怨霊記 一 四国結界篇
千秋寺亰介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)千秋寺亰介《せんしゅうじきょうすけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)真名瀬|舞《まい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)樽のたが[#「たが」に傍点]
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〈帯〉
超才能の出現 高橋克彦氏
三氏が大絶賛!!
高橋克彦氏
夢枕獏氏
富樫倫太郎氏
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〈カバー〉
超才能の出現
[#ここから1字下げ]
∵陰陽師伝奇ホラー花盛りの中にあって、この作品は類書を圧する。明治という時代設定の妙の他に怨霊師のアイデアには唸ってしまった。
著者の新発明でなければ私も彼らの物語を新たに書きたいくらいだ。加えて上質のミステリに迫る怨霊探しの緊迫。とんでもない世界がこれから広がる予感がする。超才能の出現と断言していい。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]高橋克彦
なかなかできないこと
[#ここから1字下げ]
∵おもしろさにこだわる――千秋寺亰介はこのなかなかできないことをやってのけている。しかも時代が明治であるところがさらに凄いのだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]夢枕獏
執念と妄想
[#ここから1字下げ]
∵この作品には、作者の執念と妄想が塗り込められている。迸る真摯な情熱が産み落とした紛れもない力業である。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]富樫倫太郎
◎明治四十三年五月、世の中がハレー彗星による災厄騒ぎで沸き返っている時。
四国、阿波の洋服問屋『桔梗屋』では大変な事件が持ち上がっていた。
商家の一人息子の歳三が神隠しにあったのだ。
三番蔵の土蔵の中に消えた歳三は、祈祷師のお祓いの後で、三人に増えて甦る。
ここに突然尋ねてきた二人の人物は四国八十八寺の特赦状を持つ者であった。
この特赦状を持つ者は、弘法大師が四国に八十八寺を配してつくった大結界を守護するものとされる。
一人は、舞という女で怨霊師、もう一人は北麿という男で陰陽師であった。
怨霊師は怨霊を狩る者、陰陽師により怨霊の存在を探り、戦うのは怨霊師の役目である。
二人は、商家のまわりに結界を張り、怨霊を封じ込めるが…。
◎奇怪なダーク・ファンタジーの幕が開く!
〈千秋寺亰介《せんしゅうじきょうすけ》〉
◎大阪府生まれ。世界史および日本史研究家であると共に神道研究家であり、マニアックなほどの陰陽道研究家でもある。オカルト研究家としても他を圧倒する情報量を誇り、TV、雑誌などのマスコミ関係に太いパイプを持ち、これまでにも様々な活動を行っている。高橋克彦氏も大絶賛の本書は小説家としてのデビュー作。
[#改ページ]
書下し超伝奇巨篇《ダーク・ファンタジー》
怨霊記《おんりょうき》 一 四国結界篇
[#地から1字上げ]千秋寺亰介
[#地から1字上げ]徳間書店
[#地から1字上げ]TOKUMA NOVELS
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目 次
プロローグ
第一章 メルカバ
第二章 カバラ
第三章 カニバリズム
第四章 ハルマゲドン
エピローグ
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登場人物
真名瀬烈山《まなせれつざん》……大忌部の頭首であり大頭。底知れぬ陰陽の極みに到達した人物で、四天女の一人の舞の父親。
秦《はた》ワイ……大忌部の陰を司る要で大日女の職にある老婆。神憑りで様々な予言を成す巫女の最首。
近江秋水《おうみしゅうすい》……大忌部の中頭で、多くの陰陽師と怨霊師の育て親。四天女と四天王を統括する役目をもっ。
鳥井雅兼《とりいまさかね》……秋水と同じ大忌部の中頭。大忌部村内部を管轄する役職。
近衛右京《このえうきょう》……中頭の秋水の下で働く小頭たちの筆頭。陰陽師の一人である左京の実の父親。
真名瀬|舞《まい》……四国山中の山懐に隠された大忌部の大頭の娘。四天女である怨霊師の一人で四国の阿波を舞台に怨霊を封じ取る役目を担う少女。小剣の天才的使い手。
安倍北麿《あべのきたまろ》……舞と組んで怨霊を封じる四天王の一人の陰陽師。長髪を後ろに束ねた美青年で思いやりが深く誰からも愛される。
烏丸涼《からすまりょう》……鋼芯という武器を使い讚岐を舞台に怨霊を討ち取る怨霊師。日本的な切れ長の目をした美貌の少女。
土御門隼斗《つちみかどはやと》……怨霊師の涼と組んで讚岐に現れる怨霊を葬り去る陰陽師。北麿とは幼少のころから仲がよく、細面の美青年。
古城麗《こじょうれい》……土佐に出現する怨霊を封じ取る最年少の怨霊師。子供のころから口を利けないが古武道槍術の天才少女。
近衛左京《このえさきょう》……四天王の一角で最も最年長の二十歳の陰陽師。小頭筆頭である右京の子で、大きな体格と器の大きさで人望が厚い。最年少の麗と組んでいる。
西連寺蘭《さいれんじらん》……四天女の中の姉的存在。各種の銃器の使い手で四国の伊予が守備範囲の怨霊師。
栗栖夢情《くるすむじょう》……公家育ちで安倍晴明の再来と称されるほどの陰陽師。女性的な性格をもつが蘭を雄々しく守る。
有栖川幻馬《ありすがわげんば》……大忌部における秘儀、秘祭、秘礼の全てを司る老役衆の長。
蘇我神道《そがかみみち》……大忌部で亀卜、御祓などを行う易衆の長。大日女の神憑りを助ける役目を行う。
彩《あや》……裏忌部の衆に育てられた少女。あらゆる殺戮方法を身につけている。
南方熊楠《みなかたくまくす》……洋行の経験者で隠花植物の世界的権威である生物学者。民俗学者でもあり神道研究家でもある。明治が生んだ奇人と称されている。
明石元二郎《あかしげんじろう》……日露戦争終結に貢献した軍人。ヨーロッパで明石機関の長として活躍し、後に韓国併合の功績で中将になる。
八雲優《やぐもまさる》……日本陸軍情報局に所属する大尉。八雲伯爵家の御曹司で希有の秀才。日ユ同祖論の熱狂的信奉者で西洋心霊学に造詣が深い。
桐生院美千子《きりゅういんみちこ》……八雲と同じ情報局に所属する男装の麗人。八雲を陰で支える妖美な女性軍人。
名無しの権兵衛……剣術使い。用心棒として優れた腕をもつが世をすねたところのあるニヒルな若者。
風魔小次郎《ふうまこじろう》……傀儡衆の長の息子。陰の方術の使い手で軍部と手を組もうとする。
芦屋善兵衛《あしやぜんべえ》……徳島市の洋服問屋「桔梗屋」の主。
芦屋|薫《かおる》……善兵衛の妻で、神隠しにあう歳三の母親。
芦屋|歳三《としぞう》……桔梗屋の土蔵で神隠しにあう幼児。
百欄《ひゃくらん》(芸名)……桔梗屋の善兵衛が懇意にしている美貌の祈祷師。
陳広春……八雲の護衛。唐手裏剣の名手のシナ人。
遠藤|静《しずか》……桔梗屋の女中で、一度里に戻されるが呼び戻される。
遠藤|弥吉《やきち》……静の息子。
剣持元三《けんもちもとぞう》……徳島市を管轄する警察署の九等警部。
聖真愁《ひじりましゅう》……裏忌部の長の子で忍衆を統括する謎の若者。
田川|禅吉《ぜんきち》……隼斗に娘の清を救われた地主。
田辺与吉……八雲大尉の下で忠実に命令を守る伍長。
大内虎之助……結界に覆われた霧の中に突入する一兵卒。
酒田源八……阿波山中の鉱山で働く坑夫。
山田与二郎……桔梗屋の番頭。
岡野米……桔梗屋の女中頭。
広田政……桔梗屋の老手代。
川田喜祐……桔梗屋の手代。
中川タネ……桔梗屋の土蔵に飲み込まれた女中。
斉藤セイ……桔梗屋の女中。
田川正太……桔梗屋の丁稚。
近衛ツネ……右京の妻。
近衛ヨネ……左京の妹で右京の長女。
近衛タエ……左京の妹で右京の次女。
近衛左京……左京と同名の弟で右京の次男。
千葉五月……元怨霊師で秋水の昔の恋人。
酒田千恵……源八の妹。
酒田キク……源八の母。
田川清……地主の禅吉の娘。
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プロローグ
漆黒《しっこく》の闇に浮かぶのは、沈黙の世界に怯《おび》えて、己の朧《おぼろ》すら雲間に隠そうとする、初秋の月の虚《うつ》ろな姿だけである。
その夜は、秋にしては少し生暖かな風が、重苦しく垂れ込める流気となって、大地を覆《おお》っていた。
明治末期とはいえ、神経が研ぎ澄まされたような気配が、未《いま》だ一部の地には生き残り、暗雲の大渦となってドクドクと脈打っていた。
それは幕末動乱期、巨大な時代のうねりとなって吹き荒れた流血の大嵐の落とし子の気配だった。
時を超えて蘇《よみがえ》った乱気が、血肉を食らうことに飽き足らず、幕末期の日本全土を血の海にする大流血を阻《はば》んだ薩摩の西郷隆盛の首を落とし、西郷の元に馳せ参じた士族ども全てを黄泉《よみ》に落として、せめてもの溜飲《りゅういん》を下げていただけである。
さらに、無血開城の他方の立役者だった勝海舟にも復讐の手を伸ばしたが、土御門《つちみかど》家筆頭による怨霊封じが結界を張っていたため、海舟には全く手が出せなかった。
西郷は、豪を以《もっ》て傑を地で行く英雄だっただけに、その点に疎《うと》かったのである。
得体の知れない乱気が、今、再び日の本の聖域である四国に張られた結界網を破り、闇の大渦を逆流してこの世に迷い現れてきた。
それは殺気を含んだ異様な流気となって巷《ちまた》に溢《あふ》れ出した。その乱気を敢《あ》えて表せば、黄泉の沼底から目に見えぬ恐怖が実体化したものだった。
ザワザワと闇の中を疾走する生暖かな夜風が、無数の木々の葉をざわめかせ、深い森をさらに深く恐ろしいものにしていた。
秋月の薄明かりに照らされた夜道を、一つの提灯《ちょうちん》の黄色い光だけが、風に揺れるごとく蠢《うごめ》くのが見える。
提灯には墨字で「烏」とだけ大書きされ、古くなって渋色に変色した提灯紙を通し、淡く弱い蝋燭《ろうそく》の光が漏れ出ている。
チロチロ燃える蝋燭の淡い光を受け、無愛想で生え放題の髭面の男の顔が闇夜に浮かび上がっていた。
男の名は源八《げんぱち》と言った。
阿波《あわ》山中の鉱山で働く屈強な坑夫で、人一倍大きな体が想像させる通りツルハシ一本の手掘りで二人分の仕事をこなした。
源八は毎日、水銀の元となる辰砂《しんしゃ》を岩の間から掘り出していた。生来の酒乱で、一旦酒を飲むと大の男衆でさえ手がつけられなくなった。
大きな体にはいつも生傷が絶えない。毎晩大暴れを演じては見境なく人を殴りつけたり、ぶん投げていた。
坑夫たちの喧嘩や騒乱の場には、必ずというほど源八の姿があった。そのためやがて誰一人として源八と一緒に酒を飲む者がいなくなってしまったのである。
この夜、源八は久しぶりに山を越えて町まで酒を飲みに行った帰りだった。案の定、酒屋で大暴れを演じたため町衆に追いかけられ、やっとの思いで山中へ逃げ込んだのである。
「畜生めぇぇ。どいつもこいつもくだらねえことばかりぬかしやがってえぇぇぇ!」
息を切らせて走ったせいか酔いが一気に回ってきた。
町衆に見つからないよう草をかき分けて森の奥に入り、提灯の火を消すと、そのままドウとばかりに草むらに倒れ込んだ。そして、そのまま雷の音のような鼾《いびき》をかいて寝入ってしまったのである。
山中は大分冷え冷えとしてきたが、火照《ほて》った顔に当たる夜風は、酔った源八には心地よいものとなった。
どのくらい時が経っただろうか、源八は自分の汗くさい顔に何やら濡れ雑巾《ぞうきん》のようなものがビラビラと触れているのを感じた。
意識が徐々にはっきりし出すと、明らかに何かが自分の顔を嘗《な》め回していることが分かった。恐る恐る薄目を開けると、一匹の巨大な土佐犬が自分の顔を嘗めていた。
「おわわぁぁぁ!」
思わず飛び上がった源八に、土佐犬は一歩|退《しりぞ》きながらも優しそうな目を向けて少し首を傾げた。
まるで己の飼い主の姿を探しに出掛けた犬が、やっとの思いで主を見つけた時のような仕種《しぐさ》だった。
よく見れば犬の首根っこには、古びて色あせた朱色の紐が一尺(約三十センチ)ほど垂れ下がっている。おそらくつないであった紐を己で噛《か》み切り森へと逃げ出したのだろう。
「そうかい、おめえも俺と同じこの世のあぶれ者か」
源八は犬の頭を撫でてやろうと醜く節くれだった手を伸ばしたが、何故か犬はさらに一歩遠ざかった。まだ源八に慣れていないせいか、犬を脅《おど》かさないようゆっくりと近づいても、その分だけ何歩か遠ざかるのである。
「チェッ! 可愛気のない犬っころだ」
源八は悪態をつくと憎々しげに唾《つば》を吐いた。
その時、源八は初めて今が夕方だということに気がついた。西の空は夕暮れ色に赤く染まり烏が何羽か飛んでいくのが見えた。
「畜生! ってことは俺は一昼夜森の中で寝ていたのか」
これでは源八でさえ一目置く坑夫長に半殺しにされるほど殴られることは目に見えている。
源八はブルと身をこわばらせ、いっそこのまま逃げ出そうかと思ったが、彼のような乱暴者を雇ってくれるのはここぐらいしかなく、他の地となると都合の悪いことの方が多かった。
今まで源八はあちこちの鉱山で大小様々な罪を犯してきていた。そのため、もしここから出るようなことになれば、警察の厄介になる羽目に陥ることは目に見えていた。下手をすれば、捕まったあと北海道に送られる可能性もあった。
「あんな所に送られてはたまらない」
北海道では源八のような屈強な男でさえ極寒で命を失うかもしれなかった。最初の冬は越せたとしても、翌年の冬はどうなるものか分かったものではない。それが三年、四年目の冬ともなれば無事に生きのびられるか怪しいものとなる。
坑夫たちの噂《うわさ》では北海道で真冬に小便をすると小便の端から凍るのが見えるそうで、最初の一年で送られた囚人の半数が凍え死ぬという。
尾鰭《おひれ》の付いた噂とは分かっていても、源八のような男でさえ尻込みしてしまうのである。
国中から荒くれ男どもの集まるここでは、たとえ源八のような脛《すね》に傷ある者でも過去を無視して雇ってくれる。
それに現場を仕切っているのは阿波でも名高い親分衆なので源八にとっては安心だった。
秋の陽が大滝岳の奥深くに消え入ると、森の中は急に冷え込み、暗闇の深さも一気に増していった。
源八はヨレヨレの提灯を手に取ると、懐から山奥の坑夫にはハイカラな燐寸《マッチ》を取り出した。木の幹で擦《す》って火をつけ、その火を小さくなった蝋燭に移した。
その瞬間、提灯の黄色い明かりが周囲の木々を淡く照らし出し、源八を囲む丸い円陣を炙《あぶ》りだした。犬の目が源八の持つ提灯の光を受け、闇の中に浮かぶ小さな二つの点となり、源八が歩く後を少し離れながらついてくるのだった。
源八には心底付き合う男衆もいなければ、一生己の身を捧げてくれるような女もいなかった。
若いころから天涯孤独だったのである。いっそ犬っころを飼ってやろうかとも思ったが、荒くれ坑夫たちが集団で寝泊まりする小屋にそんな場所などは一切なかった。
源八は提灯を横に払って犬を追い払おうとした。犬は一旦立ち止まるが、源八が歩きだすと再び同じようについてくるのだった。そんなことを何度か繰り返すうち、どうでもよくなり犬の好きに任せることにした。
「ケッ、俺についてきても何の得もありゃしねえぞ、馬鹿犬」
どうせ坑夫長あたりに叩き出されるのが落ちだ。虚ろで淡い姿しか見せない夜道は、川沿いに走っているため、谷底を流れ落ちる水が岩に当たり周囲にドウドウと水音を轟《とどろ》かせていた。
山道の周囲は全くの深い闇が支配し、森はまるで一つの巨大な生き物のように、冷たい夜風を受ける度にザワザワと首を動かして蠢いた。瞬間、源八は奇妙なものを見た。三町(約三百三十メートル)ほど先に灯明《とうみょう》のような光が見えたのだ。
自分と同じように夜道を急ぐ者がいるのかと思った。よくよく見るとそれは女人のようである。それも巫女《みこ》らしい姿をしていて、源八の方に向かいゆっくりと下りてくるではないか。
「なんだぁ?」
こんな時刻に真っ赤な袴《はかま》を穿《は》いた巫女が山中を歩いているのも奇妙なことだが、その後ろに一人の僧侶が付き添っている。
「変わった取り合わせもあったもんだ」
源八はそう思ったが、さらに奇妙なことに気がついた。源八がいくら道を急いでも巫女との距離が一向に縮まらないのである。巫女は明らかに源八の方を向いて道を下りてくるのだ。はてこれは一体どういうことかと怪しみ、時に歩みを止めて巫女が下りてくる様子を窺《うかが》った。すると相変わらず巫女たちは源八の方に向かってどんどん道を下ってくる。
ところが何時《いつ》まで経っても双方の距離が一向に縮まらないのである。巫女たちはいつまでも黙々と道を下りつづけている。これは如何《いか》なることか?
初めて源八は、己が今この世のものではないものに遭遇しているのかもしれないことに気がつきはじめた。源八は手のつけられない荒くれ男だったが、今、己の全身が総毛立ってくるのを感じた。
「おあっぁぁ!」
この種の体験はまだ幼い時に一度だけあった。それがまさか今になって再び自分に舞い戻ってくるとは思わなかった。
源八を見る巫女の顔がまるで夜叉《やしゃ》のように、口が耳まで裂けるように笑っているのが見えた。耳先が一気に熱くなり、気がつくと源八は幼い時と同じように物凄い勢いで夜道を駆け下りていた。
「た、助けてくれぇぇぇぇぇぇ!」
逃げ出しながらも後ろが気になって仕方がない。あの化け物が己のすぐ背後にまで迫っているのではないかという恐怖感が、払いのけても払いのけても頭を擡《もた》げてくる。そこで源八は何度も後ろを振り返ったが、不気味なことに巫女たちの姿はいつも同じ距離で視界に入ってくるのだ。
さっきはいくら歩いても距離が縮まらなかったのに、今は必死に走っても一向に遠ざかる気配はない。巫女はむしろゆっくり歩いているのに、距離は一向に変わらないのだ。源八の記憶に焼き付けられた巫女の姿が、そのまま幻覚となって見えているだけなのかもしれない。
そう思った源八は思い切って走るのを止《や》め、振り返って必死に目を凝らしてみた。ゼイゼイと肩で息をする源八の獣のような息音だけが周囲にこだまする中、目を凝らして山の方を見た。ゆっくりと道を下りてくる巫女たちの姿は、間違いなく現実のものだった。
「くあぁぁぁぁぁっ!」
立ち止まったことで以前よりも大きな恐怖に捕らわれ、思わず手に持っていた提灯を落としてしまった。
道に落ちた提灯は勢いよくメラメラと音をたてながら燃えた。
源八の背中からドッと冷や汗が吹き出した。今、己が得体の知れない物《もの》の怪《け》に取りつかれていることを知り恐怖に身震いをした。
果たしてどれだけの道のりを走り下りたのだろうか。ゼイゼイと息を切らせながら走る源八の頬を冷たい夜風が打ち、草鞋《わらじ》の跳ねた小石が深い谷川に落ちていく音を後ろ手に聞いた時、源八は道に突き出ていた石にけつまずき、もんどりうって道端に転がってしまったのである。
「うわあああぁ!」
顔面をしこたま打った源八は、ヒリヒリする顔をかばいながら、ゆっくりと後ろを振り返った。
深い静寂の中、ザワザワとざわめく木々が蠢く闇があるだけで、巫女の姿は何処《どこ》かに消え失せていた。
「た、助かったぁぁ……」
ようやく得体の知れない物の怪から逃れることができた。そう思った瞬間、膝小僧を擦《す》りむいた痛さがヒリヒリとこみ上げてくる。
「痛えぇ……っ」
しかし魑魅魍魎《ちみもうりょう》の類《たぐい》に取り殺されることを思えば、こんな痛さなど大したことではなかった。
その時……源八は何か異様なものが己の背後にいる気配を感じたのだ……!
破呀呀呀《ハアアア》
破呀呀呀呀《ハアアアア》
破呀呀呀呀呀呀《ハアアアアアア》
不気味な息音が、己のすぐ背後で聞こえる。
「頼むから……やめてくれよぉ……」
明らかに己のすぐ後ろに何かがいる。暗黒と静寂が支配する闇の中、緊張した鼓膜を通し、心の臓が激しく脈打つ音が異様に大きく聞こえはじめた……。
弩駲《ドクン》 弩駲《ドクン》 弩駲《ドクン》
源八の全身の血が一気に逆流しはじめる音だった。源八は土と汗で霞《かす》む目を、できるだけ首を動かさず恐る恐る後ろへと回しはじめた。そんな真似などしても無駄なことは分かっていたが、まともに己の顔を後ろに向ける勇気など今の源八には残されていなかったのである。
破呀呀呀《ハアアア》 破呀呀呀呀《ハアアアア》………
顔の肉が恐怖で引きつる中、それでも源八の顔は恐怖の対象を確かめるためゆっくりと動いた。もはや源八に許された最後の行動は、己の恐怖を確かめるぐらいしかなかったのである。それが源八に許された最後の選択だったのだ。
「ぎぃぃやあああああ…………………………ぁぁぁぁっっっっっ!」
源八は凄まじい悲鳴を上げた!
足を生暖かい何かに嘗められたのだ。その瞬間あまりの緊張感から思わず悲鳴を上げてしまった。しかし、月明かりの下で、源八の前には、あの大きな犬の姿が見えた。
不気味な声の正体が犬の喘《あえ》ぐ息と分かった時、体から一気に力が抜けてその場にヘタヘタと座り込んでしまった。
「何てことはねえゃ。犬が俺の後を追いかけてきただけか……」
源八は今さらながら自分の体《てい》たらくを思って笑いだした。ひょっとしてさっきの巫女も酒が見させた幻覚だったのかもしれない。
よくよく考えてみれば、遠くに歩いていたはずの巫女の姿が、闇夜であれほどはっきりと見えるはずはなかったのだ。
その時、源八は思い出した。坑夫の中に若い頃からの酒で頭がいかれてしまった爺様《じいさま》がいて、始終何かが見えるようなことを言っていたのだ。皆と一緒にぼけた爺様を馬鹿にしたのは、ついこの前のことではなかったのか。それが今度は己の身に起きてしまったわけだ。
「ざまあぁないな」
粗塩《あらしお》を蒔《ま》いたような星々が天空で輝く中、朧気《おぼろげ》に光る青白い月明かりが夜道を照らしだしていた。まるで薄氷《はくひょう》に覆われた手水鉢《ちょうずばち》のように見える秋月は、流れる雲の布団の中から何度も己の姿を隠したり出したりを繰り返していた。
源八は、今から再びもとの夜道を戻る気にはなれなかった。いくら幻覚とはいえ、あんな思いをした後では誰でも気力が失われてしまう。明るくなってから山を越えようと、今夜も森で夜を明かすことにした。
すぐそばに何やら掘っ建て小屋のようなものがあるのに気がついた。
夜露が凌《しの》げればと思って小屋に近づき裏へ回ると薪《まき》が積んである。炭焼き用に乾かしているものだろうか。小屋の入り口から中に入ると、ちょうど源八が横になるぐらいの場所があった。
入り口の戸も無い開けっ広げの掘っ建て小屋だ。源八は小屋の中に薪を並べ燐寸で火をつけた。周りを明るくしていないと安心できないこともあるが、吹く風がやけに冷えはじめていたからでもあった。
パチパチと澄んだ音で弾ける薪は、汗で冷えた体を暖めた。それまで一定の距離を置いていた犬も、火のそばにノソノソとやってくると、横におとなしく座った。
「この野郎……」
犬の首あたりを撫でてやると、気持ちがいいのか目を細めて源八のなすがままに任せていた。時は月の高さからおそらく子《ね》の刻(真夜九つ/午後十一時から午前一時)あたりなので、夜明けまで後しばらく待たねばならなかった。
闇はさらに深まり吹く風も冷たさを増していく。昨夜は酒の勢いがあったとはいえ、よくも森の中で平気で寝ていられたものだと思った。パチパチ跳ねる薪の音が、死んだように静まり返った森にこだまする唯一の生き物の気配のように思えた。雲間から覗《のぞ》く透明感のある月光は、さらに寒々とした感を与えていた。
いつの間にかウツラウツラと舟をこぎはじめていた。その時、源八は子供の頃の夢を見ていた。
まだ幼かった頃の源八の家は極《きわ》めて貧しい百姓で、毎日酒を食らっては母を殴っていた父が、地獄の釜の蓋《ふた》を開けて家に入ってくる邪鬼《じゃき》のように思えた。その邪鬼が飲んで暴れる度に、家族はいつも恐ろしい思いをして縮こまっていた。母は毎晩のように手ひどく殴られては家の外に放り出され、父が酔いつぶれた頃を見計らってそっと入ってきた。
蒸《む》し暑いある夏の夜のことだった。土間で妹の千恵と一緒に一枚の蓙《ござ》にくるまって寝ていた源八は、いつものように父に追い出された母がそっと木戸を開けて入ってくる音を聞いた。眠い目をようやく開けて蓙の隙間《すきま》から様子を見たが、土間に立っているのはどう見ても母ではない。バサバサに髪を振り乱した女の姿が月明かりで垣間見《かいまみ》えたのである。
源八は何故かその女が夜叉に思えた。いや人の肉を食らう狂女に見えたかもしれない。その女は大きな鉈《なた》を手にして、土間で酒を呷《あお》って熟睡している父の顔を、腰をくの字に曲げてじっと上から窺うように覗き込んでいた。しばらくの間、女はそのままの姿で覗き込んでいたが、それはまるで父の寝息を確かめているかのようだった。
次の瞬間、夜叉はやおら大きな鉈を頭上に振り上げると、満身の力を込めて振り下ろしたのである!
惧娑《グシャ》!
瓜が何か重いもので叩き潰された時のような嫌な音だった。
具娑《グシャ》 具娑《グシャ》 具娑《グシャ》!
夜叉は、積もりに積もった恨みを晴らすかのように、何度も何度も力を込めて鉈を振り下ろした。鉈が振り下ろされる度に得体の知れない飛沫《しぶき》が四方へ飛び散った。源八は蓙に顔を隠しながら、横で何も知らずに眠っている千恵の顔を息を殺しながら見ていた。そして二人を覆うたった一枚の蓙の外で展開する、悪夢のような恐ろしい出来事に必死に耐えていたのである。
恐怖の惨劇が全て終わったのか、今度は不気味なほどの静けさが土間を支配していた。その時、源八は初めて己の心臓の鼓動というものを耳で聞いた。
弩句《ドク》
弩句《ドク》
弩句《ドク》
源八と千恵が眠っている同じ土間で繰り広げられた惨劇は、日が昇るとともに鶏の鳴き声で消え去るようなものではないと源八には分かっていた。子供心にそれが現実の出来事として理解できたのである。その証拠に、さっきまで耳をつんざくばかりに聞こえていた父親の雷のような鼾が、今では全く聞こえない。代わりに水を打ったような静けさが土間の空気を支配していたのだ。
薄い蓙一枚を隔《へだ》てた場所で、鉈を手に今も夜叉が立っているはずである。
源八は心の臓が今にも喉《のど》の奥から飛び出すほど激しく脈打っているのを感じていた。そのうち己の心臓の音が夜叉に聞こえてしまうのではないかと恐怖に打ち震えた。
その時だった。源八と千恵を被《おお》っている蓙がつまみ上げられたかと思うと、ゆっくりゆっくり上に持ち上げられていくのを感じた。夜叉は源八たちがいることに気づき、己の姿が見られたかどうかを確かめようとしているのだ。源八は、両目をきつくつむって溢《あふ》れる恐怖心を耐えようとした。
と……
弩呀《ドカ》!
自分の横で恐ろしい音がした。源八の横顔に生暖かい飛沫が飛び散り、ネバネバした固まりまで一緒に顔や喉元を汚した。
「ギィヤァァァァァァァッ!」
まるで雉《きじ》が驚いて飛び立つような叫び声が上がった。それまで穏やかに寝ていた千恵の体が、夜店で見たバネ仕掛けの人形のように恐ろしい勢いで飛び上がり、その反動で勢い余って床に頭から倒れ込んだ。
驚いて目を開けた源八の眼前に広がる光景は見るも無残なものだった。
あまりの恐怖で声も上げられない。あんなにいたいけで可愛かった千恵の頭は鉈で打ち砕かれてザクロのように割れていた。灰色の脳が外に飛び出し、真っ赤な血が勢いよく流れだしている。青白い月明かりを通して見えた時、源八にはこの世の出来事には思えなかった。まるで別世界で起きている悪夢としか感じられなかったのである。
夜叉は父だけではなく、何の汚れもない可愛い盛りの千恵までも鉈で打ち殺したのだ。見ると夜叉は千恵の頭蓋骨《ずがいこつ》を叩き割った鉈を、食い込んだ床から抜こうと身を捩《よじ》っていた。
夜叉の顔がゆっくりと源八の方を向いた。その顔がハッキリと見えた時、源八は思わず悲鳴を上げそうになったが声にならない。
「くぅぅ……!」
あまりの驚きで卒倒《そっとう》するかと思った。これほどの惨劇を引き起こした夜叉は、さぞや恐ろしい顔をしているかと思ったが、目に涙を一杯にため、悲しみで身を震わさんばかりに嗚咽《おえつ》していたのである。
源八はあわてて土間に駆け降り、蹴るようにして戸口から外に飛び出すと、一気に畑の中を駆け抜けて行った。後ろでは源八の名を呼ぶ悲痛な叫び声がこだまし、今にも鉈を持って源八を追ってくるかと思えた。
「源八ぃぃぃぃぃ、源八ぃぃぃぃぃぃぃぃ」
源八は走った、走った、走った。生まれて初めて死から逃れるためだけに走った。今までこれほど必死に走ったことのないほど走った源八は、そのまま大きな桑畑がある村長《むらおさ》の家に着くと、小さな手で思いっきり木戸を叩いたのである。
早朝、村の衆が源八の家までやってきたとき、母親のキクは既に土間で首を吊って死んでいた。足元には血糊《ちのり》のこびりついた鉈が無造作に転がっていた。それ以後、源八は二度とその家に戻ることはなかったのである。
夜も大分|更《ふ》けた頃、源八の横で眠っていた土佐犬が急に身を起こすと低い声で唸《うな》りはじめた。
「ウオォゥゥゥゥ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
犬は戸口から木々に覆われた深い闇の一点を見据えている。まるでそこに何かがいて威嚇《いかく》しているかのようである。犬の異様な声で目が覚めた源八は、一瞬、何事が起きたかと寝惚《ねぼ》け眼《まなこ》でキョロキョロ周囲を眺め回したが、犬の唸り声以外は水を打ったように静まり返っているだけで、何の異変も感じることはできなかった。
ところが犬の方は体をさらに緊張させ、深い闇の一点だけを真っ直ぐ見据えて、牙を剥《む》き出している。源八には見えないが、明らかに犬は何かをそこに見ている様子なのである。
「何だ、何かおるのか?」
昔から犬や猫は人の目に分からない気配を感じ取ると言われているだけに、源八は不安になった。思わず、近くに置いてある薪束の中から一本を掴《つか》むと、身を縮めながら身構えた。
「さあ何もんか知らんが、来さらせぇ……」
源八は犬が睨《にら》んでいる闇の向こうに目を凝らしたが、やはり何の姿も見ることができない。見えるのは夜の静寂に沈む真っ暗な闇であり、聞こえるのは秋風が木々の間を通り抜ける時の葉を撫でる揺らぎの音だけである。
ところが、犬の唸り声はさらに激しい威嚇へと変わり、今にも闇の中に飛び出さんばかりになった。
「グワァウワウワウ!」
明らかに犬は何かを見ているのだ。ところが源八には全く見えない。源八は足元に燃えている薪の何本かを掴むと、犬が見据える方向に向けて思い切り放り投げた。
松明《たいまつ》のように燃える薪は、弧を描きながら闇の深みへと飛んでいき、森の奥をわずかに明るく照らし出した。その時、源八は白く細長いものが闇の中でボオッと立っているのを見た。その得体の知れぬものを見た時、源八の全身の血が一斉《いっせい》に逆流した。
闇の中に立っていたのは、鉈を手にした夜叉の恐ろしげな姿だったからである!
「うわあああああああああああ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
源八は見てはならないものを見てしまったかのように、余りの恐怖で腰を抜かしてしまった。金魚のように口をアワアワとパクつかせ、急いでその場から逃《のが》れようと齷齪《あくせく》した。
「ひいぃぃぃぃ……………っ」
逃げる気持ちだけが先立ち、必死に足をばたつかせているつもりでも、肝心の足腰が全く言うことを聞かない。闇の中で朧に立つ夜叉の姿は、宙に浮くかのように闇の向こうから姿を現しはじめると、源八にゆっくりと近寄ってくる。
源八は相変わらず口をパクパクさせるだけだったが、実際は必死に呼吸をしようともがき苦しんでいた。
「ああわあわあわ〜〜〜〜〜〜」
突然の恐怖に見舞われたため、腹の膜が痙攣《けいれん》を起こし呼吸が困難になっていた。幼い頃に体験した悲惨な恐怖の記憶は、今その姿を変えて再び源八の前に戻ってきたのである。夜叉が源八の背後に音もなく近寄ってくるのが分かった。その気配を感じるだけで、子供の時の恐怖がまざまざと蘇《よみがえ》り、恐怖のため卒倒しそうになった。いやいっそ卒倒してしまった方が、どれほど源八にとって楽だっただろうか。
いつの間にか股《また》ぐらが温かくなったのを感じた。酒乱で皆に恐れられる乱暴者が恐怖で小便を漏《も》らしてしまったのである。
あの夜に夜叉となった母は、悲しげな声で何度も何度も源八を呼び止めた。しかし源八は絶対に振り返らなかった。ここに来て、ついに母は源八に追いついたのである。
源八は必死になって古い松の木まで這《は》っていき、ゼエゼエと苦しい呼吸の中で、木に爪を立てて立ち上がろうともがいた。しかしそこまでが源八の限界だった。源八は抜けた腰を再び地面に落とし、這《は》ったまま後ろに向き直った。そこには、この世のものとは思えない不気味な顔の夜叉が、手を伸ばせば触れるところに立っていた。
そしてあの夜のように、源八の顔を覗き込むように覆いかぶさってきたのである。
「源八ぃぃ………」
一瞬、源八は夜叉がそう言ったように聞こえた。夜叉はしばらく源八の顔を見ていたが、やがて手にした鉈を両手でゆっくりと頭上高くに振りかざした。
「ヒイイ〜〜〜〜〜〜ッ」
源八はとうとう観念し両手を合わせたままその場にうつ伏した。
弩呀《ドカ》!
重い鉈で肉と骨が叩き砕かれる鈍い音がした。その瞬間、異様な金切り声が漆黒の闇を貫いて響きわたったのである。
「ぎいぇぇぇえええええええええぇぇぇぇ〜〜〜〜〜〜っっっっ!」
木に深く突き刺さった鉈から血がつたい、ボタボタと滴《したた》り落ちている。その近くに犬の首が胴から離れて転がっているのが見えた。犬は自分目掛けて飛んできた鉈で首を叩き落とされたのである!
首を失った胴は噴出する鮮血にまみれながら全身を痙攣させ、剥き出しになった紫色の気道から最後の空気を吸おうと躍起《やっき》になっていた。ヒュウウウウヒュウウウという風のような音を立てながら、気道がもがいている。まさに犬は悶絶《もんぜつ》寸前の様相で、切断された首から吹き出す鮮血は、吹き込む夜風とともに周囲一面に生暖かい異臭を放った。
源八は自分がまだ生きていることを確かめるかのように、両手を目の前にかざしてからゆっくりと周囲を見回した。何が何だかさっぱり分からない。ただポカンと口を開けたまま呆然《ぼうぜん》とした面で松の木の根元にへたり込んでいるだけだった。
夜叉は、袖下から覗く雪のように白い両腕をゆっくりと己の頭上に持っていくと、顔を覆う恐ろし気な面の紐を外した。外された不気味な夜叉面の下から現れたのは、思いもよらず今までに源八が見たこともない美しく愛らしい女人の顔だった!
女人は下ろした腕をそのまま華奢《きゃしゃ》な腰の後ろへと回すと、帯に差してあったのか、不思議な形をした小剣を抜き放ち、そのまま犬の躯《からだ》に向けてゆっくりと歩を進めていった。喧嘩慣れしている源八が見ても、華麗で壮美な動きに付け入る隙はなかった。源八はその様子を白日夢《はくじつむ》でも見ているような面持ちで、木偶《でく》の坊のように眺めるだけだった。
女人の顔は肌が透けるほどに白く、今まで源八の知るどんな女より華麗で、かつ壮美だった。それはまるで修羅と化した人間に慈悲を与えるため降臨《こうりん》した弥勒《みろく》が、そのまま女人|変化《へんげ》したかのようである。源八には女人の全身から目に見えない青白い炎が放たれているかのように思えた。
女人は前髪を耳の脇に垂らし、長い後ろ髪は布冠で束ねて背後に垂らしていた。後ろ髪が夜風に舞って、女人の美しさをさらに際立たせている。源八はこの世のものとは思えぬ女人の姿に我を忘れて見とれていた。
その時、源八は初めて気がついた。この女人は白装束に真っ赤な袴を着けている。巫女装束をしていたのだ!
夜道で出会った物の怪がこの女人だったのだ。女人は片手に抜刀した小剣を握り、痙攣している犬の躯に向かってゆっくりと近づいていく。おそらく止《とど》めを刺すためだろうが、その小剣は源八が見たこともない形をしていた。
「ギョョョエエ……ギョョョエエエエエ…………ッッッ!」
異様な雰囲気に気圧《けお》されたのか、野鳥がけたたましい鳴き声を上げて木々の間から飛び出した。その直後、とうに悶絶したはずの犬の躯がやおら立ち上がり、後ろ向きにワサワサと女人目掛けて掛けだしたのである。
「うわあぁぁぁ〜〜〜〜〜っ!」
源八はぶったまげた。犬が後ろ向きに疾走する姿など生まれてこの方見たことはないし、首が無い胴体ならなおさらだ。
ところが女人は一切動じず、何の迷いもなく犬の首に向かうと、そのまま構えた小剣を犬の眉間《みけん》目掛けて突き刺したのである。
厄怱《ガスッ》!
刃先は寸分の狂いもなく犬の眉間に深々と突き刺さった。その瞬間、首だけとなった犬の両眼が真っ赤に見開かれ、裂《さ》けるほどに大きく口を開くと、牙を剥き出し、その牙で女人の手首を噛み切ろうとした。
しかし女人は少しも慌てず小剣を一気に降り下した。その瞬間、犬の顔は鼻先から下顎《したあご》までを見事に縦に引き裂かれてしまった。犬の首はドスンと鈍い音を立てて地に落ちたが、縦に切断され咬《か》み合わなくなった顎をなおもガチガチと言わせ、しばらく怨念に満ちた両目を向けながら必死にもがいていた。
しかし、最後は蝋燭の火が消え入るようにして全く動かなくなった。犬の目から燃えるような血の色が消え失せ、急激に鱗《うろこ》が被《かぶ》さったような乳白色へと変色した。その直後、物凄い勢いで駆け回っていた犬の胴が源八にぶちあたった。
「ひぇぇぇぇ〜〜〜〜っつ!」
源八は慌てふためいたが犬の胴はそのまま地面に倒れ、全く動かなくなったのである。源八が引きつった目でしばらく見ていると、犬の胴が見る見る膨脹しはじめた。やがて数倍以上にも膨《ふく》れ上がると、生肉が腐ったような嫌な臭気を発散させながらピチピチピチと何かが爆《は》ぜる時のような奇妙な音を立てはじめた。
犬の躯は異様な臭気を放ちながら急激に腐っていき、やがて躯は原形を留めないほどになった。最後は不気味な色に変色した肉汁とともに、胴の中から人の腕や頭蓋骨を吐き出し始めたのである。
これを見た源八は、もう少しで己がこの土佐犬に食われるところだったことを知った。その時、暗闇から笠を被り金剛六角棒を手にした一人の僧侶らしい男が現れ、金剛鈴《こんごうれい》をジャランジャランと鳴らしながら犬の躯に近づいていった。
僧侶は躯を囲むように小石を円状に並べていくと、最後に懐中から一本の竹筒を取り出し、何やら黒い粉のようなものを蒔きはじめた。
その間、何か呪文のような言葉を繰り返している。
「|※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]《オン》 杜那杜那《トナトナ》 摩他摩他《マタマタ》 可駄可駄《カタカタ》 |訶耶掲※[#「口+利」、第3水準1-15-4]婆《カヤキリバ》 鳴吽柿莎訶《ウンウンバッタソワカ》」
僧侶は両手親指と人指し指、そして小指を立て合わせ、他の指を互いに組み、澄んだ声で呪文を七度唱えた。
その後、紙縒《かみよ》りに火をつけ、それを投げ入れた。すると、火花が炸裂《さくれつ》して物凄い炎が犬の躯を包み込んだのだ。炎はバチバチと激しい音を立てて荒れ狂い、瞬《またた》く間に犬の躯は食らった人骨とともに消え失せてしまった。まるで大地に水がしみ込むように見事なまでに跡形もなく消えてしまっていた。僧侶は躯のあった場所に少し大きめの石を積み上げ、塩をもって汚れを清めた。最後に見たこともない護符《ごふ》を貼り、そこを結界としたのである。
一仕事成し終えた僧は被り物を取った。すると、少女とも見紛《みまが》うばかりの美青年の顔が現れたのである。整った気品のある顔だちから、源八には無縁な高貴な家柄の出であることが窺《うかが》われた。豊かな髪の毛を後ろに束ねている以上は僧侶ではないのだろう。着衣は山伏の出《い》で立ちとも似ていたが、今まで源八が見たどの僧衣とも全く違っていた。
若者の容姿からおそらく歳《とし》は十七、八と思われ、まだ童顔の面影が何処《どこ》かに残されていた。
気がつくと、化け物相手に凄まじい戦いをやってのけた女人が、源八のそばに立っていた。女人は源八に優しい目を向けた。その時、女人の肌から白檀《びゃくだん》の香りが淡く漂ってきた。
遠い子供の頃どこかの大店《おおだな》の奥さんが食物がなくて道で倒れていた源八を哀れみ、抱き起こして店まで連れていってくれた時、うなじから漂っていた香りと同じだった。女人は鈴の鳴るような小声で優しく話しかけた。
「すまなかった。私たちは貴方の夢見を他心で見通し利用しました。怨霊を狩るには相手を油断させねばならなかったため、貴方の過去を利用しました」
源八はそう言われても、ただ「へい、へい……」と頷《うなず》くだけであった。
「あの怨霊は貴方に取り入り、坑夫たちを全て食らうつもりでいたのです」
「……へ?」
源八はもう少しで己が死に神の役目をさせられるところだったことを知り、思わず身震いした。
そう話す女人の顔はあくまでも華麗で瞳は大きく、思わず鳥肌が立つほどの美貌の少女だった。
その時、女人の両方の目から赤い血が溢れ出し、やがてそのまま一筋の血の涙となって頬をつたい流れたのである。紅色の尾を引いて流れ落ちた血の涙は、そのまま地に落ちて大地にしみ込んだ。なぜ女人が血の涙を流したのか分からなかったが、女人が深い悲しみに襲われていることだけは、無頼漢《ぶらいかん》の源八にも感じ取れた。
「舞《まい》、行くぞ!」
若い男が言った。
この女人は舞というのか……源八は女人がこの世の者であるということを、やっと納得した。でなければ源八は一生この女人を弥勒が変化した天女と思いつづけたかもしれない。実際、女人は尋常《じんじょう》な者ではなかった。
「分かったわ、北麿《きたまろ》。もう少し待って」
女人はそう言うと、知らない間に頬を切っていた源八の顔に紙をあて、優しく血をぬぐった。その時も仄《ほの》かな白檀の香りがした。
源八が呆然と見送る中、二人の若者の姿は再び深い闇に溶け込むように消えていった。後に残るのはほのかな白檀の残り香と木々の梢を揺らす澄みきった秋風、そして虚空に漂う青白い月の光だけだった。
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第一章 メルカバ
暗雲を裂く雷鳴が地響きを立て、稲妻《いなずま》がのたうつ龍のように乱舞する中、滝壺《たきつぼ》の底を抜いたような大豪雨が凄まじい風とともに大地を激しく叩きつけた。
風雨はさらに激しさを増し、院の境内に立ち並ぶ灯籠《とうろう》の間を凄まじい水飛沫《しぶき》を上げながら憤怒《ふんぬ》の如く通り抜けていった。灯籠の地輪《じりん》は溢れる水に浸かり、怒濤《どとう》の川となった水は境内の石畳を音をたてて走り抜け、そのまま一気に石階段を滝のように流れ落ちていく。
凄まじい風と雨飛沫が、立ち尽くす隼斗の合羽《かっぱ》を激しく打ちつけていた。大量の雨垂れが、手にした金剛六角棒から幾筋もの支流となって、腕から袂《たもと》へと流れ落ちていく。
「よりによってこの日に大嵐とは、涼《りょう》には酷過ぎる……」
隼斗《はやと》は涼のことを思うと、不安でならなかった。
「やはり一人で残すべきではなかった……」
隼斗は悔やんだが、もはやどうしようもない。涼によって既に極楽院一帯に結界《けっかい》が張られ、怨霊封《おんりょうふう》じが打たれてしまったからだ。
境内に通じる石段の下に槃≠ニ青色で彫られた白石が置かれてある以上、もはや怨霊封じが始まっているのである。
「一度、怨霊師が結界を張りめぐらせたら最後、怨霊師自らが結界を解かぬかぎり誰も入れぬ」
隼斗の横にいる痩せて小柄な男が言った。笠から見える男の顔には、朱色の布がグルグルと巻かれており、目と口元だけが覗《のぞ》いている。
激しい風雨で聞き取りにくいが、声からして男が相当高齢であることは間違いない。袖から覗く腕は痩せて無数のしわが目立っていた。朱色の布から覗く男の眼光だけは尋常ではなく、いくたびも修羅場《しゅらば》をくぐり抜けてきた人間の目をしている。
「中頭、俺はこのまま黙ってここにいるわけにはいかない」
隼斗は叫ぶように言った。
老人は、隼斗と涼を仕切る、中頭と呼ばれる立場の男だった。
「隼斗、よもや忘れたとは言わさんぞ。結界とは怨霊を封じ取るため怨霊師自らの念と陰の呪詛《じゅそ》をもって張るもの。それ故に何者であっても結界に出入りすることはならんのだ」
老人の背骨は多少曲がってはいるが、合羽《かっぱ》から覗く足の筋は屈強そのもので、若い隼斗が華奢《きゃしゃ》に見えるほどだ。
「どうしても入ってはなりませんか?」
隼斗は再び老人の顔を覗き込むように言った。
「今さら馬鹿なことを……、仮に入ったとしても同じ場所を堂々巡りするだけ。絶対に涼までたどり着くことはできぬ」
隼斗は確かに分かっていた。森であれ街中であれ一度張られた結界に入れば、怨霊師と一緒でない限り、結界が解かれるまで迷路から出られることはなく、結界の中で迷うだけとなる。
「俗世間の者たちが知らずに結界に迷い込んだ時、何度も同じ場所に戻るため、昔から狐に化かされたと言われてきたわ」
老人の目が笑った。
「仮に貴様が、陽の呪詛をもって結界を破り中に入れば、涼の策を己が破ることになる……」
結界にも陰陽があり、陰の者が張った結界を陽の者が相殺《そうさい》することができるのである。
「となれば怨霊は貴様が戻ったことに気づき、一瞬にしてこの場から逃げ去ってしまうだろう。どの道、涼は一人で戦うしか道が残されてはおらんのだ」
隼斗は自分の不甲斐《ふがい》なさに体を震わせた。遠くの空を何枚もの屋根瓦が回転しながら風に吹き飛ばされていくのが見える。
「方向からして、院の本堂あたりの瓦か……」
中頭は歯がほとんど抜けた口でポツリと言った。大風を受けた巨大な杉の老木がミシミシと音を立てながら傾きはじめ、そのままゆっくりと倒れていった。
ズシィィィィンという地響きが隼斗と中頭の足元にも伝わった。
(苦しい……!)
隼斗は猛烈な風を真正面から受け、息ができなくなって顔を横に背《そむ》けた。豪雨が強風に乗って隼斗の顔に激しく打ちつけ、逆巻《さかま》く風が雨水を鼻から無理矢理押し込んだ。鼻孔から入った雨水は、圧に押されて口内へと抜けていく。隼斗は何度も咳《せ》き込んだ。結界の中では、涼がこの大嵐と怨霊相手にただ一人で戦っているのである。
「戻るのではなかった……」
隼斗は悔やんでも悔やみきれなかった。あの時、隼斗は明らかにどうかしていたのだ……。
抜けるような朝の青空が広がり、何羽もの雀が心地良さそうに囀《さえず》っていた。田の稲は何処もたわわに実り、百姓たちは朝早くから家族総出で稲刈りの準備をしていた。はるか彼方《かなた》まで黄金色《こがねいろ》に輝く稲穂の様子は、そのまま豊年満作を絵に描いたような光景だった。
しかし、隼斗と涼だけは、前夜から禊《みそ》ぎを行い身を清めて朝の膳を絶っていた。怨霊封じに臨《のぞ》まねばならなかったからだ。
「空気が澄みきって天も高いし、本当に気持ちがいい朝だわ」
涼は空を仰ぐと日本的で美しい切れ長の目を細め、一人気持ち良さそうに大きく伸びをした。
「もう秋だから当然だろう」
隼斗は細面《ほそおもて》のうりざね顔で背も高く、町に出れば女がほうっておかないだろうと思われるほどの美形だった。十八歳の涼より一歳年下ではあったが、涼を年上と思ったことは一度もない。
「隼斗、あなたはもう少し四季の移ろいに心を向け、自分もそれを楽しむように心掛けないといけないわ」
「そんなことは怨霊封じの人間には関係ないことだ」
隼斗はぶっきらぼうに答えた。
「そうかしら? 四季の変化は天の意思を示すこの世の表れでもあるわ。それを知れば、わずかな異の気配を知る手だてになることもあるのよ。たとえば……」
「もういい。それより怨霊封じに出向く前に、怨霊から災いを受けないよう呪法でこの屋敷から我らの気配を絶たねばならん」
隼斗は果敢《かかん》だが生意気盛りの年齢に達していた。だから涼を決して自分の上に置くことはなかった。隼斗は両手の人指し指を立ち合わせ、他の指全部を組む印を結んで、陰陽の真言《しんごん》を切った。
「阿密哩帝《アミリテイ》 吽發咤《ウハッタ》」
涼と隼斗はともに怨霊を封じる立場こそ同じだが、決して主従関係ではなかった。彼らは同じ目的を持つが、怨霊を封じる怨霊師と、陰陽の呪詛で怨霊を探り当て封印する陰陽師《おんみょうじ》とに分かれていた。
「もう一度聞かせて」
「何をだ?」
「間違いなく極楽院の住職なのね?」
「俺の式神《しきがみ》の術を疑うのか?」
「いえ、そうではないわ。それによって私は怨霊の力量を見極めなければならないの。私がその怨霊と直接|対峙《たいじ》する立場になるからよ」
涼はいつものように抜けるような青い袴《はかま》を身に着けていた。それが彼女の怨霊師としての正装であり、彼女の前の怨霊師も代々この色を継承し守ってきたのである。
隼斗は既に、この地に入った直後から陰陽の呪詛をもって怨霊が取りついている人間を特定していた。隼斗は安倍晴明《あべのせいめい》によって確立された、土御門家につながる直系陰陽師の一人だった。それが判明し、隼斗は隠れ里に貰《もら》われていったのである。隼斗を隠れ里に連れていったのは、中頭の秋水《しゅうすい》だった。
「呪詛をもって式神に精を呼び込み、子供の形代《かたしろ》として寺に送り込んだ時、院の住職である安徳院が俺の式神を本堂に呼び込み、仏たちの前で頭から飲み込んでしまった以上は間違いない」
これまでも寺の小僧を含む六人の童《わらべ》が、一夜にして寺から姿を消していた。
「消えた童は全て怨霊に食われたと思って間違いないだろう。躯《からだ》が親の元に戻ることは絶対に無い」
前夜、涼は怨霊を討つため長さ一尺(約三十センチ)ほどの両端の尖《とが》った鋼芯に、錆止《さびど》めの鯨からの抽出油を塗っていた。涼は弓のように撓《しな》る鋼芯を数十本身につけて怨霊と戦い、今まで数多くの怨霊を蜂の巣にしてきた。
涼が鋼芯で蚊の目を射抜くと言われるのを隼斗は知っていたし、涼のか細い腕が鋼芯を放つ際に鞭のように撓る光景を何度も見てきた。その度、怨霊は鋼芯を全身に受けて血反吐《ちへど》を吐いて悶絶《もんぜつ》するのである。
涼は自分の両腕、両足、腰の五か所に鋼芯を隠す。それぞれの場所に独特の革袋をつけ、そこに一本一本の鋼芯を間違いなく順番に並べて装着するのだ。この手筈《てはず》をいい加減にすると、己の命で油断を償《つぐな》わねばならなくなる。そのことを当の涼が一番よく知っていたのだ。
「俺は時々、君がむごい運命に翻弄《ほんろう》されているのを見兼ねることがある」
「そうね……確かにむごい運命だわ。でも、それが怨霊師に召された者の定めだから、とうの昔に考えないことにしたわ」
涼は遠くを見るような目で言った。鈴虫の音が秋風の中で美しく響きわたっている。明日が怨霊と雌雄《しゆう》を決する日であることを、誰より一番よく分かっているのは涼だった。
彼女たちのような怨霊師は怨霊封じの巫女《みこ》であり、神職の家系の中から選ばれ怨霊の血を神仏に捧げる女官なのである。
極楽院に向かう途中の六地蔵の前で、涼は立ち止まり、隼斗に向かってもう一度聞いた。
「隼斗、あなたが送り込んだ人形を飲み込んだ時、怨霊はそれを式神とは気づかなかったかしら?」
「……!」
隼斗は自分の呪詛に絶対的な自信があった。幼い頃から隠れ里で陰陽師として徹底的に鍛《きた》えられ、毎日毎日を呪詛の修行で明け暮れてきたのだ。日々の眠る時間を削られ、血の滲《にじ》むような荒修行の中で厳しく培《つちか》われてきた術に対し、隼斗は絶対的な自信を持っていた。
「涼、言っていいことと悪いことがあるぞ」
「悪かったわ、隼斗。でも寺に入れるほどの怨霊なら、今まで私たちが相手にしてきた怨霊のようにはいかない気がしたの……」
「!?」
隼斗は、涼の言葉に一瞬だが不安に襲われた。もし怨霊に式神と気づかれていたら、逆に自分たちを待ち伏せている可能性も出てくるからだ。怨霊を逃さぬように張る結界も、場所が寺だけに慎重かつ確実に張らねばならない。どちらにせよ、今までのようにはいかないことだけは間違いなかった。
「寺であれば、そこには昔から結界が張られていると見て間違いないわ」
確かに今度の怨霊は、本来は絶対に入れないはずの寺の中に潜《もぐ》り込んでいる。
「では聞くが、なぜ怨霊が寺に入れたと思う?」
隼斗が涼に聞いた。
「それは私にも分からない。でも嫌でもすぐに理由が分かるわ」
「確かに寺は偶然にその位置にあるのではない。全ては呪詛と伺いによって正確に選ばれた位置に建ててある」
隼斗はまるで自分で言葉を確かめ諭《さと》すかのように話した。寺の住職に怨霊が憑依《ひょうい》していることに気づいたのは隼斗だったが、あまりにも意表をついた隠れ場だっただけに、当の隼斗自身も最初はその事実を受け入れられなかった。
「だから、今度の怨霊は尋常な相手ではないわ。自ら境≠ノ身を置くとは、今までの怨霊とは全く違う種類よ!」
珍しく涼が気弱な言葉を吐いたと隼斗は思った。
「寺社仏閣は、大昔から大地の下を走る地脈≠ェ重なる位置に配置されてきたし、神仏界に通じる者がそれを見極めて寺社を置き境≠ノした歴史を持っている」
「その通りよ。境は神界に通じる最も強力な結界のことで、だからその場所を境内≠ニ呼んで俗世間の領域と区分けしたわ」
空はどこまでも高く澄み渡り、吹く風は肌に優しく、怨霊と雌雄を決するような雰囲気ではなかった。
「無闇《むやみ》に境を乱すことはできないけれど、怨霊を封じるためには、そこに敢《あ》えて結界を張らねばならないわ」
「その危険は承知の上だったはずだ」
「分かってる。境に結界を張れば天界の掟《おきて》を乱すことになることぐらいはね」
「怖いのか?」
隼斗が聞いた。
「馬鹿ね。全ての物事に恐れを抱かなくなったら怨霊師はお終《しま》いよ。恐れる気持ちがあるからこそ、怨霊を封じることができるんだから」
隼斗は涼の言葉に思わず含み笑いをした。確かに涼の言う通り、自分も怨霊が恐ろしい。だからこそ、涼と同じく怨霊封じの運命を受け入れているのではないか。
二人が極楽院に向かう坂道に差しかかった時、地主屋敷の方から奉公人の一人がやってきて、隼斗にこう告げた。
「隼斗様、お姉様がたった今迎えに行った屋敷の者と一緒に地主様の所に着かれました」
隼斗は信じられないという目をした。姉が重病を押して、わざわざ自分に会いに来たというのか!
「それで確かにお着きになったんでございますが、拝見しましたところお体の調子が非常に悪うございまして、旦那様が急いで呼ばれたお医者が言うには、もはや命は長くもたないということでございます」
その知らせを聞いた時、隼斗の心は乱れた。
「何ということだ……」
姉は隼斗が幼少の頃、家を救うために人買いに売られ、そのまま行方知れずとなっていたのだ。風の噂《うわさ》では、労咳《ろうがい》のためやっとの思いで掴《つか》んだ幸せさえ棒に振り、残りの人生を生き別れになった隼斗と会うことだけを楽しみに生きていると聞いていた。
年老いた奉公人は急いで知らせに来てくれたのだろう、激しく肩で息をしながら隼斗の返事を待っていた。人生の辛苦を知り抜いた老人の持つ深い眼差《まなざ》しは、逆に隼斗の良心を苦しめる視線となった。
「どうなさいますか?」
老人が聞いた。
「…………」
隼斗が宿泊している地主屋敷の主は禅吉《ぜんきち》という。昨年、禅吉の娘で八歳になったばかりの清《きよ》が川で奇妙な霊に取りつかれた。ヘラヘラと笑いながら、どんどん川の深みに入っていこうとするのだ。
たまたまその時、橋を渡っていた隼斗は清の異様な行動に気づいたのである。
「ヘヘヘヘヘェェェェ〜〜〜〜」
清は背中を弓なりに反らしながらヘラヘラ笑いまくり、両腕を苦しそうにばたつかせていた。お付きの女中たちが気づいた時は手遅れで、既に清は川の中ほどまで進んでしまっていたのである。
「きゃあぁぁぁ…………っ! お嬢様ぁぁぁぁぁ〜〜〜!」
二人の女中は、川遊びで疲れた清が、石地に敷いた蓙《ござ》の上で寝かしつけられたままでいるとばかり思っていた。二人は、里の親や村の男衆の話にうつつを抜かしていたのだが、奇妙な笑い声に気づくと、何と清が川の中にいたため度肝《どぎも》を抜かれてしまったのだ。
「どうしようぅぅ〜〜、どうしようぅぅぅ〜〜〜、お清様が川に流されてしまうぅぅぅぅ!」
「誰かぁ……お嬢様をお助けなすってえぇぇぇぇ…………!」
二人は川原で、どうしてよいか分からずうろたえるばかりである。あまり突然のことで、慌てふためきオロオロ泣き叫ぶだけで何もできない。その内に清はついに流れに足をとられ、仰向《あおむ》けになったまま一気に川下へと押し流されていった。
「キアァァァァァァ……お嬢様ぁぁぁぁ!」
清の頭が浮いたり沈んだりする中、隼斗は待ち構えていたように橋の上から飛び下り、流れてくる清を抱き抱えた。隼斗は清の顔が水面に出るようにしながら、流れに逆らわず岸辺へと泳ぎ渡ったのである。
地主の寄り合いの帰り、人力に乗ってたまたまその様子を土手から眺めていた禅吉はあまりの出来事に肝を潰《つぶ》した。
「な、何というこったぁ!」
禅吉は慌てて人力から飛び降りる。着込んでいた二重回しに足袋のまま、無我夢中で土手を駆けだしていた。しかし、隼斗が身を挺《てい》して清を抱き抱えながら川から救い出したのを見て、急に力が抜け、土手にへたり込んでしまった。
隼斗は清を川原に寝かせる。もし悪鬼《あっき》が憑依していれば、一刻も早く清から追い出さねばならない。
しかし、清のキョトンとした目を見ると、既に悪鬼は清から抜けていることが分かった。おそらく川原で溺《おぼ》れた猫か犬の畜生霊が死に切れず、抵抗力のない清に取りついたのだろう。もしこれが畜生霊ではなく、人間になり切れなかった怨霊であれば清を殺さねばならなかった。怨霊は一旦人に憑依すると死ぬまで取りついていくからだ。
「有り難うございます。有り難うございます。何処の何方《どなた》かは存じませんが、大切な清の命を救っていただきまして、本当に何とお礼を申し上げてよいか分かりません」
その時の禅吉の喜びようといえばなかった。
「年をとってから新しい嫁を迎えまして、やっとのことで生まれた一人娘でしただけに何とお礼を申し上げてよいものやら」
そう言うと禅吉は、羽織っていた二重回しの外套《がいとう》を脱ぎ、それを清に被せて人力に横たえた。一粒種だけにひとしお大切に育ててきたのだろう。
二人の女中は、禅吉の前で震えながら何度も何度も手をついて泣くように謝りつづけた。
「旦那様ぁぁ、御免なんしょうぅ……っ、御免なんしょう……」
よく見れば隼斗と同じ十六、七の娘である。大切な地主の娘をあずかっていながら目を離した隙の出来事なだけに、落ち度ではある。二人の娘は間違いなく暇を出されることになると、隼斗は思った。が、信じられないことに、禅吉の態度は隼斗の予想もつかないものだった。
「お前たちの仕出かしたことは確かに許しがたいが……この方のおかげで娘は助かったのだから、今回だけは許すことにする」
「有り難やぁぁ、有り難やぁぁぁっ!」
二人の女中は、禅吉の足元にひれ伏して感謝した後、隼斗にも何度も何度も頭を下げた。それからというもの、禅吉は自分の息子ほど歳の違う隼斗を、清の命の恩人として下にも置かず大切に扱った。既に人生の半ばを超えた禅吉に比べ、隼斗はまだ十七歳の若者だったが、禅吉は隼斗を自分と対等かそれ以上に扱ったのである。
隼斗は禅吉の頼みで地主屋敷に呼ばれて、三日間を過ごした。その間、隼斗は自分の生い立ちの中で誰にも言えなかった最も不幸な部分を、禅吉になら話すことができるまでになっていた。
ただ、自分が怨霊封じに関わる一族に引き取られた孤児であることだけは、一族の掟《おきて》から口が裂けても言うことはなかった。清が畜生霊に憑依されていたことも告げなかった。
「そうでございますか。私も若い頃は自分なりの事情がありまして、素性を人に明かすことはしませんでした。ですから無理に聞くような野暮の骨頂《こっちょう》はいたしません」
禅吉は煙管《きせる》をくゆらせながら、高笑いを一つした。
「よろしゅうございます。私どもにとれば何処の隼斗様であろうと、娘の命の恩人であることに違いございませんからな」
禅吉は隼斗が何処の馬の骨か分からなくても、それを盾に追い払うことはなかった。
地主屋敷で三日を過ごした夕方、女中が薄暗くなった禅吉の部屋で灯火具の芯を合わせていた。硝子でできた大きく膨らんだ徳利のような蓋を開け、燐寸《マッチ》を擦《す》って芯に火を灯すと、灯火具はチロチロと燃えはじめ部屋の中を独特の優しい黄色の光で包んだ。
それと同時に、舶来の硝子棚に入った色様々な酒瓶が見たこともない綺麗な光を反射し、隼斗はここが日本ではないような気持ちがした。これは、禅吉の趣味らしい。
「地方のしがない地主にしては、少々ハイカラな恰好を好む奴とお思いでしょうが、若い頃から何度か長崎や神戸の港町を闊歩《かっぽ》していましたせいか、これからの日本は昔のようにいつまでも己の殻に閉じこもっていてはいかんと思うのですよ」
禅吉は舶来《はくらい》好きを見せびらかすほどの野暮ではない。自分の信念からそうしているのが隼斗にも分かった。
「これだけの数の舶来品の家具を一度に見たことはありません」
その夜、隼斗は禅吉から勧められるまま葡萄酒なる西洋の酒を初めて口にした。どこかすっぱみがあり、香りの爽《さわ》やかな酒だというのが感想だった。隼斗はブドウという果物をまだ見たことがなかったのだ。
「これが耶蘇《やそ》教(キリスト教)の宣教師を通して、初めて日本に伝えられました頃、異人は人間の生き血を飲んでいるという噂がまことしやかに囁《ささや》かれたそうでございますよ」
禅吉は、できれば隼斗をいつまでも自分の屋敷に置いておきたい様子だったが、隼斗には怨霊封じとしての役目があった。酒の酔いも手伝ったのだろうか、隼斗はつい自分の生い立ちの中で不幸な身内のことを口にした。おそらく禅吉の人柄にほだされたからだろう。
「姉は口減らしと一家を支えるため、わずか十歳で奉公に出されました。その後、体を壊したため借金がかさみ、とうとう奉公先から身売りに出され、そこから先はどうなったか分かりません」
隼斗の話を聞いていた禅吉は、絞《しぼ》り出すような声で言った。
「そらあお気の毒なことです。この村でも同じような話がいやというほどありましてな、私どもの方も小作農の衆には飢饉《ききん》の時などはできるだけの配慮をしております。しかしどうしたものか人買いがやってくると、娘を売りに出すんですわ」
そう言うと禅吉は手に持った煙管をゆっくりとふかしながら、物憂《ものう》げに両目をつむった。
「しかし、もはや姉の行方は分かりません。二度と会えることはないでしょう」
隼斗はポツリとつぶやいた。暗闇が迫った庭先では、鈴虫の音色が秋の空気をさらに澄んだものにしていた。その中に時折、鹿威《ししおど》しの甲高い竹の音が響く。
「ようがすよ隼斗様。私の方で色街を含めて一度お姉様を捜してみましょう。私の手づるを使えば、生きておられれば何とか見つかるかもしれません」
隼斗は最初、禅吉が何を言っているのか分からなかった。
「ですから隼斗様に、私からのせめてもの御恩返しを受けていただきたいんですよ」
隼斗は死ぬまで二度と会えないと諦《あきら》めていた姉と再び会えるかもしれないと思うと、嬉しさのあまり呆然となった。そこで姉の特徴として覚えていた、顔の左頬と首の右側にあった少し大きなホクロのことを禅吉に話した。
……それから一年、禅吉の努力にもかかわらず、姉の行方は杳《よう》として掴めなかった。
その後、この地に怨霊が現れたため、隼斗は涼を連れて禅吉の屋敷に立ち寄ったのである。そこを根城として怨霊の探索を始めるためだった。
禅吉は隼斗のすることに一々干渉しなかった。隼斗が自分の屋敷を訪れてくれるだけで、十分に嬉しかったからである。
それからまもなくのことだった。労咳で病の床に伏している女がいて、隼斗の語った姉の特徴と似ているという知らせが禅吉の元に入った。それで、雇い人が確かめに行くことになったのだ。翌日が怨霊封じであったため、隼斗がそちらに向かうのは役目を終えてからということになった。
ところが、姉は隼斗のことを聞くや重病の床を出て、命が消える前に弟に会いたいと願い、地主屋敷まで連れてこられたというのである。
「……隼斗」
涼は、隼斗の生い立ちをよく知っていただけに、彼の胸中が痛いほどに分かった。怨霊封じの役目は昔から、親の死に目より優先せねばならないのが掟だった。特に怨霊封じには時が定められており、それを逃せば怨霊を討つどころか、逆に討たれることにさえなりかねないのである。
さらに怨霊封じをしくじり、一度怨霊を逃してしまえば、再び見つけ出せるかどうかの保証は全くない。隼斗は、どうしても役目を果たさねばならなかったのである。それも今度の怨霊は並大抵の相手ではないようだ。これまでになく厳しい戦いが予想された。苦悩する隼斗を見ていて、涼はついに禁じられた言葉を口にした。
「隼斗、行ってもいいわよ。私、あなたが戻ってくるまで極楽院の石段の下で待っているから!」
隼斗は一瞬驚いた表情になり、しばらくの間考えこんでしまった。傍目《はため》にも痛々しい姿だ。使いの奉公人もどうしていいのか分からないという顔をした。
「隼斗、今行かないと一生会えないかもしれないわ」
涼が言った。隼斗は涼の目を見て、今回だけは涼の言葉に甘えることにした。
「その代わり、姉に一目会ったら何があろうとすぐに駆けつけるからな」
「分かっているわ。だから早く行って」
隼斗は涼に頷くと、急いで元来た道を取って返した。奉公人は年老いていたので涼と一緒に残ることにした。
隼斗は、地主屋敷に向かって一目散《いちもくさん》に走った。父母を幼い時に失い天涯孤独の身の上と思っていたのに、ここにきてやっと姉に会えるのだ。姉に会った後、急いで戻れば怨霊封じには間に合うはずだった。
ようやく地主屋敷に着いた時、隼斗は何か様子がおかしいのに気がついた。出てきた雇い人たちは急いで戻ってきた隼斗を見て、ポカンとした顔で出迎え、何故隼斗があわてて戻ってきたか解《げ》せないという顔をしていたからだ。偶然、外に出てきた禅吉も同じだった。
「隼斗様、何か忘れ物でもしなさったか?」
その声に隼斗は一瞬わけが分からず、しばらく呆然と立ち尽くすしかなかった。それから、あわてて禅吉にさっきまでの経緯《いきさつ》を話したのである。
「その使いはどんな風体《ふうてい》をしてましたか?」
「……!」
この時になって、初めて隼斗は言い知れぬ不安感に襲われた。急を知らせてくれた老人の風体を述べたところ、禅吉は腕組みをしてしばらくの間考えていた。
「隼斗様、いくら考えてもそういう風体の雇い人はここにはおりませんよ。それにあなた様のお姉様と思われた女は、確かめに行った雇い人の報告で別人ということが分かりました」
その時、極楽院の方向から雷鳴が轟《とどろ》いたと思うとみるみるどす黒い不気味な暗雲が沸き上がりはじめたのである。隼斗は自分がだまされたことを知り、驚く禅吉たちを後に、急いで道を駆け戻ったのである。
しかし、暗雲はますます広がりポツポツ雨が降り始めるとともに、俄《にわか》に風も逆巻きはじめた。ちょうど所用で出掛けるところだった禅吉は、異様な空の様子を見て、女中に命じて合羽を持ってこさせた。そして車夫に命じて隼斗の後を追わせたのである。
人力が隼斗に追いつくと、嵐が来るからと合羽を隼斗に渡し、自分は地主仲間の会合へと向かった。だが、大きな嵐が来そうな気配に、禅吉は会合に行くか屋敷に戻るかを決めかねていた。禅吉は何となく、隼斗が村で起きている騒ぎに関係する御仁《ごじん》かもしれないという気がしていた。毎年秋には必ず嵐が襲ってくるが、これほど急激なのは初めてだった。禅吉は屋敷に戻ることにした。
隼斗は息を切らせて走りに走った。しかし隼斗を押し返すかのように風が邪魔をした。
(ひょっとして涼は、何かが起きたため、自分の到着を待たずに結界を張ったのかもしれない!)
嵐は凄まじい速さでやってきた。風は一気に雨まじりの強風と変わり、たちまち隼斗の着物を重くしはじめた。隼斗は走りながら禅吉の合羽を着込み、襟元を片手でつかみながら、ぬかるみはじめた道を急いで駆けていった。
(あの使いが怨霊の片割れとすれば、一人で残された涼は怨霊の恰好の餌食《えじき》にされてしまう)
雷が轟きはじめた。しかしそれは遠雷という類《たぐい》ではなく、大渦が天空に巻き起こり怒濤《どとう》となって荒れ狂う時の轟音だった。
(涼、怨霊を封じ込める手段とはいえ、境の上に結界を張ることになるんだぞ!)
雨はもはや大豪雨と変わり、雹《ひょう》さえ混じりはじめた。雹が、隼斗の剥《む》き出しになった手足を激しく打った。隼斗は合羽を着ても全身ずぶ濡れになって極楽院までやってきた。
その時、一人の小柄な男が、凄まじい雨煙の中にもかかわらず、石段の下で佇《たたず》んでいるのが見えた。中頭だった。
「やっと来おったか馬鹿者め!」
中頭は隼斗の顔を力一杯殴りつけた。隼斗はそのまま泥の中に倒れ、自分の判断が甘かったことを悔やんだ。
「もはや結界は張られた。境内へ入ることを禁ずる」
中頭の大声も荒れ狂う豪雨の音でかき消されがちになった。
「どうして中頭がここに?」
怨霊師を束ねる立場の中頭が、直接に現場を訪れるのは滅多にないことなので、隼斗は驚いた。
「大頭が命じたのよ!」
「大頭が……?」
隼斗は絶句した。一族の大頭が動くのは極めて異例なことだからだ。
「それだけ今回の怨霊は尋常の相手ではないということだ……それを大日女《だいにちめ》様が読み取れられた!」
「な、何と……!」
大日女の霊眼が隼斗の油断をも見抜き、中頭をここへ送り込んだというのか。
「だが、怨霊の動きの方が今回は早かった。この俺をもってしても、後一歩というところで間に合わなかった」
中頭と隼斗は、吹きすさぶ凄まじい嵐の中、涼の無事を祈りながら結界の外で待つしかなかった。
涼は、薄暗く重苦しい空気が漂う本堂の中に身を潜《ひそ》めていた。
外では凄まじい雷鳴が轟く中を無数の稲妻が乱舞し、激しい風雨は怒濤渦巻く荒波の如く、本堂の大瓦を叩きつけ荒れ狂っている。しかし本堂の中は、一閃《いっせん》の雷光が障子を貫き通しても、外界と無縁の仏たちが平穏な顔だちで立ち並んでいるだけだ。
仏たちはどれも永遠の静寂を守りながら、俗世の森羅万象《しんらばんしょう》や阿鼻叫喚《あびきょうかん》に対し、いつもに何ら変わらぬ沈黙の姿をもって対峙している。それでいて仏たちは、修羅と化した人間界に具象《ぐしょう》の姿を置き、慈悲と慈愛を向けて浄土への道を指し示す。それが仏の促《うなが》す極楽であれば、この世は愚かしい強欲と業《ごう》に溢れ、腐りきった亡者どもの渦巻く無間《むげん》地獄である。
一瞬、裏山に凄まじい閃光が走ると、大地を裂くほどの大音響が轟き、地響きが本堂を駆け抜けた。その間隙《かんげき》をぬって、背筋を縦に切り裂くような凄まじい殺気が本堂の湿った空気を貫いた。わずかな一瞬をついて、二つの殺気が空を発し本堂の中で衝突した。穏やかな仏たちが鎮座する本堂は、まさにこれから修羅の場と化そうとしていたのである。
涼の息は本堂に漂う気の流れと一体化して、己の気配を完全に絶った。そして魔の放つわずかな気配を察知しながら、徐々に怨霊を追い詰めていったのである。
(おかしい……何処に消えた?)
涼は両手に残った最後の二本の鋼芯を握りながら、本尊の薬師如来《やくしにょらい》像の横までやってきた。その時、涼はほんのわずか如来像を仰ぎ見た。如来は黒光りする体で静かに蓮華座《れんげざ》に座し、この世の無常を我が身一身に受け止めながら、人間の限りない業を癒《いや》そうとしているかのようである。如来は、左右に慈愛の日光菩薩と慈悲の月光菩薩を従え、毅然とした風貌の中にも、果てしのない永遠の瞳を涼に投げかけてくる。
この時、涼は既に境内で一匹の怨霊を討ち果たしていた。
涼は茅葺《かやぶ》きの山門に通じる石段の下で、隼斗が戻るのを待っていた。しかし、隼斗に急を知らせた老人が涼に頭を下げるとこう言ったのである。
「せっかく寺までまいりましたもんで、ちょっくら御先祖様の墓に参ってまいります」
涼は一瞬、老人を止めようかと思ったが、怨霊師自らが引き止める理由を述べることはできない。結界を張るまでの間、無闇な噂が村中に広がることも怨霊封じにとっては致命傷になるからだ。全てを秘にして密で終わらさねばならない。
(老人のことだから、隼斗が戻ってくるまでには寺から出てくるだろう)
涼はそう思った。
老人の風貌は、肌が見るからに土気色で艶《つや》がなく、おそらく肝の臓を悪くしていることは間違いないと思われた。森閑とした木々の間の石段を、ゆっくりと登っていく姿は、年老いた一人の信心深い人間そのもののようだった。
(この老人の余命は幾許《いくばく》も残されていない………)
涼は思った。
老人の影が山門の裏へと消えた後、奇妙な一陣の風が涼の頬を打った。その瞬間、さっきの老人と思われる悲鳴が境内で上がったのである。
「ぐええぇぇぇぇぇ……っ!」
その声は叫び声というより何かに押し潰《つぶ》された時のような、息に唾《つば》か体液が混じったような濁《にご》った叫び声だった。涼は一瞬|躊躇《ちゅうちょ》した。
(隼斗がまだ戻っていない!)
しばらく涼は戸惑ったが、急に何かを思い立ったかのように懐中から真っ青な文字で槃≠ニ彫られた白石を取り出し、山門の石段の下に置いた。
そして、印を切って涼には禁断となるやもしれぬ呪文を唱えたのである。
「|嚢謨※[#「りっしんべん+且」、ページ数-行数]羅《ナムタラ》 |※[#「りっしんべん+且」、ページ数-行数]羅耶野《タラヤヤ》 娜麼阿利耶《ナホアリヤ》 |縛廬※[#「木+兄」、第4水準2-14-52]帝《バロキテイ》 濕縛羅耶《シバラヤ》 |菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1-15-51]耶《ボダイサツタヤ》 |摩諭薩※[#「土へん+垂」、第3水準1-15-51]耶《マカサツタヤ》 |摩訶迦魯尼迦耶※[#「りっしんべん+且」、ページ数-行数]姪他《マカキヤロニキヤヤタチタ》 |※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]《オン》 斫羯羅韈《ハサラベイ》 羅底振多麼尼《ラチシンタマニ》 |摩訶鉢頭迷※※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]《マカハトメイロロ》 底瑟陀人縛羅《チヒタジンバラ》 阿加利沙野《アカリシヤヤ》 虎吽發叱《コンハッタ》 莎婆訶《ソワカ》」
こうして涼は、陰、つまり裏結界≠極楽院に張ったのである。この結界が破られる時は涼が自ら解くか死んだ時、あるいは陽の者が相殺した場合でしかない。
涼は己一人で結界を張ると一気に石段を駆け上がり、そのまま山門を潜《くぐ》って境内へと飛び込んだ。ところが境内は不気味な静寂が支配するだけで人気《ひとけ》は全くない。老木の陰から斜めに走る簾《すだれ》のような陽光が、石畳に漏れ出ているだけだった。
(何処へ行った?)
石畳の左右には大きな灯籠《とうろう》が立ち、まるで人の立ち姿のように二列に並んでいる。異様な気配を背中に感じた瞬間、涼はその場から飛びのき去り、左右の腕は鋼芯を引き抜いていた。気配を感じた先には古い松が斜めに捩《ねじ》れて生えていた。それが涼には何故か大蛇がのたうつ姿に見える。
何か妙なものが松にぶら下がっているのが見えた。
(あの老人だ!)
最初、案山子《かかし》が逆さに吊るされているのかと思ったが、よく見ればさっきの老人である。それはどう見ても死体であり、躯は異様な形に変形している。
(これは……!?)
その躯は背骨を中心に雑巾を絞ったように完全に一回り捩れ、圧迫された横腹が破れて内臓が外にはみ出していた。一瞬にして物凄い力が老人に加わったのだろう、老人の両眼は白目を向いたまま裏返り、口から何かが飛び出している。
涼は鋼芯を握ったまま両腕を前に突き出し、低く腰を落として四方を油断なく見渡した。もはや隼斗の陰陽の力で怨霊の居場所を捜し出すことはできない。怨霊師の前でこれほど大胆な真似をやる以上、怨霊は涼たちの来るのを待ち構えていたことになる。
その時、天空の様子が急変しはじめた。俄に空がかき曇ったかと思うと、不気味な暗雲が渦巻くように境内の上空に集まりはじめ、涼の張った結界の上を覆いだしたのである。
(やはり、二つの結界が、天地の均衡を狂わせはじめている)
涼は一瞬不安を感じた。天の理《ことわり》を味方につけずに戦うことは、怨霊師にとっては致命的なものになるかもしれないからだ。
その時、涼が背中を向けている老人の躯に、妙な変化が起きていた。断末魔《だんまつま》の苦しみで白目を向いていたはずの両眼が、少しずつ目の裏側から戻りはじめたかと思うと、血走った殺気を含む凶眼へと変貌した。痩せて節くれだった指はギシギシと蠢《うごめ》き、捩れた背骨もゆっくりと回転してもとに戻っていく。
さらに不気味なことに、松の太い枝が涼に向かって徐々に動きはじめたのである。グネグネと蠢く松は、まるで獲物を狙う大蛇のように涼の背後から迫ってくる……。
涼は異様な殺気を感じていた。それで何度も周囲に気を張りめぐらせたが、松の枝は死角となる真上から徐々に涼へと迫っていく。
蠢く枝から松の葉が落ち、それが涼のうなじへと当たった。その瞬間、轟音を立てて松の木が涼めがけて襲いかかったのである。
松の葉がうなじに落ちた瞬間、涼は既にその場を飛びのいていた。涼の残像の上に松が轟音を立てて倒れ込んだ。涼は怨霊の攻撃をすんでのところでかわしたのだ。
しかし、怨霊の攻撃は真上からだけではなかった。飛びのいた涼の足に瞬時に松の根が絡みついたのだ。
涼は勢いあまって、もんどりうって倒れた。その瞬間に涼の上に老人の歪《ゆが》んだ顔が覆いかぶさってきた。
結界を覆う墨を垂らしたような雲海は、不気味に蠢きながら無数の稲妻を走らせる。咄嗟《とっさ》に涼は、覆いかぶさる老人の両眼を鋼芯で刺し貫いた。
「グエェェェェェェ〜〜〜〜ッ!」
この世のものとは思えぬ不気味な叫び声が境内にこだました。老人の刺し貫かれた両眼からは、薄黄色いネバネバした液体が滲《にじ》み出してきた。
その液体は涼の横顔にもかかった。涼は新たに二本の鋼芯を出すと、自分の足に絡みつく太い松の根に打ち込んだ。涼が放つ鋼芯は呪詛をもって印を含めてあるため、怨霊にすれば灼熱《しゃくねつ》する杭を打ち込まれたに等しいものとなる。呪詛がブスブスと怨霊の体を焼くため、松の根は絡めていた涼の足を放した。
涼は顔にへばりついた黄色の液体を薬指で拭《ぬぐ》うと臭いをかいだ。
「松脂《まつやに》!」
涼はそれが松脂であることを知った。老人の体は暴れる松に振り回されても離れない。
(老人と松はつながっている……!)
涼は怨霊が最初老人に憑依したが、吊るしたまま松にも取りつき一体化したことを知った。やはり隼斗の放った式神で、怨霊は涼たちの存在に気づいてしまったのである。
涼は素早く懐中から朱塗りの細筒を数本出し、石に擦《こす》って火をつけた。燐寸《マッチ》が用いられているため火は瞬時についた。それを鋼芯で突き刺し、地響きを立てのたうち回る松に向けて一気に投げ放ったのである。鋼芯が松と老人の躯に次々と突き刺さった瞬間、細筒が爆裂し、松の木と老人の躯はバラバラに飛び散った。
怨霊が樹木に憑依することは極めて珍しいことだった。
(やった!)
涼は、ひとまずほっと安堵《あんど》の胸をなでおろした。しかし、まだ本命である住職に憑依した怨霊が残っている。
その時、空から一気に凄まじい豪雨が滝のように降りはじめたのである。
涼は住職の気配を必死に探っていた。本来、隼斗が怨霊の居場所を教え、涼が討ち取るのが常だが、今は涼しかいない。既に何本もの鋼芯が本堂の中で放たれたが、その都度まるで手応えのない影のような怨霊を通り抜けてしまうのである。
特に如来像の裏に怨霊の匂いが走った時、涼はその姿目掛けて数本の鋼芯を放ったが、それも全て空を切ってしまった。隼斗がいないとはいえ、涼の鋼芯をこれほど小馬鹿にした怨霊はかつていなかった。涼は少しずつ不安を感じはじめた。
しかし、最後には必ず己の鋼芯で怨霊を討ち取れることも信じて疑わなかった。今は怨霊の気配を暗闇の中で探るしかないが、怨霊は涼が身を隠さないかぎり、涼の姿を見極めることができる。闇の支配する大渦からこの世に紛《まぎ》れ込む怨霊にすれば、この世の闇などは無いも同然の浅いものだった。日の当たる明るい場所より、闇の支配する領域の方が彼らには生きやすいのだ。
(おかしい……気配がこれほど近くなっているのに、住職の姿が全く見えない)
涼は珍しく焦《あせ》っていた。怨霊には微弱な気配があり、怨霊師にもそれが見極められるのである。しかし、今回だけは隼斗の姉の一件で心を鈍らせてしまったのだ。
(何度確かめても同じ。如来像の近くが最も怨霊の気配が強い!)
涼はゆっくりと如来像の背後へと回っていった。如来が背負う光背《こうはい》の裏に、幅二尺(約六十センチ)ほどの真っ黒な穴が開いているのが見えた。本来は鋳造《ちゅうぞう》された段階で塞《ふさ》がれるはずの穴が開いているのは、そこに何かを入れて封印するか、何者かが隠れるためでしかない。
如来像の高さはせいぜい十尺(約三メートル)程度だが、内部は人間一人が隠れるには十分な広さだった。もはや怨霊は涼に追い詰められたも同然だった。
薄暗闇の中で、穴から住職の僧衣の端が少し出ているのが見える。正に怨霊は仏の手中にあった。涼は油断なく穴に近づいていく。両手に握った鋼芯は既に汗で濡れ、雫《しずく》がその先から滴り落ちていた。
その直後、涼は鋼芯を指で弓なりに反らせると、穴に向けて弾き飛ばした。鋼芯は反り返った反動で、仏像の内部で弾《はじ》け回り、内部に隠れている怨霊をズタズタに切り裂くはずだった。
しかし、像の中で飛び跳ねる鋼芯の音が全くしない!
涼は、恐ろしい事実に気づいた。自分が如来像の背後に放ったはずの鋼芯までもが何処にも見当たらないのだ。怨霊は印を結んだ鋼芯に触れることはできない……その時、涼は鋭い痛みを両足に感じたのである!
見ると自分が放った最初の二本の鋼芯が自分の両足の甲を貫き通し、床に深々と突き刺さっている。
(こ、これは一体どういうこと!?)
一瞬、自分の身に何が起きたのか分からなかった。さらに次の瞬間、二本の鋼芯が涼の掌《てのひら》を貫き通したのである!
そして涼の手を貫いた鋼芯は、そのまま背後の壁に突き刺さった。
「いいっひっひひひひひぃぃぃ!」
本堂の中に気味の悪い笑い声が響きわたった。
「まだ分からないのかえ、涼?」
怨霊の勝ち誇ったような声が本堂に轟いた。
「何が言いたいの?」
涼は激しく痛む両手を胸でかばいながら言った。
「おまえの体には松脂の匂いがこびりついているだろう?」
「……!!」
その時、涼は初めて気がついた。怨霊の気配は自分の頬についた松脂から放たれていたのだ。涼は最初、如来像の背後にいるはずの怨霊の両足を狙って二本を放った。次に怨霊の姿が見えた瞬間、その両腕を狙って放ったはずだったが、まるで影のように鋼芯がすり抜けてしまったのだ。
「おまえは、境内に入った時、亜空の中に取り込まれたのよ……ひっひっひっひっひっ」
亜空とはこの世の空間ではない。虚空《こくう》のことである。
「涼、おまえが結界を張ったため、そこに入った者は、必ず亜空の中で道に迷い……最後は己が来た最初の所へと戻るのだよ……分かるかえ? いいっひひひひひひひ」
(しまった!!)
涼は、昔から寺社に境として張られている結界に、己の結界を重ねたことで、人が結界に入り込んだ時と全く同じ立場に己を置いてしまったことに気づいた。
〔たとえ人であれ、一人一人は己の体に結界を持っておる〕
昔、中頭が涼にそう話していたことを思い出した。
〔心霊は骨肉という名の結界、つまりは人界に封じ込められており、その結界が死とともに崩壊した時、心霊はそこから外に出ることができる。つまり生きとし生けるものは全て結界の支配に拘束されておる!〕
涼は境であるはずの寺界に結界を張ったため、常人が人界のまま結界に入った時と同じ状況に己を置いてしまったのだ。そのため、住職に永遠にたどり着けず、延々と堂々巡りを繰り返すしかなかったのである。
「すると私が感じた怨霊の気配というのは、怨霊が私につけた松脂の気配だったのか?」
「いいいっひっひひひひひひぃぃぃぃ、いいっひひひひぃ、ひぃひぃ、今頃気づいたのかえ、涼よ。おまえは亜空の中で、己の頬に取りついた気を感じ、そこを目安にして鋼芯を打ち込んでいたのよ!」
涼は両足に深く突き刺さった鋼芯を、満身の力で引き抜いた。
「キャア…………ッ!」
激痛と迸《ほとばし》る鮮血のため、涼は思わず叫び声をあげた。
「二重結界の中心部は、現世と異界の間に漂う泡のような朧《おぼろ》な世界……時の流れは一定ではなく、過去と未来が交錯する……いいいっひっひっひひひひひぃぃぃ!」
怨霊は声高らかに笑った。境内という亜空の中に現れた最初の怨霊は囮《おとり》だったのだ。そこで怨霊を倒したため、涼は亜空の虜《とりこ》になったことに気づくことなく、そのまま二重結界の中心部である本堂になだれ込んだのである。そして自分を相手に戦ってしまったのだ。
「涼よ、今、私が何を考えているかが分かるかえぇぇ?」
「……!?」
今や涼は怨霊の考えていることが分かっていた。
「一刻も早くまとわりつくような闇の世界から抜け出し、おまえの肉体に憑依《ひょうい》するつもりなんだよぉぉぉ! いいいっひっひひひひひひぃぃぃぃぃ」
その直後、本堂の天井に不気味な大渦が沸き起こり、そこから見るも醜い怨霊の顔が現れはじめた。
「我はおまえの肉体を頂く怨霊なり……よぉうく拝んでおけえぃぃぃぃ」
涼は最後の力を振り絞り、残った一本の鋼芯を怨霊の眉間目掛けて投げ放った。しかし鋼芯は虚しく虚空を飛び去るだけだった。
「いいいっひっひぃぃぃっ! 愚かな女め。我ら怨霊は体に憑依してこそ、初めて肉の結界に封印して打ち倒せるのだ。そうではない時、霊を切ることも貫くこともできるはずがあるものかえ!」
涼は激痛の走る足を引きずりながら、血だらけになった両手で体を支え、如来像の前の灯明《とうみょう》の下まで体を動かしていった。
怨霊の醜い顔は渦から大きくはみ出すと、不気味な笑いを浮かべながら涼の後を追ってくる。
〔もし怨霊師に怨霊が取りつけばこの上ない怨霊となり、世に凄まじい害を及ぼすことは必然だ!〕
涼は中頭の言葉を思い出していた。しかも涼はもはや歩けず、鋼芯を放つ手も自由にならない今、怨霊に憑依されることは避けがたい様相となった。
「さあぁぁてぇぇぇぇぇ涼よぉぉ! おまえの体を我に与えよぉぉぉ!」
そう言うや怨霊は、必死に歯を食いしばる涼の口を、念によって無理矢理こじ開けた。そして、肉体の中へと一気に入り込んできたのである。涼の目は大きく見開かれ、顔は見る見る青ざめ、体は激しく上下に痙攣《けいれん》した……!
さらに激しさを増す風雨が石段の下に佇《たたず》む二人の男を激しく打ちつけていた。隼斗はもはや我慢の限界に来ていた。
隼斗が手にする陽≠フ印の白石を要《かなめ》に置いて印を切り、涼の張った結界を解き放てば、すぐにでも涼のもとに行くことができるのである。
その時、本堂付近で大きな爆発音が轟いた。
ドドドガガガアアアァァアァァァァンンンンンンン……………!!
隼斗と中頭は、顔を見合わせた。隼斗の心に不安の影がよぎり、中頭の鋭い目は失意の中に落ちた。たった今、涼の結界が消え失せてしまったことが分かったからだ。
その瞬間、あれほど天空を覆っていた不気味な雲海が物凄い速さで四散《しさん》しはじめ、大渦の中から青空が輪を描くように一気に広がりはじめた。二つの結界による天地の捩《ねじ》れが一瞬にして納まったことは、まぎれもなく涼の死を意味していた。
隼斗は急いで石段を駆け上がり、まだ石畳を激流となって流れる雨水の中を、本堂まで一直線に突進した。
その途中、真っ黒に焼け焦げた松が四散し、自分を呼びにきた老人の首が転がっているのを見た。
「おのれ!」
隼斗は怨霊を突き止めねばならぬ立場でありながら姉への思いに心を奪われたため、あれほど間近に怨霊を見ながら全く気づかなかったのだ。この時、隼斗は生まれて初めて己を激しく呪《のろ》った。
「この馬鹿が、大馬鹿野郎がぁっ!!」
隼斗は自分を激しくなじり両の拳《こぶし》で己の顔面を何度も殴りつけた。そして踵《きびす》を返すと、目の前の本堂に向けて駆けだしていった。
と、本堂から何か得体の知れない気の流れが出てくる。それが石畳の上を通り過ぎて何処かへと消え去るのが見えた。
隼斗は、閉じられた本堂の扉を開けると急いで中に入った。本堂では住職が眉間を鋼芯で射抜かれ、天を見上げるように倒れていた。
そこには涼が戦った痕跡があちこちに残されていたが、涼の姿はなかったし、涼の元気な声も聞こえてこない……それが隼斗の胸を激しく締めつけた。
如来像の下でついに隼斗は、焼け焦げた涼の亡骸《なきがら》を見つけたのである。
涼は火薬が仕込まれた細筒を自分に使ったのに違いなかった。怨霊師が自らの命を絶つのは、怨霊に己の体を使わせないためである。隼斗は涼がこの場所でただ一人で怨霊と戦い、最後は自らの命を絶ったことを知った。それを思うと、隼斗の両目から涙がみるみる溢《あふ》れ出し、止めることができなくなった。
「涼……………………っ!!」
隼斗は涼の亡骸を抱き抱え、声を限りに泣いた。そして己の非を責めたてたのである。いつの間にか、隼斗の横に中頭が立っていた。
「隼斗、今度の怨霊は並大抵のものではない。奴は涼の自害を察知した直後、涼の体を離れて逃げ去ったようだ」
隼斗は何度も激しく嗚咽《おえつ》し、今まで涼に対して冷淡だった自分を思うと、それすらも許せなくなった。
「隼斗、貴様はここで悲嘆に暮れていることは許されぬ。涼も許さないだろう。貴様は何としても涼の仇を討たねばならんからだ!」
中頭は隼斗の心中を見抜いていた。
「今度のことは中頭である俺にも非がある。境の中で結界を張った状態を知っておりながら、怨霊が逃げ出すことを避けるため貴様に結界を解《と》かせなかった……」
「いえ、悪いのは己の使命を忘れ去り涼と寺界に入らなかった自分にあります」
隼斗はなおも激しく嗚咽した。
「怨霊があれほどの奴でなければ、たとえ境にあろうと涼には勝つ見込みは十分にあった……我も大日女の警告を軽んじたのだ」
中頭が言った。
「いえ、自分が一緒に入っておればまだ為《な》す術《すべ》がありました。中頭は怨霊を封じ込めようと当然のことをしただけです!」
隼斗の両の目から尚も大粒の涙が溢れ出し、震える両手の甲の上に滴り落ちた。
「隼斗、涼をこのまま晒《さら》しておくのは余りに忍びん。躯を外に運び出すのだ」
中頭は隼斗に涼の躯を抱かせ、寺の墓地へと運ばせた。そして、そこに穴を掘って涼の亡骸を埋葬した。隼斗はその間も男泣きに泣きつづけた。中頭は石段の下に残された槃の青文字が彫られた白石を隼斗に手渡した。
「隼斗、これを涼の忘れ形見として隠れ里へ持ち帰れ」
中頭はそれだけを隼斗に命じると、何処かへと姿を消した。
隼斗は涼の墓に積み石を置き両手を合わせ、半日近くもその場から離れなかった。やがて隼斗は立ち上がると、寂しそうな後ろ姿を残して、その地を後にした。
涼の墓の横に一つの影が近づいた。男は長身で、踝《くるぶし》まで隠れるほどの長く黒いコートを着ていた。男の顔の右頬には縦に深い刀傷《かたなきず》があった。
秋の空は何処までも青く澄み渡るように広がっていた。その中を一羽の雀だけが舞いながら、涼の魂を見送るかのようにいつまでも囀《さえず》っていた。
「南無大師|遍照金剛《へんじょうこんごう》……」
弘法大師を忍ぶ名号《みょうごう》を唱えながら遍路道を歩む巡礼者たちの姿が、肌寒くなった瀬戸内沿いの崖を列を成して歩んでいく。その遍路の中に、家族の者であろうか、足腰の立たない中年男を乗せた車を引いている女の姿が痛々しい。まるで己の業を背負うように、荒い息の中を一歩一歩の歩みを噛みしめているかのようだ。
遍路の歩みは擬死《ぎし》の歩みでもある。弘法大師の霊力で遍路の罪業を祓《はら》い清め、納札を奉納する都度、邪気を洗い落として穢《けが》れを滅し、清浄な魂をもって蘇生《そせい》するからだ。そのため遍路は全ての苦行を受け入れ、新たな己に蘇生することを夢見るのである。
四国はほとんど山地が支配する国である。森厳《しんげん》な山々が海浜と隣り合う様は壮観で、全てが遍路の聖山となり聖域となる。いや、四国そのものが巨大な修行場であり霊域であり聖域なのではないか。山々の札所への難路は、多くの遍路にとって苦行を与えずにはおかない試練と修行の道なのだ。
それら霊山のさらに深みに控える深山の奥域は、それだけで秘して密なる領域であり、古代の姿を色濃く残す異界となる。
〈阿波の国に大|忌部《いんべ》の大集落有り!〉
遥か遠い昔からそう噂されてきたように、凄絶《せいぜつ》な山々が連なる四国山中の奥深くには、大忌部の隠れ里があるという。
朝霧が漂う深山を、背を丸めながら足取り重く歩む一人の若者の姿があった。隼斗である。
隼斗の胸懐《きょうかい》には、白地の布に包まれた涼の形見石と切り取った涼の髪が入っていた。隼斗は涼を埋葬した時、その髪の一端を切り彼女がこの世に存在したことの証《あかし》とした。
「涼、もうすぐ里に着くぞ」
隼斗は涼とともに歩むかのように言葉をかけ、懐を優しく撫でた。同じ山中を前に何度も涼と歩んだ記憶が、隼斗の脳裏をかすめていった。今まで何度二人でこの獣道を歩んだことだろう。大忌部の隠れ里から二人で出ては戻る日々に慣れていたはずが、今は己一人で里へと戻るのだ。
「涼……」
隼斗の両眼から再び既に枯れ果てたはずの涙が一筋こぼれ落ちた。隼斗は涼の存在が自分にとって如何《いか》に大きかったかを失って初めて気がついた。涼とは幼い頃に引き合わされ、姉弟同然に過ごし、厳しい修行を一緒に乗り越える日々を送ってきた。自分が涼を愛していることに気づいた時、全てが終わった後だったのだ。それだけ隼斗は、まだ歳若く純だったのである。
隼斗は己を引き取り育ててくれた里を見下ろす丘に着いた。眼下に広がる大樹林の一角に開けた大集落こそ、まさに深山の内懐《うちぶところ》に隠された里に相応《ふさわ》しい光景だった。
北に向かって立つと、体内に溜まる全ての気を胸に集めて吐き捨てた。その後、東に向かって立ち直り、森を潤す霊気をゆっくり大きく己の肺へと吸い込んだのである。
隼斗の体内に入った気は一挙に大地と共鳴し合い、隼斗の胸で大きく脈動をはじめた。次に隼斗は、歯を噛むこと三十六度、両手を印で結びながら九字の印を唱えた。
「臨《リン》・兵《ビョウ》・闘《トウ》・者《シャ》・皆《カイ》・陣《ジン》・列《レツ》・在《ザイ》・前《ゼン》!」
直ちに印を解いた後、右手の人差し指と中指をもって刀印を結び、空に四縦を切って五横を切った。
隼斗は真言を唱え、大忌部を覆う結界の入り口の幕を解き放った。
〔もし人が隠れ里を見つけ、そのまま近づき歩んだとしても、里は夢まぼろしの如く霧散し、近づき歩んでも遠のく逃げ水か蜃気楼《しんきろう》の如き有り様となる……〕
中頭が、初めて里を後にする隼斗に教えた言葉が脳裏をかすめた。隼斗は九字《くじ》を切った刀印を仮鞘《かりさや》に納めた後、解かれた結界の幕を潜《くぐ》り抜けていった。そこは紛れもない隠れ里の入り口だった。昔からそこには粗削りの二本の太柱が立っていて、三つ縄で組んだしめ縄が張られていた。
向かって右の太柱を神漏岐《かむろぎ》、左の太柱を神漏美《かむろみ》と呼び、両太柱で原始的な陰陽の鳥居を示している。
隼斗は太柱を潜った後、再び印を結んで鳥居口だけ開く結界幕を閉じた。
隼斗は自分が幼かった頃、中頭に背負われ初めて太柱を見上げた時のことを思い出した。あの頃の太柱はもっと巨大で雄々しく、得体の知れない圧迫感をもって小さな隼斗の心に重く仲《の》しかかった。
隼斗は自分が貰われる村に着いたことの不安で、心の芯まで怯《おび》えていたのだ。そんな不安な面持ちで中頭に背負われて太柱を通り抜けた時、何処からか漂う金木犀《きんもくせい》の香りを隼斗はかいだのである。
今もあの時と同じ金木犀の甘い香りが村中を覆い、幼かった頃の隼斗の記憶を呼び覚ました。それからどれだけの年月が流れただろう……自分を背負ってくれた中頭も痩せ窄《すぼ》み小さくなっていった。
金木犀の香りは、あの時の隼斗に不思議な安堵感を与えてくれたように、傷ついた隼斗の心を同じ優しさで包んでくれている。
久しぶりに秋が深まった里の香りをかいだ。思えば、ここを涼とともに出てから、怨霊封じに明け暮れる日々を過ごしてきただけだった気がする。ふと気がつくと、隼斗の前に一人の若い男が立っていた。
上品な顔だちと後ろに束ねた長い髪、そして静かな物腰は、間違いなく隼斗と同じ陰陽師の安倍北麿だった。
「北麿……!」
隼斗は囁《ささや》くような声で言った。
「隼斗、今回は大変だったな。よく里に戻ってきた」
そう言うと、北麿は隼斗の両肩を強く抱きしめた。北麿の言葉に隼斗の心は感極まり、思わず嗚咽《おえつ》を漏らした。二人はそのまま暫《しばら》く太柱の横で話した。隼斗は、北麿と会い話を交わしたことで、少し心が落ち着いた。
ほとんど同じ頃に陰陽師の修行に入ったせいか、二人は子供の頃から気の合う友達同士だった。中頭の屋敷で小頭たちから猛烈な武術習練を受けていた時、あまりの厳しさから隼斗がへこたれ、鞭《むち》打たれそうになったことがあった。その時、体の弱かった隼斗に代わって、北麿が自ら申し出て鞭打たれたのである。
それ以後、どちらかといえばひ弱な体質の隼斗を、北麿がかばうことが多くなり、今も傷ついて帰った隼斗を慰め励ますのは、北麿の役目だった。
そのせいだろうが、隼斗は北麿と自分が組んで怨霊を封じることを夢見ていた頃があった。しかし、狩るのは陰陽師の役目ではなく、怨霊師として育てられた巫女たちの役目だった。北麿や隼斗たち陰陽師は、あくまでも怨霊師を助け補佐する役目だったのである。
神は天照大神《あまてらすおおみかみ》の如き光の極致の陽であり、それに対する怨霊は冥府《めいふ》の闇に潜む究極の陰である。よって怨霊は陰である巫女によって討たれ、闇に落とされねばならない。陽である陰陽師は、陰である巫女を動かし助ける役目を担うのだ。
それが頭では分かっていても、隼斗は北麿に怨霊師の舞があてがわれた時、嫉妬心が沸き上がるのを、暫《しばら》く抑えることができなかった。その憤りは自分にあてがわれた涼に向けられていたのかもしれない。
大忌部では、怨霊師と陰陽師は大日女の祈祷《きとう》と神憑《かみがか》りによって、陰陽五行《おんようごぎょう》思想をもって選ばれる。
その前に、大忌部の易衆が中国の殷《いん》代から伝わる十二支と十日間の旬である十干《じっかん》を組み合わせた六十|干支《かんし》を用いる秘術にて占星を行い、さらに二十八|宿《しゅく》、七曜、九曜、十二神将《じゅうにじんしょう》、八卦《はっけ》にかけて絞り込み、その時に生まれた子供を限定する。
その子供たちの一団の中から技能と才能に勝ったものが選ばれるのである。北麿ら陰陽師はそれで選ばれ、隼斗は大日女の示唆《しさ》に該当したため、同じ一族として外部から連れてこられたのである。
舞や涼たち怨霊師もそうだが、誰もが忌部という同一族である。彼らは一族の血のために親に甘えたい時期を奪われ、ひたすら猛烈な修行に明け暮れさせられる。その中で選ばれる子はわずかで、選ばれなかった子は奥義《おうぎ》が与えられず、別の役目の道をいく。
北麿と隼斗が違うところは、北麿が安倍家の宮司の子として生まれたことだろう。だから北麿には外に親がいたが、一旦陰陽師として育てられることになれば、親元から引き離されることになった。
「隼斗、おまえはあまり詳しく知らんだろうが、俺は宮司だった父から、安倍家と土御門家は忌部と同族と聞かされてきた」
「俺もそれはこの村の中で聞いたことがある」
隼斗が答えた。隼斗は自分の母が忌部の出身だったため、里に貰われてきたと教えられていたのだ。
「土御門家と安倍家はともに秦《はた》氏だったが、桓武帝《かんむてい》の平安京遷都の後、秦氏は表舞台から一挙に姿を隠した」
「どんな理由だ?」
「そこまでは分からない。俺の父や叔父などは知っている様子だったが、俺に教えることはなかった」
「謎だな……!」
隼斗は怪訝《けげん》な顔をした。
「ああ、俺たちの祖先の秦氏一族は、応神帝《おうじんてい》の頃に大陸から大挙して渡来した技術集団とされているが、それはあくまでも表向きのことだ。俺は秦氏の歴史は神武帝《じんむてい》にまで溯《さかのぼ》ると思っている」
「なぜだ?」
隼斗が聞いた。
「叔父と父が話していたことを聞いた記憶があるからだ」
「…………」
「どちらにせよ、俺とおまえは同族だ。いや、この里にいる者全てがおまえと同族なのだ。だから何も心配するな」
北麿が隼斗の肩を叩いた。
「しかし、涼はかわいそうなことをした」
「分かっている。しかしもう何も言うな。大頭に事実のみを報告して裁断を仰げばいい」
北麿は自分がもし舞を失った時のことを思うと、涼を失った隼斗の悲しみと苦しみは十分に理解できた。
しかし、その北麿でさえ隼斗の心中奥深くまでは分からなかったのである。
「ところで舞は元気か?」
隼斗が聞いた。
「元気過ぎて手こずることこの上なしだ」
「そうか……まあ大事にしてやれ」
「ああ、じつは阿波の山中では怨霊が獣に取りついてな、おかげで鉱山の坑夫たちが全員食らわれる寸前だった」
北麿がやれやれという顔で言った。
「熊か猪か?」
隼斗は驚いた顔をした。
「犬だよ。それも土佐犬の大きな奴だった」
「どうやって封じた?」
「怨霊が獣に憑依《ひょうい》することは滅多にないが、取りつかれた獣を討ち取るとなると、これが並大抵ではない。まして舞の武器といえば奇妙な小剣だけだ。如何に剣術の天才少女とはいえ、巨大な獣を倒すのは大変なはずだった」
「だからどうして封じた?」
「舞は頭がよかった。まずは結界を張った後、坑夫を襲うと見せかけて怨霊を油断させた。その瞬間、鉈《なた》を投げて犬の首を叩き落とした」
北麿が笑いながら言った。
「普段は優しそうな顔をしてるが、やる時は徹底してやるというのが舞らしいな」
「おいおい、そんなこと舞に聞かれでもしたら大変だぞ」
北麿は大げさに両手を振った。その姿に隼斗は思わず笑った。
「舞も獣相手に大変だったな。怨霊は人間を黄泉《よみ》に落とせるものならどんな手段でもとってくる」
隼斗は噛みしめるように言った。
「あとは己の身が危なくなった時、誰かれ構うことなく食い殺し、一時の体の滋養《じよう》にする」
「ああ、怨霊は三日に一体は食わないと、己をこの世に維持できなくなるからな。いざとなれば赤ん坊でも食い殺す。たとえ赤子の霊を手に入れられなくてもな」
怨霊が自分に取り込めない霊は、子供と聖人の霊である。怨霊は地の底に住む陰の凶霊であり、神から骨肉の体が与えられなかった者どもだ。怨霊は光に包まれる地上に凄まじい恐怖心を抱くとともに、その地上に住んでいる人間に太古《たいこ》から底知れぬ憎しみを抱いてきた。
怨霊の目的は地上に住む全ての人間の魂を奪い去り、底知れぬ地獄に引きずり込むことである。そのためなら怨霊はどんなことでもやってのける。怨霊はどろどろした人間界の欲望と心の闇に取り入ることに目敏《めざと》く、一旦人間に憑依すると、たちまちその人間の心を闇の力で支配してしまうのだ。
「涼は極楽に行ったことになるな」
北麿が言った。
「ああ、それが唯一の慰めだ」
「それだけに寺の住職に憑依したことは異常だった」
「俺はあの住職が転んだ者≠ニ思っている」
隼斗は北麿の目を見ながら真剣な顔で言った。転ぶとは、寺社等で一旦、聖職に就《つ》いた者が何かの事情で堕落し、一挙にふつうの民より悪に染まった場合を言う。
「確かにそれは無いことではないな。そうなれば境の中に魔界の空域が生まれることになるかもしれん」
北麿は頷いた。
「おそらく住職に取りついた怨霊の方はそのまま境に潜り込んだが、己の体を維持するために手近な小僧や子供たちを食い殺したんだろう」
「で、その住職の方はどうなった?」
「涼が殺したよ」
「そうか」
「涼は分かっていたんだ。だから最後に住職に取りついた怨霊を道連れにした。しかし俺の油断で、三匹の内の要の怨霊を見逃してしまった。そいつは境の中心で最初から涼を狙って待ち構えていたんだ」
「相当な闇の力を持った怨霊だな」
北麿が言った。
「うむ、涼はそいつを自分の体を道連れにして封じようとしたんだ」
「大した女だな」
北麿は本心からそう思った。
「ああ、大した女だ……」
隼斗もそう思った。秋が深まったにしては暖かい風が吹く小春日和《こはるびより》だった。
「で、他の陰陽師たちも戻っているのか?」
隼斗が聞いたので、北麿は顎をしゃくった。その先には一見すると女のように華奢な体つきの人影があった。
来栖夢情《くるすむじょう》だった。
「夢情……」
隼斗は夢情と会うのは半年ぶりだった。聞けば怨霊師の蘭《らん》とともに、伊予《いよ》で一日に十二匹の怨霊を討ち果たしたという。
夢情は陰陽道の使い手の中で最も若く、十七歳になったばかりであるにもかかわらず、陰陽師の中で最も理知的で天才肌の男だった。色白で華奢な女人のような体つきだが、老役衆の間では、夢情が最も安倍晴明に近い素と質を持つ者と評されていた。
「隼斗、私ならたとえ境であろうと怨霊を討ち漏らしはしなかったわ」
夢情は冷徹に言った。
「夢情、いい加減にしろ! おまえは確かに今まで怨霊封じでしくじったことはない。言い換えればそれは大きなしくじりに向かう切っ掛けになるかもしれん」
北麿が言った。
「やめてくれ北麿、全ては夢情の言う通りなんだ。俺の油断がしくじりを生んだことだけは確かなんだ」
「それが分かっていればいいわ。怨霊師が結界の中で一人で死ぬのは陰陽師がだらしないからよ」
「夢情、おまえには優しさというものがないのか?」
北麿は夢情の襟首をつかんで、絞り上げた。
「優しさ? それは君が昔から隼斗にしてやってきたことを言うのなら、無い方がいい」
「な、何だとぉ!」
北麿が怒鳴った。
「まだ分からないのか? 君の優しさが今の隼斗の陰陽師としての甘さを生んだのだよ」
「なぁにぃぃ! もう一度言ってみろ夢情」
「ああ何度でも言ってやろう。君の優しさは隼斗の成長のためによかったとは私には思えない」
北麿が夢情を殴ろうと手を上げた時、隼斗がその腕を捕らえた。
「やめてくれ北麿。お願いだ」
そう言われて北麿は震える拳をゆっくりと下げた。
「夢情、おまえは冷たい奴だ」
北麿は一言つぶやいた。
「時には冷酷さが優しさということもあるわ……」
夢情はそう言うと、すました顔つきでスタスタと大頭の屋敷の方へ歩き去った。
「気を悪くするな隼斗。夢情だっておまえのことが気になっていたから、あいつなりの方法で迎えに来ていたんだ」
「分かっているさ。夢情の性格は昔から分かっている」
隼斗と夢情は子供の頃から仲が悪かった。隼斗は野良育ちで夢情は公家《くげ》育ちなので、両者は全くの水と油だったのである。そこで昔から北麿が両方の間に立って隼斗を守ってきたのだ。
「で、左京《さきょう》は?」
隼斗は聞いた。
「ああ、左京は特におまえを心配していた。左京は我ら陰陽師の兄貴分だから、大頭の屋敷で開かれる評議の準備で迎えに出られないが、代わりに俺や夢情に隼斗を迎えてやれと言っていた」
左京は、隼斗が隠れ里に来た日から、隼斗を優しく迎えてくれた兄貴格だった。隼斗とは三歳の歳の違いしかなかったが、左京にはそれ以上にしっかりとしたところがあった。
「やはり猪のような左京を見ないと、おまえも大忌部に戻ってきた感じがしないだろう」
「ははは、違いない」
隼斗は頷いた。左京は心根の優しい大柄な男だった。
「そういえば左京は昔から村衆に人望があって、先々は大忌部の頭領と言われた男だった」
隼斗が言った。
「そうだな、今の大忌部の大頭も、昔は俺たちと同じ陰陽師として、多くの怨霊を封じてきた伝説的な人物だ。だから左京ほどの人物なら大忌部を背負って立てるかもしれん」
北麿は心からそう思った。
大頭の後継者は必ず陰陽師の中から選ばれる。大忌部の決まり事で、陰陽師をやり遂げた者が将来の小頭となり、そこで初めて結婚して子を成して育てるのである。そこからやがて中頭が選ばれ、最後は大巫女の祈祷をもって大頭が選ばれるのだ。
大巫女とは予言をなす大日女のことで、未然に将来を見通す心眼を持つとされる。隼斗も北麿も数度しか姿を見たことがなく、ほとんど拝殿の中にいて多くの巫女とともに閉じこもって祈祷を行っている。
「隼斗そろそろ行こうか。大頭がお待ちだ」
大忌部の隠れ里は規模は大きいが、藁葺き屋根の立ち並ぶ質素な村だった。しかし、大頭の屋敷だけは村の中央にあって高い石垣を持ち、剣山《つるぎさん》を背景に一際目立つ館だった。
「分かった」
北麿は隼斗を大頭の屋敷へ連れていった。
隼斗を見かけた村衆たちが次々に集まりはじめると、隼斗の労をねぎらう言葉をかけた。
「隼斗様、ご苦労なさいましたな」
「今度のことでは、涼も運が悪うございました」
「気を強くお持ちくださいませ」
隼斗にすれば、生まれ故郷同然の大忌部の里は最も気の休まるところではあったが、己の失策から涼を失ったと思うと、気持ちの上で村衆に合わせる顔がなく、心の敷居が高くなっていた。
義務とはいえ、涼を失った申し述べに里に赴《おもむ》くことは、どうしても気が沈み、歩む足も遅くなりがちだったのだ。
隼斗は大頭の前でありのままを伝えねばならない義務を負っていた。そうせねば怨霊は再び怨霊師の命を奪うことになるかもしれないからだ。
大頭の屋敷は城と言ってもいいほど頑丈な造りで、巨大な柱に支えられた三階造りの大屋敷だった。庭はよく手入れがなされているが、贅沢な飾り物は外にも内にも一切なく、あくまで質素で堅実。まさに戦国時代の野城のような感を周囲に与えていた。
大きな板敷きの大広間には既に大忌部の老役衆や易衆が東西二隅の座を占め、隼斗を挟むようにして座していた。太い大黒柱のある祭壇には大頭の座があり、二人の中頭とそれにつづく小頭たちが大頭の座の左右を占めて座し、大頭が来るのを待っていた。
秋も深まったというのに暑さが少し舞い戻ったような気配で、西日が大広間の黒光りする板間をいつもより強く光らせている。その明るさとは逆に、大広間では静寂の中に張り詰めた緊張感が漂っていた。隼斗は板敷きの中ほどに独り座し瞑想するかのように目をつむったまま評議の時を待った。
北麿は左京、夢情とともに西の下座で座していた。夢情の横には近衛《このえ》左京が座していた。左京は四人の内で最も年上の二十歳である。昔から兄的存在として仲間から信頼を得、面倒みのいい人柄は若衆でも随一だった。左京はガッシリとした大柄な体格のためか、周囲から最も大人として扱われた。
隼斗が大廊下を歩いていた時、左京が大きな体を持て余すように現れ、低い声で隼斗を呼び止めてこう言った。
「隼斗、いつの世でも常勝《じょうしょう》はありえない!」
この言葉に隼斗は左京の心を受け取った。確かに左京の言う通りだった。怨霊との戦いの中で、これまでにも多くの怨霊師と陰陽師が命を失っていたからだ。事実、左京の背にも大きな生傷が残されている。怨霊との命懸《いのちが》けの戦いの中でついた傷は、如何に怨霊との戦いが死と紙一重なのかを思い知らせている。
怨霊と直接|対峙《たいじ》するのは怨霊師だが、陰陽師も怨霊と戦わねばならない場面はある。怨霊に敗れそうになった怨霊師を、陰陽師が助けることが多いのだ。
「隼斗、おまえに用意されている土産があるぞ」
「えっ、何ですか?」
「今に分かる」
それだけ言うと左京は奥へと姿を消した。一体自分に何が用意されているというのだ。左京の奇妙な言葉に隼斗は戸惑った。
その左京たちと向かい合う東下座に、北麿とともに怨霊を封じたばかりの真名瀬《まなせ》舞が、美しい長髪を垂らして座していた。舞は大きな瞳を持つ色白の美少女で、着こなしや立ち居振る舞いに、どこか妖美な雰囲気が漂っている。
事実、舞の瞳はよく見ると深緑色をしていて、どこか日本人離れをした雰囲気を持っていた。いや人間離れした美貌の少女と言っても過言ではないだろう。舞は大頭の長女として生まれたが、不思議なことに母親の墓は里の何処にもない。大頭はそのことについては舞に一言も話さず、ただ母の名が愛≠ニいうことだけを教えた。
舞は幼少の頃から霊力に秀《ひい》でているため、後の大日女と目されて育った。易衆による陰陽五行の占術により、舞の生まれ日と時刻が最大日振の吉≠ニ判明したため、怨霊師として召されることになったのだ。
今の大日女である大叔母も昔は不世出と言われる怨霊師だったらしいが、今やその頃を知る者はほとんど里にいなくなった。
舞には奇妙なところがあった。怨霊を討ち果たし狩りとった後、必ず目から血の涙を溢れさせるのだ。舞は怨霊に対して何の哀れさも感じないが、それを討ち果たした時だけは、何故か無性に悲しみが溢れてくるのだ。
これには舞自身が一番当惑しているのだが、最初に驚いたのは北麿だった。知らない時は、怨霊の反撃で目をやられたかと思い、本気で心配したからだ。その内それが舞の特質のようなものと分かってからは、奇妙とは思いつつもあまり気にならなくなった。舞はそういう不思議な少女だったのである。
その舞の横には夢情と組む怨霊師の西連寺《さいれんじ》蘭が座していた。
蘭は四人の怨霊師の中で最も年上の十九歳で、上背もあるため、姉的存在として三人の怨霊師から慕われてきた。西洋渡来の銃器を小型から大型まで使いこなす才を持ち、彼女一人で明治政府の一個小隊と対抗できるとまで老役衆が言うほどの力量を持っている。
蘭の隣には左京と組む古城麗《こじょうれい》が座していた。
麗は最も年少の十五歳にもかかわらず、もの心がつき始めた頃からの猛修行によって、いつしか古武道|槍術《そうじゅつ》の名手になっていた。槍を使わせると、麗の素早い槍さばきに対抗できる男衆はこの里にはなく、日本全土でも五指に入るほどの槍の天才少女である。
麗は様々な槍を使いこなす腕を持ち、これまで麗の槍で葬られた怨霊の数は十五匹に及んだ。ただ麗は生まれた時から声が出ない娘だった。
一人の使いが大広間に入ってくると、中頭の一方に耳打ちした。耳打ちされた中頭は雅兼《まさかね》といった。同じ中頭でも雅兼の方は、外回りの秋水と違い、里の内の全ての物事に責任を持ち皆の衆を束ねる役目を担っていた。
「大頭が来られる」
雅兼がいつもの籠《こ》もった口調で皆に告げた。長い大廊下を人が歩く音がする。大忌部の頭領である大頭が歩む足音だ。大頭の屋敷の廊下は全て鶯張《うぐいすば》りだった。そのため誰もこの屋敷に忍び込むことはできない。
隼斗は目を開け、半年ぶりに対面する大頭を見上げた。大頭は大廊下から大広間に入る際、ちらと隼斗の方を見た。全員、両拳を床につけ、頭を低く下げて大頭を迎え入れた。
大頭の背丈は優に六尺(百八十センチ)を超え、白髪の混じった長い髪と顎髭を持つ立派な体格だった。
羽織袴姿は屋敷同様に質素だが、大頭の最大の特徴は他を圧してあまりある存在感だった。特に大頭の鋭い目は常人のものではなく、その眼光から逃れられる者は一人としていないと思われる。
大頭はまず祭壇に向くと二礼を行い、その後大きく柏手《かしわで》を二度打ち鳴らし天地開闢《てんちかいびゃく》の音魂を示した。こうして二礼二拍手一礼を行った大頭は、祭壇に向かったまま、そこに座した。
祭壇には二本柱が立てられ、それぞれが大忌部における陰陽の太柱を示していた。他にも榊《さかき》と紙垂《かみしで》を通した玉串《たまぐし》や、三本の幣帛《へいはく》が立てられ、鏡の前には純白の御饌《ごせん》が置かれていた。しばらくの間、大頭は瞑想をつづけ、やがて一同に背を向けたままの姿で語りはじめた。
「皆にもう一度申し述べる。我ら大忌部は神道祭祀における要として、八百万《やおよろず》の神々の内、天孫族の布刀玉命《ふとだまのみこと》の末裔《まつえい》として日の本を裏から支えておる!」
「おうぅ…………っ!」
一同が平伏して大頭に和した。
「神武帝即位の折、畝傍《うねび》の橿原宮《かしはらのみや》にある宮柱|底磐《そこいわ》の根に、太柱を立てたのも我らが祖先の大忌部である!」
「おうぅ…………っ!」
再び全員が大頭に和した。
「その際、八咫鏡《やたのかがみ》、天叢雲剣《あまのむらくものつるぎ》、八坂瓊曲玉《やさかにのまがたま》の三種神器《みくさのかむたから》を櫃に入れ担ぎ、橿原宮に運び入れ即位の祭儀祭礼全てを司《つかさど》ったのは我ら大忌部一族である!」
「まさしく然りぃ…………ぃぃ!」
十二人の老役衆が一斉に和した。老役衆は全員が年老いた男衆で、大忌部における秘儀秘祭秘礼の全てを司っている氏子《うじこ》である。今仮に三種《さんしゅ》の神器《じんぎ》を担ぎだす役目があるとすれば、彼ら老役衆が担ぐか彼らの直系子孫となる。
「我ら大忌部は、孝徳帝の御代、忌部首佐賀斯《いんべのおびとさかし》が神官頭《かんづかさのかみ》に拝《め》され、皇族、宮内《みやうち》における礼儀《いやまいごと》、婚姻《とつぎ》、卜筮事《うろごと》を掌叙《つかさど》らしめされし者なり!」
「まさしく然りぃ…………ぃぃ!」
再び十二人の老役衆が和した。
「我ら大忌部は、日の本の根幹を成す国家祭祀を担う唯一の継承されし者ら也。我らを欠いては帝は帝となれず、大嘗祭《だいじょうさい》も行われることあたわず!」
「然りぃ…………ぃぃ!」
まるで木遣《きや》りか囃《はや》し唄のように大頭の言葉に老役衆が呼応する。左京は子供たちの誰よりも早く陰陽師になって活動したが、隼斗や北麿や夢情は後発組だったため、この手の儀式は最初全く分からなかった。
三人は前の陰陽師が、控え小頭となって引退したため、その後を継いで忌部衆の一連の座に加えられた。そこで大広間に初めて通され、忌部の祖を唱える儀礼に出くわした時は、面食らつたものだ。
さらに大頭は祝詞《のりと》のように詞《ことば》をつづけていく。
「神宮は天照大神を神として祀り、阿波は天照大神を守護し奉るため、祭祀と巫女を拝し擁するものなり!」
「御意!」
「さもあらん!」
今度は易衆たちも呼応した。易衆も十二名の男衆で構成され、卜部《うらべ》とも呼ばれる忌部一族の特別な役職衆のことである。易衆は陰陽の術の使い手集団で、様々な奇怪な術で老役衆を助け、さらには皇室の奥儀式をも裏から支えている。
大頭は一通りの言葉を言い終えると、ゆっくり一同の方へ向き直った。
「隼斗!」
向き直るや、すぐに大頭が隼斗に向かって言った。
「はっ」
隼斗は平伏した。
「面を上げて、事情の全てを一同の前で申し述べよ」
「ははっ」
そこで隼斗は顔を上げ、涼と己で行ったことの全てを面々の前で申し述べた。その間、大頭は黙って隼斗の言葉に耳を傾けていた。一同は隼斗の話を全て聞き終えたが、しばらくの間、水を打ったように大広間は静まり返っていた。
「隼斗、他に付け加えて皆の前で弁明することはないか?」
中頭の秋水が聞いた。
「……!」
隼斗は一瞬だが躊躇《ちゅうちょ》した。涼に対する己の気持ちを隠したままだったからだ。
「……ございません」
隼斗は自分の心根を敢えて隠した。そうせねばあらぬ誤解を一同に与えかねないからだ。涼と己は睦《むつ》みの関係で今回の事態を招き寄せたわけでもなく、涼が死に至ったわけでもなかったからである。己への誤解は涼への誤解を生む。そのため、隼斗は己の心中を隠した。
大頭は暫くの間じっと隼斗の目を見ていたが、やがて一言だけ言った。
「まあよい。それは己の心中のことだ……但《ただ》し、それが表に出るようならば、掟《おきて》に基づき容赦はせん」
この時、隼斗は大頭に己の心中を見透かされていることを知った。同時に己と涼との間に睦み事の無いことも、理解してくれたように思えた。
「怨霊師と陰陽師が相睦み合うことは、大忌部では厳しく禁じられ、掟となっておることは皆も十分に分かっておろう」
「御意!」
二人の中頭は頭を下げ同意の意を示した。大頭の言葉で掟に関する事は、古来から中頭が同意の言葉を述べることになっている。これによって一族が掟をそれぞれ確認し合い、長い年月にわたって継承することに役立っているのだ。
「掟を破った者は誰であろうと、厳罰が加えられよう。徳川の御代に出た睦み事を成した二人の者は、その場で捕らえられ即刻|斬首《ざんしゅ》されておる。そしてその遺骸は鮎喰川に捨てられ墓も作られることはなかった」
「御意!」
再び二人の中頭が答えた。
「怨霊を封じる者が一度でも睦み合えば最後、心の迷いと汚れから互いの身を保身する故、怨霊の恰好の餌食とされてしまう」
「御意!」
「そうなれば怨霊によって両者は支配され、あってはならぬ闇の怨霊師と陰陽師となる!」
「然り……っ!」
ここで一同が大きく和した。掟は大忌部全体の存亡に関わるからである。
「で隼斗、吾は大頭としておまえに聞きただす。おまえは涼と瞳んではおらなかったであろうな?」
「はい! それは決してありません」
隼斗は毅然として答えた。事実だったからだ。怨霊師が討たれた場合、最初に疑われるのは陰陽師との睦み事である。そして、隼斗もそのことは、里に着く前から覚悟していた。
「中頭、それに相違ないか?」
大頭は秋水に聞いた。
「はっ! 大頭も既にご存じの通り、隼斗は嘘を言うような男ではございません」
「あい分かった。これにて隼斗への疑念は解けたものとする。以後二度と隼斗へ睦みの疑いの目を向けることを固く禁ずるものとするが良いな」
「御意!」
一同が大頭の言葉に従う意を示した。北麿も左京も大頭の言葉に安堵し、ともに胸をなでおろした。夢情も感情こそ表に出さないが、心中では隼斗の無実を喜んだ。実際、隼斗を失えば陰陽師にとっても非常な痛手となる。隼斗は優秀な陰陽師で、夢情も少しはそれを認めていたからだ。
大頭が潔白を告げたため、これからも隼斗は陰陽師として働くことができる。その時、老役衆の一人の長老格が大頭に向き直って頭を下げた。
「大頭様、よろしゅうございましょうか?」
目が白く濁り、明らかに目の見えない一人の老人が、他の若衆に支えられながらそこに座していた。評議で直接発言が許されているのは、大頭を筆頭とする、中頭、老役衆、易衆の各頭だけである。後は大頭が許した一部の者を除いては一切許されない。
「幻馬《げんば》の発言を許す」
幻馬と呼ばれた老人はもう一度深く頭を下げると、ゆっくりと隼斗の方に向き直った。老人は長く真っ白な眉毛の持ち主である。今ではほとんどが抜け落ちているが、昔はその長い眉は立派だったであろう。
「隼斗、怨霊は間違いなく逃げ去ったのじゃな?」
「はい、一瞬ではありましたが、逃げ去る霊影を見ました」
「それは己の見た幻であって、怨霊は既に涼が討ち果たしたということはないのか?」
隼斗が答えようとしたところ、中頭の秋水が発言を制した。
「幻馬殿、それは俺も目にしたことにて相違はない。怨霊は結界が外れたのを機に逃げ去ったのだ」
あの時、中頭は布巻きの隙間から隼斗と同じ怨霊の影を見たのだ。しばらく一同はざわめいたが、幻馬は再び口を開いた。
「極楽院は遠き鎌倉の頃に置かれた由緒ある寺であり、我ら一族の先祖が境を張ったところと聞く。なのに何故そこに怨霊が入れたのか? 怨霊は寺や神社の境に入れぬのが道理」
「俺は住職が転んだ結果と思っております!」
隼斗が答えた。北麿は心の中で(いいぞ!)と叫んだ。その北麿の様子を舞が見ていて、緑色の瞳で浮き立った北麿をいさめた。北麿は知らず知らずの内に、やや前のめりになった己の体を元に戻し、軽い咳払いを一つした。
「それはおかしい! 一人の住職が転ぼうとて意味はない。寺社には元々悪人が入ることも可能じゃ。ところが怨霊封じだけは、如何なる怨霊とて排除せしむる力がある」
隼斗は押し黙ってしまった。北麿も確かにそうだと思った。自分たちの読みは甘かったのか。再び大広間がざわめいたため、もう一人の中頭が皆を制した。雅兼だった。
「おそらく、そやつは今までの怨霊とは質が違うものだったのだ!」
「それはどういうことじゃ雅兼殿? 我らが祈祷しておる故、怨霊の寺社仏閣への侵入は不可能なはず」
盲目の老人は少し声を荒らげた。
「いよいよ怨霊の本隊が境を破りはじめたということよ!」
雅兼は意味深長なことを口にした。
「……雅兼殿、其方《そのほう》の言う本隊とは何のことじゃ?」
「思うに、闇に住まう怨霊でもさらに深淵《しんえん》の暗黒から現れるものと推察し申す」
「馬鹿な! 寺社に侵入できる怨霊などは聞いたことがない」
老役衆は、幻馬の言葉に互いに頷き合った。
「しかし、現に涼は殺され、隼斗は逃げ去る霊影を目にしておる!」
秋水が言った。
「幻覚やもしれぬ」
「な、何と……それでは涼が一人死にしたとでも言われるか?」
「それとてもあり得ないことではない。怨霊がいると錯覚し、己で己を追い詰めて死に至ったということも起こりうる」
「怨霊師がそのような間違いを犯すとは思われません。ましてや涼は!」
隼斗が言った。
「怨霊師とて人の子、涼も所詮《しょせん》は女じゃ」
いくら老役衆とて、隼斗はその言葉だけは後に引けなかった。
「失礼ですが、私も中頭も松に憑依した怨霊の死骸を見ております」
「確かにそれは認めよう。ただしその松は境内の外れであり、山門の近くにあったと聞く。つまりは境の外れにあったがために弱り果て、そこを涼が討ち果たしたのであろうが」
「そんなに単純に怨霊を討ち果たせたとは思えない」
隼斗が言った。
「貴様は一部始終を見ておったのかぁ!」
北麿は、隼斗の痛いところを突かれたと思い、顔をしかめた。
「しかし涼は、怨霊に取りつかれた住職を本堂の横で討ち果たしていました!」
隼斗は叫ぶように言った。
(いいぞ隼斗、それは寺界の中枢部だ!)
北麿がほくそ笑んだ。しかし、その様子を舞が見ていて、また怖い目を北麿に向けた。北麿は横を向いて咳払いを一つした。
北麿は、舞には頭が上がらない。年は同じなのに、向こうはいつも姉気取りで北麿の仕種を一々注意する。
(どうも女はうるさくてかなわん)
北麿は心の中でつぶやいた。
その時、昔から舞に人の心中を見通す能力があるという噂を思い出し、ゆっくりと舞の方を見た。するとやはり舞は北麿を睨んでいるではないか。やはり噂は本当なのかもしれないと思った。
「境内の外れにあった松に憑依した怨霊は認めるとしても、境が最も強く張られている本堂に怨霊がいたとは到底思えぬ。涼が誤って住職を殺したのではないのか!」
幻馬が叫んだ。
「違う! 住職は間違いなく怨霊に取りつかれていた。それは俺が式神で確かめている以上間違いない。よって憑依する寸前の怨霊を入れて怨霊は三匹いたことに……」
隼斗が全てを言う前に秋水がそれを制した。
「では幻馬殿、貴殿は私も目くらましにかかっていたと言われるか?」
秋水が言った。
「そなたとて人の子、あり得ぬことではない」
この言葉で大広間は騒然となった。大職の者同士がこれほど極端に対立したことは、かつて一度もなかったからだ。その時、大頭が大声で皆を一喝した。
「幻馬よ、おまえの気持ちはよう分かる。寺社仏閣に怨霊を立ち入らせぬ祈祷を行いつづけるのが、おまえたち老役衆の役目であったし、それにより四国は日の本の裏要《うらがなめ》となりえたのじゃ」
幻馬は深く頭を下げた。
「しかし幻馬、二人の者が怨霊の存在を認めた場合、やはり怨霊は現れたのじゃ。それは認めねばならぬぞ」
「……!」
幻馬は頭を下げたが、まだ納得していなかった。
「隼斗、おまえはどう思うか?」
隼斗は急に聞かれて戸惑った。皆の視線が一斉に向けられた時、気を落ち着けるため、ゆっくり大頭の方に目を向けると、まずは大きく一呼吸を入れた。
「怨霊は間違いなく寺におりました。そして寺に張られていた境を逆用し涼を討ったのです。しかし、涼の遺骸には自分の手で自らを殺した痕跡が残されておりました」
「どういうことじゃ?」
大頭が眉を顰《ひそ》めながら聞いた。
「それ見なされ、涼は一人死にしたのじゃ一人死にしたのじゃ!」
幻馬が叫んだが、それを大頭が手で制した。
「涼の両手と両足に鋼芯が貫通した跡が残っていました」
一同が大きくざわめいた。一同の知るかぎり初めてともいえる怨霊師の完全敗北であり、異様な死に方に対しても動揺を隠せなかったのである。
舞と北麿は互いに目を見合わせた。怨霊の不気味な動きに対し、皆は隼斗の言葉に耳を傾ける必要があった。
夢情は眉を少し顰めただけで、心中では何を考えているのか分からない。年上の蘭でさえ時々だが、夢情の正体が実は動く京人形であり、本当は人ではないのかもしれないと思うことがあった。それだけ夢情は何を考えているか分からないところがあったのだ。
しかし、怨霊に対する指示だけは実に的確であり、自分の危機を何度も救ってくれたことも事実である。その意味で、蘭にとっての夢情の存在は、誰よりも必要であり信頼できる陰陽師だった。
左京と麗も涼の事態を深刻に受け取っていた。特に最も年下で怨霊師として後発組の麗は、涼の怨霊師としての凄さに憧れていたし、姉のように慕ってもいた。その涼を自害させたほどの怨霊となると、どれだけの力のある怨霊か想像もできない。もし同じ怨霊に自分が出会った場合、果たして自分に勝機があるのだろうか?
「涼は優れた怨霊師でした。その涼が命を失った責任の大半は俺の油断にあった。しかしながら、あれほどの使い手を葬るのは並大抵の怨霊ではありません。おそらく境を破ったのもその怨霊かと」
「……しかしそれは」
幻馬が口を挟もうとしたが、大頭が再びそれを制した。
「幻馬、二人がそろって嘘をつくはずもないことは、全てを知るおぬしに分からぬはずはなかろう。まして涼は己の異様な死をもって怨霊の存在を証《あかし》しておるのじゃ。我らは祖先の御代から代々この地を治めつづけ、結界をもって日の本を守ってきた大忌部ぞ。怨霊の動きに異変があれば受け入れねばならん」
幻馬は平伏して頭を下げながら大頭の言葉を待った。
「弘法大師の御代に四国で大結界が張られて以来、確かにこういう事態に陥った例はない。しかし怨霊が境に入れたことも確かであり、それは二人の口をもって誰しもが認めねばならぬことであろう」
里の者は皆、涼の腕と素質を子供の頃から見知っていただけに、涼を自害させた怨霊の力を計りかねた。それにしても一人死にという異様な死に方は尋常ではない。
大頭はゆっくりと両目を閉じると、腕を組みながら、さらに一同に向かって言った。
「昨今、日の本の動きの中に魔性の姿が見え隠れすることがある……」
その言葉に驚いた一同は、大頭にその言葉の真意を聞こうと耳をそばだてた。幻馬は嗄《しゃが》れた声で聞いた。
「失礼ながら大頭様、それは国が魔に染まりはじめたため、裏の魔が力を得てきたと仰《おっしゃ》るのでしょうか?」
「中頭どもの言う通りの出来事が日の本に起きはじめておる理由は、それしか考えられぬではないか?」
老人は再び押し黙ってしまった。その時、老役衆たちが何やら気づくことがあったのか、互いにざわめきはじめ、幻馬もそれに気づいて見えぬ目を大頭の方に向けた。
「どうした幻馬、また何か言いたげだが?」
「申し上げまする。大頭様がまだお生まれになる前でしたか、天保《てんぽう》年間に凄まじい大飢饉がございました。その折、大阪天満の与力《よりき》で大塩平八郎と申す男が乱を起こしたのでございます……」
何人かの老役衆は、まだ後ろでザワザワとざわめいている。
「結果的にそれがために、民の幕府に対する信頼を失わせしめる結果となり、倒幕を引き寄せる元となり申したが、その前夜、急に闇から膨大な数の怨霊が溢れ出てまいったことがございました」
隼斗や北麿たち若い者には、その頃の出来事は一切分からないが、闇から怨霊が一斉に溢れ出したとあれば、尋常ではない事態が地上で引き起こされたはずだった。
「ですから大頭様のおっしゃるように、もし世が魔の力を求め心奪われし時には、力ある怨霊が地の底から溢れ出すことが容易となり申す」
大頭は幻馬の言葉に頷いた。
「その事は吾も叔父の聖徹《せいてつ》から聞いておった。よって仮に日の本を支配しつつある明治政府が軍と手を組み、皇位を利用し己の欲するまま振る舞おうと画策しておるとすれば、日の本は道を誤るであろう」
その時、大忌部で最長老の大日女のワイが、付き従う巫女たちに手を引かれながら大広間に入ってきた。
ワイの姿は真っ白な上装束に黄色の袴をつけ白足袋という出で立ちだった。既に御歳九十の坂をとうに越えていたにもかかわらず、未だに頭脳明晰で衰えることはなく、大忌部を裏で支える大老婆だ。
「これはこれは大日女様、今ここで評議を行っております故、後で私めが御報告にまいります」
中頭の雅兼が言った。
「分かっておる、雅兼。しかしこのまま捨てておけば、涼と同じ目に遭《あ》う者が再びこの中から出てこようぞ」
大日女の言葉で、大広間に動揺が走った。なぜなら大日女の言葉は、再び涼と同じ犠牲者が出てくるという予言になるからだ。
ワイは大忌部の陰を司る要、つまり巫女の最首である大日女である。大日女には神憑って世の未然を前もって知る力が備わっていた。大忌部で大日女の言葉を信じぬ者は誰一人いない。ワイの言葉一つで一同の者が静まり返ったのもそのためだ。
涼の時も大日女が不幸を先見し、秋水を向かわせたが、あと一歩のところで間に合わなかったのである。
「涼と同じ者とは、四天女の怨霊師のことでありましょうや、それとも四天王の陰陽師のことでありましょうや?」
易衆の中で最長老の者が聞いた。この者の名を神道《かみみち》と言った。易衆とは大日女の元で亀卜《かめうら》と御祓いをする審神者衆《さにわしゅう》のことで、時に大日女が神憑るための楽器を奏でる侍座社《じざしゃ》や琴師とも呼ばれた。昔は忌部と同じ氏族で亀卜を行う卜部の末裔たちである。
大昔から彼らは、大日女に憑依した神が正しい神か否かを見極める役目を担いつづけてきた。大日女は天照大神からの託宣を受けるため、大忌部の斎宮《さいぐう》に籠もる日々を送りつづけている大巫女なのである。その大日女が未然を語った以上、大忌部の誰もがその言葉を無視することができなくなった。
「大頭の言う通り、今や地上に魔の力を呼び求める声が日増しに強まりつつある。よってそれと呼応するように、闇の力が一気に強まりつつあるぞえ」
大日女が座につくため巫女が手を引いてきたため、二人の中頭はそれぞれ左右に座を開け大日女を大頭の左横に座させた。
「大日女様、ではこのままでは怨霊を封じることができませぬのか?」
神道が聞いた。
「其方たちの占術でも異変の兆候が現れておろうが」
「確かに現れております! もうすぐ民は箒星《ほうきぼし》が天空に現れるによって騒ぐことになりまするが、この星は遁甲方術《とんこうほうじゅつ》と卜筮《ぼくぜい》の天地相関からも凶相を持つ不吉な前兆を表し申し、月日五惑星の七曜からの動きを乱すことが宿曜道《すくようどう》からも明白になっております」
「天空の常道が外れることは五行と森羅万象からも異常であり、五行五色《ごぎょうごしき》の一角が乱れることを意味しておる」
「然り!」
易衆たちが和した後、神道が申し添えた。
「これなる箒星なる凶星は、翌年五月に姿を現しまするが、東の空から尾を引く姿を現し申す」
「つまりは涼が討たれ手薄となった東の空から現れるのじゃな?」
「然り!」
そう聞くと大日女は話をさらにつづけた。
「五色とは陰陽五行の天星、木火土金水のこと。北東の青房、南東の赤房、南西の白房、北西の黒房を示し、中央の黄房を加えた五体の人形《ひとがた》で償物を示し申すことじゃ」
「御意。つまりは東の青龍《せいりゅう》、南の朱雀《しゅじゃく》、西の白虎《びゃっこ》、北の玄武《げんぶ》の四禽を配し、中枢の黄龍《こうりゅう》を加えた五神で人の五常、人体の五臓を示し候《そうろう》」
大日女の言葉に神道が答えた。
「さすれば唐で陰陽道を極め、日の本の密教の祖となられた弘法大師の頃より、北東の讚岐を青龍に、南東の阿波を朱雀に、南西の土佐を白虎に、北西の伊予を玄武に定め、四天女と四天王の陰陽を配し、剣山の麓の大忌部を中核とし、大日女と大頭の陰陽を配して雌留化場《メルカバ》を配置せしめてきたのではないか」
「然り……しかし、それを変貌させるは大師の意思に反することのみならず、聖徳太子の意思に背《そむ》き奉ることになるやもしれませぬ」
大頭は両者の言葉のやり取りを黙して聞いていた。大日女はつづけた。
「今や大師が裏予言に書き残された末法《まっぽう》が増殖する時に至ったため、これまでの四天女と四天王を一本に束ねねばならなくなったのじゃ。そうせねば地は溢れ出た怨霊のため、八つ裂きにされようぞ。それを打破するにはこれまでつづけていたやり方を改めねばならん」
大日女は座の左右を占める怨霊師と陰陽師たちを交互に見ながら呟いた。
「それは一体どういう意味でしょうや?」
今度は老役衆の幻馬が聞いた。
「これから先、日の本の支配は帝ではなく、台頭してくる軍部によって取って代わられる危険性がある……彼らは内にオドロオドロしい魔の根を芽生えさせ、怨霊の力を操って亜細亜を、さらに八方界を制覇しようと画策しておるのが見えるからじゃ」
「すると、人の魔が怨霊を無数に地上へ呼び寄せてくると言われるか?」
幻馬が言った。
「そうじゃ。さすれば怨霊どもが人間界と呼応し、凄まじい力を得て一気に葦原国《あしはらのくに》に溢れ出すであろう」
大広間は大日女の未然語りで一気に静まり返った。
「されば、もはや今までのように、四天女と四天王が別々に雌留化場《メルカバ》を四方に分けて守護するようでは太刀打ちできぬ。到底制しきれぬ怨霊や怨霊の群れが、一挙に溢れ出てくるのが見えておるからじゃ」
北麿は生唾を飲んだ。これまでも怨霊との戦いは、いつも紙一重のところで倒せてこれたに過ぎない。その怨霊が数を増し力まで加えてくるとなると、北麿たちにすれば大変なことを意味する。
「それがためこれから先、涼のように怨霊に討たれる者が出てくると言われるか?」
神道が聞いた。
「そうじゃ、今のままならな……」
「然らば、どうなさるおつもりか?」
「よって四方の境を無くし、四天女と四天王たちとを合して怨霊と対峙できるように成す!」
「な、何と、今まで四国を四方に分け怨霊封じを成してきた彼らを、一つに合するとおっしゃるか?」
「さよう! そうせねばこれから先、怨霊に討たれる者が続出しよう」
「しかし我らは聖徳太子の命で、四国を日の本における本土四方の要とし、雌留化場《メルカバ》としてそれぞれに四天女と四天王を陰陽で配置してまいりました」
「その枠にこだわらぬ時期が来たということじゃ!」
神道が愕然とする中、大日女は話をつづけた。
「確かに今までは怨霊封じに、北東の讚岐を涼と隼斗に、南東の阿波を舞と北麿に、南西の土佐を麗と左京に、北西の伊予を蘭と夢情にまかせてきた。しかし涼の死によって、既に四方の一角が崩壊しておる」
「すると霊場八十八寺における枠を無くすとおっしゃるか?」
今度は老役衆の幻馬が聞いた。
「八十八寺は其方らの祈祷によって大結界を守護し奉ればよいことじゃ。私は四天女と四天王の枠を外し、怨霊封じに当たらせることを言っておる」
「それとても四国の境を無くしてしまうのと同じ。古来からの雌留化場《メルカバ》が崩れるため到底同意しかねます」
古来より霊場を守護してきた老役衆として、幻馬は抵抗したが、大日女は全く動じない。
「何のために四天女と四天王の着衣に、讚岐が涅槃《ねはん》、阿波が発心《ほっしん》、土佐が修行、伊予が菩提《ぼだい》の各文字が印され、記紀神話における讚岐国、阿波国、土佐国、伊予国の縁を暗示しおるのか分かるかえ?」
「確かに我ら易衆と老役衆の者どもは、陰陽と裏密教に属する者として、遠き聖徳太子の遺言に基づき四国に配された後、大師を生み育て唐に送り出し申した。それとても県《あがた》を四面に分けよという聖徳太子の未然があったからこその結果」
さらに幻馬はつづけた。
「さればこそ、讚岐二十三霊場、阿波二十三霊場、土佐十六霊場、伊予二十六霊場を四国に配し、他百八寺社を以て準霊場とし申した」
「そんなことは重々分かっておる」
「ならばどうして大結界を敷き、これまで雌留化場《メルカバ》を守ってまいった我らの職務をお分かりいただけませぬのか。四天女や四天王も霊場を守護し大結界の四隅に配置される重要な要でございまするぞ。大日女様の意は真に太子と大師の意に沿えましょうや」
「大師が残された裏予言を見よや……そこの百四十二段に何と書いてある?」
大日女の言葉を受け、易衆がそれぞれ語り合った。
「そこは……雌留化場《メルカバ》の段?」
「そうじゃ。聖徳太子も弘法大師もこの日が来ることを既に御存知であった」
「……と申されますと?」
「雌留化場《メルカバ》とは獅子、鷲、牛、人の四面の天磐舟《あまのいわぶね》のことじゃ」
「然り」
「その言葉の意味が何であるかを申してみよ」
「雌は字の如く女を示し、留とは留め置くこと、化は変化を示し、場は地を示し申す」
「ならば我の言葉は、大師と何ら変わらぬではないか。それまで四方にちりばめていた巫女を一つ所に留め置くことを変じさせよという大師の裏予言が読み取れぬのかえ?」
「……!!」
幻馬は言った。
「確かに予言の主旨は分かり申した。さりながら、雌留化場《メルカバ》とは何度も申し上げるように、地の四方を区分けする意味がございまする。さらに申せば、怨霊は一か所から出てくるとは限らず、二手、三手いや四手から同時に出てきた場合は如何《いかが》なさいまするか?」
大広間が静まり返った。
左京も確かにそう思った。怨霊はこちらの都合に合わせてくれる相手ではない。これまでもそうだが、怨霊は必ず怨霊師と陰陽師の裏をかこうとしてくる。ふと斜めを見れば左京の父である右京《うきょう》が、今はそれほどでもなくなった大柄な体をもてあますかのように座しているのが見えた。右京の額には怨霊につけられた深い横一文字の傷があるが、その傷が評議でさらに深くなったように見える。
左京は大忌部の小頭の家で長男として生まれたが、陰陽五行の占術により陰陽師として召され、幼き頃から中頭に引き取られたのだ。そのため左京は両親の顔も知らずに育てられたのである。しかし、いつからというわけではなく、自分の親が誰なのか村衆の噂などから分かってきたのである。
それからの左京は、時々、親の家の周りをうろつくようになった。そして徐々に開き戸から中を覗くようになっていったのである。ある日、開き戸から中を見た左京は、一人のうりざね顔の女が赤ん坊に乳をやりながら、幼い少女と話している光景が目に入った。
その女が自分の母親ということはすぐに分かった。母が相手をしている少女は自分より二歳か三歳下ぐらいだろうか、本来なら自分と一緒に遊んだり、可愛がっていたはずの妹だった。母が小声で唄を歌いながら幸せそうに微笑むと、妹はコロコロと可愛く笑った。その妹の横顔が何とも幸せそうで、幼い左京の心は深く傷つき、千々《ちぢ》に乱れた。
左京は母恋しさのため涙が溢れて止まらなくなった。その日はそのまま中頭の屋敷に泣きながら走り戻ったが、母恋しさの念は積もるばかりで、消えることはなかったのである。
そんなある日、左京はついに我慢できずに親元に舞い戻った。
「かあさま!」
母はツネと言った。ツネは、急に飛び込んできた子供に、しばらく呆気に取られたような顔をした。
「俺だ、左京だよ!」
「……!」
ツネはしばらくの間しげしげと左京の顔に見入っていた。急にツネの両目から涙が溢れると、左京に自分の両腕を差し出した。左京は差し出された母の腕の中へ飛び込むと思いっきり泣いた。ツネも五年ぶりに戻ってきた幼い息子が不憫《ふびん》で、我が子の小さな体を思わず強く抱きしめたのだった。
左京は初めて母の匂いをかいだ。そして母の温かい体温が、自分の胸や顔や腕を通して伝わってくるのを感じた。その傍《かたわ》らには、幼い妹がポカンとした顔で突っ立っていた。
その時、父の右京が戻ってきたのである。今の左京と似て、右京は非常に立派な体格の男だった。右京は小頭であり、その前は陰陽師として怨霊を封じとっていた男だ。右京はツネの抱く子が左京と知ると、まだ幼かった左京を殴り飛ばし、そのまま引きずって中頭の屋敷へと連れ戻したのである。左京は腫《は》れ上がった顔から覗く目で、ツネが泣きながら家の外に飛び出してくるのを見た。そして左京の名を呼びつづける声を聞いた。
その夜、左京は中頭からこっぴどく叩かれ、松の木に三日も吊るされることになる。
それ以後、左京は二度と自分の家に戻ることはなかった。いや、初めて陰陽師として旅立つ前、秋水とともに再びあの家を訪れたことがあった。
その時、母親のツネは勿論《もちろん》、右京までもが涙を流しているのを見て、左京は少し意外な気がした。あの時に見た妹のヨネは、もう一人の妹のタエの手を握りながら左京を見送ってくれた。そして母親の胸にはその年に生まれた赤ん坊が抱かれていた。
「男の子ですか?」
左京の言葉にツネが頷いた。
「名は何といいます?」
左京が聞くとツネは涙で嗚咽したため、代わって右京が答えた。
「左京と言い申す」
この時、左京は両親が自分のことを忘れぬため、男の子に自分の名をつけたことを知った。それは同時に自分を大忌部に渡した子として踏ん切りをつけ、新しい我が子に同じ名をつけたとも言える。その後、左京は両親に深々と頭を下げ、左京にとっての最初の怨霊師となる白美《ひみ》とともに、初めての怨霊狩りへと赴いていったのである。
その父親の右京が、大広間で左京の斜め横の小頭筆頭の席に座している。一時のような筋肉隆々の体ではなくなったが、他を圧する大きな体は小頭衆の中でも相当に目立っていた。
「四国は日の本の要として置かれた聖域であり、聖徳太子が島全体を忌部の社とされたのじゃ。つまり本当の社殿は設けず、剣山を神の社《もり》とする島自体を聖域とされた」
さらに大日女は続けた。
「弘法大師はその意思を引き継ぎ、島全体を大結界である磐座《いわくら》で配置せしめ、密教寺を磐境《いわさか》として霊威とされ申したのじゃ」
「御意!」
易衆と老役衆が和した。
「よいか皆の衆、我は一言も雌留化場《メルカバ》を一つに束ねるとは申しておらぬぞ。ましてそのようなことは弘法大師も申されてはおらぬ」
「で、では大日女様のご本意とは?」
幻馬の言葉に、易衆と老役衆が身を乗り出した。
「弘法大師の裏予言の如く、四天女と四天王一人一人を雌留化場《メルカバ》と成すのじゃ」
「と申されますと?」
「一人一人が地の一方のみに支配されず、時には四方にも動けることにするということじゃ。つまり怨霊もし現れし時、その県の怨霊師と陰陽師が事に当たるのは従来通りじゃが、怨霊の力が余りにも強く、かつ数多き場合、中頭の判断にて他の怨霊師と陰陽師をそこに向かわせ増強するということじゃ!」
「しかし、それでは他の県が手薄となり申す」
幻馬が言った。
「だからこそ残った怨霊師と陰陽師が、手薄となる地を補えばよいのじゃよ」
座はざわめいた。簡単なようでも古来から続いてきた掟を変えることになるため、受け入れる時間が一同には必要だったのだ。
「よいか、ここ隠れ里は何処にある。阿波の山奥にあろうが。仮にここが怨霊に襲われし時、阿波が舞と北麿の管轄ゆえに、他の怨霊師と陰陽師はその場にいても怨霊と戦わぬのかえ?」
「そ、それはまた別の話かと!」
幻馬はあわてて言った。
「同じことじゃ。雌留化場《メルカバ》とは狭い地に縛られることにあらず。天地四方全てを支配することにあらざるや?」
一同は静まり返った。確かに大日女の言う通りだったからだ。
「神道。我の神憑りは誤っておるか?」
「と、とんでもございませぬ、誤ってはおりませぬ」
「雌留化場《メルカバ》とは動くものじゃ……」
「はっ?」
幻馬はワイの言葉が解せず戸惑った。
「弘法大師の裏予言にはこうある。雌留化場《メルカバ》の一方はそれぞれでも四方を示す四つの顔を成し、四方向のいずれにも行き渡ると………」
「では……?」
「そうじゃ! もはや四天女と四天王全体で雌留化《メルカ》場を成す以上、四国の何処にも赴くことができようぞ。これによって小さきも雌留化場《メルカバ》であり大きくも雌留化場《メルカバ》となる体制が出来上がるのじゃ。ただし混乱を無くすため、最初の決まり地をそれぞれの管轄と成す」
「御意!」
易衆と老役衆が声を上げた。
その後、皆の目は一斉に大頭に向けられた。昔から大日女の霊言と未然は外れたことはなかった。大頭は一同を見回し、ゆっくりと口を開いた。
「異存はないな! これまでの事は皆それぞれの職にて進言したものと心得るにより、以後の全ては大日女の申す通りとする!」
暫くの沈黙の後、中頭が平伏して声を上げた。
「然り!!」
その後、一同がそれに従い、和した。これで今後、誰であろうと評議での決め事に異存を唱えることは許されなくなる。
この大忌部の掟により、古来から今まで連綿と隠れ里が維持されてきたのである。
「中頭、それで涼の後《うしろ》は何とする?」
大頭が問いただした。
「はっ! 既に代わりの者を一人用意してございます」
隼斗は驚いた。まさかそんなに早く涼の代わりを見つけてくるとは思わなかったからだ。それに代わりといっても、涼ほどの腕を持つ巫女が、そうたやすく出てくるとも思えない。
今も連綿と修行する子供たちや若衆の姿はあるが、四天女と四天王との相性は、同じ陰陽五行を踏む位置で選ばねばならぬため、そう簡単に見つけられるとは思えない。
「その巫女をここへ呼べ。皆の前で面通しする!」
大頭が命じた。大柄な体から出る大頭の声は独特の重さがあり、何者をも屈伏させる器が備わっているかのようである。
「はっ!」
そう言うと秋水は、小頭筆頭の右京に目で合図をした。右京は小頭衆を束ねる長の立場である。その穏やかな性格と責任感の強さから、将来の中頭と目されていた。右京は深々と大頭に頭を下げると、大柄な体を起こして下座に向かって足早に歩いていった。左京はその父の姿を目で追った。
右京は大広間の奥にある大襖の前まで来ると、そこに座した。そして一呼吸を置くと、ゆっくりと襖に手をかけ、両開きに重々しく開けたのである。するとそこには白装束の一人の巫女が平伏して控えていた。
顔には、角隠しのような袋状の白布が被せられ、誰とも分からないが、体つきは何となく涼と似ている。
「大広間に入ることを許す」
右京が言うと純白の布を被った巫女は他の巫女たちに手を引かれて立ち上がり、ゆっくりと大広間の中に入った。そしてそのまま進み、隼斗の左隣に座したのである。
隼斗は新たな怨霊師を得ても、その巫女と馴染めるかどうかの自信は全く無かった。涼とは子供の頃から荒修行に耐え抜き、一緒に同じ釜の飯を食った仲という経緯があった。それに何より特別な言葉など無くても、両者の意を伝え合うことができたのである。隼斗は新たな巫女を前にし、心中必ずしも穏やかではなかった。
今の隼斗は、涼の面影がまだ心に深く残っているため、代わりの怨霊師を充《あ》てがわれても、涼と組んだ時のように一心同体で怨霊に立ち向かえるとは思えなかった。しかし、評議での決め事には絶対服従が掟である。よって隼斗により好みは許されない。
「名は?」
大頭が聞いた。
「彩《あや》と申します」
右京は彩の面を隠している白布を外すよう巫女たちに促した。巫女たちは彩の顔から覆っている頭巾を外した。
「おおおおおおおうぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
一同は一斉に驚嘆の声を上げた。この時、最も驚いたのは横にいる隼斗だった。そこには何と死んだはずの涼が生き返った姿で座していたからである!
「涼!?」
大広間は驚きの声とざわめきで溢れ返った。
「皆のもの静粛にせい。ここを何処だと思っておるか。評議の場ぞ!」
中頭の秋水が場を一喝した。
「右京、まずは事の次第を皆に説明せい」
引きつづいて秋水が言った。
「はっ!」
右京は大頭に一礼した後、皆の方に向き直った。
「この者の名は彩! 亡くなった涼の双子の妹だ」
再び皆は驚きの声を漏らした。
「涼には妹がおったのか……」
そんな話など誰も聞いていなかったからだ。そこに座している巫女は誰がどう見ても涼そのもの、あるいは生き写しとしか思えなかったからだ。たとえ双子とはいえ、ここまで瓜二つに似ていると、一同は不可思議さを超えるものを感じざるをえなかった。
右京は話をつづけた。
「涼自身も己に双子の妹がおったことは最期まで知らなんだ。なぜなら涼が生まれた時、双子の妹の方は陰陰併殺を避けるため、中頭の命令で吾が裏忌部の元に連れていったからだ」
「裏忌部……!!」
北麿は裏忌部と聞いて、子供の頃、宮司の叔父から聞いた話を思い出した。北麿は四天王の内で最も由緒正しい安倍家の出であった。そこの叔父の八幡《はちまん》は京都の晴明系神道の神主だったが、ある日北麿にこういう話を聞かせた。
〔忌部にも陰と陽があってな、ともにこの国を裏から支えてきた同族じゃ。陽を忌部の胸とすれば陰は裏忌部で背に当たり、両者一対の合わせ鏡となって古来より存続してきた。裏忌部は忍衆《しのびしゅう》とも言うてな、昔から暗殺と呪殺、そして隠密として様々に歴史の裏で暗躍してきた〕
北麿は父である牛頭《ごず》の意思で、幼い時に大忌部に連れてこられ、生まれながらに決められた使命を果たすようにと命じられて、四天王の一角になった。
北麿は大忌部でもほとんど語られることのない裏忌部に不気味なものを感じていた。大忌部も歴史の表舞台には決して出ず、裏で日の本を動かしてきた密教集団である。にもかかわらず、まだその裏が存在するとなれば、日の本の神道構造の複雑さと底が見えぬ不気味さから、恐怖すら感じてしまうのだ。
「皆の衆も表立っては語り合わぬだろうが、裏忌部にも我らと同じ忌部の血が流れておる。ともに古来より朝廷に仕えつつも、一方では武士にも仕えながら日の本を大局的に動かしてきた影の集団だ」
右京が話す間、隼斗は涼の生き写しとも思える彩に対し、言いようもない恐れを抱きはじめた。あまりにも涼に似過ぎているのだ。いや涼そのものと言ってもいいだろう。
(ひょっとしてこの者は、姉を死に至らしめた己を許さぬのではないのか。いや涼の魂が乗り移った姿が彩で、地上に蘇ってきたのではないか)
そういう馬鹿げた妄想までが隼斗を襲いつつあったのだ。それほど彩は涼の生き写しだったのである。彩は隼斗の視線を時々感じているようなのに、それには全く動じる気配がなかった。右京はさらに話をつづけた。
「裏忌部の長は、中頭の命を伝えると、彩を引き取ることを快く受諾してくれた。後に裏衆たちに、涼に鋼芯の道を歩ませることを伝えると、彩の中にも姉と同じ才を見抜き、鋼芯の技を幼き頃より教え込んだのだ。よってこの者は、未だ実戦は積んでおらんが、鋼芯の腕が姉に劣らぬことだけは、この両目で確かめておる」
「はてはてこうして四天女再び揃い来たりしは、天の配剤と申してもよかろう」
そう言うと大日女はクスクスと笑った。
この時、隼斗は涼を埋葬した時、中頭が何を考えていたかを理解した。
左京も、中頭が父に命じて、こういう時のために涼の妹を裏忌部に預けていたのではないかと思った。確かに陰陽五行からすれば、同じ時刻に生まれた双子ほど後継者に相応《ふさわ》しい者はないからだ。
小頭筆頭だった右京は、昔から中頭の秋水の右腕となって小まめに働き、怨霊師や陰陽師となる子供たちを捜し出し、中頭の元に連れてきては厳しい習練をさせる役目を担っていた。
皮肉なことに、その右京自身の子に白羽の矢が当たろうとは、全く考えてはいなかったはずなのだ。あるいは、それが今まで多くの夫婦の子を奪った報いともいえ、自分のところに鉢が回ってきたのも因果応報なのかもしれない。
左京が右京を父として話したのは、幼い時に家に戻ったところを連れ戻された道のりの間だけだった。
〔父ちゃん痛いよ、そんなに強く腕を引っ張らないでくれ〕
〔…………〕
〔やめてくれよ。あんた俺の父ちゃんなんだろう!〕
そう言われて右京はこう左京に言い返した。
〔いいか左京、おまえはもう俺たち夫婦の子ではないんだ。神様に捧げた子供なんだよ。だから二度と俺のことを父ちゃんと呼ぶんじゃねえ!〕
結局、左京はその日を境に、右京を父親と思うより小頭として接してきた。大頭の屋敷で右京と会っても、里の道ですれ違っても、それはあくまでも小頭筆頭の右京であって、父の右京ではなかったのである。
裏忌部の住む地が四国山中であること以外、その場所を知る者は大頭と中頭、そして小頭筆頭と大日女以外に誰もいなかった。
未だに北麿も隼斗も裏忌部の忍衆と遭遇したことはなかったし、それは大忌部に住むほとんどの者も同じだったのである。
「中頭に聞く。彩の腕は確かであろうな?」
大頭の声に秋水は頷いた。
「はっ! 腕は姉の涼に勝るとも劣らぬかと」
「よし、おまえがそれほどまでに言うなら彩を涼の後継者として認めよう! 以後は四天女の一角として涼の青袴の着衣を許す!」
大頭の裁断により、この時をもって彩は姉の後継者となった。彩は深く頭を下げたが、隼斗の方には一切見向かなかった。それが大忌部における顔合わせの仕来《しきた》りとはいえ、隼斗には特別な意味に思えてしまうのである。
舞は彩を見て思った。
(この子は姉と同じ気と力を持っている……おそらくこの者の才は、姉と同じく生まれながらの天分に違いない!)
右京は四天女と四天王を別座敷に呼び入れると、そこであらためて彩を皆と引き合わせた。そこには秋水と大日女のワイも同席した。
開口一番、秋水が厳しい口調で言った。
「加えて申しおくが、彩は今まで裏忌部衆に育てられてきた。しかしながら裏忌部について秘にすることを条件に連れ戻した故、彩に裏忌部の事情を聞くことは固く禁ずる。それは隼斗とて同じだ。よいな」
「同意!」
皆が答えた。
「あらためて皆に引き合わす。彩だ」
右京が言った。
「彩、皆の前で挨拶しろ」
右京が促《うなが》すと彩は皆に一礼し、背筋を凜《りん》と張った。そしてまず隼斗に向かって頭を下げて挨拶した。
「隼斗様、私は姉の存在については最近まで一切存じませんでした。姉の最期の様子は中頭からお聞き致しましたが、姉の後を継承する限り、姉に負けず役目を果たす所存でございます」
「ああ……こちらこそよろしく」
隼斗はあせった。己の心中を彩に悟られないようにするのに精一杯だったからだ。しかし、彩の様子を見る限り、考え過ぎかもしれないと思いはじめた。彩はさらに左京たちに向き直った。
「左京様、北麿様、夢情様も、以後よろしくお願い申し上げます」
こうして彩は四天王の全員に挨拶した。それから四天女に向かい、深々とお辞儀をしてから挨拶をした。
「舞様、蘭様、麗様、彩は姉の涼に代わって四天女の一角を占めさせていただきますが、今後ともよろしくお願い申し上げます」
こうして彩の挨拶は終わった。大日女がしわだらけの口を開いて言った。
「彩が加わったことで四天女が再び揃った。讚岐の青龍が彩と隼斗、阿波の朱雀が舞と北麿、土佐の白虎が麗と左京、伊予の玄武が蘭と夢情ということじゃ」
そう言うと巫女の一人に命じ、彩の穿《は》く真っ青な巫女袴を持ってこさせた。
「おまえの姉が身につけていたのと同じ色の青袴じゃ」
「有り難き幸せ」
そう言うと彩は巫女の用意した衝立《ついたて》の陰に入り、新しい青袴を身につけた。しばらくして衝立から出てきた彩を見た一同は、あらためてそこに蘇った涼の姿を見た。舞も思った。もし涼と彩が入れ代わったとしたら、見かけでは自分も騙《だま》されるだろうと。それほどに姉妹は酷似《こくじ》していたのである。
「どれ、我に巫女が揃ったところを見せておくれ」
大日女の言葉に舞たちも立ち上がり、彩の横へ一列に並んだ。
「おおぅ! まさにそれぞれの袴が四神そのものの色で、何とも頼もしいことよのぅ」
大日女の目は白く濁り、実際は全く見えなかった。しかし、心眼は並外れていた。
いつだったか舞が大日女の社殿に通された時、ワイは社殿の柱に留まっていた雀蜂《すずめばち》を見通し、巫女に追い出させたことがあった。また巫女に運ばせた不思議な文字の書かれた巻物を紐解《ひもと》き、指で押さえながら舞に読み聞かせたこともあった。その時、舞は大日女の目が実は見えるのではないかと本気で思ったものだった。
新たな青袴の青龍は彩、赤袴の朱雀は舞、白袴の白虎は麗、黒袴の玄武は蘭を示唆していた。それを見ていた秋水が言った。
「そういう大日女様も黄袴で中央の黄龍じゃて、これがまた大忌部では最も恐ろしいのよ」
「これこれ、我ほど優しいお婆《ばば》がおろうかえ。大忌部で最も恐ろしい御方は大頭様をおいて他にはないぞ」
「おっとそうじゃったわ。しかし大頭は別格じゃ別格じゃ」
秋水がそう言うと、右京やお付きの巫女まで含めて皆が大声で笑った。
「いや、実際に大頭ほど恐ろしい御方はおらぬて。あの御方はどこまで陰陽を極めたか分からぬほど底知れぬものがある御仁じゃ。何事をも全て見透かしておられるような……このお婆でさえも時に大頭が恐ろしゅうなることがあるでな」
「確かに大頭ほど陰陽の道における才と力の深みを知り抜いた御方はおらぬ。それに若き頃の剣の才は人並みはずれたものがあったと聞く」
秋水はつくづくそう思うのだった。
「舞、おまえはその大頭の一人娘だけに、大頭の持つ不可思議な資質が生まれながらに備わっておるわ」
大日女は微笑んだ。彩だけは、舞が大頭の娘とは知らなかったため、舞の顔をまじまじと見つめた。
「そんなに穴があくほど見つめるものじゃないわ」
舞は恥ずかしそうに言った。舞も幼い時から大頭の元から引き離され、他の子供同様に秋水のところに預けられたため、父親としての大頭を知らなかった。
しかし、同じ怨霊師の仲間がいる。陰陽師や多くの村衆が舞の両親でもあった。舞には父親譲りの剣の才があり、母親譲りの抜けるような美貌があった。この世にない妖艶な美しさでもあるため、時にそれは人々を驚嘆させ、あるいは感嘆させた。
「いえ、舞さんは大頭様とは似ていませんわ。きっとお母上に似たんですね」
彩の言葉に右京の顔がこわばった。
「これっ、おまえはすぐに調子に乗るのが悪い癖と言っておいたろうが」
彩は慌てて頭を下げた。
舞は自分の母親の顔を見た記憶がない。舞の母親は、舞を生んだ直後に世を去ったという以外、何一つ知らなかった。大頭は妻の死を深く悲しみ、成長とともに母親と似てくる舞を見るに耐えず、自分のそばに置くことを許さなかったとされる。
舞はたとえ陰陽五行で選ばれなくとも、父のそばから離されていたのである。
「で、彩、其方は怨霊についての見識はあるの?」
四天女の姉的存在の蘭が大きな体を揺すりながら聞いた。
「いいえ!」
「えっ……?」
蘭がもう一度聞く。
「怨霊のことは全く分かりません!」
その瞬間、皆が呆然となった。
「いいえとは一体どういう意味なの?」
蘭があらためて彩に聞いた。
「私は裏忌部において、忍として様々な殺、術、技、兵、薬などを学んでまいりました。ですから人を相手では引けはとりませんが、怨霊相手となるとサッパリ分かりません」
周りは皆、唖然として互いに顔を見合わせた。
「くくくく……」
大日女は体を震わせて、笑いをこらえている。右京が言った。
「おまえたちは彩の力をまだ知らぬ。この者は姉の涼と同じ才を生まれながらに持っておる。それ故、彩を取り戻すのは一苦労であったのだ」
急に夢情が立ち上がり、座を離れようとしたので、左京が止めた。
「夢情、まだ終わってはおらんぞ」
左京が窘《たしな》めると、夢情は横目で彩を見て、こう言い捨てた。
「中頭や小頭には悪いけれど、陰陽の術と霊感はそうたやすく身につくものではないと存ずる。まして結界を張る才に近道はなく、力の備わらない者には永遠に不可能なこと!」
北麿も夢情と同じ考えだった。陰陽全ての術を習得し、怨霊に対する才を研ぎ澄ますには、幼少からの血反吐《ちへど》を吐く努力と生まれ持った天分が不可欠なのだ。
夢情は、襖を開けて大廊下に出ようとした。その時、大廊下に出たはずの夢情の目に飛び込んできたのは、皆の座す座敷だった!
確かに大廊下に出たはずが、何故前と同じ座敷に戻ったのか……。
「……結界!」
「分かったか、夢情。この座敷は既に彩によって結界が張られておる。おまえほどの者でも彩の結界が読めなんだか?」
中頭の言葉に夢情は愕然《がくぜん》となった。陰陽道の天才とまで言わしめた夢情に、結界が察知できなかったとは。それほど見事に結界が張られていたのである。夢情は印を切って彩の結界を解き放ったが、その顔は明らかに色無く見えた。釈然としない顔で立ち尽くす夢情に、声をかけたのは隼斗だった。
「夢情、俺も涼を失った直後のため、彩を俄《にわか》に受け入れる気持ちになれなかった。しかし、この者は涼を超える逸材《いつざい》かもしれん」
夢情は黙ってしばらくその場に立っていたが、次の瞬間、夢情の手から彩目掛けて扇子が投げつけられたのである。しかし彩は、夢情の扇子を人差し指と中指に挟んで眼前で受け止めた。
彩の指に挟まれた扇子は、そのまま半転させられて彩の手に納まった。その後、彩はゆっくりと夢情の側に歩み寄り、頭を下げて扇子を差し出した。夢情は扇子を受け取り、それを懐に入れた後、隼斗に向かってこう言った。
「私はおまえが彩を受け入れるなら異存はない。しかし、この者は一つだけ涼と違うところがある。こやつは左利《ひだりき》きよ!」
そう言うと夢情は、座敷を後にした。その後、彩はしばらくの間、自分の左手を眺めつづけていた。
「ほほほほ……あの子らしい認め方じゃて」
大日女が苦笑しながら言った。隼斗はこうして何とか皆とともに彩を受け入れることができた。彩は明るく快活な娘だった。その明朗さが隼斗の傷を少しでも早く癒してくれるかもしれない。そんな気持ちを皆に抱かせる娘であった。
大日女は座敷を出る前に舞に命じた。
「舞、彩に怨霊についての知識を伝えておあげ。我がおまえにしたようにの」
舞は微笑むと、小さく頷《うなず》いた。
「おまえの笑顔はいつも素晴らしいよ」
そう言うと大日女は、見えないはずの目を細めるように笑った。舞は幼い頃から大日女に呼ばれて社殿に赴くことが多く、そこで様々な話を聞かされた。他の四天女たちも同様に、様々な教えを大日女から受けたが、舞は特に大日女に呼ばれることが多かったようだ。
大日女が拝殿に向かった後、舞は彩を四天女屋敷へと連れていった。四天女の屋敷は大頭の屋敷に向かって左斜め前にあり、右斜め前の四天王の屋敷と対称の位置にあった。それはちょうど阿吽《あうん》の狛犬の配置と同じで、大頭の屋敷に向かって左が陰で四天女の屋敷、右が陽で四天王の屋敷になっている。一方、大忌部の拝殿は大頭屋敷の真裏にあり、方向的には北斗《ほくと》信仰で真北に当たった。
四天女たちが大忌部の里に戻った時は、四天女の屋敷が寝泊まりの場となる。彼女たちは怨霊師に召された時からずっとそこで暮らしている。歴代の四天女たちが昔からそこをねぐらとしてきた。つまり、大日女も怨霊師の頃は四天女の屋敷に住んでいたのである。四天女の屋敷には老婆衆がいて、四天女たちの身の回りの世話をするが、四天王の屋敷でも同様に老婆衆が四天王の世話をした。四天女の屋敷と四天王の屋敷は、ともに真上から眺めると、東西南北の四方区切りで各座敷が配置され、その周囲を回廊が結ぶ構造をしている。
二つの屋敷はどちらも古い。老婆衆の話では鎌倉時代から朽《く》ち果てずに残されてきたという。屋敷の造りは頑丈だが質素で、どの座敷も北向きの床の間があった。そこにはそれぞれ別の文字を書いた掛け軸があり、彩のところには槃≠フ一文字が達筆な筆捌《ふでさば》さで書かれていた。彩は座敷の戸を開けるなり、その豪放な筆に見入ってしまった。
「四天女の屋敷の各床の間にある掛け軸は全て弘法大師の直筆と聞くわ」
舞が言った。
「そ、そうなんですか! どうりで力が込められた一字と思った」
彩は感心した顔で言った。
「舞様の床の間には何の一字が掛けられているのですか?」
「心≠ニ書かれた掛け軸が掛かっているわ。私の襦袢《じゅばん》にもその一文字が縫い込まれているし、貴方の襦袢にも、その掛け軸と同じ一字が縫われているはずよ」
「これには何の意味があるんですか?」
彩は不思議そうな顔をした。舞は自分も最初ここに来た時、老婆衆の一人に同じことを尋ねたのを思い出した。
「大師様が八十八霊場を置かれた時、阿波を発心、土佐を修行、伊予を菩提、讚岐を涅槃とされたの。それで陰陽の男女である陰陽師と怨霊師が、それぞれの一字を背負い、阿吽で陽が最初の一字を、陰が後の一字を担うことになったのよ」
「ということは、陰の私が槃なら陽の隼斗様は涅≠フ一字を背負うわけですね」
「そうよ。だから私と組む北麿様は、発心の発≠フ一字を背負っている」
「まるで遍路で言う同行二人ですよね」
舞は彩の理解力の早さに驚いた。遍路はまさにその意味を持っている。但し大師様とともに歩くから同行二人の意味なのだが……。
「だから私たちは、それぞれが背負う文字を方位の色に彫り抜いた白石を持っているわ」
「?」
舞が言うと、彩は意味が分からないという顔をした。
「……あ」
その時、舞は気がついた。隼斗がまだ槃の白石を彩に手渡していないのだ。
もし怨霊師か陰陽師の片方が世を去った時、その者が持つ白石を生き残った方が持ち帰り、次の継承者に手渡さねばならないのである。
「でも、それが無くても大丈夫よ。白石はあくまでも結界を張ったと仲間に知らせるための結界石に過ぎないの。寺社の境に使うような結界石とは違い、それ自体には力はないわ」
彩は悲しそうな顔になった。
「私はまだ隼斗様から仲間と見られていないんですね……舞様、私はいつそれが頂けるのでしょうか。隼斗様が私を本当の意味で受け入れてくださった時でしょうか?」
彩は舞の手を取りながら聞いた。
「そうね。でも貴方なら大丈夫よ……その内に隼斗は必ず貴方に心を開くわ」
隼斗がまだ心の何処かでは、涼への思いを断ち切れずにいるのだろうと舞は思った。隼斗が、少しでも早く彩を涼と同じ仲間として認め、心を開くことを、舞は願った。
彩は、廊下で立ち話をしていたことに気づき、舞を自分の東座敷に招じようとした。しかし舞はそれを断った。
「それは掟でできないの。それぞれの座敷に入れるのは、同じ襦袢の文字を持つ者だけと定められているから」
「そ、そうなんですか、知りませんでした」
そう言うと彩は頷いた。
「でも、屋敷の回廊、庭、厠、風呂場、それから奥の一室は構わないのよ」
「じゃあ廊下にでも座って話しましょう。ここならお日様が照って暖かいから」
そう言うと彩はニコニコしながら廊下に座った。舞も彩と一緒に座ったが、回廊から見える庭は、大頭の屋敷と同じく手入れが行き届き、実に見事で美しかった。
「舞様、怨霊について詳しく教えてくださいませ」
彩は真剣な顔で言った。
「私、敵を知らない内に殺されたくないんです。ですから、怨霊について全てを聞いておかねばなりません」
彩はさらにハッキリと言う。その目には、命のやり取りをする者が共通して持つ、一種の殺気にも似た鋭い気迫が隠されている。
「その考え方は正しいわね。でもたった一日で怨霊の全ては語れないわよ」
「分かっています。しかし、たとえわずかな時間でもできるだけのことを教えてください」
彩の目は既に怨霊師の目だった。
「裏忌部では怨霊については教わらないの?」
「はい、私は全く教わりませんでした。裏忌部は政治的目的で動く忍集団なので、怨霊封じとは全く関係ありませんから」
「そうなんだぁ」
舞は不思議に思った。同じ忌部でも、役割がこれほど見事に分担されていると、むしろ奇妙にさえ思える。舞はゆっくりと目を閉じ、静かに話しはじめた。かつて自分が大日女から怨霊について聞かされた時のように。
「怨霊とは神仏に逆らった凶霊たちのこと。彼らは人の姿をしているけれど霊の存在で、神仏の光に討たれた後、自ら闇となって怨霊と化したのよ」
そう聞いて、彩は驚いた顔をしたが、舞は話をつづけた。
「怨霊は神仏を破滅させ、世の中全てを殺戮《さつりく》が渦巻く闇の世界に落とそうとしているの」
「彼らは幽霊ではないのですか?」
「どうして幽霊と思うの?」
舞は怪訝《けげん》な顔をした。
「だって体が無いなら幽霊と同じだから……」
彩の答えに、舞はなるほどと思った。
「彩さんは幽霊が怖い?」
舞が聞くと、彩はちょっと考える表情をした。
「人間よりも怖いかもしれません。だって人間は斬れても、幽霊は斬れませんから」
それを聞いて舞は笑った。裏忌部で様々な殺法を学んだはずの彩が、幽霊を怖がるところに可愛らしさを感じた。
「彩さん、怨霊は幽霊ではないわ! 幽霊は人が死んだ後、体という結界から抜け出した霊のこと。でも怨霊は、初めから霊のまま闇の世界をさまよう凶霊のこと。だから怨霊は人の体を奪いたくて仕方が無いの。人の体と見ると憑依《ひょうい》してくるわ」
「怨霊に憑依された人間はどうなるのですか?」
彩が不安な顔つきで聞いた。
「体が怨霊に支配されると、人はその中で自由が利かなくなるの。一度そうなったら最後、怨霊は次々と恐ろしい事件を、その人間の体を使って起こしはじめるわ」
「たとえばどんな?」
「一番先にやるのは、人間を食い殺すこと」
それを聞くと、彩は顔をしかめた。
「舞様、なぜ怨霊は人を食い殺すのです?」
「怨霊は己の存在を維持させるため人を食らうのよ。人の体を滋養とするのは勿論だけど、人の霊を己に取り込んで霊力の源にするの」
彩はしばらく黙りこくったが、やがてポツリと言った。
「では怨霊に取りつかれた者は救われません」
彩の目は真剣になった。
「その通りよ。だから私たちは怨霊を憎み、怨霊を封じることを使命とするの。そうしなければこの世に次々と不幸な人が増えてしまうのよ」
「舞様、なぜこの世に怨霊などがいるのでしょうか?」
舞も同じ質問を大日女にしたことがあった。怨霊などこの世に無ければ、人間は幸せに暮らせるからだ。
「それは貴方の陰陽師が答えてくれるわ。この世は全て陰陽で成り立っているのだから」
彩は舞の言葉を聞いてしばらく考えていたが、どうしても分からないという表情だった。
「たとえば何が陰陽なのでしょう?」
「光と闇、阿と吽、男と女、寒と暖、天と地、善と悪、左と右、上と下と、陰陽の構図はこの世界の要で無数にあるわ」
舞にそう言われ、初めて彩は納得した顔をした。
「ところで、その怨霊は何処に住んでいるのですか?」
「地の底にある黄泉《よみ》よ!」
「それは地獄のことですか?」
彩は再び不安な顔をした。
「大日女様の言うには、黄泉とはこの世と地獄の間にある魔界のことで、神仏の光が届かぬ怨霊たちの住む闇の世界ということだわ」
それを聞いた彩は、深くため息をついてポツリと言った。
「舞様、怨霊が霊なら殺すことはできません」
「そうよ。私たちでも怨霊は殺せない」
舞の言葉に彩は信じられないというような表情をした。
「それならどうして怨霊を封じることができるのでしょうか?」
「確かに怨霊は殺せない。でも人の体に憑依すれば、そこに体という結界が生まれるの。だから怨霊が取りついた人間を討ち果たせば、怨霊は自分が取り込んだ人の霊とともに地獄へ落ちてしまうのよ。そのために私たちがいるの」
「怨霊は地獄に落ちると二度とそこから出てこれなくなるのですか?」
「ええ。怨霊は己の心の闇より深い究極の暗黒に呑み込まれ、怨霊という存在自体が消滅してしまうの」
「地獄って、そんなに恐ろしいところなんですか?」
「そうよ。そこは光が全く無い暗黒世界と言うわ。人間もこの世で悪行を為せば、皆そこに落ちて消滅する。そこは究極の無の世界!」
「恐ろしい……」
彩は身震いした。
「でも悪党や人殺しでない限り地獄に落ちることはないわ」
「でも舞様、私たちは大丈夫なのですか?」
この疑問も、舞が子供の頃に大日女に必死に尋ねたことだったので、思わず舞は微笑んだ。
「その心配はないわ。そのために大師様の力をお借りしているのよ。私たち忌部は大師様の懐刀であり、密教をもって仏教と神道を統合し、日の本を怨霊の魔手から守っているの」
「それじゃあ怨霊を封じるには、どうしても憑依された人を殺さざるを得ないんですね?」
彩は心配になっていた。
「怨霊に憑依された者を捨てておけば、その者を通して怨霊は次々と大殺戮を行い、無数の人間が命を失うことになるわ」
舞はキッパリと言った。たとえ無情に聞こえても、それが現実なのである。舞たちがそうせねば、怨霊による被害が増大し、それこそ凄まじい大殺戮の末に地の全てが滅ぼされてしまうだろう。
「怨霊に憑依される人には、何か特徴があるのでしょうか?」
「怨霊は魔界から、いつもこの世のドロドロとした想念を窺《うかが》っているわ。恨み、妬《ねた》み、嫉《そね》み、不安、憎しみ、争い、絶望などの想念を持つ者を、怨霊は見逃さない」
舞は、それらが誰にでもある想念だけに、まかり間違えれば自分たちも怨霊に狙われる場合があると知っていた。
「舞様、もし人間が無謀な野望に走りはじめた場合、地は怨霊が住みやすい世界となりましょうか?」
彩は評議の場で大頭の言っていた言葉を聞いていたのだ。
「そうね。そんな恐ろしい世界に陥らないよう、私たちが怨霊を封じとらねばならないの」
古来から怨霊が地に溢れ出る場合、必ずそれと呼応するかのように、地上では大殺戮が起きて国が千々に乱れている時なのだ。舞はさっき父が語っていた、日の本の異様な動きに対し、自分でも少なからぬ不安を抱いていた。
「では憑依した怨霊が人の体から抜け出してしまうことはないのですか?」
「それはあり得ないわ。一度怨霊が人の体に入ったら最後、怨霊も人の体という結界に閉じ込められ、そこから二度と出ることができないのよ。だから人の体が死ねば怨霊も死ぬの。怨霊はそうならないために次々と人の体を食らう必要があり、人の霊を吸い取って己の力の源にしていくのよ」
彩はようやく怨霊の全体像を掴みはじめていた。
「怨霊は三日に一度は人の肉を食らい、その霊を取り込まないと生きることができないの。だから人の霊を取り込んだ怨霊は、その肉体が滅びれば必ず地獄へ落ちるしかないのよ」
それを聞いた後、彩はしばらく黙っていた。
「殺された姉は極楽へ旅立てたでしょうか?」
「極楽は大師様もおっしゃるように何の不安もない浄土世界よ。涼は大師様の召しを受けて戦い、そして亡くなった。その怨霊が逃げ出した以上、涼さんが地獄に行ったとは思えないわね」
舞がそう言うと、彩は初めて満面の笑みを浮かべた。
「ところで舞様はどういう目的で結界を張られるのですか?」
彩の言葉に舞は少し戸惑ったが、取り敢えず疑問だけには答えた。
「二つの理由があるわ。一つは怨霊と戦う場に人を入れないため。二つ目は怨霊を結界の中に封じ込めて逃がさぬようにするためよ」
「どうしても分からないのは、女である巫女がどうして武器で怨霊を討ち取らねばならないのでしょうか? 武器を使うなら男の方が適していると思うのですが」
舞は彩が好きになった。自分が大日女にぶつけたことと同じ内容を聞いてくるからだ。
「大日女様が言うには、肉体を得た怨霊を封じるのは、人に肉体を与えるのが天職の女の役目なのだそうよ。それが肉を絶たれる者への供養《くよう》になるとね」
「そ、そうなんだぁ……」
彩は小さく頷き、さらに尋ねる。
「怨霊の数は一体どのくらいなのでしょうか?」
「それは誰にも分からないわ。でも怨霊といっても様々で、力のある怨霊から手下のような怨霊まで無数にいる」
舞自身、様々な怨霊と対峙してきたので、それは身をもって分かっていた。
「怨霊は人以外には憑依しないのですか?」
「いいえ、するわよ。怨霊は獣や草木にも憑依するわ。涼が倒した怨霊も松にも取りついていたし、私が倒した怨霊は巨大な土佐犬に取りついていた」
「土佐犬に?」
彩は意外という顔をした。怨霊が人以外に憑依するとなると、わずかな油断さえ許されない相手ということになる。
「そうよ。でもその土佐犬は北麿の目を誤魔化《ごまか》すことはできなかったわ。陰陽師はそのために怨霊師と行動するの。彼ら陰陽師は、怨霊を見分ける術に秀でた特別な習練を経た存在なのよ」
「ということは、その分野は隼斗様に任せればいいのですね?」
「そう。でも貴方も怨霊封じの経験を積んでいけば、いやでも怨霊の匂いをかぎ分けることができる」
「そういうものでしょうか?」
「そういうものよ」
舞は彩の不安を打ち消すように微笑んだ。彩に涼と同じ才があるなら、後は怨霊との実戦で磨かれていく。
「土佐犬に憑依した怨霊は何をしようとしたのですか?」
彩が聞いた。
「怨霊は一人の坑夫に取り入り、同じ鉱山で働く男たちのところにもぐり込もうとしていたの。おそらくそこに腰を落ち着けた後、全員を食らうつもりでいたんでしょうね」
「それで舞様は、その土佐犬をどのように封じたのですか?」
彩は身を乗り出して聞いた。
「坑夫が歩く夜道の反対側で、北麿様が結界を張って、私たちがいくら坑夫に近づいても遠のいても、同じ距離に見える現象を起こしたわ」
「それって裏忌部でも幻覚として使う術と同じです。亜空に入り込むと空間が捩《ねじ》れてしまいますから。しかしその坑夫は驚いたでしょうね」
「ええ、その男には悪かったけど、鉱山から怨霊を引き離すには必要なことだったの。案の定、坑夫は私たちを物の怪と勘違いして慌てて引き返し、土佐犬も仕方なく坑夫の後を追ったわ」
「で、その後はどうしました?」
「他心通で坑夫の幼い頃の辛い思い出を覗《のぞ》いたわ」
「他心通……?」
「大日女様ほどではないけれど、私も人の心の扉を少し覗くことができるの」
「舞様って凄い! そんな術があるなら教えてください」
彩は少女のようにはしゃいだ。
「他心通は怨霊と対峙するとともに磨かれていく力だと思うわ。だから貴方も、やがて身につけることができるでしょう。ただ私の場合は、幼い頃から人の心を読む力があったみたいなの」
「いやだ、ひょっとして私の心も読めたりして……」
彩が少し恥ずかしそうに身をよじった。
「大丈夫よ、私が覗くのは怨霊と対峙する時だけと決めているの。だから滅多やたらに他心通は使わない」
それを聞いて彩はホッとしたように胸を撫でおろした。
「他心通の恐ろしいところは、覗く相手の最も恐れる記憶を呼び覚ますことができることよ。私はそれを使って坑夫の過去を利用したわ」
「その男の過去は何だったんですか?」
「それは話せないわ。誰でも人に知られたくない過去の一つや二つはあるでしょうから」
彩は舞の言葉に頷いた。
「でも私は怨霊を油断させるため、その坑夫の悪夢の経験を蘇らせ近づいていったわ。男は悲鳴を上げるほど恐怖に駆られたけれど、おかげで怨霊に隙が生まれた」
「そこで怨霊の隙をついて……」
「そう、手に持った鉈《なた》を投げて土佐犬の首を落としたの」
彩は凄いという表情をした。
「でも油断すると逆に怨霊にやられるわ。怨霊は人間のように簡単には死なないの。土佐犬は首が落とされても私に噛みつこうとしてもがき、胴も後ろ向きに走り回り、私を捜したわ」
彩は気味が悪いという顔をした。
「怨霊が死ぬときは、それまで燃えるような真っ赤な目をしていたのが、急激に白く濁るので分かるわ」
「怨霊は首を落としても死なないのですか……」
「捨てておけばいずれは死ぬでしょうけど、止《とど》めを刺すに越したことはないわ。要は、討ち取ったと思い油断すると、返り討ちに遭うということ」
舞の真剣な顔を見て、彩は怨霊の執念深さを脳裏にたたき込んだのだった。
「姉を殺した怨霊は、舞様の討ち取った怨霊よりも凄まじいものだったのでしょうか?」
「ええおそらく! 畜生に憑依するような怨霊は、怨霊の中でも低級霊とされているわ。だから涼と対峙した怨霊は相当な強い力を持った怨霊だったはず。でなければ涼は死ぬはずはなかったでしょう」
舞は無二の親友だった涼を思うと、今も悲しみがこみ上げてくるのを止めることができなかった。
「有り難う、舞様、今の言葉を聞いて心から安心しました。私も姉や舞様と同じ怨霊を封じる巫女として自分の使命を全うします」
彩はそう言うと、舞の前で三つ指をついて頭を下げた。
季節外れとも思える暖かな日和のせいか、小さな蝶がユラユラと庭の池の上を舞い、その下を数匹の錦鯉が優雅に泳いでいた。
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第二章 カバラ
明治四十三年五月十六日、東の空が薄明るくなりはじめた頃、真東からやや南西の中天まで白く長い尾を引く星の姿が現れはじめた。
その星の南には明けの明星《みょうじょう》があり、天空を過《よぎ》る奇妙な矢のような星を、冷ややかな光を放って眺めている。奇妙な星の尾は、およそ二万二千里ほどに達しているとみられた。夜が明けてくるに従い、尾端から光輝が徐々に失われていき、ついには頭部だけが幽《かす》かに残るのみとなった。
おそらく星の頭部の光度は三等星ほどであろうか。その星は日本では箒星《ほうきぼし》と言い、正式にはハレー彗星と呼ばれた。巷《ちまた》の噂では、五月十九日にハレー彗星が太陽表面を通過する際、太陽の反対側に伸びる長い尾の中に地球が入るという。その時、地球上の全生命が、ハレー彗星の尾に含まれるシアン系の致死ガスで絶滅するという噂が、世界中に広まっていったのである。
人々はハレー韓言生の尾がはっきり見える十六日早朝ぐらいから、東の山並みから姿を現す箒星の尾を観望しようとしていた。その姿を見ながら、あれが自分の命を奪うかもしれぬ元凶かと言い合ったのである。どちらにせよ、人々はまだ生きているうちに、自分を討つ敵の姿だけでも一目見ておきたいと思っていたのだ。
昔から箒星の訪れは悪い出来事が起きる前兆で、戦《いくさ》、飢饉《ききん》、疫病などの凶事が起こると思われてきた。明治の世は文明開化でそういう迷信を払拭《ふっしょく》しはじめていたが、逆にこの事件だけは舎密《セイミ》が迷信を増長させていったのだ。
舎密《セイミ》とはオランダ語の chemie から来た用語で、江戸後期から使われていた。化学という意味である。イギリス人ウィリアム・ヘンリーが著した「Elements of Experimental Chemistry/実験化学要義」のオランダ訳を中心に、宇田川|榕庵《ようあん》が二十一巻にまとめた『舎密開宗』で用いられたのが最初である。
「ケッ! 上等じゃねえか。死ぬ時は皆一緒だから俺は少しも怖くはねえぞ」
そう言うと熊楠《くまぐす》は、朝から酒を呷《あお》って畳の上に引っ繰り返った。昔から顔馴|染《なじ》みの洋服問屋に転がり込み、その二階の張り出しから箒星を眺めていたのだ。
「本当に世界は滅亡するんでございましょうかね?」
洋服問屋「桔梗《ききょう》屋」の主である善兵衛《ぜんべえ》は、白髪が混じりはじめた頭を小指の先で掻きながら、大きなあくびを一つした。そして眼鏡の奥にある切れ長の目をしばたかせて、転がっている熊楠を見た。今や老いたとはいえ、善兵衛の上背と整った顔だちなら、若い頃に流した浮名は一つや二つではなかったろう。それに対して熊楠の方は善兵衛のような品の良さはなく、どちらかというと無骨で体つきも寸胴《ずんどう》だった。よって女にもてたためしはなかった。
「善兵衛、人間はいつかは死ぬ。だからこうして毎日を楽しく酒を飲んで過ごしておれば、悔いを残すことはないのだ」
五月とはいえ早朝は肌寒い日もあるが、熊楠は単衣《ひとえ》一枚で生活をしていた。
「熊楠先生、せっかく日本軍が帝政ロシアに勝利し、これから本格的に大陸進出という矢先に、こういう事態になるとは思いもよらなかったですよ」
「いいか善兵衛、日本軍は確かにロシアに勝った。しかしそれは紙一重だ。事実、戦後処理の外交では、ポーツマス講和条約でロシアに押し切られちまったんだろう。戦費賠償金も取れないと騒ぐくらいなら、最初から大陸進出などは考えるなということだ」
「それは全権大使となった小村寿太郎《こむらじゅたろう》が無能だったからですよ」
善兵衛は上背のある体を折って、片手に座布団を持つと、寝ころがる熊楠の横に敷いて座った。
「それは違う。時の外務大臣・小村寿太郎だったからこそ、名うてのロシア全権ウィッテと対峙《たいじ》できたんだ。樺太割譲まで持っていけたのも、全て小村の手腕だ。なのに馬鹿どもは、小村の屋敷を怒りに任せて壊してしまいやがった」
「私は当然だと思いますけどね」
「それは違うぞ。あの時の日本には、戦争継続の金など何処を捜しても無かったんだ。しかしロシアには軍資金は山ほど残されていた。そういう中でロシアから賠償金をふんだくれると思っている奴らが、馬鹿なのだ。もしロシアが交渉の断絶を宣言し、戦争継続を主張したら日本はお陀仏《だぶつ》だったんだぞ」
「…………」
善兵衛は熊楠の勢いに圧倒されて黙ってしまった。
「そういうことが分かっていた伊藤博文などは、国民の怒りを恐れて、ポーツマスへの渡航を辞退しおった。ひどい臆病者ではないか」
「また伊藤さんの悪口ですか、熊楠先生」
善兵衛の妻の薫は、いい加減ウンザリした顔をした。薫の膝の上には、大きな三毛猫が目を細めて座っていた。薫は善兵衛ほど、熊楠を高くは買っていなかった。女の目からすれば、熊楠はただの無骨で無愛想なだけの男で、だから四十歳まで嫁も来なかったのだと思っていた。
「いいかな、おかみ、ポーツマス講和会議の裏でニコライ二世は、一カペーカの金も猫の額ほどの土地も、日本に渡す気はないと断言しておったんですぞ。伊藤はその状況を事前に知っており、莫大《ばくだい》な賠償金と領土をロシアから奪えと息巻く国民に、復讐されることを恐れたのだ」
薫はよほど熊楠の都合で寒い朝に夫と一緒に起こされたことに、腹を立てていたのだろう。ツンとした顔を向けると、こう言い放った。
「いいじゃありませんか。だから苦労した小村は生き残り、美味《おい》しいところを取ろうとした伊藤は、日露関係修復の途中で韓国青年に暗殺されたんでしょうからね」
「おいおい、そういうことを大声で言うもんじゃない」
善兵衛は薫を制するように両手を振った。熊楠は女心が読めない男だった。その単純さが裏目に出ることも多かったが、逆に言えば、竹を割ったような裏の無い男の証明でもあったのだ。
「あの時、ロシア革命の気運が背景に無ければ、間違いなく日本は敗れておったはずだ。そうなればここ徳島市も、今頃はロシア兵で一杯になっていただろうよ」
「そんな阿呆なこと」
薫はそう鼻で笑って、猫を抱いたまま部屋を出ていった。
「いいか善兵衛、俺は実際この足でアメリカやヨーロッパを隈《くま》なく歩き、世界の実情を見てきた男だ。その男が言う以上は間違いなどあってたまるか」
熊楠はすくっと身を起こし座りなおすと、大きく丸い目をぎょろつかせて言った。
「確かに熊楠先生の名はアメリカやイギリスに知れ渡っていますし、イギリスの『ネーチュア』にも載ったほどですからな。私どものように軍服を用立てている身では、なかなか世界は見えません」
「ケッ、皮肉を言うな、皮肉を。新政府設立以来の富国強兵政策のおかげで、貴様の軍服業は本職の洋服業を抜いて大繁盛だろうが。それは貴様が先を見ておる立派な証拠だろう」
「ええまあ、確かにそのことだけを言えばそうなのですが……」
「謙遜《けんそん》するな、謙遜を。歌人の下田歌子《しもだうたこ》がこう詠んでおる。いちはやき 針の運びの進みにも 開けゆく世の あとを見るかな=c…とな。つまり文明開化によって洋服の時代が到来することを先読みした歌ということだ」
熊楠は洋行が長かったせいもあってか洋酒には滅法強く、ウィスキーの一瓶を開けるのは朝飯前だった。おそらく酒さえあてがっておけば、一日中飲みつづけ、機嫌良く一日を過ごすことができるだろう。
「それで正直なところはどうなんです? さっきの話ですが、本当に地球は猛毒ガスに包まれ、生き物の全てが死んでしまうのでしょうか」
熊楠はスコッチを手に取って、片手に隠れるほどの小さな洋酒グラスに注ぎ入れると、水で割らずそのまま一気に飲み干した。
「明治四十一年に現れたモアハウ彗星の時、尾の中で青酸性のシアンが見つかったらしいからな。そいつが猛烈な太陽風に吹かれて地球をスッポリ包めば、どいつもこいつもお終《しま》いということらしい」
明るくなってきた空を見ながら熊楠が言った。それを受けて善兵衛は、大きな体を前に乗り出してきた。
「巷では、水の中に顔をつっこんで青酸ガスから逃れる訓練をしている輩《やから》がいると言いますし、一家心中まで出そうな気配もあるとか」
「くだらん!」
熊楠は一喝《いっかつ》した。しかし善兵衛は熊楠の耳元に顔を近づけると、蚊が鳴くような小声で言った。
「ですから私どもは、家族の分だけは大枚をはたき、タイヤチューブを買い込んだんでございますよ」
善兵衛はそう言うと、グラスにウィスキーを半分だけ注いで飲み干した。
「あれは今ではなかなか手に入らん代物だろう」
熊楠は太い眉を動かし、善兵衛の顔をしげしげと見つめた。
「家一軒分ぐらいは払わされました。しかし、これで命が助かれば万々歳でして。そうそう熊楠先生の分も一本は用意しています」
「有り難いが俺はいらん。善兵衛、そんなチューブ一本ぐらいで命が助かるとは俺には思えんぞ」
「そ、そうでしょうか?」
善兵衛はちょっと気を悪くしたような顔をした。
「考えてもみろ。もし本当にハレー彗星の尾が地球を覆《おお》い尽くしたら、一日や二日で青酸ガスが消えるものか」
「しかし、三日や四日ぐらいでしたら、口にチューブを加えながら生活してみせますよ」
熊楠は空になったグラスを置くと、まじまじと善兵衛の顔を見た。
「いいか善兵衛、おまえには商才はあるが、舎密《セイミ》はサッパリだな。人間の吐く息には炭酸ガスというのが含まれておってな、それをチューブの中に吐き出しては吸っている内に、気が遠くなってコロッと死ぬんだよ」
「エエッ! で、では青酸ガスは本当はどのくらいで消えるものなんでしょうか?」
急に善兵衛は不安な顔つきになった。
「下手をすれば一年か二年、いや数百年も地球の大気中に留まるかもしれんぞ」
熊楠の目が悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「えええっ! そんなにですか」
善兵衛の顔から血の気が引いた。
「誰にも予測できんことを今から心配しても、はじまらんだろうが。それよりも善兵衛、毎日を楽しく生きておればそれでいいとは思わんか?」
「確かに……そうですが」
熊楠は善兵衛のグラスになみなみとウィスキーを注いでやった。
熊楠と善兵衛との出会いは、思えば奇妙なものだった。
大英帝国のサウス・ケンジントン美術館の助手を辞めた後、郷里の和歌山に舞い戻った熊楠を待ち受けていたのは、実弟の常楠《つねくす》を含む親戚一同からの冷遇だった。
十四年前、流行の身形《みなり》とステッキ姿で故郷を後にし、意気揚々と海外雄飛したはずの熊楠が、蚊帳《かや》の如き洋服に風呂敷包みを背負い、両手に破れトランクを持った姿で神戸港に現れては、さすがの実弟も世間体が悪いと思うのも無理はない。
熊楠は和歌山に戻されず、そのまま大阪府泉南の理智院という寺に預けられてしまうのである。
その後、熊楠を不憫《ふびん》に思った叔父の古田善兵衛が、和歌浦にある円珠院の貫忠和尚に頼み込み、熊楠をその寺に寄寓《きぐう》させたのである。この叔父が若かりし時、阿波で顔見知りになった呉服問屋がある。そこの主人は跡取りに恵まれず、娘の薫に養子を迎えた。叔父はその養子に自分の名の善兵衛を与えた。
養子の善兵衛は、明治十年の西南戦争を機に、政府軍の軍服需要が一挙に増大したのを見逃さなかった。明治十六年に開館した鹿鳴館《ろくめいかん》人気も洋装の流行を煽《あお》る。
ちょうど世の中も、婦女子の手習いにミシンを学ぶことが流行しはじめ、洋裁教室が全国に激増していた。善兵衛はこれから洋服の時代が来ると判断、軍とも渡りを付け、ついには軍|御用達《ごようたし》の洋服問屋となったのだ。
熊楠が円珠院に移された頃、ちょうど所用で大阪まで来ていた善兵衛は、その足で旧知の貫忠和尚の元を訪ねて来たのである。熊楠と善兵衛はそこで知り合った。破天荒な熊楠の武勇伝と生き方に、善兵衛は半ば呆気《あっけ》に取られつつも心を奪われた。
「なあ善兵衛、初めて俺たちが会った頃のことを覚えているか?」
昔話を口にした熊楠に善兵衛は少し戸惑ったが、確かにあの頃から善兵衛は熊楠に翻弄《ほんろう》されつづけてきたのだ。
「ええ覚えていますよ。なにしろ円珠院の境内に生えていた桜の木から、熊楠先生は世界で初めて光り藻を発見した……偶然とはいえ、その瞬間に私も出くわしましたからね」
以来、熊楠と善兵衛は親交を深め、隠花《いんか》植物研究で四国を訪れる時には、必ず善兵衛の屋敷を訪れていたのだ。しかし、熊楠は相変わらずの奇行の持ち主で、その放埒《ほうらつ》な生きざまがおかみには我慢ならず、善兵衛は両方の間に挟まれていつもいらぬ苦労をしていた。
熊楠は阿波でも生まれ故郷の熊野と同じく、破れ浴衣《ゆかた》に縄の帯を締め、冷《ひ》や飯草履《めしぞうり》で悠々と町中を歩いていたため、さすがの善兵衛も頭を抱えてしまった。だが、最初の印象が強烈過ぎたのだろう、未だに熊楠には面と向かって忠告する勇気が持てなかったのである。
「俺はな善兵衛、やることさえやっておれば、いつ死んでもかまわんと、毎日を過ごしておる。単身アメリカに乗り込み、ミシガン州立農業大学で同じ留学生だった柔道の嘉納治五郎《かのうじごろう》や柔術の村田源三、そして三島桂らとアメリカ人を相手に大喧嘩を始めた時も、俺は命など惜しくはなかった」
「ええ存じております、先生の武勇伝は仲間うちでは有名ですから」
善兵衛は少しずつ色あせていく箒星の尾を見ながら、グラスを口に持っていった。
「スペイン相手に立ち上がったキューバ人の独立戦争の時もそうだ。ピストル一丁で戦争見物に出掛けていた俺だ。今さらガス如きを恐れてなるものか」
そう言うと熊楠は、善兵衛の背中を力一杯叩いた。
ゴホゴホゴホ……!
善兵衛は急に背中を叩かれたためウィスキーが脇道に入り、思い切り咳《せ》き込んでしまった。
「ロンドン暮らしの五年目に、清王朝への反乱に失敗した孫文と出会った時もそうだ。大英博物館のダグラス部長の前で、俺は気の合った孫文と一緒に、白人を如何《いか》にして東洋から追い出すかの話に花を咲かせた。その時も俺は白人の目などは一切怖くなかった」
南方《みなかた》熊楠は明治が生んだ日本最大の奇人とも言われる。しかし、当時その名を最も世界中に知られた日本人だったのである。
熊楠は日本では全くの無名だったが、国際的には世界の粘菌《ねんきん》学の権威として知られた。一方では大英帝国の頭脳と称されるディキンスと論争しても、一歩も引けをとらず、最後にはディキンスを打ち負かした男として知られていた。
「俺はな善兵衛、こんな彗星騒ぎよりも神社|合祀《ごうし》反対運動の方が大事なんだ」
そう熊楠は吐き捨てるように言った。神社合祀反対運動とは、明治新政府が打ち出した全国に散在する神社を合併させ、一町村一社にさせようとする政策に反対する運動のことである。
「俺はな、神道には昔から深い関心があるし、民俗学の見地からも統合には大反対なのだ」
「へえ……」
そう言われても善兵衛には、なぜ熊楠が箒星より神社の方が気になるのか分からなかった。
「いいか、日本は世界に類例のない民俗学の宝庫なのだ。いや神道の宝庫と言ってもいい。地名一つ、小さな祠《ほこら》一つにしても何らかの意味が隠されていて、それらが縦横無尽に絡み合うことで、日本という世界に類例のない皇国を造り上げておるのだ」
「ほう……」
善兵衛にはその方面の学が無いから、熊楠にそう言われても何がなんだか分からない。
「だから俺は、それらを無くし散在させるような政策には我慢ならんのだ」
そう言うと熊楠はウィスキー瓶をくわえ、そのままゴクゴクと飲み出した。
「そういえば私の知り合いの中にも、神社合祀令で廃社にされた神社の敷地を二束三文で買いあさり、森や神木《しんぼく》を伐採《ばっさい》してぼろ儲けをした奴がおりますよ」
善兵衛は思い出しながらポツリと言った。
「そうなんだ。だから俺は許せんのだ。悪徳商人や小役人どもが手当たり次第に森林を伐探し、日本古来の神道の伝統さえも一緒に根こそぎにする。そういう政策に異を唱えて何が悪い」
「すると今回、先生が熊野から阿波に来られたのは、隠花植物や粘菌の調査ではないんですか?」
そのへんが気になった善兵衛は熊楠に聞いてみた。
「ああ、ちょっと阿波であることに気がついたもんでな……」
熊楠は急に言葉を濁した。善兵衛に対しあれほど開けっ広げだった熊楠が、何故か急に話をはぐらかそうとしているようだった。
「しかし先生、箒星の尾で死んでしまったら、神社も隠花植物もありませんよ」
善兵衛が言った。
「男子一旦志を打ち立てれば途中で死んでも可なり! この言葉を知らんのか?」
「ええ……似たような言葉なら少しは」
善兵衛はまた頭を掻き、熊楠は再びゴロンと横になった。二階の張り出しからは、早起きの雀が枝から枝へ騒がしく飛び回る光景が見えた。その遥か遠くには、青空に溶け込むように尾を引く箒星と、きらびやかな金星が二つ並んで浮かんでいた。
夕方になって、それまで何処《どこ》かに行っていた熊楠が桔梗屋に戻ってきた。
大分目が陰ったせいか、店の白塗りの壁が夕焼け空を写して黄色く染まっている。道幅五間(約九メートル)に店を出す善兵衛の洋服問屋は、桔梗屋と太筆で大きく書かれた立看板を掲げていた。その看板の横では手代や丁稚《でっち》が忙しく立ち働き、荷の出し入れを指示する番頭の声が響いている。
「お帰りなさいまし」
女中が客人である熊楠の姿を見て頭を下げた。
熊楠も体裁程度に頭を少し下げ、店の右端にある玄関口から中へ入った。奥では他の女中たちが、熊楠の黒足袋と草履ばき、簡単な単衣姿を見てクスクスと笑っていたが、熊楠は一向に気にならない様子で框《かまち》から上がると二階へと姿を消した。
階段を上がった熊楠は、善兵衛からあてがわれた部屋に入ると、押し入れに入れておいた酒瓶を出してコップになみなみと注ぎ、思い切り中身を呷《あお》った。
「フゥゥ……」
これで一息つけたというふうに、熊楠は部屋の天井を見上げて幸せそうに目をつむった。
巷の人間は誰もかれもが空を見ては騒いでいたが、熊楠だけは地面にしか興味がなかった。熊楠は世界的な植物学の権威だったが、民俗学者でもあり、神道研究にも非常に熱心だった。今回の熊楠の阿波行きには他言できない秘密がある。旧知の善兵衛にもそれを明かすことはできない。
小一時間ほどたった頃、熊楠がふと気がつくと自分のすぐ横に一人の童《わらべ》の姿があった。立っていたのは善兵衛と薫の一人息子の歳三である。
「おお歳三か、こっちへおいで」
熊楠がそう言うと、歳三はすぐに熊楠の膝の上に乗ってきた。歳三は四歳になるが、見かけは五、六歳くらいに思えるほど成長が早い童だった。
歳三はどこか病的に色が白い。熊楠がいくら男子は外で遊ばせろと言っても聞くような薫ではなかった。それまで薫は二度も死産で子を亡くしていた。歳三だけは何があっても大切に跡取りとして育て上げねばならなかったのだろう。
熊楠は甘いものはそれほど好きではなかったが、時々部屋にやってくる歳三のために、女中に頼んで金平糖《こんぺいとう》を紙に包んで置いていた。この南蛮渡来の奇妙な飴菓子は、周囲に角のような突起が幾つもあって、この菓子を嫌いな子供はほとんどいない。歳三は熊楠から紙に包んだ金平糖をもらうと、紅葉のような手で一粒だけを摘《つま》んで口にポンと放り込んだ。そして熊楠の方を向くとニッコリと可愛い顔で微笑んだのである。
熊楠は昔からけっこう子供好きで、和歌山でも近所の子供を相手によく遊んでやっていた。歳三は熊楠に抱き抱えられて高い高いをされると、体をばたつかせて大喜びし、特に空中高く放り上げられるとケラケラと大声で笑った。
この日も馬になった熊楠の背に乗りながら、ハイドウハイドウと言っては、小さな手で熊楠のお尻を叩いた。あまりドタバタ騒いだためだろう、ふと気がつくと薫の鋭い視線が熊楠の目の前にあった。
「歳三、駄目じゃないの!」
薫はそう言うと歳三を抱き上げ、熊楠の顔も見ずに、そそくさと部屋から出ていった。残された熊楠は、バツが悪そうに、短く刈った自分の頭を掻くだけだった。さすがに小さなことにはあまりこだわらない熊楠も、いつまでも善兵衛の世話になっていることに心苦しさを感じはじめていた。
「ここもそろそろだな」
そう呟《つぶや》くと、熊楠は夕食まで一眠りすることにした。
気だるい時間が薄暗闇の中を静かに流れていった。どのくらい眠ったのだろうか、熊楠はウツラウツラする頭の中で何かが風のように近くを通ったような気配を感じた。さっきまで半分裸で歳三と遊んでいたためか、熊楠の体にはまだ汗が残っていた。
何かの気配が部屋の中にあった。気になって目を開けてみる。すると童のような影が立っているのが見えた。熊楠は、歳三が戻ってきたかと思い、体を起こそうとしたが、何故か全く動くことができない。その瞬間、何か得体の知れない手のようなものが熊楠の両足を捕らえているのが分かった。その手は熊楠の手よりも一回りは大きく、間違いなく男の手の感触だった。
明らかに人間の手であり、しっかりと五本の指で握っているのも感じた。それが徐々に踝《くるぶし》付近から上の方へと擦《す》り上がってくるではないか。あまり物事には動じないはずの熊楠も、これには驚いた。意識はハッキリしているのに、体は石のようで動かすことができず、それどころか異様なものが自分の体を掴《つか》んで離さないのだ。
童のようなものがまだ自分の横にいるのは分かったが、その姿は薄暗闇の中では朧《おぼろ》で、掴みどころがなかった。そうこうしている間にも、足をのぼってきた手が、だんだんと胸元にまで達する。しかし、いくら熊楠がそいつを見ようとしても体を起こせず、薄暗がりがあるだけで何の姿も見えないのだ。得体の知れない手に触られたところは、石のようになっている。神経的な感触が一切無くなってしまっているのである。
その内、熊楠の耳元に奇妙な息のようなものがかかりはじめた。
ハアァァァァァ………ハァァァァァ………
その瞬間、熊楠は『ギリシア神話』に出てくる魔女メドゥーサを思い出した。メドゥーサに睨《にら》まれたら最後、その人間はたちまちのうちに石と化してしまうという。
熊楠には、自分の体が今どのあたりまで石のようになったかが手に取るように分かった。熊楠は、心臓が石になった瞬間に死ぬのだと思った。そう考えると、熊楠は逆に落ち着きはじめ、自分に取りついている得体の知れないものに、心の中でこう言った。
「早くお帰り。また叱られるよ」
その瞬間、童の気配はたちまち掻き消えてしまったのである。
それと同時に、熊楠の金縛りが嘘のように解けた。一体、今のは何だったのだと熊楠は思った。襖が開いた様子もない。奇妙なこともあるものだと、奇異に感じた。その直後、善兵衛の屋敷は大騒ぎになったのである。
階下の廊下を女中が叫び声をあげて駆け抜けていく。何事かと思って、熊楠が階段に出てみると、店の中が大騒ぎになっている。
「歳三〜〜! 歳三〜〜〜〜!」
裏で歳三の名を呼ぶ薫の甲高い声が響きわたった。
「坊ちゃまぁ…………っ!」
数人の女中が薫と一緒に歳三を捜し回っている。
熊楠が階段の手すりから下を覗《のぞ》くと、ちょうど仕事先から戻ったばかりの善兵衛が、半狂乱になっている薫に何事が起きたのかを聞いている姿が見えた。熊楠はゆっくり階段を降りて、善兵衛夫婦の元に歩いていった。
「あんたぁ〜〜! 歳三が歳三がぁぁ〜〜〜〜ぁ」
薫はそう言って泣きわめくだけで、善兵衛には一体何が起きたのか、さっぱり分からない。
「しっかりしろ! 一体何があった?」
善兵衛が珍しく大声を出した。その声に薫が我に返り、善兵衛の顔をまじまじと見たが、またすぐに大声で泣きだしてしまった。
薫の横に付き添っている女中頭の米《よね》がいた。善兵衛は米に向かって、埒《らち》が明かないから話せと命じた。
「へえ! おかみさんが坊っちゃまと三番蔵の近くまで行った時でございます。ちょうど荷の積み出し中で土蔵の扉が開いていまして、その中に坊っちゃまが急に駆け込んだんでございます」
そう言うと、米も体をガタガタと震わせはじめた。
「しっかりしろ、米! それからどうしたというんだ?」
米は両腕で自分の胸を抱き抱えるようにしながら、震える声で再び話しはじめた。
「その時、暗い土蔵の中から坊っちゃまの甲高い笑い声がして……」
そこで米は言葉を詰まらせた。
「ええい、それからどうした?」
善兵衛は苛立《いらだ》ちで廊下を激しく踏み立てた。
「へえ、おかみさんがすぐに土蔵に入られたんですが、その時はもう何処にも坊っちゃまの姿は無くて……二階の天井付近から笑い声だけが……」
全員が静まり返った。
「番頭!」
善兵衛が番頭の与二郎を呼んだ。
「番頭さんは坊っちゃんが消えた三番蔵の中です。今も必死に捜しておられます」
手代の一人が言った。
「よし、皆で徹底的に三番蔵の中を捜せぇ。行李《こうり》や長持ちの下敷きになっているかもしれん。それでも見つからなかったら、土蔵の中の荷を全部外に運び出せ!」
「へえ!」
男衆は全員三番蔵の方へと走っていった。
それからというもの、三番蔵は夜を徹して徹底的に調べられ、中に積んであった荷の全てが裏庭に運び出されたのである。荷は全て解かれ中をあらためたが、何処にも歳三の姿を発見することはできなかった。空には不気味な星が白い尾を引きながら浮かんでいる。
熊楠は、ひょっとして金縛りにあった時、自分のところに来た童は歳三だったのかもしれないと思った。しかし、こういう場でそれを言うのは不謹慎と思い、黙っておくことにした。
翌日、善兵衛は念のために他の土蔵も開けさせたが、無駄だった。歳三は笑い声だけを残して、忽然《こつぜん》と土蔵の中から消えてしまったのだ。
警察が桔梗屋にやってきた時、すでに現場は洗《あら》いざらい調べられた後だった。善兵衛の命令で、井戸の中まで雇い人が調べ尽くしたのだ。それでも警察は天井裏に潜り込んだりして手掛かりを見つけようとしたが、結局何一つとして発見されるものはなかった。
「善兵衛、こういう時にはすぐ警察に知らせを入れてもらわんと困るな!」
九等警部の剣持《けんもち》は、いかにもと言わんばかりの立派な口髭を指で摘み上げながら言った。
「へえ、しかし息子が荷の下敷きになってるかも分からん時に、誰もそんなことまでは考えません」
剣持は権力を笠に着る男で、最近、九等警部に昇進したばかりだった。そのため腕に二本線の入った警察の制服を、これ見よがしに見せびらかしたがる。この日もわざと不自然に袖を撫でてみたりしていた。
「まあ仕方がないやろけど、まさか一人息子が土蔵の中から消えるとは誰も思わんかったことやろしな」
そう言うと剣持は、おかみの薫と女中頭の米、そして土蔵を開けていた番頭の与二郎《よじろう》と、荷を運んでいた手代《てだい》三人と丁稚《でっち》四人を警察署へ連れていくと言った。
「そんなことされたら、うちは商売ができません。すぐにでも返してもらえるんでしょうな」
善兵衛は念を押した。
「そんなことは分からん。犯人は必ずこの中におるとわしは睨んどるからな。調べは長くかかるかもしれんぞ」
「そんな……」
息子の行方不明だけでも大変なのに、商売にも支障が出るとあっては、善兵衛は肩を落とさざるを得なかった。
その時、熊楠がやってきた。
「歳三は神隠《かみかく》しにあったんだ」
一瞬、誰もが息を呑《の》んだ。まさか文明開化のこの時代に、昔ながらの迷信を持ち出す輩《やから》がいるとは思わなかったからだ。最も驚いたのは善兵衛だ。洋行までした熊楠が、そんな迷信めいたことを言うとは思わなかったからだ。
「おまえは誰かぁ……?」
剣持が大声で怒鳴った。
「南方熊楠だ!」
単衣に草履|履《ば》きという奇妙な姿で現れた体格のいい丸顔の男に、剣持はしばらく呆気にとられたが、怪しい客人が洋服問屋にいるという噂を思い出した。
「そういえば、奇妙な姿で徳島市内を闊歩《かっぽ》しとる奴がおるという届け出が入っとったが、貴様のことか?」
剣持の言葉に、数名の警官が長い警棒を手に走り寄ってきた。
「阿呆か! 人を姿形だけで判断するなぁ」
熊楠は剣持に怒鳴り返した。
「おいこらあ貴様ぁ〜〜っ、わしを一体誰だと思っておるかぁ………っ!」
「小役人だろうが」
善兵衛はあまりのことに思わず間に割って入った。
「どうもすみません剣持様、この方は外国では結構名の知られた有名な学者なんですが、少々日本の習慣には疎《うと》いところがございまして……はい。それにこの方は私どもの大切な客人なんでございます」
興奮し頭に血が昇った剣持は、熊楠の顔を睨み付けるとこう言い捨てた。
「ならば、こんな馬鹿を屋敷の外へは出すな!」
善兵衛は必死に頭を下げて剣持に謝った。
「貴様のことはようく覚えておくからなぁ!」
剣持の捨てゼリフに熊楠も何か言い返そうとしたが、善兵衛が熊楠の胸に両手を当てて押し止めた。
「まあまあ、大人げないことはおやめください」
そう言ってなだめた。
この日、結局、おかみの薫以外は警察署から戻ってこなかった。
熊楠は歳三の神隠しで悲しみのどん底にある善兵衛を見て、しばらく善兵衛のそばにいてやる方がいいだろうと考えた。
事件の真相がある程度ハッキリするまでの間だが、その方が善兵衛にとってもいいと思えたからだ。その日の晩、熊楠は悲しむ善兵衛の横で歳三について話をしていた。
「すると何ですか、熊楠先生が金縛りに遭った時刻と、薫が歳三の姿を見失った時刻がほぼ同じなんですね?」
善兵衛が真剣な顔つきで聞いた。おかみの薫はあまりの心痛と警察署での執拗《しつよう》な調べに疲れ果て、屋敷に戻るや、そのまますぐに寝込んでしまっていた。
「うむ、実に不思議なことだが、あれは間違いなく歳三だったと思う」
「ではまだ屋敷のどこかに隠れているのかもしれない」
善兵衛は一瞬明るい顔になったが、真顔の熊楠を見て思いとどまった。考えるまでもなく、警察を含めてあれほど屋敷中を捜しまわり、大騒ぎになっている中で、幼子《おさなご》が隠れつづけられるわけがなかったからだ。
「やはり神隠しなんでしょうか?」
「何とも言えんが、俺には神隠しとしか思えん」
熊楠は、床の間に掛けてある見事な達磨《だるま》の絵の掛け軸を見ながらポツリと言った。
「歳三が土蔵から出て、先生の横に立っていたということはありませんか?」
「あれは尋常のものではなかった。第一、襖は最後まで閉じられたまま一度も開いた形跡がなかったからな」
「そ、そうですか……」
善兵衛は肩を落とした。もし神隠しなら自分如きの手に負えるものではなかったからだ。歳三が鬼神に連れ去られてしまったと思うと、善兵衛はやり場のない悲しみに陥ってしまった。熊楠はそんな善兵衛を見て気の毒に思った。
「昔の記録にいくつか神隠しの話が書き残されているが、今度の歳三の出来事と似ているような気がする」
「そんな記録があるんですか?」
善兵衛は身を乗り出してきた。熊楠は腕を組むと一つ大きく息をついた。
「一つは、寛文四年に徳川幕府の役人が木曽路を巡回中に起きた神隠し事件だ。駒ヶ岳の絶壁に大きなあし毛の馬が現れた。その時、急に靄《もや》のようなものが馬を包み込んだかと思うと、次の瞬間には馬の姿は無かったということが報告されている」
「馬が神隠しにあった記録ですか?」
「ああそうだ。それ自体、神隠しの中でも珍しいことと思われるが、もう一つは、神隠しの後で消えた本人が舞い戻ってきたという話だ」
「神隠しにあっても戻ってきた者がおるのですか?」
善兵衛は驚いた顔をした。
「ああ、どうやらあったみたいだな」
「それはどんな?」
善兵衛はさらに熊楠ににじり寄った。
「文化七年の記録で、宵五つ(午後七時から九時)頃、江戸浅草に天から白足袋だけ穿《は》いた真っ裸の男が落ちてきたことがあったらしい。あまりの異様さに奉行所が取り調べたところ、この男は三日前に京都の愛宕《あたご》山で消えた武士の伊藤安逸郎だということが分かったというのだ」
「それは本当でございますか?」
「どれも正式な記録として残された事件だからな」
熊楠の記憶力は人知を遥かに超えていた。
熊楠が十二歳の時、和歌山市内の古本屋で見つけた『太平記』が無性に欲しくなった。だが、残念ながら金がない。そこで小学校の帰り道に立ち読みでいくばくかを暗記して帰り、それを書き写すという作業をはじめたのである。その結果、『太平記』全四十巻は半年ほどで写本が完成したという。そして『和漢三才図会』全百五巻も同じやり方で三年で全て写し取り、他に『本草綱目《ほんぞうこうもく》』全五十二巻も記憶で書き写したとされる。まさに南方熊楠は明治時代の神童だった。
「ということは、歳三も戻ってくるかもしれませんね」
しかし神隠しで舞い戻ってくるのはほとんど聞いたことがない話でもあった。熊楠は気落ちしている善兵衛の屋敷にしばらく滞在することにしたが、あれほど熊楠を嫌っていた薫も、以後は熊楠を頼りにしはじめていた。
番頭、手代、丁稚、それに女中頭らも、翌日には警察署から戻された。結局、剣持は何一つ歳三についての手掛かりを掴むことができなかったのである。地元の新聞は、この事件を失踪事件として扱い、歳三の顔写真も一緒に載せたが、誰からも歳三を見たという申し出はなかった。
「坊っちゃんが神隠しに遭ったのは、あの箒星のせいらしい」
「やっぱり不吉な星じゃ」
「もっと縁起でもない事件が起きなければいいんだが」
「お祓《はら》いをしてもらう必要があるな」
女中や手代は、暇さえあれば人目を忍んで歳三の失踪について噂《うわさ》し合った。善兵衛と薫は思いつくところをあちこち捜しまわったが、全ては徒労に終わった。まさに歳三は空中に消えてしまったのである。
そしてついに問題の五月十九日がやってきた。人類死滅の日である!
その日は確かに異様な日だった。雨かと思うと晴れたり、気温の変化も著しい。特に夜になると、五月というのに秋のように強い風が吹き込みはじめた。そのため人々は、この気象異変を箒星の仕業と噂し合った。
学校によっては半分以上の子供が出席せず、その日はそのまま休校にするところも出たが、おおむね通常通りに授業は行われていた。学校に通えない小作農などの子供の多くは、家族と一緒に家に閉じこもり、じっとその時を待っていた。噂では首つりの準備までしている一家が少なくなかったという。
気の短い荒くれ男たちは、どうせ死ぬのならと朝から大酒を呷り、町中で暴れまわったあげく、警察官に捕らえられ次々と牢屋に放り込まれていた。いくつかの街角では怪しげな新興宗教団体が道に立ち、今こそ改宗する時と言っては人々を勧誘した。そうかと思うと奇妙な物乞いのような恰好をした男が現れ、末法《まっぽう》が来たと説いて、極楽浄土に行きたければ自分に従い山に籠《こ》もれと叫んだりしていた。
実際この日は、家に閉じこもってチューブや風船を口にくわえている者も数多くいた。だが、善兵衛夫婦は、歳三のことで人類死滅などはどうでもよくなっていた。
各地で、何処そこの村が全滅したという類《たぐい》の噂が飛び交うたびに、人々は驚き恐れおののいた。なかには恐怖に勝てず川に身を投げる者も出たため、警察は治安維持に大変な一日となった。そうした中、年寄りたちは孫の手を引いて寺にこもり、僧侶と一緒に読経をする者が多かった。他にも、箒星の尾で死ぬくらいならと、それまで一生懸命働き溜め込んだ金を、色街で使い果たす御仁などもいた。
多くの者は、人類死滅の日を半分デマとして扱い、日常と変わらぬ生活を送ったが、どこか一片の不安は隠せぬ様子で、時に空を見上げてはため息をついたりしていた。
この日、熊楠は徳島郊外にある忌部のものと思われる遺跡を調査した後、夕方遅くに戻ってきた。
徳島市内は相変わらずの賑やかさだったが、どことなく人々の不安げな顔が印象に残る一日だった。結局この日は、気象の急変以外は別段何事も起きなかったため、善兵衛夫婦も夜半過ぎには自分たちの部屋から出てきた。
廊下で熊楠と会った時、「高い買い物だったな」と言われた善兵衛は恥ずかしそうな顔をした。
しかしこの夜、またしても屋敷内で不気味な事件が起きたのである。
夜八つの丑《うし》の刻(午前一時から三時)、闇を切り裂くような叫び声が桔梗屋の中で轟《とどろ》いた。
その異様な叫び声で、店中の者が一斉に目を覚ました。
深く寝入っているところへ悲鳴が上がったため、布団から飛び起きざま、慌てて腰を傷めた年寄りもいた。結局皆が叩き起こされ、一体何が起きたのかと訝《いぶか》しがりながら廊下に飛び出してきた。
熊楠もあまりの叫び声の大きさに驚き、裸のまま布団から飛び起きると、天井に吊るされている白熱電球をつけた。薄寒かったので、熊楠は浴衣を羽織った。
その時、一階では厠《かわや》付近から丁稚の正太《しょうた》が泡を食って飛び出してきた。
「うわあぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
屋敷中を叩き起こした張本人だ。正太は厠の前の廊下にへたり込んでいて、必死に口をパクパクさせるだけで全く埒《らち》が明かない。
そこへやって来た熊楠は、正太の後ろに回って一発活を入れた。ようやく正太の癇《かん》は落ち着いたかに見えた。
「一体何があった?」
熊楠は片手を正太の肩に置きながら、優しく聞いた。
そこへ、主人の善兵衛もやってきた。
「悪い夢でも見たのか?」
熊楠が促《うなが》すと、正太はガチガチと歯を鳴らしながら震える手で雨戸を指さした。
「雨戸が……雨戸がどうかしたのか?」
熊楠の言葉に、正太は首を激しく横に振った。
「雨戸じゃなかったら何だ。雨戸の向こうに何かあるのか?」
正太はウンウンと頷《うなず》き、熊楠の太い腕を思いっきり掴んだ。
「み、み、見たんです……」
「何を見たんだ?」
熊楠の腕に正太の爪が食い込んでくる。どうやら相当な恐怖を感じているらしい。その痛さを我慢しながら熊楠が聞いた。
「だから何を見たんだ?」
正太はつかえながらも、必死に熊楠に話そうとしている。
「タ、タネさんが……土蔵に食われるのを……み、み、み、見たんです」
一瞬その場にいた全員の時間が凍りついたかのように静止した。
「な、なんだって?」
熊楠は一瞬、正太が何を言っているのか分からなかった。
「正太、それは一体どういうことだぁ?」
善兵衛が熊楠の横から割って入ると、正太の襟首を掴み上げながら大声で言った。
「よ、夜中、小便が我慢できなくなったんで厠に行ったんです……そ、そして小便をしながら何気なく窓から外を見ていたら、タ、タネさんが裏庭にいて、三番蔵に近づいていくのが見えたんです……」
「……それで?」
善兵衛がまた大声で言った。
「……す、すみませんっ、すみませんっ!」
熊楠は、正太を怖がらせるなと善兵衛を諭《さと》した。
「わ、悪かった、正太、それでおまえは何を見たんだ?」
主人が優しく言ったので、安心した正太は再び話しはじめた。
「タ、タネさんが、三番蔵の壁に手を伸ばしたんです。そしたらその手が土蔵の壁にキュッと飲み込まれて、次の瞬間にはタネさんは頭の先から土蔵に食われてしまったんです!」
全員の背筋を、嫌な戦慄《せんりつ》と悪寒《おかん》が貫いた。
「タネ! タネはおらんかぁ……っ?」
善兵衛が大声でタネの名を呼んだ。
「誰かタネがいるかどうか、女中部屋へ行って確かめてこい」
「へえっ!」
一人の女中がタネの部屋に駆けていこうとした。しかし、そこへ当のタネ本人が眠い目をこすりながらやってきたのである。
「えええぇぇ……………っ?」
その瞬間、全員が唖然とした表情でタネを見つめた。
「な、何かあたしの顔についてますか?」
そう言うとタネは、太い指で自分の顔を撫でまわした。それを見て、皆は拍子抜けしてしまった。
「一体何があったんで?」
タネは皆の異様な視線を一身に受けて戸惑い、どうしてそういう目で自分を見ているのか分からないという顔をした。
「タネ! おまえはさっき裏庭に出て三番蔵の方へ行ったか?」
善兵衛の言葉にタネはキョトンとした顔をした。
「いえ旦那様、あたしはいつものようにセイと女中部屋で寝ていましたけど……」
一緒にいたセイもそれに頷いた。
「旦那様、一体何があったんですか?」
タネの言葉に皆はほっと胸を撫で下ろしたが、そうなると問題は丁稚の正太の方だった。
「阿呆か! やっぱりこいつが寝ぼけとったんですわ」
手代の喜祐《きすけ》が正太の頭をバシンと一発はった。
「すみません! すみませ………ん!」
正太は何が何だか分からないという顔だが、タネがいる以上は泣きながら謝るしかなかった。皆もホッとすると同時に、子供だから仕方がないかという顔になって、それぞれの部屋へと戻っていった。
正太もうなだれながら、他の丁稚たちと一緒に自分の部屋へと帰っていった。
「丁稚一人でとんだ騒ぎになりましたな」
善兵衛は熊楠に苦笑しながら言った。
「…………」
熊楠は起きたついでにと、善兵衛を後に残して厠へ入った。
使用人たち用の小便用便器は、熊楠らが使っている青磁ぐすりがけの陶磁器便器と違い、ただの木製の朝顔便器だった。
厠の天井にもエジソン発明の白熱電球が吊り下げられている。文明開化が進んだおかげで、最近では町の商家などでは蝋燭《ろうそく》やランプから白熱電球へと換わっていたが、日に何度も停電するため、結局は蝋燭やランプも手放せない状態だった。
熊楠は薄寒い中で小用をたしながら、ちょうど顔あたりに開いている小窓から外を眺めた。確かに三番蔵が斜め右に見えた。この厠は使用人専用で、善兵衛たちの使う厠とは違う場所にあった。そのため熊楠も使用人の厠が三番蔵の近くにあることに気づかなかったのだ。
外は墨を流したような闇夜で、仮にそこに人の姿があったとしても、厠からハッキリと見えるはずはなかった。厠の裸電球がついていても同じことで、誰が土蔵の前に立っているかまでは絶対に分からないと熊楠は思った。おまけに土蔵の壁に手を伸ばす仕種《しぐさ》など見分けられるとは思えないほど、闇夜は深かったのだ。
「やっぱり小僧が寝ぼけたのか」
熊楠はそう呟《つぶや》くとサッパリした様子で厠から出た。
遠くから野良犬の遠吠えが聞こえ、それが何となく物悲しさを感じさせた。夜は深く静まり、熊楠は大きく伸びをすると、もう一寝入りするため二階へ上がっていった。
翌日の金曜日、世間では会う人ごとに昨日の箒星のデマ騒ぎの話題で持ちきりだった。新聞も何事も起きなかったことに安堵《あんど》する社説を載せるとともに、噂を信じて自殺したり、早まって金を使い果たした男の記事を載せていた。
なかにはまだ安心できないと吹聴《ふいちょう》する者もいたが、時とともに相手にされなくなった。
熊楠も新聞を読みながら、昨日の出来事を思い出していた。昨夜はとんだハレー彗星の夜になったが、女中が朝食の膳を熊楠の部屋に運んできた時、それが昨夜の話題の主だったタネだったので少し驚いた。
「やあタネさん、昨夜はえらい騒ぎに巻き込まれたな」
熊楠が声をかけたが、タネはそれには気づかず何処か虚《うつ》ろな目をしている。
「おいタネさん」
もう一度声をかけたが、タネは足が地につかないという態《てい》で、ボケーとしたまま部屋から出ていこうとした。さては丁稚が見た夢が気になり、あの後は寝られなかったのかと思い、それ以上は声をかけなかった。
タネは太った体をふらつく足で支えながら、奇妙な足取りで熊楠の部屋から出ていった。その様子を見た熊楠は、後で善兵衛にタネを少し休ませるよう忠告しようと思った。
膳の上には鰺《あじ》の開きと大根の漬物、それに熱い味噌汁と真っ白のご飯が乗っていて、お茶は湯飲みと一緒に別盆に載せられていた。
熊楠には飯についても独特の持論があった。飯は薄暗い和風の部屋の中で食べるのが最高で、湯気が立ちのぼる真っ白なご飯にわずかな光が当たっている状態が最も美味《おい》しく食することができると考えていた。そのための飯の器は、目立たず安物臭くなく、渋みがあって、茶器のような厚みのあるものを好んだ。熊楠はわざわざそれに見合う渋めの器を、骨董店まで買いに出掛けたほどである。今、飯が盛られているのが、その器だ。
歳三が神隠しに遭うまで、熊楠は善兵衛夫婦らと銘々膳を一緒に並べていたが、薫の体調が優れないことから、善兵衛は薫と二人で夫婦部屋で食事をするようになった。そのため熊楠は自分の部屋で膳をとるようにしたのだ。
熊楠は今日から数日間、山に籠もるつもりでいた。熊楠はかって、和歌山の熊野山中を歩いていた時、ある事実に気づいた。それは日本における神道と忍の関係を明らかにする切っ掛けであった。忌部の源流が紀伊半島と阿波山中にあり、熊野と力を二分する神道勢力が阿波の奥地に散在するという結論に至ろうとしていた。
特に熊楠は四国山中に多い五角の遺物に興味を持っていた。それを調べに行くつもりなのである。
朝食をとった後、女中に数日分の握り飯の弁当を頼もうと台所に降りていくと、何やら女中たちがひそひそ話をしているのが見えた。
「どうした?」
熊楠が聞くと、女中たちは別に何でもないという仕種《しぐさ》をして、そのまま急いで店の方へと消えていった。熊楠はおかしいと思ったが、釜の中に手を入れ、一人で握り飯を作りはじめた。
そこに年かさの女中がやってきて、客人にそんな真似をさせられないと、代わってご飯を握り出す。
「握り飯は大きめでしたね」
女中が開くと、熊楠は嬉しそうに頷いた。
「爆弾ぐらいの大きさにして海苔《のり》を巻いてくれ」
「はいはい」
女中はそう言うとせっせと飯を握った。
熊楠はふとさっきの女中たちの様子が気になり、何かあったのかと聞いてみた。すると、さっきからタネの姿が見当たらないという。
「でも、さっき俺のところに朝の膳を運んできたぞ」
熊楠が言うと、確かにその頃までは屋敷の中にいたそうだが、それから後の行方が分からないという。
「厠ではないのか?」
「とんでもない、厠はとっくに調べましたよ」
「じゃあ何処に行ったんだ?」
熊楠が気になって善兵衛のところに行くと、善兵衛は寝込んでいる薫の横に座って、何やらヒソヒソ声で話している。
「善兵衛いいか、少し話がある」
熊楠の声に部屋の中は一瞬静かになったが、すぐに善兵衛が出てきた。
「俺は今日からしばらく山中に調査に行ってくるが、タネの行方が分からなくなっていることは知っているか?」
「ええ、さっき女中頭から聞いたばかりです」
善兵衛が答えた。
「そうか、昨夜のことが気になって眠れなかったのだと思うが、俺に膳を運んできた時も焦点が定まらない目をしていたので、心配しておったんだ」
「昨夜のことで眠れなかったということですか?」
「ああ昨夜……」
その時、熊楠と善兵衛は、同時に思いついたことがあった。
三番蔵!!
二人はどちらからともなく急いで裏庭へ降り、並び立つ土蔵を駆け抜けて三番蔵の前へとやってきた。土蔵の最頂部には漢字で三≠ニ大書きされ、丸で囲まれている。
土蔵は白い漆喰《しっくい》で塗り固められ、天井付近の小窓は鉄の扉の中に頑丈な六角網が張られている。入り口も重い鉄の扉で、誰も侵入できない頑丈な造りになっていた。
善兵衛は閂《かんぬき》に掛けてある頑丈な鍵を調べたが、開けられた形跡はない。しかし善兵衛は土蔵の上の方に何か奇妙なものが突き出ているのに気がついた。
「なんでしょうか、あれは?」
熊楠もそれを見つけたが、何か白い人形の腕のようなものにも見える。
そこに手代がやってきたので、善兵衛は梯子《はしご》を持ってこさせ、のぼって調べてこいと命じた。手代は梯子を掛けると、ゆっくりとのぼっていったが、急にガタガタと震えだしたかと思うと、慌てて降りてきたのである。
「た、た、大変です、旦那様、あ、あれは人間の腕です!」
「な、なんだとおぉぉ……?」
「それも女の腕に間違いありません」
善兵衛は大急ぎで番頭を呼びつけ、壁にめり込んでいる人間の腕の正体を突き止めろと命じた。番頭が見ても、それは明らかに人間の腕だった。そこで善兵衛は手代の喜祐に、警察署まで剣持警部を呼びに行かせた。昨夜の正太の件もあり、喜祐は明らかに恐怖に震えていた。
熊楠は自分でも腕の正体を見届けようと、善兵衛が止めるのも聞かずに梯子をのぼっていった。梯子が掛けられた土蔵の壁から突き出している腕は、その白さから見て間違いなく女のものだった。掌《てのひら》を上に向け、指を半開きにしたような状態で白壁から突き出ていたが、熊楠にはそれが壁に飲み込まれた体の残骸《ざんがい》のように思えた。指の太さから見て、今朝、熊楠に膳を運んできたタネのものと思って相違ないだろう。
熊楠は気味が悪かったが、女の指先に少し触れてみることにした。熊楠には一度興味をもって始めると後に引けないところがあり、それが彼の性格を物語っていた。恐る恐る指に触れてみると、温かみが残っていて生きているかのようだった。
と、その瞬間、今まで全く動かなかった指がピクッと動くと、熊楠の太い腕をムンズと鷲掴みにしたのである。
「おわぁっ!」
さしもの熊楠も大声を出した。
白い腕は、熊楠の腕をガッシリ掴んで離さないばかりか、そのままズリッズリッと白塗りの土蔵の壁の中に引き入れようとしているではないか。慌てた熊楠は、もう一方の手で食い込んだ指を引き離そうとしたが、物凄い力で握りしめられていて、どんどん壁の中に引き込まれていく。
「た、助けてくれええぃ!」
熊楠は自分の腕をかばいながら叫んだ。熊楠の異常を知った手代たちが助けるために梯子を駆け上がってくる。
熊楠は裏庭の外れに、昨夜タネが土蔵に食われる夢を見た丁稚の正太が、呆然として立ち尽くしているのを見た。熊楠のそばまで来た手代は、手に持った下駄で女の腕を何度も何度も力一杯叩いた。すると女の腕が外れた。熊楠は急いで梯子から下に飛び下りた。
熊楠は助かったが、その瞬間に女の腕は壁の中へと消え、その直後、物凄い表情のタネの顔が壁から滲《にじ》み出てきたが、これも瞬時にして消え去った。
熊楠には一体今何が起きたのか、さっぱり分からなかった。ただ、手代が助けてくれなかったら、どうなっていたか分からないと思った。熊楠の腕は、凄まじい握力で握られたため蚯蚓腫《みみずば》れを起こしていた。
すぐさま三番蔵が開けられたが、腕が突き出ていた付近の内側には、全く何の形跡も残されていなかった。それは外壁も同じで、腕が突き出していた跡などは、何処を捜しても一切無かったのである。
剣持警部が到着した時、土蔵は何事もなかったように、いつものように立っていた。
「今度こそ納得の行く説明をしてもらおうか?」
警察署の取調室の中で、剣持は善兵衛と熊楠に言葉を荒らげて詰め寄った。
「貴様らは仲間うちでつるみながら、何か大きな犯罪を企んでおるのではあるまいなあ?」
「いえ剣持様、決してそんな! 本当に土蔵から人間の腕が突き出ていたんでございます。熊楠さんも手代も丁稚も女中たちも、皆その光景を見ております」
「フン、いい加減なことを抜かすな。そんな馬鹿みたいな話を、俺が信用するとでも思っとるのか?」
剣持はいきり立った。そして思いきり尋問机を叩いて大声で叫んだ。
「今を一体|何時《いつ》だと思っとる。文明開化の世の中だぞ……っ!」
しかし、熊楠は軽蔑《けいべつ》するような目で剣持を見つめていた。
「おまえは阿呆か? こんなものが自分で勝手につけられるか」
熊楠はそう言うと袖をたくし上げ、そこに残る異様な力で掴まれた跡を剣持に見せた。
「阿呆はおまえだ。こんなもんが身の潔白の証拠になるか。この程度で証拠になるもんなら、博徒の喧嘩は全員潔白じゃあ」
剣持が怒鳴った。
「どうせ今、部下に三番蔵を洗《あら》いざらい調べさせておるから、その内に何か証拠が出てくるやろ。そしたらただでは済まさんぞ」
そう言うと剣持は、懐から煙草を出して吸いはじめた。
「ところで熊楠とやら、貴様は明治政府の神社合祀令にえろう反対しとるそうやないか?」
「木《こ》っ端《ぱ》役人が」
熊楠は吐き捨てた。
「貴様だけは何があってもすんなりとは帰さんぞ。それは分かっとるやろな?」
そう言って剣持は顎《あご》で部下に合図を送った。すると数人の警官が熊楠を取り押さえた。そして、そのまま警察署の獄へ連れていった。その様子を見て、剣持は鼻で笑った。
「剣持様、あの方は今回の一件とは全くの無関係です。むしろ被害者になりかけた御方ですよ」
善兵衛は剣持に懇願《こんがん》するように言った。
「善兵衛、あいつは仮に事件とは無関係でも叩けば必ず埃《ほこり》が出てくる人間だ。だから俺が取り調べてやる。投獄理由も俺が勝手に作ってやってもいいんだぞ」
剣持は煙草の煙を善兵衛の顔に吹き掛けた。善兵衛は咳《せ》き込んだ。窓の外には、騎馬警官が警察隊を率いて治安維持訓練をしている姿が見えた。剣持はそれを飽きることなく眺めていた。
善兵衛が屋敷に帰されたのは夕方だった。結局、今回も警察は土蔵の中から何一つ犯罪の証拠を発見できなかったのである。
善兵衛は証拠不十分ということで屋敷に戻されたのだ。しかし、熊楠だけは釈放されなかった。この日から善兵衛の様子が少し変わった。さすがに三番蔵であんな不気味な目にあった以上、普通ではいられないのは当然だったのだ。
善兵衛は警察署の帰りに、そのまま祈祷師《きとうし》の百欄《ひゃくらん》の家を訪れていた。
百欄はまだ三十を過ぎたばかりの妖艶な魅力を放つ祈祷師だった。言い寄る男衆は数知れず、浮いた噂も一つ二つではなかった。それでも百欄の人気は高まる一方で、大店《おおだな》の旦那衆にも受けがよかったため、いつも百欄の仕事は繁盛していた。
特に今回の箒星騒動では客が殺到し、祈祷によって箒星の害を退散させるという百欄に向けて、旦那衆から多額の祝儀が寄せられた。百欄は別に新興宗教を起こしたわけではなかったが、神社や寺からは疎《うと》まれていた。怪しい祈祷をしては大金をせしめていると思われていたからだ。
善兵衛が百欄の門を潜《くぐ》った時も、何人かの客人が座敷に上がって順番を待っていた。その待合の場に、目つきの鋭い奇妙な若い男が一人座っていた。どこが奇妙かと言うと、どう見ても客という風体ではなく、仕込み杖をいつも脇から離さなかったからだ。
どちらかと言うと優男だろうが、どこか病的でニヒルな顔をしていた。口には爪楊枝が一本くわえられ、それをいつまでも口の中で転がしつづけているだけで身動き一つしない。それでいて、決してこちらに視線を送るわけでもなく、じっと正面の壁を見つめているだけなのである。
前の客が次々と百欄の祈祷所に呼ばれても、その男は順番を待っているという感じではなかった。実際とうとう善兵衛に順番が来てしまった。その男が呼ばれることはなかったのである。
善兵衛は久しぶりに百欄の祈祷所に入った。
祈祷所は全面朱塗りで金箔が施され、どこか浮き世離れした眩《まばゆ》いばかりの別世界だった。祈祷所の正面には、どこの神社にも無いほどの巨大な鏡が置かれ、三つ巴の太鼓は何処よりも大きかった。
祭壇の下には朱塗りの欄干《らんかん》が三方の木組みで配され、その中央に金糸で編まれた大きく厚い座布団が置かれている。その上に巫女《みこ》姿の百欄が鈴と玉串《たまぐし》を持って座し、無数の蝋燭が異様なまでの輝きで百欄の妖艶な姿を映し出していた。
善兵衛は通されるまま、百欄の後ろで一段下がった床に座った。
「久しぶりだね、善兵衛。息災だったかえ?」
百欄は開口一番に言った。
「え、ええ、まあ何とか」
善兵衛はそう返事するだけがやっとだった。
「何とか……か」
百欄はそう言うと、後ろを振り向いて善兵衛の顔を見た。
「歳三の件は噂で聞いておる。それでおまえは我に何をしてほしいのか?」
久しぶりに見た百欄は、眉を剃ってはいたが、以前と変わらぬ妖美な美しさを放っていた。括《くび》れた腰と細いしなやかそうな腕は、今までに何人の男衆を喜ばせてきたのだろう。旦那衆の百欄への通い道は、決して祈祷だけのためではなかったはずなのだ。
「歳三が神隠しに遭った今、もはや桔梗屋に跡取りがなくなりました。私も寄る年波に勝てず子を成す力もない……」
しばらくの間、沈黙が流れた。
オホホホホホホホホホ………
その沈黙を破ったのは百欄の甲高い笑い声だった。
「見よ、善兵衛、我が昔申したことが正しかったであろうが」
百欄はそう言うと、これ見よがしにジャラジャラと鈴をかき鳴らした。善兵衛は頭を下げた。そして肩を震わせると、その場に泣き崩れたのである。善兵衛は今まであからさまに泣く姿を屋敷でも妻の前でも見せたことはなかった。しかし、百欄の前では号泣できたのである。
百欄は目を細め唇を嘗《な》めると、欄干の祈祷台からゆっくりと立ち上がり、そのまま善兵衛のところまで降りてきた。そして善兵衛の震える背に細い腕を回すと、耳元に口をつけてそっとこう呟いたのである。
「おまえの根が役立たないなら、我が昔のように蘇《よみがえ》らせてやろうかえ?」
そう言うと百欄は、善兵衛の口に厚い唇を押し当てた。善兵衛はこの時、百欄の放つ懐かしい香りを思い出した。
(百欄は昔の百欄と同じだ……!)
善兵衛は心の何処かでは、百欄との濡れ事を期待していたのかもしれない。何故《なぜ》なら昔、百欄とは大いに浮名を流した仲だったからである。
問屋組合の寄り合いの帰り道、軍兵舎からの寄り道などで、善兵衛は百欄と何度も逢引し、何年もの間、逢瀬を重ねてきたのだ。百欄は一度男心を捕らえたら離さぬ妖艶な魅力があり、今も男の数は両手に余るほどのはずだった。
善兵衛は百欄に仲《の》しかかられるようにしてその場に倒れこんだ。百欄の目は獲物を捕らえた雌狐のように、青白く燃え上がった。そして善兵衛を自分の思い通りにもてあそんだのである。善兵衛は再び、男としての自分を取り戻していた。
善兵衛はもっと早く百欄の元を訪れればよかったかもしれないと思った。しかし、百欄とはもう切れていたため、どうしても来ることができなかったのである。百欄が大店の旦那衆を総なめにしている噂も聞き知ってはいたし、娼婦同然に肉体で男を手玉にとっている噂も聞いていた。
それだけに、妻への遠慮もあって、事件が起きた後も百欄のところに来ることだけは、どうしてもできず足が遠のいていたのである。しかし、歳三の一件では是が非でも百欄の助けが必要になったのだ。昔は一緒に浮名を流した相手だけに、善兵衛は今も百欄と縒《よ》りを戻せたらと、心の何処かでは考えていたのかもしれない。
「あの待合部屋にいた目の鋭い若造は誰なんだ?」
善兵衛が聞いた。
「おやおや、五年も遠ざけておいて今さら焼き餅かい?」
百欄は自分の細い両足を大きく開くと、褌《ふんどし》をキリッと締め上げた。百欄は陰間《かげま》(男娼)だった。阿波で色子と呼ばれていた頃から、旦那衆から可愛がられ、女形として芝居に出て、なかなかの人気も得ていた。ところが戯《ざ》れ事が過ぎて何度も舞台に穴をあけたため、芝居小屋から締め出されてしまったのである。
しかし人生はどう転ぶか分からない。たまたま霊感が鋭かったことから、母親譲りの祈祷師の商売をはじめたらこれが大当たり。おかげで旦那衆も戻ってきて、百欄にいろいろな相談事を持ち込むようになったのだ。
そしてこれがまた良く当たるため、相場の相談やら厄《やく》払いやら、おまけに占いや人生相談まで持ち込まれるようになり、百欄の祈祷所は大繁盛したのである。もちろん旦那衆の目的が祈祷や占いだけでないことは明らかで、祈祷所では様々な男衆が悦楽の中で身を焦がしたはずなのだ。
そういう旦那衆の中に善兵衛もいたが、百欄は他の脂ぎった旦那衆とは違う善兵衛を一際《ひときわ》好み、本気で所帯を持ってもよいとさえ思っていた。割れ鍋に綴し蓋とは言うが、所詮は遊び、道楽の域を出ない。陰間と本気で所帯を持とうという男など徳島市中に限らず滅多にいるものではない。ただ、善兵衛は別れた後も百欄に未練を持っていた。
かくして今も百欄は善兵衛を憎からず思っていたのである。善兵衛は妻を思うと百欄を捨てざるを得なかったのだが、今回の事件で再び縒りが戻ってしまったようである。
「あの男の名は、名無しの権兵衛《ごんべえ》!」
百欄が言った。
「冗談はよしてくれ」
善兵衛はちょっと怒った顔になった。
「いえ本当よ。あの男がそう名乗った以上はそう信じるしかないでしょう」
「…………」
キョトンとする善兵衛を見ながら、百欄は話をつづけた。
「そして、あの男は我の用心棒」
「用心棒だって?」
善兵衛は驚いた顔をした。
「そう、最近では私の人気を妬《ねた》んで嫌がらせをする輩が多いのよ。なかには私の命を狙う奴もね」
「だろうな……」
善兵衛も、これほど繁盛する祈祷師なら、宗教で飯を食っている連中は捨てておかないだろうと思った。
「あの男はとても腕がたつ。本人は寡黙《かもく》であまり詳しくは話したがらないけど、父親は幕末当時、京都で名が知られていたらしい」
「尊皇攘夷派の勤皇の志士か、それとも佐幕派の武士か?」
「どうやら壬生《みぶ》らしいわ」
「じゃあ壬生|浪《ろ》か……」
「そういうことでしょうね」
百欄は善兵衛に肩を寄せながら、コクリと頷いた。
「新撰組の生き残りか……」
善兵衛は遠い目をした。子供の頃から新撰組の名は四国にも轟いていた。大人たちが恐々この侍軍団の話をしているのを横で聞いていたものだ。
「腕は確かなのか?」
「ええ、あの男の剣は抜いた時に勝負がついてるわ」
「居合《いあい》か?」
「まあそういうことでしょうね」
「見たのか?」
善兵衛は真面目な顔つきになった。
「なにを?」
「なにをって、殺《や》るところをだ」
「ええ、何度も」
百欄はいとも簡単に答えた。
「何度も……?」
「だから私の周りには、幾人もの男の死体が転がっているのよ」
そう言うと百欄は意味深長にコロコロと笑った。
ハレー彗星は問題の五月十九日以降は、西方の天空に現れ、たなびく尾も東南に向かって延び、最初東方に現れたときとは、全てが逆向きになっていた。
日がたつにつれ彗星の尾と頭部は幽《かす》かになり、人々は段々と彗星のことを忘れていった。四月以来久しく地球付近にあったハレー彗星だが、新聞各紙も今後は見えなくなると報道し、次の到来は七十年後ということだった。こうして人々は、人騒がせな彗星事件から解放されたのである。
しかし善兵衛の屋敷ではそれどころではなかった。この日、善兵衛は百欄を桔梗屋に呼び寄せていた。百欄の霊感と祈祷によって歳三の行方を占うとともに、歳三の無事を祈願させるためだった。
百欄は精進潔斎《しょうじんけっさい》と禊《みそ》ぎを済ませていた。百欄は付き添いに、三番蔵の前に祈祷所の祭壇を作らせ、その周囲にしめ縄を張って、壇上に幣帛《へいはく》や玉串そして御饌《ごせん》などを並べさせた。
百欄の用心棒はその様子を見るでもなく廊下に座り、気だるそうに爪楊枝を噛んでいた。
その日、桔梗屋は店を閉め、店の者一同がその場に集《つど》って祈祷に参加した。善兵衛は裏庭に面した廊下に座し、百欄が控えの間から出てくるのをじっと待っていた。
善兵衛にすれば、歳三やタネの身に起こった出来事は、人知を遥かに超えた現象である以上、警察より霊能力者の百欄を通して神頼みする方が理に適《かな》っていると思ったのだろう。善兵衛は番頭に命じ、百欄が控えている座敷に呼びに行かせた。
ほどなくして、百欄がお付きを従えて座敷から出てくると、しずしずと裏庭へと降りたった。薫も間もなく奥から現れ善兵衛の隣に座した。薫は神隠し事件で体調を崩して寝込んでいたが、祈祷というので無理をしてでも出てきたのだ。
百欄の持つ妖艶な美貌は、すでに性の壁を超越し、その姿を見た一同から思わず感嘆のため息が漏れた。百欄の少し後ろには、つかず離れず名無しの権兵衛の姿があった。
名無しの権兵衛とはいくらなんでもふざけた名だと善兵衛も思ったが、用心棒稼業のため名が割れることを避けているのだと思った。
百欄は祭壇の前に設置した護摩壇《ごまだん》に座すと、印を結びながら大きく息を一つ吹いた。そして気合とともに二本の指を刀のように立て、袈裟懸けに何度も何度も切り下ろしたのである。
「イーエッ! エーイ!」
その姿は修験者か荒法師のように激しく、見ている者を圧倒した。その後、護摩が焚かれて祈祷が始まったのである。
百欄は幣《ぬさ》を手に祓詞《はらえことば》を口にしながら汚れを清め、さらに歳三の行方を占いはじめた。果たしてどれだけの時間が経ったであろうか、百欄の祈祷は時には激しく時には穏やかに、まるで磯に打ちつける波頭のように起伏しながら延々とつづいた。百欄の祈祷の間、三番蔵は今までと何ら変わらぬ姿で黙して立っているだけだった。
祈祷がはじまって一時間ほど経った頃だったか、急に用心棒が体を起こすと仕込み杖に親指を掛けた。それと同時に百欄も、突然雷に打たれたように座から立ち上がった。そして、汗に濡れた顔で皆の方を向き直ると、こう言い放った。
「歳三の姿が土蔵の中に見える!」
「エエエエエエエ…………………………ッッッ!!」
一同が叫びにも似た声を上げたのは言うまでもない。それまでやっとの思いで座っていた薫も、百欄の言葉に思わず立ち上がった。勿論《もちろん》、善兵衛は急いで番頭に命じて三番蔵を開けさせた。
最初に土蔵に飛び込んだ番頭は、一瞬、薄暗い土蔵の隅に歳三が体を縮こまらせているような気がした。しかしそれは一瞬の錯覚で、土蔵の隅には何も無かった。土蔵はあくまでもシンと静まり返ったままである。
三番蔵は事件が相次いだため、荷のあらかたを別の土蔵に移した。そのため残っているのは中央に置かれた空の大きな長持ち一つだけで、後は何も置かれていなかったのである。土蔵を完全に空にするのは商家にとって縁起《えんぎ》がよくないため、たとえ空の長持ち一つでも置いておくのが善兵衛の主義だった。
番頭につづいて入った手代の一人が、真ん中に置いてある長持ちがカタカタ鳴ったような気がしたのか、恐る恐る長持ちに近づくと、耳を押し当てた。しかし、中からは何の物音もしない。
「どうした?」
番頭が聞いた。
「いえ、ちょっと長持ちの中で音がしたような気がして……」
「馬鹿、だったら開けてみろ」
そう言うが早いか、番頭は自分から長持ちの蓋《ふた》に手をかけた。
「ま、待ってください、気をつけた方が……」
そう言われた番頭は一瞬|怪訝《けげん》な顔をした。
「ここは三番蔵ですから気をつけないと……食われるってこともあるかも……」
「……!」
番頭は蓋に掛けていた手をすぐに引っ込めた。空の長持ちは、薄暗い蔵の中で何かしら恐ろしげな威圧感を放っていた。その時、中からゴトゴトという大きな音がして、長持ちが激しく揺れた!
「うわああ〜〜〜〜!」
番頭と手代は腰を抜かさんばかりに驚き、長持ちの前から飛びのいた。
「ど、どうした?」
そこへ善兵衛が土蔵に入ってきた。
「い、今、長持ちが、ゆ、揺れました……!」
「なにい〜〜い!」
善兵衛は怖がる二人を押し退《の》け長持ちの前に立った。そしてゆっくりと蓋に手を掛けると、一気にそれを開け放ったのである。その瞬間、善兵衛の顔が見る見るうちに引きつりはじめた!
善兵衛がそこに見たものは、到底尋常と言えるような代物ではなかったからである。
「うわああああぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
善兵衛は大声で叫ぶと、その場に腰を抜かしてヘタヘタと倒れこんだ。主の叫び声とともに番頭たちが一斉に土蔵の中から飛び出して来たため、外で待つ皆の心に凄まじい戦慄《せんりつ》が走った。
用心棒の仕込み杖は既に抜き放たれ、真剣の氷のような刃が陽の光を受け不気味に光っていた。それを見た百欄は意を決するかのように印を切ると、皆の見守る中を蔵に入っていった。一瞬、用心棒の若者が百欄を制止したが、百欄は首を横に振って、自分の後からついてくるように促した。
百欄は土蔵の中で腰を抜かしている善兵衛を横目で見ながら、ゆっくりと長持ちに近づき中を覗いてみた。
「おおおおおおおおっっっっっっ!」
百欄も思わず声を上げた。何と長持ちの中には神隠しにあったはずの歳三が真っ裸で座っていたからだ。
歳三が戻ってきただけでも大変なことだが、さらに周囲を驚愕させたことは、歳三が長持ちの中に………………何と三人もいたのである!!
ケタケタ朗《ほが》らかに笑う三人の歳三を前に、さすがの百欄も思わず後ずさりした。用心棒は剣をかまえて前に出ようとしたが、百欄はあわててそれを止めた。
一体何ごとが土蔵で起きているのか心配になった薫が、女中たちの制止を振り切って土蔵の中に入った。ところが長持ちから顔を出して笑う三人の歳三を見た瞬間、その場で卒倒《そっとう》してしまったのである。
「おかみさん、おかみさん!」
「だ、大丈夫ですかぁ……っ」
店の者たちは土蔵で気を失った薫を、あわてて外へ担ぎ出した。善兵衛もあまりのことに茫然自失し、気が抜けたように土蔵の中でへたり込んだままだった。土蔵から出てきた三人の歳三の姿を見た時、店の者たちは一体どうしてよいのか分からず立ち尽くすだけだった。
騒ぎの後、ようやく落ち着いた薫と善兵衛に呼ばれ、百欄は奥座敷へ通された。
「百欄様、子供が三人も現れたのは一体どういうわけでしょうか?」
薫が縋《すが》るような顔で言った。
「わ、我も三人の子供にはさすがに驚いた。しかし、今は何が原因でそうなったのかは正直なところ、我にもさっぱりと分からぬ」
百欄は顔面|蒼白《そうはく》で、指先が震えるほどの恐怖に取りつかれているのが分かった。
「百欄様にも分からぬとは……?」
薫も動揺を隠せなかった。
「しばらく様子を見なければ見えてこないものもあるゆえ、祈祷はつづける方がいいのかもしれぬ」
百欄は考え込んでいた。善兵衛は、これほど取り乱した様子の百欄を見るのは初めてだった。
「あるいは三人で一人なのかもしれぬ」
百欄はポツリと呟いた。
「と申しますと?」
驚いた顔で薫が聞いた。
「この後も日を定めて桔梗屋を訪れ、子供のために祈祷をつづければ分かるであろうが、あるいは神の悪戯《いたずら》であれば三人の子供はやがて一体に合するかもしれぬ」
「というと、この異様な有り様は一人の子供が成しているとでも?」
「そうでないなら、あるいは他の二人は別の者かもしれぬ」
百欄は意味深げに言った。
「そうだ、そうとしか思えぬ。これは其方《そのほう》たち夫婦の因縁《いんねん》が起こした因果かもしれぬぞえ!」
百欄の額に汗が光った。
「夫婦の因縁とはどういうことなのでしょうか?」
薫は怒ったのか鋭い目つきで言った。
「おかみ、他の二人はおかみの亡くした二人の赤子かもしれんということだ」
「……!!」
百欄の言う通り、薫は今まで善兵衛との間に二人の男子を成したが、どちらも生まれる前にこの世を去っていた。かつて善兵衛夫婦はそのことで悩み、百欄に相談を持ちかけたことがあった。そのため、三番目の子に歳三と名付けたのである。
「で、ではあの中の二人は、亡くなった二人の赤子が歳三の姿を成して現れたとおっしゃいますか?」
善兵衛が叫ぶように言った。
「そう思わざるをえないのかもしれぬな」
そう言う百欄の顔は真顔だった。
「しかし、神隠しと死んだ子とは……」
善兵衛はさっぱり分からないという顔で腕を組み、首をひねった。
「よいか、そもそも神隠しそのものが異常なのだ。それが神界に関わる現象であれば、死んだ子の霊界と隣接していないと誰が言えようか」
百欄の言葉に善兵衛と薫は黙ってしまった。
「とにかく尋常ではない現象で消えた子が戻ってきたのだ。多少の奇異はついてまわるだろう。今日は疲れたゆえ、数日後に祈祷所に訪ねてまいれ」
そう言うと百欄は、さすがに疲れたという顔をして立ち上がった。すかさず善兵衛は番頭を呼んで、礼金を持ってこさせた。
「百欄様、今日のお礼としてお納めください」
善兵衛は番頭が運んできた相当な額であろう金子を、三方に乗せて差し出した。百欄は紙包みを有り難く受け取ると、それをお付きの者に手渡した。
「百欄様、どうか私どもをお見捨てなさらぬようお願いいたします」
善兵衛がそう言うと、百欄は小さく頷いた。その後、善兵衛夫婦は人力を呼んで百欄を屋敷から見送った。
「あんた、子供はどうしています?」
「女中たちが離れで見張ってる」
善兵衛夫婦は離れ屋敷へと向かった。離れでは三人の子供たちが、それぞれ着物を着せられ、女中たち相手に遊び回る姿があった。
女中たちも異様な光景に恐れと違和感を覚えながらも、命じられたことを精一杯務めていた。善兵衛はこの異様な光景に当惑しながらも、無邪気に遊ぶ三人の子供を見ていると、どの子も同じ歳三としか思えなかった。
「もし祈祷でも駄目な場合、私は三人とも分け隔てすることなく一緒に育てることにしたいがどうだろうか?」
薫も遊ぶ三人の子供を見ながら、一度失った歳三が三人になって戻ってきたのは、百欄の言うように亡くなった二人の赤子の縁と思おうと考えていた。薫は未だに死んだ子供たちを不憫《ふびん》に思いつづけていたし、その子らが歳三の姿を借りて戻ってきたと思うことに依存は無かった。夫婦はもう二度と子供を失うような目にだけは遭いたくなかったのである。
しかし店の者たちにすれば、そんな理由で納得できるはずはなかった。歳三が百欄の祈祷で戻ってきたことは喜ばしいに違いないが、どう考えてもこれは尋常の出来事ではない。実際に三人の歳三は異常だった。三人が口を開くのも同時なら喋る言葉も同じで、走ったり遊んだりするのも同時というのは、あまりにも異様なことである。
というより何か得体の知れないものが関与しない限り、絶対に起こらない怪奇現象なのだ。女中の中には三人の歳三を恐れるがあまり、自分から暇を申し出て里に帰る者が出てきた。善兵衛は店の者たちに固く口止めし、歳三のことを絶対に外の人間に話さないよう釘を刺した。そして子供たちに二人の女中をつけ、決して屋敷の外に出さないよう徹底させたのである。
捜索願いを出していたことから、警察には歳三が戻ってきたことを届け出る必要があった。それで、密かに剣持だけを屋敷に呼び寄せ、三人の歳三に引き会わせたのである。
剣持はその日から、大変な難問を抱え込むことになった。警察署に出された歳三失踪の届け出は引き下げたが、この顛末《てんまつ》の異様さにはさすがの剣持も悲鳴を上げた。
「貴様ら、本当は三つ子を生んでおいて、あらぬ事件を捏造《ねつぞう》し警察を翻弄《ほんろう》しておったのではあるまいな」
「と、とんでもない。剣持様にそんな真似などして、私どもに一体何の得があるんですか。それに三つ子を生んでいれば出生の時に最初から役場へ届け出ております」
善兵衛夫婦がそう言う間も、剣持の前で三人の歳三が廊下を右往左往しながらはしゃぎ回っていた。
「分からん、皆が同じ動き、同じ喋り方をするとは……これは容易な出来事ではないぞ」
剣持はこの異様な事件をどう処理してよいのか分からず、取り敢えず歳三が戻ったことだけを報告書に記載することにした。
「熊楠先生は何時《いつ》頃戻されるのでしょうか?」
善兵衛が聞くと剣持は如何にも嫌そうな顔をした。
「あの男は今日にでも釈放されるはずだ」
そう吐き捨てるように言うと、桔梗屋から逃げるようにして出ていった。
熊楠が桔梗屋に戻ったのはその日の夕方だった。相変わらず元気そうな熊楠を見て善兵衛は安心した。
「ご苦労さまでした、熊楠先生」
「おいおい善兵衛、俺は堅気の人間だぞ」
そう言うと熊楠は豪快に笑った。しかし、熊楠が笑っておれたのもここまでだった。屋敷の中を走り回る三人の歳三を見た熊楠は、それでなくとも大きな目をさらに大きく見開いた。
「善兵衛〜〜〜〜〜〜っ!」
熊楠は大声で叫んだ。
民俗学者でもあった熊楠は、桔梗屋で起きた尋常ではない事件に対して、確かに興味を抱いてはいたが、さすがにここまでになると卒倒しそうだった。この歳三の神隠し事件は前代未聞の出来事としか言いようがない。
熊楠は三人の中の誰が本物の歳三かを試してみることにした。
「歳三、おじさんのところに来い!」
熊楠がそう促すと、三人の歳三は一斉に熊楠の膝の上へと群がった。そして三人一緒に襖の端を指さし、そこに隠してある金平糖菓子をねだったのである。
「善兵衛、これでは一人の歳三が三人に分かれたとしか思えんぞ」
「はあ……」
善兵衛はため息をついた。
「亡くした二人の子も歳三の姿を借りて戻ってきてくれたと思えば……我慢もできます」
「しかしおまえら夫婦は我慢できても、店の者まではどうかな? それにこれでは西洋キリスト教思想の三位一体《さんみいったい》ではなく逆の一位三体だ」
熊楠は学者の端くれとして一連の歳三事件に学問的興味を抱かざるを得なかったが、薫はそういう熊楠の意識を見抜いたかのように釘を刺した。
「熊楠先生、お分かりいただいているとは思いますが、このことは世間様には知られてはならず、どうあっても発表は差し控えてくださいませよ」
そう言われて熊楠は一瞬考え込んだが、仕方がないという顔をして頷いた。
「善兵衛夫婦が困るなら俺は誰にも言わん。しかし増えた二人の歳三は戸籍の上でどうする。今さら三つ子でございましたと報告するか、それとも何処かから頂戴致しましたと報告するか、いずれはお主ら夫婦で決めねばならんぞ」
「わ、分かっています……」
善兵衛と薫は答えた。
「まさか死んだ二人の子が冥土《めいど》から戻ってきましたとも言えんしな」
そう言って熊楠は苦笑した。三人の歳三に押し入れから出した金平糖菓子を与えると、三人とも可愛い顔をして微笑んだ。
「善兵衛、聞けば歳三が戻ってきたのは百欄とかいう祈祷師の霊力のおかげというが、その者はこれについて何と言っている?」
「……はい、百欄様もよく分からないということです」
善兵衛が答えた。
「だろうな……」
「明日にでも主が百欄様の屋敷に伺うことになっておりますので、その時に相談に乗っていただけるかと思います」
薫が答えると熊楠は頷いた。
その夜、熊楠は自分がのっぴきならぬ状態に追い込まれていることを感じていた。熊野山中での調査で気づいた日本神道の根源の謎を解くため、四国に渡ってきたにもかかわらず、神隠しという異常な出来事に巻き込まれ、おまけに戻ってきた歳三が三人に増えるという百鬼夜行顔負けの現象に、ドップリ両足を突っ込んでしまったからである。
「これも運命なら酒と一緒に腹の中に飲み込むしかないか」
熊楠はそう呻《うめ》くと布団を頭までかぶった。
翌朝、日本手拭いを首に巻いて顔を洗っていた熊楠は、自分の後ろを見慣れぬ女中が一人通り抜けたのに気づいた。その女中の顔はどこか青ざめていて、地に足がついていないというふうだった。
挙動が不審だったので女中頭にさり気なく聞くと、その女は昔、桔梗屋に奉公していたことがあったらしく、神隠し事件で何人かが辞《や》めたため、善兵衛が里から呼び戻したという。
女中の名は静と言った。静はどうも離れ屋敷ばかりが気になるらしく、始終そこにばかり目をやっていた。熊楠は静に近づくと耳元でこう切り出した。
「あんた、さっきから離れ屋敷が気になるらしいな」
熊楠の声に驚いた静は、そのまま頭を下げると足早に台所へと姿を消した。その後も何度か静の姿を見たが、なぜか薫から激しくなじられたりしていた。それも一度や二度ではない。薫はよほど静とうまが合わない様子に見えた。
歳三が戻って三日後、善兵衛はとうとう我慢できずに百欄の屋敷へと向かっていた。
道中、どうも誰かにつけられている気がしてならないので振り返ったが、怪しい人影は何処にもなかった。自分と同じような通行人が忙しそうに歩いているだけである。
大八車で米俵を運ぶ者、背を丸めて歩く薬売りの姿、姉さん被《かぶ》りで忙しく立ち働く女たち、壊れた樽のたが[#「たが」に傍点]を転がしてはしゃぐ童たちなど、雑多な姿があるだけだ。どうもここしばらく得体の知れない出来事が連続したため、神経がまいっていると思った善兵衛は、先を急ぐことにした。
その善兵衛の姿を見守る一人の男がいた。男は日本人離れした長身で、全身を黒いコートで覆って立っている。その男の右の頬には縦に斬られた深い傷痕が残されていた。
百欄の屋敷に駆けつけた善兵衛は、すぐに異変に気がついた。それはいつも百欄のそばにいて祈祷を助ける付き添いの女の様子からも分かった。さっきからいやに落ち着きを無くし、百欄を恐れている様子だからだ。
何日も眠れなかったかのように百欄の目は真っ赤に充血し、目の下には青黒い隈《くま》ができていた。それに、行動は何処かおろおろとして落ち着きがない。善兵衛と話していても視点が定まらないふうで、故意に善兵衛と目を合わさないようにもしている。
「どうしたんだ、百欄?」
善兵衛は心配そうに聞いた。
「私は恐ろしい! こんな異常な現象は私の手に負えるものではない」
明らかに百欄は怯《おび》えていた。目に見えてガタガタと体を震わせ、歯の根も合わない有り様になっている。
「おまえほど霊感のある者が駄目だと言うのなら、私はどうすればいい」
善兵衛も心底困り果てた。
「悪いとは思うけれど、これ以上立ち入ると自分の命を失いそうな気がする。それほどおまえさんの屋敷で起きた事件は底が見えないんだよ。まるで目の前にポッカリ開いたドス黒い地獄の大穴という感じなんだ」
「しかし、ここでおまえに見放されたら私は……」
善兵衛は首を振って頭を抱えた。
「善兵衛、悪いことは言わない。今すぐ私と一緒にここから逃げ出そうよ。おかみさんのことも子供のこともかなぐり捨ててさ。私と一緒にここから逃げ出すんだ。あんたと一緒なら私は何処にだって行くからさ」
動揺を隠さない百欄の様子を見た付き添いの女は、今までに見たこともない変貌に驚いていた。
「……そ、それはできん。私がいなくなれば桔梗屋はどうなる。奉公人たちはどうなる」
「いいさ! どうせ私はお荷物だったということさね。しかしこれだけは言っとくよ。あんたもすぐにあそこから逃げ出さないと死ぬことになるってね」
「……!!」
善兵衛は言葉を失った。これほどに怯える百欄の姿をかつて見たことがなかったからだ。百欄には確かに霊感があったが、今はその霊感が逆に百欄を追い詰めはじめているように思える。
「私には分かるんだ。そのことを思って昨夜から一睡もできないんだ。言っておくけど、とんでもない化け物があんたの屋敷に取りついているよ!」
「そ、それはどんな化け物なんだ?」
「ば、馬鹿だね、あんた。そいつが分かれば苦労はないさ。しかし間違いなくそいつはあんたの屋敷に取りついているんだ。でなきゃあんなことが起こるわけがない」
百欄は自分を必死に抑えながら言った。善兵衛は震える百欄が心配で手を差し出そうとしたが、百欄はそれを振り払った。
「もう二度と私に関わらないでおくれ!」
そう叫ぶと百欄は善兵衛を押して祈祷所から追い出してしまった。そして中から閂を掛けると、誰も祈祷所に入ってこれないようにした。百欄の祈祷所は他の目的のためにも使われるから、内側にも閂があるのだ。付き添いの女は二人のやり取りを見て、祈祷所の隅で震えるだけだった。
「百欄、頼むからここを開けてくれ」
善兵衛は祈祷所の戸を必死に叩いたが、百欄は全く応じない。それでも善兵衛は戸を叩こうとしたが、何者かが強い力で善兵衛の腕を鷲掴みにしたのである。
思わずギクリとして、後ろを振り返ると、あの若い用心棒がそこに立っていた。
「……わ、分かったよ。今日のところは帰ることにするさ」
そう言うと善兵衛は肩を落としながら百欄の屋敷を後にした。
百欄は心底震えていた。今までこんな状態に陥ったことは一度もなかったが、全てはあの日から始まっていた。そして今も百欄は凄まじい恐怖に襲われていたのだ。それは得体の知れないドロドロとした化け物で、体こそないが人の姿をした物《もの》の怪《け》だった。その異様な生き物の存在を、百欄は霊感で感じてしまったのである。
その時、護摩壇の前の祭壇に捧げてあった大鏡が、地震でもないのにガタガタと奇妙な音を立てはじめた。それを見た付き添いの女は恐怖で悲鳴を上げた。
その直後、百欄は異様な冷たさを伴う気の流れを肌で感じとった。それは何か得体の知れないおぞましいものが放つ匂いのようなもので、目には見えないが、間違いなくそこに存在していた。
百欄の背筋に不気味な悪寒《おかん》が走った。それは、最も恐れていたものだった。見ている前でガタガタ震動する大鏡は、百欄の発した気合によって瞬時に制止した。百欄は一瞬ほっと胸を撫で下ろし、大鏡に異常が起きなかったかと顔を近づけた。その瞬間、鏡に映る百欄の顔が異様な形に変形しはじめたのである。
驚き怪しんで大鏡を見ていると、異様なまでに捩《ね》じ曲がった百欄の顔がそこにあり、真っ赤に充血し腫れ上がった眼球が徐々に眼底から押し出されてくるのが見えたのである。百欄は思わず絶句した。
顔が異様に変形し、ミシミシという頭蓋骨が軋《きし》む音まで聞こえてきそうな光景に、百欄は恐怖のあまりその場に棒立ちとなった。大鏡の中では眼底、鼻孔、耳穴から、灰色の脳髄《のうずい》が一気に噴出する光景が映し出され、苦悶の中で大きく開かれた口からドス黒い血の混じった白い泡がブクブクと勢いよく溢《あふ》れ出している。
次の瞬間、百欄の首は物凄い力で捩じ切られ、食道と気道が切り口から下に垂れ下がっているのが見えた。首無しになった百欄の胴体はヒクヒクと痙攣《けいれん》し、腕と足が人形のように引き抜かれるのも見えた。
その後、得体の知れない生き物が百欄の頭と一緒に手足をバリバリと食らいはじめたのである。残された胴体もすぐに噛み砕かれてしまい、肋骨がむしり取られた後、そこから内臓が引きずり出されていくのが見えた。百欄の体は無残な肉片となって四散し、その有り様の全てが無音の大鏡の中に鮮明な姿で映し出されていたのだ!
「ギィヤァァァァアアアアアアアアアァァァァ…………ァァ!!」
百欄は、この世のものとは思えぬ叫び声を上げた。
その直後、百欄は大鏡の中からヌウと突き出した子供の腕に、顔を捕まれたのである。
「く、く、歳三おぉぉぉぉ……っっ!」
それが百欄の最後の言葉となった。
バキッ! ベキッ! ボキッ! バキバキバキ!
頭蓋骨の噛み砕かれる音がしたかと思うと百欄の体は激しく痙攣し、さらに骨が砕かれる不気味な音が祈祷所の中にこだました。こうして百欄の体は全く動かなくなった。
次に恐怖で体が動かなくなった付き添いの女に向かって、何かがゆっくりと近づいていった。数分後、祈祷所の中は肉片と鮮血が飛び散る地獄の有り様と化していた。百欄と付き添いの女は食い尽くされてしまったのである。
用心棒が祈祷所内の異変に気づき、急いで戸に手を掛けても、中から閂がされていて開けることができなかった。
こうして百欄と付き添いの女は、八つ裂きにされてこの世から消えた。
その日、静の腕に爪で引っかいたような痕があることに、熊楠は気がついた。
女中頭が言うには薫の静に対する体罰がひどく、静の体にはいくつも傷が残っているという。それでも静は黙って耐えていたが、昨夜、薫が静の落ち度を責めて顔を引っぱたいている現場に善兵衛が来合わせ、薫を窘《たしな》めているのが見かけられたという。
熊楠が善兵衛に静はどうしてああ薫から折檻《せっかん》されるのかを聞いたところ、善兵衛は薫と静は相性が合わないのだと言うだけだった。そう言う善兵衛の様子も何処か変であり、焦点が定まらないような目をしていた。特にここ数日、善兵衛夫婦の様子がおかしいことに熊楠は気づきはじめていた。
百欄という祈祷師が付き添いの女とともに無残な姿で発見された後、善兵衛はまるで糸の切れた凧のような状態になっていた。
百欄たちが惨殺された現場は、警察が戸を壊して中に押し入るまで、誰一人として入った形跡はなかった。殺害現場があまりにも異様なため、剣持は熊か狼の仕業かと思ったほどだ。結局、用心棒の男とお付きの数人を警察署に連れていっただけで、犯人の目星もつかない有り様だった。
善兵衛は今日も一日床に伏したままだった。食が進まないせいか、善兵衛の頬の肉は明らかに落ちはじめていた。薫の方も寝込みがちではあったが、主がそういう有り様なので、できるだけ店に出て、おかみとして毅然と振る舞おうとしていた。
熊楠は脱け殻のようになってしまった善兵衛の横に座っていた。
「善兵衛、人の体で最初にこけるのは頬だというが、一体あそこで何があったのだ?」
しかし、熊楠が何を言っても善兵衛は返事一つしなかった。する気力も失《う》せてしまったという方がいいのだろうか……。
「おまえが元気になることを願っているよ」
そう言うと熊楠は、善兵衛の部屋を出た。下に降りると、背広姿ではあったが明らかに軍関係の人間が店に来ていて、番頭と商談しているのが見えた。陸軍の軍服について新たな発注をしているのだろう。
最近の軍部の台頭ぶりについては、熊楠も一種の不安を抱きはじめていた。
元々熊楠は相当な愛国者で、イギリスにいた頃に起きた明治二十七年の日清戦争の際も、同郷の横浜正金銀行支店長の中井芳楠や内田康哉駐英公使を訪ね、日本への献金を勧め、自らも金一ポンドを投げ出していたほどだ。その熊楠でさえも最近の軍部には危機感を募らせていた。昔から帝《みかど》を利用する武力集団の歴史は日の本では事欠かなかったからだ。
その日は珍しく深い霧が立ち込める夜だった。
深更《しんこう》、徳島市内の何処にも道行く人の姿はなく、犬や猫だけが市中のあちこちを徘徊《はいかい》していた。そんな中、黄色いガス灯の火に淡く映し出される二つの人影があった。霧深い道路をゆっくりと歩む影は、時には煉瓦《れんが》造りの壁に当たって、とてつもない巨大な人影を映し出した。それはまるでダイダラ坊の姿のようだ。
影の主は、一人が見かけない珍しい僧衣のような着物を身につけた青年で、もう一人は髪を後ろに束ねて長く垂らした巫女姿の少女だった。
何時頃だったろうか、離れ屋敷で女中と寝ている歳三たちが一斉に起き出し、聞き耳を立てるような仕種をした。その時、桔梗屋の戸口を誰かが叩く音がした。
ドンドンドンドン!
その音で手代の喜祐が起き、足早に戸口へと走っていった。
「何方《どなた》でございましょうか?」
「この店の主に会いたい」
若い男の声だった。
「皆はもう寝ておりますので、御用がございましたら、日が昇ってからもう一度お越しくださいませんでしょうか」
「時間が無いゆえ今すぐここを開けていただきたい」
若い男は粘った。いくらなんでも、夜遅くにやってきて主に会わせろというのは、無茶苦茶である。
「実は今、主は病に伏せっておりまして、明け方に来ていただきましても、おそらく番頭が代わりに会うことになろうかと思います」
喜祐はもう一度丁寧に断ったが、若い男は譲らない。
「主が無理ならおかみか番頭でもかまわぬ。私は四国八十八寺の特赦状《とくしゃじょう》を持つ者。決してあやしい者ではない」
後ろで聞いていた番頭の与二郎は、あわてて喜祐を押し退け、たずねた。
「それは本当でございますか?」
「本当だ。戸口を少しでも開ければそれを示す」
そう言われて、与二郎がつっかい棒をずらしながら少し戸口を開けると、外から袱紗《ふくさ》に包まれた書状が示された。朱色の袱紗には金糸で菊花十二花弁と、その下に籠目紋《かごめもん》が刺繍されている。
与二郎が手代に手燭《てしょく》を持ってこさせ、中に包まれた書状に光を当てると、それは阿波、土佐、讚岐、伊予に散在する御大師八十八寺の住職による直筆の署名と寺印、それに血判が押されて保証された紛れもない特赦状だった。
これを持つ者は、古来より四国における霊的守護を担う者として特別に扱われ、特赦状を示された家は、彼らを神仏の代理人として扱う義務があった。それは場所と時間にかかわらず、例外は一切無かったのである。噂では聞いたことがあるが、本当に特赦状を持つ召しの者がいるとは思わなかった与二郎は、震える手を止めることができなかった。
「わ、分かりました」
そう言うと与二郎は急いで戸口を開けた。そこから外の霧が流れ込むのが見える。与二郎は特赦状を返すために外に出た。そこに深い霧を通して見える二つの朧な影があった。与二郎は手燭を掲げた。一人は溌剌《はつらつ》とした青年僧のようで、他方はうら若い巫女姿の少女ということが分かった。
与二郎は頭を下げると二人を屋敷の中に通した。
薫は目が覚めていた。
薫も八十八寺特赦状のことは噂で聞いたことはあったが、直に見るのは初めてだった。また未だにその役職の者がいることは信じられないことだった。二人は身だしなみもよく、全体から受ける印象は洗練され潔癖な感じだった。
弘法大師が四国に八十八寺を配して早千年あまり、当初、八十八寺が構えた大結界を守護する者ら八名が召され、その者らに八十八寺全住職らが保護を与えたのが由来とされている。
四国に身を置き、弘法大師の命に従う者は、その決まり事に従うことが厳しく求められ、従わぬ者には神罰が下るとされてきた。それが如何《いか》なる神罰かは分からないが、言い伝えによれば、怨霊に食い殺されて最後は地獄に落ちるという。
「恐縮なのですが、我が屋敷にお越しくださったご用件とは一体何でございましょうか?」
寝床から出ない善兵衛に代わって薫が聞いた。
「それはこちらが申さぬでも、おかみが一番よくご存じであられるはず」
まるで清流の如き清々《すがすが》しい顔つきの青年だった。
「はて……それは一体?」
薫は心中を見通されるような鋭い眼差しを受けて思わず身をたじろがせた。
「怪しげな子供が三人ここに現れたはず!」
薫はあせった。どうして彼らが子供のことを知っているのか。
「既《すで》に神隠しの噂は耳に入っており、以来この屋敷に注目していた」
青年の目はずっと薫を正面から見据えている。薫は精神的に追い込まれた。彼らには嘘はつけない。
「はい、実はそうでございます。一人息子の歳三が神隠しに遭った後、ある祈祷師にお願いしたところ、奇跡的に息子が舞い戻ってきたのです。しかし奇妙なことに一人息子が三人に増えてしまったのでございます」
薫の言葉を聞くと青年はポツリと言った。
「それは怨霊の仕業だ!」
「……怨霊?」
薫は訝《いぶか》しい顔をした。
「そうだ怨霊だ。怨霊は人を食らう。そしてその者の霊を地獄の底まで連れ去ってしまいます」
思わぬ若者の言葉に薫は面食らった。祈祷師の百欄の死にざまを思い出したからだ。百欄と付き添いの女の体は、得体の知れない怪物に食い散らかされたように散乱していたと剣持が言っていたからだ。しかし子供が怨霊とまでは思いもしなかった。
「歳三は今年で四歳になります。そんな子が怨霊であるはずがないではありませんか!」
薫は言葉を荒らげた。それを聞いた青年と少女は互いに目を見合わせた。
「もし四歳であればその子供に怨霊は取りつきません。しかし五歳になれば怨霊はたとえ子供であれども憑依することができます」
巫女姿の美しい少女が言った。
「よ、よかったですわ。そうなら子供は怨霊ではありませんので、貴方様方にはお引き取りいただけるのでございますね?」
「それはできない」
青年がきっぱりと言った。
「ならば残りの二人が怨霊となる」
薫はあせった。確かに一人息子が三人に増え、それが当然で世の中が通るはずがないのだ。
「分かりました。ではいつまで我が屋敷におられるのでしょうか?」
「怨霊を封じ取るまで!」
青年が言った。
「そ、そうですわね……」
薫は動揺しながらも、あらためて二人に言った。
「よろしければお二人のお名前をお教えくださいませんでしょうか?」
薫の言葉に二人は小さく頷いた。
「姓は申し上げられませんが、名は北麿と申します」
「で、そちら様の名は何と?」
「舞と申します」
そう言うと二人はかるく頭を下げた。その様子には品があり、特赦状を持つ者という奢《おご》りや気負いは微塵《みじん》も感じられなかった。
阿波は舞と北麿の守護する地域である。よって阿波の地に怨霊が現れれば、それを封じ取るのが彼ら二人の役目となる。そこで薫も名乗ろうとしたが、青年がそれを制した。
「貴方の主の名は芦屋善兵衛殿。そして貴方はおかみの薫殿、消えた子は歳三殿とおっしゃる。そして亡くなられた最初の子は沢彦、次の子は通彦と申された」
薫は、彼らが何もかも分かって訪れていることを知った。
「しかしながら、どうしてそちら様のような方々が、こんな夜分に屋敷に訪ねてこられたのでしょうか?」
薫は不思議だった。屋敷を訪れるなら昼間でもよかったはずではないか。
「今夜で祈祷師と付き添いの女が食い殺されて六日が過ぎたからです」
北麿が言った。
「えっ?」
一瞬、薫は意味が分からない。
「怨霊は三日に一度は一人の人間を食らわねば生きていけません。二体を食らっても七日目にはまた人を食らわねば怨霊は生きていけないのです。この世に現れた怨霊は、人の肉を食らい人の霊を体内に取り込まねば己を維持できません」
舞が言った。
「では、もし怨霊にそれができなければどうなるのでしょう?」
「行くべきところへ行きます」
北麿が答えた。
「行くべきところとは何処のことですか?」
「闇の底の底、黄泉《よみ》の世界である地獄です」
北麿の言葉に薫は驚いた。
「怨霊も死ぬのですか?」
「怨霊に限らず霊そのものは死ぬことはありません。しかし一度肉体を得たら最後、その肉体が滅びれば霊は肉の呪縛《じゅばく》から死後の世界に向かわざるをえなくなるのです」
薫は驚いた表情をした。
「死後に極楽浄土は無いのでしょうか?」
薫は真剣な眼差しで北麿に聞いた。
「悪人の霊には地獄という名の深い闇が用意されています。怨霊もそこに落ちて怨霊の心の闇より深い究極の闇の中で、跡形もなく消滅してしまうのです。しかし、善人の霊には光り輝く極楽浄土が用意され、神仏の御加護の中で永遠に平安の時を過ごすのです」
薫は感心したように聞いていた。
「ではどうして怨霊はこの世に出てくるのでしょうか?」
「怨霊とは陽に対する陰の生き霊にて、神仏の力で暗黒の世界に封印され、閉じ込められています。しかし人や世が闇の力を求める時、その垣根は薄くなり怨霊が地に溢れ出すのです」
その言葉に薫は面食らった。なぜ自分の歳の半分にも満たない若者に、こんな知識があるのか、分からなかったのだ。
「怨霊は人の肉を食らうのですね?」
薫はさっきから土蔵に消えたタネのことを考えていた。
「そうです。怨霊は人としてこの世に生まれることが禁じられた祟《たた》り霊で、そのため絶えず人の体に憑依しようと狙っています」
「怨霊というのはこの世に恨みを抱いて死んだ者の霊ではないのですか?」
北麿は正座の姿勢で薫の目を直視しながら言った。
「よろしいか、おかみ、裏密教では地縛霊の存在は認めておらず、ただ神仏の意向に逆らうおぞましき悪霊のみを認めております」
「霊は大師様の御加護で救われるのではないのですか?」
薫はすがるように聞いた。
「弘法大師の教えの基本は単純にして明快です。人は自らを浄化し神仏に身をゆだねて初めて悟りを得、神仏の力の清めによって地獄の呪縛から解き放たれるのです。しかし怨霊には最初から神仏を敬う気などはない」
「なぜに怨霊はそれほどに神仏に逆らうのですか。怨霊とは何時頃からこの世にいるのですか?」
薫は善兵衛とともに自らも遍路を行った。衆生《しゅじょう》を救わんことを願い断崖から身を躍らせた弘法大師を慕い、大師の慈悲に縋《すが》った身だった。
「伊邪那岐《いざなぎ》と伊邪那美《いざなみ》の神が生んだ水蛭子《ひるこ》が人になれない怨霊の比喩と聞き及んでいます」
今度は舞が答えた。
「水蛭子とは、骨の無い体の汚れたもので海に流された、あの水蛭子のことですか?」
「そうです」
舞はそう言って小さく頷いた。
「では怨霊の親は伊邪那岐と伊邪那美の神ということになりますが……そうなのですか?」
薫はあらためて舞に尋ねた。
「そうです。だからこそ怨霊は神仏を恨みつづけ、神仏の子である人間を憎み、人の体を引き裂くため地の底からこの世に現れてくるのです」
今まで薫はこのような教えを説く者に出会ったことはなかった。何と言ってもこの若者らは、まだ二十歳にも満たないのだ。弘法大師も若き頃はこのような者だったに違いないと薫は思った。
「失礼を承知でお聞きいたしますが、あなた方は何処から来られるのでしょうか?」
薫は聞いたが、二人は首を横に振るだけだった。
「おかみ、それは申し上げることができないのです」
北麿が答えた。
「そうですか……しかし今夜は時も遅いため、女中に寝床を用意させますので、そこでどうぞお休みください」
すると北麿が薫を制して言った。
「おかみ、申し訳ないが、部屋は別々に用意してください。もしそれがご無理なら、私は廊下でも布団部屋でも構いません。舞一人をそこに寝かせていただければ結構です」
「分かりました。女中が何人か辞めましたので、ちょうど部屋が空いてございます。ですから二階の隣同士の部屋を用意させます」
そう言うと薫は女中に命じて部屋を用意させた。
「その前に三人の子供の姿を見せていただけないでしょうか?」
舞が言った。
「で、でも……」
薫は子供が寝ているので断ろうと思ったが、彼らの役職を思うと許されるものではない。しかたなく、薫は離れ屋敷の子供の寝床まで案内した。その途中、舞は背中に鋭い視線を感じ振り返ったが、既にそこには誰の姿もなかった。
離れ屋敷の襖を開けると、小さな布団が三つ並んでいた。そこには可愛い寝顔をした三人の歳三がスウスウと寝息を立てていた。
舞は用意された部屋に移ると、そこで少しだけ眠ることにした。明け方から夜通し歩いてきたからだ。
その間、北麿は襖一つ隔てた隣で寝ずの番をする。怨霊師と陰陽師は怨霊相手に長期戦が予想されるような場合、必ず片方が眠る間もう片方が起きて互いの身を守るのを常とする。こうして怨霊が現れるまでの間、彼らは必ず交互に体を休めておくのである。そうせねば怨霊相手に全力で戦えなくなるからだ。
彼らは怨霊を封じ取ることに決して慌てることはない。時間をかけ確実に怨霊を絞り込み、確実な手段で封じ取るのだ。そのため彼らは必ず先に結界を張るのである。そうすれば怨霊はそこから外に逃げることができなくなるからだ。
この夜も既に北麿によって結界が屋敷に張りめぐらされていた。よって怨霊は逃れることができず、桔梗屋の中で袋の鼠となっている。
北麿は舞の隣の部屋で寝ずの番をしながら、結界を張る前に舞と一緒に話したことを思い出していた。
「舞、今度のように一人が怨霊でなくても、確実なのは三人同時に打ち倒してしまうことだ」
「分かっているわ。でも私にはそれはできない」
舞が悲しい目を向けた。
「しかし、たった一人の子供の犠牲だけで、結界の中で起きるかもしれない惨劇が避けられるんだ」
北麿は粘った。
「北麿、貴方の言う意味はよく分かるわ。確かに桔梗屋に結界を張ってしまえば、その中に取り込まれた人の命を私たちは保証できなくなる」
「ではどうするんだ、舞? 一気に三人の子供を討ち倒し他に犠牲を出さないか、子供を救うために他の者の犠牲を容認するか」
「私に難しい選択をさせないで!」
舞は北麿を睨みながら叫んだ。
「わ、分かっているよ、舞。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。舞に子供を殺せないのは十分承知してるさ。でも、その結果起きる悲劇を、俺たちは予《あらかじ》め承知しておかねばならないんだよ」
北麿は大げさな仕種で舞の前で両手を振った。
「確かにそうかもしれない。昔からまず怨霊を結界に閉じ込めるべしというのは、やはりそれだけの意味があるのよ」
「ああ、最も時間がかかるのは怨霊の霊気を見つけ出すことだ。一度怨霊を逃がしてしまうと、それまでの苦労が犠牲者とともに水泡《すいほう》に帰《き》すからな」
「そうね、怨霊は別の場所へ移動して新たな惨劇を引き起こすことになる。そうなれば被害者の数はもっと大きくなるわ」
「だからこそ何があっても最初に結界を張るんだ」
「でも、私に子供を殺すことはできないわよ」
「分かっている」
こうして舞と北麿は三人の子供を討つ方法を選ばなかった。
逆に言えば、だからこそ怨霊との長期戦が必定《ひつじょう》となり、加えて複数の怨霊を相手にする以上、体は休めておく必要があるのだ。
舞は用意された客人用の布団に入るとウトウトと眠りに入った。結界の中で怨霊と同じ空間で眠れるのは、北麿への絶対的な信頼があるからだ。
しばらくして目覚めた舞は、布団の上に一匹の大きな猫が座っているのに気づいた。案の定、舞の体は金縛りにあって全く動くことができない。暗闇の中でも、それが三毛猫であることは分かった。その猫は大きな体を揺らしながら、頻《しき》りに舞に向けて同じことを喋りつづけている。
「舞、おまえは怨霊に負けるぞえ、涼のように〜〜〜な。ここに結界を張ったのがおまえたちの命取りよ。ケェェッケッケッケッケッケッ……」
猫は奇妙な笑い声をたてた。しかし舞は動じず心の中で猫に語りかけた。
(おまえは怨霊の使いでしかないただの哀れな悪霊。猫に憑依するしか能のない無能な者。おまえの一生は猫の体を借りて終わるだけ)
そう言われた猫はブルブルと怒りを露《あらわ》にしはじめた。
「おのれ怨霊師! 貴様のような奴は俺が食い殺してくれるわぁぁぁ〜〜〜〜〜っ」
そう言うと猫は舞の喉元に飛び掛かろうとした。その時、北麿が猫を六角棒で打ち払い、怯《ひる》んだ猫の頭を一瞬にして打ち砕いた。
「ギィャアアアァァァァァァオェアァァ〜〜〜〜〜っ!」
凄まじい断末魔《だんまつま》の叫び声を残して猫は息絶えた。
「大丈夫か、舞?」
北麿が言った。
「なぜわざと中に入れたの?」
そう言うと舞は起き上がって電球をつけた。部屋の隅に頭を叩き潰された三毛猫が横たわっていた。
「ばれたか。舞は容易に金縛りなどは断ち切れるし、あの程度の悪霊にやられるとは思わないからな。おかげで猫から大事な話を得ることができただろう?」
「ええ、悪霊は涼のことを知っていたわ。それに結界を張ったのが命取りだったとも言っていた」
「だろうな、悪霊は怨霊にもなれない使い走りの低級霊だが、この意味は分かっているな、舞」
「ええ分かっているわ」
舞は大きく頷いた。
「桔梗屋で怪異事件を起こしている怨霊が、涼を殺した奴ということだ!」
「そうね」
「やっと見つけたな」
「ええ!」
そう言うと舞は小剣を手に持った。
明け方、熊楠は自分の寝ている部屋で何かの気配がするのに気づき、飛び上がるほど驚いた。
「だ、誰だぁ?」
熊楠は真っ裸で布団を撥《は》ね除《の》けた。夜明けの薄明かりの中、部屋の隅の柱を背に一人の男が座っているのが見える。
「お、おまえは……誰だ?」
男はゆっくり熊楠に振り返ると口を開いた。
「……名無しの権兵衛」
熊楠は善兵衛から聞いていた百欄の用心棒のことを思い出した。
「なぜ百欄の用心棒をしていた男が屋敷にいる?」
「前の主が死んだので、おかみが俺を歳三の用心棒に雇ったのだ」
「どうして俺の部屋に?」
「ここしか寝る場所が無いからだ。おかみから言われなかったのか?」
名無しが聞いた。
「ああ、昨夜は遅くまで外に出ていたからな。そのまま戻るとグッスリ眠ってしまった」
「知っている。俺は深夜に訪れた客がおかみと会っている間、いつでも飛び出せるように廊下にいた」
名無しは爪楊枝を銜《くわ》えたまま言った。
「客が来たのか?」
「ああ、恐ろしい客がな」
「誰だ?」
「今に分かる」
そう言うと名無しは障子を開けた。外は相変わらず深い霧で覆われている。
「何か気づかないか?」
名無しが熊楠に聞いた。
「何かって何が?」
熊楠は眠い目を岩のような拳骨でゴシゴシ擦《こす》った。
「雀の姿がない……」
「雀?」
「ああ、いつもならこの時間は何処の家にも雀が飛んでくる」
おかしなことを言うと思い、熊楠も障子から身を乗り出した。早朝の肌寒さが身に沁みたが、確かに雀の鳴き声が何処からもしてこない。
「霧が深いせいじゃないのか?」
熊楠が言った。
「この霧はおかしい……」
名無しは恐ろしい目つきをして言った。
「霧がおかしいだって?」
そう言うと熊楠は一つ大きなあくびをした。
「何でもない普通の霧だぞ」
「周囲に生活の気配が全くない……」
名無しのわけの分からない言葉に、さすがの熊楠もついていけなかった。
「何だぁそりゃあ?」
熊楠がそう言うと名無しは仕込み杖を片手に廊下へ出た。そして階段を降りていくので、熊楠も一緒に降りていった。
下では既に女中たちが炊事の支度をしていたが、名無しの姿を見てギクリと驚いた様子だ。名無しは女中たちから恐れられているらしい。
「おいおまえ、けっこう美男子のくせに女たちから好かれていないようだぞ」
そう言うと熊楠は含み笑いをした。
「…………」
名無しは女中たちには目もくれず、戸口から霧深い外へと出た。そこで名無しはしばらく考え込んでいたが何か思い立ったのか、深い霧の中へと消えていった。熊楠は付き合っていられねえという顔をして中に戻ろうとしたが、向こうのほうから誰かが近づいてくるのが見えた。
熊楠がじっと目を凝らしていると、さっき霧の中に消えたばかりの名無しの姿が深い霧の中から浮かび上がってきたのだ。何て事はない名無しはすぐに戻ってきたのである。しかし、名無しは熊楠の姿を見て、少し驚いた顔をした。
「どうした名無し、俺の顔に何かついているか?」
熊楠は名無しの様子が少し奇妙だったのでからかってみた。
「来てみろ」
名無しがそう言うと、熊楠はうるさいなぁと言わんばかりに舌打ちしたが、仕方なく名無しの後をついていった。しばらく歩くと大きな店らしき影が霧の向こう側に浮かび上がってきた。
桔梗屋の前にこんな大きな屋敷があったかと熊楠は訝しく思ったが、さらに歩いていくと霧の中から立看板が見えた。
その立看板の文字は…………桔梗屋!!
「な、なぁにぃぃ……?」
熊楠は一瞬狐に摘《つま》まれたかのような顔になった。
「どう思う?」
名無しが聞いた。
「どう思うっておまえ、霧が深いから俺たちは間違って一周し、元のところに戻ってしまったんだろう」
熊楠にはそうとしか思えなかった。
「おまえならそういうことがあるかもしれないが、俺は闇夜でも違《たが》わず真っ直ぐ歩くことができる」
名無しは既に左手で仕込み杖をひねり、親指を柄にかけていた。
「真っ直ぐ歩いていたら、こんなことにはならないだろうよ」
熊楠は馬鹿馬鹿しいという顔をした。霧はまるで濃密な米の磨《と》ぎ汁のように、周囲の全てを真っ白に覆い尽くしている。
「物音がしない」
名無しが言った。
「物音って……?」
「雀と同じだ。町の息づかいが全く無い」
名無しはそう言うともう一度振り返り、屋敷を背にして霧の中へと消えていった。そう何度も付き合ってられねえと思った熊楠は、大きく背伸びをすると屋敷に入ろうとした。しかしどうも名無しの言った言葉が気になってしまい、後ろを振り返ったのである。
そこには名無しの姿は無く、さっきと同じ真っ白な霧の海が不気味に漂っているだけだった。しかしやはり向こうからやってくる一人の男の影が霧の中から現れはじめたのだ。
名無しだった。
「おいおい何度霧の中で遊ぶ気だ?」
そう言う熊楠を横目で睨んだ名無しは、そのまま何も言わずに屋敷の中へと姿を消した。熊楠は名無しを鼻で笑うと、顔を洗おうと庭の井戸水をくみ上げた。井戸の水は思ったよりも冷たく、熊楠の顔をてからせている脂を洗い落とした。
その時、女中たちが何か慌てている声がするので振り返ってみると、いつもの豆腐屋が来ないと言って騒いでいた。
「この霧だもの、来るのが遅れてるのよ」
「でもお天道様も見えないなんてさ」
「馬鹿だね、お天道様が消えるわけないじゃないさ」
「外はこんなに明るいよ」
そう言われて熊楠も東の空を見たが、空全体がボウと明るいだけで、東の空だけが特に明るいという様子でもない。
確かにこの朝霧は奇妙である。そう思った熊楠はもう一度木戸を開けて外に出てみた。そしてつっかい棒を取ると、地面に自分が歩いた跡が分かるように線を引きながら屋敷から少しずつ離れていった。
するとさっき名無しと見たように、途中から大きな屋敷の影が霧を通して前方に見えてくる。さらに近づくと、自分がさっき出てきた木戸が霧の向こうに見えてくるではないか。熊楠は背筋に何か冷たいものを感じた。そして恐る恐る自分の足元を見たのである。足元には、自分がつけてきた棒の跡が、木戸までつづいているのが見えた。
「と言うことは……一体どういうことなんだ?」
熊楠はここにきて初めて、自分がとんでもないところに閉じ込められていることを知ったのである。
舞は北麿とともに、離れ屋敷に面した庭に立っていた。
「霧が深過ぎる」
舞の顔は心配のために少し歪《ゆが》んだ。舞の後ろ腰には奇妙な形をした小剣が帯に刺されている。柄の部分に鍔《つば》から伸びる二本の角のような返しがあり、それが舞の手を保護していたが、そのような剣は他にはないだろう。おまけに柄の端に籠目《かごめ》の印が彫られているのも妙だ。
舞に聞くと、自分が怨霊師に召される前、大日女を通して父である大頭から手渡された剣というだけで、謂《いわ》れなどの詳しいことは一切知らないという。
北麿は、舞がその小剣で兜《かぶと》を割ったところを見たことがある。舞は大日女と二人だけで社殿裏の宝庫の前にいたが、大日女が先祖代々の兜の一つを取り出し、それを岩の上に置いたのだ。そして舞に抜刀して叩き割れと命じたのである。その一部始終を北麿は柱の陰から見ていた。
舞は兜を前に小剣を構えると、気合とともに一気に兜を真っ二つに叩き割ったのだ。その兜は非常に厚く大きなもので、身の丈八尺はある巨人の被る大兜のようだった。そのような人間が昔この里にいたかどうかは分からないが、見るからに不気味なものだった。
その時、北麿は見てはならないものを見たと思い、すぐそこから立ち去ったが、その翌日、舞は怨霊師の召しを大頭から受けた。北麿は舞の腰の小剣を見てその時のことを思い出していた。
「この霧は怨霊にとって利に働くかもしれない」
舞は呟いた。
「結界は自然の理《ことわり》。その場その時の様子を閉じ込めてしまう以上は仕方が無いだろう。着いたらすぐに結界を張れ、何度も言うようだが、それが掟だ」
北麿は、そこがたとえ人で賑わう繁華街であっても、怨霊がいれば躊躇《ちゅうちょ》無く結界を張っただろう。
「ここには少なくとも飢えた怨霊が二匹はいる。もし三番蔵からさらに怨霊が出てくれば、結界を張っておかねば手がつけられなくなるわね」
そう言うと舞は、離れ屋敷に通じる廊下へと上がった。
すると屋敷の方から一人の男が廊下を歩いてくるのが霧を通して見えた。細面《ほそおもて》で髪を長く伸ばした優男風だった。手に仕込み杖を持っているところを見ると武芸者である。舞はその男に通路をあけようと、廊下の裏庭側に体を寄せた。
男は顔色一つ変えず、挨拶するでもなく舞の横をすり抜けようとした。その瞬間、舞は素足のまま慌てて裏庭へと飛び退《の》いたのだ。小剣を抜き放ち、息は激しく上がっている。
その舞の前を男は表情一つ変えずに離れ屋敷へと歩いていった。北麿が怪訝に思い舞に近づくと、舞は激しく息をしているばかりか、冷や汗さえ顔に浮かべている。男はそのまま離れ屋敷へと消えていった。
「どうした舞、何があった?」
北麿は舞の顔を見ながら心配げに聞いた。舞の顔は霧を通して見るせいか、いつもよりも青白い。
「あの時、飛び退かねば間違いなく斬《き》られていた!」
舞の声は上擦《うわず》っていた。
「な、何だって?」
北麿は驚いた顔をした。
「あの男は、私が飛び退かなければ一刀で斬り捨てる気でいたわ」
「そんな殺気は俺には感じられなかったぞ」
「いいえ私には分かった。あの男の心の底に凄まじい殺気が隠されていたから!」
舞は額の汗を指でぬぐった。
「もしそうなら、殺気を隠して人が斬れる人間ということになる」
北麿は生唾《なまつば》を飲んだ。
「それだけの殺気を持つ男が、舞の飛び退いた後も顔色一つ変えずに歩き去るとは……」
北麿は、もし廊下にいたのが舞ではなく自分だったとしたら、あの男の剣から逃れることができたかどうか分からないと思った。
「とにかくあの男は尋常の使い手ではないわ」
舞は絞り出すように言った。
「ああ、舞が言うならそうだろう」
北麿はそれほどの使い手が明治の世に生き残っていることに驚きを持った。その時、後ろから二人を呼び止める声がした。振り返ると、廊下に一人の女の姿が見えた。おかみの薫だった。
「舞様、よく眠ることができましたか?」
「ええ、ぐっすり眠らせていただきました」
舞が答えた。
「そうですか。ところでさっきご覧になった男は、子供たちへの監視のために桔梗屋で雇った用心棒でしてね。名無しという以外に名はありませんが、決して怪しい者ではございません」
薫の言葉に舞と北麿は頷いた。薫はさっきの様子を何処かで見ていたのだろうか。
「善兵衛殿の具合はどうでしょうか?」
北麿が聞いた。薫は昨夜よりも心なしか血色が悪いように見える。
「ええ、今日もあまりよくありません。百欄様が亡くなられてからというもの、まるで正気を無くしてしまったかのようで」
そう言うと、薫は深くため息をついた。そこへ、熊楠が血相を変えてドカドカとやってきたのである。
「おかみ! 大変だぁ、屋敷が奇妙な霧に覆われていて、何処にも出ることができんぞ!」
「熊楠先生、こんな霧じゃ滅多に外を歩けないのは当たり前じゃありませんか」
熊楠の言葉に、薫はまたはじまったかというような顔で言った。
「そうじゃないんだ、おかみ。桔梗屋から離れれば離れるほど、桔梗屋に舞い戻ってしまうんだ」
「熊楠先生、そういう子供じみたことを言って、それでなくても気が動転している私を、これ以上脅かさないでくださいな」
「違うんだ、おかみ、この俺が何度も確かめたんだから本当のことなんだ。何なら名無しにも聞いたらいい。女中たちもいつもの豆腐屋が来ないと言って騒いでおるから分かる」
「熊楠先生、朝からあまり馬鹿なことを言うなら私は本当に怒りますよ」
薫の癇《かん》が高ぶった。そこで初めて、熊楠は舞と北麿の姿に気がついた。
「あれ? そうか、深夜に屋敷へ来た客人とはあんたらのことか」
熊楠は額を撫でながら言った。その時、北麿が薫に近づいて言った。
「おかみも一緒にお聞きください。この方のおっしゃることは事実です」
「えっ?」
急に北麿に言われた薫は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
「この屋敷は周囲から完全に隔絶されています。屋敷全体を別の空間に閉じ込めたのです」
薫は北麿が一体何を言っているのか、さっぱり分からないという表情をした。
「私たちはここに結界を張りました。ですから誰もこの屋敷には入れないし、屋敷から外に出ることもできません」
北麿の真剣な顔つきを見て、薫は急に不安な表情になった。しかし熊楠は北麿に近づくとこう言った。
「おまえさん、若いくせに気は確かか? 今は文明開化の世の中だ。そんな仙人のような話が通用するか」
「だったら貴方はどうして屋敷から出られなかったのですか?」
北麿は落ち着いた表情で言った。
「それはだな、つまりその何というか……」
熊楠は言葉に詰まった。
「結界とは、張った場所だけを閉じ込める亜空のことです。よっていつもの人間の世界ではない」
「あんたら一体何者なんだ?」
熊楠にはまだ事態がよく呑み込めていなかったが、異様な雰囲気を持つ二人に、何かしら得体の知れないものを感じはじめていた。
「熊楠先生、このお二人は怨霊を封じ取るために送られてきた特別な役職の人たちなんですよ」
薫の言葉に熊楠はさらに驚いた。そして今時そんな人間がいるのかというような顔をした。
「忌部の者か?」
今度は、熊楠の言葉に北麿の方が驚いた。
「貴殿の言うことに……答えることはできない」
北麿の表情を読み取った熊楠は、我が意を得たりという顔で目を輝かせた。
「やはりおぬしらのような人間が四国山中にいたんだな!」
そう言うと熊楠は北麿の手を握り、次に舞の手を取ろうとしたが、舞は熊楠の手をかわした。ばつが悪そうな顔をした熊楠は、それでも微笑みながら言った。
「俺は密教と神道の関係を調査するために阿波に来ているんだ。生まれ故郷の紀州熊野と阿波山中で秘密の一片を掴んだが、どうもあんたら忌部の影が歴史の裏にちらついて仕方が無かった」
「失礼だが、熊楠殿、私はあなたとのそのような話に付き合う気はない」
北麿が熊楠の手を離して言った。熊楠はニヤリと白い歯を見せて微笑《ほほえ》むと、いかにも嬉しそうに目を細めた。
「まあいい。いずれ俺は民俗学者として、神道と忌部の謎を必ず解き明かす」
北麿はこんな場所でとんでもない男と出会ったと思った。
「北麿様、さっきおっしゃったことですが、桔梗屋だけが結界という中に閉じ込められているのですか?」
薫は心配そうに言った。
「そうです」
「ではこの深い霧も結界のせいなのですか?」
「結界を張った状態で今がありますから」
北麿が答えた。
「店を訪ねてくるお客様は、一体このような桔梗屋を見てどう思われるでしょうか?」
薫は商売が心配になっていた。
「誰一人として屋敷に入れません。というより桔梗屋の周囲だけここと同じ霧に覆われて見えているはずで、霧の中をいくら訪ねても桔梗屋には辿り着けません」
その言葉に熊楠は、自分の頬を激しく何発かぶった。まるで夢から自分の意識を覚ますかのようだ。
「いいかあんたら、もし全てがあんたらの言う通りだとしてもだ。今すぐ結界という馬鹿げたものを消してもらおうか」
「それはできない」
北麿は言い放った。
「何故だ、今日から俺は調査のため何日も阿波山中を散策せねばならんのだ」
「申し訳ないが、結界を外すと怨霊が町中に出る危険がある。だからそれはできない」
熊楠は大きな拳を上に振り上げた。その瞬間、既に北麿は熊楠の背後にまわっていた。驚いた熊楠はキョロキョロ周囲を見回したが、北麿は必ず熊楠の背に回るため、熊楠は北麿を見つけられない。
やっと熊楠は股の下から北麿の足を見つけたため、思いっきり馬の後脚よろしく蹴り上げたが、北麿の姿は既にそこにはなかった。熊楠の短い足は虚しく空を切り、裏庭にドウと倒れた。
その熊楠の手を舞がとって立ち上がらせてやった。その時、熊楠は舞の緑がかった瞳に気づき面食らったような顔をした。なぜなら、自分が欧米にいた頃見慣れた緑色の瞳がそこにあったからだ。しかし異人のそれと何処か違っていた。
「熊楠殿、怨霊が歳三殿の偽物《にせもの》として屋敷に紛《まぎ》れ込んでいます。おそらく祈祷師と付き添いを食い殺したのも、その内の二匹の怨霊でしょう」
「歳三の内の二人が怨霊……」
「今朝、大きな三毛猫が寝所に忍び込み、私に怨霊の存在を告げました」
それを聞いて薫は驚いた。
「今、三毛猫とおっしゃいましたか?」
「はい、その三毛猫は怨霊の使い走りの低級霊に憑依され、私を殺そうとしましたので、討ちました」
それを聞いた薫は身がすくんだ。
「今朝から玉の姿が見えないのですけど……」
薫は顔面蒼白になっていた。
「玉とはおかみの飼い猫か?」
北麿が聞いた。
「ええ、この屋敷で大きな三毛猫と言えば玉しかおりません……で、その猫はどうなさいました」
「裏庭で死体を焼き、地を清めて封印しました」
「な、何てことを……」
薫が叫んだ。
「怨霊や悪霊の類は、殺したら体を焼いて封印せねばなりません。そうせねば別の怨霊が残された気と匂いでそこに集まるからです」
舞が説明した。
「骨も残さずに焼いたのですか?」
「はい」
北麿が言った。
それを聞いた薫は廊下に座り込んだ。
「じゃあ結論から言うとだな、俺たちは怨霊が討ち取られるまで、この屋敷から逃げられんというわけだ」
熊楠が大きな声で言った。
「そうです!」
「その怨霊は歳三のどれとどれなのだ?」
熊楠は大きな目を剥《む》いた。
「陰陽師とて、すぐに怨霊が見分けられるわけではありません。怨霊を見分けるには相当な困難が伴います。まして今度のように全く同じ子供が三人も現れた場合は、なおさらです」
それを聞いていた熊楠はポツリと言った。
「どうして怨霊をすぐに見極められないんだ?」
「怨霊は人に憑依するため、見かけ上は全く人と区別できません。それに怨霊も己の正体を隠そうとします。ですから実際に怨霊を封じ取るよりも、怨霊を見分ける方が困難さが伴うのです」
北麿が答えた。
「それじゃあんたらが怨霊を炙《あぶ》りだすまで、俺たちはずっと屋敷に閉じ込められたままってわけか」
「そうなります」
「怨霊は人を襲うのか?」
「勿論、人を食らいますから」
「勝手な話だな。もしその間に怨霊が襲ってきたらどうなる?」
熊楠は怒鳴った。彼の正義感がそうさせるのだ。
「襲われるのは私たちも同じこと。それを関係のない他の地域にまで恐怖を広げるわけにはいかないわ」
舞が言った。
「それは屁理屈だな。この結界を張ったのはあんたらだ。あんたらが結界を張る前に店の人間を外に逃がせばよかったんだ」
「貴方は怨霊を知らないのでそういうことが言える。怨霊は私たちが近づくだけで、それを察知する。よって私たちが怨霊を封じ取る場合、たとえそこが町中であろうと、先に結界を張らねばならない。そうしなければ怨霊は逃げて別のところで人を食らう。そしてそこに仲間を次々と呼び集め、ついには計り知れない規模の破壊を人間界で引き起こすのだ」
北麿は断言した。それを聞いた熊楠はしばらくの間考え込んでいた。
「教えてくれ。怨霊とは一体何を目的にこの世に現れるのだ?」
「神仏が庇護《ひご》する世界を破壊し尽くすためです!」
「すると間違いなく神仏はいるのか?」
熊楠が聞いた。
「弘法大師はいるとおっしゃっている。そして聖徳太子も!」
「……そうか、分かった」
熊楠は熱心な神道研究家でもあるため、北麿の言葉に強く感銘を受けた。
「怨霊がいるなら神仏もいる理屈か。実に分かりやすい」
そう言うと熊楠は頷いた。
「北麿様に舞様、私どもは本物の歳三がどれか全く分かりません。つまり怨霊にいつも歳三を人質に取られているようなものでございます。それを思うと親として我慢なりませんし、心配でなりません。女中をそばに置くのもそのためですし、用心棒を雇ったのも、怨霊から歳三を守るためでございます」
「心中お察しします」
北麿は薫に言った。
その時、離れ屋敷で女の悲鳴が上がった。
舞は既に廊下を走り、名無しは障子を開けて中に飛び込んでいた。
離れ屋敷の中では歳三が女中に食事をさせてもらっていた。しかし悲鳴に驚いた子供たちは大声で泣きはじめた。悲鳴を上げたのは膳を運んできた静だった。
静は震える手で箸をとりながら、他の女中と同じように歳三の一人に食べさせていたが、何かに驚いて悲鳴を上げたのだ。
名無しは何でもないと見ると、そのまま障子を閉めようとした。しかし、舞が障子の桟《さん》に手を掛け、それを止めた。名無しは舞の顔を見、次に薫の顔を見て主人の意向を窺《うかが》った。薫が頷いたので障子から手を離した。
舞と北麿は障子の中に入った。そして三人の歳三の前に座ったのである。しばらく三人の子供たちの様子を代わる代わる見ていたが、益々三人が激しく泣きだした。それでも二人はその場に居つづけたため、子供たちは泣いて収拾がつかない有り様となった。
そのため、ついに薫が進み出て、舞たちに食事の間だけでも座敷から出てくれないかと頼んだのである。ひとまず舞と北麿はそれに従った。
「どうだった?」
外に出ると北麿が舞に聞いた。
「確かに三人が三人とも全く同じ行動をする」
舞はまるで感心したように言った。
「どういうことだと思う?」
「おそらく本当の動きをしているのは歳三だけで、怨霊はそれを事前に察知して真似ているだけね」
「確かにあれは人間には真似ができない」
北麿が首を振りながら言った。
「怨霊は四歳の歳三には取りつけないけれど、子供なので心の中に隙があり、思いや動きが怨霊に先読みされてしまうのかもしれない」
その時、座敷の中から平手が飛ぶ音がした。それは薫が静の頬を叩いた音だった。
「あんたが悲鳴などあげるものだから見てごらん、歳三が怖がってしまったじゃないのさ」
「すみません、すみません、おかみさん」
静は何度も何度も頭を下げて謝ったが、薫は慣れた女中に後を任せることにして、静を離れ屋敷から追い出してしまった。静は出てくるとそのまま台所へと走り去っていった。その様子を見ていた熊楠は静の後を追った。
静は台所の隅で目頭を押さえながら涙を流していた。
熊楠は静に近づくと、そっと静の肩に手をやった。静は最初ビクッとした表情になったが、熊楠が手拭いを差し出したので頭を下げてそれを受け取った。そして溢れる涙をその手拭いで拭った。
「あんたに前から聞きたかったんだが、ここに来た頃から歳三に興味があったようだな?」
「ご免くださいまし」
そう言うと静は熊楠の横をすり抜けようとした。しかし、熊楠の太い頑丈な腕がつっかい棒のように伸び、静の逃げ道をふさいだ。
「言ってくれ。あんた何か知っているんじゃないのか?」
「いえ何も知りません。その手を退けてくださいまし」
静が哀願するような目を熊楠に向けた。
「それじゃせめて、あんたが離れ屋敷で何を見て悲鳴を上げたのかだけでも教えてくれないか」
「…………」
それでも静は黙ったままだった。その間にも溢れ出る涙を止めることができず、何度も目頭を手拭いで拭った。
「なあ静さん、これは大事なことなんだ。あんたの命にも関わるかもしれんのだぞ。いやひょっとして屋敷中の人間の命がかかっとるんだ」
しかし、静は唇を震わせるだけで、何も語ろうとはしない。そして熊楠に頭を下げて手拭いを返すと、そのまま店の中へと消えていったのである。その場に残された熊楠は、自分の大きな頭を掻くしかなく、ばつが悪そうに一つため息をついた。
その日から静は、薫の命令で寝込んでいる善兵衛の世話をすることになった。
十一
舞と北麿は怨霊を封じるため、歳三のいる離れ屋敷の中に陣取っていた。怨霊師と陰陽師が直接三人の歳三を監視するのだ。
勿論その間も北麿は、陰陽師として怨霊を見分ける術を施していく。昨夜は怨霊の手の内を知るため、わざと舞は歳三たちから離れた場所で眠ったが、やはり怨霊から動きが出てきた。
舞は涼を殺した怨霊が三人の中にいると知ると、必ず涼の仇を討つことを誓った。それは北麿とて同じだったが、舞の場合、涼が無二の親友だっただけに怒りは他の者より大きかった。しかし、舞の穏やかな顔はそれを表に出すことはなかった。
北麿も陰陽師として三人の歳三から本物を見つけ出さねばならない使命があった。仮に間違って本当の歳三を討つようなことがあれば、桔梗屋夫婦に申し訳が立たないし、舞にも顔向けできなくなる。
時刻は夕方頃だろう、霧は変わらず深く垂れ込めていたが、乳白色の薄明るい状態のまま一向に暗くならなかった。
熊楠は異様に痩せ細った善兵衛の横に座っていた。今や善兵衛は熊楠が何を話しかけても返事一つしない有り様になっていた。
「善兵衛、どうやらおまえは心の病《やまい》にかかったようだな。昔アメリカで俺はおまえと同じような男が病院に送られるのを見たことがある」
熊楠がそう言っても、善兵衛は何の反応も示さない。ただ天井の一点だけを見つめながら、時々訳の分からない言葉をブツブツと呟くだけだった。静はそういう善兵衛の下《しも》の世話と食事の世話をすることになったのだ。
静も部屋では熊楠に何も喋らないため、三人でいても熊楠には一人でいるのと大差なかった。その時、善兵衛の布団を整えようと手を入れた静が、急にガチガチと歯を鳴らして震えだしたのである。その様子を見た熊楠は、静がどうしたのかさっぱり分からない。
「どうしたね、静さん?」
熊楠が聞いても相変わらず静は何も語らない。ただ何かを乞い求めるような目を熊楠に向けるのだが、歯がガチガチ噛み合うだけで声にならない。今までも熊楠は静に相手にされなかったが、それとはまた違う様子に熊楠は訝しく思った。
その内に静は何を思ったのか、自分の体を横倒しにして善兵衛の布団の中に、手から先にズリッズリッと入っていくではないか!
あまりにも唐突で異様な光景に、熊楠は呆然とした。今から静が何をしようとしているのかが分からないからだ。
「おい静さん、そこは病人の布団だ。入っちゃいかんよ」
熊楠は静の頭が変になったのかと思ったが、相変わらず静の顔は熊楠に向けられたまま何かを訴えている。その内に静の目から涙が溢れてきたのを見ては、熊楠も黙ってはおられない。
「何だ、何なんだ静さん?」
静はとうとう善兵衛と布団の中で体を並べてしまった。しかし相変わらず静は涙を流しつづけ、歯を食いしばるだけで何も話そうとしない。その間ずっと熊楠に向けている視線は決して狂人のものではなく、普段の静の目そのものだが、静の行動はあまりにも異様でどう見ても奇怪だった。
熊楠が見ている前で、主の布団の中に女中が潜り込むという行為は、とてもではないが普通ではない。熊楠が見る限り、静はそんなはしたない真似をするような女ではなかったが、これは一体どういうことなのだ。
その内、静の頭は急にガクンガクンと大きく揺れ、目は中空を睨みつづけて、ついには完全に白目を剥いてしまった。そして物凄い早さでズボッと布団の中に姿を隠してしまったのである。
「静さん、あんたそんなに中へ入っちゃいけないよ」
そう言うと熊楠は、善兵衛の布団を剥《は》いで静を布団から外へ出そうとした。途中で静の髷《まげ》が見えたので、そこまで布団を剥いでいくと下から静の顔が出てきた。
「静さん、ふざけるつもり……」
そう言いかけた熊楠は、思わず悲鳴を上げそうになった。
「なっなっな、な、な……」
熊楠が見たものは、おそらく人間がこれ以上は笑えまいというほど凄まじい形相の笑い顔だった! 口は顎が外れたとしか思えないほど大きく開き、目は笑い死にする寸前の至福の表情である。今にも静の顔面の全てから大きな笑い声がこだまするのではないかと思われるほどの形相なのだ!!
「し、し、静さん!」
一瞬、熊楠の背筋に悪寒が走った。しかしそれはまだ序の口に過ぎなかった。静の顔が傾くと、そのままゴロンと布団の外に転がり出たのだ。
「うっわぁあああああああっっっっっっっっっっっ!」
静は生首だけになっていた。
あまりの光景を目の当たりにした熊楠は、その場で完全に腰を抜かしてしまった。その時、布団から小さな黄色の固まりが熊楠の前に飛び出したのである。
それは黄色の紅葉柄の羽織を着た歳三だった!!
その口からは、静の内臓の一部と思われる灰色の肉管がぶら下がり、それを小さな血塗《ちまみ》れの口でクチャクチャと噛み砕いていた。
愚茶 愚茶 愚茶 愚茶 愚茶 愚茶!
「ひいいいいいいいいいっっっっっ〜〜〜〜〜〜!」
熊楠は悲鳴を上げて必死にその場から逃れようとしたが、歳三の血塗れの口をした顔が、熊楠の方にゆっくりと迫って来る。
ズイズイズイズイズイズイズイズイズイズイズイズイ
まさに鼻が接するほど歳三の顔が近づいた時、歳三は静と全く同じ狂気の笑い顔の表情をした。思わず熊楠は顔を背《そむ》けた。
しかし歳三は小さな手で熊楠の顔を挟むと、物凄い圧力で自分の顔の方向に向け動かないようにした。そして思い切り熊楠の頬を平手打ちにしたのである。
熊楠の体は大きくのけ反り、そのままゴロゴロと部屋の奥まで転がった。それを見た歳三はケタケタと甲高い声で笑い、急に四つん這いになると、物凄い早さで善兵衛の部屋から逃げ去ったのである。
舞は善兵衛が寝ていた血だらけの布団を見て、静の首から下が綺麗に食われていることを確かめた。
「首以外に何一つ残されていない……」
舞は怨霊の悪食ぶりに目を見張った。舞にとって不可解なのは、どうして歳三が自分たちの前から抜け出せたのかということだった。
今は名無しが離れ屋敷の中で歳三たちを見張っているが、怨霊師と陰陽師をこれほど馬鹿にした怨霊はかつて無かった。
熊楠は舞に近づくと言った。
「おまえたちが怨霊を封じ取る役職の者なら早く何とかしろ!」
舞は熊楠の目を見て頷いた。
女中たちは手がつけられないほどに動揺し、誰も離れ屋敷に近づこうとしなくなった。そのため女中に代わって手代と丁稚たちが歳三の世話をすることになった。
薫は気が動転し、善兵衛は抜け殻のようになっている。このままでは怨霊は結界の中で次々と人を襲うことになるだろう。
「北麿、これは一体どういうこと?」
舞が聞いた。
「どうやら根本的に状況を見直さないと駄目なようだ」
北麿が小声で言った。
「どう見直すの?」
「今、間違いなく言えることは、歳三が三人ではなく四人いるということだ!」
「……!」
舞は一瞬驚いた顔をしたが、やがてなるほどと頷いた。確かに三人の歳三を見張っている間に、別のところに歳三が現れたという以上、歳三が四人いることになる。
「それはあり得るわね」
「あり得るんじゃない。その通りなんだ」
熊楠は立ち上がって大声で言った。そして真っ赤に腫れ上がった頬を手で撫でながらつづけた。
「俺が見た歳三は黄色の紅葉模様の羽織を着ていたが、さっき離れ屋敷の歳三たちを見たらその羽織の歳三はいなかった」
「薫殿、黄色の紅葉模様の羽織は歳三殿のものですか?」
北麿が薫に聞いた。薫は女中たちの中に呆然とした顔で座っていた。
「歳三様の羽織の一枚です。確か数日前に歳三様に着せた一枚だったはずです」
薫に代わって女中頭の米が答えた。外では相変わらず深い霧が不気味に渦巻き屋敷を覆っている。
「羽織はどれくらいの日数で着替えさせているの?」
舞が米に聞いた。
「よほど歳三様が汚さない限り替えることはありません」
「なのにどうして一人だけいつもと同じ羽織を着ていない歳三がいて、誰も気づかないのですか?」
舞が聞いた。女中たちは震える目を舞に向けていた。
「私ら毎日入れ替わって歳三様の面倒をみていましたから、どんな羽織を着ていたかなんて考えずにいたんです。それに歳三様は三人と思い込んでいましたんで、誰も羽織の柄や色の違いなどに気づきませんでした」
「となると、これから怨霊は腹を減らした順に入れ替わりながら襲ってくるぞ!」
北麿が言った。しかし舞は考え込んだままだった。
「どうした、舞?」
「なぜ怨霊が熊楠殿を生かしておいたのかと思ったのよ」
熊楠はギクリとなって大声で叫んだ。
「お、俺は怨霊の仲間じゃないぞ」
「分かっています」
舞は慌てている熊楠に言った。
「その気になれば怨霊は一度に何人もの人間を食らうわ。おまけに熊楠殿には顔と羽織を見られているのよ」
舞にそう言われて、北麿も確かにそれは不思議だと思った。
「なぜ怨霊は自分の正体が分かるような証拠を残したんだ?」
「北麿、怨霊は私たちが子供を殺さないことを知っているわ。それでもし歳三の中に黄色の紅葉柄の羽織を着た歳三を見たらどうする?」
「その場で封じ取る」
北麿は躊躇無く答えた。
「しかしそれが本物の歳三殿だったとしたら?」
「……!」
「怨霊が着物を替えることはたやすい」
舞の言葉に北麿も頷いた。
「怨霊は俺たちに本物の歳三を殺させ、その時の動揺と混乱に乗じて一気に襲いかかる気なのか」
北麿が言った。
「歳三殿に憑依できないなら他の利用の仕方を考えるはずだから、おそらくそれに間違いないわ」
「では怨霊が入れ替わらぬよう、一人ずつ隔離するしかない!」
北麿が言った。
「それしかないわね。それにはあの男にも協力してもらわねばならないわ」
「用心棒の男か」
「ええ、名無し殿よ。私たち三人で一人ずつ歳三を見張るのよ。もう人を食らうための入れ代えはさせないし、おかしな行動をしたらその場で討ち果たす」
座敷の隅では薫が静のことで涙を流しつづけていた。
「こんなことになるなら、もっと優しくしてやればよかった。つい誰かに当たり散らしたくなり、昔から顔馴染みだった静にひどい仕打ちをした……」
そう言うと薫は涙を拭った。
「おかみ、静さんはどういう人だったんだ?」
熊楠が聞いた。
「静は山奥に住む娘で十年前に奉公に出てきたんです。無口な娘で要領が悪いのが欠点で、私はそれをよく注意したんですが結局は、改まりませんでした」
「それが店を辞めた理由なんですか?」
熊楠が言った。
「ええ、お客様とのやり取りができない娘なので、裏へ回したんですが、それでも何度注意しても同じ失敗ばかり繰り返すため、結局は桔梗屋に向かないと里へ返したんですよ」
薫は昔を思い出すようにしみじみと語った。
「そうだったのか。確かに無口で俺にもなかなか馴染んでくれなかったが、でも女中が減ったとはいえ、何故そんな静を店に呼び戻したんです?」
「主の善兵衛が、店の秘密を漏らさない娘となると、やはり無口な静がいいだろうと里から呼び寄せたんです」
「おかみさんは反対だったんだろう?」
「昔のことがありましたからね。でも主人が決めたことなんで受け入れたんですけど、どうしても昔のことが尾を引いて……可哀相なことをしました」
そう言うとまた涙を拭いた。その様子を見ていた女中頭の米と年老いた手代の政《まさ》は、曇った顔つきで膝に目を落とした。結局、静の首は善兵衛に代わって薫が責任をもって供養することになり、手代によって酒を入れた壺の中に入れられた。
一方の離れ屋敷の方では奇妙な光景が展開していた。
三人の子供を前に名無しが剣を抜き放ち、彼らの前に仁王立ちになったのだ。
「いいか怨霊。俺は誰も信じない。それに貴様らが何者でも一向に構わん。ただ俺は己より強い者がこの世にいることが許せない。それはおまえら怨霊に対しても同じことだ。さあ正体を現して俺を食い殺してみろ」
名無しはそう言うと緑色の市松模様の羽織を着た歳三に近づいていった。そして抜き身の刃を子供の頬に当てたのである。
「さあどうした怨霊、俺を襲えよ。そんなに俺が恐ろしいのか?」
冷たい刃を頬に当てられた歳三は、それが何だか分からず紅葉のような手で刃を握った。
その時、名無しはわずかに刀を引いた。歳三は最初何だか分からない顔をした。そして自分の掌から滴り落ちる真っ赤な血を黙って見ていた。
「馬鹿め、頭の悪い奴だ」
そう言うと名無しは、次に朱色の石榴《ざくろ》模様の羽織を着た歳三に近づいていった。そして同じように前に立っとこう言った。
「怨霊というのは実に情けねえ生き物だな。そんなに俺が恐ろしくて何もできないのか?」
名無しの言葉に歳三は何の反応も示さない。たださっきからニコニコと微笑んでいるだけである。
「馬鹿かおまえは! 貴様のような間抜け面で笑われても、俺は少しも嬉しいとも思わない。馬鹿にはこれがよく似合う」
そう言うと名無しは歳三の頭を横一文字に払った。頭の天辺で髪を結わえていた紐が、髪の毛と一緒に吹き飛んでしまい、歳三の髪はおかっぱのようになってしまった。
髷を切られた歳三はキョトンとした顔をするだけで、一体自分に何が起こったかも分からないので泣きもしなかった。
名無しは次に青色の波千鳥柄の羽織を着た歳三の前にゆっくりと歩を進めた。
「怨霊、そんなに神仏が恨めしいか、憎いか? それなら俺も同じだ。俺は生まれながらに母の顔も知らずに育った。だから神仏なんて信じたことはないし信じたいとも思わない。だが貴様は神仏がいるのを知っている。だからこんなところで恨めしく神仏を呪いつづけているんだろう。貴様ら怨霊はそれだけ腐りきった下司《げす》野郎ということだ」
そう言い捨てると名無しは歳三の背中に回り、袈裟懸《けさが》けに斬り下ろした。すると羽織が斜めに切れてブラリと下に垂れ下がった。
羽織を斬られた歳三の背中には、刀が触れたことを示すかのように淡い傷痕が斜めに残っていた。名無しはその後ゆっくりと刀を杖におさめた。
「馬鹿どもめ、これで貴様らの誰が誰と入れ替わってもすぐに分かる。何なら俺が三人とも斬り殺してやってもいいんだぜ。その前に正体を現して俺を襲ってきたらどうだ」
そう言うと名無しは不敵に笑った。そして何を思ったのか歳三に背を向けて座ったのである。
「怨霊、いつでも俺を襲ってこい。こうして後ろ向きに座ってやったぞ。さあ腰抜け、俺を襲えるなら襲ってみろよ!」
不気味な静けさが座敷を支配した。名無しの背後ではガサガサという音が少しした後は、全く何の物音もしなくなった。まるでそこに三人の歳三がいないかのようである。しかし、たとえ物音はしなくとも、さっきから子供の気配はあった。
名無しは仕込み杖を握ってその時をじっと待った。その時だった、外で凄まじい男の叫び声が上がったのである。
名無しは目にも止まらぬ速さで抜刀すると立ち上がり、背後の歳三たちに向けて振り返った。するとそこには、朱色の羽織を着たおかっぱ頭の歳三だけがいて、他の歳三の姿は完全に消え失せていたのである。
名無しは急いで残った歳三を腋《わき》に抱えると、霧で覆われた廊下を抜き身の刀を下げたまま屋敷に向けて走っていった。
十二
番頭の与二郎は厠に行こうとしていた。しかし霧が深く、何処から怨霊が出るかもしれないので包丁を懐に入れていた。
「出物腫れ物だけは我慢できん」
そう言いながら与二郎は急いで厠に入ると、外と違って薄暗いのでそっと電灯をつけた。奇妙なことに外の世界と隔絶されているはずなのに、電灯はわずかだが淡く灯った。光はカンテラの炎のような明るさはなく、ユラユラと頼りなく、時には点滅を繰り返して消えいりそうになる。
霧は厠にまで入り込み、外の手水鉢《ちょうずばち》は何処にあるかさえ見えない。与二郎は薄暗い中で、厠用の下駄に履き替えて肥壺に落ちないようゆっくりと木の便器を跨《また》いだ。
厠は昔から与二郎にとって苦手な場所だった。与二郎の家は山間地の農家で厠が別になっていたため、夕方や夜になると子供にとっては通うのが恐ろしいところとなった。特に風が強い夜などは竹藪《たけやぶ》を吹き抜ける風がザワザワという音をたて、一人で厠まで行く子供を震えあがらせる。
その怖さを必死に耐えながら厠まで行くと、今度はユラユラ揺れる蝋燭に映る自分の影が怪物のように見えてくる。だから子供は夜の厠では早く用が済むように必死に願うのだ。与二郎の家では厠の用が済んだら、糞箆《くそべら》という竹で作った箆で後始末していた。しかし桔梗屋では使用人用にも塵紙がちゃんと用意されている。今まで別に何とも思わなかったが厠の塵紙一つにしても店に感謝せねばならなかったのだ。
その時、与二郎の耳に肥壺の下からチャポンという何かが落ちたような音が聞こえた。与二郎は一瞬緊張したが、自分の便かもしれぬと思い、少しでも早く用を済まそうと思った。すると急に電灯が点滅しはじめ、かき消されるように消えてしまったのである。
途端に厠の中は薄暗くなってしまった。与二郎は少し恐ろしくなり、慌てて懐から出刃包丁を出すと、便器を跨いだままその場に立ち尽くした。
すると、便器の奥の暗闇で何かがボオゥと光っているのが見えたのである。肥壺の中に何があるんだと思った与二郎は、しばらくの間、奇妙な光に目が釘付けとなった。その光は二つの点で、ゆっくりと揺れるように動いている。一体何なのかと、少し腰を屈めたままの姿で便器に顔を近づけた。
その瞬間、便器の暗闇の底から歳三の不気味な顔が淡く光りながら浮かび上がってきたのである!
「ギイャアアアアァァァァァァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!」
与二郎はあまりの恐怖から叫び声を上げた。しかし時は既に遅かった。二つの奇妙な光は歳三の両眼が放つ光であった。与二郎は物凄い力で顔を掴まれるや、そのまま便器の中へあっと言う間に引き込まれてしまったのである!
罵利 罵利 罵利 罵利 罵利 罵利 罵利 罵利……!
真っ暗な肥壺の中で、骨が噛み砕かれるような音がした。その後、厠は元の静けさに戻っていた。外では濃い霧がまるで一つの生き物のように渦を巻きながら蠢《うごめ》いている。
舞と北麿は叫び声を聞いて慌てて外へ飛び出した。
しかし外は相変わらずの深い霧で、不気味な静寂に支配されている。舞は小剣を抜き放ち、北麿は怨霊が何処から現れるか気配を探った。
「舞、おまえにあまり心配させたくないから、今まで言わなかったが、結界を張った後どうも俺の陰陽と呪詛《じゅそ》の力が弱まっているようなんだ」
「何よ、それ?」
舞は驚いた顔をした。
「怨霊を絞り込むため、いつものように陰陽の術で怨霊の力を弱らせようとしていたが、それがどうも効果が出ていないんだ」
「どういうこと?」
舞の言葉に北麿はしばらく考え込んでいたが、意を決したように口を開いた。
「ひょっとして隼斗が言っていた、涼の場合と同じなのかもしれない!」
「……?」
舞は一瞬北麿が何を言っているのか分からなかった。北麿は六角棒を片手に持ち、霧で見えない周囲に円を描くように巡らせた。
「まるで底が抜けた樽に水を汲んでいる感じなんだ」
北麿の言葉に舞はどう言っていいのか分からない表情をした。
「つまり陰陽師が呪詛の術が使えない状態ってこと?」
「ああ」
それを聞いた舞は少し動揺した。
「なんてこと!」
確かに舞は北麿にしては怨霊を絞り込むのに手こずるとは思ったが、それは同じ歳三が四人いるという理由だけではなかったのだ。北麿の呪詛の力が激減する理由となると、寺社仏閣に結界を張った時に起こる現象としか思えない。
「まさか……そういうことなの?」
「ああそうだ」
「分かった。この屋敷について薫殿に聞いてくるわ」
そう言うと舞は薫の所に急いで戻った。
「舞、俺は怨霊の匂いを探ってくる」
そう言うと北麿は六角棒を突き出しながら、深い霧の中へと消えていった。
舞は座敷に入ると薫に聞いた。
「おかみ、桔梗屋に昔、祠《ほこら》や社《やしろ》がありませんでしたか?」
薫は何のために舞がそんなことを聞くのか分からなかったが、考えるうちに一つ思い出すことがあった。
「善兵衛から聞いた話なんですが、確か以前の主の時から屋敷の裏庭には何処から持ってきたか分からない、古くて小さな石造りの祠があったらしいですわ」
「それは今は何処にあるんですか?」
「さあそれは善兵衛しか知らないと思いますよ。私の記憶はハッキリしていないんで」
薫は首をかしげながら言った。善兵衛は相変わらず布団の中から天井の一点を見つめるだけで、正体がない。そこへ北麿が慌てて戻ってきた。
「どうしたの?」
舞が言った。北麿は息を切らせている。
「血の匂いを探っていくと厠につながっていた。どうも厠で誰かが食い殺されたらしい」
そう言うと北麿は出刃包丁を畳の上に放り投げた。
「こ、これはうちの台所で使っている出刃です」
女中頭の米が言った。
「そういえばさっきから番頭さんがいません!」
丁稚の正太だった。
その言葉に女中たちが悲鳴を上げてお互いに抱き合い、手代たちは恐怖に震え上がった。
「ま、まさか与二郎が怨霊に……」
薫もブルブルと震えだし顔面蒼白になった。
「北麿やっと分かったわ。この場所は既に結界が張られていたのよ!」
舞の言葉を聞いて北麿は怪訝な顔をした。
「しかしここは寺社仏閣じゃないぜ」
「いいえ、結界の力が封印された祠が、以前の主の代にここへ運び込まれていたのよ」
「……!」
北麿は返答に窮《きゅう》した。
「これで涼を殺した怨霊がここにいる理由も分かったわ。そいつは寺社の境を利用する力を持った怨霊なのよ」
「変異体か……」
「ええ、稀《まれ》に現れるという変異体ね」
それを聞いていた熊楠は、立ち上がると舞と北麿に向かって言った。
「それであんたらに勝ち目はあるのか?」
「結界の中に結界を張った場合、何が起きてもおかしくはないわ」
二人を睨む熊楠に向かって舞が答えた。
「……ということはどういう意味だ?」
舞は何も答えない。
「結界が邪魔なら解いたらどうなんだ」
熊楠が詰め寄った。
「それはできないわ。結界を解けば怨霊は逃げてしまう」
「しかし、このままじゃ俺たち全員が怨霊の餌食《えじき》にされちまうんだぞ」
熊楠の言葉に使用人たちは頷いた。その時、名無しが歳三を抱いて廊下を小走りにやってきたのだ。突然障子を開けた名無しの腕の中に、歳三の姿があるのを見た女中たちは、恐怖で大慌てになり悲鳴を上げた。
「おかみ、これが本物の歳三だ。怨霊どもは逃げてしまった」
薫は一瞬何事が起きたか分からない顔をした。それは舞たちも同じだが、おそらく名無しは自分の方法で怨霊を区分けしたのだと思った。
「歳三は髷の切られたおかっぱだが、怨霊には掌と背中に傷があると思え!」
舞はその言葉で名無しがやったやり方を察知した。
名無しは震える薫に歳三を差し出した。薫はしばらくそのまま歳三の顔を見ていたが、周りを窺うような目つきをすると、ゆっくりと歳三に向けて腕を差し出した。しかし薫の腕は明らかに震えていた。
それでも薫は名無しから歳三を受け取ると、そっと自分の胸に抱き寄せた。歳三は何も知らない顔でニコニコと笑うだけだった。
「それともう一つ、黄色の紅葉模様の羽織を着た歳三も怨霊だ。しかしそいつには何の傷もないから気をつけろ」
北麿がそう言うと、その言葉を聞いて熊楠はごつい指を三本立てて言った。
「となると怨霊は三匹というわけだな!」
「そうだ」
北麿が答えた。薫は与二郎が握っていた店の包丁を手に取ると、女中頭に命じて晒《さらし》で巻かせた。そしてそれを自分の帯の中へとしまった。与二郎の心を自分が預かったかのように……。
北麿は言った。
「屋敷で最も大きな座敷に全員を集めることを提案する。その方が怨霊と対峙しやすい」
「女将、それなら離れ屋敷が一番だ。厨房《ちゅうぼう》はないがあそこの大座敷は広い」
熊楠に言われ、薫はしばらく考えていたが、使用人たちの心配そうな顔を見ると頷かざるを得なかった。
北麿は人の頭数を数えた。主人夫婦に歳三の三人、女中頭一人に女中五人、手代五人と丁稚六人で、その中にはタネの失踪を見た正太がいた。そして客人の熊楠と名無し、それから舞と北麿の計二十四人である。
怨霊の数は三匹で、桔梗屋の中で食われた人間の数は女中のタネと静、そして番頭の与二郎の計三人だった。
善兵衛は布団のまま丁稚たちが運び、全員が離れ屋敷へと移った。女中たちは次々と布団を押し入れから出して離れ屋敷に運びこんだが、今夜から主も使用人も一緒に大座敷で寝起きするのである。
その作業の最中、女中頭の米は襖の向こうから手招きする政の姿に気づいた。政は桔梗屋で最も長く奉公している手代で、歳は既に七十を超えていた。
「ちょっと米さん、米さん」
「何よ、政さん」
米が何事かと思い政の方へ行くと、政は米に目で奥の物置に来るように合図した。米が政につづいて物置に入ると、中からは黴臭《かびくさ》い匂いが漂ってきた。
政は電灯をつけた後すぐに戸を閉めた。物置には掃除具に混じって壺や皿などが置かれ、大きな棚には徳島新聞の束や煙草盆などが無造作に積まれていた。
「何ね、政さん?」
米は忙しいのに迷惑だというような顔をした。
「俺はもう我慢できねえよ」
政は背中を丸め、痩せた細い腕を何度も米の前で上下に振った。その声にも日頃の政の穏やかさはなくなっている。
「それは私だって同じだよ。誰も怨霊に食われたいとは思わないからね」
「そうじゃねえんだ」
そう言うと政は節くれだった手を激しく振った。
「じゃあ何だね?」
米は腕を組んで棚に凭《もた》れ掛かった。棚は少し軋《きし》むような音を立てる。政はまだ分からないかというイライラした顔をした。
「あの件だよ」
「あの件?」
米は首をひねった。
「ほら静の一件だよ」
そう言われて米は、ああと思い出したような顔をした。
「静の一件はあんなもんじゃねえ」
政の言葉に米も頷いたが、ゆっくりと首を横に振って政に言った。
「政さん、今じゃあとっくの昔に済んだことじゃないの。今さらどうこう言っても始まらないよ」
「そんなに簡単に済むような問題じゃねえだろう。だって歳三さんの……」
その時、政の口を米が人差し指で押さえた。
「いいかい政さん、誰にだって聞かれたくない秘密の一つや二つはあるもんさね。私ら使用人はお店に長く奉公させてもらったおかげで、見たくもないものも見てきたんだ。しかし今までの御恩を思うと、それを忘れるのがお世話になった者の務めじゃないのかね?」
「…………」
そう言われて政は押し黙ってしまった。
「じゃあ私は行くよ」
米は戸を開けて廊下へ出ようとした。
「あれおかしいね。ここの戸はこんなに立て付けが悪かったかね?」
米はそう言うとガタガタと戸を揺らしてみたがびくともしない。
「政さん、ちょっと手伝っておくれでないか」
そう言って政に振り返ったが、姿が見えない。
「あれ、政さん何処に行ったんだ?」
その時、米の頬に何か生暖かいものが落ちた。何かと思い指で摩《さす》ると濡れたものが指にまとわりつく。指先を見て、米はそれが血であることが分かった。恐怖にかられた米が恐る恐る天井を見上げると、そこに政がぶら下がっているではないか。
その政の頭付近で何かが蠢いている。よく見ると政を天井付近からぶら下げているのは棚の上に乗った歳三だった。歳三は政の頭を両手で抱え込み、政の顔の肉を毟《むし》り取りながら食っていた。ベリベリと肉が剥《は》がれる嫌な音がする度に政の両足がヒクヒクと痙攣《けいれん》した。政はまだ生きているのだ。生きながら怨霊に食われているのである。
歳三の凄まじい形相に腰を抜かした米は、あまりの恐怖で声が全く出せなくなった。
「あわあわあわあわ……」
その時、米は異様な気配を足元付近にも感じた。目を落とすと、そこには四つん這いになって近づいてくるもう一人の歳三の姿が見えた。自分も怨霊に食われると思うと、米の体中の毛が一斉に立った。
(いやだ、いやだぁ、まだ死にたくない……食われるなんていやだ!)
米は心の中で叫んだが、誰に聞こえるはずもない。歳三は薄気味悪い微笑みを浮かべながら、四つん這いでガサガサと這い寄ってくる。米は恐怖で卒倒しそうになった。
(た、助けて……助けてぇぇ……誰かぁぁ!)
米の喉は乾いて声にならない。
歳三は米の足元まで這ってくると、小さな手で米の着物の裾をたくし上げた。そしてそのまま裾に頭を埋めるように潜ったのである。米は恐怖の中で凄まじい痛みを下腹部に感じた。股から腹にかけて肉が引き裂かれたのである。米は激痛のため白目を向き両足を痙攣させた。
舞と北麿はいつまで待っても米と政が戻らないため、屋敷中を隈なく捜したが、なかなか見つからない。さんざん捜し回ったあげく、北麿はやっと物置の中で血痕を見つけ出した。血痕の近くに政が使っていた煙管《きせる》や着物、そして米の簪《かんざし》などが転がっていた。しかし二人の生きた姿を見ることは二度となかったのである。
「これで店の犠牲者の数は五人になったか」
熊楠が肩を落としながら言った。
薫はおかっぱ頭の歳三を丁稚の正太に任せると、寝込んだきりの善兵衛の様子を心配そうに眺めている。熊楠はその間も歳三からなかなか目が離せなかった。歳三は与えられた人形を手にキャッキャと声を出しながら遊んでいる。熊楠はどうしても静のことが気にかかっていた。なぜ静が離れ屋敷を気にしていたのか、なぜ歳三を見て叫び声を上げたのかをずっと考えつづけていたのである。
名無しは薫の頼みで歳三のそばにいた。怨霊は正体がばれた以上、歳三を生かしておく必要がなくなったから歳三も危い。
大座敷に女中たちによって寝床が敷かれた。床の間近くに寝るのは主人夫婦と歳三だが、誰も左右の廊下のそばで寝る者はいなかった。
「舞、こんなに多くの人間を守りながら怨霊を狩りとるのは不可能だ。ここは名無し殿に任せ、俺たちは怨霊を狙う方がいい」
北麿はそう言うと、名無しに向かって言った。
「それについて名無し殿には異存ないか?」
「俺は桔梗屋に雇われた用心棒だ。だからこの連中を守るのは俺の役目だろうよ」
名無しはそう言うと、いつものように爪楊枝を銜《くわ》えた。
「かたじけない」
そう言うと舞と北麿は大座敷から廊下へと出た。
怨霊は舞と北麿を襲う気配を全く見せず、桔梗屋の使用人たちだけを次々と襲ってくる。
「怨霊は弱いものから順に食っていく。そして最後は俺たちを殺し、結界を解き放とうという策だな」
北麿が言った。
「そうね、怨霊はそのために一人でも多くの人間を食らい、己の霊能を強めようとしているんだわ」
舞もそう思った。
「だから怨霊が必ず出るはずの大座敷で待ち受けるのが最良の策となる」
そう言うと北麿は六角棒を立てて廊下に座った。
「北麿、とにかく一匹ずつ確実に怨霊を狩らねばならないわ」
「ああ、しかし敵は俺たちの前にだけはなかなか姿を現さない」
「利口なのよ」
「舞、あの時、隼斗は涼が二重結界の中で怨霊に近づくことができず、最後まで自分を相手に戦っていたと言っていたな」
「ええ、それがどうかしたの?」
舞は北麿の横に座した。
「涼の時の怨霊は憑依していなかったが、今は既に体を得ている……」
「そうね、そこが最も大きな違いだわ」
舞は霧に沈む庭石を見つめながら言った。離れ屋敷の庭は大忌部の里にある四天女屋敷に似ている。隠れ里にも霧の降る日はけっこうあって、ちょうど目の前に広がるような光景が展開する。
「そして二重結界の中心にいる者は、結界を張る者より有利な立場になる。その違いは分かるか?」
北麿は舞の顔を見ながら真剣な眼差しで言った。
「それはちょうど私たちが張った結界に入った人間と同じ立場になるからよ。結界に入った人間は絶対に結界の中心に近づけない」
「その通り! あの時の涼は二重結界の持つ落とし穴に気づかず、亜空の中での時間の重なり、移動、反転だけではなく、空間の捩れにも気がつかなかった」
「亜空とはそういう世界だわ。私も涼の立場なら同じだったかもしれない」
「ああそれは俺にも分かっている」
「では何なの?」
舞は心配そうに尋ねた。
亜空の中で全体を統括するのは怨霊師ではない。怨霊師は実際に怨霊と戦うのが役目であり、陰陽師が亜空を見極め、的確な指示を怨霊師に出し、怨霊を狩りやすくする役目を持つ。だから隼斗は涼が返り討ちになったことを、あれほど悔やみ恥じたのである。
「実は今の俺たちも同じではないかと思っているんだ」
北麿はそう言うと、舞に真剣な目を向けた。
「どうして? 私たちは自分と戦っているんじゃないわ。怨霊が化けた歳三と戦っているのよ」
「そこなんだ! 俺たちと涼の場合が全く違っているのは……」
「どういうこと?」
舞はなかなか要領を得ない北麿に腹が立ちだした。ついさっきも自分の呪詛が効かなくなっていると言ったばかりである。舞はそういう重要なことは早く自分に言ってほしいと思った。
「ずっと今の状況を分析するのに時間がかかったんだが、涼の時は怨霊は怨霊のままだったが、俺たちの場合は体を持った怨霊だ」
「それも三つも同じ体を持った怨霊だわね」
「ああ、しかしどうして同じ体がこの世に存在するんだ?」
北麿の言葉で舞の体に電撃が走った。
「……確かにあり得ないわね」
その時、涼と北麿は今回の怨霊事件には得体の知れないからくりが隠されている気がしてきた。
「舞、俺が今回の怨霊封じの策を、もう一度根本的に考え直すと言った言葉を覚えているだろう?」
「ええ覚えているわ」
「実は、怨霊が歳三の真似をして同じ動きをしていたというのも、考え直そうかと思うんだ」
北麿の言葉に舞はたじろいだ。そこを根本的に改めると、今回の全ての策が崩壊するからだ。
「俺は陰陽師として怨霊師である舞を守らねばならない。それは怨霊の策を先読みし怨霊師に的確な指示を与えることなんだ」
「分かっているわ」
舞が答えた。
「涼は、二重結界の中で自分の姿が同時刻の中で重なっていることに気がつかなかった。それは言い換えれば、同時刻に自分の未来と過去、そして現在の姿が重なっていたということだろう」
舞は必死に北麿の言うことを理解しようとしていた。
「そういうことになるわね……だから涼は過去の自分が放った鋼芯で、自分の手足を貫かれたのよ」
「つまりだ、二重結界の中では同時刻に複数の人間が存在することも可能なんだよ」
「確かに結界に迷い込んだ人間は、時にはその中で未来や過去の自分の姿を見ることがあると聞くわ」
「だからそういうところへ新たに結界を張ったら最後、その現象はケタ違いに拡大してしまうんだ」
「分かるわ。元々寺社に張られた境という結界は怨霊封じだけのためで、私たちの張る結界とは質が違う。だけどそれが交錯した時、相乗作用で一気にとんでもない現象が起きはじめるのよ」
「今度の怨霊が本当に変異体だとすると、寺社に張った境を俺たちの張る結界で変貌させる術に長《た》けた奴かもしれん」
舞は北麿の指摘で大きな衝撃を受けた。
そこまでやれた怨霊はかつていなかったからだ。安倍晴明の時代に、極めてそれに近い変異体が現れたことは、大日女から聞いてはいたが、まさかそれ以上の変異体が自分たちの時代に現れるとは思わなかった。
舞は大頭が評議の場でそれを匂わせたことを思い出した。やはり父と大日女が指摘するように、今までとは比べようもない怨霊が現れる時代に、突入しているのかもしれない。
「涼は二重結界の中で己の力が激減したことに気づかず、己の気配すら察知できずに怨霊の罠《わな》に嵌《は》まったのだ」
「それで結論は一体どうなるの?」
舞は現実が見えてくるに従い、予測のつかない展開に強い不安を覚えはじめていた。
「結界の中で結界を自由に扱える者は、同時刻に何人もの自分を存在させることができるんだ。その変形は土佐犬を討った時に俺が仕掛けた術だ。あの時、坑夫の男は何処まで行っても俺たちの姿から逃れられなかったはずだ」
舞は黙ってしまった。自分の頬を冷や汗が伝うのが分かるほど、今、舞の神経は緊張していた。
「私たちも涼と同じ幻影を見ていたと言いたいのね。でも涼の場合と違うのは怨霊が体を得ているということよ!」
「その通りだ、舞。だからこそ根本的に歳三のことを考え直さねばならなくなるんだよ」
「分かったわ、北麿、名無し殿が連れてきた歳三も怨霊ということね」
「可能性だがな」
「分かったわ」
そう言うと舞は腰から小剣を抜き放ち、踵《きびす》を返して大座敷へと向かった。
十三
大座敷では、皆それぞれ布団に入っていたが、恐怖でなかなか寝つかれない様子だった。
名無しは相変わらず仕込み杖を抱いて、柱に背を凭《もた》れさせていたが、廊下に人の気配を感じ柄に親指をかけた。
大座敷の障子が開けられた。そこには舞の姿があった。しかし舞の手には抜き身の小剣が握られていたため、一同は怪訝な表情になった。その姿に驚いた薫は、善兵衛の横に敷いた布団から身を起こした。
「どうしたのですか?」
薫が舞に向かって尋ねた。
「その子を渡してもらうわ」
舞は薫の布団でスヤスヤ眠っている歳三を見て剣を向けた。
「何があった?」
名無しが聞いた。
「怨霊は最初から一匹だけだったのかもしれない」
「……!」
しばらく沈痛とも言える緊張した時間が大座敷の中に流れた。
「気でも触れたのか?」
名無しはそう言うとやおら立ち上がり、舞の前にゆっくりとやってきて向かい合った。名無しの手には仕込み杖が握られている。
「貴方は怨霊を騙《だま》すつもりが、逆に怨霊に利用されたのかもしれないのよ。最初から怨霊が一匹だけだったらね」
「俺はおかみから歳三の命を守るよう依頼されている」
名無しは冷徹に言った。
「知っているわ。でも怨霊までを守れとは言われていないはずよ」
舞も一歩も引き下がらない。その様子を見ていた熊楠は慌てて両者の間に割って入った。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれぃ。怨霊は四歳の歳三に取りつけないのではなかったのか?」
熊楠が舞に向かって言った。
「歳三が本当に四歳だったらね……」
その言葉に熊楠は唖然となった。そして薫に目を向けて聞いた。
「おかみ、歳三は四歳なんだろう?」
薫は一瞬驚いたように目を見開き、狼狽《ろうばい》したような顔つきになった。しかしすぐに熊楠の言葉に激しく首を振って叫んだ。
「間違いなく四歳よ! 今さら何を言うのこの人は?」
それを聞いて熊楠はホッと安堵した顔をすると、今度は舞に向かって言った。
「産みの母親が言うんだから、それは絶対に間違いないことだろう」
熊楠はそう言ったが、舞は剣をおさめない。その様子を見て名無しは、ゆっくりと仕込み杖から剣を抜いた。
「もう一度言っておくが、歳三を守るのは俺の役目だ」
名無しが静かに言った。
両者の間に目に見えない火花が散った。怨霊もさることながら舞と名無しが刀を交えそうな気配に一同は恐怖し、驚きのあまり布団から飛び出し大座敷の端へ一斉に逃げ出した。
「もう一度おかみに聞きます。歳三は本当に四歳なのか?」
舞が鋭い目つきで薫に聞いた。
「いえ言葉を換えるわ。歳三は本当に貴方の子なのか?」
その舞の言葉に薫の顔が思わず引きつった。
「な、何てことを言うの、この女は!」
その顔はもはや穏やかな薫のものではなく、静を何度も平手打ちにした時と同じ、気が触れたような顔つきだった。熊楠はその表情を見て、薫が歳三を受け取る時に見せた、何処かよそよそしい奇妙な態度を思い出した。
「じゃぁ、あんたは怨霊が取りついた歳三が四匹だと言いたいのか?」
このままではとんでもない事態になると思った熊楠は、何とか取りなそうとした。
「いや、最初から歳三は一人だけだった。しかし、二重結界を利用した怨霊は、空間と時間を操り三人の歳三に見せただけ。そして今は四人の歳三に見せている」
舞の言葉に頭が混乱した熊楠は、念のためもう一度だけ聞いた。
「し、しかしだな、歳三は四歳なんだろう。どうして怨霊が取りつけるんだ?」
「おそらく本物の歳三は怨霊の餌になっている」
舞の言葉に熊楠だけではなく全員が驚いた。そんなことがあろうとは夢にも思わなかったからだ。もしそうなら今ここにいる歳三は何者なのだ。
「どういうことだ? もっと俺たちにも分かりやすく説明してくれ」
熊楠が言った。もし舞の言う通りなら、歳三を大座敷に入れた今こそ、全員を食い殺す絶好の機会かもしれないのだ。
「おそらくその答えは祈祷師が握っていたはず。そして静、番頭の与二郎、そして屋敷の古株だった女中頭の米に、長年奉公していた年老いた手代の政……それらの人間が判を押したように怨霊に食い殺されている」
舞に指摘されてみて、熊楠は確かにおかしいと思った。
「確かに怨霊に食い殺されたのは桔梗屋の古株の奉公人ばかりだ!」
熊楠は偶然にしては奇怪《あや》しいと思った。
「馬鹿お言いでないよ。タネはどうなんだい? 祈祷師の百欄は? 百欄の付き添いの女は桔梗屋の古株だったかい?」
薫が叫んだ。
「怨霊封じの私たちが来てからのことを言っているのよ!」
舞は薫の言葉に動じることなく言った。
「口封じか……?」
熊楠がポツリと言った。
「ええ」
「おかみ、あんた何か隠しているんじゃないのか?」
熊楠にそう言われた薫は益々険しい顔つきになった。
「熊楠先生、あんたまでこんな得体の知れない小娘の言う話にまどわされるのかい」
そう言うと薫は歳三を抱き寄せた。歳三は眠そうな顔で目を擦ると、玩具を手に持って指しゃぶりをした。
「名無し! 子供を殺すようなこんな女、早く斬り殺しておしまい」
薫は叫ぶように名無しに命じた。
名無しは顔色一つ変えずにゆっくりと刀を正眼《せいがん》に構えた。その切っ先は真っ直ぐ舞の喉元に向けられ、構えは微動だにしない。
北麿は名無しの持つ底知れない恐ろしさを今はっきりと感じることができた。この男は死ぬことを全く恐れていないのだ。むしろ己の死に場所を探して生きている男だと直観した。死ぬことを恐れぬ人間ほど恐ろしいものはない。なぜなら死こそがその人間の目的であり、究極の美学になるからだ。
北麿はそんな人間とは一生遭遇したくなかったが、今、舞と対峙するこの男は怨霊よりも手ごわくなるかもしれない。
舞も片手で小剣を握ったまま正眼に構え、名無しの剣と対峙した。もはや誰も両者の戦いを止められなくなった。
女中や手代たちは悲鳴を上げながら大座敷の中を逃げ回り、怨霊どころの騒ぎではなくなった。
北麿は舞とともに立って名無しと向かい合おうとしたが、舞がそれを止めた。
「なぜだ舞?」
「貴方は怨霊が皆を襲わないよう見張る必要があるわ」
「一人で大丈夫か?」
「分からない」
舞はそう言うと北麿を肩で押し退けた。北麿は六角棒を握りながら歳三の動きを制する位置に立った。
凄まじい緊張と気が大座敷の中を貫いた。名無しはゆっくりと正眼から下段に剣を構えると、切っ先が畳に付く寸前、間髪入れずに下から斜め上へと剣を振り上げた。
その速さは凄まじく、空気が真っ二つに切り裂かれる音を全員が皮膚で感じた。その瞬間、舞は大きく後ろに反り返って回転し、名無しの切り込んだ第一撃を見事にかわした。
「廊下でも貴様は俺の剣の間合いを読んでかわしたな」
そう言って名無しは剣を斜め前に構えると、舞に向かってジリジリと擦り寄っていった。舞は少しずつ座敷の角へ追い詰められていく。
「名無し殿、まだ分からないか! 怨霊は両者相討ちの事態を望んでいるんだぞ」
北麿が大声で叫んだ。しかし名無しは一向に聞く気配がない。むしろ舞を斬り殺すことが最初から目的だったような顔をしている。
「俺は強い者の存在が許せない……」
そう言うが早いか第二の太刀を舞にあびせかけた。今度は激しく横一文字に剣を放ったが、舞の体は再び宙を飛び、軽業師のように名無しの背後へと飛び退いた。
その直後、名無しは返す刀で舞を激しく襲った。しかしその太刀も舞の小剣で横に払われてしまった。
「俺は怨霊などはどうでもいい。死とギリギリの世界が見たい」
そう言うと名無しは、第四、第五、第六の太刀を連続して舞に浴びせかけ、逃げる舞の片足に深い傷を負わせたのである。
切れた朱色の袴の周囲が舞の血で染まっている。その血が片足から畳に垂れていく。
「舞……!」
北麿は自分が名無しの相手をする方がいいと思ったが、舞はそれを一切許さない。実戦の権利は陰陽師ではなく怨霊師にあるからだ。名無しは、これほどの相手と生死を争うことに至福の喜びを感じていた。
(殺す殺してやるぞ!)
名無しは不敵に笑うと、舞を威圧するかのように剣を大上段に構えた。そして、そのまま少しずつジリジリと大座敷の隅へと追い詰めていったのである。大座敷の角に追い詰められた舞には、もはや逃げ道はなかった。上段の剣を避けるには左右に飛びのかねばならないが、返す刀で舞の体は間違いなく斬り捨てられるだろう。名無しの太刀はそれほどに速いのだ。北麿には名無しの動きから、両者の行き着く先が見えていた。しかし……。
その時、舞は奇妙な行動に出た。
己の小剣を右手で腕に沿ってクルリと回すと、刀の峯《みね》を己の右腕に寝かせてしまったのである。
「……!」
これには名無しも一瞬戸惑いを見せた。切っ先を敵ではなく己の方に向けた構えなど、見たことがなかったからだ。
(何だこいつは……?)
名無しは舞が何をしようとしているのか全く分からなかった。
舞はさらに小剣の切っ先を名無しから隠すように、左半身の構えを見せながら、剣の代わりに自分の左腕を大きく前に突き出したのである。これで名無しからは完全に舞の小剣が隠れてしまった。
この時、名無しは初めて舞の構えの持つ意味を理解した。それはまさに驚天動地《きょうてんどうち》の剣法だったのである。
(こやつ、己の剣の切っ先と長さを俺に見せぬつもりか……)
舞は長剣を持つ名無しを相手に、小剣の間合いで勝負をつけようとしていたのだ。
敵に己の剣の間合いを知らせず、己は前に差し出した左腕で相手の剣との間合いを計る。つまり舞の構えは、一瞬の間合いの差で敵を斬り殺す必殺の構えだったのだ!
剣の試合では、上段者同士になるほど間合いが勝負を決める。剣を極めた者同士では長剣か小剣かで勝敗が決まる世界ではないのだ。舞には名無しの長剣の長さが見えており、己との間合いを計ることができる。事実、名無しが何度か踏み込んでも、名無しの剣はぎりぎりで舞に防がれている。
それに気づいた名無しは、もはやそう簡単に舞に斬り込めなくなった。下手に斬り込めば舞の間合いの中に取り込まれ、己の片腕ぐらいは間違いなく斬り落とされてしまうからだ。いや下手をすれば舞の素早い動きの中で、名無しは血反吐《ちへど》を吐くことさえあり得るのだ。名無しには、舞の切っ先が見えない。そのため下手に踏み込めば、間違いなく相手の間合いに己の身を晒《さら》すことになるだろう。
このような剣の存在を名無しは全く知らなかった。この構えは相手が打ち込んできた時に、最大の効力を発揮する。ある意味で舞の太刀は究極の受け身の構えとも言えた。これは舞が大忌部の里で、中頭から痣《あざ》ができるほど打ちのめされ、体で覚えさせられた剣法の一つだった。
日頃は冷徹な名無しも、この舞の異様な構えと気迫に動揺を隠せなくなった。その証拠に名無しは一歩も動けなくなっている。もはや名無しは相討ち覚悟でないと、舞ににじり寄ることもできなくなったのである。
「名無し殿、もはや斬り込めばどちらも無事では済まない。それはおぬしが最もよく分かっているはずだ。どうか剣を納められよ」
北麿が叫んだ。しかし名無しは一向に剣を納める気はない。むしろこのような状況こそが、長年己が望んできたものだったからだ。
身を切るような、命を懸《か》けた緊張感が、大座敷の空気を支配し、人の呼吸する音さえも存在しないかのようである。そこにはただ対立する二つの凄まじい気があるのみ!
無限の時間とも思える流れは両者の間に圧縮され、それが凄まじい力で解き放たれた時、一瞬に勝負が決まるのである!
それはまさに無限の時間と一瞬とが交差する間合いとも言えた。両者の凄まじい睨み合いが果てしなく続く。果たしてどれだけその時が続いたのだろうか……その時を終わらせたのは歳三だった。
手に持っていた玩具の人形を畳に向けて投げつけたのである!
その瞬間、名無しは凄まじい気合いとともに大上段から鋭く、舞の眉間《みけん》目掛けて斬り下ろした。それはかつて名無しが放った中で最も鋭い剣となった。名無しは瞬時に己の勝ちを直感し、北麿は舞の死を見た!
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第三章 カニバリズム
闇の中に整然と並ぶ一団の姿があった。
彼らは軍服に身を包んだ四十人の一個小隊の兵隊だった。黒を主体とする軍服に身を包み、完全武装している。
少し前までは鎮台兵《ちんだいへい》と呼ばれ、今は師団と呼ばれて地方を守る駐留軍の兵隊たちは、全員が西洋式の近代装備で身を固めている。彼らの持つ軍用銃は、日露戦争後から近代化の波で本格化した三八式歩兵銃である。それまでは旧式の三十年式歩兵銃だったが、日露戦争で体験した地上戦での苦杯から明治三十八年に新たに開発された新式銃である。
三十年式は指で引き出す鍵型安全装置を使用したため世界の主流から遅れたが、三八式では掌《てのひら》で押しつけながら回転させる安全装置を採用したボルトアクション式歩兵銃へと進化していた。この新式歩兵銃は、やがて日本帝国陸軍の大陸進出とともに無数の異邦の民の生き血を吸う銃として、アジア全土から恐れられることになる。
「八雲《やぐも》大尉殿でありますか?」
小柄でがっしりとした現場の隊長らしい男が聞いた。
「そうだ。君が田辺《たなべ》伍長だな」
「ハッ、そうであります」
小柄な兵隊が直立不動で敬礼した。
その前にスラリとした長身で丸縁の眼鏡をかけた男が立っていた。男は身なりのいい背広姿で、髪をオールバックに整えている。どう見ても軍人には見えない。どちらかといえば上流階級の華族か財閥の御曹司という風貌である。
理知的な目が眼鏡の底から覗《のぞ》き、歳の頃なら二十四、五の若さと思われた。兵隊たちは桔梗屋の周囲を数日前から封鎖し、店の前の通行も完全に禁止していた。
「いいか、この区域は日本陸軍情報局が管轄《かんかつ》する特別区域となった。よって一般市民も新聞社も一切ここに近づけてはならんことは勿論《もちろん》だが、ここで起こるかもしれない緊急事態に対しても、機密厳守を命じる」
八雲は兵隊全員の前で厳しく訓示した。
既に桔梗屋一帯の通行止めは徹底され、さらに隣接する商店や家屋の住民にも強制退去命令が出されていた。
田辺は、数名の斥候《せっこう》を桔梗屋を取り囲む怪奇な霧の中に突入させたが、彼らは二度と戻ってこなかった。八雲は自分が到着するまで一切の行動を取るなと打電していたが、情報の行き違いで命令が行き届かなかったのである。不気味な沈黙が支配する中、兵隊たちは沈痛な面持ちで屋敷を取り囲んでいた。
「八雲大尉殿、斥候が屋敷の調査に行って既に二日が経過しておりますが、未だに戻ってまいりません。彼らを探す捜索隊を数名出したいのでありますが、如何《いかが》でしょうか?」
八雲は直立姿勢で返事を待つ伍長に向かって言った。
「いいか伍長、ここでの命令は全て私が出す。君の提案を受け入れる気は無いからそのつもりで」
「ハッ!」
伍長は背筋を伸ばして八雲に敬礼した。
八雲は、イギリスから持ち込んだ深緑色の大型軍用テントを、運び込んでいた。そこには近くの電信柱から電話線が引き込まれ、見たこともない様々な機械類や機材が持ち込まれていた。おまけに専用の西洋式の簡易シャワーまで置かれていたのだ。八雲は帝都を長期に離れるような場合、いつもこの大型テントとともに移動した。
この男の名を八雲|優《まさる》といった!
八雲は日本陸軍情報局に所属する大尉で、その組織は軍部では明石機関として名が知られていた。八雲は帝国学習院を首席で卒業するほどの逸材で、その聡明さで幼少の頃から不世出の秀才と称されていた。
八雲は華族である八雲伯爵家の一人息子として生まれ、子供の頃に駐米公使を経て帰国したばかりの陸奥宗光《むつむねみつ》に見出され、学習院への道が開けた。その後、学習院在学中に明石元二郎《あかしもとじろう》大佐の眼鏡に叶《かな》い、陸軍情報局へ抜擢《ばってき》されることになったのだ。この明石大佐も宗光によって取り立てられ、後にヨーロッパに派遣された時、強力な情報機関をヨーロッパに作り上げるのである。
八雲は全てが紳士的でなければ気の済まない男だった。特に英国貴族を己の生き方の理想とし、騎士道を旨《むね》とするところがあった。八雲は日常生活も西欧一辺倒で、帝都に建つ屋敷も西洋館なら、酒も洋酒だけを好み日本酒は口にしなかった。
職場にも西洋の合理術を持ち込み、日本では最新式の三八式歩兵銃にしても、あれでは西欧列強に勝てないと断言していた。その理由は三八式歩兵銃の口径にあった。
明治三十年、砲兵大佐だった有坂成章《ありさかなりあきら》は、それまでの村田式歩兵銃を改良した口径6・5ミリの五連発銃を開発した。その銃が日本で最初に無煙火薬を使用した三十年式歩兵銃で、海外ではアリサカライフルと呼ばれたが、既にこの段階で世界の歩兵銃の口径は7・7ミリが主流だったのである。ところが、銃傷はただ戦場において敵兵の戦闘力を失わしめればすなわち足るという時代後れの思想が、軍部に罷《まか》り通り、6・5ミリ口径が日本では常識になってしまったのだ。
その結果、日露戦争におけるロシア兵との銃撃戦で苦杯をなめる結果になるが、幸運による日露戦争の勝利に酔いしれる軍部は、この重大な不利を補う機会を失ってしまったのである。八雲は明石大佐とともにドイツ駐在員の一人として西欧列強を秘密裏に訪れた時、その目で隈《くま》なく西欧の軍事力の調査を行った。その時、陸軍の要《かなめ》である歩兵銃の劣勢が、やがて日本のアキレス腱になることを見通したのである。
このような八雲は軍部から疎まれることも多かったが、明治四十年十二月に叙正五位を授けられ、少将となった明石元二郎が八雲を高く買っている以上、誰一人として文句が言えなかったのだ。
また八雲は、社交界でもけっこう名の知られた男で、特に華族の令嬢方からはことのほか人気が高かった。毛並みの良さばかりか、持って生まれた長身と上品な顔立ちが、伯爵令嬢や男爵令嬢たちから羨望《せんぼう》の眼差しと熱い視線を受けていたのだ。
帝都の麹町区内山下町には、舞踏会や園遊会の社交の場として知られる華族會館が建っていた。その西洋風の建物は帝都でも一際目立ち、華やかな官設社交場として当時からよく知られていた。八雲はここの名士でもあったのだ。
華族會館は元は鹿鳴館《ろくめいかん》と呼ばれ、井上外務卿の提唱でイギリス人のコンドルが設計し、明治十六年に建築されたいわゆる迎賓館であった。今では外国の賓客《ひんきゃく》を迎えるばかりか、華族と皇族の親睦をはかる上流階級の社交場だった。
明治新政府は国家の方針として、全ての閣僚に英語とダンスを奨励し、社交場での儀礼を身につけることを課した。そうせねば西洋式社交術を分からぬ日本は、いつまで経ってもアジアの野蛮国と思われるからである。新政府を起こした伊藤博文や黒田清隆《くろだきよたか》らも例外ではなく、皇族を含めて国中で西欧に追いつこうとしていたのだ。そのため閣僚や華族の一族にとって英語とダンスは必須となるが、その中でも八雲の本場仕込みのステップに勝てる者はいなかったのである。
八雲の西洋好きは、華族會館でのフランス料理のフルコースの席でも発揮され、マナーの良さは他の華族たちの良き手本となった。後に天皇の料理長となる秋山篤蔵にも八雲は厨房《ちゅうぼう》で数度は会っていた。当時の篤蔵は福井県から出てきたばかりで、會館と関係の深い桐塚弁護士の紹介で華族會館に働きに入ったばかりだった。
この頃の篤蔵は、まだ芋剥《いもむ》きしかさせてもらえなかったが、西欧料理術に対する貪欲《どんよく》とも言える鋭い眼差しは、八雲の記憶に強く残った。
八雲の西洋趣味は、厨房における調理具の選定から、料理に使う新鮮な野菜や肉、そして調理法にまで及んでいたのである。特にフランス料理に関しては相当な通で、自分で調理することを趣味にもしていたし、だから今回も厨房用の道具をテントに運び込んでいる。それらは全て八雲伯爵家が徹底的なイギリス式で子供を育て、八雲を幼いうちからイギリス留学させた結果と言えた。
さしものイギリス好きの八雲も、料理に関してはフランス料理が世界一ということを自分の舌で確信した。そのため八雲伯爵家は、料理だけはフランスからコックを雇い入れることになったのだ。
細長い大型テントの中は数か所にランプが吊るされていた。八雲は外から引き込んだ電話線を使って本部と連絡をとっている。
「ええそうであります。屋敷の状況は極めて異様でして、私の聞いた中でもこれだけのものはそうはないかと」
その時、テントの外が何やら少し騒がしくなったので、八雲は一礼してから電話を切った。外に出てみると、数人の兵隊が一人の男を囲んでもみ合っているのが見えた。
「どうした?」
八雲が聞くと、その声に気づいた一人の兵隊が駆け足でやってきて、八雲の前で敬礼した。
「今あそこに八雲大尉に会いたいという者が来ておるのでありますが」
「見たところ軍人のようだな」
八雲は目を凝らしたが、月明かりとはいえハッキリとは見えなかった。しかし軍服を着ていることだけは確かだ。
「そうなのではありますが」
「だったら通したらいいだろう」
八雲にさり気なく言われたため、兵隊はちょっと驚いた顔になった。
「し、しかし」
「しかしどうしたんだ?」
八雲には、なぜ兵隊が躊躇《ちゅうちょ》しているのか分からなかった。
「しかし、あの者は確かに軍服は着ているのでありますが……」
何を言いたいのか、一向に要領を得ない。八雲は胸から出したハンケチで眼鏡を拭きながら、ゆっくりと言った。
「軍服を着ているが何なんだ?」
「ハッ、それがそのぅ」
「何だハッキリしろ!」
ついに八雲が怒鳴った。兵隊はその声に飛び上がり、直立姿勢をとったまま言った。
「それが男ではないのであります!」
「…………」
しばらく奇妙な沈黙の時間が流れたが、八雲は急に何かを思い出したように兵隊を見た。
「女なのか?」
「ハッ、男装の麗人なのであります」
それを聞くと八雲は笑いながら言った。
「その女なら桐生院美千子《きりゅういんみちこ》というれっきとした軍人だ」
「大尉殿はご存じなのでありますか?」
「俺と同じ情報局の人間だからな」
そう言われた兵隊は慌てて戻っていった。
テントの中で美千子は帽子をとった。上背があり、日本人離れした、西欧の女に負けない体つきだった。
ふくよかな胸と細く括《くび》れた腰、曲線を描いて足先へと流れる下半身には、男なら誰でも視線を奪われるだろう。
「いくら男装しても、口紅をつけた上に編んだ髪が後ろに垂れていれば、兵隊なら誰でも尋問するのは当たり前だ」
八雲は椅子を指差し、そこに座ることを美千子に勧めた。
「相変わらずね。こんな場所にも西洋を持ち込むの?」
美千子は呆れた顔で首を振った。
「おまえは大陸にいたはずだろう。それがどうしてこんなところへ来た?」
八雲が聞いた。
「大陸からは釜山経由で二日前に戻ってきたわ。長崎にね」
美千子は乱れた前髪を細い指先でかき上げながら言った。
「それでは、帰国するとすぐに俺の胸に飛び込んできてくれたというわけだ」
「だったら貴方はさぞや嬉しいのでしょうけど、残念ながら本部から職務を言い渡されたのよ」
「職務?」
「そう貴方の監視という職務」
美千子は悪戯《いたずら》そうな目を八雲に向けた。そうこの目だ……と八雲は思った。この目が多くの男を虜《とりこ》にし、骨抜きにしてしまう彼女の武器なのだ。
「そんなこと、本部の奴ら一言も俺に言わなかったぞ」
「それはそうだわ。そんなこと先に貴方に言ったら、何かと理由をつけて私を追い返すに決まってるわ。あの時みたいに」
「やれやれ君も他の女と同じで、けっこう執念深いんだな」
「貴方があっさりし過ぎるのよ」
「辛辣《しんらつ》だな」
そう言うと八雲は苦笑いをした。
テントの中はランプが放つ微妙な光の加減で、それぞれの背後に大きな影を作り、それが動いて一種幻想的な雰囲気を作り出していた。
八雲は一匹狼で行動することを好み、作戦も自分で立てなければ気の済まない男だった。そのため今まで天才的な閃《ひらめ》きでいくつもの成功を収めてきたが、あまりにも身勝手が過ぎるという声が、同じ情報局からも出ていた。
「オーストリア公使館付きの武官だった頃の明石少将の命令で、ロシア革命党のために買いつけた大量の武器を積み出す作業をしていた間、うら若き私を日本に追い返したのは何処《どこ》の何方《どなた》だったかしら? おかげで私はロシアの駐在武官と接触する前に、帰国命令が来て、大事な仕事ができなくなったのよ」
「おいおい、おかげで狒々爺《ひひじじい》に抱かれないで済んだだろう。感謝されこそすれ恨まれる筋合いはないぜ」
八雲はその頃から独断専行癖が始まっていた。それが問題化しなかったのは、どの判断も最後には正しかったことになったからだ。
「どちらにしてもロシアは日本に敗北した。あの時、俺が手配しなければ、おまえはパリに潜《もぐ》り込んでいたロシアの秘密警察にパクられていたんだ」
この時の八雲の独断処置は後に問題になったが、元ロシア警察員の供述から、駐在武官との接触が明石機関の全貌を美千子から聞き出すための罠《わな》だったことが明らかになったのである。そのため、八雲のとった行動は確かに越権行為ではあったが、結果的にお咎《とが》めなしということになったのだ。
「一時の躊躇が国の命運を決めもする。そんな時、俺は上の判断を仰がずに決定する。それが大きな成功につながるんだよ」
「でも大失敗にもなるわ」
美千子の魅惑的な目はいつも何処かしら悪戯っぽく、どこまでが本気なのか、八雲にも分からなくなることがある。勿論《もちろん》それが美千子という情報局員の持つ、女としての魅力という武器でもあるのだが。
「失敗を恐れていたら何もできないさ。勿論、俺は失敗などはしないがね。なぜなら正確な情報と分析さえ怠らなければ、答えは必ず一つに集約することになるからだ」
そう言うと八雲は、眼鏡を外してレンズの表裏に交互に息を吹き掛けた。そして、ハンケチで綺麗に拭き取った。美千子は目を細めながら、その様子を楽しむかのようにじっと眺めている。
「ところで貴方はさっきロシアが日本に敗北したと言ったけど、ロシア革命党に敗北したという方が正確よ。当時のロシア政府は情勢の不穏な空気を早くから察知し、一刻も早く日露戦争を終わらせたかった」
「俺に言わせると、明石元二郎にロシアは敗北したということだな」
八雲が明石元二郎を語る時、いつもその目は子供が英雄を見る時のように生き生きと輝いてくる。美千子はそれを見ていて、八雲は昔から変わらないと思った。
「ホホホホホ、相変わらず貴方にとっての明石少将は、バルチック艦隊を破った東郷元帥以上の英雄だわ」
美千子はコロコロと笑った。狡猾《こうかつ》な女なのかと思うと、時にはいたいけな少女のようになる。その落差の大きさに、男たちは戸惑いを隠せなくなる。一体どっちの美千子が本物の美千子なのか分からなくなるのだ。八雲も昔はそうだったが、今ではどちらの美千子も本物なのだと思うようにしている。
「美千子、ここでは迂闊《うかつ》なことを言うな」
八雲が小声で怒鳴ったが、美千子がそんなことでたじろぐはずはなかった。
「明石少将は、大佐時代に日露戦争が勃発すると、すぐオーストリアを基盤としてヨーロッパ全土に明石機関を作り上げたほどの天才よ。貴方が英雄として尊敬しても、何らおかしくはないわ」
美千子の言う通り、明石はパリに潜伏している間にロシア革命党と急速接近し、レーニンの信望を得たとされる。
ロシア革命用の数万丁のライフルと無数の小銃と銃弾は明石によって準備され、スイス、ハンブルク、ウィーンだけではなく、英国のロンドンやロッテルダムの倉庫にも溢《あふ》れるほど用意されたのだ。
その頃、日本軍は既に、ロシアを相手に旅順《りょじゅん》と奉天《ほうてん》で戦力を使い果たしていた。そこへ降って湧いたような日本海海戦の勝利が舞い込んだのだ。だが、もしロシアが長期戦に持ち込んだ場合、既に国庫を使い果たした日本に、勝ち目などは全くなかった。そこで、レーニンを中心とするロシア革命党に明石が接近し、大量の武器援助をして、ロシア革命を急がせようと画策したのである。
「明石少将は、本気でロシア革命を望んでいるという噂も、軍部にはあるわ」
「おい美千子、いい加減なことを言うな。明石少将は日露戦争を早く終わらせるためにロシア革命党を援助しただけだ。レーニンらが唱えるような無政府主義や社会主義、そして何より危険な革命思想がアジア全土に広がることを懸念《けねん》している人物が、ロシアの転覆《てんぷく》を本気で望むものか」
「あら、八雲ともあろうものが、その程度の分析で手を打つとは思えないわね。共産革命思想が日本に入ってくるのを恐れているってどうして言わないの?」
「……美千子、俺たち情報局員は、報告書以外の場では、真相の一歩手前までしか話しちゃいけないんだ」
「私もそうだわ。明石少将は、間違いなく心の何処かではレーニンの思想に共感しているところがあった。でも、それは報告書には書けないこと」
そう言うと美千子はまたコロコロと笑った。八雲は、美千子のこういう無防備さが理解できなかった。
八雲はやれやれという顔をして奥に合図を送った。
「陳《ちん》、美千子にワインを出してやってくれ」
陳は軍費で雇われているシナ人の下僕だった。陳は口が利《き》けなかったが、料理と洗濯のほか、八雲の面倒の一切をみるとともに忠実な殺し屋でもあった。陳の投げる唐手裏剣《からしゅりけん》をかわせる者がそうざらにいるとは思えない。
明石が八雲につけた護衛である。それだけ八雲は明石から異例の扱いを受けているということだ。明石は、これから先の日本には八雲のような国際感覚の秀でた人材が不可欠で、ズケズケ上にも発言できる人材が必要と考えていたのだ。ある意味で明石は八雲を自分の後継者と考えていたのかもしれない。
陳は奥から南仏の年代物の赤ワインを運んでくると、手際よくワイングラスに注いだ。陳はシナ人特有の丸く小さな帽子をかぶり、同じ色の黒地のシナ服をきちんと身につけていた。
温厚そうな四十代後半の陳は、見た目に相当小柄だが、体つきは頑丈で筋肉も隆々としている。特に陳の脚力は頑強で、一度狙った獲物には何日かかっても必ず追いつく。これまで陳に追われて助かった者はいないという。
八雲はその陳から美千子に目を移した。
「美千子、それ以後のロシアの動きはどうだった?」
八雲はワイングラスをかるく回しながら聞いた。美千子は最近、満州だけではなく韓国にも行っていた。
「貴方が予測した通り、ロシアと日本の関係は戦前よりも一気に改善されたわ。でも、いつか必ず割譲《かつじょう》で奪われた樺太を取り返す行動に出てくることも確かだわ」
「ああ、それがロシアという国の本質だ」
「でも今一番厄介なのは米国だわね。日露協約で満州を南北に分けて統治していると、間違いなく米国が満州の美酒を求めて乗り出してくるわよ」
そう言うと美千子は、ワイングラスをゆっくりと回し、鼻を近づけて香りを楽しみはじめた。
「ああ、実際に米国は満州における利権に目をつけ、ポーツマス講和会議の直後から南満州鉄道を買収しようと画策したり、中立化させようとしているからな」
陳はこうして二人が話している間、じっと後ろで立っていた。そこは、いつ二人を襲う暴漢が現れても、対処できる位置であった。陳がシナ服の中で両手を合わせている時、必ずその両手には唐手裏剣が握られているのである。
「満鉄は鉄道の独占だけではなく、鉱山、電気、土木、倉庫など、総合的な事業を独占する日本の資本主義の総本山だわ。米国が日本の独占利権を黙って見ているはずがない。となれば、貴方の大好きな英国も、満州への利権を求めているから、頼みの日英同盟もいつまでもつづかないというわけよ」
「怖いことを言うね。しかし君の予測通りに動く可能性は確かに高いだろう」
「そうなったらどうするの?」
「何が?」
「日本と英国が戦うことになればよ」
「俺は日本人だ。日本のために戦うのは当たり前だろう。英国と戦ったところで英国がこの世から消え失せるわけではない。英国は英国、日本は日本、それが俺の考えだ」
「よかった、安心したわ」
そう言うと美千子はワインを飲み干した。
陳は得意の中華料理を二人に振る舞ってくれた。
中華料理といっても北京料理、上海料理、四川料理、広東料理などがあって、それぞれ全く違う料理法なのである。陳は生まれは北京郊外だが、育ったのは上海だったために上海料理が得意だった。
一度、八雲は極右の人間に襲われたことがあった。たまたま陳が中華料理を作っている最中にテントの中に突入されたのだ。陳は迷わず中華包丁を侵入者に投げつけ、男の頭は石榴《ざくろ》のように真っ二つに裂けてしまった。
「ねえ優、陳は北京生まれなのに、どうして上海料理が得意なの?」
「陳は赤ん坊の時に人さらいに遭って、南シナに連れていかれたんだ」
八雲は陳を見ながら言った。陳もそのことを隠す気はない。
「南シナというと上海?」
「そうだ。陳の売られた先は、上海を根城とする強盗団で、陳はそこで小さい頃から殺しの技を教え込まれた。そして、その後はずっと強盗の一味として働いていた。ところが、自分が幼い頃に北京からさらわれたことを知って、本当の親を探すために強盗団から逃げ出したんだ」
「へえ、勇気があったのね」
美千子は大陸が如何《いか》に広大かを身をもって知っていた。大陸では日本のような箱庭的尺度は、一切通用しない。少し移動すれば全く別の言葉になる国、それがシナだったのである。
「しかし既に親は亡く、強盗団一味も清の軍隊に根こそぎにされたため、育った上海に戻って、料理の道に入った。その後、日本軍部から料理の腕と別の腕も買われたというわけだ」
「そうだったの」
そう言うと美千子は、陳が作ってくれた温かい中華スープを蓮華《れんげ》ですくい、美味《おい》しそうに飲んだ。
八雲が過激派と極右から狙われる理由は、他にもあった。じつは八雲は熱心な日ユ同祖論者であり、対ユダヤ問題では軍部と対立することが多かったのだ。そのため軍部には八雲の命を狙う過激派兵士も多かったのである。
元々は、八雲伯爵がユダヤ問題に異様なほどの関心を持ち、ユダヤ人銀行家との太いパイプもあった関係で、息子にもその影響が色濃く受け継がれたのだろう。
「とにかく軍部の過激派には気をつけてね」
美千子は真面目な顔で言った。
「俺の影武者でも作るか」
「茶化さないで。貴方も知っている通り、情報局内部にも貴方をよく思わない人間は多いのよ。エゴイストと言う者までいるわ」
それは八雲も認めていた。情報局だけではない。今まで何度か過激派将校に命を狙われたこともあった。
明治四十一年、一つの画期的な研究が世に出ることになる。『地理歴史』と呼ばれる学界誌の百号目に「太秦《うずまさ》を論ず」という小論文が掲載されたのだ。
その小論文は、四百字詰め原稿用紙でせいぜい三十枚前後というものだったが、そこには大昔の日本とユダヤの関係を位置づける内容が記されていたのである。執筆者は佐伯好郎《さえきよしろう》という歴史学と言語学の学者で、京都の太秦の地にある様々な歴史的遺物を研究していた。論文は、景教徒《けいきょうと》を通してユダヤの教えが伝わっていたと論じたものだった。
景教とは七世紀の唐の時代に中国に伝来したキリスト教で、ヨーロッパでは五世紀に異端として締め出されたネストリウス派のキリスト教一派だった。エフェソス公会議でネストリウス派が異端にされた理由は、キリストを生んだマリアに神聖が認められないという一点にあった。
大陸に遣唐使を送っていた日本に、景教が伝来しないはずがない。そこで日本伝来の証拠を捜していくと、太秦の地に蚕《かいこ》の社《やしろ》という奇妙な名の神社があった。正式には木嶋坐天照御魂神社《このしまにますあまてるみむすびのかみやしろ》と呼ぶが、別名が示す通り大陸の|絹の道《シルクロード》を連想させるに相応《ふさわ》しい名である。
実際、蚕の社を建てたのは大陸から渡ってきた秦《はた》氏と呼ばれる一族で、記録の上では応神帝の御代に百済《くだら》から渡来したとされる。
佐伯博士が目をつけたのは、蚕の社の中にある奇妙な形をした鳥居だった。それは三柱鳥居《みはしらとりい》と呼ばれるもので、池を囲むように立てられた三本の柱が中央の石塚を等角で囲み、その上を鴨居でつないだ形になっでいる。つまり真上から見たら正三角形を構成する形になっているのである。
それはちょうどキリスト教でいう御父、御子、聖霊の三柱の神を示しており、三柱鳥居が立つ池を昔から元糺《もとただす》の池と呼んでいたことにも、博士は着目した。
元糺とは穢《けが》れを糺す禊《みそ》ぎのことを意味し、心である霊を清めて生まれ変わる意味に使われる。それはちょうどイエス・キリストが水に沈めるバプテスマによって悔い改めよと説いたことを具現化したものというのだ。
さらに太秦に秦氏が最も多く住んだことから、秦氏が建立した広隆寺《こうりゅうじ》の境内にある井戸がユダヤと関係すると唱えた。その井戸は『源氏物語』の「松風の巻」にも登場する伊佐良井《いさらい》の名を持つ井戸で、イサライはイスラエではないかとしている。中国の古文書では、イスラエルを「一賜楽業《イスラエ》」と言っていたのだ。
さらに佐伯博士は太秦をウズとマサに分解し、ウズがヘブライ語で光、マサが賜物《たまもの》の意味であることを発見し、太秦が光の賜物の古代ヘブライ語であると公表した。
八雲伯爵は、佐伯博士を自宅に招くほどその説に傾倒し、優も一緒にその場で博士の話を聞いたのである。
「ところで貴方はこのところ何をしていたの?」
満州を中心に中国大陸を駆け回っている美千子は、狭い日本国内に止《とど》まっている八雲の気持ちが理解できなかった。
「それより、いつまで男装をしているつもりだ?」
「男装は女が大陸で自分の身を守るための工夫よ」
そう言うと美千子はニコリと笑った。しかし八雲は、美千子の風貌と仕種では、男装が普通の格好以上に彼女の色香を倍増させ、逆効果になっていると思った。
「じつは最近まで一人の熊本県生まれの女の調査していた」
「わざわざ貴方が一人の女を?」
「その女に千里眼の力があるというので、実際に現地でそれを確かめてきたんだ」
「まだそんなことに興味を持っているんだぁ」
美千子は如何にも呆れたような顔をして言った。
ユダヤに異常な関心を持つ八雲には、同じほどの関心事が他にもあった。心霊学である! 心霊学はヨーロッパの近代史発展とも関係が深く、西洋キリスト教やフリーメーソンの歴史を知るには、ヨーロッパ文明の底辺に流れているカバラ思想を研究せねば不可能とまで言われている。
カバラ思想とはユダヤにおける密教思想のことで、古代エジプトの都市アレクサンドリアで発見された『ヘルメス文書』に登場する、賢者の石の謎解きとも密接な関係があると考えられている。
その底流があって初めて西洋で錬金術が発展し、金こそ作れなかったが、様々な化学的発見がつづき、それが近代ヨーロッパへと開花していったのである。
「世の中に不思議な現象が数多くあるように、人間にも計り知れない心霊力を持つ者がいる。その一つが千里眼で、その力を持った女が本当にいるなら軍事利用できないわけがない」
「で、何という女なの?」
「宇土《うと》郡松合町に住む御船千鶴子《みふねちづこ》という女だ。代議士秘書の夫人が有明海で泳いでいて指輪を無くした時、すぐ指輪がある場所を言い当て、そこに男が潜ってみたら岩場の底から指輪が見つかった」
「女が潜った男とつるんでいたってことはないの?」
美千子は意地悪そうな目で言った。
「いいか、それには代議士秘書の夫人も一緒につるんでいなければ成り立たないぜ」
「ううううん……そうね!」
美千子はあっさりと頷《うなず》いた。美千子には昔からそんな一面があった。他の女と全く違うのは、言われて納得すればすぐに自説を撤回してしまうことだろう。
「他にも地元炭鉱会社が千鶴子に炭田を捜してほしいと願い出たら、海を指さしてそこにあると言う。それで言われた水域を掘ると実際に炭鉱が発見されたため、炭鉱会社は二万円もの大金を千鶴子に支払っている」
「それが本当なら、国は彼女を引きずってきてでも利用すべきよ」
美千子は、生粋《きっすい》の国粋主義者だった。そのため、日ユ同祖論者で英国好きの八雲とは、始終衝突する。だからこそ情報局は、彼女を八雲監視に適任としたのだろう。
「一月ほど前の四月十日から五日間、俺は東京帝国大学の福来友吉《ふくらいゆうきち》助教授が千鶴子の千里眼を検証するというので、一緒に実験に立ち会ってきた」
「それでどうだったの?」
美千子は真面目な顔つきで身を乗り出してきた。
「福来が予《あらかじ》め紙に文字を書き、それを錫《すず》の壺と木製の箱で密封したものを千鶴子に渡した。千鶴子は暫《しばら》く精神統一をしていたが、やがて次々と文字を言い当てていったよ」
「凄いわね。もしそうなら貴方が乗り出してもおかしくないわ」
「そうだ。千鶴子の能力は軍が利用すべきものだ」
八雲も一気にワインを飲み干した。陳は既に美千子にワインをついでいたので、八雲にもつごうとしたが、八雲はそれを断った。
「欧米では十九世紀から心霊学が物凄い勢いで伸びてきている。日本も心霊学を本気で研究しないと、おそらくその分野では世界から全く後れを取ってしまうだろう」
「でも実際は貴方ぐらいなものよ、情報局でこんな調査やってるのは」
「分かっている。だが俺がやらなければ、一体誰がやる。明石少将もそれを知っているから俺に任せているんだろう」
八雲は立ち上がるとテントの中をゆっくりと歩き回り始めた。そして、背広の内ポケットから銀製のシガーケースを取り出し、煙草を一本口にくわえた。美千子にも煙草を勧める。美千子がそれを受け取ると、陳が燐寸《マッチ》を取り出し、八雲と美千子の煙草に火をつけた。二人はその煙草を旨《うま》そうに吸った。
八雲を横目で見ながら美千子が話しはじめた。
「韓国で得た情報では、ロシアが去った大韓帝国を、今年の九月までに韓国併合条約で植民地化するらしいわ。その時に大韓帝国の名称も朝鮮と変えられ、皇帝の純宗《じゅんそう》は永久に皇位を失うでしょうね」
「何が言いたいんだ?」
「実は、その後に日本の総督府が置かれるのよ。そして徹底した憲兵警察制度が敷かれることになっているわ。その総責任者が誰だと思う?」
「明石少将だ。そんなことは知っている」
美千子はまいったという顔をした。たまには八雲を驚かそうと思ったが、今回も駄目だったようだ。
「おそらく少将のヨーロッパでの功績が買われたんだろう。よって近いうちに明石元二郎は間違いなく中将に格上げされる」
「そうなれば明石少将のことだわ、徹底的に韓国人の独立機運を押さえ込む手に打って出るでしょうね。これでやっと豊臣秀吉以来の懸案だった、韓国を支配できるというわけよ」
「いや、むしろ韓国を通した日本の大陸支配への足掛かりが本格化するということだろう。しかし俺は一つ気になることがある」
八雲はベッドに腰を下ろしながら言った。
「それは何?」
「あの大英帝国でさえ、韓国のような近代国家を植民地化したことが無いということだ」
「近代国家?」
「ああそうだ」
「何が言いたいの?」
美千子は怪訝《けげん》な顔で聞いた。八雲の言う意味が掴《つか》めないからだ。
「韓国人の抵抗が予測できない」
「だから明石少将が併合後の韓国人の意思と独自性を根絶やしにするのよ。国号が変えられ、皇帝も王に格下げされて、何が民族の自立よ。そんなものは粉々に打ち砕かれるわ。徹底した言論の自由の禁止政策を行い、反日活動を煽《あお》るような新聞や雑誌は出版法で廃刊に追いやっていけばいい」
「恐ろしいね。しかし君がもし韓国人なら、それに黙って従うか?」
八雲の指摘に、美千子はしばらくの間、考え込んでしまった。確かに自分が逆の立場なら、そんな理不尽な命令には決して従わないだろうと思った。
「今の世代は確かに抵抗するでしょうね。でも、小さな頃から日本教育を徹底的にされた子供の世代は変わるでしょう」
「ふふふふ……」
八雲は不敵な顔で笑った。美千子は八雲がそんな目をして笑うときは、必ず自分の勝利を確信している時ということを知っていた。だから美千子は不機嫌になった。
「まあ見ていればいい。韓国併合が日本の成功の一例となるか、それとも大失敗の前例となるか、その内に明らかになるさ」
「そういうことは、私にも言わない方がいいわね」
美千子は明らかに不愉快だった。もしこれが八雲でなかったら、今すぐにでも八雲を連行していたに違いない。
「美千子、こういうことを言うのも俺の役目なんだよ」
八雲は横を向いた美千子の顔を見据えながら、はっきりと一言一言分からせるかのように言った。
食事が下げられた後、八雲は時計を見ながら美千子に言った。
「君にいいものを見せてやろう。どうせ俺のお目付け役を仰せつかったんだ。隠していても、いずれは分かってしまうことだからな」
そう言うと八雲は外へ出た。外は少し風が出てきたせいか、さっきよりも肌寒く感じる。そして八雲はある奇妙な場所を指さした。
その一角だけは温泉街のように湯気が立ちのぼっているのかと美千子は思った。
「何なの、ここで温泉でも湧いたってわけ?」
「いいから一緒に来い」
そう言うと八雲は、奇妙な靄《もや》に覆われた一角へ美千子を連れていった。兵隊たちが交代でその場所を監視しつづけている。その兵隊たちの前を八雲と美千子が通っていく。
「ご苦労」
八雲がそう言うと、兵隊たちは銃を捧げて敬礼した。美千子は近くまで寄ってみて、それが湯気ではないことに気がついた。
「風が出てきているのに吹き払われないし、一体この空間を包み込んでいるものは何なの?」
「見ていろよ」
八雲は背広のポケットから磁針《じしん》を取り出し、しばらく眺めた後、美千子に手渡した。
美千子は磁針を渡されても意味が分からない表情をしたが、八雲が指で見ろと示すので磁針を覗《のぞ》いた。
「な、何よ、これ!?」
美千子は奇妙な叫び声を上げた。磁針の針はクルクルと迷走するように回転するだけで、一向に北を指さないのである。
「どうだ面白いだろう」
そう言うと、八雲は美千子から磁針を取り上げ、自分でもう一度眺める。間違いなく磁針を狂わせる霧が一軒の屋敷を覆っていることを示していた。
「こんなことはあり得ないわ。一体何なの、これは?」
「俺にも詳しいことは分からない。しかしこれにも舎密《セイミ》的な原因があるはずだ。俺はそれを調査せねばならん」
八雲の言葉を聞いて、美千子は少しだが八雲の関心事が理解できるようになってきた。もし今ここで起きている現象が解明できるとしたら、軍事面で大いに活用できるかもしれないからだ。このような霧を敵の最前線で発生させることができれば、方角が分からなくなった敵軍は、瞬く間に総崩れになるだろう。
「霧の中では何が起きているの?」
美千子が聞いた。
「俺が来る前に、伍長が二人の斥候を中に送り込んだらしいが、未だに戻っていない。大きいとは言っても、たかが屋敷一つに入り込んで戻れないというのは異様だ。中に空気が無いので窒息死したか、有害ガスで死んだか、得体の知れない場所につながっていて迷っているのか、それとも……」
「それとも?」
「それはもうすぐ分かることだ。明日、俺が専門業者に注文した特殊な気密服が届く。それを着せた兵隊を送り込めば、中の状況が分かるだろう」
説明を終えると八雲は美千子を連れて再びテントへと戻った。
翌朝、輸入業者が大量の荷物を八雲のテントに運び込んできた。八雲が兵隊たちに命じて荷を開けさせたところ、中から出てきたのは見たこともない機械や細長い管、鉄棒のようなものや、見知らぬ繊維の服、それに不気味な鉄兜などが入っていた。
八雲は午前中一杯かけて、英語の説明書を頼りにこれらの奇妙なものの組み立てに孤軍奮闘した。その甲斐があってようやく午後一時過ぎになってそれは完成し、出来上がった完成品を兵隊に命し桔梗屋の前まで運ばせた。それは兵隊たちも見たことがない奇妙な代物で、大きな箱に車輪がついていて、ちょうど人間が腕を上げた位置に鉄の天秤棒がくるようになっていた。
そこから長く柔らかな管が差し込まれ、奇妙な形の衣服につながっている。それだけでなく、二つの穴にガラス板を嵌《は》め込んだ鉄兜《てつかぶと》のようなものが、衣服についているのだ。
八雲は兵隊の前に立つと訓示した。
「おまえたちの目の前にある物は、イギリスで作られた人間が水中に潜るための道具だ。この巨大な箱は地上でポンプを漕《こ》いで空気を送るための道具だが、これを使って一人の兵隊を選び霧の中に送り込む」
八雲の言葉に兵隊たちはざわめいた。
「既に二人の斥候が三日も戻っていない。あるいは霧が毒を含んでいて倒れているのかもしれないが、この水中服を着て中に入れば、毒を呼吸することはない。だからこの道具で霧の中を調査し、斥候の二人も連れ戻すのだ」
八雲は水中服の寸法に合う兵隊を捜したが、異人の平均身長が基本になっているせいか、なかなか合う兵隊がいない。ようやく一人の大きな兵隊を見つけたが、八雲が見るかぎり機敏そうな男には到底見えない。
「貴様の名は何という?」
「へえ、大内虎之助《おおうちとらのすけ》といいやす」
その返事の仕方に他の兵隊たちが爆笑した。
「こらあ、大尉殿に対してちゃんと答えんかあ」
田辺が怒鳴りつけた。
「申し訳ありません。こいつはまだ連隊本部での訓練が足りませんもので」
伍長に言われるまでもなく、八雲も大内を見て頼り無さそうに思ったが、この男しか適任者がいなかった。
「まあいい、大内、貴様、今からこれを着て屋敷の様子を探るとともに斥候を捜してこい。さっきも言ったように空気はここから送ってやるから心配いらんし、外の様子はこの二つのガラス窓から覗ける」
「へえ」
「へえじゃないだろうが、貴様ぁ」
怒鳴る田辺を制して、八雲は大内に水中服を着るよう急《せ》かした。大内は褌《ふんどし》姿になると水中服を着込みはじめた。首には父親か親戚から貰ったのだろうか、古い懐中時計をぶら下げていた。なかなかうまく着れないらしく、モタモタしている。それを見ていた八雲が他の兵隊たちにも手伝わせ、ようやくそれらしい姿になった。
管の長さは五丈(約十五メートル)ほどで、手漕ぎポンプで二人の兵隊が空気を送り込むことになる。
「本来なら重りを体につけるが、貴様は銃を持てばいい。中で何があるか分からないからだが、管が伸びきったところで進むことができなくなる。そこまでは進んでこい」
八雲が耳元でそう言うと、大内は頭を下げて分かったことを告げた。
「よし行け!」
八雲が大内の背中を突いた。大内は少し背を丸めるようにして後ろを振り返ると、意を決したように霧の中に入っていった。斥候が消えたのはほとんどこの直後だったというが、足元の管が順調に引きずられて出ていくので、大内は間違いなく進んでいることが分かった。
ところが、それからいくらもしないうちに管が全く動かなくなってしまったのである。まだ四間(約七メートル)ほど残っているが、微動だにしなくなっている。
八雲にも一体中で何が起きたのか分からない。兵隊たちも不安な顔つきになっていた。
それから一時間近く何の変化も起きなかった。
「優……」
美千子が心配そうに声をかける。
「伍長、管を引いて大内を引き戻せ」
「ハッ!」
八雲の命令で数人の兵隊が管を握り、綱引きの要領で引こうとした。ところが管は思ったより簡単に引っ張ることができる。奇妙に思ったが、八雲はそのまま引かせることにした。
「優、何が起きたのかしら?」
美千子の目が不安で曇った。霧の中に入った大内の身に一体何が起きたというのだろうか。八雲は苛立《いらだ》っていた。
(水中服だから毒ガスにやられたとは思えない。しかし、どうしてこうも簡単に管を引き寄せることができるのだ?)
もう少しで巻き取れる長さになってきた時、急に管が重くなりはじめた。その時だった。霧の中から何かが飛び出してきたのだ!
「うわああああああっっっ!」
あまりに突然だったので兵隊たちは驚いた。
そこには、倒れこんでいる大内の姿があった。なぜだか大内は肩でゼイゼイ息をするほど疲労|困憊《こんぱい》している様子で、自分の体さえ支えられないようだった。
「皆で大内の水中服を脱がせてやれ」
八雲が命じた。二枚の丸ガラス窓を通して大内の虚《うつ》ろな眼差しが見えたが、話をすることもできない様子に八雲は少し驚いた。
やっと大内の顔が出てくると、田辺は大内に怒鳴りつけた。
「こら貴様ぁ、一体いつまでそうやって座り込んでおるつもりかぁ。大尉殿に立って敬礼せんかあぁ!」
それを聞いた大内は何とか体を起こそうとするのだが、その度に尻餅《しりもち》をついて後ろに倒れてしまうのである。呼吸は端《はた》から聞いているだけでも苦しそうで、顔からは大量の汗が流れ落ちている。
「分かった、無理をするな」
八雲が大内に促すと、大内は済まなそうに頷いた。唇はカサカサに乾き、幾筋かの深いひび割れができて、そこから血が滲《にじ》み出していた。
「優、この人は脱水症状だわ」
美千子の言葉で、八雲は急いで兵隊たちに水筒の水を大内に与えるように命じた。すると大内は奪うようにして水筒を手にとり、一気に中の水を飲み干したのである。それでも全く足らない様子で、ついには五本の水筒を一気に空にしてしまった。
(一体どうしたんだ、この男は、最初から体が悪かったのか?)
体が悪いなら最初にそう言えばよかったのだ。そう思うと八雲は段々と腹が立ってきた。水を飲んで少しは落ち着いたのか、大内はゼエゼエ言いながらも何とか話せるようになっていた。
「大内、霧の中で一体何があった?」
八雲が聞いた。しかし、大内の周囲には兵隊たちが大勢いて、彼の報告に耳を傾けている。
(くそっ! 俺は一体何をやっているんだ)
八雲はすぐに大内に報告することを止めさせた。
「報告はテントの中で聞く。早く着替えてテントに来い」
大内は分かりましたという顔をして、ゆっくり立ち上がり、ふらつきながら敬礼をした。
八雲はテントの中に美千子も入れなかった。
「どうしてなの? 私も貴方と同じ情報局の人間なのよ」
美千子はテントの外で叫んだが、八雲は全く聞く耳を持たなかった。それにテントの入り口には陳が立ち塞がっている。美千子にはどうしようもなかった。
「大内、立っているのも辛そうだな。椅子に座ることを許す」
そう言われて、大内はホッとした顔になり、八雲が指さした椅子にドッカと座った。同じ椅子に昨夜は美千子が座っていたというのに、今では不粋な大男が座っている。
「それでは聞くが、霧の中で何があった?」
「な、何もありませんでした」
大内はゆっくりと答えた。
「何もありません? しかし屋敷の中ぐらいは見たんだろう」
「屋敷も何もありませんでした。あったのは霧だけで他には何もありませんでした」
「…………」
八雲は絶句した。
(この男は何を言っているのだ。桔梗屋の木戸まで道からたかが数歩の距離に過ぎないのに、そこにも辿り着けなかったというのか?)
八雲はもう一度ゆっくりと聞いた。
「いいか、おまえは一時間もの間、屋敷にも辿り着けずに、ただボオッと霧の中で立ち尽くしていたとでもいうのか?」
我慢の限界を超えたというように、八雲はテーブルを思い切り拳《こぶし》で叩いた。大内は驚いて目を丸くしたが、自分の頭を大きな両手で抱え込んだ。しばらく必死に考えている様子だった。やおら顔を上げると、こう言った。
「大尉殿はさっき一時間とおっしゃいましたでしょうか?」
「ああ大体そんなところだろう、おまえが霧に入ってからの時間は」
八雲の言葉に、大内は信じられないという顔で首を何度も横に振った。
「どうした?」
八雲が聞いた。
「大尉殿、私が霧の中にいた時間はまる五日間であります」
今度驚くのは八雲の方だった。誰に聞いても大内が霧の中にいたのは一時間と言うだろうが、それをこの男は五日間と言うのか。
(人選を誤ったか……)
八雲はこんな馬鹿を選んだ自分を責めた。しかし大内は目に涙さえ浮かべてこう言ったのである。
「大尉殿、私は確かにのろまであります。しかし、毎日兵隊として訓練を重ねてきたのも事実であります。ですから、このようなことで間違いは致しません」
そう言うと、首から下げていた懐中時計を出して蓋を開けた。暫く時間を見ていたが、やがてそれを八雲に向けて差し出した。
「ごらんください、大尉殿」
八雲は何の真似か分からなかったが、一応はその時計を見た。
「……!」
八雲はそれを見て最初は何が何だか分からなかった。なぜなら時刻が十一時三分過ぎになっているからだ。
ゼンマイが切れていたんだろうと思ったが、ちゃんと秒針が動いている。そこで自分の懐中時計を出して見ると、時刻はちゃんと三時三十二分を正確に指している。
「貴様の時計は壊れているようだな」
「いいえ大尉殿、この時計は正常に動いております」
「しかし時刻が全く違うではないか」
「自分はこの時計をいつも身につけております。今回もこれを首にかけておりましたが、この時計が狂ったことは一度もありません」
これは一体どう解釈すればいいのだろう。その内、大内は下を向いて男泣きに泣きはじめた。
「どうした、なぜ泣く?」
「自分と同じような目にあいつらも遭っているかと思うと……」
「あいつらとは?」
「斥候で俺よりも前に入った山田と川田であります」
「その二人がどうしたというんだ?」
「はい、自分の時のように霧だけの世界の中で道に迷いつづけているかと思うと、可哀相で可哀相で……」
八雲はテーブルに肘《ひじ》をつくと、これをどう処理するかを考えあぐねた。大内の報告は到底受け入れられるものではない。全ては大内の勘違いと、兵隊に不向きな性格が招いた結果としか言えないからだ。
その時である。八雲は大内の顔を見ながらあることに気づき、思わず我が目を疑った。
(どうして今まで気づかなかったんだ……)
八雲は唖然としながら大内の顎から生えている不精髭を見つめていた。その髭は霧に入る前には全く生えていなかったのだ。
「貴様は本当に五日間も霧の中にいたのか?」
「はい大尉殿、そうであります。しかし二人を発見できるどころか、何日歩きつづけても屋敷一つ発見することができませんでした」
八雲の明晰《めいせき》な頭脳は徐々に混乱をきたしてきた。
「ならばどうして管を伝ってでも戻らなかったのか?」
「伝いました!」
「なに?」
「完全に迷ったと分かった時、管を伝って戻ろうとしたのでありますが、いくら伝っても伝っても全く戻ることができなかったのであります。それで諦《あきら》めかけていた時、やっと霧の中から引っ張り出されたのであります」
八雲は驚くばかりだった。確かに大内という兵隊は見た目にものろまそうだが、嘘をつくほどの狡猾《こうかつ》さを持ち合わせているとは思えない。八雲は今までの自分の常識が、音を立てて崩れていくのを感じていた。しかし、一方ではこういう心霊的現象を信じている自分の姿も見えていたのだ。
確かにこれとよく似た話は聞いたことがあった。それは何の変哲もないただの民話だったが、子供の頃に読んだ「隠れ里」という話を八雲は思い出したのである。
それは越中の黒部谷《くろべだに》に伝わっている民話だった。
昔、村人たち数人が碁を打っていた時、見知らぬ老人が山から現れ、しばらく村人たちと一緒に碁を観戦していた。
そのうち、村人に自分も碁を打たしてくれと頼んできたが、快く村人たちが受け入れたので老人は満足するまで碁を楽しむことができた。
次の日もその次の日も老人は山から現れると、その度に村人たちと碁を一緒に打って楽しんだ。
ある日、老人は村人への感謝の意味で、山奥にある自分の屋敷に来てくれと誘ったのである。そしてそこで一緒に碁を打とうというのだ。
ところがいざ向かってみると、そこは大変な山奥で、轟々《ごうごう》たる滝や深い森をいくつも通り抜けねばならなかった。やっとの思いで真っ黒な門まで行き着くと、そこに見たこともないほど立派で巨大な屋敷が建っていたという。
村人たちは、大いに歓迎され、味わったこともない御馳走に舌鼓を打った。そして三日間も皆で一緒に碁を打って楽しんだのである。
しかし、三日も村をあけていると家族が心配すると言って、村人たちは帰ることになった。ところが村に戻ってみると自分たちは死んだことになっている。どうしてかと聞くと、山に行って三年もの年月がたっているというのだ。
そこで村人たちは不思議なこともあるものだと話し合ったという……。
これと似た話が、日本人なら誰でも知っている浦島太郎の物語である。
(もしかしたら、あの民話は本当のことを伝えていたのかもしれない)
大内の話は民話と時間経過で逆にはなっているが、余りにも似た話なので八雲は驚いた。八雲はテントの端にある電話機のところへ行くと、暫くの間、軍の誰かと話をしていた。
けっこう長く話していたが、終わると八雲は大内の前に再び座った。
「大内、貴様には今回の件について一切の他言を禁ずる」
「……へえ、分かりました」
大内は八雲に向かって直立不動の姿勢をとった。しかしすぐに膝が笑ってしまい、テーブルに両腕をついてやっとの思いで体を支えるしかなかった。
「そのままでいい」
八雲が言った。
「もうすぐ貴様を迎えに憲兵隊がここへ来る。貴様は彼らと一緒にここを出て、その後は別の部隊に転属することになる」
「はあぁ?」
大内は何が何だか分からないという顔をした。
「ここで起きたことを機密にするためだ!」
そう言われては、大内に選択の余地はなかった。全てを受け入れるしかなかったのである。
その夜、八雲のテントからいい香りが漂ってきた。
八雲は美千子のために自ら作ったフランス料理を御馳走することにしたのだ。それは昼間、美千子をテントから追い出した罪滅ぼしでもあったが、それには美千子への自分の思いもこめられていた。
八雲のフランス料理の腕は、相当なものであることは間違いない。なぜなら八雲に会う前、父と南仏プロヴァンスに洋行した経験を持つ美千子の舌を納得させるものだったからである。
今夜の材料は場所が場所だけに限られていたが、出されたワインは最上級のフランス物だった。
陳はまず美千子のグラスにブルゴーニュの白ワインを注ぐと、次に八雲のグラスにも注いだ。
「陳は臨時のソムリエね」
そう言うと美千子はグラスを陳に向けて微笑んだ。次に陳は、ワインを味わうために八雲の用意したロックフォールを持ってきた。
「これはブルーチーズね」
美千子はかるく匂いをかいだ。
「ああそうだ。しかしロックフォールは昔からフランス貴族の間では、最もまろやかな風味のブルーチーズだと言われている」
「そのようね」
そう言うと美千子はブルーチーズを口に入れ、舌の先を刺すような感覚を味わった。
「知ってる? フランスでは一つの村に一つのチーズがあるというほど、チーズにこだわっているのよ」
「ああ聞いたことがある。それにワインの最高の友はチーズをおいて他に無いとまで言う国だということもね」
「でも、最初に青カビだらけのチーズを食べたヨーロッパ人は英雄だと思うわ」
「確かにそうだろう。しかしそれなら我が日本にも英雄は大勢いることになる」
「えっ?」
「たとえば、初めて海鼠《なまこ》を食べた者、初めて糸引納豆を食べた者、初めてくさやを頬張った者、初めて……」
「ええ分かったわ、十分に」
美千子は言いかけた八雲の口に、人差し指を軽く置いた。ちょうど陳が料理を運んできた。
「まあ、刺身を使ったフランス料理ね」
そう言うと美千子は微笑んだ。
「ああ、刺身のマリネとでも言っておこうか。材料は手近なもので揃えたが、刺身に林檎、葱《ねぎ》と山葵《わさび》、それに玉葱と粒マスタードを加えたものだ」
美千子はそれをフォークとナイフで美味しそうに食べた。
「ほんと、レモンも入れたでしょ」
「よく分かるね。これなら白ワインにピッタリ合うよ。少し冷えてしまったのが残念だがね」
「いいえ、優の気持ちがこもっていれば、それだけで嬉しいわ」
そう言うと二人はワイングラスを合わせた。
陳は奥から豪華な彫物のある木箱を出してきた。そして蓋を開けると、大きな朝顔のような金属製のラッパをその上に据えつけた。
その後、陳は箱の横に付いている金属製のハンドルをグルグルと回しはじめたのである。
「蓄音器で私に何を聴かせようというの?」
「それは秘密さ。君に言わせると、こんなものまで持ち込んでと言われそうだがね」
「今夜はそんなこと言わないわ」
「それは助かる」
八雲は大げさに両手を大きく開いて見せた。
「私の祖父などは蓄音器のことを蘇音機と言ってたわ」
「ソオンキ?」
「ええ、音を蘇《よみがえ》らせる機械という意味よ。祖父が言うには明治二十二年の東京日々新聞にそう書いてあったらしいわよ」
「面白いな、そう言えば今年は国産初の蓄音器が発売された」
「あらさすが音楽関係も詳しいのね」
「日本蓄音機製造というところが、ニッポノホンという名で売り出したんだ」
「いよいよ日本も国産化の時代を迎えるのよ」
「そうだな」
そう言うと八雲は陳にそっと目配せをした。
陳は茶色の四角い袋から黒い一枚のレコード盤を取り出すと、それを蓄音器の円盤の上に置いた。そして太い金属製のアームの先についている針を、その上にそっと載せたのである。
最初は砂を掻くようなシャーシャーという音が聞こえてきたが、その内に軽快なフランスのシャンソン曲が流れはじめた。
「これで本格的なパリの感じが出てきたわね」
「そうだろう。この後もう何品かの料理が出てくるから楽しみにしていろよ」
「まあ嬉しい、貴方って人は最初に会ったときから面白い人だったわ」
「良い意味に受け取っておくよ」
「そうね」
そう答えて、美千子は子供のような目でコロコロと笑った。
「でもこういう料理の材料って、いつ手に入れたの?」
「俺がメモ書きにしたものを陳に持たせ、市内中を駆けずり回らせた」
「まあ、そういうことだったの」
美千子は陳にご苦労さまとかるくお辞儀をした。すると陳も胸の前で両手を組むシナ式のお辞儀を返した。
陳はその後、八雲の言う帆立て貝のフリカッセミュスカデソーズを運んできた。ワインを入れた鍋で帆立て貝を弱火で煮込み、バターとレモン汁を加えた八雲の得意料理で、菠薐草《ほうれんそう》を敷いた上に帆立て貝を並べ、その上にイクラを置いた料理だった。美千子はその料理も美味しそうに食べたので八雲は嬉しかった。
八雲は、何かに行き詰まった時、必ず他のものに打ち込むことで心の均衡をはかることを常とした。今度の料理も美千子への気持ちだけでなく、八雲が心の均衡をとるための手段だったのである。それでも八雲の気持ちは晴れなかった。あまりにもこの世の常識とかけ離れた出来事が、目の前で起きていたからである。
二人の時間が過ぎていく中、陳はダンス曲を蓄音器に載せた。ラッパからは情熱的なタンゴの曲が流れはじめた。
美千子は自分から八雲の手をとって、ダンスに誘った。二人は向き合って立ち、片方の掌同士を当て合うと、すぐに激しいタンゴ曲の波に乗って踊りはじめた。美千子は情熱的に踊った。腰をとる八雲の腕の中で体を反らせ、その次は激しく抱き合うように体を押しつけ合った。
「貴方とはダンスホールで踊りたいわ」
「ここでは無理な相談だ」
「そうね」
その様子を見ていた陳は、皿を洗いながら今夜は外で寝ることに決めた。
二人のダンスは曲を変えながら延々とつづいていた。陳はテントの外に寝床を敷き、その中に体を横たえた。満天に無数の星々が輝く様は、故郷のシナと全く同じ光景だった。
どれほど時間が経っただろうか、妙な風が頬を吹き過ぎたのを陳は感じた。眠るふりをしながら陳は両手に唐手裏剣を握っていた。その風は明らかにテントに向かっている。陳はそっと寝床から出て暗闇に目を凝らした。するとそこに妙な影の存在を感じた。
陳はそれが自分の知っている人間の気配ではないことを悟った。しかしその時、陳に向けてその影が話しかけてきたのである。
「陳、おまえはそこで何をしているのだ……?」
陳は一瞬驚いた。なぜ相手が自分の名を知っているのだ?
「陳、北京へ帰ろう……」
相手を見極めようとさらに目を凝らしたが、影はその位置で止まったまま全く動かない。陳は異様な影に一瞬恐れを抱いたが、再び声が聞こえてきた。
「広春、ここはおまえのいるところではない。おまえは……」
陳は唐手裏剣の第一投を放った。唐手裏剣は見事に影の喉元に命中し、影はその反動で後ろ向きに倒れた。しかし、声はまだつづいていた。
「広春……おまえは……」
その影はまだ陳に話しかけてくる。陳は思わず第二投を放った。放たれた唐手裏剣は倒れている影に命中し鈍い音を立てた。影はもう動かなかった。その時である。陳の真後ろに別の影が立った。
陳は唐手裏剣を振り向きざまに投げつけようとしたが、その影は急に女の顔になった。女は泣いていた。影はシナ服を着た美しい女の姿になった。
「広春、おまえはどうして私の元から急にいなくなってしまったの?」
陳の体に電撃が走った。
「広春、おまえはなぜ北京から離れてこんなに遠くの異国にいるの?」
陳は目の前の影から一歩退いた。女の顔は陳が上海の強盗団から逃れて北京に戻った時、これが亡くなったおまえの両親だと言って渡された写真と同じ顔だった。女の姿は母の姿に生き写しだった。陳の心は乱れた。
さらにもう一つの影が陳の背後に立った。見るとその影は男の顔になった。男は立派な髭をたくわえたシナ人になった。
「広春、おまえはどうしてそんなに痩せてしまったのだ?」
そう言うと男の影は、陳の肩に優しく手を載せた。父親だった。
「おまえがさらわれた後、私たち夫婦はどれだけおまえを捜し回ったことか……しかし私たちはおまえを見つけることができなかった」
そう言うと父親は男泣きに泣いた。そして母親の横に立った。
「広春よ、私たちはおまえのことを忘れたことはない。早く私たちの元へ戻ってきておくれ」
陳は自分の胸が引き裂かれるほどの狂おしい悲しみに捕らわれた。陳は既に四十を過ぎていた。しかし涙が溢れて止まらなくなり、二人の影に両腕を伸ばしてゆっくりと近づいていった。
そして、そのまま前のめりに倒れた。空は何処までも澄み渡り、無数の星々が自らの美しさを競うかのように満天に瞬いていた。
八雲と美千子はもう何十曲と踊っただろうか。時刻は既に十一時を過ぎていた。人々がとっくに寝床に入っている時間である。
「楽しかったわ、優」
そう言うと美千子は八雲の胸に飛び込み、燃えるような唇を八雲の口に押し当てた。八雲は美千子の腰に腕を回し、片方の腕を自分の背広の中へとやった。
次の瞬間、八雲は美千子を自分の背後へと回し、素早く腰から拳銃を抜いて構えた。
「誰だ!」
護身用の自動拳銃をテントの入り口へと向ける。既に安全装置は外されていた。
そこには一人の大きな男の姿があった。男は頬に深い傷があり、全身を真っ黒なコートに包まれている。
美千子も革ケースから自動拳銃を引き抜き男に向けて構えた。美千子の銃は八雲のものに似ていたが、それよりも小型だった。
「貴様は誰だ?」
もう一度八雲が聞いた。しかし男は何も答えない。黙ってそこに立っているだけである。八雲は銃の先を動かして、男にテントの中にある椅子に座るよう促した。すると男は顔色一つ変えず、テントの中を見回しながらゆっくりと歩くと、テーブルの前の椅子に座った。よほど大きな男なのか座るときにギシという椅子の軋《きし》む音がした。
八雲はすぐにテーブルを退かせた。テーブルは盾にもされるし武器にもされるからだ。それにテーブルを退ければ手を隠すこともできなくなる。
「外にシナ人がいたはずだが、どうした?」
八雲は銃を構えながら聞いた。陳はこのような状況では、一度として侵入者を許したことが無かったからだ。しかし男は黙ったままである。
「どうした、貴様には口が無いのか?」
八雲が大声で叫んだ。八雲の拳銃は最新式の南部十四年式自動拳銃で、八雲は銃の名手でもあった。だから男に逃れる道はないはずだった。
その時、男は初めて口を開いた。
「シナ人には外で眠ってもらった」
男の重く低い声がテントの中に響いた。男の表情はさっきから全く変わらず、銃さえ恐れていないようだ。
「眠ってもらったとはどういう意味だ?」
「そのまま受け取ればいい」
八雲は美千子に男を任せ、すぐにテントの外へ出た。すると入り口の近くに陳の寝床が作られ、そこに陳が眠っているのが見えた。体を揺すっても全く反応がない。生きていることは確かなようだが、目を覚まさないのである。
その時、テントの周りに多くの人影が立っているのが見えた。しかしその人影は兵隊のものとは全く違っている。八雲はすぐに中へ戻った。
「どうだったの?」
美千子が心配そうに尋ねた。
「陳は外で眠っていたが全く起きない。それに見たこともない連中がテントを取り囲んでいた。貴様一体陳に何をした?」
八雲は男の胸ぐらを掴《つか》んだ。しかし男は不敵に微笑むだけである。相変わらず男の目は八雲たちを全く恐れていない。
「外にいるのは貴様の仲間か?」
八雲が聞いた。
「ああ、俺と同じ一族だ」
「兵隊の厳重な警戒網をどうやって突破して、ここまで来た?」
男は暫く天井のランプを見ていたが、ゆっくりと八雲に向き直るとこう言った。
「外のシナ人と同じだ。俺が眠らせた」
八雲は自分が馬鹿にされているような気分になってきた。
それに一番気に食わないのは、拳銃を構えている自分たちをこの男は全く恐れていないということだ。
「貴様は一体何者だ?」
八雲は男の顔に覆いかぶさるようにして聞いた。
「小次郎とだけ名乗っておこうか」
八雲は不愉快だった。
「じゃあ姓は何という。そして貴様らは何処の何者だ?」
それを聞いた男は最初は含み笑いをしたが、その内に腹を抱えて笑いはじめた。
「それ以上笑うと殺すぞ!」
八雲は銃を突きつけた。男は必死に笑いを押さえながら言った。
「そんなことを聞いてどうする気だ。どうせおまえには俺たちのことなど何も分かりはしないのだ」
「それはどういう意味だ?」
「教えてやろう、俺の名はおまえらの言う役場の何処にも記載されていないし、それは俺の一族とて同じことだ。だからおまえは俺について調べようがない」
八雲は初めこの男が何を言っているのか分からなかった。しかしやがて、自分の戸籍が存在しないことを言っているということが分かってきた。
「そんなことは明治政府の元ではあり得ない」
八雲は戸籍の無い人間が明治の世にいることが信じられなかった。
「役場に記録が必要なのは表世界の人間だけだ。俺たち裏世界の人間には、そんなものは大昔から必要ない」
「馬鹿を言え。国は帝《みかど》とともにあって、国の実際のきりもりは内閣が代わって行うが、それを民衆が下で支えて成り立っている。貴様の言うような裏世界など一体何処にあるというのだ?」
八雲の言葉を、男は顔色一つ変えないでじっと聞いていた。その落ち着いた顔に激怒した八雲は、大声で怒鳴った。
「それに裏世界の人間というのは俺のような人間たちのことを言うのだ!」
「情報局が裏世界というのか、八雲優大尉殿」
男がポツリと言った。
「どうして俺の名と所属を知っている?」
「おまえの世界が裏世界と言うべきものなら、おまえに本当の裏世界など分かるはずがない」
男はさらに続けた。
「おまえは実際の国の有り様が分かっていない。事実、俺たち一族は大昔から多くの権力者と手を組みながら、いつも裏で彼らを支えてきた。しかし、表の世界は次々と現れては消え去っていった。お前の言う明治政府とて、いつまでもあるはずのない虚ろ世界の徒花《あだばな》の一つにしか過ぎん」
小次郎という男に指摘されるまで八雲は気づかなかったが、確かに明治時代が変わらずにつづいていくと思い込んでいる節があった。しかし、文明開化の世の中で小次郎のような一族が果たして存在できるものなのだろうか?
「貴様はここに何しに来た?」
八雲が聞いた。
「八雲大尉、おまえに協力してやるためだ」
男はそう言うと白い歯を見せてニヤリと微笑んだ。八雲は全てを紳士風にやることを常としてきた男だったため、こういう下品な男と相対しているというだけでも虫酸《むしず》が走った。
八雲は、銃を男の眉間《みけん》に押し当てた。
「殺すぞ、貴様!」
すると男は八雲の目を見上げながら言った。
「すごむのは止《や》めた方が利口だ」
八雲の額に血管が浮き出た。八雲が今にも拳銃の引き金を引きかけた時、機材の陰から二つの影が風のように飛び出し、あっと言う間もなく八雲と美千子の腕を捩《ね》じ上げて拳銃を床に払い落としていた。その素早さは到底人間業とは思えなかった。
二人の者は顔を隠していたが、目の前の男と同様、今まで八雲が見たこともない着衣を身につけていた。小次郎は八雲たちの拳銃を拾うと、二丁拳銃を気取って、二人に向けて構えた。
「バン! バン!」
そう口で言うと鼻で笑った。そして銃の先で八雲に椅子へ座れと合図した。形勢が逆転したため、八雲は仕方なく座った。美千子はベッドに座らされた。
「俺はおまえに会うためにここへ来た」
男は八雲にゆっくりと話しかけた。
「目的は何だ?」
八雲が聞いた。
「だからさっき言ったはずだ。おまえに協力してやるためだ」
「協力だって?」
「ああ協力だ。おまえ一人ではとてもこの状況を打破できないだろうからな」
八雲は、男が桔梗屋で起きている一連の謎の現象を言っているのだと思った。
「貴様には、あそこで起きていることの原因が分かっているとでもいうのか?」
八雲は顔を顰《しか》めながら言った。
「ああ分かっているとも」
男はそれがさも当然のように答えた。
「面白い、では言ってみろ」
八雲が馬鹿にしてそう言うと、男は不敵な顔でニヤリと微笑んだ。
小次郎は八雲の前まで椅子を引いてきて座った。そして人を射るような鋭い目を八雲に向けた。
「あそこで起きていることは、全て怨霊が原因だ。そして霧に覆われた幕が怨霊を逃さぬよう張られた結界だ」
八雲は小次郎の言葉を聞いて唖然となった。あまりにも非現実的で前時代的な内容だったからだ。八雲は一気に自分の気持ちが冷《さ》めていくのを感じた。
「興ざめしたよ」
八雲は軽蔑《けいべつ》の意味を込めて言った。
「怨霊のことか?」
「それに結界という時代|錯誤《さくご》も甚《はなは》だしい話もだ」
「そんなに変か?」
「それはそうだろう、今は魑魅魍魎《ちみもうりょう》が闊歩《かっぽ》できるような無知蒙昧《むちもうまい》の暗黒時代ではない。欧米に追いつけ追い越せの文明開化の世の中だ」
「なるほど……だから、おまえのような人間が生まれてきたわけだ」
「何とでも言え。貴様には正直ガッカリした。どれほどのことを言うかと思えば、これではまるで旅芸人一座の田舎芝居ではないか」
小次郎はニヤリと笑った。
「いいか若造、怨霊の存在は裏世界では常識だ。それも知らず、西欧心霊学を極める先駆者のつもりならやめた方がいいな」
八雲は、自分のことを知り尽くしているかのような小次郎という男の存在が、不愉快でならなかった。
「もう一度言う、怨霊は表世界の怨念、恨み、強欲、憎しみに引かれて現れてくる。怨霊が人間に憑依《ひょうい》すると、そいつを媒介にしてより多くの怨霊を呼び寄せる。食い物は人間だ。そして人間の魂を取り込んで怨霊の力は益々増大していく。しかしそれを防ごうとする輩《やから》もいて、そいつらが怨霊を封じ取ってしまう。その時に張るのが、おまえの手こずっている結界という亜空の幕なのだ」
それを聞いて、八雲は小次郎を睨《にら》みながら、うんざりした顔で叫んだ。
「もう結構だ、旅芸人は田舎でどさ回りでもしていろ!」
小次郎は鼻で笑うような仕種をした。
八雲は前時代的な迷信や戯《ざ》れ言《ごと》には一切興味が無かった。あるのは舎密《セイミ》であり心霊学であり、その最新理論をもって超心霊学の世界を解明することである。そこから得た知識を舎密《セイミ》に応用すれば、欧米に負けない不敗の軍事力に転用できるかもしれない。そうなれば日本の大陸進出に大いに役立てることになるのだ。
「おまえは実際に自分の目で見なければ信用しない男ということは、俺には最初から分かっていたことだ」
そう言うと小次郎は大きな体を起こして立ち上がり、一緒についてこいと八雲と美千子に合図した。
小次郎を先頭にして八雲たちはテントから外に出た。小次郎はそのまま先に立って歩き、深い霧が包み込む屋敷の前まで行った。天空には月が輝き、八雲たちの姿を虚ろに照らし出していた。
「これがおまえの全く手が出なかった代物だったな」
小次郎は八雲に振り向くと、そう言って微笑んだ。明らかに八雲を小馬鹿にした目つきである。
「そこで見ていろ」
小次郎はそう言うと両足をふんばって地を固めた。そして掌を広げて両腕を前に突き出した後、手を合わせて胸の前で組んだ。
その合わせ方は、左手の親指が右手の親指と人差し指の間に来るよう、左右の指を互い違いにずらせた合掌の仕方で、八雲には初めて見るものだった。
その後、小次郎は大きく息を吸いゆっくり吐き出す行為を何度か行った。そして陰陽の九字を切って呪文を唱えはじめたのである。
「那謨婆伽縛底《ナモハキヤバチ》 |※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]駄※[#「口+羅」、第3水準1-15-31]野《ロタラヤ》 |瞋那劫波※[#「口+羅」、第3水準1-15-31]野《シンナゴウハラヤ》 |薩縛微那延迦※[#「口+羅」、第3水準1-15-31]野《サバビナエンカラヤ》 |薩縛設都※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]尾那舎那野《サツバセツトロビナシヤナヤ》 |※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]迦波羅質擔瞋那迦波羅部擔《オンカバラシツルシンナカバラブル》 |※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]訥※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]枳嬢跛野帝《ロトロキニヨウハヤテイ》 娑婆賀《ソワカ》」
小次郎は一気に両腕を前へ突き出し、開いた掌を霧へと向けた。
その直後、地の底から何か得体の知れない震動が伝わりはじめた。するとそれまで沈黙の海底のようだった霧が、一斉に細かな渦を巻くように動きだしたのである。その霧の渦は次々と寄せ集まり、その内に巨大な大渦となって回転しはじめた。それはまるで巨大な龍が目覚めたような壮大な光景で、あれほど深く垂れ込めていた霧が、天へ天へと激しく上昇をはじめた。それとともに、今まで視野を妨げていた厚い霧が少しずつ薄くなりはじめたのである。
八雲はこの有り様を呆然とした面持ちで眺めるしかなかった。それは美千子にとっても同じだった。すると厚かったはずの霧が一斉に消えてなくなってしまったのである。と同時にそこへ桔梗屋の屋敷が現れた。
その時、美千子は屋敷の屋根の上に奇妙な水母《くらげ》のようなものがいて、体をのたうたせるように蠢《うごめ》いているのを見た。そいつは半透明状で人間のような形をしていたが、鬼瓦の反対側にいるせいか、はっきりと確認できない。
「優、鬼瓦の向こうに何かいるわ」
「ああ俺にも見えている」
八雲もそれに気づいていた。その得体の知れない生き物は、淡く青白い光を放ちながら、鬼瓦から下を窺《うかが》っているような仕種をしていたが、やがて屋根の反対側へと消えてしまった。すると今度は別の影が現れたが、それは人間の若者の姿をしていた。
この時、美千子は自分の数歩先に奇妙な白い石が置かれているのに気づいた。それには発≠ニいう朱色の文字が彫られていた。美千子がそれに手を伸ばそうとした時、小次郎が長い腕を出して止めた。そして顎《あご》で別のところを指し示した。
そこに二人の兵隊が倒れているのが見えた。霧の中に突入して姿を消した斥候だろう。八雲が体を動かすが早いか、小次郎の一族があっという間に兵隊たちを担ぎ出した。
その瞬間、小次郎は印を解いた。すると今まで目の前にあった屋敷が逃げ水のように消え失せてしまったのである。
「なんてことだ……」
八雲はうめき声を出した。
そこには全く何もない、虚無の空間だけが残された。奇妙なのは、その空間から反対側の光景が全く見えないことだった。それはまるで球形の虚無だけが独立して存在しているという光景である。
「屋敷が消えたわ」
美千子は震える体で八雲に抱きついた。
「……!」
八雲は自分の目で見たものしか信じない人間だった。西洋心霊学にしても、自分の目で見なければ、絶対に信用しないことにしていたが、こんな異常なものを見せつけられると、小次郎の言葉を信じる以外にはなくなった。
その時、美千子は月明かりの中に映る兵隊の顔を見て、叫び声を上げた。
「キヤアアアアア……ッ!」
八雲は卒倒《そっとう》しそうな様子の美千子の視線の先を見た。二人の兵隊の顔が激しく泡立ちながら、腐敗していくのが見えた。その瞬間、物凄い腐敗臭が八雲たちの鼻を突いた。人間が見る間に溶けていく有り様に、美千子は激しい吐き気をもよおし、強烈な腐敗臭と気味悪さに嘔吐を何度も繰り返した。
「これはどういうことだ?」
八雲は小次郎に聞いた。しかし、小次郎はその様子を見ても、平然とした顔つきをしているだけである。
「こいつらは結界の中で既に死んでいたのだ。だから結界から出せば一気に腐敗が進行する」
「ちょっと待て。結界の中では時間の経過が外よりも早いはずだろう。なのに、どうしてそこでは腐らず、時間の流れが遅い外で一気に腐りはじめるんだ?」
小次郎は、相変わらず顔色一つ変えない。
「ただの結界ならこんな現象は起きない。しかし結界が二重に張られると亜空の秩序が狂い、外に向かって異様な力が働きだす」
「二重……異様な力だと?」
八雲は怪訝《けげん》な表情をした。
「寺社の境《さかい》が張られた上に、もう一つ結界を張った場合のことだ」
「境とは何だ?」
「寺社に張られた結界のことだ。だから境内《けいだい》とは境という結界の内側という意味だ。通常の結界とは質が違うが、その上に結界を張れば二重結界となる」
「するとどうなるんだ?」
「こういう二重結界になった場合は、外部からそこへ侵入しようとすると異様な事態が起き始める」
「時間が狂うということか?」
「そうだ。二重結界の外周付近が最も亜空暴走の激しい領域となる。そこでは時間が矢のように流れる場合もあれば、止まったように全く動かない場合もある。実際、このような狂った亜空に突入すれば想像もつかない狂気の世界が口を開けている」
「それでは二重結界の内部はどうなるんだ?」
「奇妙なことに内部影響はほとんど起こらない!」
「な、なぜだ?」
八雲は不思議な顔をした。
「俺も詳しい理屈などは分からないが、結界同士で相殺し合うからだろう。ただし二重結界の外周付近は最も危険な状態を作るため、時には天空の大異変さえ引き起こす」
これで八雲は、浦島伝説の謎を理解できた。竜宮がお伽話《とぎばなし》のように海底の城とは思わないが、宮の名がある以上は、境が張られていたのかもしれない。そこへ別の結界が重なり、後に浦島太郎と呼ばれる漁師が紛れ込んだのだろう。
八雲は頷かざるをえなくなった。
「小次郎、自分の目でこれらの現象を見た以上、貴様の言うことを信じることにする」
八雲がそう言うと小次郎は振り向いてニヤリと笑った。
「今、おまえも見た通り、霧を取り込んで覆っていたのが亜空の幕だ。つまり怨霊を封じる連中が結界を張り、怨霊を逃さぬようにしていることになる」
「しかし、その結界をどうして貴様が外せたんだ?」
「俺は連中と同じことができるからだ。ただし俺は怨霊を生きたまま捕らえ、権力者と手を組むために怨霊を使う……」
「手を組むというと、金でか?」
「そうではない。俺が軍に怨霊を売るのではなく、怨霊を飼育する役に一族を雇い入れさせるということだ」
「軍に貴様ら一族を雇い入れさせ、怨霊を飼育させるだと?」
八雲は絶句した。そんなことは予想もしていなかったからだ。しかし小次郎の本意はどうやらそこにあるらしい。
「ところでさっき怨霊を封じ取る者がいると言ったが、怨霊は殺せるということか?」
「ああ殺せる!」
「それでは怨霊を捕らえたとしても、その後で殺されては軍として何もならないではないか」
「だから飼育するのだ。俺たち一族が飼育すれば間違いなく凄まじい怨霊になる」
「どうやって飼育するんだ?」
「さっきも言っただろう。怨霊は人間を食らって成長する怪物だ。特に人間の霊魂を己の霊能に取り込んで巨大化し、やがて信じられない力を持ちはじめる」
「信じられない力だと?」
「人間の力では殺せなくなるんだよ!!」
「……!」
八雲は黙ってしまった。絶対に殺せない殺戮者《さつりくしゃ》というのは、そのまま戦場における最終兵器のことを意味するからだ。となれば究極の生物兵器ということになる!
「人間を食らって飼育する以上、人間という餌がいるはずだな……」
「ああ当然だ」
小次郎はそう言うと、何食わぬ顔で不精髭を抜いた。
「そんな餌を何処で見つける気だ? 日本でそんな真似をしたら大騒ぎになるぞ」
「だったら韓国人でもシナ人でもロシア人でも構わないさ。おまえらが大陸に進出すれば、そんな餌はアジア中からいくらでも手に入るだろう」
「貴様は一体何を言っているんだ?」
八雲は滅多に恐怖というものを感じたことのない男だった。しかし、小次郎という男の得体の知れなさと狂気に直面すると、思わず恐怖を感じて身震いがしてきた。
(この男は一体何者なんだ?)
「軍事的捕虜でも政治犯でも何でもいい。アジア全土には餌になるべき人間が無数にいるということだ」
「……!」
八雲は気分が悪くなってきた。この男は怨霊を育てるため生きた人間を餌にするつもりなのだ。
「いつの世でも戦争に綺麗事は通用しない。勝たねば日本が欧米列強の餌食《えじき》にされるだけのことだ。それが嫌なら怨霊を飼育し戦場で使うしかないだろう」
「そんな化け物を作り上げたとしても、貴様ら一族だけで不死身になった怨霊をどうして支配できるんだ?」
「俺たち一族は、今までも同じようにして表の権力者と結託して生きてきた」
小次郎の言う言葉には大きな矛盾があった。怨霊を小次郎たちが飼育し、不死不滅の状態で戦争に使う理屈は理解できても、その怨霊が無敵なら小次郎たちにも怨霊を制御できるはずがない。
「怨霊は戦場で敵の兵隊を無数に食い殺していくのだろう。そうなれば貴様らに制御できるとは思えない」
「そんな心配はいらん。俺たちの方が怨霊よりも優っている。だから怨霊は絶対に俺たちの呪縛《じゅばく》から逃れられない」
「分からない。どうやってだ?」
「それは一族の秘密であり、たとえおまえにでも話すことはできん!」
八雲がそれ以上踏み込むことを小次郎は許さなかった。しかし小次郎の不敵なほどの自信が全てを物語っているようにも思える。
(この男の自信は何処から来る……)
「貴様らは昔から怨霊を捕らえてきたと言ったな?」
「ああ」
「まさか信長や秀吉までが、戦場で怨霊を使っていたとは言わせないぞ」
小次郎は八雲の言葉を黙って聞いているだけだった。そして鼻を鳴らすとこう言った。
「どうせいずれは分かることだ!」
小次郎は八雲をあざけるかのようにニヤリと笑った。
「怨霊の力が一体どのようなものか、俺にはまだ抽象的過ぎて全貌がつかめない」
八雲は言った。
「じゃあこう言っておこう。仮に今ここで関ヶ原の合戦が行われるとしよう。徳川勢全軍か怨霊のどちらを選ぶかと聞かれたら、俺は迷わず怨霊の方を選ぶ」
「それほどのものなのか怨霊とは?」
「ああ不死身の段階になった怨霊は食いも荒くなり、一個師団など数時間で食い尽くすだろう」
「だからそうなる前に怨霊を封じ取ってしまう連中がいるということか?」
「ああ、利用すれば天下も奪えるはずなのに馬鹿な奴らだ」
「その連中が、この結界の中にいるんだな?」
「そういうことだ」
「では怨霊が彼らに封じ取られる心配はないのか?」
八雲がそう言うと小次郎はまた不敵な顔で笑った。
「ここにいる怨霊は並大抵の奴じゃない。それは俺がこの目で確かめてきたことだ。怨霊封じの連中では歯が立たないだろうよ」
「貴様なら大丈夫なのか?」
「ああ、俺は奴らのような手は使わんからな」
小次郎はそう言うとまた不精髭を抜いた。
「では貴様の条件というのは、貴様らが怨霊を捕らえる代わりに、軍において貴様ら一族に怨霊の飼育を担当させるだけでいいんだな?」
「そうだ。怨霊使いにするということだけが条件だ」
「怨霊使い……」
「その方がおまえには言い易いだろう。勿論、一族に与えられる名とすれば、これ以上相応しいものはない」
そう言うと小次郎は笑った。小次郎の仲間たちも一緒に笑ったが、彼らには先祖伝来の秘策でもあるのだろうと八雲は思った。
「だが、俺が上を納得させられるかどうかまでは分からんぞ」
「それは貴様の問題だ。俺は貴様の本当の直轄上司である明石元二郎なら、貴様の言うことを聞くと思っている」
(まただ。何故こうまで俺の内情をこの男が知っている?)
確かに八雲は明石なら説得できる自信はあった。しかし一方ではこの問題はあまりにもあり得そうもない話でもある。果たしてどこまで少将を説得できるものか、八雲にも確信は持てなかったのである。
「怨霊とはさっき屋根の上にいた異様な生き物のことか?」
「……そうだ」
「二重結界の時間の流れが一様でないなら、あれは一体いつ頃の怨霊の姿なのだ?」
「そこまでは分からん。結界を完全に外したわけではない以上、過去なのか今なのか未来なのか、それは誰にも予測できん」
八雲は少なくとも、怨霊の姿を見ることだけはできたのだ。
八雲には小次郎に確認せねばならない重要なことが残されていた。
「ところで監視の兵隊たちを何処に隠した?」
すると小次郎は桔梗屋の斜め反対側にある屋敷を指さした。
そこに平屋の石材屋があり、月明かりの下で庭に無数の石材が並べられているのが見えた。庭には様々な墓石や石灯籠《いしどうろう》の類《たぐい》が並べられ、石の布袋《ほてい》や大黒像なども数多く並べられていた。
小次郎が指を鳴らすと、仲間の一人が火を灯したカンテラを持ってきて八雲に手渡した。八雲はそれを持って石材屋へと向かった。立ち並ぶ石灯籠や墓石は、まるで人間の立ち姿のように見える。昼とは違い、夜の石材屋があまり気持ちのいいものでないのは、おそらく墓場と同じ光景だからだろう。
カンテラの揺れる炎を受けると、石でできているはずの大黒像や布袋像が笑いはじめ、何かもの言うようにも思えてくる。その時だった、美千子は六地蔵尊の前で動かなくなった。
「どうした?」
「優……ち、ちょっとこの六地蔵を照らしてみて」
言われるままに八雲がカンテラの光を向けると、そこに現れたのは、両目をカッと見開き、今にも声を上げそうな兵隊たちの姿だった。
「こ、これは!」
八雲は絶句した。六地蔵に見えたのは全部兵隊たちで、生きたまま石のように固まった状態で立ち尽くしている。よく見れば六地蔵だけではない、その背後に立っているのも全て兵隊たちだったのである。そのどれもがまるで生きている内に石になったように目を開け、口を開いたまま全く動かない。
そこに小次郎がやってきた。
「殺したのではあるまいな?」
八雲が大声で言った。
「心配はない、眠っているだけだ」
「とても夢を見ているようには見えないぞ」
八雲は突っかかった。もし小次郎が兵隊を殺していたら、さっきの話などは何処かへ吹っ飛んでしまうからだ。
「俺がここから姿を消せば一分以内に目が覚めるだろうよ」
「陳もか?」
「……そうだ」
八雲は信用するしかなかったが、八雲の薬学知識の中でも、これほど完全に人間の体を硬直させ、石のようにしてしまう方法を知らない。
「俺たちは一時ここから姿を消すが、いずれ必要になった時に現れる」
そう言うと小次郎は去っていこうとした。
「ちょっと待て!」
八雲は小次郎を呼び止めた。
「なんだ?」
小次郎が振り向いた。
「貴様に会う必要がある時はどうすればいい?」
「……その時が来れば俺の方から現れる」
そう言うと小次郎は二人を置いて、石材屋の庭から出ていった。するといつの間にか彼が引き連れてきた一族も一斉に姿を消していたのである。まるで闇から現れ闇へと消えたかのように……。
それからすぐ、今まで石のようになっていた兵隊たちが急に動きはじめた。しかしその目覚め方は尋常ではなかった。全員が喉を掻きむしりながら苦しみ、のたうちはじめたのである。なかには、あまりの苦しさから両足をばたつかせ、軍服を引き裂き、地面に爪を立てて爪を剥がす者もいた。
八雲と美千子はこのまま兵隊が悶《もだ》え苦しんで、死ぬのではないかと思ったが、小次郎の言葉を信じて見守るしかなかった。その内に兵隊たちは少しずつ落ち着きだし、やがてキョロキョロと周囲を見回すゆとりも出はじめた。
そこへ伍長がフラフラしながら八雲のところへやってきたのである。
「八雲大尉でありますか。こ、これは一体どういうわけでありましょうか。自分たちは警備していたはずなのでありますが、何故こんなところに……」
「気にするな、全て天狗《てんぐ》の仕業だ」
「はあ?」
伍長は首をひねった。
「それよりも消えていた斥候が見つかったぞ」
「エエッ! それは本当でありますか?」
「しかし、もう死んでいたがな……」
「な、なぜ死んでしまったのでありますか?」
「悪いが詳しいことは軍事機密ということで、貴様にも話すわけにはいかない」
「そ、それで遺体は?」
「明日、憲兵隊に引き取りに来させてくれ」
「し、しかし」
「伍長、俺はもう今夜は疲れたのだ」
そう言うと八雲は美千子を連れてテントへ戻った。八雲は陳の姿を捜したが、テントの前には寝床しか残されていなかった。その後、八雲がいくら捜しても、陳の姿を見つけることはできなかった。
「優、陳は必ず戻ってくるわ」
美千子が慰めた。
「ひょっとすると陳は自分の獲物を追っていったのかもしれない……」
「えっ?」
「陳は何年かかっても、自分の受けた屈辱だけは必ず返す男だ」
「じゃあ小次郎を追っていったというの?」
「分からん」
東の空がゆっくりと白みはじめていた。何処かの庭で鶏がけたたましい声で鳴きはじめ、その甲高い声が澄んだ空へと消えていった。
名無しは呆然と畳を見下ろして立ち尽くしていた。名無しの足元の畳には己の剣の先が中ほどから折られて深く突き刺さっている。
勝負は瞬《まばた》きをするほどの一瞬で決着した。ほとんどの者の目にはどうやって勝負がついたかさえ分からない内に決着したという感じだった。暫くはザワザワという囁《ささや》き声だけが大座敷に響いていた。
名無しはかつてこれだけの鋭い剣を放ったことがなかった。実際に名無しの上段からの一撃は、間違いなく大座敷の空気を真っ二つに切り裂いたはずだった。その一瞬に賭けた名無しの一刀は、二人の死闘を見ている者全員に感じられたほど凄まじいものだった。
気合いの恐ろしさだけで目をつむった者がほとんどだったが、北麿だけは二人から絶対に目を離さなかった。名無しの剣は確かに圧倒的な威力があった。おそらくあれほどの速さと力の加わった剣を受けていれば、間違いなく舞は真っ二つにされていたはずだった。
しかし、舞は名無しの上段から振り下ろされた剣をまともに受けることはなかった。舞は名無しの剣を受け流すと同時に、己の小剣を名無しと同じように真上から振り下ろしたのである。
そして、舞の剣が名無しの剣を真上から叩くことになった。その一瞬の衝撃たるや凄まじく、名無しの剣は畳に深々とめり込んだ。その瞬間、名無しの両手に鈍い衝撃が走った。自分の剣が真っ二つに折れてしまったのである。
こうして勝負は一瞬にしてついた。剣が折られては、名無しには勝負がついたも同然だった。名無しは呆然とその場に立ち尽くし、舞は黙したままそこに対峙《たいじ》していた。
「兜割り……!」
名無しがつぶやいた。
北麿も咄嗟《とっさ》に舞の放った一撃が兜割りであることを見抜いた。あの日、大日女の前で舞の放った剣が今の兜割りの秘術だったのである。
里の老人たちの噂ではあったが、大日女がまだ怨霊師だった頃の秘術こそ、舞が見せた兜割りだったということを思い出した。あの時、大日女は舞に自分の秘術を伝えていたのかもしれない。
「勝負はついた……斬れ!」
名無しが舞に言った。
「いいえ、斬らないわ」
「俺に生き恥をかかせて笑う気か?」
名無しは大声で言った。女中たちは名無しの声に悲鳴を上げ自分の耳をふさいだ。
「貴方には貴方の信念があるように、私にも私の信念があるわ」
そう言うと舞は名無しの横をゆっくりと通り過ぎ、子供を胸に必死に抱き抱える薫の前に立った。
「おかみ、その子は怨霊です。私たちを斬り合わせようとして玩具を投げました。私に渡してください」
「何を言っているんだ、この女はぁ! 何もできない子供を殺す気かい。それでも殺す気ならおまえは鬼だ、夜叉だ、鬼女だよおぉ〜〜〜〜っっ」
その時だった。今まで口を利かなかった善兵衛が急に口を開いたのである。
「薫、もうやめよう」
善兵衛の声に一同が驚きのあまり愕然となった。熊楠は慌てて善兵衛のところに駆け寄った。
「善兵衛、大丈夫なのか?」
「ああ熊楠先生、実はどうしても皆に話しておかなければならないことがあるんです」
善兵衛はそう言うと、布団の中から震える手を伸ばし熊楠の太い腕を掴んだ。
「そ、それは何なんだ、善兵衛?」
熊楠が聞くと善兵衛はハラハラと涙を流しながら言った。
「土蔵から出てきた子は歳三ではなかったんです!」
善兵衛の言葉に、大座敷の中は騒然となった。歳三でなかったとしたら、目の前の子供は一体誰なのだ?
「それは本当なのか?」
「ええ本当です」
善兵衛は力なく答えた。しかしその目は嘘や戯れ言を言う男の目ではなかった。
「結果的に私は熊楠先生を騙《だま》していたことになります」
「そんなことはどうでもいいんだ。あそこにいる歳三はあんたの子供ではないのか?」
「ええ、土蔵から現れたのは神隠しにあった歳三ではありません」
再び雇い人たちがざわめきはじめた。
「ひょっとすると……女中だった静さんの子か?」
思わず熊楠が言った。すると善兵衛は思わず両目から大粒の涙を流しはじめたのである。
「熊楠先生には隠せなかったんですね。そうです……あれは静が生んだ弥吉《やきち》なんです」
「あんた、いい加減におしよ! そんなことを言ったら店の跡取りが殺されてしまうんだよ、分かってんのかい、唐変木」
薫が善兵衛に向かって大声で叫んだ。
「おかみは少し黙っていてくれないか」
熊楠が薫を窘《たしな》めた。薫はフンという顔をして熊楠を睨みつけると、ソッポを向いた。
「善兵衛、どういう経緯《いきさつ》でこんなことになったのかを教えてくれ」
善兵衛は熊楠の大きな目を見ながら、苦しそうに口を開いた。
「昔、女中だった静と私は懇《ねんご》ろになってしまいましてね。静には罪は無かったんですが、静に子ができたとき薫も懐妊していたんです。その内に薫に静との関係が気づかれてしまい、そのために静は里へ返されてしまったんです」
「そこで生まれたのが弥吉というあんたの子供なわけか」
「はい、それが不思議なことに薫の生んだ歳三と瓜二つでしてね。成長するに従って益々似てくる。それで歳三が神隠しに遭った後、もう二度と歳三は戻ってこないと諦めた時に弥吉のことを思い出したんです」
「わざわざそんな真似をしなくても、おかみがまた子供を生めばよかったことだろう」
「薫はもう子供ができない体になっていたんです」
善兵衛は再び大粒の涙を流した。
「このままでは跡取りがいなくなる。それで私は弥吉を引き取りに静の田舎へ出掛けました」
「静さんは何と返事したんだ?」
熊楠は静がそう簡単に子供を渡すはずがないと思った。
「最初は断りました、当然です。こんなことになってから子供だけよこせというのは、余りにも自分勝手だとね」
「それはそうだ」
熊楠は太い腕を組んで頷いた。
「しかし、弥吉に跡目を継がせることを約束し、静も子供の成長が見られるよう女中奉公させることを条件にして、やっと承知させたんです……」
「それで静さんはいつも離れ屋敷が気になっていたんだ」
「それはそうでしょう、歳三が戻ってきたという大芝居を打った後、自分の子が三人に増えてしまったんです。まともな神経では耐えられません。それに薫も静に最初の日から辛く当たりましたからね」
「それはずっと俺も気にはなっていた」
熊楠が横目で見ると、薫はじっと下を向いたまま歯を噛みしめている。
「一度、その静さんが、離れ屋敷で悲鳴を上げたことがあったが、それはどうしてだ?」
「静が枕元で泣きながら話してくれたんですが、弥吉が自分を見ても全く反応がなかったからです。それで化け物が自分の子にも取りついたことが分かったと言いました」
「ちょっと待ってくれ。怨霊は五歳から取りつくんだ。四歳の弥吉に怨霊は取りつけないぞ」
熊楠の言葉に、薫は善兵衛に向かって言った。
「それ以上言うと、あんたを殺すよ!」
薫の恐ろしい言葉に善兵衛はため息をついた。
「静がそっと耳元で教えてくれたよ。跡取りが戻ってきたので、薫が私に砒素《ひそ》を毎日飲ませているってな。おかげで私は意識を失い、体の半分が麻痺《まひ》して動けなくなってしまったんだ。既にお前に殺されたも同じことだよ」
「何てこと言うんだい、この人でなし!」
薫はわめきたてた。しかし目の前に舞がいて、北麿も薫を逃さぬように近くに立っていては、動きようがなかった。
「それから私は薫が用意させた煎し薬は飲まないようにしたんです。それで何とか少しずつ回復したんだと思います」
「あんたを殺せば、子供の秘密も完全に隠せるわけか……」
熊楠の言葉に善兵衛は男泣きに泣いた。
「確かにそれもあったかもしれませんが、本当のところは、静を屋敷に戻した私への見限りと復讐だったと思います……」
「しかし、それは子供を貰うための条件ではなかったのか?」
「薫は小作人の娘で女中の子を貰うのに、何の条件も必要ないと叫びました。それに子供を差し出すのは、自分の心を傷つけた静の当然の報いだとも言いました。そして私が静を忘れられないので屋敷に戻す気だと叫んで、私に掴みかかってもきました。私はどうしていいのか分からなくなり、悩み抜きました……」
熊楠は女の恨みと怨念に底知れない恐ろしさを感じた。ひょっとしたら、薫の怨念が怨霊を桔梗屋に呼び寄せたのかもしれない。
「子供を失った上、二度と子供が生めなくなった薫は、静に対する嫉妬心が日に日に募り、静を見ると掴みかかり苛《いじ》め抜きました。そういうことは私も知ってはいましたが、静には耐えてもらうしか無かったのです」
薫は憎しみに燃える目を善兵衛に向けた。
「おまえは静と一緒になって私を苦しめたんだ。だからおまえが苦しむのは、当然のことなんだ。今さら自分を何様だと思ってるんだよ、馬鹿。静は死んでも当然の女なのさ。そしておまえさんも死んで私に詫びればいいんだよぉぉ!」
熊楠は男として善兵衛が気の毒には思った。しかし、薫の心も、人が本来持つべき優しさや憂いが一切無い地獄のような有り様にあることを見て、言い知れぬ哀れさを感じざるを得なかった。すると善兵衛は何かを決心したかのように熊楠の腕を取った。
「熊楠先生、歳三も弥吉も四歳ではなく五歳だったんです!!」
それを聞いた一同は腰が抜けるほど驚き、それと同時に凄まじい恐怖に襲われた。自分たちの目の前の子供に怨霊が取りついても、全くおかしくないことが明らかになったからだ!
「ど、どうしてそんなことになるんだ?」
熊楠はさっぱりわけが分からないという顔をした。
「私たち夫婦には歳三の前に二人の男子が授かりましたが、どちらも死産でした。医者からは薫の三人目の妊娠は無理だと言われたんですが、歳三がお腹にできました。それで最後の三人目の子に、厄封じの方法がないかと探していたんです」
「厄封じ?」
「はい、役場に出生届を出した年の一歳の年齢が厄なら、出生を一年秘密にしておき、無事に一歳を過ぎた後で出生届を出そうということにしたんです!」
「と、ということは、役場に出生届を出した時点では二歳だったというわけか?」
「はい、そして厄である一歳を過ぎた後になるわけです」
「なんと……」
善兵衛の言葉に熊楠は驚いた。
「確かに昔からこれと似たことはあるにはあった……男の二十五、四十二の厄年や、女の十九、三十三の厄年を免れる方法に、正月が明けた後すぐ門松を立て直し、もう一度正月を設けて一気にその年の厄年を免れるということが行われていた……」
「はい……」
「しかし善兵衛、一年もの間どうやって子供が生まれたことを秘密にしておけたんだ?」
熊楠はあまりの方法に絶句した。
「いいえ、そんな馬鹿な真似はしていません。歳三が生まれたのを秘密にしたのではなく、役場への出生届を一年控えていただけのことです。皆は私たちが役場に歳三の出生届を出しているものとばかり思い込んでいますからね、誤魔化《ごまか》す必要は無かったんです」
「な、何ということだ……それで怨霊は正体を隠すため、昔のことを知る者から順に食い殺していったのか」
熊楠は愕然となった。
「ところが、歳三も結局は神隠しに遭い、戻ってくることが絶望的になりました。それで祈祷によって歳三が戻ってくるという大芝居を思いついたんです。それで何もかも上手くいくはずでした。ところが悪いことはつづくもんです。今度は弥吉に怨霊が取りついてしまった……」
その時、薫が善兵衛を見ながら大声で言った。
「知りませんね、そんな話。何処からそんな話を聞いてきたのか、私の方が知りたいぐらいだ」
薫の言葉に善兵衛は怒りの表情となった。
「今さら嘘はやめなさい」
「それとも何かい、死んだ陰間《かげま》の百欄にでも教えてもらったのかい?」
薫にそう言われた善兵衛は思わず目を伏せた。
「善兵衛、どうしたんだ?」
熊楠は善兵衛に声を掛けたが、何故か善兵衛は一転して何も答えようとはしなくなった。
「なあ善兵衛、何か知っていることがあるなら全部隠さずに話してくれ」
いくら熊楠が頼んでも善兵衛は布団に潜ったまま亀のように沈黙してしまった。薫はその善兵衛の姿を見ながら鼻で笑った。
その時だった、突然名無しが話しはじめたのである。
「その男は百欄とできていたんだ!」
あまりに突然の名無しの言葉に一同が目を丸くした。
「百欄と善兵衛が……できていた!?」
熊楠は何かとんでもない展開になってきたので、たじろいでしまった。一方の薫はおやおやというような、人を小馬鹿にした表情でため息を一つついた。
「ほ、本当か……善兵衛?」
善兵衛は布団の中でじっと動かない。
「善兵衛ぇぇ!」
熊楠が怒鳴っても、善兵衛は甲羅《こうら》に首を引っ込めた亀のように動かない。
「善兵衛、俺は百欄のことでおまえを責めようというのじゃない。おまえが知っていることを全部話してくれんと、ここにいる全員が怨霊の餌食になるからだ」
それでも善兵衛は動かない。
「善兵衛、おまえは店の者らを犠牲にしてもいいのか?」
熊楠の言葉に布団が少し震えはじめた。そして中から嗚咽の声が漏れてくるのを熊楠は聞いた。しばらくして善兵衛は布団から身を起こすと、不自由な体で座り直し皆に頭を下げた。そして下を向いて急にハラハラと涙を流しはじめたのである。善兵衛の手は悲しみに震え、布団の端を掴んだまま泣きつづけている。
「こうなった以上は全て話します。私は百欄とできていました。そして百欄との関係も妻の薫は知っていました……」
善兵衛は絞り出すような声でそう言うと、布団に伏して泣き崩れた。それを見ていた一同は、今回の怨霊騒ぎが人間の業《ごう》による因果を含んでいたことをあらためて知った。
北麿は善兵衛に言った。
「善兵衛殿、おぬしはまだ隠していることがあるはずだ」
その言葉に善兵衛はギクリとした。
「なぜ百欄が怨霊に食い殺されたのかという謎がまだ語られていない」
「そ、それは勝手に祈祷などしたからではないのか……」
熊楠がそう言っても北麿は動じない。じっと善兵衛の目を見たまま立っている。
「怨霊に食い殺されたのは店の関係者ばかりだ。なのになぜ百欄が食い殺されたのですか?」
北麿が突っ込んだ。
「それを言うなら百欄の付き添いも殺されたのはどういうわけだ?」
その熊楠の言葉に、名無しが鼻で笑った。
「何がおかしい?」
熊楠は名無しを睨んだ。
「怨霊は付き添いに己の姿を見られていたんだ。口封じで食い殺しただけのことだろう」
「そうか、そういうことか……」
熊楠はそう独り言を言いながら何度か頷いた。
「確かに百欄の死には疑問が多い。善兵衛殿、まだ何かを隠しておられるのではないのか?」
北麿の言葉に、善兵衛は暫く目を伏せ、口を一文字に結んだままだったが、やがて北麿の目を見ながらゆっくりと口を開いた。
「実は今回の一連の出来事は、全て死んだ百欄の入れ知恵だったのです!」
またしても一同は唖然となった。
「歳三の誕生を一年誤魔化しておくことも百欄の入れ知恵でした。それだけではありません、静の子を歳三の代わりに使うのも百欄の入れ知恵ですし、それで私たち夫婦と百欄とで歳三が戻ってくる大芝居を打ったのです」
北麿はようやくこれで百欄の役割が見えてきた。
「善兵衛、百欄は本当に霊能力があったのか?」
熊楠はいい加減うんざりした顔で聞いた。
「それは確かにありました。百欄の勘は人並み以上のものがありましたし、それは間違いなかったのですが、化け物の方が百欄の力を遥かに上回っていたんでしょう……」
善兵衛の言葉に熊楠は頷いた。
「しかし結果は弥吉が三人になってしまった。おかげで私たち夫婦も腰が抜けるほど驚きましたが、一番驚いたのは百欄でした。百欄は恐怖に震える日々を送ることになり、最後は化け物に食い殺されてしまった」
「怨霊は自分の正体が知られないよう、百欄も殺すことにしたんだな」
熊楠は愕然となった。
「名無しさんよ、あんたはこの仕掛けを知っていなさったか?」
熊楠の言葉に名無しは首を振った。
「俺は用心棒として雇われただけだ。仕掛けのことまでは知らん」
「だろうな……」
そう言うと熊楠は善兵衛に向かって聞いた。
「善兵衛、俺にはどうしても一つ解せないことがある」
「…………」
善兵衛は力なく熊楠を見た。
「百欄の意図は何だったんだ?」
そう言われて善兵衛は言葉に窮した。と言うよりも何と答えていいか、自分でも分からないという顔をした。それを横目で見ていた薫は、自分の項《うなじ》の毛を片手でかき上げながらニヤリと笑った。
「教えてやろうか」
薫が言った。一同はその言葉に一斉に薫の顔を見た。
「百欄がある日、私のところへ来てこう言ったよ、自分と善兵衛はできてるとね。当時の百欄は芝居芸人で、ちょっとは名が知られた女形だった。それで善兵衛と別れてほしいなら大枚の手切れ金をよこせと言ってきたんだよ」
「そ、それは嘘だ!」
善兵衛は叫んだ。
「嘘なもんかね。だから私は払ってやったさ。すると百欄はその金を元手に崩れていた祈祷所を立派なものに建て直し、一気に霊能力者に納まったというわけさ」
「…………」
善兵衛は愕然とした顔になった。
「そんな程度で驚かれちゃ困ってしまうね。だって百欄は最後には店まで乗っ取る気でいたんだからね」
「嘘を言うなぁ!」
善兵衛は体を乗り出した。
「本当にあんたは何も知らないんだね。静があんたの子供を孕《はら》んだ時も、堕させようとした私を止めて何と言ったと思うね。あいつはこう言ったさ、静の子を残さないと屋敷に祟《たた》りが起きるってね」
「……祟りだと?」
善兵衛はそう言うのがやっとだった。
「しかしそれは罠《わな》だったよ。おかげで弥吉が成長しはじめると、このことを外へ漏らされたくないならと金をせびっていったよ。そして歳三の歳を誤魔化した事も役場にばらされたくないならと金を奪っていった。それだけじゃないよ、静の子を歳三と入れ換えたことも世間に知られたくないなら、店の跡目を自分に継がせるように要求してきたよ」
「嘘だあ〜〜〜〜っ!」
善兵衛は大声で叫んだが、その目からは止めどもなく涙が溢れ、端で見るのも気の毒なほどだった。
「嘘だって? ふざけるんじゃないよ。店の跡目の件を私に言ってきたのは、弥吉を土蔵の長持ちに入れ準備万端整った時のことさ。祈祷を行う直前に、百欄は控え室に私を呼んでそう言ったんだ」
「しかしそれじゃ弥吉のことはどうするんだ?」
「時期が来たら殺す気だったってことさ」
「どうしてそこまで分かる?」
善兵衛が言った。
「砒素を私に手渡したからさ。どうせ静の子で自分の子じゃあないからできるだろうってね」
善兵衛はそのまま仰向けに倒れた。皆が駆け寄ったが、善兵衛は打ちのめされて天井を見上げたまま嗚咽するだけだった。
「いいかいあんた、何も知らなかったのはあんた一人だけなんだ。私が全部一人で背負い込んでいたんだよ」
熊楠はこの屋敷に渦巻くドロドロした人間関係に気分が悪くなった。
「ところが、弥吉が三人になったことで百欄の計画が狂いはじめたんだ。あいつは顔を引きつらせて恐怖に震えていたさ。ざまあなかったね。その時私は言ってやったさ、もうすぐおまえに神罰が下るってね」
そう言うと薫は腕に抱いた弥吉の頭を撫でながら甲高い声で笑った。
その時、薫が抱いている子供の右手から何かが滴《したた》り落ちはじめたのである。見るとそれは真っ赤な血ではないか。
熊楠はそれを見ると、身をひるがえして子供の襟をつかみ羽織を引き下ろした。
「こ、これは!」
熊楠の目の前に子供の背中があり、その綺麗な肌の上に少しずつ斜めに走る痣《あざ》が浮き上がってくるのが見えた。
「こ、こいつは間違いなく怨霊だぁぁ!」
熊楠が言うが早いか、薫は子供を抱いたまま一気に廊下へと飛び出した。あまりの早さに北麿は薫をとり逃がした。とても女の早さではなかったからだ。薫はそのまま中庭に走り下りると、あっという間に深い霧の中へと姿を隠してしまったのである。
北麿はすぐに庭に下りると怨霊の気配を探りはじめた。しかし二重結界の中では北麿の能力は相殺《そうさい》されているため、なかなか気配を感じることができない。
舞は小剣を抜いたまま北麿の横に立った。その時、地の底から何かが沸き起こる不気味な震動が伝わりはじめた。その直後、一陣の風が巻き起こったかと思うと今まで屋敷を覆っていた深い霧がゆっくりと渦を巻きながら脈動しはじめたのである。
霧の渦は重なり合ってさらに大きな渦を作りはじめ、まるで巨大な生き物が合体を繰り返して成長していく様に似ていた。
「これは一体……」
舞はこの異変に一瞬戸惑った。北麿は押し黙ったままじっと周囲を窺っているだけである。熊楠はこの不気味な現象を、恐怖と畏敬《いけい》の眼差しで見守っていた。女中や丁稚たちも体を寄せ合いながら大座敷の隅で震えている。
霧は益々巨大な大渦となって屋敷の周囲にそそり立っていく。その時、天の大穴に吸い上げられるかのようにして、大量の霧が凄まじい早さで上昇し一気に四散していったのである。物凄い風が渦を巻いて舞たちの周囲を吹き抜け、砂塵《さじん》を巻き上げながら天空目掛けて舞い上がっていく。そして霧が完全に晴れ上がった時、天空には丸く大きな穴ができ、そこから無数の星々の輝きが降り注いでいるのが見えた。
「舞、誰か俺の結界を外そうとしている奴がいる」
「分かっている。でもそんな真似ができるのは私たちと同じ陰陽の術に通じた者しかいないはず」
北麿は自分の張った結界が消えかかっていくに従い、逆に怨霊の気配を察知することができるようになっていた。しかし結界が消えれば怨霊は逃げ出すため、北麿は一刻も早く見つけ出さねばならない。
六角棒を前に出し怨霊の気配を探っていくと、やがて裏庭の端にある物陰へと行き当たったのである。そこには怨霊を抱いた薫の姿があった。
「有り難う、北麿、後は私がやるわ」
舞が北麿の前に立った。
「おかみ、その子を渡しなさい」
舞が言った。しかし薫は首を激しく横に振るだけである。子供は舞の小剣を見ると大声で泣きはじめた。その泣き声は激しくなる一方で、舞の情けを懇願しているかのようにも見える。
店の者たちは、遠巻きにしながらその様子を見て呟き合った。
「怨霊といっても相手は子供よ。何も殺してしまわなくてもいいんじゃないのかね」
「そうだよ、あんなに泣いている子を殺すなんてこと私なら可哀相でできやしない」
「怨霊はもう子供から抜けたんじゃないのか」
「俺なら殺さない」
銘々好き勝手なことを言い合っていたが、熊楠がそれを一喝《いっかつ》した。
「俺は怨霊に一度殺されそうになったから分かる。子供だからこそ油断できないってことがな」
その言葉に皆は黙ってしまった。
その時、北麿は桔梗屋の屋根に上がっていた。自分が張った結界を外そうとする者の正体を見つけ出すためだったが、すぐにその連中の姿を確認することができた。
見たこともない奇妙な姿の一団が立ち並ぶ中に、軍服を着た女と背広を着た男がこっちを見ている。しかし、北麿が最も気になったのは一番手前で印を結んでいる大男の姿だった。その男は全身を真っ黒なコートで覆い隠し、頬には深い刀傷があった。男はやがて印を結ぶと、外しかけた結界を一気に元に戻したのである。
瞬間、物凄い大風が巻き起こり砂塵が舞い上がったかと思うと、天空から月と星の姿が掻き消えるようにして無くなってしまった。同時に、さっきまで見えていた怪しげな一団の姿も北麿の視界から完全に掻き消えてしまったのである。結界が再び閉じられたのだ。
北麿は裏庭を見る。五基の土蔵が立ち並んでいて、真ん中の三番蔵だけにうだつが上がっていた。一方の中庭を見ると舞が怨霊を抱いた薫を追い詰めたのが見える。薫は必死になって舞に頭を下げていた。
「ねえあんた、この子を殺さないでくれたら桔梗屋の身代の半分をあんたにあげるからさ、お願いだよ、どうか私から生き甲斐を奪わないでおくれでないか」
薫が必死になって舞に懇願した。
「もしそうしてくれるなら、私は一生あんたの御恩を忘れやしないからさ」
薫の懇願を聞いた舞は、哀れむように薫の顔を見ると、憂いを含む眼差しを向けて微笑んだ。薫はそれを見て、舞が自分の願いを承諾してくれたと思い喜び一杯の顔になった。と、その時だった。舞の小剣が薫の眉間に深く突き刺さったのである。
「ギイイイイィィィィィヤアアアアアァァアァァ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
恐ろしい叫び声が屋敷中に轟いた。店の者もそうだったが、熊楠が一番驚いた。
「な、なんてことをするんだぁぁ!」
そう叫ぶと丸い体を揺らしながら裸足で舞のところへと駆けていった。
「あんた、おかみまで殺すことはないだろうがぁ!」
熊楠は太い腕で舞の腕を掴むと薫から舞を引き離そうとした。
「どけ邪魔だ」
舞はそう言うと熊楠の腹を肘で強く打った。熊楠はずるずるとその場にうつ伏せに倒れていった。
「あうううううううううう」
熊楠は腹を押さえて苦しそうにもがく。
薫の目は怒りに燃えて真っ赤に充血しはじめ、舞の小剣を握ると血の滲む腕でジワリジワリと小剣の刃を額から抜きはじめたのである。
それと同時に薫の口が大きく開き、まるで舞を食らおうとするかのようにベリベリと肉の裂ける音がして、頬の肉が耳まで裂けはじめた。店の者たちは、そのあまりの恐ろしさに悲鳴を上げ腰を抜かした。
小剣が額から引き抜かれた瞬間、舞は小剣を一気に手前へ引いた。すると今まで剣を握っていた薫の指という指が全て斬り落とされ、地面にバラバラと音を立てて落ちた。指は地面に落ちても蠢きつづけ、芋虫のような動きでのたうち回った。
その直後、薫は舞の首筋目掛けて飛び掛かった。舞は瞬間的に後ろに飛び退いたが、そこには熊楠の大きな体が転がっていた。舞は熊楠に足を取られて仰向けに引っ繰り返ってしまったのである。
薫は額からドクドク流れる血を舌で舐めまわしながら、舞を見下ろしてニヤリと笑うと、その喉目掛けて食い掛かった。
しかし、舞は咄嗟に小剣を両手で横に構える。そこに薫の口が噛みついたのである。次の瞬間、舞は一気に小剣を前へと突き出した。途端、薫の顎の骨が切断され顎の肉と一緒に地面へ転がり落ちた。薫の顎があった部分からは大量の血飛沫《ちしぶき》が上がり、流れ込む血のため喉からゴボゴボという音がする。
熊楠は恐ろしさのあまり卒倒しそうになった。まさか薫にまで怨霊が取りつくとは考えもしなかったからだ。薫は苦しみのあまり舞から逃れようとしたが、まともに歩くことができず宙をつかんでもがき苦しんだ。いつの間にか怨霊は弥吉を抱いた薫と合体していたのだ。
舞は最後の止《とど》めを刺すため、逃げようとする薫の背中へと近づいていった。その瞬間、薫は振り向きざま子供を舞目掛けて投げつけたのである。
グウウゥゥゥエエエェェェェェェエエエエエェェェェェエエエエエエエエッッッッ!!
完全に怨霊の正体を現した弥吉は、凄まじい形相で舞の腕を噛み切ろうとした。しかし、舞はすんでのところでそれをかわした。怨霊はそのまま松の木にぶつかると太い枝にかぶりついた。
枝はバキバキと音を立てて砕かれてしまう。ところがその直後、北麿が六角棒で激しく怨霊を打ち据えたのである。怨霊はそのまま転がって古い石灯籠にぶつかったが、その衝撃で灯籠が崩れ落ち、あっと言う間に怨霊を下敷きにしてしまった。
ドドオオオオンン!
崩れた石灯籠の隙間から出た怨霊の手は、何度か痙攣《けいれん》を起こした後、やがて全く動かなくなった。
「危なかったな、舞」
「ええ、でもどうして怨霊は合体した体を外すことができたの?」
「俺にも分からん」
そう言うと北麿は薫の体を調べてみた。すると怨霊を抱いていた薫の腕が手首から無くなっていることに気がついた。そしてもう片方の手には番頭が持っていた包丁が握られていたのである。その包丁には真新しい血糊《ちのり》が付いていた。
(怨霊は包丁でおかみの腕を切り離したのか!)
舞は石灯籠の下敷きになった怨霊が絶命したかどうかを確かめようとしていた。崩れた石灯籠から覗く怨霊の手は確かに動かない……ところが、一瞬、怨霊の指が痙攣したのである。
舞がすかさず止めを刺そうと身構えたその瞬間、倒れていた薫の手から包丁が舞の背中目掛けて投げつけられた。怨霊は薫の体の中で生きていたのだ!
「舞……っ!」
北麿が叫んだ時は既に遅かった。
怒火《ドカ》!
肉に深く突き刺さるような鈍い音がした。
しかしそこには舞の背中をかばって、熊楠の太い腕があった。包丁は熊楠の上腕部に突き刺さったのだ。
「ううううううう〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!」
熊楠が腕を抱えて膝をついた時、既に舞は薫の首を刎《は》ねていた。首はゴロゴロと女中たちが立っているところまで転がっていった。
「キヤアアァァァァ!」
女中たちの何人かが口から泡を吹いて卒倒した。
「大丈夫か、熊楠殿?」
北麿はすぐに止血のために太い木の枝を折り、腕にはさませてから包丁を抜いてやる。
「ぐふぅぅぅぅぅむむむっっうううう!」
熊楠は唸り声を上げて痛さを我慢した。北麿は晒《さらし》を巻いて応急手当てをした。舞は怨霊を完全に打ち倒すと、熊楠のところへやってきて頭を下げた。
「貴方がいなければ私は死んでいたわ」
舞は熊楠に歩み寄って無事な方の腕をとった。熊楠は恥ずかしそうに頭を掻いて言った。
「あんたの背中を押そうとしたんだが、それがうまくいかなくてこうなった。ハハハハハ」
熊楠は豪快に笑った。
北麿は合体した二体の怨霊の躯《からだ》を焼くための油と黒色火薬を蒔《ま》いた。そして呪文を唱えて印を組み、火をつけて躯を清めた。
炎は一気に立ち上り、膨れ上がった怨霊の体は油紙のように激しく焼け、後には薄い灰しか残らなかった。
「舞、どうも気になることがある」
「何?」
「少し気になることがあって屋敷の屋根に上がった時、俺は結界を外そうとしている男を見た」
舞は驚いた顔をした。
「それはどんな男だった?」
「背が高くて全身を黒コートで包んだ嫌な感じの男だ」
「何者かしら? でも結界を外せるなら、私たちと同じ陰陽の術を学んだ者であることには違いないわね」
「あの男はあるいは裏忌部の者かもしれん」
「裏忌部ですって?」
裏忌部といえば彩のことが思い出されるが、裏忌部が忌部の妨害をしてくるとは思えない。
「裏忌部は忍よ。昔の忍集団の統括が裏忌部と聞いているわ。その裏忌部がどうして私たちの怨霊封じの邪魔をするの?」
「いや、邪魔というよりも、結果的に結界が外されかかったおかげで怨霊を封じ取ることができたんだ」
「だから裏忌部というのも変よ。結果はどうあれ、その男は結界を外そうとしたわ。そのため危うく怨霊を取り逃がすところだったのよ」
舞は北麿にキッパリと言った。
「まあ待てよ、舞、俺だって正体も分からない奴を味方とは言わないさ」
「結界を外そうとした以上、私たちの敵のような気がするわ」
温厚な舞の目はそこになかった。それは舞が怨霊を倒す時に見せる目とよく似ている。
「一度、蘭から奇妙なことを聞いたことがあるの」
舞はポツリと言った。
「蘭から?」
「一年ほど前、どさ回りの芝居小屋に怨霊がいることが明らかになった時、夢情が結界を張ろうとしたの。しかしいくら夢情が結界を張ってもそれが次々と消されてしまう奇妙な出来事が起きたのよ」
「あの夢情が放つ結界を外した奴がいるというのか?」
「ええ、でも夢情は何とか波動を探り当て、幕の裏に潜む何者かに、六角棒に見せかけた仕込み槍で斬りつけたらしいわ」
「それで」
「蘭の話では、夢情の槍は紙一重でかわされたらしいけど、顔面だけは斬ったというの。大きな黒い影が逃げ去るのを蘭も見たらしいわ」
「夢情の六角棒の両端に隠されている両面槍は、夢情の手に掛かると凄まじい武器に変貌する。その鋭さをかわす者はそうざらにはおらんぞ」
北麿はさっき自分が見た男の顔を思い出した。
「舞、俺の結界を外そうとした男の顔にも傷があった」
「それなら夢情の槍をかわした男かもしれないわ」
北麿はここにきて、とんでもない奴が現れたと思った。
「しかし、なぜそいつは怨霊を逃がそうとするんだ?」
「それは分からない。その男から聞き出すしかないわね」
北麿はいずれその男と対峙することになるかもしれないと思った。その北麿の顔を見ながら舞が聞いた。
「さっき貴方が言った気になることは、その男のことなの?」
「ああ……しかし実はもう一つあるんだ」
その時、北麿の目は一瞬だが曇った。
「何なの?」
「さっき結界が外れそうになった時、一瞬だったが怨霊の邪気を二重に感じたんだ」
北麿の言葉で舞はしばらくの間、押し黙ったままになった。
「北麿、それって怨霊がおかみの体を合体させた波動とも思えるけど……考えてみればおかしなことね」
「奇妙だろう」
「合体させるだけでは気配を二重に感じることはないわ」
「それと問題はおまえのことだ」
「えっ、私?」
舞は奇妙なことを言うというような目で北麿を見た。
「怨霊を封じ取った後、自然に流れるはずの舞の血の涙が出てこなかった……。今まで舞にこういうことはなかった」
「どうやら善兵衛殿に祠《ほこら》のある場所を聞かねばならないようね」
「ああ」
熊楠が二人のところへやってきた。まだ腕は痛そうだが、女中たちから傷口を酒で消毒してもらい、別の晒で腕を保護するように吊り下げてもらったようだ。
「ハハハ、まるで腕の骨を折った時のようだろう」
それでも熊楠は上機嫌だった。怨霊が死んだからである。
「これで怨霊も封じ取られたようだし、あんたらが張った結界も外してもらえるんだろうな?」
「熊楠殿、非常に申し訳ないが、そのことはまだお約束しかねる」
北麿がそう言うと熊楠は怪訝な顔つきになった。
「何故だ?」
「その件はもう少しだけ待っていただきたい」
「だから何故なんだ?」
熊楠は粘った。これで地獄のような牢獄から解放されると思った矢先なだけに、当然の人間の反応だった。
「それは今はまだ申し上げられない」
「そんな勝手があるか」
熊楠の持ち前の正義感が再び顔を出してきた。
「俺だけじゃないぞ、桔梗屋の皆もそう思っておるんだ。これでやっと恐ろしいところから抜け出せるとな。これ以上、俺たちを閉じ込めておく権利など、おまえたちには無い」
「悪いが熊楠殿、今もう少しだけ勘弁願いたい」
「勘弁できん!」
熊楠は大座敷へと向かう舞と北麿の後を怒鳴りながらついていった。
舞と北麿は大座敷に入ると、善兵衛が寝ている床の横に座した。熊楠も舞たちの反対側にドカッと座した。顔つきは怒ったままで固まっている。無理もない。
すると善兵衛は舞たちに気づき、薫のことを気づかった。
「薫はどうなりましたか?」
善兵衛の声には力が無かった。舞は悲しそうな目で首を横に振るしかなかった。
「そうでしたか……考えてみれば薫も可哀相な女でした。私がだらし無いばかりにあのように性格が捩《ねじ》れてしまった」
そう言うと善兵衛は両目からハラハラと涙を流し、暫く布団をかぶって中で嗚咽しつづけた。
「善兵衛殿にどうしてもお聞きせねばならないことがあります」
舞がそう言うと、善兵衛は涙を手で拭いながら頷いた。
「どうぞ、何でもお答えします」
舞は善兵衛の気持ちを思うと、そのまましばらくそっとしておいてやることが人情と思ったが、今はそれが許されない事態なのだ。
「おかみが前に話していたことですが、昔、何処かから持ってこられた小さな石の祠があるはずですね。それは今何処にありますか?」
舞が聞くと善兵衛は不思議そうな顔をした。
「それは一体何のことでしょうか?」
驚いたのは舞たちの方だった。慌てた北麿は横から口をはさんだ。
「祠です。おかみは善兵衛殿しか祠が何処にあるか知らないとおっしゃっていました」
「いいえ私は昔のことは全く知りません。ここは薫の父が明治二年から経営していた呉服問屋でしたが、私は養子としてここに入ったんです。ですから昔の屋敷のことは娘だった薫しか知りません」
「舞……どうやら俺たちはおかみに嵌《は》められたらしい」
北麿は唇を噛み締めながら言った。
その時、熊楠がいい加減我慢できなくなったという顔で大声を出した。
「どうなんだ、もうこれぐらいでいいだろう。早く結界を解けい!」
熊楠がそう言うと他の皆も熊楠のそばにやってきて、各々が舞と北麿に頭を下げて頼んだ。
「お願いです。私たちを早くここから出してください」
「私らはもうできるだけのことは致しました。これ以上はいやです」
「俺も我慢の限界です。これ以上俺たちを苦しめて楽しいんですか?」
「頼みます。あんたらがここに残るのは自由だが、私らは関係ないんだ」
「早く地獄の中から解放してください。私は早く里の母親の面倒を見てやりたいんだ」
それらの声を背に受けて熊楠が言った。
「どうだ、これが天の声というものだ。何故に怨霊を退治したのに結界を解かぬのか、明確な理由があるものなら言ってみろ」
熊楠はすごんだ。そして思わず腕を組もうとして傷口に痛みが走った。
「いててててっっ!」
その熊楠の姿を見ながら北麿が言った。
「まだ屋敷に怨霊がいる可能性があるんです!!」
その言葉に全員が再び恐怖のどん底に叩き落とされた。
「悪い冗談はやめろ。それでなくとも皆は心身ともに疲労|困憊《こんぱい》しておるのに、そんなことを言って脅かすものではない」
「熊楠殿、私たちがそんなことをするとお思いか?」
北麿が真正面から熊楠に向き直った。
「……すると、本当にまだ怨霊が屋敷にいるというのか?」
「ええ、それもさっきの怨霊よりも狡猾《こうかつ》な奴です!」
大座敷の中は水を打ったように静まり返った。
「そ、それは間違いないのか?」
熊楠の声は心なしか震えていた。まだ屋敷に怨霊がいてさっきの奴より狡猾であるなら、一体どんなに恐ろしい怨霊なのか。
「さっき結界が薄れた時、私は怨霊の気を二つ感じたのでそう言っているんです」
北麿が言った。
「二つだと?」
「ええ二つです」
「仮に怨霊が他にもいたとして、どうしてさっきの怨霊より狡猾ということが分かるんだ?」
熊楠が尋ねた。
「今まで全く気配すら見せていないからです」
「…………」
熊楠は目をパチクリさせた。
「つまり何か、さっき怨霊が暴れていた時、隠れて何もしなかったから狡猾というのか?」
「そうです。怨霊の場合、大物の怨霊は小物の怨霊の背後にいて、小物を怨霊師や陰陽師と戦わせている間、敵の力と技を推し量るのです」
そう北麿が言うと、熊楠は指で鼻を掻いた。しかし傷めた腕の方だったので思わず顔を顰《しか》めた。
「熊楠殿、そして御一同、そういうわけでもう少しだけ我らに怨霊を探索させてはくれまいか?」
「つまり、そいつを封じ取るまで結界は外せないというわけだな?」
「はい、もし今結界を外せば本命の怨霊は逃げてしまい、また余所《よそ》で仲間を引き寄せ、新たな犠牲者が生まれることになります」
「そうなると、また一から出直しというわけか?」
「そうなります。そうなれば怨霊も今回の経験を積んでいるため、その分だけ犠牲者も増えることになるでしょう」
「となると一体誰に怨霊が取りついているというのだ?」
熊楠は不安そうに一同の顔を見回した。すると誰もが互いを恐れるかのようにして顔を見合わせた。
「この中は二重結界なので、すぐに誰が怨霊かは分かりません。しかし手掛かりがあるとすれば祠ということです」
「なぜ祠があると分かるんだ?」
「結界を張ると同時に陰陽の力が無くなるのは、そこに社や祠があり、結界が張られている状態でしか起きないからです」
「それがあんたらの言う二重結界か?」
「そうです、ですから祠を見つければ答えが分かるかもしれない」
北麿が言った。
「しかし……そんなものだけで祠があるとは言えんのじゃないのか。善兵衛も祠などは知らんと言うとるし」
熊楠にはどうも北麿の話だけでは合点がいかない。
「いや、祠は必ずある」
名無しだった。
名無しは座敷の端にある太柱に体を預けて座っていた。
「どうしておまえにそんなことが分かるんだ?」
熊楠が聞いた。
「怨霊が百欄の祈祷所の中にも現れているからだ」
皆は一斉に名無しの言葉に注目した。
「北麿、怨霊は霊のままで人を食らうか?」
名無しが聞いた。
「無理だ」
「では人間に取りついた怨霊が百欄と付き人を食ったことになる」
「…………」
北麿は何か気づくことがあって身震いした。
「そうか百欄は屋敷とは別のところで食われていたんだ! それも祈祷所という場所だった」
「それが一体何を意味しているの?」
舞が聞いた。
「だってそうだろう、百欄の祈祷所と屋敷が亜空でつながっていなければ、そんな真似などはできるわけがないんだ……そうか分かったぞ、祠は最初百欄の屋敷にあったんだ。いや、だからこそそこが祈祷所になったんだ!」
「では百欄が祠をここに運ばせたわけ?」
舞が言うと、善兵衛が布団の中から腕を出して言った。
「それはあり得ない。百欄が祠をここに運び入れたことはありません」
「善兵衛殿、百欄の屋敷は最初からあの者の屋敷だったのですか?」
北麿は興奮気味に言った。
「確かそうです。百欄の母は元々ここの先代と懇意にしていた祈祷師でしたが、百欄の父親が妙な死に方をしたというので……」
その時、善兵衛は一瞬言葉を失った。
「どうされた善兵衛殿?」
北麿は思わず尋ねた。
「そうだ……その時に百欄の母がここの先代とできていたという噂がたったのか……」
「どういうことだ、善兵衛?」
今度は熊楠が身を乗り出した。
「これは先代の恥になるので言うのは憚《はばか》られるのですが……」
善兵衛は明らかに何かに気がついたのだ。
「善兵衛殿、全て話してください。そうすれば突破口が見つかるかもしれません」
北麿が促すと熊楠も一緒に頷いた。
「実は百欄の母と桔梗屋の先代とは、相当長い間、世を憚る間柄だったということを聞いたことがあります」
一同は互いの目を見合わせた。
「ということは、互いに夫と妻のある身で姦夫姦婦の間柄だったということか?」
熊楠は渋い顔つきで言った。
「そうです。ですから百欄も桔梗屋の先代の子ではないかという噂まで立ったと本人から聞きました」
またしても一同にどよめきが走った。
「となると桔梗屋のおかみと百欄とは異母兄弟だったことにもなるぞ。もしそれが本当なら、先代の血を引き継いだ百欄が桔梗屋を乗っ取る気だったことも分からないではない」
熊楠はさらに渋い顔つきになった。善兵衛は気落ちしたように肩を落とした。
「それでどうなった?」
熊楠が話の先を急かした。
「そんな頃でしたか、百欄の父が突然にこの世を去ってしまったのです」
熊楠は思わず大きな目を瞬《またた》かせた。
「死因は分かっているのか?」
「百欄の話だと分からなかったといいます。外傷が全く無かったからとも言っていました」
善兵衛の話を聞いていた店の者たちは、互いに顔を見ながら何かを小声で話し合っていた。
「それで百欄の母親が邪魔になった夫を殺したという噂が立って、警察が一度調べに入ったことがあったそうです」
「で、どうだったんだ?」
「警察が踏み込んだ時、既に遺体は火葬にされた後で調べようがなかったらしいです。ところが百欄の父が長年通っていた開業医などは、砒素による薬殺の可能性もあると示唆《しさ》していたそうです……」
「また砒素か……」
熊楠は今度の怨霊事件が、実は人間のおぞましい所業の因果で起きていたことをあらためて知る思いがした。
「しかし検出されなかった」
「そうです。遺言で灰は川に流されましたからね」
熊楠は受けた傷が痛むのか、腕を摩《さす》りながら黙りこくってしまった。
「百欄の母は亡くなった夫の霊に脅《おび》えていたといいます。それ以後、祈祷は一切|止《や》めてしまったということしか私は知りません」
熊楠も皆も善兵衛の話をじっと聞いていたが、そこで熊楠は言った。
「ひょっとするとその時、祈祷に使っていた祠を打ち壊すと祟りがあるやもしれんと思った母親が、先代に祠を引き取らせたのかもしれんな」
そして、熊楠は名無しの方を見て聞いた。
「おぬし、百欄の祈祷所で石の祠を見た記憶はないか?」
名無しはしばらく目をつむったまま考えていたが、やがてポツリと言った。
「無いな……」
熊楠は分かったというように頷くと一同に向かって言った。
「これがもし本当なら何とも毒々しい因縁《いんが》話だ。先代の主が百欄の母と子を成し、できた子の百欄が今の主と懇《ねんご》ろになる。そして善兵衛の子の一方が神隠しに遭い、別腹の子が怨霊に取りつかれ、それを祈祷したのが百欄ときては、もはや底無しの因果応報ではないか」
熊楠は今さらながら、人間の持つ業の深さを感じて身震いした。そして怨霊が現れてくる土壌とはこういう人間界のおぞましさだと思った。
次に北麿が一同に向かって口を開いた。
「結界とは簡単に動かせるものではない。しかし結界として使った石や御神体を動かせば、元の場を起点として他の場とも亜空の道でつながることになる」
「では祠を動かして桔梗屋に置いたため、亜空の通路ができたということだな?」
熊楠が真剣な眼差しで聞いた。
「そうです。だから祈祷所に怨霊が現れ百欄が食われたことになる」
「これで大体の仕掛けが見えたな」
熊楠が満足そうに頷いた。
「いいえ、祠の場所が分からない以上は全てじゃないわ。怨霊の正体を知る手だてを探るには、二重結界の中心となる祠を探さねばならない」
舞がそう言うと、丁稚の正太が何やら言いたげな顔でモジモジしている。
「何か言いたいの?」
舞が水を向けると正太は恥ずかしそうに口ごもっている。
「おい、何か言うなら今の内だぞ。怨霊の餌になってからでは遅いんだ」
熊楠が大声で言うと、正太はビクッとして周りの顔を見回した。
「あのう、俺は思うんですが……」
「何だ?」
いつの間にか熊楠が仕切りはじめている。
「間違っているかもしれないんですが、歳三さんや女中のタネさんが消えた、あの三番蔵が怪しいと思うんです」
一同が静まり返った。
「そういえば、俺もあそこで食われそうになったな……」
熊楠はそれを思い出すと顔が引きつった。
「それに、静の子の弥吉が怨霊に取りつかれて三人に増えたのも三番蔵だった」
熊楠の言葉に北麿は思い切り掌で畳を叩いた。その音が座敷中に響き、皆の目が一斉に北麿へ集中した。
「うかつだったあぁぁぁ……俺は既に祠を見ていたのだ」
北麿は己に対する怒りで体が震えていた。
「どうしたの、北麿?」
舞は一体どうしたのかという顔で、北麿を見た。
「分かったぞ」
北麿の目が怪しく輝いた。
「何が分かったの?」
「祠の場所だ」
「それは一体何処なの?」
「正太の言う通り、三番蔵だった!」
三番蔵と聞いて熊楠が口をはさんだ。
「駄目だ。あの中には何も無い」
「いいや、それがあったんだ」
「えっ?」
「それは何処?」
舞は急かすように北麿の体を揺すった。
「土蔵の屋根の上だ!」
「屋根の上……?」
「そうだ! 俺は屋敷の屋根から下を見下ろして三番蔵の上に小さなうだつを見た。土蔵にうだつというのもおかしなことだと思ったが。あれは石の祠が土蔵の上に上げられていたんだ!」
その時、熊楠が膝を叩いた。
「確かに三番蔵の屋根には何かが載っていた」
「どうだ舞、これで三番蔵で異変がつづいた理由と、百欄の祈祷所に怨霊が現れた理由は全て辻褄《つじつま》が合う」
「分かったわ、北麿、一緒に行ってくれるわね」
「勿論だ、地獄にだって一緒についていくさ」
そう言うと北麿は名無しに近づき、自分の六角棒を差し出した。名無しは不思議そうな顔をして北麿を見上げた。
「何の真似だ?」
「名無し殿、この六角棒で店の者たちを怨霊から守ってほしい」
北麿が六角棒の先を抜くと、仕込まれた剣が出てきた。その剣は名無しが見ても相当の業物《わざもの》だった。
「貴様はいらんのか?」
「舞がおる故にいらぬ」
そう言って北麿は六角棒を名無しに渡すと、舞と一緒に三番蔵へと駆けていった。
大忌部の村の北端には、朱色の大きな社殿が建っていた。
社の場所はちょうど大頭屋敷の真北に当たり、そこは大日女が祈祷を行い天照大神の御霊《みたま》を拝む聖所である。見たところ社殿には本殿とされる建物は一切存在していない。いわゆる原始神道がそのまま残された構造をしている。
社とはそもそも大型の自然物崇拝として、森、山、木、岩、川などを神格化し、その場所を聖域として崇《あが》め祭ってきた場を言う。磐境《いわさか》や神籬《ひもろぎ》という石組や立木などもその一例であり、やがてその方向を向いて拝む拝殿ができたのだ。それは異人が言うような偶像ではない。神が降臨《こうりん》する聖域として崇めるのである。よって村の拝殿は御神体となる剣山を拝む配置になっている。
大忌部の村の社殿の建築方法は、釘を一切使わない伊勢神宮の唯一神明造《ゆいいつしんめいづく》りと似ているが、神宮のように檜《ひのき》の白木を使わずに杉を使っている。その杉材の表面に、近郊で採掘される硫化第二水銀から取り出した朱を塗って飾るのだ。
大日女はそこで一日を祈祷で過ごし、夜になると寝床屋で眠る。特に重大なことがあった時などは、社殿はさながら不夜城《ふやじょう》の如き有り様となる。そのような時は、易衆たちが集められ大日女の神憑《かみがか》りを助けるのである。
まだ夜も開けない刻というのに、中頭の秋水は大日女の使いによって、起こされた。急ぎて社殿に参れという伝言であった。
秋水は寄る年波とともに登るのが辛くなりつつある長い石段を、杖をつきながら一段一段ゆっくりと踏みしめながら登っていった。今まで秋水は、この石段を何百いや何千回登り下りしたことだろう。石段の左右には石灯籠が立ち並び、神事や夜のお呼びの時のみに灯明《とうみょう》がたかれる。何も無い夜に社殿への灯明の列が見える時は、大体神憑りがあった場合である。
秋水は何か嫌な予感がしていた。大日女が神憑りで自分を呼ぶような時というのは、決まって良くない知らせが多いからだ。石段を登り終えると、そこには二本の太柱が立っていて荒縄《あらなわ》が掛けてある。秋水が太柱を潜って玉砂利の境内を歩いていくと、拝殿には灯明がたかれ易衆たちに囲まれた大日女の姿が見えた。
秋水は、昔受けた火傷《やけど》のため右目でしかものを見ることができず、顔や腕を朱色の布で覆って、肌が直接人目につかぬようにしていた。若い頃の彼は、大忌部随一の陰陽師と言われて多くの怨霊を封じ取ってきた。おそらく生涯の内で彼ほど多くの怨霊を見つけ出し、怨霊師とともに封じ取った者はいなかったと思われる。
秋水が現役を退くまで、四人の怨霊師が彼と組んだ。そしてどの怨霊師も無事に役目を果たした後、現役を退いて村の男衆と結ばれていった。
秋水は怨霊に体の半分近くを焼かれたため、一時は命が危うくなり生死の境をさまよったが、奇跡的に生き抜くことができた。その火傷のため秋水は嫁を貰わず、大忌部における次の怨霊師と陰陽師を育てる役目に専念することになる。
大頭は何度か秋水に縁談を勧めたが、その度に秋水は丁重に断ってきた。秋水ならたとえ体が醜くとも嫁ぎたいという娘もいた。特に最後に怨霊師として組んだ五月《さつき》は、秋水が退くとともに自分も退き、彼と家を持とうとしたが、秋水はそれを許さなかったのである。
その秋水も今では六十の坂を越えてしまった。しかし、村人たちが家族のように接し尊敬してくれるので、秋水はそれだけで幸せだった。秋水には身の回りの世話をする老婆衆もいて、子供たちの世話とともに秋水の面倒を見ていたので、困ることはなかった。こうして秋水は次々と怨霊師と陰陽師の若木を育て上げ、彼らを一人前にすることだけに全力を注ぎ込んだ。
秋水は木の階段を登り大日女の待つ拝殿に上がると、そのまま祈祷の場の後ろに座した。大日女はゆっくりと秋水に振り返り、一通の書面を渡した。
「秋水、御神託が下った。これは易衆の神道も同意のことじゃ」
「ハッ」
秋水は頭を下げた。
「今朝、日が昇るとともに、土佐、伊予、讚岐の怨霊師と陰陽師を阿波に移すように、使いを送るべし」
秋水はそれを聞いて仰天した。四天女と四天王を一所に送らねばならないほどの怨霊との戦いとは、その規模が全く計り知れなかった。
「ご存じのように、過去これほどの総力戦は一度としてございません。一体敵はどれほどの規模なのでありましょうか?」
「詳しくは書面にしたためておいた故、後でそれを見よ。有体《ありてい》に申すと、怨霊は今までに誰も経験したことのない変異体じゃ」
「変異体……」
「そうじゃ、この怨霊は寺社の境《さかい》を食い物にして生き永らえる奴で、結界の扱い方は怨霊師や陰陽師をも凌《しの》ぎかねん。それにこの怨霊を捕らえようとする輩《やから》が現れおった」
「それは如何なる輩でありましょうか?」
「転《ころ》びじゃ」
「転び!」
「そう、転びじゃ。あやつらの祖は我らと同じ忌部じゃが、陰陽術の奥義の一部を奪い取り、それをもって新たな一族を打ち立てたのじゃ。日の本の土台に取り入り腐らせる輩じゃよ」
「そやつらが阿波に現れたのですか?」
「そうじゃ、そやつらと軍が組もうとしておる」
「軍!」
秋水は驚いた。まさか軍が関係してくるとは思わなかったからだ。
「舞と北麿は二重結界の中の地獄にあり、外でも地獄の有り様が待ち構えておる。それ故、到底彼ら二人だけでは太刀打ちできぬ規模になってしもうたのじゃ」
「分かりました。早速に小頭たちを派遣し、全員を阿波へと赴《おもむ》かせましょう」
「おまえには中頭として指揮を取ることを命ずる故、この後すぐに阿波へと発つべし」
秋水は悪い予感が当たったと思った。しかし召しが来た以上は全力で事に当たらねばならない。
「これは大頭もご存じのことでしょうや?」
「当然じゃ、大頭には既に使いを走らせ承諾を受けておる。おまえに手渡した書面に大頭の印が押されておる」
「承り申した」
秋水は社殿を後にしようとした。その時、大日女が秋水に声を掛けた。
「頼むぞ、秋水」
「ハッ」
そう言うと秋水は大日女に頭を下げた。
(今まで大日女様がこれほど神妙になられたのを見たことがない……)
秋水は夜明けとともに広がる黄色の光が、石段の頂上から下へと順に当たり、己が下る道を光色に染めていく光景を眺めていた。
石段の一つ一つの石にむす深緑色の苔《こけ》は、それまでの深い眠りから覚めて暖かな陽光を受ける度に、細かな水滴を輝かせる。それはまさに陰陽における一つの命の縮図であり、生死、明暗、喜怒、動静の世界観の断片を垣間見せている。
秋水は、もはや自分のような老いた者では太刀打ちできぬような時代が、目の前まで迫っているような気がしてならなかった。
(あるいはこれが最後のご奉公になるやもしれぬ)
秋水はそう考えていた。
秋水は小頭筆頭の右京の家へと向かった。村はまだ眠りの中で、雀の声がところどころの屋根や庭先でしはじめている。右京の木戸も閉じられたままだったが、秋水が戸を叩こうとした瞬間、戸口が開いて中から右京が出てきた。
「中頭、何の用でしょう?」
右京は大きな体を二つに折るようにして戸口から出てきた。
「おまえ、起きていたのか?」
「いいえ、中頭の足音が遠くから聞こえたもので。どうぞ中へお入りください」
「いやおまえに緊急の頼みがあってな。大日女様からの御神託だ」
それを聞くと右京は中頭を家の中に入れた。奥から寝起きの妻が顔を出して挨拶した。左京を生んだツネだった。
「悪いが時間がない。有体に申すが、今すぐ小頭たち三人に命じ、全ての怨霊師と陰陽師に阿波の人夜谷へ、二日後の子の刻(午前零時頃)までに集合せよという命令を出してほしいのだ」
「阿波の人夜谷へ……」
「そうだ、こういう事態はかつて一度もなかったことだ。だからこそ急がねばならん」
「分かりました、中頭。今から小頭三人に命令してすぐに走らせます」
そう言うと右京は家を飛び出した。
「右京、貴様も俺とすぐに阿波へ発たねばならんぞ」
「はい、分かっています、中頭」
振り向いた右京は秋水に頭を下げると、再び大きな体を揺らしながら朝靄《あさもや》の中を駆けていった。ツネはその姿を見送りながら、夫の旅支度をはじめた。
秋水はツネに向かって言った。
「済まぬな、右京をしばらく借り受ける」
「はい」
そう言うとツネは土間に降りて、朝飯の用意をしはじめた。
明石元二郎は韓国併合を前に、併合を積極的に進めてきた黒竜会幹部の内田良平や、韓国の親日御用団体の一進会会長である李容九と帝都にあるホテルの一室で会っていた。
「では新たな朝鮮総督府における初代総督は、寺内正毅《てらうちまさたけ》陸軍大臣ということで決まりなのですな」
内田が聞いた。
「そうだ、後は私が併合の二か月前から憲兵警察制度を朝鮮で発足させ、勝手な言論や反日活動的な動きに止《とど》めを刺すことになる」
明石はクリーニングされた真っ白なカバーが掛けられたソファーに寛《くつろ》ぎながら言った。
「それはそれは、明石少将が乗り出していただければ百万の軍を得たも同然です」
そう言うと内田は李と顔を見合わせて微笑んだ。その時、ホテルのボウイがドアをノックした。
「なんだ?」
内田が立っていって聞く。
「凌雲《りょううん》という方が明石様とお会いしたいとロビーでお待ちですが」
明石はしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと立ち上がった。
「分かった、今すぐに行く」
明石が部屋を出てロビーに着くと、そこに一人の背の高い男が立っていた。その姿を見た明石はボウイに頼んで別の応接室を用意させた。
「分かりました。どうぞこちらへお越しください」
ボウイが二人を案内した部屋は、さっき明石が面会に使った部屋より少し大きめの西洋風内装で飾られた立派な応接室だった。
「ではごゆっくり」
そう言うとボウイは部屋を出ていった。
明石はソファーに深々と身を沈めると男に言った。
「どうした八雲? 貴様の人気は情報局ではあまりよくないぞ」
明石はガラスの灰皿を引き寄せる。
「申し訳ありません」
そう言うと八雲は、明石が取り出した葉巻に火をつけた。明石は旨《うま》そうに葉巻を吸いながら八雲にもソファーに座るよう合図した。
「失礼します」
八雲は明石の前に座った。
「確かに貴様には俺と直接会うことを許しはしたが、よりによってこんな多忙な時にやってくるとはいい度胸だな」
「はっ、申し訳ありません」
「それに見合うだけの話なんだろうな?」
明石は鋭い視線を八雲に送った。
「はい、それは間違いなく」
八雲は自分の情報に自信を持っていた。しかし、明石は大きなため息を一つつきながら言った。
「しかし八雲、凌雲というのは止めにせんか。どうも俺の知り合いの良雲とかいう糞坊主と紛らわしくていかん」
「そうでしたか、凌雲閣から勝手につけただけですので、別に私は何でもかまいませんが」
「浅草の凌雲閣か。あれでパリのエッフェル塔と対等のつもりだから笑ってしまうが、まあ最初にしてはあれでいい。あそこには日本初のエレベータが二台あるが、よく止まるし、第一に轟々《ごうごう》たる音でうるさくてかなわん。俺が圧力を掛け二度と使わせんようにしておいた」
「あれは警視庁が止《や》めさせたのではなかったのですか?」
「警視庁には先見の明を持つ者は一人もおらん。俺が止めさせなかったら、必ずその内に大事故を引き起こし多大の犠牲者を出していたところだ」
「確かにヨーロッパのものと比べると、あのエレベータは危険過ぎました」
「凌雲閣のいいところは、八銭さえ出せば十二階から関東平野が一望できることだろう。設置されてある三十倍望遠鏡で見れば富士山もまるで手で触れるぐらいに近くなる」
「少将、失礼ですが、軍人は半額の四銭です」
「ハハハ、そうだったか」
そう言うと明石は笑った。
「ところで貴様のことは今回の韓国併合における警備の直轄担当者に押しておったのに、何故に断った?」
「はあ、申し訳ありません」
「それと今日の秘密訪問とは関係があるのか?」
「はい。ところで少将、当然ながら併合の調印は漢城の昌徳宮と韓国総督府の間で交わされることになりますね」
「ああ、条約締結の全権を第二十七代李朝皇帝の純宗から委任された李完用が、同じ漢城の韓国総督府で待つ山内韓国総督と山県政務総督らのところを訪れ、差し出された委任状を確認した後、条約書に署名捺印することになる」
「外交交渉の場もセレモニーも全て無しですか?」
「外国には一切秘密にしておく。勿論、日本の国民にもしばらくは秘密にしておくが、公布時にはどうせ分かることだ」
「全てが秘密裏に行われるのですね?」
「そうだ。外国の干渉や妨害を防ぐためだ」
「それと、第二の安重根《あんちゅんぐん》を出させないためですね?」
八雲の言葉に明石はしばらく黙っていた。
「……当然だ、初代の伊藤博文韓国統監が暗殺された以上、同じことが二度起きることは国際的な面目の上からも断じて許せないことだ」
「そうでしたら、漢城全域に歩兵を二十歩ごとに配置されればいいと思います」
「二十歩だと?」
「ええ、この間隔なら事態に即対処できますし、それでいて威圧的にも見えず、むしろ整然とした規律の中の美しささえ感じることができます」
「ほう」
そう言うと明石は煙を吐き出した。
「ヨーロッパでは、警備兵を二十歩間隔で配置する方法は既に実践されています」
八雲の言葉に明石はしばらく考えていた。
「分かった、貴様の意見を参考にすることにしよう」
「有り難うございます」
「それでは貴様の話を聞こうか」
そう言われた八雲は思わず背広の襟を正した。そして明石を前にして徳島県で起きた一連の出来事を報告したのである。
長い沈黙の時が流れた。その間、応接室の壁にかかっている壁時計の時を刻む規則的な音だけが部屋中に大きくこだましている。
明石の葉巻は既に灰皿に押しつけられて消されていた。八雲はソファーに浅く座り、じっと目をつむって動かない明石を見ながら、あるいは本当に眠ってしまったのではないかとさえ思いはじめていた。
「これが貴様からの話でなければ一笑に付すか、そいつを病院送りにするところだが、貴様がそれほど言うのなら一度やってみるがいい!」
急に明石が話しだしたので、八雲はビクッとした。
「と申されますと?」
「その男たちを使って、生きた怨霊を捕らえてみろ。そうすれば本当に信じてやる」
「ということは?」
「それがものになるようなら俺がうまく取り計らってやるということだ!」
「有り難うございます」
八雲は立ち上がると直立不動の姿勢で敬礼した。
「しかしな、正直なところ俺はまだ貴様が騙されているのではないかと思っておるのだ。だが、貴様ほど疑り深い男もおらんし、西洋心霊学だけではなく舎密《セイミ》全般にも造詣が深い。おまけに軍部には貴様ほど国際的見識のある男もおらん。だから信じるふりをする。それでいいな!」
「ハッ、それだけでも十分であります」
「確かに昔は、鉄の船が水に浮かぶとは誰も考えなかったし、人間が空を飛ぶなどと言っても誰も信用しなかった。だからこれから先、一体何が新しい発見になるかは誰にも予測がつかん。これはそういう意味での明石元二郎の個人的な賭けだ」
「ハッ」
「まあいい。もし怨霊が貴様の言う通りの代物だったとしたら、日本軍はとてつもない生物兵器を手に入れることになる。安倍晴明の時代に逆戻りするかもしれんが、それはそれで何かが出てくれば国の役に立つだろう。楽しみにしているぞ」
「では軍資金は?」
「貴様の必要な分は使え。但し明石流の常識の範囲だけは逸脱《いつだつ》するなよ。これはある意味で貴様の器が計られる機会でもある。必要な権限も貴様には与えるから存分にやってみろ」
「ハッ、有り難うございます」
明石はそれだけを言うと部屋から出ていった。八雲は部屋から通路に出ると、明石の背中をいつまでも敬礼して見送った。
八雲は明石と面会した後、すぐに徳島に引き返していた。
八雲の留守中は美千子が代わって屋敷の監視を執り行っていた。勿論、八雲が明石と会っていることを秘密にするためのアリバイ工作である。
八雲は風邪を引いてテントの中で寝込んでいたことにし、その間に呼び寄せた生活材料を売る業者の荷車に潜り込み、そのまま列車で帝都へ向かったのだ。
八雲が戻ると、幸い現場では何事も起きていなかった。八雲は再び業者の荷車に潜り込んで検問を突破した。途中、兵隊が怪しんで荷を改めようとしたが、美千子が出てきて事なきを得た。八雲が業者に金を渡すと、男は自分の稼ぎ一か月分の金を手にして喜んで帰っていった。
テントの中で八雲はシャワーを浴びた。カーテンから出てきた八雲のはち切れそうな若い肉体は、外で待っていた美千子の視線を釘付けにした。それでなくとも女盛りの美千子は、一人で夜を過ごす寂しさにいい加減ウンザリしていた。その美千子にとって一日も早い八雲の帰還は嬉しいものだった。
実際、荷車の籠の中から八雲の姿が現れた時、美千子は嬉しくて、喉から声が出そうになるのを抑えるのに苦労した。
「優、それでどうだったの?」
「明石少将は直接に許可を下さった」
八雲はバスタオルを腰に巻きつけたまま髪の毛を何度も拭った。
「そうなの、良かったわね」
「ところで君の方は?」
「毎日本部に優が職務に精を出していると報告しておいたわ」
「それで先方が信用するかどうかだな」
そう言うと八雲は、笑いながら美千子の唇にかるくキスをした。美千子は小指の先で八雲が触れた唇にさわりながら、八雲が後ろを向いた時を見計らい、まるで雌豹のようにまとわりついた。
「おいおい、まだ職務中だぞ」
「いいのよ」
美千子は激しく八雲の唇を求めた。その時テントの外に誰かが立った。
「誰だ?」
「田辺伍長であります」
美千子は残念そうな表情をした。それを横目で見ながら八雲はテントの外へ出た。
「ご苦労」
「もう治られたのでありますか?」
田辺が言った。
「ああ何とかな。今、病明けのシャワーを浴びたところだ」
「よかったであります。やはり富山の頓服が効いたでありましょう?」
「えっ、ああ、確かに効いた」
「それは何よりです」
そう言うと田辺は敬礼した。八雲も空咳を一つして敬礼をした。
「ところで、さっきから奇妙な連中が封鎖区域の外にいるのでありますが、兵隊が聞くと八雲大尉の知り合いと名乗っておりますので、念のため確認しにまいりました」
八雲は一瞬だが、その連中のことが誰か分からなかった。しかし、小次郎かもしれないと思い田辺に聞いた。
「そいつらの中に背が高く頬に傷のある男がいなかったか? いれば相当に目立つ男だが」
「ええ、一人そんな風体の男がおりました」
小次郎が、会う必要がある時は自分の方から出向くと言い残していたことを、八雲は思い出した。
「だったら俺が呼んだ連中だ。通してもいい」
伍長はちょっと怪訝な顔になったが、八雲がそう言う以上は仕方がないと思い直した。すぐさま走っていこうとする伍長を八雲は止めた。
「伍長、これからその男たちとは共同でことに当たることになるので、そのことを心得ていてくれ」
「……は?」
「便宜《べんぎ》を図ってくれということだ」
「ハッ!」
田辺は敬礼で答えた。
小次郎と一族は真昼に堂々と検問を通ってテントまでやってきた。男たちの総勢は六十人を超していた。それぞれ何かしらの道具を持っている。八雲も見たことがない奇妙な形の武器だったりした。
「八雲大尉殿、首尾は上々だったようですな」
小次郎は八雲と出会い様に、ふざけた態度で言った。
「ああ、内々に明石少将の許可をいただいた」
「それはそれは」
小次郎は大げさな声でそう言うと、八雲の許可を得ずに勝手にテントの中に入っていった。今度は一人ではなく二人の女を従えている。
「こいつらは俺の女だ。同時に頼りになる俺の護衛でもある」
八雲が見ると、まだ年端もいかない少女のようだが、目つきは武人か兵士そのものだった。おそらく相当な修羅場を潜ってきたのだろう、腕や足には生傷がいくつも残っている。
「大尉殿とこいつらは二度目のご対面になる」
「なに?」
八雲は小次郎の言葉に一瞬戸惑った。女たちはその様子を見てニヤニヤとしている。
「この前、大尉殿の銃を奪ったけしからん連中だ」
八雲は人間離れした動きで銃を奪った二人の覆面姿のことを思い出した。
「まいったな……」
そう言うと八雲は、額に手を置き首を振った。美千子は自分の銃を奪った女たちを交互に見て、嫌な顔をした。女たちの顔が美千子の神経に触った。小次郎は勝手を知った屋敷のように、八雲のテントの中で振る舞った。八雲が勧めない内から椅子にも自分で座った。
美千子はそれが明らかに気に食わない顔をしていた。そして、小次郎が連れて入った二人の女にも、同じような不快な目を向けた。
「小次郎、あの夜から護衛のシナ人が一人行方不明になっている。おまえは知らないか?」
八雲が聞くと、小次郎は耳の後ろを掻きながら大きなあくびを一つした。
「知らんな、シナ人一人の行方も捜せんのか、情報局というところは」
八雲は少しカチンときた。まだ陳の行方不明を情報局に届けていなかったのだ。いずれ陳が戻ることを信じていたからだが、届けていない以上、情報局も調べようがない。
「明石少将は頭が切れる男だ。それにおまえを信頼している。だから必ず説得できると俺は踏んでいた」
そう小次郎は言うと、八雲の顔を見上げながらニヤリと笑った。
「それで小次郎、これから貴様はどうする気だ?」
八雲も椅子に座った。
「時を待つだけだ」
「時だと?」
「ああ時だ」
八雲はここでのんびりと時を過ごす気は全くなかった。日本は今や亜細亜全土を巻き込む激動の渦中にあり、巨大な時代の歯車が、さらに大きく動き出そうとしている矢先だったからだ。
「それはいつまでだ?」
皮肉を込めて小次郎に言った。
「時は時としか他に言いようがないではないか」
掴みどころのない禅問答のような返答に美千子はついに口を挟んだ。
「小次郎、貴方には八雲がどんな多忙な人間なのかが全く分かっていない。それにもっと敬意を持って接したらどうなの?」
美千子の言葉に、小次郎は大げさに手を広げた。
「おお、そうだった、八雲大尉も女の護衛を連れていたことを忘れていた」
そう言うと小次郎は大笑いをした。
「小次郎、美千子を侮辱《ぶじょく》することは許さんぞ」
八雲は小次郎のふざけた態度に怒りを覚えた。
「分かってるさ、八雲大尉殿、俺にそんな気は毛頭ねえよ」
「だったら、いつまでここで待つのかを教えろ」
「時期はいやでも分かる」
小次郎は嘯《うそぶ》いた。それを聞いて八雲はテーブルを思い切り叩いた。
「俺に分かるように言え、小次郎!」
「…………」
八雲の剣幕に小次郎のふざけた態度は一瞬にして止まった。小次郎は改めて椅子に座りなおすと、首をコキコキと鳴らした。彼の癖だ。テントの中は生地が厚いせいか昼間でも薄暗かったが、テントの出入り口が大きく開かれていたので明かりが入ってくる。小次郎の顔はちょうど逆光線で見づらかったが、顔色が少し変わったことは八雲にも分かった。
「俺はこれから貴様の雇い主になる男だ」
八雲は小次郎を鋭い目で睨んだ。
「時期はいつだ、小次郎?」
「分かったよ、八雲大尉殿、時期は結界が外れた時だ」
「結界が外れた時とはどういう意味だ?」
八雲は小次郎が結界を外し、今すぐ仲間と兵隊を引き連れて中へ突入することを期待していたのだ。
「結界をおまえが外し、全員が中に突入するのではなかったのか?」
「そんな真似をしたら全てがおじゃんだ。第一に怨霊が逃げ出してしまうだろうが」
「それなら結界が外れるまで待っても同じではないか」
「あんたは怨霊について何も分かっちゃいない」
「どう分かっていないんだ?」
八雲は突っ込んだ。分かっていないなら知らねばならない。それが八雲の変わらないやり方だ。
「怨霊がこの世に現れる時は霊のままだということだ。それなら怨霊はさほど恐れることはない。つまり、怨霊が力を持ち、俺たち一族から見て価値が出だすのは人間に憑依してからなのだ」
「ということは霊の状態では捕らえられないということか?」
「当然だろう、おまえは幽霊を捕まえることができるのか。だからここで怨霊が憑依を済ませるまで待つしかねえんだよ」
八雲は考え込んだ。もしそうなら長期戦も覚悟せねばならなくなる。
「ということは、結界は霊も封印しておけるということか?」
「そういうことだ。だから肉体を得る前の怨霊も、結界が張られている以上、外に逃げ出せないわけだ」
「ではさっき貴様が言った、結界が外れる時というのは怨霊が体を得た時と思っていいんだな?」
その時、小次郎は大きな手を八雲の前で広げると指を二本立てた。
「結界が外れるには二つの理由がある。一つは怨霊が封じ取られて結界の必要が無くなった時だ。そしてもう一つは、結界を張った連中が怨霊に敗れ去った時だ」
「結界を張った者が負けた時、怨霊はどういう姿で出てくるのだ?」
「憑依した奴の体で出てくるだろうよ」
「それが誰の体か分かるのか?」
「ああ、そのため奴は今までじっくり罠を張って待っていたのだ。厳選した人間に取りつくためにな……」
「どういうことだ?」
「怨霊に相当な力がある場合、人間なら誰にでも憑依するようなことはしない。できるだけ高い霊性を持った相手を選んで罠の中に誘《おび》き出すんだ。そして己の術中に嵌《は》まった時、一気にそいつの肉体に取りついて霊を飲み込んでしまう。そうすると凡庸《ぼんよう》な人間を数千人食らっても得られないほどの高い力を一気に得ることができる。それも相手が怨霊師なら最大の怨霊と化すことができるだろうよ」
「怨霊師だと?」
「怨霊を直接封じ取る巫女《みこ》のことだ。幼少の頃から特別に選ばれ、親元から隔離されて猛烈な修行を受けるため、その女の持つ霊性は極めて高いものになる。さらに様々な陰陽における呪文、呪詛《じゅそ》にも秀でているため、怨霊が取りつけばこれほど恐ろしいものはない」
「では怨霊を封じる巫女を怨霊の方が狙うというのか?」
「その通り、怨霊は前に一度だけ別の寺で罠を張ってしくじった経験がある。だから今度は念入りに罠を張り、怨霊師を誘い込もうとしているんだ」
怨霊師……八雲はそういう分野は興味があったが、未だに日本にそういう人間がいることは全く知らなかった。
「しかし怨霊が逆にやられることもあるだろう?」
「それはある。しかし、今度の怨霊はそうたやすい相手ではない」
「その怨霊は女か?」
八雲は唐突な質問をしたと思ったが、どうしても聞いておかねばならなかった。
「それはどうかな……」
「言えないのか?」
「掟《おきて》で言えぬ」
小次郎はそう言うと、自分の左右に立っている女の一方に手を差し出した。女は懐から奇妙な石を出して、小次郎に手渡したのである。
「八雲大尉、この緑柱石をおまえにわたしておく」
手にした緑色の奇妙な石をテーブルの上に投げ出した。八雲はそれを手に取ると、人の手によって三角柱に加工された透明の石の見事な美しさに感心した。覗いてみると、緑色っぽい光景が見え、小次郎や美千子の姿が万華鏡のように見えている。
「これは一体何に使うんだ?」
「怨霊の取りついた人間が分かる石だ」
八雲は一瞬驚いた顔になった。
「どうして分かるんだ?」
「それを通して見た時、姿が消えていたら怨霊が取りついているということだ」
「しかし、貴様らもこれが必要なのだろう?」
八雲が言うと小次郎は笑った。
「俺にとって怨霊を見分けるのはたやすいことだ。そんな子供の玩具などは必要ない。実際それは俺が子供の頃に遊んだ石だ」
八雲は、特別扱いされているのか馬鹿にされているのか、分からなくなった。
「しかし勘違いするなよ、大尉。おまえの霊性が高まっていなければ、その石を使っても怨霊を見分けることはできん」
「霊性とは何のことだ?」
「気だ、気脈が体中に充満していなければ、その人間は死んだも同じだからな」
「気脈とは信念のようなものか?」
「いいや違う。それが分かるようになれば、おまえは立派に天下を取れる」
そう言って小次郎はテントから出ていこうとした。
「小次郎、貴様ら一族は今夜から何処で野営をする気だ?」
「有り難いことに、この周囲一帯の屋敷は空き家だらけだ」
「まさか……貴様ら」
「俺たちが何処の屋敷に泊まるかは、こちらで勝手に決めさせてもらうが、それは四方から結界の様子を窺うとともに、外敵に対する備えでもある。何処から攻撃されてもいいように、適当な屋敷を占拠する」
小次郎には小次郎のやり方があるのだと八雲は思った。封鎖区域内の全ての権限が八雲の裁量に任されている以上、無下に断る必要もない。
「分かった。自由に使え。但し家の財産を傷つけたり奪ったりはするな」
八雲の言葉に小次郎は振り向いて言った。
「前にも言っただろう。俺たちはこの世的な財産には全く興味がない。但し、ある程度の食料だけは保証してもらわねば困る」
「分かった。軍に調達させよう」
八雲がそう言うと小次郎は満足げに微笑んだ。その時、一瞬だったが小次郎の胸元から鎖帷子《くさりかたびら》が覗いて見えた。
八雲はそれを見て、今の時代に鎖帷子を体に巻くような人間がいるのかと奇妙な気分になった。しかし相手が小次郎なら何が起きても驚く必要などないことも分かってきていた。
舞と北麿は見るからに気味の悪い雰囲気の漂う三番蔵の前に立っていた。
土蔵は二階建てで頑丈な鉄の扉には錠が掛けられ、その上の壁には二階の窓があり、その窓も頑丈な鉄の扉が閉められている。壁にはいくつも罅《ひび》が入り、四隅には六尺ごとの高さで頑丈な鉤《かぎ》が打ち込まれている。その荒々しい様相は、長い間の風雪に耐えて生き抜いてきた、年老いた一つの大きな生き物のように見える。
「確かに三番蔵の屋根にあるのは、ただのうだつではないわね」
舞は屋根を見上げて言った。
「そうだろう。あそこだけが石でできている」
土蔵の壁全体には漆喰《しっくい》が塗られていたが、うだつに見える出っ張りは、削ったままの石が剥き出しになっている。石の祠《ほこら》は見るかぎり相当古いものらしく、小さな屋根と石の扉があるだけの何の変哲もないものだった。しかし、一旦それが聖域とされて結界が張られると、ただの石であっても恐ろしい力を秘めた境を形成することになる。
「土蔵に祠が埋め込まれた以上、土蔵全体が祠、いや社殿と思ってもいいだろう」
北麿も祠を見上げながら言った。
「三番蔵が一つの社殿と考えていいわけね」
「そうだ。同一物と思えばいい。だから桔梗屋の屋敷全体が結界の影響を受ける境内だったんだ」
北麿は善兵衛に教えられた床の間の天袋から鍵を持ってきていた。それで三番蔵に掛かっている頑丈な錠前を外した。閂《かんぬき》を引いていくと嫌な音がして鉄の扉が開いた。
ギッギギッギィィィイイイッッッッッ〜〜〜〜〜〜〜〜〜
薄明かりの土蔵の中は重々しい空気が漂っている。土蔵の扉を入った真正面には、二階に上がる古い木の階段があった。一階と二階の両方を合わせた広さは十四畳ほどと思われる。土蔵の中に組み込まれた粗造りの棚には何も置かれておらず、何処も全て空っぽになっている。階段裏の一階の中央には大きな長持ちが一つ置かれているはずだった。
どこかカビ臭い匂いのする空気が土蔵の奥から漂ってくる。この土蔵で歳三が姿を消し、次に女中のタネが飲み込まれ、熊楠も危うくその後を追うところを助かり、弥吉が怨霊に取りつかれた。考えてみれば、ここほど因縁深いところは無かったのである。
北麿は右手を前に出すと人差し指と中指と薬指の三本を立てる三股印を結んだ。
「|※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]《オン》 商迦礼《シヨウキヤレイ》 摩訶《マカ》 三麼炎《サンバエン》 磐陀磐陀《ハンダハンダ》 莎婆訶《ソワカ》」
北麿は取り敢えずは入り口を魔から清める呪詛を結んだが、果たして寺社を覆う境の中で、北麿の呪詛がどれだけ効果があるか全く分からない。舞は抜刀して土蔵の中に入っていった。北麿もすぐその後を追って入る。
舞はゆっくりと階段裏に回ると、三人の弥吉が現れたという長持ちのところへと近づいていった。
古ぼけて茶渋色にくすんだ長持ちはけっこう大きく、他には何も無い薄暗闇の空間の中で、大きな存在感を持ってそこに鎮座していた。相変わらず不気味な沈黙が土蔵の中を支配している。そこには舞と北麿以外に何の気配もないが、胸を押しつぶしそうな嫌な空気が覆っていた。
舞は長持ちの蓋に手をかける。舞と北麿は目を合わせると互いに頷き合った。そして、長持ちの蓋を開け放った。蓋は乾いた音をたてて床に転がった。舞は小剣を握ったままそっと中を覗き込んだ。しかし、長持ちの中には何も入っていなかった。
「何もないわね」
そう言うと舞は空っぽの長持ちを動かしたが、その下には土蔵の床があるだけで何の変わりもない。
その時、奇妙な音がした。
ドサッ!
それは何か重いものが上から落ちたような音だ。
舞は二階を見上げたが、薄暗い中で見えるのは汚れた漆喰の天井だけだった。かといって一階の何処を見回しても何一つも落ちていない。
「二階だったかもしれない」
舞はそう言うと、薄暗い階段をゆっくりと上がっていった。北麿は据え置きのカンテラの芯に火をつけ、それを二階へと持って上がった。
二階も空っぽの棚が並ぶだけで、他に何も無い空間が空々しく広がっている。舞は窓の留め金を外して鉄の扉を開いた。土蔵の二階が明るくなった。
「舞、確かに音がしたな?」
北麿は自分の記憶を確認するかのように聞いた。
「ええ」
舞もそう言うと、あらためて二階の棚中を見回したが何もない。北麿は念のため一階に降り、さっき確認したはずの長持ちの中をもう一度だけ覗いてみた。北麿の顔は一瞬引きつった!
北麿は咄嗟に長持ちから一歩引き下がる。
「どうしたの?」
ちょうど舞も一階に降りてきていた。
「舞、もう一度この中を見てみろよ」
北麿は長持ちの中を指さした。
「何なの?」
舞が長持ちの中を見ると、そこに、さっきは無かったはずの何か黒いものが見えた。大きさはちょうど壺ぐらいである。それが薄暗い中に転がっているのだ。
「何なの?」
「さあ」
「私が取るわ」
そう言うと舞は、ゆっくりと長持ちの中に手を差し入れようとした。
「待て、舞!」
北麿はそう言うと、思い切り長持ちを蹴飛ばした。すると長持ちは衝撃で横倒しになり、その勢いで中にあるものが転がり出た。
「な、何これは?」
舞がそれを取ろうとして覗き込むと、思った通り壺だった。壺の口は油紙で蓋がしてあり、紐で固く縛られている。舞は壺を床に置くと、小剣で紐を切って油紙を取り払った。さらに木蓋で密封されていたのでそれを外す。中から酒の匂いがプンとした。
酒の底に何か黒いものが沈んでいるのが見えた。そこで北麿が腕を突っ込んで中身を掴みだそうとした。北麿の手に、何かサラサラした細糸を束ねたような手応えがあったので、それを掴んで一気に壺の中から引きずり出したのである。
何が出てきたかと目を凝らしてみると…………………
それは人間の生首だった!!
「な、何だぁぁぁっ、こ、これは……!!」
北麿は思わず生首を放り出してしまった。首は土蔵の棚の柱に当たって跳ね返り、転がって止まった。
床には口が耳まで裂けるほど笑う異様な女の顔があった!!
二人の背筋に寒けが走った。嫌なものを見てしまった。
「静の生首だ!」
北麿は呆然として言った。
「でも、首を入れた壺がどうして長持ちの中にあるの?」
舞も驚いた。さっきまで何も無かった長持ちの中から、どうして静の生首を入れた壺が出てきたのだ? 二人はあまりの気味悪さに生首から顔を逸《そ》らせた。
「静は怨霊に食い殺されて生首だけが残ったんだ。それが今ここにあるのはどういうわけだ?」
「確か首は供養するために、おかみが手代に命じて壺の中に入れたはずよ」
「そうだ、おかみが静の首を預かると言ったんだ」
その時である、異様な空気の流れが二人の周りに巻き起こった。その瞬間、北麿が蹴って横倒しになっていた長持ちがひとりでに跳ね上がると元の場所へと戻ったのである。
その直後、今度は土蔵の鉄の扉が轟音を立てて閉まり、二階の窓も大きな音を立てて閉じた。
土蔵の中は一瞬にして暗くなった。しかし亜空では完全な闇はない。どんなところにも薄明かりがついたような淡い光が漂っている。
「いよいよ出てきたぞ!」
北麿はカンテラを翳《かざ》しながら舞に注意した。怨霊が自分たちのすぐ近くまで来ている。
その時だった。舞は一瞬目まいのような感覚に襲われた。目の前の土蔵の景色が急にユラユラと揺れはじめると、そのまま妙な形に捩《ねじ》れはじめたのである。
舞は己の精神力を集中させた。すると今まで全く気づかなかったが、自分のすぐ目の前に誰かが立っているのが分かった。それは淡い影のような姿でじっと舞の方を向いて立っている。
両者の間隔は息が掛かるほどの近さである。そのあまりの近さに舞は驚き、影に向けて小剣を横一文字に払った。
ところが、すんでのところで影は姿を消したのである。舞の一刀をかわすことができるとは尋常の相手ではない。
またしても土蔵の中が捩れるように揺らめきはじめた。再びさっきの影が現れる。舞はすぐに影に向けて次の剣を放った。しかし影は舞の剣を見切るかのように紙一重でかわしていく。それでも舞は剣を放ちつづけた。最後の一刀を放った時だけは、わずかだが舞の剣に手応えが残った。
その後しばらくは何事も無く時間が過ぎていった。その間も舞は剣を身構えて影が現れるのを待った。唐突に、舞の後ろで北麿の声がした。
「舞、今の影は俺だったらしい……」
「えっ?」
舞は一瞬北麿が何を言っているのか分からなかった。
「舞、お前の剣が俺の腕を切った……」
驚いた舞が北麿を見ると、左腕にできたばかりの刀傷があり、そこから血が滴り落ちているではないか。
「一体どういうこと?」
舞は自分が切りつけた影が、後ろにいるはずの北麿だったことを知って愕然《がくぜん》となった。
「どうして後ろにいる北麿に……」
その時、またしても空間が捩れはじめたかと思うと、舞の背後に影が立ったのである。影は恐ろしい勢いで舞に突進してきたため、舞は反射的に剣を放った。しかし影は舞の剣をかわして棚の裏へと消えていった。
次の瞬間、全く別のところから現れた影が舞を突き飛ばした。
その影は舞にもかわすことができなかったほど、自分の気配を消していた。舞は激しく動揺した。もし今の影が剣を持っていたら間違いなく斬られていたことになる!
そう思うと背筋に冷たいものが走った。
「舞、ここは二重結界の中心部だ。時空の流れが乱れ、捩れ、交差した亜空世界では空間だって歪《ゆが》む。どうやら奴はこの亜空を自由に扱う術を身につけたらしい」
「すると今のは、私たちを同士討ちにさせるため……」
「どうやらそうらしいな」
思ったほど北麿の刀傷は深くなかったが、北麿でなければ確実に斬り殺されていたはずだった。
「これってまさか涼と同じ?」
「そうだ、あるいは俺の方が逆に影を倒そうとして舞を傷つけることになるかもしれん。いや下手をすると今の舞と未来の舞、過去の舞が死闘を演じることがあり得ないとも限らない」
「ではどうやって怨霊と戦えるの?」
舞は焦った。こんな状態で怨霊と戦うのは想定していなかったし、実際に襲ってくるのは自分たちなのだ。その時、北麿は何かに気づいた。
「ようやく見えてきたぞ!」
北麿は呟いた。
「おそらく怨霊はまだ誰にも憑依《ひょうい》していないんだ!」
「なぜそんなことが分かるの?」
舞は北麿の言葉の意味が分からなかった。
「憑依していれば、とっくに憑依した体で俺たちを食らおうとするはずだ。そうしないのは怨霊がまだ霊のままで、憑依する相手を厳選している最中ということだ!」
「どういうこと?」
「歳三の神隠しも全て、厳選する誰かを引き寄せるための罠だったということだ」
北麿には少しずつ今回の怨霊劇の仕掛けが見えはじめていた。
「分からないわ?」
「思い出すんだ、舞。これと同じ手口で涼が命を落としている。なぜだか分かるか? 涼は自分で自分を相手に戦ってしまったからだ。そして涼は自らの命を絶ったため怨霊は涼に憑依できなかった」
舞も北麿の言葉で何かが分かりはじめてきた。
「もう分かっただろう。怨霊はそこでもう一度綿密な罠を仕掛け、別の怨霊師を待ち伏せることにしたんだ」
「まさかそれって……」
「まさかじゃない、怨霊は舞の体と霊を手に入れたいんだ!」
舞は呆然となった。
「何故だか分かるか? こいつは怨霊師に憑依することで、一挙に己をとてつもない化け物にする気でいる!」
北麿は遂に中核を突いた。北麿の推測が正しければ、今回の奇妙な怨霊事件の全貌が見えてくる。
「怨霊の狙いは最初から舞だったんだ」
舞は怒りに燃えはじめた。これで舞が血の涙を流さなかった謎も解けた。舞の体は本能的に怨霊がまだ何処かに潜んでいることを分かっていたのだ……。
「すると子供に取りついた怨霊は撒《ま》き餌《え》?」
「結果的にそうなるな。あるいはその怨霊がいる場所へ後からやってきて、そいつを利用しようとしたのかもしれない」
「だとしたら相当|悪辣《あくらつ》な奴ね!」
「怨霊に善はない。その怨霊を打ち破るほどの力が無い怨霊師なら、奴も興味を示さなかっただろう。舞、おまえは最初から狙われ値踏みされていたってことだ」
「私を値踏みするなら悔やませてあげる!」
そう言うと舞は立ち上がった。
舞は土蔵の棚の上の何か所かに向けて火をつけた細筒を投げ放った。
北麿はそれを見て慌てて両手で顔を覆い、親指で耳を中指で目を塞いだ。そうしないと爆風で鼓膜が破れ、爆圧で両眼が飛び出すからだ。
その直後……!
ドガガガガァァンンンンァァァァンン!
ガンガンドガァァァァァァン!
細筒は轟音を立てて爆発し、土蔵の壁が大きく崩れ落ちた。しかし、そこから外の光は差し込んでこなかった。舞と北麿は壁の様子を確かめたが、崩れ落ちた壁の向こうは全く同じ土蔵の一階だ。
「何てことだ。おそらく合わせ鏡で見た世界のように、無限に同じ土蔵の内部がつづいているだけなんだ!」
北麿が呻《うめ》くような声で言った。
「つまり私たちは土蔵の亜空の中に永久に閉じ込められたってことなのね?」
「ああそうだ、こうなると怨霊は土蔵の中で俺たちが弱り切るのをじっと待つだけでいいことになる」
「そうはいかないわ、最後の手段は私たちの結界を外せばいいのよ。そして逃げた先で必ず怨霊を狩りとってやる」
「舞、この状況でそれは無理なんだ」
北麿は真剣な顔で言った。
「どうして無理なの?」
「ここは祠の中なんだ。つまり祠の外では俺たちの結界は自由に外せるが、境の中心から外の結界は外せないんだよ!」
舞は自分たちが追い詰められ袋の鼠になったことを認めざるをえなくなった。その時、またしても舞の前で空間が捩れはじめ、不気味な影が現れた。
「舞、そいつを斬るなあぁぁ!」
北麿は大声で叫んだ。
「その影は俺かもしれんし、おまえかもしれん!」
北麿はそう言うと、舞の前に回って立った。すると空間はその瞬間を待っていたかのように、北麿に向けて大きく捩れはじめた。北麿は影に向かって飛び掛かった。その瞬間に空間の捩れが消え、影も一緒に溶けるように消えしまった。
「舞、おまえが影に剣で斬りつけない限り、少なくとも俺の命は無事なようだな」
そう言って北麿は情けない顔をした。
「そのようね……」
「おそらく影が舞だとしても、舞が己の剣であっさり斬られるとは思えない。しかしそこが怨霊の付け目でもある」
「どういうこと?」
「舞が己の剣で殺されることはあり得ないし、かといって無傷で済むとも思えない。つまり舞が死なない程度でいてくれればいいということだ」
「……!」
「舞が自分で自分を傷付けて弱まれば、それだけ怨霊は舞に憑依しやすくなる。おまけに怨霊師といえど、怨霊を斬り殺すために精神が殺戮《さつりく》の心で満ちあふれている」
「つまり怨霊が最も取りつきやすい状態というわけね?」
「そうだ、だから怨霊師が怨霊に最も狙われやすいとも言える。唯一怨霊師が凡人と違うのは、怨霊師は己の心を抑える精神力が圧倒的に強いことだ」
「そうね……一旦、怨霊師が怨霊に取りつかれたら最後、その精神力が仇《あだ》となって、恐ろしい闇の力を持つことになるわ」
「霊性もだよ、舞、これが明暗逆になると陽が陰、光が闇に一挙に変貌し、凄まじい陰の力を持った怨霊と化す!」
「涼の時と同じね……」
「いや涼の時よりも酷いかもしれない。怨霊も二重結界の扱い方に慣れてきたろうからな。どちらにしろ怨霊が完全体になれば、舞の傷など無いも同然になることも計算済みだ」
「分かった。私は剣を抜かない!」
そう言うと舞は己の小剣を鞘に納めた。その直後、またしても空間が捩れはじめ、北麿の前に影が現れたかと思うと、北麿目掛けて剣を振り上げ、斬りつけてきた。
北麿は咄嗟のところで身を翻《ひるがえ》して助かったが、明らかに空気を切り割くほどの鋭い切っ先を感じた。もし逃れられなければ北麿の体は真っ二つにされていたことだろう。
「ご免ね、北麿、これから私は何があっても自分の剣を抜かないから!」
そう言いながらも、どうして北麿を剣で襲う影が出てきたのか、舞の頭は混乱した。
「いや違う、舞……」
北麿がそう言うか言わない内に、土蔵の中の光景が捩れはじめ、二つの影が北麿目掛け襲いかかってきた。
北麿は最初の影の一撃は何とかかわしたが、次の影の攻撃の時、床に転がっていた静の首に足を取られ、もんどりうって引っ繰り返った。その時、舞の目に一瞬覗いた静の顔は、空間の捩れでさらに不気味な笑い顔になっていた。
舞はすんでのところで影に体当たりをしたため、その影は何処かへと消えてしまった。
「これがさっき私に体当たりをした者の正体か……」
舞は少しずつ二重結界の中心部の状況が飲み込めてきた。しかしそれでどうなるものでもない、この先に待ちかまえているものは、持久戦に敗れる自分たちの姿だけなのだ。
「舞、怨霊はおまえの体を乗っ取るため、どうも俺がいては邪魔らしいな」
「そうはさせないわ」
舞は自分さえ剣を抜かなければ、北麿が殺されないことを理解していた。
「今のことで分かったわ。あの影は土蔵に入った直後、影を相手に剣を振るった私の姿なのよ。だからこの先も剣を振るう私が何度か出てくることになりそうね」
そう思うだけで、舞はうんざりした。敵は怨霊ではなく自分自身だからだ。いやその影が北麿の場合だってあり得るだろう。どちらにしろ同士討ちになることだけは間違いなく、限りない神経の消耗戦になっていく様相をきたしていた。
「舞、気にするな。何とか突破口はあるはずだ。俺はそれを考える!」
「でも北麿、それでも緊張を維持するには限界があるわ。それに霊の状態の怨霊は眠らなくても済むけど、私たちはいずれは眠らねばならなくなるのよ」
北麿もそれは重々分かっていた。全ては舞の言う通りだからだ。寺社に取りつき、亜空を逆手にとった怨霊にすれば、亜空に閉じ込めた舞と北麿を料理するのはいともたやすいものとなる。亜空の中で時空を動かし緊張状態を与えつづけるだけでいいのだ。そして疲れ果て眠ってしまう時を待てば、慌てなくとも必ず怨霊が勝利することになる。
そうなると怨霊に取りつかれた舞が北麿を斬り殺すことは間違いなく、あるいは食い殺して己の霊の餌にするかもしれない。その方が圧倒的な霊能を身につけることになるだろう。
案外、怨霊の北麿に対する意図はそこにあり、餌として後で使うため、今は神経と体力を消耗させるつもりなのかもしれない。そう考えると既に勝負があったとしか思えなくなる。
「涼はこの状況を理解したので、自ら死を選んだのよ。だから、たとえ隼斗が二重結界の中に一緒にいても同じことだった!」
舞の言葉に北麿も頷いた。
「隼斗が涼と一緒にいたら隼斗も一緒に死んでいたということか?」
「ええそう。結果的に涼は隼斗を生かしたことになるわ!」
北麿は黙ってしまった。舞がそれを話した意図を分かっていたからだ。舞は最悪の場合は自決することを考えている。
「いいか舞、まだ諦めるなよ」
北麿はそう言うと、何か手だてはないかを必死に考えた。しかし、またしても二人の前の空間が渦を巻くように捩れはじめ、剣を抜いた舞の影が現れてきたのである。
十一
左京は麗を連れて夜道を急いでいた。父である小頭筆頭の右京から伝令が届き、持ち場から離れて阿波へと向かう途中だった。
集合の場として指定された人夜谷は、昔から忌部との関わりの大きい場所とされていた。伝えられた話によれば、そこは千数百年前に邪馬台国の女王だった卑弥呼一族との決戦の跡で、多くの忌部の血が流された因縁の地だという。
日が落ちないうちは霊場に赴く多くの遍路とも出会ったが、さすがに夜となり奥道ともなると、遍路の姿は全く見かけなくなった。闇夜の中で寂しく鳴く梟《ふくろう》の声や、何かに驚いたかけすの甲高い声が、松明《たいまつ》を手に夜道を行く二人の上から降りかかってくる。
「あ、あ……あ……」
「おう、もはやこのあたりのはずだな」
麗は小さな体をものともせず大きな左京の後から必死についてくる。その健気《けなげ》な姿を見るにつけ、左京は何があっても麗を怨霊の魔手から守ってやらねばならないと思うのである。
麗はまだ十五歳という少女に過ぎなかったが、左京と同じく親許から離され大忌部の里で怨霊師として育てられた娘だった。そこで持って生まれた才が目覚め、古武道槍術では天才的な使い手にまで成長していったのである。槍は彼女の命だが、同時に彼女の命を守る必殺の武器でもあった。
麗は様々な槍を使いこなしたが、その中でも最も得意とする槍は柄の長い素槍《すやり》だった。今、長槍を杖にしながら、様々の短槍を革筒に納めて持ち運ぶ姿を見ていると、つい左京は重い荷を代わりに担いでやろうかと思うのである。
しかし、彼女が怪我でもしない限り、それは掟に触れることだった。怨霊師が己の武器を運べなくなったら、もうお終いだからだ。
「あ、う……う……」
「そうだな」
左京は麗の言葉が不自由でも、彼女の仕種や表情などで、今何を言おうしているかを大体察知することができた。全てが分かるわけではないが、幼少の頃からずっと見てきた左京は、長く一緒にいる間に麗の思うことを少しでも掴《つか》めるように努力してきたのである。
しかし、麗は必要な場合に備えた筆談用の筆と紙だけは、いつも持ち歩いていた。
左京は崖の上まで来ると、岩の間に細い棒のようなものを立て掛けた。そしてそこから伸びる紙縒《かみよ》りの先に燐寸で手際よく火をつけた。
しばらくすると紙縒りは燃え尽き、鈍い発火音がして筒は甲高い音を立てながら夜空高くに上がっていった。そして最も高く上がったところで破裂音がし、その後、白色の火花を細かく散らしながら、ゆっくりと下へ落ちていった。
「う……う……」
「中頭と小頭筆頭が動いている。そのあたりは抜かりはないだろう」
案の定、すぐに同じような発火筒が崖の下の方から上がった。燃える炎が緑っぽいのは中頭の発火筒である徴《しるし》だ。発火筒の燃える色は、それぞれの色で持ち主を識別できるように、微妙な火薬の種類と調合によって分けられている。
左京たちは人夜谷を降りると涅槃窟《ねはんくつ》という大きな洞窟の前に立った。そこは切り立った岩々の前に古い鳥居が立ち、周囲を細い縄で囲っただけの寂しい場所だった。
その奥には大きな洞窟があり、ほどなくすると洞窟の奥から松明の明かりが見え、小頭筆頭である右京の姿が現れた。
「無事についてよかった」
右京は左京たちの姿を見るとホッとした顔でそう言った。
「遅くなりました」
左京は父である右京に頭を下げた。
「ご苦労だった。洞窟の中に皆も集まっておる。中頭もお待ちなので早く入られよ」
そう言うと右京は、左京たちを洞窟の中へ案内した。洞窟の内部はけっこう曲がりくねっていて、中で火をたいても外には光が漏れない。左京は父の背中を見ながら洞窟の中を進んでいった。さすがに昔、幼かった左京を引きずって中頭の屋敷まで連れ戻した精悍な面影は無くなっていたが、それでも右京は左京にとっての一つの大きな壁であり、乗り越えるべき目標であった。
父譲りの大柄な体格の左京は、若き頃の右京と同じく鉄製の六角棒を操る剛力だった。一見すると錫杖《しゃくじょう》に見えるが、六面に細い鉄の板を打ちつけた六角棒は、岩を一撃で砕く力を秘めている。今ではさすがの右京も鉄六角は操らなくなり、中頭が左京に譲らせたことで親から子へ引き継がれていた。
右京がまだ若い頃、一本の鉄六角で二本を操る如き早業を見せたという伝説が残されていたが、その奥義は未だ左京には見えないものだった。
(父上、私の親はやはり貴方をおいて他には無い)
左京は心の中で父の背中に話しかけていた。すると右京の背中もそれに答えて左京へ話しかけてくるかに思えた。
洞窟の奥に着くと篝火《かがりび》がたかれていて、中央に朱色の布を巻いた中頭の秋水が座していた。その周囲には夢情と蘭が座し、隼斗と彩も相対して座していた。
「よう来たな、左京、そして麗。遠路ご苦労だった」
中頭が二人の姿を見て、ねぎらいの声を掛けた。
「いいえ、役目ですので当然のことです」
そう言うと左京は麗とともに座に着いた。薪のパチパチ跳ねる音が響く中、中頭はゆっくりと一同を見回しながらおもむろに口を開いた。
「大忌部の里以外の地で、四国に散った怨霊師と陰陽師が一堂に集うことは、俺の記憶の中でも初めてのことだ。それほど今夜の集合の持つ意味は重大であり、これ以降の我らの戦い方の要となり、ある意味で試金石《しきんせき》になるやもしれぬ」
中頭の灰色の目は、薪が跳ねる火の粉のせいか、異様に輝き、燃えているかのように見える。
「ある程度は知らせで把握しておると思うが、今回、阿波で起きておる怨霊事件は、これまでのような怨霊が引き起こしたものではなく、怨霊の変異体が関わる境で起きたものだ」
その言葉を聞いた隼斗は血相を変えた。
「中頭、境と言えば涼を殺した怨霊も結界に住み着いたもの。あるいは同じ奴なのかもしれません!」
隼斗が涼の名を出した時、隣にいた彩は緊張で身を固くした。彩は大忌部の里で姉の後継者として召されたが、まだ本格的な怨霊とは遭遇していなかった。
「隼斗の言う通り、もし境に巣を作っておれば、涼の時と同じ怨霊の可能性は高いであろう」
中頭が答えた。
「今回のお達しは大日女様の神憑りから来たもののようですが、舞と北麿は今どのような状況なのでしょうか?」
左京が心配そうに聞いた。よほどでなければ大日女が彼らを集合させる事態などは起きないからだ。
「それについては全く内情が掴めぬ。既に結界が張られて何日も経っておるが、未だに結界は外されてはおらぬからだ」
中頭の言葉に隼斗は不安な顔つきになった。涼の事件が頭をよぎったのだ。
「何事か起きなければよいのですが……」
そう言った隼斗の言葉に夢情が口出しをした。
「結界が外されていないということは、中にいる舞と北麿も無事だという証拠よ。隼斗のように心配し過ぎるとろくなことはないわ」
夢情は隼斗の動揺を見透かしていた。
「確かに夢情の言うことはもっともだが、結界が消えてからでは遅い場合もある」
左京が言った。
「今度は北麿が一緒だから心配はいらない」
それを受けて夢情が言った。
「それは皮肉か夢情?」
隼斗は夢情を睨んだ。明らかに自分への当てつけに聞こえたからである。
「どう取ろうとそれはおまえの勝手だが、過去の私事の傷をこの場に持ち込まないでほしい」
「何だとぉぉ〜〜っ」
隼斗が立ち上がろうとするのを、彩の細い腕が止めた。
「隼斗様には姉の時の経験がございますが、あの方にはございません。ですからそれは仕方のないことです。しかし大日女様がここに私たちをお集めになったのは、結界の中の二人の身が危ないからではありませんか」
それを聞いて夢情は横を向いた。
「そこで中頭として策を立てねばならん」
そう言うと秋水は一枚の手書きの地図を広げた。そこには桔梗屋とその周辺の鳥瞰図《ちょうかんず》が描かれていた。次に中頭はその上に石を置きはじめた。
「おまえたちが到着する前、右京と一緒に現場を調べてみたのがこの地図だ。まずはこの石が北麿の張った結界のある洋服問屋の場所だ。そしてそこを囲むこれらの石の輪が、兵隊が封鎖しておる封鎖区域を示しておる」
「ところで兵隊が何故ここにいるのでしょうか?」
蘭が少し驚いたような顔で聞いた。蘭は大柄な女で怨霊師として最も多くの武器を持ち歩く。それもそのはずで蘭の武器は銃器であり、小銃からライフル、そして砲までの様々な重火器で武装しているからだ。特に蘭の火薬についての知識は男顔負けのところがあり、実戦で得た経験が彼女の最大の武器になっている。おそらく一気に吹き飛ばすことで地獄へ送った怨霊の数は、今の四天女の内で最も多いはずである。
蘭の大柄な体格と筋肉体質は、女性というよりも男の体に近かった。夢情の氷のような冷静沈着な判断力と、破壊的な蘭の武器が手を結ぶと、怨霊が最も恐れる組み合わせになる。
「大日女様の書面にあるが、軍部が動いている裏に一人の男の存在がある。その者は後に我ら一族にとって驚異になるかもしれんと大日女様は見ておられるようだ」
「なら今の内に殺す方がいい」
夢情がポツリと言った。
一同は夢情の一言に言葉を無くした。夢情には冷徹な部分があり、時にそれが裏目に出る場合は少なくない。決して悪意ではないのは、皆も重々承知はしているのだが、どこか天才的な一面が先走ることがあり、他の者から誤解されることも多いのだ。
実際、物事を究極に突き詰めていけば必ず夢情の指摘が正しいことになる。そのことは皆も十分に承知していた。
「その男を殺すか否かはこの場で討議すべきことではないし目的でもない。目的は舞と北麿をこの布陣から救い出すことにある」
秋水は言った。掟は脇道を許さず一点突破しか認めない。たとえ後に禍根《かこん》を残す事態を防ぐ意味であっても、無益な殺戮《さつりく》は掟が許さないのだ。
「救い出すと言われる真意は?」
左京が聞いた。
「舞と北麿を怨霊から救い出すという意味だ」
その時、一同の中に動揺が走った。
「で、では舞と北麿では怨霊を封じ取れぬと……?」
隼斗が呆然として言った。
「そうは言っておらぬ。万が一のことを言っておる。その場合は助け手が赴かねばならぬ」
「しかし、結界を外さねば中には入れませんし、外せば怨霊を逃します。そのことは中頭も重々ご存じのはずではありませんか」
隼斗の言葉に中頭はポツリと答えた。
「だから私が策を練ろうというのではないか」
一同は中頭に絶対の信頼を置いていた。中頭が右と言えば右が正しく、左と言えば左が正しいのだ。しかし、今回この布陣をどうやって突破し、解決に導く気なのだろうか?
「さらに全てが終わったとしても、二人を、結界の周囲を囲む兵隊から救い出さねばならない。なぜなら彼らが二人を見過ごすとは到底思えないからだ」
「それはそうよ。奴らは必ず武力にものを言わせて二人を連行するでしょう」
夢情が言った。
「ところで、中頭は舞をもってしても怨霊封じにこれほど時間のかかる理由をどうお考えなのでしょうか?」
左京が切羽詰まったかのように聞いた。
「怨霊が怨霊師の体を狙っておるからだ……」
「な、何とおっしゃいましたか?」
左京は驚いた。今まで怨霊師や陰陽師といえば怨霊の方から退散するのが常であり、そうである故、結界を張って逃さぬようにしていたのだ。しかし、今度の怨霊は涼を狙ったばかりか舞まで狙っているというのか!
「となると今回は、怨霊を封じ取ることよりも二人を救い出す方が優先されるのですね?」
蘭が言った。
「そうではない。勿論、怨霊は封じ取る。そうでなければこれだけを集める意味がない」
「それは舞や北麿を差し置いてでも、我らがその怨霊を封じ取るという意味でしょうか?」
蘭は確認する意味で聞いた。
「そういう場合も無いとはいえぬ」
中頭の言葉に一同は互いの顔を見合わせた。
「まさか大日女様は舞と北麿がその怨霊に敗北すると予言しておられるのでしょうか?」
左京が聞いた。
「そうは言っておられぬ。ただ今回の戦い方がこれから先の我らの要になるとおっしゃっただけだ」
「よく分かりません」
左京は首をふった。皆の気持ちもほとんど左京と同じだった。
「それにしても分からぬのは、何故に軍部が乗り出してきたかということです」
蘭はさっきから、このことが引っ掛かっていた。
「一つは兵隊を動かす男の存在だ。さらにこの男には奇妙な集団が付き従っておるようだ」
秋水の目は一瞬だが、不安で曇った。
「その奇妙な集団とは何ですか?」
蘭は己の目の前に置いている大きな荷を手で摩《さす》った。
「傀儡《クグツ》だ!」
「傀儡?」
左京たちには初めて聞く名だった。
「傀儡とは、元は裏忌部の一族だった者が、一族から離れて放浪の身となり、怨霊を捕らえては飼育し、それをもって世を支配しようとしておる輩のことだ」
「ということは我らと同じ一族の者?」
左京は驚いた顔をした。
「そうだ、よって傀儡も忌部の奥義伝承の一部を持っておる故、陰陽の術には長けておる。それだけではない、陰の方術は長年発展させた彼ら独自の術でもある。さらに言うなら、怨霊を生きながらに捕らえ飼育する術では、彼らの右に出る者はおらぬ」
「怨霊を捕らえて何をするつもりですか? 怨霊を生かし飼育すれば、先々どのような結末を見るかは火を見るよりも明らかなはず」
左京は怒りと言うよりも、その傀儡の行為自体が全く解せなかった。
「その通りだ、左京、収拾のつかぬ有り様が待ち受けているだけだ」
隼斗も左京の言葉に頷いた。しかし夢情は違っていた。
「そうとばかりは言えない」
夢情がポツリと言った。この夢情の言葉に左京は怒りを覚えた。
「そうとばかりは言えないとはどういう意味だ?」
日頃は滅多に感情を表に出さぬ左京が、厳しい目つきで夢情に言葉を投げかけた。しかし夢情はため息一つつくと、気だるそうな目つきで左京に向かってこう言った。
「答えは簡単よ。怨霊を殺すことばかりに専念するより、奴らを生かして利用する方が価値が高いということさ」
「その言葉、我らには解せん!」
左京はその大きな手で地面を叩いた。それは日頃の左京をよく知る麗でさえ、滅多に見ることのない左京の怒りの姿だった。
「いいか夢情、怨霊に善の心は無い。怨霊の目的は神仏に逆らい、この世を地獄の有り様に落とし、滅ぼし去ることにある。そのような汚れた怨霊どもを生かし、それをもって世に放つなど悪鬼の行いも甚《はなは》だしい。またそれは人道から外れた鬼畜《きちく》に等しい行為だ」
左京の言葉は一同の気持ちと同じだった。
「そうであろうか? 今の日の本の民の様子を見る限り、我らがそうまでして守る必要などが何処にある?」
「なにぃ?」
左京の怒りを無視したまま夢情は話しつづけた。
「我らが如何に怨霊を封じ取ろうと、世の有り様を見てみるがいい。既に日の本は畜生の有り様に落ちているではないか。国民は異国の地を奪うことに専念し、軍は殺戮をもって亜細亜支配に乗り出そうと躍起になっている。帝《みかど》は軍部の所有物と化し、強欲の権化のように民の心も奪え奪えの強盗三昧《ごうとうざんまい》。こやつらを命懸けで守るだけの価値など果たしてあるのか?」
「夢情、私はそうは思わないわ」
夢情の相手の蘭だった。
「私はあんたの優しい面も知っているから言えるんだ。あんたはそう思いながらも怨霊を人一倍熱心に封じ取ろうとしている。それはこの世にまだ一縷《いちる》の望みを抱いているからさ。あんたはそれを素直に言えない性分なんだ」
「分かったような口を利くんじゃない」
そう言うと夢情はそっぽを向いた。蘭はいつものことで慣れているというふうに、ニヤリと笑った。
「夢情、おまえにはたった一人の幼い妹がいる。よいではないか、この世の全てが悪鬼に染められても、妹一人を悪鬼から守るために怨霊と戦えばよいのだ」
右京は夢情の気持ちを十分に分かっていた。またそうでなければ小頭筆頭の地位にいる資格はない。右京は話をつづけた。
「我らも確かに最近の日の本の動きには不安を持つことが多い。それでも怨霊の魔手から守ろうとするのは、これから生まれ出る赤子の無垢《むく》で罪のない姿を見ると、何としてもその未来を守ろうと思うからだ」
右京の言葉に、左京は父の気持ちの一片を垣間見た思いがした。右京は左京も愛していたはずなのだ。しかし掟がそれを許さなかったのである。父も掟の犠牲者の一人であったのだ。
「その赤子が育つと、将来は害を及ぼす者になるやもしれぬ」
夢情が皮肉そうに言うと左京が答えた。
「確かにそうかもしれん。しかし世のために尽くし、救う者になるやもしれぬではないか」
「私たちのように?」
彩だった。その明るい声に一同の心が和《なご》み、思わず笑い声が出た。彩は恥ずかしそうに畏《かしこ》まった。
「夢情の言うことは誰もが思うことだ。しかしだからと言って、わざと人に怨霊を差し向けようとは思わない。傀儡のやろうとしていることは断じて阻止せねばならん。それが大日女様のお達しじゃ」
中頭は言うと、夢情もそれには同意して頷いた。しかし、夢情の言うことは多かれ少なかれ一同の心の中にもあるものだった。
「では我ら、中頭の策を伺い、それに従います」
左京が皆を代表して言った。
十二
その荒涼とした地域は、昔から焦土殺戮の地として知られ、化生《けしょう》の住む森として人々から恐れられてきた。
荒々しい風土は、多くの生き血を吸った様々な歴史の呪いと凄まじい怨念の渦巻く祟りが造り上げたかのような怪奇な印象を与える。その一角に妙な靄がかかり、一年を通して晴れたことがない烏谷という深い地形がつづいている。そこに迷い込んだ者で出てきた者はなく、明治における国土地図の上においても未だに明記されない人跡未踏の空白地帯であった。
その烏谷の底には人知れぬ村があった。一見すると落人村のようでもあり、時代に取り残された人々が生活しているようにも見受けられる。この村の空気には何処となく腐った肉が放つような異臭が漂っており、数知れぬ烏が靄の中を舞う姿が見られた。
村は谷間に沿って広がっていて、谷幅のまま半里の細長い場所を占めていた。その村の端には大きな杭が打たれた囲いが見え、大勢の人間がその中に閉じ込められているのが見える。その柵からも異臭が漂ってくるが、それは人間が垂れ流す糞尿の匂いだった。よく見ると粗末な小屋のようなものがいくつかあって、そのあちらこちらでは、あられもない姿で用を足している男女の姿が見られた。
そういう中で人々は泣き叫び懇願しながら柵から外へ出ようと必死にもがいていたが、柵が高くて逃げ出すことができない様子である。その周囲を見張りの男たちが奇妙な武器を持って見張っている。
「今夕には二本転がせというお達しだ」
太った図体で髭を生やした男が、数名の柵番に向かってそう言うと、柵番たちはさっそく二重の柵を開けて中へと入っていった。
すると柵の中に閉じ込められていた人々が、一斉に蜘蛛《くも》の子を散らすように彼らから逃げ去っていく。まるで疫病神《やくびょうがみ》か死神から逃れようとしているかのようである。
柵番の男たちは、別に彼らを追い掛けまわしもせず、ゆっくりと柵の中を歩いていくだけである。その様子はまるで小魚の群の中を悠然と泳ぐ鱶《ふか》のようである。そして鱶はある一瞬に、小魚の群の一部を噛み砕き飲み込んでしまうのだ。
一人の柵番が塀に寄り掛かって怯える若い太った女の前に立った。柵番はその女の胸をはだけると女は恐ろしさのあまりに声も出せずにその場にうずくまった。歯がガチガチと鳴っているのが傍目《はため》にも分かる。
柵番は女の髪の毛を掴み上げると、嫌がる女を無理やり立たせた。そしてもう一人の柵番に顎で合図をすると、別の柵番は女を柵の外へと連れていった。
「お助けください、お助けください」
女は泣きわめいていたが、誰も女を助けようとはしない。死んだ魚の目のように虚ろな眼差しで、その様子を見ているだけである。なかには口をポカンと開けたままの老人もいたし、年端のいかない少女の姿もそこにはあった。
もう一人、眼鏡を掛けた書生風の男も女と一緒に柵の外に連れ出されたが、この男は既に気が触れたかのようにヘラヘラと涎《よだれ》を垂らしながら笑っている。
やがて柵の戸が閉められると、人々は何事もなかったかのように柵の中ほどに集まって来て、各々好き勝手なことをしはじめた。
その時、半鐘が鳴らされると、一斉に人々は柵の出入り口と反対側へと我先に殺到した。そこには別の柵番たちがいて飼い葉桶を積んだ大八車を引いている。数人掛かりで飼い葉桶を降ろすと、柵の外に掘られた溝の中へ次々と中身を流し込んでいった。すると柵から腕を延ばした人々が必死にそれをつかむと、口の中に押し込み、次々と飲み込んでいった。
それはまさに人間のための餌だった。人間を飼うために一日に一度蒔かれる餌だった。餌の材料は、残飯のようなものならまだしも、豚の餌とも言えないような代物がほとんどで、馬糞までが混じっている。それに飢えた人々が他人を押し退けながら、必死の思いで食らいつく姿は、まさにこの世の生き地獄の光景だった。
さっき柵番によって連れ出された女と男は、そのまま奇妙な小屋の中に連れていかれた。女は恐怖で身をすくませながら中に入る。そこには僧侶のような風貌の年老いた男が座っているのが見えた。その老人の顔には不気味な青い入れ墨がしてあった。
女はその横に、十二、三歳の少年が座っているのに気がついた。見るからに美しい少年で、女はこの奇妙な取り合わせに違和感を持った。
その内、僧侶が口を動かしはじめると、少年の口から年老いた男の嗄れた声が聞こえはじめたのである。
「おまえの名は何というか?」
女はその異様さに震え上がったが、男の濁声《だみごえ》は恐ろしく威圧的で、反抗など全く許さない響きを持っていた。女は恐ろしさに震える声で言った。
「タ、タネ……」
僧侶風の男は歯の全く無い口でニヤリと笑うと、握り拳大の石を手に取って、そこに筆でタネと書いた。そして再び女の方を振り返ると、口をカタカタ鳴らして何かを話そうとした。今度も、やはりその声は美しい少年の口元を通して出てくる。
「おまえは桔梗屋の女中か?」
そう言われたタネは、何故この老人が桔梗屋を知っているのか驚いた。そこでその場に土下座をすると、必死に縋《すが》るような声で言った。
「お願いでございます。どうか、どうか私を屋敷へ戻してください。お願いします、お願いします、お願いします」
タネはあの日、自分でも知らない内に三番蔵の前に立っていた。その記憶を最後に気を失い、気がつくと見たこともない村の中に閉じ込められていたのである。そこが地獄図絵さながらの世界と知るには、そう大した時間はかからなかった。
ここでは人間が家畜のように飼育されていた。そして次々と外から新しい人間が運び込まれては、再び外へと運び出されていく。そして運び出された人間は二度と柵の中に戻ってこなかったのである。
ある男は茫然自失したまま陽の見えない灰色の空だけを仰ぎつづけ、ある女は狂人のように泣き叫び、ある老人は病の中で息絶えていった。柵の中では人間は完全な家畜と化し、女は男たちの慰み物になった。
その中に冷静な人間もいて、タネにいくつかのことを教えてくれた。その男は京都の大学に通う書生で、ある神社の境内を歩いていた時、景色が奇妙に捩《ね》じ曲がったかと思うとここに来ていたという。その書生もやがて気が触れたようになって、タネの横に涎を垂らして立っている。
老人はタネの哀願を完全に無視すると、書生に向いてタネに聞いたのと同じことを聞いた。しかし、書生は気が触れていて全く反応も示さないことが分かると、石の上に丸を描いただけにした。
それから老人は、名前を書いた石をもう一度二人に見せると、奥に積んである石の山に向けてそれを放り投げた。そこには名前が書かれた無数の石が賽《さい》の河原のように積み上げられているのが見えた。その時タネは、そこが墓場であることを知った。
「キヤアァァァァァァァ〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッッッ!」
タネは自分の運命に耐えられず、眼前に迫る凄まじい死の恐怖に打ちのめされた。タネは必死にその場から逃げ出そうとしたが、柵番たちに押さえ込まれ、抱えられて小屋の奥へと運ばれていった。書生の男も柵番に背中を押されながらその後に従った。
タネは物凄い匂いの漂う大きな穴の縁へ立たされた。下を見ると暗くて何も見えなかったが、穴の周囲には見たこともない不気味な装飾がしてあり、気味の悪い祈祷の声が延々と轟《とどろ》いていた。
その穴を大きな屋根が覆っていて、二階の踊り場のような張り出しには、祈祷をする坊主たちの姿が見えた。線香が無数にたかれ、屍肉の腐ったような匂いと一緒になって異様な雰囲気をかもし出している。その時、見たこともない衣装に包まれた一人の大柄な男が現れると、最初に書生の方に近づいていった。
そして、書生を穴の縁まで連れていくと、そのまま何の躊躇もなく背中を押して、穴の中に突き落としたのである。書生は奇妙な叫び声を上げて穴の中へと落ちていった。その後、穴の底で何かバリバリという骨を砕くような嫌な音がしたかと思うと、何かの動物が動き回る気配がした。得体の知れないものの放つ息づかいがタネの耳に聞こえてきた。
大柄な男は、踵《きびす》を返すと今度はタネのところへやってきた。タネは必死に悪夢であることを願ったが、これは現実以外の何ものでもなかった。男は泣き叫ぶタネの襟首をつかみ上げると、そのまま嫌がるタネを引きずっていった。そしてそのままタネを穴の底へと突き落としたのである。
穴はぬかるんだ泥で滑りやすくなっていて、タネはそのまま滑っていくのかと思ったが、偶然に穴の途中に突き出ていた岩に手が掛かり、すんでのところで踏みとどまった。
それを見て男はニヤリと笑うと、穴の上からタネの様子を高みの見物よろしく見下ろしていた。読経のような祈祷の低い声が響きわたる穴の中で、タネは涙を流しながら必死に落ちまいと自分の体を支えていた。
タネは何とか両手で体を支えると、両足を踏ん張って穴をよじ登ろうとした。しかし足場が泥で滑りやすいため何度も何度も足を滑らせてしまう。その内、片手が岩に付着した泥で滑り、危うく体の均衡を失い落ちてしまいそうになった。その時、足元に何かが近づいてくる気配がしたため、タネは恐怖から叫び声を上げた。
「キャアアァァァ キヤアアアアァァァ キヤアアアアァァァァァァ!」
何度か危機を乗り越えたタネだったが、滑りやすい泥の中で太った体を支えられず、とうとう力尽きて岩から手を離してしまった。タネの体は泥の穴を滑り、あっと言う間に穴の底へと落ちていった。そして途中で待ち構えていた得体の知れない怨霊の口の中に飲み込まれると、一瞬にして噛み砕かれてしまったのである。
タネの生きた記憶は、凄まじい恐怖とともに内臓まで噛み砕かれた猛烈な痛みの中で終わりを告げた。
烏谷は両側に穴が縦横無尽に掘られ、さながら一つの巨大な建築物のようになっていた。住居も谷を掘って造られ、それぞれの住居が通路によってつながり、地下を含めた壮大な迷路のようになって烏谷を貫いていた。
谷側には窓のような穴が無数にあって、空気の流れが調整できるようになっているが、その中でも特に大きな洞窟がある。そこに多くの男たちが集まって一緒に座についていた。メラメラと燃える油が洞窟内の四方を明るく照らし出し、男たちの恐ろしげな顔を浮き立たせていた。
「長男の小次郎が八雲に接近した以上、我らの策はほとんど成就したも同然のことじゃ」
白髪の大柄な老人が言った。老人は身の丈がおよそ六尺半(約二メートル)ほどはある大男だった。
「後は日の本が我らを認め、怨霊使いとして軍に組み込めばいいだけだ」
別の男が言った、この男も大柄でおよそ七尺(約二・一メートル)はあった。
「そういうことだな」
「これで今度は世界も奪えるぞ」
他の大男たちもそう言うと、皆で生肉を素手で摘み酒を呷って大笑いをした。
「表の世界の住人どもは我ら裏の世界のことは全く知らんし気づいてもおらん。よって今に至っても日の本を裏で動かしつづけ、歴史を変えてきた我らのことなどは全く分からないでおる」
老人は悦に入って大声で言った。その場にいる男たちは全部で十三人、その中で年老いたこの男が場を仕切っている様子である。
「我らの存在をいつの世の支配者どもも恐れておった。そして様々な戦の場に駆り出そうと齷齪《あくせく》し力を求めてきおったが、我らが味方した者どもは怨霊の力を得て勝利した。そしてやがて間違いなく世の中にのし上がっていきおったわ」
そう言うと老人はどぶろくのような白い酒を勢いよく呷った。
「帝にしても同じことよ」
「さようさよう、昔から帝も我らの存在を無視することはできなんだ」
男たちは互いに酒を酌み合った。彼らは底無しのようである。
「我らを下手に怒らせると、いつ第二第三の将門《まさかど》が現れてくるか分からんでな」
そう言うと、また皆で大声で笑い合った。
「今度も我らが申し出は、明石元二郎が受けざるをえなくなった。そうである以上は明治政府も過去の経緯から我らの存在を無視できなくなることは必定《ひつじょう》だ」
「さよう」
「さすれば爵位なども頂戴しようではないか?」
太って脂ぎった男が言った。男の顎は何段にも分かれ、どこまでが首か胸か分からないほど太りきっていた。
「そんな小賢《こざか》しいものなどはいらん。我らは本当の支配者が誰であるかを、当事者たちに分からせるだけでよいのだ」
「小さい小さい、そんなことでは御先祖様が泣くぞ」
「さよう、いつか我らが帝を追い出し、本当の帝が誰かを世に知らしめるのだ」
男たちはそれぞれ勝手なことを話しつづけ、生肉を漁《あさ》った。その内に老人が立ち上がると、高く杯を掲げながら叫んだ。
「これまでにも凄まじい怨霊の力を用いて世の勢力を動かし、帝を追い出す寸前までいきながら、いつも忌部の輩たちに邪魔だてをされた。今に見ておれ、我らが怨念の凄まじさを奴らに思い知らせてくれる」
すると皆がヤンヤヤンヤと拍手した。
「しかし日の本は最終的に我らと組むでしょうかな?」
「組まざるをえまい。日の本のすぐそばまで来ている欧米列強を見れば、いつ日の本が寝首を掻かれるか分からぬ有り様だ。最後には必ず見栄も外聞もかなぐり捨てて我らの策を受け入れねばならなくなろうよ」
老人は灰色の目を光らせた。
「なるほど。そうなれば思う壺というわけですな」
「一度でも怨霊という毒を食らえば、最後まで食らわしつづけてやろうぞ。そうすれば勝手に帝の地位が我らの懐の中に転がり込んでくるだろう」
そう言うと老人は足をふらつかせて尻餅をついた。どうやら大分酔いが回ってきたらしい。それを見て他の者どもがはやしたてた。
「それはまあ、けっこうなことだ」
「見ているがよい、この国は怨霊の力を借りつづけないと、欧米列強には決して勝てない国じゃ。たとえそれが破滅につながると分かっておっても、奴らは必ず我らに頭を下げて怨霊の力を借りにくる」
老人はしなびた手で汚れた口元を拭いながら叫んだ。
「そうじゃそうじゃ」
「その時は見ておれよ、我が息子の小次郎を帝に立てた後、大忌部の者どもは一人残さず討ち果たし根切りにしてくれる」
その時、さっきの太った男が調子に乗って思わぬことを口にした。
「幸い奴らは、親方様が不死になられた風魔小太郎《ふうまこたろう》ということまでは全く知りませぬからな」
その言葉に座が一瞬にして静まり返った。それまでと打って変わり、酒を飲み込む喉の音さえ聞き取れるほどの沈黙が、洞窟の中を支配したのである。
白髪の老人が背を丸めながら上目遣いに男を見て聞いた。
「貴様の女は何人いたか?」
男は太った体を揺すりながら顔を引きつらせた。
「……は、八人です」
「そうか、どれもが子を成したら、その日の内に打ち殺すのが我らの掟だが、何故に前の一人を見逃したか?」
「……!!」
男の額から冷や汗が幾筋も流れ落ちた。
「よいか、女などはこの世にいくらでもおる。子を孕《はら》ませれば女はそれで用なしじゃ。女が欲しければ次から次へと強奪してくるがいい。しかし、情に絆《ほだ》され生かしておけば必ず女の口から秘密が漏れる」
「……わ、分かっています。で、ですから明日にでも打ち殺してしまうつもりでした」
「ほぉう、明日とな?」
「は、はい」
「もう女はおらぬよ」
「えっ?」
そう言うと老人は腕を上げた。すると天井から、体を縦に引き裂かれた女の躯《からだ》が、鎖に吊るされて降りてきたのである。
「あ、明美……」
男は女の名を口にした。
女の体は頭の先から股まで縦に引き裂かれ、内臓が全て抜かれていた。しかしかろうじて残っている背骨と肋骨だけが、元が人間の体だったことを示していた。
「情を持ったら最後、ここでは生きていけぬ。だから村の秘密の一端でも平気で口にする……」
「お、お願いだ……た、助けてくれぇぇぇ!」
男は老人に懇願し拝むようにしてひれ伏した。
「貴様の子を孕んだ女たちは、わしが命じて全て腹を割いて打ち殺した。今、我らが食っている人肉は貴様の種から生じた女どもの腹子じゃ」
それを聞いた男は吐き気を催し、太った腹を痙攣《けいれん》させながら、食ったものを全て吐きはじめた。
「汚れは我らの生命の泉であり源だ。汚れは全て我らの体に吸収し、力の元とせねばならぬ。我らは大昔からそうしてきた聖なる一族だ」
「た、助けてくれぇぇ、お、俺はまだ死にたくないぃぃぃ!」
「せっかく貴様の汚れを一族で分かち合おうというのに、何という情けの無い姿だ」
「心配するな、貴様の肉や骨は最後まで無駄にはせぬ。たとえ残飯でも柵の中の人畜に食わせてやるから安心せい」
そう言うと老人は腰につり下げた長さ三尺もある大きな鉈《なた》を取り出すと、頭上に大きく振りかざした。
「頼む助けてくれぇ〜〜〜〜っ、御曹司の小次郎殿とて二人の女を長年、従えておるではないかぁぁ!」
「馬鹿め、小次郎の護衛女の体は去勢してあるわ。よってとっくに女ではなく人間でもない。忠実な家畜に過ぎんのじゃあ」
老人は振りかぶった鉈を、泣き叫ぶ男の脳天目掛けて力一杯打ち下ろした。
罵火《バカ》!
脳天が割れる鈍い音がした。男の眼球はその衝撃で瞬間的に飛び出し、脳天に深く食い込んだ鉈と頭蓋骨の間から、黄色い脳汁がどす黒い血と混じりながらブスブスと泡を立てて吹き出してくる。
その様を見ていた他の男たちも、老人と同じような鉈を取り出すと、痙攣する男の太った体目掛けて次々とめった打ちにした。斬り付けたのではなく、叩きつけたのである。
弩火! 弩火! 弩火! 弩火! 弩火!
脂ぎった男の太った体は、どす黒い血飛沫とともにズタズタに粉砕されていく。鼻が砕かれ、耳が削がれ、親指が小指が中指が吹き飛び、頭蓋骨が粉砕され、首がふっ飛び、腕が叩き斬られ、胴体が割かれて内臓が四方に飛び散った。それを男たちがさらに叩きつづけたため、骨まで細かく砕かれ、十分足らずの間に男の体は原型をとどめないまでに粉砕され、ただの肉塊となった。
「では皆で一緒に食らうとするか」
老人はそう言うと、男の眼球を指で摘み上げ、口の中に放り込んだ。そしてクチャクチャという嫌な音を立てながら旨そうに噛むと、眼球の中から吹き出した汁と一緒に喉の奥へと飲み込んだ。
こうして少し前まで人間として生きていた男の肉片を肴《さかな》に、男たちは再び盛大に酒盛りを始めたのである。
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第四章 ハルマゲドン
小次郎は二人の女護衛を引き連れ、さっきからじっと結界の前に立っていた。その後ろには小次郎の一族が立ち並び、いつ結界が解かれても動けるように配置についている様子である。
彼らは三人一組となり、扇状に広がって結界を取り囲んでいた。その背後には兵隊たちが銃を構えて遠巻きにしている。八雲は怨霊が出てきたら全てを小次郎に任せるつもりで、テントの外に椅子を出して美千子と一緒に眺めていた。
八雲には怨霊をどう捕らえるかの手段が分からない以上、全てを小次郎とその一族に任せるしか術《すべ》がなかった。一方、兵隊たちはいざという時に小次郎を掩護《えんご》するとともに、外部から一般人が侵入するのを防ぐ役目を担っていた。
田辺は八雲の命令である以上、軍人として従ってはいたが、本心では八雲の処置に大いに不満を感じていた。自分たちが軍人であるにもかかわらず、見も知らぬ得体の知れぬ連中に、現場の主導権を奪われたように感じていたのだ。
八雲も多少はそれを感じてはいたが、ここは小次郎一族に任せるしか方法が無いと割り切っていた。それにたとえ小次郎といえども、結局は八雲の管理下で動く駒に過ぎないからだ。
日が落ちる時刻になってきたため、八雲はそろそろテントに入って食事をすることにした。今日は美千子が料理を作ることになっていたので、八雲は楽しみにしていた。
結局、美千子は八雲のテントで寝起きすることになった。八雲は美千子にベッドを譲り渡し、自分はソファーの方を使って寝ることにした。さすがの八雲も公私混同を多少は気にしていたのだ。
「小次郎はどうやって怨霊を捕らえるつもりなのかしら?」
美千子が言った。
「分からん……」
八雲は、いつ始まるかさえ分からない怨霊の捕獲は、獲物が出てくるまでじっと待つ猟師のやり方と同じだと思った。
小次郎たちは三交代で見張りを入れ代わるようにしている様子で、常時二十人ほどが臨戦態勢で結界を取り囲んでいた。その時、封鎖地点に警察官が何人か集まっているのがテントの窓から見えた。八雲は何事かと思い、そちらへ向かった。小次郎は八雲の姿を目で追っていたが、鼻を鳴らすとソッポを向いた。
「何事か?」
八雲が伍長に聞いた。
「ハッ、警察が大尉殿に何か聞きたいことがあるとかで」
「何だ?」
そう言うと八雲は警官に向き直った。
「八雲大尉殿でありますか、私は当区域を管轄《かんかつ》する警察署の九等警部で剣持と申します」
「八雲大尉だ。何かあったのか?」
「実は昨夜、この付近一帯で行方不明者が相次ぎまして、六名の男女が消えております」
「それが封鎖区域とどう関係するのだ?」
「はい、実はその内の一人の誘拐される現場を見ていた者がおりまして、その者が申しますには、数人の集団が人を襲った後、この封鎖区域内に逃げ込むのを見たというのであります」
「それはあり得ない。封鎖区域は兵隊が常時警備をしておる。そんな者がいれば無事では済むまい」
八雲がそう言うと、剣持は何か言いにくそうな態度でモジモジしている。
「どうした?」
「はあ、実はですな、その連中は樽の一つに誘拐した人間を入れると、荷車を引きながらここの検問を通り抜けていったと言うのです」
「……検問を通り抜けた?」
八雲は一瞬嫌な予感がした。
「どうも兵隊の方々とは顔見知りのようだったと」
「ちょっと待て」
そう言うと八雲は、伍長を呼んで離れた場所へ連れていった。
「どういうことだ?」
「ハッ、実は昨夜、大尉の許可は得ていると言って、あの連中の一部が封鎖区域から出まして、確かに遅くに荷車を引いて戻ってまいりました」
八雲は、理由は小次郎に聞くことにして、伍長には剣持という男に調査するとだけ伝えておくように命じた。
八雲はテントの前に置いた椅子に座ると、小次郎を呼んだ。小次郎はしばらく遠くから八雲の顔を見ていたが、やがて大股の足取りでやってきた。
「何か御用かな?」
小次郎が聞いた。
「この封鎖区域では、おまえの一族を特別扱いはしているが、人さらいまで許可した覚えはないぞ」
八雲は開口一番に言った。小次郎はしばらく黙っていたが、やがていつものようにニヤリと白い歯を見せた。
「人さらいは俺たち一族の大昔からの習慣だ」
「そんな習慣はここでは認めていない」
八雲は冷徹な声で言い放った。
「あんたが認める認めないの問題じゃねえ。これは俺たち一族の問題だ」
「どんな問題だ?」
「外部から人をさらって子孫を増やす。これは俺たちの長年の習慣でもあり掟《おきて》でもある」
「人をさらって子孫を増やすだと……?」
八雲は何かとんでもないことを聞いたような気がした。
(人をさらって……)
八雲は小次郎の一族について、もっと深く調べておくべきだったと思いはじめた。文明開化の世の中で、こういう手合いが存在すること自体が異常なのだ。家族という概念ですら小次郎たちの一族には当てはまらないのかもしれない。
「貴様の一族は人さらいで村の人口を増やすのか?」
「そうだ、それも一つの理由だが、他にも様々な理由がある」
小次郎は悪びれる様子もなく平然と答えた。
「それは何だ?」
「奴隷にするためだ」
「それでは文明人ではない、ただの野蛮人だ」
「習慣と文化の違いだ。欧米人はついこの間まで奴隷を認めていた。特にあんたの大好きなイギリスはな」
小次郎にそう言われた八雲は一瞬言葉に窮した。小次郎の言葉が事実だったからだ。どうやら小次郎は八雲が思う以上に世の中の事情に通じた男で教養もあるようだった。
「もう行ってもいいな?」
小次郎はそう言うと踵《きびす》を返した。
「もう一度言っておくぞ小次郎、ここの封鎖区域においては私が最高責任者だ。勝手な行動は作戦を根本から台無しにしてしまいかねない。さらってきた人間を直ちに町へ返せ」
八雲の言葉に小次郎の足は止まり、そのまま八雲の方に振り返った。
「そんなことをすれば警察が本格的に動きだし、かえってややこしいことになるぞ」
小次郎は不敵な顔つきで八雲に言った。
「かまわん、俺が何とか言いくるめる」
「どう言いくるめる気だ?」
「日本人に成り済ました韓国人スパイを捕らえる実戦訓練の一環だったとでも言っておく」
「なるほど……」
小次郎は思わず含み笑いをして、つづけた。
「しかし……」
「しかし何だ?」
「あいつらはもうこの世にいねえ」
「何だと?」
八雲は一瞬、小次郎が何を言っているのか理解できなかった。小次郎はそんな八雲の顔を見るのがたまらなく面白いらしく、二人の女護衛と一緒にいやらしく笑った。
「どういうことだ?」
「まだ分からないのか、俺たちがさらってきたのは大人の男女五人と、女のガキが一人だ。そして今はこの世にいないと言っているんだよ」
「この世にいない……」
「そう、いないんだ」
やがて八雲は、その意味が分かりはじめると小次郎に向かって言った。
「昨夜連れてきたばかりの人間を殺してしまったというのか?」
「その通り、ご明察!」
小次郎は悪びれもせずにあっさりと答えた。
「自分たちと無関係の人間を殺してしまっただと?」
「関係が無いから殺した」
八雲の隣に座っていた美千子は、あまりのことに呆然としていた。それは八雲にとっても同じだった。
「なぜ貴様らに殺す必要があったんだ?」
八雲は椅子から立ち上がると、拳《こぶし》を振り上げて怒鳴った。
「俺たちが食うためだ!」
そう言うと小次郎はゲタゲタと大声で笑った。それを聞いた美千子は仰天し、そのまま卒倒《そっとう》してしまった。
その様子を遠くで見ていた兵隊たちが慌てて飛んできたが、八雲も茫然自失《ぼうぜんじしつ》のまま力無く椅子に座り込んだ。
「貴様らぁ……」
八雲はそう言うだけがやっとだった。
「大尉殿、大丈夫でありますか?」
田辺が聞いた。
「ああ伍長……この女をテントのベッドで寝かせてやってくれ」
八雲はそう言うだけがやっとだった。元々、八雲の良識と洗練された国際感覚は、野卑《やひ》で野蛮な小次郎と反りが合うわけがなかった。それが|カニバリズム《人食い》ともなれば、もはや八雲の理解の外にある。まさに鬼畜の汚らわしさだ。
「小次郎、貴様が怨霊使いでなければ、この場で射殺しているところだ」
「そうかい」
小次郎の目はまだ笑っていた。
「何なら貴様ら一族の村を捜し出し、俺の手で皆殺しにしてやろうか?」
「そうかい」
「俺にできないとでも思っているのか?」
八雲はすごんだ。
「いや、あんたならやろうとするだろうよ」
「分かっているなら俺の前で二度と人さらいをするな」
八雲は本気だった。本来なら彼の理性は小次郎という男の存在を許さないはずだった。それがカニバリズムを犯すとなると尚さらである。明石との密約が無ければ、八雲は小次郎を殺していたはずだった。
「分かった。どうせ人肉の半分は塩漬けにしたから、しばらくは耐えられる」
「そういう問題ではない。貴様らのような野蛮な一族を軍部が抱え込むことは、軍にとっても非常に危険なものになりかねないからだ!」
八雲は小次郎の胸ぐらを掴《つか》み上げると大声で怒鳴った。
「軍とは元々が危険覚悟の集団だろうが」
小次郎は皮肉を込めて言った。八雲の顔は怒りのために引きつっている。
「貴様らは人肉を食いたくなれば日本兵でも食うつもりか?」
八雲は小次郎の胸ぐらを引き寄せ、顔が接するほど近づけて言った。
「……それは分からねえな、たとえそうなっても怨霊を抱え込んでいる方が、わずかな兵隊が食われるより遥かに利益に適《かな》うはずだ」
「兵隊はどうせ戦《いくさ》で死ぬからか?」
「そうだ、奴らはただの消耗品に過ぎん」
小次郎は不敵に笑った。
「貴様らには軍から食料を渡したはずだから、それで我慢するんだな」
「ああ暫《しばら》くは仕方がねえな」
「行け! 今日は貴様の顔など、もう見たくない」
八雲がそう言い放つと、小次郎は皮肉な目をしてその場から立ち去った。しばらくすると伍長がテントから出てきたが、呆然と座り込んだままの八雲を見て、どう声を掛けていいのか躊躇《ちゅうちょ》した。
「た、大尉殿、警察には何と?」
田辺の声に八雲は我に返った。暫く頭の中が真っ白になり物事の整理がつかなかったからだ。
「あ、ああ、そうだな……」
八雲は田辺の声が聞こえるまで、伍長が横にいることも気づかなかった。
「剣持という男にはこう伝えろ。この封鎖区域では、そのようなことは一切無かった……とな!」
「ハッ? しかし、それでいいのでありますか」
田辺が怪訝《けげん》そうな顔で聞いた。実際、田辺は昨夜、小次郎の手の者を封鎖区域から出入りさせていたからだ。
「伍長、昨夜は封鎖区域から出た者は一人もおらんし入った者もおらん。分かったか?」
「ハッ、分かりました!」
そう言うと伍長は敬礼し、一緒に来た兵隊と剣持の待つ封鎖区域の外へと向かった。
「何て奴らだ……」
八雲は小次郎のことを考えただけで胸糞が悪くなり、虫酸《むしず》が走るほどの嫌悪感が沸き起こった。
舞は利《き》き手の右腕を斬られていた。幸い傷はそれほど深くはなかったが、執拗《しつよう》な攻撃で舞も北麿も相当に疲労|困憊《こんぱい》していた。
舞たちは怨霊を相手に戦っているのではない、自分たちを相手に戦っているのだ。それは神経を異常なまでにすり減らし、闘っている意味を分からなくさせた。舞と北麿は二階にいた。一階での攻撃があまりにも執拗であるため、二階に逃げざるをえなくなったのだ。二階は一階とほとんど同じ造りで、通路の両端に天井まで届くような大きな棚が置かれていた。
「舞、俺たちは一体どれぐらいここで戦っているんだ?」
「分からない。一時のような気もするし数日たったような気もする」
舞は戦うことのできない自分と戦う状況に苦悶《くもん》していた。それは北麿も同じだが、舞の場合、怨霊に体を狙われている以上、尚さらだった。
その時である、また音がした。
ドサッ!
何かが落ちた時のような音だ。既に舞と北麿は二階へ追い詰められていた。というより舞が影を相手に剣を放っていたのが一階だったため、二階ならと思い階段を駆け上がって逃げたのだ。
すると二階には影が現れてこないのである。あるいは二階は怨霊の手が届かない空間なのかもしれない。
「舞、今の音は聞こえたな?」
北麿が小声で囁《ささや》いた。
「ええ」
「また長持ちのようだな」
「そうね」
薄暗い土蔵の中は不気味な沈黙が支配していた。聞こえるのは二人の息づかいだけで、さっき音のした一階はその後は全く音がしない。
「どうする?」
北麿が聞いた。
「何を?」
「見てこようか?」
北麿は何の音か気になっていたのだ。
「何を見てくる気なの?」
「長持ちの中さ」
北麿の言葉に舞は呆気《あっけ》に取られた顔をした。
「馬鹿ね、あの音は私たちを誘《おび》き出すための罠《わな》に決まっているじゃないの」
舞は北麿を窘《たしな》めた。
「そうだな……きっとそうだ」
そう言うと北麿は頷《うなず》き、棚に凭《もた》れ掛かって天井を見上げた。闇はそれほど深くはないが、かえって薄明かりの世界は全くの闇よりも恐怖が倍加する。
「君が怨霊だったら、この状況ではどうする?」
「変なことを聞かないで」
舞は北麿を睨《にら》んだ。舞は怨霊の気持ちなど考えたくもない心境だったからだ。
「いいか舞、これは敵を分析するための一つのれっきとした戦術なんだ」
北麿はそう言うと話をつづけた。
「怨霊が一階に落とした物は何だと思う?」
舞は首を振りながらうんざりした顔で言った。
「何かは知らないわ。でも、それを使って私たちを一階に誘き寄せる気でいることだけは確かよ」
「それなら俺たちは、このまま二階にいた方が安全というわけだな?」
「そうよ、だから一階には降りない方がいいの」
舞はキッパリと言った。
「それは怨霊も見通しているはずだ。なのになぜ長持ちの中に何かを落とさねばならなかったんだ?」
「何を言いたいの?」
舞はとうとう大声を出した。
「あの音の原因が、その内に二階へ上がってくるということさ」
「……!?」
舞は何か言おうとしたが言うのをやめた。北麿の言うことが間違っていないからだ。確かに何の原因もなく音がするはずはない。それに怨霊が無駄な目的で物を落とすとも考えられない。
「そうなると、私が小剣を抜かねばならなくなるということね?」
「ああ」
「そうなったら二階にも剣を抜いた私の影が現れるわ」
「そうだな、そうなったら最後、ここは修羅場《しゅらば》になる」
「……そうね」
「但《ただ》し音がした以上は霊じゃない。そいつにはきっと体がある」
「もしそうなら、怨霊が誰かに取りついたのかもしれないわね」
「つまり君に憑依しないで別の誰かに憑依したということか?」
「もしそうなら怨霊は誰の体を得たのかしら?」
「それは分からない」
「…………」
その後、舞はしばらく考え込んでいた。
「でもそれは希望的憶測だわ」
「だから下でそれを確かめようかと言っているんだ」
舞はやっと北麿の言う意味が分かってきた。怨霊は次の一手を打ってきたかもしれないからだ。
「となると、静さんの生首が現れた時も何か目的があったはず」
「……そうだな」
北麿は頷いた。
(どうして静の生首が出てこなければならなかったんだ)
「北麿、ひょっとして長持ちの中と土蔵の外が亜空でつながっているのかもしれないわ!」
「……えっ?」
北麿は舞の言葉に少し驚いた。
「確かにその可能性はあるな」
「もしそうなら長持ちから土蔵の外に出られるかもしれない」
舞は突破口を見つけたと思った。
「しかし逆に受け取れば、静の生首は俺たちにそう思わせるための罠かもしれない」
「どういうこと?」
「長持ちの先が土蔵の外ではなく、怨霊が境《さかい》の中に作った巣の中ということだ」
確かにあり得ない話ではない。怨霊が結界の中に住む以上は、怨霊の空間となる巣がなければならないからだ。
「もしつながった先が怨霊の巣だったら?」
「そこは亜空を超えた怨霊の世界だ。俺たちは二度と出られなくなるだろう」
「ここより悪い状況に落ちるわけね?」
「そうだな……」
北麿は頷いた。
「つまりそれが静の生首を置いた罠というわけね?」
「その可能性があるということだ。歳三を神隠しに遭わせたように、舞を神隠しにする罠ということだ」
「ならどうして生首が怨霊の巣から出てきたの?」
「それは、巣の中が怨霊の自由になるからだ。人間を飲み込むことができるなら、生首を吐き出すことは簡単だろうよ」
「……そういうことね」
舞は頷いて唇を噛んだが、何かに気づいたようにつづけた。
「それでも後一つだけ分からないことがあるわ」
「何だ?」
「静の生首がどうして怨霊の巣にあったわけ?」
そう言われてみて、確かにその通りだと北麿も思った。
「静の生首を入れた壺はおかみが預かったが、舞が封じとった怨霊が先にここへ運び込んでいたのかもしれない」
「……もしそうなら、最初から怨霊に周到な計画があったことになるわ!」
「ああそういうことになる」
舞と北麿は、何とか今の不利な状況を打破すべく、必死に戦う方法を考えつづけた。その時だった。一階で何かが蠢《うごめ》くような音がしたのだ。その音は最初サワサワと着物が擦《す》れるような音だったが、その内に人の歩くような音になってきた。
「舞、とうとう出てきたぞ」
「……!!」
足音は小走りに蠢きながら、やがて一階中を走り回りはじめた。
「いいか、舞、あいつはもう俺たちの影なんかじゃない。あいつが二階へ上がってきたら影のようには消えないぞ。俺たちがあいつを殺さないと、いずれこちらがやられることになる」
北麿は呻《うめ》くように言った。
「で、どうするかだが、方法は二つしかない!」
「教えて」
舞が言った。
「一階に降りてそいつを殺すか、二階で待ち受けるかだ」
今度は舞が考え込んでしまった。一階に降りれば再び影が襲ってくるだろう。それに今度は影だけではないのだ。二階で待ち受け、剣を振るうと、今度は二階にも舞の影が現れることになる。舞は迷った。しかし、ここで待ち受けていると最後は自分で自分を追い詰めることになる。
「分かったわ、北麿、いろいろ言って悪かったわ」
そう言うと舞はゆっくりと階段の方へと歩いていった。二階から下を眺め下ろすと、そこに何か蠢くものがボンヤリと見え、そいつがじっと上を見上げているのが分かった。
「どうしたんだ、舞?」
北麿も一緒に行こうとしてついてきた。
「北麿……あれを見て」
舞が呻くような小声で言った。
「何だ?」
そう言うと北麿は階段から下を見下ろした。その時、北麿は絶対にそこにいてはならない者の姿を見た。
「う、嘘だろう、おい……!」
北麿は、あまりのことに言葉を失ってしまった。
「嘘じゃないわ、現実よ」
「し、しかし、こんなことがあっていいのか?」
北麿は滅多に感じたことのない恐怖のため、総毛立つのを感じた。
やがて下で蠢いていたものは、階段に手を掛けると四つん這いになって、もう一度二階の様子を窺《うかが》った。
舞も北麿もすぐに階段から離れると、柱の裏に身を隠した。
「舞、まじかよ、これ?」
「ええ、現実よ」
「相当しつこい奴だぞ、こいつは……」
「そのようね」
その者は警戒しながらも、ゆっくりと階段を登りはじめた。
その頃、離れ屋敷の中では、生き残ったとはいえ、不安と疲労でクタクタになった者たちが、心身の疲れが極まり泥のように眠りこけていた。熊楠も痛む腕をかばいながら、善兵衛の布団の横にある柱に凭れながら鼾《いびき》をかいている。
その内に眠りから覚めはじめた女中たちが布団を畳み、台所に向かう足音が聞こえた。善兵衛は悶々《もんもん》として眠れず、布団の中で半病人のようにふさぎ込んだままだった。そして時折、布団の外に置いてある溲瓶《しびん》をそっと中に入れて用を足しているだけである。
手代や丁稚《でっち》たちも女中につづいて次々に起きはじめると、ボソボソと皆で話しをしはじめた。恐ろしさと不安でそれほど深くは熟睡できず、浅い眠りしか取れなかったようである。
「これからどうなるんだろう?」
「分からん、でも怨霊が勝てば間違いなくあの二人は殺されるから、その時が逃げる一番の機会だな」
「そうだ、そうなれば結界とかいう幕が消えるんで、すぐに逃げ出せるはずだろう」
「怨霊を殺せたら、それはそれで結界を外してくれるから万々歳なんだが」
「分かるか、そんなこと、どちらにしても結界が外れた時が逃げ時ということを忘れないこった」
「そうだ、その通りだ」
熊楠はその話を、じっと横になって聞くでもなく聞いていた。そして、それは当然で仕方のないことだと思った。確かに怨霊が二人に勝てば、結界が外れた時しか逃げる機会がない。それこそグズグズしている内に怨霊の餌として食い殺されてしまうのである。
その内、台所では飯が炊き上がり、女中たちが握り飯にして出来合いの具を入れた味噌汁と一緒に大座敷へ運んできた。熊楠はその時の物音で完全に目を覚ますと、善兵衛の体を叩いて飯が来たことを伝えた。そして片手で善兵衛の体を支え、布団の中でゆっくりと起こしてやろうとすると、丁稚がやってきてそれを手伝った。
「病人は食わんといかんぞ」
「すみません、熊楠先生」
善兵衛はそう言うと熊楠に頭を下げ、運ばれてきた握り飯をゆっくりと頬張った。そして熱い味噌汁を啜《すす》った。その時、善兵衛は味噌汁を慌てて啜ったため噎《む》せて、咳《せ》き込んでしまった。熊楠が善兵衛の背中をさすっていると、やがて善兵衛の咳はおさまった。
「す、すみません、熊楠先生」
「水臭いことを言うな」
熊楠はそう言うと、女中が運んできた自分用の大きな握り飯を片手で掴んだ。熊楠はいつも女中たちに握り飯を作らせる時、砲弾のように大きく握らせ、海苔《のり》を巻かせていた。今は海苔こそないが熊楠用の大きな握り飯であった。
「そういえば、あの二人は何も食わずに怨霊を封じに行ったままだったな」
その時、熊楠は名無しの姿が見当たらないことに気がついた。
「名無しは何処《どこ》へ行った?」
熊楠が聞くと、手代たちが互いの顔を見ながら、しばらくボソボソと話していたが、その中の一人が熊楠に言った。
「さっき三番蔵の方に行くと言っていました。今度もし怨霊が出るなら三番蔵が破られた時だとか言って……」
「そうか」
そう言いながら、熊楠は大きな握り飯を食いつくし味噌汁を啜った。それからいくつかの握り飯と一緒に味噌汁を盆に載せ、片手に持つと廊下に出た。そして三番蔵の方へと歩いていった。
相変わらず空は赤みがかった気味の悪い灰色に覆《おお》われていたが、どぶろくの海のような霧より遥かにましだと思った。熊楠はいくつかの廊下の角を曲がって裏庭の方に出ると、名無しが廊下の柱を背に座っているのが見えた。名無しは北麿から預かった六角棒の仕込みを抱いていた。
熊楠が近づいていくと、名無しは細目を開けた。
「食えよ、おまえの分だ」
そう言うと熊楠は盆を差し出した。名無しはそれを見て熊楠に少し頭を下げた。それからおもむろに握り飯を手に取って、口一杯に頬張った。
「なあ、名無しさんよ、あんたの剣の腕も凄いが、あの女の剣も凄かったな。あの女、この世のものとは思えぬ顔立ちをしていたが、実際あれはこの世のもんじゃないな。妖美過ぎて、とても同じ人間とは思えない」
熊楠の話を名無しは聞いているのかいないのか、ただ黙々と握り飯を食いつづけている。
「今の世の中で、まさかあんたらのようなのが生き残っているとは思いもしなかったよ」
そう言うと熊楠は三番蔵の扉の方をチラリと見た。そして奇妙なことに気づいた。
「おや、入り口が閉じたままになっているじゃないか」
熊楠は土蔵を指さしながら名無しに聞いた。
「見た通り鍵は外されている。しかし、扉は全く動かすことができん」
名無しがポツリと言った。
「何故だ?」
「分からん」
「そうか……」
熊楠は裏庭に裸足《はだし》で下りて、三番蔵の前に立ち、重い扉を片手で開けようとしたが、ビクともしない。
「なるほど……」
そう呟《つぶや》くと汚れた足のまま廊下に上がり、名無しの横にドカリと腰を下ろした。
「本当のところは何故だ、何故扉が開かない?」
熊楠が聞くと、名無しは皮肉そうに笑った。
「二人が敢《あ》えてそうしたのか、あるいは怨霊が彼らを逃がさぬために閉じたのかだな」
「な、なるほど」
熊楠は、何度も首を振って頷いた。
「それにしても、俺たちの運命が二人に握られているというのは何とも癪《しゃく》でならんが、ここまでくれば怨霊を封じ取ってもらわねば困る。非常に困る。そう思わぬか、あんたも?」
熊楠が同意を得ようと振り向いても、名無しは握り飯を頬張るだけで答えようとはしなかった。
「まあいい、ところであの女に怨霊が取りついた場合、あんたがもう一度あの女と刃を合わせたとして勝てるのか?」
熊楠は大きな目で名無しの顔を覗《のぞ》き込むようにして言った。名無しは熊楠の方をチラリと見た後、味噌汁を飲み干し、懐から爪楊枝を出すとそれを口にくわえた。それからおもむろに言った。
「もしもう一度立ち合えば、俺には勝機がある」
名無しの言葉に熊楠は少しホッとした。実際、三番蔵に潜む怨霊が封じ取られた怨霊より凄いなら、彼らが敗れた場合、生き残った者たちの命が無事であるはずがないからだ。
「名無しさんよ、あんたみたいな男は今までどうやって生きてきたんだ?」
熊楠は急に唐突な質問をした。熊楠にはけっこうそういうところがあり、時に話についてこれない人も多かった。名無しはそれには何も答えず、ただ爪楊枝をくわえて目を閉じているだけだった。
「答えたくなければいい。確かに世の中の裏街道を歩いているような連中には、あんたのような男は必要なんだろうしな」
そう言うと熊楠は晒《さらし》が当たる首筋が痒いのか、爪を立ててゴシゴシと掻いた。
「ところでさっきのつづきだがな、もし怨霊が取りついたら誰であっても斬るんだろうな?」
熊楠は名無しに聞いた。このことはぜひ確認しておかねばならないことだった。世の中、綺麗事ばかりでは済まない。名無しは暫く遠い目をしていたが、やがてはっきり言った。
「斬る!」
それを聞いた熊楠は何度も頷いた。
「頼もしいことだ」
「それが俺に仕込みを預けた男との約束だ」
そう言うと名無しはゆっくりと立ち上がった。そして片手で熊楠を追い払う仕種をすると、ある一点を睨みはじめたのである。
「離れていろ!」
名無しは厳しい口調で熊楠に言うと、仕込みを六角棒から抜きはなったのである。
「ど、どうした?」
熊楠は名無しの奇妙な行動に何が起きたのかと、思わず名無しから飛びのいた。名無しは土蔵の一角を睨《にら》んだままである。
「何者だ?」
名無しが誰もいないはずの茂みに向かって言った。熊楠も名無しの睨む方向を見たが、土蔵との間の草むらが見えるだけで、誰の姿もそこに無い。
「名乗らぬのならこちらから行くぞ!」
そう言うと名無しは、抜き身の剣を握ったまま裏庭へと素足で下りていった。
土蔵の中では、研ぎ澄まされた緊張の糸が、まさに切れんばかりにギリギリと張り詰められていた。その中で舞と北麿の神経は極限まで高まっていた。
「舞、登ってくるぞ!」
「ええ!」
土蔵の一階からそれがゆっくりと階段を登りはじめた。ゆっくりと警戒しながら登っている様子は地獄の底から這《は》い上がって来る怨霊そのもののようだ。そいつは階段の途中で何度か足を止めながら、上の様子を確かめている様子だった。舞は剣を腰の後ろに納め、いつでも抜き放てる態勢をとった。
そいつは階段に手をつきながら四つん這いになってゆっくり登ってくる。舞たちには既にそのものの正体が分かっていた…………
怨霊に取りつかれた弥吉≠ナある!
階段を這いながら登ってきた怨霊は、舞たちの顔を見ると途中で登るのを止《や》め、しばらくその場に留《とど》まっていた。
「分からないわ、どうして弥吉が生きているの?」
「俺にも分からない、下手に近づくと怨霊に足元をすくわれ、下に引きずり込まれるぞ」
「分かっている」
舞は後ろ腰にある剣の柄《つか》を握りながら頷いた。
「しかし怨霊がここに登り切る前に、必ず一刀で斬り捨てるんだ」
舞もその気だった。そこで舞は階段の真上に再び出て、弥吉を見下ろす位置に立ったのである。もはや逃げ隠れに意味は無い。
弥吉はじっと下から舞の様子を窺《うかが》っている。すると何を思ったのか弥吉が急に顔をクシャクシャにすると、甲高い声で泣きはじめたのである。
「うわぁぁああああああああぁぁぁぁぁんんんんんんんんん〜〜〜〜〜〜〜〜!」
これには舞と北麿が面食らった。
「これはどういうこと?」
舞は北麿の顔を見た。北麿も鳩が豆鉄砲を食らった時のような目をしている。
「わ、分からない!」
弥吉は階段の途中に腰を下ろし、二人の顔を交互に見上げては泣きわめいている。その様子を見て舞は何がなんだか分からなくなった。
「騙《だま》されるな、舞! あいつの羽織を見ろ」
北麿に言われて舞が見ると、子供が着ている羽織は黒の絣《かすり》模様で今までの怨霊の羽織とは全く違っている。
「これはどういうこと?」
「おそらく……」
北麿は言葉に詰まった。分かってはいたが、頭がまだ整理されないのだ。
「おそらく何?」
「神隠しに遭った時の歳三の羽織だ!」
「なんですって……!?」
そう言うと舞は、あらためて泣きわめく子供の顔を見た。その目は道に迷って怖くなり、大人に助けを求める時の子供の不安気な眼差しだった。
「北麿、この子は本物の歳三よ!」
「おそらく……そうだろうな」
北麿は呻くような声で言った。腕は北麿自身の心中を表すかのようにブルブルと震えている。
「では私には斬れないわ!」
舞の突然の言葉に北麿が驚いた。
「ど、どうしてだ? 歳三が怨霊かもしれないんだぞ」
「でも人間のままの歳三だったらどうするの?」
「どうするってそれは……」
北麿の頭は混乱した。
「それが怨霊の狡猾《こうかつ》な罠だったらどうなる。舞も俺も一気に歳三に取りついた怨霊に食い殺されてしまうんだぞ!」
しかし舞は黙ったままだ。
「舞、怨霊には打つ手が無数にあるんだ」
「どういうこと?」
「もしあれが怨霊に憑依されていない歳三で、舞が誤って斬り捨てていたら、怨霊はそこを突いて舞の心を責めたててくるだろう」
「良心を狙ってくるわけね」
「そうだ、そうなれば遠慮|会釈《えしゃく》無く子供を殺したと責めたて、舞の心が弱まったところを一挙に襲ってくるだろう」
北麿は舞が子供をすぐに斬らないで良かったと思った。この状況では下に降りて斬り捨てていても全くおかしくなかっただろう。
「相当悪質ね」
「それだけじゃない、舞の霊を食らうなら、何も舞の体に憑依しなくてもいいことが分かった!!」
舞は一瞬、北麿の言う意味が分からなかった。
「怨霊が俺に憑依して舞を食らえば、舞の霊を手中にできるってことさ!」
それを聞いた舞は唖然とした。
「……分かったわ」
「同じように怨霊が歳三に憑依したとしても、舞の霊を食らうのに何の支障もないんだぞ」
「そうね……歳三は五歳だし……」
「これは怨霊の仕掛けた狡猾な罠だ」
北麿は床を激しく叩いた。
「でも二重結界の中で、北麿は怨霊の匂いが嗅ぎ分けられる?」
それはできないことだった。北麿の陰陽の力は二重結界で封殺され、おまけにここは境の中心部だった。
「それができないから困っているんじゃないか」
北麿が呻くように言った。歳三は益々大きな声で泣きはじめた。
「どちらにしても、あそこで泣いている子供が怨霊と分かるまで、私はあの子を斬ることはできないわ」
舞は北麿にキッパリと言った。
「じゃあどうする気だ、ここに呼んで抱いてやるのか?」
「だってあのままあそこに放っておけないでしょう」
「俺は知らんぞ、ここに怨霊を抱え込むことになるかもしれない」
「その時はその時よ」
そう言うと舞は階段をゆっくりと降りていった。北麿は天井を仰ぎながら床に腰を落とした。
不安に怯《おび》える目を向けて泣きわめく歳三に舞は優しく声をかけた。
「貴方は歳三ちゃんでしょう?」
そう言われた歳三は一瞬キョトンとした目をした。
「歳三ちゃんね。お姉ちゃんは舞と言うのよ」
歳三はもう泣き止んでいた。しかしまだヒクヒクという音を立てている。
「もう怖がらなくてもいいのよ。お姉ちゃんたちは貴方が歳三ちゃんとは知らなかったの、だから怖い顔をしていたのよ」
そう言って舞は歳三に手を伸ばした。そして柔らかく、きめ細かな子供の髪の毛を優しく撫でてやったのである。
「歳三ちゃんは今まで何処に行っていたの? お父さんも皆も心配してたわよ」
そう言われた歳三は初めてニコリと微笑んだ。頬に可愛い笑窪《えくぼ》ができた。じっと舞の顔を見ていた歳三は安心したのか、舞が出した腕の中へと飛び込んできた。
舞は歳三の暖かな体温を感じて思わず強く抱きしめた。そして歳三を抱いたまま階段を上がった。
歳三を胸に抱いた舞を見た北麿は、大げさに頭を抱え込んだ。
「とうとう二階へ連れてきたか!」
北麿が嘆くように言った。
「ええそうよ、仕方ないじゃない。怯える子供を見捨ててはおけないわ」
「怨霊も舞の性格をよく知っているよ」
「あらそう」
そう言うと舞は歳三の涙を布で拭いてやった。
「どちらにせよ、怨霊は必勝の一手を打ってきたようだ」
「どういうこと?」
舞は歳三をあやしながら微笑んだ。
「いいか舞、怨霊はこれで俺たちに大きな荷物を背負わせたことになるんだよ。分かるか、この意味が?」
「ええ分かるわよ」
そう言いながら舞は歳三の餅のような頬に何度も頬擦りをした。それを見た北麿はまた頭を抱え込んだ。
「本当に分かっているのか、舞。確かに今の歳三には怨霊が憑依していないかもしれない。しかし、これで怨霊はいつでも歳三に憑依できるようになったんだ」
それを聞いて舞はため息をついた。しかし北麿はさらに話をつづけた。
「だからあの時、泣いていてもそのまま放っておく方が、歳三にとっても良かったことになるんだよ」
北麿は床を何度も叩きながら言った。
「でも遅かれ早かれ怨霊は歳三に取りつくかもしれないんでしょう?」
「…………」
「だったらここに置いても同じじゃない」
それには北麿も納得せざるを得なかった。
「しかし、だからと言ってこちらから火中の栗を拾うことはない」
北麿は大声で怒鳴った。
「怒鳴らないで、私にも策が無いわけじゃないわ」
「どういう意味だ?」
北麿は驚いた顔をした。策があるとはどういうことなのだ?
「もし怨霊がこの子に憑依したら、その瞬間はたとえ二重結界の中でも私たちにはハッキリと分かる。怨霊が憑依すると、体が異様に反り返って痙攣《けいれん》するからよ」
「そうだったな」
「その時は私が躊躇せず歳三の首を掻き斬って怨霊を封じ取るわ。それで全てが終わる」
「舞……」
「これで怨霊は無闇に歳三に憑依できなくなるわ。下手をすれば即地獄行きですものね。おまけに子供の霊は地獄に行かないから、怨霊は手ぶらで地獄の闇に飲まれて消滅するのよ!」
「なるほど、それが舞の策か」
舞は歳三を手中にすることで、逆に怨霊が憑依できなくしたのだ。北麿は手を伸ばして歳三の頭を撫でた。
「げんきんな人ね」
北麿は納得した。間違いなく舞は普通の女ではなく怨霊師だったのだ。
「私の時もそうしてね、北麿……もし自分で自分を始末できなくなったら」
舞はそう言うと微笑んだ。その顔を見ながら北麿も微笑んで小さく頷いた。
「俺の時もな……」
北麿がそう言うと舞も頷いた。
北麿の指摘はある意味で事実だった。もし怨霊が歳三に取りついていたら舞たちは最も危険な状態にあることになる。そうでないにしても怨霊が再び襲ってきたら、歳三の存在は戦う時の荷物以外の何物でもなくなるのだ。
だが、舞にとれば歳三が戻ってきたことは一筋の光だった。地獄で小さな命を得たような不思議な気持ちにさせられたのである。
その時、階段の反対側にある二階の窓の鉄板と壁付近が奇妙に歪《ゆが》みはじめた。その不気味な光景に舞と北麿は思わず目を見合った。二階でも一階と同じ現象が起きはじめたからである。
「北麿、これは?」
「一階の時と同じだ!」
北麿は信じられないという顔で舞を見た。舞も同じだった。二階は怨霊の手の届かない場所ではなかったのだ。
目の前の空間の捩《ねじ》れは益々激しくなり、やがて渦を巻きはじめた。そして歪んだ渦の真ん中から不気味な影が三体も現れてきたのである。
「くそうぅぅ、二階は大丈夫じゃなかったのかぁ?」
北麿が叫んだ。
「どうやら私たちが甘かったようね」
そう言うと舞は歳三を抱きかかえた。
「舞、おまえは子供を抱いたままで戦えるのか?」
「分からない、でもやるしかないわ」
「くそうぅ、最初からこの時のためにわざと攻撃してこなかったなぁ!」
北麿は今さらながら怨霊の持つ狡賢《ずるがしこ》さを思い知った。それにしても影が三体も同時に現れたのは初めてだった。
「そうか……子供を含めて一気にやる気だな」
「そうらしいわね」
舞は腰の剣の柄に手を置いた。
「くそううっっ、怨霊はこれを最後に狙っていたんだ。これで誰に憑依しても舞の霊を食らうことができる!」
その時、何処からか不気味な笑い声が響いてきたのである。
「イイイイヒヒヒヒヒヒヒヒヒイイイイィィィィィイイイイイ〜〜〜〜〜〜〜〜! これで貴様らは私の体の滋養になるんだ。霊も全て頂戴するからねぇぇぇ。だからもう貴様らは何をしても私からは逃げられないんだよぉぉぉ」
「北麿、怨霊の声だわ!」
「くそっ、貴様か寺で涼を殺した奴は?」
北麿が叫んだ。
「イイッイヒッヒッヒヒヒヒ〜〜〜〜〜、そんな女のことなどとっくの昔に忘れちまったぁねぇぇぇぇぇぇ」
「この糞野郎が!」
そう言うと北麿は懐から二つの拳《こぶし》大の鉄球を取り出して身構えた。これが北麿の最後の武器だった。
「ほほほおおおおおぉぉぉうう、それで私と戦うのかねぇぇ、私は怖いから手は出さないよぉぉおおおぉぉぉ、イイイィッヒヒヒヒヒヒヒィィィィィ」
「馬鹿にしやがって!」
そう言うと北麿は手にした鉄球の一つを怨霊の声が聞こえる天井目掛けて力一杯投げつけた。
ボコッ!
鉄球は二階の天井にめり込んだ。
「イイイヒヒヒヒヒッッッッ〜〜〜〜〜、そんなことをしても全くの無駄さあぁぁぁ〜〜〜」
怨霊は北麿を馬鹿にしたように甲高い声で大笑いをした。
「舞、俺が投げつけた鉄球の真上当たりに祠《ほこら》がある。おまえの細筒を投げつけて吹き飛ばせ!」
北麿がそう言い終わらない内に、舞は懐から細筒を取り出していた。それを短剣の柄に仕込んだ手裏剣《しゅりけん》に差し込み、壁に擦《こす》って火をつけた。その直後、舞は北麿の鉄球がめり込んだ天井目掛けて細筒を投げつけた。
舞たちは急いで階段を駆け降りると一階へ飛び降りた。舞は歳三の顔を両腕ではさんで耳を守り、その目を柔らかな胸で守ってやった。そして自分は両手で顔を覆い、親指を耳に中指と薬指とで両目を押さえた。
ドガガッガッガッガガ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ンンンンン!
その直後、轟音《ごうおん》を立てて火薬が大爆発した。二階の破片が階段を転がり落ちて来た。また一階の屋根からもバラバラと壁の一部が剥《は》がれ落ちてきた。
爆発の後、舞たちは静かになった土蔵の様子にあるいはと思った。
「舞、ひょっとしてやったかもしれんぞ」
北麿が言った。
「さあ何とも言えないわ。だってほら一階でも同じことをやったけど」
「今のは違う。祠を破壊できたかもしれない」
そう言うと北麿は立ち上がって階段のところまで行った。しかし、そこで北麿は呆然とした顔で二階を見上げていた。
「どうかしたの?」
舞が尋ねても北麿は何も言えない状態だった。そこで舞は北麿のところへ行って同じように二階を見上げたのである。そして舞は信じられないものを見た。
「二階が無くなってるわ……」
そうだった。今まで舞たちが隠れていた二階が全く無くなっていたのである。壁が潰《つぶ》れたのではない、階段の上がすぐに一階の天井になっているのだ。まるで最初から二階など無かったかのようである。
その時、またあの怨霊の笑い声が聞こえてきた。
「イイイイイヒヒヒヒヒヒィィィィ〜〜〜〜〜〜〜〜ヒヒィィヒヒヒィィヒィィィィ〜〜〜〜〜、いつまでこんな馬鹿をおやりだえぇぇぇ? もう二階の空間は消してしまったからねえぇぇぇ」
「くっそうぅぅ!」
北麿は歯ぎしりした。
天井が不気味に歪みはじめると少しずつ真っ黒い穴が開きはじめ、そこからさっきの三つの影が姿を見せてきた。床には不気味な顔で笑いつづける静の生首が転がっている。
「そうはいくかあ〜〜〜っ!」
北麿は叫ぶと、舞の手を引いて崩れた壁の向こう側へと移った。舞が最初に破壊した一階の壁の向こう側の土蔵である。
そこの階段に走り寄ると北麿は二階を見上げた。しかし、そこに見えたのは前のところと同じだった。階段の上には天井しかなかったのである。その横では捩れた穴のような不気味な渦が浮かび、三体の影が現れてきていた。
「ヒイイヒイイヒイイィィィィィ〜〜〜〜〜〜〜! ここは鏡と同じ世界、どこに逃げても同じじゃぞえぇぇぇぇ、イイイッヒッヒッヒッヒヒヒヒヒヒヒイイイイィィィィ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
こちらの長持ちの前の床にも、やはり不気味な顔で笑う静の生首が転がったままになっている。
「舞、怨霊の野郎、やはり俺たちを長持ちの中に逃げ込ませる気でいるぞ」
「そうね、ここより酷《ひど》い状況を用意して待っているってわけね」
三体の影がゆっくりと舞たちに近づいてくる。歳三は恐ろしさと緊張のあまり泣きだし、舞は歳三のためを思うと、最後は自分の手で楽にしてやる方がいいと思い始めていた。
亜細亜大陸に発生した猛烈な砂嵐が、モンゴル平原から中国東北部にかけて荒れ狂い、各地に甚大《じんたい》な被害を出していた。
大陸的な澄みきった青空は一瞬にして不気味なまでの赤茶色に染まり、一寸先も見えないほどの凄まじい砂嵐は、そのまま海を越え日本列島へと飛来した。中国北部を覆っている黄色の堆積土《たいせきど》の砂が、烈風とともに日本全土に降下しはじめていた。黄砂《こうさ》を含んだ烈風が砂塵《さじん》を巻き込んで猛烈に吹き荒れ、赤銅《しゃくどう》色に見える太陽が昇りはじめる頃、封鎖区域へとゆっくりと向かう数人の人影があった。
封鎖区域では、区域内に入ることはもちろん、人が近づくことさえ厳しく禁止されていた。特に封鎖区域に通じる五間幅の道の両端では、完全封鎖のために兵隊たちが完全武装で万全の警備をしていた。
その日は明け方になっても大陸からの強風がおさまらず、封鎖区域の中も砂塵《さじん》が激しく舞い上がっていた。その中で歩兵の一人が前方から数人の人影が封鎖区域に向けて近づいてくるのを見た。兵隊はそのまま砂埃《すなぼこり》を通してじっと目を凝らしていたが、どうやら人影は二人の男女であることが分かった。
一人は大柄な青年で何となく僧侶のような風貌をしているが、女の方は巫女《みこ》のような姿をしていた。その内に他の兵隊たちも彼らに気づきはじめ、こんなところに来るとは一体何処の何者かと互いに話し合った。
麗と左京だった。
風が吹き荒れ砂が渦巻く中を、二人は警戒中の兵隊たちのそばまで悠然とやってきた。
「何者だ、貴様ら?」
兵隊の一人が怒鳴った。
「ここは封鎖区域だ、怪我をしない内に戻れ」
兵隊が銃を振って二人に戻れと合図をした。すると左京が頭を掻きながら低い声で言った。
「我らは何も怪しい者ではない。少しの間だけこの中に入れてくださるだけでよいのだ」
「な、なにぃ〜〜?」
兵隊たちは呆気に取られた顔をした。
「では入ってもよろしいかな?」
「貴様は馬鹿か」
兵隊たちはそう言うと銃口を左京の胸に突きつけた。その内に騒ぎを見た他の兵隊たちもやってきて、二人を取り囲んだのである。
「どうして駄目なのですか?」
左京がもう一度聞いた。
「駄目だから駄目なのだ。軍のやることを貴様らに一々説明する必要などはない」
一人の兵隊が怒鳴った。そのうちに騒ぎを聞きつけて田辺がやってきた。
「あ……う……あう……?」
麗が可愛く小首をかしげながら手を合わせたのを田辺は見た。
「貴様ら軍人を馬鹿にしておるのか?」
田辺がそう言うと、左京が飛び出して田辺に向かって頭を下げた。
「私らは怪しい者ではございません。封鎖区域なるものが果たして如何《いか》なるものかを、実地に見聞致して後の語り種にと思うだけです」
「怪しい奴らだ」
そう言うと田辺は部下に向かって命令した。
「この二人を連行しろ。挙動がどうも怪しい!」
「ハッ!」
兵隊たちは二人に銃を突きつけた。
「で、どこへ連行いたしましょうか。テントでありますか?」
兵隊が聞いた。
「いくらなんでも直接にそれはまずいだろう。こいつらはあそこの石材屋の庭にでも連れていって数人で見張っていろ。俺はその間に大尉殿に報告してくる」
田辺がそう言った時、道の反対側でも何か揉《も》め事が起きている様子だった。やはり二人の奇妙な組み合わせの男女が、兵隊たちともみ合っているのが見えた。
田辺はそっちに急ぎ足で歩いていった。その途中、強風に煽《あお》られて田辺の軍帽が吹き飛ばされ、板塀まで勢いよく転がっていった。兵隊の一人がそれを追いかけて拾うと、戻ってきて軍帽を田辺へと渡し敬礼した。田辺は軍帽を深くかぶり直すと、その兵隊に敬礼した。
田辺が道の反対側に行くと、そこにも巫女の姿をした少女と僧侶のような着衣の青年の姿があった。
「いいじゃないの、ちょっと覗くだけだから」
彩だった。
「駄目だ、ここは軍によって封鎖されている特別地域だ。貴様らのような奴らを入れるわけにはいかん。帰れ帰れ!」
「そこを何とか、少し見るだけでもいいのだ」
隼斗が兵隊たち一人一人に次々と頭を下げた。
「駄目だ、これ以上逆らうと連行するぞ」
兵隊は銃口を隼斗の胸ぐらに当てて何度も小突いた。そこへ田辺がやってきて二人を見た時、あまりにもさっきの二人の姿と酷似するので少しギクリとした。
「伍長殿、こいつらは……」
そう言いかけた兵隊を田辺は手で制した。
「分かっている、いいからこいつらを連行しろ」
「は?」
兵隊たちは戸惑った顔をした。二人は封鎖区域に入ろうとはしたが、それだけのことで本当に連行するとは思わなかったからだ。
「何度言わせる気だ、この二人を石材屋の庭へ連れて行け!」
「ハッ!」
田辺の言葉に兵隊たちは直立不動の姿勢をとった。こうして二人は石材屋の庭まで連れていかれることになった。既にそこには麗と左京がいて、二人とも地面に座らされ、周りを銃を構えた兵隊たちに囲まれていた。
田辺は彩と隼斗を連行してくると、兵隊たちに命じた。
「こいつら全員を逃がすな。おかしな真似をしたら、その場で射殺しても構わん」
次に、田辺はテントへと向かった。
その様子をずっと小次郎の仲間たちがニヤニヤして眺めていた。田辺は小次郎とその一族がどうも気に食わない。勝手に軍を差し置いた行動をとることも勿論《もちろん》だが、あまりにも連中の素性が胡散臭《うさんくさ》過ぎるのだ。
深夜、奴らが樽を積んだ荷車を引いて封鎖区域を出入りし、その夜の間に行方不明者が出て警察がやってくるという事態も尋常ではない。八雲は小次郎の一族を特別待遇しているが、それも田辺が不快感を持つ原因の一つだった。
強風の中を軍帽の鍔《つば》を掴み腰を曲げて歩く田辺の姿を、あちこちの屋根や窓から覗いている連中の目は、どれもが魚の鱗《うろこ》のように濁って田辺にはどうしようもなく気味悪く映った。
それに奴らの体から滲《にじ》み出すあの異様な匂いが、田辺には我慢できなかった。奴らがそばに来ると何とも表現しようもない嫌な匂いがしてくるのだ。それは屍肉の匂いと似ている何かだが、田辺にはそれが一体何の匂いかは分からなかった。
奴らは手入れもしない髭を伸ばし放題にし、顔や腕や脚などに不気味な色の入れ墨をしている。その姿は野蛮人そのもので、兵隊たちを見る時の奴らの目も何処か異常だった。
少し前、背筋に悪寒《おかん》が走るのを感じた田辺が後ろを振り返ると、そこに腐った魚のような目でじっと自分の姿を見ている大男がいた。見るとその男は汚らしい髭面を向け、嫌らしそうな口元でニヤニヤと微笑んでいた。それを見た時、田辺は虫酸《むしず》が走る思いがした。その男の目が異常だったからだ。
あれやこれやで田辺は八雲と小次郎一族の間に立って気苦労が絶えなかった。田辺のような叩き上げの軍人は八雲のような教養の高い男は苦手だ。
例に洩れず田辺は貧しい小作人の出身で、食い扶持《ぶち》を減らすために兵隊になった男である。田辺が聞いた噂《うわさ》によると、八雲は伯爵家の生まれで、子供の頃から洋行までして知識と教養を身につけたという。田辺にはそういう華族の世界は全く分からなかったが、生まれながらにして天と地ほどの差があったことだけは理解していた。
だからこそ八雲は、普通の兵隊では到底考えられない持参テントの中で日々を過ごし、ワインを飲んだり男装の麗人を連れ込めるのだと思った。田辺は決して妬《ねた》み深い性癖を持つ男ではないが、それでも八雲の行動には、生粋《きっすい》の軍人として賛同しかねるところが多かった。
「ゴールド眼鏡のハイカラは、都の西の目白台……♪」
田辺は巷《ちまた》で流行するハイカラソングの一節を口ずさんでいる自分に気づき、思わず口を塞《ふさ》いだ。
(危ない危ない……)
この封鎖任務が明けたら、妻から聞いていた七歳の娘の好物のサクマ式ドロップスという新しい西洋風の飴《あめ》を町で買ってやろうと思った。色のついたガラス玉のような綺麗な飴で、田辺も娘から一つだけ嘗めさせてもらったが、如何にも西洋を感じさせるような不思議な味がした。田辺は真面目な軍人だったのだ。
田辺は軍用テントの前に立つと直立不動の姿勢をとった。
「大尉殿、封鎖区域に入ろうとした怪しい男女四人を捕らえましたが、如何《いかが》致しましょうか?」
田辺の言葉にテントの中は沈黙したままだった。そこで田辺はもう一度言った。
「大尉殿、お目覚めでありましょうか?」
すると暫くして、中で微かな音がして、つづいて八雲の声が聞こえた。
「ご苦労、伍長。ちょっとテントの中に入れ」
「ハッ!」
そう言われた田辺はテントの厚い布を開けた。するとそこには双眼鏡を手にした八雲と美千子の姿があった。
八雲のすぐ後ろには小次郎が二人の女を従え、横柄《おうへい》な態度でソファーに座っていた。そして不精髭を引き抜いては息で吹き飛ばしている。
「田辺、これからが正念場だぞ」
八雲が言った。
「は?」
田辺は八雲から急に正念場と言われても何のことか分からなかった。
「伍長さん、今あんたが相手をしている四人は、あんたを含めた俺たち全員の共通の敵ということだ」
小次郎がにやけた顔をしながら言った。田辺は小次郎からもあの嫌な匂いがしていると思った。それに小次郎の艶光りした顔もあまり好きではなかった。
「小次郎、おまえは黙っていろ、私から伍長に話す」
そう言うと八雲は田辺に向かって口を開いた。
「伍長、君にはある程度までは話しておくつもりだが、あの四人はこの封鎖区域を破壊するために潜入した男女だ」
田辺にはまだ飲み込めない。
「簡単に言うと、二人の斥候《せっこう》が死んだ謎の区域は、軍事上極めて重要な場所であるということだ。その区域の中には、これから先百年の日本の命運を握るほどの重要な生物兵器が隠されている」
「生物兵器でありますか?」
「そうだ、生きた兵器だ」
「その兵器を小次郎たち一族が捕らえて軍事的に供給することになるが、それを妨害する勢力があって、あの四人がその手先ということだ」
田辺の頭はまだ混乱していた。八雲の話をどう理解してよいか糸口さえ掴めないのだ。しかし、少なくとも連行した四人の男女が軍にとって極めて不都合な人間であることだけは理解できた。田辺にはそれだけで十分だった。
「命令とあらば射殺してまいりますが」
田辺は直立不動の姿勢で言った。確かに軍の封鎖区域に勝手に入った以上は、射殺されても文句は言えない。八雲が暫く考えていると小次郎が言葉をはさんだ。
「一度あの連中がどういう奴らかを見ておいた方がいいかもしれんな」
「しかし、射殺するのはどうかな」
八雲は金縁眼鏡を外し胸のハンケチで拭いた。
「ふふふふ……」
それを聞いて小次郎が笑った。
「何がおかしい?」
八雲は眼鏡をかけ直すと、小次郎を鋭い目で睨み付けた。
「やめなさい、小次郎、八雲はあなたの上官なのよ」
美千子が厳しい顔で窘めると、小次郎はおやおやという顔をして笑うのをやめた。田辺はなぜこうまでして、大尉がこんな下品な連中と組もうとしているのかが、全く分からなかった。
「失礼だが、あの四人をそう簡単に殺せるとは思えないな」
小次郎の言葉に、八雲はこれほどの数の兵隊を前にしてたった四人で何ができるのかと思った。同じことを田辺も思った。田辺にすれば小次郎の言葉は、明らかに自分と自分の部下に対する侮辱以外の何物でもない。
「失礼とは思いますが、今の言葉は撤回していただかねばなりません」
小次郎に向き直った田辺は大声で言い放った。しかし小次郎はニヤニヤするだけで、撤回する気など毛頭無いという態度である。
そこで田辺は八雲に向き直ると言った。
「彼ら四人が軍の封鎖区域を故意に無視した以上、以後の見せしめのためにも射殺しておくべきかと思います」
田辺の言葉に八雲は小さく頷いた。
「分かった分かった、一度やってみるがいい。それから仮に奴らを殺せたとしても心配はいらねえ。奴らは俺たちと一緒で出生が登録されていない連中だ」
そう言うと小次郎は歯を見せて笑った。
今朝、まだ日が昇る前に小次郎がテントにやってきた。そして朝早くに怨霊を封じ取る連中が封鎖区域を越えて入ってくることを知らせてきたのである。
八雲は即刻臨戦態勢をとろうとしたが、小次郎はそれを止めた。小次郎はその理由は言わず、ただ封鎖区域の中に彼らを入れることだけを告げたのである。
八雲は軍の上官として小次郎の言葉を拒否したが、小次郎は言った。
「悪いことは言わねえ、あんたは何もしないで部下に全てを任せておいた方がいい。そうしたらあんたは怨霊を必ず手に入れることができる」
「もし彼らが邪魔をして怨霊を手に入れられなくなったらどうする?」
「その時はその時だ、あんたは俺を殺せばいい。勿論、殺せるとは限らないがな」
「……!」
「とにかくあんた自身が怨霊を狩りとる連中の姿をよく知るためにも、奴らを一度この中に入れ、奴らの本当の力を知っておく方がいい」
こうしてテントの中で八雲と小次郎たちは、その時をじっと待っていたのだ。
テントの小窓から石材屋の庭が見え、そこに兵隊たちに囲まれてじっと座っている四人の姿があった。
「奴らの力を見るために、この伍長の言う通りにするのも一考かもしれん」
小次郎がそう言うと、八雲は伍長に向いて頷いた。
「銃殺にしろ」
「ハッ!」
伍長はそう言うと敬礼し、駆け足でテントの中から出ていった。
八雲にすれば、いずれ軍の敵になる一団と兵隊を今のうちに戦わせておくことは、これから先のためにも必要なことだった。
(万が一の時、小次郎とその一族を根絶やしにする事態も想定しておかねばならなくなる。その前哨戦《ぜんしょうせん》として、不可解な術を使う裏世界の住人らが完全武装の兵隊とどう戦うかは、見ておく必要がある……それに四人は小次郎と同じく怨霊を逃がしたくない以上、勝手に結界を外す心配は無い。仮に田辺たちが一掃される事態になれば、小次郎の一族が四人と戦うことになるだろう。そうなれば小次郎の一族の戦力と戦法を見ることもできる)
当然だったが八雲はまだ小次郎を完全には信用していなかった。
田辺は四人が捕らえられている石材屋の庭に足早に行くと、あらためて四人の顔をじっくりと覗き込んだ。
見ると誰もが撥剌《はつらつ》とした若者で、とても大それた真似をするような者たちには見えない。しかし、軍が封鎖している立入禁止区域に堂々と入ろうとした以上は見逃すわけにはいかない。田辺は少し躊躇したが、八雲の命令を遂行せねばならない。
「射殺しろ」
田辺は四人を囲んでいる兵隊たちに命じた。彼らは伍長の突然の命令に驚き、互いに顔を見合せた。たとえ軍とはいえ、調べも無く民間人を射殺するようなことは考えられなかったからだ。まして四人は巫女と僧侶の姿をしている。
「貴様らには耳が無いのか。上官命令だぞ!」
田辺が大声で怒鳴った。兵隊たちは動揺を隠せなかったが、上官からの命令なら従わざるをえない。
「あそこの壁に並ばせて全員を撃ち殺せ」
田辺がそう言うと、兵隊たちは困惑しながらも四人の腕を後ろ手に縛ろうとした。その時、左京が右手を兵隊たちの前に突き出すと、人指し指、中指、薬指の三本の指を立てた。兵隊が一体何の真似だと思った時、左京は目をつむって奇妙な呪文を唱えた。
「|※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]《オン》 縛曰羅《バサラ》 萸駄《ユタ》!」
その瞬間、田辺が見ている前で左京を縛ろうとした兵隊の姿が急に薄くなると、その内に完全に消えてしまったのである。田辺と他の兵隊たちは、まるで白昼夢でも見ているような顔で、その場に棒立ちになってしまった。
「な、な、な、な……」
田辺は言葉にならない呻き声を出した。次に四人を囲んでいた兵隊たちの姿も、淡い光の靄《もや》に包まれたかと思うと、空中に溶け込むように掻き消えてしまった。
田辺は信じられない光景を目の当たりにして腰が抜け、その場に尻餅をついてしまった。それを遠くから見ていた他の兵隊たちは、仰天のあまり何事かと持ち場を離れて駆けつけてきた。
「伍長殿、大丈夫でありますか?」
田辺はあまりのことに声も出せずに竦《すく》んでいた。自分の眼前で五人の兵隊が手品のように消えてしまったからだ。
銃を構えて駆けつけた兵隊たちが四人の前で壁となった。その数は八人だった。様々な石像や灯籠《とうろう》の立ち並ぶ石材屋の庭を、強い烈風が砂塵を巻き上げて吹き抜けていった。
「き、貴様らは……い、一体何者だ?」
田辺はやっと口を開いた。
「俺たちは、あそこから出てくる者らを迎えに来ただけの者」
左京が結界を指しながら言った。
「ば、ば、馬鹿を言え。ここは軍によって封鎖されている立入禁止地域だ。か、勝手な真似は許されん」
兵隊たちは銃を構えると四人の周りを一斉に取り囲んだ。その瞬間、今度は隼斗が三本指を立てて呪文を唱えた。
「|※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]《オン》 縛曰羅《バサラ》 萸駄《ユタ》!」
すると今度は、八人の歩兵の姿が同様の淡い光に包まれたかと思うと、瞬時に掻き消えてしまったのだ。田辺はあまりのことに、へたり込んだまま足をガタガタと震わせていた。田辺は自分の常識を覆《くつがえ》す現象が次々と目の前で起きた衝撃に恐怖した。
戦場では雄々しく戦った田辺だったが、心底恐怖に震える心霊的現象だけは、幽霊と同じで勇気とは全く別物なのだ。
その内、封鎖していた兵隊たちも一斉に持ち場から離れて石材屋に駆けつけてくるのが見えた。慌てた田辺は震える足で立ち上がると、両腕を強く振って来るなという合図を送った。しかし、その時は既に遅く、封鎖区域を両端で警備していた兵隊たちが、数名の兵を残して駆けつけてきた。
左京と隼斗はそれぞれの背を合わせて彼らに向かって立つと、同時に印を結んでさっきと同じ呪詛《じゅそ》を唱えた。すると凄まじい風が巻き起こり砂塵が舞い上がると同時に、兵隊たちの姿は地上から消滅してしまったのである。
(この若者たちは神仏の加護を受けているのではないのか!)
田辺はそう思うと、神仏に逆らう恐れから腰の自分の銃を抜くこともできなくなった。田辺の家は熱心な浄土真宗の信徒だったのだ。
その時、封鎖区域の外に一人の男が立っているのが見えた。その男は顔に朱色の布のようなものを巻き、ゆっくりと封鎖区域に近づいてきた。その様子に驚いた兵隊たちは、その男の前に立ちふさがり銃を構えて威圧した。
「貴様は誰かぁ?」
そう言うが早いか、彼らの姿は地上から消え失せていた。やってきたのは中頭の秋水だった。秋水はゆっくりと封鎖区域の中に入ってきた。それを見ていた一方の封鎖区域の兵隊たちも、あまりの出来事にどうしていいか分からず銃を構えて秋水を撃とうとした。その瞬間、彼らの姿も地上から消えた。
この様子をテントの中から見ていた八雲は、あまりの出来事に言葉を失った。ほんの数分で警備中の兵隊が全て地上から消されてしまったからだ。八雲は彼らの力は、この世のものからかけ離れた力に違いないと思った。
(あれは別の世界の力に違いない……!)
美千子も同じように思った。目の前に展開した出来事がとてもこの世のものとは思えなかったからだ。
八雲は自分の肩に手を置かれたことに気がついた。小次郎だった。
「大尉殿、奴らが怨霊を封じ取る怨霊師と陰陽師だ」
そう言うと小次郎はニヤリと笑った。
八雲はいつもより小次郎の放つ体臭が強いことが気になった。元々、嫌な匂いを放つ男だったが、今朝は特に胸が悪くなるほどの体臭なのだ。あるいは昨夜、人肉を食らったのかもしれない。
八雲は以前、留学していたイギリスで人肉を食った人間の話を聞いたことがあった。どこまでが本当の話か分からないが、人肉を食った人間は一目で分かるという。まず顔が妙に脂ぎり体臭も異様に強くなるというのだ。八雲は小次郎を見ていて、あるいはその話は本当かもしれないと思った。
だが、それと自分の眼前で起きている戦慄《せんりつ》すべき状況とは全く別問題である。八雲は近代装備の兵隊が瞬時に消え去った事実に脅威を覚えた。
「どうして兵隊たちは消えてしまったんだ?」
「あんたはまだ何も分かっちゃいないのか?」
小次郎にそう言われて八雲は気がついた。
「結界か?」
「そうだ、大尉殿も少しは進歩してきたわけだ。小さな結界を張ったため兵隊たちが消えたように見えているだけだ」
「では中の兵隊たちは無事なの?」
美千子が聞いた。
「兵隊たちは別の空間に閉じ込められているだけだ」
「恐ろしいほどの心霊術だ……!!」
八雲はあまりの心霊現象に我を忘れた。
(このような力を亜細亜大陸の戦場で使えば、日本軍は瞬《またた》く間に世界を制覇できるだろう……)
「あの程度は俺にも簡単にできる術だ。しかし奴らはこれで完全に袋の鼠《ねずみ》になった」
「どういうことだ?」
八雲は小次郎の落ち着きはらった態度が気になった。
「奴らの張った結界が、最後は罠《わな》を閉じる道具になるということだ」
八雲は小次郎の言う意味が分からなかった。どういうことか尋ねても、小次郎は不敵な顔で笑うだけだ。
「でも、このまま彼らを放置しておくわけにもいかないわ」
美千子が八雲に言った。
「そのために俺たちがいるんだろうが」
小次郎がポツリと言った。
「どうするんだ?」
八雲が小次郎に策を聞いた。しかし、小次郎は相変わらず不精髭を指で摘んでは抜いているだけである。
「ここで見ているがいい。連れてきた連中を奴らにぶつけたら、もっと多くのことが分かるだろうよ」
そう言うと小次郎はテントからゆっくりと外に出た。
中頭が小次郎の姿に気づいた時、小次郎は二人の護衛を引き連れて悠然とテントから出てくるところだった。
「出てきおったか」
秋水が言った。
「あやつが傀儡《クグツ》の長ですか?」
左京が聞いた。
「いや、長の息子の一人だ」
「すると傀儡一族の長は別に?」
隼斗は六角棒で地面を打った。
「うむ、奴らの長は滅多なことでは出てこぬ」
小次郎が姿を現すと、あちらこちらの屋根や窓、そして路地裏から何十人もの見慣れぬ姿の男たちが姿を見せはじめた。
「総勢六十人ほどと見た」
秋水が言うと、彩はその間に銃を構えている者の場所と数を覚え取った。
小次郎は秋水から十五間(三十メートル弱)ほど離れた場所で対峙《たいじ》した。その時、急に一陣の風が起こり小次郎の長く黒いコートの裾を巻き上げた。小次郎は秋水に向けて大声で言った。
「初めてお目に掛かる。俺は傀儡衆の小次郎と申す者。貴殿らは既に我らの手中にある故、武器を捨てた方が身のためと思うが如何かな?」
それに答えて秋水が言った。
「それはできぬ、我らとて目的を持ってここに来ておる」
「言っておくが、俺に陰陽の術は通用せんぞ!」
小次郎は笑いながら言った。
「我らは陰陽の術における奥義伝承を正当に受け継いだ者たちだ。貴様ら如きの汚れた術で我らの術を超えられるおつもりか?」
秋水の言葉を聞いた小次郎は鼻で笑った。
「せっかく怨霊の絶好の餌《えさ》になると思ったのだが、仕方がないな」
そう言うと小次郎は耳の後ろを掻いた。
「屑《くず》どもめ」
左京が吐き捨てた。
「では仲良く死ぬんだな」
小次郎がそう言うと秋水は皆に言った。
「奴らは怨霊と同じく人間を食らう呪われた一族だ。奴らに連れ去られて助かった者は一人としておらぬ。奴らの一人を取り逃がせば罪のない百人の者が食われるものと思え!」
「はっ!」
四人は身構えた。その直後、小次郎は大声で叫んだ。
「殺せぃ!」
その瞬間、銃が一斉に火を噴いた。
ガガガガガガンン………………………ンンンンンン!
硝煙が巻き起こる中を激しい砂塵が舞った。しかし、既に五人の姿はそこから消えていたのである。小次郎は彼らが自分自身に結界を張ったと気づいた。そこで直ちに結界を外す印を結ぼうとしたが、その時は既に遅かった。
空間が歪《ゆが》み捩れる外景が見える亜空穴を走り抜ける者たちは、それぞれの亜空穴から傀儡衆の囲みの裏へと回ると、そこから一斉に姿を現した。
「殺せい、殺せい、殺せい!」
小次郎は不意をつかれて慌てる傀儡たちに向かって叫んだ。
傀儡たちが振り返った時は既に遅かった。左京たちは目にも止まらぬ早さで傀儡たちを次々と打ち倒しはじめたのである。
彩は銃を持っていた数人の男たちの目を瞬時に鋼芯で射抜いていった。
「ギャアアア!」
「グェエエッ」
凄まじい叫び声がする中、慌てた傀儡たちは混乱状態に陥った。彩は傀儡たちの中を風のように駆け抜け、亜空穴を縦横無尽に利用した。彩は消えた瞬間には別のところに姿を現した。次々と銃を構えた者らの前や後ろに現れては、彼らの体を射抜いていった。
体を貫く鋼芯の凄まじい激痛で彼らの銃は空を撃ち、時としてそれが仲間に命中した。
「グゲッ!」
「うわああっ!」
彩が現れた直後には必ず悲痛な叫び声が上がった。彩は姉の涼と同じ鋼芯の技を持つ女だった。彩の鋼芯は涼の鋼芯よりも一回り細く、その分だけ鋼芯がしなやかで持ち運べる本数も多かった。
彩は他に小型の鋼芯も何本か身につけていた。それは腕に巻いた革帯に装填《そうてん》されており、時として親指と人差し指で曲げて弾《はじ》き飛ばす武器になった。特に近距離の敵を相手にする場合には、わずかの動きで敵を殺傷することができた。彩は涼よりも数多い多種の鋼芯を鍛冶師に造らせ、それを武器として身につけていたのだ。
彩の背後から忍び寄ってきた者がいた。手には大きな斧《おの》を持ち、髭面の顔は脂ぎり、口からは嫌な匂いを吐き出している。男は大柄な体格だったが、ほとんどそれを感じさせないほど身軽に動いた。実際その身軽さで、男は何人もの敵と戦っては勝利し、その肉を貪《むさぼ》り食ってきたのである。
「女ああぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
男は大声を出して彩の背後から斧で討ちかかろうとした。その瞬間、彩は大きく後ろへ回転すると宙を飛び、男の頭上を越えて背後を取った。
男が斧を振り上げて振り向いた瞬間、彩の小型鋼芯がその両眼を刺し貫いていた。
「ギィイヤヤアアアアアァァァァァ!」
男は奇妙な叫び声を上げると、激痛の中でのたうち回り、やがて全身を痙攣させた後、両腕で空を掴んだままの姿で絶命した。
「グゲェッ」
それが男の最後の息となった。彩は鋼芯にトリカブトの猛毒を塗ることを常とした。そのため鋼芯の持つ威力は倍加した。彩の鋼芯を身に受けた者は、ほどなくして絶命していった。
彩の両手には、指先が金属の箆《へら》のような板に覆われた革製の手袋がはめられている。
彩は裏忌部で忍として鍛えられている間、鋼芯を使う様々な技を身につけていた。そのため身は軽く、傀儡たちは全く彩の動きが掴めなかった。それほど彩の動きは尋常ではない。その速さはまるで無人の野を行く有り様で、敵陣を駆け抜けたと思うと、次の瞬間には亜空穴に姿を消し傀儡衆を大混乱に陥れた。
彩は他にも必殺武器を持っていた。それが長さ三尺もある槍のような鋼芯である。彩はそれを三本束にして背中に背負っていた。
彩は突然に亜空穴から飛び出すと、激しく敵陣の中を動き回り、小さな結界の隙間《すきま》を次々と移動した。そのため傀儡たちの長銃や小銃は全く狙いが定まらない。下手に撃つと味方に命中してしまう。
彩はついに大業《おおわざ》を出した。傀儡たちが三人重なった瞬間を狙い、三尺もの鋼芯を力一杯に投げ放ったのである!
三尺鋼芯は唸《うな》りを上げて宙を飛び、最初の男の腹を一撃で貫き通すと、つづいて別の男の胸板に命中し、最後にもう一人の男の喉に深々と突き刺さったのである。
「ウォアァァ!」
「グエッッ!」
「ゲフッ!」
男たちはもんどりうって倒れ、彩は三尺鋼芯を最後の男の喉から抜き取った。その瞬間、男は喉から鮮血を吹き出し、激しく痙攣して息絶えた。彩は三尺鋼芯を再び背中に戻し、次の瞬間には亜空穴の中に姿を消していた。
こうして傀儡たちは幽霊を相手に戦っているのも同然の有り様に陥ったのである。
麗は四天女の中で一番年下のいたいけな少女だった。しかし麗が全身に返り血を浴びた時、その姿は荒ぶる鬼神と化していた。
麗も捩れた亜空穴を変幻自在に駆使した。これが本来の怨霊師と陰陽師の戦い方だった。亜空穴を瞬時に開いて走り抜け、全く別のところに己の姿を現す。その術を自在に使いこなせてこそ、初めて一人前の怨霊師と陰陽師なのだ。
麗は短い髪を燃え狂う炎のようにたなびかせ、傀儡衆の真ん中に現れると、その直後には四人の男たちを串刺しにしていた。目にも止まらぬ素早い麗の槍先は前後左右へ自在に飛び出し、男たちは気づく間もなく刺し殺されていた。
麗は彩と違い、わざと集団の中に身を置いて戦う戦術を得意とした。
傀儡たちの中にも槍を持つ者がいた。
「殺してやる。俺が最初におまえの喉を噛み切って血肉を貪り食う!」
そう言うと、朱色に染めた髪の毛の男は、麗の槍の倍近い長さを持つ長槍を構えた。男の体には下劣な絵姿の入れ墨が全面に彫られていた。
「…………」
麗は虫酸が走るという顔をして六尺槍を構えた。おそらく男の槍は九尺は優にあるだろう。男の面構えは如何にも下品で、後頭部を坊主のように剃りあげ、顔にも卑猥《ひわい》な入れ墨がいくつも彫ってある。
男は長槍を何度もしごき、その度に麗に向かって槍を放ったが、その全てが麗にかわされてしまった。
「この女!」
朱色頭は憎々しげにそう叫ぶと、今度は長槍を早業で連続突きしてきた。
「ナッ、ハッ、ヤッ!」
しかし朱色頭の槍先は麗の素早い動きに全くついて行くことができない。ふと気がつくと自分の槍の内側に麗の姿があった。亜空穴を瞬間移動したのだ。この近さでは朱色頭の長槍は全く役に立たない。
「うわあああああっ!」
朱色頭は奇怪な叫び声を上げると、長槍を捨てて腰の剣を抜こうとした。その瞬間、朱色頭は自分の全身に鈍痛が走ったのを感じた。
見ると己の胸、両腕、両足の五か所から鮮血が噴水のように吹き出している。男は恐怖のあまり叫び声を天に向かって上げた。
「ギイイイイヤヤアアアアアァァァァァァ!」
朱色頭は体を硬直させたまま膝を折ると、そのままゆっくり前のめりに倒れていった。
麗の槍は常人の一突きの間に三突き放つと言われている。傀儡たちの槍が放たれた時には、既に勝負がついているのである。
それが麗の天分であるとともに、槍の柄に通した特殊な輪冠を左手で握る知恵の産物でもあった。麗はその金属の輪をいつも左手で握っていた。その輪冠が柄にあるため刺した直後に素早く柄を引き戻し、すぐに押し出す行動を可能としたのだ。
その輪冠が柄から抜け落ちない工夫もされていて、口金下部の胴輪部と石突き上部に外れ止めの膨らみがつけてあった。
麗の素早い動きの前では傀儡たちの業は完全に押さえられ、翻弄《ほんろう》されたまま沈黙するしかなかった。
「あの女を取り囲め〜〜〜〜っっっ!」
何とか麗の足を止めた傀儡たちは四方から六人で麗を取り囲んだ。麗は肩で息をしながら槍を構え、たった一人で男たちと対峙した。
「俺はこの女の太股の肉を頂戴するぜぇ」
「では俺は女の胸の肉だぁ」
「俺は頭。脳味噌も俺が啜《すす》ってやる」
「俺は尻の肉が欲しい」
「ガハハハハ、じゃあ俺は内臓を全て頂戴しようか」
「俺は女の……」
最後の男がそう言い終わる前に、囲んでいた傀儡らの首は一瞬にして刎《は》ね飛ばされていた。飛ばされた首は地面に次々と落ち、あちこちに向かって転がっていった。なかにはまだ口をパクつかせていた顔もあったが、やがて全く動かなくなった。
麗は片手で槍の端を持ったかと思うと、素早く円を描いただけだった。その直後に、傀儡たちの首は胴から離れ宙を舞っていたのだ。
麗の前では傀儡衆もただの木偶《でく》の坊に過ぎなくなった。しかし傀儡たちの一人が麗の前に立ちはだかった。その者は両手に持った鎌で麗の槍先を何度もかわしたのである。
麗はその男の顔や腕に無数の刀傷があるのを見た。それらの傷に匹敵するだけの戦いの中、この男は実戦的な技術を身につけていったのだろう。男は勝利を確信してニヤリと笑うと、麗もニコリと微笑んだ。
その時、男は馬鹿にされたと思った。
「この野郎、八つ裂きにしても飽きたらねえ女だぜ。生きたまま俺が腹を割いてやるから覚悟しな」
そう言い終わると、男は一方の鎌を槍の一撃を跳ねるため胸元近くに構え、もう一方の鎌を高々と持ち上げて麗目掛けて突進した。その時、麗は槍先を強く横に振った。直後、男は悲痛な叫び声を上げていた。
「ゲェェェェエエ〜〜〜〜ッッッ!」
勝負は瞬時についた。男の眉間《みけん》に麗の槍先だけが杭のように深々とめり込んでいた。男は信じられないという表情で、己の額に突き刺さった槍先を寄り目で見上げていた。全て後の祭りだった、男はゆっくりと目を閉じると仰向けに倒れていった。
麗は槍の口金に男の額に突き刺さった刃先の端を差し込むと、手元にある留め金を掛けた。すると刃先はカチャッという金属音とともに再び槍の柄に装着されたのである。
麗の槍は刃先が抜ける装填《そうてん》式の槍になっている。つまり槍の螻蛄首《けらくび》から上が外れ、再び装着できる特殊な槍なのである。槍刃は口金から下の逆輪《さかわ》にある留め金で装着され、刃先の固定を確実にしていた。麗は、実戦の間でも簡単に刃先を入れ換えることができるよう、刃先と逆位置にある石突きと水返《みずがえ》しの間の留め金を動かして操作した。
その留め金を引くと一発で刃先が緩み、槍を振ると目掛けたところへ刃先が抜けて飛んでいくのである。
驚く傀儡衆を前に、麗は再び装着した槍先を男の眉間から引き抜いた。すると男の額から脳汁とともにどす黒い血が噴水のように吹き出し、瞬く間に男の顔を真っ赤な血に染めた。
傀儡たちが呆然と見ていたその数秒の間に、麗は背後の男に槍を振り、男の頭半分を綺麗に吹き飛ばし、返す槍で正面の男の喉を貫いた。
その様子を腕が長く背丈が八尺(約二・四メートル)もある痩せた男が、気味の悪い目つきでじっと物陰から見ていた。この男は麗の槍が届く間際までは来るが、決して他の連中のように遮二無二斬り込んだりはしなかった。じっと麗の槍の圏外にいて麗を付け回すだけなのである。
ついに長腕男に大きな機会が訪れた。麗が数人を槍で突き倒した後、奇妙な甲冑《かっちゅう》で全身を覆った男と向かい合った時である。甲冑男は武器である太い鎖の先に突いた鉄塊をブンブン振り回し、麗の槍の圏外から隙を狙っていた。甲冑男もやはり、決して麗の槍の間合いに入らず、己の鎖の長さである間合いで勝負をつけようとしていた。
「これで貴様もお終《しま》いだぁ〜〜。可愛い顔を潰させてもらうぜぇぇ。その方が柔らかくなって食いやすいからなぁ!」
籠《こ》もったような甲冑男の声が響き、兜《かぶと》の穴から男の目が覗いて、いやらしく笑うのが見えた。その瞬間、空気を震動させるような唸りを立てた鉄塊が麗の顔目掛けて飛んできた。麗は頭を振って鉄塊を避けると、次の瞬間には甲冑男に向かって突っ込んでいった。
それを見越したように甲冑男は鎖を手で横に振った。すると鎖のうねりが大きく左右に波打ちながら走り寄る麗の顔目掛けて突き進んできたのである。
思わぬ動きに、麗は足を滑らせ尻餅をついた。既に甲冑男は麗の間近まで迫っていた。その時、横合いから麗に襲いかかろうと別の男が現れたため、甲冑男はその男の頭蓋骨《ずがいこつ》を叩き潰した。それから男は両腕に鎖を巻き付け、麗の首を捻《ね》じ切ろうと突進してきたのである。
「死ねえええぇぇぇぇぇぇ!」
その時、麗は竿を振るように槍を振り下ろした。
「グゲッ!」
甲冑男は、錆《さび》臭い兜から覗く穴に向けて一瞬光るものが飛んできたことまでは覚えていたが、次の瞬間には頭蓋の底まで貫くほどの凄まじい激痛に襲われたのである。麗は槍先を飛ばし、信じられないほどの正確さで兜の覗き穴に命中させていた。
しかし、その業は麗を知る者にとれば奇跡でも何でもなかった。大忌部の里では、麗はどの位置の蝋燭《ろうそく》でも槍先を飛ばし百発百中で芯に命中させて炎を消していたからだ。
甲冑男はあまりの激痛にのたうち回った。その時、ひょろ長い腕が伸びてきて、甲冑男の目から槍先を抜き取ったのだ。
「ギイェェェェェェェ〜〜〜〜ッッッ!」
その瞬間、兜の穴から間欠泉《かんけつせん》のように血飛沫《ちしぶき》が吹き上がると、甲冑男の体は激痛のために反り上がった。究極の痛みが脳天まで貫いた時、凄まじい痙攣とともに息の根が止まってしまったのである。
槍先を抜いたのは、麗の後を付きまとっていた長腕男だった。男は槍先を遠くに投げ捨てると、ニヤニヤ笑いながら麗に向き直った。刃先が無い槍など竹光と同じだからだ。長腕男は己の勝利を確信し、得意な武器である太い棍棒《こんぼう》を手にすると、歯が全くない口でいやらしく笑った。
その時、長腕男は信じられないものを目の当たりにした。麗の持つ槍に別の槍先が装着されていたのである!
それも槍先には十字刃がついている。
「な、な、何故こんなことが?」
長腕男は激しく狼狽《ろうばい》した。麗が背負う革袋の中には十字刃の他に、鎌の形をした片鎌刃、両方に鎌が付いた両鎌刃、そして鉤《かぎ》を両脇に付けた鉤刃、鋸《のこぎり》の刃ような刻みの付いた鋸刃、先に鉄球が乗った鉄球刃、二股に割れた股刃、三叉《さんさ》に割れた三叉刃と様々な装着刃が、刃を下向きにして入っていたのである。
麗は用途に応じて様々な刃を背中で柄を斜めにして装着し、怨霊を相手に縦横無尽に戦ってきたのだ。
長腕男は麗の槍の間合いの外へ逃れようと慌てたが、既に遅かった。長腕男の背中から胸にかけて十字刃が貫いた。その十字刃が体から抜かれると同時に長腕男はもんどりうって崩れ落ちた。次の瞬間、麗の姿は亜空穴へと消えていた。
左京は剛力だった。八貫目(約三十キロ)もある六角鉄棒を自在に扱って、傀儡たちの刀を次々とへし折り、鉄兜を粘土のように叩き潰していった。
傀儡の一人が矢を放ったが、瞬時に左京は亜空穴に身を隠し、次の瞬間には六角鉄棒で弓番の男の体を打ち砕き、絶命させた。
左京は鉄張りの六角棒を自在に操りながら次々と傀儡たちを叩き潰し、打ち砕いていく。傀儡たちの持つ槍、刀、鎌、鉈のような類《たぐい》の武器では、到底左京の振り回す六角鉄棒を受けきることができなかったのである。傀儡たちは次々と腕を砕かれ、頭を潰され、腹を打ち破られて粉砕されていった。
左京は四天王の中で最も優しく情の厚い男だったが、怨霊や傀儡のような極悪の群を打ち砕く時は情け容赦もない鬼神と化した。
傀儡たちを倒す時、左京は口の中で呪文を唱えつづけていた。それは悪鬼を地獄に送る呪文であり、本来は怨霊を狩りとる時に唱える。その怨霊と同様、傀儡たちにも左京は一切容赦せずに立ち向かった。
左京の豪毅さを見た二人の屈強な大男たちが前に立ちふさがった。体格や背恰好は左京とほぼ同じで、無数の棘《とげ》の付いた二股に分かれた鉄棒と、撞木鮫《しゅもくざめ》のように左右に突き出た鉄棒をそれぞれが手に持っていた。
左京は二人の顔を見る。大男たちは双子らしく、体格は勿論、目と口元が鏡に映したようにそっくりだった。
「他の人は手を出したら駄目だよぉ〜〜〜〜っっ!」
一方の髭面男が言った。すると他の傀儡たちは蜘蛛の子を散らすように左京から遠のいた。しかし、一人だけ仲間の流れ弾にでも当たったのか、道の真ん中に倒れて、もがいている男がいた。すると二股の鉄棒を持った方がその男に近寄り、優しく見下ろしながら言った。
「聞こえなかったのかい、君、邪魔なんだよぉ!」
しかし、男は両足の太股が貫通するほどの重傷で、倒れたまま起き上がることもできないでいた。
「困ったなぁぁ、何度言ったら分かるんだよおぉぉ君は!」
そう叫ぶと髭面男は二股を男の喉元に捻じ込み、そのまま一気に串刺しにしたのである。その時、無数の棘が男の喉に突き刺さるブチブチという不気味な音が聞こえた。髭面男はそのまま力任せに男の体を外へと投げ捨てた。
男はまるで塵のように飛ばされ、グシャという嫌な音を立てて地面に落ちた。そして男は二度と動かなくなった。
「貴様らには仲間を思いやる心もないらしいな」
左京は、人が落ちるところまで落ちた地獄の有り様を見る思いがした。
「今のが仲間だってぇぇ、ふざけるなよぉぉぉう、あれは塵だよ」
「そうだよ塵だよぉう、ワッハッハハハハハァァァァァ〜〜〜〜」
そう言うと二人は高笑いして左京を指さし馬鹿にした。すると遠巻きにしていた連中もゲラゲラと笑いはじめたのである。
(こういう輩は地獄に落とした方が世のためだ!)
左京は陰陽の術を悪用した一族の成れの果ての姿を目の前にしていた。
二人の髭面男の一方が左京の背中に回ったため、左京は男たちの間に挟まれる形になった。左京は真横を向くと六角鉄棒を両手で水平に握って彼らと対峙した。
「君のような生肉はねぇぇ、並の人間じゃあとっても硬くって噛み切れないからさぁぁ、俺たちぐらいじゃないとねぇぇ……」
そう言うと両側から鉄棒を前に押し出すように構え、物凄い唸り声を上げながら一斉に左京目掛けて突進してきたのである。
「うががががああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
その瞬間、左京は二本指を立てて印を結ぶと、目をつむった。
グシャッシャシャッシャ!!
まるで肉を押し潰したような嫌な音がした。二人の髭面男は互いの鉄棒をそれぞれの胸に受けた姿で立ち尽くしていた。男たちの両目は見る見るうちに真っ赤に充血していく。左京の姿はそこから掻き消えていたのだ。
その直後、二人の髭面男は急に頬を膨らませると鮮血を互いの顔に汚く吹き掛けた。肺が急激な圧迫で破裂したのである。
ゴボゴベゴグゴガ……!
髭面男たちの肺は新たな空気を求めて悶《もだ》え苦しんだが、それまでだった。互いに膝を落とすと前のめりに倒れ、体を支え合うようにして仲良く息絶えた。
左京は亜空穴から姿を現すと、二人の屍《しかばね》の横に立った。すると、さっきまで遠巻きにしていた傀儡たちが武器を振りかざして、一斉に左京目掛けて突き進んできた。その時、凄まじい一陣の風が巻き起こり、左京の姿を覆い隠した。
左京はその瞬間を見逃さなかった。腰を落とし六角鉄棒の両先で地面を次々と掻き上げたのだ。凄まじい砂煙が舞い上がり、傀儡たちの目に大量の砂が飛び込んだ。傀儡たち十数名は瞬《またた》く間に目が見えなくなる。左京はその中に突入すると次々と傀儡たちを打ち据え、突き刺し、叩き潰し、突き破り、打ち砕き、殴り倒していった。
バキボキ!
ゴキッ!
グシャ!
ゴグッ!
次々と骨が砕かれ折れる音と肉の裂ける音が起こり、断末魔《だんまつま》の悲鳴と泣き喚《わめ》く男たちの叫び声が周囲に轟いた。
「ギヤァアアッ」
「グゲャア!」
「ゲボッ」
「グギャアア」
「ゲバッッ!」
「ムギャアッ!」
それはもはや修羅場だった。しかし、そこで繰り広げられたのは、鬼神による仏心の殺戮《さつりく》である。傀儡たちは自分たちが行くべき世界へと、左京の手によって送り出されていったのだ。
そこは暗黒が支配する究極の陰の世界である。霊魂さえ存在できない、完全無の口が開く、消滅地獄である。そこに入った者は虚無空間に飲み込まれ完全暗黒の中で消滅する。
全てが終わった後、左京の足元には、頭蓋骨が陥没し脳味噌が四散した躯《からだ》、両眼が押し出された躯、肋骨が外れ胸を縦に裂かれた躯、顔に穴が開いて反対側が見える躯、背骨が砕かれ尻と頭が重なった躯、頭蓋骨が変形し穴が残るだけの躯などが無数に転がっていた。どれもが即死だったが、それがせめてもの左京の供養だった。
隼斗は瞬時に六角棒で数人の傀儡たちの首を打ち据えた。鈍い音がして、首は反り返った。
傀儡たちは何とか隼斗を殺そうとしたが、動きが早過ぎて思うままにならない。そこで長刀《ちょうとう》を持つ男が出てきて隼斗の前に立ちはだかった。長刀の長さはおよそ八尺、とてもまともな人間では扱えない代物だった。男は二人の小人に刀を持たせて、隼斗の前に立つと、ニヤリと笑った。
「まずは貴様の耳を削ぐ」
その瞬間、目にもとまらぬ速さで男が長刀の柄を掴むと、隼斗の耳元に刃先が飛んできた。隼斗はすんでのところで刃をかわしたが、右耳から血が流れ落ちた。
「ほおう、少しはできるみたいだなぁぁ」
男はそう言うと、長刀を背中に背負う妙な構えで隼斗と向かい合った。
「俺の居合をかわした奴は貴様が初めてだぁぁ」
「長刀の居合も初めてだ」
隼斗が男に言った。
「そうだろうそうだろう、それを初めて見て貴様は死ぬんだぁぁ」
「いや、こんな遅い居合は初めてだと言ったんだ」
長刀男は隼斗の言葉に顔色を変え、片目の下をピクピクと痙攣させた。
「減らず口を叩いている間に今度は首が飛ぶぞぅぅぅ」
その瞬間、長刀男は物凄い形相で長刀を横に振った。
ガスン!
隼斗は両手で六角棒を縦に構え、横払いの長刀の一撃を防いだ。その時、隼斗の六角棒が二つに割れはじめた。
「ガッバッハッバッハ、馬鹿めぇぇ俺の居合が貴様の六角棒を真っ二つにしたぞぅぅ!」
長刀男は高笑いをした。これで隼斗は武器を失ったことになる。そこで長刀男は次の太刀を討つため刀を引き戻そうとした。しかし………
しかし、長刀男の刀は全く動かない。
「ど、どうしたんだ、これはぁぁ?」
長刀男は必死になって刀を引き戻そうとするが、隼斗の六角棒に深く食い込んだまま、全く動かすことができない。
「どうした、早く引き戻さないと俺がそちらに行くことになるぞ」
隼斗が言った。
そして二つに割れた六角棒を握りながら、どんどん刀伝いに長刀男に近づいていった。長刀男は何が何だか分からないというように必死に長刀を引き戻すが、全く自由にならない。小人たちも手伝うが、びくともしない。
その内に隼斗は長刀男の目の前までやってきた。長刀男の目は恐怖に震え、それを見た小人たちは我先にと逃げ出した。
「あっ、この野郎ぅ」
そう叫ぶと長刀男は、小人の首に巻かれた鉄輪に結ばれている手綱のような紐を引いた。すると小人の首が飛ぶのが見えた。首が飛ぶ仕掛けが鉄輪にされていたのである。
隼斗は震える男の顔を見ながら言った。
「おまえは仲間を平気で殺すのか?」
「へへへ……」
「おまえの居合は蠅が留まるほど遅かったぞ」
そう言うと隼斗は右手に掴んだ六角棒の端で、男の顔面を横殴りに強打した。その瞬間、長刀男の奥歯の数本が折れて吹き飛んでいくのが見えた。
「グギャッ!」
男は妙な声を立てて地面にもんどりうって倒れた。その衝撃で男は長刀の柄を離したが、刃はまだ六角棒に食い込んだまま落ちなかった。
男は見る見る内に蚯蚓腫《みみずば》れになってくる左頬を押さえながら、わけが分からないという顔をした。
「まだ分からないようだな?」
隼斗はそう言うと、割れた六角棒の間を離した。その時、男の表情は信じられないものを見たように引きつった。六角棒の間には鎖が見え、その鎖が男の長刀の刃先をからめ捕っていたのだ。男が居合を放った瞬間、隼斗が六角棒を割り瞬時に刃先を巻き取っていたのだ。
「どうやら分かったようだな」
隼斗がそう言うと男は何度も何度も頷いた。そして隼斗の前から逃げ出そうと後ろを向いた、その瞬間に男は奇妙な光景を見た。
目の前の景色が急に回転しはじめると、天地が逆になったのだ。次に前後の光景が交互に現れると、最後は地面がゴロゴロと回転したのである。男の記憶はそこで途絶えた。己の長刀で首を飛ばされたのである。男の首は地面に転がり道の真ん中付近でやっと止まった。
傀儡衆は怒りに燃えて隼斗に突進した。転がっている男の首を蹴飛ばし、隼斗に一斉に襲いかかったのである。
「ぶっ殺してやる!」
「ただでは済むと思うな!」
「地獄へ行けえぇぇ!」
「ぶち殺す!」
それぞれ叫び声を上げながら隼斗に襲いかかってきたが、隼斗は六角棒を背中に襷掛《たすきが》けのように回すと、突進してくる男たちに向かって身構えた。
次の瞬間、数人の傀儡たちが吹き飛ばされていた。隼斗が斜め上から放った鞭のようになった六角棒をまともに顔面に食らったのだ。
隼斗の六角棒は一尺ほどの鎖で結ばれているため、最初から割れるようになっていたのである。それをまともに受けた衝撃は凄まじく、まるで石のように重い鞭を体に受けた時の破壊力は並のものではない。隼斗の六角棒は双節六角棍だったのだ。
「グゲァァッ!」
「ドビッ!」
「ゴベッ!」
「ドギャ!」
「ギャボ!」
傀儡たちは次々と打ち砕かれ、もんどりうって吹き飛ばされていった。
隼斗は双節六角棍を後ろに振った。背後から襲ってきた傀儡の鼻がもげ、血飛沫が上がった。さらに隼斗は振り返るや、鼻もげ男の顔面の肉を眼球ごと吹き飛ばした。男の顔は耳元から口にかけて完全に裂け、そこには目鼻も口もない肉色ののっぺらぼうだけが残った。鼻あたりの鮮血に染まった穴がヒクヒクと空気を求めて蠢いている。
それでも傀儡たちは隼斗目掛けて次々と襲いかかってくる。隼斗が後ろ腰に双節六角棍を構えると、傀儡たちは急に立ち止まった。
隼斗の双節六角棍が右腰から飛んでくるのか、左腰から飛んでくるのか、全く分からないからだ。
「かまわねえ、ぶっ殺せぇぇ!」
一人がそう叫ぶと、他の男たちはその男の方を見た。
「何をしていやがる、つっこめぇぇぇぇ!」
しかし男の言葉に、他の男たちは全く動かない。そして叫んでいる男をじっと見ているだけである。
「貴様ら、おじけづきやがったかぁぁぁぁ!」
男は仲間たちを愚弄《ぐろう》しはじめた。すると傀儡たちはその男を捕まえ、隼斗の前に突き飛ばしたのである。
その瞬間、隼斗の双節六角棍が男の首を吹き飛ばした。
「グギェエエエエエッ!」
男の首はわけの分からない叫び声を上げて飛んでいった。
隼斗はニヤリと笑うと、双節六角棍を振り回しながら、そのまま傀儡たちの中に飛び込んでいった。
傀儡の打ち下ろす刃を片方の棒で受けると、片方の棒で相手の腕をへし折り、顔面を両方の棒先で叩き潰し、体を回して背後の傀儡の横腹を満身の力を込めて突き破った。さらに打ち下ろす傀儡の斧を六角棒を併せた先で横払いし、そのまま三角に併せた先で喉を突いて破裂させ、次の瞬間には横の傀儡の首の骨をへし折って吹き飛ばした。
隼斗は双節六角棍を二刀流のように使い、傀儡の攻撃を次々とかわしては粉砕していったのである。
もはや、鞭と二刀を併せ持つ隼斗の双節六角棍をかわす傀儡は一人もいなかった。次々と討ちかかっては悲鳴を上げて悶絶し、隼斗の足元には累々とした傀儡衆の屍の山が築かれていった。
熊楠は信じられない光景を見た。
三番蔵の横の壁付近の空間が急に妙に捩れはじめたかと思うと、壁から人の姿のようなものが現れたのである。その人間は立派な体格の大男で、額に傷痕のある勇壮な顔の持ち主だった。その男は女中のタネの腕が土蔵から突き出ていた時のように、まるで壁に出入り口があるかのように平然と出てきたのだ。
名無しは北麿の六角棒に仕込まれた剣を構え、じっと男と向かい合って対峙した。男は名無しの持っている剣を見ると驚いた顔をした。しばらく睨み合った後、名無しは男に言った。
「貴様も魑魅魍魎《ちみもうりょう》の類か?」
男はその声に首を横に振った。
「貴殿がお持ちの六角仕込み剣、何処にて手に入れられたか?」
「物の怪に教える必要はない」
名無しは北麿との経緯を答えなかった。
「しからば力ずくで貴殿からお聞きするしかないな」
男はそう言うと片手を名無しに向けて突き出した。名無しはそれを見て仕込み剣を正眼《せいがん》に構えた。
「望むところだ」
名無しは男と向かい合った。男は何も武器らしいものは持っていなかった。しかし隙が一切ない姿を見れば、並の使い手ではないことぐらいは熊楠にも分かった。
「ちょ、ちょっと待ったぁ、この者が持つ剣は北麿殿がこの男に預けたものだ」
熊楠は廊下から大声で叫んだ。
男の言葉や挙動から見ても怨霊とは思えないし、男は北麿の剣について聞いているだけで、北麿の仲間のような印象もある。そうである以上、わざわざ隠す必要もないことだと熊楠は思ったのだ。
「……なに?」
男は熊楠の方を見た。
「ならば貴殿、北麿と舞をご存じなのか?」
「知るも知らないも、俺たちはその二人のせいで、えらい目に遭っておる」
熊楠はそう言うと慌てて言いなおした。
「ああ、い、いや、お二人には怨霊の件では世話になっているが、今、最後の怨霊を倒しに貴殿が出てきた土蔵に入っている」
男は手を下ろすと名無しに剣を引くよう手を上げて制した。それを見て名無しは渋々剣を下げた。
しかし、その直後、名無しの鋭い目は再び土蔵へと向けられた。
さっき男が出てきた場所から、今度は二人の男女が出てきたからだ。男の方は北麿と似た着衣を身につけ、女は巫女姿だったが、大柄な女で長い大きな荷物を背負っていた。一瞬、熊楠は舞たちが戻ってきたかと思った。
「貴様らは一体何者だ?」
名無しが聞いた。すると二人は先に出てきた男に目をやると、どうしたものかという仕種をした。そこでさっきの男が名無しに向かって言った。
「舞と北麿をご存じならお分かりだろう。我らは怨霊を封じ取る者で、舞たちと同じ召しを受けた者」
「それで貴様は?」
名無しが改めて男に聞いた。
「私は彼らを統括する人物の下で働く者。名を右京と申す」
そう男が名乗ると、名無しは剣を六角棒に納めた。
「で、貴殿の名は?」
右京が聞いた。
「名無し……人は俺をそう呼ぶ」
名無しが名乗ると男は妙な顔をしたが、やがて含み笑いをして頷いた。そして熊楠に言った。
「ところで舞と北麿はこの土蔵の中におるのですな?」
「そうだ、しかし土蔵の扉が開かないんで、一体中でどうなっているか、さっぱり分からん」
熊楠は嘆いた。右京は三番蔵の様子を隈《くま》なく眺めると、屋根の上にある石の祠を目敏《めざと》く見つけた。
「蘭、あれだ。あの石の祠を破壊しろ!」
「分かりました」
答えると大柄な女は、革袋からとてつもないものを取り出した。女がそれを組み立てると真っ黒な機関銃の姿になった。女はそれを背中に背負い、驚く熊楠のそばまでやってきた。おそらくその位置が一番狙いやすいのだろう。
「おい女子、まさかその物騒な代物で土蔵を壊すというのではないだろうな?」
「そうよ」
いともあっさりと言われた熊楠は動転した。
「でも撃つのは上の祠だけどね」
女は機関銃を腕に持って構えると、三番蔵の屋根にある祠に狙いを定めた。
「あの……女子……ここの主の許可はとられたのか?」
熊楠の言葉に蘭は横を向いて答えた。
「おじさん、音が大きいから耳を塞《ふさ》いでいた方がいいわよ」
そう言うが早いか、蘭は重機関銃の引き金を引いた。
ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ!!
雷が何十回も地に落ちたような凄まじい轟音が巻き起こり、熊楠は腰を抜かさんばかりに驚いた。今までキューバなどで銃撃戦は体験済みだったが、せいぜい小銃に毛の生えた程度の撃ち合いだった。これはあまりにも桁《けた》が違う。
一分に五百五十発もの弾丸が発射される機関銃は、石の祠を見る見る内に削り取り、吹き飛ばしていった。物凄い数の破片が飛び散る中、祠の形はどんどん変わっていく。
蘭は今度は別の角度で撃つために移動した。そこからも同じように凄まじい銃撃をはじめたのである。
ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ!!
轟音を聞きつけた女中や手代たちが一体何事かと一斉に裏庭へと飛び出してきた。
「熊楠先生、あれは一体何ですか?」
「土蔵に何をするんですか?」
「あの人たちは何者です?」
「先生、うだつが壊れますぜ」
彼らは熊楠に次々と聞いた。こっちの方も機関銃の音と同じくらいうるさいと熊楠は思った。
銃撃が終わった時、屋根の上にあった石の祠の姿は跡形もなく消えていた。屋根の根元から全く原型を留めないほどに破壊されてしまったのである。
「小頭筆頭、これで二重結界が消滅したと思ってもいいのかしら?」
蘭が尋ねた。右京は杖を手に大地の気脈を感じ取ろうとしばらく印を結んだ姿で立っていたが、やがて目を開けると小さく頷いた。
「境の片方の出入り口は、これで完全に消滅した」
そう言うと右京は蘭の肩を優しく叩いた。
「よかった、これで怨霊は土蔵の中で力が出せなくなったわよ」
蘭はそう言うと夢情を見た。夢情は出てきた壁の付近を調べていた。そして右京に向き直ると言った。
「小頭筆頭、屋敷外とつながっていた亜空の通路は完全に閉じられた」
熊楠には彼らが何を言っているのか、さっぱり分からなかったが、少なくとも悪いことにならなかったのだけは分かった。
その時、右京と夢情は急に火薬の気配を察知した。そして皆に向かって叫んだ。
「土蔵から離れろ。爆発するぞ!」
熊楠は慌てて逃げようとする店の者たちに腕を蹴られ、そのあまりの痛さで悲鳴を上げた。やっぱりろくなことにならないではないか。
その瞬間、土蔵の一階の壁が爆発音とともに崩れ落ちた。爆発は一階と二階でつづけて起きた。
二階の爆発は屋根の祠付近で起きたため、土蔵の瓦のほとんどが衝撃で落下してしまった。一階の壁がバラバラと崩れ落ち、そこから中が丸見えとなっている。
その時、土蔵の入り口の鉄の扉と二階窓の扉が大きな音を立てて外に向かって開いた。
硝煙の渦巻く中、右京と夢情はゆっくりと土蔵に近づき、蘭は援護できる位置に回ると、機関銃を構えた。
夢情は六角棒の両端の鞘を抜いた。夢情の六角棒には鋭い槍先が両端についていた。
すると土蔵の中で小さな影が動くのが見えた。その影は、はしゃぐようにして鉄の扉から外に飛び出してきた。
その姿を見た時、熊楠は目を剥《む》いて驚いた。歳三だったからである。
店の者たちも悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げていった。名無しは剣を抜いて歳三目掛けて走り寄ろうとした。その時、それを止める者の声がした。
「駄目だ、名無し殿、それは本物の歳三だ!」
北麿だった。
名無しはその声に立ち止まった。すると北麿の後から舞の姿が見えた。舞も北麿も満身創痍《まんしんそうい》で疲れ切っている様子だった。二人の体には硝煙の汚れの他、いくつもの刀傷と打ち身があり、土蔵の中が如何《いか》に大変な決戦の場だったかが窺《うかが》い知れた。
夢情は思わず北麿の元に駆けつけた。
「大丈夫だったか、北麿?」
夢情は北麿の受けた刀傷を見ると思わず眉をひそめた。
「大丈夫だ、夢情、それよりどうして結界の中に入ってこれたんだ?」
「祈祷所から祠まで亜空が通っていたので、そこを潜って、おまえの張った結界を通り抜けてきた」
「そうだったのか……祠を元の位置から動かした時、二か所を亜空がつないでしまったのか」
「ああ」
夢情が頷いた。いつもニヒルな夢情だが、北麿にだけは心を開くのである。それは昔から同じで、夢情はいつも隼斗と北麿を取り合っていた。
「しかし、怨霊もそこから外に逃げてしまうぞ」
北麿は叫んだ。
「心配いらない。蘭が祠を破壊した。だから通路は閉じて怨霊は逃げ出せなくなった」
夢情がそう言った時、北麿は目の前の右京の大きな体に気づいた。
「小頭……」
「心配したぞ、北麿、無事で何よりだった」
右京はそう言うと、夢情に北麿を廊下まで連れていくように命じた。廊下には名無しが座していた。名無しは北麿を見ると腰を上げ、預かっていた六角棒を北麿の前に差し出した。
「おぬしがいぬ間、土蔵の前で見張っていた」
名無しがそう言うと、北麿は頷いて微笑んだ。
「もし我らが怨霊に取りつかれたら、これで斬り殺していたか?」
北麿が言うと名無しはニヤリと笑った。
「ご苦労でした」
北麿はそう言って六角棒を受け取った。名無しはそのまま土蔵の方へと歩いていった。その姿を夢情はじっと見つめていた。
「北麿、あの男はおぬしの魂である剣を預けるほどの男なのか?」
夢情が無愛想に聞いた。
「名無し殿はおまえと似て不器用だが、おまえと同じで心根は真っ直ぐな男だ。だから俺は彼に俺の魂を預けた」
「…………」
夢情は黙って北麿の横顔を見ていた。それに気づいた北麿が夢情を見ると、夢情は恥ずかしそうに目を伏せた。
蘭も舞の無事な姿を見ると、駆け寄って強く抱きしめた。
「舞、心配かけやがって、こいつめぇ」
蘭は思い切り舞を抱きしめた。
「く、苦しいわ、蘭」
舞は悲鳴を上げた。自分より遥かに大きな蘭が男と同じような怪力で抱きしめたからである。
その時、右京が舞のところに来た。
「小頭筆頭、どうも有り難うございました」
舞は右京に頭を下げた。
「無事だったようだな」
「はい、でも怨霊は霊のまま生き残っています」
「そうか……しかし、結界が外されない限り、怨霊はここから逃げ出せん」
右京と蘭は、舞を連れて一緒に廊下に上がった。その時、熊楠に言われた女中たちが急いで水を運んできた。舞と北麿は女中たちに礼を述べると、一気に土瓶の水を飲み干した。二人は水が喉から全身に行き渡っていくのを感じた。
女中たちは残りの握り飯も一緒に持ってきていたので、二人は遠慮なくそれを食べた。
右京は握り飯を貪《むさぼ》る舞と北麿を見ながら、あらためて話しはじめた。
「私が阿波で陰陽師だった頃、全ての境の場所を把握していた」
「はい……」
北麿は右京ほど把握していなかった。
「その中に桔梗屋の場所は含まれていない。よってそこが二重結界であれば、別の場所から結界石か祠を運び込んだことになる。そこで中頭と相談して、今回の策を決めたのだ」
「中頭も来ておられるんですか?」
二人は驚いた。中頭が来るのはよほどの場合だったからである。それも小頭筆頭も一緒となると大日女の御神託が下った時しか考えられない。
「うむ、四国中の怨霊師と陰陽師が集結しておる」
「彼らもですか……で今彼らは何処に?」
「今頃は中頭と一緒に結界の外を掃除しているところだ」
二人は度胆を抜かれた。これでは総力戦ではないか。
右京はさらに二人に話した。
「私が知っていた頃、既に石の祠があった場所は祈祷所だったが、今では代が変わっていた」
それが百欄の祈祷所だったのだ。
「代の変わった祈祷師が最近食い殺された場所と分かり、祈祷所に行ってみたのだ。案の定そこから祠の姿が消えていた」
「それで桔梗屋に祠があると?」
「そういうことだ。境は大地と石の一対で結界を成す以上、片方を動かせばそこが結果的に亜空の通路となる。そしてその通路は境であるため通常の結界を貫いてしまうのだ」
その言葉に舞と北麿は大きく頷いた。これで今回の怨霊事件の舞台の全貌が明らかになった。
「しかし、今度の怨霊は亜空の通路が開いていたにもかかわらず、そこから逃げることはなかった。よほどの自信があったと見える」
右京は舞の顔を見ながら言った。
「怨霊は涼の時には失敗したけど、今度は綿密な罠を仕掛けていただけに自信があったんでしょう。私たちがその罠から逃げ出せたのは皆のおかげだわ」
舞はそう言うと三人に頭を下げた。北麿も慌てて握り飯を口に頬張ると一緒に頭を下げた。
「特に祠を吹き飛ばしてくれた姉さんには感謝するわ」
「いいってことさ。蘭姉さんは頼りがいのある女でござる」
そう言うと、蘭はおどけて胸を叩いた。
「だって涼の時と同じよ。自分相手に戦うんじゃ、この冷着沈静な夢情様だってどうしようもないもんねぇ」
蘭がそう言うと、夢情はツンと横を向いた。
「冷静沈着の間違いよ」
夢情の言葉に四人は爆笑した。
熊楠は歳三を前にしていろいろと調べていた。背中に傷は無いか、掌に傷は無いかと全身を調べたが、全く普通の子供の体だった。
歳三はそれが熊楠との遊びと思ったのか、けっこう喜んでいたが、熊楠にすれば必死だった。
「歳三、またおじちゃんの飴が欲しいか?」
「うん!」
そう言うと歳三は熊楠の膝に乗ってきた。
「間違いない、この子は歳三だ」
熊楠は思わず歳三を抱きしめた。これで善兵衛も救われるだろうと思った。
名無しは土蔵の中にいた。名無しはゆっくりと一階の階段の裏に回る。長持ちが真っ二つに割れており、静の首が転がっているのが見えた。その横には首を入れてあった壺が置かれていた。名無しは静の首を手に取ると酒の入った壺に沈め、木蓋をかぶせて元のようにしてやった。
壺を外に持って出た名無しは、熊楠のそばまで行くとその壺を置いた。その時、夢情は一瞬わずかな怨霊の気配を感じ取った。その様子を端から見ていた北麿は、夢情の背中を小突いて言った。
「名無し殿が持ってきたのは、怨霊に食われた女中の生首が入った壺だ。だから怨霊の匂いがしても当然だが怨霊ではない」
「……そうなのか」
そう言うと夢情は再び腰を下ろした。
不思議そうに壺を眺める熊楠に名無しが言った。
「静の首だ。土蔵の中に転がっていた」
熊楠は、なぜ薫が預かったはずの静の首を入れた壺が土蔵に転がっていたのか、分からなかったが、善兵衛に返すために名無しから受け取った。
その時、女中の一人が主の容態が悪くなっていることを熊楠に知らせた。熊楠は壺を手代の喜祐に渡すと、歳三の手を取って善兵衛の寝床へと走っていった。
善兵衛は苦しみ悶えて息も絶え絶えになっている。無理もない、砒素《ひそ》を大量に毎日飲まされた体だ。今まで無事だった方が奇跡なのである。
「善兵衛、大丈夫か?」
熊楠は体を震わせ激しく咳《せ》き込んでいる善兵衛の背中を摩《さす》ってやった。女中や手代たちも一生懸命に体を摩っていた。
「しかし、善兵衛よ、喜べ。おまえの本当の子が無事に戻ってきたぞ!」
熊楠の言葉に、善兵衛の意識が一瞬だが戻ったように見えた。善兵衛の目から涙が溢れ、窶《やつ》れた腕を中空に向かって伸ばした。
熊楠は歳三を善兵衛の前に座らせた。歳三は窶れた善兵衛の姿に少し戸惑いを見せたが、すぐに父親の腕の中に飛び込んでいった。善兵衛は目に一杯の涙を溢れさせ、声にならない声で泣いた。それを見ていた熊楠は思わずもらい泣きをしてしまった。善兵衛の命が長くはもたないことは、誰の目にも明らかだったからだ。
喜祐が静の首を入れた壺を持ってきたため、熊楠はそれを預かり善兵衛の寝床の隣に置いた。
その時、右京が大座敷に入ってきた。そして一同に向けてこう告げたのである。
「怨霊はまだ屋敷の中にいる以上、いつ誰に憑依《ひょうい》しないとも限らない。よって全員をこの場に集めておきたい」
その言葉に皆の表情は一瞬緊張した。しかし、怨霊を封じ取る人間が増えて、後一歩まで来ているというのなら、止むを得ないとも思った。
しかし熊楠は違った。
「しかしですな、こうなれば怨霊は誰にも憑依せず、こちらが根を上げて結界を外すまで待つのではないのか?」
確かに人間はいつまでも結界の中にいられない以上、そうせざるを得なくなることは間違いない。ならば怨霊も隠れていた方が利口ということになる。
「ところがそうもいかない事情が怨霊にある」
右京が言った。
「えっ? それはどういうことですか?」
熊楠は目をパチクリさせた。
「怨霊とて霊のままいつまでも不滅というわけではない」
「……と言いなさると?」
熊楠は鼻の頭を指で擦《こす》りながら聞いた。
「それは陰陽の森羅万象《しんらばんしょう》と五行配当の数秘術でしか分からないため、貴殿らには難しいが、怨霊にもそれぞれの星があり、以前に怨霊が出現した極楽院と今回の桔梗屋の二点を結ぶ角度と方位、それに季節における五行との関係で、怨霊の死期を読み取ることができ申す」
「怨霊の死期とは何か?」
熊楠は神道や陰陽道には詳しく、五行配当の数秘術などにも精通していたが、怨霊に死期があるということは知らなかった。
「人の霊は隠された前世の陰から肉を持った陽を得てこの世に誕生いたす。そのため陽である体が崩れると霊は陰に下り、それを人は死と言い申す。しかし陰から肉の無い陰として世に出てきた怨霊は、限られた期限の間に肉が得られないと、そのままで陰に下ってしまう。これを我らは死期と言い申す」
熊楠に分かったのは、怨霊は霊のままだとやがて黄泉《よみ》に下ってしまうということだった。そしてそれには陰陽五行における木、火、土、金、水が関わっているということだ。
「たとえば、陰陽道では春と火は、春の木気が火を木生火と相生《そうじょう》して相けるため、この火は相生して相けるので、相気の中にあるとされ申す。このように生きとし生けるものは、たとえ怨霊であっても旺の時、相の時、死の時、因の時、老の時が定められており申す。特に今日が今回の怨霊にとっての木鬼土という十干十二支を要《かなめ》とする重大な日となり申す」
右京が言わんとすることは、ほぼ熊楠にも分かったが、どうやら陰陽の秘数計算によると、今日が怨霊の死気と関わる日ということになるらしい。
「もう一度確認のために聞くが、怨霊の死気は、二十八宿、七曜、九曜、十二神将《じゅうにじんしょう》、八卦《はっけ》からも導き出したものでもあるのか?」
「さよう!」
右京はそう言うと熊楠に微笑んだ。
「その結果、怨霊の命はあと十数分ほどで尽き果て申す」
全員にどよめきが走った。
「さらに申せば、四季と土用、旺、相、死、因、老の気の相関から、怨霊は今日、六月四日の巳の刻(午前九時から十一時)までの命であり、残り十数分で人に憑依せねば己の命が尽き果てる!」
「だから必死になって私と北麿を攻撃してきたんだわ……」
舞がそう言うと北麿も頷いた。思い出せば確かに土蔵の中での攻撃はあまりにも計算立っていた。あれは怨霊に残されている時間ギリギリに仕組まれた、計画通りの策だったのである。だが、その怨霊の緻密《ちみつ》な策も、右京によって見事に打ち砕かれてしまったのである。
「では怨霊はこれから必死になって誰かに憑依しようとするぞ。そうなればその人間はこいつらに斬り殺されてしまうんだぁ!」
喜祐は急に立ち上がると大声で叫んだ。すると女中たちも慌てはじめ、恐怖心から悲鳴を上げる者も出てきた。
「待てぃ! それを防ぐために一同に集まってもらったのだ」
「では何か手段があるというのか?」
熊楠が聞いた。この様子を、名無しは柱に凭《もた》れ掛かりながら静かに聞いていた。
「さよう、ここに結界を張る」
「えええっ!」
皆は一様に驚いた。無理もない、皆も二重結界の恐ろしさを嫌というほど思い知らされていたからだ。
「心配はいらぬ、前は境の上に結界を張ったため怨霊の思うようにされたが、今回大座敷に結界を張れば、怨霊は結界の内側には絶対に入ってこれぬ」
右京が話している間、北麿と夢情は怨霊の気配が大座敷に無いかどうかを確かめていた。夢情は少し気になるところがあったが、そこには静の首を入れた壺が置いてあった。
「結界の中に結界を張ることで、怨霊を外と内の二つの結界の間に封じ込め、怨霊の命が果てるまで待てばよいということだ!」
右京の言葉に、熊楠は頷いた。
「それなら怨霊だけを殺すことができるぞ」
そう熊楠が言ったので、店の雇い人たちも大丈夫かもしれないという気になって安心しだした。
「もはや時は無い、北麿、夢情、ここに怨霊の気配は無いか?」
北麿が頷くと夢情も頷いた。
「ならば急いで結界を張る。外の結界が北麿なら内の結界は夢情が張れ!」
小頭がそう言い終わる前に、夢情は足を構えて体内に溜まる気を胸に集め、ゆっくりとそれを吐き捨てた。
次に夢情は三十六度歯を噛みしめ、両手で印を結びながら九字の印を唱え、印を結んだ右手人差し指と中指をもって刀印を結んだ。そして空に四縦を切って五横を切り、呪詛の言葉を唱えはじめたのである。
「|嚢謨※[#「りっしんべん+且」、ページ数-行数]羅《ナムタラ》 |※[#「りっしんべん+且」、ページ数-行数]羅耶野《タラヤヤ》 娜麼阿利耶《ナホアリヤ》 |縛廬※[#「木+兄」、第4水準2-14-52]帝《ハロキテイ》 濕縛羅耶《シバラヤ》 |菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1-15-51]耶《ボダイサツタヤ》 |摩諭薩※[#「土へん+垂」、第3水準1-15-51]耶《マカサツタヤ》 |摩訶迦魯尼迦耶※[#「りっしんべん+且」、ページ数-行数]姪他《マカキヤロニキヤヤタチタ》 |※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]《オン》 斫羯羅韈《ハサラベイ》 羅底振多麼尼《ラチシンタマニ》 |摩訶鉢頭迷※※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]《マカハトメイロロ》 底瑟陀人縛羅《チヒタジンハラ》 阿加利沙野《アカリシヤヤ》 虎吽發咤《コンハッタ》 莎婆訶《ソワカ》」
その瞬間、結界が大座敷の中に張られた。もはや怨霊はこの幕の中には入ってこれなくなったのだ。
夢情は懐から己の白石を出して結界の印として境に置いた。その石には菩≠フ文字が黒文字で彫られてあった。
傀儡たちの屍が累々とつづく中を烈風が砂を巻き上げて吹き抜けていく。その死骸の山の真ん中にじっと立っているのは中頭の秋水だった。秋水は小次郎と十五間の距離でずっと向かい合っていた。
鬼神の如く六十人もの傀儡衆を討ち滅ぼした四人は、屍を乗り越えながら秋水の元に戻り、その後ろに立った。その様子を見ていた八雲はテントから出ると、美千子と一緒に銃を持って小次郎の横に立った。八雲は石材屋で呆然と立ち尽くす田辺に向かって言った。
「伍長、こっちへ来い!」
田辺は向かい合う両者の間を機械人形のような足取りで通り抜けると、八雲のもとにやってきた。
「貴様は軍人だな?」
「は、はい」
「では最後まで戦え」
「し、しかし……あの者たちは尋常の人間ではありません。おそらく神仏の加護を受けた人間であります」
「馬鹿を言え!」
八雲は田辺を殴りつけた。田辺は地面に転倒し唇を切って血を流した。
「立てぃ伍長!」
八雲が怒鳴りつけると、田辺は急いで直立不動の姿勢をとった。
「神仏がいるなら我らに味方するはずだ。あのような者らに神仏などがつくはずはない」
「は……はぁ……」
田辺は一瞬にして部下を失ったことと、異様で不可解な出来事を目の当たりにして、気が動揺していた。
「おい兵隊」
小次郎が田辺に向かって言った。
「いいか、おまえの部下は今から俺が連れ戻してやる。あいつらの奇妙な術で隠されているだけのことだからな」
「ほ、本当でありますか。彼らは無事なのですか?」
「ああ、今から出してやる」
そう言うと小次郎は足場を固め、大仰な仕種で九字を切ると印を結んで、怪しげな呪文を唱えはじめた。
「|※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]《おん》 鉢娜摩《はんたま》 震多摩尼《しんたまに》 人縛羅《じんばら》 虎吽《こうん》」
そして、凄まじい気合とともに腕を前に差し出したのである。すると瞬時に兵隊たちを覆っていた結界が払われ、それまで消えていた兵の姿が一斉に現れた。
兵隊たちはわけの分からない空間に閉じ込められたかと思ったら、今度は突然、元の世界に舞い戻ってきたため、何が何だかサッパリ分からず、頭の中は混乱をきたしていた。
しかし、眼前に広がる封鎖区域が大変な有り様になっていることに気づき、中に入ろうとした連中が目の前にいることが分かって、本能的に銃を構えはじめた。
「中頭、我らが張った結界が外されました」
左京が叫んだ。
「分かっておる、慌てるな」
秋水は左京たちを窘めたが、武装した兵隊たちに前後左右から完全に囲まれる形になってしまった。
「できることなら兵隊とは戦いたくなかったが、こうなれば仕方がない」
秋水がポツリと言う。その時、小次郎がほくそ笑みながら大声で言った。
「もし貴様らが亜空穴を張れば、俺が直ちに陰陽相殺で打ち消してやる!」
そう言うと、印を結んでいつでも亜空穴を相殺できるようにと身構えた。八雲はさっき小次郎が言っていた意味が分かった。これで侵入者たちは袋の鼠と化したのだ。
既に八雲の立場は危ういものになっていた。封鎖区域を突破されたばかりか、傀儡の連中まで彼らに皆殺しにされた以上、自分の指揮官という立場と能力が完全に吹き飛んでいたからだ。もはやこれ以上、彼らの勝手を許すわけには絶対にいかなかった。
「中頭、これでは我らは動きがとれません」
隼斗が言うと、秋水は印を結んで口の中で何かを唱えはじめた。それは隼斗がまだ知らない秘密の呪文だった。
「これからは、わしに任せよ」
中頭がそう言うと四人は頷いた。
「伍長、兵隊たちに射殺命令を出せ」
八雲が田辺に命じると、田辺は一歩前に出て全員に大声で命令した。
「彼らを射殺する!」
そう言うと田辺は腕を上げて合図した。その言葉に兵隊たちが一斉に五人に照準を合わせた。田辺は暫く様子を見て、やがておもむろに腕を下ろした。
「撃てえぃ!」
その寸前、秋水の杖を持った腕が地面を叩き、激しい気合が掛けられた。
兵隊たちが一斉に引き金を引こうとした瞬間、兵隊たちの体は石のように固まってしまったのである。八雲はそれを見て、小次郎が兵隊たちを眠らせた時に掛けた術を思い出した。
「くそう!」
小次郎は唇を噛んだ。
「どうした、結界を外せぃ!」
八雲が叫ぶように命じたが、小次郎は頭を横に振った。
「あの術は結界とは関係がない。掛けた人間が死ぬか遠のかない限り、外すことはできないのだ」
「ではあの男を殺せ」
そう言うと八雲は銃を構えて秋水に狙いを定めた。その瞬間、小次郎が八雲の前に腕を出した。その小次郎の腕に彩が放った鋼芯が握られていた。八雲の喉目掛けて飛んできたのである。
「やめろ、大尉。あいつらは兵隊を殺す気はない。しかし、あいつを殺そうとすると殺されるぞ。そうなれば全てがお終いだ」
小次郎の言葉に八雲は震えた。もし小次郎が守っていなければ、今頃は確実に死んでいたからだ。美千子は八雲の構えていた銃に手を添えると、彩の目を見ながら、ゆっくりと下に降ろしていった。
「まさかあの爺《じじい》が、俺と同じ陰陽の高みまで極めていたとは思わなかった」
小次郎はそう言うと、呆然と立ち尽くす田辺を押しやって前に出た。
八雲は恐るべき修羅場の真ん中にいた。一体どれだけの傀儡たちが死んだのかさえ分からない有り様だ。
目の前に展開する壮絶なる光景は、虐殺《ぎゃくさつ》現場そのものだった。おびただしい血が流され、砂塵の舞い上がる中に石像のように立つ兵隊たちと、無残に砕かれた傀儡たちの哀れな躯があちらこちらに転がっている。その有り様はまさに地獄図絵そのままだった。
恐るべきはわずか五人だけで、完全武装した兵を石にし、六十人近い屈強な男たちを瞬く間に打ち倒したことだ。
今まで八雲が見たこともない方法と戦術で、一方的とも言える力で圧倒したのだ。美千子もこの有り様を見て愕然《がくぜん》とし、底知れぬ恐怖に打ちのめされた。
「優、このままでは私たちは負けるわ」
美千子が八雲の顔を見ながら言った。八雲は美千子の言葉を無視した。
「優、聞いているの?」
八雲はもしここで怨霊師たちに完敗すれば、明石に何と報告すればよいのかと考えていた。順風満帆《じゅんぷうまんぱん》だった八雲の人生に、今初めて微妙な狂いが生じはじめていた。
「優、やっぱり情報がいつも正確な結果を出すとは限らないわ」
「黙れっ!」
八雲は美千子を怒鳴りつけると、怒りに任せて激しく平手で打った。美千子は糸の切れた操り人形のように地面に倒れた。今まで女を殴ったことはなかった。何かが八雲の中で変わりはじめていた。
美千子は頬を押さえながらゆっくりと立ち上がると、八雲の後ろで蚊の鳴くような小声で言った。
「ご免なさい。もう言わないから許して」
美千子は涙声で言った。八雲は頷くと、美千子を殴った手をじっと見つめていた。
(ここで失敗するわけにはいかない……!)
八雲はいざとなれば徳島の連隊本部に連絡し、一個中隊を投入させてでも封鎖区域を守ることを決意していた。しかし今は小次郎の手腕に頼るしかない。一個中隊を動かせば、それだけでも軍内部での後始末が大変になるからだ。
小次郎は秋水から少し離れた場所に立ち、不敵な笑いを浮かべながら秋水と睨み合っていた。
「小次郎とやら、もはや貴殿には勝ち目はない。ここから立ち去って長《おさ》に伝えよ。怨霊を捕らえることはできなかったとな」
秋水が言った。
「それはやってみなければ分からぬ」
小次郎が言い返した。
「では貴殿は死ぬことになるが、それでも宜《よろ》しいか?」
左京が秋水の後ろから大声で言った。その左京の言葉に小次郎は笑いだした。両横に立っている女護衛たちも一緒になってケラケラと笑った。
「もう一度、貴様らに言っておくぞ、俺には貴様らの陰陽の術は通じぬ。それにこの傀儡どもは犬同然の奴らだ。掃除をしてくれてこちらが助かったぐらいだぜ」
「一族を犬同然とは……死んだ連中も浮かばれまい」
左京は、小次郎の冷酷さを思うと虫酸が走った。
「元々こいつらは村のあぶれ者だ。だから死に場所をくれてやっただけのこと」
「ならば貴殿が連れてきたはずの怨霊使いとは、貴殿の横にいる二人の女人であったか?」
秋水がそう言うと、女護衛たちは含み笑いを顔に浮かべた。
「今頃気づいたのか?」
そう言うと小次郎は再び大笑いした。
「中頭、こやつの頭は狂っております。それに怨霊使いなら殺さねばなりません」
左京が秋水の耳元で囁《ささや》いた。
「おぬしに任す」
秋水がそう言うが早いか、左京は腕を振り下ろした。その瞬間に四人の姿は一斉にその場から消えた。彼らが亜空穴に消えたと同時に、小次郎は大きな手で印を結び横に振り払った。
亜空穴を通り小次郎の周りに飛び出そうとした左京たちは、小次郎の手前で跳《は》ね飛ばされてしまったのである。凄まじい烈風が巻き起こり、小次郎の周囲を、見たこともない強烈な結界が覆い尽くしていた。小次郎が造った結界で亜空穴の出口が捩《ね》じ曲げられ、全員が外に放り出されたのである。
「貴様らでは俺を討てん」
その様子を見た秋水は小次郎の力を計った。結界の張り方があまりにも素早く、かつ強力である。それに結界の放つ光が異常だった。光が放たれるのではなく逆に光が吸収されていくのが見える。そして光はそこから二度と出てこなかった。
「気をつけよ! これは我らがかつて知る結界ではないぞ……!」
秋水が大声で言った。
彩も自分の身に何が起きたのか分からなかった。小次郎に向かって亜空穴を走ったが、気がつくと跳ね返されていたからだ。麗も同様だった。亜空穴で一体何が起きたというのだ。
隼斗は亜空穴が目の前で膨《ふく》れ上がり、押し戻してきたような感覚に襲われたが、こういう現象は初めて経験した。
「どうした、それでお終いか?」
小次郎は嘯《うそぶ》いた。顔は相変わらず笑っている。
「貴殿の結界は力を封殺する陰の極みとお見受けした」
秋水が言った。
「馬鹿ではないようだな……」
そう言うと小次郎の姿は消え失せ、次の瞬間には秋水の目の前に立っていた。驚いた左京と隼斗は、戻って小次郎に掴みかかろうとしたが、小次郎が両手を広げるように払うと、二人の体は得体の知れないものに捕らえられ、石のように硬直した。その瞬間に二人の意識は消えていた。
「陰の業……」
秋水が言った。
「フフフ、貴様の陽の業と同じだ」
彩と麗はこの様子に驚愕《きょうがく》したが、すぐ自分たちの武器を持って小次郎と相対そうと身構えた。しかし、秋水がそれを止めた。
「やめい! 今のおまえたちではこの男には勝てぬ」
秋水の声に二人の足が止まった。
「では貴様なら俺に勝てるというのか?」
「それは分からぬ……どうやら貴殿は陰の究極を極めつつある男らしいな」
「ほう、分かっているのか?」
小次郎は臭い息を秋水に吐き掛けるようにして言った。
「陰の究極であれ、陽の究極であれ、そこに至った者は自然と一体化する故に武器はいらぬ」
「だから貴様も杖だけというわけか?」
そう言って、小次郎は秋水の杖を足で払った。秋水は寄る年波には勝てず、長旅で足を痛めていたため、その場で膝を折って崩れた。
「そうだ、最初からそのように俺に平伏《ひれふ》せばいいんだ」
そう言うと小次郎は、転がった杖を女護衛から受け取り、両手で真っ二つにへし折った。
「かつて誰も己の極みを見た者はおらぬ。全ての者は途中まで……」
「ほざけ。貴様ら陽の者どもは、全て俺の前で屈伏するのだ」
小次郎は大きな足で秋水の胸元を蹴った。秋水は吹き飛んで地面に転がった。彩と麗が駆け寄ろうとするのを、秋水は再び制止し、苦しい息の中から話しつづけた。
「陽と陰は元々一体のもの。どちらが優るものではないが、陰の中に陽が入ると陰は致命的となる」
「ほざけ!」
小次郎はそう言うと、秋水に結界を張って封じ込めようとした。その瞬間、小次郎が放った陰の結界が轟音を立てて弾け飛んだのである。
「なっ!?」
次に秋水は九字を切って印を結んだ両手を、それぞれ二人の女護衛に向けると、秘密の呪文を唱えた。
「し、しまったぁ!」
小次郎が叫んだ時には遅かった。二人の女護衛の一人の頭が急に膨れ上がると、悲痛な悲鳴とともに爆裂して、肉片が四方に飛び散った。
「ギエエェェェェェ………ッ」
さらにもう一人の女は、背中が爆発的に膨れ上がると、背後に炸裂《さくれつ》して胸に大穴が開き憤死《ふんし》した。
「結界をこの女たちの体内に入れたなぁ!」
小次郎の言葉に秋水はニヤリと笑った。しかし秋水の腹には、小次郎が放った自分の杖が深々と突き刺さっていたのである。
「こ、これで貴様は……怨霊を捕らえることができなく……なった……な」
そう言うと秋水は前のめりに地面に倒れていった。
「中頭…………………………ぁぁぁぁ!」
彩と麗は秋水の元に駆け寄った。
ドスン!
その時、肉を押し潰すような鈍い音がしたかと思うと、小次郎の首に何かが突き刺さった。
小次郎はそれが何か分からず、一瞬戸惑った表情になる。鈍痛が走る部分に手を置くと、手裏剣であることが分かった。血が首筋から流れ出している。小次郎の集中と気が他に向いた瞬間とはいえ、気配を察知させなかった者とは、一体何者なのか?
小次郎が怒りに燃える目で振り返ると、そこに一人のシナ人が両手に唐手裏剣を構えて立っていた。陳だった!
「こ、こやつ……」
小次郎はそれが八雲の用心棒のシナ人で、自分が眠らせた男であることを思い出した。陳が小次郎に止《とど》めを刺そうと腕を振り上げた時、大声で彼の名を呼ぶ八雲の声がした。
「陳! 小次郎を殺すなぁ……っ」
陳は一瞬、動きを止めた。そして八雲を見つめると、悲しい目で首を小さく横に振ったのである。それは陳が初めて見せた抵抗だった。八雲は自動小銃を陳に向けて構えた。
「陳、やめろ。小次郎は俺の配下だ。従わぬなら、おまえを撃たねばならない!」
その時、美千子が飛び出した。
「優、やめて。陳は知っているのよ、貴方がこれ以上小次郎に関わると破滅するということを!」
八雲は美千子の言葉を無視した。そして再び陳に言った。
「唐手裏剣を下ろせ、そうしないとおまえを撃つ!」
「やめて……優……」
美千子は懇願するように言った。
「日本の未来がかかった重大事態を前に、女がいちいち口を出すなあぁぁ…………っっ!」
八雲は美千子に叫んだ。その瞬間、陳は小次郎の喉目掛けて二本目の手裏剣を投げた。
ガン! ガガガァァンン!
数発の銃声が轟いた。陳は悲しい目で八雲を見つめると、血を流しながらゆっくりと地面に崩れ落ちていった。その時、小次郎は既に姿を消していたのである。
八雲が周囲をいくら見回しても、小次郎の姿は跡形もなく消え失せていた。八雲は呆然と立ち尽くし、自分の手で撃ち殺した陳の躯をいつまでも見下ろしていた。
小次郎が姿を消すと左京たちが硬直状態から覚めはじめた。目覚める時、体を苦しそうに痙攣させたが、何とか小次郎の呪縛から無事に戻ってきた。
彩は八雲と美千子に近づくと、二人から銃を奪い、電話線を切断した。その間、八雲は陳の死骸の横に立ち尽くしていた。
その間、麗は倒れた秋水を介抱していた。そこへ左京と隼斗が戻ってきた。
「左京か……隼斗も無事だな……」
秋水が左京の手を取りながら言うと、左京と隼斗は悲痛な顔で頷いた。
「は、はい、無事です」
「小次郎は逃げたか?」
「あ……あ……え……うう」
麗は涙声で何とか話そうとした。秋水は頷くと、涙で濡れた麗の頬を優しく撫でてやった。
「そうか……伏兵が現れて深手をおったのか……」
「う、う……」
麗は涙声で何度も何度も頷いた。
「油断するな……まだ怨霊は封じ取られてはおらんからな!」
秋水は皆の顔を見ながら言った。
「わ、分かっています。だから中頭にも我々を指揮していただかねばなりません」
そう言いながらも、左京たちの目から流れる涙は止まらなかった。
「小次郎を含めて石にするつもりだったが、小次郎の前でわしの気は跳ね返された……小次郎は恐るべき陰者だ……あのまま陰を究めつづければ末恐ろしい者となろう……」
「中頭、今はあまり口を利かない方が」
隼斗が言うと、中頭は頷いた。
「有り難うよ、隼斗。しかし……話しておかねばならないことがある……左京よ……」
「は、はい」
左京が答えた。
「兵隊たちに結界を張れ……そうせねば、わしが死んだら、兵隊たちが元に戻る」
「中頭は死にません!」
左京は悲痛な声で叫んだ。
「……そういうわけにもいかん。よいな左京、今すぐに結界を張るのだ」
「わ、分かりました」
そう言うと左京は立ち上がり、兵隊たちに向けて右手で三本の指を立てる印を結ぶと呪文を唱えた。
「|※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]《オン》 縛曰羅《バサラ》 臾駄《ユタ》!」
兵隊たちの姿は足元からゆっくりと淡く消えはじめ、最後は朧《おぼろ》となって見えなくなった。
「隼斗……よいか、あとわずかで北麿たちの結界が解かれるが……その時は」
「その時は?」
隼斗が聞いた。しかし秋水は大量の血を吐き、激しく咳き込んだ。
「は、は……隼斗なら、わ……分かるはずだ……涼を……」
その言葉が秋水の最期《さいご》となった。
その時、秋水は夢を見ていた。
自分の誕生から子供時代の楽しかった数々の思い出が、目の前で走馬灯《そうまとう》のように展開していたのである。やがて少年期の様々な思い出が現れはじめ、母と父が悲しい目で八歳の頃の秋水を見送っている姿が見えた。
秋水の果敢な青年期の記憶が、現れては消え去り、時に激流のように展開し、激しく脈動し、時に渦巻いた。その様子を秋水はじっと自分の目で眺めていた。陰陽師として野山を駆けめぐり、怨霊を見つけ出しては怨霊師とともに封じ取っていく様子も、次々と目の前に展開しては消えていく。
次の瞬間、淡い光の中から秋水が初めてほのかな恋心を持った五月の姿が現れてきた……五月は昔のままの若い溌剌《はつらつ》とした顔で、秋水の前に立っていた。五月は秋水の陰陽師としての任が解かれるまで、じっと秋水を待っていると告げた。しかし秋水は五月の気持ちを受け入れることを強く拒んだ。
その年の春、五月は求められて他の小頭の元へ嫁いでいった。その様子を二階の窓越しに見つめる己の姿を秋水は見た。そして五月はやがて女の子を生んだ。その女の子はやがて成長して麗となった。生まれた子はやがて怨霊師として秋水が引き取った。麗は秋水の元で多くの小頭から様々な教えを受け、最も才として秀でた槍術を受け継ぐことになった。そして今……秋水は大忌部の里の端にある五月の家の前に立っていた。
その庭で草花の手入れをしている年老いた五月の姿があった。
「五月……」
五月は一瞬手を止めると周囲を見回した。秋水の声を聞いたような気がしたからだ。五月は既に年老いていたが、秋水には眩《まぶ》しいほどに美しかった。秋水は一礼すると五月の元を後にした。
秋水は天を仰いだ。すると雲間から暖かな一条の光が射し込み、彼を包み込んだのである。その光は黄金色に輝く光の波となって乱舞し、秋水の心を優しく癒していった。その光に乗って秋水は真っ青な天へと昇っていった。
拝殿には、その様子をじっと見えぬ目で見送る老婆の姿があった。
「秋水……」
大日女は灰色の目から一筋の涙を流した。
右京はじっと時を待った。いや待ち過ぎたかもしれない。大座敷の床の間の床脇にある違い棚に置かれた和式の振り子時計は、既に巳の刻限を過ぎて午の刻を指していたからだ。
右京の持つ懐中時計も同じ時刻を指している。大座敷に張られた結界は、境を抱き込む結界でもその周辺でもないため、時間が狂うことはない。
夢情と北麿は、いつ右京が結界を外すかをやきもきしながら待っていた。名無しは相変わらず楊枝をくわえながら、起きているのか眠っているのか分からない姿で柱に寄り掛かっている。
熊楠は善兵衛のそばにいて、苦しむ善兵衛の背中を摩りつづけていた。
「午の刻まで待った。これで怨霊は死滅しただろう」
右京が一同に言った。その言葉で皆は歓声を上げて互いに抱き合った。熊楠はホッとすると同時に肩の力が一気に抜けた。そして善兵衛に全てが終わったことを告げたのである。
夢情は立ち上がると、左手の親指が右手の親指と人差し指の間に来るよう、左右の指を互い違いにする合掌で握った。
そして大きく息を吸い、次に吐き出して陰陽の九字を切った。
「那謨婆伽縛底《ナモハキヤバチ》 |※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]駄※[#「口+羅」、第3水準1-15-31]野《ロタラヤ》 |瞋那劫波※[#「口+羅」、第3水準1-15-31]野《シンナゴウハラヤ》 |薩縛微那延迦※[#「口+羅」、第3水準1-15-31]野《サバビナエンカラヤ》 |薩縛設都※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]尾那舎那野《サツバセツトロビナシヤナヤ》 |※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]迦波羅質擔瞋那迦波羅部擔《オンカバラシツルシンナカバラブル》 |※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]訥※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]枳嬢跛野帝《ロトロキニヨウハヤテイ》 娑婆賀《ソワカ》」
その直後、大座敷の周囲で幽《かす》かな光が走り結界は外された。夢情は境に置いておいた自分の白石を取ると懐に入れた。
夢情が結界を外した後、今度は北麿が立ち上がった。北麿は夢情と同じように結界を解く九字を切った後、同じ呪文を唱えた。
すると天空に黄色い月が現れ、見る見るそれが拡大していくのが見えた。店の雇い人たちは天を見上げながら、生まれて初めて見る壮大な自然現象に感嘆の声を上げた。このような驚異の光景はかつて一度として見たことがなかったからである。
やがて黄色い月は本物の月ではなく、結界の上にできた巨大な穴から、黄砂の舞う空が覗いていたことが分かりはじめた。こうして北麿の張った結界は完全に外れ、それと同時に強い風が屋敷の中に吹き込みはじめた。猛烈な風と砂埃が一気に舞い込んできたため、雇い人たちは一斉に襖や障子を閉めはじめた。
右京は屋敷の出入り口から外に出た。
外は無数の傀儡たちの屍が転がる地獄の風景に変貌していた。こうなることは初めから予想していたとはいえ、あまりの悲惨な光景に、さすがの右京も目を背《そむ》けざるを得なかった。見ると隼斗と彩が立っていた。彩は怪我をしたのか、顔の半分に包帯をしている。
「左京と麗はどうした?」
右京が尋ねると、二人は後ろを指さして言った。
「今、あのテントの中で軍人たちを見張っています」
「中頭は?」
その時、二人が妙に沈み込んだので右京はすぐに悟った。彼らの後ろを見ると、荷車の上に中頭の屍が寝かされているのが目に入った。
「中頭……」
右京は中頭の亡骸《なきがら》にゆっくりと近づくと、手を握った。その手を額に押し当てると膝を落とし、目から大粒の涙を溢れさせ、男泣きに泣いた。
「傀儡を率いていた小次郎と対峙し、自分を犠牲にして二人の怨霊使いを討ち滅ぼされたのです」
隼斗が言った。
「そういう御方だ、中頭という御仁は……」
右京は唇を噛みながら慙愧《ざんき》の思いで声を絞り出した。
舞たちも屋敷から出るとすぐに秋水の異変に気づき、驚いて荷車に駆け寄ってきた。
「中頭ぁぁ……………………っ!」
北麿が大声で泣いた。夢情は目の前の出来事が余所《よそ》の世界の出来事であるかのように、ただ呆然と眺めていた。秋水が死ぬことなど考えられなかったからである。
蘭は地面につっ伏して泣き崩れ、舞は脱け殻のようにその場で立ち尽くした。その中を風が音をたてて吹き抜けていった。
隼斗は悲しみにくれる右京に近づくと、秋水が最後に言い残した言葉を伝えた。すると右京は小さく頷いて立ち上がり、屋敷へと戻っていった。
ちょうど屋敷から熊楠と手代たちが顔を出し、顔や口を覆いながらも自由になった喜びを噛みしめていた。だが、彼らも無数に転がる屍の山を見て愕然となった。
物凄い風が吹いて熊楠の口の中を砂で一杯にした。熊楠は慌てて、唾を何度も吐きながら言った。
「いかんいかん、ペッペッ! 口の中に砂が入った。ジャリジャリしてかなわんぞ、これは」
熊楠は右京が怖い顔をして立っているのに気づいた。
「あんた、外の有り様は一体どういうわけだ?」
「中で説明する。とにかく外に出ない方がいい」
そう言うと右京は、熊楠たちを再び屋敷の中に押し込み、悲しみにくれる舞や北麿たちも、その後につづいた。
舞は北麿の白石が道に置いたままになっているのを見つけた。赤色で発≠フ文字が彫られた石は間違いなく北麿の結界石である。舞はその白石を拾うと北麿に手渡した。北麿は中頭の死に大きな衝撃を受け、己の大事な白石のことを忘れてしまったのである。
こうして屋敷は再び戸が閉められた。
「なんですと、まだ屋敷の外に出られないって?」
熊楠が叫んだ。
「そんなぁ……」
「何故ですか?」
「な、何だあんた、すぐに出られると言ったじゃないか」
「嘘つき!」
口々に叫ぶ店の使用人たちを前に右京が言った。
「私も早くここから立ち去りたいのは山々だが、もう一度全員が大座敷に集まっていただきたい」
「何故だ?」
熊楠が聞いた。
「最後にもう一度、怨霊がいるかいないかを調べねばならないからだ」
そう聞いた熊楠は、さらに激怒した。
「あんたらのせいで俺たちは結界に閉じ込められ、散々、怨霊退治に付き合わされ、最後の最後まで振り回された。その挙げ句にまたぞろ調べるだと。ふざけるなあっ!」
熊楠の言葉に使用人たちも一斉に頷いた。
「元の世界に戻れたんだ。もうあんたらの思い通りにはならないぞ」
「そうだそうだ、もうご免だ」
「出ていってくれ」
不平が浴びせられる中、右京が低い声で言った。
「ならば屋敷にもう一度結界を張るしかない!」
その声に一同は静まり返った。
「我らとて好き好んでこういう真似をしているのではない。もし最後の最後で怨霊を取り逃がせば、これまでのご一同の苦労も水泡に帰してしまうからだ」
右京の言葉に一同は頷かざるをえなかった。
「俺は大座敷に行く……毒を食らわば皿までという言葉を知らんのか」
名無しだった。熊楠は名無しを睨み付けたが、どうしようもなかった。最後には使用人たちも頷かざるをえなくなり、しぶしぶと大座敷へと移動した。
大座敷に再び全員が集められた時、右京は大座敷の四隅に舞、蘭、北麿、夢情を配置した。
「仮に怨霊が生き残っている場合、直ちにこの者らが討ち取ることになる」
その時、熊楠が割り込んだ。
「おいおい、あんたは怨霊は巳の刻に死んだと言っていたではないのか?」
「それは怨霊が霊であった場合のこと」
「というと何か、怨霊がここの誰かに憑依したということか?」
熊楠は驚いた顔をした。
「それは分からぬ。それを確かめるために検分を行うと言っておるのだ」
その言葉を聞いていた丁稚の正太は、さっきからどうも静の首を入れた壺が気になって仕方がなかった。
「あのう……」
正太は遠慮しながら口を開いた。
「馬鹿、おまえなんかが口出しすることじゃねえ」
喜祐が正太を叱った。
「何かあれば遠慮なく聞けばいい」
右京が正太に言うと、正太は思い切って言った。
「俺はあの壺が怪しいと思います」
そう言うと正太は、善兵衛の枕元に置いてある壺を指さした。
「……なるほど」
そう言うと右京は、ゆっくりと正太の前にやってきた。
「確かにあの壺の方から怨霊の気配がしてくることは間違いない。しかし、たとえ怨霊でも首を刎《は》ねられれば生きてはいけぬ。よって怨霊も死んだ首に憑依はできぬし、してもやがては死んでしまうことになる」
正太は右京の言葉に頷いた。
「馬鹿、それ見たことか」
喜祐が後ろから正太の頭を張る音がした。
その時、ゆっくりと障子が開くと隼斗が姿を現した。
北麿は隼斗を見ると微笑んで手を振る。隼斗もそれに答えて頷いた。その光景を夢情は苦々しい目で睨んだ。隼斗は大座敷に入ると、さっそく一同の前で言った。
「私は隼斗と申す者。北麿と同じ陰陽師だが、今からご一同の前で少し変わった趣向をしてみたい」
そう言うと皆を一列に並ぶように座らせた。熊楠は善兵衛の布団の横に歳三と一緒に座ったが、何をする気でいるのかさっぱり分からないという顔でむくれていた。
「では、はじめたい」
そう言うと隼斗は一人の女を中に呼び入れた。入ってきたのは彩だった。彩は顔の半分以上を包帯で隠していたが、一同の前に座ると包帯を外していった。
包帯の中からゆっくりと現れる彩の顔を見て一同はざわめいた。その顔があまりにも美しかったからである。さっき頭を叩かれていた正太も口を開けたまま彩に見とれていた。
「怪我が無いのに、どうして包帯をしている」
名無しが聞いた。
「酔狂《すいきょう》です」
隼斗がそう言うと、彩は立ち上がり全員の前をゆっくりと移動していった。熊楠は相変わらず何が何だかさっぱり分からないという顔をしている。
その隣にはチョコンと歳三が座っている。その前を彩はゆっくりと歩いていく。それが一体何の真似なのか誰も分からない。
その時、隼斗が言った。
「涼、極楽院に現れた怨霊はこの中にいるか?」
その時、善兵衛の体がビクッと動いたのを彩は見逃さなかった。善兵衛だけは彩の姿をまだ見ていなかったからだ。彩は善兵衛の布団に手を掛けると、ゆっくりと布団を剥ぎはじめた。
「お、おい、善兵衛は重病人なんだぞ」
「邪魔だてするな!」
熊楠は彩の行為を止めようとしたが、右京の一喝で手を引っ込めた。
「なんて奴らだ」
そう言うと熊楠はふてくされた。
彩が掛け布団を剥ぎ取ると、その中で善兵衛が体を曲げて咳をしていた。如何にも苦しそうだったが、彩が肩に手を掛けると善兵衛はうっすらと目を開けて彩の顔を見た。
その時、善兵衛の目は大きく見開かれ、仰天のあまり布団から跳ね起きてしまったのである。
「な、な、何故におまえがここにいるうぅぅ、あの時に死んだのではなかったのかえぇぇぇぇぇッッッ?」
使用人たちは驚いた。今まで瀕死《ひんし》の状態だった主人が布団から跳ね起きてしまったからだ。一番驚いたのは熊楠だった。どういうわけか分からず、呆然として善兵衛の顔を見ていた。
「見つけたぞ、怨霊!」
彩はついに姉の仇を見つけ出したのである。
「分からんぞぉえぇぇ〜〜〜〜っ、あの時おまえは間違いなく死んだはず〜〜〜〜ぅぅぅぅ!」
怨霊は祠が破壊され境が消滅した時、もはや寿命が尽きると観念し、憑依するのに最も楽な病の善兵衛に取りついたのだ。熊楠にはもう何が何だかさっぱり分からなくなってしまった。
(うかつだった。怨霊の気配は壺からだけではなかったのだ!)
北麿は舌打ちした。そして夢情の方を向くと片手を上げて謝る仕種をした。しかし夢情はそれを見てフイと横を向いた。北麿はまずかったと思った。
怨霊は憑依した以上、体を討たれれば死ぬことを知っている。それだけに恐怖にうち震えていた。
「い、言えぇぇぃぃ、何故におまえは生き返れたのだぁぁぁ〜〜〜〜?」
「私は涼ではない!」
「ひぇえ?」
怨霊は奇怪な叫び声を上げると舌をベロベロと動かした。
「私は涼の双子の妹の彩だ」
怨霊は大きな目を開けて彩の顔をまじまじと見た。この時、怨霊は初めて自分が策にはまったことを知ったのである。
「おのぉぉれえぇわぁぁぁぁ………だ、騙《だま》しおったなあぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜っっっ!」
怨霊はそう叫ぶと、障子にへばりつき四つん這いになって一気に壁を駆け上がった。そして天井板を蹴破ってその中に潜《もぐ》り込もうとした瞬間、彩の鋼芯が怨霊の両手を指し貫いたのである。
「ウウギギヤヤアァァァァァァァ〜〜〜〜〜〜ッッ!」
怨霊の凄まじい叫び声が屋敷中に轟いた。女中たちはあまりの恐ろしさと気味悪さに、思わず耳を塞いで互いに寄り添った。
怨霊は凄まじい激痛に我慢できず、そのまま畳の上に落下した。それでも、何とか逃げようともがいたが、その瞬間、次の鋼芯が怨霊の両足の甲を貫き、畳にまで達した。
「グワアアアアアァァァァァアアアアェェェェェエエエェェェェ!」
怨霊はもんどりうって倒れ、その場でのたうち回った。
「姉の苦しみ、思い知ったか!」
彩は怨霊を見下ろしながら言った。
「こ、このうぅぅ女あぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜っっっっ?」
目を真っ赤にして怒りを露《あらわ》にした怨霊は、両足を引き上げて鋼芯から引き抜くと、何とかしてその場から逃げ出そうともがき苦しんだ。
「涼の仇!」
隼斗はそう叫ぶと、よろよろと立ち上がった怨霊の両足を満身の力を込めて六角棒で強打した。
ボババキッ!
骨が折れる鈍い音がして、怨霊はうつ伏せに倒れた。
両足の脛《すね》の骨が砕かれたはずなのに、怨霊は柱に手を掛けて体を起こすと、脛から下をブラブラさせながら尚も逃れようと必死にもがく。隼斗が彩に頷くと、彩は全ての鋼芯を一気に怨霊目掛けて投げ放った。
ドカドカドカドカドカドカドカ!
「グゲゲゲェェエエエエェェェゲグエエエエエエェェェグギヤアァァァァァ〜〜〜〜〜〜ッッッッ!」
怨霊の体に何十本もの鋼芯が突き刺さり、針鼠のようになった怨霊は物凄い断末魔の叫び声を残して絶命した。
隼斗は彩に駆け寄ると震える肩を抱きしめてやった。
「やったな、彩」
「これで姉も安らかに眠れるわ」
そう言うと彩は大粒の涙を流した。隼斗も一緒に泣いた。隼斗は懐から涼が残した槃≠フ青文字が彫られた白石を取り出すと、彩の手に握らせた。こうして隼斗はやっと彩の全てを受け入れることができたのである。
その様子を見ていた北麿は、舞のところにやってくると、もらい泣きする舞の肩に手を置いた。何かと思ったのか、舞は北麿の顔を不思議そうに見つめた。北麿もじっと舞の顔を見つめている。
「何よ?」
舞は怪訝な声で聞いた。
「やはり血の涙が流れていない……」
舞は北麿を睨んだ。
「それは私が怨霊を倒した場合だけでしょ!」
「ああ……そうか」
そう言うと北麿は舌を出した。
「馬鹿!」
舞は頬の涙を拭った。
黄砂を運んだ烈風が去り、それとともに封鎖区域の中で起きた一連の出来事も終わりを遂げた。
しかし、封鎖はその後もつづき、その中で兵隊たちはあちこちに転がっている傀儡衆の死体を回収していた。八雲はこの中で起きた事件の全てを極秘のうちに処理することにした。後は警察との問題を片づけるだけだが、それは軍の機密事項として処理できる。
兵隊たちは彼らが去った後、無事に結界の中から戻ったが、傀儡たちの死骸は六十二体もあり、その中に小次郎を護衛していた女の無残な躯も含まれていた。誰にも戸籍がなく、日本に存在しないはずの人間たちだ。よって死体の処理も簡単だった。
八雲の調査で傀儡衆の使った屋敷の中に六体分の人骨と肉塊の一部が発見されたが、傀儡たちが人食いをした残骸であることは明白だった。これも軍の機密扱いになるため、徳島市内で消えた六人の男女は永久に行方不明扱いになるだろう。
それとは別に、八雲には小次郎との一件が片づいていないことに対する不満がつのっていた。
怨霊師と陰陽師たちが去った後、八雲が桔梗屋に入ると、怨霊に取りつかれた人間の死骸は全て焼き尽くされ残骸一つ残されていなかった。
熊楠という男が言うには、怨霊に憑依された人間は、静の子の弥吉、店のおかみの薫、そして店の主の善兵衛だという。
怨霊に食われた者は、女中の静、番頭の与二郎、女中頭の米、老手代の政、祈祷師の百欄と付き人、そして女中のタネだという。しかしタネだけは怨霊に食われたかどうか定かではないらしい。
八雲はこれらの記録を、生き残った雇い人らの証言を元に調書にまとめ上げたが、当然、軍事機密として外部に出ることのない報告書となる。見る者の数は限られ、明石少将と一部の側近だけだ。当然、軍の命令で警察に関与はさせないし、調書をとった人間にも国家の安全のための秘密厳守を申し渡してあった。
厄介なのは熊楠という隠花植物学者だった。八雲をもってしても一筋縄では行かず、何かにつけて突っ込んでくる男だった。熊楠は八雲と同じくイギリスに渡っていて海外事情に詳しく、国際情勢にも非常に明るかったため、軍の命令と脅《おど》すだけで平伏する連中のようにはいかなかったのだ。
八雲は今も熊楠の言葉を思い出すだけで胸糞が悪くなった。
〔よろしいか? 国家安全のためとおっしゃるなら、この熊楠も同意します。しかし、もしあんな怨霊を国が蔑《ないがし》ろにするようなら、世論に訴えてでも国を動かしますぞ〕
〔怨霊は恐ろしい生き物だ。あんなものがこの世に出てくるのは、国の土台が怨霊を呼び寄せるほどに腐ってきておるからだ。さらに言えば、軍が怨霊の温床となるような野心を持って、亜細亜全土を蹂躙《じゅうりん》しようと企てておるからではないのか?〕
その時、八雲の肩に美千子の手が置かれた。八雲が振り向くと、美千子はそっと八雲に口づけをした。その後、美千子は胸を張って敬礼をすると八雲に言った。
「私は本部からの命令で、今から帝都に戻らねばなりません」
それを聞いた八雲は一瞬目を曇らせたが、やがて美千子に向き直ると微笑みながら言った。
「そうか寂しくなるな。まあ気をつけて帰れ」
「はい、自分は八雲大尉殿が与えられた権限の中で精一杯のことをやられたと思います。これは証人としてハッキリと言うことができます」
「分かった、その時は宜しく頼む」
そう言うと八雲も立ち上がり敬礼をした。美千子は軍帽を深く被ると、後ろで束ねた三つ編みを揺らしながら、テントから出ていった。
八雲も一緒にテントを出る。美千子は振り向いてもう一度八雲に敬礼した。八雲もそれに答え、彼女の姿が見えなくなるまで見送った。美千子は八雲の視界から消えるまで二度と後ろを振り返らなかった。
陳の死体が運ばれていくのが見えた。山中に隠して埋められる傀儡たちと違い、陳だけは近くの寺で埋葬してやることになっていた。
八雲は陳を思うとため息が出た。八雲に撃たれた時の陳の悲しい目が、どうしても八雲の脳裏から離れないのだ。陳は八雲には欠かせない忠実な護衛だったが、小次郎を殺されては計画が根底から成り立たなくなってしまう。あれは八雲にとって最も苦しい選択だった。おそらく陳のことでは一生苦しむことになるだろう。
八雲はしばらく桔梗屋を見ていた。店の雇い人たちが生き残っている以上、桔梗屋には親族の者が入り、歳三をもり立てて再び商売をはじめることになるだろう。
八雲の顔を一陣の風が吹き抜けた。その瞬間、八雲は自分の背後に人の気配を感じた。それとともにあの嫌な匂いがした。
八雲は振り向きざま腰から自動小銃を引き抜き、その者の顔面に向けて構えた。そこには小次郎が立っていた。
「貴様、よく平気で俺の前に戻ってこれたな?」
八雲が銃を構えたまま言うと、小次郎は白い歯を見せた。首にはわずかに傷痕が残っているだけだった。よほど屈強な体なのか平然としている。
「頸動脈をわずかに逸《そ》れたんでな、命拾いをした」
八雲は銃を下ろさなかった。
「あんな重傷を負って、もう傷が癒《い》えているとはどういうわけだ?」
「俺は特殊体質なのさ」
八雲は小次郎を見ているとそれもあり得るかもしれないと思った。
「貴様のおかげで忠実な部下を殺す羽目になった」
「部下の一人ぐらい、俺の価値に比べれば、どうということはないだろう」
「もう一度言ってみろ……今の俺は貴様の頭ぐらいは平気で吹き飛ばす気でいるんだぞ」
八雲がそう言うと小次郎は大げさに両手を上げた。
「悪かった。あのシナ人はあんたの護衛だったんだな」
「あんたではない、大尉殿だろう!」
「ああそうそう、大尉殿……」
小次郎は耳の後ろを掻きながら邪魔臭そうに言った。
「貴様が軍人だったら、敵前逃亡で即刻射殺するところだ」
そう言うと八雲は銃を下ろした。小次郎はそれを見てニヤリと笑った。
「中に入れ」
八雲がそう言うと、八雲の後から小次郎はテントの中に入った。
「大尉殿の女護衛は帝都に戻ったみたいだな?」
「…………」
八雲は椅子に座ると、冷たいガラス玉のような無機質な目を小次郎に向けた。
「フフフ、小うるさい女はいない方がいい」
そう言いながら小次郎も椅子に座った。
「いつ貴様に椅子に座れと言った?」
八雲は冷淡に言った。
「おいおい俺はおまえ……いや大尉殿に喜んでもらうために戻ってきたんだぞ」
「喜んでもらうだと、笑わせるな! 貴様のいい加減な口約束などを聞いた俺が馬鹿だった」
八雲はそう言うと思い切りテーブルを叩いた。
「俺は約束を破った覚えはないぜ」
「よくもヌケヌケとそういうことが言えるもんだな」
「俺は大尉殿との約束を果たしにここに来ているんだぜ」
小次郎の目は笑っていなかった。
「しかし、怨霊は封じ取られてしまった」
「あそこにいた怨霊は一匹じゃねえ……!」
八雲は小次郎を見ながらシガーケースを出すと、一本取り出して火をつけた。
「おまえの言う通り他にもいたようだが、それも連中に封じ取られていた」
八雲がそう言うと小次郎は含み笑いをした。
「なにがおかしい?」
八雲に明石との約束が無ければ、この男を生かしておくことはなかっただろう。
「言っておいたはずだ。軍に怨霊を渡して俺たちが飼育するとな」
「……!」
八雲は立ち上がって小さなビクトリア朝風の戸棚からウィスキーを取り出すと、小ぶりのグラスに注いだ。そして香ばしい香りを嗅ぐと一気に喉の奥に入れた。
「貴様は馬鹿か、それとも希有《けう》な山師か?」
八雲は振り向くと、小次郎に言った。
「俺は馬鹿でもないし山師でもないぜ」
小次郎は不気味な顔で笑った。
「ではここに怨霊を連れてこい、そうしたら信じてやる」
八雲が言った。
「もう捕らえてあるさ!」
「……?」
八雲は一瞬小次郎が何を言ったのか分からなかった。
「何だと?」
「怨霊を捕らえてあると言ったんだよ」
しばらくの間テントの中は奇妙な沈黙が支配した。外は日が陰りはじめ周囲は大分暗くなってきた。
「俺にふざけた冗談は命取りだぞ!」
「分かっているつもりだよ、大尉殿……」
八雲は再び椅子に座り小次郎と向かい合った。
「怨霊は全て封じ取られたはずなのに、何故貴様に怨霊を捕らえることができるのだ?」
「大尉殿、怨霊と言っても様々でな。ただ闇雲に人を食らう奴から、徹底的に悪賢く振る舞う奴までいろいろだ」
「だから何だと言うんだ?」
「怨霊でも悪賢い奴は最後の最後までじっと気配を隠しているもんさ。そしてじっくりと成長しながらその時を待ちやがるんだ」
「その時とは何だ?」
「死なない不死体に変貌を遂げる時のことさ」
「不死体……その間、怨霊を封じ取る連中にも分からずにか?」
「ああ、奴らとて完全ではない。怨霊の気配が無ければ気がつかぬ」
「それが桔梗屋でも起きていたと言いたいのか?」
「そういうことだ……!」
小次郎はそう言うと、両手の指先を己の顔の前に合わせ、何度か軽く当てるような仕種をした。
「すると、怨霊が桔梗屋にまだいるということか?」
「その前に、桔梗屋の雇い人たちはどうするつもりなんだ?」
「どうするわけでもない。今のままで置いておくしかないが、勿論、口封じだけは厳しく申し渡してある」
「大尉殿、俺なら全員を殺す!」
八雲は小次郎の言葉に不快な顔をした。
「……貴様が食うつもりか?」
皮肉を込めて八雲が言うと、小次郎は膝を叩いて笑った。
「確かにその手もあったな。しかし俺が言うのは、奴ら全員を怨霊の餌にして殺してしまえということだ。そうすれば口封じと餌の一石二鳥。それでこの封鎖区域で起きた出来事を知る民間人は一人もいないことになる。あとは屋敷に火をつけ、火事で丸焼きにしてしまえば後腐れもない。焼くための死骸なら傀儡のを使えばいい」
小次郎の話に八雲は耳を欹《そばだ》てた。確かに悪い策ではない。軍にとって最も重大な問題は情報の漏洩《ろうえい》だったからだ。
「それだけで生きた怨霊が手に入るものなら安いか……」
「それでいいなら俺と一緒に来てもらおうか」
小次郎はそう言うと立ち上がり、二人はテントから出た。すると桔梗屋の外に頭を丸めた異様な僧侶の集団が座して何やら腹の底に響くような呪文を唱えているのが見えた。両手に奇妙な神具を持ち、眉を剃った眉間《みけん》に三つの赤い点が入れ墨されている。
「何者だ、この坊主たちは?」
八雲が小次郎に聞いた。
「こやつらは怨霊を封じ込める呪詛衆だ」
「呪詛衆だと?」
「そうだ。怨霊は結界の中では飼育できない。これら呪詛衆らの唱える封印言で怨霊を呪縛することができ、飼育することができるのだ」
「こやつらは怨霊使いではないのか?」
「違う。呪詛衆は封印言を唱えつづける怨霊呪縛の職の者らだ」
「では怨霊使いは、殺された二人の女以外にもいるんだろうな?」
「当然だ。あいつらを失ったことは痛手だったが、村には怨霊使いは大勢いる」
「連れてきたのか?」
「ああ、今、屋敷の中にいる」
そう言うと小次郎は桔梗屋の中に入った。
八雲が大座敷に入ると、雇い人たちはまとめてそこに座らされていた。
その時、八雲は背筋がゾワゾワと寒くなるのを感じた。薄暗い中を四つん這いで徘徊《はいかい》する何か得体の知れない生き物が目に入ったからだ。
その生き物を遠巻きにしている数人の人影があった。彼らは腹の底に響くような呪文を唱えながら、手に持った奇妙な鞭を打ち鳴らしていた。
「何だ、あいつらは?」
「あれが傀儡の怨霊使いだ」
雇い人たちは徘徊する生き物に怯えていた。
「こ、これが怨霊なのか?」
八雲は絶句した。
「子供ではないか!」
「そうだ、歳三というガキだった……」
小次郎が白い歯を見せて言った。歳三は黒い羽織を着たまま目を真っ赤に充血させ、激しく四つん這いで動き回っている。明らかに歳三は自由にならない身に怒り狂っていた。
「なぜ彼らがこれを見逃した?」
「変異体だからだ」
八雲は一瞬呆然となった。
「変異体?」
「そうだ変異体だ。怨霊を誘き寄せる術を我らは見つけ出した。その怨霊を呪縛《じゅばく》して寺社に張られた境という結界に植え付けておいたのだ」
「変異体とは貴様らが造り出す怨霊ということなのか?」
「別にそうとは限らん。普通の怨霊と異なる力のあるものをそう呼んで区別するだけだ。人工的な変異体は寺社の結界に耐えられるよう、人為的に変異させた怨霊の芽を言い、それを境に植えつけておくのだ」
「すると何か、ここに怨霊を植え付けたのは、おまえたちなのか?」
「そうだ。結界の巣の中で怨霊が成長すれば、時期が来た時、再び捕らえ、我らの村へ連れていき、一気に不死体へと変貌させる」
「となると怨霊の気配を消す知恵を与えたのも貴様らなのか?」
「そういうことだ……」
小次郎は床の間に座るとニヤリと笑った。
「しかし、怨霊師らが来れば必ずしも成功はするまい」
「田畑に天災はつきものだ」
「その代わり、実る芽も一つではないということか?」
「そういうことだ。うまく行けば怨霊を封じる連中を逆に食らうこともできる。そうなれば一気に不死体へと怨霊は成長できるのだ。極楽院に植えておいた変異体をここに逃がしたのは俺だ。おかげで二匹の変異霊の怨霊が住むことになったが、怨霊同士は争わぬ」
「なぜだ?」
「奴らは自分たちが不死体になるまで、殺される体を持つ弱い存在であることを知っているからだ。だから互いに協力し合う」
「自然に変異体が出ることはないのか?」
「自然ほど完璧なものはない。大雑把に見えて、これほど緻密なものもない。俺たちの蒔《ま》く変異体は人工的なものだが、自然の闇から出てくる変異体はこの程度ではないだろう」
「見たことがあるのか?」
「無い。しかし……」
「しかし何だ?」
「聖徳太子の頃に現れたと聞いている」
「聖徳太子といえば、今から千数百年前の飛鳥時代にまで溯《さかのぼ》るぞ」
「その後、平安遷都の頃にも現れているはずだ。そして安倍晴明の頃にもな……。我ら傀儡はその記録伝承の詳細を手に入れ、そこに書かれた記述を基にして、陰の秘術をもって同じ変異体を生み出す術を見つけ出したのだ」
「それでできた怨霊がこれなのか?」
「そうだ。こいつは非常に賢い。絶対に怨霊の気配を出さぬよう前もって秘術を使って変質させてあるからな」
「すると貴様は最初からこの怨霊を軍に引き渡すつもりだったのか?」
「できれば二匹揃えて渡したかったが、さすがにそれは無理だった」
そう言うと小次郎は不敵な顔を八雲に向けた。
読経のような呪詛の言葉が流れる中、八雲は一つの選択を迫られていた。雇い人の命を奪うか否かということだ。ここまで知ってしまった連中は、極秘計画にとっては邪魔者以外の何者でもない。
「ではいいな?」
小次郎が念を押した。
その言葉に八雲は、首を振って頷いたのである。
小次郎が片手を上げると呪詛の音域が変わった。すると歳三は四つん這いで激しく蠢《うごめ》き、悲鳴を上げて逃げ回る女中の喉元に食らいついた。
「ギヤァァァァァァァ!」
女中は断末魔の叫び声を残したまま、凄まじい勢いで皮を剥がされると、生きたまま赤身にされて食われていった。
その時、八雲は二人の姿がないことに気がついた。熊楠とニヒルな顔の男だ。
「しまった!」
そう言うと八雲は、外に飛び出し田辺を大声で呼んだ。
「田辺伍長はいるかぁ!」
八雲の言葉に田辺が走ってきた。
「大尉殿、何でありますか?」
「熊楠と用心棒の男はどうした?」
「は、はい、二人とも桔梗屋の雇い人ではありませんので、大尉がおっしゃった通り、口封じを約束させた後で解放いたしました」
八雲は唇を噛んだ。一番殺しておかねばならない男を逃がしてしまったのだ。
その時、屋敷の中から不気味な獣の怒号のような声が轟き、腐敗臭に似た嫌な匂いが一気に流れ出してきた。
呪詛衆がゆっくりと立ち上がると、何か巨大なものが姿を現し、出入り口を叩き潰すのが見えた。それは正に巨大な肉塊だった。見るからに醜悪そうな姿で、人間に似ているが、別の生き物である。そいつは皮膚からブスブスと泡を立てながら、口に人間をくわえている。丁稚の正太の哀れな姿だった。
怨霊は正太を上に放り上げると、落ちてきた正太の体を一呑みにした。兵隊たちは恐怖と驚きのあまり、その悲惨な光景を呆然と見ているしかなかった。
「大尉、兵隊たちに怨霊を撃たせるなよ。まだ不死体ではないし、撃たれて暴れるとどうなるか分からんからな」
小次郎が大声を出した。
この日を境にして、八雲は実質的な意味での軍における怨霊部隊の直轄責任者となった。
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エピローグ
大勢の人々が行き交う雑踏のど真ん中に二人は立っていた。
一か月後、舞と北麿は再び桔梗屋の前にいた。桔梗屋は既に火事で跡形もなく焼け落ち、店の者は全員その時に焼け死んだという。舞たちは軍の関与を感じたが、全てが終わった後ではどうしようもなかった。
「もし軍の仕業だったら、俺たちはあの時どうすればよかったんだ?」
北麿が言った。
「私たちの相手は軍ではないわ」
舞は言った。
「確かにそうなんだが、今まで俺たちの仕事に軍が首を突っ込んできたことは一度も無かったからな……これからはやりにくくなるかもしれない」
「もし軍と傀儡《クグツ》が手を結んだとなると、最悪の事態を考えなければならないわね」
「桔梗屋の有り様を見ればそうなったと見るべきだろうな」
軍が関与した証拠は一切無かったが、舞は軍が桔梗屋の人々を口封じしたとしか思えなかった。
「跡取りの歳三も焼死したみたいだ」
「軍がそこまでやるとは思わなかった……」
「小次郎とかいう傀儡の男が一緒にいたというし、おそらくこいつの差し金の可能性もある」
「熊楠殿や名無し殿も巻き添えで亡くなったのかしら?」
舞は彼らのことが気になった。
「焼死体はどれも性別も分からぬほど焼けただれていたというから、それだけは何とも言えないな」
その時、頬被りをした一人の男がやってくると、北麿の背中を遠慮がちに叩いた。
北麿はその男を見て、前に一度|何処《どこ》かで会ったことのある顔と思ったが、それが何処か思い出せなかった。しかし、舞は思い出した。
「源八さん……ね、貴方?」
そう言われた男は、頬被りを取ると、舞に頭を下げた。
「へえ、そうです、源八です」
「思い出したぁ、怨霊が取りついた犬に食われそうになった男だ」
「へえ、あの時はお助けくださって、何と感謝していいか。あれからもう一度お会いできたらと思っておりました」
「で、俺たちに何か用か?」
北麿が聞いた。
「へえ、実はどうしてもお二人にお伝えしておきたいことがありまして」
「何だ?」
「ちょっとここでは人が多くて……」
そう言うと、男は頭を掻いた。
「分かった、人気のないところへ行きましょう」
舞が源八の腕を引いた。その時、源八はあの夜と同じ白檀《びゃくだん》の香りを嗅いだ。
「じゃあ、この先に空き地がありますんで、そこでちょっと」
源八は道の外れにある煉瓦工場の空き地に舞たちを案内し、人の姿が無いことを確かめた。人がいないと分かると、源八は急に両膝をついて二人に深々と頭を下げた。
「あの時は助けていただいて本当に有り難うございました」
そう言って頭を下げる源八の手を舞が取った。
「頭を上げてください、怨霊を封じることは私たちの役目なんです」
「いいえ、貴方は俺の命の恩人だ。一生忘れません」
源三はそう言うと、また何度も頭を下げた。
「ところで話というのは何なんだ?」
北麿が腰を落として聞くと、源八は思い出したような顔をして、また照れくさそうに頭を掻いた。
「そうでした、実は俺が働いている鉱山に南方熊楠という男が立ち寄りまして、何だか粘菌とかを調査している学者とか言っていましたが」
それを聞いて舞と北麿は思わず顔を見合わせた。
「それはいつ頃のことだ?」
北麿は慌てて聞いた。
「つい一週間ほど前のことです」
二人は微笑んだ。
「よかった……」
「熊楠殿は生きていたんだ」
「やっぱりそうですか?」
源八が言うと、北麿は不思議な顔をして聞いた。
「やっぱりとはどういう意味だ?」
「いえ、その旦那と酒を酌み交わしていた時、不思議な巫女《みこ》と僧侶のような若者が、自分の泊まっていた屋敷で怨霊を封じ取った話をしてくれたんです」
「間違いない、熊楠殿は火事を逃れたのだ」
北麿はホッとした。けっこう灰汁《あく》の強い人物だっただけに、他人とは思えないところがあった。
「実はその時、名前のない男と屋敷から逃げ出したと言っていたもんで、お二人が焼け跡の前にいる姿を見た時、あるいはお捜しなのかもしれないと思いまして……つい」
「源八殿、よく声をかけてくれました。私たちも熊楠殿の安否を心配していた矢先だったのです」
舞が礼を言った。
「名無し殿については何か他に?」
「ええぇ、あまりに奇妙な名前だったんで、俺も興味ついでに聞いたんですが、旦那が言うには途中で別れたとか何とか言っていましたよ」
「そうか、少なくとも二人だけは間違いなく火事から逃れたんだ」
北麿は頷いた。
「そのことですが、熊楠の旦那はあれは軍の仕業だと言っていました」
その言葉に舞と北麿は顔を見合わせた。
「……やはりそうだったの」
舞は悲しい顔をした。怨霊師と陰陽師には怨霊と関係ない者を無闇に殺生《せっしょう》してはならないという厳しい掟《おきて》があった。しかし、軍が平然とこのような真似をするなら、舞たちも何らかの策を講じなければならなくなる。
「旦那から聞きましたよ、大変苦労をして怨霊を退治なされたそうで……」
「私たちだけの力じゃないわ」
「いやあ、でも大したもんです、旦那もいろいろ文句を言って悪かったって言っていました」
「そう……」
舞はそう言うとニッコリ微笑んだ。
「一つ心配なのは、熊楠殿を軍がそのままにしておくかということだ」
北麿の言葉に舞も不安を覚えた。
「いや、旦那はちゃんと手を打っておいたそうですよ」
「えっ、それは一体どういうことだ?」
「何とかいう大尉宛に手紙を出して、そこに事件の全貌を詳細に記したものをイギリスの学者に預けたと書いておいたとか言っていました」
「……つまりそれは、熊楠殿の身に何か起きた場合、海外でそれが開封されるということなのか?」
「へえ、確か名無しっていう人についても、自分と同じ扱いにしろっていうことらしいです」
「ははははは、これでは軍も手が出せないだろうな。海外では軍の権限は届かないし、軍の秘密が世界中に広まってしまうわけだからな」
「考えたわね」
「頭がいい人だ」
「これで名無し殿の身も安全になったわけね」
「そういうことだろう」
「ただ旦那はこうも言っておりました」
源八が遠慮がちにポツリと言った。
「何を言っていたのだ?」
北麿はニコニコしていた。
「いずれ忌部の謎を解き明かすとか何とか……」
その言葉に北麿は顔を顰《しか》めた。熊楠が民俗学者として忌部の謎を解き明かすと言っていたのを思い出したのである。
「それだけは迷惑な話だな」
北麿の困った顔を見て舞が笑った。
「それを調査していた途中で、俺の働いていた鉱山に立ち寄ったってことでしたから」
「なるほど分かった……源八、おまえを助けておいてよかったよ」
北麿に言われて源八は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「私たちはこれから別の怨霊事件に出向かねばならんので、ここで別れよう」
北麿はそう言って源八の肩を叩いた。
「へえ、お名残惜しいですが、どうぞお気をつけて」
源八は頭を下げた。
舞は源八に手を振り、源八もいつまでも二人に頭を下げていた。
八雲は帝都に向かう軍用列車に乗っていた。夜の静寂を疾走する特別列車の姿は、これから先の日本を待ち受ける深い闇を暗示しているのかもしれない。
八雲の胸には日本軍が亜細亜全土を破竹の勢いで制覇し、ヨーロッパ列強と対峙《たいじ》するに至る光景が思い浮かんでいた。それは日本人の一人として実に痛快な光景であり、そうなれば日本は世界に冠たる大国になる。八雲はイギリスを第二の祖国と思ってはいたが、彼の体内で激しく脈打ち流れる日本人の血潮《ちしお》が、大陸制覇の夢へと駆り立てるのである。
八雲は日本人がユダヤ人と同族であるとする日ユ同祖論を心底から信奉していた。神道とユダヤ教を祭政一致の同一宗教と見なし、日本人を失われたイスラエル十部族と考えていたのである。
約束の地であるカナンを手に入れたイスラエル人とは、ヤコブの十二人の息子がそれぞれ自分たちの部族を作って構成されたものだった。ヤコブには、レア、ラケル、ビルハ、ジルバの四人の妻がいて、各妻の資質を子孫が受け継いだため、日本人とユダヤ人が多少容姿が違うのも当たり前としていた。
ソロモン大王の死後、イスラエルが南北に分かれ、北のイスラエル王国に十部族が、南のユダ王国に二部族が住んだ。
ところが、紀元前七二二年、アッシリアによって北のイスラエル王国が滅亡し、十部族が奴隷として連れ去られてしまうのである。その後、アッシリアがアケメネス朝ペルシアに滅ぼされた時、既にイスラエルの十部族の姿は忽然と歴史の表舞台から消えてしまったのだ。彼らが消えたユーフラテス川の向こうには、広大な亜細亜大陸が広がっていた……。こうして日ユ同祖論が誕生したのである。
八雲はロシア全土に充満していた反ユダヤ主義に強い反感を抱いていた。ロシアは既にユダヤ人に対する強制集住策を実行しており、ロシア国内のユダヤ人を特定の地域に寄せ集めていたのだ。
明治三十六年に世に出た『シオン賢者の議定書』なる代物は悪意に満ちたユダヤ人への迫害書であり、反ユダヤ主義プロパガンダの典型となってヨーロッパ中を席捲《せっけん》した。
実際、この本の信奉者はヨーロッパを中心にロシアにも拡大し、明治三十八年にはロシア右翼組織のロシア人民連合がユダヤ人根絶の必要性を唱えはじめていたのだ。
八雲が手に入れたフランス語版『シオン賢者の議定書』によると、明治三十年に開催されたとされるユダヤ人シオニストたちの「第一回秘密会議」の席上で、ユダヤ人による世界制覇の陰謀が決議されたという。
それによると、ユダヤ人による各国政府の転覆計画から共産化、及び未来におけるユダヤ人による世界支配に至るまでの詳細な計画が明示され、自由主義という毒液を国家体制に注入して腐敗させ、マスコミを利用して不安を仰り立てれば、非ユダヤ入国家は死に至る病気に侵され断末魔の苦しみの中で消え失せるとしている。
そして非ユダヤ人に思索と観照《かんしょう》の暇を与えないようにするため、彼らの関心事を商工業に引きつけねばならないとし、そうすれば非ユダヤ人たちは自分の利益に没頭して共同の敵を見失うとする。
さらに視覚教育を徹底させることで、非ユダヤ人たちを絵を見なければ何も理解できない愚鈍で従属的な家畜として改造し、自由競争、民主主義、投機熱を煽《あお》れば、非ユダヤ入社会は確実に壊滅に向かって前進するとしている。
また、非ユダヤ人の価値などは取るに足らず、絶対神ヤハウェの前ではユダヤ人一人の価値は非ユダヤ人千人に相当するとまで記されている。
これは明らかに帝政ロシアの秘密警察が捏造《ねつぞう》した代物である。ロシア革命を企てる中核的存在のトロツキー、カーメネフ、ジノビエフ、ヨッフェなどがユダヤ人であり、さらに彼らの思想が同じユダヤ人であるカール・マルクスに端を発するとあって、ロシア革命を防ぐ目的で造られた偽書だったのは間違いない。
しかし、八雲にはそれが偽書であろうと無かろうと、本音の部分では関係がなかった。なぜなら八雲は日本人が失われたイスラエル十部族であることを信じていたからである。
よって議定書にある非ユダヤ人の中に日本人は含まれていないのだ。むしろ八雲は『シオン賢者の議定書』なる書物は痛快無比な代物であり、日ユ同祖論の観点からユダヤ人と日本人は結束して世界を支配するべきだと考えていたのである。
一方のヨーロッパでは超保守主義と反ユダヤ主義が押し進められ、特にフランスの超保守主義は凄まじく愛国的で、反共和主義であると同時に反ユダヤ主義でもあった。
八雲は圧倒的軍事力を持った日本軍が亜細亜各国の全軍を率いて西征し、ヨーロッパを蹂躙《じゅうりん》する時代を夢見ていた。そのためには満州を中核とする巨大国家を作り上げねばならなかったのである。
こうして日ユが協力して、非ユダヤ人であるアングロ・サクソン系人種やアーリア系の白人どもを支配することを夢見ていた。よって日本がユダヤ人のシオニズム運動を擁護すれば、世界は正に『シオン賢者の議定書』の通りに動くことになる。八雲はそのためにはユダヤ人とのつながりを強めなければならないと考えていた。
いやむしろ『シオン賢者の議定書』を最大限に利用し、それを煽ることで日ユの結束につなぐ策さえ八雲は考えていたのだ。
軍の特別車両の天井から吊るされたランプの光の中で、八雲は特別製のテーブルを前に座り、明石への詳細な報告書を書いていた。
その時、小次郎が八雲の車両に入ってきた。
「ノックくらいしたらどうだ?」
八雲は小次郎に言った。
「ああ、しかしそんなものは日本には無い異人の習慣だろう」
そう言うと小次郎は、八雲から離れたところにある長椅子に腰を掛けた。
「貨物車両に乗せてある怨霊の運び先は帝都の何処《どこ》になる?」
「それは今言うわけにはいかん。現地に着けばいやでも分かることだ。とり敢えず帝都の軍施設に怨霊を置いておき、そこで飼育することになるだろう。その内に間違い無く満州に向けて怨霊を送り出す時が来る」
「それまでは政治犯や死刑囚を餌にしておけということだな」
「……そういうことだ。死刑執行と見せかけて怨霊の餌にする」
「分かった」
そう言うと小次郎は笑った。
その時だった…………
キキキキイイイイイイイイィィィィィィィィィッッッッ!!
急に八雲の体が椅子から浮き上がったかと思うと、物凄い金属音を立てて汽車が急停止したのである。
「一体どうした?」
軍用列車は特別な深夜枠で運行されているため、他の汽車との衝突などはあり得ない。八雲は窓を開けて外を見た。車両の中にともっているランプの光で見る限り、そこは森が広がる寂しい場所で、周囲は民家一つ無いということが分かった。
その内、車掌がランプを片手に、後ろから線路沿いに走ってくるのが見えた。
「どうしたぁ、何かあったのか?」
八雲が窓から身を乗り出して聞いた。
「分かりません、今から機関車の方に行って確かめてまいります」
そう言うと車掌は再び線路伝いを闇の中へと走り去った。護衛に乗せている十人の兵隊たちも一斉に銃を持って外に出た。そして怨霊を閉じ込めてある軍用貨車の周囲を取り囲んだ。
八雲は小次郎と一緒にしばらく様子を見ることにした。その内に前の方から誰かの声が響いてきた。
「木が倒れているぞぉぉぉ」
八雲はそれを聞くと、念のために腰から銃を引き抜き、テーブルの上に置いた。
八雲の銃は南部式自動拳銃甲型と呼ばれる有名な銃で、陸軍の銃器設計者だった南武少佐が設計した国産銃だった。
機関部横に一本の複座バネがあり、握把安全《グリップ・セーフティ》を引き金下部につけていることが特徴である。全体の感じはドイツのルガー・パラベラム拳銃と似ているが、陸軍よりも海軍の方が制式拳銃として取り入れた。
何事においても閉鎖的で井の中の蛙《かわず》の陸軍より、海外事情に精通する海軍の方が先見の明がある。八雲もいち早く南部式自動拳銃を使用していたが、それが陸軍にとって八雲を疎《うと》ましく思う原因の一つにもなっていた。
陸軍将校の多くは、拳銃を使うような近距離戦においては武人の魂である軍刀による白兵思想の方が根強かった。拳銃は切腹もできない状態に陥った際の自決用としか考えていなかったのである。
ヨーロッパ列強では自動拳銃《セルフローダー》の時代に突入しており、ドイツではボーチャード、ワルサー、ルガー等の自動拳銃が続々と製造され、ベルギーでもブローニング等の自動拳銃が造られて、近代軍の装備として常識化していた。八雲はヨーロッパでその状況をつぶさに見てきたのだ。
美千子が腰に下げていた銃も、八雲の甲型よりひと回り小さな乙型と呼ばれる南部式小型自動拳銃だった。伊藤博文が暗殺された時に持っていたのも、7ミリ口径の乙型と呼ばれる南部式小型自動拳銃だった。
「小次郎、怨霊が軍用貨車から逃げ出すことは無いだろうな?」
八雲の眼鏡がランプの光の中で冷たく光った。
「呪詛衆が祈祷している間、怨霊は呪縛から逃れられん」
「それにしてもあの気味の悪い坊主ども、一生あんなことをしていて何が楽しいのだ?」
「それが奴らの血である以上は仕方がない。呪詛衆は物心が着く頃からそういうように育てられておる」
八雲は内ポケットから銀製のシガーケースを出すと、小次郎にも煙草を勧めた。小次郎がそこから一本引き抜くと、八雲がそれに火をつけてやった。
「呪詛衆はいつ眠るのだ?」
「いくら何でも起きつづけているわけではない。彼らは日夜交代で呪文を唱えつづけておるのだ」
小次郎は煙草を美味《うま》そうに吸い込むと、ゆっくりと煙を吐き出した。その時、小次郎の目つきが一瞬変わった。
「おかしい、外に動きがない……!」
そう言うと小次郎は、窓から大きな体を乗り出し後尾車両の方を見た。すると兵隊たちの姿が消えている。
小次郎は急いで車両の中を、後尾の貨物車両に向かって駆けていった。車両の扉を次々と開けていく小次郎の後を八雲も銃を持って追った。小次郎が貨物車両の手前にある車両の扉を開けた時、そこで信じられない光景を見ることになる。
小次郎が連れてきた四人の怨霊使いたちが床に倒れ、その周囲を数人の黒装束の男たちが囲んでいたのだ。
「何者だ、貴様ら?」
小次郎が大声で怒鳴った時、一人の長身の男が立つと小次郎と向かい合った。
「もう一度だけ聞く、貴様らは何者だ?」
その男は小次郎と暫《しばら》く無言のまま向かい合うだけだった。八雲はその異様な様子を見て銃を構えた。その瞬間、天井から黒い影が下りてきたかと思うと、喉元に剣を突きつけたのである。八雲の銃はたちまち黒装束の男に奪われた。
「ただ者ではないな?」
小次郎がそう言うと、目の前の男は腕を頭の後ろへ回し、顔を隠している覆面を取りはじめた。そして自分の顔を二人の前で露にしたのである。
男は八雲が感じた以上に若かった。特徴的な大きな瞳と太い眉を持ち、口元は男らしくキリッと締まっている。
「おれの名は真愁《ましゅう》、裏忌部の長の子だ!」
小次郎はそれを聞いて顔色を変えた。
「裏忌部だとぉ……!」
「そうだ、貴様の祖先は大昔に俺たちから分かれた枝葉だ」
小次郎は顔を顰《しか》めた。
「そんなことはどうでもいい! その裏忌部がここに何しに現れた?」
「貴様ら傀儡の邪魔をするためだ」
真愁と名乗った男は平然とした顔で小次郎に言った。
「な、なぜ邪魔をする?」
「それは分かっているだろう、貴様ら傀儡の自由にさせないためだ」
小次郎は歯ぎしりして両手を震わせた。
「おっと、分かっているとは思うが、裏忌部に貴様らの腐りきった裏結界は効かんぞ」
小次郎は自分の前の裏忌部の者たちが印を結んでいるのに気づいた。
「俺たち裏忌部は、忍として昔から日本を陰で動かしてきた一族だ。しかし、貴様の祖先は我々の陰陽の知識の一部を奪いさって分かれていった屑《くず》どもで、貴様はその末裔《まつえい》に過ぎん」
「呪詛衆の声がしていない!」
八雲は小次郎に言った。
「分かっている……」
小次郎の額から冷や汗が流れ落ちたのを、八雲は見逃さなかった。
「呪詛衆が祈祷を止めると怨霊が出てくるぞ」
小次郎が言うと、真愁は皮肉そうに微笑んだ。
「それは怨霊が生きていたらの話だろう」
真愁の言葉に小次郎は驚いた顔つきになり、慌てて車両の扉を開けると外に飛び出した。八雲も一緒に外に飛び出し、貨物車両の扉を見ると、既に鍵は開けられた状態で、鎖と一緒に地面に転がっていた。
八雲は周囲の草むらに兵隊たちが倒れているのに気がついた。どの兵隊も喉を鋭い刃物で掻き切られて死んでいた。
小次郎は軍用貨車の扉に手を掛けると思い切り開け放った。
その瞬間、中から黄色いランプの明かりが漏れ出し、それとともに凄まじい腐敗臭が小次郎と八雲の鼻を突いた。二人は思わず噎《む》せ返り、両目を激しく刺激されたため、涙が一気に吹き出した。
車両の中では物凄い湯気のような靄《もや》が立ちのぼり、その中に数人の男たちの姿が見えた。男たちは床に倒れていたが、おそらく呪詛衆の坊主たちだ。
小次郎は揺れるランプの光の中で、何かジュウジュウという奇妙な音を聞いた。腐敗臭と混じった靄が晴れてくると、その中に紫色に変色した不気味な肉塊が転がっているのが見えた。
「小次郎……」
八雲はその姿を見て思わず絶句した。怨霊が鎖につながれたままの姿でドロドロに溶けていたからである。
「……!」
小次郎は怒りに震えていた。
「どうだ傀儡、これで今回の貴様らの策は潰したぞ」
真愁は再び顔に覆面を巻き付けた姿で軍用貨車の天井に立っていた。
「おぉのれええぇぇぇぇえええっっ!」
小次郎は恐ろしい叫び声を上げると、素早く印を結んで真愁に向けて放った。物凄い轟音が轟《とどろ》き、軍用貨車の天井が吹き飛ばされた。
しかし、既に真愁の姿は消え失せ、彼とともに忍の姿も何処かへ消えていた。
八雲は気味の悪い赤紫色の肉塊となった怨霊の躯《からだ》をじっと見下ろしていた。小さな子供だった骨格は、見る影もなく醜く巨大化して変形していた。頭蓋骨だけを見ても、下顎が大きく前に張り出し、鋭い牙が並ぶ歯列を持つ別の生き物の骨格をしている。腕の骨は大人の何倍も太くて頑丈なもので、手の骨格も八雲の数倍以上の大きさはあった。
これはもはや歳三の骨格ではない。怨霊の内面の姿が歳三の体を乗っ取って増殖したとしか思えない。そこには人間の尊厳は一切なく、ただの化け物の骨が転がっているだけである。
八雲は、もはや後戻りが効かないところにまで自分が踏み込んでしまったことを悟った。明石には怨霊が残した巨大な骨を見せれば納得してもらえるだろう……。八雲は自分の夢を達成させ、日本とユダヤが協力して世界を制覇する機会が訪れていることに、少しずつ気づき始めていた。
(まさにユダヤのゴーレムだな……)
ゴーレムとは中世ヨーロッパのユダヤ伝説に登場する泥人形の巨大な化け物で、主人の命令一つで城壁を破壊し敵を叩き潰してしまうのである。
小次郎を通して自分がゴーレムを手に入れれば、間違いなく日本は亜細亜全土を制覇し世界をも手中におさめることができるだろう。八雲の目の前にはそこへと続く真っ直ぐな一本道しか見えていなかった。
「怨霊は日本の亜細亜制覇のためにも必要だ。次は必ず手に入れろ!」
八雲は深い闇を見つめながら小次郎に言った。
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底本
徳間書店 TOKUMA NOVELS
怨霊記《おんりょうき》 一 四国結界篇
著者 千秋寺亰介《せんしゅうじきょうすけ》
2001年5月31日  初刷
発行者――松下武義
発行所――徳間書店
[#地付き]2008年6月1日作成 hj
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底本のまま
・明石元二郎《あかしげんじろう》 明石元二郎《あかしもとじろう》
置き換え文字
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祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3
溌《※》 ※[#「さんずい+發」、第3水準1-87-9]「さんずい+發」、第3水準1-87-9
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56
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〈真言〉
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咤《タ》 ※[#「咤−宀」、第3水準1-14-85]「咤−宀」、第3水準1-14-85
嚢《ナ》 ※[#「嚢」の「ハ」に代えて「口+口」、第3水準1-15-32]「嚢」の「ハ」に代えて「口+口」、第3水準1-15-32
|※《オン》 ※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]「口+奄」、第3水準1-15-6
|※《キ》 ※[#「木+兄」、第4水準2-14-52]「木+兄」、第4水準2-14-52
|※《タ》 ※[#「りっしんべん+且」、ページ数-行数]「りっしんべん+且」、ページ数-行数
|※《タ》 ※[#「土へん+垂」、第3水準1-15-51]「土へん+垂」、第3水準1-15-51
|※《ラ》 ※[#「口+羅」、第3水準1-15-31]「口+羅」、第3水準1-15-31
|※《リ》 ※[#「口+利」、第3水準1-15-4]「口+利」、第3水準1-15-4
|※《ロ》 ※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]「口+魯」、第4水準2-4-45
[#ここで字下げ終わり]