球は転々宇宙間
〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年九月二十五日刊
(C) Shun Akasegawa 2001
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目  次
鏡のくにの野球
帰ってきた知識人
異相の怪童よ、輩出せよ
七十八歳の外野席ファン
球は転々宇宙間
見えないナイン
季節風、東京に舞う
おらがくにの野球
ドリンカーズの苦戦
あ と が き
文庫版のためのあとがき
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球は転々宇宙間

鏡のくにの野球
一九八八年、戦後四十四年二月二十三日の昼下がり、広島市民球場の大時計は二時を指している。広島ドリンカーズの監督、志村千三は、コーチや選手がグラウンドに出払って人気のないベンチに腰を降ろし、腕組みして選手たちの動きを眺めている。二基のバッティング・ケージからは、バットが球を弾き返す音、キャッチャーのミットの音、それにときどき小さく短く挙がるかけ声や溜息などが、志村の耳にきれぎれに聞こえてくる。ケージのうしろでは、バッティング・コーチの山本浩二が練習を見守っている。志村は、ときどき腕組みをほどいて足元の炭火に両手をかざす。そのときは、首から上はグラウンドに向けたまま腰を前に屈めるので両肩が上がって背が少し丸くなり、急に老けて見える。
不本意だが、のっけからことばの解説をしなければならない。ほんの一部の読者のためにではあるが。
一行目に「戦後四十四年」とあるのを、太平洋戦争のときにすでにこの世に生を|享《う》けていて、何らかの忘れ難い経験を持っている人間の、思い入れの強い表現のたぐいと読まれては、筆者は大変困るし、はずかしいのである。「戦後」が、かつての明治、大正、昭和と同じく、今の日本のれっきとした年号であることぐらい、今の日本人ならこどもでも知っているので注釈の必要などないと思っていたのだが、最近になってそう安心してばかりもいられないことがわかった。そこで、大多数の読者には申し訳ないが、せっかく楽しい野球の話に行こうとしている矢先に、しばし中断せざるを得ない。
というのは次のようなわけなのだ。この年号が制定された一九八三年、すなわち今から五年前だが、それよりさらに少し前の一九八〇年前後から、日本をひそかに去ってどこともなく姿を消す人が増え始めたという。それも会社の仕事とか、学術研究とか、その他目的のはっきりした移住ならどうということはないが、目的も原因もはっきりせず、半ば蒸発するように消えて行く人が増え始めたそうだ。それだけに実態は掴みにくいのだが、各界の中堅エリートあるいはインテリといわれる人びとのうちで、比較的中道と見られていた層にその傾向が強かったそうだ。その人たちは一様に、「アイデンティティの恢復」とか「失われた時を求めて」とか小声で口走りながらどこかに消えて行ったとのことだ。何でも行先は、インド、中国奥地、アフリカなどが多かったという。
中道インテリといえば、そのころの日本はどちらかというと、政治、社会状況、芸術、思想など全体におおむね保守中道寄りであったと思う。だから、中道インテリにとっては仕事もやりやすく、考えも述べやすく、暮しやすかったのではなかろうかと筆者などには思えるのだが、そう単純には行かない面もあったようだ。筆者とちがって頭の冴えた人ほど、そして社会の中枢にいる人ほど、そういう中道思潮の中ではアイデンティティとやらを失いがちだったとも想像できないことはない。
それはともかく、そういう人たちは、自分がせっかく隠れた土地に、まともな仕事や研究で行った日本人が現われると素早く身を隠し、どこかでただ何となく棲息していたようだ。そういう中道インテリの大半は、日本を出るまでに中流程度の貯えは作っていて、海外での隠遁生活でもその金を肌身離さず持っていたらしいから、まかりまちがえば食いっぱぐれて餓死するかも知れないというような緊迫感はなかったようだ。私の友人の説によれば、各界の第一線で激務を負うエリート層に、かえって、情報過多によるノイローゼや文明回避、文明嫌悪症とでもいうものが発生しやすく、その中で誠実で繊細なタイプの人ほど自己嫌悪につながるのだそうだ。工業文明が破綻して行く深淵をかいま見て身がすくむのだそうだ。そしてそれに対して行動を起こさずに逃避する。それが、情報や工業文明の及びにくい土地への文明回避旅行になったという。筆者などの頭では、結局それは特権階級の精神的避暑、避寒旅行ぐらいにしか理解できず、われわれには関係のない、まあ結構な話だと思っていた。
ところが、ごく最近になって、そういう人たちが七、八年ぶりに、ひそかに大勢日本に帰って来始めたというのである。情報の及びにくい場所に、日本も暮しやすくなったとでもいう情報が伝わったのだろうか。それとも、アイデンティティとか失われた時とかいうものを、精進の甲斐あって首尾よく所期の目標どおり恢復したのだろうか。どうもこういうものは、恢復するときはみんな一斉に恢復するもののようだから、案外そうかも知れない。そして、出て行った数も帰ってきた数もはっきりはわからないが、最近になって「戦後」ということばが年号であることや、その由来を知らない人がちらほら目立つようになったそうだ。しかしその数は日本国民の中ではたかが知れたものだろう。ましてこの本の読者の中にはほとんどいないのではなかろうか。ただ念のために筆者は文藝春秋の編集部に相談してみた。すると編集部の予測では、これら里帰り中道インテリの人たちのうち無視できない数、おそらく大半の人がこの本を読むであろうというのである。「だから、常識程度のことは簡単に説明しておいたほうがいいでしょう」と言う。そういうわけで、この間ひたすら日本で土を耕し、物を作り、物を売りながら、この七、八年の日本の推移を見、見るだけでなく、工業と農林漁業の調和、エネルギー問題の克服、自然環境の回復、教育の正常化をはじめ、暮しやすい日本の建設にさまざまな役割を分かち合ってきた読者には、わかりきったことなので申し訳ないが、どうか常識程度のおさらいと思ってほんのもう少しおつきあいいただきたい。野球のことを書き始めたのに、のっけからとんだ役割を負ってしまったものだ。
一九八〇年前後に、年号あるいは元号法制化をめぐる論議が日本の国会で盛んになったことがある。つまり、天皇の崩御や即位のたびに年号が変わって○○元年になるという、中国や韓国でもとうの昔にすたれていて世界中で日本ぐらいにしか残っていなかった風習を、今後どうするかについての論議であった。しかし「今後」とは、現在の天皇の崩御を前提にしなければ成り立たない性質のものだったから、このテーマは心おきなく|侃々諤々《かんかんがくがく》というぐあいにも発展せず、いつのまにか下火になっていた。ところが一九八二年の暮れに、保守堅持党(それまでの自由民主党を中心とする保守系合同政党)の皆川肇と、近未来革命党(それまでの日本社会党を中心とする革新系合同政党)の宗太郎の二人を中心に、「天皇の崩御、即位に関係なく、来年から日本の年号を『戦後』と改めよう。すなわち、一九八三年は戦後三十九年である」という提案がなされた。要旨は次のようなものであった。
「戦後は終わった」という論議は終わったか否か吾人は関知しない。吾人はただ、「戦争の世紀を終わらしむべし」という意味をこめてこの提案をなす。すなわち、近い将来にまた全面戦争が起きて、また「戦後元年」が到来するようでは、吾人の提案は一切の意味を失うのである。「戦後」とは唯一固有の「センゴ」であって、一九四五年、すなわち従来の年号による昭和二十年こそ、唯一固有の戦後元年である。したがって「戦後」を唯一固有の年号とすることは、永世平和への希求と誓いの表現にほかならない。吾人はこれを日本のみにとどめず、第二次世界大戦にかかわったすべての国が西暦紀元と併用することを望むものである。すなわち、ポストウォー、アプレゲール等々。
ただし、当のわが国には一つ問題が残る。それは戦後百年、西暦二〇四四年になると、日本では“センゴヒャクネン”と発音することとなり、「千五百年」とまぎらわしくなるということである。しかし、そういう問題をかかえながらも、戦後九十九年まで、つまりまだ六十年はこれでもつ。そのあとのことは、そのときに生きている人たちに考えてもらえばよいではないか。
で、詳しい経緯は省くが「よかろう。六十年ほどこれで行ってみようじゃないか」という、当時としては珍しく波長の長いテーマが可決されたのだった。かくして一九八三年に日本の年号は「戦後」と改められた。そして新年号制定とともに、「戦後は終わった」をめぐる論議も自然に消滅した。
それ以前にも、毎年八月十五日が近づくと、新聞やテレビは忌まわしき戦争を回顧する記事や番組を一斉に特集していた。万感胸を打つルポルタージュもあれば、戦争の美学を讃えていると取られかねない映画やテレビ・ドラマもあった。靖国神社への閣僚の参拝が毎年問題になった。そして八月十五日が過ぎると、渡り鳥が群れをなして飛び立つように、それらの話題は一斉に姿を消した。幸か不幸か、毎年八月十五日は甲子園の全国高校野球たけなわの時期にあたる。正直な話、地元の学校がその日に試合に出る地方では、終戦記念日の朝から野球のことに身も心も奪われ、わが地元チームの戦いすんで日が暮れて「あ、今日は終戦記念日だった」とわれに帰る人も少なくなかった。いや少なかったというべきか。というのは、すでにわれに帰るにも帰るべきゆえんを知らない人のほうが多かったのである。
しかし、年号が戦後となればどうだろうか。お役所でも会社でも、履歴書にも借用証書にも、毎日全国津々浦々で「戦後」「戦後」と書かれて確認されることになる。そこで提案者は言う。「だから年一回のおざなりではなく、毎日が戦後で毎日が非戦の誓いなのだ」と。しかし、いくら「ことだまのさきおうくに」でも、そこまでの効能はないようだ。
しばらくすると、中・高年といわれる世代の人が自分の旺盛な余力をもてあまして再就職する際の履歴書に、次のような記入が目立つようになった。「生年月日、終戦前(敗戦前と書く人も多い)十九年十二月二十六日」、すなわち昔でいえば昭和元年である。「終戦前二十五年」、昔でいえば大正九年だ。こういうふうに、一九四五年、昭和二十年、戦後元年が、ちょうど西暦紀元と紀元前の分岐点と同じように扱われるようになったのであった。
さて、いつまでもこんな話にかかずらっていては、野球ファンの読者に申し訳ない。大急ぎで戦後四十四年二月二十三日の広島市民球場に戻ろう。
人気のないベンチで、監督の志村千三ただ一人が腰かけていて、グラウンドの選手たちの練習を眺めていたのだった。
志村の眼は、近くのダイヤモンドの中よりも、遠い外野で動いている選手たちに注がれているようだ。その中でも特に、一番遠くのセンターの塀際で球を追っている、一人のとびきり小柄な左利きの選手に注目しているように見える。
たしかに志村の眼は、その帆足航平の動きにつれて動いているように見えるが、それは外見だけで、彼の意識は眼前の野球から遊離して|空《くう》となっていた。スプリング・キャンプの一日の中で、志村はたいてい一度はこういう状態になる。放心に近い。そのまま放っておいても短時間で自然にわれに帰ることもあるし、自分で戻ろうと思ってもなかなか戻れず、コーチや選手に何か声をかけられてはじめて気を取り戻すこともある。そうかといってそのときの志村は、何かはっきりした考えにとりつかれているわけでもない。何か不定形のものが、考えるということの一歩手前の、ぼんやりとして結像しない風景となって眼球の奥を浮遊しているのである。風の弱い晴天の昼下がりにこういう状態になることが多い。実を言うと、スプリング・キャンプだけでなく、ペナントレースの緊迫したゲームの真っ最中にもこういうことがあるのだ。
広島は、真冬でもそれほど暗く重苦しい天気には見舞われない。そして今、山陽路にはすでに早春の光が満ち、とりわけ今日は、あるかなきかの風が肌に心地よく、不気味に思えるほどすがすがしい。志村が放心に近い状態になる条件は揃っている。しかしさすがに志村は、そういうときでも眼を閉じるということはない。いつどこから球が飛んでくるかわからないからだ。それにしても一体、この監督はまじめに仕事をやっているといえるのだろうか。そういう声が聞こえでもしたかのように、志村は炭火から手を遠ざけ、やがてベンチを出てバッティング・ケージのほうにゆっくりと歩いて行った。
志村は、バッティングのことはバッティング・コーチの山本浩二にほとんど任せっきりである。山本は、つい一昨年まではドリンカーズの中心打者であるだけでなく、全国三リーグ十八球団の中でも代表的なスラッガーだった。彼の体には、まだまだ実戦の熱い電流が脈々と流れている。彼は分析的なことばや身振りでくどくどと選手に教えたりはしない。短い一言が選手に通じる。その一言も注意や指示というより、ちょっとした示唆である。それが通じてないなと思ったときは、山本自身が打席に立って実例を示す。選手たちは、その山本の体の電流を読み取る。そしてそれを自分なりに生かす。ドリンカーズの基本は、練習でも試合でも、この山本のやり方に現われている。志村のやり方も、ヘッド・コーチの鳥村玄太や他のコーチのやり方も同じだ。手とり足とりといったことはあまりない。
二基のケージに入って球を打っている二人の選手は、それでも、監督が珍しくすぐうしろに来て自分たちを見始めたという緊張した気分を、尻から背骨を通って肩にかけてみなぎらせているようである。
「トシ坊、肩の力をもう半分尻に移すんだな」
と志村は言った。山本コーチが志村を見てにやりと笑った。
トシ坊といっても、もう二十七歳でチームの中心選手の一人だ。永田利則、一九八〇年、戦後三十六年に広島商業からカープに入り、それから四年目の全国球団再編成によってドリンカーズの一員となった。そのとき東京に帰った高橋慶彦のあとを襲ってショートに定着し、俊足好打のスイッチ・ヒッターとして成長してきた。打順はトップか二番を続けている。
志村も現役時代それほど好くない打者ではなかった。十一年間の平均打率二割六分六厘はまずまずである。しかし、志村は打者としてよりも二塁手としてのプレーのほうが印象に残る選手だった。永田に「肩の力を尻に移せ」とは言ったものの、志村は打撃についてあらたまった意見を言いにバッティング・ケージに寄ってきたわけではない。志村は、さっきまで守備の陣形についてあるイメージを思い描いていて、その連想につられて何となく永田のスイッチ・ヒッターぶりを見にきたのだ。その守備陣形とは、強いていえば「スイッチ守備」とでもいおうか。
(こんなこと、鳥村コーチに話したら、トリさん、また心配するだろうな)
と志村は思いながら、独りでにやりとした。
投手の場合は、試合中に状況次第で右投げと左投げが交替することがある。これは二人がかりのスイッチ・ピッチングといえよう。そしてそれなりの理由がある。しかし、投手以外の守備のポジションで試合中にそんなことをする必要がどこにあろう。第一、内野手でいえば、守備の場合にも左利きという選手が守れるのは一塁ぐらいのものではないか。志村監督は一体何を考え始めたのだろうか。
(何でおれはこんなことを)
と、志村自身も思って一旦考えを中断した。そしてバッティング・ケージの脇を離れて、ふたたびベンチに向かった。どうもこの監督、あまりやることがないようだ。
案の定、志村の意識はまたさっきと同じように眼前の野球から離れて、空の状態におちいって行った。つまりこの監督、さっき気まぐれに永田に「肩の力を尻に移せ」と言った以外は、ぶらぶらしながらつかまえどころのない考えにふけったり、ベンチで炭火に手をかざしているだけである。監督がこれでいて、一体今年の広島ドリンカーズはちゃんとやって行けるのだろうか。オーナーが見たら、いや、今日ではすでに個人のオーナーは存在しないクラブ組織で、広島ドリンカーズ運営協議会の市民代表というのが恐い存在なのだが、彼らが志村の様子を見たら何と思うだろう。現にスタンドでは、熱心なファンが大勢グラウンドを見守っているではないか。
最近では、ドリンカーズは二月下旬に入ると日南のキャンプ地から引き揚げて本拠地に戻ってくる。全国でも、札幌ベアーズ、仙台ダンディーズ、長野アルプスの三球団以外はたいてい同じだ。そして、この寒冷地の三球団だけは、スプリング・キャンプの全期間をそれぞれの本拠地球場で過す。今のところこの三球場にかぎり、開閉ドーム付温度調節全天候型球場の設備がコミッショナーから許可されているからだ。
全国三リーグ十八球団は、いずれも市民代表を含むそれぞれの運営協議会によって運営されており、キャンプについても冗費を省き、本拠地でできることは本拠地でという方針である。もっとも、大口の金を出すのは地元の企業や富裕な個人であって、協議会は「金は出せないが口は出す」という存在である。しかし「早くキャンプ地を引き揚げてこい」というのは、予算のこともあるが、協議会は、「地元の大勢のファンが、一日でも多く選手の練習を見たがっている。この熱意に応えてやってほしい」という点を強調している。だから今も、スタンドには大勢の熱心なファン、あるいは、死ぬほど退屈な暇を処理するにはこれが一番だという人びとがつめかけているのだ。
志村の放心は続く。
(|吹田《すいた》さんがおしのびで突然うちに見えたときは、暁子のやつ緊張してたなあ。吹田さんのウイスキー・グラスに氷を入れたときの暁子の手つきを思い出すよ。千五は中学生になっていたっけ。おれゆずりの素早い横眼で吹田さんを観察していたな。あれからもう七年が過ぎたか)
ことばにすればこうなるのだが、これは志村の頭の中では言語とか映像とかのはっきりした形はとっていない。走馬灯の残影を追っているような、あるいはテレビの走査線の何束かを意味もなく見つめているような状態である。
それにしても志村監督は、ただぼんやりしているだけにとどまらす、給料を貰っている大事な仕事場で自分の奥さんや息子のことを思い出しているとは、ますますけしからんではないか。一体その、おしのびの吹田さんとは何者か。
吹田さんとは、一九八〇年の四月から三年の任期をほぼいっぱい、日本プロフェッショナル野球組織のコミッショナーとして働いた|吹田晨平《すいたしんぺい》氏のことである。一九八三年二月末、任期満了直前に急逝した。急逝といっても八十一歳、天寿を全うしたともいえようか。
志村千三の息子の千五が、親譲りの素早い横眼を使うのは、親子揃っていつも眼つきが悪いということではない。志村は、広島ドリンカーズの監督の前は、広島カープ時代から引き続いてのコーチ、そしてその前は、すでに紹介したように二塁手だった。二塁手は、試合中のナインの中の情報センターのようなものである。両チームのベンチ、コーチス・ボックスにいる相手のコーチ、味方のバッテリーなどから発せられるサインが、ショートとともに一番よく見える立場にいる。だから、そういうサインや打者や走者の動きから種々の情報を読み取って、それを一瞬のうちにさりげなく味方に伝える役目を負う。味方が攻撃中で自分がベンチにいるときは、相手の二塁手の動きを見て、同じ立場の人間としての像を読み取る。名手といわれる二塁手ほど、そのいずれの場合にも顔を動かさない。素早い横眼で一瞬のうちにサインや状況を読んで、それをさりげなく味方に伝えるのである。アフリカの草原で、敵を前にした猛獣が仲間に送る、怜悧にして細緻な身体信号、とまでは行かないが、人類の中では格段高い域にまで達している。
志村も、かつては名二塁手とうたわれた一人だ。その素早い横眼がどうして息子の千五に伝わっているのか、志村にはふしぎで仕方がない。グラウンドではそういう仕草をする志村も、家に帰ってまでそんな素ぶりに及んだ覚えはない。また、千五は父親の現役時代にも何度かゲームを見にきてはいるが、スタンドから遠く離れた志村の一瞬の横眼が千五にわかったとは思えない。第一、スタンドにいる小僧から精緻をつくした横眼を見破られるようでは名手とはいえまい。
(ところで、吹田さんの死は本当に病死だったのだろうか。五年も前のことに素人が推理を働かせても仕方ないが、どうもあれはおかしい。われわれの計画は、彼の死が少しでも早まっていたら、さぞ大きな困難にぶつかっていただろう。まるで、見えない敵の手がほんの少し遅かったために、われわれのもくろみが成功してから遅まきながら死に追いやられたとしか思えないタイミングだった)
吹田コミッショナーが、日本のプロ野球の本拠地の全国規模の分散と、それに伴う諸機構や制度の改革を電撃的に提案したのは、一九八二年十一月十一日、日本シリーズが終わって間もないころだった。そして年内に十八都市が決定し、年が明けてその改革案が実行に移され、新しい体制が不動のものになった二月下旬、吹田は突然原因不明の病にかかって重態におちいった。それが五日ほどで奇蹟的に直って三日経つと、今度はさしたる症状も見せずに平静のまま、自宅の畳の上で絵筆を持った姿で忽然として逝ってしまったのである。
(高齢とはいえ、何一つ持病のない元気な人だったのに、どうもおかしい。おれはお通夜に千五を連れて行き、吹田さんの銀髪を|櫛《くし》でとかさせてもらった。千代夫人がおれの手元をじっと見つめていた……)
「かんとく」
鳥村ヘッド・コーチの声で、志村はようやくわれに帰り、眼前の野球に目を戻した。鳥村は志村と並んでグラウンドを眺める恰好で、ベンチに腰を降ろした。
「航平はやっぱりセンターのトップで行きましょうよ。トシ坊は二番がいいでしょう」
「うーむ」
と言ったきり、志村は黙って遠くを見ている。鳥村は志村の反応が鈍いので話を継ぐ。
「あいつは、昔の阪急の福本以来の逸材ですよ。チビさかげんも走りっぷりも福本そっくりになってきましたわ。もっとも、極端に早打ちの癖は、今までの基準ではトップ・バッターにふさわしくないかも知れませんがね」
「いや、早打ちのトップ・バッター、大いに結構じゃないか」
「守備も左のセンターというと、福本よりもっと昔の、中日の本多とか中あたりですね。彼らもトップを打ってたでしょ」
「うーむ」
志村は、しばらく何か言いたそうに口をモグモグやっていたが、やがて、その口の中のくすぐったさに我慢できないといった感じで口を開いた。
「トリさんよ。ぼくの見るところでは、もっと昔、戦争をはさんで活躍した呉昌征ね。巨人、阪神、毎日と移った左投左打の人間機関車だ。ああそれから、同じころの中日の坪内ね。彼は右利きだったが、航平と同じように小柄な名選手。ああいう人たちを思い出させるよ、航平のやつは」
話はずいぶん昔にさかのぼって行くようだ。
「はあ、名前はもちろん聞いてますが。何しろ私らには伝説的な存在で……」
「あ、そうだったなあ。いや、ぼくもね、中学生のころに、彼らの野球人生としては晩年のプレーを見ただけなんだよ。それにしても、こんな大昔の人のことを、トリさんも知ってるつもりで話すとは、ぼくもいよいよ晩年にさしかかった証拠だなあ」
「いや、私ももう若くはありませんがね」
鳥村は、その呉や坪内の話を志村から聞いておきたいという気持にも駆られたが、それよりも本題の帆足航平の件に戻らなければと思って口を開こうとした直前に、志村に先を越されてしまった。かつての名二塁手のタイミングの読みが今も志村に残っているというべきか。
「呉という人はめっぽう肩が強かった。センター前のヒットをショートバウンドですくい上げて素早いモーションでバックホーム。ぼくたちは、次に起こるホームベース上のドラマを生唾を飲み込んで待ったものだ。セカンドからの走者はたいていアウトになったな」
「人間機関車というのは?」
鳥村はつい志村の調子につられて聞いてしまった。
「うん、それはね、まず丈夫で長持ち、台湾から出てきて巨人に入ったのがたしか昭和十二年。それから二十年、四十一か二まで、そんなに打率も落とさずにがんばってた。それとね、ベースランニングがガニマタだけど速いんだ。お世辞にもスマートとはいえないが、よくいえばダイナミックな盗塁。それに後半にぐんぐんスピードが加わる。これも蒸気機関車そっくりだったというわけだ」
志村は、グラウンドを眺める姿勢そのままで眼を細め、楽しそうに語り継ぐ。
「しかし、盗塁でいえば坪内のほうが上だったかな。たしか現役最後の年、三十七、八歳だったのに三十六盗塁を記録してる。センターの守備も抜群だったよ。呉とちがって肩の弱いのが玉にキズだったが、それを勘のいい出足でカバーしてた。とにかく前へ突っ込んでくるんだ。地上すれすれのスライディング・キャッチ。一回転して素早い送球。絶品だったな。それにバッティングにも味があり、バントもうまい。恰好のトップ・バッターだった。たしかあの人は、千本安打と千試合出場の日本球界第一号だよ」
(どうもこのままでは、おやじさんの回顧談は止まりそうにないな)、鳥村は少しいらいらしてきた。往年のセンター・トップ・バッター群像を二人で楽しむのも悪くはないが、ここは一刻も早く、今シーズンのわがドリンカーズのセンター・トップ・バッターに帆足航平を起用する話に持って行かねばならない。そもそも、スプリング・キャンプも仕上げの段階に入った真っただ中て、監督とヘッド・コーチが、こんな昔の野球談義にうつつを抜かしていていいものだろうか。
「監督、で、航平をその呉二世、坪内二世にしましょうよ」
「うーむ」
その話になると志村はまた黙ってしまう。
「もうすぐオープン戦に入るし、そろそろ決めておきましょう」
そのとき志村はやっと口を開いた。
「原則としてそれでいいだろう。しかしトリさん、航平の身のこなしは内野手にも向いてないかねえ」
「え?」
鳥村は意表をつかれてしばらくはことばが出ず、志村の視線に合わせて外野にいる航平を見守った。鳥村の顔には、(この瀬戸際に、おやじさんは一体何を考え出したんだ)という、困惑ともいらだちとも不安ともつかぬ表情が現われた。
「内野って? あのチビにファーストでもやらせようっていうんですか」
「いや、トリさん、今まで左利きがセカンドをやった例はないかな。多分ないだろうね」
志村のことばを聞いて、鳥村は今度は志村の顔をまじまじと眺めた。そして眼を離すと(いい加減にしてくださいよ)という感じで言った。
「ないことはないでしょ。たくさんありますよ。草野球ならね」
「ハハハ」
志村はくったくなさそうに笑った。鳥村は思い出したように言った。
「そういえば、プロでも一イニングだけあったということですよ。ほら、奈良テンプルズの監督をやった西本幸雄さん。あの人がオリオンズの一塁手だったとき、代打代走が出過ぎてセカンドの交替要員がいなくなって、九回の一イニングだけやったそうじゃありませんか。結局ボールは飛んでこなかったそうですよ。でもあれは、不利を承知の苦肉の策でしょ」
「絶対不利かねえ」
「監督、かつての名二塁手の監督に、私が二塁守備の基本についてお話ししたくはありませんね」
「まあ、そうむきにならんでくれよ。航平を眺めててヒョイと浮かんだまでで、はっきりこうと提案してるわけじゃない」
「馬見のことも考えてくださいよ。四年間セカンドを任せて、あいつは今一番脂が乗ってるんですよ」
「もちろんだ。いや、セカンドに馬見、ショートに永田のキーストン・コンビ、そしてセンターは帆足、それに打順もトリさんの案に賛成だ。その上でね、馬見と帆足の守備位置をね、試合中にときどき入れ替えてみるとどうなるかとね、ヒョイと考えてみたんだよ。いうなれば、スイッチ守備」
「どうもよくわかりませんなあ」
そのとき、選手の一人が鳥村を呼びにきた。志村も鳥村といっしょに立ち上がって言った。
「ま、この話は一旦タイムだ」
「とにかく、いつも監督がおっしゃるように、基本どおりに行きましょうよ」
鳥村は監督をやり込めたつもりで、にやりと笑った。そしてグラウンドの選手たちのほうに歩いて行った。
帆足航平、二十二歳、身長百六十六センチ、今の日本のプロ野球では一番小柄である。一九八五年から二年間、西部教育リーグにいて好成績を収め、去年一軍のメンバーに登録された。教育リーグでの二年間はもっぱらセンターでトップ・バッターだった。二年間の成績は、出場試合数百二十八、打数四百五十八、安打百五十三、打率三割三分四厘、安打のうちホームラン九、三塁打十九、二塁打三十、そして盗塁五十九。第一線に出た去年は、おもにピンチ・ヒッター、ピンチ・ランナー、センターの守備に用いられた。公式戦百三十試合中七十七試合に出て、打数百一、安打二十九、打率二割八分七厘、ホームラン二、三塁打六、二塁打五、盗塁十九であった。この好成績によって、新設のピンチ・ヒッター賞第一号となった。代打の打率ではもっと上の選手もいたが、何といっても出塁してからの活発な盗塁など、普通の水準よりも常に一つ先の塁を狙うことによる勝利への貢献度が、審査員に強烈な印象を与えた。
三年間の数字が示すように、帆足航平の最大の特長は俊足である。三塁打や二塁打が多いのはそのためで、一、二軍を通じた十一本のホームランの中にもランニング・ホームランが四本含まれている。さて、三振は去年の百一打席で見るとわずかに七、しかし得た四球もわずかに四である。これは、彼がとにかく初球から打ちに行くからである。
このように、多分に短気な点が、目も覚めるような成功を生んだり、またとんでもない失敗もやらかしてきた。しかしまあ、全体としては立派な成績といえよう。この成績によって、今年は彼が最初からスターティング・メンバーに加わること、そしてセンターを守って一・二番を打つであろうことについては、チームのだれも疑っていない。ドリンカーズの中心線は今年は一段と充実するだろう。
バッテリーと、その延長線上のセカンド、センター、この四点を結ぶ中心線が攻守とも充実しているとき、そのチーム全体の攻守の姿はピンと背が伸びていて、見るからに強そうである。どの監督もシーズンの開始までに、その中心線を整えることに腐心する。しかし、あらゆる点で四拍子揃った陣容が生まれることは稀である。
十年ほど前に二リーグ制のころ、ヤクルト・スワローズというチームが球団創立以来初の優勝をとげた。そのときの2・4・8の布陣は、大矢、ヒルトン、若松というメンバーで、この年の三人は攻守両面に充実していたし、エースの松岡も好調だった。
またもっと昔、戦後まもなくのことだが、阪神タイガースの2・4・8は、土井垣、本堂、呉昌征という強力なラインで、しかも外野は左右に金田、別当、サードには藤村富美男がいた。もっともそれから四十年も経った今では、こういうふうに名前だけ挙げても一向にピンとこない人が多いのはいたし方ない。史上、タイガースのダイナマイト打線といわれたのはこのころである。そしてバッティングのみならず、守備まで|攻撃型《ヽヽヽ》であった。とくに、サード・藤村、センター・呉、キャッチャー・土井垣といったところは、相手の攻撃に対して攻撃をもって切り返すと形容したくなるような守備をした。歯をむいて打球に飛びつく。守りのときも猛虎そのものだった。
ところで、ヤクルトとか阪神とか、都市名でない妙な名がついているので、今日の読者、とくに若い読者は一体何のことかと思われるかも知れない。実は今から五年前までは、どこか一つの企業が一つのプロ野球チームの経営を独占しているのが普通だったのである。それを親会社といい、親会社の社長を球団オーナーといった。鉄道、食品メーカー、新聞社などが多かった。そしてヤクルトとは現存するあの乳酸飲料品メーカーの名前であり、阪神とは現存する大阪の鉄道会社のことだったのである。
今のように、全国十八の都市が、地元の複数企業や資産家個人の出資や寄付によって、それぞれのプロ野球クラブを維持し、市民代表を中心とする運営協議会が運営しているのに比べると、昔はずいぶん変則なことをやっていたものだ。このあたりの推移はこの本の後半に詳しく出てくるはずである。
さて、鳥村ヘッド・コーチは、志村監督のそばを離れてグラウンドに出、若手の選手の練習にアドバイスを送りながらも、監督が左利きの帆足航平をなぜ二塁手に使ってみようとしているのかを、あらためて考えてみた。
左利きの二塁手が不利なことぐらい、素人が考えてもすぐわかる。ゴロを取って一塁に投げるプレー。セカンドには特に当たりそこないやひねくれたゴロが多く、一瞬を争う場面が多い。6・4・3のダブルプレーで二塁手がピボットになり、ショートからの球を二塁上で受けて素早く一塁へ転送するプレー。これも一瞬を争う。そして二塁手が球を扱うプレーはこの二つが基本であり一番多い。
かろうじて有利といえるのは、4・6・3のダブルプレーのときだ。つまり二塁手がゴロを取って、二塁ベースに入ろうとするショートに送球する場合は、左のほうが右利きよりもスムーズに球を投げることができる。
(いや、まだあるんだよ)と監督は考えているようだ。それを鳥村はこう推理した。最近はピッチャー返しでセンターに抜けるゴロのヒットが多い。一旦抜ければ二塁ランナーはホームを狙える。普通センターには、外野手の中でも足が速く肩の強いのがいるが、レフトやライトよりもゴロをとるまでに時間がかかるし、バックホームも難しい。そういう、センターに抜けそうなゴロやライナーに飛びつくには、右手にグラブをはめた左利きのほうが有利だ。しかし、その代りに一・二塁間への打球に対しては不利になるではないか。それを監督は多分こう考えているのだろう。つまり、一塁手の赤月は長身の左利きだから、一・二塁間を右利きよりはカバーできる。次に、一・二塁間を抜かれても、ライトからのバックホームはセンターからよりもランナーの足を封じやすい。
二塁ランナーをおびき出すピックオフ・プレーではどうだろう。これも監督は左利きのほうが有利だと考えているのではないか。リードから二塁ベースに戻ろうとするランナーヘのタッチ。なるほど、しかし二塁手全体の動きから見ると、やはり右利きが絶対有利だ。おまけにショートの永田にとっても、キーストン・コンビの相棒がときどき変わるのでは呼吸が乱れる元になろう。それに、球を扱うプレー以外に、二塁手が果たす役割は大きい。新人の帆足が、その役割において、この道四年で名手といわれている馬見をしのぐとは思えない。ベテラン監督で、しかも本人自身が二塁手出身の志村監督が、なぜこんな妙なことをいうのか。いや、自分自身が二塁手だったから生まれる発想なのか。鳥村の推理はこのあたりまで進み、そして(いや、やっぱりこれは何とか思いとどまってもらおう。それがヘッド・コーチのおれの役目だ)と結論をくだした。
志村千三は今年で五十二歳になる。一九八五年に広島ドリンカーズの監督になって三シーズンを経験した。この男、鳥村に妙な考えを打ち明けたにしては、今まで作戦面ではまずオーソドックスなことで通っている。どちらかというと動よりは静のタイプで、ゲーム中は特にそうである。鳥村ヘッド・コーチに全幅の信頼を置き、ゲーム中の選手への指示は彼に任せている部分が多い。よくいえば「大局を見る監督」であり、悪くいえば「何もしない監督」となる。それではゲーム中は、その分だけ鳥村の仕事が忙しいのかというと、それはそうでもないのだ。つまり本番の試合では、選手一人ひとり、あるいはナイン相互の判断で進める領域を広げる方向を、広島ドリンカーズは年ごとにめざしているのだ。もっともこの傾向はドリンカーズだけのものではない。あとでも述べるが、むしろ札幌ベアーズや仙台ダンディーズといった、北のチーム・カラーにドリンカーズが学んだともいえる。
さて、本番では目立たない志村監督も、スプリング・キャンプでは、まずキャンプインの当初に、選手個人個人にかなり具体的な課題を与える。そしてそれに沿ってはじめのうちは、細かい注文や助言をする。それが一通りすむと、あとはあまり口を出さない。しかし、相談にくる選手にはどんなことでも具体的に指導し、示唆を与える。「わしが役に立つのは練習のときだぞ。練習ではどんどんわしを使え。その代わり本番になったら、野球をやるのはおまえたちだ。そのときはわしに楽をさせてくれよ」というのが志村の口癖である。
だから、さっきから志村がぶらぶらするかベンチにいるだけで、何もしてないように見えるのは、キャンプインの初期に監督としてやるべきことをやっておいたからだと見てやれないこともない。そして、そのとき志村が選手たちに与えておいた課題や示唆を、選手一人ひとりが自主的にこなし、今二月二十三日の段階では、もはや志村を必要としないほど満足な状態に進んでいるからだと見てやれないこともない。ものはとりようである。どっちみちシーズンに入れば、ものはとりようどころか正確な答えが返ってくるのだから、ここは好意的な眼で解釈しておいてやろう。それにしても、監督を暇にさせておくと鳥村ヘッド・コーチも大変だ。退屈の挙句、左利きの二塁手起用などという珍妙な考えを起こされてしまうのだから。
珍妙といえば、去年のスプリング・キャンプではこんなことがあった。
「おい、みんな、ちょっと集まってくれ」
何ごとかと集合した選手たちに、志村は言った。
「今からちょっと、ひっくり返しの野球をやってみよう」
選手たちは、けげんな顔をした。志村は楽しそうに続けた。
「いや、たいした仕掛けがあるわけじゃない。ファーストとサードを逆にするだけのことだ。つまり、バッターはサードに走る。ファーストを廻ってホームインだ。それ以外は何も変わらない。守備位置はどうしようかな。ファーストとサードはもちろん交替してくれ。そうだな、セカンドとショートも替わってみるか。外野はそのままでいい。じゃあ、紅白の五回戦で行ってみよう」
草野球クラブの余興ならともかく、れっきとしたプロ野球のキャンプでのことである。スタンドには熱心なファンに混じって、広島球界の長老格の鶴岡一人や藤村富美男の顔もあった。新聞記者やカメラマンもいる。そういう中で、プロの選手によるひっくり返しの野球、裏返しの野球がおこなわれようとしている。
普段のホット・コーナーにはファースト・ミットを手にした一塁手が入り、普段の一塁に三塁手が入った。打者走者はバットを捨てると左側のラインに沿って新しい一塁めざして走る。選手たちのほとんどは、試合のはじめからくったくのない笑みを浮かべ、のびのびと動いた。右打者で右狙いのうまい馬見が、いつものように外角球を鋭く叩いて右を抜くと、ベンチから「三遊間真っ二つ!」という声が挙がる。チーム一のスラッガーの赤月はホームランを放ったが、いつものように右のラインに沿って悠々と進み、新三塁ベースの直前で気がついて引き返し、ホームベースをまたいで、あらためて左のラインに沿って、照れくさそうにゆったりと走り直す。ダブルプレーのために転送するボールを、二塁ベースに入ったショートがいつものくせで普段の一塁、実はこの場合の三塁に投げてしまい、本人はもちろん周囲のメンバーも爆笑するという一幕も生まれた。
この紅白試合のはじめに、なぜこんなことをやるのかについて監督から特別な前置きはなかったが、選手たちは体を動かすうちに、明らかにまじめな練習というよりレクリエーションであることを感じ始めていた。表情も身のこなしも、野次も笑いも解放感にあふれていた。ほかのプログラムではなく、自分たちの商売であり仕事である当の野球を、激しい仕事場で、いつもの競争相手とやりながら、それがそのまま、こよなく楽しいレクリエーションになっていた。
志村もにこにこ笑いながら、この裏返しの野球を見ていた。そしてどうやら五回が終わると、全員を芝の上に車座に坐らせて言った。
「さて、今やったことはもう忘れていい。いや、忘れてくれなけりゃ困る。本番で大変なことになる。ちょっとした気分転換と頭の体操をやったらどうかと思ったんだよ。そうに決まってるという約束事を、ときどきひっくり返してみるのもいいもんじゃないかな。ただし、人様に迷惑をかけない形でスマートにね。いや、迷惑というより心配をかけたかな。あそこで見ていらっしゃる鶴岡御大や藤村御大にはね」
たまたま居合わせた新聞記者たちは、これを記事にしたものかどうか、するとすればどういう扱いでデスクに出したものかと戸惑っていた。志村は言った。
「あんまりまじめにとりあげんでくださいよ」
そしてつけ加えた。
「鏡のくにの野球ってのはどうかね」
まさかこの奇妙な余興のせいでもあるまいが、去年のペナントレースで、広島ドリンカーズは、一九八三年にプロ野球が三リーグ十八チームで再発足して以来、はじめての竹リーグ優勝を果たしたのである。そして日本シリーズでは松リーグの札幌ベアーズに優勝をさらわれはしたものの、二位の座を占めた。ちなみに三位は梅リーグの熊本モッコスであった。
そういえば、二リーグ時代の日本シリーズは、優勝か敗けかのどちらかしかなかった。単一の相手に四勝したほうが優勝だった。今では三リーグの各優勝チームによる各カード三回戦制で、二勝すれば勝点一となり、勝点二で優勝だ。だから、優勝に必要な勝星は四で、昔と変わらないのだが、シリーズのバラエティは増したようだ。ところが去年などはそのバラエティがいささか増し過ぎてしまった。というのは、三者が勝点一で三つ巴になってしまったのである。そこで規定によりあらためて各一回戦をやり、広島と熊本を連破した札幌が優勝した。こういう三つ巴は去年がはじめてだった。しかし、さらに恐ろしい規定がある。あらためて各一回戦をやっても三チームとも一勝一敗、つまり第二次三つ巴になったらどうするのか。またあらためて各一回戦をやるのである。その結果かりに第三次三つ巴になったら? 答えは同じ、またやるのである。決まるまで続ける。優勝が決まらないかぎり、かりに年を越そうとおかまいなしに続ける。次のシーズンが迫ってきたら? そこまではまだだれも考えていない。しかし三リーグ制であるかぎり、そういう日本シリーズが絶対に起こり得ないとはいえないのである。多分そういうときは、コミッショナーがドクター・ストップをかけることになるだろう。そういう凄絶な日本シリーズを見てから死にたいというファンもいる。
さて、広島ドリンカーズの今日の練習も終わり、シャワーを浴びて着替えを済ませた志村と鳥村は、連れ立って球場を出た。球場の南の相生橋を渡って平和公園に足を向ける。今日はたそがれになってもそれほど寒くなく、夕日の色が見事なので、少し散歩しようということになったのだ。二人の間では、こういうときは仕事の話は出さないことになっている。だから話題が野球に及ぶことはあっても、ドリンカーズの選手の人事や作戦ということにはならない。志村も鳥村も、帆足航平のポジションのことには触れようとはしない。
「今日はね、グラウンドで妙に吹田さんのことを思い出してねえ。気がついたら、もうすぐ命日なんだよ」
「亡くなったのが新リーグ発足の年ですから、もう五年ですか。早いもんですねえ」
「まったくね。ドリンカーズも六年目だ」
「吹田さんは、亡くなったときたしか八十一でしたね。そうすると、いつのお生まれですか」
「一九〇二年、明治三十五年、今の呼び方でいうと終戦前四十三年だね」
鳥村は眼を細めて遠くを見やっていたが、やがて言った。
「そうすると、今が戦後四十四年ですから、もしまだ生きていらっしゃったら、戦前戦後を同じ長さだけ生きた米寿のお祝いになったんですね」
「なるほどそうだ。この年号はそういうことに気づかせてくれるね」
二人は原爆被災ドームの横を通り、太田川の流れをみつめながらさらに南へ歩く。(このドームも、人間の作った悪魔の一瞬の閃光を浴びてから四十四年目だ)と、志村はあらためて思う。そして、ふと思いついたように鳥村に言った。
「トリさん、今のきみのことばで気がついたんだが、太平洋戦争が終わってから今日までの年月はね、日露戦争が始まってから太平洋戦争が終わるまでの年月を、すでに上廻ったんだね」
「はあ、そういうことになりますか」
二人はそれからしばらく黙り込んだまま、原爆慰霊碑のほうに近づいて行く。やがて志村がぽつりと言った。
「おたがい、こうして野球でめしが喰えて幸せというべきだなあ」
「まったくですね」
「ところで、日本の野球事始めというのは、たしか明治六年という説だったね」
「そうです。ええと、終戦前七十二年になりますか」
「うむ、そうすると、あの戦後三十九年を中心にしたプロ野球改革は、日本で野球が本格的に始まってからちょうど百年目あたりと考えていいね」
「そうですね」
「どうも、何事も百年というのは、変革から変革への一周期かも知れないね」
「さあね。監督、明治百年とか謳われてたころには、めぼしい変革はありましたかね。つまり、日本の近代国家としては」
「トリさん、むつかしいことをいい出さないでくれよ」
二人は声を挙げて笑った。鳥村は、自分で出したテーマを軽く打ち切るように言った。
「少なくともあのころ、野球百年のようなはっきりした変革は認められなかったようですね」
鳥村のまなざしは、(そして、プロ野球変革の戦後三十九年あたりから、社会状況全体が相互に作用し合うように変革へと向かった。これはプロ野球の変革と無縁ではなかった)と言っているように見えた。
二人は、慰霊碑の前で黙祷したあと、平和記念資料館のピロティの脇までまっすぐ歩を進める。志村は思う。
(おれが高校生になりたてのころ、この資料館が建った。まだ周囲には目立つ建物がなかったころだ。あのころ、この建物の新しい姿かたちとコンクリートの荒い肌は、強烈な異彩を放っていた。そしておれがカープの選手になったころは、広島の街もあらかた整ってきて、この建物も街と調和していた。そして戦後四十四年の今、遠くに見えるピカピカのビルの群れに対して、この建物は孤独にひっそりとたたずみ、静かに老境を味わっているかのような風情だ。一人の人間の生涯のようだ。この建物の人間的な感じが、おれは好きだ……)
「何を考えてらっしゃるんですか」
「いや、またふっと吹田さんの顔を思い出していたんだよ。どうやら日も暮れたね。トリさん、軽く一杯やって行こうか」
「ああ、いいですね」
二人の影が平和公園の夕闇を横切り、ネオンサインのまたたく街の方角にシルエットとなって吸い込まれて行った。
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帰ってきた知識人
一九八八年、戦後四十四年三月二日の昼下がり、福岡の大濠公園の池のほとりを散策する人びとの中に、一見山登りのいでたちをした一人の男がいた。しかしよく見ると、山登りにしては何ともちぐはぐな恰好である。首尾一貫していない。いや、中間を素通りして首と尾だけは一貫しているというべきか。つまり、頭には色あせてよれよれの登山帽をまぶかにかぶり、その下にのぞく顔は、頬から鼻下とあごにかけて伸ばし放題といった不精ひげにおおわれていて、足にはこれまた土がこびりついて薄汚れた登山靴をはいている。ところが、頭と足の間の衣服はしゃれた街着であり、しかも仕立て下ろしのように真新しいのである。ネクタイこそ締めていないが、上下揃いの薄茶のスーツを着ている。登山姿と街着が同居しているというよりは、何年か前の時間と現在の時間とが、この一人の男の姿の中に同居している感じだ。
ひげにおおわれた男の唇がもぞもぞと動いた。男は独り言をつぶやいていた。
「変わってない。驚くほど変わってない」
しばらく歩くと、またつぶやいた。
「あるいは、驚くほど静かに変わっている」
その独り言は、とっさに出るというよりは、あらかじめ書いた文章を静かに読んでいるような、あるいは芝居の台詞を小声で試しているような感じである。
男はやがて、独り言ではなくだれかに話しかけてみたいといった風情で、まわりの人びとを眺め始めた。まるで、生まれて初めて人類の一人に話しかけてみる、その一人を大切に物色しているという眼つきだ。その念入りな選択の末に、男は、小学校五、六年と見える一人の少年を呼び止めた。
「坊や、博多ドンタクスタジアムっていうと、昔の平和台球場のとこにあるの?」
少年は、きょとんとした顔でひげもじゃの男を見上げた。そして、
「ドンタクスタジアムなら知っとるけど、ヘイワダイってよう知らん」
と答えて、公園の東のほうを指し、
「すぐそこじゃ」
と言った。
「ああ、やっぱりね。どうもありがとう」
男は立ち去ろうとしたが、少年が何か言いたそうな気配をしているのを察して足を止めた。少年は訊ねた。
「おじさん、にっぽんじん?」
男は意表をつかれたように一瞬口ごもり、やがて両手でひげをかき分けて自分の顔をよく見せる手つきをして、笑いながら答えた。
「そうだよ」
「ふーん、どっからきたん?」
少年は矢継ぎ早に聞く。男は、
「あっち」
と言って、さっき少年が指した東のほうを指した。そしてその指を、水平からやがて心持ち上に向けて、遠くの空を指した。少年は、男の指さす方向を、まるで測量でもするようにじっと見据えていたが、やがて、
「なんか、小倉より遠そうやね」
と言った。
「うん、ずっと遠くだ。おじさんはね、日本人だけど、長いこと遠くの国にいたんだ」
「何ちゅう国ね?」
男はしばらく黙っていた。そして、さも大事なことを打ち明けるように少年の背の高さまで上体を折り、顔を近づけて、
「マヤという国」
と言った。
「マヤ? 知らんなあ」
「あのね、今は名前が変わってるんだ。それは言わないでおこう。きみ、家に帰ったら何かで調べてごらん。きっとわかるよ」
ふしぎそうな顔をしている少年に、男はもう一度礼を述べて歩き出した。そしてまた、台詞のような独り言だ。
「こどもが変わった。物怖じせず、くったくがない。ほら、ほかの子の表情もそうだ」
博多ドンタクスタジアムでは、筑前大学と広島ドリンカーズの交流試合が、まさに始まろうとしていた。この球場はプロ野球の博多ドンタクスの本拠地なのだが、今日はそのドンタクスが、地元を離れて熊本モッコスとのゲームに熊本に行っているので、筑前大学がこのドンタクスタジアムを借りてドリンカーズを迎えているのだ。
くだんの男が、スタジアムの外塀の掲示板を見て、驚いたようにまた独り言をつぶやいた。
「プロと大学の交流試合!」
そして続けて言った。
「やっぱり、変わった」
一体この男は、こんなあたりまえのことに何を驚いているのか。そうだ、そういえば、四、五年前まではプロ野球チームは、大学はおろか社会人野球とのオープン・ゲームをすることも禁じられていたのだった。この男はそのころのことしか知らないらしい。してみると、彼は少なくとも五年以上海外に行っていて、日本に帰ってきたばかりなのだ。
スタンドに入った男は、しばらく出入口に突っ立ったままスタジアム全体を眺めていた。オープン・ゲームにしては観客はかなりの入りのようだ。しかしまだ内野席も余裕はある。やがて男は、一塁側内野席のホーム寄り中段あたりに席を占めた。グラウンドではすでに両チームのシートノックも終わっていて、選手たちはベンチに引っ込んで試合開始を待っている。男は、三塁側の広島ドリンカーズのベンチのほうを、じっと見守っている様子だ。
さて、そのドリンカーズのベンチでは、今日の先発投手の厨川と捕手の原が話し合っていた。
「原さん、今日のぼくのまっすぐの伸びはどうですか」
「うむ、今年に入ってから一番いい。手許でのホップが最高だ」
「そうですか。じゃあ、今日は全部まっすぐで、原則として全部ストライクで試してみたいんですが」
原は驚いた様子もなく答えた。
「よかろう。それじゃ、サインはコースと高低だけだ。しかし、アマチュアだからといってなめてかかるなよ」
「わかってますよ」
「筑前の坊やたち、なめられたと思ってカッカとくるぜ」
「思うつぼですよ。だけど決して力は抜きませんよ。全力テストです。シーズンまでにプロ同士でも一度やってみたいんです」
「クリ、それは今日のテストがすんでから決めることだ」
「はい」
このやりとりが聞こえているのかどうか、二人の近くにいる志村は、眼をグラウンドにやりながらにやにや笑っている。厨川健、快速球を武器とするサウスポーで、入団四年目、二十四歳である。チームの中の左腕ではピカ一で、チーム全体でも準エース級だ。しかし、いくら快速球を誇る厨川でも、プロの三年間まさかそれだけで通用してきたわけではない。鋭く曲がる速いカーブと、大きく落ちる遅いカーブ、それにスライダーもフォークも持っている。それらの配合の上で、ズバリと通す快速球が生きてきたのだ。それを今日は、いくら大学チームが相手とはいえ、全部直球でしかもストライクだけで行くという。原捕手もそれを簡単に許している。
志村は、社会人や大学のチームからオープン・ゲームの申し込みを受けたときは、かならずその時期のベストメンバーで臨むことにしている。「プロ同士の鞘当てとはちがい、それが相手に対する礼節だ」というのが彼の態度なのだ。だから今日も、今チームで最も好調な厨川をマウンドに送ることにしたのだ。その意図をバッテリーが台なしにするようなことにならなければよいが。
福岡市の筑前大学は、ここ二年の四シーズンというもの、西部大学野球選手権を他に譲ったことがなく、去年の秋には、全国大学野球選手権大会で強敵北海道大学を破って優勝している。西部大学野球とは、東中国、西中国、四国、北九州、南九州の五リーグの総称で、各リーグの優勝校によって一回総当たりの決勝リーグがおこなわれる。それを連続四回制覇しているのが、この筑前大学である。ちなみにこの五リーグの地域分けは、現在のプロ野球チームの地域範囲、すなわち、東中国・岡山モモタローズ、南中国・広島ドリンカーズ、四国・高松パイレーツ、北九州・博多ドンタクス、南九州・熊本モッコスと対応している。そしてこの西部の圏内のプロ野球チームとトップクラスの大学チームは、毎年春先に何試合かのオープン・ゲームを組むのである。筑前大学の過去三年の対プロ・チーム十四試合の成績は三勝十一敗、アマチュアとしては健闘しているし、負け試合の内容もそれほど悪いものではない。
さて、試合開始だ。両チームのナインがホームベースを挟んで並び、試合前の挨拶を交わす。ドリンカーズの面々は照れくさそうだ。こんなことはプロ同士ではやらない。しかし、アマチュアとのオープン・ゲームでは、しきたりからルール一切アマチュアのほうに従うことになっているのだ。
先攻は筑前大学。ドリンカーズのナインがグラウンドに散った。筑前のトップ・バッター、ショートの土屋が右ボックスに入る。主審の右手が上がった瞬間、けたたましいサイレンが鳴る。これもアマチュアのしきたりだ。厨川の左腕がしなって、指先から真っ白な球が飛び出した。第一球はど真ん中の直球、土屋は唖然として見送る。普通のストライク・ゾーンの断面図には、縦に十一個、横に六個で合計六十六個のボールが並べられるが、厨川の第一球は、その六十六個の中心を貫いて原のミットにビンと快い音を立てておさまった。第二球、今度は内角高目にホップしながらくい込む。土屋は思いきりバットを振った。腰の回転も悪くない。打球は真うしろに飛び、バックネットの上部をすごい速さで直撃するファウルとなった。
(小僧、振れてやがるな)と、バッテリーは一呼吸置いた。厨川は考える。(バッターはこう思っているだろう。おれの球が手許でホップするのをわきまえて、ダウン・スイングのポイントを上に置いたのに、それでもボールの下をかすってファウルになった。もう少しポイントを上にして前で叩こうとね。だから今度はやや低目に通すか。できれば真ん中にしたいな)。原のサインは厨川の狙いとピタリと合った。注文通りの速球が、バッターの膝元をよぎった。やや低いか。さすが筑前のトップ・バッター、上から半分出ていたバットを止めた。判定はボール。さて、いよいよ厨川は外角寄りの高目にホップさせるだろう。これも、投手、捕手、打者の狙いが一致した。土屋のバットは球に遅れずさからわず、左の腰もうまく押し出して理想的に球をとらえたと見えた。しかし、打球はセカンドの右上に力なく高く上がってしまった。二塁手の馬見がグラブをポンと叩いてから捕った。
打席に入る前にトップの土屋から二言三言示唆を受けていた二番バッターは、バットを短く持って厨川の第二球を思い切り上から叩いた。おそらく土屋から(あのピッチャーの球の手許でのホップは聞きしにまさるものだ)といわれていたのだろう。これはバウンドの高いゆるい二塁ゴロとなり、また馬見が難なくさばいてツウアウト。
ストライクの直球しか投げてこない厨川に対して、筑前大学のナインはだんだんカッカとしてきたようだ。それを発散、解消させようと、筑前のベンチから野次が飛ぶ。
「クリヤガワさん、カーブが曲がりませんねえ」
「ピッチング・マシーン!」
「今年はプロでは無理ですねえ」
三番バッターの巨漢が左ボックスに入り、厨川が無造作に第一球を投げようとする直前にボックスをはずして、眼に入ったごみを取る手つきをした。今度はドリンカーズのベンチから野次が出る。
「大きい坊や、眼をこすってもだめ。この球はおぬしには見えんよ」
ピッチャーがカッカしたのか、バッターがカッカしたのか、結局この三番は三球三振。内角高目、見送り、真ん中高目、空振り、そして全く同じ球、空振り。
厨川はマウンドを降りてベンチに向かいながら不満そうに指を鳴らした。その表情はこう言っていた。(チェッ! 三人とも三振に取ろうと思ったのに、たったの一つか)
一回の裏、ドリンカーズの攻撃。バッター・ボックスにいる時間の短いことで有名な帆足航平通称早打ち航平が、プロ野球一の小柄な体を左ボックスに運ぼうとしている。筑前のベンチからすかさず、
「ドリンカーズさん、中学生を連れてきちゃだめですよ」
航平は、バットを素振りしながら筑前のベンチをにらみつけ、だれが野次ったのかつきとめようとしている様子だ。
筑前大学の投手はエースの吉川。二年生の春からマウンドに立ち、チームを連続優勝に導いた立役者で、今年が大学最後の年である。来年博多ドンタクスに入団することは確実だ。長い右腕から左右のコーナーぎりぎりにコントロールされて伸びる速球と、重い感じのスライダー、それに鋭く落ちるカーブ、何よりも全体のコントロールが抜群で、プロのバッターにとってもあなどり難い存在である。
吉川の第一球は、左の航平に対して外角ぎりぎりの低目を、厨川に劣らぬすばらしいスピードでよぎる球。厨川のホップ気味に対して吉川のはややシュート気味だ。早打ち航平は当然のようにバットを出す。とっさに右足をふみ入れて右腰を押し出すようにし、バットを小さく鋭く振った。球はサードラインに沿って超低空で飛び、ベースに直接ぶつかってはねたあと、後方のラインのやや外側にころころと転がった。
筑前大学の監督があらかじめ選手たちに与えていた指示はこうだ。「トップの帆足の特長は、早打ち、そして打球が鋭い。しかし外野の頭上を越すことはめったにない。その代わり油断するとすぐ横を抜けてフェンスに行っちまうぞ。そこでこうする。ライトは定位置よりやや前、レフトはもっと前、そしてセンターは深く守ってフォローしろ」
そこで思い切って浅く守っていたレフトが、三塁ベースからあまり離れていない位置で、この勢いがとまってゆるく転がる打球をうまくカバーした。単打だ。と、だれしもが思う。しかし、航平は一塁を駆け抜ける前から二塁を狙っていた。航平の俊足を知っていたレフトも、まさか二塁には走らないだろうと思っていた。そして本気に二塁へ走ろうとしている航平を見て驚いた。しかし、さすがに筑前大学の左翼手、航平の左利きを心得ていて、二塁ベースの手前ではなくやや奥をめがけて絶好の送球をした。左利きは、利き足もたいてい左だから、スライディングの軸足は左になり、寝かせた体は当然、レフトから見て二塁ベースの向こう寄りに行くからだ。しかし航平もさるもの、ベース直前でレフトからの球筋を見て、軸足でベースの左の|空《くう》を蹴って地面に背中をつけ、レフトが予期したのと反対の位置に体を滑らせ、右手でベースをつかまえた。筑前の二塁手のグラブがその手にタッチしたのとどっちが早いか。その瞬間、審判の両手が真横に伸びた。ドリンカーズのベンチから拍手歓声が湧く。
三塁手は、まるで打球が三塁ベースに当たらなければ捕っていたのにとくやしがるように、スパイクでベースをひと蹴りしている。
二番の永田は、前記のとおり広島カープ時代からの選手でスイッチ・ヒッター。これまた俊足だ。ところがこのスイッチ・ヒッター、相手投手の吉川が右腕なのに左打席には入らず、右で打とうとしている。もともとこの二番打者、右打席から一・二塁間を抜いてランナーを進めるのがうまい。バッターが当然左で打ってくるものと思ったバッテリーは戸惑った。そして(このやろう、なめてやがる)と思った。とにかく右狙いを防ごうというわけで、外角球はボールにし、ウイニング・ショットは内角シュートと決めた。第一球、外角ストレートのボール、第二球、内角ぎりぎりのストライク、第三球、外角をはずれるカーブ。(さて、次は公式どおり内角シュートで仕留めようとしているな)、と永田は読んだ。(かわいそうだが、その公式ではだめだということを教えてやろうか)、永田の読んだとおりの球が、それでもすばらしいスピードに乗ってきた。永田は心持ち体を開き、腰と腕と手首の切れを瞬時に一体とし、吉川の速球を鋭く引っぱった。勢いよく三遊間を抜く。今度もあらかじめ浅く守っていたレフトが球を止める。ランナーは一・三塁になる、と思われた。ところが、サード・コーチの鳥村は右腕をぐるぐる廻してホームヘ突っ込めの合図、航平も当然のように走る。ホームベースに近づいてからぐんぐん加速度がつき、左足をピンと伸ばしてストレート・スライディング。航平のスパイクがホームベースをかすめるのと、筑前の捕手がきれいなバックホームの球を捕って航平の足に素早くタッチするのと、ほとんど同時だった。アンパイヤーは一呼吸置くと、「セーフ」とコールした。驚いたのか、声が少しうわずっている。
ドリンカーズのベンチでは、だれかが志村に聞いている。
「監督、今の場合でも“突っ込め”ですかねえ。少し無茶じゃないですか」
「いや、トリさんがとめても航平は突っ込んでたよ。それを知ってるから、トリさんもおもしろそうにグルグルやったのさ」
「永田さんも、あのケースで珍しく引っぱりましたね」
「永田も、今のホームベース上のドラマを期待してたんだよ。あいつこそドラマの仕掛人さ。インコースは捨てて右へ流すふりをして、インコースを待ってたんだ。いいかい、あの場合は右を狙って、悪くてもランナーをサードヘ進め、次が外野フライでも一点というのはたしかに一つの定石だが、それをまたくずすのが一流選手だよ。何でも決まりきって型ができすぎては、おもしろくないやね。ペナントレースで今のように行けば、お客さんは湧くぞ」
志村は愉快そうに答えた。そして(うむ、この新一・二番コンビは傑作というべきだ)と思った。
三番・赤月は右中間に大飛球を放ったが、フェンス間際でセンターに好捕された。
四番は捕手・原伸次。永田と同じくカープ時代からの選手だ。広陵高校出身の二十六歳で右投左打、去年のドリンカーズのリーグ優勝のときのMVPである。この年、打率三割三分一厘で三位、ホームラン三十九本で二位、打点百三十五でトップ、この打点は二位を三十以上も引き離す抜群の成績で、これがMVPの決定に大きくものを言った。投手のリードと肩の強さにも定評がある。ドリンカーズのホームベースは当分磐石だ。
その原、リストの利いたきれいなフォームで、判で押したようにホームランを放った。ライトスタンド最上段に球がはずむ。永田、原と還って三点目が入る。そのあと何だかんだで打順は八番まで廻り、一回に計五点が入った。
回が進んでも、厨川の全直球ストライク主義の投球は勢いが衰えず、筑前はランナーを出すことができない。厨川は、八、九回をルーキーの小杉にゆずり、小杉も好投して、結局この試合、十一対○でドリンカーズの勝ちとなった。
両チームのナインがホームベースを挟んで並び、サイレンの鳴る中で試合終了の挨拶をする。それがすんで両チームのナインがベンチに戻ろうとした瞬間、静まって行くサイレンに代わって、帆足航平の大きな声がした。
「おい、さっきおれのことを中学生と言ったやつ、前へ出ろ。正直に出ろ」
ドリンカーズのベンチでそれを耳にした鳥村コーチがホームにかけ寄ろうとするのを、志村監督はにやりと笑って押しとどめた。
「やらしておけ」
両チームが一列に並んで向き合っている間の細い空間を、一瞬氷の刃が走り抜けたような空気になった。間もなく筑前大学の列から、ひときわ体の大きい学生がノソッと出て、小さい航平の前におおいかぶさるように立ちはだかった。
「わっしです」
さあ始まる、とだれもが思って止めに入ろうと身構えたとき、航平がゆっくりと右手をさし出して言った。
「デカガキ、がんばれよ」
デカガキも、つられて何となく右手を出してしまった。
厨川はマウンドを八回に小杉にゆずるまで、一人の走者も出さなかった。そして予定どおりすべて直球で通し、しかも二十一人のバッターに投げた八十球のうち、ボールと判定されたのはわずか六球だけだった。
新聞記者の一人が志村のところに来た。
「監督、どうして厨川に完投させてパーフェクト・ゲームをやらせなかったんですか」
志村は、記者の顔をあきれ顔でまじまじと眺めていたが、やがて言った。
「パーフェクトだって? プロが大学生を相手にそんなことをして、何になりますか」
記者は、たまたま志村の近くにいた厨川の顔をのぞき込んだ。厨川は言った。
「パーフェクトはね、監督がペナントレースのときにとっておいてくれたんですよ。ぼくもそろそろやっておきたいし、まあ今年、東京ジャイアンツあたりを狙ってます」
記者はにこにこ顔をして帰って行った。今日は、帆足といい厨川といい、言動でもプレーでも、絶好の話題を新聞記者に提供したものだ。やがて、厨川はだれに言うともなくつぶやいた。
「そんなことより、七回で三振はたったの十三か」
いかにアマチュア相手とはいえ、七回で三振十三とは立派なものではないか。実は厨川は、キャンプの初めに志村監督から聞いた話を考えているのである。志村が厨川に、「クリ、おまえは往年の火の球投手荒巻にだんだん似てきたぞ」とおだてながら聞かせた話はこうだ。
荒巻淳、快速球を武器としたサウスポー、大分商業から大分経済専門学校を経てノンプロの別府星野組に入り、一九四九年の都市対抗野球で優勝。翌年、プロ野球の二リーグ分裂とともに新生球団毎日オリオンズに入り、二十六勝八敗で新人王。その年のリーグ優勝、日本シリーズ優勝に貢献。その後も長く活躍を続けたが、現役引退後一九七一年、四十四歳の若さで急逝。その荒巻の球歴の中で、志村が厨川に強調して話したのは、荒巻の専門学校時代の記録だ。全国専門学校野球大会の決勝戦で、荒巻はパーフェクト・ゲームを達成した。パーフェクト・ゲーム自体は今日ではそれほど珍しくもないが、問題はその中味だ。荒巻はこのゲームで、何と二十三の三振を奪ったのである。つまり、相手チームの打者がかろうじてバットにボールを当て、それが捕られてアウトになったのはわずかに四、それ以外は全部三振によるアウトである。相手がとびきり弱いチームだったとは考えられない。少なくとも全国大会で決勝戦まで勝ち抜いてきたチームである。
その荒巻に、厨川は顔つきも体つきもピッチング・フォームも似てきたと、志村は言う。
「どっちかというと、きしゃな感じの体つきでな、優男っぷりもおまえそっくりだ。何というかなあ、大学の研究室から白衣を着て出てくるのがぴったりするような、インテリジェントな雰囲気を持ってたぜ」
厨川は、監督が快速球の水準や球質が似ているという話をあまりせずに、体つきや優男ぶりの類似を強調するのがいささか不満だったが、まあ満更悪い気はしなかった。そして三振二十三個の話は厨川をいたく刺戟した。そして(よし、いつかはおれも)と、ひそかに思っているのだ。
選手たちがベンチから引き揚げ始めた。一行は今日中に広島に帰り、明日は岡山モモタローズと一戦交じえることになっている。
「監督」
原捕手が志村のところにやってきた。
「クリのやつ、四日後のアルプスとの試合で、今日のピッチングをもう一度試したいと言ってるんですが」
「全直球ストライクかね」
「ええ」
「きみはどう思う」
「朝の調子が絶好調なら、やらしてみたいですね」
「よし、やらせてみろ。相手の攻撃時間がおそろしく短くなるか、それともポカスカやられるか」
「いや、時間を短くしてみせますよ」
そう言って遠ざかって行く原捕手の、肩幅の広い後姿を眺めながら、志村はひそかにわが意を得たりと思っていた。志村が何となくイメージに描きながらことばに出していなかったものを、この若いバッテリーが試し始めているのだ。
いろんなピッチャーがしょっ中こんなことをしては、かえっておもしろくなくなる。作戦の読みや攻守のかけひき、トリックにだまし合いは、野球の持つおもしろさの一つなのだから。しかしその中で、たまにはプロ野球でも、ばかみたいにストライクの直球だけで通して意外に持ちこたえるというピッチングはできないものか。志村は、それをやらせるとすれば厨川だと思っていた。
ここ二十年ほどの間に、野球の作戦やかけひき、ピッチャーの球種などがおそろしく複雑緻密になっていた。監督もコーチも選手も、他球団のその複雑緻密さを解読することになみなみならぬ神経を使い、それに勝つためにはそれ以上の複雑緻密さを開発する。いきおい、試合中に監督やコーチが選手に出す指示が多くなり、試合時間も長くなる。そして、野球をやる当のナイン同士の合図よりも、選手一人ひとりが監督やコーチの合図をうかがうことになる。九本の糸が織り合わされているのでなく、監督が一本ずつの九本の糸の端を手許で握っているようなものだ。(これではいかん。何とかせねば)、志村は前からそう思っていた。そこで、一九八五年に監督になると、前に書いたように「わしが役に立つのは練習のときだぞ。練習ではどんどんわしを使え。その代わり本番になったら、野球をやるのはおまえたちだ。そのときはわしに楽をさせてくれよ」が口ぐせになった。
志村が監督になったころから、札幌ベアーズと仙台ダンディーズの北の勢力と、最南の熊本モッコスが擡頭し始めた。もっともモッコスの中の新興勢力は沖縄県出身の若手であったが。この経緯はあとで詳しく出てくるので簡単に言うと、一九八三年の新チーム結成のころには、特に北海道と東北は既成選手の層が他よりも薄くて苦戦を強いられていたが、徐々に地元の新人の力がつき始めて強いチームになってきたのである。新人たちの多くは都会生活型ではなくて、農山漁村で育った屈強の若者たちだった。スポーツの訓練ではなく日常生活で鍛えた底力が、次第に花を開き始めたのである。そしてこの傾向は、そのころから日本の社会状況が、あとで述べるように、工業最優先から農林漁業の再興へとゆるやかに転換を始めた現象と、軌を一にしていた。
これらのチームの擡頭は、一言でいえば力の野球であり、個性の野球だった。はじめのうちは、他のチームはそういう力をあなどって、ますます複雑緻密な野球で対抗した。そのころから志村は、(ほかのチームの対抗の仕方はまちがっているぞ)と思い続けてきた。力の野球といっても粗雑さとはちがう。打者にたとえれば、変化球を予期しているところへ速球がくると太刀打ちするのが難しいが、速球を覚悟しているところへ変化球がきても、腰さえ坐っていて泳がなければ対処できる。どっちを基本にするかだ。北の二チームとモッコスは、まず力を基本にした。そして新しい選手たちはそういう体質を備えていた。
志村は「野球」ということばが好きだ。ベースボールを野球と訳したのは、一高の名二塁手だった中馬庚という人で、一八九四年、つまり日本にベースボールが入ってきて二十年も経ってからのことだ。(よくぞ野球と名づけてくれた)と志村は思う。「底球」とか「塁球」なんぞにならなくてよかった。(やはり名二塁手だっただけのことはある)、志村は同業者としてひそかに誇りにしてきた。野望に満ちた野人どもが、野っ原に集まってやる野性的なスポーツ。だから野蛮な野次が飛んでもあまり意に介さない。
(ベアーズやダンディーズが擡頭してきたのは当然だ。野球は百年を過ぎて曲がり角にきて、自己再生を始めているのだ)と志村は思った。やがて札幌と仙台は、それぞれのリーグでペナントを手にした。熊本はすでに初年度に優勝していた。いつのまにか、日本列島の南北両端が王座を占めるようになったのだ。志村は、鳥村や山本たちコーチ陣とともに、あまり目立たぬ姿で広島ドリンカーズの野球を変えて行った。南北両端のチームの良さを徐々に採り入れ、緻密な体質との調和を図った。去年の、仙台ダンディーズとの熾烈な首位争いの末かち取った優勝は、その努力が実った結果だと志村は思っている。
だから、厨川と原が、全直球全ストライクの投球がどこまで通用するか試してみたいと自発的に考えていることを、嬉しく感じているのである。(失敗してもいい。これは一つの意味のある挑戦であり、意思表示だ)と思っている。
(さて、あれをきり出すか)と、志村は脇にいる鳥村ヘッド・コーチのほうを向いた。ベンチはもう二人だけになっている。
「トリさん、実はもう一つテストしてみたいことがある」
「は?」
「馬見と帆足の、試合中のポジションの交替だ」
「監督、やっぱりまだ考えておられたんですか。左利きのセカンドなんて。第一、馬見のセカンドがなぜいけないんです」
「いや、そうじゃない。あいつのセカンドは天下一品だよ。そして帆足はその動きをセンターからよく見てきた。ぼくはね、馬見にもときどき、センターからダイヤモンドの動きを眺めさせたいんだよ」
「―――」
「もう少し別のいい方をするとね、セカンドとセンターの領域を二人に自由に任せてみたいんだな」
「どうも監督の狙いがもう一つよくわからない。この大事なときに中心線をいじくるのはやめときましょうよ」
「それはそうなんだが、その中心線のメンバー同士の臨機応変の交替なんだよ」
「馬見はどこでもこなす男だから安心ですよ。しかしギッチョの帆足のセカンドはねえ」
「どこでもこなす選手の養成は、きみとぼくの共通の目標じゃないか」
「それはそうですが、どうしてまた選りに選って……」
鳥村もなかなか引き下がらない。志村もねばる。
「相手は一つの試合で、右利きと左利きの二人のセカンドに対面することになる。まあ、攻撃によるゆさぶりのほかに、守備によるゆさぶり、うまく行けば攻撃的な守備とでもいうようなものを考えてるんだがね」
「まあ、名セカンドだった監督のことですから、何かひらめきがあるんでしょうが、ゲッツーは目に見えて不利ですよ」
「目に見えない努力を積ませよう」
さすがの鳥村も根負けして、
「わかりました。いや、あまりわかりませんが、オープン戦で一度やってみることには同意しますよ。いつにしますか」
と、ついに志村の軍門に降って聞いた。志村はにやりとして、
「ついでだから、クリのテストといっしょにしようよ。アルプス戦だ」
「ピッチャーはストライクの直球しか投げてこない。セカンドには右手にグラブをはめたチビがいる」
「ハハハ、まるでこどものころにやった草野球だね」
「私が言いたかったことですよ、ハハハハ」
鳥村コーチもつられて笑ってしまった。(おやじさんのお守りも骨が折れるわい)
二人が選手たちに追いつこうとベンチを去りかけたとき、グラウンドを横切って球場の職員がきた。
「志村さん、妙な男が志村さんに会いたいと言ってるんですが」
「妙な男?」
と、志村はその職員が振り返って指さしたほうを見た。ネット裏のスタンドからグラウンドヘ通じるゲートのところで、一人の男が足止めされてこっちを見ている。例のひげもじゃだ。
「なまえは?」
「それがね、会えばわかるといって言わないんですよ」
志村はベンチを出てゲートのほうに歩いて行った。彼我の間が四メートルほどになったとき、志村が大きな声を出した。
「おお、潟田じゃないか」
「やあ、しばらく」
「びっくりしたなあ。生きてたのか」
「ああ、悪運尽きずにね」
「とにかくベンチヘ行こう」
二人はグラウンドを歩き出した。
「いつ日本に帰ってきたんだ」
「三日前の朝」
潟田は、帰った日は東京の自宅で丸一日寝ていて、翌日の夕方夜行列車に乗って福岡に来たという。
「どうして新々幹線を使わなかったんだ」
「いや、いきなりあんなものに乗ったんじゃ、体の組織をばらばらにされそうでね。でも嬉しかったなあ。普通列車でも二回乗り換えただけで、接続もうまく行ってるし。おれが日本を出たころは鈍行はずたずただったもんなあ」
「何だ、それじゃ全部鈍行で来たのか」
「うむ、久し振りの景色を楽しみながらね。それでも初めのうちは列車のスピードが怖かったよ」
ベンチでは鳥村が腕を組んで、けげんな顔で二人を迎えようとしている。
「ああ、トリさん。この男は潟田六郎太といってね、ぼくの親友、いや、もう七、八年会ってないから旧友というべきかな。どこか地球の裏側で優雅に暮してたらしい」
「見事なおひげですね」
と、鳥村が言った。
「ええ、女房が剃ってしまえってやかましく言うんですけどね、しばらくこのままでいたいんですよ」
「何だかチグハグな恰好だな。そのひげとシャッポと靴が隠棲の名残りというわけか」
「そう。ほんとは服も帰ってきたままのでいたかったんだが、女房にむりやり着替えさせられちまったよ」
潟田は、鳥村のすすめるタバコを一本抜いた。志村は潟田に聞いた。
「ところで、予定はどうなってるんだ」
「いや、予定というほどのものはないんだが。そう、ただ一つの予定といえば、きみの都合のいいときに日本の社会に復帰するためのリハビリテーションを受けることだ」
「おいおい、無茶いうなよ。野球稼業一筋の一職人が、元日新タイムズ学芸部記者のインテリに、そんなことができると思うか」
「いや、きみから八年間の野球の移り変わりを聞くのが、おれにとっては絶好のリハビリテーションなのさ」
潟田は家で一日寝たあとは、家の近くを半日ほど散歩し、家族とあまり話もしないまま旅立ってきたという。志村に会うことのほかに、福岡県下の装飾古墳をはじめ、中国地方にも廻って古代遺跡を見て歩きたいという。要するに志村の近くをうろうろしながら、志村のスケジュールの空くのを待つというわけだ。
「リハビリテーションはともかく、せっかくだから一日たっぷり時間をとりたいなあ。そうなると長野のあとになるか」
「長野? ぼくは帰りに長野のほうにも寄りたいと思ってるんだ」
それはちょうどいいということで、三月六日の長野アルプスとのゲームが終わったあと、ホテルに泊ってゆっくり過しながら話すということに決まった。
「それはそうと、どこかでちょっと一休みしようじゃないか。トリさんもいっしょに」
鳥村はうなずいて、二人が少し遅れて広島に帰るということを、球場の外で待機しているバスに伝えに行った。
「それにしても、志村。長野といえばまだ寒いし雪だって降ってるだろう。今ごろ、どうして長野なんかでオープン戦をやるんだ」
「え?」
志村は潟田の質問に驚いたような顔をしたが、やがて、にやりと笑って、
「ああそうか。きみはご存知ないんだな。ま、それは見てのお楽しみということにしておこう」
と言った。
潟田六郎太、志村と同じく今年五十二歳になる。一九八〇年、つまり八年前までは、東京に本社を置く全国紙、日新タイムズの記者をしていた。学芸部でおもに考古学、歴史、文化人類学といった分野を担当し、その分野の諸先生といっしょに、あるいは一人で海外に取材に出ることもあった。
志村と潟田は、十年ほど前、つまり一九七八年ころに知り合った仲で、たちまち気が合った。およそ畑ちがいの男同士が、どうして|四十路《よそじ》を過ぎてから親友になったのか。きっかけはどこにでも転がっているような話だ。東京の神田界隈のとある飲屋が、偶然二人の行きつけの店だったこと、そこでおかみさんからお互いに紹介を受けたこと、そして潟田が専門に似合わず無類の野球好きだったことに尽きよう。志村は当時は広島カープのコーチになっていたが、彼の商売のわりには本が好きで、試合で東京にくると暇を見ては神田の本屋をぶらぶらし、近くの飲屋で一人で一杯やるのを楽しみにしていた。
二人がそこで知り合ってから潟田が日本を出るまで、一年ほど交友を続けただけなのだが、二人は妙にウマが合った。話題は志村の商売の野球が中心である。そして潟田の態度には、自分の専門とはるかにへだたった世界の男とつき合っておもしろがるとか、野球の話でもして忙しい仕事の束の間の憩いにしようとかいうものはまったく見られなかった。ただひたすら野球が好きだから野球の話をしたい、そして聞きたいということに尽きた。
真の交友は、お互いの知識や情報や考え方を交流させることではなく、何でもいいから一つのことに二人が夢中になることから生まれる関係のようだ。志村は、こと野球となるとこどもみたいになってしまう潟田をおもしろい男だと思い、自分も全力を傾けて野球の話をした。その結果、高校、大学、プロと三十年近くも野球をやってきた自分に、まだこんなに新しく初めて話すものがひそんでいたのかという発見があった。それは、今まで表現したことはないけれどもひそんでいたものなのか、あるいは、今この男に向かって表現したときにまったく新しく生まれたものなのか、自分でもわからない場合が少なくなく、志村はそういう自分の状態に驚いた。(なるほど、こういうことを創造というのかな?)と思った。そして、野球の経験や知識においては自分にはるかに及ばない潟田と話しながら、志村はしばしば、高度に技術的な、あるいは戦術的なひらめきを得ることがあった。
そして、野球という一つの話に二人が徹底的に夢中になったために、やがてそこを土壌にして、二人の話題はいろいろなものにひろがり始めた。そうなると、志村の苦手とする政治とか経済とか文化のことでも、志村は潟田になら気楽に話すことができた。そしてこの関係は潟田のほうからとらえてみても同じことのようだった。そういうわけで二人は、お互いに四十を過ぎてから出会って一年足らずの間に親友になったのだ。といっても、東京と広島で都合六回ほど会っただけだったが。
潟田は、世界の屋根裏とか辺境とかいわれているところに行く機会が多かった。ユーラシア大陸の奥地、アフリカ、中南米、インドなどの中で一般の人がめったに訪れない場所である。そういうところで、潟田は、新聞もテレビもラジオもなく、自動車も大規模な工業製品もなく、電気も通っていないのに、人びとが悠々と暮している姿を見た。土を耕し、家畜を追い、布を織り、食べ、飲み、唄い、恋をし、喧嘩をし、悩み、こどもを産み、死者を葬り、集まり、裁き、罰し、赦し、祈り……そういう姿を見たり、短期間いっしょに生活したりするうちに、潟田はあらためて「われわれが持っているものを、彼らはすべて持っている。そして、彼らが持っているものの多くを、われわれは失っている」と思った。潟田の関心は、諸先生と古代遺跡を調べることよりも、その近くで暮している人びととつきあうことに次第に移って行った。(ここは世界の屋根裏でもなければ辺境でもない)、潟田はその姿を、新聞もテレビもラジオもあり、電気もガスも縦横に走っている社会に、ありのままに報告し続けた。新聞記事以外に単行本にもした。
「ところがね、ぼくのレポートはどう読まれていると思う? まあ、本もそこそこは売れてるようだが、結局はね、もの珍しさという一過性の興味だ。未開社会の、自分とは無縁の異質さをもよく理解し、ひろく世界を知ろうという教養主義、ものわかりの良さ。そして結局は、自分たちの文明と生活環境をひそかな優越感とともに確認する。おれはどうも、そういうことに手を貸しているらしい。まあ、おれの文筆力の貧しさにも責任はあるがね」
ある日、飲屋で、潟田は珍しくぐちをこぼし続けた。志村はほとんど聞き役である。
「文明と文化とはちがうものだ。ぼくはね、日本の文明は今や文化を分化しちまってると思う。あ、あとのブンカというのは分けるという字だ」
と言って、潟田はテーブルに指で「分」という字を書いた。
「だからね、分化されてない文化、全体像を持っていて見えやすい文化を紹介してきたつもりなんだ」
「おれには難しくてわからんよ。いや、ほんの少しわかる気もするけどね」
「つまり、日本の現代社会では、一人ひとりの世界は驚くほど小さく狭くなっている。分業化、機能化、組織化、そうすると当然管理機構も進む。そして管理というものも分業の一つだ」
「ふむ、それは野球の世界でもいえそうだなあ」
「そう、でもきみの職場はいいなあ」
「何が?」
「選手はファームと併せて六十人。きみがコーチとして直接見る人数は二十五人。これは人間のグループとしては理想的なスケールだと思うよ」
「新聞社だって、直接関係する人数はそんなもんじゃないのか」
「いや、顔を合わせる同僚の数は少なくても、目に見えない大組織の圧力を背中に感じる。組織がふくらみすぎた。全国紙に発展するのも考えものだよ」
「プロ野球にも全国紙的な球団はあるよ」
「なるほど」
「今日はいやにぐちっぽいね」
潟田はいつもより酒の量が多く、かなり酔いが廻っているようだった。いつもの二人の組み合わせなら談論風発してとどまるところを知らぬ野球の話も、珍しくはずまなかった。(その当然の反映として、この本もここいらあたりは、あまりおもしろくないはずだ。しかし、もう少しご辛抱願いたい。もうすぐまた野球の話になる)
次に二人が会ったのは一九八〇年二月、潟田のほうがわざわざ広島に志村を訪ねてきた。
「今度はちょっと長く日本を離れることにした。新聞の取材じゃない。自分のための取材、いや、取材というのは当たらないな。キザに聞こえるかも知れんが、しばらくどこかで死んでいたいんだ。世の中の動きがわからないところ、活字も映像もラジオもなく、電話もかかってこないところでね」
「ふうん、いったいどこへ行くんだ」
「それはきみにも言いたくない。女房にも言わないつもりだ。最低五、六年にはなると思う。とにかく、人間としてちゃんとした生活はするつもりだ。余計なものが何もないところでね。もちろん本など一冊も持っていかない。ノートと鉛筆もどうしようかなと思っているんだが。どうかね、キザかね?」
「別にキザとは思わんが、何とも贅沢な話だとは思うよ。悩みを処理する方法としてはね。しかし頭の良いこともつらいもんだな」
「退職金から前借分と飲屋のつけと、それにさしあたり女房に渡す分を引いて、ぼくが行きたいと思ってるところまでの足代は残る。それに例の野球のやつなんかの原稿料も少しあるし。むこうに行けばね、ことばはまだ通じないが気持は通じているやつがいる。質素な共同生活にあまり金は要らない」
「奥さんは何て言った?」
「言い出したらやめる人じゃないでしょ。飢え死にしそうになったら帰っておいでだと」
「さすがだな」
「これは家族ときみにしか話していない。別にもったいぶって秘密にしたいわけじゃないんだが、ただ、ほかの人たちには簡単にわかってもらえそうにないんでね」
「さあ、おれだってあまりわかっていないね。ただ、きみがしんからそうしたいと思ってるということと、きみにはそれができるだろうということ、そしてやるだろうということはわかってるよ」
「それで充分だよ」
奥さんは早速英文タイプの口をみつけたという。二人の大学生のこどもも、父親の出奔の動機を理解したという。そしてアルバイトの口を増やすそうだ。
「そのうち、浦島太郎になって帰ってくるよ。それからまたやり直しだ」
と潟田は言って広島を去って行った。それは、東京に帰っていずれまたすぐに会いにくるというような別れ方だった。
そして今、潟田は八年ぶりで志村の前に姿を現わしたわけだ。
「どうだ。浦島太郎の心境は」
「ハハハ、八年ぐらいでは浦島太郎にもなれないことがわかったよ。きみとこんなところで話してると、せいぜい一年ぶりぐらいの感じかな。きみも世の中も意外に変わっていない」
「ほう、そんなもんかな。おれも、トリさんに監督をやってもらって、どこかで七、八年死んでこようかな。でも、そこでもきっと、人を見れば呼び集めて野球をやっちゃうだろうな」
志村、潟田、鳥村の三人は、福岡の天神界隈のレストランで、ビールを飲みながら語り合っている。潟田は、さっきのことばを少し訂正したいというふうに、志村の冗談にかまわずにまた口を開いた。
「いや、意外に変わってないというのは、目に見える表面的なところだと思う。まだ帰ってきたばかりだしね。おそらくいろんなことが、目に見えないところで静かに変わっているんだと思う。今までに気がついたのはね、まず野菜がおいしくなってる。今出廻ってるのは、ほうれん草かな。おれたちのガキのころのようにうまい。それにね、ここにくる前に大濠公園で、見知らぬこどもと口をきいたんだが、これが物怖じせずに人なつっこい。ほっぺたも取れたてのトマトのようだし、眼もキラキラしてる。公園のほかの子たちもそうだ。十年前はそうじゃなかったなあ」
「ほう、おもしろいことに気がつくなあ」
「その子にね、“おじさん、日本人?”ていわれてギクリとしたよ。こどもは怖いね。何か自分でもわからないことを直感的に感じてことばに出すんだから。おれはやっぱり、今ごろのこのこと日本に帰ってくる資格なんかないんじゃないかと思ったよ」
「まあ、そんなに深く考えなさんな。きみもあんまり変わってないよ」
「それにしても、この食物とこどもたちの変貌は何なのかね」
「うむ、それを話すとなると、今度はこっちが深く考えて御進講申しあげねばならんから、それは長野でゆっくり話すことにしよう」
「潟田さん、野球はどうですか。変わってますか」
と、鳥村が聞いた。
「いや、そのことですよ。鳥村さん」
と、潟田はすっとんきょうに大きな声を出した。
「野球だけは目に見えて変わってる。家で新聞をひろげてみて驚いたんですが、二リーグ十二チームが、三リーグ十八チームになっていて、北海道から九州にわたって散在している。それに女房に聞くと、東京にも大阪にも一チームずつしかないそうじゃないですか」
「そうですね。そういえばあのころは、首都圏と大阪だけで十二球団中十球団が集中してましたね」
「もっと驚いたのは、これはここにきて初めて知ったんですが、プロと大学が試合をしてるってことです。いかにオープン戦とはいえね」
「潟田さん、オープン試合とはもともとそういう意味だったようですね」
「ああ、それはそうですね」
潟田はうなずきながら、プロとアマチュアの対抗ゲームが禁じられていた昔のことを思い出していた。潟田の記憶では、シーズン中にもおかまいなしにプロがアマチュアの選手を引き抜いたりして、両方の本部同士の折合いが悪くなり、それがきっかけで交流試合が禁止されたということだった。
事実、潟田がこどものころは、プロ野球に限らず、プロといえば「人さらいの魔手」ぐらいに考える傾向がまだ尻尾を残していた。プロ野球、プロ歌手、プロ・サーカス、プロ作家……
「とんでもない。おまえは魔手に踊らされ、甘言に|弄《もてあそ》ばれているんだぞ。悪夢から醒めよ。まともな道を歩め。そうでなければ今日限り勘当だ」というのが、当時の良家の子弟への親の態度だった。その後その態度は徐々に変貌し、魔の手に代わって親の手が子弟に伸びるまでになった。「どうせやるならプロをめざせ」、親のほうが眼の色を変えてこどもに英才教育を施し、親のほうが悪夢と幻想のとりこになる例も珍しくなくなった。やがて、プロ野球、プロ歌手、プロ・サーカス、プロ作家……などは、尊敬と憧憬と羨望の対象となった。
しかし、そういう時代になっても、野球についていえばプロとアマの交流試合が復活したわけではなかった。それだけでなく、昭和二十九年以降は、一旦プロ野球のユニフォームを着た男は、監督やコーチなどの指導役は別として社会人野球の選手としては二度と活躍できないことになった。
このあたりの時代の話になると、三人の記憶は共通している。そしてその後の変化は潟田だけが知らない。だから潟田は、プロ野球チームと大学野球チームが試合できるようになった経緯を知りたがった。志村は潟田に言った。
「それも社会全体の動きと関係があるから、長野でゆっくり話すとしよう。それよりも、終戦後何年かは、プロとアマチュアも交流試合をやってた。見たことはないか」
「いや、ないな」
「トリさんは? あ、きみはまだ赤ん坊のころか。じゃあ、ぼくが見た話をしよう」
こう言って志村は、昔のほんとうのオープン戦の話を始めた。
「ぼくはね、おやじの仕事の関係で小学校四年と五年を大分市で過したんだ。そのころ兄貴に連れられてね、隣の別府に野球を見に行った。そのときのカードは、読売ジャイアンツと別府星野組というものだった」
若い読者のために説明しておくと、読売とは東京に現存する新聞社の名前であり、星野組とは別府の土建会社の名前である。前にヤクルトや阪神という名前について述べたとおり、この場合も読売という新聞名が付いてはいるものの、読売ジャイアンツとは決して新聞記者の同好クラブではなく、れっきとしたプロ野球チームだったのだ。しかし、今の東京ジャイアンツとは直接の関係はないことを断っておく。
さて、志村の話に戻ろう。この試合で志村少年の眼に焼きついたものはいくつかあった。まず、当時のジャイアンツのストッキングの派手な色である。一体何色使われていただろうか。赤、紺、黄、茶、それに緑もあっただろうか。そういう色を何本も並べた横縞が、プロの選手の太い足をぐるぐる巻きにしていて、志村少年は、自分の大切な宝物であるコマの縞模様を思い出していた。そもそもこの時代には、ストッキングはおろか日本中の街や人びとの衣類はおしなべてすすけていて、こんなに多彩であざやかな色は珍しかったのである。それだけでも志村少年は、(さすがにプロだなあ)と感心した。
次に志村の眼に焼き付いたのは、ジャイアンツの川上のホームランだった。この試合、ジャイアンツは中尾、星野組は荒巻というサウスポー同士の投げ合いとなった。まえに、志村が厨川に話して聞かせた、その荒巻である。中尾がかなり四球を出していたのに対し、荒巻はプロのバッターを相手にバッタバッタと三振を取っていた。胸のすくような快速球である。これだけだといかにも星野組が勝ったみたいだが、そこはさすがにプロ、終わってみれば大差で星野組を降していた。そしてその大差の因が川上のホームランだったというのが志村の印象である。快速球で名の通っている荒巻が、プロを代表する大打者に対してここは逆説的に行こうとしたのか、珍しくスローボールを投げた。スローボールというものは、バッターは釣られまいとして見送るものだと思っていた志村少年は、川上がその球をはっしと叩いたのに驚き、そしてその打球が、ピッチャーからキャッチャーに届くのと同じくらいの速さでライトスタンドに消えてしまったのを見て、さらに驚いてしまった。そのホームランが満塁かスリーランかだったために荒巻の致命傷になったのだった。
志村が後年プロ野球に進むようになったのは、この、小学生のときに目撃した川上のホームランが、志村の脳裏と全身に弾道を描いて飛び続けていたからかも知れない。
それにしても、天下のジャイアンツを迎え撃つ土建屋チームに対する地元の応援はすごかった。一つには地元に荒巻というノンプロ随一の名投手がいたせいもある。しかし、応援がすごいといっても、プロ同士のときの応援のように何が何でも勝ってくれという意思表示ではなかった。ジャイアンツを相手に少しでも善戦してほしいといった、いじらしい心理に基づく応援だった。それが、志村が別府球場で感じた雰囲気である。その上で、(しかし、ウチのピッチャーは荒巻だから、もしかすると……)というひそやかな期待や(一体、星野組のバッターはプロのピッチャーから何本ヒットを打てるだろうか)とか、(いくらわが荒巻でも、プロのバッターから三振を取れるだろうか)などの思いが、志村を含めた周囲のファンに渦巻いていた。この種の興味や願望は、プロ同士やアマチュア同士の試合では生まれにくいものである。実に、ういういしい緊張感と怖れに満ちたものであった。
プロ同士の場合でもわずかに志村の記憶に残るのは、一九四九年秋、戦後初めてアメリカからやってきたサンフランシスコ・シールズという3A級のプロ・チームと、日本のプロ・チームとの試合を、ラジオにしがみついて聴いていたときの心理である。これだけは前者と共通の思いだった。加えて志村少年の頭には「つい四年前まで戦争をやってた相手が、今度は野球の試合に来た」といった緊張感もあった。
とにかく、プロとアマチュアの顔合わせは、別のおもしろさをファンに与えてくれる。野球にかぎらず、テニスでもゴルフでもサッカーでも相撲でも。そしてスポーツにかぎらず、碁でも将棋でも、絵でも音楽でも小説でも……いや、このあたりになると勝負がすっきりつく世界ではなくなってくる。問題をスポーツに戻そう。
「それにしても」
と、潟田は志村に訊ねた。
「そのころでも、プロ野球と学生野球のオープン・ゲームはあったのかねえ」
「うむ、どうだっただろう。おれも寡聞にして知らないな」
と志村は答えた。そして続けた。
「とにかく、今こうやってプロと学生がオープン戦を組めるのも、ここ四、五年の基礎作業の努力の結果だよ。長野で詳しく話すが、プロ野球チームが名実ともに各地方の地元クラブとして根付いた。そして大学や高校の逸材は原則として地元チームに入るようになった。昔のように、遠くの都会のチームから金と甘言で誘おうと思ってもできなくなった。まあ、こういう状態になったからこそのことなんだな」
志村と鳥村が広島に帰らなければならない時刻になった。志村と潟田は、四日後の長野での再会を約して椅子から立ち上がった。そして志村は鳥村にひそかに、「黙っていてくれよ」という合図を送ってから潟田に言った。
「この次は、雪が降って凍えるようなグラウンドで、うちの元気な選手たちがどんなゲームをするか。まあ、楽しみにしててくれ」
翌三月三日の本拠地でのモモタローズ戦でも、ドリンカーズは六対二で快勝した。帆足航平と永田利則の一・二番コンビの活躍は特に目立ち、帆足は四回の打席のうち三回ヒットで出塁し、盗塁二、得点三。永田は二安打で、帆足をホームに還す打点が二、みずからの得点も一。結局、六点のうち四点はこの二人がホームを踏んだ得点になった。
守備で目立ったのはセカンドの馬見安穂、通称アンポ。彼の美技は再三ピンチを救い、ピッチャーを勇気づけた。ショート・永田とのキーストン・コンビも息が合って見事に連動した。(これをいじくろうというんだからなあ)と心配顔の鳥村ヘッド・コーチを伴って、志村は馬見と帆足を監督室に呼んだ。
志村の構想を、はじめのうち二人はけげんな顔で聞いていた。しかし話が進むにつれて二人の眼はだんだん輝き始め、乗気になってきた様子だった。鳥村はほっとした。彼が一番心配していたのは馬見の反応だった。四年間、ドリンカーズのセカンド・ベースをだれにも譲っていないというプライド、そして現在でも球界屈指のセカンドとして、オールスターにもダイヤモンド・グラブにも再三選ばれているプライドを傷つけることはないか。ところが、志村の話には、帆足よりもまず馬見のほうが積極的な興味を示したようだった。やはり、名二塁手には名二塁手の意図がよく読み取れるのだろうか。
「前半とか後半で交替するのもいいですが、三回ずつとか二回ずつとか、あるいはイニングごとに代わる手もありますね」
と馬見は言った。
「それじゃきみたちが疲れちまうよ。いや、わしも疲れるか。その度にアンパイヤーのところに足を運んで交替を告げにゃいかんしな」
志村はそう言いながら、机の引出しの鍵を開けて奥のほうをごそごそやっていたが、やがて二つの紙袋を取り出して机の上に置いた。
「開けてみたまえ。わしからのプレゼントだ」
紙袋からはグラブが一個ずつ出てきた。
「アンポの外野用のはわりあい楽にできたが、コーヘーのは職人さんに苦労をかけたよ。何しろ二塁手用で左利きのためのグラブなんて前代未聞だって驚いてた。どうかね、合いそうかね」
二人は、それぞれ新しいグラブに手を入れてポンポン叩いてみた。
「ぴったりです。よく私の手の形や好みがおわかりでしたね」
と馬見が言った。
「コーヘーはどうだ」
「ええ、指に実によくフィットしてます。しかしセカンド用って、こんなに小さいんですか。ちょっと心配になってきました」
「きみたちの手や指のサイズはわかっていたんだがね、それ以外はわしの勘でデザインしたんだ」
アンポ、コーヘー、それにトリさんの三人は、あらためて志村の顔をのぞいた。(監督はそんなに前からこの構想を考え、こんな用意までしていたのか)
「あすとあさってはゲームがないから、アンポはコーヘーにしっかり伝授してやってくれ。それにトシ坊も入れてな。特に6・4・3のダブルプレーだな。頼むよ、4・8コンビ」
志村は話し終えてひと安心した。(この二十七歳と二十二歳のコンビはうまが合っている。そして二人ともおれの言うことについて、のみこみが早い。これ以上はあまり口出しせず、二人に任せてみよう)
二人が監督室から出て行くと、志村は鳥村に言った。
「トリさん、コーチたちを集めてくれ。いよいよ三日後には、直球ストライクしか投げないピッチャーと、ギッチョのセカンドが登場する草野球か。トリさんも苦労が多いなあ」
「どうやらすっかり監督のペースに乗せられてしまいましたよ。何だか私も楽しみになってきたなあ。しかし監督、まだ承服してしまったわけじゃありませんぞ」
鳥村は苦笑いしながら立ち上がった。
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異相の怪童よ、輩出せよ
透き通った紅茶茶碗を伏せたような建物が、潟田六郎太の歩く行手に現われた。空は曇っていて小雪がたえまなく舞い落ちている。ときどき雲の合間から薄日が射すと、その半球体の表面が、さまざまな色を束ねた淡い光を発する。半球体の背後には信州の山なみが連なり、雪で真っ白な山肌に、輪郭のくっきりした稜線が黒く浮き出ている。
潟田はしばらく立ち止まって、その光景に見とれていたが、やがてまた歩を進めて半球体に近づいて行った。その直径は優に百五十メートルはあろう。「アルプス・スタジアム」の文字がはっきり見えてきた。
「おれが予期していたのは、この種の変化だったのだ」
潟田は、大濠公園のときと同じように、台詞を暗誦しているような調子の独り言をつぶやいた。
「予期、覚悟、ひそかな怖れ、そしてある種の期待……」
「しかし、その予測は見事にはずれた。九州でも中国でも、ここにくる途中でも、おれが見たものは、八年前よりもっと昔にさかのぼった、おれがチビだったころの牧歌的な風物だ」
本当に独り言の好きな男だ。しかも、ふと口をついて出るたぐいの独り言ではなく、例によって文章を口に出して構成しているようなあんばいである。マヤとかいうところでの八年間の生活で、妙な孤独癖が身についてしまったのだろうか。それとも、もともと己れの内面の思考を、いちいち声に出さなければ先へ進めないたちなのか。八年前までの新聞記者時代にも、こういう独り言をつぶやきながら記事を書いていたのかも知れない。
アルプス・スタジアムがまぢかに迫るにつれて、場内のどよめきが潟田にも伝わってきた。それとともに潟田の病的な独り言も沈静し、潟田は、そのどよめきに吸い寄せられるように小走りに駆け始めた。そして入場券の売場にたどり着くと、
「ネット裏があったら一枚ください」
と言った。ガラスを隔てた向こうには潟田よりやや年輩と見える係員がいて、入場券をさばく手を一旦止め、
「お客さん、懐しいことをおっしゃいますなあ」
と言った。
「え?」
「いや、ありますよ。どうぞ」
潟田はふしぎそうな顔をして券を受け取り、階段を登ってスタンドに出た。途端に、春のような暖かい空気が彼を包んだ。彼はネット裏の自分の席を探した。ところが、ホームベースのうしろにはネットが見当たらない。試合はすでに始まっていた。潟田が席を探し終わらないうちに、バッターの打った球がファウルとなってホームベースの真うしろに飛んできた。潟田はとっさに手で頭をおおい身をよけた。しかし球は、何か見えないものにさえぎられて「コン」という音を立て、グラウンドに落ちた。とっさに身をよけたのは潟田だけではないようだった。同じような仕草をした人が何人もいた。その一人で、潟田の隣にいた男が言った。
「やっぱり、まだ慣れませんよねえ。完全透明耐撃物質というのは」
「はあ」
と、潟田は思わず相槌を打った。男は潟田をあらためて眺めて訊ねてきた。
「あんたも、もしかするとあの戦争のころはこどもでしたかな」
「ええ、終戦のときに八つでした」
「そうですか。あのころ、ゼロ戦や敵機の防弾ガラスのかけらがよく落ちてたでしょ。あれをこすると、チョコレートみたいないい匂いがしましたねえ。覚えておられますか」
「ええ」
「しかし、あれはやっぱり完全透明じゃなかったですな。半透明」
「そうですね。細かい傷がいくつもついていて」
「そうそう。あれに比べると、やっぱりこの完全透明というのは、思わず身をよけますねえ」
男のことばを聞きながら、潟田はあらためてバック・ネット、いや、バック・ガラスを凝視した。
一九八八年三月六日、開閉ドーム付温度調節全天候型・アルプス・スタジアムでの、長野アルプス対広島ドリンカーズのオープン・ゲームは、すでに七回裏まで進んでいた。こういう設備がコミッショナーから認められているのは、前にも述べたとおり、今のところ札幌、仙台、そしてこの長野の三球場だけである。潟田は自分の席をみつけて腰を降ろすと、ドームを見上げた。舞い落ちてくる小雪がドームに当たってはスッと消える。潟田は、得意の独り言もつぶやかずに、しばらくその様子を眺めている。そして、
「アルプスのラッキーセブンです。アルプス・ファンのみなさん、田舎者でドジで、草野球にも及ばない広島ドリンカーズの相手をしてあげている、わが長野アルプスのナインにご声援をお送りください」
という、澄み切った女声アナウンスの、すさまじい内容でわれに帰ったようだ。そしてやっと得意の独り言が出た。
「それにしても、もう七回か。速いなあ」
ゲームは、長野・広瀬、広島・厨川の両左腕の投げ合いで、二対二のまま少しも息の抜けない展開となり、七回裏のアルプスの攻撃に入ろうとしている。
ここまで、ドリンカーズの厨川健、原伸次のバッテリーは、かねてからの予定どおり全直球ストライク主義で通してきた。六回まで、見送られてボールと判定された球は八。原が球を受ける感じでは、厨川のスウィフト・ボールは今年に入って最高のできだ。左のオーバーハンドから投げおろす球にいつもより角度があり、しかもそれが打者の手元にくると今度は低目からグッとホップする。プレートの両端から左右の打者の胸元や|へそ《ヽヽ》元に喰い込むボールは、まさにクロスファイヤである。
ホップする快速球が去年までも厨川の決め球であることは、アルプスの面々も充分心得ていた。しかし今日は、決め球どころか徹頭徹尾これで向かってくるではないか。二回を終わったところで、厨川の全直球ストライク主義を確認したアルプスの監督は、
「あいつらの作戦は、おれたちをカッカさせるところにあるようだ。打席が一巡したらこっちのものだ。絶好球でないかぎり初球は待て。そして二球目に的を絞れ」
そしてアルプスの二点は、監督の見通しどおり四回の裏に入った。一塁の赤月のエラーで出た走者を一人置いて、五番の中野が厨川の二球目、胸元にホップする球を高だかとレフトに打ち上げた。球は、下から見上げるとドームすれすれと見えるほど舞い上がり、長い滞空のあと落ちてきて、左翼ポールの中ほどにコトリと当たるホームランとなった。厨川にとっては痛打されたという感じのしないホームランである。ドームは閉まっているから風が運んだホームランでもない。捕手の原も、妙なホームランをやられたという感じを持った。どうも今までのと手応えがちがう。ドーム・ホームランとでもいう新手の現象だろうか。守りを終えてベンチに戻っても首をかしげて話し合っているバッテリーに、志村は大きな声で言った。
「考え過ぎはよせ。わしは、中野がバットを出す瞬間に目をつむるのをはっきり見た。つまりあれはね、まぐれホームランというのが描く軌道なんだよ。わしも昔、同じようなのを打った覚えがある」
この自慢とも謙遜ともつかぬ志村のことばにベンチが湧いて、バッテリーのわりきれぬ気分も吹き飛んだようだった。
ドリンカーズの二点は初回に挙げていた。今日は航平と入れ替わって永田がトップ。ピッチャーの足元を一気に抜けてセンターに転がるヒットで出た。そして一塁ベースから、バッターボックスに入ろうとする航平を見た。コーチからも航平からもサインはない。永田は、(あいつはストライクは必ず打つ。そして、あいつがフライを打ち上げる確率はきわめて低い。よし、一球目に走ろう)と判断した。永田は走った。航平は打った。右中間に球が伸びる。フェンスに当たったクッション・ボールを取った強肩のセンターが、永田と航平の両者の俊足を心得ていて、ほんの一瞬迷ったあとで、ここは先の走者を刺そうとバックホームした球をかいくぐって、スタートのよかった永田は右足でホームベースをかすめてホームイン。その間、バックホームの球がカットされないとみた航平は三塁に滑り込む。普通であれば無得点で走者二・三塁のケースだ。
三番赤月は、航平の早打ちにつられたのか、初球の内角高目、見送ればボールの球をライトの前方に打ち上げた。浅すぎて、普通の走者ならホームには突っ込めない。ライトは、定位置とセカンドの中間まで球を追って前進してきた。そして心持ち落下点のうしろで待ち構え、あらためて二、三歩前進しながら球を捕るや、その勢いですばらしいバックホームをした。ライトの捕球を左眼でとらえた航平は、猟弾をよけて素早く地を這うリスのような姿でホームをめざす。キャッチャーの固いブロック。しかし、ライトからの送球をとる一瞬に、キャッチャーの左膝のうしろがほんの少し前に折れた。その折れてできた空間を航平の左足が蹴り、ホームプレートを「シャッ!」とかすめる音がした。これで二点目となった。
さて七回の裏、厨川の全直球ストライクによる挑戦にカッカするなとナインをいましめていたアルプスの監督は、中野のホームラン以外は思うように行かないので、今度は自分がいらいらし始め、ベンチの前でナインに円陣を組ませて活を入れかけた。そのとき、女性アナウンサーの澄み切った声がスピーカーから流れてきた。
「ドリンカーズの選手の交替をお知らせします。セカンドの馬見がセンターヘ、センターの帆足がセカンドヘ……」
(何だ、あれは?)とアルプスの面々はいぶかった。(帆足といえば投げるのも左だったはずだが)。とうとう頭にきたアルプスの監督は円陣の中でどなった。
「気ちがい呑んべえが相手じゃ、やりきれんが、こうなったらあのギッチョの急造セカンドを襲ってやれ」
四回にホームランを打った五番中野の打球は、その急造セカンドを襲うことにはならなかったが、航平の頭上はるかをライナーで抜いて右中間の二塁打となった。まさか今度も目をつむって打ったのではなかろうが、どうもこの男、厨川の速球に強い。
六番は、セカンドを狙おうとする気持が負担になったのか、それを読んだバッテリーの作戦勝ちか、内角に球を集められて最後は見逃しの三振。しかし、厨川は次のバッターに珍しく四球を与えてしまった。一死、ランナー一・二塁、この試合最大のピンチである。これでも厨川は直球ストライク一本槍で行くのか。
八番バッターが右打席で構える。厨川はど真ん中の直球を投げた。ストライク。次はやや外角低目のストライク・コース、バッターは素直にバットを出した。バットは真芯で球を叩き、打球は鋭いゴロで厨川の足元を抜き、セカンドベースの脇をかすめてセンターヘ。スタートのよかった二塁ランナー中野は、全力で三塁を廻ってホームヘ。アルプスにとって心すべきは、初めて見るセンター馬見のバックホームのみ。しかし、馬見の肩がどんなによくても、これならホームインだ。
だれが見てもそういう場面が出現するはずだった。両チームのベンチの眼が、そしてスタンドの眼がひとしくセンター馬見に注がれた。ところが、前進する馬見の足元にボールは行かなかった。セカンドベースのすぐうしろで横っ飛びに飛びついたセカンド航平の右手のグラブに、球が入ってしまっていたのである。セカンドベースに入る永田に、航平は倒れたままバックトス、永田から一塁に転送されてダブルプレー、チェンジとなった。つまり、普通であれば一点が入って、なお一死ランナー一・三塁になるところが、無得点でチェンジになってしまったのである。
ベンチに向かって引き揚げながら、さすがの馬見もあっけにとられて航平のうしろから言った。
「いやあ、まいったまいった。おれも肩の強いところを見せたかったのに」
航平はそれに答えて言った。
「こんないいことばっかりならいいんですけどね。今の球が逆に一・二塁間なら、たちまち弱点暴露ですよ」
八回の裏にその弱点が出た。一死無走者だったが、航平は一・二塁間の強いゴロに追いつけず、ヒットにしてしまった。身を投げ出して伸ばした逆シングルのグラブが、ほんの少しで球に届かなかった。厨川がちょっといやな顔をした。
アルプスは相変わらず航平の右を狙う。しかし次の打者は厨川の直球を思わず引っ張ってショートゴロ。永田、航平、赤月と渡ってダブルプレーとなった。しかし、この6・4・3のうち、4の航平のプレーはひやひやさせた。右利きとちがい、セカンドベース上でショートからの球を取っても、ノーステップでは一塁に放れない。もちろんずいぶん練習はしたはずだが、軸足と体を一塁方向に向けて右足を踏み出しながら送球するという一体の動作に、一瞬のようでも微妙な時間がかかり、それを肩のよさでカバーしてきわどいところで併殺にこぎつけた。航平はベンチに小走りに戻りながら、胸を撫でおろすような思いを越えて、左手で本当に胸のあたりを撫でおろしていた。同点で回もつまった八回裏、ここでゲッツーできずに走者が残れば、アルプスの打順はクリーンナップに廻り、厨川は「航平のやつめ」という思いが残って調子を崩していたかも知れない。
そして、ドリンカーズのベンチで航平と同じように胸を撫でおろしていたのは、ヘッド・コーチの鳥村玄太だった。彼はほっとしたあとで隣の志村監督の様子をうかがった。志村はにこにこと上機嫌で、クロス・プレーのスリルを楽しんでいるようだった。
ドリンカーズは、最終回に赤月が広瀬からライトスタンドにホームランを打ち込み、厨川がその裏も直球一本で押し切り、三対二で勝利を収めた。
ネット裏、ではない、耐撃ガラス裏の記者席では、一人の記者がメモ用紙に新聞見出しの案を書いている。
“呑んべえ、草野球でアルプスを踏破”
さて、負けはしたが、厨川と投げ合って完投したアルプスの左腕・広瀬明彦と、厨川からホームランとツーベースを奪った中野晴彦について触れておこう。
長野アルプスは、長野、山梨、富山、新潟と、いわゆる甲信越地方出身の選手を主体にしており、広瀬も中野も新潟出身である。広瀬は新潟東工を出てノンプロにいたあと、一九八一年に二十二歳で中日ドラゴンズというチームに入り、二年後の全国球団再編成でアルプスに移った。今、二十九歳の円熟期だ。中野は三十一歳になる。新発田農高を出て東京の日本ハム・ファイターズというチームに入り、そこのファームに八年もいていろんなポジションをこなしていたが、大器晩成といわれながら一軍への出番に恵まれず、再編成でアルプスヘ移ったときは二十六歳だった。ところがそれから頭角を現わし、現在ではリーグ屈指の大器晩成型スラッガーになっている。
ドリンカーズのメンバーでは、再編成以前にプロ野球に入っていた例として、すでに原伸次と永田利則のことが出てきた。この広島や長野の例だけでなく、全国球団再編成の一九八三年にはすでに既存の球団に入ってファームで汗を流していた、はたちそこそこの若者たちの多くが、新生の地元チームで新天地を与えられて第一線のポジションを獲得し、五年後の今日では十八球団の中心選手となって活躍しているのである。二リーグ十二球団が三リーグ十八球団に移行するにあたって、初年度から全国のプロ野球ファンが湧きに湧いたのは、十八球団が札幌から熊本まで一都市一チームという、名実ともにそれぞれの地元チームになったことが最大の理由だが、それにも劣らぬ要因は、これら、ファームで地道に自己を鍛えていた選手たちの、ほとばしるような意欲と、その野球水準の意外な高さがファンを強く惹きつけたことだったのだ。その移行前後の詳しい経緯はもう少しあとで出てくるはずだ。
試合が終わると、それを待っていたように、浅い春の陽が暮れ始め、アルプス・スタジアムのドームの光も薄ぼんやりとなってきた。薄明に向かう光の中を、相変わらず小雪が舞い落ちてきてはドームに当たってスッと消える。潟田は、しばらくそれを眺め続けていた。
「今日の所要時間は?」
「ええと、開始が二時一分、ゲームセットが三時四十七分、一時間と四十六分ですね」
ドリンカーズのスコアラーが志村に答えた。ホテル信濃のコーヒー・ラウンジ、夕食を終えたドリンカーズの面々が三々五々と席を占めてくつろいでいる。オープン試合とはいえ接戦で勝ったあとなので、どの顔も明るく話題もはずんでいるようだ。おまけに明日は試合も練習もなく、それぞれ自由に広島に帰っていいことになっている。
「そうか。もう少し短いと思ったが、クリもだいぶファウルでねばられたから、まあそんなものかな」
一般にプロ野球ゲームの所要時間は、三、四年前を境に短くなる傾向を示し、今では二時間前後が普通になったから、今日の試合は特に短いわけでもない。ひと昔前、一九八〇年前後には、延長戦でなくても三時間を越えるゲームがざらにあった。といっても、両チーム相譲らぬ壮絶な打撃戦で十二対九などというようなものではない。今日のように三対二でも長い時間がかかった。バッターとバッテリーのかけひき、多彩な球種を配合するためのバッテリーの一球ごとの長いサイン、注意、打ち合わせ、小刻みな投手交替等々、これらを要するに、肝心のボールがだれかの手の中にいたずらに止まったまま費される時間が長すぎたのだ。
ファンは、白球がすばらしいスピードで投げられたり、またすばらしいスピードで打ち返されたりする姿をおもに見にくる。もちろん、その白球のドラマに備えて、その白球が息をひそめてじっとしている微妙な「|間《ま》」も、ファンにとってはこたえられない魅力あるひとときではある。しかしそれがあまりに|間のび《ヽヽヽ》しては台なしで、うんざりしてくる。
そのころ、新聞にこういう投書が載ったことがある。
われわれがプロ野球のスタジアムに足を運ぶのは、国会の議場のかけひきのような姿を見るためではない。むしろそういう世界を忘れるために行くのだ。それなのに何だ。グラウンドやベンチで、あっちでヒソヒソ、こっちでヒソヒソ。やめてくれ。それくらいならいっそ両チーム入り乱れての乱闘シーンのほうがよっぽどいい。いや、これも国会そっくりだからよくないか。とにかくボールをどんどん投げ、そしてどんどん打ってくれ。
こういうファンの声が大きくなったのと、前に書いたように、北海道や東北の新チームの若い力の野球が複雑緻密な野球に勝ち始めたことによって、三、四年ほど前から試合時間が短くなってきたのだった。
「監督」
と、原捕手が聞く。
「わが広島市民球場にも、そろそろアルプス・スタジアムのような設備の許可は降りませんかねえ」
「まだ当分はだめだろうね。キャンプのできるところは近いし、気候はいいしね。それにわしは、来年あたり秋田とか富山なんかに新チームができるんじゃないかと見てる。そうなったらそっちが先さ」
「しかし、このままじゃ、設備に恵まれた北のほうがどんどん強くなりますよ」
「いいじゃないか。ドリンカーズには強敵が必要だ。去年も北の力に負けまいとして優勝したんじゃないか」
「昔とちがって、今度はこっちがハングリーになる番ですね」
「そのとおり。おまえ、なかなかいいこというじゃないか」
「ハングリーといっても、給料が安くてもいいという意味じゃありませんよ。監督、誤解しないでくださいよ」
周囲にさざ波のような笑い声がひろがった。志村も大笑いしながらポケットのタバコを探ろうとしたとき、コーヒー・ラウンジの入口に潟田の姿が現われた。
「やあ、遅かったな。まあ、きみのことだから、きっとどこかぶらぶらしてくるとは思ってたが。夕飯はすんだのか」
「うん、信州に来たからにはと思ってね、蕎麦を三枚平らげてきた。相変わらずうまかった。いや、相変わらずというより、八年前よりもっとずっと昔のように、本当の蕎麦の味だったよ」
「そうか。そういえば吹田さんも蕎麦が好きだったなあ」
と、志村は声を落として、だれに言うともなくつぶやいた。
「だれだ。そのスイタさんって」
「ああそうか。きみは吹田さんを知らないんだったなあ。今日、ぼくがきみに御進講申しあげる話の主役になるはずの人だ。五年前に亡くなった」
「ほう。早くその話を聞きたいな」
「それよりまず、今日の試合の感想を聞かせてくれよ」
志村は、潟田を自分の隣の椅子に掛けさせて、ラウンジに残っている五、六人の選手に紹介した。
潟田はまず言った。
「雪の中の試合を見にこいというのには、まんまと一杯喰わされたな。しかし、あのドームとかね、ネットの代わりの耐撃ガラスというのかな、ああいう設備にはたいして驚かなかった」
少し負け惜しみの感じがないでもない。
「驚いたのは試合運びの速いこと。申し訳ないがぼくも道草をしすぎてね、一時間近く遅れて行ったから、四回か五回あたりまで進んでいるかなと思ってスタンドに入った。スコアボードを見たら何と七回の裏じゃないか」
「ハハハ、だいぶ損をしたな。ま、うちの直球投手のせいもあるがね」
「それにも驚いたよ。こないだの大学との試合でも一度見てたけど、まさかプロ同士で直球一本で行くとはね。六回までもそうだったのか」
「ああ」
と志村は答えた。厨川はその席にはいなかった。原がにやりとした。潟田は、厨川のピッチングがそれでいて単調さを感じさせず、かえって小気味よいリズムを作り出していて連打を浴びなかったことを挙げ、
「あのころとはえらいちがいだ。胸がスッとした」
と言った。
「今だって今日のようなやり方はめったにないよ。初めての実験さ。こいつがやらしてみたいっていうからね」
と、志村は笑いながら原を指さした。
「じゃあ、左利きの二塁手も実験かい?」
「そう、あれも今日が初めてだ」
「しかし驚いたなあ。あの中心線を抜くヒット性の球をゲッツーに転じちゃったのには。ああ、あなたでしたね」
と、潟田は帆足航平の姿を認めて言った。そしてあらためて、
「いや、驚きました」
と言った。航平は照れながら口を開いた。
「私も最初、監督からセカンドやれっていわれたときは驚きましたよ」
「明日の新聞記事は覚悟しとかなきゃいかんな。潟田、きみが現役のスポーツ記者だったらどう書く?」
と、志村が潟田に聞いた。
「まず、ピッチャーとセカンドのことはうんと誉めて書く。次に監督をけなす。“草野球に帰るか、奇をてらう志村”」
「ハハハ、うむ、正解かも知れんな」
「おそらくきみは、決まりきった型を崩したいという欲望に駆られているんだろう。おもしろいよ、どんどんやってくれよ」
「おいおい、けなしたり、おだてたりだな」
それからしばらく、志村と潟田はみんなと歓談していたが、やがて志村は選手たちに言った。
「さて、わしは今から、このインテリに社会と歴史の講義をせにゃならんから失礼するよ」
そして二人は、薄暗いバーのほうに席を移した。
「きみは前は水割りじゃなかったか」
と、潟田が志村に聞いている。潟田はウイスキーの水割りのグラスを手にし、志村の前には|生《き》のウイスキーを入れた小さなグラスと、別に水を入れたグラスが置いてある。
「うん、最近はおれだけでなく、あまり水割りにはしなくなったようだな。やっぱり、まず、クッと強い喉ごしを味わい、それから水を送り込むのがいい。いうなれば、マイルド志向ではなくなってきたんだね。しかし結局同じか。胃袋に着くときには同じマイルドだものね」
そして志村は、ウイスキーと水を交互に喉に送り込み、
「さて、何から話すかなあ。どうもやっぱりおれには荷が重いよ。奥さんからあらまし聞いただろう」
と言った。
「いや、前にも言ったが、帰ってきて一日寝てて、半日は一人で散歩して、それからすぐ東京を発ったし、女房はちょうどタイプの仕事が混んでてね。まあ、顔を確かめ合ったくらいのものだ」
「妙な夫婦だな。八年ぶりだというのに。しかし奥さんはジャイアンツ協議会の話ぐらいはしただろ」
「え? あいつが野球のヤの字も知らないことは、きみだってよく知ってるじゃないか」
「え?」
と、今度は志村が驚いた顔をした。
「ははあ、どうやら何も知らないのはきみのほうらしい」
「何のことだ」
「いや、いいよ。順を追って話をして行けばわかるさ。ははあ、こいつはおもしろい」
志村が一人でおもしろがっている。
「しかし、きみの八年間のことも聞きたいなあ」
「志村、今日はおれが聞き役だという約束じゃないか。おれのほうは別に話すことなんかないよ。何のことはない、ただブランクを作ってきただけだ」
「おれだって、何のことはない、野球をやってきただけだ」
「だから博多でも言ったじゃないか。野球の変遷をたどることが、おれにとっての絶好のリハビリテーションだって」
どうもなかなか話は進みそうにない。ウイスキーが喉に消えて行く量だけが進んでいるようだ。
やがて志村は、妙に真顔になって言った。
「よしわかった。おれなりに約束を果たすよ。だがね、その前に一つだけ聞いておきたいことがある」
そして志村は、探るような眼つきで潟田の眼を見た。
「何だ」
「実はね、きみが日本から消えたころ、同じような消え方をした人が相当いたらしい」
「ほう」
「きみはどこにもぐり込んだのか知らんが、何でもインドや中国奥地に行った人が多いそうだ。しかもね、きみと同じように、七、八年ぶりで最近日本に帰ってきた人が多いという噂だ」
「ほう」
「さらに共通しているのはね、そういう人たちはみんな、かつて大学の助教授とか、一流のジャーナリストとか、大企業のエリート社員だった。つまり働き盛りのインテリばかりだったというんだ」
「へえ」
「今年になってから、いくつかの新聞や週刊誌が書いてたが、その数は五十人ともいい、五百人ともいい、五千人ともいう。つかまえどころがない」
「何だか怪しいニュースだな。おびただしい日本人が、しょっ中海外に出たり帰ったりしてるじゃないか。動機だってさまざまだし」
「いやそれがね、共通してるんだ」
「へえ、何だね?」
「それがインテリだから難しい。一番多いのが“アイデンティティの恢復を求めて”とかいうんだったな。もっとも、きみはそんなことは言ってなかったけどね」
「初耳だなあ」
「おれは思うんだけどね。世の中で頭脳の抜きん出た人たちが、同じ時代に同じような悩みを持ったり、同じような未来図を描いたりして、同じ風潮が生まれることは充分想像できる。しかし、おれにとってふしぎなのはね、どうして日本に帰ってくる時期まで示し合わせたように集中しているのかっていうことなんだ。おい、きみは何か知ってるんじゃないか?」
「何を」
「実はそういう俊才たちが、どこかに集まって何かやってたとか。日本ではできない秘密の長期研究、それも日本人だけではなく、世界中のインテリが集まった国際共同研究。いや、謀議。そしてそれが完成して、さりげなく故国に帰ってきた。一人ひとりが悩んでいるように見せかけて、何かをたくらみ、今度は一人ひとりが使命を帯びて、地球へのインヴェーダーとして帰ってきたんだ。そうだ。きみたちは秘密のスペース・シャトルを根拠地にして、木星にでもでかけたんじゃないか。どうだ、図星だろ」
「そういえば、二〇〇一年は近いな」
と、潟田は混ぜかえした。二人は九年ほど前に『二〇〇一年宇宙の旅』という映画をいっしょに見たことがある。潟田は苦笑いしながら言った。
「また、きみ一流の推理が始まったな。しかし、おれはまったく知らなかったなあ、出た時期と帰ってきた時期が似ていて、動機が似ていて、インテリ、まあこれはどうでもいいけど。そしてインドや中国ねえ。いや、おれが行ったところはそのいずれでもないけどね。ともかく、一人ひとりが独自の行動だと思っていて、ふたをあけてみると見事な統一行動というわけか。ああ、いやになっちゃうな。何のことはない、ワンパターンの滑稽千万な団体旅行だったってわけだ。がっくりきたよ」
「しかしだよ、もしきみが考えて実行してきたことに悔いがないんだったら、それでいいじゃないか。そればかりか、同じことを考えて実行した人がほかにも大勢いたんだとしたら、それはかえってそのことの正しさを立証してるんじゃないか。つまり、同憂の士が大勢いたとしても、そのためにきみの行動の価値が薄められることはないというのが理屈じゃないかな。どうもきみたちインテリは、自分がいいと思ったことは自分一人のものにしておかなければ値打ちが下がるとでも思う傾向があるみたいだ。まるで著作権を侵害されたみたいに」
「わかったよ、志村先生」
潟田は、こういう話題が続くのはもうたまらないと訴えるように苦笑し、こどもがおねだりする顔付きそっくりになって、
「野球、野球、おいきみ、早く野球の話に入ってくれよ」
と、うなるように言った。(実は筆者もほっとしている。これでどうやら、また野球の話に向かいそうだ)
志村は、ストレートのウイスキーを、少しずつ喉の奥に送り込みながら話し始めた。
「きみが消えたのは、たしか、うちが久し振りに二度目の優勝をした次の年だったな」
「そう、一九八〇年の二月だった。きみはヘッド・コーチをしてたな。優勝の翌年は難しいってぼやいていたっけ」
「そうだったな。ところがね、あの年も後半は独走でね、初めて連続優勝したんだよ。リーグ戦も日本シリーズもね」
「それは快挙だったな。おれは、二年目の江川がいる巨人だと思ってたけど。そういえばあのころは、おれの記憶でもいい選手が揃ってたよね。おれが消えた年だからよく覚えているよ。山本浩二、衣笠、水谷、三村、木下、ピッチャーでは江夏、池谷、福士といったところがベテランで、それに若手ではピッチャーが山根、北別府、大野、野手には高橋慶彦」
「よく覚えてるな。その若手とベテランの組み合わせが一九八〇年もうまく行ったんだ。ところで、今きみの挙げた選手が、今ではどういうチームにいるか、興味があるだろう」
「うん、教えてくれないか」
「まず山本、これは今でも広島で名バッティング・コーチだ」
「ああ、それはおれも見たよ」
「衣笠、これは京都エンペラーズ。四十一歳だが、まだ現役で連続出場記録を伸ばしている。水谷、熊本モッコスのコーチ。三村、うちのファームの監督だ。木下、浦和キッズ。江夏、大阪タイガースのコーチ。池谷、静岡パシフィック。それからだれだっけ?」
「福士」
「ああ、岡山モモタローズのコーチ。山根もモモタローズだ。北別府はモッコス。大野、これはうちだ。もう一人いたっけ」
「慶彦だ」
「あ、東京ジャイアンツ」
「やっと共通項がわかった。それぞれの故郷に帰ったんだな」
「そういうことだ」
「あのころのカープは、当時では珍しく野性味あふれるメンバーだったなあ」
「ハハハ、きみの持論の野性味野球を思い出すよ。さて、思いつくままに話すから、きみの頭の中で整理してくれよ」
「いいとも、これでも昔は整理部の記者をやったこともあるんだ」
それから、志村はポツリポツリ語り出し、潟田がときどき質問し、ことばを交わしながら話が進んだ。ではその話の中味を適宜整理しながら記して行こう。整理するといっても、二人が徹夜で話し込んだものだから、少し長くなる。話はまず、二人の記憶を呼びさますために、潟田が日本を去る前年あたりのことから始まった。
一九七九年、昭和五十四年、その後の年号でいえば戦後三十五年という年は、志村の印象では、自分のチームの優勝を除いてはさしたる特長もない年だった。潟田によれば、特長がないことが一つの特長であるような年だった。志村はひたすら野球をやってきた男だから、そんなに広い世界のことは知らないし、地球上にどういう風が吹いていたかも細かくは覚えていない。日本に起きた事象についても、それほど万遍なく注意を払っていたわけではない。そのことをわきまえた上でも、志村の印象はおぼろげである。それとも、野球の印象が強烈すぎたために、他の事象が志村の頭から消えてしまったのか。
一つだけ覚えているのは、この年の秋、広島カープがマジックナンバーを減らしていよいよ優勝というころ、どういうわけか衆議院が解散して総選挙があった。あれはどうして議会が解散になったのだったか、さっぱり意味がわからなかった、ということを志村は覚えているのである。そして、どうして今ごろ投票所に行かなければならないのかわからなかったので行かなかった人と、わからないながらもつい几帳面な習慣が出て行った人とが、およそ半々だった。
そのころ、広島市内を走る選挙カーからは、こういう絶叫が聞かれた。
「広島カープがんばれ、カープ優勝! ○○もがんばります。あと一息です」
余裕のある冗談とはほど遠く、なりふりかまわぬ精神状態に達した絶叫であった。
選挙の結果は、共産党と公明党が少し伸びたほかは、素人にはあまり変わりばえしないように見えた。ところが、自由民主党という保守系与党(現在の保守堅持党の中心)が、沈痛な面持ちで敗北を宣言した。さてそれでは革新系が|優勝《ヽヽ》したのかというと、それはそうでもなさそうだった。いずれもあまり冴えた感じではなかった。志村には、自由民主党の大げさな敗北宣言が、保守安定政治の危機を国民諸君に訴え、この次の選挙ではもっと自覚して投票してくださいよと言っているようにとれた。こういう場合の勝敗は解釈の問題であって、スポーツの幕切れのようには行かないという点で異質であり、志村の苦手とする世界である。
ただそれにもかかわらず、志村は、選挙カーから流れる絶叫と、野球場のスタンドから湧き起こる絶叫とは親近性を持っていると思うことがある。特に、応援するチームが負けているときの絶叫、絶叫の唱和、絶叫の唱和の連呼が、投票日まぢかの選挙カーの絶叫とそっくりになる。両方とも、発することばの内容にそれほどの意味はなく、声はうわずってかすれ、表現のパターンを柔軟自在に変える余裕はとてもない。
しかし、野球ファンのスタンドの絶叫は、それが画一的で統制されすぎているきらいはあるにせよ、所詮はスポーツでの応援であり、そして選手という他人への応援であるから、まだしも正常である。これに対して選挙カーの絶叫は、自分が自分に対して応援する声を、スピーカーで増幅して他人に聞かせるのである。「がんばります。あと一息です」、これは、(がんばろう。あと一息だ)という、本来は己れ一人の胸の奥に静かに秘めておくべきことばの語尾だけが、他人向けに変わっているのだ。この他人向けの決意表明も、知人に静かに洩らすことばとしては意味もある。しかし見ず知らずの大勢の人たちに向かって「がんばります。あと一息です」と絶叫しても、いや、絶叫ではなくかりにささやいたとしても、見ず知らずの人にとっては何ともしらじらしく無意味である。(勝手にがんばればいいだろう)と思うだけである。「がんばります」「がんばっております」(ああ、そうかい)、この関係はやめたほうがいいと、志村は聞く度に思ってきた。
志村がスタンドのファンの声で好きなのは、統制されて唱和する声ではなく、湧き起こるどよめきである。ファインプレー、エラー、ホームラン、三振、その度に自然発生的に起こるどよめきは、一人ひとりの個別な感懐が自由に発露されながら、全体として一つの厚みがあってしかも柔らかい声の束になる。志村はその束の中から、喜びと落胆の響きを聞き分けるのが好きだ。「やったあ!」と「やられたあ」、「チャンス!」と「ピンチ」、そういうことばが聞こえはしないが、どよめきが人の心を乗せて伝わってくる。
もう一つ志村が好きなのは、一人でやる気の利いた野次である。だいぶ昔に聞いた野次で志村の気に入ったのがある。
守備側のピンチで、野手が連繋プレーの打ち合わせのためにピッチャー・プレートのまわりに集まった。そのとき、
「めだかさん、めだかさん、おおぜいよってなんのそうだん」
という声がスタンドから飛んだ。やがて野手たちが打ち合わせを終えて、一斉に各ポジションに散ろうとした。すかさず、
「いちどにぱっとちっていった」
昔の小学一年の国語の教科書の一節である。志村もおぼろげに覚えている。野次った声の主の姿は見えなかったが、多分五十前後の人だったろう。野手たちの動きをとらえて実にタイミングよくやった。「いちどにぱっとちっていった」で、笑いと拍手が起こった。試合中の相談ごとをちょっぴり皮肉りながら、相手にもあまりいやな感じを与えない、何とも牧歌的な野次だった。
さて、選挙の話に戻る。当時、あるとき志村は潟田に言った。
「近頃の選挙のポスターはどの党も同じに見えて、おれなんかには区別がつかんよ」
「まったくだ。第一、政党名からしてまぎらわしい」
つまり当時は、今のように「保守堅持党」とか「近未来革命党」とかいうはっきりした名称を持たず、「自由民主」「民主社会」「新自由」「公明」「社会市民」などと、まるで中学の公民の教科書の表紙をずらりと並べたように、いったいどれが何なのかさっぱり見分けがつかなかった。ポスターの図柄やスローガンは、志村の感想どおりいずれも似たり寄ったりで、まるで生命保険会社のブランド・イメージの競作の観があった。
ことばはやたらと氾濫していた。しかし、ことばが実体を伴うことは、特に政治といわれている世界では少なかった。実体がないことばだけが、ふらふらと一人歩きしていた。そのころ志村が「実体がない」と感じていたことばには、政党名のほかにたとえば次のようなものがあった。
田園都市構想
省エネルギー
地方の時代
ゆとりある教育
その他まだまだ、空疎で実体のない標語が、政治家や文筆家によって世に出たと思うが、志村は日記をつけていないし、ひたすら野球稼業を続けてきたので、今となってはこういう標語もかすみの彼方にぼやけたようになって頭の隅に残っているのだ。しかし、お題目だけで一向に行動に現われないような政治の世界に先立って、プロ野球が「地方の時代」の実現に向けて動き出したのは、この年からわずか三年後のことなのであった。
さて、そういうぐあいに特長のない一九七九年も、こと野球に関してはきわ立った特長を生んだ年だった。この年、セントラル・リーグでは広島カープが四年ぶり二度目の優勝を果たしたのに対し、パシフィック・リーグでは近鉄バファローズが初めてペナントを手中にした。そしてこの両チームによっておこなわれた日本シリーズは、三勝三敗のあと大阪でのファイナル・ゲームまでもつれ込み、そしてそのゲームも雨中の大熱戦の末、四対三とリードされた近鉄が九回の裏無死満塁で、犠打なら同点、ヒットなら逆転というところまでもつれ込んだ。しかしその場面を、広島のリリーフ・エース江夏が踏んばって辛くも切り抜け、広島カープが初めて日本シリーズのペナントを獲得したのだった。そしてこの顔合わせは翌一九八〇年も続いたのである。
それが一体どういう特長を示しているのかというと、実はこの二チームは、共に一九五〇年の球団創設以来二十年以上も、それぞれのリーグのテールエンドか尻尾から二番目というあたりが定位置であるような、いくらがんばっても負けがこんでばかりいるチームだったのだ。だからプロ野球興行の面で「お荷物球団」などといわれていた。ところが、まず広島カープのほうが一九七五年に至って、前年までの三年連続最下位から一挙にリーグ優勝を果たした。そしてその年、近鉄バファローズも、前々年最下位、前年五位から一躍二位に浮上していた。お荷物球団といわれながら、いつのまにか地力を備え、総合力を貯えてきたのだった。
一九七九年はこの両チームのリーグ優勝が揃ったうえに、セントラル・リーグでは、長い間帝王の座を占めてきた読売ジャイアンツ、日本プロ野球界最古の歴史を誇り、ずば抜けた優勝回数と、ずば抜けた観客動員力を誇る名門が五位に転落したので、この年の野球界の印象はひときわあざやかだった。新しく若く飢えていた勢力と、老いて保守的だが安定していた勢力が、ギーと音立てて入れ替わったような感じだった。もっともジャイアンツは、その四年前の一九七五年には、七三年までの九年連続優勝の疲れが出たのか初のテールエンドを味わっていた。しかし翌年と翌々年にはふたたび首位に返り咲いていたのである。さすがともいえるが、七五年の最下位はすでに何かの予兆ともとれた。そしてすでに述べたように、一九七九年、自由民主党総裁が総選挙で沈痛な面持ちで敗北を自認したと同じ秋に、五位に転落したのである。「もしかすると、日本の政治も野球も大きく変わるのではないか」と早合点する人もいた。しかし、さすがに政治も野球も名門はたいしたものだ。おや、どうして政治と野球がいっしょになってしまったのか。ともかく野球についていうと、そのわずか二年後に、ジャイアンツは広島カープ以下を寄せつけぬ強さを示して、巨人ファンが久し振りに胸のすっきりするような独走優勝を果たしたのだった。しかしこの年の巨人のゲームぶりは、ガンガン打ってピシッと押さえて勝ち進むというよりは、とにかく何とか負けない試合を続けたというのが志村の印象であった。
政治のほうはどうだったか。それは推して知るべしである。こちらも、ずば抜けた優勝回数と、ずば抜けた投票動員力を誇る帝王的保守政党、自由民主党が、ガンガン打ってピシッと押さえるというよりは、「負けない試合」を続けていたのであった。ロッキードという飛行機が飛び込んできたり、監督のあわただしい首のすげ替えがあったりはしたが、ほかのチームの共喰い低迷もあって、とにかく「負けない試合」で独走していた。巨人も自由民主党も、若干のうしろめたさを残しながらである。あれれ、どうしてまた野球の話と政治の話がこんがらがってしまったのだろう。
さて、当時日新タイムズの記者だった潟田六郎太は、一九七九年の暮れから、わが国最大の総合大衆月刊誌『春夏秋冬』に、プロ野球を素材とするエッセーを連載し始めた。その内容が、志村と出会ったことを動機にし、志村との交友に影響を受けていることは明らかだった。その一部を抜萃しておこう。一回目は『顔の文化とプロ野球』と題されている。
私が広島カープに注目する理由はいくつかあるが、その一つは、京浜、京阪神および中部の三大経済圏から遠くに位置する人口百万以下の都市における、唯一の球団だということである。そして近年は東洋工業の傘下にはあるものの、創立以来官民挙げての応援による地元プロ野球クラブの気風は変わっていない。一般市民と地元政財界の、カープに寄せる心情は熱い。それはオーナーの姿勢にも反映する。例として、あの日本シリーズ最終戦、大阪でのゲーム終了直後のテレビでの、ある評論家の感想を引こう。
「わたくしね、広島球場で第五戦ですかね、それが終わって、もう明日からこの球場では試合がないっていうときに、オーナーがね、一時間近くグラウンドの石ころを拾ってた光景に接しましたねえ。こういうオーナーがいるから勝てると言っても過言じゃないと思いますよ」
さて、私がカープに注目するもう一つ、そして今日の主題は、選手たちの面構えである。代表格は水谷と衣笠。見よ、いい顔をしているではないか。眼は草原の野獣のようにらんらんと輝いてつねに獲物をうかがい、鼻孔あくまで開いて空気を闊達に吸い、唇の肉あくまで厚く、持物もさぞ大きいだろうと思わせる。これに江夏とか山本浩二といった、いくぶんはまとまってはいるがそれでも巨人の選手たちに比べるとずっと面白くてハングリーな顔が並び、集団として見ると、かつての黒沢明の映画『七人の侍』という図になる。そしてこういうひと癖もふた癖もある生臭い野人面の上に、一見何の癖もなさそうな古葉竹識という監督の顔が乗っかっているのだ。大人のくせに童顔といわれる顔がよくあるが、古葉の顔にはそう思いかけて「待てよ」と思い直させるものがある。なかなか簡単な仕立てではない。
さっき巨人を引き合いに出したので、この際もう少し書こう。柴田、高田、淡口、中畑、江川、思いつくままに挙げたが、どうもみんなまとまっていて、社会通念でいえばインテリの勤め人の顔である。眼は草原の野獣とはいかず、鼻孔あくまで開かず、唇の肉あくまで厚くなく、持物、いやこれは言及を避けるが、一口にいうとテレビのCM向きである。事実テレビのCMにはよく出る。(引用者注・一年後、これに原辰徳という、同じような傾向の顔をした新人が加わった)。巨人のフロントは少なからず|めんくい《ヽヽヽヽ》なのであろうか。どうもそうとばかりもいえないようだ。というのは、昨今のスポーツ・エリートの養成過程には、官僚、経済人のエリート養成の過程とよく似た傾向があり、それがこういう顔を造型していると思われるからである。そして巨人に入るのはスポーツ・エリートである。これについては、あとの号であらためて書こう。一球団のフロントの趣味とは関係なく、根は日本の文化の問題に至るほど深いのだ。
巨人の中で、「眼は草原の野獣のようにらんらんと輝いてつねに獲物をうかがい」といえるのは、王選手の眼ぐらいのものだ。昔は巨人にもいい面構えがいた。千葉、白石などは一流の野獣面をしていた。
赤いヘルメットが広島の連中にはよく似合う。「おおさ、いっちょう行こうか」という感じになる。かりに巨人の淡口や江川(以下略)がそれをかぶってみたらどうなるか。似合うまい。彼らの照れくさそうな顔が目に浮かぶ。「仕方がないからかぶってるんだよ」という感じで、監督の長島サン一人が「いいじゃない、これ。ウン、みんな似合う似合う。さあ、いっちょう行こう」とはしゃぐことになるはずだ。
「野球はツラでやるものかね」といわれそうである。もちろんツラでやるものではない。しかし、やることがツラに出るものではある。そして、やることと考えることとツラとは、長い間の習性で釣り合ってくるものである。
一口に言えば、広島カープの擡頭は、日本列島の西南地方の活力を背景にした、野性味野球の勝利だといえよう。中堅から新人に至る選手の出身地も圧倒的に西南地方が多く、こういう地方性のある基盤も今の日本のプロ野球では珍しい。
怪童と呼ばれる選手が出なくなって久しい。戦後の数少ない怪童の代表は、四国で少年時代を送って福岡の西鉄ライオンズで力を爆発させた中西太であろう。そして、かつてのアメリカ大リーグのホームラン王、ベーブ・ルースもそういわれたにちがいない。この二人のツラを見よ。はじめに水谷や衣笠について形容したいくつかの特長を、彼らはもっとダイナミックに備えているではないか。
潟田は連載第一回では、こうしてプロ野球選手の顔に始まって、政治家、実業家、学者、芸術家などの異相の主を例に出し、管理社会といわれている世の中の、のっぺらとした地肌からニキビのように吹き出ている活力だと礼讃した。
「あの第一回目は評判がよくなかったなあ」
潟田は眼を細めてそのころを思い出しているようだ。志村も、その文章に対するいくつかの批評を覚えている。
「うん、たしか、潟田六郎太は強くなった広島に便乗して、弱くなった巨人をいい気になっていじめてる、今にみろとか書いたのがあったな」
「もっとひどいのがあったよ。おれ自身のすさまじいツラをなぐさめるための異相礼讃だとかね」
もしかすると、潟田が八年間養った顔中の不精ひげを落とさないのは、そのせいなのだろうか。
「怪童で思い出した。きみがいなくなってからしばらくして、あれは一九八一年だったか、アメリカのロスアンジェルス・ドジャースにすごい坊やが現われたよ。左腕投手で、ええと、バレンズェラといったな。メキシコからやってきたんだ。スペインとインディアンの混血で、ずんぐりむっくり型。まあ日本でいえば中西タイプだな」
「実力はどうだった?」
「たしかデビューしたときが二十歳で、いきなり開幕八連勝したよ」
「ツラはどうだった?」
「いやあ、いい顔してたよ。眼がいい。そうだ、眼も鼻も口も、きみの書いた異相の範疇にぴったり合うよ」
「やっぱり、メキシコの寒村のハングリーで、大志を抱いてカリフォルニアに来たんだろうな」
「そのとおりだ。たしか十二人兄弟の末っ子だったかな」
二人はウイスキーのお代わりをし、喉を同時にゴクリと鳴らした。
さて、連載第二回には長い題がついた。『政治の空洞から吹き寄せる風が、社会をどう風化しているか。野球に見られるその影響』というものである。これは引用をやめて概略を記そう。前回のニキビ礼讃に続いて、ニキビが吹き出る地肌に話が移る。そして必要以上に厚化粧の社会という話になる。政治の地肌、ビジネスの地肌、学問、教育の地肌、芸術の地肌、万人の生活風潮の地肌は、一見高度に進歩した化粧術を施されて、つるりと美しい。しかし、そのコーティングの下の平穏に見える皮膚には、出口のない菌がうようよしていると書く。それをのっぺらぼうな平均化といい、カタログ化といい、保守中道の風景という。そして、その地肌を開墾してニキビを吹き出させよと説く。
第三回は、第二回と同じ題で『その二』となった。前回までの勇ましい語り口が影をひそめ、悲観的で厭世調を帯びる。地肌の開墾作業の至難さを嘆くのである。万人の生活風潮の地肌では、気づかぬうちに、あるいはみんなが気づきながら放置するうちに、なまあたたかい風による風化作用が救い難く進行しており、皮下組織はぼろぼろになり、自己再生力を失っている。それは、政治といわれる地帯に発生した空洞を通って吹き寄せる風のせいである。その風には言語というものが混じって送られてくる。もともと言語は、農作物のように柔らかく舌になじみ、人びとが分かち合って味わうものだったが、それがだんだん金属やプラスティックの工業製品のようになり、人びとが噛んでみても味がせず、食べずに眺めるものになってしまった。人びとは、政治方向から送られてくる画一的な言語に気を取られているうちに、どうやら別のものを喰わされているのではないかと疑い始めた。みんながその言語の実体に疑問を感じ、政治が悪い、政治はトリックだ、政治を点検しようといってそちらのほうに眼を向けたとき、実は日本に政治というものの実体がなくなっていた。権力は本質的にトリックを必要とする。しかし国民の眼があまりに権力のトリックに向けられては、権力は困るし、はずかしい。そこで最近、政治はそのトリックを野球に転位し、国民の眼を野球界のできごとに向けさせた。
ここまでが第三回である。実は第二回と第三回には、題名の末尾に『野球に見られるその影響』とあるその野球のことはほとんど出てでなかった。これが問題となった。通勤電車の中や暇で退屈なときに、肩のこらない野球のところだけを拾い読みしようと思って『春夏秋冬』を買った人たちから、春夏秋冬社に抗議の電話や投書が殺到した。「権力のトリックとかいって、潟田や春夏秋冬こそ詐欺師じゃないか」というのである「春夏秋冬社は、それは一連の主題の中の連載の一部だから仕方がないと弁明し、次回こそは全篇野球ということになるからぜひご購読くださいと宣伝した。筆者の潟田は、みんなはやっぱり野球のことしか読んでくれないといってがっかりした。そして六回続ける予定だったのを、四回目で野球に結びつけて打ち切ることにした。
「あの三回目あたりの調子を思い出すと、きみが日本を去りたくなった動機も何となくわかるような気がするなあ」
「その話は勘弁してくれよ。ところであの原稿は四回でチョンにしたから、たしか三月号が最後だった」
「うん、そしてその最終号の記事が一人の老人に行動を起こさせるきっかけになり、おれがその愛すべき老人と出会うきっかけになったのだからおもしろい」
「え? だれだ、老人って」
「吹田晨平コミッショナーさ」
「あ、さっき出た名前だな。待てよ、思い出したぞ。その人は環境庁長官をやったことのある、あの美術史家の吹田さんか」
「そう、さすがに元学芸部記者、思い出したな」
「白髪の上品な紳士だったね」
「そう、各界に信望の厚い人だった」
「会ったことはないが、おだやかな感じの人だったな」
「それがどうしてどうして。会ってみると一徹で負けず嫌い。獅子身中の虫ならぬ、獅子身中の獅子だった」
政治がそのトリックを野球に転位し、国民の眼を野球に向けさせようとした事件に移る前に、その前風景とでもいうものを眺めておこう。
一九八〇年の盛夏のある夜、オールスター・ゲームの主催管理と観戦のために大阪に来ていた、日本プロフェッショナル野球組織コミッショナー、吹田晨平は、ホテルのベッドに寝そべって、潟田六郎太の連載第四回、そして最終回の記事を読み始めた。
この最終回が載った月刊誌『春夏秋冬』は一九八〇年三月号となっているから、吹田はおよそ半年も前に出たものを読んでいるわけだ。彼はその連載物の存在を知らなかった。東京を発つとき、コミッショナー事務局の留守役の堀田に「何か暇つぶしの本か雑誌はないかね」と訊ねた。そのとき事務局には手頃なものがなかった。堀田は、それでも何かコミッショナーに持たせてやりたいと、自分の机の引出しを探しているうちに、『春夏秋冬』三月号が出てきた。そして「まだお読みでなかったら」と言って吹田の鞄の中に入れてくれたのである。
国民栄誉賞という、まるでナチス・ドイツの昔にでもあったような名称のごほうびが、現代の日本に突如として生まれ、それがこともあろうに私の大好きな王貞治というプロ野球選手に首相から与えられると聞いたとき、私の血は逆流した。冗談じゃない。あの王が茶番劇の主宰者から賞を渡され、握手などを強要されてたまるものか。王よ、ことわれ。きみが握るのはホームランを打つバットであって、茶番じじいの手ではない。生涯ホームランの数で、ベーブ・ルースやハンク・アーロンを抜いた王に、私は拍手を送る。そしてたくさんの大人やこどものファンが拍手を送っている。スポーツマンとしての王の実力、努力、態度のどれもすばらしい。しかし、それがどうしてだしぬけに「国民栄誉」になるのか。それは彼個人の心の中の誇りであり、大人やこどものファン一人ひとりのさわやかな喜びなのであって、それ以外ではない。
政治は、その体質や気質が原理的に対極にあるスポーツを、対極にあるからこそ利用しようとたくらむ。国民栄誉賞とやらはその最も浅ましい表現である。王よ、利用されるな。しかし、王がそれをことわるわけには行かないことも明白だった。そしてついに、老宰相のしわくちゃな手が、王選手のがっしりした手を握ったのであった。「きみのような人気者にあやかりたいよ」、老人のにこにこ顔は明らかにそう語っていた。そしてそれ以外の思想はなかった。
このたくらみに、さすがに不快な感じを持った「国民」は少なくなかった。そしてこの茶番は、首相の期待に反して意外に受けず、しらけたものになった。日頃「国民感情」を重んじる政治家にしては、彼は微妙な一線でたしかさを示す国民感情を知らなかったのである。彼のあやまちは、人びとの心に不定形で息づいている共同幻想を、鈍感にも白日のもとにさらそうとしたことであった。
吹田晨平はベッドから身を起こしてソファに移り、スポーツマンシップ・マイルドというタバコに火をつけた。そして、筆者の潟田六郎太なる人物について何か書いてないかと、雑誌をめくった。文章の末尾には(日新タイムズ学芸部記者)とだけあった。編集後記を見た。そこには「潟田六郎太氏の連載は本号をもって完結しました。各方面から多くの反響が寄せられています。今後も、スポーツや芸能と社会状況を結ぶこの種の企画を進めます。ご期待ください」とだけ書かれていた。吹田はふたたび本文に眼を移した。
もう一人の政治家は、そういうあやまちを犯さずに見事な仕事をした。前者が、王選手の人気を自分に転位させようとしたのに対して、この政治家は、権力に本質的に付随するトリック性を野球界に転位させようとしたのだ。彼は、プロ野球の|老舗《しにせ》の巨人が|凋落《ちようらく》気味だとわが党も冴えないという相関関係を前から洞察していて、大学を出てまもない一人の青年の就職運動に異常なまでの熱意を示し、ルールを無視してむりやり巨人に入れようという努力をした。そして、国会で鍛えた百戦錬磨のかけ引きやトリックの技法を活用して目的を達した。もちろん多くの実業家や虚業家がこれに加担した。政治的卓見のもたらした快挙であった。
しかしこの作業は、一般大衆への最低限のジェスチュアを示す工作に、さすがに少し手間取ったために、その年には巨人の凋落を防ぐまでには至らなかった。しかし来年は巨人もわが党も大丈夫だろうと、関係者は安心している。(引用者注・次の年もわが党は大丈夫だったが巨人は優勝できなかった。しかし政治家の洞察や恐るべし。一年ずれて一九八一年、前にも書いたように、巨人は見事独走して優勝した。その最大の力はやっぱりその青年であり、投手成績二十勝六敗でMVPとなった)
政治の持つトリックを野球界に転位させておいて、国民の関心がそっちに注がれている間に、政治家は時を稼ぎ、新しいトリックの開発にいそしんだ。江川青年自身もトリックスターであるが、同時に彼はスケープゴートでもあり、おとりでもあった。そして真のしたたかなぺてん師は、その政治家だった。そして国民の多くは、やがて江川問題という不快な出来事を忘れることにした。「たかがスポーツじゃないか。それに江川はやっぱり稀代の大投手になる素質がある。まあいろいろあったが、彼にやる気をなくさせるより大成させたほうが、やっぱり楽しいじゃないか」。|水に流す《ヽヽヽヽ》という、日本人一流の健康な一過性である。そしてその流れを洞察していたのも、かの政治家であった。
政治と野球の関係についてもう少し述べたい。野球は、民主主義と資本主義の体現である。
まず民主主義。攻撃と守備の機会は、個人に対してもチームに対しても、まずあらかじめ数字として平等に与えられる。時間の保証ではなく数字の保証である。ボールカウント、アウトカウントがその基礎となる。攻撃する立場と守る立場は、このカウントが刻まれてある回が終了するまでは、その立場を変えることはできない。このルールは野球以外にはあまりない。もし守備についている選手が、手元に飛んできた打球を、隠し持ったるバットで叩き返そうものなら、彼は確実に精神病院に送られるだろう。野球は、イニングごとが保守や革新の二大政党対立であり、ゲームを通しては民主主義的機会均等を達成する。
次に資本主義。資本主義は何よりも数字の累積であり、その計数管理である。これも前記のカウントを基礎とし、個人にとってもチームにとっても、毎日、毎週、毎月、毎年累計され、多角的な計数や指数による分析にさらされる。打率、打点、出塁率、投手の勝率、防御率、挙げて行けばきりがない。試合中の計数管理の好例は、監督やコーチがピッチャーの投球数を継投時期の判断の目安にする傾向が多くなったことである。また最近は、ピッチャーの球速を時速で表示する器械まである。これらを要するに、野球は徹底的にディジタルな競技である。そして日本人は数字が好きで財務諸表の分析に|長《た》け、計数に明るい。そういえばシーズンオフのスポーツ新聞は、スター選手の新しい年俸まで逐一数字で報道する。
この民主主義的、資本主義的構造に、日本の「祭り」の要素が色濃く加味されれば、日本人が野球を好きにならないはずがない。一般の日本人は、その中で最もきらびやかな祭りのおみこしの担い手であるプロ野球のスターには、技術や収入の面で及ぶべくもないが、それでも草野球と呼ばれる領域において、その技術の初歩を楽しむことができ、プロと同じルールや計数を適用することができ、多角的な分析批評を試みることができ、かくして草深き氏神様のお祭りに参加した満足感を得るのである。
甲子園の全国高校野球は、その最大の祭りであろう。学校関係者だけでなく、一般市民や県、市の長や議員まで応援にかけつける。地元の茶の間では、日頃は野球にまったく関心がなく、亭主が夜な夜なナイトゲームのテレビ中継にかじりついている姿を、没知性珍獣の生態でも見るようにあきれ顔で見ている主婦も、地元の高校が出るとなるとテレビにかじりつく。そしてふしぎなことに、このときばかりは野球がわかるのである。全国高校野球大会こそは、地方分権と中央集権のバランスを微妙に保ち、最も巧みに運営されているシステムである。これに対して日本のプロ野球は、出稼型中央集権制度といわざるを得ない。
三回に分けて書くつもりを一回にまとめたせいか、この最終回の記事はかなりの長文になっている。野球ファンが全部読んでくれたかどうか。しかし、吹田晨平コミッショナーは、タバコをくゆらせながら念入りに読み進んでいる。こう引用が長くなっては、潟田の許しは得ているものの、少しは謝礼をしなければなるまい。どうせならあと少しだし、最後の結びまで引用してしまおう。
さて最後に、一回目のテーマであった『顔の文化とプロ野球』に戻って稿を終えたい。
ちびのときから好きで野球を始める人の数は、昔も今もそれほど著しい差はないのではあるまいか。しかし、プロであれ大学であれ高校であれ、そこのレギュラーになりたいという目標が生じた場合には、今では昔よりはるかに専門化され先鋭化された訓練を受けねばならない。将来一つのスポーツに抜きん出ようとすれば、スポーツなら何でも好きで、いつまでも素人っぽくいろんなスポーツを楽しんでいたいということは、以前より早めの年齢で切り上げなければならない。そして良いコーチにつき、|良い学校《ヽヽヽヽ》に入り、高度に専門化された目標に沿った体力づくりと、知識や技術の最先端を一直線にめざす。これは、進学受験体制のくさびが、小さい年齢層の中にぐいぐい深く喰い込んで行く状況と軌を一にしている。勉強の受験体制の頂点には一流大学があり、そしてスポーツの受験体制の頂点にはスターの座がある。野球でいえば、めざすはジャイアンツである。そこで第一回にも述べたとおり、最近の巨人の選手には、どこかエリートっぽい顔をした人が多い。丹念に養成され、仕上がって入ってくるという感じで均一化されている。
若いうちから早く仕上がってはおもしろくない。顔が仕上がるのは今からだといった未完成の逸材は少なくなった。残念なことだ。
今、社会はますます均一化、標準化に向かっている。市民の中流意識、生活様式や生活構造の都会化、偏差値重視の教育、政治的保守中道、企業の肥大と大都市集中等々。いずれも各レベルの管理者にとっては好都合である。そして一方では政府は、「地方の時代」などと謳い、「ゆとりある教育」とささやく。
すでに述べたように、政治といわれる地帯、中央といわれる地帯からの風に乗って聞こえてくる言語は、現に空洞化し、実体はない。「地方の時代」とか「ゆとりある教育」とかいうことばは、一体どこから実体を帯びてくるのだろうか。地方の復権、方言の復権をまず実現するのはだれか。どこから、個性的な顔、個性的な地肌がよみがえり、どこからニキビが吹き出てくるか。
今こそ、空疎なスローガンよりも実行を。そして、異相の怪童よ、輩出せよ。
[#地付き]了
[#地付き](筆者は日新タイムズ学芸部記者)
「おまえさんごときに、そうまで言われたくないね。ふん、気楽に」
吹田は、実際にそう声に出して雑誌を閉じた。(このおれさまがとっくに考えてきたことさ。潟田さんとやら、あんたにはペンはあるが地位はない。おれにはペンはないが、さしあたりことを準備し、世の中にそよ風を起こすくらいの地位はある。どれ、そろそろかかるとするか)。七十八歳、吹田は自分の年齢をあらためて意識にとり出して確かめた。(任期はあと二年半と少し。もしかするとわしの命はそれより短いかも知れないな)、彼はタバコを灰皿にこすりつけ、ベッドに横になった。そして両手で白髪をかき上げて頭を枕に着け、灯を消した。
「というわけで、きみの文章が吹田さんの前からの考えを誘い出し、行動を早めるきっかけになったというわけだ」
「まったく想像もつかないことだったよ」
「さてと、今までが序章で、いよいよこれからが本篇ということになるかな。少しはおれさまの独断とフィクションが混じって行くかも知れんよ」
「けっこう、けっこう。ドリンカーズの監督がフィクション・テラーとは愉快だな」
「ハハハ、うまく行くかな」
語り継ぐ前に、志村は最近発売されたスポーツマンシップ・ストロングというタバコに火をつけ、潟田にも一本すすめた。
「ほう、最近はストロングか。これは大変化に出会ったよ」
そういえば、潟田が日本を去るころには、マイルドという名のついたタバコが多かった。マイルド・セブン、ラーク・マイルド、テンダー・エキストラマイルドなど、軽やかで柔らかいという感じを精一杯出そうとしていた。一方ではタバコの害が叫ばれ、嫌煙権なることばまで生まれた。それに対して専売公社はまた新しいマイルドを出した。包装には「健康のため吸いすぎに注意しましょう」と印刷しながら、次つぎに新しいタバコを出し、マイルドを主流にし、どうしても吸いすぎるように仕向けているとしか見えなかった。いかに国家に税金を吸収するための仕事とはいえ、こういう矛盾はつらいことだったにちがいない。もっとも、世の中全体の風潮が何となくマイルド志向だったことも確かである。保守中道とはマイルドであり、中流意識もマイルドであり、プロ野球選手の顔もマイルドだった。スポーツマンシップというタバコが発売されたときも、はじめはマイルドとつけ加えられていた。
ところが今や、“スポーツマンシップ・ストロング”であり、“ストロングセブン”であり“キャビン・ストロング”である。このほうが本当に吸いすぎに注意するだろうということになったのだ。しかし、志村がタバコを吸う量は、ここ二十年来まったく変わらず、一日二十本前後である。のみならず、昔のマイルドだろうと、今のストロングだろうと、吸っている感じは志村にとっては同じなのだ。
「何だ。ストロングといったって、昔とたいして変わらんじゃないか」
潟田もそう言って、鼻からうまそうに煙を出した。
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七十八歳の外野席ファン
「オールスター・ゲームが、地方都市でも開けるようにならないかね。例えば札幌とか四国の高松とか。札幌は涼しいからデーゲーム、さしずめ“真夏の昼の夢”だ」
「できたらいいですね。でもコミッショナー、今のフランチャイズのままでは難しいでしょう。地方球場の観客収容能力と採算の関係もありますしね」
「収容能力はそうだが、観客動員力はどうだろう」
「それは大丈夫ですよ。むしろ従来の四つの都市圏より旺盛だと思います。何年かに一回という新鮮味がありますから。でもそのためにだけ球場の収容能力を増やす投資に踏み切る人はいないでしょう」
「そうだな。そういうところにもフランチャイズが根づかないかぎりね。しかし、そっちのほうがますます実現困難だ」
「それはなかなかアメリカ並みにはなりませんね。アメリカのように個人がオーナーとして名乗りを上げるのではなく、大手の大企業がバックですから、どうしても中枢都市圏に集まってしまいますよ」
コミッショナー事務局では、オールスター・ゲームを終えたあと、忙中閑ありという雰囲気で、吹田コミッショナーと数人のスタッフがくつろいでいる。
コミッショナー事務局は、東京・西銀座の並木通りに面した朝日ビルの五階にある。ちなみにセ・パ両リーグの事務局もこのビルに集まっている。セントラルが三階、パシフィックが九階である。おもしろいことに、セントラルの事務局には「セントラル野球連盟」とあり、パシフィックは「パシフィック・ベースボール・リーグ」となっていて、巨人・阪神という日本最古の歴史を誇る二球団を擁するセントラルのほうが、やはり表示も伝統的である。
就任して間もないある日、吹田は一人の新聞記者から「どうもコミッショナーはセントラル寄りですね」と皮肉をいわれた。五階のコミッショナー事務局は、九階のパシフィックより三階のセントラルに近いからだ。そのとき吹田は、わざと大真面目な顔をつくり「それはとんでもないゴカイですよ」と言った。記者は、吹田の態度のあまりの真面目さに釣られてその洒落を解さず、(今度のコミッショナーは何と冗談を解さぬ人だろう)という顔付きで、大真面目になって帰って行った。そのやりとりを笑いをこらえて聞いていた事務局長の浦山は、「あの記者、本当にとんでもないゴカイに来ましたね」と吹田に言った。そして事務局内は笑いに包まれた。
コミッショナー事務局は十人に満たない小世帯である。吹田は、こういう小ぢんまりとした規模の人間グループが好きだ。何か打ち合わせをするにもわずらわしい手立ては要らない。一声かかればさっと集まることができる。そして一人ひとりの人柄もよくわかるし、全体に人間関係の風通しがいい。
吹田と事務局員たちとの雑談が続く。
「ああ、堀田君。きみが貸してくれた月遅れの雑誌、なかなかおもしろかったよ。あの潟田何とかいう新聞記者の文章ね。あのあと、連載第一回にさかのぼって読んでみたよ。しかし何だねえ、ああいう立場のもの書きというのは好きなことを勝手に書けていいねえ。気楽なもんだよ」
「まったくですねえ」
それから吹田は話題を変えた。
「ところできみたち、最近、外野席で野球を見たことありますか」
みんなしばらく顔を見合わせていたが、やがて異口同音に、
「いやあ、最近はありませんね」
と答えた。
「そうだろうね。ぼくも最近はなかなか外野席にいく機会がないが、ここに来るまではね、ちょくちょく行ってたんだよ」
「ほう、内野が満員でですか」
「いや、ぼくはね、外野席から見るのもわりあい好きなんだよ」
そして吹田は、外野席の視点という話を始めた。
外野席、特にセンター寄りから見ていると、内野とは反対に、キャッチャーとバッター以外の選手は後姿しか見えない。これではつまらないようにも思えるが、しかし、フェンスに達するような打球を外野手がうしろ向きに追いかけるとき、その表情がはっきりと見てとれる。たまにしか顔を向けないだけに、その印象が実に新鮮だと吹田は言うのである。
「それとね、遠く離れているから、ダイヤモンドでの動きがかえってつかみやすいこともあるね。まあ、全体像とでもいうのかな。それとね……」
と吹田は続ける。ホームランの感じがちがうのがおもしろいというのだ。内野席にいると、白球がだんだん小さくなって「スタンドに行くかな? 行くかな?」という期待になるが、外野席では「来るかな? 来るかな?」である。そして球は逆にだんだん大きくなり、ついには赤い縫目までわかるようになってスタンドに落ちる。
「つまり、ピンポン球のように外野スタンドに消えたというのは内野の視点でね、外野で運のいい席にいると、ぐんぐん大きくなって迫ってきて、ドスンとかコツンとかいう音も聞こえる。ぼくなんか、ときどき、今のホームランはおれが引き寄せたんだなんていう気持になってたよ」
みんなは声を挙げて笑った。
「それがコミッショナーになってからは、ネット裏の視点しか与えられなくてね。まあ、こんなこと、やっと切符を手に入れるファンの人から見ればぜいたくな言い草だけど、今でもまだ、ときどきは外野スタンドに行きたくなるよ」
こんな調子でしばらく談笑が続いたが、やがてみんなそれぞれの仕事にとりかかって行った。
吹田晨平は七十八歳でプロ野球コミッショナーに就任するまで、外交官、大学教授、環境庁長官などの要職を経てきた。外交官としては、韓国、エジプト、アメリカなどの大使を歴任した。その後外務省を辞めて大学教授になり、外交史、美術史を講義しているうちに、首相から頼まれて環境庁長官になった。ところが、与党の方針と折り合わぬことが多くて短期間で辞表を出し、もうこれからは隠居して好きな絵筆でもとろうと思っていたところ、今度はプロ野球コミッショナーに担ぎ出された。もともと野球は大好きだ。任期は三年というので、それじゃ一期だけやりましょうということで引き受けた。
環境庁のときに与党と折り合わなかったのは、与党の有力議員たちや、通産、大蔵、自治、農林水産といった各省で吹田の仕事に関係の深い中央高級官僚や長官たちが、何かにつけて吹田の言動に牽制を加えるのでいや気がさしたからである。吹田は暇さえあれば東京をあとにして全国の地方を廻った。そのうちにどういうわけか、与党の幹部や中央官庁の役人が彼をいびり始めた。このあたりの事情を詳述するのは場ちがいなので単純なポイントだけを記すと、「吹田さんは根回しをしない」というのがどうやら与党と霞が関の最大の不満であって、環境問題をめぐる政策や思想の衝突ではなかったらしい。吹田の考え方の基本は、中央集権と地方分権がバランスを保つこと、その上で、環境問題については東北とか四国とかいう規模の広域自治体連合の単位で自主的な施策を立て、それを国が援助するものであった。といっても吹田は、こういう広域自治体連合を、政治行政全般の単位にしようと主張していたわけではない。ただ、環境回復保全を実行するには、県ごとの対策では寸断されすぎ、また、国の全体的行政の視野では目が届かず画一的になりがちなので、環境問題に関するかぎりは前記のような地方単位が有効適切だとしたのであった。
しかし、この施策案は、立法、行政のテーマにはなかなか採り上げられず、「吹田さんは根回しをしない」というテーマだけが陰湿な形ではびこった。それに加えて、吹田が、古くからの友人である農協会長、寺岡篤太郎とよく会っては、お互いに共鳴しつつ地方分権主義へと傾斜しているという噂も立ち、それも諸公に不快感を与えたらしい。これらを要するに、政策の正面衝突を回避する緩衝弁としての根回しによる人間関係に、吹田が無頓着であったのがいけないことになる。そして結局は、吹田のほうが「不快感」を覚えて辞めてしまったという経緯のようだ。その吹田がプロ野球のコミッショナー候補に挙げられたとき、政治家諸公は、「あのじいさんの野球好きは有名だし、文化人だから、コミッショナーなら無難だろう。やらせておけばいいじゃないか」と軽く考えた。実はこの軽く考えたことが、あとになってとんでもないまちがいだったことを知る。そして、吹田が根回しを知らないなどという見方も、とんでもない誤解だったことを知るのである。
さて、吹田の野球好きは、アメリカ大使時代にも遺憾なく発揮されていた。暇を見つけては、というより暇を作り出しては、せっせと大リーグのゲームに足を運んだ。半年ほどの間に、両リーグの東部のカードは最低一回は総なめにし、用事で西部に行けば、ロスアンジェルス・ドジャース、サンフランシスコ・ジャイアンツ、カリフォルニア・エンジェルスなどのゲームを見て廻った。大物大使といわれたマンスフィールド駐日アメリカ大使も、日本のプロ野球のファンだったらしいが、この点では吹田のほうが大物大使だったにちがいない。だから、コミッショナーの役は、わりあい気軽に引き受けた。吹田が無頓着といわれる「根回し」のわずらわしさもあまりなさそうだし、第一、中心となるテーマが野球という肩のこらないものだから楽しくやれるだろうと思われた。事実今のところ、吹田の居心地はよさそうである。
野球協約には、第八条の第一項に「コミッショナーは、日本プロフェッショナル野球組織を代表し、これを管理統制する」とある。そのほか協約には、選任の方法とか任期とか、コミッショナーの下す指令、裁定、裁決、制裁は最終決定であるといった権威づけなども記されている。しかし「コミッショナーとは何か」については、この第八条の第一項につきる。吹田は、この条文だけでは、自分の具体的な位置や役割がどうもはっきりわからなかった。
コミッショナーが「代表」し「管理統制」すべき「日本プロフェッショナル野球組織」とは何なのか。それはセントラル、パシフィックの両連盟によって構成される日本のプロ野球の総体を指す。それでは両連盟の上部構造としての「組織」が何か別にあるのかというと、どうもそれはコミッショナー事務局以外にはないらしい。
(つまりコミッショナーという個人が組織なのだ)と吹田は考えた。この「組織」には実行委員会があるが、その構成は「この組織に属する連盟会長各一名と、それぞれの連盟を構成する球団を代表する球団役員一名を委員として構成する」となっている。つまり、セ・パ両リーグ会長と十二球団の役員である。これがどうやら、吹田が「代表」すべき日本プロフェッショナル野球組織なるものの最高機関のようだ。しかしその委員会では、コミッショナーは議題を提案したり、出席して意見を述べたりすることはできるのだが、表決には加われないと規定されている。そしてコミッショナーは、その実行委員会によって選任されるのである。別にオーナー会議というものもあるが、それらすべてを含めてこの「組織」の人的構成は、コミッショナーと少数の事務局員以外はすべてセ・パ両リーグの人間である。セ・パ両リーグは、それぞれ明らかな組織であり実体を持っているが、吹田が代表すべき組織は、そのセ・パ両リーグ以外の実体は持っていないようだ。
実行委員会からコミッショナーヘの就任要請を受けたとき、吹田はそのへんがわからなくなって聞いてみた。しかし「コミッショナーは両リーグの上に位する最高権威者です」という抽象的な回答しか得られなかった。
「じゃあ、とにかくその野球協約でいう代表にはなりましょう。念を押しますが、両リーグの代表ではないわけですね。つまり、二リーグ十二球団をじかに背負っているのではなく、たまたま現在そういう実体で成り立っている日本のプロ野球を、みなさんとは一歩離れたところで代表し管理するということですね」
「つまり、まあ、そういうことになります」
「日常的な運営は、みなさんの豊かなご経験と練達の経営手腕にお任せして、私はおもに今後の発展のために、プロ野球とファンを結ぶところに仕事の実体をとらえて行きたいですね。そういうことでいいですか」
「大変結構なことです。ぜひお願いします」
「ときにはファン寄りになることもあるかも知れませんぞ。何しろ私自身、今日までその単純な立場のファンだったわけですから」
「よろしいんじゃありませんか」
ということになった。政治家諸公が、吹田のコミッショナー就任を軽く考えていたのと同じく、各球団の代表やオーナーたちも、吹田とのこのやりとりを、ごく自然な、和やかな空気に満ちたものと感じていた。吹田自身もそのときは、別にたくらみを抱いてものを言ったわけではなく、思ったとおりのことを述べたままだった。しかしほどなく、まず吹田のほうが、自分が何気なく言ったことの内容の大きさを自覚するに至る。そしてやがて、オーナーや球団役員諸氏も、とんでもない人をコミッショナーにしてしまったと後悔するに至るのである。
その話に入る前に、ここで、コミッショナー制度の成り立ちについて振り返っておこう。
プロ野球コミッショナー、この制度はアメリカでは一九二一年に発足した。正しくは、ハイ・コミッショナーという。アメリカ大リーグは、まず一八七六年にナショナル・リーグが生まれ、一九〇〇年にアメリカン・リーグが発足した。その三年後の一九〇三年には両リーグから選出されたメンバーによってナショナル・コミッションがつくられたが、特に強力な統制力は発揮できなかった。そこへもってきて、一九一九年のワールドシリーズに大スキャンダルが発生する。シカゴ・ホワイトソックスとシンシナチ・レッズの顔合わせは、シリーズ前の下馬評ではホワイトソックスが断然有利だった。賭け率も当然ホワイトソックスに大きく傾いていた。その賭け率が、シリーズ開始直前になって不自然に逆転し始めたのである。そしてシリーズの蓋をあけてみると、劣勢とされていたレッズが五勝三敗でホワイトソックスを降してチャンピオンとなった。臭い。ホワイトソックスの選手には明らかに無気力なプレーが続出した。そして直前の賭け率の変動。大がかりな八百長だ。アメリカ中が騒然となった。世にいう|ブラック《ヽヽヽヽ》ソックス・スキャンダルである。
いかんせん、このとき直ちに事態を収拾する強力な機構もなければ人物もいない。このままではアメリカ人の愛する国技は危機に向かうばかりだ。そこで乞われて登場したのが、連邦裁判所判事、ケネソー・マウンテン・ランディスだった。一九二一年、はじめは判事の現職のまま初代ハイ・コミッショナーに就任した。ときに五十五歳。
ランディスは、判事としても思い切った判決を下す個性的な法律家であり、ときとして専横とさえ評されていた。ブラックソックス・スキャンダルについては、関係者を徹底的に洗い出し、全員追放処分を実行した。その背景には、ランディス・コミッショナーが、プロ野球の立法・行政・司法の三権を一手に掌握し、一個人が絶対的権威を体現したということがあった。
この果断な処置を境に、アメリカ大リーグは民衆の人気を回復してよみがえったといえる。その後ランディスは、何と、一九四四年に七十八歳で死ぬまでの二十三年間、コミッショナーであり続けたのだ。いわば、アメリカ・プロ野球の終身大統領だったといえよう。そして在任中、ある有力オーナーと大喧嘩をしたり、当時すでに全国民のアイドルとまでなっていたベーブ・ルースに、シーズンオフにおける規則を無視したかどで翌シーズン一カ月の出場禁止を喰らわしたりした。とにかくこのランディスという男、なかなかの熱血漢であり、アメリカのプロ野球に活を入れ、隆盛の源をつくった偉人となった。
初代がそういうふうに思い切った仕事をして、しかも二十三年間も在職すれば、その後のコミッショナーの伝統と権威は固まったようなものである。一九八〇年の時点におけるコミッショナー、ボウイー・ケント・キューンは五代目で弁護士出身、一九六九年からコミッショナーの地位にある。アメリカのコミッショナーの任期は日本の二倍以上の七年で、再任すればたちまち十四年になるのだ。個人の責任と権威を重んじるお国柄の反映といえようか。
さて、日本のプロ野球にコミッショナーが生まれたのは、一九五〇年、戦後六年にセントラル、パシフィックの二リーグに分かれた翌年のことだった。初代には、前検事総長、福井盛太が就任した。アメリカも日本も、歴代コミッショナーには法曹界の大物が起用されることが多い。
初代コミッショナー就任時の状況、そして就任後の初仕事には、日米ではいくぶんのちがいがある。一口にいえば、アメリカの場合が八百長の根絶であったのに対して、日本の場合は、選手引き抜き無政府状態に対する葵の御紋の登場であろう。
すでに、一リーグ時代の一九四九年、戦後五年、前年優勝の南海ホークスのエース別所を、読売ジャイアンツが引き抜いて、たちまち戦後初の優勝を遂げ、ホークスが四位に落ちたということがあった。
そして一九五〇年、二リーグ分裂のときの最大の引き抜きは、新球団毎日オリオンズによる、阪神タイガースからの大量引き抜きであろう。エース若林、土井垣捕手、主砲の別当外野手をはじめ、タイガースの主力選手がごっそりオリオンズに移った。オリオンズはまた、ノンプロの別府星野組から、荒巻投手、西本内野手などの逸材を入れ、かくてこのチームは、パシフィック・リーグ発足の年の優勝チームとなり、日本シリーズでも松竹ロビンスを破って日本一となったのである。
この年は、前年までの一リーグ八チームが、一挙に二リーグ十五チームになったので、いきおい選手の水準は低下するから引き抜きも激烈をきわめた。それに加えて、セントラル・リーグの西日本パイレーツが一年しかもたず、翌年からはパ・リーグの西鉄クリッパースに合併して西鉄ライオンズとなることになったため、今度はパイレーツの選手たちが狙われた。ここでまた読売ジャイアンツが登場する。選手は球団所属ではなくリーグ所属であるという強引な解釈のもとに、パイレーツから名手南村、平井を引き抜いてしまった。何のことはない。リーグ所属だと主張したうえで自球団所属にしてしまったのである。この年、ジャイアンツは広島からも樋笠というスラッガーを引き抜き、アメリカからは与那嶺を連れてきて、これら移籍組の活躍が同年優勝の一因となった。
こういうふうに、当時は、引き抜きが直接その年の優勝に関係していたのである。ジャイアンツのお家芸は、ずっと時代が下がって一九七九年、阪神タイガースからルーキー江川を引き抜いたことで健在ぶりが示された。もっともこの引き抜きは、かつての戦国無政府時代のやり方とはちがって、政治家の指導とコミッショナーの追認のもとにおこなわれ、その時代の風潮を反映して|詭弁《きべん》と根回しと合意に基づく引き抜きとなった。
最初の時代に話を戻そう。とにかくこうも大っぴらな引き抜きが続いては、せっかく戦後爆発的に増えたプロ野球ファンも愛想をつかす。そこで、両リーグの利害を超越した権威者としてコミッショナー制度が設けられた。
さて、日本のプロ野球の二リーグ制を最初に積極的に提唱したのは、ときの日本占領軍総司令部(GHQ)の経済科学局長、マーカット少将だといわれる。そして正力松太郎がこれを受けて二リーグ構想を進めようとしたが、既成球団の利害関係や思惑もまちまちで、遂には分裂同然で二リーグが発足したのだった。
吹田は、この時期の資料を詳しく調べて行くうちに、心に深く秘めるものがあった。(おれの考え方を実現するうえで、一番大切なのは、利害関係や思惑の動きを封じること、そして分裂を避けること、選手引き抜きが復活しないための原則をつくることだ。そのためには、利害関係を持たない、そしておれの信頼できる少数の人間と準備を進めることだ。しかし、それは静かに進めなければならない。プロ野球の上層部や現場で、だれが味方になり、だれが敵になるかはわからないからだ。しかし、おれの構想を発表する段階では、一挙に隅ずみまで透明なものにしなければならない。そして移行に要する期間はできるだけ短いほうがいい。そうなると、アメリカのように、おれ個人の責任で対処する以外にない……)
ともかく、こういうところにGHQの軍人行政家の名前が出てくるところはおもしろい。マーカット少将もいいところに眼をつけた。GHQは、たかが野球とは考えていなかったのである。ベースボールこそはフェアな民主主義を体現したスポーツであり、一党独裁ではなく二大政党の桔抗によるアメリカン・デモクラシーの真髄を、アメリカの国技ベースボールによって日本国民に教えよう。それには二リーグ制を敷いてコミッショナーを置くことだ。
しかし、いくらGHQでも、日本古来の精神風土まで一挙に変えてしまう力はなかった。日本は昔から、対立に至る前に和を重んじて進むという組織観が強い。対立点をとことんはっきりさせたうえで協力するというぐあいにはなりにくい。くだけていえば根回しを重んじるお国柄だ。だから、建前の上ではどんなに権力と責任を負った個人がいても、組織を動かす上では純粋に個人的な判断と命令を下すほうが異例である。その代わり、純粋に個人的な責任を問われることも少ない。それは、二リーグ制になってからのコミッショナーの性格にも現われていた。
前に書いた、就任にあたっての吹田の質問は、その組織と個人の関係をやんわりと衝いたものだったのだ。日本のプロ野球組織の実質的な最高機関は実行委員会であり、そして野球協約には、その委員会の審議する重要事項についてはオーナー会議の承認を得なければならないと明記されている。だから、アメリカのコミッショナーを大統領にたとえれば、日本のそれは人格的象徴とでもいう感じになる。
吹田がおもしろいと思ったのは、次の規定である。「コミッショナーは本人の申し出によるほか、その意に反して任期中に解任されない」。もちろん病気や事故で職務を続けられないときは別であるが、そうでないかぎり、理由のいかんを問わず多数決などによるリコールは一切ないのである。これは、コミッショナーになる人物に全幅の信頼を置くという表現でもあろう。事実、歴代コミッショナーには、人格高潔、思想中庸、不偏不党という感じの知名人が多い。法曹界では前記の初代福井盛太のほか、最高裁判事・井上登、同・下田武三、学者では内村祐之、宮沢俊義、大浜信泉など。このうち下田武三は、最高裁判事や弁護士のほか、駐米大使やEC日本政府代表など各国の大使を歴任した人物である。この点では吹田晨平とよく似ている。各コミッショナーの就任時の年齢も六十代後半から七十代にかけてで、大浜信泉は就任時八十歳だった。とにかく、ぎらぎらと脂が乗って働き盛りで、それだけに敵も多いといった人物は敬遠されている。
吹田晨平も、もちろん、人格高潔、思想中庸、不偏不党の線で選ばれた。平たくいえば「無難な人」である。吹田自身もそう見られたのだろうと推察している。どこの世界でも、万事順調でさほどの問題がないときには、そういう人選になろう。
しかし、吹田は昔からの野球好きだから、アメリカの初代コミッショナー、ランディスの伝記をだいぶ前に読んでいた。そして就任してみて(同じコミッショナーといっても、アメリカと日本ではずいぶんちがうもんだ)という思いを強くした。その吹田の心の中では、(在職中に、あのことのきっかけだけは作っておきたいな。実現するのはおれが死んでからになっても)というテーマが少しずつ育って行ったのだった。
コミッショナー事務局のスタッフたちと、外野席の視点というテーマで雑談を交わしてから数日後、吹田は事務局長の浦山次郎を、さりげなく喫茶店に誘った。
事務局のビルの近くの街は、もうすっかり若者のものである。ほとんどの店の飾り窓は、若い男女、とりわけ若い女の足を止める工夫に余念がない。「衣料品店」ではもう通らない。プレタポルテとかカジュアルウエアなどと、片仮名で特色を出さなければ商売にならない。吹田は、行きつけの喫茶店に向かいながら浦山に言った。
「近頃このあたりは、テニスのラケットのグリップを鞄からのぞかせている若い人が目立つね」
「そうですね」
「野球のバットやグラブをのぞかせている人はいないけれどね」
「ハハハ、それはもっと場末の早朝とか夕暮の風景ですよ。このあたりでは稀でしょう。第一、男女が仲良くペアを組んだり、シングルスでもできるというのが、最近の風潮でのテニスの強みですからね」
「なるほど」
相槌を打った吹田は、
「浦山君、あそこの店の看板ねえ」
と言って、歩いて行く左手の店を指した。
「カジュアルショップとあるでしょう」
「ええ」
「あれではどうも“一時的な店”とか“あてにならない店”という意味になっちまう。前から気になってたんだが、この際やっぱり言ってあげとこうかな」
吹田は浦山を伴って“カジュアルショップ”に入って行った。予期せぬ年輩の二人連れを迎えた若い店員は、吹田の忠告を黙って聞いていたが、やがて自分の頭部を指して、
「ここで考えればそうかも知れません」
と言った。
「え?」
という顔になった吹田に、店員は今度は自分の胸のあたりを指して言った。
「今はここで考えるんですよ、ここで。いや考えるんじゃない。フィーリングですよ、フィーリング」
吹田は店を出てから浦山に言った。
「フィーリングですよ、フィーリング」
そして自分の胸を指で突きさすようにして苦笑した。そして二人は足早に喫茶店に向かった。
「吹田さん、少しタバコを減らされては。禁煙はともかく、一日十本以内に節煙なさったほうがいいですよ」
浦山は、喫茶店に落ち着いてから吹田に言った。吹田は浦山には、二人のときはコミッショナーなどと呼ばずに名前を呼んでくれと言ってある。
「ご忠告はありがとう。しかし何事もこの年になってペースを変えるとね、そのために体がびっくりして、かえっておかしくなるような気がしてねえ。ま、これは意志が弱いことのいいわけかな」
八十歳にあと少しの吹田老人だが、タバコとコーヒーが大好きである。酒はせいぜい、ビールの中瓶一本か、ウイスキーの水割り二杯といったところだが、タバコは数十年変化なく、一日約三十本で、現在の愛用銘柄は前にも出たように国産のスポーツマンシップ・マイルドである。コーヒーは外交官時代に習慣になった。今でも、自宅では自分で豆をひいてたて、自分は一度に二杯飲んで奥さんに一杯すすめる。そして外でも、午前中に一杯、午後に一杯は飲む。
「タバコはたしかによくない。価値としてはマイナスの価値だ。しかしね、ぼくぐらいになると、マイナス、マイナスでプラスになってる面もあると思うよ。あ、これもいいわけかな。それにね、ぼくは毎日タバコの解毒をすませてるつもりなんだ」
「は? 何で?」
「蕎麦だよ、|生蕎麦《きそば》。それもごく普通のもりそば」
「ほう、何か科学的な根拠でもあるんですか」
「いや、根拠といえばぼくの生活実感だけだ。友人の医者に話してみたが一笑に付されたよ」
さて、吹田老人は浦山を前にして朝から通算四杯目のコーヒーを注文し、スポーツマンシップをうまそうに吹かした。そして、
「少しゆっくり野球の話をしたいんだが、仕事の話とはとらないでくれたまえ」
と前置きして話し始めた。
だいたいプロ野球のフランチャイズが、日本ハム、西武、ヤクルト、巨人と、東京に四つもあるのは異常だと思う。もっとも一つは埼玉県の所沢だが、これに川崎のロッテと横浜の大洋を加えると、何とセ・パ両リーグの十二球団中の半分が首都圏だ。しかも残り六つのうち四つは大阪と、それに隣接した西宮で、これも異常。残りは名古屋と広島に一つずつに過ぎない。戦争が終わって三十五年、二リーグになって三十年というのに、こういう|偏頗《へんぱ》な形で安住してしまっていいのだろうか。これがあたりまえと思ってはよくないと思う。
私はその点で広島のがんばりを買う。つまり、あの程度の人口の都市でプロ野球クラブが成り立つのは、広島の昔からの野球風土もあるが、ほんとうの意味での「地方」があそこで息づいているからだと思う。以前に仙台に出たロッテも、結局短期間で引き揚げたが、あれは無理もない。よそよりは東北出身の選手は多かったが、所詮は東京の過密から抜け出して仙台に行ってみた感じだった。もし仙台をフランチャイズにするなら、東北の人材を中心にまったく新しいチームをつくるべきだ。ほかの都市でも、近県の逸材を集めてチームを作る気概があっていい。地元の人間のはげみにもなるし、|おらがくに《ヽヽヽヽヽ》のチームとして人気も出よう。経営も成り立つと、ぼくはみるね。
今の日本のこどもたち、まあ大人たちもそうだが、日本地図全体の範囲で考えると、プロ野球をテレビでしか見られない人が圧倒的に多い。あれはほとんど望遠レンズで撮っているから肉眼の距離感がないし、第一、カメラはボールの飛ぶ範囲しか撮らない。あれに慣れっこになっては困る。特にこどもには、たまには実際にスタジアムに行って、自分の眼がとらえるままの遠近感と視野で、野球のダイナミックなひろがりを体験してほしいものだ。
環境庁時代に、ぼくはいろんな地方を廻ったが、地方の都市でも、地場企業と市民が力を合わせればプロ野球クラブを維持する力のあるところは少なくないと思った。国体が各県を一巡していることもあって、ちょっと手を入れればスタンドの収容能力も増え、プロでも立派に使えるようになる球場はたくさんある。使い方に困って持て余しているところすらある。
ぼくは、地元にプロ野球クラブができるならぜひ一肌脱ぎたいという人に何人も出会った。その人たちは必ずしも私利私欲からでなく、おらがくにのプロ野球の誕生は地方活性化の呼水にもなり、青年やこどもたちに励みを与えたい心情から言っていることは、ぼくにはひしひしと伝わった。全国に数え切れないプロ野球ファンがいるが、多くのファンは、自分の生活圏を遠く離れた首都圏や京阪神のいずれかのチームに声援を送る。地元出身の選手には特に関心が深い。
このあたりまで語り進めて、吹田は浦山の反応をうかがった。浦山は黙ったまま静かに聞いている。
「ぼくは、ごくあたりまえのことを話しているつもりだが、何か特別な意見に聞こえるかしら」
「当然の意見ともいえますし、状況次第では特別な意見にもなりそうです。どうぞ、もう少し伺わせてください」
と、浦山は冷静な態度で答えた。吹田は話を続ける。
甲子園の高校野球は、地元から中央に出て行って、勝つか負けるかしてまた地元に帰ってくる。しかし、地元の誇る逸材がプロ野球に入ると、遠く離れた大都市にあるチームに入ったまま帰ってこない。つまり出稼ぎ型だ。ファンは、テレビの複製像、あえて人工像あるいは虚像といってもいいが、そういうものと、アナウンサー、解説者、新聞記者などがまとめる情報や見方だけでプロ野球を知る。スタジアムの一隅で自分の眼と心で野球の実像をつかむという体験をまったくしないまま、複製像と情報だけでファンに育った人は実に多い。
こういう構造がもし変わって、北海道、東北、あるいは四国、九州といった単位でプロ野球クラブが生まれれば、地元の逸材の動向にも変化が生じ、そしてそのためにチームの人気も出、今までよりはるかに多くの人、そしてすでに野球についてはあり余るほどの知識を持っているファンが、地元チームの実像を見に球場に足を運ぶだろう。そうなればプロ野球新時代の到来だ。
「もし、今の体制から吹田さんのおっしゃる姿に移行するとすれば、どんな方法が考えられるでしょうね」
浦山は冷静な面持ちを変えずに聞いた。吹田はしばらく浦山の眼を見つめていた。そしてやがて、声を落として答えた。
「理想としては、新しい都市が一斉に立候補して、それを適切な数に絞り、それによって今のチームや選手を含めた全国的再編成をやることだと思う。当然、既成の十二チームは一旦すべて解体する。かつての二リーグ分裂のときの選手引き抜き合戦や企業間の争いを避けるためにもね。それに、最大の目的は、地元選手を中心にしたチームを全国に平均的につくることだからね」
浦山の顔色が少しずつ変わって行くように見える。現職のコミッショナーの話にしては、あまりにもラディカルだからだろうか。
「吹田さん。もう少し小さい声でお話しください。現球団経営陣の反撥と抵抗は眼に見えてますよ」
「そう。しかし、もしこれが成功すれば、プロ野球は新しい基礎を据え直すことになるし、それにね、ぼくはプロ野球の新地図が日本の他の分野をも少しずつ変えて行くんじゃないかと思うんだよ」
そして、吹田は浦山に聞いた。
「こういうことは現職のコミッショナーが考えてはいけないことなんだろうか。浦山君、ぼくの考えをどう思う?」
浦山はコーヒーの残りを飲み干してから、落ち着いた声で答えた。
「未来像としては極めて魅力に富んでいます。ただそれをいつごろの未来に置くかによって、現実との問題が生じてきますね」
「そこなんだよ。未来をいつに想定するかだ。浦山君、五年先、いや、三年以内に置くとすればどうなるだろう」
冷静に対応してきた浦山にも、さすがに驚いた表情が走り抜けた。(この人は、本気だ)
「慎重にものをおっしゃってください。もし私がオーナーのだれかに吹田さんの意図を話したらどうなるとお思いですか」
「もちろん、きみがそういう人でないことを知っているから話したんだ。しかしね、ぼくがこう思ってるからといって、これはきみや事務局の仕事とは無関係だよ。このことについて、コミッショナーとしてきみたちに何の仕事も命じるつもりはない。迷惑はかけたくないし、ぼくはコミッショナーというのは一個人だと思ってる。そしてね、個人としての言動こそは、その人間にとって一番責任の重いものだと思ってるんだよ」
吹田は遠くにいるウエイターに手で合図し、コーヒーのお代わりを頼んだ。
「そういう前提でね、今度の実行委員会で機会があれば、構想ではなく夢を語るという形で話してみようと思うけど、どうだろう」
「それはおやめなさい。相手をだれだとお思いですか」
浦山は、たしなめるように吹田に言った。
「吹田さんは状況を無視なさってる。なるほど、夢を語るのであれば、球団代表やオーナーたちは、当面の問題としてそれほど切実には受けとめないでしょうし、吹田さんに面と向かって反対の意見を述べることもないでしょう。しかし、吹田さんへの見方が固まって警戒心が強まります。そしてそれは根に残りますよ。吹田さんにとって百害あって一利なしです」
「たしかに利はないだろうね。しかしね、ふしぎに、ああいう立場の諸公にこそ思い切って話してみたい誘惑にも駆られるんだよ。みなさんの反応を確かめてみたいという興味もあるし。それに、何をやるにも自分の考えを相手にはっきりさせておかなければ気がすまないのが、ぼくの癖でね。ハハハ、環境庁のときもそれで苦労したんだけど」
浦山は、吹田の顔をまじまじと見た。(今日の吹田さんはまるで少年のようだ。しかも大人を手こずらせる、一筋縄では行かない少年)
「ほんとうに構想を実現させたいのなら、それなりの布石が必要じゃありませんか。吹田さんの態度は、あえて申しあげれば、少し恰好がよすぎます。とにかく今のところ、委員やオーナーにはもちろん、他のだれにもお話しになるべきではありません」
それからしばらくの間、二人は声をひそめて何か話し込んでいた。
喫茶店の外は晩夏の陽がようやく西に傾き、街には、都会の憂愁とでもいう音楽がそこはかとなく漂っているような感じである。その音楽を切り裂くように、とある店からラジオの声が流れてきた。
「……ました。江川、初回にホームランを浴びました。鈴木さん、どうなんでしょう、今の球は」
「球威はありましたよ。ただちょっとした気持の隙をベテランにやられましたねえ。これが直れば、このピッチャーはこんなもんじゃありませんよ。来年あたりは本来の力を出してきそうですね」
実行委員会の議事はとどこおりなく終わった。予定時間よりかなり早く終了したので、ひとまず散会となったあとも、まだ大半の委員が残って談笑している。一人の委員が吹田に水を向けた。
「コミッショナーはアメリカ大リーグのカードはほとんどごらんになったとか」
「ええ、大リーグだけじゃなく、マイナーやルーキーのリーグも見に行きましたよ。まずいなあ、こんなこと自慢したらアメリカ大使の仕事はやってたのかということになる」
「いやいや、大使としての業績もよく伺ってますからご心配なく。しかし、マイナーやルーキーとなると大変な数でしょう」
ということで、アメリカのプロ野球についての吹田の見聞談が始まった。
アメリカには、大リーグはアメリカン・リーグ十四チームとナショナル・リーグ十二チームの二十六チームが、それぞれ東西両リーグに分かれて存在する。マイナー・リーグになると、まず3Aが三リーグで二十六チーム、2Aが三リーグで二十四チーム、1Aが七リーグもあって五十六チーム、さらにその下にルーキーというリーグがあり、三リーグ二十一チーム、さらにまだオープンというクラスが二リーグ二十九チームある。以上を合計すると、アメリカには大リーグを含めて二十のリーグに百八十二のチームがあるわけだ。ベースボール発祥の国だけあって、やはり裾野は広いと、私はつくづく感嘆した。
そのうちに私は、これだけの数のチームが、どういう都市にかたまっているのだろうということを知りたくなって調べてもらった。大リーグは日本でも知られているように、少数の例外を除いて一都市一チーム、二十四都市に二十六チームがある。マイナー以下はどうだろう。百五十六のチームが何と百四十九の都市に散在しているのだ。この、合計百七十三という都市数を、かりにそのまま日本地図に移して考えると、各都道府県の三つか四つの都市が、いずれかのクラスのプロ野球クラブを一つずつ持っていることになる。
そしてこれは当然ともいえるが、マイナー・リーグのクラスが下になるほど、選手は地元出身で占められる。だからこういうチームは、広域のジャーナリズムでは採り上げられない地味な存在だが、地元では結構人気があり、ファンも多い。つまり、アメリカのプ口野球チームは、都市の発展とともに各都市のシンボルとして育ってきたといえる。
「これに対して日本では、有力な企業の下でプロ野球が育ってきた。だから十二チームのほとんどが二大経済圏に集中したのでしょうね」
吹田のことばに、委員たちは黙ってうなずいた。吹田は続けて言った。
「もっともプロ野球誕生のきっかけが、アメリカ大リーグのオールスターを迎え撃つために日本中のトップレベルの野球の力を結集したというものですから、この意味でもまず力の集中からスタートしたといえますな」
「なかなかおもしろい比較ですね。日米のこのちがいはプロ野球以外にいろいろ適用できそうですね」
と、委員の一人が言った。もう一人の委員が、
「今の日本で都市のシンボルといえる球団は、さしずめカープさんとドラゴンズさんですかな。福岡がなくなりましたからねえ」
と、吹田に語りかけた。
吹田は、自分の夢を語る機会が与えられたと思った。しばらく躊躇したあとで、吹田はおもむろに口を開いた。
「まあ、そういうことになりますかねえ。ところでみなさん、これは私の素人っぽい夢として聞いていただきたいんですが、日本のプロ野球のフランチャイズも、将来は全国主要都市に分散してもっと数が増え、各都市のシンボルとして定着するのが望ましいとはお思いになりませんか」
「ははあ」
「そして、できるだけ地元の選手を中心にしたチームをつくる。地元で育った逸材はそのチームに入るのが自然だというようになる。そうすれば、もっとファンも増えますよ」
「―――」
委員たちの表情には、吹田のことばに何か反応しなければいけないと思いながら、とっさには自然なことばが口から出ないといった様子がありありとうかがえる。しかし、やがて一人が吹田に問いかけた。
「――なるほど、おもしろいお考えですね。で、コミッショナーが都市のシンボル球団とおっしゃるのは、単にフランチャイズの問題ですか。それとも、経営母体のことも含めたお考えで……?」
「漠たる夢のつもりだったのが、難しい話になってきましたなあ」
吹田は軽く苦笑いしながらことばを続けた。
「さあ、それはどうなるんでしょうねえ。考えというよりも想像ですが、かりに今までと比べものにならない数の都市にチームができるとして、しかも地元選手を中心にやって行くとなると、地元の公共団体や企業も加わったクラブ組織のようなものに向かうんでしょうかねえ。それは私にはわからない」
「―――」
「まあ、経営母体のことはさておいて、そういうふうに多くのチームが全国に分散すると、プロ野球のおもしろさに都市対抗野球の郷土性が加味されたようなものになるんじゃないでしょうか」
「―――」
委員すなわち既成球団代表たちは、吹田の話から、一般論としては常識的かつ健康な響きを感じつつ、現実の利害関係者としてはそうにこにことしているわけにはいかない気持にさせられていたにちがいない。
委員たちの無言の態度は、明らかに驚きと戸惑いを示していた。(このじいさん、一体どんな気でこんな話を始めたんだろう)
そのうちに一人が言った。
「おもしろい。しかしそれはかなり重要な構想ですな」
「いや、構想じゃない。おことわりしたように単なる夢ですよ」
「それじゃ、重要な夢ですな」
「夢に重要度はないでしょう」
「いや、そうとも言えませんよ。吹田さんの夢は、どれくらい先の夢ですか」
「さあ、それは私にもわかりませんな。こういうことは全体のコンセンサスの熟成を待たなければだめですから」
そう言いながら吹田は、(しかし、必ずしもみなさんのコンセンサスという意味ではありませんぞ)と心の中でつぶやいていた。
「吹田さん、そういうお話は、今までもどなたかになさったことはありますか」
東京をフランチャイズとするある球団の代表が、表情はつとめて平静さを装いながら、緊張した眼つきを隠し切れない様子で聞いた。
「いやいや、ありませんよ。アメリカの話をしたもんですから、つい飛躍してしまいましたよ。ハハハ」
それまで、ひどく真面目な顔付になっていた球団代表たちも、吹田に調子を合わせるように何となく顔をほころばせた。吹田は、(やっぱりあぶない。これ以上話すのはやめておこう)と思った。委員たちの口数が少なくなったことと、表情の微妙な変化が、この話題に対する硬さと警戒心を表わしているように思えた。
やがて、委員たちは挨拶を交わしながら席を立ち始めた。吹田も椅子から立ち上がった。
「コミッショナー」
という声に振り向くと、広島カープの委員がそばに来ていた。
「それじゃ、広島に帰りますが、日本シリーズで広島においでになるのをお待ちしてますよ」
広島カープは二位以下に圧倒的な差をつけて、セントラル・リーグの首位を走っている。連続優勝はほぼ確実だ。その自信のほどを表情に見せて、広島の委員は去って行った。
吹田の家は東京の世田谷区玉川にある。妻の千代との老夫婦二人住まい、静かなものだ。こどもは二男二女、長男は商社勤めでドイツに滞在中、次男は金沢の大学の先生、娘二人の嫁ぎ先は東京と名古屋である。月に一度ぐらいはどこかの家族が日曜日にやってきて、孫たちの声が家中にこだまするが、彼らが帰って行くと、ふたたび波のまったくない湖水のような静けさが戻る。
吹田は実行委員会が終わってまっすぐ帰宅すると、
「おい、千代、秋には安芸の宮島としゃれてみないか。今年の日本シリーズはどうやら、始めと終わりは広島ということになりそうだ。あのあたりは紅葉が見事だぞ」
と、妻に言った。
「どうぞお一人で。私はもうこりごりですよ。新緑だ紅葉だと釣られて行く度に、全部野球のためにほっぽり出されるんですから。ここいらにもきれいなもみじはございます」
吹田は黙って苦笑した。(ちがいない)。アメリカにいたときも、日本でも、野球を見るついでに千代を連れて行くときは、吹田の前宣伝とは打って変わって、千代を満足させたためしがない。行く前は「野球が終わったらあそこに行こう、ここに行こう」と千代に言っておきながら、野球が終わるともうどこにも行く気がなくなり、そこいらでいっしょに食事をするぐらいで家に引き揚げてしまう。おまけに、何回見ても一向に野球に興味の湧かない千代にとっては、球場のスタンドに吹田と坐っている二時間ほどというものは、ただ尻が痛くなるだけの空白のときの流れである。吹田のほうはその間、こどものように夢中になっていて、ときどき千代に話しかけたりするが、千代にはほとんどわからない。野球に関するかぎり、千代にはまったく進歩もないし、吹田のご進講も効を奏さない。さらに千代にとって腹立たしいことは、日本に帰ってきてからの野球見物は、二時間どころか三時間、四時間かかる。
仲の良い夫婦も、こと野球に関してはお互いにまったく別々の世界の住人である。千代は、吹田がこれほど野球に夢中になれることが、同じ人間の到達し得る状態とは信じ難い。吹田のほうは、千代がこれほど野球に無関心でいられることが、やはり同じ人間の到達し得る状態とは信じ難い。(何て馬鹿な人なんだろう。これ以外はほんとうに知的で偉いのに)、(何て損な人だろう。これ以外は理解力も高く感受性も柔らかいのに)と思い合っているのである。この点についての吹田夫妻の相互理解と歩み寄りは、五十年に近い結婚生活を通してみて、もはや絶望的といわざるを得ない。
ところが一方で吹田は、自分の連れ合いのそういう状態に、ふしぎな安心を覚えるのである。(たいした女だ。さすがはおれの妻だ)
ともかく最近では、吹田の外出や旅行が野球がらみであることがわかると、千代はまずいっしょには出かけないようになっている。
おまけに今度はコミッショナーとして行くのだから、試合の前後もスケジュールに追われ、とても夫婦で紅葉見物どころではないだろう。千代はいよいよ吹田のことばに釣られなくなった。吹田はその場をとりつくろうように、
「どれ、ちょっと書きものをしてくるよ」
と言って、茶の間から書斎に移った。
(さて、仲間を慎重に見つけて行かねばならぬ)、吹田は、鉛筆でメモ用紙に丸や三角のいたずら書きをしながら考えを進めようとしている。「書きもの」などといえたものではない。
(持久戦だな。といっても、おれの寿命のほうがどこまで持久するかが問題だ。一応三年と思っておこう。それまでにできることをやり、後継者をつくっておくこと)、吹田は、今まで頭の中に芽生えていた考えを、もう一度おさらいし、整理してみる。
この「プロ野球、地方の時代」構想は、一挙全体的に実行しなければならぬ。東京と大阪のチームを少しずつ減らして、既成球団のままよそに移すという妥協案が出るかも知れないが、それは根本的にちがう。既成球団がそのまま移動するのでは、いつまで経っても|おらがくに《ヽヽヽヽヽ》のチームは生まれない。方法はただ一つ、既成球団構成の一時総解体と即時再編成しかない。それをシーズンオフの間にやりとげる。スケジュールを考えてみよう。たとえば二年後のシーズンオフにしてみるか。
日本シリーズ終了後を待って全構想を発表する。
十二月中旬、プロ野球クラブ設立都市立候補締切。
十二月末、都市選考結果の発表。直ちに現登録選手約七百人の新所属チームについての話し合いに入る。同時に各地で新人募集。
一月―二月、旧球団の解散残務整理と新球団の設立。監督、コーチ、選手の最終メンバー決定。
三月―四月、スプリング・キャンプ。
五月、ペナントレース開幕。翌年からは今までどおり四月スタート。
スケジュールは大体こうなるかな。その他一挙に決めなければならないこと。ドラフト制度の廃止とそれに代わる制度の設置、イースタン、ウェスタン両リーグの解散に伴う新しいファーム・リーグまたは新人育成体制、寒冷地の球場設備対策、これはどうしてもドーム付になる。新球団設立の母体、発起人などの資格、出資者の資格と条件……その他まだまだある。こういうことを一挙にやらねばならない。新しいリーグ編成はチーム数にもよるが、一挙倍増は難しいから二十以内とすると、三リーグが適当か。
この計画の一つの鍵は、選手たちの心を地元に向かわせることだ。そして有力選手とともに重要なのは、数の上では一軍選手よりもはるかに多い、四百人以上のファームの選手たちの動向だ。下積みの人たちに地元で新天地を与える。
さて、やるときは電光石火にやるが、それまでの準備は地下活動だ。この構想を、どういう人間に打ち明け、どういう人間に打ち明けず、どういう人間に実施のための具体策を託すことができるか。
おれ自身には財力も政治力もない。強力なジャーナリズムを支配できる男でもない。だからこそ、無難な人物としてコミッショナーに推されたのだ。さてどうするか。
確実に信頼できる同志を目立たずに作って行く。とすれば、プロ野球関係者は当面は避けたほうがいい。浦山事務局長は信頼できるが、彼が動くのは一番まずいし、最終段階の公的な仕事以外はやらせたくない。先日も、何が起きようと静かに見守っていてほしいと頼んだ。この計画について何もしないことが彼の役割だ。
丸や三角のいたずら書きが増え、メモ用紙は真っ黒になった。吹田はそれをちり籠に入れ、お茶を飲みに茶の間に立つ。千代はテレビを見ている。
「何を見てるんだ」
「赤穂浪士ですよ」
吹田はふと思った。(そうだ、赤穂浪士の逆を行くんだ)。赤穂浪士は、いくつかの段階を経て月日のたつうちに、初志を貫こうとする人数は少しずつ減り、大事決行のときには四十七人だった。(こっちは一人ずつ増やして行くのだ)。この人なら絶対まちがいないという人を一人つくる。その人がまた、この人ならという人を一人つくる。そうすると三人になる。そうして一人が一人ずつ、多くても二人か三人どまりで増やして行く。三人なら三人、五人なら五人でできることをやりながら増やして行く。そのうちに四十七士になる。いや別に四十七人は要らない。野球にちなんで、まず三人、そしてやがて九人ぐらいにはしたい。しかし組織にしてはいけない。
まったく、現職の日本プロフェッショナル野球組織コミッショナーが、おそろしいことをたくらみ始めたものだ。両リーグ会長や各球団のオーナーたちが知ったらどんなことになるだろう。自分たちがコミッショナーに推挙した吹田晨平がとんでもないことを考え始めた。しかし、今更彼を推挙した己れの不明を恥じても遅い。コミッショナーは「本人の申し出によるほか、その意に反して任期中に解任されない」のである。吹田の任期は、一九八三年三月いっぱいまでだ。まだ二年半を残している。こうなったらこのじいさんに一日も早くあの世に逝ってもらうか、あるいは職務代行機関を置かなければならないほどの重病か事故に遭ってもらうしかない。この中で一番疑われずにすみそうなのは何か。病気だ。その中でも重度の精神障害というのが一番いいのではないか。体はぴんぴんしていても、だれも彼の言動を信じない……などと希望し祈念するだろう。
吹田の考えは続く。組織の姿をとらない強い組織、その最初の一人、最初の一人……それも人目をひくような著名人ではだめだ。いろんな知人の顔を思い描くうちに、吹田は、まだ会ったことのない潟田六郎太という人物の顔を想像してみた。
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球は転々宇宙間
「潟田はただいま不在でございます」
電話に出た潟田夫人の声は、のどかな歌を明るくゆったりと歌うような調子で吹田の耳に伝わった。顔の笑みや白い歯がこぼれる様子まで、はっきり感じ取れる。
「そうですか。新聞社にお電話する前に、もしご自宅にいらっしゃればと思いましてね」
「は? いえ、新聞社にはおりません。あそこは辞めましたので」
「は? あ、そうでしたか……。で、今日はいつごろお帰りでしょうか」
「いえ、不在と申しあげましたのは、日本にいないということですの」
吹田は意表を衝かれた。そして内心苦笑した。考えてみれば、突然連絡したいと思った相手がたまたま日本を留守にしているからといって、格別驚くほどのことではない。(おれは、あせっているのかな?)と、吹田は思った。
潟田夫人の明るい声がまた伝わってくる。
「失礼ですが、吹田様のようなお偉い方が、潟田にどういうご用事で?」
「いやいや、別に偉くなんかありませんよ。ちょっと個人的にお頼みしたいことがありましてね。それじゃ奥さん、これからお宅までちょっとお伺いしていいですか」
「ええ、私は一向かまいませんが、女でお役に立つことでしょうか」
「とにかくそれじゃ、お邪魔します」
東京の池袋から西武線に乗って三つめの江古田で降り、いわれたとおりの道を七分ほど歩くと、芝も雑草も育ち放題といった感じの小さな前庭のある潟田の家が見つかった。かなり年を経たと思われる小さな木造の平屋だが、ペンキ塗りなどの手入れは行き届いている。
電話口で想像したとおり、潟田夫人は、終始ほがらかな表情を保った、声のきれいな人だった。三十五、六になろうか、と吹田は思った。眼が黒ぐろと澄んで大きい。夫人はあらためて、
「お偉い方が、わざわざこんな所に」
と言った。別にかしこまってはいない。何となく軽くひやかしているような気配にも感じ取れるのだ。吹田は照れくさそうに答えた。
「なんの、ただのじじいですよ」
「それで、潟田は以前から吹田様と?」
「いえ、お会いしたことはないんです。ただ私のほうは、雑誌で潟田さんの文章を読ませていただいています」
「はあ、あの何か長ったらしい題のついた」
「ええ、ええ。それで、日本にはいつごろお帰りですか」
「それが私にもわかりませんの。五、六年先なのか、十年なのか」
「どちらへ?」
「それもわかりませんの」
話す顔には何の不安な影もない。相変わらず歌うような調子である。(おれはひやかされているのではないか)と吹田は思った。
夫人は自分の名前を|都《みやこ》と名乗り、潟田が日本をあとにした経緯を、吹田に淡々と話した。吹田は(まあ、夫婦喧嘩でもなさそうだし、特に複雑な事情もないようだ)と思いながら、(それにしても、亭主が今地球上のどこにいて、いつ帰ってくるかもわからないというのに、この平気さはどうだ。やっぱり少しおかしいんじゃないか)という気がした。
「それで、奥さんやお子さんは平気なんですか」
「ええ、心配するだけ損ですもの」
都は吹田の抱いた印象よりは年上で、四十一歳だという。潟田とは学生同士で結婚し、こどもも早く生まれて、一男一女が今は二人とも大学に行っている。生計は、都がある小さな会社と自宅で英文タイプを打ち、大学生は二人とも自分の学費は自分で稼ぎ出すので、何とかバランスがとれているという。父親から出奔の予告を受けた娘は、動じることなく、「ぜったい日記だけはつけて、日本に帰ってきたら“ブランク”という作品を発表してもうけてね」と言ったそうだ。
「幸せな人が、いればいるもんですなあ」
「ほんとに、気楽な亭主でございます」
「いや、奥さんもですよ」
二人は声を挙げて笑った。
「で、潟田へのお話とおっしゃいますと?」
「ええ」
吹田は、都のことをなかなか感じのいい奥さんだと思ったが、ことは慎重に運ばなければならない。
「いろんな分野で活躍していらっしゃるプロ野球ファンの方から、率直な意見を伺おうと思いましてね。どうもコミッショナーという位置にいると、野球について話をする人間の範囲が限られてきます。だから、ネット裏にいたり、内野席の上のほうに行ったり、外野席に廻ったりしませんとね。そういうことが私も好きなので」
「私は野球のことは何もわかりませんの」
と、都は言った。
「でも、それだけのことで吹田様がわざわざおでかけになったとは思えませんわ」
都の澄んだ黒い瞳が吹田の眼を見つめた。
「今お話ししたことはうそではありません。しかし、もう少し突っ込んで言いますとね……」
吹田はまさか計画の内容までは話さなかったが、公式に認められる顧問のような存在でなく、吹田の家にでも集まって自由に意見をたたかわせることができるような、気のおけない小人数のグループを作りたいのだと言った。ところがこういうことがわかると、とかくうるさい人が多くて面倒なので、内々にしておきたい。
「それで、どうかこのことは、今のところ奥さんかぎりにしておいてください」
結局、吹田は潟田都を直感的に信じ、ある意味では「最初の一人」にしてしまったのだった。最初の一人は女性となった。吹田老も女には甘いと見える。
都は、吹田の信頼に応えるように言った。
「わかりました。私では何のお役にも立ちませんけれど、あの、プロ野球関係の方ではいけませんか」
「え? だれです」
「広島カープのコーチをしていらっしゃる志村さんです」
「ほう、どうしてご存知ですか」
「潟田が日本を去るまで、そうですね、一年ぐらいでしょうか、親しくおつきあいしてました。家にも二、三回見えましたから私も存じ上げています。それに、潟田が出て行くとき、おまえたちのほかは志村さんにだけ話してあるって言ってましたから、男同士のウマが合っていた感じです。志村さんも、潟田の書いたものには共鳴なさってたようです」
(ここに来てよかった。都さんに話した甲斐があった)と吹田は思った。
吹田を玄関に送る途中、都はふと思い出し笑いをし、それが止まらなくなって口を押さえた。吹田は振り返って都を見た。
「どうかなさいましたか」
「ごめんなさい、ほんとに。あの、ラジオの野球中継でアナウンサーが“球は転々右中間”って言いますでしょ」
「ええ」
「私は今もって野球はわからないんですけど、こどものときから兄の聴くラジオが耳に入ってました。それで私、ついこないだまで、右中間というのは、あの広い宇宙、スペース・シャトルの飛んで行く宇宙間のことかと思ってましたの」
「いやあ、これは豪快だ」
「野球って、ずいふん大げさな表現をするんだなあって思ってました」
「いや、愉快、愉快」
二人は思い切り声を挙げて笑った。
「そいつは意外だったなあ。吹田さんがおれの家に見えたとはねえ」
「はじめにきみが、吹田晨平さんの名前をやっと思い出した様子だったから、ははあ、知らぬは亭主ばかりなりと思って、おかしくて仕方なかったよ」
「女房のやつ、タイプの仕事が混んでて手が離せなかったこともあるが、おれが帰ってからそんな話一つもしない。全部志村さんに話してもらいなさいよとか言って」
「じゃあ、今度奥さんに会ったら代講料を請求しよう。とにかくさ、きみの奥さんが美人でかつ感じがよかったということが、プロ野球改革の発端になったといえるね。吹田さんが、もし都さんにああいう話をしなかったら、その後の人脈はできていないか、あるいはまったく別の人脈になっただろうからね」
「美人はともかく、女房のやつ、勘はいいほうだからね」
潟田は嬉しさを隠すように小鼻をうごめかした。
「潟田、つまり何だよ、きみが書くだけ書いて気楽にどっかに行っちまったあと、奥さんがきみの代わりに、ちゃんと吹田さんの役に立ったというわけだ」
「それはちと過大評価じゃないか。まあいいから、話の続きを頼むよ。いよいよ志村千三の登場だな」
「ハハハ、登場するにはしたがね、そんなに派手なもんじゃない。ともかく、都さんからおれのことを聞いた吹田さんは、おれに目立たずに会えるときを待っていた。そのチャンスはね、一九八〇年度日本シリーズで吹田さんが広島に見えたときにやってきた。しかし、あの恒例のビールのぶっかけ合いの翌日に、吹田さんが家に電話をかけてこられたときは驚いたなあ、まったく」
志村は、そのときの感触を正確に思い出そうとするように、右手に持ったウイスキー・グラスをしばらく見つめていた。
レフトの栗橋がフェンスに跳びついて金網によじ登る。しかし、白球は彼の頭上はるかを越えてスタンドヘ。その上には、たそがれの光を残した広島の秋空があった。ヒットで一塁にいた水谷を露払いのようにして、ホームランを打った衣笠が大またでベースを廻る。広島市民球場全体、三六〇度がものすごい歓声に包まれ、スタジアムという巨大な鍋がたぎり立っている。
一九八〇年十一月二日、三勝三敗のあとの広島対近鉄の日本シリーズ最終戦は、いよいよ大詰めに近く七回裏に進んでいる。このゲーム、前半は広島が二対○とリードしたが、六回表に近鉄が三対二と逆転。しかしその裏、すかさず広島が四対三と再逆転。もしかするとこのまま九回裏までもつれ込み、去年の最終戦の最終回の、息づまるような攻防の再現になるかと思われた。しかし今、七回の裏、それまでこのシリーズではまったく当たっていなくて、「やっぱり風だけ起こす扇風機だ」といわれていた衣笠が、ツーラン・ホームランを放ったのだ。これで三点差。しかも近鉄は、先発井本のあとにつぎ込んだエース鈴本が不調で、すでにベンチに退き、投手は三人目の柳田である。一方の広島は、七回から山根をリリーフしている江夏が大きく崩れることはあるまい。
(おれがペナントを渡して握手するのは、どうやら古葉君に決まったようだな)と、吹田晨平は思った。ここまでくると吹田の頭の中は、今この広島球場に足を運んでいる裏の目的のことで占められて行った。吹田の眼は、ベンチで古葉監督の横に添うように立っている、中肉中背の志村千三に注がれ始めた。
関係者の注意をひかないように志村に会うには、日本シリーズで広島に行くとき以外にないと、吹田は前から考えていた。しかし、シリーズの決着がつくまでは、志村に連絡をとることは差し控えたい。大事な日本シリーズの真っ最中に、ヘッドコーチの志村に余計なことを考えさせてはなるまい。吹田はシリーズが始まる前から、このシリーズはできれば広島で決着がついてほしいと思っていた。そうなれば吹田は、広島に来たついでに一、二日休養して帰ると事務局に言っておけばいい。そしてどうやら、吹田の望みどおりにことは運ばれてきた。
(この様子では多分カープが優勝する。そうなれば、今夜はとても二人だけで会うのは無理だ。一夜明ければどうだろうか。監督やナインは朝から引っぱりだこだろうが、地味なコーチ役はそれほどでもないのではなかろうか。しかし、ともかく久しぶりに自宅で心身ともにゆっくりしたいだろうから、昼下がりまで待って志村の家に電話を入れるとしよう)、吹田はそこまで考えて、ふたたび試合に注目した。
江夏は予想どおり好投し、しかも広島は八回の裏に、近鉄四人目の投手村田から、木下、デュプリーの左右に見舞う二塁打などで二点を追加して八対三と近鉄を引き放し、連続優勝をほぼ掌中にした。九回表の近鉄の攻撃、ショートのエラーで出た石渡を一塁に置いて一死後、代打石山の打球はサードゴロ。球は木下―山崎―衣笠と送られてダブルプレー。その瞬間、カープのベンチから全員が飛び出し、守備位置にいたナインも走り寄って古葉監督の胴上げが始まった。
本部席の吹田の周囲も立ち上がって忙しげに動き始めた。吹田も、すぐあとに始まる表彰式に備えて腰を上げた。そして、胴上げをしている連中の中から志村を見分けようとしたが、幾重にも重なって激しく動くユニフォームの渦にまぎれて、彼の姿を認めることはできなかった。
(さっき、おやじのところにお客さんが来たようだな。一人の気配だった。しかし今日はカープの人ではない。おやじと応接室に引きこもったまま、話し声も聞こえてこないし物音一つしない。選手のひとのときは、ぼくの部屋まで話し声や笑い声が洩れてきたり、たいてい一度はだれかがぼくの部屋をノックして「おい! センゴ、いるか」などと声をかける。いったい今日はだれだろう。優勝の翌日というのに静かすぎる……)、応接室の静かさが、千五はときどき気になりながら、自分の部屋で本を読んでいる。家族で優勝を祝う夕食はとうに終わっていた。
やがて、千五の母が部屋に顔を出した。
「千五、お父さんがちょっといらっしゃいって」
「お客さん、だれ?」
「行けばわかるわよ。千五の知らない偉い方。千五のおじいさんぐらいの年の方」
「何だ、じじいか」
笑いながらにらんで軽くたしなめる母の顔は、どことなく緊張しているように千五には思えた。
応接室のドアをノックして静かに開けると、白髪の老人が千五のほうを向いてにっこり笑った。(おや?)と千五は思った。つい最近どこかで見たようだが、とっさに思い出せない。何だか、親しい友だちの名前を急に忘れてしまったような感じだ。
「千五、この方がどなたかわかるか」
「――?」
「ついきのう、おまえは遠くから見ていたはずなんだ」
「ハハハ、こんなじいさんのこと、いちいち覚えてないよねえ、千五君」
「あ、わかりました。あのう、表彰式で」
「そう、吹田晨平さんとおっしゃってね、日本のプロ野球の」
「コミッショナーでしょ。一番偉い人」
「いや、一番何もしない人だよ、ハハハ。ところで、千五君は何年生?」
「中学一年です」
「そうか。まあ、お父さんとの話はあらかたすんだから、さあ、ここに来て掛けなさい」
テーブルには、ウイスキーのセット一式に、ハム、ソーセージ、野菜などの皿があり、二人の大人の顔はほんのりと赤く、特に頬と額が電気の光につやつやと映えている。(二人の表情では、そんなに深刻な話でもなかったようだな)と千五は思った。
「カープの連続優勝おめでとう。千五君はカープの選手でだれが一番好きかね」
「三村さんです」
「ほう、中学一年生にしてはしぶい好みだねえ。あ、そうか、お父さんもセカンドだったから?」
「さあ、関係ないと思います。何となく好きです。頭が良さそうだし、度胸があるし」
「二塁手というのはみんな頭がいいんだよ。きみのお父さんのようにね」
「でも、三村さんのほうが父より上だと思います」
「ハハハ、これはきびしいね」
志村は、吹田と息子のそういうやりとりを、しばらくほほ笑んで眺めていたが、やがてちょっと真顔になって言った。
「千五、ひとつだけ約束してほしいことがある。いいか、大切なことだ。吹田さんは大切な用事で家においでになったが、おいでになったことはね、お父さんがいいと言うまで、絶対にだれにも言わないでほしい。それがどんなに大切なことかは、いずれお父さんが話してあげるし、おまえもきっと自分でわかるときがくる。いいか、知ってるのは、お父さんとお母さんと千五だけだ」
千五は黙って父親の顔を見つめている。しばらくして吹田が言った。
「千五君、人間はあんまり秘密を持ちたくないよね。だけど、きみのお父さんや私がいいと信じてることを成功させるための秘密だったら、一つぐらいは許してくれるかな?」
千五は今度は吹田の眼をじっと見つめていた。やがて黙ってうなずくと、ひとこと、
「はい」
と言った。
志村は、その日の昼過ぎに吹田から電話を受けたとき、街で会うのはどこであれまずいと思った。吹田の希望は、個人として、しかし人に知られぬように二人で話したい、用向きは潟田六郎太のことと、ぜひ志村の意見を聞きたいことがあるというものだった。そのさりげない話し方の中に、何か大事なことが秘められているようだと、志村は感じた。今日は広島の街中がごった返している。東京や大阪から来た記者たちもだいぶ残っていよう。それなら家に来てもらうのが一番だと志村は思った。志村は吹田に「私では目立ちますから、家内が、夜になってから車を運転してホテルにお迎えに上がります」と伝えた。そして妻の暁子に、なるべく目立たぬようにと言い含め、夕食後迎えにやらせたのである。
「そうですか。それじゃ吹田さんは、潟田とはお会いになったことはないんですか。あいつも、偶然とはいえ肝心なときに気楽に姿をくらましたもんですね」
「いや、これはめぐり合わせです。それに、自然に人それぞれの役割ができているように思います。特に、今私がお話ししたような構想が準備段階を迎えるときには、志村さんのような人の蔭の力が必要です」
吹田のことばに志村はうなずきながら、このシーズンオフの前半、正月明けまでにやってみたいことを申し出た。この時期はプロ野球人にとって一番自由なときであり、お互いの私的な訪問もできやすく、相手もくつろいだ気分になっている。そこで志村は、各球団の現場の幹部で気心の知れた人との自然な行き来の中で、将来のプロ野球像についての夢や考え方をさりげなく引き出してみたい。東京や大阪では、骨休めの旅行の途中で声をかけてみたということにする。志村の野球知識や専門以外の分野の読書好き、それに話し好きは幸いにして球界でも有名だし、今までもわりあい多くの野球人とわけへだてなくつきあってきたから、志村が何か特別なことを始めたことにはなるまい。
「いや、志村さんは今はなるべく動かないでください。私が準備段階と言ったのはね、もっとずっとあとのことです。ある程度ことがおおやけになってからの具体的な準備作業の段階です。そういうときに、現場の内部でしっかりした見識を持って大勢の選手たちを導き励ます、そういう役割です」
「ですから、そういう人物を一人でも多く見つけておきたいんです」
「志村さんがシーズンオフの一時期にしか動けないことはわかっています。しかしそのためにあせらないように。当分は持久戦です。私の考えでは、シーズンオフを何回か経なければ最終段階にはならないと思います。だからそれまでは、われわれプロ野球関係以外で、目立たぬ人に地道に動いてもらう必要がある。そういう人をこれから慎重に探します」
「わかりました。気をつけましょう。しかし私が充分に信頼できる二人の人物とはかなり大胆に将来のイメージを語り合ってみたいと思います」
「だれですか」
「うちの古葉監督と、タイガースの中西監督です」
中西太、かつて福岡をフランチャイズとして東京の巨人に拮抗し、三原監督に率いられて日本シリーズで巨人を連破した西鉄ライオンズの黄金時代の、そのライオンの中のライオンであった。そして三原が去ったあと、プレーイング・マネジャーとしてライオンズを率い、リーグ優勝も果たした。そのライオンズも、企業資本中心の経営による不安定さには勝てず、太平洋クラブ、クラウンライター、西武という資本に次つぎに移り、遂に福岡を離れて首都圏に移ってしまった。
中西の出身は四国の高松であり、彼の青春は四国と九州が舞台となった。その中西と志村はわりあい親しい。
吹田は、志村が中西の名を出したとき、例の潟田の一文を思い出した。「戦後の数少ない怪童の代表」、それと同時に、もう二十五年ほども前、吹田が一野球ファンだったころに平和台球場で見た、中西のプレーを思い出した。
吹田は三塁側内野席の前のほうで、西鉄ライオンズ対南海ホークスという、当時のパシフィック・リーグの黄金カードを見ていた。
吹田は今もって特にひいきにしているチームはない。そのチームが負けると気持のおさまる場所がなくて寝つきが悪いというほど熱を入れるようなチームはない。そして吹田はいろいろな球場に足を運ぶ度に、いつのまにか、どんなカードも三塁側に坐る習慣が身についてしまった。多分それは、本拠地チームヘの応援の体制や、集団的な怒号歓声の中にまき込まれたくない気持のせいだと、自分では思っている。どうも昔から野党の精神が住みついていたようである。
しかし、当時の平和台球場は、今の広島市民球場のように、一塁側であれ三塁側であれ、右であれ左であれことごとくが、地元の西鉄ライオンズのファンで充満していた。そういう中で、吹田は西鉄・南海の試合を見た。
ゲームは、西鉄・西村、南海・宅和という好投手同士の投げ合いとなり、両チームなかなか点が入らず、南海が辛うじて中盤に、二塁手岡本伊三美のホームランで挙げた一点を守り抜き、一対○で西鉄に勝った。吹田は中西の豪打を見ることができなかった。それどころか中西は、ある回の打席で、宅和からものの見事に三球三振を喰らったのだ。三球目は見送りである。吹田は、中西に対して三球目もずばりとストライクを通したバッテリーの読みと度胸に感心した。中西は三球目がホームベースを通過したとき、口をカッと開いて天を仰いだ。吹田にはそのジェスチュアが、くやしさと、相手に対する尊敬の混じったもののように思えた。そして一瞬すがすがしさを感じた。
さらに、吹田が中西をすごいと思ったのはサードの守備だった。ゴロを捕球すると、そのままの低い位置から一塁に球を放つ。その瞬間、中西の口から「うっ!」という声が洩れ、球もうなりを生ずるのが、すぐうしろのスタンドにいる吹田の耳にはっきり聞こえた。中西の手を離れた白球は、地上一メートルぐらいの低さで一直線に飛んで行く。吹田が(ワンバウンドかな?)と思ったとき、球はぐんと伸びて一塁手の胸をめざす。ピッチャーでいえば、打者の手元でホップする直球のストライクである。吹田は満足した。中西のホームランには出会えなかったが、バッターボックスで天を仰いだ姿と、一塁への胸のすくような投球を見た。これが吹田にとってはじめての中西の実像となった。
志村はその中西と親しいという。(うむ、これはいい組み合わせだ)と吹田は思った。
吹田と志村の打ち合わせがあらかたすんだと思われたとき、志村の脳裏にふと一人の人物の顔が浮かび上がった。
「そうだ、吹田さん、目立たずに動ける人といえば、潟田のかつての同僚で北川史朗という男が、日新タイムズにまだいるはずです。やはり学芸部で担当の分野もよく似ていたと思いますが、潟田とはちがって国内一本で、学芸部にしては地方廻りの仕事が多いと聞きました。私は潟田から飲屋で紹介されて、三人で二、三回飲んだだけですが、私の感じでは、潟田が社では一番気心を許し、考え方も合っていた人のようです。一度お会いになってはどうでしょう。いや、まず私が会ってみましょう。潟田の消息を聞くということで。そしてOKだったら吹田さんに紹介しましょう。そうすれば、吹田さんも直接動かれる必要はない。天下の日新タイムズ学芸部記者で地方にもよく行くとすると、各地に有力な知人も多いでしょう。いろんな地方の動向調査はお手のものでしょうしね」
「それはいい人のことを思い出してくださった。ありがたい」
吹田は、これでともかく「三人」になりそうだと思った。しかし、コミッショナー、一球団のコーチ、新聞社の一記者の三人で、いったい何ができるというんだろう。作戦の全貌は、吹田の頭の中でもまだ明らかでないようだ。
「吹田さんじゃないが、きみもいい人のことがひらめいたもんだなあ。頭がいい。感心した」
「ひやかすなよ。それぐらいはすぐに頭が働かなければ、監督やコーチは務まらんよ。こう見えても、どこにどんなやつがいるかを見る眼は、セカンドのころから鍛えられてるんだ」
「なるほど。それにしても北川史朗を引っぱり出したきみの慧眼にはあらためて恐れ入るよ。だって、きみがあいつに会ったのは、例の飲屋で二、三回だったろ」
「うん」
「それにいつもおれがいたから、きみと北川はいくらも口を利いてないはずだ」
「うん」
「もっとも、あいつは普段から無口だったけどね。その代わり文章と企画力にかけては、記者仲間でも出色だったし、ここというときに口を開くと、|訥々《とつとつ》としているだけに妙に存在感があったな」
「うん、あとでいっしょに仕事を進めてみると、きみのいうとおりの人だった」
「あいつは、日頃は空気みたいに目立たない存在だった」
「そうだ。北川さんはまさに空気だったよ。どこにいるのか見えないし、風にならなければ動かない。でも、いてくれなければ困る。そしていつのまにか風になって動いてる。そよ風にもなれば|疾風《はやて》にもなる。でも、やっぱり見えない。そうだ、北川さんという空気を風に変えたのが吹田さんだ。そして北川さんは、はじめは風ともつかぬような、静かに動く空気になって、いつのまにか全国を廻り、そして最後に疾風を起こして全国を席巻したんだよ」
「空気に風か」
と、潟田はつぶやいた。それから二人は、自分のまわりの空気をあらためて意識してみようというような顔つきであたりを見廻したあと、しばらく黙り込んだままでいた。
志村が東京に北川を訪ねたのは、師走に入って間もなくのことだった。吹田の来訪を受けてからほぼひと月後である。志村の気持としてはもっと早く上京したかったが、日本シリーズ優勝チームの一員ともなれば、地味なコーチ役でもいろんな祝賀会や行事に出なければならず、秋季練習もある。吹田からも、くれぐれも無理をするなといわれていた。「私の頼んだことのために、ヘッドコーチの不在が目立つようなことはしないでください。志村さんのためだし、それにこの構想を実現させるためでもあります。相手の力は計り知れないほど大きいと思わなければなりません。それに比べれば、われわれは一人ひとりの個人です。早目に覚られたらひとひねりです」。しかも、その巨大な力を持つ相手は、吹田にとっても志村にとってもまだ確定していないのだ。既成球団やオーナーを中心とする力、さらにその奥のもっと巨大な、志村などには想像もつかぬ政界、財界の力。そのあたりの世界になると、志村のイメージでは、自分の視力の遠く及ばないどこかに、薄暗い人工の大洞窟があって、その奥で得体の知れない|魑魅魍魎《ちみもうりよう》がうごめいているという感じになってしまう。さらに、相手はそちらの方角だけとはかぎらない。大洞窟ではなく明るい地表に住む一般の市民、野球ファン、そして何よりも野球そのものをやっている現在の大勢のプロ野球選手たち……そういう人たちのだれが味方になり、だれが敵になるのか。
「わかりました。やらせてください。そういう個人の一人になりましょう」
北川は気負った調子もなく、さらりと言った。
「吹田さんにはぼく一人で会いましょう。志村さんといっしょでは目立ちますから。今から相手のマークを意識しておいたほうがいい」
北川によれば、だれであれ二人で会うのは自然だし、相手の眼をくらますことができるが、三人となるとことの性質が変わるという。三人以上は、見る人によっては組織となる。それに、吹田と志村の顔合わせは気をつけなければならない。
「わかりました」
志村はこれで、吹田から受けた球を北川に送ることができたと思った。1・4・3のダブルプレーの感じである。まず吹田投手が志村二塁手に送球し、そこから北川一塁手へ、この連繋プレーは呼吸が合ってリズミカルに行った。
志村がその感じを北川に話すと、北川は、
「じゃあ、ぼくはボールをまっすぐ吹田投手に返さずに、内野手同士で楽しくグルグル廻すわけですね。いや、プロはそんなことしませんかね。ぼくがボールを手で少しこねてから吹田さんに返すのか」
「それはお好きなように」
二人は小声で笑った。
「しかしね」
と、北川は言う。
「今度のことでいえば、志村さんはキャッチャーですよ。吹田投手はまだ相手にボールを打たせてないんですから。吹田さんは志村捕手に眼にもとまらぬ快速球、というときこえはいいが、バッターの背中を通過する快速球を投げた。ところが志村捕手はどういうわけかその球を、外野にいるぼくに投げてよこしたんです。ま、外野は当分私がカバーしてみますよ。私は外野を走り廻るのが好きでね。新聞社でも機会をみつけては地方に出ています。それに実際の野球見物でも外野席から眺めるのが好きなんですよ」
(吹田さんと同じようなことを言う)、と志村は思った。
「ぼくは志村さんのプレーを何回か見てますよ」
「おやおや」
「守備もバッティングもなかなか味がありましたね。どっちかというと、おとぼけのタイプですね」
北川は無口だと聞いていたが、はじめて二人だけで会ってみるとそうでもない。それとも野球の話になるとよくしゃべるのだろうか。北川が言うには、サードやショートよりも、セカンドのほうがいろんなタイプの選手がいる。その中で北川が好きなのは、鋭敏さを内側に秘めて外見をまるく収めてしまっているという感じの選手である。北川の眼にそういうタイプと映った名手は、千葉茂(巨人)、本堂安次(阪神)、古葉竹識(広島・南海)、高木守道(中日)、近藤昭仁(大洋)、土井正三(巨人)、「それに志村さんです」と北川は言った。
「今では大洋の|基《もとい》なんかもおもしろい。阪神の岡田も、志村さんたちのおとぼけタイプに進むような気がしますね」
「なるほど、おもしろい。自分では気がつきませんなあ。そういえば私にも、大リーグのジャッキー・ロビンソンとビリー・マーチンは、同じ二塁手でも明らかにちがうタイプだとわかりますね」
ジャッキー・ロビンソン、一九四七年に黒人として初めて大リーグのレギュラー・ポジションを獲得し、ドジャースの二塁手となる。黙々とファインプレーをし、黙々と痛打を放ち、黙々と俊足を馳せ、二年後にはドジャース優勝の中心選手としてMVPに輝く。
ビリー・マーチン、一九五〇年代のヤンキースの名二塁手、というより名物二塁手。ガッツを表に出し、喧嘩っ早いのでも勇名をはせる。守備のピボットマンであるだけでなく、グラウンド上の乱闘でもピボットあるいは先兵として常に先頭に立つ。ヤンキースの監督になってからもその態度は変わらなかったようだ。
「マーチンのようにやれれば、さぞ気持いいでしょうが、われわれの仕事は、北川さんのいうおとぼけスタイルで行きましょう」
「志村さん、ぼくは生来とぼけてますから大丈夫ですよ」
と北川は答えた。
――ふむ、相変わらずじゃのう、あのじいさんは。しかし、どこまで本気かな。
――はあ。まあ会議が終わったあとの雑談の形で、何でもアメリカのプロ野球の話からそうなったといいますが。
――あの坊っちゃん、大使や環境庁のときから、相手を見ずに平気でそういう話をするところがある。それでたいていしくじってる。で、その後の動きはどうなんだ。
――あれから約二カ月ですが、別に気になる動きはありません。ただ、農協の寺岡会長と一度会ったようです。
――うむ、その線は一応気をつけておくことだな。あの二人は昔からウマが合ってるから、会って飯をくうぐらいはあたりまえだが、話の中味は地方分権思想に決まってる。ところで吹田のじいさんはいくつになる?
――たしか七十八です。先生より四つ上。
――丈夫なんだよなあ。環境庁のときもせっせと動きおって。そうだ、あの人に地方を廻らせないことだ。わしたちの目の届かないところで何を言うかわからん。くやしいが、地方では結構人望も|篤《あつ》いしのう。とにかく東京に釘付けにしておくことだ。
――はい。もともとコミッショナーという仕事は、それほど地方に行ってもらうことはありません。
――政治力があるわけでなし、本気で何かたくらんだとしても、たかは知れとるじゃろう。それにしても、本人の申し出以外には任期中解任されないというのは、まったくうらやましい世界よのう。わしたちにもそういう協約がほしいよ。
――気になる種は早目に摘んでおきたいんですけどねえ。先生はコミッショナーの発言の真意をどうお考えになりますか。
――あのじいさん、文化人だから、ああいうことを言ってみたかったんだろうよ。彼の身辺には眼を配りながら無関心でいることだね。ほら、よく親がこどもに小理屈を吹っかけられて「お母さんは今忙しいの」っていうでしょ。あれだよ、あれ。
――とにかく、両リーグ会長を通して、外部への発言は慎重にと申し入れてはありますが。
――このうえ、コミッショナーとして何か本気で動く兆しがあれは、そのときはバッサリやってやるよ。なに、野球協約なんて、わしらには何でもない。とにかく、もうしばらく、あの先行長くないお坊っちゃんのお守りをすることだね。おっと、こっちも先行短いがね、ハハハハ。
さて、ここで少し注釈が加わる。日本では当時、個人の資産でプロ野球の球団を所有しているオーナーはいない。彼らはみな、親会社の社長という地位によってオーナーと呼ばれていた。前にアメリカと日本のコミッショナーのちがいに触れ、アメリカのコミッショナーが個人的色彩の強い大統領であるとすれば、日本のそれは組織の上に冠のように乗った人格的象徴だと考えた。実はこのことはオーナーの比較についてもいえる。わかりやすくいえば、九割が個人責任である仕事と、九割が組織代表である仕事のちがいであるといえよう。
さらにプロ野球のコミッショナーやオーナーにとどまらず、広い世の中のいろいろな役割についても、この比較を適用できそうだ。本物の大統領と内閣総理大臣、企業経営者、大学教授、団体の理事長、労働組合委員長、PTA会長……と、いくらでも出てきそうだが、ここはオーナーの話にとどめておこう。
さて、当時の日本のプロ野球チームは、今日のように地元複数企業や個人の出資および寄付によって、市民代表を中心とする協議会が運営するクラブに所属しているのとはちがい、たいていは一つの特定の親会社によって財政面がまかなわれていた。その十二球団の親会社の商売は次のような内訳だった。
セ・リーグ パ・リーグ
私鉄および関連業一     四
食品メーカー  二     二
新聞社     二     〇
自動車メーカー 一     〇
合計すると、私鉄五、食品四、新聞二、自動車一となる。おもしろいことに、私鉄五のうち四までは近畿地方で、反対に食品四はすべて首都圏という分布であった。
さて、注釈の次は考察である。というと聞こえがいいが、実は考察とはほど遠い、筆者の幼稚な想像なのである。
これらの球団経営は、僅かな例外を除いては赤字といわれていた。それなら親会社は、適当な買手が現われれば渡りに舟と球団を手放しそうなものではないか。かりに買手がつかなくても、吹田コミッショナーがプロ野球の全国的再編成などを打ち出せば、ホイホイとばかりに吹田に責任を押しつけて引っ込みそうなものだ。それが資本の論理であり倫理というものではなかろうか。吹田や志村たちがあれほど慎重にならずとも、十二人のオーナーに集まってもらって「実は……」とやれば、オーナー諸氏は吹田を救世主のようにあがめ、志村や北川ともども赤坂の料亭あたりに招かれるのではないか。なぜなら、吹田たちは中央大企業の球団赤字経営を見るに見かねて、赤字の地方分権、ではない地方分散を図ってあげようというのだから。その工作費もオーナーたちから出ようというものである。
ところが、どっこいそうは行かない事情は小学生にもわかるそうだ。小学生にもわかるようなことを、なぜこの知識人を対象とする高級な本に書こうとするのか。その理由はあまり大きな声では言いたくないが、小学生にもわかる資本主義的因果構造が、実はこの知識人向けの本を書いている筆者自身にわかっていないからなのだ。そこでそれを想像によって補っておかなければ、次章からの波瀾万丈、疾風怒濤、血沸き肉躍る物語に納得して進めないからである。したがって以下に続くのは、注釈や解説ではなく、想像である。以下の文体がいかに解説風であろうとも、これは筆者の想像の所産である。だから以下は、実在した球団や親会社とは何の関係もないとまではいえないが、全部が事実であったとも言えないのである。
さて、何の因果か資本主義、赤字の球団を抱えていることこそが、実は親会社の繁栄と黒字につながるという因果構造がある。ある大学生は私に言った。「難しく考えることありませんよ。赤字と考えるからいけないんです。黒字を生むための経費ですよ。広告宣伝、パブリシティ、そのための絶好の媒体じゃありませんか。何で手放すわけがありましょう。|先生《ヽヽ》、よくそれでものが書けますねえ。しっかりしてくださいよ」。もっともな指摘なのだが、そう簡単にことばで片付けてしまわずに、その中味をもう少し想像してみようと思う。
たとえば新聞。春の選抜高校野球の季節になると、それを主催するM紙の部数が伸び、夏の高校野球になると、それを主催するA紙が伸びる。したがって、春や夏だけでなく一年中が野球の季節であるプロ野球(冬も、シーズンオフという名の野球の季節なのである)のチームを持つY紙とC紙の部数は、一年中伸びっ放し、とまではいかないが、とにかくムラはないのである。
スポーツ専門紙ではない一般紙でも、スポーツ、なかんずく野球の記事のシェアはきわめて高いほうの部類に入る。たとえば普通の日の朝刊、平均二十四ページで調べてみる。段数にすると一ページ十五段だから、全部で三百六十段。このうち広告の延面積が、大ざっぱに見て全体の四割から多い日には五割強、中間をとって百六十段ほどを占めるから、正味の記事を二百段としよう。スポーツ面は普通で見開き二ページ、この面にはあまりベタッと大きな広告はこない。両面で広告が六段として記事は二十四段である。そしてその中で一番大きい記事は野球だ。高校野球の季節になると全国版で一ページが加わり、さらに地元チームが出場しようものなら、地方版二ページのうち半分以上は野球記事になる。
これらの要素によって野球記事のピークを想定すると、二百段のうち何と五十段以上を占める。そしてこの傾向は、プロ野球チームを持たない新聞も、高校野球を主催しない新聞も、大体においてちがいはない。つまり、A紙といえどもプロ野球を無視できず、Y紙といえども高校野球を無視できない。これは、政治面や社会面の中心記事が各紙によって異なることが多いことを考えると、驚くべき安定ぶりである。かりに、ある日の巨人対阪神のゲームがひどい凡試合でお話にならなかったとしても、それを記事として採るに足らずとして完全に無視してしまう勇気は、どの新聞にもない。凡試合だったという紹介と、お決まりの数字だけは載せなければ、たちまち読者が減る。
そうなると、Y紙所有の球団の記事はあらゆる新聞に載るから何紙を読んでもよさそうなものだが、やはりY球団の熱心なファンはY紙を求めるのが人の情であろう。人によっては、政治、経済、文化面はA紙で、野球記事はY紙でという贅沢な読み方もある。当然、Y球団が勝てば勝つほど、Y紙の部数は伸びる。前に引用した、巨人に関する潟田六郎太の仮説を援用すれば、Yチームが強ければY紙が伸び、Yチームが強ければ保守政党が伸びる。ゆえにY紙は保守系新聞ということになる。このようにしてY紙は全国紙に発展し、このようにしてY球団は全国紙球団に発展した。そしてY紙は遂に、都会インテリ層に人気のあるA紙と、古くから農村や地方に地盤を持つM紙を追い抜き、発行部数日本一となった。日本一は新聞の世界では世界一ということだ。
Y球団(もちろん読売ジャイアンツのことだが、長すぎるのでこう書く。巨人のほうが短いし、この本でもときどきそう書いているが、あまりに重ねて巨人、巨人と書くと、何か一人の偉大な人物を指しているような錯覚に筆者自身がおちいるので、ここでは避ける。巨人軍と書けば球団の感じは出るが、軍という字が嫌いなので書かない。もう少し横道にそれるが、大体、十二球団の中で巨人だけがときどき軍をつけて呼ばれるのがふしぎだ。のみならず、会社名でなくニックネームを日本語で呼ばれるのも巨人だけだ。タイガースを猛虎とはあまり呼ばないし、ブレーブスを勇者とは呼ばない。阪神、阪急である。それなら読売と呼べばいい。このあたりにも十二球団中特別な地位にあることが示されている)のファンは、もともと全国でずば抜けて多く、日本列島を平均的に厚い層でおおっていた。そして、他の中央紙と同じようにY紙も、全国のキーステーションとなる同系のテレビ局を持っていたから、マス・メディア時代とともに活字、映像を駆使して、さらに多くの人びとをY球団にひきつけることができた。テレビの野球中継の大半はY球団の出るカードとなった。
世の中には、もちろんアンチYの野球ファンもたくさんいた。しかしアンチYとしての溜飲を下げるためには、そのYが負けるところをテレビで見るのが一番だから、Yチームのカードが野球番組を独占していても文句はつけにくい。そしてアンチYとしてYの番組を見続けているうちに、気がついてみたらアンチがとれてYファンになっていたという例も少なくないらしい。
かくして、ファンもアンチも共に見る高視聴率の番組にはスポンサーが目白押しとなる。これでY紙が、かりに球団が赤字だからといって何でホイホイと手放すものか。政治の異変にまでつながるのだ。そうなると保守系Y紙の総本山まで揺らぎ出す。「赤字でもいい。チームの人気さえ保たれればゼニはいくらでも出す」ということになろう。巨額の金を積んだ引き抜きの伝統はここにある。しかもY球団は赤字どころか、抜群の観客動員力とテレビ、ラジオの放送料などで、ゼニのほうも立派な黒字というから万々歳である。どんな魔の手が伸びようとも、オーナーは球団を死守せねばならぬ。
食品のほうはどうだろう。新聞社ほどの因果構造と波及効果はないかも知れないが、何といっても食品メーカーの最大のお客さんはこどもである。チョコレート、ガム、ハム、ソーセージ、魚肉等各種缶詰、乳酸飲料等々、今から未来に向けて成長するこどもたちに不可欠な食品(中には可欠なものもあるが)を提供し続ける会社だから、日本中のこどもに自社のブランド・イメージを植えつけて行きたい。そして生涯を通じて自社の製品を食べ続けてもらいたいという切なる願いを持っている。されば、男の子は例外なく野球好きだから、同じチョコレートでも同じハムでも、プロ野球チームを抱えられるほどの偉い会社の製品のほうに手を伸ばしてくれるだろう。そして現代の父母はこどもに従順である。
彼らは思う。(大変だなあ、あんな赤字球団を抱えて、こどもやわれわれにプロ野球を楽しませてくれている。ここは一つ優先的に買ってあげよう)。しかし中にはこう悩む人もいる。(プロ野球で名が売れている分だけ、広告宣伝費が節約できてコストが安くなっているのだろうか。それとも赤字球団を抱えている分だけコスト高になっているのだろうか)。しかしその悩みも長くは続かない。定期購読の新聞を決めるのに比べれば、スーパー・マーケットやお菓子屋さんでの買物は衝動買いに近い気軽なものだから、結局は、健気にも赤字球団を抱えている会社のほうに衝動を走らせる。かくして食品メーカーは、チーム名―こども―ブランド・イメージ―親―衝動という、新聞の「面」的構造に比べると「線」的因果構造で衝動を組織していたのである。これまた何でやすやすと赤字球団を手放すものか。
さて、私鉄はどうだろうか。五社のすべては、本業の私営鉄道のほかに、沿線を中心とする宅地造成売買、建築、ターミナルや各駅を中心とする百貨店、スーパー・マーケットなどを経営するか、あるいは傘下に収めている。スタジアムがその沿線にあるのはもちろんである。そしてこの種の企業グループは、その社会的使命を「コミュニティの建設」と謳っていた。コミュニティ、つまり共同体、共同自治体、もっと簡単にいえば部落でいいだろう。しかし「共同体の建設」とか「部落の建設」とはいわない。日本では、すべて母国語の標語よりも、少しはヨコ文字の入った標語のほうがわかりやすく、感じやすいのだそうである。そして一般の日本人は、「コミュニズム」とか「コミュニスト」とか「コンミューン」とか聞くと緊張するが、「コミュニケーション」とか「コミュニティ」と聞くと、どことなく上質の和やかさを感じ、市民の経済的知的中流意識に合うのだそうである。大学を出て青雲の志を抱いてS鉄道に入社した若者が、コミュニティの建設を「コンミューンの建設」と書いてしまい、左遷されかけた例がある。
さて、コミュニティにはシンボルが必要である。古来その役割は旗や|幟《のぼり》が果たした。禿鷹や|髑髏《どくろ》といった恐ろしいものもあれば、キリストの十字架やイスラムの新月もあり、自然美を尊ぶ日本では、菊、葵、|井桁《いげた》、菱などの半抽象紋様が多く、ついに最高の抽象紋様である日の丸に達した。
しかし私鉄五社は、コミュニティのシンボルを旗の抽象紋様には求めず、プロ野球という写実的動的紋様に求めたのであった。そしてこれも卓見というべきである。旗は一つ買って、せいぜい自宅の軒先に飾っておくぐらいだが、プロ野球は、ファンのほうがその会社の電車に乗って球場まで足を運ばねばならぬ。まさか、プロ野球の出前はない。かくして私鉄コンツェルンは、コンミューン(まちがった。これでは筆者も左遷だ)ではなくて、コミュニティのシンボル(意訳すれば共同幻想)に向けて大衆を動員することに成功したのである。赤字とはいえ、これまた何でおめおめとシンボル球団を手放すことがあろうか。
自動車メーカー、これは一社だから省略する。
以上が、資本主義的因果構造に関する筆者の考察と想像である。これでやっと志村の話に戻ることができるが、その前にほんの少し、右に関連した内幕の話をつけ加えておこう。
この時代、私鉄や食品メーカーや新聞社の、赤字球団を抱えた大黒字という、マーシャルもケインズも書いてない資本主義的因果現象に首をひねっていたいくつかの他企業で、プロ野球進出への秘策が練られていた。
国鉄。この企業はかつて国鉄共済会などの外郭団体の資力を集め「国鉄スワローズ」というチームを持っていた。金田正一という不世出の四百勝投手を生んだのはこのチームである。そういう前歴があるだけに、何とかして国鉄一家の共同幻想を復活させたいと思っていた。しかし、本社自体が気も遠くなるような|厖大《ぼうだい》な赤字を抱えていたのでそれどころではなく、何十本もの赤字ローカル線をつぶしにかかっていた。そこへこういう案が出た。「スワローズを復活させるべし。赤字の間は国鉄レッズでもいい。フランチャイズは置かない。つまり一シーズン百三十試合をすべて、赤字ローカル線の沿線でやる。これで各地のローカル線を一つずつ黒字に転化させるのだ」
KDD。これは汚職の汚名挽回のために清新なイメージを導入したがっていた。全世界で健闘している多くの企業の海外駐在社員のために、KDDチームの健闘ぶりを電話回線を利用して国際中継する。
専売公社。タバコの民営移行などの論議もあったころで、広告宣伝にも頭を使っていた。そこで、スタジアムの放送を変えたい。「スモーカーズのファンのみなさま。スモーカーズのラッキーセブンです。どうぞマイルドセブンを一服してください。なお、新しいタバコのラッキーセブンは明日発売開始です」
某保険会社。デッドボールやスライディング骨折のとき、すかさずバックスクリーンに傷害保険の電光広告を点滅させる。
某銀行。「野球はディジタル、銀行もディジタル。三割バッターが打席に入ったら、バックスクリーンに“高利率の定期預金”ってのはどうです。チーム名はもちろんバンカーズ」「うちが三割も利息を払えるわけがないだろう」
農協。これは理事会で寺岡会長が一蹴した。「おれも野球は嫌いじゃない。しかし機未だ熟さず。おれはおれの構想を持っている。それも、もっとスケールの大きい構想をな」(この発言は、あとになってから、吹田とぐるで動いているのではないかとマークされる一因となった)
はては、某私立大学まで名乗りを挙げようとした。チーム名は○○バチェラーズ。幼稚園からウチに入れておけば、そのまま持ち上がりで一流のプロ野球スターになれるというのである。
その他、コンピューター、時計、航空、薬品等々の一流企業が、この資本主義的因果現象を体験してみようとした。そして少なからぬ企業が政治工作もしたらしい。しかし結局は、十二球団、十二親会社の権益が護られた。このとき某政治家は、かなりあくどく漁夫の利を得たという噂だ。つまり、新手の陳情企業に対しては「及ばずながらお力になりましょう」と言い、既成球団や親会社に対しては「わしの眼の黒いうちは安心していなさい」と言って、双方から巨額の政治献金を巻き上げたのである。
この時代よりずっと前、二リーグ分裂の前夜には、NHKや、朝日新聞、東宝といった優等生の企業がプロ野球界への進出を検討していた。結局、朝日新聞ではなく毎日新聞がパシフィック・リーグの新しい旗手となってオリオンズというチームを作り、映画界からは東宝ではなく大映がプロ野球に手を出し、NHKも遂に表に出なかった。もしNHKがプロ野球チームを持っていたらどういうことになっていただろう。日曜の夜八時のテレビは、大河ドラマではなく大河野球中継になっていたにちがいない。なにしろNHKは、ゲームの球趣がまさに佳境に入ったところでスポンサーの時間帯が終わり、世の男どもを中途半端な生理状態のまま放り出すような非情なまねをしない稀有の放送局であり、そして一九八二年までの日本のプロ野球の試合運びは、まさに大河的に長かったのだから。
さて、今度こそほんとうに志村の話に戻ろう。
一九八〇年、戦後三十六年の師走も半ばを過ぎたある日、吹田晨平コミッショナーが事務局に姿を現わすと、事務局長の浦山が、
「ちょっとお話があります」
と言って、吹田の部屋にいっしょに入った。
「コミッショナー」
「二人のときは吹田と呼んでくださいよ」
「吹田さん、比較社会学という学問がありますか」
意外な話題である。
「さあ、あり得るでしょうな。近頃は何だって作れば通用するようだよ」
「社会学があるから、まあ比較をつければいいんでしょうが。実は、さっきその研究をしているという妙な男が現われましてね」
「ほう」
浦山の報告によると、とっくりのセーターを着た四十四、五に見える男が現われて「個人で日米の比較社会学を研究しているのだが、コミッショナーの比較を思いついたので、日本のコミッショナーのことを教えてほしい」と来意を告げたという。何でも大の野球ファンで、社会学的人間関係論の好個の材料としてコミッショナーに目をつけた。近ぢかアメリカに渡って研究してくるが、その前に日本のことを頭に入れておきたい。そういう前置きで、一体コミッショナーは、日常どんな時間割でどんな仕事をしているのか、おもに仕事の上でどんな人に会うのか、できればここ二カ月ばかりの内容をできるだけ具体的に教えてほしいと頼んだ。比較のモデルをつくるための学問的精密さを求めたいからというのだ。
「それで、詳しく教えてあげたかね」
「とんでもない。それに、どこの大学にも所属していないフリーの研究家だと言って、名刺も出さないんです」
「詳しく教えてあげていいよ。今度来たら」
「いや、どうも、比較社会学とは怪しい感じでしてね。私の勘では私立探偵じゃないかと」
「だからだよ。詳しく教えてやればいい」
「――?」
「だって、ぼくには、だれに知られても困るスケジュールはなかったはずだし、これからもないでしょう。浦山君、まさかうちのかみさんの依頼じゃないだろうね、ハハハ」
「奥さんだと困りますか」
「よくあるじゃない、最近のテレビ・ドラマなんかに」
「吹田さん、呑気なことばかりおっしゃってないで、気をつけてくださいよ」
と、浦山は声を落として真顔になって言った。
「お約束どおり、私は例のことには関心を持たないことにしています。しかし、吹田さんの身辺が探られているらしいということをお知らせしておくのは出過ぎたことではないでしょう」
「いや、ありがとう。実はぼくもそれを感じてる。やっぱりあんな放言をしたし、あれから間もなく農協の寺岡君に会ったりしたものだから、疑われるのも無理はないと思うよ。しかし、ほんとうに、ぼくの行動は隠すことなど一つもない。その男は多分もう現われないだろうが、新手が来たら、むしろ全部教えてやってくださいよ。ときどき家のまわりにも紳士の影が見え隠れしてますよ。ぼくも大物になったもんだ。護衛付きですよ」
と言って吹田はおかしそうに笑った。
北川が吹田の家を訪れたのは、それから数日後の夜だった。
「北川さん、あなたもぼくも、主役ではありません。いや、脇役ですらない。言ってみれば黒子ですな。黒子だから、舞台で観客の目についたって一向おかしくない。しかし、だれであるかはわからないんですよ」
「かわいそうに、お宅の外にも、この寒いのに黒子がいたようですよ」
「さすが、よくおわかりでしたね」
「大丈夫です。顔は見られてませんし、帰りにまくのも慣れてますから」
「とにかく、これは長い試合になりますよ。最終イニングの攻防は二年ぐらい先にやってくるつもりでいてください。八回までは観客もいない、ほとんどの人の眼にも見えない、ふしぎな投手戦。九回に一気に打撃戦となる」
「じゃあ、吹田投手のサブマリン投法について、もう少し打ち合わせましょう」
それからおよそ一時間、二人は静かに作戦を練っていた。二年という想定で、その間に二人は一度しか会わないという前提である。
やがて北川が、
「それではこれで。一年半ぐらいしたら、野を渡る季節風を東京に送ることができるでしょう。動かずにゆっくりお待ちください」
と言って席を立った。そして玄関の引戸を開け、街灯の少ない暗い住宅地の道に消えて行った。しばらくすると、吹田の家と二軒ばかり離れた家の塀からはがれるように、一人の男の黒い影が道に立ち、北川のあとを静かに追った。
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見えないナイン
年があらたまって一九八一年となり、月日の歩みは、ある人にとっては意地悪くゆったりと進んでいるように感じられ、ある人にとっては、やはり意地悪く、信じ難い速さで眼の前を横切って行くように感じられた。手形の決済や現金支払に追われる中小企業の社長や奥さんや会計係は、五の日と十の日にめまぐるしく追いかけられ、その間が三日ぐらいしかないように思えた。同様に余儀なく借金を背負い込んでいる個人も、つねに月末を意識しながら暮しているうちに、あっという間にその日を迎えた。反対に、そういう支払を受ける立場の人たちにとっては、月日の歩みは、まだか、まだかというじれったさであった。その人たちの多くも、一方ではよそとの関係で五の日と十の日に追われていた。サラリーマンは給料日を、まだか、まだかと待ちながら、給料を受け取ってからの五日間ほどは、時の感覚が、あれよ、あれよに変わった。こういう金銭の締切は容赦ないが、もの書きといわれる人はずうずうしいほど泰然自若とし、原稿の締切が過ぎても動じることなく、それでも社会的地位を剥奪されることはなかった。しかし少数の例外を除いて、たいていの生活者の内部では、月日の流れに対する、まだか、まだかという感覚と、あれよ、あれよという感覚が同居していた。
一人の人間の中のそういう二つの感覚と、人間同士のそういう関係が、社会全体に網の日のようにひろがり、織り合わされ、もつれ、そして結局のところふしぎな均衡を保って進んでいた。ときどき、政治、経済、学術、国際関係といった世界で、その均衡が少し破れそうになることもあったが、ごく普通の市民にとっては、なべて世はこともなしであった。そして、プロ野球ファンが、まだか、まだかと待っていたペナントレースも、いつのまにか始まっていた。セントラル・リーグの話題は、藤田監督・王助監督・牧野コーチという新指導体制を敷き、大学野球のプリンス原を入れた読売ジャイアンツに、パシフィック・リーグの話題は、社会人野球のプリンス石毛を入れ、新球場三年目で優勝を狙う西武ライオンズに集まっているようである。
この時期になっても、吹田の動きはまったく変わらない。コミッショナーとしてごくあたりまえの職務をこなし、コミッショナーとしてごくあたりまえの人に会い、暇なときはたいてい玉川の自宅にいて好きな絵筆をとったり、本を読んで過している。ときどき、くだけた身なりで玄関を出てくるので、私立探偵が緊張して尾行すると、たいていは奥さんと二人で散歩したり食事をしただけで帰ってくる。探偵さんは依頼人に報告することがなくて困っていることだろう。プロ野球関係の集まりでも、吹田は、去年の実行委員会で話したようなテーマには一切触れない。
志村は何をしているか。もちろんペナントレースが始まってからは、毎日ベンチに入ってヘッド・コーチ業に専念している。
北川は? 新聞の取材で相変わらず国内各地への出張が多いようだが、特に変わった点はないようだ。もっとも新聞記者というのは、今どこにいて何をしているのか、いつごろ会社や自宅に帰ってくるのかということが最もつかみにくい職業の一つである。
北川は、学芸部では潟田と同じように歴史や考古学などを担当していたが、潟田が海外の取材を中心にしていたのに対し、北川は前から国内に専念し、折を見ては地方に足を運んでいた。だから、かりに北川が、吹田とたくらんだ計画を兼ねて地方を廻ったりしたところで、本社でも支局でも地方の訪問先でも、北川が何か特別なことを始めたと思う人はいなかった。その点で吹田は、得難い人材を持ったわけである。二人の作戦の基本は、北川が各地方を廻っているうちに、東京では吹田が派手にならない程度の陽動作戦を起こし、相手に北川の存在や動きをできるだけ気付かせないようにするものだった。そして、「まず、地方にそよ風を起こす。やがて中央に季節風を送る。そしてそれが疾風となり、最後に風向きを地方に向け、ふたたびそよ風になる」という吹田の一連のイメージにとって、北川の存在はぴったりだったのだ。
地方廻りが多かったとはいうものの、北川は学芸部だから、それまで官庁や会社にはあまり足を向けてなかった。しかし仕事がら、郷土史家や研究者、あるいは文化財保護に情熱を持った多くの人びとの中に知人は多く、そういう人が官庁や会社に勤めている例も少なくなかった。幹部級もかなりいた。政治部、経済部、社会部などの記者とは、同じ地方の有力者と親しくなるにしても、その入口のテーマがちがっていたわけだ。
北川は、その中でも気心の知れた人を訪ねて廻りながら、取材がてらあらためて地方の人脈を探り、新しい人物に会いに行った。そして、地方自治体、地場有力企業、大学、高校、それに同業の新聞社や放送局をこまめに廻った。
北川が、以前よりも地方へ出ることが多くなり、その中でも官庁や有力企業への訪問が増えた理由として周囲の人に挙げたのは「美術館、博物館、音楽堂等の特色と運営方針の取材」だった。一九七〇年代後半から八〇年代にかけて、県あるいは市が美術館や音楽堂、特に美術館の新設に力を入れ、何らかの特色をはっきり出した内容を備え、その点については中央の美術館に比べて遜色ないものが各地に現われ始めた。それまでは、地方の美術館といえば久留米のブリヂストン美術館とか、倉敷の大原美術館といった、地元の資産家によってつくられたものが普通だったが、資産家個人ではなく地方自治体が、有力者の協力を得てそういう事業に乗り出した。何かが少しずつ変わりつつあった。北川はそれをテーマとし、本社上層部の了解をとりつけたのだった。
天下の日新タイムズの記者の名刺だから、有力者に会うのもそれほど難しくはない。中でもお役所や企業の偉い人たちは、社会部記者というと一瞬緊張し、敬遠することもあるが、学芸部と聞くと、「え? 何でわしに」と首をかしげながらも、満更でもない様子である。北川は、初めのうちは郷土の文化についてのご高説を拝聴し、先方の話がだんだん将来の地方復権へと熱を帯びてくるのを待つ。あるいはさりげなくそこに誘導する。ころあいを見て文化の一端としてのスポーツを持ち出し、高校野球談義に花を咲かせ、相手がプロ野球ファンだとわかるとさらに話をおもしろくひろげる。もちろん、取材の仕事は終わったことを相手に告げての上である。そうなると話が止まらずに酒場までつきあうこともしばしばである。そして自分からはあまり意見やアイディアを出さず、相手が地元スポーツの振興について語るのを聞く。そうすると、かなりの人たちがプロ野球の中央偏在を嘆き、「うちの地方にチームがあればおもしろいのに」と口にした。一回目はその程度で別れて再会を約す。
こうしていつのまにか、北川の第一次人脈リストができあがって行った。リストにはABCのランクがあり、そのいずれもが鉛筆で真っ黒になった。北川はまさに空気だった。相手が気持よくしゃべるのに必要な、そして気持よくしゃべりたくなる「空気」だった。空気は少しずつ動きながら、少しずつそよ風を呼んで行った。
その北川が驚いたのは、吹田が環境庁長官の時代に、実にこまめに地方を廻っていたことである。取材の分野がちがうので、あまり環境問題は出なかったが、それでも吹田の名前を度たび聞いた。吹田は、美術館や博物館の設置についても、乞われれば自分の見解を述べ、助言をしていたのだ。そして、彼の長官辞職を惜しむ声に、北川は少なからず接した。(これは成功しそうだぞ)という手応えを、北川は少しずつ感じ始めていた。
――吹田が、自由民主党の皆川肇先生と、社会党の宗太郎に矢継ぎ早に会いました。
(余計なことだが、どうしてこの人は自由民主党の人間だけに「先生」をつけるのだろう)
――ふむ、皆川は与党の中でも一匹狼だ。それに野球も好きで、大の巨人ファンで有名だ。宗のことはよく知らんがのう。
――それに、また農協の寺岡会長に会いました。
――あいつらは前からときどき会ってるから、それは状況証拠にはならんのう。
――しかし、その寺岡氏が、一般にはあまり読まれない農業専門の雑誌にではありますが、ちょっと気になることを話してます。
――どれ、読んでみてくれ。
――はい。それではその箇所だけを読んでみます。
というわけでね。大分県の漁業労働からは、双葉山、稲尾という、相撲界と野球界における不世出の巨星が出た。しかしこれは日本の西南地方だから余計目立ったのでね。お相撲さんの出身地を見なさい。北海道、東北が多いでしょ。挙げればきりがないけど、現役でも北の湖や千代の富士など逸材が輩出してますよ。私にいわせれば、天才というのはね、天とじかに対話し、天の影響をじかに受ける生活から生まれる才なんだよ。そう、農業、漁業、林業、牧畜などね。小さいときから体育館や特別な設備で訓練を受ける英才教育とはわけがちがう。自然に鍛えられる足腰や肩ですよ、きみ。今はプロ野球では北に行くほど選手が少なくて、北海道には数えるほどしかいないけどね、かりに札幌にドーム付球場でも整えて、北海道の子だけでチームをつくってごらんなさい。いつかは強いチームに育つと思うよ。
――大体こういう内容です。
――ふむ。
――さらに寺岡会長は、何年か前に農協でプロ野球チームをつくろうという話が出たとき、「機未だ熟せず。おれは将来にもっと大きい構想を持っている」と言ったそうです。
――それはだいぶ前のことだろ。ふん、百姓の親分に何ができる。しかし気にはなるな。
――ともかく、今までまったく動きのなかった吹田が、内容はわかりませんが要人と会い始めました。
――わかった。皆川君には私から探りを入れよう。そちらは、吹田のじいさんを地方に出さんことだ。
――はい。
一九八一年も九月に入った。北川史朗は、「二十一世紀に向かう地方の姿」というテーマで大キャンペーンを実施することを、日新タイムズの上層部に提案した。提案の骨子は次のようなものであった。
政治、経済、社会、学芸、スポーツの各部記者と主要支局によって共同プロジェクト・チームを組む。
おもなテーマは、「農業」「教育」「環境」「流通」「スポーツ」の五つに絞り、それぞれのテーマに「二十一世紀に向かう地方の」ということばをかぶせる。
当面、東京での取材は不要。スタッフはできるだけ地方に赴き、専門家だけでなく広く一般住民からも取材する。ルポルタージュの内容は一般住民の発言を主とし、知名人インタビューは従とする。世論調査を並行させる。
北川の意図は、もちろんスポーツ、特に野球、そして特にプロ野球に関する地元住民の意識や知名人の発言を引き出すことにあった。そして「二十一世紀」を冠することによって、現状に縛られない自由な発想が出てくるのを狙った。インタビューに登場させたい知名人リストのうち、「環境」のテーマのところには「元環境庁長官・吹田晨平氏」とあり、「農業」のところにはもちろん「農協会長・寺岡篤太郎氏」の名があった。
この提案は社内で賛否両論を呼んだ。しかし結局、首脳部の結論は「不採用」と出た。こういう問題は、それほど大がかりなプロジェクト・チームをつくってキャンペーンをしなくても、せっかく全国に支局があるのだから、支局の日常の活動でこなして行けばよいというのだった。
北川はその是非をめぐって上司や首脳部と激論を戦わせ、あとに退かなかった。そしてそれがもとで、まもなく日新タイムズを去った。やがて、名古屋の地味で小さな出版社に口を見つけて東京を去り、しばらく鳴りをひそめた。
やがて北川は、前に日新タイムズ学芸部記者として廻ったところを、もう一度廻り始めた。出版社のオーナーに「現代日本風土記」なるシリーズ物の提案が受け入れられ、その企画と取材のための地方廻りが認められたのである。というより、もともとそういう仕事を前提に入社したというのが正しい。
日新タイムズ学芸部記者の肩書が外れると、地方有力者の態度は、手のひらを返すように冷淡になるのと、適当につきあってくれるのと、変わらぬ親しさで歓迎し、前の話の続きを楽しむのとの三通りに分かれて行った。北川はそのために、ほんとうに信頼できる人脈地図をつくることができた。
北川は新聞社を辞めた直後、一度だけ吹田と電話で連絡を取った。
「そよ風が死んでしまわないうちに、早目に東京への季節風を起こしましょうか」
「いや、まだです。予定どおりに進めましょう。ところであなたは、喧嘩を吹っかけて辞めるきっかけをつくるために、あんなキャンペーンを提案したんでしょう」
「それも予測には入ってました。しかし万一提案が通ればそれで風を送ろうという両面作戦でした。でも今の境遇のほうが気が楽だし動きやすいですよ」
「生活のほうは大丈夫ですか」
「大丈夫です。ご心配なく。吹田さん、まさか盗聴はされてないでしょうね」
「それは心配無用、家中を点検してあります」
北川が名古屋に移ったことは、相手の眼をくらますためにもよかった。東京に吹田、名古屋に北川、広島に志村、そしてお互いに当分は会わないのだから、まず疑われる心配はない。
「うん、なるほど。しかし、きみのほうはシーズン中は工作どころじゃなかったろう」
「そう。おまけにあの年は、ドラゴンズやジャイアンツがすいすい行って、カープはアップアップだったしね。気持の余裕もなかった。それでもシーズン中に何とか九人ぐらいまでは手応えがつかめたね。話し合ってみると、東京や大阪のダンゴレースにうんざりしている野球人は少なくない。自分のくにに戻って一からプロ野球チームをつくりたいという情熱を抱いてる人は、思ったより多かった。ただね、ぼくが一番知りたかったのは選手たちの気持だった。しかしあの段階では、それらしき話を選手たちにするわけには行かない。吹田さんからも深入りするなといわれてた」
「せっかく今のチームで実績を挙げて、給料もポジションも安定している。地方へなど行ったら、それこそ広島カープの草創期の二の舞いじゃないかというわけだな」
「そう。ずっとあとで吹田さんたちと具体策を練り始めてからも、一番気を使ったのは選手一人ひとりという人間を動かす仕事だった。そして何よりそれこそが、この構想の死活のポイントだったね」
「強制ではなく自由意志で、しかも大勢としては地元出身者主体のチームが全国各地に一斉に生まれる。たしかに難問だったろうな」
「潟田、選手の話になったから一つの質問を出そう。きみがいたころのことだ。そのころの選手を出身都道府県別に分けると、どこが一番多かったと思う?」
「うーん、出身というと高校までかな」
「厳密にいうと、高校が野球留学であることが明らかな場合は中学まで戻ってみる」
「ええと、十二球団で六十人ずつとして七百二十人か。人口からいってやっぱり東京がトップだろう」
「と思うのも無理はない。ところがね、そのころ、正確にいうと一九八〇年のシーズンはじめの登録では、東京は第五位だった」
「ほう、じゃ、大阪か」
「そのとおり、断然トップ。約七百人中何人ぐらいと思う?」
「断然トップなら、七十人」
「いい線だがそこまでは集中してなかった。五十六人だった」
「八年も昔のことをよく覚えてるなあ」
「それはもう、表を開いては吹田さんと何回もにらんでいたもの」
「ゼロの県は?」
「いや、なかった」
それから志村は、記憶力のよさを潟田に示した。大阪の次は隣の兵庫で四十七人、三位以下は三十人台になり、福岡・三十四人、広島・三十三人、次がやっと東京で三十二人、愛知と千葉が三十人、それから静岡、神奈川と続く。また、人口が少ないわりに選手が際立って多かったのは、愛媛と熊本である。
雪深い地方はさすがに少ない。青森、長野、富山、岩手、北海道など。しかしどこも何人かはがんばっていた。ついでにいうと、当時ピッチャーが一番多かったのは、選手総数でも一、二位の大阪と兵庫だが、総数が少ないわりにはピッチャーが多いところを拾うと、愛媛、大分、岡山、宮崎といった西南勢で、これらの県は選手の半分以上がピッチャーだった。
「この表をにらんでいるうちにね、寒冷地の球団のみに開閉ドーム付温度調節全天候型球場の建設を許可するという構想が、吹田さんの心の中で不動のものになって行ったようだ。さて続けようか。どこまで話したんだっけ?」
「北川が名古屋に移って、ふたたび全国を廻り始めたあたりだ」
「ああ、そうだったな」
「相手の注意を東京に引きつけておく吹田さんの陽動作戦と、北川の地方工作は、その後もうまく行ったわけだな?」
「そういうことになるね。ところがだ、北川さんが全国をどういうふうに廻って、だれとどういう工作をして行ったかということは、おれには詳しくはわからないんだよ。今までのおれの話にもかなり想像が入ってる。何せ北川さんは、自分のやったことをあまり語りたがらない。特に名古屋に移ってからのことはおれにはお手上げだ。いつかゆっくり聞こうと思っているうちに年月が経っちまった」
「そういうところは相変わらず無口だね。あいつは自慢話には縁のない男だ」
「だから、彼の動きの過程というものはね、現われた結果から想像し直す以外には描きようのないことが多いんだよ。それにしても名古屋に移ってからの北川さんの地方での動きは、おれの想像力ではますます描きようがない。ただいえることは、彼がここと思う都市には、彼の分身のような強力なチームをつくったということだ。しかしそれもどういう顔触れかはわからない。つまり見えないナインだ」
「ふむ、見えないナインねえ」
一九八一年十月二十五日、日本シリーズの第六試合で、読売ジャイアンツが日本ハム・ファイターズを六対三で降し、四勝二敗で優勝したことによって、この年のプロ野球の公式スケジュールはすべて終了した。このあとは、各球団の秋季練習、両リーグそれぞれの東西対抗試合、アメリカ大リーグのカンザスシティ・ロイヤルズを迎え、巨人、全日本、それに巨人と各球団の混成チームがこもごも対する十七試合などがあり、そのあと十一月二十五日の新人選択会議がすむと、十二月一日からプロ野球は完全なシーズンオフに入る。
読売ジャイアンツのリーグ優勝は四年ぶり、日本シリーズ優勝は実に八年ぶりであった。その勝ちっぷりはまったく危なげなかった。大物ルーキーといわれた原が入団し、打率はやや物足りなかったがホームランと勝利打点では優秀な成績を収めた。原の入団が好循環を呼んで、中畑や篠塚といったところが攻守にわたって力を出し安定した。投手では江川と西本が成長し安定した。特に江川の二十勝六敗という好成績は優勝に大きくものを言った。そしてそういう力を、藤田、王、牧野を中心とする指導陣がよくまとめた。そういう諸要素がもたらした優勝は、一か八かでがむしゃらに行って達成したのではなく、ベテラン中心時代から若者と中堅の時代へと脱皮した安定成長期の始まりを示していた。商売でいえば、何かの単品に社運を賭けて売りまくった専門商店ではなく、あれがだめならこれ、これがおかしければそれという総合商社的対応力を発揮したというところだろう。
吹田は、日本シリーズ最終戦の終了直後の表彰式で、巨人の藤田監督にペナントを手渡し、コミッショナーとしての役目を終えて自宅に帰るタクシーの中で、そんなことを考え続ける。(それにしても、全試合が後楽園でおこなわれた日本シリーズ……)と、あらためて吹田は思う。読売ジャイアンツと日本ハム・ファイターズの両球団が、独立会社の後楽園スタジアムを本拠地球場にしている以上、これは生ずべくして生じた現象だが……。(いや、やっぱりあたりまえではない。どこかおかしい。首都圏への過度集中の象徴のような姿だ。何としても一都市一球団を実現させねばならない)
しかし、と吹田は続けて思う。(全国区第一党の巨人ファンは、巨人の久し振りの堂々たる優勝ぶりに長年の胸のつかえをおろし、すっきりした気分にひたっている。そして新しい巨人黄金期の幕明けであると思っているだろう。そんな折も折、現在の全球団の解体を含むおれの構想が発表されれば、巨人ファン、特に東京のファンの示す怒りと抵抗は計り知れないものがある。それに……)と、吹田は最近会ったある人の話を思い出す。「私はパシフィックでは西武が強くなると思うし、またそうなってほしいですね。つまり、パシフィック・リーグにも巨人のような存在が必要なんですよ。それにはバックの資本力から見ても知名度から考えても、西武が一番です。そして巨人・西武の日本シリーズ、首都決戦とくれば、これは受けますよ。ねえ、吹田さん」
(おれは、よりによってそういう時期に、そういう力と勝負しようとしているのだ。しかし、この時期を避ければ、プロ野球の量と質の両方の首都圏集中はますます強まり、体制は固まる。それを揺り動かすことはいよいよ容易ではなくなる。やはり来年のシーズンオフには勇気をもって実行せねばならん)
タクシーに揺られながら、そんな考えを点滅させている吹田の脳裏に、ふと、つい最近韓国からもたらされたニュースが居坐り、吹田の眼底には韓国の地図がいっぱいひろがった。ニュースとは、韓国にプロ野球委員会ができ、一九八二年四月開幕を目標に、六球団によるプロ野球リーグを発足させるというものである。
日本の日新タイムズの記事によれば、オーナーとなる企業は、文化放送、現代産業、三星物産、錦湖実業、斗山実業、ロッテの六社で、フランチャイズ予定都市は、ソウル、仁川、大邱、光州、大田、釜山の六都市、そして選手の年俸の上限と下限を規定している。
吹田は、韓国駐在大使として過したころの韓国の各地の風物や友人を懐しく思い出しながら、ついに韓国にもプロ野球ができるか、という感慨にふけった。それと同時に、その簡単な記事の示す重要な特長に気づいた。それは「一都市一チーム」の原則である。これこそ吹田が考えている構想ではないか。
吹田は、これらの企業の名前を見ただけで、本社がどこにあるかはすぐわかる。ほとんどが首都ソウルである。にもかかわらず、本拠地は六都市に分散している。それらの都市がどこにあるかも、吹田は名前を見ただけですぐわかる。韓国の東西南北にほどよく散らばっているのである。ソウルと仁川だけは近接して西北部にあり、東南に釜山、西南に光州、そして大田は韓国全土のほぼ中央、大邱はその大田と釜山の中間に位置する。太白山脈の走る北東部の山岳地方を除けば、見事なバランスを示している。
吹田は感心した。大半がソウルを根拠地とする韓国の代表的な企業ばかりなのに、最初からこういう分散ができるということは、コミッションを中心に相当な協力体制が敷かれているにちがいない。
吹田の連想は、一九三六年に日本でプロ野球が発足したときに及ぶ。あのときは一リーグ七球団だった。読売、中部日本、新愛知の三新聞社、阪神、阪急の二電鉄会社、それに大東京とセネタースというクラブ組織の計七球団。そして本拠地は当然のように本社所在地に集中し、東京・三、大阪、名古屋各二球団で、それ以外の都市には置かれなかった。球団数が二倍近くなった今日でも、福岡にあったライオンズの本拠地が所沢に移ったので、広島を除いては四十五年前と変わらないのである。
東京の人口はソウルの比ではない、と思うととんでもないまちがいである。絶対数は東京のほうがたしかに多いが、全国の人口の首都への集中度で見ると、一千万都市といわれる東京都を大ざっぱに一〇%強とすると、ソウルは三千七百万人中約七百万人、実に一九%に達する集中率を示しているのだ。
吹田はこの韓国の動向が報道されたとき、それについて日本のプロ野球の経営者たちと語り合う気持をすでに失っていた。自分の主張を交じえずに、事実の示す特長を淡々と話したところで、「それで、どうしたいとおっしゃるんですか」という眼を向けられることはわかりきっていたからである。何しろ吹田は、彼らからひそかに行動を監視されている身なのである。そして彼らからも、このことについては吹田に話しかけてこなかった。あれ以来表面はおとなしくなっている吹田のじいさんに、わざわざまた虫を起こさせることもないだろうというわけで。だから、韓国の動きについて|忌憚《きたん》なく語り合えたのは、志村や北川とは会わないようにしている時期だったので、浦山事務局長と農協の寺岡会長ぐらいのものだった。
隣国韓国の最近のスポーツ水準の向上はめざましい。特に、サッカー、バレーボール、ボクシング、それに野球。大学、高校の学生野球と、社会人野球は、日本と同じように全国に普及して厚い層をつくり、アマチュア界ではいつのまにか世界のトップレベルにのし上がってきた。この年、日本の高校選抜チームが訪韓して韓国の高校チームと三試合やったが、日本は一度も勝てなかった。もちろんゲームには運不運があるが、吹田と寺岡は、自然な生活の中で培われる基礎体力や骨格が、日本人は相対的に低下しているのではないかと話し合った。寺岡は特に食生活の放縦を挙げ、吹田は少年期に直面する学校教育のいびつさを挙げた。
ともかく、野球の水準が日本と肩を並べるか、それを凌ぐような勢にある韓国に、プロ野球が生まれるのは当然の|趨勢《すうせい》だった。
吹田は、その内容をもう少し詳しく知りたいと思い、ソウル時代の親友の一人に電話で聞いてみた。その結果次のようなことがわかった。
当面一球団の支配下選手は二十八名以内(六球団合計百六十八名)、監督以下のコーチング・スタッフは一球団四名(六球団合計二十四名)とする予定である。
六企業の中ではMBC(文化放送)がリーダーシップを取って計画を進めている。(日本のプロ野球草創期の読売新聞に相当しよう)
フランチャイズの全国分散、一都市一チームは、吹田の推察どおり、発足当初からプロ野球を全国的均衡のもとに発展させようとする意図に立つものである。また日本の国民体育大会に相当する全国体典によって、近年地方都市の球場も整ってきており、直ちに球団独自の球場は持てぬにしても、当面これらの公営球場を使うことで問題はない。
企業あるいは候補都市にいくぶんの変更はあっても、基本方針は変わらない。フランチャイズの配分については、主力支社・工場の所在地、あるいはオーナーゆかりの地などの要素も配慮されているが、全体の均衡上、そういう縁がまったくないところを本拠地とする球団もあり得る。
などであった。
「吹田さん、そちらとちがって、若者には一定の入隊期間があってその間はチームから外れるとか、コーチング・スタッフの層とアマチュア指導層のバランスとか、いろいろ問題はありますが、ルールをしっかりつくれば、専門化、職能化は選手のためにもいいし、観客も楽しめるわけですから、今度のことは一般に歓迎されているようですよ。きっと成功すると思います」
電話口から流れる旧友の声は、落ち着いた中にも張りがあった。吹田はちょっと羨しい気がした。(いろいろ問題はあっても、みんなでゼロから出発をしようとしている。こちらは固まりすぎたものを解きほぐす作業を、少数の人間でひそかに進めている)
「お忙しいでしょうが、またソウルに遊びにいらっしゃいませんか」
ほんとうにすぐにでも飛んで行きたい気がした。懐しい友人たちに再会すると共に、新しいことを始めようとしている人たちの情熱に触れてみたいと思った。しかし、今日本をあけるわけには行かない。
「ありがとうございます。ちょっと私も片付けておきたい仕事がありましてね。それがすんだら、またゆっくりお訪ねしましょう。どうせ行くからには、韓国のプロ野球のゲームを楽しみたいですしね。ま、二シーズン目ぐらいになりますかな」
「そうおっしゃらずに、開幕を見にきてくださいよ。吹田さん、アメリカを含めた三国のワールドシリーズというのはどうです」
「いいですねえ。ソウル・オリンピックよりは先に実現させましょう。どうもいろいろありがとうございました。私もはりあいが出てきましたよ。いつかきっとお邪魔します。じゃ、さようなら」
(プロ野球に関しては弟分のような韓国に、日本は学ぶべきことがたくさんありそうだ。潟田六郎太が日本にいれば、また『春夏秋冬』にでも書いてもらえるところだが)、日本の後楽園シリーズのことから韓国のプロ野球のことに吹田の頭が移りっぱなしのまま、タクシーはいつのまにか家の前で停まった。
「おかえりなさい」
と、千代が出てきた。
「表彰式のところだけはテレビで見ましたよ。あなたもうしろから見ると、ずいふん老けましたねえ」
「八十にあと二歳の男を冷やかすもんじゃないよ。前から見たって老けてるだろ」
「でも、テレビで見てつくづくそう思いましたよ」
「おい千代、いつかまた韓国に行こう。むこうにもいよいよプロ野球ができる」
「野球といっしょの旅はもうこりごりだと言ってるじゃありませんか」
「ハハハ、執念深いな」
吹田は、茶の間に腰を落ち着けて千代の|淹《い》れたお茶を一口ふくみ、(千代といっしょに、かならずもう一度韓国に行こう)と思った。しかし、吹田晨平は遂にふたたび韓国の土を踏むことはなかった。
十一月なると、吹田がコミッショナーとしてごく自然に各地方を廻ることのできる機会がやってきた。アメリカ大リーグのカンザスシティ・ロイヤルズが来日し、巨人や、巨人と他の球団の連合チームと、全国各地で十七試合をおこなうことになったのだ。
もっとも、この日米交流試合の運営には、コミッショナーは直接の関係はなく、読売ジャイアンツがホスト役である。しかし吹田は、ロイヤルズに帯同して全試合を見たいという希望を出した。こちらが好きで勝手について行くのだから、巨人さん、どうかお構いなく、ただ全試合に顔を出す予定だけはお知らせしておきますというわけだ。これではオーナーも球団役員も「やあ、それはわざわざどうも」といわざるを得ない。吹田の動きを監視して、なるべく地方に出さないようにしている人たちも、今東京にコミッショナーを縛りつけておくほどの懸案もないし、「お年ですからあまり無理をなさらないように」といえるくらいのものだ。
試合の開催地を北から拾うと、札幌、仙台、東京、横浜、静岡、名古屋、大阪、西宮、倉敷、広島、九州に入ると熊本、北九州、そして最終ゲームは福岡で、文字通り日本列島主要都市の大縦断である。吹田が千代を誘い、そして千代から振られたことはいうまでもない。それでも吹田はにこにこ顔で旅に出た。
――札幌に発つ前に、吹田はまた寺岡に会いました。
――ほう。
――それから、吹田が前に会っていた自民党の皆川先生が、経団連の犬養土佐副会長と会い、同じく社会党の宗太郎が、京都大学の梅原静吉学長に、梅原学長は日本ペンクラブの尾崎枕水会長に会いました。
――しかし、会うこと自体はどの組み合わせを見ても不自然じゃないな。
――しかし今までにあまり会ったことのない組み合わせだそうです。それがすべて一カ月ほどの間に起きています。|憚《はばか》りながら、大先生が皆川先生に会って聞いてみるとおっしゃったのはどうなったのでしょうか。
――その結果は私もまだ聞いてない。きみはそんなことに口出しせんでよろしい。頼んだことを正確に遂行すればよい。
――はい。
(どうも今日のこの席は大先生とどこかのオーナーではなく、探偵さんと直接の依頼人のようだ。第一、受けるほうにおのずからにじみ出る貫禄がなく、無理に貫禄をつくっているように見える)
――地方からの報告はどうだ。
――特に変わったことはなく、札幌でも仙台でも、吹田は試合前から球場に姿を現わし、終了までいて、そのあとロイヤルズの連中とつきあう時間が多いそうです。ただ、ホテルには、環境庁長官時代の知人がちらほら訪れています。
――だれだ。それは。
――例えば北海道副知事、仙台市助役。
――ふむ、これも自然といえば自然、怪しいといえばどこまでも怪しい。名前は全部控えてあるな。
――はい。それからもう一つ。
――何だ。
――吹田は、奇妙なことにときどき外野席に廻って野球を見ています。
――なに? 望遠鏡でちゃんと監視してるだろうな。
――はい。しかしただ一人で外野席から野球見物をしているだけです。
十一月十九日、広島市民球場で、ロイヤルズ対広島・巨人連合のゲームが進んでいる。ロイヤルズは今日で十四試合目、今まで五勝七敗一引分けとふるわない。大リーガーらしい猛打を爆発させたのは、十五日に甲子園で全日本に十三対七で勝ったときくらいのものである。しかし今日は中盤になっておもしろい打ち合いになった。四回表にロイヤルズの四番エイキンズが、センター山本浩二の頭上はるかを越えてバックスクリーンに飛び込むツーラン・ホームラン。その裏、巨人の原がホームランを打って二対二の同点、五回はロイヤルズが二点、広島・巨人は水谷のスリーラン・ホームランなど四点、六回表にロイヤルズが三点、ここまで七対六とロイヤルズの一点リードとなった。
「おもしろいゲームになりましたね」
吹田はご満悦の態で両隣の広島と巨人の球団役員の顔をこもごも見た。
「コミッショナーの終盤の予想は?」
「二つ借金のロイヤルズはもう絶対負けられない。セーブ王のクイゼンベリーを早目に出すでしょう。そして追加点を挙げて逃げきる」
「きびしいですなあ」
「ロイヤルズの打線がやっと本物になってきたしね。こっちも角君が出てくるでしょうが油断はできませんよ。しかし、今年のセントラル一、二位の連合ですから、がんばってほしいですね」
吹田の言うとおり、あと四試合というところでロイヤルズにようやく当たりが出てきたようだ。吹田はしばらくしてまた口を開いた。
「このチームは、創立してまだ十数年ですか。日本のどの球団よりも歴史は浅いんですね。しかしたいしたもんだ。地区優勝三回、リーグ優勝一回で、しかも未だに最下位はなしですからね」
「これは痛い」
と、巨人と広島の役員は苦笑いした。
「その原動力は何だとお思いですか」
吹田はそれに対して言下に答えた。
「ファーム育ちの選手が中心になって活躍していて、チームワークがいいことでしょう」
吹田は心の中でことばを続けていた。(球団再編成、一都市一チームという私の構想も、実は、こういうファーム育ち中心のチームというイメージにつながってるんですよ)
吹田の予想どおり、六回からアンダースローのリリーフ投手、クイゼンベリーが出てきて、広島・巨人連合はなかなか点が入らない。
「どれ、じゃ、また外野席に行かせてもらいますよ」
と吹田は言って席を立つ。そのとき、日本チームのベンチの奥にいる志村千三コーチが、吹田のほうにちらりと眼を向けたようだった。二人は今日は、挨拶もことばも交わしていない。
吹田が外野席に廻って行くあとを、少し距離を置いて二人の男が別々について行った。
木曜日だが、外野席もよく人が入っていた。吹田は左中間の中段のあたりに空席を見つけて腰をおろした。別々にあとをつけてきた二人の男は、お互いの動きには気がついていないようだった。しかし二人とも上段のほうから吹田の背中に近づいて行った。一人は、球場の売店で買ったと見えるロイヤルズの野球帽をかぶり、大きなサングラスをかけてジャンパーを羽織っている。もう一人は無帽で、鋭い眼をしたやせぎすの顔形がはっきりわかり、小型のカメラを持っている。二人とも四十過ぎだろうか。
そのうちに、野球帽にサングラスの男が吹田のベンチまで降りてきて隣を指し、
「ここ、空いてますか」
と聞いた。
「ええ、空いてるようです」
そのやりとりを聞いていたもう一人の眼の鋭い男は、グラウンドの選手にカメラを向けるようにしてさりげなく前の男の横顔を撮ったあと、すぐうしろの席に腰かけた。そして左腕をまくって時計を眺め、龍頭をいじった。しかし、それは腕時計ではなかった。テープレコーダーならぬ糸のように細いワイヤを使った、ワイヤレコーダーだったのだ。腕時計そっくりに見える部分が収音マイクであり、コードが左胸の内ポケットの本体から腋の下を通って長袖の下を這っているのだった。野球帽にサングラスは北川史朗だった。
――何だ。これじゃ、ただの外野席の野球談義じゃないか。どれ、もう一度かけてみろ。
――はい。
男は、ワイヤレコーダーの再生スイッチを押す。ガリガリピー、雑音、歓声、嘆声、それらの間をかき分けるように二人の会話が聞こえてくる。
「……までは、地味な試合が続き過ぎ……」
「ええ、でも……のあと九州に行くと、もう巨人だけでは勝てな……すか」
スタンドの声「おい、ビールふたつ」
「ロイヤルズもいよいよ、本領……というわけですか」
スタンドの声「お父ちゃん、おしっこしてくるよ」
「いずれ……ても、もっと打撃戦にな……しいですね」
「これからはそう……りますよ」
スタンドの声「おい、浩二、がっかりすんな。巨人抜きでカープだけでやったら勝つんじゃけん」
「最後になっ……盛り上がり……」
スタンドの怒鳴り声はきれいに入っているが、うしろから拾っている二人のぼそぼそした声は、やはり聞きとりにくい。
「じゃ、両チーム……ってみましょうか。まず高橋慶彦」
「東京。じゃ、巨人の原」
「神奈川。もっとも少年……は福岡の……」
「山本浩二」
「これは広島。篠塚は?」
「千葉。さてと、中畑」
どうやら二人は、巨人と広島の選手の出身地を当てっこしているらしい。
「福島県。それ……」
ここで録音が急に途切れている。
――ここでしばらく二人が黙り込んだので、ワイヤをとめました。
そしてまた急に音が出始めた。
スタンドの声「あーあ、負けちゃったあ」
「どう……お仕事の……りは」
「ええ、私は地方……順調です」
「失礼ですが商売の……か」
「来年の後半には東京の……」
「まあ、がんばっ……」
――ここで二人は別れています。
――ふうむ、その男はほんとうに吹田と初対面のようだったか。
――としか思えません。
――会話からは手がかりは出てこないな。やっぱり思い過しかなあ。
どうしてどうして、ほぼ一年ぶりに会った吹田と北川は、これでちゃんと打ち合わせをしていたのである。半ばにさしかかった自分たちの仕事を今度のロイヤルズ・シリーズに見立て、地味な作業が続いたが、まもなく打撃戦のような様相を帯びると言っている。北川の地方工作も順調に進んでおり、来年の後半にはいよいよ東京に波瀾を起こすぞという確認をしていたのだ。
ここへきて、話としては今まで地味な推移をたどってきたのが、まもなく終盤で打撃戦の様相を帯びそうだという二人の見通しに、筆者はほっとしている。というのは、たいした起伏もないここまでの志村の話に、はたして読者がついてきてくださっているのかどうか、筆者は心許なく思っていたからである。
どうか読者は、この単調さを、志村の語り口を文章に移す筆者の不手際のせいとはとらないでいただきたい。筆者はときどき小説家を羨しいと思う。自分の想像力のおもむくままに登場人物を動かし、事件をこしらえ、起承転結やメリハリをつけて読者を飽きさせない工夫ができる。そしてやっぱりそういうものはおもしろいものだから、読者が読者を呼び、本は売れ、小説家にもお金がたくさん入る。しかし筆者には今、小説を書く自由は与えられていない。あくまで志村の話を忠実に文章にするのが、筆者に課せられた仕事なのである。大胆な省略も許されず、まして想像のおもむくままの創作などもってのほかなのだ。
だから、八回までがいかに淡々たる投手戦あるいはあくびの出る貧打戦であっても、その推移を軽く扱うわけには行かなかったのだ。そこが、小説家とはちがう筆者の商売のつらいところだ。
しかし志村の語り口によれば、その苦労も間もなく終わりそうである。終盤一気に打撃戦という、その気配がしてきたようだから。読者|諸彦《しよげん》もどうかもう少し、表面に出ない事態の推移を、志村と共に見つめていただきたい。見えない人には見えないが、見える人には見えるという風景が、あとほんの少し続くはずである。
またも年があらたまって一九八二年となり、月日の歩みは、ある人にとっては意地悪くゆったりと進んでいるように感じられ、ある人にとっては、やはり意地悪く、信じ難い速さで眼の前を横切って行くように感じられた。それは、とりあえず一九八一年の始まりと同じようであった。
前年のシーズン終了後、パシフィック・リーグ選手会(会長・村田兆治)からは、一シーズン前期後期制は過密スケジュールとなり、選手の疲労も多く技量の向上にも支障をきたすので、一シーズン一期制に戻してほしいという要望が連盟に出されたが、連盟首脳部は一九八二年度についてはこれを却下していた。ペナントレース開始は四月三日(土曜日)に足並をそろえたが、パシフィックは前期後期制でプレーオフを伴い、指名打者制があり、セントラルはそのどちらにも無縁であるというちがいが続くことになった。
そのころ、前年秋に発表された韓国のプロ野球発足の動きは、その輪郭を次第に明らかにしつつあった。
「どうやら、吹田さんが去年の秋に韓国のお友だちからお聞きになったとおりに進んでるようですね」
と、浦山が言う。
「うん、バックの企業は変更になることもあるだろうと言ってた。事実、現代産業と錦湖実業に代わって三実社とヘテが登場した。しかし、フランチャイズの分布は当初の計画どおりだね。それに何よりも……」
と、吹田が強調したのは、一チーム二十八人の選手を、原則として本拠地周辺の出身者とする方針が明らかにされたことだった。
すでに、長い間日本のプロ野球で活躍していた白仁天がMBCドラゴンズの監督として、また張本勲がコミッショナー特別補佐として韓国に帰り準備に参画している。コミッショナーには、元国務相の徐鐘が就任した。吹田は、白と張本にも電話をかけてみた。受話器からは、元気な調子で、二人の歯切れのいいことばが響いてきた。
「こっちへ来て、細かいことまで含めて準備万全なのでびっくりしました。コミッショナーの権限も強くてね、企業分担金もピシッと行ってますし、利益を六球団に公平に分配する考え方も抵抗はないようです」
「そうですか。そのことに関心を持ってました。やっぱりソウルのMBCの観客動員力は抜群でしょうからねえ」
「吹田さん、日本でもそうしたらどうですか。巨人の利益を分配するとか」
「ハハハ、あんまり年寄りをいじめないでくださいよ。ところで、選手層の問題はどうですか」
「お国柄、郷土意識が強いですからね。原則として地元チームに行くことにも抵抗はありませんし、むしろそのほうが球団にとっても選手にとっても将来のイメージを描きやすいですよ。そうすると金の力でいい選手を独占するというチームはできないし、うまく行くんじゃないでしょうか」
「なるほど」
「吹田さん、五、六年経ったら日本を追い越す気持でやりますよ。そちらも太平洋の向こう側にしか目が向いてなかった時代は、もうそろそろ終わりだとお考えになってください」
「うーむ、今のことばは心にズシンと響いた。バックスクリーン越えのホームランを浴びたみたいだ」
「いやあ……。それとね、私たちはね、いつの日か、兄弟別れしている祖国にね、野球を通じて道をつけたいと思ってるんですよ」
「―――」
「吹田さん、早くうちの徐コミッショナーとも会ってください」
吹田は心を揺さぶられる思いで受話器を置いた。「野球を通じて道をつけたい」――
(そうなんだ。おれも、野球を通じて道をつけたいと思っているんだ。では、今の日本に何の道を? 韓国のように分断されなかった日本が、見えない別の次元で分断に陥っているところにつける道だ。楽天的と言わば言え。無邪気と言わば言え。世の中を変えるのは政治家じゃない。みんなが、それぞれ一所懸命やっている仕事の分野で、その夢を実現しようとすればいいんだ)
吹田は、白や張本との電話が終わってしばらくの間、そんな思いにひたっていた。
「……そういう、郷土に根ざしたチームづくりがね、具体的なプランで進んでいる」
「吹田さんの構想が先取りされているというわけですね」
と、浦山が言った。
「浦山君、私はね、それを内心ひそかに誇りに感じてるし、心強くもある。しかし、お隣の韓国がこうだから日本も、というつもりはない」
「それはわかってます。とにかく、ますます慎重になさってください」
浦山は、八十歳の吹田に、まるで少年をさとすような態度で言った。
――吹田が大阪球場でロイヤルズのゲームを見たあと、京都大学の梅原学長と食事をしたことがわかりました。
――なに? そうすると前に挙がった顔触れの中で吹田が直接会ったのは、皆川、宗、梅原、それに寺岡ということになるな。
――はい。
――もう一度、全体のつながりを整理してみてくれ。
――はい。まず吹田と寺岡、それから吹田と皆川、吹田と宗、皆川と犬養、宗と梅原、梅原と尾崎、そして最後に吹田と梅原です。
――尻取りみたいでよくわからん。そいつらの役職だけを羅列してみろ。
――プロ野球コミッショナー。
――それはわかっとる。
――農協会長、自由民主党総務会長、社会党文化部長、経団連副会長、京都大学学長、日本ペンクラブ会長、以上です。
(所変わって、今まで報告を受けていた人が、今度はだれかに報告にきているようだ)
――と、こういう顔合わせです。
――うむ、各界のオピニオンリーダーを揃えたもんじゃのう。こしゃくな。
――このへんで吹田を牽制しておきませんと、調子に乗って何をやり出すかわかりません。
――あなた方の懇意の犬養君には、もちろんだれかが会って探りを入れたんでしょうな。
――………。
――え? やってないんですか、そんな手近なことも。一体一年も何をしてたんですか。調べさせるだけで。
――恐縮ですが、先生は皆川先生とお会いいただくということでしたが、あれは?
――え? うん、あれはねえ、どうも皆川君のほうからの要望で吹田君に会ったとのことだった。何でも渡米前に、国際通の吹田君に個人的に聞きたいことがあったそうだ。皆川君というのは「複眼の思想」の持主じゃそうじゃから、自党の連中に聞くだけでは気がすまんらしい。もちろん野球気狂いの二人のことだから野球|四方山《よもやま》話もやっただろうて。
(自由民主党総務会長を君呼ばわりするところをみると、この先生はやはりかなりの大物らしい。そしてこういう大物同士のやりとりは「妙なたくらみに加担したら承知しないぞ」というふうに単刀直入には行かないのである。お互いに腹の探り合いだ。野球のピッチャーでいえば、本気でランナーを刺すつもりの素早い牽制球ではなく、「ひとつ投げておきますよ」と山なりの牽制球を投げたのがこの大先生で、「はい、はい」とゆっくりベースに戻ったのが皆川先生なのだ)
――それでも、チクリと釘を刺しておいたから、効き目はあったと思うよ。あなた方も犬養君にちゃんと釘を刺しておかなきゃ。
――はい、それもありますが、ここいらで吹田にも牽制球を投げておきませんと、突っ走られては……。
――それはあなた方の情勢判断の問題だ。わしは口を出さん。
三月のプロ野球実行委員会に、吹田は出席を要請された。一通りの議事が終わると、一人の委員が議長に発言の許しを得て、吹田に訊ねた。
「吹田先生(おやおや、吹田もとうとう先生にされてしまった)。先生は最近、各界の有力者に精力的にお会いになっているようですね」
吹田はコーヒーを一口ゆっくり飲むと、その委員に顔を向けた。
「はて、有力者というと、例えばどういう人ですか。私も知人にはときどき会いますが」
今日は、委員である両連盟会長と各球団代表の大半に、オーナーたちから「コミッショナーに少し強い牽制球を放っておけ」なるサインが出ている。そこでその発言を引き受けた委員は、肩につい力が入り、入手ずみの人名を次つぎに速い調子で列挙した。吹田は首をかしげながら言った。
「ほう、よくお調べですね。しかし、その中の経団連の犬養さんと、ペンクラブの尾崎さんには私は会ったことはありませんな」
委員は内心(しまった)と思った。しかしこうなったら強気に出る以外にない。
「かも知れませんが、関連はおありでしょう。どういうお考えあってのことですか」
「ご質問の意味がもうひとつよくわかりませんが、私は、プロ野球の発展に協力してもらえそうな人には折に触れて会ってますよ」
今度は別の委員が質問を引き継いだ。
「コミッショナーのおっしゃるプロ野球の発展とは、現在の球団が分散して一都市一チームになるという意味じゃありませんか」
吹田は、あっけにとられた顔でその委員を見た。そしてしばらく間を置いて言った。
「ははあ、みなさんは、だいぶ前の私の夢物語と有力者との会合を結びつけて警戒してらっしゃるんですね。ハハハハ、とんでもない。私は就任のときに申しあげたはずです。日常的な運営はみなさんの優秀な経営手腕にお任せして、私はおもにプロ野球とファンを結ぶという仕事をやってみたいとね。そしてみなさんのご賛同を得たじゃありませんか。今あなたがたが挙げられた人たちは、みんな野球ファンですよ。もっとも犬養さんと尾崎さんのことは知りませんが。じゃ、今度会ってみようかなあ」
「で、そのファンの人たちの意見はどういうことでした?」
と、今度は議長が聞いた。
「一番多いのは、試合時間が長過ぎる、何とかならないかということですねえ。しかし、ご承知のように、みなさん私よりは若いが、もうかなりの年輩の方ばかりですから、それほど大胆新鮮な意見は出てこない。これからもっと若い人たちにも会って行こうと思っていたんですが」
吹田はコーヒーをもう一口ふくみ、あらためて話を続けた。
「いいですか、みなさん。私が以前、夢としてお話ししたようなことが、私とそういう少数の人の相談で進められると思いますか。そういうことは、上のほうで方針を決めて下に流すという性質のものではないでしょう。むしろ、広い層のファンなり現場からそういう希望が出てきたときに、私たちが受け止めて対処すべき問題でしょう。コミッショナーというのは、自分で新しい方針をつくり問題を出す存在ではありません。問題が生じたときには受けて、責任をもって解決する立場にはありますがね。それくらいは私も心得ているつもりです」
この局面、どう見ても吹田の判定勝ちであった。なにしろ実行委員側は、吹田と各氏の会合の内容までつかんでいたわけではないから。しかし委員の多くは、吹田との人間関係が少し気まずくなったものの、牽制球は効果があったと思った。
――札幌と熊本で妙な動きがあるようです。
――何だ。
――市民団体が、地元にプロ野球チームをつくることについて市民の意見調査をしているというのです。
――なんだと?
報告によれば、札幌でも熊本でも、特に組織の名前を名乗らぬ人たちが、いろいろな家庭や職場に現われては、
「地元の官民協力によってプロ野球クラブをつくることに賛成か反対か」ということを聞いて廻っているという。しかし、まとまった組織や団体があるのかないのかは、まださっぱりわからない。所属を聞かれると、「市民の野球同好会みたいなものだ」という答えしか返ってこない。街頭で派手に呼びかけるわけでもなく、せっかく職場や家庭を廻っても署名一つ集めもしない。ただ賛成か反対かを聞き、あとは少し雑談や意見を交わして姿を消すのだそうだ。
――吹田の動きは?
――あれ以来まったく不審な行動はありません。
――あれ以前も不審だったと決めつけるわけには行かんがのう。で、寺岡や、ほかのブラックリストの連中は?
――みんな毎日自分の仕事場で精を出し、お互いにだれとも会っていません。きわめて正常です。
――ふうむ。とにかく札幌と熊本の煙を消すことだな。火の手をあげさせてはいかん。
どこからどう手が廻ったのか、札幌市役所、北海道庁、熊本市役所、熊本県庁の各最高幹部級官僚に、中央から極秘の通達が飛び、貴地の一部市民にこれこれの動きがあるようだが極めて慎重に対処し、新聞やテレビがこの動きを絶対に採り上げぬよう万全の策を打てとの指示が出た。封じ込み作戦である。そしてこれは見事に守られた。この市民の動きは、地元の新聞でもテレビでも一切報道されなかった。また同好の市民たちも、自分たちのやっていることを新聞やテレビに売り込むようなことはまったくなかった。だから、他の地方ではもちろん、同じ市内でもこの動きに気づいた人は少なかった。一九八二年のプロ野球ペナントレースが始まって三カ月以上経ち、もうすぐ恒例の七月下旬のオールスター・ゲームというころのことだった。
――高松と仙台でも同じような動きがあるようです。それから静岡でもそれに似た気配があるとか。
――やり方はみんな同じか。
――ほぼ同じようです。少なくとも組織や団体の実体がつかめないことと、一切の宣伝をしてないことは共通しています。
――共謀だ。だれかが操っている。ブラックリストの連中は大丈夫か。
――自宅の電話だけはどうしようもありませんが、自宅や仕事場に出入りする人間に不審な者もなく、本人たちの日常もまったく変わりありません。ところで、もう二年以上前の雑誌ですが、その中にこういう記事がありました。うちの調査部の者が見つけたのですが。
――潟田六郎太?……何だこれは、巨人の悪口か。うむ、うむ、うむ、地方の復権か。これは吹田の考え方とよく似てる。おい、すぐこいつの所在を調べろ。
――はい。
――潟田は二年前に日新タイムズを辞め、海外に行ったところまでは確かですが行先はわかりません。帰国をした記録もありません。
――家には行ってみたか。
――はい。ところが奥さんも、潟田が今どこにいて、いつ帰ってくるのか知らないというんです。
――くさいな。
――ところで、調べているうちにもう一人、北川史朗という人物が浮かび上がりました。
――何者だ。
――潟田の同僚で本社勤務ですが地方を廻るのが好きな記者だったそうです。この男が上層部との衡突で昨年九月に辞めています。その原因は、北川の提案した「二十一世紀に向かう地方の姿」というキャンペーンの提案が容れられなかったからだそうです。その提案項目の一つにスポーツがあり、他の項目の取材対象に吹田晨平と寺岡篤太郎の名があります。
――何だと? そいつは今どうしてる。
――名古屋の出版社で、何でも現代日本風土記とかいうものを担当し、やっぱり地方に出ることが多いそうです。
――そいつだ!
しかし気づいたときはすでに遅きに失していた。そのころは北川は、すでに地方でやるべきことをやり終え、現代日本風土記の企画のための取材もすませ、名古屋の出版社で毎日机に向かっていたのである。
吹田の東京での陽動作戦は成功した。既成球団の役員やオーナーたちは、吹田以下七人の動静を徹底的にマークした。そして、悲しいかな、みなさん実業界の上層部でエリートをつとめること久しく、その関心は各界の同じ上層部の人たちにしか及ばなかったのである。紳士録記載クラスの人物の動静に注意を注ぐあまり、北川や志村といった人間の存在に気づかなかった。
無理もないことだ。雲の上の人たちには、絹雲や|いわし《ヽヽヽ》雲といった上層雲の様子はよく見えるが、中層の雷雲や入道雲になると頭しか見えず、入道雲の裾あたりから雨雲や霧雲といった下層雲の様子は、ご自分の肉眼では捕らえられなかったのである。そして、世の中に風を起こし、雨を呼び、世の中を霧にまいて|攪拌《かくはん》するのが下層雲の仕業であることを、雲上人たちもわきまえてはいるものの、ついうっかり忘れてしまうのだった。
しかも、吹田をはじめ上層雲の七人の動きからも、共同謀議の事実はなかなか浮かび上がってこなかった。事実彼らの関係は、吹田や寺岡を通して「まあ、ざっとそういうわけですから、いざというときには頼みますよ」といわれ、「そのときは及ばずながらお力になりましょう」と約束した程度のものだったらしい。
オーナーや大先生は、これらの強力な顔蝕れに眼を奪われ、北川が地方を歩いてつくった「見えないナイン」という草の根野球チームを知る由もなかった。それではその「見えないナイン」とはどういう人びとだったのか。残念ながら志村にも今もって見えないのである。
その時代、変化を準備する眼に見えない動きは、プロ野球だけでなく社会のさまざまな分野でも静かに進んでいた。その中には、特定の人間あるいは人間のグループが意識して進めているものもあれば、人間の及ばない大きな力が、だれも気づかぬ地底の奥深くで地鳴りや地滑りを用意しているというものもあった。
「野球の動き以外のことをきみに語るのは、おれには荷が重いが、あのころ気づいたことだけを簡単に挙げておこう」
志村は潟田にそうことわってから話を続けた。
広島で志村が鳥村ヘッド・コーチに話した、「何事も百年というのは、変革から変革への一周期かも知れないね」という百年周期説の信憑性はともかく、あの一九八二年のころは、行くところまで行ってしまって先が見えない現象が、志村の眼にも目立つようになっていた。
科学技術の開発には限界はないとはいうものの、それが現在の人間の生活条件や生活感覚に見合うかどうかとなると、志村などの実感ではもうたくさんというところであった。先進工業社会は「石油づけ」からなかなか脱し切れず、エネルギーや原材料の枯渇を予感しつつも、なおいっそう工業化へと走っていた。そして自然環境の破壊もなしくずしに進んでいた。日本でもその総合的、根本的な対策は貧しく、尾瀬沼の自然保護のために、環境庁長官が周囲への自動車乗り入れを規制する方針を決めたというような末梢的なことが、新聞にでかでかと載って「何かやってるようだ」という印象がつくられていた。
そのころの日本は、食糧の中心である穀物の自給率はわずか三三%だといわれた。長年の高度工業成長政策の当然の帰結として、一九六〇年に八三%だった穀物自給率が、十年に二〇%ずつ落ち、遂に三〇%台になったのだ。そして、日本で消費される小麦や大豆などの八○%はアメリカからの輸入に依存し、もしアメリカとの間に何かあれば、日本人は味噌も醤油も豆腐も納豆も口にできない有様になっていた。そのくせ国内では、一般の流通の対象にならない古米が何百万トンも余っており、政府は処置に困っていた。日本は自動車や電気製品などの工業製品をアメリカに売り、自分の国でつくれるはずの農産物をつくるのをやめてアメリカから買っていた。生蕎麦屋の蕎麦の原料も、ほとんどはアフリカなど外国産だといわれた。
そういう状況の上で、世界中の食物が日本にはあり、店頭にあふれ、しかも季節的な野菜や果物や魚介類の多くが、季節を問わず一年中流通していた。
テレビやラジオのあらゆる局は、もうこれ以上増やせないほど早朝から深夜まで一秒も休みなく番組を流し、テレビや新聞の広告も、これ以上増やせないほどの時間と空間を占めていた。
学校のこどもたちは、これ以上増やせないほどの勉強とテストと宿題に追われていた。サラリーマンは、これ以上増やせないほどの仕事の密度と競争に追われ、流行作家はこれ以上増やせないほどの原稿量に追われていた。
大都市にはこれ以上増やすと追突するようなダイヤで電車が走り、無数の自動車が走っていた。一方では国鉄ローカル線の多くは電車やジーゼル車を廃止し、その代わりに自動車を増やそうとしていた。どっちみち増えるのだった。
汚職事件も、ロッキードで景気をつけてからは、これ以上増やせないほど明るみにだされていた。官と民、中央と地方を問わず、日本は環境汚染列島であると共に汚職汚染列島だといわれた。
その他、「これ以上増やせないほどの」という域に達したように見えるものはたくさんあった。当然だが、それと表裏の関係で、多くの何かが「これ以上減らせないほどの」という状態にあったのだ。そして、これ以上増やせないという面の象徴として、東京とその周辺から成る首都圏があった。首都圏は、脱農業・工業消費社会の象徴だった。人間も、喫茶店も、出版社も、百貨店も、パチンコ屋も、大学も、プロ野球チームも、そして人間の中でも、サラリーマンも、学生も、自営業も、セールスマンも、政治家も、主婦も、学校や塾の教師も、それから、まるでフランス革命によって生まれたような名前の|自由業《ヽヽヽ》も、あるいは詩人や小説家など不自由業も、これ以上増えると共倒れになりそうだった。そしていろいろなものや人が、これ以上増える余地はないと思えるのに、さすがは首都圏で、ふしぎにどこかに余地があり、まだじりじりと増えていた。
「ところがだ」
志村は、コップに半分ほど入っていた水を一息に飲み干して言った。
「相変わらずじりじりと増えるものがある中で、それに隠れるようにじりじりと減るというか、沈静を始めたものがあるように思えたのもあのころだった」
「例えば?」
「いや、そのときは何かははっきり取り出せない。全体の感じだ。しかしこの話はもうやめよう。やっぱりおれには苦手だ。野球の世界に戻ろう」
(度たびのことだが、これで筆者もほっとしている。やはりこの種の話になると、志村は野球のできごとのような具体的な材料を持っていないので、いささか生彩に欠けるうらみがある。そうとも、早く野球の世界に戻るべきだ)
「ええと、どこまで話したんだっけ?」
「つまり、北川の存在が浮かび上がったのもあとの祭りで、ほら、上層雲と下層雲の話になったんだ」
「あ、そうだったな。柄にもない比喩を使ったもんだから、つい脇道にそれちまったな。さて、いよいよ一気に打撃戦と行くか」
「待ってました」
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季節風、東京に舞う
一九八二年九月下旬のある日の朝、北川史朗は名古屋のアパートで目を覚ますと、
「さて、そろそろ今日あたりだな」
と独り言をつぶやいた。アパートは六畳一間と台所兼食堂という間取りで、台所には、これといった炊事道具も冷蔵庫も見当たらない。北川は名古屋の出版社に転職するとき、妻に「予定では二年もかからないと思うよ。現代日本風土記が軌道に乗ったら、東京に帰ってきて次の仕事をみつける。名古屋でも出張が多いだろうから、おれ一人で行くよ」と言って、一人で赴任したのだ。
北川はコーヒーを沸かして一杯飲むと、下駄をつっかけて近くの駅まで朝刊を買いに出た。出張先で泊ることが多いので、新聞はとってない。
北川は駅の売店で朝刊を買うと、そのまま小脇に挟んでアパートに帰り、食卓兼書き物台に落ち着いてからはじめて第一面を眺めた。新聞記者をやっていたくせに、北川の新聞の読み方は日頃からごく大ざっぱである。しかし、一つだけ時間をかけてじっくり眼を通すページがある。それはスポーツ面だ。学芸部の記者をしていたときからそうだ。しかし最初からスポーツ面を開くわけではない。彼の読み方は一風変わっている。
まず第一面をさらりと眺める。これは何となく国民の義務とでもいった意識の然らしむるところらしい。そして国民の義務をさらりとすますと、次のページはめくらずに、海苔を火にあぶるようにそっくり裏返す。普通そこはラジオ・テレビ面である。新聞社や広告会社の人たちほ、ここを「ラテメン」と妙な呼び方をする。北川はそこをかなり念入りに眺める。そしてとりあえず聴いておきたいラジオ番組が進行中であればスイッチを入れる。さてそれからは、裏から順にめくって行くのである。だから「ラテメン」の次は社会メンを食べる、いや、読むことになる。そうして徐々にスポーツ面に近づく快感を味わうのだ。ただし一回目はスポーツ面もさらりと通過しておいて、ひとまず順々に一面に近づいて行く。学芸・文化面を過ぎるとスピードが増し、株式や経済面あたりでは眼も虚ろで約十秒で通過する。国際問題や政治のところも短い。そのころには、早く愛すべきスポーツ面に帰って落ち着きたいと、気もそぞろなのだ。かくして北川から一番冷遇されるのが、政治・経済・国際情勢ということになる。これでよく日新タイムズの学芸部記者が務まったものだ。
さて、北川はようやく安住の地、スポーツ面に帰ってきて、心おきなくゆっくりと読み始めた。そして、さっきちらりと見ておいた五段抜きの見出しにもう一度眼をやった。
“五大都市、プロ野球クラブ設立の意思表明”“コミッショナーに公開要請書、札幌・仙台・静岡・高松・熊本”
北川はにやりと笑って記事に目を通し始めた。
プロ野球コミッショナー事務局は、札幌、仙台、静岡、高松、熊本の五都市から、クラブ組織のプロ野球球団を各市に設立する許可を求めるコミッショナー宛要請書を、二十四日から二十五日にかけてあいついで受理したことを明らかにした。これは同文の写しが必要関係機関にも送られる公開要請書であり、それぞれ市民代表をトップに、市長、市議会議長、それに地元有力企業や教育機関の責任者などの連名によるものである。
北川はそこまで読むと、あいだを飛ばして記事の終わりのほうに眼を移した。そこにはインタビューを受けた何人かの短い談話が載っていた。
吹田コミッショナー  今はこういう要請書を受理したという事実を報告するだけで、私の意見や対策を述べる時期ではない。私と事務局は、当面、ペナントレースから日本シリーズに至る公式スケジュールの管理運営に全力を尽くさなければならない。要請についての具体的な検討は日本シリーズ終了後が適切だと思う。そのときはコミッショナーの責任において方針を決める。
○リーグ○○会長  たった今要請書のコピーを受け取ったところで、内容をよく見なければ何ともいえない。ただ、ペナントレースから日本シリーズヘの大切な時期に、五市の要請が何の前触れもなく公開の形で集中して寄せられたというのは腑におちない。いずれ実行委員会で慎重に検討することになろう。
○○球団○○オーナー  要請書を詳しくは見ていないので意見は差し控えたい。ただ、よきライバルが生まれるのは歓迎だが、選手の獲得や所属リーグなどをめぐって混乱が起きねばよいがと思う。それに、私のところも赤字で悩んでいるし、地方都市での経営はさらに苦労が多いだろう。
○○・○○監督  公開要請書? 初耳です。今そんなことに頭を使う余裕はありませんよ。残り試合を一つでも多く勝つ。それ以外に考えることはありません。今預かっているチームが私のすべてですよ。
○○○・○○選手  熊本から打診を受けたかって? ありませんよ、そんなこと。特に感想もありません。われわれは与えられたグラウンドで精一杯プレーするのみです。
野球評論家○○氏  私はまだ(要請書の写しを)見せてもらってませんが、無茶じゃありませんか。ほかのチームが選手を出せますか。二軍や新人だけでチームをつくろうとでもいうんですかね。まだ当分は今の十二球団体制で、きちっと技術を磨いてほしいね。
○○大学○○○教授  地方分権ということが最近よくいわれる。日本の社会の諸現象が、今までの中央への求心力収斂型から、地方への遠心力拡散型へ移る徴候を示しているときだけに、今度の官民一体の意思表明には大きな関心がある。支持するか否かは別の問題だ。
漫画家○○○氏  おもしろいねえ。もっとたくさんの市が名乗り出ないかなあ。いっそ高校野球みたいに各県一チームにしましょうよ。地方リーグがいくつもあって、日本シリーズは甲子園でトーナメント方式でやればいい。
記事はそこで終わっている。北川はそこまで目を通すと、さっき読むのを飛ばした中ほどの部分には目もくれずに、新聞をたたんで横に置いた。そして畳の部屋に移ると大の字になって寝ころんだ。天井を眺める北川の顔に、また、にやりとした笑いが浮かんだ。
今ごろ、どこでどんな騒ぎが起き、だれがどんなことを言っているかは、この名古屋の住宅地のアパートの一室には届いてこない。北川は電話もつけてないしテレビも置いてない。ラジオからは、バッハのバイオリン協奏曲の、きびきびとして晴れやかな調べが流れていた。
コミッショナー事務局に要請書が届いた翌々日までには、その写しが五市から全国の関係機関に続々と到着していた。全都道府県知事、その庁の所在都市の市長、両リーグ会長、各球団代表、主要商工会議所会頭といったところである。
文章のスタイルや項目や様式はまちまちだが、趣旨はほとんど一致していた。要約すれば、「当市にプロ野球クラブを設置し、地方文化、体育、娯楽の健全なる活性化を図り、野球協約にうたわれている、わが国の野球を不朽の国技とし、国民の信頼を確保するという目的の達成を図る」となっていた。
いずれの都市も、野球娯楽人口(プレーを楽しむ人と観る人の両方)の増大を挙げ、球場設備が充実してきたことを挙げている。そして市民の意見調査の結果を挙げる。それによれば、各層の市民の約九〇%が、その市にプロ野球チームが生まれることに賛成している。男女による差はあるものの、年齢や職業階層による差異はほとんど認められない。この賛成率は、近隣の市町村に出向いておこなった調査でも大差はない。つまり、例えば、石巻市の市民も仙台市にチームができることに大賛成なのである。
要請書はまた、球団を維持発展させるための地元共同組織体の構想と、財務分担の方法を詳述し、現在のプロ野球選手の待遇を落とすことなく、市民にとっても妥当な会費や入場料によって経営が成り立つことを力説している。これには、既設球場の改造費も織り込まれており、札幌と仙台の場合はドーム付全天候型スタジアムの建設費込みである。
選手の獲得と編成はどうなるか。実はこれが、既成球団経営者や幹部の心胆を寒からしめる内容であった。五市の構想は、既成球団の本拠地である三大経済圏と広島に五市を加えれば優に十を越える都市数となり、今後も立候補都市が出ることを考えればさらに多くのフランチャイズ設立の予測が立つ。そういう状況での選手配属は、既成球団の一時的総解体と、現支配下選手約七百人の自由意思による分散再編成を中心に新人を加えて行く方法が適切だというのである。
(何たることだ。これはわれわれへの挑戦状、いや脅迫状ではないか)と、既成球団経営者たちはいきり立った。彼らは続けて読み進むうちにさらに怒髪天を衝く形相になった。要請書はさらに、このような構想を前提に示したうえで、同県または近隣県出身の有力選手たちに非公式かつ自由な意見を聞いたところ、地元チーム結成の暁には喜んで参加したいとの意向が大多数の選手から寄せられたと記しているのだ。そしてこれを参考にして、既成球団の地元出身選手を自由意志に基づいて迎え、地元での新人公募と併せて新チームの陣容をつくるとしている。
そして、最後に、今回の要請は既成球団とリーグに影響を及ぼさざるを得ないが、野球協約の根本目的を具体化し発展させるためには、所詮ある時期における変革の過程は避けられず、コミッショナー、各球団、および関係機関は、今回の要請を全国民的視野で受けとめてほしいと訴えている。また、要請書の内容を公開としたのは、要請という事実だけでなくその趣旨内容を全国に広く知ってもらいたかったためであり、要請書の提出時期とおよその形式については、五市の代表相互が連絡を取り合って公平を期したとしている。
そして、五市以外の多くの都市が同様の意思表示をすることを歓迎し、その結果かりに当市ではなく県内または近県の他都市に球団設立が許可されたとしても、当市はその球団を準地元チームと考えて協力を惜しまないと付記してある。
五市の要請書の中から、一例としてある市の結語を引用しておこう。
戦後三十八年、そして日本で野球が始まって百余年、今日のプロ野球の発展はめざましいものがあります。教育の一環としての学生野球の隆盛はもちろん、プロ野球は全国的に観る娯楽の王座を占め、今やプロ野球のない日本は考えられないまでに至っております。
しかるに、このめざましい発展の中で、球団運営の形態と本拠地は十年一日の如く変わらず、大企業独占による二大都市圏偏在であります。もちろん、その集中された力が今日の発展の因となった過程を無視するものではありません。しかし今やその形態は刷新の時期に来ております。すなわち、一企業独占でなく地場各企業、個人、地方自治体などの複合力による都市球団への脱皮、そして中央大都市偏在でなく全国に|均霑《きんてん》するフランチャイズヘの移行を実現すべき時期であります。現在の各地方の充実した経済力と生活構造は、それを可能にし、またプロ野球の地方均霑は、地方経済、文化、娯楽、スポーツ、住民生活全体の活性化を促進するでありましょう。
コミッショナーはじめみなさまの、一日も早いご英断を切に要請するものであります。
「さて、これで両チームのベンチとスタンドが、にわかに活気を帯び始めたわけだ。ところが、あまりに急に打撃戦の様相を呈したものだから、いろんなものがいっぺんに噴出して、どこからきみに話していいのか迷うなあ」
志村は小さなウイスキー・グラスをコクリとあおり、ウエイターがコップに注ぎたしてくれた水を喉に送り込んだ。
「どこからでもいいよ。思いついた順で」
「それにしてもだ。ほんとの野球のゲームとちがって、攻守交替のけじめもない。守備についてるかと思うと、飛んできたボールをユニフォームの背中に差していたバットで力まかせに打つ。第一、ふたチームではなくたくさんのチームが一つのグラウンドで入り乱れてやっている。敵も味方もわからない奴が多い」
「それじゃ、ゲームじゃなくて乱闘だな」
「そのとおりだ。しかしさすがに吹田さん、そのときにはいつのまにかわれわれのユニフォームを脱いで、主審の姿になり、ホームプレートのうしろから一歩も動かなかった」
「なるほど、で、塁審は?」
「いや、いなかった。プレート・アンパイヤー一人で事態を収拾したというところだな」
「第九イニングの攻防にはどれくらいの時間がかかったのかな?」
「実質わずか三カ月だな。延長戦にはもつれ込まなかった」
「セカンド志村は何をしてた?」
「もちろん、おれだって背中にバットをしのばせていたさ」
「外野の北川は?」
「あまりに深く守っていて、おれからは見えなかったよ。試合が終わったらひょっこり姿を現わした」
「で、スコアは?」
「だれもスコアブックなどつけていなかったさ」
「そりゃまた、えらい試合だな」
「さて、そのスコアブックのないゲームを、何とかしてきみに伝えなけりゃならんな。思いついたところから行くか」
さすがに、まずいち早く守備固めに入ったのはセ・パ両リーグの責任者と各球団幹部だった。各チームのナインには、オーナー、球団代表、それに監督から、「わがリーグ、わが球団は、たかが五つのちっぽけな都市の荒唐無稽な言動に揺らぐような組織ではない。第一、あんな要請書の内容が、五年や六年で実現するはずがない。今やペナントレースの大詰めで、諸君の来期の年俸額はこれからの働きにかかっている。それぞれの目の前の仕事を精一杯やってほしい。万一、記者のインタビューなどで、きみたちの去就についてわが球団に不利な発言のあった場合は、契約違反で直ちに辞めてもらう」という趣旨の訓示があった。
同時に、オーナー諸公の手はいち早く政界の諸先生のふところに廻り、諸先生のふところから出た手は、どこをどう廻ったのかはわからないが、各省や中央官庁から全地方自治体の長に電光石火の指令となって飛んだ。電話と極秘の指令書によってである。官庁間の文書というのは、とかく昔の勅語のような漢語修辞句が多く、若い人にはピンとこない点が多いので、これを口語体にこなすと次のようになる。
いいか、耳の穴をほじくって聞け。だれだ、鼻の穴をほじくってる奴は。大体だな、今度の五つの市の|長《おさ》どもは腰抜けぞろいだ。二カ月も前に不逞の|輩《やから》の動きを察知して気をつけろと言っといたんで、先刻承知と思いきや何のこたあねえ。てめえたちまでご丁寧にサインしてよこしたじゃあねえか。地元での自分一人の首かわいさによ。東京の親分がもうあいつらの面倒は金輪際見てやらねえとおっしゃるのはあたりきだ。
いいか、残ったおめえたち。同じようなまねしやがると、ただじゃ置かねえぞ。縁の切れ目が金の切れ目と思え。あれ、反対だったかな。とにかく不逞の輩が動けぬようにしめあげろ。サツに頼んでもかまわねえ。尻ぬぐいは東京の親分に任しとけ。いいか、わかったな。ゆめゆめぬかるんじゃねえぞ。
実際はこれが「貴職の部下に、時局の認識に欠ける言動なきよう」とか、「一部住民の運動には慎重に対処し、善処されたく」とか、「追って地方交付金等の臨時措置については貴職と充分なる意思疎通のうえ」とかいうことばで伝えられたのである。
さらに既成球団側は、緊急オーナー会議と緊急実行委員会を可及的速やかに開くこととし、実行委員会には吹田コミッショナーの出席を求めた。
さて、既成球団経営陣がいち早く守備固めに入ったと同じころ、われこそはホームランをとばかりバットを振って走り廻ったのは、新聞、放送、週刊誌などの勇敢なる記者諸君であった。
この時期、一九八二年度のペナントレースは、両リーグともすでに大勢は決し、各チームも十試合前後を残すのみとなっていた。一年二期制のパシフィック・リーグでは、このあとプレーオフがあり、十月下旬から日本シリーズが始まるとはいうものの、野球ファンの心にはすでに淋しげな秋風が立ち始めていることは否めない。(そしてもうすぐ、テレビをひねっても選手のユニフォーム姿が写らず、新聞をひろげても、試合のスコアや選手の個人成績を示すあの魅惑的なディジタルな記事がない、退屈のあまり死にたくなるような寂莫たる季節がやってくるのだ)という予感にファンは怖れおののく。ニュースを提供する側、特にスポーツ専門紙は、ファンに退屈のあまり死なれてしまっては、自分たちの命も危ない。そこで有名選手を追いかけてあれこれの話題を創造する。野球は徹底的にディジタルな世界であるから、シーズンオフもそれで行きたい。そこで“○○選手、三五、六〇〇、〇〇〇円でしぶしぶサイン”とか、“ルーキー○○、契約金五〇、〇〇〇、〇〇〇円(推定)”などの個人成績を、“政治資金初の大台一一二八億円、自民一気に三〇%増”といった集団成績と同じか、あるいはそれ以上の大きさの見出しで扱うこととなる。
一方ファンは、シーズンオフにこればっかりやられては、いつもゼロが一つ足りない自分の個人成績を深く反省させられることとなり、今度は退屈のあまりでなく絶望のあまり死にたくなる。そこでスポーツ紙はまたネタを探す。テレビ、ラジオの場合は、ドラマという裏番組を表に廻せば何とか凌げるが、スポーツ紙はまさか全面芸能記事やハード・ポルノ小説というわけには行かない。どこかに野球の匂いを残してファンを励まし、生き延びさせねばならぬ。春の訪れまでの辛抱だ。春になれば、それから晩秋までは、ファンはほっといても死なない。
こういうわけだから、記者諸君は公開要請書の話題を救世主のように迎えて勇躍戦場に赴いたのだった。しかし、コミッショナーやオーナーや監督たちのところにいくら足を運んでも口が重くて話にならない。やはり記事にして映えるのはスター選手である。そこで試合終了後のヒーローのお立ち台を狙う。
「勝利打点つきホームラン、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「どんな球でした」
「インハイのまっすぐじゃないですかね」
「どんな気持でボックスに入りました」
「いやあ、とにかくランナーを進めることだけ考えてました」
「打った瞬間の手応えはどうでした」
「真芯でとらえましたけどね。まさか入るとは思いませんでした」
「いよいよあと六試合、ホームラン王をせり合ってますが、今のお気持を聞かせてください」
「いやあ、とにかくチームのためにがんばるだけですよ」
何ともつまらぬ問答である。こういうやりとりを教育の分野ではパターン・プラクティス、文型練習という。つまり、ことばのお稽古であって自由な自己表現とはいい難い。この責任は一にかかってインタビュアーにある。質問が愚問だと答えも愚答になる。聞かれている選手と、それを聞いているファンはいい加減うんざりしているのだが、インタビュアーだけは興奮して声をうわずらせ、「お気持を」などとやっているのである。しかし、今日からはこれに加えて新鮮なテーマが加わることになった。
「ところで、あなたの出身の高松からも新球団設立の要請書がコミッショナーに届いたそうですね」
「だそうですね」
「お気持を聞かせてください」
どうしてこう、ひとの気持ばかり知りたがるんだろう。ほんとに気持が悪い。それは、「意見を聞かせてください」とやると「何もありません」と、素直な答えが返ってきてしまうからである。これに対して、気持が何もないという人間の状態はあり得ないと信じられているから、何かは答えてくれるだろうという期待が「お気持を」という質問になるのだ。答えるほうも「何もありません」では、冷たい血の持主か感受性の薄い人間ととられかねないと思うあまり、何か答えになりそうなことばを探す。感受性が高いといわれる日本人には特にこの傾向が強い。インタビュアーもそれを熟知しているから、普通なら「ご意見を」と直球で行くべきこのケースに、「お気持を」と甘いスライダーを投げて打ち気を誘おうとした。
しかしさすがは好打者、出かかっていたバットを引っ込めて唾を飲んだ。
「いや、別に……」
それっきり黙ってしまった。沈黙はインタビュアーの責任である。そこで一歩突っ込む。
「何か打診はありましたか」
「いや、別に……」
「あったらどうしますか」
「いや、別に……」
「とにかく何かひとこと」
「いや、別に……。まだペナントレースは終わっていないんですから、今日明日を精一杯やるだけですよ」
やっとひとこと出た。これでいいのだ。あとは各記者がそれをどう料理するかという領域に移る。翌朝の新聞の見出しは、“○○選手、高松への態度保留”あるいは、“○○選手、高松行きを否定せず”などとなるだろう。しかし彼の所属球団の系列紙は、“さすが○○、高松行きを断固拒否”とやるだろう。断固かどうかはともかく、ふしぎにどれも、まったくのでたらめとはいえないのである。彼のひとことは、記者の感受性によって七変化するのだ。
五都市の要請書問題と、それに関する取材攻勢に対して、十二球団の中でいち早く対策を立てたのは、さすが球界のリーダーを自任する読売ジャイアンツであった。しかもその対策は、直接要請書問題を非難するようなやぼなものではなく、実に紳士的で水際立った措置であった。「一九八四年のジャイアンツ創立五十周年に向けて、ファンのご愛顧に応えるべく、今年から二年計画の記念事業を展開します」と発表したのだ。加えて、「読売ジャイアンツは、二年後の一九八四年十二月二十六日の創立五十周年記念日を期して、正式名称を創立当初の“東京ジャイアンツ”とします」とやった。そして、読売新聞、報知新聞などの系列紙と、日本テレビとその系列局が、これを世紀のロングラン・キャンペーンとして報道し、記念事業に対するファンのアイディア募集を開始した。
これは、守備固めというよりは、むしろ打ちに出たと見るべき局面であろう。右方向をしぶく狙ったヒットであり、次は盗塁か、ヒットエンドランか、あわよくば一発長打を期待する布石であった。
「巨人さん、なかなかやるじゃないか」
と、吹田は浦山事務局長に言った。
「五十周年を二年後に控えた巨人、その歴史と伝統に終止符を打とうとするような暴論は許せないということを、ファンに考えてもらおうとしているのだ。そして一方では、世論の方向を察知して、親会社の名前を引っ込め、東京のシンボルとしての都市球団の衣裳を着け始めたようだな。さすがお見事」
記者たちは相変わらず有名選手たちを追い廻していたが、巨人の選手についてはこのキャンペーンの発表が効を奏し、「聞いても無駄だ。こういう雰囲気では“くににチームができればそっちへ行きます”などと言う選手は出るはずがない」ということになってしまった。記者たちの流れは、他の球団の五都市出身選手に向きを変えて行った。
吹田は遂に、両リーグ会長と連絡をとり、三人の連名で、「少なくとも日本シリーズを含む公式スケジュール終了までは、要請書問題についての選手へのインタビューは自粛してほしい」趣旨の要望書を、全報道機関に送った。
緊急実行委員会は十月四日開催と決まった。その二日前、首都圏と京阪神の球団のオーナーのうち七、八人が集まって会談した。正式のオーナー会議は、四分の一以下の臨時代理人を含む全員の出席をもって定足数とすると野球協約に定められている。だからこれは正式の会議ではなく、有志の緊急会合といったところだ。
「いったい、だれがあんな根回しをしたんでしょうね」
「私は、農協の寺岡篤太郎が吹田さんの依頼を受けてやった仕業だと思う」
「そうでしょうな。以前の吹田発言、それから農協雑誌の寺岡談話と、今度の五つの要請書は、どこか一脈通じている。これに最近見つかった潟田とかいう男の書いたものを入れると、ずらりと繋がってしまいますな」
「そうすると、吹田さんは、自分からの要請を、自分宛ての要請書にして出させて公開したことになる。まったく油断できないじいさんだ」
「ただ、その|尻尾《しつぽ》をつかめない以上、内容の類似だけで彼をとっちめるわけには行かん」
「ええい、じれったいなあ」
「しかもこのところ、吹田さんはじめ私たちがマークした人間は、だれ一人自分の持場を離れてないし、お互いの会合もないというじゃありませんか。ここ半年以上もですよ」
「個人の姿は見えているが、組織として浮かび上がってこない」
「敵の姿が見えないというのはいやなもんですな」
「北川とかいう男のことも、私のほうで全国に指名手配したんですけどねえ。さっぱりつかめない」
「あるいは地方の連中がぐるになって|箝口令《かんこうれい》を敷いているとか」
オーナーたちは、見えない敵にいらいらして、つかみどころのない話を続けている。いずれも育ちがよさそうな品格あるおじさんやおじいさん方である。一人のおじさんが話題を変えた。
「あの五都市の共通性は何でしょうね」
「さて、おたくの主力工場と支店の所在地じゃなかったかな」
「それはちょっと、この際、冗談がきついですな」
「ハッハッハ、失礼」
「非常に計画的な配置ですよ。北海道、東北、中部、四国、九州のそれぞれ代表的な都市でしょう。これに今の球団のある関東、近畿、中国を入れれば、ほぼ全日本になる」
「なるほど、何となく元環境庁長官の広域自治体連合を思い出させますね」
「やっぱりくさい。しかしこれも決め手にはならん」
「それにしても、この狭い日本で地方分権もへったくれもありませんよね。まったく」
「せっかく百年かけて中央集権の近代国家をつくり、アメリカに次ぐGNPを達成するまでになったのに、また徳川時代以前に戻そうというんですかね」
「下手をするとまた各国から黒船が隙をうかがいにくる」
「文化人というのは、現実を見きわめずにものを言ったり書いたりするから困りますよ」
緊急の会合にしては、いやにゆったりした話題になったものだ。それというのも、すでにいち早く、上は政治家や官僚を通した地方自治体工作と、下は球団幹部から選手に至る伝達をやっている自信の現われだろうか。そういうふうに見ると、オーナーたちの血色の良い顔からは、(先生方の政治も、吹田晨平の文化も、虚業に過ぎぬわ。私たち実業家が日本を支え、彼らを食わせてやってるんだぞ)とでもいう、したたかな秘めたる自信がにじみ出ているようでもある。
「で、どうします。何人かが代表で吹田のじいさんに会って単刀直入にやりますか」
「いや、今の段階では実行委員会に任せておこうじゃありませんか。あそこでは少しもめてもいい。その結果を見て先生に相談することにしては」
「先生のところに行くとまた金が要りますよ。ここは一つ、兜町の予想では九月決算最高潮というSコンツェルンさんに中心になってもらって」
「ずるいずるい。やっぱりチームの勝率スライドですよ」
ときどき軽口をたたきながらも、オーナーたちは冷静に対策を練っているようである。しかしこの段階でも自分で直接吹田に会ってとっちめようとする人はいない。吹田と敵同士になろうとする男がいないのだ。やはりみなさん、大組織の中でエリートとして育ち、大組織の頂点に立つ方ばかりである。今までのように上と下の組織と金を使えば、たかが五つの地方都市が東京に送ってよこした風ぐらい、軽く鎮めることができると判断しているようだ。
緊急実行委員会は、冒頭から荒れ模様の打撃戦が続いている。というのは、議長がまず最初に、要請書の宛先である吹田コミッショナーに意見を求めたところ、吹田は言下に、「要請書の趣旨に基本的に賛成である」と言ったからである。議場がざわめくのを鎮めて、吹田は次のようにつけ加えた。
賛成というのは、考え方つまり思想の問題であって、賛成だからすぐ実行しようと言っているのではない。五つの都市が意思表示をしただけでは、まだ全国的に分厚いコンセンサスとは受けとれない。第一これは、現十二球団のうち五つが今の本拠地を離れれば、ちょうど十二都市十二球団になるという問題解決法とは根本的にちがう。
「私は実行委員会の席上だからこそ私の意見をありのまま申しあげたのです。外で待っている記者諸君や他の人には、まだひとことも言うつもりはありません。受理当日に私が言った、日本シリーズ終了まではこれについて一切の言動を控えるという態度は、この部屋の外ではまったく変わりません。みなさんもそういう前提で、ここでは率直に意見を述べ合っていただいたらいいと思います」
と言って、吹田は最初の発言を終えた。
少数の委員は吹田の話を冷静に受け止めていた。しかし大多数の委員、つまり球団代表は頭に血が昇ったようだった。議長が意見を一巡させようとする努力も水の泡で、吹田に対する非難が集中した。
「やっぱり吹田さんは元凶だったんだ」
「環境庁長官時代の政治の世界を、清らかなスポーツの世界に持ち込んで野心を達成しようというわけですか」
「今回の五都市は、あなたが長官在任中に深い関係を持った一道四県にあります。この派手な公開要請書工作は、あなたが参議院全国区に立候補するための、私利私欲による売名行為だ」
吹田は「おっしゃることがどうもよくわからない」といった顔つきで、コーヒーのお代わりなどをしながら過してきたが、さすがにこのときは苦笑いして口を開いた。
「私には関係のないことですが一つお聞きしたいので。あの、参議院は私利私欲で立候補するところなんですか」
あるいはこういう発言もあった。
「今回のコミッショナーの陰謀に対しては、われわれは毅然たる態度で対処します」
吹田は口まで出かかったことを我慢した。
(毅然たる態度などということばは、自分がやろうとしてることに使うもんじゃないんじゃありませんか)
売名行為、元凶、陰謀、狂気、その他いろんな|語彙《ごい》が動員され、吹田にぶつけられた。吹田は我慢を通り越してあきれはて、透明な感覚になって聞いていた。
そのうちに一人の委員が、吹田に向かって口を開きながら、泣き出して絶句し、そしてまたことばを継いだ。
「今まで汗を流して営々と築いてきた、セ・パ両リーグを、あなたは……二年ちょっとのあなたは……。選手、従業員、家族のことを考えると……。世間知らずのあなたに……。いったい……」
やがて議長が、ほとんど何も口を出さない吹田に、
「吹田さん、諸君の発言に対して何か……」
とうながした。吹田は困った顔をして言った。
「何かといわれても、何もありませんよ。要請書の趣旨に賛成だと申しあげただけで、それだけで私が陰謀の張本人になってしまうんですから。この間も何か私は疑われてたようですが、何かベンチからのサインの見まちがいじゃありませんか。とにかく、わずかな材料を手がかりにして泉のように湧き出るみなさんの想像力には、ただただ感心するのみです」
そして今度は少しこわい顔をして言った。
「五つの市から公開要請書が一斉に送られてきたことが私のたくらみだとお考えになるのなら、私ではなく五市を徹底的にお調べになったほうがいいんじゃありませんか」
一座にしばらく沈黙が流れた。やがて一人の委員が腹の底から絞り出すような声で言った。
「いずれにしても、あなたは、賛成を表明された。つまり、現在のセ・パ両リーグ十二球団の体制に対する反対を表明されたことになる。これは野党の発言だ。私は、われわれ実行委員が、あなたをコミッショナーに選出した不明を恥じます」
そのとき、それまで発言しなかった一人の委員が手を拳げた。
「どうもみんな意見になっていないようです。これでは国会よりひどいんじゃないですか。つまり、もう一度、五つの市からコミッショナー宛てに要請書が来たという事実に戻ってみる必要があると思うんです。その内容についてまだ何の論議も始まっていません。内容の是非を吟味することも必要でしょう。それともみなさん、頭から無視なさろうというのか。そのへんはどうなんです」
吹田はこの発言を待っていた。そして言った。
「おっしゃるとおりだと思います。しかし、たった今私は、それが困難であることを学ばせていただきました。この問題の処理は、コミッショナー事務局が責任を負うのが適当と考えます。実行委員会は、いずれにせよ現在のセ・パ両リーグ、現在の球団の代表者のみで構成されており、このような新しい質の要請について、その可否を論議する場としては不適です。
就任以来みなさんと度たび確認したとおり、私はコミッショナーという役割を負った個人です。それはただ、現存する両リーグをまとめる地位ではなく、それを超えて、野球協約にある、日本のプロ野球の飛躍的発展に身を捧げる個人です。私はそういう個人として、二年半の間発言し、行動し、できるだけ多くの人に協力を求めてきたつもりです。いうまでもなく、個人としてなら何でもいえるという安易な気持で申しあげているのでないことだけは、おわかりいただけると思います。私の考えでは、個人としての言動が、実はその人間にとって一番責任の重いものだと思います。そしてその私の言動が、日本のプロ野球の将来の発展に明らかにもとるようなことがあれば、それは責任をとるといってもとりきれない、つまり辞任したところで片のつかないことであることを自覚しているつもりです。先ほどお一人が、委員会が私を選出したことの不明を恥じるとおっしゃいました。心からご同情申しあげます。はっきりいえば辞任せよということだと思いますが、私のほうは今は、はいそうですかといって降りるわけには行かないのです。
私は以前、コミッショナーの仕事の実体をプロ野球とファンを結ぶことに求める、とみなさんにお話しし、ご賛同を得ました。ご承知のように、今回の五通の要請書には、市当局や複数の企業の方々と共に、多くの市民代表の方々がサインしています。これは今までのような、一企業が球団を持ちたいという希望とは根本的に異なり、それ自体がファンの声の一つだと私は考えています。これへの対処は私の全責任でやらせていただきます」
吹田は珍しく長いこと一気にしゃべった。いつのまにかみんなはしんとしてしまっていた。やがて、吹田が話すきっかけとなる発言をした委員が言った。
「コミッショナーの人格と力量にお任せしたいと思います」
もう一人が間を置かずに言った。
「私も吹田さんにお任せします。ただ、ことはやはり慎重に運んでいただきたいと思います。吹田さんも先ほどおっしゃってましたが、ともかく日本シリーズが終了するまでは、コミッショナーも各球団・リーグ責任者も、外部への発言は一切控えることを、ここでもう一度確認したいと思います」
「賛成です。私のほうはそうお約束します」
と吹田は答えた。
他の十球団の代表と両リーグ会長は、依然として黙り込んでいた。しばらく経って議長の委員が言った。
「ごく一部の都市の動きとはいえ、対処を誤れば日本のプロ野球の浮沈にかかわる問題です。軽々しく結論は出せません。実行委員会としては、日本シリーズまでのことは、オーナー会議ともよくはかって、明日中にコミッショナーはじめみなさんにお知らせします」
これは何ともふしぎなことばであった。つまり、これはプロ野球の浮沈にかかわることだから、オーナー会議の意向次弟では、日本シリーズ終了前、あるいはペナントレース中でも、反対または賛成の行為に及ぶこともあるぞということになる。そして議長は、そのことばとともに散会を宣した。
要請書への対処を吹田に任せると意思表示した二人を除き、残る十二人の委員は吹田の発言に対して沈黙を通したまま、実行委員会は散会した。吹田の述べたコミッショナーの役割を黙認したのか、否認したのか、明らかにそれは否定的沈黙だった。しかしとりようによっては、コミッショナーの役割を黙認したことによって、その役割が生み出すであろう言動にはすべて反対するぞという意思表示とも見えた。そしてその日の委員会にかぎっていえば、十二人の委員の胸には吹田に対する敗北感が残った。やはり沈黙は敗北感につながる。吹田のあごのあたりをめがけて投げたブラッシュ・ボールを、吹田に打ち返されてしまったのである。こうなったらもう、一塁ベースまで這っても行けないようなデッドボールしかないのではないか。それが沈黙の中味であって、決して試合放棄だったのではあるまい。彼らの作戦は、吹田から試合開始早々「要請書の趣旨に基本的に賛成である」としゃあしゃあと言われたことで狂ってしまったのだった。
実行委員会からコミッショナー事務局に戻ってきた吹田は、浦山事務局長をはじめ事務局のスタツフ全員を集め、実行委員会で表明した自分の解釈と意志を淡々と伝えた。そして一通り語り終えると、あらためてみんなの顔を見廻した。
「ぼくの考えが根本的にまちがっていると思う人はいますか」
一同はしばらく黙っていた。やがて若い堀田が発言した。
「根本的にまちがっているとは思いませんが、問題は今後の対処次第だと思います。今のところ要請書を出したのは五都市です。この段階では、既存の機構を含めたプロ野球全体の構造を検討して結論を出すのは時期尚早だと思います。もう少し事態を静観すべきでしょう」
「堀田君の言うとおりだ」
と吹田は答えた。
「ぼくも今はそういう時期だと思う。こちらが動くと、全体の動きを見失うこともある。静かにしているとよく見える」
浦山事務局長は、この吹田のことばのように静かに控え目にしていた。そして事務局員たちの反応に気を配っているようだった。堀田のほかにはあまり意見は出なかった。全体の雰囲気は、堀田の意見に代表されているようだった。吹田はみんなに、とにかく日本シリーズが終わるまではその管理運営に万全をつくし、要請書問題については一切言動を慎むよう指示した。
みんなが自分の机に戻ると、吹田は浦山を誘って行きつけの喫茶店に入った。
「事務局のみんなは、ひとまずぼくの根本姿勢をわかってくれたようで、嬉しいよ」
浦山は無言でうなずき、コーヒーを一口すすると、周囲をたしかめたうえで低い声で言った。
「さっき堀田君に言われたように、今は吹田さんは静かになさっていていいでしょうね。今まで、ひとが静かだったときに動けるだけ動かれたわけですから」
吹田は、静かに話す浦山の眼にじっと見入っていたが、やがてほほ笑みながら言った。
「動いてやしませんよ。ぼくの日常はきみが一番よく知ってるくせに」
「わかってますよ。吹田さんは静かに動いていた。実際に動いていたのは、寺岡さんと北川さんでした」
「さすが、浦山君はお見通しだったね。今となっては、ぼくもそのほうが気が安まる思いだよ。何度きみに打ち明けようと思ったか」
「いや、いいんですよ。北川さんと私とでは役割がちがうんですから」
「でも、ぼくが動かなかったというのも一面の事実でしょ。ぼくはただ、いい人たちに恵まれただけだよ。もちろんきみも含めてね」
「私が何をしました?」
「きみは事務局長のつとめを静かに果たしてくれていた。そして私のことを黙って見ていてくれた。きみがそういうきみでなかったとしたら、ぼくは今頃どうなってたかわからないよ」
静かにほほえむ浦山に、吹田は続けて言った。
「さて、いよいよきみの出番ですよ。つまり寺岡君や北川君が引っ込む番だ。何だか急におなかがすいてきたよ。蕎麦でもつきあってくれないか」
「今日のことは今日中に解毒ですか」
「ハハハ、そのとおりだ」
二人が喫茶店を出たとたんに、強い風が立ち、二人の頬を横撫でにした。
「季節風かな?」
「田舎だと、|野分《のわき》の風というところですね。吹田さん、今にもっと強い風が、野を分けて東京に吹いてくるんじゃありませんか」
「台風にならなきゃいいがね」
と吹田は言った。
実行委員会の報告を受けたオーナーたちは、自分たちが選手に送ったサインが不適当であったことを認めた。サインは「毅然たる態度で臨め」だった。賢明なオーナーたちは、かえって吹田に毅然たる態度を取られてしまったことを察した。ベンチからの徹底しないサインはいっそないほうがましだ。もし出すとすれば、球団代表たちのように脂の乗り切った実務家へのサインは、高度に抽象的なものではなく、実務的なものを選ぶべきであった。まるで、二死満塁でカウント・ツースリーの打者に「毅然たる態度で好球必打」とサインを送ったようなものだ。そんなことはあたりまえであって、サインなど送るべき場面ではない。送ったほうも送ったほうだが、こんなときにベンチを振り返った打者もどうかしている。眼と眼が合って、なくもがなのサインが出たものだから、バッターは異常にハッスルし、吹田投手がまだ一球も投げないうちからビュンビュン振り廻したバットが、吹田の近くまで飛んで行ってしまった。
オーナーたちは対策を協議した。地方の要請を処理する責任はコミッショナーにあるとする吹田の考えは、筋が通っている。これについては論争を避けよう。日本シリーズ終了までの言動自粛についてはどうか。これは吹田が申し入れたからではなく、要請書無視という余裕ある態度を示すために同調しようではないか。しかし、要請書問題に直接触れないかぎり、吹田との約束を破ることにはなるまい。
「例えば巨人さんの五十周年に向けたキャンペーンのようにやればいい。西武さんは“西武球場五周年記念ドーム建設に向けて”とか、大洋さんは“史上唯一の優勝から二十五周年に向けて”とか」
「ちょっと、急に皮肉を言わないでくださいよ」
それからオーナーたちは、要請書の趣旨やコミッショナーの態度への直接の反対行動であっても、都民や府民の有志が自発的に動き出すのであれば、約束違反にはならないはずだという卓見に至った。
「それはしかし、われわれと無関係だということを、よほどはっきりさせておかないと、吹田のじいさんを怒らせますよ。運動員の顔触れや金銭の出納には気を配らなければ」
「もちろんそうです。そして、シリーズ終了と共にわれわれが先頭に立つ」
「これはやはり当面Y新聞さんの仕事だな。都民や府民の献身的、情熱的な動きを、Yさんの本紙や系列紙で|客観的《ヽヽヽ》に報道してくださいよ」
「うむ、それは引き受けた」
「それからテレビ、これは系列のいかんを問わず、中央のキー局の利害関係は一致します。プロ野球が全国に分散してごらんなさい。ネットワークのうま味は激減ですよ。ですから、この各局にも|客観的《ヽヽヽ》な報道をしていただく。とにかく、日本シリーズ終了まではYさんにお任せしよう」
「いいですなあ、Yさんは。マスコミという|似《え》而|非《せ》客観の武器を待っていらっしゃる」
「あとで、それなりの請求書は廻しますぞ。で、シリーズ終了後はみなさんも会社を挙げてやってくださいよ」
「もちろんですよ。そのときは中心バッターは何といってもS鉄道さんですな。傘下のデパートやスーパーなんかの店頭をフルに活用していただく」
「バーゲンセールはそんなにできませんよ」
「ハハハ、予防線をお張りになった。いや、ほれ、“栄光の十二球団写真展”とか、スターのサイン会、有名人からのアピール」
「それは街頭でもおおいにやろう。署名運動もね」
そういうおしゃべりに加わっていなかった一人のオーナーが、それまでの空気に水を差すように言った。
「ところでみなさん、最悪の事態も予想しておいたほうがいいんじゃないかな」
つまり、いみじくも吹田コミッショナーが言ったように、既存球団の七都市に新たな五都市を加えれば十二都市になり、一都市一球団のベースができる。一歩譲ってそれが避けられない事態も想定し、なおかつ現十二球団を温存させる策も講じておいたほうがいいのではないか。
「そうなると、ジャイアンツは涙をのんで熊本ですね」
「仙台にはロッテちゃん」
「あとの川崎にはヤクルトさんが移る」
「四国の高松には社名からいって南海さんに渡ってもらう」
「静岡は、西武さんが国鉄の東海道在来線の赤字を肩代わりして面倒を見る」
「札幌は?」
「ま、ハムは北海道で作っていただきましょうか」
「あれれ、待てよ、東京がゼロになっちゃうじゃありませんか」
「まじめな話、そういう用意があることぐらいは要請書の知事や市長にそっと伝えておいて不利になることはないでしょう」
「巨人を迎える熊本なんぞは、地元クラブの青写真も色あせて、官民こぞって感涙にむせぶんじゃないかな」
「ま、これも一応先生に相談してみましょうよ」
やがて、オーナーを代表する三人の紳士を乗せた黒塗りのセンチュリーが、赤坂方面に消えて行った。
この時期、つまり一九八二年十月は、政界が保守堅持党と近未来革命党に大別されたばかりのときである。そしてオーナーたちのいう先生とは、その保守堅持党の副総裁だった。
保守堅持党は、それまでの自由民主党に保守系諸党を糾合して発足した。すでに三十年以上も保守政権が続き、もう何を言っても何をしても大丈夫という自信が、自由何とかとか民主何とかとか国民に迎合するような建前だけの名称を必要とはしなくなっていた。このことと、もっと政策をはっきりさせよという国民的要望とが合致して、保守堅持党なる名称が生まれたのである。
これに対して革新系諸党も対抗すべく、小異を捨てて大同につき、近未来革命党を名乗った。そのとき、未来か|近《ヽ》未来かをめぐってもめにもめ、そのためにまた分裂しそうな気配にまでなったが、どうにか「近」をつけることでまとまった。しかし、近未来とはいつごろを指すのか、大体でも決めておかなければ国民の支持を得られないという意見と、いやそれはその都度の状況洞察によるものだという意見の調整がなかなかつかず、延々と持ち越されることになった。そして、一九八八年現在に至るも統一見解は出ていない。しかし「近未来」についてのおよその用法は、時々刻々とやってくる「現在」の大体五年先だといわれていて、革命も時々刻々と五年先にずれているようだ。
さて、その保守堅持党副総裁と三人のオーナーとの会談である。
「全国へのマル秘通達の効果はあったと思うよ」
「ほんとうに、おかげさまで」
オーナーたちは頭を下げた。そして、通達を追いかけて、できれば地方ににらみの効く高級官僚を全国に派遣してほしいと懇請した。副総裁は難色を示した。
「今は視察旅行の名目を作りにくい時期だしなあ。ご承知のように、行政改革案は何とか骨抜きにできたけど、今はちょっとしたことでも足の引っぱり合いでね。皆川君も眼を光らせているようだし」
やっぱりこの声は、いつか「吹田が本気になれば、そのときは私がばっさりやってあげるよ」と言っていた大先生の声だ。
「そこを何とか一つ」
大先生は結局その工作を引き受けた。その後四人は、薄暗いからこそかえって豪奢な感じのする奥まった一室で、ひそひそと打ち合わせを続けていた。大先生の顔は何となく不機嫌に見えた。やがて密議は終わったようで、オーナーの一人が念を押すように言いかけた。
「じゃあ、先生、ひとつできるだけ早く地方へ……」
オーナーのことばは、選挙演説でつぶれた大先生の咆哮の前に吹き飛んだ。
「わかってますよ! 心配せずに足元のことをきちんとおやんなさい。何も東京や大阪からも吹田のじいさんにラブレターが行ったわけじゃないでしょ! 江戸城と大阪城を死守しなさい! これで日本は制することができるんじゃ。カープと|ドラゴン《ヽヽヽヽ》以外の選手を一人も敵の手に渡すな!」
興奮のあまり大先生、ドラゴンズの複数のズをカープにつられて抜かしてしまった。
三人は座卓に頭をこすりつけるようにし、それからおもむろに、何やら風呂敷包を大先生の前に差し出すと(何やらといっても、こういう場合は大体何かわかっているわけだが)、帰り支度に移った。
オーナーたちは、実行委員会を通して、日本シリーズが終了して完全なシーズンオフになるまでは、要請書問題に関する外部への発言や行動を一切控えることを吹田コミッショナーに約束した。
それから数日後、大先生は吹田コミッショナーと自党の皆川総務会長の二人を、昼食に招待した。伝え聞くところによると、国民栄誉賞の今後の運営について話し合いたいということだったようだ。
さて、これからが志村の好きな推理である。好きと上手が必ずしも一致しないのは残念なことだが、志村の語りがここに至って熱を帯びてきたので、折角だから少しつきあおう。
大先生はオーナーたちには政治工作の難しさをほのめかしておき、一方では、敵が組織になっていないこの段階では、中心人物の吹田を消せばいいと判断した。さすがに大先生、日本シリーズ終了後には吹田が一挙に攻勢に出るだろうと読んだ。うかうかしてはおれない。そこで、ふところ刀の部下に「あれを用意しろ」と命じた。時限毒薬である。若き革命家は時限爆弾を用い、老いたる政治家は時限毒薬を使う。
「時限」といっても、一定の時刻になると突然カッと眼を見開いて息絶えるという見え見えの古典的な代物ではない。通常は一カ月以上経つと次第に病状が現われ、どんな名医でも毒を発見できず、何らかの|正常《ヽヽ》な病名を所見とせざるを得ない完全犯罪用毒薬である。スープなりコーヒーなりに、ほんの少量入れておけばいい。そして早ければ一カ月後、どんなに持ちこたえても三カ月以内には死んでもらえる。そういう毒薬がひそかに開発され、実は十年ほど前からちらほらと使われてきたと思われるふしがある。症状も一つでは目立つので、四通りぐらいが用意されている。
AとBが食事をして、一カ月以上経ってBが病死したとする。Aが疑われる心配はまずない。まして吹田は八十歳の老人であり、いつ病没してもおかしくはない。老人だから薬の効き目も早かろう。一カ月と|希望的《ヽヽヽ》観測をすれば、十一月中にはあの世に逝ってもらえる。政治工作ならぬ毒薬工作の効果がちょっとずれるとしても、師走に入れば大丈夫だろう。
ところが、大先生の読みはもっと大幅に遅れることとなった。吹田老人は翌年の二月末まで、何と四カ月以上も生きてしまったのである。
大先生が食事に皆川も同席させたからといって、彼まで消そうとしたわけではない。吹田と二人だけでは、時節柄、脅迫的かつ密室的な印象を周囲に与えるのでまずい。皆川を同席させ、国民栄誉賞というもっともらしいテーマを作って食事を共にし、そしてわが党のホープは生き残ってもらわねばならぬ。
さて、大先生にはもう一つの致命的な誤算があった。それは、かりに吹田が一カ月で死んだとしても、この時期には、彼の手を離れた潮のような動きが始まろうとしていることに、大先生が(そしてオーナーたちも)気づいていなかったことである。一人のリーダーがいなくなったところで、もはや止めようのない動き、それが北川たち「見えないナイン」の手で、組織とは見えない組織となって一人歩きを始めていたのだった。
そして吹田の死は、一九八三年春のプレーボールに向けて、旧体制の後始末がほとんど終わり、新球団の結成式が全国各地でおこなわれようとする直前であっただけに、実に劇的な死となり、現代では稀有の広範囲な日本国民の哀惜の的となって、敵にとっては皮肉にも、関係者の結束を一段と固めるものになったのであった。
犯罪推理を語り終えた志村は、珍しく頬を紅潮させて潟田の反応をうかがった。
「今までだれにも話してなかったんだ。どうかね?」
「どうかなあ、それは」
潟田は志村の期待に水を差すように答えた。
「物的証拠はもちろん、状況証拠といえるものもないじゃないか。推理というより被害妄想に近いねえ」
「それじゃ、三人の会食をどう考える」
「大先生としては、吹田、皆川の三人を同席させて、二人の阿の呼吸を探ろうとしたんだろうよ。あるいは一歩突っ込んで、大先生のまともな政治力、というのも妙だが、そういう力で二人ににらみを効かそうとした」
「やっぱりそうかな」
「きみのその種の推理はね、さっきの知識人秘密結社の推理で、もうおれの信用を失ってるよ。やっぱりきみの推理は、二塁手や監督としてグラウンドで発揮されてこそ一流なんだよ」
志村はやや不満そうな顔をした。一九八八年の今、その大先生も皆川肇氏もすでにこの世を去り、確かめるすべもない。
一九八二年の日本シリーズを三日後に控えた十月二十日の午後、事務局で浦山と打ち合わせをしていた吹田は、外の通りが急にいつもより賑やかになったのを感じた。スタッフたちもそれに気づいて窓際に行った。やがて堀田が吹田と浦山のほうを振り向き、大声で、
「やってますよ」
と言った。二人も窓際に行って下を眺めた。
路上に横長の大きな横断幕が見え、両端と真ん中を四人ぐらいの男が支えている。左右には四、五十人の男が並び、五階のコミッショナー事務局のほうを見上げて何か一斉に叫んでいる。野次馬も集まり出したので、あまり広くない並木通りは人でいっぱいの感じだ。
横断幕の一番大きな字は、“巨人軍は不滅だ 進めライオンズ 闘えヤクルト がんばれファイターズ”と読める。
「堀田君、小さい字が読めない。きみの眼で読んでみてくれないか」
「在京在阪球団弾圧阻止セパ両リーグ死守期成都民同盟、いやあ、長い名前ですねえ」
そのとき、浦山が部屋を出て行こうとした。吹田は言った。
「浦山君、ほっときなさい」
「わかってます」
と言って浦山は出て行った。吹田は堀田に笑いながら話す。
「しかしおもしろいもんだね。巨人だけ漢字でしかも軍の字がつくんだね。そしてあとの三球団には巨人からの呼びかけととれるような文体になっている」
「多分、巨人のことしか頭にない人が書いたんでしょ」
「それに多分、都民の二字は余計だね。堀田君、きみの知ってる有名人やスターの顔は見えるかい」
「いや、いないみたいです。でもここからはよくわかりませんから、ちょっと様子を見てきましょう」
と言って堀田も出て行った。やがて横断幕が動き出し、新橋の方向に遠ざかって行った。
堀田と入れちがいに浦山が帰ってきた。
「警備員と打ち合わせしてから入口で見てたんですが、だれもコミッショナーに会いにくる勇気はなかったようですね」
十五分ほどして堀田が戻ってきた。堀田が聞き出したところによると、デモは後楽園前を出発点として神田、日本橋を通り、銀座通りでビラ配りや署名運動をしながら新橋まで行き、今日はそこで解散だという。
「並木通りに入ってきたのは、コミッショナーヘの表敬訪問というわけです」
吹田は、堀田が持ち帰ったビラを眺めながら、
「たかが五つの都市からのアピールに、“都民”がこんなに神経をとがらすものだろうかねえ」
と言った。(都民同盟か、見えすいたことを。約束を破ったな。よし、尻尾だけはつかんでおこう。私立探偵というのはこういうときに使うものだということを、先生方に教えてやるか。人間よりは、人間の作った組織のほうがウィークポイントを見つけやすいのさ)
「有名な顔は見ませんでしたねえ」
と堀田が言った。
「署名したいんだけど同盟の大将はだれだと訊ねたんです。そしたらはじめは『さあ、知りません』っていうんですね。それで、『ぼくは大の巨人ファンだが、大将もわかんない組織にはサインできない』って言うと、『安心してください。正力さんと堤さんがバックですから』ときた。まちがいなく約束違反ですよ」
「ハハハ、ご苦労さん。だけどそれは証拠にはならんね」
しかし、吹田が私立探偵に頼むまでもなかった。北川が日新タイムズにいたときに親友だった敏腕の社会部記者が、北川の依頼を受けて組織の実体を苦もなく調べ上げてしまったからである。やはり、運動資金は在京球団の親会社から出ていて、運動員の中には各チームの熱狂的なファンもいるにはいるが、半数以上は親会社の社員が「絶対に身分を明かさず、魚屋か豆腐屋の自営業だぐらいに言っておけ」と言い含められ、日当をあてがわれて動員されていたのだった。詐称された魚屋や豆腐屋こそいい迷惑だ。ところが、この北川の友人のスクープは、新聞の記事としては没になった。理由は「同業者のスキャンダルは、みだりに暴くべきでない」というものだったらしい。それにしても、そのとき北川がどこにいて何をしていて、なぜ東京の都民同盟の動きをいち早く知ったのかは定かでない。
在京在阪球団弾圧阻止セパ両リーグ死守期成都民同盟の内幕ものは没になったが、その旗揚げの模様は、その日の夕刊とテレビニュースでとりあげられた。各紙、各テレビとも全国版、全国ネットである。翌日からもこの報道は続いた。しかし数日を経ずして、これがオーナーたちの冒した一大誤算だったことがわかる。
新聞の中では、Y系各紙が最も大きく紙面をさき、都民同盟の動きを最も情熱的かつ客観的に報じたことはもちろんである。ところがこれに対して、首都圏と近畿中心部を除く地方の広汎な分野の購読層から反撥が起こり、購読中止が続出したのだ。それに気がついてこの種の記事を打ち切ったときには、すでに数十万の読者を失っていた。
Y紙首脳部は、全国をむらなく厚い層で覆うY球団ファンが、よもや、Y球団を護ろうとする都民運動を好意的情熱的に報道するY紙を忌避するとは思ってもいなかった。いみじくも大先生が言った「江戸城と大阪城を守る者は日本を制す」ということばを信じ、時代の流れが音もなく微妙に変わっていること、極点に達した中央集権が静かに地滑りを始めていることに気づかず、すでにこの時期、「おらがくにの野球」を夢想し始めていた多くの人びとの気持を洞察できなかったのである。特に、札幌、仙台、静岡、高松、熊本の五都市とその周辺部でのY紙の目減りは顕著だった。
たかが野球というなかれ。恐るべきは野球である。たかが野球で全国に発展したY紙は、恐るべき野球によってピンチを迎えている。ピッチャーのフィルダース・チョイスである。まことに、中央だけで仕事をするというのは恐ろしいことだ。たかが野球こそが、このころから、広汎な分野で地方の活性化を促す媒体となり、陽気なかけ声となって行ったのだから。
さて、そうこうするうちに日本シリーズが始まって間もなく、どこからどう洩れたのか、現在の二リーグ十二球団体制のまま、五球団が地方の五都市に分散することもあり得るという話がひろがり、一部の新聞にもオーナー筋からの情報としてとりあげられた。それらを総合すると、某オーナーが匿名で「われわれは前から全国の地方のファンの声に耳を傾けてきた。最近、フランチャイズの地方都市誘致への要望が特に強いので、十二球団十二都市の可能性も真剣に検討している」と語り、かりにそうなる場合には巨人が熊本に行くこともあり得るとほのめかしているのだ。その他、ロッテが仙台、西武が再び福岡、そして日本ハムが高松の線も強く、すでに各球団と地元との相互打診も始まっていると、各紙は推測している。
いくつかの新聞に目を通した浦山は、
「問題を巧みにすり替えようとしてますね。明らかにオーナー筋が新聞に売り込んだものですね」
と吹田に言った。吹田はうなずいた。
「そうだよ。そしてこんなことは絶対に実現しっこないということも、ご本人たちが一番よく知っている。しかしこういう記事はよくないねえ。いろんな人に無用な思惑を起こさせる」
その吹田の心配は事実となって現われた。真っ先に敏感な反応を示したのは、要請書を出した五都市を選挙区とする国会議員たちだった。それまで彼らの心の中では、地元が出した要請書の内容にどういう態度を示せばいいかという悩みが渦巻いていた。そこへ既成球団誘致という新しい要素が加わったので、両者を天秤にかけるようになり、悩みの構造も複雑になった。前者に熱い支持を示せば地元の一般大衆の票が増えるだろう。しかし他の議員に先走れば、中央政界のボスからにらまれるかも知れない。後者の側につけばどうか。既存体制の立場を擁護しつつ地元に楽しみをもたらすことになる。住民も、とにかくプロ野球チームが地元に生まれさえすれば満足するだろう。こう考えた議員たちは、(よし、おれが球団の地元誘致に尽力した人間だという印象を植えつけよう)と決断をくだした。
五都市出身以外の国会議員の胸中もほぼ同じだった。彼らの多くは(地元からコミッショナーにいつ要請書が送られてくるかわからない。他の連中の機先を制して既成球団の誘致を地元にすすめ、その立役者になっておくのが身のためではなかろうか。中央にも地方にも顔を立てやすい)と考えた。
国家のため地元のため国務に連日明け暮れているという理由で、選挙のとき以外めったに地元に顔を出したことのない国会議員たちが、にわかに中央と地方をピストンのように往復する姿が目立ち始めた。
敏感に反応したのは、何も東京に代表選手として集まっている国会議員だけではない。県議会議員、市議会議員、県知事、市長など、選挙で選ばれる要人や、副知事、助役、局長クラスの高級官僚も同じことだった。それぞれの立場でそれぞれの思惑を抱え込み、悩んだ。それまでは、やれジャイアンツだ、やれタイガースだと、無邪気でさっぱりとしたファン気質をぶつけあえた話題にも、えらいさん同士の場合には妙なかげりが生まれ、たわいのない野球談義こそが腹の探りあいになるというおかしなことになった。それまで野球議義にうつつを抜かす先生方をばかにしていた先生方も、ひそかに野球の勉強に精を出し始めた。
中央や地方の民間企業や利権屋にとって、問題はさらに切実であった。既成球団誘致となると、うちにはどんな仕事があるか。その場合のライバルはどこか。また、五市にならって地元チームを作るとなるとどんな仕事があるか。その場合のライバルはどこか。早目にスポンサーの名乗りを挙げておいたほうがいいのではないか。それともそれは不利なことになるのか、お役所の場合は対処を誤っても、従業員もろとも路頭に迷うようなことにはならない。しかし私企業の場合は、一つまちがえばあっという間に、全員が裸一貫で放り出されることだってあることを覚悟しておかなければならない。
こうして、たかが野球のために世の中全体がざわつき出した。しかも政界や財界の上層部のほうから落ち着きを失い始めたのである。しかしそういう人びとは、たかが野球のことで目をつり上げて大声を出すのははずがしいという気持もあって、なかなか思い切った言動には出なかった。その代わりに新聞やテレビなどが、その上層部知識人たちのおだやかな語り口を思い切って増幅してくれていた。
そういう中で、十一月四日、吹田コミッショナーは、一週間後の十一月十一日に「当面のプロ野球機構に関するコミッショナー提案」を発表することを、浦山事務局長を通して関係者や新聞・テレビに通知した。オーナー会議と実行委員会は、提案内容の事前提示と委員会での討議の必要を吹田に迫った。吹田はその要求を一蹴した。
「一カ月前の実行委員会で、私は、この問題はコミッショナーが全責任をもって当たると申しあげた。お二人が賛成し、他の方々は黙っておられた。それでも私ははじめは、提案の骨子だけは事前にお話しするつもりでいた。しかし、日本シリーズ終了まではお互いに言動を慎むという私との約束を、みなさんは見事に裏切った。いいですか、私はみなさんから宣戦布告なしの奇襲を受けたのですよ。残念ながら、正常な人間関係はすでに絶たれたとしか考えられない。そういう組織を相手に、どうして私が提案内容を提示して相談することができますか」
申し入れにきた数人の委員は口々に、「裏切りなどとは心外千万、都民同盟はわれわれにまったく関係ありません」と言った。吹田はおかしさをこらえきれないといった調子で応酬した。
「裏切るという行為を裏切るのは骨が折れるものですね。みなさんのお顔にそう書いてありますよ」
そして厳しい表情になって言った。
「みなさんは、ご自分で戦争を仕掛けておきながら、戦争と平和の境目がよくおわかりにならんようですな。私はね、みなさんの旗揚げが始まった日から戦争だと思ってるんですよ」
したたかなり、吹田老。戦争を仕掛けたのは吹田のほうともいえるのだ。もし吹田を訪れた委員の中に骨のある人がいれば、吹田のことばを逆手に取って、「おお、そうですか。私はね、五市の要請書が届いたその日から、吹田さんの仕掛けた戦争が始まったと思ってるんですよ」ぐらいは言って帰れたはずだ。しかし何分、都民同盟のからくりを見破られたうしろめたさが、彼らをおとなしくさせてしまった。
こういうふうに、個人と個人の対決ではおとなしくなる陣営も、数を|恃《たの》む組織行動となると勇ましい。日本シリーズも終わり、吹田との約束から自由になったとたんに派手さが加わった。在京在阪球団弾圧阻止セパ両リーグ死守期成都民同盟は、「都民」の二字を抜いて少し短い名称になり、それまで魚屋さんや豆腐屋さんなどに身をやつしていた親会社の社員たちは、パリッとしたダークスーツに身を固め、それと共に、ピンクやブルーの鮮やかなユニフォームを着たカワイコちゃんたちが、街頭のチラシ配りや署名運動に色を添え始めた。横断幕も様変わりし、「吹田コミッショナーの横暴を許すな」とか「元凶吹田、退陣せよ」とか、吹田を名指しで非難する文句が目立つようになった。期成同盟は、名称から「都民」の二字を抜いた理由を、「この運動が都民や大阪府民にとどまらず、全国民的規模にひろがったための発展的解消である」と説明した。
そういう中で、吹田はとうとう国会から出席を求められた。十一月七日に、事態収拾に関するコミッショナーの方針を聞きたいというのだ。大げさなことになったものだ。そうなった直接の原因は、東京と選挙区との往復のために議会を欠席する議員が多くなり、議事運営に支障をきたすまでになったが、調べてみるとプロ野球誘致に関係があるらしいということが判明したからだった。つまり、社会問題としての認識が先にあったのではなく、国会議員がこうまで右往左往するからには、現在のプロ野球界はよっぽど深刻な政治的社会的問題を抱えているのだろうと考えたのだ。国会に吹田の出席を求めたもう一つの力が、オーナーから大先生を通して廻った手であることは明らかだった。数日後に迫ったコミッショナー提案の内容を、国会の権威において吐き出させようとした。
吹田は、はじめは「今の段階で国会に説明する必要などまったくない」と言ってつっぱねた。しかし、たっての要請に「それじゃ、出るだけは出ましょう」と折れた。
そうなる前に実は国会内部では、一体どの委員会に吹田を出席させるかでもめた。常任委員会の中では、まず、文教、地方行政、商工の各委員会が、吹田はうちへ出席させるのがふさわしいと主張した。そのうちに、「いや、うちだ、うちだ」と言い張る委員会が増え決着がつかなかった。合同委員会では大げさすぎるし、今から特別委員会を設置するには手続きの余裕もないなどと結論が出ず、遂に「ええい面倒だ。ちょうど会期中だし本会議に呼んでしまえ」と、一番大げさなことになってしまった。本会議の性格から考えるといささか首をかしげたくなる成り行きだが、国会議員にも野球好きが多かったのだろう。その証拠に、七日の本会議は、史上でも稀な好出席率を示し、病気療養中だったはずの議員まで姿を現わす有様となった。傍聴席もあっという間に満員になった。プロ野球コミッショナーが衆議院本会議に登壇するのだ。思えばプロ野球もえらくなったものだ。
「こういうところにまた来なければならないとは思っていませんでした」
吹田は冒頭そう言った。
「そしていまだに、なぜ私が来なければならなかったのか、さっぱりわかりません」
吹田は原稿も持たずに|飄々《ひようひよう》と話し始めた。それは、人びとが今までに慣れてしまっていた国会の話法とはちがっていた。それまで、あり余る知性をいかに殺し、当意即妙のウィットが飛び出る隙をいかにつぶし、そしていかに本音を押さえて実質的な意味の響きに乏しい文脈を作り上げるかといった技術の結晶である原稿にしがみつき、「でありまするから」とか「私といたしましては」とか「おお、うう」とか「遺憾にして」とか「誠心誠意」とか「善処いたす所存でございます」とかいうことばを多発し、音痴が浪花節を語るような抑揚をつけるのが国会での礼儀作法だと思っていた人びとの耳には、吹田の語り口は新鮮なものに聞こえた。
「事態収拾についての方針を述べよとのことなんですが、事態収拾というといかにも何か大変なことになってる感じですね。それがどうも腑に落ちない。日本のプロ野球は、現在まったく正常であります」
野次と笑い声で議場が騒がしくなった。
「五つの都市から私宛ての提案と要請があり、今度は十一日に私のほうから提案を返す。それ以外に何が起こっているというんでしょうね。一般の人びとも落ち着いていますし、各チームの選手たちも落ち着いています。世の中を騒がせているのは、新聞やテレビのみなさんのお仕事のうち、ほんの一、二のまちがいと……」
吹田は一息置いてから少し声を強めて言った。
「それより困るのは、みなさん方議員の中のかなり多くの方々の動きです。そういう動きが、私たちの野球の仕事に政治問題という虚像を生んでしまっているんです」
語尾が聞き取れないほど、満場騒然となった。
「国会議員への侮辱だ!」
「あやまれ!」
吹田は構わず続ける。
「みなさんは、野球よりもっと大事な国政に専念なさってください。プロ野球のことはプロ野球の人間に任せて、待っていてください」
内閣総理大臣が、指で自分の鼻をつまんでひねり廻した。吹田は議員たちが完全に静まるまで待った。
「さて、コミッショナーというのは本来受け身です。私は、あらかじめ自分で政策をたてたり方針を作ったりはしないことにしています。ただ、出てきた問題が私の責任で対処するのがふさわしいと判断されるとき、つまり今度のような提案を受けたときには、コミッショナーとして最適と思う方法を選びます。それが私の方針です」
野次が徐々に少なくなって行った。ほどなく吹田の話が終わり、予定された三人の議員がいくつかの質問をした。吹田はその一つ一つに、簡潔だが丁寧に答えて行った。最後の議員が、吹田が十一日におこなう提案内容を、骨子でよいから説明せよと迫った。吹田は言下に断わった。
「それは申しあげられません。私が十一日に提案するとお知らせしたプロ野球関係者や記者諸君に先立って、さしあたり何の関係もない国会でその内容に触れたとあっては、道義にもとりますし、第一、関係者や記者諸君に失礼ではありませんか。十一日の発表はどなたにも公開します。お暇の方は、どうか当日会場においでください」
吹田の態度は、プロ野球界で今起きていることと、国の政治や行政とは一切関係がないということで一貫していた。そして、そういうことに思惑を抱き、政治家として関与しようとするのはおやめなさいと、暗にさとしていた。
この様子はテレビで全国に中断され、夜のニュースでもさわりの部分が放送された。全国の多くの人びとが、この吹田晨平の姿勢を痛快に感じ、好感を持った。オーナーたちの意図はまたしても裏目に出た。
しかし、オーナーや球団役員側も負けてはいなかった。二枚腰、三枚腰だった。先に既存球団の地方転出をほのめかしていた彼らは、万一の場合に備えて、複数本拠地制の検討をひそかに進めていた。たとえば、巨人が東京をすっかり引き払って他へ移ることなどは考えられないが、東京と熊本の両方を本拠地にすることは不可能ではない。両方がまったく同じ比重にはならなくとも、この際はまず建前を発表することに意味があるのだ。もし十二球団がすべて複数本拠地制を発表すれば、現在のフランチャイズを安泰に保ったまま、新しく十二都市を加えることができる。ドラゴンズとカープは無理だとしても、十都市にはなる。しかし、今これを発表する必要はない。できれば今の体制のまま押し通したいからだ。そして今日までの状況では、依然としてそれは可能だ。大先生を通して手を打った、全都道府県の中枢への警告が効を奏し、五都市のあとに続く要請は出ていない。わずか五都市の要請を背景に吹田が何かものを言ったとしても、たかが知れている。つぶすのはやさしい。しかし、吹田が万一予期できない戦法に出たときに備えて、複数本拠地制をいつでも出せるように準備しておく。これが既成球団陣営の周到な作戦だった。
五都市から要請書が届いて以来一カ月半経つというのに、その後はどこからも声は挙がらないまま、十一月八日も過ぎ、吹田コミッショナーの提案発表まで余すところあと二日となった。吹田はこれだけの材料を背景に、どんな提案をしようと思っているのだろう。
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おらがくにの野球
「運よくあいてました」
堀田が受話器を置きながら浦山に言った。
「そうか。よかったな」
浦山はほっとした顔になった。
吹田の提案発表に集まる人数を、はじめ事務局ではせいぜい三百人ぐらいとふみ、プリンセスホテルの大広間を会場にあてていた。ところが、当日の三日前あたりになると、全国から出席申し込みの追加が急増し、三百人はおろか千五百人を軽く超えそうな気配になった。どうもこれは、七日のテレビの国会中継のせいらしい。
「こわいもんだなあ、テレビというものは」
浦山は堀田に、日比谷公会堂を手配してみるように命じた。そして十一日の午後をおさえることができたのである。
「資料は最初に決めた数でいいですね」
「うん、それでいい」
両リーグ代表、各球団代表、報道機関、そして全都道府県の代表に、吹田コミッショナーの話が終わってから資料を一部ずつ渡すことになっている。それまでは全員に吹田の話を素手で聴いてもらうというわけだ。そうでないと会場全体の気持が吹田の話に集中しない。
吹田が提案の最終方針を決めたのは、発表前日の午後だった。あらかじめ用意してあった内容に変更が加わり、コミッショナー事務局の準備作業は徹夜でおこなわれた。
十一日の午後がきた。都心にしては朝は澄みきっていた空も、スモッグが増して碧い色が失せて行き、天空の肌に乳液を塗りつけたような感じだ。しかしまあ、気象上は好天である。その下で、日比谷公会堂は次つぎと人の波を呑み込んで行った。
野外音楽堂から公会堂前の広場にかけては、例の死守期成同盟のメンバーが何カ所かにたむろして、入場者に無言でビラを配っている。男のダークスーツと、マスコットガールのピンクとブルーのユニフォーム姿は変わらないが、今日はそれに鉢巻きと腕章が加わった。それが男女とも何となく顔や服装にそぐわない。鉢巻きはやはり、髭を左右にピンと立てたネコか、あるいはネコのような姿かたちをした人によく似合う。鉢巻きの中央には、しかし日の丸ではなくセ・パ両リーグのマークが並んで染め抜かれ、左右の文字は“不滅、躍進”と読める。
定刻の二時が近づいて人の波がおさまると、その期成同盟の人たちも横断幕をたたんで会場の中に入って行った。なにしろ、だれでも出入り自由なのだ。それにしてもこんな人たちを入れて、会は無事進行するのだろうか。吹田や浦山は大丈夫と予測していた。そしてその予測どおり、期成同盟の人たちは、会場に入ったら鉢巻きも腕章も外しておとなしくしておけと、自分たちの首脳部から指示されていた。北は旭川から南は那覇まで、あらゆる地方の人たちが集まっていて、その数は多分地元の東京より多い。会場内で下手に吹田の話を妨害しては、彼らに悪い印象を与え、これからの運動に決して有利にはなるまいというのである。だから、開会直前の場内では、遠い地方からやってきた人たちのグループが陽気にわいわいがやがやと話し合っていて、さまざまな方言が飛び交っている中で、期成同盟の人たちはどことなく不自由で神妙な顔をしているという、おかしなとり合わせが生まれていた。
やがてどこからともなく拍手がわき、わいわいがやがやが急におさまった。そして拍手が大きくなった。まったく何の前触れもなく、司会者役のあらたまった挨拶もなく、吹田晨平の姿が壇上に現われたからである。その会の滑り出しは、これから一人の老ピアニストがリサイタルを始めるといった風情だった。老ピアニストは軽く一礼すると会場全体を見廻した。
「みなさん、はるばるようこそ。まずはじめにご報告しておきたいことがあります」
吹田はそう言って一息おいた。
「今日の日取りをみなさんにお知らせしたときには、私は今から発表する提案の決定を躊躇しておりました。五つの都市と一道四県のみなさんの熱意には心を打たれながらも、一方でまた、熱意をこめて運営されている現在のプロ野球組織のことを考えると、慎重にならざるを得ませんでした。現十二球団を球団本社ではなく本拠地球場で見ますと、所沢、東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、西宮、広島の八都市で、一都一府五県にわたっています。今まで数十年かけて日本のプロ野球を興隆に導いてこられたこれらの存在と、新たな五都市とのバランスをどうとるべきか。私は迷っておりました。
ところが、一昨日と昨日の二日間に、五つの都市と同様の趣旨の要請書が、私宛てにあいついで届きました。そして現在、私の手元の要請書は、一道一府二十八県、三十一都市からに達しております」
どよめきと共に大きな拍手が起こった。
吹田はポケットから小さなメモを出し、めがねをかけ、あらためてその都市の名を、北から順々に読み上げて行った。一県で二都市以上というのは福岡県だけで、福岡市と北九州市の両方が要請書を提出していた。
「さて、それではこれから、そういう背景のもとで私が決定した提案を発表します」
吹田は、内ポケットから提案書をとり出してひろげると、まずスケジュールの発表から始めた。
プロ野球クラブ設立都市立候補の締切が、一九八二年十二月二十日午後五時。
選考結果の発表が、十二月二十九日。
監督、コーチの決定を翌年一月十日までにおこない、現役選手の新所属チームについての希望聴取と調整を二月十日までに完了する。
並行して、二月末までに現球団の解散整理と新球団設立の作業を進める。
一九八三年度にかぎり、スプリング・キャンプの期間を四月末までに延長する。
一九八三年ペナントレースの開幕は五月五日のこどもの日とし、翌年からは四月開幕とする。
吹田は続いて、予想される新しい組織の提案に移った。
現在の予定としては、十八都市十八チームを三リーグに分ける。一都市一チームが大原則であり、東京や大阪も例外とはしない。ただし、各都市での年間開催ゲーム教は、人口などの要素を考慮して適正に配分する。
次点都市をいくつか選び、将来のチーム増加の際の優先都市とする。
一球団の支配下選手数、一軍登録選手数の限度、および外国人選手の枠は、当面今までどおりとする。
従来のイースタンおよびウェスタンの両リーグに相当するものは、東部、中部、西部の三つの教育リーグに再編成する。
従来の新人選択制度は今年から廃止し、新人については地元優先指名制度に移行する。地元の定義と制度の細則はあらためて定める。
新人の最高および最低年俸と契約金の上限を別に定める。
同一チームに三年以上在籍した選手を対象とする移籍(トレード)会議を、一九八五年秋以降毎年開く。
一球団に対する法人の出資は三社以上、個人の出資は三人以上とし、一社あるいは一人の出資比率は全体の三〇%を超えてはならない。また、一社あるいは一人が、二球団以上に出資してはならない。
チームの名称は、都市名と、コミッショナーの認めるチーム名のみとし、他の法人や個人の名称を併用してはならない。
ドーム付球場の設備については、立地条件などを考慮してコミッショナーがその可否を決する。
一チーム試合数は当面今までどおりとし、一カード二十六試合、合計百三十試合。一年一シーズンとし、パシフィック・リーグの指名打者制は廃止する。一九八三年は開幕が約一カ月遅れるが、ダブルヘッダーを増やすなど、公式戦終了のずれを二週間以内におさえる努力をする。
延長戦は十八回までとし、時間は制限しない。
日本シリーズは、各リーグ優勝三チームによる各カード三回戦でおこなう。すなわち一カードで二勝すれば勝点一となり、勝点二で優勝となる。三チーム勝点一で並んだ場合は、あらためて各一回戦によって決する。それでも各チーム一勝一敗の場合は、決着がつくまで同じ要領でおこなう。
オールスター・ゲームは、各リーグ対抗一回戦、計三試合をおこなう。開催地は後日決定する。
なお、現リーグ、現球団の従業員についても、選手と並行して二月十日までに希望聴取と調整をおこない、新リーグ、新球団の従業員として優先就職できるよう配慮する。
おもな内容は、ざっとこういうものだった。吹田はゆっくりと、そして淡々と読み上げた。会場は終始静まり返っていた。吹田は提案書を読み終えると、めがねを外して会場をゆっくり見廻してから語り始めた。
「こういう箇条書きのものを読み上げていますと、何かすべてが決まっているような感じになります。あるいはみなさんの中にも同じ感じを持った方もいらっしゃるかも知れない。しかし、はじめに申しあげたように、これは私からの提案なのです。そして私は今、すべてが決まっているどころか、今はまだ何一つ決まっていないんだということを、あらためて自分に言い聞かせております。すなわち、立候補締切の十二月二十日午後五時を期して、はじめて何かが始まるのであります。それまでは、今私の読んだものはすべて空文です。実体をつくるのは私ではなく、みなさんです。
一九四五年、戦後元年、今から三十七年前の奇しくも同じ十一月に、神宮球場で戦後はじめてのオール早慶戦とプロ野球東西対抗戦が、あいついでおこなわれました。いいですか、みなさん。日本が戦争に負けて両手を挙げたわずか三カ月後ですよ。多くの人びとが食べるものも着るものも住むところもなく、神宮球場のまわりは神宮の森を除いては焼野原でした。それでも早慶戦では五万人以上のファンがスタンドの通路をも埋めつくし、おしっこに行くこともできなかった。慶応のピッチャーなどは、スパイクがないので軍隊の靴のままマウンドに立った。それでも、選手もファンも楽しくて楽しくて仕方なかったのです。大好きな野球がよみがえったんだ。
プロの東西対抗に集まったファンは五千人とちょっとです。ペナントレースが再開されたのは翌年の春ですから、これが戦後初のプロ野球ゲームとなりました。大学もプロも、選手のほとんどは戦地から復員してきたばかり、全国に散らばって焼跡を片付けたり畑を耕したりしていました。それが電報一本で、すし詰めの列車に乗ってかけつけました。野球をやりたい一念です。しかし、その弾む心の片隅には、戦死した仲間の顔がありました。選手たちにとって、このときの試合は、その仲間たちの鎮魂歌ともなり、平和な姿でのとむらい合戦ともなったのです。
三十七年後の今、プロ野球東西対抗、つまりオールスター・ゲームの観客が五千人などとは到底考えられません。ここまで日本のプロ野球を発展させてこられた多くの方々に、私はあらためて敬意を表します。そして、この何もできない老人も、野球協約の精神、すなわち、日本の野球を不朽の国技とし、国民の信頼を得る、そしてプロ野球の飛躍的な発展をはかるということに、少しでもお役に立てば、冥土の先輩たちへのこの上ない土産だと思います。私の提案の内容が、プロ野球の憲法である野球協約の精神と、ここまでプロ野球を導いてこられたみなさんの努力に、決してもとるものではないことを、少なくとも私は信じています。
最後に、全国各都市から寄せられた要請書の内容に、私がおおいに学ばせられ、励まされたことに、心から感謝します」
ひときわ大きい拍手が起こった。そしてほうぼうの席から、
「吹田さん、がんばれーえ」
「たのみますよーっ」
「負けんな、おれたちがついとるけんね!」
などと声が挙がった。
会場には、東京や大阪の球団関係者やファンも大勢いた。有名選手の顔もチラホラ見えた。しかし、見たところ全体の七割ほどは、それ以外の地方から集まった市民代表、ファン、地方公共団体職員、地元企業の幹部、それに新聞やテレビのスタッフたちで、女性もかなりいた。その人たちの多彩さに比べると、東京の席には、セビロに身を包んだ人たちの姿が目立った。彼らは、拍手や歓声に挟まれて口を閉じ、つとめて無表情をよそおっているようだった。やがて、そのうちの一人がにやりと笑って隣の男に低い声で言った。
「そうさ。あのじいさんの言うとおり、まだ何一つ決まっちゃいないのさ。おい、早速あの手配をしろ。急げ」
日比谷公会堂を出て、いきなり晩秋の西日に照らされた人びとの眼に、もう一ついきなり、横断幕の文字が飛び込んだ。“セ・パ十二球団、複数本拠地制へ躍進”“日本を滅ぼす吹田の暴挙粉砕”“巨人は東京と熊本を故郷にする”“西武は所沢と福岡を希望する”など、横断幕の数は六つか七つあった。そして期成同盟の人たちが新しいビラを配っていた。
地方から来たと思われる一人の男が、すっとんきょうな大声を出した。
「へえーっ、東京ちゅうところは、シュントウのほかにシュウトウもあるとね。ひまやねえ。そげんええ恰好せんと、もっと正味働いてつかさい。日本はようならんたい」
男は、着ていたサファリ・ジャケットを脱いだ。下にはトレーナーを着ていて、その胸と背中には赤いマジックペンで荒っぽく手書きした文字があった。“必勝はかたドンタクス”。もう一人が同じ仕草をした。その男のトレーナーには紺のインクで“優勝北九州ドラムズ”とあった。歓声とひやかし声と拍手が起こった。“はかたドンタクス”の男は、横断幕を支える人たちに言った。
「博多の人間はおらんとね。たとえば、ハムの島田誠のファンはおらんとね。|中間《なかま》市出身のかしこいバッターばい」
横断幕を支えていた男の一人が、「島田誠」と聞いてピクリと眉を動かした。しかしすぐに、幕を支える手にいっそう力を加えて、不動の表情になった。期成同盟の人たちは、「そういう挑発に乗らないことが、こういう場での教科第一条なんですよ。ふん、田舎者め」とでも言うように押し黙っていた。
期成同盟には、在京球団の職員や親会社の職員などのほかに、例の大先生たちの選挙のときにはりきる種類の人たちが、日当いくらとかで動員されていた。同盟幹部の誤算と不安は、スター選手があまり呼びかけに応じなかったことと、日頃はどこかのチームの熱狂的なファンと自他共に許す有名人の参加が意外に少ないことだった。この二種類のスターで都民を惹きつけようと思っていた思惑は大きく外れた。
有名人が参加できないとことわる理由の大半は、「原稿の締切に追われている」と、「テレビ出演のスケジュールがつまっている」ということだった。ワンポイント・リリーフにも登板できないという。
スター選手の不参加理由は、おおむね「くにに帰る切符を取っちゃったので」、「明日から一人でトレーニングに入るので」、「私は与えられたグラウンドで精一杯やるプロです」の三つに大別された。同盟幹部は、この三つの理由がどれも気になった。「くにに帰る」、この時期には不自然ではないが、この際ヤバイ感じではないか。「一人でトレーニング」、心がけはいいが、去年までは今頃は遊んでたのではなかったか。「与えられたグラウンドで」、紋切り型の無難な逃げ方だが、取りようによっては一番におうぞ。
吹田の提案が終わって一時間後、セ・パ両リーグ会長と、中日、広島を除く十球団の球団代表がうち揃い、ホテルで記者会見を開いた。そして、十球団が複数本拠地制によって、今までのファンと新しい地方のファンに応えるべく、全国の主要都市との交渉に入ったことを正式に発表した。主要都市とはどこどこなのか、また十球団との組み合わせはどうなっているのかとの質問に対して、代表は、まだ発表の時期ではないと答えた。吹田提案をどう思うかという質問についても、だれも口を閉ざして答えなかった。さらに記者団が「すでに知事、市長、地方議会の議長までが新球団設立の要請書に署名している三十一都市で、既存球団の誘致をあらためて検討できると思うか。またその場合の競合の状態をどう思うか」と質問したのに対し、一人の球団代表が答えた。
「署名なさったのは要請書の段階でありまするから、地元住民のためによりよい施策が出たなら、そのほうを採択されて然るべきかと、私共といたしましては思料する次第でございます」
続いてこの代表は一場の演説を試みた。
「私共といたしましては、すべての地元住民のみなさまの総意がお決めになる問題かと思料している次第でございます。その際、一つの案よりは二つの案のあることが、民主主義的選択の基礎であると、かように思っておる次第でございます。
今や地方の時代といわれております。私共といたしましては、こういう趨勢に対処すべく、近年鋭意研究を重ねてまいりまして、今日発表の運びとなったものであります。中央に偏ることなく、さりとて地方一辺倒でもなく、中央と地方のファン各位にともどもご満足いただける形を、私共といたしましては追求してまいったつもりでございます。二リーグ十球団、一致団結して、誠心誠意、この理想に邁進してまいる所存でございます」
語彙や口調が、さっきまで吹田の話を聞いていた記者の耳にはひどく異質なものに響いた。貝の実を食べる前に、堅い貝殻を歯に当てさせられている感じだった。
テレビは、日比谷公会堂での吹田の提案の模様と、ホテルでの既存球団側の記者会見の模様の両方を放送した。扱い方や編集内容は局によってまちまちだったが、吹田晨平はたちまち全国に有名になってしまった。なにしろ国会中継に続く今度であり、しかも球団代表たちとちがって、話すことばに美辞麗句が少なく、正味の内容が聞いている人に直截に伝わる。吹田の評価はまた上がったようだ。これでは参議院全国区も、冗談ではなく上位当選だろう。
二つの発表に敏速な反応を示して動き出したのは、またもや国会議員と、それぞれの派閥で彼らと対応する地方議会の議員たちだった。しかし一足先に動いていた、というより、いやいや動かされていたのは、中央官庁の高級官僚だった。オーナーたちの頼みを受けて、大先生の政治力が主要各省を動かすには動かしたが、局長部長クラスが全道府県に「視察旅行」に出かけるには、それなりの根回しと手続きが必要だった。彼らが多忙な日程を調整して、ぼやきながら地方に出かけたのは、早い人で吹田提案の日の二日前、ほとんどの人は前日か当日だった。
球団のオーナーをはじめとする死守期成同盟首脳部は、それでも遅すぎはしないと思っていた。吹田提案のより所となるのは、わずか一道四県の五都市からのアピールだけだ。それでもこちらは、吹田提案がテレビや新聞に出る前に高級官僚を派遣してにらみを効かせ、現地で提案内容をいっしょに確認し、もう一度だめを押して帰ってきてもらうことができる。遅すぎるどころか、優に機先を制することができる。そう思っていた。ところが、十一月十一日当日、吹田の口から一道一府二十八県の三十一都市という数を聞くに及んで、同盟首脳部は仰天してしまったのであった。
まさにここに、吹田や北川たちのたくらみがあった。九月下旬の五都市からの初名乗りも、吹田、寺岡、北川の三人が熟慮の結果第一弾となるべき都市を選び、提出の時期を選んで、要請書の発送を五市に|要請《ヽヽ》したものだった。そしてその他の二十六の候補都市には、はやる気持を押さえて十一月九日から十日にコミッショナー事務局に要請書が届くように配慮してくれと念を押しておいた。そして、全国の関係機関へのコピー送付は二、三日ずらすように連絡してあった。さらに、それぞれの関係者には十一月十一日まで要請書提出について箝口令を敷くように依頼してあった。そういう段取りが何を意味するか、どれほど重要かということは、あまり詳しく述べなくても理解されるように、北川と地元の市民代表たち、そして市民代表と地方公共団体や企業の幹部とのきずなは固く結ばれるまでになっていたのだ。もちろん農協の寺岡の努力と、吹田晨平の人望がなければできないことだったが。これは何を物語るか。信じ難いことだが、県知事や市長や議会の人間が、地元の民間のほうと口裏を合わせ、中央の官庁には知らんぷりをしていたことになる。それもこれも、みんな野球が好きで、|おらがくに《ヽヽヽヽヽ》のプロ野球クラブができるのなら、首が飛んでもうちの若い者のいうことを聞いてやろうという、恐ろしいほどの情熱のせいだったとしか考えられない。まことに恐るべきは野球である。
さて、こうして北川たちは、東京にいる敵の情勢判断と対策を狂わせておき、加えて十一日の吹田提案の発表を衝撃的なものにしようとたくらんだのだった。つまり、吹田と北川の好む「風」の動きに|譬《たと》えれば、まず全国にくまなくそよ風を起こし、次に五都市の要請書を東京に吹き寄せる季節風にしたのだ。それは東京の人びとがびっくりするほどの強風ではない。そして第三段階で疾風怒濤を用意したのだった。天災は忘れたころにやってくる。寺田寅彦博士の名言はここでも生きていたのである。
しかし北川たちは、この作戦がこうもものの見事に的中するとは思ってもみなかった。つまり局長や部長さん方が、第二弾の要請書の発送とちょうど入れちがいに、全国に向けて発送されるとは、まさかそこまでは読んでいなかったのである。
中央のエリートたちは、視察旅行先で、データ不足による苦戦を強いられることになった。自信を持って投げ込んだ剛速球を、「ありゃあ、一足ちがいでしたなあ。二日前に要請書を送ったとこですよ。ほらほら、今うちの名前を吹田さんが読み上げました」と、いとも簡単に打ち返され、マウンドにあっけらかんと突っ立ち、やがてしゃがみ込んでしまった。自軍のベンチのほうをにらめども、ベンチはあまりにも遠し。そして試合が終わって日が暮れて、どこぞの市長か地場企業の社長から盃を受けながら、
「局長のおくにはどちらです」
「和歌山です」
「はあ、いいとこですなあ。和歌山中学出身の西本幸雄さんあたりがもう一度ユニフォームを着て、紀伊半島の逸材を集めてチームをつくったら、これはもう、めっぽう強いチームになりますなあ」
などとやられ、悪い気はしないので気色ばんでみせるわけにもいかないという、複雑な気持を味わっていた。
さて、死守期成同盟のその後の活動ぶりはどうだったか。こちらは街頭の署名運動がどうもはかばかしくないので、戸別訪問による署名獲得に切り換えることになった。そして親会社の新聞社やデパートなどのセールスマンが総動員された。
東京のファンの中にも、生粋の江戸っ子を自負する人は大勢いた。しかし、そういう人がかならずしも期成同盟を支持するとはかぎらない。
「江戸っ子だけでつくるチーム、こいつはいいぜ。ほら、カープにいる高橋慶彦とか、いきのいい奴らを呼び戻してさ。田淵なんかは東京に残るだろ。監督はもちろんワンちゃんさ。おっと、そうすると署名するわけにはいかねえな。なに? 東京に一つのチームしか許されない? きみい、一つありゃ充分だよ。気が散らなくてすまあ」
そうかと思うと、
「巨人がなくなるような制度は許せん。巨人軍は永久に不滅です。いくつでも署名するよ」
という人もいる。
運動員が意外に思ったのは、地方から出てきた都民の中に、署名をする人が思ったより多いということだった。
「せっかく今、いろんなチームが首都圏にあるのに、東京出身の一チームだけにするなんて、ばかげてるよねえ。そうなったらぼくなんか、地元出身の選手の活躍も見られなくなっちゃう。え? ぼく鳥取。巨人の角とおんなじ。とにかくね、東京のよさは多様性なんだよ」
運動員は、こういう人に出くわす度に勇気づけられ、次の家への足取りも軽くなる。そうかと思うとこういう人もいる。
「いや、署名はことわる」
郷里を聞くと遠くの土地だ。そこで、前に得ていた感想をセールストークに使うと、
「東京の多様性だと? 何言ってやがる。ワンパターンだよ東京は。いや、そんなことより、きみ、ぼくはね、自分のくにに性格のはっきりしたチームができれば、はるか東京から応援するよ。東京で見る野球は別のものさ。そしてね、一年に何度か上京してくるうちのチームを熱烈歓迎するよ。ほら、詩にもあるだろ。“ふるさとは、遠きに在りて想うもの”ってさ」
東京は、ファン気質一つとってもほんとうに多様性の街だわい。運動員はそう思いながら足を引きずって廻る。
とにかく、東京にはいろんな人がいる。戸籍謄本が必要なときは都内の区役所では取れず、速達郵便料を同封して速達郵便を出し、それでもまにあわない人。それが不便なので本籍を便宜的に東京に移したが、「おくにはどちらですか」と聞かれると「東京」とは口から出ない人など。そして案外多くの人が、プロ野球名鑑などを眺めて同郷の士を発見するのを楽しんでいるようだ。
「ロッテの落合は、おれと同じ秋田出だぞ。やっぱり伸びる奴はちがうなあ」
「巨人の中畑は、大学は東京だが、高校は福島県の安積商高だ。おれの生地のすぐ近くだ。みろ、おれに似てキリッとしてるぜ」
あるいは、神宮球場のスタンドで次のような会話が交わされる。
「野球も相撲と同じように出身地をアナウンスせんですかねえ。“三番、レフト若松、背番号1、北海道留萌市出身”なあんてね。ええ、私、北海道です」
「そうか。それじゃ、同じヤクルトのエース松岡と、大砲の大杉はどこだが知ってるか。ハハハ、おれと同じ岡山県さ」
こういうふうに、野球選手に託しておくに自慢をする東京都民が、前に出た二つのタイプの意見のうち、どちらに|与《くみ》するかは微妙なところである。運動員から聞かれて迷う人も大勢いた。しかし少なくとも、自分の出身県か隣の県あたりに新しいチームが生まれるのだろうかということに、なみなみならぬ関心を抱いている人は、期成同盟にとって無視できない数に達することは明らかだった。
ある人は、署名をことわってから運動員に「まあ、ちょっとこれを見て行ってよ」と言って、一枚のメモを出した。それには鉛筆で次のようなことが書いてあった。「四国マンジローズ(仮称)。顧問・三原、千葉、監督・中西、コーチ・牧野ほか、投手・西本、藤田学、古沢、藤沢、鹿取、池内ほか、内野手・有藤、島谷、藤原、河埜兄弟、高井ほか、外野手・中塚、弘田……」。運動員はおしまいまで見ずに、憤然とした表情で相手にメモを放るようにして返して玄関を出た。そしてふと(待てよ。キャッチャーがいなかったぞ)と思った。しかしそれを確かめに戻るのは、けちをつけるつもりが、かえってメンバー表をいっしょに楽しんでいるととられかねないと思い、一瞬躊躇した。そして結局引き返さずに遠くから、
「キャッチャーがいなくちゃ、野球はできませんねえ」
と言った。すかさず答えがはね返ってきた。
「いやいや、大勢いるんでね。だれを正捕手にするか迷ってるとこなんだよ」
そう言われた運動員も野球は好きなので、苗字だけを走り書きしたのを見ても、西本とあれば巨人のエース級だし、内野手のところに藤原とあれば、あの南海のいぶし銀のような名手であり、高井とくれば阪急の代打ホームラン男であることぐらいは瞬時にわかる。あのメモの中で有名でない選手は一人もいなかった。(相当な顔触れだな)、彼の心中はいつのまにか、自分のくにの現役選手を拾い出してラインナップをつくることに専念して行った。そして、ちょっとだれの名も浮かばないポジションがあると、自分のくにの近くの地方から連れてきて埋めてみた。かくして、期成同盟本部に帰りつくまでには、何とか先発メンバーが完成していた。(うむ、なかなかの顔触れじゃないか。さっきの四国マンジローズとやたらに見劣りはしないぞ。あ、そうだ。チーム名は……)、しかし、もう本部室のドアまできてしまっていた。彼はその楽しい想像を一旦中断すると、すこぶる真面目な顔をつくってドアを開けた。
本部に帰って報告する者が増えるにつれて、訪問先でその種のメンバー表を見たのは彼だけではないということがわかってきた。そしてたいていは、まず自分の県の選手だけで埋めてみようとし、次に手薄なポジションには隣県あるいは同一地方の選手を補充し、そうして一応満足できる陣容にまで持って行くという手法で一致していた。
ある運動員はそれを逆手に使って、「それ見なさい。純粋な地元チームをつくるなんて無理でしょう。こんなに広範囲にひろげたものを地元チームといえますか」と問いつめた。相手は悠然と答えた。「あたりまえじゃないか。立派な地元チームですよ。きみね、例えば夏の甲子園を考えてみたまえ。まあ、ぼくは山口県の柳井だが、最初は山口代表の下関商業を応援する。しかもその|下商《しもしよう》はね、ぼくらの柳井を地方大会で負かした憎き相手なんだよ。で、まあ、その下商も甲子園で武運つたなく負けたとする。そうすると今度は、隣の広島代表あたりを応援する。それも負けたとすると、次に近いところを探す。海を渡って福岡代表に心情が移ることだってある。まあ、ひいきになるにはほかの要素によることもあるが、ファンは大体そういう心情で決勝戦まで興味をつないで行くんじゃないかね。そう見れば、このぼくの選んだメンバーなんか、立派な地元チームだよ」
とにかく、戸別訪問による署名運動は、たいそう時間がかかることがわかった。野球の話となると、署名の可否などそっちのけで話の止まらない人がいる。おまけに今度の吹田提案をよく読んでいて、運動員に論争を挑む人が、とくに中高年といわれる世代に多い。運動員が同盟幹部から押しつけられた紋切り型の死守の論理に比べると、彼らの論理ははるかに柔軟で自発的なので、時間が経つにつれてどうしても運動員のほうの分が悪くなる。
ついに同盟首脳部の結論は、「そんな生産性の低いことに人間と日当を使うのはやめてしまえ」ということになり、署名運動は間もなく打ち切られてしまった。
一方、オーナーたちは、例年より早く選手と来年の契約更改をすますことを球団幹部に命じた。契約書にサインしたあとで地元新球団に走れば、契約違反になる。はじめて球団社長から慰留された選手の中には、「今シーズンが始まる直前まではトレードに出すぞ出すぞで、今度は絶対に出るなですか」と皮肉を言う者もいた。
ところがほどなく、各球団役員が深刻な問題に行き当たった。「選手と契約更改をすませて、万一球団解散とでもいうことになれば、契約違反に問われていちゃもんをつけられるのは、むしろ球団側ではないか」というものだ。普通であればこれに対して「何たる敗北主義思想だ!」と叱りつけるオーナーも、はたと困ってしまった。そして、新体制決定までは仮契約の交渉に移った。しかし、仮契約にサインする選手は少なかった。どこにどういう落とし穴があるかわからないと思ったからである。両リーグの選手会長からは、「事態を静観しよう。腕に自信があれば、どんなことになっても喰って行ける。今は、どこがわれわれのグラウンドになるかを静かに見きわめようではないか」という呼びかけが全選手におこなわれた。
選手会がそういう落ち着きを持つには、それなりの支えがあった。それぞれの選手にとって、地元の尊敬し信頼する人物から、選手への非公式な打診がきめ細かく続けられていた。地元の責任者からは、新チームのイメージを示す青写真がひそかに届けられていた。そして、十一月十一日に各地の箝口令が解かれ、吹田提案がテレビ、ラジオ、新聞などで発表されると共に、おびただしい数のファンが地元選手にファンレターを書いた。電報を打つ人もいた。
「ケンチヤン チヤンス クマモトノイチグ ンデ ガ ンバ レ ハバ タケ 一フアン」
ケンチャンは、実力もあり真面目な選手だったが、彼のポジションにはどういうわけか毎年スターが入団し、今年こそはと思う度に相変わらずファームでやるめぐり合わせが続いていた。そのケンチャンが、こんな電報やたくさんのファンレターをもらうのははじめてだった。そしてそのころ、ほとんどのファームの選手は同じ体験をしていた。(新構想によると六チーム増える。五割増しだ。ようし、いよいよおれにも出番が廻ってくるぞ)、ファームのほとんどの選手はそう思って頬を紅潮させた。
「ファームの人たちにもチャンスを与えたい」というのは、かねてからの吹田の思いだった。北川もその気持を受けて地方を廻った。(一軍登録選手よりもはるかに多いファームの選手の動向が、今度の改革の成否の大きなポイントの一つだ)、吹田も北川もそう思っていた。
これに対して、期成同盟側の選手引き留め工作は、どうしてもまず有力選手に力が注がれ、ファームの選手には一応の形だけという重大なあやまちを犯していた。
総じて選手への対策も、前から静かに進められていた、北川と地元の共同作戦が、ここに来て実り始めていた。
吹田が「当面のプロ野球機構に関するコミッショナー提案」を発表した翌日、要請書を出した三十一都市を含む全都道府県の庁所在都市に、「プロ野球クラブ設立都市立候補用紙」が、長文の手紙と共にコミッショナー事務局から送られた。
手紙は十一日の吹田の提案内容をあらためて伝えると共に、立候補書類の作成にあたって、きわめて綿密な作業を要求していた。その内容をまとめたのは浦山事務局長だった。浦山は、十一日の吹田提案を練る段階から、吹田も驚くほどのエネルギーを仕事に集中し始めた。日頃はもの静かで、自分のほうからはあまり発言しないこの男のどこに、これだけのエネルギーがひそんでいたのか。作業を進めるうえで吹田と深夜まで激論をたたかわせたことも数度に及んだ。そして二人の意見がどうやらまとまると、浦山は「わかりました。明日の朝までにまとめておきます。お疲れでしょうから、どうぞお先に」と吹田に言って、事務局で徹夜することもあった。二人が特に力を入れたのは、立候補書類を充たすべき項目だった。
「この段階でこっちが甘くなってはいかんね。立候補を宣言することは、来年五月五日にプレーボールできると宣言することだ」
「そうです。筆先だけで書ける書類では意味がありません。みんなが協力してやっと完成するものにしましょう。そうすればこの計画への認識や愛情が一人ひとりに行き渡りますし、設立が決定してからの作業も速い」
「同感だ。なおかつ選に洩れても徒労だったと思わないですむ作業にしたい」
こうして浦山がつくった原案は、吹田がほとんど手を入れる必要はないものとなっていた。
「これをまとめあげてわれわれのところに出すまでに、どれくらいの期間が要るだろう」
「どんなに頑張っても十日はかかるでしょう」
「そうすると、一番乗りでも、早くて今月の二十五日ごろか」
「十二月に入ってからのほうが多いでしょうね」
「締切は予定どおり二十日でいいね」
「ええ。年内に選考結果の発表となると、それでぎりぎりです」
「よかろう。印刷に廻してください」
コミッショナーが要求する内容は、およそ次のようなものだった。
形式的な発起人グループではなく、地元各界の有志による設立連絡協議会をつくり、会長と事務局長は、公共団体、出資予定企業、同個人以外から選出する。会長は市民代表を兼ねる。
この組織は、球団設立後は運営協議会に移行する。そのメンバーと経歴、および協議会の規約を明記する。
予定出資構成、予定役員構成、約款。
向こう三カ年の年別予算計画、収支計画、主要固定資産整備計画。観客動員計画と入場料規定。
使用予定球場の現状と改造または新設計画。公営球場の場合の運営規定。
監督、コーチ、選手構成の予定または希望メンバー。その内諾、拒否、未折衝の別。
新人の募集と養成の計画。
その都市が当面代表しようとする地方の範囲。
野球にとどまらず、その都市および地方のスポーツの歴史と現状。その特色。
球団の存在が、その地方の将来に及ぼすと期待される諸面。
おもな項目だけでもまだまだあった。大レポート、大論文である。そして立候補の責任者は市民代表で、書類の筆頭に署名し、民間の発起人がそれに続き、最後に、市長、市議会議長、都道府県知事、同議会議長が署名することとなっていた。
「どうだろう。これでいくつの都市が立候補するか、一つ気楽に予想を立ててみようじゃないか」
「当たったら蕎麦をおごっていただけますか」
「いいとも、特上のてんぷら蕎麦をおごるよ」
「十八ぎりぎりか、多くて二十」
と、若い堀田が涼しい顔で言った。
「ほう、そうすると要請書の三十一を大幅に下廻るというわけだな」
「そうです」
静かに聞いていた浦山は、
「三十一プラス十で四十一。同じ県での競合もあると思います」
と言った。
「さあ、コミッショナーの番ですよ」
「弱ったなあ。ぼくの予想が当たると、きみたちからおごってもらうことになって気の毒だなあ」
「まあ、そのご心配は無用でしょう」
「いやいや当たるぞ。そうだなあ、三十四としとこう」
事務局は、仕事の一つの山を越えたくつろぎの気分に満ちていた。しかし吹田は(堀田君の読みも念頭に入れておかなければならんな。あるいはそれ以下の場合も)という緊張を心の隅に残していた。それは「四十一都市」と宣言した浦山も同じだった。複数本拠地制を打ち出してきた既存十球団が、どこまで地元に喰い込むか。
それでもとにかく、吹田は久し振りの安らぎを覚えながら家路に着いた。
「千代、いよいよ野球抜きの国内旅行は難しくなってきたぞ」
「何を今さら、今までだってそうだったじゃありませんか」
「もっと大変だ。日本中いたる所にプロ野球クラブができる」
「はいはい。それじゃ、もうあきらめてどこへでもお供しますよ」
「え? どういう心境の変化だ。急にそう素直にいわれると、何だか拍子抜けするなあ」
「お互いに、もう長くもないでしょうしね」
「ハハハ、そればっかりはわからん。しかし何だねえ、ほんとにもう一度、ゆっくりと太平洋の船旅でもしたいねえ」
吹田はお茶をすすりながら、珍しくしみじみと妻に言った。
吹田は書斎に入り、久し振りにレコードをかけた。ドボルザークの第八交響曲と、シベリウスのバイオリン協奏曲、この二つが彼の大好きな曲だ。気持よく音楽の世界に入って行くうちに、吹田はふと、自分の体に微熱を感じた。
十一月十一日に、片やコミッショナーから、片やそれに対抗して現リーグ現球団側から、相容れない二つの方針が発表されたことは、九月下旬の五都市要請書発表のとき以上に、新聞、テレビ、週刊誌などにたずさわる人たちを奮い立たせた。もう選手を追い廻している段階ではない。取材対象は、各球団オーナーや社長、全国主要都市の地方公共団体や民間の中心人物というふうに大物になってきた。すでに一般紙では、スポーツ記者以外に社会部、政治部などの記者を動員してきたが、十一日以後はさらに取材陣を強化した。そして取扱紙面もスポーツ面をはみ出して、社会面や政治面、まれに経済面にも及んで行った。
紙面を賑わせたのは、現球団側の複数本拠地制である。無理もない。もう一方の新球団設立都市候補については、せいぜいどことどこが立候補することを決めて準備に入ったことぐらいしかニュースにならない。ところが複数本拠地制のほうは、現存する球団と都市との交渉やかけひきだから読物としておもしろい。「巨人、熊本入りか」、「西武、平和台濃厚」、「阪急、岡山と縁組み?」、「ヤクルト、夏は札幌説」、「長野も巨人を熱烈歓迎」、「仙台、阪神指名の動き」などだ。確認材料に乏しくても、九月の選手インタビューのときと同じく、記者の感受性と想像力を大胆に駆使できる。語尾を「か」「濃厚」「?」「説」「動き」などとしておけばいいのだ。また、かりに都市のほうから球団を勧誘している表現であっても、「長野」とか「仙台」とか書いてあるからといって、かならずしも公的な意味である必要はない。「長野の某有力者が語るところによれば」とか「仙台の阪神ファンの会の希望的観測では」でいいのだ。とにかく見出しで勝負である。
この調子で、しばらくは球団からの都市指名と、都市からの球団指名の予想記事が乱舞した。ある新聞はこの指名合戦を「球団ドラフト」とか「都市ドラフト」とか書いた。新人ドラフト制度が急に廃止されたときだったので、それに代わるトピックスにしたのだ。
ところで、現球団側は、吹田の提案のうち、ただ一点に感謝し、そのただ一点に一瞬飛びつこうとした。ほかならぬ、この新人ドラフト制度の廃止である。「それっ」とばかり自由にお目当ての新人と交渉に入りかけたが、前に出た既成選手との契約更改のときと同じジレンマにおちいってしまった。万一球団がなくなってしまったら、契約違反に問われるのは球団側になりかねない。他球団に先んずるための契約金すら取り戻せないかも知れない。というわけで、これは|糠《ぬか》喜びに終わった。
ジャーナリズムはいつの間にか、吹田の提案を進める勢力を「改革派」と呼び、現リーグ球団の複数本拠地制に同調するグループを「修正派」と呼ぶようになった。修正派の記事が紙面を賑わせている間、改革派はこつこつと立候補書類作成作業を続けていた。なにしろ吹田が厖大な作業を課したものだから、一週間やそこいらでは立候補の名乗りを挙げられない。十一月中旬が深まっても、ジャーナリズムの話題は修正派が独占していた。
国会や地方議会の議員も、いつの間にかこの改革派と修正派に色分けされて行った。すでにコミッショナーに要請書を出した都市の議員にも、もちろん修正派は発生していた。彼らは、要請書に一旦署名した議長、市長、知事たちに翻意をうながす圧力を、中央と地元の両方からかけた。知事や市長の中には、翻意すると市民の信頼を失うのは明らかだし、かりに修正派の計画が勝てばこれまた失脚するのは明らかだという予測に悩み、ノイローゼ気味になる人もいた。しかしこの種の悩みは、知事や市長だけでなく、彼らに圧力をかけている修正派議員にも、改革派議員の一部にもあった。(あのとき要請書提出に賛成したのは、おれの情勢判断が誤っていたのだろうか。新聞は毎日複数本拠地の記事だらけだ)。この悩みは、議員の中で腰のすわっていない人のすべてを襲い、思惑が入り乱れた。始末の悪いことに、保守堅持党すなわち修正派、近未来革命党すなわち改革派という単純な色分けにはならなかったのだ。党の決定に責任をゆだねるわけには行かない。派閥あるいは己れ個人の選択しかない。こうして、保守、革新両党の中に改革派と修正派が生まれ、それぞれが政治信条を超越し、横につながって動き始めた。ある新聞の政治部記者がこの動きを、「中央分権党と地方集権党の誕生」と表現した。現球団の本拠地を中央に残しながら、第二の都市にもその力を分散させるので中央分権であり、もう一方は、東京にすら一球団しか存在を認めず、球団数は圧倒的に地方都市グループに傾くので地方集権なのであった。その記者はこう書いた。「かくして、それぞれ大同団結したばかりの保守堅持党と近未来革命党が、早くも地軸を回転させ、保守対革新の軸を捨て、中央対地方の軸を採ることを迫られている。あるいはすべての議員が、保守堅持か近未来革命かのタテの党籍に加えて、中央主義か地方主義かのヨコの党籍を持たねばならないことになるかも知れない」
コミッショナー事務局でこの記事を読んでいた吹田は、苦笑しながら浦山に言った。
「大げさなことになったもんだなあ。たかがプロ野球についてのあれっぽっちの提案が」
それに対して浦山は、にやりと笑ってことばを返した。
「そんなことおっしゃって。吹田さんはこういうことを見通しておられたんでしょう」
記憶力のいい浦山は、吹田が二年前に、「プロ野球の新地図が日本の他の分野をも少しずつ変えて行くんじゃないか」と浦山だけに語ったことを覚えていた。
吹田は一瞬どきりとした顔をしたが、
「そんなことありませんよ。とんでもない。ぼくは野球のことしか考えてこなかったし、言ってもこなかったじゃないか」
と、むきになって答えた。たしかに吹田は、球団代表たちが記者会見で「地方の時代」などと観念的で未消化なことばを使ったのに対し、その種のことばはまったく用いず、国会でも「野球と政治は関係ない」という話をした。それにもかかわらず、政治家と自称する人びとが踊り出したのだ。
「期成同盟」という旗印は例の東京の同盟だけでなく、全国各地に立てられた。“熊本県民巨人軍誘致期成同盟”“カムバック・ライオンズ福岡市民期成同盟”その他多数。もちろん改革派議員の胆煎りによっても“札幌新球団設立期成同盟”などの旗印が掲げられた。しかしそれらは、設立協議会をつくって地道に立候補書類作成の作業を続けている市民代表たちにとってはどうでもよいことで、ありがたくも何ともないことだった。今はお祭り騒ぎで鉢巻きをしめるよりも、実務のほうが大切なのだ。議員さんたちの思惑とは関係ないというわけだ。
そういう作業の内容を熟知している、コミッショナー事務局の浦山や堀田たちも、十一月の中旬が深まるにつれて、さすがに焦りの色を見せ始めていた。既存球団勢力と「修正派」は、政界、財界、ジャーナリズムを総動員し、あの手この手で複数本拠地制をうたいあげ、実現まであと一息というムードをつくろうと必死である。そして日本国民はムードに弱いというのは定説となっている。もっと正確にいうと、時の大勢に柔軟に順応してしまう体質を持っている。
修正派勢力は、政治のかけひきについては百戦錬磨の|強者《つわもの》揃いであり、おそらくその辺の呼吸を心得てムードをつくりながら、地方の首長や有力者への工作を進めているであろう。
これに対して、わがコミッショナーは、何も動こうとしていないではないか。「改革派」の有力者たちと会うこともないし、地方の首長や設立協議会の人びとに叱咤激励の声を送るわけでもない。ただ、事務局に来て新聞に目を通したり、事務局員と雑談しているだけだ。事務局に姿を現わさない日は、自宅でのんびりと絵筆をとったり、レコードを聴いたりしている。
(こうして見ると、一個人の力は、やはり最後のところでは、巨大な組織が束になった力には到底太刀打ちできないのだ。吹田晨平という小柄な八十歳の老人は、結局、少年のような夢を見ながら、遂にはそのまま現世から姿を消して行く存在ではないのか。われわれは、この老人の束の間の恰好よさに心酔した、あわれな人間の小グループに過ぎないのではないか――)
そういう事務局員たちの懸念が現実の姿をとったのは、十一月十九日のことだった。それまで、記者たちの感受性と想像力の駆使によって、「か」「濃厚」「?」「説」「動き」などとなっていた新聞見出しの語尾が、十九日の朝刊では取っ払われ、「複数本拠地制、五球団と五都市で合意、二十五日にも調印の運び」となったのだ。
セ・パ両リーグ会長と五球団オーナーは、十八日夜緊急記者会見をおこない、大要次のような内容を発表した。
「プロ野球複数本拠地構想について鋭意かつ慎重に準備を進めてきたわれわれは、本日その正式発表にこぎつけたことを、全国のファンと共に喜びたい。
まず、パシフィック・リーグ。西武ライオンズは所沢市と福岡市、日本ハム・ファイターズは東京都と高松市、ロッテ・オリオンズは川崎市と仙台市。次にセントラル・リーグ。読売ジャイアンツは東京都と熊本市、横浜大洋ホエールズは横浜市と下関市。なお、中日ドラゴンズと広島東洋カープを除く他の五球団の複数本拠地も、遅くとも十一月二十四日には正式決定を見る。これを待って、十一月二十五日には、十都市で一斉に調印式を挙行し、プロ野球は、十八都市に本拠を置く新時代に入る。
市民が朝刊をひろげているころ、新聞やテレビの記者たちは、福岡、高松、熊本、下関、仙台に飛んで市長や県知事たちを追っかけ廻していた。運悪くとっつかまった人たちは、一様に「われわれは、政財界の秩序と地元住民の利益に最善の策をとる。それ以外は二十五日までノーコメントだ」という台詞を繰り返した。“政財界の秩序”これは、どう考えても修正派の用語であった。
吹田、北川、浦山、志村、それに寺岡をはじめ各界の吹田支持者たちの情勢判断はやはり甘かった。地元の人たちの|おらがくに《ヽヽヽヽヽ》の野球への情熱を買いかぶりすぎ、三十一都市からの要請書に示された官民一体の姿勢が揺らぐことはもうないと信じていたのだ。
ただ|一縷《いちる》の望みは、新聞が調印の完了を報じているわけではないということだった。十都市が出揃ったところで一斉に調印すると言っているし、新聞やテレビに登場してそう言っているのは球団側だけで、調印相手の地方自治体の長や地元の有力者は影をひそめている。今こそ吹田が積極的に動くべきときではないか。
「コミッショナー、中日と広島を除けば、五〇%が複数本拠地決定ですよ。わが方にはまだ一都市からも立候補届出がない。しかも修正派は、われわれの重要拠点都市をすべて押さえた。われわれは地元の二枚舌に裏切られたんです。どうなさるおつもりですか」
と、堀田は吹田に詰め寄った。
「ここでじたばたしても仕方がない。こういうときこそ落ち着くんです」
吹田はこともなげに言う。
「まだゲームセットじゃない。九回の表が終わったところだ。同点で迎えた九回表にテキが五点入れた。こっちが六点入れればさよならだ。その前に九回表の得点が無効になることだってある」
「じゃ、コミッショナー、いや、吹田監督、早くそのアピールを出さなければ。そして九回裏の対策を指示してください。まず、トップバッターには?」
「いや、ここに及んで監督の出すサインは何もない。選手一人ひとりに任せるよ」
「ずるい! それで勝てなかったら、選手の力量が不足してたとおっしゃるんでしょう。私はもう我慢できません」
堀田はそう言って、どこかに頭を冷やしに飛び出して行った。吹田の脇にいる浦山は終始黙ったままだ。事務局は、予想外の不利なゲーム展開になったチームのベンチのように静かになった。
そのころ、ジャーナリズムの感受性と想像力が再び復活していた。二十四日までの紙面をおもしろくしなければならない。
西武の福岡、ロッテの仙台、それに大洋の下関は、過去に実績があるから話題としては新鮮味に欠ける。そこで記者たちの関心は熊本と高松に集中した。そして、川上という野球の神様と、三原という稀代の智将を登場させた。天下の形勢を洞察した二人が、事態収拾の最善策として複数本拠地制を支持し、自分にゆかりの土地とゆかりの球団の仲をとりもつ中心人物の役割を果たしたというのだ。もちろん、どんな敏腕な記者でも二人からその|言質《げんち》はとれなかった。こういうとき、神様や智将は、表面には絶対にその姿を現わさないものなのだ。
そうこうするうちに今度は、カープの古葉監督が同郷熊本の先輩川上を訪ね、阪神の監督を辞めていた中西が、同郷高松の義父三原を訪ねたという情報が入った。そしてこの訪問は、複数本拠地制に同調した二人の御大に、改革派の古葉と中西が諫言に行ったものだとする説が広まった。
残る五球団の鍵を握るのは、阪神、近鉄、阪急、南海の関西電鉄四社だった。私鉄は、商売柄、特定の地域に経営基盤のほとんどを置く。だから新聞や食品のように、そうそう飛び離れた地方に出先を設けるわけには行かない。さて、これらの電車はどっちに向けて走り出すか。記者たちはそのことに関心が持った。そして正式発表を待ちきれずに、再び「か」「動き」「?」「濃厚」といった語尾を駆使し始めた。
「阪神、岡山に進出し、五年計画で路線延長か」
「阪急北上、金沢で百万石盗りの動き」
「南海、和歌山に第二の本拠地?」
「近鉄、名古屋でドラゴンズと競合の気配濃厚」
といった調子である。そしてこれらの都市は、いずれも現在の営業路線の延長線上にあり、実現可能な案であった。
事実、四社のオーナーや幹部たちは、真剣にかつ極秘裏にその案を検討していた。四社が協力すれば、中京、中国、紀伊、北陸と、関西私鉄の版図は東西南北に雄大なひろがりを見せることになる。「西武ごときに負けてたまるか」という気持もあった。しかしそこはいかにも関西人らしく、現在の路線の堅実な延長を図ったのだった。記者たちの勘は当を得ていた。さすがは日本のジャーナリズム、まったくの架空や一記者の憶測だけでニュースを流すはずなどない。
岡山、金沢、和歌山、名古屋の政財界も、ほとんど四私鉄との合意に達しかけていた。地元有力者たちは、先行した地方の代表と同じく、「政財界の秩序と地方住民の利益に最善の策をとる」と語った。
これが、十一月二十一日の状況だった。こうなると、中日と広島を除く既存全球団が、複数本拠地の実現に成功したも同然である。この時期、新球団設立立候補書類をコミッショナーに出した都市は皆無であった。さすがは、大先生やオーナーたちの政治力と財力、それに洞察力である。「最後に笑う者がほんとうに笑う者だ」という格言にしたがって、大先生とオーナーたちは会心の笑みを洩らした。あとは四日後の一斉調印式を待つばかりだ。危うし、吹田晨平。やっぱり、北川史朗などという新聞記者くずれに大事を託したのほまちがいだったのだ。それに、志村千三など、まったく何もしていないではないか。第一、名前からして何もセンゾウだ。
十一月二十二日の朝が明けた。新聞とテレビは、予想もしなかった事態にまた大忙しになった。
関西の阪神、近鉄、阪急、南海と、首都圏の西武の私鉄五社の経営者は、各労働組合から四十八時間後の無期限ストライキ突入の通告を受けたのである。五社の中には、今まで春闘などでも一度もストライキをされたことのない会社もあった。それが突然の通告である。
新聞やテレビで報道された、営業路線の延長と遠隔都市への進出という計画の真偽について、当組合は独自の調査をした。その結果、会社側が当組合との協議もなく、秘密裡にその計画を進めていたこと、そして従業員の頭越しに、外部の報道機関にその構想を洩らしていたことが明らかになった。しかもこの計画には経営上相当な無理があり、従業員の労働強化を前提にした青写真が作られている。これが一部政治勢力の圧力を受けた計画であることも判明している。労使協調の精神は、経営者によって踏みにじられたと断ぜざるを得ない。ここに、十一月二十四日始発より無期限ストライキに突入する用意のあることを通告する。
経営者がひそかに進めていたのに対し、それを察知した労働組合もひそかにスト権集約を進めていたのだった。
同日午後、セ・パ両リーグ会長は、それぞれの選手会長から会見を求められ、『プロ野球機構に関する要望書』を手渡されていた。
われわれプロ野球選手は、各球団経営者から、複数本拠地制については満足のいく説明も相談も受けていない。この制度は、多かれ少なかれ選手に二重生活を強いるものである。それは経済的措置によっては解決できない問題を抱えている。肉体的疲労はまだしも、精神的不安定は無視できない。球団の経費増もばかにならないはずである。
われわれは政策には原則として口をはさみたくない。しかし、ことここに至っては意見を表明せざるを得ない。われわれは、前シーズンまでの体制か、さもなくば、コミッショナーの提案する新しい体制のいずれかに従う。もし、そのいずれでもない複数本拠地制の調印が強行されれば、われわれは、アメリカ大リーグの諸君がとった行動と同じく、来シーズン初頭からストライキに入ることも辞さない覚悟である。蛇足ながら、スポーツマンは単純明快さを好む。
この要望書には、プロ野球全選手約七百名のうち、四百八十名が署名していた。
何のことはない。要望書とは記されてはいるものの、これもやはりストライキ通告書であった。その夜のテレビ、ラジオと、夕刊は、この二つのストライキ通告を特大の黒ベタ白ヌキ見出しで報じた。九回の裏二死から、吹田陣営の起死回生の反撃が始まったのだった。ふてくされていた事務局の堀田も生気を取り戻し、ベンチのあちこちで威勢のいい声が出始めた。
「まず、私鉄五社の労組が中心線を抜くヒットを集めて五点を返し同点、そのあと選手会がさよならホームランというところかな」
と、潟田が言った。それから志村の顔を見てふくみ笑いをしながら続けた。
「しかし、どうもこれは、吹田さんが言ったノーサインのゲーム展開じゃないな。労働組合には、近未来革命党の宗太郎というコーチ、それに北川という影の男がいたとおれは見る。そして選手会には、志村千三というコーチがいて画策していた。だから吹田監督は、まるで今のドリンカーズの志村監督のように、何もしないでいることができた」
「きみの皮肉も手が込んできたな。さてと、私鉄労組については多分当たっていると思うね。だけど、選手たちはね、自分たちの現実感覚によったんだと思うよ」
「きみも北川と同じように、自分のやったことについてはとぼけるなあ。それはよくないよ。奥床しさとか謙譲の美徳ではなくて、史実をゆがめる態度だ。きみは今、ぼくに歴史を語っているんだぞ」
「何とまあ、大げさな」
「いや、ほんと。どうも北川ときみのやったことだけが、さっきからはっきりしない。きみは吹田さんの期待どおり、前からひそかに、現場の選手やコーチたちの気持と意思をまとめていた影の男だ。そして九回裏の|どたんば《ヽヽヽヽ》で決定的な役目を果たしたんだ。そして、ものごとを変えるのは政治家や経営者ではなく、現場で働く連中だということを示したんだよ。それに――」
潟田は一段と眼を光らせて言った。
「川上と三原のところに、古葉と中西が諫言に行ったのが事実とすれば、それもきみの影響だな。きみが吹田さんにはじめて会ったとき、信頼できる人物として古葉と中西の名前を挙げていた」
「ま、それを結びつけて考えるのは、きみの勝手だとしかいえないね。しかし、大切なのはそんなことじゃない。もし二つのストライキ通告を受けても、巨人―熊本、西武―福岡というラインが、断固として動じなかったとしたら、どうなっていたかはわからなかった」
「ふうん、そうすると……。つまり、ある都市からは新球団設立の立候補書類が出、ある都市では既存球団誘致の調印がおこなわれた。あるいは、一つの都市で両方の決定がなされて、政財界入り乱れた泥仕合が始まっていたとか……」
「そのとおりだ。私鉄の無期限ストライキという緊迫した事態を背景に、日本は改革派と修正派に分かれて、あちこちで内戦状態が発生していたかも知れない」
「しかし、考えてみると、新球団の立候補はあっただろうかねえ。だって、記者にとっつかまった知事や市長たちは、“政財界の秩序と地元住民の利益に最善の策をとる”とか言ってたんだろう。それはとりもなおさず、コミッショナーヘの要請書の初心をひるがえした修正派宣言じゃないか」
「やっぱり、きみもそうとるだろう。ところがだ。あとになってからの弁明がおもしろい。“とんでもない。あれは、わが市の新球団設立協議会を全面的に支持する発言以外の何ものでもなかった”というんだな。そういわれてみれば、どっちにもとれる|ぬえ《ヽヽ》的なことばじゃないか」
「それじゃ、複数本拠地制が調印寸前まで行ってたというのは、うそなのか」
「いや、それはそれで事実だったようだ。もうこのあたりになると、おれの単純な頭や神経ではさっぱり読み取れないよ。どっちが建前でどっちが本音なんてものじゃなくて、どっちも建前でどっちも本音とか、考えてみるだけで頭がおかしくなる」
「名監督にして往年の名二塁手の読みをもってしてもだめか」
「だめ、だめ。野球のかけひきやトリックなんか、それに比べれば児戯に等しい。中央と地方、本社と出先、保守と革新、修正と改革なんかがね、単一な図式を崩して入り乱れ、錯綜し、迷路クイズのようになっちまった。こうなると、地方の最高責任者もうっかりしたことはいえない。おれも同情したくなるよ。ぎりぎりまで決定を控えたというのがほんとうのところだろうね」
「そうか。しかし、二つのストライキ通告をきっかけに複数本拠地構想が瓦解し、ストライキも中止になったとして、二リーグ首脳の方針はどうなったんだ。そこで簡単に吹田さんの軍門に降ったわけではあるまい」
「そりゃそうさ。直ちに再び現体制死守に戻った。そしてあらためて、選手一人ひとりとの膝詰め談判に入った」
「しかし、選手たちの心は、すでに郷土の新チーム構想に向いていた」
「いやいや、まだ気持は揺れていたと思うね。地元の協議会からの入念な呼ひがけが続いていたとはいうもののね。しかし、ほどなく各市の立候補届出が始まったことで、選手たちも“いよいよ”という気になったと思う。そこに行くまでのあの一週間は、おれもほんとうにひやひやしてたよ。日々の展開を見ながら、もうだめかと思ったこともあったね」
各球団首脳部が、おそまきながらもう一度選手たちとの交渉に入り始めたころ、遂に新聞やテレビは、熊本、千葉、福岡、和歌山、北九州の各市が、十一月二十五日に立候補書類をコミッショナーに提出したと報じた。そして翌日には三市が、次の日になると新たに六都市が名乗りを挙げ、二十七日には立候補都市は十四に達した。
大先生と数人のオーナーが久し振りに会談している。オーナーたちはこもごも口を開いて、十一月十一日以来二十日間近くの、複数本拠地制度の足どりや期成同盟の動きなどを報告しているようである。話しぶりはあまり冴えず、聞いている大先生の顔も不機嫌そうである。そしてそれがいら立ちに変わり、大先生は遂にオーナーたちの話をさえぎって、しわがれ声で言った。
「そんな、こっちのほうがどうしたああしたなんていうことを、いくら聞いても仕方ありませんよ。問題はね、それによって向こうさんがどう変わったかなんだ」
「いや、いっしょにお話ししているつもりですが」
「ほう、わしには一つも聞こえてこんなあ」
無理もなかった。やることはいろいろやったのだが、たいして何も変わらなかったからである。“在京在阪球団弾圧阻止セパ両リーグ死守期成同盟”という大組織を結成し、各地に誘致期成同盟をつくって連動させ、街頭や戸別の署名運動、チラシ配り、デパートなどでの「栄光の十二球団展」の開催、ワッペン、帽子、サインボールなどの無料配布、選手夫人や家族の食事招待など、人件費物件費にも相当の金を注ぎ込んだ。しかしこの種の出費は単なる景気づけに過ぎず、中央や地方の有力者への複数本拠地工作、高級官僚の地方派遣にこそ莫大な金を注ぎ込んだのである。官僚たちは、地方政界や財界に懸命な説得をしたはずであった。ところが、一般市民動かず、有名人動かず、選手動かず、地方政財界も最後には腰砕けになり、動いたのは期成同盟の運動員と、修正派議員ぐらいのものだった。彼らは実によく動いた。人が動けば金が動く。そして金が動けば人が動く。
「あなた方は、複数本拠地制のことが“ふたまた野球じゃ走れまい”といわれとったのをご存知かな」
と、大先生はオーナーたちにひとごとのように言った。この人だって賛成者で、もしかしたら発案者かもしれないのに。それに何といっても今や、保守堅持党中央分権主義派の領袖なのである。
さて、この派手な動きに対して、テキの陣営はどうだったか。吹田、寺岡、皆川など、前に名前の出た人物につけてある見張り番の報告によると、十一日以降二週間を過ぎた今まで、驚くべきことにだれか二人の会合さえ一度もおこなわれていない。そしてそれぞれ、普段の仕事場か自宅で過しているというのである。
大先生は、
「先にやるべきことをやった連中は、こういうときには何もやらなくていいんですよ」
と、オーナーたちを皮肉った。オーナーの一人は思わずむっとして(先生は前からやるべきこともやらないで、今も何もやらないじゃありませんか)と言いたいのを我慢した。そういえば、吹田の首ぐらい、いざというときはバッサリやってやるといっていたことはどうなったのだろう。しかし、今から吹田の首を切ったところでもう遅い。
「何しろ、個人個人は存在しているのに、組織の実体がつかめませんからねえ。それに対してこっちは組織なんで」
「まだそんなことおっしゃる。ナントカ死守期成同盟をつくってビラを配ったり署名を集めれば組織というんですか。あれはみなさんが春闘なんかで労組にやられてることを、そっくり裏返しただけじゃないか。組織、組織、また組織だ。いいですかな、吹田たちはね、やつら自身は組織じゃなかった。いや、組織の姿を表面的に見慣れてきた眼には組織と映らなかったというべきかな。だからわれわれの注意は一人ひとりに向けられた。その間にやつらは、全国に組織をつくっちゃったのさ。これも、例の十一月十一日までは形に現われない組織をね。ポイントを押さえてね。いや、やつらがつくったのですらない。やつらは、組織を自発的につくる人間をつくって行ったのさ。組織というものを波のように伝えて行ったんだ。波が起こりさえすれば、起こした張本人は静かにしていればいい。その次の波の伝わり方も同じことですよ。吹田たちはね、その波が十二月の二十日までに返ってくるのを待ってればいいんだ」
一人がとうとう我慢しきれずに言った。
「先生、いやに敵をほめますね。それに、いつから評論家におなりですか」
大先生は不意打ちを喰らって一瞬たじろいだ。そして怒鳴り出すかと思われた口元が一旦おさまり、感情を押さえた口ぶりになった。何しろ相手は、いずれも無視できない大口政治献金先である。決裂はまずい。
「評論じゃない。敵を知ることですよ。味方をほめたかったがねえ」
「味方といえば、先生、吹田といっしょに先生と食事をした皆川総務会長は、あれから味方になってくださったんですか」
大先生は、その話が出ると一瞬困った顔になった。
「自信がおありのようでしたので、私たちも安心していたのですが、聞くところによると地方集権派に寄り始めたそうですね」
「わしの責任だというのかね。遅すぎたんだよ。あなた方の対策が」
「今、責任をなすりつけ合っても仕方がないじゃありませんか。まだ戦いは終わってはいないんです。これからどうするかを考えましょう」
と一人のオーナーが言った。一座にはしばらく沈黙が流れた。どこか遠くの部屋から、三味線の音がかすかに聞こえてくる。
「最後の試みは、東京と大阪が立候補しないことじゃありませんか」
と一人が言った。みんなは黙って考え始めた。この発言は、オーナーたちが貫こうとしてきた大前提が、すでに崩壊に向かっていることを暗に物語っていた。三十を超える都市からの要請と、三日間で十四都市に達する立候補の勢は、プロ野球の機構を決して今のまま存続させはしないだろう。東京と大阪が立候補しないことは、何らかの新しい体制を予想した上で、それへの非協力を表明する態度に過ぎなくなる。選手たちのほとんどはそれぞれの地元に行くだろう。われわれは、せめて日本の二大都市が立候補しないことで新体制を骨抜きにし、再考を迫る。オーナーたちは、自分たちがいつの間にか少数の抵抗者の立場に廻っていることを意識し、薄苦い敗北感を味わい始めていた。
オーナーたちと同じように黙って何か考えていた大先生が、突然、
「そのとおりだ。立候補しないことだ」
と言った。
「これはしかし、都庁、府庁や有力者への工作が難しいですぞ。それにしても、東京と大阪が、全国の地方という巨大な力を相手に孤立無援の戦いをすることになるとはねえ」
(この狸じじい、また政治献金の胸算用だな)とオーナーたちは思った。(彼はもうたいして何もできないし、しないだろう。そしてまた大切な金が消えて行く。今までいくら注ぎ込んだことか。それによって何が変わったか)、オーナーたちはそれぞれに思いにふけっているようだった。一人の脳裏に吹田晨平の顔が浮かんできた。(そういえば、吹田たちはこの種の金をまったく使っていないだろう。そういうものをまったく必要としないやり方で、しかも計画は着々と進んでいる)。三味線の音が、またほのかに伝わってきた。
事実、大先生はもうたいして何もしなかった。それどころか、オーナーたちには現体制の味方である姿を示しておきながら、自党の皆川とのはっきりした対立を避け、同調に向かい始めていた。時代の趨勢を洞察した大政治家の変身は、実業家よりも身軽に静かに始まっていた。彼らは、会社の株主や大勢の従業員、たくさんの取引先という余計なものを背負っていなかったのである。
立候補都市数は、師走に入って五日になると二十九に達し、それ以後二日間は途絶え、八日に五都市が増えて三十四、吹田が賭けた数と同じになった。締切まであと十二日である。
立候補書類の内容は、いずれも吹田が要求したものを精一杯こなした跡がうかがえた。連絡協議会も、文書作成だけでなくフルに動いていることが伝わってくるものだった。協議会内部だけでなく、近隣の県や都市同士の連絡調整もスムーズに進んでいることがわかった。こと野球となると、なぜこうもうまく行くのだろうか。スポーツ、とりわけ野球の持つ大衆的な人気と陽気さのせいだろうか。
これに対して東京と大阪は、十二月に入っても動きがなかった。もちろん、大先生の政治力が最後になってものを言い始めたわけではない。東京では、立候補するとか黙殺するとかを、いったいだれが言い出したらよいのかわからずに当惑している状態が続いていたのだ。そしていずれにせよだれかがはっきりした立場を出すなり、立場は決めなくてもとにかく集まろうと言い出したほうがいいのではないかと言い出す人も、なかなか現われなかった。
大阪もはじめのうちはそうだったが、十二月三日になると、まず一般市民の間から、「日本一の野球王国のおれたちに、プロ野球見るんなら神戸か京都へ行けいうんか」という声が挙がった。そして“仮称大阪キャスルズ設立連絡協議会”が、名もない市民たちの手で結成されて全速力で作業に入った。この動きを見ていた関西私鉄系プロ野球のオーナーと球団代表が急いで会合を開いた。阪神、阪急、近鉄、南海の四社である。「もうあきまへんのとちがいますやろか。いっそ大阪キャスルズの共同出資者になって市民に協力したほうが得とちがいますか。もうメンツはよろしいわ」。さすが関西の実業家たち、きわどいところで敏速な好判断を示し、名を捨てて実を取った。ヘッドスライディングの恰好はあまりよくはなかったが、滑り込みセーフ。大阪市民のスタンドから拍手と歓声が挙がった。
激怒したのは東京の、特に巨人と西武であった。「田舎電鉄の裏切り者め!」とののしりながら、首都圏六球団の結束を呼びかけた。
大阪の協議会のメンバーは、友人たちから「大阪城の“キャスル”やろけど、人間の集団がなんで城の集まりやねん」と聞かれて得意気に答えた。「大阪の野球人はな、一人ひとりが一国一城の主なんや。江夏を見い。どや、キャスルズてええ名前やろ」。しかしこの名前はあまり評判がよくなかった。大阪の人間の中には、タイガースとかホークスという名前に愛着を持つ人が多かった。そして名前だけはどれかを残そうという声が、協議会の内外で強くなった。会長は頭を抱えた。残すのはいいのだが、タイガース、ホークス、ブレーブス、バファローズのどれを残すかをめぐって一騒動になるのは好ましくない。大阪中がその論争や取っ組み合いに明け暮れて仕事も手につかないようでは、せっかく東京がもたもたしている間に差を縮めようとしている府民総生産が低下して、東京になめられる。そこで会長は、巨人に次いで古い歴史を持つタイガースと決め、「大阪タイガース」という名称にすることでみんなの納得を得た。もともとタイガースは、一九三五年、終戦前十年に創立したときは、阪神タイガースではなく大阪タイガースが正式名称だったのだ。同様に前年創立のジャイアンツも、読売ジャイアンツではなく東京ジャイアンツだった。
大阪の協議会のメンバーは、新聞紙上で東京にメッセージを送った。
「当市の新球団名は大阪タイガースとする。貴都も新球団名を東京ジャイアンツとされよ。東西の代表都市に、プロ野球草創の栄光ある両球団名を残し、ふたたび阪神・巨人戦、いや、猛虎・巨人戦であいまみえん」
ところが肝心の東京では、協議会の産声がなかなか挙がらない。各界の上のほうの人たちが、相変わらず自分のすぐ上の人の顔色をうかがいながら、口を閉ざしているのだ。このままでは、イエスもノウもはっきりせぬまま十二月二十日午後五時を過ぎ、一九八三年には、東京に都市を代表するチームがないという姿でプロ野球の新シーズンが始まることになる。
そのうちに都民の耳には、「三原、千葉、中西の三人が四国で会談した」、「川上と古葉が熊本入りした」、「鶴岡と藤村と広岡が広島で話してるところへ、岡山から秋山と土井が合流した」とかいう噂が伝わってきた。懐かしくもまた|錚々《そうそう》たる顔触れが地元のために動き出したようだ。
十二月八日、遂に東京の下町の市民たちが集まって、“東京ジャイアンツ設立連絡協議会”という手書きの看板を横丁のしもた屋に掲げた。こうなると江戸っ子は速い。遅いのは上のほうの人たちだけなのだ。協議会のことがテレビや新聞に出ると、現金なもので「なに? ジャイアンツの名称は残るのか。それならそうともっと早く言ってくれよ。おれは大賛成だ」という反応が、たくさんの巨人ファンから出てきた。いや、こういう場合は「現金なもので」は当たっていないかも知れない。これは「名を捨てて実を残す」のではなく「実を捨てて名を残す」行為なのだから。しかし、いかにも江戸っ子らしいいさぎよさである。
そうこうするうちに、新聞やテレビが保守堅持党中央分権派の例の大先生が突然長期外遊に出かけたと報じた。何でも、EC諸国とアメリカを歴訪して、一月下旬に帰国の予定という。オーナーたちは怒った。「何たることだ。私たちにさんざん金を貢がせておいて、一番肝心なときに逃げ出すとは。卑怯千万だ。しかも帰ってきて言うせりふはわかってる。“わしがいればこんなことにはなっていなかったのに。一体あなた方は何をしていたんだ。体を張って中央の権益を死守しようとする気概がないからこういうことになるんだ。ああ、わしは日本にいるべきだった”とね。もう金輪際献金はしないぞ」
大先生がいなくなると、お役所や超大企業の上層部の動きが変わってきた。それまでは、中央の権益を護るという共通の利害によって、Y紙、S鉄道などに協力し、期成同盟にも名を連らねていたのが、引潮に引きずられる貝殻みたいに、何となく態度が曖昧になり、中には共同出資者の一員になることを、ひそかに協議会に申し出る会社も出てきた。
このとき、関西私鉄四社と同じように、首都圏の食品メーカー四社がひそかに会合を開いた。日本ハム、ヤクルト、ロッテ、大洋漁業である。そして、今はこれまでと、新生東京ジャイアンツに共同出資を申し出ることを決めた。
こうなると|雪崩《なだれ》現象が起き、都民に愛されたい超大企業は、なりふりかまわず下町の横丁のしもた屋にある協議会に殺到した。しかしすでにそのころには、出資企業は都内中堅どころによって過飽和状態になっていた。つまり、これ以上資本金が増えると、管理運用に逆に支障をきたすというのである。一体いくら集まったのだろう。食品四社は、今までのプロ野球への貢献が評価されて、やっと滑り込みセーフとなった。ほかの超大企業には、配当も何もない寄付金によってしか、東京ジャイアンツ計画に参加する道は残っていなかった。そして都庁には、協議会の要求する資料を作成することと、立候補書類の末尾に知事や議長が署名する仕事しか残っていなかった。
かくして、読売新聞社と西武鉄道は、中央の権益を死守しようと誓った官民双方の仲間から裏切られ孤立した。もはや勝敗は明らかだった。読売新聞には次のような記事が載った。
東京都民はジャイアンツを、大阪市民はタイガースを残すことを決意した。これは、上からどんなに無謀で理不尽な圧力がかかろうともそれに屈することなく、良き伝統を護り、自己の信念と趣味の高貴さを誇り、ぎりぎりのところで一歩も退かない市民の心意気と良識を示すものである。一部のファッショ的グループの画策は水泡に帰した。かくして、巨人は永遠に不滅である。
十二月二十日午後四時四十八分、東京ジャイアンツ設立連絡協議会の都民代表ほか数人が、銀座六丁目、朝日ビル五階の、コミッショナー事務局を訪れた。都民代表は何と女性で、数人のむくつけき男どもの中央に君臨していた。
(潟田都さん!)
吹田晨平は、思わず口を突いて出そうになっだが、潟田都が一瞬ウインクを送ってよこしたので、やっとのことで思いとどまった。そして立候補書類を受け取ると初対面のような素振りで握手を交わした。そのとき、事務局のドアをノックして入ってきた男が、都民代表たちの肩越しに吹田に向かってにやりと笑った。北川史朗だった。
東京都は、三十六番目の立候補都市となった。
一九八二年十二月二十九日午後三時、十一月の吹田提案発表のときと同じ日比谷公会堂で、一九八三年五月五日に初の始球式がおこなわれる、プロ野球三リーグ十八チームの都市とチーム名が、吹田コミッショナーから発表された。吹田は例の調子で、淡々と読み上げた。
札幌ベアーズ
仙台ダンディーズ
千葉フィッシャーメン
浦和キッズ
東京ジャイアンツ
横浜アンカーズ
長野アルプス
静岡パシフィック
名古屋グランパス
大阪タイガース
京都エンペラーズ
奈良テンプルズ
神戸マリナーズ
高松パイレーツ
岡山モモタローズ
広島ドリンカーズ
博多ドンタクス(福岡)
熊本モッコス
ドーム付球場は、札幌、仙台、長野に認可する。そして来年のシーズン終了後に改造する。
リーグ編成
松リーグ 札幌 浦和 長野 奈良 京都 福岡
竹リーグ 仙台 東京 静岡 大阪 高松 広島
梅リーグ 千葉 横浜 名古屋 神戸 岡山 熊本
次点都市 秋田 富山 甲府 松江 松山
吹田はここまで読み上げると、紙をたたんで顔を起こした。どこからともなく拍手が湧き、次第に満場にひろがった。吹田はしばらくそれを眺めているようだった。一瞬、吹田の上体がちょっとよろけた。近くに腰掛けていた浦山がハッとして演壇にかけ寄ろうとした。吹田は浦山を静かに手で制した。そして姿勢を正して語り出した。
「先月の十一月に、私はここでみなさんに、まだ何一つ決まっていないのだと申しあげました。そして今日も、決まっていることはそれほど多くないと申しあげておかねばなりません。しかし、明らかに何ものか、決して元に戻ることはない何ものかが、生命を帯びて動き始めました。そして、その何ものかがほんとうに始まるのは、来年の五月五日に、札幌から熊本に至る九つの球場で、九人のピッチャーによる九個の第一球が投じられる一瞬であります。
こどもの日の話を出したので、浦和キッズの名称の由来についてお話ししておきます。キッスではありませんよ。キッズ、こどもたちのことですよ」
会場がどっと湧いた。ひときわ高い女の笑い声がカラカラと響き、最後まで残った。東京ジャイアンツ設立連絡協議会会長、そして今の吹田の発表と同時に運営協議会会長になった、潟田都だった。都はあわてて口に手をやってうつむき、しばらくは肩で笑っていた。
「埼玉県の協議会のみなさんは、立候補計画作成の二週間というもの、毎日暇を見つけては、全員でどこかの早朝野球、薄暮野球、それに少年野球を見に行き、ファンの意見を聞いて廻りました。その期間に、全員に一番あざやかな印象として残ったものは、こどもたちの歓声だったというのです。今お話ししている私のような声でなく、さっき小気味よくお笑いになったご婦人の声にも似て、大気を一直線に貫いて凛々と響いてまいります。“これだ!”ということになったんですね。私たちはだれのために手弁当で努力しているのか。それは、これからこの土地で育って行くこどもたちのためではないのか。かくして、ほとんど完成して球団名だけが空白になっていた立候補書類に、“浦和キッズ”と書き込まれたのです。先ほど私は、開幕ゲームの九つの球場のうち、札幌と熊本の名を挙げてしまいましたが、ここに開幕日のこどもの日にちなんで、浦和キッズの本拠地でも開幕試合をおこなうことを、私の独断で決めさせていただきます」
拍手が湧いて吹田の話が中断した。浦和協議会の代表たちは、嬉しそうに笑いながら目立たぬように眼頭を押さえていた。
「それで、今度はほかのチームの名称ですが、コミッショナーが認めなかったものは一つもありません。それぞれ地方色を出したいい名前だと思います。東京と大阪が、それぞれ長い歴史を持つ名称を残されたのも、さすがと感服しました。ただ一つだけ気になったのは、広島ドリンカーズであります」
会場がふたたびどっと湧いた。
「私も、日本シリーズなどで何度か広島に足を運んでいますから、広島市民がいかに酒を愛するかは存じております。銘柄も多いし、日本有数の酒処です。ですから、ドリンカーズという名はふさわしくはありますが、どうか酔っぱらいではなく、よき呑んべえであっていただきたい。市民のみなさんにもよろしくお伝えください」
明るい笑いが続き、広島からの出席者は頭をかいていた。その中には、志村千三、暁子夫妻の姿もあった。
「十八都市と次点五都市の選考過程やリーグ編成については、ここではいちいちご説明しません。それは別に書類にまとめてありますので、お帰りになるときに代表の方にさしあげます。
首都圏および近畿中心部の府県は、隣接してそれぞれ一球団を持つことになりました。首都圏は今までよりは減りますが、各都県に一つずつで四球団、近畿も同様に四球団です。これは現在の人口その他の勢力から見て当然であることを、選に洩れた都市のみなさんもご理解ください。特に、日本海に面した都市を、今回は一つも採り上げられなかったことは、私としてもほんとうに残念です。しかし首都圏と近畿の八都市を除くと、広域を代表する都市の枠は十となり、今回は見送らざるを得ませんでした。これらの次点都市を組み入れた再編成を少しでも早く実現することを期したいと思います。その間、日本海側主要都市では、仙台、長野、京都、岡山、広島がホームチームとなって主催するゲームを、できるだけ多く開催することにします。
なお、十八都市と次点五都市のほかにも、きわめて魅力的な活動が期待される都市はたくさんあります。残った十三都市すべてと申しあげてもいいのですが、一例を挙げますと、岐阜マスターズ、高知マンジローズ、北九州ドラムズ、鹿児島チェストなどであります。しかしおわかりのように、いずれも野球熱が高く、候補都市がめじろ押しの地方でした。今回は我慢していただいて、同地方の都市チームに合流してがんばっていただきたいと思います。
さて、私たちは本日から直ちに現役選手との面接に入ります。この仕事こそ一番大切な、人間の生活の問題であります。報道関係のみなさんも、選手への過度に興味本位の取材は慎まれるよう、これは私の心からのお願いです。
ところで、こういう発表は、いつも私が私の名においてするものですから、今回の改革の中心は私であると思われる向きもおありかと思いますが、それはちがいます。第一の提案者、そして第一の原動力は、全国各都市の市民代表をはじめ、官民一体となった協議会の方々の、おらがくにに寄せる愛情でありました。
最後に、プロ野球がこのようなステップを踏むことができるのは、今までセントラル、パシフィックの両リーグを運営してこられた両連盟会長をはじめ、十二球団関係者のご努力のおかげであることを、みなさんと共に胸に銘記したいと思います。みなさん、ありがとうございました」
しばらくは拍手が鳴りやまなかった。壇を降りて自分の椅子に掛ける直前に、吹田はまたよろけた。浦山は吹田の体を支えたとき、自分の体にまで移ってくるようなひどい体熱を感じた。
吹田は気が遠のいて行くのを覚えていた。そしてそのとき、小学校一年生のころのできごと、七十年以上も前のできごとが、あざやかな映像となってよみがえった。
吹田が育ったのは群馬県前橋市である。住宅地のはずれの草ぼうぼうの野っ原の一角が、鎌で切り取られたように草の低い平面になっている。そこで、吹田少年をはじめ六、七人の小さい子たちが三角ベースをして遊んでいる。ボールは軟式テニスのお古で、ピッチャーはそれをワンバウンドで投げ、バッターはてのひらで打ち返すのだ。そのグラウンドは、みんなで草を抜き、小さな足で踏み固めてつくったものだった。
やがてそこへ、五年生か六年生の、体の大きな子が四、五人、野球の軟式ボールと立派なグラブとバットを持って現われ、チビたちを追い出そうとする。はじめてのことではない。こういうとき、吹田たちは、悲しそうに顔を見合わせて、声もなく引き下がっていたのだった。
ところがその日は、例によってチビたちを追い払い始めた大きい子たちの一人に、突然、吹田少年が何やらわめきながら、こぶしを振り廻して突っ込んで行ったのだ。相手が奇襲にたじろぐ間も与えず、吹田少年がめくらめっぽう振り廻したこぶしは、相手の脇腹とあごを見舞っていた。この意外なできごとに、吹田少年も相手も、まわりのこどもたちも、あっけにとられて突っ立っていた。しかしチビの陣営には、すぐに、言いようのない緊張と恐怖が訪れた。(逃げろ!)と、チビたちが立ちすくんでいた足を動かそうとしたとき、吹田から二発見舞われていた大きい子が、チビたちにくるりと背を向けた。やがてほかの子たちもそれにならい、揃ってグラウンドから立ち去って行った。
奇蹟が起こったとしか、チビたちには思えなかった。やがて吹田少年は、はりつめていた気がゆるみ、大声で泣き出した。みんなも泣き出した。そしてこどもたちの泣き声は、|草叢《くさむら》のすすきを撫でる風に乗って、陽の傾きかけた大気を伝わって行った。
吹田が意識をとり戻したとき、彼は病院のベッドに寝かされていた。吹田の眼に、浦山、志村夫妻、北川、それに潟田都たちの顔が映った。
「もう大丈夫」
と言って、吹田は体を起こした。ベッドに横たわっていたのは、わずか十分ほどのことだった。
「ちょっと、こどものころの夢を見てたんですよ。そしてね……」
と、吹田は潟田都のほうを向いて、ほほ笑みながら言った。
「宇宙間を転々としてたんですよ」
そのことばに都はたちまち吹き出し、さっき会場で披露したコロラチュラ・ソプラノの笑い声を立て、それが止まらなくなった。吹田は、そのソプラノが発生した理由を他の人たちに説明するのに苦労していた。
やがてソプラノの一幕がおさまると、吹田は今度は北川に尋ねた。
「北川君、どうですか。現代日本風土記のお仕事のほうは順調ですか」
北川は答えた。
「私の役割はどうやら終わったようです。はじめは三年ぐらいかかると思っていたんですが、二年足らずですみました。次の仕事にかかれそうです」
「次は何ですか」
「現代野球風土記。また全国|行脚《あんぎや》です。これには、ぜひ、吹田さんの序文をいただきたいんです」
「いいですよ。おもしろそうだな」
吹田は楽しそうに言った。
しかし吹田は、現代野球風土記の序文を書くことなく、それから二カ月後に静かにこの世を去った。北川は、吹田に渡すべき原稿用紙にこう書いた。
この現代野球風土記シリーズは、今は亡き吹田晨平氏の、生前の周到な準備と不屈の意志を受け継いで進められる。以下に続く白紙の三ページは、その吹田晨平氏の序文である。
志村千三は、吹田の通夜に妻子を伴って上京した。息子の千五には学校を休ませた。(学校も大事だが、人生にはかけがえのない一日というものがある。吹田さん、私の息子に死に顔を見せてから骨になってください)
吹田の棺の前で、志村は千五に言った。
「千五、今までよく約束を守ってくれた。去年の暮れには、もう秘密はなくなっていたんだが、それをおまえに話す機会がなくてね」
千五はけろりとした顔で答えた。
「わかってるよ。それよりお父さん、ドリンカーズはよっぽどしっかりしないと、パイレーツに歯が立たなくなるよ」
「こいつ」
と、志村は息子に小さい声で言った。そして息子の口真似をした。
「わかってるよ」
「その吹田さんの死から、早くも五年が過ぎた」
志村は、話の山場をひとまず終えたという感じで、新しいスポーツマンシップ・ストロングの封を切り、一本つけると大きくゆっくり煙を吐いた。潟田は言った。
「その吹田さんに、半年のちがいでまみえることのできなかったおれも、よくよくの間抜けだな。ところで吹田千代夫人は?」
「ご健在だよ。今度紹介しよう。これが吹田さんに火をつけて姿をくらました男だって」
「おいおい、よせよ。それよりおれは、案外きみが広島で吹田さんに火をつけたんじゃないかと見るね」
「よくいうよ」
「ハハハ。それで、吹田さんの死後、無事ペナントレースの開幕式にこぎつけたというわけだね」
「そう。すでに流れは決まっていた」
「開幕式のところまで早く聞きたいけど、このあたりで、世の中のほかの分野の推移も聞いておきたいな。博多できみに話した、ぼくの感想の背景なんかをね」
「それはおれには荷が重いって断わっただろう」
「いや、博多で約束してくれたよ。こどもが元気がいいとか、食物がうまくなってるとか、プロとアマの関係の変化とかさ」
「そうだったかなあ。とんだ約束をしたもんだ」
「ま、いいや。それは一番あとで聞くことにしよう。ところで、流れはすでに決まっていたといっても、移行の作業はそれなりに大変だったろう」
「まあ、一番気を使ったのは選手の配属だったな。吹田さんも言ってたように、一人ひとりの考え方もあるし、家族を含めた生活の問題だからね。地元の協議会から地道な呼びかけが続いていなかったら、収拾のつかないことになってたかも知れない」
「さっきも出てた、ポジションの問題とか」
「そう。それにね、いろんな事情とか心情とかで、地元だけは絶対いやだという選手がいても一向ふしぎじゃないし、現にいた」
はじめから吹田たちは、みんながみんな地元チームに行くなどとは考えていなかった。そして、そんな規則を作ることも考えていなかった。第一そんな規則は憲法に違反する。吹田は志村に言った。
「七百人の人間が、自由意志で一〇〇%地元に行くなどとなったら、かえって薄気味悪いようなものですよ。あまりにも画一的で、新しい大勢順応現象の発生だ。それにチームも閉鎖的になり風通しも悪くなる。いろんな人間がいてこそ自然なんです。ぼくはね、地元の選手の比率をね、当面六割から七割の間に置けばいいと思う。そして毎年地元から新人が入ってきて世代の交替がおこなわれるうちに、もう少し比率が上がるでしょう」
選手たちの中には、大都会の生活にうんざりしていて、喜んで故郷をめざす者もいれば、東京や大阪の生活に慣れ親しんで離れたくないという者もいた。
そのうちに、スター選手が地元に引き揚げるのなら、その地所と家屋敷をぜひ買い取りたいという人たちが増えてきた。不動産業者のほか、金持ちのファンやマニアたちである。選手がその金で地元に家を建てれば、今までよりはるかに宏壮な邸宅になる。こういうわけで、不動産の処分についてはスターたちもあまり心配する必要はなかった。
ポジションで最も難航したのはキャッチャーだった。もともとキャッチャーは、ほかのポジションとのコンバートがききにくい。そして第三捕手ともなると、なかなか出番は廻ってこない。一番困ったのが、広島ドリンカーズ、名古屋グランパス、それに神戸マリナーズの三チームだった。
ドリンカーズは、広島、山口、島根の三県が主体である。かりにカープの水沼が出身地の兵庫に移ったとしても、一線級のキャッチャーだけで、道原(カープ・山口)、達川(カープ・広島)、木本(カープ・山口)、原(カープ・広島)、河村(阪急・山口)、梨田(近鉄・島根)、有田(近鉄・山口)、大河原(中日・山口)などがいる。
こうして見ると、山口県というところは、ほんとうに優秀なキャッチャーが採れるところだ。もしかすると、吉田松陰や高杉晋作や木戸孝允らを生んだ風土に関係があるのだろうか。しかし、これらの人物はどちらかというとみんな投手型ではないか。むしろ、鹿児島の西郷隆盛のほうが捕手型とはいえまいか。それともずっと新しいところで、岸信介とか佐藤栄作とかの関係だろうか。しかしこの兄弟も捕手型ではない。どちらかというと、若くして早く現場を引き揚げた敏腕の盗塁コーチだ。
閑話休題、結局これらのキャッチャーは、ドリンカーズのほか、博多ドンタクスと高松パイレーツに分散することで調整がついた。
高松パイレーツに集結した四国四県もおもしろいところで、投手はじめほんんどのポジションに、豪快な一流選手がひしめいているのに、ふしぎに捕手が手薄なのだ。対岸の山口や広島と対照的である。これはやはり、家をあけて外にばかり出ていた昔の海賊の血だろうか。あるいは、四国を飛び出してあちこちに忙しく動き廻っていた坂本竜馬などの影響だろうか。家がお留守になりがちだ。
再び閑話休題、そういうわけで、対岸の中国地方出身の捕手たちは、四国から大歓迎を受けた。
名古屋グランパスと神戸マリナーズの地盤についても、大体同じような調整がおこなわれた。木俣(中日)、辻恭彦(大洋)、大宮(日本ハム)、山倉(巨人)などの愛知勢、水沼(広島)、中尾(中日)、吉田(巨人)、黒田(西武)などの兵庫勢が、地元以外に大阪、京都、奈良などにも行ったほか、北海道でやってみたいという選手も出て、どうやらうまく分散した。
捕手以外のポジションについても、多かれ少なかれ調整が必要だったが、投手から打力を生かした野手へ、サードからファーストヘなどのコンバートに捕手よりも融通性があったので、地元チームヘの歩留まり率は高かった。あとになって、志村が、地元の新人に二つや三つのポジションをこなす力を養成するようになったのは、この事情に学ぶところが多かったのだ。
ファームの選手たちについても、同じような調整がおこなわれた。しかし、ポジション争いが激烈になるのを承知で地元でやりたいという場合は、その意志を尊重した。
「大体こういうぐあいで、発足当初の地元選手の比率は、ほぼ吹田さんの読みどおり、平均すると七割と少しだったと思う。つまり、一チーム六十人中、十五、六人は他の地方の選手だったわけだ。それでかえって、チームの体質づくりにはよかったと思うよ」
「吹田さんのいうように、閉鎖的でなくて風通しがいい」
「そう、それに相互の力がうまく融け合ってね、緊張感も生まれる。やっぱり、単一で同質の人間集団というのはよくない」
「うん、しかし、調整がうまくいったとはいえ、最初のポジション争いは大変だったろう」
「それは今でも大変だよ。大変であたりまえじゃないかな。一つのポジションで、全試合、全イニングに出場するのは、よっぽどの選手でないかぎり、昔よりむつかしくなっている」
「帆足と馬見の守備位置の交替は、それとどうつながるのかな」
「あの二人はフル出場組だけどね。とにかく二つや三つをこなせる選手をできるだけ育てたい。どうせその見本をつくるなら、少し型破りにしてやろうと思ってね。最近では、素質はあるが未完成の新人がどんどん入ってくる。昔のように、入団のときに何かのスペシャリストに固まっているのはいない。それだけに、いろんなポジションを想定させて適応性を養うことができる。そうすると、一人ひとりに、いろんな局面で出場するチャンスは増えるし、おれのほうにも選手起用の楽しみが増えるというわけさ。つまり、おれの一番大事な仕事は人間の起用の仕方であって、一旦グランウドに出せば、あまり細かいサインは送らないんだよ」
「なるほど、ところで新人は地元で採用となると、スカウトの仕事はどうなったのかしら。今でもスカウトはいるのかね」
「いるとも。ただし仕事の性質は変わってきた。昔のように全国を行脚したり情報を集めたりしてドラフト会議への根回しをする仕事は、当然なくなったわけだ。その代わりに、地元からいかに優秀なこどもを発見するかという力量が問われる。だから、昔は高校野球でも地方大会の後半に残るチームあたりからマークしてたのが、最近では予選の一回戦はおろか、草野球だって見て廻る。一回戦でコロリと負けるチームにも、こいつはきたえるとすごいぞという坊やはいるもんだ。スカウトは、今の仕事のほうが楽しいと言っているよ」
「全国を浅く広く見るのではなくて、地元への眼を深くすることになったんだな」
「うん、それでね。他球団とのかけひきとか裏取引きとか、自分のこどもぐらいの年の人間へのご機嫌とりとかから解放されて、今のスカウトはいわば教育者なんだな。地元の大勢のこどもから、よさを発見し、素質を磨き、励ます。そこに張り合いを感じるんだよ」
「うーん、だんだん世の中の移り変わりがわかってきたような気がする。あ、それから、移行のときに球団の従業員はどうなった」
「ああ、約束どおり新球団に優先的に就職できることになって、ほとんどの人が地元で再就職した。そしてこの際別の仕事をという人は親会社が引き取った」
「そうか、親会社が解散したわけじゃないしね」
「そうとも。実はね、既存球団のオーナーの中にはね、赤字球団の経営から解放されてほっとした人も、少なからずいたらしいよ。つまり、一九八二年十二月までは建前を通さざるを得なかったが、経営者としての本音は別だった人もいるのさ」
「なあるほど」
「さて、その他いろいろな移行作業はあったが、とにかく万事順調に進んだということにして、ここいらで、新三リーグ十八球団のペナントレース開幕式に一挙に飛びたいが、いいかな?」
「いいとも、待ってました」
「どうだ、もう一杯」
二人は、ニッコリー・ウイスキー・オールドを、もう一杯ずつバーテンダーに頼んだ。しばらくは、物音一つしない静かな時が流れた。バーテンダーは、カウンターの奥の薄暗い隅にいて、さっきから控え目な態度で二人の話に耳を傾けているようだ。外は、雪が静かに降り積んでいる気配である。
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ドリンカーズの苦戦
一九八三年、戦後三十九年五月五日、珍しく日本列島全体が快晴の空の下に輝いていた。その列島を点々と縫うように、今日は午後一時から九つの球場で、プロ野球新機構による三リーグ十八チームのペナントレース開幕試合が一斉に始まろうとしている。
この記念すべき開幕ゲームの組み合わせは次のとおりである。
松リーグ
札幌ベアーズ対奈良テンプルズ〈札幌ベアーズドーム〉
(ただしドームは来春完成)
浦和キッズ対長野アルプス〈浦和キッズパーク〉
京都エンペラーズ対博多ドンタクス〈京都皇帝球場〉
竹リーグ
仙台ダンディーズ対東京ジャイアンツ〈仙台ダンディースタジアム〉
静岡パシフィック対大阪タイガース〈静岡太平洋球場〉
高松パイレーツ対広島ドリンカーズ〈高松海賊基地〉
梅リーグ
千葉フィッシャーメン対名古屋グランパス〈千葉フラワースタジアム〉
神戸マリナーズ対横浜アンカーズ〈神戸ポートピアパーク〉
熊本モッコス対岡山モモタローズ〈熊本モッコスタジアム〉
こどもの日にちなみ、小学生以下は外野席は無料である。どの球場も、朝食をすますとすぐ駆けつけた親子連れやこども同士の長い列ができ、十一時にはまず外野席が満員になった。無数のこどもたちのさんざめきが、スタジアム全体をすっぽりと包み、グラウンドに散って練習している選手たちの顔や背を、いたずら蜜蜂のように刺している。選手たちは少しも痛くなくかえって気持よさそうな顔をしている。
「お父さん、あの旗、どうしてみんな途中で止まってるの」
と、小さい子が父親に聞いている。おめでたい門出にもかかわらず、今日はセンターポールの連盟旗も左右の球団旗も、半旗になっている。
「あれはね、二月にね、野球の偉いおじいさんが亡くなったからだよ。人をおとむらいするときにはね、ああいうふうに旗を途中で止めるの」
「ふうん、おじいさんで野球やってたの?」
「ハハハ、そうじゃない。野球をやる大勢の人たちのね、お世話をしてくれた人なんだよ」
「じゃ、今日はそのおじいさんのお葬式?」
「そう。でもほんとのお葬式はすんだからね、今日はね、みんなで野球を楽しむお葬式」
「でも、やっぱり、あの旗悲しそうだね」
父親はこどもに言われて、あらためて半旗を見上げた。この子が言うとおりだ。旗は悲しんでいる。そよ風にほんの少し揺らいだり、じっと垂れていたりする旗に、父親は、ものも言わず涙も出さないが人間以上に敏感そうな悲しみを見た。もはや精一杯楽しむことによってしか故人に報いることができず、いつまでもじっとしているわけには行かないこの球場全体の人間の哀悼の意を、これらの旗が一身に引き受けてじっとしているように見えた。
さてここで、九つの球場に勢揃いしている十八チームの特長や目立つ顔触れを、開幕式までの短い時間を縫って駆け足で追ってみよう。丹念に見て廻るわけには行かず、ほんとうに目立つ顔触れしかとらえられないのは残念だ。本来なら、各チーム二十五人の選手と監督とコーチを全員確認したいのである。というのは、各チームに多少の差はあっても、永年ファームで下積みになっていた選手、あるいは入団後、日が浅いのでファームで素質を磨き始めていた若きホープ、さらに今年地元チームに入団した新人などが、有名選手に混じって大勢一気にベンチ入りしており、どのチームもゲームが始まってみないことには実力のほどはわからないという、スリリングで未知な魅力に満ち満ちているからである。しかしその全容は、どうか書店で「一九八三年版・プロ野球三リーグ十八球団全選手名鑑」をお求めのうえ、ゆっくりごらんいただきたい。
また、以下に出てくる有名選手についても出身校など細かいバックグラウンドを記して行く余裕はないが、今まで再三話に出たように、選手や監督の多くは、その球団の県か近県、つまり広い範囲での地元出身者である。カッコ内は、前年まで所属していた球団名。では急いで廻ろう。
まず、札幌ベアーズドーム。バックスクリーンの横には、来シーズンにその偉容を現わすはずの開閉式透明ドームの完成図が描かれ、ファンの眼を楽しませている。
三塁側の奈良テンプルズのベンチに目をやると、口をへの字に結んで眼は今のところにこにこしているのは、一九八一年のシーズン終了と共に近鉄監督のユニフォームを脱いでいた老将・西本幸雄ではないか。そしてその隣には、近鉄でいっしょにコーチをしていた真田重蔵がいる。いずれも大正生まれの和歌山コンビだ。昭和一桁あたりまでのファンには、真田と聞けば、プロに入ってからもさることながら、旧制中学時代の快速ドロップ投手としての印象が忘れられない人が多いだろう。真田と共に「海草中学」という名を思い出しただけで、戦前の甲子園の匂いがよみがえって身ぶるいするという人もいる。
テンプルズは、京阪神の勢力に対して紀伊半島の野性をぶつけようと、奈良、和歌山両県を中心に、三重からも数人の選手が参加した。奈良も和歌山も共に立候補都市で、選手層は和歌山のほうが厚い。これはコミッショナー事務局が選定に最も苦慮したケースだった。最終的には、吹田コミッショナーが両協議会会長を同時に呼んで相談した。今は交通の便は奈良のほうがはるかにいい。そして奈良は古都でもあり、都市としての歴史も古い。吹田がそう切り出すと、和歌山の会長はおしまいまで聞かずに、「わかりました。将来うちにチームができるまでは、全面的に奈良に協力しましょう」と言って奈良の会長と握手した。近畿日本鉄道から金が出ていたなどということは絶対ない。できすぎのような美談だが、ほんとうの話だから仕方がない。和歌山県の逸材は大挙してテンプルズに集まった。西本と真田は協議会の熱心な要請に負け、「よし、最後のご奉公だ」と腰を上げた。既成選手の持駒も十八球団の中では多いほうだ。投手では、東尾(西武)、尾花(ヤクルト)、山口(近鉄)など、野手にも門田(南海)、藤田平(阪神)などとすごいのがいる。
さて、これに対する札幌ベアーズのベンチには、ひと目で監督とわかる人が見当たらない。そのうちに若手の一人が、背番号1に向かって「監督!」と呼んだ。ふり向いた顔は、何とヤクルトにいたパリパリの現役、若松ではないか。彼は十八球団中ただ一人のプレーイング・マネージャーになったのだ。そしてよく見ると、ベアーズの選手はみんな若い若い。先発の西本(西武)のほか有名な選手はほとんど見当たらない。チーム結成が決まると同時に、全道から体に自信のある若者が応募し、未完成ながら将来楽しみな新人が大勢誕生してベンチ入りした。
老雄西本対若さの若松、おまけにベアーズの未知の力。おもしろい試合になりそうだ。
浦和キッズパーク。浦和の監督は、大洋と巨人にいた松原だ。選手会長をつとめたり、後進の面倒をよく見ることで前から信望が厚く、地元から文句なしに推された。山崎(西武)、木下(広島)など、しぶといベテラン選手がおり、栃木出身の江川(巨人)もここに加わっている。
対する長野アルプスは、長野、富山、新潟、山梨の選手が中心である。現役は層が薄いが、新人募集には、ベアーズと同じくこんな逸材がいたのかと思う若者が大勢集まった。ベテランでは、山梨から堀内(巨人)群馬から佐野(阪神)などが来た。さて監督だが、地味好みの長野の協議会は、ヤクルトの二軍監督や大洋のコーチをしていた小森光生に白羽の矢を立てた。早大やオリオンズのころはスターとして活躍したが、最近では若手を育てることに定評があり、アルプスにはうってつけだ。
キッズパークでは、こどもたちの声がひときわ大きい。何しろ体のでかいプロの選手の胸には、KIDSという真っ赤なマークがあり、球団旗の紋様は子やぎなのだ。長野の球団旗は、紺碧の地に真っ白な山の形が浮き出ているものだ。
こどもたちの期待に満ちたわざめきの中から、突然大人のどら声が聞こえた。
「おい、江川、よかったなあ。胸を張って堂々とやれよ」
江川は顔色一つ変えず、(今までだって堂々とやってきましたよ)とでもいうような涼しげな顔で肩ならしに余念がない。今日の先発にちがいない。
お次は京都皇帝球場。いかめしくも時代遅れのような名称だが、「東京が首府になったのは、たかだか百年と少し前のことではないか。それまではずっと京都だったのだ。大体都市名からしても、京都こそほんとうの都だ」という|矜恃《きようじ》を保ち、「今こそ野球で東京をやっつけて京の実力を示してやる」というので、エンペラーズ―皇帝となった。しかし残念なことにリーグが別になったので、両者がリーグ優勝して日本シリーズに出てこないかぎり、この世紀の対決は実現しない。一説によれば、リーグが別になったのは、吹田コミッショナーが京都協議会の立候補書類を読み、その東京に対する闘志の余りに烈しいのを心配したためだという。
その京都の監督は野村克也。彼のプロ野球におけるキャリアについては説明の必要もあるまい。投手では、斎藤(大洋)のほかは石川県の小松、堂上、滋賀県の都など、いずれも元中日の好投手が京都府外から参加している。野手のご当所の筆頭は衣笠(広島)だろう。かつて阪神で牛若丸といわれた名ショート・吉田義男が、陣中見舞に顔を出している。
一方、対する博多ドンタクスも、実は今日の相手以上に東京への闘志を燃やしている協議会がバックだ。ほぼ四分の一世紀前、福岡を本拠とする西鉄ライオンズは三年連続してパシフィック・リーグの覇者となり、セントラル・リーグの当時の常勝チーム、東京のジャイアンツと日本シリーズでまみえてこれを連破した。地元ファンはこのときの誇らしさと快感を今もって忘れていない。ところがやがて、チームごとごっそり東京に持って行かれてしまったのである。そこへ今度の改革だ。全国で一番燃えた協議会はここだというのが定説である。熊本の協議会と相談し、ドンタクスは、福岡、佐賀、長崎、大分を、そして熊本モッコスは、熊本、宮崎、鹿児島、沖縄を対象とすることにした。そしてドンタクスが迎えた監督は、あのライオンズ黄金時代の鉄腕投手、大分県出身の稲尾である。グラウンドに目をやると、島田(日本ハム)、大島(中日)、角(ヤクルト)、真弓(阪神)、若菜(阪神)、立花(西武)などが軽くキャッチボールをしている。
野村、稲尾の両監督が、ネット裏の前で連盟役員のような人から何か言われ、顔を見合わせて照れ笑いしている。しばらくすると場内アスウンスが流れてきた。
「お知らせします。松リーグの発足を記念して、始球式の前に、両チーム監督とこどもたちの代表の交歓プレーをおこないます。ピッチャー、稲尾。キャッチャー、野村。そして、今日が誕生日の小学生の男子の中から、抽選で三人を選び、稲尾投手の球を打つチャンスを一打席ずつ与えます。希望する男の子は一塁側スタンド裏の受付に集まってください。正午に抽選します。いいですか、今日が誕生日の小学生の男の子ですよ。うそはつかないこと。その場ですぐわかります」
大歓声と拍手が湧いた。かつてのパシフィック・リーグ最高のカード、西鉄・南海戦、そこで好敵手としてしのぎをけずった稲尾と野村がバッテリーを組む。そして小学生がバッターボックスに立つのだ。夢のようなシーンだと大人たちのほうが喜んでいる様子だ。
さてこちらは仙台ダンディースタジアム。仙台の協議会は、長野と同じく今まで地味な役割を負ってきた人物に、新人養成の期待を託して的を絞り、東北出身でロッテの総合コーチをしていた福田昌久に監督就任を乞うた。ダンディーズというのは、伊達藩―伊達男―しゃれ者―ダンディーとつながるのだそうだ。選手層は東北各県に及ぶ。グラウンドで肩ならしをしている連中には「男前のおれたちには、うってつけのチーム名だ」と鼻をうごめかしているのが多い。投手では山田(阪急)、太田(近鉄)、三浦(阪急)、遠藤(大洋)、今井(阪急)など、野手は中畑(巨人)、落合(ロッテ)、八重樫(ヤクルト)、島貫(巨人)など、男前はともかくとして力はありそうだ。そして、札幌と同じくここも新人が東北全域からわっと集まった。
対する東京ジャイアンツのベンチ中央には、王貞治監督が腰を据え、丸く、鋭く、そして優しさのこぼれるまなざしで、選手たちの動きを見ている。ベンチのすぐ上のスタンドには潟田都の顔が見える。今日は今のところ、コロコロと響くコロラチュラ・ソプラノの笑い声は聞かせていないようだ。神妙な顔つきで、左右の協議会の男共からご進講を受けている。
田淵(西武)と栗橋(近鉄)が軽い素振りをしており、高橋慶彦(広島)は例によってダウンスイングの全力素振りをくり返している。ブルペンには松沼兄弟(西武)がいて、球を受けている一人は大矢(ヤクルト)だ。
静岡太平洋球場に移ろう。ホームチームのベンチでは、背が高くてもずんぐりし、おとなしそうだがいかにも頼りになりそうな監督が選手の動きを見ている。静岡パシフィックの協議会は異色の人選をした。いろんな球団で二十年近くピッチャーをしてきた渡辺秀武(広島)を監督に迎えたのだ。中継ぎという、投手の中では一番地味な役割を果たしてきた渡辺の采配やいかに。ブルペンには、池谷(広島)、新浦(巨人)、稲葉(阪急)がいる。バックネット前では、加藤英司(阪急)と山下大輔(大洋)が、トスバッティングをしている。
静岡の今日の相手は大阪タイガース。江夏(日本ハム)がベンチに腰かけて、左手でボールをいじっている。牛島(中日)と香川(南海)のバッテリーがブルペンで肩ならしをしている。高校時代に甲子園で活躍したバッテリーに戻れて嬉しそうである。それを眺めているスタンドの大阪ファンも嬉しそうである。
「おい、浪商コンビ、行けるところまで思い切って行け。あとは江夏がいるさかい。ビュンビュンやれい」
野手の顔触れもすごい。岡田(阪神)、新井(南海)、福本(阪急)、平野(近鉄)、長崎(大洋)、田尾(中日)など。そして彼らの動きを目を細めて頼もしそうに眺めている監督は、よく見ると巨人にいた高田繁である。大阪は大先輩が多すぎて、だれにやってもらうか逆に困ってしまい、思い切って若い監督で行こうということになった。村山実の断だともいう。
次は高松海賊基地。物騒なところに来たものだ。おまけに乗り込んできた相手が広島の|呑んべえ《ヽヽヽヽ》ときては、ただではすまないのではないか。
四国では松山も有力候補だったが、まず高松からということで、松山は次点都市になった。だからパイレーツには四国中の選手が結集して、竹リーグでの優勝は決まったようなものだという声が高い。これを聞いておさまらないのがドリンカーズ、腕を撫して瀬戸内海を渡ってきた。手ぐすね引いて待ち受けるパイレーツ、さあ、海賊船上の決闘やいかに、という感じで、今日の全国一の好カードとの呼び声が高い。すでに超満員のスタンドでは試合前の興奮が徐々に高まり、早くも、
「こら、広島、ふらつくな。朝から飲んできたな」
「四国の海賊なんか、一杯機嫌でひとひねり」
などと野次の応酬が始まっている。
広島寄りのネッ上表で、
「やっぱ、呑んべえと海賊じゃあ、縁が深すぎるなあ」
と耳慣れたしわがれ声がした。見ると鶴岡一人だ。その隣に広瀬叔功と藤村富美男がいる。高松寄りのネット裏を見ると、いるわいるわ、三原脩、千葉茂。いずれ劣らぬ御大たちが、地元チームの初陣やいかにと、居ても立ってもいられずにやってきた感じである。これでは、パイレーツの監督・中西太も、ドリンカーズの監督・広岡達朗も、さぞや、やりにくかろう。
さて、両チームの選手だが、おもな顔触れだけでも挙げて行けばきりがないので略すとして、その代わりに、先発メンバーをスコアボードから書き写しておこう。
ドリンカーズ
1 左・簑田(阪急)
2 遊・永田(広島)
3 右・ライトル(同)
4 中・山本(同)
5 捕・梨田(近鉄)
6 二・高木豊(大洋)
7 一・三村(広島)
8 三・山崎(同)
9 投・村田(ロッテ)
パイレーツ
1 中・弘田(ロッテ)
2 遊・河埜兄(巨人)
3 二・藤原(南海)
4 三・有藤(ロッテ)
5 右・島谷(阪急)
6 一・高井(同)
7 左・中塚(大洋)
8 捕・大石(西武)
9 投・西本(巨人)
東に戻って千葉フラワースタジアム。その名に恥じず、千葉県名産の色とりどりの花が、内外野のフェンス際に点々と飾られて見事である。
一塁側ベンチから、キンキンと張り切った声が飛んでいる。千葉の新監督・長島茂雄だ。巨人の監督時代よりも表情が溌剌として、選手時代に戻ったみたいだ。
「長島さん、水を得た魚のようですね」
と、新聞記者が声をかけた。長島さんは、
「まあね、フィッシャーメンだしね」
漁師と魚の利害関係の矛盾など気にしていないようである。調子がいい証拠だ。
練習を終えた選手たちが長島のまわりに腰をおろしている。掛布(阪神)、篠塚(巨人)、谷沢(中日)、宇野(中日)、石毛(西武)、古屋(日本ハム)、なかなかのメンバーだ。ブルペンで投げているのは鈴木孝政(中日)だ。そのほか、茨城の投手勢、梶間(ヤクルト)、鈴木康二朗(ヤクルト)や、二年目の金沢(大洋)などが手ぐすねをひいている。
千葉に乗り込んできているのは、名古屋グランパス。山内一弘監督率いる強力チームで、一流捕手が木俣(中日)、山倉(巨人)と二人いる。ネット裏に眼をやると、名古屋の次期監督候補の呼び声高い高木守道が、静かにグラウンドを眺めている。それと対照的に、身振り手振りも賑やかに陽気な声で隣の老人に語りかけているのは金田正一であり、老人は野口二郎のようだ。愛知県の生んだ、この二人の稀代の大投手は何を語り合っているのか。
若い読者は、四百勝の金田投手のことは知っているだろうが、野口二郎がどんな大投手だったのかはあまり知るまい。開幕式の時間はどんどん迫っているが、ここは野口に一言触れておこう。なぜなら、こういうタイプの選手が、これからの野球新時代にふたたび出てきてほしいからだ。といっても、おいそれと生まれるはずはないが。
野口二郎、テンプルズの西本監督と同じ大正九年、すなわち終戦前二十五年の生まれである。中京商業からプロに入り、戦争による二年の中断を除いて十三年間現役で活躍した。十三年間はむしろ短いくらいで驚くにあたらないが、問題はその中味である。入団四年目で四十勝を挙げた年のことだ。大洋というチームにいた野口は、五月二十三日の対朝日戦で九回一死までノーヒット・ノーランの完投をした翌日、対名古屋戦で延長二十八回を投げ抜いて四対四で引き分けた。もっともこの延長記録は、太平洋戦争下のおかみの「戦争は勝つか玉砕かのいずれかである。野球といえども引き分けなどもってのほか」という方針が生んだ記録ともいわれる。それはともかく、野口は同じ年の八月の対巨人戦で、今度は延長十八回を投げ抜いた。このとき投げ合った巨人の投手が、天才沢村栄治である。まだある。その翌月の東西対抗(今のオールスター)で延長二十一回を投げ抜く。まだある。バッターとしての野口二郎、さっきの延長二十八回のゲームでは、四番バッターとして十二回打席に立ち、その試合の前後、自分がピッチャーとして登板しない日には一塁手としてクリーンナップを打っていた。打者としての最高の成績は、戦後二年の阪急時代で、九十六試合の打率が二割九分八厘、投手通算二三七勝、打者通算二割四分八厘。
「無茶だ。酷使だ。だから十三年しか持たなかったのだ」、たしかにそうもいえる。しかし反対に、完投したら中四日の休みがあり、登板したら百球を上廻るあたりから監督やコーチから調子を心配され、バッターボックスでは三振があたりまえというのも、一種の行き過ぎではなかろうか。打者のパワーや技術が上がったので、変化球が多くなり、かけ引きに神経を使うのは野口二郎時代の比ではないとすれば、ピッチャーのほうのパワーアップはどうなっているのか。バッティングに比べると相対的にパワーアップの限界が低いのだろうかと、素人は首をかしげたくなる。野口二郎だって、川上哲治、藤村富美男、小鶴誠といった強打者に球を投げていたのだ。
おっとっと、時間がない。大昔の話になるとつい深入りしてしまう。
ともかく、その往年の鉄腕投手兼強打者も六十二歳になり、愛知や岐阜の若者たちで占められたわが郷土チームの初陣を静かに見守っている。
急ごう。あと二つの球場が残っている。
神戸ポートピアパーク。開幕カードは神戸マリナーズ対横浜アンカーズで、奇しくも日本の二大国際港同士の試合となって話題を呼んでいる。球団旗の色もよく似たマリンブルーで、ユニフォームもよく似ている。ホームチームの神戸は上が白で下が濃いブルー、ビジターのアンカーズがその上下をひっくり返しただけという感じだ。
大阪が高田繁なら、神戸は土井正三を監督に据えた。高田と同じころ巨人で活躍した名セカンドである。このチームは兵庫と鳥取が中心で、鳥取からは、小林(阪神)、角(巨人)の二人の出色の投手が参加している。野手では、羽田や、二年目の金村など近鉄勢が目立つ。神戸のネット裏では、青田、別当、別所といった兵庫の大先輩が、何やら楽しそうに話し合っている。
対する横浜アンカーズの監督は、べらんめえ調と火の玉野球で勇名を馳せた大沢啓二。投では木田(日本ハム)、愛甲(ロッテ)、それに火消しの倉持(ロッテ)、打では田代(大洋)、原(巨人)というところが揃って、監督もご機嫌のようだ。
開幕式まであと五分、最後は熊本モッコスタジアムに来た。十八球団の本拠地の中で、目下のところ最西最南の球場である。
モッコスには、鹿児島から定岡(巨人)、北別府(広島)、地元からは二年目の右田(大洋)らの若い投手勢、それに宮崎から水谷(広島)、小川(近鉄)、地元から柏原(日本ハム)らのベテラン好打者が加わって、古葉監督の重視するバランスが早くもとれ始めている。前泊(大洋)など沖縄からも逸材が集まった。今度パスした新人も沖縄からが一番多く、将来力をつけてきそうだ。それに、古葉監督も、協議会顧問の川上哲治も、監督としての優勝経験は豊富で、地元市民は早くも優勝は固いと豪語している。(今まで熊本にプロ球団がないのがおかしかった。一旦できれば優勝に決まっている)、これは熊本だけでなく、今度はじめて球団を持つことになったすべての都市のファンに共通の言い分のようだ。
それにかけては岡山市民も負けてはいない。「長丁場を勝ち抜く鍵は投手力である。モモタローズの投手陣を見よ」というのである。なるほど、松岡(ヤクルト)、平松(大洋)、星野(中日)、山根(広島)、仁科(ロッテ)と、エース級が揃っている。「投手力だけではないぞ」と言って、岡山のファンは大杉(ヤクルト)の名を挙げる。
モモタローズの監督は、一九八一年まで大洋ホエールズの監督をしていた土井淳、往年の名捕手である。かつて秋山投手と、岡山東商―明大―大洋とバッテリーを組み続け、一九六〇年に、三原監督の下で大洋をたった一度の優勝に導いた中心プレーヤーであった。
モッコスタジアムのネット裏に、川上哲治の姿が見える。彼は新装成った内外野のスタンドと、それをぎっしり埋めつくした観衆を見渡し、それからしばらく天を仰いでいた。そしてやおら、隣の連れの人にポツリと言った。
「この熊本の晴れ姿を、吉原正喜に見せたかったなあ」
吉原とは、秋山・土井のバッテリーと同じように、熊本工業から巨人へと川上・吉原のバッテリーで入団した相棒であった。強打者にして名捕手、俊足にして強肩、その吉原は、太平洋戦争中ビルマ戦線で戦死した。
さて、これで開幕式直前の九つの球場の様子を駆け足で見た。はじめにことわったように、コーチ陣や新人についてはゆっくり紹介するゆとりがなかった。外国人選手についてもそうだった。もっとも彼らの数は減っていた。今度のシーズンオフは、各球団とも外国に行って有望選手を探すどころの話ではなかったのである。そうすると、チーム数は十二から五割増の十八になったから、今までの外国人選手が全員残ったとしても、十八球団中十二球団は一人ずつとなる。おまけに何人かの選手は昨年限りで自分の国に帰ってしまった。だから外国人が一人もいないチームも少なくなかった。
ところで、点描できなかった新一軍選手、つまり新人王対象選手の多いことといったらどうだろう。去年までファームにいた多くの選手がベンチ入りし、さらに大勢の新人が入団した。昨年までの十二球団の一軍登録枠は、一球団二十五人だから合計三百人だったのが、十八球団になったから四百五十人となり、新たに百五十人の選手がファームからと新人公募によってベンチ入りしたのだ。支配下選手の数も、全体では当然五割増となり、ほとんどの球団が限度ぎりぎりまで新人を採用したから、十八球団に三百六十人の新人が一挙に入団できたことになる。これが、はじめに述べた「スリリングで未知な魅力に満ち満ちている」各チームの活力の源泉であった。そしてこれも今までに触れたように、この活力の源泉である新人を最も多く採用することができた、あるいは採用せざるを得なかった球団が、札幌ベアーズであり、次いで仙台ダンディーズと長野アルプスだった。
時計の針が零時三十分を指した。九つの球場で一斉に開幕式が始まった。女声のアナウンスが、やや緊張して張りのある調子で場内に流れた。
「ペナントレースの開幕にあたりまして、はじめに、今年の二月に逝去された、日本プロ野球前コミッショナー、吹田晨平氏の霊に、あらためて追悼の意を捧げたいと思います」
球場の全員が起立して、スコアボードの上の半旗を見上げた。数万の人間のざわめきが止み、信じられないほどの静けさがスタジアムを包んだ。そのとき、ゆったりと落ち着いて、明るく澄み切った音楽が流れ始めた。のびやかな絃の調べにフルートが続く。だれかが小さな声でささやいた。
「吹田さんが大好きだった曲だ」
それは、ドボルザークの第八交響曲の冒頭の部分だった。悲しそうでもなく、特別喜ばしいふうでもなく、肩も張らず、少しほほ笑んで大自然の中に溶け込んで行くような人間像を感じさせた。半旗を見上げていた人びとの姿は、自然に黙祷に変わっていた。やがて音楽は徐々に小さくなり、とうとう五月の青空に消えて行った。
人びとがそれにつれて黙祷を終えたとき、今度は、開幕にふさわしいトランペットのファンファーレが鳴り響いた。その音楽も、同じ曲の第四楽章の始まりの調べだった。それは朗々として勇ましく、人びとの気持を前へ前へと向かわせながら、ふしぎに優しい響きを帯びていた。
志村千三は、高松海賊基地の三塁側ベンチ前にナインと整列しながら、その音楽を聴いていた。志村の耳には、その音楽を通して、「さあ、今からが本番だよ」という吹田の声が聞こえてくるようだった。
「あれれ、もうこんな時間か」
志村は腕時計を見て驚いた。五時にあと十五分である。
「バーテンさん、えらいお邪魔をしちゃったなあ。徹夜になっちまった」
「どうぞごゆっくり。五時に一旦閉店ということにはなってるんですが、お気がねなく。実は私もさっきから聞かせていただいてます。おしまいまで聞かせてください」
「いや、もうおしまいだよ」
と志村は言った。そして潟田を見た。
「どうだ、潟田、どうやらおしまいの感じだろ。このあたりで、きみの頭の中で五年後の今日までのつながりをつくってくれよ」
「ありがとう。だんだん見えてきたような気がする。ただ最後にね、福岡できみが約束してくれたこと、つまり、食物とこどもたちの変貌について聞かせてくれよ」
「え? ああそうか。きみはあのとき、ほうれん草がうまくなってると言ってたな。それと、こどもたちの姿が元気で眼が輝いてるということだったな」
「そう。おれはね、反対の風景を想像して帰ってきたんだよ。外で遊んでいるのは老人ばかりで、こどもの影は薄くなってるんじゃないかとね。あのころでも、出産率は低下して人間の寿命は延びていたからね」
「なるほど。しかし弱ったなあ。へんな約束をするんじゃなかった。やっぱり野球以外の分野の推移を語るのは、おれには荷が重すぎるよ」
「そういわずに、きみの生活実感でいいから」
「できれば、京都大学の梅原静吉さんにでも聞いてほしいね。あるいは梅棹忠夫さんとか、梅原猛さんとか、多田道太郎さんとか、小松左京さんといった人にさ」
「何だ、みんな京都や大阪じゃないか」
「あ、そうか。いや、東京にも立派な人は大勢いるよ。ただね、おれには東京の学者が書いてるものは、一般に難しすぎるんだよ。何というか、肉声が伝わってこない」
「やっぱりおれは、一野球生活者の実感を聞きたいね。あるいは一人の父親としての。ああ、そういえば、千五君は今何をやってるのかな」
「あいつは寺岡篤太郎さんの家に、書生として住み込んでる」
「ほう、農業の研究かね」
「研究というより修業だな。寺岡さんと晴耕雨読で、もう四年になる」
「そうすると、大学には行かなかったのか」
「あんなもの行かなかったよ」
「あんなものとは、ちとひどい」
「もっとも、近頃の大学は少しはましになったけどね。とにかく千五にとっては、寺岡塾こそ最高の大学だったんだよ」
「それじゃ、その教育の分野から、父親の実感を聞きたいね」
「うん、実感でよければね」
志村は、そうことわって話し出した。
「教育の分野ではね、いみじくもきみが『春夏秋冬』に書き残して行った、教育とスポーツのエリート養成、スペシャリスト訓練主義が、一九八三年の後半あたりから徐々に変わり始めたようだ。行くところまで行って旋回を始めたというのかな」
志村によれば、受験有名校や野球有名校への越境留学が減り始めたというのだ。
「きみに笑われそうだけどね」
と志村は前置きして言った。
「この傾向はね、プロ野球の新しい構造と新しい地図に触発されたものだと、今でもおれは固く信じてるんだ」
「いや、おれは笑わないよ」
潟田はまじめな面持ちで言った。志村はポツリポツリと語り出した。
志村がカープのコーチをしていたころのことだ。一人の友人が志村にこう言った。「息子が野球をやりたい一心でQ高校に入った。おれも、進学有名校で受験勉強にぎゅうぎゅうしぼられるよりは、好きなことで苦労したほうがいいと思ってた。息子は喜び勇んで野球部に入部を申し込んだ。理由はもちろん、一番好きなクラブ活動だからだ。ところが担当教師の答えは『うちの部は全国の中学から予約で入った生徒でいっぱいだ。好きだからというだけじゃだめだね』だそうだよ。おれは息子のためより、どこかまちがってるんじゃないかと思って教師に会いに行った。教師は教育の考え方など一言も話さずにこう言った。『入れてあげてもいいんですが、ランクは一四九番ですよ』。いいかい、志村、自分が担当している部に、生徒が好きだからと申し込むのを単純には喜べないようになっている」
もう一人の友人は言った。「夏の甲子園の予選が始まると、新聞に毎日全国のスコアが出るね。おれは毎朝見る度に、何々大学付属という種類の高校が早く負けて姿を消してほしいと思うようになった。とくに、大学の本部が中央にあって、どこか遠くの地方に系列校を置いてあるのが一番気に喰わない。そんなところが甲子園に出てこようものなら、真っ先に負けてほしいと念じてる。そりゃ、やってるこどもへの感情はどこの子にも分け隔てないつもりだよ。問題は大人の学校経営の思想だ。大企業の本社と出先じゃあるまいしね。それとね、いかにも甲子園プロといった感じの監督がいる。あれもいやだ。だから、たまにどこか田舎から農業学校なんかが出てきてね、監督もクラブ活動の担任みたいで、生徒も自主的にのびのびプレーしてるのを見ると、いいなあと思うよ。もっとも、野球だけとは限らないけどね」
志村も、これは野球だけではないと思っていた。進学体制もそうだし、社会に出てからの体制もそうだ。大きいもの、強いもの、有名なもの、冒険よりは安定、田舎よりは都会、無印よりはブランド……どんな時代にもだれの心にもそういう志向はあるとはいうものの、今ではみんながあまりに一律すぎる。二百人に近い野球部、マイクを使わなければできない講義、大学の講堂では人が入りきれない入学式や卒業式、全国どこに行っても追いかけてくるチェーンストアのマーク、去年がニューヨークなら今年はパリで、そこへわっと押し寄せる団体観光客、ベストセラーという宣伝で売れるベストセラー……志村は思った。(戦争中もかなり一律だったが、あれはおかみの強制によるところが多かった。今は少なくとも明らさまに命令するおかみはいない。自由と多様性が謳われる世の中だが、どうもあまり多様ではない。昔のようには目に見えないおかみがいて、われわれを一律へと操っているのか。ではそのおかみとは何者か?)
そんなことを感じていたころ、『春夏秋冬』に潟田六郎太の例の文章が載った。「良いコーチにつき、|良い学校《ヽヽヽヽ》に入り、高度に専門化された目標に沿った体力づくりと、知識や技術の最先端を一直線にめざす。これは、進学受験体制のくさびが、小さい年齢層の中にぐいぐい深く喰い込んで行く状況と軌を一にしている。勉強の受験体制の頂点には一流大学があり、そしてスポーツの受験体制の頂点にはスターの座がある」というところが、志村にもよくわかった。
志村の球団にも毎年何人かの新人が入ってくる。体も野球向きによく締まって鍛えられており、技術もよく習得していて、知識も申し分ない。これはすごい奴が入ってきたぞと楽しみになる。ところが、これが期待したほどにはその後伸びないのである。ちょっといじるとガタガタになるのもいる。これは何だろうと志村は思った。(あまりにも計画されすぎた教育を受け、自分の自在な考えや勘を働かせる余地を狭められてきたのか)、そして潟田の文に同感するところがあった。
(大人が手とり足とりで一直線に進ませる。そうすればあるところまでは、知識や技術の上達が早いのは当然だ。ところがその間に何かが抜け落ちて行っている。あとになってはとり返しがつかないもの、そのときでなければ身につかないものが。知識や技術について大人の価値観で選択された習得体系に興味を示さず上達しない子は、落ちこぼれだ。こうして一律の優等生が育つ。こどもは、もっと自分の眼で見、自分の足で歩き、自分の手で触って道草をくうのがいい。近頃はそういう新人にはあまり恵まれない)、と思った。
潟田の言う「一直線」は、タテに立っている一直線であり、大人の世界でもこどもの世界でも、そこに並ぼうとすればどうしても順位がつく。同列に並ぼうとしても直線の幅は狭い。では、その直線をヨコに寝かせたらどうだろう。人間は同列にいくらでも並べる。しかし今度は頂点の目標が見えなくなる。それなら自分で目標を作ればいい。それこそ、価値の多様性だ。
志村は、自分の商売の野球についても、その直線を一度ヨコに寝かせて考えてみたいと思っていた。吹田晨平という人物とめぐり逢ったのはそのころだった。そして志村は、(ははあ、吹田さんも、日本のタテ一直線をヨコに寝かせたいと思ってるんだな)と、自分の流儀で考えた。この場合、タテの頂点には東京があり、その次に大阪あたりがある。それをヨコにしてみようというわけだ。(なるほど、おれにはよくわからんが、これが中央集権と地方分権のちがいなのかしらん)と思った。
志村は吹田に尋ねた。
「吹田さんの構想では、東京も大阪も一球団だけですか」
吹田は迷わず答えた。
「私はそう思います。スタートはそれが正しいと思います。クラブを持てそうな都市が一巡して二巡目に入ったときは別ですけどね。そんなときは私はもうあの世ですから、志村さんたちに考えてもらわねば」
一九八三年あたりを境に、高校や大学への野球留学が徐々に減り始めた。各地の普通の学校で、大勢のこどもたちがのびのびと野球をやるようになった。力の抜きん出た選手がプロをめざすのは当然だが、何も遠くに修業に出る必要はない。地元の学校を出て地元のチームに入り、そこの教育リーグで一人前に育つのが普通になったからだ。
本来大学は、自分で究めてみたい分野、自分で研究したいテーマがあって行くところだ。だからその分野によっては、東京などの大都市に行かなければ希望が充たされないこともある。しかし、大学に進みたい大きな理由が野球をやることだという場合には、ほとんどの若者は地元の大学に進むようになった。そして、各地方の大学野球リーグが充実して行った。その姿の一端が、前に出てきた広島ドリンカーズと筑前大学のオープンゲームだ。
甲子園の全国高校野球も、とにかく始まってみなければどこのチームが強いのかわからないといった傾向を帯び始めた。青森とか富山といった寒い地方のチームがあれよあれよという間に準決勝まで進むかと思うと、阪神地方や四国や広島のチームが、一回戦で山形や新潟のチームにコロリと負けたりした。
こうして野球の面では、プロ、大学、高校いずれもが「地方の時代」に移って行った。
そのうちに、大学進学率が全国的に少しずつ低下し始めた。大学の入試は、個性評価と適性評価といわれるものが中心となり、こんな問題が解ける子は大学へなど進まずに自分で学術研究の道を開けばいいと思われるほど頂点に達していたペーパーテストの難しさは緩和されて行った。その代わり、大学に入って何をやりたいかという姿勢は厳しく問われた。はじめのうちは、「そんなこと聞かれるとは思ってなかったので全然用意してない」とか、「だって、大学に行くのはあたりまえでしょ」とか、「両親が行けというから」とか、「青春を謳歌したいから」とかいう無邪気な答えもちらほらあったそうだ。質問にあたった教授が何人もそう言っている。
個性・適性評価には、高校からの内申も含まれるが、そこにはもう偏差値に類する要素は入っていない。その代わりに、「この生徒の一番得意なもの、一番好きなものが、どれだけ得意で、どのように好きか」が、担当教師によって愛情こめて詳しく述べられている。良いことを詳しく書くのは苦にならないものだし、愛情も自然に湧いてくるものだ。そしてこれも、タテ一直線がヨコになった姿だった。
こうして、大学、高校、中学校、小学校、幼稚園でのこどもの生活ぶりが徐々に変わって行った。つまり、「進学受験体制のくさびが、小さい年齢層の中にぐいぐい深く喰い込んで行く状況」の|くさび《ヽヽヽ》が、今度はぐいぐい引き抜かれ始めたのである。そして、自分の個性や目的に合った大学に行きやすくなると、おもしろいことに今度は、ぜひ大学に入って学問したい者だけが行くようになったため、進学率が低下し始めたのであった。
さてそれでは、だれがこういう改革を進めたのか。だれがタテの直線を最初にヨコにしたのか。それは不明だが、どうも京都大学の梅原静吉学長あたりが仕掛け、全国のいくつかの大学が相談し合って一九八三年の入試からそうしたのが始まりだという説が有力である。しかし少なくとも、“ゆとりある教育”と言って授業時間数を少し減らしてみたり、この教科書の何ページの表現は陰すぎるからもう少しルックスを上げよ、と言ってみたりした人たちでないことだけは確かだ。
「外で遊ぶ子が増えて血色もいいという、きみの第一印象については、大体こういうことでいいかな?」
「うん、よくわかった。考えてみれば、こどもの数は増えていないが、こどもらしいこどもが増えてるんだな。おれが日本を出るころは、大人のような生活を余儀なくされてた子が多くて、事務机と同じような勉強机に向かってたというわけだ」
「おれたちの商売でもね、こどもの夏休みがくると、ウィークデーでも昼のカードをいくつか組む。そうさ、カンカン照りの時間さ。大人はたいてい働いてる時間だから、お目当てはこどもだ。つまり土曜日曜は満員で入れないこともあるし、ナイターが終わるまでは起きていられない程度に小さい子たちがお客さんだ。いろんなグループで引率された小学生たちがワッと集まる。いやあ、そういう日のスタンドの声はすごいねえ。とにかく、小学生の声が束になって押し寄せてくる。張りがあって、澄んでいて、すごいボリュームだ」
「公式ゲームなんだろうね」
「もちろんさ。選手たちも息を抜けず必死だ。こどもたちにとりまかれてね。普通のとき以上に張り合いがあるって、選手たちは言ってるよ。歓喜、落胆、拍手、声援が実に率直に伝わってくる。選手のほうがしびれるらしい」
「ふうん、今までのきみの話で、食物がうまくなってきたのも類推できるところがあるなあ」
「それはありがたい。おれの話も簡単ですむ。第一、この方面のことはおれにもあまりよくわからんしね。今や息子のほうが詳しいよ」
志村は吹田に紹介されて一度だけ農協の寺岡篤太郎に会ったことがある。そのとき寺岡は言っていた。
「やっぱり、季節のものは季節に作り、そして食べる人も季節に食べるというあたりまえのことに、徐々に戻して行きたい。そういう農作で農民の生活を維持向上させることができるはずなんです。集中出荷と流通機構の改善。そして何よりも人間が常識的な感覚を取り戻すことですよ」
人間、とくに供給を受ける都会の人間は、いつの間にか、野菜であれ果物であれ魚であれ、望めば何でも一年中食べられるという、まるで大地や海の変化には影響を受けない工業製品に対するのと同じような感覚におちいっていた。そういう感覚をさらに満たすべく、超季節的・反季節的生産方法と設備が研究され、流通機構は複雑多岐になり、生産コスト、流通コストは上がり、農民は忙しいわりには収入が少ない状態が続いた。
小学生にもわかることだが、農作物は、どんなに生産方法や設備が変わっても、人間の手が大地から育てる作物であり、工業製品とはわけがちがう。決定的な部分は自然の摂理に待たなければならない。
「工業化社会が進むと、人間はどうもいろんなことを工業の手法で見るようになる。農業だけじゃない。人間の教育だってそうじゃありませんか」
と寺岡は言った。それを聞いていた吹田は、うなずきながら話題を食物に戻した。
「人間、いつでも食べられると思うと慢性飽食症とでもいうものになり、味覚も貧しくなる。季節を待ち望んで食べると、何でも実においしいもんですよ」
農業がいつごろから寺岡の望む方向に向かい始めたのか、あまり詳しいことは志村にはわからないが、志村たちが新しい体制のもとで野球をやり始めて一年、二年と経つうちに、いつのまにか行く先々の農村や漁村が活気を取り戻しているのに気がついたといった感じだった。
「農業人口が増え始めたのも、タテの直線をヨコに寝かしたからといえるかね」
「もちろんそうだと思うよ。そういう傾向が新聞なんかで報道され始めた時期は、おれが地方を廻って気がつき出した時期と大体合っている。つまり、おれたちの野球機構が新しくなった年の翌々年あたりからだったな」
頭打ちになっていた東京等巨大都市の人口が、やがて昼間人口も夜間人口も共に反転して減り始める。有名高校・予備校―一流大学―一流企業という志向の一律性が弱まり、東京の大学生人口、オフィス人口、セールスマン人口、サービス業人口、得体不明人口の過度集中が緩み始め、特に若い人たちの郷土志向のまなざしが目立つようになる。東京から県庁所在地へ、県庁所在地から中小都市へ、中小都市から農漁村へと、人口動態の底流が変わり、過密と過疎の差が次第に縮まった。そして、人の動くほうに経済も移動して行く。
大都市の需要を中心に設計され運営されてきた諸工業は、その製品リストの見直しを迫られる。それにつれて、流通、サービス、情報の諸産業や運輸業なども体質の変更を迫られる。国鉄はその代表的な例となった。新幹線の蔭に冷遇されていた在来線の急行や各駅停車のダイヤがふたたび充実し、大都市中心ではなく中距離近距離を活発に動く生産人口を乗せて走った。廃止に追い込まれていたローカル線の多くが復活し、プロ野球や大学などと同じく「国鉄・地方の時代」へと向かう。
「ところがだ。そう何もかもうまくは行かない。大規模工業の企業が方向転換する中では、都市の失業者が増え、社会不安も大きくなった時期がある」
世界中の同業国、つまり先進工業諸国からあれほど非難され続けていた日本の国際収支の大黒字が、日本の農工業の新しいバランス政策によって徐々に縮小均衡に向かい、遂に一九八六年後半には赤字に転じてしまった。数年前には想像もできなかったことだ。こうなると海外の同業国も現金なもので、上層部同士の国際人間関係はたちまち良くなった。しかし、そんなことに無関係の一般市民、労働者のところでは、大都市の各職業にわたって不況の風が舞い、失業者が増えた。幸いに田舎を頼れる人は田舎に帰った。帰りなんいざ、田園まさに荒れんとす。しかし「荒れんとす」ではなく、とうに荒れ果ててしまっていた。国策によるおびただしい休耕田は、スイッチを入れればすぐ動き出す機械とはちがい、立派な作物ができるには相当手を入れなければならなかった。先進工業国の中で食糧自給率が最も落ち込んでいた日本は、そう簡単には立ち直れなかった。あれほど、いつでもどこでも何でもあるように見えた日本列島は食糧危機に襲われ、東南アジアのボートピープルに同情のまなざしを注ぐどころではなくなった。各地方自治体の懸命な努力で餓死者こそ少なかったが、一時は主要食品のほとんどが配給制になった。米、麦、小麦粉だけでなく蕎麦粉も含めた穀類のほとんど、肉、卵、味噌、醤油、塩、砂糖、牛乳、バター等である。街のいたるところに配給を待つ行列ができた。当然、米や麦を原料とする酒類の生産も制限され、世の男どもは、いつでもどこでもいくらでも飲めるという泰平の世から放り出され、いささか元気のない姿で家に早く帰り、奥さんといっしょに米や味噌の配給の行列に並んだ。
人々は、大地を粗末にしてきた報いをあらためて悟り、一所懸命に土地を耕し始めた。それまでの人間の態度や表情に対応して干からび荒れていた土地の表情は、次第に和やかさを取り戻して行った。
休耕田が回復し、農業人口が増えるにつれて、日本はようやく食糧危機を脱した。こうなると日本人はやはり勤勉である。一九八一年には三三%に落ち込んでいた穀物自給率は、一九八七年には七〇%近くまで回復した。そして農民は、季節の作物を季節に丹念に作ることに向かい、それでやって行けるようになった。いつでもどこでも何でもという物資過飽和を謳歌する傾向が影をひそめ、その要求の中心であった貪欲な化物のような大都会の地位が相対的に低下したこともある。
工場と見まちがうような大ビニールハウスや過度の農薬使用が減った。需給のバランス、流通機構、価格体系も安定し、一年中供給できるものと、季節を中心にしたものとの区別がはっきりし、無駄がなくなった。こうして、早春や晩秋のほうれん草、初夏のいちごやそら豆、真夏の枝豆や、なす、トマト、そして秋の白菜、りんご、ごぼう、大根などに、人びとはあらためて季節の恵みを味わうようになった。
「きみが食べたのは、そのほうれん草というわけだ」
「ふうむ、しかし、そんなにうまく行くもんかなあ」
「だから詳しいことはわからんと言ったじゃないか。そうだ、今度寺岡さんを紹介するから聞いてくれよ。おれにはね、きみの帰国第一印象のほうれん草の味とこどもたちの姿とがね、深いところでつながっているとしかいえないんだよ」
「それにしても、農林漁業の回復は当然環境対策とも関連するわけだろう。吹田さんが一時たずさわっていた分野の」
「もちろんさ」
環境対策は、環境汚染防止という受身のテーマにとどまらず、自然環境の復元と日本列島生態系の回復が積極的なテーマとなった。その最終方針の決定権は中央の立法・行政府ではなく、地方自治体の広域連合が持つ。その単位は、北海道、東北、北陸、甲信越、関東、中部、関西、中国、四国、九州、沖縄の十一である。中央政府は、原則として金は出すが口は出さない。吹田の構想はここでも、吹田の死後に実現したのだった。
こうして、東京の政治人口も減り始めた。政治人口とは、中央のお役所のほかに、陳情人口、会議人口、賄賂人口なども含まれる。なかなか減らないのが芸術人口であった。とにかく東京も「東京・地方の時代」を迎えつつあった。
先進諸国を痛撃する石油ショックも、第三波、第四波が起こった。欧米日を中心とする工業大国に大きな被害がひろがった。しかしやがてOPEC諸国は、「もう欧米日をだいぶいじめたから少し溜飲が下がったな。彼らも性根を入れ替えてきたようだから、おれたちもうかうかできないぞ」と、路線の変更を始めた。残り少なくなった地下資源を掘るのもほどほどにして、地上と海上に目を向け、農業牧畜漁業にも精を出そうというのだ。そのときOPEC諸国が転換のモデルにしたのがわが日本国だったそうだが、ほんとうかどうか。それに加えて最近では野球まではやり始めているというのだが、これも真偽のほどはまだわからない。
夜が白み始めたようだ。志村もさすがに疲れてきた感じである。特に最後の、野球以外の話をするところで疲れが増したようだ。潟田はそれを知ってか知らずか、志村に聞いた。
「いったい初めに何が動き、何が何にどういう影響を及ぼしてこうなったんだろうね」
「おれなんかに、そんなことはわからんよ。ただ、どの分野の現象も単独では起きず、すべてがすべてに影響し合ってきたことは確かだろうな」
「それはそうだが、きみの顔には何か書いてある」
「何が?」
「少なくともプロ野球の吹田構想が進められていたとき、他の分野では何の動きも認められなかった。諸改革の火つけ役は吹田晨平であったと書いてある」
「ははあ、図星だよ。おれは学者でも評論家でもジャーナリストでもない。ただの野球野郎だしな、そう信ずる権利がある。やれやれ、慣れない話で疲れたよ」
志村は照れ笑いしながらグラスを口に持って行ったが、中味はとうに空だった。彼は、カウンターの奥で二人の話を聞いていたバーテンダーに言った。
「もう一つお代わり。それとね、バーテンさん。ぼくらにつきあいついでに、ほうれん草のおひたしなんてできるかなあ」
二人はしばらく黙ったままでいた。やがて潟田が言った。
「おれはね、帰ってきて首をかしげてばかりいるんだ」
「どうして?」
「いやね、八年も世の中の動きを知らずにいたものだから、いったいどんな変わりようだろうと思って帰ってきた。ところが、表面的には拍子抜けするほど変わっていない」
「ふん、福岡でもそう言ってたな」
「例えば今日のアルプス・スタジアムの開閉ドームと温度調節、それにバックネットでないバックガラス、あれは確かに変わっていた。しかしそれほど驚かなかったんだな。ああいうものは予期していた変化でね、つまり工業テクノロジーの進歩とでもいうか」
「なるほど」
「ほら、昔よく近未来小説とかSFものが売れたでしょう。ぼくもだいぶ読んだ。そういう影響か、日進月歩の八年間というイメージを強く持ちすぎていたんだな。だから開閉ドームには驚かずに、変わってないものに驚くという、何とも珍妙な浦島太郎になっちまった」
「それは無理もないよ。ちょうどきみがいなくなったあとあたりから、日進月歩が見直され始めたんだから。いや、進めるべきものは進めるが、一体何をどう進めるかを社会全体にわたって見直そうということになったんだな。そして戻すべきものは思いきって昔に戻す。それでおもしろかったのはね、進めよう進めようとするのが保守堅持党でね、戻そう戻そうとするのが近未来革命党だった」
「ははあ、進める政策が保守で、戻す政策が革新か」
「いずれにしても、おれたちの眼には見えない姿で、進んだり戻ったりしながらゆっくり変わってきたようだな」
「しかし、プロ野球・地方の時代は、一挙に計画的に実現した」
「そうともいえるし、吹田さんを中心に二年ぐらいの間に、見えない姿で変わっていたともいえる」
「なるほど、“見えないナイン”の暗躍でね」
「ハハハ。しかし野球の中味までは変わらない。いや、これも昔に向かって変わったというべきかな。さっき話したように、北のチームがめっぽう強くなったおかげで、おれが現役やコーチだったときに比べると、全体に試合がずっと骨太になって、試合時間も昔のように短くなったしね」
「ドンタクスタジアムもアルプス・スタジアムも、人工芝じゃないんだね」
「ああ、あれはもうどこにもない。自然芝、というのも妙だが、とにかくすべて本来の芝に戻った。何といっても大地に足を着けてやるんでなきゃ野球とはいえない。人工芝も一時はずいふん良くなったけど、やはり弾力一つとっても、大地とはちがう。選手の疲労も重なるし輻射熱も異常だ。球場を経営し管理する側にはいいんだけどね。やっぱり自然にはかなわないということでやめになった。これもつまり、昔に向けて変わったうちだなあ」
それから志村は、思い出したように潟田に言った。
「今のプロ野球の選手たちは、シーズンオフに何をしてると思う?」
「さあ、やっぱりゴルフなんか多いかな」
「昔はそうだったがね、今は農場や牧場で働く連中が多いんだ」
「へえー」
「漁船に乗り込むのも、山林に入るのもいる。農山漁村の生活は足腰を自然に鍛えるからね。ベアーズやダンディーズが強いはずだよ」
「それも昔に向かって変わったといえそうだな」
「そう、新しい昔」
「なるほど、新しい昔」
潟田は、志村がふと言ったそのことばに感じ入ったのか、もう一度「新しい昔」とつぶやいたあと、頭の中でそれを反芻しているような顔付きで黙り込んだ。やがて志村が、
「結局また野球の話に戻ったね。どうだろう、潟田、今までずっと話してきたこと以外に、博多やきのうのゲームを見て何か変わったことに気付いていたら教えてくれないか」
やっぱり野球の話になると、志村千三は乗気になってくる。潟田は答えた。
「うん、もう何試合か見てみたいね。とくに公式戦をね。あ、それから、ドリンカーズが出ないカードが見ることも大切だ」
「何か意味ありげだな。そうか、おれの野球は異端であり、それだけで全体の変化を判断するのは危険だというわけだな。いや、それとも技術水準のことを言ってるのかな」
「その両方だ。ハハハ、冗談はさておいてと。そうだな、ほかに気がづいたことといえば……、いや、基本的には何も変わってないな。つまりこういうことじゃないかな。本来余計だったものがだんだんとれてきて、野球の基本そのものがぼくらにもよく見えるようになった。だから変わったように感じないんだ」
「余計なものねえ。あ、そういえば、あのころはリリーフ投手がオープンカーで登場してたっけ」
「それはもうないのか」
「ないとも。下半身が不自由なピッチャーなどいるはずはないし、外野のゲートからピッチャープレートまでなんか、どうして自動車を使わなきゃいけないんだ。しかも、チームはピンチにたたされているというのにだよ。今はちゃんと自分の両足で小走りにくるよ。もっとも、ついこのあいだまで現役だったタイガースの江夏なんかは相変わらず肩をゆすってノッシノッシと歩いてたがね。それだってたいして時間はかかりゃしない。オープンカーの末期にはファンから言われたもんだ。“おい、もっとほかのことをスピーディにやれ!”なんてね」
「ハハハ、それはおれもあのころ思ってたことだ。うん、そういえば、バッターが打席に入る前にやたらとふりかけてたスプレーの缶も、きのうは見かけなかったな」
「そうさ、ゴキブリ退治じゃあるまいし、あれもはやらなくなった。やっぱりグラウンドの土にツバをパッパとかけてこねるのが、滑り止めの原料としては一番いいことがわかったんだよ」
「あ、それから、おれが見たのはオープン戦だからかも知れないが、スタンドの|鉦《かね》や太鼓、それに“ナントカ倒せえ、オー”とかいう合唱も影をひそめてた」
「ああ、それはペナントレースでも同じだ。はじめはね、郷土チームになったらもっと大変なことになるんじゃないかと思ったが、逆だったね。プロ野球が全国十八都市にひろがったために、ファンの眼が肥えてきた。せっかくスタジアムに足を運んだからには、自分なりにじっくり野球そのものを味わって楽しみたいというふうになったんだな。そしてね、付和雷同とか大勢順応の傾向が生活全般にわたって薄れてきたこともあるだろうね。その代わり、ファインプレーやエラーなんかのときの声はすごいよ」
「きのうのアルプス・スタジアムのアナウンスもすごかったね。ラッキーセブンのさ。きれいな女の声で“田舎者でドジで、草野球にも及ばない広島ドリンカーズ”とか」
「ハハハ、あれはね、ホームチームのラッキーセブンにかぎりやっていいことになっている。そしてね、シーズン終了後、毒舌コンクールで三位まで選ばれるんだ。ま、優勝はたいてい下位のチームのやつだな」
「ははあ、強いチームにファイトを燃やすと傑作が生まれるというわけだな?」
「そう、去年の優勝はね、東京ジャイアンツのアナウンスだった。相手は仙台ダンディーズ。“カモがネギとササニシキを背負ってきました。これからジャイアンツがおいしい料理法をグラウンドで披露します”ってやつだ」
「ハハハ、高品質のササニシキを持ち出して逆手に取ったというわけか。そういうコンクールがあるところをみると、日本の国民性にもゆとりが生まれてきたようだな」
さっき志村が、話はもうおしまいだと言ったのに、野球の話になるとまた続き出した。午前五時はとっくに廻っている。しかし、バーテンダーはいやな顔一つせずに、二人にお茶を出したりしている。
「日本シリーズやオールスターの三つ巴方式はさっき聞いたが、制限時間なしの十八回までの延長戦は、今まで実際にあったのかい」
「あったよ。うちも去年の九月、タイガースと大阪でやった。一対一で遂に引分けだ」
「時間は?」
「ええとね、七時からのナイトゲームで、十時半までかかったかな」
「え? 十八回でたった三時間半か。昔は九回まででもそれぐらいの試合はあったね」
「あったねえ、だらだらと。この試合でおもしろかったのはね、両チームとも先発の九人だけで十八回をやり通したことだ」
「ピッチャーもか」
「そう、うちは片岡。一九八〇年に府中東高からカープにドラフト一位で入った子だ。相手は牛島。浪商から、これも同じ年にドラフト一位で中日に入った子だ。二人ともかつての甲子園の華、ライバル同士の投げ合い。いやあ、気合が入っておもしろかったねえ。二十六、七歳だから力もスタミナも充分だ。しかもね、両方の一点はね、それぞれ一回にね、キャッチャー同士が打ち合ったホームランだ。原と香川さ。二回から両投手ともピタリと押さえた。こうなったら意地だ。おれは野手も一人も替えまいと心に決めた。タイガースの高田監督もそれで来た。お客さんは、試合が長いなんて一人も感じてなかったね。十八回まで、席を立つ人はほとんどいなかった……」
さあ、志村の語り口も野球となると熱を帯びてきた。これではこちらも延長十八回か。グラウンドキーパーのバーテンさんもご苦労なことだ。
「そのときのテレビ中継は?」
と、潟田が聞く。
「ああ、テレビねえ。広島のスポーツ芸能テレビは完全中継したよ。ビジターだから」
「え? 何だ、そのスポーツ芸能とは。それにビジターだからとは」
「あ、そうか。きみはそのあたりのことも知らないんだったな」
というわけで、志村は、潟田のリハビリテーションのための最後の講義に入った。前に志村は、かつてあらゆるテレビやラジオが、これ以上増やせないほど早朝から深夜まで一秒も休みなく番組やCMを流していたということを、潟田と話題にしたが、現在の姿については触れてなかったのである。
かつては、一つの局が忠臣蔵なら他は赤穂浪士、ある局がサスペンスロマンで当てれば他もロマンチックスリラー、こちらが紅白歌合戦ならあちらは歌の東西対抗、こなたシルクロードなら片やユーラシアの謎、Aがニュース・ワイドショウで視聴率を上げれば、Bもワイド・ニュースショウ、Yが今週のお献立てならZは……もうやめよう、きりがない。とにかく、あらゆる局が、ニュース、ドラマ、お勉強、音楽、ゴシップ、スポーツ等々を全部抱え込んで切り刻み、テレビもラジオも朝から夜中まで動いていた。その中ではプロ野球の中継は優遇されているほうだった。たいていは終盤のヤマでプツンと切れ、男どもを中途半端な生理状態で放り出してはいたものの、それでも九十分以上はゴールデンアワーを占拠していてくれたのだから。ところがやがて、野球ファンからは「うちが五対二でリードされた九回裏、二死満塁で四番バッターのカウント・ツースリーというときに画面が変わって、“どうもちかごろ胃が重いとお感じの方へ”と、わけ知り顔の中年男がしゃしゃり出るとは何事だ。そうやっておれたちの胃や神経をまいらせて稼ごうというわけか」などの声があいつぎ、野球中継がきらいな人びとからは「一億総野球白痴化反対、なぜもっと知性と教養に富んだプログラムを作れないのか。たかが野球に夜な夜な二時間近くとは、それでも国民に報道機関の公共的使命を果たしているつもりか」というお叱りの声が大きくなった。そしてこの両者の紙上討論会や各地での大立会演説会が盛んになり、遂には野球中継の時間帯をまるまる立会演説会の中継にあてる局も現われた。そういえば、悪いことにちょうどそのころ国会が総選挙をやらなければならない破目になった。しかし国民の大多数は、選挙のほうの立会演説会に行くどころではなかった。あわれ、このときの総選挙は史上最低の投票率を記録した。
先を急ごう。全テレビ・ラジオ局の、ごっちゃまぜ均質過飽和も、このあたりをピークにして徐々に地方ごとの特色を見せ始めると同時に、二極分解に向かって行ったのである。そしてやはりこの世界でも、状況を変えるきっかけになったのは「たかが野球」だったのだ。十八都市に地元チームが定着し始めると、それまでの巨人中心の中継が意味を失い始め、スポンサーもつかなくなった。十八都市のテレビ・ラジオ局は、当然地元チームの試合を追いかける。こうしてまず、それまで東京や大阪を主なキーステーションとしていた野球中継が、自然の成り行きとして「地方集権」へと移行して行った。
二極分解というのは、各局がそれぞれの特長を出すようになり、やがて、ニュース、教養番組主体の局と、スポーツ芸能番組主体の局に大別されて行ったことを指す。そしてたいていの県では、いくつかのテレビ・ラジオ会社がその役割を分かち合い、時間帯を分かち合うようになった。農山漁村人口が増え、昼間は主婦も野良や浜に出て働く。人口が減った大都会では、主婦の多くは都市労働者の一員になった。一体だれのために、早朝から深夜まで一秒の休みもなく番組を流す必要があるんだ、ばかばかしい、ということになったのである。こうして、ニュース教養局は、早朝に一回、昼前後に一回、夜一回それぞれ約二時間ずつ、スポーツ芸能局は、日曜祭日は一日中だが、ウィークデイは夕刻から夜にかけてになった。そして野球は、ナイトゲームの季節には大体午後七時半以降を全部もらうことになった。しかし、プロ野球チームのある十八都市のテレビ局は、ホームゲームは中継しないことが多い。ラジオ中継だけにする。どうせ見るなら球場まで足を運びましょうというわけだ。そして三回ぐらいまでは、「ただいま内野はおよそ八分、外野は七分ほどの入りです」などと流す。そして、地元チームがビジターとなって他都市で試合をするときには、テレビは最後まで中継して本領を発揮するのである。
「まあ、ざっとこういうわけだ」
と志村は言いながら、うまそうにお茶をすすった。いつのまにか、ほうれん草のおひたしも出ている。
「ありがとう。これで四月からのペナントレースを見るのが楽しみになってきたよ」
「まあせいぜい、ドリンカーズ以外の試合を見て廻ってくれ」
「ああ、十八都市を全部廻ってみるよ。しかし、その前に仕事を探さなきゃいかん。女房におんぶするわけにも行かんしな」
「東京ジャイアンツ運営協議会会長のご主人といえども、今はコネはきかないぞ。ハハハ、まあドリンカーズのゲームはおれが招待するよ」
「やっぱりドリンカーズの強いところを見せたいんだな」
志村は潟田のことばに笑みを洩らしたが、すぐ真面目な顔付きになって言った。
「今年も、強敵は仙台ダンディーズだ」
しばらくして、今度は潟田が思い出したように志村に聞いた。
「ところで北川はどうしてる」
「あの人は相変わらず風みたいだ。例の現代野球風土記を一年に一巻のわりで出すんだそうだ。何でも全国を八つほどの地方に分けたそうで、やっと半分ほど出たところかな。どこにいるのかさっぱりわからないが、ときどき東京や広島にもふらりと姿を現わす。でもここ一年ほど会ってないね」
そして志村は潟田に言った。
「さてと、今度会うときは、おれがきみの“ブランク”を聞かせてもらう番だよ。どうだい、“ブランク”は作品にできそうかい」
「いや、そんなもの書けそうにないよ。何もできなかった罪滅ぼしに、吹田さんの伝記にでも取り組みたくなってきたよ。たとえ何年かかっても」
「うん、それはきみの仕事だな。吹田少年のころから書いてくれよ。近頃は伝記物であまりおもしろいものがない。というより、伝記になるような人物が少ないのかな」
「もしそれをやるとなると、当分はやはり、おれはきみから話を聞く立場だ」
「こいつ」
二人は笑いながら、ウイスキーの最後の一口を飲み干し、それから水を口に持って行った。グラスの中の氷が、コロコロとこころよい音を立てた。
一九八八年、戦後四十四年五月五日、こどもの日。仙台ダンディースタジアムで、仙台ダンディーズ対広島ドリンカーズの今季第三回戦が進んでいる。今は三回の表だ。快晴、微風。仙台ご自慢の開閉ドームはすっかり開け放たれ、涼しいそよ風が、ときどきスタンドやグラウンドを訪れる。
今日もまた、こどもたちのさんざめきが一段と大きい。入場のときに受付でもらった|ちまき《ヽヽヽ》は、みんなもうとっくに食べてしまい、販売員が両肩から籠を下げて近くを通る度に、籠の中味をめざとく物色しては親の顔色をそっとうかがう。親は、ゲームに熱中していてそれどころではないという顔をつくる。そして、こどももすぐゲームに熱中して行く。
野良姿のままの販売員もいる。
「採りたての|いちご《ヽヽヽ》だよ」
「絞りたての牛乳はいかが」
「はい、ほっかほかの|じゃがいも《ヽヽヽヽヽ》。ダンディーズの選手の大好物だ」
ご心配なく。ビールもちゃんと売りにくる。しかし、ご婦人やこども向けの飲物のほとんどは、牛乳か果物ジュースである。ひと昔前にあった「合成着色料添加」とか「○○エキス○%」とかいう飲物は影をひそめている。
野良姿の人は販売のプロではない。一日何人までという制限があり、事前に申し込んで割り当てられた人だけが場内で農作物を販売できる。籠の中味が空っぽになると、あとはのんびり野球見物だ。
潟田が日本に帰ってきて気づいたとおり、ここでもこどもたちはみんな顔色がいい。一般に昔ほどはみんな勉強しなくなったのだが、どの顔もかしこそうでハキハキしている。みんな自分の好きなことに熱中できる。そうするとたいていの子は、ほかのこともよくできるようになったというのだからふしぎだ。たまたま一人の先生が、とうの昔に廃止された例の偏差値を、クラスの全員にひそかにあてはめてみたところ、全員の指数が偏差値全盛時代よりはるかに上がっていたという。これもふしぎなことだが、信頼すべき学校の先生の証言だから信じよう。
近頃の野球の進み方は速い。スタンドの風景にちょっと気を取られている間に早くも四回の表に入るところだ。さあ、グラウンドに注目しよう。
ドリンカーズは、きのうとおとといの二試合いずれもダンディーズに完敗し、今日は必勝を期して、このところ調子のいい厨川をマウンドに送っている。オープン試合で何回か試したとおり、厨川は今日も行けるところまで直球で押して行くつもりだ。シーズン開幕以来六試合に登板。完投四、リリーフ一、リリーフを受けたこと一。成績は四勝一敗、防御率二・〇八。この投球の九割は直球である。それにしても今日の相手は、過去三年、優勝、優勝、二位という強敵だ。厨川の全直球投法がどこまで通用するかと心配されたが、三回までは好調で……あ、今四回表のドリンカーズの攻撃が早くも終わってしまった。両チーム無得点である。
四回の裏、ドリンカーズのナインが守りにつくとき、志村監督が主審に守備位置の交替を告げた。セカンド馬見安穂とセンター帆足航平が入れ替わる。スタンドからは、拍手とひやかしの歓声が入り乱れて航平に飛ぶ。
ドリンカーズは、去年はじめて優勝を果たしたものの、二位ダンディーズとの差は一ゲーム半の辛勝だった。追い込まれながらも鼻の差で逃げ切ってのゴールインである。ここ三、四年、竹リーグのペナント争いはダンディーズとドリンカーズ、松リーグは札幌ベアーズと博多ドンタクス、梅リーグは千葉フィッシャーメンと熊本モッコスというところがたいてい顔を出している。中でも札幌と仙台がやたらと強く、北海道・東北時代を現出しているのだ。
四回の裏、ダンディーズのこの回のトップ、四番の武藤一邦が、厨川のホップしすぎの球に手を出さず四球で出た。武藤は、秋田商業、法政大学を経て、一九八一年にロッテに入り、八三年にダンディーズに加わった選手である。
左打席に五番の安部理が入る。これは東北高校から西武ライオンズに入り、武藤と同じく二年後にダンディーズに入った。シュアなバッターで、今日の初打席では厨川の快速球を見事に引っ張り、ライト前に快打している。(ここいらで、ちょっと変えてみる必要があるな)、と原捕手は思った。厨川の投球をである。しかし原の考えがまとまらないうちに、厨川は原のミットめがけてビュンビュン投げ込んでくる。そして、ファウル、ボール、ファウルで安部を二―一まで追い込んだ。(片づけちゃえ)と厨川は思って、一応キャッチャーのサインを見たところが驚いた。何とまったく久し振りにカーブのサインではないか。そして外角にはっきり外せとある。もちろん厨川といえども、いつでもカーブを投げられる練習は怠っていない。しかし、できるということと、したいということとは別だ。厨川は首を横に振った。原からは同じサインが出た。これ以上先輩に逆らうのはやめておかねばあとがこわい。厨川は原の注文どおり、外角にカーブを外した。(さて、いよいよ快速球のウィニングショットだ。前にやられた内角に高さを変えて行くか。バッターもカーブが外へはずれたあとだからそう読んでいよう。ならばご注文どおりと行こう。ただし特上のやつをね)、厨川はそれを一瞬のうちに考え、ボールを楽しそうにさすり、次のサインをのぞいた。驚いたことに「今のカーブを、少し外にはずせ」ときた。(いったい原さんは何を考えてるんだ。どうしてそんなぶざまなやり方で、わざわざ二―三にしようというんだ)、厨川はしかし、原の指示どおり、絶妙のコントロールで、さっきよりもう少しはっきりボールになるカーブを投げた。二―三だ。(外のカーブ二つでバッターの眼を遠くにやっておいて、内角速球で仕留めようというわけか。それにしても廻り道をさせられたもんだ)、厨川はもうサインは見るふりだけにするつもりだった。そして身をかがんで見せたとき、厨川はわが眼を疑った。(肩口から真ん中に入るストライクのカーブ)である。(原さん、いいかげんしてよ)、厨川は腹立たしくなった。(打順がふた廻り目だからといっても、おれのストレートはますます伸びてきたじゃないか。原さん、おれのストレートを信用しなくなったのか。こんなところでおれをカーブ投手に仕立て直そうというのか。それに、カーブに眼が合ってきた安部だ。きれいに左中間に持って行くぞ)、厨川は一塁ランナーの武藤を見やりながら、また一瞬そんなことを頭に浮かべたが、やがて、ままよとばかりカーブのストライクをスピードを殺して投げ込んだ。安部にしては珍しく体を泳がせてバットを出した。空振り、三振。原は打ち合わせをする恰好でマウンドに歩み寄る。
「最後はインコース真っすぐのサインが出ると思ったろ」
「もちろんです」
「バッターもそう思ったはずだ。何しろ真っすぐだけできたピッチャーが突然カーブを投げて、しかも二つとも外れるんじゃ、二―三からまたカーブとはだれも思わんよ。しかしもうやめた。当分はストレートで行こう」
六番の立沢実が右打席に入る。入団三年目。足腰のバネが抜群で、三遊間を抜く打球の速さで有名だ。普通の監督なら、一死ランナー一塁だし、おまけに何を思ったかテキの監督はセカンドに左利きをもってきたから、右狙いを指示するだろう。ヒット・エンド・ランをからませてもいい。
しかしダンディーズの監督は立沢にそんな指示はしない。好きな三遊間を思い切り狙うがいい。うまく行けば伸びてフェンスまで行く。悪く行けばもちろんダブルプレーだ。しかし立沢は厨川のようなピッチャーが好きだし、三遊間を計ったように抜くだろう。下手に右など狙わなくていい。
そしてドリンカーズのバッテリーも、三遊間方向に打たせるのを狙った。立沢の打球は、はたしてみんなの思ったとおり三遊間へ飛んだ。しかし厨川の直球には、久し振りに三つもカーブを投げたあとだけに渾身の力がこもっていたので、立沢の打球はいつもよりほんの少しショート寄りを、それでも鋭く地を這って抜けようとした。さて、ドリンカーズのショート永田利則も勘のいい名手である。全身を水平に投げ出して逆シングルで打球を止めた。しかしさすがの名手も急には体を起こせない。(ゲッツーは無理だ。さあ、永田はどっちに投げるか。まあ止めただけでもいいプレーを見せてもらったよ)と、両チームのベンチもスタンドの観客もそう思った。ところが永田は、寝たままの姿勢でセカンドベースめがけて球を投げた。しかし、無理な姿勢から投げたので、永田の右手を発した球はセカンドベースの左に大きくそれかけた。すでにベースに達しようとしている武藤は、球がそれればサードまで行ける。
そのとき、左足をセンドベースに着けた航平の右手が伸びきり、ギリギリのところで永田の投げた球をとらえた。その瞬間、航平の全身はその右手のほう、ホームベース側から見ればセカンドベースの左のほうに傾き、右足を軸に時計廻りにクルリと半回転した。そのときすでに、ボールは航平の左手を離れて一塁赤月のミットをめがけていた。赤月の長身がこれまた二塁方向に伸び切って航平からの低い投球をとらえ、間一髪ダブルプレー。航平は、ボールを一塁に投げたときの体の向き、つまりホームベースに背を向けて外野のほうを向いたまましばらく突っ立って、センター馬見と顔を見合わせていた。
満場が、この一瞬の“半回転併殺プレー”にうっとりし、次にスタンドは、地元ダンディーズのチャンスがもぎ取られたことをくやしがり、次に、しかし惜しみない拍手を相手の帆足航平と永田利則に送ったのであった。
もっとも左利き二塁手航平にとって、こんなおあつらえ向きの場面ばかりがあったわけではない。馬見なら軽くさばけていそうな一・二塁間のゴロを逆シングルではじくこと二回、ピックオフプレーで厨川からの鋭い牽制球をうしろにそらし、センター馬見の素早いカバーでことなきを得たこと一回。しかしこういうときは、いいプレーだけを詳しく書くものである。
さて、いくらダンディーズの得点を阻んでも、ドリンカーズもまたホームを踏めない。おとといは、その昔阪急で玉三郎といわれたハンサム・ボーイ三浦広之投手(といっても今やすでに二十九歳の円熟期、福島商高出)に手もなくひねられ、きのうは中条善伸投手(東北高校出、一九八一年巨人に入団後八三年仙台へ。今年二十六歳)を打てず、今日は大山大五郎に歯が立たない。大山は入団四年目、プロはもちろん野球そのものの経験も浅いのだが、下半身がずっしりしていて、厨川のを快速球とすれば、大山のは剛直球とでもいいたい球が決まる。家が貧しかったので、小さいときからいろんなことをして働いてきたらしい。農作業、林業会社のアルバイト、和船の櫓漕ぎなど。そして石巻の漁業会社に入って漁船に乗って働いていたとき、草野球で彼の並外れた肩を知っていた友人が、ダンディーズのテストを受けてみろとそそのがし、試しに受けてみたら合格したのである。それから一年間みっちり仕込まれ、投手でも捕手でもできるようになったというのだからおそろしい。おまけに、まれにピンチヒッターに立つとホームラン以外は打てないそうだから、なおおそろしい。
大山のような入り方をする新人が、ベアーズやダンディーズには増えている。つまり、スカウトの眼にはなかなか入りにくいが、友人のすすめなどで自分のほうからやってくるのだ。スカウトが頭を下げてやってくるのを待っているアマチュア球界のエリートよりも、こういうぐあいにのっそりと現われるタイプに将来楽しみな新人が多いというのが、最近のダンディーズの幹部の感想である。
ともかく、この大山がなかなか打たせてくれない。厨川も、原がカーブを三つ投げさせてからはふたたび快速球が冴え、剛直球と快速球が相譲らぬまま延長戦に入った。そして延長十回裏、武藤が厨川の二球目を高々とレフトスタンドに運び、一対○でダンディーズのさよなら勝ちとなった。各打者への厨川の第一球は終始威力を保った。そしてウィニングショットも冴えていた。しかし厨川の球を受ける原は、終盤に入ってから、二つめのストライクを取る球がほんの少し伸びを欠き始めたと感じていた。そしてその二球目を、延長に入った直後に、武藤にあっけなくやられてしまったのだった。これで、ペナントレース序盤の竹リーグ二強の三連戦は、四対二、三対一、一対○で、ドリンカーズはダンディーズに尻すぼみの三タテを喰ってしまった。
一九八八年のペナントレースは、まだ始まったばかりとはいうものの、ドリンカーズは仙台に来て痛い星をたて続けに落とした。今年も北海道・東北勢と最西南端の熊本モッコスが強そうだ。その他の西南勢の広島ドリンカーズ、高松パイレーツ、博多ドンタクスなどは、リーグを超えて束になってかからねば、南北両端の三強には勝てないかも知れない。
志村は思った。(万事に慎重な今のコミッショナーも、来年あたりはいよいよ次点都市にチームをつくり、リーグ再編成に着手せざるを得まい。秋田、富山、甲府、松江、松山だったな。それに北九州あたりが加わるか。そうすると、東北、中国、四国、九州などの今のチーム力が一旦分散して低下してしまう。六年前の作業のように、隣同士で仲良く譲り合えるかどうか。しかしやらねばなるまい。そういうときには、また吹田さんのような人物が必要になる。
せっかく作り上げたチームが縮小する。育てた選手が他に移る。しかし、それでいいんだ。チームが増える。力が落ちる。それを新しく若い力が埋めて行く。ベアーズやダンディーズはそうして強くなった。おらがくにのチームが増えれば、それだけプロ野球を身近で楽しめる人が増える)
いつのまにか、志村のすぐ横に鳥村ヘッド・コーチが立っていた。おたがいに気がねのない間柄でも、こうも負け続けたあとでは最初の一言を言い出すのがどうもぎこちない。
「ヒット四本か。打てないなあ。今日は航平もトシ坊も出塁してないんだね」
「ええ、大山は去年より一段と手ごわいですよ」
「うむ、ああいうタイプはまだまだ出て来そうだよ」
それ以上あまり話は進まず、二人はさしあたってのスケジュールだけ確認し合った。そして志村が、
「さあ、帰ったらパイレーツ戦だぞ。みんな、海賊さんから取り返そうぜ」
と言ってベンチから出ようとしたとき、潟田六郎太がどこからか現われた。そして笑いながら言った。
「いやあ、惜しかったねえ。しかし実におもしろかった。両投手の胸のすく投げ合い。それに帆足と永田の超ファインプレー。まあ、武藤の一発は残念だったけどね。でもいい試合だった。おもしろかった」
志村はむっつりと答えた。
「あんまり、おもしろい、おもしろいといわないでくれよ。おもしろくない。きみが話している相手はね、三タテを喰ったチームの監督なんだよ。そしてここはね、そのみじめなチームのベンチなんだよ」
潟田が、負けたチームのベンチを景気づけに来てくれたのは嬉しかったが、ここは選手たちの手前、にやにやしているわけには行かない。潟田はその呼吸を察したのかどうか、相変わらず笑った顔のまま言った。
「いや、残念だったと言ってるんだよ。でもいい試合だったと言ってるんだよ」
「いいか潟田、おれたち、やってる連中の世界にはね、負けたけどいい試合だったなんてものは存在しないんだよ」
「ああ、そうか」
潟田は、ポケットからスポーツマンシップ・ストロングの箱を取り出して、志村に一本すすめた。志村はむっつりしたまま、その一本を引き抜いた。
やがて二人の影は、薄暗い通路の奥に吸い込まれて行った。
[#地付き]〈了〉

あ と が き
こどものときから三十四、五歳まで、私は転居する先々でどこかの草野球チームにいた。それがいつかそういう状態からはずれていき、今では、まれにキャッチボールで汗を流す以外は、もっぱら見るほうに廻っている。
草野球では転居の度に移籍したわけだが、私はたいていセンターで、打順はトップか二番というあたりだった。お話にならないほど弱いチームに移ったときは、小柄なくせにピッチャーで三、四番を打ったこともある。さて、あるチームにいたとき、プレーイングマネジャー格の男が、試合の途中で私を急にセンターからセカンドに廻した。「どうもテキの打球はセカンドゴロが多い。おまえはゴロをとるのがうまいから」というのだ。それで、私はゴロをいくつかとり、腰と軸足を一塁方向にねじって球を投げた。私はぎっちょなのだ。
この物語を考え始めたとき、プロ野球の革新を通して、近い将来の社会の想像図を描いてみようというような意図が先行していたわけではない。最初は、草野球時代の私の分身にプロ野球でやらせてみたいという単純な欲望があった。ところが、たとえ空想にしても、今のプロ野球では入り込む余地がない。無理にもぐり込んだとしても窮屈な感じだ。それなら、時代を何年か先に持っていこう。そのほうが自在な発想ができる。そのためには……というぐあいに、この物語は私の小さな欲望と好奇心が連なってひろがっていったものである。そして書き終えてみたら、非科学的、楽天的、近未来野球及社会譚とでもいうものになっていた。
さて、この物語が一九八二年九月下旬にさしかかる「季節風、東京に舞う」の章からあとを、一九八二年九月下旬以降にお読みになった方は、この世の中の事象に照らして明らかに虚構の物語につきあってくださったわけである(このあとがきを書いている今は、その九月下旬以前なのに、過去形で書いているという時制の矛盾は、|あとがき《ヽヽヽヽ》の性質上避けられない)。実際、この物語に出てくるような季節風が東京に舞ってなどいないし、あと数カ月で保守堅持党や近未来革命党が生まれる兆しはないし、多分来年になっても年号は「戦後」などとはなっていないだろうし、セ・パ両リーグ十二球団は今の体制のまま健在であろう。
この、不動の現実の前に、たちまち明らかな虚構としてさらされることを避けるためには、筆者が、この物語における一九八二年九月という時期を、思いきって何年か先にずらしておけばよかったのだ。そうすれば、その何年かだけ時をかせぐことができる。しかし、筆者にとっての未来とは、現在に限りなく近い未来、ほとんど現在、を措いてはない。一九八二年九月下旬という時がやってきても、それは、私にとっては現在であるとともに未来なのである。だから、現実の日付けが進む中で日一日と明るみに出ていくこの物語の虚構は、現実に対する筆者の屈服を表わすものではなく、現実の日付けの中で依然として同時に進行している「未来」の実像なのである。
文藝春秋のみなさんにはいろいろお世話になった。特に、別冊文藝春秋の阿部達児編集長と鈴木文彦さんには、たびたび貴重な助言と励ましをいただいた。この出版社にも、私に劣らず、野球と聞くと眼の色を変える男子諸君が多いようだ。そのうちに私は、このグループのチームに補欠で入れてもらおうかと思っている。
一九八二年五月
[#地付き]赤瀬川 隼

文庫版のためのあとがき
あとがきを書くのは大好きだ。まえがきを書かなければならない場合は、野球でいえば試合まえのキャッチボールという感じで、つい肩に力が入り、お行儀よくなり、何やら儀式めいた気持になる。これに対してあとがきは、一試合終えたあとの肩ならしの軽いキャッチボールだ。試合に勝ったか負けたかはどうでもよくなって、長丁場のあとの解放感にあふれ、ビールのジョッキを傾ける至上のひとときはそこまで迫っており、鼻唄の一つも出ようというものだ。
この作品が文庫版になったおかげで、その大好きなあとがきが二度書けるのは嬉しい。
この小説が世に出てから二年と数か月が経った。本当は今頃は、日本のプロ野球は三リーグ十八球団になって全国に散り、二年目のペナント・レースのさなかのはずである。しかし現実にはどうもそうはなっていないようだ。現実が本当の現実として振舞ってくれていない、つまり現実が嘘をつき続けているということは、この本の作者としては大変遺憾なことであり、かつ困ったことである。ともすれば作者のほうが嘘っ八を書いたように読者のみなさんに受け取られかねない。信用問題である。私はちかぢか、現実を相手どって訴訟を起こすつもりである。
さて、私は終章で、一九八三年五月五日に行なわれた、プロ野球新機構による開幕試合直前の、全国九球場の模様をお伝えしたが、それから一年余を経た今、そこに登場していた人びとで、亡くなった人と現役を引退した人がいる。
まず、あのとき高松海賊基地のネット裏で、高松パイレーツと広島ドリンカーズの試合を見守っていた三原脩氏が、今はすでに亡い。あらためて御冥福を祈る。
次にこの一年に現役を引退した人は、長野アルプスの堀内(元巨人)、広島ドリンカーズの三村(元広島)、高松パイレーツの島谷(元阪急)、同じく高井(元阪急)、同じく中塚(元大洋)、名古屋グランパスの木俣(元中日)、神戸マリナーズの小林(元阪神)、岡山モモタローズの星野(元中日)、同じく大杉(元ヤクルト)などである。
まことに、光陰矢の如し。
今年に入って私は、嘘つきの現実に妥協しながら、後楽園球場や横浜スタジアムに何度か足を運んだ。下田コミッショナーが応援倫理三則を訴えたことによって、去年までは一回表から九回裏まで耳をつんざき続けていたカネ、太鼓、ラッパ、それに乗った大合唱が減り、「野球は見に行きたいが、あの大騒音に二時間も三時間も包囲されていると気が狂いそうなので」という億劫さも減った。ところが、今度はいくぶん静かになってみると、あの画一的応援時代以前にはスタンドのあちこちから個人個人が自由に飛ばしていた軽妙|洒脱《しやだつ》な野次が、めっきり減っている。大音響大合唱時代が何年も続く間に、野次の精神がいつのまにか萎え衰えていたのだろうか。残念だし淋しいことである。しかし、きっと今にまた復活するだろう。個人で自由に大胆にものが言えなくなったらおしまいだ。野球場のスタンドは、世の中の気質の反映だから。
この小説は私の処女作である。それが幸運にも吉川英治文学新人賞の栄に浴したおかげで、選考委員の井上ひさし、尾崎秀樹、佐野洋、野坂昭如、半村良の諸氏から、それぞれ含蓄と示唆に富んだ短評をいただくことができ、作者としておおいに勉強になった。
その後、野球を題材にした短・中篇もいくつか書いたが、野球にまったく関係のないものもかなり書いた。私は自分では、傾向やジャンルにこだわらないことにしている。野球にまつわる題材は、私が楽しく書けるものの一つなので、これからもできるだけ書いていきたい。御愛読を乞う。
一九八四年六月
[#地付き]赤瀬川 隼
単行本
昭和五十七年七月文藝春秋刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
球は転々宇宙間
二〇〇一年三月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 赤瀬川隼
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
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郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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(C) Shun Akasegawa 2001
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