鋭い爪《つめ》で裂《さ》かれた傷が縦横|無尽《むじん》に走っていた。そして、致命傷は首だろう。狼の頭は胴体から皮一枚のところで、かろうじて繋《つな》がっているだけだ。
不死身の獣人を、誰がこのような姿に変えたのか――!
おそらく、これを倒した者が、他の狼たちをも蹴散《けち》らしたのだろう。
アイラは背筋に冷たいものが駆《か》け昇《のぼ》っていくのを感じた。獣人を倒す力があるとすれば、こんな銃など蚊《か》に刺《さ》されたほども感じないに決っている。
その時、街道の向こうから馬のいななきが聞えた。そして、あの少年を乗せてきた黒い馬が足取りも軽やかにやってくるではないか。
アイラは思わず、馬に向かって駆け出していた。
不思議な交感を経て、アイラは友情にも似た親しみを覚えていた。その無事な姿を見て喜びを感じたのだ。
黒馬はアイラの前で足を止めると、その鼻面《はなづら》を彼女にすり寄せた。
「こら、およしったら。くすぐったいだろ」
アイラは年がいもなくはしゃいだ。
その声を聞いて、ガルーが外に出てきた。
だが、続けてあのルーカと、もう一台の馬車から商人のトランの姿が現われると、アイラも笑ってはいられなくなった。
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【第二章 白き獅子《しし》】
1
黒く短い体毛に全身を覆《おお》われた馬が、軽やかに蹄《ひづめ》を鳴らして街道を西へと進む。
背には白い髪《かみ》、白い肌《はだ》の少年と、黒髪の美女が跨《また》がっている。鞍《くら》どころか手綱《たづな》もつけていない、まったくの裸馬だったが、ふたりは不安げなく揺れに身を任せていた。ことに少年は頭からすっぽり毛布に包まれ、さらに背後から女に抱かれて、気持ちよさそうに目を閉じていた。
美女は時折後ろを振り返り、合図ではなく、言葉を使って馬に命じる。すると、馬は四本の足を止め、主人の命令があるまでじっとその場で待ち続けるのだ。
後ろから三人の男たちが、大きな荷を背負い、肩で息をしながらついていく。夕暮れが近く、あたりが暗さを増すとともに底冷えするような寒さが忍び寄ってきたが、男たちは満面汗でまみれていた。
突然、最後尾にいた白髪《はくはつ》混じりの男が、まるで風船から空気が抜けるような息を吐いて、地べたにへたり込《こ》んだ。
「も、もう駄目だ。少しでいい、休ませてくれんか」
前を歩いていた若い男が、足を止めて振り返り、大げさに舌打ちした。
「またかよ。さっきからいくらも歩いていねえじゃねえか」
「そういわれても、足が動かんのだ。もう若くはないのだよ」
「贅沢《ぜいたく》しすぎて足腰《あしこし》がなまっているんだよ。それに……」
そういって相手の膨《ふく》れ上がった背負い袋に目を向ける。
「欲が深すぎるんじゃねえのか。あれもこれも、と持ってくるからこういうことになる」
年配の男がなにかいい返そうとする。しかし、その前に成り行きを見ていた痩《や》せぎすの男が、力尽《ちからつ》きたようにしゃがんでしまった。
「おいおい、兄さんもかよ」
「すいません……」
痩せた男は、鼻先にずり落ちた丸縁《まるぶち》の眼鏡《めがね》を直しもせず、そのままゼイゼイと荒い息を吐いた。若い男は呆《あき》れ果てたように嘆息を洩《もら》した。
「へばったのかい」
女の声と共に小山のような影が落ちる。馬に乗っていたふたりが、後ろの様子に気づき、戻ってきたのだ。
「こいつらときたら困ったもんで。この調子じゃ、いつになったら町に着くことやら」
御者《ぎょしゃ》のルーカが、馬上のアイラに愛想笑いを見せた。
「すまないねえ、馬をひとり占《じ》めにしちまって」
その言葉は、石畳《いしだたみ》に座り込《こ》む商人と役人に向けたものだ。
ルーカは馬の顔を見上げ、
「仕方ねえでしょう。そいつが姐《ねえ》さんとそのガキしか乗せようとしねんスから」
すると、ガルーが疲れた体に鞭打《むちう》ち、
「……気にしないでください。乗り物がひとつしかないのなら、女子どもに譲《ゆず》る。それが男ってものでしょう。ハハ……」
と、乾いた笑い声を上げた。
癇《かん》に触《さわ》ったのか、ルーカがガルーの胸倉を掴《つか》み、無理矢理引き起こす。
「そう思っているんなら、少しは意地を見せてみろよ。あー」
「およし!」
アイラが怒鳴《どな》るようにいった。
驚いてルーカは手を放した。浮き上がっていたガルーの尻が、勢いよく地面に落ちる。
彼女は荒々しい声を発した瞬間、腕に抱いた少年が、びくっと体を震わせたことに気づいた。
「……およしよ。先は長いんだ。ここで無理をしたってしょうがないだろう……」
アイラは慌《あわ》てて穏やかに、声を潜《ひそ》めるようにいい直した。
「……へい」
ルーカは大人《おとな》しく従った。だが、目の端《はし》で少年を捉《とら》え、憎々しげな視線を送った。一瞬のことだったが、少年は鋭敏に反応した。
「ああああああ……」
「どうしたの、坊や。もう怖《こわ》くないでしょう」
アイラは赤子をあやすように抱き締めたが、体の震えはなかなかおさまらなかった。
――その時だ。
突如、樹海に生息する鳥が一斉に羽ばたき、獣《けもの》の鳴き声が木々の間を駆け巡った。動物たちの興奮が伝染したようにアイラたちを乗せた黒馬も荒い鼻息を吐く。
「なに? なんなの?」
一行は度胆《どぎも》を抜かれ、あたりを見渡した。次の瞬間、彼らは目映《まばゆ》い光に照し出された。
アイラは反射的に自分の体で少年をかばう。
「あれは?」
ガルーが頭上を指差した。
遥《はる》か上空で強烈な光を放つ物体が、西に向かって移動していく。あまりに眩《まぶ》しく、また樹海の天井越《てんじょうご》しであるため、アイラたちには物体の輪郭《りんかく》すらわからなかった。
「……鳥舟《とりふね》だ」
トランが呟《つぶや》くようにいった。その言葉をルーカは聞き咎《とが》めた。
「おっさん、今なんていった」
「……鳥舟……あれはムウの鳥舟だ」
「知ってんのか、あれがなんだか」
だが、トランはなにも答えず、じっと遠ざかっていく光を目で追っていた。
異形の獣人《じゅうじん》によって、馬車は二台とも壊《こわ》され、衛士《えじ》は皆殺《みなごろ》しにされた。生き残った五人は、駅馬車の目的地であったダスターニャの町まで、歩いて向かうことにした。
襲撃のあった場所から一日半の道のりを残していたが、それは馬車での計算で、徒歩ともなればそのなん倍もの日数がかかる。
危険な旅であることは、あえて述べるまでもない。
襲撃のあった夜、商人のトランは強硬に反対した。
「この場所に留まり、他の駅馬車が通りかかるのを待つべきではないか」
積み荷を残していくことに、強い抵抗を覚えていると、誰の目にも明らかだった。
荷の中身は高級な織物、煤《すす》が出ないランプの油、宝石の原石、火薬精製用の薬品など、どれをとっても、ダスターニャでは高値で商いされる品々だ。獣や獣人たちがそんなものに興味を示さないとしても、放置すれば捨てたものとみなされ、他の者が拾っても、返せとはいえないという暗黙《あんもく》の決りがあった。
「――なに考えてるんだか」
ルーカがあざけりを込めていった。
「街道を往来する連中は少ねえ。この駅馬車だって、前の便から一月ぶりに仕立てられたもんだぜ。助けが通りかかる前に日干しになるか、獣人《ヴィージャ》の餌食《えじき》になっちまわァ」
さらに御者《ぎょしゃ》は、まわりに狼《おおかみ》や衛士《えじ》たちの死骸《しがい》が散乱しており、肉食の獣たちを引き寄せる餌《えさ》をまいているようなものだ――と付け加えた。
老獪《ろうかい》さをもって知られるトランも、この時ばかりは御者の言葉に反論できなかった。
そこで、積荷の一部を男三人で背負って持っていく折衷案《せっちゅうあん》が取られることになった。商人がルーカやガルーに高額な謝礼を払うという条件で承知させたのだ。むろん、旅に不可欠な食料や毛布などを優先した上での話だったが……。
黒馬に荷を運ばせることができれば、そうこじれる問題ではなかった。
だが、戻ってきてからというもの、馬は本性を現わしたのか、触ろうとするだけで威嚇《いかく》の仕草を示すようになった。例外がアイラと白子《しらこ》の少年だ。ふたりに対しては、忠実な愛馬のようにふるまった。
考えてみれば、逃走の際、飢《う》えた狼の群れに放されたこの馬が、どうやって危機を切り抜けたのだろうか。他の馬はあっという間に食い殺されたというのに――である。あまつさえ、ことが済んだ後、再び舞い戻ってきた。本来馬は血の臭《にお》いをことのほか嫌うものだ。ましてや同族の死骸が転がっている場所に、わざわざ足を向けるだろうか。
駅馬車の前に初めて現われた時といい、この馬には不可解なところが多かった。さりとて、手元に残ったたった一頭の馬である。多少、気味が悪かろうと、遠ざけるわけにもいかなかった。
不可解といえば、アイラの若返りのほうが、よほど一同の好奇心をかきたてた。
病によるやつれのせいで、年以上に老けて見えていただけに、彼女の変貌《へんぼう》は著しかった。ルーカなどはその奇跡に驚く以上に、彼女の美しさに心を奪われたようだ。
「――この目で見ても信じ難いよ。これは奇跡以外のなにものでもない」
トランは熱心に奇跡のからくりを尋ねたが、アイラは少年の血を飲んだことを隠し、わからないの一点張りで通した。訊《き》かれた時、とっさに黙っていたほうがよいという気がしたのだ。そもそも、血に原因があるかどうか、はっきりしないのだ。
幸いにして、唯一の目撃者であったガルーも、彼女の気持ちを察したのか、口を閉ざしてくれている。ルーカも同じ馬車にいたひとりだが、あの時は気絶していたらしく、その件に関してなにも触れない。
商人の好奇心はほどほどでおさまった。無事に町までたどり着くための算段を巡らさねばならなかったからだ。アイラにしてみれば、ドサクサに紛《まぎ》れてくれた、というわけだ。
踊《おど》り娘《こ》、役人、商人、御者《ぎょしゃ》、そして謎の少年と――この奇妙な組み合わせの一行は、数日に渡り、おおむね問題なく旅を続けた。
『おおむね』と付け加えたのは、命に拘《かか》わる障害、いざこざがなかったという意味で、逆にいえば、そうでない問題は山のように起きた。
雨季には珍しく、雨のない日が続いてくれたおかげで、毛布で代用した簡素な天幕で雨露《あめつゆ》をしのげたが、身を寄せ合っても朝晩の寒さは辛《つら》い。
また、慣れぬ徒歩と重い荷で、男三人の足はむくみ、靴《くつ》が履《は》けぬほど足が変形した。疲労《ひろう》がたまれば不機嫌《ふきげん》にもなり、いい争いはしょっちゅうで、うんざりするほどアイラは仲裁役を務めた。
彼女が一行の指導者的な役割を担《にな》っているのはそのせいだ。もし他に理由があるとすれば、内面から噴き出る、光るような横溢《おういつ》する精気であろう。本人に自覚はないが、そこには自然と人を惹《ひ》きつけ、従わせる力があった。
最も警戒した獣人や獣は、時たま遠吠《とおぼ》えを耳にしても、姿を現わすことはついぞなかった。これは奇跡的な出来事としかいえない。森の木立の陰に、獣の気配を感じることもあったが、それも若返り後、五官が鋭敏になったアイラだけで、他の者は気づきもしない。彼女自身、はっきり姿を見たわけではなく、警戒心が高じたあまりの錯覚《さっかく》かと思うほどだった。
「――時間は早いけど、野営にしようかね。少し先にちょうどいい場所があったから」
アイラはガルーとトランの疲《つか》れ具合、それに日の暮《く》れ加減を見て、そう決断した。
光輝く飛行物体が、頭上を通り過ぎてから、数日が経っている。その日も夕暮時に差しかかる頃、男ふたりが道端《みちばた》で動けなくなった。
樹海の旅は恐ろしく単調な道のりである。景色といえば暗い森だけで、方位すら定かではない。もし一本道でなかったら、たちどころに迷っていたはずだ。さらに道しるべのひとつもなく、いったいどれほど進んだのか知るすべがない。
駅馬車の御者《ぎょしゃ》は、長年の経験と勘《かん》で距離を把握《はあく》しているのだが、若いルーカにそれを望むのは酷《こく》というものだろう。まして普段の馬車での往復と違って、徒歩ともなれば、未熟な勘もさらに狂《くる》うというものだ。
「あと、一日」あるいは「明日になれば」という言葉を繰り返し、このところ口数がめっきり減ってきていた。
ルーカは自分の荷物をかつぐと、石畳《いしだたみ》に座るふたりを「いつまで腰《こし》を降ろしているつもりだ」といわんばかりに睨《にら》みつけ、さっさと歩き出し、振り返りもしない。
商人と役人は置きざりにされまいと、慌《あわ》てて起き上がるが、荷の重さによろめく。ここ数日で飲み食いした分軽くなっているが、それでも、優に子どもひとりの体重に相当する重さだ。疲れた足腰にはかなりの負担だった。
すると、少年を馬上に残して、アイラがひらりと地面に降り立った。
「貸して」
彼女はきょとんとするガルーから荷袋《にぶくろ》を取り上げ、代って背負おうとした。
「無理ですよ」と、ガルーはいいかけた。
アイラは立ち上がった。顔には驚きの表情が浮かんでいる。拍子抜けするほど軽かったのだ。あまりに楽々とかついだので、男たちは揃って目を見張った。
「ガルー、あんたはトランの旦那《だんな》を助けるんだよ」
彼女は余計なことをいわなかった。女の自分が軽いと口にすれば、ガルーに恥《はじ》をかかせることになる。
アイラはすたすたと歩き出した。少年を乗せた馬がその後に従う。
取り残された男ふたりは、呆然《ぼうぜん》とその後ろ姿を見つめた。
「……お役人、あんたの荷物はそんなに軽かったのかね」
ガルーはとんでもないといわんばかりに、激しく首を振った。
「三人とも同じですよ。旅立つ前に確かめたでしょう。公平にするためだって。水だって食料だって等分に使っているでしょうが」
「ならば、あの女は。中身が綿のように、軽々と持ち上げよったではないか」
「わかりませんよ。そんなこといわれたって」
いい争っているのが聞えたのか、先に進んでいたアイラが急に振り向く。
「――なに、おしゃべりしてるんだい。これじゃ、荷を持ってやった甲斐《かい》がないね」
「す、済みません」
ガルーは跳《は》ねるように商人の背に回り、後ろから荷を支えた。
会話が途切《とぎ》れたまま、ふたりはアイラのあとを追った。
一行が野営場所に選んだのは、街道脇に建つ石造りのあずま屋であった。
その屋根と柱だけの建物は、石畳《いしだたみ》の街道が敷かれた同じ時代のものらしく、長い歳月と風雪が刻み込んだ年輪めいたものを偲《しの》ばせた。不思議なことに、この元は純白だったに違いない石材は、樹海の植物を遠ざける性質があるらしい。おかげで街道は木々の侵食《しんしょく》によって没《ぼっ》することを免《まぬが》れている。現にこのあずま屋も周囲に雑草ひとつ生えていない。
床《ゆか》の真ん中には黒い染みがあり、わずかに枝の燃え滓《かす》が残っていた。以前にもここで暖をとった者がいたのだろう。
「じゃあ、あたしは薪《まき》を集めてくるからね」
アイラは腰を降ろす暇もなく出かけようとした。男三人はしゃがみこんだまま返事もしない。
疲れているのだ。
最も体力があるルーカですら、一度座ると動けなくなる。
肉体的な疲労ばかりでなく、いつ獣《けもの》が襲ってくるかも知れないという緊張が、心身に与える影響は大きい。
ひとり元気に見えるアイラとて、頭の芯《しん》が焼き切れそうであった。それでも、持《も》ち堪《こた》えていられるのは、〈坊《ぼう》や〉を守ろうという愛情と責任感のおかげだった。
少年はひ弱だった。
目覚めてからも、一日のほとんどをうつらうつらと寝て過している。馬がなければ、旅についていくこともできなかっただろう。起きている時も殻《から》に閉じこもり、アイラが話しかけても、ほとんど返事もしない。少年に関する疑問は多いが、少しでも込み入ったことを訊《き》くと、発作を起こしたように怯《おび》えて、声にならない嗚咽《おえつ》を上げた。自分の名前すら答えられないことから、心に受けた傷のため、記憶を失っているのでは――と彼女は考えるようになった。
けれど、アイラは少年の過去に関心があったわけではない。むしろ、知りたくないという想いのほうが強い。
――もし、本当の両親がわかって、この子を返せと迫《せま》ってきたら……。
出会った状況から考えれば、ありえないことだ。しかし、この身も凍《こお》るような考えは、心にこびりつき、いくら拭《ぬぐ》おうとしても拭い切れなかった。
今、少年はあずま屋の床《ゆか》で、毛布にくるまって浅い寝息《ねいき》を上げていた。
――助かる。
と、アイラは心の中で呟《つぶや》いた。
少年は一度なついてからというもの、彼女が常にそばにいないと幼い子どものようにべそ[#「べそ」に丸傍点]をかき始める。そんな少年が可愛《かわい》くて仕方がないのだが、反面、足かせとなっているのも確かだ。煩《わずら》わしいなどと思ったことは一度もないが、今のようにひとりで動かなくてはならない場合、眠ってくれるのが一番ありがたかった。
アイラは天を突くほどの巨木《きょぼく》が立ち並ぶ森に、単身足を踏み入れた。そして、足早に木々の間を歩き回り、薪《まき》になりそうな枯《か》れ枝を探した。
樹海の木は鱗状《うろこじょう》の厚い樹皮で覆《おお》われた羊歯《しだ》植物が大半で、燃料に使えるものは少ない。だが、野外で一晩過ごすにはどうしても薪が必要であった。彼女は根気よく、かつ、手早く足元の茂《しげ》みをかき分け、一本一本枯れ枝を拾い集めていった。
「ああ、すっかり暗くなっちまったよ」
アイラは両手いっぱいに枯れ枝を抱《かか》えて、木立の間を駆けていった。
あたりはすでに真っ暗だった。気づかぬうちにずいぶん森の奥に足を踏み込んでいたらしい。だが、明かりひとつ持たないくせに、彼女はぬかるみに滑《すべ》ったり、木の根につまずいたりしなかった。まるで、夜行性の動物のように障害物をひらりひらりと避けて走っていった。
行く手に光が見えた。誰かが心配して迎えにきてくれたのであろう。おそらくはガルーかルーカのどちらかだ。アイラは光を目指して走った。
「――うわああ!」
彼女は灯火《とうび》の元に飛び出すなり、悲鳴で出迎《でむか》えられた。
「――ずいぶんな挨拶《あいさつ》だね。あたしだよ、ルーカ」
「ね、姐《ねえ》さん?」
ルーカは松明《たいまつ》の火をかざし、彼女の姿を確かめて、ようやく安堵《あんど》の息を吐《は》いた。
「お、脅《おど》かさねえでくださいよ」
アイラは眩《まぶ》しそうに掌《て》で灯《あか》りから目をかばう。そして、ルーカが握る雷発銃《らいはつじゅう》を見つけ、眉《まゆ》をしかめる。
「物騒《ぶっそう》じゃないか。危うく撃《う》ち殺されるところだったのかね」
慌《あわ》てて御者《ぎょしゃ》は短銃を腰《こし》に戻した。
「暗闇《くらやみ》に金色の瞳《ひとみ》が浮かんでいるのを見て思わずね。獣人《ヴィージャ》に出くわしたのかと肝《きも》を潰《つぶ》しやしたぜ。へへっ」
「よしとくれ。冗談でもやだね、そんな話」
と、アイラは不機嫌《ふきげん》な声を上げた。
「いや、冗談じゃねえンで。本当にそう見えたんでさァ」
ルーカはむきになっていったが、アイラは本気にしない。
「どうでもいいか、そんなこと。さあ、迎えにきてくれたんだろう。早くみんなのところに戻ろうじゃないか。火がなくて凍《こご》えているだろうからね」
アイラは歩き出した。だが、ルーカはその場を動かない。
「……どうしたんだい」
彼女は相手の様子が変だと気づいた。口元に薄笑《うすわら》いが張り付いているが、ふたつの目は笑っていない。なにか企《たくら》んでいるようなよからぬ目つきだった。
「内密に相談したいことがありやして。で、まあ、こうしてひとり出張ってきたわけで。前々からそう思ってたんですが、なかなか機会がなくって、実はじりじり焦《あせ》ってたんですよ」
「今、ここでかい。あずま屋に戻ってからじゃ駄目かい」
「ふたりっきりのほうがいいと思いやすぜ。姐さんにとってもね……」
ルーカは含《ふく》みを持ったいいかたをした。
「……なんの件だい。それを先に聞かせてもらいたいもんだね」
アイラは慎重《しんちょう》にいった。胃が緊張で縮まる思いがしたが、あえて顔には出さないようにした。枯《か》れ枝の束《たば》を地面に置き、ルーカと目を合せた。
「ガキ……姐さんが大事にしている、あの白子《しらこ》のことで」
アイラは眉《まゆ》ひとつ動かさなかった。今の彼女にとり弱味はただひとつ。そこを突いてくることはたやすく予想できた。
「坊《ぼう》やがどうしたんだい。また、べそをかいているってんじゃないだろうね。それなら早く帰んなきゃ」
「とぼけないで欲しいねえ」
ルーカの顔に苛立《いらだ》ちが見えた。
「とぼける? なんのことだい。さあ、あたしは気が短いんだよ。まわりくどいいいかたはよして、さっさと本筋に入っとくれ」
ルーカは芝居《しばい》っ気たっぷりに溜息《ためいき》を吐くと、一言こういった。
「……見ちまったんですよ」
――と。
今度はアイラも無表情ではいられなかった。松明《たいまつ》の炎《ほのお》に照された顔が、はっきり引きつった。
それを見て、御者《ぎょしゃ》はにんまりと笑った。
「見ちまっていたんですよ、ぜんぶね」
「……な、なにをだい?」
アイラは自分の声が震えていることに気づいた。
「しらばっくれるのはよしやしょうや。馬車での一件ですよ。あのガキが姐《ねえ》さんに血を与え、おかげであんたは生き返ったばかりか、若返ることができた」
「…………」
「いやあ、まったく凄《すご》い力だよ。誰だって老いと死って奴《やつ》と縁《えん》が切れねえ。切りたくたって必ずついて回るもんだ。〈奇跡《きせき》の霊薬《れいやく》〉とかいって売り出せば――錬金術師《れんきんじゅつし》どものインチキ薬と違って、効《き》き目は確かだ。あっという間に大金持ちになれるぜ。白子は悪魔と交わって生れたガキとか世間じゃいうが、とんでもねえ、俺にとっちゃ幸運をもたらす鳥みてえなもんだ。拝みてえくらいだぜ」
「駄目だよ! あの子にそんな真似《まね》はさせられないね」
激しい口調でアイラはいった。
「なぜだい。あんたをないがしろにしようって気はないんだぜ。姐さんがガキの面倒を見て、俺が血を売る。儲《もう》けは折半にしたっていい。お互《たが》い結構な暮らしができるんだぜ。トランなんざ足元にも及《およ》ばねえ暮らしがな。おっと、ガキのことだって忘れちゃいねえさ。血だってほんのちょっとで構わねえ。月にひとりかふたり分も採れば充分さね。こういったもんは、希少価値があったほうが高く売れるってね」
ルーカは酔《よ》ったようにまくしたてた。旅の間ずっと夢を巡らせていたに違いない。目はなにか魔物《まもの》に憑《つ》かれたみたいに異様な輝きを帯びていた。
アイラは呆然《ぼうぜん》と相手を見つめた。少年の血がどれほど人を狂わすものか、思い知らされたのだ。
ルーカは自分の計画は完璧《かんぺき》で、なにもかもうまくいくように思い込んでいるが、どこかに大きな落とし穴があるように思えてならない。もし秘密が外に洩《も》れれば、若さを求める人々が、少年を取り合って殺し合いを始めるだろう。そうなれば少年だってただではすまない。
「――駄目よ、絶対に駄目っ!」
彼女はなんとしてもその企《くわだ》てを止める気で、一歩前に足を踏み出した。
だが――
いつの間にか、ルーカの手には銃《じゅう》が戻《もど》っており、その銃口はアイラに向いていた。
2
鈍い黒鉄《くろがね》の輝きを放つ銃口が、しっかりとアイラの心臓に狙いをつけていた。
「……あんたも馬鹿な女だよ。俺のいいなりになれば、どんな贅沢《ぜいたく》も思いのままだったのに」
ルーカは目を細めて静かに笑った。
「……あたしを殺すの。ここで撃《う》てば、ガルーやトランが気づくわよ」
アイラは相手の目と銃を交互《こうご》に見た。雷発銃《らいはつじゅう》の撃鉄《げきてつ》はすでに起き上がっている。引き金を軽く引き絞《しぼ》るだけで、銃口が火を吹《ふ》くだろう。そして、ルーカは本気であった。
「ふん、銃の扱《あつか》いもわからねえ連中になにができる。どうせ、町にたどり着く前に殺しちまうつもりさ。とくに痩《や》せっぽちの役人は、現場を見ちまっているからな、よけい生かしちゃおけねえ」
「なにもかも計画済みってわけ。大した悪党ぶりじゃないか。見かけによらずってのは、あんたみたいなのをいうんだね」
「なんとでもいってくれ。うだつが上がらねえ御者《ぎょしゃ》が、ようやく掴《つか》んだとてつもねえ幸運だ。どんな汚《きたね》え手を使ってでもモノにしてやるぜ。だが、その前に――」
ルーカの顔に、以前にも見せた好色な笑みが浮かんだ。
次の瞬間、アイラの服の胸元が引き裂《さ》かれ、夜目にも白い豊満な乳房《ちぶさ》が外気に晒《さら》された。
悲鳴を上げる暇《ひま》もなく、男が襲いかかってきた。ふいを突かれ、アイラは背後に押《お》し倒《たお》される。抵抗《ていこう》しようと手を振り上げるが、銃の握りが、それより早く彼女の顎《あご》に叩《たた》き込まれた。まともに食らった上に、地面に後頭部を勢いよくぶつけ、アイラは意識を失った。
「遅いな、ふたりとも……」
毛布を被ったトランが、あずま屋から顔を出し、暗い森を見回した。
背後から激《はげ》しく煙《けむり》が吹き上がっている。アイラの帰りが遅いため、仕方なく手近な草木を燃やしているのだが、煙の割には少しも暖かくならない。屋根と柱だけのあずま屋だから、まだ耐えられるが、風向きが少しでも変われば煙を避けるため、座る場所を移さなくてはならなかった。
焚《た》き火の面倒をみていたガルーが、まともに煙を吸い込み、むせて逃げるようにトランのほうにきた。
「大丈夫かね、お役人」
「ええ、まあ」
といって、ガルーはまた激しく咳《せ》き込む。
「遭難《そうなん》ってことはないだろうね」
トランがぽつりと呟《つぶや》いた。
ガルーは涙がにじむ目で、ぎょっとした顔をした。
「アイラさんが、ですか……」
トランがうなずく。
「姐《ねえ》さんは不用意にも明かりを持っていかなかった。迎《むか》えのルーカと出会ってくれていればいいが、そうでなければ……この暗さではもう身動きが取れまいて。そして、火も銃もなしでは、夜明けまで生きていられるはずがないて……」
「よ、よしてくださいよ。そんな縁起《えんぎ》でもない」
ガルーの心臓が大きく鼓動《こどう》を打った。前触《まえぶ》れもなく、あずま屋の柱に繋《つな》いでおいた黒馬が騒ぎ始めたのだ。
「どうした、ドウ、ドウ」
ふたりは慌《あわ》ててなだめようとするが、首にかかった綱《つな》を引きちぎろうと、前足を上げて暴れる黒馬には近寄ることすらできない。もともと気休めにつけたような細い綱では、切れるのも時間の問題であった。
ガルーは人の気配を覚えて背後を振り返った。すると、あずま屋を背に、焚き火の脇に眠らせていたはずの少年が、はだしのまま出てきていた。だらりと降ろした手は毛布の端《はし》を掴《つか》み、寝惚《ねぼ》けた顔で暴れる馬を見ていた。
「坊主《ぼうず》、危ないぞ。下がっているんだ」
ふいに少年の顔が歪《ゆが》み、次の瞬間泣き出した。しかも、喉が張り裂けんばかりの盛大《せいだい》な泣き声だった。未だかつて少年はこんな泣きかたをしたことがない。
だが、あろうことか、その声を耳にした途端、馬がぴたりと鎮《しず》まった。そして、少年のそばに歩み寄り、鼻面を突き出し、舌で少年の頬《ほお》をぺろりと嘗《な》め上げた。
少年は馬の頭にしがみつき、再び鼻をすすって泣き続けた。
唖然《あぜん》とした顔でガルーとトランは、この不思議な光景を見つめた。
「いったいぜんたい、さっぱりわからんよ……」
トランは首を横に振り、途方《とほう》に暮《く》れたような顔をした。
「……わたしは、なんとなくわかります」
ガルーはひとり呟《つぶや》いた。
少年と馬との間で、どのような意志の疎通《そつう》がなされたか、さっぱりわからないが、少年の泣き声に聞き覚えがあったのだ。
彼の記憶《きおく》に残る声は、少年よりもっと幼い、四つ、五つくらいの子どものものだったが、印象が極めて似ていた。
それは――迷子《まいご》が、母の姿を求めて泣く声だった。
アイラは夢を見ていた。
少なくとも本人はそう思っている。
幻視の中のアイラは十字架《じゅうじか》にかけられていた。足元にはうず高く薪《まき》が積まれ、黒い覆面《ふくめん》をつけた刑吏《けいり》が、赤々と燃えた松明《たいまつ》を今まさに投げ込もうとしていた。
ここは町の広場のような場所で、周囲は老若男女、さまざまな人々で埋《う》め尽《つ》くされていた。集まった群衆は手に手にかがり火を持ち、怒りの喚声《かんせい》を上げ、十字架のアイラに向かって石を投げてくる。そのいくつかが命中し、実際に痛みを覚えた。
――本当に夢なのよね。幻のはずよ。目を覚ませば、途端に消えてしまうのよ。
アイラは恐怖にかられ、自分になん度もいいきかせた。
夢の中に彼女は、どのような罪で処刑《しょけい》されるかわかっていた。
寺院の審判《しんぱん》を受け、魔女《まじょ》の烙印《らくいん》を押されたのだ。魔女は即座《そくざ》にはりつけにされた上、火刑に処せられる。そして、残った骨と灰は町の外に投げ捨てられる定めだ。
アイラは「あたしは魔女じゃない」と叫《さけ》んだ。だが、群衆の怒号《どごう》にかき消され、誰の耳にも届かない。
黒い僧衣《そうい》をまとった覆面の男が、刑吏から松明を受け取る。処刑が近いことを悟り、見物の人々は息を潜《ひそ》めてその瞬間を待った。高まる期待と興奮に胸躍《むねおど》らせているのがわかる。
僧侶《そうりょ》が十字架の下で祈《いの》りの言葉を唱えているが、アイラにはそれこそ邪《よこしま》な呪文《じゅもん》にしか聞えなかった。
本当に正しい行ないをしていると思うなら、覆面などで顔を隠す必要などないはず――とアイラはいってやりたかった。
松明が投げ込まれた途端、群衆がどっと喚声を上げた。だが、一気に炎《ほのお》が吹《ふ》き上がり、罪人を焼き殺すわけではない。まず、煙《けむり》でいぶし、ゆっくりと火勢を強めていくのだ。煙には魔《ま》を抑《おさ》える力があると、僧侶はもっともらしい理屈をつけているが、魔女と断じた人間を苦しみ抜かせようという意図は明白だった。
燃え移った薪《まき》の山から、真っ黒な煙がいく筋もたなびき昇《のぼ》る。
アイラの体にまとわりつくように昇ってきた煙が、いつしか黒い大蛇《だいじゃ》に化けていた。そして、彼女の着衣も失せ、全裸《ぜんら》になっていた。素肌《すはだ》を這《は》い上ってくるおぞましい感触に、彼女は悲鳴を上げた。しかも、蛇は一匹《いっぴき》ではない。煙の筋すべてが、手足を十字架に止める縄《なわ》までもが、蛇と化し、彼女の裸身《らしん》を埋《う》めつくそうと競い合うように蠢《うごめ》くのだ。
気づくとあたりは静まりかえっていた。町の人々すべてが、一様に気味の悪い薄笑いを浮かべている。彼女がもがき苦しむさまを見て、楽しんでいるのだ。
「――おまえらこそ悪魔だ」
アイラはそう叫《さけ》びたかった。
群衆の波を割って、白い塊《かたまり》が広場に転がり出てきた。彼女は一目でそれがなんであるか理解した。純白の髪《かみ》に白い肌《はだ》――間違いなくあの白子の少年であった。
少年は泣きながら十字架に駆け寄ろうとした。だが、町の人々や刑吏《けいり》の手が伸び、数歩も前に進めぬうちに取り押《おさ》えられてしまった。
「――放せ、坊《ぼう》やに手を出すんじゃない」
アイラは渾身《こんしん》の力を振《ふ》り絞《しぼ》り、十字架から逃れようとした。だが、巻きついた蛇の縛《いまし》めは強力で、逆に息ができなくなるほど締め返された。
視界がぼやけ、目の前が暗くなっていった。苦痛と一緒に意識と五感が薄《うす》らいでいく。最後に残った耳に、少年の泣き叫《さけ》ぶ声がこだまのようにいつまでも響いていた。
アイラは死ねないと思った。
坊やを魔《ま》の手から守るために、なにがあっても死ねない――と。
「――気がついたのかい」
おそらくアイラは呻《うめ》き声を洩《もら》していたに違いない。だが、その声を聞いた途端、突如《とつじょ》現実の世界に引き戻《もど》された。
だが、意識は混濁《こんだく》し、自分の置かれた状況が把握《はあく》できない。
凍《こお》りつくような地面に横たえられ、体がすっかり熱を奪《うば》われていた。そして、仰向《あおむ》けになった体に、岩がのしかかっているような重みを感じた。
顎《あご》のあたりが熱く、口全体が麻痺《まひ》したような感じだ。体のいたるところが痛い。特に背中の下に敷《し》かれた両腕が、鋭《するど》い痛みを上げている。
「ちょうどいいところで目を覚ましたもんだぜ」
目の前にルーカの顔があった。
アイラは冷水を全身に浴びたような悪寒《おかん》を覚えた。頭にかかっていた霧《きり》が一瞬に晴れ、今、自分がどのような目にあっているかわかった。
これも夢であって欲しい、と祈《いの》らずにはいられない状況であった。
アイラは凌辱《りょうじょく》されていたのだ。
彼女の衣服はずたずたに裂《さ》かれ、胸から股間《こかん》にかけて、一片の布切れも残されていない。両腕は後ろ手にされ、手首のところでひとつに縛《しば》られ、背中と地面の間にあった。これでは激痛《げきつう》を訴《うった》えるのも当たり前だった。
ルーカはアイラの両足の間に自分の腰《こし》を割り込ませ、右手で彼女の乳房《ちぶさ》をわし掴《つか》みにしていた。その手に上半身の体重をあずけてくるので、肋骨《ろっこつ》がきしみ、悲鳴を上げている。ひびぐらいは入っているかもしれない。もう片方の手は、彼女の股間あたりをしきりにまさぐっている。
「へっ、どうしたい、声も出ねえか。それとも、まだ目が覚めていねえのかな」
嬲《なぶ》るような男の声が、アイラの耳に届く。だが、彼女の顔になんの変化も見えない。氷のように冷めた目で、相手の顔を見据《みす》えていた。
「ほんと、ちょうどいいところで気がついてくれたぜ。今まで人形を相手にしていたようなもんだったからな。苦痛に顔を歪《ゆが》ませるところを、じっくり拝《おが》ましてもらわねえと『やった』って気分にならねんだ。ほれ、こいつも待ちくたびれて、破裂《はれつ》寸前よ」
そういって、ルーカは自分の股間にいきり立つ肉の棒を見せつけた。近くで揺《ゆ》らめく松明《たいまつ》の炎《ほのお》がその醜悪《しゅうあく》さを強調していた。
――蛇《へび》だわ。あたしの体をはい回り、締めつけた真っ黒な蛇。
まだ、アイラは現実と幻想の境が明確ではなかった。というより、むしろ今起きていることを幻想だと思い込むことで、狂気をまぬがれようとしているのかもしれなかった。
「ちっ、まだ正気に戻らねえようだな」
ルーカは乳房をつかんだ手に力を込めた。白い柔肌《やわはだ》にギザギザの爪《つめ》が食い込み、赤い血がにじみ出てきた。
アイラの顔に痛みの表情が走る。
「いいぞ、その顔だ。へへへ、楽しませてもらうぜ」
ルーカは残忍《ざんにん》な歓喜の声を上げ、欲望の権化ともいうべき猛々《たけだけ》しい陰茎《いんけい》を、無理矢理アイラの体に突《つ》き入れようとした。
いきなり、ルーカの目に火花が散った。両手を塞《ふさ》がれたアイラが、男の鼻めがけて頭突《ずつ》きを食らわしたのだ。
「おおおおおおお――!」
ルーカの上半身が大きくのけぞり、ひしゃげた鼻からは多量の鮮血《せんけつ》が吹《ふ》き出した。
相手が動揺《どうよう》している間に、アイラは地面を這《は》って逃《のが》れようとする。
だが、ルーカは即座に気づき、憤怒《ふんぬ》の雄叫《おたけ》びを上げて襲《おそ》いかかろうとした。
アイラは右足を縮め、相手の股間《こかん》目がけて蹴《け》りを入れた。
鼻頭に食らった時以上の絶叫《ぜっきょう》が、男の口からほとばしる。まだこわばりを保っていた肉棒が完全に潰《つぶ》れたのだ。
しかし、アイラの怒りはその程度ではおさまらない。地面に横たわったまま、左の足でルーカの腹部に渾身《こんしん》の蹴りを叩《たた》き込んだのだ。
女が放ったものとは思えない、途方《とほう》もない力がそこには加わっていた。あたかも馬の蹄《ひづめ》に蹴られたかのように、男の体が一瞬宙を飛んで、くさむらに落ち、そのままピクリとも動かなくなった。
アイラは肩を上下させ、荒《あら》ぶる心をそのまま現わすかのように息を吐き続けた。
興奮がなかなか鎮《しず》まらない。男の感触を思い出すたびに、吐き気をもよおすような嫌悪とおぞましさが身を震わす。
けれど、忍び寄る森の冷気が、彼女にまともな思考を取り戻させた。
――このままでは凍《こご》え死にするわ。
アイラは両手の縛《いまし》めを解こうとした。だが、縄《なわ》はかなりきつく結ばれているようで、抜き取ることができない。そもそも後ろ手に縛られていては、力が入らないのだ。
仕方なく仰向《あおむ》けのまま木のそばまで這い、幹を支えにしてようやく立ち上がることができた。
その時だ――
ドキューン!
一発の銃声が轟き、アイラがもたれかかる木の幹に弾丸《だんがん》が食い込んだ。
「……よくも……よくも、やってくれたな、このスベタが……」
一条の煙《けむり》をたなびかせた雷発銃《らいはつじゅう》を持ったルーカが、くさむらから起き上がる。その顔は血にまみれ、悪鬼のごとき形相に変っていた。
「殺してやる……俺をこんなにしやがって……絶対に、赦《ゆる》すもんか」
再び銃口が火を吹く。
間髪《かんはつ》を置かず、アイラの足元に土煙が上がった。
「動くんじゃねえぞ……ぴくりとでもすれば、そのどてっ腹に鉛玉《なまりだま》をぶち込んでやる」
ルーカは空いた手で腹を押さえ、足を引きずるように一歩一歩近づいてきた。
たとえ男の言葉に従ったとしても、待ち受ける運命は変らないだろう。だが、そう思っていても、アイラは動くことができなかった。
――逃げなくては、と心はなん度も警鐘《けいしょう》を鳴らしている。しかし、足がすくみ、いうことをきいてくれない。ともすれば膝《ひざ》が砕《くだ》けて、その場に座り込みそうにさえなる。立っていられるのも、木にもたれているおかげだ。
それほどにルーカの形相は凄《すさま》じかった。
「……まず、膝に一発食らわしてやる。それから肩だ。そして腹……もちろん急所は逸《そら》してな。とどめは刺さねえ……最後の一発は大事にとっとくぜ。体の血を流し切り、こと切れる間際までな……」
もはや、ルーカはまともではなかった。悪魔が乗り移ったかのように、狂気と殺意の権化となっていた。
ルーカの指が銃の撃鉄《げきてつ》を引き起こした。そのガチッという無機質な音が、銃声よりもはるかにアイラの恐怖をそそった。
銃口が下げられ、彼女の膝《ひざ》あたりに狙《ねら》いをつけた。
ルーカの口元に陰湿《いんしつ》な薄笑いが浮かび、ゆっくりと引き金が絞《しぼ》られていく。
アイラはとても目を開けていられなかった。そして、次の瞬間に生じるだろう衝撃に備え、歯を食いしばった。
突然、闇《やみ》の中からなにかが飛び出す。
白い影が獣《けもの》の雄叫《おたけ》びを上げ、ふたりの間を走り抜けるように跳躍《ちょうやく》した。
地に降り立った四つ足の獣が、悠然《ゆうぜん》と振《ふ》り返る。それは雄々しいたてがみを備えた白い獅子《しし》であった。
獅子の口が、銃を握った人の手を咥《くわ》えていた。
「ぎゃあああああああ――!」
ルーカは絶叫《ぜっきょう》を上げ、地面をのたうちまわった。通り過ぎる一瞬に肘《ひじ》から先を食いちぎっていったのだ。
獅子は手を吐き捨て、低い唸《うな》り声を上げながら、ゆっくりとルーカに近づいていく。前足の片方で男の背を押さえつけ、動けなくしてから、もう片方の足で首のあたりを軽く撫《な》でた。
そう、『撫でた』という表現が適当と思えるほど無雑作《むぞうさ》な動きであった。しかし、それだけでルーカの首半分が、鋭い爪《つめ》によって斬《き》り裂《さ》かれた。
ルーカは一瞬にしてこと切れた。呆気《あっけ》ない最期《さいご》であった。
獅子は死体にまったく関心を示さず、くるりと振り返り、アイラに顔を向けた。
アイラは死の恐怖に体を震わせた。
ルーカに対した時とはまるで質が違う。相手が人間であれば、怒《いか》りを沸《わ》き立たせることができるし、勇気によって恐怖を抑えられる。たとえ、死の淵《ふち》に追いやられたところで、最期まで誇《ほこ》りを失わずにいる自信があった。
だが、眼前の獅子《しし》に対して、なにができるというのか。相手は怒りを覚えずとも、人をいともたやすく屠《ほふ》ることができる。腹が減っている――ただそれだけの理由でだ。
彼と比べれば、人はあまりにひ弱だ。屈強と呼ばれる男ですら、獅子の爪《つめ》のひと撫《な》でで息絶える。そして、己の牙《きば》と頼《たの》む雷発銃《らいはつじゅう》ですら、本物の牙に及ぶべくもない。
荘厳《そうごん》ともいえる白い獅子を目の当たりにして、アイラはすっかり萎縮《いしゅく》していた。
『――恐れることはない』
突然、アイラの頭に〈声〉が響いた。
彼女は慌《あわ》ててあたりを見渡した。むろん、自分以外に人がいるわけがない。怯《おび》えるあまり頭がおかしくなったのかと思った。
『――空耳《そらみみ》などではない。わたしはここにいる。きみの目の前にね』
アイラはまじまじと獅子を見つめた。
「あ、あなたが……」
『――そうだ。この口では話すことができぬ。だから、きみの心に直接語りかけている。うまく通じてよかった。これまで繰り返し試みたが、まるで気づいてくれなかった。距離の問題かもしれんて』
アイラはまだ信じられなかった。だが、落ち着いてよく見れば、獅子の目は、水面のように澄《す》み、知性の輝きを帯びているではないか。
『――背中を向けなさい。縄《なわ》を切ってやろう』
と、獅子がいった。
アイラはその言葉に従った。獅子の鼻が手に触れた時、凍《こお》りつくような恐ろしさを覚えたが、手が自由になると、恐怖はたちどころに去った。
「……ありがとう。おかげで助かったわ」
彼女はようやくまともにしゃべれるようになった。
『――礼には及ばぬ。きみには借りがあるのだ。この命を投げ出したところで、到底返せぬ大きな借りがな……』
「借り?」
『――息子の命の恩人《おんじん》だ。しかも、今も篤《あつ》く面倒《めんどう》をみてもらっている。この感謝の気持ちをどう伝えたらよいか。うまく言葉が見つからない』
アイラは愕然《がくぜん》とした。
「あ、あなたが坊《ぼう》やの――」
『――そう、わたしがヨシュアの父親だ。このような姿をしているがね……』
〈声〉には自嘲《じちょう》の響きがあった。
だが、アイラにはそんなことに気づく余裕がない。あまりの衝撃に、心の整理がつかなかった。訊《き》きたいことが頭の中を渦巻《うずま》いているのだが、言葉になって出ていかない。
人の心は不思議なもので、そういった好奇心《こうきしん》とは別に、少年の名がわかったことを嬉《うれ》しく思う意識があるのだ。
――ヨシュア……ヨシュア……うん、あの子らしいよい名前だわ。
アイラは満足そうにうなずいた。
『――話はこのくらいにしよう。アイラ、きみの身が案じられる。早く服を着替《きが》え、火に当たらねばな。たとえ〈救世主の血〉を飲んでいても、無理は禁物だ』
[#挿絵(img/01_123.png)入る]
そこで初めてアイラは羞恥《しゅうち》を覚えた。ふたつの乳房《ちぶさ》どころか、下腹部の黒い茂《しげ》みまで晒《さら》して平然としていたのだ。
「きゃ」と短い悲鳴を洩《もら》し、アイラはその場にうずくまった。両手は胸を覆《おお》い隠《かく》している。
獅子《しし》が浅く唸《うな》りを上げた。相手が笑ったのだ、とアイラは気づき、自分もおかしくなった。
『――さあ、早く仲間のところに戻《もど》るがいい。きみならば道に迷うこともあるまい。町まではもう少しだ。明日中にはたどり着くことができるだろう』
といって、白い獅子《しし》は立ち去る素振《そぶ》りを見せた。
「待って。最後にひとつ訊《き》かせてちょうだい」
アイラが呼び止めた。
「あなたが駅馬車を襲《おそ》った獣人《ヴィージャ》を倒してくれたんでしょう。そして、旅の間もずっとあたしたちを守ってくれていた。だから、無事にここまで来られたんだわ」
だが、獅子はなにも答えず、闇《やみ》の中に消えていった。一度姿を見失うと、もはや彼女の鋭敏な知覚をもってしても、気配すら感じられなかった。
3
翌朝、アイラたちは朝靄《あさもや》をついて出発した。獅子の言葉を信じれば、きょうのうちにダスターニャの町に着くことができる。そう思えば、足取りも軽くなるというものだった。
昨夜の一件について、アイラはほぼ正直に事実をガルーたちに話した。もっとも、意図して抜いた部分も少なくないのだが……。
ルーカがそのような凶行《きょうこう》に及んだ動機も、アイラの色香に迷ったということに落ち着き、助けに現われた白い獅子も謎のままにされた。
もちろん、突《つ》っ込《こ》んだ質問――とくにトランが――もあったが、彼女は気分が悪いといって、さっさと横になってしまった。
半分は芝居《しばい》ともいえたが、実際、心身ともに大きな痛手を負っていた。
ルーカから受けた仕打ちは、彼女の男に対する不信感を、数十倍にも膨《ふく》れ上がらせた。同じ男であるガルーやトランと、口を交わすことも苦痛だった。そして、あどけない寝顔《ねがお》を浮かべる少年――ヨシュアを抱いて、深い眠りに落ちたのである。
その日は雨季としては上々の天気だった。青空でこそないが、雲はいつもより薄く、時折樹海の天井《てんじょう》を通して、木洩《こも》れ日すら差した。
空が明るいと、鬱蒼《うっそう》とした樹海の景色も一変して美しいものに見える。気温もいつもより暖かめで、馬上のヨシュアも毛布を外していた。
――このまま、なにも起きずに過ぎればいい。
少年を抱いたアイラは、なぜか景色の明るさとは裏腹に不安を覚えるのだった。
太陽が中天を過ぎる時刻になり、単調な旅に変化が訪れた。
街道の行く手から、なにかが近寄ってきたのだ。
真っ先に気づいたのは、やはりアイラだった。彼女は馬を止めて、地面に降り立ち、石畳《いしだたみ》に耳をつけた。
「……聞える。馬の蹄《ひづめ》に車輪の音――馬車よ。馬車がこっちに向かってくるのよ!」
それを聞いたガルーとトランは歓声を上げ、手を取り合って喜んだ。馬の背にいるヨシュアはなんのことかわからず、きょとんとした顔だ。
満面に喜びをたたえたアイラが、ヨシュアを馬から降ろし、頬《ほお》をすり寄せて抱擁《ほうよう》した。
「よかったわ、坊や。あたしたち助かったのよ」
馬車はそれからすぐに一行の前に姿を現わした。襲撃にあった駅馬車と同じ仕立てで、異なる点といえば、二台ではなく一台というだけだ。
御者《ぎょしゃ》が路上で手を振《ふ》るアイラたちに気づき、馬車を止めた。扉が開き、衛士《えじ》たちがわらわらと降りてきた。
「――旦那《だんな》、よくご無事で」
トランの姿を認めた衛士のひとりが、駆《か》け寄ってきた。
「おうおう、おまえたちだったのか。よくきてくれた」
商人の顔にいっそうの笑みが浮かんだ。
彼らはダスターニャの町の衛士で、トランとは顔なじみであった。そして、この馬車自体、到着が遅れた駅馬車の捜索に仕立てられたものだった。
トランはこの十日あまりに起きた事件をかいつまんで話した。
「――それは災難でございましたな。しかし、ご無事でなにより。さあ、町まではあとわずかです。後はわれらが護衛いたしましょう」
衛士の頭はトランをうやうやしく馬車に案内しようとした。
だが、商人は首を横に振る。
「少し待っておくれ。町に入る前にしなければならないことがあるのだ」
「はあ?」
トランの目が妖《あや》しく輝いた。
「まず……その子と女を捕らえて欲しい」
「――なんですって!」
叫んだのはアイラだった。
「旦那《だんな》、なんのご冗談で」
衛士《えじ》の頭は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「説明している暇《ひま》はない。けれど、これだけは約束しようじゃないか。わしの指示に従い、そして、この場で起きること一切を他言しないでくれれば、ひとりあたり金貨五〇枚をあげよう。いいや、すべてがうまくいった場合にはその倍を出してもいいんだがね」
「ご、五〇――その倍!」
衛士たちが色めきだつ。そして、彼らの間に、一瞬のうちに目配せが走った。
男たちはアイラとヨシュアに襲いかかった。
「こら、なにすんだい。この野郎、放せってば」
黒馬が激《げき》したようにいななきを上げ、前足を高々と掲げて威嚇《いかく》に出る。
だが、トランは落ち着いた様子で、腰《こし》の雷発銃《らいはつじゅう》を引き出し、すでに押さえたヨシュアの頭に銃口《じゅうこう》を突きつける。すると、即座に黒馬はおとなしくなった。
トランはにやりと笑った。
「――やはりね。ただの馬じゃないと思っていたよ。さあ、そいつに縄《なわ》をかけるんだ。暴れられないようにな」
幾重《いくえ》にも縄が首にかかる。だが、黒馬は一切歯向かわなかった。いや、少年を人質に取られ抵抗《ていこう》できなかった、といったほうが正しい。それはアイラも同じだった。
「ちくしょう。これはいったい、なんの真似《まね》だい」
厳重《げんじゅう》に縛《しば》られたアイラが、トランの前に引き出され、地面に跪《ひざまず》かされた。
「理由は姐《ねえ》さんが一番よく知っていると思うがね」
「わからないから訊《き》いてんだよ。強突《ごうつ》く張りの小あきんどめ。旅の間、助けてやった恩も忘れやがって。つまらないいいがかりをつけやがったら、ただじゃすまさないからね!」
激《はげ》しい毒舌であった。だが、トランは柳に風とばかりに受け流す。
「まあまあ、姐《ねえ》さん、そう興奮しないで。いいがかりかどうかは、これからわかるんだからね」
彼はいつの間にか、襲撃《しゅうげき》を受ける前の、柔和《にゅうわ》な笑みという仮面を被《かぶ》った、抜《ぬ》け目ない商人に戻っていた。
トランがアイラに顔を寄せた。
彼女はせめて咬《か》みついてやりたい、という衝動《しょうどう》にかられたが、両脇からふたりの衛士《えじ》に肩をがっちり押《お》さえつけられ、まったく動けない。
「気を抜くんじゃないよ。この姐さんは見かけと違って、とんでもない力持ちだ」
商人は衛士に注意した後、アイラに向き直った。
「さて、姐さん。あんたの若返りの秘密をしゃべってもらおうか」
――やっぱり、こいつもか。
いいようのない怒《いか》りが腹から込み上げる。
「なにをいうのかと思えば、はっ――」
「『知らないものは教えようがない』というつもりだろう」
トランは先回りしていった。
アイラは出鼻をくじかれたように、口ごもる。
「ほ、他になんと答えれば、お気にめすんだい。知らないものは知らないんだよ」
「わしはね、かなりのところまで真実を知っているのさ。ただ、当事者であるあんたの口から聞かせてもらいたい。そう思っているんだよ……」
「ほう、そいつはありがたいね。あたしが知らないことを、あんたが知っている。ならば、聞かせておくれな、そのあんたが知る真実とやらをさ」
アイラは思いっ切り相手を馬鹿にした態度を取った。だが、たやすくトランは逆上しない。短気なルーカと、交渉ごとに慣れた商人では、そもそも役者が違っていた。
「いいだろう」
トランは余裕たっぷりに笑った。そして、目線を横にいるヨシュアに向けてから、ずばりいった。
「あんたは白子《しらこ》の坊やから血を貰《もら》った。そのおかげで若返った――違うかね」
思わずアイラは息を飲んだ。その表情をトランは見|逃《のが》さない。
「やはり……ね」
「ちくしょう、引っかけたね!」
アイラは息巻いた。両脇の衛士が慌《あわ》てて肩を押さえつける。
「商売相手が、姐さんのように正直だと助かるんだがねえ」
「どうして、そのことを知ったんだい。まさか、ガルー、あんたが――!」
気弱な役人は、アイラの眼光に射すくめられたようにたじろぐ。
「いやいや、そのお人はなにもしゃべっていないよ。いく度もかまをかけてみたが、どうやら、わしに心を許していないようでね」
「だったら、なんで」
「なに、簡単な推理さ。もっとも、少しばかり下知識があったがね。聞きたいかな」
アイラは首を縦に振《ふ》った。
「実は以前に、とある連中が、競《きそ》って白子《しらこ》を探しているという話を、小耳に挟《はさ》んだんだよ」
「……連中?」
「ひとつがムウの伝道師《ナーカル》どもだ。あんたも見ただろう。あの光る鳥舟《とりふね》に乗っていたのがそうさ。お節介《せっかい》というか、出しゃばりというか、奴らは他の大陸に住んでいるんだが、わしたちを滅亡《めつぼう》から救うんだとか御託《ごたく》を抜かしてやってきているのさ。
もうひとつは――おっと、こいつは口に出せないな。不用意に洩《もら》せば、こちらの命が危《あや》うくなる。
話を聞いた時は、一笑にふしたもんだったが、連中の目当てというのが、どうやら例の伝説とやらに関係しているらしいのだ。知っとるだろう。どこにでもある〈救世主〉の伝説だよ。あんたらのお仲間が、よくお涙ちょうだいの三文|芝居《しばい》に使う題材さね。だが、連中が追っかけているとなると、少々真実味が出てくる。それでよく憶《おぼ》えていたのさ」
「前置きが長すぎるんじゃないかい。そのヨタ話と坊《ぼう》やが、どう結びつくんだい」
焦《じ》れたようにアイラはいった。
すると、商人は「まあまあ」となだめるような手振《てぶ》りをした。
「連中が追っかけている白子は、そんじょそこらの子どもではないんだ。将来、救世主になるかも知れない子だそうだから、当たり前といえばそうなんだがね。
最も大きな特徴は、血にあるそうだ。その生き血をすすれば、どんな病も怪我《けが》も瞬《またた》く間に治り、体内に力が湧き上がり、内も外も若返る。さらに死人を蘇《よみがえ》らせる力が秘められているという。どうだね、まるであんたを指しているようじゃないか。
若返ったあんたを見た時、この話を思い出したのさ。そして、ムウの鳥舟を見た時は、心底|焦《あせ》ったよ。鼻先でこの子をかっさらわれるんじゃないかとね。幸いにして、舟は頭上を通り越《こ》し、杞憂《きゆう》とわかったがね。
昨夜の件――ルーカもおおかた奇跡の血を嗅《か》ぎつけ、あんたをゆすろうとしたんだろう。そこで、あんたは奴《やつ》を殺した――ああ、気にせんでいいさ。わしも虫が好かんかった。憎《にく》んでいたといってもいい。死んでくれて胸がすっとしたよ。そして、白い獅子《しし》のことは、まったくの作り話だな。嘘をつくなら、もっと巧妙にすることだ」
そういって、トランは得意気に笑った。
アイラは否定しない。嘘と思い込んでいるのなら、かえって都合がいいというものだ。彼女はあの獅子が、ヨシュアの父親が必ず助けに現われてくれるものと信じていた。
「――で、旦那《だんな》さんは、あたしたちをどうするおつもりで。ルーカみたいに、若返りの薬を作って売り出す気かしら。確かに大儲《おおもう》けできるでしょうけど、秘密が洩《も》れたら大騒動よ。こんなに大勢が今の話を聞いていたんじゃ、秘密なんて守れませんよ。ことがことですからね、いくら金を積んだところで、洩す人間が必ず現われますよ」
アイラの言葉に、周囲の衛士《えじ》たちが動揺を示した。彼女の目的は不信と不和の種をまくことだ。敵が仲間割れしてくれれば、それだけ有利になる。
だが、トランは破顔一笑した。
「心配には及ばんよ。わしにはそんな危険を冒《おか》す気はさらさらない。衛士諸君にはしばらく――そう、この子を引き渡すまで、黙《だま》っていてもらえば充分なんだ。わしはこの子を取り引きの材料に使うつもりさ。大きな商売のためにね」
アイラの顔が朱《しゅ》を差したように赤くなる。
「坊《ぼう》やを誰に売り渡そうってんだい。そんな真似、あたしがさせるもんか」
「威勢《いせい》のいいことだ――だが、なにができる。若返ろうと、しょせん、あんたは女だ。多少、器量がよいだけのな。姐《ねえ》さんにできることといえば、男を手玉に取るぐらいのものではないのかな」
アイラは歯咬《はが》みして商人を睨《にら》みつけた。
悔《くや》しかった。腹わたが煮《に》えくりかえるほどに。同時に、愛《いと》し子を独力で守り切れぬ、自分の力のなさに嫌気《いやけ》が差した。
うなだれたアイラを見て、トランは勝ち誇《ほこ》った笑いを上げた。
「姐《ねえ》さんには、しばらく我が家に逗留《とうりゅう》してもらおう。賓客扱《ひんきゃくあつか》いはできぬが、あんたら踊《おど》り娘《こ》が泊《と》まる安宿よりは、遥《はる》かに上等だろうて。まあ、それが旅の恩返しだと思ってくれ――おや、ガルー殿《どの》、なんですかな?」
いつの間にか、ガルーがトランのそばにやってきていた。
衛士たちは主人の命令もなく、また、どう見ても危険な人物とは思えなかったので、放っておいたのだが。
ガルーはいつもと違っていた。目は興奮で赤くなり、片側の頬《ほお》が神経質に痙攣《けいれん》している。
「あ、あのですね――ちょ、ちょっと、ひど過ぎるのでは。あ、あんまりですよ」
小心者の役人は強い憤《いきどお》りを覚えていた。ところが、いざ商人に相対すると思うように言葉が紡《つむ》げなかった。
「お役人、あなたのおっしゃりたいことはよくわかりますとも。しかしですな、非道な仕打ちをしようというのではないのです。子どもはしかるべきところに渡す。けれど、相手が虐待《ぎゃくたい》するはずはありません。救世主かも知れないお子ですよ。きっと丁重に扱《あつか》ってくれるでしょうとも。それにアイラさんには、今話していた通り、お礼はきちんといたします」
耳当《みみあた》りのよい言葉が連ねられた。だが、商人にとって都合のよい解釈でしかなかった。
「――そんなの詭弁《きべん》だ!」
ガルーは叫《さけ》ぶがごとくいった。
「本人の意志がまるで無視されている。その子に訊《き》いてごらんなさい。アイラさんと離れることなんて思いもよらないでしょう。白子《しらこ》だって一個の人格を持った人間なんだ。それをわからないあんたは、奴隷《どれい》商人と一緒だ」
トランの顔が引きつった。だが、鋼《はがね》のような自制心で、かろうじて感情を抑えたようだ。
一方、アイラはガルーが示した勇気に目を見張った。このような状況で味方してくれるとは、夢にも思わなかったのだ。
「……お役人、その暴言は聞き流しましょう。あなたも長い旅でお疲れでしょうからね。普段なら思いもせぬことが、つい口にのぼってしまうものです」
そういって、トランは懐《ふところ》をまさぐり、膨《ふく》らんだ巾着袋《きんちゃくぶくろ》を取り出した。そして、中身も確かめず、ガルーに手渡した。
「これがあなたに対する謝礼です。荷物運び、ご苦労さまでした。荷の儲《もう》けがなくなりますが、まあ、口止め料込みということで」
ガルーの体がわなわなと震《ふる》えた。
彼は袋を地面に向かって力まかせに叩《たた》きつけた。盛大な音とともに、金銀の貨幣《かへい》が石畳《いしだたみ》に飛び散った。
「――なにをなさいます」
「馬鹿にするな!」
ガルーは一度も撃《う》ったことのない雷発銃《らいはつじゅう》を腰から引き抜き、トランの胸に押し当てた。
商人は一瞬息を飲むが、ちらりと相手の銃を見ると、余裕の笑みを浮《う》かべた。
「……なにをなさろうと?」
「ふたりを自由にし、このまま行かせるんだ」
「ご冗談を」
ガルーは銃口で相手の胸をつつく。
「俺は本気だ。いうことをきかなければ、この引き金を引く」
「わたしを殺せば、衛士《えじ》たちがあなたを蜂《はち》の巣《す》にするでしょうな」
ガルーは素早くまわりを見渡した。商人の言葉通り、衛士全員が銃口を向けていた。
彼は口に湧《わ》き上がった生唾《なまつば》を飲み込む。
「お、脅《おど》しには乗らない。あんたを人質に取っている限り、彼らも撃《う》てないんだ」
トランは肩をすくめた。
「困ったお人だ。脅しているのはあなたのほうでしょう。そして、わたしが従わなければ、あなたの進退はきわまる。で、わたしはまるでその意志がない」
ガルーは動揺した。相手の落ち着きが、なにを根拠とするものかわからない。自分を見くびっているのだろうか。商人の顔からなにもうかがい知ることができない。また、護衛の男たちにしても、まるで緊張の色がない。面白い見せ物を見物しているかのようだ。
だが、間違《まちが》いなくいえることは、ここで銃を降ろしたら、自分は一生負け犬で終わってしまうだろうということだ。
それだけは死んでも嫌《いや》だった。今こそ一世一代の勇気を奮《ふる》い起こす時なのだ。
「さあ、撃てるものなら、撃ってごらんなさい――臆病者《おくびょうもの》のあなたに、その勇気があるのならね」
銃を握る手が小刻みに震《ふる》え、呼吸が荒《あら》くなる。「早く降伏してくれ」と念じながら、ガルーは引き金をゆっくり引き絞る。
しかし、トランは平然と――それどころか、嘲笑《あざわら》うかのようにくすっと鼻を鳴らしたではないか。
それを聞いた途端、ガルーの頭がかっと熱くなり、思わず指に力を込めていた。
カチャ――
引き金を完全に引き絞ったにも拘わらず、銃は火を吹かなかった。
もう一度。だが、結果は同じだ。
衛士たちの哄笑《こうしょう》がどっと沸《わ》く。正面のトランは苦笑いを浮かべている。
「残念でしたな。雷発銃の使い方を習わなかったとみえる――撃鉄《げきてつ》を起こしてからでないと、引き金を引いても弾《たま》は出ませんよ」
「えっ?」
慌《あわ》ててガルーは手元の銃を見た。
その瞬間、近くで轟音《ごうおん》が鳴り響き、ガルーは腹に熱いものを感じた。
一歩、二歩と頼りなげに後ずさる。
足腰から急に力が抜《ぬ》け、彼は呆気《あっけ》に取られた表情のまま、ぺたんと尻餅《しりもち》をついた。
「――ガルー!」
アイラが悲鳴のような叫びを上げた。
ガルーはなぜ自分が地面に尻をついたか、わからなかった。熱い腹をまさぐると、掌《て》に真っ赤なものがべっとりと付着する。
「血……か。そうか、撃たれたのか」
正面を見ると、いつの間にかトランの手に、銃がおさまっており、そこから煙《けむり》が出ていた。
――俺は死ぬのか……死ぬんだな。
だが、その自覚も、自分には関係のない出来事に思えてならない。まるで実感というものをともなわないのだ。
それでも、腹から流れ出す血の量に比例して、ゆっくりと意識が薄らぎ、ついに目が見えなくなった。
彼の上半身がゆっくりと後ろに傾き、地面に倒れた。その拍子《ひょうし》に眼鏡《めがね》が落ち、石畳《いしだたみ》に硝子《ガラス》片をまき散らした。
4
アイラの目から一粒《ひとつぶ》の涙がこぼれた。
憎むべき男のひとりには違いないが、ガルーは彼女が出会った中では、最もましな男だったのだ。
自分に示してくれた好意を思えば、たむけに涙のひとつもこぼしてあげなければ、女として義理を欠く――そう、彼女は思った。
「姐《ねえ》さん、断っておくが、これは正当防衛だ。奴《やつ》が先に銃を抜き、わしに向かって引き金を引いた。出るところに出たって構わんよ。わしは身の潔白を証明できる」
「街道で法律もくそもないでしょ。生き残った者が正義。死んじまった者が、悪事を残らず背負わされることになるんだわ」
アイラは唾棄《だき》するごとくいった。
「確かに。それが樹海の掟《おきて》というものだ。勘《かん》のいいあんたのことだ。わしが次になにを考えているか、わかっているのだろう」
答えを待つまでもなく、トランは銃の撃鉄《げきてつ》を指で引き起こした。意味することははっきりしていた。
傍らで、衛士のひとりに押さえられていたヨシュアの顔に、怯《おび》えの表情がのぼる。
うなだれたアイラの首が、ゆっくりと起き上がり、上目使いにトランを見据《みす》えた。
琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》に、憎しみの炎《ほのお》が揺らめいていた。
凌辱《りょうじょく》したルーカに覚えた怒りとは、また異なるものだった。一時の激情という点では、確かに昨夜のほうがまさる。だが、この腹の底からふつふつと煮《に》えたぎる怒りは、内容と密度において、いささかも劣《おと》るものではなかった。
「うあっ」
トランは苦悶《くもん》の声を洩《もら》し、彼女の視線から顔を逸《そら》した。
ふいに良心に目覚め、罪の意識がそうさせたのであろうか。
いや――違《ちが》う。
商人は彼女の双眸《そうぼう》に燃え盛《さか》る炎《ほのお》を見た。そして、皮膚《ひふ》を焼かれるような痛みを覚え、慌《あわ》てて顔を逸したのだ。
罪の意識などという生易しいものではない。まさに精神の力が物質に及ぼす物理現象であった。
「よせ、わしを睨《にら》むな」
トランは顔を手で覆《おお》い、狼狽《ろうばい》の声を上げた。
「なぜかしら。あたしはなにもしていない。この通り、縛《しば》られた上、衛士《えじ》ふたりに抑《おさ》えつけられて、身動きひとつできないわ」
言葉を紡《つむ》ぐ間にも、彼女の瞳《ひとみ》は輝きを増し続け、さらにトランの苦悶《くもん》が大きくなった。
まわりにいる男たちは、わけがわからず、うろたえるばかりだ。
「おまえの目は禍々《まがまが》しい――直視に堪《た》えられぬほどにな。そうか、おまえは魔女――魔女だったのか。わ、わしを呪《のろ》い殺すつもりだな」
逆上したトランが、アイラに向けて銃口を振《ふ》り回す。声を頼りに撃《う》とうというのだから、当然|狙《ねら》いがいい加減だ。
アイラを押さえていた衛士が、わっと驚《おどろ》きの声を上げて離《はな》れた。
彼女の右耳近くを銃弾が風切り音を上げて通り過ぎた。当たらなかったといっても、耳の鼓膜《こまく》が破れ、頭を殴《なぐ》られたような衝撃があった。
精神の集中が破れたことで、魔眼《まがん》の力が失われた。トランは覆《おお》っていた手を降ろし、にやりと笑った。
衛士たちが驚きに顔を引きつらせる。
トランの顔が醜《みにく》く変貌《へんぼう》を遂《と》げていた。顔の左半分が火脹《ひぶく》れし、水泡《すいほう》だらけだ。眉《まゆ》や髪《かみ》も焦《こ》げて失われている。片目も焼き魚の目のように白濁《はくだく》し、二度と物を見ることはできそうもなかった。
アイラすらその醜さに息を飲んだ。
周囲の反応に、トランは自分の顔をまさぐる。そして、ようやく火傷《やけど》に気づいた。
「……こ、これを、おまえが……」
呆然《ぼうぜん》自失からアイラへの憎しみへと表情が変化していく。歯を剥《む》き出しにしたその顔は、さらに醜悪《しゅうあく》さを増していた。
石畳《いしだたみ》に倒れたアイラに銃口を向け、躊躇《ためら》わず引き金を引いた。
だが、弾《たま》は石畳に当たって上に跳《は》ねた。
トランが引き金を引く刹那《せつな》、何者かが掴《つか》みかかり、わずかに狙《ねら》いが逸《そ》れたのだ。
「――坊《ぼう》や!」
アイラは見た――トランの腕《うで》にしがみつく白い髪《かみ》の少年の姿を。
ひ弱で、守られるだけの存在だったヨシュアを、かり立てたものは、いったいなんだったのか。
とにかく、ヨシュアは初めて自らの意志で、アイラを救おうと懸命《けんめい》になっていた。
「こ、こいつめ」
トランの手が少年の胸倉を掴んだ。そして、力まかせに地面に叩《たた》きつけた。
ヨシュアの頭が硬《かた》い石畳にぶつかり、鈍い音を立てた。悲鳴は出なかった。一度細い体が地面で大きく跳ねると、そのままぴくりとも動かなくなった。
白い髪が真紅の色に染っていく。
「ああああああ……」
アイラの目は倒《たお》れたヨシュアに釘付《くぎづ》けになっていた。顔面から血の気の一切が失われ、声にならない声を洩《もら》した。
「小僧《こぞう》め、邪魔《じゃま》しくさりやがって」
忌々《いまいま》しげに吐《は》いた唾《つば》が、少年の頬《ほお》に落ちた。
――その時だ。
樹海の木々が一斉にざわめき、鳥たちが空中に舞い上がった。
獣《けもの》の咆哮《ほうこう》が天地を轟《とどろ》かす。
森から白い影が飛び出し、街道を疾風《しっぷう》のごとく駆け抜ける。
白き獅子《しし》は怒《いか》りに目を赤く染め、再び喉《のど》の奥《おく》から雄叫《おたけ》びを上げた。
衛士《えじ》たちが雷発銃《らいはつじゅう》を撃《う》ち放った。だが、獅子の電光の動きに、影さえ捉《とら》えることができない。
銃弾の雨をかいくぐった獅子が、衛士めがけて躍《おど》りかかった。
阿鼻叫喚《あびきょうかん》の声が湧き上がる。
前足のひと振りで腹を切り裂《さ》き、ひと咬《か》みで手足が飛んだ。瞬《またた》く間に、五人の衛士が血溜《ちだ》まりに沈んだ。
獅子の戦闘力は、獣人をも遥《はる》かに凌駕《りょうが》していたといえる。
男たちは戦意を喪失《そうしつ》して逃げ惑《まど》う。だが、怒りに燃える獅子は、新たな犠牲者《ぎせいしゃ》を求めて地を疾駆《しっく》した。
トランは馬車に駆け寄り、御者台《ぎょしゃだい》に飛び乗った。その焼けただれた顔を間近で見て、御者は卒倒《そっとう》しかける。
「馬鹿《ばか》、なにをしている。早く向きを変えろ。逃げるんだ。このままじゃ皆殺《みなごろ》しだぞ」
主人に一喝《いっかつ》され、御者は正気を取り戻す。
「――は、はい」
御者は手綱《たづな》を取り、興奮する馬車馬たちをなんとか操《あやつ》ろうとした。がらがらと車輪を鳴らし、馬車はぐるりと旋回《せんかい》する。
だが、その時、首からたくさんの縄《なわ》をぶら下げた黒馬が、馬車の側面めがけて突進してきた。その目には殺気を帯びた赤い輝きが宿っていた。
「うわああああああ」
御者が悲鳴を上げた。
激突音とともに車体が大きく横に傾《かし》ぎ、腹を晒《さら》して横転した。
ふたりは御者台から放り出され、街道に叩《たた》き付けられた。
呻《うめ》き声を洩《もら》してトランが身を起こす。傍《かたわ》らには御者が仰向《あおむ》けに倒れていた。
「おい、起きろ」
トランは御者を抱《かか》え起こして体を揺さぶる。だが、首はだらりと垂れ下がり、見開いた目からは生の光が失せていた。
「ちっ――」
トランは死体を放り捨てる。
――馬車が駄目《だめ》なら、ひとまず森に身を隠すか。
と、逃《に》げる算段を巡《めぐ》らしていた時、ふいに刺《さ》すような鋭い視線を感じた。
トランは慌《あわ》てて振り返った。
「――!」
アイラが立っていた。その腕にぐったりしたヨシュアを抱えている。
「……逃がしゃしない……あんただけは」
地の底から洩《も》れてくるような陰惨《いんさん》な声であった。その胸にどれほどの憎しみと悲しみ、そして怒りが渦巻《うずま》いていることか。
商人を見据《みす》える彼女の双眸《そうぼう》には、青白い光が煌《きら》めいていた。
反射的にトランは雷発銃《らいはつじゅう》を向ける。
双眸の煌めきが増し、銃を掴《つか》んだ商人の右手が青白い炎《ほのお》に包まれた。
「うあっ」
トランは銃を投げ捨て、手を石畳《いしだたみ》に叩《たた》きつけて火を消そうとした。だが、普通の炎とは違い、熱さをまるで感じない代わりに、なにをしても消えなかった。それでも、火に包まれた手は、皮膚《ひふ》がめくれ上がり、肉を焦《こ》がして、内側へと侵食《しんしょく》していくのだ。
「こ、これは……」
「その炎は絶対に消せないわ。あたしの憎しみが消えない限りね……あんたはその目で、自分の体が灰になるのを拝めるのよ」
アイラの言葉は死の宣告に等しかった。
トランの顔が恐怖に歪《ゆが》んだ。そして、見栄も外聞もなく、相手に背を向け、逃げ出そうとした。
だが、背後には、返り血にまみれた白い獅子《しし》が控《ひか》えていた。そして、森側には黒馬が立ちはだかる。
トランの退路は完全に断たれていた。
そこにヨシュアを抱いたアイラが、ゆっくりと歩み寄る。
「もうおしまいよ……ガルーを殺し、坊《ぼう》やを傷つけた報いを受けるのよ……」
追い詰《つ》められたトランは、突如、狂ったような雄叫《おたけ》びを上げて、アイラに飛びかかった。
次の瞬間、商人の全身が炎に包まれた。その火勢は、今までの比ではなく、見る間に服が焼失し、体が炭化していく。
地面に転がったトランは、炎の中で絶叫《ぜっきょう》を上げ続け、顔の輪郭《りんかく》も定かでなくなった頃、かすれるようにして途絶《とだ》えた。
青白い炎はなおも燃え続け、火勢が衰える頃には、ひと握りの灰しか残らなかった。
アイラは物いわぬヨシュアを抱き締《し》め、嗚咽《おえつ》を洩《もら》した。復讐《ふくしゅう》を遂《と》げてもまったく喜びが湧いてこない。ただただ空しさばかりが募《つの》った。
そんなものより、少年の笑みが欲しかった。いや、笑みでなくてもいい。泣き顔でも、怒《おこ》った顔でも、とにかく目を開けて――と、彼女は切望した。
黒馬がアイラの髪《かみ》に顔をすり寄せた。慰《なぐさ》めてくれているのだろうと思う。だが、彼女はそれに応える気が起きなかった。
『――アイラよ』
獅子の呼びかけが頭に響いた。
アイラは涙ぐむ目を上げた。
「ごめんよ、あんたの息子をこんな目にあわせちまって……」
『――きみの責任ではない。息子は自分の意志できみを救おうとした。そのことを親として誇《ほこ》りに思う』
「でも、このまま死んじまったら……」
『――そのほうが息子にとっては、幸せかも知れない。だが、そうはならないだろう。必ず目覚めると信じている。この先、ヨシュアはいくつもの試練をくぐり抜けなくてはならない。今日のことは、その第一歩に過ぎないのだ』
アイラは力なく首を振《ふ》った。
「そんな、坊《ぼう》やがかわいそうだよ」
『――だからこそ、きみの援助が欲しいのだ』
「あたしになにができるの。トランがいったように、あたしは無力な女よ」
『――そのトランを屠《ほふ》ったのはきみだ。しかし、われらが望むのはそんなことではない。きみが寄せる愛情こそ、息子にとって不可欠なものなのだ』
と、獅子《しし》は熱っぽく語った。
『――援助してくれる者は、他にも現われる。息子を亡き者にしようとする勢力に比べれば、微々《びび》たるものではあるがね。それでも、固い絆《きずな》で結びつけば、大いなる力を発揮する。われらは、そこにわずかな希望を見出しているのだ』
アイラは不思議なものを目の当たりにしたような目つきで、獅子を見つめた。
「あんたは誰なんだい」
『――ヨシュアの父親だ。それ以外のなにものでもない』
質問をはぐらかされたような気がしたが、不愉快《ふゆかい》な気分にはならなかった。アイラが少年を守ろうという気持ちは理屈ではない。ならば、少年に対する愛情こそがすべてであり、獅子の言葉は、それをいい表わしたものではないだろうか。
『――納得してくれたようだね。では、新しい仲間の様子を見にいこう。処置が遅かったので、いささか心配だ』
アイラは少年を抱いたまま立ち上がる。
「ガルーのことだね。本当に生き返るのかね。いわれた通りにしたけど、その時には心臓が止まっていたんだよ」
『――いささか異常は出るかも知れん。すぐにわかるだろう』
「人ごとだと思って。無責任だねえ」
アイラの口元にかすかに笑みらしきものが浮かんだ。
ふたりと二頭は、復活を待つガルーのもとに向かって歩き出した。
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【第三章 樹海の町】
1
そびえ立つ巨大な扉を、アイラは声を失ったように呆然《ぼうぜん》と見上げた。
ここはダスターニャの玄関口である門の前。彼女は昏睡《こんすい》するヨシュアを連れて、街道を進み、ようやく町にたどり着いたのだ。
門の大扉は、アイラたちを拒《こば》むかのように、固く閉ざされていた。また、樹海の木々と肩を並べる高い石壁が、その左右に広がっている。前にいた町でもそうだが、この壁は町全体をぐるりと取り囲んでいるのだ。
樹海に点在する人間の集落は、すべてこういった高い壁で守られている。さもなくば、日を置かずして植物に侵食され、樹海に没してしまうだろう。
壁と森との間には、かなり広い空間があった。地面を見れば、土の部分が覗《のぞ》けないほどに、太い切株がびっしりと隙間《すきま》なく並んでいた。遠くからカーン、カーンと斧《おの》を使う音が聞えてくる。今も住民によって切り出しが続けられているのだろう。前の町でもそうだったが、樹海の植物は成長が早く、それこそ雨季には、毎日のように切り出さなければ、手がつけられなくなる。現に近くに見える真新しい切株からは、早くも細い枝が伸び、青々とした葉を茂らせている。
町の住民にとり、毎日が樹木との戦いだといって過言ではない。
門の大扉の下側は傷だらけだ。縦横無尽に走った爪の痕《あと》から見て、獣か獣人が攻めたのだろう。そして、黒ずんだ染みは血の痕跡《こんせき》に違いなかった。
その上に、人の頭ほどの穴がいくつも並んでいる。門の外を見張るためのもので、戦いに際しては、雷発銃《らいはつじゅう》を下に向かって撃ち込む銃眼ともなる。
見張り穴のひとつで、影が動いた。黒馬に乗ったアイラたちを認めたのだろう。すぐに大扉の下についた小さな――それでも馬が通れるほどの――通用門が開いた。
「あんたたちだけかい」
出てきた男が、警戒感を漂わせて問いかける。突き刺すような視線を感じて、門のほうを見ると、見張り穴からいくつも雷発銃の銃口が突き出されている。なにかあれば、即座に戦う用意があるということだ。
「ああ、そうだよ」
アイラは心から安堵したように答えた。不審を抱かれては町に入れなくなる。
「ケオナを出発した駅馬車に乗っていたんだけど、途中狼の群れに襲われて、あたしとこの子だけが生き残ったのさ。無事たどり着けて、ほんとほっとしたよ」
見張り役の衛士《えじ》は、顔の緊張を解いた。そして、背後に大きく手を振る。「大丈夫だ」という合図に違いない。
「やっぱり襲われたのか。到着がずいぶん遅れているから、みなで心配していたんだ。そういえば、途中馬車に出くわさなかったか。迎えが向かったはずなんだが」
アイラは眉《まゆ》をひそめて見せた。
「あれのことだね……ここに来る途中見かけたよ。横倒しになった馬車と、道にできたたくさんの血溜まりをね。あたしたちが通りかかった時には、まだ血も乾いていなかったから、直前に襲われたんだね。死体はひとつも残っていなかったよ。森に引きずり込まれたんだろうさ」
「……そうか、運がない連中だ。助けに向かって、あべこべに殺されちまうとはな」
「おかげで、あたしたちが助かったのさ。飢えた獣の前に、のこのこ顔を出さずにすんだんだからね」
「気に病むことはないさ。奴らもそれが仕事だったんだ。姐《ねえ》さんは運がよかった。それでいいんじゃないのかね」
衛士は人のよさそうな笑顔を浮かべ、慰めてくれた。
アイラは胸に罪悪感の痛みを覚える。彼らを全滅させたのは自分たちなのだから……。
「まあ、なんにせよ、生きてたどり着いてなによりだった。さあ、疲れているだろう。中に入って休みなよ。いろいろ訊きたいこともあるからな」
「そうさせてもらいたいんだけど。連れが……」
といって、アイラは懐《ふところ》に抱いたヨシュアに目を落とす。
「……怪我《けが》をしているのかい」
ヨシュアの顔は白くはなく、頭髪は包帯で隠されていた。そして、毛布にくるまれて手足も見えない。
傷は本物だが、それ以外は白子であることを悟らせないための変装だった。顔はアイラの舞台用の化粧品で、肌に色をつけていた。
「そうなんだよ。頭を強く打ってね。だから、早いとこ、ゆっくり横になれる場所に連れていきたいんだ」
「そいつはいけないな。なんなら、医者を呼んでやろうか。知り合いに腕のいいのがいるぜ」
「ありがとうよ。けど、見た通り貧乏でね。とても、お医者にかかる金まで工面できないのさ。かわいそうだけど、自分の力で目を覚ましてもらうしかないんだ」
実をいえば金自体は問題がない。
ガルーが地面に投げ捨てたトランの金を、拾い集めてあったからだ。けれど、医者にかければ当然白子であることが露呈《ろてい》してしまい、騒ぎが起きるだろう。それは避けねばならなかった。もっとも、容体が悪化することにでもなればそんなこともいっていられないだろうが……。
「――わかった。取り次いでやるから、手続きをして、その子を早く休ましてやんな」
アイラの言葉を、衛士《えじ》は納得してくれたようだ。
門の脇の詰め所で、アイラは町に入る手続きをした。
専門の役人が、名前、年齢、職業、前にいた町の名、滞在目的、期間などを尋ねてくると、アイラは年以外は正直に答える。ヨシュアは自分の弟ということにした。
「――ほう、姐さんは踊《おど》り娘《こ》かね。ぜひ、舞台を見てみたいものだね」
役人はニヤニヤと笑みを浮かべ、向い合った彼女の開いた胸元に視線を這《は》わす。
アイラは皮膚《ひふ》が粟《あわ》立つようなおぞましさをこらえて、にっこり笑う。
「うれしいねえ。お役人さんがお馴染《なじ》みになってくれたら」
「店は決っているのかね」
「いいや、まだ――ああ、ちょっと訊《き》かせてもらいたいんだけど、〈メルカ一座〉はまだこの町にいるかね。踊り娘の一座なんだけど」
「メルカねえ……少し待ってくれよ」
役人は席を立つと、背後の棚から厚い背の台帳を引っ張り出した。
「メルカ、メルカ……あった」
役人が顔を上げた。
「ほんと」
アイラの顔がぱっと明るくなる。
「日付は四年前だ。まだ、台帳に残っているってことは、まだ町にいるはずだ。あんたの仲間かね」
「ああ、昔、世話になった人さ。ここにきたのも、その人がいてくれればと思ってね」
「そりゃよかったじゃないか。まあ、あんたほどの美人だったら、つてを頼らずとも、舞台に困ることはないだろうよ。店が決ったら伝えにきてくれ。必ず顔を出すからな」
今度はアイラも本心から微笑んだ。
不思議なことに、話をしているうちに、踊りたくて体がむずむずしてきた。こんな気分は本当に久しぶりだった。
「――滞在期間はとりあえず一月《ひとつき》だね」
役人が再び、手続きに戻った。
「ええ、仕事の様子を見て、先のことを決めるつもりよ」
「それが無難かな。保証金はふたりで銀貨一〇枚、手続き費用と今月分の滞在税で銀貨三枚――大丈夫かね」
大金である。だが、役人に文句をいったところで安くしてくれるはずもない。アイラは黙って金袋からいわれた通りの貨幣を出した。
「結構。では、これが鑑札だ」
といって、アイラの前に金属製の薄い札を二枚出した。そこにはきょうの日付が、すでに刻印されていた。
「わかっているだろうが、一月以内に町を去るなら保証金は手つかずで戻る。それを過ぎると一月ごとに二枚ずつ税として徴収される。きょうから数えて半年後にこの金はなくなり、改めて保証金を収めなければ、不法滞在となる」
「念を押すまでもないさ。前の町もそりゃ厳しかったからね。せいぜい稼いで、お役人の手をわずらわさないようにするよ」
「それがいい。この町も最近とみに不法滞在者が増えて、扱いがさらに厳しくなった。前は町の外に放り出すだけだったが、今では額に焼きごてで印をつけることにした。そうしないと、性懲《しょうこ》りもなく舞い戻ってくるんでね」
アイラの頭に、ヨシュアの背に刻みつけられた紋章のような焼印が浮かんだ。
――坊やはどんな罪を犯して、あれをつけられたのかね、と、ふと気にかかったのだ。
役人が怪訝《けげん》な顔で見つめてくる。
「おや、どうしたのかな。顔色が悪いが」
「いや、ちょっと想像して、ぞっとしたのさ。さぞかし辛いだろうと思ってね」
と、アイラはごまかす。
役人は肩をすくめ、
「われわれとて、むごい仕打ち、と思わないでもないが……そうでもしないと、町が人でいっぱいになってしまうのだよ。止むに止まれず、と理解してもらいたいね。今だって、宿なしが溢《あふ》れかえっているくらいだ。あんたも、稼げるうちに稼いで、早目にいい男を捕まえておくんだね」
彼女は「余計なお世話だよ」という言葉を喉《のど》の奥に飲み込んだ。
アイラは少年を背負って詰め所を出た。黒馬がそのあとに従う。
門の前から幅の広い街路が真っ直ぐ伸び、両脇に灰色の建物――たいていが平屋作りだ――と露店が軒を連ねている。街路樹は見当らない。いや、町の中では食用となるもの以外、一切植物は置いていないのだ。
アイラは通りのほうには向かわず、町を囲む外壁に沿って歩いた。少し離れた場所に馬を預かってくれる厩舎《きゅうしゃ》があると聞いたからだ。
宿屋にしても下宿屋にしても、馬を預かる施設はない。かといって、裸馬同然のこの馬をそこらに繋いでおけば、必ず盗もうとする不届きな輩《やから》がいるだろう。頭のよいこの馬がそう簡単に従うとは思えないが、争って相手に怪我をさせたりすれば、それはそれで問題となる。金がかかろうと、安心できるところに預けるしかなかった。
「――こりゃ、凄い馬じゃ」
厩舎の親父は、黒馬を見るなり感嘆の声を上げた。
確かに馬房に並ぶ馬で、黒馬にまさるものは一頭もいない。ここしばらく一緒にいたためか、アイラの目には、どれも貧弱で、毛並みの色艶《いろつや》が悪く、頭が悪そうに映る。親父の目の輝きを見れば、それが正しいと証明してくれる。
親父はかなりの熱意を込めて売ってくれ、と申し出てきたが、アイラはにべもなく断った。友だちを売れ、といわれているようなもので、心中の怒りが少なからず表に出ていた。
その迫力に気後れしたのか、親父は引き下がった。
「――で、そいつの名前は」
親父が無愛想に尋ねてくる。
「名前じゃよ。餌《えさ》をやるにも、藁《わら》を敷き変えるにも、名前を呼んでやらんとな」
当惑するアイラの脳裏に、ひとつの名前が浮かんだ。
「……エディラ、そうエディラよ」
口に出してみると、思いつきとは思えないほど黒馬にしっくりする名だった。
「ふん……エ・デ・ィ・ラね」
親父は壁にかかった石板に、荒々しい字で名をしたためた。
「ひとつ頼みがあるんだけど」
アイラはもうひとつの思いつきを口にした。
「なんじゃ」
「隣は鍛冶屋《かじや》だね。あれも親父さんが」
「ああ、そうじゃ。うちは馬具の仕立てもやっている。それと修理もな」
「だったら、この馬――エディラに一式あつらえてくれないかい」
「そりゃ、おあし[#「あし」に丸傍点]をもらえれば、いくらでも引き受けるがね。ただ、こいつは体が大きい。鞍《くら》や蹄鉄《ていてつ》は特別あつらえってことになる。安くはないぞ」
「いくらだい」
親父は値踏みするような目で、アイラを眺め見た。
「銀貨一五枚」
「高いよ。相場の倍だね」
はったりである。彼女に馬具の値段などわかるはずもない。
「まさか、せいぜい五割増しってところじゃ。そのぐらいの上乗せは認めるんじゃな。特別あつらえといったろう」
「一二枚にしとくれよ。預かり賃も取るんだろ。町に着いたばかりで、懐が寂しいんだ」
親父はひとしきり唸《うな》ると、
「全部が全部、新品でなくてもいいのなら、負けてもいい。ただし、前金じゃぞ」
アイラは内心の笑みを抑えて、
「仕方ないね。それで手を打つよ。その代わり、ちゃちなものはよしとくれ。見栄えはともかく、長旅にも耐えられるがっちりしたものを頼んだよ」
親父の顔はさらに渋面となった。
アイラが馬具を注文したのは、そう遠くない日に、町を旅立たねばならぬという予感があるためだ。
ヨシュアの風体はあまりにも目立つ。化粧でごまかすにも限界がある。一生部屋に閉じ込めておくわけにもいかないのだ。さりとて、町以外の場所で、人が暮らしていけるはずもなく、先々の見通しはまるで立っていない。
彼女の唯一の心の支えである、白き獅子《しし》――ヨシュアの父親――も、近いうちに再会することを匂わす口ぶり(?)だった。
町に入った一番の理由は、ヨシュアの意識の回復を待つためだが、もうひとつ、ガルーとの合流を果すためもある。
ガルーは、アイラのように即座に復活しなかった。心臓は鼓動《こどう》を打たず、体はまるで石のように固くなった。
〈救世主の血〉の投与が遅れた影響だ、と獅子はいった。だが、こんな状態でも、ガルーは死んでいない、確かに生命の息吹きを感じる――と。
もっとも、彼にも、この先ガルーがどのような変化を示すかわからない。目覚めるにしても、それがいつのことか見当もつかないそうだ。
そこで、アイラはヨシュアを連れてダスターニャに向かい、獅子がガルーの体を見守ることにしたのだ。
たとえガルーが復活したとしても、自分とヨシュアの助けになるのか、アイラには疑わしかった。
もともと彼はアイラより二つ、三つ年下で、病にもかかっていなかった。かわいそうないい方だが――「それで、あの程度」である。若返ったところで、身体的な変化は乏しいだろうし、なにより、あの性格では、荒事にはまったく不向きだ。
むろん、アイラに生じた発火能力が、彼にも具《そな》わる可能性はあるだろう。だが、彼女自身思いのままになる力でなく、この先どれほど役に立つ力かわからないのだ。
ただし、ガルーと逢いたいという気持ちが皆無というわけではない。
正直いって、彼女は半ば途方に暮れていた。
長年、誰にも頼らず生きてきた彼女であるが、それは身軽だったから、自分ひとりが食っていくことだけを考えればよかったから、できたともいえる。
逆にいえば、ヨシュアと出会ったことで、今までの人生がいかに味気なく、空虚だったかを思い知らされたのだが、こと現実面に関して、意識不明の重体の傷を負った子どもを抱《かか》えて、不安の虜《とりこ》にならないほうがどうかしている。まして、『呪《のろ》われた白子』とあっては、おいそれと人に相談もできない。
アイラが精神的な支えを、ガルーに求めたとしても、それを身勝手と責めることは、誰にもできないだろう。
厩舎《きゅうしゃ》でエディラに束の間の別れを告げたアイラは、宿を求めて、町の盛り場に向かった。
ヨシュアを背負い、後ろ手に大きな荷物を持っていたが、さほど辛くはなかった。
もはや、以前のなん倍も力が強くなり、屈強な男並みの体力を持っていると、自覚せざるを得なかった。怒りの思念で人を焼き殺す発火能力といい、自分がすでに普通の人間でなくなっている、と考えることは、あまりよい気分ではなかった。
――確かにあたしは魔女なのかもしれない。
露店の並ぶ通りを歩きながら、アイラは、トランがいった言葉を思い出していた。
通りは人で溢《あふ》れていた。しかし、活気は乏《とぼ》しい。店には売り物が少なく、あっても値段は目が飛び出るほど高い。道ゆく人も多くは、恨めしげな目で値札を見つめ、通り過ぎるだけだ。
滞在税もそうだが、前にいたケオナの町より、物価が倍近いのでは、と思う。町自体が大きくとも、決して暮らしやすい土地とはいえないようだ。
――噂なんて当てにならないもんね。
と、アイラは溜息を吐いた。
盛り場近くの古びた宿屋で、当座の部屋を見つけることができた。
宿の女将《おかみ》は無愛想であった。
怪我人を連れた女に、宿代が払えるものか、と露骨に疑っている顔つきだった。
むかっ腹を立てたアイラは、帳場の台にトランからかっさらった金袋をドンと降ろし「保証金だよ」といって、金貨を一枚|叩《たた》きつけた。この程度の安宿なら、優に半年は居座れる額だった。
女将は目を白黒させた後、たいそう愛想よく、ふたりを二階の客室に案内した。
「うちで最上級の部屋ですよ」という言葉と裏腹に、溜息が洩《も》れるほど安っぽかった。
けれど、文句をつける気にはならない。廊下を通る際、開け放たれた扉から見える他の客室はもっと汚く、狭かったからだ。確かにここが最も上等な部屋なのかも知れない。
あの金があれば、もっといくらでもいい宿を取れるかもしれないが、いつまで、この地に滞在するかわからない現状では、倹約するに越したことはない。それに、彼女は無意識のうちに目立つ行為を避《さ》けようとしていたのだ。もっとも、金貨を叩きつけたことは失敗だと思うが……。頭に血がのぼりやすいことが彼女の欠点である。
アイラはヨシュアを寝台に横たえると、女将に柔らかく煮込んだ麦粥《むぎがゆ》と、熱い湯をたらいに一杯分、それに清潔な布を頼んだ。なにはともあれ、ヨシュアの看護が先だった。
心付けを添えて金を渡すと、女将は「ただちに」といって階下に飛んでいった。少なくとも金が続く限り、ここの居心地は悪くないに違いない。
窓辺に近寄り鎧戸《よろいど》を開けると、雑踏の賑《にぎ》わいとともに、夕暮れの冷えた風が吹き込んできた。空は暗くなり、町のあちこちに灯《ひ》がともり始めていた。
アイラの胸の裡《うち》に、ようやく人間の世界に帰ってきたのだ、という安堵が湧き上がる。
街道にいたのは、およそ半月の間だが、何年も旅を続けていたように思えてならない。どれほど住みにくかろうが、人の心が荒《すさ》んでいようが、樹海にいる時の孤独感に比べれば天国のようだと実感した。
樹海は人の住む世界ではないのだ。
風に乗って、楽器の調べが聞えてきた。彼女に覚えのある曲だった。
――『麗《うるわ》しのマルーサ』!
アイラは思わず窓から身を乗り出していた。昔、彼女が初めて舞台で踊った曲だったのだ。それは軽快な拍子に乗って踊る激しい舞いで、体が満足に動かなくなってからはずっと敬遠していた。
――けど、今のあたしなら!
知らず知らず、彼女の足は、曲の節《ふし》に合わせて拍子を取るように、つま先で床を叩《たた》いていた。
体は疲れていたが、ふいに目覚めた踊りに対する欲求は、それを上回っていた。
けれど、寝台には昏々《こんこん》と眠り続けるヨシュアがいた。
――この子を置いてどこにいくというの。
上気した頬《ほお》の熱が、見る間に冷めていく。
踊りとヨシュア、どちらを選ぶかと問われれば、迷わず少年を取る彼女だった。
トン、トンと扉が鳴る。
女将《おかみ》だった。注文した品を持ってきてくれたのだ。
アイラは礼をいって受け取ると、鎧戸を固く閉じ、さっそくヨシュアの世話にかかった。少なくとも、愛《いと》し子に専念していれば、踊りの欲求を忘れられるはずだった。
古い包帯を捨て、固まった血でパリパリになった傷口を、備え付けのたらいに注いだ湯で洗う。残りの湯は、体の汚れを拭うためにとっておく。
幸い、頭の傷は血も乾き、膿《う》んだ様子もない。街道ではたいした手当もできず心配していたが、これなら大丈夫だろう、とアイラはほっと息を吐いた。
もっとも、頭の場合は見た目がひどくなくても、ぽっくり逝くということがままある。心の底から安心するには、少年の目覚めを待つしかなかった。
少年の髪を洗い終わると、最初のたらいは血で赤く染った。その湯をこっそりと窓辺から眼下の人気のない路地に捨てる。
次は体だ。まず、顔に施した変装の化粧を、専用の油落としで拭い去り、もとの白い肌を出した。
アイラは思わず手を止め、ヨシュアの顔に見蕩《みと》れてしまった。
なん度見ても美しいと思わずにいられないが、灯の下で見る姿は、普段の無垢《むく》な清らかさとは違って、艶《あでや》かさというべきものを感じ、胸をときめかせていた。
今のアイラの心を支配していたのは、母性ではなく、自ら胸の奥に封印した〈女〉であったのかも知れない。けれど、本人には自覚がない。あくまでも、遠い昔に失ったわが子のように愛情を注いでいるつもりだった。
呪縛《じゅばく》は長く続かなかった。
われに返ったアイラは、せっかくの湯が冷めてはいけないと、慌《あわ》てて手を動かし始めた。
すっかり、旅の汚れを落とし、服を替え、口移しに食事を与えると、心なしかヨシュアが安らかな表情になったように見える。
その時、見せたアイラの微笑みは、間違いなく母親のものだった。
2
泥のように眠った翌朝、アイラはヨシュアをひとり部屋に残して表に出た。
少年になにか精のつくものを買い求めるためだ。外出している間、様子を見てくれる人がいるわけではなく、急いで戻るつもりだった。
町の中心近くまでくると、さすがに賑《にぎ》わいが出てくる。通りに沿って市が立ち、野菜や果実、肉といった食べ物の他、布地、木工製品、金物、酒など、ありとあらゆる品々が並べられていた。もっとも、量は豊富だが、きのう見かけた門近くの店より値が張る。それでも、買う人間は買うようで、結構商いになっているようだ。
――結局、貧乏人はどこでも住みにくいってことは変わりないわけね。
アイラは暗い気分になった。
しかし、あちこちの店を覗《のぞ》いているうちに、彼女の固くなった心もほぐれていった。生来、陽気かつ楽天的な性格で、ぐちぐちと悩むのは決して好きではないのだ。
市場には、人出を当て込んだ大道芸人、見せ物、変わった物売りも出ていた。これもまたどこの町でも見かける光景といえよう。
そのひとつに大きな幕舎を構える見せ物小屋があった。そこの看板は、狼の顔をした獣人のおどろおどろしい絵だった。
「――さあさあ、本日の出し物は、そんじょそこらで拝めるしろもんじゃないよ。樹海の奥地に踏み込み、ようやく手に入れた正真正銘の獣人《ヴィージャ》の仔《こ》だ。これを見ないと一生悔いを残すよ」
客引きの口上に、道行く人々の足が止まった。アイラもそのひとりだ。
樹海の住民には、獣人の怖《こわ》さ、恐ろしさが骨身に染み込んでいる。だが、その姿をはっきりと見た者となると、ほとんどいないのが現実だ。獣人が人前に出るのは夜だけ。しかも、彼らの動きは早く、暗闇で全身を捉《と》らえるのは至難の技《わざ》だ。そのため、想像や憶測ばかりが膨《ふく》れ上がり、実物よりもおぞましい姿を思い浮かべる者が多かった。
したがって、獣人が見せ物にかかるとなれば、人々が強い興味を持つのも至極当たり前といえた。
小屋の中に人が殺到した。アイラもその中に混じっていた。樹海で命からがらの思いをした彼女としては、獣人など見たくもなかったが、運悪く呼込みがあった時、ちょうど前を通りかかっていたため、押し寄せる人の波に飲まれてしまったのだ。
小屋の主のような男が、布の覆《おお》いがかかった檻《おり》の前に立った。さほど大きくはない。高さが横に立つ男の胸あたりまでだ。
「そんな小さい檻に獣人が入るのかよ!」
と、早々に見物人から野次が飛ぶ。
だが、男は動じない。
「お客さん、ここにいるのは、獣人でも子どもの獣人ですよ。大人の獣人だったら、どれほど頑丈《がんじょう》な檻だって、閉じこめておけるもんですか。奴らがどれほど馬鹿力かご存じでしょう。子どもだって、手に入れるに当たっちゃ、大変な苦労と危険を冒《おか》したんですから」
男の言葉には「なるほど」という説得力があった。
小屋主はゴホンと咳《せき》払いをしてから、満場の客に挨拶《あいさつ》をし、自分が〈都〉からはるばるやってきた、街道でも名高い興行人クロムだと名乗った。
そして、口上として、この獣人の仔を捕らえたいきさつを熱弁し始めた。だが、すぐに客の間から「前置きはいい、早く実物を見せろ」といった焦《じ》れた声が上がる。
アイラもまったく同感だった。早く終わってくれなくては、帰るに帰れない。
不満の声の多さに、クロムは屈したようだ。
「――では、ご覧にかけましょう。樹海の怪物、獣の王者――獣人の子どもです」
檻の幕が勢いよく引き剥《は》がされた。
しかし、見物人から上がったのは、感嘆や驚愕の声ではなかった。その声は失望、あるいは当惑を表わすものだ。
檻の奥に小さな狼の仔《こ》が、牙《きば》を剥《む》き出しにして、唸り声を上げていた。毛の色は火のような赤褐色で、狼としては珍しい色だ。だが、見せ物小屋にいるとなれば、人為的に着色したとも考えられる。だが、なによりも狼は狼であって、獣人ではない。
客の当惑、不審を察知したクロムは、すかさず前に進み出た。
「まあまあ、偽物《にせもの》などと決めつけるには早いですぞ。みなさまが知らぬ獣人の秘密が、今から明かされるのです。それをお聞きになってからでも遅くはないでしょう」
帰りかけた人たちが思い止まる。クロムは満足の笑みを浮かべて話を続けた。
「獣人の秘密――それは変身能力です。われわれが思い描く獣人の姿、すなわち二つの足で立ち、獣の頭、毛むくじゃらの体――これは奴らの一形態に過ぎません。つまり、獣人は完全な獣の姿から、人と獣を合わせたような中間体へ、そしてさらには完全な人の姿へ、と三つの形態に変身を遂《と》げるのです」
クロムの言葉は、客の間に騒ぎを巻き起こした。獣人に関する逸話《いつわ》は、それこそ数限りなくあるが、そのような話は初めてだった。
まして、人間の姿になるなどと聞かされ、客たちは思わず、自分の回りを見渡した。もしかしたら、獣人がなに食わぬ顔で人間の世界に混じっているのでは、と恐れを抱《いだ》いたのだ。
「みなさま、ご安心ください」
客の空気を感じ取り、クロムがなだめにかかる。
「奴らはそう知能が高くありません。言葉すらろくに解さないのです。そんな連中が潜《もぐ》り込んだところで、すぐにばれてしまいます。それどころか、人に化けて町に入ろうなどと思いつきもしないでしょう。ですから、隣人を疑う必要はありません」
客の間に安堵の空気が流れる。アイラでさえ思わずほっとした。
最前列近くで、地べたに座っていた客のひとりが、すっくと立ち上がった。
「――今の話が本当だとしてもだ。そのチビ助が、獣人の仔だという証拠にならねえな。本物なら俺たちの目の前で、変身するところを見せてもらいてえ。それができなきゃ、やっぱり偽もんってこった。なあ、そうだろう」
最後の言葉は、他の客に投げかけたものだ。途端に、幕舎が震えるほどの賛同の叫びが湧き上がる。
「わかりました、わかりました――」
と、興行人は声を張り上げ、騒ぎを鎮《しず》めようとした。
「お客さまの申しようももっともです。もともと、わたくしどもも一番の見せ場として、最後に変身をお見せする予定だったのです」
どよめきと拍手がおさまると、クロムは棍棒《こんぼう》を持って檻の前にきた。そして、赤毛の狼に向かって、
「お客さまに、おまえの本当の姿をお見せしろ」
興行人は檻の鉄格子を棍棒で激しく叩く。だが、狼の仔は怒りを小さな体に漲《みなぎ》らせて吠《ほ》え返すだけだ。
「なにをしている。早くしろ。さあ――」
棍棒がさらに激しく打ち鳴らされたが、いっこうに変化の兆《きざ》しがない。始めは固唾《かたず》を飲んで見ていた客も、呆《あき》れた顔で帰り始めた。
こうなっては、本当に変身を見せない限り、客の足を繋《つな》ぎ止めることはできない――とばかりに、クロムはわれを忘れたように格子を打ち続けた。
だが、最後まで狼の仔に変化は現われず、小屋からひとり残らず客は消えてしまった。
クロムは地面に棍棒を叩きつけ、それでも気がおさまらないのか、狼の仔がいる檻を力まかせに蹴《け》った。中でギャンと悲鳴が上がる。
「きさまのせいで、せっかくの儲《もう》けがふいだ。変身するまで餌《えさ》も水もやらんぞ」
そういい残し、クロムは荒々しい足取りで表に出ていった。
狼の仔は人の気配がなくなると、吠え立てるのを止め、その場にうずくまった。そして、悲しげに鳴き始めた。
赤毛の狼は、捕らえられて以来、人が与える餌も水も一切口をつけようとしなかった。ここに運ばれる途中、雨水を飲んだだけだ。絶食を始めてそろそろ六日。体は毛皮にたるみがでるほど痩《や》せ細っていた。
飢えと乾きは、極限まできていたが、この狼の仔は、死んでも人間に屈する気はなかった。
「やれやれ、とんだ時間の無駄だったよ」
アイラは買い物を急いだ。
市場を巡り、彼女は栄養があるという青い瓜《うり》をいくつかと、ヨシュアに似合いそうな古着と革長靴を手に入れた。
今までは自分の替えを着させていたが、まったく寸法が合わず、柄《がら》も派手で、しかも女物だったので、なんとかしてやりたい、と思っていたのだ。
他人の服を買うなど、初めての体験だったが、少年がこれを着た時の様子を想像しながら、あれこれ選ぶのは、自分のものを求める時と、また違った楽しさがあると知った。
残るは薬だ。
市場にも薬を売る露店がいくつもあったが、こればかりは、信用がおける店でなければ駄目だ。道端の雑草や家のカビを飲まされたのではたまらない。
アイラは表通りを外れ、路地に入った。瓜を買った店の親父に、腕のよい錬金術師《れんきんじゅつし》の家を聞いておいたのだ。
入り組んだ路地をいくつも抜け、目当ての家を探し出した。玄関の上に錬金術師であることを示す、風と火と水と土の四つの紋章が並ぶ看板がかけられていた。
表札には、やたら長ったらしい名前が書いてあったが、アイラは頭だけとって、デルの家と憶えた。
アイラは玄関脇の紐《ひも》を引き下げた。中でチリン、チリンと鈴の音が鳴っている。
扉が開き、陰気な顔の徒弟《とてい》が出迎える。
「薬を調合してもらいたいんだけど」
アイラが用向きを話すと、徒弟は黙って扉を閉めた。帰れという意味なのか、取り次ぎに行ったのか、判断に苦しむところだが、彼女は待つことにした。錬金術師はたいてい気難しく、変り者である。気分を害せば、王さまの頼みでも蹴ってしまう。
しばらくして再び扉が開いた。先程の徒弟が中に入れと手振りで示した。
暗い廊下を通り、不思議な部屋に案内された。
硝子《ガラス》や真鍮《しんちゅう》の管が、部屋中に張り巡らされ、用途もわからぬ機械が、ところ狭しと並んでいた。硝子管にはさまざまな色の液体が通い、機械は歯車を回し、時おり蒸気を吹き上げていた。また、壁の棚には、色とりどりの粉や液体が入った瓶《びん》が並び、中には液体に浮かぶ小動物の標本のようなものもあった。
アイラは、ここが錬金術師の実験室なのだろうと思った。このような場所まで通されたのは、初めてのことだ。彼らは徹底的な秘密主義を貫いている、と聞いていた。
もっとも、彼女にはこれらの機械が、どんなことに使われているのか、さっぱり見当もつかないのだが……。
「――おもしろいかな」
突然、機械の奥から声がかかり、アイラはドキッとした。
袖《そで》のない青い貫衣に身を包んだ男が、そこにいた。彼が錬金術師のデルなのだろう。年は初老といったところで、風貌《ふうぼう》に取り立てて目立ったところはない。町ですれ違っても、これが錬金術師とは思わないだろう。
「――ああ、どれが金を作る機械かな、と思ってね」
デルはそれを聞いて笑った。
「ここに入った人は、皆そういうね。錬金術師が日夜、鉛から黄金を作っていると思い込んでいるようだ」
「違うのかい」
デルはかぶりを振って、
「まあ、ある一面正しくはあるが、実像とはほど遠い、と申しておこう。物質としての黄金など、そう大した価値はないよ。そこらの山を掘れば出てくるものなどに、興味は持たん。もっとも、試料のひとつとして作ることはあるがね。
錬金術師が探求するものは、黄金の真理だ。あらゆる真理の頂点にたつ、神の知恵――われわれは〈|大いなる秘法《アルス・マグナ》〉と呼んでおるがね……」
アイラは、相手が喋《しゃべ》ったことの半分も理解できなかった。ただ、『大いなる秘法』という言葉が妙に胸に残った。
デルは口元に笑みを浮かべた。
「さて、お喋りはこのくらいにして……用件はなにかな。徒弟の話では薬が欲しい、とのことだが」
「ああ、飲めば元気が出るようなものを、調合してもらいたいんだ」
「なぜ、市場で買いなさらん。いくらでも店が出ていただろうに」
「あんな、なにが混じっているかわからないものは御免《ごめん》だよ。その点、あんたは信用がおけるし、効《き》き目もあるって聞いてね」
「市場で求める時には、花押を見ることだね。まっとうな錬金術師が調合したものなら、包みに蝋《ろう》で封がされている。ほら、このようにね」
デルは白い紙の包みを見せた。その裏には、朱色の蝋に、丸い印章を押し当てた封印があった。
「……手をわずらわしちまったね」
アイラは恥かしそうにいった。
すると、錬金術師は優しく微笑み、
「なに、せっかく訪ねてきたんだ。わしが調合してやろうじゃないか」
「ほんとかい。そりゃすまないね」
アイラは目を輝かせた。
「構わんさ。ところで、薬はあんたが飲むのかね。とても、そんなものが必要には見えんが」
「いや、子どもさ。宿で寝ているんだけど。なかなか元気にならなくてね」
「あんたの息子かね」
「――だったら、嬉しいんだけどね。預かりものさ」
[#挿絵(img/01_181.png)入る]
「年はいくつかな」
「一〇を越えたぐらいだけど……でも、なんで根掘り葉掘り訊《き》くんだい」
アイラはわずかに眉をひそめた。
「調合の参考にするんだよ。例えば、子どもと大人では必要量が異なる。わかったかね」
アイラは釈然としなかったが、それ以上言及しなかった。頼んでいるのは、こちらのほうだ。
しばらくして、デルは包みを持ってきた。そして、自分の指から指輪を取り外し、蝋燭《ろうそく》の火であぶり、包みにつけた朱色の蝋《ろう》の塊《かたまり》に押し当てた。
ジュッという音とともに、蝋が焼ける匂いが漂った。そして、指輪を外すと、表の看板と同じ印が蝋に残っていた。
「これで、でき上がりだ。直接売るにしても責任の所在ははっきりせんとな。ああ、代金は卸《おろ》し値にしてやろう。なに、こんなもので儲《もう》ける気はないのだ。副業のようなもんだからな」
アイラは礼の言葉を述べて、家を出ていった。なんと親切な人だろう、と感謝しているのは確かだった。
アイラが扉の向こうに消えた途端、デルの温厚な笑みが消えた。
そして、廊下の脇の部屋から黒い頭巾《ずきん》と覆面《ふくめん》を被《かぶ》った男が現われた。
「――あれがそうか」
デルが振り向く。
「間違いない。あの女は〈使徒〉だ。目を見ればわかる。しかし、あの御方の予知も大したものだ。日時、女の風体までぴたりとお当てになられた。千里眼としかいいようがない」
男が鼻を鳴らして笑う。
「当たり前だ。われわれの主は本物だ。その程度は造作もないこと。それよりも、このまま行かせてよいのか。あの女を捕まえて、あれの居場所を吐かせるべきではないのか。でなければ、尾行するとか」
「どのような拷問《ごうもん》をかけようと、女は吐かんよ。〈使徒〉とはそういうものだ。それは、おまえたちが一番わかっているのではないかな[#「おまえたちが一番わかっているのではないかな」に丸傍点]。それに、尾行は無理だ。感覚が異常に鋭いからな。つけ回せばすぐに悟られる」
「ならば、どうするのだ。匂いをたどることはできるが、もうすぐ雨が降る。そうなったら追跡は難しくなる」
「心配するな。〈豹《ひょう》〉のパイジャよ。女に渡した包みの蝋は独特の匂いを放つ。しかも、時間が経った後に強く匂い出す。雨が降ろうが、おまえたちなら、簡単に見つけることができるはずだ」
「ああ、いけない」
錬金術師《れんきんじゅつし》の家を出たアイラは、思った以上に時間を食ったことに気づき、急いで宿に戻ろうとした。
路地を出て、表通りに出る。ここからなら、やはり市場を抜けていったほうが、宿に近いと考え、雑踏の中に再び足を踏み入れた。
すると――
露店の脇から、五つか六つぐらいの小さな男の子がいきなり飛び出し、アイラにぶつかった。抱えていた荷物が地面に散乱する。
「いただき――!」
その子どもは、素早く薬の包みを拾い上げ、脱兎《だっと》のごとく逃げ出した。
「お待ち!」
アイラは果実を諦《あきら》め、服と靴だけ抱えて、子どものあとを追った。嵩張らず値の張る薬だけを選んだことに腹を立てていた。
その子はすばしっこかった。雑踏の中を右へ左へ体をかわし、ねずみのように駆け回った。
だが、今のアイラの脚力は尋常ではない。人ごみを大きく迂回《うかい》して、子どもの前に立ちはだかる。
完全にまいたと思っていた子どもは、目を剥《む》いて仰天《ぎょうてん》する。
「逃さないよ、この盗《ぬす》っ人《と》め」
アイラが捕まえようと手を伸ばす。しかし、子どもはすんでのところでくぐり抜け、彼女の足元に頭から滑り込み、後ろに逃れる。
再び、追いかけっこが始まった。
子どもは包みを抱えたまま、市場を抜け出し、市街の外れに向かった。
町を取り巻く外壁と市街の間に、数え切れないほどの天幕が立ち並んでいた。
市街に家を構えられない貧乏な人々が集まる場所だ。アイラが前にいた町でも、こういう区域があった。だが、これほどの数ではなかった。
アイラは立ち止まり、心奪われたように目の前の光景を見つめた。
薬を盗んだ子どもは、無数の天幕の群れに紛《まぎ》れ込んでしまった。もう見つけ出すのは困難だろう。
諦めたアイラは、また、あの錬金術師に改めて頼むか、それとも、蝋《ろう》の封印を確かめて、市場で買うか、と悩んだ。
けれど、彼女は道を引き返さず、その中に足を踏み入れた。なんとなく、去り難かったのだ。
そこは独特の臭気に満ちていた。貧困という名の臭いだ。
職にあぶれたむろする男たち、天幕の中で床につく病人、働けなくなった老人、暗い顔の女たち――そういった人々が、彼女に敵意とはいわないまでも、棘々《とげとげ》しい視線を向けてくる。
アイラは若く美しく、生きる上で不可欠な精気を失っていなかった。そして、彼らに比べれば、多少なりとも身なりがまともだった。場違いな人間と思われるのも、無理ないのかもしれない。
だが、アイラにしてみれば、ヨシュアに出会い、その奇跡の血を飲んで若返らなければ、遠からずこの貧民窟に来ていただろうという思いがある。優越感に浸《ひた》ろうなどという傲慢《ごうまん》な考えはさらさらない。自分のもうひとつの未来であり現実を目の当たりにして、顔を背《そむ》けることができなくなっただけだった。
「――この薬は、いったいどうしたんだい」
ふいにアイラの耳に声が飛び込んできた。常人なら聞き取れないほどかすかだったが、五官すべてが鋭敏となった彼女は、明瞭にそれを捉《とら》らえた。
「――まさか、盗みを働いたんじゃないだろうね」
女の声だった。続けて「違うったら」と、いいわけする男の子の声が上がる。
ヨシュアの薬を奪っていった子どもに違いなかった。
居場所はすぐに探し出すことができた。ふたりのいい争いが続いたおかげだ。だが、彼女は踏み込むのを躊躇《ためら》った。
その子の家というべき小さな天幕は、強い風が吹いたら倒れそうなほど貧弱で、実際に支柱が傾きかけていた。また、会話を耳にして、病気の母親のために薬を盗んだのだとわかり、同情を覚えたのだ。
以前の彼女ならば、同情したからといって盗《ぬす》っ人《と》を許しはしなかっただろう。
金の余裕があるからではない。母親を想う子どもの気持ちが、胸を打つようになったからだ。自分とヨシュアを、この母子《おやこ》に重ね合わせているといってもよい。
天幕の中では、母親が追及を止めないでいた。しかし、子どもは頑強に道端で拾ったといい張っている。
母親がすすり泣きを始めた。
「人さまのものに手を出すような子じゃなかったのに……でも、みんなあたしが病気になったせいだね。ごめんよ、情けない母さんで……」
わずかな沈黙の後、子どもが堪《た》えかねたようにわっと泣き出した。
「いいんだよ……おまえはあたしのためにしたんだとわかってるよ……けど、約束しておくれ……もう二度とこんな真似はしないと……」
アイラはこのまま黙って去ることにした。
――薬はまた買えばいい。どうせ悪徳商人の懐からかっさらったあぶく銭《ぜに》だもの。この母子に役立ったのなら、少しはましな使い方といえるだろうさ。
そう思って振り返った時、前から近づいてくる太った中年の婦人が目に入った。その容貌に憶えがあった。
相手はアイラの視線に気づき、怪訝《けげん》な顔で見返し、そして、ふいに目を丸くした。
「お、おまえ、アイラじゃないのかい」
「お姉さん、メルカ姉さん――」
アイラは婦人に向かって小走りに駆け出した。そして、ふたりは抱擁《ほうよう》した。
「やっぱり、アイラかい。ああ、本当にびっくりしたよ。こんな場所で出くわすなんてさ」
「あたしだって」
アイラの目には涙が浮かんでいた。
メルカはアイラをまじまじと見つめ、
「風の便りで、おまえが重い病にかかったって聞いて案じていたんだけど。驚くじゃないか。別れた二年前より若く、元気に見えるよ。白状おし――いったいどんな若返りの薬を飲んだんだい」
アイラはどきっとした。相手が冗談をいっているとはっきりしていても、動揺しないではいられなかった。
「い、いい医者がいてね。おかげで病気はすっかり治ったんだよ」
「そうかい、そりゃよかった。じゃあ、前のように踊れるんだね」
「え、ええ、体は元通りなんだけど……」
「おや、どうしたんだい。ダスターニャには、仕事を探しにきたんじゃないのかい」
「始めはそのつもりだったんだけどね……」
メルカが眉をひそめる。
「煮え切らない返事だね。なんだか込み入った事情でもありそうだ。ちょっと待っとくれ、用事を済ませてくるから。あたしゃそこの家を訪ねるとこだったんだよ」
メルカが差し示したのは、あの母子のいる天幕だった。
「そういえば、おまえはなんの用できたんだい。まさか、ここに住んでいるってんじゃ……」
「違うんだよ。きのう町に着いたばかりで、道に不案内でね。迷ってここに――」
アイラは慌《あわ》ててごまかした。
「なら、ちょっとつきあっておくれ。なに、ここんちも、あたしらと同じ踊《おど》り娘《こ》さ。気兼《きが》ねなんざいらないよ」
メルカは半ば強引に、尻込《しりご》みするアイラを引きずっていった。
「――まあ、お母さん」
天幕の中の女が、床から身を起こす。確かに病人のようで、頬《ほお》がこけて、やつれが目立った。年は三〇近くに見えるが、病の分を差し引けば、本来のアイラの年とさほど変わらないだろう。
「いいんだよ、そのままで。用事が済んだらすぐに退散するんだし、見舞いにきて病人を疲れさしたんじゃ、反対に申し訳ないよ。ほら、肉を買ってきたよ。安い馬肉で悪いけど、精がつくっていうからね」
メルカは木の皮の包みを手渡した。
「すみません。いつもいつも、お世話かけまして」
踊り娘だという女は、涙ぐみながらいった。
「ほら、なにしているんだい。遠慮せずに入っておいで」
メルカが戸口にたたずむアイラを急《せ》かした。
「……あの、表にどなたが」
「昔、一緒の舞台で踊った仲間というか、あたしの妹分みたいなもんだよ。ちょうどそこでばったり逢《あ》ってね」
おずおずとアイラが中に入っていくと、病人の傍《かたわ》らにいた男の子が「あっ」と驚きの声を上げた。
「おや、知り合いだったのかい」
「いいや、人違いだろう」
と、アイラはいった。
だが、母親は息子の様子からすべてを察したようだ。
「――申し訳ありません」
と、床の上で手をつき頭を下げた。
「あの、あたし、なんのことか」
アイラは困惑した。
「いいえ、なにもかもわかっております。この子が、息子が、あなたから薬を盗んだのでしょう」
女は薬の包みを差し出した。
「これはお返しします。ですから、息子を許してやってください」
アイラは受け取らなかった。
「いいんだよ。これはあんたにあげる。取っておいておくれ。見舞いのつもりでさ」
母子は驚いて顔を上げた。
「で、でも、こんな高価なものを……どなたかに、飲ませるつもりでしたんじゃ……」
アイラはしんみりと微笑む。
「ついこの間まで、あたしもあんたと同じように病に苦しんでいてね。やっぱり息子に助けられたんだ。だから、あんたたちをひとごとだとは思えないんだよ――ああ、こっちのほうは心配無用だよ。薬はまた買えばいいんだ。悪い男から巻き上げた金が、まだ残っているからね」
母親が感きわまったように、薬を抱えて泣き伏した。子どもも母親の体にしがみつく。
ふと、アイラが隣を振り向くと、メルカが呆《あき》れたような目で見つめている。
「おまえに息子がねえ……いったい、いつ産んだんだい。男嫌いはもう廃業かい」
「……本当の子じゃないんだけどね」
少し沈んだ顔でアイラは答えた。
「わけってのは、そのことかね」
アイラは腰を上げ、
「ごめんよ、お姉さん。その子を宿に残して出てきているんだ。ずいぶん時間をとっちゃって、心配だからもう戻らなくっちゃ。家はどこなんだい。夜にでも訪ねていくから、話の続きはその時にでも――」
と、気忙《きぜわ》しくいった。
「まあ、お待ちよ。ここで逢ったのもなにかの縁って奴かもね」
メルカは病人に目を移し、
「ここに訪ねてきたのは、見舞いだけが目的じゃなかったんだよ。実は急にウチの踊り娘のひとりが倒れてね。約束した舞台に穴が空きそうなんだ。それで、この子の具合いを見て、大丈夫なようだったら、代役を頼むつもりだったんだけど」
すると、病んだ踊り娘が身を乗り出し、
「お母さんが困っているんでしたら、あたしやります。いえ、やらせてください」
メルカはゆっくり首を横に振った。
「あんたの気持ちはうれしいけど……せっかく、快復に向かってるんじゃないか。今、無理をしたら、後々まで尾を引くよ。もうしばらく辛抱《しんぼう》おし。完全に治ったら、必ずあんたの舞台を用意するって約束するよ。だから、心配するんじゃないよ」
メルカは優しく相手の肩を撫でた。
女は首をうなだれ、なん度もうなずいた。
「……お姉さん、もしかして、あたしにその舞台を務めろと……」
アイラが唖然《あぜん》とした顔で尋ねた。
「そうだよ。おまえしかいないだろ。かつて、街道一の名手といわれたおまえなら、どんな舞台だろうが、立派に務められるだろうさ」
メルカは、心配事がすべて消えたような晴ればれした顔でいった。
3
午後に入ると、急に暗い雲が広がった。遠くの空からゴロゴロと雷《かみなり》の音が聞え、町の乾いた街路に、ポツポツと黒い点がつく。
すると、いきなり頭上で雷光が煌《きら》めき、天に蓄えられた雨水の桶《おけ》を、一度にひっくり返したような、激しい降りとなった。
樹海と違って町には樹木の傘はない。そのため、市場では行き交っていた人々が、逃げるように駆け出し、露店の店主は売り物を濡らすまいと、慌《あわ》てて幌《ほろ》を広げた。
町の唯一の出入口である門の前に、ひとりの男が雨の中で悠然《ゆうぜん》と立っていた。だが、門の見張りは、雨に紛《まぎ》れ、気づいていないようだ。
ドンドンドン――!
通用門の扉が、外から激しく雷の轟《とどろ》きのように打ち鳴らされた。なにごとかと大勢の衛士《えじ》が飛んでいく。
通用門の扉は、門の大扉と比べれば小さいが、使っている板の厚みは変わらない。それが大槌《おおつち》を打ちつけられたかのように震え、鉄製の閂《かんぬき》や蝶番《ちょうつがい》ごと弾け飛びそうになっているではないか。
「馬鹿野郎、いつまで人を外で待たせやがる。とっとと門を開けろ!」
扉の向こうから、やはり雷鳴《らいめい》のような怒鳴り声が上がった。
様子をうかがっていた衛士のひとりが、落雷を浴びたかのように飛び上がり、急いで扉の閂に取りついた。
外来者の正体がわからぬうちは、決して開けてはならない決まりだ。だが、そんな規則を忘れさせる迫力が、その声にはあった。
閂を横にずらした途端、馬がそのまま通れるほどの大扉が、凄い勢いで内側に開いた。閂に手をかけていた見張りが、跳《は》ね飛ばされ、水|飛沫《しぶき》を巻き散らしながら地面の上を滑っていった。
一〇人ほどいた正門の衛士が、思わず腰帯の雷発銃に手を伸ばしていた。
通用門に見上げるほどの巨漢が姿を現わす。右の肩には大きな荷物が乗っているが、男はまるで重みを感じていないかのようだ。
膨れ上がった肩や腕の筋肉、厚い胸板、太い腿《もも》――見るからに怪力の持ち主という肉体である。
だが、その姿といったらどうだろう。革の長靴はつま先が破れ、足の指がすべて突き抜けている。濡れて皮膚に張り付いた上衣は、前袷《まえあわせ》の留め具がすべて失われ、すっかり毛むくじゃらの胸をはだけさせ、それでも肉の膨らみに耐えられずに破れ目があちこち走っていた。長袴《ズボン》もパンパンで、しかも長靴との間に隙間ができていた。
大男が無理に小さな衣服を着込んだような、滑稽《こっけい》な姿である。
しかし、衛士の中で、笑みのひとつさえ浮かべた者はいなかった。
怖かったのだ。
そんな真似をしようものなら、即座にあの丸太のような腕で、くびり殺されてしまう――という予感に、彼らは打ち震えていたのだ。
粗野で力自慢の大男など、無法が平然とまかり通る樹海では珍しくもない。衛士の中にも、この謎の男に匹敵するとはいわないが、そうひけを取らない体格の持ち主が混じっていた。だが、その男までも完全に臆し、腰が引けていた。もちろん、銃を引き抜く勇気など誰にもなかった。
彼らをこれほど震え上がらせたのは、男がまとう雰囲気である。野獣が放つ殺気――それが一番適切な表現だろう。彼らは野獣の群れに直面したような恐怖を覚え、金縛《かなしば》りになっていたのだ。
男がじろりと視線を巡らすと、衛士たちは思わず後ずさった。中には短く「ヒィ」と悲鳴を洩《もら》す者もいた。
「おう、そこの」
と、男は真正面にいた衛士に呼びかけた。
「お、おれですか」
「おまえ以外誰がいるってんだ」
凄味《すごみ》ある声にその男はすくみ上がった。
「す、すいやせん」
「手続きの場所に案内しな」
「へっ? 手続きといいやすと?」
男は焦《じ》れたように眉《まゆ》を歪め、
「町に入る手続きだよ。この町はよそもんの出入りが自由なのか」
「い、いえ、そんなことは。ただ……」
「ただ――なんだ?」
衛士《えじ》は上目使いに男を見上げ、
「はあ、このままお通りになるのかと……」
「馬鹿野郎、それじゃ門破りになるじゃねえか。おれは役人だぞ。役人が率先《そっせん》して法を守らねえでどうするんだ!」
一同は唖然《あぜん》とした。どこをどう見たらこの男が役人に見えるというのか。
「おれの名はガルー・シャン。新任の公文書記官だ!」
男は怒鳴るように名乗りを上げた。
あの街道で別れたガルーが、アイラと異なる変身を遂げ、ダスターニャに姿を現わしたのだ。
ちょうどその頃、安宿の一室で、アイラは深い溜息を吐《つ》いていた。
前には寝台に横たわるヨシュアがいる。宿に戻ると、具合いが悪くなっていた。彼女はそれを留守をしたせいだと自分を責めた。寝間着代わりの服は汗で濡れ、熱も少し高めだった。あまり表情が苦しそうでないのが、アイラにとり心の救いだった。
市場で買い直した薬を飲ませたが、そんなに早く効《き》き目が現われるはずもなかった。
――こんなんじゃ、とても舞台なんか立てそうもないね。
と、彼女はなん度目かの溜息を洩した。
メルカの申し出に、正直いって気持ちがぐらついていた。
少年のために自分のすべてを捧《ささ》げて尽《つ》くす気持ちに変わりはない。だが、そう思っていても、体が踊りを求めて止まないのだ。
寝台の脇で鼻歌を口ずさみ、軽く踊ってみる。腕が衰えていれば、踏ん切りもつくだろうと考えたからだが……。
旅行用の底が厚い長靴だったが、羽根が生えたような軽やかな足|捌《さば》きだ。その上、どんな難しい動きも思いのままだった。衰えるどころか、全盛期の自分よりうまく踊れるのではないかと思うほどだ。
すると、不意に動きを止め、またしても溜息を吐《つ》いた。
嬉しい気持ちとは裏腹に――これじゃ火に油を注ぐようなもんだわ、と気づいたのだ。
椅子を引き寄せ、腰を降ろし、懸命に興奮を鎮《しず》めようとした。だが、効果はまるでなく、勝手に頭の中に音楽が流れ、それを伴奏に踊っている自分を想像してしまうのだ。
まるで、全身を流れる血が、踊りを欲して脈打っているようだった。
そして、昔もこのように体を熱くしたことを思い出す。
――そうよ、最高の舞台と思った日は、必ずこんな風だった。開演まで待ち切れなくて、裏の空き地で踊ったこともあったね。姉さんらも呆《あき》れていたっけ……。
アイラは踊りたかった。
今日ならば間違いなく、これまでの舞台生活で、最も素晴らしい踊りができる――という確信めいたものがあった。
体に衰えを覚える頃、彼女は全盛期の自分の踊りに不満を抱くようになっていた。若さに任せた踊りには無駄が多く、表現力に欠ける部分が目立った。年とともに衰える肉体を補うために、頭を使うことを覚えた成果ともいえるが、皮肉なことに、はっきり気づいた時は肝心《かんじん》の肉体が駄目になっていた。
――若返った今ならば、頭と肉体両方を十二分に使った踊りができるはず。
それは恐ろしいまでの魅力を持つ誘惑であった。
扉がトントンと鳴った。
「はい、どなた」
アイラは椅子に腰かけたままだ。どうせ、宿の女将《おかみ》だろう。今の彼女は踊り以外のこと一切がわずらわしい気分だった。
「あたしだよ、アイラ」
扉の向こうから聞えた声は、確かに先程別れたはずのメルカであった。
不意の訪問に動転したアイラは、立ち上がる際に、椅子を蹴倒《けたお》してしまった。
まず、どうしようと思ったのは、眠っているヨシュアのことだ。メルカがいくら信用できる人であっても、この子を見れば、どんな反応を示すかわからない。なんといっても、長年『忌《い》むべき子』『悪魔の申し子』といわれ続けた白子なのだ。
「早く開けておくれよ。雨が凄くて、びしょ濡れなのさ。部屋なんか、かたづけなくていいんだよ。おまえの部屋は、昔っから散らかし放題だって、よく知ってんだからさ」
「ごめんよ、そんなんじゃないんだけど。とにかく少し待っとくれ。すぐだから」
と、アイラは時間稼ぎをしたが、なんの解決にもならないとわかっていた。
そして、慌てまくった彼女が考えた方法とは、実に単純なことだった。
ヨシュアの顔を毛布で覆い隠しただけだ。これでうまくいくとは、さすがの彼女も考えていなかったが……。
アイラが扉を開けると、メルカは部屋の中を覗《のぞ》き込み、「ほら、やっぱりだよ」という顔をした。
確かに部屋はぐしゃぐしゃといってもよい。寝台はヨシュアが寝ているほうは別にしても、もうひとつは乱れまくっているし、看護につかった包帯やたらい、薬の包み、粥《かゆ》の残る鍋などが、あちらこちらに置きっ放しだった。加えて、荷物を詰《つ》めていた鞄《かばん》も、口が開き、衣服がだらしなく覗《のぞ》いていた。
この惨状《さんじょう》を前にしては、どう非難されても反論は難しいだろう。
「まったく、おまえって娘は、女らしいことはからきしだね。子どもを持つ身になったって、全然変わんないんだねえ」
メルカは、まるで出来の悪い娘を叱《しか》る母親の口調だった。もっとも外見上の年の差はそれに近いものがあるのだが、実際は一〇歳と離れていない。
アイラは憮然《ぶぜん》として乾いた布を手渡す。メルカは服を着たまま行水を浴びたように、髪の先や鼻から水を滴《したた》らせていたのだ。
そして、濡れた体を拭《ふ》き終えたメルカに椅子を勧《すす》め、自分も別の椅子を運び、その前に座った。
「ああ、助かったよ」
メルカが椅子に重そうな尻を乗せた。
「別れた後、用事があって近くに来たんだが、その帰りにいきなり雨が降ってきてね。まあ、前触れなしですまないとは思ったけど、雨宿りがてら訪ねることにしたんだよ。寝たきりの子を抱えているって聞いただろう。おまえに出向いてもらっちゃ心苦しくてね。かえって迷惑だったかい?」
アイラは「とんでもない」とばかりに首を横に振った。
「それを聞いてほっとしたよ。あたしゃ、歓迎されない客になるのだけはごめんでね。ああ、本心からだよ。じゃなかったら、門前払いされたほうが、どんなにかましか」
アイラが苦笑した。
「昔のまんまだよ、お姉さんは。踊《おど》り娘《こ》仲間の誰の部屋を訪ねても、さっきの言葉を必ずいってたもの」
「あたしも懐かしいよ。おまえの変わらない部屋の散らかしようを見てね」
「まあ、ひどい」
ふたりは声を上げて笑った。
「踊り娘仲間といえば、あのおまえの妹分だった――ヒルマ、そうヒルマはどうしているんだい。本当の妹のようにおまえの後をくっついていただろう。一緒にこなかったのかい」
その名が出た途端、アイラの顔が影が差したように暗くなる。
「ま、まさか――やだよ。死んだなんておいいじゃないだろうね」
「そのまさかなんだよ……お姉さんが新しい一座を作ろうとダスターニャに旅立って――そう、半年も経《た》たないうちにね……」
「病気かい」
「……男よ。ひどい男に騙《だま》されて、尽くしに尽くしたあげく、捨てられて……病気になっても、男は一度も見舞いにこなかった。もっとも、のこのこ顔を出したって、このあたしが逢《あ》わしゃしなかっただろうけどね。でもさ、床についたあの娘に、毎日『きょうはこなかった』なんて訊《き》かれてさ。しまいには、首に縄をつけても引っ張ってきて、ヒルマに謝らせようと思ったよ」
「連れてこれたのかい」
アイラは哀しげに笑った。
「とっくに死んでたさ。博打《ばくち》のいざこざかなんかでね。その元手はヒルマが稼いだもんだったそうだから、世の中うまくできてるって思ったね。けど、あたしも馬鹿さ。喜び勇んでヒルマにそのことを告げちまったんだよ。そうしたら、あの娘ったらさんざん泣いて、泣き疲れて死んじまった……」
メルカは大きく鼻をすすると、柔らかく暖かな手でアイラの手を取った。
「気にするんじゃないよ。ヒルマって娘は、手折られたら枯れてしまう花だったんだよ。もう男に捕まった時から、運命は決ってたんだ。おまえがあの娘の最期を看取《みと》ってやったんだろう。それで充分さ」
アイラの顔が歪んだ。そして、次の瞬間にはわっと泣き出し、メルカの胸に顔を埋めた。ヒルマの一件だけではない。ここ数年の苦しく、悲しい思い出が、堰《せき》を切って溢《あふ》れ出てきたのだ。
メルカはその頭を撫でながら、
「いろいろ辛いことがあったんだね。けど、もう心配いらないさ。これからは、このあたしがついてんだからね」
と、優しくいった。
アイラは嗚咽《おえつ》を上げ続けた。しばらく経って顔を上げると、目は泣き濡れて真っ赤だったが、胸のつかえが取れたように清々した表情だった。
「……ありがとう、お姉さん。おかげで、さっぱりしたよ」
「水臭いこというじゃないか。泣きたい時には思いっ切り泣くもんだ。あたしの胸は、ちょうど具合がいいそうだ。いっぱい娘たちの涙を吸い込んでいるんだよ」
そういって、メルカはにっこり微笑んだ。一座を率いるとなれば、踊り娘たちの苦労や悩みまでを、一身に背負わなくてはならないのだろう。だが、面倒見《めんどうみ》のよいメルカには、それも生きがいなのかも知れない。
「……そうだね。お姉さんとこの娘《こ》は幸せだよ。こんなにいいお母さんがついてくれるんだものね」
「なに、しみじみいってんのさ。おまえだってあたしンとこにくれば一緒じゃないか」
「ごめんよ。誘ってくれて本当に嬉しいと思っているんだよ……でも、あたし、この町に長居できないんだ」
メルカは息を飲んだ。
「――え、どうしてだい。おまえはあたしが知る限り最高の舞い手だよ。別に他にいく必要なんてないだろう。仕事だったら、いくらだって世話してあげるさ。ここだっていい舞台はたくさんあるんだよ」
「ごめんよ……あたしは踊るよりも大事なことを見つけちまったんだ」
「|舞踊の女神《カーラ》の申し子といわれた、おまえがかい……あたしにはどうにも信じ難いよ」
メルカは途方に暮れたような顔をした。
「詳しいことはいえない……というより、あたしにもわからないことだらけでね。けれど、しなければならないことは決っている……」
「なんだい、それは?」
メルカは身を乗り出して尋ねた。
「ヨシュアを守ることさ」
アイラはきっぱりといった。
「ヨシュア? ああ、おまえが母親代わりになってる子どものことだね」
メルカはちらりと寝台に目を向けた。そこには毛布が小さな山を作っている。
「そんなに思い詰めるほど可愛いのかい。けど、この先も面倒みるつもりだったら、なおさら、おまえががんばらなくちゃ駄目だろう」
すると、前触れもなく、アイラは椅子から立ち上った。
一瞬、メルカは、アイラが泣き出すのか、と思った。張りつめた心が、切れかかったかのように顔を歪めたからだ。
けれど、アイラはぐっと堪《こら》え、ヨシュアがいる寝台にゆっくりと歩み寄った。その足取りには、明らかに胸中の迷いが表われていた。
メルカは黙って、可愛い妹分の決心が定まるのを待った。
アイラは寝台に目を落とし、盛り上がった毛布――少年の胸のあたり――を優しく撫でさすった。そして、
「お姉さん……」
と、背を向けたまま呟《つぶや》くようにいった。
その時、メルカの背中にぞくりとするものが走った。
「な、なんだい」
「お姉さんは〈白子〉についてどう思う」
「しらこ? ああ、髪や肌が真っ白の赤子だね。それがどうかしたのかい」
「気味が悪いとか、怖いとか……」
「そんなこといったって、お目にかかったこともないし……だいたいが産れたところで、人知れず、母親にさえ知らせずに葬《ほうむ》ってしまうもんだって聞いて――」
喋っているうちに気づいたようだ。メルカの目が、寝台のこんもりとした膨らみに釘付《くぎづ》けになる。
「お、おまえ、まさか……」
アイラは哀しげな目で沈黙している。それだけで、メルカは答えを得ていた。
「なんでまたいったい――いいや、おまえのことだ。なにか深いわけがありそうだ」
メルカは気を落ち着けようとした。そして、アイラを、可愛い妹分を理解しよう、と心にいい聞かせたのである。
意を決したように、メルカは自分の膝をパンと叩いた。
「――さあ、話しておくれ。洗いざらい、なにもかもね。あたしゃ、なにがあったって、おまえの味方だからね」
4
著しい変貌を遂げたガルーは、まさに悠然《ゆうぜん》と雨の町を闊歩《かっぽ》していた。
道行く人も、彼に出くわすと飛び上がって逃げていく。本人はことさら威圧したり、凄む気もないのだが、根本的に放つ精気の量が、常人と桁違《けたちが》いのようだ。
昔だったら、風邪《かぜ》を恐れて、雨の日には外出を極力避けたものだったが、今は濡れることなどなんとも思わなかった。それどころか、この世に怖いものなどなにもないという、実に爽快《そうかい》な気分だったのだ。
彼の衣服はすっかり改まっていた。
上衣、長袴、長靴すべて新しいものだ。もっとも、彼の寸法に合うものが、そう簡単には見つかるはずもない。店の親父は最も大きなものを出してきたが、それでも窮屈で、少しでも力めば裂けてしまいそうだった。
そして、彼の腰には、大振りの剣と、これまた大きな雷発銃が吊るされていた。
ガルーは駅馬車が運んできた交易品を、さっさと町で売り捌《さば》いた。
買い手となった商人たちは「どこで手にいれたものか」などと、細かいことは訊《き》かなかった。それが樹海のしきたりとはいえ、普通ならいろいろ難癖《なんくせ》をつけて、値を下げようとするものだが、どこの店も実にあっさりと金を払った。相場よりも高かったぐらいだ。
おそらくは、払うものを払って、早々にこの凄《すさ》まじい殺気をはらむ人物に、おひきとり願いたかったのだろう。
その中の一軒に銃の店があった。火薬となる原料を売りにいったのだが、そこで、普通のふた回りは大きな雷発銃が目に止まった。長銃より、銃身、銃の台座共に短いが、太さは倍である。変わっているのは、大きさばかりではない。銃身が三本束ねられ、やはり撃鉄も三つ並んでいる。また、銃身の尻と撃鉄の間が、ぽっかり空いていた。普通なら弾倉の部分があるはずだ。
銃の脇に、三つの穴がある部品が置いてある。ちょうど空いた部分に収まる形だ。恐らく、これが弾倉に違いない。
「こいつは?」
「は、はい――この店に銃を卸《おろ》している工房が試しに作ったものでして。見事なものでございましょう。台座に施された浮《うか》し彫りだけでも、一級品の折り紙がつきましょう」
店の者が愛想笑いを浮かべて答える。もっとも、額に伝い落ちる冷や汗まで隠すことはできなかったが。
「売り物か」
店の者が「ご冗談を」といわんばかりの顔をした。
「看板として飾っています。撃った時の反動があまりに大きく、どなたにも扱えません。腕自慢のかたが、なん人も挑戦しましたが、皆さん手首をくじかれたり、中には骨が折れたかたもいらっしゃいます」
[#挿絵(img/01_211.png)入る]
すると、ガルーは不敵な笑みを浮かべ、その銃を掴《つか》んだ。
「何をなさいます」
店の者が青ざめる。だが、ガルーは声を無視して、銃をいじりまわす。
「どうやって弾丸《たま》を込めるんだ。これか――」
木製の台座の側面に金具を見つけ、それを押す。すると、発条《バネ》仕掛けで、三本並んだ銃身の尻が、勢いよく跳ね上がる。
「弾倉は――なんだ、もう込めてあるのか。薬莢《やっきょう》式じゃないんだな」
銃身の尻に弾倉を固定し、台座を押し戻す。
「三発しか込められないってのが問題だな」
ガルーは銃を外に向けて構えた。
「片手なんて無理ですよ。止《や》めてください」
店の者は悲鳴のごとく叫んだ。
次の瞬間、鼓膜《こまく》をつんざく轟音《ごうおん》が上がった。近くで大砲が撃ち鳴らされたようなものだった。この銃声は町の隅々まで響き渡ったに違いない。
道を挟んだ反対側の家の屋根の一部が、破片をまき散らしてふっ飛んでいた。確かに凄まじい威力だといわねばならない。
ガルーは右手首をぶらぶらと振った。
「おー、さすがに痺《しび》れたぞ。おまえの言葉もまんざら嘘でもなかったな」
床に伏せていた店の者は、驚愕と怯《おび》えが混じった目でガルーを見上げた。『化け物を見るような目つき』という奴である。
「――気に入った。こいつは荷の代金代わりにもらっていく。あと、向かいの家の修繕代も、おまえンところで出しておけ」
銃の商人は、血の気を失った顔で、なん度もうなずいた。
剣に関しては、銃のような特筆すべき逸話《いつわ》はない。ただ単に、弾を撃ち尽くした後、代わりになる武器が欲しいと考えたガルーが、たまたま刀剣の店を通りかかり、そこで買ったというだけだ。
両手持ちの剣だったが、ガルーは片手で軽々と振り回すことができた。一振りするたびに唸《うな》りとともに風が巻き起こり、やはり店の人間を震え上がらせた。
不思議なことに、剣を振っていると、銃などより、よほど相性がいいように思えてくる。もしや、自分の前世は剣士だったのでは、と思ったほどだ。
武器を持ったからといって、ことさら自分が強くなったような気は起こらなかった。もともと、揺らぎようのない自信に、彼は満ち溢《あふ》れていたからだ。
しかし、両側の腰にぶら下がるものを見て、町の住民は、さらに彼を恐れるようになったのは確かだ。
「――さてと、あいつらを探さにゃならん」
ガルーはそう呟《つぶや》くと、道の真ん中で立ち止まり、あたりの匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせた。
「この雨じゃ無理か。面倒臭《めんどくせ》え話だぜ、まったくのところよ」
と、舌打ちした。
「しょうがない。適当にぶらついてみるか、いつかは出くわすだろうさ――いや、待てよ」
歩き出しかけたガルーが、再び立ち止まる。
「アイラのことだ。どこかの酒場で踊っているってことも……だが、金は充分に足りているはずだし、あの足手まといを連れていちゃ、おいそれと稼ぎに出るってわけにもいかないだろうな……」
すると、その時、慌ただしくガルーの脇を町の男たちが駆け抜けていった。
ガルーの鋭い耳は、走りながら交わす男たちの会話の一部を捉らえた。
「――!」
ガルーは素早く追いすがり、後ろから男のひとりを軽々と捕まえた。
その男は、ガルーと正面から向き合った途端、顔を青ざめさせ、情けなく悲鳴を洩した。仲間とおぼしき連中も、手出しできずに遠巻きに見ていた。
「心配するな。別にとって食おうってわけじゃない。今、ちらっと気になる話が耳に入ってよ。そいつを聞かせてもらおうと思って、呼び止めたんだ」
そういって、ガルーは顔に笑みを浮かべた。邪《よこしま》な気がないことを示そうとしたのだが、胸倉を掴まれた男はさらに竦《すく》み上がった。確かに、眼前に迫った猛獣に微笑まれ、喜ぶ者はいない。
「おまえら、踊り娘がどうとか、いってたな」
「……あ、ああ」
男は生唾《なまつば》を飲み込んだ。
怯《おび》えるあまり、いっこうに要領を得ない男の話をまとめると――町外れの貧民窟で、踊り娘の母子の惨殺死体が見つかった。恐らく殺されたのだろうが、犯人はわからない。男たちはただの野次馬で、話を聞いて現場を見にいく途中だった――となる。
「なんだと!」
血相を変えたガルーは、男を水たまりに叩きつけると、一目散に走り出した。
小さな天幕が立ち並ぶ貧民窟は、多くの野次馬が詰めかけ、騒然としていた。
ガルーは現場を囲む人垣を押し退けて、中に分け入った。
一瞬、ガルーの眉が痙攣《けいれん》したようにひくついた。
現場の惨状は予想を越えていた。あたりの天幕はすべて薙《な》ぎ倒され、雨水と共に広がった血が石畳を赤く染めていた。
「こらこら、近寄るんじゃない」
殺人現場を検分していた役人が、咎《とが》める声を上げた。
ガルーの殺気立った目が、その男をじろりと睨み付ける。すると、役人の顔に怯えが走り、それ以上なにもいえなくなった。
ガルーは地面に横たえられた薄汚い毛布に歩み寄った。町の寺院から来たのだろう若い僧侶が、ずぶ濡れになりながらも、それにかがみ込んで、真摯な面持ちで聖句を唱えていた。
「――すまんな」
そういって、ガルーは膨らんだ毛布の縁を剥がし、中の死体を改めた。
「うっ」
ガルーの喉から思わず呻きが洩れた。
母が幼い息子をしっかと抱いた姿だった。だが、なんという死に様だろう。ふたりは首を一刀のもとに胴体から切り離されていた。もう、血の流出も止った首の切断面は、恐ろしくも鮮やかであった。
「――お知り合いですか」
祈りを終えた若い僧が、穏やかな口調で尋ねてくる。
その声のおかげで、ガルーは毛布の縁を掴んだまま動きを凍《こお》り付かせていた手を降ろすことができた。
「いや、別人だった」
しゃがれた声と、横に振る首の動きで答える。
ふたつの死体は、アイラとヨシュアではなかった。なによりも、抱かれた子どもの肌は白くない。
「それは、よろしゅうございました。縁者のかたには見せたくない姿です」
僧が毛布の乱れを整える。
「だ、誰がやったんだ。犯人はわかったのか」
と、ガルーが訊く。彼にとり、行きずりの名も知らぬ他人ではあったが、無抵抗の母子を情容赦もなく刃《やいば》にかけた犯人に、怒りを覚えずにはいられなかった。
「さて……それは拙僧《せっそう》の仕事ではありません。お役人にうかがってはいかがでしょう。ただ、今のところ、目撃者はひとりもいないそうですよ」
「そんな馬鹿な。壊された天幕はひとつやふたつじゃない。逃げた連中がいくらでもいるだろう」
僧が静かに微笑む。どこか哀しげに見える笑みだった。
「……みな、口をつぐんでいるのですよ。報復を恐れてね。このあたりでは、行き倒れや人殺しは日常のことです。ごらんなさい、あたりの人だかりを。彼らは貧民窟の者たちではない」
確かにその言葉通り、野次馬の多くは身なりのまともな者たちであった。同情めいた表情や会話の中にも、ある種の優越感が見え隠れしていた。
「首を斬り落とされた、という刺激的な噂に惹《ひ》かれて、みな、集っているのです。お役人とて同じこと。このような騒ぎになったから、来てくれました。貧民窟の住民など、減ってくれたほうが助かると無視したでしょうからね。真面目に犯人を探す手間などかけませんよ」
若い僧は諦め切ったようにいった。
「だ、だけど、ここの連中にとっちゃ、仲間だろう。かたきを討ってやりたいと、思わないのか」
僧の口から失笑が洩れる。
「仲間? そのような意識があるのでしょうかね。少なくとも拙僧には感じられませんでした。もう一度、まわりをごらんなさい。地面に天幕がいくつも倒れていますね。けれど、妙にかたづいているとは思いませんか。服や家財道具の類がまるでない。住民がみな拾っていったのですよ。お役人が来る前にね。この母子の家もそうです。なにひとつ残っていません」
「…………」
「申し訳ありません。取り乱したところをお見せして……」
若い僧は頭を下げた。
ガルーには、この僧侶の苦悩がわかるような気がした。貧者にこそ、神の救いが必要だというのに、貧しさゆえに、その行いは神の教えに背くのだ。
ガルーは黙って立ち上がった。慰めの言葉をかけたところでなんになろう――と思ったのだ。人は誰でも現実と理想の狭間で揺れ動く。結局はこの僧も、本人自ら、どこかで折り合いをつけなければならない問題なのだ。
人垣に向かって進むガルーの足が、ぴたりと止まる。
彼の鼻がひくついた。
そして、足元の水たまりから小さな紙包みを拾い上げた。裏返すと朱色のろうの封印があり、そこから強い匂いが上がっている。
それは、錬金術師デルが調合した、薬の包みであった。
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【第四章 剣《つるぎ》の舞い】
1
貧民窟で母子の惨殺死体が見つかった頃――アイラは、とある酒場の舞台|袖《そで》で、自分の出番を待っていた。
そこはお世辞《せじ》にも上等な店とはいいかねる、下卑《げび》た笑いが渦巻《うずま》く酒場だった。
舞台は店の真ん中にあり、楽屋から舞台にかけて、渡り廊下のようなものが架けられている。踊り娘はこの廊下を渡って、円形の舞台に上るのだ。
今も若い踊り娘が、楽士が奏《かな》でる陽気な音楽に合わせ、懸命に踊っている。だが、まだ初舞台を踏んでから日が浅いようで、「引っ込め」「酒がまずくなるぞ」といった罵声《ばせい》が客席に飛び交う。
この手の酒場で、踊りそのものを目当てにくる客はいない。透き通るような薄い衣をまとった、豊満な肢体《したい》の女が姿を見せて、胸や尻を振れば、それで満足するのだ。
ところが、踊っている娘は、いいところ一二、三歳といった、幼さばかりが目立つ少女だ。その手の趣味を持った客でもない限り、興冷《きょうざ》めするのも当然だった。
――お姉さんが泣きついてくるはずだよ。
と、アイラは溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
今晩の舞台を務める踊り娘は、少女とアイラだけだ。この少女ひとりで、客を満足させることなど、どう考えて無理な話だ。
店の親父がしかめっ面でやってきた。
「あの娘じゃ駄目だよ。客が帰っちまう。もう、この曲でおしまいにして、後はおまえさんが出てくれ」
アイラは鷹揚《おうよう》にうなずいた。
「わかってるって。まだ、修業が足りないことは認めるよ。ちゃんと帳尻は合せてやるから、心配しなさんな」
親父はほっとしたようだ。
「まあ、おまえさんだったら客も大喜びだろうさ。代役と聞いたが、またウチに出てくれないか。金はもっと出してもいいからよ」
「いいのかい、まだ踊りも見てないのに、そんな約束をして」
「おまえさん、ケオナにいたアイラだろう。昔、噂《うわさ》をずいぶん聞いたよ。病気だったそうだが、すっかりいいみたいだな。その肌の張りといったらうら若い娘のようじゃないか。――あんた、いったい年はいくつなんだい」
アイラはふんと鼻を鳴らして微笑んだ。
「親父さん、女に年を聞いちゃいけないよ」
その妖《あや》しいまでの艶《なま》めかしさに、店の親父は言葉を失った。
アイラが場末とはいえ、再び舞台に立つことができたのは、メルカのおかげだった。
安宿の一室で、アイラはこれまでのことを包み隠さず打ち明けた。
ヨシュアとの出会いから、血を飲んで若返ったこと、白い獅子《しし》、そして、トランを焼き殺したことまで一切合財《いっさいがっさい》すべてを語った。メルカに嘘をつきたくなかったということもあるが、なにもかも喋って、楽になりたかったという気持ちもあった。
メルカは途中ほとんど口を挟まずに聞いてくれた。驚きの表情をなん度も浮かべたが、アイラの話を中断させはしなかった。
「――酒が欲しいね」
話が終わると、メルカがぽつりといった。
「えっ?」
「気付け薬さ。強い奴がいいんだけど」
アイラは鞄《かばん》から小さな瓶《びん》を出した。以前、凍《こご》えて眠れない夜のために買っておいた寝酒だった。今や無用の長物となっている品のひとつだ。
「こんなのしかないけど」
「結構よ。こうなりゃ、なんだっていいんだから」
メルカはそれを受け取ると、直接瓶に口をつけ、ぐいと一息に呷《あお》った。中身を半分ほど飲み、「はあ」と溜息のような酒の息を吐く。
「お姉さん……」
アイラは不安そうな顔でいった。
すると、メルカは陽気な笑みを見せた。いや『作った』のだろう。
「なんだい、なんだい、情けない顔するんじゃないよ。さっきいったろう。あたしゃ、おまえの味方だって。白子がなんだい。おまえが自分の息子のように愛しているんだったら、あたしにだってわが子のようなもんさ」
「お、お姉さん……」
アイラは口に手を当て、涙ぐんだ目でメルカを見た。
「さあさ、泣くのはおよし。そうだ、あたしに、その『奇跡の子』とやらを拝《おが》ませておくれ」
メルカはアイラの肩に手を回し、寝台の傍《かたわ》らに連れていった。
アイラが毛布の縁《ふち》に手をかけた。
その時、メルカは、どんなものを見ても決して驚いた顔をしてはいけない、と自分にいい聞かせていた。
ゆっくりと毛布が引き下げられていく。まず、包帯に包まれた小さな頭が現われ、真っ白な耳たぶ、そして、ついに顔全体が表に晒《さら》された。
「まあ……」
メルカは思わず感嘆の声を上げた。
「なんて、きれいな子だろう」
これは本心から出た言葉だった。
それを聞いて、アイラは体の緊張が解《と》けていくのを感じた。
「この子、本当に男の子かい。まるで、幼い女の子のような無邪気な寝顔じゃないかね。この子が『悪魔の子』だって。駅馬車の連中は、どんな目をしてたんだろうね」
終わりのほうは憤慨《ふんがい》した口調だった。
メルカにしても、あらかじめ心の準備ができていたからこそ、素直な目で見ることができたのだろう。けれど、アイラにはそんなことはどうでもよかった。さらにひとり、ヨシュアの味方になってくれる人間が現われたのだ。それがメルカなら、千人の味方を得たよりも心強いというものだ。
「ありがとう……お姉さん……」
アイラの声は震えていた。
「また泣く。いつから、そんなに泣き虫になったんだい」
メルカは元気づけるようにアイラの肩を抱いた。
こうして、アイラは舞台に立つことができるようになった。今、ヨシュアは宿でメルカに見守られて眠っている。
いつまで、この町にいられるかわからない。だが、一度でも舞台で踊れるならば、それで満足だった。店の格とか客筋などといったことは、この際、二の次もいいところだったのだ。
狭い楽屋で、白粉《おしろい》を塗り、唇に真紅の紅を引き、髪をまとめて飾りをつけ、薄布の衣裳《いしょう》をまとう。そして、舞台用の細い靴に足を通した時、彼女のつま先から脳天にかけてビリッと電流が走った。
――やれる。
宿で感じた自信が、再び身の裡《うち》に蘇《よみがえ》ってきた。それも、さらに強い確信となって溢れ出てきたのだ。
少女が顔を手で覆って舞台袖に戻ってきた。
合図を出す暇もなかった。客の罵声にたえ切れず、最初の曲も終わらぬうちに逃げ帰ってきたのだ。
「お、お姉さん、すいません。あ、あたし――」
少女は顔を涙でぐしゃぐしゃにした。
アイラは容赦なく娘の頬を打った。手加減など一切していない。少女は泣き止んだものの、頬が見る間に赤くなっていった。
「おふざけじゃないよ。踊り娘が舞台を捨ててどうすんだい。おまえは決して許されないことをしたんだよ」
アイラは厳しかった。こと芸に関する限り、昔から彼女は、自分にも他人にも甘えというものを許さなかった。実をいえば、アイラも一二歳で初舞台を踏み、途中で客の前から逃げたという苦い経験を持っていた。その時に、やはり師匠《ししょう》に叩かれ、同じ叱咤《しった》を浴びた。
客を怖がっていては踊り娘は務まらない。誰かが、それを教え込まねばならないのだ。
「そこでじっと見ているんだよ。一生忘れないような舞台を拝ませてやるからね」
アイラは通りすがりに少女の肩を叩いていった。
両手に細い銀の輪を持ったアイラが、舞台に向かって軽やかに走った。
そして、舞台の中央で、銀の輪を打ち鳴らした。
カン高い輪の音が鳴り響くと、喧噪《けんそう》が充満した店内が、一瞬にして静まり返った。客同士話に夢中になっていた者、失望して席を立ちかけていた者、酒を飲み干そうとしていた者――そのすべてが動きを止め、舞台に立つ妙齢の美女に目を向けた。
――ありゃ誰だ。
――凄《すげ》え胸をしてやがる。
――どうだい、あの肌の美しさは!
お辞儀《じぎ》の姿勢のまま、動きを凍《こお》りつかせていたアイラが、ゆっくりと顔を上げていく。
それとともに、男どもの顔が、驚愕から歓喜へと変化していく。
アイラが妖艶《ようえん》な笑みを客に向けた。その瞬間、恐らく客のすべてが心臓に高鳴りを覚えたことだろう。
店を震わせるほどの歓声が湧き上がった。口笛が飛び交い、下品な叫びが響き渡った。
すかさず、楽士たちが力を得たように奏で始める。
アイラにとって懐かしの曲『麗《うるわ》しのマルーサ』だった。
アイラの足が音楽に合わせ、靴の踵《かかと》で拍子を刻む。その軽妙な足|捌《さば》きひとつで、前の踊り娘とは桁違《けたちが》いの腕とわかるほどだ。むろん、足ばかりではなく、腰から上半身、腕、指の爪の先にいたるまで、流れるような動きで客を魅了した。
『麗しのマルーサ』という曲は、踊り手の技量と体力を試すともいわれている。楽士と踊り手が交互に短い主|旋律《せんりつ》を繰り返し、じょじょに曲の速度を上げていくのだ。当然、楽士のほうが有利であって、どこで踊り手が音《ね》を上げるかが客の興味を引くところだ。
問題の部分がきた。
まず、楽士の演奏。初めはゆっくりとだ。
アイラは造作《ぞうさ》もなく、床に拍子を刻む。
今度は少し速く。だが、これも余裕たっぷりにこなして、客がどっと湧く。
「さあ――眠くなっちまうよ。どんどん、速めておくれ」
と、アイラは楽士たちを挑発する。
ならば――とばかりに、いきなり最初の倍の速さになる。しかし、彼女はこれまた楽にこなした。口元には笑みさえ浮かべている。
さらに倍の倍。
まだ、平気だ。
楽士たちも意地になってきたようだ。曲の速度は留まるところを知らず上がり、アイラの足は床に踵《かかと》を打ちつける一瞬しか、目に止まらなくなった。だが、顔は笑みを残したままだ。
彼女の体力は、尽きることを知らないかに見える。かえって、有利なはずの楽士たちのほうが疲れ、音に狂いが生じていた。
当然、客の興奮はうなぎ上りにどんどん高まる。アイラがひとつひとつ完璧にこなすたびに、熱狂的な歓声が湧き上がり、その音量と熱気は大きく、熱くなる一方だ。
そして、これが最後だといわんばかりの凄まじい速度で、楽士が曲を奏でた。
客の誰もがこれは無理だと思った。
すると、アイラは舞台の上でひとつ息を吸った。
次の瞬間、彼女の足が消えてしまったかのように見えた。だが、打ち鳴らされた踵の音は完璧に旋律を再現していた。
客は総立ちになり、舞台上の踊り娘に歓呼《かんこ》と拍手を送った。これは彼女の肢体にではなく、踊りそのものに向けられた賞賛であった。
アイラは汗にまみれた顔に、満足の笑みを浮かべ、周囲の客に向かってお辞儀《じぎ》をしていった。
ふと、舞台袖《そで》に目を移すと、あの少女がこちらを見て、力いっぱい拍手をしていた。その目は感動に輝いている。
アイラは幼い後輩に向かって、暖かく微笑みかけた。
2
酒場の中は熱気に溢れていたが、一歩表に出れば、そこは篠《しの》つく雨が降りつける寒々しい世界だった。
「――やれやれ、いつまで降るんだろうね。これじゃ、アイラも帰りはびしょ濡れになっちまうよ」
安宿の窓からメルカは、真っ黒な空を仰ぎ見て呟《つぶや》いた。
メルカは鎧戸《よろいど》を閉めて、部屋の内部に向かいあった。アイラが仕事に出ていった時とは、一変して整頓されていた。もちろん、メルカの仕事である。
並んだ寝台のひとつには、ヨシュアが眠っていた。彼女はそばに近づいて、その寝顔を覗き込む。
「本当にきれいな子だよ。アイラが参っちまうのも無理ないね。そういえば……アイラの子が生きていれば、ちょうどこれぐらいになるのかねえ……」
メルカは遠い昔を思い出すような目をした。
すると、ヨシュアが急に呻《うめ》き声を上げ、身じろぎした。
彼女は息を飲んだ。少年の脱色したような睫毛《まつげ》が痙攣《けいれん》したように動いたからだ。さらにふたつの瞼《まぶた》がしばたく。
ヨシュアの目が、愕然《がくぜん》とするメルカの顔で焦点を結ぶ。
「……あの、ここはどこでしょう」
少年の声は、目覚めたてとは思えないほどはっきりしたものだった。逆にメルカのほうが動転していた。
「あ、あ、あの、気づいたのかい」
「小母《おば》さんは、どなたですか」
ヨシュアは続けて尋ねた。
「あ、あたしかい。あたしはアイラの友だちさ。だから、心配するんじゃないよ」
少年はきょとんとした顔をした。
「……アイラ? アイラ……どこかで聞いたことのある名前です。ああ、思い出せません。そのかたは、僕とどんな関係があるのでしょう」
メルカは少年の様子がおかしいことに気づいた。それに聞いていた話とずいぶん違う。頭を打って意識を失う前は、たどたどしい言葉しか喋《しゃべ》らず、まるで幼児のようだった、とアイラはいっていた。だが、今、ここにいる子は、むしろ年よりも賢く見える。
――頭をぶつけて馬鹿になった、という話は聞くけど、その反対なんてあるのかね。
メルカはすっかりわけがわからなくなっていた。けれど、少年が目を覚ましたと聞けば、きっとあの娘《こ》も喜ぶだろう、と思った。
「小母さん?」
「なんだい、坊や」
「あの……誰か近くで泣いていませんか。女の子みたいなんですが」
メルカは耳を澄ましたが、まったくそんな気配はない。雨が屋根を打ちつける音だけだ。
「空耳だろうよ。頭に怪我をしたろう。きっとそのせいさ」
ヨシュアは毛布の下から手を伸ばして、自分の頭を触った。ようやく、傷に気づいたようだ。
「どうして、こんな怪我を……駄目だ。全然思い出せない」
少年は悩ましげな声を上げた。
「いけないよ。今はなにも考えないほうがいい。せめて、アイラが戻るまでゆっくりお休み。そうだ、お腹が空いているだろう。ちょっとお待ち。なにか腹に溜まるようなものを、下で作ってもらってくるからね」
そういって、メルカは部屋を出ていった。
ヨシュアは寝台の上で目を閉じた。
自分の記憶を探るためだった。だが、断片的に思い浮かぶことがあっても、繋がりがまるでない。その中では黒髪の女の顔が、最も印象が強い。哀しげな微笑みを浮かべ、自分を見ているようだ。
――これが、アイラという女なのかも。
と、ヨシュアは思った。
目を閉じていると、また、泣き声が聞えてきた。少年は両手で自分の耳を塞《ふさ》いでみた。声は変わらずに届く。先程の婦人の言葉が正しいと思った。けれど、それを聞いていると胸が痛んでくる。助けを求められているのに、無視しているようで良心が咎《とが》めるのだ。
――本当に誰か泣いているのかい。僕に助けを求めているのかい。
ヨシュアは心の中で叫んだ。
すると、声が束《つか》の間途絶えた。少年には遠くにいる女の子が、驚いて息を飲んだように感じられた。そして、いっそう大きな声となって返ってきたのだ。
――タ・ス・ケ・テ!
ヨシュアは寝台の上で勢いよく体を起こした。
空耳などではなかった。誰かが自分に救いの手を求めているのだ。
――どうしたら、いいんだろう。
少年は悩んだ。
助けに行ってあげたいと思う。けれど、なにができるというのか。ここがどこで、自分が誰か、ということもわからないというのに。助けが必要なのは、むしろ自分のほうではないのか。確かに、今の自分はアイラという女性の保護を受けているようだ。生命の危険は感じられない。だが、だからといって、他人を救いに行く力があるわけではないのだ。
――タ・ス・ケ・テ! オ・ネ・ガ・イ!
また、〈声〉が聞えた。先程よりも哀願《あいがん》の響きを強めて。
少年は呻《うめ》きを上げて耳を塞《ふさ》いだ。しかし、空気を伝わる普通の声ではないと、わかっていた。
ヨシュアは寝台から床に足を降ろした。もう、いてもたってもいられなくなった。
枕の脇に服が畳《たた》まれて置いてあった。そして、足元には自分の足に合いそうな子ども用の靴があった。
少年は素早く、服を着替え、靴を履いた。上衣も長袴《ズボン》もぴったり体に合う。
扉に向かって足を踏み出した途端、周囲の光景がぐらりと歪み、寝台に倒れていた。めまいを起こしたのだ。
頭の傷が原因のようだが、体が弱っているのも確かだ。まだ、外出できるような体ではないのだ。
しかし、ヨシュアは立ち上がった。やらなければならない、という義務感が、少年をつき動かしていた。
頼りなげな足取りで、廊下に通じる扉に歩み寄る。そして、取っ手に手をかけた。
その瞬間、身を凍《こお》らすような恐怖が湧き上がった。ヨシュアは取っ手から手を放し、大きく後ずさった。
閉じられた扉の向こうから、なにかとてつもなく恐ろしいものが現われる――そんな悪い予感がしたのだ。
「――本当によかったよ」
階段を下りながら、メルカは目頭に喜びの涙を浮かべていた。
階下に降りた彼女は、宿の女将《おかみ》を探して、玄関の脇にある帳場に向かった。
暗い廊下を進み、玄関前の広間に差しかかった。目の端に黒いものを捉《とら》らえた途端、彼女は虫の知らせのようなものを感じた。よい予感とはいえない。
思わず足が止まり、手近な柱に身を隠した。
玄関に奇妙な風体の男たちがいた。細身と逞《たくま》しい巨漢のふたりだ。
全身、真っ黒な姿である。頭からすっぽりと黒い外套《がいとう》に身を包み、顔を隠すかのように覆面《ふくめん》までしていた。腰の下から出た長袴も長靴もすべて黒かった。
たった今、外から入ってきたようで、外套から水滴が滴《したた》り落ち、床に水たまりを作っていた。
帳場の扉が開き、女将が出てきた。女将もまた男たちを見て、ぎょっと立ちすくんだ。
「……い、いらっしゃい。お、お泊まり、で、ですか」
黒装束《くろしょうぞく》の片割れ――細身の、錬金術師デルに〈豹《ひょう》〉のパイジャと呼ばれた男――が顔を向ける。目深《まぶか》に被った頭巾《ずきん》の奥で、目が妖しい光を放つ。
「女将……ここに子ども連れの女がいるはずだ。部屋はどこだ。教えろ」
口調は静かだったが、耳にした者を怯《おび》えさせずにはおかない凄味《すごみ》を帯びていた。
「ア、アイラさんのことですか」
「名までは知らん。だが、子ども連れの泊まり客など、そう多くはないだろう。まして、女となればな」
「アイラさんは留守です」
女将はきっぱりいった。
「留守? ガキもか」
「さあ、存じませんね。ウチは宿賃さえもらえりゃ、お客がなにしようと口出ししませんから」
女将は開き直ったようにいった。
「部屋はどこだ」
パイジャが繰り返した。
「お断りだよ。どうしても逢いたければ、帰るのを待ってはどうだい。夜中までには戻るだろうからね」
パイジャは振り返り、巨漢のほうと目でなにごとか相談した。そして、うなずき合うと、ふたりは女将を無視して奥に踏み込もうとした。
「なにするんだい、あんたたち――あっ!」
パイジャの手元で、なにかが煌《きら》めいた。その途端、女将の首から鮮血が飛び散った。
女将は、呆気《あっけ》に取られた顔を凍りつかせたまま、その場に崩《くず》れた。見る見るうちに血溜まりが床に広がっていく。
柱の陰で、メルカは短く悲鳴を洩《もら》した。
その声を男たちは聞きつけた。
男たちは無言で近づいてくる。メルカは柱に背をつけたまま、ずるずると腰を落としていく。恐怖で腰が抜けてしまったのだ。
男たちが冷たい目でメルカを見降ろした時、彼女は死を覚悟した。
だが、男のひとりが「違う。こいつじゃない」と呟《つぶや》いた。
男たちはそのまま通り過ぎていった。
メルカは命を長らえたことを知った。だが、はたと気づく。奴らがアイラとヨシュアを探しているのだと。外にいるアイラはともかく、ヨシュアは二階の部屋にいる。探し出されるのは時間の問題だった。
――なんとかしなくちゃ、とメルカは焦《あせ》った。けれど、肝心の足腰がいうことを聞いてくれないのだ。
黒装束の男たちは、一階の客室をしらみ潰《つぶ》しに探していった。人が部屋にいようがいまいがお構いなしに、扉を次々に蹴破《けやぶ》る。中には腹を立てて突っかかっていく客もいたが、次の瞬間にはあっさり斬《き》り殺された。
眉ひとつ動かぬ冷酷さと、急所を一瞬にて断つ鮮やかな手並みは、彼らが殺人を本職とする者であることを示していた。
下にいないとわかると、ふたりは揃って階段を上っていく。ヨシュアがいる部屋は、階段のすぐ前だった。
扉の前に立った。そこになにか感じるものがあったのだろう。彼らは目配《めくば》せを交わし、中に踏み込んだ。
扉が鍵や蝶番《ちょうつがい》ごと吹き飛び、男たちは素早く突入した。
だが――
ヨシュアの姿はどこにもなかった。
開け放たれた窓の鎧戸《よろいど》が、風に揺られてギィギィと鳴っていた。しかも、窓枠《まどわく》の金具に敷布のようなものが縛りつけられ、それが下に垂《た》れていた。
「――ちっ!」
男たちは初めて感情を露《あらわ》にした。
パイジャが窓辺に駆け寄り、暗く細い路地を見渡す。人影はなかった。遠く逃げたあとだったのだ。
「俺はこのまま追う。おまえは玄関から行け」
パイジャが窓から飛び降りた。猫のような身のこなしで降り立つと、人気《ひとけ》のある表通りと反対側に走り出した。
メルカは階段で、もうひとりの巨漢とすれ違った。心臓が止まるような思いがしたが、男は一瞥《いちべつ》もくれず、階段を一気に駆け降り、そのまま去っていった。
腰が抜けそうになったが、メルカは階段の手すりにしがみつき、なんとか体を支えた。
思うように動かぬ下半身に苛立ちを覚えながら、メルカは部屋に戻り、ヨシュアの姿を求めた。だが、死体も血の痕跡《こんせき》も見当らない。そして、黒装束の男たちと同様に、窓の敷布を発見し、いち早く少年が逃亡していたことを知った。
安堵の溜息とともに体中の力が抜け、メルカは再び床にしゃがみ込んでしまった。だが、彼女はすぐに立ち上がった。
「――こうしちゃいられないよ。早くアイラに知らせなきゃ。坊やの命が危ないんだ」
アイラの舞台は続いていた。
『麗《うるわ》しのマルーサ』の後に、続けて二曲、やはり客の好みに合わせた陽気で軽快な踊りを披露《ひろう》した。
わずかな休憩――アイラよりも楽士が音を上げたのだ――を挟んだ後、今度は冒険して『月光の宴《うたげ》』と題した、しっとりと叙情的な踊りを演じた。楽器も竪琴《たてごと》ひとつで、客が少しでも騒げば、音色が聞えなくなる静かな曲だ。
果たして、舞台に現われたアイラに寄せる歓声で、曲は完全にかき消されてしまった。だが、アイラは踊り続けた。彼女の頭と体は、数百もの曲と振り付けを完璧に憶えており、伴奏なしでも困ることはなかった。
客の声が次第に静まっていく。優美にして叙情性豊かな動きは、ゆるやかな舞いの中にこそ発揮される。その艶かしく肢体《したい》の揺れるさまに、客たちは声を失っていったのだ。
喧噪の中でも演奏を中断しなかった琴の音が、次第に聞えてくる。そして、流れる曲とアイラの踊りは一拍の狂いもなかった。これがどれほどに凄いことか、わかる者はそう多くはないだろう。
この店は、髭面《ひげづら》で赤ら顔の客が大半を占める、典型的な場末の酒場であったが、アイラを凝視《ぎょうし》する男たちの目に、欲情の色は驚くほど少ない。むしろ、その陶然《とうぜん》とした顔は、降臨《こうりん》した女神を崇拝するかのような、ある種の厳粛さがあった。
アイラは肌に浴びた視線から、客の心をがっちり掴んでいると確信した。
踊り娘ならば、ある程度場数を踏むことで、客の感触を掴めるようになるものだが、歓声や客の表情といった、他の要素を入れての話だ。アイラのように、皮膚感《ひふかん》だけで客の心の中まで見通せる者は、めったやたらにいるものではない。『|舞踊の女神《カーラ》の申し子』というメルカの言葉は、まさに正当な評価といえる。
その彼女の肌に、異質な感触が湧き上がっていた。実をいえば、最初の曲からその視線が気になっていたのだが、客の心を完全に掌握《しょうあく》したことによって、より際《きわ》だったといえる。
その視線からは、感動や高揚の欠けらも感じられない。ひどく冷静な目だ。かといって、彼女の体や踊りに関心がなさそうな様子もなく、一瞬とて目が離れない。そう、彼女の一挙一動を逃すまいと、観察しているようにさえ思えた。
アイラは妙に気にかかり、踊っている最中に、その視線を遡《たど》ってみた。
視線の主と目が合った瞬間、彼女の身の裡《うち》をなにかが走り抜けた。
男の口元に、上品な笑みがのぼっていた。だが、琥珀《こはく》色の宝石のような瞳には、温かみというものが欠如していた。
彼女の直感は狂っていなかった。
男はきわめて怜悧な目で、あたかも、アイラを品さだめするかのような視線を向けていたのだ。
アイラは、肌が粟立つような不快さを覚えた。舞台に上っている限りにおいて、彼女は男の好色な目をおぞましいなどと思ったことはない。男を惹き付ける肢体もまた、芸の一部と考えているからだ。
だが、この男の目は、アイラの芸など眼中になく、また肢体などにも興味は――少なくとも性的な意味において――なかった。
まるで、心の底を見透かすような目に、アイラは腹を立てると同時に、今まで舞台で一度として感じたこともない羞恥を覚えた。
その男は、舞台近くの席に陣取っていた。長く緩やかな黒髪を目元近くまで垂らした、白皙《はくせき》の青年である。ひとりできたようだが、その左右には店の女給がつき、仕事そっちのけで、青年に媚《こび》を売っていた。
青年は、まるで彼女が目を向けてくるのを予測していたかのように、蕩《とろ》けるような微笑みを浮かべ、持っていた盃を挨拶の代わりのようにわずかに上げた。その指には猫目石の指輪が光っていた。
青年の微笑みを見た途端、アイラの胸は高鳴った。
起こるはずのないことが起き、彼女は足を踏み間違えた。巧妙に誤魔化したため、ほとんどの客には気づかれなかったが、アイラは頬を赤らめた。少なくとも、あの男には気づかれたからである。
ついに念頭から青年を払い落とすことができぬまま、アイラは『月光の宴《うたげ》』を踊り終えた。それでも、盛大な拍手と歓声が湧き上がる。
アイラは、舞台の脇に陣取ったあの青年を睨みつけたかったが、なぜか再び視線を合せることに躊躇《ためら》いを覚えた。
本人は気づかなかったが、怖かったのである。むろん、若い踊り娘とは異なる意味で。
客の間から「『炎の剣』を!」という声がかかる。同意の声が次々に上がり、さらには促す拍手が続いた。
『炎の剣』は人気ある剣の舞いだ。アイラ自身、元気だった頃は、その熱狂的な踊りを得意としていた。客の注文とあらば、踊るのはやぶさかではない。
けれど、肝心の剣を今日は用意していなかった。酒場の親父に舞台から尋ねたが、首を横に振っている。客が「俺のはどうだ」と剣を出すが、どれも短剣か、長剣でも幅広のものばかりで使えない。
すると、あの黒髪の青年が、ふいに椅子から立ち上がった。
アイラの心臓がドキッと鳴った。目を向けなくても意識が向いていたのだ。
青年は肩にはおった黒い外套を揺らし、まっすぐ舞台に近寄ってきた。
そして、腰から細身の剣を鞘ごと外して、アイラに差し出した。
「――これならいかがでしょう」
透き通るような上品な声が、青年の口から流れ出た。
「す、すまないね……」
アイラはわずかに指先を震わせ、差し出された剣の柄《つか》を掴む。
その瞬間、妙な感触を覚えた。
剣の柄から、なにか不思議な力が流れ込んでくるような気がしたのだ。
彼女は細い鞘から刀身を引き抜こうとした。すると、わずかに鞘から顔を覗《のぞ》かせた刀身の部分から目映《まばゆ》い光が溢れ出た。
それは不思議な光だった。空にかかる虹のようにさまざまな色彩に変化していく。また、眩《まぶ》しさを覚えたかと思うと、一転して柔らかな光に変わり、暖かだと思えば次の瞬間には冷たさを覚える。そして、間違いなくいえるのは、これが自然の光ではないということだ。
店内が騒然となった。椅子を蹴倒《けたお》して立ち上がる者もいた。
「――ありゃ、オリハルコンの輝きじゃねえのか」
「――そうだ。アトランティスの剣だぞ」
「――なんで、あんなものが。奴はアトランティス人なのか?」
ざわめく客の声も、アイラの耳に届かなかった。剣からほとばしる光に、心奪われたように見入っていたのだ。
「――いかがでしょう。お役に立ちそうですか」
青年が舞台のアイラに声をかけた。この場には、ふたりしかいないかのような振舞いだ。
われに返ったアイラは、鞘《さや》を払い、細身の剣を振ってみた。
輝きは最初に比べ、いくぶん衰えていた。だが、剣を振るたびに、ヒュッと風切り音とともに、刀身から星の瞬《またた》きのような光の粉が広がった。呼応して客がどよめく。
アイラは驚きの目で、舞台下の青年を見た。
謎の青年は婉然《えんぜん》と笑った。
「どうぞ、それは進呈しましょう。どうやら、あなたが持つほうが相応《ふさわ》しいようだ」
アイラは、束の間青年の気障《きざ》な台詞に胸をときめかした自分に腹が立った。
「――れ、礼をいうよ。あたしは客からの贈り物を断らない主義でね。ただし、受け取ったからといって、なにも期待しなさんな。〈踊り娘アイラ〉は、物になびくような、安っぽい女じゃないんでね」
そういって、アイラはチーンと鍔鳴《つばな》りの音をさせるように剣を鞘に収めた。
その小気味よい啖呵《たんか》に客が喝采《かっさい》を上げた。このような酒場では、上品な色男は、反感を買うものだ。まして、女給を独占しているとなればなおさらだった。
すると、青年は意味深な微笑を口元に浮かべると、くるりと振り向き、自分の席に戻っていった。嘲笑《あざわら》うような声が、青年に向けられるが、まったく意に介した様子はない。
「――曲を頼むよ」
アイラは楽士に向かって叫んだ。
ドドドドド、と太鼓《たいこ》が激しく打ち鳴らされる。アイラは剣と鞘を両手に持ち、舞台の中央で身構えた。踊りが始まれば、煩わしいことはすべて忘れることができる。少なくともこれまではそうだった。
しかし、前奏が始まっているというのに、踊りに没頭できない。頭にあの青年の顔がこびり着いて離れないのだ。
アイラは次第に苛立ちを覚えてきた。
それでも本奏に入れば、体は勝手に動く――『炎の剣』の始まりである。
本人自身、格別に好きだということもあって、その踊りは見る者を唸らせるだけの迫力を持っていた。もともと、『炎の剣』は数ある剣舞の中でも、激しさにおいて群を抜く。それをアイラは超人的ともいえる体力と脚力で、片時も足を止めず、舞台を隅から隅まで使って、雄大に踊った。
加えて、踊りに合せてオリハルコンの剣が放つ光が乱舞し、いっそうの派手さを添えていた。
さらに、アイラは青年に覚えた苛立ちすら、踊りの上で演じる情熱的な乙女《おとめ》の思いに転化させ、圧巻というべき舞台に昇華させたのだ。
客は総立ちとなって、星屑《ほしくず》の煌《きら》めきを巻き散らして踊り狂うアイラに、歓声を上げた。
だが――
興奮が最高潮に達しようという時、突然、店の戸口の扉が大きく開け放たれ、髪をふり乱し、ずぶ濡れになった女が飛び込んできた。
アイラは戸口付近で起きた、わずかな混乱を見逃さなかった。そして、すぐに入ってきた女が、メルカだということに気づいた。
「――お姉さん!」
アイラは踊りを中断して、舞台から飛び降り、メルカのそばに駆け寄る。客のざわめきも彼女の耳には入らなかった。少年の身に、なにか重大なことが起きたことは間違いないのだ。
「ああ、アイラ、大変だよ。坊やが、坊やが」
メルカは蒼白《そうはく》の顔でいった。
「お姉さん、しっかりして。坊やがどうしたの」
問いかけるアイラとて、青白さでは負けていない。
「坊やとあんたを狙って殺し屋が――」
メルカの言葉に、アイラは愕然とした。
――町に入る前から感じた悪い予感とは、このことだったのか。
「――で、坊やは、坊やは無事なの」
アイラは、掴みかからんばかりの勢いでいった。
「窓から逃げたよ。そいつらがくる前に目を覚ましていたんだ。でも、奴らは坊やを追っている。早くしないと、命が危ないよ」
アイラの体に悪寒《おかん》が走った。
トランによって、少年が石畳に叩きつけられた時の、血が凍りつくような恐怖が、まざまざと蘇っていた。
「坊やはどこに、どこに逃げたの」
だが、問われたところでメルカにわかるわけもない。彼女は首を横に振って、泣き出した。
「ごめんよ、あたしがついていて」
アイラはメルカの肩を掴んで、慰めの言葉をかけた。
「坊やが死んだって、決まったわけじゃないでしょう。それに、お姉さんのせいじゃない」
アイラは戸口に向かおうとした。だが、引き止めるようにメルカが手を掴む。
「おまえ、なにをしようってんだい」
「決まってるわ。坊やを助けに行くのよ」
「死ぬ気かい。相手は殺し屋だよ。宿じゃ、なん人も殺されているんだ。おまえまで殺《や》られちまうよ」
「坊やが死ねば同じよ。あたしだって生きちゃいられない」
そういって、アイラは力まかせにメルカの手を振り解いた。
「――おどき!」
戸口の間にいる男たちに向かって、アイラは叫んだ。そのほとばしる烈帛《れっぱく》の気合いに、人だかりは左右に割れて道を開けた。
輝く抜き身をぶら下げたまま、アイラはそのあいだを駆け抜け、雨の町へと飛び出していった。
酒場は騒然となった。
ふたりの女給は、アイラとともにいつの間にか姿を消した、あの黒髪の青年を探して、あたりを見回した。娘たちは、青年がいた丸卓の上に置かれた二枚の金貨を見つけた。すると、ふたりは顔を見合わせて、ほくそ笑み、それを懐《ふところ》に入れてしまった。
3
雨の降りしきる裏通りを、ヨシュアは駆けていた。
逃げても逃げても、黒い影が迫ってくる感覚が消えない。それどころか、秒刻みに感覚が強まっていく。
前にも、雨の中を惨《みじ》めな姿で逃げ回ったような気がする。
だが、その時はひとりではなかったはずだ。誰かが守ってくれていた。だからこそ、逃げ延びることができたのだ。
少年の頭に巻いてあった包帯が、いつの間にか取れて、白い髪が露《あらわ》になっていた。左のこめかみの上あたりが血で赤い。雨で固まっていた血が、溶けて流れただけでなく、動き回ったことで傷が開き、血が滲《にじ》み出ているのだ。
ヨシュアは暗い路地のどん詰《づま》りで、塀《へい》にもたれかかり、荒い息を繰り返した。そして、ガチガチと歯を打ち鳴らす。
冷たい雨の中を走り回ったせいで、弱い少年の体は、火のように熱くなっていた。
じっとしていると、あの〈声〉が頭の中に響いてくる。宿で聞くより強い響きだ。逃げ回っているうちに、無意識に助けを求める子に近づいていったのかもしれない。
――なんとかしてやりたい、と少年は切に思った。けれど、現実には人を救いに行くどころではなく、自分も動けなくなりかけているのだ。
ザッ――
地面を踏み締める靴底の音が、近くで上がった。
少年の心臓が跳《は》ねるように鳴った。
「あ、あああ……」
ヨシュアは振り返る勇気もなく、塀伝いに逃げる。だが、先は行き止まりだ。もはや逃げ場は残されていなかった。
「――やっぱり、おまえか。ま、その髪じゃ、他人と間違いようがないからな。わかり切っていたが」
その声に攻撃的な気配は感じられなかった。
ヨシュアは恐る恐る振り向いた。
雲を突くような巨漢がそこにいた。初め少年は、後ろ足で立った熊だ、と思った。
その男の口元で真っ白な歯が光る。
「どうした、俺がわからんか。ガルーだよ。そうだな無理もないか。俺だって鏡を覗き込んだ時、見知らぬ男がいやがる、と思ったからな」
「……あの、僕を知っているんですか……」
ガルーは目をまん丸に見開いた。
「――おまえ喋《しゃべ》れるのか。そういえば、顔つきもなんだか違うみたいだ。おまえ、本当にヨシュアなのか」
「さあ……目を覚ました時、そばについていてくれた小母《おば》さんが、僕のことをそう呼んでいましたが、それが本当の名前とは……」
少年は力なく答えた。
「小母さん? アイラのことか。そういえば、あいつはどうした。雨ん中をおまえひとりで散歩させるなんて、あいつが許すはずがないんだが」
「……その人には逢ったことがありません。小母さんは、その人の友だちといってました。どこかに行っているから、帰るのを待っていなさい、と……」
ガルーはぼりぼりと頭をかいた。
「話が見えんな。まあ、なんにしろ、元いたところに戻ろうぜ。そこにいれば、アイラも帰ってくるんだろう」
「駄目です!」
少年が思わぬ激しさを見せた。
「俺はアイラと逢わなきゃならんのだ。なにがあったか知らんが、駄々をこねるんじゃない」
ガルーが少年に手を差し伸べた。
ヨシュアが顔を強ばらせて、短く悲鳴を上げた。
だが、ガルーはそれが自分に向けられたものでないとわかっていた。背後に凄《すさ》まじい殺気が立ち上っている。少年はそれに怯《おび》えたのだ。
獣のような素早い身のこなしで、ガルーは振り向いた。
路地の入口に、黒装束の男が立っていた。ヨシュアを追ってきた謎の殺し屋の片割れ、パイジャである。もうひとりの巨漢の姿は見えない。
「――その子どもを渡してもらおう」
と、パイジャはいった。
「……なるほど、そういうことか」
ガルーは納得がいったように呟《つぶや》くと、にんまりと歯を剥き出しにした。
「命が惜しいなら、よけいな真似はせんことだな。手向かいしなければ、見逃してやる」
男がいった警告は、逆効果に働く。
ガルーは拳《こぶし》の関節をボキボキと鳴らし、
「おもしろい。この町にも、ちっとは歯ごたえがある奴がいたか。どいつもこいつも、人の面見るなり逃げ出しやがって。うんざりしていたところだぜ」
その顔は荒っぽいことを歓迎していた。これからよい気晴しができるとでも思っているようだ。ことなかれ主義だった昔とは、性格ががらり一変している。
だらんと下げた男の右手の袖から、シュッと音を立てて、鋭い刃のようなものが飛び出した。踊り娘の母子《おやこ》、宿の女将《おかみ》や抵抗した客たちを、一刀のもとに斬《き》り捨てた武器だ。
だが、ガルーは自分の腰に吊るした武器に、手を伸ばそうともしなかった。あくまでも素手で戦う気のようだ。
「命知らずが……」
パイジャは嘲笑うようにいった。すると、ガルーは指を立てて「こいよ」という仕草をした。
パイジャが身をかがめた。すると、地を這《は》うような低い姿勢で、路地を駆けた。
――疾《はや》い!
水|飛沫《しぶき》を蹴立《けた》て、風のような黒い影がガルーに迫った。
――ヒュッ!
風切り音とともにガルーの首筋めがけて、銀色の閃光《せんこう》が走る。
皮が裂け、血が飛び散る。
「――なにっ!」
パイジャが覆面の奥で驚愕の呻《うめ》きを発した。
仕込み剣の切っ先が、首の皮一枚のところで完全に止められていた。
なんと、ガルーが剣の中ほどを素手で握り締めている。血はそこから吹き出したものだ。
ガルーはにやりと笑った。
「結構、動きが速いじゃないか。おかげで、避ける暇がなかったぜ」
パイジャは剣を引き剥がそうとした。相手の指をすべて落とすつもりで。だが、万力で押さえつけられたように、剣は微動だにしない。
ガルーが少し左手に力を込めた。
すると、剣は根元からあっさり折れた。
すかさず、ガルーは空いた右手でパイジャの胸倉を掴む。黒装束の男の体がゆっくりと持ち上がり、足が地面から離れる。
「この俺さまに血を流させたんだ。おまえこそ、ただで済むと思うなよ」
ガルーは奪った血まみれの刀身を地面に投げ捨て、左手で拳を固めた。
拳がパイジャの顔面に炸裂《さくれつ》した。右手で掴んでいた胸部分の布がちぎれ、パイジャの体が反対側の塀《へい》に叩きつけられる。
ぶち当たった土塀が崩れ、破片がパイジャの上半身を埋《う》める。
恐ろしいまでの衝撃に、パイジャの頭蓋骨は、間違いなく粉砕されたはずだ……。
ところが――
「くくくくくくく」
倒れた男の体から、喉を鳴らすような笑い声が立ち上った。
「――なんだと!」
今度はガルーが目を見張る番だった。
瓦礫《がれき》の中からパイジャが身を起こした。頭巾《ずきん》に包まれた頭をブルブルと振る。
「おまえが、俺たちの同類だったとは気づかなかったな」
はっきりした声で、パイジャはいった。
「同類? なんのことだ」
「知らんのか」
パイジャの目が、ちらりと路地の奥で恐怖に震えるヨシュアを捉らえた。
「……なるほど、おまえたちの〈救世主〉は、まだ目覚めておらぬのだな。ならば〈使徒〉とて、使命を知らぬ。気の毒にもな。クククク……」
「どういう意味だ」
「使命を自覚せぬ〈使徒〉は、授《さず》かった〈力〉を充分に発揮することができぬ。つまり、おまえは俺に、絶対勝てないということだ」
ガルーの顔が怒りに震え、こめかみに血管が浮き出る。
「な、なにを! だらしなく地べたに転がっていやがる癖に、大口を叩くじゃないか。こうなったら容赦しねえ。息の根を止めてやる」
ガルーはパイジャを引き起こそうとした。だが、手が男の衣服に触れる寸前、なにか得体の知れない恐ろしさを覚え、バッと後ろに飛び下がる。
裡《うち》に潜む獣の勘が警鐘を発したのだ。
パイジャは不気味な嘲笑《ちょうしょう》を上げた。
「教えてやろうではないか、使命を自覚した使徒との違いをな……」
パイジャが奇怪な呻《うめ》きを洩した。それとともに体が内側から膨れ上がる。外套《がいとう》や頭巾《ずきん》が裂け、変貌を続ける肉体が露《あらわ》になっていく。
「――な、なんだ、こいつ!」
ガルーは驚愕に顔を歪めた。
目の前に現われたのは、黒い体毛に覆《おお》われ、胴体の上に豹の頭を乗せた獣人だった。
獣人のふたつの丸い目は爛々《らんらん》と輝き、その口は牙を剥き出し、対峙《たいじ》するガルーに向かって威嚇《いかく》の唸《うな》りを発した。
その声は確かに豹のものだった。
「この野郎っ!」
ガルーは変身したパイジャの顔面めがけて拳を放つ。だが、その拳は豹人の顔に届く前に、相手の毛むくじゃらの手に受け止められてしまった。しかも、豹人の手によってがっちりと固められ、引き抜くこともできない。
ちょうど、さっきと逆の態勢であった。
グルルルル……。
漆黒《しっこく》の豹人は、笑うがごとく唸った。
ガルーの顔が朱を差したように赤くなる。そして、今度は空いている拳に渾身《こんしん》の力を込めて、相手の腹に叩き込む。
本物の豹ならば、腹は急所のはずである。だが、銃弾の直撃以上の衝撃力を持った、ガルーの鉄拳を食らっても、相手は呻きもしない。弾力と強靭《きょうじん》さを合せ持つ腹筋に、衝撃が完全に吸収されていた。
「馬鹿な、こんなはずは――」
ガルーはやっきになって、相手の腹を殴りつけた。だが、豹人を後ずさらせることもできなかった。
ヨシュアの血を飲み、この強靭な肉体を得て以来、膨れ上がった自信が、音を立てて崩《くず》れていく。
パイジャが攻撃に転じた。
空いた手の指先から鋭い爪を伸ばし、ガルーの肩口から腹にかけて、一気に切り裂《さ》いた。
ガルーの口から絶叫がほとばしる。
パイジャは手を放し、相手が倒れるに任せた。
頭から地面に崩れたガルーは呻きを洩《もら》し、自分の血が混じり合って真っ赤になった水たまりの上で、のた打ち回った。
ガルーは、胸の傷から血とともに力まで抜け出ていくように思えた。
――このまま、非力だった自分に戻ってしまうのかよ。
ガルーは上下の歯をぎりぎりと噛み締めた。
背後から、豹人が悠然と歩み寄る。とどめをさそうとしているのだ。
だが――
突如《とつじょ》、ガルーは思わぬ素早さで身を翻《ひるがえ》し、豹人に向かって手を突き出す。そこにはあの三銃身雷発銃が握られていた。
――ドン!
豹人の腹に小型の砲弾というべき鉛玉がぶち込まれた。豹人の強靭な腹を破れはしなかったものの、腹を大きくひしゃげさせ、体ごと後方に吹き飛ばして、塀に叩きつけた。
――ドドン!
ガルーは残りの弾を続けざまに撃った。一発は逸《そ》れて塀に大穴を作ったが、もう一発は相手の右目に命中し、血を吹き出させた。
豹人の口から憤怒の雄叫《おたけ》びが上がった。そして、牙を光らせ、ガルーに飛びかかる。
だが、ガルーも弾を撃ち尽くした銃を投げ捨て、腰の段平《だんびら》を抜き放っていた。
両者がもの凄い勢いでぶつかりあった。
巨体のガルーが軽々と跳ね飛ばされ、反対側の塀を突き破る。だが、その剣は豹人の胸に突き立ち、血まみれの切っ先が背中から抜けていた。
パイジャはおびただしい血を吐いた。
間違いなく剣が片側の肺を貫いていた。常人、いや、獣でさえ即死という傷だ。だが、豹人は倒れもせず、二本の足で立っていた。これはもう、不死身としかいいようがない生命力だった。
パイジャは塀の向こうで倒れているガルーを、激しい憎しみの目で睨《にら》みつけるが、次の瞬間、踵《きびす》を返して逃走し、闇の中に消えていった。
「うぐぐぐ……」
豹人の気配があたりから消えてから、ガルーは呻き声を洩した。
胸から腹にななめに走った傷が、激しい痛みを上げている。腹などは、もう少し深ければ、腹わたが外にこぼれてしまうところだったのだ。豹人が逃げてくれなければ、それこそ命がなかったろう。
ガルーは顔を歪ませて身を起こした。ひどいありさまであったが、敵を撃退できたことに満足感を覚えていた。
ふと、彼はあたりを見回した。
少年の姿がどこにもなかった。豹人が連れ去ったとは思えない。おそらく、戦いの最中にひとりで逃げたのだろう。
「――ちくしょうめ。この上、まだ手間をかけさそうっていうのかよ」
ガルーはひとりごちた。
しかし、あとを追おうにも、この傷ではしばらく動けそうもなかった。
ガルーが撃った三発の銃声は、アイラの耳にも届いた。
ヨシュアの姿を求めて、闇雲に町を走り回っていた彼女は、時ならぬ銃声に足を止め、その音がした方角に足を転じた。
「――お願い、無事でいて」
神に祈るような気持ちで、アイラは再び走り始めた。
その頃、ヨシュアは、幕舎や露店が立ち並ぶ広場にいた。
ここは昼間市が立つ、町の中心に近い場所だ。夜であることと、この雨のせいで、あたりに人影はなく、ひっそりとしていた。
全身ずぶ濡れの少年は、熱にうなされたような頼りなげな足取りで、幕舎の間を彷徨《さまよ》い歩いた。そして、少年の足は幕舎のひとつの前で止まった。
入口の幕は固く閉ざされていた。少年は裏手に回り、幕舎と地面の間にできた、わずかな隙間を見つけた。子どもでなければ、抜けられそうもない狭さだ。
ヨシュアはそこから中に潜り込んだ。
その幕舎には、獣人の看板がかかっていた。昼間、獣人の仔という触れ込みで、見せ物をやっていた小屋だった。
中に入ったヨシュアであったが、そこで力尽きたように、水びたしの地面の上で荒い息を吐き続けた。
犬のような吠え声が近くで上がった。
その声で、少年は意識を取り戻す。なぜ、ここにきたか、本人もわかっていない。豹人に変身した黒装束の男を見て、恐怖にかられて逃げ出したまでは憶えている。だが、その先の記憶があやふやだった。
顔を上げると、檻が見える。そこに赤毛の狼《おおかみ》の仔がとじこめられ、格子の向こうからしきりに吠え立てている。
「……そうか、きみが呼んでいたんだね……」
弱り切ったヨシュアの顔に微笑が浮かぶ。
そして、力を振り絞り、這うようにして、檻に近づいていった。もう、起き上がることもできない。少年のか細い肉体は気力によって動いていたのだ。
しかし、狼の仔は怒りを剥き出しにして、少年に吠え立てる。髪が白かろうが、子どもだろうが、狼にとっては憎むべき人間のひとりに違いなかった。
ヨシュアの手が檻の閂《かんぬき》に伸ばされた。錆《さ》びついた閂を外すことは、今の少年にとって難行《なんぎょう》以外のなにものでもなかった。
ギシッ、ギギギギ……じょじょに閂の棒がずれていく。
閂が外された途端、バタンと格子が跳ね上がり、狼の仔が飛び出てくる。
だが、それと引き換えに、ヨシュアは崩れるように地面に倒れた。
赤毛の狼は少年に目もくれず、一目散に逃げ出した。しかし、少年が侵入した幕舎の隙間の前で、急に思い留まったように振り返る。
尻尾《しっぽ》がだらりと下がった。そして、赤毛の仔狼は少年のもとに駆け寄った。
クーンと鼻を鳴らして、狼は少年の顔を覗き込む。
ヨシュアが薄目を開けた。
「……いいんだ。僕に構わず……早くお逃げ、ティア……」
狼の仔はその場を去ろうとしなかった。少年が瞼《まぶた》を閉じると、今度はその頬を嘗《な》めて起こそうとする。
「……ありがとう、ティア……でも、僕はもう動けない。ぐずぐずしてたら、小屋の持ち主が帰ってくる……早く逃げるんだ……」
ヨシュアの瞼が閉じた。少年がティアと呼んだ狼の仔が、嘗めたり、吠えたりして起こそうとしても、ヨシュアはぴくりとも動かなかった。
すると、ティアは少年の衿首《えりくび》を咥《くわ》え、ずりずりと引きずっていった。だが、狼といってもまだ子ども、しかも、長い絶食で体力を失った身には、ヨシュアの体はあまりに重かった。
けれど、狼の仔は音を上げない。小さな体に鞭《むち》打って、少年の体を運んでいった。しかし、それに熱中するあまり、周囲にまるで注意を払っていなかった。
突然、細い輪のようなものが上から降ってきて、狼の首にかかった。
「――捕まえたぞ」
いつの間にか、小屋の主であるクロムが帰っていたのだ。ティアは逃げようとしたが、首をぎゅっと締められ、息ができなくなった。
クロムの手に、長い棒が握られていた。細い輪はその先端につけられた針金で、手元の取っ手を引くと、輪が縮まる仕組みだ。
ティアはなんとか輪を外そうとしたが、暴れれば暴れるほど、針金が喉に食い込み、苦しさが増した。
「驚かしやがって。ここで逃げられたら、大損だったところだ。おまえはまだ銅貨一枚だって、稼いじゃいないんだからな」
クロムは捕獲棒を引っ張り、狼の仔を檻に導こうとした。だが、それに気づいたのか、ティアは四つの足を踏ん張って抵抗する。もうなにがあっても檻に戻る気はなかったのだ。
「生意気な。獣の分際で、人間さまに逆らおうってえのか。こうなったら、少し痛めつけてやる」
クロムは棒を左右に振って、狼の仔を引きずり回す。足がなんとかついていってるが、さらに針金の食い込みがきつくなり、口から泡が出てきた。
クロムの足になにかが取りついた。
「――な、なにしやがる。こいつめ」
ヨシュアが男の足にすがりついていた。
「小父《おじ》さん、もう止めて。これ以上やったら、ティアが、死んでしまいます――」
「おまえが、檻を開けやがったんだな。白子めが、おまえも折檻《せっかん》してやる」
クロムの靴のつま先が、少年の腹に深々と埋まる。
ヨシュアは体をふたつに折り曲げ、地べたに胃液を巻き散らした。
それを見て、クロムは鼻を鳴らす。
「白子とは、いい獲物がかかったもんだ。獣人の仔と合せて見せ物にすれば、もっと客が呼べるようになるぜ」
クロムは高らかに笑った。
だが、その時、クロムは握り締めた捕獲棒に異常を覚えた。
ティアが腹這《はらば》いになり、痙攣《けいれん》していた。
「――こりゃ、いかん」
殺しては元も子もない、と慌ててクロムは輪を緩めようとした。だが、はたと手が止まる。狼がただ呼吸を断たれて、苦しんでいるのではない、と気づいたのだ。
狼の四肢《しし》が変化していく。後ろ足が長く伸び、前足も形が変っていった。全身の骨格そのものが、人間に近づいていっているのだ。生命の危機が、変身を引き起こしているのかも知れない。
興行人は歓声を上げだ。それが確かなら、いつでも客の前で変身を見せることができる。大儲けが約束されたようなものだ。
クロムの心は欲望で占められ、狼に対して一片の憐憫《れんびん》も持たなかった。
ティアは、人と獣の中間というべき、獣人形態に移行を終えた。狼人となっても子どもは子どもで、背丈《せたけ》はヨシュアと同じくらいで、体つきも華奢《きゃしゃ》であった。そして、胸のかすかな膨らみは、その狼の仔が牝《めす》だということを示していた。
ティアは、地面に倒れたまま、呻きすらしなくなった。
だが、クロムはそう心配しなかった。
この狼の仔を売りつけた人間が、教えてくれた言葉を思い出していたのだ。
――獣人は強靭な生命力を持ち、首を落とさない限り決して死なない、と。
仮に心臓が止まっていたとしても、必ず後で息を吹き返すだろう、とクロムはたかをくくっていたのだ。
クロムの予測は大方正しく、一部誤っていた。それは獣人の回復力を見くびったことだ。
クロムは捕獲棒の針金を緩め、輪を首から外した。そして、意識がないうちに檻に戻そうと、狼人の仔に近づき、首筋の皮を掴もうと手を伸ばした。
次の瞬間、ティアが目を開き、男の腕に咬《か》みついた。
「うあああああああ!」
クロムは悲鳴を上げて、引き剥がそうとした。だが、がっちりと牙が食い込み、腕を振っただけでは到底剥がれそうもなかった。
ティアは、復讐の念に燃え、クロムの腕を咬みちぎらんばかりに、鋭い牙を食い込ます。すでに牙は腕の肉を断ち、骨まで達していた。吹き出す血で、狼人の仔も男も真っ赤になっていた。
クロムはなおも悲鳴を上げ続け、空いた手で狼の頭を殴った。けれど、殴れば殴るほど、ティアは顎《あご》に力を込めてくる。
ついに手首の先が落ちた。
クロムは食いちぎられた傷口を押さえて、喚き立て、地面を転げ回った。
しかし、ティアの復讐は、これで終わっていなかった。
全身を返り血で染めた狼人の仔が、二本の足で立ち、男にゆっくりと嬲《なぶ》るように近づいていった。
クロムは尻を地面につけ、じりじりと後ろに下がっていく。その顔は涙と鼻水に汚れ、失禁したらしく、股間から湯気が立ち昇っていた。
「た、頼む、た、助けてくれ。お、俺が悪かった。だから、く、食わないでくれ」
だが、ティアは恫喝《どうかつ》するように吠え、クロムの口を塞《ふさ》いだ。
狼人の指先は小さいが、それでも人の命を断つぐらい造作もない、鋭い爪が現われる。
それを見たクロムは「ひええ」と引きつった声を洩《もら》し、さらに長袴《ズボン》の中に放尿した。
ティアが襲いかかるべく、身をかがめた。
「……やめるんだ……」
うつ伏せに倒れたヨシュアが、顔を上げ、か細い声でいった。
ティアの体がビクッと動き、少年のほうに振り向いた。
「……殺しちゃいけない……憎しみで、生き物の命を奪っちゃいけないんだ……」
少年は息絶え絶えにいった。
ティアは首を横に激しく振り、不満げに唸った。
「……お願いだよ……これ以上もう……」
ヨシュアの頭が力を失い、地面に落ちた。
慌ててティアは少年のもとに駆け寄った。
その隙に、クロムは小屋の戸口に向かって駆け出した。
すると――
「ぎゃあああああああ!」
断末魔の絶叫が上がり、すぐに途絶えた。そして、ティアとヨシュアのそばに、なにかが転がってきた。
それは、胴体から切り放されたクロムの生首であった。
ティアは威嚇の唸りを上げ、戸口に体を向けた。
そこには黒装束に身を包んだ巨漢が、びしょ濡れで立っていた。背後から吹き込む風雨が、男の外套《がいとう》をバタバタとなびかせた。
先程ガルーと死闘を演じた、謎の豹人の片割れであった。
黒装束の男は、横たわる少年に視線を注ぎ、一言も声を発しなかった。
そういえば、この男は、これまでも仲間とさえ一度も言葉を交わしていない。
代わりというのではないだろうが、男は黒い手袋をはめた手を顔に運び、口元の覆面を引きちぎるように取り去った。
言葉を発しなかったわけが、ようやく判明した。
覆面の下から現われたものは、白地に黒の縞模様《しまもよう》を持つ虎《とら》の顔だったのだ。
4
巨大な虎男は、牙が並ぶ口から、白い息を吐きながら、ゆっくりと歩き出した。途中、道を塞《ふさ》いだクロムの死体を、大きな足で楽々と踏みしだく。
狼人の仔は身構え、敵意ある目で虎男を睨み付ける。
ティアは気づいていた。虎男の目がヨシュアだけに注がれていることを。自分など路傍《ろぼう》の石のようにしか思っていない。そして、少年を見つめる目には、明らかな害意があった。
だが、虎男は強い。圧倒的なまでに。
ティアは、成人の虎獣人である、という理由だけではない、なにか秘められた力のようなものを巨体から感じた。
野性の獣は、相手が自分より強いとわかれば、決して手を出さない。例外は牝《めす》でいえば、わが子を守る時だけである。
だからこそ、虎男はティアに見向きもしないのかも知れない。あるいは、狼人の仔がどのような行動に出ようと退ける、絶対的な自信を持っているかだ。
虎頭の巨漢が目前に迫った。
すると、虎男は初めて目に止まったように、狼人の仔を睨みつける。
ティアは体をすくませ、跳ぶように横に退いた。睨まれた瞬間、戦意はあっさり霧散《むさん》してしまった。それほど、虎男から感じた威圧が凄まじかったのだ。
意識を失ったヨシュアの体に、黒手袋の手が伸びる。
だが、その時――
小屋の外に、水|飛沫《しぶき》を蹴立てて近づく足音が聞えた。
振り向いたティアは、幕舎の厚い幕越しにもわかる目映《まばゆ》い光をそこに見た。
「――坊や!」
輝くオリハルコンの細剣を持ったアイラが、息せき切って飛び込んできた。
ガルーが放った銃声を頼りに、やってきた彼女は、今また小屋主の絶叫を耳にして、駆けつけたのだ。
虎男が少年を地面に残し、悠然と振り返る。
アイラの顔に、驚きの表情が現われたのは一瞬のことで、すぐに気迫のこもった目で獣人を睨みつけた。
殺し屋の正体が、獣人とは思いもよらなかったが、ヨシュアに害をなす者ならば、いかなる相手であろうとも、戦わねばならぬ敵であった。
「ウチの坊やをどうしようってんだい。その薄汚い指を少しでも触れてみな、ただじゃ済まないからね」
そういって、アイラは細剣の切っ先を、黒装束虎男に向かって突きつけた。
虎男の様子が変わった。目に攻撃的な光が宿り、口から唸りが洩れ出る。少なくとも、アイラを敵として認めたことは確かだった。
アイラの背筋に、ぞくりと冷たいものが這い昇った。
獣と対峙《たいじ》した時、怯《おび》えは厳禁だ。必ず相手は鋭敏に察知し、それに乗じて攻撃をかけてくる。
それを知っていたアイラは、なんとしても、ヨシュアを救い出さねば、という愛情を根源とした使命感を奮い立たせ、身の裡《うち》の恐怖心を消し去ろうとした。
それが成功したのか、虎男は身構えたまま、じっと彼女の様子をうかがっている。無敵の獣人にしては、慎重過ぎるほどだ。
アイラとて、仕掛ける隙を見出せないでいた。闘志が十二分に漲《みなぎ》っていようと、戦いに関しては素人《しろうと》もいいところだ。剣を構えていても、剣舞の練習以外したことがないし、戦いに使った経験など一度すらない。まして、鉛玉を雨霰《あめあられ》と浴びながら平然としている不死身の獣人相手に、こんな細身の剣が通用するかどうか、はなはだ疑問だった。
獣人を刺したところで、あっさり根元から折れてしまうのではないか――そんな不安が彼女の胸をさいなむ。
先程、ガルーの剣が豹人の胸を貫けたのも、超人的な腕力が備っていればこそ可能だったことで、同じヨシュアの血を得た身でも、しょせん男のガルーに、力において及ぶべくもない。
彼女に勝機があるとすれば、それはトランを灰に変えた〈憎しみの炎〉を用いた場合のみであろう。
実をいえば、対峙した時から虎男に向かって「燃えろ! 燃えちまえ!」と心の中で唱えているのだが、いっこうに炎に包まれる様子はない。もともと、そんな力がなかったようにさえ思えてくる。
だが、泣き言はいっていられなかった。自分が敗れれば、ヨシュアは獣人の牙の餌食《えじき》となってしまう。なんとしても倒れるわけにはいかなかったのだ。
アイラは自棄糞《やけくそ》のように剣を振った。
すると、驚くべきことに、獣人が動揺を示して後ずさりした。
――なんなの!
アイラは自分の目を疑った。そして、もしや原因がこの輝く剣にあるのでは、と思いあたる。
もう一度、剣を振る。今度は一歩前に踏み出しながら。
やはりだ。虎男の体がびくっと震え、距離を保とうと後方に下がる。
――この剣を恐れているというの。
ならば、とばかりに、アイラは剣を振り回して、無雑作に間合いを詰めていった。
案の定、虎男は唸りを洩し、ヨシュアから離れ、ティアが閉じ込められていた檻に後退した。
一瞬、アイラの注意が、虎男との間に横たわるヨシュアに向いた。
――こんなところで戦ったら、坊やが踏み潰されてしまう。
そんな恐れが頭に上ったのだ。
その隙を虎男は見逃さなかった。
いきなり、脇にあった鉄製の檻を片手でむんずと掴み、アイラ目がけて投じた。
とんでもない重量の檻が、ブンと唸りを上げて飛んできた。
常識外れの出来事にアイラの意識は、それを事実として認識できなかった。だが、危険を感じた肉体が、反射的に回避しようと動き出す。彼女は地面に身を投げて避けた。
檻はアイラの頭上を飛び越え、幕を突き破って外に転がり出た。幕舎を支える中央の柱が大きく揺らぎ、地面に打ち込んだ釘が数本弾け飛んだが、倒壊はなんとか免れたようだ。
だが――
獣人は雄叫《おたけ》びを上げて、倒れたアイラに飛びかかる。黒手袋から突き出した虎の爪が迫った。
アイラは地を転がって、必殺の一撃をかわした。三筋の爪跡が、今までいた場所に深々と刻み込まれる。
[#挿絵(img/01_277.png)入る]
「――ああっ!」
素早く立ち上がったアイラの口から嘆きの声が洩れ出る。
オリハルコンの細剣を手放していたのだ。地面の上に転がった剣が、急速に輝きを失っていく。
致命的な失策であった。
拾おうとしても、見かけによらず狡猾な虎男が、それを許すはずがない。
虎男がアイラに迫る。
巨体に似合わぬ素早さに、彼女は逃げるのが精一杯だった。髪を振り乱し、全身を泥だらけにして、彼女は避け続けた。
なん度も、鼻先や頭上を虎の爪がかすめていった。実際、わずかな衣服は裂け、髪の毛はいく房《ふさ》かちぎられ、浅手の傷なら、それこそ数え切れないほど生じていた。
それでもなお、致命傷を負わずに済んでいるのは、アイラが相手の攻撃を見切っている証拠であった。
しかも、みっともなく逃げ回っていたのは始めだけで、次第にアイラの避けかたに無駄がなくなっていった。
虎男が繰り出す爪を、右に左に、あるいは頭上と、体ぎりぎりのところでかわしていく。当然、動きに無駄がなくなれば、体勢は崩れず、次の攻撃に備える余裕が生まれる。
急にアイラの動きが、さらに滑《なめ》らかになった。まさに『舞うがごとく』という形容が当てはまる、一種の優美さを持つに至った。
実は、彼女の頭の中には、音楽が流れていた。その楽の音に合せるようにすると、体が信じられないほど軽やかに動く。
――そうよ、剣術の練習をしたことないなんて、ぐじぐじ悔やむことはなかったのよ。体を思い通りに動かす練習だったら、あたしだって、なん千、なん万と積んでいるわ。
驚きをともなう発見だった。踊りの稽古《けいこ》が、このような時、このような局面で役立つとは思いもしなかったのだろう。
もっとも、踊り娘なら剣の名手になれるというわけではない。アイラが特殊であって、他の者では、まず敵と対峙した段階で竦《すく》み上がり、ろくに動けずに殺されていただろう。
そもそも、剣術の稽古では、戦いに際して不可欠な胆力を鍛える。踊りの稽古とは本質的に目的が異なるのだ。もっとも、剛胆と称せられる剣士であっても、獣人と渡り合い、平静さを保つ者がいかほどいるか、はなはだ疑問だ。
常人離れしたアイラの体力と素早さ――そして、恐怖を克服する原動力となった母性愛にも似た強い使命感があって、初めてなせる技なのかもしれない。
「――いつまで追いかけっこを続けるつもりさね。あたしは、いつまでだってつきあっても構わないけどね。あんたは困るんじゃないの」
虎男が息をつくように動きを止めた時、アイラはからかうようにいった。人語を解する知性があると睨んでのことだ。
果たして、虎男の丸い目が怒りに爛《らん》と輝く。
虎男がなぜヨシュアを狙うのか、アイラにはわからない。けれど、戦いが長引き、人が集ってくれば、虎男にとり不都合ではないか――ふと、そんな気がしたのだ。
虎男が再び襲いかかってきた。先程の推測を裏打ちするように、その攻撃には明らかに焦りがあった。
焦りが生じれば、体に力が入り、動きが鈍くなる。すなわち、アイラには避けやすくなると同時に、そこにつけ入る隙ができるということだ。戦いの常識ではあるが、今までそんな生活とは無縁だった彼女が、稽古ではなく、実戦のさなかに得たこととなれば、価値において天地ほどの開きがある。
しかし、アイラはすぐに誤算をしでかしたと気づくことになる。
焦りを覚えた虎男が、彼女の泣きどころを突いてきた。
ヨシュアである――
虎男が意識を失ったままの少年のそばに立ち、踏み付ける真似をしたのだ。
「――ひっ!」
その光景を見た途端、アイラは心臓をわし掴みされたような恐怖を感じた。
虎の口では言葉が喋れなくとも、そのいわんとすることは明白だった。
「――わかった。大人しくする。抵抗しないわ」
即座にアイラは相手を押しとどめた。悩む暇などなかった。自分が爪にかかって倒れた後、人質のヨシュアもすぐに殺されるだろう。しかし、だからといって、愛《いと》し子の頭が踏み潰される光景を見たくはない。
虎男が手招きした。
アイラはヨシュアと心中する覚悟を決め、足を前に踏み出した。
だが、その時だ――!
突如、虎男が体を大きくのけぞらせ、怒りの咆哮《ほうこう》を上げた。
首の後ろに赤毛の狼人が食いついていた。今まで、幕舎の隅で震えていたティアが、命がけの行動に出たのだ。
首筋はあらゆる獣にとって急所である。しかも、払い落とそうにも、手が届きにくい位置にある。
虎男は上半身を大きく回して、狼人の仔《こ》を剥がそうとした。けれど、ティアは懸命に食いつく。だが、長くは続かない。牙を食い込ませた部分が、ちぎれてしまったのだ。
ティアの体が宙を飛び、幕舎中央の鉄製の支柱に背中から叩きつけられた。口から血が吹き出し、そのまま地面に落ちた。
だが、ティアの行動は無駄ではなかった。
体勢を乱した虎男に向かって、アイラが突進した。むろん、その手には拾い上げたオリハルコンの剣が握られている。彼女の手に戻ると、剣は息を吹き返したように、再び輝き始めていた。
アイラの狙いはただひとつ。牙を剥《む》き出し、雄叫《おたけ》びを上げる口の中だ。
――そこなら剣も弾《はじ》かれない。
虎男の手前で、彼女は高々と跳躍した。
空中で払い落とそうと、虎男も爪を繰り出してくる。
だが、一瞬速く、光輝く切っ先が虎男の喉《のど》の奥に刺さる。そして、アイラはさらに渾身《こんしん》の力を込めて、剣を押し込む。
途端に湧き上がる断末魔の咆哮――アイラの剣は喉どころか、ちょうどティアが食い破った、背中側の首筋にまで抜けていた。
しかも、貫いた瞬間、剣の刀身が小刻みに振動し、目がくらむほどの閃光を放った。
カラーンとなにかが落ちる音がした。
目の機能が回復したアイラは、変り果てた虎男の姿を見た。
虎男は仁王立ちしたまま絶命していた。
ちょうど、剣が突き立った部分を中心にして、肉体がごっそりと失われていた。首どころか、その下の胴体も胸近くまでえぐれたように吹き飛んでいた。
火薬による爆発とは違うようだ。なぜなら、爆発につきものの音も衝撃もなく、また、獣人の肉片、血すらも見られないからだ。吹き飛んだというよりも、むしろ瞬時にして蒸発したという表現のほうが正しいだろう。
まさに驚嘆すべき剣の威力である。いかに不死身の獣人とて、これではひとたまりもなかっただろう。
ゆっくりと虎男の死体が傾《かし》いでいく。そして、地響きを伴って崩れ倒れた。
アイラはその場に膝をつき、肩を上下させた。張り詰めた緊張の糸がぷつりと切れ、なにも考えられなかった。
すると、突然拍手が上がった。
「――あ、あんたは!」
幕舎の戸口にたたずんでいたのは、あの酒場で見かけた黒髪の青年だった。
不思議なことに、彼の衣服はまるで濡れていなかった。まだ、土砂降《どしゃぶ》りの雨が、天幕を打ちつける音が聞えているというのに。
「お見事な剣の舞いでした。これほどの熱演は初めてです。中断された舞台の続きが見たくて、あなたの後を追ってきた甲斐があったというものです」
「ふ、ふざけるんじゃないよ。命がけの戦いを、あんたは舞台と一緒にしようっていうのかい」
アイラは憤然と怒鳴った。
けれど、青年は涼しげな微笑みをいささかも崩さない。柳に風といった様子だ。
「これは失礼。褒め言葉のつもりだったのですが、お気に触ったのなら謝罪もしましょう――そうそう、名乗りが遅れました。わたしの名はグリフィン。ムウからきた伝道師《ナーカル》です」
アイラの目が驚きに見開く。
「グリフィン? ムウ? すると、あの光る舟に乗っていたのは、あんたかい」
「あなたがたが街道を旅していた時ですね。ええ、空からご挨拶させていただきました。難儀されているご様子でしたので、舟で送って差し上げようかとも思いましたが……あの時は、なにぶん部外者がふたりほどいて、かないませんでした」
アイラは、ぎりりと歯を咬み鳴らすと、いきなりオリハルコンの細剣を拾い上げる。だが、刀身から光が失せていた。しかも、彼女自身、ひどいめまいを覚えていた。
すると、グリフィンがなだめるように、
「今の戦いで剣は力尽きています。そして、あなたもね。でも、ご心配なく。あなたが回復すれば、少しずつ剣に力が蓄積され、再び元のようになります。アトランティス人は粗野で、芸術心をまったく介さぬ蛮人だが、武器だけは素晴らしいものを作りますからね」
グリフィンの言葉を聞けば聞くほど、アイラは苛立ちを増していった。その余裕の喋りかた、そして柔和《にゅうわ》な笑み、なにもかもが癇《かん》に触る。
彼女は、その友好的な態度の裏になにか隠していると直感した。
「あんたはなに者! あたしたちになんの目的があって近づいたの。まさか、あんたも坊やが目当てじゃないだろうね」
「そうたて続けに訊かれても……けれど、これだけは明言しておきましょう。わたしはあなたがたの味方です。危害を加える意志などありません。いえ、それどころか、あなたがたの友人になりたいとさえ思っています」
アイラはついに癇癪を破裂させ、剣を振り回した。めまいと脱力感は、怒りによって霧散していた。
「ふざけんじゃないよ。誰があんたみたいな男を――」
だが、グリフィンが手を上げて、その言葉を遮った。
「その先は、のちほどうかがいましょう。騒ぎが広まらないように張った障壁の効果が、そろそろ切れる頃です。それに……あなたの大事な坊やは、かなり危険な状態にある様子……手当を急ぎませんと手後れになりますよ」
アイラは愕然として、ヨシュアに屈《かが》み込んだ。少年の息は弱々しく、今にも途絶えそうだった。
「坊や、坊や、しっかりして」
アイラは目に涙を浮かべて、少年の体に取りすがった。
「無理に意識を戻そうとしないほうがよろしいでしょう。さあ、その子を抱いてこちらに。わたしの舟ならば、充分な手当ができます」
グリフィンの腕には、ぐったりした獣人の仔、ティアの体がおさまっていた。
「さあ早く。舟にはお仲間もいますよ。ガルーという名前のね」
「ガルー? あの人、町にきていたの?」
アイラが少年を抱えて立ち上がった。
「ええ、もうひとりの獣人と戦い、ヨシュアを守り通しました。ただ、その際、ひどい怪我を負い、動けなくなっていましたので、わたしが舟で回収しました。ああ、ご心配なく。さんざん舟でも暴れてくれましてね。あの様子なら、万が一にも死にはしないでしょう」
「……信じられないわ、あのガルーが……」
グリフィンが声を出して笑う。
「きっと、驚かれますよ。大した変貌ぶりですから」
アイラとグリフィンは、ともに意識を失った子どもを抱え、幕舎の外に出た。
降りは一向に衰える気配がない。だが、グリフィンのまわりには、なにか透明な壁が張り巡らされているようで、体に触れる寸前で水滴が弾かれている。しかも、その効果は抱えたティアにまで及んでいた。
「――あんたの舟とやらは、どこなの」
焦れたようにアイラがいう。
すると、グリフィンは掌《てのひら》におさまった小さな板を指先でなぞる。
「少々、お待ちを。すぐにきます」
「くるって、なにが?――」
その瞬間、あたりは白日の光に照された。天から差した一条《ひとすじ》の光が、彼らを包み込んだのだ。
すると、アイラやグリフィンの足が地上を離れ、ゆっくりと浮き上がっていく。あたかも、重さというものが失われたように。
アイラはヨシュアを強く抱き締め、悲鳴を上げた。
すでに町の全景が一望できる高さだ。このまま雨雲を突き抜けてしまうのでは、と恐れを抱いた。
「――さあ、あれがわたしの舟です」
グリフィンが、頭上を見上げていった。
翼を左右に大きく広げた舟が、雨雲の中から降りてきた。
翼を広げた、というより、むしろ翼だけといった表現のほうが適確に思える。平べったい刃物のような形の舟だ。
また、両翼の間には、人の顔をかたどった浮き彫りが施されている。下界の者にとっては、神の顔にも映るだろう。ムウの鳥舟《とりふね》が、そのような意図をも込めて作られたことは明白だった。
アイラたちは光の管に導かれ、その腹の中に吸い込まれていった。
ムウの鳥舟は、地上からも見ることができた。
樹海の中に潜んでいた白き獅子も、酒場の戸口から出たメルカも、錬金術師のデルも、そして町の人々も、呆然と舟に小さな人の影が飲み込まれる光景を眺めていた。
だが、ただひとり〈豹〉のパイジャだけは違う目で見ていた。
片方の眼窩から溢れる血を押さえ、もう片方の無事な目は、復讐の念をたぎらせていたのである。
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あとがき
『アルス・マグナ』第一巻『白き魔王』をお届けします。
本作品が形になるまで、丸二年の歳月を必要としました。それだけに、生みの喜びはまたひとしおといった感があります。そして、海のものとも山のものともわからぬ遅筆の新人作家の原稿を、忍耐強く待っていただいた角川書店の伊藤氏には頭下がる思いです。また、退廃的な匂いすらする素晴らしいイラストをつけてくださった小林智美さんには、感謝の言葉もありません。この場を借りて、おふたかたにお礼申し上げます。
さて、シリーズを始めるにあたり、ぜひ作者の見解を示しておかねばならぬことがあります。
そう――〈白子《しらこ》〉のことです。
人権擁護《じんけんようご》の観点からすれば、架空の物語とはいえ、主人公が生まれついての身体上の特徴(欠陥ではありません)を理由に、社会的な差別、そして迫害をこうむる――そのような物語を発表すること自体、はたして適当なことか、悩むところです。また、マスコミ全体として、こういった差別問題にかかわる作品を敬遠する傾向にある、ということも存じております。
しかしながら、人類史において、根拠のない迷信をもととする差別、あるいは、身分の違いを定めた階層社会における構造的差別は、事実として存在し、さらに述べるなら、それらが完全に今の世の中から消え去ったわけではありません。
差別問題に触れなければよい、という考えは、むしろ誤っている、とわたしは考えます。なぜならば、過去において、あるいは現在において差別が行なわれた、そして行なわれているという事実までが隠され、忘れられてしまうからです。
むろん、作者自身、差別という問題の本質を捉《と》らえた上で書かねばなりません。そういった意味では、軽々しく扱えるものではなく、また、わたし自身の見識も不足しているかもしれません。
けれど、差別された者の『痛み』を書くことはできるはずです。そして、問題の本質はそこに――すなわち「差別した者(加害者)は、された者(被害者)の痛みがわからない」――という点にあるのです。
その意味で、スニーカー文庫の若い読者のみなさんに、主人公ヨシュアの体験を通して、彼の『痛み』を感じ取っていただければ、と思っています。
『感じる』こと――これこそ、この種の問題を考え、論じることの第一歩ではないでしょうか。
もっとも、本作品は差別を主題としたものではありません。それを乗り越えて成長していく少年と、彼を支えるさまざまな人々の物語であり、ファンタジーならではの、幻想的にして驚異に満ちた世界、そして、超能力を持った獣人たちのアクションを描く娯楽小説です。それは、『あとがき』からではなく、本文を読み終えたかたならば、おわかりいただけると思います。どうか応援してください。
[#地付き]一九九二年一月二十三日 仕事場にて
[#地付き]千葉 暁
[#改ページ]
底本
角川スニーカー文庫
白《しろ》き魔王《まおう》 アルス・マグナ1
著者 千葉暁《ちばさとし》&伸童舎《しんどうしゃ》チームA.M.
平成四年三月一日 初版発行
発行者――角川春樹
発行所――株式会社 角川書店
[#地付き]2008年8月1日作成 hj
[#改ページ]
修正
《→ 〈
》→ 〉
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
溌《※》 ※[#「さんずい+發」、第3水準1-87-9]「さんずい+發」、第3水準1-87-9
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94