里見八犬伝 巻三

目次

第五巻 忠・快刀乱麻の巻
第七十八回 二犬士とらわる……小文吾・荘助の首実検
第七十九回 二人の乞食……義臣稲戸由光(いなのとよしみつ)
第八十回 八人めの犬士……犬坂毛野胤智(いぬさかけのたねとも)
第八十一回 にせ首のしまつ…荻野井三郎の報告
第八十二回 のこされた詩歌……大角の失敗
第八十三回 ちぎれた片袖……大角と現八のぬれぎぬ
第八十四回 二人組の盗賊……郷士氷垣残三(ひがきざんぞう)
第八十五回 郷士のもてなし……四犬士のつどい
第八十六回 なぞの法師……丶大のはからい
第八十七回 真猯穴……妖賊鵞ぜん坊の一味
第八十八回 若き居合師……蟹目上(かなめのうえ)のサル
第八十九回 居合師の正体……河鯉守如(かわこいもりゆき)の密命
第九十回 浜辺の辻君……毒婦船虫のさいご
第九十一回 仇討ち……縁連(よりつら)襲撃
第九十二回 三方の敵……定正の怒り
第九十三回 忠臣はてる……守如(もりゆき)自決
第九十四回 扇谷(おうぎがやつ)落城……信乃の諭書(さとしぶみ)
第九十五回 さらし首……道節の追書
第九十六回 林原(しもとはら)の庵主(あんしゅ)……七犬士出立
第九十七回 里見第二世……御曹司義成
第九十八回 胆吹(いぶき)の山賊……若頭領素藤(わかがしらもとふじ)
第九十九回 疫鬼と木精……素藤の城取り
第百回 なぞの尼僧……八百比丘尼の法術
第百一回 クスノキの《うろ》…はかられた義通
第百二回 逆賊征伐……義通出陣
第百三回 難攻館山城……親兵衛登場
第百四回 四人のくせもの……神女にそだてられた親兵衛
第百五回 神助霊験(しんじょれいげん)……そのごの姥雪(おばゆき)一家
第百六回 出陣……駿馬青海波(せいかいは)

第六巻 信・化竜昇天の巻
第百七回 霊光……素藤降参
第百八回 勝ちいくさ……信昭謀反
第百九回 女の幽霊……浜路姫の病い
第百十回 宿直のぬれぎぬ……浜路姫の艶書
第百十一回 法術雲の架橋……素藤再挙
第百十二回 人質交換……素藤討伐軍
第百十三回 消えた霊玉……義成の扇子
第百十四回 妖術と霊験……浜路姫もどる
第百十五回 救いの行列……孝徳刑場へ
第百十六回 茶店の老婆……政木(まさき)ギツネ
第百十七回 化竜昇天……妙椿(みょうちん)ダヌキ
第百十八回 相撲商売……めぐりあう親兵衛
第百十九回 船宿の語らい……孝嗣改名
第百二十回 釈明……親兵衛らの出航
第百二十一回 妖尼のさいご……ふたたび素藤をとらえる
第百二十二回 恩賞と刑罰
第百二十三回 一夜の供養塔……七犬士集結
第百二十四回 大法会……丶大の宿願
第百二十五回 ねたみ坊主…逸匹寺(いっぴきじ)徳用と三檀家
第百二十六回 悪僧の襲撃…むかえうつ犬士たち
第百二十七回 小団円……八犬士つどう
第百二十八回 石地蔵になった法師……未得(みとく)老師の話
第百二十九回 地蔵の因縁……浄西(じょうさい)・影西(えいさい)の徳
第百三十回  千住川のわかれ…氷垣残三の病い
第百三十一回 安房集結……丶大の子どもたち
第百三十二回 京都へ……代四郎(よしろう)密航
第百三十三回 苛子崎(いらこざき)の海賊……代四郎助太刀

第五巻 忠・快刀乱麻の巻

第七十八回 二犬士とらわる……小文吾・荘助の首実検

荘助・小文吾の二犬士は、功がありながら賞をうけることなく、稲戸津衛(いなのとつもり)にはかられて、からめとられた。
「きたないぞ、執事(しつじ)由充(よしみつ)。われらに罪があるなら、まず詮議(せんぎ)すべきではないか。おおぜいで、手ごめにするとは、卑怯ではないか。そのわけをきこう」と二犬士はさけぶ。うらみの眼光がするどい。
と、津衛由充はかたちをあらため、うやうやしく二犬士にむかい、
「事情をまだもうしあげていないので、お怒りはごもっともです。これは、わたしの本意ではありません。主君景春(かげはる)のおん母君、箙(えびら)どののおさしずです」と、そのわけをかたる。
長尾景春には、母をおなじくする二人の妹がいる。第一の妹は、武蔵国豊島郡大塚の大石左衛門尉憲儀(おおいしさえもんのじょうのりかた)(兵衛尉(ひょうえのじょう)憲重の子)の妻となり、大塚どのとよばれるようになった。長尾・白石・大石・小幡(こはた)は管領憲実(のりざね)以来の四家老で、権勢があった。つぎの妹のほうは、おなじ豊島郡石浜の城主千葉自胤(よりたね)の内室で、橋場(はしば)どのとよばれた。山内・扇谷両管領が不和になってから、大石・千葉両家も長尾家のみかたとなった。
五年まえ、荘助らが大塚で刑場をさわがせ、大石の家臣、軍手五倍二(ぬるでごばいじ)・簸上社平(ひかみしゃへい)・卒川菴八(いさかわいおはち)などをうった。また、陣代丁田町進(じんだいよぼろだまちのしん)もうたれた。これを箙の大刀自(おおとじ)は承知している。またその翌年、石浜の城内で旦開野(あさけの)という《にせ》少女(じつは犬坂毛野)に、千葉の家臣馬加大記(まくわりだいき)、その子鞍弥吾(くらやご)、そのほかがうたれたとき、犬田小文吾がそれをたすけて、ともに逐電(ちくでん)したことも、箙(えびら)はききおよんでいるという。
で、箙は、このたび山賊をとらえた二犬士が小文吾・荘助とわかり、とらえることを命じた。
そのとき、稲戸津衛は箙をいさめ、大塚の一件は無実の荘助を犬塚らがすくったのであり、旦開野は父、粟飯原胤度(あいはらたねのり)らの仇馬加一家をうったのだ、といったが、ききわけてもらえなかった、とも稲戸津衛がなげいた。
「主君景春は、おん母君に大孝行ですので、いまさら、みなさんがたをたすけよ、とも申しませんでしょう。それで、みなさんがたをすくう手だてはありません。これまでの命運とあきらめてください」と由充はむすんだ。理のとおった老臣のことばに、二犬士はうらみもとけ、嘆息するだけだ。
荘助は小文吾に、
「執事の忠義、理義明瞭(りぎめいりょう)、かんじるになおあまりあります。武士は、おのれを知るもののためにこそ死ぬべきです。こうなれば、あとは死をまつだけです」という。小文吾も、
「いまさらうらむべきことはない。はやく首をはねたまえ」と由充にいった。由充は、
「しばらくその身を獄(ごく)にとどめる。かさねての沙汰(さた)がありましょう」といい、家来にきびしくまもるよう命じた。
翌朝、稲戸津衛由充は出仕し、箙(えびら)の大刀自(おおとじ)に、ゆうべ二犬士をとらえ、獄舎(ひとや)につないでおいた、と言上した。箙はよろこび、満足した。
五月がすぎ、土用にはいった。女婿(むこ)たちから、暑中見舞の使者がつかわされてきた。大塚の大石からは丁田町進の舎弟(おとうと)畔五郎豊実(くろごろうとよざね)、また石浜の千葉からは馬加大記常武の妻戸牧(とまき)の甥、馬加蝿六郎郷武(はえろくろうさとたけ)である。
箙は、とらえてある犬川荘助・犬田小文吾の首実検をせよ、といった。二犬士の首箱がはこばれてきた。二人に見おぼえがあるという豊実・郷武は、それぞれ二犬士の首であると断定した。さらに、小篠(おざさ)・落葉(おちば)の短刀がそえられてあるので、荘助がぬすんだということにされた。小文吾の両刀も、大塚でうたれた簸上社平の太刀である、とした。二人の首とともに、太刀も使者らにわたされた。
豊実・郷武は、首と太刀をみやげとして帰国することになった。その一行とともに、由充の腹心、荻野井(おぎのい)三郎も二使の副使としてくわわることになる。

第七十九回 二人の乞食……義臣稲戸由光(いなのとよしみつ)

石亀屋次団吾(いしがめやじだんご)は、小文吾・荘助が片貝(かたがい)にまねかれ、餐応(きょうおう)・賞禄をうけたろう、としんじていた。一日、二日たつと、二犬士はその夜とらえられた、との風聞を耳にした。で、片貝に人をやり、さぐらせると、投獄されたのみならず、箙(えびら)のさしずで首をはねられ、大塚の大石、石浜の千葉の使者のみやげとしておくられ、その一行はきのう帰途についた、という。
次団太・土丈二(どじょうじ)・鮒三(ふなぞう)らもみなおどろき、なげいた。そして、思案をめぐらせた。
大石・千葉両家の二使者と副使、荻野井三郎らが出立した夜、稲戸津衛由充(いなのとつもりよしみつ)は、妻子らがねむったあと、一人仏間にこもり、夜がふけるまで看経(かんきん)していた。この仏間の下壇には、方一間(けん)の板の間がある。その下は土蔵(つちくら)で、深さが六尺ばかりある。ここは、火災などがおこったとき仏具をおさめるところで、ふだんはあけない。妻子のほかに、これを知るものはすくない。
由充は、丑(うし)三つの刻(午前二時)ごろになると、板をおしあけ框(かまち)をほとほととたたいた。土蔵からはしごをつたって、犬川荘助義任・犬田小文吾悌順が姿を見せた。はじめから、由充は二犬士の人柄をみとめ、大塚・石浜の件も無罪としんじていた。
で、由充は酒顛二(しゅてんじ)の手下溷六(どぶろく)・穴八(あなはち)が、小文吾・荘助と似ていることから、これを二犬士にしたてた。豊実・郷武による首実検のおり、二犬士の刀もそえた。荘助が所持していたのは小篠・落葉の名刀、小文吾は簸上社平(ひかみしゃへい)の刀を所持していた。由充は、なぜ荘助が小篠・落葉を所持しているのか、ときいた。荘助は、
「わたしの両刀は、亡父犬川衛士則任(いぬかわえじのりとう)の形見です。父は堀越御所に出仕していたおり、諌書(いさめしょ)をたてまつり、そのとがめで自害しました」といい、さらにつづけた。
犬川家の家財と職官も没収された。両刀もそうだ。その堀越御所も滅亡し、刀も人手にわたっていった。それを荘助は、あとで母からきいた。母とともに武蔵におもむき、そこで母は病死し、荘助は大塚の蟇六(ひきろく)の下男となった。そのご、蟇六夫婦の仇、簸上宮六(ひかみきゅうろく)をうったことで投獄されたが、それを犬田ら犬士たちが救出した。そのおり、荘助は刀をもっていなかったので、犬塚信乃戌孝(もりたか)がゆずってくれた。その両刀は父の形見で、寸尺(すんしゃく)・表装(こしらえ)・家の紋・切っ先の疵(きず)まで、かねてからきいていた刀とちがわないので、それから五年、一日もおびないことはない。
小文吾がここで口をはさみ、
「六、七年まえのころ、わたしがふるさとで十五金でかいもとめたものです。のちに犬塚さんにおくり、それが犬川さんの手にわたりました」といった。ここで、もとの持ち主にかえったことになる。
由充は、よくわかったといい、
「犬川さんの両刀は、証拠のため持参していってしまいました。おしまれるでしょうが、いのちのかわりとあきらめてください。犬田さんの刀は、脇差(わきざし)だけがかえされました」という。さらに、
「ここに三刀(みかたな)があります。これを所持され、ひそかに出立してください。また路銀として、黄金十両を用意しました」といった。また由充は、別離の宴(うたげ)として、ささやかな酒席を仏間にもうけた。
木戸を出ると、夜はあけはじめた。荘助・小文吾は、
「稲戸執事のはからいで、二人の首はつながれたが、武士たるものが両刀をうばわれては、死よりも恥辱(ちじょく)だ。丁田豊実・馬加郷武は、きのうの朝片貝を立ち去ったという。ただ一夜おくれただけなので、いそいでいけば途中であえる。いくさきは信濃路だ」とひたすら走った。その日は大道(三十六町で一里)十五、六里をとぶようにいった。
ここは、信濃路の諏訪湖(すわこ)のほとりだ。その道ばたに、二人の乞食(こじき)がいた。一人は四十ばかりで鎌倉いざりという。また一人は少年で相模小僧(さがみこぞう)という。二人は、旅人や諏訪の社(やしろ)にまいる人に、袖をこうていた。
丁田豊実・馬加郷武と長尾家の荻野井三郎らも、信濃路にさしかかった。豊実・郷武はねたみが深く小人で、恩賞ほしさに、荻野井がいっしょではうまくない、としめしあわせた。なんとか荻野井をまいて、よりさきに生家にかえろうというのである。
で、荻野井とはおなじ旅篭(はたご)にはとまらず、出立をおそくし、日が暮れなければ旅篭にはいらなかった。
荻野井は、それをいぶかり、
「暑い日なので、朝涼しいうちに出立し、昼は従者(ともびと)を休息させたらどうか」といった。豊実は、
「このたびの旅は尋常(つね)の旅ではない。首級・刃(やいば)をねらい、うばおうとするものがあるだろう。早朝出立するのは、盗人に糧(かて)をもたらし、仇(あだ)に刃をかすようなものだ」とあざわらう。荻野井は、
「それならなぜ、日が暮れてから、旅篭にはいるのか?」というと、郷武は、
「夜明けは、道ゆく人がないからあぶない。夜は四つ(午後十時)ごろまで、村人はねむらず、往来する人もいるからあぶなくない」という。荻野井は沈黙し、東使(とうし)の豊実・郷武のさそいをまった。
信濃の岡田に宿をとったときのことだ。その翌朝、豊実・郷武は、いつもとは逆に、従者とともに明け方に宿を出立した。近道、近道、といそいだ。この日のうちに下諏訪についた。
暁(あかつき)に出てきたのを、荻野井は知るまい。さらに道をいそげば、あいつは一宿(ひとやど)はおくれるだろう。それにしてもつかれた。湖水のほとりで汗をぬぐい、風をいれるのもよかろう」と、二人はさそいながらいった。
湖水に面して、堤に茶屋があった。日よけのよしずをめぐらし、うちにも外にも床几(しょうぎ)があるだけだ。茶屋のものは、昼飯をたべに宿所にかえったのかもしれぬ。豊実・郷武は、床几に尻をかけて湖水をながめていた。従者でおくれずついてきたのは、馬加の若党と二領の鎧櫃(よろいびつ)をになった二人だけだ。このものが茶をくみ、主人豊実・郷武にすすめた。郷武は、
丁田(よぼろだ)さん、この名刀をどうおもうかね。《小篠(おざさ)》はふちに雪篠(ゆきざさ)があり、《落葉》の刀は人をきるとき、あたりの木の葉が自然にちるそうだ。その真偽をためしてみたいものだ」といった。豊実もうなずき、
「つたえきく《村雨》の刀のように、刃に鮮血をそめるとき、木の葉がちるなら、いよいよ名刀だ。このあたりは夏木だちで、ここに老いたシイの木もある。ためしてみたいものだ。ごらんなさい、馬加さん。あそこの小屋に、乞食がねている。あいつは、これまでしてきた積悪のむくいで家を追われ、世にすてられたものだ。はやくこの世に暇(いとま)をとらせるのも、功徳(くどく)ではないか」という。郷武は手をかざして、
「足がわるいらしいが、骨はたくましく、肉もこえている。あいつをひきだせ」と従者に命じた。従者らは小屋をおしたおし、鎌倉いざりの襟髪(えりがみ)をつかみ、ひきおこし、
「やい。だんなのご用だ、はやく出ろ」という。
もどってきた相模小僧は、シイの木かげでそっと見ていた。鎌倉いざりは、肝(きも)をつぶし、
「どのようなご用か知りませんが、てまえはわるいことをしたことはございません。足がわるいので、一歩もあるけません。ゆるしてください」とさけぶ。
従者二人は左右から手をとり、宙につるしてはこび、茶店の前でおろした。
郷武は、刀の緒(お)をといてたすきにし、野袴(のばかま)のもとだちをとり、落葉の刀をもち、豊実とともに床几をたった。鎌倉いざりはすでに魂がぬけ、へたばっていた。

第八十回 八人めの犬士……犬坂毛野胤智(いぬさかけのたねとも)

若党どもは、鎌倉いざりがうごけぬように、左右から手と襟首(えりくび)をつかんだ。郷武は、
「やい、乞食。名刀落葉(おちば)で首をはねてやる。これは武士の情(なさけ)、覚悟して合掌しろ」と声高らかにいう。
豊実も、「いざりよ、おまえは果報(かほう)ものだ。おまえが殺され、樹木の葉が落ちるなら、法師をよび経文をあげてやる。それをよろこばず、いのちをおしむおろかもの、まよいをさませ」と勝手なことをいった。
郷武が落葉をぬいた。刃の光に、鎌倉いざりは、あっとさけび、杖(つえ)をつきたてて逃げようとする。郷武は、その背のまんなかに一刀をあびせた。鮮血があふれた。だが、シイのこずえの葉はちっともちらない。
「旅のうさばらしとおもえばいい」といって、若党に刃に水をかけさせてきよめようとした。
そのとき、かくれていた相模小僧がとびだし、若党の襟首をつかんでなげた。そして、郷武の刀をにぎっている右手をつかんだ。大胆なふるまいに、郷武・豊実はあきれた。相模小僧は、腰から手ぬぐいを左手にとって、刃をぬぐった。その刃をみて、
「これは、父上がうたれたときに紛失した小篠・落葉だ。所持しているのは馬加(まくわり)とか、いま聞いた。篭山(こみやま)縁連(よりつら)のゆかりのものでなく、逆臣大記常武(だいきつねたけ)の親族だな。つれの悪友は丁田(よぼろだ)か。助太刀するのもいい。小篠・落葉をわたして、ともに太刀をうけよ」という。
相模小僧は、ほかならぬ犬士の一人、犬坂毛野胤智(いぬさかけのたねとも)だ。郷武が、
「こいつはすぐる年、女田楽(おんなでんがく)にばけて、おれの先代の親子従類をうちはたして逃げた犬坂毛野だな。さきに、おまえとともに石浜の城を逃亡した犬田小文吾悌順は、片貝(かたがい)で犬川荘助とともに首をはねられた。いま、その首級とこの両刀を、片貝どのからちょうだいしてきたところだ」と、つかまえられた腕をふりきり、きろうと刃をひらめかした。豊実も身がまえた。
毛野は、すこしもさわがず、郷武の刃の下を飛鳥(ひちょう)のようにかいくぐり、刀をもぎとってきった。郷武の首は地におち、むくろはたおれた。若党の一人もきられた。豊実も、小鬢(こびん)をきられて逃げだした。毛野がおうと、もう一人の若党がきりかかってきた。毛野は刀をたたきおとした。若党も深手をおい、逃げ去った。
このようなところに、馬加・丁田の両東使(とうし)のあとを追ってきた荘助・小文吾がさしかかった。乞食姿の少年が血刀をさげているのを、荘助が見た。荘助は、木かげにかくれた。
毛野は、豊実を追うのをあきらめ、単衣(ひとえ)の裾(すそ)をおりかえして、刃の鮮血をぬぐい、おちている鞘(さや)をひろっておさめた。小篠もしかばねからとり、腰にさした。そこへ荘助が走りより、毛野の刀のこじりをにぎった。それから毛野と荘助は、刃をたたかわせた。二竜が雲間にたたかうとき、雨が金鱗(きんりん)をぬらすように、両虎が深谷(みたに)にあらそうとき、風が黄毛(こうもう)をふくのに似て、たがいに一分(いちぶ)のすきもない。
草鞋(わらじ)をはきかえていて、おくれてきた小文吾は、荘助と刃をまじえている乞食姿の少年が犬坂毛野と知り、おどろいて、
「まて、犬川さん。犬坂さんも、まってくれ」とさけんだ。だが、二人は、小文吾の声が耳にはいらない。小文吾は茶屋のかたわらの長いしきり石をぬき、きりむすんでいる二人の刃の上にのせた。やっと、斬(き)り合いはとどまった。毛野は、
「たえてひさしい小文吾さん。仇とたたかっているのに、なぜとめる!」という。小文吾は微笑して、
「隅田川のほとりでいそぎわかれたので、つげることができなかったが、この人は、異姓の兄弟、犬川荘助義任(よしとう)という勇士だ。まあ、刀をおさめよ」といい、荘助には「犬川さん。すでに話をした犬坂毛野さんだ」といった。
毛野・荘助があらためて紹介された。毛野は、小篠・落葉の両刀は千葉家の重宝で、父が滸我(古河)の御所(成氏)に献じるため、使者となって、その途中で横死し、うばわれた、といった。小文吾は、
「その両刀は、犬川さんのなき親の形見だったが、人手にわたり、やがて千葉家のものとなったらしい。それはともかくとして、犬坂さんにたずねたいことがあるのです」と裳裾(もすそ)をかかげ、左の股(また)を見せ、犬坂のからだに、このようなボタンに似た痣(あざ)があるか、自然に文字のあらわれる珠(たま)を所持しているか、ときいた。
毛野はおどろき、袖をまきあげて、右ひじの痣をしめした。また智(ち)の文字のある珠を所持しているという。荘助は、小文吾の所持する珠に悌(てい)の文字、自分の所持する珠に義(ぎ)の文字がある、とつげた。
毛野は、無礼をわび、小篠・落葉を荘助にわたした。そして、三人はつれだって湖のほとりを去り、甲斐路(かいじ)の青柳(あおやぎ)の宿(しゅく)にいそいだ。
いっぽう、豊実・郷武におきざりにされた荻野井(おぎのい)三郎は諏訪湖の近くまでたどりついた。そこで、深手をおった郷武の若党似児介(にこすけ)にであった。事件のあったことをきき、荻野井はいそいで茶屋のそばの現場にかけつけた。すでに地元の役人、諏訪の神社の家臣、深沢の村長(むらおさ)、下諏訪の宿長(しゅくおさ)などがあつまり、詮議(せんぎ)していた。
茶屋の主人が留守をしているときの事件で、証人はだれもいない。荻野井がやってきて、似児介の口上をつたえると、人びとはうなずき、そのまましんじた。

第八十一回 にせ首のしまつ…荻野井(おぎのい)三郎の報告

荻野井三郎は、茶店で諏訪(すわ)の神官の家臣に名をつげて、いった。
「わたしは、主君から両東使(りょうとうし)につけられた副使ですが、けさ出立がおくれてしまいました。しばらくこの地に逗留(とうりゅう)して、越後と武蔵に人をはしらせ、主君ならびに千葉・大石家へ、この凶変をつげ、進退は下知(げち)をまつことにします。炎暑(えんしょ)のころなので、東使主従のなきがらは、棺(ひつぎ)におさめて寺にあずけておきましょう」といった。
人びとは、乞食少年一人に主]がころされたのは意外だ、といった。そこに似児介(にこすけ)がつれられてきて、乞食少年はにせ女田楽(おんなでんがく)を演じた犬坂毛野らしい、という。
荻野井は、くせものが判明したといい、郷武・豊実の両刀と鎧櫃(よろいびつ)を若党にもたせ、旅篭におもむいた。
夏の日は暮れた。
十日ほどして、大塚・石浜の両城から士卒十余人が到着し、荻野井と対面し、
「豊実・郷武のなきがらはこの地にほうむり、太刀そのほかをもち、武蔵にかえる」という。
荻野井は、箙(えびら)の大刀自(おおとじ)から豊実らにみやげとしてあたえた二犬士の首級、小篠(おざさ)・落葉の名刀、小文吾の刀のことなどをはなし、
「いまそれらを各位にわたしてよいものか? すでに片貝(かたがい)に注進したので、それまでまってほしい」といった。大石・千葉の士卒らは、棺の安置された寺をたずねた。だが、なきがらは腐乱して臭気がつよいので、見ることもなく、銀を布施して旅篭にもどった。
ほどなく、片貝に使いした荻野井の従者とともに、執事由充(よしみつ)の飛脚が、箙の大刀自の下知状をもちかえった。それの文意は、荘助・小文吾の首級、小篠・落葉の両刀を、荻野井がそのまま武蔵に持参し、大石・千葉におくるべし、という。
で、両家の士卒とともに、荻野井は武蔵にむかった。
だが、荘助・小文吾のにせ二犬士の首級も、二十日をへているので腐乱していた。
七月のはじめ、荻野井は、武蔵国豊島郡大塚の城についた。仁田山晋吾(にたやましんご)が出むかえた。荻野井は、犬川荘助の首のこと、犬田小文吾の刀のことをのべ、さらに、首級は腐乱しているが、主命により持参した、と一個の小瓶(こがめ)と腰刀をわたした。
それから荻野井は、大塚から石浜の千葉の城におもむいた。ここでは家臣猿島連(さしまのむらじ)に対面し、一個の小瓶と両刀をとりだした。のち、荻野井は千葉自胤(よりたね)に見参(げんざん)した。自胤は箙の大刀自の安否をたずねたあと、腐乱している首は実検するまでもなく、刀は紛失した小篠・落葉ではないので返却する、といった。
猿島連の、執事由充あての書状をうけ、荻野井は、ふたたび大塚におもむいた。城主、大石兵衛尉憲重(ひょうえのじょうのりしげ)は留守だったので、かわりに子息憲儀(のりかた)が仁田山晋吾を通じて、首は腐乱しているし、刀も、簸上社平(ひかみしゃへい)の刀ではない、とつたえさせ、刀を返却した。それには、憲儀自筆の由充あての書状もそえた。
荻野井三郎は、従者と、いそいで越後の片貝にかえり、執事稲戸由充(いなのとよしみつ)に、郷武・豊実の横死のしまつ、石浜・大塚の返報を詳紬に報告し、さらに大石憲儀、千葉家の老臣猿島連(さしまのむらじ)の書状、返却された三振(みふり)の刀をわたした。
この刀は、由充が荘助・小文吾にあたえた刀である。それがどうして手もとにかえったのか、由充にもわからない。由充は箙(えびら)の大刀自(おおとじ)に見参し、荻野井三郎帰着のこと、石浜・大塚から刀が返却されたこと、千葉自胤・大石憲儀の返答をしかじかと言上した。
簸の大刀自は首をかしげ、
「首級は腐乱しているので、鑑定はむずかしいだろうが、刀まで相違し、返却されるとは意外なことよ。馬加郷武は落葉の刀をためそうと乞食をきったおろかもの、豊実とておなじこと。あとから出てきた少年は、犬坂毛野であろうが、石浜でその詮議(せんぎ)はなかったか」ととうた。稲戸由充は、
「石浜・大塚でも、郷武・豊実の横死のことは、ともに本人の不覚の罪ともうしております。乞食少年が犬坂毛野としても、戦国の世ですので信濃・北陸・南海とくまなくたずねなければなりません。昨今のうわさでは、さきに首をはねました犬川・犬田の両犬士は、まことの荘助・小文吾でなく、武者修業のものが、人の名をぬすんで渡世(とせい)していたものであろうということです。それゆえ、三振の刀がちがっているものとおもわれます」と、まことしやかにいう。大刀自も、
「それなら、刀だけでなく荘助も小文吾もにせものであったか。このことは白井どの(景春)にはふせておくように」と後悔の色をみせていった。
宿所にさがった由充は、一人つぶやく。
「かえされた三振の刀は、おれが荘助と小文吾におくった刀だ。それが、いつのまにか二犬士がそれぞれの刀をもっていってしまった。郷武らがうたれたとき、二犬士が偶然にいきあわせ、ひそかに刀をとりかえたものか。さきに二犬士とわかれるとき、われわれの両刀がふたたび手にはいることがあるなら、この刀は返却しますといわれた。その言(げん)と行いがたがわず、ここでかえされた。ああ、奇なるかな。それにしても二犬士には、神のたすけがあるのか」

犬坂毛野・犬川荘助・犬田小文吾の三犬士は甲斐路(かいじ)の青柳(あおやぎ)の宿(しゅく)についた。旅篭に宿をとり、湯浴(ゆあみ)と夕膳もすませた。小文吾は毛野に、隅田川でわかれてからのことをかたった。さらに、
「犬坂さんは、あのあとどこにいかれたのです。信濃路を流浪されていたのは、路銀がつきたからですか」ととうた。毛野は首をふり、
「路銀はおおくはないが、そのためではないのです。乞食の姿をしたのは、石浜の追捕(ついぶ)をのがれて、親の仇の縁連(よりつら)の所在をたずねるためです……」とかたりつづける。
小文吾とわかれてから、毛野は羽田の浦に舟をすて、ふるさとの相模(さがみ)の犬坂村におもむき、願成院(がんじょういん)をたずねた。住持が毛野の母の叔父(おじ)で、そこに三年いた。
住持は去年の十一月になくなったので、中陰がすむと寺を去った。木曽路から諏訪あたりに野宿をかさねた。諏訪のほとりに篭山(こみやま)という村があるときき、篭山逸東太縁連(いっとうたよりつら)とゆかりがあるのかとおもってきてみた。そこで二犬士にあった、というのだ。
毛野は、八犬士についてきいた。荘助は、信乃・道節・現八・親兵衛のことをはなし、ほかの一犬士のことはわからない、という。
ふけゆく鐘がなる。だが、三犬士は額(ひたい)をあつめてかたりつづけた。

第八十二回 のこされた詩歌(しいか)……大角の失敗

小文吾の話はつづく。
それぞれが所持する珠(たま)は、里見治部大輔義実(じぶのだゆうよしざね)の息女伏姫(ふせひめ)の臨終(りんじゅう)のおり、首にかけた水晶の数珠のうち八個が光をはなちながら天空にとび、ゆくえ知れずとなったものだ。その数珠は、伏姫が幼いころ役行者(えんのぎょうじゃ)からあたえられたもので、八つの大珠には仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)・忠(ちゅう)・信(しん)・孝(こう)・悌(てい)の八文字があった。これは、丶大法師(ちゅだいほうし)からきいたことだ。伏姫が自害したのは、長禄二年(一四五八年)の秋で、ことしは文明十四年(一四八二年)夏、すでに二十四年をへている。
もと金碗大輔(かなまりだいすけ)こと、丶大(ちゅだい)は、その珠をもつ八犬士を、蜑崎照文(あまざきてるふみ)とともにたずね、旅をつづけている。犬士たちも、八犬士がそろってはじめて安房(あわ)にまいり、里見家に伺侯(しこう)しようとちかっていること、大八の親兵衛(しんべえ)が神隠(かみかく)しにあい、その安否もわからず、もう一人の犬士の消息の手がかりはない、といった。
荘助も、石禾(いさわ)の指月院(しげついん)で道節・丶大・蜑崎十一郎(じゅういちろう)照文とめぐりあったことなどをかたった。また、珠の出処はそれぞれことなることもいって、小文吾所持の珠とともに毛野に見せた。毛野は、二つの珠を手のひらにのせて、義・悌の文字に感嘆した。それから毛野自身も襟(えり)をさぐって、ひとつの珠をとりだした。それには智の文字があざやかにうき出ている。毛野は、
「わたしの母は側女(そばめ)で、わたしは父の遺腹(いふく)の子なのです。月がみちてもうまれず、三年のち粟飯原(あいはら)の家は断絶となり、母は相模(さがみ)の足柄の犬坂村にかくれすみました。ある夕方、外に出ますと、流れ星に似たひとつの光物(ひかりもの)が南のかたにきらめき、わたしの母のふところにはいりました……」
母が宿所にかえり、その珠を見ると、珠には智の文字があらわれ出ている。その珠は、針箱におさめた。その夜、母は毛野をうんだ。
それ以後、母は仇、馬加常武(まくわりつねたけ)の追捕(ついぶ)をのがれるため、毛野を女の子といってそだてた。復讐のこころざしをわすれることなく、毛野が十三歳になったとき、父の名をとり、胤智(たねとも)と名のらせた。これは珠の文字をあらわしたことになる。犬川・犬田もそうか、と毛野はきいた。荘助・小文吾はうなずき、それは三犬士だけではない、犬塚戌孝・犬山忠与・犬飼信道・犬江仁(いぬえまさし)も孝・忠・信・仁の珠をそれぞれ所持しているとこたえた。
毛野は、その奇なることに感嘆した。そして、
「わたしは馬加常武父子をうちましたが、まだ父を害した逸東太縁連(いっとうたよりつら)をうっていないので、こころはやすらかではないのです。これをさっしてください」となげく。小文吾はなぐさめ、金十両をとりだして、
「念願のある身には、路銀が必要でしょう。わたしどもは路銀にこまっていません。もちろん、これからは、かげがかたちにそうように、進退をともにし、すべてまかなうが、それでは不便でしょう。うけてください」という。毛野は、
「それは、ご心配くださいますな」とことわった。小文吾・荘助がさらにすすめたので、毛野はやむなくうけた。荘助は、
「甲斐の石禾(いさわ)の指月院には、丶大法師・犬山道節・蜑崎十一郎照文の三人がおります。これから、犬田さんといっしょにいこうとおもいます。犬坂さんもまいりませんか」とさそった。
毛野は、仇をうたないままでは対面をためらう、と辞退した。荘助・小文吾は、ここから石禾までは二十里にたらぬ道なので、と同行をかさねてすすめた。
毛野は、明朝まで思案するという。
それから三人は、ねむりについた。
つぎの朝、荘助・小文吾は、旅篭の女中におこされた。熟睡(じゅくすい)していたのだ。しかも毛野の姿はなく、五両づつみの砂金三つつみをのこしている。さらに、障子に詩歌(しいか)がしるされている。


凝成白露玉未全 凝(こ)り成(な)す白露(はくろ)の玉(たま)未(いまだ)全(まった)からず
環会流離侭自然 環会流離(かんかいりゅうり)自然(しぜん)に侭(まか)す
めぐりあう 甲斐ありとても 信濃路に
なおわかれゆく 山川の水


荘助は、これをよみ、
「犬田さんは、どうおもわれます。胤智は孝子です。異姓の同胞(はらから)が八人あることを知っても、なお復讐の念願をはたそうとして立ち去ったこころが、詩歌にあらわれていますね」という。小文吾も、
「わたしは文章にうといので、よく理解できないが、おくった金をどうしてもっていかなかったのだろう」とつぶやく。荘助は、
「犬田さん、金をのこしたのもわけがあるのです。犬坂さんとわれわれとが、義をむすび異姓の兄弟だといっても、金だけをうけて石禾(いさわ)いきに同行しないのでは、ただとるようで潔しとしない。そうかといって金をかえせば、義をやぶるうらみがある。そこでおくった金はおさめ、贈答の礼として砂金三つつみをのこしたのです。知恵のすぐれた人です」とこたえた。
二人は朝食の箸をとり、出立(しゅったつ)のおり、障子の文字を手ぬぐいではらうと文字はあとかたもなく消えた。荘助と小文吾は甲斐の指月院をさして道をいそいだ。だが、犬山道節がすでに立ち去っていることを知らない。

犬村大角礼儀(まさのり)は、文明十三年に、犬飼現八信道とともに、ほかの犬士をたずねようと鎌倉におもむいた。旅篭で月日をかさねたが徒労におわり、箱根山をこえ、伊豆・駿河(するが)、さらに遠州(えんしゅう)・三河・尾張(おわり)・伊勢・美濃(みの)・近江の、城下・郊外・村落まで、ここに半年、かしこに三月と旅をつづけ、二年めになった。
大角は現八に、ことしの秋は亡妻雛衣(ひなぎぬ)の三回忌なので、ふるさとにもどりたい、といった。現八もむろん同行した。下野(しもつけ)の真壁(まかべ)の赤岩のふるさとについたのは、六月のすえである。秋の供養(くよう)がすむと、二人は行徳をたずねることにした。九月のことである。
二人が武蔵国足立郡千住(せんじゅ)の郷(さと)にほど遠からぬ穂北(ほきた)の畷路(なわてじ)をすぎるとき、にわかに雨ふりとなった。宿をとろうとしたが、家はない。
現八・大角は、菅笠(すげがさ)をかたむけて走った。現八が道の小石につまずいたため、おもわず二町ばかりおくれた。それを知らずに大角は走り、背におうた旅づつみがほどけておちたことも知らない。七、八間いって気づき、うしろをふりかえった。すると、一人の男が、その旅づつみをひろって逃げようとしている。大角は、
盗人(ぬすっと)、まて!」とその男を追った。
男は千住川のほうに逃げた。河原に同類らしいもう一人の男が大きな衣箱(きぬばこ)をおろして立っていた。盗人は、
「兄い、たすけてくれ」とさけんだ。大角は、
「そこからさきは川で、逃げられないぞ。いのちがおしければ、かえせ」と追いつめた。
二人の賊が、左右からこぶしをかためてうとうとすると、大角は右にうけ、左にとどめた。左の賊の首筋をつかみ、ねじかえした。右からすがる賊をふりはらおうとしたとき、大角の着物の袖がひきちぎられた。そこを、大角は左右一度になげふせ、刀の柄(つか)に手をかけた。二人の賊は堤(つつみ)から川へざんぶととびこんだ。
そこへ、現八がきた。もう雨はおさまっている。
大角は現八にしかじかとかたり、旅づつみをさがしたが、見あたらない。けおとしたか、水にしずんだか。
「それに片袖もちぎれてしまいました。旅づつみには金がありましたのに、わたしはおろかでした。それにしても、賊のすてていったこの衣箱をどうしよう」という。現八は、
「その衣箱の持ち主をさがし、知らせてやりましょう」とこたえた。大角は、
「そうですね。犬飼さん、足がいたむでしょうから、ここでまっていてください」と堤をおりようとすると、ここらの村人十余人が手に手に棒をもち、走ってきた。大角と現八が立っているのを見て、いよいよだみ声を高くし、「あれを見ろ。賊は、あそこにいる。逃(の)がすな」とののしりながら、二犬士をすこしずつとりかこみはじめた。

第八十三回 ちぎれた片袖……大角と現八のぬれぎぬ

犬村大角と、犬飼現八は村人にとりかこまれた。だが、すこしもさわがず、
「これは、なにごとだ。われわれば、旅人だ。人ちがいして後悔するな」といった。
村人は、がやがやといい、そのなかの三人ばかりが、あざわらって、
「盗人たけだけしい。おまえがぬすんだ衣箱(きぬばこ)が、そこにあるではないか」という。大角はしずかに、
「さわがずに聞いてくれ。おれも旅づつみを盗人にさらわれて、ここに追ってきた。そのなかまとおもわれるものがこの衣箱に尻をかけていた。おれがちかづくと二人がおそってきたので、刀の柄(つか)に手をかけると、川にころげおち、およいでむこうの岸に逃げた。おれの旅づつみは川にけおとしたか、ぬすまれたかわからない。のこったのはこの衣箱だけだ」といった。
現八も、「この衣箱は、あの盗人らが近くの家からぬすんできたものらしく、重いのでおろして、なかまのたすけをまっていたのだろう。このようにことばをつくしても、なおわからないのなら、武士が盗賊のぬれぎぬをきせられ、おめおめと縄(なわ)をうけられるか。わずか十人、十五人をうちたおすことは容易だが、おまえらが、いのちをおとすより、疑心をはらし、衣箱をもって去ることが、おれたちののぞみだ」とにらんだ。
村人のなかに、まだののしるものがいる。それをしずめて、なかの二人が額(ひたい)をよせて談合をはじめた。そのうち村人二人が群れをはなれ、穂北(ほきた)のほうに走った。
村人たちをとりしずめていた歳かさの二人は、二犬士にわらいかけながら、腰をかがめて、
「おゆるしください。理も非もわからぬ若ものが、たいへんご無礼いたしました」とわびた。
「それでは、われわれにかかった疑いがはれたか」
「はい。おふたかたを、その衣箱をとってきた盗人とうたがうのではありませんが、その衣箱はてまえどものものではなく、親方のものです。盗人どもが、いつのまにか背おって逃げたのを追ったのですが、逃げられてしまいました。盗人をとらえず、その衣箱だけをもってかえったなら、親方は、てまえどもをうたがうでしょう。これからてまえどもの親方のところにごいっしょねがって、盗人のありさまをおはなしくだされば、てまえどもがぬすんだものでないことが納得してもらえます」とたのんだ。現八は、
「それで、おまえたちの親方の宿所は、ここから遠いのか。それは村長か」ととうた。
その親方とは、穂北・梅田・柳原(やなぎはら)の三郷では名の知られた氷垣残三夏行(ひがきざんぞうなつゆき)という郷士だ。女房はなくなり、重戸(おもと)という娘がいる。その重戸に、三年ばかりまえ落鮎余之七有種(おちあゆよのしちありたね)という婿をむかえた。夏行は、田畑の仕事はまかせ、自分は宿所にいる。その日も蔵にネズミの穴を見つけ、穴をふさげ、と男どもにいいつけて、蔵のなかから品をだし、修復にかかった。昼がすぎたので、みんなおくれて廚(くりや)にいき、箸をとった。
そのあいだに盗人が背戸(せど)からはいり、出しておいた衣箱を背おって逃げた。それを一人の下男が見つけ、「盗人!」とさけぶと、盗人は、衣箱をすてて逃げた。そこへにわか雨がきたので、いそいで五個の衣箱を蔵にはこぼうとしたら、一個たりない。それで、盗人は一人でなく、なかまがいた、とさわぎたてた。田畑に出てはたらいていたものも、雨ふりでもどったので、夏行は一隊を竹の塚、一隊は梅田・柳原、一隊は千住とわけて、盗人を追わせた。
夏行(なつゆき)は老年だが、武芸をこころえているので、衣箱におさめられているのも衣装ではなく、鎖帷子(くさりかたびら)・肱手(こて)・臑盾(すねあて)などで、一箱でも高価なものばかりである。
現八・大角を案内した老僕は小才二(こさいじ)・世智介(せちすけ)という。
夏行の屋敷は穂北の操野(みさおの)にある。二犬士は庭から出て、雑貨蔵(あらものぐら)のうしろの樹木が深くおいしげった道をすすんだ。と、道がぐさっとさけ、二犬士はおとし穴におちた。若ものどももとびこみ、おりかさなり、二犬士を縄でしばりあげた。宙につるし、地上にすえた。
現八・大角はいかり、
「きたないぞ、百姓ども。いまさら、おまえらにいっても益がない。主人(あるじ)をよべ」といった。
そこへ小才二・世智介がきて、
「盗人がこのざまになりながら、親方に対面をねがったとて取りつぐものか。念仏でもとなえろ」という。
当家の主人、氷垣残三夏行のいる書院に、世智介らが、盗人二人をとらえたとつげ、現八・大角をひきたててきた。
「世智介・小才二(こさいじ)一隊の才覚で、手ごわい賊をおびきよせ、いけどりにしたのは大功賞だ。見たところ、こいつら二人のつらだましいは、わるものらしくはない。みなりも異様ではないが、これは人目をあざむく賊のするところだ。出生(しゅっしょう)・姓名・旧悪まで白状させて、首をはねよ」と夏行はいう。
世智介・小才二は、立っている二犬士をひきわけようとした。二犬士は足をとばしてけった。世智介らは、三間(げん)あまりさきの庭木の幹になげつけられた。
現八・大角は夏行にむかい、
「あなたは、当家の主人か。おろかな下男どもが、われわれをうたがうことがあっても、ことの真偽を問いたださず、われわれを盗賊とするのは、どういうわけだ」と、旅づつみをうばわれたこともかたった。
夏行はそれをきかぬどころか、声をふりたて、
「やい、盗人、これを見よ。さきに盗人が下男におわれたおり、カラタチの垣にひっかけ、ちぎれた襦袢(じゅばん)の袖だ。この二人のうち襦袢の片袖のないものがいるはずだ」という。下男どもは、
「左に立っている盗人の襦袢はちぎれて片袖がない。しかも、あっちとこっちとよく似た浅黄木綿(あさぎもめん)……」とさけぶ。大角は、
「おれがこの襦袢の片柚をうしなったのは、二人の賊をとらえようとしたとき……」というと、夏行は、からからとわらって、
「これまで証拠があきらかなのだ。骨をひしいでも、白状させろ。ひざまずかぬなら、うちたおせ。手ぬるいぞ」といったが、下男どもはちかよれない。
夏行は、刀をもって縁側から走り出ようとした。そのとき、屏風(びょうぶ)のうしろから女の声がした。
「まってください、父上」と走りでた女は、夏行の一人娘重戸(おもと)だ。
重戸は、縁側にひざまずいて、夏行にむかい、
「盗賊詮議(せんぎ)の声が高いので、ここからすべてをききました。とらえられた旅人たちは、もののいいよう、人柄も、盗みをする人とはおもわれません。ちぎれた襦袢の袖が証拠かもしれませんが、はじめに盗人を見つけた、これらの真偽をただすべき下男がかえるのをまっておききになれば、垣をくぐりぬけて逃亡した盗人はあの人か、別人か、たちどころにわかるでしょう」といった。
夏行は、あざわらって、
「あわれまずともよいものをあわれむのが、女の情(じょう)だ。垣をくぐった盗人を見たのは、下男の得手吉(えてきち)だ。南のほうにいっているので、まだもどらない。そのもどるのをまつことはたやすいが、証拠の片袖があるのをすてて、いまさらどうするのだ」とたしなめる。
重戸はなお、
「そうまでおもわれるのなら、しかたがありませんが、夫の余之七はまだもどらず、ましてきょうは、母上のご命日であることをおわすれですか。あしたまで怒りをわすれ、そのままとじこめておけば、真偽もわかるというものです」といった。
夏行もうなずき、
「重戸。おまえのいうことは、もっともだ。おまえのねがいにしたがって、あしたまでとじこめておくとしよう。やい、ものども、きいたろう。植木小屋にとじこめて、きびしくとざして、一人二人交代で張り番をしろ。またこいつらの両刀と旅づつみは、重戸があずかっておき、余之七有種がもどったら見せてやるがいい。みんなには、奥で酒をふるまってやろう」といって、奥にはいった。下男が、二犬士の両刀と旅づつみを重戸にわたした。

第八十四回 二人組の盗賊……郷士氷垣残三(ひがきざんぞう)

秋の日は短く、夕暮れとなった。奥では酒宴がたけなわである。重戸は一人奥から出て、ふろしきづつみを戸袋にかくして、植木小屋のほうに声をひそめ、張り番の二人をよび、
夢介(ゆめすけ)、壁蔵(かべぞう)。おまえたちは下戸(げこ)のために番をさせられて、たいくつでしょう。わたしがここで見はっているから、台所で夕飯をたべておいで」という。
夢介・壁蔵はよろこび、もみ手をしながら、
「それはありがたいことですが、もし大だんなに知られたら、しかられます」という。重戸が、わたしがだまっていたら知られることはない、はやく行くがいい、といったので、夢介・壁蔵は小屋をはなれた。
重戸は小屋の戸をひらき、二犬士に、
「いそぎますので、くわしくはもうしあげられません。そっと出ていってください。ここに両刀と旅づつみがあります。はやく出ていってください」といって、二犬士の縄をといた。現八・大角は、おどろき、
「あなたがさっしたように、わたしたちは盗賊ではありません。だが、わたしどもが身をかくしたなら、いつの日にこの恥をそそぐことができようか。このようなことは、武士のもっともはずべきことなので、親切にしたがうわけにはいかない」という。
重戸は、「しばらく身をかくされ、盗賊をとらえて、父と夫にお見せくださるなら、その疑いもとけましょう」といった。
現八・大角は、
「そうしよう。だが、とがめがあなたにかかるのでは……」とあんじたが、重戸は、
「それにも思案があります。壁をやぶって背戸(せど)から出ていってください。わたしは小屋をしめ、髪をふりみだし、たおれていて、人のくるのをまちます」という。で、現八・大角はふろしきづつみをとき、刀をとりだし、現八が旅づつみをせおい、小屋の壁をやぶり、夕闇にまぎれるように背戸からのがれ出た。
千住(せんじゅ)の川辺にきたが、渡し舟がない。堤(つつみ)をのぼっていくと、一町あまりの川上に苫葺(とまぶき)の舟がある。
現八は身をおどらせて川をおよぎ、舟にちかづき、ひらりとのり、棹(さお)を手にすると、舟に人がいて、
盗人(ぬすっと)、まて!」といって、一人の男が現八の利腕(ききうで)をとらえた。現八がふりはらおうとすると、もう一人の男がとび出た。岸では、舟の上でのあらそいを気配でさっした大角があせるばかりだ。
現八は左右に敵をひきうけて、拳法(やわら)の術をつくした。雲間にかくれていた秋の月が、むら雲をはらった。月光があたりをくまなく照らした。三人はたがいに顔を見て、ひとしくおどろいた。
「ほう、犬飼現八さん」
「そういうあなたたちは、犬山道節さん、犬塚信乃さん」
たがいに手をはなした。現八は、
「おもいがけないことです。どうしてこの舟のなかにいるのです」ととうた。道節は微笑して、
「それは、あとではなしましょう。それより、どうしてはなれた舟にのられましたか」と反問する。
現八は、「不慮(ふりょ)の災難にあいました……」とはなし、岸を見かえり、
「あそこにいるのは、同因同果の義兄弟、犬村大角礼儀(まさのり)という武士です」といい、舟を岸によせ、信乃・道節にひきあわせた。それから災難をかたった。道節はききおわると、それならこちらにも話があるといって、こうかたった。
信乃・道節が、栗橋(くりはし)の旅篭を出て千住堤にさしかかると、日が暮れた。川をわたろうとして、苫舟(とまぶね)をよんだ。船頭二人は、夜はわたさない掟(おきて)だが、舟賃(ふなちん)がおおいならわたそう、それから、苫の下にふせ、音をたてるな、という。
で、二人は苫(とま)をかぶり横になった。そのとき船頭はもった棹で、信乃・道節ののどぶえをつこうとした。道節らはすばやく身をかわし、けりたおして、二人をしばりあげた。
この船頭たちは、尻肛玉河太郎(しりこだまかわたろう)と無宿猫野良平(むしゅくねこのらへい)といい、この手ぐちで旅人の路銀をうばい、しかばねを川にすてていた。きょうは穂北の郷士の屋敷から、河太郎が衣箱(きぬばこ)をぬすんだが、野良平が下僕(げぼく)に見つけられ逃げた。野良平は、旅の武士がおとした旅づつみをさらった。その武士が追ってきたので、堤でまっている河太郎にたすけをもとめたが、武士になげとばされた。で、二人は川にとびこみのがれた、という。
大角が河太郎の所持する旅づつみをとくと、はたして大角の親の位牌(いはい)と路銀のつつみだ。
いっぽう、氷垣夏行(ひがきなつゆき)の屋敷では、下男夢介らが重戸(おもと)のたおれているのを見つけ、大さわぎとなった。婿の落鮎余之七有種(おちあゆよのしちありたね)もくわえ、三十余人が手に手に武器をもち、夏行を先頭にたいまつを照らしながら千住堤にちかづいた。道節が声をかけた。
「そこにおられるのは、氷垣さんではないか」
いぶかる夏行らは足をとめて、
「そうだが、おまえさんは?」ととうた。
道節は、「わたしは、近国から江戸におもむく旅の武士です。宵に、はからずも二人の賊(ぞく)をとらえたが、あなたの屋敷にしのびいり衣箱をぬすんだこと、襦袢(じゅばん)の片袖をうしなったことなどを白状した。で、貴宅につれていこうとしていたところです」といった。
夏行はわらって、
「それはかたじけないことです。わたしは穂北の郷士、氷垣残三夏行です。きょう、衣箱をぬすんだ二人をとらえておきましたが、自分で縄をとき逃亡したのです」というと、余之七も、
「わたしは、氷垣の婿(むこ)、落鮎余之七有種です。賊をおわたしください」という。
道節は微笑し、
「それは、むろんのことですが、盗賊をとらえたのは、わたし一人のちからではなく、同行の三人の武士がおります。そのうち二人はあそこにいます。こちらへ……」と夏行・余之七を水ぎわにさそった。
現八・大角が、
「これは氷垣老人。われわれは、不幸にも疑いをかけられ、はずかしめをうけた。それを娘御(むすめご)にたすけられた。そろってここにこられたとは、よろこばしい」とかたりだすと、夏行は声をふりたて、
「この盗賊ども。大胆にも、追いつめられてなかまとしめしあわせ、たぶらかそうとするのか。イモざしにしてくれる」と槍(やり)をひねって、大角の胸をさそうとする。余之七も、槍をもって現八にたちむかう。大角はさわがず、ひきうけ、電光石火とつきだす槍の刃頭をあっちこちとやりかわし、はねこえて術をつくす。夏行・余之七を疲労させ、大角は息のあらい夏行の槍をつかむ。現八も、余之七の槍をからりとおとした。
二階松山城(にかいまつやましろ)と犬村蟹守(いぬむらかもり)の奥義(おうぎ)をきわめ、捕物(とりもの)では世に敵なしと称される犬飼・犬村にかなうはずがなく、夏行は大角にくみふせられ、余之七は現八の膝(ひざ)にしかれてうめいた。はねかえそうともがいても、急所をとられて身うごきもできない。従者は、二犬士の武芸におどろき、あきれた。それでも多勢をたのみ、おそいかかろうとすると、道節が、
「敵対するなら、二人の主人(あるじ)の首をはね、そのあとでおまえらをこの川にしずめるぞ」と、百千の雷が頭の上におちるような声でいった。
従者たちは、二人の主人の首がはねられるとおもい、一言半句(いちごんはんく)もかえすことなく、みなおめおめとあとずさりをはじめた。そのあいだに大角・現八は、太刀の緒(お)をとき、夏行と余之七有種をきびしくしばり、水ぎわの二本のヤナギにむすんだ。夏行・余之七は、うらみに声をふるわせる。現八と大角は、
「氷垣老人、婿どのも、怒りをしずめてよくきいてほしい。われわれは、もとより人を害する気持ちはない。疑いのまよいがさめず、恩人に無実の罪をおわせるなら、人もまた真実のないむくいかたをする。善には善のむくいがあり、悪には悪のむくいがある。こよい、はからずも義兄弟のたすけで衣箱(きぬばこ)の盗賊をとらえた。耳をあらい、目をぬぐい、善人をしいたげたあやまちをみずからおもいしるがいい」と、後方を見かえると、信乃が野良平・河太郎の縄尻をつめながらひきたて、舟から出て夏行らの前にすえた。
「夏行、これをみよ。この一人は尻肛玉(しりこだま)河太郎という盗賊だ。さきに衣箱をぬすみ、ここらの堤にすて、逃げたのはこいつだ。もう一人は無宿猫(むしゅくねこ)野良平という河太郎のなかまだ。垣をくぐり出ようとしたおり、きている襦袢の片袖が木の枝でちぎれ、そのままにして逃げた盗人はこいつだ。これを見るがいい。襦袢の片袖がない。ふたたびその詳細を盗人にいわせてみよう」といって腰から鉄扇(てっせん)をとり、賊の背をうった。背骨がわれるばかりだ。
「やい、盗人。さっきのように、いま一度悪事を白状しろ」とせめた。
河太郎・野良平は痛みをこらえられず、しかじかと衣箱のこと、袖のこと、また大角の旅づつみをぬすんだこともかたった。
夏行・余之七有種は、はじめて夢からさめたように、いまさら慚愧後悔(ざんきこうかい)にたえず、頭(こうべ)をあげなかった。

第八十五回 郷士のもてなし……四犬士のつどい

夏行・余之七有種の二人は、証拠をしめされて、はじ、頭をたれたままだ。犬村大角は、道節におしとどめられている夏行の下僕(げぼく)らに、
「おまえたちも、この盗人(ぬすっと)の白状をきいたであろう。この野良平が、垣をやぶって逃げたおり、見たものがいるそうだが、出てきて、こいつを見るがいい。その賊か、そうでないか、判断できるだろう」というと、みんな一人の下僕を見かえり、
得手吉(えてきち)、はやく出ろ」という。得手吉は、おそるおそる大角のそばにちかづき、二人の賊の顔を見て、
「てまえが垣からでるとき見たのは、こいつです」といって野良平を指さした。大角はうなずき、夏行に、
氷垣(ひがき)老人、これでまよいはとかれたか」という。道節も水ぎわまできて、夏行・有種にむかって、
「がんこ爺(じい)、無知の若もの、さてもおどろいたか。わたしの兄弟犬飼は勇士だが、怒りにまかせて人をころしたりはしない。はからずも二賊をとらえて、老人らの疑いをとくことができて、よろこんでいるのだ」という。夏行・有種は、ますますはじ、後悔した。
夏行は四犬士を見て、
「わたしが暗愚(あんぐ)で思慮がたらず、娘重戸(おもと)の意見をきかず、おふたかたをしいたげたその罪は万死(ばんし)に価します。このまま、首をはねられても、自業自得(じごうじとく)なので、うらみはあ閧ワせん。しかし重戸にめんじて婿(むこ)有種をおゆるしくだされば、安心して死ねます」とたのんだ。
その余之七有種も、
「それはおもいがけないことです。みなさん、おききください。わたしは二君がとらわれたことを知らずに盗人をおいかけて、夕方屋敷にもどりました。そのおり、二君逐電(ちくでん)のことをきき、ここまで追ってきたのです。真偽をただす暇もなく、下僕の《そそう》からおこったこととはいえ、ともにはやまったのは、この身の不覚、罪をのがれることはできません。わたしの首をはね、親をゆるしてください」という。
四犬士は感動して、現八・大角が、
「氷垣老人、落鮎(おちあゆ)さん。わたしたちには、害をくわえる気持ちはない。先非(せんぴ)をさとられたうえは、うらみはないのです」となぐさめ、夏行・有種の縄をといた。夏行らはひざまずき、
「わたしたちに寛大なご処置をいただき、かたじけない。四君子の本国・高名をおきかせください」となんどもたのんだ。大角が微笑して、
「わたしは、下野(しもつけ)の赤岩の住人で、義により故郷を去った犬村大角礼儀(まさのり)です」と名のると、現八も、
「わたしは、下総滸我(しもふさこが)の浪人、犬飼現八信道(のぶみち)です」という。信乃も道節も、
「武蔵豊島の大塚人(おおつかびと)、犬塚信乃戌孝(もりたか)」、「同国練馬平左衛門倍盛(へいざえもんますもり)の残党、犬山道節忠与(ただとも)です」と名のった。
夏行・有種はおどろきながら目をあわせて、
「五、六年まえのころ、大塚近くの庚申塚の刑場で、無実の罪人を救出した、犬士のかたがたではないのですか」ととうた。信乃・現八は微笑して、
「おたずねのように、救出した義兄弟は、犬川荘助義任(よしとう)という武士です。なお、このほかに犬田・犬江の二犬士とともに七人おり、忠信孝義も伯仲(はくちゅう)しています」とつげた。夏行はうやうやしく道節に、
「犬山どの。わたしの婿有種は、練馬どのの兄、豊島刑部左衛門尉信盛(ぎょうぶさえもんのじょうのぶもり)さまにつかえたものです」という。 有種も道節に、
「わたしの父は、落鮎岩水員種(おちあゆがんすいかずたね)といい、豊島の家臣でした。両親がはやくなくなり、わたしもまた、総角(あげまき)のころから信盛さまにつかえました。豊島家滅亡のおりに、氷垣残三のもとに身をよせました。残三の妻女がそれがしの伯母(おば)にあたるからです。やがて残三の娘を妻とし、義父と称し、義子とよばれるようになったのです。あなたが豊島の一族、練馬の旧臣とおききし、なつかしくおもわれます」と、自分の素性(すじょう)をのべた。
道節も、「義兄弟をたずねての諸国めぐりで、豊島・練馬の残党にあうことができて、故人にであった気持ちがします」という。みんなその奇遇(きぐう)をいわった。
現八が夏行に、ここ三郷を開発した事情をきいた。
夏行のかたるところはこうである。
夏行は、若いころ鎌倉の管領持氏(もちうじ)につかえた。持氏滅亡ののち、春王・安王両公達(きんだち)のため結城の城にこもった。そのおり、武蔵の住人、大塚匠作三戌(おおつかしょうさくみつもり)と、城の一方をまもったものの、利あらず落城となり、寄手をきりぬけ、ここの地頭(じとう)穂北氏のもとに身をよせた。
このとき、夏行をしたう士卒百人ばかりもこの地にあつまった。穂北・梅田・柳原の三郷は、長年の兵火で荒れ、たがやすものはなく、農商離散した。地頭は京(みやこ)におもむいたままもどらず、ここは荒れ地となっていた。夏行らはこの開田をすすめ、おされて三郷の長(おさ)となった。そして旧地頭穂北氏の従妹女(いとこめ)を妻とした。のち、その甥の落鮎余之七有種を娘の婿にむかえた。
その有種をたよって豊島の落人(おちうど)が八、九十人もくわわり、三郷はますます発展した。夏行がこの地にきて四十二年、長となって十四年になるという。
現八・道節が、犬塚信乃は大塚匠作の孫であるとつげた。夏行はおどろき、匠作に指南をうけた、とかたった。夏行は、あらためて四犬士を自分の屋敷にまねいて、用意の夕膳(ゆうぜん)をすすめた。やがて、それぞれ床についた。
次の日、夏行は四犬士を主客として、酒宴をもよおした。この席に重戸(おもと)が有種について出た。現八・大角は、重戸に礼をいった。四犬士は穂北を出立しようとしたが、夏行・有種が、せめて春まで逗留(とうりゅう)してほしい、というのをことわりきれず、その好意をうけた。四犬士は他人がそばにいないときには、たがいの話をした。
道節は、五年まえの荒芽山の窮難(きゅうなん)のあと、犬川荘助とともに、四年間、四国・九州の果てまでめぐり、去年は甲斐の石禾(いさわ)の指月院を宿とした。住持は丶大法師(ちゅだいほうし)で、ここで蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)とも名のりあった。この冬、信乃の窮厄(きゅうやく)を道節がすくった。
そのほか四六城木工作(よろぎむくさく)のこと、里見の五の君浜路姫のこと、淫婦(いんぷ)夏引(なびき)、泡雪奈四郎、その下僕媼内(おばない)・カヤ内らのこと、甲斐の武田氏に信乃・道節が対面したこと、それから二人は十一月のすえ、蜑崎照文らと浜路の供をして石禾を出立、武蔵の四谷の原で奈四郎が媼内にきずつけられ、その奈四郎を信乃がうち、四六城木工作のうらみをとげたこと、浜路らは安房におもむき、信乃・道節は諸国をまわり、ここに来たとつげた。
現八は、五年まえ、荒芽山で犬士とわかれ、行徳におもむき、小文吾をたずねたがわからず、京師(けいし)の地をふみ、のち木曽路から下野にいった。そこの庚申山で赤岩一角武遠(たけとお)の魂魄(こんぱく)とかたり、子息、犬村角太郎にあったこと、にせ一角・牙二郎(がじろう)のこと、毒婦船虫(ふなむし)、篭山(こみやま)逸東太縁連(いっとうたよりつら)のこと、烈女雛衣(れつじょひなぎぬ)の自害のこと、角太郎が大角とあらため、現八とともにほかの犬士をさがす旅に出たことなどをかたった。
ここで大角は、まもり袋から礼(れい)の文字のある珠(たま)をしめし、左の乳の下の痣(あざ)を見せた。

第八十六回 なぞの法師……丶大(ちゅだい)のはからい

信乃・道節・現八・大角は、主人夏行(なつゆき)・余乃七有種(よのしちありたね)のすすめるままに日をかさね、秋もすぎ冬をむかえた。
ある日、信乃と道節が現八・大角に、去年の冬石禾(いさわ)の指月院を出立したが、犬川荘助の消息を知るべく指月院におもむきたい、といった。現八・大角が、それならわれら二人は武田家に縁がないので、指月院をたずね、犬川荘助がいたならともなってくる、という。
そこで夏行にかたり、現八・大角が甲斐路(かいじ)をさして出立していった。
信乃・道節は、はなれ座敷でまった。道節が、有種にひそかにかたった。
「わたしは白井の城外で仇、扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)の首をとったが、まことの定正でなく、池袋の戦いでわが主君練馬どのに槍(やり)をつけた扇谷の家臣越杉駄一郎(こすぎだいちろう)というものでした。このとき、父の仇竃門三宝平(かまどさぼへい)をうったものの、まだ定正はうつことができずにおります。そればかりか、敵(かたき)の謀臣(ぼうしん)巨田助友(おおたすけとも)にはかられて、荒芽山(あらめやま)で危難にあいました。それから五年をへました。いま定正は、五十子(いさらご)の城にいるとききました。城はここから四、五里たらずで、そのようすをさぐるのに好都合です。で、土地の人百人をかしてください。定正の外出をねらって、短平急(たんへいきゅう)にせめたなら、宿望(しゅくもう)がたっせられましょう。おひきうけいただけませんか」といった。
有種は賛成して、
「忠義のこころ、感心しました。おちからになりましょう。定正は、わが亡君豊島どのの仇です。ここに豊島の残党が八、九十人おりますので、みんなよろこんでくわわるでしょう。むろん、わたしも一矢(いっし)むくいたいとおもいます」という。道節は、
「それは、いけません。あなたには妻子があり、老いた義父がおられます。このことが敵に知られて、大軍がせめてきては、ふせぎようがありません」といった。有種は、
「それでは、定正のようすをさぐり、お知らせしましょう」とこたえて、その場を去った。
あとで信乃は、定正討(う)ちは危険である、と道節に忠告した。
十一月もなかばとなった。
甲斐の石禾(いさわ)の指月院から、現八・大角の書状がとどいた。その文意はこうだ。
丶大(ちゅだい)に対面し、荘助の消息をきいた。荘助は去年の六月のすえ、犬田小文吾と越後からもどったが、いま指月院にはいないという。犬士の一人で智(ち)の文字の珠を所持する犬坂毛野(けの)が、石浜で親と兄の仇、馬加常武(まくわりつねたけ)らをころし、さらに篭山縁連(こみやまよりつね)をうつべく、青柳(あおやぎ)の旅篭の障子に詩歌をしたためて立ち去った。犬川荘助・犬田小文吾は、毛野の身をあんじ、春までにはもどるといって指月院を出ていった。で、現八・大角はしばらく逗留(とうりゅう)することにした、というのだ。
信乃・道節は、よみおえて、よろこび、
「こうなると、来年の春までには、犬川・犬田もかえり、四犬士はここにくるだろう。そのときは犬坂毛野・親兵衛(しんべえ)の二犬士ともまたあうことができ、八犬士がそろうだろう。それにしても、毛野という勇士は、すぐれものらしい」という。
使いのものによると、指月院に後任の住持がきまったので、丶大は来春、寺をさるそうだ。
この年も暮れ、文明十五年となる。
その正月十日、指月院に信濃路(しなのじ)から荘助・小文吾がもどった。現八・大角とあい、丶大もくわわり、すぎし日をたがいにかたった。丶大は、
「八個の霊玉をもとめ出家行脚(あんぎゃ)して三十年になる。その霊玉のありかが、ほぼわかった。犬江親兵衛・犬坂毛野ともあえるだろう。で、この指月院を去り、結城の古戦場のほとりに庵(いおり)をむすび、里見義実(よしざね)の父季基(すえもと)、大塚匠作(信乃の祖父)、井丹三直秀(いのたんぞうなおひで)(信乃の外祖父)、その他戦死者の菩提(ぼだい)をとむらうため、百日の大念仏をおこない、罪犯赦免(ざいぼんしゃめん)の君恩にこたえようとおもう。穂北(ほきた)の宿にたちより、犬塚信乃・犬山道節の二人にあい、それから結城におもむこう。おのおのがたもそれまで逗留して、拙僧(せっそう)とともに指月院を去ってはどうか」という。荘助は、それまで十日ばかりあるので、甲斐の山やまをめぐり親兵衛をさがそう、といった。犬飼・犬村・犬田は、むろん同意した。で、翌朝、蓑生(みのぶ)へと四犬士は出立した。
そのつぎの日、後任の僧が予定よりはやく指月院にきた。丶大は、後任の僧に、穂北で四犬士をまつ、とことづけて寺を出立した。
丶大は石禾(いさわ)を去り、日をかさね、武蔵国豊島郡麻生(としまのこおりあそう)の郷(さと)にほど遠からぬ葵岡(あおいのおか)という一寒村にさしかかった。日が暮れたので、宿をさがした。だが、どこの家からも出家はとめられないとことわられた。丶大が、そのわけをとうた。
いまから五、六年まえの夏、この村の大沼から雲霧がたち、しばしば大雨がふり、凶作(きょうさく)となった。ある日、行脚(あんぎゃ)の知雨(ちう)と名のる法師がきて、いった。それは、大沼にすむ荒神(こうじん)のたたりだ。年の正月には、永楽銭五十貫その他を舟につみ、沼にながせ。また夏には、畑作物をかごにいれてながせ。秋には、白米三十俵その他をながせ、と。
それにしたがってきたが、きょうは正月のその日なので、はやくから戸をとざして、寝ているのだ、ともいった。
丶大は、なにものかが幻術をつかってぬすみとっているとさっした。で、村長(むらおさ)磐井右衛門二(いわいうえもんじ)をたずねた。丶大は、知雨老師の弟子で、知風道人(ちふうどうじん)と名のった。右衛門二に対面し、知雨老師に託宣(たくせん)があり、献上物をぬすみとる妖賊(ようぞく)がいるので、それを退治せよ、といわれてきた、とつげた。
そこで右衛門二は、狩人種平(たねへい)・島平(しまへい)をよびよせた。夜ふけて銭・衣装などを馬につみ、大沼のほとりにきた。その品を舟にのせ、大沼にながした。
丑(うし)三つ(午前二時)のころ、くせもの五人が舟をひきよせるのを見て、種平・島平が鉄砲をうった。くせものがたおれた。

第八十七回 真猯穴(まみあな)……妖賊鵞(が)ぜん坊の一味

くせもの五人のうち、二人は逃げた。だが、頭領をふくむ三人をうちたおした。傷ついた一人が白状した。頭領は修験者(しゅげんじゃ)で鵞ぜん坊といい、妖術で雨をふらせ、銭(ぜに)・品物をだましとった、といった。
ここではじめて、丶大(ちゅだい)は自分のことをうちあけた。右衛門二(うえもんじ)らはおどろき、目がさめた。きずついた賊、這風九郎(このかぜくろう)の案内で、逃げた二人の賊のすむ長坂山におもむくことにした。種平・島平が洞穴(ほらあな)にむかって鉄砲をうとうとすると、なかから老人と老婆が出てきた。
「てまえどもは賊徒ではありません。賊鷲ぜん坊に、住家をうばわれました。先刻のがれてきた賽保輔(まがいやすすけ)・金山魔夫太(かなやままぶた)は、てまえどもがころしました。洞穴には、かどわかしてきた娘らと金品があります。はいってごらんなさい」という。
丶大は、この老人らはただものではないとかんがえ、素性を名のれといった。老人らは、自分たちは人間ではなく、三百年来この洞穴にすむ真猯(まみ)(タヌキ)だ、という。右衛門二らが洞穴にはいると、かどわかされた三人の娘と、賊二人のしかばねと金品があった。そとに出ると、案内の九郎ものどをくいやぶられていた。真猯がころしたのだ。
村長(むらおさ)右衛門二は丶大(ちゅだい)を屋敷にまねき、この地にとどまり、庵(いおり)をむすんでほしいとたのんだ。丶大はことわり、出立していった。丶大は、こころのなかでおもう。
「穂北にたちよるなら、氷垣(ひがき)老人は大念仏の施主(せしゅ)になるというだろう。それでは、他姓の施主をまじえることになる。それゆえ、穂北はよそう。荘助・現八・小文吾・大角・信乃・道節らとの約束をたがえることになるが、大塚匠作は結城の合戦で討死(うちじに)したので、四月十六日の忌辰(きしん)には、まねかなくても、信乃らはくるだろう」
で、氷垣の屋敷にはたちよらず、笠をかたむけて道をいそいだ。

第八十八回 若き居合師(いあいし)……蟹目上(かなめのうえ)のサル

武蔵国豊島郡(むさしのくにとしまのこおり)湯島の郷の天満天神(てんまてんじん)の神社(やしろ)は、文明十年、扇谷(おうぎがやつ)の内管領、持資入道(もちすけにゅうどう)が建立した。東北は上野(うえの)の原・浅草寺(せんそうじ)まで田舎である。だが、この神社だけはもうでる人がおおく、あめ・もち・果物(くだもの)などを売る店や、呪師(のろんじ)(祈祷師)・放下師(ほうかし)(手品師)・刀玉(かたなだま)の猿楽師(さるごうし)(曲芸師)などが、あつまっている。
そのなかに、居合(いあい)・くさり鎌(がま)の技をみせて、いぼ・ほくろをとる薬と歯磨粉(はみがきこ)を売る若ものがいた。売薬箱を台にのせて、床几(しょうぎ)に尻をかけている。しばらくして、居合師は床几からたち、群衆にむかって、
「きょうもあいかわらず、ご参詣(さんけい)のついでにここにたちよられたこと、よろこびこれにまさるものはありません……」と妙薬の由来をかたり、その愛敬(あいきょう)に居合ぬきを披露(ひろう)するといい、武術談義をひとくさりする。これから居合ぬきにかかるのだ。
その若ものは扇をたたみ、腰にさし、みかえって巨(おお)太刀(たち)を手にとり、見物衆にむかって、
「近ごろ、軍陣に巨太刀をもちいるのは、武威(ぶい)をしめすだけで、おおくは箔置(はくおき)の木刀です。唐(とう)の国にはこのような武具はありません。この巨太刀は木刀ではない。長さは、柄頭(つかがしら)からこじりまで、四尺八寸あります。刀は長し、腕は短し。ぬこうとしてもぬけるものではない。これをぬくのは腰にある」といいながら、太刀をとりなおし、箱枕(はこまくら)二、三十を台の上につみかさね、高下駄(たかげた)をはきながら、その頂上に片足をふみかけ、たちあがった。
やがて片膝(かたひざ)をおり、片足をうしろざまにのばし、腰の巨太刀に手をかける。間(ま)をおいて、やっ、と声をかけ、ちょうとひきぬく刃は、稲妻(いなづま)のようにはしる。
殺人活人秘訣(さつじんかつにんひけつ)の刀法、またたく間もなくつかうこと半刻(はんとき)ばかり、その微妙の絶芸に、見物衆はいっせいに喝采(かっさい)をした。
居合師は、しずかに刃を鞘(さや)におさめて、箱枕を片足ではらい、ひらりとおりた。感嘆した見物衆は、歯磨・ほくろぬきの薬を買うものがおおかった。
売りおわると、また居合師は見物衆にむかって、
「これから、くさり鎌の一手(ひとて)をお目にかけようとおもうが、けさからたびたびのことで、いささかつかれたので中休(なかいり)とする。おいそぎでない人びとは足をとどめてごらんなさい」というと、見物衆は立ち去ったが、のこったものが三人いた。
そのなかに黒羽二重(くろはぶたえ)の小袖をきて、朱鞘の両刀を腰にさし、深編笠(ふかあみがさ)をかぶった一人の武士がいた。人が去ると声をかけて、笠をとった。《さかやき》のあとがのび、色浅黒く、眉(まゆ)ひいで、眼(まなこ)清く、鼻筋のとおった、背丈のある若ものだ。
「おれもここでそなたの技芸をみていたが、世間の居合師のういた技(わざ)とはくらべものにならず、一進一退が法にかない、すこしのすきもない。また、武芸のみならず、和漢の故実も、とりつくった談義でなく、文武ともにそなわった人だ。さて、いぼ・ほくろの人相はよろしくないというが、そのわけはどうしてか」ととうた。居合師は微笑をうかべ、
「世渡りの種の、つたない技を見る人はおおいが、あなたのようなかたはまれです。人相を見る技も師についてまなんだものでなく、書物によって独学したもので、なかなかあたりません。きかれたのでもうしますが……」とはなしはじめた。
人相に十観あり、目の下を男女とす、また名づけて涙堂(るいどう)という。陳氏(ちんし)の相書に、涙堂に黒痣(こくし)・斜紋(しゃもん)あれば、老いにいたって児孫(じそん)を剋(こく)すという。また眉尻(まゆじり)を移遷(しせん)という。左は移宮(しきゅう)、右は遷宮(せんきゅう)だ。相書には、遷移(せんし)宮に、もし昏暗(くろみ)がかけおちて、またほくろがあればよろしからず、虎狼(ころう)におどろかされるという。このような、いぼ・ほくろも、ぬきされば憂(うれ)いはない、とかたった。
武士は、これに反論したが、居合師もこれに弁舌さわやかにこたえた。
武士はその才能に感嘆して、
「あっぱれな宏論俊才(こうろんしゅんさい)。それでは、わたしの人相をみてくれませんか」と近くによった。居合師はじっと見て、
「十二宮すべてよい。勇にして義をまもり、明君につかえ名をなすでしょう。百日たらずのうちにおどろくことがあり、そのあとよろこびがあるとおもわれます。しかし、いま見るところでは、額(ひたい)に殺気があります。仇をねらっている人のようですぞ。ほお・おとがいは豊満(ほうまん)で、いきおいが額にとどいてはいるが、その色が黄明(こうめい)なので、はかりごとはとげにくい。とげずしてとげるかのように、うちはたさずして、その敵は死ぬだろう。目が黄色なのは、吉祥だ」という。
武士は居合師をさえぎり、
「声が高い。あたりに人がいるので、大事をいってはならん。そなたの素性もきき、おれの身のうえもつげたいとおもうが、いまは都合がわるい。あしたの朝にまたまいる。そのおり、薬を買いもとめよう」と編笠をかぶり、東のほうに去った。居合師は、なごりをおしんだ。
この二人の会話をきいていた旅人が、居合師にちかづいて、
「てまえにも、宿望(しゅくもう)があるのです。手相をみてもらいたいのです」というと、居合師は、売薬箱のひきだしから水晶鏡(すいしょうきょう)を出し、その旅人の相貌(そうぼう)をまたたきもせずに見てから、左右の手に鏡をかざした。
「人の面(おもて)は根もとだ。手足は枝、また、幹だ。手に吉凶(きっきょう)があるといっても、人相をあわせみるときは、その根本をうしなわない。人相と手相をあわせてかんがえると、おまえさんは人の子分になって、ともに家をおこすことがあるか、そうでなければ、よそのものと同居することになる。おまえさんの手相の筋は、ばらばらにみだれている。苦労しても、たいていは進退がさだまらないかたちだ。また、役人に苦しめられる筋もある。しかし、幸いうまくまじわる筋があり、人のたすけをえて災難をまぬがれるだろう」といった。
旅人はおどろき、
「みられるとおりです。てまえは、越後の魚沼郡(うおぬまのこおり)小千谷(おじや)の郷の、石亀屋次団太(いしがめやじだんじ)の子分、百堀鮒三(ひゃくぼりふなぞう)というものです。親分は相撲(すもう)の名手で侠気(おとこぎ)があり、去年の夏、犬田小文吾という武士に宿をかしたことがあります。そのおり、女盗人(おんなぬすっと)船虫が、にせあんまになって犬田にちかづき、さそうとしたのですが、それをとらえ、庚申堂につるしました……」
そうとは知らず、犬田の義兄弟、犬川荘助は船虫をにがしたが、船虫の夫、酒顛二(しゅてんじ)ら盗賊たちは犬川・犬田がうった。国守長尾景春(ながおかげはる)の母、片貝(かたがい)の箙(えびら)の大刀自(おおとじ)が犬川・犬田をにくみ、これをとらえ、首をはねようとした。石亀屋は、どのようにして二人を救出しようか、と家をもかえりみず、走りまわって思案した。
次団太の女房は嗚呼善(おこぜ)という後妻で、歳はまだ若く酒飲みだ。その女が、おなじ子分、泥海土丈二(どろうみどじょうじ)と密通した。次団太は女房をとがめず、土丈二だけを出入りどめとした。で、土丈二は片貝の城におもむき、石亀屋次団太は盗賊酒顛二となかまだ、その証拠には、と短刀をそえてだした。その短刀は船虫からとりあげたもので、篭山逸東太(こみやまいっとうた)が所持していた長尾家の木天蓼丸(またたびまる)である。箙の大刀自はこれをしんじ、次団太をとらえ、投獄(とうごく)した。
百堀鮒三は、いま五十子(いさらご)の城にうつった管領扇谷の奥方、蟹目上(かなめのうえ)は白井どの(景春)の叔母にあたる、ときき、次団太の無実をうったえようとして五十子の城にきたが《つて》がなく、むなしくおわった。そこで、菅原の天満神(あまみつがみ)は人の無実をすくわれる、というので、きょうはじめて参詣し、おまえさんと出あった、といった。居合師は、こころまめな田舎ものに同情した。
「わたしも五十子の城にはゆかりがないが、またかんがえましょう」といっているところへ、村長らが五、六人で割竹(わりだけ)をならしながら、いそいでやってきた。
「やい、やい、商人(あきんど)。扇谷の奥方が、ただいま当社に参詣される」
おもいがけない人の社参に、居合師は店をかたづけはじめた。鮒三も手つだった。
管領扇谷定正の内室蟹目上の乗物が、おおくの従者をつらねて湯島の社頭についた。幾人かの社僧が出むかえ、案内しようとした。
蟹目上は日ごろから小ザルを寵愛(ちょうあい)しており、この日も膝の上にだいてきた。その小ザルがさわぎたてた。蟹目上は、
「出して、浄手(ちょうず)をさせよ」という。
乗物付きの老侍(おいざむらい)は、乗物のすだれをかかげて小ザルをうけとって、若侍にわたそうとしたが、小ザルはたちまちひらりとイチョウのこずえに走りのぼった。
よんでもおりない。従者らはとらえようとするが、木は百年をへたもので、足をかけるところもない。小ザルのひもが枝にからみ、短くなった。小ザルはからだをしめつけられ、苦しくなり、精魂(せいこん)がつき、死ぬかとおもわれる。
蟹目上は、供(とも)のものに、
「どうしたらよいのか。いまサルをとらえたものには、ほうびをほしいだけとらせる。たずねてみよ」という。だが、雲のはしごでもないかぎり手だてはない。
そのとき、くすくすわらうものがいた。供の老臣、河鯉権佐守如(かわこいごんのすけもりゆき)がそれをとがめ、
「上のご寵愛の小ザルが逃げて困却(こんきゃく)しているのに、なにがおかしい。そのわけをもうせ」といった。
わらったのは居合師だ。
「わたしは、居合・くさり鎌の技をもって生業(なりわい)としている薬商人です。いまわらったのは、あなたがたのことではありません。畜生とはいっても、あのサルはサル知恵もなく、技もなく、もがいて死をまつのがおかしかったのです。わたしにお命じくださるなら、サルをたすけておろしましょう」といった。守如は、
「それはなによりだ。はやく小ザルをとらえるがいい。ほうびはのぞむままだ」といった。
居合師はこずえを見あげて、
「ごらんなさい。根もとから二丈(じょう)あまりは枝がないのです。こずえについてもふみはずしたら、この世のわかれです。わたしのねがいをおききとどけいただけますか」ととうた。
居合師はどのようなことをいいだすのか。

第八十九回 居合師の正体……河鯉守如(かわこいもりゆき)の密命

居合師はまだ小ザルをとらえようとしない。守如は、
「とらえたなら、ねがいごとはなんでもききとどける。わしは上の守護(しゅご)、お供の頭(かしら)の河鯉権佐守如(かわこいごんのすけもりゆき)だ。武士たるものに虚言はあるまい。はやくとりかかるがいい」といそがしくいう。だが、居合師は微笑して、
「そうまでいそがれても、まだねがいごとをもうしていない。しかし、もうしていて時がたち、もし小ザルがけがでもしては、なんにもならん。功を奏したらもうしましょう。おわすれなさるな」といった。
守如は、「刀にかけて」といらだつ。蟹目上(かなめのうえ)は、ひそかにこころをやすめた。
居合師は木の下へよった。このありさまを男女の従者、社僧(しゃそう)らもみまもった。居合師は袂(たもと)をさぐって鉤縄(かぎなわ)をとりだし、ひきのばし、たばねたりして、はるかに高い第一の枝になげかけた。鉤はみごとに枝にからみついた。人びとは声をあげ、見ると、それは一条の縄でなく、縄ばしごである。居合師は横縄に足をふみかけ、身をうかして、たぐるようにのぼりはじめた。そのはやさは、軒下(のきした)のクモが巣をはるのとおなじだ。
見物人はみんな胆(きも)をつぶした。居合師はもう枝にたち、からみついたひもを、あっちこっちと、解(と)きまわして、小ザルをひきよせた。左右を見て、腰にさげた薬篭(やくろう)から薬をつまみ、ひと粒をサルにふくませて、しばらく頭をなでた。疲労した小ザルが元気をとりもどし、逃げようとしたのをひきよせ、ふところにおしいれ、枝をしずかにおり、それからはしごにすがって、地上におりたった。縄ばしごをはねあげると、鉤がはずれておちてきた。それを手にうけ、まきこむと袂(たもと)におさめた。そして、守如の前にひざまずき、
「ごらんになられましたか。小ザルは、ここにおります。薬をのませておきましたので、元気になりました。どうぞ……」
居合師は、ふところから小ザルをだし、守如にわたした。守如は微笑して、
「みごとなはたらきだ。さぞ上もご満足なされるだろう。そなたの姓名・宿所をもうせ。後日にご沙汰(さた)があろう」
「後日のご沙汰では、こまります。訴えは、ここでおききください。わたしの名は物四郎(ものしろう)、屋号は放下屋(ほうかや)といい、門前町に借家しています」
守如は小ザルをだき、乗物のかたわらにきて、蟹目上にしかじかとつげた。蟹目上は、物四郎の訴えごとをきくよう、とゆるした。で、守如は物四郎に、
「そなたは冥加(みょうが)な男だ。急なねがいごとをきくようにもうされ、乗物をしばらくとどめられる。そのねがいとは、どのようなことだ」
「わたしは人の無実をすくいたいのです」と次団太(じだんだ)のこと、木天蓼(またたび)の刀のこと、嗚呼善(おこぜ)の邪淫(じゃいん)、土丈二(どじょうじ)のことなどをのべ、
「おそれおおいことですが、上は長尾どのの父君とは同胞(はらから)ですので、箙(えびら)どのとは疎(うと)からぬ仲です。扇谷家と長尾どのは、いうまでもなく君臣のあいだがらです。下克上(げこくじょう)のこととて、さきごろ不和になりましたが、去年から和睦(わぼく)の風聞があります。春にはかならずご対面、ときいております。上は賢婦人(けんふじん)で義理がたく、お慈悲(じひ)の深いおかただ、というものがあるので、たのもしくおもってうったえました。白井と片貝(かたがい)に、この儀をおおせくだされて、次団太をすくってくだされば、このうえもないご恩におもいます」
「それは、容易ならぬねがいだ。帰城のうえもうしあげ、後日に沙汰しよう」と、守如はいう。物四郎は、
「ああ、それでは約束がちがいませんか。たとえねがいがはたせても、むだな日をすごしては、次団太は獄舎(ひとや)の責めにたえられず、いのちがおわるかもしれません。小ザルをとるときはいそがせ、わたしのことはなおざりにするのですか」守如はこまりはてたが、
「物四郎。そうまでおもっているなら、もうしあげてみよう」と、蟹目上の乗物のそばにひざまずき、しかじか、といい、また物四郎のところへもどってきた。
「そなたの訴えのおもむきは、上にも余儀ないこととおぼしめなされ、ご感動も浅くはない。これはうちうちのことだが、景春(かげはる)は甥、箙(えびら)の大刀自(おおとじ)は兄嫁、いずれも親しいので、ここから密使をつかわして、無実の罪人をおすくいなされる、とおっしゃられた。ありがたいお慈悲をあだにおもうてはならぬ。そなたは次団太のゆかりのものか、親族か」
「それは、かたじけないおんはからいでございます。この訴えはわたしにはかかわりのないことで、訴え人(びと)は別におります」といって、ふりかえって鮒三(ふなぞう)をまねいた。鮒三は居合師のうしろにぬかずいた。
物四郎は守如に、
「このものが、次団太の忠実な子分で、鮒三です」
「物四郎は、えがたい良知の義士だ。これらのことは、別当所(べっとうじょ)でくわしくもうしあげよう。ご参拝(さんぱい)のおわるころ、鮒三とともに別当所にまいり、ご沙汰をまつがよい」といい、それから従者に声高らかに、
「おん乗物を、あげよ」と下知(げち)した。
行列は、本殿をさしてすすんでいった。
あとにのこった鮒三は、物四郎に、
「おもいがけないあなたウまの洪恩(こうおん)。兄弟親類で焉Aこの親切にはおよばないでしょう。いまから越後にもどります。親分次団太が赦免(しゃめん)され、ふたたび娑婆(しゃば)に出たおり、おまえさまの恩義を知らせて、またここにまいり、ともにお礼をのべねばなりません。宿所をおしえてください」
「どうしてそのようなことをするのです。わたしとおまえさんとは知り合いではないが、次団太さんの名も、侠気(おとこぎ)のあることも、かねてからきいていた。そうでなくても、次団太さんに知られた犬田・犬川の二犬士はわたしの親友だ。木天蓼(またたび)の名刀が、犬田をさそうとした賊婦(ぞくふ)船虫の手から出て、わざわいが次団太にかかった事情を知ったので、犬田にかわって、すくいだそうとしただけのことだ」
鮒三は、恩を恩とせぬ義侠(ぎきょう)に、感涙(かんるい)があふれた。手ぬぐいをとり、額をぬぐい、
「あなたさまは、二犬士のお友だちでしたか。もっとくわしくおきかせください」
「いや。それよりはやく別当所にいき、上のご沙汰をまつことだ」という。
鮒三は、物四郎とともに別当所にきた。一刻ばかりまって、日影がななめになるころ、守如が出てきた。片貝の箙(えびら)の大刀自には従者妻有復六次通(つまりまたろくつぐみち)が上の手紙を持参し、鮒三は、その供をして越後におもむくことになった。また白井の景春には、帰城ののち管領家(かんれいけ)の下知をえて、別のものをつかわす、とつげた。次通らは、越後に出立していった。
しばらくして、蟹目上の行列は、五十子(いさらご)の城にむけてもどっていった。
物四郎は、守如からまつようにといわれたので、つれづれのままにさまざまなおもいにふけっていた。と、うしろから四、五人の雑兵がいっせいに声をかけ、十手をひらめかしておそいかかってきた。
物四郎は、からだをちぢめて足をはらった。雑兵どもは、とんぼがえりしてたおれた。また左右からくもうとするのをはずし、その早技は鷙鳥(しちょう)のように、よるをけたおし、うちたおし、こぶしの冴(さ)えは稲妻が甍(いらか)をはしるようだ。雑兵どもは、手もみだれ、足もみだれて、なんどもなげつけられた。また起きてよると、へたばるものもあり、ふすものもいた。いきた心地がしない。物四郎は声高く、
理不尽(りふじん)な捕物三昧(とりものざんまい)。わが身にはなんの罪もないのに、わけもいわずにかかるとは、非法だ。だれの下知だ」といった。すると、石灯篭(いしどうろう)のかげから、一人の武士があらわれ出た。
「みごとな勇士の手並(てなみ)、いま見とどけた」
これは、別人ではなく、河鯉権佐守如だ。
「勇士よ、しばらく怒りをしずめてください。わしのいうことをきいてほしい。そなたの起居振舞(たちいふるまい)、弁舌応対、知恵芸術、みな人のおよばぬところだ。居合太刀をもって、薬を売って渡世とする人ではない。歳にも似ずすぐれたるもの、民間にくだるとも、由緒(ゆいしょ)ある武士が、世をしのぶ姿であろう。本心・実名をかくさずにつげるなら、わしもまた大事をうちあけよう。これは、蟹目上の内命なのです」と、はじめとはことなる礼をもっていう。
「わたしには大望(たいもう)があり、まだとげてはおりません。ご用のことは知りませんが、たやすくしたがうわけにはいきません」
「事情をさっするに、親の敵(かたき)があり、まだ宿望(しゅくもう)をはたせないので、身をいとしみ、骨をおしんでことわられるのでしょう。そなたの知略武勇をもってすれば、まちがいはあるまい。ま、わが密議をひきうけてくれるなら、わしもそなたのために、憂(うれ)いをわかち、ちからをあわせるかんがえだ。それでもいやか」
物四郎は思案し、嘆息して、
「それでは、ご用のすじをおはなしください。この身でできることなら、御意(ぎょい)にしたがいましょう」といった。守如は微笑をうかべ、
「それでは機密をもうそう。だが、ここは不便だ」
守如は、さきほどの雑兵どもに張り番をさせ、木だちのあいだの、戸隠(とがくし)の祠(ほこら)のなかに案内した。守如は声をひそめてかたりはじめた。
「近ごろ、小田原の北条氏(ほうじょうし)の武威(ぶい)は、関東八州にひろがっている……」
それゆえ、管領家も鎌倉を去り、戦いはいまもやまず、扇谷定正・山内顕定(あきさだ)両管領の仲もよくない。越後の長尾景春は扇谷の重臣だが、その甥、修理介(しゅりのすけ)のことから主君をうらみ、山内顕定としめしあわせ、独立のいきおいをみせはじめた。
このようなみかたの不利にあって、定正は思慮(しりょ)がおよばず、ただ三、四年前から、龍山免太夫縁連(たつやまめんだゆうよりつら)という奸臣(かんしん)を重用し、ことのすべてをまかせ、いいなりになっている。この龍山は、もと千葉の家臣で篭山逸東太(こみやまいっとうた)とよばれたものだ。石浜の城にいたおり、自胤(よりたね)の家臣、粟飯原首胤度(あいはらおおとたねのり)をだましうって逐電(ちくでん)し、下野(しもつけ)におもむき、のち長尾景春につかえた。
景春が扇谷にそむき、白井の城をせめとったころ、縁連は主(あるじ)の使者として、木天蓼(またたび)の刀をたずさえ、下野赤岩の赤岩一角のもとにおもむいたが、そこからまた逐電し、扇谷家につかえた。ここで白井の城内のことをさまざまにあばき、重用された。蟹目上は定正をいましめたが、それをききいれない。
龍山免太夫(たつやまめんだゆう)と名のったのは、篭山(こみやま)の竹をのぞき、逸東太の逸の字のしんにゅう(・・・・・)と東の字をけずったのだ。これは、石浜と白井の城へのきこえをはばかってのことだ。龍山に無実のものがしりぞけられ、他郷に走るものもおおかった。去年の秋、自井の長尾家は先非(せんぴ)をくい、扇谷家に帰順する和議の話がおこったが、旧悪の発覚をおそれ、縁連はよろこばなかった。
それよりも、北条氏と和睦し、長尾景春をうてば、上野(こうずけ)・越後をとりかえし、いきおいは十倍にもなる。そのときは、山内顕定もおそれてしたがうだろう。これは一挙両得、としきりにすすめた。
定正は諸老臣にはからず、縁連だけにまかせ、北条氏への使節に縁連を任じた。蟹目上もこころをいため、信仰する天神(てんじん)にもうでたのだ。守如は、縁連独裁になやんでいる事情をかたった。さらにつづけて、
「縁連が小田原へ出立するのは、あしたの朝ときいている。これを知る老輩(ろうはい)のおおくは、眉をひそめている。大塚の大石憲重(のりしげ)・憲儀(のりかた)父子は長尾景春の縁者だが、北条方にこころがあるのか、この密議にくわわり、家臣仁田山晋吾(にたやましんご)を縁連にしたがわせるという。また縁連とともに小田原におもむく副使は、犬山道節にうたれた竃門三宝平(かまどさぼへい)の弟、鍋介既済(なべすけやすなり)、越杉駄一郎(こすぎだいちろう)の一子、駱三一峰(らくぞうかずお)、鰐崎悪四郎猛虎(わにざきあくしろうたけとら)ら、それに武士五人、雑兵百人だそうだ。さて、密議とはこのことだ」とさらに声をひそめ、
「縁連がうたれたなら、小田原への使者はむだとなり、もどってくるだろう。鰐崎らの勇士がいるが、縁連がうたれたなら、頭のないへビのようにおどろきさわぎ、度をうしなうだろう。そなたは縁連をうちはたして、早くたちのかれるといい。それに、飛び道具もある。うちはたしたなら、千金をもってむくいよう。これは、あしたの費用に……」と、守如は、金十両と種子島(たねがしま)の鉄砲をだした。物四郎は微笑して、
「おたのみ、承知した。たとえたのまれなくても、縁連は親の仇(あだ)だ。いま、はからずもかれの所在をくわしく知りえた。いまこそ、わたしの素性をあかそう。居合師放下屋物四郎とは仮りの名。まことは、千葉家庶流(しょりゅう)の家臣粟飯原首胤度(あいはらおおとたねのり)の一子だ。父胤度が横死したのち、相模国足柄郡犬坂村でうまれたので、犬坂毛野(いぬさかけの)胤智(たねとも)と名のる」とつげた。毛野は、金はかえし、鉄砲だけをうけとった。守如はおどろき、
「つたえきく、石浜の粟飯原氏のご子息でしたか。これはふしぎな良縁。志願成就(しがんじょうじゅ)疑いない」といった。守如は雑兵をひきい、五十子の城にむかった。毛野は、借家へとむかう。
しばらくすると、戸隠の祠(ほこら)のうしろの木のあいだから、さきほどの武士があらわれ出た。立ち聞きしていたらしく、湯島坂(ゆしまざか)をとぶように走り、姿を消した。

第九十回 浜辺の辻君……毒婦船虫(ふなむし)のさいご

去年の夏、越後(えちご)で犬川荘助義任(よしとう)が酒顛二(しゅてんじ)らをうった。そのおり、のがれた賊婦船虫は媼内(おばない)とともに、武蔵国豊島郡(としまのこおり)の司馬浜に近い谷山(やつやま)に小さな家を買い、住んだ。
半年もすると金はなくなり、また悪事をもくろんだ。船虫は辻君(つじぎみ)の身なりで、夜ごとに浜辺に立った。客の懐中に金があると知ると、媾合(こうごう)のおり、唇をまじえて舌をかみきってころした。しかばねを海にすてるのは媼内の役目だ。人気(ひとけ)のないところでおこなうので、この悪事は、だれにも知られなかった。
文明十五年正月二十日のことだ。船虫は、きょうも灯(ひ)ともしごろに宿所を出て、浜辺に立ち、客をまった。左右には、九尺四方の茅葺(かやぶき)の仏堂が二つならんで立っている。左には地蔵菩薩、右には閻魔(えんま)の木像がある。ここが邪淫(じゃいん)、人ごろしの場所だ。
二十日正月は、漁師・百姓・商家の下男まであそぶ日だ。辻君買いにくるものもおおぜいいたが、へそくり二百の客ばかりだ。これも甲夜(こうや)(午後八時ごろ)までで、あとは人がまれになった。たまにくる近村のものは、ひやかしてすぎた。船虫は、あっちこっちから木片をひろってきて、もえのこる火をおこして寒さをしのいだ。
野寺の鐘が四つ(午後十時)をつげた。船虫は、
「おさだまりの銭だけでは、かせぎばえがない。それにしても、うちの夫はいまごろまでどこにいるのか。ほかに女でもできたか」とつぶやいた。
雲がはらわれて、月が出た。そこへ、高畷(たかなわて)のほうから、一人の旅人が、肩に二つの旅づつみをかけて、いそいできた。船虫が、声をかけた。
「よっておいでよ」
「おや、宿ひきか」
「おろかなことをいいなさんな。わたしの夫は武家の浪人だったが病いでなくなり、老いた姑(しゅうとめ)の薬代にと情(なさけ)を売っているのさ」
「それなら買おう。仮寝(かりね)の臥房(ふしど)はどこだい」
「むしろをしき寝の手枕(てまくら)さ」と、船虫は旅人の手をとってかげに案内した。
しばらくすると、旅人があわただしく声をたてた。
「この淫婦(いんぷ)め。おれがはやく舌をぬかなかったら、かみきられるところだ。みろ、舌先がかじられ、血がながれた。このごろこの浜で客を害するやつがいるときき、こよい、旅人に扮装(ふんそう)し、ともにふしたが、うわさどおりの賊婦だ。おれは、五十子(いさらご)の放免善悪平(ほうめんさがへい)よ。五十子(いさらご)どの(扇谷定正)のもとにひいていき、ほうびをもらおう」と船虫をおしつけ、縄でしばりあげようとした。船虫は、ひるまず声をふりしぼり、
「おもいがけないお疑いです。わたしが悪事をするものですか。佳境(かきょう)にはいり、あなたの舌に糸切り歯がさわった、その傷でしょう」といいくるめて、はねかえし、こぶしでひとあてして逃げた。にがすものか、と善悪平(さがへい)が追いかけると、うしろで鉄砲の音がした。善悪平は、背から胸までうちぬかれた。
船虫は肝(きも)をつぶして、ぼうぜんとたたずんだ。そこに種子島の鉄砲をひっさげて、悪僕(あくぼく)媼内が、赤ウシをおいながらきた。船虫はほっとし、善悪平のことをはなした。
「それより、おまえさんは、どこへいっていたのさ」と小言(こごと)をいう。媼内は微笑して、
「そう、おこるな。この月は銭にならず、酒もおもいのままのめない。キジでもうって肴(さかな)にしようと、鉄砲をひっさげてきたが、これもとれず、腹がたって酒屋でのんでいたら五つ(午後八時)さ。冠松(かむりのまつ)までくると、百姓家で夫婦げんかがはてしなくつづいていたのだ。おれが背戸(せど)のウシ小屋を見ると、赤ウシが一頭いた。全身脂(あぶら)でこえている。売ったら、小判十枚にはなるだろう。ここまでひいてきて、おまえの難儀を知り、鉄砲をうったのさ。善悪平のしかばねを海にながしてから、千住(せんじゅ)あたりで赤ウシを売ってこようとおもう。持ち主が追ってきてはめんどうだ。しばらく、ウシをかくすところはないか」
船虫が磯辺(いそべ)に塩をやく藁屋(わらや)を見つけた。で、そこにウシをおいいれた。すると、六尺棒をもった男がきた。媼内は、おれはかくれてしかばねをながす、おまえは気づかれるな、と閻魔堂(えんまどう)にかくれた。男は百姓ふうで、身の丈が高く、たくましい。四十ばかりにもなるか。船虫に、
「いま、赤ウシを追ってきたものを見なかったか」
「そんな人は、見ないよ。道がちがうのではないのかい」
「それはおかしい。おれは麻布(あざぶ)にかくれもない冠松のほとりの百姓、鬼四郎というものだ。家には赤ウシ一頭がいて、村人が赤鬼四郎とよんでいるほどの逸物(いつぶつ)だ。おいら夫婦が口げんかをしているあいだに、そのウシがぬすまれた。人のうわさでは、ウシをつれた男が司馬浜のほうにいったそうだ。宵(よい)からここにいるおまえが見ないとは、うさんくさい」
「わたしは、ウシの番人ではないさ」
そのとき、主人(あるじ)の声をききつけてか、三たびウシがないた。鬼四郎は、
「あれはおれのウシだ。あそこにかくしたな」と戸口に走った。とりすがる船虫をつきたおし、藁屋の戸をあけようとすると鉄砲がひびき、鬼四郎がたおれた。
媼内と船虫は、二つのしかばねのしまつの相談をしはじめた。と、はるかに小提灯(こぢょうちん)が見えてきた。高畷のほうから、浦辺をさしてこっちにくるのだ。
月の光でよく見ると、腰に両刀をおびているので、旅の武士だろう。頭巾(ずきん)を深くかぶり、ちいさな旅づつみをせおっている。船虫は、
「あれをごらんな。あれはカモかもしれないねえ。いって袖をひこうか。しかばねをかくしなさいよ」
媼内はこころえて、あたりにあるやぶれ苫(とま)を鬼四郎・善悪平(さがへい)のしかばねに二、三枚かけて、自分は閻魔堂の軒下にかくれた。その武士は、いそいで浜辺をすぎさろうとした。船虫は、それをむかえて、
「ちょっと、よっていきませんか」と袖をひいた。
武士はおどろき見かえり、「そなたは、どのようなものか」
「はずかしながら、親のためにあきなう遊女(あそびめ)ですよ」という。この声にはききおぼえがある、と武士は小提灯をあげて、
「そういうおまえは、船虫ではないか。おれが小文吾と気づかぬのか」と左手で頭巾をとると、堂々たる威風(いふう)、まぎれもなく犬田小文吾だ。
船虫が逃げようとすると小文吾は提灯をすて、猿臂(えんび)をのばし、襟首をつかみ、小脇(こわき)にしめつけようとした。閻魔堂の軒下にかくれていた媼内は、小文吾ときき、ねらいうとうと、下壇(げだん)にのぼり、尻をかけて、手ばやく鉄砲に二つだまをこめた。
そのとき、堂内から戸をけりひらき、一人の武士があらわれ出て、媼内をひっつかみ、のけぞらして、鉄砲をうばってすてた。おどろきさわぐ媼内を宙につりあげて、十間(けん)も離れた地蔵堂の下壇までなげた。
媼内はたおれた。堂内に、もう一人の武士がいる。おきようとする媼内に走りより、けりかえして背をふみつけ、わらいながら、
「ひさしいな、媼内。わたしは犬塚信乃だ。よく目を見ひらいてみるがいい」といって笠をとった。閻魔堂の武士も笠をとり、下壇におりて立った。小文吾に、
「あぶなかったな、犬田さん。わたしたちは、夕方からこの堂内にいました」という。犬山道節忠与(ただとも)である。小文吾も船虫をしばり、
「よいところに犬山さん、犬塚さん。どうしてこのようなところに……?」ととうた。信乃も媼内をしばり、けおとし、小文吾と顔をあわせた。
そこへ犬川荘助・犬飼現八・犬村大角の三犬士が、足のはやい小文吾におくれてきた。
小文吾は、この三犬士に船虫・媼内をとらえたこと、信乃・道節のたすけをえたことをつげた。荘助・現八・大角はおどろき、信乃・道節に対面し、ともによろこびをのべた。
荘助・現八・大角らは、
「わたしたちは犬田さんとともに丶大法師(ちゅだいほうし)のあとをしたって指月院を出て、道をいそぎ、ゆうべは八王子(はちおうじ)に宿をとり、けさもはやく出立しました。石原宿(いしはらじゅく)までくると、うしろから声をかける人がいて、四谷のほうにいくのは益なく、矢口(やぐち)から高畷をさし、司馬浜にむかうがよい、という。わたしたち四人がみな聞き、ともにふりかえったが、あとからくる人はないのです。これは、神のおしめしなされる辻占(つじうら)なのか、とおもったので、矢口まできたのです。日がくれましたが、夜中になっても穂北(ほきた)にたどりつこうと、いまこの浦まできました。犬田さんは足がはやく、いつも先頭になって走られたかいがあり、うらみかさなる賊婦をとらえ、また両賢兄(りょうけんけい)の助力で媼内の鉄砲をのがれることができたのはめでたいことです」といった。小文吾は微笑し、
「わたしたちがここにきたわけは、いまいったとおりですが、犬塚さん、犬山さんたちは、どうしてここへ……?」ととうた。すると道節は、声をひそめ、
「わたしは犬塚さんとともに、約束があって、人をまっているのです。それはあとで話をしますが、それより、この夫婦の賊を、このままにはできません。犬塚さんも、この人ごろしを見たでしょう。そのあらましを、諸君子にいってください」
信乃はうなずき、「犬田・犬川・犬飼・犬村の諸君、この賊婦にあざむかれたことはありませんか」ととうてから、船虫が辻君となり、客をさそいころして金をうばったこと、こよいは放免善悪平(ほうめんさがへい)を、赤ウシをぬすんできた媼内が、鉄砲でうちころしたこと、冠松(かんむりまつ)の鬼四郎をころしたことなどをつげた。
小文吾は、船虫が三たび強盗の女房となり、自分を二度も害そうとしたことをのべた。現八は、船虫が赤岩村で妖怪の女房となり、犬村大角夫婦をしいたげ、その妻女を害したことをいった。荘助は、
「去年は、わたしをあざむいて、庚申堂から隠れ家(が)へおくらせたむくいに、酒顛二(しゅてんじ)らをみんな殺したが、こいつははやく逃亡した。天罰時節(てんばつじせつ)到来して、とらえたことは愉快なことです」といった。
大角は、だまってため息をはいた。船虫は大角に、
「犬村さん。わたしの罪は後悔してもおよびつかないが、母といわれ、子ととなえたことのあるよしみで、いのちごいをしておくれ」という。
大角は眼(まなこ)をいからし、
「毒婦め、なにをいうか。わたしがふるさとにいたころ、親の仇(あだ)の妖怪にたぶらかされたので、継母の縁(えにし)ができた。妖怪があらわれて親のうらみをかえしたが、そのおり、おまえもゆるすべきではなかった。そのころは縁連(よりつら)を犬坂さんの仇とは知らず、また阿佐谷(あさや)で犬田さんを害そうとはかったことも知らなかったので、縁連のねがいでおまえをたすけた。それをくやむだけだ」という。信乃は、
「いまはもう、議論の必要はないでしょう。媼内は、四谷の原で、主人泡雪奈四郎(あわゆきなしろう)に傷をおわせ、路銀をうばって逃亡したものです。その罪は船虫におとらない。ならべて八つざきにして、悪をこらしめよう」といった。道節も、
畜生(ちくしょう)にもおとるこいつを手にかけては、刀がけがれる。媼内がぬすんだウシがいる。あのウシにとっても主人の仇だ。ウシにつかせよう」というと、小文吾・現八・荘助も同意し、刀につけた小刀子(さすが)(小さな刀)で船虫・媼内の着物の背すじをきりさき、信乃・小文吾が矢立(やたて)の筆で賊夫婦の罪状を背なかに書きしるした。それから閻魔堂(えんまどう)の軒端(のきば)の二本の杉の木にまきつけた。
小文吾・現八は赤鬼四郎の尻をたたいた。たたかれたウシは媼内・船虫をにらみ、長くとがった角で脇の下から肩先までつらぬき、つんざいた。地獄の呵責(かしゃく)だ。
賊夫婦の息はたえた。六犬士も粛然(しゅくぜん)と顔をあわせた。妖賊船虫は、八犬伝から消えた。

第九十一回 仇討ち……縁連(よりつら)襲撃

このとき、小文吾が、信乃・道節にいった。
「去年の四月、闘牛のあったおりに、小角力磯九郎(こずもういそくろう)は、船虫・酒顛二にころされた。こよい、赤ウシが船虫・媼内(おばない)をつんざいて主人(あるじ)の仇をかえしたのは、磯九郎のためにも仇をかえしたのとおなじです」
道節は、「じつは、だいじな密談があるのです。まもなく、約束の船がくるころです」という。
やがて、波をきって快船(はやぶね)が一艘(そう)、塩浜にこぎついた。あいずの呼子(よびこ)がなる。
道節と信乃が走っていくと、へさきに落鮎余之七有種(おちあゆよのしちありたね)の姿が見えた。道節・信乃に、
「さきにしめされたことばにしたがって、わたしは穂北に走り、一味の人びとにそのむねをつげ、すみやかに準備をととのえました。それを知らせに、ただいま到着しました。一味の人びとは、五、六艘の大平駝(おおひらだ)にのってつづいてくるはずです」
「それは、はやい手配(てくば)りだ。ここで、小文吾・荘助・現八・大角の四犬士が、甲斐からきたのに出あった。好都合だ。対面するといい。まだ相談がある」
信乃も、有種主従と船人たちをねぎらった。荘助・現八・小文吾・大角は赤ウシを木の幹(みき)につなぎおえて、そろってきた。信乃・道節は四犬士に有種がきたことをつげ、みんなで船にのった。船は、高畷(たかなわて)にむかった。荘助・小文吾は、現八・大角とともに有種に対面した。
道節は、小文吾ら四犬士に、
「わたしはきょう、湯島の社頭で犬坂毛野(けの)にあった。犬坂の才学のすぐれていることを人相学から知った。わかれるとみせかけて、ようすをうかがったが……」と、百堀鮒三(ひゃくぼりふなぞう)の次団太(じだんだ)救出のねがい、毛野と河鯉守如(かわこいもりゆき)との密談、あした父の仇、縁連(よりつら)が小田原北条へ扇谷の使者として出立すること、それを毛野がうとうと用意していることなどをかたった。
現八・大角・有種は、まだ犬坂毛野とは対面していない。それでも、犬士の兄弟としてよろこんだ。道節がかたる。
扇谷定正は旧君の仇で、去年の九月から穂北に滞在しているので、五十子(いさらご)の城は好都合だ。犬坂の復讐のことが五十子の城中にきこえたなら、定正は毛野をうとうと出兵するだろう。そのすきに城をせめ、定正の首をはねる手だてをするのだ。落鮎有種は、豊島氏の残党九十余人をもつ。そのうち三十人を毛野の手だすけとし、ほかはわれわれとともに城ぜめしようと思案した。
穂北にむかう途中、上野の原のあたりで、犬塚信乃・落鮎有種と出あった。で、自分のかんがえをつたえ、有種はその準備のために穂北にもどり、自分は信乃と司馬浜にきて、仏堂のあたりでまっていたのだ。そこで小文吾・荘助・現八・大角の犬士たちと出あった、というのだ。四犬士は、その手だてを賞賛した。
信乃は小文吾らに、
「わたしは犬山さんが一人で大敵にむかうのは無謀(むぼう)だといったのです。もし万が一討死(うちじに)でもしたら、里見どのに不義となるとおもったからです。しかし、もうわたしも扇谷定正をうち、祖父匠作三戌(しょうさくみつもり)の嘉吉(かきつ)の合戦のうらみをかえそうというかんがえになりました」
小文吾は、「犬坂毛野は、石浜で馬加(まくわり)一族をみなごろしにするほどの手並(てなみ)です。縁連が多人数でも、うちはたすでしょう」という。
それを荘助はさえぎり、
「いや。犬坂が石浜でおおぜいの仇をころせたのは、家のうちの夜のうちで、仇の主従が酔いでふしていたおかげでもあるのです。あしたのかけひきは、その日とおなじではない。縁連のつれには勇士がおり、従者も百余人におよぶそうです。それに、野原のいくさとなるので、犬坂毛野胤智(けのたねとも)が縁連をうったとしても、のがれることはむずかしくなるでしょう。犬田さんとわたしは、犬坂に助力し、敵(かたき)をきらなければ、死地にはいって生地に出る道はないとおもうのですが……」
小文吾はうなずき、現八・大角も、荘助を支持した。
道節が、いった。
「犬川さん、犬田さんだけでなく、犬飼さん、犬村さんもそのほうにくわわってください。縁連とともに小田原にむかう副使には竈門鍋介既済(かまどなべすけやすなり)・越杉駱三一峰(こすぎらくぞうかずお)・鰐崎悪四郎猛虎(わにざきあくしろうたけとら)、それに、大石憲重(のりしげ)の家臣、仁田山(にたやま)晋吾(しんご)がくわわります。このうち猛虎は三十人力で、武芸も尋常(じんじょう)でないそうです」
犬田小文吾・犬川荘助・犬飼現八・犬村大角の四犬士が三十人の兵とともにまちぶせ、犬坂が縁連にうちかかったとき、あとをたち、鰐崎らをうちとるのはどうかと道節はいいそえた。
それに荘助が口をはさんだ。犬坂は、親の仇をうつのに助力を得てはと、うらむかもしれぬ。いまここで方略を思案するより、犬飼・犬村が三十人の兵とともに身をかくし、勝負をうかがってはどうか。犬川と犬田は副使をきりくずし、そこで難儀となったなら、たたかってはどうか、という。
信乃の提案で、あしたのようすでかけひきすることにした。道節は有種の配下をよび、五十子の城のあたりにしのび、縁連が城を出たなら、犬川・犬田に知らせよ、といった。そのものらは舟をよせ、五十子の城をさしていそいだ。
有種は船を司馬浦にむけさせ、六犬士には夜食をすすめた。酒もある。話はつきない。
そこへ有種の配下九十余人が大平駝五、六艘にのり、千住川(せんじゅがわ)からきた。道節は、高畷の浦に船をとめて、手配りをした。船には、腹巻・肱盾(こて)・弓矢・槍・長刀(なぎなた)などがおおくつまれている。六犬士は、それぞれえらびとり、身をかためた。
もう夜は丑(うし)三つ(午前二時)になる。有種は約束にしたがって船にのり、六犬士はみかたの兵をしたがえて、ひそかに陸にあがり、高畷の森のなかにあつまり、手配りをさだめた。さらに五、六人の間諜(しのび)を、五十子の城のあたりにおくった。
あければ正月二十一日。この朝、五十子の城内から、龍山免太夫(たつやまめんだゆう)(前名は篭山逸東太(こみやまいっとうた))縁連は、小田原北条家に使節として出立していった。その行列は、一町あまりもつづいた。品革(しながわ)をすぎ、朝日ののぼるころ、鈴の森の波うちぎわにさしかかった。
と、前の森の木かげから犬坂毛野胤智がおどり出た。白布の表の下に小鎖(こぐさり)の網衣(きこみ)を着て、重革(かさねがわ)の立挙(たちあげ)の臑盾(すねあて)、白布の鉢巻、髪をうしろにふりみだし、二尺八寸の白太刀に匕首(あいくち)をさしそえ、鉄砲をひっさげ、ゆくてにたちふさがる。天地にひびくばかりに声高らかに、
「龍山免太夫、もとの名は篭山逸東太縁連、しばらくとどまれ。さる寛正六年(一四六五年)の冬十一月、杉戸の里にて、なんじのためにうたれた粟飯原首胤度(あいはらおおとたねのり)のわすれ形見の第二の男子、犬坂毛野胤智ここにある。ともに天をいただかざる、うらみの銃丸(つつさき)うけてみよ」と名のり、鉄砲をとりなおし、火ぶたをきった。
縁連の馬の胸骨(むなぼね)がうちぬかれ、馬は屏風(びょうぶ)をたおしたようにふしころび、縁連もともに地上にたおれた。毛野は鉄砲をなげすて、太刀を真向(まっこう)からぬきかざし、とぶように走りかかった。
縁連の四人の若党が主(しゅ)をうたせまいと、刀をぬき防戦につとめる。刃(やいば)の光が朝日をうけて目をさすが、いさんでいる毛野はものともしない。無人の広野にはいるように、あたるにまかせてきりたおす。二人は首をうちおとされ、のこるものも深手を負って息たえた。
縁連は身をおこし、すててある手槍をとり、田んぼのほうに一町ばかりしりぞいた。
毛野はみかえり、
「やい、縁連。逃げようとて、どこまでにがそうぞ。きたないぞ。かえせ、かえせ」とよびかけて、まっしぐらに追った。

第九十二回 三方の敵……定正の怒り

篭山逸東太縁連(こみやまいっとうたよりつら)は犬坂毛野の手並(てなみ)をじゅうぶん承知している。で、副使の竈門鍋介既済(かまどなべすけやすなり)・鰐崎悪四郎猛虎(わにざきあくしろうたけとら)の二の手、越杉駱三一峰(こすぎらくぞうかずお)・仁田山晋吾(にたやましんご)の後陣の助太刀(すけだち)をえようと、逃げるとみせかけて時をかせごうとしりぞき、眼をいからし、
「やい、くせもの。狼藉(ろうぜき)だ。わしが若かりしころ、石浜の故主の密諚(みつじょう)やむをえず、粟飯原首胤度(あいはらおおとたねのり)をうちはたしたことはある。が胤度の一子、少年粟飯原夢之助(ゆめのすけ)は、その母とともに死刑に処せられたときいている。そうとなれば、子どものあるはずがない。その子といつわり、わしを敵(かたき)とののしり狼籍におよぶとは、おまえは気ちがいか、敵のまわしものか。わしをうつにはまだ未熟(みじゅく)だぞ」とののしった。毛野はさわがず、
「おろかもの縁連。わたしが胤度の子でなければ、おおぜいの敵をはばからず、なんじと雌雄(しゆう)を決するものか。近くよって、よっく聞け。わが母は、父の側女(そばめ)で、わが身を懐胎(かいたい)三年(みとせ)ののち、相模国足柄の犬坂村にうまれたので、この地の名をとり犬坂毛野胤智と名のった。これを知る人はまれながら、天の照覧(しょうらん)、神仏の冥助(めいじょ)をあおぐ多年の宿望(しゅくもう)……。
わが出生以前から、二人の仇がいる。その一人の千葉家の奸臣、馬加大記常武(まくわりだいきつねたけ)は、さる己亥(つちのとい)(文明十一年)の夏五月の望(もち)の夜、石浜の対牛楼(たいぎゅうろう)で、従類までおもいのままにうちとった。のこる仇はなんじのみ。いまはのがれぬ天の冥罰(みょうばつ)。疑いをすて、刃(やいば)をうけよ」
ことばけわしくいいはなち、うちすすむ太刀風。縁連は槍をはなってわたりあう。毛野はものともせず、うけながし、またうちはらい、しきりにすすむ刃の光。縁連ははやくも腕がみだれ、浅手を四、五か所おいながら、ここを先途(せんど)とたたかう。
後方、二町ばかりはなれた竃門既済・鰐崎猛虎のもとに、縁連の従者があわただしく逃げてきて、しかじかとつげた。二人は、
「いましがた、種子島(たねがしま)の音が遠くでしたので、気になっていたが、さてはくせものであったか。ものども、つづけ」とよばわり、馬をはしらせた。
縁連の若党四人のしかばねと、馬がたおれていた。縁連の従者は、はるか田の畔(くろ)を指さしていう。
「だんながた、あれをごらんなさい。犬坂毛野という狼籍ものは、あそこにいます」
「くせものは、まだ去らずにいるぞ。縁連をうたすな、ものども!」とはげしく下知し、馬をすすめ、縁連をたすけようとするが、ゆくてはせまい水田の畔で、ためらうばかりだ。縁連は、しばしば毛野にうちなやまされ、あやういありさまだ。猛虎は声をふりたて、
竃門(かまど)どの。左右の道は近くはないが、ひろくて多勢をやれる。貴殿(きでん)は越杉・仁田山らとしめしあわせ、左右から多勢をつれてうちよせられよ。わたしは一人で中道(ちゅうどう)からあそこの危窮(ききゅう)をすくおう」と馬からおり、槍をとると、幅三尺にもたらぬ水田の畔を、矢のように足にまかせて走っていった。そのあとから、若党らがあえぎながらつづいた。
異変を知らされた越杉・仁田山も馬をとばしてきた。既済も馬をよせた。ここで、三方からくせものをからめとる手配りをしめしあわせ、東のほうに越杉・仁田山らは走る。西のほうから既済がかけた。それぞれ二、三十人の兵がつづいた。さきにすすむものは、弓に矢をつがえて走る。三方からの大敵に、犬坂に万夫(ばんぷ)の勇があっても、のがれることはできまい、と既済・一峰・晋吾らは多勢をたのみ、東西からどっと走った。
西も東もゆくての畔にかけわたした藁塚(わらづか)かげから、おもいがけなく、きらりと一度につきだされる槍で、既済・一蜂の馬の腹がぐさっとつらぬかれ、馬上の二人もはねおとされて、田の畔に身をのけぞらせた。
そのとき、東西の畔のかけ藁をおしたおして、二人の勇士があらわれた。手には大身(おおみ)の槍をひっさげて、ゆくての畔に立ちふさがり、声をあわせて、
「なんとものものしい悪人どもが、多勢をたのむ助太刀三昧(ざんまい)よ。犬坂毛野の仇討ちをよそながらみまもるのは、異姓の兄弟、犬田小文吾悌順(やすより)だ。袖印(そでじるし)からさっすると、なんじは竃門鍋介か」と名のった。
東に立った一人の勇士も、
「なんじは越杉か、跂松(はいまつ)か。ころんだやつは、ころしてもしかたがない。あとのものは、馬をすすめろ。犬坂毛野の義兄弟、犬川荘助義任(よしとう)、ここにあり。逃げようとしても、のがさん。はやく勝負を決せよ」
多勢にひるまぬ武勇の広言はあなどりがたいが、まだからだに傷をうけていない既済・一蜂・晋吾は若党・下僕(げぼく)をののしりはげまし、短兵急(たんぺいきゅう)にうってかかった。
西の頭人(とうにん)、既済は小文吾と刃をまじえ、しばしいどみたたかったが、犬士の相手にならず、水田のなかにつきおとされて絶命した。兵どもはおどろきおそれ、みんな敗走した。小文吾は、のがすものかと追った。
また東の頭人、越杉駱三(らくぞう)一蜂は、はじめ荘助に馬をさされて落馬したときに、ひじをきずつけた痛みにたえて身をおこした。仁田山晋吾とともにうとうとしたものの、つきたてられ、深手を追った。さらに逃げるみかたにおしたおされ、それに晋吾の馬にふまれて、胸骨(むなぼね)がくだけて死んだ。
仁田山晋吾は、はじめから荘助の槍をさけて、しきりとみかたをすすませようとした。まるで、むらがるヒツジの角で猛虎(もうこ)をつこうとするに似ていた。むかうものはいのちをおとし、逃げるものは血にまみれて、四方にちった。晋吾も馬にむちうって逃げた。荘助は、
恥(はじ)を知らんのか、おまえは。戸田川で討死(うちじに)した十条力二郎(じゅうじょうりきじろう)・尺八(しゃくはち)のうらみをはらしてやる。かえせ、かえせ」と声をかけたが、晋吾はいのちのかぎり、逃げに逃げた。
これよりまえ、縁連は犬坂毛野の太刀風のはげしさに、身に危険をおぼえた。そこへ、鰐崎悪四郎猛虎が、まっしぐらにかけつけてきて、
龍山(たつやま)どの、こころづよくあれ。五十子(いさらご)どの(扇谷(おうぎがやつ)定正)の御内(みうち)で、合戦の功名いちじるしく、万夫不当(ばんぷふとう)とよばれた鰐崎猛虎がきたぞ。身のほど知らぬ一人のくせもの、トラの餌(え)になる犬坂とやらをほふるのに手間はかからぬ」とほざく。
縁連はこれにちからをえて、しきりにおめき、ひらめかす槍にすきはないが、毛野は臆(おく)することなく、ちかづく猛虎を尻目(しりめ)にかけ、縁連がふみいってさす槍のさきをひらりとはずして、ちょうとうつ。刃の冴(さ)えに縁連の槍の蛭巻(ひるまき)がきりおとされ、腰刀をぬこうと柄(つか)に手をかけた。そのときはやく、このときおそく、毛野のうった刃の稲妻(いなづま)。縁連は左の肩先をきられ、あっとさけびもはてずに、どうとたおれた。
そこへ猛虎は、朋輩(ほうばい)の仇、にがすものか、といきまき、たけり、ちょうとつく。毛野が身をひらりとかわすと、猛虎はちからのあまり田の畔のハンノキの切り株をさしつらぬき、あわててぬこうとする。毛野はすかさずより、刀をあげてうつ。
猛虎は眼(まなこ)すばやく、槍をすて、身をしずませ、犬坂の足をすくい、のめらした。毛野が刀をおとすと、両手をひきつかみ、目よりも高くさしあげた。なげころそうとおもいながら、あっちこっちと二度、三度まわると、やっと声をかけてなげおとす。
毛野は宙で身をひるがえして、なげられながらけった。猛虎は右の脇腹(わきばら)をうちくだかれ、うんとばかりにのけぞりたおれた。毛野はのりかかって首をかこうと、猛虎の頭髻(たぶさ)を左手にからませた。
鰐崎の従者八、九人が、このありさまを見ておどろきさわぎ、みんな主人をうたせるものか、とあせる。道がせまいので、先頭のもの一人が刀をぬいて走りかかった。毛野は猛虎をおさえてはなさず、右手に小石をつかみ、なげつけた。若党は眉間(みけん)をうちくだかれて死んだ。毛野はまた小石をなげた。二人めの若党は、のどをうちやぶられて鮮血をはき、たおれた。ほかのものは、おそれて逃げた。毛野はあざわらいながら腰をさぐり、短刀をひきぬくと、はねかえそうともがく猛虎の髻(もとどり)をつかんで首をかききり、刃をぬぐって腰におび、首級をひきさげて身をおこした。
後方にたおれていた縁連は、ようやくわれにかえり、おどろきながら腰刀をぬきつつたちあがり、うしろからちょうとうちかかる。毛野は、猛虎の首を縁連の目になげた。縁連は首の目つぶしをくって、あっとばかりによろめいた。毛野のぬきはなつ短刀にうたれて、縁連の首は、とんぼがえりをしてまろびおち、むくろとともにたおれた。
もうちかづく敵もないので、毛野はしずかに短刀の鮮血をぬぐい、鞘(さや)におさめ、猛虎とくんだときにすてた刀をひろい、これもぬぐって腰におびた。ふところから亡父の法号をしるした小掛物(こかけもの)をひらいてハンノキの枝にかけ、水田の氷をくだいて、縁連の首級の鮮血をあらいながし、切り株にのせて、親の霊にたむけた。
そこへ二犬士荘助・小文吾がきた。毛野は小掛物をまきおさめ、微笑しながらむかえた。
「これは、おもいがけない。犬田さん、犬川さんもともに、けがはありませんでしたか。どうしてきょうの仇討ちを知られたのです。敵のほうのものどもが、東西の畔道から縁連をたすけにきたおり、あなたがたが待ちぶせしてさえぎり、うちはたしたことをはるかに目撃しましたが、わたしも縁連との戦いのさなかだったので、きく暇(いとま)がなかったのです。あなたがたのおかげで、三方からの敵をうけず、縁連にみかたした鰐崎悪四郎猛虎とかいう、手並のすぐれた武士をうちはたし、縁連の首級をあげることができました。仇の首級を亡父にたむけ、まつっていたとき、あなたがたがここにこられた。きょうの助力は、神の示現(じげん)か、仏の利益(りやく)か、まったく感謝することばも知りません。かえすがえすも意外の再会。よろこびによろこびをかさねた生涯の幸い、これにまさるものはない」と、よろこびをのべた。
小文吾・荘助は、既済・一峰をうちとったことや、晋吾が逃げたことと、犬飼・犬村の二犬士が手のもの三十人をしたがえて待機していることをつげた。またこれは犬山道節によってはかられたものだが、長ものがたりになるので森の木かげにしりぞいてかたろうとさそった。朝日がようやくのぼり、辰(たつ)のはじめ(午前八時)ごろになった。
いっぽう、仁田山晋吾は、このようすを五十子の城に注進しようと馬をはしらせた。従者一人があえぎあえぎしたがって、谷山(やつやま)のほとりまでたどりついた。
と、ひとむらの繁みからとんできた矢に、左の肩を射(い)られて馬からおちた。従者も二の矢に足を射られてたおれた。木の間から雑兵が四、五人走ってきて、人馬ともしばりあげ、木かげにしりぞいた。

話は五十子の城内にうつる。
逃げ足のはやいもの幾人かがかえってきて、異変を注進した。みんな胸をつぶし、おどろいたが、扇谷定正は平然としておちつき、
「それは不慮(ふりょ)のことだが、いかにそのくせものらが、あばれイノシシのごとき勇者でも、みかたの多勢にはかなわぬだろう。まして猛虎は三十人のちからがあり、また既済・一蜂らも軍陣になれたものだ。それに大石の陪臣(ばいしん)仁田山晋吾がいる。百余人の士卒が、三人の敵におそれをなし、不覚をとるものか。ほどなくうちはたして、注進してくるだろう」という。
忠心あるものは、縁連の死をねがい、縁連に同意するものは、定正の判断に歯がゆさをかんじた。
そこへまた、幾人か痛手をおって五十子の城に逃げてきた。縁連・猛虎・既済・一蜂が犬川荘助・犬田小文吾にうたれたことを注進し、さらに、晋吾は大塚に逃げたのかもしれない、とつげた。
定正はいかり、みずからおいかけ、毛野らをうつ、と馬を命じた。新手の兵二、三百人が広庭にそろった。
定正は、赤地錦(あかじにしき)の鎧(よろい)ひたたれに紫糸の札(さね)よき鎧をきくだし、竜頭(たつがしら)の兜(かぶと)の緒(お)をしめ、藤巻(ふじまき)と名のある当家重代の太刀に、虎皮の尻鞘をかけたのを腰によこたえ、九寸五分の刻鞘(きざみざや)の匕首(あいくち)をさしそえ、三尺五寸の小薙刀(こなぎなた)を脇ばさみ、精好(せいこう)の大口袴(おおくち)を、歩けばさやさやと音がするのを裾短(すそみじか)にはきなし、いきおいよく猛(たけ)だけしく出てくると、馬にひらりとうちのり、出立しようとした。
そこへ河鯉権佐守如(かわこいごんのすけもりゆき)がきておどろき、定正の馬のくつわをおしとどめ、
「これは、もったいない。わが君は、ものにくるわれましたか。お怒りをしずめて、わたしのもうしますことをおききください。縁連は国を売り、身の利をはかる佞人(ねいじん)ですが、それを知られなかったのは、月が明らかなのに浮雲におおわれて光をうしなうように、縁連の佞弁(ねいべん)にまどわされたからでございます。このたびの北条氏とのおん和議は、もとより良善のおんはかりごとではありません……」
縁連にはかられて忠臣が遠ざけられ、蟹目上(かなめのうえ)もこころ苦しくおもわれている。縁連は、もとは千葉家の旧臣篭山逸東太(こみやまいっとうた)といって、馬加常武(まくわりつねたけ)にそそのかされ、千葉家の忠臣粟飯原首を杉戸の松原でころして逐電(ちくでん)し、下野(しもつけ)に世をしのんで、にせ赤岩一角(あかいわいっかく)の弟子となり、その推挙(すいきょ)で長尾景春(ながおかげはる)につかえた。そこでまた罪をおかして、当家に亡命してきた。
犬坂毛野は粟飯原首の遺腹(いふく)の子で、同盟の義士が数人いる。親のうらみをそそごうとして、ひそかに縁連をたずねていたことを、すでに知っていたものもいる。
当家のご武運なおたのもしく、縁連がうたれたために和議がととのわず、人の下風に立たないですむのは、むしろ当家の幸いである。はやく使いをつかわし、犬笆ム野らの孝義をほめ、城内に召しむかえ、高禄をもってとどめられたなら、毛野らも君の寛仁大度(かんじんたいど)にかんじて、忠義をつくすだろう、といった。
扇谷定正は、いらだち、
「守如、無礼だ。龍山縁連は、犬坂めの仇としても、もっとほかに復讐(ふくしゅう)の機会があったはずだ。わが正使として、縁連を小田原の北条氏へつかわす途中、ここからほど遠からぬ鈴の森にまちぶせし、縁連のみならず副使・従者(ともびと)さえうちとられたのに、おめおめとからめとらないでは、当家の威風(いふう)おとろえたり、とこれから隣国にあなどられるだろう。おまえは、縁連の功をねたむのではないか。そうまでおもうなら、はじめから、どうして一言もいさめないのだ。縁連の死をきき、その旧悪をそしるのみならず、他人の武勇をたたえるとは、君をあなどる不義不敬。そこをのけ」といって、むちで守如をうった。守如の額(ひたい)から鮮血がながれたが、くつわははなさない。
「これは情(なさけ)ない君のご短慮(たんりょ)。わたしは、日ごろ縁連の奸佞邪知(かんねいじゃち)を知っておりましたが、その非をもうしあげかねたのは、縁連へのご信頼があまりに深いため、かえって縁連におとしいれられては、そのかいなし、とおもったからでございます」
毛野には異姓の兄弟が数人おり、どのような難儀におよぶかもしれぬ、とも諌言(かんげん)した。
定正は怒りをつのらせ、
「守如。無益のくり言、いまきいている暇(いとま)はない。なんじのような臆病(おくびょう)ものは、犬坂らに助太刀があれば、定正が三軍の将としてむかっても勝ちがたい、とあなどるのか。そうまであやぶむならば、手並をみせよう」とののしりながら、定正はあぶみをあげて、守如の胸をけった。守如はよろめきふした。
定正は、「ものども、つづけ!」と馬にひとむちあて、西の城門から走り出た。二、三百人の士卒がつづいた。竹にスズメの家紋(かもん)の軍旗(はた)さしものは、人馬の土(つち)煙(けむり)とともに消えた。

第九十三回 忠臣はてる……守如(もりゆき)自決

扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)は、馬の前後に士卒三百余人をしたがえ、高畷(たかなわて)に出て、品革(しながわ)をすぎ、鈴の森にちかづいてきた。前面の木だちのなかで待ちぶせしていた一隊が、ときの声をあげてあらわれ出て、その軍勢三、四十人がゆくてをさえぎった。小勢ながら、さわがず乱れず、ハヤブサが小鳥をおそういきおいだ。
そのなかに、二人の頭領(とうりょう)がいた。黒革縅(くろかわおどし)の腹巻に、小鎖(こぐさり)の肱盾(こて)、十王頭(じゅうおうがしら)の臑盾(すねあて)をし、長い両刀をおびた対の武具もいさましく、九尺柄(え)の双鎌槍(もろかまやり)を両手にとったつらだましいは、りんりんとしてあたりをはらう威風がある。対の両声(もろごえ)高く、
「きたるその手の大将は、扇谷の管領(かんれい)定正か。さる丁酉(ひのととり)(文明九年)の夏四月十三日、池袋の戦いに、なんじのためにほろぼされた練馬平左衛門尉倍盛(ねりまへいざえもんのじょうますもり)の旧臣だった犬山道節忠与(ただとも)が、きょう仇討ちをする。第一陣は、その異姓の義兄弟、犬飼現八信道(のぶみち)・犬村大角礼儀(まさのり)が、ここに待ちふすを知らぬか。勝負を決せよ」と、大道もせましとたちふさがった。定正は、
「この狼藉(ろうぜき)ものには、豊島・練馬の残党もいたのか。たかがしれた烏合(うごう)の小敵だ。うちはたせ」と下知(げち)した。先鋒(さきて)の頭人(とうにん)、地上織平(じがみおりへい)・末広仁本太(すえひろにほんだ)は、百余人の雑兵を魚鱗(ぎょりん)にそなえ、どっとさけび、うとうとする。
現八・大角は、「ものども、なかをわられるな」と声をかけながら槍をもって、ちかづく敵をまたたくまにつきふせた。勇将のもとに、弱卒なし。雑兵三十余人も、一人で三、四人にあたり、いりみだれてたたかった。現八は地上織平と槍をまじえ、大角は末広仁本太と雌雄(しゆう)をあらそう。
と、定正の後陣に伏勢(ふせぜい)がおこった。先頭のものは大将か。紺の糸の鎧(よろい)に鍬形(くわがた)をうった兜の緒をしめ、四尺三寸ある太力をおび、二十四本さした中黒の征矢(そや)を背におい、本重籐(ほんしげどう)の弓のまんなかをにぎりもち、太くたくましい葦毛馬(あしげのうま)に雲珠鞍(うずくら)をおいてのった武士が、
「管領扇谷定正。先亡(せんぼう)練馬の老臣、犬山道策の嫡男、犬山直節忠与ここにあり。刃(やいば)をうけよ」と、天地にひびくばかりによばわった。
定正はおどろき、
「さては、敵に伏勢(ふせぜい)があるぞ。一方をやぶり、しりぞけ」と下知する。しりぞこうとしても、うしろに道節、すすむに犬飼・犬村の両雄がいる。左は海、右は樹林だ。扇谷の士卒どもは、うたれるものがおおかった。地上織平は、現八にのどをつかれて絶命し、末広仁本太は、大角の槍でつかれ、雑兵に首をかかれた。
定正は近習(きんじゅう)八、九人にまもられ、馬で品革(しながわ)のほうに走った。道節一人が、馬でそれを追った。近くなると弓をひきしぼり、ひょうとはなち、定正の兜の鉢(はち)を射た。兜は地上におちた。定正は胆(きも)をつぶして、鞍壷(くらつぼ)にふし、頭をかかえて逃げた。道節は追う。定正の近習三、四人が道にふみとどまり、防戦につとめたが、道節は、左手に弓を脇ばさみ、右手に刀をひらめかし、ちかづく敵をきり、馬の蹄(ひづめ)にかけ、あるいはけりかえした。定正は、品革の原までのがれてきた。
高畷の浦の船にとどまった落鮎余之七有種(おちあゆよのしちありたね)は、敵の乱走するのをはるかに見た。
「犬山さんにとどまるようにいわれているが、この船をまもっているだけでは武士たる《かい》はない。一人でもうち、わたしもまた亡君へのこころざしをはたそう」と思案し、雑兵や、いくさ好きの船人にかたり、七、八人とともに上陸し、木かげにかくれた。
扇谷定正は、わずかにのこる近習をともない、のがれてきて、その前方で一隊にたちふさがれた。先頭のものが槍をとり、
「きたのは定正か。先君、豊島(としま)勘解由左衛門尉(かげゆざえもんのじょう)信盛朝臣(のぶもりあそん)のおんために、うらみをそそがん」とよばわった。定正主従はおどろきあわて、勝負をこのまず、走った。これを有種ははげしく追い、痛手をうけた雑兵を二、三人うちとった。定正は九死をまぬがれ、高畷までおちてきた。近習のものは二階堂(にかいどう)高四郎・三浦三佐吉郎(みさきちろう)の二人だけだ。このものたちも傷をおって、全身鮮血だ。定正は、
河鯉権佐守如(かわこいごんのすけもりゆき)のいましめを、きくべきであった。はやく五十子(いさらご)の城にかえり、よせくる敵をふせごう」と、八、九町走ってくると、五十子の城のほうは、黒煙が空をこがし、兵火がさかりだ。
「あれは、どうしたのだ」と馬をとどめた。
そこへ、現八・大角が定正をうちとろうと、十余人をともない、近道をへてきた。二階堂ら二人は、現八・大角にうたれた。一人になった定正は、雑兵をきりはらい、丘にかけのぼり、腹をきろうと覚悟した。
と、その丘のうしろから三十余人があらわれ出た。一挺(ちょう)の駕篭(かご)を四人がかついでいる。先頭のものは、河鯉権佐守如の六文字を知るした小旗をもっている。定正は、「これは敵ではない。われ、生きた…」とよろこび、馬をおり、
「定正一騎(き)、ここにあり。守如、すくってくれ」とよびながら、多勢のなかにかけいった。
現八・大角は、二階堂らをうちとり、定正を追ってくると、定正は十四、五人のものにまもられて司馬浦(しばうら)のほうに走り、姿がない。ほかのものは駕篭を小川の前におろし、整然とひかえていた。現八・大角は、うわさにきく守如なので、ためらった。
そこへ道節・有種、それに毛野・荘助・小文吾らがあつまった。道節・有種は、
「あれをけちらそう。定正をとりにがしてはならない」と馬をすすめようとした。現八・大角が、
「はやまってはなりません、犬山さん。あそこにひかえているのは、河鯉守如らしい。戦場に乗物できたのは、はかりごとかもしれない」ととどめた。道節は首をふり、
「それが守如でも、おそれることはない。時をうしなってはなりません」といきまけば、現八・大角・小文吾がいましめた。毛野も、道節の馬のそばにきて、
「犬山さん、わたしが犬坂毛野胤智(たねとも)です。きのう湯島の社頭で対面しましたが、人がおり、名のらずにわかれました。そのとき、河鯉どのとわたしの密談を立ち聞きされ、あなたのみか、ほかの犬士の助力もえて、父の仇をうちました。このよろこびは、感謝のことばもありません。また、あなたが君父の仇定正をうとうとされた、軍略の精妙(せいみょう)さには、感服しました。
しかし、かんがえますと、わたしの仇討ちの便宜(べんぎ)もそうですが、あなたが機会をえられたのも、河鯉どのが、主人のかたわらの奸佞(かんねい) 篭山縁連(こみやまよりつら)らをのぞこうとあいはかった、その孤忠(こちゅう)から出たことです。恩を、われわれは徳としなければなりません。わたしはあなたの軍議をはじめからは知りませんが、もしあなたとともに定正をうちはたすならば、河鯉どのをあざむいて、不忠の人とすることになるでしょう。定正は、すでに逃げられたので、追っても、いまさらおよびません。いまここで、河鯉どのをうってはなりません」とことばをつくしていましめた。
道節はかえすことばもなかった。なかでも現八・大角は、毛野の話をきき、感嘆し、おもわず名のった。
「犬坂さん。われわれは、犬飼現八信道・大村大角礼儀です。さきに犬山さん、犬塚さんの密議によって、あなたのために敵の助太刀をふせごうと、手のもの三十余人をしたがえ、木かげにかくれて、しばらくようすをうかがっていましたが、犬田さん、犬川さんが助太刀をきりちらしてくれたので、われわれが手をだす必要はなくなったのです。おりから扇谷定正が、みずから城を出て、鈴の森にきたと聞き、逃げるのを追ってきたのです」というと、毛野はうやうやしく、現八・大角に、
「これは犬飼さん、犬村さんでしたか。わたしが仇討ちをとげられたのは、みなさんのおかげです」と、よろこびをのべた。有種も、毛野に名のった。間近に敵をおいての話だ。雑兵らはそれに感嘆した。
そのとき、溝川(みぞがわ)をへだてた敵勢のなかから、年若い一人の武者があらわれた。小桜縅(こざくらおどし)の鎧をきて、長刀(なぎなた)をたばさみ、すすんできて、
「そなたの陣にものもうす。犬坂毛野胤智どのはおられますか。犬山どのもおられますか。もうしたいことがあるので、ともにこちらへすすんでください。わたしは、河鯉権佐守如の一子、河鯉佐太郎孝嗣(すけたろうたかつぐ)というものです」と二度、三度さけんだ。
毛野・道節はこっちの岸にならび、孝嗣と対面した。孝嗣は、かたった。
父守如は、けさから胸痛をやみ、行歩弁舌(ぎょうぶべんぜつ)不自由なので、乗物できた。で、弱輩(じゃくはい)ながらかわって問答する。
守如は蟹目上(かなめのうえ)の内命で、大毒虫の縁連らの奸佞人(ねじけびと)をのぞこうとしていた。きのう湯島の社頭で、はからずも犬坂を知り、ひそかに胸中をうちあけ、きょうの計画を相談した。それが図にあたり、犬坂の手をかり、君のために毒虫をのぞいた。だが、主君定正は、縁連を寵任(ちょうにん)していることが迷いだとさとらず、守如の注進にかえっていきりたち、犬坂どのらをからめとろうと、士卒三百余人をひきいて出馬した。
守如はそれをいさめたが、騎馬のあぶみで折檻(せっかん)をうけ、いまも乗物にふしている。主君定正の手勢はやぶれ、そのうえ、犬塚信乃戌孝(いぬづかしのもりたか)にはかられて、五十子の城は火ぜめにされ、灰燼(かいじん)に帰した。
士卒のうち、うたれるもの、逃亡するものが続出した。ふしている守如は身をおこし、孝嗣をよび、犬坂との密議しかじかとつげ、犬坂は義侠(ぎきょう)の勇士とばかりおもっていたが、主君を仇とうかがう豊島・練馬の残党犬山道節とやらと同類で、密議のおもむきを犬山らにもらし、ともにはかったのだろう。で、城をぬかれたのかもしれない。こうなると、守如の忠心は、かえって不忠となった。孝嗣に、身ひとつで戦場におもむき、主君の危窮(ききゅう)をすくい、もしできなくても毛野とさしちがえて死ねば、すこしは親のあやまちをおぎなうことになる、という。
しかし、守如をすてておくこともできず、乗物にのせ、忠義の士卒三十余人としめしあわせてかけつけ、定正の必死をすくった。死を覚悟してのことだったが、犬山らはせめてこず、おくれてきた犬坂は犬山の軍議を知らず、はじめての対面らしいので、すこしはうらみもとけたが、まだ、わからないことがおおい。
犬山は、守如と犬坂との密議をどうして知り、すばやく手配(てくば)りをしたのか。いまさらとうても益(えき)のないことだが、守如の疑惑(ぎわく)をはらすためにおうかがいしたい、と孝嗣の長ものがたりはおわった。
道節は、毛野の答えをまたずにうなずき、
「そうおもわれるのは、まことにもっともだ。わたしはきのう、湯島の社頭を徘徊(はいかい)して、密談をたちぎきした……」
そのときまでは、犬坂毛野とは面識はなかったが、宿因のある異姓の兄弟である、とおもいあたる証(あかし)があった。その仇討ちのおもむきを義兄弟らに知らせ、かねてから毛野を知る犬田・犬川の両人をもって、ひそかに縁連の助太刀をふせいでもらった。
ここで道節は、おもった。犬坂のことが、五十子の城内にきこえたなら、加勢の士卒を出兵させるだろう。この虚(きょ)をうかがい短兵急(たんぺいきゅう)に城をぬき、仇をうち、亡君・亡父にたむけよう、と軍略をきめた。
そこへ好都合にも、定正が犬坂らをとらえようと城から出陣した。で、犬塚信乃に城をせめさせ、道節は現八・大角と東と西にわかれ、ふいにせめて、管領をはさみうちにし、おもいのままに勝ちいくさをした。道節は定正を射たが、その矢は兜をくだいただけで、定正はいのちをのがれた。
こうした理由で、犬坂は道節の軍略を知る機会はないはずだ。犬坂は仇縁連をうち、河鯉守如との約束はたがえてはいない。道節は自身のうらみをかえし、忠と孝をつくすだけだ。犬士の欲するのは、それぞれことなる。ただ、おしむらくは、道節の馬がつかれて、定正をうちもらしたことだ。定正が逃亡しては、守如・孝嗣父子をうつ必要はない。はやく主人のあとをしたっていかれるがいい、といった。
ききおわった孝嗣は、
「疑いはとけましたが、そうまで義理がありながら、豊島・練馬の人びとをうちはたしたのは山内の管領家(上杉顕定)と同意の合戦なのに、なにゆえあなたは、わが主君だけを執念深く仇となされるのか」ととうた。
道節はわらって、
「豊島・練馬の滅亡は、当時定正の軍略からでたことで、大将は巨田持資(おおたもちすけ)だ。山内顕定も、千葉・宇都宮を将としたが、主客のいきおいはおなじではない。で、扇谷は正敵で、山内は傍敵(ぼうてき)だ」という。毛野も、
「わたしが犬山さんに内通しなかったことが、おわかりでしょう。河鯉どのにたのまれなければ、顔も知らない仇をどうしてたやすくうつことができましょうか。河鯉どのの徳にかんじてはいるが、いまからは犬山さんのみかたにならざるをえません。あなたの父君に対面して、このことをもうしあげたい。病中の対面、不便なりともゆるしてくださるか」という。
孝嗣は雑兵に、乗物をこちらへ、と命じ、川べり近くにすえた。孝嗣は駕篭の引戸をあけた。毛野・道節がなかをみた。守如は腹をかききり、衣装が鮮血にまみれていた。道節・毛野は沈黙したままだ。河鯉孝嗣は、おちる涙をふりしぼり、
「犬坂さん。親の自殺は、はかりごとがくいちがったためのものです。また父のみならず、蟹目上も奸臣(かんしん)らを誅(ちゅう)しようとして、かえって君の危窮をまねき、あまつさえ城をやぶられて、君にむけたてまつる顔はない。せめては君にさきだって、いのちをたって赤心を知らせまつろう、と刃にふしておはてなさいました。蟹目上のおんなきがらを、まず乗物にのせまいらせ、士卒をつけて、後門(からめて)からかろうじて出したてまつり、そのあと親のなきがらを乗物にうつし、ここにきましたのは、せめてなきがらなりとも、わが君のおん馬前(うまさき)にて、父子もろともにしかばねをさらしたならば、とおもってのことです。
約束をたがえぬ犬坂どのにふたごころのないことを知り、うらみはありません。敵ながらも、理義にさかしき諸賢(しょけん)と刃をまじえることは、もとよりねがうところです。おもいのままに討死したなら、親の遺訓(いくん)にもかない、君はずかしめられるときは臣死す、という聖賢のおしえにも、はじるところはありません。いざ、こっちからうちわたりましょうか、そっちからかかられるか、雌雄(しゆう)を決しましょう」
かの親にしてこの子あり。忠と孝との若ものを、いまうちはたしてなんになろうと毛野・道節はおもった。

第九十四回 扇谷(おうぎがやつ)落城……信乃の諭書(さとしぶみ)

そのとき、毛野(けの)は孝嗣(たかつぐ)にむかって、
「河鯉どの。死んでその名をのこすのは、武士の欲するところだが、それは時と場合による。あなたが血気の勇をたのみ、しりぞくのをはじて、討死(うちじに)しようとおもっても、犬山がどうしておとなげなくあなたと刃(やいば)をまじえましょうや。ああ、いたましいかな守如(もりゆき)どの。忠勇知計たぐいまれにして、乱をおそれ、そのわざわいを未然にふせぎ、奸臣(かんしん)をのぞくのは、忠臣である。
蟹目上(かなめのうえ)と父上は、機変のやぶれはありながら、露(つゆ)ばかりの私欲なく、苦節孤忠(こちゅう)のわざなので、ほまれ高い名を死後にのこされるでしょう。そのわざわいのきたるところをさぐると、定正どのにありとかんがえられる。利をこのみ、その欲にあいかなう佞人(ねいじん)だけを親愛して、賢妻(けんさい)忠臣のいましめをきかず、武毛信越(ぶもうしんえつ)の四か国を領しながら、わずか百余人の敵におわれて城をおとされ、士卒ことごとに離散して、賢妻忠臣は刃にふされた。今後はみずからの非をかえりみて、巨田持資(おおたもちすけ)父子をもちいなければ、管領とは名だけで、家をおとろえさせることになるでしょう。あなたはこの理をさとり、ここで討死されてはなりません。いのちをながらえ、主君をいさめて、その迷いをさまされたなら、忠孝をまっとうすることになるでしょう」
孝嗣は、こたえかねた。やがて、頭(こうべ)をあげ、
「わかりました、犬坂さん。仇にさとされて死なないのは、まれなことでしょう。だが、ここにとどまっている手のものは、みな、腹心のものばかりで、父が忠義のために死んだことをおしんでくれています。しかし、わたしが敵と対陣しながら、征矢(そや)一筋もうちださず、長話をしてわかれたと主君が知ったら、たちまちうたがわれて罪をえるでしょう」という。
道節はこらえられず、
「それはそうだが、定正のまよいがさめなければ、ここであなたが討死しても、それを義烈(ぎれつ)とはおもわない。わたしがきょうのいくさにおおくの敵をころしたのは、管領定正をうちはたすためなのに、定正をのがした。だが、定正の兜首(かぶとくび)をとった。あなたが死にたければ、自分で死ぬがよい。わたしの太刀は仇をうち、また世の邪悪(じゃあく)を征(せい)するだけだ。犬坂の意見にしたがうなら、さしあげるものがある」といい、雑兵に馬をひかせた。
「これは、仁田山晋吾(にたやましんご)がのった馬だ。あなたはこの馬にのり、主君においつかれるがいい。敵にうばわれたみかたの馬をとりかえしたことで、すこしの功にはなるかもしれない」といい、うしろをふりかえり、雑兵にもたせた兜をとりあげて、
「これは、首級にかえた定正の兜だ。あなたの忠孝をめでて渡したいが、いまはならぬ。あした、高畷(たかなわて)にとりにこられるがいい。主人の恥辱(ちじょく)をかくす功ともなろう。ここで死ぬよりいいだろう」
道節はその馬を板橋のほとりにひき、尻をうった。馬はおどろき、橋をわたって走った。
孝嗣はそれをとらえ、
「感謝します。それでは、このままわかれましょう」と馬にのった。
雑兵は駕篭(かご)の戸をしめ、しずかにかついだ。孝嗣はみかえり、馬にあぶみをあてて、弓に矢をつがえ、
「犬山道節忠与(ただとも)、君夫人(くんぷじん)の仇。父のうらみ、主君の恥を他日の戦いにそそごうとする、わが誓いの矢をうけよ」と名のりかけつつ、ひょうと射(い)て、道節のうしろのイヌタラの木の節につきたてた。
毛野・道節はその手並(てなみ)に感心し、
「みごとだ。この木は、忠与らの苗名(びょうみょう)にかたどるイヌタラ。節はすなわちこれ道節。当意即妙(とういそくみょう)、歌人の風流にまさるふるまい。承知した。はやくいけ」という。
孝嗣は鞍壷(くらつぼ)で会釈(えしゃく)すると、「さらば、さらば」とひとむちあてた。親のなきがらを追って……。
毛野・道節が、もとのところにもどった。ほかの犬士たちは孝嗣との問答をほめたたえた。
道節は有種(ありたね)に、「船をはなれた罪はかるくはないが、わたしはいまその罪を問いはしない。はやく船にかえって、まっていてください。わたしは犬士らとともに五十子(いさらご)にいき、犬塚さんをつれて凱陣(がいじん)する」
有種は、ことばをうけてしりぞいた。
毛野は、いそがしくほかの犬士にいう。
「犬塚さんのはかりごとで、五十子の城には敵はいないが、河鯉どののことをおもえば、わたしにはしのびがたいので、いまから有種さんとともに船にまいり、まつことにします。おのおのがたもすみやかにしりぞいて、海にうかぶことが良策でしょう。扇谷の管領(定正)は、忍岡(しのぶのおか)の城に走ったにちがいありません。忍岡はここからは二里にすぎないので、あらたな兵とともにおしよせてくれば、はじめの戦いのようなわけにはいきません。しかも、西北(いぬい)に大塚の城があり、北に赤塚・石浜の援軍(えんぐん)があり、鴛鴦(おし)・巌槻(いわつき)・河肥(かわごえ)の諸城があることをこころにかけてください」という。
道節はうなずき、
「もっともです。そのよしを犬塚さんにつたえて、ともにはやく凱陣しよう。犬坂さんが義をまもって船でまたれるのも、これまた人のおよばないこころざしだ。意のままになさるがいい」といった。
荘助・小文吾・現八・大角も、毛野をたたえた。落鮎余之七(おちあゆよのしち)有種は五犬士とわかれ、毛野と手下のものと高畷の浜にいそいだ。

話を犬塚信乃にもどす。
さきに信乃は、道節と五、六十人の手のものと谷山(やつやま)の木かげにかくれていたが、道節が仁田山晋吾主従を射て、人馬ともにいけどったとき、間諜(しのび)の兵がもどってきた。縁連(よりつら)のうたれたことが五十子の城内につたえられ、大騒動になり、管領(定正)が、みずから士卒をつれ、犬坂毛野をからめとろうと出陣の用意をしている、とつげた。道節はこれをきき、
「定正が出てくるなら、これをはさみうちにしよう。犬飼さん、犬村さんとしめしあわせよう」と、雑兵を鈴の森の現八らのもとにはしらせた。
信乃もまた一策をあんじ、道節に、
「定正が出陣してきても、城内にはなお二、三千の兵がいるでしょう。犬山さんの戦略があたり、定正敗北と知ると、おおぜいの兵が城門を出て加勢するかもしれない。みかたは小勢です。で、わたしにひとつのはかりごとがあります」と、しかじかとつげた。
信乃は二十余人の兵をひきいて、五十子の城のほうにむかった。信乃は、とらえた仁田山晋吾の従者に、おまえのいのちはゆるし、さらに《ほうび》をとらそう、そのかわりわたしのはかりごとにしたがうのだ、という。その従者は越杉駱三(こすぎらくぞう)の草履取りで外道二(げどうじ)といい、承知した、とこたえた。
信乃が木かげでまつと、定正の手勢はやぶれ、五十子の城のほうにかけこんできた。そのものたちは、さしもの・槍(やり)・長刀(なぎなた)・革鎧(かわよろい)をすてた。信乃は、手勢のものにこれをひろわせて、きせた。さらに、用意の火薬をもたせた。それから外道二を先頭にし、あざむいて城門(きど)をあけさせ、信乃らも、ともにはいった。門番は、みかたが逃げかえったものとおもっている。
信乃は刀をぬく手もみせず、出むかえたものをひとうちにきりたおした。おどろく雑兵を、二、三人きりふせ、するどい声で、
「練馬の残党、犬山道節忠与の義兄弟、犬塚信乃戌孝ここにある。わたしもまた、祖父匠作三戌(しょうさくみつもり)の主君だったもとの鎌倉の管領、持氏朝臣の両公達(りょうきんだち)、春王・安王のおんために嘉吉(かきつ)のうらみをはらしにまいった。いのちがおしくば、降参せよ」
この、むこうに敵なき太刀風に、城の雑兵はあわてふためいて、たちまちまもる場をうしなった。はかりごとが図にあたり、犬塚の手のものらは、あちこちに火をはなち、あたるにまかせてきりふせ、きりふせ、縦横無尽(じゅうおうむじん)にたたかった。扇谷(おうぎがやつ)の君臣千百人は、この日は凶日(きょうじつ)にあたっているのか、西南の強風が急におこり、その火は城中にみちみちた。士卒はあわて、つないだままの馬にのったり、弦(つる)のない弓に矢をとりそえて、ひこうとするものなどもいた。さいごはあわれ夏虫の火虫(ひむし)に似て、あわてふためくさまといったらなかった。
この劫火(ごうか)のなかでも、蟹目上(かなめのうえ)と守如は、火にもあわてず、敵をもおそれず、みずから果てたのである。
信乃が降参した城兵をかぞえると、五十余人いた。このものを消火にあたらせた。
鎮火(ちんか)のあと、信乃は、近くの古老の村人、里長(さとおさ)らをよび、扇谷定正の政事(まつりごと)のよしあしをとうた。近ごろ、龍山縁連(たつやまよりつら)は、貢物(みつぎもの)をおもくし、民の艱苦(かんく)をあわれまず、さらに年ごとの軍役(ぐんえき)に耕作のときをうしなって、酷使(こくし)するむごさはたえられない、と村人らはつげた。信乃はきょう入城し、きょうまたすぐに退城するといい、
「蔵のなかの金銭・兵糧(ひょうろう)をもちかえり、配分せよ」という。だが、人びとはためらいをみせた。定正がかえってきたとき、とがめをうけるのをおそれたのだ。信乃もそれに気づき、腰の矢立(やたて)をぬきだし、兵糧庫の白壁に数行の文をしるした。人びとはそれを見た。


故(もと)鎌倉管領、足利持氏朝臣の両公達、春王・安王の小伝(かしずき)、大塚匠作三戌の嫡子(ちゃくし)、犬塚番作一戌(かずもり)の一子、犬塚信乃戌孝、精兵(せいへい)わずか二十人をもって、きたりてこの城をせめ、須臾(しゅゆ)にこれをぬき、もって父祖のために、先君の旧怨(きゅうえん)をきよむるものなり。
これしかしながら、同盟義士犬山道節、君父の仇をまたかえさんと欲す。この挙、その大義をたすくるにあり、われすでに城をぬきて、豪(ごう)もおかすところなし。けだしおもいみれば民は国の基(もとい)なり。金城(きんじょう)石郭(せきかく)ありといえども、しかれども民なくば、それだれとともにまもらん。すなわち倉廩(そうりん)をひらきて、窮(きゅう)民(みん)をにぎわし、数行を録(ろく)して、もって姓名をとどむ。
一日の主人公も、またこれ民の父母なり。累世(るいせい)の国司、なんぞなんじの民をあわれまざる。もし民のわれにうけたるをとがむるものあらば、われまたきたって城をほふらん。くゆることなかれ。
文明十五年癸卯(みずのえう)春正月二十一日 犬塚戌孝諭示(さとししめす)


この諭書(さとしぶみ)をよみ、里長・商人(あきんど)・百姓らはこおどりしてよろこび、ひとしくぬかずき、恩を謝し、蔵をひらいた。一棟十五間(けん)のものが五蔵で、それぞれ玄米三千俵あるので、みんなで一万五千俵あることになる。また、宝蔵には金銭、雑貨(どうぐ)蔵には酒・もち・干魚(ほしうお)などがあった。
信乃は、酒は樽(たる)のふたをぬかせ、もちは残り火にあぶらせて、すべての人びとにくばった。また人びとは、手わけして近郷隣村につげ、金銭・米をはこばせた。民(たみ)百姓のよろこびは、村むらにみちた。

第九十五回 さらし首……道節の追書(ついしょ)

そこへ、道節が、荘助・小文吾・現八・大角らとともに、手のもの六、七人をしたがえてきたので、信乃は城門をひらかせてむかえいれた。城ぜめのこと、はかりごとが図にあたり、全勝をえたこと、また蔵をひらいて、窮民(きゅうみん)らにふるまったこと、降参した城兵をゆるしたことなどをつげた。
道節は、荘助ら四犬士をみかえり、
「みなさんもきかれましたか。旧君の仇討ちの本人はわたしですが、その軍功を論じたなら、犬塚さんにおよびません」という。
荘助らもともに賞賛した。しばらくして道節が、定正敗北のありさま、河鯉佐太郎孝嗣(かわこいすけたろうたかつぐ)の忠孝、蟹目上(かなめのうえ)と権佐守如(ごんのすけもりゆき)の自害のこと、毛野が守如との知己(ちき)の義をおもって、当城へこないことなどをかたり、信乃が窮民をすくったことはよいが、火は消さず、降参のものの首をはね、武をかがやかしたほうがよいのではないか、という。
これにたいして信乃は、一人の仇をうちもらしたといって、その怒りのために城をこわし、降参した兵までころしては、これ暴力をおこなうだけで、その孝、その義はどこにあろうか、とさとした。
荘助・小文吾・現八も、信乃に同意した。荘助らは、
「犬坂さんは、諸城から加勢があるかもしれないので、凱陣(がいじん)をいそぐようにもうされた。いまは、すみやかにしりぞくことが良策でしょう。長詮議(ながせんぎ)は無益です」といった。道節もおもいかえし、
「その衆議にしたがいましょう。仇をうちもらしたことでいらだち、こころがやすまらず、つまらぬことをいいました。すでに十二分の利運にいたり、逃げる敵(かたき)を射たが、ただその兜(かぶと)をえただけで、首級をとることができなかった。これもまた天命でしょう。この兜を、首級のかわりに高畷の浜にかけ、君父(くんぷ)の御霊(みたま)をなぐさめることにしましょう。いまさら天をうらみません」とわびて、蔵の壁に信乃がしたためた文を二度、三度よみ、
「犬塚さんが、この城をおとし、ここに姓名をとどめられたこの意(こころ)、この文、きわめてみごとです。わたしはその才におよびませんが、筆をくわえましょう」と鎧(よろい)の引合(ひきあわせ)から筆をとりだして、白壁にしるした。


仇をかえし、うらみをきよむるは《忠》と《孝》とにあらずや。寡(か)をもって衆に勝ちしは《智》にあらずや。城をぬきて地を略せざるは《礼》にあらずや。降卒(くだれるもの)を誅(ちゅう)せずして民をにぎわせしは《仁》にあらずや。賢良(けんりょう)の自刃(じじん)をあわれむがために郭(かく)をこぼたざるは《義》にあらずや。進退一日をもってするは《信》にあらずや。功をすてておのれを利せざるは《悌(てい)》にあらずや。われにこの八行(こう)の兄弟(けいてい)あり。もって百万騎に敵(てき)す。たれか八行を蔑如(べつじょ)するものぞ。君を弑(しい)し、職をうばいし両管領、先世後嗣(せんせいこうし)、その罪しるべし。
犬山忠与(いぬやまただとも)追書(ついしょ)


ほかの犬士たちは、犬塚・犬山は風流の虚文(きょぶん)でなく、簡約で、言分明(げんぶんめい)、勇士の本意にかなっている、と嘆賞した。幾十人の手のものもいさみ、どっと勝ちどきをあげた。信乃・道節・荘助・小文吾・現八・大角らは手のものをひきい、五十子(いさらご)から高畷の浜にむかった。
道ばたには、城下の人びとが犬士の徳をたたえて見おくった。浜には、仁田山晋吾ら敵の首級をかける用意がなされていた。晋吾は頭(こうべ)をたれ、黙したままだ。
道節は晋吾に、
「おまえはささに戸田河原で、丁田町進(よぼろだまちのしん)に加勢をして、無実の罪人額蔵(荘助)らをとらえようとしたとき、わが譜代(ふだい)の旧僕(きゅうぼく)、姥雪余四郎(おばゆきよしろう)の子、十条力二郎・尺八をうった。それは主人のためだが、虚名をもとめ、名利(みょうり)をはかり、力二郎・尺八の首をもって、額蔵・信乃といい、梟首(きょうしゅ)して主(あるじ)をあざむき、その功で重用され、大石家の権臣にのぼったのは、小人(しょうじん)の、天をおそれぬ奸計(かんけい)だ。罪はのがれられない。額蔵はわれらの義兄弟で、ここにいる犬川荘助さんだ。犬塚信乃さんもいる。おまえの捕物(とりもの)が奸曲なので、この犬川さんに追われ、わたしの矢にまできずつけられたのは、天の配剤(はいざい)だ。まずわたしが首をはね、十条力二郎・尺八のうらみをそそぐ。観念するがいい」
道節の刃がひらめいた。首は地上におちた。信乃・荘助・小文吾・現八も、六年まえの戸田河原の危窮をおもった。荒芽山(あらめやま)の夢のことや、ヤス平のこと、音音(おとね)のこと、曳手(ひくて)・単節(ひとよ)のゆくえなども……。
道節は、梟首台(きょうしゅだい)に、敵の大将扇谷定正の兜を一番に、つぎに晋吾の首、仇の従類、地上織平(じがみおりへい)・末広仁本太・二階堂高四郎・三浦三佐吉郎らの首二十余級をかけさせた。村長(むらおさ)三人をよび、盗人(ぬすっと)にうばわれないようにまもり、あしたこの兜をとりにくる人がいるのでわたしてほしい、とつげた。
それから犬士と手のものは浦づたいに走り、船に分乗した。六犬士はむろん、毛野・有種(ありたね)も同船した。追風に船は北へむかった。

話はここで扇谷定正にうつす。
河鯉守如父子にすくわれ、からくも虎口(ここう)をのがれた定正は、十五、六人に守護され、一刻(とき)ばかりで忍岡(しのぶのおか)の城にかけこんだ。安堵(あんど)するよりさきに、道節に矢で射られた兜の下あたりが、にわかにいたみだした。たえがたくなって書院にたおれ、口もきけないありさまだ。もう五十子の城をとりもどそうというものもいない。
河鯉孝嗣は毛野・道節の意見にしたがって、父守如のなきがらを乗物にのせ、忍岡の城にはいった。孝嗣が主君の安否(あんぴ)をとうと、矢傷がいたみ、ふしているという。
つぎの日の明け方、孝嗣は従者をつれ、馬で高畷にきた。定正の兜、晋吾の首ほか、二十余人の首がかけられているのを見た。孝嗣は兜を従者にもたせ、城内をまわり、忍岡の城にもどった。
定正は孝嗣の対面をゆるした。孝嗣は城内のようすをつげ、さらに、兜をさしだした。定正は、
「この兜は当家の祖先、国清寺佳山道昌老侯(こくせうじかざんどうしょうろうこう)(上杉憲顕の法号)が、等持院殿(とうじいんどの)(足利尊氏の院号)からたまわった希代の名品で、箭返(やがえし)とよばれているものだ。それをうばわれて面目なかったが、そのほうのはたらきでとりもどしたのは、人のおよばぬ忠義、かんずるになおあまりがある。また、縁連の死をきき、城内にもその奸悪(かんあく)をいうものがいる。北条氏との和睦(わぼく)のことは、わしのあやまちで、蟹目上の自刃は、おもえば薄命であった。守如の精忠苦節(せいちゅうくせつ)は、わすれられない。賢妻と忠臣が一時にいのちをおとしたのも、わが罪のたたりだろう。ただ、悲しいなかにもよろこばしいのは、孝嗣の忠孝だ。さがって休息せよ」という。
定正は、忍岡の城をまもる老党根角谷中二麗廉(ねづのやちゅうじうらかど)らをよび、孝嗣の忠孝をのべた。

第九十六回 林原(しもとはら)の庵主(あんしゅ)……七犬士出立

扇谷定正は、二月のすえに忍岡から、五十子(いさらご)の城にかえり、有司(ゆうし)の功をほめ、禄をました。また、「犬山道節らの隠れ家(が)を知るものがあるなら、ひそかにうったえでよ」と、百貫文(かんもん)のほうびをかけてふれた。
だが、信乃らの徳をしたう村人は、ひさしく告訴すするものはなかった。定正は河鯉佐太郎孝嗣(かわこいすけたろうたかつぐ)の功をめで、近習(きんじゅう)とした。孝嗣もその恩にかんじ、日夜労をいとうことがなかった。だが、縁連にこころをよせていた残党は、孝嗣は犬坂毛野と内通していたとざん言した。定正は聞きながしていたが、たびかさなると孝嗣に疑いをもつようになった。さきに犬山道節に矢を射られ、はれていた頭の傷はいえたとおもったものの、それがまたいたみだし、こらえがたい日々がつづいた。で、孝嗣のことをただす暇(いとま)はなかった。
いっぽう、道節・信乃・荘助・小文吾・現八・大角は、犬坂毛野をともなって、有種と数十人の手のものと船にのり、二十二日の明け方に千住川につき、それから陸にあがり、穂北(ほきた)をさしていそいだ。
有種の舅(しゅうと)、氷垣残三夏行(ひがきざんぞうなつゆき)は、有種が出発してから、娘重戸(おもと)と不安な日をかさねていた。その夜、一人の雑兵が、みかたの手負い七、八人をのせた快船(はやぶね)でかえってきた。ここで、はじめて道節の勝ちいくさや毛野の仇討ちのことをきき、よろこび、むかえの用意をした。
七犬士が有種の屋敷にもどったのは、四つ(午前四時)である。毛野・荘助・小文吾は、夏行と重戸に初対面の口上(こうじょう)をのべた。みんな疲労していたので、ささやかな宴で、それぞれ臥房(ふしど)にはいった。
つぎの朝、おそい朝食のすんだころ、夏行は有種とともに、七犬士とかたった。きのうのいくさのありさまを聞き、犬士らをたたえた。道節は、これは有種と手のもののたすけでとげることができた、という。そして、用意の金一つつみをとりだし、手のものたちにおくってほしい、といった。
夏行は辞退したが、道節らは説得してうけてもらった。さらに信乃と道節は、夏行に、
「わたしどもがここに逗留(とうりゅう)していることを、告訴するものがいるかもしれません。五十子へはさほど遠からず、それよりもなお近い忍岡は敵城です。わたしどもは、あなたがた一家をまきぞえにして、二十余年のいとなみを無にすることはできません。で、わたしども七人ははやく結城(ゆうき)にいき、四月の法事をまちたいとおもいます」と丶大法師(ちゅだいほうし)が、里見家のためになくなった嘉吉(かきつ)の諸霊魂をとむらう、としかじか話をし、
「このような約束がありますので、わたしどもは、丶大(ちゅだい)法師の寺をたずね、結城の城下に宿をとり、法会(ほうえ)の日をまちます。いまから出立しようとおもいます」といった。夏行は、
「それは余儀ないことながら、結城どの(成朝)は成氏方でも、宇都宮は山内管領(やまのうちかんれい)のみかたですぞ。で、結城におられても後難がないとはきめがたい。わたしの郷(さと)は、開発のはじめから他人をまじえず、みな腹心のものなので、けっして敵にきこえることはありません。四月のころまでとどまってください。わたしも結城篭城(ろうじょう)の残党です。法事には出むきたいとおもいます」という。荘助も信乃と道節に、
主(あるじ)の翁(おきな)の意見も、もっともです。わたしどもがしりぞいてから大敵がおしよせてきたら、ひとにわざわいを残すことになります。敵のようすをうかがって、それから結城へまいってもおそくはない、とおもうのですが……」という。
現八・大角・毛野・小文吾も、「そうだ」とうなずいた。それから信乃・道節も同意し、敵をまつ防戦策をたてた。また世智介(せちすけ)と小才二(こさいじ)に身をやつさせ、五十子と忍岡の両城をさぐらせることにした。そして月日のすぎるのをまった。
花さきにおう三月となった。五十子の風聞がきこえてきた。小才二がつたえてきたのだ。定正は忍岡から帰城し、北条氏との和睦がやぶれ、山内管領家顕定(あきさだ)と合体し、長尾景春(ながおかげはる)も和順した。しかし佞人(ねいじん)がおおく、持資(もちすけ)親子をこばみ、そのはかりごとをもちいようとしないので、持資は病気と称して相模の糟谷(かすや)の館(たて)にこもり、ひさしく出仕していない。また河鯉孝嗣もざん言をさけ、病いにかこつけて忍岡の城にいた。人心は一致せず、城内にはことがおおいので、犬山らの詮索(せんさく)もおこたり、うわさもたえた。
七犬士は談合のあと、丶大坊(ちゅだいぼう)が結城にきているかどうか、その安否をたずねることにした。夏行は、それなら世智介を飛脚(ひきゃく)にするといってくれた。文書でなく、口上である。
六、七日をへて、世智介がもどった。その意は、こうだ。
結城の寺院・旅篭(はたご)で、甲斐の石禾(いさわ)からきた丶大法師はおられるか、とききまわったが、知らないという。そのなかの一人の老人がいうには、近ごろ嘉吉の古戦場の林原(しもとはら)で、一人の旅の僧が庵(いおり)をむすんでいるそうだ。で、世智介が林原をたずねると、老樹の下に庵をむすび、正面の高座(たかくら)に、阿弥陀如来(あみだにょらい)の画幅(がふく)をかけ、なかに一人の法師がいた。
香染(こうぞめ)の麻の衣に、黒い紗綾(さや)の袈裟(けさ)をかけ、本尊(ほんぞん)にむかって経文(きょうもん)をとなえていた。声をかけても念仏をやめず、つぎの朝またたずねた。犬七つから……、ともいったが、この日ものまずくわずの念仏三昧(ざんまい)で、どうにもならない。やむをえず、犬士のさしずをえようともどったという。信乃は、
「世智介は庵主(あんしゅ)の顔を見なかったが、丶大法師であることはあきらかではないか」ととうと、荘助・小文吾・道節もうなずき、
「そうだ。疑いのないところです。《犬七つ》とは、さすがに世智介ですね」といった。現八は微笑して、
「犬村さんをわたしがたずねたときに、似ていますね」という。犬村大角は、
「世の老翁・老婆が朝な夕なに念仏していても、かまどの薪(たきぎ)がもえつくし、釜に飯がこげようとしているのをかぎつけて、飯炊女(めしたきおんな)をののしったり、またネコが魚をぬすみ、あるいはカラスが《こけら》をやぶるのをききつけ、あわただしく人をよぶ。念仏者流はみんなこれです。一念をなげうち、こころの弥陀をもとめなければ成仏(じょうぶつ)はできない。こころを真俗(しんぞく)二道にかけても、口に仏名(ぶつみょう)をとなえさえすれば、かならず利益(りやく)があるとおもうのは、みなこれ愚痴(ぐち)のまよいにすぎません。丶大大徳が結城にかえったのは菩提(ぼだい)が目的です。庵をおとずれた人がいても、終日よびおどろかしても、こころが目・耳に散るわけはないのです。いわゆる維魔(ゆいま)の黙(もく)なのでしょう。とてもとうといことです」と称賛した。ほかのものもうなずいた。しばらくして信乃が、
「丶大どのがしめされた法会(ほうえ)は、さる嘉吉元年(一四四一年)辛酉(かのととり)の夏四月十六日、結城落城の忌日(きにち)です。三月もおわろうとしているし、法会の三、四日まえに、わたしどももおもむき、その庵主をみさだめておかないと、不便でしょう」
で、四月十日未明出立ときめて、その前日に夏行にもつげた。この日、夏行は七つ(午後四時)ごろから急病にかかり、口がきけず、手足もうごかず、その病状は中風(ちゅうぶう)で、わずかに息がかようだけだ。ふしたままで意識がなく、水ものどをくだらない。重戸(おもと)は介抱につききりだ。有種も医師をまねき、祈祷師(きとうし)をよんだ。下男・下女も、この夜はねむらない。
七犬士もこころをいため、十三日までまったが、つぎの日、こころをのこして出立した。
世智介・小才二が二、三十町見おくってくれた。
有明(ありあけ)の月が遠山の山峡(やまあい)にはいろうとしていた。

第九十七回 里見第二世……御曹司(おんぞうし)義成

舞台はまわる。安房・上総(かずさ)二国の守(かみ)、里見治部大輔(さとみじぶのだゆう)源義実(みなもとよしざね)朝臣は、長禄二年の秋、伏姫の自害のおり、おおきな奇瑞(きずい)があった。金碗大輔孝徳入道丶大坊(かなまりだいすけたかのりにゅうどうちゅだいぼう)が、そのとき八方へとびちった八つの明玉のゆくえをたずねに辞してから、その安否もしれず、また賢(けん)をまねき、士をもとめようと蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)を出立させてからも、ひさしく音信がないので、隠遁(いんとん)の気持ちをいだいた。それを諸臣がいましめた。
ある日、義実は、杉倉木曽介氏元(すぎくらきそのすけうじもと)・堀内蔵人貞行(ほりのうちくらんどさだゆき)をはじめ、老臣たちをあつめて、
「そのほうたちが、予(よ)の隠遁をいけないといさめてくれたことはむりもないが、さきに予の一言のあやまちで、伏姫を八房(やつふさ)にともなわせ、幸い身をけがさずにすんだものの、おもわぬ孝徳(たかのり)の弾丸のために、八房とともにいのちをおとした。一人の愛娘(まなむすめ)を非命に死なせたのみならず、妻五十子(いさらご)もおなじ月日になくなり、また照文の父、蜑崎照武(あまざきてるたけ)は、姫をたずねようとして谷川の水屑(みくず)となった。これさえふびんなのに、また金碗大輔孝徳は、不測の罪をおかしたことから頭髻(たぶさ)をきり、不二法門にはいらせたうえ、後嗣(あとつぎ)のない人となり、孝徳の親、金碗八郎孝吉(たかよし)の功にも、むくいることなくおわった。あれといい、これといい、みんなこの義実のあやまちだ。それなのになお、おめおめと世にたてば、後世議論がさだまり、軍記野乗(ぐんきやじょう)にしるすことがあったなら、識者につまはじきにされて、恥しらずといわれるだろう。そのほうたちよりも、義成が幾たびとなくかなしんで隠遁の儀をとどめたが、それをもちいなかったのは、こういうわけだ。ねがうのは、そのほうたちが、あすから義成につかえ、予につかえた日のように、たりないことをおぎなって、臣としての道をつくしてほしい。それにより四境(あたり)にいよいよことなく、予の身も安心できるというものだ。このことを、よくこころえてくれ」とねんごろにいう。
氏元・貞行以下の老党も、みな感涙(かんるい)にむせぶばかりだ。氏元がようやく頭をあげ、君がご隠遁なされても、御曹司(義成)のおん後見(うしろみ)をなされんことをねがわしい、という。
義実は、家督をわが子にゆずったその日から、予を世になき人とおもえ、といい、さがらせた。老党たちは、眉(まゆ)をひそめて退出した。
それから数日をへて、家督ゆずりの儀式があり、安房の御曹司義成は、堀内蔵人貞行を使者として、京都将軍家(足利義政)にそのむねをねがい出て、安房守(あわのかみ)に任じられ、房総二国の国守となった。ときに長禄(ちょうろく)三年巳卯(つちのとう)の秋八月、伏姫の一周忌にあたる。
義実は、滝田の城内の西のほうに別館をつくらせ、すんだ。突然居士(とつねんこじ)と自称(じしょう)した。政事(まつりごと)をみかえることなく、こころは菩提にはいったものの、剃髪得度(ていはつとくど)はせず、有髪(うはつ)の居士として伏姫・孝吉らの菩提をとむらった。その看経唱名(かんきんしょうみょう)のあいだに、松風羅月(しょうふうらげつ)を友とし、あるときは花をうそぶき、またあるときは雪をながめた。
閑居(かんきょ)の号の突然(とつねん)とは、出るかたちだ。出塵出離(しゅつじんしゅつり)の出で、世に超然たることをしめすのだ。突は穴にしたがい犬にしたがうのだ。その犬を穴にしたのは、八房の犬、富山にいたころに、伏姫の徳に化せられ、菩提心をおこし、姫の死にしたがって、ともに塚穴(つかあな)をえた義だ。また突の字をわけると宀の下に八つの犬がいる。宀は家で覆屋(ふくや)だ。これから二十年ののち、八犬士が里見家につどい、八行(こう)をもって主君を尭舜(ぎょうしゅん)の君にする、吉兆をしめすものだ。
さらに然の字は月・犬・火にわけられる。その火をわけると、八人だ。月は明徳をあきらかにするの義で、犬士八人、その明徳を、おなじくするの意だ。
里見義実の死去には、長享(ちょうきょう)三年(この年、延徳と改元)四月七日とする記事と、長禄三年八月二十三日とする記事がある。
安房の里見第二世のぬし、安房守義成朝臣は、このときなお弱冠(じゃっかん)だったが、文学武略父祖におとらず、よく民を撫(ぶ)し、国をおさめた。これに杉倉・堀内の二老臣がおり、また荒川兵庫介清澄(あらかわひょうごのすけきよすみ)、東六郎辰相(とうのろくろうときすけ)ら譜代の家臣もいる。里見の四家老だ。
文明十年秋七月はじめに、蜑崎十一郎照文が、犬江親兵衛の祖母妙真、犬田小文吾の父、文吾兵衛をともなって、下総(しもふさ)の市川から安房にかえってきた。義実・義成は、照文から話をきき、孝徳入道丶大坊の行脚(あんぎゃ)以来の消息を知り、また八行の珠のゆくえも知った。
それを感得してうまれ出た犬塚信乃戌孝(もりたか)・犬飼現八信道(のぶみち)・犬田小文吾悌順(やすより)・犬江親兵衛仁(まさし)・犬川額蔵(荘助と改名したのはこのあと)義任(よしとう)らに、しかじかの痣(あざ)のあること、仁義八行の文字が自然にあらわれる霊玉(れいぎょく)感得の勇士が、このほかに三人いるはずで、八人そろったうえ、里見家の徴(めし)におうじることなどを、照文はつげた。さらに妙真・文五兵衛らをともなって、あわただしく帰国したむねもいった。
この年(文明十年)の秋のある日、稲村(いなむら)から義成が滝田の城にきた。そのおり、照文・文五兵衛・妙真を召しいだし、なぐさめ、品物もおおくあたえた。
義実は、義成とはなしあった。
「きくと、犬塚信乃・犬飼現八・犬田小文吾のほかに、犬川額蔵というものがいる。そのものは、明王八つのうち義(ぎ)の字のある珠を所持しているとか。それに犬江親兵衛とともに、その五人にはきっと宿因があるのだろう。なお、珠の数のとおり、きっと八人いるだろう。それぞれ仁義八行の徳を天地にうけたものなので、すみやかにまねきよせたいのだが、同因同果のものとともにあいともなってまいるという。そのときがくれば、かならず当家の股肱(ここう)となるだろう。犬塚信乃は行徳(ぎょうとく)で危厄(きやく)におちいったが、幸い山林房八(やまばやしふさはち)が身にかえてすくったそうだ。犬江親兵衛は、神隠(かみかく)しにあったともいう。それのみならず、犬川額蔵は無実の罪にとわれ、大塚の大石憲重(のりしげ)の獄舎(ひとや)にあり、その刑場で信乃・現八・小文吾らが救出したが、追手にせまられ、みなうちとられたとも、まぬがれたとも、その安否がさだかでない。ことの虚実(きょじつ)は知らないが、これからもかれらのうえに急難があるなら、いかがしよう。こころやすからぬので、また蜑崎十一郎照文に従者五、六人をしたがわせしめ、ゆくえをたずねさせ、さらに路費のたすけをしてはどうか。予は隠遁した日から政事(まつりごと)をかえりみることがないが、伏姫がおわりにのぞんでいったことと符合するので、犬士らは予の外孫のような心地がする。……いらないことまで言った」といった。
義成も、
「おおせのこと、もっともです。わたしのおもっていることもおなじです。また、照文にその儀を命じましょう」と、そば近く照文をよび、義成みずから、しかじかとことのおもむきをのべ、
「帰国ののち、ほどなく、ゆくえのわからぬ犬士をたずねにつかわすのは、こころないようだが、照文のほかに人がなく、やむなくこの儀におよんだ。用意をせよ」といそがせた。
義実も懇切(こんせつ)に口をそえた。義成は、照文にしたがう士卒七人をえらび、路費、犬士らにあたえる金子(きんす)も照文にわたした。文五兵衛・妙真もきき、両主君の恩をかんじた。照文一行は、出立した。
そのつぎの年の春、二月十五日に、文五兵衛はなくなった。
七人の組子(くみこ)とともに出立していって四年めにあたる、文明十三年、辛丑(かのとうし)の冬十一月のすえに、照文は甲斐の石禾(いさわ)からもどった。
「まだ、犬士らはともなってかえれませんが、十年あまりまえのころ、ワシにさらわれた義成さまの息女浜路姫(はまじひめ)を、ともなってまいりました」とつげた。
稲村の義成、滝田の義実の両領主はむろん、諸臣・女房にいたるまで、世になき人が冥土(めいど)からかえってきたとばかりにおどろき、祝寿(ことほぎ)の声がみちた。
また照文は、練馬の老党、犬山道策(どうさく)の子道節も犬士の一人であること、浜路の義父四六城木工作(よろぎむくさく)、その妻夏引(なびき)、泡雪奈四郎(あわゆきなしろう)のことなどもかたった。
文明十四年冬十二月のある日、蜑崎照文が甲斐国の石禾(いさわ)の指月院にとめておいた組子らが帰り、丶大法師の書状を照文にわたし、また武蔵の穂北の氷垣夏行(ひがきなつゆき)宅に寓居(ぐうきょ)している犬塚信乃・大山道節の口上(こうじょう)をつたえた。
丶大の書状には、犬川荘助は犬田小文吾をともなって指月院にもどったが、犬士の一人、犬坂毛野胤智(たねとも)のゆくえをたずねて、ともに信濃路におもむいたこと、犬飼現八は、これも犬士の一人犬村大角礼儀(まさのり)と、武蔵の穂北から指月院にきて止宿していること、信乃・道節は氷垣宅に寓居していること、また犬江親兵衛の安否のわからぬこと、しかし八犬士の存在が判明したので、天機ようやく団円になると、一つにあつまるのはそう遠くのことではあるまい、という。
さらに、丶大(ちゅだい)自身は、来春、指月院を去り、下総国(しもふさのくに)結城(ゆうき)におもむき、しばらくその地で庵をむすび、先君(義実の父里見季基)ならびに嘉吉(かきつ)に討死した諸霊魂(しょれいこん)の菩提のために、大念仏を修行するかんがえであること、その結願(けちがん)は同年四月十五、六日のころであること、幸いそのころまでに犬士がひとところに会し、八犬士そろえば、ともなって安房にかえろうとおもっている、これらのおもむきを義実・義成の両城主にもうしあげてほしい、としるされている。
照文は、その書状を義実に披露(ひろう)した。義実は、くりかえし目をとおし、
「嘉吉の年、結城が落城して先君が戦没(せんぼつ)されてから四十二年、予は一日もわすれたことはない。その地におん墓碑(ぼひ)をたてたいとおもっていたが、そのあいだに敵地があり、人馬の往来も自由ではなく、京都将軍にはばかることもあり、多年親の御霊(みたま)をなぐさめることもなくすごしてきたが、このたびの丶大の発願(ほつがん)は予にかわっての孝順のまごころこそ、ありがたいとおもう。
また、八つの霊王のゆくえをついにたずね知ることができ、珠によって出生した犬士も八人、まだ二人をえることができないが、その人のあることを知ったのは、ひとり丶大の功徳(くどく)によるものだ。千体の仏をつくり、七堂伽藍(しちどうがらん)を建立して、開山の祖師になることよりも、なしがたいことだ。
ただこころもとないのは、明年四月のなかごろまでに、犬江親兵衛・犬坂毛野のゆくえがわかるかどうかということだ。親兵衛は、四歳のときに神隠しにあったというが、すでに五年もたち、もし存命なら明年は九歳になっているだろう。これらのことを妙真につたえて、なぐさめるがいい。明年の四月には、結城一族の代香(だいこう)に照文をつかわそう。稲村の義成にも照文がまいり、丶大の書状を披露(ひろう)してほしい。義成もよろこぶだろう」とねんごろに命じた。また、甲斐からもどった照文の配下を、あつくもてなした。

話は、ここでかわる。
このころ、上総国夷隅郡(かずさのくにいしみのこおり)、館山の城主に、蟇田権頭(ひきたごんのかみ)素藤(もとふじ)というものがいた。親は近江の胆吹山(いぶきやま)の盗賊の頭領で、但鳥跖六業因(ただとりせきろくなりより)という残忍な男だ。武芸は早技、忍びの術までこころえており、正長・永享(えいきょう)から、嘉吉の年にいたるまで、京、鎌倉に兵乱はたえず、足利の武威(ぶい)はおとろえ諸侯割拠(しょこうかっきょ)の世となり、業因はおおくの小盗人(こぬすっと)をあつめ、胆吹山にかくれすんだ。折おり畿内(きない)を横行したが、その出没は人に知らせず、あるときは寺院をおどかしたり、またあるときは、豪民(ごうみん)を残害して、その財をうばうこと、幾千百になるかわからない。それでかぞえきれぬほどの富をつみ、業因(なりより)はおごりのかぎりをつくしていた。
あるとき、手下の一人が、業因にすすめて、「人の胎内の赤子をにて、酒の肴(さかな)にすると、その美味は無量だそうです」という。業因は配下にいいつけて、はらんだ女をうばいとらせ、生きながらその腹をさかせて、胎内の子をむして食らい、あぶらして酒の肴にした。それが口にあったので、女をさがさせた。これがうわさとなり、胆吹山の鬼跖六(せきろく)とおそれられた。
ある年の六月のなかば、業因は京の祇園会(ぎおんえ)をみようと、小盗人を三、四人したがえて、深草団扇(ふかくさうちわ)などを売る小商人(こあきんど)の姿で、まつりの日、京におもむき、人の家の軒下にたたずみ、さまざまな山鉾(やまぼこ)がわたるのを見物していた。突然、業因の腹のなかから声が出て、多年の悪事をしかじかとしゃべりだした。
人びとはあやしみ、おそれた。そこへやってきた室町の市正(いちのかみ)、高梨六郎左衛門尉職徳(たかなしろくろうざえもんのじょうもとのり)にとらえられた。天罰人怨(てんばつじんえん)である。

第九十八回 胆吹(いぶき)の山賊……若頭領素藤(わかがしらもとふじ)

盗人(ぬすっと)、但鳥業因(ただとりなりより)は高梨職徳(もとのり)にとらえられ、獄舎(ひとや)につながれた。職徳は、その悪業を三管領、斯波(しば)・細川・畠山(はたけやま)に言上し、この賊の同類が胆吹山(いぶきやま)にいるので討手(うって)をだしてはいかですか、といった。三管領も詮議(せんぎ)し、胆吹山の討手は観音寺の城の六角家(ろっかくけ)に命じ、業因は八つざき、手下は梟首(きょうしゅ)せよ、と下知(げち)した。加茂河原(かものかわら)の処刑には、見物人があふれた。
その近江の胆吹山の業因の砦(とりで)に、京の捕物(とりもの)の手からのがれた馬面卒八(うまづらそつはち)が業因の異変をつたえた。業因の女房はなくなり、一人息子の但鳥源金太素藤(ただとりげんきんたもとふじ)が百人あまりの手下と留守番をしていた。ほかの五、六十人は、隣国を徘徊している。素藤はことし二十一歳になり、武芸は親にもおとらない。卒八から旅の凶変(きょうへん)をきくと、
「遠からず、ここにも捕手がくるだろう。手下には、その異変をいうな。おれとおまえだけ、他郷に走ろう。人にうたがわれるな」といい、旅じたくをいそがせた。
それから素藤は、親ののこした一千五、六百金のうち、十つつみ千両を胴巻におさめ、腰にまとい、あまった五、六百両は旅荷につくり、卒八が肩にかけることにした。
素藤は用意がととのうと、なかまの老賊に、京の父業因がよんでいる、といって出立した。目的地はないが、美濃路にむかった。山道にかかると、卒八は、さきにいって旅篭(はたご)をさがす、といって走っていった。
日暮れに、素藤は侶奈之村(ともなしむら)につき、目じるしの笠(かさ)などをさがしたが見あたらない。卒八は逐電(ちくでん)したのかもしれない。やむをえず村人の家にとまり、つぎの朝、間道から垂井(たるい)のほうにむかい、赤坂の宿(しゅく)にたどりついた。この地は遊興(ゆうきょう)の宿(やど)でにぎわっていた。
素藤は、木偶舞屋(でくはしや)という旅篭にはいった。となり部屋では、二、三人の女に歌をうたわせ、笑いに興じている。その客は卒八だ。素藤は、襖(ふすま)をけった。卒八はおどろき、逃げた。素藤は、おいかけて株川(くいぜがわ)できりころし、金をとりもどした。しかばねは、川にすてた。
それから、素藤は旅をつづけ、筑摩(ちくま)の湯にきた。ここに五、六十日いて、上毛(かみつけ)から武蔵の熊谷(くまがや)、鸛巣(こうのす)の荒野(あらの)にさしかかった。日が暮れた。
そのとき、二人の盗人があらわれ、所持金、衣もわたせ、という。素藤はすこしもさわがず、刀をぬきあわせた。盗人は逃げた。素藤は追ったが、秋草のなかにしかけた鈎縄(かぎなわ)に足をからまれてころんだ。二人の盗人は、素藤をしばりあげた。盗人は獲物(えもの)のおおいことに満足し、荒れ寺に素藤をひきたてた。この寺は盗人の巣で、二人の頭領が出てきた。その頭領が、
「おまえさんは、胆吹の若頭領(わかがしら)、源金太さんではありませんか」という。
盗人は若党の平田張盆作(へたばりぼんさく)と砺時願八(とどきがんぱち)だ。盆作はあわてて縄をとき、奥に案内した。
素藤を上座にすえて、頭領らがいうには、素藤が京におもむくといって出立したつぎの日に室町将軍家の御諚(ごじょう)として、観音寺の城から捕手(とりて)千五、六百人がおしよせてきた。なかまのおおくはとらえられたり、うたれたりし、願八・盆作は、桁渡旋風二郎(けたわたりつむじろう)・井栗苛九郎(いくりいらくろう)らとのがれ、七月のなかばにこの荒れ寺を隠れ家(が)にしようとした。すでに寺には、小盗人が五、六人いたが、それを手下とした、という。素藤は卒八に旅づつみをうばわれたので、鎌倉にいく途中、災難にあった、とうそをいった。酒宴がもうけられた。
よった素藤は、臥房(ふしど)に案内された。油断はならぬ、と熟睡したようなそぶりをした。
夜は丑三刻(うしみつどき)となった。願八のなかまの苛九郎・旋風(つむ)二郎(じろう)が、小盗人をしたがえて夜稼(よかせ)ぎからもどってきた。
願八らは苛九郎らに、素藤がしかじかのわけでこの寺にきている、とつげた。苛九郎は思案して、
「おまえたちは、素藤の口車にのせられ、ほんとうだとおもったのか。この夏、胆吹の頭領が祇園会(ぎおんえ)を見に京におもむき、素藤をよんだ、というのはおかしい。京の凶変を卒八に知らされ、親のあり金をもちだし、卒八だけともなってのがれたのだろう。路費にしては、多いではないか」というと、旋風二郎も声をひそめて、
「そうだとも。武芸にたけて、同類百余人をうったほどのちからがあっても、酒によい、ふしているので殺しやすい」という。
それを願八らは、おしとどめて、
「それでは、二、三日まち、ようすを見てから手だてをめぐらそう」といった。
苛九郎らは、しぶしぶ納得(なっとく)した。
熟睡したふりをして全部を耳にした素藤は、
「おれのもくろみを苛九郎・旋風二郎めがさっしたな」と、そっとおきだし、よってねむっている苛九郎と旋風二郎を殺し、ともに首をかいて胴体をいれちがえて首をおいた。
素藤は、寺をぬけ出た。

第九十九回 疫鬼(えやみのかみ)と木精(すだま)……素藤(もとふじ)の城取り

源金太素藤(げんきんたもとふじ)は、東をさして逃げた。つぎの日は武蔵の司馬浜にたどりつき、旅篭にとまった。
そのおり、宿の主人に、鎌倉のようすをきいた。
「近ごろは、山内の管領(かんれい)さまも、相模(さがみ)の北条家といくさがたえないので、神社仏閣(じんじゃぶっかく)も衰微(すいび)して、いまはむかしの鎌倉ではありません。遍歴(へんれき)なさるなら、安房(あわ)・上総(かずさ)にまさるところはないでしょう。近ごろ安房の里見どのは、神余(じんよ)のために義兵をおこして、山下定包(さだかね)をうちほろぼしなされてこのかた、安西・麻呂(まろ)の両敵も、ほろびさりました。義実(よしざね)さまは武略だけでなく、民をあわれみ、租税をかるくし、賢(けん)を愛し、世にすぐれた人をもとめておられるということです。義実さまはすでに隠居なさいまして、いまは嫡子(ちゃくし)、安房守義成朝臣(あわのかみよしなりあそん)の世ですが、このかたもまた、まれにみる賢君で、ひろく仁政をしきなさいますので、上総はむろん、下総(しもふさ)まで半分は、おん手にいれられたとききます」と、宿の主人は安房いきをすすめた。
素藤は上総十一郡を遍歴した。
冬十月のはじめ、夷隅郡館山(いしみのこおりたてやま)の城下、普善村(ふせむら)にきた。素藤が宿をもとめてあるくと、村人はみな病人だ。しかたなく素藤は、諏訪(すわ)の社殿に仮寝した。肌寒くねむれないままでいると、深夜、そとで声がした。
玉面嬢(ぎょくめんじょう)、玉面嬢……」とよぶ声がする。
そのとき大クスノキの下あたりから、なにものかが、「きたものはだれか」ととう。
「わしは疫鬼(えやみのかみ)だ。ここらを徘徊(はいかい)して、土民のおおくを病人にした。これから安房へいこうとおもう。おまえは近ごろまであそこの地にすんでいたそうだが、国守の賢不肖(けんふしょう)、政事(まつりごと)のよしあしをきき、それによっていくか、いかぬかをきめる」というと、木の下のあたりのものが、
「わしは、安房の国守にはうらみがある。国守里見父子は、知勇兼備の名将で、賢を愛し民をあわれみ、君正しくして臣忠なりだ。それにしても、この地のものどもは、みな病みふしたが、まだ一人も死んではいない。病いのいきおいがゆるいのではないか」とこたえた。すると、そとのものが、
「いや、いまから十日をまたずに、なかばのものが死ぬだろう。この地の城主、小鞠谷主馬助如満(こまりやしゅめのすけゆきみつ)は酒色をこのみ、課役(かえき)・租税もおもく、民の苦しみがひどくて、神もまつらなくなった」といって、ふしぎな問答がつづく。
木の下のものが、
「この木のうろには、神水がある。黄金をひたすこと一昼夜で、この水を病人にのませると、たちどころになおるものだ。ところが、ここらの民は、年ごとにせめとられて、黄金の一枚ももっているものはない」といって、このあやしいものの問答はたえた。
素藤は夢とも現(うつつ)ともなくきき、
「いま玉面嬢とよびかけたのは疫鬼(えやみのかみ)で、玉面嬢とよばれたのは木精(すだま)で、クスノキの精霊(せいれい)であろう。この地の病いは、城主小鞠谷如満の悪政非道からか。おれが民を病いからすくって、恩をほどこせば、おれを徳とするだろう。人望がおれにかたむけば、如満をたおし、おれが館山の城主となる。よいことをきいたぞ」と旅づつみの五、六百両の金をだし、大クスノキにのぼり、六岐(むつまた)の枝のあいだの《うろ》に手をさしいれた。
冷水がある。素藤は、そこへ用意の黄金をなげいれ、それから木の実をくらい、まった。
三日目に若い病人が社(やしろ)にもうでた。素藤は、
「おまえはどこのものだ。わしは仙伝(せんでん)の良薬を所持している。病いをすくおうと、諸国を遊歴することひさしい」という。
若ものは上普善(かみふせ)村の農民のせがれ、猪九郎(ちょくろう)といい、すべての家人(けにん)が病いにふしている、という。そして、素藤の素性(すじょう)をとうた。素藤は、
「わしは、もと京家(きょうけ)の浪人、卜部(うらべ)なにがしといい、陰陽(いんよう)の術、医療の神方(しんぽう)、先祖相伝の秘録がある。これをもって、世に万人(ばんにん)の災厄(さいやく)をすくおうと、諸国を遊歴してこの地にきて、この館山の城下で宿をもとめようとしたが、戸ごとにみな病いにふしているので、この神社に通夜(つや)した。そのとき神の示現(じげん)をこうむり、神水のあることを知った」といい、口のかけた神酒(みき)どくりで神水をくみ、それに黄金一枚をひたし、若ものにのませた。若もののはげしい熱病は去り、心地がすがすがしくなった。若ものは、素藤を神とおがみふした。
若ものからこの話が村じゅうにつたえられ、ぞくぞくと神社に人びとがあつまってきた。老若男女(ろうにゃくなんにょ)が飲み、みなたちどころに病いがなおった。
村人は再生の大恩徳にむくいなければと、乗物で素藤を村長(むらおさ)の屋敷にむかえた。さらに、銭(ぜに)をあつめて神社の境内(けいだい)に家をつくり、素藤にこうて神主(かんぬし)になってもらった。ここで素藤は、母方の氏をついで、蟇田権頭(ひきたごんのかみ)素藤と名のった。城外のものは素藤を神仙とたたえ、尊敬した。素藤は六百両の金をおしまず、その木の《うろ》の水にひたし、夷隅一郡の人の病いの蘇生(そせい)をはかった。
館山の城主、小鞠谷主馬助如満(こまりやしゅめのすけゆきみつ)は、蟇田素藤の評判をきき、立腹した。老党兎巷幸弥太遠親(うちまたこうやたとおちか)をよび、
「蟇田なるものをからめとり、ひきたててこい。たちどころにさらし首にせよ」と命じた。
遠親は手のものをあつめたものの、こころにかかることがある。遠親自身も難病にかかり、いのちをあやぶまれたおり、素藤に祈祷(きとう)をこい、すくわれたこと、また金五十両をかり、それで負債(ふさい)をしはらったことなどがあるからだ。この恩人を、主命とはいっても、とらえることはできない。で、遠親は、
「このよしをひそかに村長に知らせて、素藤をにがそう」と思案し、一封の密書をしたため、密使をはしらせた。村長は村人につたえ、素藤の家にあつまり、評定(ひょうじょう)をもった。素藤はさわがず、
「そう心配することはない。捕手(とりて)の頭人(とうにん)遠親はわたしと親しいまじわりがある。遠親がよせてきてから、かけひきをきめよう。わたしにまかせてくれ」という。
遠親は、素藤がのがれたものと、組子(くみこ)四、五十人をしたがえて諏訪の社頭におもむさ、素藤の宿所をとりかこませた。宿所に人の気配がする。遠親はいぶかしくおもい、一人で背戸(せど)からはいると、素藤がむかえて客間に案内した。そこには村長はじめ、村人が左右にいながれていた。遠親はあきれはてた。
素藤は遠親を上座につかせ、声をひそめて、
「わたしに罪はないが、小鞠谷どのににくまれて捕手をだされたとはいえ、あなたが密書をとどけ、他郷にのがれよとおっしゃった情(なさけ)はえがたい。だが、この村人は非道の領主に徴役(ちょうえき)され、悪政にたえることがつきないので、ともに逃げようとおもっている。人びとすべてが離散したなら、あしたからだれが田畑をたがやすというのか。あなたは、一郡一城の主(あるじ)となるべき人だ。わたしのちからとあわせると、大事はたちまち成就(じょうじゅ)するだろう」とそそのかした。
遠親はその口車にのった。遠親は城にもどり、如満の首をはねた。素藤は、遠親を主ごろしの謀反人(むほんにん)としてうちはたした。

第百回 なぞの尼僧(にそう)……八百比丘尼(はっぴゃくびくに)の法術

蟇田権頭素藤(ひきたごんのかみもとふじ)は、奸計(かんけい)をもちいて、館山の城を手にいれてから、遠親(とおちか)の三族を誅戮(ちゅうりく)して、その弑逆(しいぎゃく)の罪悪を遠親一人におわせた。素藤はうわべは賢(さかし)にみせ、小鞠谷如満(こまりやゆきみつ)の悪政をあらため、民を撫(ぶ)し、士を愛し、ひろくほどこしをするようにした。その内心を知らない人びとは、「牛を馬にのりかえたような賢君(けんくん)だ」と賞賛して、みんなよろこんだ。素藤は、
「あなどりがたいのは里見だけだ。その里見に盾(たて)をついては、大敵をまねくことになる。しばらく里見にしたがっていて、徐々にはかりごとをしよう」と思案し、まえからの臣、浅木碗九郎(あさきわんくろう)・奥利本膳(おくりほんぜん)を使者として、安房の稲村(いなむら)の城につかわした。
碗九郎・本膳は、里見の四家老、杉倉・堀内・東・荒川らにあい、館山の城の内乱をうったえ、
逆賊(ぎゃくぞく)遠親を誅(ちゅう)した、その功は莫大(ばくだい)です。これゆえに、小鞠谷の家臣・村人らが、素藤をおして、主将としてともに城をまもっております。素藤が、みずからのぞんで一郡の主(あるじ)になったのではありません。いまから、年ごとに二季の貢献(みつぎ)をかくことはしません」と、家臣ら連署の起請文(きしょうもん)を披露(ひろう)し、免許をこうた。
城主里見義成は、小鞠谷如満の残暴(ざんぼう)と、素藤が黄金水をもって村人をすくい、敬愛されていることは、はやくからきき知っていた。で、義成は、
「水清ければ魚すまず、人察(さつ)なれば友なし、という。はやく免許をあたえよ」と、素藤を館山の城主とする下知状(げちじょう)をあたえた。碗九郎・本膳は、いそいで館山にもどった。
そのあと蟇田素藤は、行列をととのえ、稲村の義成、滝田の義実へ初参(ういざん)の式礼にまかり出た。
対面上はうまくたちまわったが、やがて地金(じがね)があらわれ出て、酒色の楽しみにふけり、先代如満の愛妾(あいしょう)、朝顔・夕顔の二人の美女をそのまま側女(そばめ)とした。また艶曲歌舞(えんきょくかぶ)に妙(たえ)なる少女(おとめ)を京・鎌倉からよびよせ、左右にはべらせた。素藤は、その奢侈(おごり)のうわさが稲村にきこえては、とこころがやすまらない。ひとの口をふさぐ手だてとして、安房・上総の旧族名家でおちぶれたものをさがし、扶持(ふち)をあたえた。
「当城の士卒らはすべて小鞠谷の旧臣で、いざというときは一人もたのむにたらぬ。さきに熊谷あたりで再会した砺時願八(とどきがんはち)・平田張盆作(へたばりぼんさく)は、旋風二郎(つむじろう)・苛九郎(いらくろう)よりはましだろう。ひそかにまねきよせよう」と、麻墓愚助(あさはかぐすけ)に密書と一つつみの金をもたせ、はしらせた。
願八・盆作は、なかまの苛九郎・旋風二郎をころしたのは素藤とすぐさっした。苛九郎らが、素藤に遺恨(いこん)をもっていたからだ。のちに手下は病死・斬死(ざんし)などし、願八と盆作だけになった。
ある日、飛脚を殺害すると、金三十両と、願八・盆作あての書状を持参していた。素藤が館山の城主となっている、ともにきてつかえないか、という文面だ。
二人は館山におもむき、出仕した。素藤の奢侈(しゃし)はますますつのり、租税・課役(かえき)がおもくなった。たりないときは、借りたものも返さなかった。不満をもつ村長(むらおさ)は、とらえられて獄舎(ひとや)にいれられた。
文明十四年夏、素藤の愛妾朝顔・夕顔の二人が病いになった。諏訪の社頭のクスノキの神水をもとめようとしたが、すでにくちはて、一滴の水もなくなってしまった。側女らは、なくなった。
秋風がたつころになった。素藤は、城下に法力をもつ女のきたことを知った。その女は、若狭(わかさ)のうまれで、四十あまりに見えるが、事実は八百余歳になり、人びとからは八百比丘尼(はっぴゃくびくに)とよばれ、奇跡の法をおこなうという。素藤は、その尼僧を城内にまねいた。千歳(ちとせ)にちかいというのに、色白く、眼(まなこ)すずしく、眉ひいで、身には白綸子(しろりんず)の袷衣(あわせぎぬ)をきて、黒い蝉羽(せみのは)のような紋紗(もんしゃ)の法衣に、錦の袈裟(けさ)をかけている。素藤は八百比丘尼に、
「この世を去ったわたしの側女らを見せてくれぬか」というと、尼僧は、
「わが法名は妙椿(みょうちん)ともうすが、世の人は八百比丘尼とよぶ。九百になるおりには、九百比丘尼とよばれるであろう。ともになくなった朝顔・夕顔の刀自(とじ)たちの姿をおみせしよう」と、妙椿は奥の一室にはいった。
部屋は、戸帳(とばり)を深くたれこめ、机の上に香炉をおいただけだ。妙椿はふところから一つつみの香をとりだし、口に呪文(じゅもん)をとなえながら香炉の火にたいた。おぼろおぼろとなるままにたちのぼる煙のなかに、美人があらわれた。顔は三月の桜花が吉野の山ににおうように、眉は仲秋の新月(にいづき)が明石(あかし)の浦にでるのに似ている。歳十六ばかりの一佳人(かじん)に、素藤の魂はうかれ、こころがとろけた。美人のそばによって抱こうとすると、煙とともに消えた。素藤は、
女菩薩(にょぼさつ)。おん身の妙術により、わが胸をひらいてはくれたが、なき側女はあらわれず、それよりいやます美人をみせてくれたのは、どういうわけか。おしむらくは消えてしまったが……」というと、妙椿は、
「死んだ美人をみせても、ただおもいをふかめるだけだ。それでは益ないこととおもい、こよいは世にある美人をおみせしたのだ」という。
素藤は、「それなら、その娘はどこのものか、おしえてくれ」とせわしくとうた。
妙椿はわらって、
「あの美人は、安房の国守里見義成さまの息女で、浜路姫(はまじひめ)という。義成さまには女の子がおおく、この姫は第五女ゆえ、五の君とたたえられていた。幼いころワシにうばわれ、その生死存亡がわからなかったが、遠く甲斐(かい)の民にそだてられており、命運めでたく、去年の冬安房にもどったのを、わたしは千里眼(せんりがん)で知った。よって、おん身にすすめようと、いささか術をほどこしたまでだ」とそそのかした。
素藤は妙椿を城内にとどめて、おおいにもてなした。

第百一回 クスノキの《うろ》…はかられた義通

蟇田権頭素藤(ひきたごんのかみもとふじ)は、浜路姫をめとろうと、その仲人(なこうど)をもとめていた。
ある日、同国長柄郡榎本(ながらのこおりえのもと)の城主、千代丸図書介豊俊(ちよまるずしょのすけとよとし)が、稲村どの(里見義成)へ参勤する途中、館山の城にたちよった。素藤は、盃(さかずき)をすすめながら、浜路姫の仲人をたのんだ。豊俊はしぶしぶ承知し、その成否は老党につたえさせよう、という。で、奥利本膳(おくりほんぜん)を供にくわえた。
素藤は、稲村からの吉報をまった。
六、七日後、本膳がもどり、つげた。千代丸が骨をおってくれたが、話はととのわなかった。里見義成のいうには、婚姻(こんいん)は人の大礼、再びしがたいものだから、たがいによくその家柄と歳のほどをえらばねばならぬ。蟇田は京家(きょうけ)の人というが、本国・家系がつまびらかでない。わが里見家は清和源氏(せいわげんじ)、大新田(おおにった)の嫡流(ちゃくりゅう)なので、その家柄はふさわしくない。また素藤は初老の人で、浜路とは二、三十歳の差がある。そのうえ浜路には四人の姉があり、まだ縁がさだまっていないので、姉をこえては人の妻になれぬ、と。
これをきいた素藤はたちまち声をあらげて、里見とて、安西の食客(しょっかく)からなりあがり、山下をうち、麻呂・安西から所領をうばいとったものではないか。おれもまた小鞠谷の賊臣、遠親(とおちか)を誅戮(ちゅうりく)して、衆におされて当城の主になったものだ。その義、その勇、どこに甲乙(こうおつ)あるというのだ、という。
妙椿(みょうちん)はそれをきき、素藤に声をひそめて、
「里見義成の嫡子太郎御曹子義通(たろうおんぞうしよしみち)は、ことし十歳、明年の春正月には、鎧(よろい)の着初めがあるときく。ついては、殿台(とのだい)の正八幡(しょうはちまん)・宇佐(うさ)八幡・諏訪の三社を修復しなされ。土木の工をいそがせて、ことし十二月に落成させ、そのよしを稲村にうったえて、初参(はつまいり)をこうてはどうか。両社と諏訪明神(みょうじん)は、鎌倉将軍のとき勧請(かんじょう)され、源氏に由緒深い。そうなれば義成はよろこび、その子の社参(やしろまいり)を承知するだろう。義通がこの地にまいったなら、伏兵をもってとらえるがいい。そのときこそ、この尼にしかじかの手だてがある」とささやいた。
素藤はうなずき、
「それは妙策だ。諏訪の社頭のクスノキのうろに、伏兵をおこう」というと、妙椿は、
「それもよいが、先走(さきばしり)の従者に見つけられては、どうにもならぬ。それに、この尼には手だてがある。義通をいけどり、この城内にとめおいたなら、義成はいかり、多勢で当城をかこみ、せめるだろう。防戦が難儀になっても、義通をしばり、櫓(やぐら)にのぼらせて敵にしめし、しかじかとよばわったなら、寄手はすべて義通をおもって、矢も射(い)ず、たまもうたぬだろう。そこで和睦(わぼく)の条件として、義通とひきかえに、浜路をうけとるがいい。それによって里見の武威(ぶい)はおとろえ、上総(かずさ)を攻略し、安房をもくだし、領地を房総(ぼうそう)にひらくことができる。まず修復をいそぐことだ」と、毒気(どくけ)をふきこんだ。
素藤は、城下に下知して、土木の工をいそがせた。
ある日、妙椿は素藤に、
「尼は、ここにいる用はない。あまり逗留(とうりゅう)していては、ひとからあやしまれる。暇(いとま)をいただこう。機にのぞめば、またおん身をたすけ、十二分の勝利としよう」とわかれていった。ゆくえは、わからないままだ。
八幡の両社、諏訪の社の修復のうわさがつたえられると、小鞠谷如満(ゆきみつ)に神領を没収(ぼっしゅう)されていた神主が、他郷からもどり、素藤にうったえ、旧職再補(さいふ)をこうた。素藤はこれをゆるした。
文明十四年の冬、十二月のなかば、三社の修復がなり、落成した。で、素藤は、三人の神官と老党浅木碗(あさきわん)九郎(くろう)を稲村の城につかわし、義成に、
「素藤の領するところの、殿台のほとり、両所の八幡大神宮、ならびに諏訪明神は、むかし鎌倉の右幕下(うばくか)頼朝卿(よりともきょう)の創建で、源氏に由緒ある大社だったのを、先代小鞠谷如満は、神領を没収し、神主(かんぬし)を追い、三社ともにくちはてたが、素藤が修復して、ここに再興をはたした。三社ともに源氏の氏神なので、ねがわくば国守がご参詣(さんけい)されて、奉弊(ほうへい)の義をおこなっていただければ、鎌倉将軍の先例にもかなって、神慮(しんりょ)も感応することでしょう」と社参をすすめた。
義成はよろこび、明年正月十一日、嫡子太郎義通に初鎧(ういよろい)をきせたいとおもっているので、十五日は義通を三社へ参詣させよう、とつげ、神官と碗九郎らに引出(ひきで)物(もの)をあたえた。
素藤は碗九郎の首尾をきき、妙椿のすじがきどおりに進行したことに満足した。で、まず篭城(ろうじょう)の準備をしなければならぬ、とはじめて、老党願八・盆作・碗九郎・本膳に秘計をささやき、城内に兵糧(ひょうろう)・矢種(やだね)をたくわえ、煙硝(えんしょう)をかわせたりして、その日をまった。
その年は暮れ、あければ文明十五年癸卯(みずのとう)の春正月十一日(犬坂毛野・犬山道節が鈴の森で仇討ちした同年同月であるが、日はことなる)のことである。
この日、稲村の城内では、里見安房守義成の嫡子太郎御曹子義通の、鎧の初着(ういぎ)の祝寿(ことほぎ)があった。また、館山の城主蟇田素藤へは、義成から、去年の冬からすすめてくれた殿台(とのだい)のほとりにある両社の八幡、ならびに諏訪の神社へももうでて、奉幣をおこなうよう、とつたえてきた。
十三日の朝、巳(み)の刻(午前十時)に初駕(はつが)。翌十四日の未(ひつじ)の下刻(午後三時)ごろ、上総の大樟村(おおくすむら)にさしかかった。そのとき稲村の城から注進があった。堀内蔵人貞行の夫人が急死し、杉倉武者助直元の妻女が死産した。よってけがれがあるので、社参の供は小森・浦安にゆだねてしりぞくべし、というのだ。貞行の親族も四、五人、従者のなかにおり、貞行・直元とともに稲村へもどった。ここで侍分(さむらいぶん)六、七人、従者四、五十人がへった。
話は、蟇田権頭素藤にうつす。
素藤は、大樟村から堀内らがもどった、との報告をうけた。これは妙椿の法力によるもの、とさっした。そこへ、雑兵から訴えがあった。
「城の東門の木の下に、おおきな洞穴(ほらあな)がにわかにできて、その深さははかりがたいのです。こころみにくぐっていくと、諏訪の社の大クスノキの《うろ》のうちにつづいております。地下道のいきかえりは自由です」という。素藤はおどろき、よろこび、これも妙椿の法力だ、とみずから洞穴にはいってたしかめ、そこに百人、そとに三百余人の配置とさだめた。
話をもどす。
里見義通は新戸(にいと)につき、村長(むらおさ)の家を宿として、あしたの社参の準備にかかった。小森篤宗(こもりあつむね)・浦安乗勝(うらやすのりかつ)らは、配下のものを殿台へおもむかせ、三社のようすをさぐらせた。日が暮れて、そのものたちがもどった。
「あの三社のほとりには、おおきな木があります。なかでも諏訪の神社には、十かかえばかりの大クスノキがあり、幹が《うろ》になっていて、そのなかに数人はすわれるでしょう」
「あしたご参詣のおり、その木の下に雑兵をたたせ、非常にそなえることだ。館山の城主は譜代ではないので、こまかにこころをくばることだ。野心のあるものがいなくても、《うろ》に毒蛇かすむこともあるからだ」と小森らは下知した。雑兵のなかには、用心がすぎるとあざわらうものもいたが……。
素藤は、館山の城から老党奥利本膳を新戸の宿へつかわし、美酒佳肴(びしゅかこう)の贈物をとどけた。その翌朝、里見義通は、烏帽子装束(えぼししょうぞく)もはれやかに、乗物にのって、新戸の宿を出立した。小森衛門篤宗以下侍分二十余人、雑兵ら二百余人が前後左右について、まず殿台のほとり、正八幡の社へとむかった。道ばたには、村人幾百人が義通の社参を見ようとあつまった。はれているのに、蓑(みの)をつけているものもいた。素藤の伏兵とは、まだだれも気がつかない。
義通は八幡の参詣をすませ、諏訪の社へおもむいた。大クスノキのほとりに、小森篤宗のさしずで、雑兵十人ばかりが配置された。
里見義通は、諏訪の鳥居前から乗物を出て、老党・近習に守護されてすすんだ。その参道は、一町あまりある。石畳(いしだたみ)がつづき、左右には松柏(しょうはく)がたちならんでいる。そのなかに大クスノキの一樹がめだった。
案内に立った本膳は、「神主(かんぬし)、おそい」とつぶやき、本殿へ走った。草履(ぞうり)の鼻緒(はなお)がきれた。これは、計算してのことだ。草履の半足をぬぎすてて、木かげにしりぞいた。義通は、クスノキのそばをしずしずとすぎようとした。
と、木のうろからつづけて銃声がひびき、幼君の左右にしたがっていた二人の老党の、小森篤宗は背をうたれ、浦安乗勝はうなじをうたれて、ともに息たえた。
この大変事におどろいた田税逸友(たちからはやとも)・苫屋景能(とまやかげよし)そのほかのものが、幼君に走りよろうとしてうたれた。クスノキのそばの雑兵もうたれた。木のうろから、手槍・小薙刀(こなぎなた)をひらめかしたものどもがあらわれ出た。また奥利本膳が、二、三十人の手のものをさしずして、義通をからめとろうとした。里見勢は、うたれるものがつづいた。
義通の身辺を守護するものがいなくなった。一人の兵が走りかかり、とらえようとしたのを、義通はすかさず小太刀をぬき、右手をきった。兵はたおれた。その背後に素藤がきて、義通の利腕(ききうで)をとり、小太刀をうちおとした。わずか十一歳の小腕だ。
素藤は義通をねじすくめ、小脇にだき、木の《うろ》につれこもうとした。田税逸友・苫屋景能は遠くからみかえっておどろき、いかり、素藤勢をきりはらい、追う。また、うろのなかから鉄砲がうちだされた。田税らもたおれた。義通はいけどられ、地下道をくぐり、城内に出て、一室にとじこめられた。
里見勢のしかばねが社頭にかさなり、戦いはここにおわった。

第百二回 逆賊征伐(ぎゃくぞくせいばつ)……義通出陣

殿台のほとり、諏訪の社(やしろ)の神主は、梶野葉門(かじのはもん)という。葉門は、その社に里見義成の嫡男(ちゃくなん)義通が参詣するときき、まちうけていたが、おもいがけない戦いがおこり、里見の士卒はうたれ、幼君義通はとらえられたときいて、かくれていた。その逆徒の大将が、館山の城主、蟇田素藤(ひきたもとふじ)と知り、おどろき、おそれた。葉門は、
「修復したのは、里見どのをあざむき、義通君をとりこにするためだったのだ。この社頭でうたれたので、里見どのは、このわたしをも逆徒とおもわれるのではないか。それにしても、蟇田どのは、いつのまに手のものをこの木の《うろ》にとじこめておいたのだろう」と、こころおだやかではない。
クスノキのほとりにきてみた。洞(ほら)の口には、足跡がおおい。社(やしろ)のやとい人もきて、おどろき、あやしんだ。
葉門は、「わたしは安房にまいり、稲村どの(義成)に告訴しよう。また、なきがらで社頭をけがしておいてはならない。おまえたちは村人をかりあつめ、野なり山なりにうめてほしい」という。
しかし、やとい人たちは、
「いや、なきがらをうめては、館山どの(素藤)にうたがわれて罪をえるかもしれません」とためらった。
そのとき、安房のほうから、むら雲がたなびき、満天にわかにかきくもり、雷電(いかずち)に、風おこり、砂石(いさご)をとばし、木をたおした。雨あしはすさまじいばかりだ。
葉門らはおそれ、頭をかかえて、社前にひれふし、神の冥助(めいじょ)をいのった。
天のむら雲は、まるで竜巻(たつまき)のようだ。門扉(もんぴ)・廂(ひさし)・石・瓦(かわら)も地をはらい、木のおれる音があたりにひびき、天地がひっくりかえったようだ。
半刻ほどで風はやみ、雨ははれた。葉門らは安堵(あんど)し、社頭のあたりを見た。里見の士卒、城がたの雑兵のなきがらは、風にふかれてどこかに消えた。そればかりか、鮮血も雨にあらわれ、大クスノキの大枝・小枝もふきおられ、洞も消えた。葉門は、やとい人に、
「これが、ただの天変地異のわけはない。わたしは、里見どのに知らせにはしる」としたくをして、出立しようとすると、宇佐(うさ)の神社の神主がきた。葉門は、先刻の怪をつげた。その神主も、同行するといった。
二人の神主と従者は安房にむかい、十町たらずあるいた。道の左右にたちならぶ木に、おおくの首がかけられていた。
葉門も、字佐の神主も、従者も、「これは、どうしたことだ」とおどろき見た。そこへ、この村のものか、十一、二歳の女の子が、雨にぬれたちいさな犬をいたわりながら、だいてきた。葉門は、
「この首は、蟇田(ひきた)どのがかけた義通君の従者のものか」と、とうた。
女の子は首をふり、
「いやいや、これはみんな、館山の城兵の首です。里見義通君の従者とたたかって、うたれたものです。さきに神の託宣(たくせん)があり、敵みかたのなきがらは、風をおこし、雨をふらしてはらう、というのです。これは、安房の富山におられる神女(しんにょ)の霊験とききました。また、義通君に災厄(さいやく)があり、しかも、天命なのでそれはまぬがれがたいが、いのちに別状はないとのことです。なお、里見どのが、怒りにまかせて兵をあげようとされるのは、おおくの士卒をうしなうだけで、益のないことです。稲村へおいでになるなら、このことをもうしあげてください」と走り去った。そして、姿が消えた。
葉門らは、
「これは、善政徳義の稲村どのへの神佑示現(しんゆうじげん)ではないか。さあ、いそごう」と、安房への近道をとった。

話はかわる。
義通の供頭(ともがしら)の、堀内蔵人貞行(ほりのうちくらんどさだゆき)・杉倉武者助直元(すぎくらむしゃのすけなおもと)らは、つぎの日の未(ひつじ)の下刻(午後三時)ごろに、稲村の城にかえった。だが、二人の妻女には、べつだんかわったことはない。きのう大樟(おおくす)村でうけとった書状をひらくと、白紙で、その書状をとどけたものも別人だったという。直元の父、木曽介氏元(きそのすけうじもと)は、もっと奇怪なことを貞行・直元にいう。
「きょうの真昼ごろ、青空がにわかにかきくもり、空中から人がふきおとされた。それは、士卒百五、六十人ほどで、みな気絶していた。そのなかには、小森篤宗(あつむね)・浦安乗勝(のりかつ)・田税逸友(たちからはやとも)・苫屋景能(とまやかげよし)らがいて、深手をおっていたが、療治(りょうじ)をつくしたので、蘇生(そせい)した」
ここで、館山の諏訪の社頭の凶変が判明した。
その日、申(さる)の刻(午後四時)、正八幡(しょうはちまん)の神主が一騎、稲村城にかけこんできた。里見の家臣に蟇田素藤がしかじかと知らせた。
さらにこの夜、子(ね)(午前零時)のころに、諏訪の神主梶野葉門と、そのほとりの宇佐八幡の神主なにがしが、火急の注進、と面会をもとめてきた。この知らせは詳細で、素藤の逆謀(ぎゃくぼう)のありさま、風雨のために敵みかたの死骸が消えたこと、クスノキの《うろ》の洞穴(ほらあな)がうずもれたこと、また十町ばかりさきの並木の枝ごとに首級がかけてあること、あやしい女の子がこの首は素藤がたの雑兵だといい、また神のおつげをしかじかとのべたことなどをいった。
これをきいた氏元らは、
賊首(ぞくしゅ)蟇田素藤は、鬼神(きしん)のつかう幻術に熟(じゅく)したものだろう」という。義成は、三人の神主に酒肴(さけさかな)をあたえ、とがめることはなかった。
つぎの日の朝、討死(うちじに)しなかった雑兵四、五十人が、傷をおったものをたすけながらもどった。おめおめかえったのは、社頭の凶変、逆徒の出没をつげるためだといい、さらに手負いのものがほとんどなので、歩行が困難だったためにおくれた、ともいう。
義成は、まず療治し、あとの課役(かえき)をはたせ、といった。家老杉倉氏元は、
「討死した逆徒の首を路傍(ろぼう)の並木にかけたり、風雨をおこしてみかたの士卒を当城にかえし、ほとんど蘇生におよばせたのは、伏姫君(ふせひめぎみ)の大御霊(おおみたま)の冥助ではございませんか。またつたえききますと、犬士に災難がおこったとき伏姫君の御霊が、かげにたち、かたちにそって、しばしば救われるそうです。それをおもいあわせると、ほかには神はおられません。孝義心烈(こうぎしんれつ)、この国にも異国にもまれな姫君なので、なくなったあとまで、このように賞善罰悪(しょうぜんばつあく)の神威(しんい)を、ことあるごとにあらわされるのでしょう」とうやうやしくいう。義成も、
予(よ)もそうおもうが、幽冥(ゆうめい)のこと、鬼神の出没、あるといえばあり、ないといえばないものだ。それゆえ、聖人は怪力乱神をかたらぬという。神助をたのみ、みずからのまもりをわすれてはならぬ。まして、素藤は鬼神をつかうというではないか」といましめた。
翌日、館山の城をさぐらせた三人の間諜(しのび)がかえり、素藤の手にとらえられた義通は、城内の一室にとじこめられていること、城内には兵糧(ひょうろう)をたくわえ、篭城(ろうじょう)の用意をしていることなどをつげた。
義成は思案をめぐらし、「あす、出陣する」とふれた。ことし五歳になる二男次丸(つぐまる)(のちの上総介実尭(かずさのすけさねたか))に、老党杉倉木曽介氏元・荒川兵庫助清澄を後見として、稲村の城をまもらせることにした。
文明十五年春、正月二十一日(毛野・道節らが鈴の森で仇討ちしたのと同日)に、蟇田素藤征伐の出陣となった。杉倉武者介直元を先陣とし、堀内蔵人貞行を後陣とし、義成は中軍である。このほか東六郎辰相(とうのろくろうときすけ)を遊軍と配した。その勢、三千余をかぞえる。
安房・上総のさかいの市坂(いちざか)をこえると、さきに上総の諸城主へ告文を持参させた十人の軍使のうち、三人がもどってきた。
「てまえどもは、榎本(えのもと)・椎津(しいつ)・庁南(ちょうなん)へおもむき、それぞれの三城主に告文をわたし、御諚(ごじょう)をつたえ、そのようすをうかがいましたが、かれらは蟇田の一味にくわわったらしく、とくに榎本の城主千代丸豊俊(とよとし)は、さきに素藤のために仲だちして、浜路姫上のご婚姻をすすめたこともあり、のがれがたいとおもってか、ひそかに人馬をととのえて、篭城の準備をしています」
この注進を義成はきき、貞行・直元をよび、こう命じた。
「そのほうたちに、一千の兵をさずける。蔵人は、武者助を副将として、ここから榎本の城へおしよせ、豊俊をせめよ。その城がおちれば、庁南、椎津の二城をくだすことは容易だ。臨機応変の軍慮(ぐんりょ)をめぐらし、そこで大功を奏するのだ」
貞行・直元は下知(げち)をうけて、千代丸豊俊のこもる長柄郡(ながらのこおり)榎本の城にむかう。
ここで義成は部署をあらためた。小森衛門篤宗の一子小森但一郎高宗(ただいちろうたかむね)と、浦安兵馬乗勝(ひょうまのりかつ)の弟浦安牛助友勝(うしのすけともかつ)を先陣として、東六郎辰相を後陣とし、翌日、新戸(にいと)に着陣した。一日休息し、あくる朝、館山の城へおしよせた。だが城のまもりはかたく、おもうようにならない。義成は、兵をうしなっては、と新戸に退陣した。
つぎの日、後門(からめて)へ、東辰相を大将とし、数百の兵をさしむけ、義成は、前門(おおて)に千余人の兵をもってせめた。城兵らは矢窓(やまど)をひらき、矢石(しせき)はなちつづけた。寄手はこれをおそれず、たおれたみかたを矢窓の埋め草として、壁一重(かべひとえ)をやぶった。このとき、前門の城楼(やぐら)に、武者四、五人があらわれて、声高くいう。
「里見どのに、ものもうす。てまえは、蟇田権頭(ひきたごんのかみ)につかえる砺時願八業当(とどきがんぱちなりまさ)・平田張盆作与冬(へたばりぼんさくともふゆ)である。義通君をいけどったのは、害そうとしたのではない。先非をくいて浜路姫を当城におくりまいるなら、そのときひきかえに、義通君をかえすべし。否といわれるなら、こちらも屈せぬ武士の意地。面前で、義通をほうむるであろう」
雑兵が義通をしばり、さるぐつわをかませ、ひらめく太刀の切っ先を胸先におしつけ、
「返事をはやくしろ」とせめたてる。雑兵どもが弓(ゆみ)弦(づる)をはじき、盾をならして、どっとわらった。
寄手の軍兵は、せめいろうとするいきおいをくじかれ、進退ここにきわまった。こぶしをにぎり、歯をくいしばり、城楼をにらんで立った。義成はいかり、
「きたない賊徒のふるまい。幼弱なる義通を人質(ひとじち)とし、さいなみ、あくまで予(よ)をはずかしめようとも、われはその非望をゆるすものか。その儀ならば、短兵急(たんぺいきゅう)にせめやぶり、素藤をほうむり、この腸(はら)をいやしてくれよう。ものども、すすめ。猶予(ゆうよ)することはない。なまじ義通を、反賊の手で害されるより、遠矢(とおや)をかけて、わたしが射よう」と、鞍(くら)の前輪をうちならし、すすめすすめ、と馬をよりよせ、弓をとりなおして、城楼を見あげ、弓をつがえ、ひきしぼろうとした。
それを、近習の侍はおしとどめ、
「いま御曹子(おんぞうし)をうしなわれては、素藤・賊兵らを一人のこらずうちはたしても、そのかいがありません。しばらく、ご堪忍(かんにん)をねがわしくぞんじます」と、いましめたが、義成はきかず、
「予も、そうおもわぬでもないが、三軍の将たるものが、かかる恥辱(ちじょく)にあいながら、おめおめとしてしりぞくなら、父祖の名をけがし、臣にあなどられて、末代まで家の瑕瑾(かきん)になるだろう。とめるな。はなせ」といきまく。
それをつげられた東六郎辰相は、いそいで一騎をとばしてきて、馬からおり、主君に、
「うっぷんのおもむきは、人づてにききました。ご出陣の前日、滝田の老侯(おおとの)(義実(よしざね))から、かくあるべし、とご書簡をたまわってきております。短慮では、ことがなりません。わたしは不肖(ふしょう)ですが、御曹子をつつがなく、上(かみ)のおん恥辱にもならないようにはからいます。しばらく、ここをおまかせください」と義成の馬のくつわをとらえてひきまわし、馬の尻をむちでたたいた。
馬は、まっしぐらに走った。兵たちは、隊をみださず、安堵(あんど)して新戸の陣所にむかった。

第百三回 難攻(なんこう)館山城……親兵衛(しんべえ)登場

この日、館山の城の後門(からめて)をせめた東辰相(とうのときすけ)隊の先陣の頭人は、田税戸賀九郎逸時(とちからとがくろうはやとき)・登桐 山八良于(のぼぎりさんぱちよしゆき)の二人だ。
逸時は良于に、
「このところをまもる敵の頭人は、奥利・浅木だ。われらにせめたてられ、臆病神(おくびょうがみ)につかれてしりぞいても、追ってはならぬ。前門(おおて)の敵はこれとちがって、主君が退陣なされるのを見れば、素藤はかならず士卒をだし、くいとめようとするだろう。この隊を二つにわけて、あなたはその一隊をひきい、東辰相の大将とともにしかじかとはからってくれ。われらはひそかにここからしりぞく。城兵が出て追うならば、前後からさみ、敵の大将をうちとるがいい」という。
良于(よしゆき)はこころえて、四百余人の手のものをひきいて、しずしずと前門のほうまでしりぞき、東辰相に逸時のはかりごとをつげた。辰相はうなずき、まだ遠くない義成のしんがりとして、士卒とともにしりぞいた。
城の大将素藤は、みずから城楼(やぐら)にのぼり、このありさまをはるかに見て、
「さては義成、恩愛のやるかたなさに、逃げぼえしながら、新戸(にいと)のほうへしりぞくらしいぞ。にがすな。ものども、うちとどめよ」とよばわりつつ、おりたって、馬にうちのり、槍を脇にはさみ、とびだした。
これにおくれてはならぬ、と四、五百人が金鼓(きんこ)をならし、どっと城門(きど)をひらき、反橋(はねばし)をわたし、まっしぐらにあとを追った。
辰相・良于らはわざと逃げた。素藤は、せめたてた。辰相らは、こらえかねたように、ぱっとくずれて逃げ走った。素藤は、なおもうちもらすまいと五、六町おい、ひとむらの森のそばまで走ってきて、馬をとめ、
「ものども、はやるな。敵の伏兵がこのあたりにいたなら、みかたの不利となるぞ」とよばわったが、そのとき、田税逸時の隊の士卒三百余人が、どっと素藤の後陣のほうからせめたてた。城兵どもは度をうしない、うたれるものがおおかった。素藤はからくも、一方をきりひらき、城をさして逃げはじめた。
辰相は、弓に矢をつがえて、ひょうと射る。素藤の左のひじにあたる。素藤はあやうく落馬するところを、左右からたすけられて城門に走りこんだ。
反橋(はねばし)がひきあげられ、城門がとじられた。逃げおくれた城兵は、みなうたれた。
つぎの日、里見義成は、二千余人の軍兵を手配(てくば)りし、未明から館山の城へおしよせたものの、遠巻きにしただけだ。城から二町あまりの地に、陣屋をもうけた。
滝田の老侯里見義実(よしざね)は、さきに蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)を新戸の陣所につかわして、勝敗のようすをとわせた。逆賊(ぎゃくぞく)素藤が、義通(よしみち)を城楼にのぼらせてせめ、寄手にむかい、浜路姫との婚姻(こんいん)をもとめたこと、のちに東辰相が素藤をうち、傷をおわせたことなどもきいた。また義成は、神と親とのおしえをさとり、短兵急(たんぺいきゅう)にせめず、遠巻きにしていることもきいた。
三十日ばかりへて、二月下旬となった。その間、みかたに利あることもなく、義通の安否はわからない。義実は、不安な日々をかさねた。このとき、穂北(ほきた)にいるという犬士の助力をえようとしたが、当家の武徳はおとろえたかとおもわれそうで、はずかしい。
その思案のすえ、いまはなき娘、伏姫(ふせひめ)の神霊の加護(かご)をえることができたなら、とその夜、蜑崎照文らにつげ、つぎの日の朝、義実は滝田の城を出た。従者は照文、近習(きんじゅう)の東峰萌三(とうがねもえぞう)・小水門目(こみなとさかん)・蛸船貝六郎(たこふねかいろくろう)など四、五人、雑色(ぞうしき)らをあわせて四、五十人である。
富山のふもと道の大山寺(おおやまでら)の住持は、出むかえて仏殿にみちびいた。義実は礼服にあらためて、本尊(ほんぞん)をおがみ、つぎに伏姫の位牌(いはい)に焼香して、祈念(きねん)した。
そののち住持は、「当寺から遠からぬ富山のすその川の流れははげしく、人がわたることはできませんでしたが、おとといの朝から、突如(とつじょ)、川の水がかれました。二十年あまりながれていた水が、一朝(ちょう)にかれつくしたことは奇(く)しきことです」という。
義成は座をたち、寺門を出た。そして照文に、川水がかれたことをつげ、
予(よ)は、これから富山にのぼり、伏姫の墓にまいろうとおもう。供(とも)をせよ」といって、山にのぼった。
川は、かれていた。義実は馬からおり、
「これから予の供は、東峰萌三・小水門目・蛸船貝六郎の三人でよい。照文らは、ここでまつがいい」といい、主従四人が墓をさしていった。途中、萌三は花をもとめにもどった。
風物のすべては、ことごとく成仏(じょうぶつ)の功徳(くどく)を念じているようだ。義実が伏姫のすんだ岩窟(いわむろ)にちかづこうとしたときだ。左右から矢が射られ、小水門目が高股(たかもも)を射られてころんだ。この矢で蛸船貝六郎も膝下を射られ、のけぞりたおれた。四、五人のくせものが、手に手に竹槍をもち、声高に、
「やい、義実。われわれは、そのむかし、なんじにほろぼされた麻呂・安西・神余(じんよ)の残党だ。きょうこそ、うらみをかえすぞ」とさけび、左右からおそいかかるのを、義実はすこしもおそれず、寄らばうとうと、杖(つえ)をすて、刀の鯉口(こいぐち)をひろげてにらむ。
そのとき、かたわらの木かげから、一人の人があらわれて、天地にひびくような声で、
「くせものども、無礼をするな。里見どのに宿縁(しゅくえん)のある八犬士の随一と、かねてその名を知られた犬江親(いぬえしん)兵衛仁(べえまさし)、ここにある。とどまれや」とよばわりながら走り出てきたおおきな童子、身の丈は四尺四、五寸、顔の色は薄紅(うすくれない)で、筋骨たくましい勇士の相だ。身には、だんだらすじの山樵衣(やまがつぎぬ)の下に錦の襦袢(じゅばん)をきて、手には六尺ばかりの皮つきのカシの棒を軽そうに脇ばさみ、腰に一振(ひとふり)の短刀をおびて、ふりみだした額髪は歳よりたけた神童ぶりだ。

第百四回 四人のくせもの……神女にそだてられた親兵衛

多勢をたのむものどもは、槍(やり)をひねって、左右からどっとわめきおそいかかる。犬江親兵衛は、すこしもあわてず身をかわし、棒をもってうちはらう。くせものどもは竹槍をうちおられ、胸・肩・腰骨をおられてへたばった。ただ一人は、いささか腕に自信があるのか、しきりに槍をひらめかしてさそうとする。親兵衛はこれもうけとめ、ちょうとうつ。槍は折れ、肩がうたれた。くせものは、痛みをこらえながら逃げた。
親兵衛は、たおれている四人を藤蔓(ふじつる)でしばりあげた。
それから裾(すそ)をおろし、塵(ちり)をはらって、義実の前にひざまずき、
「おこがましいことですが、わたしは下総(しもふさ)の市川の船長(ふなおさ)、山林房八のせがれで、はじめの名は真平(しんぺい)、また大八(だいはち)ともよばれました犬江親兵衛仁(まさし)でございます。おん身につつがなく、よろこばしくぞんじます」という。
義実は、犬士の一人、犬江親兵衛仁の名はきいている。かたわらの大樹の株に尻をかけ、まじまじと見て、
「さては、そのほうが妙真(みょうしん)の孫、犬江親兵衛か。うまれながら仁(じん)の字の珠(たま)をもち、犬士の隊(むれ)にはいるべき身で、ボタンの花に似た痣(あざ)があるとは、妙真・照文らからきいている。四歳の秋に神隠(かみかく)しにあったそうな。それはたしか六年まえのことというから、ことしは九歳のはずだが、身の丈は四尺四、五寸もあろう。筋骨たくましく、ふつうの少年なら十六、七歳にあたるだろう。その武芸勇力は、一人で五人を相手にしてものともせず、四人をとらえ、一人をうちはらしたのは、神童というべきだ。それのみならず、人たえたこのような深山に、だれにそだてられて人となったのか」ととうた。親兵衛は、
「おん疑いは、ごもっともです。わたしは四歳のころ、舵九郎(かじくろう)というわるものにいのちをうばわれそうになったとき、ふしぎに神女(しんにょ)の擁護(ようご)で舵九郎は誅戮(ちゅうりく)され、この身は神女にかきさらわれて、この山につれてこられました。それから伏姫君の墳墓(おくつき)のある岩窟(いわむろ)を宿とし、姫君の御霊(みたま)に夜となく昼となくやしなわれて、さながら夢のようでした……」
しだいにものごころがつくようになると、折おりに神女のおしえにより、親兵衛は身のうえのみならず、祖母妙真がぶじで滝田の城内にあること、伯父、犬田小文吾悌順(こぶんごやすより)はむろんのこと、犬塚・犬川・犬山・犬飼・犬坂・犬村の動静、きのうはしかじかのことがあった、きょうはまたかようかようのことがあった、と七犬士らのことは一事ももらさず知ることができた。
それに三度の食膳も、四季の着物も、みな姫君の神通力をもって、どこからかとりよせてやしなってくれた。身の丈は年ごとにのび、自分でもおどろくばかりにおおきくなった。これも神変奇特というほかはない。さらに神女の恩徳はかぞえきれず、手習読書・弓馬撃(きゅうばげき)剣(けん)・文学武芸、なにくれとなくおしえてくれたので、六年間修練をつんだ。 神女はいつもいるのではなく、用のあるときにだけたちあらわれる。きょう、神女があらわれていった。
しかじかのころに、わたしの父が三人の従者とわが墳墓をみようと山踏みしてこられる。そのとき、くせものが仇(あだ)をする。それを退治せよ、と一振(ひとふり)の短刀、錦の襦袢(じゅばん)をあたえられた。さらに、神女の甥(おい)義通がとらえられて館山の城内にいる。それゆえの、父義実の登山でもある。ここから館山におもむき、素藤(もとふじ)をくだし、義通を救出してほしい、と姿を消した。
親兵衛は、かたりおわった。
義実は親兵衛の短刀を見て、それは伏姫が自害するまで所持していたものと知り、親兵衛のことばをしんじた。そして、蛸船貝六郎(たこふねかいろくろう)・小水門目(こみなとさかん)のしかばねを見てため息をついた。親兵衛は、
「従者らがうけた矢傷は急所をはずれていますのに、一矢で息がたえているのは、毒矢だからではないでしょうか。ここに、神女からさずけられた起死回生の神薬を所持しております」と、腰の薬篭(やくろう)から幾粒(いくつぶ)かの神薬をとりだし、かみくだいて矢をとった傷口にぬりつけ、あまったものは口をひらき、そそぎいれるようにした。そして、背を三つ四つたたくと、蛸船・小水門は蘇生(そせい)した。
二人の従者は義実を見、また親兵衛としばられているくせものの姿を見ておどろいている。義実は、親兵衛のこと、神薬で蘇生したことなどをかたった。
それから、とらえた四人のくせものの詮議(せんぎ)となった。頭(かしら)とおもわれるものは、安西景連のまた甥の安西出来(あんざいできの)介景次(すけかげつぐ)といい、またの一人は麻呂小五郎信時(のぶとき)の一族、麻呂復五郎重時(またごろうしげとき)といった。このものたちの話はこうだ。
蜑田権頭(ひきたごんのかみ)素藤は館山の城主となってから、安房四郡の旧領主神余・麻呂・安西の子孫がいるならもうしいでよ、扶持(ふち)をとらせる、とふれた。で、われわれ二人が神余の子孫とともに館山におもむき、来歴をのべた。素藤はわれらを城内にとどめ、おおくの扶持をくれた。
そのうち素藤は、国守の息女浜路姫(はまじひめ)をめとろうとはかりごとをめぐらし、義通君をとらえた。
ある日、われらは素藤によばれ、滝田におもむいて義実をうちはたしたなら、義成をうつのも容易だ。そうなれば、房総(ぼうそう)二国はわが掌中(しょうちゅう)にはいるだろう。そのおり功があるなら、安房四郡をさきあたえて、それぞれ一郡の領主にしよう、といわれた。われらは城内をひそかに出て、滝田の城下にはいり、そこで義実の大山寺参詣(さんけい)をきき、木かげにまちぶせした、という。
また、もう一人のくせものも、神余長狭介光弘(じんよながさのすけみつひろ)の近習(きんじゅう)、天津兵内明時(あまつひょうないあきとき)の弟、天津九三四員明(くさしかずあき)と名のり、かたわらの男は、侠客(きょうかく)、荒磯南弥六(あらいそなみろく)の子分、椿村(つばきむら)の墜八(おちはち)という。員明は親兵衛に、
「逃げたものはその南弥六で、その罪をゆるされ、もちいたなら、かならずためになるでしょう。ただ、館山にもどって蜑田につげれば、ことはおおきくなります。はやく追いかけて、ゆくえをさがされてはどうです」という。
親兵衛が立とうとすると、木かげから人の声がした。
「しばらく、まちなさい。その南弥六をとらえております」

第百五回 神助霊験(しんじょれいげん)……そのごの姥雪(おばゆき)一家

木かげから、一人の翁(おきな)が出てきた。筋骨(すじぼね)はおとろえず、矍鑠(かくしゃく)として、気力が顔にあらわれている。縹色(はなだいろ)の布の綿入れの衣をきて、白布の甲掛(こうがけ)・脚半(きゃはん)で、手には《しこみ》刀をもち、南弥六(なみろく)をしばり、ひきたてている。そのうしろに、一人の老婆がいる。
義実は、この老人たちをはかりかね、親兵衛(しんべえ)に、なにものか、ととい、その老人に、
「老人。親兵衛と同宿のものなら、近くすすみ、もうせ」という。
老人は、南弥六を貝六郎・目(さかん)にひきわたし、うやうやしく義実にぬかずき、
「てまえは、犬山道節忠与(ただとも)の父、犬山道策(どうさく)のもと家来で、はじめは姥雪世四郎(おばゆきよしろう)、のちに梶原のヤス平とよばれたものです。また、この女房は、音音(おとね)という道節の乳母(うば)なのです。お聞きのように、六年まえの秋、てまえの子、十条力二郎(じゅうじょうりきじろう)、またその弟尺八(しゃくはち)は武蔵国豊島の戸田川で、犬士をせめる大敵をふせぐためにたたかい、討死(うちじに)しました。それから音音は二人の嫁、曳手(ひくて)・単節(ひとよ)と世をさけて、上野国甘楽郡(こうずけのくにかんらのこおり)の白井の城にほどとおからぬ荒芽山(あらめやま)の隠れ家にすみました」と、力二郎・尺八の魂魄(こんはく)のかえってきたことをかたり、あとは音音に話をさせた。
音音はその隠れ家に犬山道節・犬塚信乃・犬川荘助・犬田小文吾・犬飼現八らがあつまったが、白井の城に密訴(みっそ)したものがあり、捕手(とりて)の頭人(とうにん)巨田薪六郎助友(おおたしんろくろうすけとも)が、おおくの軍兵をひきいておしよせた。
犬田小文吾は、曳手・単節を行徳に案内すると、馬で去った。道節らをのがそうとして、家におしよせる敵とたたかったものの、弓おれ、のがれる手だてはない、と奥にしりぞき、火をはなった。
夫婦が猛火のなかに身をおどらせようとすると、煙のなかに一人の神女が、大きな犬の背に尻(しり)をかけてあらわれ出た。世四郎と音音に、麻縄(あさなわ)にすがれ、という。そして、そのまま天にのぼった。
つぎの朝、われにかえって身をおこすと、そこは深山のなかだ。そこに四、五歳の幼児(おさなご)が一人いた。ふしぎにおもい、ここはどこか、そしておまえはだれか、ととうと、その幼児は、ここは安房の富山で、自分は八犬士の一人犬江親兵衛仁(まさし)だ、と名のった。また神女にみちびかれて、五犬士も虎口(ここう)をのがれた。
さらに、岩窟(いわむろ)のそばに、血にまみれた馬と曳手・単節が息たえていたが、これも神女の冥助(めいじょ)で蘇生(そせい)した。馬の鞍下(くらした)には力二郎・尺八の首がむすびつけてある。八房(やつふさ)の犬塚とならべて、馬のなきがらをうめた。世四郎らは、むろん力二郎らの首もほうむった。
それから、親兵衛を中心とする、ふしぎな日々がつづいた。
世四郎と音音は、かわるがわる話をした。
そして音音は、
「曳手・単節は、この山にきてからにわかに腹がおおきくなり、まるでみごもったようになったのです。二人の嫁は、亡夫(なきおっと)とわかれてから、枕(まくら)をならべることはなかったのですが、ただ亡魂(なきたま)を見て、腹のなかでときどきうごくものがある、というのです」という。
それから三十日ばかりあと、曳手・単節はおなじ日に産気(さんけ)づき、やすらかに子をうんだ。ともに男の子で、面影は力二郎・尺八に似て、すこしもちがわない。で、曳手の子を力二郎、単節の子を尺八と名づけた。ことし六歳となった。ふつうの童(わらべ)の七、八歳よりおおきい、とかたった。
里見義実は聞きおわり、
「ふしぎな神助霊験(しんじょれいげん)よ。予(よ)はこの年ごろ、伏姫の菩提のために、月の命日ごとに、白米五俵、味噌(みそ)・醤油(しょうゆ)・野菜・薪(たきぎ)の料を大山寺へつかわし、貧民・乞食(こじき)に斎(とき)をあたえ、夏冬には布(きれ)をおくった。それがのこっていないという。親兵衛の襦袢(じゅばん)にもこころあたりがある」といった。

第百六回 出陣……駿馬青海波(せいかいは)

里見義実(さとみよしざね)は、姥雪与四郎(おばゆきよしろう)・音音(おとね)夫婦にむかい、
予(よ)のときしめしたように、みな因縁がある。与四郎のしこみ杖(づえ)、音音の薙刀(なぎなた)をもっているのも、出処があるのか。猛火のなかから死をのがれて、この山にいるのに相ふさわしくないものだ。それも、伏姫の亡魂(なきたま)がさずけたものか」ととうた。与四郎は、
「このしこみ杖は、てまえが戸田河原(とだがわら)から力二郎・尺八の首をうばいとり、荒芽山へおもむいたおり、身のまもりに、とたずさえてまいりました。それで白井の寄手をふせぎ、ちかづく敵を幾人きりはらいましたことか。やがて猛火に身をやかれようとしたときも、このしこみ杖だけははなしませんでしたから、そのままこの山にこれたのです。これはの神女の霊応(れいおう)でございましょう」という。音音も、おなじ霊応をかたった。
義実はまた、
「おまえたちの二人の嫁、曳手(ひくて)・単節(ひとよ)、それに二人の子らは、どこにいるのだ」とかさねてとうた。音音はよろこび、
「わたしどもといっしょにまいりましたが、おゆるしをえてからとおもいまして、木の下にとどめておきました」とこたえた。義実は、
「それではつかれるだろう。こちらへ」とまねきよせた。親兵衛(しんべえ)が、
「これは音音の嫁、十条力二郎・尺八の妻の曳手・単節です。また世四郎らの孫、力二郎・尺八でございます」という。音音は二人の孫の頭に、両手をかけてぬかずかせた。
義実は、滝田の城内には妙真もいることなので、姥雪世四郎・音音夫婦、曳手・単節、それに二人の幼児力二郎・尺八らも、滝田の城にすむように、といった。世四郎らは、
「主筋にあたる犬山道節らにさきだっての見参(げんざん)は、まことにおそれおおいことです」とこたえると、義実は、それをおしとどめた。
犬江親兵衛は、しばっておいた荒磯南弥六(あらいそなみろく)のそばにきて、
「くせもの、南弥六とやら、おまえは安房の洲崎(すさき)の侠客(きょうかく)無垢三(むくぞう)の外孫というではないか。むかし無垢三は、杣木朴平(そまきぼくへい)とともに山下定包(さだかね)をうとうとして、あやまって神余光弘(じんよみつひろ)どのをおかした。その罪をあがなおうとするのはわかるが、理義も邪正(じゃせい)もおもわずに、逆賊(ぎゃくぞく)素藤(もとふじ)のために、わが老侯(おおとの)(義実)をおかそうとしたのは、いかなることだ。神余のためをおもうなら、天津(あまつ)九三四(くさし)らをとき、稲村どの(義成)へうったえもうして、恩禄(おんろく)をこうことにこころづかなかったか」ととうた。南弥六は、
「井の中の蛙(かわず)に似た、浅知短才のものです。さきに親兵衛さまにうたれて、痛みに逃げまよい、峰の上に走りましたら、姥雪とかいう翁(おきな)にとらえられました。これは、命運がここにつきたためでしょう。すみやかに死にたい、とぞんじます」とかたわらの木に頭をうちつけて、くだいて死のうとした。
親兵衛はおしとどめて、
「南弥六、くるったのか。おまえは山下定包にはかられて罪をおかした洲崎無垢三とおなじだとおもうのか。わたしは無垢三とともに侠客だった杣木朴平のひ孫だ。わたしの父山林房八は、祖父の汚名(おめい)をそそごうと、身をころして仁(じん)をなした。で、わたしにいたって、おもいがけずに天の助神(たすけがみ)のめぐみがあった。世に侠者(おとこ)といわれるものは、不義にくみせず、奸邪(かんじゃ)をたすけず、善人のために憂(うれ)いをわかち、よく理義にあきらかなので、義侠(ぎきょう)という。父房八がそうだ。わが曽祖父杣木とおまえの外祖父無垢三は、ともに金碗氏(かなまりし)の旧僕(きゅうぼく)で、八郎どのの太刀筋をうけたときいている。おまえの縄目(なわめ)の恥辱(ちじょく)はみな自業自得だが、こころをあらためるなら、いのちごいをしてやろう」といった。
南弥六はただおのれをはじて、わびた。
そこへ、花をもとめにいった東峰萌三(とうがねもえぞう)が、シキミとモモの花などをもってかえり、蜑崎十一郎照文その他の近習(きんじゅう)ものぼってきた。照文は、
「おしかりをかえりみずに、推参いたしました。伏姫神の霊験奇特(れいげんきとく)、また大八の犬江親兵衛のこと、ならびに世四郎・音音らの一家の蘇生(そせい)のことまで、君の後方でほぼきき知り、いまさら胸のつぶれるおもいでございました」という。義実は微笑し、
「まねきもしなかったのに、よくきた。萌三がとらえたくせものは、滝田の獄舎(ひとや)につなぎおくよう。また小水門目(こみなとさかん)は、音音・曳手・単節と二人の幼児力二郎・尺八を大山寺に案内し、こよいはそこにとめるといい。親兵衛と世四郎は予の案内にたち、照文・貝六郎らはここから登山の供をせよ。照文は、親兵衛が年四つの秋、神隠(かみかく)しにあってから、その生死存亡をおもいつづけていたので、いまの対面で年ごろの胸がひらけたであろう」と照文にとうた。照文は、
「おおせのとおりでございます」と、成長した親兵衛に幼いころの面影を見つけようとした。さらに稲村の城から苫屋(とまや)八郎景能が、次丸(つぎまる)の使いとして駿馬(しゅんめ)一頭をひいてきた。けさ滝田の城についたのだが、大山寺にもうでたというので、このふもとにつないでいるという。義実は、
「それでは墓所へいそごう」と山道をのぼりはじめた。先導は世四郎、左右に親兵衛・照文・貝六郎らがしたがった。音音らは、大山寺へとむかった。
義実らは、三町ばかりで谷川のほとりに出た。水が、かれている。前面には、伏姫のすんだ岩窟(いわむろ)がある。義実は、丶大法師(ちゅだいほうし)が年若く、金碗大輔孝徳(かなまりだいすけたかのり)といっていたころ、八房(やつふさ)をうとうとしてたまがそれ、伏姫にあたり、落命した当時をおもいうかべた。涙の目のむこうの、霞(かすみ)がたちこめた山また山の岩根(いわがね)に、ツツジの花がさきはじめている。
世四郎はしこみ杖をつきたてながらさきにすすみ、イバラをはらい、たれた枝をおしあげてみちびいた。義実は、岩窟についた。
墳墓(おくつき)は掃除がいきとどき、いろいろな花がそなえてある。また青磁(せいじ)の香炉(こうろ)にたいた煙がほのかにのぼっている。貝六郎は、持参の花をそなえた。
義実は一つつみの香をとりだし、香炉にたき、回向(えこう)した。親兵衛は、墓にわかれの拝礼(はいれい)をした。つぎに照文・貝六郎・世四郎も、ゆるされておがんだ。
義実は、照文と世四郎に、
「ここから頂上は遠くはない。観音堂に参詣(さんけい)しよう。世四郎、案内せよ」という。照文は、帰途の山道は日が暮れて不便になる、ととどめたが、義実は、
「予もそうおもうが、さきに危難をまぬがれたのも、また親兵衛をえたのも、みな伏姫の神霊の冥助擁護(めいじょようご)による、とはいうものの、伏姫の菩提のためにと建立した、峰の堂の観音菩薩の妙知力をくわえたことを知らなければならぬ。その仏恩をあだにするのは予のこころではない。世四郎、さきに立て」とさとしてのぼり、やがて頂上にたどりついた。
見わたすと安房・上総(かずさ)の海はむろんだが、武蔵・伊豆・相模の海辺まで霞のあいだにあらわれて、はしる船の白帆(しらほ)がかすかに見える。建立してから二十年あまりをへたものの、観音堂は荒れてはいない。ただ柱・高欄(こうらん)などが、雨風でところどころはげている。
義実は堂内にのぼりいり、焼香祈念(しょうこうきねん)した。親兵衛・照文らも、後方で拝した。
それから山道をおりはじめた。疲労はない。もとの木だちのあたりにくると、春の日は暮れはてた。前方の道からたいまつがきらめき、人馬がちかづいてきた。義実の近習がむかえに出むいたのだ。
馬をひいてきた苫屋八郎景能も一行のなかにいるときき、義実はよびよせ、
「そのほうは、長途(ちょうと)の疲れもいとわず、予のいくところ、あちこちとつきしたがい、ここまできたことをよろこぶ。次丸(つぎまる)の贈物(おくりもの)の馬をみよう。大山寺まで供をせよ」といった。景能は面目(めんぼく)をほどこし、しりぞいた。
ふもとの河原までもどった。
義実は床几(しょうぎ)に尻をかけ、馬を見ることにした。たいまつがあたりをてらし、馬の姿がうかび出た。毛色は青と白をまじえて、うろこのような波に似ている。高さは七尺あまりある。景能が、
「この馬は、当国蒼海巷(あおみこ)の牧からでたものです。ごらんのように青白の《ぶち》が波に似ているところから、牧士らは名づけて、青海波(せいかいは)とよんでおります」とつげると、義実はうなずき、
「ほう。まことに毛色が波に似ているのは、蒼海巷にかなっている。それはよい名だ」といい、親兵衛に、「そのほうは、この馬をどう見る」ととう。親兵衛は、
「はい。馬は八尺以上を竜(りゅう)といい、七尺以上をらい(・・)という、とききます。六尺のものはすべて馬といいます。良馬は頭(こうべ)を王(おおきみ)、眼(まなこ)を丞相(じょうしょう)、背は将軍、腹を城郭(じょうかく)、四足(よつあし)を令といいますが、この馬は鼻孔(びこう)がおおきくて、鼻頭に王火の二字があります。蹄(ひづめ)は厚く、腹下は平(たいら)かにして八字あり、尾(び)てい高くして、たれた尾は長いものです。このようなものを千里の馬といいます。この馬は、竜とらい(・・)のあいだでございましょう」とのべると、義実は感心して、
「才子たるものだ。いまこの馬をそのほうにとらせよう。鞍(くら)・あぶみもみなそろえてひいてきたので、好都合だ。非常のときにそなえるがいい」と親兵衛にあたえた。
親兵衛は、青海波にひらりとのった。荒馬だが、親兵衛のみごとな手綱(たづな)さばきで、しずかにあゆみだした。三たびめぐり、もとの所にもどった。義実以下、親兵衛が馬術にもすぐれていることに感服した。
義実らは大山寺の山門につき、住持の案内で客殿にはいり、上座にすわった。茶のあと、夕膳がすすめられた。親兵衛だけが、この座にくわえられた。その席の後方に、照文・景能・貝六郎・小水門目らも侍(じ)した。親兵衛が、
「わたしは、恩賜(おんし)の馬にのり、いまから館山へいき、御曹子(おんぞうし)をすくいだしてまいります」という。義実は、
「性急なことだ。館山までは十数里あるのだぞ。それにあしたは滝田で、そのほうの祖母妙真(みょうしん)に対面させようとおもっているが」ととどめると、親兵衛は、神女から山中の敵を退治し、はやく義通(よしみち)を救出せよ、と示教されている、とこたえて、ふたたびこうた。
義実は、そのほう一人ではあやういので、従者をつけるが、甲胄(かっちゅう)の用意がないのをどうするか、ととうた。
親兵衛は、
「従者の数は必要としませんが、ただ国守のおん使者ととなえておもむきますので、若党一人と、馬の口取り一人、それに礼服ひとそろいをおかしねがいます」という。
そこで景能が、自分を若党にしたててほしい、ともうしでると、世四郎も、みずから馬の口取りの役をつとめたい、とねがい出た。義実は、これをゆるした。それに、義成(よしなり)にこのむねをつたえるべく、照文も同行することになった。
真夜中の鐘がなった。近習が義実に、
「親兵衛らの身ごしらえが、ととのいました」とつげた。義実は身をおこした。貝六郎が手燭(てしょく)をとり、さきに立った。玄関の式台には、音音・曳手・単節・力二郎・尺八とあつまり、義実の従者は、みな庭にいながれている。石畳(いしだたみ)の左右には、庭灯(にわひ)がたかれ、真昼のように明るい。
まもなく、犬江親兵衛が姿をあらわした。姥雪世四郎は、右手にたいまつをとり、口取りをしている。それに、蜑崎十一郎照文・苫屋八郎景能も馬上の人である。犬江親兵衛仁(まさし)は、馬を石畳のほとりにすすめた。長い額髪を左右に耳までふりわけ、面色(おもいろ)は美しく、人びとはこれを賞賛(しょうさん)した。義実は、
「あっぱれな勇姿。そのほうの吉報を、滝田の城でまっている。暁(あかつき)が近い。はやくいけ」という。
親兵衛は、はっ、とこたえて馬をめぐらして山門口を出た。世四郎はこれにおくれてはならぬ、とつづいた。後方には、景能・照文の腰にさした提灯が、闇(やみ)に蛍火(ほたるび)のようにきらめき、二町あまりで見えなくなった。

第六巻 信・化竜昇天の巻

第百七回 霊光(れいこう)……素藤(もとふじ)降参

犬江親兵衛仁(いぬえしんべえまさし)は、その夜、青海波(せいかいは)にのり大山寺を出てから二町ばかりで、上総(かずさ)の夷隅郡(いしみのこおり)羽賀(はが)の郷の松原並木についた。まだ夜はあけない。照文・景能(かげよし)も姿を見せないが、姥雪世四郎(おばゆきよしろう)は一町とはおくれずに追ってきた。親兵衛は、その足のはやさにおどろいた。伏姫(ふせひめ)の霊の加護か。二人は木の間(ま)の持仏堂に尻をかけて照文らをまった。
夜があけ、カラスが森をはなれるころに、照文らが追いついた。親兵衛は、
「わたしは、ここからすぐに館山(たてやま)の敵城にまいり、御曹子(おんぞうし)をすくいだそうとおもいます。苫屋(とまや)さんの馬はここにつながれておいては」という。
景能は、いそいで若党の身なりにあらためた。照文は、国守義成(よしなり)の陣にむかった。親兵衛は、景能と世四郎を馬の左右にしたがえて、館山の城へとすすんだ。道ばたには、ヤマザクラがさきはじめている。
館山の城門(きど)の前に立った景能は、声高らかに、
「国守の使者犬江親兵衛仁がまいった。主従三人である。城門をあけてほしい」とよばわった。
館山の城のものが小窓からみると三人おり、しかも馬上は少年、口取りは老人だ。あきれた城兵は、隊の頭人(とうにん)、願八(がんぱち)にそのむねをつげた。願八も城楼(やぐら)にのぼって見た。なるほど、少年を主人とする三人だ。願八は、素藤(もとふじ)のところにいき、
「寄手の使者として、礼服の少年一人、犬江親兵衛仁と名のり、二人の従者(ともびと)と城門にきて対面をこうております。いかがいたしましょうか」といった。
素藤はわらって、
「小せがれを使いにたてたのは、柔(じゅう)よく剛(ごう)を制す、という策か。それなら武威(ぶい)をみせてやり、胆(きも)をつぶせ。そいつを入れて、案内せよ。予(よ)は、書院で対面しよう」という。願八はしりぞいた。
平田張盆作与冬(へたばりぼんさくともふゆ)と砺時(とどき)願八は華美な武具をつけて、雑兵らに、「犬江親兵衛とかいう小せがれを、なかにいれろ」と下知(げち)した。雑兵が小門(くぐり)をひらき、親兵衛らをいれようとすると、親兵衛は馬からおりずに、
「なんじらは、わたし一人をおそれるのか。国守の使者だ。正門(おおて)をひらけ」という。
願八らは、しぶしぶ正門をひらかせた。
親兵衛は馬からおりて、城内にすすんだ。願八・盆作は名のり、案内に立った。蟇田(ひきた)素藤の士卒二、三百人ばかりが、左右に列をなしている。長槍(ながやり)・長刀(なぎなた)をきらめかせ、あるいは弓矢・鉄砲をもち、威をはっている。親兵衛は、見むきもしない。
親兵衛は式台にのぼるときにも、太刀をおびたままだ。願八・盆作は、
「無礼ではないか。作法を知らないのか。諸侯の使者でも、両刀をおびて玄関にのぼることはゆるされない」と制した。親兵衛はあざわらって、
「そんなことは承知している。人には尊卑(そんひ)があり、礼には吉凶(きっきょう)がある。わが君は、房総(ぼうそう)の国守だぞ。蟇田はもとその麾下(きか)の城将で、所領も一郡にすぎない。ここに謀反篭城(むほんろうじょう)し、怨敵(おんてき)、みかたとわかれては、軍陣の作法によるのが必定(ひつじょう)。敵城にきたものが帯刀をわたせば、それは降人とことならない。またこの刀は、わが老侯(おおとの)(義実)からのたまわりものゆえ、身からはなすことができないものだ」とこたえた。
願八・盆作は、だまって書院に案内した。景能と世四郎は、玄関の軒下で親兵衛のうしろ姿を見おくり、伏姫神の加護をいのった。
親兵衛は長廊下をめぐり、書院におもむいた。
蟇田素藤は、緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)の草摺(くさずり)だけをつけ、紺地錦(こんじにしき)の陣羽織(じんばおり)をきくだして堆朱(ついしゅ)の刻鞘(きざみざや)の太刀をはき、膝の上には軍扇(ぐんせん)をつきたて、トラの皮をかさねた褥(しとね)にすわっている。
左右に老党の奥利本膳盛衡(おくりほんぜんもりひら)・浅木碗九郎嘉倶(あさきわんくろうよしとも)がひかえ、その他四、五十人が二列に侍立(じりつ)し、百余人の雑兵は、弓矢・鉄砲を手にして廂(ひさし)の下にいながれている。
願八・盆作は書院の縁側にひざまずき、使者犬江親兵衛を案内してきた、とつげた。親兵衛は、
諚使(じょうし)なので、むろん上席。よろしくゆるされい」といって、すすみのぼり、床の間の鎧櫃(よろいびつ)をひきだして、尻をかけた。第一の上座だ。素藤はいかり、
「これは狂人か。はようひきずりおろせ」と下知した。碗九郎・本膳・願八・盆作らは、
「うけたまわりました」といい、「みな、かかれ」と身をおこすと、あたりの士卒どもが、親兵衛をとらえようとした。
そのとき、親兵衛のふところから一道(ひとすじ)の光が散乱して、うちむかう兵どもの面(おもて)をうち、みな眼を射られた。碗九郎らも、ともにとんぼがえりして《すのこ》に腰をうち、あるいは柱に頭をうち、へたばり、しばらくおきない。これを見て、雑兵はおそれるばかりだ。親兵衛は声高らかに、
「なんじら無礼であろう。蟇田は、わが君の麾下(きか)の城将。野心をたくましくして篭城におよんでも、軍陣の作法をもって国守の使者をむかえるべきなのに、このような非礼をすれば、天罰てきめんだぞ」とせめた。
素藤は眼をいからして、
「小せがれめ、幻術があっても、予の切っ先にむかうことができるものか。そこをうごくな」と身をおこし、太刀をひきぬき、まっぷたつになれ、とうってくるのを、親兵衛は身をかわして、扇子(せんす)をもってあしらい、やっ、と刀をうちおろした。素藤はふみこみ、くみついた。親兵衛はひきつけて首筋をつかみ、ねじころばし、片足でくみふせた。
そのちからに素藤の顔色は土のようにかわり、「ゆるせ、ゆるせ」とさけび、さらにのどもつまり、息たえるばかりにうめいた。願八らは、たださわぐだけだ。素藤は声をふるわせて、
「ものども、予をすくえ。わびてくれ」とさけぶ。
親兵衛は、からからとわらって、
臆病神(おくびょうがみ)の氏子(うじこ)ども、主(あるじ)のいのちをこうなら、縁側にいながれて、わたしのいうことをよくきけ。それがいやなら、素藤をふみころすぞ」という。
兵どもは、おしあいながらならんだ。
親兵衛はすててあった縄(なわ)で、素藤をきびしくしばりあげた。それから兵たちに、
「同類の悪人ども。この期(ご)におよんでいのちがおしいか。この素藤は、近江(おうみ)の山賊、但鳥跖六業因(ただとりせきろくなりより)のせがれで、もとは但鳥源金太(げんきんた)という罪人だ。この地にのがれてきて愚民(ぐみん)をまどわし、栄利をはかり、小鞠谷如満(こまりやゆきみつ)の家臣であった兎巷幸弥太遠親(うちまたこうやたとおちか)をそそのかし、如満をころし、城地をうばい、罪を遠親におわせて、城主となった。これはわが主君の寛仁大度(かんじんたいど)のご恩なのに、それをわすれ、非分の婚姻(こんいん)の宿望(しゅくもう)がやぶれたのをうらみ、奸計をめぐらし、義通君(よしみちぎみ)をうばいたてまつった。
そのうえ老侯まで富山でころそうと、麻呂(まろ)・安西・神余(じんよ)の残党をけしかけたが、きのうわたしがとらえた。
わたしには義兄弟が七人あり、困難にあうとき、富山の伏姫神の冥助(めいじょ)をえないものはない。わたしはことし九歳だが、身の丈、心術さえ、このようにおおきくなった。素藤の素姓と奸計をよく知るのも、みな神女(しんにょ)の教示によるものだ。なんじらがわたしをうとうとしたとき、光にうたれて度をうしなったのも、霊玉のなす奇特だ。御曹子をうばいたてまつろうと、わが君の仁義の大軍をもってせめつぶすことは、石で卵をつぶすよりもたやすいことだが、この城内にとらわれた罪のない人びとがころされてはと、あわれみをかけたまい、攻めないでいる。それは、御曹子をおもってのことだけではない。もしこのままさからうなら、素藤をはじめ、みな誅(ちゅう)して首級をご陣へ献じよう。首をつなぎたいならば、いま玄関のほとりにいるわが従者につげ、御曹子をおくりたてまつる用意をはやくせよ。国守に弓をひくのは、天にむかって唾(つばき)をはくより、なおかいがないぞ」という。
願八・盆作らは舌をまき、おののきおそれて、「承知した」とこたえた。
本膳・碗九郎は、苫屋景能を義通のそばに案内した。景能は、義通に見参(げんざん)してぶじを祝し、親兵衛の功をつげた。
それから、願八・盆作の武具をぬがせて縁側からさげて縄をかけ、碗九郎・本膳には手の縄だけでゆるして、これも縁側下にひきすえた。
そこで、城内の百姓らに素藤以下が降参したことが知らされた。みんなよろこび、四門を守護する頭人をとらえてきた。親兵衛は、
「この城内に、良民は幾人いるか」ととうた。百姓らは、こたえた。「二、三百人かとおもわれます」
「それでは、百五十人は御曹子のおん供(とも)をして、ご陣へおくりたてまつれ。また百五十人は姥雪世四郎を頭人として、城をまもるのだ」と手配(てくば)りをした。
そのうち、義通出立の用意がととのった。親兵衛は、しばっておいた素藤を子どものように小脇にかかえて玄関に出ると、百姓をよびよせて素藤をわたした。百姓らは、素藤を杉の丸太にしばりつけ、これをからげて車におしたてた。
義通はさきの社参(やしろまいり)のときの礼服をもとのようによそおい、小刀をおび、景能をしたがえて姿をあらわした。そして親兵衛に、神速の大功をほめた。
親兵衛は帰陣を祝し、
「ごらんください。素藤を丸太にしばりました。ご陣にひかれますよう」というと、義通は微笑した。
乗物がよせられた。

第百八回 勝ちいくさ……信昭謀反(のぶあきむほん)

里見安房守義成(さとみあわのかみよしなり)は、館山の城を遠巻きにして時をまっていた。そこへ蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)が、義実の使者として本陣にきた。義成の左右には、老党東六郎辰相(とうのろくろうときすけ)をはじめ、小森但一郎高宗(こもりただいちろうたかむね)・浦安牛助友勝(うらやすうしのすけともかつ) ・田税戸賀九郎逸時(たちからとがくろうはやとき)・登桐山八良于(のぼりきりさんぱちよしゆき)らも侍(じ)して、照文のつげることをきいた。
富山のふもとの川の水がにわかにかれたこと、大山寺で義実が刺客(しかく)におそわれたこと、その危急を犬士の一人犬江親兵衛がすくったこと、その親兵衛が、六年このかた伏姫神(ふせひめがみ)の冥助(めいじょ)によってやしなわれ、九歳の少年だが、身の丈は五尺四、五寸もあり、文学武芸にすぐれた神童であること、また姥雪世四郎(おばゆきよしろう)、その妻音音(おとね)と二人の嫁曳手(ひくて)・単節(ひとよ)も、伏姫神の冥助によって蘇生(そせい)したこと、さらに曳手・単節がみごもり、力二郎・尺八二人の男子をうんだこと、従者(ともびと)蛸船貝六郎(たこふねかいろくろう)・小水門目(こみなとさかん)は、親兵衛の奇薬で蘇生したことなどをかたりつづけた。
また、親兵衛が義実にこうて館山の城に義通(よしみち)救出にむかったおり、青海波(せいかいは)にのり、名刀小月形(こつきがた)をおび、景能・世四郎がその従者の身なりでしたがったことも、はじめからおわりまでつげた。
義成はむろんだが、左右の近臣たちもおどろき、感嘆して、「奇なり、奇なり」とたたえた。
この日、午(ひる)ごろ、館山の城から、三人のものが、ここ本陣にきた。雑兵に、「犬江どのにいいつけられて、注進のためにきた」という。
東辰相がその使者にあった。注進のものは、犬江親兵衛の武勇のこと、素藤(もとふじ)がいけどられて降参したので、城内の軍民三百余人を二手にわけ、百五十人は、姥雪世四郎を頭人として城をまもらせ、その他のものは、義通の供(とも)としてほどなく陣に帰座すること、素藤以下のものは実検のためにひいてくることなどをつげた。
辰相は、ただちに義成に話をとりついだ。
義成はよろこび、
「犬江親兵衛、おもいがけぬ功だ。素藤がすでにいけどられ、義通が帰ってくれば、予もこの陣にいて、賞罰をきめてから城にはいるとしよう。田税戸賀九郎逸時らに五百人の士卒をあたえ、姥雪世四郎をたすけ、しばらく四門をまもるように」と、逸時と良于に下知した。そして、義通の従者として親兵衛がくるのをまった。
いっぽう、館山の城内では、義通の従者たちの用意がととのったことをつげられた親兵衛が、第一番に素藤以下の降人どもをひくべし、と下知した。降人どもを城の北門から出し、つぎに義通の乗物添(のりものぞい)は苫屋景能がつとめ、軍民百五十人をしたがえた。親兵衛は名馬青海波にのり、しんがりについた。白布の幟(のぼり)の両棹(ふたさお)に「反賊蟇田素藤」「降伏凶党」とそれぞれしるして、軍民の先頭にたてた。
つづいて砺崎願八(とざきがんぱち)・平田張盆作(へたばりぼんさく)・奥利本膳(おくりほんぜん)・浅木(あさき)碗九郎(わんくろう)ら二十余人をうしろ手にしばり、軍民がおいたてた。さらに、蟇田素藤を丸太にしばりつけて、車におして二十人がひいた。その丸太にむすびづけた四本の縄(なわ)を、それぞれ一人ずつひっぱってもっている。丸太がたおれないようにするためだ。そのなかに手ぬぐいの鉢巻(はちまき)をして、片肌ぬいだものが一人いた。扇をひらき、声高らかに音頭(おんど)をとると、ひくものはみな節をあわせて木遣唄(きやりうた)をうたった。
素藤の車のつぎに、降参の賊卒(ぞくそつ)三百五、六十人が、あるいは五人、あるいは十人と数珠(じゅず)つなぎにされて、おいたてられている。これから十間(けん)あまりはなれて、義通の先供(さきども)の軍民が四、五十人つづく。百余人の軍民が、乗物のうしろにしたがった。つぎに犬江親兵衛仁(まさし)は、礼服のまま馬上の人となり、五、六人の従者が馬の前後にしたがった。
このとき館山の城のほとりには、里見の士卒五百人ばかりと、田税戸賀九郎逸時・登桐山八良于らが見おくった。それに、普善(ふせ)・蘇々利(すずり)の村人がつどいみて、人の山をなした。
やがて義通の乗物がちかづいたので、東辰相・蜑崎照文らは、雑兵をしたがえて東門でむかえた。親兵衛はあらためて義通に対面し、帰順のよろこびをもうしのべ、さらに義成は、親兵衛を近くによんで労をねぎらった。
義通は父義成との対面、勝ちいくさの祝いをのべ、
「わたしは反賊のためにとらわれまして、すぐに死のうとおもいましたが、みはりに油断がなく、腹もきれず、くちおしいことばかりがおおくかさなりました。父君おんみずから征伐(せいばつ)に日をおくられましたお怒りを推察いたしますと、その不孝の罪はのがれがたいとぞんじます」といい、それから親兵衛のふしぎな大功神速のありさまをかたった。義成はうなずき、
「そのほうは、反賊にとりこにされ、せめさいなまれて、虎口(ここう)にあること四、五十日、かろうじて死なずにかえってきた。これを生涯わすれなければ、これにまさる幸いはない。唐国(からくに)のことわざにも、苦中の苦をくらわざれば、人のなかなる人となることはむずかしい、という。この教訓をこころにとどめおき、親兵衛の忠義の大功をわすれるな」という。
東辰相らも親兵衛の大功をたたえた。そして義成に、
「素藤らを誅罰(ちゅうばつ)されるには、稲村へひかれますか。ここで梟首(きょうしゅ)なされますか」ときくと、義成は、「親兵衛のかんがえをききたい」と、親兵衛にとうた。
親兵衛はうなずき、
「そのことは、仰(おお)せがなくてもおねがいしようとおもっていました。素藤らの謀反(むほん)はゆるされるものではありませんが、ねがわくばかれらのいのちをたすけてほしいのです。素藤をとらえたおり約束して、みなたちどころに降伏するなら、国守に大赦(たいしゃ)をこうて、いのちはたすけてやろう、といいましたところ、かれらはあまんじてうけ、おめおめとみな、みずから縛(ばく)につきました。そのなかにもし一人でも、義によっていのちをおしまぬ勇のものがいたなら、わずか一人の敵をおそれて、このようなことになりましょうか。
素藤がとらえられて、かれらは首のないヘビのようにその尾をうごかしても、今さらなすところを知らず、これ小人(しょうじん)の本性でいのちをおしむほかはありません。いま素藤をゆるして追放したところで、なにごとのこともありません。いま首をはねられても、当家の政事(まつりごと)にたがい、武徳がおとろえたもうことがあるならば、奸民(かんみん)がかならずあとをついでそむきましょう。ねがうのは仁慈(じんじ)のおんはからいでございます」とのべると、辰相は、親兵衛を難じるように、
「あなたの意見をきくと、仁という名にふさわしくおもわれるが、唐国の呉(ご)と越(えつ)の二国の例もあり、いま素藤をゆるしては、この例とおなじになるのではないか。仇をやしなうべからず。檻(おり)をひらいてトラをはなせば、のちのわずらいになるにちがいない」と反論をくわえた。親兵衛は微笑して、
「おっしゃることは、ごもっともです。ただ素藤は仇ではなく、ただ御曹子(おんぞうし)をはずかしめただけです。そのむくいは、木にしばりつけ、車にたててさらしたので事たります。むかし漢(かん)の国の諸葛亮(しょかつりょう)は、南蛮国(なんばんこく)を征伐したおり、その蛮王孟獲(もうかく)を七たびまでとりこにして、七たびこれをゆるしたので、孟獲はついに感服して、ながくそむくことはなかったのです。素藤がいまゆるされ、そむくようなことがあったなら、人手をかりずにわたしが誅罰します」という。
辰相は納得(なっとく)して、だまった。
義成も二人の問答をきき、
「辰相の意見も、親兵衛の意見も、それぞれ理がある。素藤は凶悪だが、これは私ごとの仇で、天子・将軍にそむいた国賊ではない。法度(はっと)をゆるめて、おいはなっても、だれもこれを非とはしないだろう。だが、小人はおどされなければこりないものだ。素藤をはじめとして、頭立(かしらだて)の凶党は、それぞれ額に入墨(いれずみ)をして、百のむちをうち、国境(くにざかい)から追放せよ。予は義通とともに城にヘいり、すべてをさしずしよう。照文・景能は、馬を滝田と稲村にはしらせ、これらのことを注進せよ」といそがせる。自分は義通とともに、小森高宗・浦安友勝以下の士卒をしたがえて、館山の城にはいった。
親兵衛と辰相は、雑兵に下知をつたえ、素藤以下の頭立(かしらだて)の凶党をすえて、国守の寛大な罰を、しかじかとしめした。しかも、親兵衛は百たたきを七十たたきでやめた。そして相州(そうしゅう)の三浦岬港(みうらみさきこう)、武蔵は隅田川の西岸で追放した。
親兵衛・辰相らは、空家となった陣屋に、家のない城下の人びとをすまわせた。
第三日目の朝、親兵衛は、士卒をしたがえて館山の城にまかり出た。義成は、
「当城は落着して、夷隅郡(いしみのこおり)はおさまったが、まだ千代丸・万里谷(まりや)・武田らは征伐していない。さきに貞行・直元に一千の士卒をさずけて、討手(うって)としてつかわしてから、折おり注進あるが、まだ全勝のことはきこえてこない。よって当城も、知勇兼備のものでなければ余炎(よえん)をしずめることは困難であろう。で、親兵衛をこの館山の城主となし、逸時・良于をたすけとしよう。世四郎も、当城にとどまるよう」とさしずした。
館山の城は、士卒五百人で守護することになった。
この日、堀内蔵人貞行は、二百余人の士卒とともに、とらえた千代丸豊俊(とよとし)と、降人万里谷信昭(のぶあき)をともない、庁南(ちょうなん)から凱陣(がいじん)してきて、義成に見参して、戦い全勝の報告をくわしくつげた。
それによると、堀内蔵人貞行と杉倉武者助直元は、豊俊のこもる長柄郡榎本(ながらのこおりえのもと)の城をせめた。すると椎津(しいつ)の城主万里谷信昭や、庁南の城主武田信隆(のぶたか)も、素藤・豊俊らとのまじわりが浅くはなかったので、のがれられないとおもい、各五百の軍兵で、みずから援兵として榎本の城外二か所にたむろした。貞行・直元は軍兵をわけ、直元は城をせめ、貞行は万里谷・武田の両敵とたたかったが、勝負がつかないまま二月のすえとなった。このとき、万里谷信昭は一人おもう。
「自分は交遊の縁で里見家と離反しているが、これはさきを見てのはかりごとではない。素藤が城にこもっていることができたのは、義通をとらえたからだ。このままでは、かならず誅滅(ちゅうめつ)されるだろう。義成のなき母、五十子(いさらご)の刀自(とじ)は、わが養父静蓮(じょうれん)さまの第二の女(むすめ)なので、自分と義成は母がたの従兄(いとこ)である。いま義成に忠をつくさなければ、あとで臍(ほぞ)をかむこととなるだろう」と貞行の陣に矢文(やぶみ)をおくり、密意をしめした。
さらに武田信隆をだまし、信昭は急病でしばらく居城にしりぞく、と使者をおくった。そして、夜にまぎれて退陣した。
これを信隆はうたかわず、貞行との戦いをつづけたが、ある日のこと、信隆の兵がのがれてきて、
「万里谷信昭どのが、手勢をひきいて庁南の城にこられ、信隆どのに伝言があり、密議もあるので、城の番士に対面したい、すみやかにいれてほしい、とよばわりました。万里谷は無二のみかたで、また、一方の大将なので、だれがうたがいましょう。そこで城門(きど)をひらいて、城内にむかえいれると、万里谷の一軍はときの声をあげ、火をはなち、きりこんできました。ふいの攻撃に城内の士卒はおどろき、それにみかたは小勢でふせぐすべがなく、うたれるものがおおく、城をうばわれました」という。信隆おどろき、
「信昭、わしを出しぬいたな。居城をとられてはどうにもならん。とにかくここをひそかにしりぞき、庁南にかえり、城をとりもどさなければ……」と、かがり火をやきすて、人馬をまとめにかかった。
そこへ直元が、甥(おい)の堀内雑魚太郎貞住(ざこたろうさだずみ)との二手でせめた。武田の一軍はたちまちくずれた。
このありさまを見た千代丸図書介(ずしょのすけ)豊俊は、まだ万里谷の変心を知らず、
「いま武田がうたれては、わが城もあやうい。信隆をうたすな、ものども!」と下知し、三、四百の兵を、城門をひらきはしらせた。敵のなかに一手の伏兵がおこり、それが二手にわかれ、一手は城門にかけいり、一手は豊俊勢をせめた。
貞行・貞住の攻撃ははげしく、信隆勢のおおくはうたれ、信隆の近習(きんじゅう)も五人になった。そのまま、甲斐の国守武田信昌(のぶまさ)のもとに逃げ去ったという。甲斐の武田は、親族にあたる。
千代丸図書介豊俊は、その夜、杉倉直元にせめられ、城内に火煙(ひけむり)がおこったのを見て、みずから降伏した。城兵も四方にちった。ここに榎本の城はおちた。
武田信隆が船でのがれたとつたえられたので、貞行は庁南の城におもむき、万里谷信昭と対面し、その功をたたえ、城をうけとり、堀内雑魚太郎貞住に士卒三百余人をさずけて、庁南の城をまもらせ、信昭をともなって榎本の城にきた。ここで直元とはかり、「わしは、館山のご陣に注進しよう」と千代丸豊俊を檻車(かんしゃ)にのせ、これをかつぎ、それに信昭をともなって館山にきた。
義成は、貞行らの勝ちいくさを聞き、よろこんだ。それから万里谷信昭に対面し、
「そのほうの野心、罪なしとはいえぬが、逆意をひるがえして武田信隆の庁南の城をおとしたことは、賞すべきことだ。それによって、本領を安堵(あんど)する」と、馬一頭、太刀一振(ひとふり)をあたえた。義成は貞行、直元の功をほめて、
「武者助直元と雑魚太郎は、榎本と庁南の二城をまもれ。また蔵人貞行は年老いているので、予にしたがって稲村の城へ凱陣せよ」という。また貞行は犬江親兵衛に対面し、その大功と神女(しんにょ)の加護をここではじめて知り、胆(きも)をつぶすほど感嘆した。

第百九回 女の幽霊……浜路姫の病い

里見義成は、犬江親兵衛に館山の城を守護するよう、あらためて命じた。親兵衛は身にあまる大任と辞退したものの、義成は、その歳の幼少にかかわらず大功によってあたえるもの、という。また貞行(さだゆき)に、
「千代丸豊俊(とよとし)は素藤(もとふじ)の同類だが、代々の榎本城主なので、素藤とおなじようにたたいて、追いはらうべきではない。豊俊はそのほうにあずける。また、上甘理(かみあまり)墨乃介弘世(すみのすけひろよ)は神余の落胤(おとしだね)なので、稲村につかわす。これは、蛸船貝六郎(たこふねかいろくろう)にいいつけてある」と寛大な処置をしめした。
翌日、義成は義通をともなって館山の城を出て、滝田の城にたちよった。そこで酒宴がもうけられた。そして、つぎの日に稲村の城にむかった。貞行・辰相(ときすけ)以下の士卒をひきいている。いまは花のさかりである。
いっぽう死罪をゆるされた蟇田(ひきた)素藤は、東(とうの)辰相の手の雑兵らによって、武蔵の隅田川の西岸に追放された。素藤は、背にうけたむちの傷に衣がふれるといたむ。額には十文字の入墨(いれずみ)がほられ、だれが見ても罪人とわかる。どこに宿をもとめようかと、なぎさを失意のまま、そぞろあるいていると、七つさがり(午後四時)になっている。どうしたらよいのか途方にくれていると、水草のなかに一艘(そう)の繋舟(つなぎぶね)が目についた。素藤がひらりとのると、ふるびた菅蓑(すがみの)がある。これはまたとない夜具だと手にとると、下に一つの破子(わりご)がある。手にすると重い。ひらくと飯と味噌だ。「天からのさずかりものだ」と箸(はし)をとって、たちまちくいつくした。
そのうち、日が暮れると、「まだ日が暮れたばかりだが、はやく寝てあしたにそなえよう。果報はねてまてさ」とつぶやきながら、高いびきとなる。
だいぶねむったらしく、鳥の声におこされて、目をひらいた。「おや、ここはどこだ」
川べりの舟を宿としたはずだが、老いた松の枝が日の光をさえぎっている。素藤はおどろき、身をおこしてあたりを見た。舟は消えている。夢か現(うつつ)か、素藤があるきはじめると、前面の谷かげに草庵(そうあん)が見えた。素藤はカズラにすがって崖(がけ)をつたい、谷間におりた。柴垣をめぐらした東面(ひがしおもて)の折戸が、半分ななめにひらいている。声をかけると、女の声で、
「ここは浮世のそとなのに、人がたずねてくるとは。だれか?」とつぶやく。素藤はいらだちながら、
「わたしは仇(あだ)のために家をうしない、道にまよってきたのです。しばらく休息させてください」とよびかけると、ようやく障子(しょうじ)をあけた。一人の尼(あま)だ。
「これはおもいがけぬ。おん身は、蟇田さまではありませんか」といわれて、素藤がおどろきながら尼を見ると、ほかならぬ八百比丘尼妙椿(はっぴゃくびくにみょうちん)だ。地獄で仏にあう、とはこのことだ。妙椿は、あのころより十歳あまりも若い。
尼御前(あまごぜ)とわかれてからたよりはなく、わたしが犬江親兵衛にとらえられたのを知らなかったのか。妙術(みょうじゅつ)がありながら、なぜすくってくれなかったのだ」とうらみをいうと、妙椿はうなずき、
「そのわけはひとくちではいわれぬ。まずこちらへ……」とさそう。
素藤は筧(かけい)の水で洗足して母屋(おもや)へ通った。いろりのへりにすわり四方を見ると、庵(いおり)は三間(ま)で、ほかに納戸と庫裏(くり)がある。座敷の正面に六字の名号(みょうごう)の掛物(かけもの)をかかげ、その前の机に香炉(こうろ)と二つの竹の花筒(はなづつ)があり、シキミと山桜がいけてある。六字の名号は《なむあみだぶつ》としるされている。素藤はふしぎにおもったものの、とわない。妙椿はいろりに柴をたき、茶をすすめた。
素藤はこころがおちつき、義通をとらえたはじめから、親兵衛の武勇にやぶれ、追放されたことまでかたった。妙椿は、
「もうされるな。はじめから、この尼は天眼通をもって、一事ももらさずみな知っている。まだわからぬか。さきに館山の城内から、諏訪の社頭の木の《うろ》まで、遠く地下道をほったと見えたのも、じつは尼の幻術で、城の士卒がそこにいるように、凡夫(ぼんぷ)の目にみせただけのことだ。それで、《うろ》のうちにありと見えた地下道の出口は、のちにはあとかたもなくなったのだ。この尼は、わかれてのちも、いつもおん身のかげに立ち、かたちにそうて、幾度もたすけてまいったが、なにしろ、あの犬江という神童には、伏姫(ふせひめ)の神霊が始終たえまなくついている。
それにくわえ、生前からの感得の霊玉がある。犬江がもっているのは、徳を天地とともにするという仁(じん)の字の珠(たま)であるので、火にもやかれず、水にもおぼれず、鬼神を駆使(くし)するいきおいがあり、千軍万馬もあたりがたい。そのために、おん身はむろんのことだが、城内の士卒千数百人までもが、あいつ一人に感服され、おめおめと降伏をこうたのは、これ人力をもっては抗(こう)しがたいからだ。この尼にも秘蔵の明玉はあるが、あの犬江の感得の珠にはおよばない。おん身らをたすけることもできず、すくうことができないのをうらむのは、比丘尼に睾丸(きんたま)がないといって、不満をいうようなものだ」といって、ほほほとわらう。
素藤も、腹をかかえてわらった。妙椿はそれをとどめて、
「あとを聞きなされ。あのとき、まのあたりに救助することはできなかったが、おん身とともにおおくの士卒のいのちをとりとめたのは、この尼のちからだ。犬江親兵衛は仁の字の珠を感得しているので、殺生(せっしょう)をきらい、あわれみのこころが深い男だ。それに義成も仁義をとなえ、暴戻(ぼうれい)の君ではない。だが、誅(ちゅう)すべきおん身らもころさずに追放したのは、かれらの分別だけではない。その守護神のすきをうかがい、そのこころをくるわせて、おもうままにひきよせたのは、尼の法術のゆえだ。で、きのう隅田川の西の岸に舟をとどめて、蓑と破子(わりご)の飯をおいたのも、この尼の手配(てくば)りだ。おん身が熟睡(じゅくすい)したとき、舟をこの山の近くの浦辺にこぎもどして、ひそかにここにつれてきて、おこさないでおいたのは、この尼の手だてと知らせるためだ。みずからかえりみて、絵空ごとではないと知りなされ」とたしなめた。
素藤は、はじめて夢からさめたように、
「それで、わたしをたすけてくださるすべがありますか」というと、妙椿はなぐさめて、
「こころをよわくなされるな。たすけようとしたからこそ、ここによびよせたのだ。ここは上総(かずさ)の羽賀(はが)と館山のあいだにあり、殺生禁断の地で、斧(おの)もはいらない。人跡(じんせき)のたえた深山(みやま)で、浮世をしのぶ隠れ家に適している。で、おん身のためにえらんで、ここに庵をむすんだのだ。遠からずあの城をとりもどそうとおもうが、犬江のいるかぎりどうにもならぬ。あいつを遠く他郷にやれば、城を手にするのはたやすい。その法術はしかじか……」と、その手だてをときあかした。
素藤は、上席をさがって、妙椿をふしおがみ、
女菩薩(にょぼさつ)。わたしの一大事は、尼御前の胸のうちにあります。なおざりにはしてくださるな」とたのむ。
妙椿は、「すでに知己(ちき)の仲、たのまれずとも、ちからをつくすもの」となぐさめ、手をとり、またかぎりない閑談(かんだん)がつづいた。
それから素藤は、やしなわれてこの庵にすんだ。そして妙椿とは、枕(まくら)をともにした。主(あるじ)と客の二人は、あけても暮れても盃(さかずき)をかさねた。ことわざにいう、酒はかならずこれ色の仲だちなり、と。
こうして、春も深い三月十日ごろになった。
ある日、妙椿は素藤にささやくように、
「犬江を遠ざけて、館山の城をとりかえすにはよい時節となった。わたしは、かんがえるところがあって出かけてくる。ながいことではないので、留守番をしていてくれ」と庵を出ていった。
素藤は不安のまま、まった。
ここ、安房の稲村の城に、三月のある夜から妖怪が出た。女の幽霊(ゆうれい)らしい。真白の衣をきて、長い黒髪をふりみだし、浜路(はまじ)の寝所(ねや)のあたりにあらわれるのを見たという。で、浜路は夜はねむられず、食膳の箸(はし)をとらず、薬湯(くすり)ものまずに、やせおとろえた。
父義成はおどろき、良医をよび、また陰陽師(おんみょうじ)にはらわせたりしたが、効験(こうけん)はない。洲崎明神(すさきみょうじん)、役行者(えんのぎょうじゃ)の石窟(いわむろ)、伏姫の墳墓(おくつき)、峰の観音堂などへ代参をおくった。
役行者の石窟にまいった女房らが、かえろうとすると、ひげの真白な童顔仙骨(せんこつ)の常人ならぬ老翁が、手に錫杖(しゃくじょう)をつき、高足駄(たかあしだ)をはいてあらわれ、声をかけ、
「浜路姫の病気は、薬も神仏もききめはない。この物の怪(け)は、姫が甲斐国(かいのくに)にいたときの養家の継母(ままはは)、淫婦(いんぷ)夏引(なびき)だ。それをしずめるには、犬江親兵衛を館山からよび、その所持する仁の字の珠をかりうけ、姫のふす床下にうめ、親兵衛に姫の病床を守護させると、たちまち退散し、のちのちまでさわりなく、病いはなおって、百年(ももとせ)の寿命(じゅみょう)をたもつであろう。おまえたちが稲村にもどったなら、このよしを吾嬬前(あずまのまえ)へも、殿へももうされるがいい。もしうたがったら、後悔するぞ」といって、たちまち姿を消した。
女房らは、もしや役行者の示現(じげん)では、と感涙し、ふしおがんだ。稲村の城にもどると、母君吾嬬前(あずまのまえ)につげ、また浜路にもかたり、義成にも言上(ごんじょう)した。義成は、
「女のいうことで、証拠もないのに、親兵衛を召し、浜路の看病をさせるのは納得(なっとく)できない。しばらく思案したい」という。
だが、幽霊は夜ごと夜ごとにたちあらわれ、浜路の病いは、まえにもましておもくなるばかりだ。母の吾嬬前はたまりかね、
「はやく親兵衛をよびよせよ」と命じた。
そこへ義実が、浜路の病気見舞として、稲村の城へ蜑崎(あまざき)十一郎照文をつかわした。朝鮮人参(ちょうせんにんじん)などの品も持参させた。そのおり、義成が老翁の話なるものをかたり、親兵衛をよびよせるかどうか、ととうた。照文は、
「親兵衛が所持する霊玉は、光をはなって凶党(きょうとう)をこらしめる奇特がございます。妖怪でも怨霊(おんりょう)でもおそれることがありましょうか。すみやかに召され、ご病床をまもるよう、おおせつけられては……」とすすめた。
義成は杉倉・堀内・東(とう)・荒川の四家老を召し、親兵衛を当城によびよせるむねをつたえた。で、苫屋(とまや)八郎景能に御教書(みぎょうしょ)をもたせ、援兵三百人をくわえた。親兵衛が館山の城を留守にするについて、その守護力が減じるからだ。また、姥雪(おばゆき)世四郎も滝田へかえり休息せよ、ともつげた。

第百十回 宿直(とのい)のぬれぎぬ……浜路姫の艶書(えんしょ)

里見義成の使者、苫屋(とまや)八郎景能が館山の城に到着した。これを親兵衛(しんべえ)は、逸時(はやとき)・良于(よしゆき)・世四郎らとむかえた。親兵衛は、浜路の奇病を聞き、すぐ出立(しゅったつ)のしたくにかかった。それから滝田の城に帰る姥雪(おばゆき)世四郎に、
「祖母(妙真)にまだあうことができないまま、稲村にまいることになった。ここに書状をしたためてある。これを祖母にわたしてくれ」と消息文(しょうそくぶみ)をわたした。
それから逸時・良于・景能に留守番をたのみ、一人青海波(せいかいは)にのって館山の城から出かけた。十数里の道程(みちのり)を二刻(ふたとき)ばかりかけて、酉(とり)の五刻(なかば)(午後七時)ごろには、稲村の城についた。義成はその迅速(じんそく)なことをほめ、身近く召した。
「こよいから浜路の臥房(ふしど)に宿直(とのい)して、物の怪(け)をとりしずめよ。そのほうは十六、七歳に見えるが、まだ九歳なので、女の部屋で夜をあかしても、人からそしりをうけないだろう」という。親兵衛はこまりはて、つぎの間(ま)にしてほしい、といった。義成は、
「それはそれとして、そのほうが所持する霊玉(れいぎょく)を、浜路の臥房の床下の土中にうずめよ、とのこと。その珠を予(よ)にかしてくれぬか。それなら宿直(とのい)は勝手でいい」といった。
親兵衛は、霊玉は肌身はなさず所持しているもので、人にかすことはゆるされないが、主君の命(めい)にはしたがわざるをえないので、承知しました、と返事し、珠をとりだして、懐紙(ふところがみ)にのせてさしだした。
義成は手にして、「ききしにまさる美玉だ。仁(じん)の字がある」といい、香箱(こうばこ)におさめ、老党の一人に、
「この香箱を壷(つぼ)におさめ、また壷を瓶(かめ)におさめて、浜路姫の臥房の下を三尺ばかりほり、土中にうずめよ」と命じた。
老党は、香箱をうけてしりぞいた。それから親兵衛は、茶菓子・美酒をたまわり、疲労をなぐさめた。老党がきて、霊玉をうずめたとつげ、浜路の臥房のつぎの間に親兵衛は宿直(とのい)した。親兵衛のその夜の宿直は、なにごともなく、夜があけてから熟睡(じゅくすい)した。
あくる朝、義成は、田税力助速友(たちからりきのすけはやとも)を滝田の城の義実への使者としてつかわした。犬江親兵衛を召したこと、霊玉をうずめたこと、親兵衛が宿直したので、昨夜は物の怪があらわれず、浜路も夜中からねむったことなどを伝言させるためである。
親兵衛は湯浴(ゆあみ)してから、義成と、奥方吾嬬前(おくがたあずまのうえ)から、宿直衣(とのいぎぬ)・平生衣(つねのきぬ)などをたまわった。この日も暮れた。
親兵衛は、また浜路の臥房のつぎの間に宿直した。この夜も物の怪はあらわれない。けさの浜路は、面色(おもいろ)もつややかで、白がゆの箸(はし)もとった。
つぎの日、義実の使者として、蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)が稲村の城にきた。義成に言上(ごんじょう)のあと、親兵衛に対面し、妙真のつつがないこと、世四郎に文五兵衛(ぶんごべえ)の旧宅があたえられたことをつたえた。そして、照文は滝田へともどっていった。
親兵衛の宿直は、五、六日とぶじにすぎた。
七日目の夜がきた。親兵衛はしきりに眠気(ねむけ)がして、いつしかまどろみかけた。義成はこの夜にいたって、なんとなく寝ぐるしく、ねむることができない。しかも、むなさわぎがするのだ。
「浜路の病いが、急変したのか。物の怪がまたあらわれたのか」と身をおこして枕辺の脇差(わきざし)をおび、つぎの間の襖(ふすま)をあけ、そこにある手燭(てしょく)をとって行灯(あんどん)の火をうつし、幾間かをとおって奥とのあいだの戸をおすと、すぐひらいた。首をかしげながらすすみ、浜路の臥房のつぎの間にきてみると、親兵衛の姿はない。義成はいよいよあやしみ、しばらくたちどまった。
すると、浜路の臥房からひそひそと話し声がする。男女のささやく声だ。ふとみると、畳(たたみ)の上に封書(ふうしょ)がおちている。手にとってひらいて読むと、浜路の筆跡で、親兵衛におくったものだ。
義成はいかり、手討ちにする、とはやるこころをおししずめ、他人に見せてはならぬ、とふところにおさめて、臥房にもどった。夜勤(よづめ)の女どもも、近習(きんじゅう)も熟睡したままだ。義成は、
「親兵衛はまだ九歳なので、女のなかにおいてもみだらなことはおこらぬ、とおもったのだが。男女の密会はともに死刑に処すべし、と法律に明文がある。しかし、親兵衛は世にまれな勇士で、八犬士の一人だ。予につかえて三たびも大功がある。情欲の罪をただすと、犬士に傷をつけ、後世までの遺恨(いこん)となるだろう」と艶書(えんしょ)をやきすてた。煙がのぼって、灰となった。
その朝、義成は、親兵衛一人をよび、
「浜路に回復のきざしがあるので、きょうから夜のつとめをとく。そのほうは富山の奥にそだったので、東西の諸国はむろん、ここ安房・上総の地理も知らないところがおおい。それにほかの犬士は、そのほうをたずねて八犬士そろわなければつかえぬ、ときいている。その犬士のうち三、四人らは、去年の冬から、武蔵の穂北(ほきた)の郷士氷垣(ひがき)なにがしの屋敷にいる、という。よって、そのほうに遊歴の暇(いとま)をとらせよう。関(かん)八州を歴覧するがいい。また、七犬士とともにもどれ。それから、霊玉は予にあずけておいてほしい」と黄金百両をあたえた。
親兵衛は膝(ひざ)をすすめて黄金をうけ、この旅だちの前に滝田にたちより、祖母妙真に対面してよろしいでしょうか、ととうた。義成は、それはかまわぬが、とまることはならぬ、という。親兵衛はそのままさがった。
「にわかに下知をうけたので、滝田におもむく」といって、従者に青海波の馬をひかせて、城門(きど)を出た。従者は十人である。道中親兵衛はかんがえた。
「どうもわからない。これはだれかのざん言からか。わたしの義兄弟の犬士にめぐりあう日があっても、この身にうけたぬれぎぬを、はらさなければならない」
親兵衛は、十人のうち七人を館山の城にかえし、ほかはあとから滝田にくるがいい、と青海波でかけた。幾里もの道を走り、滝田の城についた。親兵衛は馬からおり、番卒に、
「わたしは犬江親兵衛だ。祖母妙真のもとにおもむくのだが、従者がおくれたので、しばらくこの馬をたのむ。祖母の宿所はどこか」と、とうた。
番卒どもは、すでに親兵衛の高名を耳にしている。疑いももたず、案内に立った。二の城門をとおると、一町あまりも長屋が軒(のき)をならべている。その端に一棟(むね)の小家があり、竹垣をめぐらしている。番卒は、ここが妙真の家だという。親兵衛は、折戸をたたいた。
妙真が奥から出て、親兵衛に、
「いずこから、まいられたか」とたずねた。
親兵衛は、「おん身は、祖母(ばば)さまではありませんか。わたしは大八(だいはち)です。犬江親兵衛です」と名のると、妙真はおどろき、それからたちまち涙ぐみ、
「おまえが親兵衛ですか。六年富山におり、おおきくなったと人のうわさにきいていました。さきに姥雪どのから消息文をわたされ、相見ぬことをなぐさめていました。まずこちらへ……」とすすめた。
親兵衛は刀をとり、後方におき、妙真にむかい、
「ようやく時をえて、拝顔のよろこびをえました」という。
妙真はうなずき、あふれる涙を両袖でぬぐい、
「親兵衛、そなたの二度の大功は、蜑崎どの・世四郎翁(おじ)からきいております。孫をおもうと、またその親のことも胸にうかび、泣けてきます。泣くのは老女の愚痴(ぐち)でしょう。そのほうの母方の祖父(じじ)は、なき古那屋(こなや)の文五兵衛翁。生きていたなら、よろこばれるでしょう。かえらぬ人がなつかしいのは、そのほうのような形見があるからです。鼻すじ・目もとのすがすがしさは、房八(ふさはち)に似ています。また話をするときの片えくぼは、お沼藺(ぬい)に似ています。これも黄泉(よみじ)の旅人となり、わたし一人になりました」と、またさめざめとなく。
親兵衛はなぐさめかねて、「祖母(ばば)さま、おなげきはごもっともです。父と母と祖父と祖母のうち、いま、見たてまつるのは祖母さまだけです。あまりおなげきなされて、やみわずらわれては……」という。
妙真は盃(さかずき)のしたくにかかろうとしたが、親兵衛はおしとどめ、
「にわかに君命をたまわって、いまから他郷へおもむきますので、たちかえってから、また見参(げんざん)いたします」というと、妙真はあきれて、そのわけをきく。
親兵衛は、物の怪がしずまったので他の犬士をたずねて武蔵の穂北におもむく、とつげる。
妙真はそれならしかたないが、途中、下総(しもふさ)の市川の依介(よりすけ)宅によるがいい、女房の水澪(みお)は姪(めい)なので親兵衛にも親族だ、という。親兵衛は、五十両をさしだし、福分けをしましょう、といった。
「それでは、かえる日をおまちください。また見参します」とわかれのことばをかわした。
人のゆくえは、さだめないものだ。

第百十一回 法術雲の架橋(かけはし)……素藤再挙

犬江親兵衛は、祖母妙真(みょうしん)とわかれ、城の正門(おもて)にもどった。おくれていた従者(ともびと)が、追いついてきた。あずけていた馬をひきだし、一町ばかりきて、従者に、
「わたしはまだいっていなかったが、君命で他郷におもむくのだ。従者がいてはよろしくない。これから三人は、館山に帰るがいい。それからこの馬は、稲村の厩(うまや)役人にあずけておいてほしい。きょうは宿をとらずに、夜道をかけていくのだ。もしひとにとわれたなら、妙真のもとをはやく立ち去っていった、とつげよ」といってわかれ、港口へおもむき、船銭をおおく出して市川までの出帆(しゅっぱん)をたのんだ。
「わが身は、きのうまでは数百の士卒の将として、館山の城主であったが、きょうからは一人だけで万里(ばんり)の孤客となった。かの霊玉(れいぎょく)も、土中にうずもれている。わが命運も、珠(たま)とともに光をうしなったのか」と、船待ちにおもう。もう日がしずみ、たそがれてきた。
そのとき後方から、ひかるものがとんできて、親兵衛の襟(えり)にころげおちた。親兵衛がそれを手にとると、土中にうずめてきた仁(じん)の字の珠だ。
「これはどうして……?」とよろこんだ。霊玉がしたってきたものか、と親兵衛は、まもり袋におさめた。
船頭が声をかけた。「客人、船の用意ができましたぜ。それに追い風でさあ」

つぎの日、稲村の城では、浜路の床上(とこあ)げの祝いがおこなわれた。主客となるべき親兵衛の姿はない。四人の老党は、義成が親兵衛に他郷へおもむくよう命じたと知らされ、首をかしげた。老侯(おおとの)義実もいぶかしくおもい、照文にたずねた。照文も沈黙したままだ。
いっぽう、蟇田素藤(ひきたもとふじ)は、人不入(ひといらず)の山で妙椿(みょうちん)をまった。その妙椿は、十三、四日をへたある朝、突然もどってきた。素藤は、「はかりごとは、成就(じょうじゅ)されたか」ととうと、妙椿はわらって、
「そうはやまりなさるな。よろこばせてあげようとおもって、帰ってきたのだ」という。素藤もわらって、
「それはたのもしい。まったかいがあったというものだ」といった。妙椿は、
「ついに、犬江親兵衛を遠く他郷に去らしめた。その手だてはしかじか……」と、夏引(なびき)のにせ幽霊で浜路を不眠にしたこと、にせ老人の出現のこと、霊玉を土中にうずめさせたこと、義成に男女のささやきをきかせ、にせ艶書(えんしょ)を披見(ひけん)させたことなどをかたり、
「親兵衛は他郷に去ったので、あいつがいなければ館山の城をとることもできよう」といった。
素藤は膝をすすめ、
「みごとな尼御前(あまごぜ)の神術。で、館山の城をとりかえすには、どのような手だてで……?」ととう。妙椿は、
「手だてはある。さきに寄手の陣にひかれて追放された、みかたの願八・盆作・本膳・碗九郎、また雑兵どもはいうにおよばず、すべての士卒は、法術をもってこのあたりにしのばせてある。集めるのはたやすい。まず前祝いの酒をのみ、しばらくたのしもう。肴(さかな)は用意してある」という。戸だなにはタイ・ヒラメ、あるいは山菜までそろっている。
酒宴がはじまった。それがはてると、とも寝の枕(まくら)だ。日がかたむき、七つさがり(午後四時)のころとなった。妙椿はおきた。
「よい時刻だ。みかたをよびあつめよう」といい、縁側に立って、筧(かけい)の水で手をきよめ、口をすすぎ、そとに出て眼(まなこ)をとじて呪文をとなえた。
しばらくすると、木のあいだ、岩のかげからぞくぞくと人があらわれる。砺時(とどき)願八・平田張(へたばり)盆作・奥利(おくり)本膳・浅木碗九郎らを先頭に、三、四百人の素藤の手のものだ。素藤はよろこび、
「すベて尼御前のたすけによって、もれたものはいない。それにしても、予もそうだが、兵どもに太刀もなく、鎧(よろい)もない。なにをもって、城の敵をうとうか」と妙椿にとうと、妙椿は、
「犬江親兵衛にはぎとられたみかたの武具は、いまもかの城の兵庫にある。こよい、法術をもってとりもどそう」と、袋のなかの《みかそ》の珠をとりだして、額(ひたい)におしあて、呪文をとなえると、風がふきおこり、砂をとばし、木をならす。兵どもは、とばされないように岩角などにすがりつく。と、風のままに、天からおちてくるものがある。その数は数百をこす。兵どもが見ると、みかたの武具類だ。
素藤は自分の武具をえらび、それから他のものが鎧をつけ、太刀をはき、槍(やり)・長刀(なぎなた)を手にした。また今夜の食糧に、ヤマヒルをくった。蟇田の手のものにふさわしい。
素藤は、鎧を身につけて身をかため、黄金(こがね)づくりの太刀をはき、右手に采配(さいはい)をもち、奥からしずかに出てきて、縁側の床几(しょうぎ)に尻をかけた。そのとき妙椿は、白い袷小袖(あわせこそで)に黒いビロードの帯を前にむすび、黒緞子(くろどんす)の袈裟(けさ)をかけて、姿をみせた。法衣(ころも)はわざとつけない。お高祖頭巾(こそずきん)をまぶかにかぶり、手に一刀(ひとこし)の戒刀(かいとう)をもち、盆作・願八に、
「この筧(かけい)の水で、両眼をあらうがいい。闇夜でも、ものを見ることができる」という。
兵どもにもつたえられて、みんな眼をあらった。
風はやみ、子(ね)の刻(午前零時)のころとなった。
素藤は星をあおぎ、
「ときはいまだ。ものども、たて!」と下知した。素藤と乗物にのった妙椿を中心に、先鋒(せんぽう)・後陣の隊伍(たいご)をととのえて出陣した。
館山の城内に、義成から御教書(みぎょうしょ)がとどけられた。
親兵衛が、七犬士をむかえににわかに出立したので、逸時(はやとき)・良于(よしゆき)・景能(かげよし)らとともに館山に勤番し、油断なく守護せよ、という意である。この宵(よい)に嵐がおこり、城下の家がたおれ、城内の木をたおしてすさまじく、そとに出るものはない。そこへ、兵庫二棟が崩壊(ほうかい)した、とつげられた。夜のあけるのをまって見とどけることにし、そのまま、みな寝床についた。
そのころすでに素藤は、三、四百人の士卒とともに、後門(からめて)へよせてきていた。
妙椿は乗物から出て、素藤に、
「堀に架橋(かけはし)して、はいるがいい」と、ふところから一条の麻縄(あさなわ)をとりだし、城にむかってなげると、それがそのまま雲の架橋となった。
その手だてに、兵どもがおどろきあきれる。素藤が、「はやくわたれ」と下知すると、五、六人が槍をもち、架橋をわたりはじめた。危険がないとわかると、ほかのものもつづいた。素藤・妙椿も、城内にはいった。みんな、城内は熟知しているところだ。常夜灯を消すと、どっときりこんだ。
城兵はおどろき、鎧をつける暇もない。それに闇夜だ。寄手は、闇でも目が見える。しかも妙椿の幻術で、城兵には、その数が数千にも見えてくる。
願八・盆作は、
「当城のやつら、まだ知らぬか。わが主蟇田の殿が、こよい数千の兵をもち、城をとりかえしにまいったぞ。番人の頭人(とうにん)、田税(たちから)逸時(はやとき)・登桐(のぼきり)良于(よしゆき)らはどこにいる。いのちがおしくば降参せよ」とよばわった。いきおいは、潮(うしお)がわくようだ。
この城の頭人逸時・良于・景能は、「夜許(よう)ちだ!」ときくと、武具に身をかため、刀・槍を手にして走り、またたくまに幾人かきりすてた。登桐山八良于(のぼぎりさんぱちよしゆき)は、本膳・碗九郎を左右にうけてしきりにたたかったが、しかばねにつまずき、たおれたところをとらえられた。
逸時・景能は一歩もしりぞかずたたかったものの、士卒の多くをうしない、良于もとりことなり、思案し、
「景能。ここで討死するより、他日に、この不覚をつぐなうことにしよう」と逸時がいうと、景能も、
「そうしよう。すぐにおちのびることにする」といい、鎧をぬぎすて、雑兵のなかにまぎれこみ、城を去った。城内の士卒五、六百人のうち、のがれたものは二百人にすぎないという。血はながれて盾(たて)をながし、しかばねは累々(るいるい)とつまれている。
夏の夜があけた。
素藤は首実検をしたが、逸時・景能の首がない。だが、良于をとらえたことで、意気揚々(ようよう)たる面持ちだ。
素藤は、さきに親兵衛にみかたした城下の人びとにむくいようと、願八らに命じて、美しい女を城内につれいれ、兵にあたえ、また妙椿の侍女(じじょ)とした。さらに、若もの三百人を城内にいれ、軍役(ぐんえき)とした。そこへ、素藤再挙ときき、武田信隆・千代丸豊俊の残党六百余人が、野幕沙雁太(のまくしゃがんだ)・仙駝麻嘉六(せんだまかろく)を頭人としてきた。
素藤のいきおいがました。妙椿は軍師となり、天助(てんじょ)尼公(にこう)と称した。
八幡、諏訪三社の神主、梶野葉門(かじのはもん)らは、この凶変をきき、稲村へ注進に走った。
義成は、ゆうべからにわかに足の病いがおこった。脚気(かっけ)らしく、気がいらだつばかりだ。

第百十二回 人質交換……素藤討伐軍

里見義成は、素藤をうつべく、杉倉氏元・堀内貞行・東辰相(とうのときすけ)・荒川清澄の四家老を召し、意見をとうた。
四家老は、義成の病いをあんじている。
東辰相は、
「犬江親兵衛が素藤をとらえたとき、すぐに誅戮(ちゅうりく)すべきではなかったでしょうか。わが君の寛仁大度(かんじんたいど)が仇となって、凶変がおこったものです。はやく親兵衛を召しかえして、討手(うって)にさしむけられてはいかがでしょう」というと、氏元・貞行・清澄も同意した。
義成はそれを聞き、
予(よ)の柔弱(にゅうじゃく)な過失とおもうものがおおいだろう。だが、はじめは素藤にも、それなりの功があった。それが過分の欲をおこし、謀反(むほん)して義通をとりこめた。伏姫の神霊と親兵衛の功で素藤をとらえたおり、誅戮(ちゅうりく)したなら、のちの憂(うれ)いはなかった、とはだれでもおもうことだ。しかし、いまもうしたように素藤には功がある。それをみとめず、一人のこらず梟首(きょうしゅ)したら、罪がおもく恩がうすい、と異論をとなえるものも出よう。
ゆるすまじき素藤を追放したのは、予の仁政だ。だからこそ、その恩をおもわず、またそむいたことは、重罪だ。ここにいたって、是非邪正(ぜひじゃせい)は判然としてあきらかであろう。また、親兵衛には、犬士をさがし、ともにかえるべし、と命じて暇(いとま)をとらせた。それをここに召しかえしたなら、わずか一人の反賊(はんぞく)を制することができずに、神童をよびかえした、と世の人びとにいわれるだろう。それでは武門の瑕瑾(かきん)となる。だれか、予のために反賊をうつものはいるか」という。
四家老は眉(まゆ)をひそめて、
「このとき、いのちをおしんでは、禄(ろく)をぬすむにもおなじです。われらが館山におしよせ、賊徒をたいらげましょう」というと、義成は、
「いや、そのほうたちは家長だ。政事(まつりごと)をまかせている四人のものを、討手にはつかわしがたい。清澄はどうか」ととわれて、荒川兵庫助清澄(ひょうごのすけきよすみ)は膝をすすめ、
「わたしだけ、いまだ軍功がありません。素藤征伐(せいばつ)のおん役目を、ゆるしてください」という。
義成はうなずき、
「そのほうは思慮(しりょ)・武勇にすぐれ、沈着なので、素藤の討手には適任の大将であろう。そのほうが欲するなら、わが三勇臣、田税力助逸友(たちからりきのすけはやとも)・小森但一郎高宗(こもりただいちろうたかむね)・浦安牛助友勝(うらやすうしのすけともかつ)を副将とし、一千五百の士卒をさずけよう。賊徒には妖術がある。用心して、すみやかに進発せよ」と下知し、軍議はすんだ。
清澄はさがって、あした出陣、とふれた。
その明け方、千五百の兵を三隊にわけ、田税逸友・浦安友勝を先鋒(せんぽう)として、小森高宗を後陣とさだめ、清澄は中軍の将として、隊伍(たいご)をみださず進んだ。
館山の城内には、寄手のようすが間諜(しのび)によってつたえられた。素藤は、
「犬江がいなければ、義成がおしよせてきてもこわくない。まして清澄なんぞは、わが敵に不足だ。ものども、あしたの朝がけの用意をせよ」と下知した。
つぎの朝清澄は、羽賀(はが)から士卒をすすめて、館山の城近くよせた。
素藤もまた、一千余人の賊兵をひきいて、清澄勢をむかえた。
素藤は紺地(こんじ)の錦(にしき)の鎧(よろい)ひたたれに、鍬形(くわがた)をうった竜頭(たつがしら)の兜(かぶと)をいただき、紫金(しきん)づくりの太刀に、ヒョウの皮の尻鞘をかけ、二十四本さした鷲羽(わしば)の征矢(そや)をおい、左手に重籐(しげどう)の弓をもつ。
その馬の右に、砺時(とどき)願八、左に平田張(へたばり)盆作がしたがった。旗三、四旒(りゅう)をたて、月中のガマの旗印をそめだしている。
後方の妖尼(ばけあま)妙椿は、白綸子(しろりんず)の袷衣(あわせぎぬ)に、黒の錦の袈裟(けさ)をかけ、一振(ひとふり)の宝剣を背にななめにおって、馬上の人となる。わざと武具はつけない。
清澄ははるかにこれを見て、手にしたむちで素藤をさしまねき、声高らかに、
「おい。再反の賊、よくきけ。恩をうけたのに恩をおもわず、仇をもってむくいるものは、こころが禽獣(とりけもの)にもおとる。なんじは五逆の罪人で、すでにとらえられて首のないものを、わが君の仁慈(じんじ)のみこころで遠く追放した。それなのに妖術をもって、旧城にふたたびよろうとしても、大兵がすでにうちむかっているので、このたびはのがれるところはない。兜をぬぎ、降伏せよ」という。
素藤は、からからとわらい、
「犬江にとらえられたが、われに罪がないから、義成は害することができなかったのだ。ものども、あいつらをうちとれ」と軍配をしきりにふった。
どっとときの声があがる。素藤勢の願八・盆作は、みかたと兵をすすめ、里見勢をおそうものの、寄手はすこしもさわがず、逸友・友勝の副将が馬をのりいれ、槍をうちふり、縦横につきくずすと、手勢もせめたてた。清澄は、
「いくさは、すでに勝ったぞ。素藤をうちとれ」とよばわる。寄手は奮勇(ふんゆう)十倍で、賊徒はこらえきれず、浮足(うきあし)になり、みだれた。修羅闘場(しゅらとうじょう)である。
このとき妙椿は後陣にいて、みかたが敗色と知り、ふところから《みかそ》の珠をとりだし、額(ひたい)にあてて呪文をとなえた。たちまち風がおこり、寄手の人馬はひとしくふきとばされて、きずつくもの、死ぬものが続出した。
清澄は、逸友らとかろうじて馬をはしらせ、風をさけて、七、八町しりぞいた。小森高宗も、魔風に士卒がみだれて、わずか七、八の雑兵とともに、清澄のかたわらにきた。みかたで死をまぬがれたのは、一千余人である。城兵は、館山の城にもどったらしい。
清澄は羽賀の陣にもどった。清澄らは嘆息した。頭人の浦安牛助友勝が、とらえられたからだ。
だが、嘆息ばかりしてはいられない。夜襲(やしゅう)を覚悟して、その策をたてる必要がある。
案のじょう、館山の城から砺時願八(とどきがんぱち)・奥利狼之介(おくりおおかみのすけ)らが、五百人の手のものと夜襲をかけてきた。すでに小森高宗・田税逸友らが伏兵してまっていた。この夜襲では、里見勢に勝利をもたらし、狼之介・願八をとらえた。その夜のうちに、清澄は陣を殿台(とのだい)にうつした。
この知らせは館山にもつげられ、素藤は胆(きも)をつぶすばかりにおどろいた。盆作らと評定(ひょうじょう)をひらいたが、結局妙椿の幻術にたよることにきめた。
素藤は、野幕沙雁太(のまくしゃがんた)・仙駝麻嘉六(せんだまかろく)を使者として、小森高宗の陣につかわした。沙雁太は、
登桐(のぼきり)・浦安(うらやす)二人をとらえている。砺時願八・奥利狼之介と交換したい」ともうしいれた。
高宗は、本陣の清澄にそのよしをつたえた。清澄は、まずさきに登桐ら二人をわたすなら、願八ら二人をかえす、とつげた。沙雁太は、
「それなら、二人のものをつれて、またまいる」といってもどっていった。
一刻して、沙雁太らは、登桐山八良于(さんぱちよしゆき)・浦安牛助友勝を乗物にのせて、本陣にともなってきた。
清澄は、医師(くすし)に二人の身体を診察させた。
「手傷は、二人ともなおっています。気力に疲れがあるだけです」という。
で、願八・狼之介を獄舎(ひとや)からひきだし、沙雁太にわたした。願八らがかわって乗物にのると、沙雁太らはとぶように走り去った。
そのとき、さわぎがおこった。良于・友勝とおもったのは、人間でなく藁(わら)人形なのだ。
清澄は、「幻術になまじ手をだしては、わらいものになる」と義成の下知をうけるべく書状をしたためて、安西出来介景次(あんざいできのすけかげつぐ)と詰茂佳橘(つめもかきつ)を使者としてつかわした。二人は馬を早めて稲村の城にたどりつき、東六郎辰相(とうのろくろうときすけ)と対面した。
辰相は書状を披見(ひけん)し、敗色こく、人質もうばわれたと知り、義成に見参(げんざん)してそのむねを言上(ごんじょう)した。むろん四家老のうち、氏元・貞行の二家老も同座している。義成はうなずき、
「犬江親兵衛が感得した仁(じん)の字の霊玉が、よく邪(じゃ)をしりぞけ、妖を制する応験のあることは、人の知るところだ。その珠(たま)は、予が親兵衛からかりうけて、いまは土中にある。いまほりだして、しばらく清澄にかそう」といい、近習(きんじゅう)にほりだすように命じた。
近習はあわただしく去った。

第百十三回 消えた霊玉(れいぎょく)……義成の扇子(せんす)

義成の近習(きんじゅう)が、土中からほりだした瓶(かめ)を、そのままに縁側にはこびこんだ。義成は、
「その瓶のなかの壷(つぼ)をとりだせ」と命じた。
老党がさがって、若侍(わかざむらい)とともに、八重(やえ)にからげた縄(なわ)をとき、なかの壷をとりだし、両手にささげてきた。壷の封印(ふういん)を義成がみずからきり、老党たちに、
「そのほうらは、この霊玉をまだ一覧していないはずだ。よい機会だ」といって、封印をとり、さらにうちにこめた香箱(こうばこ)をとりだした。それを手のひらにのせ、「見るがいい」と、右手を《ふた》にかけてひらいた。その中はからで、霊玉はなくなっている。人びとは、
「これは、どうしたことだ」とおどろき、膝(ひざ)の下、壷の中などを見た。人びとは沈黙したままだ。
義成は吐息(といき)をつき、
「予の手で封印したそのままで、なぜ三重の瓶からなくなったものか。その持ち主をしたって、はやくもとび去ったのであろうか」と思案するが、その謎はとけない。氏元・貞行・辰相もことばがない。
しばらくして、氏元が貞行に、
「持ち主をしたってとび去ったのならよいが、妖怪変化にぬすまれたとしたら……」というと、貞行は、
「いや、こうごうしい霊玉をぬすめるだろうか」という。辰相は、
「それは、すべて推量だ。犬江親兵衛を召しかえしてとえば、疑いはとける」といった。
それを義成がきき、
「三人の論議は、みな正論だ。だが、いま親兵衛をよびもどしては、めめしいとおもわれるだろう。予が霊玉をかりうけて土中にうずめたことは、第一のあやまりだ。それなのに、その珠をほりだして、清澄(きよすみ)にかしあたえようとしたのは、あやまりにあやまりをかさねる私情だ。君子のなすべきことではない。いままでこころづかなかったのは、予もまた妖怪にこころざしをうばわれていたのか。弓矢八幡(ゆみやはちまん)、ゆるさせたまえ。そしてまたおもうに、予が親兵衛をうたがったのは、それもまた予のこころのまよいであったか」という。
老党らは黙したままだ。しばらくして義成は、
「霊玉のことは、いまさらいってもしかたがない。親兵衛のことも、いまここで論じるべきではないだろう。いまは、素藤(もとふじ)征伐の一儀だ。予は足の痛みで出陣はむずかしい。清澄の請(こ)いにまかせて、加勢五百人を殿台(とのだい)につかわそう」といって、扇子に筆をとって、寛(かん)の一字をしるし、辰相にわたしながら、
「この扇子は、清澄らへの予の命令のしるしだ。座右にかけて、この義をまもるなら、ただちに軍功がなくても、みかたを損せず、敵をおさえることができる。そのほうたちも連署して、清澄らに、予のこころざしをつたえよ。また霊玉のうせたことはふせておけ。知られては怪におどろき、奇をとなえるだろうから」といった。
安西出来介景次(あんざいできのすけかげつぐ)は、詰茂佳橘(つめもかきつ)とともに、辰相の宿所で下知状をまっていた。そのあいだ出来介は、親交のある荒磯南弥六(あらいそなみろく)にあおうと宿所をたずねた。南弥六は酒をすすめ、盃(さかずき)をかさねた。出来介は、妙椿(みょうちん)の魔風にだまされつづけていることをかたった。南弥六は、
「そうまでされて、一人も館山の城をせめて討死(うちじに)しないのか」という。出来介は、
「そういうが、あの尼は神出鬼没(しんしゅつきぼつ)で、とても勝てない」と弱音をはく。南弥六は、
「きまっている勝利なら、だれにでもできるさ」とあざわらい、声をひそめ、
「おれをはじめ、おまえさんたちは素藤にしたがっていたが、老侯(おおとの)(義実)の仁心で罪をゆるされ、扶持(ふち)もいただいている。おれは、このたびの軍役からもれてしまったので、素藤の首をうちとることができない。そこで相談だが、手だすけしてくれないか」という。
出来介は、「おれも武士だ。おまえさんをたすけぬものか」いうと、南弥六は、
「おれたちがひさしく入獄(にゅうごく)していたころ、おなじ獄舎に鳶野戸郎六(とびのとろろく)という人殺しがいた。これが札(ふだ)の辻で梟首(きょうしゅ)されるらしい。この男は、ほくろまで荒川清澄どのに似ている。歳も五十ばかりだ。こよいこの首をぬすみ、おれは館山の城にいく」
それで出来介は殿台にかえり、館山の城内に内応の矢文(やぶみ)を射ろ。その文には、同志荒磯南弥六と清澄の寝首をとり、こよい持参する、城門をあけておいてくれ、としるすのだ。素藤は首実検をする。そのとき二人で素藤をうつのだ、という。
出来介はよろこび、辰相の宿所にもどった。
辰相は宿所にかえると、出来介・佳橘に、下知状と扇子をわたした。出来介らは稲村の城を出て、馬をはしらせた。
南弥六が札の辻につくと、鳶野戸郎六の首がさらしてあった。夜のふけるのをまって、首をふろしきにつつみ、腰にさげていくと、脇道から突然、一人の尼僧が、美しい乙女(おとめ)にさるぐつわをかませて、小脇にだいてあらわれた。
南弥六は、「こいつは出家に似ず、良家の娘をぬすみだしたな」と侠気(おとこぎ)をだし、尼僧の肩をとらえ、脇腹をうった。尼僧はのけぞったが、呪文をとなえ、右手で腰の戒刀(かいとう)をぬき、南弥六をきろうとする。
そのとき、奇なるかな、一人の神女がおおきな犬の背にのり、雲をたなびかせて、尼僧の前に立った。そして尼僧の胸をけった。尼僧は抱いた乙女をはなし、たおれた。神女は乙女を犬の背にのせ、雲とともに中天にのぼり、姿を消した。南弥六は、上総(かずさ)をさして走っていった。
いっぽう、館山の城では、妙椿が浜路(はまじ)をうばってくるといったまま、つぎの日になるのにもどってこない。
城内では雑兵が矢文(やぶみ)をひろったと奥利本膳(おくりほんぜん)にとどけ、本膳が素藤の手にわたした。素藤が披見(ひけん)すると、安西出来介の内応の密書だ。素藤は盆作・願八らにしめし、
「出来介が南弥六と城門をたたいたら、あけるがいい。首実検して、清澄なら、たちどころに出陣しよう」とつげた。
さて、安西出来介景次と詰茂佳橘は、殿台にかえってきて、清澄に下知状をわたした。逸友(はやとも)・高宗(たかむね)らをまねき、その書をひらくと、いそいで城をせめず、寛の一字をまもれ、とある。
出来介はつかれはてて熟睡し、午(ひる)ごろおきた。
生きてかえることはないだろうと、これからの行動をしたため、傷をうけている麻呂復五郎(まのまたごろう)のもとにいった。枕辺(まくらべ)にまわした小屏風(こびょうぶ)のやぶれめに、自分の書をそっといれた。
もう一人、南弥六は、鳶野戸郎六の首をかかえ、館山の城近い普善村(ふせむら)の弟南弥七(なみしち)の家にたちよった。そこで、所持する十四、五両をあたえて去った。

第百十四回 妖術と霊験(れいげん)……浜路姫もどる

安西出来介(あんざいできのすけ)は、荒磯南弥六(あらいそなみろく)とともに館山の城の後門(からめて)にきて、城門をたたき、
「当城の人びと、安西景次と荒磯南弥六である。さきに矢文(やぶみ)をもって案内したので、事情は知っているだろう。寄手の大将、清澄の寝首を持参した。このよしを頭(とう)の殿(素藤)へつたえくだされ」とよばわった。
番士は頭人の奥利本膳につげた。本膳はそれをゆるし、二人に対面した。本膳はそれから二人をともない、素藤の座にまかり出た。
素藤は、「予が首実検をする」と、盆作・願八・碗九郎・狼之介などをつらねて問注所(もんちゅうじょ)にはいり、出来介らをただした。出来介らは腰刀を本膳にわたしているので、無刀だ。素藤は、
返忠(かえりちゅう)の降人安西景次、また同志の降人荒磯南弥六。さきになんじらは、わがために安房の滝田におもむき、里見義実(よしざね)を殺そうとしてとらえられてから、予に弓をひくとは獅子身中(しししんちゅう)の虫にひとしい。だが、先非(せんぴ)をくいて、寄手の大将荒川兵庫助(あらかわひょうごのすけ)清澄の首をもってきたというのか」ととうた。出来介は額を地面につけ、
「なかまの荒磯南弥六のたすけで、清澄の首を持参しました。首実検をしていただきたくぞんじます」といった。南弥六がつつみをとこうとすると、本膳はそれをおしとどめ、
「南弥六、不敬だぞ。首実検にも法式がある。自身で披露(ひろう)することはゆるされない。そのままおれにわたせ」という。南弥六はあざわらって、
「清澄は国守の名代だ。おれたち二人が、その首をとったのだ。ひとの手をかりて見せられるものか」といきまく。本膳も、
「礼儀を知らない田舎(いなか)ものめ、その首をわたさないのは、にせ首か」とやりかえす。素藤はそれをきき、
「まあ、本膳、すておけ。南弥六、その首をわたせ」という。南弥六がつつみをひらくと、本膳は用意の首(くび)桶(おけ)にのせ、ささげてすすむ。
その後方から南弥六もまた膝をすすめて、素藤にちかづこうとすると、沙雁太(しゃがんだ)・麻嘉六(まかろく)が、「ひかえよ。席をおかすのは無礼であろう」と制した。
素藤は、首桶をひきよせて、つくづく見つめ、眉をひそめて、
「予は、戦場で清澄を見たものの、遠くでわからなかった。願八・狼之介は顔を知っていよう。近くで見よ」という。
願八・狼之介は、清澄の顔はとらわれたときに見たが、夜だったので、そのような気もするが、よくはわからない、という。で、沙雁太・麻嘉六が、清澄に対面しているのでよばれたが、これも清澄が上座だったのでわからない、とこたえ、ただ大きなほくろがあった、といった。素藤は、首桶をひきよせようとした。
南弥六は膝をすすめ、
「ほくろは、左にあります」といって、ふところから短刀を出し、素藤の額をきる。それをまたきろうとすると、まわりのものどもがいっせいにきりかかる。南弥六は沙雁太の細首をきりおとし、麻嘉六にも深手をおわせた。
出来介も懐剣(かいけん)をぬき、素藤をうとうとする。願八・盆作らは度をうしない、素藤をかばうことに必死だ。
そのときだ、金屏風(きんびょうぶ)のかげから八百比丘尼妙椿(はっぴゃくびくにみょうちん)のあらわれでたのは。
手で秘密の印(いん)をむすび、口に呪文をとなえると、南弥六らは手足がしびれ、目がくらみ、どっとたおれて、たちまち白刃(はくじん)にかこまれた。身をおこそうとすると、尼僧の妖術にかけられて、手足のないカニのように、眼(まなこ)をみはり泡をふいた。白刃の光は夕立よりはげしく、鮮血がながれて、南弥六・出来介も絶命した。
素藤は、奥利本膳に、
「南弥六・出来介の首をはね、城外に梟首(きょうしゅ)するがいい。寄手のやつらがきけば、胆(きも)をつぶすだろう。沙雁太らのしかばねはみなうずめよ。願八・盆作・碗九郎・狼之介らは、それぞれの隊をまもれ」といって奥の間に去った。
妙椿は、「傷をおったものに、一さじずつあたえるがいい」と妙薬一つつみを本膳にわたし、素藤のあとにつづいた。
夜があけた。南弥六・出来介のなきがらが、本膳から獄舎司(ひとやつかさ)の海松芽軻遇八(みるめかぐはち)にわたされた。その二つの首をかけようとしたが、南弥六の首は、目をとじず、いかったままだ。首が突然重くなりはじめた。人のちからではもてない。軻遇八は、
「これは、むかし安房で知られた洲崎無垢三(すざきむくぞう)の外孫だ。おれは小鞠谷(こまりや)の旧臣で、やむをえず蟇田どのにつかえているものの、里見にはうらみはない。それを承知して梟首したら、おれの身にたたりをうけるだろう」と思案し、南弥六の首に合掌(がっしょう)し、
「南弥六よ。おぬしの首にかわり、面影の似ているみかたの沙雁太の首をかけよう。わが身をまもってほしい」とつぶやく。
この朝、殿台の清澄の陣で、安西出来介がゆくえ不明だ、素藤に降参したのではないか、とのうわさがながれた。そこへ間諜(しのび)がもどってきて、松原に首が二つさらされている。一つは安西出来介で、もう一つは南弥六と似ているという。
そのさわぎをききつけて、麻呂復五郎(まろまたごろう)が人のたすけをうけながらきて、出来介が小屏風(びょうぶ)の破れに残していった遺書を披露した。南弥六・出来介の忠義が、はじめてわかった。
いっぽう、稲村の城内は、浜路の姿が消えたことで、さわがしくなった。生母の吾嬬前(あずまのまえ)もおどろき、なげいて義成にいった。むろん、義成もただならぬことと密談した。義成は、
「これは物の怪(け)のたたりか」という。吾嬬前は、
「浜路は、犬江親兵衛をしたって出たのではないでしょうか。証拠があります」と吐息(といき)する。義成は、
「それは予もおもいあたる。親兵衛の宿直(とのい)の夜に、浜路のつぎの間で、艶書(えんしょ)をひろった。それは披見(ひけん)せずにやきすてた。親兵衛はその間にはおらず、臥房(ふしど)のほうで、男女のささやく声がきこえた。で、予は親兵衛を遠ざけたのだ。そなたがひろった証拠とは……?」
「ここにあります」と吾嬬前はふところから、艶書をとりだし、義成にわたした。義成がそれをひらくと、白紙だ。吾嬬前は、
「けさは文字がしるされていたのですが……」と首をかしげる。義成は、
「予がひろった艶書は、封(ふう)もきらずにやきすててしまったが、白紙であったのかもしれぬ。貞行・直元らをよびかえした下知状も白紙と化していた。これこそ妖書だ。親兵衛を遠ざけるための妙椿の幻術だったか」となげきしずんだ。
小座敷のほうがさわがしくなった。義成がなにごとか、とつぶやくと、老女・女房が走ってきて、東の内庭の木だちのあたりから、浜路がたちあらわれた、という。そこへ浜路が姿をみせた。義成は、安否(あんぴ)をずねた。浜路はいう。
「ゆうべ夜半(よなか)、熟睡(じゅくすい)しておりますと、母君のお声がしますので、おきて屏風(びょうぶ)のそとへまいりますと、一人の尼僧がおりました」
その尼僧は、浜路にさるぐつわをかませ、左の小脇にかかえて立ち去った。一里ばかりきたとおもうころ、一人の男がいて、尼僧をとりおさえようとしたが、尼僧の呪文でたおされた。そこへ一人の神女(しんにょ)が、おおきな犬の背に尻をかけて天からおりてきた。尼僧がきりつけようとすると、神女は尼僧の胸をけり、浜路を犬の背にのせて、中天にのぼりはじめた。さるぐつわは風にふかれてとけ、地上におちた。
やがて神女は、雲のたなびく高峰におりたった。神女は浜路の手をとり、岩窟(いわむろ)に案内した。なかは明るく、月夜のようだ。浜路は神女の顔を拝(はい)して、そのこうごうしさにひざまずいた。神女は妙(たえ)なる声で、
「そうかしこまらなくてもいい。わたしはそなたの親族で、八犬士らの母である。素藤は小敵だが、あなどってはならぬ。素藤の天罰(てんばつ)の時ではない。親兵衛をよびかえすがいい。犬士をおもくもちいるなら、百万の大敵でもおそれるにたらぬ。そなたは稲村にかえったら、父義成にそうつたえることだ」といった。
浜路が岩窟から出ると、犬がまっていた。犬の背にのると、いつのまにか庭の木の間についていた。夢かとおもえば、臥房ではなく、現(うつつ)かとおもえば、なにごともわからないまま城内にかえってきていた。やがて侍女たちに見つけられた、と浜路はいう。
人びとは、伏姫の霊験威徳(れいげんいとく)に感嘆した。

第百十五回 救いの行列……孝徳(たかのり)刑場へ

里見義成は、吾嬬前(あずまのまえ)をみかえり、
「妖書のことも、いまようやくさとった。姉の神霊(しんれい)を、いまさらうたがわぬ。予(よ)のあやまちをはずかしくおもうが、もう話は無益だ。はやく親兵衛を召しかえして、妖賊(ようぞく)をうちほろぼそう。そなたは、浜路をなぐさめて、ききもらしたことがあるならきくがいい」といそがしく問注所にむかった。
この朝、三家老らもみな出仕し、義成をまっていた。義成が姿をみせたので、この日の訴えをきいた。うったえでたのは獄舎司(ひとやつかさ)で、
「ゆうべ札(ふだ)の辻にかけておいた盗人(ぬすっと)戸郎六(とろろく)の首級が紛失したこと、また当夜の奇怪のこと、しかじか……」ともうしのべた。その詳細は首をぬすんだくせものが、あやしい尼僧にうちたおされたこと、尼僧の小脇にかかえられた美女のこと、神女のことなどだ。
その訴えがあまりに奇異なので、人びとはおどろいた。このわけを知っているのは、義成一人だ。伏姫の冥助(めいじょ)で、浜路がつつがなくかえされたその夜のありさまが、いまの訴えと符合しているのに感嘆した。むろん、それはかくしたままだ。
そこへ、荒磯南弥六(あらいそなみろく)逐電(ちくでん)、と訴えがある。その訴え人はいう。
「南弥六は東の城門(きど)から出ていきましたが、けさまでかえってきません。逐電したのかとおもい、南弥六の宿所をさがしますと、硯箱(すずりばこ)のなかに遺書(かきおき)一通がおさめてありました」とその書をさしだした。
この書を披見(ひけん)すると、南弥六は安西出来介(あんざいできのすけ)としめしあわせて、素藤を刺殺すべく、戸郎六の首をたずさえて館山の敵城へおもむく、とある。みんなふたたびおどろき嘆じた。そしてみんなは、
「札の辻の首をぬすんだものは、南弥六か。その士気もさることながら、安西出来介は知勇すぐれず、こころもとない」という。
この日の聴聞(ちょうもん)がすむと、義成は別席で三家老杉倉氏元・堀内貞行・東辰相そのほか有司をあつめて、ゆうべの浜路の危難のこと、伏姫神の冥助によって救出されたこと、また妖書のこともうちあけた。人びとはここではじめて、神女は伏姫の神霊、尼僧は妙椿(みょうちん)であることなどを知り、祝寿(ことほぎ)の声があがった。義成ははじて、
「予のあやまちをどうしようか。犬江親兵衛を遠ざけたので、妖賊らが邪術(じゃじゅつ)をつかうことができたのだ。いまは、千万(せんばん)くやんでもおよばぬ。ただすみやかに親兵衛を召しかえしたなら、みかたに利があろう。そのほうたちはどうおもうか」ととうた。
氏元・貞行・辰相がともに膝をすすめて、
「おことば、ごもっともです。さきに親兵衛を遠ざけられました賢慮(けんりょ)のほどをはかりかねて、うれえておりました。これは妙椿の幻術によるものとのこと、伏姫神の冥助は、君の仁政の応報でございましょう」というと、また貞行も、
「われらのかんがえも、氏元とおなじでございます。犬江親兵衛仁(まさし)が旅だってから日をへて、ゆくえがわからないといっても、あてのあるところへ追手をだされたなら、また伏姫神の冥助で、たずねあうことができるでしょう」という。さらに辰相は、
「親兵衛仁を召されるおん使いには、蜑崎(あまざき)十一郎照文と姥雪(おばゆき)世四郎こそ適任かとおもいます。十一郎は、親兵衛が幼いときから知っております。また世四郎は、伏姫神の冥助で、六年のあいだ富山で親兵衛のもり役をつとめたからです。しかし十一郎も世四郎も滝田のご城内におりますので、わたしにおん使いを命じてくだされ。わたしが、馬をはしらせて、これらのことを老侯(おおとの)(義実)にもうしあげましたなら、かならず両人をつかわされるでしょう」といった。
義成は微笑して、
「そのほうたちのもうすことは、予のかんがえとおなじだ。辰相は予の名代(みょうだい)として滝田にまいり、照文と世四郎をともなってすみやかにかえってくるがいい。その他のことはしかじか……」と命じた。辰相は、「それでは滝田へまいります」といそがしくさがった。
そのあと義成は氏元・貞行の二人だけをのこし、他のものはさがらせた。伏姫神の霊験威徳(れいげんいとく)を賞賛し、また南弥六・出来介の忠誠義侠(ぎきょう)をあわれみ、この吉凶は、あした殿台から知らせがあるだろう、と素藤誅伏(ちゅうふく)のはかりごとをめぐらした。
そこへ、蜑崎十一郎照文が老侯のゆるしをうけて姥雪世四郎とともに到着した、とつげられた。
義成はすぐに召しだし、
「東六郎辰相を滝田へつかわしたが、途中であわなかったか」ととうた。
照文は、「あいませんでした。老侯(おおとの)のおおせでまかりでました」という。義成はうなずき、
「それはともかく、老侯のおおせとは……?」というと、照文は膝をすすめて、
「老侯のおおせは、こうでございます。殿は犬江親兵衛に暇をあたえ、くやんでおられぬか、と……」といった。
義成はおどろき、「それをどうして知られたのか。だれがつげたのか」というと、照文は、
「老侯は、殿のご胸中をお知りになられて、わたしと世四郎を、親兵衛をむかえる使いに命じられたのです」とこたえた。義成はなおいぶかり、
「老侯は、どうして予の胸中を知られたのか」と首をかしげた。照文は、
「殿もごぞんじのように、いまから十年あまりまえの秋、外国の商船が漂流して、洲崎(すさき)の浦に避難し、殿の仁恩(じんおん)で破船を修復してかえることができました。そのおり、船のものは品物を礼として献じましたが、なかにオウムが一羽あり、これは老侯のもとにはこばれました。老侯は居間の窓の柱にかけて、おかいなされたのです。けさ、そのオウムが突然声をたて、老侯、おききください、稲村どの(義成)は、犬江親兵衛を遠ざけたことを、いまはご後悔なされておられる、そのわけはしかじか、とかたり、浜路姫の危難、神女の擁護(ようご)、また妖書のこともつげ、親兵衛ならびに七犬士を召されるおん使いには照文・世四郎がよい、といったので、きょうのおん使いとなったのです。殿もまた、辰相をもって老侯へおん使いとなされたのは奇異妙絶(きいみょうぜつ)、おそれいりました」といった。
義成は、すべて伏姫神の冥助によるもの、といい、世四郎をよびよせて、
「世四郎。予のかんがえが浅く、犬江親兵衛を遠ざけたのはこのうえのないあやまりであった。召しもどす使いを照文とそのほうにしてもらおうとおもって、滝田へ辰相をやったが、オウムの忠告で、父君がはやくもそのほうたちをこちらへつかわされた。かたじけないことだ。照文と相談して、はやく出立するがいい。路費はむろんだが、従者をもつかわそう。親兵衛のみならず他の犬士もたずね、予の気持ちをつたえ、ともなってくるのだ」という。
照文と世四郎は酒肴(しゅこう)をたまわった。用意がととのったとき、氏元・貞行は召状を照文にわたし、また世四郎にも、親兵衛を召しかえす御教書(みぎょうしょ)と路費をわたして、
「一人旅をしてはならぬ。一人二人は従者をともなうがいい」という。
で、滝田から供をしてきている一人をともなうことにした。照文には二十余人の従者がついた。
その夜、照文は武蔵の千住(せんじゅ)をめざして船にのり、世四郎は別の船で下総(しもふさ)へといそいだ。
つぎの日の夕方、殿台の荒川清澄の使者として、詰茂佳橘(つめもかきつ)が稲村の城にきた。荒磯南弥六・安西出来介の二人が、素藤をうとうとして討死(うちじに)したこと、南弥六の首はにせ首で梟首(きょうしゅ)をさけたことなどをつげた。さらに南弥六には妻子がなく、舎弟(しゃてい)が一人いるだけで、出来介の女房はなくなり、成之介(せいのすけ)という十二歳の子がいる、ともいった。義成は、
「南弥六・出来介の忠義は、戦場で討死したのとおなじことだ。他日賞すべきこともあるので、親族、子どもの居所・姓名をしるしておくよう」と命じた。

ここで、犬江親兵衛に舞台がまわる。
祖母妙真(みょうしん)とわかれて、一人港から船をやとい、つぎの日の朝、市川についた。依介(よりすけ)の家をたずね、依介・水澪(みお)と対面した。依介夫婦は、妙真の書状で親兵衛のことを承知しているので、よろこんだが、見るとそのおとなびた姿に胆(きも)をつぶし、あきれて、しばし眺めた。
親兵衛もなき親の家なので、なつかしくおもわれた。依介夫婦は、茶などをすすめた。
親兵衛は、依介の案内で父母房八・沼藺(ぬい)の墓にもうでた。滸我(こが)(古河)の御所から犬塚信乃追捕(ついぶ)の沙汰もないので、一周忌に墓碑を依介が建立(こんりゅう)した。義侠夫婦之墓、と六文字がしるされている。そのかたわらに信乃がうえた八房(やつふさ)のウメの枝が四方にひろがり、八房の青い実をむすんでいる。それから親兵衛は、祖先の菩提寺、香華院(こうげいん)にもう出た。
依介の家にもどると、大八(だいはち)の親兵衛がきたといううわさをききつけて、村人や、犬江屋(いぬえや)の船頭などがあつまってきた。親兵衛は、この人びとに酒をふるまった。
数日後、親兵衛は依介夫婦にわかれをおしみ、出立した。行徳(ぎょうとく)から船の人となり、両国にむかった。そこから陸路で、上野の原にたどりついた。不忍(しのばず)の池のほとりの茶屋で、休息することにした。
六十ばかりの老婆が、「きょうは朝から日和(ひより)がよくて、あたたこうございますね」という。
そのとき、幾人かの人びとが走りながら、
「あわれなことだ。いま獄舎からひきだされてやってくるぜ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、妙法蓮華(みょうほうれんげ)」とあわただしい。
親兵衛は、「あの人たちは、なにを見て走っているのか。刑罪人でもあるのか」と老婆にとうた。
老婆の答えはこうだ。
きょう首をはねられる罪人は、扇谷家(おうぎがやつけ)の御内(みうち)で忠臣といわれる、河鯉佐太郎孝嗣(かわこいすけたろうたかつぐ)という二十歳(はたち)ばかりの若ものだ。若ものの父は権佐守如(ごんのすけもりゆき)で、奥家老であったが、蟹目上(かなめのうえ)の命令で、新参の奸臣(かんしん)、龍山縁連(たつやまよりつら)をうとうと、犬坂毛野胤智(いぬさかけのたねとも)にたのんだ。毛野は縁連が親の仇なので、それを承知した。縁連らが相州(そうしゅう)の北条家に使者としておもむく途中、鈴の森で毛野がうち、その他のものは犬田小文吾・犬川荘助がうった。
これが五十子(いさらご)の城内に知らされ、管領(かんれい)はいかり、みずから三百余人をひきいて、毛野追捕にたった。これを犬山道節・犬飼現八・犬村大角が二手にわかれて、七、八十人でむかえうった。管領は兜(かぶと)を射られてのがれた。この知らせをきいた蟹目上は、縁連をのぞこうと毛野にたのんだことが道節にもれて、ことは重大となった、とみずから果てた。河鯉守如も毛野をうらみ、腹をきり、息子の孝嗣に遺言(ゆいごん)して絶命した。のち孝嗣は、毛野が道節にもらしていないことを知り、刃(やいば)をまじえずにもどった。そして管領も、いったん了承した。
だが、縁連にみかたするものは、河鯉孝嗣は毛野・道節らと内応して、忍岡(しのぶのおか)と五十子の両城をせめとろうとしている、とのにせ密書をつくって披露(ひろう)した。
管領はいかり、孝嗣をからめとり、獄舎にいれた。むろん無実なので、白状することはない。忍岡の頭人(とうにん)根角谷中二麗廉(ねづのやちゅうじうらかど)が毎日拷問(ごうもん)をくわえ、五十子からは、美田馭蘭二(みたぎょらんじ)らが出役(しゅつえき)してきた。ここで死罪と裁断され、きょう首をはねられることになった。……と、老婆の話はおわった。
親兵衛は、「いまの話で、疑いがとけたが、無実の人が殺されるとは不公平だ。せめてそこへおもむいて、よそながらその人の面影を見よう」と、小銭(こぜに)をはらって茶店を出た。親兵衛は、
「あの老姿のもののいいようは、ただの人ではあるまい。孝嗣は忠孝の士だ。せめて首をうばいとって、ほうむってとむらおう」と思案して刑場にきた。
二十歳ばかりの若ものが、うしろ手にしばられて、敷皮(しきかわ)の上にいる。これが孝嗣であろう。数十人の兵どもが見物人を追いはらっていた。首切り人が刀をふりあげた。絶体絶命だ。そのとき、一人の武士がとぶように走り出てきた。越後(えちご)なまりで、
「管領家の人々、まってくれ。わたしは箙(えびら)の大刀自(おおとじ)の供、巣雁駿平行深(すがりすんぺいゆきふか)というものだ。老夫人の御意(ぎょい)をつたえようとここにまいった」と扇をあげてよびかけた。
谷中二は、「ほう、御辺(ごへん)は越(こし)の老夫人のおん供か。わたしは管領扇谷どのの御内(みうち)で、忍岡城の守護の頭人、根角谷中(ねずのやちゅう)二麗廉(じうらかど)だ。越の老夫人が、なにゆえのご参向か」ととうた。駿平は、「疑いは、老夫人に見参(げんざん)のおり、とかれるがいい」とこたえた。
簸の大刀自の行列は、まず鉄砲・弓手四十人、長尾の家紋のある挟箱(はさみばこ)、長刀(なぎなた)をもつもの、つぎに歩兵(かちもの)三十人、つぎは夫人の乗物、左右に老党若党二十人、つぎに雑色(ぞうしき)数十人、医師(くすし)の乗物、弁当、供の女房の乗物十挺(ちょう)あまり、さらに騎馬(きば)の老党、供槍、雨衣篭(あまぎぬかご)などが、はるかにつづいている。婦人の行列には似ぬ武備厳重は、人びとの目をおどろかせた。大刀自の乗物がちかづいてきた。駿平が走り、駕篭(かご)わきの老党に谷中二のことをつげた。
大刀自は老党からきき、乗物をとめさせた。扉をひらき、谷中二をよび、
「そのほうが根角谷中二か。わが身は、もと主筋の扇谷家とわが子景春(かげはる)の和議がととのったよろこびをもうすために、にわかにまいった。その旅枕(たびまくら)の夢に、湯島の天満宮がたたれ、河鯉孝嗣が無実の罪でいのちあやうし、ともうされた。孝嗣をすぐはなつべし」と命じた。
谷中二は、「孝嗣の罪は、ご内縁の老夫人のご助命でも、ゆるされるべきものではありませぬ」といった。
大刀自は、声をあらだて、
「だまれ。君命に名をかりて私怨(しえん)をはたすというのか。それこそ大罪人。首をはねるぞよ」としかり、駿平に孝嗣の縄(なわ)をとかせた。そして乗物の近くによび、
「孝嗣、はじめてあった。越後にともなっていっては、管領家に盾(たて)をつくことになるので、ここでわかれる。どこかの里で、身をたてるがいい」と黄金(こがね)づくりの両刀をあたえた。
孝嗣はうやうやしくうけて、頭をあげると、大刀自の行列は消え、不忍の池のほとりにクイナの声だけがしている。孝嗣はぼうぜんとしていたが、池のほとりをめぐって、上野のほうにあるきだした。
このありさまを親兵衛が見ていて、
「孝嗣は、忠孝のうわさのある若ものだ。わが主君の家来になったらたのもしい。だが、その手並(てなみ)を知らないので、ためしてみたい」と思案した。
それから近道をとって走った。三町ばかりきて、不忍の池のはずれの老松(おいまつ)が目についた。親兵衛は、その松の根を枕にして横たわった。気をうしなったふりをしたのだ。そこへ孝嗣がきて、旅姿の少年がたおれているのを見た。ふところから、財布(さいふ)が半分でかかっている。孝嗣は、
「一人旅のものか。まだ年若いらしい。酒によったか、急病なのか。この姿をみたら、悪心をおこすものがでよう」とおもい、声高く、「旅の人、目をさませ」というが、こたえない。そこで腕の脈をとった。
親兵衛は、伏姫伝授の閉息の法で脈をとめている。
孝嗣はおどろき、
「すこしの酒気もなく、脈もあるようでない。これはてんかんか」と親兵衛の襟(えり)をひらき、ふところに手をいれると、親兵衛はふしながら孝嗣の手をつかみ、
「盗人、なにをする」と身をおこし、蹴鞠(けまり)のようになげた。
孝嗣はひらりととんぼがえりをして、地上に立った。
「悪少年の空死(そらじに)か。そうとは知らずまごころをもって看病しようとしたのに、恩を仇でかえすとは。手並をみせてくれよう」といきまき、腰刀(こしがたな)をきらりとぬき、うってかかると、親兵衛はすこしもさわがず、腰の鉄(てっ)扇(せん)でうけた。しばらく戦いはつづいた。

第百十六回 茶店の老婆……政木(まさき)ギツネ

犬江親兵衛は、一尺にもたらぬ鉄扇(てっせん)で、はげしくうってくる河鯉佐太郎孝嗣(かわこいすけたろうたかつぐ)の切っ先をうけながした。
孝嗣は、「少年、しばらくまて。ききたいことがある」と声をかけて、刀を鞘(さや)におさめた。親兵衛は、
「おもったよりすぐれたあなたの太刀筋。どうして雌雄(しゆう)を決しなさらないのだ」と、とうた。孝嗣は、
「さきほどは、人をだまして金品をうばう賊かおいはぎのたぐいか、とおもってうちとろうとしたが、そのちからはふつうのものではなく、わたしをつかみなげたいきおいは、名高い村上義光(よしてる)・妻鹿(めが)孫三郎でもおよぶまい。わずか数寸の扇子(せんす)で、わが太刀風をあおぎかえした、その神技のうえに、あなたのふところから一すじの光がひらめき、わが眼(まなこ)をさえぎったので、刀をとどめた。おもうにあなたは人間でなく、さきにわが処刑をすくった箙(えびら)の大刀自(おおとじ)のなかまか、権者(ごんじゃ)の化現(けげん)か、狐狸妖怪(こりようかい)か」ととうた。親兵衛は、
「わたしは妖怪変化ではない。あなたも知っている犬坂毛野・犬山道節らの七犬士と、同因同果の義兄弟、犬江親兵衛だ」と名のり、さきほど箙の大刀自による孝嗣の救出を目撃したので、その手並をためそうとした、とこたえた。孝嗣はよろこび、
「かの七犬士と宿因のある犬江どのでしたか。それにしても、ふところからの光はなにゆえですか」
「八犬士には、自然にえた霊玉(れいぎょく)があります。その八つの珠ごとに、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字がうかび出ており、わたしは仁の珠を所持しています。その珠が光をはなったのです。くわしくおはなししたいので、上野の原までしりぞきましょう」
「もっともです。谷中二(やちゅうじ)らが気づいて、たちもどってきてはめんどうです」とつれだって上野の原にきた。
親兵衛は、
「河鯉さん、あの茶店はわたしがさきにやすんだところです。あなたは獄舎衣(ひとやぎぬ)のままですから、わたしの下衣を一枚きてください」とさそって、腰にむすんだふろしきづつみから、衣をだした。
茶店の老婆の姿はない。親兵衛は、伏姫神の冥助(めいじょ)、里見家の賢明(けんめい)、素藤(もとふじ)の反逆などもかたった。
そこへ、茶店の老婆がもどってきた。老婆は、
「これは若だんな。ちょっと家にいってもどったところですよ。おや、おつれさんにも、お茶をさしあげましょう」と、埋火(うずみび)をかきおこす。
孝嗣は親兵衛の袖をひき、
「犬江さん。あの老婆の面影は、わたしをすくってくれたにせ大刀自に似ています」とささやく。親兵衛も、声までそっくりだ、という。
すると、老婆はしずかにみかえり、
「そのとおり、わたしがおたすけしたのです」
孝嗣も親兵衛もおどろきあきれた。
老婆は微笑して、
「犬江さまは初対面でごぞんじないが、河鯉の若さまは、わたしの名まえぐらいはおききになっておられましょう。わたしは政木(まさき)ですよ」という。
孝嗣は、首をかしげた。
「おわすれになられましたか。あなたさまの、のちの乳母(うば)の政木です」とこたえた。
孝嗣はおもいだし、
「わたしが幼少のころ、父からきいた乳母の政木であったか」といい、親兵衛も、
「わたしの名をどうして知っているのか」といぶかしがる。政木の話はこうだ。
孝嗣の二歳のころだ。忍岡(しのぶのおか)の城内に、雌雄の野ギツネがすんでいた。そしてめすギツネがみごもった。当時孝嗣の父守如(もりゆき)は、忍岡の預りの頭人で慈悲(じひ)深く、その家の床下にすんでもとがめなかったので、そこで子をうんだ。この年、守如は君命で京都将軍家におもむいて留守となった。
河鯉の家に掛田和奈三(かけたわなぞう)という若党がいた。この和奈三は、孝嗣の乳母政木と密通していた。おすギツネは、めすギツネのための食べ物をもとめて、夜な夜なさまよったが、ついに和奈三にとらえられてころされた。さらにキツネの穴があるだろう、と床下をさぐりあてた。それをとろうとしたとき、孝嗣の母にみつかった。母は殺生(せっしょう)は禁断なり、としかった。そればかりか、めすギツネと子ギツネに餌(えさ)をあたえた。
四、五十日をへて守如がもどった。守如に妻女は、和奈三がしかじかとつげ、暇をとらせた。和奈三は乳母の政木をさそい、逃亡した。めすギツネは幻術で二人を道にまよわせて、石神井川(しゃくじいがわ)に溺死させ、おすギツネのうらみをかえした。政木逐電(ちくでん)はまだ知られていないので、めすギツネは忍岡の城内にかえり、政木に化身して、孝嗣の臥房(ふしど)に添乳(そえぢ)をした。
そのうち孝嗣の母は病死し、孝嗣はますます、めすギツネの政木をしたった。
それから二年あまりたったある日、政木は添寝(そいね)していて、正体をあらわしてしまった。めすギツネは、泣く泣く河鯉家を去った。守如は、家のものには、政木は逐電したが、罪をおかしたものではない、とふれた。
そのあとめすギツネは、和奈三・政木の霊をとむらうため、慈善をほどこそうと茶店をだし、老婆に化身した。往来する人びとのために相談にのった。あるいは男女の情死をとめ、貧之で首をつろうとしたものもすくった。
そして二十年ばかりすぎ、すくったものは九百九十九人になった。その義が天につうじたか、身の毛が年ごとに白くなり、雪のように清く、尾もさけて九尾になり、神通力も天眼通も身につけたのだった。それから長尾家の箙(えびら)の大刀自に化身し、孝嗣を救出した。
めすギツネ政木の長ものがたりはおわった。
孝嗣は黙(もく)したままだ。しばらくして、
「わたしがまだ子どものころ、乳母政木はゆえなく逐電したときいていたが、その身は人間でなく、賢人貞女(ていじょ)もおよばぬ陰徳善行、わたしの恩人であったのか」と感謝のこころをしめした。よろこびはかぎりがない。
親兵衛もまた、政木ギツネの話に感嘆し、吐息をもらしながらききいっていた。
やがて、政木ギツネは、
「おまえさまが、世界に十人とない八犬士の随一人(ずいいちにん)で、神女の冥助によって成長された神童であることは、さきに休息されたときから、わたしはさっしておりました。そのふところには仁の字の霊玉があり、ふつうの野ギツネなら本性をあらわしてしまうでしょう。わたしが幸い霊狐(れいこ)になれましたのは、こころによこしまのない証拠ともなるでしょう。おまえさまの来歴を、くわしくきいていませんので、いましがた不忍(しのばず)の池のほとりで、河鯉の和子(わこ)と話をされておられるのをたのもしくおもい、ひそかに安房・上総(かずさ)の産土神(うぶすながみ)・土地の神たちをまねきよせ、その地の安否を問いますと、おもわぬ異変がおこっているのです。ごぞんじですか」という。
親兵衛は床几(しょうぎ)から立ちあがり、
「それはなにごとですか。まだ知らないので、きかせてほしい」ととうた。
政木ギツネは、
「おまえさまが主君にうたがわれて、にわかに遊歴の暇をたまわったのは、悪人どものはかりごとのせいなのです。それでしかじか……」と、蟇田素藤(ひきたもとふじ)が妖尼(ばけあま)妙椿のたすけをえて、館山の城をおそいとったことから、伏姫の浜路姫(はまじひめ)救出、そして蜑崎(あまざき)十一郎照文・姥雪(おばゆき)世四郎らが、親兵衛を召しかえし、素藤・妙椿らをうつべく、また他の七犬士の消息をたずね、ともにまねこうとしていることなどをかたり、
「蜑崎・姥雪の二人の使者は、稲村の城をきのう出立したのです」といった。
親兵衛は、「わたしは素藤の反逆を知らずに、他郷をめぐるところであった」と、政木ギツネの神通力と天眼通をたたえた。

第百十七回 化竜昇天(かりゅうしょうてん)……妙椿ダヌキ

犬江親兵衛は、孝嗣に、
「河鯉さん、いまきかれたような次第です。腹だたしいのは、館山の三番士がおめおめと城をおとされて、一人は敵にとらえられ、二人はのがれた不覚さです。またよろこばしいのは、わが君がわたしへのおん疑いをとかれ、ふたたびこのわたしを召しかえして、素藤をうてとの御諚(ごじょう)をたまわったことです。素藤が、以前にもまして幾千百人の兵とともにたてこもるとも、もう一度いきながらとらえることは、袋のなかのものをさぐるよりたやすい。河鯉さん、ちからをあわせてたたかおうという気があるなら、わたしといっしょにきてもらえませんか」とさそった。
孝嗣も、むろんのぞむところだ。
そのはやる気持ちをおさえるように、政木(まさき)ギツネは、
「もし、犬江さまが館山にまいられたなら、素藤はおそれるでしょうが、妙椿(みょうちん)はそうではありますまい。霊玉をおそれて敵対することはないとしても、風のように逃亡したなら、あとにわざわいをのこすことになりましょう」という。親兵衛は、
「そうだ。目に見える敵ならうちとることもできるが、もし五遁(とん)の術などをつかって、見えなくなったらいかがしようか。それをとめるすべはないものだろうか」ととうた。
政木ギツネはうなずき、
「妙椿の幻術をやぶってとらえようとおもうなら、まず、妙椿の来歴をくわしく知る必要があるでしょう……」という。親兵衛はよろこび、
「それはえがたいことだ。ぜひ、きかせてほしい」と膝をすすめた。孝嗣も耳をかたむけた。
政木ギツネは声をひそめてかたりはじめた。
文安四年(一四四七年)、伏姫(ふせひめ)が七歳のころ、富山のあたりに技平(わざへい)という百姓が犬をかっていた。そこにおす犬の一つ子がうまれた。犬の一つ子はめずらしいため、世間ではもてはやすものだが、技平の子犬もたくましく、力がつよく、みごとな犬だった。
まもなく、母犬がオオカミにくわれた。この子犬をめすダヌキがそだてた。めすダヌキの乳でそだったということで評判になり、里見義実(よしざね)がもとめて、八房(やつふさ)と名づけた。
この八房は毒婦玉梓(たまずさ)の生まれかわりで、里見家に害をあたえるものだが、役行者(えんのぎょうじゃ)の利益(りやく)で玉梓の悪霊(あくりょう)は解脱(げだつ)し、八房も伏姫の読経(どきょう)の功徳によって菩(ぼ)提(だい)にはいった。だが、八房をそだてたタヌキにも玉梓の悪霊がまつわり、うらみをもったまま富山を去った。
そのタヌキはやがて、上総国夷隅郡(かずさのくにいしみのこおり)の普善村(ふせむら)にほどとおからぬ、諏訪の社頭にある老クスノキの《うろ》にすんで三十余年になる。蟇田素藤が、二人の愛妾(あいしょう)をうしなっていたおり、その虚(きょ)につけいり、八百比丘尼(はっぴゃくびくに)の名をおかして、妙椿という尼僧に化身した。さらに妙椿は《みかそ》の珠(たま)を所持している。つづいて、
「館山の城にはいるには、妙椿に知られないようにするがいい。後門(からめて)にはしかじかの目じるしがあり、そこにむかしの城主がほったぬけ道がある。その出入り口は石でふさがれていて、どんなちからでもとりのぞくことができない。しかし、しかじかとするなら自由にはいれる。奥で妙椿にあったなら、ちからをもって制してはならぬ。そのときには、しかじかにするなら妙椿の邪術(じゃじゅつ)はやぶれ、本体をあらわすだろう」と政木ギツネはときあかした。
親兵衛はよろこび、感謝し、孝嗣も、
「よくも、それほど知っているものだ。わたしも、犬江さんとともにはたらき、かえってきたら、またなぐさめよう。しばらくまっていてくれ」というと、政木ギツネは、
「いえ。わたしは、年ごろの陰徳によって、天帝のおぼしめしをうけたまわり、きょうから狐竜(こりゅう)になりいまから昇天して、もはや下界にはおりません」と首を横にふった。孝嗣が、
「狐竜とはなにものだ。キツネが竜になるなどとは、きいたこともない」ととうと、
「わたしが竜といいましたのは、名はおなじでも異(こと)なるものです。まことの竜ではありませんが、陰陽二気にしたがって、雲をよび雨をやるちからはあります。唐の乾符(けんふ)の年に、白ギツネがある日、温泉をほり、みずから湯浴(ゆあみ)すると、雲がわき、キツネは白竜に化して天にのぼった、といわれます」と政木ギツネはいう。
滝沢馬琴(たきざわばきん)は、狐竜のことは『格致鏡原(かくちきょうげん)』巻の八十八、獣類狐怪(じゅうるいこかい)の部にも、また『奇事記(きじき)』という本にもあり、作者の創作ではない、としている)

親兵衛は孝嗣とともにきいて、
賢者(けんじゃ)は、一字の師をもなおざりにはしない。そなたは異類のものだが、博識には敬服のほかはなく、わたしのおよぶところではない。またあう日があるなら、話相手になってほしいのに、いまあっていまわかれ、もうあうことができないという。なんともはかない縁(えにし)であることよ」といった。孝嗣も悲しげに、
「むかしは乳母、かりにも主従、きょうはわたしの再生の恩人とばかりおもい、その礼もいいつくさぬうちに、そなたはその身を竜と化し、千尋(ちひろ)の底なす大洋(わだつみ)にひそんでも、どうかわたしをわすれずに、春秋の折おりにたずねてほしい。ああ、悲しい」となげくと、政木は涙をはらい、
「若さま、めめしいことをいってはなりません。わたしがいなくても、犬江さんにしたがって、また七人のすぐれた人とまじわりをむすび、そのたすけをえて、仁義徳沢(じんぎとくたく)、世にまれなる明君につかえなされたなら、名を後世にのこし、ふたたび家をおこすことができましょう。狐竜のいのちは三年かぎりです。いまから三年ののち、上総国夷隅(いしみ)郡雑色村(ぞうしきむら)に石がふって、そのかたちが、わだかまる竜に似ているのを見られたなら、わたしの《なれの果て》の姿とおもってください。
それでは犬江親兵衛さま、おまかせした若さまの身のうえ、杖(つえ)とも盾(たて)ともなって、武士の道にみちびいてください。いまは時がきました。おなごりおしいが、おわかれします。さらば……」といって、そとへ出て、松の枝に手をかけ、ひらりと立ったかとおもうと、飛鳥のように身をひるがえして、不忍(しのばず)の池にざんぶととびこんだ。
するとたちまち雲がわき、雨がふりそそぎ、風の音が天地にとどろき、闇夜に似たそのなかに、ひとすじの光が走り、白竜が雲間にあらわれて、首をのばし、尾をたれて、まきあげられる池水が、雨となり、その強風暴雨に、茶店もなに一つなくふきはらわれた。
親兵衛らは、松の木かげに身をよせていた。ここに一滴(てき)もふらないのは、政木のこころくばりだ。
しばらくして雨はやみ、四月の空がはれ、夕陽が西にのこっている。親兵衛と孝嗣は、昇竜を吉兆として、東へむかった。
両国河原(りょうごくがわら)へつくころには、暮れようとしていたがまだ明るい。船宿にいって船をたのんだ。船頭は、
「上総へいかれるのですか。いまは風がわるく、潮時もよくない。真夜中には、かならず追い風になるでしょう。奥の座敷でまっていてください」という。
で、親兵衛らは、まつほかはない、と水ぎわに立った。ここは武州(ぶしゅう)・総州の両国の境の都会(まち)なので、おおくの船は錨(いかり)をおろしている。また商家・漁家が、あちこちに軒をならべている。この河岸(かし)には、三観鼻(みつのはな)という岬がある。その名の由来は、水ぎわで見ると、右は富士、左は筑波(つくば)、前は葛西(かさい)の広野までが見わたせることからおこった。
そこには、おおくの店がはられている。親兵衛らがこの岬をすぎると、人びとがあつまっている。なにごとか、と人をかきわけて、ちかづいた。
主人(あるじ)と従者(ともびと)らしい二人が、なにか見せ物などをして膏薬(こうやく)を売っているようすだ。
主人と思われるものは六十ばかりの老人で、二十歳(はたち)あまりのわかものは従者らしい。ともに染木綿(そめもめん)の袷(あわせ)をはおって、帯をせず、白布のふんどしを高くむすび、素足でならんで立っている。地面には線をひき、土俵をかたどり、そのそばに


日本の相撲(すもう)の祖、野見宿禰(のみのすくね)、家秘神方(かひしんぽう)、
撲傷(うちみ)・折損(くじき)・摺痍(すりきず)の妙薬、
荻野上風(おぎのうわかぜ) 相伝精製(そうでんせいせい)


としるした幟(のぼり)形の看板を地上にたてて、なおよってくる人びとをまった。
人をあつめてなにをしようとするのか。

第百十八回 相撲商売(すもうあきない)……めぐりあう親兵衛

六十ばかりの主人(あるじ)らしい老人は、日が暮れるとみて、扇子(せんす)をたたみ、ふんどしにさしはさみ、うやうやしく、あつまってきた人びとにむかって、
東西(とざい)、東西(とうざい)、南北かけて、このようにあつまっていただき、ありがとうございます。おこがましいことながら、てまえどもは旅から旅へ世をわたるもの。ご当地には初見参(ういげんざん)。しかもきょうは商売(あきない)の店びらきゆえ、まだごぞんじないかたもおおいことでございましょう」といって扇子をぬきだし、逆手にとって看板をさして、
「この看板で、おおよそのことはおわかりでしょう。てまえども家伝の膏薬(こうやく)は、相撲(すもう)の開祖と世に知られた野見宿禰(のみのすくね)の神方(しんぽう)で、撲傷(うちみ)・折損(くじき)・擦痍(すりきず)に即効がある。価は一貝(ひとかい)、永楽十文(えいらくじゅうもん)、たくわえおくときは、けが、あやまちには医者はいらぬ。ご愛敬(あいきょう)には、ここにいる弟子、荻野下露(おぎのしたつゆ)を相手にたたせて、相撲の手合わせをごらんにいれる。てまえも、むかし年若いころは、相撲をこのみました。もうちからがおとろえて、話になりませんが、そのかたちだけでもお目にかけましょう。はやく暮れたが、幸いに夕月夜ゆえ、おかえりをおいそぎでないおかたは、どうぞごらんくだされ。まず、相撲の来歴故実をもうしあげましょう」と、垂仁(すいにん)天皇の代、当麻村(たいまむら)の勇士蹶速(くえはや)と、出雲国(いずものくに)の剛力士(ちからびと)野見宿禰とが相撲をとり、宿禰が蹶速をけたおしたことからはじまり、鎌倉時代の陸奥掃部(むつかもん)までの来歴をかたり、
「さて、すでに日も暮れた。これから商売のうちどめに、弟子下露を相手として、立合いの手をごらんにいれまする。下露、たて」とよばわった。
おう、とこたえて、若ものは、着物をぬぎすてて、とりくんだ。つぎからつぎへと下露はなげとばされた。老人はその手を一つ一つ解説し、四十八手の秘術をおしまず披露(ひろう)した。見物人は、どっとほめたたえた。
このあいだに、老人荻野上風(うわかぜ)は、すばやく着物をきて、人びとにむかい、
「ごらんのように、この老人はひどく骨をおりもうした。どうか膏薬(こうやく)をおかいもとめくだされ」といった。下露も、着物をきて帯をむすび、貝につめた膏薬をつんだ盆をもって、人びとにちかづき、
「この家伝の膏薬はいらぬか。撲傷(うちみ)・折損(くじき)・摺痍(すりきず)・刀瘡(きりきず)にききめがありますよ。癰(よう)・疔(ちょう)・根太(ねぶと)、もろもろのはれものにも奇効がありますぞ。さあ、いらぬか、いらぬか」とよびかけながら、二、三べんまわったが、もとめようとするものはいない。上風は、
「下露、もうやめるがいい。われら当地にはじめてきて、商売の手はじめと、ことさら骨をおって見物の人びとをなぐさめたが、このように人が山をなしたのにかかわらず、わずか一貝十文の膏薬を買う人もいないのか。なさけない。もうよいわ。日も暮れたので、こよいは旅篭(はたご)にかえって、あしたはほかにいこう」というと、下露は腹だたしさに舌打ちした。
人びとにまじって見物していた親兵衛は、上風の技はみごとなものよ、と感心していたが、たまりかねてすすみ出て、
「わたしはここで見ていたが、おまえたちの技と相撲の故実は、みごとなものである。立合いも法にかない、老人とはおもわれぬ修練はたいしたものだ、と感心した。それを見て、また話もきかせてもらったのに、むだ骨をおらすわけにはいかない。わたしが、その膏薬を全部もとめよう。価はいくらか」ととうた。
上風はうれしげに、
「それはありがとうございます。きょうもってきた膏薬は百貝ばかりですから、価は永楽一貫文(いっかんもん)ですが、そんなにはいりますまい。一個おもとめくださっても、百人以上ものなかで、ただ一人のお客さまゆえ、ありがたくぞんじます。これ、下露。一貝さしあげよ」というと、親兵衛は、
「いや、その膏薬の多少にかかわらず、相撲にはほうびがつきものだ。それを《花》という。おまえたちの相撲がおもしろいので、花をとらせるのだ」と、ふところから小判を一枚とりだしてわたそうとした。
上風はあきれた顔をして、それをうけずに、
「これはおもいがけない幸せ。てまえは、ある学者にきいたことがあります。士はおのれを知るもののために死し、女はおのれをよろこぶもののためにかたちづくる、ともうすとか。あなたの贈物(おくりもの)をおことわりするのはかえって無礼ではありますが、それにしてもこれは、おおすぎます」とこたえた。
「いや、こればかりのものに遠慮はいらない。ゆきずりの人とはおもえず、旧知のあいだがらのような気がするのだ」
上風はおしいただくように礼をのべて、小判をおさめた。下露が膏薬を親兵衛にわたそうとしたとき、見物人のなかから、一人の大男が、だみ声で、
「こら、まて。いうことがある」といって、土俵にちかづいてきた。夕月夜の明るさで見ると、色黒く、眼(まなこ)まるく、鼻は低く左右にひらいて、ぶ厚い唇(くちびる)のまわりにまでひげをはやした、むさくるしい大男である。
身には渋染(しぶぞめ)の袷(あわせ)をきて、片裾(かたすそ)を高くはしょり、桐の下駄(げた)をかたかたならし、酒のにおいをばらまきながら、だみ声をはりあげる。
「こいつら、大胆な野郎どもめ! おまえら、だれのゆるしをうけて、ここで商売をしているのだ。この漁師町で、はじめて商売するものは、かならずこのおれさまに酒手をもってきてからするのだ。おれの知らないやつには、銭(ぜに)もうけはさせぬ。それでおれは、見物人に膏薬をかわせなかったのだ。どこのウマの骨かウシの糞(ふん)か知らぬが、とるにもたらぬ《えせ》技(わざ)に金をやるばかものがいたとは。それをうけさせるわけにゃあいかない。さあ、その金をこっちにわたせ」とかみつくようにののしる。上風は、
「おまえがここの差配なら、おれはよその旅のものだ。どこのものでも、銭をもうけたあとで贈物をするのが常道だ。それなのに、膏薬を買わせないようにするとはなにごとだ。まして、このお客さまからいただいた金は、わたすわけにはいかない。そもそも、おまえはなにものだ」という。
大男はますます声をあらげて、
「おいぼれ、ほざきゃあがったな。浅草寺(せんそうじ)の観音(かんのん)を知らないものはあっても、だれ一人おれの名を知らないものはない。よっく耳くそをほじってきくがいい。武蔵(むさし)・下総(しもふさ)両国川の、西の岸辺にかくれもない、向水(むこうみず)五十三太(いさんだ)とはおれのことだ。親の代から隅田(すみだ)の流れで漁師を渡世(とせい)とするほかに、けんかの裁判(なかだち)、色事のもらいうけ、いったん人にたのまれたことは、おれの手であつかってならぬことはない。おれの子分・子方(こかた)は、升(ます)ではかるほどいる。なかでもすぐれているものは、枝独鈷素手吉(えどっこすてきち)。これは肉親の弟で、船をおい山をぬくちからは、だれも知らぬものはない。坂東(ばんどう)八か国の関取を束(たば)にしてたちあわせてもかなわないのに、口に元手がいらないからといって、いいたいほうだいの長談義。乞食(こじき)相撲を見せ物にするとは、まことに沙汰(さた)のかぎりだ。こういわれてくやしいなら、おれと勝負をしてみろ。さあ、はやくたて!」
これにおうじて、枝独鈷素手吉(えどっこすてきち)も見物人の中から出てきて、「そこの侍(さむらい)、年若いのにばかなことをしたもんだ。乞食相撲に一両という金(かね)の花さかすような酔狂(すいきょう)をするからこそ、こんなことがおこったのさ。金をとりかえしていかないと、けんかのそばづえをくうぜ」といった。親兵衛は、
「ほう。わたしがわたしの金を、この商人(あきんど)にあたえるのに、おまえらがとやかくかかわることではない」とあざわらっていうと、素手吉は、
「金はおまえのものでも、土地の習俗(ならい)をやぶっては、たたりはのがれられないぞ。相手になるぜ。覚悟しろ」といきまく。上風はそれをとどめて、
「文句があっても、おまえさまは見物人だ。しかも相手は少年だ。あしたはよそにおもむくのだ。下露、ここをかたづけて、はやく旅篭にもどろう」という。
下露が看板の棹(さお)に手をかけようとすると、五十三太がとびかかって腕をつかみ、
「こいつも同類だ。尻に帆(ほ)をあげて逃げようったって、のがしはせぬぞ。これでもくらえ」と、サザエのようなにぎりこぶしをふりあげて、うってかかる。
下露はその手をうけとめて、つけいり、とりくんだ。素手吉がうしろから下露をひきたおそうとしたが、そこへ上風がはいり、素手吉にいどむ。年はとっても、上風は修練がちがう。下露も、素人(しろうと)ばなれしている。
五十三太・素手吉は、口ほどのことはない。たじろぎながら大声をだして、
「みんな、出てこい」とよばわった。なかまのならずもの三、四十人が、わっとさけびながら走りかかる。見物人は、たちまち逃げ去った。
上風・下露はすばやく身をひるがえして、ならずもののこぶしをくぐりぬける。看板・床几(しょうぎ)・薬箱はめちゃめちゃにされ、川にすてられた。
五十三太・素手吉は、少年とみくびり親兵衛をおそってきた。男色の相手にいいとおもったのだ。
親兵衛は二人の襟首(えりくび)をつかみ、手足を一度にはたらかせてなげつけた。二人は、川のなかにざんぶとおちた。そのとき親兵衛は、
「ネズミども、わが名を知らぬか。安房(あわ)の里見の家臣、犬江親兵衛だ。非道の冥罰(みょうばつ)、手並(てなみ)をみせて、みなこらしめてやろう。そこをうごくな」と、ならずものをあたるにまかせてうちたおす。孝嗣(たかつぐ)もまた、相手をえらばずに拳法(やわら)の妙(みょう)をつくす。
二勇士の助力に上風・下露もちからが十倍になり、ならずものをみなうちたおした。ならずものは、「ゆるしてくれ」と一人のこらず逃げ去った。
上風・下露は膝をついていう。
「ご両所の助力に、お礼をもうしあげます。あなたが安房の里見どののお御内(みうち)、犬江さんときけばおたずねすることがあります。もしや犬田小文吾・犬川荘助という、二人の勇士をごぞんじありませんか」
「犬田はわたしの母方の伯父(おじ)、犬川はわたしの同因同果の義兄弟だ。犬田・犬川を知るそなたは、小千谷(おじや)の郷(さと)の旅篭の主人、石亀屋次団太(いしがめやじだんだ)おじではないか」ととうた。次団太はおどろき、目をみはり、
「よく、てまえの実名をごぞんじですね。この若いものは、相撲の弟子で、実の名は百堀鮒三(ひゃくぼりふなぞう)というまじめな男です。ついては、ふしぎなことがあります。去年の夏、てまえの旅篭に犬田さんが逗留(とうりゅう)されたおり、あなたが神隠しにあってゆくえしれず、とあんじておられました。しかし甥御(おいご)のかたなら、たしか七、八歳。いま拝見するところでは十七、八歳に見え、武芸もすぐれておられる。ほかにご舎弟(しゃてい)でもおられるのですか」ととう。親兵衛は微笑して、
「その疑いは、もっともだ」と、富山で伏姫の神助をえてそだったことなどをつげ、さらに孝嗣を紹介した。それから、船頭の宿につれだってきた。夕月夜で、真昼のように明るい。
船頭は、追い風がふくまで奥座敷でまってほしい、つぎの間に病人がいるが、夕膳の箸(はし)をとられては、とすすめた。四人はそれにしたがった。
親兵衛は箸をおくと、襖(ふすま)のあいだからとなりの間をかいまみた。旅人らしい人がふせている。その髷(まげ)だけが見える。熟睡しているのか、物音はきこえない。親兵衛らは声をひそめて、たがいの来歴をかたった。
次団太はいう。
去年の夏、小文吾・荘助が片貝(かたがい)の獄舎(ひとや)につながれたおり、なすすべがなく、なやんだ。女房嗚呼善(おこぜ)は、子分にだまされて遊里の人となった。小文吾らが、稲戸(いなのと)津衛由充(つもりよしみつ)のはからいで死罪をのがれて逃げたときいてはいたが、それには半信半疑でいた。鮒三らは、ことしの正月、江戸にのぼり、湯島の天満宮(てんまんぐう)にもうでた。ここで、薬売りの物四郎(ものしろう)という人のたすけをえた。そこへ扇谷家(おうぎがやつけ)の奥方蟹目上(かなめのうえ)が、この社(やしろ)にもうでた。物四郎の訴えで、奥方に次団太の助命をこい、その場でおねがいをしてやると沙汰された。鮒三は、いったん越後にもどった。あと若党荻野井(おぎのい)三郎にきいたところによると……。
箙(えびら)の大刀自(おおとじ)のもとに、蟹目上から、次団太を赦免(しゃめん)してほしい、との書状がとどけられた。簸の大刀自がそれをうたがっていると、扇谷家の別の城、忍岡から火急の注進がきて、蟹目上と河鯉守如(かわこいもりゆき)の自害を知らせた。簸の大刀自はおどろき、由充をよび、小文吾・荘助らが犬坂毛野をたすけて、父の仇龍山縁連(たつやまよりつら)をうったことをきいた。
由充の話からすると、小文吾らは悪ものではない。また、荘助らがうった大石家の陣番、丁田町進(よぼろだまちのしん)・卒川(いさかわ)菴八(いおはち)・軍木五倍二(ぬるでごばいじ)らの悪事も発覚した。箙の大刀自は、はじめ憎いとおもっていた額蔵(がくぞう)の荘助も犬田小文吾も、執念深くたたるものではない、という。
由充はそれにこたえて、去年誅戮(ちゅうりく)された荘助・小文吾はにせもので、毛野に助太刀したのがまことの荘助・小文吾であること、豊島の残党の犬山道節にかれらが加担して、管領家をおいだし、信乃が五十子(いさらご)の城に火をはなったのもにくむべきだが、公道をもってすると、人それぞれ忠義のためにしたことなどをかたり、蟹目上と守如の死をおしんだ。
簸の大刀自は、蟹目上の書状に、次団太は木天蓼丸(またたびまる)にかかわりなく無罪、とあるのをおもいだした。で、次団太を釈放することを命じた、と次団太が荻野井三郎からきいた経過をかたりおえて、さらにつづけた。
百堀鮒三は、釈放されてきた次団太を茶屋でまっていた。鮒三は、湯島の一件をつげた。次団太は荻野井からきいたといい、物四郎が犬坂毛野胤智(たねとも)だったことや、石浜・信濃路の戦い、武蔵の鈴の森の仇討ちをかたった。二人は犬士との縁(えにし)におどろいた。
ここでおちつくと、次団太をだました女房の嗚呼善(おこぜ)と土丈二(どじょうじ)のことに話をうつした。このままではすてておけぬ、とその夕方、次団太と鮒三は身ごしらえをして茶店を出立した。夜道をいそぎ、小千谷と片貝のあいだの、千千三畷(ちちみなわて)にたどりついた。
イノシシ小屋にたちよって、夜のふけるのをまっていると、むこうから三人のものがきた。嗚呼善と土丈二と食客の鮠八(はやはち)である。土丈二は片貝によばれ、嗚呼善らが出むかえにきたらしい。土丈二は、
「きょう、片貝の御館(みたて)に召しだされたのは、次団太のことさ。木天蓼丸(またたびまる)をぬすんだものは、司馬浜のあたりで梟首(きょうしゅ)されたという。で、次団太は、木天蓼丸をひさしく家におき、うったえなかった落度で召しだされた。またこのおれも、次団太がぬすんだとうったえたということで、問われたものの、このたびはゆるされた。ばかばかしいので、城下の酒屋で一杯やってきたぜ」といった。嗚呼善はわらって、
「それならいいが、まさかの折にとおもって、あっちこっちから十両ばかりかきあつめてきたのさ。それにしても次団太がとらわれては、ねざめもわるいやね」
「つかまったものがくるものか。逃げてきたら、またうったえるだけさ。くるものか」と土丈二がいうと、鮠八も、「まったくで」という。
にわか雨がきた。土丈二らは、イノシシ小屋にかけこんだ。そこに二人の男がいた。
「不義ものめ、おれをわすれたか。次団太だ」と土丈二をけると、土丈二はとんぼがえりして水田の畔(くろ)にたおれた。それから次団太は刀をぬき、嗚呼善の右肩をきった。鮮血がほとばしり、嗚呼善がたおれた。逃げる鮠八を鮒三がなげつけ、頭を石でわった。身をおこした上丈二の背を、次団太がきった。さけび声もあげずに、土丈二は絶命した。

第百十九回 船宿の語らい……孝嗣(たかつぐ)改名

つぎの日の朝、村人たちが、嗚呼善(おこぜ)・土丈二(どじょうじ)のしかばねを見つけておどろき、村長(むらおさ)につげた。村長から、片貝(かたがい)の城中にとどけ出た。実検使がきて詮議(せんぎ)したが、
「だれのしわざかわからない。嗚呼善ら三人のなきがらは、ゆかりのものにさげわたす」といって、家宅・家財を没収した。石亀屋(いしがめや)はたえ、あらたなものが家を買いもとめた。
次団太(じだんだ)・鮒三(ふなぞう)は、昼はかくれ、夜はあるいた。信濃・上野(こうずけ)・武蔵までは扇谷家の領内で、長尾家の所領も散在している。追捕(ついぶ)をおそれて、みちのくにはいったところで、しばらく日をかさねた。さらに会津(あいず)に、と足をのばした。嗚呼善のしかばねからもってきた十両が路費だ。そこで思案して、次団太の家伝の膏薬(こうやく)を製造して、会津の町をめぐり、売ってあるいた。それがおもうように売れず、三月下旬には十両の路費もほとんど底をつき、のこりすくなくなってきた。このままでは乞食(こじき)になる、と会津を出立、日中にあるき、夜は宿をとった。そして武蔵・下総(しもふさ)の境の河岸(かし)にきた。
……ここで、次団太の長ものがたりはおわった。

犬江親兵衛は、次団太に、
「七犬士のことは、おおかたは知っているだろう。だが、このわたしのつれの人は、他聞をはばかるのでくわしくはいわないが、名まえはきいているだろう。扇谷家の忠義の老党、河鯉権佐守如(かわこいごんのすけもりゆき)どのの子息、河鯉佐太郎孝嗣(すけたろうたかつぐ)という若人(わこうど)だ」とつげた。
次団太・鮒三は、胆(きも)をつぶし、
「これはおもいがけないことです。そういうおかたとは知らずに、無礼をつかまつりました。おゆるしください」とわびた。親兵衛は、それをおしとどめ、
「この才子のことについては、まだ話がある」といって、守如・孝嗣の忠義、父子(おやこ)の両度の大功を、奸臣(かんしん)らがねたみ、孝嗣をおとしいれ、死罪に処せられるところを、霊狐政木(れいこまさき)が救出したこと、また二人の政木と和奈三(わなぞう)らのこと、根角谷中二(ねづのやちゅうじ)らのこと、親兵衛がはからずもそこへいきあわせて目撃したこと、孝嗣の手並(てなみ)のこと、親兵衛と孝嗣が友となったこと、政木ギツネが狐竜(こりゅう)と化し、昇天したことなどをつげた。
次団太は親兵衛に、
「よくわかりました。そこで、あなたさまが、こよいにわかに上総(かずさ)の館山とやらにいこうとして、出船をここでおまちになっているのは、どのようなことで……?」ととうた。親兵衛はうなずき、
「わたしは七犬士にさきだって、里見どのにつかえることができ、館山の城をあずけられたが、じゃまがはいり、七犬士らのありかをたずねてくるように、と暇(いとま)をたまわった。それでしかじか……」と、蟇田素藤(ひきたもとふじ)の謀反(むほん)のこと、素藤を親兵衛がとらえたこと、素藤らが赦免されたこと、浜路の病気のこと、館山から親兵衛がよびよせられ、浜路の看病をしたこと、霊玉(れいぎょく)の奇特のこと、伏姫神の霊験擁護(れいげんようご)のことなどをかたり、
「このあとのことをわたしは知らない。さきに政木ギツネがきかせてくれた。それはしかじか……」と、妖尼妙椿(ばけあまみょうちん)の幻術で、素藤が館山の城をうばったこと、荒川兵庫助清澄(あらかわひょうごのすけきよすみ)が、君命をうけて、素藤征伐(せいばつ)の大将となったが、妙椿の幻術をやぶるすべがないこと、このようなときに、義成(よしなり)が霊玉の奇特のある親兵衛をうたがったのは、妖尼妙椿の離反の幻術による、とようやくさとって、おおいに後悔し、親兵衛を召しかえして、妖賊(ようぞく)をうつべく、さらに他の七犬士をまねこうと、きのう蜑崎照文(あまざきてるふみ)と姥雪世四郎(おばゆきよしろう)に命じたことをかたり、
「おん使いらにあわなくても、水路をいそぐのは、奸賊(かんぞく)のために塗炭(とたん)にくるしむ民をすくい、主君のみこころをやすめたてまつらんとのおもいからだ」といった。次団太・鮒三は、
「そうでしたか。われら主僕(しゅぼく)をも、お供(とも)におつれください。手だすけにはなりませんが、うごきまわります」というと、親兵衛は、
「いや、いや。さきにも、わたし一人で素藤をとらえた。いまさら助力はいらぬ。この河鯉さんについては、わたしに思案があってのことだ。犬田・犬川さんは、わたしの七人の義兄弟だ。千住からほど遠からぬ、穂北(ほきた)の郷士、氷垣残三夏行(ひがきざんぞうなつゆき)の宿所におられるはずだが、かりにおられなくても、丶大法師(ちゅだいほうし)が結城(ゆうき)でいとなまれる、本月(このつき)十六日の大法会(だいほうえ)につらなることだろう。あなたがたは穂北におもむき、もしあえなければ、結城へきてほしい。十六日は、もう近いので……」といった。
そこで、孝嗣はいう。
「わたしは譜代恩顧(ふだいおんこ)の義もあり、このままでは他家につかえられないが、せめてこよいから、河鯉佐太郎をあらためて、政木大全(まさきだいぜん)と名のりましょう」
話をしているうちに、九つ(午後十二時)の鐘がひびいてきた。親兵衛は、
「きこえるだろう、次団太おじ。あの鐘の音は、真夜中であろう。追い風はどうか、船頭にきこう」とみずから立とうとすると、つぎの間から、「犬江さん、またれい。いうことがある」とよびかける人がいる。

第百二十回 釈明……親兵衛らの出航

みんなは、親兵衛によびかけた声のほうをひとしく見た。咳(せき)ばらいをしながら、襖(ふすま)をひらいて出てきたのは、きのう稲村の義成に命じられて、犬士をまねく使者として出立した蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)だ。照文は親兵衛らに、「ゆるしたまえ」と会釈(えしゃく)して、上座についた。
親兵衛は席をさがり、うやうやしくむかって、
「おもいがけない蜑崎どの、いつこの地においでになられましたか。あの一室におられたので……?」ととうと、照文はうなずき、
「そうだ。このたびわたしと世四郎(よしろう)は、そなたと七犬士をまねくためのおん使いにたてられ、ゆうべ稲村を出立、いくさきを異にして別の船にのった。武蔵にむかったが、ゆうべは、波風あらく、逆風だったので、幾たびかふきもどされて、ただよい、きょうの夕方七つ(午後四時)ごろに、この両国川の西の岸についた。世四郎はどうしたか、船がことなるのでわからない。わたしはこの船が岸につくまえから、しきりにめまいがしてしばらくはたえがたく、穂北の氷垣(ひがき)の屋敷をたずねる予定だったが、船をとめさせ、この家主(やぬし)の座敷をかりてふしていた。つれてきた兵十人と従者らは、河原の櫓小屋(ろごや)にとどめておいた。わたしは薬をのみ、衣類をかぶって、寝るとも知らず、まどろみ、すでに日が暮れた。
そこへ隣室に三、四人の客があった。かたらう声にめざめて、きくともなくきいていると、一人は犬江、そなたの声だ。またほかの一人は、扇谷家(おうぎがやつけ)の浮浪人河鯉さん、ほかの一人は、越後(えちご)の旅の主従とわかった。いまこころせかれて、襖をへだててよびかけてしまった。無礼をゆるされい」といって、ふところから主君の親書をとりだし、扇子(せんす)にのせてわたした。
親兵衛は、うけとると三たびおしいただき、
「こよい、おん使いにおあいして、素藤(もとふじ)征伐の君命をうけたまわることは、このうえのない幸いでございます」と、縁側の浄水鉢(ちょうずばち)のひしゃくをとりあげ、口をすすぎ、手をあらいきよめて、もとの席にもどった。それから親書をひらいた。再反の妖賊(ようぞく)蟇田素藤征伐の下命書(かめいしょ)である。文明十五年(一四八三年)夏四月十一日、とある。
照文は、親兵衛の帰参をいわって、
御諚(ごじょう)はこのようなものだから、こよいの船出をむろんすべきだが、妙椿(みょうちん)の幻術のいきおいはまえとおなじではない。わたしがつれてきた兵十人、それに河鯉さん、次団太(じだんだ)主従をたすけにするがいい」といった。孝嗣(たかつぐ)は次団太らとともに、照文に初対面のあいさつをした。そして次団太たちは、討手(うって)にくわえてもらおうと、照文にとりなしをたのんだ。親兵衛は、
「御諚のことはわかりました。素藤はわたし一人でも、征伐はたやすいとおもいますが、もし妙椿をにがしたら、わざわいをのこすことになりましょう」と、次団太・鮒三(ふなぞう)、それに照文の配下二人をともなうこととした。
夏の夜はふけた。親兵衛は、
「お話は、うけたまわりました。風がよいにしろわるいにしろ、はやく船をだすことにしよう」といった。
そこへ船頭が走ってきて、親兵衛らにいった。
「だんながたはきょうの夕方、三観鼻(みつみのはな)で五十三太(いさんだ)らと、けんかをなさったのではありませんか。その遺恨(いこん)をかえそうと、五十三太の手のもの五、六十人が、手に手に長櫓・船棹(ふなさお)・竹槍などをもってこっちにくる、とつげてきたものがいます。だんながたは覚悟のうえでしょうが、こっちまでそばづえをくっては、あしたからの渡世(とせい)にさわります。はやくそとに出て、仲なおりをしなければ、損をしますぜ」
「そうであろう。きやつらが、数百十人くるとも、わが手並(てなみ)でおいかえそう。おまえたち、おどろきさわぐな」
親兵衛はそういって、野袴(のばかま)の裾(すそ)をひもにはさみ、刀の緒(お)をぬいて、たすきにかけ、両刀を腰にそとへとび出た。孝嗣・次団太・鮒三も、身ごしらえをしてあとを追った。ことの異変に、照文も出ようとすると、安否を問いにつぎの間(ま)にきていた兵・従者らがおしとどめた。
照文はうなずき、兵どもに加勢するよう命じた。船宿のものたちは、土蔵にはいって網戸(あみど)をとじ、音もたてない。親兵衛は鉄扇(てっせん)ひとつもって、ならずものをまった。孝嗣らは棍棒(こんぼう)を手にし、照文の配下は十手を手にしている。
まもなく向水(むこうみず)五十三太・枝独鈷素手吉(えどっこすてきち)が、ならずもの六十余人をひきい、列をなしてきた。有明(ありあけ)の月が、真昼のように明るい。
かれらは、もともと漁師・町人だが、戦国の習俗(ならわし)で、近隣にいくさがあるごとに、落人(おちうど)の武具をはいだりひろったりしているので、腹巻・肱盾(こて)で身ごしらえをしている。手にも、それぞれ武器がある。
五十三太らは、親兵衛がはやくもまちうけ、しかもしたがうものが二十人ばかりに増しているので、おじけづいたのか、地上に膝(ひざ)をついた。親兵衛は、はかりごとか、と油断せずにかれらの立つのをまった。
このとき寄手のなかから黒皮縅(くろかわおどし)の腹巻、筋金をうった小鎖(こぐさり)の肱盾(こて)・臑盾(すねあて)をつけ、二尺七、八寸の陣太刀と九寸五分の匕首(あいくち)をさした二人の武士がすすみ出て、親兵衛のそばにきて、うやうやしくむかって、
「これは犬江どの、おかわりはありませんか。逸時(はやとき)です」と名のる。親兵衛は、いぶかって、よく見ると、館山落城のおり、ゆくえしれずになった番士の頭人、田税戸賀九郎(たちからとがくろう)・苫屋八郎(とまやはちろう)の二人だ。
親兵衛は不快になり、
「おまえらは恥(はじ)を知らぬか。番士の頭人として館山の城をまもりながら、賊徒のはいるのを知らず、良于(よしゆき)はとらえられ、士卒も多くうたれたというのに、討死(うちじに)もせずいのちをのがれ、さすらいきて、ここにいるのか。それに、ならずものの群れにはいって良民・旅人に害をなし、日をすごしているのだろう。忠義にかけた、おろかな《しれもの》め。いうことをきくものか。はやくしりぞき、鋒先(ほこさき)をそろえて、かかってくるがいい」と、おもいのままにののしった。
逸時・景能は、ともにしずかに、
「犬江どのがそうおもわれるのは、うわさによるものでしょう。わたしらは、いのちがおしくて、城をすててまで生きているのではありません。城をあずかってから、賊徒はふしぎな幻術をもって、うちいるまでは姿が見えず、ましてそのいきおいは幾千ともしれず、きっても射ても、ものともしない。そのためにみかたの士卒が、あるいは落ちうせ、あるいはうたれて、ふせぎようもない。あいはかって恥をしのび、いのちをのがれ、ともに他郷に去ったのは、他日、素藤征伐のご用にたち、身のあやまちをつぐなおうとするからこそです。
この両国河原の五十三太・素手吉らは、逸時と旧縁があるので、かれらの宿所に寓居(ぐうきょ)しつつ、さきに落ちたみかたはどうしたのかとあんじ、またどのような手だてで賊徒をうち、恥をそそごうか、と思案いたしましたが、五十三太の子分らはすべて侠客(きょうかく)で、軍陣のことにはなれておらず、たよりにならない。ところが、きょうの夕方、五十三太らが理不尽(りふじん)にもけんかをしかけたおり、あなたが五十三太らを左右につかみ、川になげられ、安房の里見の御内(みうち)犬江親兵衛仁(まさし)と名のられたときき、ここにかけ参じたのです。あなたの武勇大力のことは、五十三太・素手吉とその手下どもに、日ごろからかたっていましたので、おどろいて逃げかえりました。
犬江どのが、七犬士をまねくために、遊歴の暇(いとま)をたまわったときいているので、ここらを徘徊しているのにはわけがあるのであろう。その事情によっては素藤征伐の宿望(しゅくもう)をつげて一助のちからになろう、と意中を五十三太らにあかし、あなたの宿所をひそかにたずね、こよいから五十三太・素手吉を、あそこの奥庭にしのびいらせて、ことのようすを立ち聞きさせたのです。そこで、こよい船出して素藤らを一人のこらず誅伐(ちゅうばつ)しようとなされていることを知りました。
われわれ二人はよろこびにたえず、この日をうしなったなら、いずれの日に宿望がとげられよう、あなたに対面してお供をたのもうとおもいましたが、それほどの功もない。五十三太・素手吉は漁師なので、近郷隣国、都会の地などへ、生魚をおくる快船(はやぶね)を三、四艘(そう)もっております。そのうえ、かれら兄弟は渡海の快船をこぎなれているので、向い風・追い風にかかわらず、十数里の波の上を一刻(とき)か一刻半ではしらせることができる、といっております。
それで、あなたを上総(かずさ)におくらせていただき、われわれもまた同船させてくだされば、あしたの朝には目的地につきます。このようなときに、素手吉が、蜑崎さまが同宿されておられ、里見義成さまのご親書をあなたにおわたしになられたこと、河鯉どのが政木大全(まさきだいぜん)と名のられたこと、次団太主従もねがいにより供にくわえられたことなどをきいて、走りかえってきたので、それならいそげと宿所を出て、みんな推参つかまつったのです。おつれいただければ、一生の面目(めんぼく)。蜑崎さま、おとりなしくださるようおねがいします」とただひたすらわびた。
景能もことばをつぎ、くどきつづけた。
五十三太も素手吉も平伏(へいふく)している頭をあげて、親兵衛をあおぎながら、
「てまえどものことは、おゆるしください。いま苫屋・田税のご両所のいわれたように、てまえどもの快船は、鯨船(くじらぶね)なので、船ごとに櫓が八挺(ちょう)だてで、風にさからい、波をきるいきおいは、玉をころがすようで、走ることはきわめてはやいのです。三、四艘用意がととのって、河岸にまわしてあります。一艘に十余人から二十人のせることができます。てまえどもがおん供をつかまつりますので、夜のあけぬうちにどこの浦辺にでもよせることはむずかしくありません。てまえどもにおまかせください」と、たがいにその意をのべた。
かたわらの照文は親兵衛にむかって、
「犬江さん。わたしは両領主のおん使いゆえ、助言するのではないが、逸時・景能のねがいも、五十三太・素手吉とやらのもうすことも、一理あるとおもうが……」というと、親兵衛もうなずき、
「わたしのかんがえとおなじです。田税・苫屋のことも、あやまちをつぐなうにたるので、同船をゆるしましょう。五十三太・素手吉らにまかせるが、館山に上陸してはならない」といった。
みんなこれを承知した。
浅草のほうから、鐘の音がきこえた。親兵衛は出航をいそがせた。それから照文にわかれをつげ、兵二人をかりうけた。親兵衛・逸時・景能・孝嗣(大全)・次団太・鮒三が、兵二人と、水ぎわの船にのった。
馬上の照文は、従者らと見おくった。
五十三太・素手吉は、第一番の船に、親兵衛ら六人と兵二人を案内した。船頭は、五十三太らと若もの八人、八挺の櫓をつらね、左右にわかれてこぎだした。あとの三艘には、五十三太のなかまが十人、二十人、それぞれうちのり、櫓をきしらせて、こぎつらね、矢のように走り、またたくまに、姿を消した。

第百二十一回 妖尼(ばけあま)のさいご……ふたたび素藤をとらえる

この夜、親兵衛らをのせた船は、快船(はやぶね)中の快船で、船頭らの腕に伏姫(ふせひめ)の擁護(ようご)もくわわり、さらに政木ギツネの狐竜(こりゅう)の冥助(めいじょ)か、その走ることは矢のようで、空とぶ鳥よりはやく、明け方には、上総(かずさ)の館山にほどとおからぬ浦についた。十二日の月はすでに没し、天(そら)はあけようとしていた。
親兵衛は、五十三太(いさんだ)・素手吉(すてきち)らをそのままのこし、ほかの七人とともに陸にあがった。
照文の二人の従者(ともびと)は、土地の百姓出なので、案内に立った。しきりにいそいだが、夏の夜はあけるのがはやい。館山近くにくると、親兵衛は、船中でしたためた書状を二人の従者にわたし、
「おまえたちは、殿台(とのだい)のみかたの陣営にいき、荒川どのにとどけてほしい」といった。
ここから親兵衛と、逸時(はやとき)・景能(かげよし)・孝嗣(たかつぐ)(大全)・次団太(じだんだ)・鮒三(ふなぞう)とあわせて六人となった。
しのびやかに館山の城の後門(からめて)近くにくると、夜はあけているものの、これも伏姫の冥助か、あたりいちめん朝靄(あさもや)が深くたちこめて、闇夜のようなので、ニワトリも明けガラスもなかない。四門をまもる城兵たちは、夜があけたことも知らず、平穏(へいおん)になれて、注意をおこたり、かがり火もたかずに、背をあわせて、みんなねむっている。親兵衛らがちかづいたことを、夢にも知らない。
親兵衛らは、政木ギツネのおしえてくれた、城門(きど)から東南(たつみ)百歩ばかりのところにきてみた。岩石がつらなりたつ丘があり、丘の中腹にもっともおおきな石が半分土にうもれており、コケ・ツタ・カズラがかかっていた。これこそ、と親兵衛はふところのまもり袋をひらき、霊玉をとりだして念じ、しずかに石をなでた。
と、大石はたちまちまんなかから二つにさけて、左右に三尺ほどひらいた。奥は洞穴(ほらあな)である。逸時らは胆をつぶし、のぞいてみた。
親兵衛は微笑をうかべ、政木ギツネの教示をつげた。むかしの城主がつくったぬけ道で、素藤(もとふじ)も知らないらしい。人びとは、
「もし知っていても、素藤にはこの石をのぞくことはできまい。二つにさくことのできたのは、霊玉の奇特によるのだが、それにしてもふしぎなことよ」とささやく。親兵衛が先頭に立って、奥深くはいると、五人もつづいた。洞穴の高さは七尺ばかり、地下道の幅は三尺あまりで、まっすぐつづいている。
二町ほどくると、また大きな石が道をふさいでいる。親兵衛が、ふたたび霊玉をとりだし、石をなでると、また石はさけた。あたりはもう城内で、二の郭(くるわ)の高塀(たかべい)の石垣の下だ。
勝手を知った逸時・景能は、用意の火薬にかがり火の残り火を手ばやくうつし、柴蔵(しばくら)に火をかけながら、どっとときの声をあげた。城兵はおどろきさわぎ、
「さては、敵がうちいったぞ。多勢ではあるまい。おしつつんで、うちとれ」と槍(やり)をひきさげて走りかかってくるのを、逸時・景能・孝嗣・次団太・鮒三らが、敵をひきうけて、幾人かを槍の下につきふせた。
群賊(ぐんぞく)、知らぬか。素藤をまたとらえるために、犬江親兵衛ここにある。田税(たちから)逸時・苫屋(とまや)景能もここにあるぞ」と名のる。賊徒は、度をうしない、
「犬江がまたきたぞ。逃げろ」とさけぶばかりで、朝靄(あさもや)のなかでうたれるものがおおかった。親兵衛は妙椿をとらえようと、奥にすすんだ。この城内の獄舎(ひとや)には登桐山八良于(のぼぎりさんぱちよしゆき)・浦安牛助友勝(うらやすうしのすけともかつ)がつながれていた。人びとのさわぎで、落城がちかいのではないかとおもうが、堅固(けんご)で板壁がやぶれない。むかいの守屋(もりや)に火がうつり、柱がたおれて、獄舎の戸口をうちくだいた。二人は、すばやくそとへ出た。
たがいの足かせを石でくだき、まだやけていない槍を手にし、敵をつきさした。そして番士の頭人、平田(へた)張盆作(ばりぼんさく)と良于、奥利本膳(おくりほんぜん)と友勝が槍をかわした。
盆作・本膳は、脛(はぎ)などをつかれてとらえられた。
いっぽう、殿台の本陣では、荒川兵庫助清澄(ひょうごのすけきよすみ)・小森但一郎高宗(ただいちろうたかむね)・田税力助逸友(りきのすけはやとも)らが、おもいがけない犬江親兵衛の書状を披見(ひけん)し、よろこび、時をうつさず、士卒をひきいて館山へおしよせた。城内から火がおこり、煙が空高くたちのぼった。清澄は、
「犬江親兵衛らが城内にうちいったのだろう。あいずのしるしだ。ものども、つづけ!」と一千余騎(き)を二手にわけて、正門(おおて)には清澄・逸友ら七百余、後門には小森高宗が、五、六百の兵をひきいて同時にせめいった。土煙があがった。
城内の賊兵はくずれにくずれ、しかばねがおりかさなって山をきずいた。孝嗣は、親兵衛に助力しようと奥へすすんだ。素藤の近習(きんじゅう)が三人、のがれようとしているのを、二人をきり、一人をとらえた。これに案内させて、奥庭のヒノキの折戸をひらき、書院のあたりにきた。
そのころ親兵衛はすでに奥にはいり、素藤をさがしまわっていた。奥の高殿(たかどの)の下に夜勤(よづめ)の女房が、二、三人ふしていた。親兵衛を見てふるえている。親兵衛は、
「声をたてると首をはねるぞ。わたしは犬江親兵衛だ。素藤・妙椿はどこにいる」とくわしくきいた。
三十あまりの女が、
「殿の臥房(ふしど)はこの楼上(ろうじょう)で、天助尼公(てんじょにこう)(妙椿)もそこでございます。ゆうべはお酒盛(さかもり)で、いまだおめざめではございますまい」という。
親兵衛は、声をたてるな、と足をしのばせ、はしごをのぼっていった。楼上の第一の間(ま)は素藤の臥房で、つぎの間、三の間がある。素藤は昨夜も丑三(うしみ)つ(午前二時)ごろ、よって床についた。
枕をならべていた妙椿が、
「これ、殿。目をさまされよ。城内に失火でもあったのか、煙がこっちにふいてくる。人びとのさわぐ声がするが、もしや寄手でもあるのか」とゆりおこした。
素藤は、がばと身をおこして、
「それはたいへんなことだ。ひさしく寄手がなかったものを……」といらだち、手のひらをならした。
「だれかいるか。はやくこい」とよべどこたえぬ。枕辺の腰刀をとり、身をおこそうとした。と、はしごをのぼってくるものがいる。素藤は、
「そこへくるのは、だれか?」ととうと、屏風(びょうぶ)がひらき、犬江親兵衛の姿があった。素藤は、あっとおどろき、逃げようとするが、そとは縁側で、高い欄干(らんかん)がつらなっているので、のがれる道などない。やむをえず、刀の柄(つか)に手をかけた。
妙椿も親兵衛を見ると、夜着(よぎ)を頭からかぶり、名号(みょうごう)の六字も出ず、九字の印(いん)もきることができずにふるえている。親兵衛はあざわらって、
「素藤、わすれたか。さきに国守の慈悲でおまえらを恩赦(おんしゃ)したおりに、もしまたそむいたなら、人手をかりずにわたし一人の手で誅戮(ちゅうりく)するといっておいたはずだ。それが妖尼(ばけあま)にそそのかされて、ふたたびそむいたところでわずかに十余日だ。みずからまねいた悪のむくいだ。妖尼め、ここに出てこい。おまえは古ダヌキの精として、幻術・魔風の呪法(じゅほう)をいささかこころえ、わが明君をくもらせ、わたしを遠ざけて城を一時掌中(しょうちゅう)にしたが、それも夢の間で、霊玉はわたしの手にもどったぞ。おまえの邪術(じゃじゅつ)をもって、わが君臣をあざむくことができても、わが霊玉をあざむくことはできぬ。おまえらは、みんな人面獣心。すでに首はないのだ。覚悟せよ」とののしった。
素藤はぬきうちに、むこうずねをきろうとした。
親兵衛はその刃(やいば)をふみおとし、逃げようとする襟首(えりくび)を左手でつかまえた。そのあいだに妙椿は夜着の裾(すそ)をぬけだし、雨戸・障子をおしたおして逃げだそうとした。親兵衛は、素藤をそのままなげふせ、妙椿に走りかかり、肩先をとりおさえ、まもり袋をかざすと、霊玉の光がほとばしった。
それにうたれた妙椿は、あっとさけび、夜着を親兵衛の手にのこしたまま、からだだけ楼上から庭へひらりとおちていった。妙椿のからだから一すじの黒い煙が出て、鬼火(おにび)のような青い光をはなち、みるみるうちに、西へなびきながら消え失せた。
素藤は、痛さをこらえながら、「宿直(とのい)のものどもは逃げたのか。予をたすけよ」とよばわりながら、枕などを手あたりしだいになげながら逃げた。
親兵衛が、のがすものか、と走りかかってくるいきおいに、素藤はやむをえずふりかえってくもうとすると、臥房(ふしど)をまもる武士ら十人ばかりが手に手にくさり鎌(がま)・捕縄(ほじょう)をもち、親兵衛をとりかこんで、からめとろうとひしめいた。親兵衛は、
「おまえら、目くそにとじられて、この犬江親兵衛が見えぬか」とさけび、素藤の帯のむすび目をつかみ、肩より高くふりあげて、賊どもめがけてなげつけた。賊の一人はのけぞって、とんぼがえりをうち、素藤とともに欄干をこえて、一丈(じょう)あまり転落し、軒下の松につきあたって、春日形(かすががた)の石灯篭(いしどうろう)のあたりにおちた。
そこへ、孝嗣(政木大全)の姿が見えた。親兵衛は上から、
「政木さん、政木さん、その一人は素藤です。とらえてください」と声をかけた。
孝嗣はよろこび、こころえた、とばかりに素藤をおさえ、近くの車井戸のつるべ縄をひきよせて、しばりあげた。賊兵どもは、楼上に親兵衛、庭に孝嗣がいるので、捨て身になって、いっしょに八方からたちかかったが、親兵衛は左右にうけて、なげおとした。兵どもは、ふしかさなってへたばった。
そこへ、殿台に使いにいっていた照文の配下の二人が、親兵衛をさがして、きた。孝嗣はそれをよび、投げおとされたものたちをしばりあげさせた。
親兵衛は二人の賊兵をかかえ、朝日に照りそう朱塗(しゅぬ)りの欄干に片足をかけて、ひらりととび、地上におりたち、かかえた二人をなげすてた。孝嗣は親兵衛にかけより、大功を祝した。親兵衛は、ほほえみかえして、
「ほかの賊がいっせいにかかってきたので、素藤をやむなくなげすてたが、折よく政木さんがきてくれたので、とらえることができました。ただ、妖尼(ばけあま)はどうしたものか、そこらに見えないのはおかしい。霊玉の光をうけて、逃げおおせるともおもわれないが……」と、配下とともにさがしたものの、わからない。
寄手の大将、荒川兵庫助清澄は、小森但一郎高宗と二手にわかれてせめいり、逸時・景能・友勝・良于らとちからをあわせ、前後からさしはさみ、敵数百をうった。賊の頭人、砺時願八業当(とどきがんぱちなりまさ)は高宗にとらえられ、奥利狼之介出高(おくりおおかみのすけいでたか)は田税逸友がとらえ、仙駝麻嘉六(せんだまかろく)の首は逸時・景能がはねた。次団太・鮒三もまた、おおくの敵をうった。
落城のあと清澄が首実検をすると、浅木碗九郎嘉倶(あさきわんくろうよしとも)の首がわからない。次団太が、
「碗九郎は、孝嗣さまにうたれたのではないでしょうか。きりすてて、そのままにしていたので、てまえが鮒三にいいつけて、そのしるしにと片耳をそがせておきました」という。
で、清澄は、耳のない首をさがせと命じた。それから次団太に、孝嗣の素性(すじょう)をとうた。次団太は、親兵衛からきいているとおりをはなし、政木とキツネのことにもふれた。
清澄は感嘆して、
「それはまことの義士だ、勇士だ。不徳の旧主に遠慮して功名をむさぼらぬとは、世にえがたい士(さむらい)だ。で、そのかたたちも、むろん犬士に縁があるのだろう」という。それをうけて逸時・景能が、船中で親兵衛からきいたかれらの義侠(ぎきょう)のこと、五十三太・素手吉のことなどを、しかじかとつげ、まえの罪をわびた。また良于・友勝は、獄舎を脱出したおりの兵火の奇特をうったえた。清澄はおどろき、
「獄舎からはやく救出しなければとおもってきたが、みずから出ることのできたのは、伏姫神(ふせひめがみ)の冥助(めいじょ)であろう。苫屋・田税の両所のまえのあやまちも、このたびの軍功でつぐなうことができよう。また次団太・鮒三の義侠も、南弥六(なみろく)・出来介とかわらぬ。まして犬士に縁があり、功もある。恩賞があろうぞ」といった。
そこへ雑兵らが、耳をそがれた首を十四、五級持参した。そこに碗九郎の首もあった。逃げた賊兵が、良民たちにとらえられ、城内の火は消された。そのなかに、南弥六の首にかえて沙雁太(しゃがんだ)の首を梟首(きょうしゅ)した獄舎司(ひとやつかさ)海松芽軻遇八(みるめかぐはち)がおり、その功ではなたれた。
城内を平定し、四門を士卒にまもらせると、清澄は高宗らの六勇士、それに次団太らと書院におもむいて、親兵衛と対面した。また、孝嗣の功をほめ、妖賊伏誅(ようぞくふくちゅう)のよろこびをのべた。さらに、
「犬江さん、素藤らをとらえたのはみごとだ。これはみなあなたのおかげだ」
「妖賊を一時にたいらげることができたのは、主君のご盛徳です。ならびに賢老諸勇臣(けんろうしょゆうしん)が、寛(かん)の字をまもり、功をいそがなかったので、ことがなったのでしょう。素藤は、わたしがなげすて、政木(孝嗣)さんがからめとられましたが、妖尼妙椿は、霊玉の光にうたれて楼上からころげおちたはずですが、どこにも見あたりませんでした。ところが、あれをごらんください」と、軒下のおおきな浄水鉢(ちょうずばち)を指さし、
「この底におちて、正体をさらしています」と手をさしいれ、首筋をつかみひきあげると、おおきなめすダヌキの死骸(しがい)が出てきた。その背の毛はこげちぢれて、焼印のように如是畜生(にょぜちくしょう)、発菩提心(ほつぼだいしん)、という八文字が見えた。
親兵衛は、これが、八房(やつふさ)をそだてためすダヌキで、毒婦玉梓(たまずさ)のうらみがその身にあるため、国守里見父子をにくみ、素藤をつかってそのうらみをはらそうとしたのだ、とかたった。
そのあと親兵衛は、高宗・逸友・友勝・良于らと再会のあいさつをかわした。
素藤らは獄舎におくられ、妙椿のなきがらは、皮をのこして他はやきすてた。清澄らは、地下道のあるあたりにきた。

第百二十二回 恩賞と刑罰

荒川清澄(あらかわきよすみ)らは、ぬけ道のほとりにきて、おおきな石がうもれているのを見た。だが、二つにさけたはずなのにそのあとがない。親兵衛ら六人はおどろき、目をこらしてみると、石のまんなかにうっすらとすじが見え、かすかにあとがある。
で、親兵衛は、次団太(じだんだ)らに、
「城外の地下道の石も、このようにさけたところがもとどおりに結合しているかどうか、見てこい」と命じた。次団太らはしばらくしてもどると、石はおなじようにあわさって、もうそこからは入れないようになっている、という。親兵衛は、清澄らに、
「石がさけ、出入りが自由でしたが、それが結合したので、賊(ぞく)はここからはぬけだすことはできません。神助冥福(しんじょめいふく)、ますますふしぎなことです」
それから清澄は、親兵衛とともに、城の政所(まんどころ)にあつまった。清澄は、親兵衛に上席をゆずろうとする。むろん、親兵衛はうけない。清澄は、きょうの討手(うって)の大将は親兵衛、自分は副将、と主張をゆずらない。で、二人ならんで上座に席をしめた。高宗(たかむね)・逸友(はやとも)などが左右にいながれた。孝嗣・次団太らは家臣でないので、末席にすわった。
清澄は親兵衛と相談して、稲村の義成(よしなり)、滝田の義実(よしざね)のもとに、妖賊伏誅(ようぞくふくちゅう)の次第や、いけどったものの名を知らせた。また一通には、親兵衛の功をはじめ、友勝・良于(よしゆき)・高宗・逸友・景能(かげよし)・逸時(はやとき)らの忠戦、また政木(河鯉)大全(だいぜん)孝嗣と、次団太・鮒三が、親兵衛にしたがってきた経過・軍功・来歴をしるした。
家老付きの番士、鮠内葉四郎(はやうちはしろう)と詰茂佳橘(つめもかきつ)を稲村への使者とし、親兵衛も一通の書をしたため、照文(てるふみ)の配下の二人に持参させた。
親兵衛は、城内外の良民に米や銭(ぜに)をあたえ、とじこめられていた女どもを、それぞれの家にかえした。
親兵衛の仕事は山積していて、城を出ることができないままに四月十五日になった。暮七つ(午後四時)ごろに、向水五十三太(むこうみずいさんだ)・枝独鈷素手吉(えどっこすてきち)が二十余人の賊徒をつれてきた。浦辺につないである船でのがれようとした落人(おちうど)たちを、とらえたのだ。
清澄は、五十三太らにほうびとして、米五十俵をあたえた。親兵衛は五十三太に、
「わたしはまた船にのって、もとの路(みち)をかえりたい。恩賞の米は、子分らにわけあたえ、はやくかえるといい。そのほうたちは、わたしをまっていてほしい」とたのむと、五十三太らは承知した。
親兵衛が、孝嗣・次団太と相談して、清澄にわかれをつげ、立ち去ろうとすると、清澄はおしとどめて、
「あなたを主君に見参(げんざん)させずに、かえすことはできない。それに政木さん・次団太らもそうだ。あなたからもうしあげたなら、重くもちいられるだろう」という。親兵衛は、
「政木さんも次団太らも、七犬士にさきだってつかえることはことわっています。わたしも、七犬士をともなってまいれとの御諚(ごじょう)をまだはたしておりません。丶大法師(ちゅだいほうし)の法会(ほうえ)の十六日には、きょうから一日をのこすだけです。法会の途中でも出むかえて、君命をはたしたいとぞんじます」といって、妙椿(みょうちん)ダヌキの所持していた《みかそ》の珠(たま)を清澄にわたし、
「この珠をもちいることがあるかもしれません。それを言上(ごんじょう)してください」といった。
清澄は、七犬士をともなってかえる日をまつといって、つつみ十両ずつ、三つつみを餞別(はなむけ)としてさしだした。親兵衛は自分の分の一つつみを辞退し、路費のない孝嗣・次団太たちの分としてうけた。そして、館山の城を孝嗣らと出立(しゅったつ)した。
あまりのあわただしさに、清澄はただぼうぜんと見おくった。
親兵衛・孝嗣・次団太主従は、浦辺にいそいだ。日は暮れはてた。船まで五町ばかりのところに、素手吉がたいまつをふりかざしてむかえに出た。なかまの船はさきほどかえった、という。その夜、酉(とり)の刻(午後七時)のころに船にのり、夕膳の箸(はし)をとった。
親兵衛が五十三太らに、結城(ゆうき)までの道程(みちのり)はいかばかりか、ととうと、江戸から結城までは十六里あるが、両国川(りょうごくがわ)までかえらずに、行徳(ぎょうとく)から荒川をさかのぼり、関宿(せきやど)から陸路を走ると八里だから、八人のものが、腕のかぎりこぎつづけたなら、あしたの午(ひる)には下総の関宿につく、それから陸路をいそぐと、結城にはその日に到着する、という。
「それではいそげ」とばかりに、水夫(かこ)らは櫓(ろ)をたてつらねて、夜どおしこぎ、十六日の明け方に行徳の浦についた。ここでしばらく船をとめ、朝膳のしたくにかかる。親兵衛は、清澄のことばをつたえて、二つつみの金を孝嗣・次団太にわたした。
「これは、それぞれへの餞別(せんべつ)としてご家老からうけとった。それをつげると辞退されるだろうとおもって、わたしがあずかっていた。人のこころざしを仇(あだ)にせずに、あしたからの路費にしてほしい」といった。孝嗣・次団太は、清澄と親兵衛のこころをくみ、うけた。
朝膳の箸をおくと、船は走り、荒川をのぼりはじめた。午まえには関宿についた。親兵衛は、小判十両を五十三太・素手吉にあたえた。
「これは酒手(さかて)だ。おまえたちのたすけで、おもいのままにできた。そのよろこびの寸志だ。また安房にきて、逸時らをたずねてきてくれ。そのおり、わたしも再会しよう。ここで袂(たもと)をわかつぞ」という。
五十三太らはぬかずき、
「かたじけないことです。船は子分どもにこぎもどらせ、てまえと素手吉は結城までお供(とも)しましょう」
「いや、陸路はいい。大儀(たいぎ)であった」とねぎらって、親兵衛は刀を手に身をおこした。孝嗣・次団太・鮒三も、五十三太らとわかれをつげた。
五十三太らは見おくり、しずかに船をかえした。

話は館山の城にうつる。
親兵衛らが結城に出立してから、すこしして、稲村の里見義成への使いの鮠内葉四郎(はやうちはしろう)・詰茂佳橘(つめもかきつ)、それに親兵衛の使いの二人がもどってきた。
荒川清澄は、下知状(げちじょう)一通と三家老連署の書状をうけとり、有司(ゆうし)をあつめてそれを披見(ひけん)した。
第一か条には、親兵衛の大功をほめたたえ、七犬士を招致(しょうち)するために照文らが出むいているので、親兵衛は清澄らと稲村へかえるべきこと、もし立ち去ったなら親兵衛の意にまかせよ、とある。
あとに三、四か条あり、夷隅(いしみ)の農民に米や銭をあたえること、館山城は小森高宗・田税(たちから)逸友を番士の頭人(とうにん)とし、士卒五百人をとどめてまもるべきこと、清澄は、友勝・良于・景能とともに素藤以下のいけどりの凶党をひいて凱陣(がいじん)すべきこと、ただし砺時(とどき)願八・平田張(へたばり)盆作・奥利本膳・奥利狼之介(おおかみのすけ)のほかは稲村につれてくることはない。誅(ちゅう)すべきものはこれを誅し、追放すべきものは追放し、民のわずらいをなくせよ。浅木碗九郎(あさきわんくろう)・仙駝麻嘉六(せんだまかろく)のほかの首級も右に同様とすべきことなどと下知してある。
清澄は、ただちに高宗・逸友らと詮議(せんぎ)して、凶党を誅戮(ちゅうりく)し、烏合(うごう)の雑兵で罪のかるいものは追放した。
日をへて、清澄は人馬をととのえて、友勝らとともに稲村に凱陣し、つぎの日帰城し、義成に見参した。さらに清澄は私宅にかえらず、友勝ら四人と滝田にいって義実に見参し、親兵衛の大功ほかを言上した。
一両日をおいて稲村の城内に、素藤らの誅戮の沙汰(さた)があって、浦安牛助(うしのすけ)友勝・登桐山八良于(のぼぎりさんぱちよしゆき)が、首実検使に命じられて、素藤・願八・盆作・本膳・狼之介、さらに碗九郎・麻嘉六の首もはねた。これを見るものは、肩をならべ、袖(そで)をつらねたという。
その朝、義成は、杉倉・堀内・東(とう)・荒川の四家老をまねき、
「このたびの第一の功臣の犬江親兵衛は、結城におもむき、ここにはいないので、いま賞をおこなうことはできない。そこでほかのものへの賞も、親兵衛の帰城をまっておこなう。このことをもれなくふれよ。ただ、困却(こんきゃく)している民をゆるがせにしてはならぬ。よって夷隅一郡は、年貢(ねんぐ)を三年間免除すべし。この下知を高宗・逸友につたえるがいい」といった。
四家老はよろこび、これを人びとにつたえた。こころある家臣たちは、義成の理義をかんじて恩賞をのぞまず、夷隅の民は、枯れた苗が甘雨(かんう)にあったようによろこび、三年をまたず、つぎの年から例年のように年貢をおさめたいとねがい出た。

第百二十三回 一夜の供養塔(くようとう)……七犬士集結

四月十一日の夕方、姥雪世四郎(おばゆきよしろう)は一人の従者をしたがえて、照文らとともに稲村(いなむら)の城を出立した。近くの港から船にのり、下房(しもふさ)の市川へとむかったものの、その夜嵐にあい、あくる朝、かろうじて木更津(きさらづ)についた。世四郎はいらだったが、従者は船酔いでふしてしまい、この地の旅篭にやすませた。世四郎は、
水夫(かこ)たちがかえるころまでに起きられるようになったら、稲村へともなっていってほしい」と旅篭の主(あるじ)に看病をたのみ、その日の夕暮れ、風がやわらいだので、ふたたび船にのり、翌十三日の朝、市川についた。
それから犬江屋の依介(よりすけ)をたずねたが、江戸におもむいており、水澪(みお)も香華院(こうげいん)へ墓参りにでかけて留守だという。しばらくまつと、水澪がもどってきた。茶などをのんでいると、依介ももどった。姥雪世四郎と知って、依介は着物をあらためて対面した。
世四郎は、照文とともに親兵衛(しんべえ)を召しかえすべく使者となり、出立したが、船のことなる照文とわかれ、まず親兵衛の故郷のこの地にきた、とつげた。依介は、親兵衛が数日逗留(とうりゅう)し、きのうの朝結城にむかった、とこたえた。
世四郎は、あくる朝未明に依介の船で関宿(せきやど)に到着した。七つさがり(午後四時)である。ここで依介とわかれ、一人陸路をいそぎ、翌日の未(ひつじ)(午後二時)のころに、結城の城下にきた。丶大法師(ちゅだいほうし)の草庵(そうあん)の所在を人びとにたずねたが、知らない、という。
そこで世四郎が城下をさがしながらあるいていると、
「姥雪さんではありませんか」と声をかけるものがいる。照文の従者だ。その案内で、世四郎は照文が宿としている小乗屋(このりや)にきた。ここの二階で、照文とあった。世四郎は、これまでのことをかたり、
「あなたさまは、この地で丶大聖(ちゅだいひじり)とおあいなさいましたか。犬士は、来会されましたか」ととうた。
照文は、両国河原(りょうごくがわら)で偶然に親兵衛とあい、御諚(ごじょう)をつたえ、御教書(みぎょうしょ)をわたしたことをかたりはじめた。親兵衛の船出を見おくり、穂北(ほきた)へ従者をはしらせ、犬士の安否(あんぴ)をとうと、七犬士は、丶大庵(ちゅだいあん)の法会に参列すべく、けさ(四月十三日)未明に出立し、結城におもむいたという。草庵の所在をたずねると、世智介(せちすけ)が知っており、城下から十町ばかりはなれた嘉吉(かきつ)の古戦場跡である、とおしえてくれた。
そこでこの地にきて、おしえられた森のほとりをさがすと、草庵がある。縁側の障子(しょうじ)がひらいている。座敷は九尺ばかりで、前面に笈仏(おいぶつ)が安置してある。中央に畳(たたみ)五枚をしき、庵主は仏壇のそばに端座(たんざ)し、犬塚・犬山・犬川・犬坂・犬田・犬飼・犬村の七犬士が、左右にいながれている。照文の姿を見ると、めずらしい、と席をゆずり、犬川・犬坂・犬村と、初対面のあいさつをした。犬田・犬飼・犬塚・犬山とは石禾(いさわ)(石和)以来の再会だ。
照文は、当精舎(しょうじゃ)の法会について滝田(義実)・稲村(義成)の両城主からご代香(だいこう)をおおせつけられ、滝田の老侯(おおとの)の御意(ぎょい)にもかなう、と丶大に伝達し、供養(くよう)の日をとうた。さらに照文は、七犬士へ御教書をわたした。犬士らはうやうやしくうけた。
照文が、庵主に両城主からの香典(こうでん)・布施(ふせ)などをわたそうとすると、丶太は、小庵ゆえ、供養の日にそなえ、布施物は貧しい人・乞食(こじき)などにくばる、という。
日がおちたので、十六日の巳(み)の刻(午前十時)の大念仏の結願(けちがん)を約して、七犬士らと草庵を出て、旅篭にもどった。七犬士は法会のおりの礼服をととのえようと、となり町の呉服屋(ごふくや)におもむいている。
ここで、照文の話はおわった。
しばらくすると、信乃・道節・荘助・毛野・大角・現八・小文吾らの七犬士がいっしょもどってきた。
道節は世四郎を見て、「よくきた。いつからか」ととい、照文にあいさつした。信乃・荘助・現八・小文吾は、荒芽山(あらめやま)で知っている仲だ。毛野・大角も初対面のあいさつをした。道節のすすめで、世四郎は、いまから姥雪代四郎与保(おばゆきよしろうともやす)と名のることになった。
それから、信乃が照文に、
「わたしたちは、きょうも丶大庵におもむきましたが、そこでふしぎなことをききました。きのうの夕方、歳のころ三十ばかりの法師が弟子八、九人をともなってきて、丶大法師に、拙僧(せっそう)はこの結城のなにがしの院の僧ですが、十六日の供養の式の石塔婆(せきとうば)を建立したい、ともうしでたということです」といい、一夜のうちにおおきな供養塔をたて、庵主をおどろかせたという。そして、「庵主は、布施物の半分をその寺の師弟にあたえ、ほかの半分は米にかえて布施米をしては、といっておられました」と信乃はいった。照文も承知した。
礼服がとどき、用意ができた。照文は、城下の諸所に布施米をする、とふれさせた。
夏の夜は短く、寝るまもなくあけはじめた。照文と犬士らは湯浴(ゆあみ)し、くしけずり、早飯(はやめし)をすませ、旅篭を出立した。従者をふくめて二十余人の総勢である。

第百二十四回 大法会……丶大(ちゅだい)の宿願

文明十五年癸卯(みずのとう)の四月十五日、丶大法師(ちゅだいほうし)の宿願は成就して、下総国結城郡(しもふさのくにゆうきのこおり)の古戦場跡の草庵で、嘉吉の戦いに義死(ぎし)した里見季基(すえもと)、春王・安王の両公達(りょうきんだち)、城主結城氏朝(うじとも)をはじめとして、大塚匠作三戌(おおつかしょうさくみつもり)・井丹三直秀(いのたんぞうなおひで)ら、当日討死(うちじに)の忠将義士の諸霊魂(しょれいこん)の菩提のために、独座不退の常念仏の結願供養(けちがんくよう)をおこなおうとしていた。
これは五十年忌(き)の前修(とりこし)で、嘉吉(かきつ)元年(一四四一年)辛酉(かのととり)から四十二年目にあたる。丶大法師の念仏修行は八十日ばかりつづいているが、この日を結願とするのは、諸将士の祥月(しょうつき)命日だからである。
犬塚信乃・犬山道節・犬川荘助・犬坂毛野・犬村大角・犬飼現八・犬田小文吾の七犬士は里見家の代香使(だいこうし)、蜑崎(あまざき)十一郎照文、副使姥雪(おばゆき)代四郎与保(ともやす)と、照文の従者、士卒九人とともに、この日辰(たつ)の刻(午前八時)には、丶大庵に参集していた。
なにがしの院の住職も、九人の弟子をともなって、経巻読誦(きょうかんどくじゅ)のさいちゅうだ。照文と七犬士らは、敷物を庵(いおり)のかたわらの木の下にしき、読経(どきょう)のおわるのをまった。そのあいだに、ゆうべ照文がいいつけた米商人(あきんど)が、数十俵の米と永楽銭(えいらくせん)七、八十貫文(かんもん)を数両の車につんではこんできた。施業(せぎょう)は、一人あたり米一升(しょう)と銭百文とさだめた。
巳(み)の刻(午前十時)のころに早朝回向(あさえこう)がすみ、丶大法師は、ほかの僧とともに草庵を出て、石塔婆(せきとうば)から六、七尺はなれた席についた。
丶大は白妙(しろたえ)の袷(あわせ)に香染(こうぞめ)の法衣(ほうえ)、黒綸子(くろりんず)の袈裟(けさ)をかけ、払子(ほっす)を手にしている。その質素な姿は仙骨で、とうとく見えた。したがう僧も十人一様に墨染(すみぞめ)の衣をつけ、白紗綾(しろさや)の袈裟をかけ、左右両側にならび、結願供養の読経がはじまった。梵唄和讃(ぼんばいわさん)の妙音(みょうおん)に、参列者一同は耳をすまし、木魚鉦馨(もくぎょしょうけい)のひびきは、天楽(てんがく)花をちらす祥瑞(しょうずい)がある。はなやかな仏具はないが、荘厳(そうごん)である。
供養は、一刻ばかりでおわった。
それから丶大は、座を立って過去七仏を唱名伏拝(しょうみょうふくはい)し、願文(がんもん)をさわやかに暗誦(あんしょう)する。
その結びにいう。


本願の大檀那(だいだんな)、前治部大輔(さきのじぶのだゆう)里見義実朝臣、安房守兼(あわのかみけん)上総介(かずさのすけ)里見義成朝臣にかわりたてまつりて、浄場(じょうじょう)修行の沙門(しゃもん)丶大、行香使臣(ぎょうこうししん) 蜑崎照文(あまざきてるふみ)ら、敬白(うやまいてもうす)。


照文は、七犬士らに会釈(えしゃく)して、しずかに身をおこしてすすんだ。代四郎と施行の頭人(とうにん)紀二六(きじろく)は、安房の両城主寄進の経巻と香典(こうでん)を、両手にささげてしたがった。照文のそばにおくと、照文はこれを塔の前にそなえた。代四郎らは木の下にしりぞいた。
照文は塔婆にむかって端座(たんざ)し、石塔をあおぎ見た。その細工は精妙(せいみょう)をきわめている。
第一の壇(だん)には義実の両親(季基夫婦(すえもとふうふ))の位牌(いはい)があり、石のかたわらに、水二、三升もいれた網袋(あみぶくろ)がある。これはなんのためなのか。つぎの壇の左右には、花をそなえた水盤(みずばち)がある。さらに下壇には香炉があり、塔の四方の木の板には四旒(ながれ)の紙幟(かみはた)がつるしてある。
それには、諸行無常(しょぎょうむじょう)、是生滅法(ぜしょうめっぽう)、生滅滅已(しょうめつめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)という涅槃経(ねはんぎょう)の四旬の偈(げ)をしるしてある。
照文は、懐中から伽羅(きゃら)の一つつみをとりだして焼香し、ぬかずき、黙祷(もくとう)して、しりぞいた。
ついで犬塚信乃が焼香した。信乃の祖父大塚三戌、母方の祖父井直秀は忠義抜群で、昔年結城落城のおりに討死した。で、犬士のうち信乃を第一番に焼香させた。信乃は、涙とともに再拝してさがった。つぎは道節・荘助・毛野・大角・現八・小文吾らとつづいた。そして照文は、ふたたび代四郎と焼香した。
丶大は、もとのところにしりぞき、すわって木魚をうちならし、十人の僧と念仏数百遍(ぺん)をとなえた。
焼香がおわると、丶大はほかの僧とともに、唱名の声をとどめて、合掌(がっしょう)して念じ、
南無帰依仏(なむきえぶつ)、南無帰依法、南無帰依僧、三宝請誦(さんぽうしょうじゅ)したてまつる追善冥福(ついぜんみょうふく)の諸精霊(しょしょうりょう)……」と、春王・安王、里見季基以下の法号をとなえ、嘉吉の死者に、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を十回念じて、結願の偈(げ)をとなえた。それがすむと、たすけの長老もまた偈句を誦(しょう)した。
おわると、そこで僧のすべてが低頭して、ここに供養はおわった。丶大は塔婆の壇上にあった壷(つぼ)をささげ、僧たちと照文らをうながして草庵にもどった。
草庵はせまいので、照文と僧たちはなかにはいり、犬士たちは縁側に立った。ここで犬士らはたすけの僧と対面し、長老に深く感謝した。それから、犬江親兵衛の姿のないことを残念がった。ふと照文は、丶大に壇上の壷についてとうた。丶大は、
「この壷のことは、問われなくてもつげようとおもっていた。けさ、この長老がおもちくだされた、先君季基(すえもと)朝臣の遺骨だ。長老は能化院(のうげいん)の住持で法名を星額(せいがく)といい、宝珠和尚(ほうじゅおしょう)の法灯をつがれたかたであることを、けさきいた。宝珠和尚と季基朝臣とは親交があり、朝臣の討死なされたおり首級をかくして、なきがらとともに煙になされた。そして、壷におさめておかれた。それとともに、里見の家宝の名刀、狙公(さるひき)も持参された」と狙公の名刀を、丶大は照文にわたした。
照文は狙公をおしいただき、それから縁側の七犬士のところに持参した。太刀の長さは二尺あまり、鍔(つば)もさび、柄糸(つかいと)もなくなり、鞘(さや)もこわれている。だが鞘をはらうと、刃にはすこしのさびもない。鎬(しのぎ)には、
「依弓馬之力不料所得狙公之刀 源季基」
弓馬(きゅうば)の力に依りて料(はか)らずも得たる所の狙公の刀、源季基)の十六字がきざまれている。
照文は鞘におさめて、丶大にかえした。
照文は、丶大法師と相談して、五十両を布施(ふせ)として星額とその弟子たちにおくった。丶大もまた、経巻と香典をおくった。
ゆうべ、町の諸所に掲示した施行の知らせを見て、窮民(きゅうみん)・乞食(こじき)がつぎつぎとあつまってきた。
代四郎と紀二六(きじろく)は二手にわかれて、米・銭をくばった。さいごの老乞食坊主(ぼうず)が、
「はやく立ち去られてはどうだ。この城下の通無奇(つむき)山逸匹寺(さんいっぴきじ)の住持、徳用和尚(とくようおしょう)が、供養によばれないのでおこり、末寺にも触(ふ)れをまわして、おおぜいでおしよせてきてからめとる、といっている。このことを施主たちにも庵主にも知らせるがいい」と杖(つえ)にすがってかえっていった。
代四郎は、丶大・照文・七犬士にしかじか、とつげた。星額和尚は、
「徳用和尚は世知にたけて、武芸をこのみ、行状はわるく、いつも他宗を誹謗(ひぼう)して、自分よりまさるものをにくむことは仇敵(あだかたき)とかわらない。だが、逸匹寺(いっぴきじ)は当城主の菩提院で、この地第一のおおきな寺なので、末寺は七、八ほどある。三十六計、逃げるをもって最上とする。すみやかに立ち去られたほうがよい」という。
丶大は、供養の式をとりおこなうことを、当城主にとどけなかった手おちをみとめ、星額長老の処置に賛成した。先君季基の遺骨を丶大・照文と従者がまもり、関宿路(せきやどじ)にのがれ、信乃・代四郎がこれをたすける。
六犬士は二手にわかれる。一手は東の森に紙幟などをたて、人数をおおくおもわせる。一手は草庵に火をはなち、徳用一派をひきつけてたたかう。
丶大は、壷と太刀を笈(おい)におさめてそとへ出た。星額長老とその弟子に、
「長老。このたびのご好意は、千万言にもつくしがたい。縁がありましたら、またいつかお目にかかる折もあるかとぞんじます。はやくおいでください」とわかれをつげた。 照文は、
「われらは、この法会でたまたまめぐりあいました。危急におよんで、このまま捨てさることはできません」といった。信乃はそれをおしとどめた。丶大・照文・代四郎、それに従者八、九人、それよりおくれて信乃が出立(しゅったつ)した。
荘助・現八・小文吾は兵四人をともなって、石塔婆のほとりの四旒(ながれ)の紙幟をおろした。それを兵にわたし、東のほうにおもむいた。そのとき、星額長老らも庵を出た。毛野・道節・大角は兵に下知(げち)して、
「幕は白張(しろばり)だが、安房からつかわされたものだ。敵に乱暴されては、傷ものになるだろう。その他の仏具も、庵にとりいれよ」と、いそいで火をはなった。
濁世(じょくせ)のこと、八十余日の念仏の場は、修羅(しゅら)戦場の巷(ちまた)とかわろうとしている。

第百二十五回 ねたみ坊主…逸匹寺(いっぴきじ)徳用と三檀家

結城(ゆうき)の城下の通無奇山逸匹寺(つむきさんいっぴきじ)の住職徳用(とくよう)は、この日の朝に、丶大(ちゅだい)の念仏供養のことをきき、それをねたみ、にわかに末寺の住職らをよびあつめ、しかじかとつげ、
「そもそも本山は、むかしから結城氏(うじ)の菩提院で、その累世(るいせ)の廟墓(びょうぼ)もここにある。しかるに、乞食坊主の丶大(ちゅだい)とやらが近ごろこの地に庵(いおり)をむすび、嘉吉(かきつ)の戦いに討死した列将士卒の菩提ととなえて、一座の石塔婆(せきとうば)を建立し、出処不定の坊主をあつめて、念仏供養するのみならず、施行(せぎょう)の触れを城下の辻にまきちらし、貧民・乞食らにほどこそうとしているのは、おこがましい。これはわが寺はむろんだが、領主結城どのをも、ないがしろにしたとおなじことだ。その腹のうちが、わからない。施行のちらしによると、この念仏坊主は、安房の里見の旧臣で、旧主にかわって追善(ついぜん)の法要をするゆえ、他人をまじえず、安房から代香使(だいこうし)がつかわされて、里見の士卒も二、三十人きているそうだ。はやく領主にうったえて、理非を糾明(きゅうめい)しなければ、のちのちのためにもならぬ。武門の恥辱(ちじょく)、仏家のきず、ゆるがせにはできぬ。そうおもわないか」と席をたたいていう。
本山の侍者(じしゃ)の禄釈坊堅削(ろくしゃくぼうけんさく)という悪僧が、突然すすみ出て、
「そのお怒りは、道理至極(どうりしごく)とおもいます。兵書にも、兵は拙速(せっそく)をたっとぶ、とあるとか。いまさら長談義をして、領主にうったえ出ても、日時がたち、かれらを他郷へはしらせて、世間のもの笑いとなりましょう。幸いに、本山の檀家(だんか)の堅名(かたくな)・根生野(ねおいの)の兵頭(ものがしら)は、鳥狩(とりかり)のために、けさ未明から城を出て、ほど遠からぬところにおられる。で、拙僧(せっそう)は、ここから人をもってこのことをつげて、来会をこうてきます」といっていると、そこへ結城の家臣の堅名衆司経稜(かたくなしゅうじつねかど)・根生野飛雁太素頼(ねおいのひがんだもとより)が従者をつれ、ハヤブサをあやつり、犬をひいて狩装(かりしょう)束(ぞく)のままやってきた。
徳用はよろこんで堅削に出むかえさせ、この衆議の席にまねいた。経稜(つねかど)・素頼(もとより)は徳用に対面し、徳用が、丶大らのとりおこなった供養のことを、弁舌するどくのべると、
「そのことは、さきに禄釈坊からつげられているので、承知している。で、従者にさぐらせると、安房の里見のものどもが、丶大にそそのかされて、このたびの法事をとりおこなうということはまちがいない。
嘉吉の戦いに討死したものの菩提のための法会(ほうえ)なら、わが君にもうしあげ、ゆるしをこうのがすじみちだ。さらに当寺にもしかじかとつげ、たすけをねがうのが道理だ。かれらは非法のくせものだ。われわれと長城(おさき)の三家は、結城の譜代の重臣だ。忠死した先代の子孫なので、それぞれ兵百人をあたえられて、ともに兵頭の上席だ。兵権があるのだ。今はつれてまいっておらぬので、ひそかに従者を城内にはしらせ、長城枕之介(おさきまくらのすけ)にことの次第をつげた。枕之介もこころえて、兵百人をともなってくるという。末寺の勇僧・寺男をあわせると二、三百人になるだろう。用意をするがいい」といった。
徳用・堅削(けんさく)はむろん、席にいる破戒坊主(はかいぼうず)はよろこび、酒宴となった。そこへ長城枕之介惴利(はやとし)が、百人の兵をひきいてきた。さっそく枕之介もこの席にまねかれ、人びとと対面した。枕之介は、
「われらは捕手(とりて)の用意をしてまいった。おのおのはどうか」ととうた。
経稜・素頼は、
「われらは不用意で、兵をともなってきておらぬので、いそいで触れをまわした。まもなくみんなくるだろう」とこたえた。盃(さかずき)をかさねているうちに、走りあつまる村人二百余人。手に手に棒(ぼう)、長柄(ながえ)の鎌(かま)などをもっている。みんないきおいづいた。徳用・堅削・寺僧・寺男らも、腹巻・くさりなどで身じたくをはじめた。
そこへ、本山の先住であった未得(みとく)という老僧がきた。歳のころ八十あまりだ。先年隠居(いんきょ)して、山内の別院にいる。このさわぎをきき、弟子の僧にたすけられてやってきた。徳用にむかって、
「念仏供養、施行のことがわが寺につげられていなくても、それはよろこぶべきだぞ。人の好事をねたみ、末寺の衆徒までもよびあつめ、武家の檀家(だんか)につげるとは、出家にあるまじきことだ。里見季基(すえもと)どのは、わが先館(せんやかた)、氏朝朝臣(うじともあそん)とは親友である」とたしなめた。
経稜・素頼・惴利(はやとし)は、
「仏意でも、国には国の法度(はっと)があり、武士には武士のつとめがある。わが君をないがしろする非礼は、ゆるされぬ」という。徳用・堅削もまた、
「三檀家のもうされることは、道理です。天子・将軍・国守・領主のために凶徒(きょうと)をはらう例は、山門の大衆、奈良の法師などおおくあります。長談義をしていては時がおくれる。相手にはならない」とこたえた。
一同は山門を出立した。経稜・素頼・惴利は馬にのり、みんなと二すじ道にきた。ここで二手にわかれる。

第百二十六回 悪僧の襲撃…むかえうつ犬士たち

悪僧(あくそう)、禄釈坊堅削(ろくしゃくぼうけんさく)を先鋒(せんぽう)として、堅名衆司経稜(かたくなしゅうじつねかど)・根生野飛雁太素頼(ねおいのひがんだもとより)は二百五、六十人を指揮し、丶大庵(ちゅだいあん)にむかった。ゆくての森のなかから、黒煙(くろけむり)がたちのぼり、炎の光が見えた。堅削は、
「あいつら、いつのまに気づいたのだろうか。見ろ、いま庵(いおり)に火をはなち、逃げだすところだぞ。とりにがしてはならぬ。いそげ」とさけぶ。
森のなかには、一行の文字をしるした旗が三、四本風にふかれている。敵も二手にわかれているのか、と竪削はうたがう。馬上の経稜(つねかど)は、
「御坊までうたがわれるのか。あそこに旗があるからといって、敵がかくれているとはかぎらない。あれは兵法の術で、東の森に兵がいるとみせかけて、寄手をとどめ、おちのびようとはかったのだ」とあざわらった。素頼も、そうだ、とうなずき、
「そのとおりだ。丶大が安房の里見の家臣でも、手勢は十余人にすぎない。この地にきて、加勢のあるはずはないのだ」というと、経稜(つねかど)は、万一にそなえて東の森をさぐってくる、といってむかった。
いくさをこのまない村人たちも、敵がいないというので、われもわれもと経稜についていった。素頼・竪削は、あきれて、
「用のない東の森に、おまえらまでいくのか。こっちにもどれ、もどれ」と声をかける。それでももどらないので、竪削があとを追った。やむをえず、素頼は庵にちかづいていった。すると、能化院(のうげいん)の星額(せいがく)長老が弟子をつれてくるのに出あった。
素頼は、これをとらえよ、と命じた。たちまちしばりあげて、馬をすすめた。
もえのこる火をうしろにして、道節・毛野の二犬士とその配下二人が、素頼らをまっていた。道節は、
「われらをだれとおもうぞ。これは犬坂毛野、われは犬山道節だ。武士の手並(てなみ)をみせてくれよう」と、寄手のおそいかかるのをうちはらい、うちはらいした。
寄手は人数はおおいものの、逃げ足にうきたった。素頼はおどろき、道節・毛野を矢で射(い)ようと、弓に矢をつがえてひきしぼった。このとき、うしろから犬村大角が名のりながら、棒(ぼう)で馬の後足をうちくだいた。馬も主人もたおれて、へたばった。
東の森へむかった経稜がふりかえると、したがうものがあまりに多いのであきれているところへ、堅削が走ってきた。いまさら、にわかじたての兵どもをつれもどしたりしていてはおそくなるので、このまま後陣をつとめることになった。経稜は、
「御坊は先鋒の頭人(とうにん)ゆえ、五、六人をしたがえて敵の有無を見てきてほしい」という。堅削はしぶしぶと承知し、森のなかにむかっていった。
しかし、しばらくしても竪削らはもどってこない。経稜はいらだち、馬からおりて森のなかにはいると、堅削らはフジづるでしばられていた。経稜がこれをたすけようとすると、突然三人の武士があらわれ出た。
「犬川荘助・犬田小文吾・犬飼現八ここにある」と名のった。
兵どもはいのちをのがれようとあわてふためき、木の根につまずいたり、その背に他のものがころげたりして、とらえられた。
経稜は、ひきかえせ、とさけびつづけたが、現八になげつけられ、これもとらえられた。このものどもを馬にのせ、はじめの森にもどると、道節・毛野・大角が、素頼その他をとらえている。道節が、
「かれらにきくと、ほかの一手は、丶大庵主をからめとろう、とまちぶせているらしい」といった。
で、犬士らは素頼・経稜・堅削を馬にしばりつけ、近道をいそいだ。

第百二十七回 小団円……八犬士つどう

いっぽう、丶大法師(ちゅだいほうし)の一行は、結城の城下を去って一里半、武井の宿をすぎ、諸川(もろかわ)にむかっていた。
左右川(まてがわ)のほとりにくると、土手の並木のあいだから、おおくの手勢をしたがえた長城枕之介惴利(おさきまくらのすけはやとし)が、
御諚(ごじょう)、御諚」とさけびながらせまってきた。
丶大のさきをあるいていた照文と世四郎が、くまれてはめんどうとなげては退けたが、相手はあとからあとからおそってくる。照文の若党紀二六(きじろく)、従者八人もふせいだもののうちふせられ、とらえられた。丶大は、季基(すえもと)の遺骨をうしなってはならぬ、と乱れをみせず、降魔(ごうま)の経文(きょうもん)をとなえつつ、錫杖(しゃくじょう)をもってふせいだ。
照文と、一町ばかりはなれてしんがりをつとめる犬塚信乃は、油断することなく、
「結城の三士の一人惴利をうてば、残兵はたたかわずしてしりぞけることができよう」と、旧稲塚(ふるいなつか)の小丸太をぬきとり、ふりまわしつつかけよろうとした。
そこへ百人ばかりの僧兵(そうへい)があらわれ出た。その隊長(てのおさ)は、ほかならぬ徳用和尚(とくようおしょう)だ。重さ六十五斤(きん)の鉄杖をつきたてながら、信乃の前にたち、
「おまえら、大胆なるくせものめ。ことを法会(ほうえ)にかこつけてこの地にとどまり、わが寺をつぶそうとしたな。国守のためには奸賊(かんぞく)、当寺のためには法敵なり」とさけぶと、その悪僧どもが、長刀(なぎなた)・棒をもってかかってくる。
信乃は小丸太をもって、うちはらい、うちはらい、二人の僧をうちたおし、
「おまえら破戒の凶僧(きょうそう)、一人の敵とあなどるのか。わたしを安房の里見の犬士の一人、犬塚信乃と知ってか」という信乃のはたらきに、僧どもはあきれはてる。信乃には、徳用の鉄杖もかるい。
ここ左右川(まてがわ)のほとりの照文・代四郎らは、ついにふせぎきれずにからめとられ、丶大法師も左右の助力をうしなって、ふせぐ手だてはない。惴利は馬上で、
「手も足もしばれ」と下知した。二十余年の行脚僧(あんぎゃそう)の非運か。
そこへ犬江親兵衛が、政木孝嗣(まさきたかつぐ)・石亀屋次団太(いしがめやじだんだ)・鮒三(ふなぞう)らより一町ばかりさきだち、一人できかかった。二人のものが、兵どもにからめとられているのが、目にはいった。照文・代四郎が縄をかけられ、そしてもう一人の出家も、いましばりあげられようとしている。親兵衛は橋をとぶようにわたってきて、
「おのおのがた、手をとどめよ。われは里見八犬士の一人、犬江親兵衛仁(まさし)なるぞ」と名のり、惴利(はやとし)の馬の尻を鉄扇(てっせん)でうった。
おどろいた馬はくるったように、主人とともに川のなかに、ざんぶとおちた。親兵衛はそのまますておき、兵どもを鉄扇でうち、あるいはけたおした。
おくれた孝嗣ら三人も橋をわたろうと、そのなかばまできたとき、前面の岸のやぶかげから鉄砲が連射され、三人は急流におち、見えなくなった。惴利の家来三十人の鉄砲隊だ。この兵どもは、少年武士親兵衛を目標とした。そのとき、にわかに風がふきおこり、鉄砲の火縄は消され、うつことができない。もうもうと、土煙(つちけむり)が中天にまう。兵どもは、あやまって川におちた。
親兵衛は、孝嗣ら三人はどうしたか、とこころにかかりながら、照文らのもとにきた。もう風はやみ、空も青天となる。親兵衛は、
蜑崎(あまざき)さん、姥雪(おばゆき)おじ、だいじょうぶですか」と縄をきった。照文は、親兵衛を丶大にひきあわせた。親兵衛はていねいにあいさつした。
丶大は初対面をよろこび、蟇田素藤(ひきたもとふじ)の再征(さいせい)の功をほめ、そして信乃ら犬士の身をあんじた。親兵衛は照文に、丶大とともに川べりをはやく去るように、とつげると、こっちにくるものがいる。
敵ではなく、徳用をとらえた信乃だ。それに道節・毛野・大角・荘助・現八・小文吾は、素頼(もとより)・経稜(つねかど)・堅削(けんさく)を一頭の馬にしばりつけてきた。このありさまは、天の善神が戦いにかち、阿修羅(あしゅら)をくだしたいきおいにも似ている。照文は手をあげて、
「犬塚さん、犬士たちにかわりはないか。われらは犬江さんにすくわれ、敵は退散した」と、よろこびのあまり高声をあげた。
親兵衛は五十歩ばかり走り、
伯父御(おじご)はどのかたでしょうか。犬塚・犬飼のそのほかのかたがた、わたしは犬江親兵衛でございます」と名のると、小文吾・信乃・現八を先頭に、荘助・道節・毛野・大角も親兵衛にちかづいて、
「ほう、大八(だいはち)か。聞いているよりおとなびている。わたしが伯父の小文吾だ」
「わたしは信乃だ」
「現八だ」と七人はよろこびをあらわす。
ああ、八犬士はここにそろった。八行(こう)の珠(たま)は一つにつながった。丶大の宿望(しゅくもう)はとげられたのだ。
作者馬琴は二十余年の稿(こう)。訳者は一年半、いまにしての小団円、一朝の筆でなったものではない。
丶大・照文も七犬士と対面し、親兵衛の戦功と、天助の風雲のあらましをかたり、みかたの勝利をとうた。道節・荘助は東の森での勝利、また現八・小文吾・毛野・大角らは丶大庵(ちゅだいあん)あたりの合戦(かっせん)のもようをつげた。信乃は、
「戦いのさなか、あやしい風に、徳用のほか悪僧どもを見失なってしまいました。それより城から討手(うって)がおおぜいきては、ふせぐのにつごうがわるい。まず、諸川のほうにしりぞいては……」という。
道節も賛成し、八犬士・照文・代四郎らは、丶大をなかにして、いけどったものを追いたてながら橋をわたった。
一里ばかりいくと、道から一町ほどの横に並木があり、前面にふるぼけた山門が見えてきた。毛野が、
「あの古寺で休息してはどうです」といった。山門の柱はかたむきあれたままの寺だ。応仁(おうにん)の乱のわざわいにあったものか、嘉吉の兵火にほろんだ七堂伽藍(しちどうがらん)ではなかろうか、と八犬士・丶大・照文・代四郎らはたちどまって見た。
毛野は紀二六に案内させて、庫裏(くり)のうしろにきた。
法師一人がいるときいたが、姿はない。紀二六はみんなをよび、なかにはいった。経稜・素頼・徳用・堅削らの捕虜(ほりょ)は、そとの葛石(かずらいし)、あるいは老松(おいまつ)につなぎ、照文の従者らがみまもった。
信乃は、中断されていた話をここでつづけた。
徳用とたたかっていると、にわかに風がおこり、中天に土煙がたち、分散してしまった。信乃も、徳用の姿を見うしなったところ、銃声を耳にした。丶大らはどうしたか、とたずねるうちに道にまよい、あるいていくとちいさな辻堂(つじどう)の前にきた。風をさけよう、となかにはいった。
四面はわずか六尺ばかりで、立像がある。風がやみ、あたりが明るくなった。信乃は本尊(ほんぞん)を見た。石づくりの地蔵菩薩(じぞうぼさつ)で、身の丈は五尺ばかりだ。顔にはかけたところがあり、首に麻紐(あさひも)のついた茜染(あかねぞめ)の布袋(ぬのぶくろ)をかけ、銭四、五百文がくくりつけてある。
信乃が袋をとってしらべてみると、それは地蔵の頭(ず)巾(きん)で、米が二升(しょう)ほどはいっている。ふと、これは施行(せぎょう)のさいに、徳用らの襲撃(しゅうげき)を知らせてくれた乞食法師(こじきほうし)ではないか、とおもった。
信乃が、袋の頭巾を手にして辻堂から出ると、二人の男が左右からおそってきた。徳用と寺男だ。
信乃が身をかわすと、徳用の鉄杖は、突進してきた寺男の肩骨をくだいた。あわてた徳用は、信乃にむかって鉄杖をふりあげたが、信乃は右のひじをおしとどめ、当身(あてみ)の一撃をくわえた。徳用は、とんぼがえりして気絶した。
そこへ道節ら六犬士が、捕虜を馬にくくりつけてやってきた、というわけだ。人びとは、突風のこと、地蔵菩薩の利益(りやく)におどろいた。

第百二十八回 石地蔵になった法師……未得(みとく)老師の話

犬塚信乃戌孝(もりたか)ははなしおわると、照文の若党紀二六(きじろく)にいいつけて、地蔵菩薩の米二升あまりをたいて、かゆ二十八人分の食事をつくる準備をした。
信乃はいう。
「この米を二つの袋にいれ、水にひたし、そのまま土中にうずめて、上で柴をたくと、むされて飯(いい)になる。そのほうも見たように竹やぶにはタケノコが出ているので、これをぬきとり、皮のまま先をきりすて、なかの節を根もとまでつらぬいておく。石地蔵にそなえた塩をいただき、これをタケノコのなかにむらなくつきいれるのだ。それから土をほってやくと、タケノコがむされて美味という」
照文も紀二六に、他のものにも手つだわせよ、といった。人びとは、ゆくえがわからなくなった孝嗣・次団太・鮒三らのことをおもい、遺恨(いこん)やるかたない。道節などは、「このたびの孝嗣ら三人の横死は、くいてもかえらぬことだが、捕虜(ほりょ)のものどもの首をはねて、この怒りをはらそう」とまでいう。
そこへ紀二六が、むした飯とタケノコを、菅笠(すげがさ)にのせてもってきた。米はむされて、二倍にもふえている。二十八人の腹はみちたりた。それでいて、あしたの朝の分ものこった。日が暮れたので、庭にかがり火をたいた。結城(ゆうき)の城からの追手はない。
つぎの朝、ゆうべののこった飯にタケノコをくわえ、朝膳(あさぜん)とした。敵の城のようすはどうか、と談合していると、巳(み)の刻(午前十時)になる。
そのとき、この荒れ寺の山門をたたくものがいる。紀二六がとうと、
「われは結城どの同宗(どうそう)の老党で、小山大夫次郎朝重(おやまだゆうじろうともしげ)というもの。念仏供養の行者、丶大庵主(ちゅだいあんしゅ)、ならびに法筵(ほうえん)に来会した人びとも、ここに止宿(ししゅく)のよしをきき、ことの子細をたずね、また君命をつたえようと馬をとばしてまいった。山門をひらかれよ」という。
紀二六は八犬士・照文に注進した。で、信乃と親兵衛が、山門におもむき、ほかの六犬士は、庫裏(くり)から二十間(けん)ばかりはなれて石畳(いしだたみ)のなかほどにおり、そのうしろに丶大・照文・代四郎、また照文の従者らが列をととのえて、六犬士の左右に立った。
紀二六は、山門のかたわらの小門(くぐり)をひらいた。
朝重は馬からおりて従者を門外にとどめ、二人の若党と二人の下僕(げぼく)と草履(ぞうり)取りをしたがえてはいってきた。朝重の年は五十ばかりだ。
朝重は丶大・八犬士に名のり、下僕にもたせた敷皮(しきがわ)十枚あまりをしきならべ、主客の席をもうけた。荒れ寺なので、用意してきたのだ。丶大らは敷皮の上にすわった。朝重は丶大に、きのうの結願供養(けちがんくよう)のありさまをきいた。とくに施主(せしゅ)、施行(せぎょう)、十人の法師来会のこと、さらに結城家の武士、逸匹寺の法師らを捕虜にしたわけをとうた。これに丶大はこたえ、つつましく照文・犬士がおぎなった。
朝重はききおわると、逸匹寺の徳用、結城の家臣経稜(つねかど)・素頼(もとより)・惴利(はやとし)の邪念(じゃねん)をみとめ、
「惴利ばかりは、犬江どののつれびと三人までうちおとした冥罰(みょうばつ)があろう。その身は、村長(むらおさ)剛九郎(ごうくろう)にきりころされた。いまその首級を検分して、三人のためにうらみをといてほしい」といって、若党の持参した首桶(くびおけ)をひらかせた。まちがいなく惴利だ。丶大以下、八犬士もおどろき見た。朝重はさらに、門外の乗物にいる逸匹寺(いっぴきじ)の先住、未得老師(みとくろうし)をまねきいれた。そのあとに、ものをのせた釣台(つりだい)十荷に十枚の大ぶろしきをかけて、夫役(ぶえき)二十人にかつがせてきた。
未得老師は、丶大・八犬士らに法弟徳用らの非道非理をわびた。それから、丶大庵主の法筵に来会した師弟十人の法師たちが、根生野(ねおいの)素頼の手のものにからめとられたあとのことをつげた。手のもの十人が、ちからにまかせて一人ずつ肩にのせて、寺にとじこめようとしていくと、法師たちがにわかに重くなって、ついにはおしふせられてしまった。師弟十人は、石地蔵と化してしまった。しかも、十人のものの背から、はなれないのだ。
門内にいれられた釣台にかけた、大ぶろしきがとられた。悪僧らは、みな石地蔵をせおったままのけぞり、くるしんでいる。地獄の呵責(かしゃく)だ。さきにヽ大が星額(せいがく)におくった経巻と、五十両が地蔵の首にむすびつけてあるので、伏姫(ふせひめ)の冥助(めいじょ)か、と丶大らはおもう。

第百二十九回 地蔵の因縁(いんねん)……浄西(じょうさい)・影西(えいさい)の徳

未得老師(みとくろうし)の話はつづく。
「この石地蔵十体は、さきの結城家(ゆうきけ)再興のおり、当君成朝(なりとも)どのの志願で、先亡義烈(せんぼうぎれつ)の諸大将忠死の士卒の菩提(ぼだい)のために、建立された御仏(みほとけ)である。はじめはこの荒れ寺を再興し、ここに安置しようとしたが、徳用(とくよう)がねたみ、しばしばもうしいれたので、逸匹寺(いっぴきじ)に建立された。それがあるとき、この地蔵菩薩が十体とも、こつぜんと見えなくなったのだ」という。
未得はさらに、この石地蔵はそのとき姿を消した石地蔵である、とかたった。未得はことばをあらためて、
「そもそもこの荒れ寺は、むかし、結城の祖、七郎朝光(ともみつ)どのが建立したもので、六道山能化院教主寺(ろくどうさんのうげいんきょうしゅじ)という七堂伽藍(しちどうがらん)であったが、嘉吉(かきつ)の兵火に焼亡(しょうぼう)し、このようにあれはてた。当寺の本尊、勝軍地蔵菩薩(しょうぐんじぞうぼさつ)は、平将門(たいらのまさかど)の娘の妙蔵尼(みょうぞうに)の作で、拙僧(せっそう)の寺にむかえ、秘仏として宝蔵している」といい、徳用以下、とらえられている悪僧どもの罪をあらためてわびた。老僧の慈悲(じひ)は、涙にあらわれている。丶大(ちゅだい)は、
星額和尚(せいがくおしょう)がはじめて来会されたおり、その在住の寺の名を能化院とききましたが、その能化院とは、この寺のことであったのですね。そしてこの地蔵の額(ひたい)にあるほくろは、ぞくにいう地蔵星でしょう。いま、ようやくさとりました」とひたすら礼拝(らいはい)し、釣台(つりだい)の十人の悪僧に《ざんげ》をすすめ、地蔵経一巻を読誦(どくじゅ)した。すると十体の地蔵は、十人の悪僧からはなれた。人びとは、奇異霊応(きいれいおう)に驚嘆(きょうたん)した。
信乃が、未得にとうた。
「わたしが土煙(つちけむり)をさけて左右川(まてがわ)に近い辻堂にはいりましたところ、その石地蔵の背に、嘉吉元年七月二十四日建立、願主浄西(じょうさい)、と刻してありました。浄西とはどなたでしょうか」
「その浄西は、里見の先君季基(すえもと)どのの馬の口取りで、十八(とどはち)といわれたものだ。自害された季基どののなきがらを肩にかつぎ、近くの山林で火葬(かそう)にふした。十八(とどはち)は、主君の骨壷(こつつぼ)と形見の鎧兜(よろいかぶと)をせおって、拙僧の寺にきた……」
そして十八(とどはち)は季基の討死(うちじに)をつたえ、埋葬してほしい、といった。しかしこの地は、管領家(かんれいけ)のゆるしがなければなにごともできず、寺にほうむることはできないとことわり、この寺の近くに墓所をもとめて季基どのの骨をうずめ、墓標を建立してはどうか、とまだ若かった未得がいった。そこで十八(とどはち)は、未得の手で剃髪(ていはつ)し、法名を浄西とよぶようになった、という。
また浄西には、一人の子が故郷上毛(かみつけ)に女房とともにいたが、女房がなくなり、十二歳の子が父をたずねて、この地にきた。やがてその子も出家して影西(えいさい)と名のり、未得の弟子となった。寛正(かんしょう)のはじめに、浄西はなくなり、その遺言(ゆいごん)により、辻堂の石地蔵のかたわらに埋葬し、松の木をもってそのしるしとした。
影西は逸匹寺の学寮(がくりょう)で、夜に日に仏学をおさめ、六、七年をへて、下総(しもふさ)一国でかれの右に出るものがなくなったほどだ。影西は逸匹寺の法灯(ほうとう)をつぐべき学僧だったが、かれは兄弟子徳用にゆずり、京にのぼった。
影西は京で八宗を兼学(けんがく)し、名僧の名が高く、法親王の執事(しつじ)となり、権僧正(ごんのそうじょう)にのぼった。未得は、
「すでにその高貴のこと、拙僧のかんがえはおよばぬが、このたびの異変を知らせて、後住(こうじゅう)をこいたいとおもう」といった。信乃は、
「浄西は、わたしがはじめにおもったように、里見にゆかりがあるのみならず、親子まれな忠孝ときくと、いよいよなつかしくおもわれます。亡君のために建立した石地蔵ゆえ、乞食老師に化身し、われらにつげられたのだ」と感嘆した。やがて朝重は、
「せめて諸川(もろかわ)の酒楼(しゅろう)で、別れの盃(さかずき)をすすめたいとおもうが、私ごとでなく君命の使いでもあり、罪人もひいていかねばならないので、このままおわかれします」といってわびた。
犬士らも、「もっともです。それでは出立(しゅったつ)なされ」と主客の礼でいった。
朝重は、門外の家来をよびいれて、経稜・素頼・徳用ら、それに悪僧らの縄(なわ)をとらせて、ひきたてさせた。そして未得とともに、丶大・八犬士・照文らにわかれをつげ、小門(くぐり)から去っていった。
丶大らは、この日の首尾をよろこび、庫裏(くり)にしりぞき、旅じたくにかかった。それから従者(ともびと)をしたがえて、諸川のほうへと道をいそいだ。村は、午(ひる)を知らせる貝をふくころだ。
小山朝重は、結城成朝にすべてをつげた。成朝は、経稜・素頼は親類にあずけ、徳用・堅削らは背をうったのち追放とした。また京の影西は、請(こ)いをいれて、逸匹寺の住持の地位についた。

第百三十回 千住川(せんじゅがわ)のわかれ…氷垣残三(ひがきざんぞう)の病い

信乃・毛野・道節・荘助・大角・現八・小文吾・親兵衛らの八犬士は、丶大(ちゅだい)・代四郎・照文とともに、諸川(もろかわ)の宿(しゅく)はずれの旅篭(はたご)にたちよって、昼膳(ひるぜん)の箸(はし)をとった。そのあとで、安房(あわ)にいく道順に話がおよんだ。
丶大は季基(すえもと)の遺骨を捧持(ほうじ)しているので陸路がいい、という。また穂北(ほきた)の氷垣(ひがき)の屋敷にたちよるべきかどうか、との話にうつった。夏行(なつゆき)・有種(ありたね)は義士であり、その安否をとわずに安房におもむくのは不義だ、ともいった。犬山道節は、
「氷垣・落鮎(おちあゆ)には、わたしの仇討(あだう)ちをたすけてくれた恩義があるのです。わずかにはやく安房についても、そのような不義の士など、稲村どの(義成)がおよろこびなさるだうか。われらは、穂北にたちよるべきです」といった。
信乃も毛野もそれに同意し、丶大・照文に、
「道節さんのいわれたことは人情ですが、それはむりからぬことです。で、わたしたちのおもうには丶大(ちゅだい)庵主(あんしゅ)・蜑崎(あまざき)どのは、犬士をあつめて君にすすめるという本意をとげられたのです。また、先君のご遺骨を安房へおとどけすることは、なおいっそうの大功です。わたしどもも、一両日、身の暇(いとま)をたまわり、穂北の氷垣夏行の屋敷にたちよることがゆるされたなら、公道・人情、二つながらかなうのです。ただ、親兵衛さんは他の七人とおなじではない。かれもまた犬士をあつめるお使者なので、庵主とともにされては……?」といった。これに親兵衛は不満だ。
「わたしは、七人の義兄弟を相ともなって安房へかえれ、との御諚(ごじょう)をうけております。一人で安房にはまいれません。それに氷垣・落鮎の義侠(ぎきょう)をきいていますので、対面したいとおもいます」
荘助・現八・大角・小文吾も、親兵衛の意見に同意してくれた。丶大は思案していたが、こういった。
「季基どのの遺骨を捧持し、八犬士をともなっていくのは、凶事(きょうじ)と吉事を混同し、よくない。まず拙僧(せっそう)と蜑崎照文は、遺骨とともに一日もはやく安房にまいり、義実・義成の両城主につげ、改葬(かいそう)の儀がすみしだい八犬士の宿所におもむき、相ともなって両城主に見参(げんざん)する。これに同意するなら、ここでわかれよう。氷垣には十四、五日逗留(とうりゅう)し、まだもどらないなら、拙僧も穂北におもむき、対面しよう。またそのころになっても音信(たより)がなければ、おのおのは穂北をたち去り、上総(かずさ)の館山の城にはいり、まつがいい」
この意見に八犬士はよろこび、承知した。照文は、ふところから黄金一つつみを出し、路用のたしにせよ、それに代四郎、従者(ともびと)三人をくわえよ、という。
一同は旅篭(はたご)を出立した。わかれ道で、親兵衛・毛野・荘助・小文吾は、照文・丶大に、
「この川下は荒川に合流しようが、そのあいだに田に引水するための枝川(えだがわ)もあります。もしそこで浮死骸(うきしがい)を見つけたら、注意してください」と孝嗣(たかつぐ)・次団太(じだんだ)・鮒三(ふなぞう)の顔かたち、衣の色をつげた。
丶大・照文は、五人の士卒、九人の従者と陸路をとった。いっぽう、八犬士・代四郎、三人の従者は、穂北をさした。
丶大らは、二宿ほどして上総路(かみふさじ)にはいった。すでに知らせてあるので、出むかえのものがおり、さらに上総・安房の境の市河坂(いちかわざか)には、堀内蔵人貞行(ほりのうちくらんどさだゆき)ら二、三百人が遺骨をまちうけていた。両城主の丶大らへの大功のことばをつたえ、用意の棺(ひつぎ)に骨壷(こつつぼ)をおさめ、白浜の延命寺(えんめいじ)にはいる。里見義成の建立(こんりゅう)した菩提寺(ぼだいじ)である。
はじめ義実は平郡(へぐり)の大山寺に霊廟(れいびょう)をつくり、五十子(いさらご)の墳墓(おくつき)、伏姫の位牌(いはい)も安置していたが、大山寺は霊場なので、あらたに建立したのである。季基の改葬の儀は荘厳(そうごん)のうちにもはなやかに、三日間つづけられた。
そのありさまははぶき、穂北についた八犬士らに筆をうつす。
氷垣の屋敷では、主人(あるじ)残三夏行(ざんぞうなつゆき)は、中風(ちゅうぶう)の病いでものもいわず、身もうごけない。夏行の娘重戸(おもと)とその女婿(むこ)有種が、いつもとかわらずもてなしてくれた。
親兵衛・代四郎は、初対面だ。信乃・道節らは辞退する有種に黄金一つつみをわたした。
八犬士らは義実・義成に見参の衣装を用意し、安房からの音信をまった。十日ほどした五月のはじめに、丶大・照文が士卒をともなって、穂北の屋敷にきた。有種に対面して丶大は、
「このたびは火急の君命で、照文とともに、八犬士をむかえにまいった」とつげ、夏行の病状をたずね、両城主から、と朝鮮人参(ちょうせんにんじん)・時服などをわたした。
八犬士と代四郎は、有種・重戸にわかれをつげた。有種は、世智介(せちすけ)・小才二(こさいじ)らと千住川(せんじゅがわ)まで見おくった。
千住川には、丶大らが安房からこがせてきた、むかえの快船(はやぶね)が二艘(そう)ある。その一艘に、八犬士らがのりこんだ。船内には、有種のおくった食篭(じきろう)・酒壷などがおおくある。船のものは、水ぎわの人びとに別れのことばをいう。見おくるものは、再会をのぞむ、といった。船は岸をはなれていった。

第百三十一回 安房集結……丶大(ちゅだい)の子どもたち

その翌朝、快船(はやぶね)は、安房の白浜についた。ここにも延命寺(えんめいじ)の役僧(やくそう)が五、六人と、稲村の城からつかわされた士卒が出むかえている。八犬士らは、廷命寺におもむいた。
ここには、出むかえの頭人、苫屋景能(とまやかげよし)・蛸船貝六郎(たこふねかいろくろう)らがすでにきて、別室にひかえていた。この頭人は、丶大(ちゅだい)・照文(てるふみ)・代四郎(よしろう)とともに八犬士と対面し、両城主(義実・義成)のことばをつたえた。その意は、
「犬士のものたちは、すみやかに徴(め)しにおうじて神妙である。きょうは滝田(義実)にまいり、あした稲村にまいるべし。それに人馬をつかわす」という。
犬士たちが衣装をととのえおわると、丶大の乗物と、馬八頭、犬士一人あたりに二人の若党、草履(ぞうり)取り、都合二十四人がひかえていた。ほかに口取り十六人、下僕五、六十人はいる。親兵衛には、名馬青海波(せいかいは)がひきだされている。
丶大は出家なので先頭を遠慮(えんりょ)し、代四郎・貝六郎らがかわって山門を出た。八犬士はそれぞれ馬にのり、仁義八行(じんぎはっこう)の順にすすんだ。第一番は犬江親兵衛仁(まさし)、つぎに犬川荘助義任(よしとう)・犬村大角礼儀(まさのり)・犬坂毛野胤智(たねとも)、これは仁義礼智(じんぎれいち)の四行の一隊(ひとくみ)だ。第五番以下は犬山道節忠与(ただとも)・犬飼現八信道(のぶみち)・犬塚信乃戌孝(もりたか)・犬田小文吾悌順(やすより)である。忠信孝悌(ちゅうしんこうてい)の四行の一隊である。
滝田の城の第二の城門(きど)で馬からおり、遠侍(とおざむらい)の間(ま)でひかえた。
やがて、堀内貞行・荒川清澄の案内で広書院(ひろしょいん)にきた。城主義実が上座についた。犬士一人一人の姓名が披露(ひろう)された。義実は両茶(もろちゃ)の礼をあたえた。これは里見の家例で、年始の祝い、初見参(ういげんざん)の折などに、親戚の人びと、家老・城主などがおこなう。はじめに薄茶を主君にさしあげ、それをたまわるものを両茶の礼という。
義実は微笑をうかべ、
「親兵衛の三たびの大功をたたえるべきことはむろんだが、それはつかえての上である。そのほかの七人は、いまだ当家にまいらぬのに、信乃・道節は、甲斐(かい)の猿石(さるいし)で浜路の危難をすくった大功がある。また毛野・荘助・大角・現八・小文吾らも、結城(ゆうき)で悪僧をこらし、しかも一人も殺戮(さつりく)せず、さらに先君のご遺骨を当国にいれたのは、莫大(ばくだい)な勲功(くんこう)である。
親兵衛の富山の功名、および七人の猿石・結城の二か所の功名は、ともに当家のためで、まだつかえる前のことだ。いま八雄が、まねきにおうじてこの地にあつまり、ともに安房どの(義成)につかえれば、楠家(なんけ)の八臣、新田(にった)の四天にまさってたのもしい」といい、盃(さかずき)をたまわった。さらに一人一人に太刀一刀(ひとこし)を手ずから下賜(かし)した。
この式がおわると、丶大法師・蜑崎照文・姥雪(おばゆき)代四郎らの労をねぎらい、義実は奥にしりぞいた。
丶大は、あした稲村の城であおう、と白浜にかえっていった。そのあと、親兵衛らは、妙真(みょうしん)、それに音音(おとね)・曳手(ひくて)・単節(ひとよ)らと再会した。
つぎの明け方に八犬士らはおき、湯浴(ゆあみ)をし、くしけずり、早飯(はやいい)をすますと、きのうの従者(ともびと)ら七、八十人が、馬をひいてきた。八犬士は礼服をととのえて、馬にのり、この城門を出た。そのとき照文・代四郎らもくわわった。
平郡郡(へぐりのこおり)の滝田の城から安房郡の稲村の城についた。この日の執事(しつじ)は、杉倉木曽介氏元(すぎくらきそのすけうじもと)・東六郎辰相(とうのろくろうときすけ)である。ほかに、昨日すでにかえった堀内蔵人貞行(ほりうちくらんどさだゆき)・荒川兵庫介清澄(ひょうごのすけきよすみ)・登桐山八良于(のぼぎりさんはちよしゆき)・浦安牛助友勝(うらやすうしのすけともかつ)・田税戸賀九郎逸時(たちからとがくろうはやとき)・苫屋八郎景能(とまやはちろうかげよし)らが袖をつらね、延命寺の住持丶大法師も登城している。
それから八犬士は、きのうのように広書院で、義成父子(おやこ)に見参した。式はきのうのように両茶の式からはじまる。たまわりものは鎧兜(よろいかぶと)である。そのあと、義成は、氏元・辰相をもって、
「親兵衛を、あらためて上総国夷隅郡館山(いしみのこおりたてやま)の城主とする。逆賊蟇田素藤(ひきたもとふじ)を再征(さいせい)した大功による。しかしなお、おぼしめしがあるので、七犬士とともに、しばらくは滝田の城の宿所にとどまるがいい。また犬塚信乃・犬坂毛野・犬山道節・犬川荘助・犬村大角・犬田小文吾・犬飼現八らは、甲斐国猿石(かいのくにさるいし)・石禾(いさわ)、さらに下総(しもふさ)の結城で、当家のために功あるときいた。これによって七犬士は家老の下(しも)、兵頭(ものがしら)の上(かみ)にあたる城主格にする。また大功があるなら、それぞれ城をたまわるだろう。それまで八犬士に、それぞれ賄料(まかないりょう)として、月俸(つきぶち)五百人扶持(ごひゃくにんぶち)をたまわる」と沙汰(さた)した。
丶大・照文、そして代四郎にも下賜があり、代四郎の孫十条力二郎(じゅうじょうりきじろう)・尺八にも、それぞれ月俸二十人扶持をたまわった。八犬士は丶大とわかれ、照文・代四郎とともに、日がくれて滝田の宿所にかえった。
翌朝、犬士らに代四郎だけをくわえ、大山寺におもむいた。伏姫の岩窟(いわむろ)にもうで、さらに不動をおがみ、富山にのぼり、伏姫の墳墓(おくつき)にもうでた。
岩窟のなかで、一人の法師が読経(どきょう)をしている。丶大法師である。八犬士がおどろくと、丶大は、
拙僧(せっそう)は、きのう稲村の城をさがるときに、従者を寺にかえして、行脚(あんぎゃ)の姿でゆうべこの山にのぼり、姫さまの菩提のために読経して、ここにいる。七日断食(だんじき)の修行をしてから、寺にかえる」といって、経文(きょうもん)をよみつづけた。
八犬士・代四郎はともに感激し、沈黙した。それから峰にのぼり、観音堂(かんのんどう)にもうでた。
日がたち、三伏(さんぷく)の夏もすぎ、七月の十日になった。
ある日、義実は犬士らを召した。それに、義成もおもむいてきた。丶大も召された。
犬士らは、「なにごとであろう」と、小書院にまかり出た。丶大・照文もはべった。義実は、
「そもそも延命寺(丶大をいう)の親であった金碗(かなまり)八郎孝吉(はちろうたかよし)は当家創業の功臣であるが、故主(神余光弘)のために禄(ろく)を辞し、自害した。で、その子大輔孝徳(だいすけたかのり)に……」と丶大を見て、
東条(とうじょう)の城をあたえて、予(よ)の婿(むこ)にしたいとおもっていたが、大輔もまた、あやまちから出家して二十年あまりになる。決心はかたいので、いまさら還俗(げんぞく)をすすめても承知はすまい。この親子二世の忠臣の後継(あとつぎ)がなくなることは、仏のおしえにかなって陰徳があっても、陽報はなく、先祖のためには不孝である。そのほうたちは、それぞれ二親(ふたおや)があるが、ともに宿因をたどると、伏姫はこれ宿世(すくせ)の母だ。これをもって丶大法師を現世の義父と称するのも、まちがいではない。
そのほうたちは、みな犬をもって氏(うじ)としている。これは自然の妙契(みょうけい)だ。いまさら他姓を名のることはできない。ただし、いまの氏は私称(わたくしのとなえ)で、いにしえの姓(かばね)と氏はおなじではない。いにしえからの姓をあらため、氏をあらためようとするものは、かならず天子に奏し、勅免(ちょくめん)をえなければおこなうことはできないのだ。
たとえば、里見は苗字(みょうじ)で、源(みなもと)は氏、朝臣(あそん)は姓である。そのほうたちが、いまあらためて、金碗をもってともに氏とするときには、犬塚信乃金碗戌孝と称するのだ。それなら後継のない金碗氏が、いまこの八人の義士をえたのは、子孫のできたこととおなじだ。義実の孫であるとして室町どの(足利義尚(あしかがよしひさ))にこうたなら、奏聞(そうもん)していただけるのではなかろうか。この儀に同意するなら、京都(みやこ)に使いをまいらせよう」という。
犬士らは、この大事にとまどうばかりだ。
そのとき、道節がこたえた。
御諚(ごじょう)をうけたまわりました。丶大法師は、わたしども宿世の父で、指南の徳義は、師表(しひょう)とおなじでございます。義父をあおぎ、師父とたたえ、金碗(かなまり)氏を名のれとの御諚は、至極(しごく)の道理とぞんじます。はやく京都へおん使いをつかわされる、おんはからいをねがわしくおもいます。ほかの七人も、同意するとぞんじます」といって左右を見た。
信乃・毛野・荘助・大角・現八・小文吾・親兵衛もうなずき、ぬかずいた。義実も微笑し、
「安房どの(義成)、かれらは同意した。だれを使いとするか」ととうた。義成は、
「室町どのへまいらせる正使は、そのほうたちのうち一人(にん)だ」という。
犬江親兵衛が、ほかの地を知らない自分に下知(げち)してほしい、とねがい出た。

第百三十二回 京都(みやこ)へ……代四郎(よしろう)密航

義実は、丶大法師にむかって、
「和尚、いまきいたであろう。親兵衛と照文を京都(みやこ)につかわし、室町どのにつげもうし、朝廷(みかど)の勅免(ちょくめん)をこいまつろうとおもう。和尚も、ともに上洛(じょうらく)してはどうか」ととうた。丶大はしずかに、
「ありがたいほどかたじけない御諚(ごじょう)でございますが、一人陪臣(ばいしん)であったものの姓氏(かばねうじ)のねがいに、天聴(てんちょう)をおどろかしたてまつれば、もったいないとぞんじます。それにそのおはからいは、出家の本意にそいません。仏のおしえは、世俗(せぞく)をはなれて後継(あとつぎ)のないのが本意です」という。
義実(よしざね)は、あきれて義成(よしなり)を見た。義成は、
「出家の本意はそうであろうが、儒道(じゅどう)では後継のないのは不孝だ。八犬士を丶大の義子とはせずに金碗氏(かなまりうじ)を名のらせるなら、これは八郎孝吉(たかよし)の名をつぐもので、丶大にはかかわりないことだ。またこのたび、犬江親兵衛らを京都へつかわすのは、姓氏のことだけではない。知られるように、安房・上総(かずさ)は東南(たつみ)の一隅で、三方すべて海なので、袋に一つの口があるように、とじるときはまもるにはやすいが、すすんで遠くせめるのはむずかしい。で、関東諸国のようすがわからない。
京都は応仁(おうにん)以来、室町家の武威(ぶい)がおとろえ、むかしの姿はないという。今そのありさまを見なければ、くわしくは知ることができない。また年ごろの兵乱で朝廷の御料(ごりょう)は欠之しているときく。親兵衛をつかわすのは、そのこともあることにさっしがつかぬか」といった。
丶大はおのれをはじ、八犬士・照文も、義実・義成父子の深い内意を知って感涙した。丶大はつつしみ、
「短才浅知で、はかりがたい賢慮(けんりょ)をかるくあしらいました不敬の罪は、万死(ばんし)にあたるものです。失敬の罪をおゆるしください」とわびた。義実は、
予(よ)が八犬士をもって金碗氏を名のらせたくおもうのは、創業の功臣の八郎孝吉のたのみなのだ。そもそも当国二郡の旧主、神余長狭介光弘(じんよながさのすけみつひろ)は、逆臣定包(さだかね)にころされ、家断絶となるところであった。幸いに光弘の落胤(おとしだね)と称する墨之介弘世(すみのすけひろよ)がいるが、弘世は病弱多病なので、生涯妻妾(さいしょう)はもてないだろう。それゆえに、丶大法師に宿因ある八犬士に、金碗氏をつがせれば、弘世に子がなく、一世(ひとよ)でおわっても、光弘の名跡(みょうせき)は、当国にのこるだろう。これは孝吉ののぞみでもあり、絶えたのをつぎ、すたれたのをおこそうとおもうのは、予の本意だ。もっとくわしくはなそう。
神余・金碗は同宗(どうそう)で、神余は安房国安房郡の郷名(さとのな)の条下(じょうか)にみえて、加無乃安万里(かむのあまり)とよませている。それゆえ神余ははじめ、《かんのあまり》といったのを、後世《かなまり》と略称し、のちにまた字音の便利にまかせて、《じんよ》ともよんだのだ。金碗(かなまり)は神余(かなまり)で、また金鞠(かなまり)とするものもある。ともに神余であるゆえ、同宗たることを知る。その名跡を一人にせず、八犬士すべてに課するのは、みなこれ同因同果、だれといって一人をぬきだすことができないからだ。八犬士も、天命なるを知らねばならぬ」とさとした。
丶大・八犬士はともによろこんで宿所にさがり、義成も稲村の城にかえった。
それから数日をへて、親兵衛と照文は稲村の城に召された。両家老辰相(ときすけ)・清澄(きよすみ)も列座し、このたび両人を使いとして、京都へつかわせられるむねが伝達された。辰相がいう。
「犬士らの氏をひとしくあらためて、みな金碗になすべきよしを、室町どのにこうならば、朝廷ならびに花の御所(ごしょ)に奉献(ほうけん)のおん金をおおく持参させる。いま戦国割拠(かっきょ)の諸侯は、それぞれあらたに関所をかまえて、陸路は不便という。水路を浪速(なにわ)にまいり、それから京都にはいるがいい。また従者がおおければ人の疑いのもとともなるので、ものをはこぶ五、六十人にかぎることだ。近ごろは白昼でも旅人をおどろかして、路費をうばいとるものがいるといううわさだ。親兵衛はまだ九歳なので、この大事な使いにはふさわしくないというものもあろうが、これは老侯(おおとの)(義実)の御意(ぎょい)なので、館(やかた)(義成)もたのもしくおぼしめされる。京都へまいり、管領家(かんれいけ)から、その歳をとわれたなら、十八歳とこたえることだ。これも人の疑いをさける方便だ」
この日、親兵衛と照文は義成に見参(げんざん)し、黄金(こがね)・時服をたまわる。この旅だちに不満なのは、供(とも)からはずされた代四郎だ。船出の前日、親兵衛は照文とともに、義実に見参し、祖母妙真(みょうしん)、姥雪(おばゆき)一家、七犬士らに暇(いとま)ごいをした。それから、朝廷・室町家に献上する金銀などをうけとった。
つぎの日、代四郎は親兵衛の船出の時分をはかり、音音(おとね)・曳手(ひくて)・単節(ひとよ)には、親兵衛・照文を見おくるとつげ、身ごしらえをして宿所を出た。港には、まだ親兵衛・照文らの姿はない。代四郎は、船長(ふなおさ)に、
「わしは、犬江親兵衛どのの従者だ。所用があってはやくきた」といって船内にはいった。これは国守の軍用の二百石(こく)の巨船(おおぶね)で、客間・胴の間・供の間もある。船長(ふなおさ)一人、かじ取り一人、水夫(かこ)十余人が、身じたくをしている。そのうちに犬江・蜑崎(あまざき)の従者十人ばかりが、長櫃(ながびつ)などを夫役(ぶえき)にかつがせて港にきた。代四郎は、すばやく船荷のすきまにかくれた。
出航は、巳(み)の刻(午前十時)とふれられた。
献上品は、両管領(細川・畠山)への呈書(ていしょ)一通、ならびに貢献(みつぎ)の金子(きんす)は禁裏(きんり)御所へ一千両、室町どのへ一千両、東山どのへ一千両、両管領へ白銀(しろがね)各五百両、その他摂家(せっけ)・権門・諸司百寮(しょしひゃくりょう)などへの金銀が用意されている。これに従事するものは、九十余人だ。
船は追い風なので、この日相模灘(さがみなだ)十数里を走り、伊豆の下田(しもだ)にさしかかった。親兵衛は照文と相談ののち、
田税(たちから)・苫屋(とまや)さんも、けさ港まで見送りにみえられたが、どうしたのか、姥雪代四郎は、きのうもきょうも、姿をみせません。京都にのぼることを禁じられたので、うらんでいるのでしょう」というと、代四郎はここにおります、と、突然、船荷のかげから出てきた。
親兵衛と照文はおどろき、代四郎の顔を見た。
代四郎は微笑しながら、けさひそかに船内にかくれた、とつげ、
「このことがのちに守(かみ)にきこえて、おんとがめをこうむったならば、すべててまえ一人の罪です。ぜひ、おん供につれていってほしい」とこうた。
親兵衛も照文も、この矍鑠(かくしゃく)たる老人の義侠(ぎきょう)をゆるした。船は下田を去り、二、三日へて遠江灘(とおとうみなだ)をすぎて、三河(みかわ)の海を走りつづける。そのおり、わかに風雨がふきあれて、危険になったので、水夫(かこ)たちは、ちからをあわせて船を苛子崎(いらこざき)(伊良湖岬)につなぎとめた。
この港も、十一か年の兵乱で、荒れはてている。苛子崎に碇(いかり)をおろして、晴れまをまつうち、二十石ばかりの一艘(そう)の回船(かいせん)が、おなじように碇をおろしているのが見えた。
つぎの日の午(ひる)ごろから空がはれ、海上の波もしずまった。水夫らはよろこび、
「こよいか、あしたの朝には、追い風になろう」と出航の用意にかかった。そこへ一人の武士が陣笠(じんがさ)をいただき、朱鞘(しゅざや)の両刀をよこたえ、右手に白銀の十手をもち、配下四、五人をしたがえて船場(ふなば)のほとりにたち、
「そこの船ども、どこの商人(あきんど)だ。出てきて、くわしくもうせ」とよばわった。

第百三十三回 苛子崎(いらこざき)の海賊……代四郎助太刀

武士の声をききつけて、回船のなかから、船長(ふなおさ)がいそいで船ばたにひざまずき、
「これは、伊勢(いせ)の鳥羽(とば)から鎌倉に荷をおくる商船(あきないぶね)でございます。なんのご用でしょうか」と問いかえした。
その武士は、
「おまえたち、まだ知らないのか。近ごろ海賊(かいぞく)がこの港に船をよせて、夜分に渡海する船のすきをねらい、人をころし、財宝をうばうとの風聞がある。それゆえわが主君、当国奥郡(おくこおり)の一城主、隣尾判官伊近(となおのはんがんこれちか)どのにおおせつけられた捕手(とりて)の頭人(とうにん)、そのものありと知られたる、設良四九二郎綾丑(したらしくじろうあやうし)だ。おまえのもうすことにまちがいがあるかどうか、船内をあらためる。乗組は幾人だ」と小舟にのり、親船にのりうつった。従者三、四人に下知してしらべさせると、すべて符合している。四九二郎はうなずき、
「よしよし、随意(ずいい)に船をだせ」といって、また小舟にのり、さらに親兵衛の船のへさきにこぎつけて、「これはどこの船だ」ととうと、照文の若党紀二六(きじろく)は、
「安房の稲村から、浪速(なにわ)へおもむく武家の船である」とこたえた。四九二郎は、
「安房の稲村というと、里見の家臣か。だが、水路といってもなぜ他領を無断でおかすのか。この船の人数・船荷をあらためる。案内するがいい」と碇(いかり)のつなにすがって船にのりうつった。従者もうつろうとするのを、代四郎(よしろう)が出てとどめたが、役儀をかさに理不尽(りふじん)なことをいう。
親兵衛と照文は、従者と出て、照文がいった。
「わたしは安房の里見の家臣、蜑崎(あまざき)十一郎照文というものだ。浪速におもむく途中、風雨にあい、しばらく碇をおろしていたまでだ」
「里見の家臣でも、船をもって住処(すみか)とするのはあやしい。その荷をひらいて、しらべる」と四九二郎は十手をあげた。
親兵衛はあざわらって、
「そのほうはだれだ」ととうと、四九二郎は、先刻名のったのがわからぬのか、小せがれは相手にならぬ、とののしる。親兵衛は、
「いま船中にいるのは主従九十余人、わずかに二領の鎧兜(よろいかぶと)と二すじの槍(やり)だけだ。渡海の船で、四、五日碇をおろしたことで、船荷をとこうとするのはこころえがたい。わたしをだれとおもう。安房の里見八犬士の一人、犬江親兵衛仁(まさし)を知らないか。少年だとあなどって、理不尽におよべば相手になろう。手並(てなみ)をみよ」と、かたわらのおおきい碇に両手をかけて、頭上高くあげると、四九二郎らはおどろき、ひざまずいて、くるしそうに、「まっていただきたい」という。
親兵衛は、からからとわらって、碇をおろした。
四九二郎は胸をなでおろし、わが主君の城へおいでください、と来城をこうた。親兵衛は正使なので船をあけられない、と照文・代四郎におもむくようにいった。照文は、「あるけば保養になろう」と代四郎と身ごしらえにかかった。親兵衛は、
「従者をともなっておいでなさい。わたしはわたしの従者と船をまもります」といった。照文・代四郎は、紀二六以下と四九二郎の案内で上陸した。
しばらくすると、一艘(そう)の小舟がよってきて、
「ごぞんじの下戸酒屋(げこさかや)だ。ねむけざましの芦窪茶(あしくぼちゃ)、口取りの団子醤焼(だんごつけやき)、一夜醸(ひとよかもし)の甘酒、絹篩(きぬごし)のどぶろく、肴(さかな)にはタコの足、身刺(みさ)しのハマグリ、買わないか、買わないか」という。
水夫(かこ)たちはよろこび、手をうってよぶ。それをききつけた親兵衛は、
「おまえたちは無分別だ。四国・九州の港で、海賊が、ときどき毒薬をもって泊船(とまりぶね)の旅人をよいたおし、金銀船荷をうばいとる、というのをきかないか」としかりつけた。
その商い小舟は間近のほかの一艘にちかづき、酒肴(しゅこう)を売りながら、
「あの船のやつは、このおれの酒に毒薬がふくまれているなどという」とあざわらっていった。
その船のものたちも、わらいながら甘酒・どぶろくの茶碗をかさねた。
それを見たこっちの水夫は、親兵衛のところにきて、
「ごらんなさい。前の船では、甘酒・どぶろくを買ってのんでおります。団子をくらっても、なんともありません。てまえどもにも、ゆるしてください」という。親兵衛はこれをゆるした。水夫どもは、商い小舟をよび、甘酒・どぶろくをもとめた。親兵衛の若党は、
「お口にはあいませんでしょうが、旅の話ぐさにどうです」と親兵衛に甘酒をすすめた。
親兵衛はひえた甘酒をとり、口にもっていこうとすると、ふところにある仁(じん)の字の霊玉(れいぎょく)が、一人でにまもり袋からぬけ出た。親兵衛がおもわず茶碗をおとすと、甘酒はながれ、茶碗はどぶろくの茶碗にあたり、ともにくだけた。親兵衛はしずかに珠をとりあげ、額(ひたい)におしあてて念じ、まもり袋におさめた。
「あの船のものは、商い小舟のやつらのなかまだ。わたしは、伏姫神(ふせひめがみ)の冥助(めいじょ)ですくわれた。従者たちはどうしたものか」と見ると、すでに口からよだれをながし、たおれている。親兵衛は、自分も毒にあてられたようによそおい、賊が手をだすのをまつことにして、柱に背をよせ、両手をはってのけぞった。
一人の船商人(ふなあきんど)が、呼笛(よびぶえ)をふいた。悪人どもが十余人、あつまってきた。手に半弓をもった老賊が頭領らしい。
「安房の里見が京都(みやこ)につかわす使いが、数千両の金銭をのせていると聞いてのはかりごと、おまえらのはたらきでうまくいった。だが、あの小せがれめ。歳に似ず才たけたやつだが、酔いたおれて首尾は上じょう。金は中倉の船底にあるはずだ」という。
そのときふせていた親兵衛は身をおこし、盗人(ぬすっと)二人を左右にかつぎ、なげつけた。あばら骨をうちくだかれて、へたばった盗人の、一人は水冤鬼柄杓九郎(ふなゆうれいひさくろう)、一人は灘渡破船二(なだわたりはせんじ)という。このものは小頭領(こがしら)なので盗人どもは胆(きも)をつぶしたが、相手は一人だ、と多勢をたのみ、手槍・長棹(ながさお)などをふりひらめかしてくる。
老賊はひそかに中倉にしのび、金箱一つをうばって、小舟にのがれた。親兵衛は、それを見つけ、へさきに走り、小舟にひらりとのりうつった。老賊は親兵衛にくみかかってきた。ともに全身玉の汗をながし、いのちのかぎりにもみあった。
この老賊は海竜王修羅五郎(かいりゅうおうしゅらごろう)という筑紫(つくし)の海賊で、今純友査勘太(いますみともさかんた)とともに大盗人だ。修羅五郎は、親兵衛を水中へとさそった。五郎は海賊、親兵衛は山中そだちで、水にはなれてない。五郎は腰の短刀をぬきだし、逆手(さかて)にとって、親兵衛の脇腹(わきばら)をさそうとした。
親兵衛はその手首をつかみ、難をのがれて、波の上にうき出た。
そこへ苛子崎(いらこざき)の船場(ふなば)から、親兵衛の危険を見た姥雪(おばゆき)代四郎が小舟にのり、こぎつけてきた。むかしは船頭をも渡世(とせい)とした代四郎だ。
「犬江さん、代四郎が助太刀にまいった。その手をはなされるな」とよばわり、海へざんぶととびこみ、右手に短刀をもち、修羅五郎の首をかききった。海面にたちまち鮮血がながれた。まるで錦(にしき)をながすようだ。
代四郎は首を舟になげいれ、親兵衛をたすけてひきいれた。親兵衛は、首を見て、
「こやつのためにくるしめられた。それを代四郎おじにすくわれたのは、伏姫さまの神佑擁護(しんゆうようご)でしょう。それにしてもぬすまれた一箱とわたしの腰刀、老侯(おおとの)のたまわりもの小月形(こつきがた)を海底におとしたのがくやまれる」という。代四郎はそれをなぐさめて、ふたたび海にとびこんだ。
◆里見八犬伝◆ 巻三
滝沢馬琴作/山田野理夫訳

二〇〇五年七月十五日