里見八犬伝 巻一
目次
凡例
一 本書は滝沢馬琴原作の「南総里見八犬伝」を、できるだけ原作の香りを伝えるようにした現代語訳である。
二 原作のあて字、あて訓(よ)みは、現代の同義語に適宜おきかえた。
三 時刻の表現などには( )に注をいれ、年号は各巻の初出個所に西暦をいれた。
四 原作には、本すじとは直接関係のない重複や冗長な長談義がおおいが、本書では、物語の進行にさしつかえない程度に、これらを割愛した。
五 原作は、九輯(しゅう)五十三巻百八十回になっているが、本書では、回ごとの章立てとした。なお、原作の難解な見出しにかえて、内容にそくしたわかりやすい見出しをつけた。
京都にすむ室町幕府六代将軍足利義教(あしかがよしのり)と、関東管領(かんれい)ににんじられ、鎌倉にすむ足利持氏(もちうじ)とのあいだに、不和が生じた。持氏が自立のこころざしをいだいたからである。義教の軍と、それを支持する持氏の家来上杉憲実(のりざね)が合体し、持氏とその嫡子義成(ちゃくしよしなり)をせめた。持氏父子に利あらず、鎌倉の報国寺(ほうこくじ)におしこめられ、ついに父子は詰腹(つめばら)をきらされた。
後花園(ごはなぞの)天皇の永享(えいきょう)十一年(一四三九年)二月十日のことである。持氏には、嫡子義成のほか二男春王(はるおう)・三男安王(やすおう)がいる。この春王・安王の二子は、かろうじて義教・憲実がたの目をのがれて、下総の国におちのびた。この地を持氏の家来結城氏朝(ゆうきうじとも)が所領していたからである。
義にあつい氏朝は、春王・安王を主君としてむかえた。さらに京都の義教の命(めい)をこばみ、その配下の清方(きよかた)・持朝(もちとも)の大軍がせめてきても、ものともせずにむかえうった。
この合戦のしらせをきき、持氏と縁のある里見季基(さとみすえもと)をはじめとする武士たちが、死を辞さず、結城勢のこもる城にかけさんじてくれた。結城勢は京都側の大軍にかこまれながらも、落城の気配はなかった。
こうしてその年の春のころから、嘉吉(かきつ)元年(一四四一年)の四月まで、三年間にわたって篭城(ろうじょう)をつづけた。しかし、ほかに援軍もなく、兵糧(ひょうろう)も矢だねもつきはててしまった。
「いまや、のがれるみちはない。もろとも死ぬのみ」と、結城一族、里見の主従は覚悟をきめた。城門をひらき、うってでた。結城がたの兵どものしかばねの山がきずかれた。そして、城はここに落ちたのである。
春王・安王はとらえられ、美濃(みの)の垂井(たるい)で首をはねられ、ぞくにいう結城合戦の幕はとじた。
落城ま近とさっした里見季基は、自分の嫡子義実(よしざね)の姿をさがした。
義実はこのころ十九歳で、又太郎(またたろう)と名のっていた。義実は、父季基とともに三年のあいだ篭城(ろうじょう)し、たたかっていた。この日も義実は敵の兵十四、五騎(き)をきり、さらに敵本陣にすすもうとしていた。季基はこれをよびとめて声をかけた。
「とどまれ、義実。父子ともに討死(うちじに)したら、どうする。先祖への不孝は、これにすぐるものはない。将軍家を敵として、持氏どの、氏朝どのにそむかず、これだけのはたらきにおよべば、いきおいつき、ちからきわまって落城にいたっても、わたしが節義のために死に、子のおまえが里見家のためにのがれても恥ではない。ここからすみやかにのがれて、時節をまち、里見家の再興をはかるのだ。これこそおまえのつとめだ」
義実は、馬の鞍(くら)の上で頭を低くし、
「お話は、うけたまわりました。しかし父親の討死するのを眼前に見て、おめおめとのがれることは、三歳の童子にもできることではありません。わたしは武士の家にうまれ、すでに十九歳になります。文武の道をおさめ、その両道のなにごとかをぞんじているつもりです。このまま冥土(めいど)におつれください。死ぬべきところで死ぬことができずに、笑いものとなり、名をけがし、先祖をはずかしめることはできませぬ」とこたえた。
季基は、自分の息子義実の顔をつくづくとみた。こころのなかでたのもしくおもったが、表面ではしきりに嘆息していった。
「義実、わしはおまえに頭をそって出家せよ、といっているのではない。時節をまち、家を再興せよ、といっているのだ。おまえも知っているように、足利持氏どのはむかしからの主君ではない。わが先祖は、一族にあたる新田義貞(にったよしさだ)どのにしたがって、元弘(げんこう)・建武(けんむ)の役(えき)に戦功をたてたものだ。そののち、わが父里見元義(もとよし)は持氏どのの父君足利満兼(みつかね)どのにまねかれて、つかえることとなった。で、わしも、持氏どのに出仕することになったまでだ。しかも、春王・安王の二君のため死ぬ。こころざしはこれですんだのだ。これらの理義(ことわり)をわきまえないで、ただ死するのみでは武士とはいわぬ。学問をしたかいもあるまい。こうまでもうしてもわからなければ、親でもなく、子でもない」
義実は、父のつよい語気に、おもわず馬のたてがみに涙をおとした。季基は、そのまま乱戦のなかに姿をけした。ときの声がおこった。
「われわれが、お供(とも)をつかまつります。いざ」と、里見家のむかしからの老臣、杉倉木曽介氏元(すぎくらきそすけうじもと)、堀内蔵(ほりのうちくら)人貞行(んどさだゆき)らが、義実にちかよると、木曽介は義実の馬のくつわをひき、蔵人はその馬の尻(しり)をうった。義実主従は馬をはしらせ、西をさして落ちていった。そのむかし、楠木正成(くすのきまさしげ)が桜井(さくらい)の駅から、わが子正行(まさつら)をかえしたのとおなじ涙のわかれであった。
いっぽう、季基は義実がさったことでほっとし、
「これで安心した。では、いそごう」と、八騎の武士とともに敵の大軍につきいった。八騎の武士は、一人のこらずしかばねとなり、季基もまた討死した。
里見冠者(かんじゃ)義実は、杉倉・堀内の案内で十町ほどのがれきた。
「父は、どうなされたか」と、義実は幾たびも馬をとめ、あとをふりかえった。ときの声、矢さけびの声がとどろきわたった。もはや結城の城は落ちたらしく、猛火(もうか)の光が天をこがしている。義実は、このままひきかえそうとしたが、二人の老臣におしとどめられ、むなしくたちさった。
馬壇(うまで)、鞍懸(くらかけ)、柳坂(やなぎざか)とすぎた。火退林(ひのくばやし)のあたりで、勝ちいくさの鎌倉勢二十騎ばかりがおいかけてきた。義実主従三騎は、これをけちらし、その夜は白屋(くさのや)に宿をもとめた。だが、ここも敵の領内である。
こうして、三日めに相模国三浦(さがみのくにみうら)の矢取(やとり)の入江についた。飢えと疲労にあえぐ主従は、松の根に腰をかけ、入江につづく青海原をみた。波はしずかで、白鴎(はくおう)がねむっている。
堀内蔵人が海のかなたを指さし、あれが安房(あわ)の山やま、といった。のみと刀でけずったような絶壁の山容を鋸山(のこぎりやま)とよぶ。
雨がふり、夕べの寺の鐘がなった。安房の国にわたろうとおもったが、一艘(そう)の舟もない。木曽介は、とある漁師の門(かど)にこうた。
「海をわたる舟はないか。それに、空腹でこまっている。食いものがあれば、ちょうだいできぬか」
すると、四、五歳の男の子が、
「うちつづく合戦で舟はかりあげられ、漁もできぬ。人のくうものなどない。これでもくらえ」と、土くれをなげつけた。それが義実にあたるかとみえた。義実が右手でうけとめた。
木曽介は刀の柄(つか)に手をかけ、
「無礼もの!」といった。義実は、
「木曽介、おとなげなし。きのうはきのう、きょうはきょう。相手になるな。土は国の基(もと)なり。われらいま安房にわたるにおよび、天がその国をたまわるきざしかもしれぬ」と、その土くれを三たびいただき、ふところにおさめた。木曽介の立腹もやんだ。
雨はいっそうはげしくなり、それに稲妻がおこった。さて、雷かと、義実主従は入江の松の下かげに笠(かさ)をかざしてたった。風雨はますますつよく、あるいは暗く、あるいは明るくなった。波はくだけ、またよせてきた。
すると、むら雲のわきたつなかに、目にもまばゆく、こつぜんと白竜があらわれた。光をはなち、波をまきたて、南をさしてとびさった。しばらくすると、雨はあがり、雲はおさまった。
義実が木曽介にきいた。
「木曽介、白竜ののぼりを見たか……?」
木曽介は、「竜らしきものを見ましたが、その股(もも)とかがやく《うろこ》とを、わずかに見ただけでした」とこたえた。義実はうなずき、
「わたしもその尾と足だけを見た。全身を見ないのは、まことにおしい。それ、竜は神物(かみつもの)なり。天子のおん顔を竜顔とたたえ、またおんかたちを竜体ととなえる。おこらせたもうを逆鱗(げきりん)という。みな、これ竜にかたどるものだ。今や白竜、南にさる。白は源氏の服色(きぬのいろ)である。南はすなわち房総(あわかずさ)、房総は日本のはてだ。わたしはその尾を見て頭を見ず、わずかに彼地(かのち)を領するだけであろう。木曽介、おまえは、竜の股を見たという。これはわが股肱(ここう)の臣ゆえだ。そうおもわぬか」
木曽介は、義実の知識に感服し、
「うら若きおん歳で、よく読書なさいました。はて、安房にお供つかまつろうにも、舟はなし。それにしても、堀内貞行はどうしたものか」と、不審におもった。
「うたがうな、木曽介。主人の難をみすてて逃げはすまい。月の出までまつことだ」と、義実はほほえみをうかべた。
海から十八日の月がでた。浦波は黄金(こがね)をあつめ、玉をしいたようだ。竜宮城とは、このことか、と主従は額(ひたい)に手をかざし、木かげをはなれて、波うちぎわにちかよった。
そこへ、舟一艘(そう)、水崎(みさき)のかなたより矢のようにこぎでた。そのこぎ手のそばにたつのは、堀内蔵人である。
蔵人は舟からおり、義実の前に小膝(こひざ)をついた。
「舟をかりもとめに水崎までまいりました。やっと漁舟(すなどりぶね)をかりましたが、空腹であられるかと飯をかしがせたものの、雷雨がはげしくなり、ついに遅参(ちさん)いたしました」
「蔵人、おまえがいなかったら安房へはわたれなかったろう。土くれのたまもの、白竜の吉祥(きっしょう)、それらの話は舟のなかでしよう」というと、こぎ手が手をあげ、さしまねいていった。
「月も風もよろしゅうございます。おはやく舟におのりなさいませ」
義実主従が舟にのると、こぎ手はともづなをたぐり、棹(さお)をとると、舟は安房をさして走った。
安房は、もと総国(ふさのくに)の南のはてである。上代には上下(かみしも)の区別はなかったが、のちに上総(かずさ)・下総(しもふさ)と名づけられた。土地はひろく豊かで、クワの木がおおかった。で、養蚕(ようさん)がさかんである。そのむかし、阿波(あわ)の国から民がうつりすみ、安房と称した。
治承(じしょう)三年(一一七九年)秋、源頼朝(みなもとよりとも)が源氏再興の旗をあげたものの石橋山(いしばしやま)にやぶれ、ここ安房にのがれた。このおり、安房の住人麻呂(まろ)五郎信俊(のぶとし)・安西(あんざい)三郎景盛(かげもり)・東条(とうじょう)七郎秋則(あきのり)の三人がその道案内にたち、無二のこころざしをあらわした。源氏が天下統一をとげたあと、頼朝はかの三人に安房四郡をわけあたえた。以来、平安な歳月がながれたともいえる。
義実主従がこの地にたどりついたころはどうか。
平群(へぐり)の滝田(たきた)城主は東条氏一族、神余長狭介(じんよながさのすけ)光弘(みつひろ)、館山(たてやま)城主は安西三郎大夫(だゆう)景連(かげつら)、平館(ひらだて)城主は麻呂小五郎(こごろう)兵衛信時(ひょうえのぶとき)の代である。
このうち、神余光弘のいきおいがもっともさかんで、本家東条の領地もあわせて所領し、安西・麻呂の両家をおさえていた。安房の国の半分の領主である。当主光弘は、慢心し、酒色の日々をかさねていた。数おおい側女(そばめ)のなかで、とくに玉梓(たまずさ)という女を寵愛(ちょうあい)した。
玉梓は神余の家来たちの賞罰にも口をさしはさんだ。そのため、こころあるものは光弘をすてさり、のこるはたくらみをもつものだけである。
のこったものに、山下柵左衛門(さくざえもん)定包(さだかね)というものがいた。この男は、色白く、眉(まゆ)ひいで、鼻高く、唇赤く、ことばづかいもやわらかい。それが玉梓にへつらい、ついには情をつうじた。
この密通を、光弘は知らなかった。そればかりか、支配を柵左衛門にまかせるしまつである。それゆえ、柵左衛門は主人光弘を無視し、百姓に重税を課した。
ここ滝田の近村蒼海巷(あおみこ)に杣木朴平(そまきぼくへい)という百姓がすんでいた。このものは、武術にすぐれ、気概(きがい)のある男である。なかまの洲崎無垢三(すざきむくぞう)とかたらい、神余の乱れで民(たみ)百姓のくるしむのは、柵左衛門の所行であるとし、これをうちとることにした。
無垢三がいった。
「柵左衛門が遊山(ゆさん)のおりは、従者(ともびと)もすくないだろう。その日をまとう」
だが柵左衛門は朴平らの密議を探知していた。外出には従者をふやし、夜歩きはさけた。
いっぽう、光弘の乱行はかわらなかった。その光弘が、こういった。
「しばらく城外にでなかった。あしたは、ひさしぶりに狩りをしよう」
柵左衛門定包は、「ちょうど、百姓は耕作にいそがしいころなので、おしのびでまいりましょう。むろん、わたしもお供つかまつります」とこたえた。
「もっともなことだ。従者の数をはぶくがいい」と、光弘はいった。
その狩りの前日、柵左衛門は城からさがると、自分の屋敷に落羽(おちば)・青麦(あおむぎ)の村長(むらおさ)らをひそかに集めて命じた。
「わしは、たまの休暇をえたので、あすは、しかじかのところにいってタカをはなそうとおもう。おまえたちは、さようこころえよ」
村長たちは、それぞれの村に走りかえり、そのむねを村じゅうにふれた。むろん、杣木朴平・無垢三の耳にもたっした。両人は、
「ようやく、そのときがきた。あしたこそ」とよろこび、弓失をもち、その夜半、落(おち)羽畷(ばなわて)の東北の夏草のしげった丘に身をかくした。古松が盾(たて)ともなる。
ニワトリのなき声が暁(あかつき)をつげた。光弘は、那古(なこ)七郎、天津兵内(あまつひょうない)ら近習(きんじゅう)のもの八、九人を左右にしたがえて、滝田の城をでた。山下柵左衛門定包も、白馬にのり、したがった。
光弘主従が十町ばかりにさしかかると、光弘ののった馬が、突如(とつじょ)、前足をおってばたとふせた。光弘もころびかかったが、那古七郎、天津兵内があわててたすけおこした。柵左衛門がこの馬に、毒のまじった《かいば》をくわせておいたからである。
柵左衛門は自分の白馬からひらりとおり、光弘に、「おしのびの狩りなので、おのりかえの馬は用意してございません。わたしの馬をおつかいなされませ」といった。光弘はうなずき、柵左衛門の白馬にのり、あぶみをならし、馬の足をはやめた。
そして、夏草のおおい落羽畷のほとり、落羽が丘にさしかかった。ここには、杣木朴平・洲崎無垢三が柵左衛門をうつべく身をふせていた。
「白馬にのってきたからには、まごうこともない。山下柵左衛門定包だ」と、朴平が弓に矢をつがえ、きりきりとひきしぼり、ひょうとはなった。一の矢は、ねらいたがわず光弘の胸を射(い)た。光弘は落馬した。無垢三が二の矢をはなち、これはのどを射た。光弘は絶命した。
那古七郎・天津兵内ら従者は朴平・無垢三にうちかかり、乱戦もようとなった。柵左衛門は、矢をおい、弓をわきにはさんで、丘の上に馬上の姿をみせた。
「殿(との)をそこないたてまつりし逆賊(ぎゃくぞく)ども。この山下定包がいま一矢でうちころすのはたやすい。しかし、ここでいけどりにしろ」と、家来に下知(げち)した。
柵左衛門定包を射とめたとしんじていた朴平らは、その名のるのをききつけ、ぎょうてんした。自分たちに主君光弘をうたせ、滝田の城を掌中(しょうちゅう)にいれんとする柵左衛門のはかりごとを、朴平らは知った。
だが、時すでにおそく、朴平はとらえられ、無垢三の首ははねられた。
滝田の城は柵左衛門定包の意のままになった。朴平も首をはねられ、無垢三の首とともに青竹の串にさされ、さらされた。柵左衛門は、光弘の葬儀(そうぎ)をすませると、光弘の家臣を一堂にあつめ、誓書をしたためさせ、酒宴(しゅえん)をはり、さらに禄(ろく)をとらせた。これで事実上、柵左衛門定包は安房の国主についたのである。
柵左衛門定包は、滝田の城を玉下(たました)とあらため、玉梓を自分の本妻にし、光弘の妾室(しょうしつ)をも自分の妾(めかけ)にした。
また、柵左衛門定包は、城のそとに目をつけた。館山の城主安西景連、平館の城主麻呂信時のもとに使者をおくった。
「柵左衛門定包、おもいがけず、人びとにおされて、長狭・平郡の主(あるじ)となった。こうなれば安西・麻呂の両君と、よしみをむすぼうとおもう。ついては、こちらからでむこうか、それとも、そちらからまいられるか」
この口上は、無礼であった。それで、安西・麻呂はあきれはて、
「いずれ、こちらから返答すべし」と、使者をかえした。そして、ただちに麻呂信時は館山に安西景連をたずね、柵左衛門定包について密談した。
「われら二人、ちからをあわせ、安房・朝夷(あさひな)の兵をひきいて、滝田の城をせめたてれば、勝利は疑いない。柵左衛門の首をはね、その領地をわれらでわけようではないか」
信時のもうしこみに、景連は、
「いや、それは早計。柵左衛門は大身(たいしん)だ。しかも、柵左衛門は光弘の所領を手をぬらさずに自分のものとしている。よほどの知恵者だ。うかうか手だしはできぬぞ。時をまちたまえ」と、とどめた。信時は、いまこそと、自分の意見を主張し、議論をかさねた。
そこへ、安西の側臣があわただしくきて、隣子(しょうじ)をあけた。景連は、「なにごとだ!」と、とがめた。
側臣、小膝(こひざ)をすすめてこうつげた。
「ただいま里見又太郎(またたろう)義実と名のる武士、従者二人をつれてまいりました。歳は十八、九にもなりましょうか。で、その来たるわけをたずねますと、下総結城(ゆうき)の落人(おちうど)で、父季基(すえもと)が討死(うちじに)し、杉倉・堀内の両人を供に、相模路(さがみじ)にのがれ、三浦から海をわたり、当国白浜(しらはま)についたともうします。このものが見参(げんざん)をねがっております。いかがいたしましょうか」
景連は、はてと、すぐには返事ができず、小首をかたむけ、眉をひそめ、思案のていである。
安西景連は、里見義実主従三人がきたことをきき、思案したもののこまりはてて来客の麻呂信時にいった。「そなたは、どうおもわれる」
信時はこたえた。
「里見は、名のある源氏であるが、ここには縁もよしみもない。それに父季基がうたれたというのに、のがれきてさすらうのは、とるにたらぬものであろう。対面するまでもあるまい。おいかえせ」
景連は、首をかしげ、
「わたしも、そうおもう。しかし、かれらは三か年篭城(ろうじょう)して、いくさには、なれているだろう。それに義実は歳は若いが、数万の陣をきりぬけてきたとおもわれる。よびいれてみよう。そして、柵左衛門定包をうつ一方の大将に適するかどうか、ためしてみよう。もし、つかえぬなら、たちどころにさしころそう。この考えは、どうだ」
信時も、これにうなずき、
「わたしも、対面しよう」とこたえた。
客間には、安西の家臣二十人、麻呂の従者(ともびと)十余人、みないかめしい《いでたち》で、二列にならんですわった。また、幕をたれて、そこには十人の力士をひそませた。義実におそれをなしての警備である。
義実主従は、その警備におそれることもなく、奥へすすんだ。はるかに景連・信時の姿がみえた。義実は、おちついて客座につき、右手を腰の扇(おうぎ)においていった。
「結城の敗将、里見又太郎義実、亡父季基の遺言(ゆいごん)により、かろうじて敵のかこみをのがれ、漂泊してここにまいりました。安房(あわ)の国には、安房の国の波乱あり、とうわさにききもうしました。われらが武士は、武をこころざすものゆえ、義により一臂(いっぴ)のちからをおかしすることもあらばとぞんじまず。見参(げんざん)をこいましたるところ、対面をゆるされ、ありがたい。この供のものは、杉倉木曽介氏元(すぎくらきそのすけうじもと)、堀内蔵人貞行(くらんどさだゆき)でございます」と、氏元・貞行とともに頭を低くさげた。
これにたいし景連は、おもったより義実の歳が若いのをあなどり、礼をかえさず、信時もまた声をふりたてていった。
「わしは麻呂小五郎である。いささか所用があって、きょう平館の城からここにまいった。で、安西どのと同席している。それにしても、ただいまのくちさかしきことよ。われらの安房は小国なれども、東南のはてにして、三面すべて海である。で、室町どのからも、管領(かんれい)からも、また隣国からの強敵も境をおかすことなどない。わしもそうだが、安西どのにも縁もゆかりもないそなたが、京・鎌倉を敵にうけて、身をおくところがないままに、乳のにおいがのこっているくちばしをならして、利害をとくとはおこがましい。だれが罪びとをここにとどめて、そのたたりをまねくものか。この対面は、まったくの無益だ」
信時の《ののしり》に、義実は微笑さえうかべた。
「もうされたのは、麻呂どのか。麻呂・安西・東条は、安房の国の旧家ときいている。わが父の季基は、ただ義の一字をまもり、結城の城にたてこもったのだ。そこで三か年ふせいだ。わたしも、父にはおよばぬが、父の遺言をまもり、命運を天にまかせて時節をまとうとおもうだけだ。鎌倉の管領持氏(もちうじ)どのの世のさかんなるころは、安房・上総(かずさ)はいうまでもなく、八州の武士はだれひとりとして、こころをかたむけ、出仕しないものはなかった。だが、持氏がほろびてのちは、恩あるむかしをかえりみようとしなかった。わが父季基のように、幼君のために家をわすれ、身をすて、氏朝(うじとも)にちからをあわせて結城の城にたてこもり、義をつらぬいた武士はすくなかった。いきおいつくのは人のこころ、麻呂・安西の両所、後難をおそれ、わたしをいれぬといわれるなら、このままさがりもしよう。それにしても、われらは主従三人にすぎぬ。それなのに、席上に弓矢をかけ、剣の鞘(さや)をはずしての用心は、どうだ」
信時はたちまち顔をあからめ、安西に目をくばった。景連は、おおきく息をはき、
「いわれることは、もっともだ」と、警固の武士などを屏風(びょうぶ)のうしろにさがらせた。汗びっしょりのていである。
また信時が口をはさんだものの、それも義実主従に冷笑された。
そのとき、安西景連は、
「いままでのことは、麻呂どののたわむれだ。こころにかけなさるな。そなたは結城の守将であったろうが、いまはこの浦をさすらう人だ。この安房の国の悪人山下柵左衛門定包をうつため、われらの陣にくわわりたいなら、わが軍令にしたがってもらわねばならぬ。そうしなければ、そなたをもちいることはできない。そなた一人のちからで定包をうちほろぼし、滝田の城を掌中にし、二郡の領主となられても、露(つゆ)ほどのうらみももたない。いかれるのも、ここにとどまるのも、この一議あるだけだ。こころをさだめて返答してくれ」
義実は、難儀(なんぎ)と知ってはいるが、
「よるべなき身のうえゆえ、ここにとどまりましょう。なにごともおさしずくだされ」とこたえると、景連はうなずき、
「しからば、ことのはじめだ。すこしも違背(いはい)があってはならぬ。わが家の嘉例(かれい)として、出陣の門出に軍神(いくさがみ)をまつる。その軍神に大きいコイをそなえたい。針をおろして、コイをつることができればよき敵とくみうちして首級をあげたこととおなじだ。おわかりか?」という。義実は、
「うけたまわった」と座をたとうとすると、氏元・貞行の老臣が、義実の袂(たもと)をひきとどめ、景連にいった。
「嘉例かもしれぬが、針をおろして魚をさぐる知は、漁夫にまさるものはない。これらは、武士のするところではない」
「こやつ、無礼であろう。義実は、承知したのだ。家来として、わが軍令をおかすのか、ものども、こやつをきりすてい!」と、景連ははげしくいかった。
氏元・貞行はそれにもひるまぬ。それを義実がなだめ、景連にわびた。
景連は、ようやくやわらぎ、
「しからば、コイをつられるまで、義実どのにこの二人をあずけよう。義実どの、コイはおてまえみずからつって、もってこられよ。それも、三日のうちにせよ。その日がすぎたなら、二心(ふたごころ)のあるものとみる。こころえよ」といった。
義実は頭をたれ、「これにて旅篭(はたご)にまいる」と、老臣ふたりとともにたちさった。
そのうしろ姿を冷笑しつつ、麻呂小五郎信時が見おくり、この城の主(あるじ)安西景連に、
「安西どの、手ぬるいぞ。なぜ、里見の従者をたすけてかえした。わたしは義実をうちとろうとしたが、安西どのが盾(たて)になられたので、のがしてしまった」とつぶやいた。景連は微笑して、
「わたしも、そのかんがえでいたが、義実は名家の子だ。歳は若いが、思慮才覚はつねのものではない。また、従者のつらだましいも、一騎(き)当千といってもいい。みだりに手をくだせば、みかたもきずつく。義実主従に祭祀(まつり)のコイをもとめたのには、おとしあなをつくったのだ。安房の国にはコイはうまれぬ。これは、その風土によるものか。あいつはそれを知らずして、淵(ふち)にたち、瀬をあさり、いたずらに日をすごし、手をむなしくしてもどってきたなら、軍法の定(さだめ)をもってきってくれよう」といった。
信時は「はかりごと、きわめてたくみだ」とほめた。
義実主従が白浜の旅篭(はたご)についたころには、日がくれていた。
翌朝、義実は、漁猟(すなどり)の用意をしようとすると、老臣の氏元はそれをよろこばず、
「殿。信時・景連らの、われらを見る目は、まるで仇(あだ)のようです。コイをさがしてどうなされるのです。上総にまいり、この難をさけましょう」といましめた。
義実は、「いや、そなたたちの意見とはちがう。麻呂・安西は利だけをおい、義はなきにひとしい。口と行いはうらはらで、山下定包をおそれているが、滝田の城をせめるこころもない。それを承知しているが、ここをさけて上総・下総(しもふさ)におもむいても、どこも敵地だ。どこにいこうというのか。君子は、時をえてたのしみ、時をうしなってもまたたのしむ。太公望(たいこうぼう)という人は、七十歳近くなるまで世に知られず、渭浜(いひん)の里にむなしく釣りをしていたという。コイは、めでたい魚というではないか。白浜にきて、それをつれという。つろうではないか」とといた。
氏元・貞行は納得(なっとく)し、釣りの用具をととのえた。主従三人が淵をたずねていくと、空はほのぼのとあけはじめた。
里見義実(さとみよしざね)主従は、こっちの池、あっちの川と、淵(ふち)をたずねた。白浜の旅篭には帰らず、長狭郡白箸河(ながさのこおりしらはしかわ)をあるき、はや三日にもなった。日数もきょうかぎりなので、しきりにいらだった。魚の獲物(えもの)はあるが、コイはちいさなものも釣れなかった。ため息をつくばかりだ。
そのとき、川下から、声高くうたいくるものがいた。義実主従はその声のぬしをみた。そのものは髪がみだれ、着物の裾(すそ)は秋の浦の海松(みる)のようだ。それに、手にも顔にも瘡(かさ)がでていた。巨大なヒキガエルの背とでもいうべきか。そのものの《だみ声》の歌の詞はこうだ。
里見えて 里見えて
白帆(しらほ)はしらせ 風もよし
安房(あわ)の水門(みなと)による船は
波にくだけず 潮にもくちず
人もこそひけ われもひかなん
これを、くりかえしている。そのものは川辺にたちどまり、義実らの釣りをするようすをながめた。時がすぎた。このものは、氏元(うじもと)にとうた。
「おかしな釣りをしていなさる。あるいはフナ、あるいはエビなどつっても、みなすてている。なにをつろうとしているのか」
氏元は、ふりかえってこたえた。
「わたしのほしいのは、コイだ。ほかの魚はいらぬ。無益な殺生(せっしょう)とおもえば、一ぴきものこらずはなしているのだ」
すると、この乞食(こじき)のていの男、腹をかかえてうちわらい、
「ここでコイをもとめるとは……、佐渡にいてキツネをとらえ、伊豆大島(いずのおおしま)に馬をとうより、労して功なきことだ。まだ聞かれたことはないのか。安房一国では、コイは生ぜず、また甲斐(かい)にもコイのないことを。これは、その風土によるものか。また一説に一国十郡ならざれば、このような河の王たる魚はすまぬともいうそうではないか」といって、また手をうってわらった。
義実は、釣り棹(ざお)をすて、
「もとより、この地方にコイがすまぬのを知りながら、釣りをせよともうしたもののこころの底がわかった。深いたくらみが、いまわかった。もし、このものとあわなかったら、あいつらの毒計にかかるところであった。あぶない、あぶない」というと、その乞食のていのもの、これをなぐさめていった。
「そのようにくやしくおもわれるな。みちのくにもコイはすまぬ。そこは五十四郡もある。しからばコイの生ずると、生ぜざるとは、その国の大小によるものではない。そうなれば、一国十郡にみたなければコイなし、というのは《こじつけ》であろう。十戸の村にも忠信のものは出るものだ。また里見の御曹司(おんぞうし)が上毛(かみつけ)にうまれながら、このようなところをさすらって、膝(ひざ)をいれる余地のないのとおなじだ」
義実主従は、目と目をくばり、この乞食のていのものの顔をみた。義実はため息をつき、
「人はかたちによらぬものだ。なぜ、わたしを知っているのか。名をきかせてくれ」ととうと、微笑をうかべ、「ここは、人の行き来がおおい。いざ、こちらへ」とさきにたった。
義実主従、いぶかりながら棹(さお)をおさめて、そのあとについた。小松原(こまつばら)の里近い山かげにさそい、自分の背にうちきた《こも》をぬぎ、ちりをはらって木の下にしき、義実をすえると、うやうやしく頭をたれた。
「はじめて見参(げんざん)するもの、不審におもわれたでしょう。わたしは神余長狭介光弘(じんよながさのすけみつひろ)の家来で、金碗(かなまり)八郎孝吉(たかよし)ともうす、《なれのはて》でございます。金碗は神余の一族、父は老臣の第一席でしたが、その父の死後、わたしは二十歳にみたないのでその職にたえず、微禄(びろく)をもって近習(きんじゅう)につかわれていました。
そのうちに、主人の行状はよからず、色をこのみ、酒にみだれ、妾室(しょうしつ)玉梓(たまずさ)におぼれ、ついには佞人(ねいじん)山下柵左衛門定包(さくざえもんさだかね)を重用して賞罰をまかせました。それいらい、家則はみだれ、家臣はいましめず、民はおそれてうったえぬありさまです。わたしは、しばしばおいさめもうしたが、いれられず、身をひくほかなしと、那古(なこ)七郎・天津兵内(あまつひょうない)という同役につげ、妻子なき身のこころやすさで、夜にまぎれて逐電(ちくでん)し、上総・下総・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)、はてはみちのくまでも、旅から旅に日をおくった。渡世としては剣術・拳法(やわら)の師範となり、ここに半年、かしこに一季と、はや五年もたちました。
主君の安否がこころにかかるので、いまひそかに上総までもどってきたところ、きけば主家の滅亡です。みな柵左衛門定包の逆意からおきたことで、杣木朴平(そまきぼくへい)・無垢三(むくぞう)らもいのちを落としたときき、はらわたがちぎれ、骨もくだけるこころもちでした。
朴平・無垢三は幼いときから父が育て、年ごろつかってきた若党でした。で、やつらもわが家で剣法をおさめ、農家の子としてうまれても、いささか侠気(おとこぎ)のあるものでした。父の死後、ふたたび農民となりました。
そののち、主(あるじ)の仇(あだ)、と柵左衛門定包をうとうとしたが、はかられて首をはねられました。わたしも定包をうとうとしましたが、面(おもて)は知られており、ちかづくすべがなく、このようにからだを漆(うるし)でかぶれさせて姿をかえ、日ごとに滝田を徘徊(はいかい)して、時をまってうかがっていましたが、露ほどにもすきがありません。
そうしているうちに、里見義実どのが結城(ゆうき)の城をのがれてきたとのうわさをききましたが、麻呂・安西をたよられ、あいつらのはかりごとにおとしいれられたともきき、くるしみました。
いずれにしても、義実どのにめぐりあわないかと、あちこちさまよい、きょうここにくると、釣りをする姿をみて、これぞまさしくかの君であろうと、舟歌になぞらえて、事情をのべたのです」
「里見えて」とは、里見の君をえてよろこぶ民のこころをあらわし、「白帆はしらせ 風もよし」とは、白帆は源氏の旗をさし、ここに義兵をあげればその威(い)風(ふう)になびかぬ民草(たみくさ)はない、との意だ。
「安房の水門に よる船は 波にくだけず 潮にもくちず 人もこそひけ われもひかなん」は、義実がいま漂泊して、麻呂・安西らにきらわれ、難儀をしているが、国びとすべてが協力すれば、身につつがなく、滝田・館山(たてやま)・平館(ひらたて)の敵もうちたいらげると祝してうたったものだ、と孝吉はいい、麻呂・安西らをうつことをすすめて、地理要害もくわしくのべた。
義実主従は、だまって耳をかたむけていた。
しかし、義実は、
「はかりごとはよいとおもうが、寡(か)をもっては衆に敵しがたい。いまわたしは浮浪人である。しかも、主従三、四人では滝田の城はせめられない」とこたえた。
金碗(かなまり)八郎孝吉は、小膝をすすめ、
「柵左衛門定包に二郡の民百姓がしいたげられているのを、みすてなされますか。いま、義実どの、民の塗炭(とたん)の苦しみをすくわんと、ひとたび旗をあげなされたなら、アリが蜜につどうように、ひびきがものに応ずるように、みなよろこんでかけさんじて、仁義のいくさにいのちをなげうつでございましょう」といい、孝吉は自分のはかりごとをのべた。
義実も合点し、氏元らも、奇なり奇なりという。
また氏元が、孝吉にいった。
「金碗(かなまり)どの。忠義のためといいながら、皮膚は瘡(かさ)につつまれて、つやつやびとのおもかげはない。みかたをあつめるのに名のることもできないでしょう。その瘡がなおる薬はないものか」
すると、義実がこういった。
「うるしはカニを忌(い)むものという。で、うるしをかく家で、カニをにることがあると、うるしはよりつかぬそうだ。その瘡は、うるしの毒にふれたものだ。カニをもってその毒をとくのはどうだ」
その義実のことばに孝吉は、この浦にはカニがおおい、という。そこへ、漁師の子が頭の上に篭(かご)をのせてとおりかかった。氏元が、その篭のなかにはなにがあるととうと、カニだとこたえた。これは幸い、と残らずかいもとめた。三十ぴきあまりある。義実はこのようにするがいい、とみずからおしえた。
いきたカニの甲羅(こうら)をくだいて全身にぬるというのだ。貞行らは、腰にさげた燧石(ひうちいし)をとり、それで松の枯枝に火をはなった。のこったカニをあぶり、甲羅・足をとりさり、孝吉にあたえた。孝吉はこれを口にした。異臭のはげしかったうみや血はかわき、かさぶたはとれ、なおってきた。孝吉は、たまり水を鏡にして、自分の顔をながめた。
「おお、たちどころになおる。これは、義実どののたまものだ。名医は国をいやすともいう。わたしの身一つは、ものの数ではないが、みだれた国をうちおさめ、民の苦難をすくうことが、まことによい仁術でございましょう。されば、猶予(ゆうよ)すべきではありますまい。まいりましよう」と孝吉は、おどろの髪をかきあげ、髻(もとどり)を短くひきむすぶ。縄(なわ)の帯ながら匕首(あいくち)がさしてある。おもむく地は、小湊(こみなと)である。
小湊についたのは、日暮れであったが、月の出にはまだはやい。ただ、ここ小湊の敢川村(あえかわむら)には日連上人(にちれんしょうにん)の出生を記念した高光山誕生寺(こうこうさんたんじょうじ)があり、その鐘の音がした。かぞえてみると、亥(い)である。いまの午後十時にあたる。
金碗(かなまり)孝吉はかねてのはかりごとと、誕生寺のほとりの竹やぶに火をはなった。火はたちまち天にのぼった。暗闇(くらやみ)にねいる鳥どもはたちさわぎ、僧侶たちは撞木(しゅもく)をはやめて鐘をつきだした。里人はおどろきめざめて、門の戸をあけ、
「寺で、なにごとかおこったぞ。おきろ、出ろ」と、棒や農具などを手に手に、さきをあらそって走りでた。と、みれば、寺にはかわりはない。そこをさること三町ばかり、竹やぶがやけている。里人はあきれはてた。
「なにもののいたずらか」と、ぶつぶついっていると、金碗孝吉がやぶかげから姿をみせた。
あつまるものたちは、人か鬼かとおどろきあきれた。
孝吉は手をあげて、「里人よ、あやしむな。おまえたちをまっていたのだ」
里人は、「なぜ火をあげて、おれたちをあつめたのだ。名のれ」と、口ぐちにいった。
孝吉はそれをおししずめ、
「わたしは、もとの国守につかえた金碗(かなまり)八郎孝吉だ。さきにこころならずも身をひき、旅にでたが、旧恩をどうしてわすられよう。逆臣山下定包をうとうと、ひそかにふるさとにたちもどった。しかし、その手だてもままならず、死して霊(れい)となり、うらみをはらそうとおもったおり、里見冠者(かんじゃ)義実どのが結城の寄手をきりぬけて、白浜に漂泊なされた。安西らをたよりとなされたが、かえってはかりごとにかかることになられた。それが幸いし、ご対面することができた。
義実どのは、歳は若いけれども、仁あり義ある、じつに文武の良将であられる。逆賊(ぎゃくぞく)定包に年ごろいたくしいたげられ、そっとかくれてうちなげくおまえたちにも、幸いがきたのだ。はやく義実どのにしたがって、定包をほろぼさなければ、おまえたちも逆賊になるぞ。このことをつげるため、火をはなち、あつまってもらったのだ」と、さとすようにいった。
里人は、よろこんだ。
「これは金碗どのとはおもいもかけず、ご無礼はおゆるしください。わたしたちとて、国主の旧恩をわすれることができましょうか。だれも、定包をうらめしくおもわないものはございません。憎いとおもっても、手だてもなく、うちなげいていたのでした。しかるに、里見の君のこと、風のたよりにききました。そのときからしたわしくおもっておりました。民草をあわれんで、ここにいくさをおこせば、まことに国の幸いでございます。いのちをおしむものなどありません。金碗どの、このようにもうしあげてください」とこたえた。
孝吉はうしろにむかい、
「そこでおききになられたとぞんじます。ことは、なりました」とつげた。
すると義実は、氏元・貞行をしたがえてやぶかげから姿をみせた。そして、口をひらいた。
「わたしが里見義実である。わたしは孤独の落武者だが、いま里人のたすけをえた。ことは、とげられよう。だが滝田は強敵だ。馬物具(うまもののぐ)ととのわず、兵糧(ひょうろう)のたくわえなく、かるがるしくは進むことはできない。これは、どうしたらよいものか」と、みわたしていった。
里人のなかから、村長(むらおさ)とおもわれる老人が三人すすみでた。
「それでは、てまえどものかんがえをもうしあげます。おおよそ長狭一郡は、定包の老党萎毛酷六(しえたげこくろく)があずかり、東条に在城しております。ここから遠くではありません。まず手はじめに、この城をせめなさい。たちまち一郡が掌中(しょうちゅう)にはいりましょう。そのうえで、滝田をせめなされては……」とつげた。
義実は感嘆し、
「それはよい策である。こよい、すぐさまおそうことにしよう」と、はかりごとをしめした。
孝吉らはあつまった里人をかぞえた。百五十余人いる。これを三隊にわけた。竹やぶの竹をきり、竹槍(たけやり)をつくり、あたえた。先陣の堀内貞行の隊四十余人、後陣の杉倉氏元の隊五十人、中軍六十人をひきいるのは、むろん義実自身である。
明け方が近かった。東条の城の萎毛酷六元頼(もとより)は、小湊の火をけすべく、兵をだしたものの、野火がすぐきえたと知らされ、ふたたび寝た。まどろみかけたところに、正門(おおて)の城戸(きど)をたたくものがいる。
門卒が、「だれだ!」ととうと、小湊の敢川の村長が盗賊をとらえ、ひきたててきました、とこたえた。またこの盗賊は、もとの国主につかえていた金碗(かなまり)八郎孝吉とわかりました。姿をやつし、名をかえて、滝田を徘徊していたのです。後難をおそれて、こうして多勢でまいりました、ともいいそえた。
門卒は、窓をひらき、孝吉の顔を見て、
「しばらくまて」といって走りさり、やがてかんぬきをはずす音がした。角門(くぐりもん)があいた。
門卒は、「みな、はいれ」といった。
しばられたかっこうの孝吉が先頭にたち、萎毛勢の前にすすんだ。とみるまに、縄をふりほどいた孝吉が、一人の武士の刀をうばい、きる。武士の首がおちた。武士どもが、ただならぬことに気がついた。
「狼藉(ろうぜき)だ!」
萎毛の配下は騒然となったが、義実の老党貞行・孝吉らは、これをなぎたおし、きりはらい、まるで無人の郷にはいるように、二の城戸へせめいった。大門がひらいた。ときの声があがった。寄手のいきおいがました。
義実が「時は、いまだ。すすめ!」と下知(げち)した。
ふたたびときの声があがった。二の城戸をやぶった。孝吉は、「悪党萎毛(しえたげ)、ここに出ろ。里見冠者義実どのがこの地に歴遊なされたのを幸いと、里人みなで主君とあおぐこととなった。逆賊定包をうちほろぼし、国のけがれをはらおうという、われらの仁義のいくさに敵するものはおるまい。まず、この城をあけわたせ。降参したもののいのちはたすける」と、大音声(だいおんじょう)をあげた。萎毛酷六の軍兵たちは、いっそうおじけづいた。刀をすて、いのちごいをするものが続出した。
ここに義実は、東条の城を自分の掌中のものとした。義実がたずねた。
「萎毛酷六は、どうした?」
「逃亡し、そのゆくえは、わかりません」と、軍兵がいう。
義実は、眉間(みけん)をよせ、
「あいつも後悔し、改心し、われらにしたがうならゆるしもするが、いちはやく逃亡したとあっては、反省もなかろう。ただちに滝田の城に走り、柵左衛門定包につげ、安西・麻呂らとはかり、時をうつさずおしよせてくるであろう。われら城をえ、さらに二、三百の兵をかかえたが、このなかばは、降参した萎毛の配下のものだ。三方からおそわれては守備もあやうい。萎毛酷六とて、まだ遠くにはいっていまい。氏元・貞行、二隊にわかれてそのあとをおえ」と命じた。
氏元・貞行が座をたとうとすると、金碗(かなまり)八郎孝吉は十人あまりの兵とともにたちもどってきた。
孝吉は、いった。
「わたしは、この城のなかはよくわかっています。三の城戸をうちこわし、萎毛酷六をいけどろうとさがしましたが、見あたりません。この城にはぬけ道があります。笆(かき)の内(うち)とよばれる道です。酷六はそこからのがれたものとさっし、手のものをしたがえおいかけ、前面をみると、酷六が八、九人のものと走り去っているのです」といい、ついに酷六の首をはねたとつげ、萎毛の配下のものに首実検をさせた。義実は、
「前非をくいてみかたになるものの命は、たすけよ。悪にしたがっても、みずから悪をなしてはならぬ。つつしむことだ」と、金碗(かなまり)孝吉のとらえてきた萎毛の配下をときはなたせた。さらに、義実は、
「あしたから三日ほどして、東条の落城はひろまるであろう。安西・麻呂は定包をたすけるだろう。さきんずれば人を制し、おくれるときは制せられる。この夕暮れに出立(しゅったつ)し平郡(へぐり)にせめいり、敵の肝(きも)をひやそうか。それはともかく、まず恩賞の沙汰(さた)をしよう」と、第一番を金碗八郎孝吉、第二番を小湊で東条をせめよと提言した村長(むらおさ)三人とさだめた。孝吉には荘園所領をあたえようとしたが、これを固辞した。村長の三人の名をたずねた。
「三平(さんぺい)、四治郎(よじろう)、仁総(にそう)でございます」と、村長らはこたえた。義実は、
「よい名だ。三平とは、山下・麻呂・安西の三雄をたいらげることだ。四治は、四郡をおさめるきざしか。二総は、すなわち上総・下総、のちにかならずわれらの掌中にはいるということだ。この名を一つにして、それぞれに三四(さんし)、十二か村、いままた二増倍(そうばい)すると、三六か村の村長たるべし」と保証書をあたえた。
村長たちは、よろこんだ。第三番はむろん、氏元・貞行、そして小湊の里人らである。
賞重うして、罰軽し
死せるものもさらに生く
活(いけ)るものはさかえたり
江(え)にかえる車轍(わだち)の魚
雪のなかなる常盤木(ときわぎ)
君が齢(よ)はさざれ石の
巌(いわお)となるまでつきせじな
とうたい、いわった。
義実をしたいあつまるものは、数百人にもなった。杉倉氏元に四百人を配し、東条の城を守護させ、二百余騎をひきい、先陣に孝吉、後陣に貞行、平館を出陣した。義実は自分の城の守護に重(おも)きをおいたのである。
里見義実の一軍は、その夜のうち前原浦(まえばらうら)と浜荻(はまおぎ)とをむすぶ境橋(さかいばし)をわたろうとした。このおり、義実をしたう野武士・郷士など、百騎、二百騎とくわわり、千騎とふえた。で、この橋を千騎橋(せんきばし)とよぶようになった。
待崎(まちざき)に白旗のほこらがある。義実が馬からおり、祈念した。すると、白旗二本が社頭の松のこずえから、はたはたとはためき、平郡のかなたにとびさった。
義実の軍勢は、「合戦(かっせん)は、勝利うたがいなし」といさみたった。
山下柵左衛門定包(やましたさくざえもんさだかね)は、麻呂・安西へおくった使者から口上(こうじょう)をきいた。
「やつらは、はっきりと投降するとはいっていませんが、いたくおそれいっているようです。遠からず、みずからまかり出て、配下にしてほしいとねがいでることでしょう」
この使者は定包にこびて、あることないことまでもつげた。定包のこころは、ますますおごり、終日遊興にくるった。玉梓(たまずさ)をはじめ、女たちをはべらせ、酒宴をかさねた。主君定包にならって郎党どもも、あそびくらした。
このようなありさまに、これはけっしてながくつづくものではない、とこころあるものは、おもった。そんなとき、城外・城中がさわがしくなった。
「敵軍が、ま近によせてきた」と知らせた。定包は、酒宴のまっさいちゅうだ。
「それは、なにほどのことがあろう。安西・麻呂らでないならば、山賊のたぐいであろう。その《ていたらく》をみてまいれ」と、定包は盃(さかずき)を手にしたままいった。物見のものが走り、ほどなくたちもどって、「敵は安西・麻呂らではありません。また山賊でもありません。だれともしらず千騎あまり、正々堂々として、陳列隊伍(ちんれつたいご)は法にかない、中軍には、ひとながれの白旗をおしたてており、尋常(じんじょう)の敵とはおもわれません。ここから二十余町の池にて、人馬の足をやすめております。おしよせる準備をしているのです」とつげた。
定包は肩をすくめ、
「白旗は源氏の服色(きぬのいろ)だ。安房(あわ)・上総(かずさ)で白旗をもちいるものは知らない。これは、われらをまどわすはかりごととおもわれる。休息しているのは長途の旅でつかれているのであろう。明け方をまち、せめてくるつもりだろう。こちらからおいはらえ」と命じ、岩熊鈍平(いわくまどんぺい)・錆塚幾内(さびつかいくない)という腹心の老党に五百の軍兵をあたえた。両人は門をひらき、出陣していった。両人は無双の武将として知られ、定包も重用(ちょうよう)していた。
「あの両人により、やつらはけちらされるだろう。大さわぎをするな」と、定包は兵に四門をまもらせ、自分は奥に女どもをよび、酒宴をつづけた。
宴たけなわのころ、城内がさわがしくなった。定包は管弦(かんげん)の音をとめさせ、耳をそばだて、
「ちがった声がする。見てまいれ」と小姓にいうと、まもなく、庭門から軍兵五、六十人があわただしくはいってきた。戸板には、数か所の深手をうけた岩熊鈍平がのせられている。兵どもは、「ご注進、ご注進!」とよぶ。あきらかに負けいくさである。
このありさまをみた玉梓は、あわてまどい、女どもにたすけられて屏風(びょうぶ)のうしろにかくれた。定包は、
「これは、どうしたことだ」と、あきれていった。ふるつわものの一人が、頭をかきながらこたえた。
「敵は、ききしにまさる勇将と兵たち。しかも大軍でございます。うてども、射(い)れども、びくともしませぬ。この大軍をひきいる猛将は、くさりの上に大荒目(おおあらめ)の鎧(よろい)をかさね、長さ一丈あまりの槍(やり)をりゅうりゅうとうちふりつつ、馬上にて大音声(だいおんじょう)をあげたのです。
『群賊は天罰をまぬがれない。白刃(はくじん)が頭(こうべ)にくだされるのをさとらず、せめてくるのはおろかである。ききおよんでいるだろう、里見義実どのがここに歴遊なされておられるのを。国の人びとが主君とあおぎ、うらみをはらす手はじめに、東条の城をおとし、萎毛酷六(しえたげこくろく)の首をはね、さらに滝田の城をおとし、賊主定包を誅(ちゅう)せんと、孝吉が先陣をうけたまわり、道案内にたった……』と」
逃げかえった岩熊鈍平らは痛手をおい、負けいくさのありさまをかたるのさえ、ろくに口もきけないようすだ。定包は、眉をひそめ、おおきく息をはき、
「里見は結城(ゆうき)がたのもので、落城したときにうたれたときいたが、この地に大軍をおこしたとは、おもわぬことだ。しかも、東条の城が落ち、酷六がうたれたことが事実なら、城兵がここにたちかえり、そのむねをつげるであろう。また金碗(かなまり)孝吉は、神余(じんよ)の家来だったのに、そこを逐電(ちくでん)したのだ。その孝吉が、農民をまどわし、野武士をあつめての、いつわりのはかりごとであろう。寄手の総大将は、まことの里見とはおもわれぬ。だが、鈍平がきずついたことからみても、あなどれぬ敵だ。四門をかたくまもり、東条に人をはしらせ、事実をみてまいれ」といった。
そこへ下男が走ってきて、東条の落武者らが逃げかえったことをつげた。定包は、自分でそれをたしかめようと、落武者の姿をみた。三、四人のものが餓鬼(がき)のようにつかれはてている。定包は、落城のまえに、なぜ注進せぬかといかった。一瞬のできごとなので、その暇(いとま)もなかった、と落武者はこたえた。
定包は、歯をきりきりならし、
「金碗(かなまり)八郎孝吉が、結城の落人(おちうど)をひきいれてのはかりごとだ。みずから馬のりだして、金碗をいけどりにしてやるぞ。にえくりかえる腹をひやすのだ。はやく出陣の用意をせよ」といきまいた。
兵たちも、「かしこまった」とつぶやき、きずついた岩熊鈍平とともに、たちさった。
定包は、ぶつぶつとののしっていた。あたりをみまわすと、定包ひとりである。
「うっかり出ては、あやうい。用心、用心」とうなずき、郎党・近習(きんじゅう)をよび、
「義実の軍は烏合(うごう)の衆だ。十日ほどで兵糧(ひょうろう)もつきるだろう。それはそれとして、安西・麻呂に使者をだしたい。だれか館山(たてやま)・平館(ひらたて)にまいるものはおらぬか」ととうと、妻立戸五郎(つまたてとごろう)なるものがまかりでた。
定包はよろこび、
「おう、妻立戸五郎か。安西・麻呂への使者にたってくれるか。両家出陣となると、義実も三方からせめられ、防戦などできぬ。みなごろしにできること、疑いない。義実をうちとることは、安西・麻呂の両君の仇(あだ)だ。定包は、平郡(へぐり)一郡、滝田一城で満足している。両君のうち、だれでもいい。東条の城をせめおとしたものに長狭郡(ながさのこおり)を進ぜよう、と丁重に口上をのべるのだ」といった。
戸五郎は顔をあげて、
「おことばではございますが、里見がほろびても、長狭郡をひとにとらせては、所領をけずりなされることとおなじではありませんか。きっと後悔なさることになります」といった。老党も定包をいさめた。
柵左衛門定包は、微笑をうかべ、
「おまえたちも、そうおもうか。これは、わしのはかりごとだ。長狭一郡をえさにして、安西・麻呂らに東条の城をとりかえさせ、さらに里見をほろぼさせると、景連(かげつら)・信時(のぶとき)どもも欲にまよい、それに執着するであろう。両将は、長狭郡をあらそい、合戦(かっせん)ともなり、一方はきずつき、一方はうたれること必定(ひつじょう)だ。わしはそのとき安房・朝夷(あさひな)の二郡を手にいれるのだ。わしは、いながらにして四郡をにぎることになる」とほこらしげにいった。
戸五郎はただ感服して、それなればご書簡を、と定包からうけとると、身軽に馬上の人となった。
滝田の城のまもりはかたい。名城の一つである。義実の軍勢がせめたてて三日になる。
日がくれかかった。滝田の城の西の城戸(きど)から、武者が一騎、はいろうとしていた。堀内定行がそれをみつけた。
「あいつ、城をでて麻呂・安西に援軍をこうて、いまたちかえったのだろう」とさっし、大声で「あいつをいけどれ」と命じた。
貞行の手勢は、早馬でおいかけた。滝田の城からも、このようすがみえた。
「妻立をうたせるな」と、西城戸をひらいた。妻立戸五郎は城戸をはいり、橋をあげた。追っ手はいらだった。義実は、
「追うのはよせ。あのものの首をはねたとて、安西・麻呂らにはつたわっているだろう」と、とどめ、五百の軍兵をひきわけ、貞行を後陣にそなえさせた。さらに、東条の城の杉倉氏元(すぎくらうじもと)に使者をおくり、篭城(ろうじょう)の油断すべからず、とつたえさせた。
いっぽう、山下柵左衛門定包は、妻立戸五郎がぶじにかえったことをきき、よびいれた。妻立はいう。
「景連・信時は、すぐ承知しました。日ならずして東条の城をせめるでしょう」
定包は、ご苦労だったとよろこび、「寄手をふせげ」と下知(げち)した。援軍をまつだけである。
義実の軍では、すでに兵糧がつきはじめた。貞行・孝吉も思案して、義実にいった。
「出陣して八日になるが、東条の城からまだ兵糧はとどきません。氏元は新しい領主ゆえ、民がさいそくにしたがわないのでしょう。畑の麦は熟しています。かりとらせては……」
義実は、顔を横にふり、
「それはならぬ。われらが滝田の城をせめるのは、民の塗炭(とたん)の苦しみをすくうためである。それなのに、生麦をかすめとるとはなにごとだ。長狭郡の農民が兵糧をさしださないのは、わたしの徳のいたらぬところ。徳をおさめ、民をいたわり、時をまつほかあるまい」といさめた。
貞行は頭をさげ、
「仁心の深きこと、民もありがたいとおもうでしょう。だが、このまましりぞかれては、かならず城からうって出てくるとかんがえられます。で、こよい、かがり火の数をまし、せめいるかにみせかけ、夜半すぎに、後陣から軍兵をしりぞかせ、伏兵をおき、軍中に義実どのがおられるかのようにしておきましょう。わたしは《しんがり》をつとめ、城の追っ手をくいとめます」といった。
孝吉は、それをきき、
「いまの計略、おみごとですが、それではただ身をまもるだけです。わが方策をおききください。三、四百の兵に麻呂・安西らの旗をもたせ、あるいは指物(さしもの)・笠(かさ)じるしまでも、みなそのような模様に扮装(ふんそう)するのです。夕方ごろ、わが本陣の西北をすぎて、城にはいるようにみせかけ、これを討つふりをするのです。滝田の城中のものは、安西・麻呂の援軍きたれりと、城戸をひらくでしょう。そのときこそ、せめいってはどうか」といった。義実は、
「貞行の計略はわれわれに益がなく、孝吉の計略は、はなはだあやうい。定包は豊かな土地をもち、要害の城にこもる。三年の糧(かて)もあるという。これとて、せめることはできるが、罪なき民を多くころしてしまうだろう。わがのぞみは、定包ひとりだ」といい、さらに、
「あちらこちらとながめると、むこうの豆畑におびただしいハトがとんできていた。どこからきたのかとみると、滝田の城からだ。朝にきて夕方かえるのだ。ハトは源氏の氏(うじ)の神、八幡宮(はちまんぐう)の使者ともいう。あのハトを五、六十羽とらえ、その足に檄文(げきぶん)をかいてむすびつけるのだ。ハトをはなてば、城にかえるだろう。城中のものはあやしみ、ハトをとらえて檄文をよむことだろう」といった。
この檄文の文章が問題である。義実がみずから草案をかたった。孝吉が筆をとった。
「定包は主君を奸計(かんけい)をもってたおし、毒をもって民をしいたげた。定包にしたがえば、天罰をこうむること必定である。義実の城ぜめは、定包ただ一人をうつことにあるので、城の兵たちが帰順をこえば、それをゆるし、温情をあたえる」という主旨である。結びには嘉吉(かきつ)元年夏五月、金碗(かなまり)八郎孝吉等奉(うけたまわる)、としるした。
義実主従は、香をたき、神酒をそそぎ、白旗を拝し、数十羽のハトの足に檄文をむすびつけてはなった。ハトはとびあがり、みな城中にかえっていった。
城中の兵どもはこの檄文をひろい、よみ、みなよろこびあった。手傷をおった岩熊鈍平は二の城戸にいて、これをひろった。妻立戸五郎もひろい、岩熊のもとに走ってきた。戸五郎がいった。
「これは、ゆゆしきことになるぞ」
「そうだ。城中の兵どもは、開城するかんがえだ。そして妻立どのとわしと定包どのをうとうとしている。なまじ義をたて雑人(ぞうにん)どもの手にかかって死ぬより、定包をさしころし、城中の兵もろともに里見義実どのに降参したなら、死をまぬがれ、恩賞をえよう。妻立どの、どうおもわれる」と、岩熊がいった。
戸五郎があきれはてた。「気でもくるったか。定包どのにそむくと、大逆ではないか」といきまいた。
岩熊鈍平はわらい、
「忠義も主(あるじ)によるものだぞ。妻立どのは、玉梓にこころをよせているのだろう。それにつきるではないか」というと、戸五郎は小膝(こひざ)をたたき、
「逆賊にしたがった身のけがれをあらうには、小理をすて大義にしたがうべきだ」と同意した。鈍平は、戸五郎の耳もとで策をささやいた。
山下柵左衛門定包は、酔いがまだのこり、柱に身をよせて、尺八を唇にあてていた。
そこへ妻立戸五郎と岩熊鈍平が、
「ことあり、ことあり」と、あわただしくはいってきた。定包は尺八を唇からはなした。音がやんだ。
定包は、「これは、なにごとだ」といった。
「城中の兵どもがみなそむきました。落城はま近です。切腹なされ。われわれが介錯(かいしゃく)いたしましょう」と、戸五郎はいい、刀をぬき、ふりおろした。定包は尺八をもってうけとめた。尺八は中からはすにきられた。定包は、
「おまえたちも謀反(むほん)をおこしたな。おれをうつというのか。おこがましい」といきまいた。
定包は、鈍平・戸五郎のうつ刃(やいば)の下をくぐりぬけ、切り口のとがった尺八を手槍の穂先のように戸五郎になげつけた。それは、戸五郎の右腕につきささった。戸五郎は、大刀をおとした。定包は、すかさず大刀をひろおうとした。鈍平が定包の肩先をきった。鈍平がまたうちかかった。定包は鈍平の刀の鍔元(つばもと)をうちおとし、そのままくみついた。
上になり下になり、しばらくあらそった。だが、定包はすでに深手をおっており、ついに膝の下にくみしかれた。定包の首をかこうとしたが、刀がなく、戸五郎になげつけた尺八をとり、それで定包ののどをぐさっとつらぬいた。
城中からときの声があがった。定包の死に、城兵がさけんだのである。鈍平は、玉梓など女どもをとらえさせた。財宝をかすめとるものもいる。定包は主君にそむき、所領をうばったものの、百日にならずして、家臣にころされる結果となったのである。
滝田の城楼(やぐら)に降参の旗をたて、正門をひらいた。
岩熊鈍平(いわくまどんぺい)・妻立戸五郎(つまたてとごろう)が先頭となり、寄手の里見義実の軍をむかえた。里見の先鋒(せんぽう)は、金碗(かなまり)八郎孝吉(たかよし)である。孝吉は鈍平らからことの詳細をきき、定包の首をうけとった。鈍平らの腰刀もとりおかせた。このむねが義実につたえられた。
義実がちかづいてきた。鈍平らは顔を地面につけてむかえた。後陣の貞行(さだゆき)もきた。義実らは、城内を巡回した。城内は奇麗壮観、玉をしき黄金をのべたようだった。これは、定包が民百姓からしぼりとったものだ。義実は、倉をひらき、百姓たちに米穀などをわけあたえた。
つぎの日、義実は、定包の首実験をすませると、鈍平・戸五郎らをよびよせた。両人がいった。
「定包をうつ時節をひそかにまっていました。きのう、檄文(げきぶん)をよみ、見参(げんざん)の引出物として定包の首を持参したのです」
金碗(かなまり)孝吉はわらって、
「それは、うそだろう。両人は定包に協力して悪事をかさねたはずだ。わたしが城内の兵からきいたところによると、身の罪をのがれようと定包の首をはねたのだろう」とただした。
鈍平がいった。
「それは、妻立戸五郎のことでしょう。とくに美女玉梓(たまずさ)におもいをよせていたのです」
妻立戸五郎は立腹して、鈍平をののしった。
金碗八郎孝吉は、大声でわらい、
「おまえたち両人の罪はおなじだ。首をはねよ」と、戸五郎・鈍平の心底をみやぶった。両人はひきたてられた。
「玉梓をひけ」と金碗(かなまり)孝吉は命じた。
玉梓がひかれてきた。顔をふせたままだ。
孝吉は、「面(おもて)をあげよ」といい、さらに、
「玉梓、おまえは光弘の側女(そばめ)であったが、寵(ちょう)をよいことに主君をとろかし、それに政道にさえ口だしして、忠臣をしりぞけた。これが第一の罪だ。富貴歓楽きわまり、定包と密通した。これが第二の罪だ。いまここにひきだされたのも、天罰とおもえ」といった。
玉梓は、ようやく顔をあげ、
「おっしゃることがわかりません。女はよわいもので、三界(さんがい)に家がないとさえいわれています。わたしは、光弘どのの正室ではありませんでした。光弘どのになくなられては、身をよせるところもなく、定包どののおもわれびとになったのです。金碗(かなまり)どのも、主君をあらためて逐電(ちくでん)し、さらに里見にしたがって、滝田の城をおとしたではありませんか。人それぞれ利のためにつかえ、これにしたがっているのです。男子(おのこ)にてもそうなのですから、女子(おなご)ならなおさらです。玉梓ひとりに罪をきせて、あくまでにくまれるのですか」と、まなじりをかえした。金碗は席をうち、
「それは、いいすぎだろう。おまえの奸曲(かんきょく)は、十目(もく)のみるところ、十指の指さすところだ。外面如菩薩(げめんにょぼさつ)、内心夜叉(ないしんやしゃ)。顔とこころはうらはらだ。酷六・鈍平は、むかしからの神余(じんよ)の老党だったが、利のために義をわすれ、逆にしたがって悪をさかえさせた。この孝吉は、これとはことなるぞ」と、自分の心底をきかせた。
玉梓は、ため息をつき、
「まことにわたしは罪深い女です。里見義実どのは、仁君とききます。東条でも賞をおもくし、罪をかるくし、城兵もころさなかったそうです。たとえ、わたしに罪があるとしても、女のことです。ふるさとにかえれますよう、金碗(かなまり)どの、とりなしてください」
義実は、孝吉をよび、低い声で、
「孝吉。玉梓の罪はおもいが、助命をこうている。ゆるしてやってはどうか」とつげた。
金碗孝吉は、
「おことばではございますが、定包についでの悪党は玉梓でございます。この女は、数おおくの忠臣をおいはらったのみならず、光弘の落命も、定包とひそかにはかってなされたのです。もし、これをゆるせば、義実どのも、またその色香をめで、《えこひいき》をしたとうわさがたちます」といった。
義実はうなずき、
「わしはあやまった、あやまった。ひきだして、首をはねよ」といった。
玉梓はこれをきき、顔を朱にして、歯をきりきりならし、義実・孝吉の顔をにらみ、
「うらめしい、金碗(かなまり)八郎。ゆるそうとする主命をこばんで、わたしをきるというのか。おまえとて、遠からず、刃(やいば)の《さび》となるだろう。そして、その家も断絶するのだ。また、義実。ゆるすといっておきながら、孝吉の言に人のいのちをもてあそぶとは、おろかなるものだ。殺さば殺せ。孫代までも、畜生道に追いおとして、この世からなる煩悩(ぼんのう)の犬としてやるぞ」とののしった。
金碗は、「ひきたてい」と下知(げち)し、やがて玉梓の首をはねさせた。そして、定包・玉梓・鈍平・戸五郎などの首も滝田の城下にさらした。悪をかさねたものの末路である。
その明け方、杉倉木曽介氏元(すぎくらきそのすけうじもと)の使者として、蜑崎(あまざき)十郎輝武(てるたけ)が、東条の城から早馬でかけつけてきた。氏元が麻呂(まろ)小五郎信時(のぶとき)の首をはねたので、持参したというのだ。
里見義実は、東条からきた蜑崎(あまざき)十郎輝武八(てるたけ)をよびよせ、合戦(かっせん)のありさまをきいた。十郎は、こういった。
「兵糧(ひょうろう)がますますとぼしくなることを、氏元(うじもと)は、かねてからこころにかけておりました。農民にさいそくして運送しようとおもっているところへ、安西景連(かげつら)・麻呂信時らが、定包(さだかね)にはかられて、海陸の通路をふさぎ、兵糧をとろうとしていたのでした。ここで氏元は、ますますこまりました。
そんなある日、安西景連の使者が、わが東条の城にまいったのでした。むろん麻呂信時にさとられぬようにです。その使者は、
『信時は利のために義をわすれ、むさぼることかぎりない。まず信時をうちはたして、兵糧運送の道をひらき、里見義実どのにちからをあわせて、賊首(ぞくしゅ)定包をほろぼし、大義をつらぬきたいとおもっております。さきに義実どのがおいでなされたとき、おとどめしなかったのは、信時がこれをこばんだからです。さて、氏元どの、東条の城をでて、信時をせめなされ。すぐさま後陣から景連がうちます』とのべたのでした。
氏元は、これは安西・麻呂のはかりごとかとおもい、かるがるとはしたがいません。さぐりをいれてみると、景連のもたらしたことは陰謀(いんぼう)とはおもわれず、ここは、信時をうつことにしたのでした。
安西とうちあわせて、五月雨(さみだれ)の、黒白(あやめ)もわからぬ暗闇に、二百余騎(き)をしたがえ、麻呂信時の陣のある浜荻(はまおぎ)の柵の前後からひしひしとおしよせて、ときの声をあげ、突入したのでした。麻呂の陣は不意をつかれ、みだれながら、逃げ道をもとめました。防戦するものなどありません。そのとき信時は、安西の勢は少数だ、うてよ、すすめ、とはげしく下知(げち)したのでした。
いっぽう、杉倉氏元もまた、馬をすすめて闇にきらめく長刀(なぎなた)を水車のようにふりまわし、信時にうってかかったのでした。信時は、おまえが氏元か、よき敵ぞ、と槍(やり)をひねってつくと、はっしとうけて、はねかえし、ひけばつけいり、すすめばひらき、一上一下(いちじょういちげ)と手をつくしたのでした。
氏元と信時は、ひとをまじえずのいくさでした。信時のいらだってつきだす槍の穂先を、氏元は左手へちょうとはらいのけ、おっとうめいて、見あげるところを、長刀の柄をとりのべて内兜(うちかぶと)へつきいれ、むこうざまにつきおとしました。信時は痛手にたえず、槍をもちながら、馬からころげおちたのでした。その音に、われらは見かえり、信時のそばに走りより、その首をかきとりました」
義実は、十郎輝武の話をききおわると、
「氏元の軍功は賞するにあたいするが、はかりごとがたりぬ。景連の変心は、信時をうつことにあった。氏元が安西にそそのかされて信時をうったことは、みかたのためでなく、景連のためだ。で、その安西は、どうしている?」ときいた。十郎輝武は、
「安西景連はその夜のうちに前原(まえばら)の柵をこえて、いずこともなくしりぞきました」とこたえた。
義実は、扇(おうぎ)で膝(ひざ)をうち、
「そうだろう。それで景連のはかりごとはよめた。かれらが滝田の城をせめたときき、定包は逆賊ゆえ、里見勢にほろぼされるとさっしたのであろう。信時は、安西ではたすけにならず、いっそ里見と合体し、氏元に信時をうたせ、その虚に乗じて、平館(ひらたて)をせめおとし、朝夷郡(あさひなのこおり)をあわせ、自分の所領としようとしたのだ。わたしの推量にまちがいはない」という。
そこへ、東条の城から再び使者がかけつけてきた。
「ご注進でございます。氏元が軍兵をまとめ、東条に帰城しました。その間、景連は前原をしりぞき、平館の城をのっとり、麻呂の領地朝夷(あさひな)一郡をみな景連のものとしました。氏元は労おおくして功すくなしと立腹、援軍を少々さしむけくだされば、先陣をうけたまわり、朝夷一郡はいうにおよばず、景連の根城をほうむって、このいきどおりをはらそうともうしております」と、使者の口上(こうじょう)をのべ、孝吉・貞行あての書状もよせた。この二人は、義実のみごとな推量にただただ感服した。そして、二人はいう。
「はやく景連をうちましては」
義実は首を横にふり、
「いや、安西景連はうたぬ。われらが定包をうったのは、一人の利のためではなく、民百姓をすくうためだ。われらが長狭(ながさ)・平郡(へぐり)の主(あるじ)となることができたのは、すべて土民のちからだ。これこそ、おもわぬしあわせだ。いまいくさをおこし、地をあらそったなら、田畑をあらし、人をころしてしまう。これは、われらが願わぬところである。安西景連は、定包ほどの悪人ではない。しかし、いずれ雌雄(しゆう)を決するときがくるであろう。そのときも、こちらが手だししてはならぬ。ただ、手をゆるめるな」とさとした。
一同、義実の言をよしとした。そして義実は、氏元あての書状の筆をとった。みなは、その行動をほめ、安西をうつことをきんじたのである。
夏がきた。安西景連の老党、蕪戸訥平(かぶととつへい)なるものが、滝田の城をたずねて、定包滅亡をいわった。
「こののち、両国たがいにおかすことなく、たすけあいたいとねがっております。その義にはたりませんが、乗馬三びき、白布百反(たん)を進物として持参いたしました」
義実は、貞行・孝吉に、
「その使者をねんごろにもてなせ」といった。
蕪戸がかえったあと、義実は、金碗(かなまり)八郎を景連のもとに返礼としておくった。むろん、みやげ持参である。
景連はよろこび、孝吉をもてなし誓書をしたためた。ここに、安西は安房・朝夷の二郡、義実は神余(じんよ)の旧領、長狭・平郡の二郡を領し、あらそうことがなかった。
七月七日、星祭りの点茶の礼がおこなわれた。里見の家例である。
その夕暮れ、義実は、東条の城からよびよせた杉倉氏元をはじめ、堀内貞行・金碗孝吉ら近臣をあつめた。義実はいう。
「幸い二郡をおさめるようになり、ともかく平穏になった。これもおまえたちの功があったからこそだ。氏元・貞行は父の遺命をうけて、わたしにしたがってくれた。その忠信は、いまさらあらためていうべきではないが、白箸河(しろはしかわ)のほとりで金碗(かなまり)孝吉にであわなければ、この功業もはたしえなかったであろう。また、ハトが檄文(げきぶん)をつたえなければ、定包をすみやかにうつことができなかったことも事実だ。
さて、こよいは星祭りだ。二つの星があうという。わたしはすでに天にちかった。ここ滝田の城の八つのすみに八幡宮(はちまんぐう)を建立(こんりゅう)し、秋ごとにまつり、また領内にハトをころすな、と触(ふ)れをだそう。それから金碗孝吉には、長狭の半郡をあたえ、東条の城主になってもらおう。氏元・貞行には、所領おのおの五千貫をあたえる。そのようにこころえよ」といい、そのしるしの感状を、まず孝吉にあたえた。孝吉は三たびおしいただき、そのまま義実にかえした。
「堀内・杉倉のご両所からさきに恩賞をたまわり、かたじけなくぞんじます。わたしは、はじめから名利(みょうり)はかんがえておりません。逆臣を誅(ちゅう)しようとおもっていただけです。いま義実どのの威福(いふく)によって、その宿願をはたしました。この上ののぞみは、ありません」といった。義実は、
「もっともだが、功ある人にあたえないわけにはいかぬ。まげて、うけてくれ」という。貞行らもすすめた。孝吉は感状をうけとり、それをひらいてよみ、
「これ以上ことわっては、恩義を知らないものになります。しかし、うけては、いまさら故主へ対して不忠ともなります。うけてうけざる孝吉が、あの世の主君、この世の主君のため、ほかにすべがありません」と刀をぬき、それに感状をまきそえ、自分の腹につきさした。
義実らは、これは、とそのそばにちかよった。
義実は傷口を見て、
「切っ先深くはいったので、もうたすからない。このまま息たえては、狂死におもわれる。苦痛をしのんで、こころのこりなくわけをはなせ」といった。
孝吉は、きっと顔をあげ、
「故主の死をききましたとき、この腹はきるべきでした。ただ、定包をうたんとねがい、命をながらえてきました。わたしの武芸の弟子、杣木朴平(そまきぼくへい)・無垢三(むくぞう)が死んだ罪でもわたしは腹をきるべきでした。楽しかるべき今宵(こよい)のこの席をけがしたことを、おゆるしください」と、つきたてた刀を右手のほうにひこうとした。
義実が、「とどめさせよ」というと、貞行・氏元は、孝吉のこぶしをとどめ、
「冥土(めいど)の旅をいそがれることもあるまい、かたりつくせ」といった。義実は息をはき、
「わたしは孝吉のこころざしを知ってはいたものの、こうなるとはおもっていなかった。なまじ恩賞の沙汰(さた)をして、その死をはやまらせたのは、わが生涯(しょうがい)のあやまちであった。金碗(かなまり)八郎孝吉、黄泉路(よみじ)にまいるおまえにこの義実がはなむけしよう。木曽介(きそのすけ)、あの老人をここによべ」といった。
氏元は、はっとこたえて、縁側にでて、
「上総(かずさ)の一作(いっさく)、はやくまいれ」と声高によぶと、ただいま、と声も鼻もつまり、目には涙、六十歳あまりの農民が脚半甲掛(きゃはんこうかけ)、裾をはしょり、右手に菅笠(すげがさ)、左手には五歳ほどの男の子の手をひき、腰をかがめつつ出てきた。
折戸(おりど)のかげのこの農民に、氏元は、「ここだ、ここだ」と手まねくと、農民は縁側に手をかけるとのびあがり、孝吉に、
「あっ、八郎どの、孝吉どの、上総からでてきた一作ですぞ。あなたが、わが娘、濃荻(こはぎ)にうませたのはこの子ですよ。やっとたずねてきた日に切腹なさるとは、なにごとでしょう。もう、口もきけないのですか」と泣くばかりだ。
一作という声をきくと、孝吉は目をあけたものの、口をきくことができない。氏元は孝吉に、
「ごらんになられたか。わたしが館(やかた)にまいるおり、この老人が道にたたずみ、金碗(かなまり)どのの屋敷はどこでしょうかと、わたしの供(とも)のものにきかれたのです。それで、金碗どのとはどのようなかかわりがあるのかとただすと、かようかようと男の子のことをかたったので、そのまますててはおけず、ここにつれてきたのです。それを義実どのにもうしあげると、孝吉のかくし子とはおもしろい。それなら、すえたのもしきものだろう。のちほど、みずからひきあわせよう、それまで金碗にはないしょにしておけ、ともうされたのです。で、一作と男の子とをいっしょに、奥の庭の折戸のかげにしのばせておいたのです。
ところが、おもってもいなかった孝吉どのの切腹。老人のおどろきと悲しみは、さぞ深いものでしょう。せめて、いま親と子の名のりをなさるようにと、義実どののおぼしめしです」とよびかけた。
孝吉は、やや顔をあげ、
「そうでしたか。わたしは、主君をいさめかねて、滝田を立ち去り、上総国天羽郡(あまはのこおり)、関村(せきむら)の一作という農家にしばらく足をとどめました。一作は父の代からの家僕でした。その一作の娘濃萩(こはぎ)と、千歳(ちとせ)の秋とちぎりつつ、枕の数をかさねたので、濃萩は、ただならぬ身となったと、わたしにつげました。
わたしはおどろき、ひとの娘にきずつけては、いまさら親にあわせる顔がない、あさましいことをしたと、百たびくい、千たびくい、しのびしのび、子をおろせと濃萩にすすめました。ほかにかんがえのないままに、わび状一通を一作にのこし、関村をさり、あちらこちらさすらい、五年の歳月がすぎました。面目(めんぼく)のないことです」という声もこころぼそい。一作は、
「さすがにいさましい武士でも、恋にはもろい人の情。孝吉どのは妻も子もなく、旅宿(たびね)のつれづれの娘濃荻との仲は、いたずらに似て、いたずらではありません。娘が故主のたねをやどしたことはあっぱれ果報もの、よき婿(むこ)をえたと、婆(ばばあ)もろともよろこんだものです。しかし、孝吉どのはかえらず、ゆくえをたずねてもわからず、そのうち娘は臨月、うみおとしたのは男の子。ああ、めでたしと祝いましたが、濃荻はつもるものおもいに、ついにかえらぬ人となったのでございます。
その赤子は、すこやかにそだち、これが孝吉どのと娘の形見ぞ、とそだててまいりました。五年ののち、孝吉どのの合戦のうわさをきき、たずねてまいりましたが、来てもかいのないいまわの対面、一作の悲しみはとるにたらぬものですが、この子が成人したのちに、両親の顔も知らないのではくやまれます」といい、男の子に、
「おまえさまの父親だよ。顔をおぼえておけ」と指さすと、男の子は、「父上か」と声をたてる。
孝吉は、声にはならず、ただ顔を見るばかりだ。
唇の色がかわった。臨終と義実はさっし、男の子をそばによび、
「面影(おもかげ)は、父八郎孝吉によく似ている。名はなんという?」と、一作にきいた。一作は、
「しかとさだめておりません。故主と娘の形見なので、加多三(かたみ)とよんでおります」というと、義実は、
「この子は、われらがあずかろう。父孝吉はわれらをたすけて、大いなる功があった。この子の名を金碗(かなまり)大輔孝徳(だいすけたかのり)と名のらせる。父の忠義をうけつぐのだ。大輔が成人すれば長狭半郡をあたえ、東条の城主としよう。外戚(がいせき)の一作は、それまでここにとどまり、大輔を後見せよ。当座の恩賞五百貫、この大輔にとらせる。八郎孝吉、これを冥土のみやげにし、仏恩をうけよ」というと、孝吉は鮮血にまみれた左手をあげ、義実をおがみ、
「人びと、介錯(かいしゃく)を……」と、首をのばした。
義実は、「くるしませはせぬ」と、みずから背後にまわり、太刀をふりおろした。首は前におちた。
一作のなき声がたかまった。
七日の星はおち、月は西にはいった。このとき、女のかたちが影のように大輔の身にそうた。それを見たのは、義実だけであった。女のかたちは、玉梓(たまずさ)ではなかったのか。
義実は、氏元らに孝吉の野辺おくり、大輔の養育をねんごろにするよう命じ、奥にはいっていった。まだ義実の脳裏には、玉梓のうらみのことばがのこっている。おまえもやがてほろびる、といったことばが……。
金碗(かなまり)八郎孝吉(たかよし)が自害したことで、孝吉のこころざしを知らぬものはうわさした。……孝吉は、死ぬほどのことはなかった。功あった恩賞を辞退し、あたら命をうしなった。これは、玉梓(たまずさ)にのろわれたからだ。
歳月がながれた。徳は孤(こ)ならずともいわれるように、近隣の武士で、よしみをつうじて義実と婚縁(こんえん)をのぞむものがおおかった。そのなかで、上総の国椎津(しいつ)の城主万里谷入道静蓮(まりやのにゅうどうじょうれん)の娘、五十子(いさらご)がかしこく美しいとつたえきき、義実はこの娘を妻にむかえた。そして、義実は一女一男の父親となった。
一女のうまれたのは嘉吉(かきつ)二年の夏のすえである。その三伏(ぶく)の時節をあらわして、伏姫(ふせひめ)と名づけられた。夏(げ)至(し)の第三の庚(かのえ)の日を初伏、第四の庚の日を中伏、立秋のあとの第一の庚の日を末伏、あわせて三伏とよぶ。いずれにしても、夏のさかりである。一男はあくる年のすえにうまれ、二郎太郎(じろうたろう)と名づけられた。このものは、のちに安房守義成(あわのかみよしなり)と名のる。
伏姫は、竹のふしからうまれたかぐや姫のように、幼いときから美しかった。肌は玉のようにすきとおり、うぶ毛はながくうなじにかかり、三十二相、ひとつとしてかけたところがない。
義実・五十子は、これをいつくしみそだてた。
だが、伏姫は三歳になっても口をきかず、わらいもせず、よく泣いた。父母の心配は深く、医療をつくし、高僧験者(こうそうげんじゃ)の加持祈祷(かじきとう)をおこなったがききめはなかった。
安房郡に、洲崎明神(すざきみょうじん)というむかしからの社(やしろ)があった。この社の山の根方に、大きな石窟(いわむろ)がある。そのなかに石像がある。役行者(えんのぎょうじゃ)という。このあたりからわきでる水をとっこ(・・・)水(とっこすい)とよぶ。夏でもかれることがない。五十子は、義実にいった。
「文武(もんむ)のむかし、役小角(えんのしょうかく)が、伊豆大島(いずのおおしま)にながされたことがありました。その大島から海上十八里、行者は波涛(はとう)をこえて、洲崎にあそびにおいでになられ、霊験(れいげん)をあらわされましたので、のちの人が行者の像をつくり、石窟(いわむろ)に安置しました。わたしは伏姫のために、ねがいごとをして、月づきに石窟に代参のものをつかわし、すでに三年になります。伏姫に目にみえる《しるし》はありませんが、つつがなくそだちましたのは、そのご利益(りやく)とおもわれます。もし、伏姫自身がおまいりしたら、きっと奇特があらわれましょう」
義実はそれをきき、
「わたしも、それをきらうわけではないが、洲崎は里見の領内ではない。かかる地に幼いものをつかわすのはどうかとおもう。やめるがいい」といった。だが、五十子はあきらめきれず、義実にそれをくりかえしていった。義実のこころもうごき、年老いた男女をえらび、伏姫の供(とも)とした。
伏姫は乗物にのり、老女の膝(ひざ)にだかれた。伏姫はそのちいさな旅でもなきつづけた。従者(ともびと)は道をいそいだ。こうして洲崎につき、明神の別当養老寺(ようろうじ)を宿とし、石窟に七日間まいった。そして、伏姫はふたたび乗物の人となり、帰途についた。
平郡(へぐり)のほうに一里ばかりきたとおもうと、伏姫はひどくむずかりだした。従者はこまりはて、女どもは乗物からでて、伏姫をだきながら道をいそいだが、はかどらなかった。
そこの道ばたに、八十歳あまりの老人が一人、やすんでいた。眉は白く、杖にすがっていた。その老人は、伏姫の顔をつくづくみて、
「これは、里見家の姫ではございませんか。石窟のききめがなければ、このわしがなおしてあげましょう」といった。
伏姫の従者たちは、この老人はただものではない、とさっした。老女が、伏姫の日常をかくさずかたった。老人は、しばしばうなずきながらきいていて、
「まことに霊のたたりがある。これは、この姫の不幸だ。それをはらうことはできなくもないが、禍福(かふく)はあざなえる縄(なわ)のごとしというように、幸と不幸は、ともにある。たとえ一人の子をうしなっても、のちにあまたのたすけをえることができれば、禍(わざわい)は禍ではないのだ。損益もそうだ。よろこぶべからず、かなしむべからず。帰館したなら、義実夫婦につげるがよい。これをあげよう。おまもりにするがいい」と、老人はいい、仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)・忠(ちゅう)・信(しん)・孝(こう)・悌(てい)の八字をほった水晶の数珠(じゅず)一連をふところからだし、ひらりと姫の襟(えり)にかけた。
老女は、うろたえて、
「いまもうされた霊とは、なんのたたりなのでしょうか。くわしくおはなしなされ、のちのちまでおはらいください」というと、老人は微笑をうかべて、
「妖(よう)は徳に勝つことはない。よしや悪霊(あくりょう)がたたっても、里見の家はますますさかえるであろう。ただ、満つればかならず欠く。ここではらうほどのことはあるまい。伏姫という名に、なにかかかわりがあるのかもしれぬ。さて、きょうからは、この女の子がなくことはないだろう。はやくいくがいい。わたしもさる」というと、洲崎のほうに走っていった。それは、とぶようでもある。姿は、たちまち見えなくなった。
従者たちは、ぼうぜんと見おくり、これは役行者(えんのぎょうじゃ)のお示しではないかと、みなふしおがんだ。
滝田をさして、伏姫一行は出立(しゅったつ)した。その途中、伏姫はむずからず、こころよげにあそびたわむれた。
滝田の城にもどると、老女は義実・五十子にこの子細をつげた。むろん、数珠を見せてかたった。義実も、洲崎明神の冥助(めいじょ)にちがいない、と蔵人貞行(くらんどさだゆき)を、明神と行者の石窟につかわせた。数珠は、伏姫の襟にかけたままである。
四年の歳月がながれた。伏姫は七歳となる。うまれながらの夭顔美貌(ようがんびぼう)が、ますますかがやいた。昼は手習いの草紙にむかい、あきることもなかった。夜は管弦のしらべにふけって、夜半にいたるのもわすれるほどだった。
十一、二歳になると和漢の書籍をよくよみ、ことの道理をさとり、つまらぬほうには見むきもせず、親をうやまい、家臣のものたちをあわれみ、くらしの日々にそれがよくあらわれていた。義実の誇りともなった。
話は、かわる。この長狭郡(ながさのこおり)の富山(とやま)のあたりの村落に、あやしいものがたりがある。
技平(わざへい)という農民がいた。この家の飼犬がめずらしく子犬を一ぴきうんだ。子犬はおす犬である。一ぴきだけでうまれた犬は、骨格がたくましく、ちからづよく、これにかなう犬などないとつたえられている。
技平は、この犬をだいじにし、藁屋根(わらやね)のついた小屋にすまわせた。七日ばかりあとの夜のことである。背(せ)戸(ど)の垣をこわして、オオカミがはいり、母犬をくいころしてさった。
技平は、あくる朝、これを見て立腹したが、ほかに《すべ》がない。のこった子犬は、まだ目があかず、乳もこころぼそい。それに技平はひとり身だ。昼は田畑にでて、夜も家にもどらぬこともある。技平は、これでは子犬の死ぬのをまつばかりだ、とつぶやいた。
だが、技平がえさをあたえないのにうえた気色(けしき)はみえず、十日めには目がひらき、ふとりだした。技平は、これはただごとではない、とひとにもつげ、注意もしていた。
ある朝、技平がおきてみると、年老いた一ぴきのタヌキが、犬小屋から走りでて、富山のほうにかえっていった。技平はおもった。さては、あの子犬は、タヌキにやしなわれていたのか。だが、このようなことがあっていいのか。ただ、おどろくばかりだ。
技平は、しかとたしかめようと、その夕暮れ、背戸にかくれてタヌキをまった。子犬がなき声をたてた。母犬をしたってのことか。そのとき、滝田の城のほうから鬼火(おにび)か人魂(ひとだま)がひらめき、中天から落ちてきて、犬小屋のあたりできえた。そこへ、けさ見たタヌキが富山のほうから走ってきて、小屋にはいった。なき声はやみ、乳をすう音がきこえた。
四、五十日すると、子犬はおおきくなり、よく歩いた。タヌキは、こなくなった。いまも、このあたりを犬懸(いぬかけ)とよぶ。
東条の城は、杉倉木曽介氏元・堀内蔵人貞行が一年ごとに輪番でまもっていた。貞行の役目はおわり、氏元に城をわたし、滝田にもどることになった。貞行は犬懸の里でタヌキの話を耳にした。貞行は技平の家をたずね、その犬を見た。滝田にかえって、このことを義実につげた。義実はこころひかれ、
「その犬は、まれにみる逸物(いつぶつ)であろう。むかし丹波(たんば)の桑田村(くわたむら)に、《みかそ》というものが足往(あゆき)とよぶ犬をかっていたそうだ。この犬が、ある日ムジナをころした。そのムジナの腹のなかから八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)がでてきたと『書紀(しょき)』垂仁記(すいにんき)にみえる。タヌキが犬の子をそだてるとは、ふしぎなことだ。
犬は狐狸(こり)にきらわれるものだが、そのタヌキが、この犬に母がないのを見て、あらそうことをわすれ、乳でそだてたことは兼愛の道に似ている。『狸(たぬき)』という字は、里にしたがい、犬にしたがうだろう。これは里見の犬、ということだ。わたしは、その犬を見たい。つれてくるがいい」といった。
貞行は承知し、日ならずして犬を手にいれてきた。
義実は、犬を見た。骨が太く、目がするどく、大きさはふつうの犬の倍はある。たれる耳、まいた尾、毛は白に黒がまじっている。首と尾の八か所に《ぶち》がある。で、義実は八房(やつふさ)と名づけ、奥庭でかった。技平をめし、これに飼育させた。
のちには、伏姫もこれを愛した。縁側にでた日など、「八房、八房」とよぶと、尾をふり、つっぱしり出てきて、伏姫のそばをはなれなかった。
春の花、秋の紅葉と、幾たびかこずえの色をそめかえて、伏姫も二八(にはち)の十六歳になった。いよいよ、その美しさはにおうばかりである。
この年の秋八月、安西景連(あんざいかげつら)の領地、安房・朝夷(あさひな)の二郡は不作であった。景連は、蕪戸訥平(かぶととつへい)を使者として、滝田の城につかわした。義実にこういってたのんだ。
「天候は、われらの領地にわざわいして、すべてのものが困窮しております。だが、里見どのの領地は、この秋も豊作とききおよんでいます。米穀五千俵をおかしください。来年の秋には、倍にしておかえしいたします。景連は、すでに七十歳にもなりますが、男の子ばかりか、女の子もおりません。で、里見どののご息女をやしなって、一族のなかから婿(むこ)をえらび、所領をゆずろうとおもっていますが、どうでしょうか。これがゆるされるなら、景連の生涯のしあわせです」
義実はこの口上をきき、
「わたしにあまたの子があるなら、それもできようが、一男一女であるから、これは承知できない。しかし、豊作不作は、天候にかかわる。隣国の不作をきき、このまますておけない。これからその五千俵をおくりとどけよう」とこたえた。
このとき堀内貞行は東条の城におり、また杉倉氏元は老病でふせっていたので、意見をいうものはいない。ただ、二十歳にたっした金碗大輔孝徳(だいすけたかのり)が、近習(きんじゅう)としてつとめていた。外祖父(おおじ)は、五年まえになくなっている。このおり大輔は、一作の看病を寝食もわすれてつくしたものであった。その金碗大輔が、義実にいった。
「つね日ごろ、景連はあいさつにもみえません。ことの難儀におよぶと、養女をもとめ、米穀をかりにまいります。景連は、恩ということを知りません。このときにこそ、うつべきではないでしょうか。もし、景連に米穀をかしますと、まるで賊(ぞく)にかすのとおなじことになりましょう」
義実は、
「大輔。弱輩(じゃくはい)のおまえがなにをいう。景連は、こころよからぬものだが、不作に乗じてこれをせめることができるものか。それに、景連は直接仇(あだ)はしておらぬ。ゆえなくして兵をうごかすのを、無名のいくさというのだ。無名のいくさには、人がしたがわぬ」といましめ、米穀五千俵を安西におくった。
そのあくる年、義実の所領内の平郡・長狭が不作になり、安西景連の領地が豊作となった。景連は、かりた米穀をかえさず、義実がたの人びとはこまった。
金碗大輔は、義実にいった。
「なぜ、さいそくしないのです?」
義実は、「おまえのもうすこと、もっともだ。その使者には、おまえがたて」といった。
で、大輔は従者十人あまりとともに、夜明けに滝田を出立した。むろん一行はいそいだ。真野(まの)の館につき、老党蕪戸訥平(かぶととつへい)にあい、不作の事情をのべ、五千俵の返却をたのんだ。訥平は、主人景連につたえてから、といって、奥にはいった。半日またされた。日がくれかけた。やっと訥平がもどってきた。訥平が、いった。
「主人景連がかぜにおかされてふせっており、おそくなりました。去年の秋、当地の危急をすくっていただいたので、こられなくとも恩にこたえなければならぬとぞんじますが、こちらは不作のあとなので、いまも不足をしております。老党どもが評議をするように、と景連のことばです。しばらく当地におとどまりください」と、みずから大輔らを旅篭(はたご)に案内した。もてなしはじゅうぶんである。
五、六日がすぎた。大輔は、訥平にさいそくした。その訥平も、病いと称して、ひきこもったままだ。
大輔に疑いのこころがおこった。さぐってみると、景連の兵たちは出陣の用意をしているらしい。
「どうも、おかしい。われらの不作に乗じて、せめるかんがえかもしれない。いま一日、さぐることがおくれたなら、とらえられてしまったろう。あやうい」と従者にいい、姿をかえ、城をぬけでた。
一里あまりきて、おくれてついてくるものをまった。ながれる汗をぬぐった。
そこに、蕪戸訥平が兵をひきい、馬をすすめてきた。
「金碗(かなまり)大輔孝徳、いまさら逃げるとはきたないぞ。おまえの主人義実は、乞食(こじき)までした浮浪人だ。白浜に漂泊して人びとをまどわし、土地をうばい、両郡の主(あるじ)となったのは、麻呂信時(まろのぶとき)をほろぼしたわが主君安西景連のたすけによったからだ。それゆえ、腰をかがめ、臣下として景連どのにおりおりあいさつにみえるべきを、わずかに米をおくりとどけてきただけだ。
また、娘伏姫が、美女ときき、かりに養女と称し、じつは側女(そばめ)になさんとしたが、義実はおろかゆえ、これにしたがわなかった。あれこれ、まことに無礼だ。時いまだいたらずと、年ごろゆるしておいたが、いつまでも春の日とでもおもっているのか。おまえら義実主従のおろかさよ。まだ知らないだろうが、わが主君景連は三千の兵をおこし、もはや東条の城をせめとり、さらに滝田をせめるので、おまえらの帰る道はないぞ。いのちがおしければ、降参せよ」と、訥平はいった。
大輔は、「おこがましいぞ、ネズミども。主命をうけながら、ことがならず、むなしくかえるこの大輔の手みやげに、おまえの首をひきぬいてまいる」と、槍(やり)を手に、従者を左右にしたがえ、わずか七、八人で敵の多勢のなかにつきいった。
半刻(はんとき)(小一時間)あまりのうちに、三十余騎のしかばねがきずかれた。大輔の従者もたおれた。大輔ひとりだ。それでも一歩もひかず、訥平をうとうとしたが、訥平の姿が見えない。大輔は、ついに闇にまぎれた。
義実は、仁心をもって民をおさめ、義信をもって隣郡とまじわってきたが、景連はそれとはちがう。その《たばかり》に、義実はおちいった。
安西景連(かげつら)は、義実の使者金碗大輔(かなまりだいすけ)をあざむいてとどめおくと、ひそかに軍兵を手わけし、東条・滝田の両城にひたひたとおしよせた。その一隊は、二千余騎。景連みずからこれを指揮し、滝田の城の四門をかこみ、日夜せめたてた。
他の一隊の、一千余騎をひきいるのは蕪戸訥平(かぶととつへい)で、堀内貞行(ほりのうちさだゆき)のこもる東条の城をせめた。そのいきおいは、破竹にもにる。
東条・滝田の両城は、よく防戦したが、ついに食糧が底をついてから七日たった。兵のうち、あるものは夜半に塀をこえて、射(い)ころされた敵の死骸(しがい)の腰兵糧(こしひょうろう)をさぐりとり、飢えをしのいだ。あるものは馬をころし、また、死人の肉をくらうものも出た。義実は、
「景連は裏表のある武士。盟(めい)をやぶり義にたがうもの、おそれるほどのことはないが、わしの徳がたりず、五穀がみのらず、倉は《から》で、そとには大軍だ。飢(う)えてはどうにもならぬ。ただ、この義実のこころは一つ、この城中にいる兵たちを殺すにはしのびがたい。こよい、みな闇にまぎれて西の城戸(きど)からされ。そのとき、この城に火をかけ、妻子を殺し、義実も死ぬ。二郎太郎ものがれよ」と、杉倉木曽介氏元(きそのすけうじもと)らにいった。
これをきき、氏元らは、
「それにはしたがいませぬ。われらは寄手の敵とさしちがえ、恩に報じるかんがえです」という。義実は、なおもさとしたが、言をききいれなかった。
義実の一男、二郎太郎義成(よしなり)は、十六歳になる。二郎太郎はいった。
「弱冠(じゃっかん)のわたしが、異見をもうしあげることをおゆるしください。城中すでに兵糧つき、兵たちは飢死するもの、と安西勢はおもっているでしょう。その裏をかくため、毎日煙(けむり)をたてますと、安西勢はおもいがけぬこととおどろくでしょう。また、大声のものをえらび、城楼(やぐら)にのぼらせ、寄手にむかい、景連の非道の行状、盟誓(ちかい)をやぶり、恩を仇(あだ)とし、不義のいくさをおこした、その罪をせめてはどうでしょうか。安西勢は、たちまちせめるこころをうしなうでしょう。そのとき、城からうってでて、つきくずすという議は、いかがですか」
義実はうなずき、兵のなかから声高いものをえらび、城楼にのぼらせ、景連の罪をせめさせたものの、飢(う)えているので息がつづかず、失敗におわった。
義実は、人びとからはなれ、杖(つえ)をつき、そぞろ歩きをした。年ごろかわいがっている八房(やつふさ)が、尾をふりつつ、ついてきた。むろん、八房も飢え、ひょろひょろとして足がさだまらない。肉もおち、骨がめだち、鼻がかわいている。義実は右手で八房の頭をなでながら、つぶやくようにいった。
「八房、おまえも飢えたか。兵たちを飢えからすくおうとおもってばかりいて、おまえのことはわすれていた。犬は、飼主の養いで一生をおくるものだ。その飼主が飢えているありさまだ。いま、試みにおまえにきく。十年の恩を知っているか。もし、その恩を知ることができるなら、寄手の陣にしのびいれ。敵将安西景連をくいころしたなら、われらの城中の兵たちを死からすくうことになる。そうすると、その第一の功はおまえだ」
義実は、微笑をうかべた。八房は、その主人の顔を見あげた。まるで話がわかるようだ。義実は、ますます八房をふびんにおもい、また頭をなでた。
「八房。おまえ、功をたてよ。そうしたなら、魚肉はあきるほどあたえるぞ」
八房は、うしろをむいた。義実はたわむれにいった。
「魚肉はいやか。それなら位をあたえようか、あるいは領地をあたえようか。位も領地もほしくないか。そうだ。わが婿(むこ)にして、伏姫と夫婦にするか」
八房は、尾をふり、頭をあげ、義実の顔をみつめ、わんとほえた。義実はわらい、
「伏姫は、われらがおまえを愛するように、おまえを愛している。ことがなったときは、婿にしよう」といった。八房は前足をおり、拝するように、悲しくないた。義実は、自分のたわむれに興味をうしない、
「つまらぬたわむれだ」と、ひとり愚痴(ぐち)をいい、奥にはいった。
その夜、兵たちも、この世のなごりぞとおもいさだめた。義実は、宵(よい)のうち、奥の間に五十子(いさらご)・伏姫・義成をはじめ、老党氏元らをあつめ、盃(さかずき)をかわした。永別の宴である。酒が一滴もないので、水にかえた。
こよい十日、月が没したら、うってでよう、とふれてある。兵どもも、おもいおもいに水盃をかさねた。水にうつる星の影、鎧(よろい)の袖におく霜(しも)もきえようとする。
「時刻(とき)はよし」と、義実父子は手ばやく鎧をとった。五十子、伏姫、それに老女童女にもそれぞれきせかけた。遠い寺の鐘がなった。
そこへ、そとで犬のなき声がした。義実は耳をそばだて、
「あれは、八房ではないか。いつもとちがう声ではないか。でてみよ」といった。
近臣のもの三人、縁側から、「八房、八房」と、よびかけてみると、八房は、あやしくなまなましい人の首を縁側にのせた。八房は、踏石に前足をかけた。
「これは、どうしたことか」と、みるものは、おどろいた。氏元は、
「飢えて、人のなきがらをくらうのは、犬のならいだ。これみよがしに、もってきたのだろう。おいはらえ」といった。
義実は、「まてまて」とよびとめ、
「もし、みかたのなきがらなら、犬とてそのままにはできぬ。わたしが見よう」と、縁側に出て首を見た。
「木曽介、この首をなんとみる。鮮血にまみれて、さだかでないが、それは景連に似ているではないか。あらってみよ」という。氏元もまた、いぶかりながら手水鉢(ちょうずばち)のそばにはこび、《ひしゃく》の水を首にかけてあらいながした。義実主従が見た。
「はたして景連の首だ。あきらかだ」と義実がいった。人びとは、八房の功をうらやましくおもった。
義実は、
「このような奇怪なることの前兆があったのだ。わたしが、兵たちをいかなる手だてですくおうかとおもいかね、ひとり庭にでたおり、この八房もついてきた。飢えた八房をみて、おまえがもし寄手の陣にしのびいり、景連をくいころし、城中の数百の兵たちをすくったなら、日ごと魚肉をあたえようというと、よろこぶ気配をみせなかった。さらに、所領をあたえようか、重い位につかせようかといっても、これもよろこぶ気配はない。それなら、つね日ごろおまえを愛する伏姫をとらせようかといったとき、八房はよろこばしげな気色(けしき)で、尾をふりつつほえたものだ。愚痴からでた《たわむれ》だ。そのまま奥の間にはいり、そのことはすっかりわすれていた。八房はそれをわすれず、二、三千余騎の大将景連をたやすく殺し、その首をもたらした。ふしぎといえばあまりある。奇怪なことだ」と、八房を自分のそばにまねき、ほめたたえた。
氏元らもおどろき、
「畜生にして、人にもます功だ。これも、義実どのの仁心徳義によるものでしょう。それに、神明仏陀(しんめいぶつだ)の冥助(めいじょ)でございます」と称賛した。
そこへ、物見の兵が庭口から走ってきた。
「敵中になにか異変がおきたのでしょう。にわかにみだれ、さわいでおります。すみやかにうってでれば、勝利するでしょう」という。
義実は、「そうであろう。いますぐ、うってでよ」と、城中につたえさせた。そして、義実みずから寄手の陣をおそおうとすると、義成がすすみでて、
「景連が死にましたので、たとえ寄手が大軍でも、おいはらうのはたやすいことです。この義成に、氏元をさしそえてください」といい、庭口から走り出た。
氏元も、「景連はうちとった。おくれては犬よりおとるぞ。出よ。すすめ」とよばわり、三百余騎をふた手にわかち、義成は前門から、氏元は後門から、城戸をさっとひらかせ、みだれさわぐ寄手の陣へまっしぐらにつきいる。敵軍のなかばは逃げ、なかばは降参した。まもなく、夜明けである。
寄手の兵糧は、のこらず城中にはこばれた。義実は、降参した兵どもをゆるした。篭城(ろうじょう)していたみかたの兵たちには白がゆがくばられたが、一碗(わん)のほかはゆるさなかった。飢えているものに急におおくくわせると、たちまちいのちをおとすからである。
いっぽう東条の城をせめる蕪戸訥平は、十重二十重(とえはたえ)にかこみ、日夜攻撃をくわえた。東条には、滝田の城中より半月分おおい貯蔵がある。貞行は敵をおいはらい、滝田の後詰(ごづめ)をしようと、寄手に夜討ちをかけたが、少数の兵ではおもうようにならない。寄手は、新手(あらて)もいれた。
そこへうわさがながれた。景連がうたれ、義成・杉倉氏元らが援軍にくるというのだ。寄手の兵どもはさわぎ、訥平も近臣三人とともに闇にまぎれてのがれた。
夜明けに兵どもがそれを知り、「大将がうらめしい」と腹をたて、東条の城に降参の使者をおくってきた。
貞行は、「義実どのにおつたえせよ」と、滝田の城へ使者をはしらせた。そこへ滝田から勝利をつげる兵がきた。
ここに館(たて)の両城も、義実の掌握(しょうあく)するところとなった。蕪戸訥平らも農民に殺され、首級がとどけられた。
こうして里見義実は四郡一か国を所領し、そのいきおいは朝日がのぼるごとく、めぐみは雨がうるおすようである。領民たちは、夜、戸をとざす必要がなく、落ちているものなどひろうものもなかった。
平穏な日々がつづいた。
義実の功は、日本国じゅうにながれ、室町将軍もこのうわさをきいた。持氏(もちうじ)の末子(ばっし)、成氏朝臣(なりうじあそん)も復帰して鎌倉にいた。成氏は義実に書をおくり、その功を賞賛し、安房の国守となし、治部少輔(じぶのしょうゆう)に補(ふ)した。義実は京・鎌倉に献上品(けんじょうひん)をおくって、それにこたえた。
義実のこころにかかることがあった。安西景連に援助をこいにいったままもどらぬ、金碗大輔のことである。大輔は歳は若いが、おめおめとらえられるものではない。さては、あざむかれてうたれたものか。その消息を知りたいと、八方に人びとをだしてさがさせたものの、大輔のゆくえはたえたままだ。
義実は、郎党・兵などの功におうじて所領をあたえ、職をすすめた。八房は犬なので、朝夕の食事にこころをくばり、犬養(いぬかい)の職をおいた。それほどまでに配慮したのに八房は頭をたれ、尾をふせて、なにもくわなかった。さらに、おおくはねむらず、景連の首をおいた縁側のそばにきて、さろうとはしなかった。義実の姿をみると、縁側に前足をかけ、尾をふり、鼻をならし、なにかをこいもとめるふうであった。義実は、八房のこころをおしはかり、「もしや……」とはおもった。義実は八房を遠くひきはなすよう、犬養職に命じた。
八房は、たけりくるい、犬養をくいたおし、縁側をのぼり、奥の間をあっちこっちとかけまわった。女どもは、おそれまどい、たちさわいだ。障子(しょうじ)、襖(ふすま)がたおれた。八房は伏姫のいる奥の座敷にはいっていった。
そのとき伏姫は、書物をよんでいた。文机(ふづくえ)には『枕(まくらの)草子(そうし)』がひらかれている。そこには、翁丸(おきなまる)という犬が勅勘(ちょっかん)をこうむり、すてられ、またゆるされるという話がしるされていた。清少納言(せいしょうなごん)の文章にひきいれられ、くりかえしてよんでいた。
女どもの声がした。背後に走りくるものがいる。たてておいた筑紫琴(つくしごと)が横ざまにたおれた。伏姫の裳裾(もすそ)の上に、はたとふすものがいる。伏姫は、「なにもの!」とおもってみると、八房である。
伏姫はおどろき、文机に手をかけ、たちあがろうとしたが、八房の前足が長い袂(たもと)のなかにつきいれられているので、自由にならない。八房は子ウシにもひとしい大きさなのだ。伏姫は、人びとをよんだ。女どもが、走ってきた。そして、ほうきなどで、「シ、シ」と、おそるおそる、追いはらおうとしたが、八房は、目をいからし、牙(きば)をあらわし、うなり声をたてた。女どもは、ほうきをすてた。
そこへ、義実が手槍(てやり)をさげてきて、女どもをしかり、しりぞけ、八房をおいだそうと、
「畜生め、はやくいけ。でよ、でよ」と手槍の石づきをさしだし、おいだそうとした。八房はちっともうごかない。そればかりか、見あげて、牙をたて、ますますたける声をすさまじくし、かみかかろうとするありさまだ。義実は、
「理も非もわからぬ畜生に、ものいうのは無意味だが、愛する主人にたいしてその牙はどうしたことだ。おもいしらせてやる」と手槍をとりなおし、つきころそうとすると、伏姫は身を盾(たて)にして、
「おまちください、父上さま。あなたはとうといかたです。畜生の非をとがめ、おん手をくだされるのは、もったいないことです。いささかおもうこともありますので、おゆるしください」といって、目をぬぐった。
義実は手をとめ、
「おまえに、いいたいことがあるのか?」というと、伏姫は、落ちる涙をとどめ、すわりなおして、
「いうことにとまどいますが、いまもむかしも、日本も中国も、かしこい国守は、功あるものをほめ、罪あるものを罰します。この犬のごときにも功あれば、賞をくだされるものです。罪なくて罰してはなりません」というと、義実は、
「犬のために職をおき、食いものは珍味もあたえているではないか。それでも、賞がないというのか」となじった。伏姫は頭をあげ、
「むかしから綸言(りんげん)は汗のごとし、また、君子の言は四馬(よつうま)もおよびがたし、ともうします。父上は、景連をうちほろぼして、兵たちをすくうため、この八房の嫁に、わたしをあたえるとおっしゃったのではありませんか。たとえ、それがかりそめの《たわむれ》にしても、ひとたび約束なさいましては、たがえるべきではありますまい。八房が、大功をたてるにおよんで、たちまち約を変じて、かわって山海の美味をあたえ、また綾綿(あやにしき)の敷物をあたえて、ことたれりとするのでは、いつわりとおなじです。きょうから恩愛二つの義をたちて、わたしに暇(いとま)をくださいますよう。子として、親をすてようとおねがいしますのは、この世界に、わたしのほかはないでしょう」とかきくどき、袖の上には涙がおちた。
義実は黙然(もくねん)とし、ため息をつき、手にした槍をからりとすて、
「ああ、あやまった。法度(はっと)は上(かみ)の制するところだ。上(かみ)のおかすことは、下(しも)もおかすところだ。大乱のもとにもなろう。わたしは、実際に八房に、姫をあたえるこころはなかった。なかったといっても、いったことは事実だ。かえらぬは、口のわざわい。犬は、わが身の仇だ。それにつけても、おもいあたることがある。おまえがまだ幼いころ、立願のため、しのびやかに洲(す)崎(さき)の石窟(いわむろ)にまいった。その途中に老人がいた。
伏姫を見てまねきよせ、この女児は、多病で日夜となく、むずかること、みな悪霊(あくりょう)のたたりによるという。これをつぶさにときあかすと、天機をもらすおそれあり、伏姫という名によって、みずからさとれ、といい、消えたということだ。
おまえは、嘉吉(かきつ)二年、夏月伏日(なつふくにち)にうまれた。よって三伏(さんぶく)の義をとり、伏姫と名づけた。いままでさとることができなかったが、きょうわかった。伏姫の伏の字は、人にして犬にしたがうというのだ。これは、うまれたときからきまっていたことなのか。
このような執念深いたたりをなすのは、定包(さだかね)の妻であった玉梓かもしれぬ。この犬は母をなくし、タヌキがそだてたものときく。タヌキの異名を野猫(やびょう)といい、また玉面(ぎょくめん)とよぶ。その玉面を、和訓でとなえると、玉づら。『玉ずさ』『玉づら』とは、読みが近い。『狸(たぬき)』という字は里にしたがい、犬にしたがうというので、里見の犬になるきざしとおもい、かいならし、寵愛(ちょうあい)したことはくやしい。面目ない」と、ざんげすると、女どもも滝のように涙をながした。伏姫は、
「いったん八房にともなわれ、父上のおことばにいつわりのなかったことをはたしますが、犬畜生にからだをゆるし、けがれることはしません。ご安心ください」といって、はじらった。義実は、
「娘と馬がちぎり、やがて天にのぼり蚕(かいこ)になる話は、中国のふるい小説にある。いまは、おもいさだめた。八房、約束にしたがって、伏姫をあたえる。しばらくそとに出ていよ」というと、八房は義実の顔をつくづくと見て、やっと身をおこし、身ぶるいしながらしずかに出ていった。
伏姫と八房のことが、義実夫人五十子(いさらご)にもつげられた。五十子は裳裾をからげ、あわててかけつけてきた。女たちが、門口で八房の出ていくのをみおくっていた。義実は、だまったままだ。
伏姫は、母五十子の背をなでながら、
「この次第をおききになられましたか。おこころは、いかばかりでしょう」となぐさめた。
五十子は顔をあげ、涙をぬぐい、
「おまえは、父上の賞罰の道を正しいほうになおされるため、名をけがし、身をすてられました。それは父上には孝行でしょうが、この母のなげきをおもわないのでしょうか。幼いときには、多病のため苦労しましたが、それもむかしがたりになるほどそだち、また月も花もおよばぬまでに美しくなったのに、みずからその身をいけにえとなすのは、物の怪(け)のしわざなら、さめてほしい。年ごろ念ずる神の加護、仏の利益(りやく)もこの世にはないのか」となきながら、さとした。
伏姫も、母の慈悲にたえかね、涙を袖におしつつみ、
「そうおっしゃられると、母上さまへの不孝の罪が、なおおもくおもわれます。親のなげきをかえりみず、なきあとまでも名をけがす、それもかなしみますが、運命のいたすところ、まことにのがれられぬと、おもいさだめております」と、左手にかけた数珠をさやさやと右手にとり、
「わたしが幼いころ、役行者(えんのぎょうじゃ)の化現(けげん)というあやしい翁(おきな)がくだされた数珠、この身からはなしたことはございません。この水晶の念珠には、数とりの珠に文字があり、仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)・忠(ちゅう)・信(しん)・孝(こう)・悌(てい)とよまれますが、この八文字はほったものでもなく、またうるしでかいたものでもありません。自然に生じあらわれたのです。年ごろ、日ごろ手にふれましたが、みがかれて滅することはなかったのですが、景連がほろびたとき、よく見ますと、仁義の八字はあとかたもなくきえ、ことなった文字になったのです。このころから、八房がわたしに懸想(けそう)しはじめたのです。これも、すぐる世の業報(ごうほう)かとなげいたのはきのうきょうではございません。その期(ご)をまたずに死のうかとおもい、幾たびも手に刃(やいば)をとりましたが、それではこの世の罪業をほろぼさず、のちの世までのこすことになるとおもい、神と親とにおまかせしようとしたのです。十(とお)あまり七年(ななとせ)の、慈愛を仇にする子は子ではなく、前世の怨敵(おんてき)とおもわれて、きょうをかぎり、ご勘当(かんどう)ください」と、伏姫はいう。
百八つの煩悩(ぼんのう)のまよいのとけない五十子は、まだうたがわしく顔を見つめ、
「そうであるなら、はじめからはなしてほしかった。そちのその数珠にあらわれたのはいかなる文字です?」と、とうと、義実は、「これへ」と、とりよせて、つくづく見てため息をつき、
「五十子、見るがいい。仁・義・礼・智の文字はきえ、あらわれたのは、如是畜生(にょぜちくしょう)、発菩提心(ほつぼだいしん)の八字だ。これは八行五常は人にあり、菩提心は一切衆生(いっさいしゅじょう)、人畜ともにすべておなじであることをいうのだろう。そうすると伏姫の業因も、いま畜生にみちびかれて、菩提の道にわけいるなら、のちの世こそやすらかであろう。
姫の十五歳の春ころから、隣国の武士はいうまでもなく、あちこちの大小名が、あるいは自身のため、子のために、婚縁(こんえん)をもとめてきたのは、幾人とかぞえきれぬ。わたしはいっさいうけず、ことしは金碗大輔(かなまりだいすけ)を東条の城主にして、伏姫とめあわせて、功ありながら賞を辞し、自害したる孝吉(たかよし)にむくいようとおもってきたが、ことばのあやまちで、畜生に姫をゆるすとは、ああ、業なり、因なり。五十子、この義実をうらめしとのみおもうな。この数珠の文字を見て、みずからさとることだ」と、ねんごろになぐさめても、五十子は、声をくもらせて泣きつづけた。
こうなったからには、伏姫はこよいでかけようと、その準備をいそがせた。
「いきてかえれるとはおもわれませんので、ただこのままに」と、伏姫は、玉かんざしをとりすて、白小袖だけかさねきて、数珠を襟(えり)にかけた。料紙一具と法(ほ)華経(けきょう)一部、ほかにはものをもたぬ。それに、みおくりの従者(ともびと)などもことわった。どこにいくのか、それは八房のいくままである。そのいきつくところが、伏姫の死ぬ場所である。
もう、夕方近くである。これでわかれかと、母五十子は、むせかえりつつ泣く。侍女たちも、ここかしこに泣きふした。
伏姫は、わかれをつげ、女たちにおくられてそとにでると、日はくれて、木の間から月がもれていた。すでに八房は、縁側の下にいて、姫のでてくるのをまっていた。伏姫は、犬の近くにきて、
「八房、きくがいい。人間が畜生を夫とし、妻とした例をきいたことはない。ましてわたしは国守の娘だ。それなのに、いま畜生に身をすて、いのちをとらすことは、前世の業報か。おまえが、これらのよしをわきまえず、情欲をとげようとするなら、わたしの懐剣でおまえをころし、わたしも自害する。もし人畜異類の境界をわきまえ、恋慕の欲をたつならば、おまえは畜生ながら菩提の郷導人(みちびきびと)となるはずだ。これを承知なら、わたしはおまえのままに、いずこの地にもともなわれていくが、どうだ」と、懐剣を逆手にとってといつめると、八房はこころえたりと、さもうれしそうなおももちをし、たちまち頭をあげ、姫を見て長吠(ながぼえ)し、天をあおぎ、ちかうようなかたちとなった。
で、伏姫は刃をおさめて、「それなら、でよう」というと、八房はさきにたち、折戸(おりど)・中門・西の門とくぐりぬけた。伏姫は、その背後からついていった。
女たちは泣きながらみおくり、義実も遠くから、しばしみおくった。
伏姫は、従者はいらないといったが、義実も五十子も、こころもとなく、みえかくれに見てくるように、蜑崎(あまざき)十郎輝武(てるたけ)に命じ、あまたの武士をつけさせた。輝武は馬にのり、一町ばかりおくれて姫のあとをつけた。
八房は、滝田の城を出ると姫をせなかにのせ、とぶ鳥よりもなおはやく走った。輝武は、おくれてはならじと、馬にむちをあて、あとをおった。従者も汗をながしながら、そのあとにしたがった。
犬懸(いぬかけ)の里にたどりつくころには、したがうもの一、二人にすぎぬ。夜(よ)もすがら走りつづけ、その明け方には、富山(とやま)の奥にわけいった。
ここ富山は、安房の国第一の高峰である。その頂上にのぼると、那古(なこ)・洲崎(すさき)・七浦(ななうら)に波がよせるのさえ見えるという。山中には人家はなく、巨樹が枝をかさねて暗く、きこりの道をうずめ、なめらかなコケに霧がたちわたる。
輝武は山路で馬をのりたおし、従者一人とともに息をつぎながらよじのぼった。山と山のあいだには、雲がながれ、はるかかなたを見あげると、伏姫は経をせおい、料紙、硯(すずり)を膝(ひざ)にのせ、八房の背にこしかけ、谷川をわたり、なお山深くはいっていく。
輝武らは、かろうじて川のほとりにきたが、水深く、流れははやく、わたるすべがない。
「はるばるきたのに、川をわたれぬ。おんゆくえを見さだめることができぬのか。瀬踏(せぶみ)をしよう」と、輝武はわたろうとしたが、横ざまにたおれ、ひと声、「ああ!」といい、頭を石にくだかれ、水のままになきがらを流された。従者は、
「水練の達者な輝武どのも流されるのは、あやしい」と、ふもとにかえり、つぎの日、滝田の城にもどり、そのむねを義実につげた。
義実は、それをきき、ふたたび人をつかわして、国じゅうにつぎのようにふれさせた。
きこり、炭焼きも、富山にはいるべからず。
さらに、輝武の子をめしだし、これを家来とした。
話は、ここでかわる。義実のこころにかかるもう一人、金碗(かなまり)大輔孝徳(たかのり)のそのごは……。
大輔は、蕪戸訥平(かぶととつへい)のひきいる多勢においかけられ、従者はみなうたれ、自分一人虎口(ここう)をのがれて、滝田にもどったものの、安西景連の大軍で城中にはいることができず、堀内貞行のこもる東条の城にむかったが、ここにも敵の軍がみちていた。大輔は、
「ここもそうなら、滝田にて敵一騎(き)なりともうちとり、城の橋を枕に討死(うちじに)すべきであった。かくなるうえは、蕪戸の城に突入、討死しよう」とおもったが、その無意味さをさとり、「滝田・東条の城中の兵糧(ひょうろう)はとぼしい。鎌倉にまいり、成氏朝臣(なりうじあそん)へ援兵をこうことこそ大事だ」と思案し、白浜から便船して日ならず管領(かんれい)の御所に参着、里見義実の使者と称し、ことの詳細をつげた。
しかし、義実の書簡がなければうたがわしいといわれ、いたずらに日をかさねた。
むなしく安房にたちかえると、安西景連はほろび、安房の国は平定されていた。大輔は、ああうれしいとおもったが、このままでは帰るに帰れないおもいがした。だが、いまさら腹もきれず、時節をまち、つとめをおこたったわびをしようと、ふるさとである上総(かずさ)の天羽(あまは)の関村(せきむら)におもむいた。外祖父(おおじ)の一作(いっさく)の親類にあたる農家に身をよせ、一年あまりになった。そのとき、伏姫のうわさを耳にした。
「八房の犬にともなわれ、富山の奥にはいられたそうです。安危存亡は、さだかではありません。それで、母君は心配で、ながい病いにふせておられるとか」
それをきいた大輔は、
「義実君が、ざれごとをもうされたことで、畜生にともなわれていかれたという。その犬に霊(れい)がついて神通をえているというが、うつことはむずかしくはない。自分は、かの山にわけいり、八房をころし、姫をおつれもうし、滝田におかえししよう。ここでおわびすれば、ゆるされるであろう」と、こころをきめて、農家には、「心願あって参詣(さんけい)の旅にでる」とつげ、ひそかに安房にかえり、鳥うちの鉄砲をたずさえ、富山の奥にわけいり、伏姫の所在はどこかとたずねあるいた。
山路で日がくれ、山路で夜明けをむかえ、五、六日をへた。もやの深い谷川のむこうに、人がいるようにおもわれた。「もしや……」と、さわぐ胸をしずめて、水ぎわにきて耳をすますと、経をよむ女の声がする。その声は、かすかではあるが……。
里見治部少輔(さとみじぶのしょうゆう)義実は、山下・麻呂・安西らの大軍をほろぼし、麻のごとくみだれていた安房(あわ)の四郡をおさめた。鎌倉の両管領(かんれい)、山内顕定(やまのうちあきさだ)・扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)も、義実をあなどりがたくおもい、京都へ執奏(しっそう)して、義実に治部大輔(じぶのだゆう)という官職をすすめた。
だが、めでたいことだけではない。義実が安西景連にせめたてられ、篭城のおり、兵どもの飢(う)えをすくおうとして、おもわず愚痴(ぐち)を八房(やつふさ)なる飼犬につぶやいた。これがもとで、伏姫(ふせひめ)は八房とともに富山の奥深くはいった。伏姫のそのあとの消息はわからない。
義実の夫人五十子(いさらご)は、伏姫とわかれたときの面影だけを、おもいうかべてなきくらし、泣きあかして、
「伏姫がつつがなくあるよう、かえってくる日のあることを」と神に仏に幾たびも、手をあわせた。その指もほそり、朝夕の箸(はし)をとるのさえ、ものうげで、ご膳(ぜん)もすすまなかった。かたわらの女たちも、なぐさめるに《すべ》がない。そのなかの一人がいった。
「こころを鬼のようにして富山の奥にわけのぼり、姫の所在をさがすほかありますまい」
「行者(ぎょうじゃ)の石窟(いわむろ)に代参ということにしては……」と、ひそひそかたらって、富山をたずねたこともしばしばである。しかし、すべて徒労におわった。
五十子の病いはおもくなるばかりだった。義実は、みずから五十子の病床をみまった。老女が、
「義実さまが、おいでになられました」とつげると、五十子は女どもにたすけられて、ようやく身をおこし、ことばなく義実の顔を見あげた。まぶたはおちくぼみ、ほお骨の高くなったあたりに、涙がながれおちた。
義実もつくづく見て、しきりにため息をつき、
「きょうの気分はどうだ? なにごともこころづよく、気長に保養することだ」と、なぐさめると、五十子は手を膝におき、頭をたれて、
「このようにやせさらばえては、長くございません。いきているおもいでに、いまひとたび伏姫にあうことができましたら、わたしのためには、仙丹奇方(せんたんきほう)、これにまさる薬はございません。国の守(かみ)なる威徳(いとく)をもって、いまなおつつがなく、あの奥山にいるものか、知りたいものです。これだけが、わたしのねがいです」と、うらみつつ、わびつつ、息をつかずにいった。
義実はこういわれて、だまったまま頭をあげ、
「もうすことは、もっともだ。もともとは、わたしの一言のあやまちから出たことだ。そなたのなげきは、ふびんだ。思案して、姫の安否(あんぴ)をしらせよう。安心するがいい」と承知すると、
「それは、いつごろのことでしょうか」と、五十子にきかれて、しばらくかんがえていたが、
「そなたのため、いそぎおこなおう。いい知らせをまて」とねんごろにいって、義実はそとにでていった。女どもがみおくった。
このころ、義実の嫡男(ちゃくなん)、安房二郎義成(よしなり)は、真野(まの)に在城し、安西景連の残党をうちたいらげ、そこをおさめていた。母五十子の病いがおもいときき、老臣杉倉木曽介氏元に城をまもらせ、滝田にきて母をみまった。その夜半、義実はひそかに義成をまねき、五十子ののぞみをかたった。
「五十子のこころをやすめるため、たやすくうけあったが、輝武(てるたけ)が死んだことにみられるようなおそろしい山に、だれかをやって、姫の安否をたずねさせることができようか。おまえは、どうおもうか」ときくと、義成は小膝をすすめて、
「わたしも、そのことは女たちからきいています。たえてひさしい姉上の、安否を知ることができれば幸いです。この義成が二人となき姉をたずねにまいりましょう。富山の奥にわけいり、あわないでおくものですか。たとえ、犬の霊があり、雲をおこし、風をよび、ひとのこころをまどわすとも、妖(よう)は徳に勝つものですか。母の慈善を盾(たて)とし、父の武徳を鎧(よろい)として、家伝の弓矢をたばさんでいけば、障害などありますまい。命じてください」とたのんだ。もうこぶしをさすって、うちたつようすである。
義実は、おしとどめて、
「おまえのような血気の勇は、はかりごとがたりない。おまえは、里見家の柱石である。はやまって死んでしまっては、はなはだしく不孝である」と、義成をゆるさなかった。
義成は、さらにいった。これをも義実はしりぞけた。義実は、そのまま臥房(ふしど)にはいった。ねむられないまま、ああしよう、こうしようとおもいあぐねて、明け方になった。いつしか自分一人、富山の奥の谷川のこちらの岸にたたずんでいた。
そのとき、八十歳あまり、百歳近い一人の翁(おきな)が、うしろからあらわれ、義実にいった。
「この山深くへ、はいられるのか。道案内いたそう。この川は、わたるにわたれない。右手のかなたにきこりがかよう一条の細道がある。去年からこの山にはいることが禁じられているので、雑木がいやがうえにも繁茂(はんも)して、いずこが道ともわかりかねるが、すでにわたしが枝をおり、道しるべとしている。そこからは道案内しなくても、道にまようことはない。かなたからいくがよい」と、指さしておしえた。
義実は、ふしぎなこととおもい、その名をきこうとした。そこで義実は、たちまち夢からさめた。義実は、こころの底にあることが夢に出てきたとさとった。
その日の執務がはじまった。農民の訴訟(そしょう)の聞きさだめなどである。ようやくすみ、奥の間にはいった。そこに一人の近習(きんじゅう)がきて、うやうやしく義実につげた。
「堀内蔵人(ほりのうちくらんど)どの、おめしにより東条からおいでになられました」
義実は、眉(まゆ)をよせて、
「堀内貞行(さだゆき)をよんだことはないが……。五十子が病いときいて、みずからやってきたのでないのか。まあいい。聞きたいこともある。ここにとおせ」といった。
堀内蔵人貞行は東条の城に在城し、一郡をおさめている。ひさしぶりの対面である。
義実はそば近くめし、
「蔵人、つつがないか。領民への撫育(ぶいく)のこころがあついときき、よろこんでいるぞ。このたびの参府は、五十子の病いあやうしときき、安否をとうためにまいったのか?」ときくと、貞行は頭をあげ、
「そうではございません。さきに君命をうけてから、一城をまもることがわたしの職分とおもい、見参(げんざん)をのぞんでおりましても、おゆるしがなければまいりませぬ。火急のおめしの使者がまいりましたので、ものもとりあえず、ただいま参着つかまつりました。おたわむれでしょうか」という。義実は、
「蔵人、わたしにこころの憂いのおおいことは知っているはずだ。なんのたわむれに、そなたをはるばるよぶものか。わが命(めい)を、だれがおまえにつたえたのか」というと、貞行はさわぎたてるようすもなく、
「きのう、年老いた一人のものが、お使者と名のり、まいりました。このたび奥方のねがいにより、義実どのみずから富山におもむき、伏姫さまをおたずねになられるので、わたしにその道案内をせよとの口上(こうじょう)でございました。お書きものも持参しておりますので、君命とこころえ、馬に鞍(くら)をおき、従者(ともびと)がつづくのをまたず、夜を徹してまいりました。書きものをごらんください」と懐中からだして、義実にさしだした。
義実は、きやさやとその書きものをひらき見て、
「これは、どうしたことか」とおどろく。
貞行もそれに目をやり、これもおどろき、
「このお書きものの文字が、かわっています。
如是畜生(にょぜちくしょう)、発菩提心(ほつぼだいしん)、と二行八字にかわったのは、奇怪です」とあきれた。
義実は、その書きものをまきながら、
「蔵人のもうすことはふしぎだ。で、その使者とは、どのようなものか?」ととうた。貞行は、
「その使者は、八十歳あまり、百歳に近うございましょう。眉が長くて、綿の花をのべたようで、歯は白く、身はやせてはいますが、すこやかで、眼光は人を射(い)ています」といった。
義実は、てのひらをうち、
「わかったぞ。その翁は、洲崎の石窟におられる、役行者(えんのぎょうじゃ)の示現(じげん)であろう」といい、さらに五十子と約束した伏姫の安否をたずねること、また義成の孝心勇気のこと、そして富山の奥の谷川の岸辺で、翁にあったことなどをかたり、
「夢は、五臓の疲労からみるという。で、気にもかけずにいたが、おまえのあった翁は、わが夢のなかの翁とさも似ている。しかも如是畜生しかじかの八字をもって、過去未来をしめしているのだ。伏姫は幼いおり、多病で泣きつづけたが、洲崎の石窟の役行者の利益により、すこやかそだった。そのとき、さずけられた水晶の念珠(ねんじゅ)には、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八字があった。このあと、篭城で難儀し、わが一言のあやまちで姫を八房にあたえたその日、くだんの八字はきえ、いつのまにか如(にょ)・是(ぜ)・畜(ちく)・生(しょう)、発(ほつ)・菩(ぼ)・提(だい)・心(しん)とかわってしまった。
わが娘は、嘉吉二年夏のすえ、伏日(ふくにち)のころうまれたので伏姫と名づけた。のち、ついに人にして犬にしたがってしまった。八房にまかせて、はや二年となったが、安否をといもせず、きこりにまで、山にはいることを禁じてきた。いま妻五十子の病いあやうく、伏姫への情はもだしがたく、姫の安否を知る手だてがないものか、とおもっていたところだ。
わたしがみた夢の翁の面影と、おまえに書きものをあたえた翁とが、おなじものであることは疑いない。それといい、これといい、この義実の疑惑をとき、富山の奥にみちびこうとするのは役行者の化身であろう。いまこそ、伏姫に再会するときがきたのだ。おまえのほか、従者は十四、五人にする。それも口のかたいものがいい。あした出立(しゅったつ)する。準備をせよ」と命じた。
貞行も、「ご判断はまちがっておりません。遊山(ゆさん)ということにし、いそぎましょう」とこたえた。
義実は五十子にははなさず、嫡男(ちゃくなん)義成には、ことの詳細をきかせた。義成は、
「父にかわってまいろうとぞんじましたが、行者のおみちびきは、わたしにではありませんので、あきらめるほかございません」とこたえた。
その夜のあけるのをまちかね、「長狭(ながさ)富山のふもとの、大山寺(だいせんじ)にもうでよ」とふれさせ、堀内蔵人貞行以下、二十人ばかりが義実の従者になった。
義実と貞行は二騎、馬をならべ、ただひたすらにいそいだ。その日のうちに富山につき、山へとわけいった。谷川のほとりまできた。岩のかたち、樹木の枝ぶりなど、ゆうべの夢とそっくりだ。そこから一町あまりきて、右手の山路にさしかかると、枝がおりまげられ、道しるべの役目をしている。
主従は道しるべをみて、おもわず目と目があった。
「まちがいない」といさみたった。従者らは、おくれてまだ姿が見えない。
義実主従は、山路をたどった。落ちてくる山ヒルを笠(かさ)でよけ、《つづらおり》の道をのぼっていった。こうして、川のむこうがわにでた。
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音は諸行無常(しょぎょうむじょう)のひびきがあるが、あくまで色をこのむものは、わかれの朝にはこの鐘の音をにくむであろう。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色は、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわしているが、いたずらに花の香をめでるものは、風雨などなく、いつも春であってほしいとおもっている。おもえば、この世は夢のようなものだ。この世をすて、富山の奥に二年の春秋をおくった伏姫は、どうしているのか。
八房(やつふさ)にともなわれて山の奥にかくれてから、人もたずねない。八房の背にのって、山にはいったとき、ひろい流れにそった山峡に洞(ほら)があった。石門は《のみ》でほったようにみえる。松柏(まつかや)が西北にそびえて、垣をなしていた。この洞は南面しており、暗くはない。八房はここにとどまり、前足をおってふした。伏姫は、八房からおり、あたりを見わたし、「むかしは、人がすんだのだろう」とおもった。このなかには、ちぎれた円座と、やきすてた灰などがのこっていた。
「世をすて、世にすてられて、この山に山ごもりしたのは、わたし一人ではない」と、ひとりごとをいって、そのまま座をしめた。
八房は、伏姫のかたわらについてきた。伏姫は、滝田の城を出るとき持参してきた法華経(ほけきょう)八軸と料紙・硯(すずり)をおき、この夜は月の下で読経(どきょう)した。水晶の数珠は、襟(えり)にかけてある。たのむのは神仏の加護だけだ。
「この畜生にともなわれて、わたしは深山(みやま)の奥にきてしまった。この畜生が情欲をおこし、わたしにちかづいてきたなら、ただ一刀にさし殺そう」と、伏姫は懐剣の袋のひもをとき、右手にひきつけ、読経をつづけた。八房も、その気色(けしき)をかんじてか、ただ姫の顔をほれぼれとみつめていた。おきては見、舌をだし、よだれをながし、あるいは毛をねぶり、鼻をねぶり、ただあえぐことしきりである。こうして夜をあかした。
そのあくる朝、八房は、はやくからおきて、谷をくだり、木の実、ワラビの根をとってきて、伏姫の前においた。これは一日もおこたらなかった。
きょう、あしたと百日あまりになった。その間、いつしか八房は、読経の声に耳をかたむけ、こころをすますようになっていった。伏姫は、おもった。
「『栄花物語(えいがものがたり)』の蜂の月の巻に、関寺(せきでら)の牛仏のくだり、また犬に仏心があることをふるい草紙でよんだことがある。仏の慈悲は、どこの世界にもひろまる。天(あま)とぶ鳥、地をはしるけだもの、草葉にすだく虫、海と川の魚までみな成仏(じょうぶつ)しないものはない。いまこの犬が、欲をわすれて、読経の声をきくのが楽しみとなったのも、みなお経の威力(いりょく)によるものだ。しかしながら、幼いときに、わたしの病弱をなおしてくださった、役行者の冥助(めいじょ)こそ、もっともかたじけない」と、伏姫はいよいよ読経をおこたらなかった。
あしたには数珠をおしもみ、はるかに洲崎のほうに祈念し、またあるときは、父と母のために経の偈文(げもん)をかきうつし、前の川にながし、春は花をたおって、仏にたむけ、秋は月にいのった。
伏姫は、まだ二十歳(はたち)にみたない。山にはいってひさしくなったので、衣装はあかじみ、やぶれたものの、肌は残雪より白く、黒髪をすくこともないが、みどりの《びんづら》は、春の花よりこうばしい。細い腰はいよいよやせて、風にたえないヤナギのように、指もますますほそった。その姿は、あまりにいたいたしくおもわれる。
その年は、暮れた。岸辺の草がもえいで、谷の木の芽がみどりをましてきた。
ある日、伏姫は、硯に水をそそごうと、川辺にきた。そのとき、横ばしりのたまり水に、自分の影がうつった。それは、からだは人だが、頭は犬である。伏姫はたえかね、「ああ!」とさけんで、うしろへさがった。またもどって、水鏡を見た。もうその影にはどこもかわったところはない。伏姫は、
「これは、わたしのこころのまよいであろうか」と、あらためておどろき、おもいかえして、仏の名称(みな)をとなえながら、この日は経文のかきうつしにつとめた。
つぎの日も、こころはおだやかではない。このころから月水(つきのさわり)がたえてないのだ。そればかりか、月日をかさねると、腹がはりはじめた。「これは、脹満(ちょうまん)などという病いか。死ぬかもしれない」とおもった。
春がすぎ、夏がさり、悲しい秋となった。指おりかぞえると、去年のこの月に滝田の城を出たのだ。それにつけても、おもうのは母五十子(いさらご)のことばかりである。泣きながらおくりおくられた母の面影は、わすれようとしてわすれられない。どうしておられるか。また父義実(よしざね)、弟義成(よしなり)もなつかしい。おなじ国、おなじ郡(こおり)にいながら、里遠くはなれた山の奥にすむこの身。つれないものは、ガゲロウのいのちばかりではないのだ。伏姫は、よよと泣いた。
八房は食をもとめにいって、まだかえらぬ。伏姫は、
「仏につかえるこころをおこたってはならぬ。ここ深山には、草の花はまれだ。たずねてたむけよう」と、ひとりごとをいいつつ、重い身をおこし、流水にそって二、三町裾(すそ)をぬらしながらきた。
そのとき、山路のかなたから笛の音がかすかにきこえてきた。伏姫は、耳をそばだて、
「あやしや。この山にはきこりもはいらず、山の人もすまうことがなかった。わたしがきてから、きのうきょうまでも、人にあうこともなかったのに、おもいがけなく笛の音がこちらにきこえてくるのは、草をかるものがまよってきたのか。それとも、山の妖怪(ようかい)がわたしの信仰心をためすというのか。もう身をすてたわたしだから、逃げかくれはせぬ。まず、そのようすを見よう」と、笛の音のほうを見た。
笛はますます澄みわたり、ま近くなった。
笛のぬしは草刈童子(くさかりわらべ)である。歳は十二、三にもなるか。腰には鎌(かま)と手鋤(てすき)をさし、鞍(くら)には篭(かご)を二つかけ、手に一管の笛をもち、黒いウシに尻をかけ、木の間(ま)をでてきた。伏姫のほうにちょっと目をやっただけで、笛をつづけた。ウシを流水においいれ、そのままわたろうとした。
伏姫は、「これこれ」と、いそぎよびかけた。
「そなたは、どこの里からまいったのです? 人のたえたるこの深山路(みやまじ)に、一人でくるのも合点がいかぬのに、道になれたもののようですね。わたしを知っていますか?」
この童子は、にっこりとわらって、笛を襟にさし、
「わたしを姫さまはごぞんじないでしょうが、わたしは知っています。この山は、きこりも旅びともまれにとおるだけですが、父君義実さまが、姫さまがひとに見られることをはずかしいだろうとおもわれ、去年からこの山に人がはいることを禁じられました。そこで、人の往来がたえたのです。
しかし、母君はなつかしくおもわれ、姫さまの安否(あんぴ)をたずねようと、女房、乳人(めのと)など幾たびか、使者をだされました。はじめ蜑崎(あまざき)十郎が、義実さまのおおせをうけ、ひそかに姫さまにつきしたがったとき、この川でおぼれ死にされた。母君の使者もこの川まではきましたが、死をおそれてここからかえってしまったのです。で、姫さまの安否を知ることができなかったのです。これも、運命でしょう。
さて、わたしのことをもうします。わたしは、ただ牛馬のために、草をかるのではありません。わたしの師匠は、この山のふもとにいたり、あるときは洲崎にいたりします。歳は、幾百歳になるのか知りません。ふだんは、人の病いを治療したり、また売卜(ばいぼく)をして《なりわい》としています。師匠が薬をさずけると、死ぬものもすくわれ、万病でなおせないものはありません。また、うらなうときは人の未来をあかし、過去のことをつまびらかにします。百事あたらぬことはありません。きょう、わたしは師匠の命(めい)をうけて、薬草をとりにきたのです。いまこの山にはいることは禁じられていますが、近くゆるされるはずです。師匠は、それを知っています」という。
伏姫は、ため息をつき、
「両親の慈悲がしのばれます。わたしのために蜑崎輝武(てるたけ)が溺死(できし)し、きこり、猟師の生計(たつき)をうしなわしめ、旅びとの足さえとどめてしまった罪は深い。ゆるしてください」と、涙声でいった。また、しばらくして、
「そなたは名医につかえる人なので、人の病いをみることもできるでしょう。わたしは、この春ごろから月水(つきのさわり)がたえてしまい、胸が苦しく、月づきにからだが重くなってきます。これは、なんという病名なのですか?」と、とうと、微笑をうかべ、
「それは、ぞくに《つわり》といいます。三、四か月で、腹がおおきくなり、五、六か月でその子がうごくことがあります。姫さまはすでに懐妊(かいにん)されて、五、六か月になられますよ」という。伏姫は、
「ませたことをいいますね。わたしには、夫はおりません。去年、この山にはいってから、人ともあわず、ただ経文をよむほか、なにごともしていません。どうしてみごもるのですか」と、わらっていうと、童子はあざわらって、
「夫がいるでしょうが。親からゆるされた八房はどうなのです?」となじった。
伏姫は、きっとなり、
「そなたは、はじめを知っているだけで、そのあとのことを知らないのです。あさましく犬と山にはいったけれど、お経の加護によって、身はけがれず、八房もお経をきくことをよろこんでいます。たとえ、証(あかし)はなくても、わたしのからだは清いのです。神さまがごぞんじです。なぜ、八房のために、身重になるというのです。きくもけがらわしい。そなたにものをいいかけて、くやしい」と、腹をたてて涙ぐんだ。
だが、童子は、ますますわらい、
「わたしは、よくみて、またつまびらかにできます。姫さまこそ、その一つを知って、まだその二つを知りません。物類相感(ぶつるいそうかん)の玄妙は、凡知をもってはかってはなりません。たとえば、火を発するのは石と金ですが、ヒノキでも友木とまさつすると火を発します。また、ハトのふんも年をへてつみかさなると、火がもえ出ます。これは、まことに理外の理です。物は陰陽相感じなければ、子をうむことはありません。ただし、松にも竹にも雌雄(しゆう)の名がありますが、これはまじわりはしません。それでも、よくふえます。ツルもそうです。まじわらなくても、あいみるだけではらむことがあります。お聞きになったことがあるでしょう。唐(もろこし)の楚王(そおう)の妃は、つねに鉄(くろがね)の柱をだくことでよろこび、ついに鉄塊(てつのまろがせ)をうんだことを。ほかにも、その例はあります。姫さまが懐胎されたのも、このたぐいなのです。なにをうたがいなさるのです。姫さまは、まことにおかされておらず、八房もいま情欲はありません。しかし、姫さまは犬にともなわれて山中にこられました。八房も姫さまをうけて、こころにおのれの妻とおもっているのです。八房は、姫さまを愛(め)ずるゆえに、その経文をきくことをよろこんだ。姫さまの帰依(きえ)するおなじところに、八房もまた帰依するのです。この情は、すでにあいかんじているのです。姫さまの相からおもいますと、胎内には八つ子がおります。しかし、かんじるところは実ではないので、その子はまったくからだをつくっておりません。かたちをつくっていなくて、ここにうまれ、うまれてのちに、またうまれるでしょう」といい、さらに、
「八房の前世は、一人の女で、その女は義実さまをうらんで、その魂が一ぴきの犬となり、親子をはずかしめているのです。これが宿因なのです。八房は、伏姫をおのれのものとし、ついに姫さまをおかすこともなく、法華経読誦(どくじゅ)の功徳(くどく)によって、ようやくそのうらみをちらし、ともに菩提心を発するがために、いまこの八つ子をのこしたというのです。
これが果であり、八つは八房の八をかたどり、また法華経の巻の数なのです。のちには、その子がそれぞれ知勇にひいで、忠信節操、里見家をたすけてその威を八州にかがやかす。これはみな、姫さまのたまものです。これは、善果なのです。
犬は、懐胎六十日、人は懐胎十月(とつき)です。人畜にその差があっても、合してここに、姫さまは懐胎六か月。この月に子がうまれます。そのとき、親と夫にあうことができるのです。このほかのことは、わかりません。わかっても、口をつつしんで、いまは、これまで。秋の日影は短い。わが師もまっておられるだろう」といって、ウシの鼻づらをひき、川にさっとおいいれ、わたるかとみると、その影は狭霧(さぎり)にたちこめられて、ゆくえもわからなくなった。
伏姫は、おもいがけず、あやしい草刈童子にとききかされて、無明(むみょう)のねむりからさめたおもいがした。はらわたをしぼるばかりにむせかえり、時どきしずんだ。
しかし、日ごろから気丈な伏姫は、うちさわぐ胸をしずめ、顔にかかる黒髪を、かきあげ、涙をぬぐい、
「前世につくった罪で、わたしのこの身にむくいがきて、こうまでくるしむとは、人のうらみの執拗(しつよう)なことよ。だが、親のうえに、かかる《たたり》をせおったときき、のちの世まで地獄の底にしずんでも、くやしいとはおもわぬ。ただ、はずかしく悲しいことは、よりによって畜生の気をうけ、八つ子を身にやどしたことよ。この山にはいってから、一念不退、読経(どきょう)のほかはないのに、みごもったことが事実なら、臥房(ふしど)をともにしないのに、それをときあかす証(あかし)はない。わたしゆえに親の恥、ただ畜生の妻といわれるだろう。生きていての恥辱、死してのうらみ、滝田にいたときに、犬をころしてともに死ぬべきであった。死ぬべきときに死ななかった自分の業因(ごういん)なのだろう。この子がうまれるゆえに、親同胞(おやはらから)に幸あって、家の栄えがましたとて、このうえない恥をどうしよう。悲しいことよ」と、そばにいる人にものをいうように、声をたて、おもいがつのり、さかしいこころもみだれ、草の上にふした。
山ガラスが山の頂上近くをないていった。伏姫は、それを見あげた。げんに、ここには伏姫のほかに人はいない。
「それにしてもあの童子こそふしぎだ。わたしのこしかた、ゆくすえをくわしく知っていること、天眼通(てんがんつう)をもって見ているようだ。この安房に数百歳という医師のいることをきいたことはない。これは、神につかえる神童か。そうにちがいない。もしや、この山のふもと、洲崎というからには、役行者(えんのぎょうじゃ)の化身かもしれぬ。ふたたび奇特をみせてくださったのだろう。
だが、凡婦の悲しさは、さとりがたく、まよいやすいことだ。わたしの腹の八つ子は、かたちをつくらないで、ここにうまれ、うまれてのちにまたうまれるとは、いかなるゆえであろう。また、子をうむとき親にあい、夫にもあうという。いよいよわからない。わたしには、かりそめにも夫はいない。それはいいとして、もし父上が、はるばるとたずねてみえられると、うしろめたい。身重のからだを見られるよりは、ながれる水に身をまかせ、死ぬほかない」と、自分にとい、自分にこたえて、草の上から身をおこして、
「川のむこうまで、使いのものをさしつかわされた母上の、いつくしみにこたえるためにも、一筆のこしましょう。見る人がなく、そのままくちてしまっても」と、ひとりごとをいいつつ、もとの洞(ほら)へとはいっていった。
八房は、自然生(じねんしょう)のヤマイモ、枝の木の実などをくわえてきて、伏姫をまっていた。伏姫の姿を見て、走りでて、袂(たもと)にまつわりついたり、鼻をならしてむかえるようにして、食をすすめた。
伏姫は見るのもうとましく、ことばもかけず、岩窟(いわむろ)の端近くまでいき、硯(すずり)に墨をすりながし、のこりすくない料紙の上に草刈童子のことまでを、ことば短くかきはじめた。
「不孝の罪をあがなうときがなく、ゆるしてください」とむすび、筆をおくと、まきかえて、ため息をついた。それから、たおってきたキクの花に清水をそそぎ、仏にたむけ、襟(えり)にかけた数珠(じゅず)をとり、おしもんだが、いつものような音がしない。
「これは、ふしぎ」と、とりなおしてみると、珠(たま)にしるされていた如(にょ)・是(ぜ)・畜(ちく)・生(しょう)、発(ほつ)・菩(ぼ)・提(だい)・心(しん)の八つの文字はきえ、いつのまにか、仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)・忠(ちゅう)・信(しん)・孝(こう)・悌(てい)とあざやかにかわっていた。
伏姫は、つくづくおもった。
「この数珠には、はじめ仁・義・礼・智しかじかの文字があった。八房にともなわれ、この山にはいろうとしたころには、如・是・畜・生しかじかとの八つの文字にかわった。八房もここにきて、菩提心を発した。いままた、畜生四足の文字がきえ、もとのように人道(にんどう)八行(はちこう)をしめしたのだ。あさはかな女の知で、なんと解したらいいのか。
わたしのからだは、犬の気をうけて、ただならぬ身となってしまった。ついに天命をまっとうせずにおわるこのいのち、畜生道の苦難に似ている。けれども、仏法の功力(くりき)で、八房さえも菩提にいれることができた。来世は仁義八行の、人道にうまれることを、ここにしめされたものか。それとも、八房をわたしの手でころすと、畜生の苦をぬくことになるというのだろうか。いやいや、それは不仁なことよ。
八房は、主君のために大敵をころした。そうするとこれは、忠ということになる。また、去年からこの山で、わたしに飢(う)えをしのがせてくれた。こうなると、やしなってくれた恩が深いのだ。八房が来世には人とうまれて、富貴の家の子となるかもしれないが、この忠・恩のあるものを、いま刃(やいば)をもって殺すことはしのびない。このことは、このままにして、生死のことは、八房自身にまかせよう」と、伏姫は数珠を左手にかけ、八房にむかい、
「八房、よくきけ。わたしは国守の息女(むすめ)であるが、義をおもんずるゆえ、畜生にともなわれてきた。これは、わたしの不幸だ。しかし、けがされず、おかされず、世をさけて仏法に帰依(きえ)し、きょう往生することは、わたしの幸いである。
八房。おまえは国に大功をたて、国守の息女をえた。人畜の道を異(こと)にし、その欲情をとげることができなかったが、耳に妙法の尊きをきくことができて、ついに菩提のこころをおこした。これは、おまえの幸いである。しかし、うまれかわり、かたちをかえることができなければ、ここに四足の苦はのがれることができない。うまれては知をますことなく、死してはその皮をはがされる。これはおまえの不幸だ。おまえはうまれて七、八年。犬馬にしてはそのいのちが短いということはない。わたしが死んだあと、里にかえったなら、犬にかまれ、むちでうたれ、怒りがおまえにおよぶだろう。また山にとどまるとも、あしたからは、だれがおまえのために経をよむだろう。いつしかおまえは菩提のこころをうしなうだろう。この理(ことわり)を知るなら、わたしとおなじ流れに身をなげてはどうか」とさとした。
八房は頭をたれて、うれえるようにも、また尾をふってよろこぶようにも、さらに感涙をながすようにもみえた。
伏姫は、八房をつくづく見て、
「この犬、まことに得度(とくど)したものだ。もう義成の子孫の世までさわりにはならぬだろう」とおもい、遺書と提婆品(だいばぼん)の一巻を手にとり、洞からすこし出て、石机の前でよみだした。八房は、耳をそばだてた。
提婆達多品(だいばだったほん)は、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)、巻の五にある。娑竭羅(しゃかつら)龍王(りゅうおう)の女(むすめ)が、八歳にしてはやくも菩提心をえたる、そのことのよしをといた経文である。
伏姫は自分のため、八房のために提婆品をよみつづける。いまをかぎりだ。その音声(おんじょう)は高くすみわたり、よどむことなく、ハスが糸をひくごとく、またわき水がはしるのに似ている。峰の松風もこれに和し、谷のひびきもこれにこたえている。読経もおわりとなる。
「三千衆生(さんぜんしゅじょう)、発菩提心(ほつぼだいしん)、而得受記(じとくじゅき)、智積菩薩(ちしゃくぼさつ)、及舎利弗(きゅうしゃりほつ)、一切衆生(いっさいしゅじょう)、黙然信受(もくねんしんじゅ)」と、むすびの経文である。
八房は身をおこし、伏姫をみかえった。そして、水ぎわに走りよっていった。
とおもうと、むかいの岸から、鉄砲の筒音が高くひびいた。とびくる二つだまに、八房はのどをうたれて、煙(けむり)のなかに、ばたとたおれた。あまったたまがそれて、伏姫の右の乳の下にあたった。伏姫は、経巻を手にもちながら、横ざまにふしころんだ。
去年から川の奥は靄(もや)で見えず、晴れ間などまったくなかったのに、いま鉄砲の音とともに、ぬぐうようにはれわたった。そして、歳のまだ若い一人の狩人の姿が、むかいの岸にあらわれた。柿色の脚半(きゃはん)、甲掛(こうがけ)、それに、むしろ織りのずきんの緒(お)をゆるめてうなじにかけ、右手に鉄砲をさげている。流水を見ていたが、浅瀬を見つけてか、岸から走りくだってきた。
川の流れは急だが浅い。水は高股(たかもも)まではこないのだ。この若ものは、ちからを足にみたしてふみすすみ、こなたの岸にあがった。うちたおした八房に、なお五、六十もうった。骨がくだけ、皮がやぶれた。
若ものは、にっこり笑って鉄砲をすて「姫上を……」と、石窟のほとりまですすんでみると、伏姫もたおれている。気息(きそく)もないようすだ。
これはとばかりおどろき、だきおこした。傷口を見ると、深手ではない。あわてふためいて懐中から薬をとりだし、口中にそそぎ、しきりに伏姫の名をよんだものの、脈はたえている。全身はまるで水のようだ。「傷は浅いというのに……」
若ものは、すくう《すべ》のないことを知らされた。天をあおぎ、数回ため息をつき、
「わがなすことは、いつもくいちがう悲しさよ。月ごろ日ごろはれがたい狭霧(さぎり)がはれて、八房をうちとめてきてみれば、あまったたまがそれて、伏姫さえうってしまった。出没奇怪なる犬をおそれず、もとより禁断の山と知りながら、身をわすれ、いのちをすてても姫をすくいだそうとしたのに、その忠義は不忠となり、罪は万倍ともなった。百ぺんくい、千べんくいても、いまはかえらぬ。こうなれば、腹かききって姫の冥土(めいど)のお供をしよう。おまちください」と襟をひらき、腰刀をぬきだし、手ぬぐいをそえて、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」ととなえて、切っ先を脇腹につきたてようとすると、松柏(まつかや)の林のあいだから、弦音(つるおと)高く射た矢が、若ものの右手のひじにあたった。
若ものは、おもわずもった刃をうちおとされ、おどろきながらみかえると、木の間がくれに、
むささびは木末(こぬれ)もとむと足引(あしびき)の
山の佐都雄(さつお)にあいにけるかも
と、くちずさむ一首の古歌に、「そなたは、だれか?」ときいた。
「金碗大輔(かなまりだいすけ)、はやまるな。しばらくまて」とよびとめて、クマの皮の行縢(むかばき)に、ヒョウの尻鞘(しりざや)、篠(ささ)ごてして、弓矢をたずさえて姿をみせたのは、里見治部大輔(じぶのだゆう)義実(よしざね)である。そのあとには、堀内蔵人貞行(くらんどさだゆき)が一人つづく。
義実は、憂色につつまれた顔で、伏姫のなきがらをしりめに、おちている数珠と遺書を見て、「蔵人、あれを」といった。
貞行は、いそいでひろってきた。
義実は、弓矢をすて、数珠を刀の柄(つか)にかけ、遺書をひらいてみた。一字一字よんだ。それから、貞行にもよめとすすめた。
金碗(かなまり)大輔孝徳(たかのり)は、自分の身のおきどころがなく、額につめたい汗をながし、刃を膝(ひざ)にしき、ただ平伏しているだけだ。義実は、石に腰をかけ、
「ひさしぶりだな金碗大輔、おまえは法度(はっと)をおかし、この山にはいっただけでなく、いま伏姫と八房をうちころしたのは、子細あってのことであろう。刃をおさめ、近うよってことの子細をいえ」といった。
大輔は、頭をたれたままだ。貞行が、口をはさんだ。
「大輔、おおせだ。もうせ」
大輔は刃を鞘におさめ、脇差とともに貞行にさしだし、すこししりぞき、頭をあげて貞行に、
「死におくれましたことで、はからずも君の尊顔を拝し、よろこびこの上ないのですが、かさねがさねの落度で、後悔のほかございません。この期(ご)にいたって、もうしあげるのもせんないことですが、ただひとくさりもうしあげます。
去年、安西景連(かげつら)にはかられて、使者の役目をはたすことができず、のがれてかえる道すがら、追っ手の軍と血戦し、かろうじて滝田にたちかえったものの、景連の大軍がみちみちて城にはいることができず、それなら東条にかけつけようとまいりましたが、蕪戸訥平(かぶととつへい)の大軍にかこまれ、敵陣につきいって死のうとしました。だが、まて、両城では兵糧(ひょうろう)がとぼしい。それなら、鎌倉にまいり、管領家(かんれいけ)に急をつげ、援兵をこうべく白浜から便船にて鎌倉にまいり、ことの次第をもうしあげたにもかかわらず、主君の書簡のないことで、むなしく日をかさね、安房にたちもどってきました。
もどってみれば景連はほろび、平穏なる安房になっておりました。このまま、おめおめと見参(げんざん)もできず、ふるさとの上総(かずさ)、天羽(あまは)の関村におもむき、祖父一作(いっさく)のもとに身をよせておりました。
なすこともなくすごすうち、この月のはじめ、伏姫さまのうわさをききました。八房にともなわれ、富山の奥にはいられたと。このうえは犬をころし、伏姫をおすくいすることができれば、先非をつぐない、帰参もかなうかと、五、六日まえから山にはいったのです。川のむこうは狭霧(さぎり)が深くて、一日もはれることがなく、水音だけがすさまじくきこえました。蜑崎輝武(あまざきてるたけ)が溺死したというのはここか、かるがるしくはわたれぬ、と思案しておりました。
すると、経文をよむ女の声が、かすかにきこえてきました。姿を見ることはできません。このときこそ、神明仏陀(しんめいぶつだ)の冥助(めいじょ)をあおぐべき、と狭霧のおさまるよう祈願しました。しばらくして目をあけると、ふしぎにも川霧は、ぬぐうようにはれわたりました。前方を見ると、石窟(いわむろ)とおもわれるあたりに、伏姫さまの姿が見えてきました。すると八房がこっちを見て、水ぎわをさして走ってきました。手にした鉄砲をとりなおし、ねらいさだめて二つだまをうつと、的(まと)はあやまたず、犬は水ぎわにたおれました。
早川の水よりはやくわたってきてみると、《それだま》が伏姫さまにもあたり、たおれていました。
身は薄命とはいいながらこのしまつ、せめて冥土のお供をしようと、すでに覚悟をしていたのです。主君の刑罰をねがうほかありません。堀内どの、縄(なわ)をかけてください」と、背後に手をまわした。貞行は、ただうなずいている。
義実も、しばらくだまっていたが、
「大輔。おまえに罪があったとしても、伏姫の死は天命だ。おまえがもしうたなかったとしても、かならず川の水屑(みくず)となったであろう。蔵人、その遺書をよみきかせるがいい」というと、貞行は、
「かしこまりました」と、大輔のかたわらで、はじめからおわりまでよみあげた。
大輔孝徳は、感涙するばかりだ。
よみおわると義実は、大輔に、
「大輔。われらは伏姫の死をとどめようとしてきたわけではない。このたびの五十子(いさらご)さまの病いは、伏姫を愛惜するあまり、心気つかれてのことだ。わたしと貞行は、役行者(えんのぎょうじゃ)の化身のみちびきでたずねてきた。従者(ともびと)をふもとにとどめ、水上をめぐってこの石窟の背後にたどりついた。わたしがちかづこうとすると鉄砲の筒音がし、おどろきみると、伏姫と八房がうたれてたおれていた。川をわたってくるもののしわざとみさだめると、なんと、いつもこころにかかっていた金碗(かなまり)大輔ではないか。おまえの自殺の覚悟のていをみて、姫をころそうとしたものではないとおもったので、よびとめた。犬をころして伏姫をすくうのは、おまえのたすけをかりるまでもないことだ。
わたしは、《たわむれ》とはいえ、八房に伏姫をあたえることを約してしまった。伏姫は八房にともなわれ、深山(みやま)にすんでも、幸いにけがされず、一念読経の功力(くりき)によって、八房さえ菩提にはいった。
だが、その気にかんじ、みごもってしまった。まことに奇怪なことだ。
いま、遺書をよみ、そのわざわいなる因果の道理を知った。われ安房の国に兵をあげ、山下定包(さだかね)をうちとったおり、その妻玉梓(たまずさ)をとらえた。この女は、謝罪し、いのちごいをした。わたしは、それをいつわりと知りつつ、ゆるそうとしたが、おまえの父八郎孝吉(たかよし)は、わたしをいましめて、玉梓の首をはねた。このため、その怨魂(えんこん)がわが主従にたたりをなす、とはじめて気がついたのは、金碗孝吉の自害のときのことだ。もうろうとした女の姿が、わが眼(まなこ)をさえぎった。
そのあと、玉梓のうらみは、八房という犬になりかわって、伏姫をうばいとった。その伏姫は、金碗八郎孝吉の子大輔にうたれてしまった。大輔。おまえは、罪なくして亡命し、忠義によって罪をえた。みなこれ因果のかかわるところだ。そしてその源は、この義実からおこったことだ。八房に伏姫をゆるし、ゆるしてはならぬ玉梓をたすけるなどといった口のわざわいだ。いまなげいてみても、せんないことだが、神霊(しんれい)に正あり邪がある。神がいかるを罰といい、鬼がいかるをたたりという。玉梓は悪霊(あくりょう)、伏姫の死は《たたり》だ。大輔、おまえの罪は、ゆえあってのことだ。うらみはせぬ」と、自分をせめて、ねんごろにさとした。
孝徳は、おもわず小膝をすすめて、
「おことばによって、父の自害も、わたしの薄命も、さとることができました。しかし、八房が菩提にはいったのですから、悪霊のたたりは消えたでしょう。そして、役行者の示現(じげん)によって伏姫をたずねられたのに、なぜ死ぬまえにおあいできなかったのでしょう」ときいた。
貞行は小膝をうち、「それらのことに、わたしも疑いをもっております」という。義実はうなずき、
「それは、神ならぬ身で知るよしもないが、禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし。人のいのちは、天にかかわることだ。わたしは、この山にこなければ、伏姫はただ犬の妻になったとおもっただろう。伏姫の節操徳義と、八房が菩提にはいったことを知らずにおわったろう。また、川霧の晴れ間がなければ、伏姫も八房も大輔にうたれず、ともに川の水屑となってしまったであろう。遺書があったとしても、知らぬものは情死というだろう。いまさらいうべきことではないが、大輔の父八郎が功ありながら賞をうけず、自害したことはふびんだ。それで、その子をとりたて、東条の城主にしよう、伏姫を妻にあたえようとおもっていた。
だが、使者にたったおまえはもどらず、伏姫は八房にともなわれて深山にはいった。わたしの宿願はむなしくおわってしまった。伏姫のしるした神の童子のことばには、親と夫とあうとある。夫とは、おまえのことだ。それで姫と犬は大輔にうたれたのだ。因縁がこのようなら、だれをとがめ、だれをうらむものか。いまから、わが里見家に霊のさわりがなくなったので、子孫はさかえるだろう。そうおもわないか」といった。
貞行、孝徳の疑念はさり、落涙した。
しばらくして孝徳は、かたちをあらため、
「君の高恩、もったいなくおもいます。このうえは、わたしの首をはねてください」という。義実は、
「いま伏姫の傷をみると浅い。蘇生(そせい)するかもしれぬ。この数珠は如是畜生しかじかの文字はもとにもどり、仁義八行をしめしているから、霊験(れいげん)がうしなわれたものではない。伏姫がたおれたとき、数珠をその身からはなしたので、息たえたのではないだろうか。幼いころから、この数珠で安危を知ってきた。いのれば利益(りやく)があるかもしれぬ」と、鞆(とも)にかけてある数珠をとり、額におしあて、しばらく念じた。それから、伏姫の襟にかけた。貞行と孝徳は、左右からなきがらをいだきおこし、役行者の名号(みな)をとなえた。
伏姫が目をひらいた。貞行・孝徳は、よろこび、
「姫、おこころつかせられましたか。蔵人と大輔ですぞ。父君もおられますぞ」と声をかけると、伏姫は袖(そで)で顔をかくし、たださめざめと泣いた。義実は近より、袖をひきうごかし、
「伏姫、はじることはないぞ。ここには、主従三人だけだ。このたび母のねがいによって、みずからたずねてきたが、これは役行者の示現によるものだ。そなたのこと、八房のこと、遺書を見て知った。金碗大輔は去年から上総におり、そなたのうわさをきき、この山にしのびいり、八房をうちたおした《それだま》で、そなたも浅い傷をおうた。八房はふびんだが大輔にうたれたのも因縁だ。大輔を自分はそなたの婿(むこ)にするかんがえでいたからだ。草刈童子のことばにも、親と夫とあうことができるとあったそうではないか。滝田にもどり、あんじる母をなぐさめよ、伏姫」といった。
貞行も、「ご帰館ください。おん孝行してください」と声をかけた。
伏姫は、あふれる涙をぬぐいながら、
「もとの身なら、滝田にもかえりましょうが、ひとより罪深いゆえ、このありさまを親に見せ、ひとに見られておめおめと、どこの里にかえられましょう。犬も菩提の友なので、この身はけがされず、おかされることがなくすごしましたが、深山に犬とともにくらしました。また、父上が婿ときめられた夫とやらの話、この期(ご)におよんでおききするのは、あまりにむごいことです。金碗(かなまり)大輔は親のゆるした夫、その夫にそむき、八房にともなわれて山にはいったのは、このうえのない不義でしょう。
もとより、わたしに婿のあることは知りません。八房も、知りません。八房を夫とすると、大輔はわたしにとっては仇(あだ)ということになります。八房も大輔も、わたしの良人(つま)ではありません。この身は、一人うまれきて、一人で死出の山にかえる身なのです。
これらのこと、母上にことづけてください。百歳(ももせ)の寿(ことぶき)をねがうだけです。このようなあさましい姿を見られましては、なきがらをかくすのも無益(むやく)です。はらみ女の新鬼(にいおに)は、みな血の池にしずむといわれます。子の父なくて、あやしい子をやどしてしまったからには、わたしの疑いも、人びとの疑いもとくには、このほかありません」と、ひじ近くのまもり刀をひきぬき、腹へぐさとつきたて、真一文字にかききった。
このとき、あやしむべし、その傷口から、一朶(いちだ)の白気がひらめき出て、襟にかけてある水晶の数珠をつつんで、虚空へのぼったようにみえた。
数珠はたちまちふっとちぎれて、そのうち百は一連のままに、地上にがらりとおちた。 空には八つの珠がのこり、さんぜんと光をはなち、とびめぐり、いりみだれ、赫奕(かくやく)たるありさまはながれる星のようだ。
義実主従は、伏姫の自害をとどめることができず、空をあおぎ、「あれよ、あれよ」と、目を白黒させた。さっと音をたててふく山おろしの風のまにまに、八つの霊光は、八方にちりうせた。その東の山の端(は)に、夕月がのぼりはじめた。
これから数年ののち、八犬士が出現し、里見家に集合することになる。これは、その《きざし》だったのだろう。伏姫は、深い傷にも屈せず、とびさる霊光をみつめ、
「うれしい、わたしの腹には、胎児はおりませんでした。神のむすばれた腹帯も、疑いもとけましたので、こころにかかる雲もなくなりました。この世の月をみのこして、西の天にいそぎます。おみちびきください、弥陀仏」と、となえおわるまもなく、鮮血にまみれ、そのまま《はた》とふした。こころもことばも、女にはにぬ、たくましき最期(さいご)はことにあわれだ。
伏姫(ふせひめ)の自害をとどめることができず、貞行らはいらだった。伏姫の死により、かんざしの花がちったようにさびしくなった。そのなかで金碗大輔孝徳(かなまりだいすけたかのり)は、男にもまけない伏姫の末期(まつご)のひとことに、はげしくつきうごかされ、身のおきどころもない。なきがらのそばにおちていた血刀を手ばやくひろい、また、自分の腹をきろうとした。そのとき、義実は声をふりたて、
「やめよ、大輔。うろたえたか。その身に大罪ありながら、君命をまたずして自害するとはなにごとだ。伏姫がいったん蘇生したので、罪一等を減ずるとも、この山にはいったものは首をはねる掟(おきて)だ。そこへ、なおれ」とすすみ、刃(やいば)をひっさげてたった。
「ねがってもないことです」と、孝徳はかたちをととのえ合掌し、うなじをのばすと、きらめく刃の稲妻、ちょうとうった太刀風に、孝徳の髻(もとどり)がきれて落ちた。
「これは……」と、大輔も、とどめかねていた貞行も、義実の恩義にかしこまった。義実も氷の刃を鞘(さや)におさめて、ながれる涙をふりはらい、
「見よ、罪びとを。みずから刑罰したぞ。法度(はっと)は君の制するところ、君またこれをやぶるという。その君の法度をわたしもやぶり、山にはいった。大輔一人が罪びとではない。首にかわって髻(もとどり)をきったのは、大輔の亡父八郎への寸志だ。おまえの名を幼いときから大輔としたのは、大国輔佐(ほさ)の臣たれとねがってのことだ。わが官職もようやくすすみ、治部大輔(じぶのたゆう)となる。大輔(だゆう)と大輔(だいすけ)とは、その国読(くによみ)はことなるが文字はおなじ、主従同名だ。このために、主のうえのたたりをおまえがうけ、ふびんだ。父八郎は大功あり、大輔も忠あり。その親といい、子といい、勲功(くんこう)あっても賞をうけていない。わが子にもまして哀傷の涙はここにとどめがたい。
大輔よ、孝徳よ。わがこころをよく知ったなら、亡父のため、姫のため、いのちをたもち、身を愛し、仏につかえ、苦行して高僧知識(こうそうちしき)の名をあげるがよいぞ。わかるか」と、義実は出家になることを、ねんごろにすすめた。
孝徳は、かたじけなさに涙にむせび、地にふした。声は出ない。
貞行が、「主君の仁心、家臣のうえにこのようなおこころ、大輔の身には、なによりもましての満足でございましょう」という。
孝徳も頭をあげ、
「わたしはまことに不肖(ふしょう)ですが、如是畜生(にょぜちくしょう)さえ菩(ぼ)提(だい)にはいったとおもいます。いまから日本じゅうを回国して、霊山霊社(れいざんれいしゃ)を巡礼し、伏姫の後世(ごせ)をとむらい、わが主君父子の武運をいのりましょう。姫の落命も、わたしの出家も、みな八房の犬のせいですので、犬という字を二つにわり、犬にもおよばぬこの大輔が、大の字をそのままに、丶(てん)をいかし、丶大(ちゅだい)と法名を名のりたいとおもいます」といった。義実は、
「よくぞもうした。あの犬は、全身に黒白(こくびゃく)八つぶちのあるゆえ、八房と名づけたが、その八房の二字は、一尺八方(ひとりのしかばねはっぽう)にいたるの義だ。また伏姫の傷口から一道の白気たなびき、仁義八行の文字があらわれ、百八の珠(たま)ひらめきのぼり、文字のない珠は地に落ち、八つは光をはなち、八方へ散乱し、あとかたもなくなったことなどは、そのよってくることがあるはずだ。それは、のちにおもいいたることもあろう。菩提の門出にのこった百の数珠をとらせよう。たいせつにせよ」とあたえた。
孝徳は、再三おしいただき、
「これは、ありがたき君からのたまわりもの。いまから諸国をめぐり、とびさった八つの珠の落ちたところをたずね、はじめのように百八つの数になりましたら、また安房の国にたちかえって、お目にかかれましょう。年をへてもたよりがなかったなら、旅の途中で野ざらしとなり、飢えた犬のこやしになったものとおもってください。これが、まことの今生(こんじょう)のおわかれでございます」と、おもいきっていった。
すでに日はくれて、夜は、はや初更(しょこう)のころとなった。月は半輪の雲もなく、昼よりも明るく、山には万樹の影がある。とうとうと水の音、さつさつと松の風、シカの声、サルのさけびが夜をいっそうさびしくする。伏姫はひとり、ここで行(ぎょう)をつまれたのかと、主従しきりに感嘆した。堀内貞行が、
「姫の自害により、時をすごしてしまい、日は暮れ、山のけわしさに下山するのはこころもとない。それに、ここで夜をあかせば、毒蛇猛獣の憂いもなしとしない。姫のなきがらをどうしようか」と、孝徳にとうた。
孝徳はしばらく思案し、
「それなら、われわれは、姫のなきがらをかつぎ、わが君にはたいまつをおもちいただき、下山をいそぎましょうか」などと、あいはかった。
義実は、これをきき、
「伏姫すらただひとり、去年からここにすんでいたというのに、弓矢とるもの主従三人、毒蛇猛獣をおそれて、一夜なきがらの通夜をすることもできず、あわててふもとにくだるというのか。魂魄(こんぱく)いまだここを去らずにいる。おまえたちがめめしい議論をしていては、伏姫にわらわれるぞ。枝をおり、火をたきつけよ」といった。
貞行と孝徳は感激して、伏姫のなきがらを洞(ほら)のなかにいれ、主従は石門の樹下に円座して、しずかに夜のあけるのをまった。
しばらくすると、むかいの岸にたいまつがひらめき、人のかすかな声がきこえる。
貞行は、はるかにこれを見て、
「従者(ともびと)が、むかえにみえたのでしょう」といい、つとたって水ぎわまで走り、
「そのたいまつは、むかえの人びとであろう。主君義実どのはここにおられる。われわれは、すでにこの川をわたった。風聞とはちがって流れはゆるく、瀬は浅い。はやくわたるがいい」と、大声でよびかけた。
風がその声をむこう岸まではこんだらしく、たいまつはあっちこっちとうごきはじめた。さきにすすむもの、あとにつづくもの、馬をひきいれ、声をあわせておおくの人びとが川をわたろうとしていた。こっちの岸からよく見ると、おもいがけず女轎(おんなのりもの)を釣台(つりだい)にくくりつけ、男七、八人が裸でかついできた。滝田からきたものと、ほかはふもとにとどめた従者たちだ。
貞行がみとがめ、
「これは、どうしたことだ?」ときくと、人びとは水ぎわについて女轎(おんなのりもの)をかつぎおろし、
「奥から火急の使いがあり、女轎でまいりました。それで川をわたるため雨具などをのせてある釣台に、お使いの女轎をくくりつけてまいりました」という。
貞行は、
「それは、いいかんがえであった。で、そのお使いは?」というと、五、六人のものが、手ばやく細引の麻縄(あさなわ)をときすて、女轎の戸をひきあけた。なかから四十あまりの柏田(かえでだ)という女がでた。女轎のうちには三尺ほどの白布がむすびつけてあり、柏田もそのからだに白い《ねりぎぬ》をまきしめ、おなじ布の《はちまき》もしている。早打ちというしたくである。長いことゆられてきたので、柏田は足がさだまらない。左右から人びとがたすけた。
貞行が義実のそばにきて、急使のきたことをつげた。柏田もまかりでた。義実は、
「どうしたのか?」ときいた。柏田は、
「わが君義実さま、明け方御館(みたち)をおでになられてから、奥方さまの病い、ますますおもくなられました。義実さまはいつおもどりなされるのか、と幾たびもおききなさいます。また、あたかもそこに伏姫さまがおられるかのようにといかけては、お泣きになります。義成さまもなぐさめかね、
『父上は姉上を、みずからたずねようと、じつは富山におもむかれたのです。きょう一日おまちください。あしたは、かならず姉上とともにおかえりになられるでしょう』ともうされました。
これをおききになられた奥方さまは、おどろかれ、
『富山は名だたる魔の山ときく。義実さまが、もしそのようなところにおいでになられては、ご無事でおかえりになられますかどうかわかりません。はやくよびかえしておくれ』とのこと。御曹司(おんぞうし)義成さまも、いよいよ、手だてがないと、すぐこの柏田を使いにおだしになられたのです。わたしは、一度むこうの川岸に、姫さまをさがしにまいったことがございますので」と、かろうじてここにたどりついたことをかたった。
そのとき、従者がさわぎたてた。むかいの岸にちらちらと火がみえたからだ。水ぎわにきたらしい。
人びとは、「あれは、まさしく女轎だ。そうだろう」とわめく。
貞行・孝徳も走りでて見て、「再度の早打ちだ。こちらからたすけをおくるのだ」と下知(げち)した。
従者たちは、釣台をかつぎ、流れをきり、むこう岸につき、はじめのように女轎をくくりつけ、こちら岸にわたしてきた。女轎をおろし、戸をひらいた。
なかから一人の女がでてきた。まだ二十にならない梭織(さおり)という女だ。柏田とおなじいでたちである。梭織は、息きれて、たちまちたおれた。貞行・孝徳がおどろき、顔に清水をそそぎかけ、薬をのませるなどしていたわった。梭織は気がつき、貞行らにいざなわれて、義実の前にまかりでた。義実は、
「一度ならず二度の使いとは…、五十子(いさらご)がどうかしたのか?」ときくと、梭織は、はらはらとおちる涙もふかず、「奥方さまが…」と、あとはいえず、泣きくずれた。柏田も泣いた。
義実は、ため息をつき、「こときれたか」ときくと、梭織は頭をあげ、
「ご臨終のことをもうしあげるのは、つろうございます。柏田が出立されたあと、いくらもたちませんでした。義実さまに騎馬(きば)をもってこのよしをおつたえするのはやすいが、しのびの登山なので、おまえはさきに富山にいったことがあるそうだから、このままたてともうされました」という。
孝徳と貞行は顔をみあわせ、頭をたれた。
義実これをきき、
「五十子のねがいごと、はたしてやらなかったのはくちおしいが、末期にあわなかったのは幸いかもしれない。あしたまでのいのちをながらえても、たちかえってどのようにもうしたらよいか。おまえたち、あれをみよ」と洞のほうをみかえり、伏姫のなきがらをしめすと、柏田・梭織の胸はうちさわぎ、その背後にたちまわり、さしいる月の光で洞のなかをみて、
「ああ、姫さま。獣にやぶられましたか、刃でおはてなされましたか。いたましさよ」と、ひとしく声をたて、なきがらをふしおがみ、泣きつづけた。
義実は、貞行らに、
「義成はさぞまっているだろう。人が多くきたので、夜明けにかけて山をくだろう。大輔は十余人の家来たちとともにとどまり、あしたは伏姫のなきがらを、ここに埋葬(まいそう)せよ。また八房もうめてやれ。柏田・梭織も、このままいるがよかろう。五十子の使いの魂として、通夜をするがいい」と、葬(とむら)いのさしずをし、義実らはここをくだっていった。たいまつをふりてらしながら。
つぎの日。昼すぎ、富山のふもとの村長(むらおさ)は、僧・農民らとともに棺(ひつぎ)をかつぎ、洞のほとりまできた。明け方、貞行が、村長たちにしかじかつたえておいたのである。また、この日から、きこり・炭焼きなど、すべて山かせぎするものの山いりがゆるされた。
孝徳は棺をうけとり、伏姫のなきがらをおさめ、洞をきりひらき、墓所とした。碑の石がないので、松柏(まつかや)を二本たてた。里びとは、これを義烈節婦(ぎれつせっぷ)の墓とよぶ。
この墓の三丈ばかりの戌(いぬ)のかた、ヒノキの下に八房をうめた。里びとは、犬塚(いぬづか)といった。
柏田・梭織、それに家臣十余人は、泣きつつ滝田にかえっていった。村長らも、ふもとの里にもどっていった。
金碗大輔孝徳は頭をまるめ、墨染の衣……円頂黒衣(えんちょうこくえ)の姿となり、丶大坊(ちゅだいぼう)と法号して、しばらく山にとどまり、伏姫がのこした法華経を読誦(どくじゅ)した。一日一夜もおこたらず、四十余日におよんだという。
いっぽう、滝田では五十子の葬式がとりおこなわれ、なき人の供養のためにたくさんの米をくばった。また須崎の役行者(えんのぎょうじゃ)の石窟(いわむろ)には、堀内貞行をつかわし、物を寄進し、道橋もかけた。参詣(さんけい)の人びとのためである。
五十子、伏姫の四十九日がめぐってきた。嫡男(ちゃくなん)義成を施主(せしゅ)として、滝田の菩提院で法事をおこなうことにした。義成は、「これに、丶大坊もくわえよ」といって、富山に使者をおくった。すでに丶大の姿はなく、あっちこっちとたずねた。きこりがこたえた。
「その法師なら、こころがまえができたといい、笈(おい)をせおい、錫杖(しゃくじょう)をつきならし、けさ山をくだっていかれました。もし、滝田どのからたずねられたら、そうこたえてくれといい、どこともなく出ていかれました」
使者は、滝田にもどり、そのむねをつげた。
義実はそれをきき、
「大輔はちかったように、六十余国の遍歴の旅にでたのであろう。とびさった八つの珠を、もとの数珠につなぎとめなければ、生涯(しょうがい)安房にはかえらない、ともうしていた。いつ再会できるのかわからない。のこりおしいことだ」とつぶやいた。そして丶大(ちゅだい)として苦行する大輔をたずねることをあきらめた。だが、こころの底に、ひょっとして立ちもどるかもしれぬとのおもいもある。で、義実は、伏姫の一周忌のころまでに、富山に一宇の観音堂(かんのんどう)を建立(こんりゅう)し、伏姫の徳義、八房のことなどをしるし、伏姫の遺書とともに厨子(ずし)のなかにおさめた。観音堂は、いまもある。
そして、歳月はながれたが、丶大坊の音信はきくことがなかった。
まえにすでにしるしたように、伏姫(ふせひめ)が富山にはいったのは、十六歳のときで、長禄(ちょうろく)元年(一四五七年)の秋である。また金碗入道丶大坊(かなまりにゅうどうちゅだいぼう)は、父孝吉(たかよし)が自決した嘉吉(かきつ)元年の秋にはすでに五歳になっていた。長禄二年、富山で伏姫は自害、大輔がにわかに出家し、雲水の旅にでたのは、二十二歳のときである。伏姫は十七歳でなくなったので、丶大坊は五つ年上である。
この長禄は三年で寛正(かんしょう)と改元され、また六年にして文正(ぶんしょう)とあらたまった。この文正は元年だけで、応仁(おうにん)と改元された。これも、二年で文明(ぶんめい)となる。応仁の乱がおさまり、花の京(みやこ)は、もとの春にもどった。応仁の乱は、足利将軍家の相続争いから、細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)とがそれぞれ諸大名をみかたにひきいれて、京を中心におこしたいくさであった。これが戦国時代の発端(ほったん)ともなった。文明は十八年までつづいた。前回の長禄二年から、いま文明の末年、この間、二十余年におよんでいる。
後土御門(ごつちみかど)天皇の御宇(ぎょう)、常徳院(じょうとくいん)足利義尚(よしひさ)が将軍のころであった。寛正・文明のころ、武蔵国豊島郡(むさしのくにとしまのこおり)、菅菰(すがも)・大塚の郷(さと)のはずれに、大塚番作一戌(おおつかばんさくかずもり)という浪人がすんでいた。
番作の父、匠作三戌(しょうさくみつもり)は、鎌倉の管領(かんれい)足利持氏(もちうじ)の近習(きんじゅう)であった。永享(えいきょう)十一年、持氏滅亡のとき、匠作はかいがいしく忠義の近臣とあいはかり、持氏の子、春王(はるおう)・安王(やすおう)を守護し、鎌倉をのがれ、下野(しもつけ)の国におもむいて結城氏朝(ゆうきうじとも)にむかえられ、主従ともどもその城にこもった。寄手の大軍をひきつけ、守護すること三年をかさねた。この間、里見季基(さとみすえもと)・義実(よしざね)父子も結城にかけさんじたことは、巻頭にしるした。
嘉吉元年四月十六日、巌木(いわきの)五郎のねがえりによってせめたてられ、ここに落城。氏朝父子は討死、春王・安王はとらえられ美濃(みの)の垂井(たるい)で首をはねられた。この結城の合戦の結末もすでにしるした。このあと里見義実主従が安房(あわ)へとわたることになる。その同時代の話である。
大塚匠作三戌は、一子大塚番作一戌をよびよせた。番作は、十六歳になる。匠作が、息せききっていった。
「番作。百歳千歳(ももせちとせ)までも春王・安王を守護しようとしたものの、武運つたなく防戦ついにやぶれ、諸将うたれて城はおちた。君がはずかしめられたからには、臣たるもの死すべきときだ。だがおまえは、まだ部屋ずみの身だ。ここで犬死すべきではない。さきに鎌倉がおちたとき、おまえの母と姉の亀篠(かめざさ)は、わずかなゆかりをもとめて、武蔵の国豊島の大塚にひそかにおもむいた。あそこは、おまえも知っているように、わが先祖の生国(しょうごく)だ。で、われらの名字も荘園の名とおなじ大塚なのだが、いまは名だけで、すべて他人のものだ。だれがおまえの母と姉をやしなってくれているものか。これもふびんなことだ。おまえはいのちながらえて、大塚の郷にまいり、この父のさいごのようすをつげ、母に孝行をつくせ。この父とて、犬死はしない。春王・安王の両王がとらえられても、将軍家のご親族だ。むざむざいのちをとられることもあるまい。父もここをきりぬけて、ひそかにおあとをおい、すきあらば両王をうばいかえすつもりだ。もし、ことをとげることができなければ、死出の旅のお供をする。
これは、主君重代(じゅうだい)の佩刀(はかせ)、村雨(むらさめ)だ。この名刀にはさまざまなあやしいことがおこる。殺気をふくんで、ぬけば刀の中心(なかご)に露がしたたる、ましてや、人をきるときは、したたりがますますながれるように、鮮血をあらって刃(やいば)をそめた。それがちょうど村雨が葉ずえをあらうようなので、《村雨》と名づけられたという。じつに源氏の重宝なのだ。
で、先君持氏どのは、はやくから春王君にゆずられ、まもり刀になされた。春王君がとらえられたが、いまその村雨はこの父の手にある。もし、父がこころざしをとげることができず、主従ともどもいのちをおとせば、この村雨も敵にとられよう。それではいっそうの遺恨となる。そこで、おまえにあずける。春王君が敵中からのがれて、ふたたび世に出られるようなことがあれば、おまえが一番にはせさんじて、この宝刀をおかえしするのだ。もし、うたれるようなことがおこったなら、これはまた王とこの父の形見だ。これを主君とみたて、菩提(ぼだい)をとむらうのだ。ゆめゆめ疎略(そりゃく)にするな。わかったか」といい、匠作は、錦(にしき)の袋にいれたまま腰におびていた村雨の宝刀を番作にわたした。
番作は、十六歳の少年だが、そのこころつよく、ひとよりまさるので、一言半句ももらさずきき、うやうやしくひざまずき、村雨の宝刀をうけて、
「おことばすべてよくわかりました。小禄(しょうろく)なりとも、わが父上は鎌倉どの(持氏をさす)の家臣です。不肖ながらわたしは父上が死ぬのを知りながらのがれることは不本意です。だが、父子ともに死地につきましては、名聞はよいでしょうが、主家には益なきことと承知しております。いのちながらえて、母と姉をやしなえともうされる、いつくしみもわかりました。せめて父上ともども虎口(ここう)をのがれられますように。鎧(よろい)の威毛(おどしげ)がとてもはなやかで目だちすぎます。雑兵の革具足などにきかえてください」といい、かいがいしく落ちのびるしたくを手つだう。父の目にはまた涙があふれ、それをぬぐわず、にっこりとほほえみ、
「番作、よくいったぞ。おまえは、ただ血気にはやって、ともに死のうなどといいだすものかとおもっていたが、歳ににず、親がはずかしくなるほどの孝心だ。もとより覚悟のことゆえ、この父も雑兵らにまじり、虎口をのがれよう。親と子がいっしょに走ると、まるではかりごとがないかのようだ。おまえは、さきに早くおちのびよ。父は、また後門(からめて)から道をちがえて走りさる。いそげ」と、あせりの声も、矢さけびの音にまぎれた。
敵軍がせめいり、これを城兵がむかえた。うたれるもの、うつものと、大乱戦となった。名のない武者は足にまかせて、風に落葉がちるように、塀(へい)をこえ、堀(ほり)をわたってちりぢりばらばらに逃げてうせた。大塚匠作・番作の父子も、かろうじて城中をのがれた。匠作は番作の姿をみかえったが、ついにその影もみえなかった。番作もまた父の姿をもとめたが、むなしかった。
この大塚匠作と番作の発端は、この物語の第一回の、結城合戦の落城のとき、里見季基の嫡男(ちゃくなん)義実をのがした同日のことである。里見父子は義による知勇の大将。この大塚父子は忠誠ある譜代(ふだい)の家臣。官職もとよりその上下はあるものの、そのこころは符節をあわせたようにおなじだった。人の親たるいつくしみは、おのずからなる誠にあった。
話をもどす。大塚番作は、父の死をよそにみて、いのちをながらえようとはおもわなかったが、それについて言いあらそっている暇(いとま)などない火急のことだった。親も子も《とりこ》になると、こころざしが立たぬ、と城中をのがれでて、袖印(そでじるし)をかなぐりすて、髪をふりみだして顔をかくし、敵兵たちにまじり、春王・安王の所在をひそかにうかがった。父匠作もまた、敵陣にまぎれこみ、ことのなりゆきをうかがった。
春王・安王の兄弟は、管領清方(きよかた)の従臣長尾因幡介(ながおいなばのすけ)にとらえられた。匠作はなお姿をかえ、かたちをやつして、両王をみとどけようとした。五月十日、いくさがおわると、長尾因幡介を警固使とし、信濃介政康(しなののすけまさやす)を副使として、両王を粗末な牢輿(ろうこし)にのせて、京都へ護送することになった。
このとき、匠作は、政康の従卒になりすまして、かげながら両王のお供にくわわった。この旅の途中、どうにかしてうばいかえそうと、すきをうかがった。しかし、牢輿は二百余騎の兵が四面八方をかこみ、夜はよもすがら本陣にかがり火をたき、さらに幾隊もが夜まわりをつづけ、露ほどの油断もなかった。匠作は手だしなどできぬありさまである。
春王・安王らは、旅宿(たびね)をかさねて五月十六日、青野が原をすぎたころ、京都将軍からの使者と出あった。使者の口上は、こうである。
「春王・安王をいまさら京都にいれるな。旅の途中でこれを誅(ちゅう)し、首を持参せよ」
長尾らは、「それなら……」と、美濃路の垂井の道場金蓮寺(きんれんじ)に牢輿をかつぎこみ、その夜、住持を戒師(かいし)として処刑のかたちをととのえた。
矢来の四面にかがり火をたき、春王・安王を、敷皮の上にすわらせ、これがさいごとつげた。
住持は念珠(ねんじゅ)をもみならし、ま近にすすみ、ねんごろに、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の六字の名号(みな)をさずけた。
春王は安王に、
「とらわれてから、こうもあろうかとおもっていた。おもえば前月、結城にて氏朝らは、われらのために討死した。その初月忌(しょげつき)に死ぬことができるのは、せめてもの罪ほろぼしだ。けっしてなげくな」といって、なぐさめた。安王はうなずき、
「西方浄土(さいほうじょうど)とやらに父上・母君がまします、とひとがおしえましたので、死してふたたびなき親におあいできるのですから、なにも悲しいことはありません。だが、冥土(めいど)の道を知らず、これだけがこころぼそくおもわれます。はぐれないでください」
「はぐれるものか」といいあい、はやくも手をあわせ、目をとじた。
長尾の老党牡蛎崎小二郎(かきざきこじろう)・錦織頓二(にしごりとんじ)の二人は、切鞆(きりつか)をかけた刀をひっさげて、両王の背後にたった。
長尾らは、「ああ、いたましい」と鼻をすすると、雑兵まで鎧の袖に涙をしたたらせた。
この雑兵にまじり、うしろのほうで、このありさまを見る大塚匠作の涙は泉のわくようにあふれ、胸つぶれ、はらわたちぎれるおもいだ。大塚匠作、ここにおります、と名のりたいが、それもできず、声をのむ。
「もう、春王・安王をすくう手だてはないものか。主従三世の暇ごいもできぬか。ここで殉死(じゅんし)と腹をきるのはやさしいが、せめて長尾因幡介をうってから、わたしも死ぬとするか。いやいや、長尾のところまでは遠い。もし、うちそんじては、ここまできたことも無意味だ。それなら牡蛎崎・錦織なりともうつか。これらも主君を害することでおなじだ。そのあと、黄泉(よみ)の案内をしよう」と、匠作は二人にちかづこうとした。
牡蛎崎・錦織の二人は、太刀をふりあげ、声をかけた。刃の光がきらめいた。春王・安王の首が、はたと地におちた。
匠作は、「いまこそ」と、かこんでいる警固の武士のなかにわってはいり、矢来のうちにおどりいり、
「春王・安王のおもり役、大塚匠作はここにいる。うらみの刃をうけてみよ」と、怒りの大声をあげた。二尺九寸の大業物(おおわざもの)が鞘(さや)を走り、錦織頓二の肩先から乳の下まできりさいた。錦織は、どっとたおれた。
この音に牡蛎崎小二郎はおどろき、くせもの、のがすものかと、もった血刀をひらめかし、すばやく匠作の右腕をきりおとした。さらにひるむところをたたみかけて、首すじをはっしとうちおとした。
そのとき、陣笠(じんがさ)をかぶった一人の雑兵が、むれさわぐ兵どもをかきわけて、とぶよう矢来のうちに突入、春王・安王の二つの首の髻(もとどり)を左手につかみ、匠作の首の頭髻(たぶさ)を口にくわえて、片手なぐりに腰刀をぬき、牡蛎崎を乾竹割(からたけわり)にきりふせた。
突然のさわぎに、兵二百余は「あれよ、あれよ」とどよめくだけだ。近くにいるものも手だしができない。遠くの兵どもは、すすむこともしない。このあいだに、三つの首をうばいとったものが、陣笠を手ばやくすて、
「われは持氏どのの近臣、大塚匠作三戌が一子、番作一戌十六歳。親のおしえにしたがい、戦場をのがれたものの、父に知らせず、われもまた春王・安王の両王の先途をみとどけようと、ここまできた。ただいま、親の仇(あだ)牡蛎崎小二郎をうちとった。われとおもわんものは、ここにきてかかれ」とよばわった。
長尾因幡介はきっと番作を見て、
「さては結城の残党が、いつしかまぎれこんだな。二十にもならぬ童子(わらべ)、なにほどのことがある。それ、いけどれ」と下知(げち)した。
ぼうせんとしていた兵どもは、気をとりなおし、矢来のうちにかけいろうとするところ、番作、真額梨割(まっこうなしわり)車切(くるまぎ)り、と秘術をつくす手練の太刀風、たちまち草がふすように、秋葉がちるように、敵兵は深手をおった。
それもそのはずだ。番作の手にしているのは、宝刀村雨である。うちふるたびに切っ先からわきでる水は、狭霧(さぎり)のように四方八方にふりかかり、もえるたいまつ、かがり火もたちまちきえた。時あたかも皐月(さつき)の天(そら)なので、雨雲たれこめ、十六夜(いざよい)の月はみえない。
闇夜(やみよ)となったので、長尾の手勢は同士討ちもおこり、傷をおうものがふえた。番作は、これは天のたすけだ、ときりひらき、矢来のそとにでた。さらにすきをみて、墓原(はかはら)のやぶをくぐり、堀をこえて、姿を消した。長尾は、自分の油断に頭をかかえた。春王・安王の首をうばわれ、くせものをにがしたことで、面目(めんぼく)をうしなったからである。
長尾は京都の将軍に、ことの次第をしるして使者をおくった。むろん、番作のゆくえをさがさせた。
京から長尾に返書がとどいた。五月十八日付で、文面は、こうである。
《春王・安王の首がうばいとられたことはおおきな落度だが、すでにうちはたしたものなので、ぬすまれても害にはならぬ。よって、長尾因幡介は、このたびの軍功もあることゆえ、その罪はゆるされる。これから鎌倉にまいり、管領清方につげるがいい。》
長尾因幡介は、これをみて、はじめて安堵(あんど)の微笑をうかべた。春王・安王の首なしのむくろ、うたれた牡蛎崎以下のなきがらを金蓮寺に埋葬して、あくる日、鎌倉にむけて出立(しゅったつ)していった。
大塚番作もまた、金蓮寺をのがれ、東のほうの山路にはいった。昼も夜も、ただひたすらに走った。十七日の夕方に、吉蘇(きそ)の御坂(みさか)あたりの長嶽(ながたけ)のふもとについた。垂井から三十里ほどある。「ここまでは、追っ手もくるまい」とおもえば、たちまち疲れと痛みをおぼえた。終日なにも口にしていないのだ。だが、このまま休息することはできぬ。三つの首をうずめる墓所をさがす必要がある。ここは、人里遠く、山ふところで雲が近い。峰はみどりで、水は清く白い。いまは、その風景をながめる余裕などない。ふきくる松風を、おってくる敵の声ともおもうほどだ。鳥のなき声も、なぐさめの友とはならない。
山路は暗い。十七日の月が山の端(は)に出た。生垣をめぐらした草家(くさや)のほとりにたどりついた。庭門の折戸(おりど)の片扉(かたとびら)は、朽ちてなくなっている。あれたままの一軒家である。
「こよいは、ここに足をやすめたいものだ。一碗(わん)の食をこうてもみよう」と、庭にはいった。月の光で見ると、ここは一宇の田舎寺(いなかでら)らしい。持仏堂とおもわれる軒には、ヒノキの輪板(まるいた)に《拈華庵(ねんげあん)》と、三文字をほった額がある。これとて磨滅していて、かすかによめたのだ。むこうは墓所らしく、石卵塔が幾つか建立(こんりゅう)されている。番作はおもった。
「首をうずめるのにちょうどいいが、そのむねをこの寺のものにつげたなら、ことわられるだろう。庵主にはつげずに埋葬し、そのあと宿をたのもう」と思案し、足をつまだて、しのびやかにあっちこっちとさがしまわると、持仏堂のすのこの下に、一挺(ちょう)の鋤(すき)が目についた。「いいものがある」と、これをひきだし、墓所におもむくと、新葬(あらぼとけ)らしく、まだ石がおかれていないところがあった。きっとそのあたりの土はやわらかいとかんがえてほりおこした。穴は、深くほれた。三つの首を深くうずめ、もとのように土をおおい、ひざまずいて手をあわせた。鋤をもとにもどした。それまでとがめる人もいない。
番作は庫裏(くり)のほうにまわり、ほとほとと戸をたたき、「このご庵主にもうしあげます。わたしは山路に日暮れて、うえつかれた旅びとでございます。慈悲深い寺とぞんじ、こよい一夜の宿をおねがいします」といって、戸をひらくと、庵主らしい人はおらず、一人の娘が、燭台(しょくだい)の光にさしむかって、さも人をまつようにすわっていた。歳は十六歳になるか、美しい娘である。
娘は、番作におどろき、無言のままだ。番作も、娘一人でいるのにすこしくおどろいた。娘はたちあがり、納戸(なんど)のほうに逃げようとした。
番作は、あわててよびとめ、
「お女中、そうおどろかないでください。わたしは、山賊夜盗(さんぞくやとう)ではありません。きのう、親の仇をうちはたし、きょう、きりぬけてきたものです。きのうから、飢えと疲れとで、あるくことができぬしまつです。一碗の飯をめぐみくだされ、宿をおゆるしいただければ、生きかえることができます。わたしは、けっして欲心をもつものではありません」といい、腰刀を右手にとり、うしろにおしやり、すのこの上にすすみでた。
娘は、おそるおそる行灯(あんどん)の火口(ひぐち)をこちらにむけた。番作の姿がうかびでた。娘はいった。
「まだ年若いかたですね。仇をうったかたなのに、道の難儀をすくうこともできず、もうしわけありません。一碗の糧(かて)をおしんでいるのではないのです。じつは、わたしはここのものではなく、またここはごらんのように寺です。もとより田舎なので、庵主のほかにはおりません。さきにわたしはなき親の墓まいりにきましたところ、庵主の法師によびとめられて、拙僧(せっそう)は大井の郷までいってくるが、日暮れまでにたちもどるゆえ、しばらく留守居をしてくれないかといわれ、ことわることもできず、いまかいまかとまっております。もう日が暮れかかり、このままかえることもできず、こまっています。ここに飯はありますが、わたしではどうにもなりません」という。
番作は、
「もうされることはもっともですが、庵主のかえりをまつことができません。人をすくうのは出家の本願。庵主にことわらなくても、とがめられることはありますまい。もし立腹されたなら、わたしがあやまります。飯をめぐんでください」とこいもとめた。
娘は、ことわりきれず、山形に麻布巾(あさぶきん)がかかっている庵主の碗を番作の近くにすえて、山盛りにしてさしだした。乾菜(ほしな)まじりのあら麦も空腹なので美味である。皿には玉味噌(たまみそ)もある。櫃(ひつ)の糧のなくなるまで箸(はし)をとった。番作は、膳(ぜん)をおしやり、礼をいった。
娘はそれをかたづけると、
「旅の人。あなたの飢えはすくいましたが、庵の留守は若い二人です。いっしょに宵をすごしますと、ひとから疑いがかかります。はやく出ていってください」とつれなくいった。番作は自分の袖をまきあげ、ひじをさしのべて、
「これを見てください。このように数か所の金傷があるのです。けが人と一つ家にとまったとしても、なにごともおこるものですか。どうか一夜の宿をかしてください。うえた腹がいっぱいになりましたら、いっそう疲れがでました。ほどなく庵主もかえるでしょうから」という。
娘は、ため息をつき、
「もうおまえさまのすきなようにしてください。だが、山寺なので、客間などありません。枕をみつけて本尊の前でこよいをあかしなさい。山里にはノミ・カなどいませんから」といった。番作は微笑し、
「勝手をいって、もうしわけない」といい、ようやくおきあがると、娘は、「これをおもちなさい」と、ろうそくをさしだした。
「かたじけない」と、番作はろうそくを右手にとり、左手で襖(ふすま)をあけ、持仏堂にねむりにいった。
大塚番作は、傷は浅かったが、一昼夜も遠い道のりをきたので、疲れとともに傷がいたみ、夜どおしねむれなかった。枕もとまで松風の音、谷川の音がさわがしくきこえる。
ねむるともなしに、うとうとまどろみかけた。そのとき、襖ごしに人の話し声がするので、めざめた。耳をそばだててきくと、年老いた男らしい。庵主(あんしゅ)がもどったのだろう。
「庵主は、なにをいっているのか?」と、耳をすましてきくと、娘のなき声がして、
「それはききわけのない。衆生済度(しゅじょうさいど)は、仏のおしえではございませんか。人をころすなどは、法衣(ほうえ)にはじることでしょう。なさけないことです」という。
「あの声は、わたしをとめてくれた娘だ。さては、ここの庵主は破戒の悪僧、かよわい女を妻にして、旅びとをとめ、ひそかにころして金品をとる山賊(さんぞく)にきまっている。たまたま主君と父上の仇をうち、危難をのがれてきたのに、おめおめと山賊にころされてたまるか。先(さき)んずれば人を制す。こっちからうってでて、みなごろしにしてやろう」とおもいさだめると、おちつき、ひそかにおきて帯をひきしめ、刀を腰にし、さぐりながら襖のすき間(ま)からむこうのようすを見た。
四十あまりの悪僧が、手に一挺(ちょう)の菜刀をふりあげて、娘をおどかしたり、すかしたりしている。いっていることがはっきりわからぬ。
「わたしをころす面(つら)だましいだ。あの娘は、髪ふりみだしながらとめることができず、なきくずれているのだ」と番作はさっし、いきなり襖をちょうとけやぶり、庫裏(くり)のなかにおどりでた。
「山賊。おまえがおれをころすまえに、まずおれがおまえをころしてやるぞ」と、ののしりながらとびかかると、悪僧はおおいにおどろき、もった刀をひらめかして、ふりおろした。番作はその刃(やいば)の下をくぐりぬけて足をとばし、腰のあたりをけった。けられた悪僧は、前にひょろひょろと五、六歩走りだして、ようやくにふみとどまり、ふりかえってつきかかった。それを番作は数回右へながし、左へすべらし、つかれるところにつけいり、菜刀をたたきおとした。
悪僧は、あわてて逃げようとした。番作は菜刀を手ばやくとりあげ、「悪僧。天罰おもいしれ!」と、ののしる声とともに、稲妻のように刃をあびせ、悪僧の背すじを深くつんざいた。
悪僧は、あっとさけんでたおれた。胸もとを、番作のとどめの切っ先がつらぬいた。
番作は血のたれる菜刀をぬぐって、ふししずんでいる娘にむかい、目をいからして、
「おまえは、わたしに飯をめぐんでくれた。恩にはなった。また、賊僧がかえってきて、わたしをころそうとしたことをとめた。それはいいとして、この賊僧の女房となって、これまで幾人の人をころしたのだ? すみやかに白状して、刃をうけよ」というと、その娘は、わずかに頭をあげ、
「その疑いは、わけを知らないからです。わたしはこのものの妻などではありません」といった。
番作はあざわらい、
「ことばたくみにして、時をまつのか。小賊(こぬすびと)らのかえりをまって、夫のためにうらみをかえそうというのだろう。おまえのたくらみに、わたしがのるものか。もうさなければ、菜刀でいわせるか」といって、切っ先をふりおろすと、娘はしりぞき、
「おまちください。もうしあげることがあります」といっても、番作は怒りの切っ先を娘につきつけたままだ。娘は、右手をのばし、左手をつき、片膝(かたひざ)をたてて身をそらして、うしろざまに逃げるのを、番作は逃がすものかとつぶやく。
娘は、手をふところにいれ、せまる番作の眼前に一通の書きものをつきつけ、
「これを見て、疑いをといてください」という。
番作は、その書きものに目をとめ、おもわず刃をとりなおして、
「これはおもいがけない書状の名印。賊婦の艶書(えんしょ)とおもったら、武士の遺書ではないか。そのわけをきくぞ。かたるがいい」といって、刃をたたみにつきたて、娘をみまもった。
娘は、その一通をまきおさめながら涙をながし、
「わたしは、つつみかくしなくもうしましょう。そもそも、わたしは御坂(みさか)の住人、井丹三直秀(いのたんぞうなおひで)の娘で手束(たつか)といいます。父直秀は、鎌倉どのに恩顧をこうむった武士でしたが、持氏さま滅亡のとき、春王・安王の両公達(きんだち)は、結城(ゆうき)の城にこもられたとつたえききました。それをきくと、父直秀は、手勢十余人をひきいて、御坂を出立(しゅったつ)、結城の城にさんじました。合戦をくりかえしましたが、両公達の武運ひらかれず、さる月の十六日に結城の城はおち、名のある武士とともに父直秀もうたれたのです。この遺書は、そのおり、父がかきのこしたもので、その日老僕にもたせて御坂にとどけてきたのです。
わたしの母は、去年から結城のほうの天(そら)をながめて、ものおもい、ついには病いにふしました。いのちもあやういというときに、無常にも結城が落城し、父の討死(うちじに)を知らせに、遺書をたずさえた老僕がつきました。その老僕も、長途の疲れと傷の深手に生きるのぞみなしと、父のあとをおい、そくざに切腹したのです。
わたしの家につかえていたものたちも、縁(えにし)につながるとがめをおそれ、いつしか逃げ去ってしまい、一人もおりません。
どうするにもわたし一人。母の看病をつづけましたが空蝉(うつせみ)のときもまたず、今月十一日になくなりました。葬(とむら)いのことなどは、里びとの好意により、その夕方にこの寺でいたしました。きのうは父直秀の初月忌(しょげつき)、母の初七日でした。わたしは、こころばかりの布施をもち、まいったのです。庵主は、わたしが墓まいりするたびに、ねんごろにとむらってくれました。そして、留守居をたのまれていたのです。
それからあとのことは、ごぞんじのとおりです。この寺は、拈華庵(ねんげあん)といい、庵主の法名は蚊牛(ぶんぎゅう)とかいいます。わたしの家はこの寺の檀家(だんか)なので、いささかもうたがうことなく、こわれるままに庵の留守居をしていました。庵主がおそくかえってきたのは、たくらみがあったからです。
この法師は、いつのころからか、わたしにおもいをよせ、わたしを一宿とどめようとたばかり、留守居をさせ夜中にかえってきて、わたしをとらえての艶話(つやばなし)。法師にはあるまじき無態の恋慕です。わたしがこばみますと、はてはおどかしの菜刀をひらめかして、いどんできました。
その声が高くなり、あなたにうたがわれることになったのです。庵主があなたにころされたのも、過世(すくせ)の業因(ごういん)でしょう。仏弟子として色をむさぼり、いつわりをもってわたしをとどめ、強姦(ごうかん)しようとした冥罰(めいばつ)は、たちどころに庵主の身におよんだのです。かなしむことではありません。あなたをとめたことは、庵主につげる暇(いとま)もなく、庵主はわたし一人とおもったのでしょう。あなたのかんがえで、その疑いをはらしてください。わたしは結城の残党。とらえて京(みやこ)にひこうとなさるなら、のがれるみちはありません。人をころして金品をとる、賊婦などの汚名をきせられたままでは、なき親の汚名ともなり、死ぬことはできませぬ」といって、目をぬぐった。
番作は、おもわず小膝をうち、
「あなたは井丹三(いのたんぞう)直秀どのの息女(むすめ)だったのですか。いま見せられました書状に、直秀とあるのは、同名異人であろうか。ことのよしを知るまでは、わたしの名をつげずにおこうとおもったのでした。
わたしの父は鎌倉譜代(ふだい)の近臣、大塚匠作三戌(しょうさくみつもり)といい、わたしは一子番作一戌(かずもり)です。
春王・安王の両公達につかえ、篭城のはじめから、あなたの父とわたしの父とは、後門(からめて)をまもっておりましたので、親しくかたらっていました。
落城の日に、いささかおもうことがあって、父とともに、わたしも虎口(ここう)をのがれ、両公達のあとをおい、垂井(たるい)まできましたが、公達はそこでうたれ、父匠作もうたれました。で、わたしは牡蛎崎小二郎(かきざきこじろう)というものをうちとめ、両公達と父の首をうばいとり、血路をひらき、一昼夜に二十余里をあるきつづけ、三つの首をうずめようとたどりついたのがこの寺です。
ここはほどよいと、新葬(あらぼとけ)のあたりの土をほりおこし、ひそかにそこへうずめたあと、宿をこうたのでした。もとよりわたしは落人(おちうど)なので、こころをくばっています。さきの法師の《ていたらく》、わたしを害するものとさっし、わけもきかずはやまってころしました。わたしの《そこつ》でしたが、知らずにそなたをすくい、悪僧を誅(ちゅう)したことは、これ冥罰でしたでしょう。
これからもうすことは、あなたに意(こころ)のあるようにとられ、どうかとおもいますので、いいにくいのですが……、篭城の日に直秀どのが、わたしの父に約束したことがあるのです。
直秀どのは、両公達の武運がひらき、東国をおさめられたなら、わたしに一人の娘がいる、匠作どのの子息の嫁にさしあげよう、ともうされたのです。父には、それこそ公私ともに幸いです。かならずいただかしてください、と約束したのです。
だが、両親とも討死、その子らがここで名のるとは、これも縁でしょう。まことに知らぬこととはいいながら、もしあやまってそなたをきずつけ、それをのちに知ったなら、なき親にどのようなわびができようかと、ぞっとします。あやうかった」といった。
そのことばにまごころをみた手束(たつか)は、ふたたび書状をとりだしてひらき、
「かねてから、お名前はきいております。おもいがけず番作さま、ここで名のりあったのは、つきぬ縁でございましょう。これをごらんください。わたしの父の死をまえにした筆のあとです。春王・安王の両君と父上さまの頭顱(みぐし)を、うずめなされたそのそばの新葬は、わたしの母の墓所でございます。親と親とのゆるした妹背(いもせ)というのもはずかしいのですが、きょうからは生死を、おまえさまといたします。ほかには、のぞみはありません。よいようにしてください」といった。
番作は感嘆し、
「はからずも、ここに舅(しゅうと)と姑(しゅうとめ)、塚をならべて、両公達の遺骨をまもるのみならず、約束かたい妹と背をあわせてくださったのも、なき親の魂のみちびきでしょう。こうなれば、そなたとともに、世をしのぶことにしよう。だが、そなたもわたしも、親の喪中(もちゅう)なので、それがおわってから、あらためて夫婦となろう」というと、手束(たつか)はうなずき、
「わたしも、そうおもいます。おまえさまが蚊牛(ぶんぎゅう)法師をころしたので、あとのわざわいがおこるかもしれません。御坂のわたしの家にも案内できません。信濃(しなの)の国筑摩(ちくま)は、母がたゆかりの土地です。ことにそこの温泉は、刀傷に効があるといいます。むかし、浄見原(きよみはら)の天皇が、この湯にこられ、軽部朝臣足瀬(かるべのあそんあしぜ)らに行宮(かりみや)をつくらせましたので、いまも御湯(みゆ)ともうしているとききます。まいりましょう。筑摩の里へ」とすすめると、番作も、「よし、夜のあけぬまに」と、手束をともなって、拈華庵(ねんげあん)を走りでた。
五、六町きて、ふりかえると、寺のあたりから、火の手があがっているのがみえた。手束はおどろき、
「寺を出るとき、こころあわてて、火をけさずにきたらしい。わたしの過失です」とつぶやくと、番作は微笑して、
「手束(たつか)、そうおどろかなくてもいい。拈華庵は山院で、浮世を遠くはなれた佳境だが、みだれる世には清潔な僧はすくない。あの蚊牛(ぶんぎゅう)すら色をむさぼり、不良のこころをおこしたろう。そのあとに僧がすみつかなければ、ついには山賊のすみかとなるだろう。
そうおもって、庵をでるとき、埋火(うずみび)をかきおこし、障子すだれをよせかけておいた。それで、あの庵室は灰燼(かいじん)となったのだ。蚊牛はまことに罪深い。その欲をとげぬうちに、わたしの手で死なせた。これをあわれむわけではないが、こころよいものではない。それで、法師を火葬(かそう)してとむらったのはわたしの一片の老婆心(ろうばしん)だ。あの寺に両公達と父の墓所があるが、寺をやかないでおいて、賊のすみかとするのはしのびない。これは、やむをえぬことだ。わたしがのちにこころざしをえたなら、あそこに伽藍(がらん)を建立するかんがえだ。むずかしいことだが……」というと、手束ははじめてわかった。二人は寺の猛火をあかりにして、道をいそいだ。
話は武蔵(むさし)の大塚の郷(さと)にうつる。
この郷に母とともに年ごろしのびすんでいるのは、大塚匠作の娘亀篠(かめざさ)である。先妻の子なので、番作には異母の姉にあたる。そのせいか心情は父にも弟にも似ておらず、親同胞(おやはらから)の篭城におもいやりのようすもなく、まして継母の千辛万苦を、すこしもくむこともなく、ものごころがついてから、結髪(かみあげ)化粧に春の日を長しとせず、情郎(おもうおとこ)としのびあう日は秋の夕べを短しとする、淫奔女(いんぽんむすめ)だった。なさぬなかでも母親は、これをこらさず、ただあんじているだけだ。それで病いがました。亀篠はおなじ郷の弥々山蟇六(やややまひきろく)というならずものと深くちぎり、一刻(いっとき)もそばをはなれることがなかった。生死のさだまらない父の篭城、母の苦労を幸いとしていた。
結城の城が落ち、父匠作は美濃路(みのじ)の垂井で討死し、弟番作はゆくえしれずと、ことし七月のはじめに大塚にもうわさがながれてきた。母親はおもいほそり、病いはおもくなり、「どうしたものか」と、なげきかなしみ、その日から頭があがらず、湯水ものどをとおらなくなった。死をまつだけだった。
亀篠は、「わたしの手一つでは、母の看病もできかねる。蟇六(ひきろく)どのをやとうことにしよう」とそのまま蟇六を家にひきいれ、世間ていばかりの薬湯で、あとは蟇六とともに食事をし、ともにねるのを楽しみとした。
その月のすえ、母親は四十(よそじ)の月を見のこしてなくなった。カラスのほかはなくものとてなく、なんとかいう寺におくられ、しるしの石はコケむしても、そなえるものなどはなかった。このときと亀篠は、のぞみどおりに蟇六と夫婦になった。
こうして、一年がすぎ、嘉吉(かきつ)三年をむかえる。
ところで、さきの管領(かんれい)足利持氏の末子(ばっし)、永寿王(えいじゅおう)が、鎌倉滅亡のとき、乳母(めのと)にだかれ、信濃の山中にのがれた。安養寺(あんようじ)の住僧は、乳母の兄にあたる人で、譜代の近臣大井扶光(おおいすけみつ)とともに、こころをあわせて養育した。それが鎌倉にもつたえられ、管領憲忠(のりただ)の老臣長尾判官(はんがん)昌賢(まさかた)は、東国の諸将とはかり、永寿王を鎌倉にむかえた。そして、八州の連帥(れんすい)とした。左兵衛督(さひょうえのかみ)足利成氏(なりうじ)として君臨したのである。成氏は結城合戦で討死した家臣の子孫をめしだして、それぞれとりたてた。時世がかわったのである。
弥々山蟇六(やややまひきろく)は、「いい時世となった」とよろこび、弥々山をすて、大塚氏(うじ)を名のり、鎌倉にもうしでた。美濃の垂井でなくなられた成氏の兄春王・安王につかえた大塚匠作の女婿(じょせい)とうったえ、恩賞をこうたのだ。長尾昌賢は豊島の大塚にしらべ役をつかわし、この虚実をたださせた。そして、大塚匠作の娘の婿であることはあきらかなり、と言上(ごんじょう)された。蟇六の人柄は、武士の身分にふさわしくないというので、村長(むらおさ)を命じ、帯刀をゆるし、八町四反の荘園をあたえた。その地の陣代(じんだい)大石兵衛尉(ひょうえのじょう)が、下知(げち)をうけて、村長としてよくつとめるようつたえた。
それ以後蟇六は、下男下女七、八人もつかった。農民らをこきつかって、自分の田に水をひいた。こうして豊かになっていった。
いっぽう、大塚番作一戌は、手束(たつか)とともに信濃国筑摩におもむき、湯治をつづけていた。手足の傷はよくなったものの、腓(ふくらはぎ)のすじがつまったものか、歩行が自由にならなくなった。筑摩に湯治にきて一年あまりになり、父の喪はおわったが、まだ武蔵の母をたずねることができずにいる。ことしは、杖にすがっても、大塚の郷にまいろう、とおもいつづけた。
だが、この夏には病いにおかされて、秋のおわりまでふせっていた。憂苦(ゆうく)のなかに歳月がながれ、嘉吉も三年をむかえた。この里にきて大塚の姓を名のることをはばかって、大塚の大の字に一点をくわえて、犬塚(いぬづか)番作と名のっている。
ここにきてくらしの手段は、手束(たつか)が織る、わずかな麻衣(あさぎぬ)のかせぎで、ほそぼそとたてていた。三年の流浪で、たくわえもつかいはたしたのである。
このあとどうしようか、と思案しているころ、
「春王・安王の舎弟(しゃてい)永寿王成氏が、長尾昌賢のはからいで鎌倉の武将とあおがれ、討死した家臣の子どもらがしのんでいるのを召しだしている」と、筑摩の温泉に湯治にきた旅びとがかたった。それが事実らしいので、番作夫婦はよろこび、
「もう、まっていられない。歩行困難でも、どうにかして武蔵におもむき、母と姉にあい、ただちに鎌倉に推参し、春王丸の形見の村雨(むらさめ)の太刀を、成氏どのに献上(けんじょう)し、父匠作のことはむろんだが、舅(しゅうと)直秀の忠死のおもむきも言上しよう。そして、わたしの進退をきめていただこう」と夫婦は、いそがしく出立の準備にかかった。
年ごろ世話になった里びとにわかれをつげ、信濃路を武蔵の大塚にむかっていった。番作の片足はなえ、杖をちからにして女房の手束(たつか)にたすけられ、数町をきてはやすみ、三、四里で宿をとった。おもいのほかに日数をかさねて、八月に信濃を出立したのに、十月のすえにようやく大塚の里近くまでたどりついた。
番作は母親の消息をきこうと、一軒の家にたちより、「大塚匠作という人の妻と娘は健在でしょうか」ときいた。
この家の主(あるじ)とおもわれる老人は、稲をこきながら、「おまえさんたちは、なにも知らないようだな。母親は二年まえ、いや三年まえにもなるだろうか、もうなくなられたよ。その病人の看護もしないで、娘の不孝淫奔は、話のほかだった。それに、婿の弥々山蟇六は、つまはじきのならずものだったが、しかじかの由緒(ゆいしょ)をもうしでて、八町四反の荘園をもらい、刀をさすこともゆるされて村長となり、いまでは大塚蟇六と名のっている。その屋敷は、あのキリの木のむこうだよ」と、ねんごろにおしえてくれた。
番作はおどろき、姉の亀(かめ)篠(ざさ)のこと、蟇六のことをくわしくたずねてそとにでた。手束もいっしょにことばもなく、しきりに涙ぐんだ。
しばらくして番作はたちどまり、ため息をつき、
「わたしが病人とはいいながら、筑摩の温泉に年をかさねて、母の臨終にもあうことができなかった。それのみならず、父の忠死を蟇六とかいうものにかすめとられ、大塚の名字をけがされてしまった。いまこのさまをうったえ出れば、村雨がわたしの手にあるので、かつことはまちがいない。が、そのために、姉との骨肉の争いとなっては、わたしの好むところではない。こうなると村雨を鎌倉どのに献上するのはむずかしい。わたしの姉は不孝な人だ。婿蟇六は、不義をもって富んだものだ。この夫婦と口をきくのさえいやなことだ。そうだろう」と、つぶやくと、手束は涙をぬぐってだまったままだ。なぐさめることもできぬまま、目をあわせていっしょにため息をついた。
番作夫婦は蟇六の家をたずねず、知人の家をたずね、蟇六らのことをつげ、先祖の墳墓をまもるため、この地にすむといった。そのものは番作の薄命をあわれんでくれ、あちこちの里びとをあつめて、蟇六のことをかたった。みなそれをきき、番作に同情してくれて、
「この村は、むかしから大塚どのの領地だから、いったん断絶したとはいえ、本領が安堵(あんど)されたいまでは、姉婿の蟇六に横領されたとおなじことだ。いまさらあらそっても、ぞくにいう証文のだしおくれで、労おおくして功のないうったえとなるだろう。よわきをたすて強きをくじくは、東(あずま)びとの心根ぞ。にくい蟇六へのつらあてのためにも、番作どのの世話を村じゅうがひきうけよう。安心なさるがいい」と、一人がいうと、みな承知し、番作夫婦をもてなした。
それから里びとらは、番作のために蟇六の屋敷のむかいの空家をかいもとめ、夫婦をすまわせた。それに銭をだしあい、田畑もかってくれた。これを番作田という。これは、里びとが旧主の恩をおもい、番作の薄命に同情してのことでもあるが、蟇六をにくむあまりでもある。
番作は、里びとらの好意で、富むほどではないが、貧しさにくるしむことはなかった。名字の大塚は姉婿にうばわれたので、ここでも犬塚を名のった。自分は村の子どもらをあつめ、読み書きをおしえ、手束(たつか)は村の女たちに綿をつみ、衣をぬう技(わざ)をおしえた。里びとへのせめてものお礼である。里びともよろこび、野菜の初ものなど、なにくれとなく物をとどけてきた。
時あたかも嘉吉三年である。この年の前年には安房(あわ)の城主里見義実のもとには伏姫がうまれ、さらにことしは義成が誕生している。
蟇六・亀篠は、死んだとおもっていた番作が、不自由なからだになったとはいえ、美しい妻女とともにもどってきて、里びとに尊敬されて、わが屋敷のななめむかいにすむありさまをみるにつけ、きくにつけ、ねたましいことばかりだ。きょう家にくるか、あしたたずねてくるかと、不安でならなかった。だが、百歩のあいだにすんでいながら、一度も姉をたずねてこないことも腹にすえかねた。
ある日、蟇六とかたらって、使者をたてて、
「わたしは女の身でも母の看病につとめ、親の遺言(ゆいごん)にそむくこともできず、蟇六どのをまねきいれて断絶した家をおこしたことはひとの知っていることだ。それなのに番作どのは、おめおめと戦場をのがれでて、イタチのように走りかくれて、母の臨終にもあわず、いのちがたすかったのを幸いと、世間ていをよくするために女とともにきて、里びとらをたぶらかし、ま近きところにこれみよがしにすみ、一度もたずねてこないではないか。他人とはいききし、姉夫婦を遠ざけるとは、あまりに無礼であろう。わたしの夫は、大塚の家督(かとく)で、すでに村長だ。人には長少の礼があるはずだ。もし、これを知らぬというなら、この村にはおくことはできない。村をたちされ」とつげた。
番作は、これをきき、あざわらい、
「わたしはまことに不肖(ふしょう)だが、父とともに篭城して、春王・安王の両公達のためにいのちをおしまなかった。戦場で死ななかったのは、父上の安否(あんぴ)をたしかめるためだ。それでこそ、垂井の地で仇をうち、両公達と父の首を埋葬(まいそう)した。偶然にも、親どうしの約束した女房手束(たつか)と名のりあい、筑摩の御湯で傷の治療につとめたが、歩行不自由のため長途の旅にたえられず、また去年は長病にかかり、一年をむなしくすごしてしまった。ことし、ふたたびおもいおこして杖にすがり、妻にたすけられて、この里近くにきてとえば、母の臨終、姉の不孝淫奔のようすは、ひとのかたるとおりだ。
姉夫婦にどのような功があって村長につかれたのか、八町四反の荘園をうけられたのか、これは知らぬことだ。わたしは、父からの命(めい)で春王君のまもり刀の村雨の一刀(ひとこし)をあずかって、ここにもっている。だが、姉夫婦とあらそうつもりはないので、鎌倉どのに献上しようとはおもっていない。しかし、わたしをこの村からおいだすというなら、鎌倉どのにうったえ、是非をただしていただくかんがえだ」とこたえた。
使者はたちもどって、番作の返答を亀篠につたえた。亀篠はだまったままだ。蟇六は無心のおもいにひたった。それっきり亀篠は、このことにふれるのをさけた。こののち、番作は杖にすがって母の墓所をたずねたおり、途中で蟇六と出あうこともあったが、口をきくことはなかった。
こうして、また十年あまりの歳月がながれた。享徳(きょうとく)三年(一四五四年)十二月、鎌倉の左兵衛督(さひょうえのかみ)足利成氏は、父持氏の怨敵(おんてき)として管領上杉憲忠(うえすぎのりただ)を誅(ちゅう)し、ここにふたたび東国は戦乱の世となった。
つぎの年の康正(こうせい)元年(一四五五年)には成氏がいくさにやぶれた。里見義実が篭城、安西景連(あんざいかげつら)が滅亡したおなじ年である。やぶれた成氏は、憲忠の舎弟(しゃてい)上杉房顕、その臣長尾昌賢らにおわれ、下総(しもふさ)滸我(こが)(古河)にのがれ、その地の城にこもった。それから合戦は、また数年つづいた。
この戦乱のありさまをみて番作は、
「戦国の世のならいとはいっても、臣たるものが、その主君を征(せい)するさまを見るにつけても、わたしの薄命をなげいてみてもはじまらぬ。ただ、不幸とおもうのは、手束(たつか)を女房としてから、十四、五年間に男子三人までうまれたが、赤子のうちになくなり、一人としてそだったものがいないことだ。わたしと手束はおなじ歳で、手束も三十と歳をかさねた。また子をやどすことは、むずかしかろう。これだけが残念だ」といった。手束にしても、おなじことだ。
そのとき、ふとおもい、
「滝野川の弁財天(べんざいてん)は、このあたりのふるい社(やしろ)で、霊験ありと人はいっています。祈念すれば、その利益(りやく)があるかもしれません」と、番作にいい、あくる日から朝はやくおきて、弁財天に日参しつづけた。長禄元年の秋からである。この年に、伏姫が八房とともに富山の奥にはいっている。
三年のあいだ、一日もおこたらず、長禄三年九月二十日をむかえた。この前年に伏姫は金碗大輔孝徳(かなまりだいすけたかのり)にうたれ、のち自害し、孝徳もまた丶大坊(ちゅだいぼう)という法名にかえ、出家の旅にでている。
この朝、手束は、時を勘ちがいした。まだのこる月の光を、東の空があけかけたもの、とおもった。いそいで家をでて、滝野川の岩屋に参詣(さんけい)してかえろうとしたが、まだ夜はあけてはいない。
「そそっかしいことをした」と、ひとりごとをいって、露でぬれている田の畔(あぜ)をかえってくると、背は黒く、腹は白い子犬がすてられたらしく、人まち顔で尾をふり、手束の裾(すそ)にまつわりついた。おいかえすと、またついてきた。
手束はもてあまし、
「このようにまで人をしたうのを、どのような人がすてたのでしょう。見れば、おす犬のよう。犬はたくさん子をうむもので、その子はかならずそだつともいう。それで赤子の枕辺に犬の張子(はりこ)などおくようだ。神さまへ参詣のかえり、これをひろってもどりましょう」と、ひとりごとをいって、子犬をだきあげようとすると、南のほうに、うらうらと紫の雲がたなびいているのがみえた。そして、その雲のあいだに、あでやかな一人の神女(しんにょ)が黒白まだらな老犬にこしかけ、左手にたくさんの珠(たま)をもち、右手で手束をまねきながら、なにもいわずに一つの珠をなげてよこした。
手束(たつか)は、その珠を手のひらでうけようとしたが、指のあいだからこぼれおちた。たしか、子犬のあたりにころげおちたとさがしてみたが、見つからなかった。「ふしぎなことよ」と、むこうの空をあおぎみると、紫の雲も神女の姿も、あとかたなく消えうせている。
「これは、ただごとではない」と、手束は子犬をだきあげ、いそいで家にもどった。
手束はこのありさまを番作に、
「わたしがおがみました神女のお姿は、山姫とかいわれるおかたちに似ており、弁財天には似ておりません。わたしがさずかりました珠は、子胤(こだね)であったのでしょうが、とりそこなってしまったので、ねがいごとがかなわぬ《きざし》なのではないかと、こころにかかっております」というと、番作は腕をくみ、
「いや、そうではないぞ。その神女は、黒白まだらの老犬にのっていたのだろう。わたしの氏は大塚だが、犬塚とあらためた。また、わたしの名は一戌(かずもり)だ、一戌の戌(もり)の字は、戌(いぬ)である。そして、おまえは、もとめようとおもわないで子犬をえることができたろう。これは、念願成就(ねんがんじょうじゅ)のきざしなのだ。子犬は、家でかうことにしようではないか」と、手束をさとした。
そして、番作の判じたように、手束はほどなく身重となり、寛正(かんしょう)元年(一四六九年)秋の、戊戌(つちのえいぬ)の日に男子を出産した。安産である。この一子は、八犬士の高名な一人で、犬塚信乃(しの)とよばれることになる。
犬塚番作(いぬづかばんさく)は、年ごろののぞみをとげ、男子をえた。母も子も、すこやかである。
「この子の名を、なんとしようか」と、番作は妻女の手束(たつか)にとうと、手束はしばらくかんがえていたが、
「世に子をつつがなくそだてるには、男の子ならば女の子とし、女の子には男の名をつけるというでしょう。このようにしている人は、事実、まれにあります。わたしたち夫婦は、男の子を三人もうんだのですが、不幸にも三人ともすぐなくなりましたね。このたびもまた男の子なので、いっそうこころ弱くなりました。さっしてください。この子が十五歳になるころまで、女の子にしてそだてると、つつがなくすごすことができるとおもいます。それをかんがえて名まえをつけてください」というと、番作は微笑して、
「生死は、運命だ。名まえや服装(なり)できまるものではない。また、そのような俗信をきらうところだが、おまえのこころやすめにでもなるなら、俗信にしたがうことにしよう。古語に長いものを《しの》といっている。『和名抄(わみょうしょう)』なるものの本にも、長竿(ちょうかん)を《しのめ》とよませている。いまも穂の長いススキを、《シノススキ》といっているだろう。わが子のいのちながかれ、とことほぐこころで、その名まえを信乃(しの)とよんではどうだろう。むかし、わたしは美濃路(みのじ)でふしぎにもおまえと名のりあい、信濃路(しなのじ)で夫婦となった。《しの》と《しなの》とは、似ている。もし、わが子が所領をえることがあるなら、信濃の国の守護にもなってほしい。この名まえはどうか」というと、手束(たつか)は、
「それは、とてもめでたい名まえですね。豊かな家では、五十日百日(いそかももか)と酒盛りをするそうですが、せめて、この子の命名の祝いに、かまどの神に神酒(しんしゅ)をたてまつり、手習いにきている子どもと、わたしの教え子に、なにか食べさせましょう」というと、番作もうなずき、「わたしも、そのようにおもう。はやくしようぞ」といそがせた。
手束は、近所の女たちに手つだってもらって、赤飯に魚の刺身とその煮付などのごちそうをつくり、里の子どもたちをまねいた。子どもたちは、このもてなしに満足してかえっていった。
この日から手束は、信乃の着物を女ものにし、三つ四つのころになると、髪をゆって、櫛(くし)・かんざしなどをさし、「信乃よ、信乃よ」とよんだ。このわけをしらない人びとは、信乃を女の子とおもった。
蟇六(ひきろく)・亀篠(かめざさ)は、ようすをみききするたびに、手をうってあざわらい、
「ふつうの親なら、男子出生とあれば面目(めんぼく)がたち、じまんをするものだ。それなのに、武士の浪人が女の子をのぞむとは……。結城(ゆうき)の合戦(かっせん)に逃げおくれ、せなかに傷をうけたのにいたくこりて、いくさというものは夢でもいやだとおもって、あのようなことをしているのか。おもっていたより、ふがいない武士だ」とののしったが、それに同調して、そうだそうだ、とはやしたてるものなどなかった。また、信乃をかわいがり、物をあたえたり、抱いたりしてくれるので、手束の手だすけともなった。それが蟇六・亀篠にはいっそうねたましくおもわれた。また、うらやましいとおもった。
淫婦(いんぷ)に石女(うまずめ)おおし、ということわざのとおり、亀篠は四十になっても、一人の子もなかった。そこで夫婦は相談して、しきりに養女をさがしもとめた。それをたまたま仲だちする人がいて、
「練馬(ねりま)の家臣(武蔵の練馬氏は、豊島左衛門(としまさえもん)の一族で、練馬平左衛門(ねりまへいざえもん)という)の《なにがし》というものの女の子で、二歳になるものがいる。これはぞくに親の忌(い)む四十二歳のときの子なので、生涯まじわりをたつという約束で、永楽銭(えいらくせん)七貫文(もん)をそえて家系の正しい家に養女にやってもいい、といっている。その女の子はうまれながら目鼻だちが愛らしく、疱瘡(ほうそう)もこの春にかるくすんだ。それこそ、きずのない玉の子だ。じょうぶな子なので、乳母(めのと)がいなくてもそだてるのに手はかからない。養女にするといい」とすすめた。
蟇六・亀篠は、微笑をうかべて、小膝をすすめ、目と目をみあわせて、
「このせちがらい世に子をもらうのに、永楽銭七貫文はすくなくはない。しかし、いまの話にいつわりがないなら、こっちはもとよりのぞむところだ。はやくこの話をすすめてほしい」というと、仲だちのものは、「承知した」と、いそがしくでていった。
五、六日すぎると、この話はまとまり、仲だちの男と、その子の親と、蟇六とが証文をとりかわした。そして、七貫文とともに女の子が大塚につれられてきた。
亀篠は、その子をだきながら、まず顔をながめ、また指から足の裏まで、なくのをかまわずひきのばしたり、うちかえしたりしてみて、からからとわらい、「三十二相(そう)そろっているとは、まことにほりだしものだよ。ごらんよ」と蟇六にいった。蟇六も、
「よい子だ。なくな。いいものをやるぞ」と、袂(たもと)から菓子をだしてやると、女の子は実の親でないとも知らずになきやんだ。
自分たちのものになったとおもえば、なんでもかわいいもので、ひとからどういわれようと、かまわぬものだ。まして、蟇六・亀篠は、ねたましくおもっていた番作夫婦の鼻をあかしたものときめているので、この女の子を浜路(はまじ)と名づけ、分(ぶん)にすぎた綺羅(きら)でかざりたてた。ここの遊山(ゆさん)、かしこの物詣(ものもうで)と、下女にだかせ、下男に供をさせ、四十女の亀篠までも、鎌倉様(かまくらよう)のはでな衣装をかさねて、月のうち幾たびも出あるく日がつづいた。むろん、出費はおおくなる。あざけるものがいても、気にはしない。
浜路がそだち、髪置紐解(かみおくひもとき)という歳には、身の丈の十倍もある美服をきせて、屈強な若い衆の肩にのせ、氏神詣にかこつけて、あっちこっちの人びとにみせびらかした。これを見たものがへつらってうまいことばをかけると、あめなどをあたえた。あまい親だ。
そして、浜路が成長すると、琴三味線の師匠をつけ、朝から夕まで、ひきならし、また踊りをおどらせて、あたりをはばからなかった。
浜路のうまれつきの美しさが人並み以上なので、トビがタカをうんだとかげ口をささやかれても、蟇六・亀篠はあざけられたとはおもわずに、「富のあることがわかる、いきおいのある男でなくては、婿にとるものか」とじまんした。
いっぽう、犬塚番作の一子信乃は九歳になった。もう骨はたくましく、ちからがあり、ふつうの人の子の十一、二歳になるものより身の丈が高かった。それでもなお女の服装をしていたが、あそびごとは、雀小弓(すずめこゆみ)(いきたスズメをつりさげ、それを的に二尺七寸の小弓で射る競争)をしたり、紙鳶(いかのぼり)・印地打(いんじうち)(端午の節句の石合戦)・竹馬など、あらあらしいものばかりだ。これが武芸のけいこともなった。
番作は、これをよろこび、ますますいつくしんだ。昼は里の子らとともに手習いをさせ、夜は儒書・軍記をよませ、またあるときは、こころみに剣術・拳法(やわら)をおしえてみた。もとより、すきな道なので、その技はたちまち上達し、番作もしばしば舌をまき、すえたのもしくおもった。
だが、父はそうでも、母の手束(たつか)は、わが子があまりにすぐれ、文の道、武のたしなみは歳の倍にもおもわれるので、これは短命ではないかとさえあやぶんだ。
で、夫をいさめ、子をとどめて、
「習いまなぶことは、わるいことではありませんが、たいがいにしてください」といった。けれども信乃は、よその子どもとはちがって、竹刀(しない)をとらない日はなく、馬にさえのりたいとのぞんだ。しかし、この地は田舎(いなか)のことで、小荷駄(こにだ)の馬しかなく、身近にかりる馬もなかった。
信乃がうまれるころ、手束が滝野川の岩屋詣のかえり道にひろってきた子犬は、信乃とともにおおきくなり、今年ですでに十歳にもなっていた。この犬の背は墨より黒く、腹と四足は雪より白く、馬ならよつしろ(・・・・)(膝から下が白い毛の馬)ともいうべきなので、四白(よしろ)とも、また与四郎(よしろう)ともよんだ。
この与四郎は、信乃によくなれて、たたかれてもいかることがなく、意にしたがった。信乃が与四郎に縄(なわ)たずなをかけてのると、犬もこころえて足をはやめた。だれもおしえぬのに、その騎座(のりくら)、たずなさばきは御法(ぎょほう)にかなっている。これを見るものはおもわずたたずみ、その技に姿がつりあわないのに腹をかかえてわらった。
「この童子(どうじ)のありさま、ただものではない」と、ほめる人もおおかった。
また、信乃が女の子のいでたちで武勇の技ばかりをするので、里の子どもらは指さして、「あいつには、きんたまがない」といってはやしたてた。
それでも信乃は、なんともおもわず、
「あいつらは、土民の子だ。あそび相手にならぬものと論じても、むだなことだ」と、自分からさけて、ひとたびもあらそったことはない。だが、「自分だけがなぜ、よその子どもとちがって女の子の着物をきせられるのだろう」と、いぶかしくはおもったが、幼いときからきているので、はじることはなかった。
ことしの秋のころから、手束は病いの床(とこ)にふし、鍼(しん)灸薬餌(きゅうやくじ)のききめもなく冬をむかえた。それからは、日に日によわるばかりで、番作は心配して、愁眉(しゅうび)をひらくことなく、夜もねむれなかった。信乃はまた、毎朝、医師の家にいって薬をもらってきては手束にすすめたり、腰をさすったり、よもやまの話をしたりしてなぐさめた。手束は涙をながし、胸がふさがれるおもいだ。
その日の明け方にも、信乃は薬をとりにいそいで出かけた。番作が、妻女の枕辺(まくらべ)で小鍋のかゆの塩かげんをして、半びらきの扇(おうぎ)で火をあおいでいると、手束がすこし頭をあげ、
「あなたが火打ち、水くみ、そしてかまどばたらきをしてくださること、こころぐるしくおもいます。しかもまだ十歳にもならない信乃が、おとなしくこの母につかえてくれるのはうれしゅうございます。夫とわが子の介抱(かいほう)をうけても、わたしはもうたすからないでお別れすることになるでしょう。そもそも、わたしのこの病気の原因はわかっているのです。信乃は申子(もうしご)で、さまざまな奇瑞(きずい)がありました。そして、うまれた一人子なので、歳よりはませて知はたけています。うまれてすぐになくなった兄らにこりて、短命ではないかと毎日おもっておりました。もし、信乃が運命をのがれることができず、そだたないものなら、この母のいのちとかえさせてくださいと、滝野川の岩屋さま、神に仏に、日ごろから願をかけていました。
そのみしるしか、信乃は《おむつ》のうちから寄生虫もなく、かぜもひかず、かるい庖瘡(ほうそう)ですみました。男の子にはけががあるというのに、これもぶじに七歳をこえました。
ことし、わたしが死んだとて、わが子のゆくすえの念願が成就(じょうじゅ)するなら、かわりにさしだすいのちはおしくはありませんが、ただ悲しいのは、死別れです。母はなくとも、父親の光でそだつでしょう。あたら財産をつかいはたしてまで、薬をもとめるのはむだなことです。もう、このままにしておいてください」といい、涙ぐんだ。息がたえるのを覚悟してのことばだ。
袖(そで)の露霜によわりはてた秋のチョウが、片羽をもがれるおもいの番作は、しばしばため息をつき、
「おかしなことをきくものだ。わが子のいのちにかえようとしてかえることができるなら、この世に子をなくす親などあるものか。そんなことをおもうから病気になるのだ。つまらぬことをおもうより、薬をのみ、かゆをすすり、気長に保養することだ」とさとした。
冬の日は短い。もう昼近いというのに、まだ信乃はもどっていない。信乃は道草をくうような子ではないのに、どうしたのかと番作はおちつかず、そとにでてみようと障子(しょうじ)をあけると、縁側に薬のかよい箱がある。「これは、おかしい」と、ひもをといてふたをひらくと、薬もある。「さては……」と、片ほおに笑いをうかべて、その箱をもち、いそいでうちにはいり、
「手束(たつか)よ、薬はここにある。いつのまにか信乃がかえってきて、気ばらしに出ていったらしい。まことに子どものこころだ。おまえが床にふしてから、そとに出ることがないので、おもしろいものでも見てきて、おまえにはなそうとしているのだろう。どのようにおもしろいものか、なにもいわずに出ていったぞ」というと、手束は、
「たまのことですから、けっしてしかってはいけませんよ。帰ったらよんでください」と気にかけている。
そのうち未(ひつじ)の刻(午後二時ごろ)もすぎ、日がななめになるころまでまっても、信乃はもどってこない。
「あそびにむちゅうになったとしても、おなかがすいたであろうに、物もくわずに、どこにいったのだ」と番作がいうと、手束もおもい頭をもたげてそとの音に耳をそばだてた。また、音がしても、それはちがった。番作も、幾たびもたってみて、ため息をつき、
「わたしの足がむかしのようなら、ひと走りめぐってくるのに、まだ日の短い季節に、夕日をみつつ、杖(つえ)にすがってどこまでいけるか。しかし、そういっていても、暮れてしまえばどうすることもできぬ。菅菰(すがも)までいってくる」と、一刀(ひとこし)をさし、竹の杖をつき、そとにでようとした。そこへ、近所の百姓の糠助(ぬかすけ)というものが、右手に釣り棹(ざお)と魚篭(びく)をさげ、左手に信乃をかかえるようにたすけながら、せわしくやってきた。いましもそとに出ようとしていた番作と顔をあわせた。
糠助は、からからとわらって、
「犬塚さん、そこにいましたよ。秋の仕事がおわり、骨やすめにと、一日暇をもらって、きょうの未明に家をでて、神宮川(かにわがわ)で雑魚(ざこ)釣りして、滝野川までかえってくると、この息子さんが不動(ふどう)の滝で水ごりをとっているではありませんか。見るとからだはひえきり、息もたえるようなありさまでした。肝(きも)をつぶして滝つぼからひきだし、そこの坊にいき、藁火(わらび)であたため、薬をのませ、法師とともに介抱すると、半刻(はんとき)ばかりではじめて気がつきました。
湯飯(ゆづけ)をもらって腹をみたしたあと、わけをたずねると、母の大病平癒(へいゆ)の祈祷(きとう)に水ごりをとったという。十歳にもみたない童(わらべ)には、たぐいまれなる大孝行、法師たちも感心しました。
法師たちは病い平癒の神符洗米(ごふうせんまい)をくれました。
あの滝は寺から遠くて、わたしのほかは知らないので、まことにあぶないことでした。このようなかしこい子であり、親ですから、神仏がみはなすはずはない。母御(ははご)の本復(ほんぷく)も疑いのないことです。さあ、この子宝をうけとってください。日も暮れてきたのでかえります。病人をおたいせつに。もしもご用のときは、背戸口(せどぐち)から竹螺(たけほら)をならしてよんでください。信乃よ、あしたはあそびにくるといい。この魚をあぶってくわせるから」といいのこして、かえっていった。
「そうだったのか」と番作は、信乃の肩に手をおき、そのまま家のなかにはいり、手束にしらせた。
手束もその話をきき、病苦などわすれて、信乃に、
「信乃、親孝行をつくすのにも《ほど》というものがある。からだを悪くし、またけがでもしたらどうします。親のなげきはどのようなものか。そうなると孝も不孝になります。親孝行の子のためには、いのらなくても神はまもってくださるものです。もうあぶないことをしてはなりません」とさとすと、信乃は涙声で、
「おっしゃることはわかりました。薬とりからかえってくると、父上と母上の話がきこえました。
この信乃のいのちながかれと、もったいなくも母上は、ご自身のおいのちを代償に神に願をかけられ、そのために病気でふせっておられる、という話を立ちぎきしたのです。なき声をたててはならないと、片袖をかみしめて縁側におりましたが、親のねがいごとにしるしがあるなら、子のねがいごとにもしるしがあるだろう。どうか、わたしのこの身にかえても母上のおいのちながからんことをいのろうと、もらってきた薬をそこにそっとおき、日ごろから母上のしんじておられる滝野川に走っていき、岩屋の神にねがいをくりかえし、滝にうたれたのです。ひとたびは死んだようで、そのあとのことはわかりません。
ところが糠助にさまたげられて、いきかえってしまったのです。わたしのねがいごとは、かなえられなかったのでしょうか。それがくちおしく、悲しくおもわれます」といって目をぬぐった。
手束(たつか)は、よよとなきしずみ、
「世に子をもつ親はおおいけれど、きょう死んでも、わたしほどしあわせなものはありません。八、九歳の幼ごころで、かしこいことに親にかわろうと祈る《まこと》を、神明もうけてくださったのです。だからこそ、滝つぼの水屑(みくず)とならないでかえってきたのですよ。このように運のつよいわが子をみるからには、ゆく末さえたのもしくよろこばしく、涙があふれでて、とめようがありません。だが、もう母の身にかわろうとする祈りはいけません。そのようなことはきいてもらえないので、つまらぬことはやめなさい」と、涙のあいだにさとした。
番作は、だまってきいていたが、やがてかたちをあらためて、
「信乃よ、かしこいわたしの子だ。だが、人のいのちというものは、人にはどうすることもできないものだ。それから、よくきけ」といい、祖父匠作の忠死のありさま、結城落城のあとの春王・安王両公達のさいごのことをかたり、また母の手束が一子をいのり、滝野川の社(やしろ)からかえる途中、神女(しんにょ)をまのあたりに見、そのおり、神女の手からさずかった珠(たま)をうけとることができず、犬の与四郎だけをひろってかえってきてからみごもり、うまれたのがおまえ信乃だ、とかたった。そして、ことばをつづけた。
「おまえには、むずかしいかもしれないが、きくがいい。吉事にはよいしるしがあり、凶事にはあやしいことがある。手束がみごもったとき、奇特をみた。その神女が弁財天(べんざいてん)か、また山媛(やまひめ)などというものか、あるいはキツネ・ムジナのいたずらか、そのことはわからないが、わたしたちは神がさずけてくださったとおもっている。だが、これをひとにはなせば、愚人の夢ものがたりに似て、世の笑いものとなるだろう。ただ、知あり、勇ある子をみごもったしるしだとこころにひめて、手束にもいわなかった。はじめておまえにはなしたのだ。自分でも理義をよくわきまえておくことだ」とねんごろにいった。
信乃は、小耳をそばだててきき、手束もしばし病苦をわすれて、こころひかれた。また、父番作のおもいがけぬ話に、信乃の脳裏にはさまざまな場面が展開して、こうおもった。
《わたしの母が、神女のさずけた珠をとらえることができずに、犬だけをつれてもどったためか、わたしはつつがなくそだったが、母上はつねに病気がちで、ついに危険なまでになられた。それなら、その珠をたずねることができたなら、回復するのではないだろうか。ともかく、その珠がほしいものだ。さらに神仏にいのってみよう》
しかし、その祈りはむなしくおわった。手束の病いは、日がたつにつれておもくなるばかりだ。
十日あまりすぎた。手束は、きょうがいのちのかぎりと自分でおもい、こまかに遺言(ゆいごん)し、応仁(おうにん)二年(一四六八年)十月下旬の朝、霜がきえるとともに四十三歳の生涯をとじた。ねむるようなさいごであったという。番作のなげきはむろんだが、信乃も地をころげ、天にあこがれ、涙は袖にあふれ、声をしのんでなきつづけた。里びとがあつまり、なぐさめはげました。番作は、里びととあとのことを相談した。
つぎの日の夕方、棺(ひつぎ)をはこび、番作の母の墓所のかたわらに手束を埋葬(まいそう)した。
信乃は女の服装はそのままで、綿で顔をつつみ、母の棺をおくった。これを見るもののうちには、指さしてわらうものもいた。
信乃は、ひとの悲しみをあざけるものがいるとおもっても顔には出さず、母の中陰(ちゅういん)のすむ日(四十九日め)をまった。その日、信乃は番作にきいた。
「そもそも、わたしは男の子なのに、どうして女の子のようにしているのですか。わたしだけならそれをいとうにたりませんが、親がそしられるのがくちおしいのです。そのわけを、おきかせください」
信乃のことばには、怒気がふくまれている。これを、番作は微笑をもってうけた。
「そのようにおこるな。そのわけをきかせる。おまえには、三人の兄があったが、みな赤子のときに死んだ。そのあとおまえがうまれたが、母はこの子もそだたないのでは、と不安にかられた。世のならいで、女の子にしてそだてたならつつがないという。母の不安をとくべき証(あかし)もないので、意にまかせたのだ。信乃という名も、しかじかのことで名づけた。むかしもいまも、男の子は十五歳まで女の子のように額髪(ひたいがみ)をそりおとさず、長い袂の衣服をきる。また、櫛・かんざしは女だけのものではない。男も、冠・烏帽子(えぼし)の尻(しり)を高くするため、むかしは櫛をさしたものだ。人は、いつまでも幼いものではない。おまえも十六歳になったなら、りっぱな男だ。これをわらうものにはわらわせておけ。それをおこるのは、おまえの知恵が浅いからだ。すてておけ」と、さとされた信乃は、親のありがたみをさらにかんじた。涙がほおをつたわった。それを信乃は、見られぬようさがった。
応仁は二年で文明(ぶんめい)と改元(かいげん)された。文明二年(一四七〇年)に、信乃は十一歳、母手束(たつか)がなくなって三年になる。その間、信乃はよく父の番作(ばんさく)につかえた。番作は、歩行困難のうえ、《やもめ》となったのだ。むかしの気力はおとろえ、五十歳にもならないのに歯がぬけ、頭髪も白くなり、わずらうことがおおくなった。
里の子たちにおしえる手習いも、やすみがちとなった。年ごろ、里びとのたすけで親子三人がくらしをたててきたが、その子や孫におしえずに、ただ自分の余命をつなぐようでは、ひとはよくいわないだろう。なにか里びとのためにと、病いのあいまにひでりの手当、凶作時の食物など農民の日用のことをしるし、これを一巻にまとめ、里びとにおくった。
みなこれを見て、
「犬塚(いぬづか)さんは、武芸にもすぐれておられるが、農業・養蚕(ようさん)のことまでよくごぞんじだ。この書はだいじなものだ。うつしつたえて秘蔵するといい。ほんとうにくちおしいのは、あのかたをあのままうずもらせておくことだ」といった。
蟇六(ひきろく)も、この農書のうわさを耳にした。ぜひそれをよんでみたいとおもい、かしてほしいといったが、
「きょうは、だれだれがうつしているので、うつしおわるまでまつがいい」といって、ことわられる。
蟇六は腹をたて、
「一村の長(おさ)のおれは、そのくらいのことは知っているさ。番作は、若いときから放浪していて、鍬(くわ)をとることがなく、耕作の知識などあるものか。蛭子(ひるこ)にもおとる腰ぬけめ」とののしった。里びとは、蟇六にはいっさいその書をみせなかった。
蟇六・亀篠(かめざさ)は、だれであろうと、自分たちよりすぐれたものをねたんだ。病いの一つだ。自分に見識がないので、これが人まねともなる。
番作がかっている犬の与四郎(よしろう)は、すくすくそだち、村の犬の仲間(なかま)で、これにまさる犬はなかった。
蟇六は、自分も犬を幾たびもかったが、みな与四郎にかみふせられた。即死する犬、かたわになる犬もあった。蟇六は、下男に与四郎をうちころさせようとしたが、飛鳥(ひちょう)のように走りさるので、ひとうちもできない。そればかりか、ちかよるとかみつかれそうで、下男がおそれて手だしをしない。
蟇六は、犬をかうのをあきらめ、ひとには、
「犬は門(かど)をまもるといって、家ごとにかうものだが、いまの犬は物をやると主人にほえて、盗人に尾をふるものさ。番犬などになるものか。それで、これからはネコをかうことだ。農家はネズミをふせがなくてはならない。おれは犬をかわず、ネコをかおうとおもう。いいネコがいたら、世話してくれ」と、人ごとにたのんだ。
ある人がキジ毛のふとったおすネコを世話した。自分のものとなると、蟇六・亀篠は愛情がますのだ。亀篠は、浜路(はまじ)よりもかわいがり、真紅(しんく)のくび玉をかけ、膝にのせたり、だいたり、ふところにいれたりもした。半刻(はんとき)も地に足をつけさせないしまつだ。蟇六は、ネコの名まえをどうするかと知識のある人にとうた。
その人は、「むかし、一条院(いちじょういん)に命婦(みょうぶ)のおとどに召されたネコがいた。それを翁丸(おきなまる)という犬がおいかけたので、犬は勅勘(ちょっかん)をこうむった。そのほかには知らない。すきなようにつけるがいい」とこたえた。
蟇六はよろこび、亀篠にいう。
「ネコは、犬よりとおといものだ。むかし、一条院に……」と、受け売りをかたり、「だが、一村の村長(むらおさ)では、命婦(みょうぶ)とはよぶことはできぬ。わが家のネコは、キジ毛だ。番作の犬は四足白(よつしろ)で与四郎。わが家のネコはキジなので、紀二郎(きじろう)とよぶぞ。下男下女にも、そうよばせるのだ」というと亀篠も、
「それは、めでたい。よい名まえですよ。浜路、おまえもそうおよび。紀二郎、紀二郎」とよびたてた。
如月(きさらぎ)のすえ、紀二郎は恋ネコの声におちつかず、屋根から屋根をあるき、家には三日四日もかえらない。うなり声がうるさいと家主に棹(さお)でおわれ、番作の背戸(せど)近い糠助の厠(かわや)の屋根にきて、よそのネコにいどんでいた。その声が、遠く亀篠にきこえた。
亀篠は、下男をよび、
「南のほうで声がするのは紀二郎だろう。はやく見ておいで」という。下男ふたりは、糠助の家にくると、紀二郎がほかのネコにかみつかれて泣きつづけている。そしてころころところび、厠のそばに、はたと落ちた。
そのとき、与四郎は腹ばいで背戸にいて、紀二郎がおちるのを見て走った。紀二郎はびっくりして爪をたて、与四郎をひっかこうとし、それから逃げた。与四郎は、いきなり紀二郎にとびかかり、左の耳をひっくわえ、ひとふりした。紀二郎は耳もとからかみきられ、いのちをかぎりと逃げた。与四郎は、なおもあとをおった。小川の前にでた。紀二郎は、あわててひきかえそうとしたが、与四郎はすばやくおどりかかり、紀二郎のうなじをくわえて、かみころした。
下男が小石をひろって与四郎になげつけたが、与四郎は姿をけした。糠助も、家からでてきて、それを見ていた。蟇六もこのさわぎをきき、棒をもち、額蔵(がくぞう)という十一、二歳の下男をつれて走ってきた。紀二郎の死骸(しがい)がころがっているだけだ。
「番作のところの与四郎がやった」と、子どもたちがつげた。蟇六は、さめざめとなき、下男のたすけるのがおそいとしかり、それから、棒で地面をたたき、
「あのかたわもの。どこまでおれをあなどるというのか。あいつの姉は、おれの女房だ。おれは家督(かとく)をつぐばかりか、村長だ。あいつの無礼は、飼犬まで主人にならっている。あの犬をころして、紀二郎のうらみをはらしてやるぞ。おまえは、糠助とともに番作の家にいって、与四郎をつれてこい」といった。
下男ふたりは、糠助をさそって、番作の家にいった。
蟇六は額蔵にネコの死骸をだかせ、家にもどった。いま、この川の橋を簸川(ひかわ)の猫俣橋(ねこまたばし)とよぶ。下男ふたりは、番作の家にきて、紀二郎のことをつげ、
「主人の蟇六は、いままでおおくの犬をかったが、与四郎にきずつけられたり、ころされたりした。しかし、蟇六がうらみごともいわぬのは、争いとなるからだ。そこで、犬をかうのをやめ、ネコをかったが、これも与四郎のためにころされた。これは、犬に罪のあることだ。その犬をもらいうけ、ネコの仇(あだ)をうつ。このすべては、この糠助の家のまわりでおこったので見ている。それで、証人としてともなってきた。主人からの口上(こうじょう)だ」といった。
糠助は、こまっているようすで、
「なるべく穏便(おんびん)にすまされることだ。わたしも、難儀なことだ」と苦しそうにいった。番作はわらい、
「このようなことで、難儀などおこるものか。罪のあるものを罰するのは人間の道だが、畜生は五常をわきまえず、禁じられていることを知らない。ネコが犬にきずつけられるのは畜生のつねだ。もし犬がネコの仇なら、ネコはネズミの仇となる。ネコの死をつぐなうために、犬をわたしていてはきりがない。かえって、このようにつたえてくれ」といった。
下男ふたりは、「なるほど」といって、すごすごたちさり、糠助は、番作にあいさつしてから、そのあとをおった。
蟇六の家では、亀篠・浜路らが紀二郎をだいて泣き、与四郎がつれられてくるのをまった。下男ふたりがもどり、番作のことばをつたえた。亀篠はおこり、
「姉を姉とおもわぬ番作の片意地は、いまにはじまったことではないが、わびるどころか、じまんげだ。おまえたち、荒縄(あらなわ)かけてもつれてこい」というと、蟇六はなだめて、
「番作は足がわるいが、武芸はつよい。おれは一村の長として、ネコ一ぴきのことで争いをおこしては傷がつく。おおやけにもできない。そこで、あの犬をわが屋敷にさそって、うちころすことだ。みな、竹槍(たけやり)を準備しろ」といった。
亀篠は、「この計略は、糠助にきかれなかったか」といった。下男は、「いままでここにいたようですが、かえったのでしょう」とこたえた。亀篠は、
「糠助は、番作の背戸にすんでいるので、あの男からもれるのではないかい」と舌をならす。
蟇六は、「きかれてはまずい。額蔵、ひきとめてこい」と命じた。
額蔵は、裾をからげて走っていった。額蔵は、歳ににず才たけているが、それを表にはださない。日ごろから、蟇六のねたみをわらっているのだ。額蔵は、わざとおいかけるのをやめ、もどってくると、
「おいつきませんでした。家にもいってみたのですが、もどってきておりません。あの人は、去年の秋の支払いがまだだということですから、村長を敵にすることはありますまい。きっと、つげぐちなどしないとおもい、おうのをやめました」と、まことしやかにいう。蟇六は、
「そうだ。あいつは、去年の秋の年貢(ねんぐ)をまだおさめていないのだ。自分の損になることはすまい。犬のくるのをまとう」と、竹槍の手配をし、与四郎のくるのを、その日からまった。
糠助は、蟇六のもくろみを番作に知らせよう、と走ってきて、そっと知らせ、
「わたしは、村長に負い目があります。わたしは、村長の悪口をいっているのではないのです。たとえ、義絶しても、姉にあたる人です。畜生のことでにくむのは、よしたほうがいいでしょう。与四郎を近村の人にあげてはどうですか」というと、番作は思案し、
「糠助さんの親切はうれしいのですが、蟇六ごときのはかりごとにはかかりません。しかし、あらそうのはこのみません。与四郎を、どこかにつれていってください」というと、糠助もよろこび、それを信乃にもいって、与四郎にたくさんのたべものをあたえ、その夜、滝野川につれていき、寺にあずけて家にもどった。
だが、糠助よりはやく犬はもどっている。つぎの日は東南(たつみ)のほうにつれだし、牛島(うしじま)にすててきたが、糠助がかえると、もうもどってきているのだ。このように、再三こころみたが、むだにおわった。糠助は、あきれはててしまった。
信乃は、おもった。この犬が蟇六に殺されたら、父はおこるだろう。殺させずに伯母(おば)夫婦を満足させることはできないか、と一計をあんじ、糠助の家に走った。糠助は留守で、畑にいた。ここならちょうどいい。
信乃は、つげた。
「与四郎を、伯母婿(むこ)の屋敷近くにつれていき、犬にむかってしかりつけてはどうでしょうか。これ与四郎、村長の家のネコをころして親族のうらみをかさね、わざわいをおこした。それですてたわけだが、幾たびもかえってきたのは、おまえが死にたいということだ。いまは手だてがない。おまえを殺して、わが伯母婿のうらみをやわらげようとおもう。覚悟せよ、とののしり、杖(つえ)をあげてうてば、犬は逃げましょう。それをおいかければ家にもどります。
それからしばらく犬をつなぎとめておけば、伯母夫婦もその声をきき、そとに出てみておもうでしょう。番作は子に犬をうたせて、ネコを殺した罰をあたえている、われらに謝罪している、と。こうなると、犬をころすことも、あきらめるのではないでしょうか。これで与四郎をすくうことができれば父も恥をかかずにすみ、親族のうらみをかさねることもなくなるとおもうのです。このことをどのようにおもわれますか」ときくと、糠助は、すぐさま、
「かしこいぞ。そなたは十一歳、その知はむかしの楠公(なんこう)、楠木正成(くすのくまさしげ)にもひとしい。しかも、そのはかりごとは、親のため、伯母をおもう孝の義だ。わたしもいっしょにいこう」といそがせた。
信乃はたすけをえて、ますますいさんだ。走ってかえり、与四郎をひきたて、糠助といっしょに「はた」とうった。うたれた与四郎は、とまどった。いつもとちがって、糠助までがうつからだ。与四郎はあわてて道をとりちがえ、家のほうにかえらず、蟇六の宅地をめぐり、背戸のほうに走っていった。
信乃と糠助はこれを見て、そっちではない、こっちに逃げよ、とさそうように左右にわかれて道をひらいた。そして、杖をあげておいかけると、犬はいよいよあわて、走りぬけようとして、いきどまりにきた。犬は、蟇六の背戸からうちにはいり、いきおいにまかせて左手の小屋に身をおどらせてとびこんだ。
「それ」とさわぐ下男たちを、蟇六は手くばりして、背戸を「はた」ととじた。
「ここよ、かしこよ」とどよめく声が、信乃・糠助のところまできこえてきた。
「ここにいると、わざわいがおこるでしょう。はやく逃げなさい」といいながら、糠助は、もった棒をかくそうと、ふところにさしいれてはしろうとした。棒はあごにつかえ、足にからまり、きんたまをおしつぶされ、うつぶせにたおれた。棒をすて、たちあがって走った。膝から血がながれた。顔をしかめ、足をひきずって逃げた。それでも信乃はさらず、つまらぬことをしたと百ぺんくい、千べんくい、それでも手だてはない。すきがあったら、与四郎をすくいだそうと、あっちこっちとめぐった。門の扉はかたく、出る口はみあたらない。犬の苦しげにうめく声がする。信乃は、
「与四郎は、殺されるぞ。かわいそうなことをした」とあせるばかりだ。犬の死をこのまままってもいられない。家に走り、父の番作にことの次第をつげた。
番作はおこらず、ため息をつき、
「おまえは子どもだが、ひとよりすぐれた才覚がある。その知によって不覚をとったのは、人を知らないからだ。与四郎の死は、ふびんだが、おしんでもせんないことだ。あとをみとどけよ」といった。
そこへ犬は血にまみれ、おきつころびつ庭門からひょろひょろと走り帰り、そのまま「はた」とたおれた。
信乃は、「ああ、いたましい」と走り出て、いたわった。番作も柱にすがってからだをおこし、縁側にでてよく見た。
「このように傷をうけながらそこではたおれず、かえってきたのは、老犬ながらすぐれた犬だ。もう生きるのはむずかしい。日かげにいれるといい」という。
信乃は縁側の下に藁菰(わらこも)をしき、手負いの犬をねかせ、
「与四郎、苦しいか。いのちをおとすのも、わたしのあやまちからだ」と自分をせめて、水を口にそそぎいれ、傷に薬をかけ、介抱(かいほう)をつづけた。生きるきざしはみえない。
いっぽう、蟇六は、憎いとおもっていた与四郎が、おもいがけず背戸から走りいってきたので、下男たちに門戸をとざさせた。そして、蟇六ら五、六人が竹槍をもち、しとめようとおいかけた。犬の足ははやく、槍下をくぐりぬけ、門から出ようとする。門戸はとざされている。すでに数か所の傷をうけていたが、それでも犬はたおれず、たけりくるい、板塀(いたべい)の下をつきやぶり、そとに出た。蟇六たちも戸をひらき、そとに出た。犬は逃げさった。
蟇六は、下男たちに、
「きょうのはたらき、おみごとだ。ただ、おしむらくは、とどめをささなかったことだ。しかし、あの傷では、道でたおれるだろう。そうおもわぬか」と、槍をひさしにたてかけ、縁側に尻をかけた。
亀篠は、うしろから扇をひらいて風をおくり、
「きょうこそは、紀二郎の仇をうったよ。犬を、ここでころしたかった。おまえたちには、けがはないかい」というと、下男たちは、着物に肩をいれ、
「どこにもありません。まったくたけだけしい犬で、てまえどもの手におえませんでしたが、ご主人のご威(い)光(こう)で、痛手をおわせることができました」とこたえた。
蟇六も、「そうだとも」と、鼻をたかくして家のなかにはいった。下男のうちで額蔵だけは、さわぎたてたが、犬をおわずにいた。蟇六らの顔をみて、ひそかにあざわらった。
蟇六は、亀篠と座敷にはいり、襖(ふすま)をしめさせ、ひそひそと、
「下男どもの話では、犬がはいってきたのは、信乃がおいこんだためらしい。犬をののしっている声もきいたという。それに、糠助もくわわっていたそうだ。これには、理由があるはずだ。番作の気のよわりのせいで、あの信乃にいいつけて、犬をこっちにおくってきたのだ。このいきおいを利用し、番作にあやまらせ、村雨(むらさめ)の一刀(ひとこし)を手にいれようとおもう。
おれは大塚の家督だが、家譜もなく、旧記もない。匠作(しょうさく)どのの長女の婿というだけだ。そこにきて、鎌倉の成氏(なりうじ)さまは、顕定(あきさだ)・定正(さだまさ)の両管領(かんれい)と仲がわるくなり、鎌倉をおわれ、滸我(こが)(古河)の城にこもられ、いくさのたえることがない。それで当所の陣代(じんだい)大石どのもいつしか鎌倉に出仕し、両管領にしたがった。おれは成氏さまの兄、春王・安王につかえた大塚のあとなので、両管領へおおきな功をあらわさなければ、いつまでも安心ができぬ。あの村雨の一刀を両管領に献上(けんじょう)したなら、野心のないことがわかり、恩賞もおおきいだろう。そうおもっていたが、村雨を手にいれる手だてがない。
番作もこの家にはきたことがなく、宝刀はかくして、他人にはみせないので、いまだに手にできぬ。宝刀を手にいれれば、この家の栄えも疑いない。だが、番作は知勇にすぐれている。そこで糠助(ぬかすけ)をつかってみよう。信乃とともに犬をおいこんだ男だ。おまえは、ひそかに糠助をよびいれるのだ」と、蟇六は自分のはかりごとをかたり、
「どうだ。番作に知勇があったとしても、これなら身うごきができない」とつづけた。
亀篠はそれをきき、わらいながら頭をあげ、
「それは、うまいはかりごとだよ。番作は弟だが、わたしの母の子ではない。百歩のあいだにいて顔もみせず、姉をそしるしまつだ。このときこそ、おもい知らせてやるのさ」と、下男をよび、
「糠助をよんでおくれ」といった。亀篠は、糠助にどのようなことをさせようというのか。
糠助は信乃(しの)をたすけて、犬を蟇六(ひきろく)の屋敷においこんでしまった。その失敗の難儀が、自分にかかってくる不安で、いそいで家に走った。妻に、
「もし、村長(むらおさ)のところからきたら、留守だといえ」といって、奥にかくれた。
そこへ、蟇六の家の下男がきて、「糠助さんは、いるかい。村長の奥方が、よんでいなさる」とつげた。幾度もきた。そのたびに、「いないよ」とこたえたが、そうことわってばかりはいられない。
糠助は、下男とともに出むいていった。
亀篠(かめざさ)は、座敷にまねき、
「どうかしたかい? 顔色がよくないね」などといった。糠助の顔は青ざめていたが、赤味がでてきた。安心したからである。しばらくして亀篠は、かたちをあらため、声を低くして、
「そなたにきてもらったことに、おぼえがあるだろう。子どもをたすけて番作の家の犬をわたしの屋敷においいれ、人にかみつかせようとはかったろう。おまえと信乃が棒をもち、背戸から逃げていくのをうちの下男どもが見ていたのさ。ほら、ことばがないようだね。あの犬は、そればかりかこの座敷を走りまわった。それ、これをごらんな」とやぶれた一通の書状をだし、ひろげてつきつけ、
「こんなに食いやぶったのさ。鎌倉の成氏(なりうじ)さまが滸(こ)我(が)に落ちられたあと、この地の陣代大石さまも、両管領にしたがって、居を鎌倉にうつされたので、兵糧(ひょうろう)あつめをわたしの夫に命じられた。これは、おまえだってよく知っているだろう。
このたび、また鎌倉から滸我の城ぜめがあるから、この地にも兵糧のさいそくをなされ、管領家の御教書(みぎょうしょ)に陣代の下知(げち)をそえて、きょうも飛脚がついたのさ。夫は座敷にすわって、その御書状を拝見していた。そこへ犬が走りいり、四足にかけてこのように、《ばらんずん》とふみさいたのさ。逃がしてなるものかと犬に槍をつきつけ、数か所傷をおわせたが、板塀(いたべい)の下をつきやぶって逃げていった。道で死んだか、番作の家にかえったかは知らないがね。
御教書の破却(はきゃく)は、謀反(むほん)とおなじだよ。畜生は法度(はっと)を知らなくても、飼主はその罪からのがれられないよ。その犬をおいいれたおまえと信乃は、覚悟をしているだろうね。おまえは、なんのうらみがあってのしわざだえ」とおどした。
糠助はおどろきおそれて、冷汗をながすだけだ。
しばらくして頭をあげ、
「まちがいなくわたしの落度で、いのちをとられることはまぬがれようのない事実ですが、犬のことも、よきようにとおもってやったこと。どうぞ、大慈大悲(だいじだいひ)をねがうばかりです。おすくいください」と、まるで枯野になく虫の音のようにこころぼそい。亀篠は、ため息をつき、
「村長(むらおさ)など人の上にたつものは、こころのやすまるときがないね。おまえはむろんだが、番作・信乃親子をからめとり、鎌倉におくるところだが、番作はわたしの弟、信乃はわたしの甥(おい)、わたしはいかる夫の袖(そで)にすがり、なきながらわびて、きょう一日だけまってもらったのさ。どうしたならその罪をまぬがれ、いかようにすくおうかと胸をいためていたよ。あさはかな女の知恵では、なかなか思案ができなかったが、ふとこうおもったのさ。番作の秘蔵する《村雨》という一刀(ひとこし)は、持氏(もちうじ)さまのまもり刀で、春王君(はるおうぎみ)にゆずられた源氏数代の重宝ときいている。これを管領家に献上したなら、おまえも番作親子もゆるされるだろう。番作も、我(が)をおって、わが夫に頭をさげれば、それでいっさいすむこと。このことをおまえにつげようと、そっとおまえにきてもらったのさ」とまことしやかにいった。糠助はわれにかえり、腹の底から、一人でにおおきなため息が出た。
「おっしゃることはよくわかりました。つねは義絶同様の姉・弟ですが、他人のだれがこの危窮(ききゅう)をすくうものですか。この糠助、舌のあるかぎり、犬塚さんのこころをやわらげ、ことがうまくいくようつとめましょう。そのときは、第一番にわたしをゆるしてください。善はいそげということもあります。これから、すぐに」とたちあがると、亀篠は、「ちょっとおまち」とひきとどめ、
「いまいったように、なるもならぬも、きょう一日だよ。長い相談で、夜があけても知らないよ」という。
糠助はうなずき、
「そこは、じゅうぶん承知しております」とこたえ、逃げるようにそとに出た。あわてて襖(ふすま)をひきはずし、たおしたほどだ。それを亀篠はうけとめて、「あわてものが」と、つぶやくと、つぎの間から杉戸をひらいて蟇六が顔をだし、亀篠と目と目をあわせ、にっこりわらって、「亀篠」「わたしのいったことを、きいたかい。おもったよりうまくいったよ」といいあった。
そのとき、粉をひく臼(うす)の音がした。蟇六夫婦が目をやると、庭のほうで額蔵(がくぞう)がいねむりからさめて、またひきだしたらしい。夫婦はきかれたかと、いっしょに納戸(なんど)のほうにかくれた。
いっぽう、糠助はあわてふためき、犬塚の家に走り、亀篠のいったことをつげ、「子どもの知恵にさそわれて、ばかなことをしてしまった。まったくおとなげない」と、亀篠が番作をおもうこころは深いといい、
「番作さんの姉さんの、甥がかわいいという、まことのこころをかんがえては。番作さんは我がつよい。村長に頭をさげても恥にはなりません。この一件、承知してください」と、手をあわせていった。
番作はおちついて、
「御教書のことが事実なら、たいへんなことです。糠助さん、その書状を見てもうされているのですか」ととうた。糠助は頭をかき、
「いや、わたしは無筆ですから、わかりません。ただ、御教書ときいただけです」とこたえると、番作はわらって、
「笑みのなかに刃(やいば)をかくすは、いま戦国のならいです。親族でもこころをゆるすと後悔します。日ごろからわたしを敵とおもっている姉と姉婿が、にわかに弟をいとしみ、甥をかわいがるのはおかしい。それに、太刀を献上すると罪がゆるされるとは、だれがきめたことなのでしょうか。管領家の沙汰(さた)とでもいうのですか。わたしは、このもうしいれには、したがうことができません」といわれて、糠助は膝(ひざ)をたたき、
「いや、いや、それは片意地というものです。三人のいのちが一振(ひとふり)の太刀をさしだすことですくわれるのですぞ。おもいかえしてください。そうするといってもらわなければ、家にはかえれません。手をあわせてたのみます」とかきくどくと、番作もほとほとこまり、
「糠助さんのあわてよう、それをさます手だては、いまはありません。よくかんがえて、夕方までに返事をしましょう。日がくれてから、またきてください」といった。糠助はそとを見て、
「背戸のヤナギの日かげをみると、まもなく暮れてしまいましょう。夜の食事をすませたら、またきます。ひとをうたがって、わたしまでころさないでください」と片膝をつき、ようやくからだをおこした。足がしびれたのだ。
秩父(ちちぶ)おろしが肌にしみる。番作は着物を一枚きなければとおもい、信乃に声をかけた。
信乃は、手習いの机をかたづけて、はなだ色の太織(ふとおり)の殿中羽織(でんちゅうばおり)をうしろから父の肩にかけた。行灯(あんどん)はうす暗かったが、夕月夜の光が庭からさしこんで明るい。まだ息たえない与四郎に目をやった。
番作のそばの火桶(ひおけ)をもっていき、
「風がかわって、急に寒くなりました。日が長いので、おなかがすかれたでしょう。雑炊(ぞうすい)はいかがです?」ときくと、番作は首を横にふり、
「ねたっきりだ。三たびの食事のほかは、なにもほしくない」といって火桶をよせ、埋火(うずみび)をかきおこした。
信乃は、
「与四郎にも雑炊をあたえましたが、くいません。この犬をすくおうとしたことから、難儀をかけました。いま糠助にいったことはききました。御教書のことが事実なら、わざわいがおきるでしょう。それは、わたしの罪です。からだの不自由な父上は、わたしがお世話しなければ、だれがするのでしょう。そのため病いがおもくなられてはとおもうと、不孝の罪は深くなるばかりです。父祖三世、忠義はひとよりすぐれているのに、どうして日も月も照らしてくれないのでしょう」と涙ぐむ。
番作は、灰をかきならし、火箸(ひばし)をたてて、
「禍福(かふく)は、時にありだ。これも、天命だ。うらんではならぬ。かなしんではならぬ。信乃、この父が糠助にかたったことをよくきいたか。御教書のことは空言(そらごと)だ。たくらみをもって、子どもをだませても、このわたしをだませるものか。これは、蟇六が姉におしえて、糠助をおどし、宝刀をかすめとろうとしたのだ。
あさはかなことぞ。二十年このかた、蟇六はさまざまにこころをくばり、村雨の宝刀をうばいとろうとしたことが幾たびもあった。ひとをかたらったり、欲でさそったりもした。また、ぬすみとろうともした。
蟇六が百計をかんがえれば、わたしにも百の備えがある。蟇六の悪念は、いまにいたっても果たすことができず、くちおしいとおもっているだろう。
そこへきょう、犬をきずつけ、そのうさばらしをしたので、また悪念をおこしたのだ。御教書破却にかこつけて、宝刀をとろうとするたくらみは、鏡にうつしてみるようだ。蟇六は、宝刀をほしがっている。わたしには、そのこころが見える。
蟇六は、わたしの父の家督(かとく)と称し、村長になったが、相伝の家譜・旧記はない。わたしが村雨の太刀をもって、どちらが正統な家督かとあらそったとしたら、難儀なことになるだろう。これが、一つだ。
成氏朝臣(あそん)の没落のあと、この地は鎌倉の両管領の処分となった。蟇六は、いわば両管領の敵方の遺領を支配しており、功も恩もないのだ。あらたに功をみとめられることがなければ、荘園をうしなうかもしれぬ。蟇六がおそれていることの二つだ。それで、村雨の一刀を、鎌倉に献上し、安心しようとしているのだ。
わたしは姉のために、その荘園をあらそわぬ。一振の刀もおしいとはおもわぬ。だが、村雨は幼君の形見、亡父の遺命がおもいので、わたしが死んでも、姉婿におくることができない。春王・安王・永寿王(えいじゅおう)は、みな持氏どのの子だが、父は春王・安王の両公達(きんだち)につかえ、この両公達がうたれたので、宝刀は君父(くんぷ)の形見として、菩提をとむらえとの遺訓だ。永寿王に献上せよとは、いわれたことがない。
わたしは、この義によって、おまえが成人してから、宝刀を督(かみ)どの(左兵衛督(さひょうえのかみ)、成氏のこと)に献上させ、身をたてさせようとおもっていたのだ。今宵(こよい)、おまえにゆずることにする。見るといい」といって、硯箱から小刀をさぐりとり、天井につるした大竹の筒をめがけて《ちょうと》うてば、釣縄(つりなわ)がぷつっときれて、筒はそのまま《はた》とおちた。筒は、二つにわれて、村雨の宝刀があらわれ出た。
番作は、いそがしく錦の袋のひもをときかけて、うやうやしく額(ひたい)におしあて、しばらく念じた。信乃もま近くきて、かたちをあらためた。
鍔元(つばもと)から切っ先まで、まばたきもせずに見つめた。こうこうたる七星の文(あや)、三尺の刀身に露がむすび、霜こおりついて、半輪の月かとみまごうばかりだ。邪をしりぞけ、妖(よう)をおさめる、千載(せんざい)の宝と称されるものだ。唐山(もろこし)の太阿(たいあ)・龍泉(りゅうせん)・わが国の抜丸(ぬけまる)・蒔鳩(まきばと)・小烏(こがらす)・鬼丸(おにまる)などというのもこれにまさるまい。
しばらくして番作は、刃を鞘(さや)におさめ、
「信乃。この宝刀は、殺気をふくみ、ぬきはなつと切っ先から露がしたたり、仇(あだ)をきり、刃に血をぬれば、その水は、ますますほとばしって散る。村雨のこずえを風がはらうようなので《村雨》と名づけられたのだ。これをおまえにゆずるには、その姿ではふさわしくない。髻(もとどり)を短くし、いまから犬塚信乃戌孝(もりたか)と名のれ。
かねて十六歳の春をまち、元服(げんぷく)させようとおもっていたが、わたしは宿病にくるしめられ、ながくいのちをたもつことはむずかしい。きょう死ななければ、あす死ぬかもしれぬ。しばらく死なないとしても、ことしの寒さ暑さに不安だ。ただ、わたしがくちおしいのは、おまえが十一歳で孤児となることだ」といいかけ、またため息をついた。
信乃は親の顔を見て、
「なにをもうされるのです。多病としても、まだ五十歳にもならないではありませんか。きょうよあすよなど、よからぬことをおっしゃらないでください。御教書のことが事実で、とらえるものがきたら、わたしがおすくいいたします」というと、番作は、からからとわらって、
「御教書のことはいつわりなので、捕手(とりて)などくるものか。姉のたくらみを糠助がいいつたえてきたのが幸いだ。死期近いわたしのやせ腹、いまかききっておまえを姉にたのもう」という。
信乃はおどろき、
「おことばですが、父上をうしなって、わたしをあの家に同居させるとはおもえません」というと、番作はうなずき、
「その疑いは、もっともだ。これはわたしの遠謀(えんぼう)だ。村雨の太刀もうばわれず、姉の手をかりておまえを成人させるのだ。いのち短い親が自害し、子をふとらせる苦肉の一計なのだ。姉夫婦は利欲にふけり、恩義を知らぬ人だが、いま番作の自害をきけば、里びといよいよ村長をにくみ、つどいあって村長の非をうったえ出ることになろう。これではあやうしと、まことしやかにおまえを家でやしなって、里びとらの怒りをとこうとする。また、この宝刀は姉夫婦がいかにおどかしても、わたしてはならぬ。おまえは、成人となったあと滸我(こが)にまいり、督(かみ)どのに宝刀を献上せよ。
ぬすまれぬように一刻もこころをゆるすな。これをふせぐのは、おまえの知だ。なまじ宝刀をかくすと、こころがゆるむものだ。それをふせぐことができないと知れば、宝刀をもって逃げよ。念じわすれるな。姉夫婦がまことに改心したなら、おまえもそれにむくいよ。そうでなければ、おまえは大塚氏(うじ)の嫡孫(ちゃくそん)だ。蟇六の職分は、おまえの祖父のたまものだ。その禄(ろく)をもって成人しても、伯母(おば)夫婦の恩ではない。むくいることをせず、その家を去っても、不義にはならぬ。わたしのはかることは、これだ。長くもないいのちを、ながらえて息たえては、伯母もおまえをやしなわず、宝刀もひとの手におちるかもしれぬ。二君につかえぬ番作が、さいごにこの村雨を拝借し、奇特をみせよう」と、村雨の宝刀をふたたびとりあげ、ぬこうとするので、信乃はあわてて手にすがり、
「のちのちまでのはかりごと、かねて覚悟のご自害は、わたしのためなのですね。病いで死ぬのは、なげきかなしんでもせんないことですが、切腹なされば、ひとはただ狂死ともうすでしょう。こよいでなくとも……」というと、番作は声をあらげて、
「うつけたことをいうな。死ぬべきときに死ななければ、死するに恥がおおくなる。嘉吉(かきつ)のむかし、結城で死ななかったのは、君父のためだ。足が不自由となり、筑摩(ちくま)に三年すごしたため、母の死にあうことができなかったことを、うらんでみてもかいのないことだ。それから二十年あまりも、なすこともなくひとの世話をうけつつ露命をつないできた。いま、子孫のことをおもわずに、いのちながらえてどうなる。とどめるのは、不孝だ。いまに糠助がきては、さまたげになる。そこをのけ」といって、左手をのばしてねじると、髻(もとどり)はきれ、髪がみだれた。信乃は、ふしまろびつつすがりつき、右の手をはなさず、
「おしかりをうけようとも、このことだけは、なりません。ゆるしてください」としがみついた。刃をとろうとするが、とどかない。
番作は、「はなせ、はなせ」といかる。信乃は、一生懸命だ。番作は、信乃を片手でおしふせて、尻をかけた。やんではいても、勇士のちからだ。
「どうしたらいいのか」と、信乃はもだえて、幾たびかはねかえそうとするが、それができない。そのすきに、番作は襟(えり)をひらき、刃をひきぬいて、右の袂(たもと)をまき、切っ先を腹へぐさっとつきたて、こころしずかにひきめぐらせると、さっとほとばしる鮮血がながれて、敷かれた信乃におちた。
番作は、刃をとりなおし、よわる右の手に左の手もそえて、のどのあたりをつきさした。前にたおれる。番作と身をおこす信乃とは、半身が血で真赤である。
信乃は父のなきがらにすがりつき、よよと泣いた。そのありさまは、秋の寒い風にふかれたツタモミジが、枯木によりそうようであった。
そこへ、糠助が番作の返答をきこうとやってきて、庭門にちかづいた。信乃のなき声に、「なにか、あったか?」とぬき足でそとから見ると、番作の自害。おどろきおそれ、歯があわず、ふるえもとまらない。歩くにもあるけぬ。どうにか庭門のむこうにでて、まずは村長につげようと、裾(すそ)をはしょってかけだした。
信乃は、なきくずれていたが、気をとりなおし、頭をあげ、
「くちおしい。わたしがもう四つ、五つ歳がおおければ、おし敷かれることもなく、親を死なせなかったのに。親の遺言(ゆいごん)のことはよく承知しているけれど、伯母・伯母婿にやしなわれようとはおもわぬ。それに、はかられて宝刀をうばわれては、この身の不覚ともなる。戦場では、父子ともに討死(うちじに)するものもある。よからぬ伯母をたよりにしては、かえって父祖の名をけがすことにもなりかねない。親があってこそ、憂(う)きにもたえてきたのだ。いまから、だれのために艱苦(かんく)をしのぶというのだ。死出の山路をともにこえて、母にあおう。ああ、そうだ……」とひとりごと。
父の手をはなれた村雨をとりあげ、行灯の光で刃をうちかえし、うちかえしみて、
「おう、奇なるかな。まるで、水をもってあらいながしたように、刃に一点の鮮血もそまってはいない。親とはちがう信乃の自害も、この宝刀をもってできるとは、ありがたいことぞ」とおしいただいた。
軒下(のきした)の藁(わら)の敷物にふしている犬の、苦しい息がきこえる。
「あ、与四郎はまだ死んではいない。あの犬をえて、わたしがうまれた。また、あの犬のために父をうしなった。そのはじめをきき、おわりをみると、いとしいとともに、またにくくもある。だが、この畜生を、そのまますてておいては、ふびんだ。夜もすがらの苦痛をあたえておくより、わたしの手で楽にさせてやろう。もったいないが、この村雨できってやろう。鮮血にそまぬ宝刀の奇特、だれのためにおしむこともあるまい」と、信乃は太刀をひっさげて縁側からひらりとおり、刃をふりあげた。
犬はそれをおそれず、前足をたて、うなじをのばし、ここをきれというようすだ。信乃は、ためらったが、これも、あしたまで息があったとしても、伯母婿の手でころされるだろう。如是畜生(にょぜちくしょう)、発菩提心(ほつぼだいしん)と念じつつ、ふりおろした。
犬の頭は、はたとおちた。鮮血がほとばしった。そのなかにきらめくものがあり、手をのばしてそれをとった。すると、鮮血は、ぴたりととまった。
信乃は、したたる刃の水気を袖でぬぐうと、鞘(さや)におさめた。犬の傷口から出たものをよく見ると、一つの白珠(しらたま)である。大きさは、豆の倍もあるか。ひも通しの穴もある。信乃が、月の光にさしかざしてみると、珠のなかには一つの文字がある。孝(こう)の一字だ。これは刀でほったのでもなく、うるしでかいたものでもない。自然の工(たくみ)というほかない。信乃は、小膝をうち、
「ああ、奇怪なるこの白珠。そうだ。わが母が、わたしをいのって滝野川からかえる途中、この犬を見て、また神女(しんにょ)を目撃され、一つの珠をさずけられたのを、あやまってうけそこなわれた。珠は、犬のそばにころげ落ちたはずなのに、見うしなってしまわれた。そのころからみごもり、つぎの年の秋、わたしがうまれた、ときいたことがある。そのあと、母はながく病み、仏にも神にもいのったものの、そのしるしがない。その珠をえることができれば、母の病いがなおるか、とのぞみをかけたが、どのようにしてたずねてよいものか、手だてがわからず、母はその冬になくなられた。
それから三年のこの秋のこよい、父上が自害なされ、わたしの手でその苦しみをのぞこうとして、頭をきりおとした犬の傷口から、ふしぎにも出たこの白珠。両親をうしない、そしていま、このわたしも自害しようとしているとき、戌孝というわたしの名をかたどる孝の一字がはっきり見みえても、六日(むいか)のアヤメ、十日(とおか)のキクだ。なんの役にたつものか」と、あとのまつりと腹をたて、庭石に、はっしとなげつけると、珠はそのままはねかえって、信乃のふところにとびこんできた。
奇怪なりと、またなげつけると、白珠はまたもどる。とびかえること三たびだ。
信乃は、あきれはて、腕をくみ、しばし思案していたが、うなずき、
「この白珠には、まことに霊(れい)があるものか。母がうけそんじたとき、犬がのみこんだので、十二年をへたいまになっても光沢がなくならないのは、犬の腹のなかにあったからこそだ。貴重な宝などというものではない。この珠にひかれて、死をとどまってなるものか。宝刀も、この白珠も、わたしの死んだあと、ほしいものは勝手にとれ。父上においつかなければならぬ。時をすごしてしまった」とつぶやき、番作のなきがらのかたわらにきた。村雨を三たびうちいただき、諸肌(もろはだ)となり、ふとみると、左の腕に、大きな痣(あざ)ができている。そのかたちは、ボタンの花のようだ。
「これは、おかしい。手習いの墨でもない。まさしく色黒い痣ができたのだ」と、腕をたたいてみた。「きのうまで、いやきょうまでも、わたしに痣などなかった。さっき白珠がとびかえって、ふところのなかにはいったおり、左の腕に《はた》とあたった。そのときすこし痛みをかんじたが、その痣とは、とてもおもわれない。国がみだれるとき、さまざまの妖(あや)しみあり、人が死なんとするときも、またあやしいものを見ることがあるという。これは、わたしの惑いだ。死んで土になるのに、痣もほくろも気になるものか」と、勇気あふれるまれなる神童、知恵もことばもすぐれた人にはじない。
春の夜は短い。初更(しょこう)をつげる寺々の鐘の音がきこえる。無常の音ともきこえる。
信乃は額のみだれ髪をかきあげて、村雨を手にとり、
「ああ、だいぶおくれてしまった。孝妣尊霊(こうひそんれい)、一蓮(いちれん)托生(たくしょう)、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)……」と、口のなかでとなえつつ、刃をきらりとぬき、腹をきろうとすると、庭の木かげから、
「まて、信乃。まて!」と、せわしくよびかけて、男女三人が、とぶように縁側から走りこんできた。
信乃は、庭に人がいて、よびとめる声をきいた。はやくつきさしたいと刃(やいば)をあげたが、筋がちぢみ、腕がしびれておもうようにいかない。
「くちおしい」と、幾たびも死のう、死のうとする。そこへ糠助がきて、背後にまわり、いきなり信乃をだきとめた。前からは、蟇六(ひきろく)・亀篠(かめざさ)が左右から腕をとって、「この刃をはなせ」といったが、信乃ははなさない。そして、「顔はぞんじているが、名のりもしない伯母御(おばご)夫婦、なにしにこられた?」といった。
亀篠は、涙ぐみ、
「こころつよい親に似て、子どもながら気がつよい。わたしは女の身で、弟の世帯をうばいとったのではない。父の匠作(しょうさく)も、弟番作(ばんさく)も、討死(うちじに)したと風のたよりにきき、せめて大塚の家をたてようと、蟇六どのを婿にまねいた。それが幸いに荘園をたまわり、村長(むらおさ)にさえのぼっただけです。夫に罪などあるものですか。弟がかえってきたものの、足が不自由になっていた。つとめのできぬからだなのをかえりみないで、わたしら夫婦をたいそうにくんで、義絶したのは、弟のひがみですよ。このたび御教書破却(みきょうしょはきゃく)の落度、どのように親子をすくおうかとこころをつくしたが、そのかいもなく、番作は自害した。おまえも、幼いくせに親に似て、気が短い。死ぬことはないよ」というと、蟇六も、目をしばたたき、
「番作がいきているうちに、おれのまごころを知ってもらわなかったのは残念だ。せめて、その子をやしないとって、浜路(はまじ)と夫婦にすれば、先祖の血すじはたえぬこととなる。世にもひとにもにくまれたおれも、こころやすらかだ。信乃、よくきくがいい。御教書のことは、たいへんな落度だが、もとは犬畜生のおこしたことだ。その犬の飼主の番作が死んでしまえば、いっさい後難はあるものか。たとえ、その子にとがめがあったとしても、おれがうまくもうしあげる。糠助がきて、しかじかというので、義絶の親族といいながら、自害ときいてはすてておけぬ。それできてみれば、このありさまだ。はやく刃をおさめるのだ」といい、糠助もいましめた。
信乃は、それをきいていたが、おもっていた伯母夫婦とはちがっている。それに、宝刀のこともひとこともいわない。これは、自分をあざむく手だてではないか、とさっした。こうなれば、自害をとどまり、しばらく伯母にやしなわれてみようか、とおもった。
信乃は、「おもいがけない方(かた)のいつくしみをこうむって、死におくれてしまいました。太刀をさしださずにすむならば、おっしゃることにしたがいます」というと、蟇六は、眉(まゆ)をよせ、
「宝刀のことは、おれは知らぬ。それは、女の浅い知恵だ。親からゆずりうけたものは、おまえさんのすきなようにするがいい。こうしてうちとけたからには、こころゆくまでかたろう」といった。
信乃は、「それなら、手をはなしてください」というと、みんなはよろこび、すこししりぞいた。
信乃は、刃を鞘(さや)におさめて、膝(ひざ)をくみなおした。そして、父のしまつをどうするかをかんがえはじめた。
蟇六・亀篠は、糠助に、
「ちょっと、下男をよんできてくれ」といった。すぐ下男ふたりがきた。蟇六は、葬(とむら)いのさしずをして、その夜、番作のなきがらをとりおさめた。蟇六は家にかえり、亀篠・糠助はとどまり、通夜をした。
つぎの日、棺(ひつぎ)を菩提所(ぼだいしょ)にはこんだ。里びとはかなしみ、これに会葬(かいそう)した。その数三百余人という。
蟇六・亀篠は、「御教書のことはいつわりで、犬塚親子が自害した、と里びとに知れたら、ただではすまんぜ。里びとの怒りで、大さわぎになるさ。この三百余人の会葬者だ。里びとに疑いをもたれないためには、信乃をやしなうことだよ。これで、おれも安心というものだ」とひそひそかたりあった。当分は村雨(むらさめ)の件はもちださぬことだとも。
信乃は、太刀をさしださなければ、といった。それで蟇六は、宝刀のことなど自分は知らぬとこたえたが、そのとき顔色がかわったのを、信乃は見のがさなかった。信乃は、こうして自害をとどまったのだ。
それにしても、知勇の士であった犬塚番作が、世にうもれたままで生涯(しょうがい)をおわったのは、おしい。
話をすすめる。葬いがおわると、亀篠は蟇六と相談して、下男に信乃をよびにやった。信乃は、
「せめて、なき親の中陰(ちゅういん)のおわるまでここにいます。そのあと、おおせにしたがいます」とこたえた。
蟇六は糠助に、
「もっともなことだ。だが、子ども一人をおくこともできぬ。糠助の家はすぐそばなので、朝な夕なに世話してくれ」といい、額蔵(がくぞう)にも、
「おまえは、信乃とおなじ歳ごろだ。話相手になるだろう。額蔵、煮炊(にた)きを手つだえ」といいつけ、信乃の家にこさせた。
信乃は、このときおもった。「この額蔵をよこしたのは、わたしの本心をさぐるためか」と。
で、こころをゆるさずにみずから火をたき、水をくみ、父母の霊牌(れいはい)につかえた。喪(も)にふくしているうちに、いつしか花はちり、若葉の色がまし、青山辺にホトトギスのなく季節となった。
信乃が額蔵の行動を注意してみていると、すべて温順で、片田舎(かたいなか)の下男には似ていないことがわかった。主人の蟇六をかさにきて、信乃をあなどる気色(けしき)もない。こころをくばってつとめているのだ。信乃の警戒心がきえた。
ある日、額蔵が、信乃の垢(あか)のついたからだを見て、
「なき人の三七日(みなのか)もすぎました。髪(かみ)をゆわなくても、行水だけでもされてはどうですか。湯もわいていますから」とすすめた。信乃はうなずき、
「ほんとうに卯(う)月(づき)の暑さにはたえられぬ。それでは用意してくれないか。行水しよう」といって、縁側のそばにたち、着物をぬいだ。南風がふいた。
額蔵は大たらいになみなみと湯をいれ、水をさした。湯かげんはいい。それから背後にまわり、しずかに垢(あか)をながそうとして、ふと信乃の腕の痣(あざ)を見て、
「信乃さんにも、この痣がありますね。わたしにも、似たものがあるのです。これを見てください」といって、自分も片肌をぬぐと、首すじから貝がら骨の下にかけて、おおきな黒い痣があった。そのかたちは、信乃のとおなじだ。
額蔵は、袖(そで)をおさめてたすきをかけると、
「わたしの痣は、せなかですから見えませんが、うまれたときからあったとききます。信乃さんも、そうですか」ときいた。信乃は、ただわらった。額蔵は、庭のほうを指さして、
「あのウメの木のそばに、すこし土の高いところがありますね。あれは、なんですか」と、またきいた。信乃は、「あれは、そなたも知っている犬を埋葬(まいそう)したところさ」とこたえた。
額蔵は、はじたような顔をして、
「信乃さんは、わたしも犬をうち、つきもしたろう、とおもっているでしょう?」という。
信乃は、これにも微笑するだけだ。
信乃は、行水がおわると、着物をふった。すると、袂(たもと)のあいだから、一つの白珠(しらたま)がころげ出た。額蔵がそれをひろい、つくづく見て、
「ふしぎだ。信乃さんは、どこでこの珠をえたのですか。もともと家伝のものですか。その由来をきかせてください」といってかえした。信乃は珠をうけとり、
「わたしは、父をうしない、こころがしずみ、この珠のことはわすれていました。この由来は、こうだ」と、くわしくかたった。
額蔵は、おおきくため息をつき、
「人の顔はおなじからずといいますが、他人にもよく似たことがあるものだ。人のこころはおなじではないが、また知己(ちき)なしとはいわれない。信乃さん、わたしをうたがってはなりません。わたしは、すこしもかくしたりしません。これを、ごらんなさい」といって、肌につけたまもり袋から一つの珠をとりだした。
信乃は、それを手のひらにうけてみた。自分の珠とまったくおなじだ。ただ、その文字がちがう。義(ぎ)とあざやかによまれたからだ。
信乃は、その珠を額蔵にかえして、
「わたしは歳が若く、才のたりないものなので、眼(まなこ)があっても、ないようなものです。額蔵さんを知らずに、はじめはうたぐっていました。だが注意してみると、わたしのおよぶところではありません。ただの人ではない、とおもっていましたが、身の上をきく機会がありませんでした。しかるにきょう、おなじような痣、そしてこの珠。これは宿縁のある人でしょう」と、これはしかじかとかたった。むろん、神女(しんにょ)のことから、与四郎(よしろう)の傷口から珠の出たことまでである。
さらに、珠をえてから急に痣ができたこと、父の先見の遺訓のこともかくさなかった。
額蔵は、耳をそばだててきいた。そして、感嘆し、落涙した。しばらくして、かたちをあらためていった。
「世に薄命なるものは、わたしだけではありません。信乃さんも、そうですね。わたしは、伊豆国北条(いずのくにほうじょう)の荘官犬川衛二則任(いぬかわえじのりとう)の一人っ子で、幼名を荘之助(そうのすけ)とよばれました。わたしのうまれたとき、家の老僕が胞衣(えな)をうずめようと敷居の下をほったときに、この珠を見つけたのです。これは祥瑞(しょうずい)とひとはいいましたが、わたしのせなかにはあやしげな痣があるので、父は心配し、その吉凶をうらなおうと、但郷(ただごう)の黄檗寺(おうばくでら)にある関帝廟(かんていびょう)をたずねたのです。父が日ごろから信心しているところです。念じてから、神(み)くじをひくと、第九十八くじがあたったのです。その詞(ことば)に、
百事(ひゃくじ)ヲ経営シテ 精神ヲ費(ついや)ス
南北ニ奔馳(ほんち)シテ 運未新(うんいまだあらた)ナラズ
玉兎(ぎょくと)交ル時 当ニ意ヲ得(う)ベシ
恰(あたか)モ枯木(こぼく)ノ 再ビ春ニ逢如(あうごと)シ
とありました。父はいささか文字がわかるので詞のこころを判じました。
はじめは悪く、あとは吉というのです。玉兎は月のこと、まじわるときとは満月、十五夜のことで、この子は十二、三歳まで多病ではあるが、十五歳からはすこやかになり、如意延命(にょいえんめい)の祥(さが)になる。それで、わたしに荘之助と名づけたのです。これは、母からきいた話です。荘はさかんなるという意味です。
そうしているうちに、鎌倉の成氏朝臣(なりうじあそん)が、京都の将軍と仲がよくなく、両管領(かんれい)にせめられて滸我(こが)におちられました。寛正(かんしょう)二年(一四六一年)京都から前将軍普(ふ)広院(こういん)足利義教(よしのり)の四男、政知(まさとも)ともうされるかたを、右兵(うひょう)衛督(えのかみ)として、伊豆の北条にくだしおかれたのです。堀越の御所とよばれ、諸国の賞罰をつかさどられました。
だが、政知朝臣は、民をあわれむこころがうすく、おごりをきわめて、課役がおおかったのです。わたしの父は、旧例をひいて、苛政(かせい)にたいして諌言(かんげん)しましたが、政知朝臣の怒りはつよく、殺されるときいて、一通の書をのこすと、母にも知らせないで自害しました。寛正六年秋九月十一日のことで、わたしは七歳でした。
荘園・家財は没収され、家僕も離散してしまいました。豪家といわれた犬川の水もかれ、母は泣きつつ、わたしの手をとり、あっちのゆかりの家、こっちのゆかりの家とたずねあるき、霰(あられ)ふる冬のなかばになりました。安房国の国守、里見の家臣、蜑崎十郎輝武(あまざきじゅうろうてるたけ)(伏姫(ふせひめ)を富山にたずね、谷川でおぼれ死んだ)という人が母のいとこなので、そこをたよろうと、鎌倉におもむき、安房への便船をもとめましたが、いまいくさのさいちゅうなので、海路も陸路もとだえているというのです。下総(しもふさ)の行徳(ぎょうとく)の港には、上総(かずさ)へわたる船があるときき、行徳にいくことにしたのです。
そして、この郷(さと)まできて、路用の金を賊にとられ、宿をかりることもできないので、村長の屋敷にまいり、しかじかとわけをはなし、宿をたのんだのですが、村長は下男らにおいだせと命じたのです。
日はくれ、雪がふりだしました。行くことも、戻ることもできず、吹雪にからだをふきさらし、笠(かさ)は風にとられました。骨までこおるとおもわれる冬の夜です。そこに母の持病の癪(しゃく)がおこり、七歳のわたしには、どうすることもできなかったのです。母の息がたえたのは十一月二十九日のことでした。母のなきがらにとりすがり、泣きさけびつつ、夜明けをむかえました。ここではじめて、村長が、わたしをうちによびいれて、身のうえをただされたので、つつまずはなしました。
それから、村長は、母のなきがらをすてるようにうずめさせました。
また、わたしをよび、
『おまえは母を旅でうしない、かえる家もなく、またたずねる里もないのだ。安房の里見は成氏がたで、この地は管領家の領地だ。で、安房の国にわたすことはできぬ。おまえの母は路費をうしない、おれの門口(かどぐち)で死んだ。やむをえず葬いのことをなにくれとなく世話し、銭(ぜに)がおおくかかった。おまえは、これからおれにつかえて、これにむくいなければならぬ。歳がまだ幼いので、三、四年はくわせ損だ。ものの役にはたたんからだ。それで、年限をきめるのはむずかしい。夏は帷(かたびら)ひとつ、冬は小妻(こづま)の布子(ぬのこ)ひとつ、おまえにやろう。これが過分の給料だ。一生涯奉公するのだ』といいわたされました。
わたしは、くちおしいが、ほかにたよるところもなく、そのまま五年あまり村長の家におります。いま戦国の世にうまれて、身をたて、家をおこさなければ、男子にうまれたかいがありません。ともかく武士になることだ、とおもいさだめたのは、十歳の春でした。
村長は疑い深く、ものねたみする人なので、わたしは本心をみせず、おろかなふうをしていました。だが、ひそかに夜のふけるまで手習いし、昼間は秣(まぐさ)をかるついでに人目をしのびながら石をもちあげ、木をうち、剣術・拳法(やわら)をこころみ、太刀すじをかんがえました。
人びとは、わたしをあざわらって、あほうといいます。わたしも本心が知られることをきらい、友をもとめませんでした。そこへ信乃さんのことを知りました。
信乃さんの俊才、孝行をきき、また遠くから見ていて、したわしく、まじわりたいとおもっていました。だが、村長と義絶している親族、その子では、たやすく話をすることができません。
このたび父上の自害で、わたしに信乃さんの世話をしろと命じられました。天のたすけとひそかによろこび、きてみると信乃さんはわたしをうたがわれ、日をかさねてもうちとけられませんでした。わたしは時節をまつことにしました。それが、からだの痣、ひとつの珠が仲だちして本心をうちあけることができました」と、身のうえをうちあけた。
信乃は、額蔵の薄幸を自分の身の上とくらべながら、
「おどろきました。額蔵さんのこころざしは、わたしのおよぶところではありません。いま、この珠が仲だちして、たちまち水魚(すいぎょ)のまじわりをすることも、因縁があるのです。額蔵さんのしめされた関帝くじの詞の結句に、
玉兎(ぎょくと)交ル時 当(まさ)ニ意ヲ得ベシ
恰(あたか)モ枯木(こぼく)ノ 再ビ春ニ逢如(あうごと)シ
とは、きょうのことですよ。それ、月は珠にたとえ、珠はまた月にたとえることは、書物にあります。そうすると、王兎がまじわるとき、まさに意がえられるだろうとは、二つの珠が仲だちして、ここにまじわりをむすぶことをいうのでしょう。枯木がふたたび春にあうとは、いま両人はもっとも薄命、たとえば木の幹が大部分かれて、片枝がわずかにのこるようなものだが、春にはふたたび芽をだすように、親友をえて、たがいにたすけられ、名をあげ、家をおこすことができるだろうという意味で、春にあうといったのでしょう。
また、はじめの二句は、額蔵さんの父上が自害して、あなたがた母子が、南北を放浪して、命運しばらくよくないということではないでしょうか」とときしめすと、額蔵は信乃の才学に感心して、はじて額(ひたい)をなで、
「わたしの手習いは、文字をおぼえるだけで、学問をまなぶことをしませんでした。信乃さん、わたしにおしえてください」といった。
信乃は首をふり、
「わたしは、わずか十一歳です。たいしたことを知りません。幸いに、父の書物があります。まなばれるなら、おかしします。こころざしがおなじなら、みな兄弟です。わたしも孤児、額蔵さんも孤児。きょうから義をむすんで、兄弟となりませんか。額蔵さんは、どうです?」ときいた。額蔵はよろこび、
「それは、ねがってもないことです。楽しみも悲しみも、ともにしましょう」と天にむかってちかった。信乃もまたよろこび、水をもって酒になぞらえ、くみかわし、兄弟の約束をかためた。
額蔵は長禄三年(伏姫自害の翌年)十二月朔日(ついたち)うまれ、十二歳になる。信乃は七か月おくれなので、額蔵を兄とし、信乃は弟と称した。信乃は額蔵を上座(かみざ)にすすめたが、額蔵は、
「歳の多少はあっても、その才学からすると、信乃さんがわたしの兄です。このさい、長少の座などやめましょう。ところで、わたしの幼名は荘之助ですが、いまだに実名をつけていません。信乃さんが孝行なことは、この里じゅうで知られています。名まえも戌孝(もりたか)でしょう。それに白珠に孝の字があることもふしぎです。また、わたしの珠には義の字があります。父は、犬川衛二則任といいます。よって、わたしの幼名荘之助の之の字をはぶき、犬川荘助義任(そうすけよしとう)と名のることにします。だが、これらのことは、ひとにつげず、二人だけの秘密にしておきましょう」というと、信乃は、
「名は、主人にしたがうものです。義任は、もっともふさわしい。しかし、ひとの前では、額蔵とよびますよ」といった。額蔵は微笑して、
「そうしてほしい。村長夫婦の前では、わたしはあなたをののしり、あなたもわたしをあざけってください。このようにしていると、疑いをもたれないでしょうから。それより、わたしはきいたことがあるのです」といい、糠助が亀篠におどされたこと、それと亀篠が蟇六にいったことをつげた。
「そのとき、わたしはいねむりしていたふりをして、ききました」と、ことばをそえた。信乃は、
「わたしは、父の遺命にしたがって、伯母の家に同居していますが、額蔵のたすけがなければ宝刀をまもるのもむずかしい。わたしのこころえとします」といった。額蔵は、しばらく思案していたが、
「わたしがあまりこの家にいては、のちのちによくありません。あしたは、病いにかこつけて、一度村長の家にもどります。あなたも中陰のおわるのをまたず、三十五日で、伯母の家に身をよせなさい。すでに義をむすんだので、信乃さんの父上は、わたしの父でもあるのです。きょうからわたしも喪中とこころえます。花をたむけること、経をよむことばかりが孝ではないでしょう」とはげまして、番作の霊牌に手をあわせて、このことを亡父の霊につげた。
突然、人の足音がした。この来訪者はだれだろう。
犬塚(いぬづか)・犬川(いぬかわ)の両童子(どうじ)、信乃・額蔵が、たがいに自分のこころざしをうちあけ、義をむすび、すえずえをちかっていると、そとで足音がした。信乃は耳をそばだて、額蔵に目くばせした。
額蔵はそれをこころえていて、自分の床(とこ)にさり、衣を頭からひっかぶってふした。
片折戸(かたおりど)の鳴子(なるこ)が音をたて、二つ三つ四つ、かるい《しわぶき》などし、
「信乃よ、家におられるかい? 糠助(ぬかすけ)がきましたよ、かわりはないか?」とよびつつ、障子のやぶれからのぞき、竹縁(ちくえん)に片尻(かたじり)片あぐらのていとなり、うしろざまに手をついて、庭の若葉に目をやった。
信乃は、身をおこして、障子をあけ、
「おじさん、よくきてくれました。こちらに……」といって、手であたりのちりをはらった。
糠助は首をふり、「このとおり土足だ。このままでいいよ。毎年のことだが、蜀魂鳥(しでのたおさ)(ホトトギス)のなくころは、田畑の耕作がいそがしく、たいへんぶさたをしてしまった。ところで、村長(むらおさ)の家からきている男の子はどうしているかね?」ととうた。
信乃は、うしろをみかえり、
「額蔵は、きのうから気分がわるいといってふせています。かぜをひいたのではないかとおもって、売薬をすすめたりしました」といった。糠助は、
「それはこまったな。村長の屋敷にいって、そのことをつげ、ほかのひとにかわってもらおう。そういうことなら、なぜ知らせてくれなかったのだい。まだ十五にもならず、ただでさえたよりないのに、世話するものが役にたたず、逆に看病までさせるとは、鬼のような伯母(おば)夫婦だ。わたしにまかせておきなさい」と、ひとりのみこみした。早合点でそこつな男だが、悪気はない。そのまま、いそがしく出ていった。
いっぽう、蟇六(ひきろく)・亀篠(かめざさ)は、信乃のために朝夕の煮炊きのたすけをせよと、額蔵を手つだにやらせたあとも、世間ていをかんがえて、三、四日、飯のおかずなどもとどけさせた。また自分自身も信乃の家の戸口にたち、大声で、安否(あんぴ)をたずねた。近隣にきこえるようにだ。それも田畑がいそがしくなると、信乃のことなどわすれていた。そこへ糠助がきて、額蔵のかぜをつげた。
亀篠は、眉(まゆ)をひそめて、
「このごろは一人を二人にしてもたりないのに、かぜぐらいなにさ」とすべらせた口をつぐみ、微笑して、「よくおしえてくれましたね。どうにかしましょう」とこたえて、糠助をかえし、蟇六につげた。暮六は、
「こっちとあっちはすぐま近だが、かまどが二つとなると、人手もかかって不便なのだ。きょうから信乃をよびよせて、やしなおうとはおもっているが、子どもとて親に似て、片意地だ。中陰(ちゅういん)がすんでからでなければ、ひきうつってくるのはむずかしい。いますこしだ。だれかやって、額蔵とかわるといい。まめまめしく世話をしているふうにみえれば、こっちの得さ」とささやいた。で、一人の老僕をつかわした。
額蔵がまもなくたちもどった。顔色はべつにわるくない。亀篠が額蔵をよびよせ、
「おや、額蔵。おまえはきのうからやみふしていた、と糠助がつげにきたよ。いそがしいときだが、そのままにすてておけず、かわりの男をつかわしたが、見ればおまえの顔色はわるくないようだ。信乃と相撲(すもう)でもしてまけ、仮病でもつかったか。なまけものが!」とにらみつけていうと、額蔵は額(ひたい)に手をあて、
「すこし頭がいたいのですが、ふすほどでもなかったのです。てまえはあの家にまいりましたが、信乃という子どもはちっともうちとけず、いやになり、逃げてかえりたいとおもったのですが、かえるとしかられるかとがまんしていました。主人の家の恋しさはつのるばかりで、仮病の知恵をつかって、こうしてよびかえされ、いきかえったおもいです。田畑のはたらき、うちそとのつかい、いっそう身をいれてつかえます。すこしでも犬塚の家にやることだけは、ゆるしてください」と手をもみ、まことしやかにわびた。
蟇六夫婦はつくづくきき、微笑をうかべた。蟇六が、
「おい、亀篠。おまえはどうおもう? こいつも、信乃とおなじ子どもなので、信乃の相手となるかとおもったが。額蔵、そのようなことがあったら、ひそかにこちらにはなすことだ。仮病をつかって、ふすことなどするな。そんな知恵は、三文のねうちもないぞ。このたわけ!」としかりつけると、亀篠は、
「おまえさん、額蔵だけをしかりなさんな。信乃はまだ子どもなのにこころはおとなびて、ことに執念(しゅうねん)ぶかく、腹はきたないのさ。ところで額蔵。気にいられぬながら、日ごろあの家にいたのだから、なにかきいたことはないかい? 信乃が、こっちにうらみをもっているとか。そうではないかい?」と、やさしい顔でたずねた。額蔵は、
「いえ、ただいまももうしたように、たまたま声をかけても、返事もしてくれませんので、きいたことはありません。しかし、いまは伯母御(おばご)のほかに、たよる人がないので、こちらをうらまず、はじめとはちがって、むしろしたわしいとおもっているようすです。てまえにつれないのは、むかしの仇(あだ)かもしれません。そうでなければ、気持ちのあわないはずがないでしょう。てまえは、信乃ににくまれるほどよくは知りませんから」というと、蟇六はうなずき、
「仮病をつかったことはいけないぞ。だが、こんどだけはゆるしてやる。そのかわり、三人分ははたらくのだ。むこうにいけ」という。
額蔵はしきりに頭をさげ、その場をさった。
亀篠は、それをみおくって、
「おまえさん。人の気持ちはさまざまだが、子どもは子どもどうしでよくあそぶものなのに、額蔵と信乃は気持ちがあわないねえ」とささやくと、蟇六、
「そればかりではあるまい。信乃はこっちをうたがって、額蔵をよこしたのは監視するため、とでもおもったのだろうさ。額蔵のかわりにだれをやったい?」
「ひとまず背助(せすけ)をやりましたよ。あの男も六十。このごろはたらきもよわり、額蔵とかわっても損はないからさ」
「それは、いい男をやった。あしたかあさって、おそくとも四、五日してから、ひそかに背助をよび、信乃のこころの底をきくことにしよう。背助をうたがっているなら、おれたちをもうたがっているのさ。額蔵だけをきらい、背助をきらうことがないのなら、額蔵一人のことで、こっちをうたがってはいないのさ。ことは、それからだ」と、額をよせあってかたった。
三日たった。亀篠は信乃の家にいき、信乃のようすをきいた。それから、背助との仲をうかがった。信乃は背助をきらうことなく、背助もためらわず世話をしていた。亀篠は、よもやま話をして、家にもどった。亀篠が、蟇六にそっといった。
「おまえさん、背助をよびよせてきくといったが、信乃にうたがわれてはと、わたしがいって、半日ばかりくまなく見きわめてきたよ。それは、しかじか……」
「なるほど。信乃のこころざまはそこらの少年とはちがうので、うかうかこころの底はみせない。まず額蔵をよびつけ、かようかようにもうしつけよ。これがなったなら、しかじかこうだ」と蟇六がささやくと亀篠は感心し、「用心に用心かさね……」とつぶやいた。
そのとき、竹縁をふみならして、障子のむこうをよぎるものがいる。
「おまえは額蔵ではないか?」と、亀篠がいちはやくきくと、「さようです」とこたえた。亀篠は、
「内密にいうことがあるので、こっちにおいで」と、膝(ひざ)のそばまでまねきよせて、
「あらたまっていうほどのことではないが、折がよいのでいうのだよ。信乃はわたしの甥(おい)だけれど、番作(ばんさく)のひがみのこころをそのままゆずりうけているのさ。あくまでいとしくおもっているこの伯母のわたしが、おまえを信乃の世話にとつかわしたのに、人ぎらいするとはもってのほかだよ。
そうでなければ、おまえがしゃべりすぎるので、信乃がおもわず腹をたて、うらまれたことでもあったのだろう。それでおまえも気をつけて、あげ足をとられないように用心しなよ。おまえは六つか七つのころから、生涯(しょうがい)つとめなければならぬ下男なのだ。養い親の恩のおおきいことは知ってるだろう。信乃のことは、いっさいをひそかにつげるのだよ。よいか、それが主人のためなのだから」という。
蟇六はひげをぬき、おとがいをなでて、
「額蔵、おまえはしあわせものさ。信乃よりおまえをたのもしいとおもっているので、亀篠のこの秘密もおまえにはなしたのさ。そこでまた、おまえを背助にかえてつかわすから、しばしのあいだ辛抱(しんぼう)せい」といった。額蔵は小膝をさすり、
「これまでおもってくだされるご恩は仇にはできません。おっしゃるとおり、なれちかづいて、ご主人のためにわるいことなどをきけば、ひそかにお知らせしましょう」とこたえた。
蟇六夫婦は、ことばをいっそうやさしくする。額蔵は背助とかわろうとたちあがった。
亀篠は、それをおしとどめ、
「一人ではいけないよ。わたしのうしろからついてきな」といって衣の前をかきあわせ、うしろむすびの帯のはしをおしなでながら竹縁にでた。そして蟇六のほうをみかえり、
「ちょっといってくるよ。おまえさん」という。
蟇六はうなずいた。
亀篠は信乃の家にきた。微笑をうかべて、
「きょうきたのは額蔵のことさ。わけは知らないけれど機嫌(きげん)をそこねてつかってくれないので、仮病をつかってかえってきた、とひとにいっているのをこのわたしがきいて、こころがおちつかないのさ。むかしはどうあれ、いまはしたしい甥、伯母さ。下男に水をさされてはと心配し、蟇六さんも腹をたて、額蔵をしかりつけたので、額蔵も泣いて深くわびた。それでまたつれてきたよ。気づいたことがあるなら、おしえさとしてつかっておくれ。額蔵のためにもなることさ。わたしもうれしいしさ。こっちにこい」とみかえると、額蔵は頭をかき、小膝をすすめ、
「いまおかみさんのもうされるように、わたしのひがみでした。ゆるしてください」とわびた。むろん、信乃としめしあわせたことだ。信乃はおどろき、
「これは、おもいがけないことです。わびることなどないでしょう。わたしは親のいるころから、煮炊きのこともしており、ひとのたすけがなくともできるので、うとんじてしまったのでしょうか。心配をかけたことは、わたしの罪です」といった。
亀篠は、「そうとわかれば、額蔵をとどめおき、背助はつれてもどるとしよう。それにしても、家が二軒では不便さ。三十五日の忌日には、信乃はわたしの家にくるがいい。蟇六さんもそのかんがえだよ。おまえはどうだい?」ときいた。信乃は、
「草屋(くさや)ですが、すみなれてはなれがたいのです。四十九日になってもおなじ、百日ではなおさることがいやになるでしょう。おっしゃるようにしましょう」というと、亀篠が、
「それはききわけのよい子だ。それなら三十五日の逮夜(たいや)には、里びとたちをまねきよせ、仏のために物をふるまい、そのつぎの日に戸をとざし、おまえはあっちにうつるのだね」と、わらっていった。上機嫌である。指おりかぞえて、
「なき人の三十五日は、きょうからわずか四日ばかりだよ。蟇六さんをよろこばせ、あしたから逮夜の準備にかかろう。額蔵、ことごとにこころをつけてつかえるのだよ。背助、どこにいる? おまえは家にかえるのさ」とよびたてた。
背助が顔をだした。信乃は、「日は長くなりました。白湯(さゆ)がわいていますから」と茶をすすめると、亀篠は、
「茶などのんでいる時がおしいよ。いそがしい。いそがしい」と、背助とともに庭をでていった。
しばらくして額蔵は、そとに出て、母屋(おもや)のほうをながめ、左、右とみかえり、片折戸をしかとしめ、信乃のところにもどり、蟇六夫婦にいわれたこと、自分がいったことなどをつげた。信乃はため息をつき、
「父とは仲がわるかったが、異母の姉です。またわたしには、ただ一人の伯母なのです。それが敵(かたき)のようにおもわれては、ながい歳月、どのようにしてあちらですごそうか」といいかけては、またため息をつく。
額蔵は、これをなぐさめて、
「そのことですよ。伯母夫婦は、欲だけなのです。だが、あの人たちに害心があっても、信乃さんが、まことのこころをもってあたるなら、ついには慈母(じぼ)となるかもしれません。ここでものをいっても、しかたがありません。また、わたしと信乃さんは、いつまでも仲たがいをしている、とおもわせておいたほうがいいでしょう」といましめた。
信乃がわらって、
「人の才には長短があります。わたしは一歳下の弟ですが、あなたには遠くおよばない。伯母の家に身をよせることは、父の遺言(ゆいごん)なので、その吉凶はただ運にまかせます。母屋にうつってからは、膝をあわせて本心をかたるのは、むずかしくなるでしょう。あとあとまで、よろしくおしえてください」というと、額蔵は、
「わたしの才など、信乃さんにはおよびません。ぞくにいう岡目八目(おかめはちもく)です。ともかく機にのぞみ、変におうじて、わざわいをさけることです。わたしはひそかに盾(たて)となり、笑(え)みのなかの刃(やいば)をふせぎましょう」とささやいた。二人の賢童(けんどう)である。
番作の三十五日の逮夜となった。亀篠らは、きのうから汁なますの用意をして、膳碗(ぜんわん)などを母屋から下男にはこばせた。おおかたがととのった。
夕方になった。
この日、信乃は、なき親の墓参りをして、菩提寺の住職をともなってたちもどった。住職は仏壇にむかい、木魚をたたき、経文をよみおえた。
そこに、糠助と里びとらがたくさんきた。時候、なき人へのあいさつなどをおえ、
「きのうのようだが、もう三十五日にあたるのか、はやいものだ。おもえば浮世は……。夢助(ゆめすけ)どの。さあ、いずれも座をつめなされな」
「それならごめん。でも、あまり上座では……」
「遠慮はいらぬ。さあ、さあ」
「これはめいわく。鎌平(かまへい)さん、おぬしはお年役」
「そういうな。仏には別懇(べっこん)な糠助さんこそ上座。さあ、さあ、おすわりなさい」
とさわがしいありさまである。二列になってそれぞれ座をしめた。信乃はみずから酌をし、宴(えん)はたけなわとなる。膝をくずして歌もでた。時分をはかって蟇六は、縁側をめぐって、上座の障子をひらき、
「いずれもよくそろうてきてくださった。ごちそうというほどではないが、ゆっくりくつろいでほしい」といって、席についた。
里びとらは、みな箸(はし)をおき、「おもいがけないごちそうで、満腹でございます」と一人があいさつした。座が、さらににぎやかになった。飯を口からふきだすものもいる。蟇六はにがりきり、しばらくして、
「みなも知っているように、わしの女房はもとの地頭、大塚匠作(しょうさく)どのの嫡女(ちゃくじょ)で、番作の姉にあたる。嘉吉(かきつ)の結城(ゆうき)の合戦でその家は滅亡したが、亀篠の夫のわしが再興した。これもいうまでもないことだが、死んだときいていた番作が、妻女とともにかえってきたが、からだが不自由で、所領をわけ、村長をゆずろうとおもっても、それができぬからだだった。からだの不自由なものは、こころもそうなのか。たずねてもこず、姉をうらめば、わしをも敵とおもって、ののしるだけだ。こちらは役目があって、頭をさげてわびることもできぬ。おりよく里びとらが、番作夫婦をあわれと、講(こう)をむすんで銭(ぜに)をあつめ、家をかい、田畑をつけて、生涯やしなってくれた。これは、旧主をおもう義、信だ。わしは、口にこそださなかったが、涙が出るほどうれしく、かたじけないと年ごろからおもっていた。それもいえない役儀の悲しさ、さっしてほしい。
まあ、これはすぎたことだ。片意地をつらぬき、なくなった番作のこころのこりは信乃のことだけだ。孤児をやしない、成人させなければ、先祖への不孝、またわれらも人ではない。
で、亀篠と相談して、番作がなくなった日から下男をつかわし、おりおりには亀篠がおとずれ、こころをつかい、三十五日の逮夜のきょうまで、なおざりにしなかったことは、みなも知っているだろう。しかし、十五にもならぬ甥を、いつまでもはなしてはおけぬ。あしたは母屋にむかえて、成人にそだて、娘浜路(はまじ)とめあわせて、大塚氏(うじ)の世嗣(よつぎ)としよう。ところで、番作の田は、みなにかえすか、信乃にあたえるか、ここでききたい」ととうた。
里びとらは顔をあげ、
「それはいうまでもありません。親のものは子にゆずる。おおいすくないにかかわらないこと。あの田はむろん息子のものです。よいようにしてください」といった。
蟇六は、わらって、「それでは信乃が成人するまで、わしが後見しよう」と、すかさずいった。
里びとがあきれはてているところに、亀篠も、
「信乃はわたしたちの婿でもあり、子でもあるのさ。子をもたないものは、他人の子をやしなっていつくしむ義務があるものよ。番作の田も荘園の役目も、それからわが家のかまどの下の灰までも、やがては信乃のものになるのだよ。にくいとおもった弟でも、いまこうなってみれば、東を見ても、西を見ても、わたしのほかに親類はないのさ。この子のことをかんがえれば、浜路よりもふびんだよ。かわいいものさねえ」といっては、しきりに袖(そで)で、ぬれてもいない目をぬぐった。
それでも里びとらは、その《うそなき》にさそわれて、ため息をつき、
「信乃さん。伯母さんのいまのことばは、逮夜のなによりの追善(ついぜん)だよ。番作さんのご子息を婿にするとの話、里びとのおおかたのものがききました。こうなれば、なにをうたがうことがありましょう。もちろん番作の田は、村長のおまえさんがしばらく管理してください」と、異口同音(いくどうおん)にいった。
蟇六・亀篠はよろこび、ひえた汁をとりかえさせ、盃(さかずき)をすすめ、もてなした。
初更(しょこう)のころ、その宴もおわった。住職がたって、そのあとから里びとがしたがった。あとは大風がやんだようにしずかになり、膳碗をあらう音だけがした。あとしまつである。
あくる朝、信乃は、なき父母の墓に香華(こうげ)をたむけに、菩提寺にでかけた。その留守中、蟇六夫婦は、下男をかりたてて、犬塚の家の家具をはこばせ、かまどの下のものと畳建具(たたみたてぐ)はうりはらって、空家とした。信乃は知らずに家の近くまできた。
額蔵が尻をはしょり、たすきをかけ、額をすすでよごしていた。汗がひかる。信乃は、「これはどうしたのです?」と走りよった。
額蔵はうしろを見てから、
「けさ、信乃さんが出てからほどなく、村長が、犬塚の家の家具をはこべ、他はうりはらえと命じたのです。わたしもかりたてられてこのしまつです。腹がたつでしょうが、辛抱して母屋にいくといい」といった。
信乃は、「そうですか。親の三十五日の忌日の、きょう一日をすごしてからでもおそくないのにね。こういそぐのは、里びとのこころがわりをおそれたのでしょう。さきにいってください」と、額蔵をさきにやり、信乃はわが家の前にきた。もう門には錠がおりている。
犬の与四郎をうめたウメの木のあたりを見ても、愛(あい)惜(せき)がこみあげる。
「犬のために、卒塔婆(そとば)をたてよう」とひとりごとをいって、短刀でウメの幹をけずり、矢立(やたて)の筆をとり、
如是畜生菩提心(にょぜちくしょうぼだいしん)
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
としるした。筆をおさめ、仏名をとなえた。
それから伯母の家に出むいた。
蟇六・亀篠はまちうけて、
「おお、信乃か。はやくこちらへ」とまねき、
「おまえが寺からもどってから、ひっこそうとおもったが、おまえに未練がのこってもと、こころいそぎとりはらってきたのさ。きょうからは、この家がおまえの家だよ。ゆうべもいったが、おまえが二十歳(はたち)になるころ、浜路とめあわせて二代目の村長とし、わたしたちは背戸(せど)に隠居するのさ。そうなれば左うちわさねえ。まちどおしいよ。浜路、浜路」と、亀篠はよびたてた。浜路が姿をみせた。
「浜路はなれていないので口をきかないが、そのうちなれるさ。浜路、信乃はおまえのいとこだが、おおきくなったら夫になるのさ。はやくおおきくして夫婦にしてみたいねえ」と、亀篠のことばに浜路ははじらい、屏風(びょうぶ)のうしろにかくれた。
信乃は、あまいことばは身の毒と承知している。信用はしていないのだ。
亀篠は信乃をさそって、西に面した一室に案内し、
「ここが、信乃の部屋だよ。読書・手習いにつとめるのだね。なまけなさんな。用事があれば、額蔵なり、浜路をつかうといいよ。いつまでもかたくるしくしなさんな」という。
ことしも三伏(さんぶく)の夏がすぎた。秋風がふくころ、信乃の忌(いみ)はおわった。これ以前に亀篠は、信乃の女着物を男着物にぬいあらためてくれた。産土神(うぶすながみ)にまいった。歳は十一だが、背丈があるので十四、五歳にはみえる。
「きょうのお祝いの赤飯のついでに、額のすみをそるといい」と、亀篠はすすめた。信乃に、元服(げんぷく)の儀をおこなわせたのである。信乃は女着物をすて、元服した。これも父番作の遺訓にしたがうことである。舞台なら、女形(おやま)から、男役(たちやく)にかわったのである。
こうして月もながれて、つぎの年の春三月となる。亡父の一周忌をむかえた。逮夜には、部屋にこもって父母の冥福(めいふく)を念じた。むろん、菩提寺の墓にもうでた。この供(とも)には額蔵がしたがった。道をあるきながら親しそうな話はできない。人目があるからだ。寺うちで墓をあらい、水をくみ、花をたむけた。信乃は涙にむせんだ。額蔵もその涙に同情した。
寺からの帰途、信乃らは、旧宅によった。
「遠くでもないのに、あれっきり足をふみいれていません」と、かたむきくずれた片折戸をおして内にはいった。軒(のき)には草、柱はななめに、壁はおち、藁(わら)が見えた。廃屋(はいおく)の光景である。ウメがしげっていて、去年の秋、幹をけずり、《如是畜生しかじか》としたためた文字はきえている。
「このウメの木の下にうずめた犬が、こやしになったのですね。この花は薄紅梅(うすこうばい)なので、実がなるのはまれなのです。それが枝ごとにこんなになったのは、ことしはじめてのことです。あれを見るといい」と指さした。額蔵もすすみよって見た。
「おや、このウメはその枝ごとに八つずつなっていますね。八房(やつふさ)のウメなのでしょうか」
「まことに八房のウメですよ。わたしは、幼いときからそのような話はきいたことがない。畜生ながら主人を知る与四郎の名にちなむなら、四房(よつふさ)になるはずだが、八房とはいかなることなのだろうね」という。
またことばをつぎ、
「奇っ怪だ。これは八房の実か、実ごとに模様がある。なにかに似ているでしょう?」と枝をひきよせ、その実を手のひらにのせ、日影にむかってみると、自然と文字がある。一つは仁(じん)、一つは義(ぎ)、このほか礼(れい)・智(ち)・忠(ちゅう)・信(しん)・孝(こう)・悌(てい)の文字である。
信乃と額蔵はおどろき、顔をみあわせた。幹の《如是畜生しかじか》が消え、その実に仁義八行の文字がうかび出たのである。
額蔵はまもり袋から秘蔵の珠をとりだし、
「信乃さん、これを見てください。ウメの実とこの珠と、そのかたちが似ているでしょう。その文字もおなじですね。わたしにはそのわけはわかりませんが」といった。
信乃もまもり袋から珠をだし、あわせみた。その大きさ、文字もおなじだ。
「これはまことだ。因なのか? 果なのか? 珠も、ウメも、ますますふしぎですね。この珠はもと八つあって、仁義八行の文字があったのだろうね。すると、のこるは六つだ。きいてみても草木のことだ。珠も、石だ。これも、こたえてはくれない。もし因縁(いんねん)があるなら、あとであきらかになるだろう。いまは、たがいに口外しないことです」とささやきあった。
その八房のウメの実をとり、紙につつみ珠とともにまもり袋におさめた。庭も荒廃したままだ。二人はその庭を出て、蟇六の家にもどった。
その八房のウメのことが、五月に里びとのうわさになった。蟇六夫婦も知った。だが、熟するとともに八行の文字は消えた。それ以後は、実がなっても文字はあらわれなかった。与四郎塚、八房のウメのことも、兵火にかかり、わすれられていった。
大塚蟇六(おおつかひきろく)は、自分の家に信乃(しの)をむかえた。世間ていをはばかって、女房の亀篠(かめざさ)といっしょに、さも信乃を愛しているようにみせかけた。こころの底はまるで刃(やいば)をとぎつづけるのとおなじだ。蟇六は里びとたちをあざむき、番作田(ばんさくだ)を自分のものとしていた。だが、村雨(むらさめ)には手が出せぬ。はやく手にいれて信乃をしまつし、浜路(はまじ)によい婿をとり、楽にくらしたいものだ。だが、信乃は子どもに似ぬ、しっかりした《つらだましい》だ。せいてはしそんじることになりかねない。まことしやかにもてなしておいて、すきをみることだ、と蟇六は女房の亀篠にいった。
信乃はいつも危険な状態にいる。父番作の遺訓をまもり、かたときも油断なく、こころをくばっていた。村雨は腰からはなさず、すわるときもそばにおき、ねるときにも枕(まくら)もとにおいた。で、蟇六がぬすむ《すき》などなかった。
こうして一年あまりすぎた。
蟇六は、「まったくむなしく指をくわえてみているばかりだ。村雨の太刀が手にはいっても、信乃がいるのでは、管領家(かんれいけ)に献上(けんじょう)することもできねえ。いまおれの手にはないが、村雨も持ち主もおれの家にいるのだ。おれのものとおなじことだ」と、こころは、はやるが、その策がうかばぬ。「まてまて、浜路はまだ幼い。いまから十年まっても、おそくはない。遠いはかりごとにはそれだけ利があるものだ。いそいでは失敗する」とおもって、亀篠にもそうかたった。そしてたびたび額蔵に、信乃のこころの底をたずねたが、額蔵の答えはのらりくらりだ。額蔵はそのたびに信乃に、きかれたことをそっとつげた。
信乃は、いっそうこころをひきしめた。
こうして春はめぐり、秋は暮れ、歳月はながれて文明も九年をむかえた。信乃はもう十九歳になる。浜路は十六歳である。花もさきいで、月の前にかんばしく、ヤナギはみどりの色をこくし、霞(かすみ)のあいだにそよぐとはこの二人のことだ。信乃はすぐれた美丈夫(びじょうぶ)で、浜路はにおうがごとき美少女である。
この夫にして、この妻あり、とはまことにこの二人の天縁だと里びとはほめ、蟇六夫婦に、はやくいっしょにするようすすめた。蟇六も亀篠も、かねてから広言していることでもあり、この返事にはこまりはてた。「これでは、信乃をはやくころさなければならぬ」とおもっても、また、「十一、二歳のときでも手だしができなかった。いまや丈夫(おとこ)になり、身長も五尺八、九寸ある。ちからもきっとつよいだろう。二葉のうちにつんでしまうべきだった。くやしい」と思案し、「あれでもない、これでもない」と腕をくんだ。腕をくんでも、妙案は出ない。
この大塚の近郷でふいに合戦(かっせん)がおこった。いくさのもとは、こうだ。
武蔵国豊島郡(むさしのくにとしまのこおり)豊島の領主に、豊島勘解由左衛門尉(かげゆさえもんのじょう)平信盛(たいらののぶもり)という武士がいた。信盛の所領は、志村(しむら)・十条・尾久(おく)・神宮(かにわ)など数郷である。この信盛の弟の練馬(ねりま)平左衛門倍盛(へいざえもんますもり)は練馬を領し、その地の館(たて)にこもっていた。このほか平塚・円塚(まるつか)などにも一族がすんでいた。
この信盛・倍盛兄弟は、両管領にしたがっていたが、不満をもち、伺候(しこう)がたえるようになった。
他方、管領山内家(やまのうちけ)の老臣、長尾判官平景春(ながおはんがんたいらのかげはる)は越後(えちご)・上野(こうずけ)の両国をたいらげ、独立のこころざしをいだいていた。景春は信盛・倍盛兄弟を一味にさそった。兄弟は承諾した。
これが、山内・扇谷(おうぎがやつ)の両管領に知らされた。両管領は密議をこらし、まず豊島をうつこととし、文明九年四月十三日、巨田備中介持資(おおたびっちゅうのすけもちすけ)・植杉刑部少輔(うえすぎぎょうぶのしょうゆう)・千葉介自胤(ちばのすけよりたね)らを大将とし、おおよそ千余騎をもって、ふいに池袋へせめこんだ。
豊島がたは油断していたが、一族が近在にいるので、馬を走らせ、集合するようにふれた。信盛は総大将となり練馬・平塚・円塚の兵三百余騎をひきい、江郷田(えごた)・池袋にむかった。
両軍いりみだれて半日たたかった。豊島は小勢だったが、緒戦(しょせん)は、千葉・植杉勢を制した。そのいきおいで、さらに軍をすすめたが、ふいのこととて、腰兵糧(こしひょうろう)をもたず、軍兵はしだいしだいに飢え、そのうえ、つかれはてた。これを寄手の大将、備中介持資は、「いまこそ、うて!」と、みかたをはげまし、せめたててきた。豊島勢は総くずれとなり、討死するものが続出した。千葉・植杉勢はいきおいをまし、息をもつかせずせめたてた。豊島勢は算をみだした。
信盛・倍盛もうたれ、ここに豊島の一族郎党も討死、さしもの旧家もほろびさった。
この合戦で、大塚・菅菰(すがも)の里の人びとも不安におちいった。ただ蟇六・亀篠は、これ幸いと、
「信乃と浜路の婚礼も、ことしはむずかしくなった。明年でもおだやかになったら式をあげ、信乃に村長(むらおさ)の職をゆずろう」と、里びとにつげた。
浜路は、八、九歳のころから、「信乃は、おまえの夫ぞ」と、きかされているので、それをしんじてきた。だが、浜路は、養女であることを知らされていなかった。それを、ひそかにつげたものがいた。
「浜路さん、おまえのまことの親は練馬の家臣で《なにがし》というものだそうだ。それに同胞(はらから)もいるということだ」
浜路が十二、三歳のころだ。「この話で、おもいあたることがある。いまの親たちは、他人には愛(め)でるように見えるけれど、口とこころはうらはらで、ひとのいないときはよくいじめられた。そだててくれた恩はあるけれど、わたしの生みの親のことを知りたい。まことの親は、練馬さまの家臣で、なんというかたなのでしょう。同胞(はらから)があるというが、わたしの兄か、弟か、それとも姉か、妹か」とひそかにおもい、また、「わたしのふるさとは、ここから三里ばかりの地ときく」と、その恋しさに袖(そで)をぬらした。そこへ、「ことし練馬家が滅亡し、一族郎党はことごとくうたれた」とつたえきいた。浜路の悲しみはいっそうふかまった。
「すると、わたしのまことの親同胞はうたれたのか。もしそうなら、とむらうことのできぬわたしは、どうしたらよいのだろう」と、また涙をながした。「このなやみを信乃さまにうちあけましょう。まことの親の名まえも、その消息も知っておられるかもしれないから」と、その機会をまった。
ある日、信乃はひとり部屋にこもって、『訓閲集(くんえつしゅう)』をよんでいた。浜路は、いまこそとしのび足で信乃の部屋の前まできた。声をかけようとしたとき、だれやらあわただしく来るものがいた。浜路は、いそいで走りさった。
信乃は、足音にたちあがり、むかえようとした。襖(ふすま)があき、亀篠が顔をだし、
「信乃よ。おまえも知っているように、糠助(ぬかすけ)おやじが長い病い、それがきのうきょうはあぶなく、薬湯ものどをとおらないそうだ。おまえの家は、となりだったので、したしくしていたろう。おまえにあいたいというから、顔をだしてくるといい。葬式のことか、医師の薬代のことだろう。はやくいくがいい」といった。
信乃はおどろき、
「それは、大事だ。さきに安否(あんぴ)をきいたときは、そのようにはおもわなかったが。いずれにしても、六十をこえた老人。いって見舞いましょう」といって刀をもち、かけていった。
亀篠は、納戸(なんど)のほうにと足をむけた。糠助は、信乃になにをつげたいのか。
犬塚信乃戌孝(いぬづかしのもりたか)は、伯母婿(おばむこ)大塚蟇六(ひきろく)の家にうつってから、不機嫌なようすで日々をすごしてきた。里びとにたいしてもそうだ。ただ、ふるいなじみの百姓糠助とはうちとけた。亀篠(かめざさ)も糠助とのまじわりにはこころをゆるした。糠助を、おろかなものとあなどってのことだ。糠助は、信乃の話相手にはならないが、その人柄は素朴で、すべてにおろかなりにまごころはある。信乃も、その朴訥(ぼくとつ)さがすきだ。
糠助の女房も、去年の秋になくなった。ながく病床にあったが、貧しいので薬代もつづかなかった。このとき信乃は、糠助にひそかに小判一両をあたえた。むろん薬代である。蟇六夫婦はそれを知らない。信乃がこの小判を所持していたのには、わけがある。番作(ばんさく)の死後、信乃が父の遺品を整理していると、鎧櫃(よろいびつ)の底から小判十両が出てきた。それには遺書がそえてあった。
この金三つのうち、一つをもって、わたしの葬(とむら)い代とせよ。その他は、ひそかにしまいおき、身のため友のためについやせ。
というのである。信乃は、父の恩情に泣き、そっと袖(そで)にかくしておいた。
番作の葬いのとき、亀篠は、「信乃、たくわえがあるのかい?」ときいた。信乃は、三両をだして、それにあてた。また、番作の三十五日をとむらった宵(よい)にも、亀篠に一両わたした。
蟇六・亀篠は、「まだあるだろう」といった。信乃は、もうこれでなくなりました、とこたえた。蟇六は、四両もあったことがふしぎらしく、そうだろうといったきり、あとは、きかなかった。
こうして七、八年すぎた。信乃は、古着をきせられたが、美味美服をのぞまないので、小判をへらすことはなかった。糠助のために小判一枚つかうことを、おしいとはおもわなかった。糠助夫婦は、感涙し、信乃をふしおがんだ。その金で薬をもとめたが、女房はなくなったのだ。
ことしの七月のころから、糠助もやみ、床(とこ)から頭もあがらぬありさまだ。糠助が流行病(はやりやまい)というので、感染をおそれて、だれもよりつかなかった。
信乃は、しのびしのび糠助の家にいき薬湯をせんじ、食事の箸(はし)をすすめた。
信乃は暇(いとま)がないときは、額蔵(がくぞう)にもひそかに看病してもらった。
亀篠が、「糠助が、死にそうだよ」と、信乃につげた。信乃はかけつけた。糠助のおとろえははげしい。
信乃は、枕もとに膝(ひざ)をすすめ、
「糠助おじさん。気分は、どうです? 信乃がきました」といった。
糠助はおきようとしたが、そのちからもなく、さも苦しそうに、
「信乃さん、よくきてくれましたね。いつも親切にしてもらっているのに、なにもむくいることもせず、別れなければならなくなったね。わたしはことし六十一歳、女房には死におくれてしまいました。たくわえもなく、親類もないので気安いが、ただこころにかかることが、ひとつあるのです」といった。苦しそうだ。
信乃は、薬湯をすすめた糠助はのどをうるおし、
「こころにかかることとは、わたしの子のことです。わたしはもと安房(あわ)の国、須崎(すさき)あたりの百姓でした。田畑と漁で世をわたっていましたが、長禄(ちょうろく)三年十月のすえ、さきの女房に男子がうまれ、玄吉(げんきち)と名づけました。女房は産後の肥立(ひだ)ちがわるく、乳もとぼしかったので、赤子もやみつき、わたしは女房の看病、赤子の介抱(かいほう)、田畑、網ひきが手につかず、二年もはたらかなかったので、家のもののおおかたは売りつくし、女房もなくなったのです。あとにのこったのは借銭(しゃくせん)と二歳になる幼児(おさなご)でした」
糠助はここでおおきく、ひといきついた。
「わたし一人では、そだてることができず、どなたかやしなってくださる人はいないか、と乳をもらってあるきながら念じました。
だが、赤子はやっとそだっているので、やせほそり、まるで餓鬼(がき)のようでした。それに、養育銭(やしないぜに)もないので、思案のすえ、洲崎の浦に霊地(れいち)として知られる役行者(えんのぎょうじゃ)の石窟(いわむろ)をひそかにたずねたのです。
ここは、殺生禁断(せっしょうきんだん)のところなので、たくさんの魚があつまっているのです。ここに網をうてば、一夕(ひととき)で、数貫の銭をえることができるとおもって、赤子を隣家にあずけ、夜にまぎれて、舟を出したのです。それがたびたびかさなり、ついには人に知られて、たちまちとらえられ、国守の館(やかた)にひかれ、牢にいれられました。
すでに、いのちのないものとあきらめていましたが、その年の秋、国守里見義実(さとみよしざね)どのの奥方五十子(いさらご)さま、息女伏姫(ふせひめ)さまの三回忌にあたり、罪びとに大赦(たいしゃ)がおこなわれ、わたしも死罪をのがれ、領外追放となったのでした。
それからわたしは、玄吉とともに上総(かずさ)をすぎ、下総(しもふさ)の行徳(ぎょうとく)までたどりつきました。飢え、つかれ、いきだおれとなるばかりでした。しかし、いきだおれて恥をさらすより、親子ともども死ぬほうがいい、と橋の欄(らん)干(かん)に足をかけ、とびこもうとすると、一人の武士にだきとめられてしまったのです。
その人にとわれるまま、すべてをかたりました。
その人は、おまえはもとからの悪人ではない。わしは、鎌倉どの(足利成氏(あしかがなりうじ))の御内(みうち)にて、小禄(しょうろく)のものだが、いささかこころざしがあるものだ。わしは四十をすぎたが、まだ子どもがいない。妻女とともに子をさずかるよう、神仏に念じたが、子はうまれぬ。おまえは子をもちながら、親子とも死ぬという。それなら、その子をわしにくれぬか、といわれたのです。
そのときのかたじけなさに涙があふれてきました。わたしは、よろこんで承知しました。
その武士は、わしは殿の使いで、安房の里見どのの館にまいる途中だ。この幼児をつれていくことはできぬ。このあたりに、わしの定宿(じょうやど)がある。その宿のおやじにたのんで幼児をあずけておき、鎌倉にもどり妻にも連絡をとって近いうちにむかえにまいろう。その幼児は、やつれているな。武蔵の国の神奈川に、小児五疳(かん)の妙薬がある。これをのませよう、といわれ、また、『わしはなおざりにはそだてぬつもりだ。きょうからは、安心するがいい。こころざしがあるなら、それをはたされることだ』と、その人は、さとしてくれました。さらに路費にせよ、飢えをしのげよと、二分金二粒(つぶ)とともに、腰につけた弁当もくださいました。
わたしは、それらをいただき、玄吉をわたしました。
わたしは、そのうしろ姿をみおくりました。うれしさと悲しさとがいっしょでした。
これが親子一生のわかれかと涙がながれ出ました。その養い親の名もきかず、わたしも名のりませんでした。それからわたしは行徳浜から船にのり、江戸にでて、すこしばかり知っている人があるので、ここ大塚にきて、農家に奉公することになりました。その冬に、信乃さんがうまれたのです。
そのあくる年、わたしのこの家の前にすんでいた籾(もみ)七(しち)さんがなくなられたので、その貧乏後家(ごけ)の入婿となったものの、米もじゅうぶんにはおさめられず、ひとからはののしられても、腹もたてずに十八年になりました。その間こころにかかるのは、玄吉のことでした。
このことは、女房にもはなしませんでした。それを、いま信乃さんにはなすのは、信乃さんが信義の人だからです。こうかたっても、風をおい、影をとらえるよりはかないわが子のことで、知るすべもありません。
鎌倉のまえの管領家(持氏・成氏)は、番作どのの主家すじではありませんか。そうするとまた成氏さまは両管領、山内顕定(やまのうちあきさだ)どの、扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)どのと不和で、鎌倉から滸我(こが)にうつられたが、そこもおわれ、いま千葉の城におられるとききました。わたしの子玄吉も、その養い親とともに、下総の千葉にいるのでしょうか。
信乃さんが、もし滸我どの(成氏のこと)のところにおいでになられるようなことがあったなら、こころにとめて、さがしてください。玄吉がまことの親のいることを知らなければしかたがありませんが……。
玄吉の面影をはなしましょう。
玄吉はうまれながらに右のほおに痣(あざ)があり、ボタンの花のかたちをしていました。また玄吉は、うまれた七夜にその祝いをしようと、わたしがつってきたタイに庖丁(ほうちょう)をいれると、魚のなかから珠(たま)がでてきて、文字のようなものが見えたのでした。それは、信(しん)の文字だというそうです。で、玄吉の《へそ》の緒とともに、まもり袋におさめ、
長禄三年十月二十日誕生す。安房の住人糠助が
一子、玄吉が初毛臍緒(うぶげほぞのお)、ならびに感得秘蔵の珠
と女房がしるしました。むろん、釘(くぎ)のおれたような、まがりなりによめるほどの文字です。それを、いまももっていますかどうか。
こうもうしあげて、わたしはすがすがしい気持ちになりました。わたしの死のま近に、こうまでいうことができました」といって、しきりに涙をながした。
信乃は、玄吉の痣のこと、珠のことをきき、自分の身のうえとおもいあわせて、感嘆した。
「糠助おじさん。よくわかりました。きょう、はじめて身の上をきき、玄吉さんとわたしの身のうえと似ているのにおどろきました。過世(すぐるよ)のちぎりとおもわれます。まだ見ぬ兄のような気がするのです。おりをみて下総にまいり、その家をたずねます。養い親の姓名がわからずとも、痣、信の字の珠などがあきらかなので、めぐりあうこともあるとしんじます。このことを念じられて薬をのみ、よくなってください。ひとたび約束したことは、はたしますから、こころをやすめるように」といい、なおなぐさめて蟇六の家にもどった。
その夜、そっと額蔵だけに糠助の話をきかせた。
額蔵はおどろき、
「その人は、われらのなかまだ。自由なからだならいますぐにでも、そこにおもむきたいものだ」といってわかれた。
その翌朝、糠助が死んだ。信乃は、蟇六に永楽銭七百文をわたし、棺(ひつぎ)をつくらせた。糠助の家の売却がすめばそれをかえしてもらい、のこった銭は、糠助夫婦の永代供養(えいたいくよう)として、寺におさめるかんがえである。
これが蟇六の手でおこなわれたと里びとはおもって、蟇六をほめた。
話はかわる。
管領家の浪人に、網乾左母二郎(あぼしさもじろう)というものがいた。近ごろまで扇谷修理太夫(しゅりだゆう)定正につかえていたのだ。小才がきき、佞弁(ねいべん)の人物なので、ひとにながくは信用されず、友人にうったえられ、ついに追放された。両親ともはやくなくなり妻子もないので、遠縁をたより大塚にきて、糠助の古家をかってすまった。
左母二郎は、ことし二十五歳になり、色白く、眉(まゆ)ひいでたる美男だ。書もうまく、遊芸は、今様のざれうた、小鼓(こづつみ)、一夜切(ひとよぎり)など、ひととおりできた。
犬塚番作のなくなったあと、手習いの師匠がいないので、子どもをあつめておしえ、女の子には歌舞・今様うたをおしえた。弟子たちがたくさんきた。そうしているうちに、こっちの娘、あっちの後家と、あだなうわさがたった。
亀篠は歌舞をこのむ女なので、左母二郎を蟇六にとりなした。で、蟇六は左母二郎を追放しなかった。
その年のすえ、城主大石兵衛尉(おおいしひょうえのじょう)の陣代、簸上蛇太夫(ひかみじゃだゆう)というものがなくなった。
つぎの年、五月ごろ、蛇太夫の嫡男(ちゃくなん)簸上宮六(きゅうろく)が、亡父のあとをつぎ、新陣代となった。下役の軍木五倍二(ぬるでごばいじ)・卒川菴八(いさがわいおはち)らに、若党・奴僕(しもべ)をしたがえ、あっちこっちを巡視する旅に出た。
大塚の郷(さと)にきたときは、村長の蟇六の家にとまった。蟇六は、はやくから新陣代一行来宅の準備にかかっていた。盛大な饗宴(きょうえん)がはられた。その日は庚申(こうしん)なので、亀篠は蟇六にすすめて、網乾左母二郎(あぼしさもじろう)をまねいて、歌曲の遊楽(あそび)をもよおした。娘浜路(はまじ)には、ことさらはでな羅衣(うすぎぬ)をきせて、なにげなく、その席にいれ、あるいは酌をさせたり、また筑紫琴(つくしごと)をかなでさせたりした。
左母二郎は、《ざれうた》をうたった。浜路はこのような席で、見知らぬ人びとになれなれしく声をかけたり、それに網乾(あぼし)のような男と膝をならべて、自分のつたない絃(いと)のしらべをひとの前できかせることなどきらいだ。信乃にきかれたら、なおのことだ。だが、親とあらそうことはさけた。
一曲がおわった。陣代の簸上宮六は、酒によい、
「まこと、こよいのもてなしに満足したが、美酒も膳(ぜん)も、娘御(ご)の一曲には遠くおよばぬ。玄のまた玄。玄賓僧都(げんびんそうず)もこれをきいたなら、仏心をわすれ堕落するだろう。妙のまた妙。妙音天女(みょういんてんにょ)も撥(ばち)をなげすてるだろう。ありがたい音楽。おもしろい音楽」とだみ声でいった。玄賓僧都は、謡曲「三輪(みわ)」で知られる僧だ。浜路は腹だたしさに、そこにいることをきらい、ひそかに座をさった。
左母二郎は、管領家の浪人だが、宮六らは、鎌倉に在番したことがないので、たがいに知らないらしい。左母二郎は、ときどき警句などをはき、一座をわらわせたり、宮六を、殿といったり、檀那(だんな)といったり、また、蟇六を大人(たいじん)、亀篠を奥方、給仕の女を姉(あね)さま、下男を先生と称したりした。これは、軽薄もののならいだ。如才(じょさい)ないという人もいるが。
信乃は、ひとり自分の部屋にこもって、兵書をよんでいた。その宴にくわわらなくても、蟇六はすてておいた。むろん、陣代にも信乃のことはひとこともしゃべらぬ。
もう、夜明けである。蟇六は、宮六らに朝飯をすすめたが、二日酔いなので、それぞれなにも食わず、これから巡視と、みな出立(しゅったつ)していった。蟇六は、村はずれまでみおくった。
亀篠は、左母二郎がはやくから浜路を見て、こいこがれており、人目をしのんで恋文などをわたそうとしたが、浜路にことわられたことを知っていた。それ以来浜路は、左母二郎がくると姿をかくした。それなのに、宮六らが止宿した夜、給仕をさせられたり、左母二郎と琴を演奏したりさせられたことをなげいた。
左母二郎は、鎌倉武士の浪人とかで、美男だ。亀篠は、左母二郎の身の上をきいている。鎌倉にいたころは、食禄五百貫をもらい、筆頭近習(きんじゅう)で殿にかわいがられた。出世頭(しゅっせがしら)なので、なかまからねたまれ、暇をこうた。近く召しかえされるので、それまでしばし、この里にすんでいるのだという。
それがほんとうなら、遠からず帰参するだろう。そして、管領家の出頭人(きれもの)となる。それからでは浜路の婿になってくれることはむずかしくなる。いまから約束しておかなくては、と亀篠はおもった。だが、親のこころ子知らずで、浜路は、ただひたすら信乃を夫とおもって、婚礼の日をまっているのだ。
左母二郎は美男で読み書きもでき、遊芸もじょうずだ。粋人(すいじん)だ。それは信乃などとくらべることのできないほどだ。大年増(おおどしま)のわたしでも、夫がいなければこころをよせたろう。浜路の婿には左母二郎をおいて、ほかの男はいない、と亀篠はおもっていた。里びとがあざわらっても、しばしば左母二郎を家にまねいた。
左母二郎も、いつか浜路を手にいれようと、まねかれるとすぐに出むいた。蟇六も、左母二郎の腰のひくいのが気にいった。左母二郎は、鎌倉のしゃれものである。
陣代の簸上宮六(ひかみきゅうろく)は、村長蟇六(ひきろく)の娘浜路をみそめてから、恋れんの欲火がもえ、ねてもさめてもわすれられなかった。下役の軍木五倍二(ぬるでごばいじ)は、宮六のぼけようからさっし、
「人におもいがあると、顔に出るものです。顔に出れば、ひとの知るところとなります。わたしは陣代の顔色によってわかりました。その相手は、蟇六(ひきろく)の娘浜路でしょう。手のとどかぬなになにさまの姫上ならあきらめなさいといいますが、陣代どのの配下の一村長(むらおさ)、その娘ならば、心配することはありません。もし妻女にほしいといわれるなら、わたしが仲だちしましょう。このことをつたえたなら、蟇六もよろこんで承知するでしょう。陣代どの、どうなさいます?」とささやくと、宮六はわらって、
「さっしのとおりだ。浜路は、蟇六のひとり娘だ。それに、すでに婿(むこ)の予定のものがいるそうだ。たやすくは承知すまい。それで、わしもおもいなやんでいるのさ」というと、五倍二は、膝(ひざ)をよせて、
「陣代どの、それは遠慮というものですぞ。蟇六は配下のもの、たおすもおこすも、陣代どののこころのままではありませんか。婿になる予定のものがいても、たちまちこころがわりして、こちらと婚約をむすぶでしょう。蟇六がまようようなら、大塚の家も自滅するというもの。わたしは、この手で納得させるかんがえ。安心しておまかせください」と、自信をもっていった。
宮六のよろこびはたいへんなもので、あくる日、さまざまの贈物(おくりもの)を、七、八人の奴僕(しもべ)にかつがせ、軍木(ぬるで)五倍二を仲だちとして、ひそかに蟇六の屋敷につかわした。五倍二は蟇六にあい、簸上宮六懇望(こんぼう)の婚約の次第をのべた。蟇六は、その説得にこたえられず、
「女房と相談のうえ、ご返事します」といってしりぞいたが、半刻(はんとき)あまりでようやく出てきて、五倍二にいった。
「お仲だちのおもむきを女房にもつたえました。まことに、おもいがけぬ簸上どのからの縁談、しかもご丁重(ていちょう)なる仲だちをいただき、親子ともども幸せでございます。しかし、この良縁に、一つの難儀があります。犬塚信乃(いぬづかしの)というものは女房亀篠(かめざさ)の甥(おい)にあたり、しかじかのことで幼いときから養いおり、浜路と養子あわせとなし、職禄(しょくろく)をゆずろうと約束したのです。これにはたくさんの証人もおります。じつは、信乃を婿にすることはてまえ夫婦のねがいでもなく、また浜路の気持ちでもないのです。ただ、里びとの《ひいき》ゆえに、やむをえなかったのです。そのような事情で、信乃を遠ざけてから、そのあとにおこたえいたします」というと、五倍二はせせらわらって、
「その答えは、おかしいぞ。そのような婿の話があっても、陣代簸上どのとの婚縁をむすぼうとおもうなら、承知してからのちに、その婿を遠ざけるのが順序というものだ。わしは不肖(ふしょう)ではあるが、当城の属官だ。陣代の仲だちとしてきて、《うろん》な返答ではつたえることができぬ。まよっているのではない。ここで決着をつけることだ」とおどかされ、蟇六は、たちまち顔面蒼白(がんめんそうはく)となり、歯がふるえ、こたえようとするが、こたえられない。ようやくわれにかえって、おもわずため息をつき、
「軍木(ぬるで)さまのお話、ごもっともでございます。てまえはおろかものですが、これは二度とない娘の良縁、どうしておことわりできましょう。ただ、そのさしさわりがあることをもうしあげたまででございます。そのさしさわりを穏便(おんびん)にのぞくことは、たやすいことではありません。これは親子のためのみならず、あとあとまで簸上さまのおためにはなりません。苦心してとりのぞきましょう。そのときまで、婚礼のことを秘密にしておいていただけるなら、この良縁おうけいたします」とこたえた。
五倍二はわらって、
「それは承知した。さっそくの承諾で、わたしの面目もたった。あまりに早急におもわれるが、吉日なので、陣代どのからの贈物をおうけとりなさい」といって目録をわたし、そとにいる若党らにあいずした。
若党どもは、さまざまの品物をはこびいれ、縁側につみあげた。蟇六は、不安はあるが、受書(うけしょ)をしたためて、五倍二にわたした。蟇六は、「よろこびの盃(さかずき)など」とすすめたが、五倍二は、
「いや、さしさわりをとりのぞかないで、よろこびの酒で時をすごしては、たちまち知れてしまうだろう。陣代どのも首をながくしておまちであろう。よろこびの盃は、しばらくあとのことにして、たちもどろう」と身をおこすと、蟇六もそれをとめずに、
「ごもっともです。それなら、またのご来臨まで、おあずかりいたします」とさきにたち、玄関までみおくり、板敷に両手をつき、「まことにめでたいことです」といった。
五倍二は、扇(おうぎ)をひらき風をおくりながら、供のものたちと去った。
蟇六は、そのまま座敷にはいると、たちぎきしていた亀篠が、襖(ふすま)をひらき、贈物をあごでかぞえて微笑し、「ああ、めでたい結納(ゆいのう)だね」といった。
蟇六は手をふり、「これっ、声が高い。ひとにきかれるぞ。浜路と信乃らに知られるな。この品じなに大ぶろしきをかけて、おまえが張番するのだ。おれは、土蔵にはこびこむからさ」
はやくはやくとあわてて、亀篠は大ぶろしきをたくさんもってきた。白銀(しろがね)二十枚、それに巻衣(まきぎぬ)が五本ある。
「綾(あや)か、錦(にしき)か」と見るまもない。人目をしのんで、夫婦で土蔵におさめた。下男・下女どもは、夏の昼寝だ。浜路は納戸(なんど)に一人おり、信乃は寺に出かけたままだ。ただ額蔵(がくぞう)のことはわからない。品物をはこんでから見てみると、客間のつぎの部屋で、額蔵は単衣(ひとえ)の襟(えり)をひろげてノミをとっていた。
その夜、蟇六(ひきろく)夫婦は臥房(ふしど)にはいって、寝ものがたりに、縁談のことをささやいた。信乃をころす方法だ。
亀篠が、はらばいとなり、
「このようなめでたいことがあるとは、わたしもおもわなかったよ。わたしはあの網乾左母二郎(あぼしさもじろう)は、管領家につかえていたときは出頭人(きれもの)ときき、また近く帰参がかなうと本人がいったので、浜路の婿にどうかとおもっていたのだよ。左母二郎の浜路をみる目には情がある。こうなると、左母二郎も、さわりの一つになったね」と、舌をならした。
蟇六はおきなおり、手をくみ、
「つくづくかんがえると、浜路はいまの女の子に似ず、ぞくにいう馬鹿正直。信乃を夫とおもって、貞操(みさお)をたてるかもしれぬ。たとえ左母二郎が袖(そで)をひいても、気持ちをうつすことなどないだろう。それともあの二人になにかあるとおもうかい?」と、ひそかにきいた。亀篠は首をふり、
「いや、網乾が情をよせても、浜路は相手にしないよ。信乃とはどうもありそうだね。去年の秋、糠助(ぬかすけ)が死にそうになったころ、信乃の座敷から浜路があわただしく出てくるのを、ちらっとみましたよ。それから注意しているので、よらないようだが。それ以前には野合(ころびあい)でもしたかね。とにかく、信乃一人がじゃまになるのさ」というと、蟇六はため息をつき、
「里びとどもが口やかましいので、当座のがれに、おもわず浜路を信乃の女房とするといってしまったくやしさ。それにつけても、陣代のさいそくをどうしよう。信乃を殺す手だてはないか」と眉をよせ、しばらく思案した。
蚊帳(かや)にとりついている蚊(か)の羽音とともに、遠くの寺の鐘の音がきこえた。三つ、四つ、六つ、七つ、と夜は九つになった。蟇六は頭をあげ、
「亀篠、いい思案ができたぞ」とその耳もとで、「信乃は思慮のある男だ。うまくはからないと失敗する。そもそも、さきの管領足利成氏(あしかがなりうじ)朝臣は番作・信乃の主家すじだ。このことを頭にいれてはかりごとをたてよう。その成氏朝臣は持氏の子にあたり、結城落城のあとうたれた春王・安王の舎弟(おとうと)で、永寿王(えいじゅおう)と称されていたころ、宝徳(ほうとく)四年(一四五二年)春、京都将軍のゆるしをえて、鎌倉にたちかえり、六代の管領となられた。その重臣、摂管領扇谷持朝(せっかんれいおうぎがやつもちとも)どの、山内顕房(やまのうちあきふさ)どのと仲がわるく、そのため、君臣相せめることになった。享徳(きょうとく)四年(一四五五年)六月十三日、成氏はついに、鎌倉の御所に放火され、下総(しもふさ)の国におもむき、猿島郡滸我(さるしまのこおりこが)の熊浦(くまうら)というところに屋形(やかた)を修理し、ここにうつりすまわれた。滸我の御所という。
だが、文明四年には、成氏朝臣は、山内顕定(あきさだ)どのに滸我の城をせめおとされ、同国千葉に逃亡、千葉陸奥(かみちばむつの)守(かみ)康胤(やすたね)をたよった。それが文明十年のことし、両管領と和睦(わぼく)がととのって、滸我にかえられた。これは、おまえも知っていることだ。ここに注目して信乃をしかじかこうこうとあざむき、神宮川(かにわがわ)にさそいだすのさ。
亀篠。おまえはあした、昼のあいだにひそかに左母二郎の家にいって、こうこうするのだ。このはかりごとがすめば、あの《村雨》の宝刀はこっちのものさ。むろん、これとて苦肉の一計だ。むずかしいことだが、こうしなければ手ごわいやつをだませまい。
宝刀がおれの手にはいったなら、額蔵にもしかじかと話をし、信乃をころさせるのさ。これがうまくいったなら、浜路を陣代に嫁いりさせるとき、左母二郎にかたるといい。左母二郎め、もし狂ってさまたげるなら、簸上どのにうったえて、からめとってもらうまでよ。ただむずかしいのは信乃のことさ。かならず失敗するな」と、ひそひそかたると、亀篠は感心し、
「ほんとうにあぶないわざだね。だが、おまえさんは若いときから泳ぎは達者だよ。歳をとっておとろえてもきただろうが、そこはまた船頭に賄賂(わいろ)をやって、そのたすけをえればあやまちもないさ。網乾(あぼし)をはかることはわたしがするさ。もういいなさんな。こころえたからさ。これで、ようやく安心というもの。陣代を婿にすれば、村のものたちもいいなりよ。これは城主もおなじこと。楽しみだね」とほくそえんだ。
もう夏の夜はあける。欲につかれきって、蟇六も亀篠もいつしかまどろみにはいった。
つぎの日、亀篠は不動堂(ふどうどう)にまいるといって、ひとり背戸(せど)から出て、ひそかに網乾左母二郎(あぼしさもじろう)の家にいった。そとからのぞいてみると、手習いの子どもたちはかえり、歌曲の弟子たちはまだこない。左母二郎は柱にもたれて、一節切(ひとよぎり)をふいていた。
ちょうどよいところだ、と亀篠はすすみでた。左母二郎は気がついて、笛をやめて、
「これはめずらしい。なんの風のふきよせか、おいでになられるとは。まあこちらに」とむかえ、花莚(はなむしろ)をしき、上座(かみざ)をすすめた。亀篠は、わらって、
「いや、他人ではつたえるのがむずかしい話があれこれあってね。おまえさんの知恵をかりたいのさ。そとに注意しておくれ」といった。
網乾は、出居(いでい)のすだれをおろし、奥に座をすすめて、亀篠のそばによった。亀篠は、声を低くし、
「おまえさんが浜路とわけのあることを、わたしはまえから知っていたのだよ。若いときは、だれにでもあることさ。見すてることがなければ婿にえらんでもいいとまでおもっているけれど、なにしろ浜路と信乃は幼いときからしかじかのことがあって、里びとの仲だちで、いいなずけとしてしまったので、今さら反古(ほご)にはできないのさ。うちの村長(むらおさ)も、こころのなかでは、おまえさんのほうに気があるのだよ。信乃がいなければ、婿にして家をつがせよう。
信乃は女房の甥ながら、かようかようのうらみある番作の子であるので、大塚の家にはためにならない。どうにかしてあいつを遠ざけ、おまえさんを婿にと、ずうっとまえからおもっていたのよ。
それで、しかじかにはかるなら、信乃は他郷にいくだろう。ついては、信乃の幼いとき婿のしるしにとあたえた村長の秘蔵の一振(ひとふり)、世にたぐいのない名刀を、とりかえそうとおもっても、正面からいっても、かえすことはあるまい。そこで、しかじかとはかろう。おまえさんも、またしかじかにはかって、村長の刀をもって、信乃の《村雨》とすりかえてほしい。むろんこちらの一刀(ひとこし)も、長さ短さをあらかじめはかっておいて、鞘(さや)を用意するなら、あわないことはあるまい。うまくいけば、おまえさんのためにもなるのさ」と、うそをまことのようにはなした。
左母二郎はききおわると、額(ひたい)に手をあてかんがえていたが、頭をあげ、あたりを見わたし、
「これはかるがるしくは口にはできません。わたしは、娘さんに懸想(けそう)したものの、アワビの貝の片思いで、浜路どのはつれないもの。それが、わけある仲とは見当ちがいですよ。首尾よく刀をすりかえても、浜路どのの気がつよくては、わたしの骨おり損だ。これを、どうなさる?」というと亀篠は「ほほほ」とわらって、
「おまえさんにしては不粋(ぶすい)だね。信乃がいなくなったらば、浜路はだれにはばかることがあるものか。おまえさんになびくか、なびかないかは、すべておまえさんのこころひとつさ。両親(ふたおや)の知ることではないさ。親のゆるさぬ男と逃げるものも世のなかにはおおい。親が婿どのときめたあと、むつまじいのも、不和なのも、舵(かじ)をとる夫の才にあるものさ。わたしらの目にも、わけのある仲だとみえるおまえさんと浜路のこと。
いずれはひとつになるのではないかい。それでも不安かい?」といった。左母二郎は頭をかき、
「そうきけばもっともだ。あとのことはあとにして、まずはその刀のことだ。たやすいことではないが、いのちにかえてやりましょう」というと、亀篠はよろこび、さらにその日のあいず、ことの首尾、「これはしかじか、あれはかようかよう」と詳細なうちあわせをした。
おわると、亀篠はいそいで家にもどった。その首尾を蟇六につげると、蟇六もよろこび、亀篠をほめ、「こうなると、信乃をはかることはたやすい。おもしろくなってきたぜ」とほくそえんだ。
その日の夜、蟇六・亀篠は、信乃を部屋によび、
「里びとたちは、信乃と浜路をいっしょにしろとさいそくしてきているが、豊島家の滅亡で、世間はさわがしく、こころならずもおくれてしまった。ところがことしは滸我(こが)の御所成氏朝臣と両管領家との和議がととのい、千葉から熊浦に帰館なされた、ときいている。祖父匠作どのは、成氏の御舎兄(ごしゃけい)春王・安王両公達(きんだち)の近臣であった。それで番作も父とともに結城に篭城(ろうじょう)した。そうすると滸我の御所は、むろんおまえにとっては主すじにあたるが、山内・扇谷の両家と不和になり、鎌倉からおとされ、さらに滸我にすら身をおきかねて、千葉をたよった。当城主大石どのも鎌倉に出仕、両管領に屈したので、滸我どののことは、口に出していうことができなかった。
だが、ことしは和議がととのって、世間がひろくなった。大塚の家をおこすには、絶好の機会だ。
そこで、おれの年ごろのかんがえをつげるのだ。それはなにかというと、信乃の立身のためになるものは、村雨の宝刀にまさるものはない。これをもち、滸我にまいり、その由来をのべ、先祖の忠死をうったえ、その宝刀を献上(けんじょう)するなら、かならず召しだされるだろう。信乃が滸我にとどまるのなら、遠からず浜路をおくりとどけよう。また、とどまらずこの地にかえってくるなら、婿養子の披露(ひろう)をして職禄をゆずろう。そのときは、大石どのも、村長どころか、その上の陣代にでもさせるのではないか。おれも信乃によって、たちまち土地をふやせるというものだ」といった。亀篠も、
「わたしら夫婦には、男の子がいないので、信乃をたのみにしているのだよ。六月の旅はきついかもしれないが、滸我はそう遠いところではない。ほら、善はいそげというだろう。はやく出立(しゅったつ)することだよ」と、まことしやかにすすめた。
信乃は、軍木(ぬるで)五倍二が、簸上宮六のために仲だちの役をつとめ、浜路にさまざまの贈物をしたことをすでに額蔵からきいていた。いままた、亀篠・蟇六が村雨の宝刀を滸我の御所に献上せよとすすめるのは、自分の留守に浜路を宮六に嫁いりさせようとする下ごころのあること、とすぐさとった。信乃はいった。
「不肖のわたしに、こうまでいつくしみをかけてくださるのをうれしくおもいます。村雨の宝刀のことは、両公達のお形見なのでおりがあったら滸我どのに献上せよ、と親ももうしておりました。そこへおふたかたのすすめ、さっそくあした出立したいとおもいます」といった。蟇六夫婦はよろこび、
「あしたといわれても旅のしたくもあろう。それに暦(こよみ)を見て、日がらがよければ、あさってにするがいい。従者(ともびと)には背介(せすけ)か額蔵のうち、一人をつかわそう。それにしてもめでたいことだ」という。
信乃は、「かたじけない」と頭をさげ、自分の部屋にもどった。額蔵が、庭の草木に水をそそいでいた。そっとよびよせ、縁側にたって、蟇六・亀篠にいわれたことをつげた。額蔵はうなずき、
「なるほど、信乃さんを滸我に旅だたせたのち、あとで婚礼をととのえるためです。ただ痛ましいのは、浜路さんです」という。信乃はため息をつき、
「わたしとて木石(ぼくせき)ではない。女はすべて水性(すいしょう)で、よってくるのもはやいが、うつるのもはやい。わたしがここにいなくなると、親のさしずにしたがうでしょう。武士たるものは、未練たらしく女に生涯(しょうがい)をかけてはおれません。二度とない機会です。いまはただ、すてておくだけです」といった。
額蔵は、「そうでしょう」とこたえた。額蔵は庭をはきはじめ、信乃は部屋にはいった。
亀篠(かめざさ)は、脚絆(きゃはん)よ、笠(かさ)のひもよ、と信乃の旅だちの用意にかかった。浜路は亀篠のさしずで、仁田山木綿(にたやまもめん)をぬいつづけた。袖に涙がちる。
つぎの日。信乃のしたくも、おおかたととのった。亀篠は、信乃の部屋に顔をだし、
「初旅ゆえ、おもしろいことも災難もあるだろう。まず親の墓にまいり、また滝野川の弁財天(べんざいてん)にも参詣(さんけい)するとよかろう」といった。信乃は、
「はい。菩提寺には、けさまいってきました。滝野川の弁財天には母との縁もありますので、おおせのように参詣しましょう」とこたえた。亀篠は、
「いそがないと、日が暮れてしまうよ」とすすめた。
信乃は衣をあらためて、いそいで家を出た。
滝野川の弁天堂で、滝ごりで身をきよめて祈願し、帰路についた。その途中、田の畔道(あぜみち)で、おもいがけず蟇六と網乾左母二郎に出あった。そのうしろにもう一人いる。老僕背助(せすけ)が漁網をかついで供をしているのだ。蟇六が、
「信乃よ、滝野川にもうでたときいたが、やっぱりここであったな」とよびかけた。信乃は笠をとり、
「この夕方に漁猟(すなどり)ですか。どこにいかれます?」ととうた。蟇六はわらって、
「あしたは信乃の門出(かどで)だ。はなむけ酒の肴(さかな)にとおもって手配したが、魚屋にはいいものがないという。そこで、にわかに網をうち、あしたの肴をとろうとおもって、あわてて家をでると、網乾さんとあったので、さそってきたのさ。いっしょにくるがいい」と、さきにたった。左母二郎も会釈(えしゃく)した。
これが、蟇六のはかりごとだ。亀篠に信乃が滝野川にいくようにすすめさせ、そのあと蟇六は背助に漁網をかつがせ、家をでようとした。うちあわせたとおり左母二郎もつれだち、さも信乃と出あったようにしくんだ。信乃は自分のために網をうち、わかれの宴(えん)をもうけると聞き、三人の列にくわわった。蟇六は顔見知りの家で舟をかりた。船頭は土太郎(どたろう)という。蟇六は、
「背助、弁当をわすれてきた。ちょっとひと走りしてとってこい。いそげ、いそげ」といった。
背助は、「へい」とかけていった。これも、蟇六のすじがきである。
信乃・左母二郎・蟇六は舟にのった。土太郎は舟をこぎだした。蟇六は襦袢(じゅばん)一つになり、腰蓑(こしみの)をつけ、竹笠をかぶり、網をひきさげ、へさきにたった。左母二郎は茶をわかそうとちいさなかまどで火をおこしはじめた。蟇六は若いころから殺生(せっしょう)をこのんだ。網のなかに、川ブナ・スバシリなどの獲物がかかって、板子(いたご)の上で左、右とはねた。
日がくれたが、十七日の月はまだのぼらない。
そこに、興に乗じたふりの蟇六は、網もろともに水中におちた。
「たいへんだ!」
みなおどろき、板子などなげいれたが、水面が暗くなり、どこにいるのかわからない。信乃は、さすがに伯母婿(おばむこ)のおぼれるのをすててはおけず、手ばやく衣をぬぎ、波の上に身をおどらせた。船頭の土太郎も、ざんぶととびこんだ。
蟇六は、水練が達者である。しばらく水底にもぐり、ようすをうかがっていた。信乃がとびこんだのを見とどけるとたちまちうきあがり、おぼれたようにみせた。
信乃が蟇六をすくおうと手をとると、蟇六もまた信乃の腕をしかとつかまえてはなさず、深淵(ふかみ)におしこもうとはかった。そこに、土太郎がきた。これも蟇六をすくうしぐさをして、信乃をころそうとした。信乃は幼いころから水馬・水練・徒渡(かちわたり)までこころえている。足にすがりつく土太郎をけながし、蟇六を小脇にかかえ、頭をあげてみた。
舟は、遠くにおしながされている。片手で波をきり、むこうの岸におよぎついた。蟇六は、信乃にだきすくめられてうごけない。ただ水をのまないように用心するだけでひきあげられた。
ほどなく土太郎もおよぎつき、信乃は手つだわせて、蟇六をうつぶせにして水をはかせた。
小屋にはいり、藁火(わらび)でからだをあたためた。土太郎は、ながれた舟をさがしに河原を走った。
いっぽう、舟のなかに一人のこった左母二郎は、しめしあわせたように、ながれる舟のなかで、ひそかに信乃の村雨の目釘(めくぎ)をはずし、また蟇六の刀の目釘をはずし、ばらばらにしてから、これとあれをひきかえて、鞘におさめようとすると、あやしむべし、信乃の刀の中心(なかご)から水気たちまちたちのぼり、夏なお寒気をただよわせ、袖・快・膝もぬらした。左母二郎はおどろき、
「これが伝えきく、もと鎌倉管領持氏朝臣の重宝の《村雨》なのではないか? ひとたびこれをぬきはなつと、たちまち水気だち、殺気をふくみてうちふると、切っ先よりほとばしるその水、さながら村雨のこずえをあらうさまなので、村雨と名づけられたという。この信乃の刀は、村雨とそっくりだ。この霊刀(れいとう)を蟇六が信乃にあたえた、というのはいつわりで、結城にこもった信乃の父番作が、春王・安王両公達からあずかったものだ」と思案した。そして、
「そうだ。これをわたしの旧主人扇谷どのに献上したなら、わたしの帰参もできるというものだ。またひとに売ったなら、その価は千金もしよう。蟇六とてこれを見ているわけではない。宝の山にはいって、むざむざ素手でかえられるか」とひとりごとをいい、左母二郎は自分の刀の目釘をはずし、蟇六の刃(やいば)とみくらべた。反(そり)も長さも似ている。「これはうまいぞ」とよろこび、自分の刃を蟇六の鞘(さや)におさめ、また信乃の刃をとって、自分の刀の鞘におさめ、さらに蟇六の刃を信乃の刀の鞘におさめた。三振とも長短がひとしい。
そこへ、土太郎がながれる舟をおいかけてきた。岸の夏草の背は高い。それをかきわけ、「おーい、おーい」とよんだ。左母二郎は見かえり、あやしげな腰つきで、どうにか舟をよせた。土太郎はひらりとのりうつり、もとの舟着場までこぎもどった。左母二郎は陸にあがり、蟇六の安否(あんぴ)をとうた。
犬塚信乃は思慮深く、かたときも油断なくこころくばりをしていたが、蟇六の入水(じゅすい)にうまくはかられて、自分をおぼれさせようと、土太郎も一枚くわえたことはさっしたものの、舟にのこった左母二郎が、村雨の宝刀をすりかえたことには気がつかなかった。
舟がよってきたので、自分の衣をとってきて、自分の両刀を腰におびた。それも、夜中である。ぬいてみる余裕をうしなったのである。親と子が、ながい年月まもってきた村雨は、わずかのすきにひとの手にわたった。信乃には、まだ不運の神がいる。
馬琴(ばきん)いう。神宮(かにわ)村は、豊島郡、いまの王子村より北のほう十七、八町にあった。ここに川があり、神宮川という。この水上は戸田で、千住(せんじゅ)にいたりて隅田川(すみだがわ)をへて海にはいる。
神宮の西のほう豊島村の川ぞいに、豊島信盛(のぶもり)の館の跡がある。この川の南岸に尾久(おぐ)・豊島・梶原(かじわら)・堀内(ほりのうち)・十条・稲付(いなつき)・志村(しむら)などの村むらがある。だが、いまは神宮村(かにわむら)はない。梶原をなまったのである。
蟇六は水におぼれたふりをして、信乃(しの)の介抱(かいほう)をうけ、しばらくして目をひらいた。手足をうごかし、たすけおこされ、自分で脈をとり、
「ああ、おれはいきかえったようだ。あぶなかったぜ」と、かたわらの柱にすがった。信乃は、息をふきかえしたことをよろこび、いっしょに川べりの小屋を出た。土太郎(どたろう)は左母二郎(さもじろう)を舟にのせて岸についた。信乃は、いそぎ着物をきて、刀を腰にした。左母二郎は蟇六の手をとり、舟にのせた。
蟇六は、水中での苦しみをかたった。舟は岸についた。魚を魚篭(びく)にうつし、あまったものは、笹(ささ)の枝につらぬきとおし、これを青竹のまんなかにくくりつけて、信乃と左母二郎とが、それぞれ端をもった。
蟇六は腰巾着(こしぎんちゃく)から土太郎に銭(ぜに)をわたした。こよいのご苦労賃だ。土太郎も、信乃ごろしに加担した一人だ。蟇六は、土太郎とわかれ、前をいく信乃らにおいついた。青田を涼風がわたっていった。蟇六が、いった。
「こよいのことは、おれの生涯の不覚だった。亀篠(かめざさ)に知られては、あとあとまでいわれて、もう魚猟(すなどり)は禁じられるだろうさ。口外してはいけないよ」と、まことしやかにいう。
庚申塚(こうしんづか)のあたりまでくると、ふろしきづつみをせおった背助(せすけ)がきた。提灯(ちょうちん)でわかる。
蟇六が、「どうして、こうおそかったのだ?」ととうと、背助は小腰をかがめ、「弁当づくりに、時がかかりました」とこたえた。
蟇六は、目をいからし、
「あれほど女どもにいったのに、きかないのか。いまごろきて、どうなる」と立腹し、みな家にかえした。左母二郎は、自分の家にもどっていった。
蟇六は、下女をおこし、雑魚(ざこ)を肴(さかな)にして酒をのんだ。信乃もよばれた。むろん、亀篠もくわわっている。
亀篠は、「供(とも)の額蔵(がくぞう)も、よびましょう」と、額蔵もよびおこされ、その酒宴(しゅえん)は四人となった。蟇六は亀篠に、百匁(め)あまりの銀をとりださせ、路費として信乃にわたした。これも、いつもとちがうところだ。道中のこと、滸我(こが)にいってからのことなどをかたった。
夏の夜は短い。亀篠は、
「おや、もう丑満(うしみ)つ(午前二時ごろ)になったよ。すこしでもねむらないと、あしたの道中はひどいよ。はやくねることだよ」といった。信乃・額蔵はあいさつして、それぞれの部屋にもどった。蟇六は、うまく信乃を水中におびきよせたことを、亀篠にささやき、
「左母二郎に目くばせしたので、《村雨》をすりかえたはずだ。あしたまでは、まてない。見ようか」と、行灯(あんどん)をひきよせると、刀のこいぐちをゆるめて、ぬきはなった。夜目ゆえ焼刃の色はさだかでない。鞘(さや)のなかから水がしたたりおちた。
「おい。奇っ怪なこの刀、ぬきはなったときに水気があった。殺気をふくんでふると、ふりそそぐ雨とことならないという。それで《村雨》と名づけられたときいている。見るのは、いまがはじめてだ。ありがたいぞ」とほめ、そのしたたった水を幾度も額(ひたい)にぬった。
蟇六をまねて、亀篠も、「おう、もったいない」と、指先でぬぐった水は、ほかならぬ神宮(かにわ)の川水だ。
左母二郎も、奸智(かんち)にたけた男だ。自分の刃を村雨とすりかえたとき、あとで蟇六がぬき身を見ることを計算し、その鞘にすこし川水をそそぎいれたのだ。
蟇六は、村雨を鞘におさめて、
「三十年来の村雨の宝刀が、おれの手にはいった。諸願成就(しょがんじょうじゅ)」ととなえた。亀篠もまた、
「このように、おもうことはかなえられるものよ。よろこびの酒、かさねようさ」とすすめた。
蟇六は盃(さかずき)をとり、「ところで、あの密事を額蔵にいったか?」ときくと、亀篠は、
「そこにぬかりがあるものかい。宵(よい)のうち、信乃らのいぬまに額蔵をよびよせ、しかじかときかせ、こうこうとすじだてしておいたのさ。そいつを真(ま)にうけて、承知しましたといったよ。運というものは、いっしょにやってくるものだね。もし額蔵が信乃にころされても村雨はこっちのもの、おまえさんは、損をすることはないさね。そうだろう?」と、あごをよせていう。
蟇六は、「ほんとうにそうだ。村雨は、おれの手に。信乃は、おいだす。そのうえ、額蔵が信乃をころす。それがうちそんじても、こっちにはかかわりねえ。額蔵が殺されても、信乃が殺されても、二人は仲がよくないから、それで殺されたってことになるのだ」と、舌をうちながらの酒である。
「おまえも、どうだ?」と、亀篠にもすすめる。
盃をかさねるうち、ついには茶碗(ちゃわん)になみなみとつぎ、ひとのみする。それから二人、臥房(ふしど)にはいり、高いびきである。
いっぽう、信乃もまた、臥房にはいったものの、ねむれなかった。父母の墓から遠ざかることをおしんでいた。浜路(はまじ)もまた、一人おもっていたが、蟇六・亀篠がいびきをたてるのをきき、そっとぬけだし、ひそかに信乃の部屋の前にきた。胸のうちのうらみをいいたいのだ。
信乃はしのび足を耳にし、刀をひきよせ、がばとおき、「だれだ?」ととうたが、返事はない。
「さては、わたしの寝息をうかがい、さしころすつもりか」と、つぶやき、行灯(あんどん)の火口(ひぐち)をさしむけた。
浜路が、うかびでた。すでにふし、声をのんで泣いている。信乃も、さわぐ胸をしずめ、蚊帳(かや)を出、釣緒(つりお)をとき、ふとんをかたよせて、
「浜路さんではありませんか。このような夜ふけに、なんの用でまいられたのですか」ととがめると、浜路はうらめしげに、涙をぬぐって顔をあげ、
「なにしにきたとは、よそよそしいではありませんか。夫婦とは名ばかりなので無理はありませんが、いったんは親の口からゆるされた夫婦でしょう。日ごろはともかく、今宵(こよい)かぎりのわかれと、あなたのほうからおっしゃられても恥にならないのに、おでかけになるまで知らぬ顔で、ただひとことのおことばもかけてくださらないのはなさけない」とうらみつらみをいう。
信乃はため息をつき、
「わたしとて、木石(ぼくせき)ではない。わたしは、さまざまの嫌忌(けんき)のなかに身をおいているのだ。それで、つげるにも手だてがない。そなたの気持ちを、わたしは知っている。わたしの胸のなかも、そなたは知っているでしょう。滸我(こが)は、わずか十六里。三、四日あれば、往復できるのです。その日まで、まってほしい」というと、浜路は目をぬぐい、
「それはうそです。ひとたびここを出られたなら、もうかえってこないのでしょう。そだての両親(ふたおや)はあなたをじゃまにおもっているので、このたびの旅だちも、出してはやっても、かえってくることをねがっていません。出ていくあなたも、とどまることをのぞんでいません。そうなれば、ひとたび出ていくと、いつの日かえられるのか、わからないでしょう。
わたしの親は、四人おります。それは、あなたも知っているでしょう。しかし、いまの親は、それをうちあけてはくれません。わずかにつたえきいたところによりますと、まことの親は練馬の家臣、同胞(はらから)もあるのだそうです。むろん、名まえもわかりません。
養育してくれた両親の恩義もかんじてはおりますが、生みの親の恩も深いとおもっています。どうしたなら実の親のことがわかるのかとおもっても、女には手だてがありません。
そこへ、去年の四月におもいがけず、豊島・練馬両家の滅亡、そして、その一族郎党がみなうたれたとの風聞を耳にしました。それではわたしの親兄妹もおなじ運命かとおもいますと、さらに悲しく、やるせなくなってきます。このせつなさをあなたにうちあけようと、たくさんの人の目をさけ、部屋をたずねようとしたのですが、はやくも母御(ご)にみつかり、おあいできずにしりぞいたのは、去年の七月のことでした。
それからあとは朝な夕な、あなたがつつがなく、世にお出になられ、ご立派になられますよう、いのらぬ日はございません。
でも、わたしの辛抱(しんぼう)にもかぎりがあります。わたしをすてるのは、伯母御への義理からですか。わたしがおもう百分の一でも、あなたにまことがあるのなら、いつかえるかわからぬ、しのんで出よう、かけおちしよう、となぜいってくださらないのです。だれも密夫(みっぷ)とおもうものですか。つれないと一人おもうなど、はなれがたいのは女のまこと、すてられるよりは、あなたの刃(やいば)にかけてください。百年(ももとせ)ののち冥土(めいど)でおまちしています」とかきくどく。
浜路のうらみのかずかずが、その唇からほとばしる。袖(そで)には涙があふれている。信乃は、その声がそとにもれることが気にもなる。信乃は、手を膝(ひざ)においた。
「浜路。そなたのうらみは、そのとおりだ。だが、どうしようもないのだ。わたしのこのたびの旅だちは、伯母夫婦のさしずだ。わたしを遠ざけて、そなたに婿(むこ)をとるためだ。もとより、わたしはそなたのためには夫にして夫ではない。いまわたしが、そなたの情(なさけ)にひかれて、そなたとかけおちしたなら、だれでもわたしたちを淫奔(いたずら)ものというだろう。ここにとどまってほしいのは、わたしのためになるからだ。去っていくのも、そなたのためなのだ。たとえしばらくわかれても、たがいにこころが変わらなければ、やがていっしょになるときがくる。親たちが目をさまさぬうちに、自分の臥房(ふしど)にもどりなさい。また、そなたの親もたずねるつもりだ。はやく、もどりなさい」と信乃がいっても、浜路はたちもせず、首をふり、
「あなたの部屋に、こんな夜ふけにきましたのは、覚悟をしてのことです。両親がとがめてもかまいません。ただいっしょにいこうと、あなたの答えをきかないでは生きて敷居(しきい)のそとにでませぬ。殺してください」と、つきつめた表情の浜路はすこしも立とうとしないので、信乃もほとほとこまり、しのび声だがきつく、
「なんとききわけのない。いのちがあれば、よい時もあるものだ。死ぬことだけが人のまことではない。たまたま伯母夫婦のゆるしをえた出世の門出(かどで)、さまたげるようなら、わたしの妻ではない。前世(さきつよ)からの仇(あだ)になるぞ」とたしなめた。
浜路は、よよと泣きしずみ、
「わたしのねがいをとげようとすると、あなたの仇になるときいては、もうしかたがありません。わたしはしたう気持ちをたち、ここにとどまりましょう。そうなら道中つつがなく、烈(はげ)しい日にもまけずに、滸我(こが)にまいられて、名をあげ、家をおこしてください。風のたよりで知らせてください。これが、この世のわかれのようにおもわれます。たのみとするのは、まだ見ぬ冥土だけです。二世のちぎり、おこころがわりをなさいますな」という。
おとめごころのあわれさが信乃の胸をうつ。なぐさめることばもない。ニワトリが暁(あかつき)をつげた。信乃は、
「奥の両親が目をさますぞ。はやく、はやく」といそがせた。浜路はようやく立ち、
「天(よ)も明(あけ)ば狐(きつ)に啖(はめ)なん腐鶏(くだかけ)の
未明(まだき)に鳴(なき)てせなを遣(やり)つつ……
これは、旅ゆく妹背(いもせ)のわかれの気持ちです。ニワトリが鳴かなければ、夜もあけませぬ。あけなければ、人も目をさましません。うらめしいニワトリの声です」とくちずさんで、出ようとすると、部屋のそとで咳(せき)ばらいして、障子をほとほととたたき、
「ニワトリがなきました。まだ目がさめませんか」と、額蔵の声がした。信乃はあわてて、「もう、おきています」とこたえた。額蔵は、さった。
浜路は、まぶたを泣きはらして、臥房にもどった。死に別れより生き別れほど悲しいものはない。いまだ夫婦のちぎりをもたないが、その情は百年の夫婦よりもこい。信乃は、その情におぼれることなく、こころざしをつらぬこうとする。
この暁天(あさ)、額蔵ははやくからおきて、食膳の用意をして、信乃にすすめた。旅だちのしたくをととのえると、下男・下女たちもおきてきた。蟇六・亀篠は二日酔いで、まだ臥房を出てこない。
信乃は、こころがせくが、ひとことのあいさつもしないで出立(しゅったつ)するのは気がかりで、そとから、
「お目ざめでしょうか。ただいまから出立いたします。信乃です」と声をかけた。
蟇六は、まだ半分夢のなかで、「いけ、いけ」とこたえた。信乃は、また、
「伯母御(おばご)、まだ目がさめませんか。信乃が暇(いとま)ごいにまいりました」と、声をかけると、亀篠もねぼけ声で、「いけ、いけ」とこたえた。信乃は、そのまま去った。
浜路は、さすがに泣き顔をひとにみられることをきらい、細めに障子をあけて、見送りした。わかれのことばも、涙とともにのみこんだ。信乃・額蔵は、下男・下女におくられて出立していった。
きょうも暑い日がてりはじめた。蟇六・亀篠が、ようやくおきた。蟇六は、「信乃は?」ととうた。
下男は、「しかじかのことで、出立なさいました」とつげた。すると、蟇六はあきれはて、
「どうしておまえたちは、おれにつげないのだ。信乃もまたそうだ。旅だちに暇ごいをしないものが、どこにいる」という。
「いや、信乃さんは臥房のそとにたち、しかじかともうされました。そのとき、いけ、いけ、とおっしゃられたようで」と、一人の下男がいった。他のものたちは、どっとわらった。蟇六夫婦は、腹をたて、
「なにがおもしろいのだ。そこらを三べんはきだし、門に塩をふっておけ」とかみついた。下男・下女たちはおどろき、スズメのように逃げた。浜路一人だけ、その日も臥房からは出ない。食膳の箸(はし)もとらぬ。
蟇六夫婦は、心配し、
「まさか、死ぬこともないだろうさ。この養女を死なせては、宝の山への《かけはし》がたたれてしまうからさ。薬だよ」と、いとしいとおもうこころからではなく、親の欲で声をかけるのである。
この日は文明(ぶんめい)十年六月十八日である。その朝まだき、犬塚信乃は、年ごろのこころざしがようやくかなって、下総(しもふさ)の滸我の御所(ごしょ)にむかった。
この年、信乃は十九歳、供をする額蔵は二十歳である。二人は、すでに同盟合体(どうめいがったい)し、義をむすび、誓いをたてている。だが、人の前ではむつまじくせず、額蔵は信乃をののしり、信乃は額蔵を相手にしない。それで、奸智(かんち)にたけた蟇六も、疑い深い亀篠(かめざさ)も、額蔵をうたがうことなく、密談の席にも同座させた。信乃の滸我いきの従者にも、額蔵をえらんだ。その道中、はかりごとがあるからだ。
信乃は、額蔵のたすけで無事にすごしてきた。この二人の仲をさとられないようにするのは、むずかしかった。それも、天のたすけがあってのことだ。額蔵は、ひそかに信乃の蔵書をかりて、経籍(けいせき)・史伝・兵書の類をふところにし、あるときは草篭(くさかご)の底にかくし、野、山、とひとのいないおりによみ、また木をきるときは斧(おの)をもち、太刀すじを習得、草をかるときは鎌(かま)をもって、長刀(なぎなた)の武術を習得、案山子(かかし)の弓をもって、射芸を自得、牧の駒にのり、騎馬(きば)をならったが、ひとには知られることがなかった。ただ、ちからがすぐれていることは、知られていた。で、蟇六・亀篠は、この旅の途中で信乃を殺すことを命じていた。
里を出ようとしたとき、額蔵は、
「わたしの母の墓が、このあたりにあるのです。日をかさねる旅ではないのですが、わかれをつげようとおもいますが」という。信乃も、
「まことにそうだ。わたしは、きのう墓参をすませました。額蔵さんの母御の墓のことは、わすれていました。額蔵さんと義をむすびましたので、母御もわたしの母です。まいりましょう」と、二人つれだっていった。田の畔(あぜ)の右かた三町ほどすすむと、しめ縄をはったエノキがあり、その盛土(もりつち)の上に石墓をたててある。額蔵の母の墓だ。
額蔵の母は旅の途中になくなったが、蟇六はすてるように田の畔にうずめさせた。むろん、墓石はない。額蔵は、十歳ほどになったとき、エノキにのぼり、ひとすじのしめ縄をかけた。つぎの日、田に出ようとしてこれを見つけた村のものが、
「この木に、霊(れい)でもあるのか。すると、この樹下の土饅頭(どまんじゅう)の亡者(もうじゃ)が祠(ほこら)をたてよとでもいうのか。これは、すてておけぬぞ」とつぶやき、それを近村の人びとにもふれた。そこで、銭をだしあい、一基をたて、毎年春秋には、しめ縄をあらたにかえた。
これをつたえきき、もうでる人もおおく、だれいうとなく、この塚は、婦人の諸病にあらたかだ、とつたわった。それで、行婦塚(たびめづか)とよばれていた。
ふしぎなことに、これは信乃の八房(やつふさ)のウメの、ちょうど一年まえの同日のものがたりである。
額蔵がさきにたち、信乃も合掌(がっしょう)した。それから二人は、菅菰(すがも)を右にみて、石神井(しゃくじい)、西が原、田畑(たばた)をすぎ、石浜村から隅田川をわたり、柳島(やなぎしま)にはいる。この日十三、四里の路をいそぎ、栗橋(くりはし)で宿をとった。ここから滸我には、四里ばかりだ。
宿屋はこまず、やっと二人はおちついた。信乃は額蔵に、神宮川のこと、蟇六のはかりごと、土太郎のことなどをかたった。額蔵は、小首をかしげ、
「それは、入水(じゅすい)にかこつけて信乃さんを殺そう、とはかったのですよ。あぶなかったですね」という。
信乃は、しばらく思案し、
「それほどわたしに害心があるのに、なぜ村雨のことをあきらめて、わたしを滸我にやるのでしょう。これは、浜路を宮六にやろうということだけなのか」といった。額蔵は、首をふり、
「いや、そればかりではないのです。神宮川の漁猟(すなどり)も、滸我に旅だたせたのも、信乃さんを殺して、その宝刀をうばい、番作田(ばんさくだ)を自分のものにし、簸上(ひかみ)を婿にしようとしているのです。わたしが、なぜそれを知っているかというと、ゆうべ信乃さんが留守のあいだに、伯母さんがそっとわたしをよびよせ、
『額蔵。このたびおまえに従者として信乃と滸我にいってもらうが、それは一大事をたのみたいからだ。いいにくいことだが、信乃はわたしの甥(おい)であるが、前世の敵(かたき)であろう。信乃は親の自害をうらみ、わたしの夫を仇とねらい、おりよくば寝首をかこうと、ふところに刃をしのばせている。それを知っているのはこの伯母だけだ。しかし、血で血をあらうのは一家の恥と、盾(たて)となり、きょうまでは無事にすごしてきたが、滸我におもむき、ことが成就しなければ、ますます夫をうらみ、害心をもつだろう。甥をふびんにおもうが、夫にはかえることはできない。
よって、おまえにたのむのだ。道中で油断をうかがい、ひとおもいにさし殺せ。死骸(しがい)は手ばやくうめて、信乃の両刀(ふたこし)をうばいとって、この伯母にみせよ。路費もあるだろうから、それはおまえのものにせよ。このことを首尾よくはたせば、主人蟇六どのにすすめてなおざりにはしない。婿にもしよう。信乃をころすのは夫のためだが、おまえにとっては主人のためなので、忠義の二字をわすれるな。はじめ背助をいかせようとおもったのは、おまえは信乃と仲がわるいので、信乃にうたがわせないためだ。おまえのほかにこの一大事をまかせられるものはいない』
泣いたり、あまいことばでいったり、利でさそったり、まことにあさましいとおもいましたが、顔には出さず、承知しました、とこういいました。
『てまえも、信乃さんには遺恨(いこん)があります。年ごろのうっぷんをはらすのは、このときです。それに、婿にしてくださるとのこと。おっしゃることにいつわりがないのなら、いのちをすててもおしくありません』と、まことしやかにいいますと、伯母御はたいそうよろこばれました。
それなら、おまえの刀では切れ味がこころもとないので、父匠作(しょうさく)がまもり刀にせよとわたしにくだされた、この短刀をかしあたえよう、と桐一文字(きりいちもんじ)と称する短刀をわたされました。このようなことなので、信乃さんを滸我に出してやるのではなく、なきものにするのが目的なのです。この桐一文字は、信乃さんの祖父匠作どのの形見です。ごらんなさい」
信乃は、短刀を両手にうけて、つくづくと見た。そして、ため息をつき、
「わたしの祖父は、忠義の武士とききます。その娘であるわたしの伯母は、なぜこうまで腹がきたないのだろう。両親のなきあとは、伯母夫婦はたのもしいと、人びとはいっていますが、わたしには表裏がありすぎます。きょうまでつつがなくすごしてこられたのは、みな額蔵さんのおかげです。わたしの父の末期(まつご)の教訓に、こうありました。
姉夫婦が改心したなら、おまえもまことをつくし、養育の恩にむくいよ。また害心があるなら、宝刀をもってされ。五年、七年養育されたとしても、おまえは大塚氏(おおつかうじ)の嫡孫(ちゃくそん)だ。蟇六の職禄(しょくろく)は、おまえの祖父の功なのだ。その禄で成人になったので、伯母夫婦の恩ではない。恩にむくいることがないまま、その家を去っても、不義ではない、ともうされたが、いまに符合(ふごう)するところです。
九年にわたる同居に衣食はとぼしく、父の田も横領されて、わたしがもっているものはありませんが、幸い、村雨の宝刀があります。なにをなげき、だれをうらもう。額蔵さん。いや、犬川(いぬかわ)さん、ともに滸我にまいり、二人でちからをあわせ、滸我どのをおたすけしよう。両管領(かんれい)も、おそれるにたりない。そうでしょう」と、額をあわせてかたった。額蔵は、思案していたが、
「信乃さん。わたしは、母のなくなるときの村長(むらおさ)の残忍(ざんにん)さをうらんでいました。まだ子どもだったわたしにはどうすることもできず、あの荘官の家の下男にされて、きょうにいたったのです。そのあいだ、一碗の糧(かて)、一領の着物のほかに、きまった給銀はありません。恩義は薄いとおもっています。
しかし、村長が主人で、わたしが従者であることには、かわりません。非義・非道にくみすることはしませんが、主人のはかりごとを承知しながら、それを信乃さんにもらし、このまま逃げれば、わたしもまた不義の従者となります。これは偉丈夫(いじょうぶ)のするところではありません。信乃さんは、滸我においでなさい。わたしは、袂(たもと)をわかって、大塚にかえります。このほうが、二人に利があるのです。わたしも不義にならず、もう一つは、節婦(せっぷ)の浜路さんの危難のたすけをしたいとおもいます。そのあと、わたしも暇をもらって、滸我にまいります」という。信乃は、
「もっともな話です。だが、額蔵さんがわたしを殺さないでかえったら、わざわいがあるでしょう」とあやぶむと、額蔵はわらって、
「それは安心してください。わたしは手足にすこしばかりの傷をつけて、浅手をうけたようにみせ、信乃さんをうとうとしたが、こっちが傷をおうたと、主人夫婦をあざむきますよ」といった。信乃は、
「それがにせ傷でも、こころぐるしくおもわれます」という。それから二人は、ねむりについた。
明け方の鐘の音におどろかされ、信乃・額蔵はおきて、したくをととのえた。額蔵は信乃をおくるという、信乃は、額蔵をおくるという。わかれがおしまれる。
松並木のかげで、額蔵は、
「信乃さん、滸我においでになられたなら、のぞみのおおかたが成就(じょうじゅ)されるでしょう。わたしがひとからきいたところによりますと、滸我どのの信任あついのは、執権の横堀史在村(よこぼりふひとありむら)なる人といいます。賞罰も、この人の意のままだそうです。そのことを、かんがえにおいてください」とつげた。
信乃はうなずき、
「わたしも、それはきいています。そこにまいり、由緒(ゆいしょ)をのべ、亡父の遺志をもうしあげ、この宝刀を献上し、もちいられればとどまりますが、じゃまをされたり、賄賂(わいろ)で人をもちいるなら、すぐに去ります。君は世をえらびますが、臣もまた君をえらびます。身をたてるのは、滸我どのにかぎりませんから。どうおもいます?」ときいた。額蔵は、
「いさぎよいことばです。だれでも、そうおもうべきですね。消息は、そっと知らせてください。わたしも、遠からず再会を期しますから」とこたえた。
信乃は、左手の笠(かさ)を右手にもちかえ、
「それでは、ここでわかれましょう。ますます暑くなりますから、気をつけて」と、東と西にわかれた。
話は、蟇六(ひきろく)・亀篠(かめざさ)の家にうつる。
二人は信乃が出立(しゅったつ)してから、ほっとし、
「亀篠。信乃は滸我までの途中、額蔵がおおかたしまつをするだろう。もし額蔵がしそんじてかえりうちされても、あの一刀(ひとこし)はにせものなので、滸我どのにまいってもなにもできまい。《そこつ》の罪科をのがれられず、首をはねられるだろうさ。出立したので、もう生きてかえることはあるまいさ。もう心配はないが、気になるのは浜路の病気のことだ。贈物(おくりもの)をもらって、まだそれほど日がたっていないが、軍木(ぬるで)が密書をもって毎日さいそくしてくる。信乃がいなくなってからは、返事をおくらせることもゆるされまい。とにかく浜路をなだめすかして、嫁いりさせることだ」と相談する。
そこへ軍木五倍二(ごばいじ)のご使者がきた。蟇六はその書状をひらいた。文面は、いつもとおなじ婚礼のさいそく。そのおそいのをせめたものだ。怒気がみちている。蟇六は、亀篠にその書状を見せ、
「せっかちなさいそくだ。おれは、ちょっといってくる。袴(はかま)をだしてくれ」という。
亀篠は麻衣(あさぎぬ)袴をだし、蟇六は帯をむすび、袴をつけ、刀をさすと、そとに出て、軍木の使者に、返答は自分がいってもうしあげるとつげ、軍木の家に案内させた。
亀篠は、いらいらしながら蟇六のかえりをまった。夕立がきた。それもはれた。蟇六がかえってきた。亀篠は、それを見つけ、
「おそかったね。首尾は、どうだったい?」ときくと、蟇六はわらって、
「うまくいったさ。ゆっくりはなそう。なにしろ、暑い」と、帯をとき、汗の衣服をぬいだ。亀篠が団扇(うちわ)で風をおくる。蟇六は、
「信乃の旅だちの苦心、浜路の病気のことをつげると、軍木(ぬるで)は、『信乃のことは安心だ。浜路の病気が重いとはきかぬが、婚礼のおそいはやいは、おれの一存ではきめられない。いま簸上(ひかみ)どのにもうしあげてくるから、一刻まってくれ』といって出ていった。
もどってきて、『簸上どのはよろこんだ。浜路は病気でふせっているというが、きっとかぜでもひいたのだろう。それなら、はやく嫁にむかえて、医療看病などに手をつくし、わしが手ずから薬をすすめよう。さっそく準備せよ、ともうされた。また、管領(かんれい)どのが留守で、まだ婚礼の願状(ねがいじょう)を提出しておらず、それに父がなくなったばかりなので、はなばなしい婚礼は遠慮したい。それで、しのびやかにやりたい。あしたの晩に、わしが村長(むらおさ)の家にまいり、ひそかに新婦をむかえることにしよう。あしたは黄道吉日(こうどうきちじつ)だ。これは客分の新嫁なので、衣装・調度などは、当座必要のものだけ、あしたの夕方までおくろう。この由(よし)をさっそくつたえよ、とこう簸上どのはもうされた。もし、あしたの晩に故障でもおこったら、蟇六ばかりか、仲だちしたおれも腹をきることになるぞ。それで当夜は宴(うたげ)などをもよおさず、新婦ののる駕篭(かご)はこのように手配しろ、時刻をまちがうな』ともうされたのだ。
あまりのいそぎのことです。浜路がそれまでおきることができるかわからぬが、おれはかしこまりました、といってもどったところだ。浜路がもしいやだとでもいったら、この家にわざわいがおこるぜ。亀篠、あっちにいってうまくはこべ」といった。
亀篠はうなずき、
「村長の娘でも、陣代(じんだい)さまの嫁になるなら、調度など、ものいりもおおいとおもっていたが、病気と陣代さまのいそぎで本銭(もとで)のいらぬことになったね。だが、いまいったように浜路が納得(なっとく)するか心配だね。わたしがうまくいかなかったら、おまえさん、しかじかこうするのだよ」とささやいた。亀篠は、軍師である。
蟇六は、「わかった。はやくいけ」という。
亀篠は、浜路の部屋にむかった。
浜路の胸のなかは、信乃のことだけである。夏のさかりでも、秋の暮れのこころもちだ。おきたり、横になったりしている。亀篠が障子(しょうじ)をあけてはいってきた。
「土用なかばというのに、しめきってどうしたのだい? 下男たちも気がきかないね」といって顔をみて、
「浜路、目をさましているのかい。食欲は、あるのかい。なにか、ほしいものはないかい。つねにはたしなまない酒なんぞ、どうだい。気がやすまるぞえ。信乃が旅だちにかかわって、この三、四日、いそがしかったからね。それにしても、おまえの病気で、わたしも、こころがやすまらないよ。だが、薬のききめがあったのか、顔色はいいね。すべて病気はこころからおこるもの。わたしは医師ではないが、よくわかるのさ。
信乃は、人にして人ではないよ。おまえの婚約者にしたこともあるが、信乃は親の非業(ひごう)の死をうらみ、年ごろ主人蟇六を仇(あだ)とおもって、こころの刃(やいば)をといでいたのさ。その大悪心がばれて、ひとからもきらわれ、大塚にいることができず、滸我にいくといっていつわり、逐電(ちくでん)したのさ。
先夜なんぞは、蟇六を川につきおとし、殺そうとしたのだからね。この母のいうことがほんとうかどうか、額蔵にきいてみるのだね。骨肉の伯母(おば)、そして恩のある伯母婿に弓をひくおそろしい男だよ。まだ一夜もともにねていない名ばかりの妻のおまえは、どうおもうのかい。虎狼(とらおおかみ)よりおそろしいに偽夫(にせおっと)に操をたて、病いにふして両親に苦労をかけるのは、貞女のすることか。ここをよくわきまえて、信乃のことなどかんがえるな。あの畜生の百倍も美男子に嫁いりさせてやるよ。
おまえにはまだいっていなかったが、その婿さまは、別人ではない。いつかお宿をしたことのある、陣代簸(ひ)上宮六(かみきゅうろく)さま。その日、おまえをひと目みてすきになり、身分のちがいを問題にせず、おまえを嫁にしようと、仲だちをもっていってきたのさ。その仲だちもお歴(れき)れきの下役(したやく)、軍木(ぬるで)さまだよ。その身分は、提灯(ちょうちん)と釣鐘(つりがね)だけれど、まとまれば一家の幸いさ。よる歳波(としなみ)の両親まで、おまえの孝行でうかびあがろうというものさ。
いやだとはいえるすじではないが、うちの蟇六はむかしかたぎの人なので、おまえの胸のなかをはかりかね、信乃がおるし、それに遠慮し、再三辞退したが、信乃が逐電したことをつげるものがいて、軍木(ぬるで)さまからのさいそく。いまはのがれることもできず、やむなく承知したので、婚礼はま近いよ。それにつけても、おまえの病気に、両親のこころはやすまらないのさ。いまの世のなかは三つ児(ご)でも欲を知っている。まよって後悔しなさんな」と、さかしくいったり、おどしたりしていった。
浜路は胆(きも)がつぶれるおもいだ。涙の濡衣(ぬれぎぬ)を、信乃にきせておけようか。
ようやく、首をあげて、
「こんなおもいがけぬ縁談は、承知しかねます。親不孝、人の子の道にあらずとしかられるかもしれませんが、信乃さんとは十年近く、ひとつ家にくらしましたが、悪心ある人とはおもわれません。そのようにののしるものは、うらみのある人でしょう。いったんむすびました縁なので、わたしのためには、夫は信乃さんのほかにありません。またあの人が、わけがあって逐電なされたとしても、離別状をもらわないでほかの人の嫁になったなら、それは密夫(みっぷ)の女になるのではないでしょうか。わたしをみだらな女にするのですか。たとえ、親のことばでも夫婦の道はおもいのでしょう」と、理をとおしていった。
亀篠は、これにこたえられず、腹をたてるだけだ。これを障子のそとできいていた蟇六は、さめざめと鼻をすすり、部屋にはいってきて、すわり、
「亀篠、おまえは何をいうのだ。浜路、よくいったぞ。親もはずかしいおまえの貞節、あそこでつぶさにきいた。母もそうだが、おれもまた後悔ここにたたぬ。歳をとると万事に欲深くなり、恩も義もわすれて、おまえにしてみれば道ならぬとうらむだろう。それは、おまえがわけを知らぬからだ。世のことわざに、親のこころ子知らず、というのをきいたことがあろう。子どものころから養育した信乃が、まことの人なら、なにをなやむものか。
しかし、いまさら信乃をうらんでもしかたがない。信乃がいなくなったところへ、陣代さまからの懇望(こんぼう)をことわるまもなく、手詰(てづめ)の縁談、長いものにはまかれろのたとえ、いやとことわれば、おれ一人ならず妻子にもその《たたり》があろう。婿さまは陣代、仲だちはその下役、ひとたび怒りをかえば、この大塚の一村は、たちまち空巣(あきす)同然ともなりかねないのだ。
六十歳におよんで一家の滅亡、それも運命ではあるが、妻をころされ、子をころされて、またこのおれも、死んでも益がない。ならば、おれは覚悟をきめた。贈物をうけおさめた《そこつ》をわび、おれのしわ腹をきることにしよう。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」ととなえ、刃をきらりとひきぬき、腹へつきたてようとすると、亀篠は、
「あっ、おまえさん!」とさけび、腕にとりすがって、とどめた。浜路も、あわてて、
「おいかりになるのは、もっともです。この刃をはなしてください」というと、蟇六は、首をふり、
「いや、いや、はなさぬ。殺せ、殺せ」とくるったようにいう。亀篠は、それをだきとめ、浜路を見て、
「浜路。親をころすも、ころさぬも、おまえのこころひとつだ。とがめるだけが孝行か。ぐずぐずしなさんな」としかった。
浜路は、玉なす涙をふりはらい、
「もし貞女といわれても、不孝の子となるなら人の道からはずれます。おおせにしたがいます」といった。
亀篠はうなずき、
「おお、よくわかってくれた。信乃のことはわすれて簸上さまに嫁いるというのだね。おまえさんも刃を鞘(さや)におさめなさいな」というと、蟇六は手をゆるめて、
「それなら浜路は、ききわけてくれたのか。もしそれがうそなら、おれはいま死ぬぞ。あとでこころがわりをするなら、とめずにころしてくれ」と念をおした。
浜路は、
「それは、根もないお疑いです。おおせのとおりにします」と、涙にくれてうちふした。
「してやったり!」と蟇六は、亀篠に目でささやき、刃を鞘におさめ、ひらいた襟(えり)をあわせた。
「あぶなかった」と、亀篠は泣きふしている浜路の背をさすり、また薬などをすすめ、看病をつづけた。
十九日となる。家のなかは、さわがしくなった。
浜路がそっとようすをうかがうと、下男・下女は戸・障子のふき掃除。釘(くぎ)よ、紙よの声がする。また糊(のり)をねる音、かなづちの音もする。その声と音とにまじって、下女たちのささやきもきこえる。それで浜路は、はじめて今夜が婚礼だと知った。
「どうして今夜が婚礼と、両親はわたしに知らせないのだろうか。だしぬけに婚礼の盃(さかずき)をかわさせるためなのだろう。このままいのちながらえて生きているより、親にかわってわたしが死ぬことにしよう。しかし、それまで親にさとられてはならない。わざと結髪(かみあげ)などして、用意をしておこう」と、臥房(ふしど)のなかで髪をむすびなおそうとおきあがり、櫛(くし)でかきあげにかかった。
そこへ、亀篠がきて、それを見て、「自分で結髪とは」とよろこび、
「はじめのことばとちがって、やっぱりおとめごころだよ」、と蟇六にもつげた。
網乾左母二郎(あぼしさもじろう)は、神宮川(かにわがわ)の舟でかぜをひき、明け方から発熱したので、この日は手習いの子をはやくかえし、夕飯の箸(はし)もとらずにふせっていた。
つぎの日、昼すぎに目をさまし、気持ちがすがすがしくなったので、床(とこ)におきあがった。それから、口をすすごうと、そとに出ると、荘官の蟇六(ひきろく)の屋敷あたりで物音がひびいた。
「おや。年のおわりでもないのに、煤(すす)はきのような……」といぶかしくおもった。すると蟇六の下男背助(せすけ)が、右手に鍬(くわ)、左手に五、六本の大根をさげてきた。
左母二郎は「これ、これ」と声をかけ、「いそがしそうだね。きょうは土用(どよう)の虫ぼしか。それともすすはらいの音かい?」とたずねた。
背助は、たちどまり、「いや、虫ぼしではありません。こよい、婿(むこ)いりがありますので、天井(てんじょう)のクモの巣のはらい、畳(たたみ)のほこりのうちたたき、障子(しょうじ)のはりかえ、目のまわるようないそがしさです。これ、ごらんなさい。この大根は、なますの材料にひきぬいてきたところです。近所のおつきあい、手つだいにきてください」とわらっていった。左母二郎はおどろき、
「蟇六どのの婿どのとは、犬塚信乃(いぬづかしの)のことか。信乃は、きのうの朝、旅だったときいたが。それとも出立(しゅったつ)をのばして……」ときいてみた。
背助は、
「いや、いや。信乃さんは、きのうの明け方、滸我(こが)に出立されました。婿どのは、信乃さんではありません」とこたえた。
左母二郎の顔色がかわって、
「では、その婿は、だれだ? まえから約束があったのか」とせわしくとうと、背助は、
「ほんとうに、あまりに急な話なのです。おれもよくは知らないが、婿どのは陣代(じんだい)さまだそうです。また、仲だちは下役の軍木(ぬるで)さま、贈物(おくりもの)は、いつとどけられたかは知りませんが、書院にかざりたててあります。
なにしろ、内密の婚礼なので、婿どのがみずからきて、花嫁御寮(はなよめごりょう)をともなってゆかれる、とひとからききました。気の毒なのは信乃さんです。意地わるい伯母夫婦の機嫌(きげん)をとること八、九年。まさかのときにおいはらわれて、浜路さんをうばわれるのですから。晩には、おいでなさい」と、鍬(くわ)を肩にかけて去っていった。
左母二郎は腹をたて、なにをするにも、すべてが手につかない。
《浜路は、信乃を幼いときから婚約者としているときくので、それを婿にするなら、是非(ぜひ)もないが、そのことも、さきに亀篠(かめざさ)がわたしにいったことがあった。それがどうだ。陣代のいきおいに約束を変じ、内密にことをはこび、それをこのわたしにかくしておくしまつだ。いつか亀篠が、しかじかといったのは、浜路を餌(え)にして、村雨(むらさめ)をすりかえさせようとするためだったのだ。このしかえしに、こよい、婿の簸上(ひかみ)がきたとき、その席上にふみこんで、蟇六夫婦の悪事をばらし、恥をかかせてやるか。
だが、まてよ。すると、村雨をすりかえた罪をのがれることができぬ。
さて、村雨はわたしの手にあるのだ。村雨のことをいわないでは、功がなくなる。そればかりか、獄舎(ひとや)にとらえられるかもしれぬ。あの亀篠が、それをみこしていての手だてだろう。これまでばかにされたのも、わたしの知のたらんところだ。
しかしだ。さわぎたてないところをみると、まだあの刀を村雨だとおもっているのだ。わたしも男だ。うそでも、亀篠は、わたしを浜路の婿にするといった。このままでは、すますものか。こよい、宮六(きゅうろく)らがくるのをうかがい、婚礼の席に血の雨をふらし、親子・婿も、みなごろしにするか。
いや、むこうは多勢だ。失敗し、とらえられたら手おくれだ。それより、ひそかに浜路をかっばらい、逐(ちく)電(でん)することだ。浜路が、このわたしにつれなかったのは信乃がいたからだ。つれてここを去るなら浜路もわたしのものになるだろう。もし、なおわたしをきらうなら、京(みやこ)でも鎌倉でも遊女にうりはらって金にしよう。
また、この村雨は、持氏朝臣(もちうじあそん)の宝刀ときいた。これを扇谷(おうぎがやつ)さまに献上すれば、帰参もかなうだろうが、出どころをきかれてはまずい。また、成氏朝臣に献上すると、信乃にうったえられて、これもまずい。それなら、京にまいり、室町将軍に献上したなら、召しだされるだろう。これにかぎるぞ》
と思案し、路費の準備に家具をうりはらい、夜をまった。浜路をどうやってさそいだすか、うばいとるか、とかんがえつつ……。
浜路は、死ぬ覚悟を顔にださず、髪をゆいあげ、まだ臥房(ふしど)を出なかった。あのようすなら、こよいの婚礼はうまくいく、と蟇六夫婦は安心し、夕方どきはいそがしさに姿をみせなかった。
日がくれかけた。初更(しょこう)近く、闇にまぎれ、浜路は臥房をぬけでて、そっと納戸(なんど)の縁づたいにそとに出たが、背戸(せど)は人の出いりがはげしい。それで、納戸の裏庭にでた。くずれた築山(つきやま)、木の繁み、人のとおらぬところなので、死に場所としてはちょうどいい。
臥房をでるときは、灯火を暗くし、蚊帳(かや)のなかには、ねていることがわかるように、着物をうちかけてきた。わからぬうちと、用意のくみ帯をひきのばし、築地(ついじ)のそばの松の枝になげかけ、首をつろうとした。
「わたしは、いかなる悪のむくいか、まことの親にも兄姉にも、この世ではあうことなくおわります。そだての親の養育の恩にもむくいぬ、不孝の罪をゆるしてください。これも、女の操(みさお)にそむくことかできないからなのです。人のいのちには、かぎりがあります。おしむべきは、死後の名ではないでしょうか。床をともにしないけれど、ひとたびは親のゆるした婚約者の信乃さん、おわかれです」と、しのび涙にくれた。
いっぽう左母二郎は、刻(とき)はちょうどいい、と蟇六の家の背戸からしのびこもうとするが、あっちこっちに提灯(ちょうちん)さげて、出るもの入るものしきりなので、そこを去り、さらに場所をさがしているうち、母屋のうしろにたち、じっとみつめると、築垣(ついがき)の朽ちたあたりに、犬の出いりするほどのくずれたところが目についた。左母二郎は、そこから腹ばいになってはいった。それから、からだをおこし、手足の土をなでおとし、家のうちのようすをうかがいみた。左手の白壁だけが、ほのかにみえる。
その土蔵のあいだをぬけると、浜路のいる納戸だとおもいながら、樹下をくぐり、築山のあたりにくると、前のほうで女の泣き声がする。おどろいてすかしてみると、ほかならぬ浜路だ。天のあたえよ、とよろこび、かんがえた。
「浜路は、こよいくる簸上宮六をひどくきらって、首をくくろうとしているのだ。あの娘が操をつくそうとしているのは、信乃か、それともこのわたしか。よくはわからないが、おおかたはこのわたしだろう。それは、だれでもいい、手にいれるまでさ」と、つまさきだててすすんだ。
浜路は、松の枝にかけた帯の端にすがり、またさめざめと泣いた。涙のあいだに十ぺんほど念仏をとなえ、首をくくろうとした。
左母二郎は無言のままうしろからだきとめ、ひきもどすと、「あっ!」と、さけぼうとする口に手をあて、
「おどろいてはいけない。わたしは、左母二郎だ。突然の婚礼に死のうとされたのか。これは、わたしにとってはしあわせだ。わたしは、あなたと逃げようとここにきたのだ。それをいいあわせたわけでもないのに、ここであえるとは天のさだめだ。もうかなしむことはないぞ」といった。
浜路は、それに耳をかさず、
「なにをたわけたことをもうされるのです。信乃さん以外の男と逃げるなど、するものですか。部屋を出て、ここでいのちをたとうとおもっているのです。つまらぬことをいうより、はやくそこをどきなさい」といって、またくみ帯に手をかけようとすると、それをさえぎり、
「それをきいたからには、なお死なすものか。いつかそなたの母親が、しかじかとわたしとそなたの仲をゆるしたので、簸上をきらって、わたしのために死ぬかとおもったら、また信乃のことか。こうなれば、いやでもつれていくさ。はやくこい」と、手をとると、浜路はそれをふりはらい、のがれたものの、左母二郎は、「まどろっこしい」と、襟(えり)がみをつかみ、手ぬぐいでさるぐつわをし、小脇(こわき)にかかえこんだ。
それから用意の旅じたくをして、そこを去った。
いっぽう、蟇六の家では、お膳がととのい、書院の床の間には、花をいけ、懸幅(かけもの)のかけかえもおわった。
初更の鐘の音がきこえてきた。蟇六は、亀篠をよび、
「婿どのは、まもなくこられる。浜路に衣装をきつけさせろ」といった。亀篠はうなずき、
「わたしも、そうおもっていたところだよ。髪をゆっているので、きがえはやすいことさ。ああ、いそがしい」といいながら、浜路の臥房にはいっていった。まもなく、走ってもどり、「たいへんだよ!」と、さけび声をあげた。
蟇六はおどろき、「そうぞうしい。なにごとだ?」というと、亀篠は、
「おまえさん、おちついている場合じゃないよ。浜路が蚊帳(かや)をぬけだして、どこにいったのか姿かたちもないのさ。厠(かわや)か湯殿かと、すみずみまでみたが、どこにもいないよ。逃げたのかもしれないよ」といった。
蟇六は、もった花瓶(かびん)をうちおとし、
「それは、たいへんなことだ。そうかといって、さわぐな。そこらをさがせ」といって、あかりをもって庭に出た。あっちこっちとさがし、裏庭に出た。松の枝にくみ帯をむすびつけたのを見て、蟇六は顔面蒼白となる。亀篠も、
「浜路は、信乃とかねてからしめしあわせて逃げたのかしら?」というと、蟇六は、
「いや。信乃には、仲のわるい額蔵(がくぞう)がいっしょについている。たやすくもどってこられるものか。それより、左母二郎だ。こっちにくるがいい」と家にもどり、下男をよび、
「左母二郎が家にいるか、見てこい」と命じた。
やがて、下男がもどってきて、
「左母二郎さんの家にいってよんでみましたが、声がしないので、戸をあけてみると、家具などは一つもなく、空家になっていました。逃げたのにちがいありません」とつげた。
蟇六夫婦は、使用人をあつめて、
「しかじかのことがおこった。この犯人は、左母二郎だ。そう遠くへは、いっていないだろう。おいかけて、ひきずってこい。あかりは、もっていかないほうがいい。左母二郎にさとられてしまうからだ。背助は、気をつけていけ。とらえたものには、ほうびをとらせるぞ。おまえとおまえは、西のほう、おまえとおまえは東のほうだ。ぬかるなよ」と、二人、三人をひとくみとし、四方にちらさせた。蟇六夫婦のこころは、おだやかではない。亀篠は頭痛をうったえ、
「こうなるとは、おもってもみなかったよ。左母二郎をひきいれたのは、失敗だった」となげくと、蟇六も、ため息をつき、
「すぎたことは、くやんでもしかたがない。さて、こよいの婚礼をどうするかだ」という。
そこへ土太郎(どたろう)がきた。このまえの信乃ごろしは未遂(みすい)におわり、もらった銭(ぜに)がすくない。で、酒代をせびりにきたのである。蟇六は、
「ほう、土太郎か、いいところにきてくれた」と声をかけると、土太郎は、
「このまえの酒代に、ちょっと《いろ》をつけてほしい」といった。蟇六は、
「いまさら、それをいうな。じつはな今宵(こよい)、突然の難儀がおきたのだ。それは、こうこう……」とくわしくいい、「おれの娘をつれて逃げた男の顔をおまえも知っているだろう。いま家のものどもがおいかけているが、あれではこころもとない。おまえがきてくれたのは、おれの運もまだありそうだ。つれてきてくれたなら労賃もはずむさ」と、夫婦でおがむようにいった。
「そうか。そういえば、おれがここにくるとき、顔みしりの篭かきの加太郎(かたろう)・井太郎(いたろう)が、旅人をのせて、がやがやと出ていった。闇夜なのでわからなかったが、その旅人は、きっと左母二郎だ。篭にのったのは浜路さんだろう。道は、小石川、本郷坂(ほんごうざか)にいくのさ。おいついてやれ」と、土太郎は着物の裾(すそ)をあげて、走りだそうとした。蟇六は、
「左母二郎は、浪人といえども武士だ。素手ではあぶない。これをもっていくがいい」と、脇差(わきざし)の一刀(ひとこし)をわたすと、土太郎は、
「これは、こころづよい。雌鶏(めんどり)・雄鶏(おんどり)をとらえてもどるさ。酒の燗(かん)してまっていな」と、稲妻のきえるように出ていった。
話はかわる。
ここに、寂寞道人肩柳(じゃくまくどうじんけんりゅう)という世にもあやしい行者があらわれた。どこの国の出か知らないが、去年の夏から陸奥(むつ)・出羽(でわ)で修行し、ことし下野(しもつけ)と下総(しもふさ)をまわったあと、ついに武蔵(むさし)にあらわれて、信者から尊信されていた。
その修法は、薪(たきぎ)をつみ、もえる火のなかをあるいても、手足はやけただれず、これによって人の吉凶をうらない、病気の祈祷(きとう)をすると、霊験(れいげん)あるそうだ。ながい歳月、吉野・葛城(かつらぎ)・三熊野(みくまの)をはじめ、富士・阿蘇・霧島(きりしま)・二荒山(ふたれやま)・羽黒山(はぐろさん)などの霊山には幾度ものぼり、神人・仙人にあって、不老の術をまなんだという。
その姿を見ると、長い髪、長いひげをしていて、壮(そう)年(ねん)の人とことなっていない。それでいて百年まえのことをきくと、すぐさま見てきたようにかたるので、人びとは感服した。
またこの肩柳の左の肩先に、瘤(こぶ)があった。それでその姿がななめにみえた。肩柳はひとの問いに、
「わしのからだには、つねに仏菩薩(ぶつぼさつ)がやどっておられるのだ。左はこれ天にいく順路、肩はからだの高いところだ。だから東方、天照皇太神(あまてらすおおみかみ)、西方、釈迦牟尼(しゃかむに)仏(ぶつ)がここにやどっておられる」とこたえた。
この夏、肩柳は豊島郡(としまのこおり)をまわって、信者にむかって、
「それ三界は火宅(かたく)だ。好悪によって煩悩がおおい。凡夫(ぼんぷ)は無辺無数だ。仏縁なきものは、無仏世界に生じ、仏性(ぶっしょう)なきものは畜生道におちるものだ。いま生あるものはかならず死ぬ。かたちあるものでほろびないものはない。機縁がみつるときがくると、太陽のしずむように、あつい氷の消えるように、だれ一人としてこの世にとどまらない。この理由で、はやく一心を天堂にかえしおさめて、彼岸(ひがん)の禅定門(ぜんじょうもん)にはいるほどよい。きたる六月十九日、申(さる)の下刻(午後七時)、日没のときに、火定(かじょう)にはいろうとおもう。その地は、豊島郡本郷のほとり、円塚山(まるつかやま)のふもとだ。信心のものは、それぞれ一束(たば)の柴(しば)をもって、来会せよ」とふれた。
それをきいた人びとは、
「むかしから入定(にゅうじょう)の行者のいることはきいているが、いきながら土中にはいるだけだ。火定は、はじめてきくぞ」という。
肩柳のさしずにしたがって、円塚山のふもとの草をかり、土壇(どだん)をきずき、黒木の柱をたてた。その壇の下にはひろい穴をほった。ひろさ五、六間、深さは一丈(じょう)あまりもある。そこにたくさんの柴をなげいれさせた。この円塚山は、豊島郡本郷の西にある。
さて、その当日がきた。寂寞道人肩柳は、頭を白布でつつみ、白布の浄衣(じょうえ)をきて、壇の中央の床に尻をかけ、手の金鈴をふりならし、胸には一面の鏡をかけ、せなかには一条の輪袈裟(わげさ)をたれた姿だ。わざと兜巾(ときん)はつけぬ。この異様な姿で、観念の目をとじ、朝から日ぐれまで経文をよみつづけた。その音声(おんじょう)はすんでいる。ときおりひとをみる眼光は、するどい。
壇下には、あっちこっちから老若男女(ろうにゃくなんじょ)があつまった。黒山の人である。夏の暑さに頭に手をやり、「はやく火定にはいれ」などと、ののしるものもいた。
日がおちた。柴に火がはなたれた。みごとにもえあがった。壇のほとりの人びとは、どよめきながらあとにさがった。肩柳は、経をよみおわると、平形金珠(ひらがたごず)をさやさやともみ、しばらく念じて、壇下を見おろし、
「むかし如来(にょらい)の従兄弟(いとこ)なる阿難陀(あなんだ)が国を去り、ほかにおもむくと、二つの国の王がそれぞれ徳をしたって、阿難陀を自分の国にまねこうとした。阿難陀はその争いをさけるため、虚空(こくう)にのぼり、身から火をだし、かばねをやき、なきがらを二つにさき、それぞれの国におとし、争いをやめさせた。その功徳(くどく)は広大だ。ここに無垢の浄土にまいろうとおもう。ねがわくは、この火中に銭をとうじ、未来永劫(えいごう)の善根をうえよ。一銭二銭をなげるものは一劫二尊の慈航(じこう)にのるであろう」とならべたて、
「九銭十銭をなげるものは、九品(ほん)の浄殺(じょうせつ)に托生(たくしょう)して、十界能化(じゅっかいのうげ)の菩薩になるだろう」と、銭高によって仏のすくいの手がのべられる、とといた。
あつまる人びとは、火穴をめがけ、銭をなげいれた。まるで落花が風にのるようだ。
肩柳は、もえさかる火のなかに身をおどらせてとびこんだ。火炎が、ぱっとたちのぼり、たちまち肌も、骨ものこらず灰燼(かいじん)となってうせた。
これを見た人びとは、感涙をとめどなくながし、念仏の合唱がおこった。
山寺の入相(いりあい)の鐘がなった。人びとは、それぞれ家にもどっていった。あとには、ときどきちいさな炎があがった。
初更がすぎたが、月はなく、小提灯がみえてきた。篭の脇にむすびつけているのだ。篭によりそうのは、左母二郎(さもじろう)だ。浜路をうばい、篭をやとい、そのまま間道をいそぎ、木曽路(きそじ)から京にのぼろうとしているのだ。由美村(ゆみむら)から、この円塚をすぎようとしていた。
火定(かじょう)の残り火がみえてきた。
篭かきが、左母二郎に、
「だんな、さだめの継ぎ場ですぜ。ひと息つかせてくだせえ」といった。左母二郎は、
「おまえらは酒をのまぬのによっているのか。駒込(こまごめ)のたて場をこえて板橋(いたばし)までとさだめてあるのに、ここを継ぎ場というのか。そう骨をおしむなら、おまえらをたのまぬ。これをもっていけ」と、懐中から小銭をとりだし、あたえようとしたが、篭かきはうけとらず、あざわらって、
「わずかに二百、三百の、はした銭をもらうため、夜道をくるものか。美しい娘をしばり、狂女などといって、両刀さした《かどわかしもの》、おまえ一人にすきなことをさせるものか。板(いた)の井太郎、その相肩の加太郎、女はなおさら、腰の路用の金、身ぐるみぬいで、きえてなくなれ」と、左右からさけんだ。
左母二郎はさわがず、
「ほざいたな。ヤブカども。この世からの暇(いとま)なら、とらせてやるぜ」とぬきうちに、きらりとあびせる刃(やいば)の稲妻。加太郎は肩をきられてたおれた。井太郎の杖(つえ)をうけながし、二、三合たたかうと、加太郎も身をおこした。左母二郎の刀は村雨なので、その威力(いりょく)で篭かきをころした。
ひと息ついているところに、土太郎がおいつき、その背後からかかろうとすると、左母二郎は、
「賊(ぞく)は二人とおもったのに、おまえもおいはぎか」と、刃をかまえた。土太郎は、
「土田(どた)の土太郎をわすれたのか。おれをおいはぎとののしるまえに、おまえのことをかんがえろ。蟇六どのにたのまれて、娘をとりかえそうときたのさ。井加両太郎のためには仇討(あだう)ちだ」とせまった。左母二郎は、
「おこかましい追っ手よばわり。篭かきどもをみちづれに冥土にいくか」と、うちあう鍔音(つばおと)がこだました。左母二郎はあとずさりをしつつ、小石をひろい、土太郎の額になげた。たちまち額はうちやぶられた。
「あっ!」と、さけび声をあげた。左母二郎は前に走り、胸をついた。土太郎は、息たえた。
左母二郎が、村雨の鮮血をぬぐうと、白露(はくろ)にぬれた。それから、のこっている柴を火定の残り火になげいれるとふたたびもえあがり、ま昼のように明るくなった。
そのあかりのもとで、篭から浜路をだし、そのいましめをといた。浜路は、さめざめと泣いた。
左母二郎は、木の切り株に尻をかけ、
「やい、浜路。わたしとおまえは、くされ縁があるのさ。この山越えに三人をころしたのも、みなおまえのためさ。さる夜の神宮川(かにわがわ)の漁猟(すなどり)に、ひそかに信乃を殺そうとさそいだしたのも、蟇六夫婦のたくらみだ。蟇六が水に落ちたのも、信乃を水中で殺すためだったが、あいつは水練がたくみで、土太郎も失敗したのだ。
それよりさき、亀篠がわたしの家にたずねてきて、信乃を滸我(こが)に出立させる理由をきかせてくれた。里びとに信乃と浜路をめあわせるとふれたおり、蟇六の秘蔵の一刀を婿引手(ひきで)としてあたえた。いま、それをかえせとはいわれぬ。で、しかじかこうして、おまえさん、舟中で、信乃の刀と夫の蟇六の刀をすりかえてくれ。信乃がそれとも知らず滸我どのに献上するなら、にせものの罪で首をはねられるだろう。そのときこそ、左母二郎さんと浜路をいっしょにして、荘官の職もゆずろう、ともうした。
わたしが刀をすりかえたのも、おまえを妻にするためだ。なんで悪(わる)とくもうか。刀をすりかえようとしたとき、信乃の刀のなかばごろより、たちまち水気したたり、夏なお寒き、刃の霊光(れいこう)、これはすばらしき刀ぞと、よくよく見ると、さきの管領(かんれい)足利持氏朝臣の宝刀村雨とわかった。その刃、鞘(さや)を出ると、おのずから水気したたり、殺気をふくんでうちふると、切っ先から出る水は、狭霧(さぎり)のように散乱するのだ。
これだけの宝刀を、蟇六が信乃にあたえたとはおもわれない、とかんがえおよんだのさ。蟇六夫婦が、わたしにこの刀をすりかえさせたのは、他意のあることとさっし、毒をくらわば皿までと、信乃の刀をわたしの鞘(さや)におさめ、また、わたしの刀を蟇六の鞘におさめ、蟇六の刀を信乃の鞘におさめ、いわば三方がえさ。
蟇六夫婦の唇のかわかぬうちに、陣代簸上宮六(ひかみきゅうろく)のこよいの婿いり、わたしはあいつを殺し、わたしも死のうとおもったが、おまえをつれだしうらみをかえしたのさ。この宝刀をもち、京にのぼり、室町どのに献上するなら、数百貫のぬしとなる立身はまちがいない。おまえも、奥さまとよばさせ、おおくの人にかしずかせるぞ。泣くのはやめて、この山をこえていこう。せなかにせおうか、手をひこうか」と、そばにより、せなかをなでて、手をとっていう。
浜路(はまじ)は、養い親と左母二郎(さもじろう)の悪(わる)ぶりを知らされた。かりそめの夫、信乃の難儀をおもった。どうしたなら村雨(むらさめ)をとりかえし、信乃にわたし、ことの次第をつげられようかともおもった。ようやく涙をおさめて、
「しばられ、篭(かご)でつれてこられたので、うらめしいとおもいましたが、これも前世(さきつよ)からの約束ごとと、あきらめました。信乃さんの村雨のことは、わたしもよく見て知っております。あの人は、用心深いので、はかられ、すりかえられたとはしんじられません。もし、その刀が宝刀なら、また、それを承知で逃げてきたと知られたなら、わたしにはかえる家もありません。ましてや、信乃さんにもきらわれるでしょう。その刃を、お見せください」といった。左母二郎はうなずき、
「もっともだ。信乃は、つねに油断がないといっても、舟中にいたのはわたし一人さ。それで信乃には知られずにすんだ。この村雨は、わたしの立身出世のかけはしにもなるし、おまえとのちぎりをする月下翁(むすびのかみ)ともなるのさ。ぬけばたちまち水気があるぞ。それが、なによりの証(あかし)だ」とひきぬきわたすと、浜路は右手にうけ、うちかえすようにし、
「夫の敵(かたき)」と、声もろともにつきかかった。
左母二郎は刃の光におどろき、左にさけ、身をしずめて払えばとびこえ、つこうとすればかいくぐる。
浜路は女ながら念力でせまる。左母二郎はするどい切っ先に、ますますいかり、小刀をぬき、ちょうちょうはっしとはずし、うけながし、浜路の乳下をきった。
「あっ!」とひと声、ひるむ刃をたたきおとし、おどりかかってつかみ、髻(たぶさ)を膝(ひざ)にひきつけ、
「《あま》め。おまえを恋しいとおもっていたから、なぐさめもしてきたのだ。それなのに、刃物三昧(ざんまい)、敵とよばわれたのではゆるしておけぬ。それほどまで信乃をわすれることができないのなら、わかれてもやろう。あの世で、あうがいい。もし、わたしのこころにしたがわないなら、遊女にうるつもりでいた。だが、売物に傷をつけたのでは、それもせんないことさ。あくまでわたしに冷たくした罰として、すぐには殺さぬ。なぶりごろしにしてくれる。泣くだけ泣け。いいたければいえ。月のでるまで、きいてやるぜ」と、浜路をけころばし、村雨の刃を鞘(さや)におさめて腰におびると、小刀を地につきたてた。
そして、木の株に尻をかけ、懐中の畳紙(たたみがみ)につつんだ毛ぬきをだし、おとがいの不精(ぶしょう)ひげをぬいた。
浜路は、苦しい息のしたからようやく立ちなおり、乱れ髪が顔にかかるのをふりはらい、
「うらめしい左母二郎。夫のある女と知りながら、理不尽(りふじん)にもつれてきたばかりか、よからぬことをじまんげにかたり、わが夫を、死地におとした邪知奸悪(じゃちかんあく)。一太刀(ひとたち)うらみをはらそうとおもったのに、それもとげることならず、いのちをおとすとは、これも前世の悪のむくいか。それにしても、気にかかるのは夫のゆくえ。そして幼いときわかれたまことの親と兄妹。練馬さまの御内(みうち)とわずかにきくだけで、名を知らず顔を知らぬが恋しい。冥土(めいど)もひとり旅か。いのちはおしくはないが、恩愛節義のため、せめてふたたび夫にあう日まで、まことの親の生死を知るその日までは、おしいいのちだ。この山をこえてくる人はいないのか、たすける神も、この世にはないのか」と、涙声でいった。
左母二郎は、あくびをして、
「ああ、ながいながいうらみごとだ。親のためには孝女で、信乃のためには貞女(ていじょ)かい。わたしのためには、なんにもないのさ。しかし、その深手で、長ものがたりは感心だ。そのほうびに、ただひとおもいに、この世とわかれさせてやろう」と、毛ぬきをふところにいれ、小刀をぬこうとしたが、
「まて。おまえのこころにかかるこの村雨で、引導をわたしてやろう。どうだ、うれしいだろう」とあざわらって、村雨をとりなおし、「観念するのだ」とたちかかると、浜路は首をあげ、
「恋敵の手に死すとも、夫の刃にかかるのは本望(ほんもう)。はやくころせ、左母二郎。おまえのさいごも、こうなるだろう」というと、左母二郎は目をいからせ、
「にくき女の雑言(ぞうごん)。息の根とめてやるぜ」とひきつけ、胸をつこうとすると、火定(かじょう)の穴のあたりから手裏(しゅり)剣(けん)がとびきたって、左母二郎の左の乳下にうちこまれた。その痛手に刀をおとし、「あっ!」とさけび、のけぞった。そのとき、あやし。穴のあたりから、こつぜんとたちあらわれた人影がある。別人ではない。火定にはいり、死んだはずの寂寞道人肩柳(じゃくまくどうじんけんりゅう)その人だ。そのいでたちは、みごとなほど一変しているのだ。
からだには、すきまなく南蛮鎖(なんばんくさり)のきこみ腹巻をきこんでいる。網をはったクモのようだ。上には唐織(からおり)のだんだらすじの広袖(ひろそで)の単衣(ひとえ)を裾(すそ)短かにきている。モミジをながす滝(たき)にもみえる。腰には朱鞘(しゅざや)の太刀をよこたえ、足には厚鞋(あつわらじ)をはき、大平金(おおひらかね)の篠(ささ)ごてに、十王頭(じゅうおうかしら)のすねあてをし、濃紫(こいむらさき)の円括(まるくぐり)の帯を臀(しり)高くたばねている。
歳はまだ二十歳(はたち)ばかりか。眉(まゆ)ひいで、目もとすずしく、唇赤く、耳厚くして、歯並みはこまやか。《さかやき》のあとに長くのびた髪は黒く、ひげのあたりは青い。このもののこころは、善か悪か? その行いは正か邪か? ひとくせも、ふたくせもあるつらだましい。つねの人ではないとみうけられた。
寂寞肩柳は左、右とみて、しずかに左母二郎にあゆみよる。左母二郎が息をふきかえして、刀を杖(つえ)にして身をおこし、よろめきながらきりつけようとすると、すこしもさわがず、体(たい)をかわし、いきなり刀をうばい、「はた」ときる。左母二郎は、もんどりうってたおれた。肩柳は、しきりに水気のたちのぼる刀をたてて、切っ先から鍔下(つばした)まで、まばたきもせず、きっと見て、
「音にきく村雨の宝剣。ぬけば玉ちる、露かしずくか。奇なり妙なり。神竜これがために雲に吟(ぎん)じ、鬼魅(きみ)このゆえに夜なかん。いまはからずも、このような名刀がわが手にはいったのは、仇討(あだう)ちのときがきた吉兆(きっちょう)にちがいない」と、刀を左手にうつし、右手にかえしてみる。
ところで、額蔵(がくぞう)は、この朝、信乃とわかれてから、千住川(せんじゅがわ)をわたるころに、日がおちた。まようところではないが、どこをどういきぬけたか、初更(しょこう)のころには円塚山(まるつかやま)にさしかかっていた。
きょう、円塚山で火定(かじょう)があったことを耳にしていたが、その残り火がまだ消えず、そのあたりは明るい。鮮血にまみれ、たおれている男女が額蔵の目についた。また、白刃(はくじん)を手にもった一人のくせものがたちつくしている姿もとらえた。額蔵は、松の木かげにかくれて、ただならぬようすをうかがっていた。
肩柳は、鞘(さや)をとりあげ、刃をおさめると、たおれている浜路のそばにきてひきおこし、いそいで懐中から薬をとりだし、口にふくませ、「女子(おなご)、女子」とよびかけた。
浜路は、気がつき、あやしい介抱(かいほう)の手をふりはなそうともがいたが、肩柳は手をゆるめず、
「わが姓名をつげぬので、仇か、賊(ぞく)かとうたがっておどろくのももっともだ。深手(ふかで)ではない。こころをしずめてよく聞くがいい」という。浜路は、ほっとして、
「そうもうされるあなたは、どなたです?」と、顔を見つめると、肩柳はため息をつき、
「名のるには《はばかり》があるが、夜のこととて、ほかにひとはない。はからずもめぐりあったわたしは、そなたとは異母(はらちがい)の兄、犬山道松忠与(いぬやまみちまつただとも)というものだ。わけあって、去年の秋から姿をかえ、名をあらため、寂寞院肩柳(じゃくまくいんけんりゅう)と世に知られた偽修験者(にせしゅげんじゃ)。いくさきざきで火定を見せ、愚民(ぐみん)の銭をあつめるのは、軍用金のためで、君父(くんぷ)の仇をむくいるのが目的だ。そもそも、わが主君、練馬平左衛門尉(ねりまへいざえもんのじょう)倍盛朝臣(ますもりあそん)が豊島・平塚の一族とともに池袋でうたれ、わが父の犬山貞与入道(いぬやまただともにゅうどう)道策(どうさく)も、一族郎党も冥土の旅のお供をつかまつり、練馬の館(たち)もやきうちされ、いきのこったものは、一人もなかった。ただわたし一人、たたかってころされるような敵とはあわず、ふしぎに戦場をくぐりぬけてきた。
それから復讐(ふくしゅう)をくわだて、家につたわる忍びの術、火遁(かとん)の術をつかって修験者に姿をかえた。あるときは烈火(れっか)をふみ、愚民らを信用させ、あるときは火定におわりを見せて、銭をあつめ、軍用金をたくわえてきた。火にはいるとみせかけて、火にはいらず、全身やけうせたとおもわせて、火のそとに姿をかくすのだ。これを火遁(かとん)というのだ。ほかに木遁・土遁・金遁・水遁の術があり、あわせて隠形五遁(いんぎょうごとん)という。
文治(ぶんじ)の役(えき)のおり、源義経(みなもとのよしつね)がいくさにやぶれ、館に火をかけ、自焼(じしょう)してのがれたのも火遁の術だ。このあと、この術を伝授したものがいることは、聞かぬ。一人わが家だけが、祖先から火遁の一書を相伝したのだ。
だが、その書は奇字隠語(きじいんご)なので、解するものがなかった。わたしが十五歳のとき、はじめてその書をひらき、夜となく昼となく、読誦(どくじゅ)工夫すること三年、ついにその奥義(おうぎ)をきわめたのだ。
いま君父の仇、管領扇谷定正(かんれいおうぎがやつさだまさ)たちをうとうにも、一人もたすけてくれるものがいない。そこで軍用金をえようと、火遁の術をもち、火行(かぎょう)火定といつわり、愚民をあざむき、あっちこっちとめぐってきた。ここでも火定の詐欺(さぎ)をしたが、つくづくおもうに、忠孝に似ているが、じつは賊的行為だ。たとえ、たすけをえて、大敵をほろぼしても、このような不良のことをして、ひとをあざむき、物をかすめていては汚名(おめい)をのこすことになる。そこで、もとの姿にもどった。
すると、目の前で三人の悪相がきられ、のこるは一人とおもっていると、あでやかな女をかどわかしてきて、自分の色欲になびかないのをいかって、女に手傷をおわせた。ここで、そのものと女の話をきいた。女は、大塚の村長(むらおさ)蟇六の養女といい、浜路という、いまの名ではないか。
わたしには異母の妹がおり、幼名を正月(むつき)といったが、妹が二歳、わたしが六歳のころ、しかじかのわけあって、豊島郡大塚の村長蟇六とかいうものに、生涯(しょうがい)交際しない約束で養女にやった、と父からつげられたことがあったが、この女のことか、と手裏剣をうち、妹の仇をうったのだ。
聞けば、おまえには婚約者がおり、そのために苦節をまもり、いのちをおしまず、仇をののしったのは、まことに貞にして孝だ。わたしが近くにいながら、おまえをすくうことができなかったのは、これもまた、輪廻(りんね)のいたすところか。のがれることのできない因果なのかもしれぬ。
わたしの話がながく、苦しいだろうが、もうしばらく辛抱(しんぼう)してほしい。おまえの母は黒白(あやめ)といって、わたしの父の妾であった。わたしの母は阿是非(おぜひ)といった。わたしは、長禄(ちょうろく)三年九月戊戌(つちのえいぬ)の日にうまれた。わたしは、うまれながら左の肩先におおきな瘤(こぶ)があり、そのかたちが松に似ているので、道松とよばれ、十五歳の春に元服(げんぷく)して、名を忠与とあらためた。寛正(かんしょう)三年春、黒白(あやめ)が女の子をうんだ。臨月が早春ゆえ、正月(むつき)と名づけられたのだ。これは、おまえのことだ。
寛正四年の春のおわり、わが父が、主君練馬どのの使者として、京都将軍家に伺候(しこう)して留守のとき、黒白(あやめ)は、今坂錠庵(いまさかじょうあん)という医師とひそかにあいはかり、わが母を毒殺、わたしは首をしめて殺された。母子とも急死といつわり、菩提寺にほうむった。
その月のすえに、父が京都から下向の途中、宿屋でむすぶ夢は凶ばかりで、不安にかられた。練馬につき、妻子の死を聞き、つぎの日、寺にもうでた。
墓所に合掌(がっしょう)していると、墓石の下から子どもの泣き声がしたので、あやしみながらあばいてみると、わたしが蘇生(そせい)して泣いていたのだ。助けだされたわたしの肩の瘤の上に、ボタンの花のかたちをした痣(あざ)があった。しかし、母のなきがらはくさっていて、どうすることもできず、埋葬した。
そのとき、わたしは六歳だった。父は側近のものから、しかじかと話をきき、黒白(あやめ)はとらえられ、白状し、罪に服した。父が、その事情を主君にうったえると、練馬どのは、錠庵(じょうあん)の首をはねた。
それでも父の怒りはおさまらず、おまえを、世に忌(い)むという四十二の二つ児(ご)として、養育費七貫文(もん)をそえ、大塚の村長蟇六の家に養女としたのだ。
これは、わたしが十二歳の春、母の七回忌のとき、父からきいたのだ。正月(むつき)もおなじ父の子だが、母と母とは怨敵(おんてき)だ。わたしは、そのごは父にも聞かぬまま、うちすぎてきたが、おもいがけないこよいの再会、おまえは実母に似ず、貞実にして孝順だ。それにしても、邪慳(じゃけん)な養父母、したう男にはあうこともできず、くせものに害されるとは、輪廻(りんね)か。
おまえはおなじ父の子だ。かどわかされても身をけがさず、死にいたるまで操(みさお)をかえず、死ぬまぎわにも親をおもう。その貞、その孝、むなしいものではない。左母二郎というくせものを、おまえとおなじ乳下の傷でたおしたのも、因果応報かもしれぬ。
今生(こんじょう)の薄命は、実母の悪業によってであったとしても、来世は身の功徳(くどく)によって、仏果をえよう。父は管領定正の家来、竈門三宝平(かまどさぼへい)にうたれた。享年六十二歳であった。わたしは、仇をうつことができなかったら、仇の手にかかって死ぬ覚悟だ。これから父の法名道策をまね、犬山道節忠与(いぬやまどうせつただとも)と名のろう。いずれ死後には親子の対面をしようぞ」と猛勇犬山道節は、やさしいこころで妹にかたった。
残り火にかわって、十五夜の月の光が、兄妹を明るくてらしだした。
◆里見八犬伝◆ 巻一
滝沢馬琴作/山田野理夫訳
二〇〇五年七月十五日