里見八犬伝 巻二

目次

第三巻 礼・双玉血戦の巻
第二十九回 悪のむくい……蟇六(ひきろく)・亀篠(かめざさ)のさいご
第三十回 芳流閣(ほうりゅうかく)上の決闘……信乃(しの)、血路をひらく
第三十一回 両雄双狗(そうく)の出会い……犬飼(いぬかい)見八(けんぱち)のおいたち
第三十二回 因縁(いんねん)ばなし……力士小文吾
第三十三回 岸辺のくせもの……現八(げんぱち)改名
第三十四回 たえしのぶ……房八(ふさはち)のうらみ
第三十五回 とついだ妹の帰還(きかん)……妙真の悲しみ
第三十六回 悲しみの鐘……房八(ふさはち)のさいご
第三十七回 さだめはめぐる……信乃の本復
第三十八回 里見家の宿縁……四犬士の出立
第三十九回 離合集散(りごうしゅうさん)……小文吾のゆくえ
第四十回 神霊(しんれい)の竜巻(たつまき)……親兵衛(しんべえ)の神隠し
第四十一回 大塚村(おおつかむら)のそのご……ヤス平(やすへい)のはからい
第四十二回 奸党(かんとう)の残毒……とらわれた額蔵
第四十三回 刑場やぶり……四犬士つどう

第四巻 智・神霊怪異の巻
第四十四回 孤独の忠士……道節(どうせつ)、管領(かんれい)をねらう
第四十五回 名刀乱舞……道節(どうせつ)、三宝平(さぼへい)をうつ
第四十六回 山里の秋……ヤス平の訪れ
第四十七回 草屋(くさや)の出会い……道節(どうせつ)参加
第四十八回 二人の旅人……力二郎(りきじろう)・尺八(しゃくはち)の帰還
第四十九回 無明(むみょう)の酔い……曳手(ひくて)・単節(ひとよ)の惑い
第五十回 嫁たちの得度(とくど)……姥雪(おばゆき)夫婦の危機
第五十一回 脱出……助友(すけとも)の襲撃
第五十二回 阿佐谷(あさや)の宿……おそわれた小文吾
第五十三回 賊婦(ぞくふ)の悪計……船虫(ふなむし)とらわる
第五十四回 尺八《あらし山》……品七(しなしち)の話
第五十五回 重宝流転(じゅうほうるてん)……馬加大記(まくわりだいき)の陰謀
第五十六回 桃源(とうげん)の舞……舞姫(まいひめ)旦開野
第五十七回 悪臣をうつ……旦開野(あさけの)の素性
第五十八回 憂いはつきず……小文吾の旅だち
第五十九回 赤岩庚申山(あかいわこうしんやま)……現八の遍歴
第六十回 妖怪変化……赤岩一角(あかいわいっかく)の幽霊
第六十一回 新たな犬士……角太郎の珠
第六十二回 奸計(かんけい)と遠謀……雛衣(ひなぎぬ)の復縁
第六十三回 坂東(ばんどう)無双……現八の武芸
第六十四回 鬼火の道案内……角太郎の草庵
第六十五回 無理難題……雛衣(ひなぎぬ)あわれ
第六十六回 妖猫(ようびょう)のさいご……犬士角太郎
第六十七回 もう一人の奸賊(かんぞく)……縁連(よりつら)のそのご
第六十八回 ひろわれた赤児(あかご)……浜路(はまじ)と浜路
第六十九回 横恋慕(よこれんぼ)……奈四郎(なしろう)のたくらみ
第七十回 指月院(しげついん)の密談……木工作(むくさく)のしかばね
第七十一回 めぐりあい……道節(どうせつ)の奇計
第七十二回 ワシにさらわれた姫君……武田信昌(のぶまさ)の裁き
第七十三回 闘牛……小千谷(おじや)の小文吾
第七十四回 峠の盗賊……磯九郎(いそくろう)受難
第七十五回 女あんま……船虫(ふなむし)の復讐
第七十六回 盗賊(とうぞく)のかくれ家……小文吾あやうし
第七十七回 盗賊退治……由充(よしみつ)の招き

凡例


一 本書は滝沢馬琴原作の「南総里見八犬伝」を、できるだけ原作の香りを伝えるようにした現代語訳である。
二 原作のあて字、あて訓(よ)みは、現代の同義語に適宜おきかえた。
三 時刻の表現などには( )に注をいれ、年号は各巻の初出個所に西暦をいれた。
四 原作には、本すじとは直接関係のない重複や冗長な長談義がおおいが、本書では、物語の進行にさしつかえない程度に、これらを割愛した。
五 原作は、九輯(しゅう)五十三巻百八十回になっているが、本書では、回ごとの章立てとした。なお、原作の難解な見出しにかえて、内容にそくしたわかりやすい見出しをつけた。

第三巻 礼・双玉血戦の巻

第二十九回 悪のむくい……蟇六(ひきろく)・亀篠(かめざさ)のさいご

浜路(はまじ)は、兄道節(どうせつ)から父母の名をきいた。ねがいの一つがかなえられたのだ。自分の非運が実母の罪のむくいだったことも知った。浜路はこれが末期(まつご)かと、ようやく首をあげ、
「あなたが、兄上さまですか。仇(あだ)をうっていただき、おもいがけぬご介抱(かいほう)もうけました。だが、会うを別れの《いまわ》の対面、はずかしく、悲しいかぎりです。まことの親のことを知ることができたのは、神の冥助(めいじょ)か仏の慈悲(じひ)でございましょう。
わたしの夫は、もと管領(かんれい)、足利持氏朝臣(もちうじあそん)譜代(ふだい)の近臣大塚匠作(おおつかしょうさく)どのには孫、犬塚番作一戌(いぬづかばんさくかずもり)どのの一子、犬塚信乃戌孝(しのもりたか)といいます。わたしの養母の甥(おい)ですが、そのこころは正しく、文学武芸にあかるく、由緒(ゆいしょ)ある武士です。はやくに孤児となり、伯母婿のもとに身をよせていました。伯母婿に所領の田は横領されましたが、時運にまかせてひとをうらんだりはしません。
その犬塚の家に、名刀がつたわっておりました。それがこの村雨(むらさめ)です。親の遺訓で年ごろの宿願をはたそうと、村雨をたずさえ、滸我(こが)(古河)へまいるその前夜、伯母夫婦は左母二郎(さもじろう)とあいはかり、村雨をとりかえ、それを左母二郎は横どりしたのです。わが夫が滸我にまいったなら、そこつの科(とが)にとわれるでしょう。村雨をとりかえそうとおもっても、この深手。ねがうは兄上さまのたすけのみ。ここから滸我におもむかれ、宝刀をわたしてくださいませ、兄上さま」という。
道節は嘆息し、
「夫をおもうそのねがい、ききいれてやりたいが、それは私(わたくし)ごとだ。君父(くんぷ)の仇をうつことをあとにして、私ごとを先にはできまい。わたしは君父の仇、扇谷(おおぎがやつ)定正(さだまさ)にこの村雨でうらみをかえそうとおもう。これをもって仇にちかづき、宿望とげて余命があるなら、そのときこそ犬塚信乃の安否(あんぴ)をとい、ぶじめぐりあったら村雨をかえそう。わたしが仇の手でころされたなら、この太刀もぶんどられるだろう。貞操節義は女の道、忠信孝義は男の道だ」とさとした。
浜路の息がたえた。道節は、まぶたをしばたたき、
「たぐいまれな妹の節操。せめてこのなきがらをおさめて冥府の苦悩をすくおう」とだきかかえて火定(かじょう)の穴にいれ、のこっている柴をなげこんだ。
夜風に、埋火(うずみび)がふたたびもえたった。しばらく合掌(がっしょう)し、「泡影無常(ほうえいむじょう)、弥陀方便(みだほうべん)、一念唱名(いちねんしょうみょう)、頓生菩提(とんしょうぼだい)、弥陀仏(みだぶつ)弥陀仏……」ととなえた。またため息をつき、
「わたしが大義をはたすために、愚民をあざむいた因果で、火定の火がそのまま妹の身をやく火葬(かそう)となった。わたしもまたどこの地で死に、どこの野に骨をうずめるだろう」と、村雨を腰にし、立ち去ろうとする。
それをうかがっていた額蔵(がくぞう)は、おもった。
「村雨は道節の手にわたり、その太刀をもって仇にちかづこうという。浜路のたのみもきかぬ。道節がうたれれば、村雨はうしなわれるだろう。
もし、仇をうち、犬塚信乃にわたしても、火急の難儀をすくうことはできぬ。信乃の安否は、いよいよこころもとない。名のってつげ、太刀をこうても、妹にすらゆるされないのだ。わたしにわたすわけはない。くみふせてもとりかえそう」
額蔵が、「まて!」と道節をよびとめ、木かげからひらりと走り出ると、村雨の《こじり》をとり、二足三足ひきもどした。道節はおどろきふりかえり、こじりの手をはらいのけ、太刀をぬこうとした。額蔵は、横ざまにくみついた。勇者と勇者のくみうちである。いつはてるかわからぬ。
額蔵が肌身はなさずつけているまもり袋の長紐(ながひも)がみだれて、道節の太刀の緒(お)に、幾重(いくえ)にもまつわり、それがひきちぎれて、まもり袋が腰についてしまった。額蔵はそれをとりもどそうとして、手がゆるんだ。道節ははねおき、太刀をぬいた。額蔵もぬきあわせ、ちょうちょうはっしとたたかう太刀音、電光石火ときらめいた。
天には月がてり、地にもまた火葬の光がもえる。真夜中ながら明るい。道節の切っ先が額蔵の左腕を走った。ながれる鮮血をものともせず、ちょうとかえした太刀は、するどく道節の肩の瘤(こぶ)をきりやぶった。黒血がさっとほとばしった。瘤のなかのものが、イナゴのようにとびちり、額蔵の胸にあたったが、それを左手でうけとめた。
また、斬(き)り合いはつづいた。道節が声をかけた。
「しばらくまて。いうことがある。そのほうの武芸はみごとだ。わたしには大望(たいもう)がある。しばらくひけ」という。額蔵はいかり、
「わたしの太刀風におそれをなしたな。いのちがおしければ村雨をわたしてされ。犬塚信乃は、わたしの親友だ。わたしは犬川荘助義任(いぬかわそうすけよしとう)だ。そのほうの名はきいた。犬山道松烏髪入道(いぬやまみちまつうはつにゅうどう)道節忠与(ただとも)、村雨をかえせ」といった。道節は、からからとわらい、
「大望をとげるまでは、妹ののぞみも不承知だ。そのほうにわたすものか」と、刃(やいば)をあわせたが、道節はすきをみて火定の穴にとびこみ、煙(けむり)とともに姿をけした。額蔵は追いかけたものの、みのがしてしまった。
「火遁の術をもってのがれたな。おや、道節の傷口からとびでて、わたしの手にはいったものはなんだろう?」と、もえのこる火影で見ると、
「これはふしぎだ。犬塚信乃とわたしの所持する孝(こう)・義(ぎ)一双の珠(たま)とおなじく、光もかたちもそっくりで、この珠には忠(ちゅう)の一字がある。これもあやしい」とおどろき、さらに思案して、
「すると、あの犬山道節も、われらの同盟の人となるべき因縁のものだ。わたしの珠は、まもり袋ごと道節の腰刀にからみとられたが、道節の珠は、わたしの手にはいった。奇異というか、微妙というか、あやしいことだ。わたしの珠も宝刀も、もどってくる日もあるだろう。それにしても、信乃さんの滸我(こが)の首尾が心配だが、神の冥助もあるとしんじている。ここから滸我までは十六里。いまこのことをつげることはできぬ。はやく大塚にたちかえろう。いまうけたかすり傷は、もっけの幸いだ」と、手ぬぐいをもって傷をつつみ、火定の穴を見て、
「浜路さんの心烈(しんれつ)節義は、いたましいともおもう。死んでも死にきれまい。信乃さんに再会したおり、浜路さんの末期の心烈をつたえ、霊をなぐさめよう。南無阿弥陀仏」と念じつつ立ち去ろうとすると、左母二郎のなきがらにつまずいた。額蔵はその首をかきおとし、そばのエノキの幹をけずり、矢立(やたて)の筆でしるした。


これは、悪党網乾(あぼし)左母二郎なり。ある秘蔵の太刀をかすめ、処女浜路をかどわかし、その従わざるをいかりて、ここに烈女を殺害せる。人罰よってくだんのごとし。


額蔵は、矢立をおさめ、
「こうしておけば、情死とするものはいないだろう」とつぶやき、足をはやめて礫川(こいしかわ)にくだった。駒込寺(こまごめでら)の鐘が九つを知らせた。
額蔵の目的の大塚村にうつる。
蟇六(ひきろく)・亀篠(かめざさ)は、浜路と左母二郎もとらえよ、とたくさんの人びとに追わせた。いまかいまか、とその首尾をまちつづけた。
十九日の月が高くのぼった。陣代(じんだい)簸上宮六(ひかみきゅうろく)は、仲だち軍木五倍二(ぬるでごばいじ)とつれだって、蟇六の家にきた。それぞれ麻の上下(かみしも)をつけているが、しのびの外出なので、従人(ともびと)は提灯(ちょうちん)をもった若党二人と、草履(ぞうり)とり二人である。門口(かどぐち)で到着をつげた。蟇六夫婦は、あわてふためいた。
亀篠は、台所にいき、下女どもをよびたて、火をたかせ、炭をおこさせるなどした。
蟇六は、玄関の式台に出て、
「おもったよりお早いご来臨、かたじけないことです。どうぞこちらへ」とさきにたち、書院に案内した。
宮六・五倍二は上座にすわった。
かたどおりの祝辞、時候のあいさつなどがおわった。まだ、茶もはこばれない。蟇六は、手をうち、
「はやく盃(さかずき)を進上せよ」とさいそくした。
半刻(はんとき)ほどで、やっと亀篠が、州浜(すはま)の盃台をささげるようにして運んできた。下女二人がはいってきて銚子(ちょうし)をとって主客にすすめた。
亀篠は、白粉(おしろい)をぬりつけているが、鼻のへんに鍋(なべ)の炭をいっぱいつけている。宮六らは、見ないふりをして笑いをこらえた。蟇六もそれに気づいたが、亀篠は一人しゃべりつづけた。主客は汁碗(しるわん)のふたをとった。肉はナマズの筒切(つつぎ)りだ。五倍二が汁をすい、肉に箸(はし)をつけると、それはナマズではなく、灰じみた《たわし》だ。蟇六・亀篠は、おどろき、
「これは、おそれおおいことです。おゆるしください」とわび、《たわし》をとりかくした。宮六が盃を口にすると、むせかえり、盃をなげた。
「これは、故実によったものかどうか知らぬが、酢(す)ではないか」という。
蟇六がその香をかぐと、たしかに酢だ。蟇六夫婦はそこつをわび、下女どもをしかりつけた。五倍二は、
「夜ふけての酒宴(しゅえん)なので、台所はいそがしく混乱しているのだろう。新婦の病気にさしさわりがないのなら、それがなによりだ。酒と酢は同類で、色も似ている。わたしの《たわし》にくらべると、寛仁大度(かんじんたいど)の簸上どの、このようなことで立腹はなさぬ。この盃を、ひとめぐりせよ」と盃をかさねた。
夏の夜は短い。それでも浜路の姿は見あたらない。五倍二は、しきりにさいそくした。夫婦はこまりはて、五倍二をそばによび、そっとささやく。
「婚礼のことにさしさわりはないのですが、浜路は宵から胸つかえがおこりました。しばらく、おまちください」
五倍二は、
「病気のことは承知のうえの婚礼だ。いつまでまたせるのだ。その話にいつわりなければ、新婦の臥房(ふしど)に案内せよ。その容体をみよう。ばかばかしい」といかった。亀篠は、蟇六の袂(たもと)をひき、
「いまさらかくしても、しかたがないさ。あからさまにいってしまいな」という。蟇六は、冷汗をながし、
軍木(ぬるで)さま、どうぞお席におもどりください」といった。五倍二は、座にもどった。
蟇六は頭をさげ、
「おわびしようもございません。浜路は宵に逐電(ちくでん)したのでございます」とつげた。
宮六・五倍二はおこり、
「逐電したというわびですますことか。あの犬塚信乃とやらと夫婦にして、落としてやったのか。ひきもどせ」と、いっしょにまくしたてた。蟇六は、
「くわしくおききください。信乃は、うまく追いだしました。うたがわしいのは、近所の浪人網乾(あぼし)左母二郎です。あいつは、突然家具をうりはらって逐電したとききます。浜路をさそいだしたのでしょう。それで下男どもをかりたて、追わせましたが、まだかえりません。また土田(どた)の土太郎(どたろう)というものも追いかけております。うそではございません。うそなら、この白髪首(しらがくび)をさしあげます。しばらく、おまちください」という。
だが宮六らの怒りはとけず、蟇六夫婦は、ほとほとよわりはてた。
蟇六はうしろの脇差(わきざし)をとり、宮六らのそばにおき、
「お二人の疑いをおときします。この刀をごらんください。これはもと管領足利持氏朝臣から、春王どのにおゆずりなされた村雨の一刀(ひとこし)です。信乃の父犬塚番作が結城(ゆうき)の合戦で篭城(ろうじょう)したとき、ぬすみとってのがれ去り、信乃にあたえたものです。てまえはそのことを知っているので、しかじかの手だてで、刃をすりかえたのです。かねてから管領家に献上しようとおもっていましたが、浜路がもどってきたなら婿どのに引出物とするつもりでいました。蟇六の、まことのこころです」と太刀をしめした宮六は、やや気色(けしき)をやわらげ、
「その刃が、村雨だという証拠があるか?」ととうと、蟇六は微笑をうかべ、
「陣代さま。村雨は鞘(さや)からひきぬくときは、切っ先から水気したたり、殺気をはらんでうちふりますと、その水四方に散乱し、それが村雨が降るようにみえるのです」
「それなら一見」と、宮六がとりあげると、亀篠がろうそくの芯(しん)をつまみすて、燭台をひきよせる。
五倍二は小膝(こひざ)をすすめ、「話にのみきく名刀を拝見できるか。はやく」という。
宮六がひきぬいたが、水気はあらわれず、むろんしずくもない。腹だちまぎれに後方の柱にうちあてると、切っ先がすこしまがった。五倍二は、
「あっぱれ名剣ぞ。水気たたず火気をおびた焼丸(やけまる)だ」とあざわらった。宮六は、顔面真赤になり、
「なまくらの刀が村雨か。われらをあなどるおいぼれめ!」とののしった。亀篠は、
「いや。このまえは、水のあふれたのをわたしも見ているのです」という。
宮六・五倍二の怒りは倍となる。
蟇六は、「はて。このにせものをつかませたのは、信乃か、左母二郎か?」と思案したが釈明もできず、逃げようとすると、宮六はさらにおこり、一刀をせなかにあびせた。蟇六はあおむけにたおれた。
亀篠がころびながら宮六のすねをつかまえた。五倍二が亀篠の髻(たぶさ)を左手にからませ、ひきはなそうとした。そして亀篠の肩先四、五寸をきった。それから蟇六・亀篠の二人は、なぶりごろしにされた。
そこに、浜路・左母二郎を追った背助(せすけ)一人がたちもどった。下女どもの姿はなく、きりきざまれた主人夫婦のなきがらばかりだ。五倍二は背助をみつけ、刃をはらった。右の小鬢(こびん)がすこしきられた。背助はころげおち、そのまま床下にかくれ、苦痛の声をのんだ。
宮六・五倍二は、蟇六・亀篠にそれぞれとどめをさした。
いっぽう、額蔵は早足で主家の門にきた。真夜中なのに、折戸はまだとざされていない。
「おや、どうしたのだ?」
書院のほうで、たおれる音、うめく人の声がする。いそいで草鞋(わらじ)をぬぎすて、走りきてみると、主人夫婦がきりたおされている。敵(かたき)は顔を知っている陣代、簸上宮六と軍木(ぬるで)五倍二だ。なきがらにのりかかって、さした刃をひきぬき、血をぬぐっているのだ。額蔵は、
「ご両所、どこへ逃げるのだ。下郎(げろう)といえども主人の敵。のがすものか」と声をかけた。五倍二は、
「陣代に無礼をはたらいた村長(むらおさ)を誅罰(ちゅうばつ)されたのだ。敵よばわりはおかしい。おまえも道づれとなるか」ときってかかる、額蔵は、両人の腕をとらえ、
「村長に落度があるなら、問注所(もんちゅうじょ)で罪をただすべきだ。真夜中の酒席とはあきれる。下郎にもまもるべき人の道はある。主人をうたれて、敵をこのまま見のがすことができるものか。こうもうすは、下男額蔵」と腕をつきはなした。
宮六・五倍二はつかまえられた腕の痛さをこらえ、のがすものか、と左右から声もかけずにうちかかってきた。額蔵は刃の下をくぐり、自分の刀をぬきあわせ、二人を相手にする。額蔵の手にする刀は、前夜、亀篠が信乃をうてとさずけた、大塚匠作三戌(みつもり)が所持し、実戦をきりぬけてきたものだ。それに、額蔵には自得の武術がある。まだ十合(とたち)にもならないのに、逃げようとする宮六の肩先から、乾竹割(からたけわり)にきりたおし、かえす刀で五倍二の眉間(みけん)をきる。
逃げる五倍二を額蔵が追う。陣代の従者らが、その太刀の音におどろき庭門から走りきた。宮六がたおれ、五倍二が石につまずきころげる姿を見た。従者は五倍二をたすけおこし、逃げた。額蔵が、なおもおおうとすると、そこへ、浜路・左母二郎を追ってでた下男どもが、もどってきた。
下男どもは、血刀をさげた額蔵の姿におどろき、六尺棒を横にして、「刀をうちおとせ」という。
額蔵は、わけも知らぬ下男どもにおしとどめられてあせったが、これをきることもできず、血刀をぬぐい、鞘におさめた。それから、蟇六夫婦の死、その仇、簸上宮六をきったことをつげた。下男どもは書院にきて、おどろくばかりだ。額蔵はいう。
「わたしも夜ふけて下総(しもふさ)からもどったので、くわしくは知らない。ただ主人夫婦がうたれたときにもどった。五倍二がのがれたので、まもなく城中から検察のものがくるだろう。問注所にまかりでて、仇討ちのことをねがいでるのみだ。みな、うろたえるな。女どもは、一人もいない。逃げると、そのものに疑いがかかるぞ。それをよべ」
下男どもは、額蔵の変身に目をみはった。
作者馬琴(ばきん)、いう。この額蔵は泥中(でいちゅう)のハスのようだと。

第三十回 芳流閣(ほうりゅうかく)上の決闘……信乃(しの)、血路をひらく

蟇六(ひきろく)・亀篠(かめざさ)夫婦、簸上宮六(ひかみきゅうろく)の死は、大さわぎとなり、夜明けをまちかねて、里人らは問注所(もんちゅうじょ)にとどけ、額蔵(がくぞう)を証人としてまもっていた。六月二十日である。
そこへ簸上宮六の弟、簸上社平(ひかみしゃへい)、そして軍木五倍二(ぬるでごばいじ)、同役卒川菴八(いさかわいおはち)らが従者(ともびと)をしたがえてきた。書院のなきがらを検視したあと、蟇六の使用人たちをよび、この顛末(てんまつ)をきいた。額蔵は、下総(しもふさ)からもどり、主人夫婦の殺害されたのを知り、下手人とわたりあって、そのひとり簸上をうちとったものの、軍木五倍二をのがしたことをつげた。そして、下男たちは浜路(はまじ)の逐電(ちくでん)を追っていたので、いっさいこれを知らぬ、といった。
これをきき、簸上社平は声をはりあげ、
「額蔵のもうすことはあやしい。わたしは事実を知っている。亀篠の甥(おい)とかいう犬塚信乃(いぬづかしの)をたすけて、主人の娘浜路をぬすみだし、さらにもどって主人の金銭衣装などをぬすみさろうとしたのだ。それを見つけられたので、夫婦を殺害。わが兄の宮六は、下役(したやく)五倍二とともに、たまたまここの家の前をとおりかかり、湯茶をこうた。それで宮六はころされ、五倍二ひとりがのがれた。これは、五倍二の告訴(こくそ)で、信用するにたる。
第一の不審は、犬塚信乃の姿がないことだ。陣代の宮六が、村長(むらおさ)ごときの娘を妻にするわけはない。まして、城主の許可もえていない。そればかりか、ゆうべ、円塚(まるつか)の山中で、網乾左母二郎(あぼしさもじろう)ら四人がきりころされたそばに、あやしげな立札があった。これも額蔵のしたことだ。浜路が左母二郎に殺されたなどと、たくみなうそをつくりあげた。下郎(げろう)の分際(ぶんざい)で陣代を殺したのは、大逆だ。わたしは私怨(しえん)をもって額蔵を殺しはせぬ。主君から仇討ち免許をうけてからだ。額蔵をとらえよ」と下知(げち)した。額蔵は、
「信乃が滸我(こが)に出立(しゅったつ)したことは、みな承知している。蟇六夫婦の死も、下女たちが目撃しているはずだ」といった。
菴八(いおはち)は、女たちをならべ、その夜のありさまをとうたが、おそれをなしているので、
「太刀音のおそろしさに逃げましたので、なにも知りません」とこたえるだけだ。社平はあざわらい、
「蟇六がころされたのを見たものは、いないではないか」という。
そのとき床下からうめき声がした。五倍二に小鬢(こびん)をきられた背助(せすけ)である。蘇生(そせい)したのだ。
背助は縁側にのぼり、
「ゆうべは、みなよりはやくかえりました。主人夫婦がころされるとき、知らずに障子をあけましたら、五倍二さまに小鬢をきられて、ころげおち、そのまま床下にかくれましたが、主人夫婦が陣代さま、五倍二さまに殺害されたことは、まちがいありません」といった。社平が、
「ほう、背助一人が見たというのか。おまえも額蔵のなかまか」というと、菴八(いおはち)も、
「ともかく、額蔵らを入獄(にゅうごく)させ、このむねを鎌倉の大石兵衛尉(おおいしひょうえのじょう)どのにもうしあげ、おん下知(げち)にまかせましょう」といった。
社平は駕篭(かご)に宮六のなきがらをのせ、額蔵・背助をとらえ、問注所にむかった。

ここで犬塚信乃に目を転じる。
十九日の朝、栗橋(くりはし)の宿で、額蔵とわかれた犬塚信乃は、そのあと滸我(こが)についた。城下の町の旅篭(はたご)に宿をきめ、執権横堀史在村(よこぼりふひとありむら)の屋敷におもむき、亡父犬塚番作の遺訓(いくん)にしたがって、御所(成氏)の兄君、春王からあずかった村雨をもってまかりでた、ととりつぎのものにつげた。
しばらくして、在村と対面した。在村は、
「御所さまが鎌倉におられたおりに、持氏朝臣(もちうじあそん)の旧臣の子孫をめされたが、なぜ番作がこず、宝刀をも披(ひ)露(ろう)しなかったのか」ととうた。信乃は、番作が深手をおったこと、蟇六夫婦のことなどをのべた。在村は、
「それなら、老臣とも相談のうえ、御所さまにもうしあげるゆえ、旅篭でまて」といった。
信乃は安堵(あんど)して旅篭にもどった。
あくる朝、信乃は、村雨を滸我どのに献上するまえに、ほこりをぬぐっておこうとおもった。しずかに鞘(さや)からひきぬき、刃(やいば)を見ると、村雨ではない。
「これはどうしたことだ?」とおどろき、また見て、「いつ、すりかえられたのか。おもいあたるのは、舟に左母二郎が一人のこったときだ。ああ、われは不孝なり」と刃を鞘におさめて、ため息をつき、「これは、いつわったことになる。はやく、うったえでよう」としたくをしていると、そこへ横堀在村の使者がみえた。
使者は一領(ひとかさね)の衣装をとりだし、
「すみやかに登営(とえい)なされよ。一領を下賜(かし)する」とつげた。信乃は承知し、
「わたしは、もうしあげることができましたので、横堀どの宅まで参上するつもりでおりました。いささかおもうことがあり、ご下賜の一領は、しばらくおあずけいたします」といって、走るように在村の屋敷にいったが、すでに登営して、おらず、御所にまかりでることにした。
そこで信乃は、礼服にあらためて推参した。在村につげようとしたが、姿が見えぬのでこころがあせった。
しばらくして、信乃は滝見(たきみ)の間に案内されてしまった。上壇(じょうだん)には御簾(みす)がたれ、その下には横堀在村その他の老臣が侍座(じざ)している。さらに、左右には武士たちがいならんでいる。また、廊下には警固のものどもが数十人、列をなしている。
成氏は着座したが、御簾はたれたままだ。在村が口をひらき、
「結城の合戦で討死(うちじに)の旧臣、大塚匠作三戌(おおつかしょうさくみつもり)孫、犬塚信乃、その父番作の遺訓にしたがって、当家の什宝(じゅうほう)、村雨の一刀(ひとこし)を献上すること、まことに神妙とおぼしめされた。まず、われらから一見つかまつろう。その太刀、ここに」といった。
信乃は、身の浮沈(ふちん)の一瞬、とこころをおちつけて、
「村雨の宝刀をぬすみだそうとするものがありましたので、じゅうぶん気をつけておりました。わたしが、けさ刃をぬぐおうとひきぬき見ますと、いつのまにかすりかえられていました。おもいがけないことにおどろき、また後悔しました。はやく、このことをもうしあげるべく推参しようとしているところに、ご使者がみえられました。あと数日、ご猶予(ゆうよ)をたまわれば、なくした宝刀をさがしだし、あらためて献上いたします」といった。在村は、たちまちいかり、声をあらげ、
「それは、なんという《そこつ》ものだ。なくしたという証拠でもあるのか」ととうた。信乃は、こころをしずめて、
「ごもっともです。わたしの所持する一刀、この鞘その他のこしらえは、村雨のままです。すりかえられたなによりの証(あかし)でございます」という。
在村は、あざわらって、
嘉吉(かきつ)の年から四十年にもなる。それを証とみわけることができるのは、六、七十歳のものだ。だれにもわかるのは、刃からたつ水気だけだ。おもうに、敵がたの《まわしもの》にちがいあるまい。はやく、いけどれ」と下知した。
廊下に列座していた武士たちが、どっと信乃におどりかかった。
信乃は、人のまことをいれぬ挟量(きょうりょう)に、このままとらわれてはならぬと、右に左になげのけ、飛鳥(ひちょう)のごとく身をかわした。御簾のうちの成氏朝臣は、短慮(たんりょ)の男だ。成氏が、「こやつを、ころせ!」と命じた。
側近のものも刃をぬき、すきまなくせめたててきた。信乃は、白刃(はくじん)の下をかいくぐり、さきにたった一人の刀をうばってきりたおした。また八方にはらうと、十余人が手傷をおい、八、九人がきりふせられた。
信乃は、広庭におどり出て、松の木をつたわり、ひらりと屋根にとびのった。槍(やり)をつきあげて、蛭巻(ひるまき)からたちきられるもの、追いのぼって深手をおい、ころげおちるものなど、なきがらがつまれた。
信乃も浅手をおい、鮮血をすすり、屋根から屋根へとのぼった。目の前に、三層の楼閣(ろうかく)が見えた。
これは、遠見のためにたてられた芳流閣(ほうりゅうかく)である。信乃は、かろうじてのぼった。城のほとりは渺(びょう)たる大河だ。閣の下の水ぎわに、舟がつないである。この河は、坂東太郎(ばんどうたろう)(利根川)とよばれる八州第一番の大河だ。その下流は葛飾(かつしか)の行徳(ぎょうとく)につうじ、巨海につながる。このあたりが、《のど》にあたる。
信乃は、背後に目を転じた。そこの広庭、あそこの城戸(きど)に数百の兵たちがあつまり、射(い)おとそうと弓をかまえている。のぼってきたなら、死ぬまできりまくるまで、と信乃も覚悟した。
さきの管領(かんれい)成氏はますますいかり、
「信乃をからめとったものには、千貫文(もん)をあたえる」とふれたが、すすみ出るものはいない。
執権在村は、そのとき成氏に、
獄吏(ごくり)犬飼見八信道(いぬかいけんぱちのぶみち)は、おとりたていただいた職役を固辞したうえ、強引に暇(いとま)をねがった罪により、投獄されております。見八は、故人二階松山城介(にかいまつやましろのすけ)の高弟で、とりわけ捕物(とりもの)・拳法(やわら)は、本藩無双(ほんぱんむそう)のものです。しばらくその罪をゆるし、信乃をからめとらせてはいかがでしょうか。もし、信乃をとらえたならば死罪をゆるし、また信乃にころされても、おしいものでもありません。この儀はいかがでしょう?」ととうた。
成氏は、「それは、よい。はやくせよ」という。
在村はすぐさま犬飼見八を獄舎からひきだし、君命をつたえた。見八に太刀(たち)・肱盾(こて)・臑盾(すねあて)・十手をあたえた。見八は承知し、三間梯子(さんげんばしご)を猿(ましら)のようにのぼった。 信乃は、血刀をさげ、いらかの上でまった。
成氏・在村などは、あおぎ見ている。犬塚・犬飼の両雄の勝負はいかん?

第三十一回 両雄双狗(そうく)の出会い……犬飼(いぬかい)見八(けんぱち)のおいたち

むかし、中国の北方にすむ、塞翁(さいおう)の飼馬(かいうま)が逃げた。近所の人びとがなぐさめると、塞翁はいずれ幸福に転じるといった。はたして飼馬が良馬をつれてもどった。で、翁は物持ちとなった。
翁の息子が馬のりをしているうちに落ちて、足の骨をおった。近所の人びとがそれをなぐさめた。
一年後、国境を接する胡(こ)の軍勢がせめいった。むかえうった若もののおおくは、討死した。翁の息子は、けがのため出陣せず、ぶじであった。これを称し「人間万事塞翁が馬」という。禍(わざわい)と福とはよりあわせた縄(なわ)のようなもので、交互にくるものだ。そしてその終局がどうなるのか、だれにもわからない。
犬塚信乃(いぬづかしの)は、親の遺訓にしたがって家をおこすべく、まことのものとしんじて、村雨を献上(けんじょう)しようと滸我(こが)をたずねた。しかし、刀はすでにすりかえられていた。
それで、成氏の不興をかった。身に危険がせまり、あまたのかこみをきりひらいて、芳流閣(ほうりゅうかく)の屋根の上によじのぼったものの、のがれる手だては見つからない。
いっぽう、罪がないのに、犬飼見八信道(いぬかいけんぱちのぶみち)は、獄舎(ひとや)につながれていた。そして、犬塚信乃をからめとれ、と選びだされた。見八は、二層のひさしの上までのぼった。地上からは遠く、雲近く、日がはげしく照っていた。敷瓦(しきがわら)は、まるで波のようだ。その下には、坂東太郎とよばれる大河がとうとうとながれている。きょうは六月二十一日だ。
三層めについた。信乃・見八はにらみあったままだ。塔の上のコウノトリの巣を大蛇(おろち)がねらっている、というありさまだ。広庭には、成氏・横堀史在村(よこぼりふひとありむら)らが床几(しょうき)に尻をかけて、勝負はいかにと見あげている。また、閣の東西には、あまたの武士が、槍(やり)・長刀(なぎなた)をきらめかし、あるいは矢をせおい、うなじをそらしてみまもっている。
信乃はおもった。初層二層の屋根の上までのぼろうとする強者(つわもの)をきりすてたが、そのあとは、のぼろうとするものはたえてない。そこへ、ただ一人きた。これは、よほど自信のあるものだろう。よき敵、さあこい、目にものみせてくれよう、と血刀を袴(はかま)の稜(そば)でおしぬぐい、高瀬のような箱棟(はこむね)に立ったまま、ちかづいてくるのをまった。
見八のほうも、またおもう。あの犬塚とやらは、ひとり万人にあたる敵だが、役儀により、獄舎(ひとや)からえらびだされたのだ。からめとるとも、うたれるとも、勝負は一気に決しようと。
「ご用だ」とよびかけて、手にした十手をひらめかし、とぶように箱棟の、左のほうにすすみのぼった。くみつこうとするのを、信乃はよせつけず、
「こころえた」と、するどく太刀をふるうと、見八は十手ではっしとうけとめてはらう。と、信乃も、すかさず切っ先をつきだしてくる。それをおさえて横にながす。
見八は、すべらないように、《いらか》にふみとどまり、捕手(とりて)の秘術をつくすと、信乃も、おとらず手練のはたらき。ふりおろす、するどい太刀。見八は、これをはずす。
両雄の争いは、いつまでも勝負がつかない。広庭の成氏以下は、まばたきもしないで、気をこめて見あげている。
犬塚信乃は、武芸にすぐれた敵だとおもうと、勇気がまして、切っ先から火のとびちるまで太刀をふるう。見八は、きこんだ鎖帷子(くさりかたびら)、肱盾(こて)の端をきりさかれたが、刀をぬかない。信乃は、はじめに浅手をおっているので、しだいに痛みをおぼえてきた。だが、足場をはかって、たゆまずさがったりはしない。たたみかけてうちこんでくる太刀を、見八は右手にうけながし、かえすこぶしにつけいり、「やっ!」と、かけ声とともに、眉間(みけん)をめがけて十手をなげつけた。
信乃は、その十手をちょうとうけとめたが、刃(やいば)が鍔(つば)ぎわからおれて、はるかにとんだ。
見八がよし、とくみつくと、信乃はそのまま左手にひきかけ、たがいに利腕(ききうで)をとり、ねじたおそうともみあった。
と、どちらかが足をふみすべらせ、川辺のほうにころころと、ひっくりかえった車の米俵(こめだわら)が坂を落ちるように、ころがっていった。勾配(こうばい)がはげしいうえに、みがいたような《いらか》の上を、とどまらず、たがいにしっかととったこぶしはゆるめない。
二人が、幾十尋(いくとひろ)もある屋根の上から落下していったのは、川のなかではなく、水ぎわにつないである小舟のなかだ。舟べりがかたむいて波がたち、水煙(みずけむり)があがった。はっていたともづながきれて、矢を射るような急流のまんなかへはき出された。しかも追い風と干潮(ひきしお)にさそわれて、小舟は、たちまちゆくえがわからなくなった。水紋(すいもん)も消えた。
見物のものたちは、おもいがけぬ結末に、さわぎ、「こっちか? あっちか?」と目をみはった。
閣中にいたものが窓からこのありさまを見て、しかじかと成氏につげた。成氏はいかり、またうたがって、みずから閣にはいり、窓から見た。小舟の姿もない。きれたともづなが岸のくいにのこっているだけだ。
在村は、用意の水門をひらかせ、四、五艘(そう)の早舟に武士を分乗させた。在村ものって、指揮をとった。とぶようなはやさだ。だが、二、三里きても、舟影ひとつ見えない。他領にはいったかもしれぬ。在村には、どうにもならない。ぶつぶついいながら、舟をかえした。成氏にいう。
「信乃・見八らが落ちました舟を追いかけましたが、むだでした。しかし、かれらは数刻の争いにつかれ、さらに高い閣の棟(むね)からくんだまま落ちましたので、肉やぶれ、骨くだけて死んだものとおもわれます。そのなれのはてを見とどけなければ、くやまれます。あの川下は、葛飾の行徳(ぎょうとく)です。それより南は、安房(あわ)・上総(かずさ)、北は、武蔵の江戸・司馬浜(しばはま)、あるいは水戸浦(みとうら)・銚子口(ちょうしぐち)です。そのなかばはご領内なので、たずねもとめるには好都合です。で、ふたたび兵どもで、水陸ともに手をつくしてさがしてはいかがでしょう」
成氏は、うなずき「それはいい案だ。だが、ただ一人のことだ。あまりさわぎだてせずに、からめとるがいいだろう」といった。
在村はさがり、本藩(ほんぱん)の武者頭(むしゃがしら)、新織帆太夫敦光(にいおりほだゆうあつみつ)を、追っ手の大将にえらび、下知した。帆太夫はいそいでしたくをととのえ、三十余人の配下とともに、坂東河原の下流にそって、滸我(こが)の城下を葛飾のほうに足をはやめた。

ここは、下総国(しもふさのくに)葛飾郡行徳である。その入江橋の橋づめに、古那屋文五兵衛(こなやぶんごべえ)というふるくからの旅篭屋(はたごや)の主人がいた。女房は一昨年なくなったが、子どもは二人いる。
兄は小文吾(こぶんご)といって、この年、二十歳(はたち)になる。その身の丈は五尺九寸、筋骨たくましく百人力ともいわれた。武芸をこのみ、子どものころから親にかくれて、友をつくらず師匠について剣術・拳法(やわら)・相撲(すもう)の手まで習得した。つぎは女で、十九歳になる。名を沼藺(ぬい)という。この女は、十六歳の春に、近郷の市川の船主(ふなぬし)、山林房八(やまばやしふさはち)という若ものの女房となり、その年のすえに男児をもうけた。大八といって、四歳になる。
文五兵衛は、金銭に淡泊(たんぱく)で、富んでいるというほどの家ではなかったが、ひまさえあれば、入江にたって釣りをするのを楽しみとしていた。
この文明十年(一四七八年)の六月二十一日は、このあたりの牛頭天王(ごずてんのう)の船祭の日である。これは祇園祭(ぎおんまつり)である。日が落ちるころから、里人や浦人でにぎわった。疫鬼(えやみのかみ)をはらい、海の幸をいのり、塩浜の繁昌(はんじょう)を祈願するのだ。各家では、酒宴(しゅえん)がはられた。
文五兵衛は、旅篭のことなので、昼間はひまがある。釣棹(つりざお)をたずさえて、ひとり入江にきて、葦(あし)をおって座をつくり、釣り針をおろした。刻(とき)は七つ(午後四時)にちかく、干潮なので、コハゼ一ぴきかからぬ。それでも、すきなことで、立ち去ろうとはしない。万事無心でいられる。
するとそこに、あやしい一艘のはなれ舟が、潮にひかれ、波にゆられて、川上のほうからこちらにながれてきた。岸についたのを見ると、舟のなかには二人の武士がいる。二人ともたおれて、死んでいるようだ。このようなものにかかわると、土地のわずらわしさともなる、とおもって棹でつきながそうとし、よく見た。
一人の武士は、茶褐色(かちいろ)の麻衣(あさぎぬ)に、縹色(はなだいろ)の麻袴(あさばかま)の裾をおりあげてすねをあらわし、髻(たぶさ)をみだし、歯をくいしばり、左のひじと右の股(また)に一つの浅手をおっている。またもう一人の武士は、細鎖(こぐさり)のきこみ腹巻をし、平金(ひらがね)の肱盾(こて)に亀甲(きっこう)いりの臑盾(すねあて)をし、ところどころをきりさかれて、左の肩に一つ浅手がある。髪もみだれ、顔にかかっているが、右のほおさきに痣(あざ)があり、ボタンの花にそのかたちがそっくりだ。文五兵衛は、
「これは、かねて見おぼえのある人ではないだろうか?」と、ながれていたともづなに釣針をかけて、手もとにひきよせ、水ぎわの石につなぎとめ、その舟にうつった。
「死ぬほどの傷ではない。舟でひととたたかってきりたおされたものか。それとも、二人がたたかって、ともにたおれたものか?」と、ほおに痣のあるほうをだきおこし、大声で、「しっかりしなさい」とよんだが、息はたえたままだ。
文五兵衛は家にもどり、薬をとってこようとして、おもわずたおれているほうの武士の脇腹を、したたかけった。それが、死活の法にかなった。
「うっ!」と声がして、その武士は身をおこし、あたりを見わたして、
「ここはどこです? あなたは、だれです?」ととうた。文五兵衛は、
「ほう、気がつかれましたか。ここは、下総葛飾の行徳の入江です。てまえは、この地の旅篭屋(はたごや)文五兵衛というものです。ここで釣りをしていると、この舟がながれてきました。のぞきみると、人がたおれておりました。その一人は滸我(こが)の御所につとめる犬飼見兵衛(けんべえ)さんの一子、見八信道さんなので、そのままにはすておけず、介抱(かいほう)していました。ところが、おまえさんが息をふきかえされたというわけです。どうなされたのです?」ととうた。
「わたしは、武蔵の大塚村の郷士(ごうし)犬塚信乃戌孝というものです」と信乃は名をつげ、村雨にかかわることやら、芳流閣(ほうりゅうかく)であらそい、犬飼見八ところげおちたことなどをかたった。さらにことばをつぎ、
「いま、見八の面部(めんぶ)の痣がボタンの花に似ているのを見て、おもいあたることがあるのです。大塚の家に糠助(ぬかすけ)とよばれる百姓がいます。その糠助が、安房をおわれたおり、行徳の入江橋で、子どもをだき、入水(じゅすい)しようとしました。そのとき、一人の武士にとめられ、そのさそいによって、こわれるままに二歳になる一子を、その人にあずけました。その武士は、成氏朝臣(なりうじあそん)の御内人(みうちびと)と名のっただけで、名字はかたらず、糠助もまた、名のらずにわかれたのです。
糠助は、その子に玄吉(げんきち)と名づけていました。その子はうまれながら右のほおさきに痣(あざ)があり、そのかたちがボタンの花と似ているそうです。いま、この見八の痣をみると、それと符合(ふごう)します。さらに玄吉をもらいうけた武士は、安房の里見家に使いの途中なので、このあたりの定宿(じょうやど)にしばらくあずけておき、むかえにくるともききました。あなたは、この地の旅篭の主人で、かねてから見八を知っているともうされた。すると、この人は玄吉ではないだろうか」といった。
文五兵衛は、信乃の話をききおわり、
「糠助という名まえは、はじめてききました。滸我の御所につかえる犬飼見兵衛さまが、里見家に使いをなされるたびごとに、てまえを定宿となさっておられました。いまから十七、八年、いや、十九年ものむかしにもなるかもしれません。事実、見兵衛さまが、あそこの橋のほとりで、飢え、つかれた旅人が、子どもをかかえ、身投げしようとしたのをおしとどめて、親には路銀をあたえ、その子をひきとり、てまえの宿にこられ、その子をあずけられました。てまえでも小文吾のうまれたつぎの年なので、女房の乳が豊富でした。よくこえてそだち、それから一か月ほどして、見兵衛さまがむかえにこられたのでした。そのご、見兵衛さまからの年始ごとの手紙には、その子の安否がしるされ、歳月をへました。
おととしの秋、見兵衛さまが里見家にまいられたおり、その子をともなってみえました。お供のかたには、見兵衛さまも年老いたので、役儀を辞し、せがれ見八に見習いをさせるため、横堀さまにたのみにいく、といってともなってきたが、じつは、成長した見八の姿を、おまえら夫婦にみせようとしてともなってきたのだ、とのことでした」という。
その見八は、まだ幼いころから武芸をこのんだ。
二階松山城介(にかいまつやましろのすけ)に師事(しじ)、高弟となり、拳法・捕物(とりもの)は藩中随一の武士と称された。小文吾とは、ぞくにいう乳兄弟(ちきょうだい)である。小文吾も武芸をこのみ、見八とはよく似ている。それにともにひとりっ子なので、兄弟の縁をむすばせたが、見八は一か月早うまれなので、兄となり、小文吾は弟となった。
文五兵衛の女房、さらに見兵衛も病死したともつげ、
「この見八さんは、てまえのせがれ小文吾の義兄弟です。小文吾はせがれながら、善につよく、義をおもんじていますので、村の若者頭(わかものがしら)にたてられる侠気(おとこぎ)のあるものです。あなたさまは、悪心があって見八さんを害したのではなく、見八さんもまた、うらみをもってからめとろうとしたのではありますまい。見八さんは、主命にしたがったのです。見八さんが息たえ、あなたさまがひとり蘇生(そせい)したのも命運でしょう。いまさらうらんでもしかたがありません。ひとに知られなかったのは幸いです。このまま、姿をかくしなさい。なきがらは、小文吾にほうむらせますから」という。
信乃は、首を横にふり、
「好意はありがたいのですが、わたしの不注意で村雨をすりかえられたその証(あかし)もせず、いまさら大塚に逃げかえっても、いずれ滸我の追っ手にとらえられるでしょう。この人が糠助の息子見八さんと名のらなくともわかりました。わたしひとり生命をながらえては、いったんひきうけた糠助の遺訓にそむきます。百年いきていても不義のものといわれては、世にたつ甲斐(かい)もありません。大塚に額蔵(がくぞう)とよばれるものがおりますが、じつは兄弟の縁をむすんだ犬川荘助義任(いぬかわそうすけよしとう)がその本名です。もし、情(なさけ)がありましたら、いま果てるわたしのことをつげてください。わたしの腰刀は、おれてしまいました」と手をさしのべて、見八の腰刀をぬこうとすると、文五兵衛は、
「信乃さん、しばらくおまちなさい」ととどめると、信乃は、「とめないでください」とふりはらって、刃を腹につきたてようとする。
そのとき、死んだとおもっていた見八が身をおこし、
「まってください。犬塚どの」とよびかけた。
「おう」と見かえる信乃も、文五兵衛もおどろきあきれて、ため息をついた。

第三十二回 因縁(いんねん)ばなし……力士小文吾(こぶんご)

信乃(しの)はかたちをあらためて、
「犬飼どの、いつ蘇生(そせい)されました? なぜわたしの自害をとどめられましたか」ととうた。文吾兵衛(ぶんごべえ)も、
「息たえたものと落胆(らくたん)していましたが、蘇生されて安心しました」という。見八は、
「そうおもわれるのは、もっともです。まず、その刃(やいば)をおいてください」といって、刀をとりもどし、鞘(さや)におさめて、
「犬塚どの、古那屋(こなや)の主人、いま、突然身をおこしたのでふしぎにおもわれたでしょう。わたしの枕辺(まくらべ)で、なき親の名とわたしの名がかたられているのにおどろき、まるでさめない夢のようにかんじました。それからこころをしずめて聞き、人のまことに感涙(かんるい)しました。話のおわるまで聞こう、とそのままふしていました。
それではわたしの身のうえをおききください。
わたしの父見兵衛(けんべえ)は微禄(びろく)でしたが、徳をむねとし、いつわり、かざることをきらっていました。そだててもらった恩は、実の親にもましてかわりません。実父の形見は、腰につけたまもり袋だけです。そのなかにさまざまな品がありますが、臍帯(ほぞのお)に紙切れがむすびつけてあるのです。それには、


長禄三年(一四五九年)十月二十日誕生す、
安房国の住人糠助(ぬかすけ)が一子玄吉


と女手でしるされています。実母の筆跡(ひっせき)なのでしょう。実の父母は薄命な人よ、と幼ごころにも悲しく、はずかしく、あじけないと涙をながしました。
それにしても名をあげ、家をおこそうと夏も冬の夜も学問・武芸にはげみました。
去年の春夏に、両親をなくしました。そのあと父の職をつぎ、またこの春、獄舎頭(ひとやがしら)につきました。しかし、執権(しっけん)横堀史在村(ふひとありむら)は、権をもてあそび、人をしいたげ、無実の人も獄につながれ、命をおとすこともありました。わたしには、たえられぬことです。それに、実父をたずねなくては不孝とおもい、獄舎頭を辞したいと願状(ねがいぶみ)をさしだしたのですが、横堀史はいかり、わたしを入獄させました。そして百日ほどたち、突如(とつじょ)罪をゆるされ、犬塚信乃をからめとれとの厳命をうけたのです。あとはご承知のように、ともに舟におちたのです」とかたった。
信乃は、首をあげて、
「よくわかりました。糠助さんが、あなたのうまれた七夜の日に、網(あみ)をうち、タイをとり、手ずから包丁(ほうちょう)でさいたおり、魚の腹に珠(たま)があり、文字のようなものが見え、それを産婦によませると、信(しん)の字らしく、それもまもり袋におさめたとききました。その珠は、所持されていますか?」ととうた。
見八はまもり袋の紐(ひも)をとき、
「獄舎につながれていても、まもり袋は身からはなしておりません」と手のひらに珠をのせていう。
信乃が手にとり、
「これこそ、宝です」という。見八は、
「わたしの養父は隆道(たかみち)で、わたしには信道(のぶみち)とつけてくれました。道は養父の一字、信はこの珠の文字なのでしょう。珠の出どころがますます奇怪なることです。それがわかりましたのも、あなたのおかげです」といった。信乃は、
「じつは、わたしもこの珠とそっくりなものをもっているのです。文字は、孝(こう)の一字です。これは犬の傷口からあらわれ出たもので、その珠を手にしたとき、わたしの左の腕に痣(あざ)ができて、そのかたちはボタンの花に似ているのです」と自分をかたり、また額蔵(がくぞう)こと犬川荘助が義(ぎ)の珠をもつこともいった。
見八と信乃は、ふしぎな出会いに兄弟の誓いをたてた。文五兵衛はここで口をはさみ、
「てまえのせがれ小文吾が見八さんと兄弟の約束をしたことは、まえにいいました。小文吾も、犬塚さんたちと盟約(ちかい)の席の下(しも)につらなるのでしょうか。小文吾もひとつの珠をもっています。それは、あなたがたの珠と似ています。その珠の文字は、孝悌(こうてい)の悌の字です。で、小文吾は、自分で悌順(やすより)と名づけているのです。
小文吾の食初(くいぞ)めの祝いのとき、高盛(たかもり)の碗中(わんちゅう)に箸をつきたてると、ころころところび出るものがありました。それを見ると珠なのです。小文吾もふしぎにおもい、まもり袋におさめています。
小文吾は、まだ子どものころから、武芸をこのみ、力技だけつんできました。八歳のころ、十五歳になる童(わらべ)と相撲(すもう)をとり、相手をなげたが、小文吾もまたすべり、石に尻をうちました。そのとき大きな痣ができたのです。その痣は、ボタンの花に似ています」という。
見八は、信乃の顔をみて、
「わたしは、小文吾とあって、その人柄は知っています。まだ知らぬ額蔵の荘助とともに、四人は同因同果の過世(すくせ)があるのでしょうか?」といった。
信乃もうなずき、文五兵衛にとうた。「小文吾さんは、どのようなこころざしをおもちですか」
「まず、てまえの素性(すじょう)からあかしましょう。てまえは、安房半国(はんごく)の主、神余長狭介光弘朝臣(じんよながさのすけみつひろあそん)の近習(きんじゅう)の臣、那古七郎由武(なこしちろうよしたけ)の舎弟(しゃてい)なのです。山下柵左衛門定包(さくざえもんさだかね)の逆謀で光弘が殺害されたおり、兄七郎は、金碗八郎孝吉(かなまりはちろうたかよし)のもとの下僕、杣木朴平(そまきぼくへい)・洲崎無垢三(すざきむくぞう)らとたたかい、無垢三をきりましたが、自分も深手をおい、朴平にたおされたのです。そのときてまえは十八歳、それに病弱のため定包をうつこともできず、母の故郷の行徳にまいり、のちに旅篭屋(はたごや)をいとなみ、屋号を那古の姓を逆に古那屋としました。小文吾は武芸をこのみ、身の丈も五尺九寸、ちからもじゅうぶんあります。
いつでしたか、この里に犬太(いぬた)というきらわれものがいました。そのちからは強く、酒と賭博(とばく)にあけくれ、家ごとに銭をかりてはかえすことなく、毒蛇(どくじゃ)のようにおそれられていました。その犬太は、道のまんなかに一本の縄(なわ)をひきわたして、紙片をむすび、《この道を通ろうとおもうものは、銭百文(もん)をだすべし。それにそむくものは、首をとる。もしこの犬太がころされても、うらみはない》としるし、そのかたわらの石に尻をかけて見はっていました。ここをとおる人びともなく、みな難儀するばかりです。
その年、小文吾は十六歳、犬太の無暴をたいへんいかり、一人その道にでむきました。縄をちぎって通ろうとすると、犬太はおおいにいかって、こぶしをかためて小文吾の眉間(みけん)をうとうとしました。小文吾が身をかわし、足をとばしてけると、犬太はころがり、その上に小文吾がのり、ふみつけました。犬太は血をはき、息たえたのです。犬太は鎌倉をおわれてきたもので、妻子もなかったのです。里人はそれから、小文吾を犬田小文吾とよぶようになりました。てまえは小文吾をよび、刀を腰にさしても、ぬくことを禁じ、ひととあらそっても、うつことはならぬ、とちかわせたのです。そのあと、小文吾はひととあらそうことはしません。
近ごろ、このようなことがおこりました。
鎌倉の大先達念玉(だいせんだつねんぎょく)・修験道観得(しゅげんどうかんとく)という二人の山伏(やまぶし)がおります。この人たちは僧ながら武芸をこころえ、相撲がすきなのです。もともと、先祖は兄弟のわかれたもので、いまも血縁のあるものですが、先達職の所得をあらそっているのです。二人ともその証(あかし)の文書をもっているからです。両管領(りょうかんれい)も、どちらときめかねて示談をすすめたのです。そこで二人は、相撲の勝負できめることにしたのです。これにかったものの所得をまし、まけたものがその弟子になるという誓紙(せいし)をかわし、たがいに自分の力士をさがしました。
念玉坊は小文吾のうわさをきき、この行徳にきてさそいました。観得坊は、小文吾の妹婿で、市川にすむ二十歳(はたち)になる山林房八(やまばやしふさはち)をさそいました。房八は、川船数艘(そう)をもち、それを生業(なりわい)としており、これも少年のころから相撲をこのみ、その技はすぐれています。身の丈は五尺八寸、ちからは山をぬくとまで評判になっています。その顔はやさしく、美しい若ものです。失礼ですが、犬塚さんと似ています。
この十月の十八日未明、八幡宮の社頭で、相撲がもよおされました。東西に桟敷(さじき)をもうけ、念玉・観得は、従者(ともびと)とともに、これを見にきたのです。もちろん、里人も、見物をゆるされました。行司は、東西から一人あてよびだします。はじめは小文吾・房八の弟子たちです。この弟子相撲が九番ありました。
むすびの十番めの小文吾・房八にすすむと、桟敷は、どっとわきました。行司がさっと軍配をあげると双方たちあがり、くんでははなし、はねるとはずし、技もちからもひとしく、半刻(はんとき)ばかりもみあっていたのです。
小文吾は、左をさしている房八の、腕(かいな)をひらりとふりほどき、足かけしようとするところの背をうつと、房八は三足ほど走るようにし、うつぶせにたおれました。桟敷席から、どっと歓声があがりました。
だが、この日から、小文吾と房八は不仲となりました」とかたった。
行徳の浦から、笛太鼓(ふえだいこ)の音がながれてきた。まるで、相撲の打ち出しのようだ。文五兵衛は、
「これは、話がながくなりました。あの笛太鼓は、牛頭天王(ごずてんのう)の神輿(みこし)洗いの供奉船(ともぶね)なのです。どうやら、日が暮れてきました。こちらへ」と信乃・見八をさそい、岸にあがろうとすると、水ぎわの葦(あし)をかきわけて姿をみせたものが、声をかけた。
「ここは千葉家の領地ですぞ。滸我(こが)の御所とは縁があるゆえ、うったえられれば、さわりがあることを知らないのですか」
文五兵衛はおどろき、信乃・見八の顔をみかえった。こうよびかけたものはだれか?

第三十三回 岸辺のくせもの……現八(げんぱち)改名

信乃・見八・文吾兵衛(ぶんごべえ)の三人は、目をあわせた。その声の主は、ふろしきづつみを左手にうつし、右手でほおかむりの手ぬぐいをとり、額の汗をぬぐった。犬(いぬ)田小文吾(たこぶんご)である。文五兵衛はおこり、
「祭の酒によったのか。この人たちに仇をするのか」ときつくいうと見八は、
親父(おやじ)さん、腹をたててはなりません。話がながいので、注意してくれたのですよ」となだめ、
「小文吾さん、かわりないか? おもいがけない再会だ。蘇生したのは、親父さんのおかげです」といって、信乃に「このものが、小文吾です」とひきあわせた。信乃は、
「こちらにおいでください。わたしは犬塚信乃戌孝(もりたか)です。小文吾さんと初対面とはおもえません」といった。小文吾は、
「おどろかせて失礼しました。興にまかせての高声(たか)話(ばなし)は、老人のくせです。親父をたずねてきて、立ち聞きしてしまいました。珠のこと、痣(あざ)のこと、とわたしも過世(すくせ)に縁のあることを知りました。それで、いそぎ家にもどり、下女にひまをだし、ふたたびきたのです」とつげた。文五兵衛は、
「よくいったぞ。小文吾。それなら先に走って案内せよ」という。小文吾はそれをとどめ、
「日がおちましたが、祭で人の行き来もはげしく、門ごとに灯篭(とうろう)のあかりがあり、お二人をあやしむでしょう。この着物にきがえてください」とふろしきづつみをといた。二人の着がえと、刀が二振(ふたふり)もでてきた。小文吾は、
「この着物は、仁田山木綿(にたやまもめん)です。この着物のあいだの衣(ぬの)も二すじか三すじあり、そのなかに貝にはいった膏薬(こうやく)があります。これは、相撲とりのすり傷・うち傷にききめがあるのです。信乃さんの腰の痛みにききましょう。刀は安物ですが、これをさしてください」といった。信乃は、「これは、ありがたい」といって、見八とともにきがえた。二人がぬぎすてた着物をひとまとめにしてふろしきにつつみ、小文吾は、
「親父、二人を案内していってください。わたしは、舟をおしながします。釣棹(つりざお)などわすれてはなりません」という。
信乃・見八は、文五兵衛の案内で古那屋(こなや)にむかった。
小文吾は、舟をおしながし、「これでいい」とひとりごとをいい、ぬれた足をぬぐった。
すっかり日は暮れはて、闇夜だ。小文吾は、草履(ぞうり)をひっかけてかえろうとした。すると、葦(あし)のほとりから、縞の浴衣に唐織(からおり)の帯をしめ、一振を腰にさし、藍(あい)しぼりの手ぬぐいで、ほおかむりしたものがあらわれ、小文吾の刀のこじりをつかみ、せなかのふろしきづつみをひきとろうとした。なかから麻衣(あさぎぬ)がおちた。
小文吾はそうとは知らず、くせものをはらい、のがれた。くせものは麻衣をひろい、微笑をうかべ、塩浜のほうに去った。
文五兵衛は、信乃・見八を背戸(せど)から家にいれ、奥の座敷にまねいた。二人は安堵(あんど)した。文五兵衛は、酒や食事の用意をととのえて、すすめると、
「暑いのは毎年のことですが、ことしは雨がふらず、旅する人もすくなく、てまえの店にも念玉坊(ねんぎょくぼう)ただ一人がとまっているだけです。それも白昼から出ており、あしたにならなければもどりません。下男もみなおりませんので、不自由でしょうがご安心ください。用がありましたら、手をたたいてくだされ」という。
信乃・見八は箸(はし)をおき、
「親父さんの手一つで、このようにごちそうになり、厚くお礼もうしあげます。あしたは、出立させていただきます」と頭をさげた。文五兵衛は、
「いや、せがれとともに義をむすび、おのおのがたと兄弟ですので、おかくまいしましょう。さあ、箸をあげてください」とすすめた。信乃・見八は、
「よき親父をえて、わたしどもは幸せです」という。
いっぽう、小文吾はくせものにとりすがられ、ふろしきづつみから信乃の麻衣をおとした。それをくせものにひろわれたことを知らない。
「あいつは、ひとの懐中をねらう小盗人か。それとも、舟のなかの密談をぬすみぎきにきたものか。いや、わたしにうらみでもあって、闇討ちしようとしたものか」とつぶやきながら、家にもどると、ふろしきづつみを戸だなにおさめて、座敷にはいった。
信乃・見八は、小文吾をむかえ、文五兵衛父子への感謝をのべた。小文吾は、
「すこしばかりの恩にそのようなおことば、おそれいります。わたしは珠のこと、痣(あざ)のことはききましたが、まだ拝見しておりません。お見せくださいませんか」といって、ふところからまもり袋をとりだし、一つの珠を見せた。信乃・見八も、それぞれ珠を見せた。三つの珠は孝・悌・信の三文字となる。文五兵衛は、「小文吾、お二人に痣(あざ)もおみせしてはどうだ」という。
小文吾は、帯をとき、背の痣をみせた。ボタンの花と似ている。小文吾は着物に袖をとおした。
信乃も自分の痣をみせた。
小文吾は、「ますます奇なることだ)」と感嘆する。
信乃は、「この三人にもう一人、犬川荘助義任(いぬかわそうすけよしとう)、仮の名、額蔵(がくぞう)をくわえるべきです」と、額蔵の人柄をかたった。
与四郎と名づけた犬のなきがらを庭にうずめたところ、ウメの実が八房(やつふさ)みのり、その実に文字があらわれた。仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)・忠(ちゅう)・信(しん)・孝(こう)・悌(てい)の八文字がはっきりとよまれたこともいった。
「わたしは、その実の核(かく)ももっています。核は丸く、いささかちいさいが、さきほどの珠に似ています。きっとわたしどものほかにも珠を所持する人がいるのではないだろうか」とも信乃はいった。
見八は、あらためて盃(さかずき)を信乃と小文吾にすすめて、
「われら、楽をともにしなくても、苦しみをともにしましょう。おなじ日にうまれずとも、おなじ日に死にましょう」という。
小文吾は文五兵衛に、
「この旅篭に客はないが、あしたは念玉坊がもどってくるでしょう。それから、相撲のことで房八(ふさはち)は非常にうらんでいます。妹婿でもこころをゆるせません。お二人には、ほかにうつっていただきましょう」といった。岸辺のくせもののことが気にかかるからだ。
文五兵衛は、「そうだ」とこたえた。見八は、
「この地を領する千葉家は、滸我(こが)どののみかたです。また横堀在村(よこぼりありむら)は、疑い深い人だ。わたしと信乃さんが義をむすび逐電(ちくでん)したときけば、いっそう、わたしをにくむでしょう。で、わたしは、名をあらためたいとおもいます。見八の見は、養父の字(あざな)の一字なので、見に玉をくわえて現八(げんぱち)ととなえましょう」といい、こよいから現八とあらためることにした。
夜がふけた。しきりに戸をたたくものがいる。小文吾が戸口にむかって、
「いまごろ、だれだい?」ととうた。そとのものが、「おれは、塩浜の鹹四郎(からしろう)です。浜辺で若ものどもがいさかいをおこして、けが人もおおく出ました。そのなかには、小文吾さんの弟子も、山林房八の弟子もおります。相手はよそのもので、話がつきません。小文吾さんに、仲にはいってもらいたいのですが……」という。小文吾は舌をうち、
「折も折とて、やつらの争いか。いま人手はないが、知らぬ顔もできぬ。いまいくから、さきにいっていろ」といった。鹹四郎(からしろう)は、
「それでは、おまちしています」と、足音高く走り去った。小文吾は座敷にもどり、
「いま、おききのとおりです。祭の夜に家にこもっていては、うたがわれます。親父、お二人を臥房(ふしど)に案内して、戸をしめてください」といった。
文五兵衛が、「小文吾、ひとのけんかをかうなよ」というと、小文吾は、
「承知しています。まけた房八が横車をおしてきても、相手にしません」とこたえた。
文五兵衛は、懐紙(ふところがみ)をさやさやとひきさき、ひねってこよりをつくり、
「小文吾。ひととあらそってもひとをうったり、刀をおびても刃(やいば)をぬくな」と、小文吾の刃の鍔(つば)にこよりをむすび、さらに小文吾の右の親指と小指のつけねをこよりでむすびつけた。
小文吾が、「なにをなさる」というと、文五兵衛は、
「これは、小文吾にしのべよとの親ごころだ」という。小文吾は頭(こうべ)をたれていた。
信乃・現八も、
「心という字は、くさりに似ています。刃に心のくさりをすれば、忍(しのぶ)となります。しのびがたきをしのべば、うらみも悔いもありません。われらには親はなく、うらやましい」という。小文吾は、
「まるくおさめるようにしましょう。夜もふけました。それでは、おやすみなさい」といって、立った。
文五兵衛が、「それをきいて安心した。提灯(ちょうちん)をもっていかないのか?」というと、小文吾は、
二十日(はつか)あまりの月で明るい。提灯は、わずらわしい。夜明けにはもどります」と出ていった。文五兵衛は戸をとざし、信乃と現八は座敷に蚊帳(かや)をつり、納戸(なんど)にさがった。丑三(うしみ)つの鐘がごうごうとなりひびいた。
あくる朝、文五兵衛は朝の膳(ぜん)の用意にかかった。日がのぼったが、小文吾はかえらず、二人の客もおきていない。しばらくして、文五兵衛は納戸の障子から、
「まだめざめませんか?」と声をかけた。
現八は、おきていて、「わたしは、とうにおきていますが、信乃さんは未明から傷がいたみ、くるしんでいます。きのう、川風にあたり、破傷風になられたのでしょう」という。文五兵衛はおどろき、
「それはいけません。まず、容体をみましょう」といい、信乃の顔を見て、
「信乃さん、いかがですか? なにか、ほしいものはありませんか」とたずねた。
信乃は目をあけ、さも苦しそうに、
「親父さんか。小文吾さんはまだもどりませんか?浮世をしのぶ宿で、重病にかかりました。胸が苦しいのです。生か死か、これも、天命です。すておいてください」といって、目をとじた。文五兵衛はため息をつき、現八をとなりの座敷によび、
「だいぶ苦しそうですね。顔色もわるい。このままでは、本復(ほんぷく)もあやうい。しかし、おたずねものゆえ医師もよべぬ。ただ、てまえの兄の那古(なこ)七郎の相伝の破傷風によくきく方法があるのです。その方法は、若い男女の鮮血をそれぞれ五合とり、それを傷にそそいであらうと、痛みが去り、はれもひき、傷はなおり、気力も一日で本復するのです。これは、小文吾にもつたえてあります。しかし、鮮血五合とられた人は、かならず死にます」という。
現八は、沈黙した。思案しているのだ。
「血洗いの方術がよいといっても、医は仁術(じんじゅつ)ゆえ、人をそこなっては、不仁の術となります。武蔵の国の司馬浦(しばうら)に、破傷風の売薬があります。少年のころから、効果があるときいています。ここから司馬浦までは、五里か六里です。日もながいことですから、いまからいそげば、八つ(午前二時〜四時)にはもどれるでしょう。薬屋の名は、たしかではないのですが……」と声をひそめていった。
「そうですか。その薬ならよいでしょう。しかし、そのからだで、道中はだいじょうぶですか?」と文五兵衛は、自分か小文吾がかわりに行こうという。
現八は、それをおしとどめて、
「信乃さんにはつげずにまいりましょう。信乃さんにきかれたら、ご老人から話をしてやってください」という。文五兵衛は、飯行李(いいごうり)に、笠(かさ)・脚絆(きゃはん)・草履(ぞうり)までそろえてくれた。現八は、笠を深ぶかとかぶり、背戸からそっと出た。

第三十四回 たえしのぶ……房八(ふさはち)のうらみ

文五兵衛は、現八(げんぱち)を見おくり、家にはいった。小文吾のことも気にかかる。いま時分まで、なにをしているのか?
信乃は、めざめた。が、箸(はし)をとらぬ。「現八さんの姿がみえぬが……?」という。
文五兵衛は、かくさずにしかじかとつげた。
信乃は、ため息をつき、
「現八さんも、傷をおっているのに」という。
文五兵衛は、足音がするので、小文吾かと立ってみると、村長(むらおさ)の使いの下男だ。
古那屋(こなや)の親父どのはいるか。村長からのいそぎの使いだ。はやくきてほしい」とさけびたてた。
文五兵衛は、わざとゆっくりと、
「さわぎたてるな。村長どのの用でも、女どもがきのうから一人もおらず、せがれもまた出かけていて、留守をするものがいない。しばらくまってくれ」というと、下男は目をみはり、
「留守がいようといまいと、すぐつれてこいとのこと。さあ、いっしょにおいでなさい」といそがせて、かまちに尻(しり)をかけた。文五兵衛は、
「さて、村長のよびだしとは、あのことか?」と、不安になりながら、「それでは、ここでまて」といい、奥をみせぬように障子(しょうじ)をしめ、信乃のふしている座敷にいき、ささやくように、
「村長の屋敷は、ここから半町ばかりです。小文吾も、ほどなくもどるでしょう。薬も白湯(さゆ)も枕もとの火にかけてあります。不自由でしょうが、一人でいてください」という。信乃は、ききながら眉(まゆ)をひそめ、
「不便なことはかまいませんが、村長によばれたのは、わたしのことではありませんか。病いがおもいので、いのちはおしみはしません。現八さんがここにいないのが、幸いです。もし、わたしのことにかかわり、難儀がかかったなら、腹をきって死ぬまでのことです。この首をはね、罪からのがれてください」という。
文五兵衛は、
「そんなことをいってはいけません。村長によばれるのは、いつものことです。旅篭(はたご)をいとなんでいるので、月に二度、三度は宿帳をしらべられますから。きょうも、そのことでないなら、浜の争いのとばっちりでしょう。つまらぬことを気にかけないで、養生(ようじょう)してください」と早口にいって、表にでた。
下男といっしょに、村長の屋敷にむかった。
前夜、浜にでむいた犬田小文吾(いぬたこぶんご)は、いさかいの次第をただし、市川の山林房八(やまばやしふさはち)のもとに使いのものを出した。だが、房八は留守で、あくる日、また使いのものをやったが、それでも、房八は姿をみせない。で、小文吾は、和解は後日のこととして、きずついた市川のもののしまつなどがおわると、家にいそいだ。
栞崎(しおりざき)という松原をとおりかかると、
「犬田、まて」とよびかけるものがいた。
小文吾がふりかえると、さがしもとめていた山林房八だ。越後縮(えちごちぢみ)の麻衣(あさぎぬ)に、もえるような緋縮緬(ひぢりめん)のふんどしの前さがりをちらつかせて、銀(しろがね)の胴輪(どうがね)をほどこした一刀(ひとこし)をさし、黒絽(くろろ)の単羽織(ひとえばおり)をほそくたたんで、帯につけている。それに、夕陽をさけようとしてか、さらしの手ぬぐいを頭にまいて、端を額のうえでまきとめ、朱緒(しゅお)のキリの下駄(げた)をはいていた。色白で、文五兵衛のいったように、どこか犬塚信乃に似ている。
小文吾は、微笑をうかべて、
「おや、市川の婿どのではないか。神輿洗(みこしあら)いのさわぎで、市川のものとこっちのものとがきずついたというので、おまえをよびにやったが、顔をみせない。しかたがないので、おまえの分までしまつをしたぞ」といった。房八は、あざわらって、
「それは、とんだ骨おれだった。あとできくと、そっちのものは浅手で、市川のほうは、三人までひどい傷だという。なんの五分五分なものか。それは、片手落ちの裁きさ。房八は、女房の兄がこわくて、知っていても知らぬふりして引きさがった、と世間の人にいわれては、おれの在所では歩ける道がなくなる。死んでも名折れ、いきても恥辱(ちじょく)、出入りの種(たね)をまきなおし、花をさかせなければ、おれの身がたたぬ。思案して返答しろ」と、たけりたっていう。
小文吾は、その手にはのらず、
「房八。それは、おまえのひがみだ。甲乙つけて、わけたなら、片手落ちといわれるだろう。一昼夜まってもこないおまえをたてて、こっちからおくってやったのは、おまえに花をもたせたからだった」という。
房八は、袖(そで)をまきあげて、
「そんないいわけをきくものか。侠(おとこ)だてのすたったおれに、どのようなあつかいをしてもかまわぬ、との心根(こころね)でさばいたのだろう。あの八幡の晴相撲(はれずもう)で、おまえにまけたので、生涯(しょうがい)土俵をふまないとおもったおれだ。このとおりだ」と、かぶっていた手ぬぐいをとり、そりたての《さかやき》をなでた。
「親の意志をよそにして、きょうまでおしんできた額髪(ひたいがみ)をそりおとしてこの青頭、これが武士なら、弓矢をすてて発心(ほっしん)入道となったところだ。落ち目にたたるこのたびの出入り、相撲の日からおじけづき、故郷にちからをいれず、おのれからつぶすといわれては、お釈迦さまでも還俗(げんぞく)するだろうさ。夫婦は、もともとあわせもの、女房を離婚すれば、義兄(あに)とはいわせぬ。白黒つけよう」と、いきおいづいていう。
「おまえは、ひどくのぼせているようだ。額髪までそりおとし、得度(とくど)ぶりは見あげたぞ。だが、かたちとこころはうらはらで、相撲の遺恨(いこん)を拳法(やわら)ではらそうとは、おとなげないぞ。きょうは、いそがしい。文句は、あしたでもきこう。こよい一夜は、あずけてくれ」となだめて、立ち去ろうとすると、袂(たもと)をつかみ、
「理屈をつけて、逃げようとするのか。のがすものか。いま、ここであいさつしろ」といきまきながら、着物の裾をけあげ、それをつかんで高くはしょる。
小文吾はもてあまし、思案しながら、
「それなら、どのようにあいさつしたらいいのだ? おまえの顔をたてるには」というと、房八は袂をはなし、
「こうしてたてる」とからだをそり、刃(やいば)をぬきかかり、いきなりつめよる。小文吾は、そのひじをおさえ、半分とぬかせず、房八の顔を見て、
「おまえ、酒にようたのか。ききわけのない。ひとをころせば、おのれもころす。親のなげきや子のことをおもわないのか」とたしなめ、ひじをつきはなすと、ますますいきりたち、下駄をぬぎすて、
「小文吾、刃におそれたか。生酔(なまよ)いよばわりは、胸わるい。おまえは、この房八にいつ酒をのませてよわせたというのだ? 親子のことも承知だ。さあ、勝負しろ!」と、声をふりしぼり、玉ちるような刃を、またぬきかけてつめよった。
小文吾も、いまはたえかねて刀の鍔(つば)に手をかけた。が、鍔ぎわにこよりがむすびつけてある。怒りをおさえ手をはなし、
「房八、なんとでもいいたければいうがいい。おれには、親父がいる。二つとない命だ。相手はごめんだ」というと、房八はあきれはて、からからとわらい、
「長い刀をひけらかしても、まさかの時はぬかないのか。それもそのはずだ。見れば、よりをむすんでいる。それならともに、拳(こぶし)がくだけるまでうちあおう。かかってこい」と、諸肌(もろはだ)をぬぎ、足をふみならした。
小文吾は、指にむすばれたこよりを見て、うごきができぬ。手をこまねいて頭をたれた。房八は、それを見てわらった。
「小文吾。なぜ、たちあわぬ。相撲とちがって、いのちがけの勝負がおそろしいのか。からだはおおきいが、見かけばかりだ。このような臆病(おくびょう)ものをうっては、おれのこぶしもけがれるというものだ。これでもくらえ」と足をとばして、むこうずねをけった。
小文吾は、尻もちをついた。すると房八は、土足で肩をふみつけた。小文吾は片膝(かたひざ)をついたまま手をあげて、その足をつかまえた。房八をにらみつけて、見あげる顔には朱がそそがれたが、たえがたきにたえなければ、怒りをしのべといわれた父親の諭(さと)しにそむくことになり、親不孝、友には背信となると、ぐっとこらえた。涙がながれたが、小文吾は汗をぬぐうようにして、まぎらわせた。
このようすを、木かげでみていたものがいる。鎌倉の山伏(やまぶし)、観得(かんとく)である。微笑をうかべながら出てきて、二人の近くにきて、扇(おうぎ)をひらき、房八をたてにあおいだり、横にあおいだりしながら、
「めでたし、めでたし。これで、相撲の恥をぬぐい去ったであろう」と、小鼻をはっていった。房八は、
「もっとも、八幡宮の相撲にもまけるはずなどなかったが、おもわぬことで小文吾がかった。観得坊、おまえさんも、そのはらいせに、ちっとふんでおやりな」と得意げにいう。観得はためらって、
「いや、いや。それは、いらぬことだ。おまえで、じゅうぶんこたえたろう。このままにすてておき、例の酒屋で一献(いっこん)くもうではないか。はやくいこう」と、さそった。
房八は着物をなおし、下駄をはき、小文吾に、
「犬田小文吾。これですんだわけではないぜ。いってやることがあるが、それは、こよい、おれがいってからいうわ。留守などつかうな」とにくにくしげにいって、観得のあとから町なかの酒屋に出かけた。
しばらくして、小文吾は頭をあげ、ようやくたち、裾の砂をはらい、襟をかきあわせた。
「それにしても、日ごろの房八に似ぬ無法のふるまいだ。八幡宮の相撲を根にもちつづけている。もともとは、他人の争いをひきうけて、妹婿からうらみをかってしまった。房八をうちたおすことはむずかしくないが、相手になってはならぬとの親のいましめ、妹へのこの兄の慈悲(じひ)がわからないのだ。馬鹿者の無法だ」とため息をつき、みだれた鬢(びん)をかきなでて、歩(ほ)をはやめた。
三町ほどくると、藁塚(わらづか)あたりから、捕手(とりて)が八、九人走り出てきて、「にがすものか」ととりかこんだ。
小文吾は赤く花のさいたサルスベリの木を盾(たて)に、「おれはつかまる罪などないぞ。人をまちがえるな」という。
「小文吾、手むかうな」と、声高(こわだか)に声をかけたものがいる。村長(むらおさ)の千靹檀内(ちともだんない)だ。見ると、しばられた文五兵衛もいる。小文吾はおどろいた。捕手を指揮しているのは野装束(のしょうぞく)の武士だ。その武士が、小文吾にいう。
「小文吾。われは滸我(こが)どのの御内(みうち)、武者頭をつとめる新織帆太夫敦光(にいおりほだゆうあつみつ)だ。犬塚信乃というくせものが、しかじかのことで御所をさわがした。捕手の犬飼見八とくみうちし、芳流閣(ほうりゅうかく)の屋根の棟(むね)から、河原につながれていた舟のなかにころげおち、ゆくえをくらまして逃げた。それから、わたしが追捕(ついぶ)をうけたまわって、この里にきた。しばらく長途の疲れをやすめ、村長檀内とかたらって、ひそかに信乃をさがしもとめたが、あの舟が、葛浦(かつうら)の沖にただよっているのを見つけた。だが、舟があっても人がいない。これは、信乃が見八を水中にしずめて陸からのがれたものか。そうなら、この浦に潜行している、とかんがえた。で、檀内に里じゅうを手おちなくさがさせた。
小文吾の父、古那屋文五兵衛の家に、二人の客がとまったとわかった。その一人は、けさ立ち去ったらしい。まだ一人がとまっている。この二人は、武士だ。そこで文五兵衛をよびよせ、ことの次第をといただしたが、その答えはうやむやだ。そのとまり客が、犬塚信乃だからであろう。これは、文五兵衛も同罪となる。それゆえ、しばりあげたのだ。古那屋にいこうとすると檀内が小文吾の姿をみつけたので、よびとめたのだ。そのほうの旅篭にとまった旅人のようすをかたるがいい」とせまった。
檀内もまた、
「小文吾。おまえも知っているだろう。当領千葉どのは、滸我(こが)の御所のみかたであられることを。その千葉どのの下知にしたがわなければ、とがめはまぬがれぬぞ。くせものに宿をかしたと自訴(じそ)するなら、その科(とが)ものがれて、ほうびをたまわるだろう。信乃は、武芸抜群(ばつぐん)・勇力無双(ゆうりきむそう)ときいている。で、いつわってからめとるか、ふいにおそってさしころし、その首をはねてさしだすなら、親の縄目(なわめ)をとくのみならず、御所におかれても満足なされるだろう。これは、小文吾の名誉、領主への忠節となる。小文吾は、相撲をもって近郷に知られている。技(わざ)もちからも、このようなときにこそ見せるべきだ。思案して、領主の恩をうけることだ。ここがだいじなところだ」と、ことばたくみにいう。
小文吾は、父文五兵衛や、義をむすんだ信乃のことなどを脳裏(のうり)にかけめぐらせる。
だが、その苦悩を顔には出さずに、
「おおせのおもむき、委細うけたまわりました。しかしながら、わたしは、きのうの祇園会(ぎおんえ)から浜辺にあそんでおり、家にはかえっておりません。いま家にかえろうとするところで、おもいがけぬ科に、ただただおどろいています。その旅人は、武士なのか、百姓なのか、まだ見ていませんので、わかりません。
それはともかく、親の縄目をといてくださるなら、ご一行のご案内をねがってでもおひきうけいたします。ただ、証拠もあきらかでないのに、貧乏をかくす家のうちを、すみずみまでさがされるのは、このうえもない恥となります。もし、そのくせものが逗留(とうりゅう)しておりましても、武芸勇力にすぐれた太刀風なら、おおぜいでうちかかっても、とりにがすことになるかもしれません。三十六計だますがよし。わたしにおまかせくだされば、なにごとも親のためです。ひとつ家にたちもどって、その旅人がいるなら、はかりごとをもってからめとりましょう。さらに、手だてがつかなくても、無理に酒をのませて、よってねたところで首をはねて、さしだしましょう。このかんがえは、いかがでしょうか?」と、たくみな弁舌(べんぜつ)に、帆太夫も、「そうだ、そうだ」とうなずいて、
「そのほうの意見は、もっともだ。信乃は万夫不当(ばんぷふとう)の勇者だ。われらが手のものがきりたてられて、とらえることができなかった。それではしばらく、そのほうにまかせよう」といって、檀内に、
「信乃の絵姿を出すといい」といって、絵姿をひらき、「小文吾。これが、犬塚信乃の絵姿だ。武士であれ百姓であれ、その旅人の歳かっこうをこの絵姿とひきあわせて、すこしでも似ているなら、いつわってもからめとれ。おもいちがい、見ちがってもとがめはない。市内(まちうち)の出口、江河の船着場(ふなつきば)に兵どもをふやし、厳重にまもらせるが、そうかといって、おそくなるようなことがあってはならぬ。こよい一夜かぎりとする。夜があけたなら、その首尾をとどけ出るのだ。わかったな」といって、絵姿を供(とも)のものからわたさせた。
小文吾は、それをうけとって、見てからまき、懐中にいれ、襟をかきあわせて、
「このように、いのちがけの役目をおうけしましたので、親の縄目をといて、わたしにあずけてください」といった。帆太夫は声高に、
「いや。それは、まだならぬ。親を子に、子を親にゆだねることは禁じられている。そのほうとて、ひとつ穴のムジナかもしれないだろう。くせもの信乃をからめとるか、首をはねて持参するか、二つに一つの功あるまで、文五兵衛は人質(ひとじち)だ。親をすくうのも、罪をつぐなうのも、すべてそのほうのこころにあるのだ」としかるようにいう。
小文吾は、おのれの計略がやぶれたことにため息をはき、首をたれて沈黙した。檀内が帆太夫にいった。
「日がおちてきました。くせものが、夜にまぎれて逃亡するかもしれません。小文吾をかえし、出口のまもりをかためることが必要でしょう」
帆太夫は、海のほうをみて、
「日が、海にしずもうとしている。小文吾、はやく功をたてて、村長までもうし出ることだ。はやくいけ」といい、文五兵衛をひきたて、檀内の屋敷にむかった。
小文吾の胸はさわぎ、かきむしられるばかりだ。見おくると、おいたてられ、つまずく老父のうしろ姿が、呉竹(くれたけ)のやぶにへだてられてみえなくなる。
小文吾は、愁然(しゅうぜん)となげき、
「六十に近い親の縄目をとくことはたやすいが、ときがたきは、義の一字のおもさ。しばらく、たえてください。かならず、すくいます。それにしても、父もそうだが、あの人びともつつがないような思案はないものか」と、腕をくみ、おもった。
入会(いりあい)の鐘の音も、胸にこたえた。小文吾は、たそがれの空を見あげた。
「われながら、めめしい。ここでおもっていても、しかたがない」と、おのれにいいきかせ、足をはやめた。あとをつけてくるものがいるか、と目をくばった。夕風が涼しいが、汗がふきだす。
家近くくると、店の前のすだれのあたりが暗い。戸一枚をあけてはいり、「まず、灯火(ともしび)を」とつぶやき、行灯(あんどん)に灯(ひ)をつけ、ひとつは店先におき、ひとつははなれ座敷にさげていった。現八の姿はなく、信乃ひとりがふせっている。
小文吾は、信乃にそのわけをきいた。
信乃はおきなおり、傷がいたみ、苦痛にたえられぬこと、現八が薬をもとめに司馬浦に出むいたこと、文五兵衛が村長の使いのものと出ていったことなどをつげた。呼吸があらい。小文吾の憂(うれ)いもふかまるばかりだ。だが、親のこと、房八のことはかたらぬ。粥(かゆ)をにかえして、信乃にすすめた。信乃は、箸をとった。
そのとき、店先で、
「だれかおらぬか」とよびながら、うちにはいってくるものがいる。これは、なにものなのか?

第三十五回 とついだ妹の帰還(きかん)……妙真の悲しみ

小文吾(こぶんご)は障子(しょうじ)をしめ、店先に走りでた。来客は、鎌倉の修験者(しゅげんじゃ)念玉(ねんぎょく)だ。左手におおきなほら貝をもち、右手に渋染(しぶひき)の扇をもって胸に風をおくっている。店の行灯のそばにすわっている。
小文吾を見て微笑をうかべ、
「小文吾さん、いまかえりました。ゆうべの神輿(みこし)洗いは、にぎやかでしたが、そのうちあっちこっちの男どもの争いで、祇園会(ぎおんえ)も殺風景となりました。いざもどろうとしましたが、浜辺は涼しいので、すごしてしまったのです。八幡宮の相撲で、小文吾さんがかってくれたので、拙僧(せっそう)の争いにもかちました。
こころにかかる雲がはれたので、ことのついでに旧跡、真間(まま)・国府台(こうのだい)あたりまで見ておきたい、と長逗留(ながとうりゅう)してしまいました。で、あしたかあさっては、鎌倉にかえろうとおもっています。いましばらく、やっかいになります」という。小文吾は、こまりはてたが、客をことわることはできない。
「それは、なごりおしいことです。こよいは、こころばかりのおもてなしをすべきですが、女どもが、きのうから一人もおりません。親父(おやじ)も人のさそいで、近くにまいっており、留守はわたし一人です。しかし、夕膳(ゆうぜん)は、わたしがつくりましょう」といった。
念玉は、首をふり、
「いや、いま赤提灯(あかちょうちん)で飯も酒もすませてきました。どのような美味でも、あしたの分までは腹にはいらぬ。いつもの部屋だね。蚊帳(かや)をさしてほしい。もう寝たいものだから」と立とうとする。手には貝をもっている。
小文吾は、あわてて、
灯火(ともしび)をおいていませんので、座敷は闇(やみ)です。灯をともしますまで、おまちください」といい、貝に目をとめ、「それは、めずらしい大貝ですな。どこで手にいれたのですか?」ととうた。念玉は、
「これは、浜辺の家にあったので、買いもとめたのですよ。水をいれたら、一升(しょう)あまり、二升もはいるかもしれません。」という。
小文吾は、大貝を手にとって、
「ほんとうにおおきなほら貝ですね。浜辺近くにすんでいるわたしどもでも、このようなものは見ません。物はこのむところにあつまるといいますが、ほら貝なので、修験者の目についたのでしょう」と徴笑をうかべた。念玉もわらって、
「あそこの壁の下の尺八は、そなたのものか」と指さしていう。小文吾は、
「あの尺八はわたしのものではありません。だれかがわすれたのでしょう」とこたえた。
念玉は、膝(ひざ)をすすめ、腕をのばして尺八を手にし、袖(そで)で歌口をしめして、ほう、ほう、ほう、とふきこみ、
「これは、よい尺八ですね。こよい一夕(いっせき)おかしください。こよいは庚申(こうしん)なので、つたなくともつれづれになぐさめ、しずかに月の出をまちましょう」という。小文吾は、「おもちなさっていいですよ」といって、いそぎ行灯に灯をともし、それをもって別の座敷に案内した。
もどってきて嘆息した。信乃のことが念玉に知られたなら、仇(あだ)ともなる。さしころして口をふさごう。機にのぞんで変におうじ、しまつしよう。それにしても、帆太夫(ほだゆう)と約束したことをどうするか。小文吾は懐中(かいちゅう)に手をいれ、
「おや、絵姿を途中でおとしたのか。夏の着物はうすいので、気がつかなかったものか。おしいものではないが、もしひとにひろわれ、うったえられたなら、疑いはわが身にかかるだろう。家のなかではないか?」と、そこらへんをくまなくさがした。そのときほら貝につまづきそうになり、「あの山伏は、尺八に気をとられ、この貝をわすれたぞ」とつぶやいた。
また絵姿をさがしにかかった。表で人声がする。
くぐり戸をあけて、「小文吾、いるか?」と、声をかけたものがいた。
顔をのぞかせたのは、塩浜の鹹四郎(からしろう)だ。そのうしろには、板扱均太(いたごききんた)・牛根孟六(うしがねもうろく)などとよばれる土地のならずものがひかえている。小文吾は、
「さわがしいぞ。三人そろって、なにごとだ」といった。鹹四郎は、手ぬぐいをひらりと肩になげかけ、
「小文吾。今宵(こよい)は、ちっとばかりものをいおうとおもって三人そろってきたのさ」といい、均太・孟六も、
「三人そろってきたのは、ほかのことではない。おれたちは、おぬしの弟子といわれていた。で、おれたちが、技も地力(じりき)もあるので、あっちこっちの辻相撲にかちつづけた。で、犬田小文吾は、よい弟子をもったとひとにほめられ、おぬしも鼻をたかくしたが、きょうかぎりで、こっちから破門にする。おれたちは、総門弟の名代(みょうだい)だ。いまからこの葛飾にはおぬしの弟子は一人もいない。そうおもってくれ。あしたからは、口のききかたに気をつけろ。わすれたなどと、とぼけるな」という。
小文吾は、あざわらって、
「やかましい。しずかにものをいわぬか。おれは、子どものころから相撲をこのんだので、関取などとよばれているが、これを稼業(かぎょう)としてるものではない。まことは、田舎(いなか)の素人(しろうと)相撲。弟子があってもなくても、おれにはかかわりはないのさ。おまえたちがのぞむなら、破門もしよう。そのわけをいってみろ」といった。
三人は、膝(ひざ)をたてなおして、
「いわずとしれたことよ。ゆうべ浜辺で悶着(もんちゃく)をおこしたときの、おぬしの裁きはみごとだった。それにひきかえ、山林房八(やまばやしふさはち)にしかえしされたあの《ていたらく》は、どうだ。人から人への風聞は、千里を走るうわさとなり、だれ知らぬものがなくなった。泥足でふまれた腰ぬけ師匠(ししょう)は、弟子のつらよごしだ。相手は妹婿、借財でもあるのか」とだみ声を高くしていう。
小文吾は、さわぎたてる気色(けしき)もなく、
「またしても、うるさい。房八の相手にならぬのは、親のため、おのれのため、妹夫婦のためだ。負けるが勝ちともいう。道理を知らぬものをさけることは、恥ではない。わけをきけば、用はない。さっさといけ」とおいたてた。三人は、たちあがり、
「いけといわれなくても、いくさ。師弟のかかわりはなくなっても、人の口には戸がたてられない。他人となった手形に、極印(ごくいん)をうってやる」と、鹹四郎がこぶしをあげたが、小文吾は足をすくった。鹹四郎は、もんどりをうってたおれた。小文吾は、これをおさえつけた。孟六と均太も腕をあげたが、それをねじりあげた。孟六・均太は、顔をしかめ、「いたい。腕がぬける。はなせ!」とさわがしい。
鹹四郎は、背をふみつけられ、
「ああ、苦しい、目玉が、とびだしそうだ。背骨がおれる!」とさけぶ。小文吾は、手をゆるめずに、
「こいつめ。骨にこたえたか。おれからこぶしをあげたわけではない。これまでのよしみに、一度はゆるす。はやくいけ」と孟六・均太をそとにつきだせば、三間(さんげん)ばかりよろけてころんだ。鹹四郎をひきおこし、うなじをつかんでなげた。
三人のものどもは、しばらくおきあがることができず、腰をさすったり、膝頭(ひざがしら)につばをつけたりし、たがいにたすけあっておきた。それから、つれだって去っていった。小文吾は、なおそとに気をつけて、
「このごろの夜の短さよ。さっき暮れたばかりとおもっていたが、つまらぬものにかかわって、時間をすごしてしまった。あのものどもの声が高いので、奥にきこえたろう」とつぶやき、さらに父文五兵衛におもいおよぶ。
「いまごろ親父は、どうしているだろう。暗いところにいるなら、ねられぬままに蚊(か)にくわれていよう。こよい一夜(ひとよ)、たえてほしい。田畑をうり、家をうって、財貨であがなうのにたりなければ、自分がかわりになってもすくうことはできぬのか。
それにしても奥の信乃さんの破傷風(はしょうふう)の妙薬は、なき伯父(おじ)の伝法だ。鮮血はおのれの股(また)をさき、しぼりとることもできるが、それにあわせる女の生血はどうするか。信乃さんを舟にのせて、いまひそかに逃げようか。いやいや、里の出人り口には、水陸ともに警固の兵どもがいるという。それをきりひらいてのがれても、親父があやうい。どうして太陽は、まことある人をてらさないのだろうか。信乃さんは孝士だ。親父は義士だ。おのれも、孝と義の一端を知るゆえ、善にくみして福なく、義により禍(か)がある。これをうらむべきものではない。世に幸あると幸なきことは、その人の善悪によるものではないからだ。それは天命だ。さて、現八さんの首尾はどうか。どうしたらよいのか」と、おのれにといつめて、おのれにこたえても、せんないことだ。
念玉のふく尺八がきこえてくる。その音もなぐさめてくれるどころか、不安をつのらせるだけだ。
いいあわせたのではないが、はなれ座敷の信乃も、ようやく身をおこし、細い灯火を見つめつつ、おのれのゆくすえとこしかたをおもう。
「この旅篭の親父さんは、村長によびだされて、まだかえらぬ。それにふいに人びとがきてさわがしくなったのは、みなわたしのことにかかわることなのか。村雨の刀をうしなってから、日かげの花のしぼむように病みついてしまった。まことある父子を、くるしめてしまっている。おしいいのちではないが、額蔵の荘助からの伝言をききたいものだ。また、浜路もふびんなことだ。死ぬべきときに死ななければ、恥がおおい」と尺八に耳をかたむけ、
「あの尺八は、わたしのために、弥陀(みだ)の慈行(じこう)の棹(さお)の歌か、歌舞の菩薩の音楽なのか。まだ刃(やいば)をとる力はあろう。だが、悔いはひとつある。ご遺言をはたさず、間者(かんじゃ)とうたがわれ、身は落人(おちうど)となり、いのちをおわるなら、のちのちまで父祖の名をけがすことになるだろう。不孝の罪は、九つの世をかわるともあがなうことはできぬ。これのみが、うらみだ。これも過世(すくせ)の悪報(あくほう)、と仏説ではとくが、やはり煩悩(ぼんのう)にまよう。有無をはなれて自然にまかれるなら、死ぬも生きるも、みな運命だ」とつぶやく。
尺八の音は、ますますさえる。夜も五つとなった。
月にかわって、筒提灯が駕篭(かご)をてらした。その提灯を手にしているのは四十あまりの後家(ごけ)らしい。黒髪をきったままの男髷(おとこまげ)、元結留(もとゆいどめ)のかんざし、じみな無地絽(むじろ)の薄衣(うすぎぬ)に、白帷衣(しろかたびら)を下がさねして、前結びにした繻子(しゅす)の帯に、韓組帯(からくみおび)をむすびそえている。長庇(ながひさし)を見あげて門にすすみ、「おられますか」といって、くぐり戸をひらけば、小文吾は首をあげて、
「おや、これは戸山の妙真(みょうしん)さまではありませんか。この夜ふけに、一人で、なに用でこられました?」ととうた。妙真は、
「いや、わたしだけではありません。沼藺(ぬい)と大八(だいはち)をつれてきました。途中で日が暮れるとおもったので、二人を駕篭にのせたのです。わたしは持病の血道(ちのみち)があるので、駕篭にのってゆられるよりは、あるいたほうが夜道は涼しいのです。よいことで来たのではないので、従者(ともびと)はつれてはこず、水いらずでおしかけてきました。いま自分、とおもうでしょうが、さあ、大戸をあけてください」という。小文吾は、「こよいはなぜか、折わるいところに人のくることだ」とつぶやき、さりげなく、「よくこられました。こちらへ」と妙真を上座にすすめて、表の大戸をひらいた。
駕篭かきは土間にはいり、板畳の框(かまち)まで駕篭をすすめて、横においた。
すだれをあげると、沼藺は熟睡(じゅくすい)した大八を膝の上にのせている。縮羅(しじら)の単衣(ひとえ)に緋(ひ)の襦袢(じゅばん)、緞子(どんす)の墨入茶(すみいりちゃ)の交野賽(かたのまがい)の帯を片結びにして、まだらのべっこうの櫛笄(くしこうがい)をさしている。鎌倉ふうで、田舎じみてはいない。それでもはでなようだが、子もち女なので、十九にしてはふけて見える。なにか、心配ごとがあるようだ。
駕篭から出ようとすると、大八はゆりさまされて泣きだした。沼藺(ぬい)はだきなおし、そっと背をたたきながら、小文吾に、
「兄さま、暑さにもかわりはありませんか。父(とと)さまも達者ですか?」と、さげた頭も悲しげだ。涙をみせまいと背をむけて、姑(しゅうとめ)の妙真の背にかくれた。
戸山の妙真は、駕篭かきに、
「わたしは、こよいかえるから、しばらく前の杭根(くね)のあたりでまっていてください」といった。
駕篭かきは、そとにでた。妙真は、小文吾に、
兄御(あにご)、父御(ててご)は臥房(ふしど)におやすみか。ひどい暑さだが、おかわりはないか。去年までは嫁も孫も神輿(みこし)洗いにきましたが、きのうはなにやらいそがしく、出かけかねてしまいました。女どもは、いないのですか?」と、はれやかにとうた。
だが、こころにかかる小文吾は眉をひそめて、
「いや、親父は人にさそわれて、真間にいきましたが、まだかえりません。女どもは薮入(やぶい)りでおらず、奥には客の修験者だけです。折わるく人手がなく、おもてなしもできません。納戸には風がはいりませんので、しばらくここでかたりましょう。それにしても女が夜道をいとわず、沼藺をともなってこられたのは、なにか《こと》でもおこったのですか?」と問いかえした。
妙真は、襟をゆるめて、小膝(こひざ)をすすめ、
「おさっしのとおりです。いいにくいことですが、年ごろ夫婦むつまじく、孫もある仲なのに、夫婦げんかのもつれから、にくからぬ嫁を離別することになりました。その断りをいうにくまれ役をつとめねばなりません。このこころの苦しさ、つらさは、神のほかには知らないでしょう。
はじめからいいますと、過日の八幡宮の相撲に、房八が兄御にまけてから機嫌(きげん)がわるくなりました。相手は、お沼藺(ぬい)の兄です。お沼藺は、なぐさめかねていました。一日二日とたつと、なにをおもったか房八は、もう生涯(しょうがい)相撲をとらぬといい、額髪をそりおとしたのですよ。そこへゆうべの浜辺の悶着。あなたが和睦(わぼく)をさせましたが、房八のいきどおりははげしく、女房を離別して白黒をつける、と母のわたしがいさめてもききいれません。仲人は、去年の秋になくなり、いまさらだれも仲にはいってくれません。そうかといって、他人につきそわせてもうまく事情をつたえることができません。で、この母が役ならぬ役をもってきました。苦しいのは浮世の義理と、男には勝てぬ女の甲斐(かい)のなさ。お沼藺は空蝉(うつせみ)のなくよりほかにすべがなく、こころのまことを知りながら、わたしもなぐさめることができませぬ。駕篭にのるとき大八もつられて泣くのは、わかれの虫が知らせるのでしょう」と、涙声でいう。沼藺はよよとなくばかりだ。
小文吾は、ききおわり、
「母御のお話は、わかりました。沼藺。おまえもいうことがあるなら、いうがいい」と沼藺にとうた。
沼藺は、ようやく顔をあげて、
「嫁して四年(よとせ)以来、声たててしかられたこともなく、門の柱がくちはてても、山林の家から死ぬまで出ることはない、とおもいさだめていました。それが、飽きも飽かれもしないうちに実家に帰るとは、おもいがけぬことです。わたしのねがいは、お二人のこころがやわらいで、もどれる日のくることです。はたして、その日がくるでしょうか」と膝にだく子にも涙が落ちる。
小文吾は、くんだ腕をとき、行灯の火影(ほかげ)に妙真をみつめて、
「母御。離縁のことは、おおかた承知しましたが、沼藺の親は文五兵衛です。わたしが房八にとつがせたのではありません。また、この家は親の家です。親のほかのものが離縁の断りをうけては、道理にそむきます。まして、大八は幼くても母に属するものではありません。親父は、こよいかえるか、あしたもあさっても逗留するものか、さだかではない。その留守に、たとえ妹でも一夜もとめることはできません。こよいは、このままかえって、親のいる日にまた出なおしてください」と息あらくいって立とうとすると、妙真は袂(たもと)をとらえて、
「兄御、それはちがいまずよ。気をおちつけてききなさい」といい、鼻をかみ、
「姑と嫁の仲のよいのを世間ではふしぎといいますが、お沼藺は万事こまやかで、孝行をつくしてくれるので、房八よりもにくからずおもっています。いつまでも離縁のままでよいものですか。離縁というのは、房八の意地。意地はいったんたてたあとは、またなおるすべもあるでしょう。たとえ父親がいなくても、ここは父親の家でしょう。父親の家に父親の娘をともなってかえせば、うけとるのが留守の役でしょうが……。
また大八は、うまれたときから左のこぶしが人並みでなく、物をつかむことができないのいで、かたわものといわれました。それで、母とともにかえしにきたか、とおもわれるかもしれませんが、子にほだされて房八の意地もおれる、と思案してのことです。こぶしはともかく、知恵ははやく、身の丈ものびて、ふつうの子の六つ、七つの童(わらべ)におとらぬこころで、里の子どもたちが、あだ名して大八とよぶようになったのです。
祖父が命名した本名でよばないので、家のものまであだ名でよぶしまつです。大八とは車のことで、片輪という謎とあとでわかっても、大八とよぶのが口ぐせになっています。どうにかして、こぶしを人並みにしようと医療、加持祈祷(かじきとう)、神に仏にねがいごとをかけて、四年になりました。つまらぬことまでながながとかたりましたのは、かくさずこころの底までうちあけたかったからです。それをうたがってとめてくれぬなら、母と子は旅人。旅篭賃(はたごちん)を出しますから、宿をかしてください。それでも、ことわられますか?」と、よどみなくいう。小文吾は、信乃のことが妹の口から知られてはならぬ、とおもっている。で、あざわらって、
「なるほど、うわさのとおり、お口はうまい。旅篭のことなので、旅人に宿をかしもするが、はや夜半すぎて、かす座敷はない。大八は祖母にともなわれてかえるとしても、沼藺だけはとどめよ、といわれるでしょうが、かえされても離縁状がない。離縁状をそえなければ、私ごとの逗留となります。たとえ兄妹でも、男女の別があるものです。だれも人のいない留守に、うら若い妹ひとりをとどめることはできません。こよいはこのままかえり、離縁状をもたせて、またおいでなさい」という。
妙真は、「ほ、ほ、ほ」と、わらい、
「すると、小文吾さんは離縁状がほしいので、しかじかとことわりなさるのか。一字もかけぬ夫でも、妻を去らしめるのに離縁状をもたせないものがありましょうか。それを出さぬのは、わたしの情(なさけ)。わたすとふたたびむすばれませぬ。離縁状は、ここにあります」といって、帯のあいだから一通の書状をとりだした。
小文吾はこれを手にしてひらいてみた。離縁状などではなく、先刻自分がおとした犬塚信乃の絵姿だ。はっとおどろいたものの、そっとまきあげてそばにおき、
「これは、おかしな書きものですね。離縁状は三下り半。世間ふつうの文言(もんごん)を、この絵姿にかえたのは房八のしわざか。それとも、姑(しゅうとめ)妙真さまですか」ととうた。妙真は、小文吾をみつめ、
「とぼけてはいけません、小文吾さま。それは、あなたこそよくごぞんじのはずです。滸我(こが)の御所より火急の詮索(せんさく)。その犬塚信乃とやらをかくまうものがあるなら、親族縁者も罰せられる、とふれられたのは、わたしの市川の郷(さと)のみではなく、この地もそうでございましょう。これらのことをおもって女房を離別する房八に、理なしともいわれないでしょう。房八がお沼藺はもとより、大八をもとどめおかずにおくりだしてきたのはわたしにもわかります。この離縁状をうけとらぬなら村長(むらおさ)のもとにまいり、うったえでて裁きをうけるまでです。それも、そなたはことわりなさいますか」
「いや、それはこまります」
「それなら、お沼藺をうけとりますか」
「それもこまる」
「それなら、その離縁状をもって、うったえますが」と問いつめられ、小文吾はこまりはて、
「姑御、そうはやまりなさいますな。離縁状はおさめましょう。沼藺も大八も、こよいは、わたしがあずかります。その返事は親父のもどってからと、房八につたえてください。もう、夜がふけました。おいそぎなさい」と、小文吾も納得(なっとく)していう。
妙真は目をぬぐって、いった。
「おわかりいただきましたか。こころにもないことまでいうのも、たがいの身をおもってのことです。三年まえの秋ごろ、亡夫の供養(くよう)に髪をきり、かたちだけは尼になりました。妙真という逆修(ぎゃくしゅ)の戒名(かいみょう)をつけ、血脈(けちみゃく)もうけましたが、なお年若い房八夫婦のまもりに浮世をすてかねて、もとの名の戸山もあわせて戸山の妙真とよばれています。嫁とよばれ、姑といわれる縁(えにし)がありながら、末までとげぬは産霊神(むすびのかみ)の約束ごとをやぶるものです。鬼のようなこの婆(ばば)が、すこしも疵(きず)のない嫁をおいだした、と世間ではいうでしょう。それでは、わたしはかえります。お沼藺は、心配のあまり、病むことなどないようにしてください。大八に寝冷えしてかぜをひかせぬように」
沼藺は泣きはらした目をぬぐい、顔をあげて、
「長いあいだのご恩をうけながら、孝行もつくさぬうちにおわかれすることになりました。真夜中だというのに、市川まではるばるおかえしするのは、こころ苦しいことです」と、またも涙をおとす。わかれの悲しみに、尺八がきこえる。
妙真は耳をかたむけ、
「あの笛の音(ね)は『鶴巣篭(つるのすごもり)』。焼野の雉子(きぎす)、夜のツル、およそ生きとし生けるもの、夫婦の哀別、親子の恩愛、どれも、おろそかにはなりませぬ。あうことがあればわかれあり、よろこびあれば憂きこともあるのです」と涙をおさめる。小文吾に暇(いとま)ごいしてたった。小文吾は、だまったままだ。沼藺は、よよとなくばかりだ。
妙真は、そとに出て、「これこれ」と声をかける。駕篭かきがあらわれ、「のられますか」というと、妙真は首をふり、
「二十二日の月が、はや、天(そら)のいろづくまで夜はふけました。こよいの宿は、近いところにあります。わたしについておいで」とひそかにおしえて、東の町にむかった。

第三十六回 悲しみの鐘……房八(ふさはち)のさいご

このようなおり、均太(きんた)・孟六(もうろく)・鹹四郎(からしろう)は、宵(よい)の遺恨(いこん)をかえそうと、古那屋(こなや)の前にしのんできていた。戸のすきまから灯火(ともしび)がみえるので、「まだはやい」と戸をはなれた。すると、こっちにくるものがいる。みとがめられては、と背戸(せど)にかくれた。
戸口にちかづいたのは、山林房八(やまばやしふさはち)だ。そっと耳をそばだてた。小文吾が、沼藺(ぬい)としめやかに話をしているのがきこえる。沼藺は、ようやく涙をとどめ、
「おもいがけないことから、わたしの厄難(やくなん)。父(とと)さまがかえられたら、どうしましょう」と、女子(おなご)の思案より、小文吾の思案をと、
「兄さま。よい手だてをきかせてください。どうどうめぐりをしているよりも、大八をねかせて、父さまをまちましょう。ああ、胸のいたむことよ」と立とうとすると、小文吾は、「まて」と沼藺の前にたち、「沼藺、どこへいく?」という。沼藺はあきれて、
「どこへいくとは、ひどい。離婚してきても親の家。納戸(なんど)にいくのに、なぜとがめるのです」といった。
小文吾は、
「それが親の家でも、留守ならば、兄の意のままだ。こよいは、庚申待(こうしんまち)であることは知っていよう。おれには祈願のことあって、斎戒(ものいみ)をしている。で、親類でも、他家から来たものはとめることができないのさ。まして、奥へは一歩もいれないぞ。おれの心願が、むだになる」とつよくいう。これは、はなれ座敷にやみふす信乃(しの)の姿を、見せまいとする心底だ。
沼藺は涙ぐんで、
「それは、うそでしょう。こよい、しのんできたよい女でもいるのですか。他人にかくしても、妹にまでかくすことはないでしょうに」とうらめしげにいった。
小文吾は、
「よごれたかんがえをするな。祈願のほかにはない。しいて納戸へいこうとするものは、おれの斎戒のさまたげをする悪魔の《わざ》とおなじことだ。そうなれば、ここにおいておくことはできない。ふびんだが、親子ともども、軒下(のきした)にたって夜をあかすことだ。おれは、本気でいっているのだ」といかり、沼藺のからだを戸口のほうにひきおろした。
「あ、あっ!」と、沼藺が声をあげると、おどろいてめざめた大八も、ともに声をたてて泣きさけぶ。小文吾が、よわるこころを鬼にしておしだそうとすると、沼藺の肩をおしもどし、ひらりとうちにはいったものがいる。小文吾は、「房八だな」
「小文吾か」
「なにをおもって、真夜中に」
「きかなくとも、わかっているだろう。けんかのしまつと、ほかにもいうことがあってきた。きれいさっぱりおまえと他人になってさ」
「それで、きたのか」
「そうさ」と問答をかさね、たがいに油断はしない。房八は、戸をしめた。
小文吾は、座にもどり、一刀(ひとこし)をひきつけた。房八は、長脇差(ながわきざし)をひけらかし、裾(そで)をからげて座敷のまんなかにすすみ、小文吾のそばで、むこうずねをだして高あぐらをくんだ。目は、小文吾をにらんでいる。沼藺は、夜ふけにきた夫のいきおいと、兄の気色(けしき)がわからず、胸をいためるだけだ。泣きつづける大八を横にだいて、乳房をふくませながら……。
房八は、これには見かえりもせずに、
「小文吾。おまえは、男なら栞崎(しおりざき)でふまれたことを恥とおもえ。はずかしめてもすこしもこたえぬ臆病(おくびょう)ものを相手にするのはおとなげないが、ちっと見聞きしたことがあるのだ。女房と離婚しても衣装調度をかえさないとあっては世間ていもある。それをかえしにきたのだ。よくあらためてうけとれ」という。小文吾は、
「そんなことで夜ふけにきたのか。おまえには、情(なさけ)のある妙真さんの気持ちがわからないのか」といった。
房八はあざわらって、
「いつもどるかわからない文五兵衛を、まっていられるものか。これを見ろ」と懐中(かいちゅう)から血のついた麻衣(あさぎぬ)をとりだした。
それをみて、小文吾はおどろき、手をだそうとすると、房八はその手をはらって、
「さぞほしいだろう。ゆうべ、入江の芦原で……」という。小文吾は、膝をすすめて、「闇ゆえ、黒白(あやめ)もわからず……」
「せおうてかえるふろしきづつみ……」
「だれとも知れぬものが背後から……」
「ひきとめたのを……」
「ふりはらう……」
「ふろしきづつみのさけめから落ちた、この麻衣……」
「とは知らずして家にもどって、ことがおおく、わすれていたが、いまここに……」
「それを見て、胸がいたむか……」
「さてはあのくせものは、房八、おまえだったのか。いまわかったぞ、離縁状……」
「夕暮れどきに道でひろって、また道で母妙真にわたした信乃の絵姿……」
「それなら、秘密をみな知って……」
「女房を離縁したのは、まきぞえをおそれての用心よ。そこらにかくした犬塚(いぬづか)も、そとからもれてはしかたがあるまい。これまでのよしみに、ほうびはおれの酒代としよう。村長の屋敷につながれた親の縄目(なわめ)をとこうとするなら、信乃をとらえて、おれにひきわたせ」
「いや、こざかしい。罪人(つみびと)など、いるものか」と小文吾はいう。
房八は脇差の鍔(つば)もとをにぎり、こじりをつきたて、
「まだかくしているのか。奥にふみこむぞ」とたがいにひかぬ。
沼藺はかなしみ、たまりかねて、兄と夫とのあいだにはいり、おしとどめて、
「その声は、そとにもれましょう。兄さまもあやまちしなさるな。いまはじめて知った父さまの縄目も、人のためとはいっても、親にかえられるものはありません。うちの人も、この難儀を幸いと、罪人をとらえてなんとするのです。たがいにむつまじくはなしあって、親をすくってください」と、あっちこっちと涙声でなだめつづけた。すのこの下のコオロギも、その音(ね)をとめた。
小文吾は、房八に大事を知られたからには、しのべという親のいましめの、刃(やいば)にむすんだ《こより》も水のあわと、「おれの息あるうちは、どうしてあの人をわたせるものか」と、房八がたてばきろうと、刀の柄(つか)をにぎっている。汗で目釘(めくぎ)もしめるばかりだ。
房八はますますいらだつ。
「女のくちだしは、みぐるしい。泣いたとて、くどいたとて、宝の山にはいりながら、手ぶらでかえれるものか。そばづえでうたれるより、そこをのけ」といきまいて、たちあがりざま、ぱっと足でける。そのつまさきがくるって、大八の脇腹をけってしまった。
「あっ!」とひと声、さけびもむなしく、大八はそのまま息たえた。
沼藺は大八をだいたまま横にたおれて、よよ、と泣きふした。
房八はこれに目もくれず、「信乃は、はなれ座敷に」とすすみでて、前面にたちふさがる小文吾を、ぬきうちするどくうつ。小文吾は鍔(つば)をもってがっとうけとめる。《こより》がきれてふわりとちる。もう堪忍(かんにん)の二字も反古(ほご)だ。たがいの太刀風がおこる。あたりをけたてての戦いだ。すさまじい音とともに、閃光(せんこう)が走った。
沼藺がようやく身をおこした。大八を見た。大八は、息たえている。「これは、どうしよう。悲しいことよ」と、泣きうらみつ見あげると、兄と夫は一上一下(いちじょういちげ)ときりむすんでいる。
この子もいとしい、あっちもあやうし。夫には離縁され、子は殺害され、自分ひとりがなまじ生きていても、せんない火宅(かたく)の苦しみ。刃の下に死ぬなら死ね、と、こころをうごかして、だいている大八をなげすてて、身をおこした。悲しみも極限だ。おそろしいものなどない。沼藺は、
「なさけないその短慮(たんりょ)。気でもくるわれたか。やめなされ!」と声をかけて白刃(はくじん)のなかにはいろうとする。
小文吾は、「あぶない。そこをどけ!」とにらみ、ちかよらせまいとする。とめようとする女の念力。身をなげかけて、夫房八の袂(たもと)にすがりつく。
房八は、それをふりはらい、「じゃまをするな」とけたおすと、笄(こうがい)がびしっとおれ、髻(もとどり)がちぎれて、ばさりと乱れ髪となる。沼藺はころびつつ房八の足をだくと、ふみかえされた。なおも沼藺は、おきようとする。
房八の刃が、小文吾をつこうとして手もとがくるい、沼藺の乳房の下をきる。急所の深手だ。
たおれる沼藺に、房八は、「これは!」と、あわてるすきを小文吾が見てとり、房八の右の肩先をきる。
房八は刃をすて、どっと尻をおとす。小文吾は白刃をふりあげる。刃の下の房八は、
「まて、犬田小文吾。いうことがある」とせわしくとどめて、左手をつきたてて、顔をあげる。カゲロウのような息づかいだ。深手の苦しみだ。
小文吾は油断をせず、血刀をとりなおし、片膝(かたひざ)つき、
「卑怯だぞ、山林房八。いうことがあるなら、なぜさきにいわぬ。ききたくもないわ」という。
房八は目をみはり、
「その疑いは、もっともだ。わたしの本心をきいたら、義をまもる義兄(あに)さんは、わたしをきりはしないでしょう。まず、この傷を……」と手をふる。
小文吾は、ふにおちないまま、刃の血のりをぬぐい、鞘(さや)におさめた。単衣(ひとえ)の袖をちぎり、手ぬぐいとむすびあわせて、房八の傷口にまく。
「房八、傷は浅い。いうことがあるなら、きこう。いうがいい、山林房八」と、小文吾がいうと、房八は息をつき、
兄御(あにご)、犬田(いぬた)小文吾どの。栞崎でのわたしの理不尽(りふじん)の所業(しょぎょう)は、あなたに怒りをおこさせ、わたしがきられて難儀をすくおうとしたのですが、それは失敗におわりました。それはあなたが親のいましめと堪忍をまもられたからでした。そこで、わたしの母妙真とうちあわせて沼藺の離別にかこつけて、あなたの気色をためしたのです。それが、いまはたされました」とつげた。
小文吾は、眉をよせて、
「それは、合点(がてん)のいかぬことだ。わたしは、沼藺の兄といっても、おまえに恩をかけたこともない。それなのに、その身がいのちをすてるまで、なぜ、わたしにつくされるのか。これが、疑いの一つだ。そして、いまのわたしの難儀が、なぜおまえがいのちをおとすことですくわれるのか。これが、疑いの二つだ。そのわけは?」ととうた。
房八は自分で自分をはげまして、
「そのことです。きいてください。輪廻(りんね)の説法(ときごと)、因果の理(ことわり)。ものの本にはあるが、みな、わたしのうえにもあるとは、すこしもおもってはいなかったのです。これは、はかなきいまわのきわの懺悔(ざんげ)なのです。
おととしの秋、なくなりました父がもういけなくなったとき、母とわたしを枕辺(まくらべ)によび、自分は下男からこの主人になり、一子房八も成長した。自分は、五十歳をこえ、のぞみも分にすぎた。だが、こころにはずかしいことがあり、戸山にもこの父の素性(すじょう)をつげていない。このままでは、冥土(めいど)にいっても気にかかるだろう。で、いまここでいう。
わたしの父は、杣木朴平(そまきぼくへい)とよばれて、安房の青海巷(あおみこ)村の百姓だった。それでも武芸をこのみ、侠気(おとこぎ)があった。で、もとの領主、神余長狭介光弘朝臣(じんよながさのすけみつひろあそん)、譜代の忠臣(ちゅうしん)金碗八郎孝吉(かなまりはちろうたかよし)さまの武芸を非常に景慕(けいぼ)して、その剣法(たちすじ)をうけようと、金碗家につかえたことがある。
年をへて、山下定包(さだかね)が、神余の執権(しっけん)をつとめており、淫酎(いんしゅ)をすすめ、民をしいたげ、逆謀(ぎゃくぼう)の日々をかさねた。しかし、光弘はそれをかんじることがなかった。金碗八郎はもちろんだが、いましめるものはみな追われた。神余家は、みだれるばかりだ。
わたしの父は、里人のため、金碗家のためにいきどおり、定包をうとうと、同志洲崎無垢三(すざきむくぞう)とかたらい、定包の遊山をうかがって、落羽畷(おちばなわて)にまちぶせし、定包ののった馬をこころあてにして、矢をうったが、これにはあたらず、領主光弘をうってしまった。
無垢三はうたれ、わたしの父は領主の近臣那古七郎(なこしちろう)と刃(やいば)をまじえ、七郎をきりすてたものの、その身はとらえられ殺害された。このおおきなまちがいは、みな定包の計略にのせられたからだ。
そののち金碗八郎さまは、里見氏をたすけて、その家をおこしてから、自害してはてた。これも、わたしの祖父のまちがいからとききました。
そのときわたしの父は十四歳、母はなくなっておりました。で、ひとり安房国をさり、この地に漂泊(ひょうはく)するうち、里人の手びきで、ここの下男としてはたらくことになりました。
それから年をへて、さきの主人にみとめられ、家督(かとく)の男子のないことから、わたしの父は娘婿(むすめむこ)にはいったのです。そして去年、わたしは古那屋文五兵衛の娘沼(ぬ)藺(い)を嫁にもらいましたが、ことし、その文五兵衛は那古七郎の舎弟(しゃてい)とききました。もし文五兵衛が、この婿のわたしが杣木朴平の孫と知ったなら、沼藺をわたしから離別させるでしょう。この理由をかくしてこのままにしておいたなら、いつかは知られるところとなり、憂(うれ)いを子孫にのこすことになるでしょう。
沼藺は気だてがよく、ひともうらやむ嫁なのに、さらにいちはやくうまれた大八ともわかれることにもなるでしょう。那古の舎弟と知らずに縁者となったのも悪因縁(あくいんねん)。大八のこぶしが人なみでないのも、三世ののちまでうらみをひく神余・那古・金碗のたたりかとおもいわずらっています。わたしの死期が近くなってきました……」と房八はいい、自分をはげまして、
「人のうらみをとくには、陰徳(いんとく)をつむのにまさることはありません。わたしの父は義理をおもんじる人。わたしも親におよばずとも、その子としてこころざしをつごうとおもいながら、杣木の杣の木へんをとり、下の木字にあわせて、山林と名のったのも、そのころからです。わたしの舅(しゅうと)文吾兵衛父子のためにつくし、そののち朴平の遺言をうちあけようと機会をまっていました。さる八幡宮の相撲は、修験者(しゅげんじゃ)のもとめにおうじてのことでしたが、技(わざ)もちからも、小文吾さんにはおよぶべくもないのですが、まけることをねがっていました。それをあたりのものどもがさまざまにいいますのは、ねたんでのことでしょう。
きのう、祇園会の神輿(みこし)洗いを見ようと、この浜にきました。古那屋をたずねようとおもいながら、入江橋(いりえばし)をわたると、文五兵衛が、はるか水ぎわの芦分舟(あしわけぶね)のなかに、二人の武士となにかひそひそかたらっています。わたしは、そばにちかよって、おもわずたちぎきしました。犬塚・犬飼の知遇(ちぐう)の奇譚(きたん)、小文吾さんのものと似ている珠(たま)・痣(あざ)のことをいい、ますます感動して、いまさら出られず、芦原にかくれ、一人つくづくおもいました。わたしにもおなじような珠・痣があれば、あの人びとの仲間にはいり、世の武士といわれるのに。わたしの過世(すくせ)はわるく、義をむすぼうとねがってもゆるされるものではない。
この地は千葉の領地で、滸我(こが)の御所のみかただ。犬塚・犬飼の二人が追っ手で難儀がかかったなら、ひそかにちからをあわせて、わたしはいのちをおとしても、その危窮(ききゅう)をすくおう。わたしの父の遺言をはたすのも、このときとおもいさだめたのです。
日が暮れてきて、二人の武士は古那屋へ文五兵衛の案内でおもむきました。小文吾さんは、一人とどまって、舟をおしながし、血つきの衣をせおい、たちかえろうとされました。わたしがひきとめると、小文吾さんはくせものとおもわれてか、わたしはつよくうたれ、たおれているあいだに、いそぎ去られました。そのあとにおとした麻衣(あさぎぬ)があり、もし他人にひろわれてはと、これをもって家にもどり、母にもつげずにおりましたところ、犬塚さんの追捕(ついぶ)のことが、村長から里じゅうにふれられました。
わたしは、おもいました。わたしの舅は旅篭屋。二人をすくおうとかくまっても、人の出いりがおおいのでほどなく露見(ろけん)し、二人はむろんのことだが、文五兵衛父子も罪になるだろう。だが、いまさら義をむすんだ人びとを出してやることもできない。わたしがいのちをかけ、ここをすくおう、と。
きのう見かけた犬塚さんは、わたしの顔と似ているようだ。それなら、わたしの首をもって、犬塚さんの首といつわり、滸我の使者にわたせば、文五兵衛父子にさわりはない。犬塚さんと似ていないところがある。それは相撲をこのんでいるので、額髪(ひたいがみ)をそっていないからだ、とけさ額髪をそりおとしました。鏡を見て、犬塚さんと似ているので安心し、ひそかに母をよんで、しかじかとつげました。母は泣きつつゆるしてくれ、にわかに沼藺を離別して、実家にかえすことを思案しました。それは母にまかせ、わたしは浜にきて、栞崎(しおりざき)で、小文吾さんとあいました。
往来する人もない。わたしがうたれるのには好都合だとおもいました。わたしが顔をつつんだ手ぬぐいをとったなら、犬塚さんと似ていると、小文吾さんはさっしてくれるとしんじたのですが、それはむだで、とうとう理不尽をもちかけたのです。しかし、親をおもっての堪忍、孝心には、これも徒労でした。
酒をさそう観得(かんとく)をだしぬいて、稲塚(いなづか)のあたりまでくると、すでに小文吾さんに難儀のかかっていることを知りました。滸我からの追捕の大将、新織帆太夫(にいおりほだゆう)とかいうものの手下に、文五兵衛は、しばられてひかれていったのです。わたしはさわぐ胸をしずめて、やぶかげにかくれて、話をききました。それから小文吾さんは虎口(ここう)をのがれて、家路をいそぎました。そのとき、おとされたのが、犬塚信乃さんの絵姿でした。
絵姿といい麻衣といい、ふしぎに他人にひろわれず、わたしの手にはいったのは幸いなことです。今宵こそ、自分の決意をなしとげようとおもいました。かねてしめしあわせた中宿(なかやど)にまいり、ひそかに母のくるのをまちました。そして、しかじかとささやき、その絵姿をわたしたのは、小文吾さんをおどろかし、今宵うたれるためでした。で、それから背戸のあたりにしのびきて、犬塚さんの大病も小文吾さんの苦心も知りました。
おねがいです、義兄さん。わたしの首をはねて、役にたてて、義父文五兵衛の縄目と、犬塚さんの危窮をすくう手だてをめぐらせてください。ふるきうらみは、この一期(いちご)の功で、なにとぞゆるしてください。むかし、杣木朴平は、定包(さだかね)をうとうとして、領主をおかし、それに那古七郎をうち、さらにその師である故主金碗(かなまり)さまにも、腹をきらせるなどしたが、いまその孫の房八が、しかじかの義烈(ぎれつ)によって、孝子・義男をすくい、舅の縄目をといた、と口碑(こうひ)にのこるなら、祖父の汚名(おめい)をそそぎ、父の遺言もむなしくせず、死して栄(は)えあるわたしのよろこび。百年(ももとせ)の寿(ことぶき)をたもち、富貴の人となるより、これにましたることはありません。
わたしのよろこびにひきかえ、ふびんなのは沼藺と大八です。親子三人が、おなじ日、おなじところに、いのちをおとすのは、これまた祖父の悪報でしょうか。沼藺にはすこしも、わたしの本意をつげてないゆえ、怒りをもったまま死んでしまいました。これは、痛恨(つうこん)のきわみです。沼藺は、まだ二十歳(はたち)まえ、過失といいながら妻も子も手にかけて、わたしも身をころす、輪(りん)廻応報(ねおうほう)は、こうまでにあるのでしょうか。
義兄さん。この悪縁をむすんだゆえ、沼藺の横死もわたしの余殃(よおう)。舅のなげきも、小文吾さんのうらみをおもいますと、まったく面目(めんぼく)はありません。おゆるしください」と、血にまみれた手をあげて、おがむようにして、こころのまことをうちあけた。深手に屈しない長ものがたりである。
聞きおわった小文吾も目をしばたたいて涙をはらい、
「おもいがけないぞ、山林房八。そなたは、親の遺言をまもって、旧怨(きゅうえん)をとくために、身をころして仁をなす、そのこころこそ……。そなたの祖父があやまり、おかした罪はおもくても、子孫三世のいま、その汚名をそそごうとする孝順(こうじゅん)は、まれなことだ。犬塚さんの顔かたちが、そなたと似ているところから、おのれの身を殺して、犬塚さんの死にかわる忠臣もまれだ。
人を殺して、人のいのちをすくうのは、もとよりわたしの本意ではない。犬塚さんにしてもそうだろう。しかし、いまさらその意にしたがわなければ、そなたを犬死にさせてしまう。
また、沼藺と大八の死もはらわたを断つおもいだが、みな薄命のいたすところ。なげくのみではせんかたない。妹沼藺の死も、犬死ではないのだ。わが家につたわる破傷風(はしょうふう)の治療法では、年若い男女の鮮血それぞれ五合をとり、あわせてその傷にそそぎあらうと、起死回生のききめがあり、傷がいえること、まるでほうきでちりをはらうように、百発百中あやまりがない。
これはわたしの伯父(おじ)那古七郎の伝法を、父から口づたえされたが、もとめても、えることのできない薬なので、手のほどこしようがなかった。
犬塚さんは明け方から破傷風になり、いのちがあぶない。で、犬飼さんが武蔵の司馬浦(しばうら)に良薬があるといって、ひそかに今朝おもむかれたのだが、道が遠いので、まだもどっていないのだ。そなたの好意でこよいの危窮をのがれても、犬塚さんがいのちをおとされてはなんの益もない。
沼藺の死によって、男女の鮮血をえることができた。不幸中の幸いか。天か、人か、欲するところ、賽翁(さいおう)が馬に似ている。
こころやすかれ、山林房八。そなたとわたしは、前世では、相ころしたる仇敵(あだかたき)。いまは、旧怨氷解して、恩義は千引(ちびき)の石より重い。功徳(くどく)をながく口碑につたえて、義烈の亀鑑(きかん)にしよう。そなたに珠はなくとも、痣はなくとも、わが同盟にくわえたなら、ゆくすえたのもしかったのがくやまれる。ああ、なんとしよう」と、義理にからむ愛と悲しみと苦しみ。
丑(うし)三つの鐘が、遠くひびいている。その音がいっそうあわれをそえる。

第三十七回 さだめはめぐる……信乃の本復(ほんぷく)

房八(ふさはち)は小文吾の話をきき、微笑をうかべ、
「犬塚さんが、父祖三世、忠信孝義(ちゅうしんこうぎ)、たぐいまれなることは、わたしはたち聞きして知っています。女房の不慮の死でながす鮮血(ちしお)が、犬塚さんの薬になるとは、天の冥福(めいふく)、わたしのあやまちも、面目がたつというものです。刻(とき)をすごすよりも、はやく血をとってください。ひと太刀で死んだとて、からだはまだひえていません。ぬくもりがなくなってからしぼっても、鮮血はとれません。はやく、はやく」という。
小文吾は、念玉坊(ねんぎょくぼう)のわすれていったほら貝を左手にとり、ふしている沼藺(ぬい)をひきおこした。鮮血がさっとほとばしる。傷口に貝をおしあて、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏」ととなえる。鮮血を貝の半分にうけた。
小文吾は、よわるこころをはげまして、「お沼藺。お沼藺」とよぶと、糸より細い目をひらき、
兄(あに)さま。夫は、まだいのちをながらえていたのですね。たのもしいまごころをときあかす話を、夢心地にききました。ものをいおうとしても声にならず、身をおこそうとしてもうごけず、こころで泣いて、よろこんでおります。疑いはれて、もろともに消えていく身はおしみはしませんが、話をしとうございます」という。その声は、冬枯れの原の虫よりもかすかだ。
小文吾は、涙をふりおとして、
「お沼藺は、うつつのうちに、おおかたのことは聞きとったか。それなら冥土(めいど)へのまよいもはれよう。房八は、あそこだ」と、房八のほうにむかせる。
房八は、目をしばたたきながら、
「お沼藺よ。おれのくるった刃(やいば)は、おまえの薄命(はくめい)。大八(だいはち)の横死は、過世(すくせ)の業報(ごうほう)。わびてもいまさらかえらぬ。しかし、われら夫婦の鮮血が、すぐれた人の死を蘇生(そせい)させる薬となるなら、これにました功徳(くどく)はない。こころをみだすな」といった。
沼藺はうなずき、
「承知しています。ただ、大八のことだけがこころにかかります。なきがらなりと、いまひとたび見せてください」といった。
房八は、首をふり、
「それも益がない。はやく布をとき、わたしの鮮血をとってください」という。
すると、「わたしにも、暇(いとま)ごいを……」と、そとからしのびやかにはいってきたのは、戸山の妙真(みょうしん)である。
房八と沼藺のそばにからだをふせ、泣きしずみ、目をぬぐって、
「房八。かえらぬ旅の道づれに、嫁も孫もともない、わたし一人があしたから、だれを友とし、だれをよすがになぐさめるのです。お沼藺。わたしはわけを知りながら、そなたにつげなかったことをうらまれたでしょう。それにしても、大八のことはうらめしい。大八よ。祖母(ばば)ですぞ。口がきけないかい」となきがらをだき、ゆりうごかして、滝のような涙をながした。
房八は、よわるこころをはげまして、
母御(ははご)よ。そんなになげいて、やみわずらってはいけません。小文吾さん。はやくこの布をといてください」といそがれて小文吾は、
「わたしがあやまって妹婿(いもうとむこ)をうてば、また、あやまって妹は夫にうたれました。父親だとしても、だれをうらむだろう。母御よ、いまさら千万口説(せんばんくどく)もせんがない。後世(ごせい)のいとなみこそ肝要(かんよう)です」といって、房八のそばによって、布をとくと、鮮血はほとばしる。それを貝にうけた。
死出の山に夫婦は手をひき、子をおうておもむくのだ。そのゆくえは、十万億仏土、ハスの台(うてな)、法(のり)の霊。妙真の唱名(しょうみょう)の声も、しばしば涙にくもった。
いっぽう、犬塚信乃は、はなれ座敷で小文吾と房八のうちあわせた太刀音をきいたので、こころはやすらかでない。身をおこそうとするが、腰がたたないので、枕辺(まくらべ)の刀をとり、杖にしながら、はうようにして前の座敷の障子(しょうじ)のあたりまできた。
房八は傷をおって、そのまごころをうちあけ、妻子の横死のこともきいた。かれらのことをおもったが、その身もよわって、わずか障子ひとえにして、苦痛にたえがたく、そこにふしてしまった。小文吾は、信乃のために房八夫婦の鮮血を貝にうけていた。
信乃は、ようやく頭をあげておもった。生をこのみ、死をにくむは、すなわち天のこころだ。いま自分のいのちがおわるとしても、どうして義士節婦(ぎしせっぷ)の血をもって薬とできようかと、かろうじていざりながら障子にちかづいたが、あけるちからがない。
小文吾の貝には、鮮血があふれた。房八は、
「はやく、奥へ」と、あごでしきりにすすめた。
小文吾は、「この良薬をむだにしては……」と、しずかに立ち、ほら貝を右手にもち、はなれ座敷へといそぐ。障子をひきあけ、すすもうとして、おもわず信乃に足がつまずき、もった貝をおとした。信乃の肩から脛(はぎ)、腓(こむら)まで鮮血がそそがれた。衣(きぬ)がうすいので肌にしみとおって、傷口にながれいった。
信乃は、「あっ!」とさけび、のけぞった。
小文吾は、あわてて、
「犬塚さん。いつのまにここにこられたのです? 良薬をおとしたのはおしい」と、うなじと脇に手をかけたが気息はない。
妙真も行灯(あんどん)の灯をむけて、「どうなされましたか?」ととうと、信乃はねむりからさめたように、からだをふるわせて、目をひらいて、ほっと息をしておきた。顔には、朱色がさし、心地すがすがしくなった。小文吾は、薬のききめをさとった。
信乃は、かたちをととのえ、小文吾に、
「さきに太刀音がきこえ、不安になったので、苦痛をしのび、いざりながらここまできましたが、障子をあけることができず、ふしてしまいました。ことの次第をきき、鮮血を薬とすることは辞退しなければとおもっていました。そこへ小文吾さんがつまずき、あびた鮮血のききめか、たちどころに本復しました。いまさら辞退することもできず……」とその恩を謝し、妙真をなぐさめ、ともに房八のそばにいった。
信乃は房八に姓名をつげ、その義をほめ、死をあわれんだ。さらにことばをつぎ、
「わたしは、房八さん夫婦のめぐみで、難治の病いがいえましたが、ご夫婦を生きかえらす良薬のないのをうらみます。わたしが幸いこころざしをえることができたなら、わたしの着物をそめた鮮血を、のちのちまで秘蔵して、その恩徳を子孫につたえます。義勇の武士のみか、妻も子もころすのは天道(てんとう)暗きにも似ています。ああ、これも天命というべきか。大八も成長したなら、忠孝義勇は親に似て、世にすぐれた人になるだろうに、いっそうおしまれます。病いがなおっても、すこしもよろこぶことができませぬ」と涙をそそぐ。小文吾も妙真も、沈黙したままだ。
房八は、たえようとする気をひきおこし、
「犬塚信乃さん。信あり義ある賞美のことばをいただき、善知識の引導も千万僧の説法も、これにまさります。小文吾さん。はやくわたしの首をもって帆太夫(ほだゆう)らをあざむき、犬塚さんをのがし、舅文五兵衛(しゅうとぶんごべえ)の縄目をといてください。介錯(かいしゃく)をたのみますぞ、小文吾さん」といそがせる。
小文吾は、「わたしは、その意にしたがうべきだが、いま気にかかるのは、こよいも宿をした修験者(しゅげんじゃ)念玉、尺八の音が消えた。ねむっているのか、おきているのか。もし、いぶかしきことがあるなら、その根をたとう」と、ささやいた。信乃も、
「わたしも障子のそばにたおれていたとき、しばしば簀(す)の子(こ)のきしむ音をききました。暗いので人かネコか、あるいはネズミのしわざか。もし修験者なら……」という。小文吾はおどろき、
「それは、念玉に疑いない。もし密訴(みっそ)されたなら、のがれがたい。油断大敵だ」と、脇差(わきざし)を手にした。
信乃も刀をとり、身をおこし、奥座敷に走ろうとすると、前の障子のむこうに、人の気配がした。そして大声で、
「しばらくまて。安房国守(あわのくにのかみ)里見治部大輔(じぶのだゆう)義実朝臣(よしざねあそん)の功臣なりし金碗八郎孝吉(かなまりはちろうたかよし)が一子、金碗大輔孝徳法師(だいすけたかのりほうし)丶大坊(ちゅだいぼう)、同藩の士(さむらい)、もと伏姫君(ふせひめぎみ)のおもり役、蜑崎十郎(あまざきじゅうろう)輝武(てるたけ)の嫡男、蜑崎十一郎照文(じゅういちろうてるふみ)らもここにいる。いま、対面して、疑いをとこう」と障子をあけた。
修験者念玉である。墨染(すみぞめ)の麻の法衣(ころも)を腰短かにはしょり、白い脚半(きゃはん)をはき、頭陀袋(ずだぶくろ)を背にし、左手に網代(あじろ)の笠、右手に錫杖(しゃくじょう)をつきたて、上座についた。丶大(ちゅだい)である。
もう一人、修験者観得(かんとく)は、髪を髻結(もとゆい)して、だんだらすじの麻衣に、緞子(どんす)の裾縁(すそへり)をとった野袴(のばかま)を腰あがりにきて、朱鞘(しゅざや)の両刀をよこたえ、白木の小四方(こしほう)に、書札(かきつけ)を四、五通のせて、ささげもって、丶大(ちゅだい)のつぎの席に座した。これが蜑崎(あまざき)照文だ。
丶大は、一同を見めぐらし、
「みな、うたがうな。はじめからまことをもってつげなかったのは、おもうところがあってのことだ。わたしは年ごろゆえあって、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八文字が、おのずからあらわれる八つの珠をもとめるために、六十余国を行脚(あんぎゃ)してきたが、ひとつの珠も見ることができなかった。ことし五月のはじめから、鎌倉に杖をひくうち、むかし竹馬(ちくば)の友であった蜑崎十一郎照文が君命をうけ、賢良武勇の浪人をひそかにあつめるため、関東の国ぐにをしのび歩くのにめぐりあった。
折から、この行徳にしかじかの力士がおり、その一人の尻に黒くおおきな痣(あざ)があり、ボタンの花に似ているときいた。痣のボタンに似ていることにおもいあたることがあったので、そのちからをこころみ、また痣をみようと、十一郎としめしあわせて、鎌倉の修験者念玉と名のり、十一郎も観徳と名のり、従者(ともびと)をやとって、衣装も行李(こうり)も山伏(やまぶし)にしたててこの浦にきた。
そこでの争いにかこつけて、八幡宮で犬田(いぬた)小文吾・山林(やまばやし)房八に相撲をとらせた。そのとき、犬田の痣をみた。さらに人柄をみようと、十一郎とともに逗留(とうりゅう)して、こよいにおよんだのだ。きのうも宵(よい)のうちに、生垣(いけがき)のあいだからふと聞けば、主人(あるじ)父子が、はなれ座敷に犬塚・犬飼の二人と円座し、珠のこと、痣のこと、また額蔵(がくぞう)の荘助(そうすけ)のことまでうわさしているのだ。これこそ、年ごろの宿望成就(しゅくもうじょうじゅ)の時がきた、とわたしはよろこんだ。で、背戸からとってかえし、十一郎の宿にいき、ひそかにしかじかとつげて、ここにとまった。
そこで房八の孝順義死のこと、犬田父子の良善信義、また犬塚の賢(けん)にして薄命なる、また犬飼の友情を、ひそかに見もし、聞きもして、おのれの袖をぬらした。それから行李をひらき、行脚の老僧姿となり、房八とその妻と子の霊をなぐさめようと出てきた。南無阿弥陀仏」ととなえた。
そのとき、蜑崎照文も扇を膝にたてて、
「みな、つたえ聞きもしたろうが、わが主君里見どのは、文武の良将(りょうしょう)だ。それゆえ仁義でなければ行動せず、礼智でなければ立ちはしない。また、忠信でなければもちいず、孝悌でなければ賞されぬ。それで主命にしたがって国を出立(しゅったつ)、英士をもとめた。また二十二年のあいだ、消息のわからぬ孝徳入道丶大坊(ちゅだいぼう)をたずねて、関東八か国をめぐった。はからずも鎌倉で再会できた。それは丶大坊ももうされたことだ。で、丶大坊と姿をかえてこの地にきた。
背戸からしのびいり、ともに奥座敷にいた。丶大が尺八をふくときは、わたしがようすをうかがい、われがしりぞけば、丶大法師がたちぎきし、ともに感涙した。犬塚・犬飼・犬田らは、わが主家に宿縁(しゅくえん)がある。山林はそうでなくとも、えがたき人だ。こよいにせまる厄難(やくなん)をすくう手だてを相談しようとしたが、身がわりとなったのは遺憾(いかん)なことだ。
わが主君里見どのは、御父季基(すえもと)朝臣とともに、結城篭城(ろうじょう)のおり、忠戦の義によって、成氏朝臣のみかたであったが、近ごろは滸我(こが)の執権、横堀史在村(よこぼりふひとありむら)の奸佞(かんねい)非法(ひほう)のうわさがあり、しぜんと疎遠(そえん)になり、まじわりは、はじめのようではなくなった。もし、犬塚に難儀がかかったなら、われらちからをあわせて、追っ手の兵をきりちらし、本国にともなおうとおもっている。安心してくれ」といった。
信乃・小文吾は、膝をすすめ、
「おもいがけぬお二人の本名をおききし、疑いは氷解しました。しかし、なにゆえに、八つの文字のあらわれた八つの珠をさがされ、また、ボタンの花に似た痣(あざ)にひかれるのですか?」ととうた。
丶大は、「もっともなことだ。そのわけをつげよう」と、八房(やつふさ)という犬のこと、伏姫(ふせひめ)のこと、役行者(えんのぎょうじゃ)の示現感応(じげんかんのう)、また白珠(しらたま)の数珠のこと、おのれが出家行脚して二十二年になること、安西景連(あんざいかげつら)の滅亡のことから、伏姫の自害までをかたった。そして、さらに、
「伏姫は、かしこく、こころやさしく、おおしく、孝にして慈悲(じひ)ぶかく、うるわしい姫であった。それゆえ、八房にともなわれて富山の奥にはいられたが、身をけがすことがなかった。法華経(ほけきょう)の読誦(どくじゅ)の功徳で、犬さえ成仏(じょうぶつ)した。だが、因果(いんが)をのがれられず気をかんじ、懐胎(かいたい)六か月におよんだ。それをはじて自害されたおり、その傷口から白気がたち、数珠とともに中天にみだれ、仁義八行(じんぎはっこう)の文字のあらわれた八つの珠が八方にとびうせ、のこりのものは地におちた。
わたしはあやまって犬をころし、姫もきずつけた。主君の慈悲で自害をとどめられ、出家をゆるされた。そこで、八つの珠をもとめて数珠をつなごうと立ち去ったのだ。信乃・小文吾、それに現八・犬川荘助も、その感得の珠をもっているのみならず、その珠にあらわれた文字は、わが数珠と符合(ふごう)する。また八房は、毛白と黒きをまじえ、黒きはボタンの花と似ており、それが八つの《ぶち》なので、八房と名づけたのだ。
信乃ら四人まで、ともにその痣がボタンの花に似ているのだろう。そうなら、四人は、それぞれ父母があっても、その前身は伏姫の胎内(たいない)からたちのぼった白気のなったものではないか。すると、みな伏姫の子で、義実朝臣の外孫(そとまご)であろう。その氏(うじ)も、犬塚・犬川・犬飼・犬田と、犬をもって称している。これも、ふしぎだ。これを見よ」と、伏姫のかたみの数珠をとりだしてみせた。信乃らは、それを見て、四人の珠とおなじものであるとさとった。だが、文字はなく、百珠で、八つの大きな珠はない。
「わたしたちのもっているのは、この数珠の八つの大珠だ」と、信乃・小文吾はいう。
房八は、まだ息があり、
「うらやましい人びとだ。わたしも、はいりたかった」という。ヽ大(ちゅだい)は、
「房八は、犬士ではないが、その義烈は犬士とともにつたわるだろう。わたしは、房八の祖父朴平(ぼくへい)の師、金碗(かなまり)八郎の一子だ。八郎は定包(さだかね)をうち、功をとげて自害したのだ。朴平のあやまちを孫の房八がそそいだ。わたしは、朴平の罪を亡父にねがって、ゆるしてもらおう。これは、冥土のみやげとせよ」という。房八は、しきりに左手でおがむ。妙真は、また泣きかけた。
丶大は、妙真のそばにふしている大八のなきがらに目をとめ、
「この子は、あわれだ。しかし、死して刻(とき)をへたのに、血色はかわらず、まるで生きているようだ」と小膝をつき、いきなりなきがらをだきあげ、膝の上にのせ、脈をみようと左手をにぎった。
すると、大八がたちまち蘇生し、「わあ、わあ」としきりに泣いた。しかもうまれたときからにぎりしめていたこぶしをひらいたのだ。その手のひらに珠があり、仁の文字があらわれている。そして、大八の脇腹に痣がうかび出てきた。そのかたちは、ボタンの花に似ている。房八にけられたときにできはじめたのだ。
人びとは、この奇跡におどろき、よろこびの声をあげた。妙真は、
「房八、お沼藺(ぬい)よ。大八は蘇生し、しかじかの奇特があった」とよびかけ、大八をひきよせ、珠を見せた。
房八はうなずき、
「さては、わが子にも過世(すくせ)があったのだ。大八に珠あり、痣あるなら、犬士の一人ぞ。母も、みごとな子をうんだ」と沼藺をほめる。沼藺は、うれしい、といって息たえた。泣き声がみちた。
妙真は、顔をあげて、
「大八が、うまれながら左のこぶしをひらかなかったのは、胎内からの珠をにぎっていたからです。伏姫の菩提をとむらう丶大坊(ちゅだいぼう)のおん手にふれたので、ひらいたのでしょう。大八の実名は、真平(しんぺい)です。氏は犬江(いぬえ)で、家号は犬江屋といいました。これから、犬江真平と名のらせ、犬士のあとにくわえてくだされ」というと、丶大は微笑して、
「房八は、自分をころし仁をなした。この子の珠の文字も仁だ。仁は、五常の最たるものだ。真は、おやとよむ親(しん)の字にあらため、犬江親兵衛仁(いぬえしんべえまさし)と名のらせてはどうだろう? 房八が再生して、犬士の隊(むれ)にはいったのとおなじだ。
また、房八は、八房の逆文字だ。沼藺(ぬい)もまた、逆は《いぬ》、犬だ。妙真の俗名(ぞくみょう)は戸山、これは富山の和(わ)訓(くん)とおなじだ。ともに名詮自性(みょうせんじしょう)で、八房の犬・富山に因がある。また、妙真は、真俗二諦(しんぞくにてい)、一念三千の妙旨(みょうし)によって、その夫、その子、その嫁と、ともに清果をえるの義だ。わざわいのもとは、房八の祖父朴平があやまって光弘(みつひろ)さまをおかし、愛妾(あいしょう)玉梓(たまずさ)が逆臣定包をたすけ、主家を横領したことにはじまる。
さらに、朴平の一子、犬江真兵衛は、その旧怨(きゅうえん)をとこうとしてはたせず、その子房八が遺言をまもって、おのれの身を殺して仁をなした。すなわち、二世の功徳でとげた。そうなれば、その死をなげきなさるな。その生をたのしまれるよう。そうおもいませぬか」というと、みな無明(むみょう)からさめた。
小文吾が、口をひらき、
「丶大坊のお話は、とうとい。大八の親兵衛が、珠をにぎってうまれてきたときのことをはなします。わたしがまだ前髪のとき、両親(ふたおや)からきいたこととおもいあわせています。
それは、むかし寛正(かんしょう)三年(一四六二年)に、この入江の水中から、夜な夜な光明(ひかり)をはなつことがあったそうです。人びとはおそれて水底をさぐることはなかったのですが、父文五兵衛がある夜、網(あみ)で光明のあたりになげたのです。だが、さっぱり漁はなく、明け方に家へもどりました。
つぎの日、網をほそうと軒(のき)にかけると、さらさらとおちる音がしました。そのとき、二歳になる沼藺が、網からおちたらしい物を口にいれたのです。父はおどろきましたが、なんともなく沼藺はそだちました。きっと珠だったのでしょう」とつげた。
人びとは、感嘆してきいた。

第三十八回 里見家の宿縁……四犬士の出立(しゅったつ)

信乃(しの)もいった。
「わたしが前髪のころ、与四郎(よしろう)という犬をかっていました。その全身は、黒白(こくびゃく)八つの《ぶち》で、足は白いので、四白(よしろ)を与四郎とよんだのです。その犬が死んで庭にうめますと、そのかたわらのウメが、実をむすび、ひとりでに八つの実をつけました。八房(やつふさ)のウメです。そのウメの実に、仁義しかじかの八行(こう)の文字があらわれたのです。日をへて、文字は消えましたが、その種は、いまもあります。その犬が母の感得した珠(たま)をのみ、その傷口から珠がでて、わたしの手にはいったのです。ウメは木母(もくぼ)、すなわち、母の木です。
八房のウメと房八夫婦と、また名詮自性(みょうせんじしょう)の義です。種を夫婦の墓にうめ、末世の功徳(くどく)にしましょう」と、ウメの種をとりだした。のちにこの種から芽が生じ、八株(やもと)の若木が八房の実をつけた。で、房八のウメ、八房のウメとよんだという。
房八は、その種をみつめ、
「わたしの顔が犬塚さんと似ており、珠にかたどる八房のウメを墓に《しるし》としてくださるなら、わたしも員外の犬士とおなじです」という。
ニワトリが夜明けをつげてなく。房八は耳をかたむけて、
「もう夜明けです。はやく介錯(かいしゃく)してください」とさいそくする。小文吾は、ためらっている。
照文は、小四方(こしほう)の上の一通をとり、房八の額にかざし、小文吾に、
「山林房八は、きょうから里見どのの家臣だ。だが、忠勤の余日はない。ただ、犬塚信乃をすくったことは、主君にたいするにおなじだ。忠なり、義なりだ。いつまで苦痛をあたえている。介錯も情(なさけ)ぞ」という。小文吾は、脇差(わきざし)をさげて立った。
房八は微笑して、「いざ、介錯を」と手をあわせ、首をのべた。妙真は、声をたててはならぬと袖(そで)をかむ。丶大(ちゅだい)は、房八のそばで、しずかに経をよむ。小文吾のふりあげた太刀がひらめき、山林房八は死出の旅に出た。いさぎよいさいごだ。妙真は、ふししずみ、なく。その声で、膝(ひざ)を枕(まくら)に、また寝ていた大八(だいはち)がめざめて、うろうろとして、「父(とと)さま」という。
小文吾は、刀を鞘(さや)におさめ、房八のもってきた信乃の血のついた麻衣(あさぎぬ)を房八のなきがらにかける。
妙真は、大八をだき、「大八よ。百年(ももとせ)よんでも、父はかえらぬ」とうちなげく。一座は愁然(しゅうぜん)としている。
そとがさわがしくなった。
小文吾は、土間にとびおり、くぐり戸をあけた。そのとき、人が框(かまち)に頭をうち、息たえた。塩浜の鹹四郎(からしろう)である。そこへ、男どもを左右にたばさみ、うちにはいってくる人がいる。犬飼現八(いぬかいげんぱち)である。つかまえられているのは、牛根孟六(うしがねもうろく)と板扱均太(いたごききんた)だ。現八は二人をなげかさねた。現八は、
「司馬浦に薬をもとめにおもむいたが、鎌倉にうつったそうです。ちからをおとして、ひとまずかえって鎌倉にまいろうと思案しながらもどると、うちから人の話し声がするので、よく聞きさだめてからときいていました。文五平衛(ぶんごべえ)こと、山林夫婦のこと、大八のこと、犬塚さんの回復のこと、丶大坊と蜑崎(あまざき)さまのことをききました。このとき、なんとなくこころがさわぎ、ことあらばとそとで刻(とき)をまつと、はたして三人のくせものがおり、これを村長(むらおさ)につげようとするので、一人をなげこみ、二人をとらえました」とつげた。
小文吾は、
「この三人は、名をしかじかといって、妻子もないやくざものです。もう息がたえだえです。わざわいの根をたちなさい。はやく、はやく」という。
現八は、二人を膝にひきつけ、おしたままに骨をつかみおると、二人は目鼻から血をながして死んだ。
現八は孟六・均太・鹹四郎(からしろう)のなきがらを片隅にかさね、物でおおった。
現八は、信乃の本復(ほんぷく)のよろこびをのべ、小文吾をねぎらい、丶大(ちゅだい)・照文に対面し、妙真をもなぐさめた。さらに山林夫婦の義死をほめ、その子大八の親兵衛(しんべえ)が犬士たることをいわった。小文吾は、
「犬飼さんは子細をきかれたでしょうから、いまさらつげることもないでしょう。もう、夜があけます。帆太夫(ほだゆう)らがきてはいけません。わたしは、首をもって村長の屋敷にまいり、父をすくってきます。あそこの橋につないであるのは、わたしの家の釣り舟です。房八・沼藺のなきがらもそうですが、ご一同も舟にのり、市川の山林の家まで逃げてください」と現八にいう。けさは、霧がたちわたる。
丶大は、照文に、「ここに、四犬士つどっている。御諚(ごじょう)をつたえては……」という。
照文は、信乃・現八・小文吾に、
「みなは、里見どのに由緒(ゆいしょ)がある。このお墨付(すみつき)をおさめて、主従の義をかためられよ。そろって安房にかえろうぞ」と、徴書(めしぶみ)をそれぞれにわたした。
信乃らは、それを拝読して、
「わたしどもは尊藩(そんぱん)に宿縁があります。将軍・管領(かんれい)から召されても、ほかからは禄(ろく)はうけません。しかし、わたしども五人のほかに、三人の犬士があるべきなのに、それがあらわれません。また額蔵(がくぞう)の犬川荘助(いぬかわそうすけ)がおりません。わたしは、荘助といっしょでなければ、禄につくのは不義です」と辞退した。
小文吾も、現八も、
「わたしどもも、犬塚さんとおなじです。ひとまず大塚(おおつか)の里にまいり、犬川さんに対面し、これらのことをつげなければなりません。さらに、しばらく修行し、八犬士あつまって安房にまいってもおそくはないでしょう。この徴書は、その日まで、おあずかりください」と、こころざしをのべた。照文は、
「三犬士のことばは、もっともだ。わたしはさきに栞崎(しおりざき)で、犬田小文吾の大忍がつねならぬのにこころをうたれた。また犬塚信乃の信義博愛、犬飼現八の遠慮勇(ゆう)力(りょく)、いずれが兄か弟か、ともにすぐれた犬士だ。また犬川荘助は、伊豆の北条(ほうじょう)の村長だった衛二(えじ)の子なら、わたしとは再従兄弟(またいとこ)となるもの。それなら、わたしもともに大塚の里におもむき、荘助に対面しようかともおもうが、丶大坊(ちゅだいぼう)、いかがでしょうか?」と丶大にとうた。丶大は思案して、
「武蔵の大塚は、管領扇谷(おうぎがやつ)の軍将、大石兵衛尉(おおいしひょうえのじょう)の城がある。もし、額蔵の荘助が、しかじかの勇士ゆえ里見家から召されるともれたなら、大石の陣屋では荘助をとじこめて、こっちにはわたさないだろう。そうなったら、一犬士をうしなうのではないか。拙僧(せっそう)は、行脚(あんぎゃ)の途中なので、荘助とあって御諚をつたえても、ひとはうたがわぬ。だが蜑崎(あまざき)さんは、四犬士にあいながら、その一人もともなわずに安房にかえっては、主君に返答ができぬであろう。では、犬江親兵衛と妙真をともないなされ。犬塚・犬田・犬飼の三犬士は、市川までしりぞき、大塚の里におもむき、ひそかに荘助につげるがいい。わたしは、山林夫婦のために追善の読経(どきょう)して、のちに大塚にまいる」といった。
照文は、別に四通の徴書をとりだし、まえの三通とともに丶大にわたした。
妙真は、「ものの数にはいらぬ親兵衛だけが、さきにまいっては」という。丶大は、
「いや。親兵衛は、童(わらべ)というても犬士の一人だ。他領にはおけぬ。もう時がたつ、小文吾、はやく村長(むらおさ)のもとにいけ」とうながす。
大八が、「おじさま、どこへ?」とまつわるのを、信乃がひきはなした。一同ひとしく悲嘆する。
小文吾は、脇差を腰に、房八の首を右手に、丶大(ちゅだい)にわかれをつげ、信乃と現八に、「鹹四郎(からしろう)らを入江のふちに」といい、妙真をなぐさめ、親兵衛に、「珠をなくすな」という。
あわれ夫婦のなきがらの、夫のむくろと首は、死に別れだ。霧と靄(もや)に胸もくもる。そのなかに、小文吾の姿はきえた。

第三十九回 離合集散(りごうしゅうさん)……小文吾のゆくえ

文明十年戊戌(つちのえいぬ)の夏六月二十三日の未明、犬塚・犬飼の二人は、丶大(ちゅだい)・照文(てるふみ)らとともに犬田小文吾をみおくった。戸をしめて、妙真(みょうしん)の案内で納戸(なんど)からさがしだした二つのつづらに山林(やまばやし)夫婦のなきがらをおさめ、それを船荷のように、むしろでつつんだ。
丶大と照文は、入江橋のほとりまでいき、文五兵衛(ぶんごべえ)の釣り舟をひそかに背戸川(せどがわ)にこぎよせた。靄は深い。鹹四郎(からしろう)ら三人のなきがらは、信乃(しの)と現八(げんぱち)が河原に出し、腰に石をつけて水底にしずめた。丶大は回向(えこう)し、人びとはそれに和した。
「いざ、いそげ」と、妙真は大八(だいはち)の親兵衛(しんべえ)をだき、つづらにそって舟にのる。信乃・現八ものり、板子(いたご)の下にふした。照文は蓑笠(みのかさ)をかぶり、ひそかに舟をこいだ。丶大はそれを見おくる。靄(もや)のなかを走り、海上に出た。このとき、日がのぼった。
照文は安房の人である。水上をいくのは陸より自由だ。市川の郷(さと)が見えてきた。
「わたしの家は、あそこです」と妙真は指さす。
その岸に舟はついた。妙真のうしろから、二つのつづらを信乃・現八が母屋(おもや)にはこびいれた。妙真は奥の座敷に信乃と現八をしのばせ、照文に茶をすすめた。仏壇(ぶつだん)には香をたき、花をいけた。大八は母をしたっておとなしくしていたかとおもうと、あるいはそとに出て門(かど)にたち、一人あそんだ。つかれると、うたた寝をする。
妙真が「寝顔をみると、親に似ている」とつぶやき、だきあげると、夢かうつつか、ふところに手をさしいれ、しなびた乳房をさぐる。
その夕暮れ、小文吾と丶大(ちゅだい)が行徳(ぎょうとく)からきた。信乃・現八・照文らと対面する。まず文五兵衛の安否(あんぴ)をとうた。小文吾は、
村長(むらおさ)の屋敷におもむき、犬塚信乃の首を持参したとつげると、新織帆太夫(にいおりほだゆう)が出てきて、さまざま問いただしました。それで、こうこたえました。
わたしがきのう家にもどると、一人の旅客がいた。その武士は、刀傷などあり、そっと絵姿と見くらべるとよく似ている。きている着物の色もおなじだ。まさしく、信乃だ。それから信乃とかたらい酒食をすすめて、ただ一太刀(ひとたち)で殺害した。ここに首をもってきた。この恩賞に親の縄目(なわめ)をゆるしてほしい、といった。
村長はうけとり、首実検をした。帆太夫は絵姿と見くらべたのち、小文吾のはたらきにより文五兵衛の科(とが)を免(めん)じ、おまえとともに家にかえすといった。
帆太夫は旅じたくをすると、首桶(くびおけ)をもち、あわただしく出立(しゅったつ)していきました。
わたしの父も、ゆるされて家にもどりました。家には、丶大法師がまっていて、はなれ座敷で、身がわりの房八の義烈(ぎれつ)、沼藺(ぬい)の横死、薬血の奇特、犬塚さんの回復、大八の親兵衛の珠と痣(あざ)のこと、念玉(ねんぎょく)・観得(かんとく)両修験者の本名、本心、そのあと市川の郷(さと)におもむいたことなど、いっさいをはなしました。
父は、おどろいたり、よろこんだり、またかなしみもしました。そして、自分は老人ゆえ役にたたない、これから丶大法師のともをして市川にまいり、妙真さんと力をあわせて房八・沼藺の野辺おくりをすませ、信乃・現八のお二人を大塚までおくれ、ともうしつけられました」とつげた。
人びとは、ほっとした。
妙真は、「きょうは船夫(かこ)どももおりません。葬(とむら)いは、こよいならば好都合でしょう」という。
小文吾もうなずき、
「わたしも、そうおもいます。ここは滸我(こが)とはそう遠くないので、房八・沼藺の死のことを、しばらくひとに知られてはまずいのです。もしひとにきかれたなら、沼藺は行徳に、房八は鎌倉にまいっている、とこたえてはどうでしょう」といった。
葬いは亥(い)の刻(午後十時)ともうちあわせた。丶大はつづらのそばで、しのびやかに回向(えこう)をつづけた。
すくわせたまえ阿弥陀仏(あみだぶつ)、弥陀仏、弥陀仏……。
初更(しょこう)すぎて、寺でらの鐘が無常、無常とひびく。
つづらを小文吾・現八が背におう。大八の親兵衛を信乃が横だきにし、墓所までいく。照文はしのび提灯(ぢょうちん)をさげて先頭にたつ。丶大は、二つのつづらのあいだに立った。妙真は、ただひとり背戸口(せどぐち)で見おくる。
一町ばかりで、ささやかな丘がある。犬江屋(いぬえや)の墓所である。人びとが犬江屋にもどったのは、四つ(午後十時)のころだ。小文吾は、葬いの次第をつげてのち、
母御(ははご)よ、宵(よい)にもいいましたように、ここは滸我へ遠くもありません。こうしてそろっていては、あぶないとおもいます。わたしは明け方、犬塚・犬飼の両友を、舟で大塚におくります」という。妙真は、
「それは、なごりおしいことです。せめて初七日(しょなのか)ごろまではとどまってほしいのですが、事情ゆえしかたありません。それでは、夜のあけるまで語らってください」といった。
信乃と現八は、妙真に、
「わたしどもは、母御にもご子息にも、深い恩義をうけました。後難をはばかって、不本意ながら大塚にまいります。犬士のひとり犬川荘助、またの名を額蔵とよばれるものに、ひそかに対面し、そのほかの所用をはたしたいとおもっております。一所不定(いっしょふじょう)の身で、袂(たもと)をわかっても、ここにうまれながらの犬士がおります。近くには、犬田父子もおります。いずれも疎遠にはしません。語ろうとぞんじます」とつげた。
妙真は、こころぼそげだ。
蜑崎(あまざき)照文は、ふところから用意の砂金をとりだし、まず三つつみを扇(おうぎ)にのせ、信乃・現八・小文吾らの前にさしだし、
「三犬士よ。この金は、三十両をひとつつみとしたものです。わずかながら路用のたすけとしてください。これは、それがしからの餞別(せんべつ)ではなく、里見どのからのたまわりもの、遠慮なくうけてくだされ」といった。
三人は「それは、おもいがけぬことです。まだお召しにおうぜず、功などもないのに、うけることは……」としぶったが、照文は、
「いや。あなたがたは、伏姫(ふせひめ)のお子となるべき人びとだ。功をまって賞をおこなわれるたぐいではない。うけてもらわぬと、安房にかえって主君にもうしあげることばがない」としきりにすすめた。また照文は、ひとつつみの砂金を扇にのせて、妙真の前におき、
「老母よ。これは房八夫婦の追善(ついぜん)の香華(こうげ)に、その子親兵衛にたまわるものだ。辞退するにはおよばぬ」といった。妙真は、感涙してうけた。照文は、さらに一つつみの砂金を扇にのせ、
「犬塚信乃。これは、同盟の一犬士荘助ともうすものにとどけてほしい。わたしは、大八の親兵衛をともなって、安房にかえり、のち大塚におもむき、そこで再会しよう」といった。信乃は、
「額蔵の荘助は、この席にかけているのに、このような冥加(みょうが)にあまります。さきほどたまわりました分から荘助にわけますので、この儀は……」と辞退するが、丶大(ちゅだい)は、
「いや、その一人の犬士には、まだ対面してはおらぬが、たまものに漏れがあってはならぬ。これも、君命とおもってほしい。拙僧(せっそう)もともどもとおもったが、山林夫婦のために、初七日の回向をし、杖(つえ)をとどめる。遠からず再会しよう」という。
夏の夜は短い。明けの鐘とともに、信乃・現八は、旅じたくをととのえ、暇(いとま)ごいをして出ようとした。小文吾に、妙真は用意の弁当をわたす。小文吾は、
「わたしは、大塚まで二人をおくりとどけて、犬川荘助さんにも対面したいとおもいます。はやくて両三日、おそくとも四、五日ほどでもどりましょう」といった。妙真は、
「それでは、房八・沼藺らの初七日の逮夜(たいや)のころにはかえりますな」といった。
川岸に出、丶大(ちゅだい)・照文・妙真は、見送りにたった。信乃・現八は、再会を約束し、舟にのりうつった。小文吾も、ひらりとのり、棹(さお)をとった。黎明(れいめい)の潮合(しおあい)に、舟はむかう。
この日。正午ごろに文五兵衛が、行徳からきた。
妙真は、「これは、よくきてくださいました。こちらへ」と、上座にすすめたものの、あとはしきりに泣くばかりだ。
文五兵衛は、腰の扇をとり、胸のあたりに風をおくっている。文五兵衛は扇をたたみ、そばにおき、
「のう、おふくろ、房八は孝なり義なるものでしたな。すべてを小文吾からききました。それで、丶大・観得のご両所はおいでですか?」ととうた。
妙真は涙をおさめて、
「泣いては冥土のさわりとなるでしょう。小文吾さんは、けさ、舟でお二人を大塚までおくりにまいりました。おそくとも四、五日うちにはかえられるとか。安心しています。丶大坊・蜑崎さまは奥の座敷におられます。こちらへ」と立とうとすると、大八の親兵衛が、そとから走ってきて、
「ばばさま、なにかほしい」とすがる。妙真は、「これ。行徳のおじじさまですぞ」と頭をさげさせる。
文五兵衛は、膝(ひざ)にひきよせて、
「大八。しばらく見ないあいだに、おおきくなった。いいものをあげよう」と、袂から田舎(いなか)おこしを袋のままわたすと、大八はうけとった。その単衣(ひとえ)の脇(わき)あけから、ボタンの花に似た痣(あざ)がみえた。
妙真は、大八の腰につけたまもり袋のひもをゆるめて、仁(じん)の文字の珠をとりだしてしめした。文五兵衛は、懐紙(ふところがみ)のあいだから、眼鏡(めがね)をとりだして見た。
「ほう。珠といい、痣といいおなじだ。奇特がある。孫のゆくすえはたのもしい」と、珠をかえした。
それから文五兵衛は妙真の案内で、奥座敷で、丶大・照文とあった。二人は三犬士と山林夫婦の葬いをおこなったこと、犬田・犬江らは、犬塚・犬飼とおなじく里見家にかかわる身であることなどをかたった。
照文は、
「わたしは、四犬士をともなって、安房にかえろうとしたが、犬士たちは、犬川荘助という一犬士が大塚にいるので、そこをたずね、あらためて里見家のお召しにおうじるとのことだった。で、このたび親兵衛だけでも主君に見参(げんざん)にいれようとおもっているが、祖母(おおば)がなかなか承知しない。文五兵衛からも、声をかけてほしい」という。
丶大もことばをすすめた。文五兵衛は、
「まことにあやしき因縁(いんねん)で、小文吾はもとより、ものの数にはいらぬ孫まで、大諸侯(だいしょこう)に召されるのはよろこびです。だが、大八は東西もわからぬ童(わらべ)です。それが四犬士の名代(みょうだい)として主君の見参にいれるとあっては、おふくろもこころすすまぬのでしょう。初七日をむかえるころには、小文吾ももどりましょう。そのとき相談して、おおせにしたがうことにします。そのあと、行徳においでになりませんか」といった。
この日、文五兵衛は、照文を行徳にともなった。それから、丶大と照文とは、あるいは一日、あるいは二日とかわるがわる市川と行徳に宿をとった。
四、五日して、房八・沼藺の初七日がきた。小文吾はまだかえらぬ。文五兵衛は朝からきて、ひそかに追善の用意にかかった。丶大は逮夜(たいや)から読経(どきょう)をつづけた。照文もそれにならった。
風はもう秋をはこんできている。小文吾の姿はまだない。文五兵衛も妙真も不安だ。丶大と照文もそうだ。
七月二日。丶大は、行徳にいた。文五兵衛にいった。
「小文吾がきょうまでもどらぬのは、なにかことがあったのだろう。信乃は、しかとつげぬが、その伯母(おば)も伯母婿(むこ)も、甥(おい)をなきものにし、村雨(むらさめ)をうばおうと、信乃を滸我におもむかせたらしい。信乃は、故郷にもどっても伯母婿の家には寄らぬという。ここに不測の事態がおこったのではないだろうか。ここで心配していてもはじまらないので、拙僧も大塚にまいろうとおもう。大塚の村長(むらおさ)蟇六(ひきろく)の下男、額蔵の荘助をひそかにたずねたら詳細もわかる。そのとき、荘助が里見家の家臣になれることを約束しよう。いまからいけば、あしたの夜は、小文吾とともにかならずもどる」とつげた。
文五兵衛がよろこんでいるところへ、市川から蜑崎照文がきた。丶大はそのかんがえをかたった。照文も、
「法師が大塚にまいられるなら、安心だ。親兵衛を安房にともなっていくのに、妙真もようやく承知したものの、小文吾がかえってからというのだ」とよろこびをみせた。
丶大は、未(ひつじ)の刻(午後二時)に舟出することになった。丶大を見送りに文五兵衛・照文が川岸に立った。
照文は、妙真につげようと市川にいそいだ。
あってはわかれ、わかれてはあう。世はすべて離合と集散である。

第四十回 神霊(しんれい)の竜巻(たつまき)……親兵衛(しんべえ)の神隠し

丶大(ちゅだい)が大塚に出むいてから、三日をへた。まだ音信はない。照文が妙真に、
「小文吾がまだもどらないのは、その地の友にとめられているのかもしれないが、丶大法師まで、約束した日より二日もおくれているのはどうしたことだろう。ともかく不安だ。わたしは、行徳(ぎょうとく)にいってみよう。まだかえっていなかったなら、文五兵衛と相談して、大塚まででもいってみる」という。
妙真は、ため息をつき、
「こころやすからぬことです。小文吾さんは約束をたがえる人ではありませんが、丶大法師までなにをしておられるのか、とおもうばかりで、なすすべもありません。かといって、あなたさまがそのあとを追っても、むこうでひきとめられてしまうのでは……。まず行徳の古那屋(こなや)でまち、たよりで有無をきいてください。あすかあさってには、二人のうち一人の音信はくるでしょうから」という。
照文は、「そうしよう」と、行徳にむかった。
一人のこった妙真は、日数をかぞえ、きょうは房八(ふさはち)と沼藺(ぬい)の二七日(ふたなのか)にあたると知った。だが、いつもよりいそがしく、数珠(じゅず)を手にしたのは正午(ひる)だ。
「こころの闇を弥陀本願(みだほんがん)、てらさせたまえ」と灯明(とうみょう)の火を線香にうつした。煙が四すじ、五すじとのぼる。妙真は、ひとすじに看経(かんきん)をつづけた。背戸(せど)のエンジュの木に秋セミがないている。
そこへ声高く、「おふくろ。ひさしぶりだ」とよびかけて、背戸からくるものがいる。
妙真は「だれぞ?」と木魚(もくぎょ)をのけ、数珠をしまった。
そのものは、縁側(えんがわ)から簀戸(すど)をあけた。歳は五十にもなるか。眼(まなこ)つぶらに、鼻おおきく、唇厚く、一枚かけた歯を蝋石(ろうせき)でおぎなっている。肌は赤黒く、秋ナスのようだ。ひげは半白で、老(ひね)トウガンに似ている。かすり木綿(もめん)の単衣(ひとえ)は、肩と腰に汗(あせ)がしみて、ふんどしだけを見せかけている。片はしょりにも裾(すそ)はおろさず、縁柱にもたれかかり、高あぐらだ。そばのうちわをわがもの顔に手にし、襟(えり)をひらいて、「暑い、暑い」とあおぐ。そよぐ胸毛はクマに似ている。入墨(いれずみ)は、月輪(つきのわ)か。「命」とかいたやせ肩にかけた手ぬぐいを左手につかみ、あごの下までながれる汗をぬぐった。
このものは、名だたる暴風(あかしま)の舵九郎(かじくろう)とよばれる居所不定の男だ。あっちこっちとやとわれて、舟をこぐが、酒と賭博(とばく)がすきだ。この犬江屋(いぬえや)でもやとったことがあるが、船荷をぬすむので房八がこらし、そののちは寄せつけなかった。妙真は、
「背戸から奥まで、ずかずかとはいってくるのはだれかとおもったら、舵九郎さんかい。きょうは、どうした風のふきまわしか。どうして、ここにきた?」とたしなめた。舵九郎は、平気だ。
「そう、いやな顔をしなさんな。風にふかれてくるわけでもあるまいし。ここの房八兄にののしられて足がとおのいてしまい、きょうたずねようか、あしたたずねようかとおもっていたが、房八兄は鎌倉にいき、沼藺(ぬい)姉は里にかえられたという。それは、おかしなことだ。それに近ごろ法師と武士が、一夜(ひとよ)、二夜(ふたよ)とかわるがわるとまるとか。なにごとかあったのか、とこころにかかり、背戸から見舞いにきたのさ。こっちにくるがいい」となれなれしい。
妙真は、油断はならじと、
「それは、こころづいてありがとう。房八が鎌倉へ、沼藺は行徳にいっていることはみな知っている。また二人の旅人は古那屋の客で、房八にあいたいと、しばしばここにきただけだよ」という。
「いや、かくされるな。おまえさんは、歳は四十あまりだが、からだの脂(あぶら)もぬけず、みずみずしい。一人や二人の男がきても、おかしくはない。色にまよえば子でもころす。あの墓所のある丘に、あらたにうずめたところがある。それにあやしいのは、古那屋では、犬塚(いぬづか)とかいう罪人の首を、小文吾がとって、滸我(こが)にとどけたというが、それっきり小文吾の姿がみえぬ。さらに鹹四郎(からしろう)ら三人の姿もない。墓所のぬしは、犬塚のなきがらか、それとも山林房八と犬田小文吾が、鹹四郎ら三人をうめたのか。あの新葬(あらぼとけ)はだれだい?」と問いつめる。
妙真は、はっとしたが、気色(けしき)には出さず、微笑して、
「それは邪推(じゃすい)だよ。沼藺の兄小文吾が、犬塚信乃(しの)をうちとったのは親のため。もとよりうらみのある相手ではない。ほうむろうとおもっても、行徳でははばかりあると、房八が意のままにうめたのさ」といった。
舵九郎は、あざわらって、
「そうかな。房八兄と小文吾の仲たがいは、だれ知らぬものもない。これはさっするに、小文吾は房八兄をころして逐電(ちくでん)したのだろう。それで、小文吾の親の文五兵衛は、ひそかに金をもって和解し、おまえさんは房八兄のなきがらを、ひとに知られぬようにほうむったのさ。人目をはばかっての念仏三昧(ざんまい)。その手はくわぬぞ。論より証拠。あの新葬をほりだして、見せてやろうか」とたちあがる。
妙真は裾をつかみ、
「墓所をあばくのは、不法だよ。おまえにかかわりのないことさ。すてておきな」というと、舵九郎は目をむきだし、
「それなら、この悪事(あくじ)を村長(むらおさ)にうったえて、ほうびをもらわなければ酒にもありつけぬ。それに密夫などより、このおれを婿どのにしたらどうだ?」とほざきわめく。
妙真は、ことをあらだててはならぬとおもい、さりげなく、
「おまえのこころがかわらぬ、とみさだめてからのことだよ。わたしは、若いころから浮いたこともない。やもめになって、みだらとぬれぎぬをきせられては、かぎりないうらみともなる。本意なら、また日をへだててきておくれ」といった。
舵九郎は、あざわらって、
「おれのききたいのは、否(いや)か応(おう)か。否なら否でもよい。墓所へいってくるか」とまた立ちあがる。
妙真はおしとどめ、
「それは、あまりに性急というもの」
「それなら応か」
「それは、また……」
「それはまた、とは、人をまどわず。こっちにこい」とひきよせる。それをかいくぐって、逃げるものの、おいつかれてしまう。
そのとき、蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)が、文五兵衛をともなって、行徳からかえってきた。背戸からはいろうとすると、人にいどむような、《すのこ》をふむ音がする。
「なにごとぞ!」とさきにすすむと、舵九郎が、妙真にすがりつこうとおってくる。そのはずみに、はたとつきあたり、いきおいあまって、のけぞりざまにたおれた。
妙真はほっとし、
「よいところに、蜑崎さま」という。
舵九郎はむくっと立って、照文を見あげておどろき、
「無遠慮なやつだ。ことがなろうとしているところに。さては後家(ごけ)の密夫か。村長のもとにひきずっていくぞ。はやくこい」と立ちかかる。照文が腕をとらえ、どうっとなげると、簀戸をうちたおして、はるか庭に。
舵九郎はとんぼがえり、「ああ、いたい、いたい」と、かたわらの杉にすがってようやく立ち、うらめしげに見て、
「なまくら武士め、おぼえていろ。おれがうまくなげられただけだ。それ、膝(ひざ)もすりむかないぞ。これでもくらえ」と裾をからげ、尻(しり)をむけてたたいてみせた。照文はいかり、
「まだこりないか。女だとおもってあなどった狼藉(ろうぜき)もそうだが、わたしを密夫とののしったのはゆるしがたい。逃げるな」と、刀をきらりとぬく。
妙真は、それをとどめて、
「あれは、名だたるならずもの。きずつけると、やっかいになります。相手になってはいけません。逃がしなさい」といましめた。
照文は、歯をくいしばり、追うのをやめた。
舵九郎は、「かかかか」とあざわらって、
「刀をぬいておどしても、ひとをころせば、自分もころされる。いのちは、おしいだろう。きるのか、きらないのか。どうしたい。きらないなら、かえるぜ」と、着物についた土をはらって、軒下(のきした)の草履(ぞうり)をとって足ばやにののしりながら逃げた。
照文は、刃(やいば)を鞘(さや)におさめ、もとの座につき、文五兵衛とともに、ことの詳細を妙真にきいた。妙真は、舵九郎の狼籍におよぶ次第を、しかじかとつげた。
二人はおどろき、
「すると、またわざわいがおこりますね。どうしますか」と額(ひたい)をよせた。照文は、こぶしをさすり、
「ことの詳細を知っていれば、あのならずものをうち、わざわいの根をたつべきでした。あいつが逃げたのでは、こうしてはいられません。舵九郎にうったえられて、新葬(あらぼとけ)があばかれても、山林房八のなきがらにはその首のないことから、信乃のむくろということができましよう。だが、夫婦合葬(がっそう)したので、その妻のなきがらはどのように説明したらよいのか。これが露見(ろけん)したなら、犬田父子、戸山の妙真さんも、のがれることができようか。これから舵九郎を追って、うちはたしてまいります」と刀を手にし、立とうとすると、文五兵衛はおしとどめて、
「いまさら追っても、舵九郎はさだまった家がありません。ただ、やくざのあつまる無頼(ぶらい)賭博のなかまなのです。あいつはあのままにして、わざわいをさける手だてこそ必要かとおもわれます」という。
しばらくして文五兵衛は、妙真に、
「あなたは、どうおもわれます? 小文吾が大塚におもむいて、すでに十日あまりになりましたが、まだもどりません。丶大坊(ちゅだいぼう)も三、四日たってもかえりません。きょう、蜑崎さまがたずねてこられ、かたりあったが結論がでませんでした。また市川にまいり、妙真さんをくわえて相談しよう、とこうしてきましたら、このわざわいです。どのようにしてのがれたらよいでしょうか」と問う。
妙真はため息をつき、
「善には善のむくいがあるときいていますが、義士も節婦(せっぷ)もなきあとまでも、幸いなきうえに幸いなきは、過世(すくせ)の業報(ごうほう)なのでしょう。わたしが無実の罪にとらわれても、孫の大八はつつがなくそだつように、と先だつものは涙ばかりです」といいかけて、またなげく。
照文は、
「わざわいがおこると知って、ここで詮議(せんぎ)しているのはむだなことです。こうなると、丶大坊と小文吾をまっているのはあやうい。わたしは、大八の親兵衛をともなって、安房(あわ)にかえります。妙真さんも、孫につきそって、この地をはなれましょう。国境(くにざかい)まで走るなら、舵九郎も、村長も、その手下数百人がおいかけてきても、おそれることはありません。古那屋の主人は家にもどり、こよいの出舟で大塚にむかわれたなら安心でしょう。この次第を丶大坊と四犬士に知らせ、みなをともなって安房においでなさい。さあ、妙真さん。出立(しゅったつ)の用意を」と、せきたてる。文五兵衛は、
「それではてまえは、孫をせおって、郡境(こおりざかい)までまいりましょう。おふくろ。いそがれてもあわてなさんな」という。
妙真はねむりからさめた大八に、新しい衣をきせ、まもり袋を腰にむすんだ。自分も手ばやく旅装(たびよそおい)をととのえ、たくわえの砂金などを身につけ、仏壇(ぶつだん)の位牌(いはい)、古記旧録、孫の着がえの衣などをふろしきにつつんだ。
そこへ、きのう江戸に舟をだした依介(よりすけ)という下男ひとりがもどってきた。「これは、どこにおいでになられます?」とたずねた。妙真は、
「いま、蜑崎さんが、大八をしかじかのところまでおつれくださる、といわれます。幼いものを一人でやることはできないので、行徳の外祖父(おおじ)も途中まで背おってくれるとのこと、それでわたしもこのふろしきづつみを、とおもっていました。いまもどってきたものをつかうのは気になるが、このふろしきづつみをそこまでもっていっておくれ」というと、依介は、
「それは、たやすいことです。一日舟をこぎ走らせても、足のつかれることはないので、いまかえったばかりでも、なんともありません。どこまででもまいります」と、ふろしきづつみを背おい、文五兵衛も大八の親兵衛を背おった。
みな、したくがととのった。照文をさきにたてて背戸から出た。笠をかたむけて、人の目をさけた。市川の町をはなれて、田舎道(いなかみち)を上総(かずさ)へむかい、松並木まできた。ところどころに繁茂(はんも)するチガヤの下で、虫の声がする。そのかなたから、日は暮れはじめる。
そのまむかいのひとむら、黒い松のかげから一人のくせものがあらわれた。頭に手ぬぐいの《よりはちまき》をして、腰にひと振(ふり)の短刀(のだち)をよこたえ、右手には八、九尺の長櫂(ながかい)をもち、柿色染めの筒腹掛(つつはらがけ)、双肩(もろかた)ぬぎ、単衣(ひとえ)の両袖を前にむすび、毛ずねをあらわし、着物の褄(つま)を片はしょりした身軽ないでたちだ。鬢(びん)は白く、顔は赤黒く、山ザルのようだ。これは、いかれば船をくつがえし、また家もたおすという、暴風の舵九郎だ。酒気ぷんぷんとさせ、声高にわめく。
盗人(ぬすびと)ども、おそかったな。おまえらの悪事、おれににらまれなじられて、後家もろともに逐電するというのか。こうだとおもって、なかまのだれかれかりあつめ、門(かど)には犬をつけ、途中にみはりをおき、夜道をくるのは、この街道とかぎつけ、さきにまわって網をはっていたのさ。もうのがれられぬと観念し、女を渡し、はやく死ね」
照文は、これをきき、
「さきにもこりぬ悪ものめ! いまわざわいの根をたたなければ、この地の憂(うれ)いはいつまでもはびこる。刀をけがすはおしいが、のぞみにまかせて、もの見せようぞ」と、刃をきらりとひきぬくと、舵九郎は声をふりたて、「みな出ろ!」とよばわった。
「おう、承知だ」と、左右のカヤのなか、小松のかげから、三人、あるいは五人、折櫂(おれかい)、大魚刀(いそがたな)などをもった悪党どもが、イナゴのようにおどり出た。
照文はすこしも動じず、前後左右にひきつけてたたかう。文五兵衛は大八の親兵衛を妙真にだかせながら、
童(わらべ)と女はあやうい。依介と、もとの道を市川のほうに逃げなさい。はやく、はやく」という。
またうしろから一隊の悪党どもが、ふいにあらわれた。文五兵衛は、これではのがれがたい、と妙真を背後にたて、旅刀(たびがたな)をうちふり、しばらく防ぎたたかった。老人だが、もとからの町人ではない。二、三人に浅手をおわせたものの、相手は多勢だ。
依介も、たすけようとおもって妙真のすてた杖(つえ)をとり、ふりたててとひこんだ。照文は三人をきり、五人に深手をおわせ、舵九郎にちかづこうとするが、多勢にさえぎられて進退自在ではない。
依介は、文五兵衛とともにたたかったが、手には杖一本だ。三方からうちかかられて、眉間(みけん)を、《はた》とやぶられ、ほとばしる鮮血とともに、「あっ!」とさけんでたおれた。文五兵衛はこれを見て、さすがに勇気も腕もおとろえ、後退したので、妙真とのあいだがはなれた。
そのすきをうかがっていた舵九郎は、小暗いほうから走ってきて、声もかけずに妙真を大八の親兵衛とともにだきかかえた。妙真はふりとこうとしたが、できない。片手でかんざしをぬき、だいている舵九郎の腕を、骨もつらぬけと、《ちょうと》つく。
さすがに舵九郎は、痛みにたえかねて、
「なにをする!」と、おもわずくんだ両手をといた。
妙真が親兵衛を肩にかけ、いちはやく逃げだそうとするところを、舵九郎は、のがすものかとおどりかかり、大八の親兵衛の肩先をつかみ、枝の実をもぎとるようにひきぬいた。妙真は、のがれることができぬ。
「幼いものにうらみはないでしょう。科(とが)もない。むごいのも相手によるものを、舵九郎、かえせ!」とさけび泣く。
舵九郎は、「じゃまするな」と妙真をけりたおし、一町ばかり走った。妙真が身をおこしておいかけると、舵九郎は枯木の株に尻かけて、大八の親兵衛を手王のようになげ、地上にうちおとした。大八は、息もたえだえの声で泣いた。
妙真がころびまろびつ、あえぎあえぎちかづくと、舵九郎は、また大八をひきよせて、
「後家め、これを見るがいい。おれのこころにしたがわなければ、この餓鬼(がき)もあの世いきさ。後家といっしょの三人は、なかまにまかせたからには、一人も生きてはかえるまい。丘にうずめた死人(しびと)のこともうちあけて、いまからたのむというなら、市川にかえって、こよいは二世のことはじめさ。それなら、餓鬼も下にもおかず、乳母日傘(おんばひがさ)で、はでな着物もきせてやろう。いやというなら、この雑魚(ざこ)を塩干(しおから)にして、酒の肴(さかな)だ。こころをきめて返答しろ。返答しないなら、この餓鬼を……」と、手ごろの石をつかみどり、大八の親兵衛の胸をうとうとする。
妙真は、声をあげても声にはならず、とめようとしても腰がたたない。草の上に身をふせて、ともに死のうとおもうばかりだ。
そこへ照文が、二十余人の悪党を八方へきりちらして、文五兵衛とともに妙真のゆくえをたずねて走ってきた。雲間からもれる月影で、ふしている妙真の姿をみとめた。舵九郎は、大八の親兵衛を左手におさえ、右手の石でうとうとしている。
照文らはおどろき、
「まて。しばらくまて」とよびかけたものの、人質にとられてはほどこす手だてがない。歯をくいしばり、こぶしをさすり、またたきもせず、にらむばかりだ。
舵九郎はこれを見て、からだをゆすってわらい、
「おまえら二人まだ死ななかったのか。一歩でもちかづけば、この石で餓鬼めをひとうちだ。七草たたきのようにするか、砧(きぬた)をうつようにするか、のぞみにまかせるぜ」と、あくまでもてあそぶ。
照文も文五兵衛も、すきあらば親兵衛をうばいとろうとするだけだ。いのるのは仏の感応冥助(かんのうめいじょ)。舵九郎とは四、五十歩のあいだだ。舵九郎のこころは残忍不敵(ざんにんふてき)の興だ。舵九郎は、またわらった。
「そろいもそろって腰ぬけども。おまえら二人がまだ死なないから、後家も数珠をすてないのさ。さて、餓鬼を料理するか。こぶしのさえをみるがいい」と、ふたたび石をとりあげた。
妙真は、「あれよ、あれよ」と泣きさけぶ。
もう絶体絶命だ。照文も文五兵衛も、大八の親兵衛をうったなら、舵九郎をのがすものか、乾竹割(からたけわり)にしようと刀の柄(つか)に手をかけて走ろうとする。
舵九郎は親兵衛の胸をうとうとしたが、こぶしがくるって地面をたたいた。あわてて、また微塵(みじん)にしようと手をふりあげた。たちまち腕(うで)がしびれた。おれらしくない、と呆然(ぼうぜん)とすると、頭の上にひとひらの雲がわき、雷光(らいこう)すさまじく、音をたてて風がふき、石をもまきあげ、砂をとばし、草木もなびかせた。あるいは明るく、あるいは暗く、雲がしだいにおりてきて、親兵衛をつつむようにして、中天にまきのぼった。
舵九郎はおどろき、その竜巻(たつまき)に親兵衛をやるものか、と追ったが、《はた》ところんで、足は空にむき、からだは地面をはなれた。雲のなかからひきあげるものがいるようだ。鮮血がしたたり、舵九郎は、尻からみぞおちのあたりまで《ばらりずん》とひきさかれ、《むくろ》がどうとおちた。
照文と文五兵衛は、この奇特にすすみかねている。悪党ども四、五人が、背後から船棹(ふなさお)などをひらめかして、ふいにうとうとした。照文はふりかえり、太刀をぬきかざしてたちきった。文五兵衛も刃(やいば)をふるって、のこったものどもをきりふせた。
風はおさまり、雲ははれ、かたむきしずむ五日の月の影だけが、かすかにのこっている。

第四十一回 大塚村(おおつかむら)のそのご……ヤス平(やすへい)のはからい

蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)・文五兵衛(ぶんごべえ)の二人は、逃げる悪党をおいちらし、もとのところにもどった。妙信(みょうしん)は、草の上にふしたままだ。二人がしきりに介抱(かいほう)したので、妙真はややひとごこちがつき、目をひらいた。その目から涙があふれ出た。
「もし、古那屋(こなや)の主人(あるじ)蜑崎さま。あやしい風雲(かざくも)は見えませんが、大八の親兵衛(しんべえ)はどうなりましたのでしょう。なきがらは木の枝にかけられたのか。それとも、地に落ちたものか。もし《むくろ》をひきさかれたとしても、一度は見たいものです。どこにありますか?」ときくと、またさめざめと泣く。
文五兵衛も、涙に鼻をつまらせて、
舵九郎(かじくろう)のひきさかれたなきがらは、あそこにあります。大八の親兵衛のゆくえはわかりません。親兵衛は子どもで、罪などはないゆえ、それが夜叉(やしゃ)か天狗(てんぐ)のわざでも、いのちをうばうことはありますまい。世に神隠(かみかく)しということがありますが、はやければ一両月(りょうつき)、おそくとも両三年には、かえされるものといわれます。なげくのは、親兵衛のためになりません。神にいのり、仏を念じて、もどってくる日をまちなさい。いまはすべがありません」という。
妙真は泣きながら、
「古那屋の主人には小文吾(こぶんご)という男子がおられるが、わたしはせがれと嫁と、そして孫さえも神にとられてしまいました。なげきかなしむよりも、この野の露と消えてしまいたい」と、身をふす。文五兵衛もまた、おのれの涙をとどめかねているのだ。照文は、
「大八の親兵衛は、神隠しにあい、いまゆくえ不明でも心配することはありません。親兵衛は四歳の子でも、犬士の一人だ。仁(じん)の珠、ボタンに似た痣(あざ)、これはかつてない奇特です。このような神童は、どのようなところにいても、鬼神も、これをおかしはしません。水火も、これをそこなうことはできません。孫のために自愛してかえる日をまつことです。祖母(おおば)・外祖父(おおじ)のなげきはもっともだが、これは私情にすぎぬことです。親兵衛をうしなったことは、わたしには主君への不忠とおなじで、友には不信とうらまれるでしょう。わたしがここで腹を切らないのは、死んでも益がないからです。のちの栄えをまつのです」といましめた。
文五兵衛は、そのことばを理解し、いっしょに妙真をなぐさめた。妙真も涙をぬぐい、
「わたしに暇(いとま)をください。このまま行脚(あんぎゃ)して、万に一つ親兵衛にめぐりあうかもしれません。それができなくとも、旅の野ざらしとなり、罪障(ざいしょう)が消滅するなら、あの世ではやすらかになるでしょう。安房(あわ)にはまいりません」という。
文五兵衛もしきりに涙をぬぐう。照文は、
「ひとり行脚して孫のゆくえをたずねるのは、はたすことなく、またあやうい。また、市川の家を舵九郎のなかまがおそうだろう。で、市川にかえるのもあやうい。ここからいったん、安房にまいり、身の進退は、主君のおおせにしたがってはどうか。あるいは大八の親兵衛は、神明仏陀(しんめいぶつだ)の加護(かご)により、雲にのり、空をかけて、安房におもむいているのではないだろうか。そうでなくとも、わたしは犬士をうしない、その祖母といっしょにいかなくては、なにを証(あかし)にしかじかと主君にもうしあげることができよう。妙真さんの進退は、わたしの身にもかかわることだ。これまでいってもわからなければ、主君里見どの、そして丶大坊(ちゅだいぼう)らにも、ふたたび顔をあわせることはできない。自害するほかない」とさとすようにいった。
文五兵衛は、
「蜑崎さまのおっしゃるとおりです。市川に帰るのはあやうい。いまさら、しぶることはありますまい。てまえはここでわかれて、ひそかに武蔵の大塚におもむき、丶大坊、犬士らにことの次第を知らせ、また市川の留守の家を折おりたずね、時宜(じぎ)をみて安房にいき、そなたにあいましょう。そのとき、そなたはかえろうが、またとどまろうが、こころのままになさるといい。さあ、こよいの宿にいそぎなさい」とすすめた。
妙真もようやく承知した。
照文はよろこび、
「それなら、月のしずまぬうちに、はやく、はやく」とひきたてた。妙真は、文五兵衛をみかえって、
「それにしても、いたましいのは依介(よりすけ)のことです。わたしの供をさせたので、あたら、いのちをおとしてしまい、ふびんなことをしました」といって涙をながすと、文五兵衛もため息をつき、
「てまえも、そうおもいます。こころせくが、なきがらをうめなければ、犬やカラスにくいちぎられましょう」といった。
さきをいく照文はこれをきき、
「依介という下男は、ほんとうにみごとな義僕(ぎぼく)だった。そのなきがらは、ひそかに道のほとりにうめておき、あとで改葬(かいそう)しよう。そこまでいそごう」と、二人をせきたてる。
もとの松原にくると、木の下に一人の人が立っている。背にはふろしきづつみをおうて、手には竹杖(たけづえ)をもっている。依介に似ているのだ。
妙真は、文五兵衛の袂(たもと)をひき、声をほそめて、
「あれに依介の幽霊があらわれました。弥陀仏(みだぶつ)、弥陀仏」ととなえた。文五兵衛も手をあわせた。
照文は足をすすめ、
「おまえは、依介ではないか?」ととうと、「さようです」とこたえた。
妙真と文五兵衛は、
「依介か。つつがなくてよかった。いま、おまえのなきがらをうめにきたところだよ」といった。
依介は微笑し、
「わたしはいったんは死んだらしいのですが、日が暮れ、天がかきくもって、わたしの面(おもて)をうつにわか雨が口のなかにはいると、たちまち蘇生(そせい)したのです。それにしても、大八さんが見えないようですが?」とたずねた。妙真は目をぬぐって、
「大八のことは、あやしいことばかりです」とかたってきかせると、依介もおどろいた。
それから、文五兵衛は大塚へ、照文・妙真・依介は安房へと、それぞれいそいだ。
文五兵衛は、市川にきて、ようすをうかがい、行徳(ぎょうとく)に走り、ここから舟で武蔵にむかった。
照文一行は、大和田(おおわだ)の里にとまり、そこから毎日、五、六里を歩き、ぶじに安房についた。

舞台はまわる。
犬塚信乃(いぬづかしの)・犬飼現八(いぬかいげんぱち)らは、六月二十四日の未明に、犬田小文吾に見おくられ、船路で六里ばかり、宮戸河(みやとがわ)の北方、千住川(せんじゅがわ)をさかのぼり、その日の未(ひつじ)(午後二時)ごろに武蔵の国豊島(としま)の神宮河原(かにわがわら)についた。信乃が村雨をうばわれたあたりだ。信乃はいう。
「大塚は、ここから一里あまりです。ただちに伯母(おば)婿(むこ)の家をたずねることはできません。さらに、ここより西南のほう、二十町ばかりで滝野川(たきのがわ)という村につきます。そこには金剛寺(こんごうじ)があり、弁財天(べんざいてん)の霊地です。その僧坊(そうぼう)を宿としましょう」
現八・小文吾も、信乃とともに岸にあがる。一人の男が水ぎわにおり、信乃を見つけて、声をかけた。
「おまえさんは、大塚の村長(むらおさ)の甥御(おいご)ではありませんか?」
きかれて信乃は、その男の姿を見た。年は五十あまり六十にもなるか、ふるい単衣(ひとえ)をきて、手には藻刈鎌(もがりがま)をもっている。悪相(あくそう)ではない。信乃は、おのれの身のうえを知られたので、微笑して、
「そうだ。わたしは蟇六(ひきろく)のゆかりのものだ。で、おまえは、だれだ?」とといかえした。その男は、
「おわすれですか。てまえは網舟(あみぶね)をおかししたことのある舟主のヤス平(やすへい)といいます。この月の十六、七日ごろでしょうか、おまえさんは、一人の若ものと村長とともに漁猟(すなどり)にこられました。そのおり村長にたずねますと、おれの女房の甥で犬塚信乃といい、若ものは網乾左母二郎(あぼしさもじろう)とききました。この日村長はあやまって舟からおち、おまえさんがかいがいしく、すくいだしたのでしょう。それにしても大塚の凶変(きょうへん)はえらいことでした。あのさわぎをよそに、どこにおいででした?」ときく。信乃はおどろき、
「こころにかかることがおおく、ついおまえの顔をわすれていた。舟あそびのあくる日に下総(しもふさ)に出立し、いまもどったので、大塚の凶変とやらはわからぬ」という。ヤス平は、
「それでは、くわしくもうしましょう。こちらへ」とさきにたち、自分の家に案内した。
ヤス平は、川岸の草家(くさや)の門(かど)の戸をあけ、三人を上座にすわらせ、茶のしたくにかかった。信乃はいらだち、
「茶も湯も、ほしくはない。凶変の詳細をかたれ」といった。ヤス平は小膝(こひざ)をすすめて、
「てまえが見たわけではありませんが、ここらではたいへんなうわさになりました。十九日の真夜中のことです。大塚の村長夫婦は、陣代簸上宮六(ひかみきゅうろく)・下役(したやく)軍木五倍二(ぬるでごばいじ)にきられて死にました。そのおり、村長の下男額蔵(がくぞう)という人が、遠方からかえりあわせて、主人のうらみと宮六をうち、五倍二は、浅手をうけながら逃亡したのです。
ことのおこりは、陣代が村長の一人娘をめとると約束したことです。その娘の母御(ははご)は、さきに左母二郎にも婿にする、と約束していたのです。左母二郎は深くうらんで、その宵(よい)、ひそかに娘をうばいとり、円塚山(まるつかやま)までつれていきましたが、その娘、そうそう、浜路(はまじ)さんといいましたが、したがわないので殺したのです。その左母二郎をうちとった人がおり、その首を枝にかけ、しかじかと書きのこしました。
この左母二郎のほか土太郎(どたろう)・加太郎(かたろう)・井太郎(いたろう)などのならずものも、おなじ山道で殺されました。
気の毒なのは額蔵です。主人の仇はうちましたが、相手は陣代とその下役です。さまざまにしいたげられ、自分のいいわけはきかれず、背助(せすけ)という老僕(ろうぼく)とともに、獄舎(ひとや)につながれたのでした。
こうしているうち、鎌倉の大石(おおいし)さまの下知(げち)で、丁田(よぼろだ)町進(まちのしん)とかいう老人が大塚に陣代としてきました。額蔵・背助を毎日ひきだし、苛責(かしゃく)したのです。これは宮六の舎弟社平(しゃていしゃへい)と五倍二の作り話で、うらみをかえしているといううわさです。
村長ごろしは、婚礼の宵に、浜路を網乾(あぼし)にうばいさられたことと、婿への引出物(ひきでもの)の名刀が、にせものだったので、宮六がくるってことをおこしたものです。だが社平と五倍二は、蟇六夫婦ごろしは下男額蔵なり、とまことしやかにかたったのです。真夜中の出来事で、証人がおりません。ただ、背助という老僕が、額蔵よりはやくもどり、村長夫婦がうたれるとき、浅手をおってたおれました。これが額蔵の証人になったのですが、なにしろくちべたで老人です。この二人は、やがて首をはねられるだろうと評判になっています。あたら忠義の若ものが無実の罪で殺されては、とあわれにおもっております」という。
信乃はむろんだが、現八・小文吾もおどろきあきれる。信乃は、愁然(しゅうぜん)と眉根(まゆね)をよせ、二人を見て、
「伯母夫婦にやしなわれたことをおもいますと、愛惜の涙をとどめがたい。それにしても額蔵が主人の仇をうったことは、うらやましき大義です。その額蔵のいのちがあやうい。どうしたらよいのだろう」という。
現八らも、おなじくため息をつき、
「額蔵をすくいだす手だてはない。それでは、わたしら二人は大塚におもむき、ようすをみてこよう」といった。ヤス平はそれをおしとどめ、
「お二人が犬塚さんとどのような縁のあるかたかわかりませんが、はやまってはいけません。世のうわさでは、はじめは犬塚さんが浜路さんの婿になるはずだったときいています。それを陣代の密議で遠ざけられたともききます。それで、左母二郎ほか三人ごろしも、信乃・額蔵の二人のしわざともいわれ、犬塚さんにも疑いがかかっています。手配されているのですぞ」とつげた。現八・小文吾は、
「それは、よく知らせてくれた」と、信乃に目くばせをする。
信乃は腰の財布から、粒銀(つぶぎん)を四つ、五つ、とりだし、
「すくないがとってくれ。いまきくと、大塚には帰りがたい。母の生国(しょうごく)の信濃(しなの)にいくことにする。それから、われらのきたことはだまっていてくれ」といった。
ヤス平は、「それは、こころえています。このあたりは、近ごろまで、豊島の領地でしたので、旧恩こそおもえ、管領(かんれい)にはしたしみません。まして大石さまの陣代らは、民からしぼるだけです。犬塚さんがここにおられても、だれも陣代につげるものなどおりません。ただ、陣番のものが巡回するので、一宿もとめることができません。はやくほかにおいでなさい」という。
信乃は、「好意をうけた」といった。
ヤス平はさらに、
「てまえは年老いて、生業(なりわい)も、ものぐさになりました。ただ、二人の甥がおります。一人は力二郎(りきじろう)、一人は尺八(しゃくはち)といいます。網引にその日をおくっていますが、任侠剛毅(にんきょうごうき)の若者なので、旧領主豊島どのの滅亡をなげき、扇谷(おうぎがやつ)の管領家すら問題にしておりません。ましてや大塚の陣番なんぞ、ものの数ともおもっていませぬ。この二人に、戸田までおくらせましょう」といった。
現八・小文吾は、
「このうえ、なお人がふえては、人目にたちますから」とおしとどめた。信乃は、
「ヤス平とやらの話しかた、その気質をさっすると、ただの舟主とはおもわれぬ。なぜ、水辺にかくれすまわれるのか?」ととうた。
ヤス平は額(ひたい)をなで、
「若いときは、武士の禄(ろく)を食(は)んでいました。本姓は姥雪(おばゆき)、もとの名は世四郎(よしろう)といいます。小身ものでしたが、まちがいをおこし、ここにきました。てまえの知り合いの婆(ばば)が、去年から上野(こうづけ)の荒茅山(あらめやま)のふもとにすんでいるそうです。もし、信濃路をたずねるなら、そこを宿となさるがよいでしょう。便があればと、かねてから一通したためておきました。おまえさんたちのことも書きくわえましょう」と走りがきをする。封をし、上書きをしるして、「失礼ですが、おもちください。婆の名は、音音(おとね)といいます」とわたす。
信乃はうけとり、
遅速(ちそく)はわからぬが、信濃路におもむけば、たずねてとどけよう」と、その手紙をふところにおさめ、現八・小文吾ともども礼をのべ、わかれをつげた。
三人は、深く笠をかぶり、南へむかった。ヤス平は門にたち、見おくりつづけた。

第四十二回 奸党(かんとう)の残毒……とらわれた額蔵(がくぞう)

信乃(しの)・現八(げんぱち)・小文吾(こぶんご)は、ヤス平とわかれ、青田の畔(くろ)を五、六町いくと、左にちいさな丘がある。そこの木の株に尻をかけた。信乃は、
「まえには神宮川(かにわがわ)で村雨(むらさめ)をぬすまれて、そのため滸(こ)我(が)どのから追われるはめになりました。こんどはヤス平からたすけられました。ヤス平がわれらに信あり義ありとおもわなければ、手紙をたのむことはなかったでしょう。伯母夫婦の横死は、自業自得(じごうじとく)とはいいながら、おもいがけぬことでした。浜路(はまじ)もまたあわれだったとおもいますが、くやんでもしかたありません。だが、額蔵の荘助(そうすけ)は罪なくてとらわれの身となっています。額蔵とは義をむすび、生死をともにしようとちかいあった仲です。それに、伯母夫婦の仇(あだ)をうってくれたのです。たとえ失敗してもたすけだしたいとおもいます」とささやくようにいった。
現八・小文吾も、
「それは犬塚さん一人のことではない。われらとて、犬川さんに面識はないが、珠(たま)と痣(あざ)をおなじくしているので、すでに異姓の兄弟です。われらも死をともにして、たすけましょう」といきおいよくいう。信乃は、
「それはありがたいことです。犬田さんはおくってきてくださったのですから、舟でもどり、行徳(ぎょうとく)と市川にこのようすを知らせてください。みな、まっているでしょうから」と微笑していった。
小文吾は首をふり、
「あっちはぶじですが、こっちは火急の難儀(なんぎ)がおこっています。いま、途中の道でわたしははさみをひろいました。はさみは進んでものをきりますが、しりぞいては役にたちません。はさみの本字は剪(せん)です。はさみがおちていたのは《前(すす)んで仇をきる》という辻占(つじうら)ではないでしょうか。それでひろったのです。行徳にしりぞいては、はさみのかいはなくなります。わたしが《つて》をもとめて、城中にはいろうとしても、商人(あきんど)などの姿にならなければ、たちまち人にあやしまれます。それならわたしのこの額髪(ひたいがみ)をそりおとせば、好都合です。だが、かみそりはありません。いまこのはさみを手にいれたのは幸いでしょう。わたしはとうにきめています。いっしょにやろうと……」と、左手をかけて額髪をのばし、自分ではさみできりおとした。
信乃・現八は感嘆し、
「犬田さん。はさみのことはよくわかりました。刈りならしてあげましょう」というと、現八ははさみをうけとり、「こっちに顔を……」と、《さかやき》とおなじように刈る。信乃は、
「身をやつすのによいぞ。それでは滝野川にまいりましょう」と笠をかぶり、田んぼ道にでた。
日影はおち、稲葉(いなば)に風わたる七つ下がり(午後四時)のころとなった。
三犬士は、金剛寺(こんごうじ)の岩屋堂(いわやどう)にもうで、弁財天(べんざいてん)に祈念(きねん)した。さらに庫裏(くり)をたずね、寺僧に、自分たちは、弁財天に宿願があり、七日間の参篭(さんろう)をするため、遠方からきたので、休息所(やすみどころ)をかしてほしいとつげた。
寺僧は、「どうぞ」といい、三人の姓名、住所をたずねた。信乃たちは、でたらめの名を名のった。寺僧は三人を客殿のそばの小座敷に案内し、夕膳(ゆうぜん)をすすめた。もうたそがれである。
三人は縁側から庭をながめた。石神川(しゃくじいがわ)からひいた流れは水清く、また滝もあり、奇岩もおおい。だが、こころの底にある心配ごとのため、この山水もなかなかなぐさめとはならぬ。三人は額をあつめて、ここから大塚にかよう相談をした。信乃は、
「わたしは里人に顔を知られているので、夜中でなければいけません。で、こよいは犬飼さんを案内して、しのんでいきましょう。三人そろって出かけて、だれも参篭しないとあやしまれますから、犬田さんはのこってください。犬飼さんを案内するのは、実父の墓があそこにあるからです」といった。
寺僧には岩屋堂で通夜(つや)するといってそとに出た。日はもう暮れている。
信乃・現八は、岩屋堂をそっと出て、滝野川から二十町さきの大塚にいそいだ。村長蟇六(ひきろく)の屋敷のそばにきた。人影はない。左母二郎の家も空家だ。
「ここは、はじめ糠助(ぬかすけ)さんの家でした」と信乃はいう。現八は、親の面影を夢にも見ることがなかったとつぶやく。それから、信乃の親の墓所に参詣(さんけい)する。祖母・番作(ばんさく)・手束(たつか)の墓である。花も水もそなえてある。十歩ばかりのところの新墓は蟇六と亀篠(かめざさ)をうめたところか。花も水もない。信乃は水をそそぎシキミをさし、手をあわせた。現八も、それにならった。
夏の夜はあけはじめる。
そのあと、糠助(ぬかすけ)の墓にもうでた。花がある。信乃が蟇六にすすめて、菩提寺(ぼだいじ)に香華科(こうげりょう)を寄進したからである。現八は地にふし、慟哭(どうこく)した。
その明け方、岩屋堂にもどった。夜はあけた。寺で朝食をすますと、小文吾と現八は出かけた。途中の農家で、王子権現(おうじごんげん)に献納(けんのう)する竹槍(たけやり)と弓矢をうっている。また、麻と木綿(もめん)を織(お)る家もある。小文吾はここで、麻・木綿を十四、五反、行李(こうり)とふろしきを買いとり、信濃路からきた旅商人(たびあきんど)の姿になった。現八は笠を深くかぶり、しのぶようにさきにたった。
この日も墓詣(はかもうで)をし、それから現八は、親の菩提寺の住持(じゅうじ)に対面した。住持に、蟇六のことなどをたずねた。蟇六は宮六にうたれ、亀篠は五倍二(ごばいじ)にころされた、と住持はこたえた。
また額蔵のこともきいた。住持は城中のことは知らぬ、という。現八は膝をすすめて、
「わたしどもは、同業の商人ですが、城中へ出入りすることをねがっています。もしご紹介いただければ幸いですが……」とこうた。
住持はさきに布施(ふせ)をもらっているので、うたがうことなく、「知っている人はいる。その人にあうがいい」といって小文吾もよび、城中の知人の姓名をしるした手形一枚をくれた。
二人はよろこび、礼をいい、寺を出た。
小文吾は、手形をもって城中にむかい、現八は金剛寺にもどり、きょうの首尾を信乃につげた。それを手はじめとして小文吾は城中を往復し、信乃はかくれて大塚には足をむけない。
現八はときどき出かけて、ようすをさぐった。扇谷(おうぎがやつ)・山内(やまのうち)の両管領(りょうかんれい)は、近いうち滸我の御所と和睦(わぼく)がなるというので、大塚の陣番らは、信乃のゆくえをたずねるのに、滸我までは手をのばすことができず、ただそのかえりをまって、とらえようとしているだけだ。
小文吾は毎日、大塚の城中にいき、安く麻と木綿を売った。だが獄舎(ひとや)の額蔵のことは、なかなかわからぬ。
そして七月一日になった。小文吾は夕方、金剛寺にもどった。庫裏から夕膳をすすめにきた。信乃らは寺僧に、前月二十四日から参篭したが、こよいで満願となる、で、明朝巳(み)の刻(午前十時)に暇をつげたい、といった。そして布施物として、麻・木綿と永楽銭(えいらくせん)千五百文(もん)をおくった。寺僧は、これをおさめた。
三犬士はさらに岩屋堂にいき、額(ひたい)をあつめ、
「あの滝で《みそぎ》し、犬川荘助のために祈念しよう」と、ともに衣をぬいで、それぞれ滝の水に身をうたれた。

話は六月二十日にもどる。簸上宮六(ひかみきゅうろく)弟社平(しゃへい)はこの日の朝、下役卒川菴八(いさがわいおはち)とともに、つかまえた額蔵・背助を獄舎につなぎ、腹心のものに訴状をもたせ、鎌倉につかわせた。その訴状の文面。


村長蟇六(ひきろく)夫婦はむろんだが、宮六を殺し、五倍二に傷をおわせたのは、蟇六の下男額蔵のわざである。老僕背助はこれをたすけ、蟇六の女房の甥(おい)犬塚信乃というものも、その悪行に加担(かたん)した。信乃は逐電(ちくでん)し、ゆくえ不明だ。これよりさきの夜、蟇六の娘浜路をぬすみだし、その追っ手四人までも、円塚山で殺害うんぬんと書きのこしたのも信乃・額蔵である。
これは風聞でたしかだ。で、額蔵・背助をからめとり、すでに獄合につないだ。ねがわくは、兄のうらみをそそがんことをのぞんでいる。


この訴状を、大塚の城主大石兵衛尉(おおいしひょうえのじょう)の鎌倉の屋敷で詮議(せんぎ)した。そこで出頭人(きれもの)丁田町進(よぼろだまちのしん)を陣代として大塚におくった。町進は十六里の道をいそぎ大塚につき、社平・菴八(いおはち)らに対面した。
町進は、五倍二の傷を見てたずねた。五倍二は、
「わたしがさる十九日、宮六の供をしてかえるころには、夜もふけました。提灯(ちょうちん)のろうそくがとぼしくなったので、蟇六にかりようと家にたちよると、下男額蔵が、主人夫婦をきりたおし、逃げようとしました。出会いがしらに宮六と若党二人はきられて、いのちをおとしました。それがしも、このありさまです。遺恨(いこん)にたえません」とまことしやかにいった。
町進は、額蔵・背助をひきだし、「額蔵」とことの顛末(てんまつ)をただした。右に菴八(いおはち)、左に社平がならぶ。灯火(ともしび)は真昼のように明るい。
額蔵は、おそれるようすを見せずに、「主人の仇を、その場でうちはたしただけだ」とこたえた。
町進はいきりたち、
「おまえは、信乃としめしあわせて、主人の娘をぬすみだし、円塚山辺で追っ手ともどもきりたおして、書きのこしたのだ。主人の仇は額蔵、おまえだ」とののしった。額蔵は、
「いや、ちがう。浜路をぬすみだしたのは、浪人(ろうにん)網乾左母二郎(あぼしさもじろう)だ。また、殺したのもそうだ。わたしより、主人のうたれるのを目撃したのは背助だ。これにきくがいい」という。
町進らはあざわらって、「背助」と背助をただす。背助は六十あまり。それに深手(ふかで)で、頭をふるわせ、うなずくのみだ。町進は、
「背助。蟇六とその女房の、うたれるところを見たか? 夫婦殺害は額蔵か、宮六か。額蔵だろう。額蔵か、額蔵か」ときいてもこたえられない。うなずくだけだ。町進は、
「いま、背助をただすと、宮六かというと、頭をふり、額蔵かというと、うなずく。これで答えはわかった。むちうたなければ白状しまい」というだけだ。
獄卒(ひとやびと)が、杖(つえ)をあげようとする。額蔵は、
「まってくれ。背助がしきりに頭をふりうなずくのは、みな病いのせいだ」という。その額蔵をおしふせ、百回あまりもうちつづけた。
額蔵は、背をやぶられ、皮と肉がただれ、たちまち気絶する。獄卒は杖をとどめ、ひきおこして水をあびせた。額蔵は、息をふきかえした。
社平・菴八(いおはち)は、「いい気持ちだ」といわんばかりだ。そして、背助を見つづけている。
町進も、「額蔵は一朝では白状しまい。背助がものをいわないのは、額蔵をひそかにたすけ、非をのがれようとしているのだ。背助をもうて!」と下知(げち)した。
獄卒は、背助をおしたおして、うった。だが、十回もうたぬうちに、背助は気絶した。ひきおこして、薬をそそぎいれると、わずかに息がかよう。
夜がふけた。町進は、額蔵・背助を獄舎にかえした。その明け方、背助は息たえた。しかし額蔵は、よわったようすもなく、罪に服するのでもない。社平・菴八(いおはち)は気をもみ、町進に密書や賄賂(わいろ)をおくり、裁断をねがった。町進は社平・菴八をなぐさめて、
「背助は、もろくも死んだが、すでに白状している。わたしにかんがえがあるので、額蔵を問いおとす。もし白状しなくても、背助の白状を証拠にすればいい。刑罰(けいばつ)にはさわりはない。いましばらくまってほしい」という。腹心の配下三人を、円塚山にやり、左母二郎のことをしるした木の幹を、きりとらせた。また額蔵をひきだし、筆と紙をさしだして、
「ここに左母二郎・浜路、天罰よってくだんのごとし……と書け」といって右手のいましめをゆるくした。
額蔵はいわれるままに筆をとった。
町進は、その字と木の幹の字をくらべ、
「やい、これを知っているだろう。円塚山の木の幹をけずったものだ。いまおまえの書いた筆跡とあわせてみると、同筆であることは疑いない。偽書(ぎしょ)はすべておまえの作意だ」とせめたてる。
額蔵は、「その宵のことは、しかじか」と説明した。
町進は、いよいよいかり、
「こいつの骨をうて、白状させよ」といらだつ。
獄卒(ひとやびと)は「はっ」とこたえると、額蔵を責(せ)め木の上に、あおむけにしてくくりつけ、目といわず、口といわず、かまわず水をそそぎこむ。額蔵はたちまち気をうしなう。すると、獄卒が苛責(かしゃく)をとどめて、さかさまにしておしたて、水をはかせると、しばらくして蘇生(そせい)した。
それから両三日、町進は手をかえて、ますます苛責をおもくしたが、額蔵は、主人の仇をうった、というのみだ。またしばしば気絶しても、獄舎にもどるとなにごともない。
それはこういうわけである。
額蔵は、犬山道節(いぬやまどうせつ)の肩の瘤(こぶ)をきったとき手にはいった忠(ちゅう)の字の珠を、このときまで身からはなさず、自分の珠とかわったものとしんじ、頭髪のなか、耳のなか、口のなかにかくしていた。杖でうたれ、水をあびせられたり、さまざまな責めに筋骨いたみ、死ぬ心地がしても、この珠を口にふくんだり、またこの珠でからだをなでたりすると、苦痛はたちまち去り、こころがすがすがしくなるばかりか、傷もひと晩でなおって、そのあともなくなるのだ。
町進らはその珠の奇特をすこしも知らぬので、あやしんでおもう。「額蔵の傷あとがたちまちなおるのは、どのような法術があってのことだろう。あいつは村長の下男に似ず、おおくの人をころしたことも、そのゆえかもしれぬ。もし幻術(げんじゅつ)をつかうのならむだだ。はやくころすことだ」と思案し、使者を鎌倉につかわし、主人の大石兵衛尉にうったえ出た。


背助の白状はしかじかである。円塚山で人を殺害したのも、額蔵・信乃のわざであることはしかじかの議であらわれた。背助はさきの日に獄舎で息たえた。信乃は滸我(こが)に走ったときくが、隣国敵地のことなので、まだ追捕(ついぶ)はしていない。ただし額蔵は、苛責をもののかずともせず、幻術邪法(じゃほう)を修行したのか、不審な行動がおおい。すみやかに処刑しなければ、非常のことがおこるかもしれぬ。


と、菴八(いおはち)と連署(れんしょ)して提出した。

ここで話は、七月朔日(ついたち)にもどる。この日、鎌倉から使者がかえってきた。町進は菴八(いおはち)とともに、主人の下知状をひらいてみた。


蟇六夫婦をころせし下男額蔵は、すでに五逆(ごぎゃく)の罪人だ。竹槍の刑罰をおこなうべし。こうなると簸上(ひかみ)社平らの仇討ちはかなわぬが、刑場において、獄卒にかわり、額蔵に槍をつけるのは勝手でよい。額蔵が邪術をつかうなら、つねの罪人ではない。おさおさ非常に注意せよ。


町進らは、社平・五倍二に主命をつたえ、
「あす未(ひつじ)の刻(午後二時)、庚申塚(こうしんづか)のほとりで刑をおこなうゆえ、用意をするように」という。
このとき五倍二の傷は、かなりなおっていた。五倍二はよろこびいさんでいう。
免許(めんきょ)の仇討ちではないが、あいつの脇腹(わきばら)をさしつらぬけば、うらみをそそいだのとおなじだ。武運にかなった」
ああ、奸党(かんとう)の残毒は、しばらく天にかつものなのか。額蔵のいのちは?

第四十三回 刑場やぶり……四犬士つどう

丁田町進(よぼろだまちのしん)は、大塚の里の長老らをよび、卒川菴八(いさかわいおはち)にこうふれさせた。
蟇六(ひきろく)の下男額蔵(がくぞう)が、主人夫婦を殺害したということは、すでに明白である。さらに、さきの陣代(じんだい)主従、円塚山(まるつかやま)のほとりの左母二郎そのほかの殺害も同一人だ。この罪により、あす極刑に処せらるべし。背助は病死したので、いまさら罪科の沙汰(さた)にはおよばない。また蟇六の家の奴婢(ぬひ)には罪はない。それぞれ故郷(ふるさと)にかえせ。蟇六の荘園(しょうえん)は、その家・倉とともに没収(ぼっしゅう)する。蟇六の女房の甥(おい)犬塚信乃(いぬづかしの)は、額蔵と同類のものだ。からめとったものに、ほうびをあたえる。なお、かくしおくものは信乃と同罪である」
里の長老たちはあきれはて、なかには縁側にすすみ、
「額蔵が主人の仇(あだ)をうったことは女どもが知っており、信乃は滸我(こが)におもむき留守でした。また、蟇六の荘園は、すべて蟇六のものではなく、三つのうちのひとつは、信乃が父の番作(ばんさく)からゆずりうけたもので、それを蟇六が横領したものです」ともうし出た。菴八(いおはち)は、
「だまれ。額蔵・信乃の罪状は明白だ。それに不服のものは、守(かみ)をはかる罪とおなじだ。ことごとくからめとり、獄舎(ひとや)につなぐぞ」とどなりつけ、席をたった。 長老たちはそれぞれの里にもどり、村のものにそれをつたえた。みな歯をくいしばり、腕をくみ、額(ひたい)をあつめた。
「額蔵をすくって、信乃さんの無実をとくには、鎌倉にうったえるほかありますまい」
「だが、いまから夜を日についで鎌倉にむかっても、往復三十里あまりもある。あしたは処刑日だ。これではすくうことはむずかしい。長いものにはまかれろ、という。高いものには手がとどかぬものだ」とたしなめるものも出て、里人も沈黙してしまった。
七月二日がきた。この日は、丶大(ちゅだい)が大塚へおもむくべく行徳(ぎょうとく)から出立(しゅったつ)した日でもある。
巳(み)の刻(午前十時)のころ、町進は、菴八(いおはち)・社平(しゃへい)・五倍二(ごばいじ)らを役所にあつめて手配(てくば)りをし、
「額蔵には幻術(げんじゅつ)があるので、卒川を検監(けんかん)とする。兵三十余名をもって非常にそなえよ。また人が刑の執行を見ることは禁じ、わたしも兵をつれ、城外の巡回にあたる。簸上(ひかみ)どのは兄の仇、軍木(ぬるで)どのはその身の仇だ。おもいのまま、つきとどめられよ」といった。
それぞれが宿所にもどった。
その日もすこしかたむきかけ、八つ(午後二時)になると額蔵は獄舎からひきだされた。手かせもゆるがせにせず、きびしく追いたてられた。五、六人の獄卒(ひとやびと)と三十余人の兵が、これをかこみ、庚申塚(こうしんづか)に到着した。
卒川菴八(いおはち)は、信濃麻(しなのあさ)の薄衣(うすぎぬ)に、縮羅(しじら)の段だら筋(すじ)の陣羽織(じんばおり)をよそおい、野袴(のばかま)に、緞子(どんす)の裾(すそ)べりをとったものを腰高にきくだし、赤銅(しゃくどう)づくりの両刀をよこたえ、網代(あじろ)の塗笠(ぬりがさ)をかぶっている。左右には二人の若党がひかえている。簸上社平も菴八(いおはち)におとらぬ身なりだ。なかでも一刀(ひとこし)は、額蔵からとりあげた桐一文字(きりいちもんじ)だ。亀篠(かめざさ)のまもり刀であったものだ。
額蔵は、木の下にひきすえられた。往来のものたちは遠ざけられた。それでもなお見ようと、屋根にまたがったり、木にのぼったりするものがいる。
菴八(いおはち)が床几(しょうき)に尻をかけた。額蔵は足かせをとかれて、八重縄(やえなわ)をかけられた。菴八(いおはち)は、
「やい、額蔵。おまえの罪科は、五逆にあたる。これから、大石どのの下知状(げちじょう)をよみきかせる」と、ふところから刑書をとりだしてよむ。額蔵は嘆息し、
「戦国末の世といいながら、日も月もなお照らしているのに、人のこころは虎狼(ころう)とひとしい。良民を屠殺(とさつ)して、これを名づけて法度(はっと)とする。悪を善とする大石どのの家風は、そのままですまぬぞ」というと、菴八(いおはち)は目をつりあげ、
「憎い末期(まつご)の広言。ものをいわすな。はやくやれ!」と床几をならす。獄卒らは額蔵の縄の端を、楝(おうち)の枝にかけ、つりあげた。足は地をはなれること、六尺あまりの高さまでひきあげられた。背が幹をせおっているようだ。
社平・五倍二も袴をつまどりかかげ、身軽ないでたちだ。青竹の槍(やり)を小脇(こわき)にはさんで、いきおいよくすすみ出、額蔵をにらみ、
逆賊(ぎゃくぞく)額蔵。天罰(てんばつ)を、いまこそ知ったか。国のためには大犯人、われらがためには怨敵(おんてき)だ。三年竹の手槍(てやり)の串刺(くしざし)、うけるか」とさけんだ。かなたで額蔵を見まもる人びとは、目にあふれる涙をぬぐった。
社平・五倍二は、左右から額蔵の脇腹をさしつらぬこうと穂先(ほさき)をひいて、やっ、とかけた。その声よりはやく、東西五十歩ばかりの稲塚のかげから、両方一度に射(い)だした鏑矢(かぶらや)が、弦音(つるおと)とともになりわたった。五倍二・社平の肩先にひょうとつきたった。ともに急所をはずしたのだ。二人はたまらず竹槍をすててたおれた。菴八(いおはち)らは、「これは、どうしたことだ?」とおどろき、たちあがり、二人の肩の矢にむすんだ五、六寸の紙札を見た。
奉納若一(ほうのうにゃくいち)王子権現(おうじごんげん)、所願成就(しょがんじょうじゅ)》としるされている。
「これは、まことの征矢(そや)ではないぞ。賊(ぞく)をひいきする百姓どものしわざだな。はやくいけどれ」と声をふりしぼる。兵どもも東西にわかれて、稲塚めがけて走っていくと、なおも射だされる矢にみな射たおされて、右往左往した。
そのとき稲塚をおしたおし、東西から二人の武士が、弓をすて用意の竹槍をかいこみ、声高らかにさけんだ。
「悪役人ども、さわぎたてるな。額蔵になんの罪があるというのだ。トラの威(い)をかりて、刑罰(けいばつ)をみだりにおこない、おのれのうらみで忠義のものをしいたげる。おまえたちのなすことは、神がいかり、人はうらむ。同盟の義によって、天にかわり、民を塗炭(とたん)の苦しみからすくおうとまかり出た。もと大塚郡の住人、犬塚信乃戌孝(もりたか)、下総(しもふさ)滸我の浪人、犬飼現八信道(いぬかいげんぱちのぶみち)らここにあり。弓矢も槍も、王子の神宝。おまえらのは五毒の竹槍。その身から出て、その身にかえる。観念せよ」と槍をひねり、はしりかかる。
菴八(いおはち)はおどろきさわぎ、
「相手は矢種(やだね)がつきたぞ。とりかこんでうちたおせ」と、はげしくよばわった。兵どもは手に手に棒(ぼう)をうちふってすすんできたが、信乃・現八は右にうけ、左にささえて、たちまち五、六人をつきふせた。菴八が、額蔵をうばいさられてはならぬと、いそいで楝(おうち)のあたりにちかづこうとすると、後方に人があり、
「悪役人菴八(いおはち)、まて。犬塚・犬飼同盟の死友、犬田(いぬた)小文吾悌順(こぶんごやすより)だ。首をわたせ」とよびとめた。
菴八(いおはち)は、あっとおびえてとびあがる。
見ると信乃・現八より骨たくましくこえ、あぶらぎった大男だ。奉納札をむすびつけた王子の竹槍をひらめかす。菴八(いおはち)はあわてて竹槍でうけてはらいつづけた。そこに菴八(いおはち)の若党と、五、六人の獄卒(ひとやびと)がかけつけ、小文吾にうちかかる。これを小文吾はものの数ともおもわぬ。
そのまに、信乃・現八は獄卒どもを八方にうちちらし、菴八をうとうと、まっしぐらにかけてくる。
そのとき、二人の前にむっくり身をおこしたのが五倍二と社平だ。肩の矢をぬき、刀をきらりとぬき、寄らばきるぞ、とかまえる。社平と現八、五倍二と信乃とのきりあいだ。まだ十合(とたち)にはいたらぬのに、五倍二はもった刃(やいば)をまきおとされて、逃げようとするのを、信乃が、背から腹にぐさっとさしつらぬいた。しきりにもだえ苦しむのを、槍で地上にぬいとどめた。
「いま伯母(おば)の仇をかえすぞ。おもい知れ」と信乃は、太刀をぬき、首をはねた。
社平は逃げた。現八はおいつめて、たたきふせ、さしころした。なお逃げまどう兵どもは追いちらし、信乃は額蔵を木の上からたすけおろして、いましめの縄をといて捨てた。現八が、社平の両刀をとってきて、額蔵にわたした。
小文吾は、若党獄卒らを一人ももらさずつきふせた。菴八(いおはち)は深手をおい、逃げようとしたが、走ることができずにたおれ、そのまま死んでしまった。あとはものの数ではない。下僕どもなので、追うことをとどまり、小文吾も槍をすて、木の下にきた。
信乃は、額蔵をいたわり、
「あやういところでしたね、荘助さん。わたしのこと、人のことはとてもひとくちではいえません。この人は滸我どの御内人(みうちびと)、犬飼見兵衛(いぬかいけんべえ)老人の養子で、あなたも知っている、なくなった糠助(ぬかすけ)さんの実子、犬飼現八信道さんです。またこちらは、下総行徳(ぎょうとく)の人、古那(こな)屋文五兵衛(やぶんごべえ)老人の長子、犬田小文吾悌順さんです。この二人には、われらとおなじ痣(あざ)があり、また珠(たま)をもっているのです。それでわたしをたすけて、ここにあなたをすくいだしたことはうれしい」とひきあわせた。
額蔵は小膝(こひざ)をつき、
「万死をでて一生をたもつ幸いのみならず、すぐれた人びとにたすけられたことは天福でしょう。これもそれも、信乃さんの恩によるものです」とよろこびをかたり、感涙する。現八・小文吾も、
「われわれもあなたと兄弟になる因縁(いんねん)があったのです。いささか死力をつくしたのは義のためです。それにしてもこの地には用はない。はやく戸田川(とだがわ)をわたり、隣郡にしりぞきましょう」といそぐ。
ともに走りだして、六、七町。まだ十町にはならぬ。あとから大塚の新手の兵どもが二、三十人、鉄砲をもって追ってくる。筒先(つつさき)をそろえた。火ぶたをきろうとすると夕立がきた。火縄は役にたたぬ。雷光が走った。城兵どもが木の下にのがれると、雷火が天地にひびき、うたれて死ぬものも出た。
四犬士は戸田川まできた。雷がおさまったものの、夕暮れがちかづいている。戦国の掟(おきて)で、渡し舟は禁じられている。さがしたが徒労だ。そこへ、町進が兵をひきつれ、馬をとばしてかけてきた。大声でいう。
「悪党ども。いまはのがれるすべはないぞ」
ときの声が、どっとあがった。
四犬士は、「進退ここにきわまりぬ」と、たがいに声をかけあった。そのときだ。だれか知らぬが、水ぎわの高い葦(あし)をおしわけて、


漕(こ)ぎ寄する一葉(ひとは)の舟のなかりせば
秋の川なみ だれか問わまし


とうたいながら、舟を岸につけた。
「はやくおのりなされ」という。ヤス平である。
四犬士は舟にひらりとのりうつると、ヤス平は櫂(かい)をとった。舟は岸をはなれた。四犬士のよろこびのうちに、舟はむこうの岸についた。ヤス平に再会を約し、四犬士は舟をおりた。
いっぽう、町進は川のなかに馬をのりいれた。兵ども六、七十人も、わたりはじめた。舟のなかのヤス平は、町進の胸をめがけて矢を射た。矢は乳のあたりを射た。すると水中から一人の若ものがうかび出て、町進の首をはねた。さらにそのものは町進の馬にのり、兵どもをけちらし岸にあがり、そこにまたもう一人の若ものがあらわれ、槍をふるった。
四犬士は、舟のヤス平に大声で問うた。
「二人の若ものは、だれだ。われらをすくい、さらに兵どもをうつ勇士は?」
「あれは、さきにいった力二郎(りきじろう)・尺八(しゃくはち)です」とヤス平はこたえた。
信乃は、「舟をよせてほしい。われらもたたかう」というと、ヤス平は首をふり、
「いや、それでは益がありません。このまま、のがれてくだされ」といって、舟底の栓(せん)をぬいた。水があふれ、舟はたちまち、ヤス平をのせたまま波の下にしずんでいった。
四犬士は入水(じゅすい)したヤス平と、二人の勇士のぶじをいのるほかない。

第四巻 智・神霊怪異の巻

第四十四回 孤独の忠士……道節(どうせつ)、管領(かんれい)をねらう

走るものは、道をえらばず。貧しきものは、妻をえらばず。飢えたるものは、食をえらばず。寒きものは、衣をえらばず。その時といきおいと、人情はすべてこうだ。信乃(しの)・額蔵(がくぞう)・現八(げんぱち)・小文吾(こぶんご)の四犬士は、上野(こうずけ)・信濃(しなの)をこころあてにして走ったものの、闇夜(やみよ)のため、五里ばかりで山道にまよった。
夜があけてみると、名の知らぬ高い山の中腹だ。頂上にのぼり、雲のあいだから西北のほうを見おろすと、さびしげな人家が見えた。なおさがしまわると、あれはてた神社がある。鳥居(とりい)の額には、雷電神社(らいでんじんじゃ)とある。信乃は、「ここは桶川(おけがわ)の東南(たつみ)の雷電山だ。きのうの雷火は、この神恩ではないでしょうか」という。
それから四犬士は、社壇(しゃでん)にぬかずき祈念した。社(やしろ)のうしろにナツメ・グミ・ヤマモモなどがある。それらを口にふくみ、飢えをしのいだ。甘いので疲れがとれた。四人は石に腰をおろしたり、木に背をもたせたりした。そして語りあった。
額蔵は、かたちをあらためて礼をいった。
信乃は、村雨(むらさめ)のこと、現八とくみうちして舟におちたこと、文五兵衛(ぶんごべえ)と小文吾のこと、妙真(みょうしん)・房八(ふさはち)夫婦のこと、大八(だいはち)の犬江親兵衛(いぬえしんべえ)のこと、丶大(ちゅだい)と蜑崎照文(あまざきてるふみ)のこと、伏姫(ふせひめ)のこと、数珠のこと、八房(やつふさ)のこと、これらすべて安房(あわ)の里見家(さとみけ)に宿因がある、とかたった。現八・小文吾も、それをおぎなった。額蔵は、おどろくばかりだ。
信乃は、さらに里見家からの砂金として、一つつみをとりだした。額蔵は、
「わたしはまだ、里見どのに一片の功もありません。信乃さん、あずかっておいてください」という。
信乃は、「いや、同盟をむすぶためにもおさめてほしい」といった。で、額蔵はうけた。そして、
「わたしどもには、八人の兄弟があるとおもわれます。その一人とおもわれる犬士にあいました」と、円(まる)塚山(つかやま)で浜路(はまじ)の兄にあたる犬山道節忠与(いぬやまどうせつただとも)にであった話をした。
額蔵の荘助(そうすけ)は、栗橋(くりはし)で信乃とわかれて大塚にむかう途中、道をまちがえ円塚山にさしかかった。左母二郎(さもじろう)が浜路をきった。その刀は村雨である。
道節は左母二郎をきり、浜路と兄妹を名のりあった。道節は父と母のことをかたり、それから亡君練馬倍盛(ねりまますもり)の仇である管領扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)を村雨できるといい、浜路のねがいをしりぞけた、ともいった。浜路のなきがらは道節が火葬(かそう)にふし、とむらったといいそえた。
額蔵はつづけた。
村雨をとりかえそうと道節と斬(き)り合いになったが、まもり袋が道節の刀の柄(つか)にからみとられたこと、道節の肩の瘤(こぶ)に一太刀あびせたとき、その傷口から珠(たま)がとびだし、それが自分の手にはいったこと、珠には忠(ちゅう)の文字があること、さらに道節は火遁(かとん)の術でのがれ去った、ともいった。
それから、左母二郎の首をはねて木にかけ、浜路の潔白をしるしたこと、大塚にもどり、獄舎(ひとや)でさまざまな拷問をうけたが、珠の法力(ほうりき)で蘇生(そせい)した、とむすんだ。信乃らは、感嘆してうなずいた。
信乃は、浜路の死のありさまをきき、
「わたしどもに縁のある女は薄命なのでしょう。それにしても、道節も犬士の一人にちがいあるまい」といった。現八も額蔵に、
「わたしの実父は、額蔵さんとも縁があった、と信乃さんからききました。いまお話の道節という人も、前世ではわたしどもと兄弟であったはずですから、ゆくえ不明でもかならずのちの日にはあうことでしょう」といった。
小文吾もことばをはさみ、
「おなじ因果の六犬士は、親も、うまれた地もことなりますが、その気がともに相つうじて、まことの同(はら)胞(から)でしょう。犬川さんは珠を道節とたがいにちがえても、奇特があったのです。ただ山林(やまばやし)房八、ヤス平らの三、四人の義士は犬士ではないが、房八にはその子、犬江親兵衛がおります。それにしても力二郎(りきじろう)・尺八(しゃくはち)は討死(うちじに)したのでしょうか?」ととうた。信乃は、
「わたしも、ヤス平の因縁(いんねん)はどうしたものか思案していました。たしか、本姓は姥雪(おばゆき)、もとの名を世四郎(よしろう)といったとききました。わたしの犬は足の四白(よつしろ)から与四郎と名づけていました。それがおなじ訓(よ)みですね。世のことわざに、雪は犬の姥(おば)といいますね。姥雪も犬には縁がある。力二(りきじ)の二文字をさかさまにすると、「方」となる。また、尺の(べき)字の右下のひげを上にすると、「戸」となる。これをひとつにすると「房」の文字になる。さらに、尺八の八の字を、房の上におくと八房となり、すべて犬に縁ができますね」という。
額蔵は、亀篠(かめざさ)からあずかった桐一文字(きりいちもんじ)の太刀をわたした。信乃の祖父匠作(しょうさく)が亀篠にあたえた一振(ひとふり)だからだ。信乃も、小文吾からおくられた一振を額蔵にあたえた。その太刀に雪篠(ゆきざさ)の定紋(じょうもん)がある。額蔵の父が自害したおり、不明になった刀である。小文吾が十五金(きん)で買いもとめたものだ。
額蔵は、「この世で父と相まみえる心地がします」という。その額蔵は、きょうから犬川荘助義任(よしとう)と名のることにするともつげた。
四犬士の長ものがたりはつきなかったが、秋の日はかたむきかけていた。で、ふたたび雷電神社にぬかずき、山道をくだり、桶川(おけがわ)にむかった。
桶川に宿をとり、さらに名所をたずね、日をかさね、その月の六日、上野国甘楽郡(こうずけのくにかんらのこおり)白雲山明巍神社(みょうぎじんじゃ)に参詣(さんけい)した。明巍はいまは妙義(みょうぎ)としるす。
明巍山は白井城(しらいじょう)の北にあり、西北は碓氷郡(うすいのこおり)をうしろにして同郡の新芽山(あらめやま)と南北に相対している。僧正尊意(そうじょうそんい)の開山、南朝名臣のかくれたところなどの古跡がある。
四犬士は、中岳(なかだけ)のほとりの茶店で休息した。この店に遠眼鏡(とおめがね)があり、それを客にかした。荘助はそれをかり、山道をはるかに見た。ふつうでは見えない小道まで鮮明に見える。そのとき、藺織笠(いおりがさ)をかぶった一人の武士の姿がうつった。
妙義権現(みょうぎごんげん)の総門のこっちの、谷川の橋をむこうにわたっていくところだ。そして、うしろをみかえったその武士の顔は、笠のすきまからではあるが、犬山道節に似ていると見てとった。荘助はまたたきもせず、見つめていた。その武士は総門をそとにでると、ゆくえがわからなくなった。荘助は、ほかの三犬士にそれをつげた。信乃は、
「それをおうのは無理です。一里四町ありますからね。きのう里できいたところによると、管領扇谷定正さまは、近ごろこの白井に在城されているとのことです。その道節が両管領をねらっているとすると、このあたりを徘徊(はいかい)してすきをうかがっているのでしょう。その武士は、道節にちがいありますまい。白井のあたりにいけば、わかるかもしれません」といった。
荘助・現八・小文吾も同意し、たくさんの小石が、急坂をころがりおちるように、足にまかせて一気にくだった。

管領扇谷定正に筆を転じる。
扇谷は山内顕定(やまのうちあきさだ)と不和になり、鎌倉から白井城にうつった。上野・信濃・越後(えちご)まで定正の所領だ。きのう、五日の朝から、砥沢(とざわ)の山に狩競(かりくら)べをし、六日には城にもどりつつあった。したがうのは、巨田薪六郎助友(おおたしんろくろうすけとも)・竈門三宝平五行(かまどさぼへいかずゆき)・妻有六郎之通(つまりのろくろうゆきみち)・松枝十郎貞正(まつえだじゅうろうさだまさ)ら三十五人。それに若党五十余人、弓矢・鉄砲を肩にした雑色(ぞうしき)・小者はかぞえるにかぎりない。イノシシ・シカなどの獲物をかついでいる。定正は馬上の人である。
その五町にわたる行列は、やがて城まで二十里ほどの松並木にさしかかった。左かたに年をへた松がある。その下にある葛石(かずらいし)に一人の浪人が尻をかけている。右手の太刀を膝(ひざ)におしたて、大声でいう。
「世に千里をはしる馬がいるが、これを知る伯楽(はくらく)がいないのだ。わたしの名刀餌取(えとり)も、まな板にのるか、百姓女の鍋(なべ)のすすをかくのがせいぜいだ。ああ、おしいことだ」とくりかえし残念がっている。
行列の先触(さきぶ)れの小者三人がこれを見て、
「なにものだ。管領(かんれい)の行列だ。そのおん馬前のほど近いところに、笠もとらず、尻をかけ、刀を手にもつとは礼儀を知らぬものだ。はやく笠をとれ」といった。
浪人はあざわらい、
「管領は、それほどとうといのか。両管領は、滸我(こが)(古河)どののもとの老職、京都将軍の家臣だ。また、そのうえに天子がおられる。さらに、そのうえに宗廟(そうびょう)がある。宗廟は万物(ばんぶつ)の父母、天津日月(あまつひづき)の神である。わたしは浮浪の武士ゆえ、主(あるじ)もなければ家来もない。管領にわたしが恩徳でもあるなら、とうとくもおもうが、それもない。この街道はせまくはない。浪人一人この木の下にやすんでいても、道のじゃまにはなるまい」といい、また、ひとりごとをいいはじめた。小者は、
大胆不敵(だいたんふてき)のくせもの。いうことをきかねば、しばりあげるぞ」と三方からかかってくる。
そこへ、定正が馬をすすめて、「さわがしい。しずめよ」と松枝十郎をみかえっていう。
十郎は浪人にむかい、「おまえは、何ものだ。管領家のおたずねであるぞ。わたしは、家臣松枝十郎貞正だ。さあ、御前(ごぜん)にまいれ」という。
浪人は手にした刀を腰にさし、緒(お)をとき、笠をうしろのほうへ一間(いっけん)ばかりなげすてた。はじめて面(おもて)があらわれた。歳は二十歳(はたち)を二、三は出ていまい。色白く、ひげあとが青い。眉(まゆ)はひいで、目はならんだ星のようにすんでいる。ただの人ではあるまい。

第四十五回 名刀乱舞……道節(どうせつ)、三宝平(さぼへい)をうつ

浪人は、松枝十郎にむかって、
「わたしは下総(しもふさ)の千葉の福草村(さいぐさむら)の浪人、大出(おおいで)太郎というものです。父ははやく世をさり、数年まえから母は盲(めしい)になっています。親一人、子一人です。家が貧しいので、薬代にかえるものさえつきてしまいました。いまのこるのは、この一振(ひとふり)の太刀だけです。祖父から三代につたわる家宝ですが、母のためにおしんではいられません。これを売ろうと、千葉どのにもお見せしましたが、にせものといってかえされました。滸我(こが)の御所では手づるがなく、徒労におわりました。鎌倉にまいり、山内(やまのうち)の管領家(かんれいけ)にとおもいましたが、ここにも手びきの人がおりません。扇谷(おうぎがやつ)の管領は、賢(けん)にしたしみ、不能をあわれみ、こころのひろいことは海のようで、当今無双の名将なりと世のうわさです。で、この地にきましたが、ここでも知人がないので、申し入れる手だてもありません。狩りに出られたとの風聞なので、帰城の折をまっていたのです。もし、これらのことをもうしあげてくださるなら幸いです」とこたえた。
十郎は、その次第を定正につげた。
定正は馬をおり、芝生(しばふ)に床几(しょうぎ)をたてさせ、
「そのものを、ここへ」と下知(げち)した。
浪人は、ひざまずいた。定正は、浪人を見て、
「千葉の浪人、大出太郎か。母のために太刀を売ろうというのか。その家伝の由来と銘(めい)をもうせ」ととう。
浪人は、「わたしの祖父は、故管領家、足利持氏(あしかがもちうじ)につかえましたので、両公達にしたがい嘉吉(かきつ)の結城合戦(ゆうきがっせん)で討死しました。で、父は下総にしりぞき、四十でなくなりました。浪々の身なので武具などはほとんど売りはらいましたが、この一振がのこりました。これは、《村雨》という名刀です。父自筆の記録にしるされています」といった。定正は、
「村雨のことは、予(よ)もきいている。それが、にせものでないという証拠があるか」ととうた。浪人は、 
「《村雨》の名は、ぬきはなてば切っ先から水気がながれ、うちふると村雨がこずえをあらうのに似ていることからおこったのです。ごらんなさい」と、ほこらしげに太刀をぬきはなつと、きらめく。それをうちふると、切っ先から水気がほとばしり、四方に散乱し、武士たちの顔にふりそそいだ。定正は感嘆し、
「大出太郎、疑いがとけた。その太刀を、これへ」という。太郎は身をおこした。
それを松枝十郎はおしとどめ、
「貴人のおそばにまいるのに、帯刀のままでははばかりがあろう」といった。浪人は、
「わたしを、うたがわれるのですか。いまうかうかとわたせば、いのちよりもたいせつな刀をうばわれるかもしれませぬ。それでは、売らぬほうがましです」とこたえた。定正は、
「太刀のぬしの大出太郎は、高禄(こうろく)をもって召しつかうであろう。それをうたがう必要はない。はやくみずからここへもってこい。ゆるす、ゆるす」という。
浪人は定正の床几により、ひざまずきつつ、太刀を献上(けんじょう)するふりをして、いきなり胸ぐらをとり、あおむけざまにつきたおし、おしふせて切っ先をつきつける。
「あっ!」と、松枝十郎・竃門三宝平(かまどさぼへい)・妻有六郎(つまりのろくろう)そのほかの近臣・小者までもあわてふためき、
「くせもの。射てとれ。さしとどめよ」とどよめいた。だが、ためらっているだけだ。定正は、刀をぬくこともできず、おしふせられたままだ。定正は、
「ものども、たすけてくれ」とさけぶだけだ。近臣も、手だしができない。
浪人は、天地にひびけ、と声をふりたて、
「管領定正、ようくきけ。わがまことの名は、去年の四月十三日、江郷田(えごた)の戦いに一族郎党ことごとくをなんじのためにほろぼされた練馬平左衛門尉倍盛朝臣(ねりまへいざえもんのじょうますもりあそん)の老党に、さるものありと知られたる、犬山堅物(いぬやまけんもつ)貞知入道道策(さだともにゅうどうどうさく)が一子、幼名道松(みちまつ)とよばれたる犬山道節忠与(どうせつただとも)だ。君父の仇をいまこそ果たすうらみの刃(やいば)、うけてみよ」といい、定正の髻(もとどり)を左手にひきつけ、あっというまに細首をかききった。
松枝・竃門・妻有の一党どもが、八方からおそいかかると、道節は定正の首をなげすて、必死の太刀をふるった。血はまたたくまに土にみちた。
「ここは、足場がわるい。しりぞけ」というものがいて、それでみだれ、逃げはじめた。
道節は、切っ先からしたたる水気をうちふりうちふり、一町あまり追った。
突然、やぶかげから、一人の若武者があらわれ出た。腰に二尺五寸の黄金(こがね)づくりの太刀、九寸五分の短刀、左手に重籐(しげとう)の弓をたばさみ、鷲羽(わしのは)の矢を手にしている。その配下三十余人が、道節の前後左右をひしひしととりかこむ。若武者が声をかける。
「おろかなり、犬山道節。管領がそのほうごとき素浪人にやすやすとうたれるものか。いまいのちをおとした《にせ》管領は、当家の勇臣、越杉駄一郎遠安(こすぎだいちろうとおやす)とよばれるもの。去年の池袋の勝ちいくさに、なんじの主君倍盛の首をかき、名誉の感状をたまわった豪(ごう)のものだ。なんじを若ものと見てあなどり、おめおめうたれたのは、ふしぎなことだ。かくもうすわれは管領補佐の一老職、武術・文学・和歌の道にも暗くはなく、その名はひろく知られた巨田左衛門太夫(おおたさえもんだゆう)持資入道道寛(もちすけにゅうどうどうかん)の長男、薪六郎助友(しんろくろうすけとも)だ。父の奇計をうけ、なんじをはかったことを知らぬか。父の先見をもって、いま網にかかった。なんじの命運は、はやつきた。敵ながらおしき勇者とみて、矢をうたぬ。非をくい、時勢を知るなら降参せよ」という。
道節は、はかろうとしてはかられたのである。
「助友か。耳けがらわしい降参よばわり。九世をかわるとも仇の奴(やっこ)になどなるものか。定正をうたなかったが、先君に槍(やり)をつけた越杉をうちとめたのは、亡君の尊霊(そんれい)をいささかおなぐさめした。父の仇、竃門三宝平五行(かずゆき)をうちとらざるは無念。雑兵を幾百人ころすより、なんじとわれと勝負を決しよう。助友、まいれ」と、しきりに不敵の広言をする。捕手(とりで)のものどもを右にうち、左にながし、たちまち十人あまりがきられた。
道節は助友めがけて走り、ちかづこうとする。助友が矢をはなつと、道節はそれをさけ、二の矢を太刀ではらう。
そこへ松枝・妻有らも走りきて、「あれを、うて!」と下知すると、兵数十人が道節をとりかこむ。
道節はおもう。仇定正はおらず、父の仇、竃門(かまど)もこのなかにはいない。ここで討死したら、もの笑いの種になる。日がかげってきたのを幸いに、道節は一方をきりひらき、時をまとうと、ひとすじの血路をひらいた。助友は道節をとりにがし、いらだち、おいかける。

そのころ、信乃・荘助・現八・小文吾の四犬士は、道節らしき武士の姿をもとめて、白井の城にほど遠からぬ村にさしかかった。村の老人が、さけんでいる。
「いま、しかじかの松原で、管領がうたれたらしいぞ。うったのは、練馬の浪人らしい」
「いやいや、あれは管領ではなく、越杉という人だ。浪人は、こちらにくるぞ。戸をかたくしめろ」というものもいる。
四犬士はおどろき、「復讐(ふくしゅう)したのは、あの犬山道節では?」と道をいそぐ。
夕まぐれをすかしながめると、若武者が一人走ってくる。追ってくるものどもをきりふせること両三度、道のゆくての四犬士のあいだをつっぱしり、あっというまに姿を消した。追ってきた助友は、四犬士を道節のなかまとおもってか、「うちとれ!」と下知した。四犬士もやむをえず、刀をぬいてたちむかった。
そこへ、百騎(き)ばかりがかけつけてきた。四犬士も不意をつか黶Aたがいにへだてられた。しかも闇だ。四犬士は荒芽山(あらめやま)のほうへ走った。
道節は、敵のしかばねを一つ一つ月のあかりで検視した。越杉駄一郎のしかばねから首をはね、それをしかばねの袖(そで)をひきさいてつつんだ。道節がたちさろうとすると、「くせもの、まて!」とよびとめ、きらりと槍をつきだすものがいる。
「よし、敵は一人か。百騎あまりの雑兵はみな逃げたのに、なんじ一人ひきかえしてきたか。名をなのれ」と道節がさけぶと、そのものは、
「道節、広言するな。おれは、去年の四月のいくさに、なんじの父道策の首をとった竃門三宝平五行だ」と声高らかにいう。道節が、
「なんじが五行か。父の仇、そこを逃げるな」と刀をぬき、はげしい斬(き)り合いとなる。道節の刃はさえ、三宝平の首をはねた。首はしかばねをこえ、はるかかなたの松にあたり、落ちた。道節は、この首も袖をひきさいてつつみ、越杉の首とともに腰にさげた。

第四十六回 山里の秋……ヤス平の訪れ

信乃・荘助・現八・小文吾らの四犬士は、ようやく九死に一生をえることができた。が、しんがりにのがれた荘助は、三犬士におくれ、その姿を見うしなってしまった。しかたなく、六日の月をたよりに山道をいそぐうち、木の下のちいさな地蔵堂(じぞうどう)にたどりついた。灯明(とうみょう)の光が見える。軒には田文(たふみ)地蔵堂と扁額(へんがく)がかかげてある。荘助は堂内にはいり、しばらく念じた。机の上に、供物(くもつ)が二皿ある。皿には、粢(しとぎ)(もちの名)とモモがある。地蔵尊にいのり、それを口にした。飢えたのどには、このうえない美味におもえる。
表で足音がする。盗賊(とうぞく)か、と荘助は身がまえた。足音のぬしは、二つの首級を腰にむすんだ犬山道節(いぬやまどうせつ)である。道節は、堂のわきの主君と父の追善の塔婆(とうば)に、首級をたむけようとしていた。道節のあとから、年老いた百姓が竹子笠(たけのこがさ)をかぶり、肩に二つのふろしきづつみをむすびつけて、走ってやってきた。老人はそのまま、地蔵堂からはなれた木のかげにかくれた。
道節は首二つ、塔婆にたむけて、手をあわせた。
そっと見ていた荘助は、「こいつを、おどろかせてやるか」とつぶやいて、二つの首級をつかみ、ひきよせようとした。
道節はおどろき、その腕をとった。そして、ひきだそうと前にひく。荘助は、ひっぱられまいとこらえた。びくともしない。道節はちからをこめた。あいだの石塔がたおれた。二人は、とっくみあい、相撲(すもう)となった。勝負はつかぬ。
そこへ、さっきの年老いた百姓が、両人のあいだに杖(つえ)をつきいれた。老人の肩の二つのふろしきづつみがおちた。老人は、あわててつつみをひろった。それは、老人のものではない。二つの首級だ。道節は、老人のふろしきづつみをひろった。荘助は、闇のなかできりつけた。道節のからだをそれて、石塔をきった。火花がちった。光は、火である。道節は、この火で火遁(かとん)の術をつかって姿を消した。
荘助は、舌うちして荒芽山(あらめやま)のふもとにむかった。

ここで舞台は、上野国甘楽郡(こうずけのくにかんらのこおり)荒芽山のふもとの村にかわる。
この村に、音音(おとね)という貧しい老女がいた。年は五十を二つ三つこえている。もと武蔵のものだが、わけあって去年の夏、世をさけてこの山里にすんだ。田面(たおも)の雁(かり)はまだこないが、秋ともなれば冬じたくがいそがれ、夜なべで苧(お)(麻)をつむいでいた。老いの杖とたのむ二人の息子は、主人の供をして戦場におもむいたま、その生死はわからぬ。家にいるのは、二人の嫁だけだ。
兄の女房は曳手(ひくて)といい、弟の嫁を単節(ひとよ)という。年は二十歳(はたち)と十八だ。夫たちが去って二年近くになるが、姑に朝夕孝行をつくした
音音は、苧桶(おおけ)をしあげると、単節に、
単節(ひとよ)。きのう命じられた管領家の砥沢山(とざわやま)の狩倉(かりくら)の夫役(ぶやく)はどうにかのがれましたが、きょうは村長(むらおさ)がゆるしてくださらず、男手がないので、けさはやく曳手(ひくて)がやせ馬をおいたてて、夫役にでました。まだかえらないのは、どうしたことだろうね。田文の森のあたりまで、見てきましょう」とからだをおこそうとした。
単節は、それをおしとどめ、
「わたしも、こころにかかっていました。わたしが森のあたりまでひと走りして、むかえにまいりましょう。しばらく、おまちになってください」という。
「おまえにいってもらおうとして、愚痴(ぐち)をいったのではないよ。けさもけさとて、おまえと曳手が、夫役にはわたしがいく、いやわたしがいく、とあらそいました。女には荷が重い、馬をおう仕事もいとわず、老いたわたしをやしなってくれるまめまめしさ。それにつけても悲しいのは、豊島(としま)・練馬の滅亡……」と涙ぐむ。そして、老人のくり言(ごと)を、単節相手にかたる。
「主君は、陪臣(ばいしん)ながら、世に知られる犬山道策(いぬやまどうさく)です。まだ若く、犬山家につかえていたころ、姥雪世四郎(うばゆきよしろう)という若侍(わかざむらい)におもいおもわれ、みごもりました。それが発覚し、世四郎とともにいましめられ、首をはねられるところ、側室阿是非(あぜひ)さまが懐妊なされ、情(なさけ)をかけられ、すくわれました。ほどなく阿是非さまは男児道松(みちまつ)さまをおうみなさいました。わたしもまた獄舎(ひとや)で双子(ふたご)をうみました。力二郎(りきじろう)と尺八(しゃくはち)です。世四郎は暇をだされ、わたしはそのままとどめられ、道松さまの乳母にされました。わが子二人は近い村に里子にだしました。
寛正三年(一四六二年)正月、側室黒白(あやめ)が正月(むつき)という女児をおうみなさいました。その母御前が悪心をおこし、そのころ正妻となられた阿是非さまと道松さまを殺しました。が、ふしぎにも道松さまは蘇生(そせい)なされ、黒白(あやめ)はじめ悪人は、ことごとくほろぼされました。
正月(むつき)さまは、二歳のおり、大塚の村長の養女となりました。道策さまは、つぎの年、七年のあいだ里子にだされていたわたしの子を召され、兄を十条力二郎、弟を尺八と名づけられました。そして、二人に手習い・素読・武芸まで、道松さまとおなじようにならわせてくださいました。
また去年の春、禿木市郎(かぶらぎいちろう)さまの二人の娘を力二郎・尺八の嫁に、と縁談をととのえてくださいました。姉の曳手を力二郎、妹のおまえを尺八にと、四月十二日に婚礼をあげました。そのよろこびもつかのまで、池袋の敗戦に豊島・練馬の一族はうたれてしまいました。夫の世四郎は、犬山の家を去ってから、ヤス平とかに名をあらためた、とききました」
単節も涙ぐみながら音音(おとね)の話に耳をかたむけていた。
そとのほうで、人の気配がした。音音はききつけて、
曳手(ひくて)が帰ったのでしょう。はやくあかりを……」という。単節はさきにたち、脂燭(しそく)をつけ、折戸(おりど)のうちから、
「姉さま、かえられましたか。どうしてこんなにおそかったのです?」といって脂燭で顔をてらすと、このあたりではみかけぬ、老いた一人の旅人だ。ふろしきづつみを肩にかけ、竹子笠を手にして立ちつくしていたが、小腰をかがめて、
「わたしは、このふもとの家をたずねてきたのですが、道で賊におわれて、息がきれてこまっております。水を一ぱいください」という。音音は知らずに、
「曳手、つかれたでしょう。はやく馬をいれてやすみなさい」とたち、脂燭の光に、旅人と顔をあわせた。
旅人は、「おまえは音音ではないか。わたしは世四郎のヤス平だ。見わすれたのか」と名のる。単節は姑に、あのかたはまことに夫の父御(ててご)でしょうか、ととう。
音音は、いらだち、
「なにをいうのですか。こころよわい女といえども、浮世の義理にはそむかれませぬ。よくかんがえてもみなさい。二十年あまりも縁のたえたもとの夫は、二人の息子の親でも、親ではない。ヤス平という老人に、たずねてこられるおぼえはありませぬ。二十年あまり、一日も帰参のわびをもうし出もせず、敵(かたき)の領民になったりして、義理にそむいた人のことなど、そのまますてておきなさい」と老女の一徹(いってつ)だ。単節はいよいよ胸が苦しく嘆息する。
ヤス平も、これをもれ聞き、
「音音のうらみは、そうであろう。わたしが夫婦の情だけで、おめおめとおまえをたずねてこようか。わすれがたいのは、故主の恩。一日もわすれてはいない。漁夫(すなどりびと)となりはてて、一片の功もない。なにを面目(めんぼく)に帰参のわびをして、息子の肩身をせまくするものか。こころにかかるのは、若君のこと、また息子たちのことも、ひそかにつげようと、武蔵の果てからはるばる恥をしのんできたのだ」と、折戸をたたく。
音音は息子の話に胸はさわぐ。単節は、一人泣いている。音音は、
「さても単節(ひとよ)は涙もろいね。いまの世の人のこころは、親兄弟でも油断をすると、身の仇になる《ためし》もあります。そとの人は、敵がたのまわしものかもしれませぬ。戸締まりに気をつけなされ」とつぶやき、足音あらあらしく母屋(おもや)に去った。単節はなつかしい夫の安否(あんぴ)をききたい。脂燭(しそく)をふっとふきけし、ヤス平に、
「いたましいことです、この暗い夜にいつまでもたっておられるのは。姑のことばは、父上のおためをおもってのまごころです。このあたりには、宿屋はありません。しばらくあそこの柴置小屋(しばおきごや)で旅の疲れをやすめてください。よい折をみて、母屋に案内します。わたしは、単節という嫁です」と名のりつつ、涙がこみあげてくる。ヤス平はよろこび、
「そなたが、かねて聞いていた尺八の女房単節だったのか。わたしのこころざしとわけを音音は知らぬので、ののしられても腹はたたぬ。二十年あまりも音信をたっていて、故主への忠義というのもおこがましいが、ひそかに若君に見参(げんざん)して、もうしあげるつもりだ。また、息子たちのことを、母にも嫁にもつげようと、はるばるきたものなのに、むなしくかえるのは本意ではない。一夜の宿をかしてほしい」というと、単節は、また泣いて、
「もったいないことです。夫の父上に宿をかすことができず、こころぐるしいことですが、あそこでしばらくしのんでいてください。そのつつみは、重そうですね。わたしにあずからせてください」とへだてのないかわいらしさに、ヤス平はこころがおちついてくる。田文の森で、二つのつつみをとりちがえたとは気づかず、「それなら、これを……」と肩からおろすと、単節は左右にもち、柴置小屋に案内した。おりから、二更(午後十時)の鐘の音がする。
そのとき音音は、障子をあけて、
「単節は、どこです? ねよと鐘がつげるのに、曳手はまだかえらないのですか」ととう。単節は、柴置小屋から三束(みたば)のたいまつをもち、走り出た。
「心配しないでください。わたしもなれた道なので、そこらまで見てまいります」とこたえて、母屋にはいり、ヤス平の二つのつつみを戸だなにかくし、草鞋(わらじ)をはきしめ、たいまつをふりてらしながら走った。

第四十七回 草屋(くさや)の出会い……道節(どうせつ)参加

単節(ひとよ)がたいまつをもって走っていくのを、音音(おとね)はあわててよびとめ、
「まちなさい。わたしが、いきますから……」と戸口にたって声をかけた。が、そのときにはもう闇夜にたいまつの火も見えなくなった。
そこへ犬川荘助(いぬかわそうすけ)がやってきて、
「わたしがこころあてにしているふもとの草屋は、ここかな」と、北むきの窓からもれる灯火(ともしび)に目をとめ、たずねいろうとした。音音はすかし見て、
「あなたは、どこへいきなさるのです?」とよびとめた。荘助は、
「いや、わたしは旅人です。このへんに、音音という老女の家を知りませんか」ととう。音音は、
「音音は、わたしです。どこからおいでなさいました?」とふたたびとうた。
「あなたがそうでしたか。わたしは、武蔵から四人でまいった旅人です。しかし、つれの一人が、ある人にたのまれて、こちらにとどける書状一封をもっていましたが、白井のあたりでおもわぬけんかのそばづえをくって、みなばらばらに走ったので、わたしはおくれてしまいました。つれのものたちは来ていますか」
音音は首をかしげ、
「いえ、きていません。書状を所持する人といっしょに、またきてください」といった。
「それでは、ここでまてば、かならずあうでしょう。しばらく、休息させてください」
草鞋(わらじ)をとき、母屋(おもや)にはいってやすみなさい」
音音は、いろりのそばに案内して、火をかきおこした。旅人の姿が見えた。歳はまだ若い。両刀をおびているので、武士の浪人であろう。つらだましいから見ると、悪人ではなさそうだ。しかし、敵がたのまわしものかもしれない。ためしてみよう、とさりげなく、番茶をだしながら、
「ごらんのような山里の貧之ぐらしなので、あしたの食事のたくわえもない。家のものも、けさ出たまま、まだかえりません。なにか用意したいとおもっても、留守番をするものがおりません。無礼ながら、留守番をしてくださいませんか」という。荘助は微笑して、
「それはたやすいことですが、旅人のわたしに留守番をさせては、あぶないのでは……」という。
音音はわらい、
銭財(ぜにたから)のある家ではありません。では、ひとっぱしりいってきます」とそとにでて走った。荘助は、蚊(か)になやまされながら一人でまった。灯火が山おろしで、ふっときえた。
そこへ犬山道節忠与(いぬやまどうせつただとも)が、二つのふろしきづつみを肩にしてやってきた。
「これは暗い。音音は、おらぬか。なぜ灯火をともさないのだ。曳手。単節」と大声でよびかけたが、返事はない。ひとりごとをいいながら、暗い家のなかにはいってきた。なれている家のなかだ。戸だなに二つのつつみをなげいれた。ヤス平がまちがえたつつみだ。音音(おとね)、音音、とよびながらいろりの前にすわり、手さぐりで火打ち箱をさぐった。刈り草がもえあがった。息をころしていた荘助の姿がうかび出た。
道節は太刀をぬこうとした。荘助が声をかけた。
「はやまるな、犬山どの」
道節は、「おれを知っているおまえは、だれだ?」ととう。荘助はわらい、
「わたしは、あなたと縁のある犬川荘助義任だ。はなしたいことがある。その刀をひいてくれ」
道節はいぶかしげに見て、うなずき、太刀を鞘(さや)におさめた。
「名のりをきいて、わたしにもいささかおぼえがある。六月十九日、その日もこのような真夜中ごろ、円塚山のあたりで……」
「浜路を火葬のかなしみ。わたしが立ち聞きしたのを知らないでしょう。村雨をもち、君父の仇をとげようと、たちさろうとするあなたの、刀のこじりをにぎりとめて、名のりかけつつ、その太刀を……」
「とろうとするのをふりはらい、ちょうとうった刃(やいば)の光に……」
「こちらも、すかさずぬきあわせた……」
「たがいの修練、虚虚実実」
荘助の、まもり袋が道節の刀の柄(つか)にからまってとられた。義(ぎ)の文字のある珠(たま)のはいっている袋だ。また道節の肩の瘤(こぶ)からとびだし、荘助の手にはいった珠には、忠(ちゅう)の文字がある。
「おもいがけない、こよいの再会」と荘助。
「田文の森でじゃまをしたのは、そなたか」
「ほう。旧塚(ふるつか)にまつったのは、あなたか」
「あのとき、わけいったのは、なにもの?」
「わたしも、知らぬ」
「おれも、知らぬ」
「それは、あとでわかるかもしれぬ」
「何びとであってもいい。それにしても、そなたの武芸には感心している。同志なら、万人(ばんにん)のちからをえたことになるだろう。だが、そなたとわたしには、縁がない」と道節はいう。
荘助は、ことばをあらため、
「その縁のある証拠があるのです。うたがわれるのはもっともですが、あなたのからだには痣(あざ)があり、それがボタンの花に似ているはずです。それが異姓の兄弟の第一の証拠。まず灯火を……」といそがしく行灯(あんどん)に火をうつした。
荘助に留守番をさせて、田文の地蔵の森までやってきた音音は、曳手・単節のかえりをまったが、二人はもどってこない。そこで、そのままたちかえり、戸のあたりから家のなかをうかがった。道節と荘助の問答がかすかにきこえた。音音は足音をしのばせ、柴垣(しばがき)に手をかけ、そのことばに耳をかたむけた。道節は、
「わたしの痣までを、どうして知っているのです。なぜ、その痣が過世(すくせ)に縁があるといわれるのです」ととうた。
荘助はわらって、
「うたがわしいなら、これをごらんなさい」と荘助は着物の両肩をぬいで、せなかを行灯の光にむけた。ボタンの花に似たおなじような痣がうかび出た。おもわずおおきなため息をつき、道節は、「奇なり、奇なり」という。
荘助は、肌をおさめると、襟(えり)のぬい目から忠の文字の珠をとりだし、
「これは、あなたの肩の傷口から出たものです。わたしのはまもり袋といっしょに、あなたがもっているはずです。よくごらんなさい」と珠をわたした。道節はその珠を手にして、感嘆の声をあげた。道節は忠の珠を腰の印篭(いんろう)におさめ、襟にかけた荘助のまもり袋をわたした。
「わたしは、そのまもり袋をひらいてみたが、ふしぎな珠と、また臍緒(ほぞのお)をつつんだ紙に、あなたの幼名・誕生日、その珠を感得したことなど書きしるしてあるので、常人(じょうじん)ではないとおもっていました。わたしの痣は、これです」と、左の襟をおしゆるめて、肩をあらわした。荘助が推量していた痣とそっくりだ。
荘助は、里見家の息女伏姫(ふせひめ)と八房(やつふさ)のくだりをしかじかとかたり、道節をくわえた犬士、六人の名をあげた。そしてヤス平なるものにたすけられ、また親族の力二郎・尺八の助力もえたが、ヤス平はみずから入水(じゅすい)し、二人のものの生死はわからぬともつげた。
音音はそれをきき、「すると、あのヤス平は幽霊であったのか」と、柴垣にとりすがって泣いた。
道節は、かたちをあらためて、
「きいたことのないふしぎな話ですね。わたしに眼力がないので、村雨の太刀をかえさず、しばしば荘助さんの敵となったのははずかしいことです。ヤス平は、わたしの父にむかしつかえたもの……」と姥雪世四郎(おばゆきよしろう)・力二郎・尺八・音音にふれ、「ほかの三犬士は、どうなさいました?」ととうた。
荘助は白井のさわぎをかたり、ここにあつまる約束をした、とつげた。
道節は、扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)とまちがって、越杉駄一郎(こすぎだいちろう)・竃門三宝平(かまどさぼへい)の首をはね、二つつみにして所持しているとうちあけた。そして、
「あっちこっちと、くまなく三犬士をさがして、はやくあいたいものです」と両刀を腰に、村雨の太刀を手に、いそがしく立とうとする。音音はあわてて、
「おまちください」とよびとめて、柴垣のかげから走りより、
「いまの話をききました。仇を二人までうたれたよし、この姥(うば)も、よろこんでおります。追捕(ついぶ)の沙汰(さた)が、この地にもふれられたかもしれません。朝までにはもどってください」という。道節はうなずき、
「三犬士をともなってきてから、話をきくことにしましょう」といった。
荘助も、「安心していてください」という。
音音は「犬川さん。若君のことを、おねがいします」といった。
荘助と道節は、たいまつが敵の目じるしになるといって、もたずに出ていった。
音音は、「曳手・単節がもどらないのは、松原の戦いにいきあったからではないだろうか。ヤス平は、もうこの世にいないとは知らずに、つれなくしてしまった。南無阿弥陀仏」と念じた。
そこへ、提灯(ちょうちん)をもち、庭門から、「姥御(おばご)、姥御」とよびかけるものがいる。
音音がでてみると村役人の根五平(ねごへい)、きこりの丁六(ちょうろく)・グ助の三人である。
「姥御よ、夜がふけたのに、まだねむらなかったのかい。草木もねしずまる夜にきたのは、ほかのことではない。白井の城からの火急の下知(げち)だ。なおざりにはきくな」といって、懐中から下知状をだした。丁六らが、提灯をよせた。


練馬倍盛(ますもり)の残党犬山道節忠与というものがいる。ひそかに逆謀(ぎゃくぼう)をくわだて、うらみをはらそうとしている。この賊は二十二、三歳で、身の丈高く、色白く、さかやきのあとがのびている。
もし、このようなものを見たなら、すみやかに通報すること。からめとったなら、ほうびを功によりあたえる。なお同悪のものが四、五人いる。姓名はまだわからない。知るものがあるなら、告訴せよ。かくまうものは、同罪である。
巨田助友等(おおたすけとも)奉(たてまつる)


と声高らかによみあげ、また懐中にしまい、
「姥御よ、わかったか。女ばかりでくせものをからめとるのはできなくとも、ひそかにつげよ」といった。音音は、「火をたきつけて、茶などさしあげましょう」というが、根五平は、「いや、茶も水もほしくはない」と、二人のきこりとそのまま去った。

第四十八回 二人の旅人……力二郎(りきじろう)・尺八(しゃくはち)の帰還

音音(おとね)の心配の種がふえた。
丑(うし)の刻(午前二時)の鐘がなった。かすかに馬の鈴の音がする。女の合唄(つれうた)は、馬追いの小室節(こむろぶし)だ。


荒茅山(あらめやま) 月こそあらめくもる夜の
翌(あす)までまたじ袖(そで)の雨
ふるさと遠く一人濡(ぬ)る 悲しき秋の寝ざめぞと
風のたよりに知らせん


と、うたいながら近づいてきた。曳手(ひくて)は、つかれた旅人二人を合鞍(あいくら)にのせた馬をひき、単節(ひとよ)はその行李(こうり)二つを一つにせおい、右手にたいまつをふりてらし、さきに立った。
「母御よ。いま、姉さまをともなってかえりました」とよびかけた。音音は、
「どうして、こうおそくなったのです。足をはやくあらうがいいよ」といって、温湯(ぬるゆ)を手おけにくみとり、たらいにうつした。曳手・単節は二人の旅人を馬からおろし、その足をすすがせた。音音は曳手にその旅人はどこの人か、ときいた。道節(どうせつ)が四犬士をともなってきたら、さまたげになるとおもうのだが、曳手にはわからぬ。
曳手は、きょうの夕暮れ、定正(さだまさ)の帰城の道で騒動がおこり、それにまきこまれ、難儀にあったところを、二人の旅人にたすけられた。だが、田文の森までくると、旅人がいっしょに病いにかかり、そのまますてておかれないので、おつれしたとつげた。音音は、
「それでは、こちらへ……」と、二人の旅人を母屋に案内した。旅人は、ようやく身をおこした。
音音は、行灯(あんどん)の火影(ほかげ)ではじめて顔をあわせた。
「おまえたちは、力二郎・尺八ではないか」
二人もおどろき、「この宿の主(あるじ)はわが母御でしたか。声がかれ、髪が真白になられたので、いっそういたましくおもわれます。不孝をおゆるしください」という。音音の目は、よろこびの涙であふれた。
曳手・単節は、二人が自分たちの夫とはわからなかったことをはじた。音音は、
「力二郎、尺八。もはや、わすれたのかい。曳手と単節ですよ。曳手、単節。涙をふき、夫のそばにいくといい」という。二人の嫁は、二人の夫の手をとり、よろこびあった。音音は、茶などすすめ、
「おまえたちの《にわか》の病いは、去年の戦いの古傷か、それとも近ごろの戸田川のときにうけた傷かい?」ととうた。
兄弟はおどろき、「この月二日のことを、だれにききました?」とただした。
音音は、道節と荘助(そうすけ)の会話を立ち聞きしたことをかたった。力二郎・尺八は、道節の命(めい)で、みかたとなる武士をもとめて神宮河原(かにわがわら)で、父ヤス平とともにかくれすんでいた。四犬士と出あい、ヤス平は母御あての書状を託した。四犬士をたすけたものの、ヤス平は入水(じゅすい)、われらは鉄砲でうたれた、とつげた。
音音は、その犬川荘助がたずねてきて、道節が同盟のちぎりをむすんだといった。
刻は、もう七つ(午前四時)になる。音音は、「そのヤス平さまの亡霊が……」と、涙をながしていう。

第四十九回 無明(むみょう)の酔い……曳手(ひくて)・単節(ひとよ)の惑い

力二郎・尺八らの父、ヤス平の幽霊が話題となり、音音(おとね)は後悔に涙する。そのとき、単節(ひとよ)は、
「世に幽霊がいるとはききましたが、まのあたりに見たのは、父御ヤス平さまがはじめてでございます。母御のおこころがやわらぐまでとおもって、柴置小屋にご案内しました。それは夢か幻か。そのときわたしは二つのつつみをうけとり、小戸だなへ、ひそかにおさめておきました。それも父御とともに消えてしまったのでしょうか。みないっしょに、いってみませんか」とさそう。
すると、力二郎と尺八は、
「それはおとなげない。無益の詮索(せんさく)をいそげば、なげきがますばかりだ」ととめる。音音は思案し、眉根(まゆね)をひそめて、さきにたっていう。
「単節がかの人からつつみを受けとったというのは、いよいよあやしい。嫁たち、戸だなをあけてみよ」
力二郎・尺八がそわそわしていると、七つの鐘の音がする。夜があけていた。兄と弟は、目をみあわせて、こころのなかでわかれをつげ、そっと旅だちのしたくにかかる。
音音は、たなの袋戸をあけ、手さぐりで二つのつつみをとりおろした。音音は、
「なにがあるのか、このつつみをひらいてみよう」と、単節(ひとよ)と曳手(ひくて)も手つだい、二つのつつみをひらくと、男子の切り首、面色は死相だ。すると、たちまち背後で苦悩の声がし、鬼火がもえたつ。ふたたび女たちはおどろき見かえると、いままでいた力二郎・尺八の姿が消えていた。
「力二郎よ。尺八よ」
「わが夫(つま)よ」
「わが背(せ)よ」とよびかけたが、なにもこたえぬ。
三人は無明の酔いに、ぼうぜんとしている。音音は、二つの首を灯火(ともしび)近く見た。
「曳手、卑節。これは、見知らぬ首ですぞ。狐狸(こり)のしわざです。いま姿を消したのも、わが子ではなく、ヤス平どのとおもったのも、こころのまよいでしょう」
変化(へんげ)と知らず、ものをいったことはくやしい」と曳手・単節もいう。すると、そとに人がたった。
「まて。いまでて、惑いをとこう」と障子(しょうじ)をさっとひらくと、ほかならぬヤス平である。
音音は二人の嫁に、
「野ギツネが人をたばかるか。生皮(なまかわ)はいで、腹を冷たくするぞ」と懐剣をぬきかける。ヤス平は手をふり、
「はやまるな。おれは妖怪変化ではない」とそのままうちにすすみ、上座(かみざ)につく。
曳手・単節は、ぼうぜんとし、音音は油断せず、半信半疑の膝をすすめて、ヤス平をみつめ、うなずき、
姥雪(おばゆき)さま。いまさらはばかりもなく、わたしをたずねてきてのみやげの二つつみ、この切り首はどうしたものか。おまえさまは、戸田川に入水(じゅすい)したときく。それが、疑いの二つ。力二郎・尺八の生死がわからぬのに、姿をあらわし、煙(けむり)のように消えたのが三つ」ととうた。ヤス平は、二つの首を見て、
「おれが武蔵から持参して、単節にわたした二つつみは、これではない」という。単節は、おかしいとおもいつつ、たなの袋戸をあけてみたが、ほかにつつみはない。おいた場所をまちがえたか、と夜具をおくやぶれ戸だなをひらいた。ここにも、二つつみがある。よく似ている。単節は、たなからおろして、きく。
「これでございますか」
「それだ、それだ。そこにおいたのだろう」
「わたしが、宵にうけとったつつみがこれなら、おさめた小戸だなにあるはずなのに、いつのまに場所がかわったのでしょう。かれこれ四つ、はじめの二つつみはだれがかくしたものか、これもあやしいことです」
音音・曳手もあきれはて、
「まことに、宵から夜明けまで、ふしぎなことばかりおおいこと。油断なされるな」と三人は、人か鬼かと、ヤス平への疑いをなおもとかない。
しばらくして、ヤス平は膝をうち、
「音音。その疑いは、とけそうだ。おれがこの地にくる途中、背丈の高い一人の武士が、腰に二つつみをむすびつけて、白井のほうからこちらへ走ってくるのを見た。見うしなったが、それは道節(どうせつ)さまかもしれない」といい、石塔をあいだにして二人の武士が首をあらそい、やがて一人が二つつみをもち、火遁(かとん)の術で姿を消した、ともいった。さらに先刻、この家で道節さまと犬川荘助と名のる武士とがであい、はぐれた犬塚信乃さんらをさがしに出かけられた、ともつげた。
「おれがおとした二つつみは、道節さまにひろわれ、道節さまの二つつみを、おれが持参したらしい。そちらの二つつみを、といてみるといい」といった。
曳手・単節がそのつつみをとくと、なかから出たのは無惨(むざん)な力二郎と尺八の首だ。色がかわっていても、本人たちとわかる。母、嫁たち三人は涙の雨だ。人間がのがれることのできないのは、げに会者定離(えしゃじょうり)、とヤス平は眼(まなこ)をとじる。涙があふれた。
音音と曳手と単節は、
「せがれ、夫の、なくなったときのようすを、きかせてください」という。
ヤス平は戸田川に入水したが、水練がじゃまになってたすかった。せがれたちは町進(まちのしん)の下役、仁田山晋吾(にたやましんご)らに鉄砲でうたれ、犬塚信乃、荘助こと額蔵の首といつわって、庚申塚(こうしんづか)のあたりの木の下にさらされていたので、それをうばってきたという。音音は、
「力二郎・尺八の亡霊がのこしていった旅行李(たびこうり)が、二つあります。これも、ますますふしぎなことです。はやくひらいてみるといいよ」といった。
曳手・単節がその行李をひらくと、一双(いっそう)の黒革縅(くろかわおどし)の腹巻だ。鮮血にまみれ、鉄砲傷が六つ、七つある。それに、八花菱(やつはなびし)の小鎖(こぐさり)の肱手(こて)と臑盾(すねあて)である。二人の戦歴が鮮明だ。これも、四人の涙の種(たね)となる。
そのとき障子をけりひらいて、村役根五平(ねごへい)・丁六(ちょうろく)・グ助が、
「おまえら、胆(きも)がつぶれたか。かえるとみせかけ、縁の下にかくれて夜もすがら、一部始終をききとった。音音もそうだが、ヤス平らも練馬の残党、道節の同類。とらえて白井にとどけるぞ」と縁側に斧(おの)をつきたてた。

第五十回 嫁たちの得度(とくど)……姥雪(おばゆき)夫婦の危機

根五平(ねごへい)らのおどしに、ヤス平はあざわらい、
「おまえ、相手にはたらぬが、敵(かたき)の片われ、のぞみのままに死出の三途(さんず)におくってやる」と、しこみ杖(づえ)を左手にとる。たかが老人一人とあなどって、根五平が、なぎたおせといきまくと、左右から丁六・グ助が斧(おの)をふりあげる。ヤス平はひらりとそれをかわし、刃から電光が走ったとおもうと、丁六の脇腹(わきばら)がななめにきられ、からだは二つに別れてたおれた。逃げようとするグ助の額(ひたい)を音音(おとね)が懐剣でつき、さらに肩先、せなかときった。
根五平は縁側にころげおち、そのまま逃げようとすると、奥のほうから、「えいっ!」という声とともに、襖(ふすま)のあいだから手裏剣(しゅりけん)がとんできて、根五平の背から胸までつらぬいた。声のぬしは犬山道節(どうせつ)である。そして、そのまま上座(かみざ)についた。
根五平ら三人の死骸は、ヤス平が井戸の底にしずめた。すでに夜はあけ、秋の初風がながれている。
道節は、
「わたしは、犬川さんら四犬士と明け方にもどり、力二郎・尺八、そしてヤス平のことも戸口で聞き、四犬士も、感嘆の涙をながしたところだ。二つの亡魂をとむらってくれ」という。
ヤス平・音音があらためて夫婦の盃をかわした。
このままでは身が危険なので、女たちとヤス平は、行徳の文五兵衛(ぶんごべえ)と妙真(みょうしん)をたより、力二郎・尺八の首も、犬田小文吾(こぶんご)にたのんで、行徳に埋葬(まいそう)することにした。
嫁二人は音音とヤス平のそばに並び、ひざまずいて、
「きょうからは、せめて尼となって、夫の菩提(ぼだい)をとむらいます。このことだけは、ゆるしてください」と用意の刃物で、発願得度(ほつがんとくど)の髻(たぶさ)を、ふっときりはなった。これを力二郎・尺八の首にそれぞれそえた。五犬士は、嘆賞した。
ヤス平は、女三人が、下総(しもふさ)行徳におもむくことになったので、自分はせがれどもにかわり、犬士の供をしたい、ともうし出た。道節は、
「いや、それは無益のことだ。われらは、雲と水のような、ゆくえさだめぬ修業の身だ。これからそれぞれ袂(たもと)をわかつと、だれがどこへいくかもさだめておらぬ。そのような身に供はいらぬ。わたしは、犬塚信乃さんとこの後のことを相談している。いまの六犬士のほかに、同因同果の二犬士がいるはずだ。おのおのが武者修業して国をめぐるなら、あわないということはあるまい。ヤス平、おまえも行徳にいくがいい」といった。また、四犬士も、それをすすめた。
そして道節は、越杉駄一郎(こすぎだいちろう)・竈門三宝平(かまどさぼへい)の首を、庭門にさらさせた。さらに四犬士に、
「わたしは、身をのがれるだけの火遁(かとん)の術をすてることにした。勇者のおこなうべき術ではないから」といろりの火中へ、火遁の術の秘書をなげいれた。炎がもえあがった。
そのとき十人ばかりの捕手(とりで)が、柴垣(しばがき)のかげ、木だちのあいだから、むらむらと走りでて、「ご諚(じょう)」とさけぶ。五犬士は、たちまち一人残らずきりすてた。だが、遠くで陣鉦(じんがね)・太鼓(たいこ)の音がする。現八が松の木にすばやくのぼり、見わたしたのち、ひらりとおりていう。
「敵勢、おおよそ三百余騎、すでに間近におしよせてきている。おもしろいぞ」
信乃は、小文吾にぶんどりの刀をおくって、
「わたしは村雨の太刀がもどったので、三振(みふり)あります。これを差しがえにするといい」といってわたした。
ヤス平と音音は、力二郎・尺八の形見の腹巻などをつけた。音音は薙刀(なぎなた)、ヤス平はしこみ杖を手にし、道節らに、「てまえども夫婦は、ここにこもって、いのちのかぎりふせぎます。裏道から落ちてください。曳手・単節のことをたのみます」という。
四犬士は、道節の答えをまたず、
「いや。いま敵をまかせて、のがれることはできません」といった。道節にしてもそうだ。
曳手・単節も、ひかぬ覚悟だ。姥雪(おばゆき)夫婦の生死、五犬士の進退はいかに。

第五十一回 脱出……助友(すけとも)の襲撃

犬山道節は、ヤス平・音音(おとね)らの覚悟にとまどい、
「世四郎(ヤス平)・音音の必死の覚悟はわかった。それでは、しばらくここにこもってふせげ。われわれは背戸(せど)の山あたりにしりぞき、ふいに敵の左右をうちくずす。相手は伏兵ありとおもい、逃げるだろう。それを適当に追って、みないちはやく他郷に難をさけよう」という。信乃(しの)・荘助(そうすけ)・現八(げんぱち)・小文吾(こぶんご)らも同意した。
小文吾は、曳手(ひくて)・単節(ひとよ)を合鞍(あいくら)におちないようにのせ、一町ばかりはなれた木の下につないだ。ヤス平・音音も、家のなかに砦(とりで)をつくった。
道節らは、背戸の山辺にしりぞき、チガヤのなかに身をかくした。寄手の軍兵は、ちいさな草屋に走り入ろうとして、三宝平(さぼへい)・駄一郎(だいちろう)の首を見つけ、すこしためらった。大将巨田助友(おおたすけとも)は、柴の戸まで馬をすすめ、
「犬山道節は、いずこにおる。この家にかくれているのは、密訴(みっそ)でさだかだ。はやく出て縄にかかれば、同類のいのちをたすけることもある」とよばわったが、松風のほかにこたえるものはない。助友はいらだち、
「はやくふみこみ、うちとらえよ」と下知(げち)した。
先手の雑兵は、われさきにと走りいろうとすると、姥雪(おばゆき)夫婦がいくさのしたくじゅうぶんに、弓を射(い)た。五、六人が胸を射ぬかれてたおれた。兵どもは、ひるんだ。助友はいかり、「こればかりの矢におそれるな」とはげしくいう。
雑兵ともがすすみいると、ヤス平・音音は、しこみ杖(づえ)・薙刀(なぎなた)を手に、
「ものものしい捕手(とりて)の大勢(たいせい)、雑兵どもに用はない。大将はだれだ。助友か。すすんでよくきけ。万夫(ばんぷ)も敵なき道節さまが、こればかりの寄手をおそれて、逃げるものか。時がきたなら義兵をあげるため、他郷におもむかれた。かくもうすわれは、犬山どのの譜代(ふだい)の郎党、姥雪世四郎、一名ヤス平、老妻音音とともに、おまえをひさしくまっていたぞ。はやくうちとり、てがらにせよ」とさけぶ。
雑兵は、ほざいたな、おいぼれ、と前後左右にひしめきながらうちいる。姥雪夫婦の太刀、薙刀は電光石火のように走る。しかし、二人とも手傷をおい、もうこうなれば、この家に火をはなち、死のうと覚悟する。

話は、二つにわかれる。
道節らは敵の左右からおそおうとまっていた。寄手の声がし、矢さけび・太刀音がきこえてくる。いまこそ、と手をあげた。四犬士も立ち、百歩ほどすすむと、ふいにかげから、一隊の軍兵が、たちふさがった。先頭の大将は、声高らかに、
「おろかなり、犬山道節。わたしの思案にたがわず、みかたにくらべれば九牛の一毛が、おそいくるというのか。すでにその機をさっした巨田薪六郎(おおたしんろくろう)助友、ここにあり。敵ながらおしい勇士ぞ。降参するなら、首はつないでおくぞ」という。
道節はいかり、
「助友か。敵(かたき)の片われはうちとった。のこる遺恨(いこん)を、いま、はらすぞ」とうちふる刃(やいば)は半輪の月か、氷か。助友が射よと下知すれば、兵どもがいっせいに矢をはなつ。五犬士、これをはらう。
道節は、「いま助友をうちとらなければ、世四郎と音音があぶない」とさけび、兵どもを追いちらす。勇士の太刀風は、四方をはらい、血は、野をひたすほどだ。助友も逃げ足だ。
と、うしろからも一隊。その先頭のものが、
「道節ら、まて。巨田薪六郎助友、ここにあり。もどれ、もどれ」とさけぶ。五犬士はおどろく。この助友のいでたちも前のものとそっくりだ。面影も似ている。二人の助友のはさみうちだ。
母屋(おもや)は猛火につつまれ、秋の山風がふきあれ、火の粉がとびちり、樹木をこがし、草をやく。敵もみかたも、あわてるばかりだ。五犬士は、ようやくあつまり、
「あわれなのは、姥雪夫婦だ。煙となるだろう」といった。だが、あたり一面火の海で、とおる道はない。
犬塚信乃は、村雨(むらさめ)をちからのかぎりふった。すると、その切っ先からほとばしる水気は遠くまで散乱し、炎がきえる。
「この刃で道芝(みちしば)の火を消し、山をこえよう。つづいてください」という。小文吾の姿だけが見えぬ。
小文吾は、曳手と単節をのせた馬のあたりにきた。雑兵が三人、よき相手、とおそおうとしていた。小文吾は、この雑兵をきりすてたのはいいが、馬の絆(きずな)もきってしまった。馬は、嫁二人をのせたまま走り去った。小文吾は、そのはなれ馬を追った。
荒芽山(あらめやま)のふもとの道に、近村の野武士六、七人がいて、落人(おちうど)からはぎとろうと、東のほうにあつまっていた。そこへ馬にのった二人の女がかけてくるのを見つけ、よろこび、たちふさがった。いきおいづいた馬は、三、四人をけちらしてぬけていった。
野武士の一人が、三、四十間(けん)はなれたところから鉄砲をうった。馬の肛門(こうもん)のあたりをつらぬき、四足をおってたおれた。
「女をにがすな」と、野武士は鉄砲をすて、ちかづこうとした。そこへ、二つのあやしげな陰火(いんか)がどこからともなくひらめき、たおれた馬の頭のあたりにおちとどまると、馬はふたたびたちあがり、はじめよりはやく走り去った。
小文吾は、そこへかけつけ、馬の奇跡を目撃し、二人の野武士をきりすてた。馬のゆくえはわからぬ。

第五十二回 阿佐谷(あさや)の宿……おそわれた小文吾

犬田小文吾(いぬたこぶんご)は野武士をきりすて、馬のゆくえを追ったが、もう日がくれてきた。ゆうべからのさわぎで、すっかりつかれはてた。木の切り株に尻(しり)をおろし、一人おもった。
「けさの荒芽山(あらめやま)のいくさで、犬山・犬塚さんらは山をこえ、西のほう、信濃路に走った。はなれ馬のために、わたしは東のほうへ八、九里、いや十里もきたかもしれない。友とわかれて、また、あずかった曳手・単節をうしない、面目もない」と、手をくみ、夕月の天をあおいだ。「それにしても、馬の上におちた光は、なんだろう。神仏のたすけか。さて、一夜の宿をもとめよう」とあるきだした。
ある草屋(くさや)にとまり、またつぎの日と、馬のゆくえをたずね、三日、四日とすごした。そして、いつのまにか武蔵の浅草寺(あさくさでら)に近い、高屋(たかや)・阿佐谷(あさや)両村のあいだの田畑のほとりをすぎるときには、七つ(午後四時)さがりになっていた。
「あの川をひとつわたると下総国(しもふさのくに)で、ふるさとは遠くない。わすれもしないまえの月の二十四日の明け方、犬塚さんらをおくろうとこぎだしたときは、一両日の子定だった。犬川さんの難儀からきょうまでもどらないが、父・姑(しゅうとめ)も、丶大坊(ちゅだいぼう)、蜑崎(あまざき)どのも、さぞまっておられるだろう。あしたは行徳にかえろうか。いや、いや。それではうしろめたい」とおもいわずらいながら、鳥越山(とりごえやま)のこちらがわの一筋道の畷(なわて)にさしかかった。
入相(いりあい)の鐘がはるかにひびいた。人里が近い。宿をとろうと、足をはやめた。
ふいにゆくての草むらから、手負いのイノシシが走り出た。石地蔵をたおし、たけりくるって牙(きば)をいからしてくる。小文吾は、身をかわしてイノシシの脇腹(わきばら)をける。イノシシは、ますますたけった。小文吾は、ひらりと背の上にまたがり、左手で耳をつかみ、右のこぶしで眉間(みけん)のあたりをつづけざまにうった。イノシシの脳骨(のうこつ)がくだけ、眼玉がとびだし、血をはいて死んだ。
小文吾は、またあるきだした。
一町ばかりくると、道に四十歳ばかりの男がたおれていた。身には仁田山木綿(にたやまもめん)の短い単衣(ひとえ)をきて、腰には赤銅(あかがね)づくりの二尺四、五寸の猟刀(やまがたな)をさし、手には長刃(おおみ)の手槍(てやり)をにぎっている。気絶しているらしい。小文吾は、イノシシをつきそんじてこのしまつ、とおもい、財布から薬をだし、男の口にふくませた。
しばらくして男は、ああ、とうめき、目をひらいた。男は手槍をとりなおし、走りさろうとした。小文吾はだきとめ、
「まちなさい。たおれているおまえさんを蘇生(そせい)させたのは、わたしだ」
そして、イノシシはころしたともつげた。
男はおどろき、膝をついて礼をのべ、あのイノシシは、畑をあらすので、村長(むらおさ)が三貫文(もん)の賞金をかけている、ともいった。
「てまえは阿佐谷のもので、鴎尻並四郎(かもめじりなみしろう)といいます。こよいのお宿をさせていただきます。ここは千葉どのの領地で、敵の間者(かんじゃ)への用心に、他郷の人はとめません。それであなたは、どこからこられて、どこへいかれます?」ととうた。小文吾は、
「わたしは下総のもので、犬田小文吾といい、上野(こうずけ)からのかえりです。一夜の宿をねがいます」
「てまえは、イノシシを村長の家にひきずって、あなたのこともつげ、あとからまいります。鳥越山の根かたから東北へ三、四町いきますと、阿佐谷です。その村はずれにおおきなエノキがあり、そのそばのちいさな家が、てまえの家です。留守には、女房の船虫(ふなむし)がおります。しかじかといってください」と腰から火打ち袋をわたした。
小文吾はわかれて、並四郎の家にむかった。
小文吾は、折戸(おりど)をたたいた。だれです、と脂燭(しそく)を手にした船虫が顔をだした。小文吾は火打ち袋をだして、ことの詳細をつげた。
船虫は、夫の恩人に礼をいい、家にはいるようすすめた。小文吾は、上座(かみざ)に案内されてすわった。船虫は夕膳に酒をそえ、うちわであおぎながらもてなした。小文吾は、家のなかを見わたした。
この一室は、畳が六枚しかれ、上座には、唐紙張(からかみば)りの袋戸の小だながある。つぎの間は、台所らしい。船虫は、三十(みそじ)を六つ七つこしているらしい。口のききかた、起居振舞(たちいふるまい)は男のようだが、顔かたちは、みにくくない。小文吾はおもう。「この家の主は、百姓でなく、商人(あきんど)でもない。なにをもって生業(なりわい)とするのだろう」
夜がふけたが、まだ並四郎はもどらぬ。船虫ははやくやすむように、と床をのべ、つぎの間に去った。
小文吾は、横になった。うとうとしていると、行灯(あんどん)の火がきえ、壁のくずれをふせいでいた戸がなり、人の気配がする。盗人(ぬすっと)か、と小文吾は、さも人がふしているように旅づつみを床にいれ、そっと蚊帳(かや)をでて、壁によった。盗人が、蚊帳の釣緒(つりお)をきりおとし、夜着の上から旅づつみをぐさっ、とつきさす。小文吾は、すかさず盗人の首をはねた。そして大声で、
「女房どの、おきてください。盗人をうちとめました」とさけぶ。
船虫がこたえる声は低く、うろたえたのか、出てこない。小文吾は、
灯火(ともしび)を、はやく」とふたたびいう。
ようやく、行灯をさげて船虫がきた。
そのあかりでみると、首はほかならぬ並四郎だ。小文吾はぼうぜんとし、船虫はさめざめと泣くばかりだ。
やがて顔をあげ、
「いのちの恩人の、あなたさまの首をかこうとしての天罰です。せめてもの罪ほろぼしです。わたしの家はむかしから村長でした。三代まえの祖(おや)のとき、身代(しんだい)が非常におとろえて、田地のなかばも失い、村の役職もひとにゆずってしまいました。わたしの親は男の子がいませんので、並四郎を婿(むこ)にしました。両親がなくなりますと、酒と賭事(かけごと)で田地をいれあげ、生業のために悪事をかさねてきました。こよいも、もどってから、あなたさまが砂金をおもちと知り、このようなことを……。面目(めんぼく)ございません」と、かえらぬことをくりかえす。小文吾は、
「女房どのの薄命はわかりますが、くやんでもしかたがありません。このことを村長につげてください」という。船虫は、
「ひとつ、おねがいがあります。うちの先祖は鎌倉の北条家(ほうじょうけ)のおん時には、名のある武士でした。並四郎のことで先祖の名がけがれては、くちおしくおもいます。あなたさまは、あしたの朝この地をはなれてください。わたしは夜のあけぬうちに菩提所(ぼだいしょ)にうまくいい、村じゅうには並四郎は頓死(とんし)といって、棺(ひつぎ)をだします。わたしは髪をきり、仏につかえましょう」といった。
小文吾は頭をさげ、
「先祖のために、夫の悪事を世に知らすまいとのねがいに、落涙するほど感心しました。よいようにしてください」といった。船虫はよろこび、
「このようにご恩をうけたのですから、いつかはきっとむくいをいたします。わが家に先祖相伝の尺八(しゃくはち)があります。せめておもちください」と納戸から古金襴(こきんらん)の袋にいれてある、一尺八寸ばかりの尺八をもってきた。黒漆(くろぬり)に樺巻(かばまき)して、


吹きおろす かたは高ねの あらしのみ
音づれやすき 秋の山里


と一首、高蒔絵(たかまきえ)にしてある。小文吾は、それを見て、
「この尺八は古代の一節切(ひとよぎり)。四、五百年もむかしのものでしょう。こんな宝は、いただけません」とかえす。船虫は首をふり、
「腰につけても、つつみのなかにしまっても、なにほどのこともありますまい。ゆずる子もいませんから、おさめてください」と、しきりにすすめた。小文吾は、
「それでは、再会するまでおあずかりしましょう」という。船虫はほっとしたらしい。船虫と小文吾は、なきがらを片隅によせた。小文吾は、尺八を自分の旅づつみにつつみおさめた。
船虫は、小窓を細目にあけて、
「星の光が高いが、夜明けも間近でしょう。菩提所は、十町たらず。天夜烏(よあけがらす)のなくころまでには、もヌってきます」と、背戸(せど)のほうからでて、菩提所とかに走り出た。

第五十三回 賊婦(ぞくふ)の悪計……船虫(ふなむし)とらわる

小文吾は、一人留守番をしていておもう。
「並四郎に薬をあたえたときに、砂金があるのを見られたのだろう。そして、宿をすすめたのも、ころして金をうばおうとしたからだ。《わな》にかけられようとした、おのれのおろかさよ。船虫が、悪(あ)しき夫と知りながらきょうまで身をまかせていたのは、口とこころはうらはらではないのか。それにしても、出処(しゅっしょ)のわからぬ尺八(しゃくはち)をどうして渡したのか」
小文吾は旅づつみをとき、尺八をだし、袋戸の小だなのなかにおさめ、縁側の蚊遣火鉢(かやりひばち)にもえのこっていた一尺ばかりの木の枝を、旅づつみにしまった。
しばらくすると、足音がする。船虫がもどってきて、
「菩提所の首尾は、よいほどにすませました」という。小文吾は、
「わたしは、ゆくえのわからない人をもとめての旅です。ここでおわかれします。これは香典(こうでん)ですが……」と、粒銀(つぶぎん)を紙でひねってなきがらのそばにおき、身じたくをととのえ、そとに出た。船虫は、門辺(かどべ)にたって見おくった。
小文吾が、牛島(うしじま)のほうにわたろうとして河原の岸におもむくと、草鞋(わらじ)の緒(お)がきれた。それをむすびあわせようとしたとき、うしろから「とった!」と、捕手(とりて)らがおそいかかる。小文吾はあおむけにふしながら、手足をはたらかせて、二間(にけん)三間となげつけたが、おおぜいの捕手に手足をだきすくめられて、縄をかけられた。
「この狼藉(ろうぜき)は、いかなるわけだ。罪などおかしたことはないぞ」と小文吾がいうと、捕手の頭(かしら)か、一人の武士が、野装束(のしょうぞく)をして十手をもち、
「このくせもの。おまえは、むかし当家で紛失した古代の名笛(めいてき)《あらし山》という尺八を、所持している、と密訴(みっそ)するものがいた。おまえは並四郎をころし、逃げさろうとしたが、女房船虫が村長にうったえ出た。われらは当村に出役し、村長宅を宿所にしており、それをきいてここでまっていた。わたしは千葉家の眼代(がんだい)畑上語路五郎高成(はたがみごろごろうたかなり)だ。その身の素性(すじょう)をもうしてみよ。尺八をぬすんだようすも白状せよ」とせめたてる。
小文吾はさわがず、
「意外なことだ。わたしは下総行徳の犬田小文吾悌(やす)順(より)というもの。上野(こうずけ)へおもむき、道づれとはぐれ、たずねてこの地にきただけだ」とことの詳細をかたった。
そのとき、かげから船虫が出てきて、涙ぐみ、語路五郎に、
「その旅づつみに、尺八があるはずです。それが、証拠でございましょう」という。
語路五郎が、小文吾のつつみをひらくと尺八ではなく、もえのこりの木の枝だ。おどろいたのは、船虫だ。 小文吾は、「ごらんになられましたか。船虫がことばたくみに尺八を、先祖相伝のものよとわたしにおくってきたが、思案のすえ、わたしはすりかえておいた。尺八の賊(ぞく)とうったえ、並四郎のうらみをかえそうとしたのだろう。尺八は、戸だなにおさめてある。また、並四郎がわたしをつきさした太刀あとは、ふとんにも畳(たたみ)にもあるだろう」といった。
語路五郎は配下のものに、たしかめるよう下知(げち)した。しばらくして配下どもがもどり、小文吾の口上(こうじょう)と符合(ふごう)しているとつげ、尺八をおさめた袋をわたした。尺八は、まぎれもなくぬすまれた《あらし山》である。
船虫は、いかる目に朱をそそぎ、凶相悪鬼(きょうそうあっき)だ。帯のあいだにかくした魚切包丁(うおきりぼうちょう)を逆手(さかて)に、「夫の敵(かたき)!」と走り出た。小文吾は、しばられたままだが、足をとばしてけった。船虫はころび、そのまま息たえだえに血の気をうしなった。捕手どもは、これをとらえた。
語路五郎は、小文吾の縄をとき、ことばをあらため、早合点(はやがてん)をわび、主君千葉に出仕しては、とすすめる。
それから船虫に、「あらし山の尺八をぬすんだなかまの名をあげよ」とただした。
船虫は、頭をあげてあざわらい、
「なかまの名をききたいというのかい。いわぬが情(なさけ)さ。なぜって、ご家老にきいてごらんな」という。
語路五郎は、「大胆不敵なやつ。たやすくは、はくまい。せめつけろ」と命じる。
そこへ、高屋(たかや)の村長が走りでて、
「守(千葉介自胤(ちばのすけよりたね))には、小鳥狩りのために、けさお館(やかた)をおでになり、このあたりを逍遥(しょうよう)されておられますので、まもなくまいられるでしょう」という。
語路五郎は、配下に下知し、
「船虫を村長のもとにひき、小文吾どのをも案内し、酒食をおすすめしろ」といった。そして、千葉介自胤をまった。
ほどなく自胤は、鳥網(とりあみ)・吹矢(ふきや)などを近臣にもたせ、四、五十人の従者(ともびと)をしたがえてきた。語路五郎が道ばたにぬかずいているのを見て、近臣にたずねさせた。
語路五郎は小膝をすすめ、並四郎・船虫の悪事、小文吾のはたらきとともに、尺八のもどったことをつげ、ふところから尺八をさしだした。
自胤はそれを見てよろこび、
「われ弱年(じゃくねん)のころ、小篠(おざさ)・落葉(おちば)の両刀と、この《あらし山》をうしなったが、ふたたびまた尺八を手にするよろこびは何にもます。船虫とかいう賊婦をきびしく詰問(きつもん)すれば、両刀のゆくえもわかるかもしれぬ。両刀は先祖相伝の刀ではなく、かりそめの秘蔵だ。《あらし山》は、当家の重宝だ。その小文吾とやらをとき、当家の股肱(ここう)とするなら、そのほうたちの忠義にもなる。この次第を、馬加大記(まくわりだいき)につげてきかせるがいい。わしが帰城するまで、犬田をあつくもてなすがいい」といって床几(しょうぎ)から立った。
語路五郎は配下二人を石浜の城にかえし、家老馬加大記常武(つねたけ)にことのおもむきを知らせ、その使者がもどるまで、小文吾をもてなした。
秋の日はかたむき、未(ひつじ)の刻(午後二時)をすぎたころ使者がもどり、馬加の口上をつたえた。犬田小文吾をともなって帰城し、船虫は村長らにあずけ、あした獄舎(ひとや)につなぐべし、というのである。語路五郎はそれを村長(むらおさ)らに下知し、自分は、しぶしぶ承知する小文吾をともなって、石浜の城にむかった。
村長は、村のものたちとかたりあいながら、船虫をみまもっていた。宵(よい)近くに、畑上語路五郎の下知状をもった使者がきた。村長が見ると、こよい罪人(つみびと)船虫をつれてまいれ、とある。
で、村長は村のもの十人ばかりで、たいまつをてらして家を出た。石浜の城までは坂東路(ばんどうじ)一里(六町)あまりある。
しばらくいくと、ふいに鉄砲の音がし、覆面(ふくめん)をしたくせものが、四、五人おどり出た。村長らはおどろき逃げて、しばらくして、村人二、三十人とともにもどると、船虫の姿はない。
いっぽう、畑上語路五郎(ごろごろう)高成は小文吾をともなって、申(さる)の刻(午後四時)に石浜の城にもどった。小文吾は座敷にとおされ、語路五郎は玄関わきの小座敷でまった。馬加常武が出座し、語路五郎から並四郎・船虫、そして小文吾のこと、尺八のことをききとった。常武はあざわらって、
「尺八がぬすまれて二十年に近い。かならずしも並四郎を盗人とはさだめがたい。それを買いもとめたのかもしれない。それに、なぜ家老のわしをとおさず、直接主君にもうしあげた。家老をあなどるものだ。それでは、当家の掟(おきて)がたつか」とせめた。
語路五郎は、かえすことばがない。
常武はわらって、「これは後日にするとして、船虫はどうしている?」ととうた。語路五郎は、しかじかとこたえると、常武はいかり、
「それは、まちがいだ。船虫は、すぐにもつれてくるように、小文吾は長途の疲れもあるだろうから村長宅にとどめるように、とつげたはずだ。船虫は女に似ぬくせものゆえ、とりにがしては、尺八とともにうせた小篠・落葉の両刀をたずねる手がかりもなくなる。船虫を、こよい獄舎につながないでは、怠惰(たいだ)の罪はのがれぬ」とくりかえす。
語路五郎は、沈黙したままだ。宿所にかえり、配下をよびあつめた。城戸(きど)をでるとき、総泉寺(そうせんじ)の鐘がひびいた。

第五十四回 尺八《あらし山》……品七(しなしち)の話

畑上語路五郎(はたがみごろごろう)は、たいまつをてらす配下のものをいそがせ、阿佐谷村(あさやむら)にむかった。六、七町もあるいたかとおもわれたころ、あたりに黒い人影がおおくみえた。がやがやと話をしている。それが阿佐谷の村長(むらおさ)と百姓たちであることは、ちかづいてからわかった。
村長のほうも、語路五郎とわかると、道ばたにぬかずき、「ご眼代(がんだい)、おたすけください」という。百姓も、声をそろえた。語路五郎は、
「おまえら、船虫(ふなむし)を看視しているはずなのに、どうしたのだ? さては、キツネのしわざか?」と、刀の柄(つか)に手をかけた。
村長らはあわてて、
「キツネではありません。船虫をつれてまいれとのおん下知状がとどき、用心しながら夜道をかけてまいりましたところ、おおぜいのくせものにおそわれ、船虫をうばわれてしまいました。どうしたらよいものか、と思案しておりました」という。
語路五郎は、ぼうぜんとして口がきけない。しばらくして、「船虫をつれてまいれとの下知状など、知らぬぞ。それを見せろ」といった。
村長はふところをさぐったが、ない。
語路五郎はいらだち、
「おまえたち、船虫をにがしたな。一人のこらずめしとれ!」と命じた。村長以下十人を獄舎(ひとや)にいれた。
その翌日、語路五郎は馬加大記(まくわりだいき)にことの次第をつげた。馬加は、語路五郎にも「手おち」ありとして、これも入牢(じゅろう)の身となった。語路五郎は、のちに獄死する。
千葉介自胤(ちばのすけよりたね)に、馬加から船虫の逃亡がつげられた。馬加は、犬田小文吾(いぬたこぶんご)は敵国のまわしものの疑いがある、ともいった。自胤は、功あるものを賞せず罰するのはどうかとおもう、という。で、小文吾は馬加のはなれ座敷にとどめられた。
三日め。老僕柚角九念次(ゆずのくねんじ)のとりつぎで、馬加大記にあうことができた小文吾は、「一日もはやく、放免ねがいたい」ともうしいれた。馬加は、
「それがしも心ぐるしいかぎりだが、自胤どのが、貴殿をうたがっておられるので、手だてがない。貴殿が尺八(しゃくはち)をうけたると、船虫がさずけざるとの判断がつかぬ。それに、船虫がくせものの手でうばわれて明白にできかねている。また、貴殿が敵国のまわしものとの疑いもある。気長にまってほしい」という。
小文吾はおもいがけぬほうへの進展で、ただおどろきあきれるばかりだ。小文吾には、すべて馬加の策謀(さくぼう)とわかっているが、あらそうのはさけた。小文吾は、獄舎にもひとしい別のはなれ座敷に、とじこめられた。
これからは、男の童(わらべ)が、日に三たび食膳(しょくぜん)をはこんでくるのと、月に三日、やとい人が草刈り・落葉はきにくるだけで、語し相手もいない。
このようにして、小文吾は、はなれ座敷で秋・冬をすごし、そして文明十一年(一四七九年)の春三月をむかえた。掃除のやとい人たちも、よく姿をみせた。
そのうち、品八(しなはち)という老人だけが小文吾をなぐさめてくれた。朴訥(ぼくとつ)でまめな男なので、小文吾は鎌休(かまやす)めのおりに煎茶(せんちゃ)などをのませがら、世間話をした。
ある日、品七が一人できた。昼餉(ひるげ)すぎて、縁側に尻をかけて休息した。品七がいった。
「たいへん苦労しておられますね。とじこめられて、一年近くもなりますね。知者も勇士も、めぐりあわせが悪いと、生涯(しょうがい)頭をあげることはむずかしいものです。この武蔵の大塚にいた犬塚番作(いぬづかばんさく)という猛者(もさ)は、家督(かとく)を姉婿に横領され、憤死(ふんし)し、その一人息子も、親におとらぬ器量人(きりょうじん)ですが、いまはそのあとがたえたそうです」
小文吾は、胸さわぎをしずめ、そ知らぬふりして、
「わたしも、犬塚親子の名だけはきいている。知り合いか?」ととうた。
品七は首をふり、
「いや、知り合いではありません。大塚の村人の糠(ぬか)助(すけ)というものが縁者で、よく犬塚親子のうわさをききました。大声ではいえませんが、ここの馬加さまは、とてもおそろしい人です。それは、どのような過世(すくせ)があるのでしょう?」という。小文吾は膝(ひざ)をすすめて、
「そのわけをきかせてほしい。わたしはよそものゆえ、よそにもらすことはしないから」というと品七は、
「あなたをしんじて、そのわけをもうしましょう。すでにご承知でしょうが……」と、かたりだした。

享徳(きょうとく)四年(一四五五年)の秋、下総(しもふさ)の千葉家が二家にわかれ、合戦(かっせん)となった。そのもとはこうだ。
当君千葉介胤直(たねなお)はまだ幼い。千葉の一族、原越後介(はらえちごのすけ)胤房(たねふさ)は、滸我(こが)の御所、成氏朝臣(なりうじあそん)にしたがうべしとすすめ、円城寺下野守尚任(えんじょうじしもつけのかみひさとう)は、鎌倉の管領(山内顕定・扇谷定正)にしたがうべしといましめた。胤直は、管領がたときめた。胤房はいかり、成氏に加勢をねがい、千葉の馬加(まくわり)陸奥入道(むつのにゅうどう)光輝(みつてる)とともに、同国の多胡(たこ)・志摩(しま)の二つの城をせめ、のち胤直をはじめとして、その父千葉介入道常瑞(じょうずい)・舎弟(しゃてい)、中務入道了心(なかつかさにゅうどうりょうしん)にも腹をきらせた。
ここで成氏の沙汰(さた)として、陸奥人道光輝の嫡子孝胤(たかたね)を千葉介に任じ、千葉の城主とした。また管領家のほうでは、康正(こうせい)元年(同年改元した)の冬、人道了心の嫡子実胤(さねたね)と二男自胤をとりたて、武蔵の石浜・赤塚の城主とした。それから千葉家は二つにわかれ、たがいに怨讐(おんしゅう)の仲となる。
そのころ、馬加記内常武(きないつねたけ)は孝胤につかえていたが、身をあやまることがあって逐電(ちくでん)し、石浜の実胤につかえ、記内を大記とあらためた。
実胤は、病弱のため家督を自胤にゆずろうとした。もしそうなると、粟飯原胤度(あいはらたねのり)・篭山逸東太縁連(こみやまいっとうたよりつら)という自胤の老臣のちからがますことになる。馬加はそれが不満だ。で、馬加は自胤にちかづき、実胤の命令といつわり、粟飯原をたずね、滸我と両管領家との和睦(わぼく)のきざしがあるので、千葉家も滸我に接近するほうが得策だ、とすすめた。
和睦の手だてとしては、石浜からのもうし入れでは両管領家にきこえがよくないから、赤塚からとしたほうがいい。その進物には伝来の一節切(ひとよぎり)、《あらし山》が適当である、と実胤からぬすみだして持参した尺八《あらし山》をわたした。
自胤はよろこび、粟飯原胤度をして秘蔵の小篠(おざさ)・落葉(おちば)の両刀をそえ、従者十余人とともに滸我に使者として出立(しゅったつ)させた。

第五十五回 重宝流転(じゅうほうるてん)……馬加大記(まくわりだいき)の陰謀

品八は興(きょう)にまかせて、馬加(まくわり)の旧悪をかたりつづけた。小文吾は茶をくみ、すすめた。馬加大記常武(つねたけ)は家来に粟飯原胤度(あいはらたねのり)が滸我(こが)に出立したのをみとどけさせてから、赤塚の城にのぼり、自胤に対面した。自胤は、《あらし山》の尺八に小篠(おざさ)・落葉(おちば)の両刀をそえ、滸我につかわした、といった。
馬加はさもおどろいたようすをし、わたしはそのようなご内意をつたえたことはないと否定して、さらに、
「いつでございましたか、胤度がわたしの宿所にきて、当家の重宝《あらし山》の尺八は貞胤朝臣(さだたねあそん)から六世相伝の宝物だが、まだ赤塚の殿はごらんになっていないので、貴殿のはからいで拝借させてほしい、といったので、きのうあらし山を胤度の宿所に持参し、すんだのちは返却してくれ、といってわたしました。しかるにその尺八をゆえなく他家にわたされては、わたしの落度となり、罪をこうむります」といった。
大記は、胤度にあざむかれたくやしさよ、としきりに嘆息し、
「胤度は忠信無二の老党とおもっていましたが、こうなるとおもいあたることがあります」という。
自胤が、そのおもいあたることはと問うと、大記は、
「世の風間では、胤度は主君兄弟をたおし、武蔵七郷・葛西(かさい)三十か荘の領を横領すべくもくろみ、成氏に内通しようとしている」といった。
自胤はおどろき、
「このまますておくことはできぬ。はやく逸東太(いっとうた)をよべ」と命じた。
馬加は控えの間にしりぞいた。
そこへ第二の老党、篭山逸東太縁連(こみやまいっとうたよりつら)が、いそぎ出仕してきた。自胤はことの次第をつげ、
「いまから、胤度にすぐもどるようつたえよ。それでもいくというなら、とらえて、《あらし山》と二振(ふたふり)の名刀をとりもどしてまいれ」と下知した。
縁連がその命をうけてさがると、控えの間の馬加がそっとよびとめていう。
「胤度のなきあとは、貴殿が第一となられる。自胤さまが石浜の城にうつられたなら、わたしもまた貴殿の下風(かふう)にたつことになる。かならずおぬかりなさるな」
そそのかされた縁連はわらって、その意味を解した、と用意の栗毛(くりげ)の馬にのり、東のほうへとかけだした。従者四、五十人が、あえぎあえぎつづいた。
いっぽう、粟飯原胤度(あいはらたねのり)は、その日、申(さる)の刻(午後四時)ごろには、八、九里もすすみ、杉戸(すぎと)の手まえの松並木にさしかかった。後方からひづめの音がするので、ふりかえった。縁連が、とどまるように、とよびかけてくる。縁連は胤度にちかづき、殿がだいじなことをいいわすれたので、そのままもどられるように、とつげた。
胤度は疑いをもたず、「それでは、もどろう」とひきかえした。
日がくれてきた。縁連はふいに、「誅罰(ちゅうばつ)する」と、ぬきうちに胤度の肩先をきった。胤度も抜刀したものの、うたれ、絶命した。胤度の従者は、主人の仇ときりかかった。この乱闘のさなかに顔をかくした男女が、おちている《あらし山》、小篠・落葉をひろって逃げた。縁連はおいかけたが、ついに見うしなった。そして、胤度をだましうちにしたあげく、《あらし山》も両刀もうしなった責めをかんがえてか、未明には一人でいずれかへ走り去った。
自胤(よりたね)は、その知らせをきき、馬加をよび、どう処置すべきかをとうた。馬加は、
「すべて、胤度のおこしたこと。一族を罰していいわけをなされば、自胤さまにはおとがめはございますまい。わたしにおまかせください」といい、実胤(さねたね)・自胤の下知と称し、胤度の長男、粟飯原夢之助(ゆめのすけ)に腹をきらせた。十五歳である。さらに胤度の妻稲城(いなき)と、五歳の娘の首をはねた。他の親類も、追われたりした。胤度の側女(そばめ)調布(たつくり)も、追放となった。いまから十五、六年まえの寛正(かんしょう)六年の冬、十一月のことだ。
調布(たつくり)は相模国足柄郡(さがみのくにあしがらのこおり)犬坂という山里にかくれ、その年の暮れに子をうんだ、と三年ののちの応仁(おうにん)元年(一四六七年)の秋ごろに馬加にもきこえてきた。で、柚角九念次(ゆずのくねんじ)を犬坂へつかわしたが、すでに調布母子の姿は消えていた。
石浜の実胤は病弱で、すべてを馬加にまかせていたが、やがて領所を弟自胤にゆずり、美濃(みの)に退隠(たいいん)し、まもなく死んだ。で、鎌倉の両管領は自胤を千葉介(ちばのすけ)に任じ、石浜の城主とした。武蔵七郷・葛西三十か荘を所領したのである。馬加大記常武の勢力は拡大し、自胤も遠慮するほどになった。
胤度がうたれたおり、馬加はならずものの並四郎に、《あらし山》と小篠・落葉をぬすませたようだ。船虫(ふなむし)をうばい去ったものも、馬加のさしがねだろう。このことは、馬加の若党の狙渡増松(さわたりましまつ)が、ほうびのすくないのをうらみ、もらしたので、人びとに悪事が知れたのだ。その増松も、毒殺されたようだ。
「ですから、食膳(しょくぜん)にはじゅうぶんお気をつけられるように……」と品七の長い話はおわった。そこへ夕膳がはこばれてきた。品七は、あわてて去った。
小文吾は、これまで、いつも箸(はし)をおくと腹痛をおこし、所持する珠(たま)が痛みをとったことにおもいいたった。
その翌日、品七が血をはき絶命したことを、あとになって小文吾はきいた。品七も毒殺されたのか、とますますおどろく。品七は、犬飼現八(いぬかいげんぱち)の実父糠助と縁があったという。小文吾の苦悩がました。食後は珠をなめ、いのちをみずからすくった。

第五十六回 桃源(とうげん)の舞……舞姫(まいひめ)旦開野(あさけの)

馬加大記(まくわりだいき)は、知勇すぐれた小文吾に、自分の旧悪が露見(ろけん)したことにあせりをもった。馬加には、自胤(よりたね)に腹をきらせ、せがれ鞍弥吾(くらやご)を千葉介(ちばのすけ)にしたい、という野望がある。小文吾が、もし自分の腹心にくわわったなら、それもはかどるということになる。九念次(くねんじ)をよび、小文吾のはなれ座敷にいかせた。慰労(いろう)したいので母屋にきてほしい、というのだ。
小文吾は、「おれをころす気だな。よし。運を天にまかせよう」と身なりをととのえて、奥座敷にでむいた。馬加がでむかえ、馳走(ちそう)をすすめた。馬加は、毒味(どくみ)をしてから、と盃(さかずき)をさした。小文吾はそれをうけ、ひそかに椀(わん)のなかにすてた。
しばらくすると、四十歳ほどの老女、六、七歳の女の子、二十歳(はたち)あまりの若ものの三人がはいってきた。馬加の妻女戸牧(とまき)・嫡子鞍弥吾(くらやご)・娘の鈴子である。小文吾は膝をすすめ、よろこびをのべ、名のった。
つぎの間から、馬加の股肱(ここう)の若党渡辺綱平(わたなべのつなへい)・卜部(うらべの)季六(すえろく)・臼井貞九郎(うすいのさだくろう)・坂田金平太(さかたのきんぺいた)がそろってはいり、末席につらなった。それぞれが、ほこらしげに名のった。
馬加は、鎌倉から女田楽(おんなでんがく)がきたが、そのなかに一人すぐれたものがいるので、それを肴(さかな)に盃をかさねようといった。太鼓(たいこ)や鼓(つづみ)うち、笛吹きなどの女が美しくきかざって縁にならんだ。そのなかに、あでやかな十六ほどの乙女がいた。
摺箔縫箔(すりはくぬいはく)した六尺袖の表衣(うちぎ)に、いろいろの下がさねをし、妙(たえ)なる香をたきこめ、帯をはばひろくたてにむすんだ腰は風になびくヤナギのようで、その姿は一人たつ花に似ている。その女田楽は、まず主人(あるじ)夫婦と小文吾にぬかずき、そのまますこししりぞいて、席の中央にすわった。この乙女の名は旦開野(あさけの)という。
しばらくして、笛の音(ね)と鼓がなった。たちあがった旦開野の姿は美しい。


そもそもこれは讃岐州(さぬきのくに)、屋島(やしま)壇の浦のほとりなる、弓削山(ゆげやま)のふもとにすまい候、賎婦(しずのめ)にて候。一日(あるひ)、里の乙女子とつれたちて、同国八栗山(やくりやま)にあそび候ほどに、この谷川の水上(みなかみ)より、いとも愛(め)でたき盃の、ながれて候(そうら)えば……


うたう声もすみ、舞の袖もあやしくひるがえり、扇はチョウのようだ。モモの花のかんざしに、灯火(ともしび)の光がてりそう。
舞曲がおわると、戸牧は小袖ひとかさねを、旦開野にあたえた。旦開野は、それを肩にうちかけてしりぞいた。小文吾もしりぞこうとすると、馬加はとどめ、
「そういそがれることもないでしょう。この新亭は、眺望のためにたてたものだ。あそこの窓をひらくと、隅田川(すみだがわ)の流れが見えるので、臨江亭(りんこうてい)と名づけ、また楼(ろう)上(じょう)からながめれば、牛島・葛西の海辺まで眼下にあるので、対牛楼(たいぎゅうろう)と名づけた。さあ、こちらへ。薄茶を一服さしあげよう」という。
小文吾は、こばむこともできず、かたわらにおいた脇差の刀をとってたとうとすると、白銀(しろがね)でつくったモモの花のかんざしが、刀の緒(お)にはさまっている。これは、といぶかりながら、女どもに、だれがおとしたのか、ときいた。一人の女が、
「これは、旦開野(あさけの)のものです。舞をまっているときにおとしたのでございましょう」とこたえた。
小文吾は、「それでは、おまえにわたす。とどけてくれ」といって、対牛楼にのぼっていった。
楼上には、僧一山(いちざん)と印のある《対牛弾琴(たいぎゅうだんきん)》の四字の額がかかげてある。
小文吾は、欄干(らんかん)に身をよせて見わたした。夜はあけて横雲がたなびき、隅田川のむこうに、黒く牛島が水にふせているように見え、あちらには、蒼(あお)い柳島(やなぎしま)が波になびくようだ。朝日がのぼるあたりは、ふるさとの方角らしい。小文吾は、父や親戚のことをおもうとやるせない。馬加は川舟を見て、
「犬田どの。いつまでものをおもわれる。あの舟は、ひさしく水ぎわにつながれており、また真帆(まほ)をあげてはしるものもある。つながれた舟は走れぬ。走る舟は、とどまりがたい。あなたは、いまはこの理(ことわり)をさとられるがいい。君は舟で、臣は水だ。水はよく舟をうかべて、またよくくつがえす。自胤は、暗愚(あんぐ)の弱将。どうしてあなたを知ることができよう。隣国の敵のためにほろぼされることは疑いない。わたしもまた、千葉の一族馬加光輝(みつてる)の甥(おい)ゆえ、とってかわってもだれもとがめるものはない。自胤に詰腹(つめばら)をきらせ、わが子鞍弥吾常尚(つねひさ)を当城の主(あるじ)にしたい、とおもっているが、いまだ知勇の軍師をえない。あなたがいまからわたしをたすけてくれるなら、こと成就(じょうじゅ)のときには葛西の半郡を約束しよう。ご承知なさるか」と、重大なことをさりげなくいう。小文吾は、君臣の礼をのべ、
「わたしは武芸をこのんではいますが、学問はなく、人のたすけとなることはできません。ただこころざしているのは、忠信のみです」
小文吾は九念次におくられて、はなれ座敷に戻った。手水鉢(ちょうずばち)で口をすすごうとすると、筧(かけい)の水に木の葉がながれてきて鉢にうかんだ。小文吾は、その和多羅葉(わたらよう)という木の葉をひろった。葉裏に一首の和歌がしるされている。


わけいりし 栞(しおり)たえたる麓路(ふもとじ)に
ながれもいでよ 谷川の桃


小文吾は、酒宴のおり桃源(とうげん)の舞をまった、旦開野(あさけの)のしたこととさっした。脇差のそばにおとしたかんざしとかかわりがあるのか、とも思案した。
十日ほどへて、五月もなかばとなる。
その日、小文吾はうたた寝をした。障子に人影がうつる。小文吾が目をひらいてみると、人のたおれる音がする。刀をもったくせものが首のあたりに血をふき、死んでいる。モモのかんざしが、のどぶえを襟首(えりくび)からつらぬいたのだ。このくせものは、馬加の配下、ト部(うらべ)季六である。馬加がおそわせたのだろう。それを殺したのは旦開野(あさけの)だ。もう丑(うし)三つ(午前二時)ころか、月もかたむきかけている。小文吾は、なきがらを泉水の底にしずめた。
人影がみえた。くせものか、とおもっていると、旦開野だ。旦開野は、小文吾を恋慕するこころをうちあけた。小文吾は、友のためになすことがあり、それをとげたうえでなら妻にむかえよう、とこたえた。旦開野は、小文吾をのがすため、城の出入りに必要な符牌(きって)をあすの夜持参するといった。女田楽の旦開野は身軽だ。ひらりと松に手をかけ、たちまち姿を消した。

第五十七回 悪臣をうつ……旦開野(あさけの)の素性(すじょう)

はなれ座敷にもどった小文吾は、旦開野(あさけの)のたすけで城からのがれるための符牌(きって)を手にできたなら、とおもう。しかし、もしことがならなければ、旦開野は命をおとすだろう、とこころひかれる小文吾もやるせない。
あければ五月十五日。この日は朝から雨だったが、未(ひつじ)の刻(午後二時)には、晴れた。小文吾は、季六(すえろく)がころされたので、馬加(まくわり)の手勢がおそってくるか、と気をくばっていた。
馬加は、失敗したとおもっていたが、鞍弥吾(くらやご)の誕生の祝宴なので、一時あきらめ、盃(さかずき)をかさねていた。
小文吾はのがれるしたくにかかった。四更(やつ)(午前一時)ごろ、黒髪をみだし、血をあびた旦開野が鳥のように走ってきた。そして小文吾の前になげだしたのは、馬加大記(だいき)の首だ。小文吾のおどろきをおしとどめて、
「おどろかれたでしょう。わたしは女ではありません。いまは、なにをかくしましょう」と、自分の身のうえを旦開野はかたる。
旦開野の本名は、寛正(かんしょう)六年冬十一月、馬加大記の奸(かん)計(けい)にかかり、篭山逸東太縁連(こみやまいっとうたよりつら)にうたれた千葉家一族の老党、粟飯原首胤度(あいはらのおおとたねのり)の一子、犬坂毛野胤智(いぬさかけのたねとも)だ。馬加は粟飯原一族をみなごろしにしたが、側女(そばめ)調布(たつくり)はのがれ、相州足柄郡(そうしゅうあしがらのこおり)犬坂で一子をうみ、姿をかくした。そのおり、女の子がうまれたと人びとにはつげ、毛野と名づけ、八、九歳のころに女田楽のなかまにくわわった。
家断絶から十五年をへた、十三歳のときに母調布が病死。そのおり自分の素性をきかされた毛野は、馬加をうつべく、剣術・拳法(やわら)・槍(やり)・手裏剣(しゅりけん)、そのほかをきわめ、幸い馬加に女田楽がまねかれ、復讐の機会をまった。小文吾のうわさをきき、知勇の士にちかづきたいとねがったという。
犬坂毛野の仇討(あだう)ちで、小文吾は自由の身だ。だが、いつまでもこうしてはいられぬ。小文吾は隅田河原(すみだがわら)までのがれたが、折からの出水のため、渡し舟が見あたらぬ。城中から、小文吾と毛野をおう追っ手がせまっている。そこへやってきた柴舟(しばぶね)に毛野はとびのったが、そのままながされてしまった。やむなく小文吾は、あとからちかづいた荷船におよいでたどりつき、のりこんだ。
すると、舟子(かこ)の頭(かしら)が、
「これはこれは、古那屋(こなや)の若だんな、しばらくおまちください」という。

第五十八回 憂いはつきず……小文吾の旅だち

小文吾は、自分の名をよばれたので、見ると、知り合いの船頭依介(よりすけ)だ。小文吾は、去年から友やわが身にふりかかった大厄難(だいやくなん)をかたり、馬加(まくわり)にとらえられて、いのちがあやうかったが、それをたすけてくれた恩人ののった柴舟(しばふね)が、さきにくだっていったので追ってくれ、とたのんだ。
依介は承知し、舟子(かこ)どもに漕がせてあとを追ったが、柴舟ははやく、ながれ去った。
小文吾はあきらめ、市川にいくようたのんだ。市川についたのは、その日の午(うま)の刻(正午)のころだ。依介は荷物を荷主の河岸(かし)にあげ、舟は犬江屋(いぬえや)の門辺(かどべ)につないだ。
依介の女房水澪(みお)が出むかえると、依介は、
「昼膳の用意をしろ」といって、奥座敷に案内した。
小文吾は、依介がこの家の主人のようにふるまうので、不審(ふしん)におもっている。それに、妙真(みょうしん)の声も、大八の親兵衛(しんべえ)の姿も見えない。小文吾は、
「母御はどこかにいかれたのか。親兵衛をともなってか?」ときいた。
依介は小膝(こひざ)をすすめて、
「そのことでございます。わすれもしない去年の六月二十四日、若だんながお友だちをおくられて、武蔵においでになられました。そのあと……」とかたりはじめる。小文吾には、おどろくことばかりだ。
大塚におもむいたまま、小文吾は行徳(ぎょうとく)にもどらず、それをあんじた丶大坊(ちゅだいぼう)もあとを追ったが、これも音信がたえた。文五兵衛(ぶんごべえ)と妙真も心配し、蜑崎(あまざき)十一郎と相談をかさねた。そこへ、ならずものの舵九郎(かじくろう)が、妙真の入婿(いりむこ)になろうとして難癖(なんくせ)をつけたが、蜑崎がこれをおいはらい、後難をおそれて、みんな安房へと出立した。依介も供をした。
その途中、まちぶせていた舵九郎におそわれ、混乱のおり、大八の親兵衛は竜巻(たつまき)とともに天にのぼり、舵九郎はふりおとされて死んだ。文五兵衛もまた、大塚にいったが、小文吾らの消息がわからぬまま、安房にいる妙真と蜑崎十一郎に、報告しにいった。依介は、
「それで、若だんなは、去年からどこにおられましたか?」ときいた。小文吾は、
「犬塚さんや、犬飼さんらを武蔵におくっていき、神宮河原(かにわがわら)のほとりで、姥雪ヤス平という人とあった。そのおり、額蔵(がくぞう)の荘助(そうすけ)さんが無実の罪で処刑される、ときいた。そこで、その犬川さんをすくうべく……」と、依介に詳細にきかせた。小文吾は、
「これから行徳へいく。草履(ぞうり)を一足かしてくれ」という。依介はあわてて、
「おまちください。親だんなのことは……」と鼻をかみ、涙ながらにかたる。
文五兵衛は安房にいって、妙真に小文吾らの消息がわからないとつげ、ともに涙した。これよりさき、里見の殿(との)には、蟹崎がしかじかと報告した。里見の殿は、犬江親兵衛の祖母妙真をここにとどめ扶持(ふち)をあたえよ、と命じ、下女三人もつけた。さらに親兵衛の生存をたしかめ、信乃(しの)・現八(げんぱち)・小文吾・荘助の四犬士をつれてまいれ、と蜑崎十一郎に命じた。これには家来数人もともなわせた。文五兵衛は、神余(じんよ)の忠臣那古七郎由武(なこしちろうよしたけ)の弟なので、妙真とともにここでまて、との沙汰(さた)でもあった。
文五兵衛は、行徳の家屋敷を売り、百五十両を手にした。そのうち百両をのこし、二十両は三世の父母、房八(ふさはち)・沼藺(ぬい)の供養にと近い寺でらにおさめ、三十両は行徳の貧しい人びとにおくった。
そののち文五兵衛は、日ごろの疲れがでたのか、床(とこ)にふすことがおおくなった。依介は、その知らせをきいて安房にいき、文五兵衛とあった。文五兵衛は、小文吾と孫親兵衛の消息のわからぬまま死ぬのはこころのこりだが、と金をだし、このうち十両は依介にあたえ、あまりは小文吾にわたしてくれ、という。そして、その二月の十五日に絶命した。
葬式のすんだあと、依介が市川にもどろうとすると、妙真は、姪女(めいむすめ)の水澪(みお)が船橋にいるので、それを女房に、と世話した。
依介は、水澪を小文吾にあわせた。そして水澪に文五兵衛からあずかった金子(きんす)を持参させ、小文吾にわたした。小文吾は、
「里見どのからおくられた砂金は、まだじゅうぶんある。だが、親の形見ゆえ、うけとろう。このうち十両は、依介にあたえられたのであろう。手つかずとは律義(りちぎ)だ」と、十両にまた十両をくわえ、
「この十両は親から、もう十両は隅田川でたすけてもらったわたしからのもの」という。
小文吾は文五兵衛の喪(も)に服し、そのまま逗留(とうりゅう)した。それから行徳の香華院(こうげいん)におもむき、住持(じゅうじ)に菩提のためと布施(ふせ)をした。石塔もたてられた。小文吾は依介に、
「妙真とあったら、わたしも変わりないゆえ、親兵衛にも変わりはあるまい、八人の犬士がめぐりあった日に見参(げんざん)する、自愛してまってほしい、とつたえてくれ」といい、ゆくえもさだめぬ旅に出立(しゅったつ)していった。
依介夫婦はとめきれず、里のはずれまで見おくった。

第五十九回 赤岩庚申山(あかいわこうしんやま)……現八の遍歴

犬田小文吾は依介(よりすけ)夫婦とわかれ、市川から行徳(ぎょうとく)にきた。両親に暇(いとま)ごいをすべく、菩提所の香華院(こうげいん)にきて、石塔に回向(えこう)した。やや身をおこして、
「犬山・犬塚さんのあとを追って信濃路へはしろうとおもったが、曳手(ひくて)と単節(ひとよ)にあおうと、一人東(あずま)にかえってから、一年にもなった。四犬士をどうたずねたらよいものか。曳手らの生死もわからぬありさまだ。また隅田(すみだ)の川でわかれた犬坂毛野は、犬坂とあるからには同因同果の犬士ではなかったろうか」と思案した。
犬坂は鎌倉の地でそだち、母の墓もあるときく。あのおりひそかに鎌倉にたちもどったのではないか、といそがしく寺門をでて、鎌倉にむかった。
つぎの日の七つ(午後四時)ごろ、鎌倉につき、米町の旅篭(はたご)に草鞋(わらじ)をといた。逗留(とうりゅう)しながら、毎日、茶店や尻掛酒屋(しりかけさかや)などで、それとなくたずねた。だが、はっきりとはしない。ある一人の老人が、旦開野(あさけの)は、人を殺して武蔵の石浜から逐電(ちくでん)した。石浜の千葉家と管領家は親密なので、旦開野は、この地にもどることが危険だとさっしたのではないか。おまえさんもここにいると、同類とおもわれるぞ、という。
小文吾は、それなら鎌倉を去り、日本国じゅうをさがしまわろう、とこころにさだめた。

話はかわる。
犬飼現八信道(いぬかいげんぱちのぶみち)は、去年の七月七日、荒芽山中で、おいかけてくる敵をふせぎ、犬山道節・犬塚信乃・犬川荘助らと別れ別れになってしまった。現八はおもう。「われらはいくたびも必死の厄難にあった。神明仏陀(しんめいぶつだ)の守護か、また瑞玉(ずいぎょく)の奇特によるものか、この身にかわりがないので、ほかの犬士もうたれることはあるまい。犬田さんも行徳に、曳手(ひくて)・単節(ひとよ)をともなってもどっているかもしれない。まず行徳をたずねよう」と、その月の二十三、四日に行徳についた。
よく知っている古那屋(こなや)にきたものの、空家になっている。人にきくと、小文吾はかえらず、文五兵衛も安房にいったという。現八は、
「それなら古那屋の縁者、市川の犬江屋はかわりはないか?」ときいてみた。その近所の人は首をふり、
「いや、犬江屋の房八夫婦はなくなり、その子も神(かみ)隠(かく)しにあったそうです。で、妙真さんのなげきは深く、安房に身をよせているとききます」とこたえた。
現八は、
「それにしても、小文吾さんはどうされたのか。曳手・単節も、どうしたのか。ここは敵の地だ。武蔵までひとまず去るか」と、行徳から舟で江戸におもむき、それから信濃路をへて、京(みやこ)にはいった。名所古跡をたずねたが、応仁(おうにん)以来の兵火で荒涼としている。
現八はその京の地で武芸の指南所をひらいた。入門するものもあって、三年もとどまった。そのあいだに、親兵衛をさがしに大和(やまと)地方をまわった。
文明十二年(この年は、小文吾が市川から鎌倉におもむいた翌年にあたる)の七月のこと、現八は犬士たちの姿を夢に見た。そして親兵衛のゆくえをさがそうと近江路(おうみじ)・中山道(なかせんどう)を東にくだることにした。
日をへて現八は、荒芽山のふもとにたどりついた。姥雪(おばゆき)夫婦のあとをとむらうことにしたのだ。そのあたりは草がしげり、人がすめるものではない。
現八は逢坂(おうさか)までもどり、高崎川をわたり前橋・大胡(おおご)・室(むろ)・深津(ふかつ)・花輪(はなわ)・沢入(そおり)(原文は梅雨入(ついり))の里をすぎ、下野国真壁郡(しもつけのくにまかべのこおり)網苧(あしお)の里についた。そのはずれの茶店にたちよった。壁に一挺(ちょう)の鉄砲と、六、七張(はり)の半弓がかけてある。茶店の老人のさしだす茶をすすりながら、「老人。この弓・鉄砲は、なんのためにあるのだ?」ととうた。
老人は、「ほう、まだごぞんじないので……。ここから五、六里ばかりの庚申山(こうしんやま)までは、人里がなく……」とかたりだす。その山道には山賊がおり、旅人からはぎとり、また猛獣(もうじゅう)・妖怪変化に、いのちをとられるものが年に三人、四人もいる。一人旅は危険なので、里人の案内か、弓矢をもっていくかであるという。
現八は、「わたしは美濃・信濃の深山路(みやまじ)を行き来したが、案内もたのまず、弓矢をもったこともない」とわらっていう。茶店の老人足緒(あしお)の鵙平(もずへい)は、
「それは、おまえさまが他郷の旅人だからです……」と長ものがたりをはじめる。

赤岩(あかいわ)庚申山には石門がある。これを胎内くぐりとよぶ。その広さは方十間(けん)。ここからすすむと、左右にそれぞれ五、六丈(じょう)の大石がある。かたちは仁王(におう)のようだ。この奥には、おそれて誰もいかない。
近くにすむ赤岩一角武遠(あかいわいっかくたけとお)という武芸者が、一人で奥にはいったものの、かえってこない。で、門人・里人が、入口までさがしにいき、むなしくもどろうとした。
そのとき門人・里人は、うしろで一角の声をきき、ふりかえった。赤岩一角が微笑しながら立っているのだ。一角は奥の院のありさまをかたった。
前面に三つの岩室がある。中は□(けた)、左は△(さんかく)、右は○(まる)のかたちだ。これは、天地人の三才にかたどったものか。その岩口の広さはそれぞれ八、九尺はある。稚日(わかひるめの)霊貴(むち)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・猿田彦(さるたひこ)の三神の鎮座(ちんざ)の旧跡だろう。また神前には石猿が三つならんでいる。見猿(みざる)・言わ猿・聞か猿である。庚申山の名の由来は、ここからおこったのかもしれない。
一角は途中、岩のきれめから足をすべらし、数十尋(ひろ)の谷底におちた。で、かろうじて藤蔓(ふじづる)によじのぼり、半日で山道に出ることができた。

「これは寛正五年の冬十月のことですから、十七年のむかしになります。そののちは、登山するものはたえてありません」と鵙平はいう。
この赤岩一角には前後三人の妻がいた。第一の妻は正香(まさか)という賢女で、信心深かった。この正香は角太郎をうんだが、正香は早死した。角太郎が四つか五つのときである。その夏、後妻に美人としてきこえた窓井(まどい)という女をもらった。一角が庚申山にのぼるというのを、とめもしなかった女だ。窓井は、その十一月にみごもり、つぎの年の八月に男の子をうんだ。牙二郎(がじろう)と名づけた。それからのち一角は、前妻との子角太郎をきらい、憎しみさえもち、虐待(ぎゃくたい)しつづけた。里人はそれをいたましくおもった。
この赤岩の近くの犬邨(いぬむら)という地に、一人の郷士がすんでいた。姓は犬村、名は儀清(のりきよ)、俗名は蟹守(かもり)という。これは、前妻正香の兄で、角太郎には外伯父(おおじ)である。
犬村には女児一人しかいなかったので、角太郎を六歳のときひきとって養育した。角太郎に手習い・読書はむろん、武芸を朝夕おしえた。十五、六歳には、すでに奥義(おうぎ)をきわめていた。十八歳のとき、十六歳の雛(ひな)衣(ぎぬ)と婚礼させた。つぎの年の秋に、犬村の妻女がなくなり、二年のちの春、犬村も病死した。
いっぽう、赤岩一角の後妻窓井も頓死(とんし)し、一角はつぎつぎと妾をいれたが長くつづかず、流れてきた船虫(ふなむし)を妻として、二年がすぎた。船虫は、犬村角太郎夫婦に遺産があるときき、角太郎夫婦を同居させた。雛衣がみごもると、難癖(なんくせ)をつけてこれを去らせ、のち角太郎をも離籍させた。これで財産を手にいれた……。
茶店の鵙平の話は、やっとおわった。
「その角太郎さんは、返璧(たまがえし)という地の草庵にすんでいなさるということです。長話をして、足をとめさせてしまいました」

第六十回 妖怪変化……赤岩一角(あかいわいっかく)の幽霊

鵙平(もずへい)の長ものがたりをききおわると、犬飼現八(いぬかいげんぱち)は、
「世にはさまざまなことがあるものだ。えがたい孝子をもちながら、そのようにいつくしみのない親もいるものよ。それにしても、その角太郎という人が世をすてて、菩提(ぼだい)の道はいろうとするのはおしい」といい、弓矢を買いもとめて茶店を立ち去った。
山道を二里あまりたどり、峠をさしていそいだが、九月初旬のことなので日影が短く、日がおちはじめた。
「ふもと村にはつかず、シカの声ばかりする。まよいいったのかもしれぬ」と、さらに幾十町もいくと、思いがけず大きな石門のあたりにきた。月の光で見ると、鵙平のいった庚申山にあるという胎内くぐりに似ている。現八は、この岩窟(いわむろ)で夜をあかすことにきめた。
月がかくれて、闇夜となった。しばらくすると、星が出た。現八は、星を見あげて、丑(うし)三つ(午前二時)ごろと判断した。
そのとき、東のほうから螢火(ほたるび)のような光が、ちらちらと三つほど、こっちにやってくる。現八は、
「あれは鬼火か、天狗火(てんぐび)か」と、弓矢を手に木かげにかくれた。
火はちかづくにつれ、たいまつのようにおおきな火となる。現八はまたたきもせず、その火を見つめた。そして、それが妖怪の二つの眼(まなこ)と知った。面(つら)はトラのように、口は左右の耳までさけて、鮮血をそそいだ盆(ぼん)よりも赤く、その牙(きば)は真白で、剣(つるぎ)をさかさにうえたようだ。また幾千本のひげは、雪にとざされたヤナギの糸が、風にみだれてそよいでいるのに似ている。そのかたちは人とことなってはいない。腰には二振(ふたふり)の太刀を横たえ、栗毛の馬にのっている。その馬も異形(いぎょう)で、全身すべて枯れ木のようだ。ところどころ苔(こけ)がはえ、四足は木の枝のようで、尾はススキに似ている。
左右には若党が二人したがっている。一人の面は藍(あい)より青く、一人は赭石(しゃせき)に似て、頭髪も赤く、絵の諸天にそっくりだ。
この妖怪主従は、しずかに馬をすすませながら、はなしあい、高くわらったりなどして、胎内くぐりのほうにくる。現八はこれを見さだめて、
「馬上のものは妖怪王(ばけもののおう)だろう。あいつを射おとせばほかは逃げるだろう」と、木にするすると猿のようにのぼり、枝に足をふみとどめ、妖怪めがけて矢をはなった。
矢は、妖怪の左の目を射た。あっとさけび、馬から落ちた。一人の妖怪は、手負いの手をとり肩にひっかけ、一人は馬をひいて逃亡した。
「妖怪は不意をうたれ逃げたが、あの一矢では死ぬことはあるまい。あるいは眷属同類(けんぞくどうるい)をあつめてふたたび来たなら、ふせぎがたい。場所をかえて、どうするか見ていよう」とおもい、弓に一矢をたずさえて、胎内くぐりの西のほうにぬけて、ふりかえった。月は出ていないが、星の光は増しておぼろ夜よりは明るい。すすんでいくと、鵙平のいったように、二間(けん)あまりの石橋、裏見の滝、庚申の文字名、第二の石門、灯篭石(とうろういし)・釣鐘石(つりがねいし)が、はるかに見える。十二、三間の石橋をわたって、またのぼると、ゆくてに岩窟数か所がある。
「ここから奥の院までは、遠くあるまい」とさらにすすむと、岩窟のなかに火をたいている人がいる。現八は、妖怪かと弓をしぼる。
そのとき、とても細い声で、
「わたしをあやしみなさるな。わたしは妖怪ではない。あなたはこよい、わが仇をうってくださった。その礼をいおうとまっていたのだ。火にあたりなされ」という。現八は、
「浮世を遠くはなれた深山幽谷(しんざんゆうこく)。人のすむところではないのに、妖怪ではないというのか。それなら、なにものだ?」ととうた。その男は、
「わたしがここにすむのは、わが子さえも知らないわけがある。それは、ひとくちではかたれぬ。まげて、ここまできてほしい」といった。現八の疑いはとけないが、「おそれた、とおもわれてはならぬ」とうなずき、弓矢をすて、その男のそばによると、男は、
「あなたのふところには、瑞玉(ずいぎょく)がある。わたしには、はばかるところがあるのでふれることはできない。ここでは、何ももてなしはできないが、火にあたりなされ。夜寒(よさむ)をしのぐことはできよう」と柴(しば)をおってたき、シイの実をすすめた。
この男は、歳は三十(みそじ)あまり、やせて顔色はあおく、衣服は海松(みる)のようにやぶれ、小袖(こそで)ひとつをきて、この世の人とはおもわれない。現八は小膝(こひざ)をすすめて、
「あなたは、わたしが射た妖怪を仇といったが、あれはなんの化物(ばけもの)で、あなたはどのような人か」ととうと、その男は嘆息し、ことばをあらためて、
「いまから十七年もむかしのことです。長ものがたりになりますが、おききください」とかたりだす。

現八が射たのは、この山にすむヤマネコで、すでに数百年の星霜(せいそう)をへて、その大きさは子ウシにひとしく、たけだけしいことはトラのようだ。神通自在(じんつうじざい)で、この地の山神、この地の地神を奴僕(ぬぼく)のようにつかった。こよいのってきた馬は、千年をへた木精(すだま)で、老樹の精(せい)の化身だ。二人の従者は、山神と土地の神だ。
さて、こうかたる男は生人(いきびと)ではなく、赤岩一角武遠(たけとお)といって、横死(おうし)した魂魄(こんぱく)がこの地にとどまる仮の姿だ。一角は郷士だが、鞍馬(くらま)八流奥義(おうぎ)をきわめて、門弟もおおかった。
ある日、奥の院を見ようと石橋をわたり、この岩窟までたどってきた。いきなり風がふいてきて、砂で目がやられたので、弓矢をすて頭をたれて目をおおった。ねらっていたヤマネコが岩窟からおどりでて、一角の背に爪(つめ)をかけ、のけざまにたおした。一角は短刀をぬき、ヤマネコの前足をきったものの浅手だ。ヤマネコは一角ののどにくらいつき、一角は絶命した。ヤマネコはなきがらを岩窟にひきいれて、くいつくした。ヤマネコは、一角の姿に化身し、門弟の前にそ知らぬふりをして出てきた。
ヤマネコが一角に化身したのは、一角の後妻窓井(まどい)が、鄙(ひな)にはまれな美人だったので、これをおかそうとしてのしわざだった。そうとはしらず、あわれにも窓井はヤマネコを夫とおもい、夜ごと枕の数を重ね、牙二郎(がじろう)という男児をうんだ。窓井のいのちはおとろえ、三十にもならずに死んだ。それから何人も妾(めかけ)をむかえたが、淫楽(いんらく)にふけるあまり精気をすいとられて死んだり、飽きられてくいころされたりした。そのうちに、船虫(ふなむし)という妖婦がきて、ヤマネコ一角の正妻になった。
前妻の子角太郎は、ヤマネコを親としんじてしたった。牙二郎がうまれると、ヤマネコ一角は角太郎をにくみ、くいころそうとしたが、神明仏陀(しんめいぶつだ)の加護と、身にそなわる瑞玉でおかすことができなかった。それを前妻正香(まさか)の兄犬村儀清(いぬむらのりきよ)がひきとり、そだてた。角太郎は成長すると、礼儀(まさのり)と名のった。のちに儀清の娘雛衣(ひなぎぬ)と夫婦となった。
犬村家の養父母がなくなると、船虫は奸計(かんけい)をもって若夫婦を赤岩村によびよせた。この四月、雛衣がみごもると、船虫は密夫の子をみごもったといいたて、夫婦の仲をさき、さらに角太郎も追いだし、犬村家の財産を手にいれた。
角太郎は返璧(たまがえし)という地に庵(いおり)をむすんだ。里人は、角太郎に米・銭(ぜに)をおくった。犬村儀清のほどこした遺徳にむくいるためと、角太郎の孝心まごころにかんじたからだ。角太郎は読経(どきょう)・座禅・無言の行(ぎょう)を日課とした。
赤岩一角の霊魂は、
「あなたに、わが子をたすけて、仇をうっていただきたいのです」という。現八は、
「あなたが、赤岩一角さんでありましたか。里の茶店の鵙平(もずへい)から、話はきいています。それにしても、どうしてわが子の枕辺にたち、夢のなかでもしかじかとつげないのです?」
「それはおもってはいましたが、妖怪は神通力により、顔かたち、言語応答(げんぎょおうとう)、常住坐臥(じょうじゅうざが)、武芸指南の太刀筋まで、わたしとことなるところがありません。孝心の角太郎に、夢のなかでつげてもしんじないでしょう。むしろ、身に危険がせまるかもしれません。わたしは十七年間、このうらみをすてることがないので、死んでも朽ちないのです。あなたも、角太郎の庵をたずねられても、わたしのことはだまっていてください」
星が消え、東の山の端(は)がしらみかけた。
一角の霊魂は「妖怪は神通力があって、十里のほかのことを知ってしまうのです。それでは、つたないものながら、くちずさみを餞別(はなむけ)にしましょう」と、詩吟(しぎん)を朗誦(ろうしょう)する。さらに、一角の霊魂は、短刀と《どくろ》を現八にわたした。わかれをつげ、現八が岩窟を出ると、一角の姿は消えた。

第六十一回 新たな犬士……角太郎の珠(たま)

犬飼現八は、明けがたに山をくだった。赤岩一角(あかいわいっかく)の霊魂(れいこん)がおしえてくれた道をたどった。
返璧(たまがえし)の犬村角太郎礼儀(まさのり)の草庵(そうあん)についたのは、巳(み)の刻(午前十時)ごろだ。
柴垣(しばがき)の手まえから、うちのようすをうかがうと、丸木の柱、カヤの軒、二間(けん)の竹縁(ちくえん)、三尺の持仏(じぶつ)だなが見える。これより奥は見えないが、膝(ひざ)をいれるほどだ。庭の草葉に、コオロギの声がかすかにする。この庵(いおり)の主(あるじ)は、歳は二十(はたち)のうえを一つ二つこえたろう。色白く、唇紅(くちびるくれない)、眉ひいで、背丈高く、《さかやき》のあとは真黒にのび、髪は藁(わら)の元結(もとゆい)してうしろにたらしている。その姿は白河の安珍(あんちん)に似ている。身には薄鼠色(うすねずみいろ)の衣を一枚きて、黒い輪袈裟(わげさ)をかけている。都をでて嵯峨野(さがの)にかくれた滝口の時頼(ときより)の面影がある。
すみ近く経机をすえ、新藁(にいわら)の円座をしき、その上に結跏趺座(けっかふざ)して、首には菩提樹の苛高数珠(いらたかじゅず)をかけ、合掌して観念の眼(まなこ)をとじ、余念なく、口に青松葉をくわえている。これは維摩(ゆいま)の行(ぎょう)であろう。机の上には経文(きょうもん)五、六巻、ちいさな鐸(りん)一つ、相馬焼(そうまやき)の香炉がある。この人が犬村礼儀だ。現八はせわしく柴戸をたたき、
「わたしは、遠来の浪人で、犬飼現八信道(のぶみち)ともうすものです。あけてください」と案内をこうたが、返事がない。現八は、勤行(ごんぎょう)のさいちゅうと知り、まつことにした。
午(ひる)近くになった。そこへ、年若い女房がきた。美しく、品がある。現八は、うわさにきく雛衣(ひなぎぬ)とさっした。人目をしのんできたのだろう。現八は、しげるネズミモチのかげにかくれた。それを知らぬ雛衣は、柴のそとにたち、さめざめと泣いた。それから、細い腕をあげて戸をたたき、「もし、わが夫角太郎さん、ここをあけてください。きいてくださらなければ、生きてはかえるまい、とおもいさだめているのです。はやくあけてください」といっても、答えがない。雛衣が、なおせつせつとうったえてもおなじだ。死を覚悟して、雛衣は柴戸をはなれた。現八は、淵(ふち)・川などに身をなげられては、とあとをおいかけようとすると、
「犬飼さん、まってください。いま解行(かいぎょう)しました。こちらへ……」と、角太郎がよびとめた。
現八はためらったが、角太郎のすすめで客座にすわった。そして修行の旅の途中たちよったが、自分には異姓の兄弟が五、六人あるといった。
角太郎は、来訪をよろこび、
「ゆうべの夢に、どこからともなく大きな犬が七ひきあらわれました。その一ぴきがわたしのところに走ってきましたので、だきあげますと、わたしもたちまち犬に化身したのです。そこで目がさめました。異姓の兄弟が五、六人あるそうですが、その人びとの名をきかせてください」といった。
現八は、犬塚信乃戌孝(いぬづかしのもりたか)・犬川荘助義任(いぬかわそうすけよしとう)・犬山道節(いぬやまどうせつ)忠与(ただとも)・犬田小文吾悌順(いぬたこぶんごやすより)・犬江親兵衛仁(いぬえしんべえまさし)、それに自分、ほかに二人いるはずだ、とこたえた。
角太郎はおどろき、自分も犬村姓だという。現八は、
「で、犬村さんは珠をおもちですか。それには礼(れい)の字があるはずですが……」ととうた。角太郎はさらにおどろき、生母正香(まさか)が加賀の白山権現(はくさんごんげん)からまもり袋をこうたとき、そのなかにおさまっていた、という。雛衣が腹痛をおこしたおり、角太郎が珠をひたして、水をのませようとしたら、継母船虫(ふなむし)に見つかりそうになり、雛衣があわてて、水もろとも珠をのみこんだ。腹痛はおさまったが、珠はおりず、それから月経がとまり、腹がふくらみはじめた。角太郎とは、このところまじわりはない。船虫は密夫の胤(たね)とさわぎだし、雛衣を離別した、ともいう。
二人の話は、つきない。そこへ女駕篭(おんなかご)と辻駕篭がとまった。女駕籠からおりてきたのは、ヤマネコ一角の女房船虫である。

第六十二回 奸計(かんけい)と遠謀……雛衣(ひなぎぬ)の復縁

犬村角太郎は船虫(ふなむし)の来訪に、
「おもいがけない母の来訪です。襖(ふすま)のむこうで、しばらく横になっていてください」という。
現八はうなずき、つぎの間(ま)に去った。
船虫は、仲人(なこうど)の氷六(ひょうろく)らとともに、縁側からはいった。角太郎は、
「これはおもいがけず、母御、よくおいでになられました。氷六おじも、どうぞ」と、上座をすすめた。
船虫は、一角が弟子どもに弓をおしえているとき、弟子のまちがいで左の目をきずつけられたので、日の出の神社にもうで、その帰途、氷六とあったのできた、という。氷六も、一角は片目がきずついたが、いのちにはさわらない。それどころか、雛衣(ひなぎぬ)が犬村川の橋から身をなげようとしたので、やっとひきとめてつれてきた、という。船虫は、
生(な)さぬ親は悪ものと他人からはいわれるが、わたしはよく思われようとするためではない。かわいそうなのは雛衣だ。なんとかもとの鞘(さや)におさめたいとおもい、おまえへの手みやげと辻駕篭(つじかご)をやとい連れてきた。うけとってくれるなら、父御(ててご)の機嫌のよいとき、わびの手だてもあろう。まげてひきうけなされ」といった。
角太郎は、
「親から勘当(かんどう)された身で、離別した妻をむかえるわけにはいきません」とことわると、船虫は、
「それはもっともだが、病い平癒(へいゆ)の加持祈祷(かじきとう)も、慈悲善根(じひぜんこん)にまさるものはない。雛衣をすくっても、この家にはいらなければ、仏つくって魂いれぬこととおなじだ。その功徳(くどく)をもって父御の傷がはやくなおるなら、孝行もむなしくはなりません。これは父御のため、おまえさんのためをおもえばのこと。こういってもいやか、承知するか、自分で思案なされ」といった。
角太郎は、腕ぐみをおろし、
「それが、父上の傷平癒のためなら、不本意ながらしたがいましょう」とこたえた。辻駕籠から雛衣がよびだされ、氷六は三行半(みくだりはん)をいろりになげいれた。
船虫と氷六はもどっていった。船虫の悪事は、すでに読者も承知されているはずだ。その船虫は家にもどると、ヤマネコ一角に、自分のたくらみをしかじかこうとささやいた。一角はよろこび、
「日の出の神のたすけで、そのご利益(りやく)ははやいぞ。うまくいったら、おれの傷はたちまちなおり、ものも見えるようになるだろう。うまくはかれ」という。
いっぽう、角太郎は、妻女雛衣(ひなぎぬ)を現八に紹介した。雛衣は、いそいそと夕食のしたくにかかる。現八は首をかしげ、「犬村さんの継母、船虫という人の悪いうわさをきいています。なにやら不気味です。もしわたしにまかせてくださるのなら、赤岩村にまいり、さぐってみましょう」という。
角太郎も思案していたが、
「わが父も弟も、他郷の人をうけいれません。犬飼さんにわざわいがおこっては……」というと、現八は、
「弱はよく強を制し、ヤナギの糸に雪折れなし。そこに礼をもってあたるなら、むこうも礼をもってあたるでしょう。むこうが武をもっておどかすなら、わたしも勇をもちます」といった。雛衣は、
「あそこには、玉坂飛伴太(たまさかひばんだ)・月蓑団吾(つきみのだんご)・八党東太(やっとうとうた)・切足溌太郎(きったりはったろう)などという内弟子がおります。あなどりますと、あやまちもありましょう」とおしとどめる。
現八は、「虎穴(こけつ)にいらないで、どうしてトラの子をえることができるでしょう。すぐまいります」といそぎしたくをした。
足ばやに赤岩村におもむく現八を見おくる角太郎・雛衣は、そのあつい友情をかんじつつ、戸口に立ちつくしていた。

第六十三回 坂東(ばんどう)無双……現八の武芸

犬飼現八信道が真壁郡(まかべのこおり)の赤岩の村についたのは、日が西にしずむころだ。ヤマネコの化身(けしん)、赤岩一角武遠(たけとお)の家はここか、と見ると三方は板垣(いたがき)でかこまれ、南に冠木門(かぶきもん)がある。庭のむこうに稽古所らしい建物があり、木刀の音がする。現八は人のくるのをまった。秋の日はおちはじめた。
そこへ、一人の武士がきた。野袴(のばかま)に長い朱鞘(しゅざや)の両刀をさし、身の丈は五尺八、九寸はあろう。歳は五十(いそじ)に近い。従者は五、六人いる。そのなかの一人は長い箱をもち、また一人は槍をもっている。この武士は門からはいっていった。客であろう。
この客とは、篭山逸東太縁連(こみやまいっとうたよりつら)である。十七、八年の昔、主命をいつわり、杉戸に近い松原で、粟飯原(あいはあら)首(おおと)胤度(たねのり)主従を殺害し、《あらし山》の尺八、小篠(おざさ)・落葉の両刀を、くせものにうばわれ、そのまま逐電(ちくでん)した男だ。そののち赤岩一角をたより、弟子頭となった。
そのころ、鎌倉山内家の内管領(ないかんれい)、長尾判官景春(かげはる)は、越後・上毛(かみつけ)を手にいれ、独立するくわだてをいだいた。赤岩一角のうわさをきき、まねこうとしたが、一角はことわり、縁連(よりつら)を推挙(すいきょ)した。縁連は越後の春日山(かすがやま)におもむき、景春につかえることになった。
それから七、八年して、景春は上毛白井の城にうつった。城普請(しろぶしん)のおり、井戸から一振(ひとふり)の短刀がでてきた。景春は、この短刀の鑑定を一角にたのむため、縁連を使者としてつかわした。
この日、ヤマネコの一角は傷に白い布をまき、弟子どもの稽古をみていた。そこへ縁連の来訪がつげられた。一角は上機嫌(じょうきげん)でむかえ、目をやんでいる、という。
縁連はみまいの口上をのべ、
「井戸から、一振の短刀が出ました。長さ九寸五分、木柄(きづか)で鞘(さや)も木地です。あるいは木天蓼(またたび)でつくったものかともおもわれます。また、これは故管領の持氏朝臣(もちうじあそん)所持の《村雨》ではなかともいわれます。そこで、主命により鑑定をおねがいするためにまいりました」といって、刀の箱をひきよせた。一角はうなずき、
「それはめずらしいものだが、ききおよんでいる《村雨》とは長短がおなじではない。村雨はうちふるごとに、その切っ先から水気がとびちるという。ただ一眼での鑑定はおぼつかないが、日の暮れないうちに一見しよう。箱のふたをひらいてみせてくれ」という。
縁連がひもをとくと、白い煙のようなものがたちのぼり一角のほうにすいよせられたが、縁連は気がつかない。箱の中には袋があるだけで、短刀は消えている。
縁連の顔色は土のようになり、ぼうぜんとしている。ようやくこころをしずめて、
「先生。厳重に保管して持参しましたが、短刀が紛失しています。従者を詮議(せんぎ)することをおゆるしください」というのを、一角はおしとどめ、
「それは、しばらくまちたまえ。それでは、身のあやまちが人に知られるばかりだ。あなたはたちかえり、師の一角は眼病にてふせっており、病いがなおってから鑑定をつかまつるともうすので、一角にあずけてきた、といっておけばいいだろう。たぶん、罪はのがれることができよう。そのあいだに詮議するとよい」といった。縁連はすこしおちつき、顔色もよくなった。不安はあるが……。
やがて酒宴がもうけられた。縁連が、ふとおもいだして、門のあたりで武者修行者らしいものを見かけた、といった。で、内弟子が見にいった。
現八は、「わたしは、下総(しもふさ)浪人犬飼現八というもので、一人旅です。土地不案内なので、宿の便宜(べんぎ)を得たくぞんじまして、ここに立っていました」とつげた。
現八は、座敷に案内された。ヤマネコの一角は、
「わたしは、近ごろ病いにかかり、ふせっている。不敬は、ゆるしてくだされ。この若ものは、せがれ赤岩牙二郎(がじろう)。これなるはわたしの高弟で、長尾の家臣の篭山逸東太縁連だ」と、ほかのものどもも、一人一人ひきあわせた。
一座に酔いがまわった。
切足溌太郎(きったりはったろう)・八党東太(やっとうとうた)も、「犬飼どのは、なんのためにこの地にまいられた」ときく。牙二郎は、
「きくまでもなく、武者修行であろう」という。月蓑団吾(つきみのだんご)・玉坂飛伴太(たまさかひばんだ)はわらって、「それなら一太刀(ひとたち)おしえをうけたい」といった。
現八はさわぐ気色(けしき)もなく、
「いや。わたしは武芸はこのみますが、武者修行をするほどではない。とてもお相手にはなりません」とこたえた。みなはそれをきかず、「それは、空言(そらごと)であろう。ぜひお相手を……」といい、牙二郎までも、声をたてる。一角は、それをしかり、
「わたしが病中でなければ、一太刀こころみるのに、なにもしないではこころ残りだ。せめて、この若ものにおしえてくだされ」という。現八はうなずき、
「そこまでいわれては、わたしも両刀をおびているものとして、しかたがありません。どなたでも……」といった。となりの稽古所に、大きなろうそくを数おおくともし、用意ができた。飛伴太は柱にかけてある木刀を数本とりおろし、「おえらびなさい」という。現八は短い木刀を手に、飛伴太は長い木刀を手にした。
一角はじめ、みなが見物し、船虫も、物のすきまから勝負いかに、と見ていた。
飛伴太が、声をかけてうってくるのを、三太刀うけてさがると、飛伴太は、ここぞ、とふみいり、うってくる。それをひきはずし、左の肩先をちょうとうつ、現八のするどい太刀風に、飛伴太はのけぞりたおれた。
つぎは八党東太がたちかわり、赤ガシの木刀を、ひらめかしてうちこんでくる。現八は、六、七太刀うちあわせて、東太の右のこぶしを、しびれるほどにうった。東太の木刀は、三間(げん)ばかりはねとばされた。現八は左手で、襟髪(えりがみ)をつかんでなげとばした。東太は、しばらく立ちあがれない。
つづいて溌太郎・団吾が左右からうとうとするが、現八は右にささえ、左にはらってよせつけない。三人のかけ声、うつ太刀の音がこだまする。現八は、団吾のあばらをけり、かえす木刀で溌太郎の腰をはらう早技に、両人はいっしょにとんぼがえりして、ころんだ。
「みごとだ。まけて恥辱をのこすより、うちころされるのも勇士の本意だ。いざ、真剣で勝負をしよう。木刀をおきなされ」と、篭山縁連がせわしくいうと、現八はわらって、
「それは、あなたの勝手になさるがいい。わたしは、人を害するこころがないので木刀こそふさわしい」とおちついた胆勇(たんゆう)。憎さも憎し、と縁連が身をひねり、刀の鯉口(こいぐち)四、五寸ほどぬきかかると、そのひじをおさえた。現八の拳法(やわら)だ。しずんでふたたびひきぬく刃(やいば)を左にはらって組みついた。縁連も筋骨たくましく、身の丈六尺に近い。刀をすてておしつぶそうとする。
現八は居合(いあい)・くみうち・捕物の秘術をきわめ、坂東(ばんどう)無双(むそう)の《てだれ》なので、組んでもちっとも力がゆるまない。あくまでも相手をつかれさせ、すきをうかがい、「やっ!」と声をかけ、くちた柱をぬくように、左へねじふせてのりかかった。縁連はうごけない。
「勝負はきまった」と現八が、膝をのけ、ひきおこそうとすると、牙二郎は歯をくいしばり、刀を手に、現八をうとうとする。
一角は、「牙二郎、まて」とよびとめる。
現八は縁連をたすけおこし、
「篭山さん、どこもいたみませんか。わたしが勝ったのは、けがの功名(こうみょう)です。無礼をつかまつりました」という。縁連はいきどおりに、胸のふさがるおもいだ。
現八は溌太郎らにも、「勝負は時の運です。意に介(かい)さないでください」といった。四人はうなずくだけだ。
一角は、現八を上座にすすめて、
「おもっていたよりすぐれた犬飼さんは、むかしの八幡太郎・九郎判官でも右に出るものではない。わたしも病中でなければお相手しなければならなかったが、お相手できなかったのは幸いでした。ひそかに遺恨(いこん)をもつものはないとおもうが、あらためて一献(いっこん)くみかわしましょう。おい、銚子(ちょうし)をかえよ」と命じる。そのことばに、みな怒りをおさめて盃をまわす。船虫はため息をはき、しりぞいた。

第六十四回 鬼火の道案内……角太郎の草庵(そうあん)

犬飼現八をもてなす酒宴(しゅえん)も、夜ふけにかかった。一座のものはみなよく酒をのんだ。が、現八はあまりいける口ではない。盃を辞退したので、ヤマネコの一角もその意にまかせ、
「さぞつかれたでしょう。はやくやすまれるがいい。篭山(こみやま)は家族とおなじとおもい、牙二郎(がじろう)とともに部屋でねるがいいだろう。わしも臥房(ふしど)にはいるゆえ」という。
現八は礼をのべ、客間にしりぞいた。牙二郎は父のそばにきて、
「父上は、どうしてこころが弱くなり、わたしをとめられたのです。京(みやこ)より西は知りませんが、関東では、武芸をもって父上の右に出るものがあるとはおもわれませんのに。なぜ、あいつをほめたのです?」とうらめしそうにいう。一角はわらって、
「それは、おまえにわかるまい。おまえが手をだし、おくれをとるようなことがあったなら、わしもまた見すててはおけまい。現八をとらえても、こっちも手負いがおおいだろう。わしは感服したような《てい》をし、油断させて熟睡(じゅくすい)させ、すきをうかがい、しまつをつけるつもりなのだ。ここに気がつかぬか」といった。
縁連(よりつら)は目をみはり、
「あいつの武芸は、あなどりがたい。出口ごとに、一人二人でまちぶせすることだ」というと、飛伴太(ひばんだ)・溌太郎(はったろう)・東太(とうた)・団吾(だんご)もみなうなずく。
そこへ船虫(ふなむし)がでてきて、
「庭に縄をひきわたして、二重(ふたえ)も三重も用意をするなら、檻(おり)のなかの獣(けもの)、篭の鳥だ。逃げようとしても逃がしはしないさ」という。
牙二郎も「それなら丑(うし)三つをすぎるころ、しのびいって寝首をかくか。火事とさけんで、あわてふためくところを総がかりでうつか」といさみたつと、一角は、
「火事といってはあたりにきこえ、人びとが走ってくる。それより、あいつをかこみ、盗賊がはいった、とよびかけ、おきようとするところをうつがいい」といった。みなその言に感服した。すると、縁連は、声をひそめて、
「わたしの腹心の若党に尾江内(おえない)、下郎に墓内(はかない)というものがいます。両人とも勇気があります。これを加勢させてください。こうなればみかたが八人となり、現八をうちもらすことはありますまい。そのおりは現八の首をください。それを白井の城にもちかえり、主君長尾どのに見せます。道中の宿で、強盗数人におそわれ、太刀をうばわれました。頭(かしら)の一人をきりましたが、ほかは逃げられました。その証拠に首をもっておわびにもどりました、とつげたなら、太刀をなくしたとがめも、五十日か百日でゆるされるでしょう」という。
それから、手配(てくば)りの相談にうつった。
犬飼現八は、客間の寝床にはいり、さまざまに思案していたが、夜がふけるにつれて、まどろみかけた。すると、まもり袋のなかの信(しん)の字の珠がくだけるような音がしたので、おどろいて目をさました。行灯(あんどん)は消えている。珠はくだけてはいないようだ。夢かもしれぬ。それにしても胸さわぎがする。縁連らがおそってくる前ぶれかも、と現八は身をおこして、衣類をきて、障子(しょうじ)をあけた。前方にものがおおく並べかさねてある。
「ここから走りでるとき、つまずかせようとする気だな」とさっした。
現八はしずかにもどり、ふろしきづつみを腰につけ、大小の両刀をさし、縁側のむこうにおかれているものを、一つ、二つ、音がしないように片隅によせ、とざしてある雨戸一枚をひそかにはずして庭に出た。足をひっかけさせよう、と麻縄(あさなわ)がひきわたしてある。現八は雨戸をもとのようにしめ、木のかげに身をひそめた。
丑(うし)三つの鐘がなった。八人のものが三手にわかれてそれぞれ出口をふさぎ、声をあげる。
「盗賊だ。はやくうて!」とあいだの襖(ふすま)をけはなち、手槍の刃先で、夜具の上からつきさした。なんの手ごたえもない。
「さては、夜のもくろみをさっし、逃げたか。遠くへはいくまい」と飛びだしたが、自分たちがならべた小桶(こおけ)・すりばち・臼(うす)などにつまずき、自分の顔をきずつけたり、人の手槍をふみつけるなどし、すぐには身をおこせない。
「同志討ちをするな」と縁連もしきりにしずめようとする。そこへ船虫がきて、現八の寝床に手首をいれ、
「夜具もふとんもぬくもりがあるので、ぬけだして間(ま)がない。そこらをさがせ」という。尾江内・墓内はまっしぐらに走りでて、庭の麻縄に足をとられ、ころんだ。現八はおきようとした墓内の首をはね、尾江内の肩先から乳の下にかけて乾竹割(からたけわり)にきった。
牙二郎・飛伴太・東太・団吾・溌太郎がかけつけた。現八をとりかこんでうとうとするが、その太刀先はここにあらわれ、あっちにかくれる。飛伴太が、手槍の蛭巻(ひるまき)をきりおとされる。刀をぬこうとすると、現八にひじをきられてたおれた。溌太郎は三尺に近い刀をふりながらすすんできたが、肩先から大袈裟(おおげさ)にきられ、のけぞってたおれた。
牙二郎・東太・団吾はきりこむ気をうしない、加勢をよぶ。縁連は玄関にかけてある弓矢を手にし、縁側に立って弦音(つるおと)高く矢をはなつ。現八はこれをはらい、きりおとし、また高野槙(こうやまき)を盾(たて)にして、うしろにさがり、小門の引戸をあけてとびだし、しっかと閉めてからおおきな葛石(かつらいし)を引戸によせた。追っ手のものどもは戸をあけようとするが、あかない。
現八は、刃の血をぬぐい、鞘(さや)におさめて走りさろうとすると、明け方の天が、ふたたびくもった。そして、眼前ににわかに鬼火がもえたち、現八をみちびくようにひらりひらりとすすんだ。現八は、この火にみちびかれて返璧(たまがえし)まで走った。
牙二郎らは、なんとか戸をはずして追って出た。と、八町さきに現八の姿をみとめた。現八は、庵(いおり)のなかにはいった。牙二郎は、
「あの庵のぬしは、兄の角太郎だ。あそこにおいこめば、袋のなかのものをとるよりたやすい」とあゆみをはやめた。
草庵の角太郎・雛衣(ひなぎぬ)は現八が心配でねられず、朝をむかえた。そこへ、あわただしく現八がきた。その衣類は鮮血にまみれている。夫婦は左右から、「犬飼さん、どうなさいました?」ととう。
現八は赤岩の家での出来事をかたり、
「鬼火がもえ出てわたしをみちびいてくれましたが、夜のあけるころにきえました。ことの次第をつげようとまいりましたが、ほどなく追っ手がかかり、この庵じゅうをさがすでしょう。あなたがたご夫婦をまきぞえにしては、後悔してもおよびません。お暇(いとま)もうします」といって、立とうとすると、角太郎も雛衣もおしとどめ、
「なにをもうされます。赤岩から追っ手がきても、おめおめとわたすものですか。逃げきれないときは、ともに死ぬだけです」とことばするどくいう。
そこで現八は、ひとまず戸だなのなかにかくれることにした。
ほどなく、赤岩牙二郎・篭山(こみやま)縁連と若党どもが走ってきて、縁側に足をかけた。角太郎は、刀を腰にして、
「めずらしいな、牙二郎。篭山さんとつれだって朝はやくからきたのは、何用か?」ととうた。
牙二郎は、あざわらっていう。「勘当をうけた兄は、もう他人さ。はやく盗人(ぬすっと)をだせ」
「盗人をだせ、といわれるおぼえはない」
縁連が、主君からあずかった《村雨》が現八にぬすまれた、と口をはさむ。角太郎は、
「篭山さんの話がうそかまことかわからぬが、盗人をかくまうのは、出家でもゆるされることではない。この草庵の門にはいったとしても、ぬけ道はおおい。ほかをさがされてはどうか」といった。牙二郎、縁連は、家(や)さがしする、とふみこもうとした。
そこへ二挺(ちょう)の駕篭(かご)がとまり、中から、「牙二郎、はやまるな。逸東太もおとなげない」と声がする。一角と船虫である。
赤岩一角は朱鞘(しゅざや)の刀を手にもち、船虫は左手に小さな壷(つぼ)をだいている。ともに母屋にあがり、座についた。牙二郎と縁連は、「勘当した兄の家に、父母がそろってきたのは、なにゆえに?」
「病中の先生が、よくはるばると……」ととう。
一角は、「昨夜おそく不慮(ふりょ)の騒動があった。牙二郎が篭山とともに、くせものをおいかけているときき、病苦をおしてきたのだ。船虫と駕籠をとばしてきた。その盗人は、どうした?」ととう。牙二郎、縁連は、
「盗人は、この草庵に逃げこみました。いま、家さがししようとしていたところです」とよろこびいさんでいう。一角は嘆息して、
「盗人がここにはいった証拠でもあるのか。勘当していても、角太郎はわが子にかわりはなく、雛衣も嫁だ。この父にゆるしをえてからするのが、舎弟(おとうと)の礼だ。盗人のいるいないは、わしがきめる。篭山も、赤岩の宿所でまってくれ」といった。縁連は、
「短刀が紛失したのに、まだ盗人がとらえられない。これでは、主君のとがめにあいます。このことを……」というと、船虫は、
「それは、夫の胸三寸におさめられているので、篭山さんに悪いようにはしないでしょうよ。はやく赤岩にいき、吉報をまつことですよ」といった。縁連も、
「それでは赤岩でまちます。その件はおねがいします」と、一角夫婦・牙二郎とわかれてそとに出た。
一町ほどいくと、従者になにかささやき、縁連は一人庵のほとりにもどって、庭の袖垣(そでがき)のかげにかくれた。

第六十五回 無理難題……雛衣(ひなぎぬ)あわれ

ヤマネコの化身(けしん)赤岩一角は、角太郎夫婦をよびよせ、ため息をつきながら、
「角太郎・雛衣もきいてほしい。雛衣は離別され、角太郎も家を出た。よびもどそうとしながら日々がすぎた。船虫も、義理の子とはいえ、なげきかなしんでいた。篭山逸東太(こみやまいっとうた)らが、現八との試合にやぶれたことをうらみ、牙二郎をそそのかしてうちとろうとして、逆にきりたてられた。それにもこりず、おいかけてきたので、それを止めようと病苦をおしてきて、ここに親子の対面をすることができた。現八は、盗賊ではない。それを盗賊とよんだのは逸東太であることを、牙二郎はさとらぬらしい。逸東太のために兄に罪をきせようとした、たわけものだ。現八をかくまっても不都合などあるものか。
きのう、船虫が神詣(かみもうで)のかえりに、おまえたち夫婦をさとして、いっしょになるようはからったときき、ねむれぬほどのよろこびだった。親を親とおもってくれたなら、わしは満足だ。雛衣もそれをこころえて、夫婦あけくれむつまじく、孫をたくさんうんでくれることが孝行ぞ。この気持ちを自分でつげようとしてきた。わかってもらえるか」といった。
日ごろとはちがう父親のことばに、情(なさけ)のふかい角太郎は頭をたれ、
「このようなご慈愛(じあい)を知らなかった、不孝の罪をおゆるしください。勘当(かんどう)がとけましたなら、粉骨砕身(ふんこつさいしん)していのちのかぎりおつかえいたします。雛衣、よろこべ」と、雛衣にもいう。雛衣は、すこし頭をあげ、
「孝行らしいこともしていないのに、とがめられることもなさらず、おやさしいいつくしみのお気持ちをうかがい、そらおそろしい気がします。気づかないことは、幾度もおしかりください。水を火になせとのおおせでも、そむきはいたしません」とよろこびを顔に出していった。船虫もわらって、
「きょうという日は、わたしのねがいがかないましたよ。牙二郎も自分の非がわかったなら、きょうからこころをあらためて、家兄(あに)をうやまうのですよ。子どもではないのだから……」といいながら、ほほほ、とわらうと、牙二郎も頭をかきながら角太郎にわびた。
一角が持参した酒肴(しゅこう)がはこばれ、一家五人の宴(うたげ)がもよおされた。そのとき一角は角太郎と雛衣を見ながら、
「ことばをあらためていうのではないが、歳をとると、ものごとにこらえ性(しょう)がなくなり、むりなことをいうかもしれぬ。孝行をつくす、といまもうしたのは角太郎だ。雛衣も、親のいうことならなんでも、そむかぬだろう。それとも、そむくか、どうだ?」とわらってきいた。角太郎・雛衣は、
「それは、おっしゃるまでもないことです。むりなことをおっしゃられても、できることならなしとげたいとおもいます。どうしてそむきましょうか」と、いっしょにこたえた。一角はうなずき、
「そむかぬといった証人には、船虫・牙二郎がここにいる。それでは、ためしてみよう。秘蔵のものをくれぬか」という。角太郎は、
「わたしは世をすてた日から、金銀珠玉(きんぎんしゅぎょく)もこころにとめませんので、秘蔵のものはありません」といった。
一角は首をふり、
「いや、わしが所望しているのは、そのようなものではない。古歌にもあるが、銀(しろがね)も黄金(こがね)も玉もどんな宝よりも子宝よりたいせつなものはない。父が所望するのは、このこころだ。秘蔵といったのは、雛衣の胎内にある五か月の子のことだ。その子をとりだしてくれぬか」という。角太郎、雛衣はおどろきあきれはてて、一角の顔をながめた。船虫は持参してきた壷(つぼ)をとりあげて、犬村夫婦のあいだにおいた。一角はきっとして、
「そのわけをつぶさにいわなければ、おどろきもしよう。疑いもしよう。この所望のわけを、角太郎も嫁もきいてくれ。わしはおとといの宵、あやまって左の目をきずつけてしまったので、医師に見せた。この眼病には妙薬がある。百年間土中にうずもれた木天蓼(またたび)の粉末と、四か月以上の胎児の生胆(いきぎも)と、その母の心(しん)の臓(ぞう)の血をとり、ねりあわせて、しばしば服用されるなら、つきやぶられた目の王がふたたびもとのようになおって、ものもよく見ることができる。もし胎内の子をえることができなければ、木天蓼(またたび)の一種(ひとくさ)をのんでもたちどころに痛みがさり、七日にしてその傷がなおるだろう。ただ、ものを見ることはできぬ、といわれた。
とても得られそうにない薬なのであきらめていたが、きのうおもいがけず、木天蓼(またたび)が百年あまり土の中にうずもれていたとみられる良材が手にはいった。まず、こころみに粉末にして、ゆうべ服用したが、明け方には痛みをかんじず、傷もおおかたかわいた。
このようなききめがあるとすると、ほかの二種を加味して服用したなら、目ももとのようになるちがいない。親のためにはいのちをもおしまぬという孝行にあまえて、薬種の調達をたのむのだ。むかし、平貞盛(たいらのさだもり)が病いのとき、良薬にその子の嫁の胎児をもとめたためしもある。ふびんなこととはおもうが、きょうはわしの身のうえ。わしの嫁の身のうえになったとは、つらい話だ。あくまで孝行の子どもでないなら、どうして承知するだろう。ことわりはすまいと、かねてからおもっているので、ふびんでならない」と、そら涙をぬぐうまねをすると、船虫も鼻をかみ、
「のう、角太郎よ、雛衣よ。およそいのちあるもので、いのちをおしまぬものはないのに、その胎児も母も、父御(ててご)の病いの良薬になるのは、このうえもない孝行。どのような過世(すくせ)で親子とうまれ、嫁となったのだろう」と声をたてて、かきくどいた。
牙二郎も目をしばたたいて、
「母御、そう泣きなさるな。小の虫をころすとも、大の虫をたすけよという。兄も嫂(あね)もよくあきらめてよろこんでいるのに、そう泣きたてられては、こころがよわくなりますぞ」という。親子三人のそら愁嘆場(しゅうたんば)だ。
角太郎は頭をたれ、腕をくんで、しばらくだまっていたが、天をあおぎ、ため息をはき、
「ことわりきれぬ、父御のご所望。わたしの身のうえならば、おしみはしませぬが、雛衣はわたしの養家の嫡女(ちゃくじょ)、ことに義理のある妻です。それに懐胎もまださだかではなく、血塊(けっかい)の病いなら、そのききめがなく犬死となるでしょう。その話は、おゆるしください」とことわるのを、一角はきかず、目をいからし、
「そうはいわせぬぞ。角太郎。親のためには何ごとにもそむかぬ、といったことをわすれたのか」と声をあらげていう。角太郎は膝をすすめ、
「そのことは、わすれはしませぬ。きずついた目の薬に、嫁と孫とをころすなら、不仁(ふじん)といわぬ人がいましょうか。とどめるのは親のためです」というと、一角はますますいかり、
「ひとこといえばふたことかえす、したり顔。親をあざむく当座の誓いごとを、自分からやぶって妻だけをおしむなら、もう話はせぬ。良薬がありながら、左目の傷がなおらなければ、左手の敵を見ることができない。わしの武芸もおとる。長生きすれば恥もおおい。いま目の前で自殺し、おまえら夫婦が安心するようにしてやる」と襟(えり)をひらき、脇差(わきざし)の刃(やいば)をぬこうとすると、船虫と牙二郎は左右からとりすがり、脇差をうばった。
船虫はうらめしげに角太郎を見て、
「にせ孝行ははげやすく、医師にまさしく懐胎といわれたので雛衣を離別したのに、いまさら懐胎がさだかではないとは、口先ばかりだ。親を死なせても、おまえはなんともおもわないのかい」という。
牙二郎も、親孝行もその答え一つできまる、とせめたてる。角太郎は、沈黙した。雛衣はただ泣きつづけていたが、涙をおさめ、顔をあげ、
「それほどまでにおっしゃられては、わたしは、みごもっているかどうかさだかではありませんが、のがれることのできないさだめと覚悟をいたしました。ただ、夫がめでたく名をあげ、家をおこして、孝と義の人の鑑(かがみ)になってくださるなら、死んでいくわたしの幸いです。はやくころしてください」という。角太郎は、
「雛衣。とてものがれがたい命運と思うが、わたしにはなすすべがない」と、立とうともしない。雛衣は、
「母御。牙二郎どの。夫にまかせて刻(とき)がたつより、はやく手にかけて、父御の薬に用だててください」という。船虫・牙二郎はうなずき、
「ああ、みあげたおおしい孝烈(こうれつ)。とてもいたましく悲しい。わたしらが、なんで刃をもつことができようか。もし、だんなさま」と一角にきく。
一角は微笑して、
「あっぱれな孝女よ。さきにしめした短刀木天蓼(またたび)丸の鞘(さや)はくだき、粉末として服用したが、まだ刃は柄(つか)についている。この短刀をもって雛衣に自害をすすめよ。自害ならば、嫁を害するそしりもなく、妻をころすうらみもない」といって、ふところから短刀をとりだし、船虫にわたした。
船虫は、雛衣のそばにそれをおいて、
「そなたのけなげさに、だれも刃をあてることができない。で、自害をすすめよ、と父御はいわれる。こころしずかに弥陀の名号(みな)をとなえるがいい」とそら泣きする。雛衣は短刀をおしいただき、
「わたしも武士の妻。武士の女(むすめ)にうまれましたので、おくれはとらぬとおもっております。父御、母御、ご寿命(じゅみょう)ながくおられますよう。さらばです」という。
刃の光に角太郎は膝(ひざ)をむけた。涙が膝をぬらした。たがいに顔をみあわせて無言のわかれだ。一角は、「はやく、はやく」といらだつ。船虫も牙二郎も、はやく、と死出の旅をうながす。
雛衣は切っ先を乳の下に、ぐさっ、とつきたてひきはなした。鮮血が、さっとほとばしった。すると一つの霊玉(れいぎょく)が、鉄砲の火ぶたをきってはなったように、前にいる一角の胸骨(むなぼね)をうちくだいた。一角は手足をひらいてたおれた。
船虫・牙二郎は、「旦那がうたれた」「父御は息たえたが、不孝の角太郎・雛衣がしめしあわせて、親をうったのだ」ときってかかった。
角太郎は戒刀(かいとう)を鞘のままでうけながし、うちはらい、
「はやまりなさるな。親を害するものがあるものですか」ととめたが、無法の太刀風で、ふせぐだけの角太郎は、右腕のひじをちょっとばかりきずつけられた。
そのとき、戸だなの襖(ふすま)のあいだから手裏剣(しゅりけん)がとび、牙二郎の乳の下を、せなか近くまでつらぬいた。牙二郎はたおれた。戸だなをけって現八がとびおりた。
船虫はおどろきあわて、逃げようとしたが、現八は利腕(ききうで)をとり、むこうざまになげつけた。船虫は火鉢のかどに、あばらをうって灰をかぶりたおれた。角太郎はおどろき、いかり、
「無益だぞ、犬飼現八。たのみもしない助太刀をして、わたしを不孝におとしいれようとするのか」といって、戒刀をぬき、ふりあげる。現八は刃の下をくぐり、角太郎の二の腕をとらえ、ながれる鮮血を見て、いそいでふところから《どくろ》を出して受けた。
したたる鮮血は、すいこまれるようにまみれついた。一滴(てき)もこぼれない。これは親子の証明だ。
「はやまるな、犬村さん。うちたおれた一角は、まことの親ではない。この《どくろ》こそ、まことの亡父、赤岩一角武遠(たけとう)どのの白骨だ。いま骨と血と一つになったのが、なによりの証拠だ。おはなしすることがおおい。よくきかれよ」と、角太郎をつきはなした。
角太郎はあまりのふしぎさに、疑いがとけないまま、いきおいがくじけて膝をついた。「そこにたおれている父を、父ではないといわれるのですか」ととうた。
現八はため息をはき、
「世にもまれなる孝子・烈女も妖怪のためにあざむかれて、かさなる厄難(やくなん)にあわれました。雛衣さんの自害で、腹のなかからあらわれた霊玉に、にせ一角がうちたおされたのは天罰だ。あれが父でないなら、牙二郎もまた弟ではない。すなわち、妖怪の胤(たね)で、船虫は妖怪につれそうた妻というだけだ」と、現八が庚申山(こうしんやま)にはいり、一角の魂魄(こんぱく)と出あったことをかたった。そして、ヤマネコの左の目を矢で射たこともはなした。
さらに義兄弟の犬塚・犬川・犬山・犬田・犬江らの五犬士、角太郎と現八をあわせた七人が安房の里見家にかかわりがあり、そのもとは、息女伏姫(ふせひめ)と八房(やつふさ)にあるともいい、長ものがたりとなった。
「わたしはすでに、犬村さんも犬士の一人であるとわかっていたので、助太刀したのです。あのヤマネコは通力(つうりき)自由をえていても、霊玉をおそれるゆえに害することができなかったのです。わたしと試合しないのも、わたしも信(しん)の字の珠をふところにしているからです。また、縁連がはこんできた《村雨》と称する短刀は、柄も鞘も木天蓼(またたび)であったので、手にいれたのです。木天蓼は薄荷(はっか)・銅杓子(かなじゃくし)の粉とともに、ネコの妙薬です。
ヤマネコは一種の妖獣(ようじゅう)で、人家のネコとおなじではない。その大きさは小ウシとひとしく、猛(たけ)きことはトラと似ているそうです。まして数百歳をへたものは通力変化があるのでしょう。それがもろくも婦人にたおされたのは、犬村さん夫婦の孝友貞烈(こうゆうていれつ)、人にすぐれた徳とその義を、神明仏陀(しんめいぶつだ)がたすけられて、仇をかえさせてくれたのでしょう。それにしても、いたましいのは雛衣さんです。夫にそった日から非命におわるというのか、薄命というべきなのか。いま、尊父の短刀と《どくろ》とをおわたしします。おさめてください」と形見の二品をさしだした。
角太郎は夢からさめたように、二品をうけとった。手首がわななき、感涙は泉のようにわいてくる。胸をなで、悲嘆にたえないようすだ。

第六十六回 妖猫(ようびょう)のさいご……犬士角太郎

犬村角太郎は、犬飼現八の長ものがたりをしんじ、父の形見の《どくろ》、短刀をうけ、かたちをあらためて礼をのべ、仏間の襖(ふすま)をひらき、どくろをそなえ、しばらく祈念(きねん)した。
現八は、にせ一角を見て、
「犬村さん。化けネコにうらみのとどめをささなければ、蘇生(そせい)するかもしれません」という。角太郎は、
「親と似ている姿では、首をはねることはできかねます。妖怪は、すぐに本体をあらわさなくても、二十四時(とき)すてておくともとの姿にもどるといいます。それにしても、こころのこりは雛衣(ひなぎぬ)です。せめて犬死(いぬじに)でなかったことを、知らせてやりたかった」といって、雛衣のそばによる。現八も雛衣を、左右から手をいれ引きおこした。大腸(みのわた)・小腸(こわた)があふれ出た。
両人がよぶと、雛衣は息も目も細くして、
「長ものがたりを夢うつつにききました。わたしは、十九歳の厄(やく)で死んでも、夫のために功あったときき、うれしくおもいます」とそのまま息たえた。
角太郎はちからをおとし、しばらく立ちかねた。
現八はそれをなぐさめ、雛衣のなきがらをすみによせようとした。
そのとき、牙二郎(がじろう)が息をふきかえし、身をおこして手裏剣をつかみ、現八めがけてなげつけた。現八はこれをうけとめた。角太郎が、この細首をきりすてた。そのしかばねが、にせ一角の上にかさなってたおれた。そのもののひびきがつうじたか、死んだとみえた一角が、うめき声をあげた。それが家じゅうをふるわせた。にせ一角の姿は、年老(としふ)るヤマネコとなり、面部の斑毛(まだらげ)、目の光は鏡のよう。ひげは枯れ野のススキ、耳までさけた口は血をもる盆に似て、牙(きば)をならし、爪をはり、息は狭霧(さぎり)となって庵(いおり)のなかは雲のようだ。
角太郎は、こころをしずめ妖怪につめよる。現八もかまえた。死んだふりをしていた船虫は、このとき逃げだした。それをみかえるひまはない。妖怪は人語が自由で、
「おしい。われ人間にまじわって、妻に子をうませ、あまたの人にうやまわれて、快楽(けらく)に日をすごしてきたが、角太郎の秘蔵の珠が雛衣の腹にあるとは知らず、胎児をもとめて自殺せしめたが、その一事でわしはやぶれた。現八・角太郎、犬士と名のるその名のとおり、犬はわれの身の仇(あだ)だ」とたけり、飛鳥(ひちょう)のようにとびめぐる。
角太郎は、ヤマネコの腰のつがいをきりはなした。のどのあたりをさしつらぬくと、ようやく息たえた。そのヤマネコの傷口から、珠があらわれ出た。角太郎は血をぬぐい、おしいただき、現八に見せた。
篭山逸東太縁連(こみやまいっとうたよりつら)が、逃げた船虫をひきたててきた。
縁連はわびてから、粉になってしまって鞘(さや)のない木天蓼丸(またたびまる)と船虫をほしい、という。現八は赤岩・犬村の村長(むらおさ)を証人として、縁連のねがいをゆるした。
縁連は船虫をひきたてて、去っていった。縁連は犬坂毛野(いぬさかけの)の父の仇だが、二人は毛野の存在をいまは、まだ知らない。

第六十七回 もう一人の奸賊(かんぞく)……縁連(よりつら)のそのご

犬村角太郎は、父一角武遠(いっかくたけとお)の白骨を香華院(こうげいん)におくり、ねんごろにほうむった。翌日は、妻雛衣(ひなぎぬ)の棺(ひつぎ)を出した。それぞれ会葬者は、千余人もいた。父と妻の二つの石塔をたて、経文(きょうもん)をあげた。
犬飼現八は、赤岩に宿所して角太郎をなぐさめた。それから、五犬士の話をきかせた。また自分の痣(あざ)と珠を見せ、角太郎にもボタンの花に似た痣(あざ)のあることをたしかめた。
その年の十月をすぎたころ、五十日の中陰(ちゅういん)もあけたので、角太郎は赤岩・犬村の両家相伝の田畑・家倉を売り、六百五十余金を得た。このうち二百金は香華院に布施(ふせ)して死者の葬(とむら)い料とし、五十余金で返璧(たまがえし)の草庵を定念仏堂(じょうねんぶつどう)につくりかえ、篤実(とくじつ)な老僧をすまわせた。また二百金は両村の貧しい村人に、十金を雛衣が世話になったとして氷六(ひょうろく)にあたえた。のこる二百金を二つにわけて、現八と自分の路用金とした。
翌年の二月のなかばに、村の人びとをまねき、わかれの宴(うたげ)をもうけた。この席で角太郎は、いまから犬村(いぬむら)大角(だいかく)と名のることにする、といった。そうして二人は旅じたくをととのえて村を出立し、庚申山(こうしんやま)におもむいた。大角が亡父の遺跡を見たいから、という。岩窟(いわむろ)のほとりにたつと、冷たい風がふき、山気は肌にしみいるようだ。ここで、亡父の霊魂をまつった。
その日の夕方、鵙平(もずへい)の茶店についた。鵙平はこの月のはじめに死んだ、と若女房がいった。もう化物のうわさもたえ、弓矢も売れず、女でも店番ができるようになったそうな。
その夜は網苧(あしお)の旅篭(はたご)にとまった。ここから鎌倉の地にいくこととし、武者修行のものに勝負をいどまれてはならない、と身なりをかえることにした。
いっぽう、篭山逸東太縁連(こみやまいっとうたよりつら)は、船虫を駕篭(かご)にのせ、主従三、四人で白井の城にむかった。
旅篭につくごとに、自分の臥房(ふしど)の柱に船虫をつないでおいた。信濃国沓掛(くつかけ)の旅篭でもそうだ。縁連がねむれないままでいると、船虫は悲しげな声をだして、
「あなたは、わたしの幼なじみでむつまじかった夫に似ておられます。たとえ一夜(ひとよ)でもなぐさめてくだされば、よろこんで首をきられ成仏(じょうぶつ)できますのに」と泣きながらいう。
縁連は、この女はもう四十に近い歳で、さほどこころはひかれないが、すてるほどでもないので、道中妾(どうちゅうめかけ)にしても損はない、とおもった。
船虫の縄をとき、しっとりした肌をなで、その手をとって臥房のなかにともなった。
夜具のなかでどのような夢をむすんだものか。その夜はあけた。目をさました縁連が左右をみると、枕ならべたはずの船虫の姿が見えない。縁連のさわぐ声に従者たちもおきてきたが、おどろくばかりだ。明荷(あけに)をあけてみると、木天蓼(またたび)の短刀と主君からあたえられた三十金の路銀もうばいさられていた。あとを追ったが、船虫のゆくえはわからない。
旅篭で、縁連は思案した。
「短刀をうばわれたのでは、白井の城にはかえれない。鎌倉の管領扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)さまは、上毛(かみつけ)白井の城を、わが主君長尾景春(ながおかげはる)どのにせめとられたが、いまは武蔵の五十子(いさらご)の城にいるという。おれが五十子の城におもむき、定正さまに降参し、白井ぜめの案内になるようなはかりごとをもうしあげ、仕官をねがってみよう。定正さまは、もとのおれの主君千葉自胤(ちばよりたね)とみかたのあいだがらであったが、自胤はこのところ、滸我(こが)の成氏(なりうじ)とむすんでいるので、定正さまとはうまくいっていない。で、定正さまにつかえても、うしろめたさはない。このほかに、高禄をえる手だてはあるまい」と、従者とともに、五十子の城におもむいた。そして、「主人であった長尾景春をうらむことがあって、降参します」ともうしいれた。
定正ははじめうたがったが、縁連のことばのたくみさにのせられ、やがては重くもちいた。

ここで、犬塚信乃戌孝(いぬづかしのもりたか)に話はうつる。
荒芽山の厄難のとき、道節・荘助・現八・小文吾の四犬士とわかれてから信濃路から越後(えちご)にいき、陸奥・出羽とたどり、三年がたった。四年め(大角が現八とともに赤岩を出立した年)の十月のすえ、甲州に旅をかさね、ある日、巨摩郡(こまのこおり)の富野穴山(とみのあなやま)のふもとでなにものかに鉄砲で左の脇をうたれ、そのままたおれた。

第六十八回 ひろわれた赤児(あかご)……浜路(はまじ)と浜路

甲斐国(かいのくに)は、国の四方がみな山だ。で、甲斐は峡(かい)だ。犬塚信乃は富野穴山(とみのあなやま)のほとりで、鉄砲で脇をうたれたが、幸い袖(そで)の縫い目にたまは抜けた。信乃は、うったものをちかづけるために、わざとたおれてまった。
しばらくすると、四十ばかりの一人の武士が狩装束(かりしょうぞく)に行縢(むかばき)して、手に鉄砲をもち、枯尾花(かれおばな)をふみわけてきた。うしろからウサギをひきさげた従者もくる。
信乃のそばまでやってきた武士はおどろき、しばしぼうぜんとしていたが、「シカとおもって、旅人をうってしまった。いまさらしかたがない。媼内(おばない)、この旅人の両刀の表装(こしらえ)には金銀がおおく、ねうちがある。また路銀もおおいだろう。宝の山にはいりながら、手をむなしくしてかえることはない」という。
媼内とよばれた従者はわらって、
「お話、もっともです。それなら、路銀は山分けにして、てまえにもください」という。
武士は、「言うにゃおよぶ。はやくしろ」といった。
媼内が信乃の刀に手をかけてとろうとすると、信乃は腕をとらえて、なげとばした。媼内は三間ばかりさきの株にあばらをうった。武士がおどろき、鉄砲でうちたおそうと走ってくるのを、信乃は足をとばして脇腹をけった。武士は鉄砲をおとした。信乃がひろった。この主従は、信乃にこらしめられて、息もたえだえに、「ゆるしてください」という。信乃は、
「おまえらは引剥(ひきはぎ)か。シカとまちがえたのはしかたもないが、路銀や刀までねらうとはなにごとだ」といきまく。そこへ、五十ばかりの一人の老人が走り出た。裁着(たっつけ)の袴(はかま)をつけ、腰には藤柄(ふじつか)の短刀(のだち)をさしている。信乃の袂(たもと)にすがり、
「旅の人、しばらくおまちになってください。わしは当国の猿石の村長(むらおさ)で、四六城木工作(よろぎむくさく)というものです。このあたりは先祖相伝の山林なので、きこりをいれ、木をきりだすのを生業(なりわい)としています。
たまたま山からかえるときに来あわせて、ようすを知りました。ご立腹はごもっともですが、このものたちは、わしの知人の主従ですので、まげておゆるしください」といった。
うたれた主従は手足をさすりながら、面目(めんぼく)なげにひざまずいてわびた。
信乃は、ようやく怒りをとき、鉄砲をなげすて、「はやく去れ」といった。主従は、鉄砲を木工作にあずけ、また獲物(えもの)のウサギをわたして去った。
信乃もその場を去ろうとすると、木工作は、
「武者修行のおかたとおみうけいたしました。すでに日が暮れましたので、こよいはお宿をいたします。もしさしつかえございませんでしたら、お名前を……」ととうた。信乃は微笑をうかべて、
「わたしはこの国では知人がいないので、たのもしくおもわれます。わたしは武蔵浪人で、犬塚信乃戌孝(もりたか)といいます。異姓の兄弟が五人おり、ゆえあってわかれてから、すでに四年をへました。いつあえるかと旅をかさねて、この地にきました。定宿(じょうやど)などありませんので、ごやっかいになります。ところでさきほどのものは、武田家の家臣でしょうか?」とたずねた。
木工作(むくさく)は声をひそめて、
「ご賢察(けんさつ)のように、あのものは泡雪奈四郎秋実(あわゆきなしろうあきさね)といい、山林管理を職としています。さあ、夜の深まらぬうちに……」とさきに立って、木工作の家に案内した。木工作は女房夏引(なびき)や、下男出来介(できすけ)に命じ、信乃を座敷に休息させ、夜食よ、湯よ、ともてなした。
翌日、出立のつもりでいたが、雪になり、すすめられるままに日をかさねた。女房の夏引は後妻で、歳のころは三十四、五歳、顔も美しい。また十六ばかりの娘が一人いた。これも美しく、いつも奥座敷で筑紫琴(つくしごと)をひいていた。名は浜路(はまじ)という。
信乃は、おなじ名の亡妻をおもいうかべ、ため息をついた。木工作の前妻は麻苗(あさなえ)といって、四年まえになくなった。で、乳母の夏引が後妻になった。だが、いつのまにか泡雪奈四郎と密通し、浜路をじゃまにし、御殿奉公にだせと木工作にいっていた。
信乃が同居してから、夏引はおもしろくない。人目があって、奈四郎をひきいれることができないからだ。浜路をののしることがおおくなった。だが、木工作の在宅しているときは、やさしい。
信乃は出立しようとするが、木工作はしきりにとめるのだ。木工作には思案がある。信乃は人柄・ふるまいが人よりすぐれており、それに武芸も比類がない。信乃を国守にすすめ、また浜路とめあわせるということだ。
ある夜、信乃は『太平記』をかりて読んでいた。登場人物から、五犬士のこと、死んだ浜路のことをおもった。すると、足音がする。
「だれ?」ととうと、「浜路です」とこたえた。
信乃は、おどろきながらいう。
「そなたは、主人(あるじ)の娘か。なんで夜ふけに、一人できたのです」
「いえ、わたしは主人の娘ですが、こよいは、主人の娘ではありません。おまえさまと二世をちぎった浜路を、わすれられましたか」
「なにをいうのだ。わたしがふるさとにいたころには、浜路という名の婚約者がいたが、なくなって四年になる」とあやしんでいった。
娘は、しばらく信乃を見つめて、
「わけをお知りになられませんので、ごもっともです。わたしは円塚山の火定(かじょう)の穴にほうむられた浜路の亡霊です。この主人の娘がおなじ名で、やがておまえさまとむすばれる宿因があるので、からだをかりてもうしあげるのです。おまえさまは生涯妻をめとらぬ、といわれましたが、わたしをわすれないなら、この主人の娘をわたしとおもって縁をむすんでください」という。ことばも顔も亡妻と似ている。信乃は、
幽明(ゆうめい)のことはわからぬが、男女が夜ふけてかたるのは、ひとの疑いがかかります。はやく立ち去ってください」というと、浜路はよよと泣き、
「なぜきらわれるのです。人のかたちをかりてものいうことができたとはいえ、霊玉(れいぎょく)のために、気おくれして、おもっていることをいいかねていますのに。もうかえれとは……」といった。
このとき、襖(ふすま)がひらき、
「不義ものをみつけた。みな起きよ」とさけんだのは、女房の夏引(なびき)だ。おどろく浜路よりも、さすがにこころしずめて信乃はいった。
内儀(ないぎ)、つまらぬことをいいなさるな。娘御(むすめご)がこられたのは、不義密通のためではない」
夏引は、あざわらってさけびたてる。
「いや、親の寝息をうかがって夜ばいした娘をひきいれて、不義でないといわれるのか。みな、はやく起きよ」
そこへ部屋から寝巻(ねまき)のままで棒をもち、走ってきたのは出来介(できすけ)だ。かねてから、浜路におもいをかけている男だ。かなわぬ恋の遺恨(いこん)の返報と、「主人の秘蔵の娘をきずものにしたな」とさけぶと、「やい、まて、出来介。無礼だぞ」と木工作(むくさく)が走り出た。
木工作は夏引に、
「夜ふけに、人さわがせだ。出来介をよびおこすとは……」とたしなめ、浜路になんの用で夜ふけにきたか、ととうた。浜路は頭をあげ、あたりを見まわして、
「どういうわけか、わたしは宵はやくからふして、熟睡(じゅくすい)していました。夢のなかで、とても美しい乙女が、枕に立ってよびさまし、こよいあなたの身をわずらわせて、犬塚さまにしかじかともうしあげてほしい、こっちへきてくださいと先に立って、ともなわれてきたのです。そのあとのことは、知りません。はじめていま、目ざめた心地がします。はずかしくおもいます」といった。
信乃は小膝(こひざ)をうち、
「それで、おもいあたることがあります」と、亡妻浜路がこの浜路のからだをかりたことをつげた。出来介・夏引はわらった。
木工作は、またたしなめ、
「犬塚さん。わたしは、うたがっていません。娘と犬塚さんの亡妻が同名のこと、また魂魄(こんぱく)が身をかりてものをいわれたこと、わしら親子には幸いです」と、長ものがたりをはじめた。
木工作は、信濃の人、蓼科太郎市(たでしなたろういち)の一人っ子である。父太郎市は井丹三直秀(いのたんぞうなおひで)につかえたが、直秀は春王・安王の両公達(きんだち)にみかたし、結城(ゆうき)の城にこもった。嘉吉(かきつ)元年(一四四一年)四月の落城で討死。このとき太郎市も深手をうけ、信濃にもどり、直秀のさいごをつたえ、みずからも切腹してはてた。
木工作は幼く、母も病死した。で、この地の外伯父(おおじ)をたよって身をよせた。外伯父には麻苗(あさなえ)という娘がおり、成人すると、木工作は婿養子となった。外伯父がなくなると、木工作は村長(むらおさ)の地位についた。木工作は、鳥獣(とりけもの)うちをこのんだ。四十にちかくなるまで、子がなかった。麻苗は、よく殺生(せっしょう)をやめてほしいといった。
ある日、黒駒(くろこま)のあたりにワシうちにいった。すると、木のこずえで赤児(あかご)のなく声がした。ワシにさらわれてきたらしい。だきおろしてみると、貴人の息女か、笹(ささ)竜胆(りんどう)の紋(もん)をつけた袿(うちぎ)の袖長(そでなが)をきて、下には緋(ひ)の衣をかさねている。家につれもどり、麻苗につげた。麻苗は、さずかりものよ、これからは狩はやめてほしい、という。そこで狩をやめてそだてた。
赤児には、はじめ餌漏(えもり)と名づけたが、よべどもこたえなかった。この村から一里ほどの地に浜路という市場があり、下女たちがかわす話のなかでよく浜路、浜路と市場の名をいった。そのたびごとに赤児はわらった。もとの名は浜路といったものとおもい、そうよぶことにした。
六、七歳ころから手習い・縫事(ぬいごと)はむろん、書をよむこと、琴をひくことも師をまねいてならわせた。麻苗が四年まえになくなり、乳母の夏引を後妻としてむかえた。犬塚さんの婚約者とわが娘はおなじ名で、その亡魂が娘について、ものをいわれたことは因縁でありましょう。これで浜路との婚儀がととのえば、わしののぞみはたっせられる、と。
長ものがたりはおわる。冬の短夜はあけはじめた。

第六十九回 横恋慕(よこれんぼ)……奈四郎(なしろう)のたくらみ

信乃は、主人(あるじ)木工作(むくさく)の話をきき、感嘆して、
「一樹のかげ、一河(が)の流れも縁がなければよりがたいものです。井丹三直秀(いのたんぞうなおひで)どのにつかえられた蓼科太郎(たでしなたろう)市(いち)のご子息でしたか。わたしの母は手束(たつか)といって、直秀の娘なのです」と、信乃は自分の身のうえをかたる。
信乃の祖父、大塚匠作三戌(おおつかしょうさくみつもり)は直秀と結城に篭城のおり、子どもどうしを夫婦にしようと約束した。それははたされず、匠作も直秀も討死(うちじに)した。それがしかじかのことで、匠作の子番作(ばんさく)と直秀の娘が夫婦となり、信乃がうまれた。信乃が幼いころ、両親から、直秀討死のありさまをつげにきた郎党の話をきいた記憶がある。それがはっきりとわかった、ともいう。
木工作はおどろき、それなら犬塚(いぬづか)さんは主家筋にあたる、といった。夏引(なびき)と出来介(できすけ)は、ぼうぜんとするばかりだ。
しばらくして、信乃がいった。
四六城(よろぎ)のおやじさん。親の匠作よりおとるわたしを、娘御と夫婦にするということをことわるのではないのですが、わたしには生死をちぎりました異姓の兄弟がおります。この人びとのゆくえが不明のまま妻をむかえること、また仕官することは、不義となります。時をおまちください」
木工作は、それではせめて春まで逗留(とうりゅう)してほしい、といった。信乃は、このもうしいれは承知した。木工作は、あらためて信乃に浜路をひきあわせた。夜明けは間近い。
自分の部屋にもどった木工作は、一人で思案した。犬塚信乃をこの地に長くとどめる手だてとしては、国守に仕官させることだ。それには、泡雪奈四郎(あわゆきなしろう)に仲介させるのがいい。まず信乃と奈四郎とを和睦(わぼく)させなければならぬ、と。
翌日、木工作は奈四郎の家におもむき、旅人は主家筋の犬塚信乃戌孝といって、武蔵国の住人で、いまも逗留している。これからのちは昵懇(じっこん)にねがいたいので、席をもうけたい、といった。奈四郎は、内心不満だ。その席でたえがたいことがおきたなら、信乃と木工作一家をみなごろしにしてやる、とおもった。だが、うわべは、「いつもながらのあなたの親切、おまねきをうけましょう。犬塚さんとあなたが旧縁あることをきき、逗留はうれしくおもいます。犬塚さんにこのよしをおつたえください」とこたえた。
木工作はよろこび、あす未(ひつじ)の刻(午後二時)を約してもどった。次の日、泡雪奈四郎は媼内(おばない)・カヤ内(ない)の両人をしたがえて木工作の家をたずねた。木工作はみずから出むかえて客間に案内した。夏引(なびき)も酌(しゃく)をしてまわった。信乃も袴(はかま)をつけ、村雨を腰にし、奈四郎と対面した。信乃は下座にすわった。盃(さかずき)をかさねて、四方山(よもやま)話となった。信乃はことばが少なく、過日のことにはふれず、奈四郎の顔をたてた。奈四郎もこころがとけた。冬の日のおちるのは早い。木工作は夜の膳(ぜん)をすすめた。
しばらくして、奈四郎が手洗いに立つと、夏引が案内し、犬塚の亡妻のことをそっとつげた。木工作は信乃を婿とするつもりだ、といい、さらにいう。
「浜路が家にいるだけでも、おまえさんとあうのにじゃまなのに、信乃が婿になったら、あえなくなりますよ。浜路を遠ざけ、信乃を立ちのかせるにはどうしたらいいかね」
「すると、犬塚はおれの仇だ。逗留をすすめる木工作もうらめしい。しばらくまて」と、奈四郎は信乃を闇討(やみう)ちする、と手だてをいった。
二更(にこう)(午後十時)の鐘がなった。奈四郎は、そ知らぬ顔で礼をいい、かえっていった。木工作・夏引・信乃は門の端近く見おくった。
それから四日め。奈四郎は、カヤ内を使者として木工作の家におもむかせた。先日の饗応(きょうおう)の礼もしたいし、公私の用があるゆえ、あす対面したい、という文面である。木工作は承知した、とつげた。そのことを、夏引にもいった。
つぎの日、木工作はしたくをととのえ、奈四郎の家に出むいた。奈四郎は自分の座敷とおし、すでに用意されている酒肴(さけさかな)をすすめた。媼内・カヤ内が、接待役をつとめた。盃をかさねると、奈四郎は二人をさがらせ、木工作と膝をあわせるようにしていう。
「きょう来てもらったのはめでたい話です。御曹子(おんぞうし)信綱君(のぶつなぎみ)(武田信昌の嫡子(ちゃくし)。信虎の父にあたる)には、いまだお子さまがおられません。それで、容姿美しく素性(すじょう)のいやしからぬものの娘を、側女(そばめ)にさしだすよう、との密諚(みつじょう)をうけました」
で、奈四郎は浜路がもっともそれにふさわしいとしんじて、もうしあげたところ、すぐ浜路をつれてまいれ、との命(めい)をうけた。はやく浜路にしたくさせてここにともなってこい、というのだ。
木工作は吐息(といき)をつき、あきれ、
「浜路は、主家筋の犬塚信乃と婚約がととのっているので、その儀はうけかねます」とこたえた。奈四郎はいかり、声をあらげて、
「犬塚は他郷のもの、口約束の縁談などでもうしわけになるものか。いまさらことわったら、おまえら一家ばかりでなく、おれの罪ものがれることはできぬ。よく思案して返事をしろ」といい、顔に朱をそそぎ、刀をひねり、おどしつづけた。
木工作はひるむことなく、
「どのようにもうされようが、親のゆるさぬ一人娘を、わけなく側女に召されるとは理不尽(りふじん)というほかない。武芸の達人、無双の知者犬塚信乃さんをすすめ、ご家臣に召されるようになされてください。そのほうが国守のお役にたちましょう。このほかに、もうしのべる答えはありません。お暇(いとま)します」と座をたち、襖(ふすま)をひらき、そとに出ようとした。ふだんにはない、あらあらしさだ。
奈四郎の怒りはあふれ、はらわたはもえ、顔色はやけるよう。柱にかけてある鉄砲をとり、たまをこめて、火縄(ひなわ)の頭に火を点じて、木工作を追った。
一町ばかりさきで、木工作の姿を見つけた。奈四郎は鉄砲をうった。木工作は苦痛の声とともにたおれた。この物音に媼内(おばない)らが走りきた。奈四郎は、
「百姓の過言(かごん)をおまえらもきいたろう。とても生かしてはかえせぬ。このしかばねを、はやくしまつしておけ」と命じた。媼内らはなきがらを宙につるし、奥庭の木かげにかくした。

第七十回 指月院(しげついん)の密談……木工作(むくさく)のしかばね

泡雪奈四郎が、木工作をうちころしたのは七つさがり(午後四時)である。往来するものもなく、このことが露見(ろけん)する心配はない。
猿石村の四六城木工作(よろぎもくさく)の家では、夜がふけても主人(あるじ)がもどらないので、ことに浜路はあんじてねむれない。
夜があけた。まだもどらぬ。夏引(なびき)も不安になり、奈四郎の家に使いをやった。そのものがもどってきて、先方を申(さる)の刻(午後四時)に辞した、そののちのことは知らぬ、とこたえた。
出来介たちやとい人が、山などにさがしに出た。信乃も、村はずれまで見にいった。浜路は、どうしたらよいのでしょうか、と夏引にたずねた。信乃も、村人につげ、手わけしてさがしてもらっては、と夏引にいった。ここで、はじめて夏引もきわぎたてた。
さがしに出むいた出来介らがまだもどらぬまま、二日めの夜があけた。夏引はいらだつだけだ。ひそかに媼内(おばない)がたずねてきて、文(ふみ)一通をわたして、
「火急の密談がありますので、きょう未の刻(午後二時)ごろまでに、石禾(いさわ)(石和)の指月院(しげついん)まできてほしい、とのことです」といって、手ぬぐいでほおかぶりして去った。
夏引は、文をよみおわるとひきさいて小石をつつみ、どぶになげすてた。
昼近くなると夏引は、
「よくあたる占師(うらないし)が辻にいるそうだから、安否をたずね石禾(いさわ)の八幡宮に祈願(きがん)をかけてきますよ」と浜路にいって、出かけていった。
石禾の郷(さと)は八代郡(やしろのこおり)にある。武田大膳大夫信光(たけだだいぜんだゆうのぶみつ)以来、ここにすんだ。十世信綱(のぶつな)の代に、躑躅(つつじ)が崎にうつったという。指月院は郷はずれにある。住持が托鉢(たくはつ)に出て無住のようだ。奈四郎は、媼内とともに夏引をまった。寺男に小座敷をかりて、奈四郎と夏引は密談にはいった。奈四郎は、「木工作をうちころしたが、村長なので不安だ。で、この罪を信乃に転じようとかんがえている」とつげた。
夏引はさすがに、おそろしい、といったが、奈四郎に説得された。さらに浜路を売りとばすことまで……
それから、奈四郎持参の重箱のふたがとられて酒盛りとなった。そのあとは音がせず、あらい鼻息のみきこえた。
日がかたむきかけて、奈四郎・夏引が出てきた。まちくたびれた媼内と三人が、寺男にあいさつもせずに指月院を去った。
この寺の留守をしていたのは、寺男ばかりではない。念戌(ねんじゅ)という歳のころ十四、五の小僧が、足をいためてやすんでいた。念戌が、きくとはなしに密談をきいた。院主がもどると、それをつげた。
奈四郎主従とわかれた夏引は、そ知らぬ顔でもどり、出来介に、
「占師の話では、信乃のしわざらしいよ。あいつをみはるのさ。もし大功あったら、浜路とめあわせて、ここの家督(かとく)にしてやるよ」とささやいた。
浜路に横恋慕(よこれんぼ)する出来介は、その手にのった。
その夜はふけた。奈四郎の家来媼内、カヤ内は木工作のなきがらをはこんできて、木工作の家の背戸(せど)の近くの穴になげこみ、その上に雪をかぶせて去った。
夜があけた。出来介がおきてきて、背戸のほうにいった。南風がふき、雪がとばされ、活大根(いけだいこん)の穴のあたりから、手足が見えた。出来介がさわぎたてた。
信乃が走り出た。夏引・浜路とつづいた。
下男・下女がほりだすと、木工作のしかばねだ。人びとはあわてふためき、悲嘆にくれた。とくに浜路はしかばねにすがりつき、号泣(ごうきゅう)した。夏引は、
「なにものかにころされて、ここにうめられたのさ。この敵(かたき)に、だれかこころあたりはないか」とそらなきしながらいう。出来介は、
「灯台もと暗しといいますが、敵ならそこらへんをぶらついているかもしれません」というと、夏引は、
「出来介、かるがるしくものをいってはならぬ。まずなきがらをいれて、眼代(がんだい)さまへうったえ出よう。はやくするがいい」とさしずする。信乃も手つだって、座敷にはこんだ。夏引は、信乃と出来介に、
「これから眼代さまにまいり、夫の横死を知らせてまいります。先代はなくなられ、甘利兵衛尭元(あまりのひょうえたかもと)さまが新眼代になられたときいています。検視においでになるので、茶碗・菓子皿そのほかを用意しておいてください。蔵の二階なので、手つだってください」という。
出来介は信乃を案内し、蔵のなかにはいった。夏引は出来介をよび、そとにだし、蔵の戸をぴたりとしめた。むろん錠(じょう)をおろした。夏引は、出来介にしかじかとささやいた。出来介は信乃の部屋にいき、刀をさがした。信乃は村雨(むらさめ)を手にし、短刀の桐一文字(きりいちもんじ)を床の間にかざっておいた。出来介は、その短刀でニワトリをさしころし、そのままもとにもどした。
信乃は、蔵の二階で出来介のくるのをまったが、あまりこないので、階下におりて、戸がしめられていることに気がつき、はかられたと知った。夏引は鍵を出来介にあずけて、眼代の屋敷に出むいた。
一刻(いっこく)ほどして、八代一郡の新眼代甘利尭元(あまりたかもと)は、腹巻に野装束(のしょうぞく)して、屈強(くっきょう)の配下四、五人と、雑兵二人に釣(つり)台(だい)をつらせてきた。出来介が走りでて、地面に額(ひたい)をすりつけていう。
「てまえは、木工作の従僕(じゅうぼく)出来介でございます」
「出来介とやら、よくうけたまわれ。木工作の後家(ごけ)夏引の訴えにより、木工作のしかばねを検視し、犯人犬塚信乃ならびに密通の浜路をとらえる。なお、夏引はしばらく予(よ)の宅にとどめておいた。案内せよ」といった。木工作のなきがらを見て、「この傷口に疑いがあるが、信乃の血刀を見せよ」と下知(げち)する。
出来介は、ニワトリをさした桐一文字をさしだす。
尭元はわらって、
「出来介。木工作のおそわれたのは、四、五日まえということだが、刃(やいば)にまみれている鮮血は、まだかわいていないではないか。いぶかしいことだ。この短刀は、あずかっておく」といい、それから蔵に案内させた。戸をひらき、信乃をとらえた。だが、尭元は武士の情(なさけ)と縛縄(しばりなわ)をかけない。また浜路も女であるからと、釣台にのせた。
尭元は、日をあおぎ、「時はうつる」といい、出来介をよび、「出来介、よくきけ。木工作の傷は、刀傷ではなく、鉄砲傷だ。それから、大塚信乃の刀の血も四、五日まえのものではない。これらのことを木工作の親族・村の古老・下男・下女らにもつたえておけ」といい、一行はとぶように走り去った。

第七十一回 めぐりあい……道節(どうせつ)の奇計

甘利尭元(あまりたかもと)らを見おくった出来介は、浜路のことが気にかかる。しばらくすると、人の足音がした。人びとのさきに立って、夏引が走ってきて、
「出来介よ。訴えをきいてくだされ、尭元さまがおいでになった。はやく、おでむかえするのだ」という。
出来介は首をかしげ、
「それは合点(がてん)のいかぬことです。さきほど尭元さまは、信乃をめしとり、浜路さまを釣台に……」と、夏引は尭元の屋敷にとどめおかれているときいた、ともかたった。
夏引はいらだち、「このたわけもの。野ギツネにでもばかされたか。尭元さまが、幾人もおられるものか」と声をふるわせていうと、尭元は、
「夏引しずまれ。うろんくさいあらそい、わしがみずから糾明(きゅうめい)する。夏引・出来介をにがすな」と下知し、上座にのぼり、床几(しょうぎ)に尻をかけた。
出来介は、おそるおそるすすみ出て、
「いまから半刻ばかりまえ、甘利兵衛尭元と名のる武士が、家来四、五人と一挺(ちょう)の釣台をつるして木工作(むくさく)の検視にまいられました……」とすべてをつげた。
尭元は、
「ほう。その甘利とやらは、信乃の無実を知ってつれていったらしい。まじわりあつい友人(ともびと)かもしれぬ。まず、木工作のなきがらを検視しよう」という。
それから検視がおわると、尭元は、
「木工作の傷は、鉄砲傷だ。それに、背戸の穴になきがらをすてたのは、信乃に罪をきせようとしたものだ。夏引・出来介をきびしくうち、白状(はくじょう)させよ」と下知した。夏引・出来介の背の肉がやぶれるまで、うちつづけさせた。出来介が、夏引にたのまれたとはき、夏引は、泡雪奈四郎(あわゆきなしろう)とのはかりごとも白状におよんだ。尭元は夏引・出来介をひきたてた。
いっぽう、犬塚信乃は、甘利尭元と名のってつれだしたものが犬山道節であることを知り、おどろいたが、出来介らのてまえ、そ知らぬふりをしていた。尭元の道節一行はとぶように走り、石禾(いさわ)の指月院についた。道節は信乃に両刀をかえし、住持の座敷に案内した。
住持は、金碗入道丶大(かなまりにゅうどうちゅだい)その人ではないか。それに、蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)も姿を見せた。信乃は、まるで夢のような心地だ。そのわけをたずねた。
丶大が語りだした。
「わすれもしない四年まえ、犬塚さんは犬飼・犬田らとともに武蔵のふるさとにかえったが、約束の日になってももどらず、蜑崎さん・文五兵衛・妙真もただかえりをまっていた……」
そのあと、丶大も信乃らとあおうと、下総(しもふさ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・奥の白川とめぐり、二年(ふたとせ)ほど行脚(あんぎゃ)し、信濃路にはいった。さらにここ甲斐(かい)にはいり、指月院に同宿した。そのおり、住持の老僧からたのまれ、寺をあずかった。
それから三年たち、旅する蜑崎照文が七人の同行者とあい、指月院に案内した。蜑崎らはここを宿所とした。その年の夏、犬山道節・犬川荘助の二犬士が、ここに宿をこいにきて逗留(とうりゅう)することになった。丶大・照文らは、ここではじめて犬士のうち二人に出あった。
荘助と道節は、一年または半年ごとに、交代で遠方をめぐり、犬塚信乃・犬田小文吾・犬飼現八、そして犬江親兵衛の生死をたずねていた。指月院にのこった一人は、蜑崎照文と近隣をまわった。ことしは、犬川荘助が旅に出ていた。丶大も照文も、おとといは近村をめぐった留守のあいだ、指月院には無我六(むがろく)という寺男と、念戌(ねんじゅ)という小僧がいた。そのとき奈四郎・夏引の密会がおこなわれ、その密談を念戌がきき、それを丶大につげた。
このあとは、道節が話をついだ。道節らは、眼代(がんだい)甘利尭元の名を名のり、信乃・浜路を救出したというのだ。信乃は、荒芽山(あらめやま)でわかれてからの旅、そして木工作の家に逗留するまでの話をした。
蜑崎十一郎照文は、大八(だいはち)の親兵衛が竜巻(たつまき)で神隠しにあったことと、文五兵衛の病死をかたり、妙真は安房の里見家の世話になっている、とつげた。また妙真は、下男依介(よりすけ)に姪(めい)をとつがせ犬江屋(いぬえや)をつがせた、ともいう。
信乃は里見家の洪恩(こうおん)をかんじた。それから、大八の親兵衛の安否(あんぴ)をあんじ、文五兵衛の死をおしんだ。そして信乃は、
「このあつまりに荘助がいないのは残念ですが、ここを宿としていることがわかり、よろこばしい」といった。照文は、「そのほかにもよろこばしいことがある。それは浜路のことだ」という。

第七十二回 ワシにさらわれた姫君……武田信昌(のぶまさ)の裁き

蜑崎照文(あまざきてるふみ)は、浜路にかかわる話をはじめるまえに、ふろしきづつみをとき、七宝(しっぽう)を摺箔(すりはく)にして笹竜胆(ささりんどう)の紋(もん)のついた衣を、信乃のそばにおいた。眼代(がんだい)を演じた道節が、木工作(むくさく)の家からもってきたものだ。
信乃はその衣を手にとり、「この衣のことを、木工作からむかしがたりにきいたことがあります。そのときはまだ見なかったが、きょう見るのは奇遇(きぐう)とでもいいましょうか。蜑崎さん、実の親のさだかでない浜路のことが、わかったのですか?」ととう。
照文は微笑して、
「そのことだが、この子ども着は一布千金に価する。これがなければ丶大坊(ちゅだいぼう)もわたしも、どうしてあの浜路さんの素姓(すじょう)がわかりましょう。そもそも四六城木工作(よろぎむくさく)にやしなわれ、養女になられた浜路さんは、別人ではない。わが君、里見治部大輔(さとみじぶのだゆう)義実朝臣のご嫡男(ちゃくなん)安房守義成朝臣の第五の息女なのだ。その証拠は、幼いときに着ておられたときく七宝に笹竜胆の衣のみならず、息女のおん耳たぶに、ほくろがあったときいている。
先刻、犬山さんにともなわれてこられ、釣台(つりだい)からお出になられるとき拝見すると、まさしくそこにほくろがあった。これらのことからかんがえると、木工作の養女浜路は、応仁(おうにん)二年の秋、ワシにさらわれてゆくえ知れずになった、義成朝臣の息女で五の君とよぶ浜路姫にまちがいはない。かぞえると、十有余年のむかしがたりにもなる。浜路姫は、おん姉妹の姫たちと滝田の城中の園林(その)にあそばれたおり、おおきなワシが羽嵐(はねあらし)たかくおりてきて、姫の背を衣の上からつかみ、天空はるかにとび去ったのだ。このため、もり役は切腹しようとしたが、義成朝臣はおもいとどまらせられた。
また、姫のおん母君は義成朝臣の側女(そばめ)で、井直秀(いのなおひで)の従弟(いとこ)にあたる下河辺太郎為清(しもこうべのたろうためきよ)の娘で廬橘(はなたちばな)とよばれておられた。親の為清は、結城の合戦で直秀とともに討死した。廬橘(はなたちばな)はその年に誕生されたが、その母のふところにだかれて、流浪(るろう)のはてに、安房に漂泊(ひょうはく)なされた。
これを知るものが、義実朝臣につげた。朝臣は、母子をあわれと扶持(ふち)をたまわれた。
九年ほどして、為清の母はなくなられた。のち廬橘は義成朝臣の側女となり、その腹にうまれたのが浜路姫であられた。そして浜路姫がゆくえ知れずとなり、その悲しみに廬橘もついになくなられた。……この寺での泡雪奈四郎(あわゆきなしろう)と夏引(なびき)の密会の話に、木工作の養女の素姓、衣のことなどが出た、と念戌(ねんじゅ)からきき、犬山さんにもうちあけ、犬塚さんとともに姫上救出の手だてともなった」
照文の話はおわった。信乃はおどろき、
「まことにふしぎな因縁です。じつは、その浜路姫の生母という廬橘(はなたちばな)の父にあたる、下河辺為清の従弟、井丹三直秀(いのたんぞうなおひで)は、わたしの外祖父(おおじ)です。また、姫上を十四年養育した村長四六城木工作(よろぎむくさく)は、直秀の老党、蓼科(たでしな)太郎市の一人っ子なのです」といった。
照文・道節・丶大らも感嘆した。話は笹竜胆(ささりんどう)の紋どころにおよび、これは源氏の初祖(しょそ)六孫王(りくそんおう)(経基)以来もちいられた、などという話題になった。
丶大は話がおわると、うしろを見かえり、
「浜路姫はさきほどから、つぎの間の炉(ろ)のそばに休息されておられる。念戌・無我六(むがろく)らにいいつけ、薬湯をさしあげました。で、おちつかれたでしょう」と、いまの話を浜路につたえようとした。すでに、つぎの間で浜路はきいていたのだ。
そこで、あらためて二犬士の見参(げんざん)となった。浜路は自分の身のうえがわかったものの、なき母と養い親木工作の菩提(ぼだい)をとむらいたい、それで尼になりたい、と涙にかきくれた。
丶大・照文と二犬士は浜路をなぐさめた。また、奈四郎・夏引の密談をつたえた念戌もよばれた。丶大は、
「もし念戌がきかなければ、姫のおん素姓を知ることができなかった。念戌の《戌(じゅ)》もまた戌(いぬ)だ。やはり名は体をあらわすものだ」と、念戌をも浜路にひきあわせた。浜路は礼をいった。
「まもなく、にせ眼代を演じたことが知れて、眼代甘利尭元(あまりたかもと)とその配下がくることは必定(ひつじょう)だ。このままではいられない。蜑崎は浜路姫をともなって安房にたちさり、二犬士もこの地を去れ」と、丶大がいう。だが、だれものがれるというものがなく、結局、一同うちそろって国守(こくしゅ)の沙汰(さた)をまつことにした。
夏引・出来介をとらえてもどった甘利兵衛尭元は、翌朝、問注所(もんちゅうじょ)に出仕(しゅっし)した。国守武田信昌に、泡雪奈四(あわゆきなし)郎秋実(ろうあきさね)の悪事、木工作の横死、その後妻夏引の罪犯(ざいぼん)、下男出来介の加担などをつげ、さらに《にせ》尭元があらわれ、武蔵の旅人犬塚信乃と、木工作の養女浜路がうばわれたことも言上(ごんじょう)した。信昌は、奈四郎を捕縛(ほばく)すべし、と命じた。
尭元以下が奈四郎の家をおそうと、もぬけのからだ。
奈四郎はゆうべのうちに、媼内・カヤ内とともに武蔵をさして逃げた。明け方には、笹子峠(ささことうげ)のあたりまできた。奈四郎は、国守におさめるべき山の木の代金、三十余金をわすれてきた。で、奈四郎はカヤ内に、そのうちの十金をやるからとってきてくれといった。
カヤ内がもどると、尭元以下の捕手(とりて)がおり、たちまちとらえられた。カヤ内は奈四郎の悪事をのこらず白状した。尭元は指月院に浪人ものが逗留していることをききこみ、そのむねを信昌に言上した。信昌は、木工作を殺害し、信乃をおいつめたのは予(よ)の家臣の罪、あした鷹狩(たかがり)にことよせて指月院をたずねて、みずからとうてみる、といった。
つぎの日、武田民部大輔信昌(みんぶだゆうのぶまさ)は、指月院にたちよった。信昌は十余人の近臣と甘利兵衛尭元をしたがえ、門内にはいった。ほかの従者は門前にまたせた。
丶大は香染(こうぞめ)の法衣に黒い袈裟(けさ)をかけ、手に一枚の如(にょ)意(い)をとり、左右に犬山道節・犬塚信乃をしたがえて出むかえた。信昌は、
「当院の住持か。法風四か郡になびき、高僧とあおがれている、とかねてから聞きおよんでいる」と、鷹狩殺生(せっしょう)のおり仏地にはいったことをわび、左右のものはだれかととうた。
信乃・道節が紹介された。信昌は、にせ尭元のわけをただした。道節は、信乃・浜路の救出のためのやむをえぬ手だてであった、といい、他郷にさらず罪をつぐなうべく指月院でまっていた、と言上した。
信昌はその義と勇にかんじ、犬塚・犬山両人を家臣にしたい、という。丶大(ちゅだい)がかわって、二人にはこころざしがあるので仕官できない、とこたえた。信昌は、こころひかれながら指月院を去った。

第七十三回 闘牛……小千谷(おじや)の小文吾

国主(こくしゅ)武田信昌は城にかえり、丶大をほめ、信乃・道節は知勇すぐれた武士だ、といった。木工作の後家(ごけ)、夏引(なびき)は厳科(げんか)にすべし、といい、出来介は百たたきののち追放ときまった。浜路は照文とともに安房にかえり、信乃・道節もこの地を去ることにした。
泡雪奈四郎・媼内(おばない)は、三日めには八王子についた。カヤ内をまったが来ない。失敗したとさっした奈四郎は、八王子の旅篭(はたご)を早朝出立(しゅったつ)した。
従者の媼内は、奈四郎の懐中の路銀をねらい四谷の原にさしかかった。七つさがり(午後四時すぎ)にうしろからきりつけ、財布(さいふ)をうばい、とどめをさそうとした。ふと、人影がみえたので、血刀をぬぐい、池袋・江郷田(えごた)の方角に逃げた。
人影は、指月院を出立した浜路の一行だ。信乃がちかづくと、奈四郎は媼内とおもったか、のがしはせぬ、ときりかかってきた。信乃は、
「泡雪奈四郎」
「犬塚か」
と、顔をあわせた。信乃は刀をうばい、奈四郎の首をはねた。照文が、いう。
「浜路姫の養父木工作の仇、奈四郎をうち、うらみをかえした功は、賞賛されよう」
その夜は、四谷に宿をとり、つぎの日の巳(み)の刻(午前十時)ごろ、隅田川(すみだがわ)のほとりについた。信乃・道節は、浜路と照文らにわかれをつげて、いった。
「川を東にわたられると、下総(しもふさ)です。道中はご安心というもの。わたしどもは、ここでお暇(いとま)をいただきます。荘助(そうすけ)そのほかもあつめて、ともに安房にまいり、見参(げんざん)しましょう」
みんなは、なごりをおしんだ。照文は金百両をとりだし、これはわが主君からのたまわりものだ、といってわたした。浜路は二犬士の功をほめて、おくってくれた労をねぎらった。照文とその配下らも二犬士との再会を約した。浜路主従は渡し舟にのり、むこう岸についた。二犬士はこちらの岸で、しばらく見おくった。
そののち、浜路はぶじに安房の滝田にかえり、祖父義実と両親義成夫婦、兄妹たちとあった。木工作が信乃とめあわそうといいだしたことや、信乃の婚約者の浜路の霊魂(れいこん)のことなどは、はじらって語らなかったという。

ここで、犬坂毛野(いぬさかけの)にあおうと鎌倉におもむいた犬田小文吾悌順(やすより)に筆を転じる。
毛野のゆくえがわからず、小文吾は伊豆にいこうとして下田船(しもだぶね)にのったが暴風にあい、伊豆の大島に漂着(ひょうちゃく)した。船が破損し、修繕(しゅうぜん)に三か月かかった。出航の日、ふたたび悪風にふきながされて、三宅島(みやけじま)についた。島には一年おり、浪速(なにわ)にかえる高瀬船(たかせぶね)が難風(なんぷう)をさけようと島に入ったので、その船にのって浪速津についた。
小文吾は有馬の湯で休養したのち、奈良・堺(さかい)をたずね、つぎの年の春には北陸道(ほくりくどう)に一か年あそび、四年めの三月(浜路が安房にかえった翌年)、越後国苅羽郡(えちごのくにかりはのこおり)小千谷郷(おじやのさと)に身をよせた。旅篭(はたご)の主人鯛婿源八(たいむこげんぱち)は、小兵(こひょう)ながら相撲の大関(おおぜき)格だったこともある。いまは石亀屋(いしがめや)次団太(じだんだ)と名をあらため、旅篭をいとなんでいる。その次団太が、小文吾のからだに目をつけた。小文吾はむろん相撲ずきだ。話がはずんだ。
翌日、小文吾が出立しようとすると、次団太はひきとめ、あさって、古志郡(こしのこおり)二十か村の角突(つのづ)きという闘牛の神事があるので見物するよう、とすすめた。ことしの大ウシは、逃入村(にごろむら)の角連次(かくれんじ)・牛田村の孟右衛門(もうえもん)・虫亀村(むしかめむら)の須本太郎(すほんたろう)らが大関級だ。そのウシ飼いを力士とよび、木沢村(きさわむら)の雪車九郎(そりくろう)、荒屋村の漏右衛門(もりえもん)、逃入(にごろ)村(むら)の跣四郎(はだしろう)、小栗山村(おぐりやまむら)の毬右衛門(いがえもん)らは大力士で、ウシつかいの達人といわれている。ウシの名は、その飼い主の名をそのまま名のる《しきたり》である。
さて、角突きの当日がきた。次団太は土地の顔役でもあるのだが、若いものたちのけんかの仲裁で神事には行けなくなり、かわって相撲弟子の磯九郎(いそくろう)が小文吾の案内役をつとめることになった。
闘牛場は老若男女(ろうにゃくなんにょ)でにぎわっていた。磯九郎は花むしろをしき、小文吾を上座にすわらせると、自分もそのかたわらに尻をおろした。時刻がくると、ウシがひかれてきて勝負がはじまった。
小文吾は幾番かの闘牛を見て、「無知の畜生にも、敵により手だてがあるものだ」と感嘆した。磯九郎は、
「てまえなどは角突きを今年で三度みましたが、興のないということはありませぬ。ましてウシのぬしは、角突きの前月から、朝夕神だなに灯火(ともしび)を献(けん)じ、自分のウシの勝ちをいのるのです。勝ったなら濁酒(にごりざけ)をつくり、もちをついて、祝宴をもうけ、その村じゅうのものたちをまねいてもてなすのですよ。まけたウシは敵手(あいて)のウシをわすれず、道であっても頭(こうべ)をちぢめてたちどまり、さけるそうですよ」という。
さて、いよいよ結びの一番となる。一方は、逃入村(にごろむら)の角連次。高さ四尺六寸という黒ウシで、骨たくましくあぶらぎり、みがきたてた毛のつやはビロードのようだ。その角の長さは、するどい石剣(せっけん)にもまさる。
また一方は、虫亀村の須本太郎。高さは敵牛よりまさり、四尺七、八寸あるという。連銭葦毛(れんせんあしげ)めいたその《ぶち》はうろこに似ている。角は黒くサイのようで、かたちはホウ牛(ほうぎゅう)(ほうぎゅう。背に瘤があるウシ)、眼(まなこ)は赤銅(しゃくどう)の鈴かとあやしまれ、蹄(ひづめ)はきたえた鉄のようだ。ゾウをもたおしてしまういきおいだ。見物人たちは、おどろき見た。
須本太郎・角連次の大ウシはたがいに敵手(あいて)をきっと見て、しずかにすすみちかづいた。頭を低く背をたて、にらみあうこと半刻(はんとき)ばかり、たちまち角をつきあわせた。おしつおされつ、いどみあった。
汗がながれて四足につたわる。蹄は大地にめりこみ、眼はもえるようだ。首骨がおれるかとおもわれるばかりに組みあっては、ふりほどき、また組みあってからむ。双方の角の音はかっと音をたて三反(十七間)ばかりおされては、またおしかえすいきおいに、力士らも奔走(ほんそう)して、それぞれのウシをたすける。角連次に疲れが出てきたようだ。大力士らが声をかけた。
「はやくひきわけよ」
東西の力士数十人が走りでて、おしへだてひきわけた。角連次が逃げだした。須本太郎がそれを追った。力士らは、すかさずすがりつき、からめとろうとする。須本太郎はいかりくるい、力士たちを角につきかけ、宙になげとばし、はねたおした。力士らはおどろきさわぎ、東へなだれ、西へなびいた。
おそれた群衆は、東西に奔走、南北に逃げまよった。出茶屋・酒屋・菓子屋・そば屋の床几(しょうぎ)・よしずはふみつぶされ、肝(きも)をつぶすばかりだ。小文吾と磯九郎は、はなればなれになった。
小文吾は、松の木あたりで磯九郎をまった。
と、突然、須本太郎が、小文吾を角にかけようと走ってきた。小文吾は、ひらりとかわし、その角をしっかりととらえた。

第七十四回 峠の盗賊……磯九郎(いそくろう)受難

犬田小文吾悌順(いぬたこぶんごやすより)は、あばれウシともみあい、つかれさせた。左におし、右にねじかえした。須本太郎(すほんたろう)は、子どもがなげる小犬のように、地ひびきをたてて、どうとのぞけたおされた。見物人がおもわず、わっとほめる声がこだまし、しばらくなりやまぬ。
このとき力士らが走りかかり、ちからをあわせて、ウシの四足と睾玉(きんたま)をつかみ、牛縻(はなづる)を鼻にとおした。牛は、そのまましずまった。そこへ大力士らが、二頭のウシのぬし須本太郎・角連次を先頭に立たせ、微笑しながら出てきて、小文吾の前にひざまずき頭をたれ、
「てまえどもは、きょうのむすびの二頭のウシのぬし、虫亀村の須本太郎、逃入村(にごろむら)の角連次、大力士のなにがし、なにがし……」と名のり、小文吾を朝夷三郎(あさひなさぶろう)義秀(よしひで)・泉小二郎親衡(いずみこじろうちかひら)にも比すべき力量とほめ、名をつげるようにいった。小文吾にかわり、磯九郎がほこらしげにかたった。力士らは、けが人が出なかったお礼に、こよいの宿をしたい、ともうし出た。磯九郎も、小千谷(おじや)にかえるより、こよいはこの地にとまれ、とすすめたので、小文吾は承知した。
須本太郎の家に案内された。冠木門(かぶきもん)からはいった。主人は村の第二の長(おさ)なので、妻子がおり、下女もおおかった。すでに知らされていたので、みんなそろって出むかえた。
酒肴(さけさかな)がならべられ、盃(さかずき)をかさねた。磯九郎も末席につらなった。やがて須本太郎は、つぎの間に用意された縮麻織(ちぢみあさおり)五、六反と永楽銭(えいらくせん)十貫文をきょうのお礼に、とさしだした。小文吾はこれを辞退した。磯九郎は酒によって、もらえもらえという。小文吾は、座をさがる潮時とおもい、刀をもってたちあがった。
小文吾が去ったので、磯九郎はわめき、礼の品はおれがもらっていく、と二つつみにして天びん棒にさげ、肩にかけてよろめきながら出ていった。
小文吾は夕膳の箸(はし)をとり、主人とよもやま話をした。しばらくして主人のさそいで、またもとの座敷にきた。ここで磯九郎のことをきき、
「それは、たいへんだ。ここから小千谷(おじや)まで一里、二里ではない。まして、千隈(ちくま)の川がある。よっぱらいが銭帛(たから)をになって、一人でいってはあぶない。あれの親分、次団太(じだんだ)は侠気(おとこぎ)ある人。わたしが銭(ぜに)・品物にひかれて、この夜ふけに一人磯九郎をかえしたとおもわれてははずかしい。時間がたったが、よっているので、まだ遠くまではいっていまい。おいかけて、とどまらせよう」と立ちあがった。
須本太郎は、ほかのものたちに追わせましょう、といったが、小文吾はこよいの礼をのべ、したくをして玄関を出た。主人は男どもをよび、客人にしたがっていけ、と命じた。男ども一人二人も、一町あまりさきの小文吾を追った。
その鮫守(さめのもり)磯九郎は、酔いにまかせて、十貫の銭と五反の縮を天びん棒にかけて、よろよろと二里あまりきた。夜はもう四つ(午後十時)のころになった。品物をかついでいるので、背の汗におしながされて酔いもさめた。しばらくやすんでいこうと荷をおろし、腰の手ぬぐいで胸毛の汗をぬぐった。
と、女のさけび声がした。
「たすけてください!」
磯九郎は、「はて、狐狸(こり)か?」とつぶやくと、また女の声がする。その声は、木の下の雪穴かららしい。狩人(かりうど)らが鳥をとるとき、からだをひそませる穴だ。
女は、きょうのウシの角突きを見物してのかえり、マムシをさけようとして落ちたというのだ。磯九郎は天びん棒を穴にさしいれ、ひきあげようとした。
女は、いきなり棒をひいた。磯九郎は、はずみで穴に落ちた。女は、すかさず短刀をぬき、上にのり、磯九郎の胸をさそうとした。磯九郎は、はねかえし、短刀をうばおうとした。そこへ、一人のくせものが竹槍で右のあばらをさした。磯九郎はのけぞった。女は、短刀で幾度もつらぬいた。磯九郎は絶命した。
くせものは「船虫(ふなむし)、ようすはどうだ」と声をかけた。
女は、「上首尾、上首尾さ」と、槍にすがって穴から出た。船虫は短刀の鮮血をぬぐい、鞘(さや)におさめた。
くせものは荷をとき、「永楽十貫、縮も五反あるぜ。それに脇差(わきざし)も」といい、「船虫。このまま走れば、人があやしむ。銭はおれがせおい、縮はおまえがもて」と、二人は手ぬぐいで面(おもて)をつつみ、千隈川をさしていった。はるかに提灯(ちょうちん)の灯が見えた。
石亀屋(いしがめや)次団太だ。船虫らとすれちがった。次団太は、
「くせもの。まて!」と声をかけ、くせもののふろしきづつみをつかんだ。くせものは、次団太の急所をこぶしでうった。次団太はたおれた。
船虫が、ふりかえっていう。「あぶなかったね」
二人は、姿を消した。

第七十五回 女あんま……船虫(ふなむし)の復讐

毒婦(どくふ)船虫が、なぜ越後にきて、強盗の女房となったものか、ここでかたろう。
船虫は信濃の沓掛(くつかけ)で、篭山逸東太縁連(こみやまいっとうたよりつら)をあざむき、木天蓼(またたび)の短刀と路銀三十金をぬすんで逃げだし、越後にきた。ある日、古志郡(こしのこおり)の金倉山(かなくらやま)のふもとにさしかかると、おいはぎが出て、所持金をうばわれた。船虫は、
「わたしは武蔵のもので、近ごろ夫に死なれ、ゆかりのものをたずねてきましたが、その人もなくなっていました。みちのくに母かたの親族があるので、そこをたずねようとおもったのです」
で、うばった金の三分の一でもかえしてくれ、というと、盗人(ぬすっと)は、
「そうかい。おれも、女房に死なれて不便さ。ことし四十二歳、おまえも四十ばかり。おれと夫婦にならねえか」と、くどく。仲人(なこうど)はないが持参金つきの船虫の手をひき、住家に案内した。
この盗人は、酒顛二(しゅてんじ)という山賊(さんぞく)だ。小千谷と塚の山のあいだの無住の山寺を住家としている。あるときは博徒(ばくと)があつまり、銭のないときは夜かせぎをかさねた。
小文吾は磯九郎を追ってきたが、相川村(あいかわむら)をすぎて、畷道(なわてみち)にさしかかったときには、真夜中ごろになった。たおれているものがいる。月の光で見ると旅篭の主人、次団太(じだんだ)だ。息をふきかえすと、
「おもいがけない犬田さん。この夜ふけに……?」ととうた。小文吾は、
「磯九郎を追ってきたのだ。どうしてここにたおれておられる。で、磯九郎にはあわれませんでしたか」とといかえす。次団太は、
「これは意外なことです。磯九郎は、日ごろから酒ぐせがわるいのであんじていました。で、犬田さんの安否を気づかい、ここまできました。すると二人のくせものがふろしきづつみを背おってすれちがいました。提灯(ちょうちん)の灯(ひ)で見ると、一人の着物は鮮血にまみれているので、まて、と声をかけ、ふろしきづつみをとろうとして、不覚にも胸をうたれました。すると、磯九郎は……」
「それはまた、おかしい。あなたは、小千谷からここまできたのに磯九郎とあわなかった。追ってきたわたしもあわない。で、そのふろしきづつみの色は?」ととう。次団太は袖をのばし、
「この色に似て、縹色(はなだいろ)のようです」とこたえた。須本太郎のものとそっくりだ。そっちこっちとさがし、雪穴から磯九郎のしかばねを見つけた。そこへ、虫亀村の須本太郎らもやってきて、おどろいた。
小文吾は、磯九郎の横死でいそがしくしている次団太をなぐさめもせず、といってふりきってもいけず、逗留(とうりゅう)をかさねた。
そうしているうち、にわかに目の痛みをかんじ、ものを見ることも困難となった。伊豆の大島・三宅島の潮風にうたれ、魚肉ばかりを食したからかもしれぬ、という。
次団太は、眼病は肩のこりからおこるといって、一人の女あんまをよんでくれた。女は小文吾の腰・肩をもんだ。この女、じつは船虫である。角突き見物で、船虫は小文吾の姿を見つけ、もとの夫、並四郎(なみしろう)のうらみをはらそうとねらっていたのだ。そして、女あんまに身をかえ、小文吾に接近したが、霊玉(れいぎょく)の威力でその機会がなかった。船虫は指にちからをくわえた。小文吾は「そうちからをいれられては、いたいぞ」という。
船虫は、「急所に指があたればつうじるといいます。それなら、ゆるくいたしましょう」と、ふところの短刀をそっとぬき、左手で肩をひねり、右手で柄(つか)をにぎりしめた。
小文吾は胸さわぎがし、「やめてくれ」という。
船虫は、小文吾の襟(えり)をひらき、のどをかこうとした。その刃の光が目に見えたか、小文吾は船虫の利腕(ききうで)をとらえて、「こいつはくせもの。目が見えなくても、うたれるおれではない」と肩ごしになげつけた。
次団太は縄(なわ)で船虫をしばりあげた。

第七十六回 盗賊のかくれ家……小文吾あやうし

石亀屋次団太(いしかめやじだんだ)は船虫を縁側の柱につなぎ、小文吾に、
「てまえは、あの毒婦をにせ瞽女(ごぜ)とは知らず、犬田さんにおすすめした罪をどうしたらよいか。まことにあやういことでした。この短刀をごらんなさい。近ごろ人をきったのか、ひどくくもりがあります。それにしても、なにかおもいあたることでも……」ととうた。
小文吾は、
「あいつの声をきくと、武蔵で、鴎尻並四郎(かもめじりなみしろう)という奸賊(かんぞく)の女房であった船虫と似ています。それは、しかじか……」と、並四郎の家でおそわれたことをはなした。さらに小篠(おざさ)・落葉(おちば)の刀のことにふれた。
「夫のうらみをかえそうとしたのではないか。これよりほかには、おぼえはありません」
次団太は、「その船虫でしょう」と、一本の小竹杖(しのづえ)を手にし、船虫にむかい、
「やい、賊婦。おまえは、並四郎の後家船虫だろう。いつごろからここにきて、どこを宿としているのだ。短刀もぬすんだものだろう。それに、おまえ一人ではないだろう」とせめた。船虫は声を苦しそうにして、
「しばらくまってください。わたしは、武蔵の人の女房ではありません。ふるさとは下野(しもつけ)の赤岩村。その郷士(ごうし)の赤岩一角武遠(あかいわいっかくたけとお)という人が夫です。夫武遠は、ゆえあって篭山(こみやま)なにがしという、武芸の弟子に闇討ちにされ、その仇(あだ)のゆくえをたずねていました。神にいのり、仏にちかいましたが、ある夜の夢に、夫の仇はこの越路(こしじ)の魚沼郡(うおぬまのこおり)にいる、とつげられてきてみても、ゆかりの人もなく、またさだめる宿もないのです。そこで、女あんまになりました。ところがそのおかたの面影が、声まで篭山とおなじで、ふしぎに似ているので、すきをみてうちはたそうとしたのです。しばられたとき、そのおかたの顔をよく見ると、別人とわかりました。あわてもののわたしの罪をゆるしてください。この短刀は夫の形見。わたしは赤岩の姓で、名を窓井(まどい)といいます」という。小文吾は、それをしんじない。
そこへ次団太の弟子、泥海土丈二(どろうみどじょうじ)・百堀鮒三(ひゃくぼりふなぞう)がきた。船虫の話をきき、すすめた。
「こうなれば庚申堂へいって、神慮侭(しんりょまかし)はどうです」
神慮侭(しんりょまかし)とは、悪人を庚申堂の梁(はり)につるし、三夜、夜ごとに鞭(むち)うち、白状させるのだ。もし死ねば千隈川(ちくまがわ)にながし、死なないときは追放する、という風習だ。
小文吾は、領主にうったえては、とすすめたが、次団太たちは、それはひいきがあり、むだという。で、その夜、船虫をひきたてて庚申堂にむかった。
次団太がもどってきた。そして、この短刀の出処(しゅっしょ)を知ることができたら、磯九郎の仇もわかるかもしれぬ、という。
もう夜はふけた。すべてあしたということで、それぞれ床についた。小文吾は眠れぬままに一人おもった。「おれの風眼(ふうがん)も三十余日になる。医療売薬なにくれとなくもちい、痛みはとれたがものを見ることができぬ。石浜の城内で、馬加大記(まくわりだいき)の邪計(じゃけい)で毒をくわせられたが、所蔵の霊玉(れいぎょく)ですくわれた」とつぶやき、まもり袋から珠をとりだして、念じながら目をなでた。眼中の邪熱がしりぞき、さわやかな心地がしてきた。目が見えはじめたのだ。小文吾は、ねむりにはいった。

ここで犬川荘助義任(いぬかわそうすけよしとう)に目をむけよう。
荘助と犬山道節(どうせつ)は、指月院(しげついん)を宿所にしていた。そして、たがいに交代で遠国をめぐった。東北の郷(さと)をまわり、犬塚信乃・犬飼現八・犬田小文吾の三犬士と、犬江親兵衛(いぬえしんべえ)の生死をたずねた。
去年の二月、荘助は指月院を出立し、武蔵におもむき、下総(しもふさ)の地をふみ、行徳(ぎょうとく)の人びとに犬田文五兵衛・小文吾のことをきいた。妙真は安房にいき、文五兵衛はなくなったという。
「小文吾は、曳手(ひくて)・単節(ひとよ)とともに行徳にかえらず、いったいどこにいったのか」と、真間(まま)・国府台(こうのだい)までもどった。さらに常陸(ひたち)、みちのくと旅をかさねて、この五月なかば越後にはいった。そして、小千谷にむかうべく山道にさしかかった。
夜はもう五つ(午後八時)ごろだ。五月雨(さみだれ)がはれて、十八日の月がのぼった。ゆくてに小山があり、そこに仏堂がみえた。くちた板縁に尻をかけ、両膝をさすり、堂内を見かえると、軒に庚申堂としるした扁額(へんがく)がある。
五年まえの秋、文明十年七月二日、荘助が武蔵の大塚にいたころ、軍木(ぬるで)・簸上(ひかみ)らにはかられて、死刑の場にひきだされた。そのとき、犬塚ら三犬士にすくわれた。その地名が庚申塚だ。
荘助は、照る月をながめた。と、荒れ堂の楼上(ろうじょう)から人のうめく声がする。荘助は、
「あれた堂内に、人がいるのはあやしい。この堂は山賊の住家か」とはしごをのぼり、楼上にきてみると、一人の四十ばかりの女がきつくしばられて、つるされている。荘助は、
「やい。おまえは、なにものだ。人でなければ変化(へんげ)か」とあざわらった。
その女は、よよと泣き、
「わたしは、妖怪変化ではありません。小千谷の里の旅篭(はたご)に奉公しているものです。さきに夫がなくなり、貧しい兄のもとに世話になっていましたが、はたらこうと、ことし三月のはじめに、旅篭にまいりました。ところがその主人におもいをかけられました。それをはねのけましたら、わたしに濡衣(ぬれぎぬ)をきせ、うつやらたたくやらして、男どもに手つだわせて、きょう夕方ころから、この荒れ堂にひいてきて、人に見られないように、楼上につるされたのです」という。むろん、犬田小文吾に仇(あだ)なす船虫とは、荘助は知らぬ。
「主人は、不仁(ふじん)だ。あわれだ。兄の宿所はどこだ。で、名まえは?」ととうた。船虫は涙をためて、
「兄の家は、ここから半里ばかりで、狩人(かりうど)をしており、名を酒顛二(しゅてんじ)といいます。貧しいですが、侠気(おとこぎ)があって、子分もおおいのです。わたしをたすけて家におくってくださるなら、さぞよろこぶでしょう。お慈悲(じひ)をねがいます」といった。
荘助はうなずき、腰刀についた小刀をぬきとり、左手で船虫をだき、縄(なわ)をきりすて、たすけおろした。船虫はふしおがみ、またふしおがんだ。
「おもいがけないおん慈善(なさけ)、わすれはしません。おおくりいただければ、このうえのご恩はありません」と、船虫はいう。荘助は、
「宿所におくりとどけよう。しずかにはしごをおりなさい」というと、また船虫はふしおがむ。
荘助とともに夜の山道を半里ばかりいき、酒顛二(しゅてんじ)のかくれ家にたどりついた。酒顛二のかくれ家は、もとは寺の庫裏(くり)だ。座敷は二つか三つある。酒顛二は、なかま十五、六人とあつまり、酒をのんでいた。
船虫は、しばらく荘助を門辺(かどべ)にまたせておき、一人ではいり、酒顛二にしかじかとつげた。いそいで席をつくり、なかまは姿をかくした。
酒顛二は、荘助にねんごろに礼をのべ、
「てまえは、当家の主人酒顛二というものです。妹の死をおすくいいただき、そのご洪恩(こうおん)のことは、承知いたしております。おん身は、どこのかたでございますか」ととうた。荘助は、
「わたしは、東国の浪人犬川荘助といいます。ゆえあって友をたずね、遊歴(ゆうれき)しております。こよい止宿いたすもふしぎな縁です。あけましたなら、おわかれします。わたしにかまわず、妹御をいたわりなさい」といった。酒顛二は、なかまの一人に食膳(しょくぜん)を用意させようとしたが、荘助はことわり、ねむりにつきたい、といった。酒顛二は、
「それでは、夜もふけましたので、そうしましょう。ここは雪国で、蚊(か)もハエもいませんが、梅雨(つゆ)のころには屋根裏からヒルのおちることがありますので、蚊帳(かや)をつります」という。
荘助は刀を手に臥房(ふしど)にむかった。

第七十七回 盗賊退治……由充(よしみつ)の招き

犬川荘助義任(いぬかわそうすけよしとう)は床についたが、ねむれない。酎顛二(しゅてんじ)のつらだましいは、ひとくせありそうだ。子分も狩人(かりうど)には見えぬ。席上の盃盤(はいばん)・皿・鉢(はち)も一つとしてそろってはいない。皿は唐(から)の舶来の宣徳製(せんとくせい)のようだが、盆ははげた会津塗(あいづぬり)だ。家はくちた寺の庫裏(くり)らしく、酒肴(さけさかな)はぜいたくだ。ふとんも四幅(よの)の絹だが、ござはそまつなものだ。枕は古材の切り株だ。
荘助は、酒顛二を山賊とみぬいた。あの女も賊婦(ぞくふ)で、人にとらえられ、楼上につなれれていたのだ。油断がならぬ、とねたふりをした。
酒顛二は奥にはいり、なかまと車座になり、船虫から話をきいた。船虫は声をひそめて、闘牛の見物のおり、犬田小文吾を見つけたことからしゃべりだした。むろん、神慮侭(しんりょまかし)にされ、荘助にたすけられた、ともいった。酒顛二はこぶしをこすり、
「そいつはたいへんだ。石亀屋(いしがめや)のことは、おれは知らないが、いまからおしかけて、小文吾・次団太(じだんだ)はむろんだが、やつらどもをみなごろしにして、おまえのうらみをかえしてやろう。夜襲(やしゅう)の用意をしろ」といきまいた。船虫は、あわててとどめ、
「それはいいけれど、こよいの宿をかした犬川とやらに夜襲のことが知られたら、後難ともなるよ」という。酒顛二はわらって、
「毒をくらわば皿までだ。めんどうなやつなら、ころせばいい。荘助は、友をたずねての旅だ。路銀もおおくもっているだろう。いくさの血まつりに、ころしてしまおう。熟睡(じゅくすい)しているので、かたづけるといい」というと、船虫は、
「それなら、だれとだれがいくといいさ」とさしずする。なかまらは、
「あのつらがまえ、もし武者修行のものなら、これはかなわぬ。一人や二人だけでは、いかれない」としりごみする。酒顛二はあざわらって、
「弱虫ども。一人に十四、五人でかかるというのか。おれがいく」と、段平(だんびら)をひきさげてたちあがった。なかまもついて荘助の座敷にいった。蚊帳(かや)がつってあるが荘助の姿はない。みんなさわぎたて、さがせ、さがせ、とうろたえる。酒顛二は、
「あいつはよそものなので、うちもらしてもおしくはない。ただ、あした石亀屋にいって、こっちのことをいったならめんどうになる。はやく夜襲の用意をしろ」といった。
そこへ一人の男がそとからかえってきた。このものは、去年文明十三年十一月、武蔵の四谷の原で、主人の泡雪奈四郎(あわゆきなしろう)に傷をおわせ、路銀の金子(きんす)をうばって姿をかくした媼内(おばない)だ。媼内は去年の冬、越後の塚の山にのがれ、博徒(ばくと)のなかまにはいり、はては酒顛二の手下となったのである。酒顛二は媼内に、
「媼内。おれたちは、小千谷(おじや)に夜襲にでかける。おまえには才覚があり、こころもたけだけしいので、こよいの留守をまかせる。あとは、船虫にきいてくれ」といって、種子島(たねがしま)の小鉄砲をふところからだしてわたした。そして、酒顛二は十四、五人の手下とともに出ていった。
これよりさき、犬川荘助は、酒顛二らの密談をきき、
「おもったとおり酒顛二は山賊の頭(かしら)、船虫がその女房とは、あざむかれた。小文吾は、この地からほど遠からぬ小千谷の郷(さと)の、石亀屋次団太という旅篭(はたご)に逗留(とうりゅう)していたのか。また、風眼(ふうがん)によって見ることできぬとの船虫の話、いまはじめて知った。これも奇特だ」とひそかに身をおこし、柱にかけた草鞋(わらじ)をとりおろしてはきしめ、九尺の手槍(てやり)をえらび、小篠(おざさ)・落葉(おちば)の両刀(ふたこし)をさし、身ごしらえをして縁側から出ていき、竹やぶに身をかくした。
酒顛二らは、討入(うちい)りじたくをしてかけだした。その走るあとから、荘助もともに走った。山賊どもは、それに気づかぬ。
石亀屋次団太の家につき、戸をたたかせた。
「主人次団太、出てこい。ここにやどった犬田小文吾にうらみがあって、仇(あだ)をうちにきたのだ。いのちがおしければ、縄(なわ)をかけてさしだせ。文句をいうなら、一人のこらずきりすてるぜ」とさけんだ。
旅篭の下男・下女は、おそれてだまっている。主人次団太は奥から走り出て、戸のすきまからのぞき見た。
「さては女あんまの同類が、おそってきたのだろう。おれはいいが、犬田さんが眼病では不利だ。はやく背戸から逃げてもらおう」と、ひそかに小文吾の臥房(ふしど)におもむいた。そとでは酒顛二はいらだち、戸をうちくだき、走りいろうとした。そのとき、背後から犬川荘助があらわれ、大喝一声(だいかついっせい)とともに、ひらめく槍の刃先は地上の雷光のように、賊の一人の脇腹(わきばら)をぐさっとつきふせた。そして、
「犬田小文吾も、主人も、おどろくな。犬川荘助、ここにある。表の賊はみなごろしにする。背戸に用心せよ」と、二たび、三たびさけび、おどろきさわぐ小(こ)盗人(ぬすっと)二、三人をつきたおした。
酒頴二もまたおどろき、声をふりたて、
「こよいの旅侍(たびざむらい)は、まわしものであったか。たかがしれた一人の槍先、どうということはない。はやくからめとれ」とさけぶ。
小盗人たちは、また荘助をうとうとする。半分は、旅篭のうちにふみいってきた。小文吾は次団太とともに刀をうちふり、さきにちかづいたものをきりふせた。逃げるものを追いたて門のそとに出た。
そのあいだに荘助は酒顛二と槍をたたかわした。
酒顛二がひるむすきに、刃光(じんこう)の冴えがのどをさしつらぬいた。酒顛二はのけぞり、死んだ。のこる小盗人は、うきあしだちはじめた。三人は、おおかたの盗賊をうちとった。かろうじて一人二人が荒れ寺に走った。
犬田小文吾が、荘助に声をかけた。
「ひさしぶりです。犬川さん、どうしてわたしの災難を知られたのです?」とたずねる。
荘助も走りよって、「これまでのことをひとくちではかたれません。風眼とききましたが、そうとはおもえないはたらきでしたね」といった。小文吾も、
「きょうまではひどい眼病でした。気がついて霊玉(れいぎょく)で目をなでたところ、半刻(はんとき)でかすみがさり、一刻で見えるようになりました。このことは、まだ主人にもつげていません」とこたえた。
次団太がきた。そこで荘助も名のった。
それから荘助は、「まだ、だいじなことがあります。わたしは、こよい、庚申堂に休息したおり、船虫という賊婦が梁(はり)につるされているのをたすけた。荒れ寺にはその船虫と、媼内という一人の賊とが留守番をしている。逃げだした手下から酒顛二がうたれたときけば、逃げさるでしょう。のがせば、こののちも犬田さんを害そうとするだろう。賊の住家は半里ばかり。いって船虫をころそう」とさそった。
そこへ土丈二(どじょうじ)・鮒三(ふなぞう)が、石亀屋に強盗がはいったと聞き、若いもの十人ばかりをひきつれてかけつけた。次団太・小文吾は、その労をねぎらい、ことの次第をつげた。小文吾は、
「このありさまを村長に知らせ、さしずして賊どものしかばねをしまつしてくれ。おれたちは賊の住家にいく」といって、荘助を先頭にして走った。次団太・鮒三と若いもの五、六人も、二犬士のあとを追った。
荒れ寺に手下の溷六(どぶろく)・穴八(あなはち)が注進し、酒顛二そのほかのものが犬川・犬田にうたれた、とつげた。
船虫と媼内はおどろきさわぎ、金銭や衣類をできるだけ身につけ、笠を深くかぶって東へと逃げた。
媼内は種子島の鉄砲をもち、「追ってきたら、うつ」と船虫のあとを追った。
荘助・小文吾らが酒顛二の住家へといそいでいくと、寺から火煙(かえん)がのぼった。溷六(どぶろく)・穴八らが火をはなったのだ。この手下二人を、荘助らはとらえた。溷六と穴八は、二十二、三歳か。溷六は背が高く色白で小文吾に似ており、穴八は色浅黒く筋骨たくましく、どこか荘助に似ている。二人は、磯九郎ごろしは酒顛二と船虫だ、と白状した。媼内の過去もききだした。やがて、次団太らもやってきた。
次団太は、小文吾・荘助らとともに小千谷の石亀屋にかえった。そして二犬士に膳を供(ぐ)し、盃(さかずき)をすすめた。小文吾は、病後の湯浴(ゆあみ)や、髪やひげの手入れをしてから、荘助と座敷でさまざまな話をした。曳手(ひくて)・単節(ひとよ)のこと、並四郎・船虫のこと、馬加大記常武(まくわりだいすけつねたけ)の奸計(かんけい)で石浜の城中にとどめおかれたこと、犬坂毛野(いぬさかけの)のたすけをえたこと、依介(よりすけ)のこと、父文五兵衛の遺言のこと、大八の親兵衛(しんべえ)のこと、などだ。また、毛野をたずねて鎌倉におもむき、そののち渡海の船がながされて伊豆の島につき、それから浪速(なにわ)にいき、有馬の湯治(とうじ)、この地の遊歴、闘牛、磯九郎の横死、小文吾自身の眼病、霊玉の妙応奇特(みょうおうきとく)のこともかたった。
荘助も、自分の過去(こしかた)をはなした。荒芽山(あらめやま)で離散、犬山道節とともに犬塚・犬飼らのゆくえをたずね、四国、九州とまわり、京摂五畿内(きょうせつごきない)をめぐり、甲斐国(かいのくに)につき、石禾(いさわ)の指月院で、丶大法師(ちゅだいほうし)と名のりあい、蜑崎照文(あまざきてるふみ)に面会したことをかたった。
さらに荘助は、去年の春、四犬士をたずねるため指月院を出立(しゅったつ)、武蔵におもむき、下総(しもふさ)を遍歴したとき、行徳(ぎょうとく)の里人から、犬田小文吾がかえってこないこと、文五兵衛が安房でなくなったことをきいた、とつげた。常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・陸奥(むつ)・出羽(でわ)をめぐり、この地にきたが、まだ犬塚・犬飼・犬田・犬江の四犬士とあわないので、甲斐の石禾(いさわ)にかえり、犬山道節と交代しようとおもっている、ともつげた。
世四郎(よしろう)・音音(おとね)の忠死、曳手・単節のゆくえ、親兵衛の安否などの話をきいて、荘助もなぐさめかねた。
しばらくして、荘助は小文吾に、
「たがいに苦行(くぎょう)のすえ、めぐりあいました。これからともに石禾にもどり、犬山さんをよろこばせ、また出なおして、犬塚さんら三犬士をたずねましょう」といった。それに小文吾は、
「そうしましょう。隅田川(すみだがわ)のほとりでわかれてしまった犬坂毛野も、われわれの義兄弟らしい。珠のこと、痣(あざ)のことはわからないままだが……」とこたえた。
話はつきない。夏の日ながら、きょうは短いとおもわれる横日影。もう七つさがり(午後四時ごろ)になる。そこへ次団太が、あわただしく走ってきて、
「いま片貝(かたがい)のご別館から、執事(しつじ)の老臣、稲戸津衛由充(いなのとつもりよしみつ)さまの使者として、荻野井三郎(おぎのいさぶろう)という老党が、雑兵十人あまりしたがえ、二挺(ちょう)の駕篭(かご)をつらねて、客人がたをおむかえするとか、村長(むらおさ)からつげてまいりました」という。
その荻野井三郎も、すぐさま村長の案内できた。
二犬士は、荻野井と対面した。荻野井は、執事由充の使者としてきたが、事実は領主、長尾景春(ながおかげはる)どののおん母君、箙(えびら)の大刀自御前(おおとじごぜん)の内命でむかえにきた、という。しかも、袴二領(はかまふたよろい)も用意してある。
二犬士は、招きをうけることにした。駕篭は遠慮しようとしたが、これもすすめられるのでのった。とらえた酒顛二の手下、穴八・溷六(どぶろく)の二人も、しばられたままあとからひきたてられた。
片貝の長尾家の別館についた。二犬士は老臣、稲戸津衛の屋敷に案内され、ここで由充と対面した。由充は二犬士の功をほめ、武勇をたたえ、大刀自の内命をつたえ、盃をすすめた。そのとき突然、由充は、盃をなげうち、「よれ、ものども!」と下知した。
その声とともに捕手(とりて)二、三十人があらわれ、二犬士をくみふせようとした。
◆里見八犬伝◆ 巻二
滝沢馬琴作/山田野理夫訳

二〇〇五年七月十五日