千代の富士一代
〈底 本〉文春文庫 平成三年九月十日刊
(C) Daizou ishii 2000
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目  次
第一章  嵐
第二章  アズキ三袋
第三章  “プリンス”のまばゆさ
第四章  |雑  魚《ざこ》
第五章  相撲取りの高校生
第六章  天 真 爛 漫
第七章  脱  臼
第八章  井 筒 部 屋
第九章  泥  沼
第十章  牛若丸とガラス細工
第十一章 新 生 |九 重《ここのえ》
第十二章 筋 肉 の |鎧《よろい》
第十三章 相 撲 開 眼
第十四章 貴ノ花の土産物
第十五章 ウルフの涙
第十六章 一 家 の 主
第十七章 九 重 |魔 術《マジツク》
第十八章 双葉山に迫る
第十九章 九 重 三 代
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千代の富士一代

第一章 嵐
――どうだ、顔色がさえんが……。胸の病は、いまはこうやって入院し、養生さえすればなおる。それとも、なにか心配事でもあるのか。
「はい、私はもう駄目です。このまま生きても、|野垂《のた》れ死にになります。ガックリきました」
――なにがあった、いってみろ。
「実は、きのう藤島から、ちょっとお耳にいれるとことわって話がありました」
――藤島か。|出羽湊《でわみなと》だな。おまえの舎弟だ。
「はい。ご存知のように、いま出羽海部屋が鉄筋四階建てのビルに改築中です。あれは終戦後の二十四年、先々代の|梶之助《かじのすけ》出羽海さんのときに出羽海会が建て、出羽海会の所有でした。それがいまの武蔵川さんの出羽海になって、武蔵川さんは所有権をそっくり出羽海会から買いあげた。それで、いまああやっていよいよビルの改築にのりだしたんです」
――部屋が新しくなる。いいことじゃないか。めでたい話だ。
「改築中の出羽海ビルの所有権名義が佐田の山、つまり武蔵川さんの娘婿―市川晋松になっているというんです」
――なにッ。どういうことだ、それは……。
「私がはいる余地はもう完全になくなりました。武蔵川さんのつぎに出羽海親方の座にすわれると思っていた夢が完全に閉ざされました。ビルの名義が娘婿―佐田の山になったということは、つぎの出羽海は佐田の山にきまったということです」
――馬鹿な。そんな馬鹿なことがあるかッ。
「いえ、それが事実なんですから仕方ありません」
――遺書があるじゃないか。亡くなった先代常ノ花出羽海親父の「出羽海は千代の山に譲る」という遺書をもちだせ。
「あれは、燃やしてしまいました」
――なにッ。
「先代が割腹自殺をはかったとき、大番頭の秀ノ山親方に封筒をみせられ、なかを読むかときかれました。だけど私には、なかはわかってます。秀ノ山さんに“わかってるね、おまえがあとを継いで部屋を立派に隆盛させることだよ”といわれ、そのとき親方は入院して、もう健康回復の見通しがついていました。だから“結構です、燃やしてください”と頼みました」
――馬鹿な。まるで子供だ。おまえのやることなすこと馬鹿ッ正直というか、まるで子供だ。あきれて、物もいえん。
「家内にも、そうおこられます。人を疑うことができない……と」
――あたりまえだ。光恵はわしに似て気性の激しいしっかり者だ。だからおまえの嫁にくれてやった。
「療養する張りもなくなりました」
――出羽を出ろ。出て部屋をもて。わしが金の面倒は全部みてやる。
「できません。“分家許さず”の|掟《おきて》があります。そのうえ武蔵川親方が出羽海を襲名したとき、私は率先して“親方をもりたてていきます”と、誓いました。いま出羽を出れば、その忠誠の言葉を自分で破ることになります」
――だからおまえは子供だというんだ。わしが許さん。横綱まで張り、優勝六回もした天下の千代の山が、なぜ|九重《ここのえ》親方として出羽海部屋で去勢された犬みたいに飼い殺しにあわにゃならんのだ。出羽を出ろ。それもおまえの息のかかった力士から年寄、みんなぞろぞろ連れて出てやれ。くそッ、こうなったら、わしも意地だ。
「|謀叛《むほん》です。大謀叛です」
――結構じゃないか。謀叛おおいに結構だ。ようしッ、徹底的にやれ。親方のおまえ一人が出羽を出るのでは、謀叛の意味がない。連れて出る力士の大目玉が北の富士だ。大関を連れて出んと、独立の意味がないぞ。
「ついてくるでしょうか」
――それは、おまえの説得ひとつ。わしはわしの顔で、おまえが独立できるよう外堀を埋めてやる。料亭、警察、検察界、財界あらゆる方面を埋めてやる。いいか、名門の掟を破り、おまえが一国一城の|主《あるじ》になる。男が男をたてる。|肚《はら》をくくってかかれ。裏切り者、恩知らず、|卑怯者《ひきようもの》、横領犯、恥さらし……ありとあらゆる|罵声《ばせい》をあびるぞ。極悪人のレッテルを|貼《は》られるぞ。しかし、そんなものは|屁《へ》とも思うな。どうだ……やるかッ。
「はい、やります」
――よし、それできまった。事は極秘に、敵に絶対にかぎつかれんようにはこべよ。
「わかりました」
――味方だと思う人間が、いつ寝返るかわからん。情報を敵にながすかわからん。くれぐれも用心せいよ。必要な金はいつでもいってこい。
「ありがとうございます」
――待て、まだある。すまんがな、千代。光恵の奴には、最後の最後まで内緒にしてやってくれ。いくらわしに似たといっても、あれは女だ。というより、光恵は柳橋のおまえの料亭「花月」を経営している。「花月」には、いろんな客がくる。そのうえ北の富士の末弟が、ほれ、なんといった、あの、六つ年下の弟は……。
「|恵《さとし》です」
――そうだ、兄貴に似たいい|気風《きつぷ》の若い衆だ。あれが板前見習いではいっとるじゃないか。光恵と恵の二人だけは、女房と兄弟なんだからツンボ桟敷におけ。「花月」はおまえの城であるがために煙幕をはれ。何事もないように振舞え。それが肝心だぞ。以上だ。朗報をまっている。
「はい、それではお体を大切に」
――わしは、なかなかくたばらん。おまえのその胸の病、そいつを早くかたづけろ。
「よくわかりました。療養に専念します」
昭和四十一年暮れ。九重親方は病|癒《い》えて、東京・中野の|立正佼成会《りつしようこうせいかい》附属病院から退院してくるや、ひそかに独立工作に着手した。
「年寄の分家許さず」
大正十一年六月十九日、五代目出羽海谷右衛門が急逝した。明治の世に「梅常陸」黄金時代を築き、「相撲中興の祖」と|謳《うた》われ、寛政時代(一七八九〜一八〇〇年)にはじまる名門の小部屋にすぎなかった出羽海を、|常陸《ひたち》|山《やま》の現役時代から相撲界一の名門大部屋につくりあげた。その死後、常陸山の遺産―出羽海部屋を未来|永劫《えいごう》まで残すため、「常陸山会」の総意のもと、六代目を継いだ新出羽海親方(元小結、四代目両国梶之助)の代になって、その掟がつくられた。出羽海部屋の年寄全員が一致団結して部屋の隆盛をはかっていくための掟であった。
しかし昭和になり、禁を犯すものが出た。
|武隈《たけくま》親方(元関脇、五代目両国梶之助)だった。
「武蔵山を連れて独立したい」
武蔵山は、時の横綱である。武隈親方にスカウトされて、出羽海部屋に入門し、横綱にまで大成した。これに対して、梶之助の出羽海親方は、自分の四股名まで与えた愛弟子の武隈親方を破門。武蔵山の同行はむろん許されず、子飼いの内弟子だけが武隈について出た。武隈親方は、その後、立浪一門に拾われた。昭和十三年のことであった。
昭和二十四年一月十一日、梶之助の出羽海親方が七十四歳で天寿を全うした。そのときまた独立の構えをみせる親方が出た。
待乳山親方(元関脇、六代目両国梶之助)である。
「千代の山、出羽錦、|大晃《おおひかり》ら自分の子飼い弟子を連れて独立したい」
そして七代目出羽海後継者争いで藤島親方(元横綱常ノ花)に敗れるや、待乳山は詫び、その代償として終身、勝負検査役をつとめた。その後、千賀ノ浦親方(元関脇綾昇)、山響親方(元関脇|信夫山《しのぶやま》)と、二人が分家独立の動きをみせたが許されず、それぞれ角界廃業に追い込まれた。以来、出羽海部屋の年寄は、今日まで一人として独立を考える者はいなかった。年寄は総帥出羽海を含め十六人にのぼった。
三十五年十一月二十八日未明、常ノ花の出羽海親方が急逝した。九州場所千秋楽の翌朝、二日市温泉でのことだった。新聞発表では死因は「急性|胃潰瘍《いかいよう》と発表されたが、実はフグ中毒だった。前夜、福岡市東公園、日蓮護持会の出羽海部屋宿舎での千秋楽祝いの席上、あるお客から「千代の山の九重親方に差しあげてくれ」と、|丼《どんぶり》いっぱいに煮たフグの|肝《きも》の差し入れがあった。付人が、それを大皿に盛り「差し入れです」と九重親方にいうと、「もったいない。親方にどうぞ」と遠慮した。出羽海親方は、血圧の高いのも忘れ、酒を浴びるように飲みながら、そのフグの肝を一人で平らげてしまった。そのあと大阪「花月」の常連で、高級輸入時計販売業、東邦時計の河合周三社長、九重親方、出羽海親方の三人が車に乗り、二日市温泉に向かった。その夜中、出羽海親方は吐血し、容態が急変、駆けつけた医師の手当ても効なく急死した。死因はフグ中毒。千秋楽の十一月二十七日真夜中から二十八日未明にかけての出来事だった。
翌二十八日、遺体が出羽海部屋宿舎に帰ってから、立ち合い医師の口から「急性胃潰瘍」と発表された。司法解剖にまわされることなく、フグ中毒死は秘められたのだった。
その三年前の三十二年五月四日、「大相撲、国会喚問」の騒動のなか、協会取締役室で割腹自殺(未遂)をはかり、協会理事長の座を時津風親方(元横綱双葉山)に明け渡し、協会相談役という隠居の身であった。
一カ月後の十二月二十日、新出羽海親方が決定した。最後に武蔵川親方対九重親方の争いとなり、結局話し合いで、
――武蔵川、八代目出羽海襲名。
時に武蔵川親方は時津風理事長を補佐する協会取締である。頭脳明晰にして緻密。「相撲界は|潰《つぶ》れるといわれた終戦直後の荒廃のなかから相撲の屋台骨を再建してきた「復活の立て役者」であった。力士出羽ノ花としては前頭筆頭でおわったものの、いま時津風理事長のもと「蔵前の陰の天皇」と|囁《ささや》かれている。
一方、九重親方。一年前の三十四年一月限りで、横綱千代の山を引退したばかり。いま華開く「栃若」黄金時代の“夜明け”まで大相撲を支えた大功労者とはいえ、年寄としての力は武蔵川親方の敵ではない。
新出羽海親方は、襲名の席上、こう宣言した。
「“分家許さず”の掟は、時代の変遷でいつまでも守れるものではない。いまがいい機会だ。協会定款には“年寄は弟子を養成する義務がある”とうたってある。弟子をもち独立を望む者は、申し出てもらいたい。喜んで認める」
すると青年九重親方が、まず両手をつき、いった。
「親方。私は、その意志は毛頭ありません。出羽海は親方にやってもらい、私は親方をもりたててまいります」
「そうか」と、出羽海はいった、「……ほかに、分家独立を望む者はないか」
だれ一人としてなかった。
こうして武蔵川改め八代目出羽海による新時代が幕をきっておとされた。
このとき(三十五年九州場所)出羽海部屋が抱える幕内関取は、張出小結小城ノ花、前頭筆頭大晃、出羽錦、福田山、常錦の計五人である。佐田の山は、まだ十両だった。あけて三十六年初場所、二十二歳の若さで入幕してくる。
(武蔵川さんのつぎの出羽海は、おれ)
九重親方が、生来のお人よしからそう一人合点し、忠誠を誓ったのも無理はなかった。
しかし――、番付は生き物であった。
入幕後の佐田の山は快進撃をつづけ、入幕三場所目の三十六年夏場所、十二勝三敗で初の平幕優勝。秋場所、早くも関脇にのぼり、翌三十七年春、関脇で十三勝二敗の同点で、横綱大鵬と優勝決定戦を戦い、二回目の優勝。場所後、大関に昇進。そしてその年十一月、大関佐田の山と出羽海取締の長女・恵津子さんとの婚約が成立した。
三十八年四月、結婚にゴールインし、佐田の山の佐々田晋松は、出羽海親方の市川家へ婿入りし、市川晋松となったのである。佐田の山、二十五歳。千代の山の九重親方が「次代の出羽海は自分」と一人合点した夢が飛び散ったのは、このときであった。
その後、四十年初場所、佐田の山は東大関で三回目の優勝をとげ、第五十代横綱となる。
――いては困る存在。
“夜明け”前の大相撲を支えた横綱千代の山であったがゆえに、九重親方は、いまや出羽海部屋にとって大きなお荷物になっている。なぜなら出羽海(年寄十六人)、春日野(同八人)、三保ケ関(同二人)の三部屋からなる出羽海一門あわせて年寄総数二十六票。このなかから協会幹部に「理事」として送りだせるのは、理事一人に十票の票数からみて二人しかいない。出羽海、春日野(元横綱栃錦)の二人が限度である。
九重親方は、引退翌年の三十五年三月、勝負検査役に就任した。ところが、その年五月、横綱栃錦が引退し春日野親方を襲名。一年間の勝負検査役を経て、三十七年一月、春日野親方が理事に選ばれ、九重親方は監事にまわされた。監事とは、原則として理事と同格ながら、理事会に出席しても発言権はない。そのときから九重親方は、出羽海一門の年寄界にあって、すでにエリートコースから転げ落ちていたのであった。
四十一年秋、新しいニュースが飛びこんできた。
――出羽海ビルの名義が市川晋松。
九重親方はもはや完全に「次代出羽海」の夢を断ちきられたのである。
「裏切り者」
そのレッテルを覚悟で、掟を破り、出羽海に叛旗をひるがえすほかなかった。自分から出羽海親方に「忠誠」を誓っただけに、いまさら前言を取り消し、分家独立を願い出ることはできない。「千代の山」の誇りが許さない。
「破門」
その処分は覚悟のうえで隠密裡に独立工作に乗りだしたのである。岳父(妻の父)伊藤作之進が、出羽海からの独立という一大謀叛の陰の大スポンサーとなってくれる。
――料亭「花月」。
大阪市南区久左衛門町に本拠をもつ大阪一の大料亭である。戦時中、千日前で料理屋「淡海」を経営し、終戦後すぐ「花月」を開店した。以来、連夜のように、住友系各社を中心とする関西財界、警察・検察界のお歴々の車が並び、文字通り門前市をなす隆盛ぶりをみせてきた。
伊藤作之進は、明治四十二年四月生まれ。
戦前から大の相撲好きで、常ノ花の先代出羽海親方とは藤島親方時代から肝胆あい照らし、「花月」には出羽海といわず二所ノ関までの相撲取りが、まるで自宅のように寝泊まりした。なかでも戦後になって、伊藤作之進がもっとも熱をあげ|贔屓《ひいき》にした関取が、力道山――。
戦後、新進気鋭の幕内関取として|颯爽《さつそう》と登場してきた二所ノ関部屋の荒武者である。その力道山が、相撲界でもった唯一の親友が出羽海部屋の千代の山であった。力道山が二所ノ関部屋で多くの先輩関取衆をもつ若手関取として孤独なら、千代の山もスピード出世で若くして横綱にのぼりつめた男として、出羽海部屋で孤独だった。やがて、伊藤作之進も加わり、三人で義兄弟の盃をかわした。そのはてに力道山の口添えで、
二十七年九月十二日――。
横綱千代の山、伊藤作之進長女の光恵が結婚した。大正十五年六月生まれの千代の山二十六歳。昭和八年一月一日生まれの光恵十九歳。その後は東京・柳橋に可愛い娘婿、千代の山のために地下一階、地上四階の料亭「花月」のビルを建ててやり、惜し気もなく金をつぎこんできた。そのうえ三十年初場所には、光恵の弟、十九歳の長男|昌調《まさなり》を「精神修行だ」といって、出羽海部屋から初土俵を踏ませた。浪花海と名乗って序二段三枚目まで昇進した三十二年秋、こんどは「家業を手伝え」といって、いやがる本人を常ノ花の出羽海親方に口説いてもらってやめさせた。
いま伊藤作之進は、大阪春場所の協会木戸御免。そして相撲狂の集まりである大阪東西会副会長(会長は中村広三氏)。春場所中の伊藤作之進の席は、正面審判長の横であった。向正面にすわる中村会長は常にテレビの画面に写り、正面席の伊藤作之進はテレビでは常に陰の存在である。
独立工作は、潜行して着々とすすんだ。
「どうだ、これは絶対極秘の話だ。実は、九重さんが出羽海からの独立を決意した。よくよく思い悩んでの決意だ。おまえ、九重さんに、ついていってやってくれんか」
北の富士は、ある後援者からそう打診された。
「考えさせてほしい」
「もちろんだ」後援者はいった、「……とことんまで考えてくれ。おまえは大関だ。大関は協会の、天下の財産だ。軽挙妄動は許されない。しかし、これだけはいっておく。その大関のおまえが一緒について出てくれるかどうかが、この独立が成功するか否かの極め手になる。角界民主化の起爆剤となるか否かの極め手になる。九重さんを男にしてやってほしい。よく考えてくれ」
雷が目の前に落ちた――そんな思いだった。その雷に「どうだ、おまえは天国に行くか、地獄に行くか」と剣を頭上にかざされたような思いで、身が震えた。
(おい、チャランポランさんよ、こりゃ大変だぞ)
ひとり|呟《つぶや》いた。
「坊や、大きいな」と中学一年のとき、横綱千代の山に頭をなでられたことが相撲界入りに結びついた。千代の山がいなければ、今日のおれは、ない。“心の師”千代の山の九重親方を野垂れ死にさすわけにはいかない。
しかし、しかし……。
出羽海部屋に入門し、どうにも弱かった|雑魚《ざこ》のおれを一人前とはじめて認めてくれ、今日まで育てあげてくれた人は武蔵川の出羽海親方、それに出羽海|女将《おかみ》さん。そして相撲取りとして大関にまで鍛えあげてくれた人は横綱佐田の山さん。千代の山の九重親方について出れば、“育ての親”出羽海親方と佐田の山関の恩義を斬って捨てることになる。育ての恩を|仇《あだ》で返すことになる。
二つに一つ、そのどちらかを取れ――。
(いっそのこと、首をくくりたいな)
そう思った。
やがてリストをみせられた。
九重親方が引き連れて出る力士と年寄の名前がずらりと書かれてある。驚いた。力士では北海道出身者だけではなく、東京は台東区|御徒《おかち》|町《まち》出身の幕内義ノ花までいる。そして年寄では藤島、出来山、境川の名があった。出来山は元大関汐ノ海、境川は元小結|大起《おおだち》である。藤島をいれ、三人とも、出羽海にあって熱烈な九重派であった。
力士たちは、九重親方がマンツーマンでそれぞれ説得にあたっているという。十両松前山は、九重親方の意気に感じて、言下に同行を承知したという。
北の富士は、松前山を呼び苦渋を打ち明けた。
「おい、松よ。九重さんは横綱までいった人だ。独立を申し出れば、認められても破門だろ。しかしな……」
「しかし、なんです」
「相撲取りのおれらは、そうはいかん。もし九重親方について出ると申し出たとたん、“よしおまえらはクビだ、|髷《まげ》を切れ”……とな、そういう羽目になるかもしれんぞ」
「はあ、そうですな」と松前山は腕を組んだ。十両のとき結核で一年間入院生活をおくり、三段目まで陥落して、そこから再び十両まで|這《は》いあがってきた根性の男である。
「大関は」と松前山はいった、「……これからの人だ。横綱が目の前にぶらさがってる。そうなりゃ、天下の横綱もパーですな」
「そうだよ。しかしそんなことはいい。二つに一つを選ぶより、いっそのこと“おまえらクビだ、髷を切れ”といわれた方がラクだな」
「大関、その覚悟をきめませんか」
「よし、|一《いち》か|八《ばち》か、|賭《か》けてみるか」
金貨を投げ、表か裏かに運命を賭けるような思いで、北の富士はついに一つを選んだ。
――千代の山がいなかったら、今日のおれはない、おれのはじまりは、千代の山にあった。
最後に九重親方に会い、申し出た。
「親方、親方について出ます」
「そうか」と九重親方は大きな手を差しだし、握手する手がぶるぶる震えた、「……よくぞ決心してくれた、ありがとう、ありがとう」
そういって真っ赤にした目から涙が|溢《あふ》れ出た。
その間、九重親方の独立工作は、つつぬけだった。逐一細大もらさず、経過が出羽海親方に報告されていたのである。
九重親方は、工作をすすめるにあたって「東京中日スポーツ」の鈴木義男記者にすべてを打ち明け、根回しをやってもらっていた。これが失敗だった。当時、九重親方は、同紙の専属相撲評論家として「突っ張り御免」というコラムをもっていたからだった。鈴木記者は九重親方のため奔走し、自分の動きを上司の運動部長にも報告をつづけた。部長は、実は出羽海親方と気心のあう人だった。このため隠密裡の独立工作は、その日のうちに、すべて出羽海へつつぬけ。独立工作が日を追って一歩一歩、一人一人とすすみ、九重陣営側に抱きこんでいく尻から、徐々に、そして確実にあたかも表層|雪崩《なだれ》のように崩れていった。
――情報を流す奴が、いる。
それは九重親方にも判った。しかしそれが自分の手足となって奔走してくれる一記者の上司とは、思ってもみなかった。人を疑って|秤《はかり》にかけてみる――そんな才覚が九重親方にあろうはずはない。千代の山という巨人の人間らしさ、純情さ、|哀《かな》しさである。
出羽海親方は、そんな九重の懸命の動きを、必死の工作を、すわったまま、高所から|蟻《あり》をみるように眺めていた。つぎはどう動くか――と、鈴木記者や九重親方を泳がせていたのである。そして|勘所《かんどころ》は冷静沈着に抑えていった。
こうして九重、伊藤作之進親子の描いた大がかりな「出羽海への謀叛、出羽海からの年寄、力士を連れての大量脱出」という九重部屋独立構想は、|蜃気楼《しんきろう》のように消えていった。
運命の時がきた。九重部屋の分家独立、帯同する大関北の富士ら力士の移籍を、すでに番頭格の秀ノ山親方(笠置山)を通じて申し出てある。
いよいよ、それに対する回答日前夜――。
――どうだ千代、ぬかりはあるまいな。北の富士は、……ついてくるな。
「はい。それは、もう間違いはありません。私が保証します」
――北の奴、どういった。それがききたい。
「千代の山関がいなかったら、今日の自分はありません。そういう結論に達しました。だから親方について出ます……」
――ほう、そういったか。チャランポランな男にみえても、北の字はちゃんと義理人情をわきまえとる。一度口にしたら、絶対に守りとおす根性をもっとるよ。それでわしも安心した。
「はい。万々歳です」
――図にのるな。なにが万々歳か。なあ、千代よ、こんどばかりは、さすがのわしも出羽海という男を見直したよ。|凄腕《すごうで》だ。奴の政治力、神通力には、ほとほと舌をまいた。この連中だけはついてくるとみた、おまえの舎弟分の藤島、出来山、境川の三年寄が、とうとう切り崩された。年寄名跡の流出は相撲部屋にとって死活問題だからな。千代、寝返った連中をな、恨んではならんぞ。みんな生きていかねばならん。
「はい。わかっております。それから、たったいま、脱落者がもう一人……」
――だれだ。
「義ノ花です。後援者に説得され、おみえになるついその前、私の前で手をついて、涙を流し謝って帰りました」
――去る者は追うな。情において九重、義理において出羽海に寝返る。それが人間だ。よし、あす独立を申し出ろ。
「はい」
――出羽海の奴、どう出てくるか。わしらの動き、わしらの確保した勢力、それらはもう一切合切、お見通しだ。なあ、あすがみものよ。
四十二年一月三十一日、午前十時。
出羽海部屋四階の大広間である。
正面中央に出羽海親方、左に番頭格の秀ノ山(笠置山)、右に分家を代表する春日野(栃錦)。以下、年寄の番付順に勝負検査役から|不知《しらぬ》|火《い》(八方山)、松ケ根(羽島山)、藤島(出羽湊)、田子ノ浦(出羽錦)、出来山(汐ノ海)、|阿武《おうの》|松《まつ》(大晃)、境川(大起)、峰崎(那智ノ山)と、出羽海一門の親方衆十一人がずらりと車座につらなっていた。
これに先だち、前日の午後一時、出羽海部屋ではこの大広間に全年寄、全力士が集合。その席上、「九重独立」の事態が説明された。そして年寄一人一人、力士一人一人について出処進退が問われたのだ。全年寄が反対意見をのべ、なかでも田子ノ浦、峰崎、不知火の三年寄は、強硬意見をつぎつぎと吐いた。
「けしからん。こんな馬鹿げた話があるか。自分が新弟子につれてきた弟子だから、あくまでも自分の弟子だと考えること自体、無茶苦茶だ。だれがつれてこようが、力士はすべて部屋の財産ではないか。そんな野郎は破門しろ。本来なら廃業ものだ」
「その弟子がりっぱに育ったところで、おれの弟子だからもらっていく。非常識な話よ。これでは部屋制度が土台から崩れるじゃないか。九重のやり方は絶対に許せん」
「そうだな、これを一度許したら、親方、部屋から部屋への力士のトレードをプロ野球なみに認める悪例になりますぞ。相撲部屋の壊滅だ。九重はむろん破門、北の富士以下の連中も髷を切らしたらいい」
強硬論は、すべて正論であった。
部屋持ち親方―師匠の権限は絶大である。力士の|四股名《しこな》の命名改名からはじまり、「おまえはクビだ」と力士の髷を斬ることまで、すべて師匠の|肚《はら》ひとつ。しかも大正十一年から半世紀におよぶ「分家許さず」という名門出羽海部屋の掟を破って分家独立するという大謀叛である。これに対して、張本人の九重親方を筆頭に、同行力士すべての角界追放、すなわち廃業処分が、相撲部屋の師匠として当然の道であった。
しかし――。
出羽海親方、出羽海|喜偉《よしひで》は違った。
このとき出羽海親方は、出羽海部屋の師匠という立場をこえて、相撲協会経営者の大局から事をみていたのである。協会内にあって、時津風理事長の補佐役として経理担当取締。しかも三十二年四月三日の「相撲協会、国会喚問」の大事件で協会を代表して堂々の答弁をして以来、時津風理事長名で相撲界の近代化改革をつぎつぎと実施してきた。
力士及び年寄の月給制度実施(三十二年五月)、相撲診療所開設(三十三年一月)、行司の六十五歳定年制実施(三十五年一月)、年寄・若者頭・世話人・呼出し・床山の定年制実施(三十六年一月)、と、|旧《ふる》い伝統の相撲界に近代化改革を敢然と断行してきた立て役者。そして本場所土俵を盛りあげる最大の極め手として打ったのが、四十年初場所から実施の部屋別総当たり制であった。
そんな協会きっての切れ者、出羽海取締にとって、九重親方の分家独立――大関北の富士の九重部屋への移籍は、まさしく、“鬼手”である。出羽海部屋の師匠として、九重と北の富士ら力士を角界から追放することは簡単だった。しかしそれでは、横綱になりうる大関という協会財産を失ってしまう。出羽海親方としては大関の放出は痛恨事だが、協会経営者という大局からみれば、
――横綱佐田の山―大関北の富士戦。
相撲ファンには考えもつかなかった黄金カードが、次場所から本場所土俵に展開するのだ。協会経営者として、いささかの損失もない。むしろ大歓迎である。一方、師匠としても「可愛い子には旅をさせよ」の|諺《ことわざ》どおり、横綱の素質をもつ北の富士も出羽海から外にだしてこそ、大きく育つだろう。
さらに九重親方の背後にいる伊藤作之進の存在も大きかった。
協会木戸御免である。それ以上に財界、警察・検察界との接点にたつ関西料理界の大立て物。先代出羽海親方の世間を騒がすであろう「フグ中毒死」を、警察を押さえて、一夜のうちに急性胃潰瘍として発表させた影武者。住友系財閥をバックにもつ、この暴れん坊を怒らしてはならなかった。
しかし、事は出羽海部屋に起きた「お家騒動」である。協会経営者の立場を肚にのみこみ、出羽海親方として事を処さねばならなかった。出羽海にのこる大勢の年寄衆への|みせしめ《ヽヽヽヽ》として事を処さねばならなかった。
大広間、車座に親方衆が居並ぶなか、九重親方はすすみでて、正面の出羽海親方に両手をついて、こういった。
「親方、独立をお許しねがいます。ついては大関北の富士はじめ十名の力士の九重部屋への帯同もお許しいただきたく、お願い申しあげます」
「よし」と出羽海親方は口をきった、「……許してやる。北の富士ら十人の弟子もおまえにつけて独立を認めてやる」
「ただし」と、出羽海は声を荒げてつづけた。
「貴様、破門だ。わしが“分家を許す”と申しわたしたときには忠誠を誓いながら、いま勝手に独立を願い出る。その行動は断じて許しがたい。出羽海の敷居は二度とまたぐな」
九重親方は、畳に深々と平身低頭するばかりであった。
報道陣のカメラのフラッシュが音をたてて|炸裂《さくれつ》した。
九重親方は、男の夢を実らせる大目的のために、炸裂するフラッシュの屈辱を一身に浴び、耐えしのんでいた。
そのあと北の富士は、出羽海親方女将さんの居室にいき、別れの挨拶をした。
「長い間、お世話になりました」
「おまえたちが悪いんじゃない」と、女将さんは、そういった、「……あたしは、ちっとも怒ってないの。どこへ行っても相撲の道は同じなんだから、前以上に頑張るのよ。だけど、これから出羽海の敷居は、二度とまたげないのよ。頑張りなさいね」
「はい」そういって、北の富士は絶句した。人目をかまわず、男泣きに泣くばかりだった。
九重部屋は、|産声《うぶごえ》をあげた。
相撲界を揺るがす嵐のなかから勝ちとった相撲史上前例のない大関はじめ十人の力士を引き連れての独立である。陣容は、
年寄 九重
大関 北の富士
幕内 |禊鳳《みそぎどり》
十両 松前山
幕下 千代の海
若狭山
三段目 見崎山
松前洋
序二段 千代の花
斉藤
木元
以上、親方一人、力士十人。
相撲部屋になくてはならぬ行司、呼出し、床山、世話人などは一人もいなかった。しかし「九重部屋」の看板をかかげ船出した以上、“船”の行手は大海ばかり。そのとき出羽海部屋を破門され、“角界の孤児”となった九重部屋に救い主があらわれた。
高砂親方である。
元横綱前田山。時に協会取締。反出羽海の大ボスである。戦前、“神様”双葉山に向かって土俵中央で壮絶な張り手旋風をあびせた快男児。その高砂親方が、親方一人、力士十人のみで船出した九重部屋の窮状をみかね、高砂一門へと迎えてくれたのだ。
――行司、呼出し、床山などは、高砂一門のを使え。
九重親方は感泣した。
目前に春場所が迫っている。大阪の春場所は三月十二日が初日である。
大阪市南区中寺町、|妙堯寺《みようぎようじ》に宿舎をみつけた。
その宿舎は、九重親方の大阪の親友松田務が捜しあてた。「九重独立」事件の三日前、九重親方から電話がはいり、
「松ちゃん、まだ秘密だ。いよいよ独立、部屋を興すぞ。たのむ、宿舎捜ししてくれ」
以来、奔走して捜した宿舎だった。しかし妙堯寺境内には土俵をつくる余裕がない。やむなく向かいの空き地に仮設稽古場を急造し、春場所前、八幡宮の宮司さんの|御祓《おはら》いで土俵開きをした。
場所直前、九重親方が新弟子第一号を発見してきた。
大阪市東住吉区の建設業主の|伜《せがれ》、二十四年五月生まれの十七歳。三月六日、協会の新弟子検査をあっさりパスした。身長百七十七センチ、体重九十一キロ。色白のアンコで、いい|家《うち》の坊ちゃん育ちらしく利かん気の、喧嘩早い男だった。九重親方が惚れ、早速、四股名をおくった。
「千代の富士」
親方自らの千代の山と、大関北の富士の二人からそれぞれ二字をとり、九重部屋船出の第一号弟子にそう命名した。
春場所の幕がきっておとされた。全員、必死だった。九重親方はむろん、大関北の富士ら力士も必死だった。それ以上に必死なのが「花月」主人伊藤作之進であった。九重を一国一城の主に仕立てあげる伊藤作之進のメンツがかかっている。
東正大関北の富士は、初日から快進撃をつづけた。四日目、はじめて出羽海部屋の関取福の花と顔があい、寄り切りにくだした。六日目、出羽海の二番手、義ノ花。事件の前夜寝返った男、再び寄り切りに破った。
そんなある日――。
幕内土俵入りする北の富士が東の花道に勢ぞろいした行列の最後尾で待っていると、ポンと尻を叩かれた。みると、横綱佐田の山が立っている。
「おい、頑張れよ」
胸がつまった。返す言葉がなかった。
(佐田さんは、おれを恨んでいない)
もう胸がいっぱいになり、熱い塊が腹の底から突きあげてきた。よし、やるぞ――後足で砂をかけて去ったのに、その兄弟子が、激励してくれた。百の援軍をえた思いで力が全身にみなぎってきた。
十四日目、大阪府立体育館は嵐のような|喚声《かんせい》につつまれた。土俵上に、
佐田の山―北の富士。
初場所までの兄弟弟子が、敵味方にわかれて戦うのだ。この日を迎え横綱佐田の山、九勝四敗。優勝戦線から大きく脱落している。一方、大関北の富士は十二勝一敗。一敗の東横綱大鵬と二人、優勝戦線のトップに立っていた。その大鵬は、この一番のあと、東の張出横綱柏戸と戦う。「柏鵬」の星の潰し合いいかんで、北の富士が単独トップに躍り出るのだ。
壮烈な戦いだった。
土俵下に二人もつれて転落、物言い取り直し。取り直しの一戦、北の富士は寄り切りに佐田の山を破った。そのあと大鵬は柏戸戦に敗れ、二敗となり後退した。
千秋楽、北の富士は勢いにのって柏戸戦にも勝ち十四勝一敗。ついに初優勝をかちとった。しかもこのとき十両で、松前山、優勝。
九重部屋が、幕内十両のダブル優勝をやってのけたのである。
場所中にあわただしく発足したばかりの九重部屋後援会(会長・広田寿一住友金属社長)は沸きあがった。全員が歓喜の涙を流し、美酒を|呷《あお》った。
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第二章 アズキ三袋
北の富士は、十四歳の中学三年生の終わり頃まで、自分が相撲取りになるなどとは夢にも思わなかった。
父工藤政信は、大正二年四月、北海道|虻田《あぶた》郡|弁辺《べんべ》町(現・豊浦町)の木材業の家に生まれた。尋常小学校を卒業したあと、十三歳で東京に出、神田の「宝寿司」に板前見習いとしてはいった。気がつくと酒好き、女好き、賭け事好きと底抜けの楽天家に育っていた。昭和八年、二十歳で志願兵として応召し満州の|曠野《こうや》を転戦してまわった。
昭和十一年、旭川の建築業「竹沢組」の娘―竹沢みよしと結婚した。こちらは大工の|棟梁《とうりよう》の娘というだけあって、芯の強い堅実型だった。その当座、女房の父親の仕事を手伝ったものの、「大工仕事てな、やっぱり水にあわねえや」と網走郡|美幌《びほろ》町に夫婦してうつり、飲食店をはじめた。
美幌町は摩周湖に近い風光|明媚《めいび》の地で、当時、海軍の駐屯地でもあった。海軍の兵隊さんが町に溢れ、店は海軍指定食堂となり、食券で食べにくる兵隊さんで連日連夜にぎわった。
その頃、女房の弟が病死し、家が断えるというので竹沢家に養子入りした。
昭和十三年に長男哲哉が生まれ、十七年三月二十八日に次男勝昭が生まれた。そのあと長女が生まれ、戦争激化とともに一通の赤紙で、一家の大黒柱は兵隊にとられていった。
終戦を迎え、父は着のみ着のまま中国大陸から美幌に復員してきた。しかし終戦と同時に美幌の海軍駐屯地は消滅し、食堂はもうやっていけない。
一家はニシン漁で沸く日本海に面した|留萌《るもい》にうつった。ニシンの大群が沿岸まで押し寄せ、網に追いこむ原始的な漁法でニシンがいくらでも|漁《と》れ、留萌の街はニシン景気にうかれていた。
はじめ留萌市営労働会館の請負経営者になった。食堂、結婚式場、宴会場、会議室があり、市営とはいえ独立採算制である。|儲《もう》けに儲けた。十三歳から東京神田で板前修業をつんだ水商売|生《は》え|抜《ぬ》きの腕前である。そして三男が生まれ、二十三年六月には四男恵が生まれた。
その間、次男坊の勝昭少年は、留萌小学校から留萌港南中学に進み、野球に熱中していた。はじめピッチャーをやって肩をこわし、中学になるとファーストに転向して五番を打った。ひょろひょろの、のっぽに育っていた。
その頃、父は留萌市長からこう勧められた。
「竹沢さん、相当儲けたろうから、こんどは独立して|割烹《かつぽう》料理屋をやったら、どうだい」
留萌一番の繁華街「十字街」に割烹「高砂」がある。市長じきじきの|斡旋《あつせん》だ。早速、買いとって屋号を「|網元《つなもと》」と改名し、はなばなしく新規開店した。
総二階。一、二階あわせて計二百坪。宴会場、結婚式場もある大割烹料理屋である。板前、仲居と住み込み従業員だけで十五人を数えた。
二十九年夏、大相撲の北海道巡業が留萌にきた。そのおり横綱千代の山が「網元」で飲食し、横綱をみにあらわれた「網元」の次男坊をみて、
「おや、大きいな、坊主」そういって頭をなでた、「……北海道にも、こんないい少年がいたのか」
そう|賞《ほ》められ、少年は、ついほろりとさせられた。中学一年で身長百七十センチあった。伸び盛りで日ごとどんどん伸びている。そんな伜をみて、
「おい勝昭」と父がいった、「……横綱を、ちょっとそこまで案内してさしあげなさい」
「はい」
そういって、いわれた所まで道案内した。
「あ、り、が、とォうッ」とちょっとパイプオルガンのような声音でそういって、千代の山はつづけた、「……どうだ、相撲にはいって、東京見物してみないか」
そういって去っていった。
千代の山本人は、それっきり「網元」の伜のことなど忘れてしまったのである。その証拠に後年、北の富士が話しても、そのときの記憶は九重親方にまったくなかった。
一方、勝昭少年の方は(おっかねえ顔をした横綱だな)と思いながら、別れる間際、千代の山が口にしたひとことが、それからのち寝ても|醒《さ》めても思いだされた。
――東京見物してみないか。
おっかない千代の山の顔とともに、まだみぬ東京を夢にまでみた。しかし、相撲などまったく興味がない。野球に熱中し、カッコいいプロ野球選手に|憧《あこが》れていた。
「網元」の軒が傾きはじめたのは、その頃からだった。はなばなしく大割烹料理屋経営にのりだして間もなく、二十九年から三十年を境にニシンが目にみえて不漁になった。ニシンの大群が接岸してこなくなったのだ。船団を仕立て、はるか沖まで出漁しないと漁れなくなってきた。留萌に不景気風が吹きはじめた。
屋台が大きいだけに、割烹料理屋「網元」の|凋落《ちようらく》は急テンポであった。開店からわずか一年五カ月、三十年春、負債五百万円を抱えて倒産した。物価指数から換算して、この頃の五百万円は現在の五、六千万円に相当する。
貧乏のドン底に叩き落とされた。
父と母は負債整理のために留萌にとどまり、竹沢家の子供五人は、年老いたおじいちゃんと一緒に親類をたよって旭川にうつり、六畳二間きりのアパートに住みついた。
長男哲哉は高校卒業をひかえ、大学受験の猛勉強中だった。しかしそれも|諦《あきら》め、函館の自衛隊に入隊していった。次男勝昭は、中学二年になったばかりだった。おじいちゃんは、大工仕事はもうできなかった。
残った四人の子供は、小さい頃から裕福に育ってきていただけに、ドン底の貧乏ぶりはこたえた。みんな一升飯を食う年頃である。それが金が払えず、夜は電気もつかない。ローソクの火をたよりに、妹が炊いた御飯をみんなで分けあって食う。
(あんまり食えば、こいつらに悪いな)
長兄がぬけて、一番上になった次男坊の勝昭少年は、そう思いながら食い、いつも腹いっぱい食ったことはなかった。正月がきても|餅《もち》もなければ、ミカンすらない。
間もなく父と母が留萌での負債整理をおえて、貧乏ながらも一家七人がそろった。あらわれた父の|飄々《ひようひよう》とした顔をみて、子供たちはみんな|呆《あき》れた。
(おや、親父、ちっともこたえてねえや)
ほう、のんきだなと感心した。
これまで飲む、打つ、買う、と男としてやりたい放題、陽気に派手にやってきた。その果てに大割烹料理屋を手放し、ついには一家離散にまで追いこまれた。本来なら、
――立ちあがる気力も張りもなくした。みんな、一家心中してくれんか。
そう深刻に考えこんでしまうほどの絶体絶命の窮地に落ちこんだのだ。ところがそんな気ぶりは|微塵《みじん》もない。ドン底の貧乏ぶりを柳に風と受けながし、
(なんとかならあ)
そういわんばかりに、風の吹くまま飄々と吹かれている。
次男坊と四男坊が、この父の底ぬけの楽天家ぶりをそのまま受けついでいた。三男健男だけが堅実型の母親似だった。だから貧乏を深刻に受けとめたのは、母と三男坊の二人にすぎなかった。
旭川にきた父は、昔とった|杵柄《きねづか》、包丁|捌《さば》きの腕をたよりに、近くの料理屋に板前として働きに出た。母も別の料理屋に皿洗い、掃除婦として働きに出た。店の忙しい間は皿を洗い、閉店したあと店内の掃除をして夜遅くまで働きつづけた。
そんな頃である。
アパートの大家さんが毎日のように、ひょろひょろのっぽの勝昭少年に声をかけてくるのだ。
「どうだ、相撲取りにならんか」
「おれ、いやだよ。あんな人前で裸になるの」
「いや、おまえさんの体はもったいないね。わしゃ、どうしても相撲取りにさせたいよ」
「おじさん。かんべんしてくれや」
「いや。あきらめんぞ」
そんな会話が毎日のようにつづいた。
それが毎日つづくと、中学三年生になる少年もこう思いはじめた。
(相撲取りも、まんざらでないかもしれんぞ)
野球も肩をこわし豪球は投げられない。バッティングもあまり|冴《さ》えない。足も速い方ではない。「東京見物しないか」といった千代の山の声が、はっきりと耳許に|甦《よみがえ》ってきた。ふん、相撲取りになると、飯が腹いっぱい食えるというしな。おれ一人ぬける分だけ、口減らしにもなるな。こりゃ一挙両得じゃねえか……。
ある日、大家さんにいった。
「おれ、相撲でモノになれるかな」
「おッ」と大家さんは喜色満面といった顔つきでいった。
「……なれるなれる。その体に肉がつきゃ文句なしよ。よし、じゃ早速、紹介するぞ」
旭川市十条十丁目の村上左官屋に紹介された。トラック数台、運転手数人を抱える大きな左官業である。その村上清一郎社長が、横綱千代の山後援会北海道世話人の一人であった。
村上社長から東京の柳橋「花月」にあてて電報が打たれる。折りかえし返電がきた。
「ジュウキュウカンニナッタラコイ。ソレマデタノム、チヨ」
勝昭少年の身柄は、たちまち村上左官屋に|拉致《らち》された。
「よし腹いっぱい食えよ。どんどん食えよ」
そう左官屋の大将からハッパが飛ぶ毎日がはじまった。なにしろひょろひょろのっぽ、すでに背は六尺(百八十一センチ)近く、足も十二文(二十七センチ)ある。しかし、この一年間というもの満足に飯も食えず、アバラ骨が浮き出るほど|痩《や》せている。
――勝昭が相撲取りになる。
その話に母は、血相をかえて大反対した。
「勝昭、ね、おかあさんが頼むから、相撲だけはやめておくれ。どんなに貧乏でもいい、おかあさんは頑張る。ね、相撲にいったら|身体《からだ》をこわされちゃうよ」
一方、父はにやにやしながら、昔おぼえた江戸ッ子弁で、
「おもしれえじゃねえか、こいつぁ。男なら裸一貫やってみるのも、おもしれえじゃねえか」
勝負事は、女のつぎに好きという父だった。
こうして一カ月――。
村上社長の懸命の大食作戦が功を奏して、めでたく十九貫を突破した。七十一キロを上回ったのである。この時代、相撲協会の新弟子基準が、昭和十一年夏からそのままつづいて、
二十歳以下の者は、
――身長五尺五寸(百六十六センチ)以上、
――体重十九貫(七十一キロ)以上。
早速、東京の「花月」にあて電報が飛ぶ。すると返電がきた。
「キタカッタラコイ。チヨ」
そんな時代であった。
いよいよ村上清一郎大将に連れられ、東京にむけ出発前夜。父の友達が数人集まって、うどん、ラーメン、カツ丼で前途を祝ってくれた。母は旅立つ伜にいった。
「勝昭、いやだったら、いつでも帰っておいでよ。|怪我《けが》までして頑張ることは、ちっともないよ」
「うん、わかった。そうするよ」
母は、それからものもいわず家の奥にしまってあったアズキ一斗を三袋にわけていれ、持たしてくれた。伜は、千代の山関、出羽海親方(常ノ花)、それと東京でお世話になる村上大将の知人と三人へのお土産だと思った。ところがアズキ三袋に託した母の思いは、全然別だった。もう我慢ができずいよいよ帰りたくなったとき、アズキを売れば、それが東京から北海道まで帰ってくるための汽車賃になる。母の必死の願いがこめられたアズキ三袋だったのである。
実際、勝昭少年は、母に「いつでも帰っておいでよ」といわれ、気がらくだった。
「男子郷関を|出《い》ず、学ならずんば死すとも帰らじ」
そんな大時代的な気負いは少しもなかった。村上大将に連れられ、ちょっと東京見物してきてやろ、それで相撲がやっぱりいやなら帰ってくりゃいいやと思った。ひやかし半分だった。横綱、大関を目指そうという気持ちなどは、さらさらなかった。
こうして函館へ向かう汽車に乗った。
万歳三唱もない。
「頑張れよ」という激励の声すらない。そのかわりに汽車が動きだした途端、母親が涙ひとつみせず、最後にもう一回いった。
「いつでも帰っておいでよ」
「あいよ」
そういって動きだした汽車の窓から手を振った。その姿は、なんとも珍妙であった。
頭には学生帽、ツメ襟の学生服、足には足袋をはいて|朴歯《ほおば》の下駄。それは、靴を買う金がなく、東京に行くのに長靴は可哀相だと、旭川市内中を母親が捜しまわって手にいれた下駄で、滑っては大変とわざわざ裏に金具を打ちつけてあった。雪の北海道から一歩も出たことのない母には、東京のコンクリートの地上がどんなものか、まったく想像もつかなかったのだ。それにタオル一本を腰にぶらさげ、肩からアズキ三袋を背負い、握り飯十個もはいった紙包みを手に抱えていた。
函館に着くまでに、握り飯十個はみな平らげた。
青函連絡船にのった途端、船が大揺れに揺れ、甲板に出て、ゲーゲー吐いた。吐きつくし、胃が空になっても、まだ吐きつづけた。
(東京に行くてな、こりゃ大変だな)
青森からの夜汽車に乗り継いだときには、船酔いでふらふら足がふらつき、半分死んだような気分でそう思った。旭川を出てからたっぷり車中二日がかりの長旅の果てに、汽車がようやく上野駅に滑りこんだ。ホームに降りて、東京への第一歩を踏んだ途端、滑り止めの金具のおかげで、
つーッ、
みごとに滑って転んだ。背中から袋が落ち、大事なアズキがばらばらとホームにこぼれ、
(お、こら、まいったな)
大勢がみているなか、格好悪くて穴にはいりたかった。
――昭和三十二年一月七日であった。
東京・柳橋の料亭「花月」に連れていかれ、横綱千代の山に挨拶した。その足で千代の山関につれられ、時の協会理事長出羽海親方(元横綱常ノ花)の君臨する出羽海部屋に入門した。
すぐ初場所前の新弟子検査である。
秤にのると、基準の十九貫に二貫目近くもたりない。旭川を出発したときは確実に十九貫(七十一キロ)を突破していた。ところが生まれてはじめて乗った青函連絡船で吐き、二日がかりの長旅をして東京に着いてみると、げっそり七キロ近くも痩せて、村上大将の努力も元の|木阿弥《もくあみ》だった。新弟子検査は、身長は基準よりはるかにオーバーしたものの、体重たらずで、みごとに落ちた。
しかし、このとき「自費養成力士」という制度に救われたのである。新弟子検査の不合格者は、協会から養成費(チャンコ代)は出ないが、師匠の「自費養成力士」として本場所の土俵で前相撲は取れる――という制度であった。別名、「未公認力士」ともいわれた。この制度は三十一年初場所にはじまり、三十二年夏場所限り、わずか七場所だけあった。その異例中の異例制度にあやうく救われたのだ。
一場所、師匠のお情けによるただ飯を食ったのである。
三十二年初場所、「未公認力士」は大相撲の初土俵を踏んだ。四股名は本名、竹沢。時に十四歳であった。
前相撲の最初の一番で、左膝を怪我した。
なにしろ相撲を取ったことはまったくない。どう取るのか、どうこけるのかも知らず、ぶらっと立つと、投げられての怪我だった。しかし野球をやってきた反射神経と柔らかい体のおかげで、そのあと不思議なほど怪我をしなかった。
やる気は、まったくなかった。
はりがねみたいに痩せ、分厚いまわしを腹にぐるぐる巻きつけられると腰っ骨が痛かった。第一、新弟子検査に落第し、お情けでただ飯を食う身になって出羽海部屋に住んだ日から、ごろごろいる大きな相撲取りをみて、
(お、こりゃ、とても駄目だ。おれ、つとまらねぇや)
そう思った。ところが、前相撲の土俵で、四十八人の同期生を見渡すと、
(おや、おれより弱い奴がいるじゃねえか)
花籠部屋の鈴木をみて安心した。
後年の龍虎である。昭和十六年一月生まれ、竹沢より一つ年上であった。
北の富士の大相撲への第一歩は、こうしていつやめてもいい「その他大勢」であった。同時に不思議な幸運もそのスタートからはじまっていた。
この初場所、西張出横綱千代の山は、十五戦全勝で六回目の優勝をとげた。
このときが大正から昭和戦後までつづいた「出羽海全盛」時代の最後であった。時に出羽海部屋は、横綱千代の山を筆頭に、幕内に大起、二代目出羽湊、出羽錦、羽島山、大晃、二代目出羽ノ花、吉井山と計八人の関取衆を擁していた。百九十センチ、百二十二キロ、“鉄骨のやぐら”といわれた|巨躯《きよく》で戦後大相撲の大黒柱であった千代の山も、このあと持病の腰痛と膝の故障が再発し、二度と優勝することはなかった。かわって新時代のスターとして“栃若”が台頭してくる。
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第三章“プリンス”のまばゆさ
千代の富士も、六月一日の誕生日がきて十五歳になった中学三年生の夏頃まで、自分が相撲取りになるなどとは夢にも思わなかった。
父も母も、北海道松前郡福島町で生まれ育った。
昭和二十七年、秋元松夫と大村喜美江が結婚し、翌二十八年三月二日に長女佐登子が生まれ、つづいて三十年六月一日に長男|貢《みつぐ》が生まれた。
福島町は津軽海峡に面した零細漁村である。人口一万一千、町とはいえ三十三の集落が点在し、そのうちのひとつの|字《あざ》、塩釜に秋元家があった。塩釜は全戸数が六十戸、昔から顔ぶれがかわらず、そのほとんどが漁師である。そのなかでも秋元家は、下から一、二を争う小さな家だった。
六畳二間、四畳半、台所、それに物置、それっきり十二坪の古い木造平屋。親戚の婆さんが亡くなり、空き屋になった家に結婚して住みついた。近所の家々は、サッシの窓、雨戸など、冬にそなえて新建材で改築し、豪華な三点セットをいれ石油ストーブをそなえても、秋元家だけは家の中においたダルマストーブに薪をくべ、冬をすごしていた。眼前に津軽海峡がひろがり、海岸線から百メートルほど奥にはいった|山懐《やまふところ》に、塩風に吹きさらされて建っている。うしろは山だ。
磯舟ひとつが生活の支えである。
船団を組み遠洋漁業に出る漁港ではない。どの家も沖合い百メートル以内の海岸寄りで漁をし、海の荒れた日は近くの畑でジャガイモ、トウモロコシ、玉ねぎなどの野菜を栽培していた。米だけは買うが、ほとんど自給自足、半農半漁の村である。
海はきれいだった。
太平洋から日本海へ、日本海から太平洋へと海流が交錯して流れ、塩釜海岸は海底までくっきりと見えるほど澄んでいる。
五月の中頃、ワカメ採りが一年の出漁のはじまりだった。六月からウニ採りがはじまり、やがてイカ漁が北風で海が|時化《しけ》る十二月までつづく。その間、夏にはちょっと潜るだけでアワビ、サザ工などが面白いほど採れた。
秋元家の磯舟は長さ二間半。
立って左右交互に|櫂《かい》を|漕《こ》ぐのである。
貢少年は、小学校五年の頃から、忙しいときや、夏休みになると父の手伝いをさせられた。イカ漁は夕方、舟をだし、夕方、真夜中、朝方に漁をし、|陽《ひ》がのぼるとイカが|餌《えさ》を食わなくなる。朝七時、貢少年は小さな|艀舟《はしけ》に乗り父の待つ沖合いまで漕いでいく。父の磯舟は海面すれすれまで沈み、イカでいっぱいだ。それを艀舟にうつし、母が待っている浜にあげる。トンボ返りで艀舟を沖まで漕ぎ、運搬役を毎日のようにやった。波のある日など小さな艀舟だけに、ぼんやりしていると、海に転落した。ことに五月のワカメ採りは、海水をたっぷり含んでいるだけに艀舟をあやつるのも大変なら、浜に干すのも大仕事だった。
こうして貢少年の足腰は、子供の頃から海の上で自然に鍛えあげられていた。
泳ぎもうまかった。なかでも潜水が得意で、海底に潜り、岩の下まではいってアワビ、ウニ、サザエをとり、肺活量も大きくなった。昔、双葉山が少年時代に父を手伝い伊予灘から|周防《すおう》灘の荒海で小さな帆船に乗って自然に足腰をつくり、少年時代の若乃花(のち二子山親方)は、室蘭港で大人にまじって荷役作業をやり、自然に足腰を鍛えた。その大横綱二人とまったく同じ少年時代を、千代の富士は送っていたのである。
父は厳しかった。
食事は必ず正座して食べる。ご飯のおかずなどに文句をつけると、口より先に|拳骨《げんこつ》が飛んできた。怖い父だった。そんな父が、海が|時化《しけ》て、畑仕事もすませたあと暇をみつけては、唯一の趣味の絵筆をとった。本格的な絵の勉強などしていないながらも、うまい絵を描いた。
福島中学校にすすんだ頃には、貢少年は|逞《たくま》しい体つきに成長している。中学一年のとき、上級生が突っかかってきた。
「おまえの顔つきは、生意気だ。上級生をなめとんのか」
すると、その上級生の仲間が、あわてていった。
「おい、やめとけ。秋元とは喧嘩やらん方がいい」
向こうは、捨て|台詞《ぜりふ》を吐いたまま、なにもせず引き揚げていった。喧嘩すれば、自分が勝つのは判っている。だから喧嘩したのは小学校の頃までだった。
陸上競技部にはいった。
海の上で鍛えた足腰のバネは抜群だ。それを生かした走り高跳び、三段跳びは校内でも群を抜いた。得意の水泳はもとより、野球、バスケットと、福島中学きってのスポーツ万能選手になった。
中学一年の夏休み、父に連れられ、はじめてイカ漁の大型漁船に乗った。大人十人ほどが乗りこみ、夕方、福島港を出て松前港まで向かう片道二時間の航路である。ところが沖まで出たとき、海が急に荒れだした。
台風が接近していたのだ。
もはや引き返すわけにはいかない。松前目指して嵐の中を突きすすんだ。山のような大波がつづく。波の頂上に出たとき、仲間の漁船が木の葉のようにみえる。次の瞬間、船は谷底めがけてはげしく落下した。視界は眼前に迫った見あげるようなつぎの大波だけだった。その波に船が底からせりあげられ猛スピードで頂上までのぼってゆく。
酔った。
生まれてはじめて船酔いし、嵐をついて、ちぎれるように父の声が飛んできた。
「なんだ貢、おまえ、これしきで、船酔いか。だらしないぞッ」
海は、やっぱり怖いや――吐きつづけながら、そう思い、必死に柱にしがみついていた。
四十四年九月、福島町の神社境内で学校対抗の相撲大会があった。そのとき腕力をかわれて、五人一組の代表に選ばれ、相撲だけはまったく知らないのに、中学二年の身で、「おい秋元、おまえ大将やれ」と命令された。
二勝二敗となり、大将戦に勝敗がもつれこんだ。そのとき自分よりでっかい相手に下から喰いつかれ二本差された。そこを上からまわしを取って力まかせに、「えいッ」と遠くへ放り投げた。
「ほう、こいつぁ面白ぇや」と、そのとき大勢の見物人のなかで、|舌舐《したな》めずりした人がいたのである。
若狭竜太郎である。
戦前、昭和十六年九月、当時の福島村に出た、十五歳の怪童杉村昌治少年を発見し、出羽海部屋に入門させ、後年の横綱千代の山を生んだのが、この人であった。長く中学校校長をつとめ、定年後のいま、九重部屋北海道後援会の世話人をしている。国鉄松前線の木古内から出る江差線沿線の中須田に住み、江差、松前沿線を、
――どっかに相撲向きのいい子はいないか、
さながら人買いのように歩いていた。ことに二年前の四十二年春、千代の山の九重親方が出羽海から出て、いよいよ九重部屋を興したばかりである。千代の山の生みの親としては、九重部屋のために張りきらざるを得ない。
勧誘がはじまった。
まず少年の両親へ話をもちこんだ。父と母は、その話に頭から反対した。父秋元松夫は、昔、福島尋常高等小学校(現・福島中学)で杉村昌治少年の二年上だった。朝礼で運動場に整列しても、みんなより肩から上が出ている杉村少年のことは、よく知っていた。しかし一人息子が相撲にとられる――とんでもないことだった。
ことに母が|蒼《あお》くなった。
「あたしは御免こうむります。どうぞ、その話はないことにしてください」
若狭先生があらわれるたび、そう頭をさげて頼んだ。本人にはむろん隠しとおした。
東京の台東区台東一丁目に、母にとって年上のいとこがいた。桜井つるといって、この人も福島町の大村家から出た。大村家は古い家柄で、その昔、松前藩の士族だった。
父は、その女房のいとこあてに相談の手紙をだした。というのは、戦後、町名変更で「台東区台東」となったものの、戦前まで「下谷区二長町」といい、桜井家の隣から横綱|東富士《あずまふじ》が出たのだ。それだけに、いまはもうお婆さんになる桜井つるは「キンちゃん」と愛称された東富士を通して、相撲界の表裏に精通していた。頼りがいのある、東京でたった一軒の親戚だった。こんな返事が届いた。
「とんでもない話です。昨年久し振りにお墓まいりに帰ったとき、貢ちゃんにも会って知っていますが、あの体ではとても無理。絶対反対します」
貢少年は、自分をめぐって、そんな話が行きかっているとは夢にも知らなかった。
相撲などには、まったく興味がなかった。
テレビをつけると相撲がはじまっている。ところが仕切りが長くて、なかなか戦わない。それが面倒くさくて、すぐ別のチャンネルに切りかえた。相撲で知っているのは“大鵬・柏戸”――それきりだった。毎日通う福島中学の校内に「横綱千代の山」の優勝額が飾られてあった。しかしその千代の山が、この福島町の出身、しかもこの福島中学の出身ということすら知らなかった。
若狭先生も両親の強硬な反対にあい、半年ほど動きをみせなかった。
四十五年五月末のある日であった。
授業中、教室のマイクから校内放送が流れてきた。
「三年C組の秋元貢君、すぐ校長室まできなさい」
ぎょっとした。
(おれ、なにか悪いことしたかな)
そう思いながら、おそるおそる校長室の前までいった。すると中から、
「秋元君か、はいりなさい」
校長先生の声がして|畏《かしこ》まってはいると、人相の悪い変なおじさんがいる。
それが若狭竜太郎だった。
秋元少年をみるなり、にこにこ立ってきて、姿を眺めまわし、手や足をみ、
「うん、こら大きくなる」と、ひとり感心している。「どうだ君、相撲をやってみんか」
「はあ?」
「相撲だよ。お相撲さんだ。この福島中学からはな、むかし千代の山という偉い横綱が出たんだ。その千代の山君を相撲取りにしたのが、このわしじゃよ。はッ、は、は、は……」
「おれ、いやです」
「相撲は、嫌いか」
「はい。相撲なんか好きでもないから、おれ、やらんです」
「そうか、そうか」と変なおじさんは|鷹揚《おうよう》にわらった、「……まあいい。ゆっくり考えておけや」
「秋元君、ごくろうさん。もう教室へもどってよろしい」
校長先生にいわれ、妙な気分で教室に戻った。
そのとき秋元少年は、身長百七十七センチ、体重六十八キロであった。
その年七月、|渡島《としま》管内中体連陸上競技大会が行われた。秋元選手は、走り高跳び、三段跳び、走り幅跳び、百メートル競走に出場。走り高跳びでは一メートル六二の管内新記録、三段跳びも十二メートル五八を跳び、二種目優勝をさらった。大会を見物にきた若狭先生は、ますます意を強くし、東京・柳橋「花月」の九重親方あてに連絡が飛んだ。
若狭先生は、福島町役場に行き秋元家の戸籍を調べて驚いた。
――貢少年の母喜美江は、大村家から出た嫁ではないか。
千代の山の杉村家も、実は大村家から出ている。つまり千代の山の九重親方と秋元貢少年は、母方の線で、まぎれもなく同じ血が流れていたのだ。
(なんだ、この二人は親戚同士じゃないか)
少年の運命は、もはや決定的であった。
九重部屋後援会北海道世話人、若狭竜太郎の“網”から逃れようはなかった。昔、千代の山を相撲取りにした人物によって、少年の行く手には、いま相撲が待ちかまえていたのである。
八月末、福島町に大相撲の巡業がやってきた。看板は『北の富士・清国』一行である。小さな町には相撲興行の看板がにぎわい、大勢の一行を収容するだけの旅館がなく、町内の大きな家々が民宿に割りあてられた。
巡業が目前に迫ったある日――。
貢少年は学校から帰って家にはいるなり、ぎょっと息をのんだ。玄関にでっかい靴がある。なんだろうと思いながら、ひょいと首をだすと、大きな人がいて挨拶された。
「おお、おかえり」
九重親方であった。
このとき九重親方は、先発年寄として巡業一行よりひと足早く福島町にきて、土俵作り、関取衆宿泊の割りふりなどの準備にあたっていたのだ。
両親は、その九重親方の向こうに坐っている。
その横に坐った貢少年に、九重親方がいった。
「どうだお相撲さんにならんか」
「いやあ」と頭をボリボリ|掻《か》いて照れ笑いしながらいった、「……おれ、相撲、好きじゃないです」
「そうか。それは、まあいい」そういって九重親方は、つづけた、「……飛行機にのっけてやるから、ともかく東京へ行かないか」
「えっ?」
「飛行機だよ、空を飛ぶ飛行機だ」
「飛行機に、のっけてくれるんですか」
「ああ、のっけてやるとも」
少年は、ポーッとなった。なんだか夢をみているような気分だった。
「貢」と横から母が蒼くなっていった、「……行かないでいいよ。飛行機なんか、のせてもらわなくていいよ」
「まあまあ、お母さん。どうですか、お父さんは……」と、九重親方がつづけた。
「はい、そうですな」と、父がいった、「貢、おまえも、もう十五だ。お母さんやお父さんの反対を押しきっても相撲に行くか、それとも、やっぱりおことわりするか……それぐらいの考えは自分でつくはずだ。おまえの考えるとおりにしなさい。最後の決断は、おまえにまかす。おれは、もうなにもいわない」
しかし父親の言葉は、もう少年の頭をかすめていくだけだった。
(飛行機、飛行機……)
少年の心は、飛行機に乗れる――そのことだけで高なっていた。
その日は、そのままで九重親方は宿へ帰っていった。
「おれ、相撲取りになる」
九重親方が帰ったあと、少年は、はっきりとそういった。小さい時から一度いいだしたら|梃子《てこ》でも動かない子だった。
いよいよ福島町に大相撲の巡業がやってきた。
その夜、病院の屋上で九重部屋後援会の歓迎パーティーがあり、少年は誘われるままパーティーをのぞいてみた。すると大勢の人のなかに大きな体をしたお相撲さんがいて、「おう、ビールくれ」そういって大ジョッキで生ビール三杯をキューッとひと息で飲み干してしまう。
(ほう、こらあ、人間かな)
びっくり仰天した。
巡業が終わり、その夜、イカ加工場をもつ町内の有力者の家で、秋元家は親子四人水入らずで別れの食事をした。巡業中、その家も関取衆向けの民宿にあてられ、接待係を父が引き受けていたのだ。たまたまその家の奥座敷に投宿していたのが、
――貴ノ花。
「角界のプリンス」「若乃花の弟」「金の卵」とマスコミあげて騒がしい貴ノ花であった。
時に貴ノ花は二十歳。前年、急性上気道炎で十両に落ち、この年初場所に再入幕するや、再び土俵に「貴ノ花旋風」を捲きおこし、この名古屋場所は東前頭七枚目で十一勝四敗。この夏巡業をおえ、秋場所には新小結に昇進する伸び盛りである。
親子水入らずの食事をとる前、接待役の父は奥座敷に行って、貴ノ花関にこう挨拶した。
「うちの伜も、こんど相撲取りになります。明日出発で、これから向こうの部屋で、一家四人別れの食事ですわ」
「おお、そう」と、貴ノ花はいった、「……それじゃ、ちょっと息子さん、呼んできてみてよ」
「はい」
父に呼ばれ、貢少年は奥座敷にはいった。すると床ノ間を背に貴ノ花がいて、三、四人の付人にかしずかれている。その一人が(あとになって判ったことだが)秋場所、幕下に昇進するばかりの下山(のち若三杉改め二代目横綱若乃花)だった。
(カッコいいな)
そう思った。若々しい貴ノ花の姿は、目が|醒《さ》めるほどまばゆかった。
巡業中、町民の間に一番人気があったのが貴ノ花だった。「貴ノ花」と、みんな騒ぎ、あとを追い、少年もその物凄い人気から名前だけは知っていた。
「坊や、相撲に行くんだって?………」そう貴ノ花は呼びかけてきた、「……どこの部屋にはいるんだい?」
「はい、九重部屋です」
「あの部屋はいい」と、貴ノ花はいった、「……親方もいい、横綱もいい。とっても明るくて、いい部屋だよ」
「はい」
「坊や、目つきがいいぞ。頑張れよ」
そう激励された。そのひとことが少年の頭に|灼《や》きついた。
「ありがとうございます」
そういって奥座敷をさがった。
入門前夜、秋元少年は“角界のプリンス”貴ノ花にめぐりあったのである。偶然の出会いとはいえ、このときの強烈なまばゆさから、貴ノ花が少年の|憧《あこが》れになった。運命の女神は、相撲への入門前夜に二人をめぐり会わせるといういたずらをやったのである。しかし、かつて料亭「網元」の伜に東京への夢をいだかせた言葉を、いった千代の山本人が忘れてしまったように、長い北海道巡業の道中、たまたま激励してやった少年のことなど、貴ノ花の記憶にはまったく残らなかった。
翌八月二十五日、貢少年は家を出た。
母は涙をみせまいと懸命にこらえ、玄関先で見送った。姉の佐登子も、かばうように母の手をとったままだった。小雨が、降っていた。
少年は、迎えの人に連れられ、矢野旅館までいった。すると車が待っていて乗せられた。間もなく、旅館の正面から大勢の人に見送られながら、一人の背の高い関取が|颯爽《さつそう》と車に乗ってきた。後部座席の少年の横に坐った。
車は、函館空港に向かって出発した。
やがて福島町が遠くうしろに過ぎ去り、車は海岸線ぞいの国道を流れるように走ってゆく。
「おい坊や」と隣の関取が気さくに声をかけてきた、「……おれ、だれだか、知ってるか」
「いえ、知りません」
「そうか」といって、その関取は面白そうに笑った、「……おれも、そろそろおしまいかな」
それが横綱北の富士であった。貢少年は巡業の看板力士も知らなかった。
その頃、東京・羽田空港――。
東京のたった一軒の親戚、桜井つるの長男・昭男は、空港ロビーまで出迎えにきたものの、飛行機が一向に着かない。相撲には秋元の両親も反対、桜井家も絶対反対してきた。ところが突然、きのう「明日、羽田に着く。よろしくお願いします」と秋元家から電話がはいった。そこで出迎えにきたものの、肝心の飛行機が一向にこない。不審に思って、全日空のカウンターに問い合わせた。
「函館からの便は、一体、何時に着くんです」
「申しわけありません」とカウンター嬢がいった、「……東京は快晴、函館は曇り。ところがその途中が台風の影響で天候状態が悪くて、その便は、まだ函館で待機しています」
桜井昭男は、いやーな予感にかられながら羽田空港から引き揚げていった。な、だからいわないこっちゃない、出発からこれじゃ、これから先が大変だぞ――そう思いながら、御徒町近くの自宅に帰りついた。
それから間もなく秋元貢少年は、空の上を飛んでいた。飛行機が滑走路を物凄いスピードで走りだしたときから、胸は高なり、小さな窓に顔を釘づけにしていた。上空にきて、水平飛行になってからも、下界ばかりみていた。夢のようだった。
十三年の隔たりは、地獄と天国ほどの差がある。十三年前、東京見たさの竹沢少年は二日がかりの汽車の長旅のはてに、七キロも痩せるほどの苦労をして東京にたどりついた。しかしいま、秋元少年は函館―羽田間を直行便で飛ぶ全日空フレンドシップ機で二時間十分、夢見心地の間に気がつくと、東京に第一歩を踏みしめていた。
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第四章 |雑《ざ》  |魚《こ》
三十二年春場所――。
師匠のお情けと「未公認力士」の制度に救われて、ひと場所ただ飯を食った竹沢少年は、その場所前、再び新弟子検査をうけ、こんどは無事合格した。身長百八十センチ、体重七十六・九キロである。
晴れて“虫メガネ”の序ノ口に付けだされ、二勝一敗。新序一番出世組に名乗りをあげた。一方、花籠部屋の鈴木の方は、新弟子検査こそパスしたものの、初場所につづいて前相撲で白星ひとつあげられず、番付にその名さえない。依然として「未公認力士」のままである。
夏場所、竹沢は一階級あがった。
東序二段百三十一枚目――。
三勝五敗と負け越した。ところが二点も負け越しながら、つぎの秋場所番付が発表されると、
東序二段百二十三枚目――。
負け越しながら、八枚も昇進している。
この夏場所から力士整理案が実施されたのだ。
「初土俵から五年三十場所を経ても幕下になれない力士には養成費(チャンコ代)を支給せず」という人員整理制度の発足だ。養成費なしとは、廃業を意味した。この新制度の実施で、相撲部屋にたむろしていた幕下以下の|苔《こけ》の生えたような古顔連中は、一斉に|馘首《かくしゆ》された。「相撲にいる限り、お天道さんとお米の心配はねえや」というのんびり気分は、過去の遺物になった。このため幕下、三段目の古顔連中が大勢廃業していき、上が抜けたため、負け越し組の新弟子連中でも自然と番付が上にあがったのだ。
竹沢少年のゆく所、不思議と幸運がめぐってくる。
しかし間もなく、横綱千代の山の付人をはずされ、行司付きにされた。
(ほう、やっぱりな。おりゃ、駄目なんだ)
発表された付人表をみて、そう思った。
新弟子として「行司付き」とは、どうでもいいという|烙印《らくいん》である。その発表のあと、部屋の行司式守鬼一郎に挨拶にいった。
「おまえか、竹沢てのは」と、野太い声が飛んできた。
「はい」
「おまえは、だいぶ|わる《ヽヽ》らしいな」と、行司鬼一郎は自慢の長髪をなびかせ、昼間から酒を|呷《あお》りながらつづけた、「……え、新弟子の分際で、相撲が弱いうえに酒は飲む、どうにもならんらしい。おまえは、おれが最後だぞ」
「はあ?」
「行司のおれに付いて、それで駄目だったら、おまえはもう駄目なんだ」
「わかりました」
「よし、酌をしろ」と、鬼一郎親方は注がれた茶碗酒をぐいぐい呷った。
「竹沢、いいか。相撲取りになってな、行司に付くような奴は駄目だ。蚊の|臑《すね》みたいな行司の背中を流しとるようじゃ駄目だ。おまえ、関取に付くようにならなきゃ駄目だぞ」
|呆気《あつけ》にとられた。自分が行司でいながら、まるで親方のような説教をたれてくる。
鬼一郎は、豪傑行司であった。
明治三十四年、千葉県長生郡白潟村(現・白子町)の生まれ。怪童・緑川義の名はたちまち東京まできこえ、多くの相撲部屋に誘われ、弱冠七歳で阿武松の養子になった。しかし、いかに怪童でも七歳では相撲は取れない。小僧行司なら、土俵にあがれる。そのうちなんとかなると、明治四十三年春、小僧行司木村芳松の名で初土俵を踏んだのが、間違いのはじまりだった。
大の酒好き。十五歳から飲みはじめ、毎日、五合は飲む。
大正十五年十二月、十両格行司のとき九州、戸畑の巡業先、一緒にフグのチャンコ鍋を突ついた小結福柳ともう一人が中毒死したのに、鬼一郎だけは生きのびた。その後、昭和七年「春秋園事件」では協会を脱退。天竜一派に筆頭行司として参加し、のち十三年に帰参して幕下格からまた土俵にのぼった。戦後の二十四年、三役格式守鬼一郎となって今日に至っている。
鬼一郎は、ビートルズばりの長髪の異装から、行司というより親方然とした風格があった。行司は行司でも、そんな豪傑鬼一郎付きになったことも幸いといえた。
「|香車《きようす》」
そう|渾名《あだな》された。
足長で、ひょろひょろのっぽ。土俵にのぼらせると、将棋のまさに香車なみ、一直線に前へすすむだけ。不細工な相撲しか取れない。来る場所来る場所、ちょっと上にあがると、つぎの場所は負け越す。序二段に足かけ三年、十一場所も低迷した。
「風邪ひいた」というと、兄弟子から「たるんどるからだ」と張り倒された。「腹が痛い」というと、「そうか。飯食うな。食わなきゃなおる」と相手にされなかった。「膝が痛いんです」と近くの接骨院に駆けこむと、「なんだこんなもん」と接骨師にまで脅かされ、|膏薬《こうやく》一枚ペタンと貼られて終わりだった。
本場所を打ち揚げると、師匠から若い衆一同に一人頭三百円の小遣い銭がもらえる。それをもって両国から浅草まで歩き、百五十円の映画一本みて、三十円のラーメンと百円のカレーライスを食うと、もう金がない。歩いて帰ってきた。あとは一週間の休みの間、部屋でごろごろ寝ているよりほかなかった。
(怪我しねえかな)
毎夜、真剣にそう思った。大怪我でもすれば、やめて郷里に帰る理由がつく。ところが困ったことに、怪我をしないのだ。
(なんか、いい理由ないかな)
やめる理由捜しが毎日のようにつづいた。
「いつでも帰っておいでよ」
旭川を出発間際、そういった母の声がいつも耳許にきこえる。いつ帰ってもいい。いつでも帰れるという頭があって、気は楽だった。しかし、そうはいっても、
「つらかったから帰ってきました」
子供心にも、それでは格好がつかなかった。母からは手紙一本、電話ひとつない。相撲にはあれほど反対したのに、ひとたび伜を送りだした途端、母は薄情なほど音信不通だった。いまや母がいった、「いつでも帰っておいでよ」の言葉が、逆に|足枷《あしかせ》になってきたのである。
その間、あとから初土俵を踏んだ後輩連中にどんどん抜かれていく。悔しかった。なかでも同じ旭川出身の後輩に抜かれたときは、こたえた。
(くそッ。こいつらに追いつき、追いこすまでは頑張ってみるか。これじゃ、おれ、死んでも死にきれないや)
そう思った。
三十四年夏場所、ようやく三段目にあがった。東三段目九十三枚目――。
そのとき、はじめて四股名をもらった。
――竹美山。
その場所、六勝二敗と勝ち越した。ところがそれから三場所連続、負け越しがつづいた。
三十五年夏、北海道巡業でのことである。
巡業で釧路にきたとき、親戚の家に立ち寄って、夜、御馳走になった。十八歳の生意気盛り、勧められるまま、いい気になって酒を飲みすぎた。ぶっ倒れるように寝込んでしまった。
翌朝八時頃、巡業の相撲場にたどりついた。二日酔いで足がふらついている。三段目、序二段の若い衆は、みな朝四時起きで稽古しているのだ。
「おい、香車。おまえ、どうした」
幕下の兄弟子連中につかまった。お客さんのみている稽古土俵から遠くはなれた空き地に連れていかれ、兄弟子数人に可愛がられた。半殺しのリンチだった。
顔、胸、腹、腰と青竹や棒で叩かれ、足で蹴られ、泥まみれにのびてしまった。
「この野郎、ふざけやがって。相撲を、なんだと思ってんだ」
「どうやら、のびたな。こいつ、もう終わりだよ」
「いいからいいから、そんな野郎はほっとけ」
ペッと|唾《つば》を吐かれ、そんな話し声がぼんやりと頭の上の方できこえた。この名古屋場所(幕下以下、一場所七日間に改正)、東三段目四十七枚目で二勝五敗。三段目にのぼってから八場所にもなるというのに、まだこの位置。大勢の若い衆がいる出羽海部屋にあって、いつ夜逃げしようが、いつやめようが、まったくどうでもいい存在。大勢のなかでひとりいなくなっても、「そうか、あいつ、いなくなったのか」のひとことで一巻の終わりだった。いると逆に、
――あの野郎、まだいやがる。
そうみられていた。
しかし、このとき顔も|腫《は》れ、体中が痛み、そのうえ腹を蹴られたために急性盲腸炎がおきていたのである。ひとり汽車に乗り、旭川の実家にたどり着いた。
その夜、腹が痛みだし七転八倒の苦しさのあまり、救急車で旭川市内の病院に担ぎこまれた。すぐ手術室にうつされ、手術が行われた。いかに細いとはいえ、相撲取りになって四年目、腹に脂肪がついている。はじめて相撲取りの手術をするお医者さんの失敗だったのだろう、普通一週間で退院できる盲腸手術のあと、腹膜炎をおこした。
退院まで五十日もかかった。
秋場所、全休した。
「どうだろう」と、見舞いにあらわれた左官屋の村上清一郎社長がいった、「……おまえは、いくらやっても体が太らん。どうやら、わしの見立て違いだったみたいよ。もうこのまま廃業届けをだして、旭川で就職してみるか」
「むりをすることはねえな」と、そばの父もいった。
「いや、おれ、やるよ」と、廃業ときいて目を|剥《む》いた、「……おれ、東京へ帰るぜ」
そういった。
あれほど毎夜毎夜願った待望の入院手術という事態に追いこまれた。それも兄弟子の「可愛がり」が導火線になった。相撲取りになってはじめて秋場所を休場し、病院のベッドに寝ているのが耐えられなかった。新聞の「郷土出身力士の成績」をみていると、旭川出身の弟弟子が、どんどん勝っていく。このまま廃業したら、
(恥だ)
一回でもいい、その弟弟子を追い抜き、可愛がってくれた兄弟子さんの鼻をあかしてやらないと、肚の虫がおさまらない。
「よし、それじゃもう一場所だけ頑張ってみるか」と、村上大将がいった。そういって易者の姓名判断で教えられてきた三つの四股名を書いた紙をだし、
「さあ、このなかから好きな奴をえらべや。それで心機一転だ」
「うん、これいいな」
――北の富士。
その四股名をもって、秋場所中の出羽海部屋に帰った。あらわれたその姿をみて、あっちこっちから驚いたような声がかかってきた。
「おまえ、なにしにきた。やめたんじゃねえのか」
竹美山改め北の富士の誕生である。
その年(三十五年)十一月二十八日、九州場所千秋楽の翌未明、常ノ花の出羽海親方が急逝。十二月二十日、新出羽海の座に武蔵川親方が坐った。
その場所、北の富士は西三段目百二枚目で六勝一敗であった。
「すっきりした、いい名前だ」
そういって送りだしてくれた、村上大将の期待にこたえる快勝である。
あけて三十六年初場所、東三段目六十二枚目。
一挙に六十枚も飛んだ。
親方が代替わりして、部屋の雰囲気が一変した。
先代の時代には、名門の大部屋ゆえに大勢の年寄衆がたむろし、部屋中の天井や壁や柱にまで、「物言えば唇さむし」の呻きがしみついたかのような陰湿な空気が、重くよどんでいた。一生、部屋に飼い殺しにされ、物もいえず恨みつらみをのんで死んでいった年寄衆や、いまも|棲《す》む年寄衆の呪いのような空気であった。
竹美山などの目には、先代出羽海親方は、雲の上の遠い存在であった。割腹自殺をはかり理事長の座からおりたあとも、協会相談役として毎日協会へ出かけてゆく。稽古場は、当番制で部屋の年寄衆まかせである。その姿は、あまりにも近よりがたい貫禄にみちていた。
ところが武蔵川改め新出羽海親方の日々になって驚いた。
毎朝五時、稽古座敷に羽織|袴《はかま》に威儀をただした出羽海親方が、じきじきに姿をみせ、どっかりと陣取る。それも皮の|鞄《かばん》持参である。
「五人抜きをやった者に、褒美をやるぞ」
そう号令がかかったのだ。若い衆は、みな目の色をかえはじめた。目の前に懸賞金をぶらさげられ、張りきらないほうが不思議だった。連日、朝早くから稽古土俵は若い衆で占領され、みな目の色をかえ必死に稽古に打ちこみはじめた。そして出羽海親方が目を光らせているなか、みごと「五人抜き」をやってのけると、
「よし、褒美だ。とれ」
「ごっつあんです」
吐く息もはずみ、親方の前にすすみ出ると、鞄のなかから五百円、千円札を|鷲《わし》づかみにして懸賞金が手わたされる。それが関取衆が稽古土俵に姿をみせはじめる朝九時頃まで、何番も何番もつづいた。惜し気もなく、札束が鞄から吐きだされるのだ。
北の富士などは、もっとも張りきったひとりであった。
駅弁百円、映画一本百五十円、天丼百五十円の時代の五百円、千円札の鷲づかみである。この頃、大学卒の初任給が一万円台、一万円札(三十三年十二月一日発行)は、まだほとんどお目にかかれない時代だった。
これまで昼のチャンコを食ったあと、部屋でごろごろするしか能のなかった「その他大勢」組でさえ、目の色をかえ「五人抜き」で金にありつこうとする。「北の富士」と新しく改名した途端、長い間とぐろを巻いていた三段目ではじめて快勝する。三段目の中ほどまで跳ねあがる。しかも稽古場で勝てば、大金にありつけるのだ。
相撲取りになって四年目の新春、はじめてやる気が出てきた。
武蔵川の出羽海親方は、明治末期から大正時代に「出羽海王国」を築きあげ、同時に大相撲の屋台骨を揺るぎないものにして「相撲中興の祖」と|謳《うた》われる、|常陸《ひたち》山の出羽海谷右衛門の最後の弟子であった。
明治四十二年三月一日、東京府南|葛飾《かつしか》郡(現・東京都江東区)大島町で生まれた。本名、駒沢国一。石川県小松市今江村から出た父安次郎と母トヨの若い夫婦は、一旗あげようと上京し、十間川(現在の東陽町)の角、見渡す限り一面の|田圃《たんぼ》にできたばかりの大日本人造肥料会社の近くに、|米糠《こめぬか》、|魚粕《うおかす》、豆糟などを製造する肥料会社をはじめた。その長男だった。
大正七年、九つのときに、近所に住む口入れ稼業の橋本という親父さんに大きな体に目をつけられ、話が本所相生警察の高野保署長(のちの消防総監)にとび、高野署長の紹介で、当時、全盛の出羽海部屋に連れてこられた。時に常陸山の出羽海親方は、協会筆頭取締として角界に君臨し、出羽海部屋は大錦、栃木山の二横綱、大関九州山以下、幕内番付の片側を一門関取衆で独占する勢いだった。
出羽海“オンタイ”は、あらわれた国一少年を見ていった。
「相撲は好きか」
「はい、みるのは好きです」
「将来なんになりたい」
「海軍にいきたい。海軍大将になりたい」
「海軍大将はよほど勉強せんといかんぞ。相撲は、さしたる学問はいらんが、人間として行いをわきまえん奴は、なんになっても駄目だ」
そうやって常陸山“オンタイ”じきじきに教えを受け、全盛期の出羽海部屋の凄い稽古を少年時代にみて育った。大勢の弟子への容赦せぬ指導、金に糸目をつけぬ大盤振舞いなどを見ながら、子供心に、(すごいな)と、息をのむ日々を過ごした。常陸山の字引きに「蓄財」という字はなかった。部屋のため、弟子のため、女のために、金は湯水のごとく使った。使う一方から、金は泉のごとく湧いて出た。
「力士は力の|士《さむらい》である」という常陸山精神を身をもって体験した。「英雄色を好む」という豪快な好色ぶりもみて育った。
大正十一年六月十九日、出羽海“オンタイ”急逝。その翌年、関東大震災で、下町の本所|界隈《かいわい》は焼け野原と化し、常陸山が一代で築いた相生町の部屋も灰となった。しかし国一少年の脳裡に「常陸山」は生きつづけていたのである。
大正十三年、出羽海部屋に力士として入門した。子供心にも、人間として強烈に目を|醒《さ》まされた亡き常陸山を慕って、相撲の道へと踏みだしたのだ。大正十四年春場所、十五歳のとき初土俵を踏んだ。亡き“オンタイ”最後の弟子として、常陸山愛弟子の時の横綱常ノ花寛市の付人に新弟子のときから|抜擢《ばつてき》され、四股名も出羽ノ子から出羽ノ花となって可愛いがられ、昭和五年五月、十両に昇進。ところが幕下に落ちた昭和七年一月の「春秋園事件」のとき腸チフスで隔離されていて難を逃がれる。その直後、二月の変則春場所で、幕下筆頭から戦わずして一挙に入幕。しかし関取出羽ノ花としては、「双葉山」全盛時代に平凡な前頭筆頭で終わったものの、昭和十三年十二月十七日、母一人娘一人だった相撲茶屋「四つ万」をもつ市川家の婿養子に迎えられ、十五年夏場所限りで引退、年寄・武蔵川を襲名した。
自分が出羽海親方になるとは、夢にも思わなかった。年寄武蔵川になって簿記を覚え、終戦直後から協会の財政担当理事として大相撲の戦後復興に尽力してきたものの、まさか自分に出羽海の座がめぐってくるとは、思いもしなかった。常ノ花の出羽海親方の後継者は、「双葉山を破った男」|安芸《あき》ノ海の藤島親方のはずだった。常ノ花の長女を嫁にもらい、子供三人までもつ元横綱安芸ノ海の藤島親方が、八代目出羽海のエリートコースを歩んでいた。ところが昭和三十年一月、藤島親方は離婚とともに、角界廃業。そのときから在京理事の武蔵川親方の行く手に、|忽然《こつぜん》と出羽海親方の座がみえてきたのだった。
こうして思いもかけぬ運命のめぐりあわせで、自分がいま、その出羽海親方の座に坐った。しかし幸運児にも、家庭人―市川国一として人知れぬ苦しみがあった。
結婚のとき出羽ノ花は二十九、新妻|富美子《とみこ》二十だった。
十五年十月十二日、長女恵津子が生まれた。
十六年六月、「庭のある家に住みたい」という母マキの希望で、千葉県市川市市川の江戸川ぞいに建てられたばかりの中国の要人―|郭沫若《かくまつじやく》の屋敷を買い取り、移り住んだ。日中戦争の勃発とともに、郭沫若は亡命中の日本を脱出、抗日戦線に参加。そのため子供三人を育てるたみ夫人(伊達藩士の娘、旧姓佐藤)が市川市須和田に移り、売りに出した土地二百坪の広大な屋敷だった。
二十二年八月十七日、また女児が生まれ、|富久子《ふくこ》と名付けた。生後百日たって肺炎になり、高熱が出て、小児麻痺になった。「生きているのが不思議な生命だ。お家のいい環境で、好きな物を食べさし、自由に運動させてください」と医師からいわれた。
「この子を中心に家中がまわろう」と、そのとき夫婦できめ、以来、市川家は、だれか一人付き添いのいる富久子を中心に歳月を刻んできた。
そして突然、武蔵川改め出羽海親方となったときから、市川の屋敷を出て、両国の出羽海部屋に泊り込む単身赴任の師匠の身になり、富美子女将も、毎日、市川から車で約二十分の道程を往復する通いの女将。二十三年、富美子女将の母マキの歿後、小松市から呼ばれて駒沢家の年老いた両親も一緒に住むようになっていた。土曜の夜から日曜日、市川の家に帰る日々がはじまったのである。
ペニシリンのなかった終戦直後に生まれ、小児麻痺になった富久子――市川国一の出羽海親方には、|不憫《ふびん》な娘が心の底の支えになっていた。
いまも市川国一の脳裡には、常陸山“オンタイ”の豪快な姿がある。「日露戦争」に勝ち「世界の一等国」に仲間入りし、意気あがる明治、大正の日本を背景にしたあの常陸山“オンタイ”とは時代が違う。しかし、あの豪快さの真似はできないとしても、せめて常陸山のようになりたい――そう願った。三十四年一月の横綱千代の山の引退で淋しくなり、斜陽の一途をたどるこの出羽海部屋を|甦《よみがえ》らせるには、相撲部屋の|旧《ふる》い殻をまず打ち破ることだ。旧い因習を一掃することだ。つぎに戦後の新時代にふさわしい新風をつぎつぎと吹きこみ、沈滞しきった部屋に活力を注入する。先代から引き継いだ三段目、序二段の若い衆のなかに、必ずや眠っている逸材がいるはずだ。その連中の目を|醒《さ》まし、奮いたたせる――。
なにしろ出羽海親方には、富美子女将が経営する相撲茶屋「四つ万」から無尽蔵に金が湧き出てくる。
亡き常陸山“オンタイ”最後の弟子として、新弟子時代から「角界の織田信長」の異名をとった横綱常ノ花の付人になった。以来、出羽ノ花時代は「花ちゃん」と可愛いがられて、常陸山―常ノ花とつづく|豪奢《ごうしや》ななかで育ち、歌舞伎役者とも親しくなった。……いつも粋な大島|紬《つむぎ》を着ていた“オンタイ”の姿が頭にある。やがて趣味の|結城《ゆうき》紬の着物を通じて、六代目尾上菊五郎とは大の仲よしになり、富美子女将とのお見合いも、六代目の芝居観劇をしながらだった。その後は、六代目と競うように同じ呉服屋で仕立て、羽織袴はむろん、帯まで結城紬。はては|雨合羽《あまがつぱ》も結城紬。結城紬にのめりこむと、その織り、その色――と、渋さのよさは果てがない。
たまの日曜日となると、六代目や七代目中村|芝翫《しかん》、十一代目団十郎、さらに日本画の大御所、前田|青邨《せいそん》画伯など同年輩の客人を市川の屋敷に呼ぶのだ。そして何時間も水洗いしたフグを手料理で御馳走するのが、なによりの楽しみ。相撲が弱かったかわりに、チャンコ番で磨いた包丁捌きの腕は一級。常陸山―常ノ花二代の豪傑師匠仕込みで、歌舞伎にも日本画にも精通している。
相撲の親方としては、趣味から湧き出る金まで、異色のスケールの大きさである。
こうして出羽海親方による新作戦がつぎつぎと実行されてきた。
「牛乳作戦」
「カロリー作戦」
チャンコ鍋を突っつき、大酒と大飯を食うだけの相撲部屋に、大量の牛乳とビタミン入りの黄色い飯がもちこまれてきた。
(凄いな、凄い親方だな)
十八歳の北の富士は、心から驚いた。
「体、太らせろ」といわれ、朝から牛乳を飲まされるのだ。そのうえビタミン入りの黄色い飯を食い、つぎには「太る注射だ」といって尻に注射を打たれた。それが毎日つづく。
(おれでも、ひょっとしたら物になるんじゃないかな)
そう思った。いままでまったく無視されてきた存在だっただけに、一人前扱いをして目をかけてくれる出羽海親方をみて、はじめてそう思った。
(そうだ。太れば強くなるんだ)
|俄然《がぜん》、目の前が明るくなる思いだった。
部屋でごろごろしていると、女将さんに呼ばれた。居室まで出向くと、
「あなた、お金ないでしょ、これで遊んでらっしゃい」
お小遣いをくれた。
出羽海親方は、北の富士、福の花、松前山ら、三段目連中をつかまえていった。
「金は使え。どんどん使え」そういってから、こう釘をさした、「……いいか、金は|贔屓《ひいき》にもらうな。絶対にタニマチをおすな。金がなくなったら、わしがやる。親方のわしが贔屓になってやる」
「はい」
「いい酒を飲め。特級酒以外の酒は飲むな」
「はい」
なにからなにまで破天荒なことばかりがつづいた。いままで雲の上の存在だった出羽海親方が急に身近な存在になり、師匠じきじきにやる気を起こさせてくれるのだ。
長い眠りから揺り起こされた。
その年(三十六年)――。
初場所、東三段目六十二枚目、五勝二敗。
春場所、東三段目二十七枚目、四勝三敗。
夏場所、西三段目十四枚目、五勝二敗。
つぎの名古屋場所、初土俵から数えて五年二十七場所目、ついに幕下入りをとげた。
西幕下八十一枚目である。
「五年三十場所で幕下に昇進できない者は養成費を打ちきる」という力士整理制度の天井まで、あと三場所残すのみ。あやうく、たどりついた幕下である。
北の富士にとって、武蔵川の出羽海親方は、まさしく“育ての大恩人”といえた。
その年夏場所、佐田の山が十二勝三敗の平幕優勝をやってのけた。入幕三場所目、西前頭十三枚目での初優勝である。つぎの名古屋場所、東前頭二枚目に躍進。柏戸、北葉山の二大関、若乃花、朝潮の二横綱を破り十一勝四敗。初の殊勲賞とともに秋場所、関脇に昇進した。
出羽海部屋に春が戻ってきた。
北の富士は幕下入りするや、幕内金ノ花関の付人になった。幕下で三度足踏みしたのみ、あとは来る場所来る場所、確実に勝ち越し、一歩一歩、階段を踏みしめるように上へのぼっていった。
三十七年秋場所、西幕下十二枚目。
十両目前である。その場所から、幕内出羽錦関の付人に選ばれた。
昔、若い頃、出羽海一門の巡業先で春日野部屋の栃錦と組んで|初切《しよつき》りをやっていた出羽錦である。大正十四年生まれ。昭和二十二年十一月に入幕して以来、いまだに幕内で頑張り、塩を指先でちょろりと|撒《ま》く軽妙|洒脱《しやだつ》さ。重い腰で横綱若乃花とは三度も引き分けにもちこみ、横綱大鵬に“猫だまし”の奇手を飛ばした。その一挙手一投足がしぶい職人芸である。
その出羽錦の付人に選ばれたことは、
――関取候補生。
「香車」が、とうとう出羽海部屋の次代を背負う有望力士に変身したのである。いつの間にか、悔し涙をのんで泣いた相手をはるか下に追い抜き去っていた。
(ひょっとしたら、おれも)
そう思いながら一段一段、上へあがり、幕下を十場所で通過。
三十八年春場所、新十両――。
ついに関取入りをはたしていた。初土俵から数えて六年三十七場所目の春である。
このとき龍虎は、花武蔵改め若神山――。
まだ幕下四十五枚目にとぐろを巻いていた。こちらは初土俵から四場所目の三十二年秋、はじめて番付に名前がのった。その後、幕下入りは、初土俵から二十五場所目。北の富士より二場所早かった。ところが東京は羽田生まれのちゃきちゃきの江戸ッ子。根っからの遊び人で、酒は飲む、バクチは打つ、女はからかうのちょん|髷《まげ》渡世である。三十七年夏場所、横綱若乃花が引退、花籠部屋から二子山部屋へと分家独立してゆくとき、「一緒に連れてってほしい」と泣いて頼んだ。すると二子山親方から、
「おまえみたいなショッパイ奴ぁ駄目だッ」
吐いて捨てるようにいわれた。
それでも龍虎の若神山は、まだ目が醒めなかった。依然として幕下暮らしに安住していた。
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第五章 相撲取りの高校生
(なんだ、もう着いちゃった。飛行機てな、案外つまんないな)
羽田空港に降りたって、秋元貢少年はがっかりだった。
四十五年八月二十五日のことである。
車に乗せられ、台東区浅草三丁目、|浅草寺《せんそうじ》裏の九重部屋に到着した。おりから鉄筋四階建てのビルが新築中で、一階の稽古場をのぞくと、隅に鉄砲柱が一本建っているだけ。まだ土もはいらず、稽古土俵もない。
九月八日には、秋場所前の新弟子検査が行われる。二週間しかない。
「そら食え。いくらでも食え」
入門したその夜から、いままでみたこともない御馳走を目の前に山とつまれ、銀飯を腹いっぱい食う毎日がはじまった。なにしろ四十四年五月から改正された新弟子基準では満十八歳の者までは、
――身長百七十センチ以上、体重七十キロ以上。
その合格基準に体重がたりないのだ。毎日、腹いっぱい食わされ、二週間で三キロも太った。いよいよ新弟子検査日がやってきた。
その朝、おじやを六杯食わされ、水を腹いっぱい飲まされた。この日、九重部屋からは秋元少年をいれ三人の新弟子が、検査を受けにいく。
うちひとりは、食いすぎのあまり目をまわして吐いてしまい、伸びてしまった。待っていられない。親方に連れられ、蔵前国技館内の新弟子検査会場に着いた。
(ほう、おら、まだいい方だな)
まわりを見渡して、ほっとひと安心だった。
番号が呼ばれ、パンツ一枚姿で秤に乗る。その直前、一升瓶を口にあて水をラッパ飲みしている奴がいる。番号が呼ばれると、付き添いの兄弟子から怒鳴られている奴もいる。
「ほら、静かにな、静かに起きれ。走って歩くなよ。そろそろ歩け。背がちぢんじゃうぞ」
背が足りないのだ。おそるおそる歩いて、身長台に向かっていく。
秋元少年は、身長百七十二・五センチ、体重七十一キロで無事合格した。身長は百七十七センチある少年が、検査では、百七十二・五センチ。記録係が数字を間違ったのだろうか。大ざっぱな計り方だけに、検査前の大騒ぎが楽しかった。ともあれ二週間の増量作戦とおじや六杯のおかげで、すれすれ一キロの差で関門を通過したのである。
秋場所、初土俵を踏んだ。十五歳である。
飛行機につられて東京に着き、御馳走攻めにあい、いや応なく相撲取りにさせられてしまった。
前相撲を取った。
同期生は三十七人。新弟子検査でふられたのは一人にすぎなかった。
秋元少年は、六日目に白星を上げ、八日目の最後のチャンスにも勝ち、やっと一番出世組二十人の十九番目に滑りこんだ。
一番は玉ノ富士、二番は安達(のちの蔵玉錦)である。玉ノ富士は、昭和二十四年十一月生まれの二十歳。はじめ四十二年夏に片男波部屋から初土俵を踏んだが、「どうも相撲社会は性にあわん」と脱走。二年間、自衛隊にいって、一等陸士になった。ところが「自衛隊で出世するには学歴がものをいう。ここはやめた」と再び片男波部屋の門を叩いた。“出戻り”であった。このとき、はじめの阿久津(本名)改め玉ノ富士と、名も改めての再出発だ。
新弟子秋元少年は、九月の二学期から、転校手続きをとってもらい、台東区立福井中学三年に通った。
つぎの九州場所、番付にはじめて名前がのった。
――大秋元。
部屋に秋元姓の兄弟子がいたため、親方が上に「|大《おお》」とつけてくれたのだ。
東序ノ口十枚目、五勝二敗であった。
序ノ口優勝は、七戦全勝の玉ノ富士がにぎった。
あけて四十六年初場所を迎え、東序二段五十七枚目である。序ノ口を一場所で通過したのだ。場所前、親方から新しい四股名を贈られた。
――千代の富士。
いい名前だなと思い、ひどく嬉しかった。その夜、早速、北海道の家に電話をかけた。
「おれ、四股名もらったよ」
「ほう、いい名前をもらったな」と電話の向こうで、父の声が嬉しそうにはずんだ、「……貢、それはおまえ、千代の山、北の富士と二人の横綱をたした名前じゃないか。よかった、よかった。頑張らなきゃ駄目だよ」
実際、嬉しかった。すると、調子づいた千代の富士に、古い兄弟子が声をかけてきた。
「おい、千代の富士てのはな、前にもいたんだよ。おまえは二代目だよ」
「へえッ」
「初代はな」と、兄弟子はにやにや笑いながらつづけた、「……きっぷのいい相撲取って強かったよ。白いアンコで、おまえなんかより、よっぽど大きかった」
「へええ」
「ところがよ、それがいい家の坊っちゃんでな、やたら正義感が強くて、兄弟子にたてつきよった。“鍋ののこり|滓《かす》ばっかり、ひでえもの食わしやがる”とかよ、文句つけやがってな、序二段でケツ割ってやめちまった」
なんだ、おりゃ二代目かとがっかりした。
「おまえもよ、その口になんなよ」
その頃である。
千代の富士は、新装なって土俵開きもすませた部屋の稽古場で、横綱北の富士の胸をかりてぶつかった。まだザンバラ髪。ちょん|髷《まげ》も結えない。ぶつかっては赤児のように投げられる。
しかし、北の富士は、内心驚いた。
はじめ(こんな小さな奴、もつかな)と思った少年が見かけによらず足腰がいい。力もある。そのうえ目つきが凄い。十五歳の少年ながら、目がらんらんとかがやいて、不敵にもこちらを|睨《にら》みつけてくるのだ。
(ほう、このちっこいの、すごい目してるな。案外、強くなるんじゃないの)
そう思った。
北の富士は、ニックネーム付けの天才だった。有望な新弟子にはカッコいいニックネーム、ときにはおふざけと二種類にわけてつける。この頃、十両の北瀬海には「穴熊」。四十三年十一月に初土俵を踏んだ岩手県出身の滝沢(のち影虎)は、短足から「ダックスフント」。そんな具合である。なにしろ部屋にいる若い衆は、どれもこれも四股名の頭に「千代」か「北」がついている。ニックネームをつけてやらないと、呼びわけようがない。
稽古がおわり、チャンコの席でチャンコ番をしている千代の富士に呼びかけた。
「おい、おまえ、狼だ。きょうから狼だ」
「はい」
「なあみんな、きょうから秋元を狼と呼んでやれ。どうだカッコいいだろ」
横綱は、そういって颯爽と立っていった。
千代の富士は、いやーな感じだった。狼てな、悪役じゃねえか。「赤ずきんちゃん」「三匹の子ブタ」と西洋のおとぎ話に出てくる狼は、みな悪役じゃねえか。諺にしても「狼に衣」、「送り狼」と狼はどれもこれも悪者だ。いやだな、おれ――と、気乗りしなかった。
やがて「狼」が「ウルフ」にかわった。
「オオカミ」
発音しづらいのだ。それならば英語の「ウルフ」がいいと、「ウルフ」にかわった。それでも、千代の富士は、やっぱり内心ではいやだった。
初場所、四勝三敗と勝ち越した。
序二段優勝は、再び七戦全勝の玉ノ富士にかがやいた。
場所が終わって間もなくのことである。
ある日、千代の富士が御徒町近くの桜井家へぶらりとあらわれた。
昨年夏、桜井家の当主昭男は、はじめて上京する少年を羽田まで出迎えに行ったものの、結局迎えられなかった。数日後、浅草の九重部屋にいき、東京でたった一軒の親戚として親方にも挨拶した。以来ときどき夕方、なにか困ったこと、思い悩むことがあると、少年は、ぷらっとあらわれる。浅草から地下鉄銀座線にのり末広町で降りれば、歩いて五分ほどでこられる。蔵前通りを蔵前の方に歩き、途中で右に折れたらすぐだ。
桜井家は、戦前から、紙を切る押切|截断《せつだん》機の製作会社である。
桜井昭男は、東富士の井上謹一少年より四つ年上で、家が隣同士だった。
玄関の戸が、ガラッとあいて、桜井昭男が出てみると、蒼ざめた千代の富士が立っている。
「どうしたんだい」
「もう、おれ、いやだ」と吐き捨てた、「……荷物、送りかえしちゃった。北海道へ帰るよ」
そういって|悄然《しようぜん》と肩を落としている。無理もないと桜井昭男は思った。この子は、相撲取りになる気などさらさらない。ただ飛行機に乗りたくて、乗ってしまった。ただ、それだけだった。
「そうか、帰るか……」そういって座敷へあげてみると、千代の富士の口から、こうもれた。
「兄弟子のね、|折檻《せつかん》がきびしいんだ」
「そら、あたりまえじゃないか。……やられたのか」
「おれ、やられねえよ。……仲間がね、ちょっと悪いことして、ひどい折檻うけたんだ」
「あたりまえだ」
「おれ、もう北海道へ帰るよ」
「帰りなさい」そう桜井昭男はいった、「……だけどね、貢、おまえ、一体なにしに東京まできたの? ……本当に、ただ飛行機に乗りたくて、ただ、それだけできたの?」
そういわれて少年は、深刻に考えこむのだった。やがて、ぽつりと呟いた。
「おれ、……やっぱり帰るの、よした」
それから数日後である。
再び、桜井家に千代の富士があらわれた。以前と同じように、顔つきが沈んでいる。
「どうしたい、貢」やさしく声をかけてやった、「……なにか、いやなことでもあったのか」
「おじさん、どうすりゃいいだろ」と、千代の富士は冴えない顔でいった、「……おれ、どうしても高校へいきたいんだ」
無理だ、それだけは絶対に無理だ、相撲を取りながら高校進学などとても親方が許してはくれまい――そう思った。しかしその思いを|肚《はら》にとめたまま、少年にいった。
「どうしてもいきたいか」
「うん、どうしてもいきたいんだ」
「それじゃ親方に相談してみたら。それしか、ないよ」
まだ子供だな、物事の判断がつかない。思いつめたら、それひとつ。だから「飛行機、飛行機」といって、東京まで来ちゃったんだ――桜井昭男は、そう思った。
その夜、千代の富士は、九重親方に申し出た。
「親方、おれ、上の学校へいきたい」
「上の学校?」
「はい、高校です」
そういう十五歳の少年の顔は引き締まり、目がきらりと光っている。
「どうしても、いきたいか」
「はい」
「よし、わかった」親方は、そばにいた光恵夫人にいった、「……おい、高校へいけるように準備してやってくれ」
光恵夫人は驚いた。九重部屋を興して四年になる。その間、大勢の若い子の面倒をみてきた。中学校を卒業した子供ばかり。女将として母代わりとなって、怪我や仲間うちの喧嘩や団体生活のわずらわしさなど、いろいろな悩みの相談にのってきた。しかしこんな注文をだしてきた子は、かつて一度もなかった。
――高校へいかせてほしい。
聞いたことがない。それも、こんな注文を親方にいって叱られないかな、どうしようかなと思い悩み、おそるおそる女将のあたしに打診してくるのではない。自分の意志をストレートに親方にいう。ものおじしない。まあ、この子、はっきりしてはるわ。
初場所のあと、中学三年の三学期、明大附属中野高校普通科を受験した。
みごと合格した。
光恵女将は大変だった。一方で、料亭「花月」を経営している。一方で、相撲部屋の女将である。そこへ、高校進学準備という母親として初体験の仕事が舞いこんできたのだ。
「ねえ、静代さん、あなた手伝ってちょうだい」
昔からいる「花月」のお手伝い静代に頼んだ。静代は、横綱千代の山時代に出羽海部屋の若者頭をつとめた浪錦の|姪《めい》にあたる。一をいえば十が判る重宝な片腕だった。
二人で浅草から中野の高校へ行く。入学金、学費を払い、入学手続きをすませたあと、学生服、体操服、靴、鞄、教科書……と準備万端やりおえた。
「高校へいきたい」という前例のない無理を親方が文句ひとついわず認めたのだ。女将自身は判らない。しかし横綱まで張った親方がそれを黙認したということは、とりもなおさず、
――この子は、将来、強くなる。
そう、親方は見抜いているのだ。
やがて三月の大阪春場所がきた。
千代の富士は、西序二段三十八枚目で四勝三敗。一点の差ながら、勝ち越した。
四月、明大附属中野高校への通学がはじまった。朝七時半、ツメ襟の学生服を着、ザンバラ髪の頭に学生帽をかぶり、学生鞄を手に嬉しそうに部屋をでてゆく。
(いいカッコね)
そのいきいきとした姿をみて、女将はそう思った。
観音さんの境内を南へ一直線に走り抜け、地下鉄銀座線の浅草駅から神田まで。神田から中央線に乗りかえ東中野まで。約一時間の通学時間。
千代の富士は、毎朝五時に起きた。すぐに稽古場に降りて、稽古はそうそうにきりあげ、それから学校に通うのだ。稽古場では、兄弟子や新弟子仲間がみんな稽古にはげんでいる。しかも春に初土俵を踏んだ新弟子は全員、蔵前国技館の教習所通いである。千代の富士だけが、高校に通った。
午後、学校から部屋に帰ってくると、大部屋でトランプや花札をしている兄弟子連中から、ひやかしの声がかかってきた。
「おう、ウルフ。……おまえ、一体なんになったんだあ?……相撲取りか、学生か」
学生服姿の千代の富士は、無言で相手の目をみている。
「勉強なんか、するな!! 相撲取りにな、勉強は必要ねえんだよう!!」
千代の富士は、兄弟子の目をみつめるだけだった。
夏場所、西序二段十九枚目、四勝三敗。やはり一点の差ながら勝ち越した。
この夏場所、三保ケ関部屋にあらわれた怪童|北《きた》の|湖《うみ》が、新十両である。貴ノ花のもつ十八歳十二日の記録を破る十七歳十一カ月の史上最年少十両だった。北の湖は、昭和二十八年五月生まれ。四十二年一月、三保ケ関親方の長男瑞竜(のち大関増位山)と一緒に初土俵を踏んだ。そのとき北の湖は十三歳の中学生、一方、瑞竜の方は日大一高卒の十八歳だった。
六月一日の誕生日がきて、千代の富士は十六歳になった。
名古屋場所がきた。
夏場所は東京・蔵前の国技館だった。だから本場所十五日間のうち序二段の土俵に立つ七日間だけ学校を休めばよかった。しかしこんどは名古屋である。学校はまだ夏休みにはいっていない。
六月十九日に番付発表。初日は七月二日、千秋楽は七月十六日である。
番付発表前日の六月十八日には、相撲取りは全員名古屋の宿舎に移動するのだ。学校は約一カ月の長期欠席だった。
名古屋場所、西序二段五枚目。勝ち越せば、番付も一段上の三段目にあがる。
しかし、初日から四連敗し、後半立ちなおり白星を三つ稼いだものの、三勝四敗と負け越した。相撲にはいって、はじめての負け越しだ。
ショックだった。
東京に帰ると、高校の一学期は、もう一週間残っているだけであった。
御徒町の桜井家に、またふらりと千代の富士が舞いこんできた。
姉の佐登子が、ことし四月から上野松坂屋の店員になって上京してきている。二十八年三月生まれ、千代の富士より二つ年上。
「東京に出て社会勉強してきたい。東京の人と結婚する気はない。三年すれば、必ず帰ってきて、お父ちゃんお母ちゃんと一緒に暮らす」
そういう約束で、北海道立福島商高を卒業し、この四月、上京して桜井家の別棟の一部屋に居候していた。上野松坂屋は歩いて十分。オモチャ売り場の正規社員である。
桜井家では、千代の富士があらわれると、そのまま姉の部屋にとおし、できるだけ干渉しないようにした。いくら親戚とはいえ、二人には桜井家への遠慮がある。決して気がねさしてはいけない。広い東京の空の下でたった二人の姉弟が話しあう。それだけでいい。それだけで気が晴れる。解決がつかないときにだけ相談にのってやろうと思った。千代の富士はいつも姉のいる夕方七時頃きて、夜十時には帰っていった。
そのときもそうだった。
桜井家の玄関のガラス戸を弱々しく開けてはいってきたときから、桜井昭男は、ひと目みて、また何か困っているなと直観した。元気がない。名古屋で負け越したせいではない。
姉弟二人で話しあっているようだった。そのあと、千代の富士が桜井昭男のところにやってきた。
「おじさん」肩を落としていった、「……おれ、どうしても学校へいけない」
「貢、そんなこと最初からわかりきっていることじゃないか。親方が、おまえの無理をよく許してくれた、そう、おれは感謝してたんだよ。この親方ならまかして大丈夫だと感謝してたんだ」
「おじさん、どうすりゃいいだろ」
「学校をとるか、相撲をとるか……」といって桜井昭男は、|咽喉《のど》まできている言葉をのんだ、
「……貢、どうする?」
「おれ、相撲やめて、もう帰るかな……」
十六歳の少年が揺れている。大揺れに揺れている。相撲を取り、一方で高校に通う。その二重生活がなり立たない。このままでは、そのどちらも中途半端になる。学校は欠席つづきでクラスの仲間にどんどん差をつけられ、勉強がついていけない。一方、相撲も学校に通うため、思うように取れない。どうすればいい――大揺れの少年の心が、手にとるようにみえた。
「そう、北海道へ帰るか。じゃ帰りなさい」そう桜井昭男はいった、「……だけどな、貢、それじゃ、無理をきいてくれた親方に申し訳ないと思わないか」
「そうか……」千代の富士は、顔をあげ、やがてきっぱりといった、「おじさん、おれ、帰んないことにした。学校はもうやめる。やめて相撲一本でいく。おじさん、きめたよ」
来たときと別人のように明るく夜の往来に出ていった。走ってゆくその背中に向かって姉が呼びかけた。
「貢、頑張るのよッ」
「あいよーッ」と、遠くの|闇《やみ》のなかから元気な声がかえってきた。
その翌日である。
稽古が終わり、チャンコもすんだ午後、九重ビル四階にある親方の居室(洋間)に千代の富士があらわれた。
「親方、申しわけありません」そう手をついて頭をさげた、「……学校はあきらめました。これから相撲一筋にいきます」
「そうか、学校は、やめるか」と、九重親方は喜色満面でいった、「……両立しない、それが自分でよくわかったんだな」
「はい、申しわけありませんでした」
「よく決心してくれた。おまえが、こういってくる日が、いつか、いつかと待ってた」
そういって九重親方は、目の涙を大きな手で|拭《ぬぐ》った。
「これからは相撲一筋。早く博多帯をしめて、|雪駄《せつた》がはけるよう一生懸命に稽古するんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
そのあと九重親方は部屋を出て、柳橋の「花月」に駆けこんだ。光恵夫人をつかまえると、嬉しさのあまり咳こみながらいうのだった。
「おい、貢がな、いってきたぞ」
「あら、なんて?」
「学校をやめるんだ。学校をあきらめ、相撲一筋でいく。……そういってきた」
「あなた、……よかったわね」
「おまえにも迷惑かけたな。静代にも、よくいっといてくれ」
このとき遠く北海道では、千代の富士の父秋元松夫が、函館市の高橋病院のベッドで|憔悴《しようすい》しきっていた。
六月、手術を受け、胃を半分切除した。
伜が相撲にとられ函館から東京へと飛んでいった一年前のあの夜、泣きつづける女房や娘をみていたたまれず、波の荒い夜の海へイカ釣りに出た。沖で真っ暗な海に向かって泣きながら叫んだ。
「なぜだ。親子四人、平和なおれの家がなぜ、ずたずたにされちゃうんだ。返してくれ。貢を、返してくれッ」
以来、伜の身の上を案じ、締めつけられるような毎日がつづいた。ことしの春、佐登子を上京させた。家はとうとう夫婦二人きりになった。子供二人がどうしているかと思うと、夜も寝られなかった。その果てに胃が刺されるように痛みだし、ついには血を吐いた。神経性胃炎が悪化、胃潰瘍になったのだ。
もう力仕事の漁師ができる体ではなくなった。
一家の暮らしをたてるため、女房が働きに出た。福島町のスルメ加工工場にパートで働きはじめたのだ。女房の助けをかりないと、入院費すらなかった。
「飛行機」にだまされ、一人息子を相撲にさらわれた両親は、あえぐような日々を送っていた。
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第六章 天 真 爛 漫
――早く百キロになりたい。肉、なんとかつかねえかな。
三十八年春場所、十両に名乗りをあげた北の富士の一番の願いが、それだった。十両になったものの、体重がまだ九十キロ台にすぎない。それに対して身長は、
百八十一・四センチ――。
すらりと細い八頭身である。分厚いまわしを腹に巻かれて腰ッ骨が痛かった新弟子時代にくらべ、さすがに肉はついたものの、平均体重が百二十キロ台の幕内をめざすには、なんとしても百キロになりたかった。
春場所、西十両十八枚目、九勝六敗。
新十両で見事に勝ち越した。
四月、六つ年下の末弟、|恵《さとし》が上京してきた。旭川で中学を卒業し、柳橋の「花月」に板前の見習いとして住みこんだのである。きっぷも父親と兄貴の北の富士にそっくりなら、体つきまで兄貴にそっくりな弟だった。兄弟で久し振りに話がはずんだ。
「なあ、恵、おれ、いまもときどきおじいちゃんを思いだすで」
「兄貴はいいよ」と弟がいった、「……おじいちゃんの最期をみなくてすんで」
「たしか、おれが序二段の頃だったよな」
「そう、ぼくは小学校の三年だった。胃ガンだとわかったときは、もう手がつけられなかった。医者にもみせられなくて、苦しんでのたうちまわって死んだもんな。あの頃が、貧乏のドン底だった」
「おれ」といって北の富士も目を熱くした、「……電報で知って、わんわん泣いたで、まだ下ッ端で、葬式にもいけなかった」
「身内だけの、みじめな葬式だったよ」
「なあ、恵」と北の富士は、もう涙をふっきるように、明るくいった、「……おまえは、本格的に板前をやるつもりか」
「水商売が好きなんだ。親父に似てな」
「はッ、は……そこまで親父に似たか。どうだ、親父はあいかわらずひょこひょこやってるか」
「あいよ。いい気なもんだ。ありゃ兄貴、北海道人というより、生粋の江戸ッ子という感じよ。だからおふくろが苦労するで……」
「おふくろは元気かい」
「うん、あいかわらずこつこつ働いてるよ」
「おりゃ、とうとう十両まできたけど、おまえ、どう思う」そういって北の富士は、人差し指で自分をさした、「……おれ、根性あると思うか」
「兄貴、正直にいっていいか」
「正直にいってくれ」
「わるいけど、ないな」
「な、実はおれもそう思うんだ」といって北の富士は笑いながら、弟の頭をかるくポカンと殴った、「……しかしよ、ちっとはあるだろ。ひとつまみぐらいは、あるだろ」
「うん、ちっとはな……」
仲のいい兄弟二人は、腹をかかえて笑いあった。
十両北の富士は、もう以前の「香車」ではなかった。はつらつとした若さに溢れ、颯爽たる有望関取、完全に別人に変身している。
稽古場では、大関佐田の山が率先して北の富士に胸をだした。
佐田の山は昭和十三年二月生まれの二十五歳。|気魄《きはく》ひとつで入幕から九場所目の昨年夏場所に大関にのぼり、いまや全盛期の「柏鵬」に殴りこみをかける名門出羽海部屋の部屋頭である。すでに平幕と関脇で優勝二回。この四月、出羽海親方、市川家への婿入りもきまっている。
その佐田の山が、北の富士のまえに立ってきたのだ。大関に昇進し「柏鵬」に殴りこみをかけても、自分ひとりだけでは名門出羽海に春をよぶには駒不足だ。若い北の富士を自分の胸から育てあげてこそ出羽海は甦る。連日、稽古場に北の富士を引きずりだし、精魂つきはてるまで激しい稽古、稽古で可愛がりはじめた。
北の富士は、へとへとにへたばり足腰がたたない。はァはァ息を吐いて、
「おれ、も、参ったァ」
「だめだ、だめだ。なにをこれしきで音をあげとるかッ。さあ、立てッ」
佐田の山の|叱咤《しつた》が飛ぶ。
ふらふらになって立つや、大関の胸めがけて頭からぶつかった。そんな毎日がつづいた。その過程をへて、北の富士のなかに眠っていた素質が、みるみる引きだされてきたのである。
夏場所、東十両十一枚目、十勝五敗。
名古屋場所、東十両六枚目、四勝十一敗。
秋場所、東十両十七枚目、十一勝四敗。
九州場所、西十両五枚目、十五戦全勝の十両優勝をとげた。
あけて三十九年初場所、新入幕である。
十両をわずか五場所で突っ走り、入幕してしまった。しかし新入幕のその時点でさえ、体重はまだ九十八キロにすぎない。相撲博物館に残る「北の富士星取表」には、公称百五キロ。しかし、実際には百キロなかったのだ。この頃、場所ごとの体重測定は、関取衆からの届けが「公称」になった。百五キロの届けは、少しでも大きくみせたい願望の裏返しにほかならなかった。
新入幕、東前頭十枚目である。
初日から快調な土俵をつづけ、みんなが呆気にとられている間に、十三勝二敗。初の敢闘賞をさらってしまった。
二敗の相手は六日目の東前頭十四枚目若見山、九日目の東前頭十三枚目清国であった。若見山は立浪部屋の百七十六キロの巨漢。一方清国は、北の富士より一場所早く昨年の九州場所に新入幕した伊勢ケ浜部屋の新鋭、当年二十二歳である。
春場所、一挙に三役に昇進。東小結である。
入幕二場所目で、いきなり大関、横綱をはじめ三役陣と顔があう。
四日目を終わって三勝一敗。五日目から黒星十個を並べて、場所が終わってみると四勝十一敗。まだ家賃が、高かった。
つぎの夏場所、東前頭五枚目で九勝六敗、初の技能賞にかがやいた。
この頃、ついに百キロの壁を突破した。正味百五キロ。百八十一・四センチの長身にようやく肉がつきはじめ、湧き出てくるような自信にみちみちた。
名古屋場所、西関脇。
平幕転落一場所で三役に返り咲き、再び横綱大関陣への挑戦である。
そんな北の富士をつかまえ、出羽海親方はいった。
「けちな遊びはするな。遊ぶなら堂々と柳橋でな、それも一流料亭にあがって遊べ」
「はい」
「けちな女などと遊ぶなよ。一流料亭の一流の芸者を抱け」
「はい」
「金は、わしがやる」
そういって、大金をくれた。
出羽海親方の|薫陶《くんとう》は、まだつづいた。
「この前の新三役は、家賃が高かったな。大負けしたのも、いい勉強だ」
そういって出羽海親方は豪快に笑った。佐田の山を養子に迎え安心したのか、名門出羽海の総帥としての風格が一段とにじみ出てきている。
「こんどは二度目の三役だ。平幕なんぞにいくら勝っても意味がない。勝ってあたりまえだ」そういって、親方は凄い目で|睨《にら》みつけてきた、「……いいか、横綱、大関を喰え。大関を喰えば五万円、横綱を喰えば十万円、わしがくれてやるぞ」
(こりゃすげえ)
舌をまいた。
遊べ遊べ、一流どころで遊び、一流の女を抱けとハッパをかけられる。そのうえ本場所の一番で、横綱、大関を喰うと、大金が転がりこんでくるのだ。この時代、大学卒の初任給は二万、背広は一万五千円。「三種の神器」といわれたテレビは、白黒16型が五万円、電気洗濯機が三万円、冷蔵庫が五万円。大蔵省発表(四十一年三月)の標準生計費が一日食費百八十六円八十七銭。そんな時代の五万円、十万円である。大関を喰うだけでサラリーマン一年生の月給二カ月分以上がもらえ、横綱も喰えばテレビも洗濯機も冷蔵庫も買えておつりがくる。
張りきった。
タニマチの御祝儀ではない。御祝儀なら、くれたタニマチに金の義理でしばられる。お世辞のひとつもいわねばならない。親方は「タニマチは絶対におすな」、金はもらうなという。そのかわり師匠みずからがタニマチになって小遣いをくれ、本場所に懸賞金までだしてくれる。これは師匠から弟子にくれる褒美。きれいさっぱり使いはたして、どこのだれ様からも文句なし。しかも宵越しの金はもたない才覚にかけては、遊び人たることを鼻にかける親譲り、だれにも引けはとらない。
遊びまくった。
兄弟子佐田の山に連れられ、十両時代は、よくなめにいった。“なめる”とは、女郎を買う意の隠語である。女の体をなめるという直截そのものの符帳であった。佐田の山もまだ独身だった。彼にとっても、ぐんぐんのしてくる北の富士は可愛い一番の弟弟子だったのだ。
しかし、いまや遊びのスケールが違った。
きのうは柳橋の料亭、きょうは銀座の高級クラブ、あすは赤坂――颯爽とはでに遊びまくった。稽古場では大関佐田の山に鍛えあげられ、私生活では出羽海親方が一切面倒をみてくれる。天性陽気な北の富士の明るさは、いまや底抜けになってきた。
「いいとこ横綱」
かつての「香車」にかわって、横綱にもならないのに、そんなニックネームもついてきた。明けても暮れても、いい調子でスッ頓狂な冗談を飛ばし、笑いを部屋中にふりまく。酒がはいれば歌も飛びだす。屈託がない。素直な生肌まるだし。陰や裏が微塵もないのだ。親方衆も先輩関取衆も怒るに怒れなかった。この男に限って敵ができようはずがなかった。こうして本来悪い意味の「いいとこ売る」という相撲界隠語でさえ、その意味が正反対に逆転し、字面どおり一門中のナンバーワンとして、そのニックネームが生まれてきた。
「いいとこ横綱」
そう呼ばれて、浪花節の森の石松さながら、
「お、おりゃ、相撲はだめだが、口はまァ横綱だな」
自分で軽口を叩いて、仲間を笑いの渦にまきこんでいた。
四十年初場所、東大関佐田の山は十三勝二敗、三回目の優勝をとげた。場所後一月二十七日横綱審議委員会満場一致の推薦で、第五十代横綱に昇進する。
出羽海部屋に春がきた。
久しく斜陽をかこった名門に、二十六年秋の千代の山以来、十四年ぶりに横綱が誕生したのだ。しかも分家の春日野部屋にはすでに横綱栃ノ海(三十九年二月昇進)がおり、出羽海一門は、一挙に二横綱を抱えたのである。
佐田の山の横綱昇進で、大鵬、柏戸、栃ノ海、佐田の山と豪華「四横綱時代」の幕開けである。大鵬二十四歳、柏戸、栃ノ海、佐田の山の三人は、そろって昭和十三年生まれの二十六歳。若さ溢れる四横綱である。
場所後の一月二十九日午後二時、明治神宮で横綱推挙式が行われた。
大勢の相撲ファンが見守るなか、神宮神殿前で時津風相撲協会理事長から推挙状、吉田司家後見人から真新しい横綱と故実一巻が贈られ、式が終わった。
そのあと佐田の山は、神前の石畳にすすみ出、初の雲竜型土俵入りを奉納。従うは太刀持ち北の富士、露払い金乃花である。
北の富士は、この初場所、西関脇。八勝七敗。通算四場所目の三役の座を守っていた。千秋楽の夜、国技館から両国の出羽海部屋まで隅田川沿いにつづいたオープンカーに乗っての優勝パレードでも、主役佐田の山関の隣りで優勝旗をもって介添した。いまや新横綱佐田の山につぐ、出羽海部屋のホープになっている。
つぎの春場所、西関脇で五勝十敗と負け越し、夏場所に東前頭三枚目に落ちた。しかし、二日目、横綱大鵬戦。外掛けで大鵬を破る大金星をあげた。六戦目にしてはじめて大横綱を破ったのである。これが横綱戦、初の金星でもあった。
懸賞金十万円が、その夜、師匠から贈られた。
その場所は八勝七敗であった。
つぎの名古屋場所、東前頭二枚目で八勝七敗。
秋場所、小結に返り咲き、十勝五敗の好成績をあげた。
九州場所、東関脇、九勝六敗。
あけて四十一年――。
初場所、東関脇。十勝五敗。初の殊勲賞にかがやいた。十日目、横綱柏戸を叩きこみに破ったのだ。五戦目にして、柏戸にはじめて勝った。
「速攻北の富士」
そう看板がかかってきた。
「香車」時代の一直線に走って出るや、あとは投げを打って暴れまくった相撲は、姿を消していた。いまや体重も百二十一キロ。
すらりとした長身にいい具合に肉がつき、|臍《へそ》がかくれるほど高くまわしを締め、みるからに現代的で颯爽としている。
立つなり突っ張って出て、得意の左四つ。組むなり、一呼吸もおかず右から上手投げ。なおも残る敵には|体《たい》を浴びせて、右の外掛けを飛ばした。流れるようなスピード相撲だけに、みる方まで心地よかった。しかも加速がついているだけに、極まった一瞬がはなやかだった。
その見事な速攻相撲の|秘訣《ひけつ》は、天性の反射神経のよさにあったが、その素質を目醒めさせ、強く鍛えあげたのは横綱佐田の山にほかならなかった。
もはや不動の東関脇である。
春、夏と八勝、十勝をあげ、二場所連続の殊勲賞、三回目の技能賞をさらった。
つづく名古屋場所、東関脇で十勝五敗。場所後の番付編成会議で、北の富士の大関昇進問題がもちあがった。「三場所の成績が八勝、十勝、十勝ではまだ早い」という意見が大勢をしめながら、急転直下、大関昇進が決定してしまった。昇進前五場所の成績が四十七勝二十八敗、勝率六割二分七厘と、かつての柏戸とまったく同じ。その実績が最後の極め手となったのだ。
「満場一致で大関に推薦」
そう連絡を受けて、付人衆はびっくり仰天した。北の富士本人は、そのとき名古屋市中区梅川町、長栄寺の出羽海部屋宿舎の自室ですやすや昼寝をしていた。今場所は「柏鵬」の両横綱に勝てず、大関|豊山《ゆたかやま》ひとりを倒しただけの十勝では、間違っても大関になる道理がないと、のんきに昼寝をしていたのだ。
「関取、大変です。起きてください」
付人衆が血相かえて、部屋に飛びこんできた。
「関取、大関ですよ。いま使者がきます」
「また冗談……。人をからかっちゃいけねえや」
「いや、本当なんです」
それから大騒ぎになった。寝ぼけまなこの北の富士を叩き起こし、床山が大汗をかいて|大《おお》|銀杏《いちよう》を結いあげる。紋付きを着せ袴をはかせる。
白玉理事、田子ノ浦検査役の協会使者は、すでに出羽海部屋宿舎に到着しているのだ。ところが肝心の本人があらわれない。使者二人は待ちぼうけである。
「おい、たいへんだ、|足袋《たび》がない。黒足袋がないぞ」
と、親方の一人が奇声をあげる。十三文の黒足袋すら用意していなかったのだ。
「しょうがねえな」と親方衆は舌打ちした。
「……おい、急場の間にあわせだ。柏戸関の足袋をかりろ。あの人のならあうだろ」
付人の一人が、命令を受けて吹っ飛んで出た。
横綱柏戸の伊勢ノ海部屋宿舎は、西区山田町の善光寺別院である。西区の北のはずれ。中区梅川町から西区山田町まで車で往復しても、たっぷり三十分はかかる。
紋付き袴と威儀はただしたものの黒足袋がくるまで、北の富士も待ちぼうけだ。
「いやぁ、参りましたね」と北の富士は、いとも神妙な面持ちでいった、「……こんなことタビタビあっちゃ困りますね」
一同、吹きだした。腹をかかえて笑い転げる者もいた。
そこへ電話がはいった。
「大関、電話です」
「だれからだい」
「庄之助親方です」
「やッ、鬼一郎親父かッ」
北の富士は、そういうなり電話口に立った。
かつての式守鬼一郎は、三十八年一月、第二十四代木村庄之助となり、この名古屋場所千秋楽、大鵬―柏戸戦の一番を最後に六十五歳の行司定年となり、協会を去ってゆくのだ。新弟子時代に「行司の付人をやる奴は駄目だ」と説教され、幕内にあがってからは、
「おい、勝っておれの軍配をうけろ」
そういいつづけた。しかし横綱戦、何回か勝ちながら、鬼一郎の庄之助親方が裁く一戦では、ついに一度も勝ち名乗りを受けられなかった。
「よう、おめでとう」と、受話器のなかから鬼一郎親父のしゃがれ声が飛んできた。どこか駅のプラットホームの公衆電話からかけているのだろう。電車の音がきこえてくる。
「よかったな、おまえ、……大関だ」
豪気な鬼一郎親父が、そういって電話の向こうで涙声をだしている。
「はい、親方、おかげさんで……」
「よかった、ほんとによかった。なあ、北。わしゃ、泣けてくるぜ」
「はい」
「長いこと行司やってきてな、おまえみたいな弱い奴が、大関になるとは、さすがのわしも思わなんだ」
「ありがとうございます」
「わしゃ、これから東京の国学院大学にはいる。神主の資格とるのよ」
「おや、そりゃまた親方らしい……。だけど、大酒だけはやめてくださいよ」
「馬鹿野郎」と、鬼一郎親父は、もう本来の野太い声で笑った、「……酒をやめるのは、くたばるときよ。もう貨車二両分ぐれえは飲んだかな。まだ飲みたらんわい」
「親方、もうお酌はできませんが、お元気で……」
「おう、あばよ。……おめでと」
そういって電話がきれた。
黒足袋が到着した。協会使者は、たっぷり四十分待たされ、ようやく大関昇進をつたえる荘重な儀式がはじまった。
協会使者が待たされる――大騒ぎの伝達式であった。
あけて四十二年――。
初場所後、「九重事件」が起きた。北の富士にとって大関三場所目をつとめた直後であった。
出羽海部屋を破門され、高砂一門に迎えられた九重部屋の大関北の富士は、高砂一門の連合稽古ではいい稽古相手がいなくなった。
高砂親方(元横綱前田山)から、こう頼まれた。
「ひとつ頼みがある。ジェシーに稽古つけてやってくれ」
喜んで胸をかした。
ときに高見山は、つぎの春場所、新十両である。三十九年春、十九歳で大相撲の初土俵を踏んで以来、高砂親方の「英才教育」を受け、序ノ口、序二段、三段目、幕下と順調にのび、ついに三年目にして十両まで駆けあがってきた。国技大相撲に、とうとうこの春から、「外人関取」が誕生する。
相撲|開闢《かいびやく》以来、はじめての異人種の関取誕生である。ハワイの滅びゆく原住民、カメハメハ王朝の|末裔《まつえい》、カナカ族からでたジェシー・クハウルアが、いよいよ十両関取になる。二十二歳。身長百九十一センチ、体重はすでに百四十五キロあった。|贅肉《ぜいにく》はひと切れもなく、特訓で鍛えあげられた鋼鉄のような黒光りする体つきである。
しかし大関北の富士からみれば、そんな高見山も稽古土俵では赤児同然だった。投げを打つと、あっさりこける。
「ジェシー、おまえな、投げを打たれたときは、相手に|体《たい》を寄せろ」
そう教えた。
「打たれた体を相手にあずけて、膝を相手の膝にくっつけるんだ」
投げを打たれると、足から|脆《もろ》く崩れ落ちる高見山に何度も何度もそう教えた。新しい本家、高砂部屋の稽古では、高見山と前の山に胸をかすだけ、北の富士本人は稽古にならなかった。しかし高見山は、場所ごとにその北の富士の胸から強くなっていくのである。
この春場所、北の富士には嬉しいことがもうひとつあった。
同期生の龍虎が、高見山と一緒に十両入りしてきたのだ。二十六歳、初土俵から数えて十年六十一場所目の関取である。
北の富士は、協会大合併の巡業先の稽古土俵に稽古相手を求めるほかなかった。そこには絶好の稽古相手がいた。
玉乃島である。
この春場所、東に北の富士、西に玉乃島と大関の一線に並び立っている。
玉乃島は、昭和十九年二月、愛知県|蒲郡《がまごおり》市三谷町の生まれ。中学時代は柔道をやり、神戸、大阪港を荷揚げ人足として流れ歩いて育ち、相撲界入りしてきた。はじめ二所ノ関部屋に入門し、幕下時代は横綱大鵬の付人をやった。その後、三十七年名古屋場所から、片男波親方(元関脇二代目玉乃海)が二所ノ関部屋から独立、部屋を興したとき一緒に移籍された。西幕下八枚目だった。
(島は、きっと物になる。手放したくない)
本家の二所ノ関親方がそう残念がり、独立していく片男波親方にくれてやったものの、小柄で目立たない男だった。それが、いま大関にまでのしてきていた。
玉乃島は、北の富士とは好対照であった。
北の富士は、足長の八頭身。一方、玉乃島は、身長百七十七センチ、しかも短足。なで肩、すらりとしたソップ型の北の富士にくらべ、幕下まで小さかった玉乃島は大関になって体重百二十キロを突破し、太鼓腹である。相撲も北の富士が左四つなら、玉乃島は右四つ。一直線に突っ張って組むなり上手投げを打つ速攻の北の富士に対して、玉乃島はじっくりと取る四つ相撲。互いに自分の相撲とは反対の、もっとも嫌いなタイプであった。
その対照的な二人が、巡業先の稽古土俵、互いにライバル心を燃やして稽古を積みかさねはじめた。タイプの正反対な二人が稽古すればするほど、二人とも互いに強さに磨きがかかる。
「キタさん」
「シマちゃん」
そう呼びあって、北の富士、玉乃島の二人は、次代を背負って立つ好ライバルになってきた。
北の富士は、出羽海部屋で佐田の山によって培われた相撲を、こんどはライバル玉乃島によって磨きあげた。一方、玉乃島も北の富士の速攻相撲を受け、四つ相撲を完成させはじめた。
四十三年春場所六日目朝、東横綱佐田の山が、電撃的に引退した。四日目、入幕二場所目の高見山に敗れ、五日目、|麒麟児《きりんじ》に敗れたのが最後の土俵になった。昨年の九州、今年の初場所と二場所連続の優勝をとげ、優勝回数を六回にのばしたばかり。しかし気魄だけで相撲を取る佐田の山には、前半戦で三敗したとき、小さな体で横綱在位十九場所になる自分の限界が、はっきりとみえたのだ。前夜、引退を申し出た佐田の山に、岳父は「悔いは残らないか」と念を押して、それからいった。
「いいだろ。じゃ、こういうことにしよう。おれも、協会の仕事に精を出さなくちゃいかん。おまえ、出羽海を継げ」
この突然の話に、佐田の山も、びっくり仰天。しかしいまさら「また、相撲取ります」とは、口にできない。
こうして佐田の山は、三十歳で潔く散った。横綱の権威を守る散りぎわだった。
すぐ佐田の山が九代目出羽海を襲名、岳父は本来の武蔵川取締に戻った。
出羽海部屋の次代を娘婿の青年出羽海に託したのである。武蔵川親方には、協会近代化を完成させる大事業がまだ残っていた。
二月、取締制を廃止した。理事長をとりまく五取締(時津風、出羽海、高砂、立浪、二所ノ関)の古いボス政治を廃し、理事会を協会最高の議決機関に改革した。同時に勝負検査役を審判委員と改称し、全年寄を指導普及部、教習部、審判部、地方場所部、巡業部、事業部の新職務にふりわけた。協会新体制のスタートである。年寄衆は昼間から酒を|呷《あお》ってはいられなくなった。
その年十一月二十五日(九州場所千秋楽の翌日)、次女富久子が亡くなった。行年二十一――。小児麻痺で憔悴した体に糖尿病が|棲《す》みついてのはかない生命だった。
市川での葬儀が終わり、会葬者も帰り、親類縁者と家族だけになったとき、応接間にいた武蔵川親方は、父国一になって、体を震わせ大声をあげて泣いた。
それから市川の広大な屋敷は、武蔵川夫婦二人きりになる日々がきた。これまで富久子を思い、本場所がすむと、富久子の大好きな修善寺温泉へ一家で泊りがけで行った。近所から「武蔵川犬舎」といわれるほど、犬もいっぱい飼ってきた。雑種の捨て犬まで捨って飼うほどだった。
けれども夫婦の支えだった富久子は、もういない。間もなく、夫婦そろって出羽海部屋の三階に居候する身になった。
しかし娘婿の佐田の山にまかした出羽海部屋の稽古場には、まったく姿をみせない。「若い者には、若い者のやり方がある」と富美子女将にもいい、娘婿に説教すらしない。また富美子女将も、いまは「十二番」(三十二年九月、屋号廃止。相撲サービス会社発足)の相撲茶屋の仕事がある。若い新出羽海親方には、先代師匠が後ろで目を光らせてくれるだけで嬉しかった。
その年十二月十六日、時津風理事長、死去。十七日、四代目理事長に武蔵川理事が就任した。“蔵前の陰の天皇”が、いよいよ協会トップの座に坐ったのである。
「よかったよ。おまえに譲っておいて……両方は、とてもできないよ」と、武蔵川親方が娘婿に胸の内をあかすときがきた。
土俵も、新しい時代のいぶきとともに激しく回転している。
あけて四十四年名古屋場所中、横綱柏戸が引退した。
大鵬は、大横綱としてまだ土俵で頑張っている。しかし四十一年九州場所で栃ノ海が引退したあと、昨年佐田の山が去り、いま柏戸が消え、だれの目にも新時代の到来は明らかだった。「北玉時代」――。
四十五年初場所、東大関北の富士、十三勝二敗、二場所連続三回目の優勝をとげた。千秋楽結びの一番、優勝を賭けた一戦、西大関玉乃島に敗れ、優勝決定戦にもつれこんで外掛けに破っての優勝であった。
場所後、玉乃島、北の富士の二人が同時横綱に昇進した。五十一代目、五十二代目横綱の誕生であった(同時横綱昇進の場合、先に引退・死亡した者が古い方の代数になる)。
「北玉」の二人そろって明治神宮に初の土俵入りを奉納した。北の富士は雲竜型、玉乃島は|不知《しらぬ》|火《い》型である。
その玉乃島の土俵入りを飾るのは、太刀持ち二子岳、露払い貴ノ花である。片男波部屋には関取はまだ育たず、二所ノ関一門、二子山部屋の二人が助ッ人となって新横綱玉乃島を飾った。
このとき貴ノ花は十九歳、病気で転落していた十両から再入幕してきたばかり。早くも「貴ノ花旋風」を呼びつつあった。二所ノ関一門の大先輩玉乃島の胸をかりて、ここまで強くなってきたのだった。やがて貴ノ花は、兄弟子二子岳を抜き、太刀持ちをつとめる。それは尊敬してやまぬ先輩への恩返しでもあった。春場所番付から、玉乃島は玉の海に改名する。
あけて四十六年夏場所六日目、大横綱大鵬が引退した。五日目、西小結貴ノ花に寄り倒しの“死に水”をとられての引退であった。しかし「柏鵬」を引退においやっていった主役は、
「北玉」――。
北の富士、玉の海の二人の台頭である。
報道陣はおどろいた。報道陣だけでなく、接する相撲ファンみんながおどろいた。
「柏鵬」には、横綱として近づきがたい威厳があった。「栃若」となれば、殺気がみなぎり、報道陣はそばに寄るのさえためらった。戦前の「双葉・羽黒」となれば、それこそ雲の上の存在といえた。
ところが、北の富士、玉の海の二横綱そろって、だれに対しても底抜けに明るい。話しているうちに、なんだか友達みたいな思いになってくるのだ。取材はしやすく、二人とも、権威を微塵も鼻にかけず、あっけらかんとしている。二人そろって、人をみて“お天気”がかわることすらない。まさしく現代ッ子横綱の登場である。
――どうだ、なんとかならんか。
「はい、これだけはどうも。なにしろ女にモテてモテて、本人が自分で、おれのうしろには女の霊がついとるなどと、あっけらかんといって歩く始末です」
――いや、そりゃいいんだ。北の奴には女のほうがあとを追っかけていく。女とのスキャンダルも、奴に限ってスキャンダルにはならん。男|冥利《みようり》につきるとは、まさしく奴のことだが、しかしなんとかならんか。昌美の奴は、何年生まれだった。
「私どもが結婚して二年目の二十九年九月に生まれた長女ですから……」
――と、いうことは、いまいくつだ。
「十五歳です。北の富士は、いま二十八……」
――ふん、十三のひらきか。夫婦にするには決して無理なひらきじゃない。第一、おまえと光恵からして七歳のひらきがある。なんとかしろ、なんとか口説け。せっかく苦労して興した九重部屋だ。わしの夢であり、おまえの城だ。一国一城の主ではないか。
「はい」
――その一国一城にだ、いつ、なにがあるかわからん。もしもだ、おまえに万一のことがあったとき、どうなる。笑い事ではないぞ。九重部屋はどうなる。空中分解してしまうぞ。そこの道理を説いて、北の奴に、なんとか昌美をもらってもらえ。そうすれば万々歳だ。
「やってみます」
――いい返事を期待してるぞ。
「はい」
――この話は、あわてんでいい。じっくり、じっくりと口説け。
その数日後である。北の富士は、親しい後援者の一人からこう打診された。
「どうだ、九重親方のな、娘さん、昌美ちゃんだ、おまえ、あの子を嫁さんにもらわんか」
北の富士は、その途端「ひゃーッ」と、奇声をあげてけらけら笑いだした。
「冗談じゃないよ。おれ、昌美ちゃんは、ちっちゃい子供のときから知ってるぜ。嫁さんなんて、とんでもないよ」
笑いとばして“師匠の娘”との縁談に乗ろうともしなかった。その報告をきいて、九重親方も大阪「花月」本家の伊藤作之進も、時の熟するのを待つよりほかなかった。
「プレイボーイ横綱」
そう看板がかかって、北の富士は、独身のまま派手に遊びまくっている。当分、結婚しそうにもない。まだ横綱になったばかり。三十三歳まで頑張るとしてまだ五年もある。そのうちに孫娘もいい年頃になる。あわてることはない。あわてて無理強いして、いい気分で土俵をつとめる北の富士の足を引っぱる手はない。そんな結論になった。
横綱になった玉の海の変容は見事というほかなかった。
四つ相撲は完璧の域に到達しようとしている。
「玉の海は腰で取る」
そういわれた。いまや百七十七センチ、百三十五キロ。太鼓腹がどっしりと出て、もっとも相撲取り向きな短足を生かし、どんなに相撲がもつれても、その腰の重心がきまっているのだ。相手に攻めるだけ攻めさせ、そこから四つに組んでじっくり処理する。“土俵の鬼”若乃花は豪快だった。栃錦もいぶし銀の名人の味があった。しかし“神様”双葉山の攻防自在の相撲が相撲の理想像とするなら、双葉山にもっとも酷似している力士が玉の海ではないか――相撲専門家の目には、そう映った。それほど横綱昇進以来の玉の海の四つ相撲は、完璧の域に迫っている。
北の富士は、ライバル玉の海との一戦がいつも楽しみだった。喧嘩四つ。しかも玉の海は脇が甘い。速攻北の富士が攻めると、常に北の富士得意の左四つに差せるのだ。玉の海は、常に不十分だ。そのため、玉の海戦には、いつも思いきり力がだせた。それでいて対戦成績は互角だった。四十六年秋場所を終え、入幕後の対戦成績は北の富士の二十二勝二十一敗、一点の勝ち越しでしかなかった。内心、いつも舌をまいていた。
(シマちゃんは、強いな)
その年(四十六年)十月十一日――。
その日、北の富士は岐阜の巡業先にいた。報道陣の一人がすっ飛んできた。
「横綱、玉の海、死んだよ」
「またまた」と北の富士は笑った。
「本当なんだ、たったいま虎の門病院で息をひきとった。盲腸炎の手術も成功していたのに、容態が一変して、最後は右肺動脈幹血栓であの世へいっちまったよ」
「本当なんだな」
顔が、引きつった。
「かなしいけど、本当なんだ」
記者は泣いた。北の富士も、
「シマちゃーん」そうしぼりだすように叫んで、手放しで号泣した。みている方も一緒になって、現役横綱の突然の死に男泣きをつづけた。
玉の海は、その年名古屋場所、十五戦全勝六回目の優勝をとげたあと、長い夏巡業に出た。当時、巡業は「横綱北の富士班」「横綱玉の海班」と二組にわかれ、一方は北陸から裏日本をまわり北海道へ。一方は東北各県から北海道へ。北海道でも合流することなく、やがて秋場所前に東京に帰った。
玉の海は、その巡業先からすでに盲腸炎が悪化していた。しかし巡業の看板である。生真面目さのあまり、盲腸の痛みをちらしながらつとめあげ、秋場所にも出場した。場所後、虎の門病院に入院したときには、体力を消耗していた。生真面目さのあまり、みずからの命を代償にしてしまったのである。
ライバルの突然の死に、北の富士は呆然となった。
「おれ、なんか張りがなくなっちゃったよ」
そう正直に報道陣にいった。
その年九州場所から一人横綱になってしまった。
その九州場所、十三勝二敗、八回目の優勝をかちとった。一人横綱の責任から奮いたったのだ。しかし、そこまでだった。
あけて四十七年――。
初場所、七勝七敗、十四日目から休場した。
春場所は「クンロク」に終わった。
夏場所は、八日目終わって三勝五敗。六日目から三連敗、みるも無惨な相撲だった。
協会があわてた。
一人横綱である。それが無惨な相撲で連日、土俵に|這《は》う。天下の恥さらしである。横綱の権威も、地に落ちる。休場させるよりほかなかった。その日、打ち出し後、武蔵川理事長が異例の記者会見を行い、こういった。
「北の富士の相撲はあまりにも乱れている。横綱としてふさわしくない。正直なところ、千秋楽までもたんだろうな……」
翌九日目午前十時、九重親方同伴で相撲協会診療所をたずね、美濃部所長の診断を受けた。北の富士は、正直にいった。
「おれ、体の調子はどこも悪くないよ」
「いや、どこか悪いはずだ」と診療所長があわてた、「……どこか、具合の悪いところはないか」
「そうだなあ」といって、北の富士は呟いた、「……そういえば、このところ、ちょっと夜、寝つきが悪いな」
「それだ、それだ。先生、それでいい」
そう九重親方が喜んだ。
――不眠症。
前代未聞の病気による「休場届け」が協会に提出されてきた。サラリーマンが「不眠症」を理由に会社を休めば、たちまちクビだろう。
この頃、相撲界では難解きわまる病名での休場が流行していた。大関清国は「メニエール症候群」という病名を、師匠伊勢ケ浜親方(元横綱照国)が発見し、休場した。
しかし九重親方も北の富士も、そんな悪知恵はもちあわせていなかった。師弟とも、人間があまりにも正直だった。
二十八年春場所のことである。六日目の朝、横綱千代の山は「横綱返上」を協会に申し出た。初日に白星一個、二日目から四連敗して六日目から「|脊椎《せきつい》病」で休場に踏みきった。その朝であった。
「横綱を返上します。どうぞ、ただの大関で取らしてください」
そう申し出たのだ。相撲|開闢《かいびやく》以来、こんな話はきいたことがない。
――おっかねえ。土俵がおっかねえ。
土俵に立てば天下一強い巨人横綱である。しかし巨人ゆえに破竹の勢いであっさり横綱にのぼってしまってから、本場所の土俵が怖くなったのだ。本場所をつげる触れ太鼓の音を遠く耳にするだけで、千代の山はもうぶるぶる震えだした。その果てに申し出た、あまりにも正直な申し出だった。
前代未聞の願いは、協会役員会で却下された。
すぐ夏場所がきた。こんどは東京での本場所である。
千代の山は、刻々と迫る本場所を前にもうぶるぶる震えている。
「おっかねえ。おれ、とても取れねえ」
巨人が小さくなって、そう、駄々ッ子のように震えているのだ。大関なら安心して存分に取れる。しかし、それも却下された。横綱として土俵に立たねばならない。場所直前、出羽海部屋は、そんな横綱を車に乗せ、川口市の川口済生会病院にひそかに隔離した。しかし病院は、社旗をなびかせる各新聞社の車で包囲された。診断の結果、めでたく、
――腰椎打撲。
そんな診断書ができた。相撲取りの体をたたけば、なにかの故障や病気が出てあたりまえであった。むろん休場である。新聞社の車の放列は、一斉に川口から消えていった。その途端、千代の山の顔に生気がもどり、病院の廊下で休場横綱がチャンコ鍋を食いはじめたのだ。
土俵は、それほど怖かった。
いま北の富士は、「不眠症」によって無事休場した。
するとその場所中のことである。
外電が写真入りで休場横綱の近況をつたえてきた。それが新聞にのった。
太平洋の“楽園”ハワイのワイキキの浜辺で、北の富士がアメリカ人の美女とたわむれ、波乗りに興じているという。そんな元気な横綱のどこが、「不眠症」か――と、日本中の相撲ファンが|呆《あき》れかえった。
場所後、横綱審議委員会は、「横綱北の富士に自覚を促す」と異例の要望を武蔵川理事長につたえ、舟橋聖一委員長はこうものべた。
「横綱が不眠症が原因で休場とは、一般ファンが納得するだろうか。どこまでが病気か、審議会も研究してみたい」
そんなお叱りに対して、ハワイから陽焼けして帰国した北の富士は、真顔でいったものだった。
「東京でうじうじ入院生活をおくるより、ハワイの砂浜を走ったり、波乗りしてた方が、気が晴れて、つぎの場所に再起できますよ」
九重、北の富士の師弟が事を処するに真剣になればなるほど、常に言動が一致しなくなる。つまり病気ではなかったと、その行動で天下に公表しているのだ。しかし本人たちは必死だった。
そして大阪や名古屋、福岡と地方の本場所がくると、横綱北の富士は、九重部屋の稽古土俵で、本場所中は稽古が終わったあとの土俵で、部屋の若い衆をつかまえプロレスごっこをやった。そうやって、本場所の緊張を陽気にといていったのである。
若い千代の富士は、ときどき横綱のプロレスごっこの相手をさせられた。
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第七章 脱  臼
昭和四十六年――。
秋場所である。
千代の富士は、西序二段二十五枚目、五勝二敗。三点も勝ち越した。
この分ならつぎの九州場所、三段目への躍進は確実だ。
よし、やろう。高校はきっぱりと断念した。もう相撲一途、上を目指して思いきっていこうと張りきった。
九州場所が迫り、関取衆一行は西日本各地の巡業をつづけて、番付発表前日に、福岡入りする。新弟子たちは、その日まで蔵前国技館内の相撲教習所通いだ。その年の春に入門した新弟子全員が各相撲部屋から、この教習所に通い、四股、|蹲踞《そんきよ》、鉄砲、|股割《またわ》り、ぶつかり稽古、申し合い、……と基本のすべてを教えられていく。
やがて申し合いがはじまった。
千代の富士が稽古土俵に立つと、体のできた相手が出てきた。
(ははァ、こいつが高校で相撲を取っていたという奴だな)
そう思い、鼻をあかしてやる気になった。昨年の秋に初土俵を踏み、今年になって一学期だけでも高校に在籍しただけに、今年春に入門した新弟子連中よりは、はるかに先輩だ。すでに余裕たっぷり相撲を取っていた。
組んで、まわしを取るなり大きな相手をぶん投げた。そこへ外掛けが飛んできた。無理な体勢で思いきり投げただけに、右足がよじれ、骨の折れるにぶい音がはっきりときこえた。右足くるぶしの骨折だった。
中野の佼成会病院に入院した。九重親方のかかりつけの病院である。
九州場所番付が発表された。はたして予想どおり東三段目六十一枚目に躍進している。しかし場所直前の骨折入院のため全休である。はじめての三段目というのに、気負ったがために棒にふってしまった。
それでも千代の富士は、ショックひとつなかった。まだ十六歳。早くなおって、その辺を走りまわりたい、|跳《は》ねまわりたい、そんな感じだった。だから入院したことも、北海道の実家にすら知らせなかった。
姉が見舞いにきてくれた。
北海道から上京したばかりで、姉は東京が不案内だった。はじめ桜井おじさんに連れられ、御徒町から中野までの国電の道順を教えられてきた。そのあとは上野松坂屋の週一回の定休日がくると、姉は朝から病院にやってくる。北海道の家にいた頃は、いつも|姉弟《きようだい》喧嘩ばかりした。しかしこうやって広い東京の空の下で一週間に一度、定期便のようにやってくる姉をみると、
(やっぱりきょうだいは、いいな)
つくづくそう思った。姉がいるだけで安心した。姉は夕方までいた。
その頃、北海道・福島町では、両親が新聞の「郷土出身力士の星取り」をみてびっくり仰天した。
――三段目千代の富士、全休。
九重部屋に北海道から電話がはいった。
「あの、秋元ですが、うちの伜、どうしたんですか」
「ああ千代の富士かな」と、怪我で残り番の兄弟子が、ぞんざいな口調で答えた、「……足の骨折で、休みだよ」
「はッ骨折!?……だいぶ、わるそうですか」
「いやあ、入院してますよ」
「はあ、ありがとうございます」
父は、心配のあまり、退院していたものの再び胃が痛みだし、再度、函館の病院への入院に追いこまれた。また切開手術し、胃はとうとう三分の一になってしまった。
その九州場所六日目のことである。
西前頭三枚目龍虎が、土俵上で左足のアキレス|腱《けん》切断という大怪我に見舞われた。百七十七キロと幕内最大の巨漢義ノ花戦であった。
四十二年春、はるか後輩の高見山と一緒にようやく十両入りした龍虎は、一年後の四十三年春、高見山に一場所おくれて、幕内へ顔をだした。するとその場所、いきなり十一勝と大活躍、敢闘賞まで手にした。その後は順調にのび、四十五年春、夏と二場所連続小結もつとめた。突っ張りあり、引き技ありとはなやかな土俵ぶり。いまや龍虎は幕内上位に常連の小粋な“役者”である。
その龍虎が本場所土俵で大怪我した。七日目から休場に追いこまれた。
あけて四十七年である。
初場所、龍虎は東前頭十二枚目。幕尻まで転落した。九州場所七日目からの休場九日間が、すべて黒星になったのだ。
「力士の健康管理を見直すべきだ」と、国会議員のスポーツ振興懇談会でも問題になった。
四十六年十月には現役横綱玉の海が、悪化した盲腸炎をちらしながら長期巡業をつとめた末に急死した。そこへ九州場所の土俵で“役者”龍虎の大怪我。観衆注視の土俵で怪我をし、休場に追いこまれ、「休場即黒星」は苛酷ではないか。力士生命を協会自身が縮めていないか――というのが、通称「スポ懇」の指摘であった。
それを受け、この四十七年初場所から「公傷制度」が早くも実施された。
「翌本場所の休場を余儀なくされる本場所土俵上の怪我(身体各所の脱臼、骨折、挫創、捻挫、腱断裂等)を公傷という。公傷による場合でも、その本場所の休場日は負けとして次場所の番付編成を行う。次場所は休場しても、その場所の番付はその地位のまま張り出しとする。公傷による休場は、一場所限りとする」
しかし龍虎にとっては、後の祭りだった。公傷制度“生みの親”は、初場所を全休し、つぎの春場所は十両に転落した。その春も全休、夏場所には幕下まで落ちていった。初土俵から十一年六十七場所もかかって幕内に這いずりあがった男も、土俵に「公傷制度」を生みながら、わずか三場所連続の休場で、たちまち月給なしの、もとの幕下暮らしの身へと落ちはてた。
その年初場所、怪童北の湖は、早くも幕内入り。再び、貴ノ花の記録を書きかえる十八歳七カ月の史上最年少幕内関取である。
千代の富士は、甦ってきた。
一場所の全休で、その年(四十七年)初場所、序二段落ちしたものの、五勝二敗。再び、三点の勝ち越し。春には三段目へとのぼってきた。そして春、夏、名古屋と三場所つづけて五勝、四勝、五勝と勝ち越し。
秋場所、東幕下五十九枚目――。
三段目を三場所で通過し、幕下入りをとげた。ところが、
三勝四敗。
あっさり負け越した。
場所後、貴ノ花、輪島の二人がそろって大関に昇進する。
「貴輪時代」到来――。
マスコミあげて、新時代の大看板に沸きあがっている。昨年の九州場所からもう六場所もつづけて、横綱は北の富士ひとりきり。かつての弱い「香車」が、いまやひとりで、角界の頂点を支えているのだ。
つぎの九州場所を迎え、貴ノ花は、弱冠二十二歳で新大関である。
そのとき千代の富士は、また三段目だった。
仰ぎみる思いで、はなやかに騒がれる「角界のプリンス」貴ノ花を眺めていた。そんな十七歳の小さな千代の富士の姿など、マスコミのどの|目《ヽ》にも映らなかった。
昭和四十八年がきた。
初場所、千代の富士、東幕下五十九枚目、四勝三敗と勝ち越した。
幕下にあがると、戦う相手は、みな何年も幕下にとぐろを巻いている大先輩ばかりだ。余計、戦い|甲斐《がい》があった。
春場所、三十二歳の琴桜が横綱に昇進。玉の海の急死以来、足かけ三年八場所におよんだ北の富士の“片肺飛行”は、ようやく|終焉《しゆうえん》した。
その場所、千代の富士は、東幕下五十一枚目である。
場所前、大阪に乗りこみ、天王寺区上汐四丁目の天理教大江大教会の九重部屋宿舎へはいった。九重部屋独立の四十二年春、あわただしく大阪入りしたあの南区中寺町、|妙堯寺《みようぎようじ》の宿舎にかわって、この頃は谷町筋のこの教会が、大阪の宿舎になっている。
ある日、兄弟子の幕下千代の海改め岡部のお供で、阿倍野区阪南町のチャンコ「雷光」に連れられていった。店主の竹谷浅男は、元幕下雷光山、横綱千代の山時代の弟子だった。九重部屋OBのひとりである。
あらわれた千代の富士をみて、元雷光山は声をかけた。
「おまえ、三段目ぐらいか」
「いや、幕下です」千代の富士は、さらっといった。
「こいつ」と岡部がいった、「……千代の富士てんだ。アダ名はウルフ。親父さん、よろしくたのむぜ」
「あいよ」
そういいながら元雷光山は、冷や汗をかく思いがしていた。身長はある。しかしどうみても八十キロそこそこしかない細い体だ。この細い体で幕下。しかも「三段目か」といわれ、怒った顔つきひとつみせない。こいつ、ガッツがあるぞ――そう思った。
その春場所の土俵である。
十三日目、千代の富士は、七戦目、幕下最後の土俵にのぼった。
この日まで四勝二敗と、すでに勝ち越しをきめている。しかし、もう一個白星を積みかさねたかった。
この頃の千代の富士は、猛烈な突っ張り相撲だった。
「突っ張れ、突っ張れ」
九重親方から、稽古場ではそう教えられ、やみくもに突っ張った。千代の山の十八番が巨体から繰りだす破壊的な突っ張りだった。出羽海部屋の稽古場で、小さな栃錦が顔面にそれを喰い、前歯がガタガタに砕けてしまうほどの威力を発揮した。その自分の十八番を、小さいながら腕力の凄いこの愛弟子に叩きこんでいたのだ。
相手は、西幕下五十一枚目の白藤。
五十一枚目同士の戦いである。
白藤は、君ケ浜部屋。三十八年秋が初土俵という、千代の富士より七年早く大先輩。それでこの場所、やっと幕下入りした男だった。百七十八センチ、百二十四キロのアンコである。この日を迎え、三勝三敗。もう一個白星と欲ばる千代の富士にくらべ、白藤の方はなんとしても負けられない一戦だった。負ければ、三段目落ちだ。
千代の富士は立った。立つなり猛烈に突っ張って出た。相手の顔面めがけ思いきり左をのばし、それが|顎《あご》にはいったときだった。白藤が、その左腕をかかえて、ねじった。その一瞬、不気味な音が、肩のなかではっきりときこえた。腕の骨が、肩からはずれたのだ。
脱臼だった。
全身から力が抜け、あっさり抱えられて寄り切られた。
息がとまるほど痛い。花道を歩くと、あまりの痛さに目の前が真っ暗になり、花道がせりあがってくるような幻覚にとらわれ、気を失いかけた。ふらふらと花道の|櫓《やぐら》にもたれかかった。
呻きながら、左肩をおさえ、ひとりでおそるおそる動かした。動く。おや、動く、動くぞ……そう思いながら、さらにゆっくり肩を動かすと、つぎの瞬間、ゴ、クンと、音たてて、抜けていた肩がもとにはいったのだ。
そのまま大阪府立体育館内の医務室にいった。
「あの……」と、左肩をおさえながらいった、「……肩、はずれたみたいです」
「どれ、みせてみろ」
医師が左肩を調べた。
「うん、ちゃんとはいってる。大丈夫だ」
宿舎へ帰って、親方に「ごくろうさんス」と挨拶してから、いった。
「親方、ちょっと保険証かしてください」
「なにすんだ」
九重親方は、目を|剥《む》いた。
「きょう場所で肩はずれて、病院へいってきます」
「動かしてみろ」
左肩を動かした。痛みはあるが、肩はぐるぐる動く。
「大丈夫だ」と九重親方は、ほっとした声でつづけた、「……おまえ、肩がぬけてたら、腕は動かないよ。心配いらん。そこに湿布をはっとけ」
「はあ」
そんなものかなと思った。二、三日、肩に湿布を貼っただけですませた。
夏場所、東幕下四十五枚目。
一点の勝ち越しで六枚あがったのみである。
初日から二連勝した。
三戦目、相手は立山。初土俵が四十二年秋、千代の富士より三年先輩、佐渡ケ獄部屋の幕下だ。
一気に攻めこんだ。二本差しになり、左から強引に投げを打った。すると、その左腕を抱えられた瞬間、左肩がはずれた。あっさり負けた。
国技館裏の協会診療所へいって、ベッドに寝かされた。
「おい、脱臼をいれる、だれかいないか」
そう親方衆が叫んでいる。
幸い、大関清国の大の贔屓で小林拳法宗家の|森実《もりざね》倖啓先生が、このとき九州・福岡から国技館に駆けつけていた。テレビの相撲を観戦し、土俵上の清国の顔色をみただけで、東京まで飛んでくる先生だった。接骨医である。
その森実先生が診療所に呼ばれてきた。
「いいか、痛いぞ」
左腕をもって、いうなり気合い一発、脱臼した左腕をいれてしまった。
四戦目から休場に追いこまれた。
二場所たてつづけの脱臼。それも同じ左肩。完全にもう癖になってしまった。
(最初のとき、あれ、花道ではいらなきゃよかったんだ)
そう後悔したものの後の祭りだった。
肩の脱臼は当然だった。
相撲っぷりが大きい。体は、まだ八十キロそこそこ。その小さな体で土俵に立つや、幕下の大きな古顔を相手に土俵中央でゴボウ抜きに吊りあげる。その瞬間、凄い負担が肩にかかるのだ。
肩関節は、腕の骨と肩の臼を包む|靭帯《じんたい》によって支えられている。その靭帯をさらに筋肉がおおっている。しかも十七歳で、まだ筋肉もかたまらず、骨格も、まだ未成熟。それにもかかわらず、同じ勝つなら、投げで勝った方が気分いいや。寄り切り、押し出しなんか、つまんねえ――と、考える性格だった。
土俵に立つや、自分よりでっかい相手を引っぱりこむ。組みついて胸をあわせると、相手の肩ごしに左の上手を取り、いきなりゴボウ抜きに吊りあげる。あとは、なにがなんでも左の上手一本でぶん投げた。普通、上手投げは、同時にもう一方で下手もひねりながら腰を回転させて投げるのが常道である。ところが千代の富士は、腰も下手もつかわない。若さと腕力にまかせ、天井をむいて顎をあげ、吊りあげるや、左腕一本をねじりながらぶん投げる。
肩にかかる凄い力の負担に、まだ未熟な肩の臼が耐えられず、肩関節が破裂した。脱臼は、スポーツ医学からすれば、当然の帰結にほかならなかった。
「だめの富士」
そう声がかかった。幕下まであがったとみると、左肩が脱臼、脱臼。番付も落ちていく。
「おい、だめの富士。おまえは、だめだな」
そんな冗談口が、面と向かって「花月」本家の若主人からたたかれた。親方女将さんの弟、元相撲取りである。
実際、ガックリだった。いつも、こう思いつづけた。
(おれ、やっぱりだめだな。もうやめようか)
そのうえ幕下にあがったというのに、部屋では依然として万年新弟子なみなのだ。部屋には、横綱北の富士を筆頭に、幕内に北瀬海、十両に千代桜、幕下は六人。岡部、富士ケ岳、影虎と先輩がいて、下に千代晃、千代錦。三段目は四人、序二段は六人いる。あとからあとから新弟子が入門してくる。千代の富士が入門して以来、幕下まであがる頃まで、新弟子は指折り数えて十数人にのぼった。しかし、入門してくる尻から、つぎつぎと、いつの間にかいなくなったのだ。
一緒に風呂にはいり、新弟子連中の背中を流してやりながら、
「おい、がんばれよ」
そう励ましてやった。それでも夜逃げしていく。なんとか頑張っている弟弟子は、若の富士、力の富士、大富士ら四、五人。だから幕下にあがっても、千代の富士は、チャンコ番はむろん、関取の下着の洗濯、便所掃除、チャンコの後片付けまでやらされた。
(やめよう、おれも、こいつらと一緒にやめよう)
常に、そう思った。しかし脱臼に負け、苦しさに負け、やめて北海道の福島町へ帰れば、小さな町だけに、親が近所からこういわれる。
「秋元の伜は、負け犬になって帰ってきた」
それがいやだった。自分はいい。しかしそういわれ恥をかく父や母を思うと、やっぱりやめられなかった。やめて帰るには、金のない幕下の分際では、北海道はあまりにも遠すぎた。いまでは、つられて乗せられた二時間十分の飛行機が恨めしかった。
名古屋場所、三段目に陥落した。
西三段目二枚目である。
名古屋入りして、本場所が一週間後に迫ったときだった。部屋の稽古でまた左肩を脱臼した。
すぐ近くの医者が呼ばれて、駆けつけてきた。ところがお年寄りの町医で、脱臼がいれられない。
「救急車、呼べ」
九重親方の命令が飛んだ。
悪いことに日曜日だった。生まれてはじめて救急車に乗せられ、運ばれた最初の医院が「本日休診」。二軒目でやっと外科医にあたり、レントゲン透診を受けた。
その間、救急車のなかで、千代の富士は呻いたまま、ほとんど失神状態だった。
つづけ様に三回も脱臼した。
そのまま名古屋場所の土俵にのぼり、三段目上位で六勝一敗と勝ち越した。初日の上沢(のち幕内、三杉磯―現・峰崎親方)だけが四十六年春に初土俵の後輩。再度あがる幕下では、苔の生えそうな大兄弟子ばかりが待ち構えていた。
この頃、夜、寝ていて痛さのあまり目が|醒《さ》める。すると左肩がはずれている。寝相が悪く、稽古の疲れで左を下に横向きになって熟睡するだけで、癖になった左肩が脱臼するのだ。
若い衆が大勢で寝ている大部屋である。みんな稽古疲れで|大鼾《おおいびき》をかいて寝こんでいる。
「いてえ」と、呻きもあげられない。
夜中、棒のように垂れさがった左腕をかかえ、そっと起きて便所にはいった。左肩をゆっくり動かすと、はずれていた肩は音をたてて、もとにはいった。
部屋に帰ると、こんどはパンツに左手を真っ直ぐにいれて寝た。左手を横にだして寝ると、いつの間にか熟睡し、脱臼するのだ。
その名古屋場所、龍虎が再入幕してきた。
アキレス腱切断で四場所休場し、幕下四十二枚目のドン底まで落ちた。しかし初土俵から十一年六十七場所も粘って幕内を勝ちとった幕下の常連龍虎には、そこはドン底ではなかった。ひとたび怪我が直れば、すでに小結三場所をつとめた龍虎である。江戸ッ子の意地で再起し、再び幕内へ返り咲いてきたのだ。
(すごいな)
そんな龍虎を下からみていて、千代の富士は舌を巻く思いだった。
秋場所がくれば、三たび幕下にあがる。
(おれも、がんばるかな……)
ぼんやりと、そう思った。
そしてその秋場所十日目の土俵、西横綱北の富士は、黒姫山戦で怪我をし、翌十一日目から休場に追いこまれた。
――番付は生き物とは、よくぞいったものだ。思いもかけぬ事態が、よくもまあつぎつぎと起きる。どうだ、北の奴の怪我は……。
「相当重傷です。なにしろあの当たりのすごい黒姫山の右手がもろに脇腹にはいりました。一番下のあばら骨が骨折です」
――それでいて相撲には勝った。大した奴だが、おい、これはおまえ大変だぞ。わしは、体の柔らかいあの男のことだ、三十三までは横綱で取れると|睨《にら》んでいたが、なあ、引退が意外に早くくるかもしれんぞ。千代、それを覚悟しなきゃいかん。
「はい、私も、そう思います。ことしの春に琴桜、名古屋では輪島と二人が横綱にのぼってきて、さすがに安心したのか、以前のような思いつめた態度ではなくなりました。このまま入院して養生してくれれば、つぎの九州場所は再起できると思います」
――奴のことだ、このままおめおめとくたばりはすまい。必ず再起する。しかしだ、土俵態度から張りが消えた。いま思えば、玉の海の死んだことが大きいな。……玉の奴、自分が死ぬだけでなく、北の富士の足まで引っぱりやがった。なあ千代、そう思わないか。わしは、玉の海がもし生きとれば、琴桜は横綱にならなかったと思う。輪島の奴は、なるほど相撲の天才児かもしれん。しかしな、北玉の二人が健在でいる限り、輪島の綱は、もっとおくれとった。貴ノ花は、玉の胸を借りて、もっともっと強くなっている。……どうだ。
「おっしゃるとおりです。まったく御説のとおりです」
――北の字はいくつになる。
「三十一です」
――昌美は、いくつになる。
「ちょうど十九になりました」
――なんとかならんか、この二人。
「おとうさん、これだけは、もう、なんともなりません」
――だろうな。わしは、このところどうも体の具合が悪い。坐っているだけで疲れる。
「いちど医者に診せたらどうでしょうか」
――ふざけるな。まだ六十四だ。あの方も、まだまだ現役だしな、おいぼれてはおらんぞ。
「しかし……」
――その話はよい。問題はだ、横綱北の富士が意外に早く引退に追いこまれるときが、そう遠くないということだ。そのときどうするか。千代、快く分家独立を許してやれ。おまえは、男としてやりたい事をやりとげた。一国一城の主になった。それができたのは、ほかならぬ北の字がおまえについてきたからだ。大恩ある出羽海を捨て、おまえについてきたからだ。
「実は、ご報告がおくれました。高砂本家から年寄振分を譲ってもらう内諾がついております」
――それは、よかった。九重部屋から、そのとき振分部屋という分家が生まれる。めでたい話じゃないか。そのときは内弟子もつけてやれ。おまえと北でよく話しあって、争いが一切ないようにして、めでたく送りだしてやれ。それでこそ、千代、おまえの男もたつ。
「将来の九重部屋は……」
――将来は考えるな。おまえは、幸い元気だ。北の富士につぐ、第二の横綱をつくりあげる。それが、これからのおまえの大事業だ。北は、大関にまでできあがっていたところを、もらった。こんどつくりあげる第二の大関、横綱こそ、おまえが手塩にかける男だ。どうだ、おまえが目をかけている、あれは……。
「千代の富士ですね」
――いい目をしとる。ウルフとは、北の奴、うまいこといった。あの目は、いいぞ。おまえとは大違いだ。まさに狼だな、あの目は……。
「私も、そう思います」
――光恵は元気か。
「はい、あれが元気でいるから、わたしは大船にのった気分です」
――伜の|信寿《のぶひさ》は、どうしてる。
「大学の医学部にいって医者になるといってます。……それもおとうさん、歯医者……」
――歯医者? 千代の山の伜が、将来、歯医者になるか。人間、長生きするのが楽しみよ。愉快だ。実に愉快だ。それでは、くれぐれも体に気をつけろ。
「おとうさんも、どうぞ……」
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第八章 井 筒 部 屋
昭和四十九年初場所。
新時代のスターが、|躍《おど》りでてきた。
千秋楽の翌一月二十一日、読売新聞「やぐら太鼓」は、その感激の情況をこう書きつたえた。
「北の湖の土俵を東支度部屋のテレビで観戦していた力士たちが、一瞬息をのんだように静まりかえった。正面審判長の出羽海が右手を上げ、土俵では立行司式守伊之助が両力士の間にはいって動きを止める。そして軍配が東の北の湖に上がる。“勝った”という大声をきっかけに部屋の中は騒然とした。喜びにわく三保ケ関部屋の力士と後援者たち。一方、輪島の大逆転を願って待機していた花籠一門の力士たちは、威勢のいい三保ケ関勢を横目に引き揚げた。
北の湖が支度部屋に“優勝”をひっさげて帰ってくると、“本家”の出羽海をはじめ一門の力士も紋服に着替え、勢ぞろいして拍手かっさいの出迎え。この日の土俵で北の湖に屈した三重ノ海(出羽海部屋)の顔も見える。
ごったがえす人波の中で北の湖のインタビューが始まった」
二十歳八カ月と大鵬につぐ史上二番目の若さで、北の湖が初優勝(十四勝一敗)をもぎとったのだ。新十両、新入幕、新小結と貴ノ花の記録をすべて書きかえてきた怪童は、関脇二場所目での堂々の優勝で、場所後、大関に昇進した。
「輪湖時代」到来――。
マスコミは、一斉にそう|謳《うた》いあげた。
この場所中、三十二歳の大関清国が引退。三十三歳の西横綱琴桜は六日目から、そして三十一歳の西張出横綱北の富士は九日目から、ともに休場している。
身長百八十一センチ、体重百四十六キロと巨大な太鼓腹を生かし、土俵上、|怒濤《どとう》のような吊り寄りで、あたる敵すべてを情け無用と|斃《たお》す北の湖の出現は、まさしく新時代到来を告げた。
相撲界は、大きく動いていた。
初場所後、武蔵川理事長はみずからつくった六十五歳の年寄定年で引退。相談役に就任し、新理事長に春日野親方(元横綱栃錦)が選ばれた。武蔵川親方は、大相撲の近代化改革をすべてやりおえていた。相撲協会の屋台骨は、もはや揺るぎない。
その頃、千代の富士は、毎晩、上野、浅草、錦糸町に出ては|呷《あお》るように酒を飲む日々をおくっていた。
初場所、西幕下二十五枚目、五勝二敗。
春場所、東幕下十五枚目、四勝三敗。
昨年の夏場所、脱臼のため途中休場し三段目へ落ちたものの、三度目の幕下へあがってから、順調に上へ上へとのぼりはじめている。十八歳で幕下の上位まできた。相撲が面白くなりはじめ、テングになって浮かれ気分だった。
春四月、姉佐登子が北海道へ帰っていった。約束の三年がまたたく間に過ぎたのだ。もう桜井家へいっても、頼れる姉の姿はなかった。
毎晩、飲みに出た。ひとりでは行動しない。必ず部屋の仲間二、三人と連れだち、ときには伊勢ケ浜部屋に電話をいれ、仲のいい若江口と飲みにいった。
淋しい。たまらなく淋しい。いつまた左肩を脱臼しやしないかという不安が頭の片隅にこびりついている。ひとりで酒を飲むと、淋しさと不安で気が滅入るだけだった。夕闇が迫り、街にネオンがともりはじめると、その思いが衝きあげてくる。気分転換するには、気の合った仲間大勢と飲んで、わァわァ陽気に騒ぐのが、最高のクスリだった。
若江口は、一緒に初土俵を踏んだ三十七人の同期生のひとりだった。昭和三十二年の端午の節句(五月五日)、東京・王子の生まれ、千代の富士より二つ年下。四歳のときから埼玉県草加市に誕生した住宅公団のマンモス団地、草加松原団地B14号棟にうつり、“団地ッ子”として育ち、団地内に開校した草加市立栄小学校第一期生の一年生だった。そして栄中二年の夏、伊勢ケ浜部屋に入門、秋に十四歳で初土俵を踏んだ。
小太りの若江口は、“突貫小僧”と異名をとる富士桜に憧れていた。千代の富士と同じように早く幕下まであがり、きっぷのいい突き押し相撲を取る。陽気で、気が強く、千代の富士にとっては、部屋が違うだけに気の許せる同期の親友である。
二人で飲みまくった。
はじめは飲み屋街の馴染みの店で、ウイスキーの水割り。やがてピッチがあがり、ストレートで何杯も呷る。二人で飲みにいくと無茶をやった。なにしろ幕下の分際で、お互い金がない。
「おい、おまえ、きょうは、いくらもってる」
「……二千円だ」
「なんだ、おれも三千円しかねえや」
「よし」と若江口がいう、「……じゃ、例の手でいこう」
二人で店や女将さんをさんざんもちあげる。まったくはじめての店である。
「親父さん、おれ、かたづけるよ」
「そうか、すまんな」
「いいよ、いいよと気軽にいって、カウンターをくぐってはいり、いつの間にかねじり鉢巻きをしめ、皿洗いや氷割りを手伝ってはしゃいでいる。客の注文もとりつぐ。そのうち、「親父さん、……おいら、いくら?」
「二人しめて一万八千円だ」
「やッ、そんなに飲んだか。……おい、おまえ、いくらある」と、若江口がとぼけている。
「親父さん、二人で五千円しかないや。またこんど大勢、連れてくるよ」
「いいよ、いいよ」と店の親父もはじめてあらわれたお相撲さんに皿洗いまで手伝わせた手前、気前よくいった、「……出世払いだ、金は、いいや」
「親父さん、ごっつあんです」
そうやって何軒も荒らしまわった。夜遅く部屋へ帰っては、トイレにはいり、はでにあげる呻き声が、横綱北の富士の部屋にまできこえる毎晩がつづいていた。
名古屋場所、北の富士は進退を賭けて本場所に出てきた。
場所直前の七月四日、西横綱琴桜が引退を発表。年寄白玉を襲名した。横綱在位八場所、足かけ七年三十二場所に及んで大関をつとめ、三十二歳で“綱”を張ったものの、それがもう限界であった。三十三歳だった。
横綱は、西が空位になり、東に正横綱輪島、張出北の富士の二人である。
北の富士は、昨年秋に胸部の骨折で途中休場し、九州場所再起して十勝をあげた。そして今年春場所前、本家高砂部屋の宿舎、久成寺境内の稽古場でのことである。
高見山に稽古をつけた。そのとき体調は絶好調だった。
高見山は、すでに二十九歳。場所前の二月二日、晴れて結婚したばかりの新婚ほやほや。日本にきて十年目の昨年、憧れの日本女性渡辺加寿江さんにはじめて恋をし、結婚にゴールインした。
春場所は東前頭筆頭。「巨象」「ブルドーザー」と化け物扱いのニックネームには「アナタ、バカニシナイデヨ」と怒っていたが、すでに体重百八十キロ。対戦相手はみな「ありゃ、やっぱり化け物だぜ」と怖がった。事実、北の富士でさえ、この頃、高見山に稽古をつけると恐怖を感じた。まともに胸をだすと、高見山は思いきりぶつかってくる。その当たりが|みぞおち《ヽヽヽヽ》にはいると、息がとまった。左の張り手一発を喰うと、そこがどす黒い|痣《あざ》になる。しかし、上体があまりに大きくなりすぎ、その分だけ下半身の|脆《もろ》さは余計に目立った。
そのとき北の富士は、高見山の当たりを受けとめ、上手投げを打った。すると当然転ぶべき高見山が、倒れながら大きな上体を寄せてきた。膝を北の富士の右膝の外側にあて、百八十キロの重量でのしかかってきたのだ。
(そうだ)
そう思った一瞬、右膝がにぶく音をたてていた。捻挫であった。
春、夏と二場所つづけて、全休に追いこまれた。
「投げられたとき、|体《たい》を相手に寄せ、膝を相手の膝に密着させろ」
先代高砂親方(四十六年八月十七日歿)と現高砂親方(元横綱朝潮)の二代にわたって、高砂本家の“ドル箱”高見山に、そう教えつづけてきた。上手投げにあまりにも簡単に転びやすい高見山に教えつづけた、防御の秘伝であった。
――自分が、自分に喰われる。
納得がいった。それによって高見山大五郎は、さらに大きくのびていく。事実、その春場所、高見山は、輪島、琴桜の二横綱、|大麒麟《だいきりん》、大受の二大関、関脇|魁傑《かいけつ》を連破し、十勝をあげるとともに三回目の殊勲賞にかがやいていた。
(年貢の納めどきが、きたみたいだな)
そう納得し、北の富士は、この名古屋場所に進退を賭けて出てきたのである。
初日、東前頭筆頭旭国、二日目、関脇大受と二連敗した。
その夜、引退を発表した。
|爽《さわ》やかな引退発表であった。名古屋市西区五平蔵町の九重部屋宿舎、興西寺に押しかけた報道陣を、北の富士はいたずらっぽくニヤリと笑って、
「ごくろうさん」
そう迎えた。それからからりと晴れわたった表情でいった。
「場所前、もう一度土俵にという気持ちが強かった。だが、この二日間でギャフンといわされた。観念したよ。体力の限界をしみじみと感じたね。おれ、あきっぽい性格なのに、なんとなく十八年間が過ぎたという感じだな。やめたいと思ったことは、いく度もあったよ。いや、本当に長い間、お世話になりました」
「横綱、もう一度生まれかわるとしたら、なんになりたいですか」
報道陣から質問が飛んだ。
「もう一度かね」と北の富士は笑って答えた、「……そりゃ、きまってる。やっぱり相撲取りになるよ。こんないい商売ない」
みんなどっと笑った。引退につきものの涙やしめっぽい雰囲気は、微塵もなかった。
年寄振分を襲名するはずであった。ところが、そのとき思いもかけず、別の年寄名跡が舞いこんできたのである。
――年寄、井筒。
名門の名跡である。
井筒部屋は、明治の第十六代横綱西ノ海嘉治郎からはじまる。初代高砂部屋の生んだ横綱で、引退後、六代目井筒を襲名、高砂部屋から出て井筒部屋を興した。西ノ海は、鹿児島県の産。以来、七代目―第二十五代横綱二代目西ノ海嘉治郎、八代目―前頭二枚目|星甲實義《ほしかぶとさねよし》、九代目―前頭二枚目鶴ケ嶺道芳――と、歴代、井筒親方は鹿児島県人の直系弟子によって昭和の今日まで引き継がれてきた。ところが九代目井筒親方が、昭和四十七年三月十八日に六十歳で死んだあと、この名門に「お家騒動」が起きた。
つぎの井筒は、昭和三十年代の“栃若”時代から“柏鵬”時代まで「両差しの名人」と謳われ、技能賞十回、金星十個、いぶし銀のような相撲を取った元関脇、二代目鶴ケ嶺昭男の君ケ浜親方と衆目がみていた。君ケ浜もまた鹿児島県人である。ところが九代目井筒親方未亡人の口から、亡き主人の言葉として意外な名前がでてきた。
「井筒は、|陸奥《みちのく》親方に継がせます」
陸奥親方とは、千葉県浦安の産、元前頭四枚目星甲昌男である。生家が貧乏で、相撲取りになってから、金のない幕下時代まで、頬かぶりしてシジミを売って歩いては、家を助けてきたつつましい男。そんなおとなしい陸奥に次代井筒を継がせ、未亡人は“大奥”になろうとしたのだ。
このため君ケ浜親方は、井筒部屋から喧嘩別れの状態で分裂、君ケ浜部屋を興し、大勢の弟子が君ケ浜について出た。二年後の今年になって、星甲の井筒親方は井筒の年寄名跡を先代未亡人に返上、みずから陸奥部屋を興してしまった。先代未亡人による大奥政治の馬鹿らしさに目醒めたのだ。このため“お家騒動”二年目にして、名門井筒の年寄名跡が宙にういてしまった。女の身では親方になれない。
そこへ横綱北の富士の引退である。
「井筒部屋を再興してほしい」
先代井筒未亡人からそう頼まれ、北海道産の北の富士に思いもかけず、鹿児島産の名門・井筒の年寄名跡が転がりこんできたのだった。
北の富士は、年寄井筒を襲名した。
名古屋場所をおえ、七月二十四日、荒川を東にこえた江戸川区春江町に早くも井筒部屋の棟上げ式が行われた。
いよいよ、九重部屋から分家独立である。
九重、井筒の師弟間で、すでに内弟子の移籍も円満に解決していた。井筒親方は、三段目千代の川ら八名の内弟子を連れて九重部屋から出てゆく。
その朝だった。
井筒親方は、ひとつ置き土産を考えた。
(ウルフの野郎、このごろ、のぼりかけてちょっとテングだな。おれが、江戸川へ行ったら、もう説教もできん。ハッパをかけるなら、今日しかない)
そう思って千代の富士を呼んだ。そばに一緒に連れて出る内弟子八人もいる。北の富士は、現役時代は弟子に対して暴力をふるうことはなかった。暴力は、もっとも彼の気質にあわない。しかし、いまは心を鬼にした。
「ウルフ」と高飛車にいった、「……おれはな、今日限り、こいつらを連れて部屋を出ていく。おまえは、九重部屋にのこる。このごろの態度はなんだ。毎晩、帰ってきてはゲーゲーあげるほど飲んでばかりいて、えッ、どうするんだ。秋は、幕下の上位じゃないか」
いうなりその横面を一発、ぶん殴った。
「えッ、おまえらも、いい気になるなよ」
そういって、千代の富士をぶん殴った手で、自分の内弟子八人もついでにぶん殴った。そうしないと分家していく人間が、喧嘩別れするような目でみられる。つれ|しょん《ヽヽヽ》で殴られた内弟子の方こそ迷惑千万であった。
こうして井筒親方は、九重部屋を出て、井筒部屋へと分家独立していった。
その翌日から、浅草観音裏の九重部屋は、火が消えたように淋しくなった。
十両に幕内から陥落の北瀬海、千代桜の二人がいるだけ。本場所がめぐってきても、稽古場観戦にくる報道陣の姿が、ぱったり跡絶えてしまった。
報道陣も、千代の富士という名前すら知らない。たとえ知っている記者がいたとしても、左肩の脱臼を繰りかえす小さな男が、将来の大物になるとは思いもしない。
秋場所がきた。
千代の富士、東幕下十一枚目である。
初日の相手は西海。片男波部屋の大アンコ。むろん大先輩だ。見事に勝った。
その夜、浅草の馴染みのスナックに飲みにいった。
「やあ、勝ったね」と親父さんがいってきた、「よかった、よかった。さあ乾杯だ」
「じゃ乾杯して、つぎも勝つか」
そうゲンを担いで、本場所中、毎晩、仲間を引きつれ飲みに出た。いつも午前三時頃、部屋に帰りつく。その勢いで、連戦連勝。時津風部屋の元幕内力士で、十四年も幕下にとぐろを巻く有名な“幕下の関門”東幕下十九枚目、三十三歳の牧本にも勝った。
千秋楽を迎え、六戦全勝である。
その日、相撲取りになってはじめて|大《おお》|銀杏《いちよう》を結った。千秋楽の相手は十両玄武。立浪部屋の玄武は、この日を迎え七勝七敗。西十両ドン尻の玄武にとって、この一戦に負ければ幕下落ちである。一方、千代の富士は、勝てば七戦全勝の幕下優勝。
いよいよ優勝のかかった土俵に、千代の富士があらわれた。
そのとき九重親方は、国技館内の二階席の最上段近くの椅子席にお客さんと並んで坐り、土俵を見おろしていた。すり鉢型の底にある屋形の照明に照らしだされた土俵からは、暗い天井桟敷にいる師匠の姿は、よもや見えまいと、わざわざそんな所に隠れて坐ったのだ。
|喚声《かんせい》が下から渦をまいて湧きあがってくる。
隣りで変な音がする。お客さんは、なんだろうと九重親方をみた。
九重親方が、ぶるぶる震えている。両膝に手を立て、その上に顎をのせて、下を見ながら震えているのだ。巨人だけに震動も大きい。背広のポケットにいれているタバコ入れのなかで、タバコが、カタカタ、音たてているのだ。
(九重さん、あいかわらずだな)
そう思って、そのお客さんは涙が出る思いがした。
土俵上の千代の富士は、はじめての大銀杏や目の前にぶらさがった優勝という重圧などはどこ吹く風、|凛々《りり》しく塩をまき、颯爽と決戦にのぞんだ。目がらんらんとかがやき、すでに敵を呑んでいる。玄武の方が、むしろかたくなっている。
立ちあがった。組むなり大きな上手投げ一閃、どっと玄武が落ちた。
千代の富士、幕下優勝。
勝ち名乗りを受け、気がうわずっていた。幕下十一枚目での全勝優勝。つぎの場所の十両昇進は決定的である。
花道に出た。人がごったがえしている。なかなか前にすすめない。するとその人垣の向こうに、胸から上が突き出た師匠九重親方の真っ赤な顔がみえた。人垣を掻きわけ、千代の富士の前にたどり着くなり、大きな手を差しのべてきた。がっちりと握りかえすと、親方が大粒の涙をこぼしている。
嬉しかった。胸がつまり、声が出なかった。
その足でNHKの係員に連れられ、インタビュー室にはいった。
なかは、まばゆいほどライトの明かりがいっぱいだ。
優勝インタビューである。はじめて晴れ舞台に立たされ、スポットライトを浴びる。
(十両入りだ。おれも、やっと一人前になれる)
インタビューを受けながら、嬉しさが実感となってこみあげてきた。
その秋場所、北の湖は新横綱にのぼっていた。琴桜、北の富士と一挙に二横綱が抜けた先の名古屋場所千秋楽、横綱輪島に本割り―優勝決定戦と、一日に二番も負け、逆転優勝されたものの、優勝者と同点。すでに優勝二回の実績もかわれ、場所後、二十一歳二カ月で史上最年少横綱に昇進した。
「花のニッパチ」
秋場所は、新横綱で十一勝の北の湖、前頭三枚目で十勝をあげ殊勲賞の若三杉、九勝の麒麟児ら昭和二十八年生まれの若手陣の活躍で、そう謳われていた。
このとき千代の富士ら同期生のトップをきって、玉ノ富士が新入幕。東前頭十三枚の幕尻で、八勝七敗の勝ち越しである。
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第九章 泥  沼
九州場所番付が発表された。
千代の富士、東十両十二枚目。新十両である。
「昭和三十年代生まれの初の関取」
「次代の大関候補あらわる」
各新聞に一斉に、そう書きたてられた。
昭和三十年六月一日生まれの千代の富士は、ときに十九歳五カ月。幕内陣で「花のニッパチ」組の活躍がはなやかに喧伝されている最中、十両に早くも次代の芽、千代の富士が三十年代生まれの若手陣のトップをきって躍り出てきたのだ。
相撲記者たちが新十両千代の富士の稽古土俵をはじめてみると、身長百八十センチ、体重九十九キロ。まだ百キロない未完成ながら筋肉質の体で、足腰のバネはいい、腕力が凄い。しかも面構えからしていかにも気が強そうだ。これは「次代の大関だぞ」と、だれもがみた。
場所前、九重部屋北海道後援会から、化粧廻しと新調の紋付き一式が贈られてきた。若狭竜太郎先生がわが事のように喜んで音頭をとり、秋の幕下優勝の直後から大至急注文してつくりあげた品々である。
嬉しかった。
マスコミにはじめて脚光を浴びる。化粧廻しが贈られてくる。
(やっと、一人前になれた)
嬉しさが、具体的な形となって目の前に積みあげられたのだ。よかった、相撲取りになってよかったと、つくづく思った。その嬉しさから飯までうまくなり、場所後、一カ月の巡業中に体も九十キロから九十九キロといっぺんに九キロも太ってしまった。肉がついた――と、これも励みになった。闘志が湧き出てきた。
いよいよ九州場所がはじまった。
新十両千代の富士、初日から快調な土俵である。二日目、三日目と二連敗したのみ、連日白星を積みかさね、八日目舛田山に苦杯をなめて三敗。しかし再び二連勝し、十一日目の土俵を迎えて、七勝三敗。優勝戦線のトップグループに残っている。
十一日目の相手は隆ノ里(のち隆の里と改名)である。
隆ノ里は、四十三年名古屋場所が初土俵。千代の富士が相撲への入門前夜、福島町のイカ加工場の家で奥の間の貴ノ花に激励されたあの日、貴ノ花のそばに若三杉と一緒に付人でいた。その頃、まだ三段目で本名の高谷で取っていた。
右四つ、左で上手を取れば、稽古場では大関貴ノ花にも引けをとらぬ怪力の持ち主である。しかし相撲のテンポが遅く、自分十分の右四つになかなかなれない。出世も糖尿病にたたられ、同期の兄弟弟子若三杉におくれをとった。この四十九年九州場所、千代の富士とともに、やっと十両入りをはたしてきたのである。
隆ノ里、東十両十三枚目。この日を迎え、同じく七勝三敗。優勝グループのひとりである。
両者とも、きょうの一番に八勝の勝ち越しを賭けている。しかも、負けた方が優勝戦線から脱落するのだ。
この日の朝、九重部屋の稽古場見物にあらわれた報道陣のなかに、ひとりの顔をみつけるや、千代の富士は、目をかがやかせ、不敵にもこういった。
「先輩、きょうは飯、御馳走になりますよ」
まだ三段目のまったく注目もされなかった頃、千代|湊《みなと》、千代の富士、若の富士の三人で東京・吉原名物の民謡酒場「七五三」に出かけたところ、その記者がいて、三人で飯を御馳走になった。それ以来の付きあいである。
千代湊はすでに廃業し、北の富士現役時代からの内弟子第一号、若の富士は、いまは井筒部屋に去っている。
新十両のこの場所、その先輩記者が「勝ち越したら、飯おごってやる」と約束してくれたのだ。
いよいよその土俵がきた。
隆ノ里は、例によってのそっと立ってきた。右の相四つ、がっぷり組むや、千代の富士はいきなりゴボウ抜きに高々と吊りあげた。そのまま吊り出しにいく。ところが隆ノ里も必死、吊り出されながら、まわしをがっちり握りつづけて最後まで抵抗したため、二人もつれながら土俵下まで激しく転落した。
千代の富士、八勝。勝ち越しである。優勝戦線を突っ走っている。
飯を約束した先輩記者が支度部屋にあらわれた。みると、千代の富士の顔は蒼白。血の気がひき、
「い、て、て、てッ」
呻いている。
「どうした」
「また、肩ぬいちゃった」
「なんだい、またやっちゃったのか」
千代の富士は、脂汗のにじみでる蒼白の顔で呻きつづけるばかりだった。
土俵下に隆ノ里ともつれながら頭から転落したとき、左肩を脱臼したのだ。久しく脱臼から遠ざかっていたのに、新十両の優勝戦線を突っ走る大事な後半戦で、またもや脱臼に見舞われた。
約束の夕食会はご破算になった。
翌十二日目、|播竜山《ばんりゆうやま》戦である。
播竜山は、二十三歳。四十一年十一月初土俵と、千代の富士より三年も先輩。しかし出世は遅く、この年名古屋場所に十両入りした。なにしろ若い頃、放っておけば飯も食わず三日間も寝つづけたほどののんびり屋。ゴリラに似て、アダ名も「ゴリちゃん」。その播竜山が、この日を迎え、八勝。優勝戦線グループのひとりだ。
その一番、千代の富士の気の強さが最大限に発揮された。左腕はまったく使えない。立つや、右腕一本で播竜山を振りまわし、強引にもかいなひねりで土俵に裏返してしまった。九勝である。
翌十三日目からの相手は元幕内、十両常連の曲者ぞろいだった。いずれも千代の富士より大先輩ばかりである。
十三日目、若獅子。小柄ながら、突っ張り、押し、けたぐりと変幻自在。突き落としに敗れた。
十四日目、陸奥嵐。ひと呼んで「東北の暴れん坊」。柏鵬時代には土俵狭しと奇手につぐ奇手で暴れまわり、何が飛びだすか本人さえ判らない。「最後の異能力士」と声のかかる大ベテランである。
その一番、千代の富士は土俵際まで追いつめ「勝った」と思った。その一瞬、陸奥嵐の足がかかり、奇手中の奇手、河津掛けを喰って大きく土俵の外に放り投げられていた。
千秋楽、青葉城には寄り切られた。
最後の三日間三連敗し、九勝六敗に終わった。
十両優勝は、六人入り乱れての優勝決定戦のすえ、十勝五敗の播竜山が手中にした。
九州場所を打ち揚げ、十二月二十二日、江戸川区春江町では井筒部屋が新装なり、落成式と土俵開きが行われた。
五十年――。
初場所、千代の富士、西十両四枚目まで躍進。
前半戦、四勝一敗と勝ちすすんだ。しかし六日目からトンネルにはいった。六連敗である。おわってみると六勝九敗。大きく負け越しであった。
十九歳。百キロない体では、十両上位の壁は、さすがに崩せなかった。まだ家賃が高かった。
その場所、龍虎、西小結である。アキレス腱切断で幕内から幕下まで転落しながら再起した龍虎は、三十四歳の古参ながら、とうとう驚異の三役返り咲きをはたしたのだ。しかし返り咲きをはたした途端、力つきたのか三勝十二敗と大負けに終わった。
場所後の二月二日、横綱北の富士の引退相撲、ならびに井筒襲名披露が行われた。この日を迎え井筒親方は、武蔵川相談役の許にいき、頭をさげた。
「親方。ぜひとも親方には|髻《たぶさ》をきってほしい」
武蔵川親方こそは、出羽海親方時代に“その他大勢組”にすぎなかった「香車」北の富士に目をつけ、大関にまで育てあげてくれた大恩人である。その恩は片ときも忘れたことはない。しかし、その恩を裏切って九重部屋に走った。そして横綱をきわめ、いま晴れて引退相撲を行う。相撲取りにとって、引退相撲は一生一度。お世話になった大勢の人びとに大銀杏につぎつぎとハサミをいれてもらい、最後に髻が切り落とされた一瞬、「横綱北の富士」は永遠に過去に飛び去る。そして井筒親方という別人として、第二の人生に船出するのだ。
引退相撲は、「横綱北の富士」との訣別式である。同時に「井筒親方」への祝賀式である。
北の富士にとって、その過去への別れの式に、武蔵川親方こそハサミをいれてほしい最大の恩人であった。
一方、武蔵川親方にとっても、北の富士は可愛い|愛《まな》弟子であった。「九重事件」で破門した。しかし、それは過去の出羽海親方時代。いまは協会相談役という隠居の身である。もしこれが現役の理事長ならば、かつての破門力士の断髪式に軽々と出られなかったろう。
武蔵川相談役は、井筒の願いを快く引き受けて、断髪式に出た。
北の富士引退相撲は盛況裡におわった。
井筒部屋は、早くも昨年から始動している。後援会も正式に発足していた。
会長は、関山義人。
隠然たる右翼陣営の大物である。明治四十三年、東京生まれ。興論社会長、公聴新聞社主をへて、現在、奥州大学理事長兼学長、明治大学評議会議長、社団法人日本会理事をつとめる。
新興井筒部屋は、親方の陽気な人柄から有望新弟子でどんどんふくれはじめた。
その井筒部屋をのぞく人びとは驚いた。
可愛いお嬢さんが、親方夫人然として住んでいる。高校を卒業して間もないバレリーナの卵であった。
一場所違いの親友、元関脇高鉄山の大鳴戸親方(朝日山部屋)から紹介されたのだ。高鉄山夫人はバレリーナで、バレエ学校を開いている。その生徒のひとりだったお嬢さんに白羽の矢をたて、いまだに独身をつづける北の富士をみかね、
「おれの女房の弟子に気性のいいお嬢さんがいる。付きあってみて、よかったら嫁にもらわんか」
という親友の勧めで同棲していた。横綱晩年の頃からの同棲であった。ところが二人の仲は、年齢があまりにも違いすぎ、あまり長つづきせず、結局別れた。
井筒親方は、また独身の青年親方にもどった。
部屋には、稲葉敏夫マネジャーがいる。横綱時代からの専属運転手だった。井筒部屋に独立以来、運転手兼マネジャーとなって、大部屋の若者頭なみに大勢の若い相撲取りの面倒から、チャンコの手配まで、部屋の台所一切をとりしきっている。少しも不自由しない井筒親方に、いまさら女将の必要はなかった。青年井筒親方は、いかにも新興部屋らしく、はつらつと独身のまま部屋運営に乗りだしたのである。
千代の富士は、タバコを吸いはじめた。
新十両になって一気に九十九キロまで太った。ところが十両二場所目で大負けし、以来どんなに食べても、それ以上太らない。百キロの壁を乗り越えられないのだ。
「タバコなど十両にあがるまで吸っちゃだめだ」
そう師匠から常々いわれていた。その十両にあがった。しかし食えども食えども太らない。
(もういいや)
半分ヤケ気味でタバコを吸いはじめたのだ。たちまち本数がふえ、一日にセブンスター三箱も煙にしてしまう。いつの間にか、タバコなしでいられないヘビースモーカーになっていた。
女もできた。
はじめ、だれにも気づかれなかった。ところが午後、浅草観音の境内を一緒に散歩したり、連れ立って道をゆく姿が九重親方の息子さんの目にとまり、いつしか親方夫婦の耳にもとどいた。
部屋のすぐ近くのアパートに住む女性だった。
春場所、西十両八枚目、八勝七敗と勝ち越した。十二日目までに八勝をあげ、残る三日間連敗しての勝ち越しであった。
光恵女将は、千代の富士の行動をだまってみていた。
相手は、千代の富士より年上で、どこかのクラブに勤める水商売の女性らしい。稽古が終わり、チャンコもすみ、みんなが昼寝をはじめる午後になると、千代の富士は部屋からぷらっと出かけていく。なにしろ歩いて三分とかからないアパート。その年上の女のアパートに入りびたりなのだ。それが、ほとんど毎日のようにつづく。
(のめりこまれたら、大変やわ)
女将は、そう思った。女の味をおぼえると、これほど楽しいものはない。はじめ|騙《だま》すようにして入門させ、相撲をまったく取る気のない子をやっとの思いで相撲一筋に決心させた。ところがそれからが大変だった。骨折、そして脱臼につぐ脱臼と怪我つづきで、やっと十両まできた。一人前の関取衆の仲間入りをして、ほっとひと安心し、タバコを吸いはじめ、つぎに女を知った。まだ十九歳。女性をみる経験も目もない。「プレイボーイ横綱」と異名をとった井筒さんがいたなら、女遊びの手ほどきも戒めもしてもらえるが、その井筒さんは遠く荒川の向こう。さあ、ここは女将のあたしの出番だ。女に|溺《おぼ》れ、相撲まで棒に振ってしまった落伍者が、過去に何人もいる。しかもあの子は、親方がいま一番、目をかける九重部屋の財産。それこそ手塩にかけて、ここまで育てあげてきた大事な財産だ。
夏場所も近い。
ある昼下がり、女将は、そっと関取の個室をたしかめた。千代の富士の姿はない。行き先はきまっている。四階の自宅にもどり、居室にはいると、机に向かって新聞社の原稿を書いていた親方に、
「あなた、ちょっとそのままいてくださいね」そう声をかけて、外に出た。
すぐそばのアパートに行った。女の部屋の前に立ち、戸をノックした。
「どなたあ?」
そう女性の声がして、だいぶ待たされたあと、戸が開いた。みると、部屋のなかに浴衣姿の千代の富士がいた。
「ちょっと帰ってらっしゃい」
女将は、そう呼びかけた。
千代の富士は、|憮然《ぶぜん》として立ってきた。女のアパートに女将さんに踏みこまれ、動揺しているのが透けてみえる。そのまま連れて親方自宅まで直行のエレベーターで四階まで上った。洋間の居室には、九重親方がいた。机の椅子に坐ったままだった。
長椅子に千代の富士を坐らせた。
「あなた、肚がたつでしょう」光恵女将は、千代の富士に面と向かっていった、「……だけど、いまが一番大事な時期なのよ。女に溺れちゃいけない」
千代の富士は、ふてくされて物もいわない。目がどんよりと濁り、ふくれっ面のまま貧乏ゆすりしている。女将は、いまが勝負だ、ずばッといった方がいいと思った。
「あなたね、水商売の女の子てのは、あなたステキとか、愛してるわ、とかいったって、そんな言葉は嘘よ。口からでまかせよ。よくききなさいね。恋は恋でも、お金もってこいという恋なの」
千代の富士の貧乏ゆすりは、つづいていた。親方は、ひとことも口をはさまない。女将は、必死でつづけた。
「あなたが可愛いから、注意するの。いままでどんなに女遊びがひどくても、こうやって注意した子はひとりもない。大事なあなただから、注意するのよ。……ね、どうぞお願いだから、目を醒まして。相撲一筋に頑張らなきゃ、北海道のおとうさん、おかあさんが泣くわよ。ね、わかった?」
「はい」
千代の富士は、蚊の鳴くような声で、そういっただけだった。
夏場所がきた。
千代の富士、西十両六枚目。九勝六敗。見事、勝ち越しである。
その場所三日目、龍虎がついに引退届けをだした。初日、東前頭四枚目旭国に上手ひねりに敗れた土俵で、右足アキレス腱を切断。二日目から休場に追いこまれた。公傷制度のきっかけをつくった前の怪我は、左足のアキレス腱だった。こんどは、右足を同じ怪我に見舞われたのである。
すでに三十四歳の現役最古参。ついに力つきた。序ノ口以来の通算出場千七十回、通算勝ち星五百六十三個という現役三位の記録を置き土産に引退、年寄|放駒《はなれごま》を襲名した。「柏鵬」時代に育ち、その後「北玉」「輪湖」の二代にまたがる土俵の名役者が散っていった。
六月がきて、千代の富士は二十歳になった。とうとう大人の仲間入りである。
名古屋場所、東十両二枚目。九勝六敗。五場所目の十両上位でついに連続九勝の白星をあげた。
秋場所番付が発表された。
東前頭十二枚目。幕尻から二枚目である。
新入幕――十五歳の秋、初土俵を踏んだときから数えて、五年三十一場所目の幕内である。廻り道、挫折、転落――と、文字どおり|茨《いばら》の道を歩いてきて、とうとう幕内入りをはたした。
同期生で幕内は、このとき二十五歳の玉ノ富士と千代の富士の二人のみ。前相撲で一番出世組二十人の十九番目だった小さな男が、仲間を抜きさって、とうとう玉ノ富士に追いついてきたのだ。玉ノ富士は、ときに西前頭五枚目である。
しかし――。
その場所、千代の富士は五勝十敗。中日までに四敗し、十日目から六個の黒星をずらりと並べる惨敗だった。
そのとき大関貴ノ花は、二度目の優勝にかがやいた。今年春の初優勝につぐ北の湖との二度目の優勝決定戦で、北の湖を粉砕しての優勝である。
(貴ノ花さん、すばらしいな)
千代の富士は無惨に打ちひしがれながら、仰ぎみる思いで、そう思った。
つぎの九州場所、千代の富士は十両転落だった。幕内は一場所のみ。百キロもない二十歳の小兵には、幕内はまだ“顔”ではなかった。
九州場所、東十両四枚目――。
十日目、四勝五敗の成績で土俵にのぼった。相手は、春日野部屋の栃勇である。
栃勇は、千代の富士が七歳のときの三十八年春が初土俵。元幕内、いまや十両の|主《ぬし》的存在。
組みついて投げにいった瞬間、左肩を脱臼した。力が抜け、寄り切りに敗れた。
十一日目も負け、十二日目から休場に追いこまれた。四勝八敗三休みと二場所つづけて大きな負け越しであった。
あけて五十一年――。
初場所を迎え、西十両十三枚目、十両ドン尻だ。
怖かった。
本場所の土俵にのぼる以前に、脱臼が怖かった。相撲を取ると、また左肩が抜ける――その怖さが先に立ち、相撲が取れなかった。脱臼をおそれ、稽古にも身がはいらない。
女から目醒め、一気に十両を駆けあがり、幕内にまで一度は顔をだした。そして十両落ちすると、またまた一年ぶりに左肩の脱臼に襲われた。伸びよう、伸びようとするたび、脱臼に足を引っぱられる。ひきずりおろされる。
(おれ、悪魔にたたられてる)
恐怖すらおぼえた。体の中に悪魔が|棲《す》んでいる――そんな思いであった。
初場所の土俵にのぼったものの、千代の富士の体には生気がみられなかった。中盤まで勝ったり負けたりをつづけ、十日目からは負けつづけた。
四勝十一敗――。
春場所の幕下陥落は必至である。千代の富士は、泥沼にあえいでいた。
その一月、北海道では、若狭竜太郎先生が亡くなった。
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第十章 牛若丸とガラス細工
五十一年初場所後の一月三十日、蔵前国技館内会議室の記者会見場は、その瞬間、報道陣からあがる嘆声がさざ波のように流れた。
春日野、二子山、鏡山、大鵬の四親方が、揃って会見場に姿をみせたのである。
この日、一期二年の任期をおえ、春日野親方が理事長に再選された。春日野政権二期目のスタートである。即座に協会役員人事にはいり、春日野理事長は思いきった人選をやってのけた。
それまで二子山親方は役員待遇、鏡山と大鵬の二親方は、平年寄にすぎなかった。ところが二子山親方が、この理事会に二所ノ関一門から新理事として選ばれてきた。その二子山新理事を協会ナンバー3のポスト、巡業部長に|抜擢《ばつてき》。さらに鏡山、大鵬の二親方を「役員待遇」の名で平年寄から抜擢。二人を審判部副部長という陽のあたるポストに就任させた。そして四人そろって記者会見場にあらわれたのだ。この御披露目こそ、一幅の絵。
「栃若」
「柏鵬」
昭和三十年代から四十年代前半にかけて二代にわたる相撲黄金時代の名横綱、大横綱四人の揃い踏みである。
「土俵の充実」を|謳《うた》う春日野理事長の理想が、実現した。協会大合併の地方巡業先、稽古土俵の下にかつての“土俵の鬼”二子山親方をお目付役として坐らせ、さらに本場所土俵の正面審判長席に、審判部長の高砂親方(元横綱朝潮太郎)と三人交代制で鏡山、大鵬の二親方をすえる。
「栃若、柏鵬、再び」
「稽古は鬼の監視」
「輪湖にらむ柏鵬」
翌日の新聞には、千両役者四人の登場を受け、そんな大見出しが躍った。
それだけではなかった。春日野理事長は、はなやかなその人事の一方で、もうひとつ、いかにも東京は小岩生まれの下町・江戸ッ子栃錦らしい人事をやってのけていた。
九重親方を「役員待遇」で平年寄から抜擢、警備担当副部長の要職にすえたのだ。警備部長は、花籠事業部長の兼任である。
九重親方に“春”がきた。
四十二年一月の出羽海部屋への反乱「九重事件」以来、八年間も協会内で冷や飯を食わされつづけてきた。出羽海破門と同時に監事の肩書を|剥奪《はくだつ》され、平年寄に落とされた。協会内では陽の目をみることなく、「栃若」時代の夜明けまで大相撲を支えた横綱千代の山が、屈辱の歳月をおくってきた。それが九重部屋という一国一城の主となった代償であった。
この一月、武蔵川相談役が協会を去った。そして市川国一個人となって、相撲人としてはじめて相撲博物館長に就任した。相撲博物館は、蔵前国技館入り口の横にある、相撲協会の付属機関である。協会そのものではない。
この二年間、協会は春日野理事長、花籠事業部長という出羽海―二所ノ関連合政権で運営されながら、こうささやかれてきた。
――武蔵川院政。
春日野政権二期目を迎え、いまこそ武蔵川色を|払拭《ふつしよく》しなければならない。協会の屋台骨は、武蔵川先代理事長の「相撲百年の計」が実り、もはや揺るぎない。その屋台骨を支え、さらに繁栄させるためにも、名人横綱栃錦の春日野色を鮮明にしなければならない。その方策として「土俵の充実」人事を断行し、同時に武蔵川色を一掃する人事の目玉が、九重親方の抜擢であった。
春日野親方は、九重親方その人に対して、なんの恨みもなかった。
「九重事件」のとき出羽海一門から破門を申しわたす席上、分家の代表として正面右に坐った。
「出羽海から破門する」と宣告され深々と頭をさげる九重親方に、胸の中で泣いていた。春日野親方自身は出羽海部屋の人間ではない。分家、春日野部屋の親方である。
掟を破ってまでの分家独立という九重親方の心中が、よくわかった。
栃錦は、千代の山より三年先輩である。
昭和十四年春、十三歳で初土俵を踏んだ。その三年後の十七年春、十五歳の千代の山が本名・杉村の名で初土俵を踏んだ。その後、十両に昇進した十九年夏、栃錦は海軍に召集され、戦後二十年秋に復員してくると、千代ノ山は新入幕。その年十一月の戦後初の本場所、新入幕の千代ノ山は十日間全勝。しかし優勝決定戦制度のない当時、優勝はおなじ全勝の横綱羽黒山がにぎった。千代ノ山は、その破竹の勢いで、三段跳びに出世し、二十六年秋、二十五歳で第四十一代横綱を張った。そのとき百キロもない小兵栃錦は、まだ関脇。横綱に昇進したのは、千代ノ山改め千代の山に遅れること三年、二十九年秋場所後であった。栃錦は大正十四年二月生まれ、千代の山は大正十五年六月の生まれだった。
「千代の山、栃錦一行」――。
そんな看板で、出羽海一門の巡業をともにしてきた。稽古場では、千代の山の破壊的な突っ張りを何度も喰い、とうとう前歯を全部折られてしまった。小兵栃錦は、早くから三役を約束された出羽本家のエリート、巨人の千代の山にとって絶好の稽古台であった。同時に千代の山の稽古台になったおかげで稀代の業師へ、そしてだれも予想しなかった大横綱に変貌をとげた。分家と本家の違いこそあれ、出羽海一門にあって、同じ釜の飯を食い、同じチャンコ鍋を突っついてきた相棒だったのである。
そんな栃錦の春日野親方が、いま協会の頂点に立ち、いよいよ理事長二期目に乗りだす。かつての相棒で、横綱としては大先輩の九重親方が平年寄として冷や飯を食わされつづけているのは、見るにしのびなかった。こうして東京下町ッ子の人情で、ついに救済の手をさしのべたのである。
九重親方は、感泣した。
春場所がくると、大阪府立体育館内の警備担当室に勤務する身となった。
そんな一方、春日野親方は、「九重親方の長男、杉村信寿、日本歯科大に合格」のニュースをきくや、理事長室で親しい記者をつかまえては、こういうのだ。
「おい、九重さんの伜がな、将来、歯医者になるんだそうだ」そういって、ニタリと笑う、「……うまくなったら、わしの歯をなおさせなくちゃいけねえや。わしの歯はな、あいつの親父にガタガタにされちゃったんだ。だから、ただで、なおさせなくちゃいけねえ」
春場所、千代の富士、東幕下七枚目である。
昨年の秋、幕内にまでのぼったことが夢のように思えた。初場所、十両ドン尻での無惨な大敗。幕内の味を一度知っただけに、幕下の淋しさは骨身にこたえた。
五勝二敗と勝ち越した。そこは幕内までのぼった実力が物をいった。しかし、夏場所、西幕下筆頭にとどめられた。
場所前、久しぶりに御徒町の桜井家をたずねた。この春、桜井家の二人いるお嬢さんの末娘が、小学校へ入学した。東京へきてから桜井家へ立ち寄るたび、トランプやゲームの相手をして遊んでやった娘さんだ。すごくなつかれていた。そこで入学祝いに、
「おれ、ランドセル、プレゼントするよ」
そう約束していた。ところが幕下落ちのショックで、その約束も忘れていた。そこで改めて別のお祝いを届けにきたのだ。
二階の座敷にあげられると、桜井昭男が口をきった。
「貢、おまえの相撲は、テレビでみせてもらってるよ。相撲には門外漢のわたしがいうことだよ、いいかい」そういって、桜井おじさんはつづけた、「……土俵は、勝負の世界なんだ。憎まれてもいいから、ずるく立ち廻らないと、勝てないよ。勝たなくちゃ、なんにもならない世界だもの」
千代の富士は、目をなごませ、おじさんの顔をみている。
「おまえの相撲をみてると、わたしは、いらいらしてくるよ。ほんとだよ、これ。貢は、正義感にもえているからだろうけど、大きな相手にまともに向かっていく。すこしは、ずるく立ち廻ったらいいよ」
「おじさん、わかったよ」
そういって千代の富士は帰っていった。
その夏場所三日目の幕内の土俵である。
青葉城―小沼戦であった。
ときに青葉城は東前頭五枚目。小沼は東前頭九枚目。
小沼は、この春場所に新入幕をとげ、これが幕内二場所目。鏡山部屋が生みだした初の幕内関取である。昭和三十年八月、埼玉県春日部市生まれ。四十六年名古屋場所に初土俵を踏み、一年先輩の安達(のち蔵玉錦)を抜いて、とうとう入幕をとげたのだ。新入幕早々「北の湖二世」とまで声がかかった。千代の富士と同年の二十歳である。
鏡山親方は、そのとき狂喜した。
四十四年名古屋場所に横綱柏戸を引退。鏡山親方を襲名。四十五年秋、伊勢ノ海部屋から分家独立し、「鏡山部屋」の看板をあげた。それから六年目で、早くも幕内を育てたのだ。普通、
――幕内一人を育てるのに十年かかる。
そういわれる世界である。
「これで、わしも親方として一人前の顔ができる」そういって、鏡山親方は嬉しさを隠さずつづけた、「……わしは、時津風理事長にいわれたものだ。“おい|富樫《とがし》(柏戸の本名)、おまえはガラスだな。ガラス細工だな”……それくらい、若い頃のおれは、もろかった。それにくらべ、小沼はわしとは体質がちがう。あいつは、怪我をしない体だ。体が柔らかく、将来がたのしみだよ」
そう師匠はいって、鏡山部屋初の幕内小沼に賭ける夢は大きかった。
事実「電車道」といわれ、若い頃の柏戸は土俵上を一直線にひた走り、土俵下へ転落。足首骨折などの怪我が絶えなかった。それにくらべ、小沼は尻が大きく、体が柔らかく、なによりもふてぶてしい度胸。「北の湖の再来」の看板に恥じない偉材である。
その日、鏡山親方は正面審判長席に坐って土俵を見つめていた。
相手の青葉城は、昭和二十三年生まれ。すでに小結も経験ずみの愛称「おとうちゃん」。長いもみあげ、タワシのような胸毛、がっちり左四つに組めば、相手は動けない。
土俵上、小沼は一気に攻めた。組むなり、重い青葉城を吊りあげた。そこへ青葉城の左外掛けが飛ぶ。小沼は、そのまま右へ強引に|打棄《うつちや》ろうとしたとき、骨の折れるにぶい音が館内にこだました。土俵中央へ崩れ落ち、うずくまってしまった。鏡山審判長の顔面がひきつった。
小沼は、担いで運びだされた。鏡山審判長は不動の姿勢を崩さず、幕内前半戦の審判長役を見事につとめあげた。
小沼は、上野池之端の金井整形外科病院に入院した。
右足首の骨折、全治三カ月――。
夏場所は一勝三敗十一休み。名古屋場所は、当然、十両落ちだ。しかし公傷制度が適用され、名古屋はその地位で全休しても、秋場所から再起できる。
しかし骨折した一瞬、小沼の土俵人生は終わっていた。ベースボール・マガジン社の相撲記者が金井整形外科に小沼を見舞うと、小沼は、ギプスを当てた足を憎々しげに見ながらいった。
「この間よう、青葉城関が見舞いにきてくれたよ。“怪我はどうかねっ”てな。だけど、おら、あのおとっつあんの顔もみなかった」
「なぜだね」
「だってな」と小沼は吐き捨てた、「……怪我さした、あいつが悪いんじゃねえか」
「おまえ、バカだな」と、その先輩記者はいった、「……そんな頭はすてろ。そんなことをいってると、この社会で生きられないぞ。土俵は、男と男が命をかけてる戦場じゃないか。青葉城に罪は、すこしもないよ」
しかし小沼は、聞く耳をもたなかった。辛抱に耐える精神をもちあわせていなかった。|不貞腐《ふてくさ》れてしまったのである。
千代の富士は、耐えた。
夏場所、幕下二場所目である。幕内から幕下まで陥落しても腐らず、「貧乏神」といわれる幕下筆頭で頑張りつづけた。
前半戦、一勝三敗と大きく負けながら、後半戦で三連勝。四勝三敗で、再度、十両に返り咲きをきめた。
名古屋場所、西十両十三枚目。九勝六敗と見事、勝ち越した。
秋場所、東十両十枚目、八勝七敗。
九州場所、東十両六枚目、五勝十敗。
この頃、千代の富士の名はマスコミから忘れさられていた。「三十年代生まれの初の関取」といわれた二年前の騒ぎが、夢のようであった。
その九州場所、小沼は幕下陥落である。
「秋場所は出たい。やれるだけの力は回復したと思います」
そういう小沼に向かって、師匠鏡山親方は、心を鬼にして愛弟子を幕下まで突き落とした。
「だめだ。完全になおしてから再起しろ。もう一度骨折したら、こんどこそは命取りになる。休め。幕下落ちがなんだ。休め」
そう断をくだして、公傷制度あけの秋場所、十両の土俵に出場しようとする小沼を全休させた。その全休は全黒星となり、九州場所は幕下陥落だった。
「出るという弟子を土俵にださせない。ひでえ親父だ」
小沼は、初土俵が同期の佐渡ケ嶽部屋の親友、琴風をつかまえ、そうわめきちらした。ふてぶてしい度胸だけに、荒れようもひどかった。琴風も、慰めようがなかった。
五十二年がきた。
初場所――。
千代の富士、東十両十一枚目。幕下から這いあがったものの、十両に四場所も低迷している。
この場所、千代の富士の親友、若江口が西幕下二十枚目まできて、その名も勇ましく、
「牛若丸」
と改名して出てきた。そのとき若江口改め牛若丸は、左目が完全に見えなかった。両眼とも、人がみる限り開いている。しかし、左の視力はゼロだった。
網膜|剥離《はくり》であった。
若江口は、あの千代の富士と一緒に受けた新弟子検査のとき、実は背のびして身長台に立った口であった。そのとき、本当は身長が百七十センチなかった。その小兵で、若い頃から突き押しの激しい相撲を取ってきた。突っ張ると相手も突っ張ってくる。すると背が低いがために、相手の手はいつも若江口の目にはいる。そのはてに幕下七枚目まできた昨年の夏場所前、急に左目が見えなくなり、秋葉原の三井記念病院で網膜剥離と診断され、すぐ手術を受けた。
体は、どんどん太り、すでに百十七キロもある。内臓はどこも悪くない。すべて絶好調である。しかし激しい運動は絶対禁止。手術を受け、退院したものの、激しい稽古で衝撃を受ければ、再びうすい網膜が剥がれる。四股すら踏めない。
「相撲を取れば失明する」
そう医師から宣告され、地団駄を踏んだ。親友、千代の富士をやっと射程距離内にとらえられる所までのぼってきた。そこへ|疫病神《やくびようがみ》に見舞われたのだ。
荒れた。ヤケ酒を飲みまわった。
そして若さにまかせ、この初場所、再び幕下上位にのぼってきたのだ。
(この初場所が、おれの土俵人生の最期だな)
そう観念した。左目が完全に視力ゼロ。しかしやめるにしても、無念だ。体は絶好調。しかも相撲が面白くなりはじめた最中のことだけに、土俵への無念はつきない。せめて名前だけでも後世、忘れられないものにして去りたい。そう思って部屋の大兄弟子、神幸に相談した。
神幸は、雪深い山形県小国町の産。四十一年秋、魁傑と一緒に初土俵を踏みながら、人間が|朴訥《ぼくとつ》な山形人そのまま、おっとり型の相撲で出世まで遅い。四股名も、東京は牛島神社の五年に一度の祭り「神幸祭」からとって、自分で神幸と名乗った男だ。
そこで金太郎、桃太郎、浦島太郎、弁慶と有名な名前を片っ端からあげ、とうとう、
「牛若丸」
そう名乗りあげた。若江口改め牛若丸の四股名は、二十になったばかりの男の、哀しい自分へ贈る鎮魂符であったのだ。
牛若丸は、幕下の土俵で暴れまくった。なにしろ左が見えない。左の視界に敵が逃げると、ぴょんと右へ飛ばないと敵を見失う。五条の橋の牛若丸さながら土俵狭しと跳ねまわり、気がつくと、幕下全勝優勝――。
春場所、新十両へと昇進してしまった。牛若丸は、皮肉な運命に翻弄されるわが身が、哀しいのか笑えばいいのか、訳がわからなかった。
一方、小沼――。
こちらは幕下に落とされると、幕下の相撲しか取れなかった。土俵上の骨折という不可抗力で幕内から十両へ落ちた。そこへ弟子の将来を思う師匠から、さらに休場を申し渡され、幕下まで転がり落ちた。一度、幕内の「いい味」を知っているだけに、月給なし、本場所手当てのみの幕下は、不貞腐れた小沼には地獄でしかなかった。
かわってこの春、安達が幕内にのぼっていった。小沼が休場している間の五十一年秋、安達は十両筆頭で優勝をとげ、鏡山部屋二番手関取の地位を不動のものにしている。
本場所の幕下土俵にあらわれた小沼の姿に、みる者は目をおおった。
顔から耳のあたりにかけて、一面のミミズ|脹《ば》れ。どす黒い|痣《あざ》が浮き出てみえるのだ。
「この野郎、なんだ、その態度はッ」
鏡山親方の鉄拳が、稽古場の小沼めがけて飛んでいたのだ。不貞腐れた小沼は、師匠の愛のムチを制裁と受けとった。殴られれば殴られるほど不貞腐れた。浅草から東武電車の準急に飛び乗れば一時間で春日部の実家へ帰れる“埼玉ッ子”には、|崖《がけ》を這いあがる根性は、もうなかった。
春日部の実家へ夜逃げ同然で帰った。そこを後援者に、
「親方にあやまれ。あやまれば、もう一度土俵にあげてもらえる」
そう説得され、連れ戻された小沼は、鏡山親方に詫びをいれた。そして発憤し、一度は土俵にのぼろうとした。事実、のぼった。しかし駄目だった。
「廃業届け」が鏡山親方から協会に提出されるのは、翌五十三年九州場所になる。
「北の湖の再来」は、空洞のガラス細工であった。辛抱、根性、我慢の水さえはいっていなかった。ガラスは、こなごなに砕け散っていった。
夏場所がきた。
千代の富士、東十両二枚目である。
春場所、西十両十枚目で十勝五敗と大きく勝ち越し、ようやくまた十両上位までのぼってきた。
しかし――初日から三連敗である。
四日目、栃勇戦であった。一年半前の九州場所、十両時代にこの栃勇戦で脱臼している。十両の主栃勇は、千代の富士にとって鬼門であった。
そのとき大富士は、花道にいて土俵を見ていた。
大富士は、井筒親方が分家独立した最初の四十九年秋場所、井筒部屋から初土俵を踏んだ。このとき幕下までのぼってきて、本場所がはじまると、本家―九重部屋の十両関取・千代の富士の臨時付人をつとめている。三十三年八月、東京・大森の生まれ。十八歳である。
土俵上の戦いを見ていて、
(あ、やった)
千代の富士の左腕がぬける一瞬を見たのだ。全身から力が抜け、栃勇に吊り出された。
大富士は、支度部屋へ走った。足を洗う用意をしていると、九重部屋の付人、三段目の千代勇に担がれ千代の富士が帰ってきた。左腕が肩から棒のように垂れさがり、蒼白の顔から脂汗がにじみ出ている。足を洗い、付人二人で抱えるようにして診療所へ運んだ。
「だれか、いないかッ。肩いれるの、いないかッ!!」と年寄衆が叫んでいる。
「時汐は、いないか」
時汐は、時津風部屋の古い幕下。脱臼の肩をいれる名人だ。その時汐がいない。
「力駒を呼べ」その号令で、だれかが支度部屋へ飛ぶ。宮城野部屋の十両である。
まわし姿の力駒がやってきた。
その間、ベッドに寝かされた千代の富士は、顔面から血の気が退き、脂汗が噴き出ている。両眼をカーッと開いて、奥歯を噛みしめた口から呻きがもれてくる。大富士はそばで見ているだけで怖くなった。
力駒は物もいわず、千代の富士の左腕をとった。腕をゆっくり廻すようにして引っぱりながら、「えいッ」と気合い一発、見事にいれた。
その瞬間、呻きがとまった。血の気が戻り、大きく息を吐いている。
そのまま千代の富士は、休場もせず千秋楽まで皆勤したのである。
五勝十敗であった。
名古屋場所、西十両九枚目、八勝七敗。
秋場所、東十両七枚目、十勝五敗。
つぎの九州場所に向けての協会大合併の巡業中、四国・松山の稽古場でまた左肩を脱臼した。ひとり巡業一行から抜け、東京に帰った。
これで四十八年春、幕下のとき白藤戦で脱臼して以来、四年間に土俵上で七回目の脱臼。夜中、寝ていてひとりでに半脱臼していた分までいれれば、十回はゆうに越える。秋場所では東十両七枚目で十勝をあげたから、九州場所番付が発表されれば、十両筆頭はかたいだろう。もう二十二歳になる。
(ちきしょう。おれの肩、もうだめかな)
全身から精も根もつきはてていく思いだ。上へのぼろうとすると、脱臼に襲われるのだ。一体どうすりゃいいんだ。そう思いながら、人気のない九重部屋に帰りつくと、毎日、ひとり淋しく上野池之端の金井整形外科病院へ通った。
師匠九重親方の姿はなかった。
ちょっと軽い病気で、渋谷の日赤医療センターに入院中との話であった。
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第十一章 新 生 |九 重《ここのえ》
五十二年十月二十九日。
その日、千代の富士は、上野池之端の金井整形外科での治療をおえ、近くの喫茶店でひとりコーヒーを飲んでいた。そこへ顔見知りの酒屋の親父さんが飛び込んできた。
「親方、死んだよ」
「また冗談いって……」と千代の富士は笑った、「……親父、ひとをおどかすのうまいからな」
「いや、ほんとだ。いま、テレビのニュースでやったよ」
千代の富士の顔色が変わっていた。立ちあがり、勘定をすませ、タクシーを拾うと、浅草の部屋へ飛んで帰った。
部屋は、すでに掃き|浄《きよ》められていた。
「お、千代の富士か」と居合わせた杉村家の縁者がいった、「……いま、お棺がくる。そのまま待ってろ」
衝撃であった。
自分を相撲界にいれてくれた最大の恩人が卒然と|逝《い》ってしまった。脳天を叩き割られたような衝撃だった。
そのとき部屋には、相撲取りは千代の富士ひとりしかいなかった。二日後の十月三十一日が、九州場所番付の発表である。九重部屋の相撲取りは、全員すでに九州・福岡入りをしていた。
間もなく部屋の前に車が到着し、お棺が運びこまれてきた。二階にあげられ、大広間に安置されると、千代の富士はお棺にとりすがって、
「親方、親方……」
胸のなかに絶叫しながら、泣き崩れた。
肝臓|癌《がん》であった。この日の午前五時四十五分、入院先の渋谷区広尾、日赤医療センターで息をひきとったという。五十一歳の若さであった。息をひきとる間際まで、
「鉄砲柱が……」
うわごとのように呟き、横綱土俵入りの仕草をしていたという。戦後“夜明け前”の大相撲を支え、親方になってから「九重事件」という大反乱で、相撲界に新しい一石を投じた波乱と風雲の人生であった。
井筒親方は、そのニュースを福岡の宿舎で知った。すぐ飛行機で東京に飛んだ。
(のこった連中どうするんだろ。親方がいないと、奴ら相撲取れねえぞ)
そう思った。
十一月十一日が九州場所初日である。親方不在の相撲部屋の力士は、土俵にのぼれない。九重部屋の親方は九重親方ただ一人であった。その親方が急死したのだ。こりゃ大変だぞ、結局のところ九州場所は急場しのぎで、本家―高砂部屋預りのかたちをとるほかあるまいな……そう思った。
十月三十日、お通夜。
三十一日、密葬が行われた。
夕刻、九重親方は遺骨になって、火葬場から部屋に帰ってきた。
大広間ではお浄めの会食がはじまっていた。
そのとき光恵未亡人は、心にきめた。
(いましかない。こんな大勢の方々が一堂に集まってくれている、いましかない)
火葬場で夫の亡骸を|窯《かま》にいれ、轟音とともに火が|焚《た》かれ、手を合わしたときから涙を振っきった。いつまでも泣いてはいられない。父親譲りの気強さでそう決心し、大広間を見わたした。
お歴々の顔、顔、顔……が見える。
九重部屋後援会長の秦野章参議院議員。副会長の岩沢正二住友銀行副頭取、同じく副会長の伊藤広一医師、名誉顧問の大沢一郎元検事総長。それに本家の高砂親方、分家の井筒親方、そして幕内北瀬海、十両千代桜、千代の富士、幕下影虎ら計十四人の九重部屋力士が全員そろっている。
父、伊藤作之進の姿もあった。
光恵未亡人は、後援者のひとりを呼んだ。
「いまみなさんが集まってくださっているこの席で……」と涙ひとつみせず、つづけた、「九重部屋のあとをどうするか、ご相談申しあげたいの。円満に解決したいの」
そう伝えた。
光恵未亡人の意向が大広間に発表され、すぐ「つぎの九重親方をだれにするか」という話し合いがはじまった。
光恵未亡人は、|部屋頭《へやがしら》の北瀬海を呼んで頼んだ。
「あなた、ちょっと力士みんなの気持ちをきいてちょうだい」
やがて力士十四人の総意がもたらされた。
「女将さん。ばらばらになるのは、いやだ。みんな、そういっています」
そうきいて、光恵未亡人の肚はきまった。
議論百出であった。
「九重部屋の力士全員を本家―高砂部屋に吸収合併する」という論が出た。
「とりあえず本家―高砂預りとし、将来、預り力士から大関・横綱が出た暁、その者によって九重部屋を再興する」という論も出た。
しかし、光恵未亡人の決心はついていた。父、伊藤作之進にその決心を明かすと、言下に「よし」と首を縦に振ってくれた。父も同じ考えであったのだ。
「九重部屋のあとは、そっくり井筒親方にまかせたい。名前は九重部屋として継いでほしい」
光恵未亡人の意向が発表された。
反対する者は、だれひとりいなかった。井筒親方は、九重部屋の人間として横綱を張った。引退後、分家独立していったものの、井筒親方をおいて九重部屋を継ぐ最適任者はほかにいない。井筒親方が九重親方になってこそ、天国へいった千代の山も喜んでくれるに違いない。なんとしても九重部屋は存続させねばならない。出羽海部屋から掟を破り、大騒動を起こしてまで独立をかちとった九重部屋。それを一代で|潰《つぶ》してしまっては、千代の山の霊は永遠にさまように違いない。――浅草の部屋はたたみ、九重部屋の力士全員が、江戸川区春江町の井筒部屋に移る。井筒部屋は、その日から二代目「九重部屋」として看板をかかげる。部屋は、浅草から荒川を越えるだけ、直系の愛弟子、元横綱北の富士によって受け継がれてゆくのだ。
「いいだろう」と秦野後援会長が口をきった、「結局、それが一番いいだろう」
二人の副会長をはじめ、大広間に居合わせるお歴々みんなが、すべて光恵未亡人の提案に賛成の意向を表明した。
井筒親方は、びっくり仰天した。
九重親方の跡目が、よもや自分に廻ってこようとは、そのときまで夢にも思わなかった。師匠の急死で気が動転し、そこまで計算ができなかったとしても、のんきといえばのんき、欲がないといえば、いかにも欲のない井筒親方らしかった。
事実、天から降って湧いた話に喜々として乗れない事情があった。横綱引退と同時に、「井筒部屋を再興してほしい」と先代井筒未亡人に頼まれ、北海道産の男が鹿児島伝来の名門・井筒部屋の看板をかかげた。それからまだ三年、先代井筒未亡人の期待に応える関取も生みだしていない。いま九重部屋を継ぐと、先代井筒未亡人へ顔が立たなくなる。
それに井筒部屋は、そのとき力士総数二十七人。一番上が若の富士、大富士、富士の|巌《いわ》、下田の幕下四人で、あとは三段目以下の若い衆ばかり。新興部屋らしく頭数だけは大勢だが、九重部屋の相撲取りを引きとるとなると、責任重大である。
関取衆がいる。
それも、ただ古顔の関取ならば問題はない。最大の問題は、先代親方がもっとも期待をかけ、癌のため夢をはたせなかった男、
――千代の富士。
脱臼、脱臼であえいでいるウルフだ。先代の遺志を継いで、ウルフを大関、横綱にまでしなければ、九重を継ぐ意味がない。しかしそのためには、全員の協力がないとその大事業の実現はとても駄目だ。九重と井筒をたした途端、新旧の相撲取りたちが内紛を起こすようでは、とても駄目だ。おれには、無理だなと思った。
「おれ、九重を継ぐ自信ありません」
そう正直に申し出た。
「井筒さん」と光恵未亡人が笑いながらいった、「……自信あるかないか、やってみないと、あなた、わからないじゃないの」
「そうだな」といって井筒親方は、頭を掻いた、「……だけど、ちょっと考えさしてください」
「どうぞ、よく考えてちょうだい。でも九州場所は、もうすぐですよ」
「わかってます。よくわかってます」
井筒親方は、そういって即答はさけた。
しかし井筒の九重親方襲名は、その密葬の夜、事実上決定したも同然であった。
十一月四日、本家の高砂親方立ち合いのもと、先代九重未亡人、井筒親方の記者会見が行われ、「井筒の九重親方襲名」が発表された。九重部屋の力士十四人、井筒部屋の力士二十七人が合併、新生九重部屋が産声をあげたのだ。
そのとき喜んだ親方が、ほかにひとりいた。
君ケ浜親方である。
「先代井筒親方の愛弟子は自分、鶴ケ嶺。自分こそ次代井筒にふさわしい」と主張しながら、先代井筒未亡人に敬遠され、お家騒動のはてに井筒部屋から出て君ケ浜部屋を興していた。いま井筒親方の九重襲名で、名門「井筒」の名称が再び宙に浮いてしまった。
年寄名跡「井筒」は、いま先代九重未亡人の手にある。しかし浅草の九重部屋はたたんでしまう。未亡人の彼女が、年寄名跡を持っていても、いつかは売りにださなければならない。
「井筒部屋直系の君ケ浜に、井筒を譲ってほしい。ついては君ケ浜と井筒の年寄名跡を交換してくれまいか」
という願いが、君ケ浜親方からだされた。その願いに応えて、迷惑を受ける人間は、いま角界にいない。先代井筒未亡人は、相撲部屋をたたみ、市井の|下家《しもいえ》未亡人になっているのだ。
九州場所があけ、「井筒」「君ケ浜」の年寄名跡の交換が行われる。鶴ケ嶺は、紆余曲折のはて、晴れて名門井筒部屋を名乗る。
北の富士のゆく所、笑いと平和がつづく。無欲の男の前に、道が自然と開ける。
その九州場所――。
千代の富士、東十両筆頭。九勝六敗。見事、勝ち越した。
五十三年がきた。
初場所、再入幕である。
五十年秋場所、幕内に顔をだしたきり、翌九州場所から十両、さらに幕下まで転落し、以来足かけ三年十三場所も幕下と十両で低迷してきた。その間、脱臼との戦いつづきであった。
相撲を取れば左肩が脱臼する。脱臼をおそれ、稽古にも身がはいらなかった。すると番付はさがる。やめようと何度自分にいい聞かせたか、数知れなかった。しかしその都度、踏んばった。あえぐ思いで踏んばってきた。ひとり失意のドン底にいて、ぼんやりと「やめようかな」と思うと、記憶の底から鮮明に一枚の過去が|甦《よみがえ》ってきた。
「坊や、目つきが違うな。頑張れよ」
十五歳の入門前夜、そう激励してくれた貴ノ花の姿と声だった。
――貴ノ花さんは、いまもまだ頑張っている。あの人の付人だった下山の若三杉に大関に追いつかれながら、傷だらけの小さな体で大関の座を死守している。
(おれも、負けられねえや)
そういつも思いなおした。苦しさのあまり「やめよう」と思うたび、入門前夜に憧れた貴ノ花のまばゆい姿が浮かんできた。そして大関貴ノ花の頑張る姿に、過去の鮮明な思い出をダブらせて、ひとり苦しさに耐えつづけた。
初場所、東前頭十二枚目。八勝七敗と一点の差で勝ち越した。千秋楽を七勝七敗で迎え、玉輝山を破っての勝ち越しであった。
その初場所限り、牛若丸は廃業していった。最後は、東十両十枚目、五勝十敗であった。
「このまま相撲を取れば、いい方の右目も潰れる。全盲になる」
場所前、医師からそう宣告されたのだ。はじめて網膜剥離を家族に打ち明け、親族会議の結果、今場所限りで廃業を説得させられた。まだ二十一歳、長い長い人生が行く手にある。それを「両眼を潰してまで、相撲を取る馬鹿がどこにいる」と|諭《さと》されたのだ。牛若丸は、最後の取り納めと覚悟をきめ、本場所十五日間を皆勤した。
場所後、知人のクラブを借り切ってささやかな断髪式が行われた。先代伊勢ケ浜(照国)未亡人、伊勢ケ浜親方(元清国)をはじめ八十人もの人びとが集まってくれた。
そのなかに千代の富士もいた。
「おい」と千代の富士が笑ってきいた、「……おまえ、相撲に未練あるだろ」
「ああ、あるよ」と牛若丸は、笑いながらつづけた、「……おまえ。おれの分まで頑張ってくれよ」
「なんで、おれが……」
「あたりまえじゃないか。一緒に飲み歩いた仲じゃないか。おれの恨みの分まで、土俵でぶっつけてくれよ」
「わかった。……わかったよ」
そう誓いあった。
初場所後の協会理事会で、「審判部規定」第二条が一部改正された。
「力士を養成する部屋持ちの親方でも、審判委員になれるものとする」
従来、審判委員は、部屋持ち師匠以外の年寄衆のなかからと限定されていた。それが春日野理事長が三選されたこのときから、改正された。これまで大鵬、鏡山の二親方は、部屋持ち親方ながら、理事長の「役員待遇」という異例の抜擢による別格であった。しかし、このときから審判委員の枠が拡大されたのである。
早速、改正規定が適用され、九重親方、佐渡ケ嶽親方の二人が審判委員に選出された。北の富士、琴桜という元横綱二人が、つぎの春場所から土俵下の審判席に坐るようになったのだ。
その春場所がきた。
千代の富士、東前頭八枚目である。
春場所がはじまると、九重親方は、千代の富士の相撲を土俵下の向こう正面審判席から見る日々がはじまった。
千代の富士、ときに二十二歳である。身長は百八十一・五センチでぴったりととまった。しかし体重は依然、九十キロ台。筋肉質の体に、どうしても肉がつかないのだ。
その小兵千代の富士が、立つと、土俵中央で大きな相手をまともに引っ張りこんで組みつくのだ。その瞬間、あッ駄目だと九重親方は目をつぶりたくなる思いがした。
|脇《わき》があまい。それを平気で強引に引っ張りこむから、相手は、自分十分に差せる。千代の富士は差されながら、相手の肩ごしにまわしを取り、腕力にまかせて投げにいく。
九重親方は、部屋に帰ると、千代の富士に教えた。
「おまえな、あんな大きな相撲取ってたら、絶対に、また肩ぬくぞ」
千代の富士は黙ってきいている。
「おまえの肩はな、肩があがったときに抜ける。脇さえしめればいい。脇をしめて上手を取れば、肩は抜けないんじゃないの」
千代の富士は、黙ったままである。
「とにかく、投げにこだわりすぎるよ。投げを打ったとき、その|腕《かいな》を相手にかえされると、肩はスポッと抜けるね。おりゃ、そう思うよ」
千代の富士は、黙ってひきさがった。
(強情な男だ。きかん気よ。まだ、だいぶ時間はかかるな)
九重親方は、そう思った。相撲に勝たなくてもいい。番付もあがらなくてもいい。ともかく、この男に、いかにして投げを忘れさせるか、いかにして肩の脱臼を防ぐか――課題は、その一点にあった。
春場所は、東前頭八枚目で八勝七敗と勝ち越した。
江戸川区春江町の九重部屋に移って以来、千代の富士の出稽古がはじまった。
いまや荒川を東に越えた江戸川区は、新興の相撲部屋がつぎつぎと新しく看板をかかげ、西の“阿佐谷”に対して、東の“江戸川”の観がある。押尾川部屋(元大関大麒麟)、朝日山部屋(元小結若二瀬)、鏡山部屋、陸奥部屋、高田川部屋(元大関前の山)、大山部屋(元大関松登)、熊ケ谷部屋(元平幕芳野嶺)、そして九重部屋とつづく。さらに安治川部屋(元関脇陸奥嵐)も加わりそうな勢いだ。近くには国電錦糸町駅そばに佐渡ケ嶽部屋があり、片男波部屋があり、江東区には大鵬部屋もある。
九重部屋には、幕内に北瀬海、十両に千代桜、幕下上位に影虎がいるばかり。これでは、あまり稽古にならない。
連日、タクシーを拾って、昨日は佐渡ケ嶽、今日は片男波、明日は鏡山と出稽古をはじめた。ことに大鵬部屋や佐渡ケ嶽部屋で繰りひろげられる二所ノ関一門の連合稽古には、絶好の稽古台がいっぱい待ちかまえていた。|巨砲《おおづつ》(大鵬部屋)、玉ノ富士(片男波)、玉輝山(片男波)、満山(のち嗣子鵬、大鵬)、琴風(佐渡ケ嶽)、琴立山(佐渡ケ嶽)と、ほぼ同年輩のヤングがいっぱいである。
最初の日、親方に連れられ向こうの師匠に挨拶する。あとは、ひとりで殴り込みをかける。
「おはようございます」
出向いた部屋の木戸をくぐり、稽古場に姿をみせ、そう挨拶する。
(おッ、きよったな)
千代の富士の姿に、向こうの関取衆たちも、絶好の稽古台到来とニタッとしている。お互いに稽古になるのだ。あらゆる体型、あらゆる攻め方――部屋が違えば、稽古する相手すべてが違う。その多種多様な稽古相手を求め、出稽古の日々がつづいた。
新生九重部屋への合併は、千代の富士にとって、はっきりと「吉」と出てきた。
江戸川区春江町の九重部屋は、つぎの夏場所を控え、にわかに報道陣でにぎわいはじめた。
稽古場を見ただれもが、正面の壁を見て驚いた。額入りの四人の写真が飾られてある。
一番目は、武蔵川親方。
二番目は、先代九重親方。これは横綱千代の山の優勝額である。
三番目は、先代高砂親方。元横綱前田山の先代高砂である。
四番目は、先々代井筒親方。
四人のうち三人まで、系統が別なのだ。武蔵川親方は出羽海系。先代九重と先代高砂は高砂系。先々代井筒は、高砂から分かれた井筒系。なかでも若い記者たちの目には、戦前「双葉山時代」の前頭二枚目鶴ケ嶺の先々代井筒親方など、一体なにがなにやら訳がわからない。
しかし青年九重親方にとっては、四人が四人とも恩人であった。武蔵川親方は、出羽海部屋で大関にまで育ててくれた恩人。先代九重親方は、自分の師匠。先代高砂親方は、出羽海を破門されたとき、救いの手を差しのべてくれた高砂本家の大ボス。先々代井筒親方は、現役引退後に井筒を襲名させてくれた恩人。その恩人四人を稽古場の正面にかかげた――九重親方としては、当然の礼を表したにすぎなかった。
四人のうち、「優勝額」の先代九重親方を除いて、三人はそろって紋服姿の写真である。
ある後援者から、こんなお小言がついた。
「おい親方、おまえ、あの四人の写真を見て、どこかおかしいと思わないか。だれかひとり、ちぐはぐだと気がつかないか?」
「ちぐはぐ?………ひとりが?」
「ああ、ちぐはぐだね。ひどく、ちぐはぐだ」とその人はいった、「……九重さんよ、目を皿にして四人をよく見てみろ」
「わかった」と九重親方は膝を叩いた、「ひとりだけ裸なんだよな。おれも、ちょっとおかしいとは思ってたんだ」
「おまえ、ほんとにのんきだな」と後援者は呆れ顔でいった、「そうじゃないよ。ひとり、生きてるじゃないか。武蔵川親方は生きてるじゃないか」
「あッ、ほんとだ」
「ほかの三人は死んでるから、そのままでいい。だけど、生きてる人を死人と一緒にしちゃいけねえ。その人が、早死にするぞ」
九重親方は、顔色をかえて立ちあがっていた。
「おれ、ずっこけとんなァ」
「あたりまえだ。はやくはずせ」
九重親方は稽古場にすっ飛んでいくと、武蔵川親方の写真をはずした。そして自分の居室の壁に、それを掛けかえた。
九重親方の居室に通された親しい相撲記者連中は、またびっくり仰天した。
部屋の壁にそって豪華な本棚がある。みると美術全集、日本文学全集、世界文学全集がびっちりと飾られている。相撲部屋にきて、こんな光景にお目にかかるのは、ベテランの記者連中もはじめての経験だった。そして、その部屋に、ひとりのきれいなお嬢さんがいる。
いや、訊けば、女将さんだという。
井筒親方になってわずかの期間、同棲していたあのバレリーナのお嬢さんとは別人である。
九重親方が、とうとうお見合いのあげく近く結婚するというお嬢さんである。
話は、井筒親方になって間もなくの三年前にさかのぼる。
その頃、井筒親方の父、竹沢政信が北海道から上京し、六本木のチャンコ「北の富士」の経営者になっていた。伜の井筒親方に「親父、店の面倒みてくれや」と頼まれ、親父さんは喜んで上京してきた。この親父さんから年季のはいった包丁を取りあげるのは死ぬとき、生粋の水商売人だ。
すると親父さんが、ある人からお嬢さんを紹介され、たちまち気にいってしまった。
青森の旅館の娘。高校を卒業したあと、東京のホテル科専門学校を卒業し、いま銀座「|月堂《ふうげつどう》」でウェイトレスのアルバイトをしているという。器量よし、体格もよし。そのうえ飛行機の操縦までできるという現代ッ子。なによりも水商売の旅館の娘というのが気にいった。そこで伜の井筒親方を呼んで話を打ち明け、見合いしろと勧めると、
「冗談じゃねえや、親父。おれが見合いなんて、……そら、|罰《ばち》あたるぜ」
笑い飛ばして話にも乗ってこなかった。しかし、会うだけは会った。
こんどは娘の方が積極的になって、江戸川区春江町の部屋に乗りこんできたのだ。井筒親方と親父さんに向かって、
「どうですか。だめならいいんですよ。ともかく率直な返事をきかせてください」
そう直談判されたのだ。
「おれ困っちゃったな。親父さん、どうする」と井筒親方は腕を組んでしまった。
「おれがもらうんじゃねえや」と親父さんの方も困った、「……おまえの嫁だ。おまえがきめりゃいい」
「親父さん、気にいっとんだろ」
「水商売の娘だし、よさそうじゃねえか」
「そうか」と井筒親方はいった、「……おれも、ここらが年貢のおさめどきだな。親孝行のつもりで、いいことにするか」
それで決定であった。挙式は当分先として、早速、井筒夫人として迎え、井筒親方はさっぱりと独身生活におさらばした。
すると花嫁道具として本棚が送りこまれ、各種の豪華な全集本がぞくぞく到着したのだ。
その九重親方夫人は、女将さんの仕事を一切しない。相撲はずぶの素人。部屋の大勢の弟子の蒲団の面倒もみなければ、チャンコの手配などにも口をださない。自分で、こういった。
「稲葉さんが、部屋の女将さんみたい。あたし、相撲のこと、なんにも知らないのよ」
すでに一人の女の子の母親になっている。今秋、いよいよ二人の披露宴がホテルニューオータニで行われるという。
(九重さんらしくて、いいじゃねえか)
みんな、そう九重親方夫人をみていた。
九重親方は、屈託なかった。親方として構えず、気負わず、威張らず、明るく陽気に振るまう毎日である。
この部屋に限って、若い弟子たちが師匠を怖がっている雰囲気は微塵もない。九重親方と千代の富士のやりとりを聞いていると、まるで友達同士のような明るさがただよっていた。
「おいウルフ」と九重親方が声をかける、「……こんどの夏場所、おまえ幕内五枚目だ。三役、大関と顔があうぞ」
「うん、おもしろいや」
「おい、横綱大関を喰ったら、金やるぞ」
「ヘッ、ほんと」
「あたりまえだ。そんな懸賞金ぐらい、おれ約束するよ」
「よし、いっちょやるかッ」
「ただし、ただしな」と九重親方は念をおした、「くどいけどな、脇をしめていけ。絶対に脇をしめて上手を取りにいけよ」
「はい、やってみます」
千代の富士の顔に、明るさが戻ってきた。
九重親方は、いま脳裡に少年時代に発憤させられた出羽海親方の姿があった。あれほどの豪傑には、間違ってもなれない。しかし、せめて爪のアカほどでもいい――と、遠くに過ぎ去った弱い「香車」北の富士時代の自分の姿を、いま千代の富士にダブらせていた。懸賞金につられて張りきった自分。せめてその真似事でもしてみて、それが千代の富士の発憤材料になるのならば、おれの受けた恩も、おれの苦労も、実りをみせるというものじゃないか、そう思った。
毎朝、起きると、居室に飾った武蔵川親方の写真にひとり目礼して呟いた。
「親方、ごくろうさんス」
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第十二章 筋 肉 の |鎧《よろい》
五十三年夏場所の幕が開いた。
千代の富士、東前頭五枚目である。
十日目を終わって六勝四敗。すでに関脇蔵間を破っている。後半戦を迎え、いよいよ三役、大関戦が組まれてきた。
十一日目、小結|魁傑《かいけつ》をすくい投げに破り、七勝目をあげた。小結とはいえ、過去に通算九場所大関を張った力士である。
十二日目、いよいよ初の大関挑戦の土俵がきた。
東大関若三杉である。若三杉は前日、東張出大関三重ノ海に敗れ、一敗。しかし全勝街道をゆく北の湖をただひとり、一敗で追っている。若三杉の速攻を喰い、吊り出しに敗れた。
十三日目、西張出大関貴乃花(前年九州場所から、ノを乃に改めている)戦がきた。憧れてきた貴乃花への挑戦である。
貴乃花にとって、この夏場所が長い大関死守の土俵人生を通じて、もっとも苦悩のときであった。弟弟子若三杉が東大関にいて初、春と二場所連続十三勝、準優勝の成績をあげ、この夏場所に“綱盗り”を賭けているのだ。貴乃花はすでに二十八歳。二十二歳の九州場所から足かけ七年三十四場所目、あと一場所で大関在位の新記録に達する。
貴乃花は、この日を迎えすでに八勝四敗。一方、若三杉は十一勝をあげ、一点の差で北の湖につけ“綱”へ|驀進《ばくしん》している。
千代の富士は立った。貴乃花に向かって低く頭をさげ、脇をしめて上手を取るや一気に突きすすんだのだ。寄り切りに大関を破っていた。
それは、九重親方の教えを忠実に土俵上で実行してみせたはじめての相撲であった。大関貴乃花に初挑戦で、完勝である。
貴乃花を破って八勝。見事に勝ち越しをきめた千代の富士は、支度部屋に帰っても嬉しさを隠しきれなかった。
「ほう、小さなかわった相撲取りがいるな」
そのとき、はじめてマスコミは千代の富士の存在に気がついたのである。今日の一番、はじめて速攻相撲をみせたものの、前半戦は投げばかりだった。土俵の中央でいきなり相手を吊りあげ振りまわし投げつける。百キロもない小兵の大技だけにその豪快さはきわだった。
その夜、九重親方から約束の懸賞金が贈られたことは、いうまでもない。
十四日目、東前頭六枚目|舛田《ますだ》山を寄り切りに破って九勝。千秋楽、玉輝山戦に黒星をつけられたものの、再入幕三場所目で小結、関脇、大関を一人ずつ破った大活躍が認められ、敢闘賞――と、初の三賞受賞にかがやいた。
名古屋場所――。
九重部屋は湧きあがった。
千代の富士、新小結。
影虎、新入幕。大富士、新十両。一度に「新」が三人もそろったのだ。
影虎は、二十九年五月生まれの二十四歳。四十三年十一月初土俵で、千代の富士より二年先輩。幕下の頃から|頸椎捻挫《けいついねんざ》という慢性ムチ打ち症に悩みながらも、ついに幕内まであがってきた。実は、先の夏場所、東十両筆頭にあがったとき、ムチ打ち症は最悪だった。土俵上で敵と当たった瞬間、体中に電気が走りほとんど失神同然になる。それでも勝ち越して、入幕をはたしたのだった。
一方、大富士は、四十九年秋に初土俵を踏んだ同期生のトップを切っての新十両である。
その頃、御徒町の桜井家へ、千代の富士からプレゼントが届いた。みると、「千代の富士」と四股名を染め抜いた浴衣だ。
「おう、こりゃいいや」と桜井おじさんは喜んだ、「……この浴衣着て、こんどの納涼大会の盆踊りに出ようや」
家族で、そう喜びあった。ところが、――。
名古屋場所初日、新小結の千代の富士は、北の湖に軽々と吊り出された。二日目、貴ノ花(再び改名)に先場所につづいて二連勝。五日目、大関旭国を破り、横綱大関と当たった前半戦を三勝二敗と乗りきった。しかし、そこまでだった。六日目から黒星を積みかさねはじめ、結局五勝十敗と大きな負け越しにおわった。
影虎五勝十敗、大富士五勝十敗と、九重部屋の「新」三人は、星数までそろって討死だ。
千代の富士は、あっさり一場所で小結から陥落である。
秋場所、東前頭四枚目、四勝十一敗。
初日、西前頭四枚目魁傑に勝ったのみ、二日目から八連敗したのだ。後半戦もやっと三勝しただけであった。
――肉がほしい。なんとか太りたい。
痛切にそう思った。
このとき二十三歳になる千代の富士は九十八キロ、幕内最軽量であった。これに対して連日戦う相手は、百七キロの鷲羽山、百八キロの貴ノ花の二人を除いて、あとはみな百十キロ以上。平均して百四十キロクラスの大物ばかりだ。さきに貴ノ花に初挑戦で頭をさげ脇をしめて一気に完勝できたのは、相手が百八キロの軽量貴ノ花だからこそ通じたのだ。同じ戦法で百四十キロクラスの大物に向かうと、体重の差で吹っ飛ばされた。では、どうすればいいのか――。
土俵にのぼると、また癖が出て大きな相手を引っ張りこむ。組んだ、その瞬間、
(だめだ。投げちゃだめだ)
そう九重親方の声が、頭の片隅でひらめく。頭をさげ脇をしめて一直線に突きすすんで貴ノ花に勝てた感激が鮮明なだけに、投げはもう捨てた。
「相手が大きすぎる」
百キロもない小兵の分際で取る豪快な相撲がいけないことが、やっと納得できた。
――肉がほしい。
いまや、必死の思いであった。
九州場所を迎え、番付が発表されると、
西前頭十枚目。幕尻から四枚目である。
福岡に乗りこんで連日、各相撲部屋に殴りこみをかけた。小さな街だけに、タクシーに飛び乗れば、すぐいろんな相撲部屋に出稽古ができる。
九重部屋宿舎は、福岡市中央区今川二丁目の鳥飼八幡宮内「奮武館」である。そこから|百道《ももち》海岸は、すぐそばだ。百道海岸までいくと、夏は海水浴場の海の家になる「平戸屋」に二子山部屋、同じく「ぴおね荘」に花籠部屋がある。昨日は花籠、今日は二子山とまわり、横綱大関の胸をかりた。
東公園の日蓮護持会の出羽海部屋にもいく。西区姪の浜の西日本オイフカ健診センターの春日野部屋にもいく。同じ西区干隈の天理教筑紫野分教会の鏡山部屋にもいく。文字通り気の向くまま、足の向くまま、福岡市内を東奔西走、出稽古の日々をつづけた。
どこの部屋に顔をみせても、いやな顔ひとつされない。
ただ本家―高砂部屋にだけは、あまり顔を見せなかった。“突貫おじさん”富士桜関は嬉しいが、百八十九キロの高見山につかまると大変だ。脱臼どころか潰されてしまう。だから本家ではあるが、敬遠した。
九州場所、九勝六敗と勝ち越しである。
昭和五十四年――。
初場所、東前頭四枚目、五勝十敗。
無残な大敗だった。いくら稽古しても、どんなに食っても、どうしても百キロの壁が突破できない。そのうえ左肩の脱臼が怖かった。左肩をかばうあまり、不十分な右で相撲を取りつづけ、迷ううちに黒星が連続していた。
千代の富士の影は、すっかり薄れてしまった。昨年夏、貫ノ花を破り敢闘賞を受け、その存在がはじめて相撲記者団の目にとまったものの、いまは、もうだれも千代の富士などは相手にしなかった。筋肉質のソップ型で百キロもない体――。
(まあ、いっちゃ悪いが十両、幕内を往復している|大旺《だいおう》なみだな)
相撲専門家の目にも、そうとしか写らなかった。
春場所がくると、|浪花《なにわ》の街は角界に躍り出てきた超大物スターに沸きあがっている。
長岡改め朝汐太郎旋風である。一年前の五十三年春場所、幕下付け出しでプロの土俵を踏んだ。輪島の記録さえ上廻る二年連続の学生横綱、アマチュア横綱。その大看板をひっさげて近畿大学から高砂部屋に入門。初土俵を踏んで以来、一年目のこの春場所、早くも東前頭筆頭まで駆けのぼってきた。百六十五キロの|巨躯《きよく》を武器に、豪快な突き押し相撲である。
場所前、大阪ロイヤルホテルに二千人が集まり、関西財界のお歴々を中心にして、盛大な「朝汐太郎後援会」が発足した。
「ダイちゃん」――。
マスコミは、「大物朝汐太郎」の大躍進ぶりに、きそうように書きたてていた。
千代の富士など、完全に忘れ去られている。
その春場所の幕が開いた。
千代の富士、西前頭八枚目。
七日目、二勝四敗の成績で播竜山戦の土俵にのぼった。播竜山は押し相撲である。千代の富士、さっと立って当たるや、例によって左肩をかばい、不得意な右腕で差しにでた。するとその右腕をいきなり上から押さえられたのだ。その瞬間、右腕が棒のようにぶらさがり、全身から力が抜け、寄り切られた。
支度部屋に付人に担がれてきた千代の富士に報道陣が寄ってきた。
「また、肩ぬいちゃったな」と、ひとりがいった。
「あれッ、こんどは左じゃないのかッ」
千代の富士は、ひとことも口をきかない。
「どうして、やったの?」
そう訊く報道陣を物凄い目つきで|睨《にら》みつける。脂汗がにじむ蒼白の顔は、痛さのあまりゆがみ、自分に対する憤りや悔しさが噴き出て、おそろしい形相である。
(可哀相にな。こいつ、これで一巻のおわりだよ)
報道陣はみんなそう思い、それ以上追及せずに、そばを離れた。
すぐ大阪の協会指定の警察病院に運ばれた。九重親方も駆けつけてきた。訊くと、脱臼は癖になった左肩ではなく、はじめての右肩だという。
(そうか。ウルフも、これで力士生命がおわったな)
九重親方も、そう思わざるをえなかった。
千代の富士は、右肩の脱臼をなおしてもらい、痛みがとれたあとも、がっくりとうなだれ、
「おれ、もうだめだな」そうもらした、「……親方、おれ、もう相撲やめようかな……」
ショックだった。
左肩の脱臼は、先代親方が亡くなったときのあの五十二年九州場所前を最後に、もう一年半近くしていない。それは、左肩をかばいながら右で相撲を取ってきたせいかもしれない。しかしともかく、おそれてきた左肩の脱臼は姿を消したのだ。安心した途端、こんどは右肩をとうとう脱臼した。
(もうだめだ。おれの体はだめなんだ)
全身から力が抜けていった。
その頃、九重親方は、大阪市天王寺区上汐四丁目の天理教大江大教会の九重部屋宿舎から、四日市中央病院に電話をいれていた。相手は、藤井惇病院長である。
九重親方から千代の富士の症状を聞くと、藤井病院長はいった。
「九重さん、よくわかった。とにかく病院から迎えの車をだす」そういって、つづけた、「こちらには、ぼくの大学の同輩もいる。みんなで知恵をしぼって、万全の対策をとろうじゃないですか。ぼくに、まかせてください」
藤井惇病院長は、三重県|尾鷲《おわせ》の出身である。尾鷲には相撲甚句会があり、その世話人の紹介で井筒親方時代に知りあった。その後、九重親方になってから、部屋の怪我人はすべて面倒をみている。義兄弟の盃をかわした仲である。
警察病院での診断は脱臼全治三週間である。間もなく、四日市中央病院の車がついた。九重親方は千代の富士を乗せると、
「ともかく公傷になるんだ。このさい藤井先生に全部あずけて、ゆっくり安心してなおしてこい」
そういって送りだした。
やがて千代の富士が四日市に運ばれてきた。すぐ藤井病院長が付き添い、愛知医科大に回送した。同大学の沢井一彦助教授とともに、骨格のレントゲン写真をとった。二人は、日本医科大学での同窓である。そこへ大阪から渡辺径広先生も駆けつけた。藤井病院長は外科専門、沢井、渡辺両先生は整形外科専門。三人でレントゲン写真を検討した。
意外な発見であった。
千代の富士の肩関節の臼が、左も右も普通人の三分の二の大きさしかなかったのだ。それで無理な投げを打ちつづけてきた。
「この大きさでは、脱臼するのもむりないな」
三人が三人とも、そう判断した。
では、どうすればいいか。普通人ならば手術し、肩関節をギプスで固定してしまう。しかし相撲という格闘技に生きる男に手術はできない。手術をし、ギプスで固定してしまえば完全になおるが、その間、筋肉が眠ってしまう。ギプスをはずしたあと、リハビリで筋肉の回復をはからねばならない。
「どうだろう」と整形外科の沢井助教授がいった、「……手術とは逆療法でいきませんか」
「つまり」と藤井病院長がいった、「……肩の臼はそのまま、まわりの筋肉を強化してしまう」
「そのとおり。肩関節を筋肉でかためてしまうのです。それも鎧のように……」
「それしかないだろうな」と渡辺先生も賛成した、「……しかし、それには筋肉強化の物凄いトレーニングが必要だ」
「むろんです。やります。やらせますよ」
三人の意見が一致したのである。
千代の富士は、再び四日市中央病院に運びこまれ、右肩と右腕を包帯で固定された。
藤井病院長とのマンツーマンによる入院生活がはじまった。
内臓は、どこも悪くない。病人ではないのだ。肩関節を筋肉でかためてしまうまで、体力を確保し、そのうえで筋肉を強化しなければならない。肩の筋肉を強化するには、全身の筋肉から責めあげねばならないのだ。病院の廊下に特別のトレーニング機械をすえつけた。
|重錘《じゆうすい》滑車である。
片一方二十キロの|錘《おもり》を両足にかけ、合計四十キロの|負荷《ふか》を利用して、坐りながら足の筋肉を屈伸鍛練する機械である。そのあとに病院の職員三人がかりの腹筋、背筋運動がつづく。それがすむとバーベル、鉄アレイを使ってのハードトレーニングがはじまった。
普通の入院食では、間にあわなかった。
毎日、入院患者が病院長室で病院長と特別の食事である。
「自分の好みをいいなさい。食べたい物は、なんでもいいなさい」
そういわれ、焼き肉、ステーキ、うなぎのかば焼き……と、食いたい放題、食った。ときには津市溜水町の藤井病院長の自宅にも呼ばれ、御馳走になった。たまには酒も出て、御飯も中華丼に軽く二杯を平らげる健啖ぶりをみせた。
その間、右の腕と肩は包帯でしばられ、やむなく左手で食べた。ステーキもかば焼きも、みんなひとに切ってもらった。
「タバコはやめなさい」と食事がはじまると、藤井病院長はつづけた、「……タバコは呼吸器にもよくない。循環器にもよくない。スポーツ選手に、タバコがいいはずはないのだ。げんに、ぼくも吸ってないじゃないか」
藤井病院長は、そういってボクシングの工藤選手の減量との戦いを教えてやった。
五十三年六月、四日市で工藤―ゴンザレスの世界タイトルマッチが行われた。そのとき藤井先生は工藤選手のプロモーターとして、試合に臨む日まで長期間一緒に暮らした経験があった。十五ラウンドの長丁場を戦う工藤選手は、むろんタバコは吸わない。その体験にもとづく禁煙の勧めだけに、千代の富士も藤井先生の前では煙はふかせなくなった。タバコを吸う現場をみられると、
(なんだ、あいつはタバコもやめられないのか)
工藤選手と比較され、冷笑されるように思われ、自然、本数が減りはじめた。しかしまだ完全にはやめられない。なにしろ十九歳から四年も、一日三箱を煙にしてきたヘビースモーカーである。藤井先生の姿がないと、煙を思いきり吸いこんだ。
二十日たち、一カ月が過ぎると、包帯がとれた。右腕を使いはじめた。
藤井、沢井両先生と一緒にマージャンをして興が乗ってくると、自分でも気がつかず右腕を使っている。痛みがまったくない。
(成功したな)
藤井先生は、右腕を平気で使っている千代の富士を見て、内心|喝采《かつさい》をおくっていた。
千代の富士の表情は、明るかった。四日市に運ばれてきたときの、ショックで呆然自失していた人間とは、もう完全に別人であった。
「おい、おまえ、だめだぞ。ちょっと帰ってこい」と電話の向こうで、九重親方の声がはずんでいる。
「なんですか」
「公傷にならないんだ。ちょっとした行き違いで、公傷見送りにされちまったんだ」
「そんなばかな」と千代の富士もびっくりした、「……行き違いなら、もう一回、話し合いできないんですか」
「いや、だめだ。協会できまってしまったものは、もうだめなんだ。いまさらどうにもならない」
「わかりました」と千代の富士は怒りのあまりムカッときて、きっぱりといった、「……おれ、帰ります。本場所に出ます」
それが、夏場所を二日後に控えた初日の番付編成会議の日のことであった。
このときちょっとした“行き違い”のために、当然公傷制度を適用されるべき千代の富士と大潮の二人が、その適用からはずされてしまったのだ。
大潮は、春場所二日目の土俵で右足を痛め、はじめ全治一週間の捻挫と診断され、三日目から途中休場した。ところが場所後、東京の病院で精密検査してみると、足の甲五カ所の複雑骨折。そう判明したときは、後の祭りだった。夏場所は幕内から十両に落ちて全休。公傷適用を受けず、全休全黒星となって、つぎの名古屋場所は、一挙に幕下まで陥落だ。
千代の富士も、春場所は七日目の播竜山戦の土俵で脱臼し、八日目から休場に追いこまれた。その場所の休みは全黒星となる。すなわち春場所は二勝六敗七休み。従って夏場所は、当然、十両陥落。それは覚悟の上であった。覚悟の上で四日市中央病院で喜々として入院生活を送り、筋肉強化のハードトレーニングにはげんできた。そのままこの夏場所も全休し、つぎの名古屋場所に再起を賭ける計算をたてていた。
ところが協会内のちょっとした“行き違い”で公傷適用からはずされた、という。公傷申請の書類が、鏡山親方の鞄のなかにはいったまま忘れられていたというのだ。夏場所を全休すれば、名古屋場所は一転して幕下陥落である。肚がたった。
冗談じゃねえや。“行き違い”で幕下に落とされて、たまるかッと奮いたった。
「先生、まったくこんなばかな話はないですよ」と千代の富士は、憤慨を隠さず藤井院長にいった、「……土俵にのぼって、ムット勝ちしてきますわ」
「ムット勝ちか」と藤井病院長は、すっかり明るさを取り戻した千代の富士の姿が嬉しかった、「……よし、よし。その前に、ちょっと秤にのってみろ。おまえを預かって、もう四十日になる。以前より痩せてたら、親方に申し訳ない」
千代の富士は、黙って秤にのった。針が揺れて、百四キロでとまった。
「おやーあ?……へんだぞ」
「きたとき目方、どれだけあった?」
「九十六キロでした」そういって千代の富士はおりると、おそるおそるもう一度、秤にのった。
「先生」と声が嬉しさのあまりふるえている、「……太ってる、百キロをこえてる」
「やったか。ついに百キロを突破したかッ」
「はい、先生。百四キロ。……やった、とうとうやった」
千代の富士は、両眼をきらきらと輝かせてそう叫んだ。
「おまえ、入院したおかげで百キロの関門を突破した。それだけでも大した|めっけもん《ヽヽヽヽヽ》だ」
帰京した千代の富士を迎え、九重親方の第一声がその喜びの声であった。
初日、二日目は、すでに取組の「割り」が廻っており、出場できない。
三日目の土俵から、十両の土俵にのぼった。稽古まったくなしの、ぶっつけ本番である。
その千代の富士の|凜《りん》とした姿をみて、報道陣は目を洗われる思いであった。公傷適用を除外された大潮は入院中である。しかし千代の富士は、入院先から駆けつけ本場所の土俵にのぼってきた。見ると、春場所七日目の支度部屋で、ショックのあまり噛みつくような形相で睨んできた、あの千代の富士とは、
(別人じゃないか)
みんな、そう驚かされた。
西十両二枚目千代の富士は、颯爽と勝ちすすんだ。百キロを突破した体が不思議な引力に引かれるのか、自信と闘志がほとばしっている。
九勝四敗二休み――。
見事に勝ち越してしまったのである。
名古屋場所、三度、幕内へ復帰した。
場所前、四日市の藤井惇病院長から新調の化粧廻しが贈られてきた。真珠入りの総額五百万円という豪華な化粧廻しである。図柄を見て、千代の富士は嘆声をあげた。贈呈者の名前もなにもなく、ただ大きくこうあった。
「V」
勝利のVサインである。
名古屋場所には、その化粧廻しを締めて、幕内土俵入りに登場した。
名古屋場所、西前頭十四枚目、八勝七敗。
秋場所、東前頭十枚目、八勝七敗。
場所後、九重親方の結婚披露宴が、千代田区紀尾井町のホテルニューオータニで七百人ほどの招待客を迎えて行われた。媒酌人は、関山義人九重部屋後援会長である。
同じ頃、九月三十日、遠く北海道・福島町では、千代の富士の姉佐登子の、つつましやかな結婚式が行われていた。姉は東京から福島の実家に帰ったあと、青函トンネル工事に機材をおろしている第一機材会社(本社、広島)に勤めていた。そこで広島県人の新郎と職場結婚したのだ。姉は、もう二十六歳になっていた。
いま福島町は、青函トンネルの北海道側出口として工事関係者でにぎわい、かつての零細漁村から大きく変貌し、街全体が活気に溢れている。
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第十三章 相 撲 開 眼
「親方、お元気ですか」
そういって、まわし姿の大関貴ノ花が声をかけてきた。
「うん元気だ」と九重親方は明るくいった、「……まあ坐れよ。たまには、おれんとこのチャンコも食っていってくれ」
貴ノ花は、「ごっつあんです」といって、にこにこしながら九重親方の横の席に坐った。
ときは、五十四年十月の昼下がり。
秋場所後の京都巡業先、京都体育館横に張られた大天幕の下のチャンコ場である。真ん中の道をはさんで両側にずらりとゴザが並べられ、あちこちで各部屋の関取衆がチャンコ鍋を突ついている。場所をおえた気楽さから、どの顔も笑っている。差し入れの刺身やステーキ、オムレツなどのご馳走がどこの席にもみられ、お客さんも間にはいって、巡業先ならではの遠足気分がただよう昼下がりであった。
この秋場所八日目、旭国が引退し、大関は貴ノ花ひとりになってしまった。すでに二十九歳。大関在位記録を果てしなく更新し、秋が大関四十二場所であった。
輪島、北の湖、三重ノ海、若乃花の豪華四横綱に対して、貴ノ花は、ひとりきりになった大関の座を百十二キロの軽量に|鞭打《むちう》って頑張らなければならない。次代を託せる力強い若者が、早くのびてきてほしい。
(はやくのびてきてくれ)
貴ノ花は、胸のうちで必死にそう叫んでいた。
大関に昇進した二十二歳の秋から噴きだした頸椎捻挫、肝炎、大鵬戦で怪我し痼疾になった左足首の捻挫――ありとあらゆる“爆弾”と戦いながら、大関の座をここまで死守してきた。その力も、もうつきようとしている。しかし一人大関である。若者が伸びてくるまで頑張らなければならない。この秋、「技の展覧会」と声のかかる、東関脇栃赤城は六勝九敗と負け越した。西関脇隆の里は八勝七敗だった。隆の里は、まだ相撲が遅い。「大関候補」とみられた元関脇琴風は、今年初場所の土俵で足の|靭帯《じんたい》を切断し、公傷適用も見送りという不運から、幕下まで転落した。この秋、再起し幕下優勝をとげた。しかしまだ時間がかかる。そうみる貴ノ花の目に、手応えのある若者が、いま目の前にいる。
――千代の富士。
まだ二十四歳の若さ。初顔の一戦で負けたときから、筋肉質のこの若者の強靭な足腰のばね、当たりの強さに驚かされた。ついに百キロの壁を突破したという。
「親方」と、貴ノ花は飯を食いながら、九重親方にいう、「……この頃どう、千代の富士、稽古してる?」
「うん、春の脱臼を最後に肩がかたまりはじめたんだ」と九重親方も|箸《はし》を使いながらいった、「……なあ、ウルフ。一番おそれてたものがなくなったんだ、元気でてきたよな」
「うん、まあね」
そういって箸をおいた千代の富士は、マイルドセブンをとりだし火をつけた。うまそうに煙を深く吸いこみ吐いた。
「おれにも一本くれ」と貴ノ花がいった。
「どうぞ」と気軽に箱ごと渡した。
「おれはな」と貴ノ花は笑いながら千代の富士にいった、「……タバコだけは、やめられなかった。いけない、いけないと思いながら、これだけやめられなかった」
「おたがいさんよ」と九重親方が笑い飛ばした。
「千代の富士、おまえ、タバコやめたら、もっと太るぞ。もっと肉つくぞ」
「そうですか」
「親方、ごっつあんでした」
そういって貴ノ花は、立つと向こうへ去っていった。
そのとき千代の富士は、別に気にもとめなかった。貴ノ花は、さらりといっただけだった。大関、またふざけたこといってる、そう思っただけであった。
ところが夜ひとりになったとき、貴ノ花の言葉がふと頭に浮かんできた。
「タバコやめたら、もっと太るぞ」
そうかな、そんなものかなと思った。
「格闘技の選手にタバコは絶対よくない」
繰りかえし聞かされた藤井病院長の言葉がそれにかぶさってきた。
(よし、やめてみるか)
決心した。すでに四日市の四十日間を通じて本数は減っていた。
翌朝からタバコをやめた。口が淋しい。付人を走らせ、アメ玉をひと袋買わせてきた。それを口に放りこんだ。
(ああ、タバコ吸いたいな)
誘惑が突きあげてくる。あわててアメ玉を口にいれる。ひと袋分のあめ玉をなめつづけて、一日が終わった。
翌朝、また付人にアメ玉袋を買いに走らせた。きのう一日、一本のタバコも吸わなかった。せっかく一日を我慢したのだ。それならきょうもアメ玉をなめて我慢してみよう。昼、チャンコを食いおわると、まわりのお客さんがタバコをうまそうに吸いはじめている。
「ちょっと一本くれる?」
口まで衝いて出そうになった言葉を呑みこんだ。だめだ、一本吸ってしまえば、きのう一日の我慢が水の泡だ。そう思い、アメ玉を口に放りこんだ。
(これで二日たった)
(三日たった)
一日一日、あえぐような思いで禁煙の日数をかさねはじめた。
三日目の朝、起きると咽喉がすっきりしている。|痰《たん》が咽喉にからまないのだ。昼のチャンコまでうまくなった。飯の量が自然にふえてきた。十日ほどたつと、激しい稽古をしても、息切れがしなくなった。疲れがのこらない。
タバコの煙は、もう苦にならない。
禁煙に、ついに成功したのである。
それと同時に体が太りはじめた。いくら食っても百キロの壁を突破できなかった苦しさ、悔しさが、いまは嘘のように思えた。目に見えて日に日に目方がふえてくる。
その間、筋肉強化の自己トレーニングは一日も休まない。
――こんど脱臼したら、おわりだぞ。
片時も、その思いは頭から離れない。だから必死だった。
朝起きる。まわし姿になり稽古場に降りたったときから、トレーニングはスタートした。鉄アレイ、バーベル、グリップ、腕立て伏せ……と、果てしなくハードトレーニングをつづけた。出稽古に出かけるタクシーのなかでもグリップ握りをつづけ、激しい稽古をおえ、部屋に帰って、みんなが昼寝にはいる午後も、千代の富士ひとりは、そのトレーニングをつづけている。
昼寝が苦手だった。昼寝して午後の四時頃、起こされると体がひどくだるい。もう動きたくなくなるほど疲れを覚える。それがいやで、昼寝はしない。そのかわり夜は七時間、酒なしで熟睡できた。緊張のつづく本場所中の夜でも、いまは酒一滴も飲まず、ぐっすりと眠れた。
朝起きてから夜蒲団にはいるまで、器具を手に、あるいは腕立て伏せをつづける毎日の連続であった。
思いこんだが最後、それひとつ――強靭な自我を少年時代からもちつづけてきた。それゆえに失敗もし、迷路をさまよってきた。「飛行機」の言葉に一途に憧れ、思いもかけぬ相撲取りになってしまった。小兵の分際でだれになんといわれようと、大きな相手を引っ張りこみ、なにがなんでも、ぶん投げなければ気がすまず、それゆえに脱臼を繰りかえした。女に惚れこむと、先代女将さんに現場に踏みこまれるまで目が|醒《さ》めなかった。
鋼鉄のような自我が、千代の富士の最大の弱点であり、同時に最大の宝であった。
いま、その自我が、一途に相撲一筋に向かいはじめた。
みるみる両肩の筋肉が盛りあがってきた。鍛えに鍛えあげた強靭な筋肉が、両肩の関節をがっちりと固めあげてしまったのである。その筋肉の上にさらに肉がついてきた。
両肩が、ついに筋肉の鎧をかぶったのである。
もはや脱臼のしようがなかった。
その年、暮れも押しつまった十二月二十五日――。
「花月」主人、伊藤作之進がスイ臓癌で亡くなった。七十歳であった。
その報を聞いて、九重親方は、部屋の幕下以上九名の力士を率いて大阪へ飛んだ。
(|賑《にぎ》やかな親父さんらしいな。陽気に、クリスマスの日に死んだ)
千代の富士は、そう思い、孫のようにいつもハッパをかけられた先代親方の義父の姿を思いだしていた。
夕刻、大阪市東区鰻谷町の|信楽寺《しんぎようじ》につくと、花輪がいくつも並び、すでに祭壇もできていた。
二十六日、密葬――。
お棺は祭壇からおろされ、九重部屋の相撲取りによって担がれ霊柩車に運ばれた。先頭に九重親方がたち、つぎに千代の富士がつづく。焼き場に到着し、再び霊柩車から九重部屋の親方をはじめ、相撲取りによって|窯《かま》まで担がれた。
九重部屋生みの親は、初代九重親方の遺志を継ぐ二代九重の親方と相撲取りたちに担がれて、昇天していった。
五十五年がきた。
初場所、千代の富士、東前頭八枚目、八勝七敗。
場所後の一月二十七日、北瀬海引退相撲が蔵前国技館で行われた。北瀬海は、昨年夏場所限りで引退、君ケ浜親方となっていた。
断髪式がおわり、その夜である。
千代の富士、影虎、大富士の三人が九重親方の部屋に呼ばれた。
「ごくろうさん」と、九重親方はいって千代の富士に向かった、「……北瀬海も引退した。これからは、おまえが部屋頭だ。自分の稽古もし、若い衆にもしっかり稽古をつけてやってくれ」
「はい」
それから親方は、影虎、大富士の十両二人に部屋頭をよくもりたてるようにと説教をたれた。
春場所、千代の富士、東前頭三枚目である。体重百五キロを記録した。
二日目、横綱三重ノ海を破り、初金星にかがやいた。その夜、九重親方から約束の懸賞金二十万円が贈られた。翌三日目、この場所に“大関盗り”を賭ける関脇栃赤城と土俵際、投げの打ち合いで粘り抜き、掛け投げに破った。その一瞬、業師栃赤城が軸の左足親指を捻挫した。
四目目、横綱輪島には通じなかった。
五日目、六日目と増位山、貴ノ花の二大関を連破した。十日目、横綱若乃花も破り、金星も二個を数えた。
「大物喰いウルフ」
新聞には、一斉にそんな大見出しが躍りはじめた。
千秋楽をおわって八勝七敗。初の技能賞にかがやいた。
その夜、九重部屋の楽祝いの席上である。九重親方は挨拶に立って、こういった。
「千代の富士は、初の技能賞にかがやいた。このぶんでいくと大関も夢じゃない」
万雷の拍手が湧きあがった。どよめきが鎮まると、九重親方はつづけた。
「これからは大関をめざして、来場所からも、がんばっていきたい」
嵐のような拍手喝采のなか、千代の富士は「冗談じゃねえよな。おれが大関なんて……」とぼやいて照れっぱなしであった。
九重親方の目に、千代の富士の相撲ぶりの変化がはっきりとみえた。二つの金星が光る以上に、若乃花を破った相撲は、頭を下げ左で|前褌《まえみつ》をとり一気に攻める、まさしく技能賞に値するいい相撲であった。長い間、あれほど投げにこだわった千代の富士が、はじめて投げにこだわらなくなってきたのだ。大関に照準をあてて間違いのない手応えである。あとは本人のやる気ひとつ。ここは暗示をかけるに越したことはない――そう計算をたてたうえでの挨拶であった。
栃赤城の“大関盗り”は夢と消えていた。三日目、千代の富士戦の軸足捻挫が命取りになり連敗し、十四日目麒麟児戦でその左足を俵にかけて投げ、完全に足が裏返ってしまった。千代の富士より七カ月早生まれの二十五歳。気の強さにかけては一歩も引けをとらぬ名門春日野部屋の業師、格好のライバルであった。
夏場所――。
千代の富士、西小結に昇進。二年十一場所目の三役への返り咲きである。
体重は、百十キロになった。
ハードトレーニングは片時もかかさない。両肩の筋肉は、一段と強靭に、一段と盛りあがってきた。そして出稽古につぐ出稽古の日々がつづいた。
六勝九敗と負け越した。
しかし、負け越しのショックなどは、もうかけらもない。
名古屋場所、西前頭二枚目である。初日に大関増位山、五日目に大関貴ノ花、六日目に横綱三重ノ海とまたまた二大関一横綱を見事な速攻相撲で喰った。
名古屋市|千種《ちぐさ》区城山の相応寺は、本場所中、連日押しかけるファンで鈴なりになりはじめた。
「ウルフ」見たさのファンが長い石段をあがって小高い山の中腹にある相応寺の九重部屋稽古場を見物にくるのだ。
稽古土俵を見て、ファンはどっと笑いに揺れた。なんと本場所中の稽古土俵で、部屋頭千代の富士が、若い新弟子を相手にプロレスごっこを繰りひろげている。稽古土俵をリングにみたて、七、八人の相撲取りが取りまくなか、千代の富士が両眼をらんらんとかがやかせ、かわいい新弟子にヘッドロック、コブラツイスト、4の字固め、空手チョップと、つぎつぎプロレスの技を披露してゆく。それも力を抜いたスローモーション。そのつど相手の新弟子も、ショーマンシップを発揮して、リングに仰向けに倒れるや、両手足を|蟹《かに》のようにして断末魔のけいれんをしてみせる。ついにはまわしを取り、ぐるぐる回転さすと、ぽろッとまわしがほどけて、オチンチンまるだし。相応寺境内を埋めつくしたお客さんは笑いの渦であった。
千代の富士は、少年時代から一度はやってみたいと憧れていた横綱北の富士の遊びを、いま繰りひろげていたのである。「けしからん。神聖なる土俵でプロレスとは|冒涜《ぼうとく》行為だ」とめくじらを立てる向きも、これが師弟二代にわたる本場所の緊張除けと知っては、退散するほかない。そのあと、ぶつかり稽古をみっちりとおえた。
九重親方は、稽古あがりの千代の富士をつかまえ呼びかけていた。
「おい、おまえ、このごろゴルフうまくなったな」
「そりゃそうだよ。マージャンよりいいって、親方のすすめだもん」
「もうゴルフやめろよ」と九重親方は笑ってつづけた、「……おれよりうまくなられちゃ困るよ」
友達のような師弟である。旧い大部屋につきもののうるさい|小舅《こじゆうと》の年寄衆が、この部屋にはいないのだ。
「ウルフ」人気が沸騰してきた。
彫りの深い|精悍《せいかん》な面構え、筋肉隆々の肩や腕、頭よりも高くのびきる華麗な四股、そして仕切りにはいるや敵をらんらんと|睨《にら》みつける狼のような目。仕切りおわって、向かいあった両者が睨みあう。睨みあいに参った方が負けだ。千代の富士は、敵の目に目をすえつけ、まばたきもしない。空手出身の気の強いライバル巨砲でさえ、しびれをきらした。千代の富士の睨みに勝てる者は、幕内にだれひとりいなかった。
名古屋場所、九勝六敗。二回目の技能賞。
千秋楽、楽祝いの会場に、名古屋市内のあるステーキハウスの奥さんが姿をみせ、ずっしりと重い御祝儀袋を九重親方に手渡した。
「あ、ごっつあんです」そう九重親方は挨拶して、そのあと向こうの千代の富士にいった、「……おい、千代の富士」
御祝儀袋は、目の前で中味も見ず左から右へと飛び、はじめて九重親方に会う奥さんは、あいた口が塞がらなかった。
その場所、“大関盗り”に賭けた二番手、関脇琴風は九日目の土俵、栃光戦で左膝半月板損傷、全治三カ月。十日目から休場に追いこまれ、“大関盗り”に失敗した。
秋場所、千代の富士、東小結である。
四日目、横綱北の湖の巨体が怒涛のように押し寄せ、千代の富士は土俵際まで飛ばされた。剣ヶ峰にのこって|打棄《うつちや》ると、北の湖の巨体がばったり前のめりに落ちた。
――フロック勝ち。
しかし大金星である。最強の横綱に、ついにはじめて勝てた。揺るぎない自信が、体の底から湧きあがってきた。
相撲ぶりの変化は、だれの目にもくっきりと見えた。
いまや百十二キロの全身に強靭な筋肉が盛りあがっている。それに支えられ、足首、膝、|股《もも》、腰の筋力は、幕内随一である。その筋力の凄さから、立ち合い一瞬の踏みこみが、すばらしいスピードをみせた。その立ち合いのダッシュを最大限に生かして、一気に攻める速攻相撲にかわってきた。立った瞬間、相手の|懐《ふところ》に頭から飛びこみ、さっと左で|前褌《まえみつ》を浅く上手に取っている。右四つの千代の富士、自分十分の型だ。相手は不十分、相撲が取れない。一気呵成に勝負をつけている。完全に理詰めの技能相撲である。九重親方の教えを頭に叩きこみ、出稽古につぐ出稽古でついに会得した相撲であった。
強引な投げは、完全に姿を消していた。
それでいて相撲は、以前にもまして痛快さ、豪快さに溢れている。
その場所中、江戸川区春江町の九重部屋を出発、蔵前国技館に向かう車中、九重親方は運転手の稲葉マネジャーに話しかけた。
「稲さんよ、うちの部屋が一番最初になるんじゃないの」
「なにがですか」
「優勝旗が荒川を東に越えるのがだよ。どうも、おれ、そんな気がするんだ」
ついに十勝五敗。三回目の技能賞にかがやいた。
その秋場所、“大関盗り”に向かった三番手の東関脇朝汐は自滅した。百七十キロの「大ちゃん」は、意外や緊張のあまりかたくなってしまう小心者であった。大関が目の前にぶらさがりながら、本場所の土俵、体が動かず六勝九敗と惨敗である。
九州場所、千代の富士、東関脇である。
満天下が、角界の|檜《ひのき》舞台に躍り出てきた千代の富士の颯爽とした勇姿に湧きあがった。
「ウルフ」千代の富士の出現で、いまや狼のイメージまでが一変してきたのである。
グリム童話の「おおかみと七匹のこやぎ」、「赤ずきんちゃん」、イギリスの昔話「三匹のこぶた」、「ピーターとおおかみ」、ドイツの「さすらいの狼」、イソップの「笛ふくおおかみ」……狼は夜行性で集団を組み、常に飢え、長く尖った牙で鹿や人を襲う。グリム童話やイソップ物語でつくりあげられた「人間の敵」という狼は、牧畜の盛んな欧米での話であった。農業国の日本では、古来から、狼は、
――「御犬」
オイヌ様と呼ばれ、神聖なる動物であった。「オオカミ」は「大神」を意味した。その証拠に秩父の三峰山、遠州の山住、丹波加佐郡の大川大明神では、狼は「神使」とされ、狼の絵をかいた神札は盗難よけ、害獣よけとしていまも配られている。
恐怖のシンボル狼は、実は神の使いであった。
千代の富士は、いまや“大関盗り”にまっしぐらに突きすすむ神の使徒“土俵の狼”である。
九州場所、十一勝四敗。四回目の技能賞をさらった。
十一勝の白星のうち、上手からの投げは四日目の出羽の花戦、十日目の佐田の海戦とわずか二回しかなかった。初日には横綱三重ノ海をあびせ倒し、三日目に大関貴ノ花を寄り切り、五日目に琴風を寄り切り、六日目に|鳳凰《ほうおう》を寄り切った。自分よりはるかに体重で上廻り、しかも腰の重い相手に対して、まともに前に突きすすむ相撲であった。ことに千秋楽、大関増位山を吊り出しに破った一番は、ダッシュ力を最大限に生かした速攻相撲の圧巻といえた。
九州場所をおわって関脇千代の富士の入幕以来の勝率は、四割九分四厘。それに対し大関増位山の勝率は、四割九分〇厘。すでに大関のそれを上廻っていた。
その頃、日本中を吹き荒れる「ウルフ人気」のなか、先代九重未亡人は、相撲雑誌をめくっていて一箇所に目が釘づけになった。
千代の富士が、|喋《しやべ》っている。
「おれ、若い頃、女のことで先代女将にこっぴどくやられたんだ。おっかねえおっかあが、ついてんだよな」
(あの子、大人になってくれた。よかった、ほんとによかった……)
光恵未亡人は、溢れてくる涙を拭おうともせず、そこを繰りかえし繰りかえし読んでは、亡き夫に話しかけていた。
「……あなた、あの子、もう大丈夫よ」
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第十四章 貴ノ花の土産物
そっと来た。だれにも打ち明けずに、そっと来た。飛行機に乗るのも生まれてはじめてなら、東京の土を踏むのもはじめて。自分は津軽海峡を船で何回も往復しているが、女房は津軽海峡すら渡ったことがない。もし二人の上京が少しでも知られたら、どっと報道陣が押し寄せてくる。もみくちゃにあい、田舎者の女房は、きっと卒倒するに違いない。だから、そっと来た。娘夫婦と一緒に、そっと来た。
しかし駄目であった。
五十五年十二月二十一日である。
羽田空港に降り、到着ロビーについて、伜千代の富士と桜井おじさんに出迎えられた途端、秋元松夫、喜美江夫婦は、報道陣にどっと取りまかれた。
報道陣は驚いた。
(おやッ。……昔、純文学の小説でも書いてた、そんな感じじゃねえか)
肉体労働の漁師とは、とてもみえなかった。身長百六十六センチで五十五キロ。白いものが混じる髪の毛は長くたれ、顔色は冴えず、やつれきった風貌である。“夜の文壇サロン”ともいえる新宿ゴールデン街の飲み屋にいけば、流行作家や編集者に混じって、カウンターの片隅で必ずみられる文士崩れの老敗残者にそっくりであった。
千代の富士の父は、この十年間にそれほどの辛酸をなめていた。
その夜、秋元家の両親と佐登子夫婦は、御徒町の桜井家に泊まった。
見事な関取に育った伜、貢。その伜に呼ばれ、飛行機にまで乗せてもらって、はじめて桜井家へお礼の挨拶に上京することができた。父も母も感無量の思いで伜の大銀杏の|薫《かおり》をかぎ、りっぱな紋服に手をやっていた。
挨拶がすむと、桜井おじさんがいった。
「どうだ貢。おまえは、年中、鍋を食べてんだから、今夜はなにがいい」
「いや、おじさん」と千代の富士は、にやッと笑った、「……おれ、鍋なんか、食べてないよ。鍋の中味を食ってんだ」
みんな笑い、それから座は明るくなった。
両親は、九重親方、先代九重未亡人とお世話になった人びとへの挨拶廻りをすませ、正月元旦に北海道・福島町へと帰っていった。
五十六年の新春がめぐってきた。
一月十一日、初場所が幕を開ける。
「“大関盗り”なるか」
場所前からマスコミの話題は、千代の富士、隆の里の東西関脇二人に集中した。秋、九州と二場所の成績は、
――千代の富士、十勝、十一勝。
――隆の里、十三勝、十一勝。
隆の里の方が三点も上廻っている。しかし隆の里の秋十三勝は、西の平幕筆頭での星。それに対し、千代の富士は、小結、関脇と二場所連続三役であげた成績である。星数の上では隆の里がまさり、三役二場所をおえての勢いでは千代の富士がまさった。しかも人気の点では、四つ相撲でどっしり取る隆の里にくらべ、
――「ウルフ人気」
いまや日本中にとどろく。相撲オンチの十代の女の子たちまでをキャーキャーと目の色をかえさせ捲きこんできたのだ。サッカー、プロ野球と集団競技に向かうヤング人気を、千代の富士の|颯爽《さつそう》とした魅力が、|翳《かげり》をみせはじめている大相撲に再び呼び戻した。
新旧交代のいぶきが、相撲界にひしひしと感じられる。
三重ノ海が去り、三横綱になった。ここ十年、大相撲を支えてきた最大の役者「貴輪」は、土俵の命が燃焼しきろうとしている。“角界のプリンス”貴ノ花は、すでに三十歳。大関在位記録もこの初場所が五十場所目。一方輪島は、この春、師匠・花籠親方の定年隠居と同時に花籠部屋後継者の座につく。二人の引退は、時間の問題だ。そして西の大関増位山、また三十二歳。九州場所では十五日間皆勤し、三勝十二敗、こちらも大関の座をいつまで守りとおせるか、風前の灯火である。
残るは、北の湖、若乃花の“花のニッパチ”横綱二人。その“花”もすでに二十七歳になる。
若さ溢れる千代の富士こそは、角界が待ちこがれた新時代のスター。「貴輪」のあとを託せるにたるスター中のスターである。
こうして沸きあがる「ウルフ」人気のなか、いよいよ“大関盗り”を賭けた初場所が、目前に迫ってきた。
そんなある日――。
東京・巣鴨の「|刺抜《とげぬ》き地蔵」通りの横丁にあるチャンコ「やまもと」の大広間で、九重部屋OB会が催された。
チャンコ「やまもと」主人、山本幸一は、いまは亡き横綱千代の山時代の付人だった元幕下信濃花である。「九重事件」のときには、すでに引退していた。従って出羽海部屋の力士として土俵をおえ、本来は出羽海部屋OBである。しかし、千代の山の付人頭を長くつとめ、心情的に熱烈な九重部屋OBを自任していた。その元信濃花の音頭取りで、四十人ほどのOBが久し振りに顔を寄せあった。元松前山、元北海山をはじめ、みな内輪の者ばかりだった。
先代九重未亡人もいた。現九重親方も千代の富士も、むろん顔をみせていた。
光恵未亡人は、このところ倖せであった。昨年十月四日、長女昌美が慶応ボーイの商社マンと結婚した。いまは娘夫婦と一緒に暮らしている。長男信寿は、今年の春からは日本歯科大六年生。今年が最終年度である。もうなにひとつ心配はなかった。
宴もたけなわになった。
「いよいよ千代の富士も大関へ挑戦だな」と、ひとりがいった、「……今場所は、力がはいるぞ」
「もしもだ」と、ひとりが応じた、「……十二勝あげたらどうする?」
「どうするって、な、なにをどうするんだ」
メートルのあがったひとりが、酒を|呷《あお》りながら大声をあげた。
「十二勝なら大関当確だろ。そのとき、どうするかッてんだ」
「つまりだ」と、別のひとりが、ちらりと九重親方の方をみて、にやっと笑った、「……大関昇進を伝える使者が部屋に到着する。ところが迎える側に、女将さんがいねえ……」
「格好がつかねえな……」
「な、だから、どうするかッてんだよ」
九重親方は、先輩たちの気の早い会話を面白そうに聞いていた。
女房は、一年前に蒸発してしまっていた。五十四年九州場所中、二番目の子供を腹に抱えたまま「お産に青森の実家へ帰ってきます」といって帰ったきりである。その後「わたしは、とても親方にはついていけません。もう東京の部屋へは帰りません」と一方的に連絡してきた。そして二番目の女児を出産した。
もともと押しかけ女房であった。年貢の納めどきと親孝行のつもりで嫁にもらったものの、その嫁は自分の口から、
「稲葉さんが部屋の女将さんみたい」
そういって、相撲部屋の女将としての仕事は一切しなかった。女将失格を自認していた。一方、九重親方も結婚するについて、「今後、浮気はしません」とは間違っても口にはしなかった。九重親方にとって、浮気は人生そのもの。はいる金は、湯水のごとく部屋のため、弟子のため、女のために、左から右へと使う。使っても使っても、金は湧いてくる。そこへいまや「人気者ウルフ」を抱えた。その大事な弟子に女遊びの秘伝、心得を教えるためにも、師匠としてなまけてはいられなかった。
心得第一――英雄、色を好む。
心得第二――ひとりの女への深入りは絶対にならぬ。情けがうつり、相撲に悪影響をきたす。最高二回をもって打ちどめとする。
心得第三――素人女はさけること。ただし向こうが願う節は、男として断るにはしのびない。事前にしかるべき筋にその旨を断って社会奉仕をしてよろしい。
こうしてこの頃は、千代の富士も先代女将さんから、
「あんた、うまくやんのよ」
そうハッパをかけられるほどに、その道でも親方なみになってきている。
非は、いずれにあるか自明であった。離婚手続きが終了するのも、もう間もない。
「ふん、そうか」とOBのひとりが、腕を組んだ、「……協会使者を迎えるのに、親方と本人だけ。こらあ前代未聞だなあ」
「ここは、ひとつ先代女将さんに出てもらうか」
と別のOBがいった。
天下が千代の富士の“大関盗り”なるかと騒いでいる。その初場所が刻々と目前に迫ってきたのだ。“大関盗り”がなるか否かは、大バクチである。そのためにも千代の富士本人をその大騒ぎから隔離して、すこしでも緊張を解いてやらねばならない。ところがOB連中が、早くも大関昇進の使者を迎える日の心配をしているのだ。
九重親方もそうなら、千代の富士本人もひと事のように面白そうに聞いていた。
「そうだ、やっぱり先代女将に出てもらおう。そうしねえと、格好つかねえな」
「どうだ」とメートルのあがったOBが、大声で大広間を見渡した、「……みんな賛成かあ」
「いいぞ、いいぞ」と声があがる。
「千代の富士てのは……」とそのOBはつづけた、「千代の山の千代と、北の富士の富士、親方二代の名前がはいってんだ。文句はねえな」
すると光恵未亡人が、頭をさげた。
「みなさんのお気持ち、とっても嬉しい」そういって、みんなの方に|面《おもて》をあげた、「……でもね、あたしは、もう隠居の身なの。過去のひと。そのあたしが、そんな公式の場に出ては、あの女、しゃしゃり出てきたな……そうとられる。それでは、せっかくのおめでたい席が、だめになる」
そのときだった。
九重親方が、すすみ出て、先代女将さんの前に深々と頭をさげ、こういった。
「女将さん。ちょっと気が早いですが、もしも千代の富士が大関になれたら、そのときは、女将さん、おねがいします」
大広間は静まりかえり、やがてさざ波のような拍手がおきた。先代女将も、現親方に頭をさげられた以上は断るわけにはいかない。光恵未亡人は、|袂《たもと》からハンカチをだし、そっと目頭を拭き、頭をさげつづける九重親方にいった。
「わかりました」
初場所の初日がきた。
その朝である。
九重部屋の稽古場に部屋の相撲取り全員が集められた。十両影虎もいる。今場所に十両昇進を賭ける幕下若の富士もいる。大富士の顔もみえる。ただひとり千代の富士の姿だけがみえなかった。
千代の富士は、ぐっすり熟睡してまだ起きてこなかった。
九重親方は、三十人近い弟子全員の顔がそろうと、立ちあがっていった。
「さあ、みんな、今場所は、九重部屋にとって一番大事な場所だ。千代の富士が、いよいよ大関盗りに賭ける。プレッシャーもかかるだろう」
そういって九重親方は、きっぱりとつづけた。
「みんな、頑張ってほしい。大関盗りは、ひとりの力ではむつかしい。おまえたち若い衆みんなが、協力してやってほしい。それには、みんなが勝って、みんなでムードを盛りあげて応援しなけりゃだめだ。全員、頑張ってくれ」
「はい」
そう合唱があがる。その瞬間、全員の気持ちが一本に引き締まった。
(ほう、九重さん、やるわ)
松田務は、稽古座敷の一角で聞いていて、そう感嘆した。九重部屋が生まれた直後の四十二年春場所前、全員一丸と燃えたときのあの興奮が、脳裡に甦っていた。あれから十三年ぶりに迎える九重部屋の勝負である。その初日に、部屋の相撲取り全員に颯爽と訓示する九重親方の姿に、大阪から駆けつけてきた松田務も、これはいけるぞと内心、喝采を送っていた。
千代の富士は、初日に琴風を粉砕し、全勝街道をひた走りはじめた。
七日目、大関貴ノ花の引退がつたえられた。
その報は、正午のNHKニュースでつたえられ、日本中に「貴ノ花散る」の淋しさが駆けめぐった。
しかし貴ノ花の胸中に淋しさはなかった。それどころか嬉しかった。心から嬉しかった。
「おい、タバコをやめると太るぞ」
と、二年前の秋、笑いにまぎらわせて、千代の富士に教えてやった。そのとき実は、早く強くなってくれと必死の願いをこめて、そういったのだった。
(えらい奴だ)
そう思いながら、その後、ぴたりと禁煙し、みるみる大きくなってきた千代の富士の姿をじっと見つづけてきた。ありとあらゆる努力、精進をしながら、たったひとつ禁煙ができなかった。その自分にかわって、千代の富士がニコチンの誘惑を見事に振り捨て、いま大関へ驀進している。自分の土俵に悔いはない。そして自分にかわる千代の富士が、初日から北の湖とともにたった二人、白星を見事に積みかさねている。
貴ノ花は、安心して引退を表明したのだった。
千代の富士の速攻相撲は、勢いがとまらなかった。
兄弟子影虎も、最後の力を振りしぼって土俵にのぼっていた。
影虎は、頸椎捻挫が一段と悪化し、この場所限りで引退する肚をきめていた。土俵で相手とぶつかった瞬間、目の前が真っ暗になる。勝ったのか負けたのかさえ判らない。
五日目の夕方だった。稲葉マネジャーに呼ばれると「柳橋の『花月』へ行け」という。ふらりと出向くと、先代女将さんが待っていた。
「あなた、やめるのは、いつだってできる」そう女将さんは、いった、「……だから最後まで死ぬ気で取らなきゃだめじゃないの」
その言葉に発憤したのだ。弟弟子、千代の富士が大関へ驀進している。その抜かれた悔しさが振っきれた。千代の富士は千代の富士、おれはおれ――と覚悟をきめたのだ。
そして西十両十一枚目で土俵を取りつづけた。
西幕下二枚目の若の富士は、千代の富士を見ていて舌をまくほかなかった。
完全にマイペースなのだ。普段の本場所とまったくかわらない。いやマスコミに騒がれ、かえってその騒ぎにうまく気分をのせているのだ。いきいきとしている。
いまや自分の一挙手一投足が、朝から晩まで報道陣に監視されている。それがそのまま翌日の新聞に出る。日本中の熱い視線を一身に浴びている――それを百も承知のうえで、千代の富士は平然としていた。
“大関盗り”のこの本場所中も、午前中、稽古土俵に降りたち、稽古を打ちあげたあと、いつものように新弟子をつかまえ、プロレスごっこをやった。すると笑いが部屋中にみちみちた。緊張など吹っ飛び、心からリラックスした。
昼寝も、ほとんどしなかった。
夜は夜で二日に一度、部屋の近くの「秀寿司」に幕下若の富士ら付人をつれて出かけ、寿司を平らげた。気がつくと、一滴の酒すら飲まず、本場所中の夜をぐっすり七時間も熟睡している。
そんな千代の富士の姿に、さすがの九重親方も呆れはてた。
「松田さん。ウルフの奴、先代の親父や、おれとはだいぶちがうな」
松田務は、笑うほかなかった。
ただ千代の富士は、勝負師のだれもがするように|験《げん》をひとつ担いだ。
初日、琴風戦の快勝から頭を洗わなかった。すると白星がどんどん並ぶ。かゆい、かゆい。しかし頭は洗えない。
普段、どんなに稽古しても千代の富士の体からは汗が流れない。四十番近くの激しい申し合いをして、はじめて汗が光るくらいである。
しかし一週間、十日と勝ちすすみ、後半戦にはいった頃から、本場所土俵にあがった千代の富士の目はらんらんとかがやき、その大銀杏からは猛烈な悪臭が放たれていた。当たった相手は、瞬間、鼻を突き刺されるような悪臭のあまり力が抜けた。全勝街道を驀進する千代の富士だけが、その悪臭を知らない。
しかし、かゆい、かゆい。猛烈にかゆい。かゆさから逃れるには頭を洗えばいい。しかし、それは自分が自分に負けることだ。あらゆる苦しみ、|辛艱《しんかん》を克服してきて、いま大関目前。その最後の大詰めで、千代の富士は、猛烈なかゆさと戦っていた。担いだ験が、猛烈なかゆさとなって、“大関盗り”への最後の道しるべとなっていたのである。
千秋楽、一差でつける横綱北の湖に完敗。はじめて土がつき、十四勝一敗。二人の優勝決定戦にもつれこんだ。そのときから日本列島は空前の「ウルフ旋風」。それまでスポーツ中継テレビの史上最高視聴率61%の王座を誇っていた昭和三十九年の東京オリンピック女子「日ソ」バレー決勝戦の興奮を抜いて、65・3%を記録したのだ。
優勝決定戦、千代の富士は北の湖を上手投げに破り、ついに初優勝をもぎとった。初の殊勲賞、五回目の技能賞も転がりこんだ。
優勝旗がはじめて荒川を東に渡った。
影虎は、優勝パレードのオープンカーに乗り嬉しさを噛みしめていた。弟弟子、千代の富士が大関どころか優勝までもぎとった。そして引退していく自分は、思いもかけず九勝六敗と見事、土俵人生の最期を飾れたのだ。そのうえ若の富士まで五勝二敗。来場所は新十両である。千代の富士のおかげで死に花を咲かすことができた。……男泣きに泣いていた。
場所後、審判部の満場一致で大関に推薦された。
その日――。
昭和五十六年一月二十八日午前九時四十分。
江戸川区春江町の九重部屋に伊勢ケ浜理事、陣幕審判委員の二人の協会使者が到着した。
大広間は、報道陣で取りまかれている。そのなか紋服姿に正装した千代の富士を中央に、向って右に九重親方、左に先代九重親方女将の三人で「大関昇進」を伝える協会使者を迎えた。千代の富士は使者に向かい、きっぱりといった。
「大関の地位をけがさぬよう一生懸命頑張ります」
カメラのフラッシュが、一斉に音をたてて|閃光《せんこう》を放った。先代親方未亡人の深々と頭をさげる姿が、ひときわ印象的だった。
東京の空は、そのとき晴れわたっていた。気温七・一度の春のようなそよ風がたなびき、抜けるような青空をふたつの流星が寄りそうように東から西へ|翔《と》んでいる。しかし、振りそそぐ太陽の明るさのあまり、ふたつの流星の姿も、流星の会話も、地上の人間には、見えも聞こえもしない。
――千代、みろ。なんだあのざまは。光恵の奴、泣いとる。わしは、みとれん。
「泣かしてやってください。泣くだけ泣かしてやってください。それもこれも、はじまりは、おとうさんの力です」
――よい、よい。わしのことはいうな。
「ウルフは、よくやってくれました。北の富士も、本当にうまく指導してくれました」
――奴は、おまえの手で何年育てた?
「八年でした。十五のときから、二十二歳まで……」
――北の富士の手では、何年になる?
「三年です。二十三歳の九州から、二十五歳のきょうまで……」
――わしはな、口は悪い。ひとを|誉《ほ》めることは性にあわん。しかしな、こんどだけは、誉めてやる。千代、おまえは、大した奴だ。十五歳の子供をつかまえ、これは物になるとよくぞ見抜いた。
「ありがとうございます」
――おもしろいのう。お客からだされたフグの肝を、おまえは遠慮した。そいつを丼いっぱい、えばってひとりで平らげた出羽海師匠がくたばった。いかにも常ノ花寛市らしいわい。なあ、千代、あぶないところだった。
「おっしゃるとおりです」
――おもしろいのう。横綱の器になる大関北の富士をもらって、おまえは一国の城を築いた。こんどは、その北の字が、おまえと同じ立場になった。おまえが発見し育てあげたウルフだ、それをおまえから受け継いで、とうとう大関に完成させた。おもしろいのう。
「おっしゃるとおりです」
――千代の富士は、おまえの縁筋にあたる。うすいが、まぎれもなくおまえの血が流れとる。
「はい」
――血が、うすいから、わしは安心できた。おまえの血が濃すぎると、今場所なぞ、わしも、目はあけてられなかったろう。おまえと奴とは、心臓のできが、月とスッポンだ。
「まったくウルフの肝ッ玉には|兜《かぶと》をぬぎました」
――奴は、“綱”を締めるぞ。それも堂々たる横綱になる。三段跳びで横綱にのぼったおまえや輪島と違ってな、苦しみ苦しみ、練りに練りあげ、ここまで磨きあげただけに本物だ。なんといった、ほれ、最近のはやり言葉は……スーパー、スーパー……。
「スーパースター」
――左様、天下を盗るぞ。狼の天下盗りだ。狼の絵馬が、みとれ、日本中の家々に飾られる。
「絵馬じゃなく絵狼ですね。……おとうさん、まだゆっくり安眠できませんね」
――できん。見届けるまで、できるものか。しかしな、あのときは気持ちよかった。北の字が先頭にたってウルフがつづき、相撲取りに担がれて昇天するのは、千代、最高じゃったよ。
「みてください。胴上げがはじまりました。新大関の胴上げです」
――よし、いいだろ。もういこう。楽しかった。実に愉快じゃった。
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第十五章 ウルフの涙
春場所がきた。
千代の富士、東の正大関である。
百八十三センチ、百十六キロ。身長体重とも西の大関増位山と同じで、幕内最軽量百十キロの鷲羽山につぐ小さな大関の登場だ。
初日の相手は東前頭二枚目の栃赤城。過去、三勝七敗と負け越している苦手の業師。一年前の“大関候補”だ。千代の富士は土俵際まで一気に攻め込みながら、栃赤城捨身のすくい投げに、ばったり右手をついていた。
新大関のデビュー戦から黒星である。
三日目、横綱輪島、引退。三十三歳。年寄花籠を襲名。――学生相撲出身初の横綱で、お家芸「黄金の左下手投げ」で優勝十四回(史上三位)の天才児も燃えつきた。
五日目、増位山、引退。史上初の“親子大関”も、在位七場所の短命大関だった。
七日目から、みじめな負け方で三勝三敗と不振だった東張出横綱、若乃花も休場。
毎年、「春一番」が吹く「荒れる春場所」とはいえ、前代未聞の異常事態の到来だ。三横綱二大関から三人がぬけてしまったのだ。
「ゼニかえせ!!」
「ばかたれ。ふざけんな」
そんな怒号や罵声といっしょに座布団が大阪府立体育館内に乱れ飛んだ。
しかし、この異変の春場所を締め|括《くく》ったのは、やはり大黒柱の北の湖だった。千秋楽、優勝は北の湖―千代の富士の決戦になり、北の湖の完勝。十三勝二敗で二十一回目の優勝をにぎった。新大関千代の富士は十一勝四敗の準優勝に終わった。
夏場所も、若乃花は初日から二連敗で三日目から「頸椎損傷」全治二カ月の診断で休場。再び一敗同士、北の湖―千代の富士の千秋楽決戦に優勝がかかり、太鼓腹にのせてあっさり吊り出した北の湖堂々の二十二回目の優勝。
二場所連続の準優勝、つぎの名古屋場所に早くも横綱の座にいどむ軽量の千代の富士にとって、北の湖攻略が最大の壁になってきた。
夏場所後、二つの引退相撲が行われた。
五月二十九日、貴ノ花引退・年寄鳴戸襲名披露大相撲。断髪式で史上最高の二百五十四人にのぼる関係者がつぎつぎと鋏を入れ、大関として千代の富士が颯爽と登場し、そして最後に貴ノ花の|大髻《おおたぶさ》は師匠の二子山親方によって切り落とされた。
三十日、三重ノ海引退・年寄武蔵川襲名披露大相撲。――昨年九州場所二日目を限りに在位八場所の横綱を潔く引退した三重ノ海は、すぐ年寄山科を襲名。すでに師匠の九代目出羽海親方(元横綱佐田の山)から、「時代は変わっていく。横綱大関までいった者は、その意志があれば、部屋をもっていいぞ」といわれ、出羽海部屋からの分家独立を許されていた。さらに相撲博物館長の市川国一になっている武蔵川前理事長の岳父が娘婿の佐田の山にいってきたのだ。
「いいじゃないか。武蔵川の年寄名跡が、あれの役にたつなら、山科と交換してやれ」
「ああ、それは本人も喜びますよ」
九重事件から十三年目に、「年寄の分家許さず」の名門の掟は、こうして出羽海父子によって解き放たれたのだった。
六月、大相撲メキシコ公演が行われ、春日野団長以下、横綱北の湖、大関千代の富士ら幕内、十両全力士の一行が海を渡った。
名古屋場所がきた。
最大の呼び物は横綱に挑戦する「ウルフ」千代の富士。その絶対条件は横綱審議委員会がいう優勝あるのみ。自力で優勝をつかむしかない。長い|荊棘《けいきよく》の道を歩んできた千代の富士の前に、V2即横綱の一発チャンスがめぐってきたのだ。
北海道福島町の郷土後援会では、早くも横綱土俵入りの太刀持ち用に、時価六百万円の名刀を用意しているという。人気ナンバー1の千代の富士の土俵には懸賞金が殺到し、この三月、懸賞金の“山”で福島町の実家を新築し、親孝行の望みもかなったばかりだった。
名古屋入りした「ウルフ」は稽古あがりの午後、ホテルのプールで悠々と泳いだ。
初日、波瀾が起きた。
立ち合い、頭から突っ込んだ一瞬、西前頭筆頭隆の里の|叩《はた》き込みで、ばったり四つん這いの黒星。しかし二日目、新小結北天佑を凄い気魄で一気に寄り倒してから、千代の富士は白星街道をひた走りはじめた。千秋楽、北の湖と三たび大一番決戦に臨むや、これまで一勝十敗だった王者を|乾坤一擲《けんこんいつてき》の出し投げで泳がせ、寄り切りに完勝。
十四勝一敗。二回目の優勝。天皇賜盃を抱く「ウルフ」に喜びの涙などなく、会心の笑みがこぼれた。
場所後の七月二十一日、第五十八代目横綱に昇進。二十六歳一カ月。
一年に二度、協会使者を迎えて、千代の富士は大関から横綱へと駆けあがった。九重部屋からは四十五年一月の北の富士以来、二人目の横綱。使者を迎える晴れの席に、先代九重未亡人の姿があった。
二十五日、東京・明治神宮で推挙式のあと、太刀持ち朝汐、露払い富士桜の本家高砂の兄弟弟子を従え、神殿に千代の山―北の富士―千代の富士と師弟三代にわたる雲竜型の土俵入りを奉納した。
秋場所は大関空位となる。このため北の湖―千代の富士の東西横綱が、明治三十八年一月の常陸山―梅ケ谷から七十六年ぶりに大関を兼ねるという、史上二度目という珍しい番付が発行される。
夏巡業がはじまった。七月二十七日の仙台を振りだしに、東北―北海道―越後をまわる一カ月におよぶ長い巡業である。
三十日、仙台巡業四日目、アクシデントが新横綱千代の富士をおそった。公開稽古中、巨砲戦で左足首を負傷したのだ。
しかし休むわけにいかない。
新横綱は巡業の大看板。八月十二日には福島町巡業もある。先代九重追善法要もかね、郷里に錦をかざる晴れの巡業だ。青函トンネル北海道基地の福島町は、いまや「ウルフの里」としてラーメン、まんじゅう、Tシャツにまで「ウルフ」の名がつき、「ウルフ」セール一色に沸きたっている。
千代の富士は左足首を包帯で巻き、横綱土俵入りを披露する巡業日程をこなした。
十三日、出羽海巡業部長の許可がおり、空路、帰京。上野・池之端の金井整形外科病院でレントゲン検査を受け、捻挫と判明。一週間入院し、退院後も通院をつづけた。
この夏巡業中、故障者が続出した。
八月六日、札幌巡業初日、北の湖が苦手中の苦手、朝汐戦で軸足の右膝を痛めた。一週間だけ稽古を休み、夏巡業を最後まで勤めあげたのである。
八月二十三日には、長い巡業終盤の六日町(新潟県)で、幕内最年長三十七歳の“土俵の人気役者”高見山も左足を捻挫した。
「怪我や病気も勝負の世界」とはいえ、過密スケジュールも加わり、「大相撲は欠陥集団か」と批判が出るほどの故障者続出である。首の故障が完治しないまま、横綱若乃花も三場所連続休場から再起してくる。
九月十三日、秋場所が開幕した。
初日の朝、千代の富士は体重計の目盛りが百二十・五キロを指すのを見て、気分をよくした。番付発表時は百十八キロだった。新横綱の本番とともに待望の百二十キロ台にふえたのだ。力士生命も終わりか?――と、思われたのに、四日市中央病院から百四キロになって甦ったあの夏以降、約二年で十六キロ以上の筋肉が全身にみなぎってきた計算になる。
しかし土俵入りに登場する新横綱の姿に、左足首の包帯が水をさした。
デビュー戦の相手は平幕の蔵玉錦。ピンチから逆転の下手投げで白星をかざった。
その日、東前頭筆頭高見山は西小結北天佑に寄られて完敗。夏巡業終盤での左足首捻挫が治らず、翌二日目からの休場が決定した。千代の富士がまだ小学校三年生だった三十九年春に初土俵を踏んで以来、一日も休まず本場所を取りつづけ、日本人関取衆を抜き去り史上一位を更新していた通算連続出場千四百二十五回、幕内連続出場千二百三十一回などの大記録すべてがストップする痛恨の休場である。
二日目の土俵、はたして不吉な予感が現実になった。
西張出小結の隆の里戦。立ち合い、千代の富士らしい鋭い踏み込みもなく、隆の里得意の右四つに組まれ、左上手投げを打たれて左足から崩れ落ちたとき、捻挫の左足首をさらに痛めたのだ。立ちあがれず、土俵を這っておりる千代の富士の姿はみじめだった。
左足首の靭帯不全断裂、全治一カ月―金井整形外科病院の精密検査による診断が下された。左足首はギプスで固定され、「ウルフ」の顔はこわばっている。
三日目から休場に追い込まれた。
「新横綱の休場は吉葉山以来の不祥事」
「小兵横綱、短命か!!」
「綱の権威、早くも失墜」
そんな大見出しが各新聞に躍る。日本中を捲きこむウルフ人気の反動で、マスコミの袋叩きぶりは凄まじかった。
その秋場所は東関脇琴風が初優勝。場所後、空位の大関へ昇進である。
九州場所がきた。
東の正横綱に秋場所皆勤の若乃花が坐ったものの、尻の|腫《は》れ物手術の後遺症で休場が決定。北の湖も右膝が悪化して力士生活十五年目ではじめて秋巡業を休み、怪我の後遺症が心配される。休場明けの千代の富士となると、優勝候補にもあがらなかった。
ところが九日目から突如、千代の富士が一人横綱になる事態がきた。
横綱在位四十四場所目の北の湖が右膝の悪化から、横綱になってはじめて休場に追い込まれたのだ。四十二年一月、十三歳で初土俵を踏んだときからも、四十九年七月に二十一歳二カ月の史上最年少横綱になってからも一日も休まず、幕内連続勝ち越し五十場所という空前絶後の大記録とともに、優勝二十二回を含め、いつも優勝戦線にいた王者が、ぽっかりといなくなった。
十一日目から千代の富士が一敗で単独トップに躍り出た。ところが十三日目に張出小結朝汐に押し出され、十四日目に関脇隆の里に敗れ、優勝は千代の富士、琴風、朝汐の三敗の三人の千秋楽争いにもつれこんだ。
千秋楽が終わると、千代の富士が横綱になって初の優勝―通算三回目をとげていた。それも結びで琴風を捨身の首投げ、優勝決定戦も朝汐に俵まで突き飛ばされ「負けた」と思った瞬間から前まわしを引きつけての逆転勝ちだった。
支度部屋で優勝インタビューがはじまると、記者団は驚いた。
「ウルフ」が泣いている。
初優勝のときも、横綱昇進をきめた二度目の優勝のときも、爽やかな笑みをみせてきた強気の男が、別人のように溢れる涙をタオルで拭い、口もきけないのだ。
思いがけなかった。休場明けの千代の富士が優勝するとは、だれも思わなかった。千代の富士本人も思わなかった。それだけに「吉葉山以来の不祥事」と書かれた、新横綱休場のスタートを切って味わってきた苦しみと屈辱のどん底から優勝へと甦ったときに、「ウルフ」の胸中から噴きあげる感激の涙だった。
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第十六章 一 家 の 主
五十七年――。
一月三十日、第五次春日野内閣が発足し、新国技館建設と「土俵の充実」に向かう人事が鮮明になってきた。
協会執行部の在京理事に、出羽海と時津風(元大関豊山)の若手二人を迎えたのだ。前者は岳父の前理事長から、後者は双葉山の元理事長から、それぞれ薫陶をうけて育ち、頭も斬れ時代の息吹きも読め、新国技館建設に向かう布陣である。
「土俵の充実」を謳う審判部長には、新理事の鏡山親方(元横綱柏戸)が就任。そして審判部副部長に中立親方(元横綱栃ノ海)と、役員待遇で抜擢した九重親方をもってきたのだ。
初場所後の二月十一日、藤島部屋が東京・中野本町に新築され、土俵開きが行われた。貴ノ花は引退から一年、年寄名跡も鳴戸から藤島に変更し、二子山部屋から分家独立して、いよいよ新時代への挑戦である。
春場所、千代の富士、十三勝二敗で四回目の優勝。千秋楽の結び、横綱同士の決戦、立ち合い一瞬の勝負で北の湖を下し、王者交替を思わせる圧倒的な強さをみせた。
千代の富士に優勝旗をわたす九重審判部副部長――師弟初の爽やかな晴れ姿に、ファンは沸きたった。
夏場所も、十三勝二敗同士で小結朝汐との優勝決定戦に勝ち、初の連続優勝で通算五度目の優勝になった。
六月十四日のことである。
「九重部屋に野蛮な暴力リンチ事件」
「半殺しにされた北天佑の実弟、富士昇」
「リンチの主役は千代の富士」
「スポニチ」が、そんな煽情的な大見出しをぶちあげた。さらに駅売り新聞も、この“売れる”ニュースに飛びつき、「週刊文春」は|凄惨《せいさん》なカラーグラビア入りで、二週にわたって大特集を組んできた。
役者がそろっている。
事件の主役はスーパースター、千代の富士。被害者は角界のホープ・北天佑(三保ケ関部屋)の実弟で、十八歳の三段目力士。――千代の富士“主役”のシゴキという名のリンチ事件で、部屋から脱走した富士昇がよってたかって殴打され、半死半生で東京・小松川の京葉病院に担ぎこまれた。脳波検査を受ける重傷。人気横綱が起こしたこの野蛮な暴力事件で、大相撲の人気は根底から揺らぐだろう、などと報じられている。
「週刊文春」の血みどろのカラー写真には、おどろおどろしい緊迫感があった。
富士昇は本名千葉光弘。五十四年春の初土俵。同期生に保志がいた。
新弟子時代から将来を嘱望され、三保ケ関部屋と九重部屋にわかれる北天佑―富士昇の兄弟ドキュメンタリーは、NHK特集でも表面の奇麗事が放映されるほどだった。
実際には、九重部屋に入門してきた富士昇は、新弟子時代から部屋の解放的な明るい雰囲気になじむと、連日、仲間と十円単位のこの世界で「チョコレンパン」というトランプ博奕に興じはじめた。師匠の顔をみても平気で、隠さない。逆に、
「親方、ひとつ張りませんか」
ときて、九重親方を呆れさせた。
そのうえ何でも師匠に訊きにきた。
「親方、みんな、おれのことトンパチっていうんですが、なんのことですか」
そんな陽気で調子のいい現代っ子だった。
ところが初土俵以来、千代の富士の付人でいっしょにやってきた保志が黙々と稽古をつづけ幕下に進んだのに、遊びにふける富士昇は依然、三段目。
やがて夜な夜な、サングラスをかけ、部屋をぬけると六本木や赤坂界隈のスナックに出没。
「おりゃ北天佑の弟」と風を切って、女のコと遊びはじめた。といって三段目力士に、遊ぶ金があるはずがない。見れば、猛稽古の疲れで横綱が熟睡している。そのそばには懸賞金の祝儀袋がいっぱい。それらをドロンしての夜な夜なの遊びだった。
過去、相撲部屋独特の「可愛いがり」という名のシゴキを|潜《くぐ》りぬけて、多くの名力士や大力士が育ってきた。岩風、北の富士、貴ノ花、旭国……数えあげれば|際限《きり》がない。それらを世間の物差しで暴力事件ときめつけてしまえば、相撲社会は崩壊してしまうだろう。
しかもこの場合、シゴキの意味が違った。「北天佑の弟」とエリート気分の富士昇には、シゴキに耐える根性すらなかった。
おりからマスコミ全体が、売らんがため、あるいは視聴率アップのため、スキャンダラスな「やらせ」事件の過剰報道に狂奔し、麻痺していた。そこへ飛び込んできた「富士昇事件」は格好の|餌食《えじき》だった。富士昇自身がまいた根本原因には目を|瞑《つむ》ったのだ。
「いいか、みんな。何を聞かれても黙ってろ」と、そのとき九重親方から|箝口令《かんこうれい》が部屋の弟子たちに飛んだ。「……あいつだって将来がある。本当の事をいって、噂にでもなれば、千葉にとってマイナスになるぞ」
みな悔しがった。
名古屋場所がきた。
千代の富士は燃えた。|憤怒《いかり》を土俵にぶっつけるかのように燃えてきた。
初日から白星をならべ、七日目から独走。十二日目に関脇朝汐に敗れ、十四日目に“天敵”の大関隆の里に負けて十二勝二敗。しかしその直後、結びの一番で三敗の若乃花に土がついて三場所連続、六回目の優勝が転がり込んできた。戦後では羽黒山、大鵬、北の湖につぐ四人目の三連覇である。
逆境に立たされたとき、「ウルフ」が発揮する強靭な精神力は凄まじかった。
短距離競走なみのダッシュで立つなり左の前褌を取ると、万力の引きつけで相手は浮きあがってしまう。あとは一気に突っ走る。“土俵の御意見番”天竜三郎の口から「第二の栃木山になれ」という称賛も飛びだしてきた。
秋場所後の九月三十日。
千代の富士と進藤久美子さんの結婚式が東京・紀尾井町のホテル・ニューオータニで行われた。千代の富士二十七歳、新婦は昭和三十四年九月十二日生まれの二十三歳。
進藤家は、明治十四年、旧福岡藩出身の国家主義者、|頭山満《とうやまみつる》によって結成された玄洋社の流れをくむ家柄で、福岡市中央の自宅は玄洋社記念会館にある。進藤一馬福岡市長の姪にあたるという。ご本人は九州産業大学芸術学部を中退、ファッションモデルをしていて、二年前の九州場所祝賀会でコンパニオンをしていたところを、当時、関脇の「ウルフ」が一目惚れしたのだった。
媒酌人は、新郎側が千代の富士後援会名誉会長の中川一郎科学技術庁長官夫妻、新婦側が桜井義晃広済堂会長夫妻。「鶴の間」の披露宴会場には約三千五百人の招待客があふれ、総費用二億円の超豪華ぶりだった。
九州場所がはじまった。
五日目の十一月十八日、相撲協会緊急理事会が福岡国際センター内で開かれ、すぐ異例の記者会見が行われた。
九重親方を役員待遇と審判部副部長の役職から解任、平委員に降格、九州場所中の謹慎処分を決定したという。
さきの千代の富士の結婚披露宴の招待客のなかに、広域暴力団「山口組」系佐々木組の佐々木道雄組長の姿があり、「週刊文春」にすっぱ抜かれ、問題になっていた。
佐々木組長は元横綱朝潮太郎の高砂親方と|奄美《あまみ》大島の同郷で、親戚。なんとも厄介な高砂本家だ。分家の九重親方としては、本家の顔をたて、その縁者をめでたい席に呼ばざるをえなかったのだ。それが「週刊文春」の報道で明るみに出た。監督官庁の文部省に突つかれ、協会としては「暴力団との交際」を断ち切る泥をかぶってくれる者は、九重親方しかなかった。
「全責任は私にある。千代の富士は何も知らない」と、九重親方は潔く記者団に語って、審判長席から姿を消し、謹慎の身になった。
「悪いはなしは全部、おれんとこへ持ってこい」
千代の富士は不敵な顔で、そう親しい記者仲間に憤怒の胸中をぶちまけた。
初日、小結北天佑に喫した一敗のみ。あとは白星街道を驀進し、十四日目にV7をもぎとってしまった。千秋楽には八連敗中の苦手、大関隆の里も早い正攻法で退け、優勝に花をそえた。
踏み込んで、頭をつけ、左前褌を引いて一気に突っ走る痛快な「ウルフ相撲」が、日本のあらゆるプロスポーツのなかで最高の“見せる芸”に完成されてきている。
五十八年がきた。
初場所六日目、東張出横綱若乃花の引退が発表された。二十九歳。優勝四回。強烈な上手投げも持っていたが、師匠二子山親方の長女と結婚・離婚。クラブのママと再婚など、“ゴシップ横綱”と騒がれ、大成できなかった。年寄名跡すらなく、横綱の特権で年寄・若乃花として協会に残ることになった。
優勝は十四勝一敗の大関琴風。千代の富士は十二勝三敗だった。
場所後の一月二十八日、協会理事会が開かれ、九重親方の謹慎が解かれ、役員待遇への復帰と監察副委員長への就任が認められた。
春場所、東正横綱の千代の富士は初めて念願の十五戦全勝優勝をとげた。通算V8。西横綱北の湖は全休で、「ウルフ」独走時代到来を思わせる圧倒的な強さである。
しかし、またもや疫病神が頭をもたげてきた。
四月八日、春場所後の近畿巡業中の淡路島・津名町での稽古中だった。斉須(伊勢ケ浜部屋)との申し合い中、右出し投げを打たれたとき左肩関節脱臼に襲われたのだ。
激痛に、その場にしゃがみこんでしまったが、さすがは肩脱臼のベテランぶりを発揮、自分で肩を入れる応急処置をした。しかし大事をとって巡業を欠場。すぐ山梨県白根町の接骨院「長生館」中込辰夫館長の許へ直行した。
中込館長は、二年前の秋、北の湖の痛めた右膝をはじめて治療した接骨師である。その先輩横綱の紹介だ。
このとき春場所を全休し、東京で治療に専念していた北の湖が、翌九日の神戸巡業から、欠場の千代の富士にかわって横綱土俵入りに登場してきたのだ。土俵上では敵同士とはいえ、横綱の東西を支える男二人には強い|絆《きずな》があった。
「早く処置したから大丈夫だ」
そう中込館長から太鼓判を押され、千代の富士は胸を|撫《な》でおろす思いだった。
四月二十一日、東京・墨田区亀沢一丁目に九重部屋が新築され、土俵開きが行われた。
柳橋の料亭「花月」で産声をあげた九重部屋が、浅草、江戸川区春江町と移ってから、十六年ぶりに相撲のメッカ・両国に帰ってきた。鉄筋コンクリート造り三階建て、防火シャッター完備、稽古場にはヒーター付きの近代的ビル。建築費三億八千万円。六十年一月に開館する新両国国技館の裏口まで、歩いて五分の至近距離である。
土俵開きには、千代の富士が太刀持ち高見山、露払い富士桜の高砂本家両先輩を従え、土俵入りを披露した。
夏場所――。
千代の富士、北の湖の東西横綱がそろって休場という大相撲史上初の最悪事態である。左肩関節脱臼の千代の富士は横綱になって二度目、左膝と腰の故障の北の湖は四場所連続の七度目の休場だ。
このため初日の優勝掲額と賜盃返還に、師匠の九重親方が出る珍事になった。
横綱不在のこの場所、関脇北天佑が十四勝一敗で初優勝。場所後、二十二歳で大関に昇進する。
名古屋場所――。
千代の富士は左肩復活をみせつけるかのような、強烈な左上手投げで勝負をきめる強気の土俵をつづけ、一敗で千秋楽を迎えた。
優勝は千秋楽の結び、千代の富士―隆の里の相星決戦にかかった。大一番は力相撲の末、隆の里が制し、第五十九代横綱に昇進である。
隆の里は、いまは間垣親方の二代目若乃花と同期生の三十歳十カ月。“土俵の鬼”若乃花の二子山親方が生んだ二人目の横綱。初土俵から十五年九十一場所という史上二位の遅咲き横綱で、朝の人気テレビドラマから「おしん横綱」といわれた。
場所直後の七月十九日、千代の富士は待望の父親になった。
久美子夫人が実家のある福岡市の産婦人科病院で女の子を出産。「ウルフ」は嬉しさを隠さず、早速、飛行機で福岡に飛び、「優しい子」の願いをこめ、優と名付けた。
秋場所がきた。
隆の里が加わり、久し振りに三横綱四大関時代の到来。千代の富士は横綱五場所目の五十七年夏場所から連続九場所も東の正横綱として不動である。これは横綱二場所目から東を連続十一場所つとめた若き大鵬に迫る。
新小結に二十歳十カ月の大ノ国が誕生、二十歳二カ月の保志が新入幕。これで五十年代に初土俵を踏んだ若手が幕内に十一人を数えた。
千秋楽結びは、三十九年春の「柏鵬」以来十九年ぶり、史上四度目の東西横綱全勝対決に沸きあがった。二場所連続の相星対決は、不利な体勢で辛抱し、最後は勝負に出てきた相手の一瞬の隙をついて、腹に乗せて吊り出した隆の里の勝利。新横綱の全勝優勝は十三年春の双葉山につぐ史上二度目の快挙だった。
これで千代の富士の対隆の里戦は、九勝十四敗。大きく負け越しだ。
相撲は右の相四つ。しかも力士引退年齢の三十にして綱を張った超スロー出世の男らしく、怪力「ポパイ」の異名をもち、相撲ぶりまで「鋼鉄の男」先代羽黒山のようにどっしりとし、土俵入りも不知火型と対照的な隆の里が、北の湖にかわる「ウルフ」最大の苦手にのしあがってきた。
九州場所千秋楽、三場所つづけて隆の里との相星決戦。「三度目の正直」で、千代の富士が鮮やかな速攻で破り、十四勝一敗、九回目の優勝をにぎった。師匠北の富士の優勝十回にあと一に迫ってきた。
九州場所三連覇。“九州ウルフ”の異名も出てきた。
九重部屋に近い墨田区石原に自宅も新築され、「ウルフ」も愛妻と愛児をもつ一家の主になった。
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第十七章 九 重 |魔 術《マジツク》
五十九年――。
一月二十八日、春日野理事長六期目になり、審判部副部長に九重親方が返り咲いた。もう一人の副部長に役員待遇で新任の佐渡ケ嶽親方。土俵のお目付け役は鏡山親方を審判部長とする三人である。
初場所の優勝は十三勝二敗で四回目の隆の里だった。四場所連続、千秋楽の相星決戦の末、千代の富士は高々と吊り出された。これで相星決戦は千代の富士の一勝三敗。
三十一歳になって堂々の横綱相撲をみせる隆の里は、「わしは二十五歳の体だ」と筋肉隆々の胸を張ってみせる若さである。
春場所八日目から、千代の富士は休場に追い込まれた。二月十二日の大相撲トーナメント決勝戦の北天佑戦で右股関節を捻挫。場所前の稽古不足もたたって七日目まで三敗と不振だった。横綱になって三度目の休場だ。
優勝は東大関若島津、十四勝一敗の初優勝。病気休場の春日野理事長にかわって、師匠の二子山理事長代行が賜盃を愛弟子に授ける感激シーンがみられた。
夏場所は三十一歳の北の湖が二十四回目の優勝を七度目の全勝でかざった。
その千秋楽、三十九歳十一カ月の高見山大五郎が十両の土俵で前人未踏の千六百五十四回目の最後の一番、玉竜に泳がされて壮絶に敗れた。「日本人以上の日本人」といわれたハワイ生まれの巨大な人気者は、力士生活二十一年の土俵から去っていった。
つぎの名古屋場所、高見山とバトンタッチするように第二の外人関取、小錦八十吉が新入幕。五十七年名古屋場所に高砂部屋から十八歳で初土俵。以来わずか二年十二場所のスピード出世で早くも幕内の二十歳。
一九六三年(昭和三十八年)十二月三十日、アメリ力領治下の東サモア生まれ、本名サレバ・アティサノエ。その後、ハワイのオアフ島で育ったポリネシア系アメリカ人。初土俵のときの身長百八十四センチ、体重百七十五キロから、二年で百八十七センチ、二百十キロと巨大化している。
その名古屋場所、千代の富士の姿はなかった。
六月十一日、九重部屋に出稽古にきた|鳳凰《ほうおう》(二所ノ関部屋)との稽古中、またもや左肩脱臼に襲われたのだ。上野の金井整形外科に通院、全休。今年になって二度目の休場だ。
場所前のある日、東京にひとり残って金井整形外科に通院治療をつづける千代の富士は、中日スポーツ新聞の連載「はやわざ御免」に目を通した。先代師匠の「突っ張り御免」につづいて、当代師匠が書く相撲講評コラム。見事な文才を発揮した先代を見習い、当代も爽快な文章を書く。
――ウルフは今年、二度目の休場。横綱としてまだ一度も優勝がない。二十九。老け込む年ではない。怪我を完治して、もっともっと奮起せよ。
千代の富士は、どきっとなった。名古屋にいる師匠からどやされるような思いだった。
秋場所がきた。
蔵前国技館最後の本場所である。
終盤戦十一日目から、国技館は「小錦旋風」にどよめきはじめた。西前頭六枚目の小錦が十日目で八勝の勝ち越しを決めるや、十一日目に横綱隆の里、十二日目に大関若島津、十三日目に関脇大乃国と三役陣を吹っ飛ばしはじめたのだ。一敗で優勝戦線のトップを走る西前頭十二枚目の多賀竜に一差でつけている。もし入幕二場所目の外人関取に優勝されれば、「国技」大相撲はどうなるか。
「小錦台風」「怪物激震」「角界の“眠り”を破る黒船襲来」「情けなや下から眺める星取表」――と、マスコミは形容詞を競い、二一五キロの小錦の土俵に、日本中が騒然としてきた。
十四日目、千代の富士も小錦のプッシュ二発に吹っ飛ばされた。
千秋楽、小錦は大関琴風に敗れ、十三勝二敗の多賀竜が平幕優勝を手中にした。
隆の里―千代の富士戦が蔵前国技館三十五年に幕を引く一番になり、千代の富士は勝って、やっと十勝五敗だった。
「千代の富士、限界」説がマスコミに流れた。
百二十一キロの軽量。しかも脱臼癖の肩。百八十一キロの大乃国、二百十五キロの小錦という超大型力士の出現で、いかに強気一点張りの「ウルフ」も、もう限界だとみられた。
千代の富士は、闘志をかきたてられていた。
(こりゃ大変なことになったな)
初顔の小錦に負け、そう思った。相撲には番付がある。稽古場で横綱が平幕と戦えば、平幕が勝てるわけがない。それが歴然たる力の差の証明である番付なのだ。しかし本場所一番だけは別物だ。はじめ、きのうや今日入った奴に負けるわけがないと甘くみた自分が恥しくなった。
幸い、九重部屋が両国に帰り、本家の高砂部屋が近い。連日のように、横綱が高砂部屋に出稽古をはじめたのだ。稽古土俵に小錦を呼ぶと、何番も申し合い。小錦の長所と泣き所を頭に入れ、超大型攻略法を体に覚えさせていった。小錦という超大型力士を迎え、あらたな研究心と闘志を燃やし、果てしない稽古をつづける軽量の「ウルフ」には一つの信念があった。
「泣くのも自分、笑うのも自分」なのだ。
それとともに横綱になって二度も脱臼した左肩も復調してきている。鉄アレイ、バーベルなどを使っての筋肉強化トレーニングは、一日も欠かさない。
九州場所がきた。
千代の富士、十四勝一敗。十回目の優勝。
師匠北の富士の優勝回数についにならんだのである。
千秋楽祝いを打ちあげると、師匠に呼ばれた。九重親方は口を切った。
「おい、……とうとうおれにならんだな。将来にそなえて、内弟子もっていいぞ」
「はい」と答えて、嬉しくなってきた。
「そのかわり現役で頑張れ。おまえは稽古に忙しくて、行けないだろう。おれが行って、おまえの内弟子を探してきてやる」
「はい」とだけ、いう他なかった。
「ウルフ」の目つきが変わってきた。
六十年がきた。
新両国国技館が完成。三十九年ぶりに大相撲の殿堂が隅田川を東に越え、蔵前から両国に帰ってきた。総工費百五十億円。隅切り方型の大屋根を戴く大ドームである。
一月十三日、|柿《こけら》落としの初日、相撲好きで八十三歳の天皇陛下をお迎えして開幕。「君が代」の吹奏が流れ、正面貴賓席に陛下がお着きになり、館内は「万歳」の嵐に包まれた。
天覧の光栄の下、隆の里、北の湖の二横綱があいついで敗れる波瀾。しかし結び、千代の富士は新小結北尾を鮮やかなすくい投げに破り、東正横綱の面目をみせた。
二日目も北の湖は敗れ、三日目の一月十五日、引退を声明。一代年寄・北の湖親方を襲名。空前絶後の五十場所連続勝ち越しなど、十八の史上一位記録をもつ大横綱も三十一歳で土俵を去っていった。
四日目から東張出横綱隆の里、休場。
一人横綱の千代の富士は白星街道を驀進し、十一回目の優勝を二度目の十五戦全勝でかざった。
春場所――。
千代の富士の内弟子、臼井、酒巻の二少年が初土俵を踏んだ。師匠、九重親方が早くも約束を実行にうつしてくれたのである。
五月三日、上野東天紅で出羽海一門友愛会の集いがあった。三役以上の生き残りで最長老の天竜三郎を会長にした、出羽海一門OBたちの集いである。
この日、九重親方がはじめて姿をみせた。九州山、綾若、郷錦など昭和十年代のOB連中が「九重も、元を正せば出羽海の人間じゃないか。呼んだらどうだ」といいだし、出羽海親方に相談すると、嬉しい返事がきた。
「そりゃ、いいじゃないか。九重を破門したのは、あの時代のけじめとして先代師匠がやったことで、いつまでもこだわってることがおかしい。どうぞ呼んでやってくれ」
その日、東天紅での集いのあと、二次会となって、祝日で開いている店もない。
「じゃ、みんな懐しいだろ。部屋へ寄れや」
そう出羽海親方がいい、大勢で部屋に乗りつけた。みんな酔っている。いや、酔っぱらっているふりをしていた。
このとき武蔵川の先代出羽海親方は、市川国一相撲博物館長になっていた。六十九歳で直腸癌を手術して人工肛門になり、入退院を繰りかえしている。もう七十六になる。ちょうど退院中で、部屋の三階の自室に寝ていた。
さりげなく大勢のOBたちと一緒に、先代師匠最愛の弟子・北の富士を出羽海部屋に連れてきた当代の思い遣りは鮮やかだった。これまで元気な頃、国技館内で二人は対面しているとはいえ、四十二年の破門以来、九重親方が出羽海部屋の敷居をまたぐのは、これがはじめてなのだ。
「親方、九重もくっついてきましたよ」
「ああ、そうか。……それは、よかった」
そんな会話が親子の間でかわされたあと、出羽海親方はすっかり酔っぱらってしまった。
三階の病床につく“育ての親”先代師匠を見舞ったとき、案内にたったOBたちの眼前で、目に涙をうかべる先代出羽海も九重親方も、ただ無言だった。
この日を境に、出羽海部屋が抱える新進関取衆の九重部屋への出稽古がはじまってきた。
その年の暮れ、九重親方はとうとう結婚にゴールイン。お相手は美人と評判の銀座のママ、真理夫人。
「おれも、これで本当の年寄よ」と、九重親方もいって、独身生活とおさらばした。
六十一年がきた。
初場所初日、西横綱隆の里は関脇保志にあえなく敗れて横転。打ち出し後、「体力の限界」を理由に引退を表明。「おしん横綱」も横綱在位十五場所中、皆勤わずか八場所で土俵を去った。三十三歳だった。
千代の富士の一人横綱時代がはじまった。
この場所から、幕内優勝賞金が五百万円にアップされた。従来の二百万円から倍以上の値上げ。殊勲、敢闘、技能の三賞も、十両優勝と同じ百万円になった。「優勝賞金が安すぎる」と批判を浴びてきた大相撲も、プロゴルフやプロ野球なみに肩をそろえる新時代への脱皮である。
「ウルフ」の目つきが変わってきた。
賞金五百万円第一号は十三勝二敗の千代の富士にかがやいた。V15――優勝十四回の輪島を抜き、三十二回の大鵬、二十四回の北の湖につぐ史上三位に躍り出ている。
場所後の一月三十日、春日野第七次内閣が発足。高砂一門から新理事に選ばれた九重親方が、鏡山親方とともに審判部部長に昇格。「九重は、一生、理事になれない」といわれてきた。ところが、その九重部屋に九重、君ケ浜(元北瀬海)、谷川(元前頭四枚目・白田山)の三年寄に加え、理事選挙で年寄と同資格をもつ横綱千代の富士の一票が物をいってきた。その結果、理事三人をもった立浪―伊勢ケ浜―宮城野一門の一角を崩し、高砂一門から本家の高砂親方に加え、二人目の新理事として九重親方が選ばれてきたのだ。
春場所――。
「荒れる春場所」異変が、また起きてきた。
二日目、東前頭四枚目の巨砲に送り出しに敗れた千代の富士は腰骨を痛め、相撲が取れる状態ではなかった。腰骨部挫傷全治一カ月。三日目から休場に追い込まれた。横綱になって五度目の休場。しかも一人横綱の休場で、再び横綱不在の非常事態がやってきた。
ちょうどそのころ九重部屋のもう一人の新進スターが目を|瞠《みは》らせる大活躍をみせてきた。
関脇保志である。
大乃国、北尾、朝潮、北天佑、若島津の五大関総なめの史上初の快挙をやってのけ、十三勝二敗の初優勝。二回目の殊勲賞、五回目の技能賞もさらってしまった。千代の富士休場の九重部屋にとっては、まさしく晴天の|霹靂《へきれき》。
十四日目のことだった。保志の優勝が決定した直後、東京・石原の千代の富士宅の電話が鳴りだした。新聞社からだった。
「万歳」と、千代の富士は喜びを素直に口にした。「……よくやってくれた。よくぞ、おれのかわりをやってくれた」
五十一年の夏のことだった。――井筒部屋は涼しい札幌で合宿を行った。そのとき札幌市西区琴似に武道場をもつ材木屋の大内勇吾社長と、その材木屋に勤める叔父に連れられ、小さな子供が「相撲になりたい」とやってきた。名前は保志信芳。中学一年生で柔道をやる。ところが新弟子検査も通らないチビで、チャンコを御馳走になって、帯広近くの広尾町に帰っていった。
その後、五十四年はじめ、井筒の名跡を返上し先代師匠を継いだ九重親方に、札幌の大内社長から連絡が飛んできた。
「いつかの保志君にな、出羽海部屋から話がきてる。本人は九重部屋へ行きたいと、いうんだ」
「そうか、そうか」といって、九重親方は思いだした、「……ところで大きくなったか」
「大丈夫だ。帯広に出羽海のOBがいるんだよ。早くしないと、取られちゃうぞ」
あわてて北海道に飛び、保志少年を東京の九重部屋に連れてきた。中学卒業寸前の十五歳で、身長百七十五センチ、体重百五キロあった。その年春場所、初土俵。史上最高の新弟子合格者、百十一人の一人になった。
グラフNHK大相撲特集号の新弟子アンケート中、「目標の地位」に、同期生の千葉は「横綱」、保志は「十両」と対照的だった。
相撲を取らせると、柔道をやっていたくせに、はじめから体をまるめて押しの体勢をとる。足腰もいい。おもしろい子供だな、と九重親方も思ったものの、「北天佑の弟」千葉の方がはるかに有望で、保志はせいぜい関取どまりとしか映らなかった。
ところが幕下になって、はるか雲の上の人、横綱千代の富士からじきじきに「おまえは稽古やらなきゃだめなんだ」と毎日のように稽古土俵に引き|摺《ず》りだされ、励まされてきた。そして五十八年春、十両。その秋に新入幕。六十年初場所に関脇に昇進以来、関脇六、小結二場所と三役の座を連続八場所も確保してきた。
いまや北尾、保志、小錦ら三十八年生まれ組が、かつての北の湖、若乃花(二代目)大錦、麒麟児らニッパチ(二十八年)組に対して、「花のサンパチ組」と呼ばれる。
初優勝の保志は、小結で準優勝の小錦とともに、夏場所に大関へ王手をかけてきた。十一勝で、大関当確だ。
夏場所がきた。
いよいよ弟弟子の保志が大関の座に挑戦する。
千代の富士は休場明けから再起してきた。万全を期して、春巡業も休んだ一人横綱「ウルフ」の目はらんらんとかがやいている。
十三日目の五月二十三日朝、福岡から待ちに待った朗報が飛び込んできた。
無事、二番目の子供、出産。待望の男の子。
早速、剛と名付け、場所入りすると、支度部屋でも二児の父親になった嬉しさを隠さず、名前を知った報道陣から、
「これでいよいよ優勝に向かってゴーだね」
「うん、いい励みになるよ」
そう不敵にもいいきった。
千秋楽、十二勝同士の大関北尾を得意の速攻で下し、十三勝二敗。十六回目の優勝。新国技館での本場所五連覇である。
保志は、十一勝四敗。八勝―十三勝―十一勝と、過去三場所の勝ち星が三十二勝。大関昇進ラインの三十勝を越え、大関当確だ。
ところが千秋楽が終わって、大関昇進問題が出たとき審議するはずの理事会が召集されない。鏡山審判部長が黙って帰ってしまったという。
「ふざけるな。おれも審判部長だぞ」と九重親方が怒ったときには、もう後の祭り。保志の大関昇進は、あっさり見送られた。
五大関がいて、五人そろって勝ち越していたことも保志の不運になった。
千代の富士のV16に沸く九重部屋の千秋楽祝いの片隅で、保志はうなだれていた。
親しい記者に慰められ、保志は、
「おれ、も、やめた」蚊の鳴くようにいう。
九重親方も顔色がなかった。千代の富士の影に隠れて、師匠ですら予想もしなかった弟子の|瓢箪《ひようたん》から大関の駒が出てきた。ところが審判部長のメンツをもう一人の審判部長に踏みつけられただけに、|癪《しやく》で肚が立つ。五大関健在という現実の壁が判るだけに、保志以上にどうしようもないほど悔しい。
「がっくりきて、おまえがずるずるといったら、せっかくの苦労も水の泡だ」と、いったものの、師匠の方もがっくりしている。
そのとき「ウルフ」がやってきた。
「保志、いいかッ。大関昇進はな、本人ではなく、まわりの人間たちが決める。いくら考えても、しょうがないんだ。……来場所の星につながるように、おれが稽古をつけてやる。怒りを稽古にぶっつけろ」
そういって千代の富士は、千秋楽の翌日、福岡へ飛行機で飛んでいった。
名古屋場所――。
千秋楽、千代の富士―北尾の東横綱・東大関の対決が二番、実現した。はじめ結びの相撲で全勝の千代の富士に土がつき、優勝決定戦にもつれ込んだのだ。「ここ一番」の優勝決定戦では、勝負師「ウルフ」の真骨頂が光り、十七回目の優勝を達成した。これで優勝決定戦は四戦四勝である。
保志は十二勝三敗。
場所後、北尾改め双羽黒が第六十代横綱に、保志改め北勝海が大関に、二人そろって昇進。昨年秋、隆の里の途中休場から連続六場所も空位だった西横綱に「優勝なし」で押しあげられた双羽黒に対し、保志の大関は優勝一回をはじめ三場所の通算三十六勝で文句なしの昇進だった。
七月二十三日、名古屋市千種区城山町、相応寺の九重部屋宿舎では、北勝海を挟んで九重親方と真理夫人の三人で大関昇進を伝える協会使者を迎えた。
九重部屋は、いまブレーンがそろっていた。
まず、この名古屋場所から、若い衆の身辺にはじまりチャンコの采配まで一切の面倒をみる岩木マネジャーが生まれた。
元十両・富士の岩。本名、岩木秀之である。
四十九年春、十五歳で初土俵。その年秋場所前に井筒部屋が産声をあげたとき、元横綱北の富士に同行した内弟子八人の一人。それから九重部屋に復帰後の五十六年夏、西十両十三枚目に昇進。十両はその場所限りだった。
五十九年夏場所後、交通事故にあい、腰を痛めた。そのとき幕下の最古参で、横綱千代の富士の付人頭。横綱の綱を締める責任上、入院もせず巡業に出て、腰を悪化させた。
福岡県柳川市の父も兄二人も警察官という家の生まれで、人間もかたい。中学三年生のときに横綱北の富士に内弟子としてスカウトされ、井筒部屋創立時からを知るだけに、師匠とも気心が通じている。
腰を痛めて以来、相撲に覇気を失ったこの貴重な人材をみすみす廃業させる手はない。昔から相撲部屋に不可欠の若者頭が、いまは協会員として新規採用されない。新興部屋は、それにかわる裏方をマネジャーの名で自費でまかなう他なくなった。
六十年九州場所中、九重親方は廃業を決意した富士の岩を、こう口説き落とした。
「おまえさえよければ、部屋に残ってくれないか。いま部屋はばらばらだ。若い衆のまとまりがない。いくら子供だといっても、力士のプライドがある。素人の稲葉の話は聞けない。元十両関取のおまえなら、それができる。嫌われ役だが、しょうがねえな」
マネジャーに白羽の矢がたてられ、富士の岩は夢のようだった。十五歳から二十七歳の今日まで十二年間も世話になった「師匠の恩」に報いられるなら、本望だった。
今年春場所限り、廃業。
夏場所後の六月八日、ホテル・ニューオータニで元十両富士の岩の断髪式と、フィアンセ真弥子さんとの結婚披露宴が行われた。媒酌人は、仲人第一号の九重親方夫妻。
富士の岩改め岩木マネジャーはホテル・ニューオータニの費用すら知らない。すべては師匠の九重親方もちだった。九重部屋に第二の「富士昇事件」の危惧は、もはやない。
稽古場には、最高のコーチがいた。
元北瀬海の君ケ浜、元白田山の谷川親方。
北瀬海は、旭国、鷲羽山とともに「小兵トリオ」といわれた相撲巧者だけに、口下手だが、人を唸らせるような相撲のテクニックをアドバイスする。
一方、白田山は北の富士と同時代に初土俵から通算出場千二百二回の史上一位(その後、六位になる)記録を|樹《た》てたベテラン力士。五十七年五月、高砂本家から九重部屋に移籍された。九重親方とは現役時代からの仲良しで、人間も明るく、苦労人だけに酸いも甘いも噛みわける。話もうまい。千代の富士や、かつての保志が手痛い負けを喰ったり、落ち込んだりしたとき、|験《げん》治しの最高の飲み相手。気分転換の名手なのだ。
二人は、「V9」川上巨人軍を支えた荒川―牧野のような参謀に似ていた。
おかげで九重親方は、稽古場の弟子たちには一切口をださずにすむ。毎朝のジョギングや、稽古場の片隅で健康管理のトレーニングばかりやっている。
こうして適材適所にブレーンを配して、のびのびと陽気にふるまう九重親方の下、大勢の弟子たちものびのびと力士生活を謳歌している。そのすべてを、九重親方は全神経を集中しながら、黙って見ていた。
ダンディで「ベストドレッサー賞」にも選ばれた九重親方の身辺には、専用運転手で専属マネジャーの稲葉さんがいる。「きょうは、おととい着たあの着物を着ていく」という親方に、間髪入れずその一着を洋服ダンスの中から|択《と》れる芸当は、真理夫人にもできない。
九重部屋には、床山が二人。
一人は“床山の神様”床修。本名、山本修一。大正三年十一月生まれで、先代高砂親方(前田山)と同年、九重部屋の最長老。四十四年十一月に五十五歳の床山定年(現在、六十三歳に延長)後、五年間の嘱託を経て、四十九年十一月から井筒部屋の私設床山となって今日に至る。男女ノ川―前田山―東富士―朝潮―北の富士―千代の富士と、一代で横綱六人の大銀杏を結った床山は、長い大相撲史にも、修さんしかいない。
千代の富士は、こうして昭和十年代から横綱五代の脂が染みついた|柘植《つげ》の寄せ櫛一本に賭ける修さんの名人芸で結われた大銀杏で、大横綱への道を歩みだしていた。
北勝海以下、名古屋場所で新入幕の孝乃富士ら若い者の|髷《まげ》を結うのは、若い床岳だ。
そこへ本場所になると、部屋に先代師匠未亡人の光恵女将さんが激励の姿をみせる。
「おっきい女将さん」と九重親方や千代の富士らはお袋さんのような親しみをこめて呼び、|畏《かしこ》まった席では「先代女将さん」と呼びわける。彼らには、東京・柳橋の料亭「花月」が実家のような思いなのだ。
九重部屋の千秋楽祝いの席上、ときどき幕下や三段目力士の断髪式がある。――集団生活につきものの|脱走《スカ》す男も、いることはいた。しかしそれは例外で、九重部屋の飯を食い関取の夢ならず去る男は、大工や料亭の板前など「第二の人生」を師匠に紹介されて、断髪式で激励を受けて巣立っていくのだ。
「おれは九重にいた」という誇りをもつ男たちが、全国にひろがっている。
九重部屋は活気にあふれていた。
秋場所の新番付が発表され、西横綱に双羽黒が生まれ、千代の富士の一人横綱は三場所で終わった。
ところが番付発表の九月一日朝、双羽黒は、食当たりで入院していた日大駿河台病院から退院したばかり。
「北尾のイタイイタイ病」とも「新人類」ともいわれ、すり傷程度でも稽古を休んできた身長一九九センチの甘えん坊。斜陽に転落した、かつての名門・立浪部屋に|忽然《こつぜん》と出現した双羽黒の動向が脚光を浴びてきた。
秋場所がはじまると、六日目まで三敗。「腕が|痺《しび》れる」とお得意の|台詞《せりふ》を連発し、新横綱の七日目から休場してしまった。首の捻挫、全治三週間だった。
(大変だろうな)
千代の富士は、そう思った。自分が新横綱で同じ経験をしているだけに、その大変さは判る。再び一人横綱時代の自覚をとり戻した。
十四勝一敗、十八回目の優勝。
十月十日から三日間、大相撲パリ公演が東京・パリ友好都市提携五周年の記念事業として行われた。
裸の大集団一行の頂点に立つ“小さな大横綱”千代の富士の、足が頭よりも高くあがる颯爽とした土俵入りは、日本の「国技」大相撲の|醍醐味《だいごみ》を観衆に満喫させた。
九州場所を目前にした十月三十日朝――。
福岡入りしていた九重親方に、札幌から|訃報《ふほう》が飛び込んできた。
――|恵《さとし》、急死。心不全。
札幌のチャンコ料理屋「北の富士」をまかしていた仲のいい末弟が三十八歳の若さで逝った。すぐ札幌に飛ぶと、東京からは先代女将さんも葬儀に飛んできてくれた。親父もお袋も元気で、肉親からだすはじめての葬式だけにショックだった。
九州場所中、九重親方の顔に笑みがこぼれなかった。
千代の富士、十三勝二敗、優勝十九回目。
ついに四連覇。六十一年は途中休場の春場所を除いて、優勝五回。年六場所制(三十三年)以後、V32の大鵬が三十歳十一カ月、V24の北の湖が三十一歳と、過去の二大横綱が引退していった同じ三十一歳になって、千代の富士全盛時代がやってきた。
かつて小兵の栃錦がまさか横綱になるとは、だれも思わなかった。しかしなった。
三十一年夏場所、栃錦は五勝四敗で十日目から、横綱になって二度目の途中休場に追い込まれた。病名は内痔核。そのとき「栃錦限界」説が流れた。体重百十キロ台の軽量横綱で、前年秋場所には亜急性肺炎で休場している。小兵の体に鞭打って猛稽古してきた|ツケ《ヽヽ》だった。その直後には病死のデマまで飛んだ。こんどこそ栃錦もだめだ、とだれもが信じて疑わなかった。そのとき栃錦は三十一歳だった。
しかし追い詰められた限界の|淵《ふち》から、栃錦は、異名“まむし”の気魄で甦ってきたのだ。そして押しの名人芸を完成し、若乃花とともに「栃若」時代を築き、三十五歳まで取って名人横綱栃錦の名を不朽のものにした。
いま千代の富士は、その栃錦に酷似してきた。限界説が流れた蔵前国技館最後の場所から甦り、六十年に四回、六十一年に五回、通算V19を数え、優勝街道を驀進する。かつての「栃若」、「柏鵬」、「輪湖」のように|対峙《たいじ》するライバルがいないままにだ。
千代の富士が不死鳥のように、相撲協会をひとりで支えている。
六十二年がきた。
初場所千秋楽、結びの一番、横綱同士の決戦、千代の富士は双羽黒に敗れて十二勝の同点。東西横綱の優勝決定戦にもつれ込んだ。
「ここ一番」に臨んだ千代の富士の集中力の前に、二十三歳の甘い「新人類」は敵ではなかった。二メートルの長身を高々と吊り出し、二十回目の優勝を達成。昨年夏場所からの五場所連続優勝をとげた。
優勝決定戦は、これで五戦五勝。「ここ一番」になるとアガって自滅し、五回目ではじめて勝った北の湖は、優勝決定戦三勝五敗だった。大鵬ですら四勝二敗。優勝決定戦負け知らずは「ウルフ」の名にふさわしかった。
この場所六日目、十三戦目ではじめて千代の富士を破った西前頭二枚目の|逆鉾《さかほこ》は「おれ、これで相撲をやめてもいい」と大喜びしたあと、記者団にこういった。
「関脇から大関横綱に駆けあがって三連覇した頃の千代の富士と、いまの千代の富士とはぜんぜん違う。……あの頃は、小錦も大乃国も双羽黒もいなかった。いまはでかい連中がニョキニョキ。あの頃みたいには、いくら横綱でも、頭さげて一気に走れませんよ」
「ほう、じゃ、どっちが強い」と一人の記者が水を向けると、逆鉾は喜々としていった。
「いまの千代の富士の方が、はるかに強い。ここに俵があって、相手の足の逃げ場をなくしたところで、上手投げを打つから決まる。円熟の境だね」
たしかに千代の富士は変身していた。若い頃、「技の展覧会」といわれた栃錦が、限界説から甦って、まわしすら取らない押し相撲に変貌して名横綱になったように。
九重親方の「やる気」の魔術にかけられ、「ウルフ」はV24の大横綱北の湖の牙城に迫る大横綱へと変貌してきていた。
春場所がくると、大阪府羽曳野市誉田に九重部屋大阪宿舎が九重親方に贈られた。土地代、建築費総額十億円という稽古場つきの超豪華な宿舎である。
贈り主は、元前頭二枚目の若の富士。
横綱北の富士の内弟子第一号で、千代の富士より一年おくれて四十六年秋、十六歳で初土俵。東京都大田区大森の出身。のち井筒部屋に産声をあげたとき三段目だった。五十七年春に入幕。その夏場所に初顔の横綱北の湖から金星をあげて話題になった。本名が斉藤昭一で、リンゴみたいな赤い頬っぺたをして「昭ちゃん」と可愛いがられてきた。内臓疾患から五十九年秋場所限りで廃業。
その年十月、大阪の断髪式兼結婚式に呼ばれた列席者はびっくり。ロイヤルホテルに泊められ、往復のお車代の他に十万円相当のお土産つき。「昭ちゃん」は大阪一の畜産業者の娘を嫁に射止めたのだ。
そしてステーキハウス「ビッグジョー」経営者になった「昭ちゃん」の師匠への恩返しが、その隣りに建った九重部屋大阪宿舎だった。
新装の宿舎は羽曳野名所になり、「ウルフ」人気で観光バスもやってくる。
「おれは、いい弟子に恵まれたよ」
そういって、九重親方は喜んだ。
その春場所十日目、西横綱双羽黒、休場。横綱四場所目で早くも休場二回目。負けた翌日、大きなサポーターを膝に巻いて土俵にあらわれ、支度部屋で「イタイイタイ」と声をあげ、無事、左膝靭帯損傷、全治一カ月の診断が下された。「敵前逃亡だ」というごうごうたる非難のなか、「休みたいのは、こっちの方だよ」と九重親方も怒った。
事実、場所前、千代の富士は百九十五キロの巨漢、大乃国との稽古で首を痛め、医師の判断は「重症」だった。しかし不調ながらも耐えて皆勤し、十一勝四敗。ある記者から、
「横綱。……ひとりで東の正横綱を何場所もつとめて、しんどいでしょ」と訊かれ、「ウルフ」は、一言、いってのけた。
「横綱は、ひとりでいいよ」
記者は唸るばかりだった。
新両国国技館開館の六十年初場所から、連続十四場所も東の正横綱の座を守りとおしていたのだ。若き大鵬ですら東正横綱は連続十一場所どまり、若き北の湖は連続八場所どまりだった。年二場所時代の双葉山は、連続五場所が最高だった。
その場所、北勝海が十二勝三敗で二回目の優勝。九重部屋の優勝は、千代の富士と北勝海の二人をあわせ十場所連続。大正十年に大錦、栃木山、常ノ花の三人がかりで出羽海部屋が樹てた十連覇にならんだ。
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第十八章 双葉山に迫る
(六十二年)夏場所――。
北勝海が横綱昇進へ挑戦する夏場所がきた。同時に、三場所連続の東関脇小錦も史上初の外人大関へ挑戦する。小錦はいまや体重も史上最高の二百三十九キロ。
東の正横綱十五場所目になる千代の富士は、「王者」の風格が|滲《にじ》みでてきている。
初日、小結|益荒雄《ますらお》が休場明けの双羽黒を破り、春につづく旋風を捲き起こした。それも千代の富士なみの速攻と白い風貌から、異名も「白いウルフ」。
三日目、千代の富士は、その益荒雄に春につぐ二連敗。すると新聞報道は一斉に、
「白いウルフ、本家を圧倒」
翌日、支度部屋にあらわれた千代の富士は、
「益荒雄って白いウルフか。じゃ、おれは何だ。黒いウルフか。黒は、やっぱり悪役か」
そう冗談を飛ばして、記者団と笑った。
その日――四日目、巨砲に勝って史上五人目の通算八百勝を記録。現役では、元小結の大潮(東幕下三枚目)の九百三十八勝につぐ二位だ。
七日目、北勝海が益荒雄に勝ち、大乃国とともに全勝を守ると、結びで勝った千代の富士のインタビューは、自分の相撲をよそに、北勝海―益荒雄戦の相撲解説になっている。
支度部屋で小錦と|擦《す》れ違うと、
「お、小錦、がんばれよ」と声をかけてやる。
小錦は大感激。大関昇進をかけて戦う「陽気なサリー」といわれる史上最大の巨漢も、本場所の土俵が怖くてたまらない神経質の小さな|苛々《いらいら》虫だった。それだけに横綱に励まされて、大感激なのだ。
千代の富士は、前人未踏の連続在位記録を更新する東正横綱という番付以上の人望と尊敬を、全関取衆から克ち取っている。自分を敗ることによって、みんなが力をつけてくるのだ。
十二日目、千代の富士は小錦戦の負けで、優勝戦線から脱落。連日、黒星がつづく。
負けて悠然と東の支度部屋に帰ってくる。報道陣が、大乃国とともに全勝街道を突っ走る北勝海を取り囲んでいる。
「お、おれは脇役か」と笑って、坐る。
その顔には|安堵《あんど》感があった。
夏場所は十五戦全勝の西大関大乃国の初優勝。北勝海は十三勝二敗の準優勝。
場所後の五月二十七日、北勝海の第六十一代目横綱昇進、小錦の大関昇進が決定。
墨田区亀沢町の九重部屋は、横綱昇進を伝える協会使者を迎えた。そのとき北勝海を挟んで、九重親方と先代師匠の光恵未亡人の姿がある。
「おかしい、九重さん、また離婚だぞ」
報道陣は、そうざわつきはじめた。
しかし真理夫人は、あいにく病気で公式の席には「出られない」とのこと。それほど九重親方にとっても、北勝海の横綱は、まさかの出来事だった。
同部屋が二横綱を抱えるのは、栃木山―常ノ花の出羽海部屋(大正十三年)双葉山―羽黒山の立浪部屋(昭和十六年)、前田山―東富士の高砂部屋(昭和二十二年)につぐ、史上四度目の快挙である。
北勝海二十三歳。九重部屋は喜びに沸きあがった。
五月三十日午後八時十五分、武蔵川前理事長の市川国一相撲博物館長が東京・千代田区の|杏雲堂《きよううんどう》病院で七十八歳の生涯を閉じた。
大相撲の「戦後復興の祖」となり、出羽海親方時代の「九重事件」で破門した愛弟子、北の富士の九重部屋が角界ナンバー1に華開く様を見届けての大往生であった。
名古屋場所、千代の富士は三十二歳にして十四勝一敗で二十一回目の優勝を|取《もぎと》った。
相撲ぶりが、明らかに変わっている。身上の速攻が影をひそめ、うまさが光り、投げが二番、寄り切りが九番。それもそのはず、場所後、四日市中央病院でのレントゲン検査が写しだしたのは右の肋骨骨折だった。二日目の起利錦戦で痛めたのだという。
七月二十七日、三人目の子供が東京・港区の済生会病院で誕生。女児で梢と名付けた。「ウルフ」は三人の子供の父親になる嬉しさから、骨の痛みなど「大丈夫」と、右胸を抑えて一番一番を慎重に取り、優勝をやってのけたのだった。なにしろ三つになる長女は、もうテレビの相撲が判る。お父さんが負けて帰ると、泣いて大騒ぎなのだ。
愛妻と子供たちのいる家庭が、勝負師「ウルフ」の支えになってきた。
秋場所番付が発表されると、東西横綱に千代の富士、北勝海の兄弟弟子がならぶ。史上初の壮挙だ。千代の富士にとっては、東の正横綱連続十七場所目の記録更新でもある。
「九重王国の秘密」
そんなテーマで、秋場所を前に、九重親方めがけ講演依頼が殺到してきた。三菱グループ、人材雇用センターなどだ。九重親方も断り切れず、三社に絞って、壇上にのぼると、
「秘密なんか、ありませんよ。おれは何にもしてない。強いていえば、師匠が何にもしてないのが、秘密かな……」
開口一番、そう|喋《しやべ》り出して、聴衆は大喝采。そこに本音があり、そこに長たる者の明るい開放的な人材育成の素顔がまるだしだ。
「……北勝海は、千代の富士が鍛えあげた。すべてはウルフのおかげ、はじめにウルフありきですよ」と、つづいた。
秋場所十一日目、千代の富士は関脇旭富士戦で腰を痛め、腰部椎間板損傷・全治一カ月の診断で休場に追い込まれた。横綱になって六度目の休場である。
「千代の富士限界」引退説が、またまたマスコミに流れはじめた。
その場所、北勝海、十四勝一敗の優勝三回目。場所後、大乃国の第六十二代目横綱と、旭富士の大関への同時昇進が決まった。
九州場所番付が発表され、東の正横綱に北勝海、西の正横綱に大乃国。千代の富士は東の張出になり、東の正横綱の座をついに弟弟子に明け渡した。
四横綱四大関――大正七年夏以来、二度目の豪華番付である。
千代の富士、十五戦全勝、V22。全勝は四度目。九州場所七連覇だ。
千代の富士にとって、いまや横綱北勝海がかけがえのない強力な“助っ人”になってきた。
「北勝海は、千代の富士が横綱に仕立てあげた」と師匠はいう。たしかに、そうかもしれない。入門した頃の保志の印象は、あまりない。幕下にあがり、「これは十両だ」と思った。十両になると、「幕内は確実」と思い、関脇の頃は「大関になれる」と思った。そうして「笑うのも自分、泣くのも自分」と激励しつづけてきた。きつい稽古にも耐え抜く男には|敵《かな》わない。とうとう綱を締めた。
北勝海の当たりが凄い。自分より八歳も若い、凄い馬力だ。立ち合いのぶちかまし一発で、本場所相撲の八割以上をきめてしまう。
――北勝海のおかげで、いまのおれがある。
はっきりと、そう判る。最高の稽古台だ。
北勝海が横綱にあがってなければ、おれもそんなに稽古はせず、体力はもっともっと衰えてるだろう。おれにとって、最高にいい巡り合わせだった。
事実、腰の負傷から休場明けのこの九州場所、意外に回復力が早く、間垣部屋での序二段力士を相手に「いい感じ」を取り戻し、九州入りした。そして本場所に臨み、最高の体調にもっていけたのも、稽古場に立つ北勝海のおかげだった。
本場所土俵は部屋別総当たり戦である。だから千代の富士―北勝海の九重兄弟弟子の戦いだけはない。十五日間、二人が戦う相手はまったく同じなのだ。北勝海が横綱、大関陣のなかから、一人でも、二人でも、倒せば、その分、千代の富士が優勝に向かって、星の上で有利になる。一人の力だけで優勝を取った頃にくらべ、二人がかりで優勝戦線に立つだけに、マスコミのいう「援護射撃」的中だ。
新しい二人三脚ドラマのはじまりだ。
千代の富士は、すでに高砂一門から転がり込んできた年寄名跡・陣幕をもつ。さらに内弟子も五人。三段目に一人、序二段に三人、序ノ口に一人。すべては九重親方の尽力だ。ここまで師匠がやってくれる以上、
――年齢の上で限界かもしれない。
しかし自分でそう思ったら、だめだ。あとは土俵に打ち込む他ないな。
「ウルフ」は、そう肚を|括《くく》っていた。
その年の暮れ、十二月三十一日、横綱双羽黒、廃業。過保護の甘えん坊横綱は、注意された師匠の女将さんを突きとばして怪我をさせ、その足で部屋から脱走。前代未聞の横綱雲隠れの事態となり、とうとう立浪親方から廃業届けがだされたのだった。
二十四歳の「新人類」の|哀《かな》しい末路だった。
六十三年がきた。
初場所の優勝は、東大関旭富士十四勝一敗の初優勝にかがやいた。千代の富士は千秋楽、旭富士に屈し、十二勝三敗に終った。
この千秋楽を最後に、元小結で西幕下筆頭・現役最年長四十歳の大潮、元関脇で三十六歳の出羽の花、元小結でかつての「花のニッパチ」組三十四歳の大錦のベテラン三力士が、いずれも「体力の限界」を理由に引退。
大潮の通算九百六十四勝(うち幕内三百三十五勝)は史上一位の記録になった。
この千秋楽は、また春日野理事長十四年の|終焉《しゆうえん》にもなった。六十五歳の年寄定年まで二年余りの任期を残して勇退。相談役と相撲博物館長に就任した。
かわって「栃若」時代を築いた二子山理事長が誕生。
春場所――。
千代の富士は全休に追い込まれた。
大阪入りして場所前、北勝海との稽古中、左肩を脱臼。これで脱臼歴も左肩八回、右肩二回。横綱になって七度目の休場である。
四日市中央病院に入院した。
この場所、藤島部屋が脚光を浴びてきた。
部屋を興して七年目で、関取第一号の|安芸《あき》ノ島が新入幕。幕内最年少の二十歳十一カ月。
さらに藤島親方の長男、次男の兄弟がそろって初土俵。長男・勝は明大中野高校中退の十七歳。次男・光司は明大中野中学三年の十五歳。若乃花―貴ノ花とつづいた大相撲一家の花田家から、とうとう三代目が兄弟で揃い踏み。マスコミは沸きあがった。
夏場所――。
奇蹟が起きた。
千代の富士、十四勝一敗、V23。
支度部屋に引き揚げ、記者会見に臨んだ「ウルフ」の目は赤く、涙があふれる。横綱二場所目の五十六年九州場所で優勝をとげたとき以来、「ウルフ」がみせる二度目の涙だ。
「上の二人は、もうある。だから一番下の子供と一緒に優勝の記念写真を撮りたかった」
そういって千代の富士は、きらりと笑みをみせ、左手に賜盃、右手に生後十カ月の梢ちゃんを抱え、記念写真におさまった。
全休明けで優勝をとげる執念は「ウルフ」ならではの独壇場だ。
北の湖のもつV24がいよいよ目前に迫る。
名古屋場所、V24。五度目の十五戦全勝で、ついに北の湖の優勝回数にならんだ。これで夏場所七日目からはじまった連勝も、優勝回数と同じ二十四である。
秋場所、十五戦全勝、V25。
北の湖の優勝回数を乗り越え、一つの大仕事が達成できたという満足感が込みあげてくる。すると、気持ちが楽になってきた。
六度目の全勝と二連覇で、三十九連勝だ。
しかし千代の富士は、連勝のことは考えなかった。横綱になって七年目、これまで連勝とは無縁だった。大型化してきた幕内にあって、常に幕内一、二の小兵の身で、力まかせの相撲が多かった。綱渡りのような連勝記録は、頭で考えてできるものではない。
技は、すべて一瞬のタイミング。長い土俵経験を潜り抜けてきて、千変万化の場面にぶつかるその都度、むだな動きをせず、|閃《ひらめ》いた技が一瞬のタイミングで出るようになった気がする。それと自分でもはっきりと意識しているから、自分十分の型になっても、自分からは攻めない。技をけしかけ、相手の力をださせて、その力を利用してずるく攻めていく。
まさしく円熟の境だった。
投げは、相手が攻めてきたときに、打つと確実にきまる。若い頃、左腕一本でぶん投げてきた相撲にはじまり、|前褌《まえみつ》一気の速攻相撲をへて、とうとう相手の力を利用する「待ち」の円熟の境に達した。
そして千代の富士の絶品が、まわし切り。まわしを取った敵の|腕《かいな》を、ただ腰を振るだけで、百発百中プツンと切ってしまう。――その秘密は、相手の指が通らないほどの“かたふん”にもあった。
この秋場所二日目から、東前頭十三枚目の麒麟児が休場。千秋楽を前に引退と年寄・北陣の襲名を発表。幕内在位八十四場所、高見山につぐ歴代二位の記録をもった三十五歳の幕内最古参の引退で、三十三歳の千代の富士が幕内最年長にのしあがってきた。
九州場所がきた。
日本中の目が連勝街道を行く千代の富士の土俵に集中する。果たして初日から白星を重ねはじめた。
花道に入る前から、「いい緊張感」が湧き出てくる。控えに坐る。やがて呼出しに名を告げられ、土俵にあがるとき、気合いを入れると、闘志が全身に|漲《みなぎ》ってくる。優勝がかかった前夜、朝方まで寝られない時代もあった。「強気の男」といわれながら、大一番を前にアガったこともあった。そんな修羅場を何度も潜り抜け、いまや土俵に立つと、完全に「無」と化している。
六日目、勝てば、連勝記録で史上二位の大鵬四十五連勝にならぶ。
その日、花道に立った千代の富士の姿に、場内の雰囲気はいつもとがらりと違い、声援が異様な昂奮の渦になって捲いている。
(おれ、とんでもない事にチャレンジしてるんじゃないかな)
そう思った。
陣岳を得意の左前褌から破り、四十五連勝。
七日目から大相撲史上にかがやく双葉山六十九連勝の最高峰めがけ、さらに白星街道をのぼりはじめた。
十四日目、大関旭富士を破ってV26。
千秋楽、東西横綱同士の決戦、大乃国の二百三キロの巨体に敗れ、五十三連勝でストップした。――年二場所時代に四年七場所、二十三歳から二十六歳にかけての若き双葉山が樹てた最高峰に迫る史上単独二位の五十三連勝が、三十二歳から三十三歳にかけての千代の富士によって樹てられていた。
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第十九章 九 重 三 代
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分、昭和天皇、崩御。八十七歳。
皇太子明仁親王が新天皇となり、元号は平成と改元された。「激動の昭和」は終焉、新しい平成時代の幕開けである。
平成元年初場所は一日おくれで、一月九日開幕。ロイヤルボックスは天覧四十回を数えた相撲好きだった昭和天皇をしのび白菊で飾られ、幕内取組を前に、観衆総立ちのもと、土俵上に全幕内力士と協会役員らが揃い、|黙祷《もくとう》。
優勝は十四勝一敗四回目の北勝海にかがやいた。腰痛による三場所連続全休から再起しての優勝。氷点下百九十二度の氷室に一回三十秒から二分、一日に四、五回、のべ五十二日間におよぶ全身冷凍運動療法で、致命的な腰痛を克服しての復活である。
これで九重部屋の優勝は、北の富士十、千代の富士二十六、北勝海四をあわせ四十回。出羽海部屋四十九回、二所ノ関部屋四十二回につぐ史上三位。
千代の富士は十一勝四敗の不振だった。
安芸ノ島、寺尾の東西前頭筆頭に金星を提供し、旭富士、北天佑の東西大関に完敗。
引退のXデーがマスコミに|囁《ささや》かれはじめた。
しかし「ウルフ」は引退を否定し、二月に出産予定の四人目の子供について、生まれる前から、
「やはりまた親の勝ち取った賜盃を手にして抱っこしてやりたい」と新しい夢を語った。
二月二十日、四人目の子供が生まれた。三女で、愛と名付けた。
春場所――。
五日目、大関朝潮、引退。千代の富士と同じ三十三歳で、「体力、気力とも限界に達した」と「大ちゃん」らしく正直に語った。
十四日目、日本全国のテレビ桟敷に壮絶な場面が写しだされた。千代の富士が大乃国の巨体を|渾身《こんしん》の左上手投げで下し、十四戦全勝でV27を取った直後、土俵に膝をつき、左手を抱えて人形のように動かない。脂汗の滲む顔が大写しになる。左肩脱臼だ。
「ウルフ」の気魄と凄まじい執念を目の当たりにする臨場感のなか、日本中が震撼した。
千秋楽、休場。表彰式に左腕を包帯で体に巻きつけて登場。天皇賜盃を右肩で抱くように受けとり、観衆の喝采を浴びた。そして支度部屋に引き揚げ、賜盃をそばに、右手に愛ちゃんを抱いて記念写真におさまる「ウルフ」の顔から、父親の喜びがあふれた。
夏場所は全休である。
六月十二日夜十時すぎ、東京消防庁に墨田区石原四丁目、横綱千代の富士宅から救急車の要請が飛び込んできた。
「赤ちゃんがソファから落ちて、頭を打って、様子がおかしい」という。
生後三カ月の愛ちゃんだ。すぐ救急車が駆けつけ、錦糸町の墨東病院に運ばれたが、午後十一時二十六分、死亡が確認された。
十三日、検死の結果が公表された。
――乳幼児性突然死症候群。
十三日夜、通夜。
十四日、自宅で葬儀。
葬儀が終わり、出棺の時間がきた。哀しいほど小さな棺だ。その中に、千代の富士は二十七回目の優勝記念写真を入れた。
「愛香善女」と戒名が書かれた|位牌《いはい》を千代の富士が持ち、遺影を抱きしめた久美子夫人がそばに立つ。
「愛ちゃんは本当に……」と、葬儀委員長の九重親方が道端に|列《つら》なる会葬者に向かって出棺の挨拶を語りはじめた。その顔は不精|髭《ひげ》ぼうぼうだ。「……本当に、短い一生でした。三月場所、父を優勝させるために生まれてきたような気がします」
声が涙につまる、「……これからは愛ちゃんのために、父は頑張ってくれると思います」
久美子夫人は千代の富士の胸に泣き崩れた。
こうして百十三日の小さな生命は火葬場へと|発《た》っていった。
十九日朝、名古屋場所番付、発表。
前日すでに名古屋入りしている力士一行におくれ、その夜、千代の富士は名古屋入り。初七日と七七日忌の法要もすませ、さらに「粛啓」千代の富士こと秋元貢の名前で、簡潔な挨拶文入りの香典返しの発送も手配しての名古屋入りだった。
名古屋場所の初日は七月二日。
二十日朝、名古屋市城山町、九重部屋宿舎・相応寺境内の稽古場に千代の富士は姿をみせた。報道陣がつめかけている。
千代の富士は、ひとり黙々と四股を踏む。四股をおえ、放心したように、どこか遠いところを見る。焦点が定まらない。普段のような冗談も飛ばず、笑い声もあがらない。
異様な静けさが、稽古場に張りつめている。
(娘が死んだ。しかし、それは家庭のこと。公私混同はいけない。娘の供養のためにも、名古屋場所は、頑張らなければいけない)
千代の富士は、そう心に決めていた。
師匠の九重親方は、稽古土俵におりる千代の富士の姿を見るのがつらかった。――夏場所は十回目の左肩脱臼の治療で全休。名古屋場所に向け、そろそろ稽古再開というときに、愛児の突然死という不幸に見舞われた。通夜、葬儀、初七日と悲しみの行事がつづき、さすがの「ウルフ」も心労で、三、四キロも体重が減り、筋肉もげっそり落ちている。
毎朝、相応寺の本堂で線香をあげる千代の富士の姿がある。慰めようもなく、一緒になって拝み、哀しみを分ち合った。
名古屋場所が目前、北勝海と稽古をはじめると、千代の富士は尻からストンと落ちる。
(無理だな。怪我なら、立ち直れる。この精神的ショックで、もう終わりじゃないかな)
無惨な千代の富士の稽古ぶりをみて、そう九重親方も観念せざるをえなかった。
名古屋場所がはじまると、千代の富士は首に数珠をかけて場所入りしてきた。
かつて三十一年秋場所、煮えたぎったチャンコ鍋に落ちて、全身火傷で五つの長男を亡くした直後の大関若ノ花が、体に数珠をかけて場所入りし、優勝戦線を突っ走り、最後に高熱で倒れた悲劇を思わせる不屈の姿だ。
それも全休明け。稽古わずか五日間のぶっつけ本番。しかし千代の富士は、本場所の土俵に立つと、慎重に白星を重ねはじめた。
(どこから、こんな力が出てくるんだろ)
東横綱の北勝海は、土俵下の控えで“大将”が勝つ姿を見ながら、そう思った。場所前、とても相撲が取れる体調ではなかったのだ。
愛児の死という悲しみにくじけず、戦う千代の富士の姿に日本中から喝采が起きた。
千秋楽を迎え、二敗で優勝戦線のトップに立つ千代の富士は疲れきっていた。大関北天佑に負け、三敗。そのあと結びの一番、三敗の北勝海が快勝。
大相撲史上初の同部屋の横綱同士、千代の富士―北勝海の優勝決定戦が実現。
さすがに勝負は、あっさりと兄弟子が勝ち。拾い物のようにV28が転がり込んできた。
「いい供養になりました」
三十四歳になる千代の富士は、そう素直に万感の思いを口にした。
名古屋場所を終わって、序ノ口以来の通算勝ち星九百五十二勝。大潮のもつ九百六十四勝の史上最多勝利数にあと十二と迫ってきた。
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秋場所十二日目、千代の富士は大関旭富士を豪快に吊りから寄り切り、九百六十四勝を達成。その勢いで、七度目の十五戦全勝とともに、V29をとげ、千代の富士は語った。
「つぎなる目標は、通算一千勝だ」
秋場所を終わって、史上一位に躍り出た通算勝利数は九百六十七勝。一つの大記録を樹てると、つぎの大記録が見えてくる。
通算一千勝とともに、大鵬V32の最高峰も忽然と、眼前に見えてきたのだ。
すでに三十代になってからの優勝回数が、十七回。二位の大正の太刀山九回を抜き去り、空前の不死身ぶりだ。
秋場所後の九月二十八日、先代九重親方十三回忌法要が東京全日空ホテルで行われた。
春日野相談役、二子山理事長、出羽海親方のビッグスリーをはじめ、高砂本家、九重部屋の縁者、葬儀委員長だった秦野章元参議院議員、先代の師匠常ノ花未亡人の山野辺静代さんら百五十人が列席。
その席上、司会の向坂アナウンサーから、「千代の富士に国民栄誉賞」のビッグニュースが発表された。
栃錦の春日野相談役は、元気に挨拶に立ち、「千代の山の上突っ張りで歯をがたがたにされた」懐かしい思い出を語り、出羽海親方が手締めをしたあと、陽気な法事になった。
二十九日、相撲界初の国民栄誉賞が首相官邸で、海部首相から千代の富士に贈られた。
そのあと両国国技館で、千代の富士は記者会見に臨み、相撲協会から贈られる大鵬、北の湖の両親方につぐ三番目の「一代年寄」辞退の意志を述べた。
一代年寄・千代の富士親方になれば、定年か死亡とともに、その名は永遠に消えてしまう。それでは、あまりにも淋しい。かつて双葉山が「双葉山は一代限り」と名言を遺し、一代年寄を辞退、時津風親方の名で第二の人生へ船出したと同じ道を、千代の富士は選択したのである。
それは、師匠九重親方の勧めであった。
いつかくる引退の暁、九重親方が別の年寄名跡を名乗り、そして千代の富士が九重親方を襲名する。千代の山―北の富士―千代の富士と、師匠から弟子へ、新興部屋から名門にのした九重三代目の後継者への布石。師弟間の爽やかなバトンタッチだ。
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十一月三日、春日野相談役危篤のニュースが流れた。九州場所を前に福岡の宿舎で脳梗塞の発作に襲われ、近くの白十字病院から福岡大学病院に転院。驚異の生命力で、意識不明のまま闘病状態がつづいた。
九州場所の優勝は十四勝一敗の張出大関小錦の初優勝。昭和四十七年名古屋場所の高見山以来、十七年ぶりの外人力士による優勝。
二百二十二キロの小錦が泣き、ブッシュ米国大統領の祝電も表彰式で披露された。
千代の富士は十三勝二敗。十三日目、これまで十八勝五敗の小錦に完敗だった。
平成二年がきた。
初場所四日目の一月十日午前七時二十分、春日野相談役、死去。肺炎による臨終。六十四歳。昭和とともに年齢を刻んだ名横綱栃錦の死は「昭和への殉死」の感があった。「おれだって三十五歳まで取ったんだから、まだまだやれる」と前理事長じきじきの励ましを語る千代の富士の顔に、一筋の涙が流れた。
初場所は千代の富士にとって、春日野相談役の弔い合戦になった。十三日目、十三戦全勝でV30を達成。しかし十四日目、小錦に完敗。双葉山、大鵬にならぶ八度目の全勝優勝のチャンスを逃がした。
春場所七日目、念願の通算勝ち星一千勝を樹立。四十五年九州場所、序ノ口の十五歳から、十九年四カ月かかって達成した前人未到の大記録である。
しかし一千勝の大仕事を終え、心の張りが切れたのか、あとは負け込んだ。
夏場所も、名古屋場所も、逆転優勝の絶好のチャンスを前に自滅した。行く手に立ち塞がったのは三十歳の旭富士だった。二連覇を遂げ、名古屋場所後に平成初の横綱にのぼった。
八月二日夕、夏巡業中の千代の富士が左足太|股《もも》の肉離れのため、秋田空港から羽田に着き、池之端・金井整形外科に急ぐニュースが流れた。全治三、四週間の診断だ。三十五歳で、はじめて経験する肉離れである。
「千代の富士、引退近し」の記事が|溢《あふ》れた。
秋場所、全休した。
九州場所、甦った。気魄の全勝街道をつづけ、九日目に幕内通算勝ち星を八百勝の大台にのせ、史上一位の北の湖に「あと四勝」と迫った。十三日目、大関霧島に吊り出されて全勝に痛恨の土がつき、史上一位に「待った」がかかった。
十四日目、旭富士を破りV31とともに、北の湖と並ぶ史上一位の幕内勝利八百四勝を達成。大先輩が樹てた大記録をまた塗り変える不死身ぶりだ。しかし千秋楽、横綱同士の一戦、大乃国に敗れ、幕内勝利単独一位の夢は越年した。
三十五歳五カ月でV31を遂げ、不滅の大鵬V32を越えるのも新年の夢になった。
平成三年がきた。
「明けまして八百五勝」――初場所は千代の富士幕内勝利単独一位の白星で開けた。
二日目、逆鉾戦に勝ちながら怪我に襲われた。左腕の上腕部筋肉の断裂。肉体の衰えは明らかだった。奇蹟を呼んできた左の強靭な筋肉が、ついに切れたのだ。
三日目から休場に追い込まれた。春場所も全休である。
春場所、「貴花田旋風」が起きていた。
東前頭十三枚目の貴花田、ただ一人、全勝街道を進む。入幕四場所目、十八歳七カ月の新人がとうとう先頭を切って勝ち越し。後半戦に三役陣に挑み十一連勝の快挙だ。
そろって幕内の兄若花田の相撲もしぶとい。“土俵の鬼”若乃花を伯父にもち、“角界のプリンス”貴ノ花を父にもつ“サラブレッド”二人。「若貴」兄弟をつぐ新時代の「若貴」兄弟の土俵が、俄然、面白くなってきた。
「どっちとでもいい。早く取りたい。早くあがってこい」と、二人が入幕以来、千代の富士はいってきた。その二人が千代の富士休場中に大活躍を遂げ、夏場所に弟貴花田は西前頭筆頭にまでのぼってきた。兄若花田も東前頭七枚目にいる。
夏場所、千代の富士は二場所連休明けで、土俵に戻ってきた。
初日、千代の富士―貴花田戦を迎え、日本中が沸きあがった。角界第一人者と十八歳の“サラブレッド”――新時代の夜明けを告げる新旧の対決である。
貴ノ花去って十年。貴ノ花引退のあと大関にのぼり、横綱に駆けあがった。そして苦しみの土俵を戦いぬき、栄光の十年に変えて、いまその息子と戦う時を迎えた。
貴ノ花―千代の富士戦は、千代の富士の六勝四敗だった。二十三歳で再入幕した昭和五十三年夏場所十三日目、初挑戦で大関貴ノ花に勝った。あの勝利が、やがて最強の力士「ウルフ」を生みだす一勝になった。そして五十五年九州場所三日目、最後の一戦も千代の富士の勝ちだった。
歴史はまわる。父から子へとまわる。
貴花田の若い力が躍動した。
千代の富士は敗れた。
貴花田十八歳九カ月、金星獲得の最年少記録。三十二年前――昭和三十四年初場所初日、横綱千代の山が若秩父に敗れて、十九歳九カ月の金星最年少記録が|樹《た》てられた。そしてその場所五日目限り、三十二歳の千代の山は引退した。千代の山―千代の富士師弟のあとに、最年少金星が残る。
ついにその時がきた。
三日目、新興藤島部屋の新小結貴闘力のとったりによる黒星が、最強の力士「ウルフ」千代の富士の最後の一番になった。
その夜――平成三年五月十四日、引退を声明した。三十五歳十一カ月。
通算勝ち星千四十五勝、幕内勝ち星八百七勝の史上一位記録が残った。その戦いの記録とは別に、昭和六十年初場所から六十二年秋場所まで連続十七場所、東の正横綱を全うした「不死身の記録」が空前絶後である。双葉山も大鵬も北の湖も、それほど不死身ではなかった。
千代の富士が貴ノ花の置き土産だったように、貴花田が千代の富士の置き土産になった。
平成四年四月一日、北の富士・千代の富士の師弟間で九重・陣幕の年寄名跡が交換された。千代の富士は九重親方となり、ついに九重部屋を継承したのである。
師匠は陣幕親方になり、心機一転、下の名の勝昭も純樹に改めた。陣幕純樹――その二字に九重部屋を千代の富士にバトンタッチして完成する大事業に生き抜いた男の誇りと喜びがある。
五月八日、夏場所を二日後に控え、横綱北勝海が引退した。千代の富士につられて燃え、優勝八回。千代の富士引退後は、膝の怪我に悩み、体力気力ともになくしての二十八歳十カ月だった。
このとき横綱がいなくなった。
千代の富士の引退から、大乃国、旭富士、北勝海と一年の間に四人の横綱が全部引退してしまった。昭和六年夏場所から七年十月場所までつづいた横綱不在以来、六十年ぶりに「横綱なし」の時代がきた。
こうして「千代の富士」時代は終わった。
[#地付き]〈了〉
この作品は「千代の富士貢 天下盗り狼」(徳間文庫・1983年刊)に大幅に加筆したものです。
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文春ウェブ文庫版
千代の富士一代
二〇〇〇年九月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 石井代蔵
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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