アジア海道紀行
〈底 本〉文春文庫 平成七年九月十日刊
(C) Noriyuki Adachi 2002
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目 次
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アジア海道紀行
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のいる
風景――─
ボンベイ
ボンベイ商人ターナ家
「じゃあ、また明日」
インド人というよりペルシャ人を思わせる容貌の若者アビーは言って、マルティ・スズキ800の扉を閉めた。車を降りた私はすぐにホテルの部屋に戻る気がせず、タージ・マハル・ホテルから石を投げれば届く距離にあるインド門へと向かった。
気温三十四度。午後二時の暑い盛りだというのに門の周辺はいつものように人でいっぱいだった。欧米人の観光客ばかりでなくインド人の家族連れや若いカップルも多い。そして門の下の日陰に一歩足を踏み入れるとムッとする異臭。海からの風が両脇のホールの石格子を吹き抜けるので絶好の昼寝の場所なのだ。鼻をつく異臭は昼寝の集団から立ちのぼっていた。何十人もの人びとが石の床の上にしゃがみこみ、あるいは寝転がり、新聞を読んだり物を食べたりぼんやりしたりしている。
ボンベイ湾に面して建てられた、高さ二十六メートル、黄褐色の玄武岩製のこの門は、映画『インドへの道』の冒頭シーンでも使われたように、イギリスのインド支配のシンボル的建造物だった。一九一一年英国王ジョージ五世とその妻メリー王妃のインド上陸を記念して造られ、以後船でインドを訪れる歴代インド総督や要人たちの送迎式典に用いられた。いわば植民地時代の海の玄関口と言える。
しかし一九四七年の独立から四十年たった現在、港湾施設は市の北部に移動し、インド門前の岩壁は沖合の観光の島エレファンタ島へ渡る船着き場に変わっている。二、三十人乗りの観光船が黄土色の海水の上を次々にやって来る。立派な|口髭《くちひげ》のインド人紳士やあでやかなサリー姿の母娘が静かに並んで船の来るのを待っている。ただしその足許では、職のない若者たちが汚れたシャツのまま海に跳び込み、ゴミの中を笑顔を見せて泳ぎ回っていて、岸壁に集まって来た外国人観光客のカメラの放列を浴びている。相も変わらず貧困で“売る”インドと、貧困を“買う”外国人……。
私はほんの二十分ほど前にアビーの父親ラチヒ・ターナが、冷房の効いたオフィスでパイプをくわえながら言っていた言葉を思い出した。
「この国は各種統計を見る限り貧乏な国ですよ。けれど、統計では本当の姿はわからない。例えばカラーテレビ。一九八二年に、それまで輸入禁止されていたカラーテレビが百パーセントの関税をかけて輸入許可になった時、みんな言ったもんです、“|誰《だれ》がそんな贅沢品買うのか?”って。ところが現実は、アッという間に何百万台もの普及……。インドは確かに貧しい国ですけどね、驚くほどたくさんの金持ちが住んでいる貧しい国なんですよ」
七億七千万の人口のわずか〇・一パーセントが富裕階級としても七十七万人、実数はそんなものではない、もっとずっと多いと実業家は高らかに笑ったのだった。
アビジャット・ターナ、通称アビーはボンベイ大学の二年生。今年二十歳になる。
インドでは現在もほとんどの息子は親の職業を受け継ぐ(私がボンベイ動物園で会ったライオン係の父親はやはり同じ動物園のライオン係だった!)。アビーの場合もそうで、将来は父親同様実業家を目指している。
ボンベイは十九世紀後半に綿花の輸出港として急速に発展した都市であり、現在も全インドの海上貿易の約四割を取り扱っている。ターナ家はその当時から続いてきた輸出入業者の一つだが、こうした旧家では学問としての経営学にはあまり信頼を置いてない。それよりも重要なのは息子が実際に父親の仕事内容を知ること、つまり昔ながらの実地教育だ。
このためアビーは、暇さえあれば父親のオフィスに顔を出している。この日もアビーは、同級生と会ったあと一時間ほど時間が空いたので、V・S・マルグ通りにあるターナ家の本社ビルに立ち寄った。ラガー・シャツにジーンズという普段の服装である。
「私は、ここは強気で押すべきだと思う」
「いや、それじゃあ向こうが納得しない。兄さんはどう思う?」
「うーん、そこが難しいとこだけど……」
二階の社長室ではターナ家三兄弟のトップ会議が行なわれていた。新しい投資先についての話らしかった。貿易業から始まったターナ家の事業は、今日ではプラスチック加工、家畜飼料製造、建設業にまで広がり、年商約一〇億ルピー(約百二十六億円)、従業員約二千人。インド最大の商都ボンベイでは中堅の企業グループに入る。三人兄弟の末弟、つまりアビーの父ラチヒ・ターナは、その貿易部門の責任者だった。
私は片隅のソファでひたすら紅茶をすすっていた。というのも、三人の会話は時折英語が混じるだけのヒンディー語だったので、聞いていてもよくわからなかったからだ。
アビーは私から離れ、父親たちが囲んでいる机の方を向いて坐っていた。
|瀟洒《しようしや》な部屋だった。雰囲気が垢抜けていた。貿易部門の事務所があるインド門からさほど遠くないもう一つのオフィスを訪れた時もそう思ったが、西欧の美意識と東洋の価値観がうまく混ざり合っているのだ。真っ白い天井、クリーム色の壁、ベージュの|絨毯《じゆうたん》。それにローズウッドの事務机とモスグリーンの柔らかな皮張りの椅子。部屋だけ見れば、まるでニューヨークの第一線ビジネスマンの居城を思わせる。が、正面に掲げてある大きなモノクロ写真は先代の社長、すなわち彼らの父親であり、ネルー風の民族衣裳を着てあたりを|睥睨《へいげい》していた。壁にかかっている十数枚の絵も、よく見るとすべてがインドの田園風景。洗練されたデザインと淡い色調で統一されている。
部屋の中には、ビルの外に|溢《あふ》れているどぎつい色彩は何もなかった。猥雑さも、悪臭も、喧噪も、灼熱も、悲惨も、無秩序もない。それでいて実にインド的であり、紛れもなくインドのトップ・ビジネスマンの日常的な労働の場なのだ。
三人の男たちは紅茶を飲み交わしながら議論を続けていた。ターナ家の総帥である長兄のジャグはイギリス煙草のロスマンズをくゆらし、末弟のラチヒは軽く足を組んでオランダ製のパイプをくわえている。一番端の椅子に腰掛けたジーンズ姿のアビーだけが、何も|喋《しやべ》らず、やや固くなって|膝頭《ひざがしら》を|撫《な》でていた。
「息子は我々が意見を求めた時にのみ発言できます。聞くこと自体が修業ですからね」
インド人にしてはかなりの色白の父親ラチヒがパイプをくわえたまま振り向き、穏やかに、しかし正しく東洋的な威厳を|湛《たた》えて言った。
アビーの結婚観
アビーと一緒にボンベイ大学の構内を歩き回ったあと、最近若者、特に若い女性に人気があるというインド風ファスト・フードの店に寄った。
「一カ月三〇〇ルピー(約三千八百円)の小遣いじゃ、贅沢もできないしね」
固太りで|逞《たくま》しいアビーは言って、鼻の下の髭を撫でながらドアを押したが、インドでの大卒の初任給が一二〇〇ルピー(約一万五千円)程度だと思うと、「質素な学生生活」を強調するアビーの小遣いも決して少なくはない。
通りに面したガラス張りの外観、明るく清潔な店内、セルフサービスのカフェテリア方式。なるほど女の子の好みそうな店だった。ただしステンレス製トレーの中で湯気を立てている料理はすべてインド料理で、ヴェジ(菜食)のコーナーとノン・ヴェジ(肉食)のコーナーに別れている。“インド風”と称する|所以《ゆえん》だが、では他に西欧風ファスト・フード店があるのかと言うと、そういう店はない。
一九八四年に就任したラジブ・ガンディー首相は積極的に経済自由化政策を推進しているものの、それは主に自動車産業や電子工業の分野、日常の商品については独立以来の自給自足体制がまだ続いているのだ。私とアビーは辛い菜食料理を何種類か皿に取り、インド版のコーラのサムズ・アップを買った。二人分で五六ルピー(約七百円)を払う。
「ガールフレンド? うん、何人かいるけど。それより日本じゃ、どんなスポーツがはやってる?」
女性について聞くと、代わりにアビーはハングライダーとクリケットの話を始めた。
植民地時代にイギリスからもたらされたクリケットは、現代インドでもっとも人気のあるスポーツの一つ。アビーが夢中になっても別に不思議はないが、ハングライダーとなると「あのハングライダー?」と思わず聞き返したくなる。アビーによるとボンベイのハングライディング・クラブは最近結成されたばかりで、実際に空を飛んでいる会員はまだ二十名ほどだという。
「恐くなんかないですよ。空を飛んでる時って、スリルがあるし、たった一人だし、あれは人生そのものですね。気分最高です」
祖先のアーリア系戦士の血のせいか、それとも濃い口髭のためか、普段のアビーは二十歳の割には厳しい顔付きをしているが、こういう話題になると急に少年の顔に戻る。
それからしばらく、我々はハングライダーの話をした。練習場となるボンベイ近郊のさまざまな崖のこと、二カ月後の競技大会のこと、私が知る限りの日本の事情や情報などである。だが話が一段落すると私はやはりアビーに、女性について結婚について、彼の考えを聞いてみたくなった。
独立を達成した現代インド社会の大きな|足枷《あしかせ》の一つは結婚問題と言われている。特にダウリ。花嫁の持参金のことだが、“娘三人嫁にやれば王様も破産”という|諺《ことわざ》もあるほどインドではその金額が法外に高い。日本を出発する前に読んだ新聞にも「昨年は某市だけで百人の妻たちが持参金の少なさを理由に夫や夫の両親に殺され、また自殺に追い込まれた」などと載っていた。むろんダウリ以外にも、早すぎる幼児婚や親の意志による調停婚など結婚を巡る深刻な問題は幾つもある。やがて結婚する若い世代は、そのあたりをどう考えているのか?
「ウチの場合は両親も|従兄《いとこ》たちもみんな調停結婚でしたけどね、僕はやっぱり、好きな相手を自分で見つけて恋愛結婚したいと思うな。幼児婚なんて、問題外ですよ」
アビーは思いの|外《ほか》キッパリと言った。
「ダウリの件は、お互いに特に好きでもなかったり家の格が違ったりするのに結婚しようとするから、その落差をお金や品物で埋めなくちゃいけない。それで必要になるわけですよ。でも二人が対等で、愛し合っていれば、お金のやりとりなんか不要でしょ? 少なくとも僕は受け取るつもりはないです」
大変正当な意見だった。
たまたま店内には若い女性ばかり三人いて食事をしていたが、インドでは男性の同伴なしの女性の外食など非常に珍しいことだ。しかも一般のインド人と違って、右手の指先ではなく、スプーンとフォークを使って食べている。私は一瞬、こういう女性とアビーのような若者が結婚すれば、インドも確実に変わって行くのかもしれないと思った。ただし、アビーの言った言葉の中で「家の格」というのが、引っかかった。
「家の格っていうのは、所属カーストが同じじゃなきゃいけないってこと?」
カーストはもともとポルトガル語で、血統を意味するカスタが語源。インドでは普通ヴァルナと呼ばれているが、アビーのように英語を話す階層ではカーストで充分通じる。
「と言うより、経済的な背景ですね」
アビーはストローでコーラを吸い上げた。
「僕は自分ではリベラルな方だと思うけど、でも結婚となるといろんな影響を考えなくちゃいけない。相手の家が貧乏すぎたり、逆に金持ちすぎたりすると、結婚の後で問題が起きるのは目に見えてますからね」
「同じ程度の裕福な家なら、違うカーストでもいいの? 低いカーストでも?」
「さァ、どうなのかな。結婚はまだ僕にとって身近な問題じゃないから、あえてそこまでやるかどうか考えたことないけど、同じカーストどうしの方が当然結婚生活はスムーズでしょうね。でもカースト以外にも、宗教の違いとか出身地の違いとかもあるわけだし……」
最初の威勢のよさが次第に|萎《しぼ》んでゆく。
話し終え食べ終えたアビーは紙ナプキンで口の周りを丁寧に拭くと、しばらくの間、黙った。「敬虔なヒンドゥー教徒ではないが厳格な菜食主義者の一人」の彼は、外食の際にもいっさいの肉類は口にしない。
私は少なからずガッカリしていた。アビーがせっかく恋愛結婚を望み、ダウリの悪習にも反対しながら、その次の壁を乗り越える意志が意外に薄いこと、そのことに失望を感じた。
「………」
アビーは煙草を箱ごと差し出した。一本取れと合図する。私が取るとその煙草に火をつけ、自分も一本くわえ、例の少年の笑顔でうまそうに煙を吐いてニッコリ笑った。
私は、大人げなかったかな、と思った。
確かにインドのような古い社会にはカースト制度をはじめとする幾つもの封建的因習が残っている。しかし、だからと言って、私が一方的に非を責めてどうなるものでもない。むしろ一介の旅行者にとっては、明白な“正義”を振りかざしてこの種の弾劾と嘆息を繰り返すほどラクなことはないと言える。自分には何一つ利害関係がなく、発言に伴う痛みもないからだ。私のアビーへの一方的な期待や失望など、その程度のものだったのかもしれない。インドの貧困の証拠写真ばかりを撮って回る観光客と、方向が違うだけの自己満足かも……。
一九五〇年施行のインド憲法第十七条には不可触民に対する差別の廃絶が明記され、歴代指導者は「カーストを言う前にインド人たれ」と主張し続けてきた。ダウリにしても、一九八五年にインド最高裁は「ダウリは持参した妻の終生の所有物」という画期的判決を下している。もちろん、現実社会でその通りのことが広く行なわれているわけではないが、彼ら自身の手で処方箋はすでに書かれているのだ。
異邦人で一旅行者にすぎない私としては、ハングライダー好きの若者が父親世代とは多少違う結婚の形を考え始めたこと、そのことをもっと評価すべきなのだろう。
インドに限らず、これはアジアの町々をこれから巡る際の戒めになるはずだと思った。
十四歳のエリートの苦悩
ベランダから、アラビア海に突き出したボンベイの市街が一望できる。
手前に帯のような深い森があり、その向こうに大きく弧を描いて海を囲むマリーン・ドライブが走っている。マリーン・ドライブに沿って近代的な高級アパートが建ち並び、さらにその向こうに歴史的建物や高層ビルがひしめいている。七つの小島を埋め立てた幅五キロ足らずの半島に九百万近い人びとが暮らしていてその全貌が、眼下に見渡せるのだ。
ボンベイ一の高級住宅地マラバール・ヒルからの眺望は、インドのものではなくどこか別の国の都市の光景を思わせた。アビーの家は、丘の上の二十八階建てアパートの最上階とその下(二階分)だが、その高みから眺めると、路上の物乞いも露地の掘っ立て小屋も波打ち際の人糞もきれいサッパリと消え失せ、海と樹木と高層建築物しか目に入らない。事務所と同様にターナ家の住居もまた、インドにあってインドとは思えない非インド的な空間にあった。
私はこの、特殊と言えば特殊、絶景と言えば絶景に違いない展望のアパートの一室で、アビーの弟のアンシュマンに会った。父親のラチヒは前日ヨーロッパへ商用で旅立ったばかり、母親のチョツナはすでに三週間近くも海外旅行中、家にいるのは兄弟と使用人三人(召使い、コック、運転手)のみだった。
「ほう、じゃあ君は、父親やアビーのように実業家にはなりたくないわけ?」
私は二十畳ほどの広さの洋風の居間で尋ねた。
「ええ。父のオフィスに何度か行ったことありますけど、忙しそうに働いてるだけで、ビジネスの世界って何かピンと来なくて」
「具体的な職業は何か考えてる?」
「そうですね、科学者とか。航空機関係の研究所か、できれば宇宙工学の方面に」
十四歳の少年は驚くほど冷静に将来の希望を述べた。
アンシュマン、通称アンシュ。私立学校の八年生だから日本の中学二年生に当たる。「成績がいつもトップの弟」についてはアビーから聞いていたが、会ってみると単なる優等生ではなかった。肌の色は兄より濃く体は|痩型《やせがた》、分厚い眼鏡をかけた腺病質そうな外見はなるほど世界共通のガリ勉タイプではあるが、独自の意見を持っていて、中学生とは思えない知恵の蓄積を感じさせる。
私は、外国を見てきた影響もあるのではないかと思った。アンシュは幼い頃から両親に連れられ何度もアメリカやヨーロッパに行っている。それはアビーも同じだが、アビーの行ったことのない東南アジアや日本へも、母親と一緒に長い旅行をしている。
「九歳の時です。日本人の生活のスピードに驚きました。僕が気に入ったのは京都です」
半ズボンの足をゆっくり組み直して言う。
「イギリスはどう思ったの?」
「イギリスですか。僕の知ってるのはロンドンとその近くだけですけど……」
アンシュはちょっと考えるふうだった。極東の島国を評する時と違い、因縁浅からぬ旧宗主国となると、微妙に表情が変化する。
「好きであり、嫌いでもありますね」
慎重に言葉を選んで言った。
「イギリスには正直言って偏見があります。イギリスがインドに来るまで、インドはすごく豊かな国でした。けれど彼らがインドを支配し、その支配が長く続いた結果、インドはあなたが今見ているような国になった。建物や制度を残したという人もいますが、基本的には我々の社会を破壊し富を略奪したんです。でも、そのロンドンに行くと言葉が通じるし、懐しさみたいなものを感じるし……。ただ、ロンドンのイギリス人が、我々に対してもっと友好的に振る舞ってくれれば……」
アンシュはそこで言葉に詰まり、黙った。
私は感心した。イギリス東インド会社設立から数えると三世紀半に及ぶ植民地支配の傷の深さを改めて思い知ると同時に、十四歳のエリート候補生が持っているきわめて素直で柔軟なその苦悩の感覚に、感心した。
もう少し話したかったが、時間だった。読書を除くアンシュの唯一の趣味は水泳。会員制の水泳クラブへ練習に行く時間なのだ。
「では、失礼します」
小さな紳士は言って、バスタオルを取った。色の黒い運転手に先導され、部屋を出て行く。私も高級アパートを立ち去ることにした。
「ホテルまで送りましょうか?」
「いや、少し手前のロイヤル・ボンベイ・ヨット・クラブで降ろしてくれないかな」
アビーは|頷《うなず》き、我々の乗り込んだ真っ赤なマルティ・スズキ800は、弓なりに伸びるマリーン・ドライブを突っ走って行った。
片側四車線のボンベイ西岸の湾岸道路。右側にゆったりとした遊歩道、左手に白い高級アパート群。そこだけ切り取ればまさしく、イギリスではないにしろ、ヨーロッパの風景だった。
「弟はああ言ってたけどね、僕もあの年頃の時はそう思ってたんです。イギリスに行って奴等に盗まれた物を奪い返さなくちゃって。でもね、やがてわかるけど、歴史は逆戻りできないんですよね。いくらイギリス人が相変わらず横柄だからって、彼等には昔の力はもうない。あの国は衰退して行くだけですから」
アビーはくわえ煙草でラジオをつけた。
アビーが現在興味を抱いている国はアメリカだった。何度か行っているうちに好きになったのだが、それは父親の意向とも一致していた。青春時代の二年間をオハイオ州立大学ですごしたラチヒ・ターナは、息子にもアメリカ流合理主義の考え方を体得させたいと考えている。アビーは、ここ二、三年のうちにアメリカに留学する予定だった。
「ニューヨークは嫌いで僕はロサンゼルスが好きですね」
「どうして?」
「ボンベイと気候が似ているから」
私などおよそ考えたこともなかったが、インドの西海岸の都市とアメリカの西海岸の都市を、そんな共通項で結びつけることもできるらしいのだ。
「でも、アメリカの女の子と結婚して、向こうに居ついてしまう可能性はない?」
「それは、ないですよ。女性も食事もインドが一番。ウーマン・リブに毒された欧米の女性を魅力的だと思ったことなんか、僕は一度もありませんよ」
アビーはカー・ラジオから流れるインド音楽のボリュームを上げ、アクセルを踏んだ。
交差点に|佇《たたず》む何十人もの物乞いたちを追い越し、赤い車はさらに速く走り続けた。アラビア海を渡ってきた生暖かい風が、その車の窓から勢いよく吹き込んで来る――。
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ゴア――─
ゴア
ゴア行きのスロウボート
一等船室の乗客は四十人足らずだった。
ボンベイ・ゴア間を週三回往復するムガール・ラインの客船コンカン・シャクティ号(千二百トン)は、シーズン最盛期の四月五月には三千人からの乗客を運ぶというから、約千人の乗客の今回は、十一月ということもあるがかなり空いていることになる。
しかし、それにしても、金網である。船がボンベイ港の桟橋を離れると間もなく、一等甲板と二等、三等甲板をつなぐ階段の昇降口が、太い金網を張った鉄枠でバタンと閉じられてしまったのだ。一等から二等、三等甲板へは係員に頼めば降ろしてくれるが、下から上へは上がれない仕組みだ。
世界中どこでも客船というのは等級による差別化が明確に行なわれている。それはそうなのだが、普通は一等以上の甲板の昇降口に立入禁止の掲示があるか係員に口頭で注意される程度、物理的に進入を完全拒否されるということはほとんどない。船内をグルッとひとわたり見物することぐらい乗客なら|誰《だれ》でも可能だ。なのに、金網バタンである。
私は、自分が運賃二六〇ルピー(約三千三百円)の“特権階級”の中に含まれていることを、今さらのように感じた。二等(七八ルピー)の三倍以上、三等(五〇ルピー)の五倍以上支払っているのだ。こんなことで「ああ、インド!」などと思ってしまうのは単純すぎるとわかっていても、下の蒸し暑い甲板にビッシリと毛布を敷いて|踞 《うずくま》る人びとを金網越しに見降ろす特等席は、どうにも居心地が悪い。
そこで私は、義務のように下へ降りて行って下の甲板の様子を実際に見てしまうと、早々に上に戻って早目の昼食をすませ、しばらく部屋にこもって休むことにした。丸一週間喧騒の都市ボンベイを歩き回って疲れてもいたし、それに第一、水平線上に|靄《もや》がかかって肝腎の陸地が少しも見えないからだ。
シャワーで汗を流して真っ白いシーツに手足を伸ばすといくらか気分が安らいだ。天井の扇風機の緩やかな動きも、ベッドを通して伝わってくるエンジン音も、軽い睡眠薬代わりになる。
ウトウトしながら私は、これから行くゴアのことを思った。かつて“黄金のゴア”と呼ばれ、“ゴアを見た者はリスボンを見る必要はない”とまで言われた、アジアにおけるポルトガルの最初の植民地都市である。
我々の生活が否応なく西欧文明の影響下にあるなら、日本とは違うさまざまな受容の仕方をアジア各国の玄関口に探ってみようという今回の港町巡りの旅。イギリスのインド支配の記念碑インド門があるボンベイが出発地とすれば、次は当然、ポルトガルの東洋侵略の橋頭堡ゴアということになる。そこでの東西文明の接し方は、いかに?
ただしかし、テーマが大それている割には、私にはよくあることだが、下準備がお粗末だった。何冊かの本を読んだだけで、現在のゴアに関する情報はほとんど持ってない。
私が知っているゴア人と言えば、つい先程食堂で会って世間話を交わした夫婦を除くと、ボンベイのセバスチャン一人だけだった。
セバスチャン・デ・シルバ。恐ろしく立派なポルトガル風の名前を持った彼は、ボンベイのアポロ埠頭に近いRBYC(ロイヤル・ボンベイ・ヨット・クラブ)の給仕長だった。痩身短躯、色あくまで黒褐色の生粋のインド人である。しかし、カトリック教徒だ。
七十歳になる老給仕長は、いつも白の上着、白のチョッキ、白のズボンに白い靴と白ずくめの服装だった。いずれもややブカブカ、襟や|袖口《そでぐち》は擦り切れていたが、悠揚迫らぬ態度を保ちながら、クラブのバーやレストランで働く七人の給仕を取り仕切っていた。そして、客がいない時間を見計らって私の席に来ると、請われても絶対坐ろうとせず立ったまま、故郷ゴアがいかに素晴らしい土地かを淡々と語るのだった。
セバスチャンは十八歳の時にゴアを出てから五十二年間クラブで給仕の仕事をしてきた。イギリス人専用(インド独立後はボンベイのインド人名士用)の会員制クラブで働くのは嫌いではなかった。「貧乏なくせに我々を見下してばかりいたポルトガル人と違って、イギリス人は一応金持ちだったし、私の立場を尊重し、職業にふさわしい訓練も施してくれた」からだ。けれども、「騒々しすぎるボンベイ」は好きになれなかった。一九六五年までは一家でボンベイに住んでいたが、以後は妻子をゴアに帰した。セバスチャンにとって、年に数回の帰省が最大の楽しみとなった。陽光が溢れ、穏やかで信仰心|篤《あつ》い人びとが平和に暮らす、海辺の小さな理想郷……。
「ゴアに帰ると急に食欲がなくなるんですよ。このまま何も食べずに病気になったら、ボンベイに戻らなくてもすむ、なんて思ってしまうんです。ゴアに仕事が、現在の月収八〇〇ルピー(約一万円)以上稼げる就職先さえあれば、ゴアを離れないんですが」
セバスチャンは残念そうに言ったものだ。
そのゴアのセバスチャンの実家には、自慢の息子が住んでいる。七人いる子供のうちただ一人高校を卒業し、二〇〇〇ルピー(約二万五千円)近く稼いでいる次男、ゴア税関検査官のワレンチーノである。
ゴアに行ってもこれといった日程が待つわけではない私は、「家族に会って私の近況を伝えて欲しい。息子にぜひ会って欲しい」と言う老給仕長の言葉を真に受け、とりあえずデ・シルバ家を訪ねてみようかと思った。いわば、動く人間葉書みたいなものだ。
ただ人間葉書とすれば実に遅い葉書に違いなかった。ボンベイ・ゴア間は飛行機に乗れば約一時間、セバスチャンが帰省に利用している急行バスでも約十七時間、ところが船だと約二十一時間もかかる。しかし私はゴアに行くなら船、と決めていた。本当は十六世紀のポルトガル人のように船で西からアラビア海を横切って|辿《たど》り着きたいところだが、それができないのなら、せめて北のボンベイから定期航路で、というわけである。
洋上の一日はまたたく間に暮れてゆく。
アラビア海に沈む夕陽は原始的なまでに大きく、ボンベイ出港以来茶色から緑へ、緑から紺色へと変わって来た海はその一瞬、見渡す限りの血のような大海原と化した。けど、それはそれだけのこと。そのことによって左舷に時折姿を見せる西ガーツ山脈の輪郭が突然生き生きと甦ったわけではない。
空に上弦の月が浮かび、海面が黒いビロードに銀粉を振り|撒《ま》いたように|凪《な》ぐと、私は食堂に陣取り、やって来る乗客や船員から雑多なゴアの情報を仕入れ始めた。
甲板の方から歌声とギターの音が聞こえて来た時、私はゴア産のビールを傾けながら、数人の人から一九六一年のインド軍によるゴア併合当時の話を聞いていた。
歌う声は軽快で弾むようだった。メロディーもいわゆるインド風ではない。私はその場にいた人びととビール片手に甲板へ出てみた。
二十人ほどの人の輪が右舷甲板の中央付近にできていた。真ん中に髭面のインド人青年がギターを抱えて坐り込んでいて、張りのある美声を響かせ、周囲の人たちがそれに和している。上等のサリーを着た母と娘、開襟シャツの恰幅のいい男、ワンピースの若い女性、半ズボンにホット・パンツのドイツ人カップルもいる。
どうやら船旅のつれづれを慰める自然発生的なミニ音楽会らしかったが、中心の青年とその三人の家族(両親と妹)は圧倒的にうまく、人びとのリクエストに応えてインド、アメリカ、フランス、ドイツの歌を各国語で歌い、例の『上を向いて歩こう』さえ私が理解できる程度の日本語で歌ってみせた。
しかし、何と言っても繰り返しリクエストされたのは、船に乗り込んで最初に食堂で耳にした軽快な歌『カム・トゥ・ゴア』だった。十数年前から流行し始めたという|御当地ソング《ヽヽヽヽヽヽ》だ。
イングランドからおいで スコットランドからおいで アイルランドからおいで オランダから ポーランドから 世界中からおいで 素敵な休日を過ごしたかったら ゴアにおいで ゴアにおいで
ゴア・アメヒ・レ(私たちのゴア) ゴア・ゴア・ゴア・アメヒ・レ ゴア・ゴア・ゴア・アメヒ・レ
ゴアの女の子は可愛くて うんとスパイスが利いている
ゴア行きがいっぺんに楽しくなるような歌だった。ポルトガルのファド(悲歌)やマンド(恋歌)が今も残るゴアでは、地元の歌がかくも西欧風なのだという。私はこうして髭面の青年、ゴア出身ボンベイ在住の建築家ロイ・J・メンダンハと知り合い、彼とその家族がこれからゴアで出席する予定の親戚の結婚式に招待されたのだった。
陽気なコンサートはその夜遅くまで続いたが、ふと気がつくと、昇降口のあの金網にはいつの間にかピッタリと|蓋《ふた》がしてあった。ゴア行きのスロウボートは、一等甲板だけ気味悪いくらい快適なまま一路南を目指したのである。
聖人の誤算
世界地図を開くと、ゴアは逆三角形のインド亜大陸のアラビア海側、西海岸の一辺のほぼ中央にポツンと点状に表わされている。
が、実際は政府直轄領の名称でかなり大きく、合計四百四十近い町と村からなり人口約百万、日本の奈良県に等しい面積を持つ。
狭義にゴアと言う時はこのうちの唯一の都市、政庁が置かれ飛行場や港のあるパナジ市(人口約四万)を指すが、十六世紀初頭にポルトガル人がアジア侵略の足場として建設し“黄金のゴア”と称されたのは、ここではなかった。パナジ市内を流れるマンドビ川をおよそ十キロ東に溯ったところにある旧ゴア(ヴェリャ・ゴア)地区がそれである。
ゴアに到着した私は、まずその旧ゴア地区を訪れてみることにした。
ポルトガルが東洋に乗り出した理由は、ヴァスコ・ダ・ガマが一四九八年カリカット(インドのマラバール海岸、ゴアのやや南方)に達した時最初に交わしたとされる有名な会話、「何をしに来た?」「キリスト教徒と香料を探しに来た」に端的に示されている。つまり、十二世紀以降ヨーロッパ各国で信じられていた祭司ヨハンネス(プレスター・ジョン、東方に住む未知のキリスト教帝国の王)と連携し、貴重な香辛料貿易を独占するイスラム教徒を挟撃、これを打破して、交易路の奪取とキリスト教による世界支配の確立を二つながら同時に実現しようとしたものだ。それまで、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の間で比較的平和裡に展開されていた商業社会へ、いきなりキリスト教徒が|喧嘩《けんか》腰で乗り込んで来た恰好だった。
当然、初期のポルトガル人の来訪とその交易方法は暴力的なものとなった。一五〇二年のガマの二回目の航海など、アフリカ沿岸・インド洋などいたるところで焼き打ちと殺戮を繰り返し(特にアラビア海での婦女子を含むメッカ巡礼三百人皆殺し事件は海事史上に残る悲惨な事件)、カリカットで胡椒や肉桂を積み込んだあとも町を破壊している。
しかし、東洋貿易を独占するのに散発的な海賊行為では効果が薄いと判断したポルトガルのマヌエル王は、一五〇三年コーチン(カリカットの南方)に商館を構え、王の意を受けた二代目のインド副王アフォンソ・デ・アルブケルケが一五一〇年、より北にあって対イスラムの戦略上有利なゴアの地を攻略。ここがポルトガル領インドの首都となった。
当時のゴアはイスラム教国ビジャプールの第二の都市で寺院や宮殿があったが、その|瓦礫《がれき》と何千というイスラム教徒の死体の上に、人口二十万とも三十万とも言われる“東洋のバビロン”、“黄金のゴア”が建設されたのである。ただし、ゴアの最盛期は百年ほどしか続かなかった。ゴアからマラッカへの東洋貿易の拠点の移動、新興植民地国家オランダの台頭と原因はさまざまだが、最大の原因はコレラ、ペスト、マラリアなど|猖獗《しようけつ》をきわめた疫病の|蔓延《まんえん》だった。
旧ゴアが現在廃墟と化していることはすでに聞いていたものの、これほどとは思わなかった。古い町並どころか個別の建物さえ数えるほどしか残ってない。注意しながら歩いてもそのまま通り過ぎてしまいそうなのだ。
車を降りて最初に向かったのは往時の目抜き通りであるディレイタ通りだった。舗装も満足になされてない幅七、八メートルの、マンドビ川へと伸びるゆるやかな坂道だ。両側が灌木と林の物淋しい一本道にすぎない。
ところが、『黄金のゴア盛衰記』(松田毅一著)に載っている一五八〇年代のゴアに住んだオランダ人リンスホーテンの『東方案内記』の絵を見ると、ここが大変繁華な通りだったことがわかる。この街路では毎日のように奴隷や馬の競売が行なわれたので競売通りの異名があった。絵の中央には、輸入されたアラビア馬の競売風景と水瓶を運んでいる裸の女奴隷の姿が大きく描かれている。
絵には他にも、インドの|駕籠《かご》パラキンで道を行く貴婦人、奴隷に日傘を持たせた兵士、競売される男女の奴隷、奴隷市の書記、両替屋、理髪師、ワインを飲む男などが、通りいっぱいにひしめくように描かれ、その背後に、二階建てあるいは三階建ての、タイル|葺《ぶ》き屋根、バルコニー付きの店舗・住宅が、軒を接するように立ち並んでいる。
実に当時のディレイタ通りは、本国リスボンのそれにも劣らぬ大通りだったのだ。
私は、見るべき物の何一つ残っていないディレイタ通りを、ブラブラとマンドビ川の方へ歩いた。およそ五百メートルほど行くと、超小型のパリ凱旋門風の門に突き当たる。副王門だった。古びて見えるが二度再建されているので歴史的価値はあまりない。あえて言えば、上部に|嵌《は》め込んであるヴァスコ・ダ・ガマの彫像が多少目を引く程度だ。
副王門をくぐると道はいっそう狭くなり、両側の林もいっそう迫って来る。こんな場所が歴史上都市の一部だったこと自体、もはや想像力の範囲を越え始める。やがて川岸に達した。かつての表玄関、副王波止場である。
黄褐色の濁った川の岸に何の変哲もない五メートル四方くらいのコンクリート製船着き場があって、少し手前にコーラを売っている掘っ建て小屋が一軒、ひっそり立っている。それだけのことである。
旧ゴアが活況を呈していた当時は毎年九月から十月になるとこのあたりは沸き返った、と『黄金のゴア盛衰記』は記している。アラビア海を吹き抜ける南西季節風に乗って、ポルトガルの帆船が続々と入港したからだ。川岸には西から順に大河岸、サンタ・カタリーナ波止場、ガレー河岸が並び、兵器廠や造幣局、魚市場や牢獄や造船所の建物がそびえていた。だが、何といっても最大の波止場は一番奥の副王波止場で、長く苦しい船旅を終えた人びとはここで初めてインドの大地を踏みしめ、安堵すると同時に、波止場正面の豪壮な副王官邸に圧倒された。そして、官邸のうしろに広がるテージョ川河畔のリスボンとよく似た町並、三方をゆるやかな丘に囲まれた半径二・五キロの|擂鉢《すりばち》型・半円状の都市を見て、おそらくは希望を抱き、おそらくは野心を膨らませたのである。
現在の副王波止場は、対岸のディバル島へ渡るためだけの忘れられたような一角にすぎない。
ゴアと言えば、日本人にとって通常はザビエルの名前ぐらいしか思い浮かばない。日本に最初にキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルの活動拠点、遺体安置の場所としてである。
ザビエルの遺体があるボン・ジェス教会は、現存する数少ない旧ゴア時代の建造物の一つで、今日なお教会として利用されている。しかし私は、その遺体が、「まるで生きているような状態」だとは知らなかった。
ディレイタ通り中程の旧ペロリーニュ広場近くに、インド最良のバロック建築と称されるくすんだ石造りのボン・ジェス教会がある。入口付近に商売熱心な絵葉書売りが何人も|屯《たむろ》していて閉口させられるが、彼らが広げて見せる絵葉書の写真を見て驚いた。|柩《ひつぎ》に横たわるザビエルの顔や手足は、褐色の汚れはあるものの人肌色を呈し、その形状は変化や萎縮も少なく予想以上に原形を保っているのだ(衣服に隠れている右手は切断されローマ法皇庁にある由)。
「奇跡だよ、奇跡。聖人はたくさんの奇跡を起こしたけど、これが最後の奇跡なんだ」
絵葉書売りは言い慣れた口調で言った。
歴史書をひもとくとイエズス会宣教師ザビエルは、一五四二年五月にゴアに到着している。ゴアを本拠地としてインド西海岸一帯で布教したあと、一五四五年香料諸島に向けて出帆。一五四七年十二月、人を殺して逃げて来た日本人ヤジロー(アンジローともいう)とマラッカで出会う。ザビエルはヤジローをゴアの聖パウロ学院に送って教育を受けさせ、一五四九年六月、ヤジローとともに日本伝道の旅に出た。鹿児島湾入港は同年七月、天皇や将軍の布教許可は得られなかったが、千人以上の改宗者を得てキリスト教普及の確かな手ごたえを感じ、一五五一年十一月豊後の日出港を離れた。いったんゴアに帰ったザビエルは、次に中国伝道を企てた。そして一五五二年十二月三日、その途上の広東沖の上川島という小島で、四十六年の波乱の生涯を終える。
ここまでは一般の歴史の本に書いてあるが、パナジ市内の教会で入手した『教会便覧』によると、死亡したザビエルの骨をゴアに移送するため一五五三年二月に墓を掘り起こしてみると、その体は埋葬時と同様に生き生きとしていたのだという。そこでゴアに移された遺体は、一七五二年以来十年ごとに“聖体”として一般に公開されるようになったのだ。
現在のゴアは、一九六一年十二月十九日、約三万のインド政府軍が約一万三千のポルトガル兵を攻撃、わずか三日足らずで降服させ解放したものだが、インド側の攻撃直前の十二月十四日にも、ポルトガル側はゴアの守護神ザビエルの“奇跡の力”によって事態が自国に有利に展開するよう、旧ゴアにザビエル詣でを行なっている。
かつて四千人ほどのポルトガル人が百倍近い現地人を支配していたゴアでは、聖人の奇跡はなくてはならないものだったのだ。
教会内のザビエルの寝棺は、床から天井まで金箔を貼った彫刻で覆いつくされた主祭壇の横、右手奥の銀色の聖堂に祀られていた。
華麗な大理石の台座はイタリアのトスカーナ公から贈られたもので、その上にインド様式の精緻をきわめた銀細工の棺が置かれ、その中に“東洋の使徒”は眠っている。が、もちろん公開期ではないので、一部ガラス張りの棺内の非常にうまくミイラ化した聖人の姿は、背伸びしても全身が見えるわけではない。
私は順路に従い台座の周囲を一周した。ザビエルの生涯を表わした壁面の三十二枚のレリーフを眺めながら、ゆっくりと歩いた。歩きながらつくづく考えてしまった。
ザビエルの日本びいきは名高い。ローマ宛の書簡の中では「新たに発見された民族の中でもっとも優れている」と書き、イエズス会宛の書簡では、「友誼に富み、善良で、悪気はなく、何よりも名誉を尊ぶ」と誉めている。この対日本人観は終生変わることがなかった。ところが、日本滞在の何倍もの期間をインドやマラッカ、香料諸島ですごしていながら、その土地や民族についての言葉はほとんど残していない。後年になると多少の言及はあるが、嫌悪感をそのまま露出させたものばかりだ。
ザビエルの唯一最大の関心が布教にある以上、彼はインドその他に絶望し、日本にこそ東方キリスト教国の夢を託したと考えるのが自然だ。最初に会った日本人ヤジローの知識欲と理解力に驚嘆し、日本に渡ってそれが大名から庶民にいたるまで共通の特質であることを発見した、せいなのだろう。中国行きを思い立ったのも、日本人の価値観の源を支配しているのが中国思想なので、その実態を知るためだったと言われている。
しかし残念ながら、キリスト教は日本で花咲くことはなかった。後に『日本史』を著すルイス・フロイスがゴアから日本へ向かったり、キリシタン大名の派遣した少年遣欧使節がゴアに立ち寄ったり、といったザビエル路線の継承はあったが、長続きしなかった。一五八七年、秀吉はキリスト教の伝道禁止と宣教師の国外追放を命じ、一六一二年、家康は全面的にキリスト教を禁止して教会の破壊と信者迫害を行なう……。
日本のキリスト教徒約百五十万人、インドのキリスト教徒約千七百八十万人。これが現在の結果である。ザビエルは、「インド人のうちにキリスト教が存続するのは、現在ここにいる私たちやそちらから派遣される宣教師が生きている間だけでしょう」(一五四九年、ロヨラへの書簡)と悲観したが、ザビエルの死後四百三十五年間インドのキリスト教は絶えることなく存続してきた。彼のよく知るゴアでは今日人口の約三十五パーセントがキリスト教徒、しかもキリスト教文化がゴアの一大特色となっているのだ。
私は、将来の予測が全然できなかった聖人の柩を周回しながら、アジアの民族の懐の深さについて思わずにはいられなかった。
渚と陰毛
ゴアには約百キロの海岸線に沿っていたるところ美しい砂浜があり、幾つかの浜辺は国外にまで名を知られた海水浴場となっている。パナジの北西約十五キロの地点にある長さ七キロのカラングート・ビーチは、その中でもっとも人気のある海水浴場だ。
午後遅く、私はそのカラングート・ビーチの波打ち際を歩いていた。カラングートに来るのは二度目だった。最初はセバスチャンの家を訪ねた帰りに立ち寄り、二回目の今回はセバスチャンの次男ワレンチーノ・デ・シルバ、通称ワルーと一緒である。
「ここをどのくらい走るの?」
私は強い西陽に帽子を傾けつつ尋ねた。
「いつも三十分ぐらい。ニキロずつ走っても往復四キロだから、たいしたことないよ」
インド人らしく炎天下でも帽子を被らないワルーは、かなり|禿《は》げ上がった頭に汗の粒を貼りつけ、真っ直ぐに前を見詰めて歩く。
頭髪が薄く鼻の下にみごとな髭をたくわえたワルーは二十七歳だった。八頭身で足が長い。見るからに足の速そうな体つきだったが、現に百メートル走と二百メートル走のゴアの記録保持者だった。今でも税関の仕事の合い間に、家からオートバイで十分ほどのこの海岸にやって来て、砂浜を走るトレーニングを欠かさない。
「記録的には僕の持っている記録なんてどうってことないよ。この国じゃ、速く走れるようになったからって一文の得にもならないし……。でも、好きなんだよね、走るのが」
ワルーは言って、ほぼ一直線に続く遠浅の海辺を見渡した。私は彼の横顔を眺め、デ・シルバ家の居間に置いてあったたくさんの優勝カップと、その奥に大切そうに飾ってあったカール・ルイスの写真を思い出した。
カラングートは人気の海水浴場だったが、それでも日本の海水浴場とは基本的に異なっていた。ホテルや売店は入口付近に数軒固まっているだけで、一歩海辺に踏み出すと両側は何キロにもわたってココナッツ林と砂浜のみ、建物らしい建物は見当たらない。海水浴客も百メートル歩いて二、三人、五十メートル歩いてまた一人という具合。閑散とした渚、と呼ぶ方がふさわしいくらいだ。
そんな風景の中で目につくのは、やはり西欧人だった。インド人の海水浴客の姿はチラホラあって、特に水着姿の女性はボンベイのジュフー・ビーチでも見かけなかったので、それはそれでゴアらしくて感心したのだが、真昼に平然とトップレスやヌード姿になる西欧人と比べると、どうしても西欧人の肉体の方が目立ってしまう。
「慣習の違いだろうね。彼らが裸になりたきゃなればいい。村や町の中じゃなくて浜辺なら、別に文句は言わないよ。我々の場合は目的が違うんだ。ゴアじゃ海水浴は健康のためとされてきた。年に何回か海に入っておくとその一年は病気をしないという言い伝えがあるんだ。この土地じゃ、わざわざ素っ裸になって太陽を浴びる必要なんかないからね」
ワルーは、丸く張り切った乳房や|萎《しな》びて垂れ下った乳房、毛むくじゃらの尻や風にそよぐ陰毛には見向きもせず、歩き続けた。
ワルーは西欧人の裸体に対して毅然としていたが、みんながみんなそうだというわけではない。パナジで聞いた話では、十数年前ゴアの海岸に初めてヌーディストが出現した頃は、ゴアばかりでなく他州からもインド人が見物に押しかけたというし、私自身最初に海辺を歩いた時、それらしいインド人見物客のグループに二組ほど出会った。もっとも見物といっても、少し離れた場所からジッと見ているだけなのだが。
他人の裸を無遠慮に凝視すること、公の場で裸を|晒《さら》すこと、どちらも文化摩擦を招く非礼な行為ではある。でも、どちらがより非礼かとなると、それは当然最初に原因となる行動をとった方だろう。そのことに関して私は思い当たることがあった。前回カラングートを歩き回って、そこここで西欧人にインタビューを試みた時のことだ。
砂浜に寝そべって本を読んでいた若い男女はドイツのミュンヘンからやって来た学生だと言った。二カ月のインド旅行の途中で、ゴアにはすでに二週間滞在していた。一泊二〇ルピー(約二百五十円)の海辺の安宿に感激し、ポルトガル風の魚料理を絶賛していたが、インド人の友達ができたかどうか尋ねると、「現地の人? そりゃあ友人になりたいのはやまやまだけど、そんなチャンスも時間もないよ」と笑って豪華なバスタオルを敷き直し、これ以上陽焼けの余地のないお互いの体に陽焼けクリームを塗り始めた。
ニュージーランドから来た獣医とイギリスから来た会社員に会ったのは浜辺のレストランだった。逞しい二人の男は、カラングート、アンジュナ、コルヴァとゴアの海水浴場を転々としていて、「ゴアは思ってたより余程いいところだ」と誉め、あと十日は滞在するつもりだと語った。ただし、「付き合ってるのは欧米人だけだ」と。理由を尋ねると、「インド人とは共通の話題がない」と一言で答えた。
イタリア人の写真家の一家は家族|揃《そろ》って水辺で遊んでいた。ゴアは二度目、ココナッツ林の中に一カ月三〇〇ルピー(約三千八百円)の家を一軒借りて住んでいた。「ローマで毎日神経すり減らして働いているんだからね。こういう場所へ来た時ぐらい家族サービスに徹しなきゃ。難しいことは考えたくないし、煩しい人間関係もたくさん。時折友人のイタリア人夫婦と会って、のんびりやってるよ」……。
結局、ゴアの海岸にやって来る西欧人の多くは、地元の人びとと交わっていないようなのだ。高級ホテルの観光客はともかく、安宿で比較的長期に滞在している連中にして、そうである。歌の文句にあるように、イングランドからニュージーランドから外国人はやって来るが、彼らが“スパイスが利いたゴアの女の子”に夢中になる可能性は、薄い。彼らがインドの海岸まで引き|摺《ず》って来ている生活様式と価値観は正しく西欧社会のもので、地元の人びとのそれは視野に入ってない。その意味では、四世紀半前にこの地を訪れた聖人の、延長線上にいるような気もした。
白い十字架
我々は、アラビア海からの微風をシャツの中へ入れながら、歩き続けた。二人ともゴムのサンダルを脱ぎ|裸足《はだし》になっていた。
途中、一艘の舟に出会った。砂浜の方に漁師らしい男たちが数人群れていて、何やら話しながら網の周囲に坐り込んでいる。
行ってみると、砂の上でじかに体長二メートルほどの鮫を解体していた。ここらあたりは二艘曳きの巻網が主流で、それで獲ったのだという。ブツ切りにして肉は干したりフライにしたりして食べるという。海岸入口のレストランのメニューにも“フライド・シャーク12ルピー”というのがあった。獲物はしかし、鮫を除くと|雑魚《ざこ》ばかりだった。小形のシマガツオの他に、サバの一種やアジの仲間がほんの数尾ずつ。岸近くの沖合に同様の漁船が何艘か浮かんでいるものの、沿岸はあまりいい漁場ではないらしい。
そして顔を上げると、潮に汚れた白い十字架が目に飛び込んだ。|舳先《へさき》近い船腹に木を組んだ十字が打ちつけてあるのだ。
改めて浜に引き上げてある漁船を見てみた。どの舟にも左舷前方に十字架が描かれ、または取り付けてある。聖母マリアを描いたと思われる微笑ましい絵もある。
前回反対側から歩いて来た時には右舷に大きく張り出した脇手(アウトリガー)に気を取られ、気がつかなかったけれど、|褌《ふんどし》一本のゴアの漁師はキリストの“愛”と共に働いているらしい。そして、この東洋と西洋の組み合わせの間隙に、日本は、ヤマハのディーゼル・エンジンという形で潜り込んでいる。
それにつけても、キリスト教の影響の濃い土地だった。周辺部にはヒンドゥー教やイスラム教の寺院もあるが、中心部は圧倒的にカトリック教会である。国際都市ボンベイが紛れもなくヒンドゥー社会だっただけに、その違いは著しい。家々の居間には必ずキリストやマリアの祭壇が設けてあるし、ココナッツ林や水田が連なる田園地帯にはいたるところ十字架付きの小さな|祠《ほこら》が建てられ、道行く男女のネックレスは金のクロスだし、バスやタクシーのダッシュボードにもキリスト像やマリア像のステッカーがやたら貼り付けてある。
私がそのことを言うと、ワルーは「仕方ないよ、信仰が基盤なんだもの」と言った。
そして急に真顔になり、
「僕だって、もし可能なら一生に一度でいいからエルサレムに行ってみたい。聖地に行ってから死にたいよ」
と|呟《つぶや》いた。
再び歩き始めてから聞いてみると、聖地巡礼は高校時代から密かに抱いていた夢だという。弟や妹が小さかった今までは収入を家計費に繰り入れなければならなかったが、最近ようやく貯金する余裕もできてきたのだ。
「月給二〇〇〇ルピーっていってもね、貯金できるのはわずかだから先は長いよ」
「イスラエルまでいくらかかるの?」
「往復二万三〇〇〇ルピー(約二十九万円)。宿泊は、二、三日でいいんだけど……」
ワルーは小さく溜息をつき、聖地巡礼のことはそれ以上何も言わなかった。
私は後ろを振り返った。黄金色の浜辺に白い裸体が点々とあった。キリスト教世界からやって来た彼らのうち、いったい何人がワルーのような宗教的情熱をこの瞬間保持しているのだろうか、思わずそう思ってしまう。
ワルーは、また明日も、勤務が終われば海岸へ走りに来ると言う。
グラスを覗けば
バーの戸は開け放ってあった。
椅子に坐って見ていると、表の公園通りをカラフルなスカートを|翻《ひるがえ》して、女たちの足が通りすぎる。炭のような黒、明るい黒、チョコレート色、赤がかった茶、淡い栗色、陽焼けなのか白いのかわからない小麦色。
体にピタリと合った女性のスカートがポルトガル時代からの伝統なら、さまざまな肌の色は二代目副王アルブケルケ以来の混血政策の|賜物《たまもの》だった。そしてもう一つの賜物が、酒である。
私のテーブルの上には一本の酒瓶が置いてあった。透明の瓶に無色の液体。航空服姿のインド美人を描いたラベルが貼ってあって、説明書きが付いている。
〈パイロット・ココナッツ・フェニー これは厳選されたトディ(ココナッツ樹液)から抽出された純粋ココナッツ・フェニーです。二重蒸溜・木炭|濾過《ろか》法を用いていますので充分な御満足を頂けるものと思います。インド ゴア・リカー・インダストリー製造〉
フェニー。インド中にその名を知られたゴアの地酒である。
ゴアは、西欧人には安くて快適なリゾート地として、日本人にはザビエルが活躍しその遺体がある町として、インドの国内産業的には鉄鉱石の積み出し港として、それぞれ知られている。しかし、一般のインド人にとっては、ゴアは何よりも酒の町だった。各種の酒を大量に生産し、酒の値段がどこよりも安く、酒場がたくさんあって、昼間から大っぴらに酒が飲める、インドでは珍しい土地。そのゴアを代表する酒が、フェニーと呼ばれる蒸溜酒なのだ。
フェニーにはココナッツ・フェニーとカシュー・フェニーの二種類がある。ココナッツの樹液から作るココナッツ・フェニーは無色、カシュー・ナッツの果実から作るカシュー・フェニーはやや飴色。どちらも独特の甘く強烈な匂いを持った強い酒だが、味はカシューの方が上品でまろやか、値段もカシューがボトル一本二〇〜二五ルピー、ココナッツ一五ルピー平均と、カシューの方が高い。
私がフェニーに初めて出会ったのはゴアに来る船の中だった。食事のたびにビールばかり注文しているのを見て、ゴア出身の船員がココナッツ・フェニーを持って来たのだ。私はちょっと驚いた。インドでは全般に公の場所で酒を飲むのはタブーとされている。完全禁酒の州はグジャラート州だけだが、ボンベイを抱えるマハラシュトラ州でも公然と飲酒できるのは高級ホテルか外国人の集まるクラブ、レストランのみ。町のレストランには普通はアルコール類はなく、たとえ運よくビールにありつけても、注文をしたとたん部屋の隅の暗い個室に追いやられてしまう。どうしても“悪魔の飲み物”を飲みたいなら、罪の意識にさいなまれつつ飲むのがよかろう、という宗教的配慮だ。それだけに、フェニーの勧めはありがたく、言われる通りライム・ソーダで割って飲んでみると、多少匂いは鼻についたが、舌になじむ不思議な風味の酒だった。
けれど、本当の意味で“フェニーに出会った”のは、それから数時間後の真夜中のことだった。船室外のあまりの大騒ぎにベッドから跳び起きた。船はゴア到着までに三カ所ほど小さな港に立ち寄るが、その一つで密輸が発覚したのだと言う。停止している船の左舷甲板に出てみると、投光器に照らし出された桟橋は荷物と人の群れでいっぱいで、制服姿の係官がその間を狂ったように駆け回っていた。
その時一緒に騒ぎを見ていたゴア人夫婦が解説してくれた。これはボンベイから違法に持ち込まれる品物で衣類か電気製品、どのみちたいした額ではない。もっと|桁外《けたはず》れに大きく組織的なのは、逆にゴアからボンベイをはじめあらゆるインドの町に持ち出されるただ一種の品物、フェニーの密輸なのだ、と。
「ひょっとしたら、ゴアの最大の産業はフェニーの密輸業かもしれないよ、ハハハ」
男の冗談ともつかぬ言葉を聞いて、私はなるほどと思った。各州での飲酒の不自由さを考えれば、こっそり運び出すだけでも成り立つビジネスだ。ゴア産フェニーの真価は、案外その辺にあるのかもしれないと思った。
ただしかし、当の取り締まり側である税関検査官のワルーに聞いてみると、ゴアの裏面だからか、あまり詳しい密輸の実態は教えてくれなかった。政府直轄領のゴアでは酒税が低く押さえられているため、例えばボンベイで一瓶六〇ルピーするカシュー・フェニーがゴアでは二五ルピーで買えること、ゴアのフェニー売り上げによる税収は年間一〇〇〇万ルピー(約一億二千五百万円)近いが、その何倍もの密輸が行なわれていると推定されること、一カ月に逮捕される密輸犯は三〜四人にすぎないこと、密輸の対象は必ずしもフェニーだけではなくゴア産のウィスキーやビールも含まれること、ぐらいである。
私はそのゴアの、何千軒とあるバーの一軒でフェニーを|舐《な》めていた。甘い植物性の芳香が熱とともに体を駆け巡る。グラス一杯三ルピー、四十円足らずだ。朝からこうやって酒を飲んでいても誰にも文句を言われないのが妙な気分だった。でも現に、私の隣のテーブルではすでに二人ほど出来上がっている。
「よォ、待ったかい?」
そこへ小太りの目付きの鋭い男が現われた。バーの主人のK・Bだった。前夜店で飲んでいて、「どこかでフェニーの製造現場を見れないだろうか?」と客たちに聞いていたら、「それなら俺のところへ来いよ」と声をかけてくれた男だ。K・Bは、自分は正規の蒸溜業者だと自己紹介した。カシューは果物なので製造時期が二〜四月と限られているが、ココナッツ・フェニーは一年中作っているのでいつでも見物できると教えてくれたのだ。
私は早速、K・Bの車に乗り込んだ。我々は彼の所有する蒸溜場のある場所、パナジから南に十二、三キロの村へと向かった。
“本物”のフェニー
車中K・Bはフェニーに関する話をいろいろとしたが、一番興味を引かれたのは言うまでもなく各種密輸の手口だった。ゴア北部の境界の川をフェニーを積んだカヌーで夜間漕ぎ渡る方法、石油タンク車の中身を抜いて代わりにフェニーの液を詰め全体を|麦藁《むぎわら》で偽装する方法、トロール船で沖合に停泊し隣接州から小船で取りに来させる方法、同じ政府直轄領のダマンやディウ(ボンベイの北にありゴアから約六百キロ離れている)へ運ぶからと輸出許可証を取っておき、途中でトラックをボンベイに向かわせ、見つかったら運転手を逃亡させる方法……。
「でもね、そんなしち面倒臭いことする必要もないんだよ。ボンベイ行きのハイウェイを堂々と走って、検問所の手前まで来たら横にそれて田舎道に入る。それでオーケーさ。マハラシュトラ州へ通じる細い田舎道は無数にあるからね。とても全部は警備しきれないよ」
私は真面目で勤務熱心なワルーの顔を一瞬思い浮かべ、「いやに詳しいね」と言った。
「ハハハ、この商売を長年やってれば誰だってそのくらいのことは知ってるさ」
私はむろん、今回はK・Bの話を言葉通りに信じることにした(が、あえて密輸の手口を説明してくれたということで、本名の公表は差し控える)。
蒸溜場はココナッツ林に囲まれた水田地帯にあった。土を積み上げて作った粗末な小屋が二棟並んでいて、一棟が蒸溜場、もう一棟が蒸溜場で働く従業員の家屋だった。
「あれだよ、トディは」
車から降りたK・Bは水田の脇に生えているココナッツの林の頂あたりを指差した。
どの木の頂にも青空に広がった緑濃い葉の間に茶色の丸い土瓶が見える。その中にトディ、つまりココナッツの樹液が溜まるのだという。私は、樹液と言いながらまだ漠然とココナッツ・ジュースの加工を思い描いていたので、意外な気がした。ココナッツの木の樹芯先端部をポイと呼ぶ。ポイを切断すると白っぽい樹液が湧き出て来る。この液を土瓶に溜めておき、毎日一回早朝に採取するらしい。
「朝早くじゃないと、太陽の熱を受けて木のてっぺんで発酵しちまうからね。で、採ったトディはこっちだ」
K・Bは次に薄暗い小屋の中へと案内した。
壁際に大甕があって、中に白い液体が入っている。醸成中のトディで、|掻《か》き回していれば自然発酵するため、約二十四時間寝かせればいいという。蒸溜装置も実に原始的なものだった。小屋の奥のかまどに斜めに傾けた瓶がのせてあり、横手に水を張った水槽、瓶と水槽の間を一本のパイプが走っている。それだけの簡単なものだ。瓶に入れて熱された醸造トディの蒸気が、パイプを通って水槽で冷やされ、アルコール分を含んだ液体となってパイプ先端から受け壺に落ちて来る。
「これがウラックさ。このままでも販売されてるけどアルコール分が弱い。そこでもう一回ウラックを蒸溜すると、それで本物のゴアのココナッツ・フェニーとなるわけだ」
バーの主人はこうして、所有する六十本のココナッツの木から毎日ボトル二十本前後のフェニーを製造しているのだと言う。
K・Bは従業員に言って部屋の奥からフェニーを持って来させた。あまり清潔とは言えないコップに入った透明の酒。口に含むと、店で出しているものと同じ味がした。
「そうだろ? 本物なんだ、ウチのは」
やけに“本物”であることを強調する。
K・Bによれば、フェニーに関わる外部的問題は密輸だが、内部的には粗悪品問題だという。ここ数年混ぜ物入りフェニーが大量に出回り始め、今や市場で売っているフェニーの大半がそうなった、と。頭痛を起こさせる塩化アンモニウム入りなどいい方で、中にはメチル・アルコールや使用済みバッテリー、化学肥料を混入した恐ろしいものさえあるらしい。
「確かにね、儲かる商売ではあるが、偽物を売っちゃいかんよ、偽物をね。ゴアでは昔からちゃんと本物が作れるんだから……」
K・Bは青空に伸びるココナッツの木を見あげ、メイド・イン・ゴアの酒造りの原点を確認するかのように、鋭い目を細めてみせた。
ゴアの酒造りと飲酒の習慣は、植民地時代にポルトガル人によってもたらされたものだった。ココナッツは昔からあったが、カシューはポルトガル人が約四百年前ブラジルから導入したものだし、その蒸溜法も彼らが教えた。ただし、彼ら自身は本国から輸入したワインをもっぱら飲み、地酒フェニーはさほど口にしなかった。バーでもフェニーを売ることは禁じられ、販売はタベルナ・リセンシアーダ(認可居酒屋)でのみ許された。その店へ、言論・集会の自由を奪われていた一般ゴア人が、安価な安らぎを求めて通っていたのである。
その意味では,一九六一年のインドのゴア併合後、どのバーでもフェニーを飲めるようになり、一人だろうと徒党を組もうとフェニー片手に自由に議論できるようになったのは進歩と言えるかもしれない。しかし、同時に密輸品と粗悪品もまた|跋扈《ばつこ》し始めたとしたら……。
ゴアのフェニーが本当の評価を得るのは、まだまだ先のような気がした。
キリスト教式結婚式とカースト
晴れわたった深い藍色の空に巨大な銀貨に似た満月が輝いていて、結婚式の夜である。
私はパナジ市中心部の旧政庁舎からほど遠くない花嫁の家にいた。二階の一室が新婦控室になっていて、その片隅に佇んでいた。
ゴアの一般的な家は、たとえばワルーの家がそうであるように、玄関口に屋根付きポーチがあったり天井に明かり採りの窓があったりと、かなり欧風化されている。が、概して床は石造り(あるいは土間)、家具もほとんど置かないという具合に、インド様式が溶け込んでいる。ところがパナジ中心街にある古い建物の多くはまったくと言っていいほどヨーロッパ・スタイルだった。花嫁の家もその一つで、外壁はクリーム色、屋根は赤瓦、室内も木の床に絨毯敷きで、そこに年代物の木彫家具がギッシリ詰まっている。天井でゆっくり回っている大型扇風機さえ除けば、ポルトガルの地方都市の由緒ある住宅と考えても差し支えないくらいだ。
その純ヨーロッパ風の居間の中央に、黒い肌の花嫁が純白のウェディング・ドレスに包まれ伏目がちに椅子に腰掛けていた。親類や近所の人たちがひっきりなしに|挨拶《あいさつ》にやって来るが、花嫁は静かに微笑んで祝辞と抱擁を受けるのみ、せわしない応対はすべて花嫁の母親や叔母たちに任せている。洋の東西を問わない慎ましくも演劇的な挙式前の光景だった。
私が花嫁と家族に会うのはこの日が最初、それもわずか十分ほど前のことだった。約三十分前に正装したロイが招待状を持ってホテルに駆けつけて来て、それでようやく式の直前に間に合ったのだ。従って、私が新郎新婦について知ってることと言えば、船の中でロイが教えてくれた範囲に限られていた。
花嫁はロイの|従姉妹《いとこ》でロゼッタ、二十六歳の小学校教師。中級官吏の次女で姉はすでに結婚している。現在医薬品会社に勤めている花婿のユーリコ(三十歳)とは六年前大学時代に出会い、以後交際を続け、先月正式に婚約を交わした。二人のカーストは最高位のブラーマンであり、ロイが、「同じブラーマンでしかも同じカトリック教徒の相手を見つけるのって、インドじゃほんと難しいんだよね」と|嬉《うれ》しそうに語っていたのが頭に残っている。
午後六時半、家族一人一人と涙の抱擁を終えた花嫁は家を出た。玄関口に待機していたロイや親戚の男たちがいっせいにクラッカーを鳴らす。月明かりの石畳、リスボンの旧市街を思わせる路地。家々の開け放った観音開きの窓から幾つもの顔が、淡い黄色のコンテッサ・ヒンドゥスタンに乗り込む花嫁の姿を見送っている。
パナジ市の真ん中に|聳《そび》え立つ白亜の聖母マリア教会では、もう四十分以上も結婚式が続いていた。
私は百人ほどの参列者の一番後ろに坐って、手渡された式次第のパンフレットを眺めながらみんなと一緒に、「グローリー・トゥ・ユー・ロード」とか「アーメン」とか唱和していたが、暑いし、マイクを使った神父の声が波打って眠気を誘うし、何よりも、祭壇前に背中を見せて並ぶ新郎新婦に|馴染《なじ》みがないのが決定的で、式の中途で退出をした。
空気がそよりとも動かない教会内と違って、外には川の方から吹き上げて来る軽い夜風があった。月光に照らされた教会周辺の|椰子《やし》の木の、光に|濡《ぬ》れたようなシルエットも、いかにも涼しそうで快い。
教会への道すがらロイが話してくれたところでは、今回の結婚はダウリ付きとのことだった。しかも今回は、四七万ルピー(約五百九十万円)という巨額なもの。ロイは、「父親が年収の何年分ものダウリを準備するのは大変だったと思うよ。でも、同じカーストだからよかった。こちらが低カーストなら、もっと払わなくちゃならなかったからね」と笑ったのだが……。
形式にのっとったみごとなキリスト教式結婚式。しかし、その式が成立するための、事前のカースト合わせとダウリの受け渡し。その堅固そうに見える組み合わせが、不思議だった。ヒンドゥー文化とキリスト教がこんな形で円滑に結びついていること、それ自体が私の先入観を凌駕している。
インド人の底に流れるヒンドゥー的価値観と他宗教との関係については、私には一つの経験があった。ボンベイのRBYCでセバスチャンの話を聞いたあと、夜遅く、カウンターで飲んでいた時のことだ。一人のインド人ビジネスマンと知り合いになったのだ。
休暇で勤務地のサウジアラビアから故郷のプーナへ帰る途中だという彼は、国際的な塗料会社の幹部社員だった。三十四歳、独身。酒や異性など何一つ慰安のない砂漠での長期勤務がいかに過酷かを長々と語ったあと、彼は、尋ねたわけでもないのに自分のことを話し始めた。特に、最近別れた婚約者のことを。
彼女は、彼がアラブ諸国とヨーロッパを往復している時に知り合ったインド人スチュワーデスだという。彼女はカトリック教徒、彼はヒンドゥー教徒、宗教は異なりカーストも異なる(ブラーマンとクシャトリア)が、二人とも進歩的な考えの持ち主で気にかけず、何よりも深く愛し合っていたので婚約した。ところが、結婚式の日取りまで決まりながら、約一カ月前、婚約を破棄することになったのだ。
「障害は宗教だった。それ以外に何もない」
彼はスコッチを傾けて、唇を|噛《か》んだ。
「彼女の家は代々カトリックだから、彼女もキリスト教の結婚式を望んだんだ。私の両親は猛反対したが私は承諾した。好きな女性と一緒になれるなら式の形式などどうでもいい、とね。讃美歌を歌うこともキリストの前で愛を誓うことも、私は妥協して受け入れた。でも彼女はもう一つだけと言って、生まれて来る子の幼児洗礼を懇願するんだ。これは、ダメだった。二人の間の子供が、生まれながらにカトリック教徒となるのは、ヒンドゥー教徒としてはどうしても抵抗がある。私は、子供が物心つくまで無宗教で育てようとか、二つの宗教の教義を同時に教えようとか、考えつく限りの提案をした。しかし彼女は、幼児洗礼に断固としてこだわる。“洗礼を受けないでどうやって人生を生きて行けるの? 信仰と加護のない生活なんて考えられない”と言うんだな。あげく、“じゃあ、ヒンドゥー教でどうやって子供に宗教的生活を約束できるのか説明して”って迫って来るんだ。困ってしまったよ」
端整な顔立ちのビジネスマンは苦笑いして、グラスを口に運ぶ手を心なしか速めた。
「言われてみれば、我々の宗教にはこれといった枠組がないんだよね。キリスト教には『聖書』があり日曜ごとのミサがあり洗礼がある。イスラム教にも『コーラン』があって、日に五回のメッカへの礼拝と断食がある。宗教としてキチンと形式が整ってるんだ。それに比べれはヒンドゥー教なんていい加減なもんさ。一応『リグ・ヴェーダ』とか『ラーマーヤナ』とかあるけど、これらは神話や|御伽噺《おとぎばなし》に近い。実際にはこまごまとした生活上の習慣的規則を各自バラバラに守っているだけなんだ。私など、厳格なヒンドゥー教徒である母親に子供時代から言われ続けて来たのは、“家に帰ったら手と足を洗いなさい”“時間をみつけて『ヴェーダ』のサンスクリットを唱えなさい”、それだけだ。だから、ヒンドゥー寺院に一度も行ったことがなくてもれっきとしたヒンドゥー教徒だし、酒を飲むヒンドゥー教徒もいれば肉食をするヒンドゥー教徒もいる。ハッキリとした統一的教義も強い規制力もないんだよ。良く言えば宗教としてきわめて柔軟とも言えるけど、実際はインド的ライフ・スタイルそのものでしかない」
「しかしそれでも、子供の洗礼だけはどうしても受け入れられなかったわけ?」
「ああ、私もいい加減なヒンドゥー教徒だけど、その一点だけは私の中のインド的な何かがね、なぜか頑強に……」
カーストの壁を乗り越え、ダウリも否定(彼はダウリ廃止論者だった)し去ったというのに、彼は「予想もしなかった自分の中の宗教心」に妨げられ、結婚を|諦《あきら》めたのだった。
西欧人の持ち込んだ宗教にヒンドゥー社会の伝統をうまく|摺《す》り合わせるのが賢いのか、それとも両者を峻別し、個人的幸福を断念しても価値観にケジメをつけるのが、伝統社会の一員として正直な選択なのか……。
教会の中からマイクに乗った神父の声が響いて来た。「欧米各国での家族の崩壊」を憂い、「我々の結束」と「伝統を基盤とした新家庭の創造の必要性」を説いている。
式はまだまだ続きそうだったが、私は早く披露宴のパーティー会場に行きたかった。パーティーは結婚式が終わり次第、ポルトガル時代にダンスホールだったというマンドビ川近くの建物で行なわれる。そこではロイとその家族が、「思いっきり楽しい曲を一晩中歌って演奏する」予定だった。むろん、『カム・トゥ・ゴア』も演目に入っている。
ゴアに来て以来、いつでも聞けると思っていたのに、『カム・トゥ・ゴア』を聞くチャンスはなかった。もう一度ぜひ聞きたかった。ゴアを称え、ゴアの独自性を主張するあの陽気な歌をもう一度ジックリ聞いて、私がゴアで見聞したものを振り返りたかった。
青い月光を受けた教会下の公園で、酔っ払いが一人、何か歌らしきものをがなり始めた。私の聞きたいと願っている歌ではなさそうだったが、私は思わず、耳をそばだてていた――。
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ダビデの
星――─
コーチン
原インド人の中のユダヤ人街
トロリと澱み、ところによって|漣《さざなみ》を立てている見渡す限り青緑色の水面。あちらこちらにホテイアオイが群れて流れ、可憐としか言いようのない薄紫の花を浮かべている。カモメが飛び、アジサシが飛び、大小さまざまな種類のサギたちが飛んでいる。
インド南西岸最大の港町コーチンは、ペリヤール川、ムヴァトゥプラ川など幾つもの川の河口部が合流し砂洲によって囲まれた複雑な入江の中に形作られている。
七十万コーチン市民の“足”は、従って、本土と島と砂洲を結ぶ連絡船ということになる。通勤客や買物客を満載した百二十人乗りの連絡船が、片道一ルピー(約十三円)以下の運賃で市内数カ所の桟橋の間を定期的に往復しているのだ。入江を行く船には他に、客と値段の交渉さえつけば随時出発する、より小型の渡し船があり、そこここに釣り糸を垂れている漁民の丸木舟がある。昔ながらの長い竿で進む穀物運搬用のライス・ボート、風を|孕《はら》む牧歌的な帆掛け舟、レジャー用高速ボートの姿も見え、むろん、外洋に向かう機械化された漁船や外国からの大型貨物船も行き交う。アラビア海に面した汽水湖(このあたりだけヴェムバナッド湖と呼ばれている)は、ホテイアオイの浮かぶのどかな湖面でありながら、南インドきっての漁港兼貿易港の横顔も見せている。
本土側のエルナクラム地区の桟橋を離れて約二十分後、ドラヴィダ系の暗褐色の肌の人びとを定員以上に乗せた連絡船は、砂洲の内側の桟橋に到着した。原色のサリーや白や格子縞のドーティ(腰巻)を身につけた人びとと一緒に、私も船を降りる。
マッタンチェリーの桟橋。そこがジュー・タウン(ユダヤ人街)への入口だった。何日か通い続けている場所ではあるが、熱帯インドの、それも原インド人とも言うべきドラヴィダ系インド人の社会のど真ん中にこうした白人異教徒の暮らす町があるとは、頭で理解していても、やはり奇妙な気持がする。
ジュー・タウンは砂洲の東側を南北に平行に走る二本の通りから成り立っていた。一本は倉庫群の前の百メートルほどの道路、もう一本は少し奥に入った長さ二百メートルほどの通り、両方の通りの周辺を合わせてもそんなに広い区域ではない。
ジュー・タウンの中に一歩入ると独特の刺激臭が鼻をつく。黒胡椒(ブラック・ペパー)の臭い、ウコン(ターメリック)の臭い、ショウガ(ジンジャー)の臭い、それらが微妙に混ざり合った臭い……。コーチンの属するケララ州のマラバール海岸一帯は紀元前の昔からインド最大の香辛料(スパイス)の産地だが、現在もコーチン港の輸出品のトップは香辛料。ジュー・タウンにはその香辛料を扱う事務所や倉庫が|蝟集《いしゆう》しているのだ。
ジュー・タウンの町並は、しかし、同じく香辛料問屋がひしめくボンベイのマスジッド・ブンダー界隈などと比べると、格段に清潔だった。白やクリームや淡い青などパステルカラーの建物が整然と並び、道路もインドではまったく珍しいことに、常に|箒《ほうき》の跡が見えるほど掃除されている。家々の壁に貼られたハレグア、サイモン、マンツィルなどのユダヤ系の名前、戸口の柱に据えられたメズーサ(ユダヤ人住宅の魔除け)、扉やバルコニーを飾るダビデの星……。そして奥の通りへと進むと、そこは石畳であり、よりいっそうヨーロッパ的なオランダ風の家並が続き、一番奥にシナゴーグ(ユダヤ教の教会堂)がある。
周りから隔絶した完璧なユダヤの小世界だった。ところが肝腎のユダヤ人の姿が見えない。倉庫前でトラックの荷降ろしをしている人夫たちは言うまでもなく、その監督者も、事務所で帳簿をつけている者も、雑貨屋の店主も食堂の客も、路上を歩いている人びともすべてが黒い肌のインド人ばかり。時折シナゴーグに出入りする人影さえ、各地から見学にやって来たインド人か外国人観光客なのだ。
実は現在、コーチンのジュー・タウンに暮らすユダヤ人は七家族三十人しかいない。かつてはこの町に数千人もの人びとが住み、第二次大戦後も四百人近くのユダヤ人がいたのだが、一九四八年のイスラエル建国と同時に急激な人口流出が起こったのだ。
「イスラエルへ行きたい人は行けばいい。でもそれじゃインド政府に申し訳ないだろう? インドはこれまでユダヤ人を迫害したことがないし、我々自身、ユダヤ人である前にインド国籍を持ったインド人なんだからね」
この日訪ねたシナゴーグ近くに住むユダヤ人会計士J・E・コーエンは、特徴のある大きな鼻を震わせ、|仄暗《ほのぐら》い居間で語った。
コーエンは七十二歳、妻は六十三歳、子供はいない。現在ジュー・タウンに残っているユダヤ人はほとんどが、六十歳以上か身寄りのない人、もしくはその両方に該当する人たちだった。三十代以下はわずか六人。コーチンのユダヤ社会は今、存亡の岐路に立たされているのである。
流浪の民の自治国家
もともと中東の民であるはずのユダヤ人たちが、インド亜大陸の南部沿岸地域にいったいどのようにして住みついたのか?
シナゴーグの入口脇に一般見学者には公開されていない一室があり、そこにコーチンのユダヤ人の歴史を描いた九枚の絵が掲げられている。その最初の絵の解説文によると、古代ヘブライ王国とマラバール海岸(『旧約聖書』のタルシシ)との間にはすでに紀元前十世紀に交易があったという。ソロモン王の許に、インド南部の象牙や香辛料、チーク材や孔雀などが送られていたというのだ。
もっとも『旧約聖書』に散見する三千年も前のエピソードとなると確認の方法もない。現在のケララ州政府が承認し、シナゴーグ入口で配付するパンフレットにも登場する最古の年時はというと、紀元七二年になる。紀元六八年、ローマ帝国によってエルサレム第二神殿を破壊されたユダヤ民族がパレスチナを去って世界各地に散り流浪の民となった時、その一部が四年後にインド南岸に辿り着いたというわけだ。
約一万人のユダヤ人が大挙して移住したのはマラバール海岸のクランガノール(コーチンの北方約二十キロの港町)だった。
入植者たちは、身の安全が確保されると、持ち前の商才を発揮して早速旺盛な商業活動を展開した。ことに貿易方面は目覚ましく、ダビデの星を掲げた商船は紅海から遠く南シナ海まで出かけ、諸国の珍しい物品を運んだ。
その功績もあってか、コーチン藩王はユダヤ人集団の指導者ジョセフ・ラバンをクランガノールの皇太子に任命し、子々孫々にいたるまでの自治権と統治権を与えた。この事実はコーチンのシナゴーグに保管されている銅版に明記されている。ただし銅版の言葉が古い方言によって書かれているため統治権授与の年代については異論があり、シナゴーグ側は紀元三七九年を主張し、インド人歴史学者の多くは紀元一〇〇〇年説をとっている。
いずれにしても、紀元一世紀の流浪開始から二十世紀のイスラエル建国までの間に、ユダヤ民族が地球上に打ち立てた独立国家は他にたった三つ(五世紀のバビロニア、六世紀のイエーメン、八〜十世紀の南ロシア)しかないことを思うと、クランガノールの自治国家は小さいけれど、もっとも永続的な組織的ユダヤ社会だったと言うことができる。
その後クランガノールは、アラブ世界やヨーロッパでユダヤ人迫害が起こるたびに難民を受け入れ、着実に膨張して行ったが、一三四一年、突如崩壊の危機を迎える。ペリヤール川の洪水で港が泥に埋まってしまったのだ。
生活基盤を失ったユダヤ人たちの間に南のコーチン地区へ移住する者が続出した。というのも、河口の一つにすぎなかったコーチン地区に、同じ洪水によって巨大な砂洲が出現し、新しい港が形成されたからだ。
一四〇〇年代に入ると、コーチンは早くも香辛料積み出し港として不動の地位を築き始める。一四九八年にインドに到着したポルトガルはこのコーチンの繁栄を見逃さなかった。最初の上陸地カリカットでイスラム商人と対立したポルトガルは、カリカットと敵対関係にあるコーチンに接近、両者の抗争を利用してコーチンに根を降ろした。一五〇二年のことである。
一方、クランガノールに残っていたユダヤ人はインド亜大陸での最初の迫害をポルトガルから受け、続々とコーチンに集まりつつあった。一五六七年、マッタンチェリー地区にある現在のジュー・タウンが建設される。コーチン・シナゴーグも一年後に完成。
しかし、コーチン藩王はユダヤ人を保護したものの、ポルトガル支配期を通じて狂信的カトリックによるユダヤ攻撃が絶えなかった。この間にシナゴーグは一部破壊され、ユダヤ社会に伝わってきた古文書や史料もほとんど焼失した。したがって一六六三年にオランダが進出して来た時、この新興外来勢力をいち早く支援したのが他ならぬコーチンのユダヤ商人だったのは、当然といえば当然のことだった。
オランダ統治下の約百三十年間はユダヤ社会の安定と隆盛の時だった。オランダ様式で再建されたコーチン・シナゴーグ(一六六四年)を中心に人びとは平和を謳歌した。この時期の代表的ユダヤ人指導者であるエゼキエル・ラハビは、オランダ東インド会社の公式代理人となり、商人兼外交官として辣腕をふるった。この時期に貿易と同時にユダヤ文化も栄えた。
一七九一年コーチンの支配者はオランダからイギリスに代わったが、ユダヤ社会と支配者の関係は変化なく平穏に続く。ただし、十九世紀に入ってボンベイやカルカッタが新進の商業都市として勃興して来ると、チャンスを求めるユダヤ商人たちの間に流出が始まった。ジュー・タウンの人口減少は緩やかではあるが長期にわたり継続した。一九四七年にイギリス支配が終わった時、コーチンのユダヤ社会の構成員はおよそ三百人。そしてこの減少傾向はイスラエル建国で一挙に加速される。
現在インドに住むユダヤ教徒はボンベイが約七千人、カルカッタが約三百人、コーチンを含むケララ州が約百人、インド全体でも一万人を越えないと言われる。その他の宗教的少数者である仏教徒(約四百七十万人)やジャイナ教徒(約三百二十万人)と比較しても問題にならない数字だ。しかし、その少人数の居住区が交通至便な海沿いの商業都市に集中している点に、ユダヤ人社会の大きな特色がある。
海のシルクロードの遺産
マッタンチェリー地区に隣接した砂洲の先端にフォート・コーチン地区がある。
私はそこのバニヤンの大木の下に坐りあたりを眺めていた。目の前がコーチン港の出入口で狭い水道になっている。水道沿いにズラリとチャイニーズ・フィッシングネットが並んでいた。シナゴーグの床に張られた十八世紀の広東タイル同様に対中国貿易の遺産の一つだ。
日本では四つ手網と称する網。ただ日本の四つ手網と違いひどく大がかりだった。桟橋の突端から十文字の木に張った十メートル四方はある大網を海に沈め、定期的に上げ下げするのだが、機械類はいっさい使わず|梃子《てこ》のみを応用したまったくの人力装置。網を沈めて三十分ほどたつと上半身裸の男たちが七、八人、三角形に組んだ木の一端から垂らしたロープを、全身の力で引く。炎天下での筋肉とロープとの格闘があり、やがて上がって来る網の底にボラやコイの類が少々、たまにカニかエビが数匹混じっていたりする……。
私は想像力が貧困なせいか遺跡を訪ねたり古い建物・遺物などに接しても“往時を|偲《しの》ぶ”ことがなかなかできない。フォート・コーチン地区にある聖フランシス教会のヴァスコ・ダ・ガマの墓(一五二四年コーチンで死亡したガマを埋葬。遺体は十四年後リスボンへ移送された)を見ても、特に何も感じなかった。けれど古い物でも現在使用中となると、とたんに想像力を刺激される。
目の前の四つ手網漁は、どんな本を見ても「フビライ汗の時代に中国からもたらされた」としか説明されてないが、これはおかしかった。元の世祖フビライ汗は十三世紀の人、その頃は洪水の前でコーチン港自体が存在しないからだ。それでもフビライ汗にこだわるのなら、近在の町の影響ということになる。コーチンの南約百三十キロに古い港町クイロンがあるが、フビライ汗に仕えたマルコ・ポーロは帰路そこに立ち寄っている。ひょっとすると彼ら一行がこの網を漁民に教えたのかもしれない。あるいは明代の大航海者鄭和も可能性がある。鄭和は十五世紀初頭、中国からインド経由でアラビア、アフリカに至る官業貿易を前後七回も行なっている。そしてその途上、柯枝(コーチン)に何度も寄港しているのだ。
どちらにしろポルトガル人がインドにやって来るはるか以前に、アラビア人も中国人もユダヤ人も、海のシルクロードを通じてお互いにかなり頻繁な接触を繰り返していた。しかも、ヨーロッパ人のように略奪・虐殺・搾取を伴わない友好的なものだった。香辛料と引き換えに残していった染付タイルと四つ手網……、何という優雅な交流の遺産。
フォート・コーチン地区には、その染付タイルを敷き詰めたシナゴーグを心の支えとするユダヤ人集団の最長老、実質的なリーダーであるサトゥ・コーダーの家と店もある。
「あのね、私は体も悪いし、シナゴーグにも祝祭日の時以外は行かないのだよ。もうここまで仲間が減ってしまってはね、仕方がない。我々は静かに余生を送るだけだよ」
四軒の雑貨店を経営する七十九歳のユダヤ人の老人は、私が訪ねた時、そう言っていた。かつては輸出入も手掛けた豪商だが、現在の本店の店内はガランとしていて、商品が乗っている棚は全体の半分にも満たなかった。
「でも、興味があるなら今度の金曜の夜ウチに来なさい。毎週金曜の夜に小さなパーティーを開いていてね、ユダヤ人じゃない友人も大勢来る。今は唯一の楽しみなんだよ」
晩年のウィンストン・チャーチルを細くしたような顔付きのコーダーは、諦観した人間特有の妙に明るい口調で言ったのだった。
私の目の前では左右のフィッシングネットがほぼ同時に引き上げられていた。掛け声に合わせてロープを引っ張る十数人の男たちの黒褐色の背中が、油でも塗り込んだように美しく輝く。
十五世紀に西欧がアジアを“発見”しなかったら、どんな豊かな異文化の遺産が残り、ユダヤ人の社会はどう発展していたのだろうか……。私の中にふとそんな思いが湧き起こった。
消えゆく“白いインド人”
「じゃあ、来年には家を売って?」
「ええ、イスラエルに行きたいの。娘が結婚して向こうに住んでるものだから」
サトゥ・コーダーが紹介してくれた三人目のユダヤ人ミリアム・アシュケンは、ピンク色のサリーの胸許をしきりに気にしつつ、消え入りそうな声で言った。
コーダー家恒例の金曜日の夜のパーティー。五十畳ほどのくすんだ薄暗い居間に、年代物のソファや木彫りの椅子が並べられ、招待された十数人の人びとが手に手にグラスを持って歓談していた。年輩者が大半だった。天井のアールデコ調のシャンデリア、サリーの衣ずれの音、ゆっくりとした所作で客の間を縫う二人の給仕、グラスに注がれる自家製のワイン……。まるで時計が停止したような空間だった。
が、しかし、一人だけリラックスした服装の当主のコーダーが、招待客を誰彼となく私に紹介しようと懸命なので、どうにも落ち着かない。私としては、十数人の出席者のうちユダヤ人はコーダー夫妻を含め四名とわかった時点で、彼らからもっと話を聞きたかった。
「困るのはやはり結婚問題ですか?」
私はコーダー夫妻の間に移動して尋ねた。
「将来の問題としては、ね。けど毎日のこととなるとやっぱり料理よ」
「そう。ビーフやマトンなんて、この十年以上食べてないんじゃないかな」
老夫妻は顔を見合わせて笑った。
ユダヤ教徒はイスラム教徒と同じく豚肉は食べない。エビやカニ、ヒレやウロコのない魚も『旧約聖書』の教えに従い、食べない。牛や羊の肉は食べてもいいが、専任者による特別な畜殺方法で処理された肉でなければならない。その専任者がここにはいないと言うのだ。
「だからずっとチキンばっかり」
「それは専任者でなくていいんですか?」
「よくはないけど、その程度なら我々で処理できるもの。あ、あちらはギリー氏だ」
また新しい客だった。
私は客と当主の間に会話が弾むのを見届けると、入口で挨拶を交わしたインド人の方に向かった。エビの輸出業者で四十四歳のカトリック教徒。コーダーの古い友人だ。
「ユダヤ人? とてもいい連中さ。気がよくて信頼できるし、第一教育水準が高い」
浅黒い顔に一文字の口髭を生やした彼は、インテリどうしの紳士的交際を強調した。
コーチンの市民に、長い間ユダヤ人と摩擦なく共存して来た理由を尋ねると、教育水準の高さを挙げる人が多い。医者や弁護士を多数輩出しているユダヤ社会だけでなく、受け入れている彼ら自身の社会も知的レベルが高いというわけだ。確かにケララ州の識字率は全インドで一番、人口当たりの新聞購読者数もトップである。あるヒンドゥー教徒の新聞記者は、「(ここは)宗教や人種の違いがすぐに流血沙汰になる北部諸州とは違う。教育を受けた人間は簡単には敵を作らないものだ」と誇らし気に語った。
「それに、長い共存の歴史だよ」
エビの輸出業者は付け加えた。
「偏見を持とうにも持つ必要がなかったからね」
インド人がユダヤ人と非常にうまくやって来たという意味ならば、それはその通りだろうと私も思った。
ただしかし、ユダヤ人に対する偏見めいたもの、差別めいた感情がこの地に皆無かというと、そうではないと思う。暗褐色の肌の人びとの間で長い間白い肌を守って来たことそれ自体が、インド人とユダヤ人の間に越え難い壁があったことを明示している。ジュー・タウンにあるインド人の食料品屋の主人は言っていた。「彼らは我々と結婚しない。我々の中に溶け込もうとしないんだ。だから彼らが全員いなくなっても悲しくはないよ。|喧嘩《けんか》はしないけど、我々は友達じゃないんだから……」。こうした心理と相通じる紳士的ではあるが|冷《さ》めた態度は、実は、ユダヤ社会との歴史的共存を力説する新聞記者やエビの輸出業者の言葉の裏にもどこか|窺《うかが》えたのである。
私は再びアシュケン夫人の所へ戻った。
「イスラエルについてですか、さァ、あまりよく知らないんですけど……」
小さな聞き取りにくい声だった。
「向こうには娘と、夫がいるんですが……。夫は娘が六カ月の時、私を置いて向こうへ行って……。今じゃ女と暮らしてるらしいんですけどね。……私、インドの外に出たことなくて、向こうはいつも戦争らしいし不安なんですが、ここにいても仕方ないし……。ずっと事務の仕事して来たんですけどね」
皮膚の色を除けばインド女性そっくりの表情、物腰だった。他にも家を売ってコーチンを離れたがっている人が何人かいるが、なかなか売れないと教えてくれた。
隣の席では当主のコーダーが椅子に坐ったままシッカリとした声で、ウィスキーのお代わりを持って来るよう給仕に命じている。上品で盛会のパーティー、でもどこか陰鬱さが漂っている。
ユダヤ教では土曜日が安息日で我々の日曜日にあたる。そこで土曜日の朝十時からシナゴーグの前で待っていた。|祈祷《きとう》を終えて出て来る人の中に若い人がいるはずだと思ったのだ。
六人いるという若いユダヤ人の誰かにぜひ話を聞きたかった。二度ほどチャンスはあったのだがダメだった。こちらが取材したがっているとわかると逃げてしまう。
午前十時半、人びとがシナゴーグから出て来た。若いユダヤ人はいない。全員が町で見かけたことのある老人たちだ。それも数が少ない。ユダヤの祈祷式は成人男子十三名の出席がないと成立しないはずではないのか?
「男が十人で女が三人、かろうじて頭数だけ揃ってたわ。若い人は全然来ないわよ」
コーエンと一緒に出て来たアメリカ人の女性が言った。彼女もユダヤ人で、コーチンの噂を聞き、わざわざニューヨークから見学に来たのだと言う。
「でも感激したわ。こんな古いシナゴーグ見たことないもの。女性が二階で男性が一階、別々に分かれた礼拝なんて初めて」
コンピューター会社の弁護士をやっているという彼女はさかんにコーチンのシナゴーグの稀少価値を誉めた。スイスのシナゴーグとデザインが似ているがもっと格式があり東洋的だ、と。
私は前夜サトゥ・コーダーが言っていた言葉を思い出した。コーダーは近い将来消滅するかもしれないユダヤ社会のリーダーとして、シナゴーグのことはすでに考えていると言っていた。州政府にユダヤ記念館として残してくれるよう頼んであるのだそうだ。
「しかし残念だなァ。結局若い人たちの意見が聞けなかったんだから……」
私が思わず愚痴をこぼすと、
「それは無理よ」
アメリカから来たユダヤ女性は笑った。
「私は聞いたけどね。二十三歳の女の子は“誰か若いユダヤ男性が見学に来て、ここへ住みついてくれるのを待ってる”って言ってたわ。もう一人の男の子は来年イスラエルへ行くって。もうこの町には戻らないって。でもそんなこと、同じユダヤ人の私だから話してくれたのよ」
彼女は、「異邦人にユダヤ社会の内部のこと本気で言うわけないじゃない」とは言わなかったが、ニッコリ笑ってシナゴーグの写真を撮り、サッと背を向けて歩き出した。
……雲一つなく晴れわたった、とても暑い日だった。真っ白い壁のシナゴーグの時計塔の上に|眩《まばゆ》いばかりの南インドの青空が広がっている。
老人たちが各々の家に入ると、かなりの時間、ジュー・タウンからはまったく人影が絶えた――。
[#改ページ]
の二人の
娘――─
マドラス
アニーとアパルナ
アンナ・サライ(英語名マウント・ロード)は、一六五四年に建設されたイギリス軍の拠点フォート・セント・ジョージから発して、市内を北から南へ斜めに貫くマドラスきっての繁華な大通りである。
私はマドラス滞在中、このアンナ・サライの中心地区にあるコネマラ・ホテルという植民地風建築のホテルに泊まっていた。
コネマラ・ホテルに宿泊するとイヤでも目につくものがある。廊下の壁や階段の踊り場に掲げられた古い銅版画の拡大コピーだ。
『マドラス上陸』と題されたその絵は、初期イギリス植民者のマドラス上陸の困難さを描いたもの(J・B・イーストの原画はフォート・セント・ジョージ博物館にある)。ボンベイやカルカッタと違って天然の港に恵まれなかったマドラスでは、十九世紀の後半まで沖合に停泊した船から|艀《はしけ》で人間や物資を運ばねばならなかった。絵は、大波に|揉《も》まれ、ようやくマドラスの浜辺に辿り着いたイギリス人たちの姿を捉えている。乗って来た小舟が波にあおられ|驚愕《きようがく》の表情を見せる紳士淑女。花飾りの帽子を被った貴婦人は、波打ち際をインド人労働者三人がかりで運ばれている。ターバンを巻いた半裸の男たちが陸揚げしている荷物の中には子供用の大きな人形もある。手前の浜では、これも艀として使ったのだろう、現在もマリーナ・ビーチあたりで見かける|筏《いかだ》式の漁舟を、男たちが組み立てている。
背後に遠くユニオン・ジャックの翻るフォート・セント・ジョージが見え、砦の中にアジア最初の英国国教会のセント・メリー教会の尖塔もそびえている。
今やフォート・セント・ジョージのすぐ北にあるマドラス港はすっかり整備され、インドでもっとも近代化されたコンテナ基地として内外の大型コンテナ船が頻繁に出入りし、二十一世紀までにはボンベイを抜いてインド最大の港になることが確実視されているのだが、わずか百年前まではかくも情ない状態だったことが、銅版画の絵からよくわかる。
しかしもちろん、私がアンナ・サライのコネマラ・ホテルに泊まっていたのは、部屋への行き帰りに銅版画のコピーを眺めて感心するためではなかった。コネマラ・ホテルは私がマドラスで出会った二人の若い女性、アニーとアパルナの勤務先に一番近いホテルだったのだ。しかも、二人とも、コネマラ・ホテルにはかなりの縁がある。
アニー・ジョンは二十四歳、コネマラ・ホテルの斜め裏手にあるスペンサー百貨店の売り子だった。南インドでは普通に見かけるタイプの、非常に|痩《や》せた色の黒い女性である。ただし笑顔が際立ち、スペンサー百貨店の売り子のうち、いつどんな客と応対しても、すぐに笑顔を見せることができるのは彼女一人と言ってよかった。敬虔なカトリック教徒でもある。
コネマラは、百貨店を本部とするスペンサー株式会社が所有するホテルの一つだから、コネマラ・ホテルの従業員とアニーとは同じスペンサーの社員ということになる。
一方のアパルナ・スブルマニアンは二十五歳、アンナ・サライを挟んでスペンサー百貨店のはす向かい、インド政府観光局のツーリスト・オフィスに勤めていた。
アパルナもアニーと同じく黒褐色の肌をしていたが、アニーより肉付きがよく背も多少低い。しかし時折見せるアパルナの笑顔はアニーに劣らず魅力的で、かつ理知的だった。
ヒンドゥー教徒のアパルナは政府観光局の仕事を始める前に、マドラス大学を卒業してから数カ月、コネマラ・ホテルのロビーでゲスト係として働いた経験を持っている。
アニーもアパルナも独身だった。二人は、目抜き通りアンナ・サライの、マドラスの若い女性なら誰でも一度は働いてみたいと憧れる職場で働いていた。職業柄、二人とも毎日職場ではサリーを着ていた。しかし、アニーとアパルナでは持っているサリーの数が違っていた。アニーは全部合計しても十二枚、アパルナは、……数えたこともないほど多い。
雨季に入った十二月のマドラスで、私はこの二人の若い女性の許に通い続けた。
アンナ・サライとクラブハウス・ロードの交差した角にある三階建ての白くくすんだ建物、その一階に政府観光局事務所はある。
インフォメーション担当のアパルナは、観光用パネル写真を背にした半円型の大きな机に二、三人の同僚と一緒に坐っていたが、毎日違うサリーを着て、いつも背筋をピンと伸ばし、ごくかすかな笑みを浮かべていた。
「昨日の続きだけど、そうするとあなたの場合、ホテルの仕事は合わなかったの?」
事務所には入れ替わり立ち替わり観光客がやって来る。けれど大半は道順を尋ねたり地図やパンフレットを請求したりと二、三分ですむ用事なので、私は机の前の椅子に腰を降ろし、そこから動かなかった。
「もっといろんなことを知りたいし、いろんな人に会いたかったの。でも旅行業には興味あったから、そのあと旅行代理店に勤めて、そこは勤務時間が長すぎて辞めて……」
「それから千人に一人の難関を突破してこの仕事に就いたってわけ?」
「そう」
アパルナは机の上に乗せた両手を軽く組んだまま、真っすぐこちらを見詰め返した。
最初に会った時から感じていたことだが、アパルナの中には非常に古風な部分と驚くほど革新的な部分が混在していた。女性の有職率がわずか六・八パーセントのマドラスで、積極果敢に自分の仕事場を開拓しキャリアを積み上げてゆくこと自体、実に革新的と言える。通勤の足に月賦で買った五〇ccのバイクを使っていることも、運転手付き自家用車の送り迎えが当然の家庭環境なだけに、新しいタイプのインド女性を感じさせる。ところが、最大の趣味はインドの古典歌謡の鑑賞、卵さえ口にしたことのない徹底的な菜食主義者であり、「ヒンドゥー教の教えで自分に無理だと思えるものは何もない」と断言する伝統尊重派でもあるのだ。
「給料のこと、聞いてもいいかな?」
「別にかまわないわ。本来の月給は一九五〇ルピー、でも私は住宅手当て分四五〇ルピー差し引かれるから、約一五〇〇ルピー」
一五〇〇ルピー(約一万九千円)。インドの給与水準に照らすとかなりの高給である。
「そのお金どうするの、家に入れる?」
「まさか。それをするからいつまでたってもこの国の女性は自立できないのよ」
褐色の顔の中の大きな瞳がきらめく。
「せっかく働いて得たお金を、親であれ誰であれそっくり渡してしまったんじゃ、自分の人生を他人の手に委ねることになるわ」
「うん、じゃあどう使うの?」
「私の場合は洋服代で三分の一使ってしまったりするけど、残りは貴金属とか土地ね」
「土地?」
「そう、将来の自分のための投資よ。私名義の土地を三年前に買ったの。市の北の方で二・二三アール(約六七・五坪)が三万四〇〇〇ルピー(約四十二万七千円)。二万二〇〇〇ルピーは最初に渡したから、今は毎月二〇〇ルピー(約二千五百円)ずつ支払ってる。あと二年で全額払い終えるわ。そしたら、何年かたって値上がりした時に売るの」
「購入費は全部自分で稼いだお金?」
「もちろん。父は私の名前で毎月銀行に積み立ててくれてるけど、働き始めてから私、一度も手をつけてない。親と住んでるから住む所と食べる物は、親がかりですけどね」
「………」
アパルナは自立心旺盛な女性だった。
私が面積と金額の計算をもう一度やっていると、「もういい?」とにこやかに笑い、ハンドバッグから取り出した本に目を落とし始めた。南インドに関するドイツ語の解説書である。アパルナはドイツ語とフランス語も学んでいるのだ。フランス語は出勤前、ドイツ語は勤務後、それぞれ週三日ずつ各々の専門学校に通っている。これもやはり「将来、より良いキャリアを得るための投資」だった。
インド政府観光局の事務所を出ると、今にもひと雨きそうな曇り空に変わっていた。
南インドの東海岸にはホット、ホッター、ホッテストの三シーズンしかないとよく言われるが、十一月から一月にかけて南東季節風の吹くこの時期は雨季、一年中で一番しのぎやすい季節だ。ただ雨季と言ってもグズついた曇り空が多く、二十四時間激しく降り続けるわけではない。雨雲が切れるとすぐにホットとなり、ホッターへも容易に移行する。
私はそんな、どう変化するのかわからない灰色の曇り空を眺めながらアンナ・サライを横切り、スペンサー百貨店へと向かった。
ヴィクトリアン・ゴチック様式のスペンサー百貨店の外観はいつ見ても華麗だ。一八九六年に完成した二階建て赤煉瓦造りの古い建物なのだが、通りに面した正面が緩やかに弧を描いて落ち着きがあり、屋根の角々にはおとぎの国の城を思わせる幾つもの尖塔、一階アーケードと二階の窓はすべてクリーム色のアーチで、これが赤煉瓦の重量感とうまく調和している。しかし、一九四七年の独立まで、南インド一の規模を誇るこの百貨店にインド人の客は入れなかった。一八六三年に発足したJ・W・スペンサー商会以来、植民地在住外国人専用の小売店だった。社長がイギリス人からインド人に交替したのは独立後八年目の一九五五年、重役室から最後のイギリス人が消えたのが一九七四年である。
現在は完全にインド資本によるインド人経営の百貨店となったスペンサーだが、一般庶民が気軽に買物できる店かと言えば、そうではない。石鹸からバイクまでひと通り揃っているものの、品物は良質だが値段は割高、値引きはせず、バーゲン・セールの類いもない。高級小売店のイメージを継承しているのだ。従って中流以上のインド人に混じって外国人客が目につき、彼らはしばしば入口右手の民芸品売場で足を止めたりする。アニー・ジョンは、その民芸品売場で働いていた。
「これはガネーシャといいます。ヒンドゥー教では学問の神であり福の神、とても人気があります。いかがですか、お土産に?」
私が訪ねた時、アニーはアメリカ人の老夫婦に、ブロンズ製の象の頭をした人形の置物を勧めていた。私に気がつくと、ひときわ白い歯を見せたが、そのまま説明を続けた。
売場とその奥の細長い商品棚には、シヴァ、ガネーシャ、ラクシュミなどヒンドゥー教のさまざまな神々の彫像や仮面、ローズウッドの組木細工、ムガール朝の細密画の壁掛けなど、いかにもインドっぽい民芸品、土産物の数々がギッシリ陳列されている。
アニーは笑顔のまま下腹を押し出すようにして腕組みをし、客の言い分を聞いていた。薄手の黒っぽい地味なサリーを着て、薄い胸から肩に回したサリーの端を脇腹のところでたくし込んでいる。そこの同じ場所へ水色のボールペンを一本差していた。
三つ編みにしただけの長い髪、プラスチック製の腕輪、ペディキュアの剥げた素足、つっかけている底のすり減ったゴムのサンダル。身なりを見る限りお世辞にも優雅とは言い難いのだが、万事にゆったりとした動作と流暢な英語、それに惜しみなく見せる優しい笑顔が、アニーに不思議な気品を与えていた。
「あのこと、確認してくれた?」
客との応対を終えたアニーが私に声をかけた。あのこととは、副社長との確約のことだ。
私はスペンサー百貨店の売場で働いている三十人の従業員から自由に話を聞きたかったので、あらかじめ本部のR・ヴュヌゴパール副社長の承諾を得た。ひとわたりインタビューを終えアニーに的を絞ると、しかし、彼女は|躊躇《ちゆうちよ》した。そのことが原因で万が一にも職を失うと困る、自分の言った言葉で首にはしないと再度確認を取ってくれというのだ。
スペンサー百貨店で従業員の募集をすると少なくて二、三百人、多ければ何千人もの応募者がある。一九八〇年の九月、高校も出ていないアニーが職を得たのは異例のことだった。母親と同郷だったマネジャーに臨時のアルバイトを頼まれたのがキッカケである。アニーが月給四〇〇ルピー(約五千円)で本採用になったのがやっと八カ月前、それまでの五年半は月給三五〇ルピー(約四千四百円)の見習い生だったのだ。
「確認は取ったよ。副社長は、君が何を|喋《しやべ》ろうと首にはしないってさ」
私が言うと、アニーの顔がパッと輝いた。
「じゃいいわ。何でも聞いて」
素顔の二人
サリーは着ている女性の体の線がわかるようで、本当はよくわからないのではないかと思う。
黄色のトレーナーにジーンズという普段着に着換えたアパルナは、見事なプロポーションの持ち主だった。聞けば毎朝十分間ヨガをやり、週一回の水泳も欠かさず、甘い物を極力ひかえてダイエットも継続中だという。
「私くらいの年齢になったら、自分の体のことはいろいろ気をつけなくちゃ、ね」
“西欧風”美人に変身したアパルナは明るく言い、二階へと続く階段を昇った。
家は父親がインド南部鉄道の高級幹部なので官舎である。アンナ・サライをやや南に下ったティナムペット地区の十四戸のうちの一つ。二軒の使用人の家が敷地内にある白塗りの大きな二階家で、官舎というより豪邸だった。アパルナはここで五人の使用人にかしずかれ、父親と継母(実母は十三年前に死亡)と三人で暮らしていた。三人姉弟だが姉はすでに嫁ぎ、弟はデリーで中学に通っている。
この夜はたまたまハイダラバードで弁護士をやっている姉が子どもを連れて里帰りしていて、我々はしばらく階下で話をした。姉が「ハイダラバードは保守的な土地だけど、私の場合、夫の両親と同居してないからとても自由」と言うと、まだ婚約者のいない妹は「私は夫次第。状況によっては同居をしてもいいわ」と答えた。ただし二人とも、ダウリの慣習には絶対反対だという。
「私たち、仲のいい姉妹なのよ。姉さんは何にでも正面からぶつかっていく人だけど、私はもっと衝撃の少ない別の方法を取るだけの違いでね。えーと、ここが私の部屋」
アパルナは二階の一室の扉を開けた。
二十畳ほどの薄暗い広い部屋だった。部屋の中央にダブル・ベッドがデンと置いてあり、壁際に幾つもの洋服ダンスや本棚が並んでいる。部屋は広いが家具類は思ったより古いものが多かった。古くてオーソドックスな形である。
「下の居間の|絨毯《じゆうたん》や|衝立《ついたて》も見たでしょ、あれも私の趣味。西洋風のインテリアって嫌いなの。インド風っていうかエスニック風っていうか、そういうのが好みなのよ」
だから買物もスペンサー百貨店ではしないと言う。スペンサーで買うのはせいぜい化粧品と薬ぐらい、あとはインド物産店だ。
「伝統を大事にするのは確かに重荷ではあるけど、反面私たちの文化に誇りを持つことでもあると思うの。美術品や音楽の他にも、家族の絆の強さとか信仰心の篤さとか、ヒンドゥー文化にはいいものがいっぱいあるのよね。そういうものは守っていきたい。要は私、バランスの問題だと思うんだな」
アパルナはベランダに続く戸を開けた。いつの間にか夜の闇に雨が降り始めていた。
私はアパルナに、“伝統の”インド歌謡を一曲歌ってくれないかと頼んだ。教師について正式に習っていると聞いていたからだ。
アパルナは少しためらってから、微笑んだ。ベランダの椅子に腰掛け、雨の向こうの黒い木立ちに向かって、ハミングを始めた。
ゆるやかで優しい、しかし力強く伸びのあるハミングだった。やがていつしか、メロディーの抑揚に肉声が加わった。小柄で均整のとれた体から、驚くほど豊かな声が流れ出て広い屋敷の濡れた木々の間を漂う。北インドの寺院で歌われている神を称える宗教的な歌だという。ヒンディー語の歌詞は皆目わからなかったが、アパルナが全身全霊をこめ、一個の存在を賭けて歌っていることはわかった。私が彼女の歌の間何度か小刻みに体を震わせたのは、決して寒いからではなかった。
『バージャン』というその歌は、始まった時と同じく、いつとはなしに終わった。
「……私、雨って好き。雨が降ってるのを見てると、何だかとっても気持が落ち着くの」
アパルナがそう呟いたので、私はハッとして我に返り、|慌《あわ》てて拍手をした。
アパルナの家から勤め先の事務所までは、道路が空いているとバイクで五分もかからないが、スペンサー百貨店からアニーの自宅まではバスを二つ乗り継いで約一時間かかる。
マドラス郊外バラチェリー地区。ある朝早く、私はアニーが水色のボールペンで書いてくれた地図を頼りに出かけて行った。
「バス停を降りると大木の脇に泥道がある」はず、「しばらく行くと道がなくなり雑木林に行き当たるがその中は通れる」はず、「林の裏に土手がある」からそれをよじ登る、「百フィート道路と呼ばれる砂利道」これは突っ切って、「池のような水溜りの横に小さな家が三軒」、その一番端の平屋の家……。
「おいアニー、お客さんだぞ!」
コンクリート製の白いマッチ箱のような住宅の戸の陰から、髭面の大男が顔を出した。
「あら、本当に来たの?」
いつもの笑顔が小走りに駆け寄る。
アニーも洋装だった。白っぽいTシャツに色の|褪《あ》せた長いスカートをはき、洗ったばかりの豊かな黒髪をタオルで拭いていた。サリー姿の時と体格は変わらず、やはり痩せていたが、年齢よりもずっと子供っぽく見えた。
田の字型に四部屋に区切られた家は、全部合わせてもアパルナの私室ほどの広さだ。ここに母親とアニーと、最初に顔を出した髭の兄と、最近仕事が見つかってつい先刻家を出たという妹の計四人が住んでいた。父親は単身ハイダラバードへ出稼ぎに行って留守、家に帰って来るのは一カ月に一度くらいらしい。
アニーが「私と妹の部屋」を見せてくれた。奥の四畳ほどの部屋だ。掛け渡した紐に服が吊してあって、雑貨を入れた箱が数個あって、ミシンが一台、あとは何もない。
「どこで寝るの?」
ベッドが見当たらないので私は尋ねた。
「表の居間。四人で毛布の上に|雑魚寝《ざこね》よ。だってあの部屋しか扇風機がないんだもん」
アニーは困った時によく見せる、鼻をしかめる表情をして見せた。天井に据えた扇風機は涼風を送るばかりでなく蚊除けになる。家の周囲は蚊の発生する溜池が多いので、安心して眠れるのは居間の扇風機の下しかないというのだ。
「でも、家族の絆は強まるんじゃない?」
「まァね」
アニーは化粧っ気のない顔で笑った。
「こっちで、朝飯でも食べませんか?」
居間の方で髭面の兄が叫んだ。アニーと五歳違うこの|逞《たくま》しい兄は、近くの機械工場の工員だった。アニーが着換えをする間、私は寡黙な母親が作ってくれたマサラ・ドーサ(野菜入りお好み焼き)を食べながら、居間で待つことにした。兄は煙草を吸っている。
「結婚は、まだですか?」
食べ終えて私が聞くと、兄は苦笑した。
「妹たちを先に片付けなくちゃ」
「アニーはスペンサーに勤めてるんだから、引く手あまたじゃないんですか?」
「いやァ、まだ子供だし、スペンサーも名前だけで給料はそんなによくないし……」
兄は言って、坐っていた鉄パイプ製の椅子を太い腕でポンポンと叩いた。
「例えばこんな物でも、近所で買えば一〇〇ルピー、スペンサーなら同じ物がその何倍もするんです。つまりスペンサーは、金持ち連中専用のお上品な店なわけで……」
サリーに着換えたアニーがやって来た。
「ちょっと、そんな言い方しないでよ。私はあそこで一生懸命働いてるんだから」
兄は肩をすくめ、立ち上がった。
我々も家を出ることにした。母親に見送られて外に出ると、家の前の空地は雨水が溜まって水浸しだった。アニーは紫色のサリーの|裾《すそ》を持ち上げて渡らねばならなかった。
「私、雨って大嫌い」
水溜りを渡りながら、アニーは言った。
「折り畳みの女性用の傘があればいいんだけど、ウチのは二本とも男物。雨の日にあんな大きな黒い傘、ねェ、恰好悪いでしょ?」
口紅をつけてない唇からこぼれた真っ白い歯に、水溜りの光が|眩《まぶ》しく反射する。
娘たちの夢
「アプレ・ル・メドゥサン・トゥ・ドゥ・スュイットゥ」
“すぐ医者を呼んで下さい”、インド人教師が言うと、生徒たちもいっせいに反復する。片手をポケットに突っ込みゆっくりと教室内を歩き回る若い教師は、フランス留学の経験があるせいか、物腰から顔の微妙な表情までフランス人そっくりだった。
毎週水曜日はアパルナのフランス語授業の日である。朝七時十五分から八時四十五分までの一時間半、市内カレッジ・ロードのアリアンス・フランセーズで上級フランス語を習う。生徒はちょうど十六人で男女半々だったが、白髪の女性が一人いるのを除けば残り全員がアパルナと同じかもっと年下だった。
アパルナは非常に優秀だった。他の生徒が答えられない質問にも即座に、それも何度も手を上げて答えた。教師が挟むちょっとした冗談に真っ先に反応を示すのも彼女だった。
しかし授業が終わると、すぐに教室を出て停めてあった五〇ccバイクに|跨《またが》った。他の生徒たちのように居残って話をしたり、廊下に掲げてあるディスコ・パーティーやジャズ・コンサートのパンフレットに見入ったり、菩提樹やココナッツの木に囲まれた三階建ての洋館の庭を散歩したりは、しなかった。
十五分後、アパルナはインド政府観光局のカウンターの席についていた。午前九時から午後五時までが勤務時間である。
「どんな組織でもいい、私、一つの組織のトップになりたいの。フランス語やドイツ語はそのための手段。漠然とした西洋の雰囲気に憧れる時期はもう卒業したのよ」
見事な英語で言って、艶然と微笑む。
開いたばかりの事務所に観光客の姿はまだまばらだった。私はアパルナの正面に坐り、どうにも気になっていたことを尋ねた。
「あなたのそういう積極性を理解できるインド人男性、いつか現われると思う?」
「いるのよ、もう」
「え? でも、恋人はいないって……」
アパルナはゆっくりと首を振った。
カルカッタの大金持ちの息子だという。現在アメリカのニューヨーク州に留学していて、毎週一度国際電話をかけてくるという。同じヒンドゥー教徒、カーストも同じブラーマン、むろんお互いに愛し合っているのだが、なぜか長い間プロポーズをしてくれない。
「してくれれば、私の方はいつでもOKなんだけどね。でもおかしいのよ彼、私が彼のこと四六時中考えていてくれないって、よく怒るの。子供みたい。私は私で社会人としての生活があるのにね」
彼との結婚がどうなるのかわからないが、自分の方からのプロポーズの催促、それだけは死んでもしないとアパルナは言った。
「何か他にご質問は?」
私が「ない」と言うとニッコリ|頷《うなず》き、ハンドバッグからドイツ語の本を取り出した。
バスは進行方向左側が女性専用席だった。
公共の乗物内で女性の権利を確保するため、ということだが、要するに痴漢防止策だ。男が坐ってもいいが、女性客に声をかけられれば席を立たねばならない。マドラスではボンベイ以上にこの習慣がキチンと守られていた。考えてみればかなり民主的なルールである。
車内が混んで来たので私も腰を上げかけると、
「あなたはいいわよ、外国人だし」
アニーは言った。ガラスの入ってない窓の方を向いた彼女は、しかし、浮かぬ表情だ。
停留所でバスを待っていた時からアニーは、時々フッと視線を外して虚ろな横顔を見せた。家でも職場でも一度も見せたことのない、何かを思い詰めている顔付きだった。
「ボーイフレンドでもいるの?」
「………」
振り向いた目が「違う」と言っている。
「何か他に悩んでるの?」
「でも、話してもしょうがないから……」
それはそうだった。私は、自分は話を聞いてあげることしかできないけど、と言った。
アニーはポツリポツリと話し始めた。このところ一日中考えているのは借金のことなのだと。アニーの一家は先月、北の海際の町から現在の場所へ引っ越して来たのだが、その時親戚・知人から五〇〇〇ルピー(約六万三千円)の借金をした。その返済が月三〇〇ルピーで家賃が三五〇ルピー、計六五〇ルピー(約八千二百円)。最低これだけは今月から払わなければならないのに、一家の経済状態を考えると相当に難しいのだという。
「今の家、海岸の家よりずっときれいで環境もいいし、気に入ってるんだけど……」
我々はそれぞれ一・四ルピー(約十八円)の料金を払ってバスを降りた。バス停からスペンサー百貨店までは少し距離がある。暑さを増した日差しの中を、二人で歩いた。
「アニー、君の夢って何?」
歩きながら私は尋ねた。
「夢? フフフ、馬鹿げてると思うかもしれないけど、本当は私、歌手になりたいの」
「歌手?」
アニーが欧米のポップスやロックを聞くのが好きなことは知っていたが、歌う側に憧れていたとは、うかつにも考えもしなかった。
「一度聞かせてよ」
「ハハハ、ダメよ。恥ずかしい。それに、全然実現性ないんだもの。ただの夢よ……」
笑いながら足早にスペンサーに駆け込む。
私は入口で立ち止まった。通りの向こうに政府観光局の事務所がある。同じマドラス生まれの、同じ年頃の歌好きの若い女性二人が、アンナ・サライを挟んで働いていた。
通りの幅が、途方もなく広く思えた――。
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西からの
風――─
アンボン
オランダの影
インドネシアでは|丁子《ちようじ》(クローブ)のことをチンケと呼んでいる。
その木は高さ二十メートルを越す高木で、細長い卵形をした葉は緑の色が柔らかく、一見したところ日本のクスノキと似ている。
「そうか、これがそもそもの発端となった木か……」私は思わず日本語で呟いていた。
インドネシアの首都ジャカルタから東へ約三千キロ、熱帯の海に浮かぶ丁子の原産地モルッカ諸島のアンボン島で初めて丁子の木を見た瞬間は、やはり感激だった。
「この木は樹齢約五十年。そうだな、これ一本で十五キロぐらいチンケが採れるかな。一キロ当たり五〇〇〇から七〇〇〇ルピア(約五百〜七百円)でジャワ人が買ってくよ。あんたも知ってるだろ、チンケ入りの煙草クレテックを。あの原料にするんだ」
案内してくれた持ち主のサムエル・マヌプティは、言って、突き出た太鼓腹を手で撫でた。今年六十五歳になる退役軍人。丁子の木八百本の他に|肉豆《にくずく》(ナツメグ)やドリアンの木も持っており、別に中古のタクシーやミニバスも所有しているので十一人の子供がいるけど生活は困らない、と笑った。
佐渡島よりやや小さいアンボン島の、西部にあるシラという村の山の中だった。赤道直下(南緯三度四十分)のジャングルだが、まばらに生えている丁子の木の周辺は灌木が刈り込まれていて風通しがよく、自然に成育しているように見えても一本一本が栽培・管理されていることがわかる。アンボン島では今なお丁字の木は大切に取り扱われ、丁子泥棒は今日でも殺されても文句を言えないのだという……。
丁子は約五百年前のヨーロッパ人にとって胡椒と同じくらい、いやそれ以上に貴重な香辛料だった。どちらも肉料理に欠かせない芳香と刺激的な味を持っているが、丁子は防腐力の点で胡椒よりも数段優れ、胡椒がインドのマラバール海岸以東さまざまな土地で収穫できるのに比べ、地球の裏側のモルッカ諸島にしか産出しないという稀少性があった。モルッカ諸島が長い間“香料諸島”の名で呼ばれてきた|所以《ゆえん》である。
スラウェシ(セレベス)島とニューギニア島に挟まれた広大なコバルト・ブルーの海洋に散らばる大小千あまりの島々からなるモルッカ諸島は現在のインドネシアではマルク諸島と言い、マルク州を形成し、州都はアンボン島のアンボン市。その昔大航海時代のポルトガル人やスペイン人が殺到したのは、このうちの北部マルクのテルナテ島以下五つの小島だが、その後の歴史を通じて決定的に重要な役割を果たすのは、丁子の集荷地であり積み出し港だった中央マルクのアンボンである。オランダは一六〇五年、アンボン(当時はアンボイナ)島を東インドにおける最初の領土として獲得し、それはジャワ島の本拠地ジャカルタ(バタヴィア)の確保より十四年も前のことだった。
「でも、せっかく来たのに収穫期じゃなくて残念だね。早い木は、もう|蕾《つぼみ》がつき始めてるのもあるんだけど……」
マヌプティは言って、林の奥を指差した。
茶褐色の、文字通りT字型をした丁子は、木の実と思われがちだが実は|花蕾《からい》。開花する前の青い蕾を摘み取り、熱帯の太陽の下で何日も褐色に変わるまで乾燥させて仕上げる。収穫は六月から始まり断続的に十二月頃まで続くが、最盛期は七月から八月だという。最盛期を見たければ二カ月は待たねばならない。
「ただし、パラは今がシーズンだけどね」
私の落胆した様子を見てか、生活に不安のない小太りの退役軍人は教えてくれた。
パラというのが肉豆のことだった。これもモルッカ諸島の原産でかつてはアンボン島の少し南のバンダ諸島がその宝庫だった。しかし今日では、アンボンの山中にもいたるところ植えられている。
早速木になっている肉豆を見に行くことにした。強烈な陽光が|洩《も》れてくるジャングルの細い道を行く我々のあとを、マヌプティの息子や孫、それに近所の子供たちが物珍しそうな顔つきで付いてくる。
途中、マヌプティは興味深い話をした。二十六歳になる息子の一人がオランダ女性と結婚して、現在ロッテルダムにいるというのだ。
「五年前にね、彼女はオランダの観光団の一人としてやって来たんだ。息子が島を案内したんだが、若い男と若い女だろ、アッという間になるようになっちまった」
マヌプティは紅茶色の顔を苦笑させた。
「そういうこと、よくあるんですか?」
「珍しくはないよ」
「相手がオランダ人ということで抵抗は?」
「お互いに好き合ってるんだから仕方ないさ。私は結婚には反対だったんだけどね、本人が“どうしても”って言うから……」
二人は生まれた子供を連れてつい最近里帰りをし、一カ月ほど滞在して、わずか四日前にアンボンを発ったばかりだという。
アンボン島はインドネシア現代史において特殊な役回りを演じた土地だった。もっとも長くオランダに支配された土地だけに、オランダとの関係も密接で、それは例えば、植民地経営のための兵士をアンボンが伝統的かつ独占的に供給するといったような、歪んだ形で現われていた。その他のインドネシア人にとっては、いわば裏切りの地である。このためインドネシア独立期にはアンボン島民の間に分裂が起こり、親オランダ派は共和国成立直後の一九五〇年四月、独自に南マルク共和国の樹立を叫んで反政府運動を展開した。運動は半年後武力によって鎮圧されたが、数千の島民がこの時オランダへ亡命した。
現在でもアンボン島は、オランダ語がもっともよく話されている土地の一つであるし、国民の九割がイスラム教徒の国で例外的にキリスト教徒が多く(二十万の人口のうち約半数)、飲酒の習慣もごく一般的という特異性を保っている。そして何よりも、政治向きの話はいっさいタブーという土地柄だった。
「私もこの間オランダへ行ったけれどね」
歩きながらマヌプティが言った。
「どうでした、気に入りました?」
「いやァ、好きじゃないよ、ああいうとこは。人間がどうのよりも、自然が乏しいもの。やっぱり住むのならアンボンが一番だよ」
我々は一本のさほど大きくない木の前で立ち止まった。日本のモチノキを想わせる木である。スモモのような実がたわわになっていて、マヌプティが一個もぎ取って割ると、ハッとするほど毒々しい赤い色が見えた。
蛇の舌のように裂けたその赤いものが仮種皮の豆花(メース)、肉豆はそのメースに包まれたクヌギに似た種子で、どちらも香辛料なのだ。
「食べてみるかい?」
マヌプティが蛇の舌そっくりの豆花を差し出した。口に含むと不思議な香気が口いっぱいに広がり、繊細で爽やかな渋味、見かけよりよほど上品な甘味が歯と舌に染み入った。
英雄とドリアン
遅い夕食を終えて外に出ると満月だった。
アンボンの町の一番の繁華街は市場周辺だが、夕刻あれほど賑わっていた大小の商店はあらかた店を閉じ、人通りもめっきり減っていた。通過したスコールのおかげで|埃《ほこり》の立たなくなった街路を、掃除夫たちが小枝を束ねた|箒《ほうき》で掃き清めている。
何軒かの店にはそれでも電灯がともっていて、その中の一軒にゲームセンターがあった。|覗《のぞ》いてみると子供ばかりだった。日本のそれと違って何の飾りもない殺風景な部屋に、これまた装飾のない初期のテレビ・ゲーム機が十数台並んでいて、薄汚れたシャツを着た裸足の子供たちがかじりついている。
町をひとわたり回ってみたところでは、アンボンに進出している最新外来文明は、このゲームセンターとスーパーマーケットが双璧らしかった。どちらもかなりの人気を呼んでいる。ただし、レジにガードマンが立っているスーパーの方は開店一カ月目とかで老若男女がひしめいているのに対し、ゲームセンターの方はすでに下り坂の様子だった。かつて大人たちが熱中していたことはゲーム機のそこここに残る幾つもの煙草の焦げ跡でわかるが、現在は、煙草の火で菊の花のように変形したボタンを夢中で操作しているのは子供だけだった。一回一〇〇ルピア(約十円)。常夏の島にやや不釣合いな電子音の洪水の中を、どの台がいいかと硬貨を握りしめた子供たちが右往左往する。疲れ果てたのか、コンクリートの床の上に寝込んでしまった少年もいる。
私は、ひょっとしてゲーム機が日本製かと思い、会社名を探してみたが、わからなかった。しかし考えてみれば、日本以外にこんな機械をアジアの片隅にまで輸出する国が他にあるとは思えない。
ゲームセンターを出たあと露店の果物屋で中位のドリアンを一個(一〇〇〇ルピア)買ってホテルへ向かった。
途中、パラワン広場にさしかかると、ビートルズの曲が聞こえてきた。野外ステージの前にたくさんの人びとが集まっていて、音楽や歓声はそこから響いてくる。
ステージ前の群衆は夕方レストランへ行く時にも見かけたが、その時はバンド演奏も歌声も聞こえなかった。入口には軍服姿の兵士が|屯《たむろ》していたので、地域の政治的集会か何かだと思い、通り過ぎたのだ。けれど『レット・イット・ビー』が流れてくるとなると、立ち寄らないわけにはいかない。乗ったばかりの三輪自転車(ベチャ)を降り、広場の人混みの方へと歩いて行った。
一種の、のど自慢のようだった。壇上の司会者が一人また一人と登場人物を紹介し、紹介された人物が一、二曲伴奏に合わせて歌うのだが、決して全員がうまいわけではない。集まった観客の拍手にも笑いや野次が混じり、どことなく町内の演芸会的雰囲気がある。
しばらく西欧の歌が続いたあと、一人の女と二人の男がステージに現われた。三人とも民族衣裳を着ていて、手に本のようなものを持っている。“コルコル”という名のグループだと司会者が紹介し、三人交互の朗読が始まった。よく言えば格調高い、別の言葉で言えばいやに|勿体《もつたい》ぶった調子の掛け合いだった。ただその内容となると周囲に英語のわかる人がいないので、よく理解できない。
が、聞いているうちに、「パティムラ」という言葉が頻繁に出てくるのに気づいた。そう言えば、明日、五月十五日はパティムラが蜂起した日なのだ。壇上で威儀を正した三人の男女の朗読は、郷土の英雄パティムラの業績を誉め称えるものではないかと思った。
パティムラ(本名トーマス・マトゥレシー)は、アンボンから一つ置いた隣の島サパルア島の住人である。徒党を組んでオランダの植民地統治者を悩ますことしばしばだったが、一八一七年五月十五日、ついにサパルア島のドゥールステーデ要塞を襲撃し、オランダ兵多数を殺害してこれを攻略した。しかし、部落の首長に裏切られてオランダ軍に捕えられ、アンボンに移送されて、同年十二月六日仲間ともども絞首刑に処された。
パティムラはすべてのインドネシア人が義務教育で学ぶ国民的英雄の一人であり、その処刑現場がパラワン広場の一隅、剣を振りかざしたパティムラ像が立っている場所なのだ。
ステージでは三人の男女が思いきり感情をこめ、「パティムラ」「サパルア」「アンボン」「ブレンダ(オランダ)」などの言葉を連発していた。にもかかわらずと言うべきか、それだからこそ、なのか、数百人の観客は急速に鼻白み始めた。特に若者たちである。
三々五々その場にしゃがみ込み、ステージに向かって野次を投げつける。あるいは友人どうし恋人どうし、一声叫んでは仲間の背中に隠れる。おそらく、「もういいぞ!」とか「早く歌にしろ!」とか言っているのだろう。私のような外国人と視線が合うと、多少うしろめたそうな笑いを浮かべて下を向く。
見上げると、南の空高く南十字星がまたたいていた。満月なので、明るすぎるほど明るい月光がチグハグなステージと広場の両方を照らし出していたが、壇上の一方的荘重さはなかなか終わりそうもない。
私の手に下げたドリアンから発する|熟《う》れた香りが、息苦しいほど濃厚な匂いに変わり、足許からじんわりと立ち昇ってきた。
漁師のサンタ・マリア
「オクサンが言うんだよ、“あんただけしょっちゅう出かけてて、私一人家で子供たちの世話をみるなんてもうたくさん。これからは私が働きに出るから、あんたが子供の面倒みてよ”って。オクサン怒ると恐いのよね。ワタシ漁なくて船降りてた時だったし、もう仕方ないね、カワイソ、サンタ・マリアよ。そうそう、だからオクサン店で働いて、ワタシ、オウチの食事作ったりしてるのよ」
自転車に乗ってミニバスの停留所まで迎えに来ていたJ・J(ジョハニス・ジョリス)は、自分の家へ向かう間中、英語と片言の日本語を混ぜたチャンポン言葉でひっきりなしに喋り続けた。相当な話し好きである。
J・Jは小型カツオ船の漁船員だった。船長と機関長が日本人なので簡単な日本語なら操れる。不漁のためこの一カ月間船を降りて家で“主夫”をやっているJ・Jとは魚市場の中で知り合った。何度か一緒にビールを飲み歩くうちに親しくなり、暇だから一度遊びに来ないかということになったのだ。
「エビ船の方がいいビジネスね。エビ船なら一トン獲ればワタシのサイフ、五〇〇〇ルピア(約五百円)入るよ。二カ月で二十五トン獲れれば一二万五〇〇〇ルピア(約一万二千五百円)。ワタシ、シアワセね。カツオ船なんか一カ月働いても四万ルピア(約四千円)だもの。だけどね、エビはもう全然獲れなくなったよ。カツオもお先真っ暗。ねェトモダチ、ワタシこれからどうやってシアワセになれる?」
深刻な経済事情を、まったく深刻さとはほど遠い明るい顔付きで話す。
三十四歳のJ・Jはモルッカ諸島に多いパプア系アンボン人だった。肌の色が非常に黒く、縮れ髪で、頬骨が高く突き出ており、鼻が大きい。ただJ・Jの場合、表情の豊かさも手伝ってか、かなりのハンサムだった。加えて大変な洒落男である。いつもシャツのボタンを上から三つぐらい外していて、胸の金のネックレスが見えるようにしている。半袖の袖口は形よく折り返してあるし、ズボンは細い腰に吸いつくようなマンボ型のものしかはかない。そして、そんなピタリ決まったファッションで市場に夕食の買物に来て、一杯やったあと娘たちをからかうのが日課なのだ。
アンボン島の家々は、ジャワ島と違って、ほとんどの家がトタン葺きの屋根である。それだけ平均所得が低く裕福とは言えないのだが、一戸建て鉄筋コンクリート製のしっかりした作りのせいか、あるいは広い庭と咲き誇る鮮やかな熱帯の花々のせいか、外見上は随分余裕があるように見える。
アンボン市郊外ガララにあるJ・Jの家もそんな庭付き鉄筋の一戸建てだった。バナナの木の脇の玄関口に四畳ほどの洋風応接間があって、正面に時計を組み込んだ大きなマリリン・モンローの写真パネルが飾ってあった。
「あ、それダメよ、壊れてるの。テレビも壊れてる。モチロン、白黒よ、カラーなんか買えないよ。カセット・ラジオ? あ、それもこの前壊れたね、置いてあるだけ」
応接間にある金目のものはすべて壊れていて、ただの室内インテリアらしい。
家の中をひと通り見せてもらった。応接間の隣に同じくらいの小部屋が二つあった。それぞれ夫婦と三人の子供たちの寝室になっている。が、部屋らしい部屋はその三つだけで、奥の六畳ほどの台所は土間、その横の小部屋も剥き出しの土が波打っている。壁もまだ仕上げがしてない。つまり家屋は半分しか出来上がっておらず、その半分に家族五人が暮らしているのだ。
「オカネ入ったらね、少しずつ作るのよ」
「水道はないの?」
「むこうに共同井戸ある」
「風呂は?」
「あそこのカワね。カワの水、雨降ったから増えるはずよ。そしたら水浴びできる」
J・Jは、家の裏手を流れる黄色く濁った小川の方を指差した。胸のポケットからクレテック煙草のベントールを取り出し、口の端に挟む。「煙草銭がない」と言うので、私がバス停近くで買ってやった煙草だ。
「オクサン毎朝八時半頃オウチ出るね、九時から午後三時まで洋服屋で働くのよ。三時になったらオウチ帰って、ワタシの作った昼御飯食べて昼寝ね。五時半、ワタシ、オクサン起こす。それからまた六時から夜十時まで働くのよ。タイヘンよ、忙しい忙しい」
J・Jの妻メリーには一度だけ会ったことがあった。市場通りの割合大きな洋服店の子供服売場で働いていて、小柄だがいかにもしっかり者といった感じの女性だった。
「で、彼女は月にどのくらい稼ぐの?」
「一〇万ルピア(約一万円)」
「頑張るね」
「頑張るよ。ベッドでも頑張る、ハハハ」
「ヘェー、子供もう一人欲しいの?」
「おーッ、子供はダメよ。それ、すっごく気をつけてるね。もう一人子供生まれたらワタシ、完全にサンタ・マリアよ」
首に両手をやり、白目を剥いてみせる。
この間にもJ・Jは、ひっきりなしにクレテック煙草を口に運んでいた。煙を吸い込むたびにパチパチと小さな火花が散り、刺激的な甘さを含んだむせるような匂いがあたりにたちこめる。タバコの葉に混じっている丁子の細かなかけらが焼ける臭いだ。
私はクレテックの匂いが嫌いではないが、自分で吸うのは、喉に強すぎるので避けていた。しかし現在のインドネシアで煙草と言えば、それはクレテックのことだった。すべての煙草のうち約九割がクレテック。アンボンに限らずジャカルタでもバンドンでもスラバヤでも、職業、年齢に関係なく実によく吸われている。
インドネシア独特の煙草クレテックは十七世紀後半にはすでに考案されていたが、商品化は十九世紀末、全土に大量に出回るようになったのはここ数十年のことだ。ことに手巻きから機械巻きに変わった一九七〇年代以降の伸びは目ざましく、八〇年からは毎年平均十パーセントの生産増、この間のインドネシア産業の全般的停滞を考えると驚異的とも呼べる成長を示している。当然、原料の丁子は足りなくなる。一九八五年の国内丁子生産量は約四万七千六百トン(うちマルク州が一割強の五千四百トン)だが、これでは足りず、約一万千七百トンを海外からの輸入に頼っている。
つまり、現代インドネシアは丁子の輸出国ではなく輸入国ということになる。大航海時代のモルッカ諸島では、島民の間に丁子を香辛料として使う習慣がなく、「貴金属に等しい」と言われた丁子は島民の生活を何ら潤すことなく海外に流出して行ったが、今日では少なくともクレテック煙草という形で、多少もったいない気もするが、国民の日常生活に役立っているのだ。最近ではアメリカやシンガポール向けにクレテック煙草の輸出も開始され、幾分かの外資獲得にも貢献している。
「ところで、今日は例のパティムラが蜂起した日だよね?」
私はJ・Jに話しかけた。
「ああ、そう言えばそうね」
「郷土の英雄に関心はある?」
「ないない。全然ないよ」
言ってJ・Jは、次の煙草に火をつけると、応接間の粗末な椅子に腰をおろした。
「ワタシ関心あるのは、長男の十一歳のベリーね。あの子が中学を卒業して、普通のオフィス勤めてくれることだけよ。ワタシ漁師、ワタシのお父さんも漁師、だけどもう漁師ダメよ。息子、漁師なって欲しくないね、オフィスで安定した仕事して欲しいのよ」
クレテックの紫煙に包まれた、|気障《きざ》で酒飲みの黒いクリスチャン漁師の表情が、この時ばかりはいやに神妙なものになった。
廃墟にて
ヨーロッパ人がアジア各地に残した要塞や庁舎などの建造物は、ボンベイでもマドラスでもジャカルタでも、ほとんどが修理されて博物館や観光施設などに生まれ変わっている。または、アンボンの町中にあるヴィクトリア砦がインドネシア国軍アンボン師団の兵舎となっているように、現役の建物としてそのまま使用されている。
ところが目の前のアムステルダム砦は完璧な廃墟だった。屋根は抜け落ち、壁は崩れ、瓦礫の中から生えたバニヤンの大木が煉瓦を|掴《つか》みながら空高く伸びていて、さして大きくもない石造りの建物のそこここに緑深い樹木が密生している。映画のセットじみたそんな廃墟が民家の中庭の裏、海に面した岩場の一角にひっそりと建っていた。
アンボン島にはおよそ四十の要塞跡があると言われるが、朽ち果ててしまったものが多く、アムステルダム砦は比較的よく原形を保っている方だった。アンボン市街から北へ約四十二キロ、山並を越えた海岸部の、ヒラという村の中である。
アムステルダム砦は、もともとはポルトガル人によって一五六九年に建造された砦だった。それが一七七二年オランダに奪われ、名前もアムステルダムと改められた。そこまではわかったのだが、どういう歴史を経たのか、どんな経緯でいつ放棄されたのか、集まってきた近所の人びとに尋ねてもさっぱりわからない。英語を解さないという以上に、肝腎の知識がないし関心もなさそうなのだ。
ヒラにある植民地関連の遺物には他にプロテスタント教会とオランダ人墓地がある。が、島で一番古いと言われる教会の方は今なお村人たちに使われているのに対し、墓地は砦同様、いやそれよりももっと荒廃していた。多くの墓石が、壊れ、傾き、散逸し、雑草に覆われ|苔《こけ》蒸している。新しく作られた村人たちの墓に墓地自体が侵食されているのである。
私は放し飼いの鶏どもが駆け回っている砦の跡を前にして考えた。ヨーロッパ人たちが残した遺跡はこうして少しずつ熱帯の土に返って行くのが自然なのか、それともやはり、きちんと保存して歴史的事実として後世に伝えるべきか、島民にとってはどちらが賢明な選択なのだろうか、と。
アンボン島でもっとも有名な歴史的建造物と言えば市街地のヴィクトリア砦だが、少なくともこの砦に関しては、立看板やパンフレットぐらいあってもいいと思った。全植民地史的に見て、非常に重要な場所だからだ。
ヴィクトリア砦は世に言うアンボン虐殺事件の舞台である。一六二三年二月末、ヴィクトリア砦のオランダ兵が近くのイギリス商館の日本人傭兵(当時日本人はアジア各地で雇われ兵となっていた)を捕えた。砦付近で不審な行動をとったからだ。拷問の結果、イギリス軍が砦攻撃を計画中という陰謀が発覚した。激怒したオランダ総督は、イギリス商館長以下十名のイギリス人と日本人傭兵九名、ポルトガル人一名を逮捕し、徹底的な拷問の末、三月九日全員を公開処刑した。
これはオランダ側によるでっちあげ事件と言われ、後年オランダは莫大な賠償金をイギリスに支払うことになるのだが、いずれにしても当時東インドの各地で頻発していた蘭・英の覇権争いはこの事件で終止符を打つことになる。以後イギリスは、香辛料の宝庫東インド諸島への進出を諦め、インド亜大陸の開発と経営に本格的に乗り出すのである。
ヴィクトリア砦は、いわばその後のインドネシアやインドの運命に深く関わった貴重な歴史的建物と言える。にもかかわらず、一般の人びとは内部の見学どころか、軍事施設ということで、門に近づくことすらできない。遺跡として取り扱われていないので、何の表示や説明文もないのだ。
アンボン島に残る数々の歴史的遺物は、果たしてこういう状態でいいのだろうか?
アムステルダム砦に関する情報がそれ以上何も得られぬまま、私は砦の周辺をあちらこちら歩き回り、カヌーを借りて海上から眺め、それから、仕方なく丁子を買って町へ帰ることにした。と言うのも、山を越した北部のヒラはアンボン市内や近郊と気候が若干違うのか、すでに丁子の収穫が始まっており、どの家でも庭や軒先にゴザを広げ、その上に丁子や肉豆を干していたからだ。聞けば、丁子一キロの現在の相場は六〇〇〇ルピア(約六百円)だという。丁子以外に、この島で買いたい物など考えられなかった。
カヌーを降りて、再びアムステルダム砦までやってくると、珊瑚礁を切って積み上げた廃墟の中から何やら物音が響いてきた。覗いてみると、先程まで我々を取り囲んでいた村人たちが瓦礫に生えたバニヤンの大木の根を|鉈《なた》で断ち切り、薪の束を作っている。煮炊きに使うとかで、どうやら定期的に行なっているようだが、明らかにそれは城壁がこれ以上樹木によって崩壊するのを防いでいる行為でもあった。
私は虚を|衝《つ》かれたような気がした。ヨーロッパ人の置き土産とのこういう付き合い方もあったのかと思ったのである。土に返すでもなく、と言ってことさら文化遺産にするでもない。廃墟を廃墟のまま存続させ、かつ日々の暮らしにも役立てる……。
西洋文明の廃墟から薪を収穫している人びとの姿をぼんやり眺めていると、通りの方から風に乗ってアンボンの匂い、ほのかに爽快な丁子の匂いが流れ漂ってきた――。
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会見記――─
ジャカルタ
ノーベル賞候補
一九八七年現在、東南アジアからノーベル賞作家はまだ出ていないが、「受賞するならこの人」と噂されている人物はいる。インドネシアの小説家プラムディア・アナンタ・トゥール、六十二歳。惜しくも一九八六年のノーベル文学賞は逸したものの、十三人の候補作家のうちの一人だった。
小柄で、痩せて、片方の耳が遠い世界的文学者は、首都ジャカルタの中東部、ムルティ・カリャ通りの住宅街にある小ぢんまりとした二階家に、家族六人と住んでいた。
いや、より正確に言えば、軟禁されていた。
「外出、移動の自由はないですね。毎月一回、ジャカルタ東部軍管区に出頭して近況報告をしなければいけないし、どこかの町へ出かけるにもそのための許可証が必要。実際はどこへも行けません。でもなぜそうなのか、その理由を記した書状は、頼んでも一度も見せてもらったことないんですけどね」
ペチと呼ばれる伝統的な縁なし帽を被ったプラムディアは、玄関脇のさして広くもないベランダでくつろぎながら、笑った。
帽子からはみ出した薄い頭髪、額や頬に刻まれた深い|皺《しわ》、穏やかな褐色の笑顔。一見したところごく普通の退職官吏のような印象を与える。だが、慎重な言葉遣いと、時折放つナイフのように鋭い視線が、くぐり抜けてきた長い時間の質を感じさせる。
「表現の自由も大幅に制限されています。六年前に一度、インドネシア大学で講演したことがあるんですが、私を招いた四人の大学生は退学処分、仲介の労をとった人物は警察に四カ月間拘留されました。つまり、“お前は言論活動をするな”というわけですね。もちろん、書くことはできますが、御存知のように私の本は片っ端から発禁になってますし……」
静かな口調で言って、胸のポケットからゆっくりと煙草の巻き紙を取り出し、この日何本目かの手巻き煙草を作った。大作『人間の大地』の著者は、酒はたしなまないが、煙草はかなりのヘビー・スモーカーなのだ。
現在、プラムディア・アナンタ・トゥールが幽閉状態にあるのは、命令書の有無はともかく、二十年以上前にインドネシア全土を震撼させたあの九・三〇事件のせいだった。事件に連座した元政治犯のうち今なお社会的に強い影響力を持つ人物の一人として、当局の厳しい監視下に置かれているのだ。
一九六五年九月三十日に起きたクーデター未遂事件(九・三〇事件)の真相は、今日でもまだ謎のままとされているが、事件の概要は次のようなものだった。
PKI(インドネシア共産党)に率いられた革命評議会の軍隊が九月三十日の深夜に行動を起こし、翌日の未明にかけて軍上層部の七人の将軍宅を襲撃、うち六人を殺害した。放送局や郵便局も占拠し反乱軍の企ては一時成功したかに見えたが、十月一日、陸軍のスハルト将軍が敏速な反攻作戦を展開。夕方までに鎮圧し、クーデターは未遂に終わった……。
この事件に、巷間言われるようなCIAや中国政府の関与があったかどうか不明だが、いずれにしても明らかなのは、これを契機にスカルノ大統領の力が弱まり代わってスハルト将軍が台頭し、全国に赤狩り旋風が吹き荒れて三十万とも五十万とも推定される容共派(その多くは華僑)が虐殺され、三百万党員を誇ったインドネシア共産党が壊滅したことだ。
九・三〇事件から二年半後の一九六八年三月、スハルトは共和国の第二代大統領に就任し、以後インドネシアはスカルノ時代の路線を百八十度転換して、反共親米国家として再出発することになる。
プラムディアはこの九・三〇事件の直前まで、共産党系の文化団体レクラ(人民文化協会)の指導的論客だった。独立革命期に創作を始めた彼はいわゆる“四五年世代”の代表的作家であり、『追跡』『ゲリラの家族』などの革命の悲惨をテーマとした小説を骨太の筆致で書いていたが、一九五〇年代後半以降は共産主義への傾斜を強め、作家活動よりもむしろ社会的発言に力を注いでいたのだ。
その結果、プラムディアはB級政治犯(九・三〇事件に関わったが証拠不充分のため裁判省略のPKI活動家)として逮捕され、マルク諸島の流刑地ブル島に流された。以後、ブル島での十年余りを含め合計十四年に及ぶ刑務所暮らし。ライフ・ワークとも言うべき四部作『人間の大地』『すべての民族の子』『足跡』『ガラスの家』はこの間ブル島で執筆された。
一九七九年十二月、彼はアムネスティ国際事務局などの再三の要請によりようやく釈放されてジャカルタに帰ってきた。しかし待っていたのは自宅軟禁、そして出版を開始した四部作に対する相次ぐ発禁処分だった。
「発禁の理由は、“共産主義のイデオロギーが巧妙に織り込んである”でしたね?」
私が言うと、
「あなたはそう思いましたか?」
逆にプラムディアが聞き返してきた。
私は、全然思わなかった。日本では出版社〈めこん〉からプラムディア選集の『人間の大地』と『ゲリラの家族』が翻訳されているが、それらの作品を読む限り、まるで思わない。
代表作である『人間の大地』など、素晴らしく面白い、の一言だった。時は十九世紀末から二十世紀初頭、舞台はオランダ植民地下のインドネシア。白人の高等学校に通う一人のジャワ貴族出身の青年の、恋と希望と挫折と覚醒の物語である。青年の自己変革と魂の遍歴を通して、インドネシア人が民族としての自我に目覚めてゆく過程を描いた壮大なスケールの歴史小説、と呼んでいい。そこには図式的な階級闘争も出てこなければ、安手の革命的労働者も登場しない。そもそも、その程度のプロパガンダ小説ならノーベル文学賞候補作になるはずもない。
「私は、理論としてのマルクス・レーニン主義は学んだし、すべての民族独立運動はその影響を受けているとも思う。でも私は、共産主義者ではない。ただの作家なんです」
プラムディアは手巻きの煙草をくわえ、柔和な笑顔と刺し貫くような眼光を見せた。
名作の誕生
プラムディアは一九二五年二月六日、中部ジャワのブローラという町に生まれている。教育者一家の九人兄弟の長男だった。プラムディアが「|善《よ》かれ|悪《あ》しかれもっとも感化された」という父親は、学校長までつとめ、教育関係の著作も何冊かあった人物だが、国家主義の理想に破れてから自堕落になり、プラムディア十七歳の時に蒸発、やがて母親も病死して一家は崩壊する。
単身ジャカルタに上京したプラムディアは、一時期日本の通信社に勤め、のちにジャワ島放浪の旅に出た。一九四五年八月、日本軍の敗北と撤退。しかしオランダは再び植民地体制の継続を図ったため、プラムディアは祖国防衛義勇軍に参加し前線で小説を書き始めた。一九四七年七月、反オランダ宣伝文書所持容疑でオランダ軍に逮捕される。以後独立戦争が終わるまでの二年余りを、プラムディアは軍事刑務所で過ごし、この時、獄中で佳作『ブローラ』などの初期作品群を書き上げる。
釈放はインドネシア独立と同じ一九四九年十二月だったが、釈放後も窮乏生活は続いた。才能を認めてくれた出版社ともうまくゆかず、最初の結婚も破綻した。ところが思わぬところから救いの手が差し伸べられた。一九五三年にオランダの文化団体が、次いで五六年に中国が、それぞれ自国へ招待してくれたのだ。
プラムディアは高度に発達した旧宗主国の現状に目を|瞠《みは》り、国家建設に燃える中国民衆の姿に感動した。そしてそれから|堰《せき》を切ったように活発な社会評論活動を展開し、レクラの主要メンバーとなってゆくのだが、その結果はすでに述べた通りである。この間、インドネシア在住華僑の役割を弁護した容疑で、一九六〇年末に九カ月間投獄されている。
「結局私は三回投獄されているんですね」
プラムディアは言った。
「オランダ軍とスカルノ政権とスハルト政権に。たぶんどんな権力者にとっても邪魔な存在なんでしょう。私としてはいつの時代にも、少しでも祖国をよくしたいと思って、喋ったり書いたりしてるだけなんですけど……」
現在、インドネシアのどの書店を覗いてもプラムディアの本は置いてない。これは、インドネシア国内のプラムディアの知名度と人気を考えれば、奇怪なことだった。
ブル島から帰ったプラムディアは友人と出版社を作り、四部作の刊行を開始した。一九八〇年に第一部『人間の大地』、続いて第二部『すべての民族の子』。『人間の大地』は発売後わずか十カ月で五万部を売り切った。『すべての民族の子』は三万部。一万部売れればベストセラーの国では空前の売れ行きである。
しかし、二作とも一九八一年に発売禁止となった。一九八五年に第三部『足跡』が出たが、これも店頭に並ぶと直ちに発禁処分(それでも初版五千部のうち四千部が売れた)。
こうなると各書店は関わり合いを恐れてプラムディアの著作はいっさい扱わなくなる。闇コピーの流通が始まった。定価三五〇〇ルピアの『人間の大地』には現在一万ルピア(約千円)の値がついている。これらの原本が密かにコピーされ、読者の手から手へ、かなり大量に出回っているのだ。
「読者は大勢います。手紙もたくさんくるし遠くから会いにくる人もいる。私は読者の支持は疑っていません。でも第四部『ガラスの家』、これは年内に出版の予定なんですが、おそらく発売と同時に発禁でしょうね」
プラムディアは表情も変えずに言った。
日本の一戸建て住宅と大差ないほどの狭い庭だった。緑濃い熱帯の木が数本はえていて古風な曲線を描く石造りのベンチが置いてある。苔のはえた高い石の塀に囲まれ、外部から見えず、外の世界もまた庭から覗けない。周囲の住宅街から隔絶したような一角だった。
「ブル島で四部作を書こうと思い立たれたきっかけというのは、何ですか?」
私は尋ねた。
「励ましですね。同じ惨めな境遇にある仲間たちを、どうにかして励ましたかった」
プラムディアは答えた。
「我々は毎日休みなく強制労働に駆り立てられました。密林を開墾し、道路を作り、家を建て、水田を開きました。常に武装した看守が見張っていて、怠けたり反抗したりすると容赦なく殴られ、拷問されました。看守の気紛れによる殺人さえ珍しくなかった。そんな絶望的な状況の中で、何とか自暴自棄に陥らないようにと、私自身を含めみんなを励ましたかったんですね。漠然とした構想は一九六〇年頃からあったんですが、ブル島でその骨格と細部が明確に見えてきたんです」
ブル島はバンダ海に浮かぶ四国の半分ほどの島である(先に訪れたアンボン島の隣にあるが、約七十キロ離れているので見えなかったし渡る手段もなかった)。全島が密林に覆われ、樹木から採れる薬用油の生産と野生のワニの棲息くらいでしか知られていない未開の地だ。一九六九年八月、プラムディアは四年間収監されたジャカルタの刑務所からそこへ移された。
ブル島に送り込まれた政治犯は、島民には“ジャワの殺人犯たち”と説明された。その数は約一万二千名。プラムディアの他に、有名な作曲家スプロント・アドモジョや映画監督のバスキ・エフェンディなど医者、弁護士、画家、ジャーナリストが含まれていたが、文字も書けない農民たちも少なくなかった。密告と報奨金によって赤狩りを断行したため、不運な人びとが罠にはまったのだ。
ブル島更生所(と称された)は約二十のユニットに分割され、五百〜六百名からなる各ユニットには反共で鳴るイスラム過激派の兵士が看守として配置された。朝六時から夕方六時までの重労働、衣食住は自給自足。熱病、拷問、処刑。過酷で辛い単調な日々が続いた。そんな中で、すでに伝説化したプラムディアの“語り部”としての生活が始まる。
「夕方の点呼の時に何十分か比較的自由な時間があるんですね。倉庫の中に大勢が集まってガヤガヤしてる。その時に、自分が長い間考えてきた物語を話してみたんです。幸いみんな熱心に聞いてくれましてね。それから毎日、夕方の点呼のたびに少しずつ話を進めてゆくことにしたんです」
『人間の大地』の誕生だった。主人公の青年ミンケが、ある日友人に誘われてスラバヤ郊外のオランダ人農場を訪ねる。するとそこに不思議な母親が住んでいた。女手一つで農場を切り盛りするニャイ(妾、オランダ人の現地妻)はこれまで彼が出会ったどの女性よりも聡明で自立心があり、混血の娘アンネリースは想像を絶する美貌ながら、どこか暗い影がある。青年ミンケは周囲の忠告にもかかわらず、急速にこの母娘に惹かれてゆく……。
プラムディアの語る物語は、人びとの共通の話題となり楽しみとなった。それぞれの小屋に戻ってからも、主人公や登場人物の言動を巡って熱い議論が夜毎闘わされた。
「ニャイの存在がかなり大きいのは、彼女がやはり東洋と西洋の接点だからですか?」
「そうです。そして同時に、ブル島に収容された我々自身の精神的状況をシンボライズする存在でもあったからです。彼女は力によって|蹂躙《じゆうりん》されたけれど、とても強い。運命に負けていません。そのことの意味を仲間たちに考えてもらいたいと思ったのです」
インドネシアの通俗小説に頻出するニャイ像(か弱くスキャンダラスな存在)を逆手にとり、彼女を理知的、戦闘的な女性として物語の中心に据えたところに、作家の面目があり、人びとの圧倒的支持の理由があった。
ブル島収容所生活四年目の一九七三年、プラムディアは中古のタイプライターと紙の束を手渡された。執筆許可である。ジャカルタのスミトロ将軍じきじきのもので、どうやら国際世論の動向を考慮した権力側の妥協策らしかった。作家は他にもいたが、労働免除、執筆許可の特別待遇を受けたのは、この時も以後も、プラムディア一人だけである。
「その日から私は創作に専念しました。仲間たちが私のために小さな小屋を作ってくれたので、昼も夜もタイプに向かいました。食料も煙草も、仲間たちの差し入れでした」
プラムディアは釈放までの六年間に八編の小説を完成させた。出来た原稿はジャカルタの検事総長に送られたが、プラムディアは秘密裡に同じ原稿をもう一枚ずつ作っていたので、そちらは政治犯たちの間で熱狂的に回し読みされ、こっそりと隠匿された。
十字架の重さ
E・T(エクス・タポル、元政治犯)、これが市民としてのプラムディア・アナンタ・トゥールに押された刻印だった。E・Tの二文字は、携帯を義務付けられている身分証明証に明記されているばかりでなく、作家を取り巻く日常生活のさまざまな面にも深刻な影を落としている。
三度目に自宅を訪れた時、夫人のマイムナ・タムリンにその辺のことを聞いてみた。
「そうですね。いつも監視されている形ですから、普通のご近所付き合いはできないですし、子供たちの学校や就職も、E・Tの家族ということで困難なことがとても多くあります。何か問題を起こせば、人一倍やっかいな事態になりますしね」
いつも微笑を絶やさない小太りの作家夫人はいつも通りの微笑を浮かべ、子供たちに口やかましく言い聞かせているのは、「見知らぬ人と争うな」「何につけてもまず我慢せよ」の二つだと言い、裸足の足を組んだ。
マイムナはプラムディアが一九五五年に再婚した相手だった。最初の結婚で出来た三人の子供は別居しているので、現在同居している四人の娘と一人の息子は、すべてプラムディアとマイムナの間の子供である。
マイムナのモットーとなっている“忍耐”は、一九六五年の|あの日《ヽヽヽ》に始まっていた。クーデター未遂事件が終息して十日余りたった十月十三日、夜中のことだ。突如群衆の喚声と投石があり、投石が止んだ頃数十人の兵士が屋敷内に乱入、逮捕状もなしに作家の首に縄をかけて連行して行った日、以来である。
「主人の無罪を信じてましたからね。いつかきっと帰ってきてくれると思ってました。でも、ジャカルタの刑務所に収容されてる間はまだ面会できましたけど、ブル島に移されたと知った時は悲しかったですね。いえ、ブル島のことは主人の友人から聞いたんです。突然いなくなった主人の行方は、軍当局に尋ねても何も教えてくれませんでした」
プラムディアが連行された時、マイムナの許には十四歳を頭に五人の子供がいた。一番下の子は生後二カ月になったばかりだった。
家も家財道具も当局に没収されたため生活はとたんに苦しくなった。一家は最初の四年間はマイムナの姉の家で居候として暮らし、それから、持っていた土地を処分して現在の小さな二階家に越してきた。働き口がないので子供たちの手を借りて菓子を作り、何軒かの店に置いてもらった。それが唯一の収入を得る手段だった。学費は親戚の援助に頼ったが、それでも貧乏に変わりはなかった。豆以外の副食が食卓に並ぶのは稀なことだった。
「だけど、そんなことより、子供たちが近所や学校で、“政治犯の子”“PKIの子”とイジメられる方が、よほど辛かったです」
マイムナは居間のソファに腰を降ろし、部屋に出入りする成長した息子や娘たちの姿を目で追いながら、言った。
「心ない人っているんですね。家の壁にはよく、“この家は共産主義者の家”とか、“政治犯が住んでる”とかの落書きがしてありました。子供たちは消したがったんですが、私は“放っておきなさい”と言ってたんです。消せば面白がってもっと書かれますからね。無視するのが一番なんです」
我慢の生活が、こうして十四年間続いた。
一九七九年十二月に釈放されたプラムディアがブル島から帰ってくると、いちおう一家の暮らしは元に戻った。が、それはあくまで、“いちおう”だった。塀の落書きこそ消えたものの、収入の面ではかつてのような余裕が取り戻せなかった。本来ベストセラーになるべき本が店頭に並ばなかったからだ。
一家の経済は目下のところ、海外からの印税に頼っていると言っていい。プラムディアの作品は現在、日、英、独、蘭、中、露など九カ国語に翻訳され世界中で読まれているが、代表作『人間の大地』ですらもっとも売れているオランダ版で二万五千部、日本版にいたっては三千五百部と、絶対数が少ない。しかも、マレーシアでの『ゲリラの家族』のように、せっかく五十万部も売れながら海賊版なので印税が一文も送られてこない(もっか裁判で係争中)、という例もある。
“PKI活動家”のレッテルが“E・T”に替わっただけで、各種の差別と実生活上の不都合は相変わらず続いているのだ。
次女のアリーナと三女のスティヤニが、庭の木になっているジャンブ・アイル(ウォーターアップル、ピーマン型をした桃色の水っぽい果物)を皿に盛って運んできてくれたので、彼女たちにも話を聞いてみることにした。
「私は今、父の仕事を手伝ってます。資料を集めたり原稿を整理したり、大学では教員コースを取ってたんですけどね、考えてみるとあんまり教師って好きじゃないから……」
次女のアリーナは教職を諦めたと言った。ふくよかな顔立ちの二十九歳、独身である。
「いつか結婚するとしたら、相手はお父さんみたいな人がいいですか?」
「ええ。でも、いつも側にいてくれる人なら父みたいに立派じゃなくてもいいです。十四年も夫婦が別れて暮らすなんて、私にはとうてい想像できません。母が泣いてる姿を子供の頃から見てますから、まず家にいる人……」
アリーナは母親の方を|窺《うかが》いながら言った。
四人姉妹のうちアリーナとスティヤニが無職だった。結婚は、四人ともしていない。
「父ですか? はい、作家としては偉大だと思うし、父親としても尊敬しています。父の言うことには何にでも従います」
三女のスティヤニは優等生的返答をした。二十七歳、なかなかの美人である。
「じゃお父さんみたいな人と将来……」
「それはいやです」
即座に言ってしまってから、笑った。
家庭内の“世界的文学者”は、父親としては一目も二目も置かれているが、夫として、または一人の男としてとなると、娘たちからかなり厳しい目で見られているらしい。
しかしそれにしても、能力がありながら娘二人が職につけず(スティヤニは秘書学校卒だがどこでも面接で|撥《は》ねられている)、その意志がありながら四人ともまだ配偶者を得られないでいるというのは、不憫だった。
それから私は唯一の息子であるユディスティラの部屋に行った。コンピューター学校の生徒で二十一歳。プログラマー志望である。
食堂の隣の薄暗い部屋が無口でハンサムな青年の個室だった。さまざまな音響機器とレコードとカセットばかりが目につく。
「音楽は何が好きなの?」
「ロック」
「好きな歌手かグループは?」
「ジャカルタ出身のインドラ・レズマナ」
我々はとりとめもない会話を交わした。
母親のマイムナによれば、「今一番心配なのが息子のこと」だった。学校で父親のことが原因で喧嘩になった時も、相手は大勢だったのに取調べを受けたのはユディスティラ一人、しかも取調べ室で係官から暴行を受けている。自動車事故に遭った時にも、徹底的に尋問されたのは被害者のユディスティラ、加害者は異例の微罪ですんだという。どうやらユディスティラは、E・Tの家の跡取りということで、官憲から特にマークされているようなのだ。しかし私は、この物静かで端整な顔立ちの若者に、背負ってしまった十字架の重さについて、どうしても聞く気になれなかった。
「ユディはどうなの、文章を書くことは好きなの?」
私はそれだけを聞いた。
「好きです。少し、書いてます」
「もうお父さんに見せた?」
「そんな……。まだ恥ずかしくて……」
ユディスティラ・アナンタ・トゥールは、耳まで赤くなって口ごもった。
海が遠い島国
プラムディアは一日の大半を二階ですごす。二階には明るい書斎と暗い寝室の二部屋があって、作家はそこで時間を決めて眠り、起きている間は仕事に打ち込むのだ。食事の時か来訪者がある時以外は滅多に下に降りない。
プラムディアがここ数年取り組んでいるのは小説ではなかった。すでに四部作を完成させたということもあるが、ブル島から帰って以来体調が悪く糖尿気味で、「創造的な仕事になじまない体の状態」だからだ。
「技術的な作業しかできない」と言う作家が現在全エネルギーを注いでいるのは、『インドネシア地名地理辞典』の編纂だった。
「これなんですけどね。これまで書き終えたのが六万項目、目標は十万項目。できあがるまで、あと十年くらいかかるでしょう」
こともなげに言って、棚のファイルの一冊を抜き出す。部屋の端から端まで続く長い書棚は一段全部が同じようなファイル・ブックで埋まっていた。取り出したファイルのどの頁をめくっても、インドネシアの地名が並んでいて、各地名に対応する解説用のタイプ原稿が何枚も貼りつけてある。
「情報や数字は年々変わりますからね、訂正と補充でけっこう時間を取られます」
書斎の床には、資料用に使ったおびただしい量の新聞、雑誌が整然と積み上げられていた。新聞は四紙を定期購読し雑誌は不特定に買い漁るので、家計費の相当な部分が資料代に消えると言う。しかしなぜ今、『インドネシア地名地理辞典』なのか?
「私たちの国のことを私たち自身が学び、知るためです」
プラムディアは表情を引き締めた。
「私がブル島から帰ってくると、国中が“開発”“開発”で沸き返ってました。何しろ現大統領は、スカルノが“建国の父”なら自分は“国家開発の父”と称してますからね。経済最優先政策で外資を導入し、奥地まで強引に“開発”してその成果をテレビで放映する。まるでテレビ放映そのものが“開発”であるかのように。御存知ですね?」
一チャンネルしかない国営テレビの番組は、私も何度か見て知っていた。一九七六年の通信衛星打ち上げによって全国どこでも同じ映像が見られるようになり、それは“多様性の中の統一”を悲願とする多民族国家インドネシアにとって画期的な出来事とされていたが、確かに実際の番組は上からの政策臭が強く、各地の紹介にしても歌や踊りや食習慣の他に、その地での公的プロジェクトの解説や式典を扱ったものがやたらと多い。
「ああいう情報は結局、国民が本当に必要としているものではないんです。我々が本当にこの国を愛し民族としての一体感を感ずるためには、もっともっと深く各地の歴史や文化を知らなければなりません。こま切れの情報を得ても、有機的に国土のことを知らなければ国民としての自覚は生まれてこない。だから私は地理辞典を作ろうとしているのです。これまで外国人が作ったものはありますが、インドネシア人自身の手になるものはなかったんです」
インドネシアの地理ということで言えば、私がまず思い描くのは海のことだった。都市での海の遠さである。インドネシアは四方を海に囲まれた島国であり、首都ジャカルタにしろ第二の都市スラバヤにしろ、港町として発達した海辺の都市。なのに、一般市民の日常生活は海から切り離されているように思える。海の存在そのものが身近に感じられない。
港湾部分は塀を張り巡らされ検問所があって許可なしに入れないし、砂浜は高級ホテルなどのプライベート・ビーチとして囲い込まれている。いずれにせよ普通の市民にとっては無縁な場所だ。太公望が糸を垂れたり、家族連れや老人が散策したり、子供たちが駆け回ったり、恋人たちが海を眺めたりといった、海辺の町ならどこにでもあるような自然な光景が、ここにはない。海が、遠いのだ。
私はそのことの奇妙さを述べた。
「だからそれも、民族独立がいまだ実現されてないことの現われだと私は思います」
プラムディアは言った。
「我々は本来は海洋民族なんです。ところがオランダ植民地時代、海は、我々を外部の世界から隔離するために利用されました。長い間、海辺は我々の手から取り上げられていたんです。スカルノはそのことに気付き、首都をジャカルタからカリマンタン(旧ボルネオ)に移す構想を持ってました。遷都によって再び海洋民族としての活性を取り戻そうと思ったんですね。私は、この考えには今でも賛成です。海はもっと開放されなければなりません。海と海辺が我々国民のものとなり、海洋民族にふさわしく自由自在に利用されるようになった時、初めて独立の時の約束が果たされたと言えるでしょう。それまでは、形だけいかに独立国家であっても、真の独立を達成したとは言えません。日本と比べると随分遅いと思われるかもしれませんが、我々は今ようやく、民族のアイデンティティを口にできる段階まで来たところなのです」
時刻は正午近い。昼食の時間だった。プラムディアは十二時になると書斎から一階の食堂へ降り、野菜中心の糖尿病患者用の食事を|摂《と》る。そして午後一時から三時までが昼寝、三時から夕食の始まる午後七時半までが再び仕事時間なのだ。
「気晴らしには何をしてますか?」
私は昼食のために机の上の整理を始めた作家に尋ねた。
「ゴミを焼きます」
「ゴミ!?」
私は思わず聞き返した。
「ええ、家から出たゴミをね、庭で焼くのが趣味なんです。本当は園芸でもやりたいんですが、何しろ庭が狭いものですから……」
移動の自由と発表の自由を奪われた作家は肩をすぼめて見せ、鋭い目を瞬間和ませた。
書斎の窓から人口約七百六十万人の首都が見える。
よく晴れた日にははるかに独立記念塔も見えるというが、この日は見えず、インドネシアが誇るノーベル文学賞候補作家プラムディアは、窓の前で立ち止まりもせずに素早い身のこなしで階段を降りて行った――。
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の人びと――─
ペナン、マラッカ
ペナン
海の見える公園近くの路上で、インド人の男が屋台でロティを売っている。前日朝食を食べた店だが、その時はカメラを忘れたので改めてやってきて写真を撮っていると、太った男は小麦粉をこねながら顔を上げた。
「その写真どうするんだい? 日本でペナンの写真集でも出してガッポリ儲けようってのかい?“働く庶民”とか何とか題つけてさ」
さすがにペナンはマレーシア最大の観光地、屋台の店主の冗談もなかなかキツイ。
「いやァ、ただ、インドの街角を思い出して懐しい気がしたから撮っただけで、第一、写真家でもないし、こんなカメラじゃ……」
言い訳しようとすると、いいから坐れと目で合図する。粗末な木製の丸椅子に腰かけたとたん「何にする?」と聞かれ、「じゃあ、ロティとチャイ」と答えてしまい、……結局また、その屋台の客となったのだった。
長さ約八百キロのマラッカ海峡の北の入口に位置するペナン島(面積二百七十九平方キロ、日本の淡路島のほぼ半分)は、イギリスが東南アジアに確保した最初の植民地である。一七八六年にイギリスの貿易商フランシス・ライトがケダー王国のスルタンに割譲させた時には島民わずか五十八人だったそうだが、現在は中心地のジョージ・タウンだけでも人口約四十万(全島では約五十万人)、マレーシア第三の都市となっている。
もっとも、島の北東端の歴史的港町ジョージ・タウンの住民の七割は中国系だった。マレーシア全土の中国系の比率は三割強にすぎないから、ジョージ・タウン、つまりペナンは中国人の街と呼んでもいいわけである。
実際、旧市街を歩くといたるところ中国色が|溢《あふ》れている。一階をアーケード付きの店舗にして二階を住居としたいわゆるショップ・ハウスは、ほとんどが中国系の経営だ。柱や看板には縦横自在に漢字が躍っているし、飲食店も福建風あり広東風あり海南風あり|客家《ハツカ》風ありとバラエティ豊か、線香の煙が跡切れることのない極彩色の中国寺院の他にも、同郷会館や同族の祖先廟といったコミュニティ施設があり、新聞スタンドを|覗《のぞ》くと、中国系の新聞だけは七紙も並んでいる。
マレーシア政府はもっか、マレー人優遇政策を強力に推し進めているが、なるほど公務員などはマレー系が目につくものの、マレー系の本来の生活基盤は自給的な農・漁村だった。都市の経済活動の中では苦戦を強いられていると言える。中国系が軒並み商店や工場を保有しているのに比べ、マレー系が多く携わっているのは屋台の物売りや輪タクなどだ。
そんな中で、マレーシアを構成する第三のグループ、インド系は、ジョージ・タウンでの人口比は全体の一割程度(全国でも八パーセント)と少ないけれど、階層的に中国系とマレー系の中間あたりを占めている。具体的には両替商、雑貨店、飲食店といった小規模な商業やサービス業が多い。
しかし、私がペナンにやって来てインド人に興味を抱いたのは、そうした社会学的な理由からではなく、もっと単純なことだった。
一九八六年の十二月、私はインドのマドラスに滞在していたが、その時に乗りたくても閉鎖されていたベンガル湾横断航路の行先がペナン島のジョージ・タウンだった。マドラスではたくさんのインド人から「マレーシアには我々と同じタミール人が大勢住んでいる」と聞いた。どんな暮らしをしているのか、単純に見てみたいと思ったのだ。
「そうね、あの航路が船火事で中止になりさえしなけりゃ、俺は今でも船を利用してたよ。飛行機は早いけど片道一〇〇〇ドル(以下マレーシア・ドルのこと、一マレーシア・ドルは約五十二円)、と高いだろ、船の軽く二倍だもの」
屋台の太った店主、マドラス出身のダダ・シェリフはロティを鉄板の上で焼きながら言った。
二十六歳のダダは十五歳の頃からペナンに出稼ぎに来ていて今年が十二年目、年に一度マドラスに帰るほかは、朝の六時半から正午まで年中無休で働いていると言う。
「ロティ一枚が三〇セン(約十六円)、チャイ一杯が四〇セン(約二十一円)。これじゃいくら売れてもたかが知れてるよ。この場所に店を張るにも、中国人の|親爺《おやじ》にショバ代を払わなきゃならないし……」
うしろのコンクリート製建物を振り返る。
ダダの愚痴ともつかぬ独り言は続くが、しかし、薄汚れた台の上に出されたロティとチャイは絶品だった。前日のもそうだったが、小麦粉の中にバターと卵をたっぷり練り込んであるロティは、香ばしくて舌に優しく、インド風にコップに注いだミルク入りのチャイも、芳醇な香りで甘くコクがある。まるで、公園の向こうに広がる海を越え、遠いマドラスの路上からそのまま運ばれて来たような屋台だった。そして、その確かな味に吸い寄せられるのか、背広姿のビジネスマンから腰にサロンを巻いた労働者まで、ペナンに暮らすさまざまなインド人が立ち寄って行く。
その中に、この日ひとりの若者がいた。町で何度か見かけた駐車係のインド系の若者だった。
ペナンにはパーキング・メーターがないのでその代行のような仕事をしているのだが、彼が目立ったのはチケットの入ったズダ姿を肩から下げているせいではなく、ズバ抜けて整った目鼻立ちのせいだった。遠くからでも目につくほどの美男子なのだ。
その彼が私の隣の椅子に坐った。店主のダダにカリ・イカン(魚カレー)を注文した。
「君も、マドラス出身?」
五分足らずで彼が無言の朝食をすませた後、私は話しかけてみた。
「俺? ケダー州だよ、ケダー州の田舎。父親はマドラスから出て来たんだけどね」
柔らかく波打つ漆黒の髪が振り向き、大きく澄んだ瞳が屈託のない光を放つ。
こうして私は十九歳のインド系マレーシア人、セルヴァン・シンガムと知り合いになった。セルヴァンと一緒にペナンの町を歩き回るようになったのである。
セルヴァンの彼女
ある日、いつものように駐車係の仕事を終えてからホテルにやって来たセルヴァンが、「今夜は町で一番ファッショナブルなところに行こう」というので期待していると、連れて行かれたのは何と、コムターだった。
コムターはメインストリートであるペナン通りの南の外れにある六十五階建ての円型高層ビル。町で売っている絵葉書セットには必ず入っている“新しいペナンの象徴”で、それだけにジョージ・タウンの古風な町並とはそぐわない建物なのだが、その階下のショッピング・センターを夕方ブラブラと散歩することが、セルヴァンにいわせれば「今もっともカッコいいこと」なのだそうだ。
で、仕方なくコムターのショッピング・センターに行った。しゃれたブティックや真新しい洋風レストラン、品物豊富な電気店や高級貴金属店など、どこの都市にもあるような、と言うことは特別な感慨など持ちようもない最先端の商店街を見て回った。集まっている人びとにしても、確かに粋な身なりの若い男女はいることはいるが、それ以上に家族連れや子供たちが多い。要するに、全館冷房がお目当てのペナンの庶民の憩いの場所らしいのだ。
何か食べようということになり、セルヴァンが「ぜひ」と希望したのがケンタッキー・フライド・チキンだった。以前一度だけ、ガールフレンドと食べたことがあるという。
「彼女はインド系?」
「中国人だよ。ずっと付き合ってたんだけど、二カ月前にシンガポールに行っちゃった。こっちじゃいい勤め口がないからって、むこうで語学学校に通ってるんだ」
「まだ交際してるの?」
「結婚したいと思ってる。俺もシンガポールへ行きたい。だから、今みたいな仕事でも頑張ってるんだよ」
私が飲み物を注文しようとすると、セルヴァンは「自分は水でいい」と言った。そして運ばれてきたチキンを右手だけで器用に、チリ・ソースをたっぷりかけたケチャップに浸しながら、驚くほど丁寧にたいらげた。
セルヴァンは現在、ペナン在住の義兄の家に居候しながら働いている。朝九時から夕方五時まで駐車中の車の管理をして一日五ドル(約二百六十円)、これにほぼ同額のチップが入るから月に直すとおよそ三〇〇ドル(約一万五千六百円)の収入になる。このうち半分近くを将来のために貯金し、さらに毎月五〇ドルを実家に仕送りしている。ケダーの田舎に住む七十歳と六十五歳の両親は十人の兄妹を抱えているからだ。
「家も大変かもしれないけど、俺だって大変だ。このままじゃダメだと思ってるよ。たまに夜間の仕事がみつかれば働いて、その分も貯金してるけど、そんなことじゃ……。あ、どうもありがとう。おいしかったよ。今度あんたがペナンに来た時は、俺が必ずおごるからね」
食後、我々は館内をあてもなくブラついて、それから五階の屋外テラスに出た。そこは薄暗いがやや広くなっていて、敷地半分ほどにミニ遊園地がこしらえてある。
私とセルヴァンは鉄柵に寄りかかって海から吹いてくる微風を浴びた。
「手紙は来る? その中国人の彼女、名前は何ていったっけ?」
「ああ、ウォン・ビー・キーって名前だ」
「どんな内容?」
「十月に一度帰って来るとか、自分がいない間に他の人を好きにならないでとか……」
目の前の芝生にミニ機関車が走っていた。中国系の幼女がひとり、ポツンと乗っていて、切符売場の方で母親がそれを眺めている。
「でも、どうして中国人なの? インド人のきれいな娘もいっぱいいるじゃない?」
「インド人はダメさ」
「どうして?」
「家柄だとか宗教だとかうるさくて。中国人の方が考え方が自由なんだ」
セルヴァンは言った。ペナンのインド人社会では自分のような富も学歴もない若者は全然相手にしてもらえないが、中国人社会はずっと開放的、本人どうしが好きなら異教徒(セルヴァンはヒンドゥー教徒)でも結婚を許してくれるし、何より、若者の将来に期待をかけてくれる寛容さがある、と。
「父親のウォンさんがいい人でさ、会うたびにいつも俺のこと励ましてくれるんだよ」
セルヴァンは体を回して町の方を向いた。
彫りの深い端整な横顔、九頭身近いスリムな体格。だが本人は持って生まれた美貌を自覚していなかった。自覚しても役に立たない社会だった。
「マドラスには行ってみたい?」
「うん、いつかはね。父の生まれ育った土地だし、親戚もみんなあっちに住んでる。|周囲《まわり》じゅう全員がタミール人ってどんなものか一度見てみたいよ。でも、その前にとりあえずはシンガポールだけどね……」
五階のミニ遊園地から眺めると、中国語、英語、マレー語さまざまな言葉で描かれたネオン・サインが見渡せた。その中で最大のものが日本のカメラ会社の広告塔だった。
シンガポールでセルヴァンがくるのを待っている中国人の恋人は、語学学校でもっか日本語を勉強中なのだという。
ポート・クランの老華僑
首都クアラ・ルンプールから整備されたフェデラル・ハイウェイを南西に向かうと、およそ十五分ほどで道路沿いに小ぎれいな住宅街やオフィスや工場群が展開し始める。マレーシア最初の衛星都市ペタリン・ジャヤだ。
同じ道をなおも三十分近く進むと、マレーシア最大の港でありクアラ・ルンプールの外港でもあるクランという町に着く。人口約十一万。ここもすでに首都の通勤圏に飲み込まれていて、近郊には新しい家が建ち並び、朝夕ともなると相当のラッシュになる。
クラン周辺の急増する新築住宅を目にし、首都へ向かう国産車プロトンサガの大群を眺めていると、躍進する首都の文化的余波がようやくクラン川河口の港町にも及んできたか、という思いになる。この観察は、ごく最近に関しては正しい。が、それ以前の長い年月となると、むしろ流れは逆だったといえる。
クラン川流域は古くから|錫《すず》の産地として知られてきた土地だった。そのために河口部はさまざまなマレー人土侯により入れ替わり支配されてきたが、こうした地域はマレー半島のほかの川では見られない。クラン港が最初に世界史に登場したのは十五世紀の初頭、明の鄭和の航海図に記された吉令港がそれである。
十七世紀後半になるとクラン北方のスランゴール川河口に、セレベス島のブギス族が入植してきてスルタンを称して王朝を開いた。歴代のスランゴールのスルタンは、当時生活苦から大量に流入して来た中国人|苦力《クーリー》を使い精力的に錫生産に取り組んだ。十九世紀半ばには新しい鉱山の開発に迫られ、クラン川を溯って未開のジャングルにも分け入った。そしてアンパン地区で採鉱に成功するのだが、その時錫採掘場への物資補給基地を設けたのがクラン川とその支流ゴンバック川との合流地点、つまり現在のクアラ・ルンプールだった。一八五七年頃のことである。
その後クラン川流域では、スルタンの継承問題に中国人同士の勢力争いが加わり、血なまぐさい内乱が繰り広げられ、結局、事態を収拾するという名目でイギリスの介入を招き、本格的植民地化を促進することになる。ここでクランが再び登場する。知事に相当するイギリスの初代スランゴール駐在官が行政府を置いたことにより州都に選定されたのだ。クランが植民地マレーの中心地だったのは一八七五年から五年間、行政府がクアラ・ルンプールに移転されるまで続いた。
いずれにせよクランの歴史は首都のそれよりずっと古く、その重要性も高かったといえる。それは、スランゴール州のスルタンが今なおクラン市内の宮殿に住んでいることからもわかる。
ただし、クランの発祥地とも言うべきクラン港は、実はクランにはない。クラン市街から約八キロ先にポート・クランという町があって、そこが実際の港町なのだ。人口約二万。
このポート・クランは、港近くにうまいシーフード・レストランがあるので有名である。シーフード・レストランの老舗のひとつ、ポートビュー・レストランに昼食を食べに入った。そしてそこで、七十八歳の経営者|林廷冠《リンヘンクアン》に食事がてら昔の話を聞いたのだが、林の話はかなり個人的なものになった。
「あたしは海南島の出身ですよ。一九二八年、十八歳の時に兄を頼って裸一貫こちらに渡って来たんです。その頃はあなた、波止場も今みたいにコンクリートじゃなく木造でしてね、道は泥んこ、川には|鰐《わに》が出る、町にはマラリア、そりゃもうひどいもんでしたよ。でも、だからといって、仕事もない故郷へ帰るわけにゃいきませんからね。必死で働きましたよ、はい」
繁盛する店を|甥《おい》に任せ隠居同様の生活を送る老華僑は、白髪ながら肌は女性のようなピンク色、金縁のサングラスをかけ、左の薬指に大きなダイヤの指輪をきらめかせていた。
「昔はマレー鉄道の駅が別の場所にあって、兄のやってた最初の店はそこにあったんです。その頃コーヒー一杯が三セン、今は六〇センですもんね。当時は中華料理と西洋料理が専門でシーフードなんかやってません。シーフードが人気のメニューになり出したのは、もっとずっと後になってからですよ。で、まァ、駅が取り壊されてお客がガタッと減っちゃって、ほとほと弱ってたんですが、マレー鉄道がここの土地を売りに出しましてね、運よく手に入って、それからですよ、あたしに運が向いたのは。一九六三年でしたかね」
「転機? そうねェ、顔も知らない嫁さん|貰《もら》いに海南島へ帰った時も転機といやァ転機だし、一九五〇年に兄が死んだ時もあたしにとっちゃ転機。でもやっぱり、最大の転機はおたくら日本軍が攻め込んで来た時じゃないの? あの時は、ずいぶん中国人が殺されたからね。あたしは幸い事前に情報をキャッチしてたから、家族連れて山の中へ入って隠れてたけど、おかげで商売はメチャメチャ、戦争後はまた一から出直しでしたよ、はい」
林老人は悠然としていた。水量豊かなクラン川に面したレストランの一番奥の丸テーブルに陣取り、アメリカ煙草を詰めたパイプをゆったりとくゆらせていた。
そして、「最近一番のお得意」だという日本人観光客がカニを食べにドヤドヤ入って来ると、ほんのかすかな微笑をピンクの頬に浮かべ、日本人客にゆったりとお辞儀するのだった。
アズミの生活と意見
ポート・クランには南港と北港がある。両方とも、かつて二十キロほど上流にあった船着き場を廃止したあと二十世紀になってから建設し直したもので、第三代スランゴール駐在官の名を冠したポート・スウェッテナム(現在の南港)は、一九〇一年に完成し、四つの大型埠頭を備えた北港は一九六三年に開港している。現在、六キロ離れたふたつの港はそれぞれの分業が進み、南港は沿岸交易港、北港は外洋コンテナ港として機能しているが、旧植民地の行政官の名が外され、ポート・クランと改名されたのはほんの十六年前のことだ。
約五千人の従業員が働き、年間四千隻以上の大型船が出入りし、半島部マレーシアの貨物取り扱い額のおよそ四分の一を処理するポート・クランの構内には、しかし、一般の人びとは入れない。他のアジアの主要港と同じく軍事上の重要施設と見なされているからだ。埠頭の周囲には塀が巡らされ、構内の出入りに際しては厳重なチェックを受けねばならない。
もっとも、中に入ったからといって特にどうということもなかった。私の場合は許可を得て案内してもらったのだが、どちらの港の構内も車なしでは見て回れないほど広大で、全体に閑散としていた。陸に沿って海上にせり出した細長い埠頭に大小の貨物船が幾つか碇泊していて、その手前に巨大な倉庫が並び、その間をクレーンと積荷と人間がユルユルと動いているだけだ。マドラス港の構内で見かけた日本語の落書きも、ジャカルタの旧港で目にしたカヌーで移動する労働者の姿も、ここにはない。主要な輸出品である木材・合板・ゴム・パーム油、輸入品の上位を占める肥料・鉄鋼・機械類、いずれもそのままの形で野積みされているわけではないから、どんな品物がどう動いているかも目で確かめられない。
よくいえば非常に機械化が進み保安上安全に運営されているのだろうが、およそ港の持つ猥雑な空気が稀薄だった。唯一ホッとしたのは、波静かな青緑色のマラッカ海峡を薄目を開けて眺めながら、クレーンの日陰で昼寝を決めこんでいる男たちを見かけた時だ。
こんな調子だから、ポート・クランにもいわゆる港町らしさは少なかった。両替屋が多いのはご愛嬌だが、旅館も飲み屋も賭け事の場所も見当たらない。新築された郊外の小さなマリーン・クラブで、水泳とビールを楽しんでいるユーゴスラヴィアの船員たちに出会ったことくらいだろうか(ジャラン・サミーというのがかつての赤線で、今でもインドネシアからの流入者が住んでいるというのは耳にしたが)。
このひっそりとした平穏なポート・クランで僕はもうひとりの男に話を聞いた。三年前まで南港で働いていたアズミ・ラーマン、五十一歳。現在は警備会社に勤務するマレー人である。
「私、港ではフォークリフトを運転してました。仕事は楽しかったですね。いうことなしです。毎年便利になりますからね。自分の国が発展してゆくのを見るのは|嬉《うれ》しいものです」
「生まれはケダー州です。農家の次男ですよ。コタ・キナバル、ジョホール・バル、あちこち転々として一九六二年にポート・クランに来ましたけど、ここが一番いいです」
痩身で浅黒かった。黒い髪をペッタリと後ろに|撫《な》でつけ、度が二重になった眼鏡をかけている。ニコニコしながら話すと、その眼鏡がずり落ち、チョビ|髭《ひげ》がせわしなく上下する。
「私にとって生涯最良の時? うーん、いつだろ? やっぱり、結婚した最初の頃ですかね? 私、結婚が遅くて三十六歳の時でしたからね、やはりドキドキしましたよ。でも、あれですね、あんなコト、最初の子供が生まれる頃には慣れちゃって、楽しみはせいぜい一年間ですね。子供? 六人いますけど」
「私ね、思うんですよ。世の中が進歩してゆくのはいいんですが、それにつれて人間が堕落し始めてるんじゃないかって、特に最近の若い連中ですね。態度が非常に不真面目です。年長者に対する敬愛の念も持ってない。一番ひどいのがクアラ・ルンプール、あそこの若い連中は最悪です。麻薬に手を出したり、男女のフシダラな遊びに熱中したり。いや、私の近くにはそんな不良はおりませんけど、新聞やテレビで毎日報道してますよ」
「戦争中の日本軍のことは、子供だったから覚えてないけどよく聞かされました。ええ、いろいろな残虐行為ね。でも、あれでしょ、ひどいことをしたのはマンチュリ(満州)人で、日本人じゃないんでしょ? 私らそう教えられてきましたけどね。本当の日本人は紳士的だったって。背の低い日本人が背の高いマンチュリ人を、兵隊として中国から連れてきて、我々に乱暴を働いたのは全部そのマンチュリ人だったって。えっ、違うんですか?」
「六人の子供たちにいつもいってることは、“しっかり勉強しろ”“一生懸命働け”。怠け者だと、この厳しい世の中を生きていけませんからね。それともうひとつ、“父の跡を追うな”。やっぱり港湾労働者や警備員よりも子供たちには商売人になってほしいですよ」
非常に率直・素朴で人間臭さを漂わせたアズミには勤務中に話を聞いた。実に退屈そうに、警備する銀行の前の石段に腰かけていたからである。
なお、アズミの語った旧日本軍の残虐行為=満州人説は、その後も何人ものマレー系及びインド系のマレーシア人から聞かされた。しかし、むろん、中国系マレーシア人でそんな説を口にした人はいなかった。
マラッカのポルトガル人村
聖ペドロは漁民の守護神である。
六月二十九日にマラッカのポルトガル人村でその聖ペドロを祝ったフェスタ・サン・ペドロが催されるというので見に行った。いや正確には、しばらくシンガポールに行っていたのだが、年に一度の伝統の祭りを見物するために再びマレーシアのマラッカに戻って来たのだ。ポルトガル人村を訪れるのは十日ぶりのことだった。
午後四時。市街から約三キロ離れたマラッカ海峡沿いの小集落ポルトガル人村では、村の中央広場に臨時のステージが設けられ、その周囲に立ち食いの屋台や射的の露店などが出てすでにかなりの人が集まっていた。
中に、カトリック教徒の祭りらしくロザリオや十字架を売っている店もあったので、ゆっくり見て歩きたかったが、そこここで見知った顔に出会って呼び止められ、満足に露店見物もできない。「部外者に対して友好的で開放的」、彼ら自身が評するようにまさしく社交的なのだ。
そんな会場でもっとも人気を集めていたのは飾り立てた漁船のコンテストだった。
これは、村の漁師たちの守り神である聖ペドロへの感謝と、四百七十七年前艦隊を駆ってこの地にやって来た祖先の偉業を称えるためのもの。陸揚げされてズラリ並んだ二十余隻の漁船に、青竹のマストを立てて色紙の帆を張り、さまざまな絵や文字を描いてある。
〈我等 ポルトガルの漁民〉
〈祝 聖ペドロ祭!〉
〈一五〇九年我々は交易しに来た 一五一一年我々は征服しに来た〉
キリストや聖ペドロの絵、地球儀の絵や魚介類の絵のほかに、タコがタコに恋をしているユーモラスな絵もある。それぞれの出来ばえを審査員が採点し、夜の部のステージで入賞者を表彰するのだという。
午後五時半から中央広場に面した集会所でミサが始まった。入り切れずに溢れた人びとが窓の外に鈴なりになるほどの盛況である。
正面にしつらえた祭壇に緋色の僧服をまとった司祭が登場すると、集会所を埋めた善男善女は厳粛な面持ちでコウベを垂れ……、といいたいところだが、いきなり響きわたったのはやけにリズミカルなギターの伴奏だった。続いて、讃美歌にしては明るすぎるほど明るい歌の大コーラス。
一瞬唖然としてから、すぐに思い起こしたのはインドのゴアで耳にした同じように心浮き立つ明るい旋律だった。マラッカとゴア、遠く離れ互いに交流はなくとも、同じ時期に同じ武将アルブケルケによって連れて来られ、以後数百年間同じポルトガルの文化を守り続けて来たアジアのふたつの港町の末裔たちは、|奇《く》しくも同じような音感を|育《はぐく》んできたのだろうか?
私は、心臓の鼓動が多少速くなってくるのを自覚しながら、その後の説教や讃美歌や聖書の朗読を聞いた。フェスタ・サン・ペドロのための特別ミサは、約一時間後、あたりが|夕靄《ゆうもや》に包まれ始めた頃に終了した。
「よォ、久し振りじゃないか! ビールでも飲もうぜ!」
外に出ると、マラッカ市内で「マレーシア唯ひとりの運河専門ガイド」を名乗っているベルナルド・グートニングに腕をつかまれた。そういえば、天性陽気なこの青年もポルトガル人村の住人だったのだ。
よく晴れた日の午後だった。海峡対岸のスマトラ島までは望めないが沖を行くタンカーが扇形の視界の中にくっきり見える。私にとってはその日がマラッカ到着二日目のことだった。ポルトガル人村を、ひとわたり歩いてから海に出た。
浜辺に行くと、トントンと木を打つハンマーの音がして、トタン板を張った粗末な舟小屋の下に何人かの男たちがいた。そのうちのふたりは漁船の修理をしているのだが、残りの者は思い思いの恰好でその場に坐り込み、ぼんやり海を眺めたり煙草をふかしたりしている。村の漁師たちらしかった。
「やァ、今日は漁に出ないの?」
陽焼けした体格のいい男に声をかけると、
「いま大潮だからな、エビがいないんだよ」
いいながら煙草を一本差し出した。
その男、アフォンソ・フェルナンデスによれば、エビ漁にいいのは小潮の時だという。前日は試しに船を出してみたがたった九匹しか獲れなかったらしい。
「小潮の頃ならいい時は五キロも六キロも獲れるよ。だけど今年はダメだな、せいぜい四キロ程度さ。エビは年々少なくなってる。海が汚れちまってそこらじゅうゴミだらけだもの。どこに網を張ればエビが獲れるのか、もうこうなったら運まかせみたいなもんだよ」
青空を見上げ肩をすくめてみせる。
話を聞いてみると、ここの漁法はもっぱら底刺し網だった。木造の細長いボート風の漁船で早朝に出発し、沿岸五〜六キロの海上で一日平均二回投網し、一網で一キロから二キロのエビ、それに十キロ前後の雑魚を揚げる。しかし売り物になるのはエビのみ、雑魚はほとんどが自家消費用だ。そういえば何軒かの家で小イワシくらいの小魚が庭いっぱいに干してあるのを見かけた。エビなら一キロ当たり約二五ドル(約千三百円)で売れるという。
「あとこの辺で獲れるのは、そうねェ、|鮫《さめ》ぐらいだな。鮫は二メートル近くあれば一〇〇ドル(約五千二百円)にはなるけど、年に一、二匹だから……」
横合いから、若い男が口を挟んだ。
「海亀が獲れるじゃないか」
「おゥ、海亀な」
フェルナンデスは男の吸っていた煙草を奪って、その火に自分の新しい煙草を押しつけた。
「だけどお前、亀は食べちまうだろ? ここらじゃ甲羅の買手はいねェから、獲れたってあんまり意味はねェよ。食用の亀? ちっぽけな奴だけだよ。大海亀を食うと病気になるって言い伝えが昔からあってな、でかい奴は網にかかっても逃してやるんだ」
くわえ煙草のフェルナンデスは、ほかの漁師たち同様に腕組みをして沖の方を眺めた。
黒い頭髪、まばらな鼻髭、褐色の皮膚。一見するとマレー人に見えなくもない。が、よく見ると、細めた目の奥の瞳は灰色がかった茶色であり、鼻すじは真っすぐ通り鼻骨が高く突き出ている。背が高く骨太のガッシリした体格自体、東南アジア人のものというより、どちらかと言えば欧米人のものだった。
その場の男たちも、そう思って見渡してみると、体格が貧弱であれば体毛が濃いとか、目も細く鼻も低いけれど頭髪だけ柔らかいウェーブがかかって栗色だとか、どこかしら歴史的に混じり合った血の痕跡を体にとどめている。
前日、村の代表世話人であるミカエル・ヤングを訪ね、最初にわかったことのひとつは、ポルトガル人村と言いつつ実は住民たちはさまざまなヨーロッパ人の子孫、それもかなりの程度に現地人と混血を繰り返してきた人びとの子孫、ということだった。
それは納得できた。だいたい姓からして、ヤングと言えばイギリス系、グートニングならオランダ系である。
経緯は次のようなことらしかった。
十四世紀末にスマトラの貴族の移住によってできた港町マラッカは、海峡を往来する交易船の風待ち港として栄え、十五世紀末にはイスラム国家マラッカ王国の首都として東南アジア世界に君臨していた。早くからマラッカの富と地理的重要性に気付いていたポルトガルは、一五一〇年インドのゴアを攻略すると、翌年すぐにマラッカに大艦隊を派遣しこれを奪取した(一五〇九年に一度貿易の許可を求めに来たが拒絶されている)。
マラッカに住みついたポルトガル人は、城塞を築造し各所に教会を建てたが、同時に現地女性との結婚もさかんに行なった。このため、百三十年間のポルトガル統治期間はその後のオランダ(一六四一〜一七九五)やイギリス(一八二四〜一九五七)と比べると短いものの、オランダやイギリスが混血に消極的だった分、それだけ根強く、ポルトガルの伝統が親から子へ受け継がれる結果となった。もちろんそこには、同じキリスト教でもオランダとイギリスは新教、いずれの民族でも旧教徒はポルトガル系のコミュニティに組み込まれざるを得なかった、という側面もある。
ただしかし、ポルトガル系の人びと(厳密にはポルトガル文化を継承するヨーロッパ各国混血のローマ・カトリック教徒)は、一九二〇年代まではマラッカ市内にバラバラに住んでいた。その多くは貧しく、大多数は漁業従事者であり、居住区域は一定ではなかった。
化石のような言葉
一九二九年、ふたりの神父のイギリス植民地政府への働きかけによって、ポルトガル人村建設は具体化した。貧しいポルトガル系市民に、相互扶助による生活向上の場を与えようというのである。一九三一年、当時は湿地帯だった現在の土地が整地され、椰子|葺《ぶ》きの小さな住宅が次々と建てられ、まず三家族が移り住んで来て……。
「それが現在百五戸、約千二百人です」
小柄で明るい皮膚の色をした五十一歳のヤングは、イギリス人の面影を色濃く残す顔で言った。
「入植当初の電気も水道もない生活に比較すればいくらかマシになりましたけど、全体的にはまだまだ貧しいコミュニティです。でも、団結心があって誇り高くて、それでいてこんなにオープンで|誰《だれ》とでも協調してやっていける友好的な村はありませんよ」
現在、漁師など漁業関係者は往時より格段に減って全体の十五パーセントほど、町で製造業や商業などの職に就く人の割合が増えている。「問題は村民の低学歴、これであと、年にひとりでもこの村から大学進学者が出るようになればいいのですが」と代表世話人は村の未来が教育にかかっていることを力説したのだった。
浜辺に少しずつ風が出てきた。
フェルナンデスが所用で家に帰ったあとも、私は雑談をしながらその場に残っていた。
考えてみれば不思議なことだった。理屈では理解しているつもりでも、感覚としてピンとこないのだ。十六世紀や十七世紀のポルトガルが、モノとしてではなく、人間の肉体や具体的な価値観として目の前にある、それもアジアの風土と何の異和感もなく溶け合いつつ存在している、それが不思議な気がした。
ヤングは受け継いでいるポルトガル文化の遺産として、言葉、宗教、料理、ダンス、歌、冠婚葬祭の習慣などを挙げた。ことに言葉は、五百年近くも昔の、しかも方言で、今日のポルトガル本国ですら理解する人は少なく、言語学の貴重な研究対象なのだという。そんな化石のような言葉が、いかに旧植民地とはいえ地球の反対側に当たる熱帯アジアで、日常的に親子の会話や愛の告白に使われているのだ。これが不思議でなくて何だろう?
やはり、その条件となったのは海だろうかと私は思った。五百年はおろか千年でも万年でも、同じように寄せては返す海。その海に乗り出し、魚やエビを獲るという生活を続ける限り、基本的な社会構造はあまり変わらない。しかもここは風待ちの|凪《な》いだ海である。ポルトガル人の子孫たちがマラッカ海峡で漁師という生業を選んだからこそ、タイム・トリップのような“奇跡”が起こったのでは……。
潮が引いた泥の上で何かがしきりに跳ねていた。隣の漁師に聞くと「マッド・ジャンパー」と答える。ムツゴロウの仲間らしい。
こちらも海洋民族のハシクレ、|鷹揚《おうよう》に|頷《うなず》いて「あれはうまいだろ?」と言ってみた。
再び、フェスタ・サン・ペドロ。午後十時すぎ。
中央広場での夜の宴もいまやたけなわで、仮設ステージの上ではポルトガルのダンスが華やかに繰り広げられていた。
舞台上手でジョー・ラザロことマヌエル・ボスコ・ラザロがギターを|掻《か》き鳴らしながら甘く張りのある声を響かせると、それに合わせ、民族衣裳を着た十五名の若い男女が腕を組んで軽快な円舞を踊る。
フラッシュがたかれTVカメラが回り、広場を埋めた観客の拍手が踊り手たちの動きに同調する。
それは、伝統文化がみごとに息づいている光景だった。歌い手も踊り手も個人的に話を聞いたことがある人びとなのでなおさらそう思った。
だが、この時もまた私は、じっくり見物することができなかった。ビール片手に何度目かに移動したテーブルで、日本の建設会社で五年働いていたという三十五歳の男に出会ったからだ。
「日本人は本当に素晴らしい。尊敬してるよ」
私が「失礼」と席を立たなかったのは、この種の日本礼讃派にありがちなガサツな印象がなかったからだ。この夜久し振りに故郷に帰ってきたというトニー・バーナジーは、慎重な口調で、穏やかに話した。
「仕事場ではずいぶん“バカヤロー”“コノヤロー”と叱られた。だけど冷静になって考えると、たいてい私の方が悪かった。日本人はひとつのことをやる前に充分検討する。じれったいくらいだが、隅々まで問題になりそうなことを洗い出し、対策を立て、いざやるとなるとパッとやってしまう。我々マレーシア人なら三日かかるところをわずか一日で、それも正確に仕上げる。これはスゴイことですよ。反撥するよりも学ばなければならない」
私はこれも、現代マレーシア人の対日本人観のひとつだろうと思った。こんな考えがポルトガル人村の出身者から出てくるのも面白いと思った。
そこで、この村に対する考えも尋ねてみた。
「そう、みんな友好的です。だけど深いところで依存体質がある。例えばここの桟橋。壊れてるからと市に補修を頼んでる。それを当然だと思ってる。でも、あれぐらいの修理は自分たちでやらなきゃ。自分たちが使うものですからね。一事が万事そうです。私たちは自立を叫びながら自立から逃げてるんです」
バーナジーはなかなかに辛辣だった。
世話役のヤングが言った「村が豊かになるためには大学進学者が増えなくちゃ」という言葉が思い出された。
しかし、バーナジーのようなインテリが増えれば本当にポルトガル人村は“発展”し、このマレーシアという複合国家は“裕福”になるのだろうか?
テーブルのうしろの石垣に、静かに波が打ち寄せていた。マレー、インド、中国、ポルトガル、オランダ、インドネシア、イギリス。多様な民族のさまざまな人生を翻弄しながら何事もなかったかのように、マラッカ海峡は、祭りの夜も平穏な潮の営みを繰り返していた――。
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ボートピープル
の国――─
ホーチミン
ホーチミンとハノイ
二月のホーチミン市は平均気温二十七度、ちょうど乾期なので蒸し暑くなく一年のうちでもっとも過ごしやすい。そう聞いてきたのだがなかなかどうして、ムッとくる暑さだ。
首都ハノイでヴェトナム商工会議所の副事務局長にインタビューしていたので、ここでもしかるべき人物に公式見解を聞いておきたいと思い、人民委員会を訪ねた。ホーチミン市人民委員会、つまりこの国最大の都市の市役所の建物は、クリーム色の外壁に白漆喰の縁取りを施した壮麗なフランス様式だった。
それはいいのだが、国営サイゴン・ツーリストの通訳兼ガイドの青年は、私を駐車場入口に残して一人建物に入ったきり出てこない。官僚組織の発達した国だから急な取材申し込みは難しいのかもしれなかった。仕方ない、待つほかなかった。
所在なく往来を眺めていて気付くのは、やはりハノイ市との歴然とした格差である。
人口約三百万のハノイの大通りは自転車の洪水だが、人口約四百万のホーチミンではそのかなりの部分がバイクやスクーターに入れ替わっている。自動車の数も断然ホーチミンの方が多い。道行く人の服装、これも両都市を比べると相当違う。ハノイではいまだに戦闘帽を被る男性が多く、女性のノン(菅笠)をそこらじゅうで見かけた。ファッションは概して地味で、一言で言えばそのまま野良仕事に移れそうな恰好だ。対してホーチミンは圧倒的に都会のセンス、流行のジーンズが闊歩し伝統のアオザイが颯爽と行く。町を散策するのに戦闘帽やノンを被っている人などいない。町並は二つの都市ともにインドシナ植民地の面影を色濃く残しているのに、一方は時間が止まったまま苔蒸してゆく風情であり、もう一方は何とか外の世界に追いつこうと模様替えの真っ最中、到るところ|槌音《つちおと》が響いている。
よく言われることではあるが、二つの都市はそれぞれ別の国に属しているかのようにその相貌が異なっていた。二千年の歴史を持つハノイと二百年のホーチミン、貧弱苛烈な紅河デルタと豊饒肥沃なメコンデルタ、資本主義経済体制の経験の有無などの歴史的・地理的背景を考えれば、ある意味では当然とも言えるだろう。
そして、この対照的な二都市が車の両輪となって互いに協力し、もっか推進しようとしているのがアセアン(東南アジア諸国連合)の優等生タイの一九八七年のキャンペーンに|倣《なら》った“VISIT VIET−NAM YEAR”プログラムだった。
この年、一九九〇年は、ヴェトナムにとって特別な年にあたる。国父ホー・チ・ミン生誕百周年であり、ヴェトナム共産党創設六十周年、独立宣言四十五周年、南ヴェトナム解放十五周年なのだ。一九八六年末に登場した南部出身の新書記長グエン・バン・リンは、ヴェトナム版ペレストロイカとも言うべきドイモイ(刷新)を唱え、大胆な経済政策の転換をはかった。統制的な計画経済を廃し、私企業の公認、公営企業の独立採算化、農民の生産請負制などを断行したのである。その結果年率四百パーセントを超すインフレに見舞われたが、一九八九年にいたってようやく物価も安定し公正・ヤミの二重価格体系もほぼ解消。同年九月のカンボジアからの完全撤兵によって軍事費負担も軽減して、低迷を続けていたヴェトナム経済にやっと明るい兆しが見えはじめたところだ。
そして今年一九九〇年がヴェトナム観光年。政府の思惑としては単なる観光客誘致以上のものが、むろんある。
「観光振興は重要な経済発展政策の一つです。この機会に外資の導入により、商用客を含む外国人観光客の受け入れ施設の充実を積極的にはかりたいと考えています」
質素な服装ながら目を輝かせ、ハノイのヴェトナム商工会議所の副事務局長ファン・チー・ラン女史はそう語ったものだ。
空港や港湾が整備されていない、ろくな道路がない、安全な飲料水がない、迅速正確な通信網がない。ないないづくしの現在のヴェトナムで、当面もっとも切実な問題はといえば、急速に増えはじめた外国人客用の宿泊施設の絶対的な不足である。
ヴェトナムを訪れる外国人はドイモイ以来急増し前年一九八九年は約二十一万人。一九九〇年は約二十五万人が見込まれ、紀元二〇〇〇年には百万人の来訪が予測されている。ところが、外国人が利用可能なホテルは現状ではごく少数に限られ、首都ハノイで計千室、最大の都市ホーチミンでさえ計千五百室あるにすぎない。とりあえずの不足分は一般民家の借り上げなどでしのいでいるありさまだ。
その辺の事情と対策を、ホーチミン市に即してより詳しく知りたいと思ったが、ガイドはいっこうに戻ってくる気配がなかった。
人民委員会の駐車場には門衛が一人いた。車の通過のたびに手動で横木の上げ下げをしている若者は、傍ら何やら熱心に読書している。
近寄ってみると、恐ろしく質の悪い紙に印刷されていたのはイラスト付きの英文だった。ホーチミン市人民委員会の下級職員が勤務中に英会話の本を読んでいるのだ!
私は早速幾つか質問してみたが、彼が英語で答えることができたのは二十六歳という年齢と、「英語の独学をはじめてまだ一年だからうまく話せない」ということのみ。
若者の人なつっこい笑顔とキラキラ輝く瞳を見ていて思い出したのは、インタビューの後でハノイのファン女史が漏らした言葉だった。女史には大学へ入学したばかりの息子がいるが、「将来は政府機関より私企業に入ってもらいたい」と言っていた。そして、「経済学と同時に英語をぜひ習得してほしい」と。
ドイモイ政策は、外国語と言えばロシア語一辺倒だった統一後のこの国に、決定的な変化を与えたようだった。
やがてガイドの青年が帰ってきた。案の定、かなり前から質問事項を明記した書類を提出していないと幹部との会見は不可能、だと言う。
インドシナ半島初の五つ星ホテル
「採用条件は、まず英語ができること。次に容貌、見てくれですね。特に重要なのは歯がきれいなこと。接客業ですからね。それからこれが案外に厄介なんですが、警察に悪い記録がないこと。犯罪歴の有無ですな」
サイゴン・フローティング・ホテルの支配人代理、ニュージーランド人のロドニー・ホーカーは言って、太い腕を組んだ。現地従業員の採用条件について尋ねた時である。
「犯罪歴の確認が厄介、というのは?」
「地区の警察の他に、市の警察と国の警察があって、それぞれがバラバラにチェックするからですよ。しかもひどく時間がかかる。地区と市の警察をパスしたからそろそろトレーニングを始めようと思っていると、突然ハノイから“待った”がかかったりする。国と市がOKでも地区でダメな場合もあるし、例の、非能率な官僚主義って奴ですよ」
支配人代理は大仰に肩をすくめてみせた。
我々が対面しているのは「ニューヨークの」と呼んでもおかしくないほどの超モダンなホテル・ラウンジだった。テーブルの上には上等のシャンパン、案内に低く流れているBGMは日本の喜多郎の『|絲綢之路《シルクロード》』。そして窓のすぐ外は茶色く濁ったサイゴン川である。
一九八九年十二月二日にオープンしたこの六階建てのフローティング・ホテルは、世界で唯一の本格的水上ホテルだった。インドシナ半島で最初の五つ星ホテル、ヴェトナムに三十余年ぶりに登場した新築ホテルでもある。
いわばヴェトナム観光年の目玉とも言えるわけだが、オーストラリアのグレイト・バリア・リーフから曳航されオーストラリアの会社が運営しているため一般に“浮かぶオーストラリア”と呼ばれているこのホテル、実はオーナーは日本人だった。日本人が一人も働いていなくても日本企業に所属しているわけである。
それはともかく、八九年八月末サイゴン川の河畔に突如フローティング・ホテルが出現した時、ヴェトナムのみならず東南アジア各地で大きな話題となった。私も当時滞在していたマレーシアでそれについての新聞記事を読み、その場にいた人びとと興奮してヴェトナムの話にしばし花を咲かせたものである。
一つには豪華な水上ホテルという物珍しさがあった。もう一つは、|あのヴェトナム《ヽヽヽヽヽヽヽ》に、西側資本がとうとう本気で乗り込んだのか、という驚き(と危惧?)である。
何といっても中国の天安門事件の記憶がまだ鮮明に残っていた。一直線に民主化に突き進んだ東欧に比べ、アジアの社会主義国に対する不信感は容易に拭いがたいものがあった。
「だから私も、いつでも逃げ出せるようホテルの裏にモーターボートを用意してます」
ホーカーは早口で言ってウィンクした。
もちろん冗談である。急に真顔になって、
「例えば五年後、ヴェトナムがこのまま歩んでいけば見違えるような国に変化しているのは確実です。だけど今という時点では警戒心が先に立って誰も進出しない。そこで我々が先陣を切ったわけです。世界の第一級ビジネスマンの活動拠点をとりあえず確保しておこう、とね」
先行投資であることを強調するのだ。
確かにフローティング・ホテルは、リゾート・ホテルというよりビジネス・センターを指向していた。独自の安全な飲料水システムや直通国際電話は当然だが、ファックスやテレックスや衛星放送TV、フォトコピー、英・仏・中・日・露語の通訳サービス、秘書業務や会議室などのビジネス関連部門に力を入れている。しかし宿泊料金は、スタンダード・ルームでも一泊一五〇米ドル。これは、これまでホーチミン市にあった老舗の高級ホテル、コンチネンタルやレックスなどの一・五倍から三倍に相当する。公務員の月給が一〇万ドン(約二四ドル、三千五百円)前後の国では驚異的料金だ。
「既成のホテルとは設備とサービスが違いますからね」
恰幅のいいニュージーランド人は涼しい顔で答える。
「で、部屋はどのくらい埋まっていますか?」
「二百一室ありますから、今のところはまだ十五パーセント程度です。でも、徐々によくなるでしょう、たぶん」
再び片目をつぶってみせるのだった。
従業員の何人かに話を聞いてみた。
就業前に六週間の特別研修を受けている彼らは、どの部署であれいずれも若く、客に接する時は常に笑顔だった。これはヴェトナムの他のホテルでは皆無と言わないまでも、きわめて異例のことだ。動作も欧米流に機敏である。そしてなるほど、容姿端麗かどうかはともかく、全員歯がきれいだった。
明るいブルーの水兵風ユニフォームを着たポーターはこのホテルでもっとも目立つ存在である。長身で|逞《たくま》しい体格のブイ・バン・ギェムは元中学校の体育教師で二十八歳、三週間前に二十五倍の競争率を突破してポーター職を獲得した。
「ここは給料がよくて毎日外国人と接触できるから最高です。ずっとこのホテルで働きたいです。もっともっと英語を勉強して、もっともっといい地位につきたいです」
幸運をつかんだ喜びを顔いっぱいに表わして言うのである。
公務員の中でも特に薄給の教師時代のギェムの月給が五万ドン(約千七百五十円)、ここではボーナス込みで月に二八万ドン(約九千八百円)をもらう予定だと言う。
英・仏・露の三カ国語を解するパン・タン・テュインはマネジャー補佐、三十歳。大学の外国語科を卒業後国営の船会社で月二五万ドン(約八千七百五十円)で働いていたが、「もっと将来性のある仕事をしたい」と思い転職を決意した。現在の収入は月に四〇万ドン(約一万四千円)。
「この半年間、上司のオーストラリア人たちからいろいろ教わりました。おそらく、彼らがいなくなってももう我々だけで運営できるでしょう。ホテル経営というのは貿易に比べれば業務的に難しくないですからね。私? もちろん将来は、自分でもビジネスを始めたいと思っていますよ」
相当な自信家である。やりたいことがたくさんあると言う彼は、小銭を貯めたヴェトナム人すべてがそうするように、生活費以外の紙幣をせっせと金に換えているそうだ。
最高級ホテルに就職できたことを感謝し、この幸運をさらなる飛躍のステップにしたいと考えている点では、次に出会った女性レセプショニスト、二十六歳のグエン・ホアン・ティーも、前の二人と同じだった。
しかし彼女の場合、さらなる飛躍とは母国からの脱出を意味していた。
「一九七九年から八三年にかけて計六回ボートで逃げ出そうとして、失敗しました。兄や弟たちは成功したのに、私は運がなかったのかもしれません。でも、今はもう合法的に出国できますからそれで渡米しようと思ってます」
自称「ミス・ティー」は、少女のような屈託のない笑顔を見せる。
ティーの父親は旧南ヴェトナム政府内務省の役人だったので、高校を出た後も彼女には就職口がなかったという。月収三三万ドン(約一万千五百五十円)の職にありつけたのは、ひとえにこのホテルが外資系だったからだ。
「アメリカが第一希望なんですが、ヨーロッパでも日本でもかまいません。どこか差別のない国で、医療かコンピューター関係の仕事につきたいんです」
独身のティーは、結婚するのなら相手は外国人と決めていた。
「ヴェトナムの男は、絶対いやです」
猫に似た愛くるしい顔で微笑む。
元北ヴェトナム軍大尉の床屋の怒り
一年前、長年の懸案だったインフレが沈静化し、ヴェトナム社会が安定傾向を示したのは、何はさておきコメの豊作によると言われる。全国民の七割は農民。その農民の生産するコメがようやく目標量を上回り、統一後初めてコメを輸出(約百五十万トン)できたのだ。
そこで、私はサイゴン川を渡ってホーチミン市の近郊農家を訪ねてみることにした。
川一つ越えると市内の喧騒が|嘘《うそ》のような田園地帯である。のどかで、かつ貧しい。
背の高い|葦《あし》がまばらに生える泥湿地に、コメ作り農家のズオン家を訪ねると、当主は不在で妻が|田圃《たんぼ》から帰ってきたところだった。粗末な黒い木綿服は胸のあたりまで泥水に|濡《ぬ》れ、両足は|裸足《はだし》だった。
「三十アールの土地に年一トンほどのコメを作ってます。でも、コメの値段は安いし六人家族だから、生活は楽じゃないです」
白い歯を見せてはにかみながら言う。
これまでの農業生産組織である合作社が解体され土地は契約所有制に、生産物も余剰分を自由処分できる生産請負制に移行したので、農家の生産意欲は大幅に高まったとされる。ところが、ズオン家のような小規模農家の場合、コトはそう順調に行ってないようだった。ズオン家では前年収穫した一トンのうち、三百六十キロを税として供出し、残りはコメの価格が低いので市場には出さず、アヒルやニワトリの飼料にあて、それで育てた|家禽《かきん》の販売を収入の柱としていた。
それでも月にならすと月収は一〇万ドン(約三千五百円)ほど。とても暮らせないので当主が副業に床屋をやっている。
「今年と来年は、ホー・チ・ミン生誕百年とかで供出米が五割ずつ軽減されるんですけど、それだけじゃぁね……。ホーチミン市での買物? ええ、年に一回ぐらいなら可能ですけど」
三十七歳の農婦は、わずか二キロしか離れてない大都市の方を|眩《まぶ》しそうに振り返った。
帰り道に、村外れで営業中だという夫の床屋に寄ってみた。床屋といっても、ハノイやホーチミンの裏町でよく見かけるように、小屋の外壁に鏡を一枚固定し、その前に木造の古い椅子を一つ置いてあるだけである。
「ドイモイなんて糞くらえだ! そうだろ、俺なんかヴェトナムのために十何年も命を張ってきたんだぜ。その結果を見てくれよ、この貧乏ぶり。何がドイモイだ!」
薄暗い小屋の中で|挨拶《あいさつ》を交わすなり、夫のズオン・バン・ドックは激しい口調で|喋《しやべ》り始めた。小柄ながら陽焼けした逞しい体、鋭い目付き、エネルギッシュな動作。さすが元北ヴェトナム軍大尉というだけあるが、多少は昼間から飲んでいる焼酎の勢いもあるらしい。
五十六歳になると言うズオン・バン・ドックは北ヴェトナムのタインホア出身。集団農場の農夫だったが、二十五歳の時にヴェトナム人民軍に入隊。一九六五年以来南ヴェトナムに潜入して各地で戦ってきた。一九六八年にアメリカ軍に捕獲され五年間の収容所暮らしを体験、七三年のパリ協定による捕虜交換で釈放されたという経歴を持っている。一九七五年のサイゴン陥落後、除隊して結婚し農民にもどったのは、祖国統一戦争への“貢献”が何がしか評価されると信じてのことだった。
「それがゼロなんだよ、まるっきりのゼロ。国の経済が全体にうまく行ってないのはわかるけど、最近はいい思いをする奴も出てきた。だったら、我々が真っ先に恩恵を受けるべきじゃないのか? 違うかい?」
充血した目で、お茶ばかりガブガブ飲む。
私は、だんだん老いの繰り言のようになってきた元大尉の話に耳を貸しながら、「いちおう恋愛結婚です」と言っていた妻の白い歯を思い浮かべた。南ヴェトナム解放当時、二十近い年齢の差を越え、若い娘にとって輝かしく憧れの存在だったはずの北ヴェトナム軍将校……。
暇そうな村の床屋には、近所の子供たちだけが外国人見物に大勢集まってくる。
見果てぬ夢、アメリカ
ティーの家は、ホーチミン市の南西部、密集した四階建てアパートの三階にあった。
アパートの一階で八百屋や家具製造などの個人商売がいろいろ営まれているため、人声と騒音と各種の臭いと暑さがウヮーンと立ちこめている。ただし、3LDKの室内に一歩足を踏み入れると、思いのほか静かで涼しく、私服のティーとその家族が笑顔で迎えてくれた。
「これが上の兄と上の弟、アメリカの大学に通ってます。こちらは下の兄、電気技師として働いています。この下の弟はまだ高校生ですが今年中にアメリカの大学へ進む予定です」
居間の食器棚の一番目につく場所に、ボートピープルとしてアメリカへ渡った男兄弟四人の写真が掲げてあった。ティーが説明し、父親や妹や弟、叔父や伯母や子供たち、その場の全員が誇らし気に写真を見詰める。
母親にぜひ会いたかったが、急用で実家に帰っていて留守だった。ティーの母親は、夫が再教育キャンプに収容されていた八年間、女手一つで八人の子供を育て上げた苦労人だった。傍ら、ボートピープルの送り出しグループを組織し、息子四人を含む多数のヴェトナム人を国外に脱出させたしたたかな女性でもある。ティーはそんな“肝っ玉かあさん”の娘なのだ。
「ボートが危険なことは知ってました」
お茶を|淹《い》れながらティーが言った。
「だけどヴェトナムにいても未来はなかったから仕方なかったんです。アメリカに着くか死ぬか、どっちかだと思ってました」
なぜボートピープルを志したのか尋ねると、ティーは、暗い影のない相変わらずの無邪気な表情であっけらかんと答えた。
ティーの六回の試みが失敗したのには一つ一つ理由がある。事前に計画が露見したり、天候が急に悪くなったり、出発時刻が予定より早まったり……。一九八三年五月の六回目の渡航失敗は、彼女が出発時刻に間に合わなかったせいだ。その日午後五時、メコンデルタの町カントー郊外の川岸に集合する約束だった。そこからボートで川を下り夜中に沖合の船に乗り移る手順である。ところが、約束の場所に到着する前にティーの乗ってきたバイクが故障した。ボートは、待ち合わせていた二つ違いの弟と、弟に預けていたティーの荷物を乗せ、時間通り出発してしまった。
「私はついてないんです。弟はタイのキャンプからアメリカに行けたからいいけど」
それまで黙ってやりとりを聞いていた父親が、奥の部屋から何枚かの紙片を大切そうに持ってきて私に見せた。
タイのアメリカ大使館が送付したODP(オーダリー・デパーチャー・プログラム)の書類である。ティーがホテルで言っていた「合法的な出国」というのがこれで、海外に家族のいるヴェトナム人やアメリカ系混血児などを対象とし、国連とヴェトナム政府が推し進めている出国計画だった。
書類には父親以下家族六名の名前すべてが出国対象者として載っていた。しかし、日付を見ると一九八五年七月十七日。ということは、もう四年半も待機中ということか。
「対象者が多くて、面接の順番がね……」
寡黙な父親がボソリと言った。
六十歳の元南ヴェトナム内務省訓練計画部長は白髪の穏やかな人物だったが、覇気というものがまるで感じられなかった。八年間に国内五カ所の再教育キャンプを転々とし、出所してから今日まで何の職業にもついてない。
アル中の元北ヴェトナム軍大尉とは逆の立場だが、やはり戦争の深刻な犠牲者に思えた。
「四年半は長くないですよ。伯母さんところなんか七年待ってるわけでしょ、ね?」
ティーが弾んだ声で言った。部屋の隅に坐っている彼女の伯母は、アメリカの入国ビザまで持ちながら八三年から待機中だという。
「私たちはODPの他に、旧政治犯の家族という別の資格もありますから、今年中に渡米できると思います。そう信じてます」
ティーの姿勢は、あくまで前向きだった。
アメリカが一九九〇年から受け入れを開始する旧政治犯とその家族の対象者が、概数でも五十万人に達することを、帰国してから私は知った。
ドイモイしかない……
夜のサイゴン川を下る遊覧船に乗っていた。
本当は、遊覧船と知らず単に水上レストランで夕食をとるために乗り込んだのだが、食事中に汽笛が二、三度鳴ったと思うと、船が岸を離れ始めたのである。別にかまわなかった。夜の川風はビールで|火照《ほて》った肌に快かったし、ヴェトナム戦争末期ロケット弾が飛び交った夜中の大河を、甦った平和な時代、名物のクアハップ(カニの丸蒸し)を頬張りながら遊覧するのもまた一興だからだ。
船上から遠くサイゴン・フローティング・ホテルの灯りが見えた。周囲の暗い密林と比べると別世界の華やいだロビーで、この夜もギェムやテュインやティーがそれぞれの夢を胸に働いているはずだったが、この時の私はむしろ彼らより、一人のアメリカ人のことが気にかかっていた。
「ヴェトナムにはドイモイ以外進む道はないし、それは中国と違ってきっと成功する」
前夜フローティング・ホテルのディスコで出会ったアメリカ人ビジネスマンのマイケル・モローである。彼は何度もそう繰り返した。
私がモローと会った時、彼は豪華なフロアで踊る多数の外国人や少数のヴェトナム人を無表情に見詰めていた。いや無表情というより愁いを|湛《たた》えた不思議な表情だった。香港とバンコクを拠点に貿易や投資関係のビジネスをやっていると言う。ヴェトナムへは一年前からくるようになり、ファイバーグラスなどの輸出を手がけていた。
それだけならどうということはないのだが、話の途中「一九六七年から七一年まで、ジャーナリストとしてサイゴンにいた」と聞いて、にわかに私は興味をそそられた。すぐに彼を、静かな階上のバーへと誘った。
「バカな戦争だったよ。アメリカにとっては不必要な戦争だったし、議会による宣戦布告のない違法な戦争でもあった」
変わることのない沈んだ表情で|呟《つぶや》いた。
戦争時代のモローは、フリーの記者として全米十五紙にヴェトナム・リポートを書き送っていたという。大学中退の若者だったが、中国語が堪能なのでアメリカ軍に重宝がられ、比較的自由に前線を取材することができたのだ。しかし一九七一年、当局から違法とされた反戦派ヴェトナム知識人の集会に出席したかどで、南ヴェトナム政府より国外追放処分を受ける。
その後ビジネスの世界に転身してからも、モローはヴェトナムにこだわり続けた。タイで出版社を経営しヴェトナム関連の本を出版したり、香港でアメリカの対ヴェトナム商工会議所の職員となったり。特に香港の商工会議所は、一九七九年以降ヴェトナムと国交断絶し強硬な通商禁止政策を貫いているアメリカにとって、ほとんど唯一とも言える交渉窓口だったのだが、レーガン政権の手でそれも|潰《つぶ》された。
「アメリカはいつ通商を再開しますか?」
私はヴェトナム在住日本人商社員の間で最大の話題となっている疑問をぶつけてみた。日本政府はアメリカと違って国交こそ樹立しているが、アメリカに追随してヴェトナムへの政府援助を凍結しており、その解除の時が日本人による爆発的経済活動開始の時機。みんな手ぐすね引いて待っているのだ。
「当分は再開しないね。アメリカ政府はヴェトナムに対して意地になってるからね。再開条件のカンボジア撤兵が実現しても、見せしめとして続けるよ」
モローはわずかに嘆息した。
「アメリカは相変わらずダメだ。本来なら真っ先に駆けつけてヴェトナム再建に加わるべきなのに、ヴェトナム問題を避け、無視しようとしている。日本やフランスの企業はヴェトナムに来てるのにアメリカの企業は来てない。これは、あの戦争に次ぐアメリカの政策の失敗だよ」
アメリカ政府の出方を|窺《うかが》いながら細々と商売をしている国の人間としては、どう相槌を打っていいのかわからなかった。
「しかし結局、ヴェトナムのドイモイは挫折せずに進むと思いますか?」
「進むね。ドイモイしかない」
モローは断言した。
「よく比較される中国は強大な皇帝を戴く中央集権国家、古代から現代までずっとそうだ。でもヴェトナムの歴史はそうじゃない。地方権力がとても強く、中央は常に地方と妥協しなければやってこれなかった。ヴェトナムの|諺 《ことわざ》に“王様の法律も村の垣根まで”というのがあるけど、こういう共同社会である限り、ドイモイは必然だし、それ以外に定着しないよ」
西側が望むような速度とやり方ではないかもしれないが、経済開放政策は確実に進み、政治体制もいずれ変わってゆくと言う。そして彼自身は、大ホテルではなくミニホテルの建設に関心があり、現在その調査でヴェトナム各地を回っているのだった。
「我々の世代のアメリカ人とヴェトナム人の双方にとってヴェトナム戦争は一番生々しい体験だ。だからこそ両者のコミュニケーションは可能だし意味もある。俺の離婚した妻がヴェトナム人で、息子とカナダに住んでいるから言うんじゃないけどね……」
四十四歳という年齢よりずっと|老《ふ》けて見えるアメリカ人は、そう言って、初めて笑顔らしい表情を束の間だけ見せた。
ホーチミン市の賑やかな岸壁を離れておよそ一時間、あたりは完全な暗闇だった。
川風に夜風が加わり少し肌寒くなっていた。時折、航行する小舟を避けるため船首からサーチライトが照らされる以外、川旅に変化らしい変化はまったくない。
私は寒さしのぎにひたすらサイゴン・ビールを傾けていたが、前後左右の席の若いヴェトナム人カップルたちは、お茶一杯で何も食べず、ただピッタリと寄り添っていた。乗船券一人四〇〇〇ドン(約百四十円)、これは現在のこの国の若者にとって決して安い値段ではない。まして一匹一万三〇〇〇ドン(約四百五十五円)のクアハップなど……。
彼ら恋人たちは、大勢の家族の住む家を抜け出し、こうして二人で川風に包まれているだけで充分なのかもしれなかった。できればこのまま大海原に滑り出て、知らぬ間にアメリカに向かっていればもっといい?
やがて遊覧船はゆっくりと大きく旋回を始めた。川中でUターンし、暗黒の行き着いたところから再び猥雑な文明の岸辺へと向かうのである。目を閉じて抱き合っていた一組が薄目を開け、前方の薄明かりを確認してから、また前よりきつく抱き合って目を閉じた――。
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追跡行――─
台北、台南
魚市場
|台北《タイペイ》市民二百六十万人の胃袋をまかなう卸売市場は、獣肉、家畜、野菜などに分かれ市内各所に点在しているが、魚の卸売市場はただ一カ所、市の南西部の雙園区萬大路にある台北漁業産運銷股有限公司がそれである。
台湾の魚事情に興味を抱いていた私が魚市場を訪ねたのは、七月下旬の早朝五時すぎのことだった。ドシャ降りの雨にもかかわらず、構内にはすでにたくさんの人びとが詰めかけていて、市場独特の活気がみなぎっていた。天井が高く壁のない建物、広々としたコンクリート製の床、番号の付いた帽子を被り長靴で歩き回る仲買人、そして彼らに囲まれ一段高い所で値を読み上げるセリ人……。何もかも日本の魚市場の光景そのままである。
ただし、予想通りと言うべきか、扱っている魚の種類が違っていた。
なるほど、マグロ、カジキ、タチウオ、カマス、キンメダイといった見知った魚もあることはあるが、アジ、サンマ、イワシ、サバなどの日本で|馴染《なじ》みの魚種が見当たらず、代わりに、テラピア(呉郭魚)、田ウナギ(魚)といった、日本の魚市場ではおよそお目にかかることのない魚が並んでいる。
私は横浜の中華街に暫く通って華僑の生活レポートを書いたことがあるが、その時気付いたのは彼らが思いのほか魚を食べるということだった。よく知られるコイなどの淡水魚のほかに、タイ、ハタ、マナガツオのような海水魚も頻繁に食卓に上る。海水産蒸し魚は家庭料理の必須メニューと言っていいほどだ。それまで中華料理と言えば肉料理、海産物はせいぜいエビ、カニ、アワビ、ナマコにフカヒレと思っていたから、これは意外だった。アジア港町巡りの一環として、例えば中華料理の素材である魚を取り上げることはできないか、と思ったものだ。
で、中華料理の本場台湾の魚市場である。珍しい魚は幾種類も見ることができたが、その中でもっとも数量が多く、かつ正体のわからないのがサバヒー(虱目魚)という魚だった。
一見、日本のニシンに似てなくもない。が、体色はもっと青味がかった乳白色、尾ビレが発達していてV字型に長い。日本では見たこともない魚だが、この魚の入荷量は抜群に多く、しかもほかの魚がすべてプラスチック製の|籠《かご》に雑に入れられているのに、これだけは頭を上にして整然と竹籠に詰めてある。
一体サバヒーとはどんな魚なのか? 魚市場業務部に勤務する方欽明に尋ねてみた。
「養殖魚ですよ、|台南《タイナン》の方のね。昔から台湾ではスープにしたりお|粥《かゆ》に入れたりして何百年も食べてきた魚だけど、最近は台北ではあまり食べなくなりましたね。小骨が多くて面倒だし、台湾の生活水準が上がって、スズキ(鱸魚)やハタ(石斑)のような、以前は高級魚とされてきた魚が手軽に買えるようになりましたからね」
「なぜサバヒーだけ、昔風の竹籠に入れてキチンと頭を|揃《そろ》えて詰めてあるんですか?」
「うーん。ウロコがとれて恰好悪くなるからじゃないかなァ、よくわからんけど」
「どうして|虱《しらみ》の目の魚って書くんです?」
「台湾語でサバヒーって発音は虱目魚って字だからね。日本時代の呼び名の名残りじゃないの? これ日本語だとマサバでしょ?」
「マサバ? まさか!」
俄然、面白くなってきた。
サバヒーは台湾で数百年間食されてきた海水産の養殖魚だという。そんなにも歴史ある人気大衆魚であるにもかかわらず、虱の目の魚と奇妙な名前がつけられ、その理由もわからず、最近の生活水準の向上によって首都では急速に敬遠され始めている哀れな魚。日本が統治した五十年間に日本の養殖業に取り入れられたという話も聞かないし、あろうことか日本のサバと間違えられている。私はマサバなら何度か釣ったことがあるが、全然違うものだ。
実に不可解な魚ではないか?
統計によれば、台北魚市場の取扱い量第一位の魚はテラピア、二位がサバヒー、三位がマナガツオ。年間約三千六百トンに及ぶサバヒーは、ほとんどが台湾南部の台南市・|高雄《カオシヨン》市近郊から輸送されてくるという。
私は、台南市に行ってみようと思った。
別名国聖魚
台北から高速バスでおよそ四時間、人口約六十六万の古都台南は熱帯の町である。そこここに|椰子《やし》や榕樹(ガジュマル)やバナナが繁り、陽光はきらめき眩しく、吹く風も熱い。
台南はまた、食道楽の台湾でも名だたる食い倒れの町だ。台湾全土に名の通った食べ物屋も少なくない。名物|担仔麺《タンツーメン》で知られる老舗〈渡小月〉、元祖棺材板が売り物の|沙利巴《サカリバ》(日本時代の“盛り場”がそのまま地名になっている)の〈赤嵌館〉、かつての民族路沿いの屋台がゴッソリと移転してできた熱気と喧騒の大屋台街|小北《シヤオペイ》……。
もちろんこれら大小の店は後日残らず訪れたが、到着そうそう真っ先に足を向けたのは有名な海鮮料理店〈阿霞飯店〉だった。言うまでもなく、サバヒー試食のためである。
六十四歳になる店の女主人呉錦霞が作ってくれたサバヒー料理は炸虱目魚肚、つまり腹の部分のフライだった。サバヒーは脂の乗った腹の部分が一番おいしいとされているのだ。
ところが、これがいけなかった。同時に出されたほかの海鮮料理は、前菜のカラスミ、スッポンのスープ、メイン・ディッシュの蒸したカニ飯、どれも申し分のない珍味なのに、なまじ期待が大きいせいか、サバヒーのフライだけがいただけない。味は単なるアジフライ風、小骨が多い分、よけい食べにくい。
「サバヒーっていったら、昔はもっぱらスープ用でしたからね。料理と言っても……」
女主人は申し訳なさそうに言ったが、考えてみれば、一流料理店の料理に合わないところが大衆魚の大衆魚たる|所以《ゆえん》かもしれない。
翌日私は、台南市郊外の海埔新生地に、台湾省水産試験所台南分所の丁雲源所長を訪ねた。日本の広島大学水産学部に学んだ台湾養殖魚界の第一人者である。
「さっそくですが、まず名前のことですけど、なぜ虱と全然似たところのないサバヒーを虱の目の魚と言うのでしょうか?」
尋ねると、丁所長はニッコリ笑い、研究室の片隅の冷蔵庫を開いてカチカチに凍ったサバヒーを一尾、手に下げて戻ってきた。
「ごらんなさい、これ。両目が脂肪性の膜で被われているでしょ?」
台北の薄暗い魚市場で見た時は気がつかなかったが、言われてみると確かに、サバヒーの両目は透明な厚い膜に被われている。
「だから、塞目魚と書いてサバヒーと言うんです。麻塞目魚と書いてマサバヒーとも呼ぶ。それがいつの頃からか音だけが残り、虱目魚という同じ音の字を当てられたんです」
奇妙な名前の由来、マサバとの混同、二つの謎が一挙に氷解する説明だった。
丁所長によると、サバヒーは台南を中心として三百年以上前から養殖されているという。台南市の中心街から二十五キロほど離れた試験所一帯は見渡す限りの養殖池だが、その多くがサバヒーのもの。ウナギの養殖は|屏東《ピントン》県と|彰化《ツアンホウア》県、スッポンが台北県と屏東県、そしてサバヒー、テラピア、それに金額的には最大のエビの養殖が台南・高雄両県でそれぞれ行なわれているのだ。
「海に近いこのあたりの土地は砂混じりの平坦地で、少し掘ると海水が流入する。農耕には向きません。でも、だからこそ、海水産の魚の養殖に適していたわけです」
サバヒーはインド洋から太平洋にかけての熱帯水域に分布する海水魚だった。ただし広塩性で河川でも生息できる。ネズミギス目サバヒー科に属し英名はミルク・フィッシュ。
一般に群を作らず、沖合のかなり深いところを相当の速度で泳ぐため、漁船の網にかかることはめったにないが、毎年三月から十月の産卵期に稚魚が大挙して台湾の南部海岸に押し寄せてくるので、その稚魚を捕獲して池で養殖する技術が発達したのである。
「六年ほど前に人口孵化に成功しましたが、養殖の基本部分は昔とあまり変わりありません」
白っぽい地味な服装に分厚い眼鏡、いかにも研究者然とした五十歳の所長は、狭いテーブルの上に各種資料を広げて熱っぽく語った。
「生後一週間までは餌として小麦粉を与えます。その後は米ヌカです。これは食べさせるためではなく、藻類を培養するためです。サバヒーは歯がありませんから食べるのは藍藻、珪藻、緑藻などの藻類。水深三十センチから五十センチの浅い池の中で、太陽光線により藻類は自然繁殖します。成長は早い方ですよ。一カ月で約十センチ、五、六カ月もすれば体長四十センチ重さ四百グラムにもなって、こうなると出荷できます」
ただし、自然状態では二十年近い寿命で体長百八十センチに達するものもあるが、養殖池ではせいぜい七十センチ、寿命も十三年がこれまでの最高だという。
それからなおしばらく、養殖池の作り方、飼育密度、水温の問題、最近増えてきた淡水の深掘り池のことなど、専門的な話題が続いたが、私は、丁所長がふと洩らした言葉に思わず身を乗りだした。
「サバヒーに関してはいろいろありますよ。何しろ鄭成功以来の養殖ですからね」
「テイセイコーって、あの|国姓爺《こくせんや》の?」
「ええ。サバヒーの養殖はあの鄭成功の台湾統治とともに始まったとされてます。だから国聖魚とか安平魚とかの別名もあるんです」
サバヒーの別名が国聖魚、安平魚……。
予想もしなかった結びつきだった。孤島台湾と大陸中国の交流は有史以来のものだが、本格的な漢民族の移住と中国文化の流入は今から三百二十数年まえ、明の遺臣鄭成功が|安平《アンピン》に陣取るオランダ軍を打ち破った時に始まるとされている。いわば、鄭成功と彼の安平攻略は近代台湾史の出発点と言っていい。そんな輝かしい名前を、あの、虱目の魚と当て字されたサバヒーが受けついでいるとは……。
「で、どうなんです? 養殖魚としての国聖魚サバヒーの将来は?」
多少意気込んで尋ねてみた。
「あんまり、パッとしませんね」
丁所長は苦笑いして腕を組んだ。
理由はやはり値段の問題だという。サバヒーの出荷価格はずっと下降傾向にあり、現在は一斤(約六百グラム)が三〇元から五〇元(百五十円〜二百五十円)。五、六年前に比べても半値近い。サバヒーやテラピアを|諦《あきら》めて、エビ、ハタ、クロダイといった値のいい魚に切り換える経営者が続出しているのだ(ちなみに台北の魚市場での卸値は、一斤当たりサバヒーが四五元、テラピア七〇元、タイ一五〇元、ハタ二四〇元だった)。
「ウチの試験所が今一番力を入れて取り組んでいるものですか? むろんサバヒーじゃありません。よろしいですよ、これからご案内しましょう」
丁所長は立ち上がり、今後新たな需要が期待されているという外国産手長エビの、飼育水槽へと向かった。
オランダ、日本、台湾
|安平古堡《アンピンクーパオ》の展望台に立っていた。その昔オランダ人が築いたゼーランディア城の跡である。
安平は台南市中心街から西方へ約五キロ、現在は市内の外れにある人口一万八千ほどの台湾海峡沿いの町にすぎないが、かつては全台湾の中心地だった。いや、台湾そのものの発祥地と呼んでも間違いではない。
日本との交易拠点を渇望するオランダが、|澎湖島《ペンフータオ》退去と引き換えにこの地にやって来た一六二四年、沖に伸びた飛び石状の七つの小島が海を囲み、広大な入江を形成するこのあたりは“台湾”と呼ばれていた。
一六三四年、オランダはその“台湾”を形作る島々の先端の島(一鯤身)に砦を築いた。これがゼーランディア城(紅毛城)である。
その後オランダは、湾内の河口の集落(現在の台南市)にプロヴィンシア城(赤嵌楼)を建設し、武力による討伐と宣教師による教化を織り混ぜながら先住民を支配、日中貿易を独占して莫大な利益をあげた。
三十八年間に及ぶオランダの台湾統治は、一六六二年鄭成功の率いる大水軍によってゼーランディア城が落城した時に終わる。けれど、この台湾最初の漢民族政権も三代二十一年しか続かなかった。抗清復明を悲願とする鄭成功は、新たな根拠地に中国式の郡県制を敷き、ゼーランディア城を安平鎮、プロビンシア城を承天府と改めて統治に乗り出したものの、すぐに病死してしまったからだ。鄭氏の時代、大陸からの移民は飛躍的に増えたが、内紛で弱体化した孫の克の時、台湾はついに清朝に平定される……。
赤い三角屋根にガラス張りの窓、モダンな装いの展望台から眺めると、安平を取り囲む無数の養殖池や運河が見えた。
百年ほど前まではすぐ近くに安平港があり、|基隆《チーロン》、|淡水《タンスイ》、高雄とともに台湾の四大港の一つとして栄え、イギリスやドイツの領事館さえあったのだが、河川の土砂の堆積で入江が埋まり、海岸線がすっかり変化した現在は、安平の町全体が養殖池に囲まれた離れ島のようなもの。台湾海峡すら望めない。
昼下がりの展望台で目につくのは、眼下の公園に集まっている老人たちばかりだ。彼らは榕樹の木陰にカラオケ・セットを並べ、古い日本の流行歌を大声で歌っていた。『南国土佐を後にして』『目ン無い千鳥』などが聞こえてくる。
考えてみれば、台湾の歴史はそのもっとも深い部分で日本と因縁めいた関係にあると言える。十七世紀前半オランダ人が来島したのは日中貿易のためだし、彼らを追い払った鄭成功は肥前の平戸生まれの日中混血児。鄭成功の悲願である打倒清朝は日清戦争で日本が代行したと言えなくもないが、その結果台湾は日本の植民地に転落し、五十年間の苦難の道を歩むことになる。現代においても、大陸中国との国交樹立で台湾を手ひどく裏切ったのが日本なら、台湾の加工貿易型経済の発展を機械設備の供給という形で側面援助したのも日本、という具合だ。
日本との因縁で言えば養殖池もそうだった。数年前まで安平周辺でもこぞってサバヒーが養殖され、大雨が降って池の水が溢れると泳ぎ出たサバヒーを道路で|手掴《てづか》みできたというのに、今は大半が輸出用の牛エビ(ブラックタイガー)の池に変わってしまった。最大の輸出先は、言うまでもなく日本である。
安平で知り合った安平郷土館の館長林遠文は、十年ほど前までは、どの家も毎日のようにサバヒーを食べていたと語った。
「天秤棒を担いで売りにくるんですよね。“ウェヒー(売魚)!”って叫びながら。朝のうちはこれが池のサバヒーばっかり、夕方にならないとクロダイやエビ、タコ、イカなどの海のものは売りに来ないんです」
小学校時代に日本語教育を受けたという林館長は日本語が達者だった。それから日本語で「今、家にサバヒーがあります。珍しいものを作ってあげましょう」と言った。
珍しいものとは、デンブ(魚脯)のことだった。各家庭に電気冷蔵庫がなかった頃は、余ったサバヒーをデンブに作り直して保存するのが普通だったらしい。
頭を落とし内臓を取り出したサバヒーの身(醤油・砂糖・塩・化学調味料のタレに漬けておいたもの)を中華鍋に入れ、炭火の七輪にかけ、肉をほぐしつつ掻き回すこと約二時間。小骨を丹念に|箸《はし》で除きながらのそれは根気のいる作業だった。そして、でき上がった茶褐色のサラサラとしたデンブを一口つまんでみると、遠い子供の頃にどこかで食べた覚えのあるような懐しい味がした。
「お粥やご飯に振りかけて食べるととてもおいしいんですよ。それに、えーと、アレは何と言いましたか、そうそうオニギリ、オニギリの中に入れてもいいんです」
遠慮したのだが、林館長は「日本に帰ったらぜひオニギリで食べてみて下さい」と、残りのデンブを袋にギュウ詰めにして持たせてくれたのだった。
ゼーランディア城の展望台から眺めると、狭い露地が入り組み、かつての日本人小学校が今は台湾の小学校として使われている、そんな安平の町並が見える。足許のひときわ大きな廟は天后宮であり、鄭成功時代にもたらされたという台湾でも一番初期の|媽祖《まそ》像三体が安置されていた。隣は永漢民生館、日本で成功した台湾出身の作家兼実業家邱永漢の作った民俗資料館だ。
私は再び台南に戻ることにして、展望台を降りた。日本占領時代にオランダ式建物が破壊されたため、小さな展示館しかない一階に降り立つと、公園の老人たちの日本語カラオケ大会は、ようやく終わったところだった。
稚魚のセリ市
台南市路上の朝のサバヒー粥の屋台。
猛烈な忙しさだった。お粥の丼にさっと湯がいた小粒のカキを一つまみ入れ、肉味噌と揚げたニンニクを乗せてダシ油を注ぎ、その上に|茹《ゆ》でた半身のサバヒーをチャポンと置いただけのものなのだが、出勤途中の人びとが列をなし、作るそばから消えてゆく。
サバヒー粥、一杯六〇元(三百円)。私も食べてみた。サバヒーの脂分がほどよく、小骨も気にならず、なかなかにうまい。サバヒー料理はスープ、フライ、あんかけ、煮物、炒め物といろいろ試してみたが、日本人の口にもっとも合うのは腹の部分のショウガ蒸しだろう。まさにミルク・フィッシュの味だ。次にこのお粥かスープではないかと思う。やはり、古来からある単純素朴な調理法が一番味が引き立つ。
腹心地がついたところで私は、大智街にあるサバヒーの稚魚のセリ市に行ってみることにした。市内に八カ所あるという民間セリ市場のうち大手の一つである。
ところが、着いてみるとセリ市場には客の姿はなかった。幾つも並んだ小型の浅いコンクリート製の水槽の中に|痩《や》せたメダカに似た稚魚が群れていて、その水槽の縁に、手持ちぶさたの使用人が数人腰かけているばかり。
「市内に八軒の市場っていったって、実際に開いているのはウチとあと二、三軒。この商売、年々悪くなってるからねェ」
元西武の東尾投手に容貌の酷似したセリ市場の当主、蘇江清は言った。
蘇社長の話では、十数年前、年間二億尾にも達した取扱い量が現在は五千万尾前後、手数料も一尾当たり最高三〇元(百五十円)まで騰貴したが現在は〇・五角〜一角(〇・二五〜〇・五円)。そのため、セリ市場の経営者であると同時に約三十ヘクタールの養殖池のオーナーでもある蘇社長は、自分の池のサバヒーが成魚になるまで待たず、体長十五センチ弱の段階ですべてマグロなどの釣餌として出荷していると言う。
「でも、稚魚そのものは台南周辺でも獲れてるわけでしょ?」
私は尋ねた。安平で、毎年四月から六月まで運河を溯ってくるサバヒーの稚魚を獲って暮らしている、という漁師に会っていたからだ。
「獲れることは獲れるけど、量が少ないね。公害で海がすっかり汚れてしまったからね」
「じゃ、どうやって稚魚を?」
「輸入ですよ」
蘇は奥の事務所から段ボール箱を持ってこさせた。アルファベットが印刷してあり、フィリピンからの航空便だと言う。サバヒーは台湾ばかりでなくフィリピン、シンガポール、インドネシアでも重要視される食用魚。沿岸の稚魚は、工業化が急速に進んだ台湾よりもこれらの地域の方が安定供給できるらしいのだ。
と、表に二台、車が続けて止まった。この日最初の客である。台南市郊外と|嘉義《チイアイ》からやってきた養殖業者で、それぞれ稚魚十二万尾ずつを買いたいと言う。
「そんなにあるかなァ」
蘇は首を傾げた。このところ入荷量が少ないので、セリも何もなく、あるだけの稚魚を等分してもらうしかないと二人に告げる。
やがて、非常に独特な稚魚の計算が始まった。並んで椅子に坐った使用人たちが、一つのバケツから白い飯茶碗で体長二センチ足らずの稚魚を無造作にすくい取り、数を数えてもう一つのバケツに移し替えるのだが、この時に古くから伝わる数え歌を歌う。「十八匹に十三匹で、三十と一匹……」といった内容らしいが、耳にはポンポンという音がリズミカルに聞こえ、何とものどかな経文のようなもの。百尾数えるごとに、床にチョークで線を記す。
私は、サバヒーならではの儀式めいた数え歌に耳を傾けながら、蘇に尋ねた。
「社長のお宅、後継者はいるんですか?」
蘇は笑って首を振った。蘇家がこの商売を始めて三代目になるが、自分で終わりだろうと言う。息子たちはいるけれど、教育のためアメリカ留学させたら居ついてしまい、現在は妻ともども家族全員がロサンゼルス暮らし。単身赴任のようなものだ。
「でもね、サバヒーは大好物だからしょっちゅう郵送してやってるんだよ。台湾人はやっぱりサバヒーを食べないとね。腹の切身と頭の切身を冷凍にして、航空便でね」
ゴルフ焼けした社長は言って、やっと満足そうに|頷《うなず》いてみせた。
昔と変わらぬ捕獲法
見はるかす限りの養殖池である。
その一つで、今まさにサバヒーの捕獲が行なわれていた。縦三百五十メートル横百五十メートルの緑色に濁った養殖池、その水中に張り渡した長さ三百メートルに近い刺し網を、二手に別れた男女五名ずつの網子が畦道を歩きながら引っ張ると、約三十分後、追い詰められたサバヒーが次々にジャンプし始めた。
台南県七股郷三股村。水産試験所からさほど遠くないある養殖業者の池だった。網上げは六月から十月いっぱい、年に約六回行なわれるが、今回のものは三月に放養した四カ月魚、体長三十センチ平均のサバヒーだった。
網が狭められるに従って跳躍する魚の数が急激に多くなり、日本のボラ追い込み漁を彷彿とさせる。この頃になると網子たちは深さ四十センチ前後の池に入り、|浮子《うき》をたぐりながら網から魚を外し始める。その顔や肩や頭に跳びはねたサバヒーが容赦なくぶつかる。魚体が大きいだけにすさまじい迫力だ。
湧き立つ水面、水しぶきを上げて乱舞する銀鱗。それだけでも一見の価値ありだが、作業をする網子たちのいでたちがまたよかった。全員が編笠を被り、女たちは顔から手首まで覆った台湾風の派手な野良着、男たちは台湾漁師の伝統的衣裳である褐色の腰布をまとい、手に手に捕獲した魚を入れる柄の短いタモ網を握っている。
勇壮にして民俗色溢れる、一幅の絵のような漁獲風景だった。鄭成功の時代から変わったことと言えばおそらく、網がナイロン製になったことと、獲った魚を運ぶ|筏《いかだ》が竹製から塩化ビニール製に変化したことぐらいだろう。
うっとりと眺めながら私は、別のことも思い返していた。なぜ、サバヒー養殖が日本に紹介されなかったか、である。冬になると池の水は抜かれ、翌春の藻類の発生を促すため有機肥料が撒かれる。水産試験所の丁所長はあえて教えなかったけれど、かつてはこれが人糞や豚糞だったのだ。野菜用の施肥としてならまだしも、魚用に人糞や豚糞を使うとなると、日本人には到底受け入れがたい飼育法になってしまう。
約一時間後、すべての作業が終わった。
例の竹籠に五十尾ずつ整然と並べたサバヒーがちょうど百籠、道端に停車していたトラックに積み込まれた。私は運転手に聞いた。
「これからどこへ運ぶの?」
「台北の市場だ。明日の朝セリにかける」
運転手はエンジンをかけながら答えた。
ここで、竹籠の上にビッシリ詰められた氷を目にし、初めて理解できたのだが、サバヒーは昔から遠距離を輸送された魚、こうして頭を上にした特殊な並べ方をしないと、各魚体が溶けた氷で充分均等に冷えないのだった。
トラックは砂塵を巻き上げて発車した。
台湾でもっとも古くから食されてきた大衆的な魚、その大衆性ゆえに、生活水準の向上とともに忘れ去られつつある魚が、南国の夕陽の強烈な光と|土埃《つちぼこり》の中に消えていった――。
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二千六百キロ、
日本兵の
漂流――─
ポリリオ島
些細にして特異な事件
フィリピンのルソン島東海岸、ケソン州レアルの町の上空は一面白雲に覆われていたが、海はベタ|凪《なぎ》、暑くもなく、しばらくは天候も崩れそうにない。まずは絶好の航海|日和《びより》と言えた。
私の目の前にはチャーターしたばかりの一隻の舟があった。タガログ語でバンカと呼ぶアウトリガー式のカヌーである。
全長約八メートル、幅約一メートル、深さ約一メートル。前と後ろに両端が折れ曲がった二本の木の棒が|括《くく》りつけてあり、右側に三本左側に三本、計六本の太い竹がフロートとしてついている。四十年前には船体中央に三メートル近い帆柱が立っていたのだろうが、今はもちろん浜辺に並べてあるその他のバンカ同様、船尾にエンジンが取りつけてあるモーターボート・スタイルだ。
それまで絵や写真でしか見たことのなかったバンカを初めて間近で見て、私は思ったより幅が狭く小さいのに驚いた。
約四十年前、九人の日本兵がフィリピンの戦場から日本までおよそ二千六百キロを帆走して帰ったのは、長さ約六メートル、幅約一メートルの帆柱つきアウトリガーのバンカだった。同じような形で同じ幅だが、私がチャーターしたバンカより多少短いことになる。
これでさえ大人が五、六人乗れば窮屈そうなのに、より小型のバンカによくも九人も乗れたものだ、それも一カ月も……。あらためてそう思った。
感慨にふける私をよそに、浜辺に集まっていた男たちによってバンカは波静かな海面に軽々と浮かんだ。私と通訳と案内人と操縦者二人、計五人の男が若干の食料とともに乗り込む。
バンカは派手なエンジン音を響かせ白波|蹴《け》たてて出発した。水平線上約三十キロの彼方、うっすらと横たわるポリリョ島目指して。
昭和二十一年(一九四六年)六月十一日、西田定一軍曹以下九人の日本兵が一隻のカヌーに乗ってフィリピンの戦場から自力生還したという事件は、どんな戦史にも登場しない。防衛庁防衛研修所戦史部でも厚生省援護局調査資料室でも、「そんな話聞いたことない」と言われた。きわめて異例で珍しいが、しかし、第二次大戦のエピソードとしては些細な出来事と言える。
私は昭和五十七年(一九八二年)二月、なにげなく見ていたテレビ番組(TBS『世界の航海・後編』)に西田が登場し、「我々はこんなカヌーでフィリピンから帰ってきました」とスタジオの特製カヌーを指差した時、思わずテレビの前で身震いした。
フィリピンの戦場からの自力生還、あの戦争でそんなことが可能だったのか? もしも可能だったとしたら、一体どうやって? カヌーで一カ月の決死行とは? ……純粋な戦史への興味というより、素朴な好奇心を著しく刺激されたといった方がいいかもしれない。
日本人に、農耕民族としての特質ばかりでなく海洋民族としての特質もあるとしたら、南方アジアからのカヌーによる生還という歴史的な記録は看過できない。事件としては些細でも、“海上の道”を通じて、日本列島がアジア諸地域と深く結ばれていた証しになるはずだ。
オムニバス形式のテレビ番組の中で西田の登場した場面はわずか十分足らずだった。これだけでは何のことだかわからなかった。そこで私は、以後約三年間、仕事の合間を縫って九人の元日本兵たちを訪ねてみた。九人のうち、物故者が二人いるため、直接会うことができたのは次の七人である。
西田定一(67歳)元陸軍軍曹 兵庫県出身 現在兵庫県佐用郡南光町で農業
坂端勝一(69歳)元陸軍兵長 鳥取県出身 現在鳥取県米子市で会社嘱託
藤原親之助(75歳)元陸軍上等兵 兵庫県出身 現在兵庫県宝塚市で年金生活
柳本佐一(78歳)元海軍主計兵長 滋賀県出身 現在愛知県名古屋市で菓子店経営
杉本富喜(65歳)元海軍兵長 福井県出身 現在福井県福井市で織物製造業経営
鈴木一雄(65歳)元海軍一等水兵 新潟県出身 現在東京都東村山市で運輸会社嘱託
剣持政市(63歳)元海軍二等水兵 新潟県出身 現在新潟県南魚沼郡で農業
彼ら七人とは何度か会って話を聞いた。七人は〈カヌー戦友会〉と称する会合を二年に一度ずつ開いているので、その席にも二度出席させてもらった。また、すでに死亡した二人(沓掛世嗣=元陸軍上等兵・長野県出身、森治男=元陸軍一等兵、茨城県出身)については、七人の生存者から話を聞くとともに、家族にもそれぞれの思い出を尋ねた。
その結果、幾つかの不明な点や疑問点は残るものの、出航前の戦地での様子と航海のあらましの大体のところは理解できた。さてそうなると、どうしても見てみたいのは現場である。特に“奇跡の航海”の出発地フィリピンのポリリオ島(正確にはポリリョ島だが七人全員がポリリオ島と呼んでいるので以下ポリリオ島と記す)だ。
昭和五十九年(一九八四年)八月四日、私はマニラからバスで約六時間の町レアルからバンカに乗ってポリリオ島に向かった。
“日本人の穴”
ポリリオ島は平坦な緑の島である。
中央よりやや南に島内最高のマロロ山(標高三百四十五メートル)があり、海上から眺めるとそこだけ多少膨らんで見えるが、全体にほとんど凹凸はない。南北の長さは四十六キロ、東西十五キロ、幾らかS字型を呈して細長く、面積は約八百六十五平方キロ。日本の佐渡島に近い大きさがある。
人口約二万の大半は南部のポリリオ町に集中しているが、私が用があるのはあまり人が住んでいない島の東北部だった。そこには複雑な入江と波静かなサンゴ礁の海があり、大小無数の島々が散らばっている。つまり、小舟を操りながら島々の椰子やバナナをかすめ取り、危なくなったらサッと身を隠すのに恰好の地形というわけで、事実生還した九人は、ポリリオ島東北部のこの地形を最大限利用して一年以上に及ぶ自活生活を乗り切った。同じ敗残兵でも、食物や水や塩が極端に欠乏し移動手段など望むべくもなかったルソン本島の日本兵たちとは、最初から条件が違っていたのだ。
私は、生還者たちが夜毎徘徊した場所を、明るい昼の光の下で丸二日間にわたってバンカで訪ね歩いた。最大の激戦地でその後彼らが何度か徴発に行ったことのあるブルデオス、西田ら陸軍兵が上官とはぐれたイコル島、みごとな椰子林があって椰子の補給地だったアニロン島、最後に残った十七人の日本兵の本拠地だったアナワン島……。もっとも隠れ住んだ日本兵たちは、アニロン島を椰子島、アナワン島を|家《うち》の島と、自分たちが勝手につけた名前で呼びあっていたのだが。
そして八月五日の午後、私はいよいよ最後の目的地バンラ岬を訪れた。
バンラ岬はポリリオ島の最東北部にある長さ約七キロほどの岬である。その根元のアニバ湾奥に、西田らの陸軍情報隊と柳本らの海軍対空監視隊の二つの兵舎があった。昭和十九年の八月と九月、海軍の小隊と陸軍の分隊が相次いでこの地に電探(電波探知機)要員として派遣されたことから、すべてが始まった。そしてここはまた、昭和二十一年五月十三日夜半、九人の日本兵が湧水を汲んだあとバンカで旅立った、あの大航海のそもそもの出発地でもある。
バンラ岬の根元にあるカルラガンという部落では、急な訪問にもかかわらず、部落長が出迎えてくれた。部落長によれば現在カルラガンに十七戸ある家は、一九四六年(昭和二十一年)彼がこの地に移住して来た時は四戸だったと言う。部落長自身は旧日本兵のことを何も知らなかった。
しかしこの部落にはジャパニーズ・パクソル(日本人の穴)と呼ばれる洞窟があると言う。早速私は行ってみることにした。
元日本兵たちから聞いていた通りだった。洞窟は部落の裏手の椰子林を少し登った小山の中腹にあった。バンラ岬の根元の椰子林の中にはかつての海軍の兵舎があり、その近くの小山の中腹の岩穴には電波探知機が置かれていたのだ。電探機材が最後まで輸送されなかった陸軍は、そこから情報をわけてもらっていた。
「ここだ、この穴だ」、案内してくれた部落の男が指差した。
私は頷いた。すでに入口は九割がた土で埋められていたものの、幅三メートル奥行き五メートルほどの岩穴を覗くと、天井や壁にはまだシャベルやツルハシの跡が生々しく残っていた。
「日本兵は一九四四年八月にやって来た」
一人の肉付きのいい男が言い、もう一人も、
「俺たちはその頃、山に隠れていた」
と言った。五十六歳と五十七歳の農民は、当時のことを断片的ながら覚えていた。
二人によれば、当時ポリリオ島はアメリカ人バーナード・アンダーソン率いるアンダーソン・ゲリラの支配下にあり、日本兵が兵舎を建てる前年の一九四三年(昭和十八年)にはバンラ岬にもゲリラたちが姿を見せるようになったと言う。生還者たちの回想では「最初の頃、バンラ岬の現地人たちは食料を持って来てくれたりして非常に友好的だった」ことになっているが、実はすでに、現地人とゲリラは密接につながっていた。戦前、フィリピンは統治国アメリカによって一九四六年の独立を約束されており、人びとは親米的だった。日本軍によって“解放”される必要性など感じていなかった。開戦時からフィリピン陸軍はダグラス・マッカーサー傘下の極東米陸軍に編入されていたので、ゲリラは米軍の手足となっていたのである。
「俺たちもゲリラになりたかったけど、子供はダメだって入れてもらえなかった」
太った男は、煙草を吐き捨てて言った。
私は二人にアナワン島(家の島)に隠れていた日本兵のことを尋ねてみた。二人は知っていると答えた。あそこの日本兵はこの一帯最後の生き残りで、一九四六年(昭和二十一年)六月、八人全員が逮捕されたのだ、と。
「いや、それは半分で、残りの九名はバンカに乗って自力で日本まで帰ったんだ」
私が言うと二人はびっくりした。日本まで生きて帰ったことよりも、八人以外にまだ日本兵がいたことに驚いていた(八人というのは宮崎修一〈仮名〉兵長以下八人で、西田らの出航後対岸の町インファンタに渡り、そこで捕まり、収容所に収容された。後日、全員が帰国)。
「隠れてた日本兵は泥棒だった。椰子泥棒でバナナ泥棒だった。奴らは、なぜあんなことしながら隠れてたんだ?」
「泥棒しろっていうのがゼネラル山下の命令か?」
二人の農民は口々に言った。私は首を振ったが、何と答えていいのかわからなかった。
日本がアジアの庶民に対して、過去の西欧列強につらなる帝国主義的暴力をふるったこと、しかもお粗末きわまりない国力と意識でもってそれを断行したことに、改めて、非常な恥ずかしさとある種の痛ましさを感じざるを得なかった。
帰り道、部落の外れの小川のところで湧水を見た。昔「チョロチョロ出ていた」はずの湧水は豊かに溢れ出ていた。しかし、何人もの女たちがいっせいに洗濯しているのでひどく汚れ、濁っていた。
私は女たちの怪訝そうな視線を浴びながら、九人の日本兵は四十年前この場所から水を汲み、“勇躍”出発したのではなく、やはり何かしら“追われるように”バンカを漕ぎ出したのではないかと思った。
密林の十七人
昭和二十一年一月、ポリリオ島で二度目の正月を迎えるにあたって、それまで家の島の南の浜と北の浜にそれぞれ別々に生活していた西田班と宮崎班は、ほぼ半年ぶりに合流することになった。
半年前の五月、同一行動をとるよう何度か宮崎を説得したにもかかわらず聞き入れられなかった西田班の坂端兵長(二十九歳)は、当然だと思った。確かに西田軍曹(二十七歳)には大言壮語、独断専行するところがあるが、だからと言って上官を「無能」呼ばわりし勝手な行動をとることは許されない。軍隊では階級が絶対だからだ。宮崎が突然現われ合流を申し入れたのは宮崎班内部の内輪モメが原因らしかったが、坂端は理由は問わなかった。ただ、先任兵長として、「西田班長に従うことが条件だ」と言い聞かせた。宮崎兵長は、頷いた。
西田班内で熱心に食糧管理を推し進めてきた藤原上等兵(三十五歳)にとっても、宮崎班との合流は願ってもないことだった。
召集前、繊維工場の総務課長の職にあって百人からの工員の食事に携わってきた藤原は、食糧の絶対量が限られている以上、管理は当たり前と思っていた。一人当たり一日に、バナナ二十〜三十本、椰子の実一〜二個、カモテ|芋《いも》週に一度、トウモロコシとパイナップル月に一度。島ごとに食物の採取量や収穫の時期を決めておき、それ以外は採らない。食用樹木の幹も切り倒さない。その他の各種の貝や魚、水牛などの動物性食物は随時手に入った時に食べることにする。水牛肉は燻製肉として保存食に。これが、西田班で厳格に実施してきた食糧管理の概要だった。
藤原らは同様の食糧管理を行なうよう宮崎班にも掛け合ったが、|一蹴《いつしゆう》された。杉本兵長(二十五歳)などは、「生えとる椰子やバナナはあんたらのもんか!」と食ってかかった。それが合流して西田班式に自制するとなれば、こんなケッコウなことはない。戦況が不明で隠遁生活をいつまで続ければいいかわからない現状では食物確保は最重要課題だ。「足代わりのバンカと厳しい食糧管理さえあれば、わしのような戦闘能力のないロートルでもまだまだ生きて行ける」藤原はそう思った。
宮崎班の柳本兵長(三十八歳)以下の海軍兵たちにとっては、二班の合流は、我慢に我慢を重ねた末の止むを得ぬ選択だった。
宮崎班の中で陸軍は宮崎兵長と沓掛上等兵(三十七歳)の二人きり、残り七人は全部海軍兵である。海軍兵の中には宮崎と同じ兵長が二人(柳本と杉本)もいる。なのに宮崎が主導権を握ったのは、ことあるごとに勇猛果敢な指導力を示したからだ。七カ月前ポリリオ島の全海軍兵二十余名はルソン本島に渡るべくカッター(大型の手漕ぎボート)に乗ってバンラ岬を発った。ところが途中ビスリアンの浜辺に上陸している際ゲリラに奇襲され、指揮官の斎藤兵曹長を含む四名(他に陸軍兵一名)が殺された。残された海軍兵のうち約半数は「それでもルソン島に渡る」と小さなバンカに乗り込んだが、柳本らは危険すぎるからと浜辺に残った。そして取りあえず陸路バンラ岬に戻ることになった時、西田軍曹が本部への連絡係として海軍に同行させた宮崎兵長が、「自分は南方戦線で何度も密林を突破したことがある」と先頭に立ったのだ。陸戦の体験のない海軍兵たちに異存はなかった。
以来、宮崎は班長として振る舞った。なるほど、宮崎は勇敢だった。食料徴発で現地人の家に踏み込む時、米比軍との小競り合いの時、真っ先に危ない役を引き受ける。状況判断能力も優れていた。だから西田班と出会って、宮崎が「我々は別行動をとる」と宣言した時、柳本ら海軍兵は黙って宮崎に従ったのだ。
けれど、それももう終わりだった。新潟県生まれの剣持政市二等水兵(二十三歳)は班内で一番おとなしかった。物心ついてから山中での炭焼きしか知らず、三カ月の基礎訓練しか受けてない新兵なので誰の命令にも素直だった。その剣持が「我慢の限界」と思ったのだ。
二カ月ほど前現地人の家を襲撃した時に宮崎が連れ帰った女のことだった。全員が厄介なことになったと思ったが誰も文句は言わなかった。本来なら先任兵長の柳本が忠告すべきだが、元コックで主計兵の柳本は渋い顔を見せただけだった。女は家の島の棲家近くの小屋に住み、昼は水汲みや炊事の手伝い、夜は宮崎の慰み物になった。数週間後、海軍兵の恐れていたことが現実となった。女を取り戻すための現地人の襲撃があり、女が逃走したのだ。
「お前らがちゃんと見張ってないからだ!」宮崎は怒鳴ったが、柳本も剣持ももはやこれまでだと思った。これ以上勝手なことをするのなら、殺すしかない、と。
班内で孤立した宮崎が悄然と西田班を訪れたのは、それから間もなくのことだった。
昭和二十年の初めにバンラ岬で無線機や電波探知機を破壊し、玉砕覚悟でブルデオス陣地に集結してからおよそ一年がたっていた。戦況の変化でブルデオスから脱出することになり、結局十七人が生き残って島々を転々とし家の島を中心に自活してきたが、それぞれの本隊(陸軍は第十航空情報連隊、海軍は第三十二特別根拠地隊)との連絡はずっと跡絶えたままだ。
広島逓信講習所を卒業した電信技術者の坂端は、無線機と切り離されてからいろいろと考えるようになった。徴発という名の略奪は、二班の合流後一段と大胆になった。生きて行くためには止むを得ないこととは言え、昼間密林に潜み夜になると出歩いて略奪を重ねるなど、戦闘ではなく強盗だと思った。日がたつにつれ虚しさが募ってくる。
そんな気持の時唯一の救いに思えたのが、台湾への脱出行だった。台湾への脱出、というより台湾の友軍との合流である。それはブルデオス陣地を撤退してしばらく後にはすでに考えていたことだ。連隊本部との通信が絶え、救援もなく、空を飛ぶのは星印の敵機ばかり。敵機動部隊のリンガエン湾上陸と相前後してクラーク基地西方の本部との連絡が跡絶えたのだから、状況を総合すると、ルソン島はすでに敵の手に落ちていると見た方がいい。とすると、ルソン島へ渡るより直接台湾へ渡った方が得策に思えた。
けれど問題は方法だ。坂端はポリリオ島に配属されるまで連隊本部にいた関係でフィリピンの全島地図を持っていた。また、腕時計には小さいながら磁石もついている。地図と磁石があれば少なくともバシー海峡の手前までは行けるはずだ。ただし、その二つに加えて、外洋用の丈夫な船が手に入れば、の話だが。
数カ月前坂端がもっとも信頼する藤原上等兵に計画を打ち明けた時も、その点を突かれた。「どこでそんな船を手に入れるんや?」と。ところが、最近は藤原の方から何度も“あの計画”のことを持ち出すようになった。「やりまひょな、どうせ死ぬんならちょっとでも日本に近い方がええわ」と言うのだ。
坂端はとりあえず陸軍兵全員の意見を聞くことにした。藤原、沓掛、山田の三人はすぐに賛成した。宮崎、水野、小林は反対だった。班長の西田とその他の者は、「主旨には賛成だが実際問題として不可能だろう」と答えた。
坂端はまだ迷っていた。自分から言い出したものの、果たしてそんな大それたことができるのかどうか、まったく自信がなかった。けれど、|希望《ヽヽ》としては|いずれ《ヽヽヽ》決行したい。そのためにはまず、舟の操作を覚えることだ。手持ちの七隻の舟はいずれも二、三人乗りの丸木舟のバンカだった。いくら何でも、これらのバンカに手製のオールでバシー海峡を漕ぎ渡れるとは、坂端も思わなかった。外洋を航海するとなれば当然帆が必要だ。そこで坂端ら賛成派四人は、浜辺に流れ着いたキャンバス地の布を縫い合わせ、にわか作りの帆と帆柱を作った。そして夜毎海に出て、帆の操作の訓練を始めたのである。
海軍の鈴木一雄一等水兵(二十五歳)は、ある日西田軍曹から不意に尋ねられて驚いた。
「どうやろうなァ、バンカで台湾まで行ってそこで友軍の戦力に加わろうという話があるんやけど、バンカで台湾、行けるやろか?」
陸軍の一部でそんな話が交わされているのは知っていたが、鈴木はまさか班長までその気だとは思わなかった。思わず、ゾッとした。
軍隊に入る前、鈴木は漁船員だった。入隊後も、護衛艦の乗組員として何度か台湾・フィリピン間の海、いわゆるバシー海峡を渡っている。柳本は主計兵、杉本は通信兵、その他の海軍兵もいずれも新兵で航海経験が乏しいところから、西田はもっとも海に詳しい男として鈴木に尋ねたのだろうが、鈴木は即答せざるを得なかった。
「無理ですよ。絶対行けません!」
バシー海峡と言えば敵潜水艦がウヨウヨといる危険な海域であるとともに、有名な海の難所だ。鈴木の乗っていた護衛艦は七百トン以上あったが、まるで木の葉のように荒波にもまれ、その恐ろしさといったらなかった。老練な船乗りでも無事通過するまでは顔が引きつる。そこを、日本の櫓漕ぎ船よりも小さなバンカで漕ぎ渡ろうというのか? それも、サンゴ礁内の波静かな海しか知らないズブの素人ばかりで? とても正気の沙汰とは思えなかった。
大体、と鈴木は思った。台湾渡航派の坂端兵長に断固反対している宮崎兵長の言っていることには一理も二理もある。軍人精神の塊である宮崎は常々言っていた。
「いやしくも帝国の軍人が上官の命令もなしに勝手に戦場を離れていいと思っているのか。戦争は長期化しているが、むろん最後の勝利は我国にある。我々はその時まで、石にかじりついてもこの地を死守すべきなのだ」
まさしく正論だった。正論であるからこそ、宮崎にそう言われると坂端兵長も何も反論できなかった。鈴木自身、形勢は八割がた日本に不利に傾いていると感じていたが、まだ反撃の機会は巡ってくると信じていた。いつか、再び、日の丸をつけた友軍機が大挙して飛来して来ると、ほとんど祈りに似た気持で思っていた。丸木舟でバシー海峡に漕ぎ出すなど、とんでもないことだった。
全長六メートルの大型バンカ
昭和二十一年四月中旬、西田軍曹は台湾行きを決意した。熟慮した上での結論だった。台湾行きの意志が固いのは坂端・藤原・沓掛・山田の四人だけだったので、全員を集め西田を含めた陸軍兵五人のみで連絡兵として台湾に渡ることを告げると、柳本ら七人の海軍兵は相談の末、同行したいと申し出た。すると最後まで反対していた宮崎ら五人も、「我々だけこんなところに残っていても仕方がない」と不承不承賛成に回った。
十七人全員で台湾に渡る。|急遽《きゆうきよ》そういう結論に達した。となると、早急に必要なのは全員が乗り込めるほどの大型のバンカである。
ホマリグ島はポリリオ島東岸に連なる島々のうち最東端にある大きな島だった。太平洋に面しているので住民は必ず外洋用の大型のバンカを持っているはず、西田軍曹はそう考えた。
十七人は七隻の小型バンカに分乗し、三晩かけてホマリグ島に向かうことにした。
四月二十五日の早朝、一行はホマリグ島の海岸に着いた。早速捜索を始めると、案の定、波打ち際に一隻の大型バンカが置いてあった。全長約六メートル。これまで見たこともないほど大きな舟で、丈夫そうな帆柱と新しい帆も二枚付いている。西田は一目見て、「これだ、これなら台湾に渡れる!」と思った。
けれども、二人三人と姿を見せ始めた現地人の男たちの顔には明らかな敵意があった。
一同は互いに目配せしながら、男たちに煙草を差し出し笑顔で話しかけた。そして、一瞬のスキを突いて、「舟に乗れ! 逃げろ!」と叫んだ。西田は一人の男の腕を取り、その頭に拳銃を突きつけていた。
部落の男たちは仲間を人質にとられているので身動きができなかった。宮崎らが小さなバンカに乗って充分に沖まで出た頃、西田は人質の男と一緒に坂端や鈴木の待つその大型のバンカに乗り込み、岸を離れた。
ホマリグ島のかなり沖合まで来た時、住民たちは同じように大きなバンカで追いかけて来て発砲したが、当たらなかった。人質の男を海に解放すると、その追跡の舟も諦めたのか、それ以上追いかけてはこない。
奪ったバンカは素晴らしかった。それまでの手漕ぎの舟とは比べものにならない速度で波の上を滑走して行く。初めて帆付きのバンカに乗った鈴木も、「こりゃ、日本の帆掛け舟と似たようなもんだよ」と楽々と四メートル四方はある帆を操っている。
兵庫県の農村で生まれ育った西田は、船のことも帆のことも何も知らなかったが、「これなら大丈夫」とようやく思った。ポリリオ島を引き揚げて台湾へ渡る計画は、実は、坂端に言われる前から西田自身ひそかに考えていたことだった。ポリリオ島の浜辺で拾った米軍の投降勧告ビラには、昨年八月すでに戦争は終わり日本は降服を申し出たと書いてあった。その時は他の兵の手前一笑に付したが、|膠着《こうちやく》状態が続いて何の展開もない戦況を見ると、あり得ないことではない。仮に戦争が終結したとすれば、こんな南海の孤島で泥棒猫のような暮らしを続けるのは愚かだった。捕虜になるのを避けるため自力でも日本に帰るべきで、それが無理ならせめて台湾へでも。……ただ一つ、気掛かりがあった。
もしもまだ、戦争が継続中だった場合である。もしも戦争が続いていれば、バンカで日本へ向かうことは戦線離脱に当たり敵前逃亡の罪になる。軍法会議で極刑ものだ。宮崎の言う通りだった。敵前逃亡の疑いをかけられないためには、あくまで行く先は日本本土ではなく台湾でなければならない。戦争継続中なら台湾でも戦闘中のはずで、「連隊本部との連絡が不能になったため台湾友軍との合流をはかった」という大義名分ができる。
「やはり、この舟で台湾を目指すべきだ」
快い海風にボサボサの髪と髭をなぶらせながら、西田は自分に言い聞かせた。
昭和二十一年の五月も十日をすぎた。ホマリグ島で帆付きのバンカを奪取してからすでに二週間がたっていたが、ここまで手間どったのは、アニバ湾河口で発見したもう一隻の大型バンカが虫喰い孔だらけで浸水がひどくその修理に時間を要したのと、食事中奇襲を受け鈴木一等水兵が大腿部に軽傷を負ったからだった。が、補修が終わり、鈴木の傷も癒えると、二隻のバンカと十七名の日本兵の台湾行きを妨げるものは何もない。西田軍曹は全員を集め、各舟への乗り組み人員を発表した。ホマリグ島で奪った一番舟には西田以下十名、アニバ湾で見つけた二番舟には宮崎以下七名である。そして、出発を五月二十日夕刻家の島からと決め、それまでに椰子島やバンラ岬で必要な食料を積み込むことにした。
発表を聞いて柳本が言った。
「そやな、やっぱり五月中に出発せないかん。六月に入ったら風が変わるからな」
夏場の台風は避けねばならない、というのが気象に一家言を持つ柳本の主張だった。
するといきなり、宮崎が立ち上がった。
「それよりも俺たちの二番舟だ。あれじゃどう考えても台湾まで行けるとは思えん。我々はもっと大きな舟を探してみる、なァ」
水野上等兵を見やると、水野も、
「その通りだ。あんなボロ舟じゃ外海に出たとたん引っくり返っちまう。わしらは、もっとちゃんとした舟を手に入れるまで出発を遅らせた方がいいと思う」
目の据わった表情で言った。同じ二番舟乗り組みと決まった杉本や林も頷いている。
これを聞いて、ふだん温厚でおっとりとしている藤原が珍しく声を荒らげた。
「何を言うてんのや。ボロ舟もエエ舟もあるかいな。海に出たらどっちも木っ葉舟や、どっちみち死を覚悟の航海とちゃうのか!」
坂端も口を挟んだ。
「藤原の言う通りだ。死を覚悟の航海だけん最初から希望者だけを募ったんだ。第一、あれ以上おっきな舟がまだ近くの島にあるとは思えんだろが、そうじゃろ?」
しかし、宮崎や水野は納得しなかった。二番舟以上のバンカがあるかないかは探してみなければわからぬと言う。西田の説得も無駄だった。宮崎は、五月二十日の出発ギリギリまで、とにかく自分たちはもっと大きくて頑丈な舟を探してみると言い張った。
十六日の夜、西田らの一番舟は予定通り椰子島へ航海用の椰子を採りに出かけることになった。けれど宮崎ら二番舟の面々は、前日のパトナノンガン島に引き続きこの日はパラサン島に舟探しに行くと言う。二隻別々の方角だった。
出発間際になって、突然二番舟の杉本が激しい腹痛に襲われた。猛烈な下痢である。そこで西田は、その杉本と、数日前足首を捻挫して足を引き摺っている森治男一等兵(二十九歳)を自分たちの一番舟に引き取り、代わりに山田以下三人を二番舟に乗せた。
こうして、一番舟の九人は椰子島へ、二番舟の八人はパラサン島へと向かった。
椰子島に着いて朝早く、浜辺に出た一番舟の九人は仰天した。岩場といわず砂浜といわず、雪でも降り積もったように真っ白なのだ。拾い上げてみるとビラだった。白い紙片があたり一面|撒《ま》き散らされている。
投降勧告のビラを手にするのはこれが二度目だった。表に、“尚武作命甲第二〇〇五号 尚武集団命令”の文字が書きつけてある。
〈一、帝国ハ九月二日聯合軍ニ対シ降伏文書ヲ調印セリ
二、予ハ奉勅命令ニ依リ前項降伏書ニ基キ九月三日米軍比島方面最高指揮官ニ対スル降伏文書ニ調印セリ
昭和二十年八月二十五日ヲ以テ第十四方面軍ニ対スル作戦任務ヲ解除セラル
(以下略)
[#地付き]尚武集団長 山下奉文〉
裏返してみると、“合衆国第八十六師団師団長”の名で投降の要領もこと細かく日本語で記されていた。
飛行機で撒かれた直後とおぼしいこのビラの威力は衝撃的だった。前回拾ったビラは誤字脱字が多くいかにも謀略と思えたが、今回のは山下将軍の命令書まで載っている。
「やっぱり敵の謀略じゃないのか?」
「いや、命令があるのだから、ひょっとすると戦争は……」
「しかし、たとえそうでも、投降などできんぞ。そんなこと、作戦要務令にも軍人勅諭にも書いてないんだからな」
浜辺での声をひそめての議論が始まった。それぞれの脳裡には、それぞれの不安と思惑が渦巻いていた。何を信ずべきか、どちらへ進むべきか、どうしたら生き残れるか……。お互いにかんじんなところは口に出さないため、話はどうしても空転を続ける。
その時西田が、厳しい顔付きで言った。
「静かにせい。わしは指揮官として|肚《はら》を決めた。これからすぐに、出発する」
「今すぐ、台湾へ?」
あまりの急なことに、西田の片腕を自負する坂端も思わず聞き返した。
「そうや。この島で椰子を積み、バンラ岬で水を補給したらすぐに出発」
西田の口調は毅然としていた。と、砂浜にしゃがみ込んでいた杉本兵長が立ち上がり、西田に詰め寄った。
「ほやけどォ、二番舟の連中はどうするし。まさか、置いてく気やないんにゃろ?」
「置いて行く。手紙を残しとく」
「そんな、阿呆な!」
西田以外の全員が顔を見合わせた。宮崎班の八人の顔が一瞬|瞼《まぶた》をよぎった。今頃二番舟の面々は、パラサン島の入り江から入り江へと、懸命に大型のバンカを探し回っているはずだった。
「あんた五月二十日と言うたさけェ、二番舟の連中はみんなそれ信じとるがやでェ。二十日まで待って、あん人らの考えも聞かんと出発できんのと違うか?」
軍隊に入ってもついぞ福井弁を直そうとしない杉本が必死に食い下がる。しかし西田は動じなかった。すでに方針は決まっていた。
「敵がこんな大量のビラをまくということは、我々の捜索を全力で展開してるということや。ビラによると敵は迎えの船を寄越すと言うとる。ということは明日にでも船が来るかもしれんいうこっちゃ。で、このビラがもし謀略やったらどうする? 武装解除して待っとる我々は皆殺し、あとからやって来る二番舟の連中も同じ運命だぞ。それよりも、一刻も早く航海に出た方がええ。我々だけでも友軍に連絡できるかもしれんやないか」
「つまり二番舟を見殺しにするんか?」
「だから、置き手紙を残しとく。我々だって生きて渡れるかどうかわからんのだ」
自分たちも生き残れるかどうかわからない、その言葉が揺れていたみんなの気持を落ち着かせた。去るも地獄残るも地獄なら、とりあえず追手が身近に迫っているのだから出発しよう、坂端も藤原も柳本もそう思った。杉本一人が、ガックリと肩を落とした。
西田が帳面を破いて何事か書きつけている間、他の者たちは急いで出発準備にとりかかった。椰子の木登りは沓掛上等兵と森一等兵の“特技”だったが、森は足を負傷しているため沓掛がもっぱら登って実を落とす。すると下で待ち構えていた者が皮を剥ぎ、次々と運んでバンカに積み込むのである。椰子の実は一人十個で計九十個。台湾まで約二週間と見積もったのでかなりの分量だった。
一段落したあと、浜辺のよく目立つ椰子の幹には次のような紙片が掲げられていた。
“宮崎兵長へ 事態が切迫した。二隻一緒には行けない。我々は一足先に出発するが、諸君もできるだけ早く舟を見つけ、我々のあとに続いてくれ。健闘を祈る。 班長”
その後一番舟の九人はいったん家の島に渡り、そこに隠しておいた若干の私物、バナナ、焼き米、水牛の燻製肉などを積み込んだ。その日の日中は島に潜み、夜になってバンラ岬の旧兵舎跡に行って近くの泉から水を汲んだが、水量が乏しく大幅に予定が遅れた。
出航は、彼らが口移しに伝えてきた暦によれば、昭和二十一年五月十七日(実際は五月十二日)の真夜中のことだった。
魔のバシー海峡
バンラ岬を出発して四日たった。航海はまったく順調で気負って船出したのがいささか拍子抜けするほどだった。
ポリリオ島を離れたら針路をやや西にとり、その後ルソン島沿いに北上する、ルソン島の島影を見失わぬ程度の距離を保ち絶対に岸には近付かない。そんな、ひどく簡単な申し合わせだけで進んできたのだが、それで充分だった。左手には次々に山や岬が現われ、地図と首っ引きの坂端が、「あれがアグリア岬」「あれはモイヤス山」「あっちがイリガン岬」などと教えた。地図の通りだった。五月二十一日の午後まではそれでよかった。
ところが、二十一日の午後ルソン島北端に達した頃から風が弱まり始めた。夜に入るとそれまで吹き続けていた南風はピタリと止み、うねりばかりが大きくなった。うねるたびに横木が|軋《きし》み、垂れた帆がパタパタと鳴る。
「おい、予定通り進んどるんか?」
常に船首にいる西田が坂端に声をかけた。
「さァ、そいつがどうも……」
坂端はさきほどから出したりしまったりしている腕時計の磁石を月明かりにかざしてみた。さっきと同じだった。小さな磁針は舟の揺れに合わせて目まぐるしく揺れている。藤原は坂端の地図を手に取って覗き込んだ。
「どうなんや鈴木一水、ちゃんと北へ向かっとんのか?」
西田は杉本に代わって舵棒を握っていた鈴木に、今度は幾分大きな声で尋ねた。
「大丈夫でしょう、たぶん」
鈴木はバタついている帆を半分に下げるよう杉本に言い、揺れの厳しさに舷を|掴《つか》んだ。
「たぶん? たぶんじゃあかんぞ!」
西田が怒鳴ると、坂端や藤原も言った。
「夜のうちに太平洋に押し出されてしまったらオシマイだけんな」
「オールで漕いだ方がええのと違うか?」
藤原は沓掛や森にベニヤ板で作った手製のオールを手渡し始めた。と、杉本が、
「うるせェな!」
一声叫んで腰を浮かせた。
「だってほやろ。あんたら何て言うたんや? 海のことはわからんさけェ海軍に任せるって、言うたやろ。ほしたらわしが黙っとって鈴木も“大丈夫”言うたら、黙って任せといたらええんにゃ」
西田が一瞬気色ばんだが、坂端が|宥《なだ》めた。
「海へ出たら軍曹も兵長もないんやさけェ、のォ。海を知らん奴は知っとる奴の言うことをきく。それだけや。それができんのなら自分の食糧と水だけ持って舟から降りてもらわんと、統率がとれんことになる」
腹痛がすっかり回復した元気者の杉本の言葉には、ある種の凄味があった。
確かに、この時までの帆の操作はもっぱら杉本と鈴木、二人の海軍兵が中心だった。たまに坂端や藤原が代わることがあったが、陸軍兵だけでとなると、風に向かっての円滑なジグザグ航法などはまだ無理だった。まして、出航以来船酔いで船首に坐りっ放しの西田は、帆に触ったこともない。
「鈴木一水、どうする?」
杉本は西田たち陸軍兵を無視して鈴木に聞いた。
「うん、大丈夫だと思うよ。風が止んでもうねりは急に変わらねェから。風が止む前にうねりは南から来てたから、|艫《とも》の方にうねりをぶつけるようにしときゃ、まず心配ないよ」
風がなくなってもうねりは急に変わらない……、それが事実かどうか鈴木以外の者にはわからなかった。通信兵の杉本にとっても初めての知識である。しかし、小舟で大海に乗り出した以上、頼るものと言えば各自の体力と鈴木が漁船で得た知識と体験、それしかなかった。
「ほやほや、心配せんでもええんにゃ、のォ主計長」
杉本は、帆柱の根元で焼き米を頬張っていた柳本の痩せた肩を叩いた。
真夜中をすぎるとうねりは次第に穏やかになってきた。西南の方角から、待ち望んでいた追風がようやく吹き始めた。
フィリピン領土の最北端に違いないノース島、ヤミ島を通りすぎると、次に見える島影が間違いなく台湾のはず。十日目だった。
「いよいよバシー海峡だなァ」
坂端が言った。
「海がはァ、|時化《しけ》なきゃいいけど……」
沓掛が曇り空を見上げた。
「ここまで、ま、ほぼ順調に来たんやさかい、魔の海峡いうても案外すんなり乗り切れるんちゃうか? 案ずるより産むが易し、いうてな、どうってことないやろ」
藤原は相変わらず楽天的なことを言う。
しかし、その時の全員の心情は藤原のそれに近かった。無謀な自殺行為ではないかと思っていたバンカによる外洋航海だが、意外に簡単にここまで来れた。地図にはノース島までしか載ってない。でも、その先も行けそうだった。
ルソン島北部海上にはカミギン島からヤミ島までバタン諸島の島々が点々と浮かんでいる。一行はそれらの島々を左舷に見て一つ一つ確認しながら北上して来た。舟の平均時速はおよそ五キロ。坂端と藤原が船首から海に米粒を落とし、全長六メートルのバンカが落下してゆく米粒を通過する秒数を計って、それを時速に直すとそうなった。予想以上の速度である。むろん、軍港のあるバタン島近くで米軍駆逐艦二隻の姿を見かけたり、バタン海峡の渦潮に巻き込まれて数時間立往生したり、オールを流して海に入った杉本が鮫に似た魚に軽傷を負わされたりと、ハラハラしたことは何度かあったが、生命の危険を感じるまでには到らなかった。敵の飛行機や潜水艦との遭遇もない。運がよかったと言える。全般に快調、だった。
ポリリオ島に残してきた忠実な部下山田に「すまない」と思い続けてきた坂端も、「二隻のうちいい方の舟に乗った我々は卑怯だ」と自責の念を抱いてきた杉本も、次第次第に今回の選択が正しかったと思い始めていた。
空模様はしかし、その間にも徐々に崩れて行った。午後になると空がかき曇り、時間がたつにつれて波も高くなった。夕刻に入って強風に変わった風に雨さえ混じり始め、明らかに嵐の兆候が見えてきた。
船腹に打ちつける波が激しくなった。ちぎれ飛んだ波しぶきが右の脇手から左の脇手へと跳躍する。ルソン島北端のうねりどころではない。まるで海に意志があり、敵意を持って襲い始めたようだった。一行の胸の中に初めて、恐怖心に似たものが芽生えた。
「頑張ろうぜ!」
「おお、これぐらいは覚悟の上だ!」
九人は言葉をかけあって不安を払おうとした。「嵐が強くなったらその分人間が動かなきゃダメだ」、乗船以来再三鈴木が言ってきた言葉をそれぞれが自分自身に言い聞かせた。
柳本に代わって鈴木が舵を取った。杉本は帆を降ろし帆柱にロープで結んだ。あとの手順は決まっていた。休まず浸水を汲み出すこと、帆柱の綱を握り横木の上に腰掛けて舟を安定させること、そして、オールを使って船首を波に向け直角に保っておくこと。学習してあった“荒天時の作業”を、今実践しなければならない。
身軽な沓掛と剣持が左右の横木に坐った。いや、坐るというより体ごとしがみついた。さもないと容赦なく叩きつける波にさらわれてしまう。二人とも必死の形相だった。剣持はビスリアンで受けた傷が完治せず右腕が完全に伸びなかったが、曲げたままの腕に足を絡め、全体重で横木を押さえつけた。
西田と坂端と森の三人はオールだった。舟が波の背に乗ると大きく傾き、繰り出したオールの先がしばしば空を切ったが、それでも舵を取る鈴木の声に合わせ、「右だ」「左だ」とオールを漕ぎ降ろした。この時意外だったのは森の働きだった。それまでほとんど目立たなかった無口なギョロ目の男は、西田も驚くほどの力強さで波を掻き続けたのだ。
残りの三人はアカ出しである。滝のように流れ込む海水を|飯盒《はんごう》や椰子の殻で汲み出すという気の遠くなるほど苦しく単調な作業だったけれど、片時も休むわけにはいかない。積みすぎた椰子の実の大半は、舟の平衡を保つため、捨てざるを得なかった。
空には蒼黒い雲が渦巻いていた。波は三角形に|尖《とが》っていた。雨混じりの烈風は横殴りに吹きつけてくる。九人は幾度となくお互いの持ち場を交替した。全員が両手両足を動かし続け、全員が「死んでたまるか!」と思い、全員が必要なことのみを懸命にやった。
どのくらいの時間がたったのかわからない。それまでの十日間に匹敵する時間が、わずか数時間のうちにすぎ去った気がした。
うねりと突風は断続的に続いていたが、やがて東の空が白み始めると、ようやく手を休める者が出てきた。峠は越した、らしい。
「やっぱり、バシー海峡やな……」
藤原がビショ濡れの顔を撫でて言ったが、誰も返事をしなかった。どの顔も目が充血し頬がこけ、疲労困憊していた。と、その時、ギギギッという不気味な音が聞こえた。
「あッ、竹が!」
船尾の沓掛が叫んだ。見ると、進行方向左側、脇手の竹が横木から離れかけている。一晩波にあおられ|蔓《つる》が緩んだのだ。左右の脇手があってやっと安定を保っているバンカ、その一方が外れたら……、結果は明らかだ。
「危ない、バラバラになるぞ!」
舟べりを掴んで坂端が怒鳴った。しかし、みんな一歩も動けない。
誰かが、跳んだ。水煙が上がった。まだ逆巻いている海水から顔を突き出したのは鈴木だった。口に一本のロープをくわえている。
海水の中で鈴木は、「割と温かいな」と思っていた。舟べりに泣き出しそうな顔が並んでいたが、サンマ漁船に乗っていた頃時化の新潟沖で、スクリューに絡んだ網を切るため出刃包丁をくわえて跳び込んだ時に比べれば、水温は高いし海面の作業だし、何ということない。何をみんな大袈裟な、と鈴木は感じた。
手早く横木に脇手を括りつけて上がると、
「大丈夫か、鈴木!」
全員に声をかけられてよろめき、やっと鈴木は、自分が思った以上に疲れていたのだと知った。
朝が来た。九人の疲れ果てた男たちを乗せた小舟は波のまにまに上下動を繰り返していた。そのまま一時間か二時間たったろうか。
「台湾だ、台湾が見えるぞ!」
突然誰かが叫んだ。
いっせいに目を凝らすと、西北の方角の雲の切れ間に、確かに薄黒い影が見える。
「台湾だ! 帆を上げろ、オールもだ!」
「帆はダメだ! 全員オールを漕げ!」
それから九人は必死になってオールを振るった。力を出し尽くした後にどこにこんな余力が残っていたのかと思うほど、漕いで、漕いで、漕ぎ続けた。疲労と空腹で意識が|朦朧《もうろう》としていたが、一斗缶に溜めてあった雨水を椰子の椀で交互に口に含み、ただひたすら漕いだ。
やがて、全身に緩やかな衝撃を感じた。ほとんどの者が舟べりに体を預け、突っ伏していた。目を開けると、白く濁った世界だった。一面の小石の浜である。見知らぬ浜辺に、九人の乗ったバンカは乗り上げていたのだ。
“蛮人の島”に到着
「日本の歌、歌って! ね、歌って!」
「僕、『愛国行進曲』知ってる!」
夜になって火を焚いていると昼間の子供たちがやって来て、日本の歌をしきりにねだった。濡れた衣類を乾かしていた西田ら九人は、お互いに顔を見合わせ、苦笑した。
|辿《たど》り着いた島は|紅頭嶼《こうとうしよ》(現在の|蘭嶼《ランユイ》)。台湾南端から約八十キロの小島ということだったが、九人のうち誰一人として聞いたことがなかった。緑の山々に黒くゴツゴツとした岩だらけの海岸、小石の浜が何カ所かあり、点在する家々は半分地面の下に作られ周囲が石垣で囲んである。到着早々浜辺で出会った台湾人の漁師は、「ここは蛮人の島です」と言った。
男女ともほとんど裸に近い褐色の“蛮人”たちは、しかし、日本語が話せた。特に子供たちは流暢だった。その子供たちによって九人は初めて、耳からの日本語で、前年八月の日本の敗戦を知った。一時は八十人からの日本人がいたという島を歩き回ってみると、確かに戦争に負けたと思われる形跡がある。かなり以前に焼け落ちたらしい警察署や学校の跡、散乱する赤錆びた日本の戦闘機の残骸……。台湾本島には、すでに支那軍が上陸して全島を支配しているとのことだった。
「よし、いっちょ歌うか!」
子供たちに誘われて沓掛が声を張り上げ始めた。『愛国行進曲』『日の丸行進曲』『太平洋行進曲』、次々と出る。沓掛と子供たちの歌声にやがて西田や坂端らも和し、時ならぬ夜の合唱会となった。歌好きな沓掛の十八番は、ポリリオ島にいた頃から『暁に祈る』である。
ああ あの顔で あの声で
手柄頼むと 妻や子が……
しみじみと歌う声を聞きながら、藤原は、ポリリオ島で死んで行った戦友たちのことを思い出していた。ブルデオスで頭を撃ち抜かれた羽山一等兵、膝の出血多量で息を引き取った井田曹長、カモテ島で絶命した大島一等兵や植戸上等兵……。多くの日本兵が死に多くのフィリピン人が死んだ。昭和十九年七月の二度目の召集以来約二年の間にたくさんの死を見、幾度となく自分も死にかけた。でも、もう戦争は終わったのだ。殺し合わなくてもいい。そうと決まれば一刻も早く日本に帰りたかった。家で待つ妻と幼い二人の子供の顔が、思い出されて仕方なかった。
島の子供たちと和やかに合唱する仲間たちを見ていて家族を思ったのは、柳本も同じだった。柳本はボロボロの半袖シャツのボタンを外し、懐から肌身離さず持ち歩いている油紙の包みを取り出した。包みの中には妻の手紙があり、便箋の最後にモミジのような手形が一つ押してある。一人娘和江の手形だった。舞鶴海兵団入団の時に一歳半で別れたから、もうじき五歳になるはずだ。柳本は小さな手形を胸に押し当て、湧き上がる涙をこらえた。
歌声はいつ果てるともなく夜更けまで続いた。九人が久し振りに大地の上で眠ったのは、子供たちが帰った後のごく短い時間だった。
翌朝起きてみると、舟の綱に干しておいたシャツや半ズボンなどの衣類が失くなっていた。前日しきりに衣類をわけてくれと言っていた島の大人たちの仕業らしかったが、九人は追及しなかった。戦争に負けて台湾が支那軍の支配下にあり、この島も決して安全な場所ではないと知っただけで充分だった。
「この際、ひと思いに内地に渡るか……」
朝食の時に西田がボソリと言った。
バシー海峡をやっとの思いで切り抜けたばかりなのに、休む間もなく次の航海。しかもこれから先は地図もない未知の海だ。無謀と言えばこれまでの航海よりも無謀かもしれなかった。しかし一人として反対する者はなかった。全員が、それ以外に進むべき道は残されていないと感じていたからだ。
鈴木と剣持が黙って立ち上がり、バンカの修理を開始した。
紅頭嶼を出て丸二日間は格別の支障はなかった。昼は台湾本島を左手に眺め、夜は水平線下に消えた南十字星の代わりに北極星を指針として北上を続けた。三日目の五月三十一日の午後には台湾北端の基隆を確認。
ところが、その日の夕刻から天候がにわかに怪しくなった。出航以来二度目の嵐である。最初のバシー海峡でのそれを上回る猛烈な暴風雨だった。アカ汲みなど悠長なことをやっている暇はなく、全員が体をロープで縛りつけ、舟が転覆しないよう、ただそれだけを願って必死に横木にしがみついた。
悪夢のような夜が明けた後、白波の彼方に再びゴマ粒状のものが見えた。今度は進行方向ではなく後方はるか沖合だった。
「あれが石垣島かなァ?」
坂端が言った。沖縄と台湾の間にどんな島々があるのかは八人は知らなかった。一人坂端だけが、石垣島という名を何かの本で読んで記憶していた。とにかく休憩できるなら何島でもいい、九人はそう思って、船首を元来た方角へと向け直した。
黒いゴマ粒と見えたのは海上に突き出た幾つもの岩だらけの小島だった。一行はそのうちの最大の島へ舟を進めた。海岸線が荒々しい岩地ばかりで接岸できないため、沖に錨を降ろして停泊し、泳いで上陸した。
不思議な島だった。人影のない無人島なのについ最近までかなりの数の人間が生活していた跡がある。しかも日本人だ。あちらの木の下こちらの岩陰、いたるところに膳や茶碗が散らばっていて、蚊帳や布団さえまだ使えそうなのが何組か残っていた。坂端は洞窟の奥で、“八重山高等女学校三年××幸子”と記した教科書があるのを見つけ、驚いた。名前が自分の妻と同じだったからである。
「神かくしにあったんやろか?」
考えても見当がつかなかった。いずれにしても裏手の山に豊富な湧き水があることがわかったので、しばらく休憩することにした。
その日の午後、「船が来た!」という声で全員が跳び起きた。見ると確かに、百トンほどの船が一隻こちらにやって来る。日本の漁船のようだったが、油断はできない。全員でバンカに乗り込み、錆びて使い物にならなくなった銃に着剣してその船に近付いた。
「オーイ」
声をかけると、
「オーイ、銃持たずに上がって来い!」
聞こえて来たのは正確な日本語だった。
西田と坂端と杉本の三人が縄梯子を上がって行った。蓑笠をつけて甲板で待っていたのは日本人だった。名前を西村と言い、船長だと言う。西村によれば、その船は台湾を本拠地とする日本資本のカツオ船で、敗戦後船長の西村一人が身柄を拘束され支那軍の食料補給のため働かされているとのこと。
「我々を、内地に運んでもらえんかね?」
船長室で一服したあと、西田は事情を話して頼んでみた。
「いやァ、それは……」
西村は、逃亡防止のためギリギリの燃料しか支給されてないので無理だと答えた。
「ほんなら、雇ってもらえんやろか?」
二度の嵐にすっかりイヤ気がさしていた杉本はそうも言ってみたが、基隆に帰ればすぐ支那軍に捕まり収容所送りだからとこれも断わられた。「その代わり」と、西村は一枚の海図を取り出した。
「このあたりの海図を差し上げよう。あんたらのいる島は|魚釣島《うおつりじま》だ。フィリピンから台湾沖、魚釣島そして内地へと、黒潮という強い海流が流れとる。うまくこれに乗れば五、六日で帰れるとは思うが、米軍のいる沖縄へ着くと面倒だから、そうだな、二、三日真北に向かいなさい。それから北東に針路をとれば間違いなく九州に着ける。頑張って!」
三人は励まされ、土産にカツオ九匹と醤油と砂糖と釣り道具一式をもらって別れた。しかしそれから一週間、魚釣島の周辺は激しい風が吹き荒れ、出航はできなかった。
松の木繁る浜辺
その日が六月十五日ではなく六月十日だということはカツオ船の西村船長に日付を|質《ただ》したのでわかっていた。ポリリオ島での不規則な生活のせいで、いつの間にか五日間の誤差が生じていたのである。
となると、バンラ岬を出発してすでに二十九日目になる。魚釣島を出てからでも六日目、しかもその六日目も終わろうとしている。なのに島影は現われない。そろそろ内地が見えていいはずなのに、いっこうに見えない。
途中何度か高波に阻まれて漂流状態になったが、ここ三日間ほどは本格的な南風が吹き順調で、坂端と藤原の計算によれば最大時速八キロにも達した。漂流の遅れは取り戻したはずである。西村の言うように黒潮という海流がこのあたりを流れているものなら、もう九州の島々が見えてもいいはずだった。朝晩冷え込むようになったので、内地に近くなってきたのは確実なのだが……。
「知らん間に沖縄を通り抜けて、太平洋に出ちまったのかなァ?」
「そうなったらおおごとだ。今のうちに親帆を降ろして速度を落とした方がいいぞ」
全員が海図を囲んで、あれこれ言い合った。頼みの綱の鈴木も磁石と海図だけでは舟の位置はわからない。ただ、風があまりにも強くなりすぎたので親帆は降ろし、小さな前帆だけで走ることにした。
夜に入って急に雲の動きが激しくなった。左右の横木がギシギシと音をたて始め、海水の泡が渦を巻いて飛び散った。波しぶきがほつれたシャツを通して肌に突き刺さる。
「荒天準備だ!」
叫んだ鈴木は帆を縛りつけ、|舳先《へさき》に積んであったロープ付きの大きな板を海に投げ込んだ。浮き|錨《いかり》。水中に抵抗物を流して船首を風上に向ける時化の時の非常手段だが、鈴木がこれをやるのは魚釣島漂着前に次いで二度目だった。ついに三回目の、それもかなり荒れ狂いそうな嵐がやって来たのだ。
「舟を立てろ!」
「おーッ!」
三回目ともなれば体が自然に動く。ともかくジッとしていれば負けなのだ。それまで舵を取っていた柳本に代わって鈴木が舵棒を握ると、残りの者は各自ロープを体に結びつけて、オールを振るい横木に跳び乗った。右舷の脇手が波に押し上げられれば右舷の横木に体重を移し、左舷の脇手が波にあおられれば左舷の横木に跳びつく。その間にもオールを握った者は懸命になって水を掻き、何とか船首を波に向かって立てようと努力した。
空には雷鳴が轟き、波浪は激しさを増した。小山のような波が押し寄せてきたかと思うと、舟と九人の男を丸ごと空中高く持ち上げ、次の瞬間には海水の谷底へ突き落とす。どんなに踏ん張っても体が勝手にはじけ跳ぶ。そして、ようやく体勢を立て直した時にはもう次の波が、稲妻に照らし出され不気味な水の壁となって目の前に迫っているのだ。
坂端と沓掛と杉本は恐怖心を打ち消すために歌を歌った。オールを振りながら海の民なら男なら、とがなりたてた。藤原は「弱気になるなよ!」と声をかけつつ「日本の近くで死ねるなら本望だ」と思い、西田は「やはり航海は無謀だったか」と後悔した。柳本はひたすら口の中で南無阿弥陀仏を唱え続けた。剣持は恐いとは思わなかった。恐さなら、フィリピンへ渡る船の上で夜間、敵潜水艦の潜望鏡を監視していた時の方がよほど恐かった。それより「みんなに劣ってる自分はこれしかできない」と、死に物狂いで横木にぶら下がった。そして鈴木は、波の谷間に宙吊りになって横木が外れてしまわないよう、それだけを考えて舵を操作し続けた。
絶望的と思われる作業は一晩中続いた。
「島だぞ、島が見えた!」
鈴木がそう叫んだ時、九人は体力の限界を感じていた。ほとんど無意識のうちに手足を動かしているだけだった。気力というより惰性だった。
けれども、稲妻の光の中に黒い島影を見たという鈴木の言葉は、消え入りそうだった生命の火を再び燃え上がらせた。約二十分後今度は剣持が見たと言い、やがて次々と、荒波をよぎる光の中に動くことのない黒点を確認した。
「見失うなよ、夜明けまで待つんだ!」
「おーッ!」
それから数時間、九人は全身を目にして消えては現われる黒い影を追った。内地か、沖縄か、それとも中国か、どこかわからないが紛れもなく陸地だった。しかもかなり距離は近い。
暗く逆巻いていた海面にうっすらと明るみが渡り始めると、九人はいっせいにオールを漕ぎ始めた。伸び放題の髪を振り乱し、オールごと波に体当たりしながら漕いだ。漕ぐことが、“まだ生きている”証しだった。
近付くにつれその島は、随分と大きいことがわかった。海上低く垂れこめた雨雲に覆われ全容はわからないが緑の密生した陸地が長く続いている。その巨大な島の島影に回り込むと、嘘のように波浪が穏やかになった。
「日本だ!」
全員が、ほぼ同時に声を上げた。島の岬と思われる行く手の浜辺に、ポリリオ島で夢にまで見た松の木が見えたからである。
松の木の繁る浜辺には一、二軒の家があり、一筋白く湯煙が立ち昇っていた。
四十年後の屋久島
私は屋久島と|口永良部《くちのえらぶ》島を結ぶカーフェリー〈第二太陽丸〉の船上にいた。
昭和二十一年(一九四六年)六月十一日の早朝、九人の日本兵が約二千六百キロ、三十日に及ぶ航海の末辿り着いたのは、“大きな島の岬”ではなく、屋久島の西北海上十二キロにある口永良部島だった。その上陸地を訪ねたのである。
最初に到着した場所が屋久島の一部ではなく口永良部島だったことは、昭和五十七年(一九八二年)に屋久島を再訪した西田は知っていたが、他の者は誰も知らなかった。屋久島だと信じていた。私は長い間そのことを奇妙に思っていた。いくら上陸したのが西田・坂端・杉本の三人だけでそれもごく短い時間だったとは言え、岬と島を間違えるなどということがあるだろうかと思った。
口永良部から屋久島に戻るカーフェリーに乗って、その疑問が解けた。岬と島の見間違えは大いにあり得るのである。
周囲四十八キロ、瓢箪型をした口永良部島には、北側の海岸に三カ所の温泉がある。そのうち生還した元日本兵の証言ともっとも一致するのは真ん中の|寝待《ねまち》温泉だった。三カ所のうち一番広い石の浜辺があり、浜辺のよく目立つ大岩には松が自生している。昭和二十一年当時この寝待温泉には日高今朝七という老人の家が一軒だけあり、海辺の温泉は露天風呂だった。西田らの記憶によると、小屋から出て来たのは一人の老人で、「ここは屋久島。日本の領土だが、この近くには何もない。右へ回れ、右へ回れば|一湊《いつそう》という町があり、駐在所がある」とだけ語ったという。
確かに寝待温泉から海を見ると右手に岩鼻があり、そこを回って海上をおよそ二十キロも行けば屋久島北端の一湊に着く。
私の疑問が解けたのはフェリーに乗った日がたまたま曇り空だったからだ。屋久島の中腹以上は雲の中だった。これがもし嵐の余波が残っている日で、雲がもっと低く垂れ、海上にも靄がかかっていたとすれば……。当然口永良部島の輪郭はわからなかったはずである。老人に「ここは屋久島」と言われてもいたのだから、寝待温泉を屋久島のどこか一部と錯覚したとしても、無理はない。
ともあれ、一行は一湊でも全員の上陸を果たせず、馬に乗った駐在所の巡査に誘導され更に東へ海上を漕ぎ進み、六月十一日の午後遅く、警察本署のあった屋久島最大の町宮之浦の宮之浦川の砂洲に上陸したのだった。
宮之浦で私は、九人の生還場面に立ち会った何人かの人を訪ね話を聞いた。
当時上屋久町の青年団長だった山口一彦(六十八歳)は一行を沖まで出迎えた。
「確かに私らが船で行って、“こっちだ、こっちだ”と河口まで連れて来たんだが、“よくもこんな小舟で帰れたもんだ”と思ったぐらいで、あとのことは覚えとらんね。そうそう、筑波科学万博へ行った時インドネシア館だかにカヌーがあって、“あ、これだ”と久し振りにあの時を思い出した。要するに、カヌーってことが珍しかったんだな」
屋久島警察署の給仕だった藤村俊人(五十四歳)は署長室の九人にお茶を運んだ。
「西田さんいう人が引率者だったのは覚えとります。川岸で武装解除した時、持っとった銃を試しに撃ってみたら、錆びついとって弾が出らんやった。大小二枚あった帆は私が石垣に干しておいたですが、翌朝見たら小さい方が盗まれとって、署長にえらい怒られました。確か九人のうち一人か二人怪我をしてて、オンボロの服装であんな舟やし、子供心に“どんなにして来たんじゃろか”と不思議でした。乗って来た舟はずっと橋のたもとにつないであったですが、二、三年たって民間に払い下げられ、それからつい何年か前まで地元の人が漁船として使うとりました。竹のフロートば外して、底と船腹と二つに分け、作り直して使うとりました」
中馬(旧姓石田尾)ムツ(六十歳)は、女子青年団の一人として炊き出しに加わった。
「夕方でしたか、兵隊さんの舟が来たいうんで川へ見に行ったら、人がたくさん集まっとって、役場の前の砂浜に珍しか舟がありました。どっから来たんか知らんですが、兵隊さんは髭ぼうぼうで顔の色も真っ黒で、女子青年団も“こりゃ炊き出しやらにゃいかんね”いうことになって、みんなで御飯炊いたり風呂沸かしたり……。当時は私らみんな貧乏で、モンペはいて裸足で引っ詰め髪だったですが、お米は役場からもらって充分ありました。宿舎は岩川与助さんの家でしたね。台所で御飯炊いとったら一人の兵隊さんが“これあげる”って、底の浅い丸い鍋をくれました。その鍋、どこへいったもんかわからんようになって……」
この他にも何人かに話を聞いて回ったが、ほとんどの人は断片的なことしか知らなかった。九人の生還のちょうど一年前に同じ宮之浦川に特攻機の不時着事件があり、そちらの方がよほど鮮明に人びとに記憶されていた。元青年団長の山口が言っていたように、「あの頃は終戦後の混乱期で異常な恰好で復員する人が相次いでいたため、あまり深く考えなかった」せいかもしれない。
ひと通り話を聞き終えると私は、一行が日本での最初の夜をすごした岩川家を訪ねてみることにした。テレビ・スタッフと宮之浦までやって来た西田が半日かかって探し、結局発見できなかった家だが、私は運よく元女子青年団員と出会えたのですぐに見つかった。
空き家だった。宮之浦川から百五十メートルほど離れた木造瓦葺きのかなり大きな平屋である。郵便受けには現在の持ち主らしい高田という名があるものの人は住んでいなかった。
西田や坂端はこの家の当主を有馬と覚えていた。そして「玄関口に散髪用の椅子と鏡があったから床屋かもしれない」と。確かに昭和二十一年六月当時は有馬という人物が住んでいた。主人の岩川与助が東京在住だったため親戚の有馬某が間借りして住み、玄関で椅子一台の理髪業を営んでいたのだ。
私は戸を閉め切ってある家の周囲を一巡してみた。このあたりでケタの木と呼ぶ常緑樹の垣根に囲まれた庭は雑草が生い茂っていて、ヤブ蚊がいっせいに群がって来た。
腕をボリボリと掻きながら私は考えた。
九人の男は四十年前一艘の小舟で戦場から生還するという快挙を成し遂げた。けれど、それはそれだけで、その後の彼らの人生にさして影響を与えなかったように思える。帰郷後は全員が入隊前と同じ仕事についたし、その後職業を変えた者も、航海の体験が原因ではない。宗教に走った者もなく、心身に異常をきたした者もなく、それが原因で没落した者も成功した者もない。体験を手記にまとめたり自費出版した者はいるが、あくまで“手慰み”の範囲だ。そもそも彼らはゆかりの地を訪ねるでもなく、記憶間違いも積極的に訂正しようとさえしない。なぜだろう、と思った。
なるほど、戦後の混乱とそれに続く生活の立て直しに忙しかったということはあるだろう。が、しかし、体験への執着が薄くお互いの結びつきも稀薄だったということもあるのではないだろうか? 宮之浦の岩川家で散髪・入浴の後一泊し(翌日は種子島泊)、昭和二十一年六月十三日鹿児島港で復員手続きを終え別れた彼らは、その後昭和五十一年(一九七六年)四月柳本が『中部読売新聞』で再会を呼びかけるまで、丸三十年間一度も会ってない(森治男は昭和三十八年四十六歳で病死し、この時再会できたのは八人)。
以後二年ごとに〈カヌー戦友会〉がもたれているが、順に会員の住所近くの観光地で行なわれ、名所旧跡を見物したあと旅館で一晩懐旧談を交わすだけだ。そしてこの間、沓掛が昭和五十三年に心筋梗塞で他界し、柳本は二回目以降、剣持は三回目以降、それぞれ健康上の理由から参加を見合わせている。
このままでいいのだろうかと思った。このままでは、貴重な体験が風化してしまうのではないか? 〈カヌー戦友会〉は、一般の戦友会よりも密度が薄いのではないか……。
そして、ふっと思い直した。
いや、ひょっとすると、その密度の薄さこそ、彼らが生還できた原因かもしれないと。彼らに共通点らしい共通点は、そういえばない。みんなバラバラだ。陸軍兵と海軍兵、古兵と新兵、所帯持ちと独身者。入隊前の職業も農民・漁師・会社員・技術者・コック・炭焼きとさまざま。あえて|括《くく》れば、全員が旧制中学校以下の学歴で、階級が下士官以下の兵卒だったことぐらいである。
九人の中に飛び抜けたインテリやリーダーはいなかった。でも、だからこそ一見無謀な企てに踏み切ることができ、いったん海に乗り出してからも内部分裂することなく一丸となって危機に当たることができたのでは?
たまたま一緒になった庶民が「死にたくない」「日本に帰りたい」と一途に願って行動した時、そこに、上意下達の人間関係や、もたれあった仲間意識から生ずるのよりよほど強い結束力が、一時的にせよ、生まれたのではないだろうか? むろん、黒潮と、帆付きの外洋用バンカと、圧倒的な幸運が味方してのことだが……。
四十年前の屋久島における一夜の宿を一巡して、私は体中すっかり蚊に刺されてしまった。九人が蚊やブヨに悩まされたポリリオ島ではなぜかあまり刺されず、蚊どころではなかった感激の地で集中攻撃を受けたことになる。
あれから約四十年がたった。七人に減った生還者たちも年をとっている。彼らはこれまでそうだったように、ポリリオ島も屋久島も再訪せず、細かな記憶違いにもこだわらず、世間に対して大仰なアピールをすることもなく、今まで通りお互いの淡い交際を続けて行くのだろう。そして、アジアと日本が海の道で結びついていたという事実のみが、わずかに残る――。
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本書は、構成上の理由によって、インド編から順に日本に近付くよう作品を並べてあるが、時系列的に言えば、一番初めに書いたのは最後のフィリピン編である。
六年ほど前、旧日本兵の足跡を追ってフィリピンに渡った。それが私にとってアジアとの最初の実質的な出会いだった。アジア諸国に対する格別な思い入れなどなかったのに、わずかな滞在の印象は強烈だった。
椰子の繁る小島を昔風の丸木舟が行き交い、今なお電気のない生活が営まれているポリリョ島での|原アジア的《ヽヽヽヽヽ》体験もさることながら、旅の拠点となった首都マニラのたたずまいそのものが予想に反して胸に迫った。
たとえば、観光客のメッカであるマニラ湾岸のサンチャゴ砦。ここは十六世紀末スペイン人によって建設された要塞だが、もとはと言えば原住民首長ラジャ・スレイマンの砦のあった場所であり、十八世紀中葉イギリスに一時占拠され、十九世紀末のアメリカ植民地時代には軍司令部が置かれた。太平洋戦争中日本が統治していた時には憲兵隊が使い、囚人への過酷な拷問が行なわれた建物でもある。
そこに今日ではたくさんの日本人観光客がやってきて、古びた城壁を背景に記念写真を撮って去ってゆく。中には、ホテルから同行してきたフィリピン女性を横に立たせ、満足そうにカメラに収まる日本の男たちもいる。
それまで訪れたアメリカやヨーロッパなら気にもとめなかった光景だが、この時私はその場に立ちつくしてしまった。羞恥心とともに数々の疑問を抱いた。
そもそもこんな所に、スペインの要塞がなぜあるのか? なくてはいけないのか? なぜそれが、フィリピン史を語る上で重要な位置を占め続けてきたのか?
フィリピンも日本も十六世紀に西欧列強と初めて接触を持った。しかしおよそ四百年後の現在、二つの国はどうしてかくも異なり隔たってしまったのか? 日本人の西欧文明の受容の仕方、それはアジアの他の国々の場合とどう違うのか? この二十世紀末にアジアに暮らす同時代人とはいったいどんな人びとなのか……。
こうして私は、合わせ鏡で日本を見るために、ようやくアジアに目を向けたのだった。
私の本格的なアジア紀行は、一九八七年の月刊誌『太陽』四月号のルポを皮切りとして始まったが、この時、当分は海辺の都市や町を巡ってみようと方針を決めた。アジアにおいては、西欧文明の窓口は常に海に面していたからだ。
アジアの中の日本を目指す波まかせの旅は、始まったばかりである。
一九九〇年九月
[#地付き]足立倫行
小著を刊行してから丸五年たった。
この間に、世界も日本も激しく変化した。
一九九一年超大国ソ連が解体し、第二次大戦後長く続いた東西イデオロギーの対立による冷戦構造が崩壊した。形としては資本主義陣営の“勝利”となったわけだが、それは同時に、旧ユーゴに象徴される民族紛争が世界各地で頻発する不穏な時代の幕開きでもあった。
日本ではこの時期、バブルがはじけて、長期にわたる低成長・円高時代へと突入した。自民党の一党支配が終結し、社会党委員長を首班として自・社(プラスさきがけ)連立政権が成立するという、五年前までは誰も想像し得なかった政治状況が出現した。
その同じ期間に、アジア地域は世界経済の“成長センター”へと変貌を遂げた。
一九七〇年代から八〇年代にかけての日本と四小龍(韓国、台湾、香港、シンガポール)の急速な経済成長が、八〇年代から九〇年代にかけてアセアン六カ国(東南アジア諸国連合、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア、シンガポール、ブルネイ)の経済的発展を促し、一九七八年以来改革・開放政策に転じていた中国も九〇年代に入って三年連続二ケタ成長を達成したのである。そして、こうした刺激がヴェトナムに波及(一九九五年七月アセアンに加盟)し、ミャンマー軍事政権を軟化(一九九四年九月より外国投資が活発化)させ、一九九一年にラオ首相が市場開放を断行した大国インドをも巻き込み始めた。
いまや、東アジアを中心とするインド以東のアジア地域は、アフリカや南米などの停滞地域を尻目に、GDP(国内総生産)の総額では北米地域やヨーロッパ地域と肩を並べる一大経済圏に成長したのである。
その結果、どういうことが起こっているか?
文化人類学者の青木保氏は、東アジアや東南アジアに“中間社会”が形成されつつあると指摘する(一九九五年二月十八日付日本経済新聞)。
インスタント・コーヒーを飲んでいた人びとが豆をひいたコーヒーを飲むようになった。ボディ・ショップやエステティック・サロンが流行し、身体のケアへの関心が高まり、清潔な生活への欲求が生じてきた。子供や若者ばかりか中年の男女もスニーカーにジーンズ、Tシャツといったファッションになった。彼らが外食に行くのは明るく小ぎれいなファミリー・レストランであり、住居は便利で現代風な鉄筋アパート……。
これは、「中国を中心とする東アジアで歴史上初めて起こった周辺部から中心へと及ぶ“同一化”」であり、変化は一揃いのセットになっていて、「街の雰囲気も家庭や食卓の光景も、一度に変わるようになる」と。
青木氏の指摘は、小著の取材中に私も何度か感じていたことだった。確かに、政治的に安定し“豊かさ”に向かって前進し始めたアジア各国では、驚くべき速さで中流階級が育ちつつある。しかし、それが一直線に欧米風(特に現代アメリカ風)の生活様式を目指しているかとなると、疑問である。
中流化の過程では各分野で民族的な揺り戻しが起こるはずで、それは、戦後五十年間にわたってアメリカ文化のシャワーを浴び続けた日本が、現実のアメリカ社会とは似て非なる社会となっていることからもわかる。
私はそんな、同じ欧米文明を受容しながら、おのおの受容の仕方が一様ではないアジア各国の社会のありようを、これからも探ってみたいと思う。
この五年間に私は、タイ、ネパール、香港、マカオ、パプアニューギニア、中国、韓国を訪れた。大半はテレビ番組のリポーターとしてであり、港町も香港とマカオのみだったが、別に“アジア海道紀行”の続行を断念したわけではない。アジアは広い。海辺の町に集約されている変化を見逃さないためには、やはり内陸部の現状を見ておく必要もあるのである。
アジアの港町巡りの旅は、息長く、楽しみながら続けて行きたいと思う。
一九九五年六月
[#地付き]足立倫行
初出誌
エリート兄弟のいる風景
――ボンベイ 『太陽』'87・4
カム・トゥ・ゴア――ゴア
『文藝春秋ノンフィクション』'87・12
南の町に沈むダビデの星
――コーチン 『太陽』'87・5
アンナ・サライの二人の娘
――マドラス 『太陽』'87・6
丁子の島と西からの風
――アンボン 『太陽』'87・11
幽閉作家会見記
――ジャカルタ 『太陽』'87・12
マラッカ海峡の人びと
――ペナン、マラッカ 『エスクァイア』'89・2
観光年に賭けるボートピープルの国
――ホーチミン 『バッカス』'90・5
虱目魚追跡行
――台北、台南 『太陽』'88・11
波濤二千六百キロ、日本兵の漂流
――ポリリオ島 『新潮45』'86・5
単行本
一九九〇年 文藝春秋より『アジアの人波、海の道』として単行本化したものを改題
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文春ウェブ文庫版
アジア海道紀行
二〇〇二年一月二十日 第一版
著 者 足立倫行
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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(C) Noriyuki Adachi 2002
bb020102