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AHEADシリーズ
終わりのクロニクルA〈下〉
[#地から2字上げ] 川上稔
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)必要|最低限《さいていげん》の明かりが灯《とも》る
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#底本「○○○」]
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終わりのクロニクル
著●川上稔 イラスト●さとやす(TENKY)
A【下】
――諸君。
それでは行こう。
目覚めの行き場を見るために。
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The Ending Chronicle
Act.02
CHARACTER
.Name :鹿島・昭緒
.Class:UCAT開発部主任
.Faith:軍神パパ
.Name :鹿島・奈津
.Class:一般人
.Faith:温厚型堅実女房
.Name :熱田・雪人
.Name :獏
.Name :ディアナ・ゾーンブルク
G-WORLD
・IAI空白期について・
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1985年〜1995年の従業員資料の大半が消失している異常事実のこと。
消失資料はIAI側よりもUCAT側の方が膨大に及んでいるが、誰の手によるものか、または自然のものかも定かではなく、その目的すらも一切憶測の域を出ない。
この空白期の発端は、1995年12月25日に発生した関西大震災と噂される。
この震災は大阪南東部を震源にM8級の被害を及ぼし、続く二次災害で救助に駆けつけたIAI、日本UCAT、一部の海外UCATの多くを飲み込んだとされている。
このことからUCATの情報が漏洩するのを避けるために情報を抹消したというのが今の統一見解だが、真実を知る者は日本UCATや各国UCATに数名いる程度である。
IAI側はこの不祥事に対し幹部の大幅刷新を行い、97年には宇宙開発などを含む新規事業体制を発足した。
だが、日本UCAT側は世界各国のUCATからの追求と対応に追われ、組織としての持ち直しは90年代後期に果たされることとなった。
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終わりのクロニクル 2ー下
プロット表
 第十四章『答えの行く先』
 第十五章『獲得の位置』
 第十六章『たたずみの先人』
 第十七章『絶叫の雨』
 第十八章『痛みの要求』
 第十九章『埋め合わせの夜』
 第二十章『逃れの意向』
 第二十一章『率直の真意』
 第二十二章『起立のきっかけ』
 第二十三章『力の選び手』
 第二十四章『口伝のつぶやき』
 第二十五章『偽証の名前』
 第二十六章『相対の始まり』
 第二十七章『己の名前』
 第二十八章『戦いの詩』
 第二十九章『虚偽の見破り』
 第三十章『求めの場所』
 第三十一章『水穂の竜意』
 最終章『風の伝えること』
 あとがき
ボクが答えを怖れぬように
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イラスト:さとやす(TENKY)
カバーデザイン:渡辺宏一(2725inc)
本文デザイン:TENKY
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第十四章
『答えの行く先』
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歌え束の間の安堵の詩を
それを準備と成すか休息と成すか
全ては結論にて解ること
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その空間は、茶色い壁紙の貼《は》られた板張りの六畳間だった。
キッチンだ。
白い天井には昼の光の差す天窓。壁際《かべぎわ》には流し台とコンロに冷蔵庫。そして中央のテーブルでは三つの人影が昼食を摂《と》っている。
東、入り口側に座るのは二人の少女、命刻《みこく》と詩乃《しの》だ。
西、冷蔵庫の前に座るのは新聞片手のアラブ風の初老《しょろう》、ハジだ。
彼は白い傷跡の残る左の目を閉じたまま、左手に新聞を、右手には、
「昼から酒はどうか。ハジ義父《とう》さん」
命刻の声に、ハジはふと右手のグラスから、彼女に目を留めた。
命刻はオリーブオイルを掛けただけのパスタを食べながら、据《す》わった目でこちらを見ている。
「どうした? 命刻。いつものことだと思うんだがね?」
ハジは知っている。命刻がいつもと違うのは大体において、
「何か詩乃の関係で頼み事でもあるのか? そうだろ? 違わないな? ん?」
「んー、……義父さんは相変わらず鋭いな。――詩乃」
「え? あ、はいっ」
詩乃は目の前の皿に置かれたパスタに手をつけぬまま、
「あ、あのですね、義父さん。お願いが一つあるんですけど」
「んー、何かね? 私に出来ることだったら何でもしようと思うが」
そこまで言ったハジは新聞を手にふと考える。
「ちょっと待ってくれるか? こういう会話は久しかったものだからな。家族的な演出として、ここは、詩乃のお願いというのを義父さんが当ててみよう。……ええと、ああ――」
「解《わか》った?」
うむ、とハジは即座《そくざ》に頷《うなず》いた。
「惚《ほ》れた男でも出来たか! ん? そうだな? そうだな? 相手の男は羨《うらや》ましい男だ」
はははと笑い、
「火刑《かけい》にしてやる!」
「日本じゃ違法行為だ義父さん。詩乃も困ってる」
「くあー相変わらずセメントだな命刻」
どうやら予想は違ったらしい。ハジは口元を手で隠し、
「今のは単なるジョーク、出会い頭《がしら》のジャブだよカウントするな。いいな? 次が本番だ」
「どうせ当たらないから早めに答えるといい」
ハジは命刻の言葉を無視し、じっくりと一分ほど考えた。だが、
……解《わか》らん。
汗が出た。
いかん、考えろ。
最近、食事は問題ない筈《はず》だ。
買いだしは詩乃が自分から進んでやっていることだし、調理は命刻《みこく》に任せると焼くか煮るか生しか出なくなるので、詩乃《しの》が交代制を申し出た筈だ。
他に何かあっただろうか。
「…………」
テーブルの向こう。命刻がオリーブのパスタに醤油《しょうゆ》を振りながら、
「9th―|G《ギア》の元|大《だい》将軍は、やはり家庭の事情に疎《うと》い……、と。一種の職業病か……」
「ま、待て命刻、義父《とう》さんを舐《な》めるな」
「では解答を」
ハジは考える。そして、
「あ」
いや違う。風呂《ふろ》の順番は半月前に組み直したばかりだ。
これは本気にならねばと思い、ハジは新聞を横に置く。
ややあってから、
「うむ」
「答えが出たの?」
「ああ、さっぱり解らん。――痛っ! な、何する命刻!」
「命刻|義姉《ねえ》さん、今のはツッコミ入れる場所だけど、塩の小瓶《こびん》は痛いと思います」
ハジは床に落ちそうになった小瓶を手に取り、目の前のパスタに振る。
視線の先、命刻は淡々と食事を続行。
「命刻。最近お前は義父さんとのコミュニケーションが不足しているな」
「ものをぶつけるのは言葉より早いコミュニケーションだよ」
ふうむ、とハジは頷《うなず》く。
最近、この年長少女は反抗期なのだろうか。理由があるとしたら、
「やはりあれか、あれだな? 第二次|性徴《せいちょう》。いいなあ。義父さんも遙か昔にホルモンの奨めに従っていろいろ悪さしたもんなんだが、お前もか。違うか? そうだな? んがっ!」
「あ、義父さんすまない、何か胡椒《こしょう》の小瓶も欲しかったようだったから」
そして詩乃を見ると、
「――詩乃、これ以上|長引《ながび》くと私が ムカツキ・腹立ち・激怒《げきど》 と三段移行するぞ」
「あ、はい。では義父さん、家庭の平和のためにも前振《まえふ》り無く言いますけど、……今日は午後から休暇をとっていいですか」
問われ、ハジは胡椒《こしょう》の小瓶《こびん》を手に天井を見た。
どうしたものか、と考える。
一応、軍 はそれなりの人員をもって活動している。その動きは多岐《たき》に渡るが、
「最近は皆も高尾《たかお》の地下工場でアレックスの整備にかかり切り。今日は全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》が昭和記念公園の概念《がいねん》空間に向かうが、手出しは不可能。――そうだな?」
自問にハジは頷《うなず》いた。
整備はあるが、軍 としての実動は無い。少なくとも全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》が2nd―|G《ギア》との交渉を終えるまで、自分と幾《いく》らかの人間が各Gの残党達と接触する程度だ。
成程《なるほど》な、とハジは改めてつぶやくと、首を下に振った。
「まあ、午後くらいはいいだろう。うん」
「――いいんですか?」
「悪いとは言わないぞ。このハジは、全ての終わりより預かった娘達を止める野暮《やぼ》はせん。これが養父《ちち》としてのサ――ヴィス、そういうことだ」
「わ、有《あ》り難《がと》う御座《ござ》いますっ」
「だが次からは前夜の内に言って欲しいものだな。ん? それと他の者達ともちゃんと連携《れんけい》をとっておくこと。――竜美《たつみ》との訓練も暇つぶしに行ってるわけではないだろう? な?」
ハジが笑みとともに告げると、詩乃《しの》は頷いた。笑みを返してくる。
彼女の破顔《はがん》にハジは問う。
「で、今日は二人とも、どうする気だ? ん?」
「ええ、義姉《ねえ》さんとちょっと買い物に行こうって。だから骨休めに御近所のスーパーでも行ったら、久しぶりに読書して過ごそうと――」
詩乃は横の命刻《みこく》を見て、そのまま固まった。
いつの間にか、命刻が胡麻《ごま》塩《しお》の小瓶ではなく、カジュアル雑誌を手にしていたからだ。
「あ、あの、命刻義姉さん? 原宿《はらじゅく》とか渋谷《しぶや》の買い物ページ見て、一体|何《なに》を……」
「行くのだろう? そうと決まったら必要な物資の補給だ。いろいろ調達せねばならんな」
「ええと、あのですね? ちょっと買い物って話だったんですけどー。ここ八王子《はちおうじ》から原宿渋谷までどれくらいあると――、って新宿《しんじゅく》マップまで持って! どこがちょっとですかー!」
「直線距離で三十キロほどだろう。そして障害もほとんどあるまい。ちょっとの苦労だ」
命刻はこちらを見て、
「そういうわけで義父《とう》さん。これから私は詩乃の買い物をエスコートする」
「えー、私、家でゆっくりしたいのにー。あと命刻義姉さんの台詞《せりふ》は言い訳|臭《くさ》いです!」
「気にするな。さあ行こうか、大事なお前の装備品|補給《ほきゅう》だ。――原宿には行ったことないんだよなあ私。私のサイズに合うのあるかなあ。酷《ひど》く冷静にウキウキするなあ」
「……命刻。本音と建前を一緒に喋《しゃべ》るのはやめた方がいいぞ」
ハジの言葉に、命刻《みこく》は本から笑みの顔を上げ、こう言った。
「ハジ義父《とう》さんも来る? 荷物持ち。どう? 養女としてのサーヴィスだけど」
新庄《しんじょう》・切《せつ》は田宮《たみや》家の軒下《のきした》、縁側《えんがわ》に座っていた。
暖かい日向《ひなた》で孝司《こうじ》からもらった梅湯《うめゆ》を飲む眼前、庭の中では全連祭《ぜんれんさい》の準備中だ。
生徒は皆、材木やら鉄パイプやらを持って屋台の作成にいそしんでいる。
彼らの間を大樹《おおき》がうろついているが、世話役 と書かれた紙を背に貼《は》った生徒がそれとなくフォローしているため、基本的に害はない。
佐山《さやま》は先ほど、生徒会の仕事があると言って出ていった。出雲《いずも》達と待ち合わせして立川《たちかわ》の方に出るのだと言う。
そして今、自分の横には、一人の老人がいる。
飛場《ひば》・竜徹《りゅうてつ》。
奥多摩《おくたま》にある飛場道場という武術道場の主《あるじ》で、佐山の祖父とも親しくあった人物。
左の目に| 紅 色 《くれないいろ》の瞳を持った老人。
そんな彼から、新庄はずっと佐山の話を聞いていた。
「――あの御言《みこと》の馬鹿が反抗期だった時代があってよう。中学入る前あたりか。あの頃の御言は可愛《かわい》かったなあ。マジで殴ってもご指導|有《あ》り難《がと》う御座《ござ》いましたとは言わなかったもんなあ」
「ス、スパルタなんですね……」
「そうでもねえよ。優しいもんよ。一番初めにうちの道場に連行されて来たときはアレよ。まあ初めてということもあって山奥にちょっと連れて行ってやってよ」
「そこで修行ですか?」
「いや、谷に押したらホントに落ちたから慌《あわ》てて逃げ帰った。その夜はケーサツ来ねえかとブルブル震えて布団《ふとん》にくるまってたもんよ。ははははは」
「笑ってる場合じゃなくて殺人|未遂《みすい》ですよそれ!」
いやいや、と竜徹は頭を掻《か》き、
「よく言うじゃねえの、獅子《しし》は子供を谷底《たにぞこ》落とすって。今がその機会で、二度とチャンスはねえと思ったら何か我慢出来なくなってなあ。……後に三回くらいまたやったけどな」
「ええと、しみじみと問題ありますけど無視して。とりあえずそれで佐山君は?」
「ああ、毎度ちゃんと生きて帰って寝首《ねくび》を掻こうとするから足腰《あしこし》立たなくなるまで殴り倒した。それからメシだな。ちゃんと食うから大したもんだ」
「……佐山君が歪《ゆが》んだ理由が何となく解《わか》った気がします。でも、飛場先生にとって、今の佐山君はどう見えますか?」
「今は背伸びしたい時期ってところだろよ。まだまだ、俺達にゃかなわねえな」
「俺達……?」
「御言《みこと》のここを軋《きし》ませるような連中のことよ」
ここ、と言うとき、竜徹《りゅうてつ》は己の左胸に手を当てた。
こちらを正面から見る| 紅 《くれない》の瞳に邪気《じゃき》はない。
綺麗《きれい》だ、と新庄《しんじょう》は思う。まるで女性の瞳のようだと。
そして、ふと視線を奪われていることに新庄は気づいた。
「ご、御免《ごめん》なさい、じろじろ見て」
「いやいや、若い子に見つめられると爺《じい》さん照れちまうなあ」
だが、と竜徹は苦笑とともにこう言った。
「しかしまあよ、御言には乗り越えて欲しいんだけどよう、いろいろと。……聞いてんだろ? この家にある、母ちゃんと過ごした部屋は今、開かずの間だと」
「……はい」
「あの馬鹿、いろいろと迷惑《めいわく》掛けてるだろ?」
「ええ、迷惑というか、判断出来ないようなことを多々……」
「遠くを見てつぶやかなくてもいいぞ」
新庄は苦笑した。
「でも、今までボクはずっと独りだったから、佐山君がそばにいてくれて、楽しいです。ボク、……ずっと昔、裏切られたことがあったから」
「裏切られた?」
問いに、新庄は告げる。
「かつて一人になったとき、誰も来てくれなかったんです。ボクの御世話になっていた施設の人は、いつか迎えに来てくれる人がいるから、って言っていたんですけど、いつになってもそれは来なくて、……凄《すご》く憶《おぼ》えてるんです、一人で泣いていたときのことを」
「嫌なことってのは憶えてるもんだねえ」
言う竜徹の顔には、落ち着いた笑みがある。
そして新庄は気づく。この老人の左|瞼《まぶた》の上下、日に焼けていて良く解《わか》らなくなっているが、確かに傷跡のようなものがある。
……この人も、きっと何かあったんだ。
ふと思う。もし佐山のように過去を思って胸が軋ませられるなら、自分もこの人も、どのくらい胸を軋ませるだろうかと。
それは、あり得ないことなのだが。
新庄は梅湯《うめゆ》の湯飲みを一度口に傾けた。と、竜徹が、
「今はどうよ? 今の自分ってやつは、さ」
「あ、――流石《さすが》に今は、ちょっと違うと思います。かつてのボクはずっと待っていたんだけど、もう、待っているだけでは嫌だと思って。だけど」
「だけど、って何でえ?」
問いに対し、新庄《しんじょう》はうつむく自分を感じる。
「ボクは佐山《さやま》君の怪我《けが》の御世話でここに来たんだけど、佐山君、怪我はもう治っているし、だから、そろそろお別れしないと。――これ以上は、いる理由が無くて迷惑《めいわく》だろうし」
「迷惑かどうか、確かめたのかよう?」
「確かめるの、怖いですから」
だから、ここに来た理由だけを考えておけばいい。
その理由が無くなったからには帰るしかないのだと。
と、横から竜徹《りゅうてつ》の声が聞こえた。
「ふうむ。まあ、いろいろ考えてみるのがいいさ。――それよかよ、さっき、御言《みこと》が出ていくとき何か手渡してたけどよ。……聞いていいかい?」
「ああ、あれはルーズリーフのバインダーです。ボクがいつか書こうと思ってる小説の」
「小説か。いいねえ。ブンガクだねえ。……軽井沢《かるいざわ》の別荘、高原、広い空、静かな夜」
「何だかどこかで似た台詞《せりふ》を聞いた憶《おぼ》えが……」
「くかか、どうせ御言の馬鹿だろ」
竜徹は笑い、そして不意にこちらの頭を撫《な》でて来た。
「まあ頑張《がんば》りな。お前さんは、――きっと苦労人だ」
佐山は、出雲《いずも》と風見《かざみ》の三人で立川《たちかわ》行きの電車に乗っていた。いつもなら単車で移動する二人が電車に同乗したのは、風見が八叉《やまた》について幾《いく》つかの謎《なぞ》を持って来たからだった。
「でも佐山、屋台作りの方は放っておいていいの?」
「全竜交渉《レヴァイアサンロード》が優先だよ風見。案ずることはない。それに今年は専門家の金《キム》氏だけではなく旧ソ陸軍出身のマッスルコフ兄弟も手伝うそうだ。――名前からして頑健《がんけん》な気がするね?」
「鉄塊《てっかい》みたいな屋台が出来そーな気がするんだけど……」
「ははは今から予約で褒《ほ》め称《たた》えてくれても構わんよ? ただ、調子の悪そうな新庄君を置いてきてしまったのが爆発的に気がかりだ。――が、しかし」
「しかし? 何よ?」
風見の言葉に、佐山は笑みを浮かべて左腕の黒いバインダーを抱え、
「ふふ、代わりにこうして新庄君の秘密を預かってしまったのだよ。この中身はきっと、いや、それはもう、ああ、――ああもう我慢がっ!」
「おいコラ馬鹿、勝手にクネクネするな。大体、さっき聞いたその中身は書こうとしてる小説の手書きプロットだろうが。オマエの脳内|刺激《しげき》するようなことな書いてねえぞ多分」
「おやおや私達の信頼関係を妬《ねた》むのかね? ならば出雲《いずも》、貴様《きさま》にもチャンスをやろう」
「何のチャンスだ?」
「一生に一度しかない私の信頼を得るチャンスだ。毎日早朝に寮《りょう》の屋上から下界《げかい》に向かってこう叫びたまえ。 佐山《さやま》様は宇宙|一《いち》。全ては佐山様のために と。百日《ひゃくにち》続いたら――、おい何故《なぜ》風見《かざみ》と一緒に窓の外を見ているのかね? 真剣な話の途中なのだが」
「覚《かく》、反応しちゃ駄目《だめ》よ。これ以上アンタが変になったら私|困《こま》るわ」
「安心しろ。既に俺の許容ゲージは表面| 張 力 《ちょうりょく》状態だ。これ以上は入らねぇ」
「それはまた大変なことだね」
「誰のせいだ馬鹿|野郎《やろう》っ!」
ともあれ話は進む。
風見が持ってきた謎《なぞ》とは次のようなものだった。
八叉《やまた》の名前が立場や役職を示すものでないこと。
スサノオの名が復権の後も変わらなかったこと。
そして、草薙《くさなぎ》にも何らかの謎があるらしいこと。
電車内会議は、昭和記念公園のある西立川《にしたちかわ》までの約十五分間。
諸処《しょしょ》の話が展開していく中、風見が自信を持って告げるのは、
「つまり、佐山が夢の中で聞いた八叉の問いとは――、名前なんじゃないのかな、って、まあ、推理だけどそう思うワケよ」
UCATの地下二階。設計室の中で鹿島《かしま》はふと、ノートPCの画面から顔を上げた。
周囲が無人だと言うことに気づき、
「ああ、皆、昭和記念公園に行ったのか」
と、解《わか》ってることを改めて口にする。
静かなものだと思い、ふと、自分のデスクの上を見る。
そこに、一枚のカードキーがあった
月読《つくよみ》から預かった第三制作室のカードキー。
「ここに、僕が投げ出したものがある、か……」
……どうなのだろうか。
今の僕は、それについて、どう思っているのだろうか。
そこまで考え、しかし鹿島は思考《しこう》を断つように椅子《いす》を立った。
デスクの上のカードキーを眺《なが》め、一つのことを考える。
……全竜交渉《レヴァイアサンロード》。
不明の思いに続く言葉を、鹿島は口にする。
「あの佐山《さやま》という少年は、――そろそろ月読《つくよみ》部長との事前交渉に入る頃かな。だけどもし彼らが2nd―|G《ギア》を知ろうとしているならば、八叉《やまた》の問いにそろそろ気づく頃だろう」
鹿島《かしま》はカードキーを手に取り、台詞《せりふ》を放った。
「――八叉の真の名とは何か、と」
電車の中、風見《かざみ》の言葉に出雲《いずも》が首を傾《かし》げた。
「八叉の名は……、八叉じゃねえのか?」
「さっき言ったでしょ? 何故《なぜ》、草薙《くさなぎ》っていう神剣《しんけん》を飲んでいたものが、その役を負った名前を持っていないのか、って。2nd―Gの八叉にもこれは応用出来ると思うわ。――何故、2nd―Gというバイオスフィアを管理していたシステムが、八叉なんて名を与えられたのか」
彼女の言葉に、佐山は眉を動かした。新庄から預かったバインダーを手にしたまま、
「役目によって名前が変わるとすると、……2nd―Gの管理システムは、暴走して炎竜《えんりゅう》になったとき、本来の名を捨て、広がり燃える炎竜の形状として八叉の名を得たと?」
「ええ。そうやって考えると、八叉が2nd―Gの住人を恨《うら》み、信用しなくなったのも解《わか》るでしょ? 本来あるべき名前を失わさせた2nd―Gの者達に、己が元々|何《なん》だったかを問う。つまり、……お前達が忘れ、崩壊《ほうかい》に至らせた世界の名を言ってみろ、とね」
「世界レベルの恨み節《ぶし》かよ。シャレになんねえな」
「だが、そうだとしたら、……八叉の名は簡単だ」
佐山の言葉に、風見と出雲がわずかな驚きの顔を作った。
そんな二人を見てから、佐山は満足げに一息。左手で髪を掻《か》き上げ、
「ふむ。泣いて頼むなら教えてやらんこともないのだが……」
「ふふ、佐山? ――神罰《しんばつ》って電車の中にも落ちるのよ?」
「さて、――では今日は特別サービスで教えよう。要するに、八叉とは正なるものが悪に転じた姿だ。スサノオが十拳《とつか》で悪を切り倒し、中から正の姿を取りだしたと考えれば」
「……八叉の名ってのは草薙か。その外側を隠し包むものが八叉という形だった、と?」
へえ、と風見が驚き顔から喜びの顔を作ろうとした。そのときだ。
「だが、そこで安心するのは早計《そうけい》だ」
その言葉に、風見が焦りの表情で振り向く。
「え? な、何で?」
「風見、君が最後に告げた草薙の謎《なぞ》がある。――いいかね? 草薙には二つの名前があるのだ。草薙の剣は後に天に献上《けんじょう》され、そこで名を変える。天《あま》の叢雲《むらくも》、と。草薙という名が草を薙《な》ぐことから涼風《すずかぜ》に繋《つな》がるとすれば、この叢雲は雨を降らせる雨風にさえ繋がるものだ」
「おいおいおい、じゃあ、草薙と叢雲のどっちが、剣の本当の名前なんだよ?」
「まだそれは判断出来ん。ただ――、これこそが本当の問いかけだ。我々が2nd―|G《ギア》を正しく見ているかどうか」
「草薙《くさなぎ》と叢雲《むらくも》の二択《にたく》で、全てが決まる……?」
「かつて、大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》という男は、これを正しく答えて死んだのだな。少し、彼について調べてみる必要もあるか。――死を賭《と》すほど、答えに執着したのは何故《なぜ》か、と」
佐山《さやま》は眉をひそめてこう告げた。
「ただ、風見《かざみ》が先ほど告げた謎《なぞ》の一つ、スサノオの名が変わらなかった理由は解《わか》る」
え? と首を傾《かし》げた風見に、佐山は満足げな顔を見せる。
「……スサノオとは草薙を天に献上《けんじょう》する英雄を示す言葉なのだろう。草薙も叢雲も風に関する名、暴風を意味する荒《すさ》の王《おう》の下に入るべき名だ。風の剣を得ても風の王の名は変わらない」
「へえ。……でも、それゆえ、草薙の本当の名が草薙と叢雲のどちらかは解らない、と」
風見は、己の言葉に表情を硬くした。無理に笑みを見せ、
「ちゃんと答えを、……見つけようね?」
「安心したまえ。――私は全てと向き合い答えを見つける所存《しょぞん》だ。無敵《むてき》だよ? 私は」
「おいおい、無敵の根拠《こんきょ》はどこだ、ある意味宇宙|一《いち》め」
出雲《いずも》の問いに佐山は断言した。外、電車が目的地に止まる動きを見ながら、
「根拠のある無敵など存在せんよ。私は無敵だ。――だから君達も、根拠|無《な》く安心したまえ」
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第十五章
『獲得の位置』
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振り返れ
振り返れ
そして憶えろ二度と振り返らぬために
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設計室の奥、制作室に向かう通路に鹿島《かしま》は立っていた。
白衣《はくい》に作業着という格好《かっこう》で、右手には月読《つくよみ》から預かったカードキーを持っている。
「どうしたものかな。月読部長は、向き合えと言ったが……」
それで何が解《わか》るのだろうかと、鹿島はそう思う。
心の手持ち無沙汰《ぶさた》。そんな感覚を穴埋めするように、彼は正面を見た。
ここは、かつてよく使用した白亜《はくあ》の通路。
しかし今はときたま、入り口付近を通るだけの通路だ。
……新入り連中には、入り口でうろうろしてる役立たずと思われているだろうなあ。
それは事実だ。
調整とは、最終的な仕上げを行う仕事だが、新人達にとってみれば最後の仕事を奪われているようなものだ。
事実、幾《いく》らかの新人達には疎《うと》まれている。
姓《かばね》として、鹿島家は香取《かとり》や御上《みかみ》という剣神《けんしん》や剣工神《けんこうしん》の家系に因縁《いんねん》があるのだ。
「元来、彼らこそが剣を打つべきを、軍神《ぐんしん》である鹿島が打ったからな」
祖父から聞いた話だ。
2nd―|G《ギア》では、概念《がいねん》戦争を続ける中、戦いを知る軍神が自ら打った剣が重用《ちょうよう》され、
……本来の鍛冶《かじ》神《がみ》達は小物や日用品を打つ方に回された、と。
「今はそれがまた逆転したわけだ」
鹿島は苦笑を床にごぼし、目を前に向ける。
通路の右に第一制作室があり、少し奥の左手側に第二制作室がある。
問題は、通路を曲がった先の、一番奥。
そこに、護国課《ごこくか》時代から存在した領域《りょういき》がある。
……第三制作室。
「今は使われず、そして、かつて僕が出入りしていた場所だ」
鹿島は頷《うなず》き、歩き出した。
十数秒で、第一制作室の前を通り過ぎる。
同じ時間を掛けて第二制作室の耐爆《たいばく》ドアを通り過ぎると、通路は右に折れる。
その曲がり角の向こう、奥に百メートルほど進んだところが第三制作室だ。
「…………」
鹿島は歩く。
そして鹿島は思う。落ち着いているな、と。
歩みは乱れることなく、カードキーを握った右手も力が入っているようなことはない。
だから思う。何だ、こんなものか、と。
歩く足音には震えもなければ力みもない。試しに肩を動かしてみるが、何ともない。
身体《からだ》にあるのは妙な喪失感《そうしつかん》。まるで、過去のことは過去のことだと言うように、自分が何かから切り離されているような感覚がある。
曲がり角に来た。
だから右に曲がる。
自分の挙動《きょどう》に注意してみるが、足音は乱れず、目は前を見ている。
前方。第三制作室の白い耐爆《たいばく》ドアが百メートルほど向こうにあった。
両開きの分厚い扉は、まるで作られたばかりのように白く、こちらにその面を向けていた。
そして、それだけだった。
「…………」
鹿島《かしま》は、ふと、佐山《さやま》という少年が食堂で見せたように、自分の左胸を触った。
何ともない。鼓動《こどう》が速くなっていることもなければ、軋《きし》みを感じることもない。
……何故《なぜ》、こんなに醒《さ》めているのか。
八年前の事故のことを、何故か、遠い出来事のように感じた。
雨の感触《かんしょく》、泥の感触、そして奈津《なつ》の手の感触。どれもが何故か、
……遠いな。
どうしたことか。予想と随分《ずいぶん》違うじゃないか。
思い出すという行為は、過去をリアルタイムにするものだと思っていたのだが、
「過去は、過去でしかないか」
つぶやくと吐息した。改めて身体の力を抜き、前を見て、歩き出す。
……この分だと、僕は自分を見直す必要があるかもしれない。
鹿島は予測する。このまま歩き続ける自分は、おそらく他人事《ひとごと》のように第三制作室のドアを開けてしまうのではないかと。そして、中にある二つに砕けたフツノのフレームを手に取り、
「それこそどうにかしてしまう、か」
今の自分のこの落ち着き具合だと、選択|肢《し》は無限だ。
フツノをその場で砕いてダストシュートに入れてもいいし、打ち直しを決めて作り上げ、熱田《あつた》に手渡し感謝されるのもいいかもしれない。だが、
「どちらにしろ、UCATを辞《や》めるかもな」
過去へのわだかまりが無くなっているならば、奈津に対して後ろめたさを得る必要もない。
鹿島は思う。僕はきっと、奈津さんと今まで以上に上手《うま》くやっていけるだろう、と。
耐爆ドアまで残り二十メートル。
鹿島は歩く。そして思う、今後のことを。
もし自分が過去をいとわぬならば、
……それこそ奈津《なつ》さんにも、左手や雨のことなど気にせぬようにと、リハビリを手伝ってあげることも出来るかもしれない。
いや、それは傲慢《ごうまん》というものか。
随分《ずいぶん》と威勢《いせい》のいいことだ。どれだけ自分が過去に引っかかっていたのか解《わか》る。
しかし、結局、過去は過去だ。
あれだけ恐れていたのに、どうだ、実際向かい合って近づいて見ればどうってことはない。
「かつてあんな風に忌避《きひ》していたのが、馬鹿らしい」
そして鹿島は改めて前を見た。
第三制作室の耐爆《たいばく》ドアが、一歩も近づいていなかった。
熱田《あつた》は田宮《たみや》家の裏口にいた。
裏口の小さな木の門前。単車に乗った熱田の相手をしているのはスーツ姿の青年、孝司《こうじ》だ。
孝司は、午後のかすかな風を浴びながら腕を組み、
「久しぶりですが、本日は一体|当家《とうけ》の裏口に何の用でしょう?」
「相変わらず堅えな孝司。大体、表の騒ぎは何だ一体? うるさくって寄れやしねえ」
「熱田さんや姉がやっていたことと同じ。全連祭《ぜんれんさい》の準備ですよ」
「ああ、祭か。遼子《りょうこ》が生徒会長やって、俺達の代で派手に行うようになったんだよな。でも、俺達やテメエの家で準備なんかしなかったぜ」
「熱田さんの歌の破壊力は知っていましたから、必死に親《おや》経由で阻止しました」
「テメエ、失礼なヤツだな」
孝司は無視した。吐息一つで話題を変えるように、
「ともあれ、姉は外出中です」
「――佐山《さやま》と一緒か?」
告げた名前。それに対していきなり孝司が反応した。
彼の身が微《かす》かに動いたと同時。対する熱田が右の腕を振り上げる。
すると、上げた右の人差し指と中指の間から、一つのものが生《は》えていた。
「刺身|包丁《ぼうちょう》か。……前よりコンマで二秒ほど速えな。と!」
最後の一音《いちおん》で、熱田が単車を前に飛び降りた。彼はハンドルに手をついて前方に一回転。その頃には孝司の左手が、バックハンドの包丁で宙を薙《な》いでいる。
「前よりも技は増えていますよ。熱田さん」
着地する熱田の背に、孝司は笑みある口調を投げた。
直後。孝司は両腕を振り、左右二本の包丁を時間差|無《な》く投射《とうしゃ》。
だが熱田は振り返りもせず、
「そのくらいじゃねえと、――遼子《りょうこ》のそばは任せられねえな!」
熱田《あつた》が右手に取った刺身|包丁《ぼうちょう》の一閃《いっせん》。
それだけで金属音が二つ響《ひび》いた。
ゆっくりと振り返る熱田の足下、中央から折られた二本の包丁が落ちる。
そして熱田は前を見た。単車の横、孝司《こうじ》が右の逆手《さかて》に新しい包丁を握っているのを。
「――熱田さん、どこで若のことを?」
「昨夜、遼子が言ったぜ」
「では、若と熱田さんと、どんな関係が?」
「言えるか馬鹿」
「ではお帰り下さい。――あと、若に害をなされぬように」
「おいおい孝司、テメエ、俺にそんなこと言えんのか? 俺の相手にならねえの解《わか》ってるだろ? 俺も、遼子のマズイとこのフォローはテメエにしか出来ねえって解ってっから――」
「相手にならないのは承知《しょうち》です。ゆえに」
孝司は傍《かたわ》らの単車を平手で示し、
「こちらの単車に泣くほどひどいことを」
「……泣くほどか?」
「ええ。まずはこの包丁で リアル・ヤンキー・ネバー・ダイ と片仮名《かたかな》で書きます。以後、田宮《たみや》家の情報|網《もう》を用い、その単車がどこにあろうとも駆けつけ、新手《あらて》の言語を――」
「頼むからやめうというかいつからテメエそんな陰険《いんけん》になった」
「姉のトラブルに巻き込まれていれば誰だって……」
青い空を遠い目で眺《なが》めた孝司に、熱田は吐息。昔を思い出す口調で、
「そう言うな。アイツがいたから俺は結構《けっこう》救われたとこもあんだからよ……。殴った相手の家に謝りに言ってくれたり、金が無いときは弁当持ってきてくれたりしてな」
「解っています。何故《なぜ》か自分の中学校時代の思い出には、見知らぬ家で姉と説教食らったり、姉に叩き起こされて二人分の弁当を作る光景があり、前向き発想って大事だなって……」
「不服かコノヤロウずっと遠く見やがって」
「ともあれお帰り下さい。大体、何ですか一体《いったい》今日は。いつも自分だけの問題では動かない熱田さんが。……何か御《ご》友人関係のトラブルでも?」
孝司の言葉に、熱田は苦笑した。単車に座り直し、ストッパーを外すと、
「そういうことだ。俺の友人がよ、困ってんだ。――自分がワケ解ってねえらしくてな」
鹿島《かしま》は、分厚い扉を見据《みす》えて息を飲んだ。
眼前、白の鉄扉《てっぴ》は先ほど見たときから一歩も近づいていない。
己の足下を見れば、足は立っている。震えもない。床を踏む足裏《あしうら》の感触《かんしょく》もあり、脚《あし》に支えられる腰も胴体《どうたい》も、全てがしっかりと自覚を持っている。
だが鹿島《かしま》は先ほどの二十メートルから一歩も動いていない。歩いていたつもりが、
「ただ立ったまま、前に行けると思い込んでいただけ……」
何かの概念《がいねん》が働いているのかと左腕を見る。だが、そこにはまった黒の時計は設計室に入ったとき以来、一切の反応を見せていない。
どうしたことだ。
……前に進めない……。
心に湧《わ》いた思いが、尻から背筋《せすじ》をつるりと撫《な》でた。
その感覚、そこから得られる感情を何と言うべきか。否定する意思は別の言葉を口から放つ。
「僕は、もはや自覚|無《な》いところまで、過去に逆らえない……」
恐怖心を感じるまでもなく、その場所に近づくことすら出来ない。
何故《なぜ》だと思い、鹿島は前を見た。耐爆《たいばく》ドアを。
閉鎖《へいさ》を誇る白の鉄板は、横の壁に幾《いく》つかの色彩を持っていた。
この制作室を使用した歴代《れきだい》室長、その姓《かばね》を彫った金属プレートだ。
鉄色《てついろ》のプレートの中、鹿島の姓が一番左にある。
しかし、今見るべきは己の姓ではない。
過去の始まり。この第三制作室を遙か昔に使っていた主《あるじ》の姓だ。
第一期室長は、
「大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》」
彼の横、第二期室長の名前が並んでいる。
「――カシマ」
完全|帰化《きか》を逆らい、タケミカヅチの姓は捨てつつも、漢字|表記《ひょうき》を拒《こば》んだ祖父。
彼らの姓を見た瞬間、一つの震えが来た。
心臓に、大きな鼓動《こどう》を呼ぶ感情。それを何と言うべきか、鹿島は知らない。
祖父のことも、ここを治めた大城・宏昌のことも、自分は何も知らない。
だが、たとえ知らなくても二つの姓はそこにある。自分の姓も、遠く離れて並んでいる。
何てことだ、と鹿島は思う。
鋼《はがね》が刻むのは、過去と、過去を受け継ごうとした者の姓。
ここは、同じ者でなければ辿《たど》り着くことすら能《あた》わぬ場所なのだ。
鹿島は思い出す。過去を、九年前のことを。
かつて、念願|叶《かな》って見ることの出来た巨大な人型《ひとがた》兵器は、その頭部|艦橋《かんきょう》を大破していた。
……荒王《すさおう》へ行けという祖父の遺言《ゆいごん》は無意味なものとなり――。
第三制作室の中で祖父達を追うために、自分の力の発揮《はっき》だけを考えた。
学生時代に親しかった女性のことも忘れ、ただただ己の力を追った。
「――あれから僕はどうなっただろうか」
耳に、一つの音が聞こえていた。
それは雨音。
……嘘《うそ》だ。
ここは地下、そんな音は聞こえる筈《はず》がない。
だが鹿島《かしま》は雨音を聞いた。
雨の夜、崩落《ほうらく》した大地の麓《ふもと》、そこで自分は一つのものを得た。
あれは、何だっただろうか。どのようにして得たのだろうか。
我《われ》知らず、左の手が前に上がっていく。ゆっくりと、ゆっくりと。
しかしその手は、完全に上がり切ることなく、斜め下に向かって停まった。
まるで、誰かに手をさし伸べているように。
……誰に?
「やめろ」
思い出すな。何を手に取り、何を得たのかを思い出すな。
今まで心に刻んだつもりで、だが実際は触れず、誤魔化《ごまか》してきたものを、
……明確にするな。
しかし、左の手指は、虚空《こくう》を確かに掴《つか》んだ。
握ったのは、大事な人の手だった。それも、欠けた手指と、熱いぬめりの| 感 触付《かんしょく つ》きだ。
「……!」
かつてと同じように、鹿島は何かに| 憤 《いきどお》る叫びを挙げた。
そして彼は、| 幻 《まぼろし》のぬめりと熱を帯びた手を握り締め、前を見る。
耐爆《たいばく》ドアの横、姓《かばね》を彫り込んだプレートが目に入る。
見ただけで誰かと解《わか》るのは三人。一番右の二人と、一番左の己の姓だ。
「僕は……」
何故《なぜ》、そんなところに姓を彫り込むことを望んだのか。
……あの頃は、そうすることが過去を追う宣誓《せんせい》になると思っていた……。
嘘だ、と鹿島は思う。嘘であって欲しいと。
かつて自分がそんなことを望んだなど、無かったことにして欲しいと。
そうでなければ、今、己の手にあるものが全て嘘になってしまうのだから。
奈津《なつ》、晴美《はるみ》、自宅の一軒家に庭の花、両親の気遣《きづか》いも自分達の気遣いも、全てが、だ。
しかし手に来るのは、欠けた手指と血のこぼれる感触だ。
それこそが事実だ、と鋼《はがね》の文字は言う。貴様《きさま》の手に入れたものは、我々から逃れるための嘘でしかないと。
鹿島《かしま》は確かに思い出す。フツノを作ったときの感情を。
……あのときの優越を――。
歓喜と、即座《そくざ》に食らった悲鳴による冷却。
記憶《きおく》の感情に身が震えた。お願いだ、とつぶやき、
……もう僕はそんなものいらないから……。
「僕の姓《かばね》を無かったものにしてくれよ……」
震える声に答えはない。ただ、彫り込まれた姓が無言を寄越《よこ》してくるだけだ。
姓は過去から動かない。
その事実に、我《われ》知らずと鹿島は退《ひ》いた。一歩を下がると、二歩目はすぐに準ずる。
あ、と小さな声を挙げ、鹿島は背を向けた。
「ぅあ……」
まろび、つんのめるようにして鹿島は走り出す。自分でもどうにも出来ぬほどゆっくりとした動作で。そのときになって初めて全身が震えていると気づく有様《ありさま》だ。
逃げろ。
「あぁ……っ」
背後、あの耐爆《たいばく》ドアが開き、中から得体《えたい》の知れぬ何かが出てくるような気がする。
いや、それはすぐ後ろに来ている。過去という名前として、今という名前として、こちらを自分達のどちらかに飲み込もうとして。
改めて思う。これが僕の投げ出したものなのかと。
「……!」
鹿島は逃げた。数歩を行き、右手にカードキーを持っていることに気づくと、投げ捨てた。
逃げることに邪魔《じゃま》になるもの全て。白衣《はくい》のポケットに入れていたペンも、電卓も、ハンカチも、白衣そのものも、掛けていた眼鏡《めがね》も。背後から追ってくる何かに対して投げ捨てた。
だが、過去は離れない。震えを呼ぶ感情は、喚起《かんき》されてからずっとしがみつく。
もはや二度と離さない、と。
その感覚に悲鳴を飲み、走り、鹿島は思う。
……僕にはもはや、奈津《なつ》さんや晴美《はるみ》がいるのに……。
曲がり角を曲がり、振り向かず、無人の設計室に転び走りつつ、鹿島はこう思う。
僕の力は、何故《なぜ》、僕を離してくれないのだろうか、と。
「さて、どうするべきかしらねえ」
と、晴れた日の下で白衣|姿《すがた》の女性が言った。
月読《つくよみ》だ。
彼女がいる場所は2nd―|G《ギア》の概念《がいねん》空間内部。荒王《すさおう》を頂く湖の縁《へり》にある小さな広場だ。
湖がある北側以外、周囲は森。
荒王に延びる朽《く》ちた桟橋《さんばし》を背後に、森の涼風《すずかぜ》の中、月読《つくよみ》は腕を組んで微笑する。
微笑の行く先、一人の少年がいた。スーツ姿の佐山《さやま》・御言《みこと》だ。
月読は彼に歓迎としての微笑を浮かべ、ゆっくりと告げる。
「佐山・御言君。……一人?」
「ああ、他の連中は交渉ごとが苦手《にがて》なので調査に回ってもらったよ。そちらは?」
「ええ私だけ。本日、鹿島《かしま》はちょっと自分の整理のために来れないわ。その代わり、事前交渉役として開発部長の月読・志弦《しづる》が――」
「私の相手をしてくれる、というわけかね」
そうね、と頷《うなず》いた月読はふと表情を変えた。
彼の背後、森の中から出てきた人影があったからだ。
オレンジ色のジャケットに白のワンピースをまとった人影。
息を切らしてやってきた者の名を、振り返った佐山が告げた。
「新庄《しんじょう》君……」
名を呼ばれた新庄・運《さだめ》は、うん、と一息。彼とこちらを見て、疲れたような笑みで口を開く。
「遅れて御免《ごめん》。――事前交渉、だよね?」
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第十六章
『たたずみの先人』
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かつて得たものは何か
それは嵐呼ぶ風の源
荒れつ往く路全ての発つ処
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青い空の下。森に囲まれた半径一キロ近い湖の中央にそれはあった。
超大型|人型《ひとがた》機械、荒王《すさおう》。全身を黒の装甲《そうこう》と焼けた錆色《さびいろ》に覆《おお》われた巨大な鉄塊《てっかい》だ。
ここは概念《がいねん》空間。
昭和記念公園がかつて飛行場だった頃に作られたものだ。
その中心に荒王はいる。まるで艦船《かんせん》を繋《つな》げて作ったような巨大な全身は、わずかに腰を落とした姿勢。長い両の腕は眼前に掲げられている。
荒王を支える湖の周囲は緑に満ちていた。
林があり、草原があり、川があり、湖がある。湖が溢《あふ》れることなく形を保っていられるのは、周囲の土や草木が強く機能しているからに他ならない。
そして今、概念空間の森の中、小さな騒ぎが起こっていた。
「うわ、浮く! 身体《からだ》が浮くー!」
声は風見《かざみ》のものだ。
森の中にある小さな空き地の上。高さ四、五メートルの空中を風見が泳いでいる。
彼女の下ではシビュレが困ったようにあたふたと、手を上に伸ばしてジャンプして、
「千里《ちさと》様〜。降りてきて下さい〜」
「な、何かそれがもう上手《うま》く制御出来ないのよこれ! 2nd―|G《ギア》の概念のせいでしょ!?」
虚空《こくう》を手足で掻《か》くが、風見の身体は漂うだけ。
この概念空間に入ったとき、風見達は次のような言葉を聞いた。
・――名は力を与える。
その通りに、風という字を持つ風見は、
「段々《だんだん》身体が軽くなってきたと思ったらこれだものねー。どーしよシビュレ」
「千里様、力《りき》んで下さいっ。こう、ふん、って、ふん、って」
「うわ、シビュレのその仕草|可愛《かわい》い〜」
「ち、千里様のことなんですよー。このまま千里様が還《かえ》らぬ人になったらどうするんです?」
「そ、そうね。私がいなかったら誰が尊秋多《たかあきた》学院の平和を馬鹿二人から守るのか……」
「おおい、お前ら、何やってんだ」
と、森の中から出雲《いずも》が現れた。彼は頭を掻きながら、
「折角《せっかく》俺が調査のために昼寝してんのに騒がしいぞ」
「何をワケ解《わけ》らんこと言ってるのよ。……それよりこれ、どーしよう?」
あ? と疑問|顔《がお》の出雲が、浮いた風見に近づいていく。すると、
「あ、こら、覚《かく》! アンタの方から風が! 風がー!」
「ああ、確かに出雲《いずも》って名前だと風を産むよなあ。寝てて涼しいわけだ」
「ああ〜、千里《ちさと》様が急速に西へー!」
しょうがねえ、と出雲が走った。
彼は、自分の風を追い越して風見《かざみ》の下に回る。
と、風見に対する風向きが変わった。風を八方に放射する出雲が下に入ったことで、風見の身体《からだ》は上に煽《あお》られる。
風見はじたばたしつつも、何とか宙に緩く静止した。
「ああ救《たす》かった。もう少しで概念《がいねん》空間の空をクラゲのように漂流するところだったわ……」
「面倒な世界観だな、これ。……でも、少しはいいかもなあ」
「何がいいのよ?」
と風見は下の出雲を見た。と、出雲はこちらを幸せそうな顔で見上げ、
「白かあ……」
「何スカート覗《のぞ》いてんのよっ! 大体いつも見てるでしょっ!」
「馬鹿|野郎《やろう》、いつも見てる下着と今《いま》覗ける下着は神聖《しんせい》に別だぞっ。――覗きは別腹《べつばら》!」
「こ、この破廉恥《はれんち》千万《せんばん》っ、ああもう手も足も届かないっ!」
幸せそうに頷《うなず》く出雲の頭上、風見がタイトスカートの裾《すそ》を押さえて身体を下に回した。
同時。不意に風見《かざみ》の身体《からだ》が浮力を失った。
「え?」
疑問の声とともに、風見の身体がいきなり真下に落下した。
「うわっ! ――あいたたた!」
「ああっ、ち、千里《ちさと》様の膝《ひざ》が狙ったように出雲《いずも》様の側頭部《そくとうぶ》に!」
風見が身体を起こすと、下に出雲がいた。
大の字に倒れて気を失った彼の顔は何故《なぜ》か幸せそうで、これはこれでいいのかと風見は判断。
心配そうに寄ってくるシビュレが声をかける。
「だ、大丈夫ですか?」
「うん。覚《かく》は大丈夫でしょ。確証《かくしょう》無いけど」
「ええ、出雲様は大丈夫だと解《わか》ってます。確証ありませんけど。――でも千里様の方は」
「うーん、何か会話に微妙《びみょう》な問題あるような気がするけど……。まあ私は大丈夫よ。それよりシビュレ、何で私、いきなり落ちたのかしら?」
「ええ、きっと急速に体重が上がっ――、あ、し、失言でしたのでそう悲しそうな顔をなさらないで下さい。千里様がダイエットの努力をなされてることは重々|承知《しょうち》しております」
「いや、確かに学バン用に用意した衣装は気張り過ぎで痩《や》せなきゃなー、って思ってるけどさあ……。何つーか、その、一瞬《いっしゅん》 そうなのかな? と思える一言は胃に悪いというか……」
「あ、あのですね? 話を戻しますと、千里様が宙で下を向かれ――、それからすぐでした」
シビュレの言葉に、ふと、風見は首を傾《かし》げる。
ふむ、と頷《うなず》き、体重のことを頭から追い出した。
「つまり、下を向いただけじゃ落ちなかったのよね。何か条件があったから……」
考え、ややあってから風見は閃《ひらめ》いた。
「風を、……見たんだ」
「え?」
問うシビュレの目の前。風見は己の姓《かばね》を思う。すると、
「――あ、ち、千里様、また身体が浮き始めてますっ」
「大丈夫。今度はすぐに降りれるから」
言って、風見は地面に降りた。
こちらの手を取ってくるシビュレに微笑。安心しろという代わりに説明をする。
「つまりはこういうこと。名前の認識が甘かったのよ。……風見という名前の、風の字を意識しすぎていたんでしょうね。だから風に流されちゃったのよ、きっと」
一息。
「風見というのは、本来、風を読む人の意。だから覚の風に向き合った瞬間《しゅんかん》、風を読む人としての力が来たんだわ。ただ流されて風を眺《なが》める風見ではなく、風と向き合う風見として」
風見《かざみ》は空を見上げた。
荒王《すさおう》がそびえ立つ空の中、白衣姿《はくいすがた》の幾人《いくにん》かが空を歩いているのが見えた。
2nd―|G《ギア》の者達だ。今日、荒王の調査として開発部の者達がほとんど来ている。
「彼らはこの力を私達以上に使いこなせる、か。……彼らとの全竜交渉《レヴァイアサンロード》、どうなるかしらね」
「月読《つくよみ》部長が佐山《さやま》様とそろそろ事前交渉をされる頃だと思います」
そう、と頷《うなず》き、風見は視線を空から落とした。
眼下、出雲《いずも》が倒れている。既に回復していた彼はこちらを下から見上げ、
「いい感じだ千里《ちさと》。こう、非常識なアングルからって――ぐおっ!」
2nd―Gの大気に出雲の音が響《ひび》き始めた。
荒王を正面に構えた野原の中。三つの人影がある。
佐山と新庄《しんじょう》、そして月読だ。
ここにいるのは自分達だけ。そんな構図の中で、佐山がまず一息をついた。
落胆《らくたん》でも安堵《あんど》でもない吐息。何かを始めようという期待を落ち着かせる吐息だ。
彼はまっすぐに月読を見る。そう、今言うべきことは一つだ。月読を見て頷き、
……事前交渉を開始せねば。
「ババアと仲良くかね」
緩い風に髪を掻《か》き上げ、ふと告げた言葉。
それに対し、横の新庄が焦りを帯びた顔をこちらに向けた。口を開けて、ぱくぱくと。
だから、はて、と佐山は自分の台詞《せりふ》を顧《かえり》みた。頭上の獏《ばく》とともに腕を組んで考え込み、
「……おや、何故《なぜ》か本心が口から出て、建前が心の中に。これはあれかね? 極限状態で肉体が精神を凌駕《りょうが》するという……」
「どーでもいいけど失礼発言に対しての詫《わ》びは無いんかねえ」
「そ、そうだよ佐山君! ホントのことだからって、言ったら駄目《だめ》なことあるんだよ!」
「……失礼発言に対しての詫びは無いんかねえ」
今度は新庄が自分の台詞を顧みて退《ひ》く。
そんな新庄を、佐山は背後に隠した。そして月読に向かって一礼。
「これはすまないことを言ったようだね」
「へえ、謝るのね? 事前交渉の始まりだというのに、いきなり謝罪?」
「ああ、だが月読部長、老いを気にすることはない、現実とは常にシビアなものだからね。さようなら理想。こんにちは現実の私。――さて、では全竜交渉《レヴァイアサンロード》の事前交渉を始めようか」
「…………」
無言を置いて、月読は吐息。
「ま、いいけどね。……でもこうして始めてみても、実際どうしたもんかしらね?」
「それは、どういう意味かね?」
「解《わか》ってるでしょ?」
解っている。が、知識として知っているのと、当の相手から聞くのとは別だ。
聞いてみたいものだ、とこちらが言うと、月読《つくよみ》は仕方なさそうに笑った。
「食堂で鹿島《かしま》も言っていたじゃない。2nd―|G《ギア》はUCAT側に要求するものなんて何もないのよ? 1st―Gのファーゾルトはちょっと違ったみたいだけど」
と、月読は周囲を見渡した。草原と森の向こうには、現実の街が広がっている。
「――私達は、この世界で充分なのよね。今更《いまさら》波風立てて両者の関係を悪化させる必要を感じないし、誇り云々《うんぬん》言う前に、この世界の恩恵《おんけい》を受けて、食わせてもらってるしねえ」
「ふむ」
「……2nd―Gの者達は、八叉封印《やまたふういん》後に完全に帰化してるしね。当時、残っていた反対派は、十拳《とつか》製造に最も功績のあったカシマが説得したらしいわ」
「カシマって、あの鹿島・昭緒《あきお》さんの、お爺《じい》さんですよね? 荒王《すさおう》副|艦長《かんちょう》の……」
「ええ、タケミカヅチの姓《かばね》から鹿島の姓に変わった彼は、しかし鹿島という漢字は名乗らずカシマという音を選んだのよ」
月読の言葉に、新庄《しんじょう》は首を傾《かし》げた。半歩を前に出て、
「何故《なぜ》、鹿島ではなく、カシマと名乗ったんですか……?」
「……複雑な人だったみたいね。何しろ、カシマは荒王建造の長《ちょう》である大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》とは犬猿《けんえん》の仲だったと聞いているわ」
「……犬猿?」
同じ技術者で、協働して八叉を封印せねばならなかったというのに。
そのことを疑問に思ったが、佐山《さやま》は問いを心に秘める。
今は事前交渉中だ。このカシマの話題は、過去の話。つまり、
「もはやそのカシマもいない。――2nd―Gの者は、皆、帰化《きか》を納得《なっとく》しているわけだね?」
「そう。だから2nd―Gが|Low《ロ ウ》―Gに要求するものがあるとすれば、……現状維持。それをLow―Gにはお願いしたいわ」
「成程《なるほど》。現状維持か。それは解りやすい要求だ」
と、佐山は笑顔で頷《うなず》いた。
そして彼は柔らかい口調でこう答えた。
「――その要求を却下《きゃっか》する」
午後の日差しが、森の中にある農家を照らしていた。
段を持つ田圃《たんぼ》を有した大きな農家だ。屋根は茅葺《かやぶ》きで、縁側《えんがわ》は黒く変色した木造のもの。
縁側には一つの白い影が座っていた。
作業着|姿《すがた》の鹿島《かしま》だ。
肩を落とし、縮まるようにして座る彼の背後、畳敷《たたみじ》きの広い居間は古い和風《わふう》建築。
だが、彼は家の中を見ていない。
鹿島は眼鏡《めがね》を掛けていない目で、午後の太陽と空を映す広い水田を見ていた。
山と森に囲まれたような階段式の水田は、田植え待ちで水をたたえたまま。
「……実家か」
「何だい、今ここにきたことに気づいたような口振りで」
女性の声に振り向くと、背後の居間に、和服と白い割烹着《かっぽうぎ》を着込んだ初老《しょろう》の女性がいた。
盆《ぼん》に載った茶が出され、鹿島は湯飲みを受け取り飲む。彼女の白髪《はくはつ》を見つつ、
「母さん、父さんはどこに?」
「トイレで気張りながら新聞読んでるよ。産みの苦しみだとかワケの解《わか》らんこと言って」
「馬鹿、もう終わった。難産《なんざん》だったぞ」
と、Tシャツにハーフパンツという格好《かっこう》の初老が入ってきた。
四角い顔がそばに寄ってきて、横に座る。
よいしょ、と力を抜きながら座った父親。彼は面倒くさそうに問うてくる。
「で? どうした。奈《な》っちゃんと喧嘩《けんか》でもしたか? 半泣《はんな》きでやって来やがって」
「泣いてなんかないって」
「だったら、それこそどうした? そんな顔で」
やれやれと告げられる問いかけ。
それに対し、やや考えてから鹿島は告げた。唐突《とうとつ》かな、と思いつつ、
「ちょっとね、UCATの仕事を……、辞《や》めるって言ったら、どう思う?」
そうかい、と鹿島の父親は身を折るように頷《うなず》いた。
「あんまし、良くねえな」
と、父親は思案顔《しあんがお》。親指と人差し指で小さな幅を作って見せ、
「このくらい、良くねえな。……でも辞めてどうすんだ?」
「まだはっきり決めてないから、どうとも言えない」
「じゃあ、何しに来たんだ? うちに。田植えなら明々後日《しあさって》からだぞ」
「あんな重労働やったら翌日《よくじつ》動けなくなるよ。――今日はちょっと聞きたいことがあるんだ」
問う。己にとって大事なことを。
「爺《じい》さん達は、自分の力とどう向き合っていたんだろう? 爺さんの仲間達はどうだったんだろう? 知ってるかな?……爺さん達が、力を使うべきか捨てるべきか、どう決めたのかを」
「何故《なぜ》? 何故そんなことを思う?」
「わけはちょっと仕事の関係上、話せない。ただ――、今知りたいんだよ」
戸惑《とまど》い顔をする父親に、鹿島《かしま》は心の中で一度ためらい、しかし告げた。
「僕が僕の力をどうすればいいのか、決めるために」
「ふむ。だったら、昭《あき》よ、こういう知り方もあるだろ」
と、父親が解《わか》ったように頷《うなず》きながら、手を前に差し出した。
その手を改めて見た鹿島は、
「――――」
一拍の間の後に、息を飲む。
鹿島の眼前。そこにある父の手が、抜き身の日本|刀《とう》を握っていたのだ。
「簡単な話だ昭。ウダウダ迷って御《ご》先祖|頼《たよ》るくらいならよ、力を使う右腕一本、居間の飾り物のこれで落として献上《けんじょう》さ。今日は土曜日、サタデーナイトはヒーバーってやつだろよ?」
笑みの言葉とともに、いきなり刃《やいば》が向かってきた。
「――却下《きゃっか》?」
と、月読《つくよみ》は眼前の少年に問い返した。
少年、佐山《さやま》は頷《うなず》きもせずに黙っている。
彼の言葉がいきなりのものであるのは、横の新庄《しんじょう》を見れば解る。
息を飲んで佐山を見る新庄の表情は本物だ。
彼は、何らかの考えを持ってこちらを否定した。だから月読は問うた。
「何故《なぜ》? あたしらが現状を望むことが、いけないことだとでも?」
「そうだとも」
答えは断言だ。佐山は無表情のまま、感情のない声で言った。
「まず、貴女《あなた》の交渉材料を言っていただきたい」
静かな言葉。それは危険な問いかけだ、と月読は思う。
だから、月読は言葉を選んだ。警戒《けいかい》の心情を腹の底に置き、ひとまずの素材を出す。
「八叉《やまた》の問いと答えを教えること。そして八叉を解放し、その問いを鹿島が代弁すること。この二つよ」
成程《なるほど》、と佐山は告げた。声にはかすかな感情がある、笑みの感情が。
「では貴女の交渉材料は半分になった。――何故ならば」
佐山が吐息とともに言う。
「八叉の問いも答えも、我々は自力で辿《たど》り着きつつある。教えを請《こ》う必要はない。……この場合、貴女の望む現状維持は一つ減って半分になるが、それでも望むかね?」
告げられた言葉に、月読は一つの事実を悟った。
……悪役、か。
佐山《さやま》の姓《かばね》は悪役を任ずるという。
この2nd―|G《ギア》の概念《がいねん》空間の中、彼の姓は悪役として機動《きどう》しているのだろうか。
ふと思った疑問から導き出される答えを、月読《つくよみ》は告げた。
「つまり、……私達との間に波風《なみかぜ》立てることを厭《いと》わない、と?」
「邪推《じゃすい》は止《や》めていただこうか。私は、交渉材料の検証《けんしょう》をしているだけだよ?」
佐山は無表情に言う。
「現状維持。……便利な言葉だね。これを言えば、大体のことは平和に解決出来るように思える。だが言い換えれば、――何も思いつかない、だ」
「そうよ? それ以外に何かあるの? 私達の生活に」
「ならば敢えて言葉を選んで言おうかね。――馬鹿め、と」
少年の一言に、月読は眉をひそめた。
が、彼はまた告げた。
「二度言うぞ、馬鹿め、と。そして三度目も言おう、馬鹿め、と。気づかぬのならば――」
「止《や》めなさい」
感じる煩《わずら》わしさを危険と思いながらも、月読は言う。
「馬鹿|連呼《れんこ》のくだらない挑発《ちょうはつ》で、あたし達と敵対関係が作れると思ってるの?」
「だから馬鹿めと言っているのだ月読部長。何故《なぜ》、馬鹿と言われる原因を考えない?」
佐山が苦笑を地面に落とした。
「問おう。現状維持を君達は望んだが、……では、現状維持を望む君達の方法|下《か》において、何故、自らの力に悩む者が出るのかね?」
問いに、月読は一人の男のことを思い出す。佐山の言う悩む者とは、……あたしが、2nd―Gの代表に選んだ男……。
こちらの思いに気づいたのか。佐山が問うてくる。
「そういう者達を捨て置き、現状維持を望む行為ば馬鹿として承認《しょうにん》出来ないかね?」
成程《なるほど》、と月読は内心で頷《うなず》いた。
……よく勉強し、考えたものね。
2nd―Gの抱える問題とは、単純なものではない。
|Low《ロ ウ》―Gに馴化《じゅんか》して個性を失っただけならば、それこそ馴染《なじ》んでいくしかない。
だが実際は、個性を失ったつもりでも、己の力は残っているのだ。
2nd―Gというものを知り、概念《がいねん》に触れたとき、2nd―G出身者は己の名が持つ力を知る。自分はLow―Gの人間とは違うのだ、と。
そこに優越に似た高揚があるのと同時に、対極の忌避《きひ》と暗鬱《あんうつ》が生まれる。
鹿島《かしま》が抱えている問題はそれだ。そして、同じ問題を抱えているのは彼だけではない。開発部の者や、他に帰化《きか》していった者達も、多くが同じものを抱えている。
でも、と月読《つくよみ》は言った。
「あたしらや、すぐ下の世代は悩むでしょう。だけどね? 今後、そういった者達の子供に何も知らせずいれば、皆このGに馴染《なじ》み、祖先のことなど何も知らずに生きていくのよ? あたしらが悩むのは、古い世代から新しい世代へ移るための犠牲《ぎせい》のようなもの。そうでしょう?」
苦笑。月読は佐山《さやま》に対し、改めてこう思う。
……悪役か。
こちらの甘いところを、不評《ふひょう》など無視し、力業《ちからわざ》で叩き直そうというやり方だ。
だが、と月読は考える。そんなことをされなくてもいいではないか、と。
……こっちは、戦後六十年、ずっと悩んできたのよ。
その上で、皆が現状維持を是《ぜ》として受け止めている。
今更《いまさら》波風を立てられてたまるものか。
自分の娘や鹿島《かしま》の家族のこと、自分が知る者達の家族を思い、彼女は佐山を見た。
「お気遣《きづか》い有《あ》り難《がと》うね。でも、やはり現状維持は必須《ひっす》よ。あたしらの子孫がこの|Low《ロ ウ》―Gで悩まずに生きていくためにね。――あたしらは力を隠し、悩みを隠し、Low―Gに馴染んでいく。もしそれに対して強制的な変更を与えようと言うなら……」
「その場合は?」
こちらを無表情で見る少年に、彼女は内心でこう告げる。
……まだ甘いのかしらね?
先程《さきほど》彼は、こちらの交渉材料を検証《けんしょう》し、交渉材料を半分にした。だが、
「それじゃあこっちは、隠しておいたとっておきの交渉材料を出させてもらうわ。これで交渉材料はまた二つ。現状維持は半分にならずに済むというわけね」
無表情でこちらの言葉を受け止めた佐山の横、え? と新庄《しんじょう》が身を竦《すく》める。
だから月読は、佐山ではなく新庄に対して口を開いた。
とっておきの交渉材料とは、
「現状維持を認めぬ場合、2nd―GはUCATに対する一切の協力を拒否。場合によってはこの技術をもって敵対組織に身売りするわ。……いるのよ? UCATにも敵対組織がね」
新庄は息を飲む。
……それって……。
「日本UCATがまともに活動出来なくなるよ! そんなことしたら……」
自分達の装備が一切《いっさい》生産も開発も調整も行われなくなり、場合によってはそれら装備の情報が漏洩《ろうえい》することになる。
組織というものに必要な、物資や設備というものがあらかた無くなるのだ。
どうしよう、と思う眼前、月読《つくよみ》が困ったような表情を作る。
「脅迫《きょうはく》、ととらないでね? これは労働と、それに対する補償《ほしょう》の問題。あたしらはUCATから給料を貰《もら》って働いているけれども、そこには社会的な補償も含まれているわ」
こちらの視界の中、月読は佐山《さやま》を笑みで指さす。
「だけどそこの彼は、あたしらの社会的な補償の維持を拒否した。だからあたしらも労働を拒否するわ。そして金や土地では代価として受け取らない。現状維持だけを望むわ。……ルール違反を先に犯したのはそちら。恨むなら悪役を楽しむ彼を恨んでね?」
月読の問いかけの飛ぶ先、佐山はただ無言。
無表情な彼の顔からは、新庄《しんじょう》でさえ感情を読むことが出来ない。
大丈夫だろうか。
その思いを、しかし新庄は心の中で言い換える。
……言じよう。
彼ならば、何とかするだろう、と。新庄は彼の横顔を見た。
鹿島《かしま》の実家の庭では、一つの動きが発生していた。
親子による立ち回りだ。
鹿島は父親を相手に実家の庭を回避《かいひ》運動で移動する。
「ま、待ってくれよ父さん! いきなりエキセントリックな!」
「俺の知らねえ毛唐語《けとうご》を喋《しゃべ》るんじゃねえっ!」
即座《そくざ》に来た大上段《だいじょうだん》からの攻撃を、鹿島は横に逃げてかわす。
回避。
だが動きは鋭くない。
……当たり前だ!
あまり運動はしない生き方だ。息は緊張感《きんちょうかん》で既に上がっている。
だが父親は違う。
「こら避けんじゃねえ。農作業で鍛《きた》えた親父《おやじ》の年季を受け止めようって気はねえのか」
「受け止めた瞬間《しゅんかん》に耕《たがや》されるって。――わ!」
横薙《よこな》ぎというよりも、草を刈《か》るような動きの一刀《いっとう》。
鹿島は腰を屈《かが》め、身体《からだ》を後ろに大跳躍《だいちょうやく》。
そしてふと一つの事実を思い出す。自分は軍神《ぐんしん》なのだ、と。
「待て! 父さん、僕は刃物《はもの》で傷つけられない筈《はず》だ!」
奈津《なつ》が護《まも》られているように、軍神である自分自身には下位の刃《やいば》で傷がつかない。
だから、父の行いば無意味。ただ単に脅《おど》かしているだけだろう、と思う。
だが、
「甘いな昭《あき》、よく聞け。……この刀、当然のように俺が手を入れてる」
「え? その場合は――」
「同じ鹿島《かしま》の名前同士だ! 切られりゃ飛ぶぞ!」
言葉とともに、のけぞった身を剣先《けんさき》がかすった。
作業服の襟《えり》が断ち切られ、宙を飛ぶ。そして、頬《ほお》に引っ掻《か》いたような傷が浅く入った。
……本気か!
どうする。相手は肉親だ。殴ったりして良いものか。
「で、でも僕は反抗期と言われる頃も比較的|大人《おとな》しい少年で! だから今くらいは――」
「言《い》い訳《わけ》必要な攻撃を出す隙なんぞ与えるかっ!!」
風を切った一刀《いっとう》が来る。
対する鹿島は息を切らして回避。
右、右、左、中央下段、そして振りかぶって上から。
上段に構えられたと同時。鹿島は背を見せ走り出した。
「こら昭! 逃げたら切れねえだろ! 腕! 腕! 腕|寄越《よこ》せー!」
「後半|危険《きけん》発言だよ父さん!」
鹿島が言った瞬間だ。いきなり、足下がすくわれた。
「!?」
と思った視界は急速に転んでいく。
鹿島の目は見た。足下にいつの間にかロープが張られているのを。
そして、そのロープの片方の端を軒下《のきした》で和服|姿《すがた》の老女が掴《つか》んでいるのも。
次の瞬間《しゅんかん》に転倒した。
「母さんもグルかー!?」
叫び転んで、慌《あわ》てて立ち上がろうとする。
そこに父親が踏み込んで来た。
構えは大上段《だいじょうだん》。
対する鹿島は即座《そくざ》の反応。自分が履《は》いてきたサンダルを蹴《け》り飛ばし、
「転べ!」
踏み込んだ父親の足の下、サンダルが横向きに入った。
踏んだ父親がバランスを崩して転ぶ。
転倒。
そして、鹿島は一つの事実に気づいた。
突撃《とつげき》中の刃物《はもの》を持った人間を転ばすと、こちらに乗りかかるだけなのだと。
「――あ」
父親は、もはや全身を倒木《とうぼく》のように投げ出し、刃《やいば》を振り下ろす動き。
その顔が微妙《びみょう》に嬉《うれ》しそうなのは何故《なぜ》だろうか。
「うわあ奈津《なつ》さあんっ!」
親の下敷《したじ》きにならないよう、鹿島《かしま》は慌《あわ》てて逃げ出そうとした。
這《は》いずり、前に進もうとした、そのときだ。
倒れ込む父親の声が聞えた。
「奈《な》っちゃんの名を呼ぶのはいいことだ。だがよ、ここで右腕一本|落《お》としちまって、仕事も何もかも失えば、同じ立場になるんじゃねえか? ……奈っちゃんとよ!」
「――!」
父親の言葉に、鹿島は思う
……僕は――。
思いは、不動という動作を答えとした。
直後。父親の一刀《いっとう》が鹿島の右肩に叩き込まれた。
佐山《さやま》は、無表情に月読《つくよみ》を見ていた。
新庄《しんじょう》と月読の視線を受けたまま、佐山はややあってから髪を掻《か》き上げ、
「世界を賭《か》けた交渉に労働条件が関わってくるとは。これまた世知辛《せちがら》い話だね」
そして、
「何故、それほどまで、|Low《ロ ウ》―|G《ギア》に帰属《きぞく》したい?」
「その問いに答える意味は無いわね。今はあたしの問いかけの最中よ」
月読が笑みをもってこちらの言葉を遮断《しゃだん》する。
彼女は自分の足下を指さし、
「答えなさい、全竜交渉《レヴァイアサンロード》の担い手よ。あたしらがいないUCATの武器は? 防具は? 道具は? その他の機材設備はどうするの? ――この問いに答えられねば、こう言うべきよ」
一息。
「2nd―Gの現状維持を支持する、と」
告げられた言葉に、しかし佐山は無言のまま。
無表情を通す自分の横、新庄がこちらを見ている。
新庄の顔には不安の色があるが、しかし、別の色も混じっている。
その色に気づいた佐山は、新庄を見て気軽な口調で問うた。
「新庄君。何を安堵《あんど》したような顔をしているのかね?」
「だ、だって、佐山君、何か策があるんでしょう?」
おやおや、と佐山《さやま》は首を傾《かし》げる。
率直《そっちょく》そのままという顔で、彼は告げた。
「策など無い」
台詞《せりふ》が出た瞬間《しゅんかん》。新庄《しんじょう》が息を詰め、月読《つくよみ》が口元で失笑した。
言葉無いまま口を開く新庄とは対照的に、月読が笑う。
「面白いわねえ。――佐山の姓《かばね》は悪役を任ずる、とは言っても、まだまだなのかしら? アンタ、この2nd―|G《ギア》の概念《がいねん》下で悪役になり切れていないようだけど?」
問いに対して、佐山は首を傾げた。何を言っているのだろうか、という顔で、
「一つ、いいだろうか?」
「? なあに? 現状維持を認めてくれるの?」
笑いながらの疑問|詞《し》に、佐山が答える言葉は一つだ。
「改めて言おう。――馬鹿め、と」
そして、
「断言しよう。その労働条件は、交渉材料にならん」
佐山は、わずかに目を伏せながら口を開いた。感心した口調で、
「面白い論だった。2nd―Gの技術|供与《きょうよ》の話など、まるで……」
「まるで?」
「この世において、自分達だけが技術という言葉を知っているかのようだね」
苦笑とともに地面に落ちた言葉に、月読が身を堅くした。
だが、佐山は言葉を続ける。
「たとえば独逸《ドイツ》には術式《じゅつしき》という技術があるが、あれは君達の手によるものかね? ……それに、たとえばこの携帯電話も、コンピュータも、漢字や英語や――、ああ、古いところで言えば鉄の普及《ふきゅう》というのは古代ヒッタイトによるものだそうだね」
言う。
「君達の発明したものは、どこにあるのだろうか」
その一言が、対する言葉を発射させた。
言葉を叫び発するのは、月読だ。
「ならばどうする気!? ……確かにあたしらが世界の全ての技術を作ったわけじゃないわね。でも、|V―Sw《ヴイズイ》や|Ex―St《エグジスト》などはうちの手によるものよ? そして他の設備や武装も! あたしらがいなくなったら、今後どうする気!? 」
問いに対し、佐山は簡単に答えた。
「代わりを雇えばそれでいい」
一息。
「それが労働だ」
「……!」
対する相手の視線の強さも無視して、佐山《さやま》は告げた。
「戯言《たわごと》だ月読《つくよみ》部長。反省を希望する。そして敢えて言おう。――君達などいなくとも、私達はそれなりにやっていくだろう、と」
「――はン。自惚《うぬぼ》れてるじゃない? あたしらの作ったものを扱い、超えていけるというの!? 2nd―|G《ギア》のコピーで文化と文明を創った日本人が!」
「コピー? 素晴らしい褒《ほ》め言葉だね。大量生産出来るということだよ、それは」
そして、
「思い知るといい。我々はそのコピーから新しいものを作る民族だ。大陸? 欧米? 2nd―G? どの文明も文化も私達にとっては最先端ファッションだよ。何しろ盗作《とうさく》も手を入れれば模倣《もほう》となって新時代の到来だ。さようなら古いコピー元。こんにちは我々の流行。悔しかったら文化と文明に著作権《ちょさくけん》保護を掛けたまえ。――それすら我々は突破するがね」
佐山は、それに、と前置き一つ。腕を組み、
「月読部長、先程貴女《さきほどあなた》は労働として自分達の技術を交渉材料に挙げたね?」
「ええ、それが……、何?」
ふむ、と頷《うなず》きを一つ置き、佐山は口を開く。
「では、君達が自主退職する際には、――第一に、後任にしっかりと引き継ぎを行うこと。第二に、技術関係の情報は一切持ち出さぬこと。そして第三に……」
笑みを浮かべ、
「君達が作り上げたものには、全て日本UCATの| 商 標 《しょうひょう》と著作権が付くから、覚悟《かくご》したまえ。新天地では全く新技術の開発をゼロから行うよう、宜《よろ》しく頼むよ?」
並べられた言葉に、月読は返す台詞《せりふ》もなく、立っている。
佐山の横、新庄が固い唾《つば》を飲み、彼を見上げた。
だが、彼は新庄に振り向かない。
一拍の間。
それを置いた後、佐山は月読にゆっくりとこう言った。
「……目を醒《さ》ませるかね?」
土を固めた庭の上、わずかな冷たさを含む風が吹いた。
その風を浴びた鹿島《かしま》は、ふと、目を開けた。
自分を確認してみれば、身体《からだ》は庭にしゃがみ込んだような姿勢。そして、
「右腕が……」
ある。左手で慌《あわ》てて触れてみても、確かに肩から先はついている。だが、
「刀が……」
やはり、肩の上に刃《やいば》がある。
作業服の右肩と中のシャツを切り裂いた日本|刀《とう》は、今、右肩の肌に触れたままだ。
だが、刃は鹿島《かしま》の肌に浅く痕《あと》をつけただけだ。まるで引っ掻《か》いたかのように。
先程《さきほど》、頬《ほお》についた小さな傷と同じ程度のものしか、肩にはついていない。
血が出るまでもない。軽傷とも言えないものだ。
同じ鹿島の姓《かばね》が鍛えた刀だというのに、何故《なぜ》こんな程度で済むのか。
その理由を、背後からの声が答えた。
「手加減《てかげん》したわけじゃねえ。嘘《うそ》をついたわけでもねえ。ただ……」
父が言う。
「軍神《ぐんしん》として、剣工《けんこう》として、お前の方が俺より格上《かくうえ》なだけだ」
同じ姓であるならば、修練による格が上下を決める。
その事実と、そこから得られる真実に、鹿島は息を止めていた。
「解《わか》るか?……昭《あき》」
「…………」
「お前が、俺の親父《おやじ》から学び、そしてUCATで鍛えた分、……お前は俺より優れている。そして、お前は今《いま》軍神の名を否定しているが、名前ってのはなくならねえ。――自分で否定しても、消えるものじゃねえんだ」
その力は、離れるものではなく、伸ばせば大きくなるだけのもの。
……一度抱えた力は、もはや無くすことも減らすことも出来ないのか。
たとえ自分がどのような生活を望んでも、力は失われることがない。
これが事実だ。
「じゃあ、僕はこのままなのか……」
つぶやいた言葉に、一つの言葉が返った。
「方法は、ある」
「え……?」
振り返り、見上げた視線の先。父親が、こちらを見ていた。
彼は一つの頷《うなず》きとともに、こう言った。
「お前が、自分の名に別の意味を与えればいい」
「別の、意味……?」
父親が、肩に載せたままの刃を引く。
だが、肩の肉は斬《き》れず、肌の軽い擦過《さっか》とともに、作業服の布地だけが斬れていく。
「――いいか、昭《あき》、自分の名を否定するだけじゃ力を否定出来ねえ。だったら考えろ」
「自分が、その名前で、どうありたいか、を?」
「俺はそこまで言ってねえよ」
父親の声には笑みが含まれていた。
「自分の名に意味を与えることが出来るのは本人だけだ。鹿島《かしま》という名だって、元々|軍神《ぐんしん》の意だ。剣工《けんこう》の意は、後から先祖がつけたものだぜ。だったら、昭、お前が――」
「出来るのかな……?」
鹿島はゆっくりと立ち上がる。そして背後に振り向く。
刀を手にした父親がいる。
今更《いまさら》ながらに、自分より背が低いのだと思い出す。
そんな父親と目を合わせ、鹿島は問うた。
「この僕の力に、僕が別の意味を与えることが……、出来るのかな?」
「知るか馬鹿。俺達の先祖だって、何年も掛けて鹿島の名に剣工の力を手に入れたんだ。概念《がいねん》戦争に勝つ助力となるように、ってな。だから、お前一人でどうなるもんでもないかもしれねえ。……だがよ、一つだけ確かなことがあるだろ」
一息。
「――何かしなければ、出来るかどうかも解《わか》らない」
「…………」
「親父達も同じだった筈《はず》だぜ。荒王《すさおう》や十拳《とつか》を作っているときはな。――だから、もしお前がその気になったとき、これを見るといい」
父親が左の指を鳴らす。
と、いつの間にか、先ほどまで軒下《のきした》にいた筈の母が父の傍《かたわ》らに立っていた。
彼女がこちらへと差し出したのは茶色い大きな防水性の封筒《ふうとう》。
中には書類か何かが入っているらしい。
受け取った鹿島は、中の紙が弾力《だんりょく》のある和紙《わし》の束だと気づく。
両親を見るとただ会釈《えしゃく》を返すので、鹿島はその封筒の口を開け、和紙の束を取り出した。
和紙の上に書いてあるのは、
「……名前?」
それは、数百枚の和紙に連ねられた多数の姓《かばね》だった。
「十拳を作る際、親父から2nd―|G《ギア》の名簿を預かった大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》が仕上げたらしい。そして、この字と姓を十拳に使用しろ、と」
「爺《じい》さんと対立した人のものか……」
封筒。それを鹿島は見据《みす》えた。
過去が形として存在している。手に掴《つか》み、目に見えるものとして。
「俺の記憶《きおく》が間違ってなければ八百万《やおよろず》の名を役職分けして統合し、約一千にまで圧縮を重ねてある。それを、彼は一九四五年の三月十日から十二日未明の間に作りあげたらしい」
父の言葉が正しければ、この封書の中身、2nd―|G《ギア》を圧縮した名簿の作成期間は実質二日だ。そんなことが出来るのかという思いとともに、
「何故《なぜ》、そんなことを? ……爺《じい》さんとは犬猿《けんえん》の仲だったんじゃないのか?」
「解《わか》らねえって言ったろ馬鹿。――俺にはそれで充分だったんだ。だけどお前は違う。だから持っていけ。……そしてもし、お前が何かを決めたならば、そのとき見てみるといい」
父親は笑みをもって、言った。
「八年悩んだんだろ。――そろそろ決めてもいい頃だ。自分の行く先をよ」
荒王《すさおう》の見える野原の上、三つの影は微動《びどう》だにしない。
佐山《さやま》、新庄《しんじょう》、月読《つくよみ》という三人は、午後の風が吹いても身動きをせず。
ただ、顔を上げたままの月読に、佐山が視線を向けていた。
諭《さと》すような、静かな目。その視線と同じ口調で彼は言う。
「文化や文明を持ち出すな月読部長。そのどちらも世界の素材でしかなく、担う者は移り変わる。……平和を求める駆け引きの材料にはならんよ」
放たれた言葉に、ようやく動きが出来た。
月読が身体《からだ》を抱き、身構えるように告げたのだ。
「何よそれは……?」
抗議の言葉は連動《れんどう》する。
「技術しか持たないあたしらが、子孫《しそん》の平穏《へいおん》を願ったらいけないとでも言うの? 貴方《あなた》、神にでもなってるつもり?」
対する佐山は笑みを一つ。胸に黒のバインダーを抱き寄せ、
「そう。残念だが今日の私の上機嫌《じょうきげん》度は神をも上回る。――だから言おう、当然だ、と」
一息。
「いいかね月読部長。平穏は願うものではない。当然あるべきものだ。そのために努力はしても願ってはならない。それを子孫のためになど、……自分達が自らを押し込めて不幸になることに対し、子供を言い訳にするのかね?」
「でも、その当然が無いから――」
言う月読の言葉に、ふと、佐山ではない声が掛かった。
「当然が無い、って……、どういうこと?」
新庄だ。
「あ、あの、月読部長、現状維持を求めてるんだよね? でも、平穏が無いなら……」
疑問をはらんで消えていく言葉が、月読《つくよみ》の肩を震わせた。
そして佐山《さやま》が誰にともなく頷《うなず》いて見せた。解《わか》ったかね、と。
「そう、当然ではないからこそ、努力する方法すら解らないからこそ、月読部長達は願うのだね? 何もかも解らないまま維持して固めれば、いずれ時が解決するだろう、と」
だが、
「それでは今と同じままだ。情報を封じていても、いずれ過去を知る者が出て、貴女《あなた》達と同じことを悩むだろう。そして――、それだけではない」
佐山は空を見上げた。続いて三方の森を見渡し、正面の荒王《すさおう》を見上げる。
「私は全竜交渉《レヴァイアサンロード》のためにここにいる。……では私にとって、現状維持の 現状 とはどのような意味か? 月読部長は考えたことがあるかね?」
「それは……」
言葉を詰めた月読に、佐山は告げた。
「全竜交渉《レヴァイアサンロード》が終われば、この|G《ギア》のマイナス概念《がいねん》に対応するため、全Gの概念が解放される。その結果がどうなるかは解らないが……、今の世界が今のままでいるかどうか、解らない」
……現状が維持出来るかどうかも解らないのだ。
その思いに重ねるように、佐山は一つの思いを胸に浮かべる。
それは心に刻んだ一つの宣言。
「私は、全てのGと、全てのものと、向き合っていきたい。――全竜交渉《レヴァイアサンロード》の後も、だ。その意味を持って私は言う。現状維持を望む2nd―Gの要求は却下《きゃっか》する。君達は、全域《ぜんいき》の未来に対し、対応出来るようになるべきだ。たとえ全竜交渉《レヴァイアサンロード》の後、このGが滅びても」
「滅びてもって……、アンタ」
言葉に返すのは微笑で充分だ。
「驚くことかね? 全竜交渉《レヴァイアサンロード》が失敗すればこの|Low《ロ ウ》―Gは滅びるのだよ。だが、その後にも生き残れる者達がいるかもしれない。そうなった場合、現状維持を望むかね?」
「…………」
「どうだろうか。現状維持を、考え直してもらえるだろうか」
問い、佐山は左の手を前に差し出した。
対する月読はこちらの意図を汲みかねて数秒。
わずかに目をそらし、苦笑を地面にこぼすと、
「全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》は、……2nd―Gに簡単な| 恭 順 《きょうじゅん》を求めていない、ってわけね」
「難しい恭順も求めていない。必要なのは、――遺恨《いこん》無く、悔いのないことだ」
言った台詞《せりふ》に、月読から苦笑が追加された。
「ババアに対して、何を手ぇ差し伸べてんだかねえ……」
口調とは裏腹《うらはら》に、細い手が素直に差し出された。
それも両手。
「――――」
対する佐山《さやま》は、新庄《しんじょう》と顔を見合わせる。
が、すぐに苦笑。
佐山は左手を、新庄は右手を出して月読《つくよみ》の手を握った。
見れば月読も、自分でしておきながら、困ったような笑みを浮かべている。
数秒。
その後に月読は疲れたような息とともに手を離し、こう告げた。
「でも、どちらにしろ全て決めるのは鹿島《かしま》に一任してるからね。少し答えを待ちなさいな」
「そのようだね。……彼が、貴女《あなた》が見込んだ通りの人であることを期待しよう」
告げた言葉に、月読は肩から力を抜く。吐息一つを経た上で、
「アンタが、鹿島に対する大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》なのかねえ……」
「2nd―|G《ギア》の滅びを防げなかった、御老体《ごろうたい》の父君か」
「少しは知っているようね? かつてあたしらの祖先がこの|Low《ロ ウ》―Gに避難してきたとき、カシマは大城・宏昌にこう告げたらしいの」
一言。
「お前は2nd―Gの滅びと本当に向き合う気が無かったのだ、って」
月読は改めて頭上を凝視《ぎょうし》する。
全高五〇〇メートルの人型《ひとがた》機械。その頭部|艦橋《かんきょう》は破砕《はさい》している。
「そして、荒王《すさおう》建設は一九四五年の三月十二日から開始された」
「三月十二日……」
「何か憶《おぼ》えがある?」
「ああ、――昨日《きのう》食堂でその情報を見て、一つの事件を思い出したのだ。おそらく、先ほどの貴女の言葉に繋《つな》がる。……大城・宏昌が滅びと向き合うきっかけになった事件が、四五年三月の九日から十日にかけて起きていた」
「それは――」
「これから調べに行くとも。私が、君達と向き合うためのステップとして」
笑みを見せる佐山に、月読も笑みを返す。先ほどまでとは偉く雰囲気《ふんいき》の違う子だ、と。
……佐山の姓《かばね》は悪役を任ずる、か。
その言葉を後押しするように、月読は情報を付加した。
「荒王完成は四六年八月一日。全ての結果が出たのはその二週間後よ。……あの高い位置にある場所で何が行われたのか、誰も知るものがない。――鹿島はそれを追っていたわ。何故《なぜ》、対立していた祖父達が同じ目的に必死になったのか。その、祖父の思いを、ね」
「調べる必要があるわけだね。……私達も、彼も。六十年前から始まっていた|Low《ロ ウ》―|G《ギア》と2nd―Gの齟齬《そご》を噛《か》み合わせるために。お互いの知るべきものを」
ええ、と頷《うなず》き、月読《つくよみ》は白衣《はくい》のポケットに手を突っ込む。
「――と、コレ、鹿島《かしま》から預かったフロッピー。この中に鹿島の祖父が大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》に渡した2nd―Gの名簿が入っているわ。そして、八叉《やまた》の問いも入ってる」
「|Tes《テスタメント》.。有《あ》り難《がた》く受け取ろう」
「でも、八叉の問いっていうのは何なのか。――それは薄々解《うすうすわか》ってるでしょう?」
「Tes.おそらくこうだろう。……八叉の名前とは何か、と」
月読は答えず、しかし笑みを顔に出す。
対する佐山が手を伸ばしてディスクを受け取り、
「大城・宏昌は答えを出すとき、この名簿をヒントにした。そういうことだね?」
「らしいわ。……次に私達が集まるとき、君の答えが必要になるわね。きっと鹿島も近い内に自分達のスタンスを出すわ。それが決まり次第、全竜交渉《レヴァイアサンロード》の日時を決めましょうか」
「Tes.」
宜《よろ》しい、と月読は両の腰に手を当てて頷《うなず》いて見せた。
空、午後の日差しが雲の翳《かげ》りを得《え》始めている。
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第十七章
『絶叫の雨』
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全てが必然ではなく
必ず然りというべき場があり
それを叫ぶ者が辿り着くだけのこと
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午後の日差しが雲に隠れると同時に、風が吹き始めた。
日本UCATの本拠《ほんきょ》である白亜《はくあ》の建物は、風にかすかな震動を得る。
その音を聞くことの出来るのは一階ロビー。
今、ここには二つの人影があった。
大城《おおしろ》・至《いたる》と|Sf《エスエフ》だ。
ソファに座り込む至は、グラスに入った水を舐《な》めつつ、
「Sf、親父《おやじ》はどうしてる?」
「|Tes《テスタメント》.、私室に籠《こも》っておられます。熱探知《ねつたんち》視覚を用いて内部を探りますか?」
「サービスでレーザー照射《しょうしゃ》はないのか? 18禁《きん》ゲームやってたら尻を撃《う》ち抜いてやれ」
「目からビームはオプションになります。独逸《ドイツ》UCAT内部Sf開発係までメールでお申し込み下さい。学生割引だと半額になりますので必要ならば学生証を捏造《ねつぞう》いたします」
「ほう。それはまた至れり尽くせりだな。どういう頭脳をしてるんだ?」
Sfは軽く会釈《えしゃく》。自分の頭を指さし、
「Tes.、私の人工|頭脳《ずのう》は人工シナプスがマイナス四十度のバナナで釘《くぎ》が打てる温度で保存されております」
「成程《なるほど》。それで冷血なのか」
「いえ、私の油は常温設定です。外側はやや低く、人工的な冷え性を再現しておりますが」
「そういうところが冷血なんだ」
至はソファに身を沈める。
彼は横に立つSfを見もせずに、
「お前も座れ」
Tes.と頷《うなず》き、Sfはそのまま至の膝《ひざ》の上に横座りの腰を落とす。
至は半目《はんめ》で、
「ほほう。主人を椅子《いす》にするのは俺の御要求か?」
「Tes.、座れと言われましたので。……以前に電車内で言われたとき、そのまま床に正座降着したのを止められた経歴が深層記憶《しんそうきおく》に残っております。もし床を推奨《すいしょう》するならば切り替えますが?」
「そうかそうか。驚いた。学習機能があったのか。――わあ驚いた」
「Tes.、お喜びの場合はこちらのスタンプカードに捺印《なついん》を宜《よろ》しくお願いいたします」
至は無言でスタンプして返却。対するSfは一礼して、
「Tes.、しかし最近、一夫《かずお》様が私室に引き籠られて朽《く》ちていくようですが」
「勝手に朽ちさせるな。あれは……、親父の親父が2nd―|G《ギア》を滅ぼしちまったからだ」
「……その発言は間違いがあります。最近調べた記録と先日のお話によれば、2nd―|G《ギア》が滅びたのは2nd―Gの住人達が管理システムを暴走|域《いき》まで酷使《こくし》したためです」
「だからこそ、だ。2nd―Gの連中にもし何かが出来たなら、罪を分かち合えただろうにな。……何か出来る筈《はず》だった親父《おやじ》の親父が、一人で失敗し、一人で罪をかぶることになる」
憶《おぼ》えておけよ、と至《いたる》は前置きして、
「親父も今回は複雑な気分だろう。……全てを知っている一人として」
「全てを……?」
「そうだ。2nd―Gで八叉《やまた》を止められなかった親父の親父が、どうしてこの|Low《ロ ウ》―Gでそれを果たすに至ったのか。当時ガキだった親父は知っているのさ」
至は|Sf《エスエフ》の顔を見上げ、
「知りたいか?」
「それはもう」
「じゃあ教えてやらん。――さて、俺はこれから独り言を言うが、聞くなよ?」
「|Tes《テスタメント》.、では私もこれから独り言を始めます」
至は一度グラスを煽《あお》ると、天井を見上げて口を開いた。
「荒王《すさおう》建造計画がスタートする一九四五年三月十二日。その三日前に、東京は一つのイベントを持っていた。そして、親父の親父は、友人達が止めるのも構わずイベントに参加した」
「イベントとはやはり派手なものかと判断します。――なお、これは独り言です」
「じゃあこれも独り言だ。――あれは派手な祭だぞ。今でも歴史の教科書に載るほどな」
至は吐息とともに、こうつぶやいた。
「――何しろ東京という街が滅びそうになるくらいの悲鳴が挙がったのだから」
都内、新宿《しんじゅく》に新庄《しんじょう》は佐山《さやま》と来ていた。
第二次大戦に関する資料を買う必要があるのだと、佐山は大型書店を回って幾冊《いくさつ》かを購入。
都会を知らない新庄は、初めて見るような大きな書店に圧倒されるばかりだ。
「こういう場所に、住んでみたいと思うかね?」
佐山のそんな問いに、頷《うなず》きもしてみたり。
昭和記念公園で解散してから、彼はこちらを詮索《せんさく》しない。
何故《なぜ》遅れたのかも、昨夜に話した嘘《うそ》ということについても言及《げんきゅう》はない。
今はただ手を引かれ、新宿駅の方へと移動している。
周囲には雑踏と喧噪《けんそう》。四方八方《しほうはっぽう》入り乱れる人と声、だ。
その雑踏と声の行き来を受け止めるように、建ち並ぶビルと車の多い道路がある。
淡い息苦しさに天を見上げれば、薄暗い空からは風が吹いてくる。
湿った、街の匂《にお》いがついた蒸し暑い風。
その湿りに、そろそろ雨かと新庄《しんじょう》はあたりを見回す。
「ど、どこ行くの? 駅? 帰るの? 雨降るよ? そろそろ」
「ははは、数多い質問に逐一《ちくいち》答えよう。駅はどこからでも入れる。帰るのはいつでも出来る。雨が降るまでまだ少し余裕もあろう。――何しろこれから私達が行くのは過去の一瞬《いっしゅん》だ」
佐山《さやま》はそう言うと、こちらの手をほどき、脇の紙袋《かみぶくろ》から一冊の本を抜き出した。
「今回の2nd―|G《ギア》の全竜交渉《レヴァイアサンロード》。ようやく彼らと我々の接点が見つかった。それがこれだ」
「――第二次大戦中における米軍の航空作戦|概略《がいりゃく》? これが……、これが何の接点なの?」
「荒王《すさおう》建造計画がいつだか憶《おぼ》えているかね? 一九四五年三月十二日だ。……よく考えればこれ以上の接点は無かった。前にUCATの食堂で言わなかったかね? 確信が持てたら言うことがあると」
「あ、そういえば確かに佐山君はそう言ったけど……、その日付が何か意味を持つの?」
「いい質問だ新庄君。初心に帰る気がするね。その日付の三日前のことだが、この|Low《ロ ウ》―Gにおいて、2nd―Gの滅びに近い出来事があったのだよ」
「……え?」
どういうことだろうか。
地脈《ちみゃく》というものを通じて、各GはこのLoW―Gと繋《つな》がる場所を大体ではあるが固定していた。だが、直接的な影響《えいきょう》は無かったはずだ。それを、滅びに近いとは――。
「そ、そんなの、嘘《うそ》でしょ? だって今、この東京は存在してるよ? 滅びてないよ?」
「そう滅びていない。……生き残り、復旧《ふっきゅう》したのだからね」
佐山《さやま》が不意に足を止めた。
ここは新宿《しんじゅく》駅の東口《ひがしぐち》前、大型スクランブル交差点の中央。
「――見たまえ、新庄《しんじょう》君」
言葉に釣《つ》られ、新庄は周囲を見た。
ここにあるのは自分達を避けて歩く大勢の人々と、彼らの通過を待つ車列の連なり。
そして全てを支えるアスファルトの道路に、鉄骨の建築群だ。
喉元《のどもと》に蒸し暑さが迫るような感覚を新庄は得た。
ふと、背に佐山の左手が添えられ、
「……賑《にぎ》やかだろう?」
「改めて見ると、……凄《すご》いよね、東京って」
「ああ、だがこの街がかつて一度滅び掛けたというのは、確かなことだ」
「え……?」
疑問|詞《し》の問い掛けに、佐山はこちらを見た。諭《さと》すような口調て、
「ときに一九四五年三月九日。第二次大戦における日本|降伏《こうふく》の約五ヶ月前。そして荒王《すさおう》建造計画が発起される三日前、――米軍はこの東京という都市に対して一つの実験を行った」
「じ、実験って、何? どんな実験を?」
「それは独逸《ドイツ》、ハンブルグで一度行って失敗した実験だ。――空爆《くうばく》時、その爆弾《ばくだん》を通常|火薬《かやく》ではなく、発火燃料にしたらどうなるだろうかという、炎熱《えんねつ》実験」
佐山は言う。
「実験結果は木造ばかりの東京では明白。一晩で約十二万人が死亡したとされ、東京という街からほとんどの立体物が消えた。……第二次大戦中、日本最大の悲鳴を生んだ実験だった」
「その実験って、まさか――」
「――東京|大空襲《だいくうしゅう》だ」
そして、
「2nd―|G《ギア》を救えなかった大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》は、何故《なぜ》、荒王建設と十拳《とつか》製造に本気になったのか。……その理由は簡単だ」
「まさか――」
「そう、彼は東京大空襲の現場にいたのだよ。そして見たのだ。――自らの住む|Low《ロ ウ》―Gが、炎《ほのお》に焼かれて滅びるような様《さま》をね」
無表情に佐山が告げたときだった。
新庄は見た。佐山のスーツの胸ポケットから、獏《ばく》が顔を出したのを。
佐山《さやま》がまず感じることが出来たのは光だった。
朱の色。火の色だ。
他、音はある。動きもある。風景もある。だが、
……全てが混ざり合って――。
炎《ほのお》に燃える。
ここは町だろうか、それとも街だろうか、それとも都市だろうか。
佐山は答えを知っている。ここは東京だ、と。
空は暗雲《あんうん》と煙に覆《おお》われ、大地には焔《ほのお》と風が吹きすさぶ。
朱に重なる彩《いろど》りは、崩れる人や家屋の影色《かげいろ》。
耳に聞こえるのは、何かが空から降り注ぐ重連多重《じゅうれんたじゅう》の風切り音だ。
佐山の聴覚は、打ち鳴らされる半鐘《はんしょう》と人々の声を聞いた。
熱い、と数え切れぬほどの声色が空に向かって響《ひび》く。
それに重なり呼ぶ声は、父を呼ぶもの母を呼ぶもの息子を呼ぶもの娘を呼ぶもの。そして祖父を呼ぶものと祖母を呼ぶものだ。
全てはここに揃《そろ》い、しかし一切の答えは返らない。
破壊と炎の笛の音が、声の叫びを糧《かて》に大地を殴り、火の色に噴《ふ》き上げていく。
東京の燃え上がる光景がここにある。
「――!」
佐山の視界は確実にそれを見た。
黒い影。炎の中、崩れるのは人か建物か、それすらも解《わか》らない。走り、叫び惑う人々を直天《ちょくてん》からの打撃が朱の色に散らす。
風が起きる。それも、雨呼ぶ風ではなく、炎に踊る風だ。
巨大な面積が燃えることによって生じる気流は、まず炎を身にまとうと、次は酸素を求めて街を駆け抜ける。
熱風というよりも、炎風《えんふう》。
火と同じ温度を持った風は、東京の八方に走り行き、建ち並ぶ民家を撫《な》でるだけで焼き飛ばしていく。
東へ西へ、北へ南へ、全ては狂風《きょうふう》に導かれる炎の動き。
火を導く風は空気を求めて走る。
東京を流れる川の全ては、熱から逃げようとした人々で埋まっていたが、炎風は川原に下ってそれらを焼いた。
橋の上で立ち往生《おうじょう》していた人々が受けたのは熱風による横殴《よこなぐ》りの直撃《ちょくげき》。
熱は鉄の橋を炙《あぶ》り、容易《たやす》く曲げる。ナパーム燃料で火がついていた橋は、大熱《たいねつ》をはらんだ風でアーチ構造部を溶け崩し、一拍の間の後に川へ歪《ゆが》み落ちた。
水|飛沫《しぶき》よりも先に上がるのは、陽炎《かげろう》と煙の黒。
何もかもが逃げられず、逃されない。
防空|壕《ごう》の多くは炎《ほのお》による気圧差で扉を外に吸い飛ばされ、内部を焼き尽くされた。
道路も、建物も、河川《かせん》も、地下も、およそ人が空気に触れる全ての部分が焼かれ、一瞬《いっしゅん》で炭素とは何かを教えられる。
空、舞い上がる煙と陽炎と悲鳴の上、無数の黒い影と黒い雨がある。
B29大型|爆撃機《ばくげきき》と、それが降らせる焼夷弾《しょういだん》の弾幕《だんまく》だ。
ときたま何機かが降下コースをとり、東京の上空、至近《しきん》距離を舞っていく。
轟音《ごうおん》と熱が東京を何度も殴りつける中、佐山《さやま》は見た。
町の中で焼けただれた出雲《いずも》社のトラックの前、一人の男が立ちつくしているのを。
佐山は彼を知っている。
「――大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》!」
白衣姿《はくいすがた》の宏昌は、陽炎と光しかない街の中に立っていた。
彼の首、下がる石は、青の光を全開で放出していた。
その光に守られ、汚れはするが焼けぬまま、宏昌は何かを叫び、街の中を問うていく。
「――!?」
誰かいるか。早く避難《ひなん》しろ。逃げるんだ。と、彼の叫びの全ては風と焼夷弾に消され、耳に聞こえる悲鳴は熱で歪んで声々の距離さえ掴《つか》めていない。
しかし宏昌は叫び、燃える街中をあてどもなく走っていく。道に転がる木炭の| 塊 《かたまり》のようなものを飛び越え、蹴躓《けつまず》き、そしてまろびながら彼は走り続けた。
陽炎《かげろう》の路地を走り、まだ無事な通りに出ようとする。
だが、その直前。眼前の通りを壁のような熱風が通り過ぎた。
「!」
わずか一瞬の一撫《ひとな》では轟音《ごうおん》とともに。
そして、炎の風の通り過ぎた後には、もはや何もなかった。
建物も、人も、全て解《わか》らぬように炎が覆《おお》い、黒い影を見せているだけ。
視界の全域《ぜんいき》にあるのは、炎に覆われた大地と火《ひ》の粉《こ》の舞い上がる夜空だけだ。
無人の、陽炎|舞《ま》う通りに出た宏昌は膝《ひざ》をつく。
その背を見た佐山は、ふと、言葉を発していた。
届くはずのない過去に対し、佐山は聞こえぬ声で言う。
「――力|及《およ》ばず、かね」
宏昌がうなだれる。
「何も出来ないと知りながら、しかし、生き残ったものをかき集めることで 救った 実感を得たい。そんな思いでここに来たのだろう? 2nd―|G《ギア》を救えなかった罪滅《つみほろ》ぼしに」
だが、
「それさえも、滅びの前では許されない」
首から下げた青い石に、宏昌《ひろまさ》は手で触れた。
「ならば自らも滅びるか? ……滅びるしかない世界ならば、己を先に滅ぼすことで孤独な優越《ゆうえつ》とするかね? ――そのつもりならば、見るといい」
眼前、正面、通りの向こうから朱の波が襲《おそ》ってくる。
まるで大蛇《おろち》のように見えるそれは、東京中心部が焼け落ちたことによって生まれた最大級の火焔流《かえんりゅう》だ。波打ち、並ぶ家並みを炎《ほのお》に噴《ふ》き上げて炎風《えんふう》が来る。
「さあ、大城《おおしろ》・宏昌、これが分岐点《ぶんきてん》だ。――自分が何も出来なかった責任として、加護《かご》の石を捨てて皆と滅ぶことを願うかね? それとも、小さな生にしがみついて恥を晒《さら》すかね?」
佐山《さやま》の言葉に答えるように、炎が来る。
対する宏昌が動いた。彼は首の賢石《けんせき》を右手で握ると、
「っ!」
紐《ひも》を引きちぎった。
「では、その石をどうする? 分岐の意志を!」
佐山の問いに対するように、宏昌はゆっくりと、手を振り上げた。
投げ捨てるために。
だが、そのとき、彼は見た。
周囲。近づいてくる火が周りを明るく照らし、全ての造形を明らかにしたのを。
「――――」
そこに、倒れたものがあった。
膝立《ひざだ》ちで固まったものがあった。
子供をかばって伏せたまま共に動かなくなったものがあった。
同じように子供を守るため布団《ふとん》をかぶせ、しかし共に動かなくなったものがいた。
宏昌にも子供がいる。その事実を無視して、人は容易《たやす》く着火する。
全てが燃えて、炭となる。
次の瞬間《しゅんかん》、宏昌は口を開いた。
「お」
という声が漏れ、
「おぁあ……!」
という産声《うぶごえ》のような叫びに変わり、そして止まらない。
直後に彼は動作した。
だが、それは、石を捨てる動きではない。石を握り込み、硬い拳《こぶし》を作る動きだ。
ここを生き延びるための賢石《けんせき》を、宏昌《ひろまさ》はもはや首から提げるのではなく、己の拳に握り込む。
そして彼は叫びながら、勢いよく立ち上がる。
視覚だけの佐山《さやま》は、彼の動きに笑った。
「――生き恥を選ぶか過去の技術者! それでこそ失敗を恐れぬ躍進《やくしん》の使い手だ!」
火を目前に宏昌が空を見上げる。
口を開き、身《み》を仰《の》け反《ぞ》らせ、彼は更に何かを叫んだ。
抗議の叫び、| 憤 《いきどお》りの声を。
彼を見る佐山は、その抗議に対して声を放っていた。
「――叫べ! そして怒れ! 臆《おく》す心を吹き飛ばすために! 理不尽《りふじん》に向き合うために!」
火を眼前にして、
「絶叫《ぜっきょう》を挙げろ!」
直後。宏昌は叫んだ。前から連なる炎《ほのお》の風に対し、大きな声で、大きな声で。
「私は――」
火流《かりゅう》に拳を叩き付けた身が、大地から剥《は》がされ吹き飛んだ。
「私は……!! 」
その叫び声とともに、佐山は過去から弾《はじ》き飛ばされた。
奥多摩《おくたま》の山間、森を通る細い道路がある。
車の通りもない道路だ。が、空を覆《おお》い始めた雲の下、一人の作業服|姿《すがた》が歩いている。
鹿島《かしま》だ。
彼の作業服の右肩は刀《かたな》の一撃《いちげき》を受けた跡として裂けたまま。
左腕には、両親から与えられた防水性の分厚い封筒がある。
そして、雨を知らせる冷たい風に背を押されながら、鹿島は思う。
……どうするべきか。
ただそれだけが頭の中で動き、止まらない。
どうするべきか。
第三制作室の過去を目の前に逃げ出して、初めて実感したことがある。
……僕はかつてあの場所にいたんだよな……。
ずっと昔、祖父の遺言《ゆいごん》を果たせなかったことを、2nd―|G《ギア》の人間としての力に酔いしれることで忘れようとした。
そして、|Low《ロ ウ》―Gの人間として大事な存在がいたことも忘れていた。
「奈津《なつ》さん……」
忘れていたから、傷つけ救い出すまで思い出せなかった。
そのことを、もはや今度こそ忘れてはならない。
しかし、そう思いつつも、鹿島《かしま》は一つの否《いな》を思う。
今まで否定してきた思考《しこう》。それは己が、
「自分の力を忘れていないということ……」
作業服の右肩。そこにある衣服の切れ目は、自分の力を雄弁《ゆうべん》する。
……僕は|Low《ロ ウ》―|G《ギア》の人間になり切ることは出来ない。
姿形《しけい》は近く、文化も等しく、家族も得たというのに、根本《こんぽん》の自分だけがどうにもならない。
だが、こうも思う。
「どうするべきか」
答えは簡単だ。そんな思考《しこう》はやめればいい。
力を忘れるべきだ。そうでなければ、奈津《なつ》や晴美《はるみ》に対し、
……今後、ずっと偽《いつわ》りつつ、力に酔いしれていくのか。
駄目《だめ》だ、と鹿島は思う。
「だが……」
鹿島はつぶやき、思った。だが、どうするのか、と。
直後。不意にまた冷たい風が吹いてきた。
はっ、と思考から冷めて気づけば、脚《あし》の動きが止まっていた。
見れば、眼前では道が急角度で右に折れている。道に張り出すような急斜面があるためだ。
「ここは――」
あの崩落《ほうらく》の現場だ。八年前、全てを決する原因となった場所。
鹿島は、過去の現場に立っていた。
無言でたたずむ鹿島の肩を、何かが一つ小さく叩く。
雨だ。
空からの雨が、鹿島と、その周囲を優しく、しかし段々と強く打ち始めた。
雨は停まらない。
停まることなく、勢いを強くしていく。
新宿《しんじゅく》駅前の広場は、雨雲《あまぐも》が掛かり、風が吹き出しても人通りが絶えない。
ただ、皆が雨を思って移動をする中、石段に座り込む影が一つあった。
喧噪《けんそう》の底に沈むようにしゃがんでいるのは、新庄《しんじょう》だ。
と、そこに歩み寄る影が一つ。
佐山《さやま》だ。彼は手にしたカップを新庄に差しだし、
「飲むかね?」
問いに、新庄《しんじょう》が顔を上げた。力の薄い笑みを見せると、
「あ、うん。ありがと、何のジュース? まさかウニ一〇〇パーセントジュースとか」
「ははは、ここは奥多摩《おくたま》地下の怪しい秘密組織ではないよ。単なる紅茶だ」
「ふうん、……ちょっとスカされた気分」
苦笑|混《ま》じりの台詞《せりふ》に、佐山《さやま》は思う。
……ここはやはり、妙なものを買ってきた方が理想の佐山像だったのだろうか……。
確かに、IAIの自販機を探せば、UCATほどではないが破壊力の高いものがある。
選択を誤っただろうか。いや、しかし、いやいや、だが――。
「さ、佐山君? 何か考え込み始めたいだけど、あ、あの、大丈夫?」
「あ、ああすまない。少し自分の理想像を考えていてね」
「また怪しいことを……。でも、佐山君のジュースは? 何?」
「うむ。――いちご牛乳だ」
「………」
「さすがに思考《しこう》することが多くて脳に糖分《とうぶん》が必要でね。そして集中するにはカルシウムも必要となるとこれこそベストなチョイスと。ふむ、改めて思い返すとこれは我ながら感嘆《かんたん》せざるを、――何かねその目は」
「いや、何か言っても無駄《むだ》かなー、って」
そして新庄はまた表情を元に戻す。
「でも、あれだけキツイ過去見て……。タフだよね、佐山君」
「ふむ。以前、切《せつ》君には意外と小心《しょうしん》者だと評されたのだがね」
「いいからいいから」
とやれやれ顔で言われると、どう反応するべきか困る。
そんなこちらの表情をどう感じたのか、新庄はうつむき、御免《ごめん》ね、と一つ言った。
「でも、大城《おおしろ》さんのお父さんは、2nd―|G《ギア》の滅びをあの空襲《くうしゅう》で実感出来たのかな」
「そう考えてもいいのではないかね。……八叉《やまた》が現れればこの世界がどうなるかを見たようなものだ。……だから彼は考え抜き、荒王《すさおう》を作り上げ、八叉の問いに答えることが出来た」
ふむ、と頷《うなず》き、佐山はこう言った。
「同じ思いを、2nd―Gの者達は持っていたのだろう。そして、今でも持っている筈《はず》だ」
「え?」
佐山は新庄の疑問|詞《し》に、目を細めて頷いて見せた。
今日の事前交渉で解《わか》ったことを、彼は告げる。
「2nd―Gは伏臥《ふくが》の竜だと思うよ、私は。……安寧《あんねい》を望みつつ、しかし最善の選択をとることの出来る者達だ。きっと、六十年前のかつてもそうだったのだろう。荒王や十拳《とつか》を作った者達は、失ったものに対して抗《あらが》いの叫びを挙げた筈《はず》だ」
一息。佐山《さやま》は新庄《しんじょう》に問うた。
「新庄君。君は聞けると思うかね? 今の2nd―|G《ギア》が、目を醒《さ》まし、絶叫《ぜっきょう》を放つのを」
鹿島《かしま》は雨の中、ずぶ濡《ぬ》れになって、しかしずっと目の前の斜面と向き合っていた。
彼の目は、眼前、斜面と自分を遮《さえぎ》るように渡るガードレールをじっと見ている。
新道に沿って右に渡るガードレールの向こう。斜面に埋まる旧道《きゅうどう》がある。
斜面の下側は、コンクリートの土手《どて》によって大半《たいはん》が隠されている。
懐《なつ》かしい場所だ。一度はコンクリートの化粧を受けたものが、雨が降ってみると亀裂《きれつ》や上部から硬い泥を吐き出し、昔の顔を覗《のぞ》かせる。
泥がこぼれ、柔らかい音をたてる。まるで優しく問うているかのようだ。
何をしに来た? と。
日差しによって地面が温まっていたのか、周囲に霧が生まれ始めた。
雨、霧、そしてわずかな風。
雨を生み、空を渡る雲を叢雲《むらくも》という。
降る雨音の中、鹿島は森を見て、空を見上げる。
「……かつて、ここと似た世界があった」
その世界は守られようとして失われ、人々は諍《いさか》いを得た。
しかし、それらの人々は、諍いつつも、新しく住まうこの世界を守ろうとした。
何故《なぜ》だろうか。
何故、二者は争い、しかし共に守ったのか。
……解《わか》らない。
過去のこと。他人のことだ。解ることなど出来はしない。
ただ、昔の自分は、こう思っていたのではなかったか。
「解らぬまでも、近づくことは出来るだろう……」
……ああ、そうだ。
祖父から聞いた違う世界の戦争の話。
嘘《うそ》とも思える話を言う祖父は、楽しそうで、しかし、最後には必ず哀《かな》しげな顔をした。
その顔に、僕は何も言ってあげられなかった。
「忘れていいのか」
祖父のことと、そこから得た自分の思いを、
「忘れていいのか……?」
否《いな》、と答えが来た。自分の他に、そこに辿《たど》り着けるものはまずいまい、と。
「――――」
ふと、空を見る視界が歪《ゆが》んだ。雨が目に入ったのだと思う。
熱い雨。体温を持った雨だ。その雨を浴びながら、鹿島《かしま》はつぶやいた。
「決めるよ」
何を言っている、と思う心は、己の言葉すらも止められない。
「ここが、きっと、僕が決めるべき場所なんだ……」
己の力を恐れ、そして大事なものを手に入れた場所。
コンクリートに半《なか》ば覆《おお》われた斜面を見ると、身に震えが来る。
第三制作室の前で得た震えが、またぶり返してきているのだ。
旧《ふる》い道を選べば、震えが来る。
鹿島はそのことを思い、横にそれる新しい道を見た。震えの来ない安全な道を。
だが、彼はすぐに首を強く横に振った。まるで何かを振り切るように、
「その道を行く前に、僕には必要なものがある……」
言葉とともに鹿島は息を吸い、一つの動きを作り出した。
彼は、ガードレールを越えたのだ。斜面の側、向こう側へと。
雨音の中を行くのは、一歩と、二歩。
その動きでガードレールを越え、鹿島は立ち止まる。
身にあるのは震えの一語。
だが、鹿島はそこに立つことを選んだ。
それが決断だ。
震える身をもって、鹿島はわずかに息を吸う。
そして口を開き、誰かに告げるような口調でこう言った。
「僕はこの方法を選ぶよ……」
一息。
「過去とともに、新しい道を行くために」
言うなり、鹿島は雨音を歩き、斜面へと近づいていく。
身は震えるが、その震えは前進の歩みとともにすこしずつ消えていく。
歩き、鹿島は思い出す。過去のことを。
かつて、祖父が最期《さいご》に赦《ゆる》しを請《こ》うたこと。
荒王《すさおう》の頭部|艦橋《かんきょう》が砕けているのを見て落胆《らくたん》したこと。
そしてこの崩落《ほうらく》を起こし、奈津《なつ》の欠けた手を握ったこと。
全ての記憶《きおく》の中、だが、確かに言えることが一つある。
全ての疑問も、| 憤 《いきどお》りも、恐れも、喜びも、
……僕が自分の力を持っていたから、あったんだよな。
忘れることも、離れることも出来ない記憶《きおく》。
今までずっと迷い続け、家族を得ても振り払えなかった記憶。
「でも、それら全てを生んだ力に、僕は問うたことがなかったね」
鹿島《かしま》は斜面の前に立ち、口を開いた。軋《きし》むような口調で、
「僕の力は、……失うことしか出来ないのだろうか、と」
息を吸い、鹿島は斜面の土に封筒を持った左の手を着く。
そして彼はおもむろに右の手を構え、首を横に振った。
「我《わ》が儘《まま》だ! 僕は、僕は大事な人を傷つけたこの力で――」
右の拳《こぶし》を振りかぶり、目の前にある斜面の泥へと突き込んだ。
響《ひび》くのは飛沫音《しぶきおん》と叫び。
「僕は全てを取り戻したいと思ってる!」
手首まで突き込んだ土。柔らかい湿った泥土《でいど》は、太陽の熱で温かかった。
ああ、と右手に熱を感じながら、鹿島は顔を流れる雨を口に入れた。
熱い雨を、雨音とともに舌で舐《な》め取り、こう感じた。
……血と同じ味がする。
その味覚と、泥の中からやってくる右手の感触《かんしょく》。
手の中にあるぬめった手触《てざわ》りは、かつて、奈津《なつ》の手を握った感触とよく似ている。
忘れてなどいない。
八年前。あのときと同じ感覚と、そこから得られる感情を、震える背筋《せすじ》が代弁《だいべん》する。
だが、鹿島はもはや身体《からだ》を斜面から背《そむ》けない。
「僕は……」
何かを堪《た》えるように震える声で、鹿島はこう告げた。
「僕は嘘《うそ》をついていくよ、奈津さん」
御免《ごめん》、と鹿島は思う。
御免よ奈津さん。
僕は貴女《あなた》を欠けさせた力を、また手に取ろうと思う。
御免、晴美《はるみ》も、君のお父さんは嘘つきだ。
だけどもう、僕は今後、嘘をつくことを謝らない。御免と言わない。
「決めたから」
嘘をついて、己の力で全てを守っていこうと、決めたから。
鹿島は思いと同時に右へ振り返った。
八年前の感覚を泥とともに右手に掴《つか》み、新しい道を見る。
アスファルトの道路はどこまでも続いている。
「…………」
今、感覚出来る全身には荒れた息と荒れた鼓動《こどう》がある。
だが心は荒れていない。
……僕が選ぶのは、2nd―|G《ギア》と|Low《ロ ウ》―Gのどちらでもない。
「2nd―Gの力を秘め、Low―Gの中へと――」
……どちらでもない場所に、僕は行こう……。
決めた。我《わ》が儘《まま》だと思いながら、それ以上に否定の意思が生まれない。
だから決まりだ。
斜面から右手を抜き、口を開くと、
「お……」
声が出そうになる。
意思に逆《さか》らう理由は無い。
だから鹿島《かしま》は天に向かって口を開き、それを出した。
叫び。産声《うぶごえ》とも言える叫びだ。
身の震えが弾《はじ》け飛ぶように消え、声が更に大きく放たれた。
「……!」
鹿島は身体《からだ》をよじり、折り、反《はん》じるように強く仰《の》け反《ぞ》らせた。
身を空に伸ばし、肺から喉《のど》と口に息を通し、鹿島は叫びを挙げた。
咆哮《ほうこう》が叢雲《むらくも》の空を穿《うが》つ。
雲の色濃い空の下。新宿《しんじゅく》の雑踏の中で、新庄《しんじょう》は佐山《さやま》の問いに肩を震わせていた。
「叫び……?」
うむ、と佐山は頷《うなず》き、吹いてくる風に髪を掻《か》き上げた。
彼は、静かな表情で空を見上げる。何かを思い出すような口調で、
「抗《あらが》う者、戦う者は、声か、意志か、どちらかで言葉か無言の叫びを挙げるものだ。あの大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》のように」
そして、
「きっと、これからの2nd―Gのように」
告げられる言葉に、新庄は息を詰めた。
思い出すのは二つのこと。
昨夜に大城から聞いた鹿島のことと、今見た過去のことだ。
……あの人は、大城さんのお父さんのように、決めるのかな。
決めるのだろう。そんな確信がある。あの人は、己の力を知っているのだから、と。
……では。
自分はどうだろうか。
答えが出ない。その事実から得た感情が身を震わせ、
「!」
新庄《しんじょう》を反射的に動かしていた。
思いの拒絶は、立ち上がり、身に力を入れること。だが、
「――――」
自分の行為に、はっとして横を見ると、佐山《さやま》がこちらを見上げていた。
どうしたのかという表情。それに対し、新庄は改めて自分のしたことに気づく。
「ご、御免《ごめん》。ちょっと気分が」
新庄は肩から力を抜き、息をつく。
そして気まずく座り直したときだ。横から佐山の声が飛んできた。
「確かに、先程《さきほど》のような過去を見て、すぐに気持ちを入れ替えられるわけはないと思うが。緊張《きんちょう》しすぎは良くないと思うよ? 新庄君」
「うん……」
動揺《どうよう》を悟られないよう、新庄は無理に笑みを作って問い掛ける。
「じゃ、じゃあ、何か、気分|転換《てんかん》になる話って、ある?」
問いに佐山は考えた。
数秒してから、彼は頭上の獏《ばく》とともに手を打つ。そして漠とともに振り向き、
「……では、改めて明日の全連祭《ぜんれんさい》に誘ってみたいが、どうかね?」
祭、という言葉に、新庄は一瞬《いっしゅん》、喜びの表情を得た。
が、新庄はすぐ気づいたように肩を震わせる。
……駄目《だめ》だよ……。
佐山に慌《あわ》てて手を振り、
「あ、あのさ、明日はボク、訓練入れてるから、その、……切《せつ》と祭を楽しんでよ」
「確かにそれも悪くはないのだが……」
佐山の気乗りしない口調に、新庄は即座《そくざ》の問いを送っていた。
「切のこと、嫌い?」
「そういうわけではない。だが」
佐山は脇にあるバインダーを抱いた。そして、
「今は君に来ないかと言っていたのだが」
あ、と声を漏らした新庄は、自分の問い掛けの意味と、佐山の思いを悟る。
彼の気遣《きづか》いと、それを否定した自分の意志を。
「――――」
自分は今、どういう顔をしているだろうか。
眼前、わずかに眉をひそめた佐山《さやま》の表情が教えてくれる。泣きそうだ、と。
「新庄《しんじょう》君」
「ご、御免《ごめん》」
と新庄は立ち上がって一歩を退《ひ》いた。
腕時計を見れば午後五時四十分になろうとしている。
「あ、あのさ、佐山君。ボク、ちょっと調子が悪いから、……一人で帰るね」
その言葉に、佐山が眉を動かした。
何かに気づいたように顔を上げ、真剣な表情で問うてきた。
「話題が話題なので遠回しに言うが、生理かぐふっ!」
台詞《せりふ》の途中で膝《ひざ》を入れた。思わず身を折る佐山に、新庄は焦る。
「ご、御免、遠回しって意味が違ったような気がするからつい……」
「ふ、ふふふ、見事な攻撃だね、新庄君。実は二度ネタだから当然の報いか。だが――」
「いいからいいから、大体《だいたい》生理なんてまだ無いんだから」
やれやれと告げる。が、しかし、佐山はこちらの言葉に眉を動かしていた。
怪訝《けげん》そうな表情と口調が、問うてくる。
「まだ無い……?」
あ、と新庄は自分の台詞に気づいた。だが、それは、
……本当のことだもの……。
だから守りを固めるように身体《からだ》を抱く。そして新庄は彼と目を合わせると息を深く吸い、
「……おかしい、かな?」
おかしいと思う自分を、確認するような問い。
しかし、答えは違った。佐山は乱れたネクタイと襟《えり》を直しながら、
「人によって個人差はあるから、どう言えたものではないと思うが」
うん、と頷《うなず》きながらも、新庄は自分の顔が赤くなっていくのを自覚する。
こんなところで何を話しているんだろうか。
「御免ね、子供で。でもこれ、ちょっとした理由があって……、それで今、佐山君にも嫌な思いをさせてると思う、ボク」
「その理由とは、昨夜に教えてくれた嘘《うそ》のことかね?」
「……うん。でも、これ以上は話せない」
静かに新庄は首を下に振った。そして駅の方に顔を向けながら、
「今これ以上話すと、ボク、駄目《だめ》だと思う……。ただ、佐山君? 今だからいきなりなことを問うけど、聞いてくれる?」
「聞くとも、君が問いたいならば」
許可を得た。その事実に安堵《あんど》して、新庄は言葉を作った。
「じゃあさっきの、全連祭《ぜんれんさい》に切《せつ》と一緒に行って欲しいって意味だけどね? あのさ、こういう言い方は悪いけど、佐山《さやま》君はやっぱり、……切がいなくなっても大丈夫だよね?」
「……?」
「そんな顔しないで。ほら、だって、もう左腕も治ってるでしょ? だから、だから切がいなくても、佐山君には運《さだめ》がいるし。……きっと、切はいらないんだよね?」
そして、新庄《しんじょう》は腹の中に沈めていた言葉を何とか吐き出した。
「でも、だからこそ、少しでいいの、ちょっとでいいから、切の近くにいてあげて」
そこまでだった。これが今の精一杯《せいいっぱい》だ。
ふと見た彼の顔はかすかな驚きがあり、その表情を得たことに御免《ごめん》と思う。
だから新庄は佐山に背を向けた。そして足に力を入れ、走り出す。
「御免。……また今度! 今度ね!」
そして新庄はすぐに腕時計を見て、早足を駆け足に変えた。
佐山が立ち上がるが、間に合う筈《はず》もない。
動きは雑踏に紛《まぎ》れるように。大きな荷物を抱えた女性二人の間をくぐって新庄は走る。
そのジャケットの肩に空から一つのものが降ってきた。
肩に落ちるのは焼夷弾《しょういだん》ではない。今の世に降るのは、
「……雨」
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第十八章
『痛みの要求』
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かつて痛んだものは今何を求めて痛むのか
そしてかつて求めたものは今どうなったのか
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夜の帳《とばり》が降りる奥多摩《おくたま》の山間。
そこにあるUCATの施設より更に奥に、現実とは違う世界がある。
1st―|G《ギア》居留地《きょりゅうち》。緑に覆《おお》われた半径一キロの空間内は、今、夜を迎えていた。
空間内に点在する民家や仮設住宅の窓からは光がこぼれ、屋根の煙突からは煙が上る。
だが、それらの中央にある石造りの一軒家《いっけんや》は、少し事情が違った。
家の前面を覆う壁が無いのだ。それも、砕かれた様相《ようそう》をもって。
そんな砕きの家の内部からは、光が溢《あふ》れている。
中にいるのは二人、黒い甲殻《こうかく》に覆われた半竜《はんりゅう》と、白衣姿《はくいすがた》の老人だ。
二人は土床《つちゆか》の家の中、竹で作ったベンチに向かい合って腰掛けている。
二人の間にあるのは碁盤《ごばん》と、白黒の碁石《ごいし》。
半竜は胸を張って腕を組み、白衣の老人は前屈《まえかが》みで碁盤を眺《なが》めている。
白衣の老人が顎《あご》に手を当てつぶやいた。
「ファーゾルト、わしは軍人|将棋《しょうぎ》だと無敵なんだがなあ……」
「前に 地雷《じらい》 の駒《こま》を落として暴発させたのを忘れたか大城《おおしろ》・一夫《かずお》」
「ああ、あれはよく吹っ飛んだなあ。――わしが」
大城の言葉ではなく、続いた吐息にファーゾルトが首を傾《かし》げた。
「……2nd―|G《ギア》との全竜交渉《レヴァイアサンロード》が進んでいると聞いたが?」
「い、いきなり人の心の核心突《かくしんつ》くやつだな」
「語り部《べ》は遠回しに物を語るが真実は逃さぬのだよ大城・一夫。あの佐山《さやま》・御言《みこと》や新庄《しんじょう》が働いているのではないか?」
「その新庄君が問題でな。――お前は知っておるのだよな? 新庄君の嘘《うそ》を」
最後の言葉にファーゾルトは、ほう、と声を漏らした。
「つまりは新庄が佐山・御言に己の嘘を明かすかどうかを思案《しあん》しているわけだな?」
「よく解《わか》るもんだなあ」
「物語としては正当なものだからだよ大城・一夫。姫は必ず秘密を持っているものだ」
「姫は必ず、っていつからメルヘン番長《ばんちょう》になったファーゾルト」
ファーゾルトは無視した。
「それでお前は父の関わった2nd―Gの滅びについてあまり情報を出すわけにもいかないから新庄達に積極的な介入《かいにゅう》も出来ないと、そういうことだな?」
「ファーゾルト、お前がいると情報整理が楽だなあ……」
大城は碁石を一つ置き、
「まあ、わしも、どことなく気後れしとるのだろうな、親父《おやじ》のことで」
「若い証拠《しょうこ》だよ迷うのは私くらいになるとなかなかそうもいかん」
「そうなのか?」
「ああ先日もファーフナーがパルプ作製の仕事に余計な口出ししてきたので迷わず殴り倒してしまったそこの壁はそのときの家族戦闘の余波《よは》でな。コレを見ていると迷いは必要だと思う」
大城《おおしろ》は家の前面をブチ抜いた壁を見て、
「毎日が充実しとるな。……で、ファーフナーは?」
「反省の儀《ぎ》に入った」
「反省の儀?」
「ああ裏の崖《がけ》に綱で縛《しば》って三日間逆さに吊《つ》るすのだよ大体それで反省するがしていなかったらよく回した上でまた三日吊るす」
「そりゃ反省じゃなくて強制|意識《いしき》改革だろうがっ!」
ファーゾルトはやはり無視した。碁石《ごいし》を一つ置き、
「まあ何はともあれ若いのは元気と迷いがあっていいことだ。対する2nd―|G《ギア》の者達とて長寿《ちょうじゅ》系はいないのだから若い者は若いなりに迷いそして結論を出すことだろう」
彼は喉《のど》の奥で息を吐くような笑みを漏らし、
「ただ1st―Gの私にはそれらとは別で気がかりがある。少々古めの連中が動き出しておるようだな聞いたぞ独逸《ドイツ》UCAT最強の魔女が来たと」
「ディアナ君か。知っての通りジークフリートの姪《めい》だが……」
「噂《うわさ》は聞いている。だがあの男の姪に1st―Gの手助けをしてもらうことになるとはな」
大城は頷《うなず》き、
「時代は変わったということだろ。ただ、ディアナ君は全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》に興味があってな」
「あってな、とは?」
「彼女はUCAT空白期を知る人間だ。……それだけ言えば充分だろ? お前も知らないUCATの過去を知る人間が、全竜交渉《レヴァイアサンロード》を見届けるために戻って来たんだ」
そして、
「この十年、彼女がどういう真意を心に秘めてきたかわしは知らん。だから出来ればちょっとお目付役というか、助手でもつけておきたいところではあるが――」
「それならばいるぞ適任が」
自信ありげにファーゾルトが告げた。
「独逸UCATの魔女に引けをとらぬ者が1st―Gにはいるぞ大城・一夫《かずお》。気兼ねなく用いるが良い。――1st―Gを| 恭 順 《きょうじゅん》させた全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》。あの佐山《さやま》・御言《みこと》と新庄《しんじょう》のために」
UCAT地下二階の設計室は、ある一人の人物によって、不意の緊張《きんちょう》に包まれていた。
それは、鹿島《かしま》だった。
彼の全身はずぶ濡《ぬ》れだった。白い作業着は湿って浅黒く、いつもはそこそこ整えられている髪も、水を垂らして顔や首筋《くびすじ》に貼《は》り付いている。
彼の左腕は防水性の分厚い封筒を抱えたまま。右手は肘近《ひじちか》くまで泥土《でいど》に染まっている。
しかし、鹿島は何も気にしていない。ただ、水の足音付きで、まっすぐ歩いていくだけだ。
彼の行く先は、設計室|最奥《さいおく》。そこには大型プロジェクターを持つ壁と、一つのデスクがある。パーティションに区切られぬオープンスペースは、月読《つくよみ》のものだ。
対する月読は荒王《すさおう》の観察の際に撮ってきた写真を眺《なが》めていたが、ふと、顔を上げた。
彼女は入り口の方、そこからやってくる鹿島を見る。緊張《きんちょう》の| 源 《みなもと》を。
「決めたかい。――鹿島」
笑みを作った月読の視界の中、鹿島は頷《うなず》きもせず、こちらへやってくる。
彼は無言だが、表情は静かで、淀《よど》みも力も何も無い。
月読はそんな鹿島を見て内心で頷く。それでいい、と。
と、不意に右手側のパーティションから一人の青年が立ち上がった。
白衣姿《はくいすがた》の短髪は、三年前に配属されたばかりの技術者、御上《みかみ》という青年。
月読の記憶《きおく》によれば、確か、鹿島に対しての心証《しんしょう》はよくない。
御上は2nd―|G《ギア》では純粋に鋳物《いもの》や刀剣工《とうけんこう》の家系。2nd―G時代、技術の流布《るふ》によって鹿島に追いつかれ、剣においては一番を譲《ゆず》った経緯《けいい》がある。
御上が鹿島を止めるのは、つまり、そういうことだろう。
彼は足音一つ、速い動作で鹿島の右から、
「鹿島室長。鉄を打ち、火に関する設計室へ、不用意に濡れた身で入るのは――」
という言葉が止まった。その原因は、鹿島の視線だ。
今、鹿島はただ御上を見ていた。
だが、それだけで、御上は手を下に納め、身を退《ひ》いた。
誰も御上の判断を嗤《わら》う者はいない。
また無言が生まれ、緊張は一層に強くなり、目前に来た鹿島がこちらに目を向けた。
力のない、しかし、力を失ってはいない目。それに対して月読は問う。
「何しに来たね?」
「2nd―Gと|Low《ロ ウ》―Gの全竜交渉《レヴァイアサンロード》を二日後のこの時間に」
「――方法は?」
と月読が問うた瞬間《しゅんかん》だ。設計室の扉が開き、一つの歌が入ってきた。
「お〜れの力はエボラ並い〜! ひぃれ伏《ふ》っす輩《やから》も尻から大腸〜!」
こちらを見ていた皆が害を恐れてパーティションに引っ込む中。熱田《あつた》がやってくる。
月読の視界の中では、鹿島が話を中断されたことに渋い顔をする。
「……随分《ずいぶん》とご機嫌《きげん》だな熱田《あつた》というか何しに来た馬鹿」
「うお、何だテメェ、辞《や》めて家|帰《かえ》って女房《にょうぼう》の乳でもズバズバ揉《も》んでんじゃねえのか」
横にやってきた熱田の声に、鹿島《かしま》がやれやれ顔で吐息する。
彼は一瞬《いっしゅん》こちらを見て、それから熱田に視線を移し、
「あのな、まだ終業時間|前《まえ》だぞ一応。あとお前の発言は人妻《ひとづま》セクハラだ。――何しに来た?」
「ちゃんと用があって来たんだぜ。辞めるとか抜かしてるテメエに言うもんか。ケッ」
「じゃあ辞めない。言ってみろ」
「フザけてんのかテメエ。だったら、俺を拝んで教えて下さいって言ってみろ」
「はいはい。――教えて下さい」
「そんなプライドのねえヤツには教えん……!」
「……お|前《まえ》本当にワケの解《わか》らんヤツだなあ。久しぶりに感動したぞ」
鹿島が言うと、ふーむ、と熱田は頷《うなず》き、
「まあいい、少しスッキリしたからお恵み程度に教えてやらあ。――全竜交渉《レヴァイアサンロード》だよ」
パーティションから顔を出した皆が、彼の最後の言葉に眉をひそめた。
コイツが何を、という皆の思いを代弁するように、こちらの眼前、鹿島が頭を掻《か》いた。
「――そういえばさっき食堂で、全竜交渉《レヴァイアサンロード》にこだわる理由は惚《ほ》れた女が云々《うんぬん》とか言ってたな」
「まあ、それもあるがな。でもな? ……聡明《そうめい》な俺は、それも含めて、こうも考えたわけだ」
背後、皆が自分を見ていることに気づかず、熱田はこう言った。
「|Low《ロ ウ》―|G《ギア》に馴染《なじ》んでるとはいえ、何故《なぜ》、俺達が自分の世界の概念核《がいねんかく》を易々《やすやす》と全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》に預ける必要があるんだ、ってな。……俺達とLow―Gのどちらが上なのか、下なのか、それ[#底本「そそれとも」]とも本当に等しいのか。それを見てもねえのに概念核を預けれるのか、って」
一息。彼は満足げな顔でこちらを見て言葉を放った。
「そこんとこ、はっきりしねえと俺は納得《なっとく》しねえ。概念核も、惚れた女のこともな」
告げられた言葉に、まず反応したのは鹿島だった。彼は、ふむ、と頷き、
「月読《つくよみ》部長。この動物が私怨《しえん》正当化のために珍しく真面目《まじめ》なことを言ってますが」
「こ、この野郎《やろう》、俺がさっきトイレで思いついた名論《めいろん》をっ……!」
やかましい、と言いながら、月読は熱田の背後を見た。
パーティションから顔を出した皆はやれやれ顔で、しかし、じっとこちらを見ていた。
皆が寄越《よこ》すのは、少なからず熱田の言葉に同意する視線。
……成程《なるほど》ね。
と彼女は思う。誰もが皆、少しはわだかまりがあったわけだ、と。
「じゃあ熱田。アンタ、どういうことをすれば納得出来るの?」
問いに対し、んー、と熱田は考える。そしてややあってから笑顔になって、
「殺し合いなんてどうよ!?」
「笑顔で言うな馬鹿。殺したらUCATから叩き出されるどころじゃ済まないぞ」
「テメエこそ何も案《あん》出さずに批評してんじゃねえっ」
熱田《あつた》は舌打ちし、
「じゃ、折衷案《せっちゅうあん》で模擬《もぎ》戦とかどうよ? 野外訓練でやるだろ? あれのアッパーバージョンを俺達とガキ連中とでやるんだよ。ガキ連中が俺達に勝てたならば概念《がいねん》解放に文句はねえってのでどうだ?」
「模擬戦ねえ……」
つぶやきながら、月読《つくよみ》は二人の背後の皆を見た。
皆はお互いに顔を見合わせ、しかし、数秒の後にこちらを無言で見た。
それは、力のある視線。もはや己では答えを決めつつも、こちらに決断を預ける視線だ。
だから月読は告げた。頭の後ろで腕を組み、
「――それ、いいかもね」
「おう、ババア! 話通じるじゃねえかよ!? すげえ、発見だ! おい、鹿島《かしま》、見ろ! このババア、こんな古いのに俺の現代日本語がちゃんと通じるぜ!」
「月読部長、この生物が失礼なのはいつものことですが、今回は特にお赦《ゆる》しをお願いします」
「まあいいけどね」
と、やれやれ顔で月読は告げる。
立ち上がり、彼らと視線を合わせ、会釈《えしゃく》一つで彼女は告げる。
「場所は昭和記念公園内概念空間。方法は模擬戦。勝利条件は荒王《すさおう》頭部|艦橋《かんきょう》内に残った十拳《とつか》を両者代表のどちらかが手に取ること。報償《ほうしょう》は、敗者側は勝者側の要求の全てを飲むというもの。……そんなところで、どう?」
「そのためらいない言い方……、用意してましたね」
月読はすぐには答えず、ただ笑みを返す。
大体のところは、もう解《わか》っていたことだ。
今日の自分の相手、悪役の少年に自分は答えると決めていたのだから。
……どんな手段をとっても安寧《あんねい》を望むだけの現状維持を破棄《はき》する、か。
「ならば、納得《なっとく》のために最大最高の手段をとるだけよね。どう? 文句はないでしょ?」
問いに熱田が満足げに頷《うなず》き、対する鹿島が頭を掻《か》いた。
困ったように見える彼の仕草《しぐさ》だが、口元に浮いた楽しげな笑みを月読は見逃さない。
「うーん……。月読部長がそう言うなら、とりあえず僕の方では文句ありません、かな?」
「じゃ、やる気なのね」
そして、
「――フツノを改修して、出す気はある? 2nd―|G《ギア》の旗剣《きけん》として」
横、熱田が驚きの顔を見せるが、無視するように鹿島は即答《そくとう》。
「ええ」
「お、おい、鹿島《かしま》。本気か? テメエ、女房《にょうぼう》の乳揉《ちちも》んでる方が幸せだぜ?」
「ああ、だが決めたんだ。フツノも作るし、奈津《なつ》さんの乳も揉む、と」
言ってから、鹿島がふと考えた。あれ? と首を傾《かし》げて、
「今の、僕の決断とニュアンスちょっと違う気がするな……。野性|味《み》があるというか……」
「どうでもいいからとっとと準備なさい。全ての答えを出すために」
まだこの男達は子供|同然《どうぜん》だわ、と月読《つくよみ》は苦笑を一つ。
二人の背後、パーティションからこちらを窺《うかが》う皆に対して、手を一つ打った。
「では皆! 今夜は先祖や家族に| 奉 《たてまつ》り、己が名を自覚して来なさい! ――雨の夜だもの、少しはセンチ気分になってもいいと思うわよ?」
雨が降る暗闇《くらやみ》の中、一つの電車が東京を西へ向かっていた。
新宿《しんじゅく》から出る京王《けいおう》線。高尾山《たかおさん》口《ぐち》行きの各駅停車だ。
その先頭車両の中、少ない乗車率の座席に、大きな紙袋《かみぶくろ》を抱えた姿が二つ。
白のTシャツに黒のワンピースという詩乃《しの》と、青のジャケットにジーンズ姿の命刻《みこく》だ。
詩乃が抱えているのは紙袋一つ。だが、右に座る命刻は大きめの紙袋を二つ抱え、更には足の下と網棚《あみだな》にも同様の包みを一つずつ。
雨のこぼれる窓を背に、命刻は真剣な表情。厳《おごそ》かに口を開くと、
「さて、今回の物資《ぶっし》補給は成功に終わったわけだが」
「真面目《まじめ》な顔して騙《だま》そうったって駄目《だめ》ですよっ! 何ですかもうフニョフニョした枕《まくら》まで買っちゃってもう……。嘘《うそ》つきっ!」
「欲しいと言ったのは詩乃だろう」
「言ってませんー。ただ単に、いいなあ、って言っただけですー」
同じことだ、と命刻が笑みを見せた。
だが詩乃は見る。笑っていた命刻が不意に表情を変えるのを。
窓の外、雨をこぼす夜闇《よやみ》を見た命刻は、かすかに眉尻《まゆじり》を下げていた。
こちらの視線に気づいたのか、命刻から問うてくる。
「見たか? 詩乃。新宿で……」
「ええ。……すれ違いましたよね。新庄《しんじょう》さんでした。間違いありません」
駅前ですれ違った人影。自分達の間を抜けていった泣きそうな顔を思い出す。
詩乃は命刻から視線を逸《そ》らした。そして左手で荷物を抱え、右手で命刻の腕に触れる。
「駄目ですね……。やっぱり憶《おぼ》えてないですよ、向こうは。全く気づきませんでしたから」
「そうだろうな。情報の通りだ。子供の頃の記憶が一切《いっさい》無いと」
「今度、私が話してみましょうか? 私の力なら――」
「やめておけ、下手《へた》に力を使うと警戒《けいかい》される」
「でも」
「いいんだ。いずれ新庄《しんじょう》とは出会うことになる。敵か味方か、どちらかとしてな。それに、詩乃《しの》も見たろう。佐山《さやま》・御言《みこと》を。……私の敵を」
命刻《みこく》は首を小さく左右に振って吐息をこぼし、しかし告げた。
「難しい話だな。新庄は心で泣いていた。もしあの佐山がその涙を止めても、止められなくても、……私は悔しく思い、あの男を恨むことになるだろう」
雨のため、佐山の帰寮《きりょう》は遅れた。
今、寮の廊下を歩く彼の腕時計は午後八時十分を差す。
いつも新庄は四、五時に風呂《ふろ》に行こうと言い、それから勉強などを経た後、遅くても午後八時には学食で夕食になる。
「新庄君は、一人で夕食を済ませてしまっただろうか」
新庄が携帯電話を持っていないこともあるが、
……舎監《しゃかん》に電話して、言《こと》づてを頼むべきだったか。
佐山は足を急がせ自室に到着。ドアを開けると鍵《かぎ》は掛かっていなかった。
スムーズに開いたドアの向こう、
「暗い?」
明かり一つない部屋。そして、その部屋の中には今、誰もいない。
……新庄君は――。
わずかな焦りが生まれた瞬間《しゅんかん》。不意に胸ポケットの獏《ばく》が顔をベッドに向けた。
何事か、と佐山が見れば、ベッドの下段に寝ている影がある。
新庄だ。
こんな時間にどうしたのだろうか、と佐山は心を動かした。
……昼にあった腹痛がまた来たのだろうか。
佐山は部屋のドアを閉じ、闇の中を窓際《まどぎわ》へと歩く。
バインダーと獏を自分の机の上に置いた。そのときだ。
衣擦《きぬず》れの音に振り向けば、白いシャツが闇の中で身体《からだ》を起こしていた。
「佐山……、君?」
「すまない、起こしてしまったか」
「ううん。……明かりつけても大丈夫だよ」
いや、と佐山は言って、ベッドの傍《かたわ》らに腰を屈《かが》めた。
すると、力のない表情がそこにあった。
佐山《さやま》は、こちらを窺《うかが》うような新庄《しんじょう》の目を見てふと気づく。新庄の目元がわずかに赤くなっていることを。
……泣いていた、のか?
だが佐山は、そのことを問わず、別の言葉で問うた。
「何か、必要なものはあるかね? 食べたいものがあるなら運んでくるが」
ううん、とまた言って、新庄がわずかに眉をひそめた。
新庄は己の腹に目を向けると、毛布に隠れた下腹《したばら》を軽く抱く。
そしてこちらが何か身動きするより早く、
「大丈夫。明日の朝になったら収まってるから。――明日、全連祭《ぜんれんさい》は晴れるといいね」
「ああ、一緒に回ろう。楽しむために」
「うん……。で、あのね、佐山君」
「何かね?」
「昼に渡したプロット、目を通してくれた?」
問いに、佐山は言葉を失った。幾《いく》ら何でも、受け取り、仕事に出て、今《いま》帰宅したばかりだ。
読むことなど出来るものではない。だが、
……新庄君にとっては、それだけ大事ということか。
思いは沈黙《ちんもく》となり、そして新庄が答えに気づき、眉尻《まゆじり》を下げた。
「御免《ごめん》ね、無理《むり》言っちゃって。……押しつけたよね」
「そんなことはない」
今は忙しくて、というのは言い訳がましいな、と佐山は思う。
ただ、気楽に読むことが出来ないのも確かだ。それは大事なものなのだろうし、
「許してもらえるなら、今日のところはすまないが、時間が欲しいところだ」
「時間? ……どうして?」
「昨日の昼、新庄君は言ったね? 自分を知って欲しいと。……ならば」
思い、佐山は心に浮かんだ言葉を率直《そっちょく》に伝える。
「君が私に自分を伝えようとしているように、私にも君と向かい合うだけの時間と覚悟《かくご》を」
「それがあれば、読んでくれる?」
「ああ、読むとも」
「でも、ボク、ひょっとしたら、明日にもいなくなっちゃうかもしれないよ」
新庄の右手が、こちらの左腕、シャツの袖《そで》を掴《つか》んだ。
握る。が、新庄の手はすぐに離れ、ゆっくりと戻る。
そして、つ、という声を出し、また新庄が浅く身を折った。
そのまま新庄は一度|身体《からだ》から力を抜き、こちらを見ぬまま、尻から毛布に入っていく。
「御免《ごめん》……」
新庄《しんじょう》が毛布に頭まで隠れてしまうと、佐山《さやま》にはすることが無くなる。
プロットを読むべきかと思うが、このような雰囲気《ふんいき》のまま与えられたプロットを読むのは、
……焦り、誤魔化《ごまか》しているようなものだ。
そう思ったとき、ふと、佐山は身動きを止めていた。
く、という、新庄の押し殺した息が聞こえたからだ。
同時、何故《なぜ》か左の胸に軋《きし》みが来た。
この痛みは何だろうかと思い、不意に記憶《きおく》から昔のことを引きずり出す。
かつてのこと。自分も、夜に腹部の痛みを得たことがあった。
身体《からだ》が出来ていない子供時代ならば誰でも経験するような腹痛だ。
本人にとって痛みはあるのだが、周囲はあまり大きく扱ってくれず、そして、確かに翌朝《よくあさ》には痛みがかき消えているような、そんなものだ。
かつての頃は、どうだったろうか。間違いなく、親がいて、どうしてくれただろうか。
思い出すと胸が軋むが、思い出さねばならないだろう。
「んぁ……、っ」
新庄の声に、佐山は急ぎ左胸に右手を当てた。
悪役として、すべきことがある筈《はず》だ、と。
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第十九章
『埋め合わせの夜』
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何を言うべきなのか
どうしても言えないのは本当の言葉
求めればためらいがつくもの
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六畳の居間では、深夜のテレビ番組の音が小さく鳴っている。
鹿島《かしま》の家の居間。
その中、外から響《ひび》く淡い雨音を耳にテレビを見ている人影が二つある。
鹿島と、寄り添っている奈津《なつ》だ。
座布団《ざぶとん》に座る二人の前にはテーブルが一つ。
テーブルの上には、銚子《ちょうし》が二本とお揃《そろ》いの猪口《ちょこ》が二つと、
「小女子《こうなご》の妙《いた》め煮《に》、お気に入りみたいですね」
奈津に言われてみれば、箸《はし》は鉢《はち》に入った小魚《こざかな》の妙め煮を何度かつまんでいる。
「小女子と油揚げなどを鰹出汁《かつおだし》で別に妙めて、後から混ぜるのがコツなんです」
それがどういう効果を生んでいるのか解《わか》らないが、つまんだ回数は雄弁《ゆうべん》だ。
「酒に合うね」
滅多《めった》に出ない酒を、鹿島は一口。
そして鹿島は今夜の夕食を思い出す。
主菜《しゅさい》は南瓜《かぼちゃ》の小豆《あずき》煮と、| 筍 《たけのこ》を湯がいて生ハムで包んだもの。
米や味噌汁《みそしる》とともに腹の中に全て納めると、人心地《ひとごこち》がついた。
家に帰ると言うことは、どれだけ気が楽になることか。
そして大事な誰かがそばにいるということも。
じっと二人でいると、今まで思い詰めていた思考《しこう》が、ゆっくりと絞《しぼ》り込まれるのを感じる。
体の中、第三制作室の前で怯《おび》え震えた箇所に、今、別のものが入っている。
己が何を選んだのか。
大丈夫だ、と鹿島は己の思いを再確認する。
が、奈津はこちらの思いに気づかぬのか。肉厚《にくあつ》の猪口を口に運び、くく、と猫のような小さな声で笑う。
鹿島も笑みを浮かべ、手酌《てじゃく》だった奈津の猪口に酒をつぐ。
「あら昭緒《あきお》さん、飲ませて酔わせて、何を企んでるんですか?」
「自分で飲むより、奈津さんが飲んでるのを見る方が楽しいから」
そうですか? と言って奈津は猪口を口に運び、くく、と笑う。
そして彼女は猪口を掲げ、
「これ、憶《おぼ》えてますか? ……四年の合宿のとき」
「ああ、猪苗代《いなわしろ》の遺跡《いせき》発掘合宿と名付けられたゼミ式|奴隷行軍《どれいこうぐん》か。……奈津さんが日射病《にっしゃびょう》になって大騒ぎの」
「あ、あれはいい格好《かっこう》しようとしすぎた罰です。で、東京に戻らされることになったとき、ホームで昭緒《あきお》さんが追いついてきてこれを」
「義父《とう》……、教授は堅い人だから。でも、土産《みやげ》も何も無しで強制|送還《そうかん》ってのは……、ねえ」
鹿島《かしま》は当時を思い出して苦笑する。ただ心配なのに、何かと口実《こうじつ》が必要な時期だったな、と。だから、今更《いまさら》ながらに当時の本心を言おうとする。
心配だったから、と告げようとして、しかし、
「――――」
やめた。
今から真実を言っても、今は今だ。
奈津《なつ》は今、肉厚《にくあつ》の猪口《ちょこ》を手にとって眺《なが》め回している。
「あのときは傑作《けっさく》でした。土産だ、持っていくといい、って言われて渡されたのがそのあたりの売店で売っているようなこれなんですもの。だから、何でこれを、って言ったら」
目のない笑みを見せ、
「僕はそそっかしいから、持ってくる途中で落としても欠けないようなのを、って。……そうじゃないものは他にもいくらでもあるでしょうに」
そして、
「随分慌《ずいぶんあわ》ててたんですね?」
鹿島は内心で、うわ、と身を小さくする。
……参ったなあ……。
「それしか目に入らなかったんだよ。――でも、まさか夏休み明けに、お返しって言って同じものを奈津《なつ》さんが持ってくるとは思わなかった」
鹿島《かしま》は手元の自分の猪口《ちょこ》を軽く掲げて見せる。奈津のと同じ肉厚《にくあつ》のものだ。
「日帰りでも小旅行だ。家、うるさかっただろう?」
「でも、いいんです。何か御礼を差し上げたいと思っていたんですけど、……私、結構《けっこう》そそっかしいですから、昭緒《あきお》さんに渡す前に落として欠けないものを、って思ったのでこれを」
ひどい返し方があったものだ。
奈津の笑みに応じる言葉が見つからず、鹿島は頭を掻《か》く。
すると、こちらの無言に奈津は頷《うなず》き、
「でも、その心配は不要でした」
猪口を左の手で掲げ、
「……だって昭緒さんは、落として欠けたものも、ちゃんといただいて下さいましたから」
笑みのまま、奈津がわずかに身を竦《すく》めた。
……そうか。
と鹿島は彼女の仕草《しぐさ》にこう思う。気遣《きづか》わせてしまっていたな、と。
僕から話を向けねばならないものを。妻の方に先に出させてしまった。過去に対する自分の本心を。
だから頷き、鹿島は告げた。
「奈津さん」
「――はい」
と言って彼女は正座。リモコンを使用してテレビの電源を落とすと、
「……お仕事のお話ですね?」
「うん。よく解《わか》ったね」
「いえ、私にはよく解らないです。特にここ最近の昭緒さんの不安そうなお顔や、ちょっとしただんまりの原因は解りません。でも、……ですから逆に、お仕事のことなんだと」
「ひょっとして、心配掛けたかなあ……」
「いえ、昭緒さんは、最後には必ず相談されるか、謝って下さいますから。……前にいきなり高価なビデオカメラを買ってこられたとき、それから一ヶ月は土下座《どげざ》と定時帰宅でしたし」
「いやあれはビデオが使いたいというのもあったんだけど……」
まあいいか、と、鹿島は奈津と顔を見合わせて小さく笑い合う。
そして一息。目の前の奈津が、両の手を胸に当てた。
「大丈夫ですよ? 今日はお酒も入ってますから、わんわん泣いてもお酒のせいに出来ます」
「随分《ずいぶん》と用意|周到《しゅうとう》だ」
その言葉に繋《つな》げるように、鹿島《かしま》は自然な口調で告げた。
「二日ほど、もらえるかな。……仕事で重要な件を片づけるために泊まり込む必要が出来たんだ。正直、会社関係以外とは連絡を取りたくなくなると思う。そして、その後は――」
「たびたび、そういうことがあるんですね? 自宅よりも仕事を優先することが」
奈津《なつ》の言葉に鹿島は顔を上げた。
自分の胸に両の手を当てた奈津の姿勢は、軽く守りを固めているようにも見える。
それは、
……僕がこれから何を言うか、解《わか》っているのか。
だから鹿島はためらいなく首を下に振った。告げる言葉はきっぱりと、
「――そうなる」
「そうですか」
対する奈津は、かすかに眉を下げ、こう言った。
「では、実家の方に帰らせていただきます」
暗い闇の中。一つの身動きが起きていた、
それは毛布の中、ふと目覚めた新庄《しんじょう》の動きだ。
八時くらいに佐山《さやま》と話してから、痛みで意識が飛んでいた。
どれだけ時間が過ぎただろうか。この状態、一瞬《いっしゅん》に思えて数時間が過ぎていることもある。朝になっていて欲しいと思うが、毛布を通す暗さと静けさから考えて今は深夜だろう。
腹の中には違和感《いわかん》がまだあるが、左向きに丸まった身体《からだ》全体には温かみがあった。
毛布の保温性がいいのか、今、自分は全く寒けを感じていない。
だから新庄は安堵《あんど》した。じきに痛みは引くはずだ、と。
息をすると緊張《きんちょう》が抜け、鼓動《こどう》が一つ強く鳴った。額《ひたい》に汗が浮いたのが解るが、身体から手を離したくはない。はしたないが、シーツで汗を拭《ぬぐ》うために額をこすりつけようとして、
「……え?」
気づけば、頭が枕《まくら》のようなものに載っている。
今、頭は毛布の中に沈んだ状態だ。枕が頭の下にあるはずはない。
ではこの枕は何だろう、と思い、新庄は顔を上げた。
毛布の外、涼しい空気に顔肌《かおはだ》が触れる。そして新庄は、闇を見る視覚で理解した。
「佐山君……?」
佐山が、こちらを浅く抱くような姿勢で眠っていた。
佐山の右腕がこちらの左|頬《ほお》の下を通り、背に回っている。そして彼の左腕はこちらの右肩の上を回って、やはり背の方に回っている。
新庄《しんじょう》は佐山《さやま》の腕の中でただ無言。左を向いて丸めた身体《からだ》を、更に抱いて小さくなる。
こういう構図を見たことがある。自分が知っている歌の一節を油絵にしたもので、泣く幼子《おさなご》を聖母《せいぼ》が抱いているというものだ。
「Christ the Savior is here……/救い手たる神の子はここに在られる……」
つぶやきながら、何してるんだよこの人は、と新庄は思う。
だが、新庄は知っている。聖母が幼子を抱く理由を。
……大事な人が泣いたら、こうするんだろうね。
背に当てられた左手、その感覚を、何故《なぜ》か過去に知っていたような気がする。
苦しいとき、誰かに背を軽く叩いてもらっていた記憶《きおく》。
それは、佐山が先ほどしていたことだろうか、それとも、自分が憶《おぼ》えていない母親にされたことの記憶だろうか。
どちらでもいい、と新庄は思った。
……有《あ》り難《がた》いことに代わりはないから……。
新庄は気づいている。彼の左腕、わずかに脇が締まった姿勢になっていることを。
佐山はときたま過去を思い出したとき、右手を左の胸に当てる。
だが、今、その腕を自分が枕《まくら》にしている。ならば、彼の左の脇が締まっているのは、どういうことか。
……御免《ごめん》ね。
そして思う。佐山君のお母さんは、きっとこれと同じことを彼にしてあげたのだろう、と。
新庄は一つ頷《うなず》き、ベッドの頭の側を見た。
置いてある目覚まし時計の時刻は十二時前。
意識が飛んでいた四時間、彼はずっと自分を抱いていてくれたのか。
……御免ね……。
眠っている彼の顔。朝起こすときとはまた違う顔がある。
それは何か仕事を果たしたかのように静かな顔。胸の軋《きし》みを当然として得た寝顔だ。
反省しないと、と新庄は内心で頷いた。
さっき、痛みに任せるようにして、自分がいなくなることをほのめかし、プロットを押しつけようとした。
「どうしてそんなことを……」
……この人は、そんなことしなくても、いつか必ずプロットを読んでくれるだろうに。
彼の胸に額《ひたい》を当て、新庄はつぶやいた。
「君はボクをどう思うだろう」
目を伏せる。
「ボクの嘘《うそ》を知ったときに……」
実家に行くと、そう告げられた奈津《なつ》の台詞《せりふ》を、鹿島《かしま》はまっすぐ受け止めた。
予測出来た言葉だ。自分がいるから彼女もここにいる。ならば、こちらがいなくなれば、
「……そうした方がいいね」
「はい、実家の方、久しぶりなので向こうは戸惑《とまど》われるでしょうね」
「だろうね」
だが、彼女の父、自分達の教授はあれでいて絵本など描く子供好きだ。晴美《はるみ》がいれば叱《しか》られたり門前払いを食うようなことはないだろう。
「いろいろとお掃除も大変でしょうし」
確かに。前に奈津の部屋は家を出てから手つかずだと聞いたことがある。
……何はともあれ苦労を掛ける。
こちらの思いに気づいているのか、奈津は頷《うなず》き、こう言った。
「でも、この時期、実家は田植えですよね? 結構《けっこう》好きですよ、私」
「――え?」
「何です? え? って……」
「ちょっと待った奈津さん。さっきから奈津さんが話してる実家って、どこ?」
「当然……、昭緒《あきお》さんの義父《おとう》様と義母《おかあ》様のお家です」
首を傾《かし》げながらの彼女の言葉に、鹿島は脱力《だつりょく》した。
彼はそのまま後ろに倒れ込む。大の字。畳《たたみ》はこういうとき酷《ひど》く冷たく気持ちがいい。
すると、あ、と奈津が何かに気づいたように声を挙げた。
「す、すいません……。あの、でも、私、鹿島・奈津ですから」
「いや、僕の方も早とちりしてた。両方あるようなもんだよなー、実家」
「で、でもひどいです。昭緒さん、私、そんな選択する妻じゃありませんよ」
そうだねそうだね、と力|無《な》く二度言いながら、鹿島は身体《からだ》を起こす。
胡座《あぐら》で前を見れば、頬《ほお》を赤くして困り顔の奈津がいる。鹿島は吐息して、
「いきなり押し掛けても、まあ、文句はないか」
「いえ、今日、お電話しました。田植えの季節で人手《ひとで》が欲しいようなことを暗にほのめかしていらっしゃいましたから、昭緒さんが家を空《あ》けるならお手伝いに行こうかと」
そして彼女はこちらを窺《うかが》うように、
「お米をいただけるそうですし、いいですよね?」
「あの親は人の妻を餌付《えづ》けしてる気がするんだけど……。でも、晴美は?」
「義母様が新しい背負い方を伝授《でんじゅ》して下さるそうです。帯《おび》で背に担《にな》う方法とか。――ええ、昭緒さんをそうやって背負っていたときのことなども、聞かせて下さるそうですよ?」
「すまん。明日《あす》盗聴器《とうちょうき》を買ってくるから言論監視《げんろんかんし》させてくれ」
言って苦笑。奈津《なつ》の実家には申し訳ないことだが、自分にとっては有《あ》り難《がた》いことだ。
御免《ごめん》、と謝りそうになって、その意志を否定する。
「あのね、奈津さん」
「何ですか?」
「いろいろと苦労を掛けるけど……。それでも僕は仕事のことを君に言えない」
鹿島《かしま》はゆっくりと手を伸ばし、奈津の左手をとった。小指と薬指のない手。その残った小さな手指を自分の両の手で包むと、奈津が問うてきた。
「……つまり、真実を隠《かく》している、という意味で嘘《うそ》をついているわけですよね? それは」
「ああ。かつて君の手をこうして取ったときから、ずっと」
「ではこれからのお仕事とは、私の手を取る前の昭緒《あきお》さんに戻られるということですか?」
「そうだね。大学を出て、あの雨の夜また君と会う、……それまでの僕に僕は戻る」
そうですか、と言ってから、奈津は微《かす》かに首を傾《かし》げた。
息を一度吸ってから、彼女は眉尻《まゆじり》を下げた笑みで、こう問いかけてきた。
「そのお仕事は、――私のこの手に関係がありますか?」
奈津の問いかけ。そしてまっすぐ向かってくる彼女の視線に対し、鹿島ははっきりと答えた。
「ある。それ以上は、言えない」
そうですか、と奈津は微かに下《した》唇を噛《か》んで、数秒。
だが、奈津はうつむかない。まっすぐこちらを見たまま、問うてきた。
「……でも、お家《うち》では今まで通りなんですね?」
「そうするよ。今まで通り、僕はずっと、嘘をついていく」
すると、奈津は表情を変えた。眉尻を下げた笑みを作り、頭を下げ、
「ならば、そうして下さい。そして、謝らないで下さい。……私と晴美《はるみ》の今の生活を、昭緒さんの犠牲《ぎせい》で作らないために」
顔を伏せた奈津が右手で目尻《めじり》を拭《ぬぐ》うより早く、鹿島は彼女の手から己の手を解いた。
鹿島は自分の手で奈津の左右の頬《ほお》を拭う。
すると、目を細めていた奈津が、荒れた息を一つ吸い、
「昭緒さん、知らないでしょう?」
「何を?」
「私……、私が知らない昭緒さんを、知らないまま結婚したんですよ? ですから、嘘をつき続けてくれないと困るんです」
奈津の言葉に、鹿島は身を堅くする。
そんな鹿島に対し、奈津は顔を上げて口を開いた。意地の悪い口調で、
「それに、私だって昭緒さんに嘘をついているんですよ?」
「そうなのかい?」
涙の顔が微笑した。
「はい。――子供の頃のことや、学生時代の悪さや色恋沙汰《いろこいざた》や、親の話に、今の仕事場の人間関係なども。私……、私だってたくさん嘘《うそ》をついているんです」
弓になった目から涙がこぼれ、嘘つきですよね、と言葉が投げかけられた。
「ヤマトタケルですね、嘘つきの昭緒《あきお》さんは」
「え、縁起《えんぎ》悪いなあ。確か、神話によるとヤマトタケルは、嵐《あらし》を鎮《しず》めるために妻のオトタチバナビメが自ら入水《じゅすい》する目に遭《あ》うんだよ?」
「ええ、でも、嘘つきの妻はやっぱり嘘つきなんです。自ら入水したなんて。……本心でそんなこと、望んでいなかったでしょうに。だから、あの話には後日談《ごじつだん》があるんです」
「え?」
奈津《なつ》は、自分の涙を拭《ぬぐ》う鹿島の手を取った。
「ヤマトタケルは姫を捜し、そしてとある浜に姫が打ち上げられているのを見つけるんです。姫が息を吹き返したために蘇我《そが》と名付けられた浜は、東京の近く、千葉《ちば》にあります」
一息。
「我を| 蘇 《よみがえ》らすと書いて蘇我。私も昭緒さんも、同様ですよね?」
「…………」
「そして、その後、ヤマトタケルはお仕事を続け、疲労から亡くなりますよね。でもヤマトタケルも姫も、己の嘘に酔って死ねたわけではありませんよ。世の中|厳《きび》しいです」
ただ、過労死《かろうし》はやめて下さいね、と奈津は言い、顔を軽く上げた。その動きで目尻《めじり》に溜まり掛けていた涙を下に落とすと、改めて破顔《はがん》する。
「――さて、我が家の鹿島大明神《かしまだいみょうじん》兼ヤマトタケルにお願いがあります」
「何だい? 我が家のオトタチバナヒメ兼《けん》泣き虫|女房《にょうぼう》」
まあ、と奈津は顔を赤くして、だが、すぐに表情を落ち着いたものに変えた。
「……お仕事をされるのも結構《けっこう》です。嘘をつかれるのも結構です。熱田《あつた》さんのヤンキー単車で深夜の暴走行為に巻き込まれるのも結構です。ですけど」
一息。
「必ずお家に帰って来て下さいね」
答えは一つだ。Tes《テスタメント》.と思わず言いそうになり、
「誓うよ」
言って、鹿島は奈津を抱き寄せた。その左手をとり、優しく口づける。
あ、と奈津が困ったような顔をして、だが、欠けたところをこちらの口に寄せて来た。
かすかに雛寄《しわよ》りくぼんだ二つの指跡《ゆびあと》。
そこをついばむと、くく、と奈津は小さな声を挙げる。
胸の中、傷を舐《な》める動きに合わせ、奈津《なつ》は小さく震えながら言う。
「嘘《うそ》も本当も含めて、……私にとってはここが真実なんです」
そして差し出され、口にする奈津の手の味は、わずかに血に似た味覚、汗の味だ。
この話し合いの間、落ち着いているように見えて、緊張《きんちょう》していたのか。
僕も同じだ、と、鹿島《かしま》は左腕で奈津を強く抱く。
そうすれば鼓動《こどう》の音は聞こえるだろうか。
「帰ってくるよ、そして謝りはしないよ。――それだけは、絶対に嘘《うそ》じゃない」
「――はい」
奈津が顔を上げ、目を伏せるのに応じ、鹿島は奈津の手指から口を離した。
求められる場所に自分のすべきことをする。
外、今頃《いまごろ》になって雨の音が耳に入ってきた。
「昭緒《あきお》さん」
「何だい?」
唇を離して見た奈津の顔は、しかし、雨を恐れぬ笑みを浮かべている。
「晴《はる》ちゃんにはすいませんけど……」
小さな声で、要求が告げられた。
「昭緒さんのお時間を、少し、私にだけ下さいますか?」
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第二十章
『逃れの意向』
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逃げ場がないのに逃れることを何というのか
それは別離か
それとも追いつめか
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祭の朝は何かと騒がしい。
全連祭《ぜんれんさい》は各部、各委員会、各サークルに、有志のクラスが参加する祭だ。
日曜日は授業がないので多くの生徒が参加するが、初日の午前中はまだ準備期間だ。
学校内の各地からはラジカセなどのスピーカーによる音楽が流れている他、マイクテストや金槌《かなづち》の音も響《ひび》いており、物資を運ぶ自転車やリヤカー、単車の姿も見える。
そんな中、暖かい日差しの下だというのに、新庄《しんじょう》は並木通りで一人うつむいていた。
横、佐山《さやま》が歩いて各部の出店などを紹介してくれるが、あまり頭に入ってこない。
原因は幾《いく》つかある。
今朝方《けさがた》、朝七時くらいに起きたとき、佐山の身体《からだ》に抱きついていたこと。
自分が目覚めるとともに佐山も起きて、その状態を知られたこと。
更には彼にフォローまでされたこと。そして、
「……見られた」
朝、出店用の荷物を単車で運んできた原川《はらかわ》と、クラスの仲間が部屋に訪ねてきた。本来ならば大樹《おおき》に連絡するところ、大樹がいつものように遅刻をしていたためにこちらに来たのだが、
……驚いた顔してたよなあ……。
いろいろと訳を話して、原川|自体《じたい》は納得《なっとく》したようだった。
が、そのとき一緒について来た連中から噂《うわさ》が広まったらしい。先ほど学生|寮《りょう》を出るときや学食で、複数ある新聞部からゴシップ系のインタビューまで受けた。
……全部、佐山君が平然と返してくれたけど。
佐山は、気にすることはない、とそれしか言わない。
だが、迷惑《めいわく》を掛けてしまったことに代わりはないだろうと新庄は思う。
そしてこういう噂は、かなり後を引く。
……何しろ佐山君は奇人《きじん》の生徒会副会長で、おかしいところが目立つ有名人だから……。
今日、開祭式のとき、欠席した出雲《いずも》の代わりに式を| 司 《つかさど》ったのは佐山だ。
だがそのとき、幾つかの| 中 傷 《ちゅうしょう》と野次《やじ》が飛んだのを思い出し、新庄は気落ちする。すると、
「どうかね?」
下を向いた視線に一つのものが差し出されてきた。割り箸《ばし》の先端に、大きな梅干しに似たものが一つ、透明な硝子《ガラス》のようなものに包まれている。
「これ、何?」
「……し、知らないのかね杏飴《あんずあめ》を。これは、――これはまた驚愕《きょうがく》の事実だ」
「な、何でそうクネクネと大げさなリアクションするんだよっ」
「ふむ。では落ち着いて行こう。……いいかね? この飴は、祭のマストアイテムだ」
「そうなの? お祭って、こういうものが必要なわけ?」
「うむ。他にも水槽から強奪《ごうだつ》した金魚を入れたビニル袋とか、刃物《はもの》で刻んだ氷に発ガン性物質を掛けたものとか、そんなアイテムがある。そしてそれらの中央では呪術《じゅじゅつ》音楽を流す櫓《やぐら》を中心に、皆がトランス状態で踊りながら旋回《せんかい》を繰り返すわけだ。ベントラー! ベントラー!」
「何か歪《ゆが》んだ知識を植え付けられている気が……」
首を傾《かし》げながら、新庄《しんじょう》は飴《あめ》を舐《な》める。
「甘い……。酸《す》っぱいかと思ったのに」
「外は単なる水飴《みずあめ》だ。氷に当ててるので硬いがね。ある程度《ていど》舐めたら一気に食うのが乙《おつ》だ」
ふうん、と頷《うなず》き一つ。だが、小銭入《こぜにい》れを出そうとすると制止された。
「御代《おだい》は無用だ。先ほどそこの屋台の一年女子に貰《もら》ったのでね。――頑張って下さい、と言っていたが、生徒会に食料|賄賂《わいろ》で癒着《ゆちゃく》とは、……最近の一年もなかなかやるものだね」
「それ 頑張って の意味が絶対|違《ちが》うって。何て返答したの?」
「鋭意《えいい》努力するので任せておくといい、と。キャーとか言われたがあれは脳の病気かね?」
あああ、と新庄は頭を抱えた。
「――どうしたのかね新庄君。頭痛かね? 頭痛は原因を取り除かないと危険だぞ?」
「危険|自《みずか》らそういうこと言うか……」
新庄が虚空《こくう》を見ながらつぶやいたときだ。
背後から排気音が一つ響《ひび》いてきた。
振り向き見えるのは黒い大きな単車。サイドカー付きを運転してるのは原川《はらかわ》だ。茶色い肌の少年は、波打つ黒髪《くろかみ》の下でサングラスを下げ、
「よう」
と単車をこちらの横で止めた。
クラスの中、この少年は日系ということもあってか、人を区別してこない。皆が一歩引いて構える佐山《さやま》にもアンタ呼ばわりだ。
「どうした原川、これから帰りかね?」
「ああ、自動車研の方も準備出来たしな。これから母親の面会行って、横田《よこた》でバイトだ」
「ボルト締めに古書《こしょ》整理か。頑張りたまえ。――と、そちらの新入部員はどうかね?」
「一年で、女のためにサイドカーを手に入れたいっていうエロガキがいて気に入ってるよ。多分、この全連祭《ぜんれんさい》でデモストやるから入部希望者が増えるだろうな」
「デモスト? 何それ?」
「ああ、新庄は知らないのか。あのな? まず正門の並木通りで単車並べて行進して」
「うん」
「そのまま 予算が足りなくてブレーキの調整が! と皆で叫んで校舎の中に飛び込む」
「犯罪だよそれはっ! ――佐山君、何か言うことは?」
「上には逃げるな。去年、屋上から単車が空を飛んだが、あれはスタントではなかったのか」
「モトクロの連中は狙ってやってる。前サスのボトミングを防ぐのが大変らしいんだが」
「……この学校が何かおかしい理由が解《わか》ってきた気がするなあ」
「確かに、常識人の私からしてもこの学校にはまだまだ意味不明なところが多いな」
「ご、御免《ごめん》、……その常識人の中にボクは入ってる?」
「常識人か……。寮室《りょうしつ》のテレビにゲーム画面が映ったとき、この四角く回ってるのは何!? と驚いたのは誰だったろうか。ポリゴンは回るの法則 を知らないのかね」
「だ、だって、ホントに見たの初めてだったんだもん……」
うつむいたこちらに、原川《はらかわ》が吐息。
「まあ、アンタら含めて、常識的に変なヤツらが集まってるということだろう」
「ボ、ボク変じゃないよっ」
「ははは新庄《しんじょう》君、おかしい人間は皆そう言うものだよ」
「それ、ボクが言うべき台詞《せりふ》の筈《はず》なんだけどなあ……」
原川が苦笑した。彼は、それより、と言って視線の中心をこちらに向けると、
「新庄・切《せつ》、……今朝《けさ》はすまなかったな」
「あ、いや、いいよ。事故みたいなもので。原川君は訳を聞いてくれたし。謝るなら、佐山《さやま》君に謝って。……ボクは、この学校からそろそろいなくなるわけだし」
「初耳《はつみみ》だな。そうなのか?」
と原川が佐山に顔を向けた。新庄は佐山の方を見ることが出来ず、ただ、
「そういうことだ」
という否定の無い言葉を聞いた。だから新庄は努めて無感情に頷《うなず》き、
「それにね、原川君。誤解が残っていたら困るから言うけど、佐山君が興味あるのは……」
告げた。
「うん。佐山君が興味あるのは、ボクじゃなくて、ボクの姉さんなんだよ、……残念だけど」
残念だけど、と、何気なく、その言葉を言ってから、
……あ。
と新庄は心の中で息を飲む。
これは、言ってはならないことだったかもしれない。彼にとっても、自分にとっても。
佐山の追及を避けるように、新庄はうつむいた。
ただ、佐山を見ていた原川が動く。彼は会釈《えしゃく》とともに、佐山の肩を小突《こづ》いたのだ。
「…………」
それはまるで咎《とが》めるような仕打ち、その動きに繋げるように、彼は無言で単車を前に出す。
ゆっくりと、しかし確実に排気音が去っていく。その間に新庄《しんじょう》はごまかすように杏飴《あんずあめ》を口に入れて噛《か》む。甘酸《あまず》っぱいと思うが、味覚は思考《しこう》せねば気づかないような状態だ。そして、
「新庄君」
来て欲しくない佐山《さやま》の声が来た。
何を問われるのだろうという疑問は、そこから一つの感情を生みつけてきた。
……怖い。
佐山がこちらに対し、今ここで何かの結論を出してしまうのではないかと。だが、
「……調子がまだ悪いのかね?」
予想とは違う問いかけに、新庄は息を二度|吐《は》いてから、考えた。
そして、心に浮かんだ結論を、地面に落とすように告げる。
「――解《わか》らないよ」
「解らない?」
「うん、解らないんだよ。どうしたらいいのか。……怖くて自分のことばかり考えて」
昨夜、抱かれて安堵《あんど》を得たくせに、今、それを避けるべきだと思う自分がいる。
今、自分の顔はどういう表情をしているだろうかと、そんなことを思いながら、
「変なことを聞くけどさ。……佐山君、男の人に興味って、ある?」
「いや、男に興味はないね。これでも私はノーマルなので」
そう、と新庄《しんじょう》が手応え無い頷《うなず》きを返すと、佐山《さやま》は首を傾《かし》げてこちらを見た。
佐山の視線にあるのは気遣《きづか》いの色。それを認めた新庄は、彼が何か言うより早く口を開いた。
「じゃ、じゃあさ。――佐山君は、新庄・運《さだめ》っていう人のこと、どう思う?」
試すような問いに、ややあってから佐山は答えた。いつもの無表情で、
「――大事な人だと思っている」
そう、と新庄は言葉を口にした。そうだよね、と首を下に振ると視界が歪《ゆが》んだ。
「運は女だし、佐山君は男の人だもんね。……ボクと、朝にあんなところを人に見られても、気にしないで、運を選ぶよね、やっぱり、――ボクも選ぶことは出来ないよね?」
「……新庄君」
何? と言ったつもりが、違う言葉を吐いていた。
「御免《ごめん》、聞きたくない」
佐山が差し出してきた手。それを、新庄は一拍《いっぱく》遅れてから、避けるように身を回す。
彼に背を向けてうつむくと、視界の歪みが下に落ちた。
前が見え、道路が、外に向かう道が見えた。そして不意に吹いた小風《こかぜ》とともに、
「御免。ちょっと、……落ち着きたいから」
と言って、新庄は走り出していた。前へ、学校の外へと。彼の言葉から離れるために。
「――新庄君!」
呼ぶ声に新庄は振り向かない。追ってくる足音があるが、前、学校の外からやってきた小学生の団体とすれ違うと、ついて来られなくなった。
ば、と息を吸い、身体《からだ》を上げ、新庄は学校の門を越える。
そして思う。してはならないことをしてしまった、と。
佐山は、正門側から押し寄せてきた小学生にまみれていた。
視界、新庄が遠くの曲がり角を曲がって消えていく。
「新庄君! ――というかこの子供の大群は何事かね一体!?」
「いやあ、これだけいるともう引率《いんそつ》大変でー」
その声に横を見ると、小学生の海の中、大樹《おおき》が困ったように頭を掻《か》いている。
「……元締《もとじ》めは貴女《あなた》か遅刻《ちこく》教員。というかこの身動き出来ない状態でいつ私の隣《となり》に生《は》えた」
「いや、流れに任せるままにしてるだけなんですけどねー」
「いつも通りのようで何よりだ大樹先生。さて、この周囲の小学生は何かね一体」
「そりゃもう来る途中で児童館の館長さんに頼まれまして。遅刻ついでに子供達を祭に連れてってくれないかと。ほら、先生、人望《じんぼう》ありますから」
「私の担任は児童館にまで遅刻|魔《ま》と知れ渡っているのか……」
「……先生、出来れば人望についての感想|聞《き》きたいんだけどな」
佐山《さやま》は無視した。
周囲を見渡すと、腹の高さくらいの背丈《せたけ》の群が、じっとこちらを見上げている。
「――では大樹《おおき》先生、何故《なぜ》、この子供達を使って私の邪魔《じゃま》をしたのかね?」
「ええ、来てみたら佐山君と新庄《しんじょう》君が鬼ごっこしてるから、仲間に入れてもらーいたたた!」
「馬鹿な思考《しこう》をしたのはこの頭蓋《ずがい》の中の脳味噌《のうみそ》かね」
大樹にウメボシを入れていると、周囲の小学生がまとわりついてきた。
「せ、先生を苛《いじ》めるなあっ!!」
「……騙《だま》されるな! この女は悪人だ!」
断言の一喝《いっかつ》で子供達が動きを止めた。皆が呆然《ぼうぜん》とこちらを見上げ、
「あ、あくにん……?」
「ち、違いますよー! 佐山君っ、先生を悪人|呼《よ》ばわりとは何ですか?」
「ほほう。では今まで一度も悪いことをした経験がないか、胸に手を当てて考えてみたまえ」
言われた大樹は、胸に手を当て考えた。
えーと、と首を傾《かし》げて数秒。その後に、ためらいない笑顔を作ると、
「無いですよー」
「今、佐山|法典《ほうてん》では嘘《うそ》は極刑《きょっけい》と決まったのだが、どうして欲しいだろうか」
佐山が半目《はんめ》で言うと、不意に背後から声がかかった。
「何を午前中から盛り上がってるのかしら? 通行の邪魔《じゃま》よ?」
振り向けば、ブレンヒルトが子供達の向こうに立っている。
彼女の背後、通りの歩道には美術部の屋台がある。
形状は、全高十メートルを超えるミロのビーナスだ。バストアップで作られた像の腹には焼鳥屋の屋台がはめ込まれ、上に見える鼻からは緑色の煙を噴《ふ》いている。
そして、ブレンヒルトが子供達に向けて笑みを作った。
「――いらっしゃい」
言葉とともに肩の黒猫が鳴き、対する子供達が退《しりぞ》いた。
引き波のように下がった子供の群から、佐山は一歩を前に出る。
「感謝する」
「いいのよ。ここで群れられると店の売り上げに関わるもの。――それより貴方《あなた》、2nd―|G《ギア》との全竜交渉《レヴァイアサンロード》を行うの?」
「風見《かざみ》達から話を聞いたのかね?」
「違うわ。……今日、出雲《いずも》がいないでしょう? 何か話を聞いてる?」
「いや、風見からは、昨日、屋上から落ちただけだと」
「風見らしい言い訳ね。――昨夜、何やら訓練を屋上でやってたらしいわ。コツが掴《つか》めたようなこと言ってたけど。出雲は負傷付きで寝てるそうよ」
佐山《さやま》は苦笑。二人がやっていた訓練とは、おそらく、2nd―|G《ギア》の歩法《ほほう》対策だ。
だが、あの二人が何も言わないものを自分が言うことはあるまい。
「おそらくまた妙な思いつきをやっているのだろう」
「……貴方《あなた》はどうするの? UCATに行く? 逃走した御友人の姉がいるんでしょう?」
「ああ、そうするつもりだ。奥多摩《おくたま》には他に用事もあるしね。……舎監《しゃかん》には切《せつ》君が戻ってきたら連絡を入れるよう頼んでおいて、出来ればUCATで運《さだめ》君と話をしたいところだ」
「話?」
「そうだ。何故《なぜ》、私が嘗《な》められねばならんのかと」
え? というブレンヒルトの疑問の声と表情に、佐山はまず苦笑を返した。
「新庄《しんじょう》……、切君は、私の言葉を聞きたくないのだそうだ」
「それは、そう言うときもあるでしょう」
「だが、我慢ならんことだね。そして、……本心とは思えない発言だ」
一息。佐山はかつて戦った相手に本心を吐く。
「私の言葉なぞ、……新庄君以外、他に誰が聞くと」
「随分《ずいぶん》な卑下《ひげ》ね。ここに、貴方の言葉を聞いた1st―Gの者がいるのだけど?」
「勘違《かんちが》いしないでもらいたい。君達には聞かせたのだ、殴りつけてね。だが、あの新庄君のどちらにも、私は、――聞いて欲しいのだよ」
「……重症だわ、貴方。思いつく限り全ての病において」
「それは結構《けっこう》だ。万病《まんびょう》転じて福となると言う。――そしてそろそろ決め時なのだろう。私がどう向き合っていくのか、も」
「じゃあ、これからどうするの?」
ブレンヒルトが問うた、そのときだ。不意に、左の胸に震えが来た。
携帯電話の震動だ。
佐山は獏《ばく》を| 懐 《ふところ》から出し、携帯電話を手に取る。
「――私だ」
『佐山様ですね? 全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》のシビュレです。……宜《よろ》しいですか?』
「|Tes《テスタメント》.、何事かね?」
『2nd―G側から全竜交渉《レヴァイアサンロード》の内容宣言がありました。日時と場所は明日午後八時、昭和記念公園内|概念《がいねん》空間。内容は2nd―G代表と全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》他|補助《ほじょ》部隊による合同演習。勝利条件は荒王《すさおう》頭部|艦橋《かんきょう》の十拳《とつか》を手にすること。――つまり模擬《もぎ》戦です。どう思われますか?』
「遂《つい》に成ったということだ。軍神《ぐんしん》の決断が」
『佐山様らしい御感想ですね』
声が少し喜んだように聞こえた。佐山は眉をひそめ、
「他、何か感想が?」
『幾《いく》つか出ました。が、佐山《さやま》様と同じ御感想を述べられた方がおられます』
「誰かね?」
『大城《おおしろ》・至《いたる》様です』
佐山は言葉を飲んだ。何故《なぜ》あの男が、と心の中でつぶやく間にシビュレが言う。
『――早い内にUCATへ来られますようお願いいたします。必要書類の交換や、2nd―|G《ギア》に関する資料などを用意してありますので』
|Tes《テスタメント》.、と答えて佐山は携帯電話をしまう。
顔を上げれば、ブレンヒルトがこちらを見ていた。
「UCATに行くのね? ……私も行く用向きがあるけど」
「1st―G居留地《きょりゅうち》への訪問かね? ファーゾルト親子に宜《よろ》しく頼む」
「最近あの家は親子で生ゴミからパルプ作れないかってムキになってるから。臭くて近寄りたくないのよね……。この前は親子でマジ喧嘩《げんか》して家が半壊《はんかい》してたし」
「身近なところで怪獣《かいじゅう》大決戦があったものだね」
そうね、とブレンヒルトは言った。
「でも貴方《あなた》、軍神《ぐんしん》と言ったわね? ……各Gの神のクラスといえば相当よ? 死ぬ気?」
「軍神が私達と向き合うことを望んだのだ。そして、……かつて私が向き合った少女は死神《しにがみ》であり、竜は聖剣《せいけん》でようやく倒せたほどの相手だった筈《はず》だが? 私は、今、生きているよ?」
「……馬鹿な自惚《うぬぼ》れね」
「褒《ほ》め言葉と受け取ろう。そう言われる人間こそが神を倒してきたのだから。――そして私は認めていくとも。私の相対《あいたい》に値する相手は、君達と同じように強敵だったと」
そう、とブレンヒルトは頷《うなず》いただけだった。
しかし、無表情を作る彼女は、こう言った。
「貴方がその思いを忘れないならば、私は死神なのね。……それも、相対を終えた死神ね」
「では共に行くかね? UCATに。私は午後の引き継ぎを終えてからになるが――」
ブレンヒルトが頷きかけた。
同時。いきなり彼女のスカートが上へとまくれ上がった。
「……!」
何事かと見れば、先ほどの小学生の一人だ。半ズボン姿の少年が笑って、
「イエー、冷血|女《おんな》のパンツはー、ぐおっ!」
「ふむ。ブレンヒルト君、いきなりアイアンクローとは……、渋いのだね」
「御免《ごめん》なさい佐山。私、UCATにはこの子《こ》の始末《しまつ》をつけてから行くわ」
と、慌《あわ》てて大樹《おおき》がやってくる。
「あああ御免なさいブレンヒルトさん! 元気なエロい子が多くてー!」
「いいのよ。気にしないで。……誰も気にしなくなるから」
「そ、その不吉なセメント発言は無しですよー!」
うろたえる大樹《おおき》に、ブレンヒルトは笑みを見せた。空《あ》いた手で背後の屋台を示し、
「見ていく? 大丈夫よ? この子には、……自発的にしてもらうから」
秋川《あきがわ》市の北側、青梅《おうめ》に近い山の上に霊園《れいえん》が一つある。
入り口に西多摩《にしたま》霊園という看板が立つここに、今、一組の客があった。
昼の日差しの下を歩くのは、黒づくめの男女。どちらも、ただ、髪の色だけが白い。
大城《おおしろ》・至《いたる》と|Sf《エスエフ》だ。
至は杖をつきながら逆の手には菊の花束を。霊園の階段を上っていく。
横のSfは右手に水の入った桶《おけ》を提げ、彼についていく。
「――至様、花も私が持つべきでしょうか」
「ほほう、気遣《きづか》いがあるとは驚きだな。そんなに持ちたいか?」
「いえ別に」
「では持たせてやろう」
至はSfに花を預ける。彼女は花を水桶に差すと周囲を見渡した。
山の斜面には墓石が並び、それは眼下を通る道まで続いている。
「不可解《ふかかい》な場所だと判断します」
「何故《なぜ》だ?」
「|Tes《テ ス》.、何故、……このようなレイラインを構築《こうちく》出来る巨石《きょせき》文明が滅びたのか」
「お前の頭はどこかのスペシャル番組のようだな。――憶《おぼ》えておけ、これらは全て現役だ。滅びてなどいないぞ。ついでにいうとレイラインも関係ない」
「墓地、ですか? ならば私には尚更《なおさら》不可解だと判断します」
Sfはもう一度、墓石の並ぶ斜面を見渡す。
「何故、このように墓石を建てるほどの想いを持ちつつ、このような郊外に置くのでしょうか? 想いがあるならば近くに置いておくのではないでしょうか。――私には不可解です。ゆえにこれは感情の成せるものと判断します」
「大事で、想いを寄せてしまうからこそ、遠ざけたいものもある。……お前には解《わか》らないか」
「Tes.、遠ざける、または遠ざけられるという行為が私には理解不能です」
「そうか」
「Tes.、たとえば私は日本で起動して以来、至様の半径百メートルから離れたことがございません。心音、呼吸、体温など、全てリアルタイム計測もしていますし」
「ほほう、独逸《ドイツ》製は極度のストーカー行為もなさるようだな。――主人と侍女《じじょ》という割には充分遠ざかっている気がするのは俺の気のせいか」
「感情のない私には理解出来ません」
そうかそうか、と至《いたる》が言って、足を止めた。
階段を上り終えていた。
正面。上りとは違い、緩やかな下りの斜面の上、墓地が広がっている。
至は歩き出す。|Sf《エスエフ》は隣《となり》に並んでいく。
「ここに来るのは二度目だと記憶《きおく》しています。以前は、帰りに佐山《さやま》様に会いました」
「嫌なことを思い出させるな」
「|Tes《テ ス》.、謝罪《しゃざい》オプションとして一礼いたします」
至が足を止めると、Sfが頭を下げる。
数秒。それから上げかけたSfの頭に、何かが当たった。
「至様、頭頂部《とうちょうぶ》にチョップが」
「無言のコミュニケーションだ。たまにはこういうのもいいだろう」
「Tes.、ですが、至様の発案ではないと判断します」
そうか? と問うた至は、Sfの頭から手を外した。対するSfは髪飾《かみかざ》りを直しつつ、
「Tes.、至様は自分がお困りでない限りは、私に触れる選択を行いません」
「下らないことを記憶するやつだな」
「Tes.、まだまだ未知なる機能で毎日の生活を楽しく演出するSfは独逸《ドイツ》UCATの裏《うら》代表作です。これからも御期待|下《くだ》さい。……何かキメの一言を付け加えるべきでしょうか」
「死ねとか、くたばれとか笑顔で言うと喜ばれるぞ」
Tes.と一礼し、Sfは一瞬《いっしゅん》動きを止めて全てを記録。
無表情な顔を向けた彼女は、それでも主人の行いに首を傾《かし》げる。
「しかし至様、先ほどの腰の入らないチョップは……」
「昔、そういう下らないことをする男がいたんだ」
静かに言って、至は足を止めた。それは一つの墓石の前。
「Sf.、花を寄越《よこ》せ」
Tes.、と渡された花を、至は墓石の前の花入れに挿《さ》そうとする。
だが、先客《せんきゃく》がいたのか、新しい花が先に入っていた。それも菊などではない明るい花だ。
「ディアナか……」
「ディアナ様が? 何故《なぜ》です?」
「お前には解《わか》らないものだ、Sf。そしてそれ以前に、俺にも解らんよ、Sf」
苦笑。山上《さんじょう》に吹く風に黒のネクタイを緩め、
「この世は解らないことばかりだ。実際、俺と一部の者以外はこの世界の謎《なぞ》すら解ってない」
「この世界の謎、ですか……?」
「そうだ、Sf。考えたことはないか? この|G《ギア》にはマイナス概念《がいねん》しかないというのに、何故《なぜ》今までこの世界はマイナス崩壊《ほうかい》しなかったのか、と」
至《いたる》は苦笑を濃くする。
「それらの答え、否《いな》、それら以上の答えを、あの佐山《さやま》は探り見つけねばならない。かつて八大竜王《はちだいりゅうおう》と呼ばれた者達が問い、続く五大頂《ごだいちょう》が封じた答えを、な」
そして花入れに自分の花を至は入れた。
「|Sf《エスエフ》、水。――と、ちょっと待て!」
振り向くと、Sfが桶《おけ》の水を墓石にぶちまける体勢を取っている。
「至様、前回はこうしましたが……、何か? ちなみに記憶《きおく》確認は三度行っています」
「日本人が誰でも一度は思いつくことを二度するな」
「|Tes《テ ス》.、納得《なっとく》いたしました。二度ネタは禁止ですね? では、今回はどのように?」
「独逸《ドイツ》製は面倒だな。……墓石に水をやるつもりで行け」
Tes.と頷《うなず》いたSfはエプロンの裾《すそ》から小型の如雨露《じょうろ》を取り出した。
「興味|本位《ほんい》で聞くが、どうしてそんなものを持ち歩いている?」
「Tes.、至様のどのような御要求にも応えるためです。今日は散歩用のS装備で来て正解でした。ちなみにSは散歩のSで、これら装備決定は厳選《げんせん》なる抽選で決まります。今度|選考《せんこう》会に参加いたしますか? 参加賞はノートと鉛筆ですが」
「UCATは無駄《むだ》の多い組織になったようだな」
「Tes.、それは余裕の表れです。――?」
「どうしたSf」
「前に気づかなかったのですが、この墓石に刻まれた文字は……」
水を入れた如雨露の先が、墓石の前面を指す。まかれる水で露わになった文字は、
「……佐山《さやま》家」
UCAT地下|訓練《くんれん》室前、待合い用ソファに新庄《しんじょう》はジャケット姿で座っていた。
現在時刻は午後四時。そして訓練室の空《あ》き待ちだ。周囲にいる大人《おとな》達も同様だろう。男性用|更衣室《こういしつ》と女性用更衣室は向き合っているため、老若男女《ろうにゃくなんにょ》が待合いロビーにたむろしている。
「これじゃ訓練室|空《あ》かないかな。ボク、今日は訓練だって佐山君に言っておいたのに……」
更衣室の前の壁。訓練室の使用状況を示す電光|掲示板《けいじばん》は全室に渡って、……2nd―Gが正式な機密《きみつ》訓練中。
全竜交渉《レヴァイアサンロード》への対策ゆえ、彼らの行動は何よりも優先される。全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》でも、たった一人でのキャンセル待ちではいつになるか解《わか》ったものではない。
2nd―Gは何をしているのだろうか。
……動き出したのは確かだよね。
そんな思いが、新庄《しんじょう》の体の中から落ち着きという言葉を消す。
白いジーンズの足を組み、肘《ひじ》を着いた両手の先には小型の携帯ゲーム機がある。
UCATの職員からもらったニボタン式のそれは、南洋の海でコミュニケーションをとろうとしてくる大型海洋生物の脚《あし》をかわし、海底に沈んだ金品を連続|略奪《りゃくだつ》するというものだ。
ただ、古く滲《にじ》んだ液晶は、たった十点でゲームオーバーになってから動いていない。
周囲、手持ちぶさたにしている人々の間に知った顔はない。
よく見れば、老若男女《ろうにゃくなんにょ》は色とりどりだ。
異《い》種族の者もいるが、彼らの姿はやはり目立つ。
そして新庄はある事実を思い出す。たとえば大樹《おおき》が、概念《がいねん》空間の中でなければ自分の長い耳を出してこないことを。
相容《あいい》れないものなのかな、と新庄は思う。
……たとえばボクと佐山《さやま》君は、どうなんだろう?
と、そこまで考え、新庄は頭を横に振った。
一体、何を暗いことを考えているんだろうかと。
新庄は携帯ゲーム機をジャケットの内ポケットに入れ、立ち上がった。
待っていても訓練室は多分|空《あ》かない。そして暗い思いが募《つの》るばかりだ。
じゃあここから移動しよう、と思ったときだ。
不意に周囲の皆が身動きし、ざわめいた。
「――――」
振り返った新庄と皆の視線の先、壁に掛かった電光|掲示板《けいじばん》の内容が一つ変わろうとしていた。朱色《しゅいろ》の表示が消え、天井のスピーカーから声が聞こえる。
『え、本日は毎度日本UCAT訓練室をご利用いただき、え、有《あ》り難《がと》う御座《ござ》いますー。え、次はー、第七訓練室ー、第七訓練室ー、2nd―|G《ギア》訓練終了ですー。お近くのドア開きますので御注意下さいー。なお当《とう》訓練室はそのまま独逸《ドイツ》UCAT機密《きみつ》使用に切り替わりますのでー、え、無理な御入室は――、そこテメエ入るなってンだろ猿ッ!! はい、ドア閉まります』
ああ、という落胆《らくたん》の声が皆から漏れて、新庄も肩を落とす。
が、新庄はとりあえず皆から離れるように、二、三歩。
とにかくここから離れよう、と、改めてそう思ったときだ。
周囲から新しいざわめきが跳ね上がった。
男性用|更衣室《こういしつ》から、一個の集団が出てきたのだ。
それは、未だUCATの白い戦闘服を着込んだ男達。
臨戦《りんせん》態勢を解くことなく、十数名の男達が、戦う衣装で歩いてくる。
彼らの放つ硬質な雰囲気《ふんいき》に、皆のざわめきが沈んでいく。
新庄は、歩いてくる男達の中に鹿島《かしま》と熱田《あつた》の姿を認めた。
彼らの先頭、鹿島《かしま》だけが作業服で目立つ。
鹿島は横の熱田《あつた》に対して手振りを交えながら何かの数字を説明している。
そして鹿島の背後についてくるのは、工具を腰から下げた初老《しょろう》が数名に、ノートPCや大型の計測機械などを幾つものストレッチャーで運ぶ者達。
彼らを見て、近くにいた空《あ》き待ちの男達から声が漏れる。
「2nd―|G《ギア》の技術屋が全員|揃《そろ》ってやがる……」
そして、更衣室《こういしつ》から押し出されてきた次のストレッチャーに皆が息を飲んだ。
白の大型テーブルを構えたその上に、| 機 殻 剣 《カウリングソード》の残骸《ざんがい》が山として積まれていたのだ。
元の数は三十を下らない。
対《たい》異世界《いせかい》戦闘を前提に作られた武器が、折り砕かれている。
誰かがつぶやいた。壊すことが出来るのか、と。
それ以外に誰も言葉は無い。
「…………」
新庄は呆然《ぼうぜん》と、揺れていくストレッチャーと彼らを見た。
そのときだ。彼らの先頭、鹿島が顔を上げた。
こちらの視線と、彼の視線が、正面からかち合った。
「あ……」
と新庄は一歩|身《み》を退《ひ》くが、後ろはすぐにソファだ。
どうしよう、と思った頃には、目の前に鹿島が立っていた。
思わず身構えたこちらの前、彼は口を開き、こう言った。
「全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の新庄《しんじょう》・運《さだめ》君だね? ――少しいいかな?」
鹿島は目の前に立つ新庄を見る。
オレンジ色のジャケットに、白のシャツと白のジーンズ。
線の細い姿が頼りなく見えるのは気のせいではあるまい。こちらに対して身構えているが、
……震えてもいるのか。
訓練室に入る前、月読《つくよみ》が全竜交渉《レヴァイアサンロード》の開始宣言を大城《おおしろ》・至《いたる》に告げてきた。
そのとき月読は大城・至から全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の隊員達の情報書類を得た。
どれも、幾《いく》つかの部分を機密《きみつ》事項として黒く塗り潰された書類だ。
だが、新庄・運の書類には、一つの覚え書きがあった。
……精神的な面から、攻撃役に向いていない可能性有り、か。
調べてみると、新庄の使用する|Ex―St《エグジスト》は、その出力を完全に生かし切れていなかった。
回収したデータのほとんどは最高出力帯の手前で止まっていて、1st―Gとの戦闘時に一度、その近くにまで達しただけだ。
思い出してみれば、食堂で会ったときもそうだ。
熱田《あつた》が佐山《さやま》に対して挑発したときも、すぐ横にいた新庄《しんじょう》は動けなかった。
理由は解《わか》らない。
黒く塗り潰された箇所にその理由が書いてあったのか、無かったのか。
ただ、解ることがある。
それは、新庄が佐山のそばにいる人だということだ。
しかし、と鹿島《かしま》は思う。
……あの少年は、戦うことを望むだろう。
では今、目の前にいる新庄は、どうなのだろうか。
「新庄・運《さだめ》君、食堂で会って以来だね」
「な、何?」
警戒《けいかい》の声に対して、鹿島は安心させるように一つ会釈《えしゃく》を置いた。
そして、佐山と新庄のことを思いながら、鹿島はこう言った。
「……あれから僕は戦うことを選んだよ? 君は、どうなのだろう?」
鹿島は見た。新庄がこちらの問いに身を竦《すく》めたのを。
新庄は狭い息を吐く。力のない眉のままこちらを見上げると、
「そんなこと言われても、解らないよ……」
「だが、解りたいと思わないか? 食堂で僕の嘘《うそ》を問うた君ならば」
こちらの言葉に対し、新庄は、やや考えてから口を開いた。
「解りたいって、……鹿島さんは何の答えが欲しいの?」
きっとその問いは、自分自身に対するものだ。だから鹿島は頷《うなず》いた。
目の前の震える姿に、教えるように、諭《さと》すように、言葉を作る。
「――全ての疑問と、これからのために、だよ」
鹿島は思い出す。
八年前の崩落《ほうらく》事故を心に浮かべ、
「何故《なぜ》、自分の力を忘れようとして、出来ないのだろう?」
そのときに取った奈津《なつ》の手を思い出し、
「何故、誰かと共にいたいのに、傷つけるのだろう?」
両親のことを思い、
「何故、皆が自分のことを大切にしているのに、独りを感じるのだろう?」
祖父の臨終《りんじゅう》のときを思い出し、
「何故、この世界と自分は、ズレているように感じるのだろう?」
そして、今までの八年を記憶《きおく》に起こし、
「何故《なぜ》、自分をどちらか一方に決めることが出来ないと、そう感じるのだろう?」
告げる言葉、全ては静かな口調に、新庄《しんじょう》の身がまた小さく竦《すく》められていく。
その萎縮《いしゅく》を解くように、鹿島《かしま》は口を開く。
放たれるのは最後の問いかけ。奈津《なつ》と、晴美《はるみ》のことと、これからのことを思い、
「何故、それほどの疑問|詞《し》を己に穿《うが》ちながら、……僕は自分の力で全てを得たいと、そう感じるのだろう?」
問いに、新庄が下《した》唇を小さく噛《か》んで身を震わせた。
新庄は、まるで礼をするようにうつむいた。肩を下げて息を吐き、
「鹿島さんは……、戦って、その答えが出ると思うの?」
「出るんじゃない、出しに行き、得ようと思うんだ。――怖《こわ》いけどね」
言うと、新庄が顔を上げた。目にわずかな涙を浮かべた顔がこちらを見る。
その頭に、鹿島は手を置いた。一度、安心させるように軽く撫《な》で、
「真実か、嘘《うそ》か、君がどちらをもって自分を怖《おそ》れに震えさせているのかは解《わか》らない。だが、君にとっての大事な人は、きっと、真実の側で君を待っているだろう」
一息。
「僕は嘘をつくのに八年を掛けた。君はいつ、怖れの中から自分の選択をするだろうか」
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第二十一章
『率直の真意』
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石を一つ二つと穿つように
立て続けに響くのは己の問い掛け
ならば答えの始まりは如何に響くのか
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田宮《たみや》家の朝食と夕食は二度に分かれている。
警備会社を営むため、田宮家では内に抱える人々に食事を出す。ゆえに、彼らを派遣に送り出す前と、戻ってきた後、二回に分かれて食事が行われることになる。
今は夜六時、一度目の夕食だ。
広間に並べられた食卓の上にあるのは、孝司《こうじ》と非番《ひばん》員が作った和食。
テーブルの上側に座るのは警備の仕事から戻ってきた者達で、幾つかの卓にはビールもついている。そして上座《かみざ》は中央三席が空《あ》いており、横、左の二席には孝司と遼子《りょうこ》がいる。
後の夕食で己の分を済ませる孝司は、今は煮豆《にまめ》と茶で一息。
遼子の方は先の夕食が本番だ。上機嫌《じょうきげん》に身体《からだ》を揺らしながら皿の上の煮物をつついている。
何事もなく食事をしている姉を見て、孝司は感想を述べた。
「今夜は平和だな……」
彼は視線を下げ、食卓を囲む皆を見る。
昼番《ひるばん》中心に非番を含めて五十一名、出ている夜番を含めれば総勢七十七名になる。
孝司は彼らを見て、姉を見て、ゆっくりと口を開く。
「皆、とりあえずあと二日の辛抱《しんぼう》だ。そうすれば父と母も戻ってくるから」
ほ、と皆が安堵《あんど》の吐息をついた。そのときだ。遼子がぴくりと肩を上げて、
「御免《ごめん》、父さんと母さんからさっき電話あったの。――帰りに寄った温泉が気に入ったからボディボード、ほら、昨年買ったヤツ、送れって、ほら、住所、宿の、あと帰る日も」
と袂《たもと》から紙片《しへん》を出し、孝司に差し出す。そんな遼子の視線の先、孝司の顔は曇っていき、
「帰ってくるのは来週か……」
「何かお姉ちゃん、いけないこと言った?」
「いや、姉さんに罪はないよ。そう、たとえば原子力|自体《じたい》に罪はないように」
「孝司、あまり原子力の話しない方がいいよ? ほら、向こう、シゲさんが頭抱《あたまかか》えてガクガク震え始めてるから」
「御免御免。おい、誰かシゲさんのマルクス共産主義論|持《も》ってきてくれるかー」
対処が成された。そして孝司は再開された食事の中で一息をつき、
「そういえばこの前の夜、閉め出しのときに熱田《あつた》さんが来たそうだけど?」
「うん、来てたよ。ダベったもの。よく気づいたね」
「昨日、会って話を聞いたんだよ。だけど……」
言いながら孝司は眉をひそめ、
「若の話をしたそうだね?」
「したよ。何で? もう若もナーバス抜けてるし、話題にしても大丈夫でしょう?」
問いに、孝司《こうじ》の顔が青くなる。
「……姉さん、何で熱田《あつた》さんがうちの前を通りかかるか、知ってる?」
「たまたまでしょ? 本人そう言ってるし」
「……姉さん、熱田さんのこと、どう思ってる?」
いい人かなあ、と遼子《りょうこ》は首を傾《かし》げた。青い顔をひきつらせる孝司に、
「学生時代、パチンコ行くと玉貸してくれたしね。スロットも目押《めお》しが上手《うま》いのよ? で、一人で行ったときはお土産《みやげ》くれるの。大体クッキーなんかのお菓子|類《るい》」
「姉さん餌付《えづ》けされてるよそれ。……ともあれ若のことは昔《むかし》同様、外に話さないように」
「ええ? つまんない。御近所のつき合いには身内《みうち》自慢って必要なんだからねっ」
「その御近所|回《まわ》りや町内会の仕事は自分がやっているのだけど」
「孝司が理屈《りくつ》臭くなったあっ」
よよよ、と嘘泣《うそな》きをする遼子の右|肘《ひじ》あたりで、一つ小さな音がした。
見れば、遼子の湯飲みが倒れて、卓に茶が広がっていく。
あ、と声を出した遼子に、冷めた目の孝司が、
「……姉さん」
「ま、前と違ってこれはお姉ちゃんのせいじゃないのよっ? って、こら孝司、また閉め出し? って、あー孝司! お姉ちゃんの耳《みみ》引っ張ってどうする気っ!」
孝司は無視。遼子の耳をつまんで立たせると、食卓を囲む皆を見て口を開く。
「すまない皆、食事は続けていてくれ」
「あイタタタ、こら孝司! 皆も救《たす》けてよっ! 私、社長なんだからねっ」
「うんうん解《わか》った偉いね姉さん、さ、外に行こう。――皆は無視していいよ。家族の問題だ」
「ああもう女社長を手荒く扱うと殺人事件が起きるんだからあっ!」
「その事件は火曜日あたりの夜九時に起きて十一時には解決するよ。万事|安泰《あんたい》だ」
「ブー、残念でした。解決するのは十一時じゃなくて十時四十五分ですー。あィタタタタ!! こ、こらっ! 孝司のお小遣《こづか》いとかも誰が出してると思ってるのっ?」
「……経理のマサさん」
「マサーっ!! 何を金で人徳《じんとく》得ようとしてんのっ!」
叫びを無視して広間の襖《ふすま》が開き、閉じ、姉弟の姿と声が廊下に消えた。
広間の中、幾人《いくにん》かが冷静にこぼれた茶を拭《ふ》きに回り、残りが食事を進めていく。
新庄は、奥多摩《おくたま》の町に出ていた。
周囲は闇に近い頃合《ころあ》い。左腕の時計は午後六時半を過ぎている。
奥多摩の町に出るにはIAIの送迎バスなら十分ほど。だが、新庄はバスを使用せず、徒歩で遠回りをして二時間ほどかけて来た。
送迎バスでは佐山《さやま》と鉢合《はちあ》わせする可能性があったからだ。
だから町に出たのだが、
「あまり行き場を知らないんだなあ……、ボクって」
つぶやく場所は奥多摩《おくたま》駅から近い氷川《ひかわ》神社の境内《けいだい》だ。駅を出て、南側にロータリーを下り、十字路を渡ったすぐの場所。
バスが行き来する場所だが、神社は下を流れる渓流《けいりゅう》に向かって一段下がった位置にある。
上の道路を走る車からは、堂《どう》の屋根しか見えない構造。
その堂の前、涼しい夜気の石段に新庄《しんじょう》は腰を下ろしていた。
周囲はもはや夜だ。境内で遊んでいた子供達はもうおらず、空気が肌寒《はださむ》くなってきている。
そろそろだろうか。佐山がUCATを出て、学校の寮《りょう》に辿《たど》り着くのは。
夕食を午後八時と決めている佐山は、いつもその時刻には帰宅する。
例外があるとしたら、新庄・運《さだめ》とUCATで会い、そこで夕食を摂《と》るときだ。
今日、ここに自分がいるということは、佐山が午後八時までに学校に戻るということ。
「…………」
奥多摩から秋川《あきがわ》に行くには、送迎バスと電車を使用しても一時間半かかる。
午後八時に戻るには、六時過ぎにUCATを出て奥多摩駅に向かわねばならない。
先ほど上の道路を、IAIの送迎バスの屋根が通った。行く先は北側、駅の方だ。佐山が乗っているとしたらあれが最《さい》有力候補。次にもう一台が通ったら、UCATに戻ろうか。
「UCATで寝るのも久しぶりだなあ……」
仮眠室の一室。そこが新庄の 家 だ。
だが今、自分の持ち物などはほとんどない。
「――切《せつ》が、持っていっちゃったから」
自分の身体《からだ》を抱いて思う。佐山と顔を合わせたくないということと、先ほどの鹿島《かしま》の言葉を。
「自分の選択か……」
どーしよーかなー、と前屈《ぜんくつ》。立てた膝《ひざ》に顎《あご》を載せ、左右の手で石段の砂をはたく。
そして自覚するのは、
……決めたいんだけど、怖くもあるんだろうね、ボクは。
嘘《うそ》を突き通すのか、やめるのか、そのどちらかにするのかを。
「怖いよなあ……」
膝の上で顔だけ上げ、一息ついた。
そのときだ。頭上の道路をバスが通過した。
IAIの送迎バス。あの中に佐山はいるだろうか。もしそうだとしたら、バスは、
「今、駅前に入って」
止まり、
「バスから降りて……」
佐山《さやま》のきびきびした動きを新庄《しんじょう》は思い出す。彼ならバスから降りて数秒で駅の中に入っていってしまうだろう。そんな光景を想像し、苦笑とともに新庄はつぶやいた。
「それでさよなら、だね」
立ち上がる。尻をはたき、改めてあたりを見回せば、周囲の夜は濃くなっている。
光と言えば、境内《けいだい》の中にある白熱灯《はくねつとう》の白光だけ。
新庄は歩き出す。小さな夜風を浴びつつ、無言で石段を下り、境内を出て横の坂を上る。
と、神社の入り口の向こう、駅の方から電車が出る警笛《けいてき》が聞こえた。
見れば、外灯の光を越えた所、山側の闇を光の連なりが走っていく。高架《こうか》を走る電車の行く先は東、東京という街のある方角だ。
佐山はあの電車に乗っている筈《はず》だ。
……ボクがここにいると知らずに去っていく。
と、そう思ったときだ。
「う……」
と声が漏れた。
何故《なぜ》だろうか。不意に足が止まり、口の下のあたりに力が籠《こも》った。
「ボクは――」
何しているんだろう、と新庄は今更《いまさら》ながらに思った。
自分が今日、ずっとしてきたことを、思い出す。
……彼はいつもボクを気遣《きづか》っているというのに。
「今、ボクは答えが出るの怖《こわ》がって、逃げてるよね……」
その思いが不意に頭を強く打つ。すると胃のあたりが重くなり、ふと、視界が歪《ゆが》んだ。
目尻《めじり》に熱を感じた新庄は、あ、と声を挙げ、目元を袖《そで》で拭《ぬぐ》った。
己の袖で確認出来るのは、目尻にわずかな湿りがあったという事実。
何故、そんな湿りが生まれたのか。
その疑問の答えを悟った新庄は、こう思った。
……ああ、ボクは駄目《だめ》だ……。
心の中、これだけ重いものを抱えていたというのに、
「ボクは佐山君を避けてしまって……」
彼と言葉を交わそうともしない。
鹿島《かしま》は訓練室の前で 選べ と言ったが、もう佐山は去ってしまった。
「ボクが、嘘《うそ》をついて、逃げてしまったから……」
告げる最中に、何か言葉に出来ぬ感情が胸の中を絞《しぼ》り、締め付けてくる。
耐えられない。だから神社の入り口、大きな杉の下、
「――どうしてボクは、佐山《さやま》君を怖《こわ》がって、自分の嘘《うそ》を選んだの?」
こみ上げてくる息苦しさから逃れるように、新庄《しんじょう》は不意の涙をこぼした。
ひ、と声を漏らし、新庄は慌《あわ》ててジャケットの袖《そで》で目を拭《ぬぐ》う。
が、次から次へと涙がこぼれてきて、追いつかない。
仕方なくジャケットの袖を目に当て、顔を隠す。
すると、視界を塞《ふさ》いだことを合図とするように、肩が震えて呼吸が乱れた。
泣く。
そして咳込《せきこ》み、それ故に言葉を作ることは出来ず、新庄はただ思う。
……佐山君。
やっぱり会いたいよ。
何を今更《いまさら》、と思いもするが、彼が去ったという事実を前に、ようやく荒れた声が出た。
「会いたいよぉ……」
新庄は思う。これが自分の本音なのだと。
会って何と言われるだろうか。何か問われたとき、どう答えたらいいだろうか。
解《わか》らない。ただ、会いたい。怖いけども。
「ひぁ……」
涙が止まろうとしない。だから新庄は泣くに任せた。
会いたいと、そう思いながら、駄目《だめ》だと、そう思いながら、身を杉の幹に預けようとする。
支えが欲しいと、そう思った。
同時。
「――新庄君」
聞こえた声に、新庄は息を止め、身を震わせた。
涙で歪《ゆが》む新庄の視界の中、外灯《がいとう》の光を逆光に、一人の少年と一人の老人が立っている。
神社前の歩道から、少年は手に酒の一升瓶《いっしょうびん》を提げたまま近づいてきた。
新庄は手を胸の高さに構えるように、身構え、しかし、
「佐山君……?」
新庄は下がらない。ただ、問うた。
「……何故《なぜ》?」
「何故とは愚問《ぐもん》だね新庄君。君が望んだのだろう? ――どうかね? 今日はこれからこちら、横にいる貧相な飛場《ひば》先生の立派な道場で夕食をいただくつもりだが」
「御言《みこと》、俺と道場の扱いが逆じゃねえのかよ」
「先生、よく聞いて欲しい。人間とは、見た目ではない。……第一印象だ」
「同じだ馬鹿|野郎《やろう》め」
目の前に立った佐山《さやま》は竜徹《りゅうてつ》の意見を無視して、左の手をこちらに差し出してくる。
対する新庄《しんじょう》は彼の手を見て、息を吸った。震える唇を数度動かしてから、息を吐き、
「どうして、ここにいるの……?」
「君が望み、私も望むからだよ」
夜風に髪を掻《か》き上げ、佐山《さやま》は言った。
「――君が痛みを感じていたとき、君を護《まも》りたくなったら君を護ろう。君が独りを嫌だと感じたとき、君と話をしたかったら君と話をしよう。君が悩みを抱くと決めたとき、君を大事に思ったら君を一人にしよう。君が私を厭《いと》うとき、君を想うならば君を嫌おう」
そして、
「君が私を欲したとき、君を見たならば、私は君の隣《となり》に立とう」
どうかね? と佐山は手を差し出したまま問うた。
だが、新庄は、彼の手を取ることで答えなかった。
失ったと思ったものが目の前にある。
その事実に怖れは消えた。だから新庄は声を漏らし、夜気を割って彼の胸に飛び込んだ。
「ああ……!」
そして佐山は、こちらをしっかりと受け止めてくれた。
もはや新庄に出来るのは、涙をこぼし、彼の胸にしがみつき、ただ声を挙げるだけ。
「嫌だよ……」
息を吐き、そしてまた、嫌だよ、と乱れた本心で言う。
「嘘《うそ》をつくのは嫌だよぉ……」
彼のスーツ、シャツ、ベスト、構うことなく手指の爪をたて、掻《か》き寄せ、自分を押しつけ、
「でも、でも、佐山君、嘘を知ったら、ボクのこと嫌いになるから……。それが怖《こわ》くて……」
は、と息を吐き、ひ、と吸う。
「ボク、切《せつ》のことも大事だよ」
「ああ」
「切も同じだよ」
「ああ」
「で、でも、切は佐山君に迷惑《めいわく》かけて、そばにいられなくなって、でも一緒にいたくて」
どうしたらいいのか、
「解《わか》らなくて、……解らなくて怖くて!!」
うむ、と頷《うなず》きが聞こえ、背に手が回った。
一度ぎこちなく抱かれ、それから確かめるように抱きしめられる。
彼の腕に力が入ると同時。足下で何やら瓶《びん》の割れる音がした。
横で老人の声が、あー、とか叫ぶが気にすることではない。
「一緒にいたいよ……」
新庄《しんじょう》は乱れた喘《あえ》ぎを彼の胸に漏らし、涙をこぼしながらこう言った。
「一緒にいたいよぉ……」
その言葉に、佐山が頷《うなず》くのが解《わか》る。
ただ、彼は言葉に出しては何も応えず、左の手でこちらの背を軽く叩く。落ち着けというように、何度も、何度も。
それに応じるように、何故《なぜ》か、身から余計な力が外れていく。しがみつく力がかすかに緩み、涙が小さくなるのは、背を叩かれることへの懐《なつ》かしさだろうか。
自分が憶《おぼ》えていない、自分の過去への懐かしさ。
佐山の胸に押し当てた耳が、彼の鼓動《こどう》を聞いていた。
わずかに速く、しかし落ち着いた音。
聞いていて、自分の息を合わせると、身体《からだ》の力は抜けていく。
疲れた。
そんな感覚が身体の下の方から上がってきた。不意に眠気のようなものが頭の芯《しん》に響《ひび》く。
「御免《ごめん》ね、迷惑《めいわく》掛けてばっかりで……」
つぶやくと、彼の声が返ってきた。
自信を持った頷《うなず》きとともに、彼はこう言ったのだ。
「――そんなことはない」
懐《なつ》かしい、否定の言葉。その言葉にどう反応しただろうか。
笑みか、首を横に振ったか。
自分でも解《わか》らぬまま新庄《しんじょう》は佐山《さやま》の胸の中で気を失い、倒れ込んでいた。
白く、広いその空間は、幾《いく》つもの大きな機械に埋められていた。
第三制作室。その中央の平たい大型作業台の前、赤熱《せきねつ》した一本の剣がある。
それは全長二メートル半を超える肉厚《にくあつ》の長剣《ちょうけん》。
フツノだ。
フツノは二つに分かれていた。柄《つか》の部分と刃《やいば》の部分が砕かれ、分離されているのだ。
かつて、実験時の暴発でそこから砕けた痕跡《こんせき》だ。
そして今、折れたフツノの前に、作業服|姿《すがた》が一人立っていた。
鹿島《かしま》だ。
しかし鹿島はフツノではなく、前を見ていた。第三制作室の入り口の方を。
視界の中にいるのは、自分と同じような作業着姿の若者達が五人ほど。
彼らに対して鹿島は、さて、と前置き一つ。
「修復《しゅうふく》の第一段階は済ませてある。鏨《たがね》で打ち伸ばす行程は無く、これからこの剣が砕けて欠いた名前を再び彫り込んでいくわけだね」
と、若者の一人が問う。短髪の少し太った若者だ。
「主任、そこにあるのは| 機 殻 剣 《カウリングソード》の骨となるフレームですが、……力の抑制と方向性を定めるための機殻《カウリング》は、いつ作るんです?」
「いい質問だね、香取《かとり》。……でも、このフツノにそのような余分なものは無いんだ」
鹿島の言葉に、若者達が息を詰める。
「そ、そんな危険|剥《む》き出しの概念《がいねん》兵器を――」
「危険なのは使用する人間|次第《しだい》だよ。君達は命を奪うことを武器のせいにする気かい?」
問いに、一人の若者が鹿島の前に立った。
設計室で鹿島の歩みを止めようとした青年、御上《みかみ》だ。彼は鋭い目を向け、
「――反対です。今、ここにある全てのことに」
「ふむ。じゃ、まず理由を聞こうか」
鹿島は自然体のまま、会釈《えしゃく》を見せる。すると御上は眉に険《けん》を作りながら、
「主任の考えには自惚《うぬぼ》れがあります。自分達は破壊《はかい》兵器を持っていい、正義の側だと」
「うわ、スゴイなそれ」
心底《しんそこ》参ったという口調で告げた鹿島《かしま》を、御上《みかみ》が一瞬《いっしゅん》だけ睨《にら》む。
が、彼はすぐに自分の視線を収めると、フツノを見て告げた。
「強力な武器は、誰がどう使おうとも殺しを生む道具です」
「うーん……。それは確かにそうかもなあ……」
でもさ、と鹿島は肩から力を抜いてこう言った。
「もし君達の作った武器が、敵を制することが出来なかったならば?」
「それは……」
「そのとき君はどうするつもりなんだ? やはり、武器のせいにするつもりかい? 違うだろう? 責任は、勝てぬ武器を作った僕達にある」
鹿島が、僕達と告げたことに、若者達が眉をひそめた。
皆の視線の先、鹿島は見ている。己の左手、その小指と薬指を。
「スゴイけど、正義はあるよ」
「どこにですか!?」
「信じるところに、さ。――それは武器の力にあるのではなく、作り手と使い手の中にある。たとえば熱田《あつた》は、僕との約束で人殺しだけはしないことにしているよ?」
「――――」
「刃物《はもの》は刃物、人は人だ。そして武器は武器としての力を果たすためにある。違うか?」
一息。
「力を恐れるな、武器を恐れるな、そして両者に慢心《まんしん》するな。僕達は武器を作る者だ。僕達の思いは刃《やいば》に移り、使用者に伝わる。だから信念を籠《こめ》て打ち、己の信頼出来る者にしか手渡すな。そうすれば、僕達の望む力は発揮《はっき》される」
鹿島は一歩を下がり、陽炎《かげろう》を立てるフツノに近づいた。
そこから彼は、御上達を見る。
ふむ、と小首《こくび》を傾《かし》げた鹿島の視線の先、若者達の背後に機械の群がある。
どれも全て、彼らが第二制作室から運んできた工作機械や、耐熱《たいねつ》装備だ。
鹿島の視線に気づいたのか、香取《かとり》が首を傾げ、
「何か僕達に問題がありますか?」
問う声にはかすかな震えがある。力|無《な》い震えが、眉尻《まゆじり》を下げた表情とともに。
だが、その震えと感情を無視して、鹿島は何気ない口調で問う。
「その機械類は何だい? まさか、フツノにそれを用いる気なのかな?」
「ですけど、高熱のフレームを加工するには――」
香取の言葉に対し、小さな笑みが響《ひび》いた。
鹿島の笑みではない。背後からの、苦笑に似た笑みだ。
鹿島《かしま》は、やれやれと肩を落とした姿勢て後ろへと振り向いた。
鹿島の視線の先、金属の焼き入れを行う白のプラントベースの前に老《ろう》主任が一人。
隻眼《せきがん》の彼は、熱で焼けた顔を鹿島に向け、
「そういうことだ鹿島。一から教えてやんねえ。頭脳の方から刀工《とうこう》の道に来た童《ガキ》どもにな」
「しょうがないですね。……さて、それじゃ、君達は自分の名を理解しているかい?」
鹿島は若者達を見ながら、フツノの刃《やいば》に左手を載せた。
それも、陽炎《かげろう》を立てる赤熱《せきねつ》の鉄塊《てっかい》の上に、だ。
鹿島の行為に反射的に目の前の五人が息を飲み、しかし、
「――何ともない?」
御上《みかみ》の青ざめた表情と声に、鹿島は頷《うなず》いた。
御上の言葉の通り、高熱の刃に触れた鹿島の左手は何の影響《えいきょう》も受けていない。
「僕達は剣神《けんしん》や軍神《ぐんしん》、そして刀工神だ。――己が使役するべきものに傷つけられることはない。ましてや刃になっていない鉄塊など、加工は鉄櫛《てつぐし》と鏨《たがね》だけで充分、いや、それでも多すぎるくらいだ。余分なものを仲介《ちゅうかい》すればするほど、金属との対話はずれていくのだから」
鹿島はフツノの砕けた柄《つか》を掴《つか》んだ。
持ち上げて回すと、彼は、その柄をまっすぐ前に、五人の方に突き出した。
「己の名を信じ、触れることの出来る者からフツノの加工に入るように。――いいね?」
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第二十二章
『起立のきっかけ』
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何かを決める
独りよがりに
でもそれが初めてだから
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佐山《さやま》は夜空を見ていた。
姿勢は大の字。寝ているのは地面の上だ。
服が汚れてしまったな、と思いつつ、佐山はベスト姿の体を起こす。
首を回すと身体《からだ》に鈍い痛みがきた。それも一つではなく、多重に、だ。
……自分がどれほど地面に叩きつけられたかの証明だな。
周囲、冷たい夜の空気の向こう、青黒い夜空と、黒に染まった山の影がある。
ここは奥多摩《おくたま》の山間にある飛場《ひば》・竜徹《りゅうてつ》の道場|兼《けん》屋敷の横。屋外《おくがい》道場だ。
高台にある道場ゆえ、星明かりを光源に地面が見える。
佐山は夜露《よつゆ》を含む大気の中に立ち上がり、背の方に振り返る。
周囲に組木を立てた十五メートル四方の道場。踏み固められて草一本|生《は》えていないその中央に、一人の老人が立っている。
飛場・竜徹。
夜の中、背の低い影の中、赤の片目と白のシャツが映える。
彼は腕を組んだ姿勢で、
「どうしたよ? 食ったばっかで身体が重いとか言うんじゃねえだろうなあ?」
「いや、何故《なぜ》だかね。不思議《ふしぎ》なことに、先ほどの夕食の鍋《なべ》だが、あまり食《しょく》した気がしないのだ」
「ほう、何でだい?」
「うむ。何故か私の横に山から下りてきた卑小《ひしょう》な猿がいて、私の分の具材をバシバシ食ってしまってね。躾《しつけ》が悪いケダモノめとテンプルに一撃《いちげき》入れたらここに連れてこられたわけだが……」
佐山は、顎《あご》に手を当てて竜徹の顔を斜め下から見ると、
「はて……、その猿は何故か飛場先生に似ているようなのだが」
「オメエは年上を敬《うやま》う心ってーもんを知らねえなあ……」
「残念ながら身近な見本が全て最悪だったものでね。筋金《すじがね》入りの老人|嫌《ぎら》いだよ? 私は」
そして、竜徹を見て、はっと気づいたように、
「――こんなところに老人がっ。最悪だね?」
「あのなあ御言《みこと》、後でぶっ飛ばしてやるからちょっと話聞け」
「ふむ。いいだろう。話してみたまえ、飛場先生」
「オメエの敬語《けいご》が間違っているのはもはやどうでもいいとしてな。……薫《かおる》の馬鹿だって、たまにうち来たときはオメエのこと愚痴《ぐち》ってたんだぜ? オメエが中二の春先、ちょっとしたことで喧嘩《けんか》になって口を利かなくなったって」
「人が期末テストの勉強をしているとき、プリン様の恨み! とか戯言《たわごと》付きで飛びかかってくるからカウンターで撃墜《げきつい》しただけだ。買っておいたプリンが紛失《ふんしつ》したとかで、それから五時間|殴《なぐ》り合って結局は番犬のペスが食ったのだと解《わか》った。冷蔵庫を開ける犬も犬だがあの短絡爺《たんらくじじ》いは即座《そくざ》に去勢《きょせい》すべきだったな、もはや叶わぬ夢だが」
「……昔からあの馬鹿は変わらねえなあ」
竜徹《りゅうてつ》の言葉に対し、左胸にかすかな軋《きし》みが来る。よく考えれば竜徹と祖父の関係は、……古いつき合いということしか知らないな。
飛場《ひば》先生も、やはり護国課《ごこくか》に関係しているのだろうか。
そこまで考え、早計《そうけい》だ、と内心で苦笑。だがもしそうであるならば、
……祖父の立てた全竜交渉《レヴァイアサンロード》の条件を聞いている筈《はず》だ。
全竜交渉《レヴァイアサンロード》関係者は、自分に無関係な|G《ギア》の情報などを流してはならない。
だから、佐山《さやま》はわずかな軋みを左胸に置いたまま、竜徹を見た。
「さて、もう一度」
「あのなあ、無駄《むだ》じゃねえのかなあ?」
「無駄? そんなことはない。先生は私から話を聞いただけであの歩法《ほほう》をいきなり行うことが出来た。……それは誰でも出来る歩法だと解っただけでも、大きな進歩だよ」
概念《がいねん》空間など無い、ただの道場だ。それなのに、先ほどこちらから歩法の話を聞いた竜徹は、多分こういうことだろう、といきなりそれを実践した。
知覚の程度で言うと、ディアナや熱田《あつた》が見せたものよりも見えてはいる。
だが、充分に反応出来ないレベルだ。
竜徹はやり方を教えてくれない。自分で解れ、と。いつものことだ。
「もう一度お願いしたい。先生にとって望まぬことなのだろうがね」
「しょうがねえなあ。あんまし夜更《よふ》かししたくねえ歳《とし》なんだけどな、俺」
「最近、深夜のエロ番組を見ていたところを女房《にょうぼう》に発見され、井戸《いど》に叩き込まれたそうだが」
「馬鹿、あれは叩き込まれたんじゃねえ。逃げるために自分から飛び込んだんだ。真冬の最中に飛び込んだらアノヤロ、上に蓋《ふた》して重しまでつけやがってなあ……」
しみじみ言いつつも、彼は近づいてくる。
対する佐山も、
「ともあれ今更《いまさら》言うが、お元気そうで何よりだ、飛場先生」
動いた。先手を打つように攻撃に入る。
左の蹴《け》りで踏み込んでくる膝《ひざ》を狙う。が、
「ほう、人並《ひとなみ》の挨拶《あいさつ》出来るじゃねえの。――だが遅い」
と、逆にその脚《あし》の後ろを蹴り払われた。
思わずバランスを崩し掛けたところに、竜徹の身体《からだ》が飛び込んでくる。
| 懐 《ふところ》に入られれば、襟首《えりくび》を掴《つか》まれて投げられる。
だから佐山は自ら身を沈めた。懐を隠し、座るような姿勢で地面に手を着く。
そして先ほど払われた足を前へと蹴《け》り込んだ。
だが、
「馬鹿。直蹴《ちょくげ》りは確実に当たらなければ出すなっつったろが」
声とともに、蹴った足が掴《つか》まれた。
足首。そして腿《もも》の裏を取られ、
「!」
まるで丸太を起こすように、こちらの身体《からだ》が脚《あし》を軸に持ち上げられた。
立たされる。
気づいたときには、立った身体の| 懐 《ふところ》に、竜徹《りゅうてつ》がいた。
「どうよ?」
「小賢《ござか》しい芸当《げいとう》だね。まるで、自分が出来る人間だと見せつけられているようだ」
「口の減らねえガキだ。少しは敬《うやま》え」
苦笑付きの言葉とともに竜徹が消えた。否《いな》、目には見えている。
が、知覚出来ない。
「いいか? この歩法《ほほう》を破る方法は一つ。何でもいいからコツに気づけってことだ」
次に来たのは、ベストの襟首《えりくび》を掴まれる感覚と、一つの台詞《せりふ》だ。
「また駄目《だめ》か? ――オメエ、本当にさっきのあの子のこと、ちゃんと見えてんだろうな?」
新庄《しんじょう》は暗がりの中で目を開けた。
一番初めに気づくのは自分が布団《ふとん》に寝ていることと、衣類が違うこと。
は、と気づいて体を起こすと、布団が落ちる。
起き上がった視界は暗く、しかし右手側、障子戸《しょうじど》はかすかな青白い光に照らされている。
目に見えるのは十畳を超える縦長の部屋。自分が寝ているのは入り口の近く。ここには何か草書《そうしょ》の書かれた衝立《ついたて》が足の方に立っている他、調度品《ちょうどひん》も何もない。
そしてまた、周囲には誰もいない。
そこで一息入れて自分を見れば、身につけているのは白の浴衣《ゆかた》だ。
浴衣の左胸に飛場《ひば》道場、とある。
……じゃあ、ここは……。
道場の中だろうか。そういう場所に来たことがないので、勝手が解《わか》らない。しかし、
「お腹|空《す》いた……」
腹の中、空白のイメージがある。起きたのはそれが理由だ。情《なさ》けない、と片腹を押さえる。
と、不意に左手から光が来た。光には、襖《ふすま》が開く音と女性の声も付いてきた。
「お腹が減ってないかい?」
廊下側、慣れぬまぶしさに目を細めて見れば、部屋に入ってくるのは一人の老婆《ろうば》だ。
和服を着込んだ老女《ろうじょ》。手には小さい鍋《なべ》を載せた盆《ぼん》を持っている。
誰だろうか。疑問はあるが、白髪《はくはつ》を短く整えた老婆の方には警戒《けいかい》の動きも何もない。
「服はアイロン掛けておくから、明日の朝まで待ってなさるがいい。着替えさせたのは私だけど、最近の子は体つきがいいねえ」
「そんなこと……、ないです」
新庄《しんじょう》は彼女が横に座り、膝《ひざ》に溜まった布団《ふとん》の形を直していくのを見る。
布がこすれるような音とともにやや重めの布団が平たく馴《な》らされ、その上に小鍋《こなべ》の盆が載る。
腰の後ろを枕《まくら》で固定された新庄は、目の前の盆と老婆を交互に見る。
「あ、あの……」
佐山《さやま》君はどうしているだろうか、と、そう思うなり、
「佐山の若様なら、今、爺《じい》さんと一緒に横の庭で何やら練習してるよ。二年ぶりだね。――何やら倒さないといけない連中がいるんだって?」
ああそうか、と新庄は思う。
佐山は2nd―|G《ギア》の歩法《ほほう》のことを竜徹《りゅうてつ》に聞きに行こうと言っていた。そしておそらく、佐山がUCATの帰りに立ち寄るところに自分は行き会ったのだ。
……あの佐山君が教えを請《こ》いに来るなんて。
それほど、ここは信頼に値する場所なのだろう。
ただ、新庄は思い出す。自分がここに来ている理由を。
……氷川《ひかわ》神社で、変なこと言って泣き出して、しがみついて……。
思っていると、老婆が盆の上にある小鍋の蓋《ふた》を開けた。大量の蒸気が鰹《かつお》の匂《にお》いとともに噴《ふ》く。
わ、と声を挙げた新庄が小鍋の中に見たのは、
「さっき佐山の若様達と鍋やってね。それで作ったおじやだよ」
「おじや……?」
目に見えるのは、色の付いた湿った米に、無造作《むぞうさ》に野菜が埋まっているもの。
多量に湧《わ》く蒸気の中、米の表面を黄色く覆《おお》っているのは卵だろうか。
「見た目悪いけど、水気の少ない雑炊《ぞうすい》みたいなもんだよ。食べて、すぐまた寝ちまうといいね。――それと、貴女《あなた》様のことは、大体、佐山の若様から聞いてるよ。若様は貴女様から話を聞きたいみたいだけど、でも、まだ駄目《だめ》だあね? 違うかい?」
新庄は考え、頷《うなず》きを一つ。
「今、ちょっとまだ、自分の頭の中で考えがまとまってないから」
そう言いつつも、心の中には決めていることがある。
佐山の胸にしがみついた理由。
「嘘《うそ》をつくのは嫌だ、って思ったから。だからボク……」
一息。
「落ち着いたら、佐山《さやま》君に自分の嘘《うそ》を明かそうって、そう思ってるんだ」
そう、という言葉とともに、ふと、頭の上に手が載った。
撫《な》でられる。
髪を通した力強い温かみに、押し出されるようにして涙が出た。
「……ひぁ」
おやおや、と老婆《ろうば》が頭から手を離し、背をさすってくれる。
しゃくりあげで乱れた息を、彼女の手の動きで落ち着かせながら、
「ボク、嫌われるかなあ……」
「それは私にゃ解《わか》らないこと。ただ、貴女《あなた》様が真面目《まじめ》で苦労性なのは確かだね。そして、そういう子には、御天道《おてんとう》様が少しは味方してくれるもんだよ」
言われた言葉に新庄は苦笑した。
「ほら、涙が止まったら食べなされ。そして、このことは婆さんと貴女様だけの秘密にしとこうかね。今はとにかく、食ったら寝なさるといいね」
「あ、で、でも、ボク、家に……」
「さっき若様が誰かに連絡なさってたけど、ここに泊まらせてもらえって言われたらしいよ」
相手は大城《おおしろ》だろうか。新庄《しんじょう》は少し安堵《あんど》して、苦笑。
一息をついてみれば、今、自分がすることは何もないのだと実感出来る。
ならば食事。問題は明日に持ち越しだ。
いただきます、と言ってスプーンを取り、少し乾いた溶き卵のあたりをすくいとる。
少しおっかなびっくりで口に。
「……ん」
表面は冷めているが、中は熱いくらいだ。
濃く湿った米の味は、柔らかい鰹《かつお》か何かの出汁《だし》の匂《にお》い。米の間に入る感触《かんしょく》は白滝《しらたき》か。
まるで正体を探るようにもう一口を入れると、米の間、植物の茎のようなものが舌でほどけた。同時に広がる甘みは、
「卵がいい感じに溶けてるだろ?」
うん、と頷《うなず》き、少し笑みを得る。
そして新庄はまたスプーンで鍋《なべ》の中身を口に運ぶ。
卵のあたりは最後に残しておこうかと思い、そんな自分に再度の苦笑。
「少しは元気出たかい」
と、また老婆が頭を撫でてくれた。
「いい子だね。若様達にゃあ寝たままだと言っておくから、明日の朝までしっかりお休み。きっと明日、また真面目に頑張るんだろう? よく休んでおかないとね」
佐山《さやま》は、こちらを投げようとする竜徹《りゅうてつ》の言葉に疑問を放っていた。
「新庄《しんじょう》君と、この歩法《ほほう》に何の関係があると……?」
台詞《せりふ》とともに身体《からだ》が前に吊り込まれ、竜徹の言葉が飛んでくる。
「オメエ、あの子のこと、ちゃんと見えてっか?」
「私は――」
「うるせえ。問うのは俺だ。答えるのはオメエじゃねえ。答えるのは――、オメエがこれからあの子と出す結果だ」
こちらの身体が竜徹の腰に乗った。
「オメエは正しい。正しく間違ってる。でも、それなら、オメエのせいであの子が泣いたとき、悪役としてちゃんと向き合えたか? 解《わか》ってるだろ? ――あの子、本気で泣いたって」
竜徹はこちらの身体を更に引きながら、足下を払いにくる。
「さっき、ちゃんとそれが――、あの子の本気が見えてたか? オメエ」
言葉とともに身体が空に跳ね上げられた。
「もしオメエがちゃんと悪役やって、あの子の本気が見えてたなら、解るだろうよ? 見えるってことと、そして、見えねえってのはどういうことかもよ」
直後、こちらを掴《つか》んでいた竜徹に対する感覚が消えた。
「出来たぜ。俺の方はこれで完璧《かんぺき》。手加減《てかげん》無しの見えねえ投げだ。破ってみろ。――でなければ首から落ちて死ね」
身体が完全に投げ切られた、気がする。
「……!」
投げられ方が知覚出来ず、投げられたタイミングさえ失した。いくら受け身の技能や体術があろうと、起点を無くしていてはどうしようもない。
今、何もかもが解らなくなっている。
自分がどう回っているのか、どう落ちているのかすらも、解らない。
飛場《ひば》・竜徹は、本気でこちらを仕留《しと》めに来れる男だ。
間違いなく、こちらを殺せる投げ方をしている筈《はず》だ。
ならば見なければならない。見えない感覚を。
「――――」
ふと、同じような状況があったことを思い出した。ディアナに吹き飛ばされたときだ。
あのとき自分は何と告げたか。
「何故《なぜ》、見えている筈の君が見えていないのか――」
相対《あいたい》せよ。そして考えろ、向き合うとはどういうことかを。
先ほど新庄《しんじょう》と向き合ったとき、自分は新庄を抱きしめることで応じた。
あのとき、鼓動《こどう》も吐息も体温も震えも声も感触《かんしょく》も、そして涙も全て得た。
そして自分は自信を持って、新庄の言葉にこう返答した筈《はず》だ。
……そんなことはない、と。
向き合っていなければ出来るはずのない否定。
だから佐山《さやま》はこう思う。私達は正しく、間違って向き合っている、と。嘘《うそ》という言葉に迷って怖れ泣くことがあろうとも、それさえもが正しいのだと。
では、自分にとって、新庄がもし見えなくなるとしたら、どういうときだろうか。
……私が、正逆《せいぎゃく》の新庄君と正面から向き合うことに応じなかったとき――。
「私が君とズレていたときだ……!」
そう確信した瞬間《しゅんかん》。佐山は歩法《ほほう》を理解した。
向き合うことと、ズレという言葉、それらが頭の中で組み合わさり、答えとなる。
「まさか――」
つぶやきとともに、佐山は全《ぜん》知覚を動かした。
見える。
自分の身体《からだ》がどうなっているのか。周囲がどうなっているのかも。
だが佐山が全てを知覚した直後。彼の身体は地面に激突《げきとつ》した。
夜、高い位置の風を浴びる場所がある。
屋上。
尊秋多《たかあきた》学院の女子|寮《りょう》並びの一つ、第一女子寮の上だ。
そこに二つの人影があった。一つはモップを両手に構えた少女の影。もう一つはデッキブラシを片手に構えた青年の影。
ジャージ姿の風見《かざみ》と出雲《いずも》だ。
今、二人の動きは止まっている。
出雲が巨大な体躯《たいく》を沈め、風見の| 懐 《ふところ》に入ろうとした姿勢。
対する風見は、両手で水平に突き出したモップの柄《え》で、彼の動きを押しとどめた姿勢。
鋭い動きを急停止させたときに生まれる緊張感《きんちょうかん》が、二人の身を固め、周囲の風を弾《はじ》いている。
だが、ややあってから風見は息を吐いた。肩を落とし、
「見えた……、わね。ちゃんとガード出来たわ」
「そっか、見えたか」
言って、出雲が立ち上がった。
出雲の頬《ほお》には新しい擦過《さっか》の傷跡《きずあと》が幾《いく》つもある。が、彼は星明かりの下で風見に笑みを見せ、
「まあ、そういうことだ、2nd―|G《ギア》の歩法《ほほう》の仕掛けってのは」
「でも覚《かく》、よくあの歩法が出来るようになったわね。昨夜は全然《ぜんぜん》出来ずに私のカウンターで悶絶《もんぜつ》してたのに。……今日、寝てる間に何か怪しい解脱《げだつ》でもしたの?」
「いや、昨夜|千里《ちさと》が怪我《けが》の治療《ちりょう》と称してエロい――が! ま、まだネタの途中だぞ!」
風見《かざみ》は無視。モップの先端を戻し、笑みを見せて、
「じゃ、難しい話はやめにして軽い話に行こうね、覚。……結局、2nd―Gの歩法はどういう仕掛けなの?」
「んー、そうだなあ……」
出雲《いずも》が腕を組み、ちらりとこちらを見て、
「正直に言うが、俺はここでボケを入れてみたい」
「そう。じゃあいいこと教えてあげる。――この屋上は高さ十六メートルの位置にあるのよ」
二人は同時に横の縁《へり》、柵を見る。風見は、覚が考え込んで唸《うな》るのを見て眉をひそめ、
「……そんなにボケたい? 少しぐらいだったら」
「え? いいのか? いいのか? ああ、じゃあ、どうすっかなあ、俺。あ、そうだ! あれならきっとぐおっ!」
「ハイ終了ー。制限時間|一杯《いっぱい》です。解答を出しなさい」
鳩尾《みぞおち》を押さえる出雲は、半目《はんめ》でこちらを見つつ、
「解答ねえ……」
簡単なことなんだがな、と前置きして、出雲はこちらの正面に立つ。
右手の人差し指を眼前にかざし、
「コレが千里の視線の中心。いいな? ――じゃこれ見てろよ?」
彼は指を動かさぬまま、後ろの身体《からだ》をわずかに右にズラした。
そして出雲が立てていた指を下ろした。
今、風見の目は出雲の身体の中心を捉《とら》えていない。彼の脇のあたりを見ている。
何となく、風見は事実に気づいた。自分で確認するような口調で、
「――相手に気づかれない程度に、視線から外れる?」
「それだけじゃあねえな。要は、相手の全《ぜん》知覚と全タイミングから、自分を気づかれねえ程度にズラすんだ」
出雲は数えるようにそれを並べていく。
「呼吸、踏み込み、鼓動《こどう》、聴覚、などなど一個一個は弱いズラしでも、多量に重なれば――」
「相手は知覚出来なくなる……?」
「そう、こっちが集中すればするほどこっちの感覚は洗練《せんれん》され、――ヤツらにとってズラしやすくなる。速度も力も関係ねえ、知覚出来なかったら歩いてこられてもかわせねえからな」
言葉が終わった頃には、いきなり出雲が横に立っていた。
歩法《ほほう》だ。
「俺が千里《ちさと》にコレ出来るのは、俺が千里のタイミングに詳しいからだな。……ディアナのように他人にいきなりやるには相当な熟練《じゅくれん》が必要で、2nd―|G《ギア》の熱田《あつた》のように複数の人間に対して知覚されねえってのは異常なレベルの話だ」
成程《なるほど》ね、と風見《かざみ》は頷《うなず》き一つ。風に髪を払うと、
「とりあえず覚《かく》のレベルじゃあ女湯を覗《のぞ》けもしないし更衣室《こういしつ》にも入れない、と」
「ここここここここら、い、一体、な、何をいきなり言い出すっ」
「あからさまにうろたえなくても後で酷《ひど》い目|遭《あ》わせるから安心してね? でも覚この歩法、どうやって破るつもり?」
「さっき破っただろ? 方法は単純だ。ただ、気づくかどうかだけどな」
「実戦で、どのくらい出来るかしら……」
「さあな。ともあれ俺達にはこれしかねえ。一つ方法が見つかったら、しがみつくだけだ」
だがな、と出雲《いずも》は言った。
「結構哀《けっこうかな》しい技だぜ、この歩法。見方を変えれば――」
一息。
「――相手の全てから逃げて、向き合おうとしねえ技だ。これは、な」
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第二十三章
『力の選び手』
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問いかけが来る
かつての過去から
大事なものから
[#ここで字下げ終わり]
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空は暗く、朝日がまだ昇りもしていない。
だが、奥多摩《おくたま》の山の中では、幾《いく》つかの光がある。
その多くは朝早い農家の明かりだが、それとは別のものも一つあった。
高台の上、屋外《おくがい》道場を持つ屋敷。飛場《ひば》家の明かりだ。
台所と玄関についた明かりの内、玄関前には人影が二つ落ちている。
涼しい朝の空気の中、そこに立つのは新庄《しんじょう》と、昨夜の老婆《ろうば》。
新庄の影は良く動く。先ほどから何度も頭を下げているからだ。
「御免《ごめん》なさい、もういろいろと……」
困り顔で手にしている紙袋《かみぶくろ》は、老婆から受け取った朝食。握り飯と菜物《さいもの》が入っている。
対する割烹着姿《かっぽうぎすがた》の老婆は笑みの顔。手を割烹着の裾《すそ》で拭《ぬぐ》いながら、
「まあ、急ぎお帰りなさるといい。佐山《さやま》の若様に起きられると面倒だからね」
うん、と頷《うなず》く新庄は、朝起きたときのことを思い出す。
暗い中で目覚めた新庄がまず気づいたのは、横の布団《ふとん》に佐山が寝ていることだった。
首と右肩に包帯《ほうたい》を巻いた彼の眠りは深く、着替えても起きる気配は無かった。
そして廊下に出たところで、台所から出てきた老婆に会ったのだ。
「あの、佐山君、包帯|巻《ま》いていたけど大丈夫なんでしょうか。頭とか……、その、あの」
……打って更におかしくなったらヤバいものね……。
真剣な懸念《けねん》に、老婆はやや考えてから頷いた。
「ギリギリで受身を取りなされたそうだけど。まあ、あれ以上おかしくなりはしないだろうから」
「やっぱりそのあたりが共通|認識《にんしき》なんですね……」
吐息つきで言うと、老婆は苦笑。
「まあ、昨夜あれからまた、ちょっと若様から聞かせてもらったよ。新庄……、運《さだめ》さん? 弟の切《せつ》君とやらも含んで、若様といろいろあるようだね」
老婆の言葉に新庄は過去を思い出す。ろくなことを回想しないが、ものは言いようか。
「ええ、何かもういろいろと……」
「そうそう、下着姿で脚《あし》の間に手を突っ込まれたりとか」
「な、何で佐山君はそういうことオープンするかなあっ!」
「ははは。まあ気にしなさるな。若様が同年代の人のことを口に出すのも珍しいことさね。――貴女《あなた》様も苦労してると思うけど」
「苦労というか毎日が驚きというか何というか……」
「まあ私らから見たらいいことだよ。それ以上は、聞く気もない」
「どうして聞かないの……? ボクのこととか」
「聞いて欲しいのかい?」
新庄《しんじょう》は首を横に振った。何しろ昨夜に決めたのだ。
「……自分から言おうと思ってるから」
その言葉に、老婆《ろうば》は首を下に。
と、彼女は不意に笑みを止めた。
何事だろうと新庄が見れば、老婆は目をこちらの右手に向けていた。
怪訝《けげん》そうな声で、問いが来る。
「そう言えば……、貴女《あなた》様のその指輪は、誰から頂きなさったのかね?」
「え? これは……」
言われ、自分の右手、中指にある指輪を見た。
この老婆には、由来《ゆらい》を話しても大丈夫な気がした。
「ボクが気づいたときに、持っていたものなの。……この指輪と、詩《うた》と、ボクの名前を」
「若様は、それをどこまで知っていなさる?」
「指輪と、詩は知ってる。でも、ボク達の名前を佐山《さやま》君はまだ知らない。新庄・切《せつ》と、新庄・運《さだめ》という名前の、何が本物なのかを」
本物? という老婆の問いかけに、新庄は頷《うなず》いた。
少し考える。そして、言葉を選びながら、こう告げた。
「実はね? 運も切も、どちらもボクの本当の名前じゃないの……」
まだ佐山にも話していないこと。
……嘘《うそ》を明らかにしなければ、見えてこないもの。
「今のボクの名前は、偽名《ぎめい》みたいなものなんだ。本当のボクのままだと、皆が特別な目で見るから、今の名前をもらったの。だから、本当の名前は、もうずっと使ったことがない名前」
「いいのかい? それで」
「だって、ボクがボクでいるには、今の名前の方が都合《つごう》いいんだ。……だからボク、いやボク達かな? 佐山君にずっと嘘ついてるんだよ。本当のボクを見せたことなんか一度もない」
だから、とまた言いかけた新庄は、老婆が首を横に振るのを見た。
「――それから先は、佐山の若様が引き受けるものだろ? こんな婆《ばば》に言うものじゃないよ」
諭《さと》される口調に、ややあってから新庄は頷いた。そして、
「お婆《ばあ》さん、この指輪のこと、何か知ってるの?」
「どうだろうねえ……」
老婆は、少し困ったように首を傾《かし》げた。
そして彼女は、言葉を選びながら、こう言った。
「糠喜《ぬかよろこ》びさせたくないので先に言うけどね。その指輪、あまり特殊ではない市販品《しはんひん》だよね? だから、貴女様が誰から受け取ったのか解《わか》れば、話も出来るかと思ったんだけど」
「で、でも、お婆《ばあ》さん、これと同じものを着けていた人を知っているんですか?」
焦りと期待を帯びた問いかけに、しかし、老婆《ろうば》は首を横に振った。
「そればっかりは容易《たやす》く口に出来ないんだよ。だから」
老婆は告げた。
「いつでもいい、気が向いたら、手が空《あ》いたら、その主《ぬし》を追って、考えなさるといい。……貴女《あなた》様の答えが見えたとき、それが私の持つ答えと同じなら有《あ》り難《がた》いことだね」
「…………」
新庄《しんじょう》は無言。だが、確かにそうだといいな、と思う。
思わず笑みがこぼれたとき、対する老婆が一つ頷《うなず》いた。
「ただまあ、これだけは確かなことなんだね? 貴女様も、佐山《さやま》の若様のように、……そういう場所を望みなさるのだね? 戦うことや、己を追っていくための場に」
「ボクは……」
考えた。
否《いな》、考えるまでもなく答えは出ている。ずっと前、1st―|G《ギア》と戦ったときに。
「――うん、もう決めているよ。佐山君のそばにいようって。だから、怖《こわ》いけど選んでもらうの。嘘《うそ》を明かして、……どんなボクがいいのかを」
「どんなボクが……、かい。若様がどんな貴女様を望むのか、――解《わか》っていなさるのかね?」
「うん、佐山君がどんなボクを選ぶか、知ってるんだ。……佐山君は、運《さだめ》を選ぶんだよ。御言《みこと》を運《、》命《、》に導く運として。新庄・運という女の子を、ね」
一息。静かな口調で新庄はこう言った。
「今まで嘘《うそ》をついてきた分、ボクは佐山君が望む通りにするよ。最近、佐山君を戸惑《とまど》わせてばかりいたからね。……それに、解ったんだ」
「解った?」
「うん。自分に都合《つごう》のいいことをしてると苦しくなるなら、自分の都合のよくないことをしようって。決めたんだ」
新庄は頷いた。
「……そこから出た答えは、きっと苦しくないよ」
告げつつ、新庄は思う。自分の選択は違っていない筈《はず》だ、と。
そのときだ。遠く、単車の排気音が聞こえた。
老婆が顔を上げ、
「うちの孫だね。漬け物|取《と》りに来る約束だったんだよ。無いと彼女が朝食|摂《と》らないから」
「お孫さん……?」
頷く老婆に、新庄は悟る。別れの時間が来たと。
だから一礼。ここから先の飛場《ひば》道場は、自分と佐山ではなく、孫と祖父母《そふぼ》の時間になるのだ。
立ち去ろう、と思う新庄《しんじょう》は、今更《いまさら》になって一つのことに気づく。
「あ、あの」
問うておくことがある。しまったな、と思いながら、
「お婆《ばあ》さんの名前、聞いてないんだけど……。教えてくれる?」
「トシ」
聞いてみると、一瞬《いっしゅん》のことだ。トシさんか、と心の中でつぶやくと、胸のつかえのようなものが少しはとれた。紙袋《かみぶくろ》を抱いて一息つくと、新庄はこう言った。
「御世話《おせわ》になりましたトシさん。今度会うときは――」
一息、
「きっと、嘘《うそ》を止《や》めて、佐山《さやま》君と一緒に来ると思います」
朝の光の届かぬ場所。
地下。照明が落とされたUCATの第三制作室には、幾つかの眠りが訪れていた。
一つの刃《やいば》、全長二メートル半を超える巨大な鉄塊《てっかい》を中心に、作業服|姿《すがた》の若者達が五名|眠《ねむ》っている。それぞれ皆、床に座り込み、寝ころび、思い思いの姿勢だ。
その五人と離れた位置、一人だけ起きている者がいる。
制作室中央から少し外れた研磨機《けんまき》の横にいるのは、鹿島《かしま》だ。
作業服の上に白衣《はくい》を着込んだ男は、無精髭《ぶしょうひげ》の浮いた顔を刃に向けたまま。
彼の視線の先、宙に浮いて固定された刃にはもはや破損《はそん》も熱もない。
金属の黒は研《と》ぎ澄まされ、滑《ぬめ》ったような光を生んでいる。
それを見る鹿島は| 懐 《ふところ》に手を入れた。そして数秒。何かに気づいたように、
「そうか、煙草《たばこ》は――」
「ずっと前に止《や》めたんだろうが、おめでたパパ」
男の声が後ろから響《ひび》く。鹿島はその声に振り向きもせず、懐から手を出した。
その眼前に、UCAT製の禁煙ガムが差し出される。ガムを持つ手を見上げれば、
「熱田《あつた》か」
「ああ、煙草の記憶《きおく》まで八年前に戻ったのか?」
白い長衣《ちょうい》の青年、熱田は、こちらがガムを受け取ったのを見て一息。
一歩を前に出る。
いつもは余計な一言とともに動く剣神《けんしん》が、今は何も言うことなく。
ただ刃に触れた。
その背と、鉄に触れる手と、身体《からだ》を支える脚《あし》を見て、鹿島は過去を思い出す。
……ずっと昔も、こんなことがあったっけか。
刃《やいば》を作り、この剣神《けんしん》に評価をしてもらう。八年前は毎日のように行っていたことだ。
初めのうちは全く相手にされず、しかし、段々と認められるようになり、いつしか、今のような関係になっていた。
約十秒。
短くも、長くもある無言を経て、目の前にある背がつぶやいた。
「……何やってんだかなあ、おい」
手が刃を撫《な》で、
「駄目《だめ》だろテメエ」
「駄目か」
「ああ」
熱田《あつた》が告げた。
「これだけやっても、すぐに、……新しい技術がコイツを過去のものにしちまうわけだ」
熱田の言葉。それを聞く鹿島《かしま》は一つのことに気づく。
熱田の視線が、刃ではなく、周囲に眠る五人の若者達に向いていることに。
「俺達も、これで少しは先駆《せんく》者になれたわけだ。――2nd―|G《ギア》として現在最強の| 機 殻 剣 《カウリングソード》を作ることで」
なあ、と熱田は振り向いた。
肩越しにこちらを向いた顔、そこに、眉を歪《ゆが》ませた笑みがある。困ったような、喜んでいいものかどうかを迷った笑みが。
そして、その笑みが問うてきた。
「この剣……、俺が使っちまっていいのかよ?」
問いに、鹿島は頷《うなず》いた。そして、
「熱田。答えてくれ」
「何だ?」
「僕は……、いい仕事をしただろうか」
「当たり前だ」
熱田の表情から、迷いが消える。
「褒《ほ》めるとつけあがるからそれ以上は言わねえけどな。ここに転がってる餓鬼《がき》どもの力だってそれなりにあるわけでな。……しかしよ、だからこそ」
一息。何かを言おうとして、言葉を選び。
「――女房《にょうぼう》に自慢出来ねえのがもってえねえだろ」
そうだなあ、と鹿島は笑みをもって頷いた。
ガムの包装を外し、薄い板を口に入れる。
数度|噛《か》み、笑みのままつぶやいた。
「純粋に不味《まず》いなあ、これ」
午前の太陽が昼に向かって上り始める頃。
奥多摩《おくたま》の山中、鹿島《かしま》の実家からは一つの声が響《ひび》いていた。
声の持ち主は奈津《なつ》。声の内容は絵本の読み聞かせだ。
田圃《たんぼ》に面した南向きの縁側《えんがわ》。板の廊下の上で、ジャージに白のTシャツ姿の奈津が、晴美《はるみ》を抱きかかえている。
傍《かたわ》らには家から持ってきた青いナップザックがあり、その口は開いたまま。
奈津の手の中、やまたのおろち とタイトルがついた絵本がある。
そして、本を読み上げる奈津の顔には笑みがある。
「……そのごクサナギは てんへとはこばれ ムラクモとよばれるようになりました」
結びの言葉は幸いを願うもので、その言葉を口にした奈津は、笑みのまま本を閉じた。
「眠い……?」
声をかける相手、自分の娘は既に目を閉じている。
背後からは畳《たたみ》を歩いてくる足音が一人分。
振り返ると鹿島の母がいた。和服|姿《すがた》の老婆《ろうば》はこちらを後ろから覗《のぞ》き込み、
「お布団《ふとん》出そうか?」
「あ、お願いいたします」
奈津の言葉に、老婆は頷《うなず》き奥の押入《おしいれ》に向かった。
奈津は子を抱いたまま立ち上がり、
「あの、今日、義父《おとう》様は……? 朝の草刈《くさか》りにも出てこられませんでしたが」
「ああ、あの爺《じじ》い、昨夜に奈津さんが一緒に酒を飲んでくれなかったのを拗《す》ねてねえ。自分が造った酒なのに、とか。ウザったいからいろいろやった上で倉《くら》に放り込んでおいたよ」
「……朝、倉の中で猫みたいなのが騒いでいたのは」
「今大人しいだろ?」
「ええ、今は大人しいというか物音一つしないような……」
「でもここで出すと反省が足りないから昼まで待つ」
老婆は敷き布団を出しながら、
「まあこれも婆《ばば》の……、可愛《かわい》いジェラシーってやつだねえ」
ケケケと笑いを一つ。布団を日に近い陰の部分に敷き、シーツを掛け、
「大体、奈津さんは昭《あき》としか飲まないことに決めてるんだろう? そこらへん、親に譲《ゆず》っちゃあいけないもんさ。――さ、こっちおいで」
声に、奈津は晴美を布団に下ろす。そしてバッグから出したタオルで軽く包み、首の据《す》わりをよくしておく。
「慣れたもんだねえ」
「教え方がよかったからです」
奈津《なつ》と老婆《ろうば》は顔を合わせて微笑。
ややあってから、老婆が外を見た。遠く、東の方向。山の上の方にあるここからはIAIの白い建物が小さく見える。
今日のように晴れている日は、庭に出れば都内の方まで一望《いちぼう》出来る筈《はず》だ。
「こんないい日に昭《あき》の馬鹿は、これだけいい女房《にょうぼう》を放っておいて何やってんだか」
そして老婆は、縁側《えんがわ》に置かれた二冊の絵本を見た。
「奈津さん、これ……」
「ええ、昭緒《あきお》さんに内緒《ないしょ》で持っていたんです。父が描いたものを」
「…………」
「昔に母から聞いたことがあるんです。そのシリーズは、私が生まれると解《わか》ったときに、父が描いたものだって」
奈津は一息。眠る晴美《はるみ》を見て目を細めると、
「今、重ねてみれば、父のことを少しは理解出来るかと思ったんです……。鹿島《かしま》・奈津として、また、高木《たかぎ》・奈津として」
「理解出来たのかい?」
「いえ。……でも、昭緒さんと家に戻ったら、実家の方に電話してみようと思います」
「複雑だねえ。奈津さんも、向こうの親御《おやご》さんも」
そうですね、と奈津は小さく笑みを見せた。
「義母《おかあ》様の旧姓《きゅうせい》を、聞いても宜《よろ》しいですか?」
「うちは春日《かすが》だよ。奈津さんに言わせてみると、こうだろうね? ――鹿島|大社《たいしゃ》と春日大社の守りがあられる、と」
「そして昭緒さんの御友人は熱田神宮《あつたじんぐう》で、お勤めになっている会社は出雲《いずも》です。……偶然とはいえ、これだけ重なっていると縁起《えんぎ》がいいですね。ただ――」
奈津は絵本を見る。
「義母様にはお解りかと思います。……私達は姫であり、草薙《くさなぎ》ですよね? 力の担《にな》い手に嫁《とつ》いで姓《かばね》を得たり、また、変えていく。そして、担い手の力になる、と」
「倉《くら》にぶち込むうちはどうだか知らないけれど、奈津さんは昭の力になってるよ」
「有《あ》り難《がと》う御座《ござ》います。――この前、昭緒さんはヤマトタケルということに夫婦会議で決定しました。だとしたら、昭緒さんに対する英雄、スサノオは誰なんでしょうね? そしてその方の姫であり、草薙は、……どこかにいらっしゃるのでしょうか」
つぶやきのような言葉に、老婆が問うた。
「奈津《なつ》さんは今、どっちなんだい? 人の手に渡った草薙《くさなぎ》か、天に献上《けんじょう》された叢雲《むらくも》か」
「私は草薙です。――世間知らずで、家の飾りになっていた叢雲ではなく、人の地で草を刈って生きていく草薙ですよ」
頷《うなず》き、
「それが、私の担《にな》い手が与えてくれた力の使い方です」
東京の西側、幾つかの路線の中継基地となる駅がある。
JR拝島《はいじま》駅。
平型《ひらがた》のホームを四つ持つ駅だが、昼前の電車の本数は少ない。乗り換えには幾らかの時間を必要とすることも多々だ。
秋川《あきがわ》市に向かう五日市《いつかいち》線、一番ホームの電車は折り返しで十分待ち。
駅前のラーメン屋の匂《にお》いが差し込む先頭|車両《しゃりょう》。そこに座る人影は一つだけ。
それは佐山《さやま》だ。スーツの上着を畳んで抱えた彼は今、手摺《てすり》に肘《ひじ》をついて前を見ている。
飛場《ひば》道場からの帰りの彼は、いつもの無表情。しかし思考《しこう》の表情だ。
先ほど寮《りょう》に連絡したところ、新庄《しんじょう》・切《せつ》はやはり帰っていなかった。
「昨夜、舎監《しゃかん》に電話したときもいなかったが、どこへ行ったのだろうか」
落胆《らくたん》の吐息を一つ。
切の行方《ゆくえ》を知るだろう運《さだめ》は、飛場道場で目覚めたときにはもうおらず、
「トシ婆《ばあ》さんに聞いても、どこだろうねえ? と返されただけだ」
曲者《くせもの》夫婦の道場だ、と佐山は思う。
ただ、運に関しては今日、確実に会うことが出来るだろう。
今日の午後八時、昭和記念公園で全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》とUCATの模擬《もぎ》戦があるからだ。
「そこで……、私は新庄君とどう相対《あいたい》するべきか」
ふむ、と両者を見たときだ。不意に左胸のポケットから獏《ばく》が顔を出した。
何事かと思えば、胸ポケットの携帯電話が震動している。
佐山は席を立ち、ホームに出た。
午後の外気の涼しさを感じながら、携帯電話を手に取る。
「――私だ」
『あ、さ、佐山君? 新庄・切です』
久しぶりに聞く声に、佐山は思わず笑みを漏らし、しかし、問う。
「新庄君から電話とは珍しいね。――元気かね?」
『う、うん、元気だよ?』
「本当かね? 実は昨日《きのう》学校を出た瞬間《しゅんかん》に怪しいインチキ集団に誘拐《ゆうかい》され、身代金《みのしろきん》を要求というシナリオではあるまいね。その場合は優雅《ゆうが》に解決して君の賞賛《しょうさん》を得たいと思うが――」
『ご、御免《ごめん》、ボク今、公衆電話からだからあまり余裕《よゆう》無いんだけど』
「これは勿体《もったい》ないことを。――だが、何事かね?」
うん、と向こうが頷《うなず》き、
『今日、午後五時に学校に戻るから。部屋にいてくれる?』
昭和記念公園での模擬《もぎ》戦は午後八時。集合を七時半と考えた場合、学校を出るには午後六時過ぎでも充分なくらいだ。だから佐山《さやま》は頷いた。
「大丈夫だ。五時だね? 寮室《りょうしつ》にいると約束しよう」
告げたときだ。携帯電話の向こうから吐息が聞こえた。
安堵《あんど》の吐息。
それを、どういうことだろうか、と佐山が思った瞬間《しゅんかん》。
『ありがとう。じゃ、約束ね』
と、向こうの通話が切れた。
そこに新庄《しんじょう》の焦りのようなものを悟った佐山は、携帯電話を見る。
が、黒い携帯電話はもはや何も告げてこない。
ただ、ホームに、電車の発進を告げるベルが鳴り始めた。
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第二十四章
『口伝のつぶやき』
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一体何が遺されていくのか
自分達の前に
そして自分達の後に
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UCATの白亜《はくあ》の建物。その裏に、昼の日差しを浴びる広い緑の敷地がある。
農園だ。花壇《かだん》や菜園《さいえん》を含む、雑多な植物を育てる屋外《おくがい》農園。
露天《ろてん》で野菜を作る場所もあれば、ビニルハウスで果物を作る場所もある。が、どれも職員が趣味で構えた手作りのもの。手入れは自前《じまえ》であるため、ここには常に人影がちらほらある。
西側、森に近い花壇の前に白衣姿《はくいすがた》が一人座っていた。
月読《つくよみ》だ。
彼女の前にある花壇には、茎《くき》と葉を伸ばし、つぼみを持った菊が幾本《いくほん》か。
彼女は、満足げな表情で茎葉《くきは》を見て頷《うなず》く。
「ねえ貴方《あなた》、今日、とうとうやるわよ。|Low《ロ ウ》―|G《ギア》との全竜交渉《レヴァイアサンロード》を……」
つぶやき、| 懐 《ふところ》から出すのは一枚の古ぼけた写真だ。
写っているのはまだ年若い自分と、並ぶ一人の男性。
写真の中、二人の背後にあるのはIAIの建物だ。
「あの大震災《だいしんさい》で貴方がいなくなるまで、何も知らなかったのはあたしだけ、ね」
残念そうな口調でそう言って、月読は写真と茎葉を見比べる。
と、そのときだ。彼女はこちらに近づく人影があることに気づいた。
歩いてくるのは黒いスーツを着込んだ女性。月読は彼女を知っている。
「――ディアナ・ゾーンブルク」
名を呼ばれたディアナは振り向いた。こちらの横で足を止め、
「あら、意外と有名人ですのね、私。確か開発部の――」
「ええ。……貴女《あなた》のこと、部長クラスだったら知らない筈《はず》もないわよ」
月読は立ち上がり、一歩を退《ひ》いた。
「独逸《ドイツ》UCATを九六年に力づくで刷新《さっしん》した魔女。その直後に独逸側で|Sf《エスエフ》が作られたり、各種|術式《じゅつしき》兵器が開発されるようになったのも、全て貴女の仕業と聞いたことがあるわ」
「あらあら、でしたら、それ以前の私の話は知られていないんですのね」
「それ以前……? まさか、UCAT空白期の」
秘密ですのよ? とディアナは小さく舌を出して見せる。
「当時を知る人以外に、まだ話す気はありませんの。……それに今日は、ちょっと昔|懐《なつ》かしの散歩に来ただけですの。お互い、静かにしましょうね」
魔女は笑みをもって眼下の茎葉を見る。
こちらが同じものを見たのを確認してから、
「この菊、貴女のですの? 月読部長」
「夫が遺《のこ》していたものよ。……貴女も昔はここに何か?」
「ええ、昔は引き抜くと声が出るのや子供の形をしたのを……、何で退《ひ》きますの?」
「いや、開発部はあまりオカルト派じゃないんでね……」
そう、と頷《うなず》いたディアナは苦笑。
彼女はしゃがみ込んで菊を見る。数秒おいて、確認をとるような口調でこう言った。
「いろいろあるようですのね? 今日。私も監査《かんさ》で観《み》に行くことになりますけど」
一息。ディアナは茎葉《くきは》に両の手をかざし、問うてきた。
「貴女《あなた》達も、退けぬ道を選びますの? ……何故《なぜ》です?」
試す色を隠《かく》さぬ問いかけに対し、月読《つくよみ》はすぐには答えなかった。
彼女は農園の向こう、UCATの建物の背を見る。そして肩から力を抜き、
「あたしの場合は、うちの人がUCATで剣工《けんこう》をしてたらしいのよ。……やっぱりあれだと思うわ。2nd―|G《ギア》が滅びたことに、元|皇族《こうぞく》の末裔《まつえい》として思うところあったんだと」
「皇族として安寧《あんねい》とせず、力が欲しい、と? だから貴女も?」
「ええ、そんな気がしてね。だから……」
月読は苦笑を地面に落とす。
「肩入れしなくちゃいけないでしょ? 同じこと悩んでるような子供達には」
おどけた口調のこちらの言葉に、ふふ、とディアナが微笑を返す。
その笑みに、月読は快さを感じた。悪くない、作り物ではない笑みだ、と。
そしてディアナが告げる。
「――では、よく見ておいて下さいね、今日の相手、佐山《さやま》と、新庄《しんじょう》という姓《かばね》の子達を」
「何か知ってるの? ……あの二人のことを」
少しだけ、とディアナは答えた。緩やかに吹いてきた山風に髪を掻《か》き上げ、
「かつて佐山という姓の人が、私の目の前に現れたことを。そして――」
風の中、言葉を選びながら彼女は告げた。
「あの関西|大震災《だいしんさい》で、彼と共にあることを望んだ人達が、報《むく》われぬ道を選んだことを」
「え? あの震災って……」
疑問|詞《し》に、ディアナは立ち上がった。弓にした目を向け、
「言えるのはそこまでです」
「だ、だったら、これだけは教えて」
月読は焦りを隠さず問うていた。
「貴女のように、佐山と共にいた人達は、……幸いだったの? 報われずとも」
問いに対するディアナの答えは、一つの問い返しだった。
「その答えを、知りに行くのでしょう?」
一息。
「1st―Gと同じように退けぬ道を選ぶなら見に行きなさい。彼らの子供である佐山がどのような悪役なのかを。……その答えが、貴女《あなた》の良い人と同じものであるといいですね」
では、とディアナは微笑で頷《うなず》き、背を向けた。
足音|無《な》く立ち去って、また農園の奥の方へと行く姿に、月読《つくよみ》は吐息した。
「答え、か……」
つぶやく足下、見れば、いつの間にか菊が一本、月のように白い花を咲かせている。
UCAT設計室の中は、ほぼ無人《むじん》となっていた。
壁の時計は正午《しょうご》過ぎ。もはや誰も彼もが模擬戦《もぎせん》用の武器製作を終え、自分用装備の最終調整や、戦闘前の休息に入っている時間だ。
だが、パーティションで区切られたスペースの一つ。そこに未だ一人の男が残っていた。
鹿島《かしま》だ。
彼は作業着に白衣《はくい》といういつもの姿。だが、今の彼の手にあるのは鏨《たがね》やノートPCではない。
和紙《わし》の束。両親が実家で手渡した重い封筒の中身だ。
手に持ってめくる束は既に後半、終わりに差し掛かっている。フツノの改修《かいしゅう》を終えてから、休み無しで内容確認に入っていたのだ。
不眠不休《ふみんふきゅう》だが、驚くほどに目が冴《さ》えている。
眼前の和紙に並ぶ名前の羅列《られつ》が、明確に読めている。
「書かれた字が、綺麗《きれい》なこともあるかな」
……かつて祖父と対立した大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》によるものか。
今、鹿島の頭の中には謎《なぞ》が二つ浮かんでいる。
「爺《じい》さんは、何故《なぜ》、死の間際《まぎわ》に赦《ゆる》しを請《こ》うたのか……」
そして、
「爺さんの遺言《ゆいごん》、荒王《すさおう》の艦橋《かんきょう》前部にあったボックスの中には、何が入っていたのか……」
それらのヒントがあるだろうかと、鹿島は模擬戦前の自由時間を和紙に費やす。
和紙の上、六十年前に大城・宏昌が書いた筆跡《ひっせき》は確かなものだ。
が、ときに筆の位置がずれているときがある。
迷い無く、震えることなく、しかし文字の作りが微妙《びみょう》にずれているのだ。
「これは……」
首を傾《かし》げ、しかし鹿島は一つの推理に至る。
眼鏡《めがね》を外し、和紙を見る。かすかにずれた字が、この目ではぼやけてまともに見える。
……大城・宏昌は視力を落としていたのか?
何故かは解《わか》らない。過労か栄養不足か、または、
「何らかの光で目を焼いたか……、だ」
祖父は、そのことを知っていたのだろうか。
ゆっくりとした吐息をつきつつ、鹿島は椅子《いす》に浅く身を預けた。
和紙《わし》をめくっていく。
手の中、残った和紙の枚数はたった十数枚だ。
一つ二つと書かれた名を眺《なが》めていき、それが二|桁《けた》ほど続いた頃だろうか。
「――――」
最後の方へと行き着いた。
呆気《あっけ》ないという思いがある。結局ここまで、何も得るようなものはなかったな、と。
心の中、砂を噛《か》むような納得《なっとく》とともに、鹿島《かしま》は一つ頷《うなず》く。
ともあれ意志を決めて、彼は最後に至る和紙をめくる。もうすぐ終わりなのだ、と。
その動きで露《あら》わになるのは、最後から二枚目の和紙だ。
白い紙、植物の繊維《せんい》が見える紙の上に見える文字を鹿島は見た。
書かれた字を、鹿島は知っている。
「カシマ……?」
片仮名で書かれた文字。それを見た鹿島の鼓動《こどう》が跳ね上がった。
……爺《じい》さんは――。
大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》と対立し、2nd―|G《ギア》への完全|馴化《じゅんか》を嫌い、鹿島という漢字を姓《かばね》とするのを拒否したのではなかったのか。それが何故《なぜ》、大城・宏昌の筆跡《ひっせき》として残されているのか。
「まさか、漢字ではないカシマの字を、……大城・宏昌から与えられた?」
それが何故かは解《わか》らない。そして解らぬまま、鹿島はその和紙をめくり、最後の一枚を見た。そこに、解らぬものの答えが何かあるのではないかと。
だが答えはなかった。
目の前、最後の一枚に書かれたのは、やはり名前だった。
しかし、その筆跡は大城の手によるものではなかった。
乱れ、震え、まるで字を知らぬ者が書いたような筆跡。そして表面に大きく×の印が入っていることから、書き損じの一枚だと解る。
鹿島は和紙に載った字を知っていた。汚い字、震える筆跡は、
「爺さんの筆跡……」
鹿島の目は否定の印の向こうにある名前を見た。
祖父が書いた、誰かの名を。
昼の日差しが降る時間。
その陽光が届かぬ場所が、一つある。
尊秋多《たかあきた》学院二年次普通校舎一階、教室八個分の広さを持つ衣笠《きぬがさ》書庫だ。
本棚で壁や窓を塞《ふさ》がれたここは、全連祭《ぜんれんさい》のため、午後|半《なか》ばからは休憩所となる。
だが今、書庫の中には客が数名いた。
階段型のフロア中央。最下段のテーブルに陣取《じんど》るのは、佐山《さやま》と出雲《いずも》、そして風見《かざみ》だ。
佐山の目の前には数百枚からなるコピーの山がある。
それは昨日に月読《つくよみ》から受け取ったフロッピーの内容。佐山は既に目を通したが、
「私は無理だわ。八百万《やおよろず》の名前を役職別でまとめても、これだけあるとねえ……」
コピーの向こうにいる風見が、うんざり顔でこちらを見た。怪訝《けげん》そうな口調で、
「でもアンタ、上機嫌《じょうきげん》っぽいけど? 何かあったの?」
「ああ、新庄《しんじょう》・切《せつ》君が夕方に戻ってくるようなのでね。正直、少々|安堵《あんど》している」
ふうん、と頷《うなず》く風見の隣《となり》、出雲はうさぎの絵本を両手で目の悪くならない距離に開き、
「そのまま目を開けて寝ているとは奇態《きたい》なことだが、もはやこのネタも飽きてきたな」
「でもこの開眼《かいがん》睡眠、段々バリエーション増えてきてるのよね……」
ともあれ、と風見は目の前の書類を指で突つく。
「……大城《おおしろ》さんの父親は、これを見て八叉《やまた》の本名《ほんみょう》に気づいたのよね?」
「ああ、しかしここにあるのは2nd―|G《ギア》を形作る八百万の神の名だ。……私達が予測していたものとは違う。草薙《くさなぎ》や叢雲《むらくも》とは、ね」
「もし、八叉の真の名が草薙と叢雲のどちらかじゃなく、この中のどれか一つだったら?」
「私が八叉に焼かれるだけだ」
「…………」
風見は無言。ただ、やれやれと肩を竦《すく》める。
と、横に人影が立った。
ジークフリートだ。いつものように黒のベストとシャツを着込んだ彼は、コーヒーの入った三つの紙コップをテーブルに置く。口を開くなり、低い声で、
「何やら困っているようだな」
そして彼は会釈《えしゃく》を一つ。
「――だが助けん」
「この期《ご》に及んで嫌味《いやみ》を言いにきたのかね?」
「いや、余計な期待をされても迷惑《めいわく》だ。改めて宣言しておく」
「そのお気遣《きづか》いとコーヒーをいただくわ」
風見がカップを手に取り、横の出雲を見た。
すると風見は、見本のような読書|姿勢《しせい》で寝ている出雲の耳に、
「コップの縁《ふち》を折り曲げて、と。――ハイ流し込み〜」
「ひょおおおおおおおっ!!」
耳を押さえて出雲《いずも》が立ち上がる。
「ば、馬鹿|野郎《やろう》! い、今、何しやがった!」
「こうでもしないと起きないから」
「あ、あのなあ千里《ちさと》、――これでも俺は将来、見事なまでの裕福《ゆうふく》で幸いな人生をオマエとドバドバ送ることになっているんだから、少し気をつけろ」
「すまん出雲、私はさっきタイムマシンで未来を見てきたが貴様《きさま》は橋の下に住んでいたぞ」
「こ、この野郎、馬鹿な妄想《もうそう》も大概《たいがい》にしとけ」
「覚《かく》も鏡《かがみ》見てそれ言いなさいっ」
風見《かざみ》は吐息。どう思う? と出雲に問う。
「どう、って、何がだ? ……って、あ、こら千里、そう指をバキバキ鳴らすと指の形が悪くなるから止めた方がいいと遠回しに暴力反対をしてみたい」
「ちっ。……まあいいわ、八叉《やまた》の名前が何かってことよ」
「草薙《くさなぎ》と叢雲《むらくも》のどっちかじゃねえのか?」
「アンタ、目の前のこの書類、どう思ってるの?」
出雲は机に積まれた紙の束を見た。
「つまり、これが草薙か叢雲なんだろうよ」
「――は? どういう意味?」
と風見に問われ、出雲は天井を見上げた。
あれ? と自分の言葉を再考し、
「……あ? 何か俺、適当に変なこと言ったな、今」
「あ、あのねえ覚? もーちょっと考えて喋《しゃべ》ってくれる?」
風見は困ったような顔で言いつつ、コーヒーが変なトコ入ったかな? と首を傾《かし》げる。
だが佐山《さやま》は、そんな二人を見ていて、一つのことに気づく。
……つまり出雲は、こう言いたかったのだろう。
「この八百万《やおよろず》の名前を集大成《しゅうたいせい》した意味が、草薙か叢雲だと?」
「――あ、そう! その通りだ佐山! 鋭いぜ。流石《さすが》、俺の下にいる副会長」
「風見、会計はあとで私の上にいる馬鹿を殴り倒しておいてくれたまえ」
「……別に私は今でもいいけど?」
だが、横のジークフリートが首を左右に振った。諭《さと》す口調で、
「いいか? 午後になると休息の客や、一般利用者も来る。そのときに破片《はへん》や体液が散らばっていると面倒だ。暴力は外で行いたまえ」
ジークフリートの言葉に、出雲はそれこそ嫌そうな顔をする。
だが彼の表情を佐山は無視。腕を組みつつ言葉を作る。
「しかし、先ほどの出雲の話。……危なっかしい推理だが、その可能性は高いな。八百万の名は草薙《くさなぎ》もしくは叢雲《むらくも》という名が持つ力の支配下にある、ということか」
「え? でも佐山《さやま》、草薙と叢雲が持つ力って、風でしょ? そんな力の支配下でいいの?」
風見《かざみ》の問いに、佐山は笑みを返す。
「風とは、――移ろい行くもの、だよ、風見」
「万物|流転《るてん》か」
ジークフリートの言葉に、佐山は頷《うなず》いた。
何事か解《わか》らないと首を傾《かし》げる風見と出雲《いずも》に、彼は告げる。
「形無いもの。移り変わるもの。来て、去る者。――その| 象 徴 《しょうちょう》としての風だ。天候や技術などを含む八百万《やおよろず》の雑多な神々をまとめるには、相応《ふさわ》しい力ではないかね?」
そして、
「また、風とは炎《ほのお》を高め、雨を呼んで鎮《しず》める力でもある。――そう考えれば、草薙も叢雲も八叉《やまた》を制御するに相応わしい言葉だろう」
眼前のコピーの群を見て、佐山は思う。
……大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》は、やはりこれだけの量の名を見て、疑問に思ったのだろうか。
これら全てを| 司 《つかさど》った2nd―|G《ギア》とは何なのか、と。
そう考えて、佐山は安堵《あんど》する。
予測ではあるが、自分達の今までの思考《しこう》に、裏付けのようなものがとれたと。
「……だが、問題なのは結局どちらが2nd―Gの真理なのか、だ。地を行く草薙と天を行く叢雲、一体どちらが、2nd―Gの八百万を支配する力なのか」
「つまり、彼らの本質は神と人のどちらか、ってことね……」
風見が誰に言うとでもなく、ただ問うた。そのときだ。
書庫の扉を開けて、人影が一つ入ってきた。
誰かを捜すように左右を見回しているのは、大樹《おおき》だ。
「? どうしたのかね大樹先生。何かまた粗相《そそう》をしたのかね」
「し、してませんよっ」
大樹は大股《おおまた》で歩いてきて、こちらに一枚の封書《ふうしょ》を差し出した。
「さっき舎監《しゃかん》の人が探してたんで預かったんですよぅ。佐山君|宛《あて》の直接|投函《とうかん》だって」
「私に、直接……?」
疑問とともに封書を受け取った佐山は、差出人を見て眉をひそめた。
そこにはこう書いてあったのだ。
新庄《しんじょう》・運《さだめ》、と。
UCATの本部|棟《とう》の一階。広いロビーには、二つの人影がいた。
オレンジ色のジャケットに白のシャツとスカートをまとった新庄《しんじょう》と、白衣姿《はくいすがた》の大城《おおしろ》だ。
聖母《せいぼ》の絵の下、大城は薄い頭を掻《か》きつつ、問いかける。
「2nd―|G《ギア》の連中は模擬《もぎ》戦の準備を始めたが、いいのかな? こんなところにいて」
「よくはないだろうけど。……でもこれから、まず大事な結果を出すつもりだから」
結果? と問うた大城に、新庄は頷《うなず》いた。
わずかにうつむいた顔で、言葉を選びながら、
「切《せつ》が、佐山《さやま》君に電話したの。午後五時に学校で待っててって」
でもね、と新庄は言葉を繋《つな》げた。
「運《さだめ》が佐山君に手紙を出したの。――午後四時にUCATの屋上に来て下さいって。そこで、今まで黙っていた大事なことを話したいって」
告げた言葉、その内容に、大城が息を飲んだ。
彼の行為の意味は、新庄にはよく解《わか》っている。
「そう、学校からUCATまで一時間半は掛かるよね。……佐山君は切と運の、どちらかを選ばないと駄目《だめ》なんだよ」
「それで、いいのかな?」
うん、と答えるには、少しの間があった。
だが、新庄は笑みを作った。自分の服装、スカートの裾《すそ》を軽くつまんで、
「ボク、知ってるもの。佐山君がどっちを選ぶのか」
「…………」
「だから佐山君がボクに連絡してきても、回さないでね。ボクはちゃんと選んでもらって、その上でボクの嘘《うそ》を明かしたいから」
新庄はそう言って、ロビーの奥を見た。
通路の脇、赤いタイルの階段がある。それを五階より上まで登り切れば、屋上だ。
上を見通せぬ階段を見て、新庄は小さな声でつぶやいた。
「これが、ボクの答えなんだろうね……」
吐息。
「ボクを拾った至《いたる》さんは、どう思うかな。ボクが……、切を捨てることに」
「解らんよ」
大城の答えには吐息がついていた。
新庄は振り向く。と、大城が、眉尻《まゆじり》を下げてこちらを見ていた。
「そんな顔しちゃやだよ、大城さん」
「だがなあ……」
残念そうなその顔に会釈《えしゃく》を一つ。新庄は、安堵《あんど》させるように明るくこう言った。
「――行ってきます。ボクの答えを出しに」
午後二時十分。
学生|寮《りょう》の部屋で新庄《しんじょう》・運《さだめ》の手紙を確認した佐山《さやま》は、一つの決断を必要としていた。
運と切《せつ》のどちらを選ぶのか。
「大事なことを話したい、か」
運が手紙に書いた一言をつぶやいた佐山は、吐息を一つ。
無人《むじん》のベッドを見て、
「急ぎ過ぎではないかね? 新庄……、運君。私は切君とも話したいのに」
だが、と佐山は窓際《まどぎわ》の机に手を伸ばし、一つのものを手に取った。
それは、新庄・切から預かっていたもの。
「丁度《ちょうど》いい頃合《ころあ》いなのかもしれない。私も決めるとしよう。君と……、どう相対《あいたい》するかを」
手にしたそれを見た佐山は、息を整えた。
静粛《せいしゅく》に、何かと向き合うかのように。
そして佐山はゆっくりと告げる。一つの問いかけを。
「……ものを語ると言うことはどういうことか。――忘れないでいるかね? 新庄君」
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第二十五章
『偽証の名前』
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ずっとずっと言いたかったこと
それはずっと探していたこと
だからこそ避けたこと
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夕日の差す階段がある。
階段のタイルは今、一つの役目を持っていた。それは高い足音で人を上に誘うことだ。
そして今、足音を作る人影とは、新庄《しんじょう》の走る影に他ならない。
新庄は駆けていく。上へ、上へと。
階段の行く先、その向こうが待ち合わせの場所。答えの出る場所だ。
息を切らして上下に揺れる肩は、今までずっと急ぎ、走ってきたことを示している。
スカートの裾《すそ》は少しよれよれ、ジャケットも肩からずり落ち掛けている。ただ、表情の堅さだけは失われていない。乱れた前髪を手で梳《す》き、
「佐山《さやま》君……」
つぶやく視線の先、新庄は扉のノブを掴《つか》み、回した。
開いたその向こう。目の前に広がるのは、待ち合わせに指定したUCATの屋上ではない。
学生|寮《りょう》の一室だ。
ノブを掴んだ腕の時計は午後六時前を差している。
そろそろ夜になろうという空気の中、遠く聞こえる全連祭《ぜんれんさい》の音の中、新庄はつぶやいた。
「どうして……?」
新庄は開けた空白の向こう、窓際《まどぎわ》の椅子《いす》に座る人影を見た。
そこに佐山がいる。彼は肩に獏《ばく》を乗せたまま、笑顔をこちらに向けている。
切れ長の目が作る笑みに息を整え、新庄は再び問うていた。
「……どうして?」
「どうして、とは?」
問い返し。その行為に対し、新庄は前に出る。部屋の中に入り、ドアを後ろ手に閉めると、
「ど、どうして、UCATに来てくれなかったの……? 三十分以上待っても来ないから、ボ、ボク、急いでここまで来て。まさかと思ったら、佐山君、切《せつ》を待ってここにいて……!」
「ふむ。――新庄君、では問おうか」
一息。確認するような口調で彼はこちらに言った。
「何故《なぜ》、私がUCATに行く必要があるのかね?」
問いに対し、新庄は反射的に両の肩を上げる。両手を身体《からだ》の横、下に握りしめ、
「だ、だって!」
……何故、解《わか》らないの?
「佐山君は今までずっと運《さだめ》を選んでたじゃないか! だからボク、ハッキリと運を選んで、決めて欲しかったのに……、なのに、なのに……!」
言っている間に、脚《あし》から力が抜けた。身が支えられない。
……どうして答えを出してくれないの?
思い、ゆっくりとした動きで新庄《しんじょう》はドアに背をつけた。まるで鉄の扉に身を沈めるように、
「ボク……、どうしたらいいんだよぉ」
歪《ゆが》む視界、沈む視線の先、佐山が椅子《いす》から立ち上がるのが見えた。
来る。
その動きにどきりとした新庄は、腰を屈《かが》め、逃げるように身体《からだ》をドアに押しつけた。
だが、背後のドアは閉じたまま。新庄を逃がしはしない。
新庄はただ腰を落とし、しゃがみ込んだ姿勢で胸を抱くだけだ。そして、
「来、来ちゃ駄目《だめ》だよ佐山君。だってボクは、今のボクの正体《しょうたい》は――」
「解《わか》っている。否《いや》、解ってきた、というべきか」
目の前で声が聞こえたと同時。新庄は佐山に浅く抱きしめられる。
「や……」
という抵抗の声を無視して、しゃがみかけた身体が持ち上げられた。
もはや逃げることも出来ない。
「む〜……」
と抗議の唸《うな》りで見た正面、佐山の真剣な目があった。
だが、新庄は彼の視線に間を持たせることが出来ず、口を開く。
「さ、佐山君? さっき、……解っているって言ったよね? どういうこと?」
問いかけに対し、佐山は一つの動きを見せた。
背後を見たのだ。
彼の視線の先にあるのは窓際《まどぎわ》の机。そこに置かれたあるものを、新庄も見る。
「あれは……」
新庄・切《せつ》のバインダーだ。
「新庄君、私は先ほど切君の書いたプロットを読んだ。……そこに書かれていた内容は、一人の生意気《なまいき》な馬鹿少年が、祖父の残した遺言《ゆいごん》を果たすため、十の異《い》世界の残党と交渉し、戦っていくというものだった」
それは、
「切君が知る筈《はず》のない内容だ」
「さ、運《さだめ》がバラしていたのかもしれないよ?」
「かもしれない、と自分で言うかね? ――そう、答えは簡単だ。既に御老体《ごろうたい》や出雲《いずも》という生物を相手に常識など捨てている筈《はず》だったのだが、私があまりにも常識人なので失念《しつねん》していた。初心に戻って君に言おう」
遠く、祭で流れる音楽を背景に、新庄は彼の言葉を聞いた。
「新庄君、君は新庄・切君であり、運君でもあるのだね?」
佐山《さやま》は腕の中、ドアと自分の間にいる新庄《しんじょう》を見た。
新庄はこちらの問いに答えない。ただただ、身動きせず、揺れる瞳《ひとみ》でこちらを見ている。
その無言と不動は一つの答えを雄弁《ゆうべん》していた。先程《さきほど》の問いかけが、真実であることを。
……だが、今、これ以上を問うても、すぐに答えは得られまい。
だから佐山は新庄を抱きしめようとした。まず一つの事実を確かめるために。
引き寄せられる動き、それに対して新庄が身を竦《すく》め、
「だ、駄目《だめ》だよ。ボ、ボク」
「その言葉、正逆《せいぎゃく》の私にとっては許可でしかないのだがね」
「え? えーと、……じゃ、じゃあどうぞ」
「では遠慮《えんりょ》無く」
うわあ、と抗議の声を挙げた新庄を佐山は構わず抱き寄せた。
新庄の胸がこちらの胸に当たり、密着し、そこで佐山は一つの事実を確認した。
今、自分が寄せている身体《からだ》が、新庄・切《せつ》の身体だということに。
「ほ、ほら、解《わか》ったでしょ? 駄目だよ佐山君、男のボクとこんなことしていたら……」
「では、どうすれば、こんなことをしてもいいと言うのかね?」
問いかけに、やや迷ってから、新庄は答えた。
「ボクが、運《さだめ》になってるときだよ。……だから、決めて。今までずっといろいろな人に変な目で見られてきたボクを。どっちかに」
そして新庄は初めて明確に告げた。己のことを。
「――ボク、運と切を交互に生きてるから、佐山君の選んだ方にもう片方も合わせるよ」
ためらいがちに新庄が放った言葉。それには、言ってしまった、という表情もついていた。
対する佐山は不安げな顔の新庄に会釈《えしゃく》を一つ。落ち着け、というように改めて問いかけた。
「新庄君。答えを決めるのはやぶさかではないが、その前に一ついいだろうか」
「な、……何?」
「……君は今、交互に、と言ったが、それはどういうことかね?」
問うた言葉に対し、ややあってから答えが来た。うん、という頷《うなず》きをつけて、
「望んで変われるわけじゃないけど、……交互に身体が変わるの。今は切だけど、しばらくしたら運になるんだよ、ボク。だから――」
決めて、という言葉を噤《つぐ》んだ新庄の身体は、わずかに震えている。
怯《おび》えの震え。それは今の新庄の言葉が真実だという裏打ちだ。
だから佐山《さやま》は、抱きしめた新庄の背を、かつての夜のように優しく叩いた。
「成程《なるほど》。そういう体ゆえ、君は、私が運《さだめ》君を選ぶと思っているね?」
「……うん。だって、それが普通でしょ? 切《せつ》だと佐山君に迷惑《めいわく》掛けるし。……だから今朝《けさ》、決めたんだ。佐山君が運を選んだら、今後、ボクは女の子としてずっと振る舞おう、って」
小さく、仕方なさそうに笑い、
「運だったら、全竜交渉《レヴァイアサンロード》がある限り、ずっと一緒にいられるもんね」
そうか、と佐山は思う。新庄《しんじょう》君の考えはこちらへの気遣《きづか》いが根本《こんぽん》にあるのだな、と。
こちらが男だから、自分もそれに合わせようとする。
「……成程。新庄君、では答えを出す前にこれだけは言っておこう」
改めて言い聞かせておくことがある。
「君は正しい」
「……え?」
振り仰いできた驚きの顔に、佐山は告げる。
「確かに君の選択は正しい。君が自分を押し込め、しかし、誰も傷つかない。そして、君と君の周囲は今までと変わらずにいるわけだ」
だが、と前置きして、佐山は首を傾《かし》げて見せた。
「それでは、私が悪役として間違いを犯す余裕がどこにあるのかね? 君は先ほど、私にこう言ったのだよ。全竜交渉《レヴァイアサンロード》がある限り、一緒にいられると。しかしそれは逆を返せば、私が運君を選ぶ限り、私は新庄君と、それこそ全竜交渉《レヴァイアサンロード》でしか会えなくなってしまう」
佐山は思い出す。ここ数日の行き違いと、新庄から得た感情を。
無様《ぶざま》だな、と自嘲《じちょう》し、それに気づいたからには二度とするものかと心に誓う。
「さて、それでは答えよう、新庄君。――私が選ぶのは一人だ」
「そ、それは――」
どっち? という視線での問いに対し、佐山は即答《そくとう》した。
「運君でも切君でもなく、新庄君、君だ。――私は君とずっといたい」
「そ、そんな、で、出来っこないよ!」
「私にとっての賛辞《さんじ》だねそれは。だから敢えて言おう。今日、君はここに来てくれた。ゆえにこれから私も君のいる場所へ行こう。間違うために。それも、二人で正しく間違うために」
これ以上は、想いを言うべきことではないかもしれないな、と思い、佐山は動いた。
新庄に顔を近づけると、
「だ、駄目《だめ》だよ! 佐山君が頭おかしくて変人だって、後悔《こうかい》するよ? そしてボク、また昔のように、貴重品《きちょうひん》みたいな扱いをされるんだよ? ボク、佐山君にそんなこと――」
言葉を、佐山は唇で封じた。
ん、と呼気《こき》を飲んだ新庄が、かすかに逃れようとする。が、佐山は顔を傾け逃さない。新庄の柔らかく房《ふさ》のように丸い唇を、己の唇で横に噛《か》む。
そのまま唇を引き、新庄《しんじょう》に前を向かせた。
「ん、……む」
お互いの目を伏せた吐息を感じつつ、佐山《さやま》は新庄を強く抱きしめる。
新庄の身体《からだ》にあった緊張《きんちょう》が、ほどけぬまま、しかし強くはならなくなった。
唇を離すと、目を伏せた新庄が熱のある吐息を一つ。長い髪を浅く乱したまま、
「どうして……? 後悔《こうかい》するよ? 今だって男の子の身体なのに、キスなんてして……」
佐山は無視してまた唇を重ねた。
「……っ」
一度目を見開いた新庄は、しかしまたその瞳《ひとみ》を伏せる。
そしてお互いに息をつき、唇を離した。
「新庄君。君が嫌がる限り、何度だってしよう」
「じゃ、じゃあ、ボク、嬉《うれ》しいよ……」
「ではその意志に応えよう」
三度目をした。
「う、嘘《うそ》つきだあ……、佐山君」
「目下《もっか》本心に従って慎《つつ》ましく生きているつもりなのだが」
外から聞こえる祭の音に、そぐわぬことをしているな、と佐山は苦笑。
「さて、新庄君。前に一度|御願《おねが》いしたことだが、……いいかね?」
「え……?」
困ったような顔の問い返しに、佐山は告げる。
「出来れば今、君の嘘を確かめるため、君の全てを見せてくれないだろうか」
「それって、……ボクが、どちらでもない人間だっていうのを?」
ああ、と佐山が言うと、新庄は顔を赤くしてうつむいた。
だが、新庄は、ややあってから小首《こくび》を下に振った。
頷《うなず》いたのだ。
UCATの白亜《はくあ》の建物の屋上。
夕闇《ゆうやみ》の覆《おお》い被《かぶ》さる空の下、屋上には二つの人影がある。
黒づくめで立つのは大城《おおしろ》・至《いたる》と、|Sf《エスエフ》だ。
Sfは至を見ていた。屋上の縁《へり》から東の方、東京の街を見る彼を。
「……至様、そろそろ昭和記念公園に移動した方が宜《よろ》しいかと判断します」
「急《せ》かすな。実は珍しいことに感慨《かんがい》に浸《ひた》っていてな」
「|Tes《テ ス》.、希《まれ》なケースと判断します。記念写真を宜《よろ》しいでしょうか」
至《いたる》が振り返ると、いつの間にか|Sf《エスエフ》は大型のカメラを設置していた。
「Tes.、はいチーズ。――その顔は何ですか至様」
「独逸《ドイツ》製がチーズ言うかフツー」
「私はグローバルな出来ですので問題ありません。北側は範囲に含まれていませんが」
しかし、と問うSfに、至は吐息。彼女の言葉を先読みするように告げる。
「新庄《しんじょう》も、つまらんヤツになったもんだ」
「しばらくここにおられましたが、すぐに退出されましたね」
ああ、と至は頷《うなず》く。空を見上げれば、星がある。
「――結局、自分の意味を作りに行くんだな。新庄は運命に抗《あらが》い佐山《さやま》と出会う、か」
告げたときだ。
煙の立つ音とともに、フラッシュが焚《た》かれた。
「Tes.、一枚頂きました。――写真を撮るべき表情だと判断しましたので」
佐山の眼前、ベッドの上に、新庄がスカートと靴下を脱いだ姿で座っていた。
まだ新庄の眉尻《まゆじり》は下がったままだが、その顔は赤く、
「ここからは、お願い……」
言うと、新庄はベッドにゆっくり倒れ込んだ。頭の下に枕《まくら》を入れ、その下で両の腕を組む。
脚《あし》は軽く右|膝《ひざ》を立てて寄り合わせたもの。だが、枕の下で組まれた腕はもはや身体《からだ》を隠さない。佐山にとっての障害、新庄が着ているのは、シャツと下の白いショーツだけだ。
佐山は頷き、新庄の身体にのしかかるように前へ。
こちらの動きに対し、かすかに新庄が息を飲む。
だから佐山は落ち着くように頭を撫《な》で、キスを一つ。すると淡いながらも笑みが生まれた。
うん、と新庄が首を下に振るのを見てから、佐山は眼下のシャツに指をかけた。
左|肘《ひじ》をベッドに着き、手で新庄の頭を撫でる。右の手はボタンを外していくが、
「見えてるよね……」
開け、はだけていく白の布地の間から露《あら》わになるのは、薄い肌肉《はだにく》だ。
細身で華奢《きゃしゃ》な白い身体は、呼吸に上下し、汗ばんでいる。
湿りを作り、部屋の明かりに反射する汗は、走ってきたせいだけではあるまい。
佐山は息に震える臍《へそ》と、そこから上へのラインを目で辿《たど》り、新庄と視線を合わせる。
真剣な顔で新庄に、落ち着きたまえ、と言おうとして、
「素晴らしくエロいね……、新庄君」
「い、言うべき台詞《せりふ》が違うんじゃない?」
「失敬《しっけい》。つい精神が言語を凌駕《りょうが》してしまったようだ」
言いつつ、佐山《さやま》は新庄《しんじょう》の残すあと一枚に手をかける。
新庄を見ると、浅く目を伏せた赤面が小さく頷《うなず》いた。
佐山は小さく会釈《えしゃく》を返し、手に掴《つか》んだショーツをするりと膝《ひざ》まで下げる。
ひ、と声がしてベッドの上の身が竦《すく》む。
だが、もはや新庄が膝を合わせても、ショーツは既にその位置を通り過ぎている。
だから佐山はショーツを足首に回し、爪先《つまさき》から抜いた。
あ、という驚きの顔で、新庄がこちらの手にあるショーツを見ていた。
佐山はそれを畳んだスカートの上に載せ、
「では新庄君、脚《あし》を開いてくれたまえ。まず君が今、男かどうか、はっきりと見ておきたい」
「あ、あのさ、佐山君。ボクが今、男の子だと確認したら――」
「面倒なので先行《せんこう》入力で言うが、先ほどの私は切《せつ》君でも運《さだめ》君でもなく、新庄君と唇を重ねたつもりなのだがね。……大いに試してみたいものだよ? 私が後悔《こうかい》するかどうか」
問うと、新庄は目を浅く伏せた。眉から力を抜き、唇を紡《つむ》ぎ、
「…………」
かすかに立てた両|肘《ひじ》を横に開き、顔を見せる動き。
それに合わせるように、新庄はぎこちなく膝を緩め、開いた。
身体《からだ》を晒《さら》す。
今、シャツは肩と腕を隠しているが、胸は露《あら》わに。
脚は左右に山を描くように大きく広げられ、
「見えるよね? ボクが……」
「ああ、見えているとも」
「ど、どう? さっきキスしたこと、急速に後悔してない?」
「いや全く。――期待に応《こた》えられずすまないね、新庄君」
告げた言葉に、新庄は一つの反応を返した。
ほ、と吐息をつき、身体と表情から力を抜いたのだ。
じわりと目尻《めじり》に涙を浮かべ、震える声で新庄は言う。
「今、何時かな?」
「ベッドの目覚まし時計によれば、……午後五時五十八分だ。外の祭もそろそろ終わる」
「ああ、じゃあ、もうすぐかな」
安堵《あんど》の声で新庄は言った。
そして、佐山はふと、一つの異変《いへん》に気づいた。
周囲、わずかな空気の動きがある。まるで自分達を中心に渦巻くような微風《びふう》の流れだ。
これは、とつぶやき、あたりを見た視界は、新庄の表情の変化を見た。
満足したような笑み。
「見ていてね、佐山《さやま》君。後悔《こうかい》しなかった君に、ボクの嘘《うそ》を見せたいから」
言葉とともに風が来た。新庄《しんじょう》の身体《からだ》の周囲、風とともに白い霧のようなものが立ち、新庄が目を伏せた。
佐山が見るのは、霧の下で、汗ばんだ身がかすかに揺れた光景と、
「身体が――」
新庄の身体が変わる。それも、形状が変化していくのではなく、まるで切り替わるように。
その変化は一瞬《いっしゅん》。一息を佐山が得る頃には、周囲の微風《びふう》も薄い霧も無い。
ただ汗ばんだ身体の新庄が、目の前にいる。
ただ、その身は男ではなく、胸が膨《ふく》らみ、女性の身となっている。
そして外から、本日の祭の終了を知らせる放送が聞こえたときだ。己の全てを指す言葉を、新庄の唇が告げた。
「運《さだめ》の身体だよ、佐山君」
外からの音が消えた中、新庄は、佐山に全てをさらす自分を自覚した。
何をしてるんだろう、と自分で思い、ひょっとしたらこれが最後かもしれないとも思う。
「解《わか》る? ボクが両親のことを追っている理由ってこれなんだ。ボク、どこの|G《ギア》の人間なのか解らなくて……」
「一日の中で、一定時刻になると性別が入れ替わるのかね?」
「うん……。大体、午前と午後の五時半から、六時くらいの間。だからほら、夕方にお風呂《ふろ》入ってるときはいつも男の子なんだよ、ボク」
「ならば、いつも……」
「うん、いつもお風呂入って、寮《りょう》の洗面所で切り替わるのを待つの。だから夕食を摂《と》った後は女の子だから、この前ベッドに入ってこられたとき、凄《すご》く驚いた。……いつも大変だったんだよ? 佐山《さやま》君に気づかれないように、洗面所に行ったり、アリバイを作るために大城《おおしろ》さん達が飛行機やヘリまでぶんぶん持ち出したこともあって」
それに、
「UCATではボク、……男の子のときも女性用装備なんだ。UCATには運《さだめ》しか入っていないことになってるから」
「成程《なるほど》。しかし、どうしてあの大人《おとな》達はそこまで隠蔽《いんぺい》工作にムキになるのだろうか」
「大騒ぎが好きなんだよ、きっと。……感謝してるけど」
そして、言うべきことがある。
「騙《だま》して御免《ごめん》ね。これが……、ボクの嘘《うそ》だよ。だから」
震える声で、
「好きにして、いいよ」
「好きにしろ、とは?」
「佐山君、憶《おぼ》えてるでしょ? ボク、佐山君に二度も命を救われているんだよ? 一度目は初めて会ったとき。二度目はファブニール改と向かい合ったとき」
そしてそれ以上に、意志と態度で救われたことが何度もある。だから、
「佐山君になら、ボク、殺されても文句言えないんだよ。だから、好きにしてくれなきゃ嫌だよ……。否定されても、嫌われても、騙したことを一生|恨《うら》まれたってボクは我慢するよ。運《さだめ》だろうと、切《せつ》だろうと、ボクは君が選んだ通りに振る舞うよ。だって――」
そこまでしても、
「ボクは佐山君と一緒にいたいんだもの……」
言うと、不意に涙がこぼれ出した。今まで我慢していたというのに、こんなときにこぼれ出すなんてなんてことだろう。まるで情《なさ》けを請《こ》うているようで嫌だと思う。
そして佐山の声が聞こえた。
「新庄君。話を簡単にすませよう。……これから言う言葉をよく聞きたまえ」
「……え?」
「私が選ぶのは運君でも切君でもない。――君の本当の名だ。私は、本当の君と共にいたい」
その言葉に、新庄《しんじょう》は身を震わせた。
佐山《さやま》がこちらの表情、おそらく驚いているだろう顔を見て、首を下に振る。
「女の運《さだめ》君と、男の切《せつ》君。これは|Low《ロ ウ》―|G《ギア》で生活しやすいように分けた名前だ。本来の君の名、御両親がつけたものは分かれていなかった筈《はず》だ。……だから君の名を聞かせて欲しい」
「だ、駄目《だめ》だよ……」
「何故《なぜ》かね?」
「ボクの本当の名前、……きっと、佐山君にとって不吉《ふきつ》なものだよ。これから名前が力を持つ2nd―Gとの戦いに行くときに、そんな不吉な名前、聞かせられないよ」
「構うものか、言ってみたまえ。そうでなければ私は納得《なっとく》しないのだがね?」
佐山の声には真剣の色しかない。だから震える息を飲み、新庄は決めた。
……ああ、もう、全部|露《あら》わにするしかないんだ。
この人は、きっと、自分が今まで認めていなかった本当の自分を欲しているんだ。
その思いに対し、逆《さか》らいの心が起きるより早く、新庄は告げた。
「――運切《さだぎり》」
腹で息を吸い、
「運命《さだめ》という字から、命《みこと》を切って、運切《さだぎり》」
何でこんな名前なんだろう。運を命から切るなんて。これは考え方によっては、
「……ボクは佐山君の命《みこと》を切っちゃうんだよ、多分」
しかし、答える声はこう告げた。
「それは君の思い込みだ。新庄君」
佐山が笑みを見せた。こちらの頭、髪を手で梳《す》き、撫《な》で、力のある口調で言う。
「私は運命など信じないタイプでね。――ならば新庄君、君は私を縛《しば》ろうとする運を切り捨て、本来の自由な命《みこと》にしてくれる人だ」
言葉とともに、口づけが降りてきて、新庄はそれを飲む。
数秒の後、佐山はゆっくりと離れると、こちらの胸の間に頬《ほお》と耳をつけた。
あ、と新庄は身を竦《すく》めるが、心音を聞かれることを防ぐことは出来ない。
高鳴ってるかな、緊張《きんちょう》してるのが思い切り解《わか》るだろうな、と思ったとき、佐山の声がした。
「運切君。――この鼓動《こどう》と、意志が変わらない限り、私は君を選び続けよう」
佐山は己の台詞《せりふ》に頷《うなず》いた。身体《からだ》を起こし、
「では、一段落着いたところで現状の確認と行こう」
「現……状?」
と新庄が問いかけ、こちらと、自分の身体を見た。佐山は新庄の視線に頷き、
「――これはまた有害な格好《かっこう》だね、新庄《しんじょう》君。見事な開脚《かいきゃく》だ」
「あ! い、いや、その、ちょっと、ボ、ボク!」
「ははは、つまりこれはアレかね? 真面目《まじめ》な人間ほど思い詰めるとエキセントリックな行為に走りやすいという……。人間|余裕《よゆう》がないと駄目《だめ》だぞ新庄君、うん」
「さ、佐山《さやま》君はいつもエキセントリックじゃないかあっ!」
叫ぶ新庄は枕《まくら》の下から腕を抜き、顔を隠しながら両の膝《ひざ》でこちらの身体《からだ》を挟む。
「さ、佐山君、身体、身体どかして。あ、脚《あし》閉じれないよっ……」
「落ち着きたまえ新庄君。――そんなことをしたら見えないではないか」
「さ、佐山君こそ落ち着こう? あのね? あのね? ボク、知ってるよ? 佐山君がいつも冷静なように見えてフルタイムでイカれてるって。でも今は少し落ち着こう?」
「成程《なるほど》、出雲《いずも》や御老体《ごろうたい》に言われるのとは違って、新庄君が言うと説得力があるね」
「で、でしょ? だからほら、まずは深《しん》呼吸をして身体を横に開く運動〜」
佐山は深呼吸を一つ。次の動作で新庄の脚を横に開いた。
「や、やあっ!! な、何《なに》考えてるんだよお!」
「そういうことではないのかね……?」
「何を真剣な顔で悩んでるんだよっ! 御願いだからフツーに考えてよおっ」
「ふむ……」
数秒考えたときだ。はっ、と新庄が焦りの表情を作り、
「だ、駄目っ! おそらくもうフツーを突破してるっ」
「何を疑っているのかね。ただフツーに開脚する方法を考えていただけなのだが」
「根本的にフツーじゃないよそれ……」
「ふむ。では新庄君、常識的に一ついいだろうか?」
「え? あ、うん――、じゃなくてこれも駄目っ! 佐山常識と理由無い問いかけには許可しないよっ! このパターンは大体ろくなことにならないからっ!」
「厄介《やっかい》な人だ……。君のような人が何事も事態をややこしくすると解《わか》っているかね?」
「佐山君……、人生において自分のことを考えたことがある?」
「常に考えているとも、――私は素晴らしい、以上、脳からの報告終了だ。他に何か?」
言うと、新庄は冷めた顔で横を見て、
「こりゃあボクくらいじゃ治せないかもな……」
「では遠慮《えんりょ》無く」
「だから駄目っ。会話|繋《つな》がってないよ、ってか何する気!?」
「君が望んだことだ。好きにしろ、と」
あ、と新庄が声を挙げ、顔を引きつらせた。ええと、と前置きして、
「た、確かにボク、そう言ったけどね? 冷静に省《かえり》みてから、質問いい?」
「何かね?」
「ボクの人格、脚《あし》の間に無いよ?」
「ふむ。大丈夫だ新庄《しんじょう》君。人間、感情|移入《いにゅう》が大事だ。思い込めば脚の間に――ぐおっ!」
無理矢理《むりやり》かち上げてきた膝《ひざ》に腹を打たれ、佐山《さやま》は身体《からだ》を折る。
「み、見事な攻撃だ。ふふ、ためらいが無いね? 新庄君」
「とりあえずこの姿勢からも攻撃可能って解《わか》ったけど。……ど、どうするの?」
「いや何、一つ確かめたいことがあるのだよ」
佐山が告げると、対する新庄は眉をひそめ、
「えーと……」
「そんなに何を悩むことがある。何のこと? と問えばいいのではないかね?」
「いや、佐山君に対してそれ言うのは核|地雷《じらい》を大ジャンプで踏むようなものだから」
考え、
「い、いやらしいことじゃなければいいよ」
「ならば大丈夫だ」
佐山は一息。笑みを見せ、
「生理が無いというのは本ぐふっ!」
「……ひょっとして、日本国の単語|類《るい》ってボクが知らない内に意味が変わってる?」
「わ、私からみたら日本国のコミュニケーションは随分《ずいぶん》と直接的になった気がするがね。ともあれ新庄君。これは大事なことだ。その半目《はんめ》はやめたまえ。いいかね? ……君が前に言ったことが本当ならば、私はまだ君をいただくことは出来ない」
「え? ちょ、ちょっと待って、いろいろあるけど、……いただくって?」
「人間、想像力が無くなったらおしまいだぞ? 新庄君」
「う、うん。でも、佐山君、ボクのこと、そう思ってくれるんだ……」
新庄は、胸と脚の間を手で隠しながら問うてくる。
「でも、いただくことが出来ないって。やっぱり、ボクがこういう人間だから?」
「いや、違う。単純な話だ。……性《せい》交渉は、未発達な身体で行うと身体の成長バランスを崩すことがある」
「うん」
「たとえばある少年は、幼い頃に交渉をもったが、それゆえ、身長が伸びてね」
かつてのことだ。
「それはある程度で止まったが、骨の中身が付いて来れなかったらしい。あるスポーツの試合中、相手とぶつけ合った拳《こぶし》が砕け、以来、拳を握ると幻痛《げんつう》が来るそうだ」
「……その少年は、後悔《こうかい》してる?」
「いや。だが、焦ることは無いとも思っている」
そうなんだ、と新庄《しんじょう》は頷《うなず》いた。
「でもボク……、生理とかが無い人間なのかもしれないよ? ずっとこのままの、中途半端《ちゅうとはんぱ》な人間なのかもしれない。UCATにも該当《がいとう》種族がいないらしいんだ、ボク」
「成程《なるほど》。だとしたら、君に生理があるかどうかは解《わか》らないね。だが」
佐山《さやま》は新庄の臍《へそ》に触れた。ん、と新庄が浅く息を飲むのを見つつ、
「月一度で腹部に重みが来る。――ひょっとしたら、自分の特性を忌避《きひ》する意志が身体《からだ》の機能を止めているのかもしれない。念のために聞いておくが切《せつ》君のときも無いのかね」
問いに、やや考えてから新庄は頷いた。
が、続けて首を傾《かし》げる。困ったような顔で、
「男の子の場合も、生理があるの?」
「月イチでだくだく出たらエラいことになるが、まあ、似たようなものがある」
新庄は考え込むような表情で、ふうん、と数度ゆっくり頷いた。
だが、ふと顔を明るくして、
「ということは……? もし、ボクがこの身体のことを嫌わず認めれば――」
「ひょっとしたら、生理などが起きるかもしれない。ならば己の身体を納得《なっとく》するための行為をある程度|続《つづ》け、その後で結論を出してもいいのではないかね?」
「でも、ボクが自分の身体を認める行為、って?」
「話は簡単だ。己を確かめていけばいい。――一人で出来るね?」
「え? 一人でって。な、何を?」
という戸惑《とまど》った問いに、佐山は内心で首を傾《かし》げた。
……まさか無知と言うことはあるまいが。
どうしたものだろうか。聞いておくべきか。
「新庄君。保健体育の成績は?」
「な、ないよそんなの。ボク、ずっとUCAT内の施設で過ごしてきたし。たまに置いてある週刊誌とか見て、うわー、とか、すごー、とか思うけど」
「……何故《なぜ》に君は一足《いっそく》飛びに学ぶかね。そして問うが、つまり、知らないのだね?」
「う、うん……。子供を作る方法とかは少し知ってるけど、他に、何かあるの?」
「あるとも、男女両方ともに」
言葉を聞いた新庄は顔を赤くして、あるんだ、とつぶやいた。その後に小首《こくび》を傾げ、
「じゃ、じゃあ……、佐山君、それをボクに教えてくれる?」
「私でいいのかね?」
「さ、佐山君以外にいないよぉ」
「では望むところぐおっ!! な、何をするのかねっ」
「ご、御免《ごめん》、その爽《さわ》やかな笑顔が不吉《ふきつ》だったから。――あ、でもそういうことは、教えてくれるんだよね?」
「うむ。当然だとも」
「何だか無茶苦茶《むちゃくちゃ》嬉《うれ》しそうなんだけど、自分の表情|気《き》づいてる?」
佐山《さやま》の視界の中で新庄《しんじょう》は吐息。肩の力を抜いて、
「ともあれ佐山君を信じることにするよ。でも、ボクばかり御《お》世話になっちゃうよね」
「気にすることはない。私とて経験|浅《あさ》めだ、鋭意《えいい》努力する所存《しょぞん》なので宜《よろ》しく頼む」
「何か後半|同意《どうい》したくないけど……。でも、ホント、御免《ごめん》」
頷《うなず》き、
「いろいろ憶《おぼ》えたら、ボクの方から佐山君にもしてあげるから、勘弁《かんべん》してね?」
「何も知らぬ状態でその台詞《せりふ》を吐いたことを後でものすごく後悔《こうかい》すると思うが、私としては全然オッケーなのでお願いしよう」
「え? お、お願いって、その、あの」
「――頑張ろうではないかね。これから」
いや、その、えと、あの、と新庄は怯《おび》えた表情で横を見て、
「あ、あのさ、ほら、もう六時半だよ? しょ、昭和記念公園に行こう?」
「ふむ、そうだね。急がねば。うん。――急いで頑張ろう」
「って、あ! や! な、何でボクの脚《あし》開いて……!」
「何事も初めが肝心《かんじん》だ、新庄君。あとで翻意《ほんい》されても困るのでね。――安心したまえ」
一息。笑みを見せて、
「私とて緊張《きんちょう》しているのだよ? 君に鼓動《こどう》を聞いて欲しい。君はどうかね? 新庄・運切《さだぎり》君」
「そ、それはまあ……」
考え、
「……うん」
と言った新庄は、観念したように身体《からだ》の力を抜いた。
顔を赤くして、こちらを見る。そして小さな声でこう言った。
「……じゃあお願い。ボクがここにいられるように、……教えて頂戴《ちょうだい》」
昭和記念公園内、南側大型|駐車場《ちゅうしゃじょう》。
夜の闇を照らす水銀灯《すいぎんとう》の下、UCATの偽装《ぎそう》輸送車両が何台も停まっている。
主となっている車両は運送会社のもの。他、植木屋や移動|屋台《やたい》が続く。
外からの視線を妨げるために半円を組む車両の向こう。光の当たるところに人影がある。それも少ない数ではない、百人ほどが二組、大きく二つの円に分かれている。
両の円を構成する人々は、同じような白と黒の衣装を身にまとっていた。
が、両者の持つ雰囲気《ふんいき》は違う。
奥の方、公園の中央よりにある円陣《えんじん》を構成するのは、日本人の特徴を備えた者達ばかり。彼らは静かに己の装備となる銃器や刀剣《とうけん》類の調整を行っており、今すぐにでも動き出そうという構えがある。
対し、手前側に位置する円陣は、統制がとれていなかった。円陣を構成する人種はばらばらで、装備を整えている者もいれば、話し込んでいる者も、食事を摂《と》っている者もいる。
そして、怒る者もいる。
「あー! 佐山《さやま》の馬鹿は何やってんのー!?」
風見《かざみ》の声が大きく響《ひび》いた。手前の円陣の中央、構えられた会議|机《づくえ》の前に彼女はいる。既に戦闘服|姿《すがた》の彼女の横、同じく戦闘服姿の出雲《いずも》が移動|屋台《やたい》のスティックお好み焼きを食いつつ、
「まあ戦闘|放棄《ほうき》ってこたあねえだろ。そう焦るなって」
「だ、だって、幾《いく》ら何でも、もう七時二十分よ? あと少しで模擬戦《もぎせん》開始だっていうのに。さっき審判《しんぱん》役のアブラム部長に声かけられてどー答えようかと思ったわ」
「シビュレに連絡つけさせてるし、趙《ちょう》先生とこの老人四|兄弟《きょうだい》が迎えに行く態勢《たいせい》作ってるんだろ? ちと待とうぜ。――あ」
と出雲が横を見た。釣《つ》られた風見が、え? と半口《はんくち》開けて彼の視線を追ったときだ。
風見の口の中に、出雲がお好み焼きを棒ごと突っ込んだ。
「慌《あわ》てるときは食って落ち着け。最近アレだ、学バンに腹《はら》出す衣装を用意したから食ってないだろ? 脳に栄養が足りねえんだな。そのままでは乳も小さくごがっ!!」
思い切り蹴《け》りをぶち込んで、風見は一息。
お好み焼きを半《なか》ばまで食べた上で口から出し、
「ああもう、これで一日の摂取《せっしゅ》カロリーが三〇〇はオーバーしたじゃない……」
「俺の一日の摂取暴力は今のでメーター振り切れたんだが……。ってか結局全部食うのか?」
「何か文句ある? ――ああ、卵も入ってるのね。って一〇〇キロカロリー追加じゃない!」
「千里《ちさと》、お前、自分で自分を盛り上げるクセはどうにかしとけ。ついでに言うとカロリー計算をキロ単位で考えるからいけねえんだ。すぐに百とか千とかになっちまってな」
「別にいい言い方あるかしら?」
「メガ単位で考えてみ」
「今日の摂取カロリーがこれで一八〇〇キロカロリーだから……」
「一・八メガカロリーだな。おお、気分《きぶん》的に少なくなったな!」
「結局気分だけでどーすんのよっ!!」
言葉とともに連打を入れていると、シビュレが来た。
周囲、いつの間にかこちらを囲んでいた群衆の輪の中、金の髪を揺らした彼女が言う。
「千里様、佐山様から連絡が――」
「あったの!?」
「いえ、ありませんでした。気になったので学生|寮《りょう》に電話を掛けたところ」
「まだいたの!?」
「いえ、舎監《しゃかん》の方が、今出ました、と」
「蕎麦《そば》屋の出前かー!!」
「千里《ちさと》様、少し血圧高めのようですが」
う、と風見《かざみ》はひるんで吐息。
「ああ、御免《ごめん》ね。シビュレに叫んでみたところでどうにもならないよね」
「千里、……俺のときと対処が大きく違うんだがどういうことだ」
風見は無視した。嘘泣《うそな》きを始める出雲《いずも》を更に追加で無視して、シビュレに言う。
「ともあれこっちに来てるのは確かだと思う?」
「佐山《さやま》様もですが、新庄《しんじょう》様もご一緒のようです。確実に、お二人は来られるでしょう」
「それは嬉《うれ》しいことねえ」
と、女の声が響《ひび》いた。
群衆の向こうからの声に、皆が振り向く。
円陣《えんじん》の外、緩い夜風に立つのは白い戦闘服の長衣《ちょうい》に身を包んだ初老《しょろう》の女性。
人波が一気に割れて、長い黒革《くろかわ》ケースを背負った彼女を露《あら》わにする。
その初老の名をつぶやいたのは、シビュレだった。
「月読《つくよみ》開発部長……」
「ええ。それよりそっちの準備は?」
あー、と風見が頭を掻《か》きながら、
「うちの佐山と新庄が未だに現着《げんちゃく》してなくて……。一応、出たそうなんですけど」
「まあ来るんでしょ? どうしようかねえ? 待とうか?」
と、問うたときだ。
「構うことはない。先に進めればいい」
男の声が、群衆の中から響いた。月読と風見の間に姿を現すのは、黒のスーツに身を包んだ白髪《はくはつ》の男と、彼につきそう白髪の侍女《じじょ》だ。鉄杖《てつづえ》をついて人の円の中に来た男は、サングラスの向こうの目に笑みを作り、
「――始めようか、全竜交渉《レヴァイアサンロード》を。この全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》監督、大城《おおしろ》・至《いたる》は、別に隊員の二人がいなくとも開始を宣言するぞ」
「ア、アンタねえ……」
風見が眉をひそめて至の方に顔を向けた瞬間《しゅんかん》だ。
風見の眼前に、至の侍女《じじょ》が音もなく立つ。彼女は白い前髪を一度|揺《ゆ》らして風見を見上げ、
「御用件でしたならば私が代わりに| 承 《うけたまわ》りますが――」
「馬鹿|野郎《やろう》って言っておいて」
|Tes《テ ス》.と|Sf《エスエフ》は頭を下げ、スカートの隠しポケットから一枚の紙製力ードを取り出した。
同じように| 懐 《ふところ》から小さな印鑑《いんかん》を出して、カードに一つ捺印《なついん》し、
「御利用|有《あ》り難《がと》う御座《ござ》います。私、最近ポイントカードを始めましたので次から御《ご》提示|下《くだ》さいませ。二十回分|貯《た》まりますと缶コーヒーの買い出しサービスが受けられます」
「主人が凄《すご》いと侍女《じじょ》も凄いのね……」
「御褒《おほ》めに預かり光栄です。独逸《ドイツ》UCAT開発部|基準《きじゅん》により、私の中の風見《かざみ》様の優先《ゆうせん》順位が一つアップして代わりに出雲《いずも》様が三つダウンしました。出雲様はあと二つダウンで失格です」
「おいおい俺の順位が何でそんなに下なんだよ」
Sfと風見は無視した。Sfは風見にカードを手渡し至《いたる》の前へ。
カードを見るとSfのデフォルメ顔の捺印が一つ。
どうしたものかと風見は吐息。あたりを見回すと、群衆の中にはディアナもいる。彼女は黒の戦闘服|姿《すがた》でこちらを見ると手を振った。が、こちらの横にいた出雲が、
「笑顔だけど監査《かんさ》だぜ、あの巨乳《きょにゅう》外人」
「アンタ今、一瞬《いっしゅん》で二つの差別を行ったわ……。でも、監査って?」
「――外国のUCATは日本が主導で全竜交渉《レヴァイアサンロード》を行うのをよく思ってねえってことだ。何らかの理由をつけて全竜交渉《レヴァイアサンロード》に介入《かいにゅう》出来ないかどうかを探ってる」
「だったら、独逸UCATは……」
「1st―|G《ギア》の受け入れ同意したのはそーいうことだ。おかげで仏蘭西《フランス》UCATは独逸寄りに動いて権益《けんえき》を分けてもらおうとしてやがるし、米国《アメリカ》UCATは英国《イギリス》UCATとともに介入《かいにゅう》余地を探してる。……まあ、あの女は、監視《かんし》以外にも裏があるみてえだけどな」
一息。
「ともあれ、佐山《さやま》と新庄《しんじょう》が間に合わねぇことも、ここから先の模擬《もぎ》戦も、全てあの女を通して世界各国のUCATに伝えられるのは確かだ。気をつけねえとな」
面倒な話ね、と風見が群衆の方を見たとき、既にディアナの姿はない。
人のよい笑みと、出雲の言葉を思い、どちらが本当なのだろうかと考える。
「どっちも本当なのよね、きっと」
彼女が訓練につき合って、2nd―Gの歩法《ほほう》についてヒントをくれたことは確かだ。
お人好しと言われるかもしれないけれど、そちらを大きく信じよう。
「監査のことは事実だろうけど、だとしたら、私達がしっかりしないとね」
風見は月読《つくよみ》を見た。腰に手を当てて笑みを見せる彼女に、なるべく強気の視線を返し、
「――いいわ、始めましょう。ルールを決めて頂戴《ちょうだい》」
「ルールは簡単。あたしらは南東側から、貴方《あなた》達は南西側から概念《がいねん》空間に入るの。そして中央にある荒王《すさおう》の艦橋《かんきょう》部、そこにある十拳《とつか》を先に手に取った方が――、一応は勝ち」
「私達|Low《ロ ウ》―|G《ギア》が勝てば、そっちはこちらの要求を全て飲む?」
「ええ。でもあたしら2nd―Gが勝っても、別に何も要求はしないわよ」
月読《つくよみ》は頷《うなず》いた。
「やる意味のない勝負に見えるかもしれないけれどね、これはけじめなの。あたしらが2nd―Gの人間であるとはどういうことか、それを見直すためのけじめね」
ただ、と月読はあたりを見回し、
「肝心《かんじん》の交渉役が来てないのは、ちょっと残念ね。――大城《おおしろ》全部長も?」
彼女の言葉に、至《いたる》の近くに立つ|Sf《エスエフ》が、ふと振り向いた。
「一夫《かずお》様でしたならば、先ほどUCATを出られたそうです。何やら佐山《さやま》様から連絡があったとかで、ゲオルギウスと、幾《いく》つか用意するものを持ってこちらに来ると」
「……へえ、やっぱり来るのねえ。それもゲオルギウスを携《たずさ》えて、か」
「知ってるの? 月読部長。ゲオルギウスを」
「何も解《わか》らないということは知ってるわ」
そうねえ、と月読は風見《かざみ》に言った。顔に笑みを浮かべ、
「貴方《あなた》達が勝ったら、そのゲオルギウスの調査をあたしら開発部が無料で行ってみるというのはどうかしら? ――何か、解ることがあるかもしれないわよ?」
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第二十六章
『相対の始まり』
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始めよう祭を
今宵は良い空に良い月があり
良い意志が吹いている
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奥多摩《おくたま》を、夜風が涼しく撫《な》でていく。
月の下、風の行く山肌《やまはだ》や森の中には明かりの点《とも》った民家がちらほらとある。
その中の一つ。段々式の水田に面した鹿島《かしま》家は、庭に大きな光を落としていた。
光の中では、今、一つの人影が縁側《えんがわ》から離れ、退出しようとしていた。
影は白衣《はくい》の姿。大城《おおしろ》・一夫《かずお》だ。
彼は右の脇に一つのものを抱えている。茶色い紙に包まれた一升瓶《いっしょうびん》だ。
大城は瓶を右の手で軽く叩くと、縁側の方に笑顔を向けた。
「今日は良いものを頂けた。これなら相手の要求も満たせるだろう。――有《あ》り難《がと》うな」
大城の縁側に座るのはランニングシャツに作業ズボンの初老《しょろう》。鹿島の父だ。
彼はくわえ煙草《たばこ》で、
「はン。好きに持っていくといい、昔《むかし》話の代金だ。それより、そっちは相変わらず、悪いことやってんのかい? 変態爺《へんたいじじ》い」
「そっちこそ変わることなくノホホン調子のようだなあ偏屈《へんくつ》爺い」
「――へ。帰化《きか》一世と戦中生まれが顔を合わせるとロクなこと言わねえな。親父《おやじ》の葬式《そうしき》にも来なかった癖《くせ》によ」
「お前がUCATには関わらないと決めたからだろうが」
拗《す》ねたような大城の台詞《せりふ》に、し、と鹿島の父は息を立てて静止の合図を送る。
何事だ? と視線で問うた大城に、彼は家の奥の方を見て、
「今、昭《あき》の嫁《よめ》さんが来てんだよ。で、嫁さんはUCATのことを知らねえ。だから大声出すな、とっとと失《う》せろ。出来れば、消・え・て・な・く・な・れ」
「あー。ここに残ってお前がわしをどういう風に嘘《うそ》紹介するのか見たいなあ〜……」
「わはは。そうか、じゃあ新種の下着|泥棒《どろぼう》だと言って倉《くら》に叩き込んでやる」
「倉に叩き込まれるのは餓鬼《がき》の頃からの得意|技《わざ》だろうが。……それより、昭緒《あきお》君の細君《さいくん》はどんな人だろうかな?」
「すまん、警察に電話していいか? ここに若妻|狙《ねら》いの変態がおると」
「ああ、自首《じしゅ》するのはいい選択だな鹿島。留置場《りゅうちじょう》はこの時期でも冷えるから、何か差し入れでも持っていってやろうかなあ」
「入るのはお前だ馬鹿爺いっ! っていうか何で留置場|冷《ひ》えるって知ってやがる?」
大きな声を出すなと、大城は静止の合図を送る。
鹿島の父は舌打ち。対する大城は鼻をひくつかせて、
「いい匂《にお》いだなあ。蕗《ふき》の佃煮《つくだに》か? だとすると夕食はメインに魚か肉|系統《けいとう》。豆腐《とうふ》もつけるか」
「人の家の夕食を推理《すいり》して当てるんじゃねえっ。ついでにいうと味噌汁《みそしる》は白菜だがお前に与える気は全くないのでとっとと失《う》せろ」
「うーん、一つ言っていいかな?」
何だ? と問うた顔を、大城《おおしろ》は指さす。真剣な表情で、
「――このドケチ爺《じじ》い。友達おらんだろ」
「お前と違って町内会とのつき合いもあんだよ俺はっ! 昭《あき》から聞いてんぞ大城|全《ぜん》部長ってのがいつも部屋に籠《こも》ってエロいゲームばっかやってっけど頭《あたま》大丈夫なんだろうかって」
「うわ機密|漏洩《ろうえい》だ! で、お前は何と答えた? わしのこと知らんことになっとるんだろ?」
「ああ、知らねえ振りしてこう答えてやったよ」
一息。
「昭、――お前は自分の思ったことを信じろ、と」
「そりゃわし終わっとるじゃないか!」
「うるせえ馬鹿。とにかくとっとと失せろ。次は俺の葬式《そうしき》まで来んな来んな来んな」
「あのなあ、一応わしら、幼なじみなんだがなあ。普通だったら邪険《じゃけん》にしていても実は世話|女房《にょうぼう》とかいうのがパターンであろう?」
「おーい俺の嫁《よめ》、この爺いが俺にホモ活動を強要してるんだが」
「うわ、お前の嫁さん怖いからなあ。ここらが退《ひ》きどきか」
言葉とは裏腹《うらはら》に、大城は笑みを浮かべて庭の光から闇の方へと。
「久しぶりにこういう会話もいいもんだな。――最近、ちと仕事がセメントでな」
「親父《おやじ》さんのことかい? 昭も何か忙しいようだが……」
「機密《きみつ》保持のために何とも言えんよ。ただ、お前の父君《ちちぎみ》や、昭緒《あきお》君にとって大事なこととなる。……そして、昭緒君の細君《さいくん》にも大事なこととなるだろうよ」
大城の言葉に、ややあってから鹿島の父は頷《うなず》いた。
「だろうな。もはや昭はUCATに行くことを選んだわけだし」
「ああ。……しかし昭緒君はいろいろありつつも、いい細君を得たものだな。今、料理する音が二つしておるが、どちらがお前の嫁さんのものだ?」
「歳《とし》食ってる音が女房の方だ。――まあ、解《わか》らねえかな。昭の嫁さん、結婚してから何度もうち来て料理習ってたからな」
鹿島の父は小さく笑う。
「昭には、やっていた仕事の引き継ぎ残っているから、って言って、それで毎日ここ来てな。米の研《と》ぎ方も知らないお嬢《じょう》さんだったのに、――昭の馬鹿は彼女が元から料理バツグンだったと思ってるよ」
「好い嘘《うそ》が、上手《じょうず》な娘さんか」
「お前の方はどうなんで? 餓鬼《がき》いたろ?」
あれは駄目《だめ》だって、と大城は困ったように手を左右に振る。しかしな、と言葉を繋《つな》げ、
「――あれ以外にも面白いのがおるのは確かでな。これから彼らに会いにいく」
「面白い連中か」
「ああ、嘘《うそ》が下手《へた》でな。好い嘘すらつくことが出来ん者達さ。……だから出来れば、好い嘘をつく者達と仲良くなって欲しいよなあ」
大城《おおしろ》は東の方向を見た。この庭、高い位置にある場所からは、東の方、山間の向こうに光の海が見える。段々と密度の濃くなっていく光の累積《るいせき》は、西から数えて青梅《おうめ》、福生《ふっさ》、立川《たちかわ》、そして都心《としん》側の夜景の明かりだ。
大城に続き、鹿島《かしま》の父もそちらを見た。
「あの光の中に、荒王《すさおう》があるんだよなあ……」
ああ、と頷《うなず》いた大城に、鹿島は言う。
「そして、……あの大きな光は、一度失われたんだっけか。俺達が餓鬼《がき》の頃に」
「失われてはおらんよ」
大城が告げ、鹿島の父が顔を上げた。彼は大城を見るが、大城は夜景を見たまま。
「失われたならば、戻らなかっただろう。わしの親父《おやじ》や、お前の親父や、あの光が持つ過去の中で亡くなったり、生き延びたりした者達が――、失わせなかったんだな」
「爺《じじ》いの感傷《かんしょう》じゃねえのか?」
問いに大城は振り向いた。そしていつもの笑みの顔を作ると右の親指を立て、
「――そうではないんだなコレが。だから、これから会いに行くのさ」
概念《がいねん》空間の南、森の中を進軍する影がある。
数にして百ほどの白い装甲《そうこう》服の姿は、2nd―|G《ギア》の者達だ。
その先頭、大型| 機 殻 剣 《カウリングソード》フツノを肩に担《にな》う熱田《あつた》の横、鹿島がいた。
作業着|白衣《はくい》の彼はノートPCをいじり、
「全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の動きについて、斥候《せっこう》隊から連絡は?」
液晶モニタを見つつの問いに、後ろから声が掛かる。
「全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》は、まず補給品などを置いた本陣《ほんじん》を敷《し》き、そこから三隊が分化して前に。中央が本隊、左右に一般隊でそれぞれ三十人ずつです。――つまり計四隊の内、三隊九十人がこちらの方に向かってます」
成程《なるほど》、と鹿島は頷《うなず》く。
「模擬《もぎ》戦というだけあって、ちゃんとこっちにつき合ってくれるようだね。勝利条件を優先して、飛行能力のある者がいきなり荒王に向かう可能性もあったけど――」
「そんなことしたら俺が叩き落としてやる。ケケケ、そうしてくんねえかなあ」
「お前の思考《しこう》回路はホントに解《わか》らんなあ。しかし熱田、――それと月読《つくよみ》部長」
「はいはい、何?」
横、黒革《くろかわ》の長いケースを背負った月読《つくよみ》が現れる。笑みの月読は、
「こっちはどうするの? 三方からつかず離れずの攻撃が来ると思うけど?」
「そこまでつき合う必要はありません。左右の二隊は一般隊です。これから僕達は中央一隊に向けてこの隊を進軍させ、激突《げきとつ》したら――」
鹿島《かしま》は月読の背負う革ケースを見た。
「月読部長が、奥の本陣《ほんじん》を含む四隊全てに壊滅《かいめつ》近くまで打撃を与えて下さい」
「あらあらまあまあ、頼られたものねえ」
「2nd―|G《ギア》の皇族《こうぞく》の姓《かばね》を持つわけですから、単体|戦闘《せんとう》能力では月読部長が最強です」
また、と鹿島は告げた。
「御上《みかみ》、香取《かとり》、君達二人は月読部長の攻撃後、左右の一般隊を駆逐《くちく》に入ってくれ。一般隊が持つ武器こそは君達が作り続けてきたものだからね。――君達ならば制圧出来る」
「――はい」
と二人の青年の返答が響《ひび》く。
鹿島は頷《うなず》き、彼らの背後を見た。すると隊の奥にいる老《ろう》主任達が会釈《えしゃく》を返す。
この老兵《ろうへい》達が、月読や、左右を任せる未熟な二人をフォローしてくれる役だ。
よし、と鹿島は二度目の頷きを作る。
「僕と熱田《あつた》は一度顔を見せた後に荒王《すさおう》へ向かい、そこで待ちます。全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》が届くならば良し、月読部長達が勝利するならばそれもまた良し、――出来れば吉報《きっぽう》を」
「本気でそれ、思ってる?」
「概念《がいねん》解放のために2nd―Gの概念核を得るには、八叉《やまた》を解放し、鎮《しず》めた上で再|封印《ふういん》することになります。だったら2nd―Gが勝った上での方がいいですよ、僕は」
鹿島は真剣な表情を北西の方に向ける。
視線の先、森の向こうに覗《のぞ》けるのは、概念空間中央にある人工湖の水面《みなも》。
その中、夜を埋めるように立つ黒い巨人の影は、荒王のものだ。
「――問題は、彼らがどこまで考えているか、です。八叉の求める名と、祖先が残したこの概念空間、……八叉を鎮めるという意味を、彼らがどれだけ解《わか》っているか」
「名を答えられねばその場で焼かれ――」
「鎮める意味を解っていなければ、大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》のように封印時に焼かれます。……ただ、その場合は僕達が彼らを守ります。八叉の火に焼かれないように。フツノもありますしね」
そう、と月読が頷き、
「でも、彼らって? 八叉の答えを言うのは一人じゃないの?」
問いに、鹿島は首を左右に振った。
UCATの中、自分と対話した少年には、自分に対して震えを見せた少女が共にいる筈《はず》だ。
……僕を支える人がいるように。
今、彼らはまだ到着していないと聞くが、
「全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》が本気になるとしたら、彼らの到着後でしょう。――気を抜かないように」
告げたときだ。前方、走り寄ってくる足音とともに声がした。
「斥候《せっこう》隊が接敵《せってき》しました!」
前を向けば、森の向こうから布を叩くような銃撃《じゅうげき》音が響《ひび》いてくる。
「名前がある兵器かな? ……そうじゃないとあまり効かないんだがな」
鹿島《かしま》はつぶやき、足を止めた。
応じるように、横の熱田《あつた》が、月読《つくよみ》が、続く御上《みかみ》や香取《かとり》や各《かく》主任達が足を止める。
鹿島は、背後にある分厚い気配に思う。
……ここが僕の決着か……。
それとも始まりなのか。
解《わか》りはしないと思い、解りに行こうと思い直す。
ふむ、と首を下に振ると、鹿島は息を吸う。
森の中にある冷たい空気は2nd―|G《ギア》の概念《がいねん》下のものだ。が、
……|Low《ロ ウ》―Gの森の空気と変わらない匂《にお》いだな。
だから両親達は、このGでの生活を選んだのだろうか。そして、祖父はどうだったのか。
鹿島はノートPCを叩いていた右手を軽く胸に当てた。
作業服の胸のポケットの中、そこには祖父が書いた和紙《わし》の一枚がある。
荒王《すさおう》の上、これを手に過去と向かい合えば、疑問は解けるだろうか。
鹿島は右の手を顔の横に上げた。
「皆よ! ――これより日本UCAT開発部は全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》との戦闘《せんとう》態勢に入る!」
目を前に向けるなり、手を振り下ろし、鹿島は叫んだ。
「総員、己が姓《かばね》を起こせ!!」
出雲《いずも》達は森に挟まれた草原の中で、2nd―G斥候隊との戦闘に入っていた。
|V―Sw《ヴイズイ》や|G―Sp《ガ ス プ》2を持つ自分達以外、仲間の武器は全て模擬《もぎ》戦|仕様《しよう》。銃器は模擬弾を使用し、刀剣《とうけん》類は刃《やいば》に機殻《カウリング》を当ててある。
しかし、実際に用いればそれなりにダメージが届くはずだが、
「やっぱ製品名じゃあ名前として弱いみたいね……!?」
風見《かざみ》は出雲に叫び、手持ちのG―Sp2を振り抜いた。
穂先《ほさき》を機殻《カウリング》で閉じた槍《やり》は、一閃《いっせん》で軌道《きどう》上の数人を薙《な》ぎ倒す。
が、周囲にいる他の隊員達はそんな力を振るえていない。初撃《しょげき》からそのまま鍔迫《つばぜ》り合いで押し負けたり、弾丸《だんがん》を恐れず突っ込んでくる相手に押されっぱなしだ。
理由は解《わか》る。
概念《がいねん》兵器とは、内部の賢石《けんせき》で自らの力場《りきば》を確保し、あらゆる概念下において兵器としての力を損《そこ》なわれないようにするものだ。だが、それであっても、
「名前という力の縛《しば》りが強いわね……! 私と覚《かく》の|G―Sp《ガ ス プ》2や|V―Sw《ヴイズイ》は、名前の中に| G 《ガングニール》や| V ・ V 《ヴァジュラ ヴリトラ》って名を含んでいるけど、他の量産型は名前が単に型番《かたばん》だものね……」
名前のある武器と無い武器が激突《げきとつ》したならば、相当の威力《いりょく》差がない限り、名のある方が勝つ。
「敵はそのあたりを理解した装備を身に着けているし……」
2nd―|G《ギア》側の装備は、どれも量産型の概念兵器をカスタマイズしたものだ。
装飾などの付加とともに、名称が確実に彫り込んである。
今、風見《かざみ》の前に立つ若者が持つ 必殺|武雷剣《ぶらいけん》 は小規模|落雷《らくらい》を落としてくるが、
「ええいもう面倒くさい! 食らう前に吹き飛ばせば勝ちよっ!」
| 雷 《かみなり》の攻撃を下からくぐってぶっ飛ばす。
その打撃の感触《かんしょく》に、とりあえずG―Sp2は強さを保っていると理解。
叫ぶ。
「皆! 賢石の出力を上げなさい! 賢石燃料の使用リミッターをカットするの! 本来の能力だけじゃあ押し負けるわよ!」
叫ぶなり風見は前に。今は自分と覚で敵の前線を穿《うが》つしかない。
わずかな時間でも敵を止めれば、初撃《しょげき》に戸惑《とまど》った仲間達が態勢を立て直せる。
だから行こう。
横の出雲《いずも》に視線を送ると、彼も頷《うなず》いた。
「こいつらの後に敵の本隊来るぜ。急げ千里《ちさと》」
「そうね。――でも、敵とか言ってるわよ? 私達」
苦笑で言いつつ、風見は前を見た。
2nd―Gの斥候《せっこう》部隊、こちらの動きに距離を取って身構えた数は四人。
戦場となる足下は膝丈《ひざたけ》の草群《くさむら》、土の地面。踏み込めば身体《からだ》は前へ出る。
「――覚、他は任せるわ。私はとりあえず、あの四人」
風見は風を巻いて走る。
前方、敵の位置は前から順に左、左、中央、右。どれも剣を手にした者達だ。
全ては身構え、こちらに相応《そうおう》の視線を送ってくる。
いい度胸《どきょう》だ。
見知った顔ではないことをためらいの消去とし、風見は前に。
「っ……!」
疾走《しっそう》と同時に狙うのはまず初めの左。
白い戦闘服を着た青年が、右腰に構えた剣を抜き打った。
刃《やいば》の動きはこちらの首を刈る動き。だが、
「残念」
風見《かざみ》は左腕の盾《たて》で剣を上に弾《はじ》いた。
堅音《けんおん》一発。軽い衝撃《しょうげき》とともに相手の手から柄《つか》が離れ、刃が宙に舞った。
身を低く、走りながら構えた|G―Sp《ガ ス プ》2で彼を突き倒そうとする。
そのときだ。視界の上側、頭上に弾いた刃の軌道が揺らいだ。
上に弾き飛ばした筈《はず》の白の一線が、何故《なぜ》か今、切《き》っ先《さき》を下に向けて落下してくる。
何事、という疑問の視線に、相手が答えた。
「我らは剣神《けんしん》だよ……!」
相手が何も持っていない手を上から下に振り下ろした。
「突き立てろ!」
「甘いわよ」
風見は告げた。
直後。空へ突き上げたG―Sp2の石突《いしづ》きが、落ちてくる剣を弾き飛ばす。
「実戦|経験《けいけん》足りないわね。槍《やり》にはいろいろ使い方があるのよ……!」
左腕の盾。その先端で相手を吹っ飛ばした。
腕に返るのは籠《こも》った悲鳴と何かを砕いた手応《てごた》え。
相手の身体《からだ》が浮くのと同時に、風見は彼の横を通過した。
すると次が来た。また左手側からの攻撃だ。
力を放つのは体格の良い青年。彼はバットを振るように長剣《ちょうけん》を叩き付けてくる。
速い動き。だがそれよりも、風見は彼の刃に目をとめた。
「刃が水をまとって……!? まさか剣名は多摩川《たまがわ》の水を使った 多摩ちゃん とか言わないでしょうね!?」
「甘い。阿武隈《あぶくま》川の水で作った試作型| 機 殻 剣 《カウリングソード》! 阿武《あぶ》さん だ……!」
「試作で終えてなさいっ!」
だが、水をまとった刃は効力を発揮した。
ぶつかったG―Sp2が水に絡め取られ、動きを止められる。
武器が使えなくなった。
「――!」
そこに三人目が正面から来る。
突き込まれてくる剣に、風見は一瞬《いっしゅん》の判断を下した。
|G―Sp《ガ ス プ》2を手から離したのだ。
後の動きは刹那《せつな》。
正面からの一撃《いちげき》を突き込む盾《たて》で弾《はじ》き飛ばし、そのまま身体《からだ》を時計回りに旋回。
水の剣を振る相手に後ろ回し蹴《げ》りを一発。
返す右のバックハンドを、正面から来た相手にぶち込んだ。
打撃音が二発。
宙に水剣《すいけん》とG―Sp2が舞う。
体を回しながら風見《かざみ》はG―Sp2を手に取った。
『ステナイデ』
「御免《ごめん》」
苦笑で言いながら、風見は前を向きつつ穂先《ほさき》を一閃《いっせん》した。
横殴《よこなぐ》りの一撃で、右から来ていた最後の一人を排撃《はいげき》。
打撃音が大気に抜ける。
見れば出雲《いずも》も他の相手を殴り飛ばして戦闘を終えている。
風見は一息。
だが、彼女の息はすぐに飲まれることとなった。
広い夜の草原の上、いつの間にか無数の白い影が現れていたからだ。
「あれは――」
草群《くさむら》の上、距離約百メートル、百は下らぬ白の影がある。
「2nd―|G《ギア》の本隊?」
叫んだ通りの者達がそこにいた。
2nd―Gの主力の並び、その中央にある顔は鹿島《かしま》、熱田《あつた》、月読《つくよみ》という面々《めんめん》。
三人の内、一人が前に出た。
熱田だ。
彼は、見たこともない巨大な| 機 殻 剣 《カウリングソード》を手にしている。
それは長さだけならば出雲の|V―Sw《ヴイズイ》を超えるようなもの。
そして、彼の前進には歌もついてきた。
「ぅう〜みい〜の まあーぐろーぅは〜 かぁあわざかなああああ〜っ!!」
その歌に、周囲の大人《おとな》達がどことなく嫌そうな顔をしているが、熱田は気にしない。
剣の柄《つか》をマイクのように抱え持ち、
「たぁいへいようは〜 ひぃがしずむう〜!」
と、彼はワンコーラスを終える。
そして満足そうな顔をした上で、熱田がこちらを見た。
彼は口の端《はし》に嬉《うれ》しさの笑みを作り。
「ケッ。特別サービス集客|大御礼《だいおんれい》、今夜はいい夜だぜ。――さて、もう一曲行こうかあ」
「やめろ熱田《あつた》。いろいろと失礼だ」
「鹿島《かしま》、――テメエ、裏切るのか」
「お前の脳内《のうない》設定ではどうなってるのかよく解《わか》らないが、……お前の歌を止めるためならば裏切り者の汚名も着るぞ、僕は」
そうかいそうかい、と熱田が吐息。片腕で軽く| 機 殻 剣 《カウリングソード》を振り回した。
「――しょうがねえ。では本日の第一番、俺と愉快《ゆかい》な仲間達が作った| 究 極 《きゅうきょく》兵器・| 機 殻 剣 《カウリングソード》フツノを、……一発だけだが食らっとけ」
ゆっくりと、| 機 殻 剣 《カウリングソード》が風を切って大地に突き立つ。
直後。
大地が範囲《はんい》約二百メートル四方において割れ爆《は》ぜた。
風見《かざみ》は地殻《ちかく》破壊を見た。
眼前の大地が一瞬《いっしゅん》で砕き捲《めく》れ上がり、そして止まらない。
斬撃《ざんげき》の力が、大地に谷を描いてこちらに突っ走ってくる。
「――!?」
あたりを覆《おお》うのは破壊の前に来る風と音。
それらの勢いに乗って、切断《せつだん》力の大撃《たいげき》がくる。
やられる、と風見が思った直前だ。目の前に一つの影が立った。
影には声もついてきた。
「ああああああぁっ!」
気合いと打撃音が、即座《そくざ》に結果を出す。
前方からきた切断力が中央部分で砕かれ、
「っ!」
左右を走り抜けた。
そして轟音《ごうおん》と大地の破裂が背後に抜け、風が後を追う。
だが、それだけだ。
風が消えた沈黙《ちんもく》の中、風見は前に立つ影を見た。
「――覚《かく》」
ああ、と頷《うなず》いた出雲《いずも》の背は、息荒く上下している。地面に打ち付けられた|V―Sw《ヴイズイ》の機殻《カウリング》、柄《つか》にあるコンソールは、
『イタイノ』
その文字に風見は苦笑。改めて見れば、自分達の周囲と背後、地面の砕かれ方が違う。叩きつけた|V―Sw《ヴイズイ》を先頭にして、背後の大地は| 扇 状 《おうぎじょう》に地面が浅く抉《えぐ》れているだけだ。
……砕きの力に、V―Swの破壊の力で干渉《かんしょう》したのね。
しかし出雲《いずも》はこちらを見ない。彼は前方を見ている。
同じ方向を見れば、砕かれた地面の向こう、白い衣装の軍勢《ぐんぜい》は動いていない。
そして出雲の声が彼らに飛んだ。
「――切ることを主眼として作った| 機 殻 剣 《カウリングソード》か?」
問いに、| 機 殻 剣 《カウリングソード》を肩に担《にな》う熱田《あつた》が顔を上げた。
「よく解《わか》ったな。| 機 殻 剣 《カウリングソード》フツノ、こっちの世界じゃあフツノミタマ――、フツは切り裂きの意なれば、切り裂きの| 魂 《たましい》、って寸法だ」
つまり、
「名前に支配されるこの空間において、フツノはあらゆるものを切り裂く、闇も光も――」
と、熱田が地面に落ちていた石を拾い、真上へと放り投げる。
数メートルの高さに達した石は、当然のように重力に引かれて真下へ。
熱田に当たる。
その瞬間《しゅんかん》だ。熱田がフツノを頭上に振り、空気を薙《な》いだ。
小石に刃《やいば》は当たっていない。
だが、落ちてきた小石は、フツノの軌道を通過するなり、熱田を右に避けて落ちた。
「石が……、避けた?」
出雲の言葉の意味を、熱田が告げる。
「解っか? 切ったんだよ。不運ってヤツを。元々、剣は不運を断ち切る魔除《まよ》けでもあるってな。解んな? ――このフツノにはどんな攻撃も届かねえ。そしてどんな防御《ぼうぎょ》も通用しねえ。刃の届く限りは切り果たす。ようく憶《おぼ》えておけ餓鬼《がき》ども」
言って、熱田が後ろに下がった。
同時。2nd―|G《ギア》が動いた。前衛《ぜんえい》が前に出て、後衛《こうえい》の幾人《いくにん》かが、
……飛ぶ。
白の戦闘服を着た幾人かが、宙を、空を、階段でも昇るような歩みで上がっていく。
風見《かざみ》の視覚は彼らの構える銃器や弓矢《ゆみや》を確認した。
判断は一つ。飛ばせてはならない。それだけだ。
「――――」
だから息を吸い、風見は身を前に折った。
背、担《にな》った|X―Wi《エクシヴイ》で彼らの相手をしなければ、制空権《せいくうけん》を握られる。
肩胛骨《けんこうこつ》に力をイメージ。
そこから出る意志と筋肉の動きにX―Wiが反応する。
光。
|X―Wi《エクシヴイ》の上部、翼《つばさ》の基部となる二つの球体から白い光があふれ出し、
「!」
そこで風見《かざみ》が前を見て、身を竦《すく》ませた。
その理由は一つ。
閃光《せんこう》だ。
真っ正面から飛んでくるのは巨大な光。
かつて1st―|G《ギア》との戦闘で見た竜の主砲《しゅほう》。それと見まごうほどの一撃《いちげき》が来ていた。
「――な」
何これ、という声は、
「馬鹿|伏《ふ》せろ!」
出雲《いずも》の声と手が、こちらを地面に押しつける。
直後の頭上、背に生まれた光を食って、正面からの威圧《いあつ》が突き抜けた。
それは白の光。
直系三メートル超の、明確な質量を持った大光条《だいこうじょう》だ。
光の走りに聞こえる音は大気の轟《とどろ》き、匂《にお》いは色で言えばやはり白、そして打撃は、
「――!」
背後、大量の土砂《どしゃ》が飛沫《しぶ》く音が、その力を雄弁《ゆうべん》する。
振り向く背後に見えるのは、広く抉《えぐ》れた大地と吹き飛ばされた仲間達。
倒れた者は皆、気を失っているのか動かない。
「やってくれるわね……」
風見は前を見た。
2nd―Gの軍勢《ぐんぜい》の中央、一人の姿が明確に見えた。
月読《つくよみ》。
距離百メートルをもって立つ白と黒の装甲《そうこう》服。
初老《しょろう》の女性は、肩に羽織《はお》った白のケープを風になびかせてたたずんでいる。
彼女がこちらに突き出した両腕には、一つのものが握られていた。
それは機殻《カウリング》された巨大な黒弓《くろゆみ》。
長さ二メートル超の大弓《おおゆみ》が、今、矢を得ないまま強い弧《こ》を描いている。
月読は大きく弓を構えていた。
全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の注意を、少しこちらに引きつけておく必要がある。
何故《なぜ》ならば今、熱田《あつた》が下がり、鹿島《かしま》と二人で荒王《すさおう》の方に向かおうとしている。そんな二人の動きに全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》が気づけば、
……少なくとも焦るでしょうね。
焦るのは構わない。だが、その前に、
「私達の相手をしっかりしてもらわないと」
告げた言葉に、視線の先、荒れた野に立つ二人の男女が身構える。
あの二人は出雲《いずも》家の跡取《あとと》りとそのパートナーで、手持ちの武器は| 機 殻 剣 《カウリングソード》|V―Sw《ヴイズイ》と| 機 殻 槍 《カウリングランス》|G―Sp《ガ ス プ》2。
どちらの武器も自分達が作ったものだ。
そして毎|戦闘《せんとう》後の回収データを見る限り、あの二人はまだ己の武器を使いこなせていない。
……どちらも第二形態が数度で、第三形態に至っては初めて用いたときに一度だけ。
G―Spに関しては、2に改造してから第三形態を出してもいない。
それだけ巨大な敵と出会った経験がないということだが、
……通常形態ですら、まだ使いこなせてるとは言えないのかもね。
彼らの武器は意志を持つ。
機殻《カウリング》には名を彫り込み、己の意志を確立するように作り上げた記憶《きおく》がある。
あれはフツノを封印《ふういん》した後のこと。フツノの反省から、力を自ら抑え込む機殻《カウリング》を作ろうとし、数年掛けて生まれた産物だ。
意志ある武器を彼らはどの程度まで使いこなし、信頼されているのか。
「――試しましょうかねえ」
自然と笑みが出た。そして笑みのまま、月読《つくよみ》は弓の弦《つる》を引き絞《しぼ》る。
これを引くのも久しぶりだと思いながら、
「2nd―|G《ギア》の皇族《こうぞく》、月読家に伝わる対|概念《がいねん》戦争兵器、――月天弓《げつてんきゅう》。夫が遺《のこ》した形見《かたみ》よ」
「威力は今見た通りってか? 確かに機竜《きりゅう》だってブチ抜くだろうが――」
「あらあら、御託《ごたく》はあたしの役目よ。口出さないで欲しいわね」
言って月読は笑みを作る。それも、失笑《しっしょう》といえる小さな笑みの吐息だ。
「出雲《いずも》の御曹司《おんぞうし》。今のは合わせのチューニングよ? あたしの告げた名をよく考えなさい」
言葉に、彼の横にいる少女が口を開いた。
「月……」
「そう。貴女《あなた》の背の翼《つばさ》、その光の技術はどこから出たのか教えてあげましょう」
月読は空を見上げた。
天上。まっすぐの頭上に丸く青白い光がある。
いい光。快い光ね、と月読は思う。
……いつも地下にいるから、たまの月光|浴《よく》は抜群《ばつぐん》だわねえ。
そして彼女は視線を前に。敵の先頭に立つ二人を見る。
「さっきから、ずっとこの弦を引き絞ってるでしょう?」
「ずっと、俺達を狙い続けてるってか?」
違うのよねえ、と月読は笑みを見せ、弓を空に向けた。
直上に浮かぶ月に大弧《たいこ》を掲げると、彼女は笑顔でこう告げた。
「た・め・う・ち」
弦が解かれ、琴《こと》のような音色《ねいろ》が高鳴った。
き、という音が風をはらんで空に吹き抜け、
「――響《ひび》け月光の弓琴《ゆみごと》! 概念戦争で用いられなかった不運をここで晴らしなさい!」
風が強く空へ抜け、全ての音が空に消えた。
直後。夜空の全面に無数の小さな光が来た。
概念空間の天井、高さ約二キロの地点に生まれるのは星のような瞬《またた》きの群れ。
数百を超す光粒《こうりゅう》だ。
それらは一気に落下した。
光の正体は流星でも彗星《すいせい》でもなく、垂直落下の巨大|光柱《こうちゅう》。
一本一本の太さは直系五メートルを下らず、その密度は数百の本数をもって高圧となる。
落撃《らくげき》。
「穿《うが》て月光の打撃!」
月読の叫びとともに、数百の光撃《こうげき》が大地に炸裂《さくれつ》した。
同時、2nd―|G《ギア》の全軍が前に出る。それぞれの戦闘を行うために。
巻き上がる土砂《どしゃ》と風、そして高音と地響《じひび》きが足下を崩す。
空から降るのは次々にとめどない月光の柱。
そんな中、風見《かざみ》は出雲《いずも》と走っていた。
背後、敵から離れる方角へと。
「撤退《てったい》ー!」
声が仲間達に聞こえるのかどうか。
視界の中、光の鉄槌《てっつい》は左右の一般隊の方にも打撃している。
月の光。横を走る出雲がときたま頭上に|V―Sw《ヴイズイ》を振り上げるのは、頭上に来た光柱《こうちゅう》を叩き斬《き》っているからに他ならない。
走れ。
とにかく月の光の至らぬところまで。
しかし月下の中、そのような場所は、
「……森!」
自分達が今まで歩いてきたところ、概念《がいねん》空間の縁《へり》に近い南側の森の中。
月光は影に減衰《げんすい》されるのか、森を除《よ》けるように降る。
……森の向こうには本陣《ほんじん》があった筈《はず》だけど、大丈夫だろうか。
それどころではないか、と風見は走る。自分達とて今は危険の渦中《かちゅう》だ。
森を月光が除けているということは、自分達をそこに封じようということ。
悔《くや》しいが、現状、自分達を立て直すまでそれに従うしかない。
走る。
森まで距離にして約百メートル、そこまで皆が保《も》つだろうか。
視界の隅《すみ》、自分達と同じように走っていく姿が幾《いく》つもあるが、ときに柱の直撃《ちょくげき》を受けて大の字にぶっ飛んだりしている。
「何となく楽しそうなんだがなあ……」
「やってみたいとか言ったらはり倒すわよっ!」
出雲の声に叫びを入れて、風見は走る。
森、先に逃げ込んだ仲間がこちらを見て叫んでいる。
早く来いと言っているのか。
否《いな》、聞こえる声は、こちらの背後を差した指とともに、
「風見ー! 後ろ! 後ろー!」
振り向いた風見は、月読《つくよみ》の水平|射撃《しゃげき》二発目を見た。しかも後を追うように、2nd―Gの若者達が剣を構えて追ってきている。十数人が横並びに走り、
「死ねー!!」
「模擬《もぎ》戦でしょーがっ!!」
叫んでいる内に光が来た。出雲《いずも》が振り向くが、間に合わない。
しかし、そこに飛び込んでくる影があった。
来たのは二つ。二人分の影だ。
風見《かざみ》はその二人を知っている、一人は、
「――佐山《さやま》!?」
もう一人の名を、頷《うなず》く影、佐山が告げた。
「新庄《しんじょう》君もいるとも」
告げるなり、佐山が腰の後ろにつけていたものを引き抜いた。
日本刀。短く太い刃《やいば》は、
「……先ほど御老体《ごろうたい》から預かったこの一刀。|Low《ロ ウ》―|G《ギア》にて名を持つ刃を、月光はどう受ける!」
彼は逆手《さかて》握りに刃を叩きつける。
横殴《よこなぐ》りに来た月の光条《こうじょう》に、佐山の鉄の軌道が交差し、
「!」
鉄管《てっかん》楽器をぶちまけたような音がした。
佐山の目の前で弾《はじ》けたのは光。
月の白光が、爆布《ばくふ》の飛沫《しぶき》を上げて四散《しさん》した。
佐山は月光を割った刀を戻し、刃を確認。
刃《は》こぼれは無い。だが、手には確実に衝撃《しょうげき》があった。何度もこんなことを繰り返せば反《そ》りが強くなって使い物にならなくなる。
……あまり多用は出来んな。
と、走る風見の問いが来た。
「今まで何やってたのよ!」
「後で説明しよう。とりあえず本陣《ほんじん》が壊滅《かいめつ》状態だったとは言っておく」
告げた言葉に風見が眉根《まゆね》を詰め、出雲がやれやれと吐息。
そして無言になった二人の横で、新庄がこちらの脇腹《わきばら》を突ついてきた。
「後で説明って……? やっぱりボクの正体とか、言うべきかな」
「ああ、その方が新庄君のわだかまりは無くなるだろうね。――説得力《せっとくりょく》強化のために、私としても話しておくべきか」
「え?」
「風見《かざみ》、走りながらよく聞きたまえ、先ほど寮《りょう》室で新庄《しんじょう》君の脚《あし》を広げて確認を」
「ぅわあ――!!」
新庄が大声を挙げてこちらの声を掻《か》き消す。
周囲の月光|落下音《らっかおん》を超す声量に、風見が怪訝《けげん》な顔をした。
対する新庄は慌《あわ》てて手を振り、
「な、何でもない、何でもないよ? 佐山《さやま》君の頭がちょっとおかしくなっちゃったから」
「そ、そう? 確かにまあ、佐山だからしょうがないけど……。新庄、伝染《うつ》っちゃ駄目《だめ》よ?」
「最近、私の周囲で私に対する認識が歪《ゆが》んでいるようなのだが……」
こちらの意見を無視した風見と出雲《いずも》が、森の中へと先行して飛び込んだ。
が、まだ敵は追ってくる。
すると、横にいた新庄がこちらを見て頷《うなず》いた。細い眉に力を込め、
「とりあえず、遅れた分、仕事をするね」
バックステップで下がる視界の正面、2nd―|G《ギア》の若者達が刃《やいば》を手に追ってくる。
対する新庄が後ろにステップを踏みつつ、右の| 機 殻 杖 《カウリングストック》を縦に回した。
長さ二メートルの白い| 機 殻 杖 《カウリングストック》|Ex―St《 エ グ ジ ス ト》。
ボディ中央部にある歪曲《わいきょく》を右肩に乗せ、新庄は砲《つつ》のように杖をホールド。
応じるようにEx―Stが変形を開始する。
まずは右側外面にボタン型のトリガーが六つ露出《ろしゅつ》。
それに続いて左前部にグリップが突き出してきた。
そのグリップを新庄は支持して固定、Ex―Stの砲塔《ほうとう》部分を見た。
白の機殻《カウリング》、その側面に描き込まれているのは装備|称呼《しょうこ》。Ex―Stにつく二つ名だ。
「虎星《とらぼし》」
新庄がつぶやく横、月光が落ちた。だが新庄は気にしない。
彼女は杖を構え、前方からの敵を見据《みす》えている。
と、敵の一人が仲間に叫んだ。
「案ずるな! Ex―Stは今までろくに出力を出したことはない……!」
そうだね、と新庄はつぶやいた。まだ、踏ん切りはちょっと弱いよ、と。
「でも、それに応じた戦い方だって、……考えてこなかったわけじゃないんだよ!」
威力《いりょく》の弱い打撃は、どうすれば強化出来るか。
答えは一つだ。新庄は外側の面にある六ボタン型トリガーに五指《ごし》を立て、
「連射《れんしゃ》――!!」
手首を左右にスナップして、五指の往復《おうふく》運動でトリガーボタンを連射する。
叩かれた数だけ白の弾丸《だんがん》が飛んだ。
連射撃。
まるで弾《はじ》き鳴らされるようにボタン音が鳴り響《ひび》く。
その速度は一秒間に十六|連射《れんしゃ》を超過した。佐山《さやま》は感嘆《かんたん》の吐息を漏らし、
「新庄《しんじょう》君、どこでそんな邪道技《じゃどうわざ》を……!」
「UCATのゲーム喫茶《きっさ》! 爪が割れると嫌だから長い間は出来ないけど――」
着弾《ちゃくだん》が重なり、一発一発が連鎖《れんさ》して敵を飲み込んだ。
そして爆発。
大地から天上に向かって、連鎖|誘爆《ゆうばく》の巨大な光壁《こうへき》が突き立った。
地上から空へと、長さ百メートル、高さにして四十メートルは下らない光壁が立つ。
それはまるで水柱のように噴《ふ》き上がり、頂上部分から砕けていく。
今、その光を、森の中から見る視点があった。
視点は四つ。
それらがあるのは戦場から離れた東側の森の中。
小さな空き地だ。
空に散る光を見る視点には、女の声もついてきた。
「たーまやー」
「竜美《たつみ》、それは違う」
言うのは命刻《みこく》。黒シャツ姿の彼女は、紙コップを口元に傾けながら、
「言うなら夏に言うべきだ」
「命刻|義姉《ねえ》さん、それもちょっと違う……」
と言うのは、命刻の横にいる白シャツの詩乃《しの》だ。
彼女は箸《はし》を手に、
「というか、……今日、ここで行われてることは全体的に何か違うと思います」
詩乃の前、木のテーブルがあり、コンロがあり、鉄板があり、肉があり、野菜があり、その向こうには黒シャツ姿のハジと、オレンジ色のTシャツに白ベストという竜美がいる。
ハジは手酌《てじゃく》で入れたビールを飲みつつ、
「まあ、今回はさしてすることもない。模擬《もぎ》戦とやらで逆にここの警備も手薄《てうす》になった以上、こうして概念《がいねん》空間に忍び込んで推移《すいい》を見守るのはいいことではないのかな? ん? どうだ? 詩乃? そっちの肉が焼けてるぞ」
あ、はい、と肉をタレの入った紙皿《かみざら》に取って、詩乃は首を傾《かし》げる。
これって偵察《ていさつ》活動なんだろうか。
疑問はあるが、食べると美味《うま》いことに変わりはない。
隣《となり》の命刻は森の向こうに視線を向けたまま。口を開いて出る話題は、
「――さっきの月光の落下は凄《すご》かったな。義父《とう》さん、こうして考えると、開発力よりも純《じゅん》戦力として2nd―|G《ギア》を仲間に迎えるという選択もあったのではなか――、それ私の肉だっ!!」
「ふむ、油断《ゆだん》はならないぞ命刻《みこく》、私は豚肉《ぶたにく》以外は博愛《はくあい》主義だからな。ん?」
成程《なるほど》、と詩乃《しの》は一人思う。いつも通りなんですね、と。
だから詩乃は人参《にんじん》をつまんで、
「タレは竜美《たつみ》さんの手作りですか?」
「うん、アレックスの実家のやり方、前に彼に聞いたのね。少しガーリックは抜いたけど」
そうなんですか、とつぶやいた詩乃の前、ハジが空を見つつつぶやく。
「アレックスも連れてくれば良かったかな? これだけ暗くて広い場所なら――」
「彼、駄目《だめ》よ。身体《からだ》をいじってる間は外気に触れただけで身が崩れていきそうだから出たくないって。……だから、あと二月ほどはあのままでしょう。それに、食べれないから、彼」
「…………」
「あ、ほら、沈んでないで。命刻も食べなさい。大体、彼のことをこっちでとやかく言ってもしょうがないわ。軍 の最大戦力としての改造を頑張ってるのに、申し訳ないでしょ?」
竜美が焼けた肉を命刻の皿に叩き込む。
と、命刻は眉をひそめ、
「私は、米が一緒じゃないと寂しいのだが……」
言った命刻の鼻の先に、光るものが出た。
詩乃が見たのは刃《やいば》の切《き》っ先《さき》。
突き出しているのは竜美だ。
いつの間にか、彼女の右手には箸《はし》ではなく刀が握られていた。
白い刀の先端は、嫌味《いやみ》のない笑顔とともに命刻に向いている。
「忘れて御免《ごめん》ね? 代わりに食べてみる?」
いや、と命刻は肩を落とし、肉と野菜をつまみ始める。
そんな彼女に詩乃は苦笑。
「命刻|義姉《ねえ》さんも竜美さんには敵《かな》わないんですね」
「木刀《ぼくとう》で| 機 殻 剣 《カウリングソード》を相手に出来るような女兵器に誰が敵うか。大体、アレックスも尻の下に敷いてるからな。実質上、軍 の全攻撃力を支配しているに等しい」
「いつか勝ってやるくらいは言って欲しいわねー。……大体、命刻は力に頼りすぎなのよ」
サイドバックのロングヘアの笑みは、見守るような笑みを弟子《でし》に向けている。
そして竜美の手には、またいつの間にか箸が握られていた。
その事実に気づいた感想は、言葉となって口から出た。
「竜美さんって……、ナチュラルに凄《すご》いですよね」
「ありがと。――師匠《ししょう》の仕込みが良かったのよ。|Low《ロ ウ》―|G《ギア》に来てから数年間だけど、山を走り回ったり川で泳いだり、道場|剣術《けんじゅつ》じゃなくて広大な空間の中で勘《かん》を養わせてもらったから」
「誰も敵《かな》わぬわけだ。……現代に野性を| 蘇 《よみがえ》らせていたとはな」
「野性かどうかは知らないけれど、敵わぬ、っていうのはどうかしら?」
竜美《たつみ》は箸《はし》を動かした。焦《こ》げ掛かっていた玉葱《たまねぎ》を取って、自分の皿に入れ、
「私は未だに師匠《ししょう》に敵わないと思ってるし、追いついてくる者だっているのよ。たとえば命刻《みこく》、貴女《あなた》がそう。それと師匠のお孫さん……。一時《いっとき》ながらも私を姉|扱《あつか》いしてくれた子も、ね」
どうしてるかしら、と竜美が吐息を一つ。玉葱を噛《か》み、
「あら甘い。命刻、肉ばかりじゃなくてほら、他の野菜も。全部ちゃんと名前が付いてる高価なのを皆に内緒《ないしょ》で買ってきたんだから」
「皆に内緒って……」
「うん、整備や総務には、2nd―|G《ギア》との秘密|会合《かいごう》ってことで接待費もぎ取ってきたの」
「あとは私が、2nd―Gとの交渉はやはり決裂した、と言えば万事オーケイだな? ん?」
「そ、それ駄目《だめ》です! 嘘《うそ》いけないです! 命刻|義姉《ねえ》さんもこのお肉食べちゃ駄目ー!」
叫んだ口に、命刻が箸で取った肉を突っ込んできた。
思わず噛んで飲み込むと、
「これで同罪だな。ん?」
「命刻、私の真似《まね》をするなら、もうちょっと、何だな? アレだな? ん?」
命刻は無視して、ハジに問う。
「しかし義父《とう》さん、あの森の向こう、湖の中心には荒王《すさおう》がある。……荒王の頭部|艦橋《かんきょう》跡には、2nd―Gの概念《がいねん》核たる八叉《やまた》を封じた十拳《とつか》があるわけだが」
「何故《なぜ》、それを取りに行かないか、か? そうだね? そうだろ?」
無言で半目《はんめ》となった命刻に対し、ハジは言う。
「八叉の問いがあるからだ」
「問い……、ですか」
「ああ、八叉は己が認めた者にしか心を許さない。だから、八叉の問いに答えることは賭《か》けだ。失敗すれば死にいたり、正解しても、かつての解答者は八叉の特性たる炎《ほのお》によって焼かれ消えた。……問いに答えることと、生き延びること、もし全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》がこの二つをクリアするならば、その方法を見せてもらうとしようじゃないか」
ハジは告げてから、不意にこちらを見た。
「喋《しゃべ》りすぎたかな? どうだ? ん?」
「たまにはいいと思いますよ」
でも、と詩乃《しの》は言い、森の向こうを見る。
「全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》は大変ですよね。……いずれ、私達が何をするかも知らずに、概念核の回収を行っているわけですから」
「まあ、そろそろ姿を見せてやってもいい頃だろう。今、交渉《こうしょう》中の他の|G《ギア》や、交渉不可能なGの動きが、……それぞれお互いを知らず、しかし私の知るところで噛《か》み合いつつある」
ハジは口元を手で隠したまま、
「次あたり、どうだろうかなあ……。ん?」
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第二十七章
『己の名前』
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何が良くて何が悪いのか
答えはもはや己にしか無く
その怖れを期待と名付ける
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森の中、小さな空き地に、無事だった者達が集まっている。
全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》を含めた総員、約五十名だ。
対する2nd―|G《ギア》の者達は森の向こう、月光で砕かれた野に見える。
が、彼らにもまだ動く気配はない。
それぞれが、攻めるにしろ、迎え撃《う》つにしろ、自分達の態勢を立て直す時間が要《い》る。
そして今、空き地では、新庄《しんじょう》が座る皆を前に口を開いていた。
横に佐山《さやま》を置いた彼女は、眉尻《まゆじり》を下げた表情で胸に手を当て、
「――そういうことなんだ。ボクはそういう身体《からだ》の種族なの」
だから、
「今までそのこと黙ってて、御免《ごめん》なさい」
頭を下げた新庄を、佐山は横に立って見ていた。
新庄君は真面目《まじめ》だな、と佐山は思う。その真面目さゆえに損をすることもあるのだが、……今は、どうだろうか。
新庄がゆっくりと顔を上げていく。
やや窺《うかが》うように起こされる細身《ほそみ》の体。そんな彼女を見る皆の視線は大体が戸惑《とまど》いの一色だ。
仕方あるまい、と佐山は思う。
戦場の現場、そこにおいて行われた突然の告白だ。
新庄が告げた意味を皆が知っていくのは、今後のことになるだろう。
そんな怪訝《けげん》な視線の中央、座る仲間達の間から一つの影が立った。
「よく解《わか》らないけど……、ちょっといい?」
風見《かざみ》だ。
彼女は|G―Sp《ガ ス プ》2と付属の盾《たて》を出雲《いずも》に押しつけると、こちらに歩いてくる。
表情は静かで、無言。風見は丁度《ちょうど》十歩で新庄の前に立つ。
と、彼女は吐息で肩を軽く落とし、
「佐山、支《ささ》えて」
言葉と同じタイミングで、新庄の頬《ほお》が高い音をたてた。
佐山は震えるように揺れた新庄を支える。
そのときにはもう、右の平手を振り切った姿勢の風見がこう告げていた。
「ま、こんなとこでしょう。ただ、言っておくわ。――そんなことを謝るようだったら、これからもひっぱたく。そういうことよ」
「……いいの? これで?」
新庄の窺《うかが》うような問いに風見は吐息。やれやれと、
「あのね、自分の全部を明かすのを仕事にしてるわけじゃないでしょ? 言うも言わないもアンタの自由。そして、それによる責任もアンタのものよ、新庄《しんじょう》」
新庄は、首を縦にも横にも振らない。考えている。
彼女を背から支える佐山《さやま》は、風見《かざみ》がちらりと視線を送ってきたことに気づく。だから、
「――もちろん、私は新庄君が黙っていたことを迷惑《めいわく》には思っていない」
「でしょ? 私もそんなことで迷惑した記憶《きおく》ないわよ。……大体、いつも一緒にいるその馬鹿が被害ゼロって言ってるなら、少しでも距離のある私達が何か言えたもんじゃないしね」
でもね、と風見は新庄に目を向けて言う。
「謝ればいいってもんじゃないのよ? 謝るってのは、悪いことをしたときなんだから。もしそうでもないのに謝ったら、――アンタ、存在《ぞんざい》自体が悪いってことになるんだからね? そうなりたくないからカミングアウトしたんでしょ? 違う?」
「う、うん」
「ならばよし。ひっぱたいて御免《ごめん》。でも、手加減《てかげん》したから許してね」
うん、と新庄が大きく頷《うなず》いたときだ。
つ、と彼女の鼻から口に赤いものが垂れた。
「う、うわ、さ、佐山君! ハンカチか何か!」
「ふふふ、新庄君、鼻血をこぼす姿も魅力《みりょく》的だよ……」
「な、何スイッチ入ってるんだよ! それより何か拭《ふ》くもの……」
「少々待ちたまえ。――それより風見、君の手加減リミッターはどうなっている」
こちらの言葉に、皆が風見を非難の視線で見る。
多数の白目《しろめ》を受け止めた風見は、え? え? と身を困らせながら、
「い、いつも覚《かく》にやってるのの十分の一くらいの打撃だったんだけど……」
「俺はいつもアレの十倍を食らってるのか……」
「おやおや、二人とも、こんなとこでノロケ話の最大展開はやめていただこうか」
「暴力話のどこがノロケてんだっ!!」
出雲《いずも》の意見を皆が無視した。
佐山は、胸ポケットから獏《ばく》とハンカチを取る。
摸を頭に乗せ、ハンカチで新庄の鼻下《びか》と唇のあたりを拭《ぬぐ》って見れば、既に血は緩やかになっているようだ。
視線で、大丈夫? と送ってくる新庄に佐山は頷《うなず》く。風見も安堵《あんど》の吐息をつき、
「しかし佐山も新庄も、どーしてこんなときに遅れたのよ?」
「ああ、新庄君に己の身体《からだ》の価値を認めてもらうためにね。ベッドの上で局所を」
「うわーっ!!」
新庄がこちらの胸ぐらを掴《つか》んで叫んだ。
潰された言葉が聞き取れなかったのか、新庄《しんじょう》の奇声《きせい》にか、風見《かざみ》を含めた皆が動きを止めて怪訝《けげん》な目でこちらを見ている。
風見が皆を代表して首を傾《かし》げ、
「何? よく聞こえなかった。価値《かち》を認めて……、何?」
佐山《さやま》は新庄の頭越《あたまご》しに風見を見て、皆を見て、頷《うなず》き、
「だから開」
「だから言ったら駄目《だめ》――っ!!」
言った瞬間《しゅんかん》から、新庄に襟首《えりくび》を掴《つか》まれて揺さぶられる。
そんな視界の揺れを感じながら、佐山はこう思う。
……ああ、これがノロケるということなのか。
ふふ。初めての体験だ。人並みのじゃれ合いというのもまた、
「素晴らしい……」
ノロケ上等、どんどん揺らしたまえ。と思っていたら、ネクタイを引き絞《しぼ》られた。
「ま、待ちたまえ新庄君。このままでは私の涅槃《ねはん》メーターがレッドゾーンに!」
「うるさい言葉は元からストップだよっ!」
佐山は制止を掛けるが、今夜の新庄は容赦《ようしゃ》がない。
そして怒り顔の新庄と二人で腕と襟首の取り合いをしていると、横の風見が頷《うなず》いた。
「成程《なるほど》ね……、二人ともそうなんだー」
「か、風見さんも変なエロい納得《なっとく》しないでよっ!」
「佐山、ちゃんとしてあげなさいよ? 慣れてないんだから」
「大丈夫だ。私はこれでも新庄君には優しいよ? 他の皆には平等だが」
「だ、だからボクの頭越しに誤解|混《ま》じりの会話しないでよっ! ってか風見さん! 何でエロい結論出して元の位置に戻るの?」
そうです、と立ち上がる声があった。見れば大樹《おおき》だ。
「とりあえず先生は不純《ふじゅん》異性|交遊《こうゆう》を許しませんよっ!」
「落ち着け大樹先生。新庄君は両性だ。男と女と、不純の乗算《じょうざん》は相殺《そうさい》される」
「あ、……ええと、そーいうもんなんですか?」
誰か教えてやれよ、という皆のひそひそ言葉を聞いていないのか、大樹は笑顔を繕《つくろ》うと、
「で、でも安心しましたよー。先生、切《せつ》君が来たときにすぐ運《さだめ》さんだと気づいてましたし」
その台詞《せりふ》に、皆が一秒のタメをもって叫んだ。
「嘘《うそ》だー!!」
「う、嘘って何ですかあっ? フツーは気づきますよう」
「フツーは気づいてもアンタは怪しい……」
皆のつぶやきに大樹は、へへんと胸を張り、
「でも気づきましたもんねー。それでも先生、新庄《しんじょう》君、――新庄さんかな? を迷惑《めいわく》に思ったこともありませんし、同情したこともありませんよ? 先生だってこの耳のこと、ガッコとかで隠してますけど、言えるなら言ってると思いますしね。時代や世界や、いろいろな都合《つごう》があって、個人の気分もあると思います。大事なのは、……その噛《か》み合いですよね」
佐山《さやま》は、腕の中に押さえた新庄が身の力を抜くのを感じる。
ただ、と大樹《おおき》は言った。今さっきの自分の言葉に満足しながら、
「カミングアウトして苦にしなくなるのはいいことです。たとえば風見《かざみ》さんは暴力行為を衆人環視《しゅうじんかんし》に晒《さら》すことで――、ひああああっ反応早いっ!」
大樹の背後、下から伸びてきた幾《いく》つかの手が、その身を座る影の合間に引きずり込んだ。
ひー、という悲鳴を無視して、佐山は腕の中の新庄を解放する。
やや距離を取ってから、新庄が困ったような顔で、
「これでいいのかなあ」
「全ての結果が出たら、もう一度考えてみるといい。――今はまだ式の途中だ」
そうだね、と新庄が頷《うなず》き、表情を改めた。
直後。南の方角、本隊のあった方から声が響《ひび》いた。
何事かと見れば四吉《よんきち》が背後に人影を従えて走ってくる。フライトジャケットを着込んだ彼は、こちらに手を振りつつ、
「た、大変だッピ! 本陣《ほんじん》が、やはり月光の直撃《ちょくげき》を受けて壊滅《かいめつ》でッピぐおっ!!」
四吉が何故《なぜ》か真横に吹き飛び、背後から白衣姿《はくいすがた》の老人、三明《みつあき》が走ってくる。
「馬鹿な末弟《まってい》が間を読めぬ語尾《ごび》ギャグを失礼いたしました! あ、あの馬鹿はあとで兄者《あにじゃ》達と獄門折檻《ごくもんせっかん》を入れてやらねば――」
「興味深い前置きはいいから用件を頼む」
佐山の言葉に三明が駆け寄り、歩速《ほそく》を緩めながら、
「被害状況ですが、補給物資などが全て消失しました。つまり、現状、ここにいる人員、装備類だけで戦闘を行わねばならなくなったと、そういうことで御座《ござ》います!」
言葉に皆が立ち上がり、己の装備を見た。
先ほどの月光落下と、その直前の戦闘、そこで自分達が何をしたか。風見がつぶやく、
「概念《がいねん》兵器のリミッターを解除して……。賢石《けんせき》燃料なんてほとんど無いわよ?」
「そういうことだ千里《ちさと》。――俺達は敵に一杯《いっぱい》食わされた」
うんざり口調の出雲《いずも》が言葉を飛ばす先、三明の背後から本陣の残存者《ざんぞんしゃ》達がやってくる。
青黒い影として見える人々。
それは鉄杖《てつづえ》つきの大城《おおしろ》・至《いたる》に、|Sf《エスエフ》に、ディアナに、
「1st―|G《ギア》からの特別|監査《かんさ》役として、ブレンヒルト・シルトも同行するわ」
ディアナの横。
黒装束《くろしょうぞく》に三角|帽子《ぼうし》の少女が、肩に鳥を、足下に猫を連れて告げる。
「1st―|G《ギア》の竜と言葉を交《か》わした者達は、どういう戦いを見せてくれるのかしら? 勝ってくれなきゃ困るのよね。……まさか、監査《かんさ》がお茶を飲んでる本陣《ほんじん》にまで攻撃|食《く》らうとは思わなかったし。こぼしちゃったじゃない」
「お茶|一杯《いっぱい》で戦争希望か。歴史的な戦いに相応《ふさわ》しい話だね」
そして佐山《さやま》は見た、ブレンヒルト達の更に背後を。
「――御老体《ごろうたい》」
「真打《しんう》ち登場じゃなあ」
白衣姿《はくいすがた》に細長い紙包みと鉄のケースを抱えた大城《おおしろ》が、右手の親指を上げて立っている。
「さて、ゲオルギウスも持ってきた。そして御言《みこと》君に頼まれたものもな。……しかし、現状は追いつめられてひどくピンチのようだが――」
苦笑。
「どうしたもんかなあ」
熱田《あつた》の声が、静かな湖面の上に響《ひび》いた。
「――どうしようもねえ状況ってわけだ。全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》は」
場所は概念《がいねん》空間中央。佐山と月読《つくよみ》が事前交渉を行った人工湖の南岸だ。
森を開いて作った三十メートル四方の土の広場は、雑草が生《お》い茂っている。
そこに熱田と立つ鹿島《かしま》は、
「全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の動きが止まったね。――狙い通りに本陣にまで月光の爆撃《ばくげき》が入った証拠《しょうこ》だ」
「本陣には監査とかがいるんだろ? 悪《あく》印象を与えるぜ?」
「お前が喜びそうなことじゃないか、熱田」
違ぇねえ、と笑う熱田に苦笑を返し、鹿島は湖を見た。
雑草の広場から湖面の上に延びるのは、朽《く》ちた木材で作られた浮き桟橋《さんばし》。
桟橋の行方《ゆくえ》は湖の中央、そこに立つ巨大な鉄塊《てっかい》の足下だ。
「巨大だなあ……」
月を逆光にたたずむのは全高五〇〇メートルの鉄《てつ》巨人。
荒王《すさおう》。
歩行バランスをとるために長く設定された両腕は、今、何かを抱えるように虚空《こくう》へ掲げられている。
頭部。胸にめり込むように存在する艦橋《かんきょう》跡は、風の対流で生まれる薄雲《うすぐも》をまとっている。
鹿島は荒王を見上げて思う。
……また、ここに来たのか。
彼らはどうだろうか。
その疑問を、横でフツノを軽く振り回す熱田《あつた》が告げる。
「へへ、……来るかねえ。少しばかり殴っていい理由も出来たしな。いけねえよ。やっぱ。ガキが大人《おとな》の女に認められていたらな」
「何だかよく解《わか》らないが私怨《しえん》全開だな」
「おうよ。だけどいいじゃねえか? 戦うことに対し、何らかの名分があるってのはよう。これで安心して殴っていいんだな。――うーし、勝って一曲歌うぞお」
「すまん。負けてもいいぞ」
「何ワケの解らねえこと言ってんだテメエ」
言って、熱田は頭上でフツノを横に回す。
と、フツノの軌道が走った位置から下へ、不意に闇が落ちた。
青黒い闇。
それが生まれた原因は一つしかない。
フツノが月光を断ち切ったのだ。
闇は熱田がフツノを振り終える動きに応じて薄くなり、消えていく。
そして熱田はフツノを手に提げると、空を見上げてつぶやいた。
「どのくらい出来るんだかなあ、あの佐山《さやま》は」
「では、いいかね? これから2nd―|G《ギア》に勝つための基本的な手段を見せよう」
と、佐山は二丁《にちょう》の拳銃《けんじゅう》を眼前に手で提げた。右手に吊るされ、果実のように揺れる拳銃の向こうには、皆が半円を組んでこちらを見ている。
佐山は彼らに拳銃二丁を見せ、
「先ほど、これらの拳銃を、やはりある条件で供出させてもらったのだが……。どちらも米国《アメリカ》UCAT製、型番《かたばん》しかないものだ」
その筈《はず》だね? と問う先、皆は無言で頷《うなず》いた。
「そして今、私の持つ刀は名入りのものだ。無論、その名は人の姓《かばね》を受けたものだが……」
皆の中から手が上がった。
出雲《いずも》やシビュレ達といる風見《かざみ》だ。彼女はこちらを見て、
「――でも、アンタの刀は月光を切ったわよね? どういうこと? たとえば名刀の村正《むらまさ》や正宗《まさむね》なんて、結局、ただの|Low《ロ ウ》―Gでの名前よね?」
「いい質問だ。その意味を、これから教えよう」
告げ、佐山は二丁の拳銃を上へ、宙へと放った。そして、
「――!」
佐山《さやま》は腰の後ろに差した一刀《いっとう》を、逆手《さかて》握りに引き抜いた。
そのまま振り抜き一閃《いっせん》。
次の瞬間《しゅんかん》に跳ね上がった音は二つ。応じて地面に落ちるものは三つだ。
佐山は己の足下を見て、
「初めに刀《かたな》が当たった拳銃《けんじゅう》は刃《やいば》を弾《はじ》いた。だが、もう一つは――」
拾い上げた破砕《はさい》の拳銃は、もはや二つに分かたれた鉄塊《てっかい》でしかない。断面は鋭利《えいり》で、まるで野菜を切ったようなもの。
しかし、続き拾い上げたもう一つは、傷などついてもいない。
「さて、この二|丁《ちょう》の拳銃の差は、どこにあったのか解《わか》るかね?」
皆は、数秒を沈黙《ちんもく》した。
お互いに顔を見合わせる中、一人、左の組から手が上がった。
ボルドマンだ。彼はこちらと手の拳銃を指さし、
「佐山――、いや、隊長と呼ぼうか。無事な拳銃の側面を見せてくれ」
佐山は左の拳銃を上に掲げた。
木々の間から降る月光。その光は拳銃の側面を照らし、一つのものを照らす。
そこにあるものを見たのか、ボルドマンが小さな笑みを漏らした。
「あの拳銃、持っていたのは誰だ?」
ボルドマンの問いに返る答えはすぐ近くから。
挙手《きょしゅ》したのは白の短髪を持った通常課の老兵だ。すぐにボルドマンは彼を見て、
「あの拳銃、側面に彫り込んであるのは」
「クリス、娘の名だよ。私をいつも天から見守ってくれる」
皆がかすかに息を飲む中、佐山は首を下に振った。
「娘さんを手荒に扱って申し訳ない。――だが諸君、解ったかね? 名が力を持つとは、どういうことなのか」
隊の中、風見《かざみ》が首を傾《かし》げ、
「得られる力は、生まれの名に基づくだけじゃなく……。愛称《あいしょう》などにも含まれる?」
「そう。――大切なのは、その名がどのように認識されているか、だ。よく考えれば解るだろう? たとえば2nd―|G《ギア》の剣神《けんしん》の名は熱田《あつた》だ。熱田という言葉のどこに剣の意がある? 熱田という名が、剣神として彼らの中で認識されているからだ」
「だとしたら、名前とは――」
「ああ、名前とは、表層《ひょうそう》の文字面《もじづら》の意味と、名前そのものに含まれた認識と、二重の意味を持つのだ。そして、この概念《がいねん》空間ではその二重の意味がそれぞれ力となるのだよ」
佐山は腰に見える一刀と、手の拳銃を示し、
「破魔《はま》を望まれた刃は、己の名を破魔の刃の| 象 徴 《しょうちょう》とした。そしてこの拳銃は父を思う女性の名を受け、父を守る加護《かご》を持った。名前とは人それぞれの思いの反映だ。多くの人が思う名前は多くの人に力を、個人が思う名前はその個人に力を」
佐山《さやま》は老兵を見て、こう告げた。
「貴方《あなた》の子は確かに貴方を見守っている」
老兵は確かに頷《うなず》き、佐山も頷いた。そして拳銃《けんじゅう》を彼に返すと、
「武装に愛着《あいちゃく》を持つ者はそれを信じるといい。一応、御老体《ごろうたい》に頼み、私が持っているものと同じ刀《かたな》を五|振《ふり》持ってきている。近接|系《けい》の戦闘を得意とする者は持っていきたまえ」
「あー、でも、佐山君? 先生のようにそんなスキルや武器も無い人は」
「その方法をこれから教えよう」
と、佐山はボルドマンに手招きした。
人波を割って巨躯《きょく》がやってくると、佐山は手で目の前に座れと指示。
「敵はその名を利用して力を得、進軍してくるだろう。中央に月を| 司 《つかさど》る月読《つくよみ》、これが要《かなめ》だ。月の力を得る巫女《みこ》役がいることで、彼女の味方はその助力を得る」
ボルドマンが座るのを見て、
「こちらも同じような方法を取ろう。女神《めがみ》――、確かギリシャには一人の女神がいたな」
「キュベレイ……、少々崩し読めばシビュレです」
と、風見《かざみ》の横のシビュレが笑みとともに告げる。
「こういうことですね? 佐山様。私に月読部長の対抗となる女神を演じろと」
「そう、そしてシビュレ君、君は整備の役でもある。愛称《あいしょう》を与えられている武器にはその名を巫女として彫り与え、そうでないものには己の名を女神の加護《かご》として彫り与えたまえ」
その言葉に、若い男性|課員《かいん》達がざわめいた。
「シビュレさんの直筆《じきひつ》サインか……」
「いい……。とにかくいい。出来れば背中にシビュレ命《いのち》と……」
「私はなるべく使わず持っていたいと思うのだが……」
男|連中《れんちゅう》がいそいそとシビュレの前に行列を作る。
大城《おおしろ》は行列の最後尾《さいこうび》に立ち、
「ハイ本日の最後尾はここー。一人一回までー。ハイそこ割り込みは最後尾|送《おく》りだぞー」
並ぶ人々。そんな光景を見ていた佐山の足下で、ボルドマンが振り仰いできた。
「で、自分がここに座らされている意味は」
「ああ、すまん、説明がまだだったな。とりあえず重要事項を先に告げよう」
一息。
「我々は今、敵に囲まれつつある」
佐山の言葉に、皆が息を詰めて周囲を見た。
いる。
森の中、そして外、いつの間にかわずかな影が立ち、こちらを遠巻きに見ている。
草原にいる月読《つくよみ》達とは別にいた分隊だ。
こちらの左右の隊を攻めていた連中が、そのままゆっくりと包囲《ほうい》を作り、今、その輪をせばめつつあった。
「敵の方は準備が出来たようだな。私達も急ぎ応えたいところだ」
佐山《さやま》は彼らの影を見る。森の中で物|怖《お》じせぬ彼らの影を。
……勇猛《ゆうもう》なことだ。
「だが、2nd―|G《ギア》は、……己の歴史ゆえ、自分達の概念《がいねん》の可能性に気づいていない」
告げた言葉に、周囲の皆が、え? と首を傾《かし》げた。彼らの動きに佐山は問う。
「名前、とは、一体《いったい》何だろうか?」
問いに、新庄《しんじょう》が答えた。
「固有《こゆう》名詞、じゃないの? 認識によって固有される名詞、だよね? 人やものが、他と自分を区別するために持つ一つの記号」
「そう、そこに落とし穴がある。簡単に考えて二つほど、だ」
佐山は告げた。
「一つはこれこそ簡単だ。すぐに実践《じっせん》しよう」
佐山は目の前にあるボルドマンの頭を掴《つか》んだ。
そして横、西側を見る。
佐山の視線を受け止めるのは、森の中でこちらに近づきつつあった影三つ。
彼らは、ややあってから立ち上がった。
佐山から見て距離は約十五メートル。相手三人は闇の中で剣を構えた。
背後、皆が動こうとするのを佐山は手で制する。
「さて国語の勉強と行こう。名前は、物体にだけつくものかね?」
問いと同時。敵が身を沈めて疾走《しっそう》の準備に入った。
彼らが初めの一歩を踏んだ瞬間《しゅんかん》。
応じるように響《ひび》くのは新庄の声だ。
「――ち、違う! 物理|現象《げんしょう》や、架空《かくう》の理論なんかにも付くよ! 名前ってのは!」
直後。
森の中と外から、お、という声が響き、足音が連《つら》なった。
2nd―Gが動き出したのだ。
それを迎え撃《う》つ形になる佐山は、しかし口元に笑みを浮かべる。
目の前、迫る敵の刃《やいば》を見て、
「その通りだ、新庄君。2nd―Gは己につける名前にこだわり、他を見失った。ゆえに、こういう発想は出来まい――」
眼前、敵が森を抜けて空き地の中に飛び込んできた。
同時。迎撃《げいげき》として、佐山《さやま》はボルドマンの頭を敵の方に突き出した。
「――必殺《ひっさつ》技の名は、その技を具現化する!」
叫んだ。大きな声で響《ひび》くように、
「禿男《ボルドマン》・ハゲフラッシュ!!」
轟音《ごうおん》とともにボルドマンが光を放った。
森の中心部から西側に向かって生まれた光は、一瞬《いっしゅん》でその力を行使した。
光は球体というより、半《なか》ばボルドマンの顔面《がんめん》形状をとって拡大。
歯を剥《む》いた巨大な光の顔面は、森の木々を食い、土を食い、大気を食って更に伸張。
瞬《またた》く間に半径二百メートルの光爆《こうばく》となった。
光の音は飛沫《しぶき》の音。
威力《いりょく》は全てを吹き飛ばす打撃力。
「――!」
森の西側は息つく間もなく吹き飛び、遠くへとぶちまけられた。
攻め込んできていた2nd―|G《ギア》の者達は大地にしがみつくことも出来ず、光球《こうきゅう》の拡大とともにかち上げられて空を舞う。
破壊。
だが、その言葉を作る光は刹那《せつな》で消えた。
しかしわずかな時間で生まれたのは打撃の噛《か》み跡。
巻き起こる風と、残った木々がさざめく下。光の走った大地は地殻《ちかく》を剥《む》き出しに。
殴りつけられて飛んだ木々や人々は、遠くの大地や森の中に放物線を描いて落ち、転がり、そして動かない。
そんな破壊を見た者達、特に森を四方《しほう》から包もうとしていた2nd―Gの者達は、己の身動きを止めていた。
彼らの視線の先、破壊の根本《こんぽん》、風の渦巻く地点には、一人の少年がいる。
巨躯《きょく》の黒人の頭を掴《つか》んだ少年。佐山・御言《みこと》が。
風と木々の葉枝《はえだ》以外に動きが無くなった。
そんな中、佐山は皆に振り返った。
「出来るかどうか、賭《か》けではあったが、上手《うま》く行ったようだね。――やはり、皆が認識しており、どうにも否定出来ない素材があると有効なようだ」
「ば、馬鹿者……!」
と、佐山《さやま》は目の前に立ち上がるボルドマンを見る。
彼の顔を下から見上げれば、
「はて、……そのように怒り顔をされる理由が解《わか》らないのだが。役に立ったのだよ?」
「お、お前は隊長だがな、していいことと悪いこと……、と?」
とボルドマンが力を失ったように膝《ひざ》を着いた。
何事かと彼が頭を振る理由は、よく解る。
「やはり力を使用すれば体力を失うからね。今ので寿命《じゅみょう》が百日くらい縮んだかもしれん」
「あ、あのなあ――、こ!」
と立ち上がろうとしたボルドマンが、妙な声と共にこちらへ倒れてきた。
佐山が受け止めもせずに重力に任せきると、倒れたボルドマンの向こう、手刀《しゅとう》を構えた風見《かざみ》がいる。彼女は真剣な顔で、
「覚《かく》、縛《しば》って。そして武器のない隊員に使ってもらいましょう」
「ああ、これ以上の生体《せいたい》兵器は見たことがねえ……」
「だが乱射は控えるように。万が一のことがあったら、……何かね? 何かあるかね?」
「冗談《じょうだん》でもいいから心配だくらいは言いなさいって」
と、やってきた課員達が渡すロープでボルドマンが縛られ、兵器化されていく。
「さて諸君、同じようなことは自分達の妄想《もうそう》にも言える。近接戦を主とする者は少しくらいは考えたことがあるだろう。己の技は最強だ、と。何か思いついた場合、それを信じれるならば叫んでみるといい、君達の想いが本物ならば、技は応えてくれるだろう」
成程《なるほど》なあ、とボルドマンを縛り上げて固めた出雲《いずも》が頷《うなず》く。
彼はおもむろに、風見の両胸を背後から持ち上げるように掴《つか》み、
「風見式オッパイビーぐおっ!!」
「出させるかあっ!!」
後ろへの肘《ひじ》打ちを食らわせ、風見は眉をひそめて告げる。
「私達は手持ちの武器があるからそれでいいの。……あ? 何? その不満そうな顔」
皆がそうだそうだと頷く中、周囲を回っていたハゲフラッシュの風が空に逃げた。
佐山は風を見送り皆を見る。
大城《おおしろ》に視線を合わせると、彼は手にしていたゲオルギウスのケースを掲げて見せた。
そのときだ。皆の間から手が一つ上がった。新庄《しんじょう》だ。
「あ、あのさ、佐山君。……ハゲのインパクトに負けて、聞き忘れてることがあるんだけど」
「む? 何かね?」
「……さっき言っていた2nd―|G《ギア》の名前に対する落とし穴のもう一つって、何? それまだ聞いてないんだけど」
「ああ、簡単なので、最後に説明するつもりだった」
佐山《さやま》は頷《うなず》き、周囲を見る。
2nd―|G《ギア》の軍勢《ぐんぜい》は、先ほどのこちらの攻撃で止めた足を、また動かしつつあった。
しかし今度は急ぐことなく、ゆっくりと、慎重《しんちょう》に。
彼らの動きを見つつ、佐山は言う。
「……スサノオやタケミカヅチやツクヨミという名前には、|Low《ロ ウ》―Gから見て、足りないものがある。Low―Gの者ならば、誰でも持っているものなのだが。……それは何かね?」
「え……?」
と眉を詰めて問うた新庄《しんじょう》に、佐山は言った。
「考えてみたまえ、新庄・運切《さだぎり》君」
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第二十八章
『戦いの詩』
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歌え激突必至の戦詩の束ねを
それを必然とする現場に人はあり
期待が答えを待っているのだから
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戦闘が再開された。
草原の北側、森の前に布陣《ふじん》した月読《つくよみ》は、向かいの森の中から敵が飛び出してくるのを見た。
彼らの数は先ほど森に飛び込んだ内の半分ほど。佐山《さやま》達の姿は入っていない。
しかし彼らは勢いよく前進してくる。
……何か策を得たのね。
雄叫《おたけ》び、足音、そして動き出す風。
それらに乗るようにして白の戦闘服が再びぶつかり合う。
力としては概念《がいねん》の加護《かご》があるこちらが上回る。
だが、気になることがある。先ほど戦闘に飛び込んできた少年と少女。佐山と新庄《しんじょう》だ。
特に新庄は、
……さっき見せた|Ex―St《エグジスト》の使い方。
記録によれば彼女はあの| 機 殻 杖 《カウリングストック》の性能を全開させたことはない筈《はず》だ。使用者の意志によってリミッターを解除していくEx―Stは、最高力で自壊《じかい》することも厭《いと》わない。
先ほどの光壁《こうへき》はまだ全開ではなかったが、
「ただ、いつもと違うみたいね……」
何をしたのだろうか。
否《いな》、答えは解《わか》っている。新庄は己の意志を認めつつあるのだ。生まれたばかりの動物が、しかし己の身体《からだ》を自覚して、親の鼻面《はなづら》を間近で見るために立ち上がるように。
「見方を少し変えようかねえ」
この判断が遅すぎなければいいけど、と月読は周囲の主任達に告げる。
「全員、前へ!」
続く男達の声は、お、という叫びの一声《ひとこえ》。
前へ。
草を踏み、月光の落ちた大地を前へ。
進む前方、草原の向こう、自分達の前衛《ぜんえい》が激突《げきとつ》している。
その光景を視界に入れた月読は、妙なものを見た。
「光……?」
敵だ。
武器を疲弊《ひへい》させ、補給も断たれたはずの敵が、光や闇、炎《ほのお》や凍気《とうき》を放って戦っている。そのような兵器を作ったことがあっただろうかと思い見れば、横にいる老《ろう》主任達が、
「わしの目には、連中、何やら手脚《てあし》や目から妙なビームなど出しておるのだが」
見れば、一番|放射物《ほうしゃぶつ》が多いのは白衣姿《はくいすがた》の老人、大城《おおしろ》・一夫《かずお》だ。
彼は妙なポーズと叫びとともに、笑いながら手足から光を出し、挙《あ》げ句《く》の果てにはノートPCの画面から妙な黒い影を呼び出して相手を吹き飛ばしてもいる。
「わははははは! 食らえ美代子《みよこ》の怒り!」
月読《つくよみ》は迷わず月光を叩き込んだ。
爆発が生じ、しかし、
「美代子バリアー!」
野原に出現したドス黒いドームから無事な声が響《ひび》く。
「何する気だ月読部長! わしの青春だぞ!!」
言葉が通じないと判断した月読は、展開したバリアーに、構わず月光を叩き込む。
「この日本の恥がー!!」
連続五発。三発目でバリアが砕けて五発目が直撃《ちょくげき》した。
吹っ飛ぶ老人の顔が幸せそうに見えたのは何故《なぜ》だろう。
追い打ち一発。光爆《こうばく》と音が響き、周囲の皆が、わ、と歓声《かんせい》を上げた。
だが大城《おおしろ》はすぐに起きあがって両の腕を振り上げる。
「こ、こら! わしが吹っ飛ぶのがそんな面白いか!」
「年寄りの冷や水はやめなさいって大城|全《ぜん》部長! 息子《むすこ》さんにまた張り倒されるわよ!」
月読の忠告に、わあい、と老《ろう》主任達が拍手《はくしゅ》を開始。音頭《おんど》を取って、
「もーう一発! もーう一発! 月読部長のいいところー、ちょっとわし達見てみたい〜!」
「しょーがないわねえ。今度は派手よ〜」
月読は笑顔で弦《つる》を引き絞《しぼ》った。
「タメ撃《う》ちにはちと足りないけど……!」
散る光の中、空に向かって大弓《おおゆみ》の弦が鳴った。
その震えは高音で、応える空には光が降る。
「来たれ月の光!」
垂直落下の光は、数が少ないものの、もはや草原|限定《げんてい》で狙ってくる。
十数本の光条《こうじょう》が空から大地へと降り注ぐ。
……これで決まりかしらね。
そう思った直後。彼女は動きを止めた。
視界の中央。遠くに見える森の中から、新しい人影の群が出てきたのだ。
月読は彼らを知っている。
佐山《さやま》、新庄《しんじょう》、出雲《いずも》、風見《かざみ》という四人と、続いてくるのは戦闘服の集団だ。
その先頭、風見と出雲が走りながらこちらを見た。
そして、風見達の後に続く佐山と新庄は、こちらを――、
「否《いな》」
佐山《さやま》と新庄《しんじょう》は誰も見ていない。
二人が見るのはこちらの背後にある荒王《すさおう》だ。だが、
「荒王より先に、この月光《げっこう》落下をどうする気かしらねえ!?」
月読《つくよみ》が叫び問うた声には、答えが来た。
それは歌。この|Low《ロ ウ》―|G《ギア》に伝わる聖歌《せいか》だ。
森の中から響《ひび》く女性の声で、蕩々《とうとう》と謳《うた》われるのは清しこの夜。
Silent night Holy night/静かな夜よ 清し夜よ
Brought the world peace tonight,/今宵 世界に平和がもたらされる
From the heavens' golden height/天上 その気高き位置から
Shows the grace of His holy night/天の聖意の偉大さを見せよ
Jesus, as man on this earth/神の子は 人としてこの世へ降臨する
Jesus, as man on this earth/神の子は 人としてこの世へ降臨する――
響く声と言葉、その意味に応じるように、月光の鉄槌《てっつい》が減衰《げんすい》した。
音少なく、光薄く、月光は本来の光に戻って草原を照らしていく。
「……!」
月読の息を飲む音。それに応じるように歌い手の声が森から外に響いてきた。
謳うのは長い金の髪を揺らす女性。その名を横にいた老《ろう》主任が告げる。
「シビュレ。――武神《ぶしん》や自動人形に詳しい整備の子じゃな。女神《めがみ》の名を持ち、金の髪を持つ女性、か? 開発部に呼んでみたらどうかね?」
「女っ気は私だけじゃ足りないかしらねえ?」
足りん足りんと周囲の老主任達が頷《うなず》き、月読は苦笑。
しかし弦《つる》を引き絞《しぼ》る手を緩《ゆる》めることはない。
「――ま、とりあえず戦闘はまだまだ続行、こっちが有利なのよ?」
森から続いて出てきた敵に対し、味方が攻撃方法を変えた。
空からの攻撃。飛翔《ひしょう》の意を名に持つ者達の攻撃だ。
月読の記憶《きおく》によれば、全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の側で飛翔能力を持つのは風見《かざみ》だけ。
他、姓《かばね》を見るからに、こちらと同等の姓を持つ者はいなかった筈《はず》だ。だが、
「来るぞ……」
老主任の、かすかに驚きを含めた声が聞こえた。
そして月読は一つの事実を見る。森から出てきた全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》側の幾人《いくにん》かが、
「飛ぶ……?」
恐る恐ると、しかし、彼らは階段を昇るように空へ上がり、己の武器を行使し始めた。
どういうこと、と思い、月読《つくよみ》は弦《つる》を絞《しぼ》り上げる。前方、こちらへと来る風見《かざみ》と出雲《いずも》へと。
「……まさか?」
森の中に残っていた人影の内、猫と鳥を連れた小さい影がつぶやいた。
「姓名《せいめい》のシステム、ね。先ほど佐山《さやま》が言った名前に関する単純なことというのは」
やれやれという声で言うのは、ブレンヒルトだ。
彼女の横、至《いたる》を横に置いた|Sf《エスエフ》が頷《うなず》きを一つ。
「2nd―|G《ギア》における名とは、役目などを表したもので、|Low《ロ ウ》―Gでいえば姓名の姓《かばね》にあたります。2nd―Gは技術者集団、姓こそが本体であり、下につく名の方は家族構成などしめす所属ナンバーのようなものでした」
その言葉に続いたのは、Sfの横に立つディアナだ。
「でも、Low―Gでは姓が記号化して、名の方が重視されますのにね」
つまり、彼らが空を飛ぶことが出来るのは、
「空や風、大気現象や動物に関する字を名前として持っているから。この国では、たとえば翔《かける》や霞《かすみ》、光や竜なんて字は、大体の場合、姓ではなく名に付くものですよね」
ディアナの言葉に頷いたブレンヒルトは、森の向こうを見た。
木々の陰の向こう、もはや天地に展開して叫びや光が生まれている。
そんな彼女にディアナが問うた。
「気になりますの? 彼らのことが」
「どうかしらね。――とりあえず私は頼まれて監査《かんさ》役を受けただけよ。だから見てるの」
あらあら、とディアナは肩を竦《すく》めて至を見る。
「至君、貴方《あなた》のお父様がこの子を1st―Gからの監査役にされたのって――」
「解《わか》ってるだろう? お前の監視《かんし》をするためさ」
ふ、とブレンヒルトが苦笑した。
彼女は身を一歩背後へと送り、ディアナと軽く距離をとる。
そしてディアナを下から睨《にら》み、
「本意なんてどうでもいいわ。私としてはこのムカつく女が全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》にケチをつけるかどうか監視出来れば充分。せいぜい仲良くしましょう、ジークフリートが言った通りに」
「意地の悪い言い方しますのね? 私、ケチつけなんてコスいことしませんのよ」
ディアナは目を鋭く細めた。ゆっくりと笑みを作り、
「問題あると解ったならば、その場で潰します」
「それは、独逸《ドイツ》UCATのため?」
「違いますわ。……独逸UCATのためでもなければ私のためでもありません。強《し》いて言うならば、全てがここに至るまでに失われたもののためでしょうか?」
「失われたもの? それは何? 滅びていった|G《ギア》?」
「貴女《あなた》がそう思うのは、まだ何も知らないからですのよ?」
「………」
「誰も、私達の過去に何があったのかは知らない。本当に、本当の意味で、ね」
告げられた台詞《せりふ》の内容を、ブレンヒルトは黙って受け止めた。
ややあってから、足下の黒猫を拾い上げ、
「まあいいわ。今夜のところは見逃してあげる。2nd―Gの概念《がいねん》だと、私の術も上手《うま》く行使出来ないしね」
「あら? 私は別に見逃されなくてもいいんですのよ? いつでもどこでも二十四時間、私の術は充分に強いですから」
へえ、とブレンヒルトは薄い目でディアナを見上げた。
「両乳に燃料入れてるような女は言うこと違うわね。私も、今ので貴女の未熟さに同情しなくてよくなったのかしら? 言っておくけど、学校のアレ、実力二十パーセントくらいだから」
「あらあら、私はアレ、十五パーセントくらいでしたけど」
「あ、数え間違えた、五パーセントくらいだったかしら」
数字を笑みで言い換え直していく二人を見て、|Sf《エスエフ》が至《いたる》に顔を向けた。
「どちらが虚偽《きょぎ》報告でしょうか」
「どっちも本当ではなく、――本気だ」
と、至が言ったときだ。
不意にディアナとブレンヒルトが距離をとった。
ブレンヒルトの腕の中で黒猫が顔を上げ、
「え? ちょっと? ぼ、僕を下ろさずどうする気?」
「盾《たて》にはなりませんわよ? そのくらいブチ抜きますもの」
「ふン、ただの猫じゃないわ。一発くらいなら耐えてみせるわよ。――いい? 根性《こんじょう》よ」
「ぼ、僕の意見を無視して物騒《ぶっそう》はやめてー!!」
猫の抗議《こうぎ》は強い抱擁《ほうよう》で身動きごと止まった。
そしてお互いが笑顔で、さて、と前置きしたときだ。
右手、森の方から、人影が五つ飛び込んで来た。
「全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》監督、大城《おおしろ》・至と見受ける! ここに来たのは開発部の御上《みかみ》と香取《かとり》の一隊!」
声とともに現れたのは剣を手にした五人の若者。
その先頭に立つ青年、御上はこの場にいる四人を見て、
「いざ尋常《じんじょう》に――」
と言葉を止めた。
御上《みかみ》の視線は、向かい合ってにらみ合う女二人を見て、
「…………」
と沈黙《ちんもく》。
そして不動となった御上と四人に、ゆっくりとブレンヒルトが振り向いた。
「ふン、いい試し割りの的《まと》が来たようね。どちらが強いか計ってみる?」
「あら? 珍しく同意見ですのね? どちらが先にやりますの?」
え? と対する五人が思わず一歩を引いた。御上が手を前に広げ、
「ちょ、ちょっと待て、何故《なぜ》独逸《ドイツ》UCATと1st―|G《ギア》が――」
「的は黙ってなさい! いい? ちゃんと声《こえ》挙げて吹っ飛ぶのよ?」
「そうですのよ?」
女二人の言葉に、五人が顔を引きつらせて凍った。
そのときだ。
「おやめ下さい」
|Sf《エスエフ》が凛《りん》とした声を響《ひび》かせ、ディアナとブレンヒルトの前に走り出た。
「監査《かんさ》役が戦闘に加わることは認められておりません」
う、と声を飲んで女二人が動きを止める。
対する御上も、ややあってから慌《あわ》てて首を下に振る。
「そ、そうだ。相手をするなら全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》にお願いしたい」
Sfは一つ頷《うなず》き、五人と二人をまず見回した。
皆が自分を見ていることを確認の後、Sfは会釈《えしゃく》一つで踵《かかと》を揃《そろ》えた。
「――|Tes《テ ス》.、皆様、御| 了 承 《りょうしょう》いただけて幸いです。これも私に搭載《とうさい》された交渉プログラムの恩恵《おんけい》であると判断します。御感銘《ごかんめい》された方は独逸UCAT内Sf開発係までメールで御感想をどうぞ。ただ、最近はブラボーと書いても喜ばれますが、未だにハラショーは厳禁《げんきん》です」
「あ、あの? Sf? 御感想は別として、……この場は、どうするんですの?」
一瞬戸惑《いっしゅんとまど》った2nd―G側の男達も、ややあってから頷いた。
御上の背後、小太《こぶと》りの香取《かとり》が額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》いながらSfを見る。
「まさか、君が戦うのかな? |Low《ロ ウ》―Gの武装はほぼ意味無しだけど」
「Tes.、御気遣《おきづか》い有《あ》り難《がと》う御座《ござ》います。しかし私めとて全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の備品として存在しております。装備|類《るい》につきましても御安心下さい」
Sfの言葉に至《いたる》が怪訝《けげん》な表情をした。
「俺、未だに一度も御安心したことがないんだが」
「至様、真の御安心とは、自分が安心していると意識しないですむことです」
「ほほう、では、俺が毎日お前に感じる微妙《びみょう》なスリルは何だ?」
「Tes.、退屈《たいくつ》な日常へのスパイスです」
|Sf《エスエフ》の言葉に、至《いたる》は無言でディアナを見た。ディアナは慌《あわ》てて首を横に振り、
「そ、そういう思考《しこう》の仕方はそちらのフォーマット仕様じゃありませんの?」
「責任|逃《のが》れか……」
「あ、ほらほらSf? これから貴女《あなた》がどう戦うのか至君が興味あるって言ってますわよ?」
ディアナの慌てた声に、Sfは至を見た。至はやれやれと頷《うなず》き、
「なるべく相手が喜ぶように対処しろ。いいな?」
「|Tes《テ ス》.、では――、皆様、御覧《ごらん》下さいこの装備品」
と、Sfは一礼。スカートの右裾《みぎすそ》を持ち上げて手を突っ込むと、
「それは向かってくる百人を一瞬《いっしゅん》で討《う》ち倒すことを目的として開発。その通りの効果を示したところ、誰もが製作者の名を付けて呼ぶようになり、事実、戦場においては一騎当千《いっきとうせん》の意味を持つものとなりました」
手とともに引き抜かれたのは二メートル近い長大な黒の鉄塊《てっかい》。
砲《ほう》と見まごう太い銃身《じゅうしん》は、ライフル型の銃身が六本|束《たば》に固められた姿だ。その名を、
「ガトリング銃《ガン》。本日ここに御用意しましたこれで、満足に御奉仕《ごほうし》出来ると判断します」
腰を落としてSfは重火器《じゅうかき》を構えた。
「そして続く我が名は |在るべき婦人《ザインフラウ》=B――私は私の在るため、主人の御要求に応えるために戦います。貴方《あなた》達も、己のために存分を尽くされるようお願い申し上げます」
言い切ったSfの正面。
2nd―|G《ギア》の男達が口元を引きつらせ、
「お、お願いって……、どうやってそんなデカブツをスカートに!?」
彼らの顔に向かい、Sfは告げた。
「まだまだ未知なる機能で毎日の生活を楽しく演出するSfは、独逸《ドイツ》UCATの裏《うら》代表作です。これからも御期待下さい――」
機械の笑みをSfは作る。
それは前に至に指示されたこと。この台詞《せりふ》の後に言うべき言葉も知っている。
その言葉を告げられると相手は喜ぶのだと、前に至は言っていた。
だから口元に機械の笑みを浮かべ、Sfは御上《みかみ》達に告げた。
「――くたばれもしくは死ね」
進撃《しんげき》が始まった。
隊《たい》中央に歌を朗《ろう》じるシビュレを置き、佐山《さやま》達は走りをもって前に進む。
先頭集団に加わった佐山達がすべきは、敵陣《てきじん》の突破だ。
佐山は左腕のゲオルギウスを振り上げ、叫ぶ。
「|進軍せよ《ゴーアヘッド》……!」
応《おう》、と皆が応《こた》え、敵との激突《げきとつ》を望む。
草原の上、月光の下、佐山《さやま》は横に新庄《しんじょう》を並べ、前には出雲《いずも》と風見《かざみ》を立て走っていく。
土を蹴《け》って行く先は敵陣《てきじん》の向こう。森を越えた場所に見える鉄の巨人。
間近な森の前にいるのは敵の本隊、月読《つくよみ》を中央に置いた布陣《ふじん》だ。
こちらを率《ひき》いるように走る風見が、一直線にそこへと向かって行く。
彼女の走りを後押しするように、背後、シビュレの歌声が響《ひび》いた。
「Brought the world peace tonight――/今宵 世界に平和がもたらされる――」
歌われる歌詞の意味に佐山は思う。まさにその通りだ、と。
気づけば横の新庄も同じ歌を口ずさんでいる。
「Shows the grace of His holy night――/天の聖意の偉大さを見せよ――」
その通りにすべき夜だ。今宵《こよい》、この夜こそは。
思いとともに走る身体《からだ》は、敵《てき》本隊に近づく。
今や距離にして三十メートル。
彼ら、月読達と佐山達は、走る中で視線を合わせる。
こちらは攻め行く者、向こうは待つ者として。
すると、敵の方に動きがあった。
月読《つくよみ》。
黒の大弓《おおゆみ》を携《たずさ》えた彼女が、いきなり本隊から離れたのだ。
「シビュレ君の歌から離れるつもりか」
佐山《さやま》の言葉に、前を行く風見《かざみ》が舌打ちした。
「――模擬《もぎ》戦って割にはかなりマジね。向こう、私達を倒せば勝ちだと解《わか》ってるわ!」
風見は走る速度を上げた。彼女の足の向く先は月読の行く先に等しい。
「あのオバサンはこっちが担当するわ! それと佐山! ……アンタ、八叉《やまた》の問いの答えは解ってる? そして、八叉|解放《かいほう》時に出る炎熱《えんねつ》の処理なんかも考えてあるんでしょうね? ここでアンタが焼け死ぬのは心晴れ晴れするんだけど!」
「ならば風見、残念だが、君の心は当分晴れないだろう」
新庄《しんじょう》の心配そうな視線を受け、佐山は告げる。
「――どちらも考えてあり、手は打ってある。行け、二人とも、己の戦闘を終えに。さきほど月光をブチ込まれたお返しを、まだしていないのだろう?」
問いに振り返った風見と出雲《いずも》は同じタイミングで笑みを見せた。眉に力を入れた笑みを。
「先に凱旋《がいせん》しとくわよ!」
大きくステップを踏み、風見が月読の方へと身を向けた。
出雲も続き、あとは佐山と新庄だけが荒王《すさおう》への道を進む。
月読は、森の中を追ってくる風見と出雲に苦笑した。
……そう、それでいい。
これは模擬戦。死人が出ぬように手加減《てかげん》し、仲間内で行われる喧嘩《けんか》のようなもの。だが、
……2nd―|G《ギア》の私達にとっては、|Low《ロ ウ》―Gと行う最後の戦闘。
六十年前、八叉によって2−nd―Gが滅びなければ、こういうものを実戦として行っていたかもしれない。だとすれば、
「大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》が2nd―Gを救えなかったのは、良かったのかもしれない」
少なくとも、2nd―GがLow―Gに帰化《きか》せねば、突っ込んでくる風見と出雲の視線の力も、目的に向かって突っ走る佐山と新庄も、
……鹿島《かしま》や熱田《あつた》や、若手達の動きも無かったでしょう。
夫が今生きていれば、この戦いをどう思うだろうか。
九五年末、関西|大震災《だいしんさい》の二次災害で亡くなったと聞かされただけだが、月読はそんなことを信じていない。
事故ではなく、何か があったのだろうと、そう思っている。
……あの人は、世界がこうなることを知っていたかしらねえ?
どうだろうか?
……あの人が事故ではなく、世界をこうするために亡くなったのだとしたら?
「その意味を与えるのは、遺《のこ》されたあたしらの仕事ね」
走る森の中、月読《つくよみ》は頭上を見上げた。
月は木々の葉の向こう。影の中では月光が減衰《げんすい》する。
そして十五メートルほど後ろには元気な追っ手が二人いる。
出雲《いずも》と風見《かざみ》。暗い森の中でさえ、二人の影はともに離れずに見える。
いいコンビだ。
ではこちらはどうするべきか。
その思いとともに、月読は左腕の月天弓《げつてんきゅう》を見た。
「――狙うは一発のみ、と」
佐山《さやま》と新庄《しんじょう》は森の中の道を抜けた。
闇に慣れた視界が月の光を受け、わずかに目が眩《くら》む。
が、そこに攻撃は加えられなかった。
何事もなく、佐山は新庄と共に、湖前《こぜん》の広場に出る。
月光に慣れた目が雑草の広場を見て、湖を見て、桟橋《さんばし》を見て、
「荒王《すさおう》……」
巨大な黒の影が、湖面に立っている。
そして、荒王に届く桟橋の前には、二つの人影が存在していた。
一人はノートPCを手にした鹿島《かしま》。
もう一人は巨大な鉄剣《てっけん》を肩に担《にな》った熱田《あつた》だ。
二人と視線を合わせ、佐山は頷《うなず》いた。
「――来たぞ」
「来てくれたか」
安心したような声で鹿島が頷く。そしてノートPCを見せ、
「これから行われる戦闘において、僕はリアルタイムでフツノの出力調整をしていく。力のトルクパターンが、常に右上がりになるようにね。――だから実質、こちらは二人だ」
「私達二人を、そのブレードハッピーが相手にすると?」
「――は! 馬ッ鹿じゃねえのか佐山の糞餓鬼《くそがき》! 二人がかりでも相手になるものかよ!」
熱田の言葉に佐山は、ふと、己の左胸が疼《うず》くのを悟る。
「佐山の……?」
彼の台詞《せりふ》は、自分が佐山の子供であるという意味だ。
……まさか、父を知っているのか?
送った視線に、熱田《あつた》が笑った。犬歯《けんし》を見せる笑みで、
「遼子《りょうこ》と俺は同級生でな。オマエの親父《おやじ》へのノロケをよく聞かされてきたもんよ。――ひょっとしたら、俺の方がオマエの親父を知っているかもしんねえ。そして、テメエの身体《からだ》、左胸が抱えている爆弾《ばくだん》な。……見たぜ、食堂で鹿島《かしま》と話してるときによ」
言葉に、佐山《さやま》は浅く息を飲んだ。
左胸、久しぶりとも言える軋《きし》みが来る。
そして熱田が、胸を押さえたこちらの右手を見て告げる。
「ま、夜は長いんだ。充分|遊《あそ》んでから始末《しまつ》してやるよ。遼子に言われてんだ。テメエが危険なことするようなら止めてくれってな。一生|止《と》まっていられるようにしてやるよ」
「願い下げだ。……遼子も馬鹿なことを言う」
「……何?」
「私は危険の中にしか進まないと、遼子は知っている筈《はず》だ」
断言する。
するとこちらの左手を包むものがあった。それは新庄《しんじょう》の右の手指だ。
細い繊手《せんしゅ》がこちらの左手を、ゲオルギウスを握っている。
彼女はわずかに眉尻《まゆじり》を上げた顔で、しかし笑みを作って頷《うなず》いた。
「やっつけよう」
新庄の言葉に対して苦笑したのは鹿島だ。
そして彼の笑みを聞きつつ、佐山も頷いた。
前を見る。2nd―|G《ギア》の男二人と、その背後にある巨人の影を見据《みす》え、
「……必ず、勝とう」
言葉とともに、佐山は前に出た。
風見《かざみ》と出雲《いずも》は、森の中を走っていた。
正面、距離十五メートルの位置を月読《つくよみ》が走っていく。それをこちらも追いかけるのだが、
「一向に距離が縮まらないわね……!」
前方、光が飛んできた。月光の一発。それは森の中、影に沈んで細く力|無《な》い。
だが、たった十五メートルの距離では減衰《げんすい》にも程度がある。
走っている状況で食らえば、カウンターで吹き飛ばされるのは確実だ。
「面倒この上ねえな!」
出雲が飛来《ひらい》した光条《こうじょう》を|V―Sw《ヴイズイ》で叩き切る。V―Swのコンソールが書く文字は、
『ツマンナイ?』
「戦術が噛《か》み合ってねえからな。第二形態とか使えれば……」
それは、模擬《もぎ》戦のルールでは出来ない相談だ。風見《かざみ》は出雲《いずも》の言葉に頷《うなず》くしかない。
そしてこの森の中、背の|X―Wi《エクシヴイ》から翼《つばさ》を出して飛ぶことは叶わない。飛翔《ひしょう》などすれば、木々に激突《げきとつ》する危険がある。
だから走り、風見は思う。
……試されている……?
走る前方からまた光が来て、出雲が打ち砕いた。月読《つくよみ》の射撃《しゃげき》は狙いもタイミングも的確《てきかく》だ。
狙いは過《あやま》たず、こちらが一息を入れようとしたところに撃《う》ち込まれてくる。ただ、
……威力《いりょく》は弱い。
森の中だからか。森に入って以来、初めに迎えたような野太《のぶと》い光条《こうじょう》は飛んでこない。
そしてこれだけ連射《れんしゃ》をしているということは、
「溜《た》め打ちの月光《げっこう》落下も無い、か」
そして風見は考える、月読の狙いはどこにあるのかと。
森の中では月光の力は弱いのに、では何故《なぜ》、月読は森に飛び込んだのか。
「月が見える有利な場所など――」
……ある。
風見は走りながら顔を上げた。前方、自分達の行く先を見る。
無論《むろん》、風見の視界に見えるのは木々の連《つら》なり、ここがどこかは容易に判別出来ない。
だが、風見は知っている。
先日、森の中を調査した彼女は、ここの地形を知っているのだ。
「この森は中央の人造湖《じんぞうこ》を囲むようになっていて、――森の中でも川があるのよ!」
森の中とはいえ、川には木々の遮蔽《しゃへい》がない。
川面《かわも》に立てば、月光の下、月の弓と名は全力を吐き出すだろう。
そして、言葉通りのものが見えた。
遠く、森が一度とぎれている。
気づくなり、どきりとした。
焦りを促《うなが》すように、川の流れる音が聞こえてきた。
隣《となり》を行く出雲が舌打《したう》ち一つ、
「どうする千里《ちさと》。……誘われてるのを覚悟《かくご》でつき合うか!?」
風見は思考《しこう》する、彼我《ひが》の戦力を。
こちらに足りないのは機動力《きどうりょく》。
対する向こうは攻撃力不足。たとえ川に出たとしても、連射を行っているため、迎撃《げいげき》は正面|一《いっ》直線の射撃しかない。
ならば答えは一つだ。風見はそれを己の装備に叫んだ。
「川に出られる前に討つわ! |X―Wi《エクシヴイ》、行くわよ!」
「馬鹿、飛ぶのか!?」
違うわよ、と叫び、風見《かざみ》は身体《からだ》を前に倒した。同時、風見の左腕の時計に文字が走る。
・――光とは力である。
言葉を証明するように、背のバックパックから光の翼《つばさ》が跳ね上がった。
どうすればいいか、風見は知っている。
かつて1st―|G《ギア》の戦闘で少しだけ見たことがある。ファーフナーという半竜《はんりゅう》が、己の翼を飛ぶためではなく、
「加速と方向|制御《せいぎょ》に使っていたわよね……!」
翼が成り立つと同時。風見は前を見た。
月読《つくよみ》の影が、今まさに森から飛び出そうとしていた。
行くならば、
「……今!」
風見は、叫びの瞬間《しゅんかん》に前へ出た。背後、風の爆発を生んで。
飛ぶのではなく、彼女は疾走《しっそう》を開始した。
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第二十九章
『虚偽の見破り』
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嘘を見破る必要はない
だが虚ろな偽りは赦すこともない
破り果たして何かを救え
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月の光が落ちる広場の中、佐山《さやま》は動いていた。
左手、かつて拳《こぶし》を握っていた手は、今、ゲオルギウスとともに一本の刀《かたな》を収めている。
拳についた傷から微《かす》かな幻痛《げんつう》を得るが、我慢《がまん》出来ないほどではない。
佐山は前に踏み込んだ。
剣を熱田《あつた》に対して振り抜く。
対する熱田は身を反《そ》らして右に回避。
フツノを横打ちに叩きつけてくる。
そこにこちらの背後から援護《えんご》射撃が来た。
新庄《しんじょう》が杖から放つ光弾《こうだん》三発。それらが左右上下差をもって熱田に叩き込まれる。
直撃《ちょくげき》する。その筈《はず》だった。
佐山は見る、熱田がフツノの軌道を変えたのを。
こちらを横薙《よこな》ぎに払うはずだった剣が、いきなり垂直に上へと跳ね上がった。
刃《やいば》の軌道は扇《おうぎ》を描いて熱田の右へ。
大剣《たいけん》が回った後には一つの事実が発生する。
新庄の放った光弾が、全て熱田の後ろへと抜けていたのだ。
「――――」
新庄の息を飲む音が一つ。
だが予想|範囲《はんい》内の出来事だ。佐山は既に次の動きをとっている。
眼前。右に剣を落とした熱田がいる。左ががら空きだ。
だから佐山は左腕の銀弧《ぎんこ》を叩き込んだ。
と、熱田が苦笑し、
「結構《けっこう》スジいいじゃねえか。――どっかで習ってるな?」
飛場《ひば》道場における訓練の一環《いっかん》だ。刃を振る方向に対してきっちり立てる技術は持っている。
ゆえに刃は風を断ち切り一瞬《いっしゅん》で熱田の元へ。
熱田が身を退《ひ》く。
足音一つのバックステップは、しかし速く、そして遠い。
一瞬で五メートルほどに間合いが開き、佐山の刃は空を切る。
距離が生まれた。
「――っ」
両者同じタイミングで構えを取り直す。
佐山が取るのは突撃《とつげき》体勢だ。
一直線に前を望む。
瞬間《しゅんかん》。
こちらを見た熱田《あつた》が、不意に一つの言葉を放った。
「……準備運動はこの程度にしようぜ」
告げられた直後。熱田の姿が見えなくなった。
否《いな》、知覚出来なくなったのだ。
「!」
歩法《ほほう》だ。
風見《かざみ》は|G―Sp《ガ ス プ》2を手に走った。
相手との距離十五メートル。これを一気に零《ゼロ》に持ち込む必要がある。
背の翼《つばさ》から風を生む走りは、文字通りの疾走《しっそう》だ。
速い。
高速で行く森の中、前から木々の群が来た。
緊張《きんちょう》によって狭《せば》まった視界は、殴りつけるように迫る木を影として捉《とら》える。
正面、右、そして右。
そして強引《ごういん》に左に入れて方向を補正。
「――!」
翼の軽い羽ばたきと、地に着くステップ。
その動きの重なりが身の動きを支えていく。
汗など一瞬《いっしゅん》でかき消える速度。
羽ばたけば身体《からだ》は前にぶちまけられる。
瞬速《しゅんそく》。そんな流れの中で頼るのは己の感覚と、……名前。
風見・千里《ちさと》。
己の名に掛け、彼女の目は風を読み、走る脚《あし》は千里を詰める。
距離が五メートルを割った。
前方から光が一発来る。
が、構わない。軽く頬《ほお》を傾けて回避するだけ。
「走りはそのまま!」
手を抜くことも気を抜くことなく、最後まで加速のままで行けばいい。
「……行け!」
踏んだ足に大気爆発の白い蒸気を生み、風見は自分の身体を前に吹き飛ばす。
大|飛翔《ひしょう》。
それも天上ではなく、前進への一発だ。
高速で最後の木々と闇をくぐり抜け、風見《かざみ》は最後の距離を詰め切った。
同時。
眼前に光が来た。
それは狙い打ちの月光|射撃《しゃげき》。カウンターで、ほぼ零《ゼロ》距離だ。
「!」
だが風見は迷わない。
腕の中にある|G―Sp《ガ ス プ》2を振りかぶり、前方に突き込んだ。
機殻《カウリング》の槍《やり》は大気を突き破り、白い水蒸気をまとって光に激突《げきとつ》。
手応《てごた》えあり。
白い音が弾《はじ》け、光が四方へと散った。
その向こう、風見は視線を送る。
このまま前進し、月読《つくよみ》を吹き飛ばせば勝利だ。が、
「――いない!?」
視界の中、散っていく光の向こう。月読の姿が見えなかった。
否《いな》、正確に言えば、知覚出来なかったのだ。
「千里《ちさと》!」
出雲《いずも》の声に、風見は身を震わせた。
歩法《ほほう》だ、と思うより早く、己の息を止め、身を引きしめる。
こちらとの同調を利用する2nd―|G《ギア》の歩法を破る方法は一つ。
……自らの心拍《しんぱく》などを故意《こい》に乱し、同調をズラす!
昨夜の屋上で出雲相手に成功している。
息を止め、全身に力を入れて血流を促《うなが》し、視界を広く持つ。すると、
「……見えた!」
目の前、大弓《おおゆみ》を構え、疲労の色を顔に浮かべた月読がいる。
だが、先ほどの一瞬《いっしゅん》が致命的だった。
既に月読は身を捻《ひね》って攻撃を回避。
彼女の身は森の外へ飛び出している。
対する風見は月読とすれ違い、やはり森の外へと飛び出していく。
眼前には川。
幅五メートルほどの流れだが、月光を浴びるには充分な幅だ。
警戒《けいかい》心から月読の構えを確認した風見は、息を飲んだ。
川に落ちていく視界の中、月読は川に身を躍らせながら、空へと弓を構えていた。
「あれだけ連射《れんしゃ》していて、溜《た》め撃ちなんて――」
抗議《こうぎ》の声は、目が見た事実に停まった。
月読《つくよみ》が弦《つる》を引き絞《しぼ》る右腕、その肘《ひじ》が、弦の中央に絡みついていたのだ。
肘は強く弦を引き絞っている。
肌に弦を食い込ませ、血を垂らしながらも、だ。
「まさか、今までそうやって、肘で弦を引き絞ったまま……!」
「そう、貴女《あなた》達を撃《う》っていたのは、肘から先で弦の上端を弾《はじ》く爪弾《つまび》きね。…森の中、肘を使ってずっと溜《た》め撃ち姿勢だったの」
同時。風見《かざみ》と月読は川へと着地する。
お互いの距離は約五メートル。
月読は川床《かわどこ》に立つが、風見の姿勢は崩れていた。
風見はまるで前に転ぶような姿勢で川床を崩し、水に手を着いて身構える。
慌《あわ》てて腰を上げ、月読を見上げるが、
「――よく頑張った、と言ってあげましょうかねえ」
月読が頷《うなず》きとともに空へと弦を放った。
腕を伝う血が振動で飛び散り、宙をわずかに赤く染めた。
直後。空から光が来た。それも、今まで見たこともないほどの大きな光が。
その光は一瞬《いっしゅん》で風見の頭上へと落下した。
熱田《あつた》は前に出た。
前方に立つ二人はこちらが見えず、迂闊《うかつ》に動くことが出来なくなっている。
二人の視線が微《かす》かに動くが、その動きは目印|無《な》しに彷徨《さまよ》っているだけだ。
こちらの歩法《ほほう》が成立した証拠《しょうこ》だ。
熱田はふと、右手側を見た。
右後方、桟橋《さんばし》の前に鹿島《かしま》がおり、ノートPCを操作している。こちらの手の中、フツノの中で水が傾き動いているような感覚があるのは、鹿島が重量|配分《はいぶん》をリアルタイムに行っているためだ。
「あんましムキになんなよ鹿島。もう仕留《しと》める時間だぜ」
「パターン化がそろそろ出来そうだからね。それに、戦闘時ではなく、こういうゆっくりした動きのときもデータが欲しい」
「俺が欲しいのはカッ飛びスポーツカーであって低速|有意義《ゆういぎ》ロイヤルサルーンじゃねえぞ」
「高《こう》機動時も低《てい》機動時も安定というのは、技術者の望みなんだけどなあ」
さよか、と肩を落としつつ、熱田は佐山《さやま》の前に辿《たど》り着いた。
距離にして約三メートル。佐山の持つ刀《かたな》ではこちらに攻撃を入れるのに二歩が必要な距離だが、フツノのリーチならば踏み込んで一撃《いちげき》の距離だ。
熱田《あつた》は前に踏み込み、しかしその足を止めた。
攻撃しない。
わずかな焦《じ》れた間の後に、熱田は、さて、と前置き一つ。
「ここで思い切りガツン入れて全裸で土下座《どげざ》させるのもいいかもしんねえな。だが、この聡明《そうめい》な熱田様は一つ気がかりを持っている」
彼は、自信ありげな口調でこう言ったのだ。
「……佐山《さやま》・御言《みこと》。まさか全竜交渉《レヴァイアサンロード》の代表をやってる人間が、俺達の歩法《ほほう》を解析《かいせき》してねえ筈《はず》がねえだろう、とな」
佐山は熱田の言葉を聞いていた。
彼の歩法は既に破っている。
かつて食堂で熱田の歩法と実力の一端《いったん》を見た。そして歩法の原理自体は竜徹《りゅうてつ》に投げられたときに気づいている。
歩法は、行うことは難しいが、原理を知れば破ることは容易《たやす》い技だ。
後は熱田が近づいてくるまで歩法にかかった振りをし、カウンターを入れればいい。
その筈だった。
だが、熱田は今、目の前で| 仰 々 《ぎょうぎょう》しく頭を振り、
「たとえば、そう、俺の歩法を破るのにこんな方法はどうだ? 俺が知覚出来なくなった瞬間《しゅんかん》、息を止めたりして、同調を自ら大きく崩してみるってのは」
しかし、と彼が言った。
「まあ、そうであっても、……俺はそんなことを確かめようとも思わねえ」
熱田はフツノを構えた。
もはや彼の表情に遊びはない。そして響《ひび》く声も嘲《あざけ》りの無いもので、
「聞け、佐山。――演技は止めて俺と勝負しろ」
佐山は沈黙《ちんもく》を保つ。
熱田の本心が判断出来ない。
彼の言葉が、こちらが歩法を破っているかを試すものか、それすらも解《わか》らない。
だが、熱田は告げた。判断の一言を。
「……遼子《りょうこ》はテメエを信頼していたぜ。そんなヤツが俺の歩法を破れねえ筈がねえ」
その言葉に、佐山は息を吸った。
「――――」
身を起こす。と、背後で新庄《しんじょう》が息を飲む音が聞えた。
だが構わない。佐山《さやま》は熱田《あつた》を見て言う。
「随分《ずいぶん》と感傷《かんしょう》的だな、最近の剣神《けんしん》は」
「かたじけねえ、と言ってやらあ」
熱田はフツノを構え、
「勝負しようぜ色男《いろおとこ》。――これから、さっきとは違う、テメエ専用の歩法《ほほう》に叩き込んでやる。それを破り、俺を討《う》てるかどうか」
「……私|専用《せんよう》の歩法?」
問うた声にフツノを握り込み、熱田は告げた。
「単純なものだ。テメエを、こっちの方から無理矢理《むりやり》同調させてやろうってんだ。……つまり、テメエの身体《からだ》の制御をこっちで行う」
「私の体を制御するなど、そんなことが――」
「出来るンだよ馬鹿。テメエに対してはな」
「私に対しては……?」
何をする気だ、と佐山は思う。
その思いに答えるように熱田が告げた。
「どうだ? 教えて欲しいだろ? テメエの身体を制御する言葉ってのをよ。……そして、少しは疑問に思ったんじゃねえか?」
首を傾《かし》げ、
「遼子《りょうこ》が、どういう風にテメエを信頼しているか、ってのを」
「……確かにそうだな。遼子がどのように私を評したのか。なかなか謎《なぞ》だ」
言葉に対し、熱田が足を踏みしめた。大《だい》上段にフツノを上げ、
「聞け」
無表情に熱田は告げた。
「遼子がかつて俺に何度も言ったんだ。テメエの父親はとても優しく、頭のいい野郎《やろう》で、解けない問題など何も無いと。テメエの父親、――佐山・浅犠《あさぎ》のことをな!」
いきなり聞いた父の名前。
自分の評が来ると思っていたところに、その名前は突き刺さってきた。
「!」
たった一つの名前に、佐山の左胸が反射的な悲鳴を上げた。
思わず身を折る痛みに、熱田が追い打ちの言葉を叫ぶ。
「遼子はこの前《まえ》俺に言ったよ、嬉《うれ》しそうにな。息子《むすこ》は親父《おやじ》にそっくりだと」
告げられた言葉が過去を呼ぶ。
一瞬《いっしゅん》だが、父のことを思い出した。
……いかん!
否定の意志を、記憶《きおく》は凌駕《りょうが》する。
心の奥底に封じていた、母よりも知ることの少ない存在。彼への言及《げんきゅう》に、左の胸が絞《しぼ》られるような痛みを寄越《よこ》してくる。それは激痛《げきつう》という形を取っていて、
「――く」
肺が潰されたような声が、喉《のど》から漏れた。
「痛ぇか? その痛みだ。その痛みで俺はテメエを制御する……!」
同時。熱田《あつた》の姿が知覚から消えていく。
彼は、こちらの痛みの中に入ろうとしている。
ふと、記憶の中、実際の父は遼子《りょうこ》の言うような人間だったろうかと思い、そして考える。
これは確かに、こちらの身体《からだ》を制御する言葉だ、と。
身体が前に折れていく動きに、熱田の声が聞こえた。
「残念だったな佐山の糞餓鬼《くそがき》。遼子はいろいろ問題あるヤツだが、……嘘《うそ》はつかねえ! その通り、テメエはよくやった。――だが、そこまでだ!」
言葉とともに、目の前から熱田の姿が消えた。
森の中、川面《かわも》の上、空から月光が落ちる。
森を流れる川に膝《ひざ》まで浸《つ》かって立つ月読《つくよみ》は、目の前の獲物《えもの》を見た。
風見《かざみ》。
全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の前衛《ぜんえい》ツートップの内の一人。二年前の事件、概念《がいねん》核の輸送を襲った6th―|G《ギア》残党との戦闘に巻き込まれ、|G―Sp《ガ ス プ》と|X―Wi《エクシヴイ》の主《あるじ》となった少女だ。
彼女用にG―SpをG―Sp2に改造し、X―Wiを調整したのは月読達だった。
月読は思う。
……あたしらの娘のようなものよ、貴女《あなた》。
「それなら、空から降る光の威圧《いあつ》を返せるくらいでなければねえ」
しかし風見は今、川の中に膝を着き、手を着いて動けない。今の彼女は風を読むことも出来ないだろう。背に生《は》えていた光の翼《つばさ》さえ今は光弱く、消えかかっている。
「――ならば」
告げた言葉に応える者がいた。
出雲《いずも》だ。彼は森を飛び出し、風見の背後へと跳んでいた。
彼は空中にいる間から剣を下段に。口を開き、
「あ……!」
という雄叫《おたけ》びが、川への着水と同時に放たれた。
無駄《むだ》よ、と月読は思う。
彼女の頭の中、|V―Sw《ヴイズイ》の能力は完全に入っている。
……第一形態のまま力をぶつけても、今《いま》降る月光に勝てはしない。
どうするのだろうか。武器を単に力の道具として使うだけなのだろうか、彼らは。
直後。
出雲《いずも》が叫びとともに、月読《つくよみ》の思いを吹き飛ばした。
「ああああっ!!」
轟声《ごうせい》とともにV―Swが下段から振り上げられた。
刃《やいば》が叩きつけられるのは月光ではなく、
「……水!?」
月読の視界、風見《かざみ》の背後で怒濤《どとう》の飛沫《しぶき》が上がった。
第一形態。その力を全開まで叩き出した一撃《いちげき》は、川の水を空へと根こそぎ奪い取った。
逆|爆布《ばくふ》。
水の大音《たいおん》に負けぬ声で出雲が叫んだ。
「千里《ちさと》……! 俺に尻向けてねえで翼《つばさ》を立てろ!」
言葉に、風見《かざみ》が顔を上げた。
空を見る彼女の視線の先、月光の柱が来る。
月読も見た。彼らの直上に達した月光が、
「飛沫に――」
出雲がぶちまけた怒濤の飛沫、水の砕けが光と激突《げきとつ》。
月光と水流の衝突《しょうとつ》は一瞬《いっしゅん》だ。
だが、そこで起きたのは破砕《はさい》ではない。破裂も衝撃《しょうげき》も崩壊《ほうかい》も起きはしない。
起きたのは融和《ゆうわ》。
水と光。大量の水飛沫の中に月光が映り込み、入り込み、内部で乱反射して拡散《かくさん》する。
月光が宙に舞う。
そして月読は見た。水と光の下で、風見が身を縮めたのを。
彼女の表情はもはや鋭角の二字に等しく、開く口から漏れる言葉は、
「覚《かく》。――ありがと」
告げる台詞《せりふ》とともに、笑みが生まれ、背から真上に伸びるのは双《そう》の翼。光の放射だ。
概念《がいねん》が起動する。
・――光とは力である。
放たれた翼、光の翼は一瞬で二メートルを超過し、そしてそこで終わらない。
月光。その光を、
「力ならば……、同じものでしょう!」
翼《つばさ》は風見《かざみ》の叫びに応えた。空に突き立つ両翼《りょうよく》は、光の水|飛沫《しぶき》に突き刺さると、水によって散らばった光を一気に吸い込んでいく。
翔音《しょうおん》。
翼は、身をよじらせるように悶《もだ》え震え、周囲の月光を吸収しながら伸長《しんちょう》展開。
光は全て翼に飲み込まれて消失。
代わりというように、全長十数メートルの大翼《たいよく》が出現した。
熱田《あつた》は身を踏み込んだ。
同調からの微《かす》かな逸《そ》らしはいつも通り完全だ。
激痛《げきつう》とは最も捉《とら》えやすい感覚。
全身が軋《きし》みを挙げるほどの激痛ならば、痛みを一つ押さえるだけで全感覚を掌握《しょうあく》出来る。
あとは一撃《いちげき》を叩き込むだけ。
模擬《もぎ》戦であり、刃《やいば》は機殻《カウリング》されており、鹿島《かしま》や月読《つくよみ》は殺しちゃ駄目《だめ》というが、鉄塊《てっかい》を叩き付ければ再起《さいき》不能にはなるだろう。
「恨むな遼子《りょうこ》……!」
熱田は叫び、フツノを振り下ろした。
彼の眼前、佐山《さやま》は身体《からだ》を前に折り、こちらにまるで一礼するような姿勢。
いい感じだ。
そのまま佐山の身体をフツノが打ち砕く。
そうなる筈《はず》だった。
「――――」
だが、不意に佐山が動いていた。
熱田の視界の中、佐山が右の五指を改めて開き、左の胸を掴《つか》んでいたのだ。
どうする気だ、と熱田が思うより早く、佐山の声が響《ひび》いた。
「父のことか……! 思い出したとも、かすかだが!」
歯を一度|噛《か》み、軋ませ、しかし、
「――貴様《きさま》の知っている以上に!!」
佐山が身体を起こした。
彼の全身の動きは、まるで縛《しば》るものを解き放つような全力。
子供が暴れるような、力|任《まか》せの動作だ。
表情は眉根《まゆね》を詰め、歪《ゆが》んだものだが、目はこちらを完全に捉えていた。
佐山専用の歩法《ほほう》が破れている。
何故《なぜ》か、と眉をひそめた熱田《あつた》に、佐山《さやま》が叫ぶ。
「私は……、貴様《きさま》が与える以上の痛みを自ら得ることが出来るのだよ! 貴様なぞが知らぬ過去によってな!」
佐山は空を見上げ、声を上げた。
「――諸君!」
一息を吸い、
「ここが我らの決着のときだ!」
草原で歌を朗《ろう》じていたシビュレは、荒王《すさおう》の方から響《ひび》く声を聞いた。
「過去すら勝利のために用い、ここに本当の交渉を行おう」
ビームを飛ばすことに集中していた大城《おおしろ》は、通信機から佐山の叫びを聞く。
『いいか諸君! 己の姓《かばね》に意志を込め、名には生まれた意義を持って前に出ろ。自らの出自《しゅつじ》を持って問うことが今宵《こよい》一晩のやり方だ。――いいか諸君!?』
ボルドマンを皆で抱えて射撃《しゃげき》していた大樹《おおき》は、荒王の方を眺《なが》めて目を弓に細めた。
「――理解も和平《わへい》も融和《ゆうわ》も全ては後だ! 現状維持を望む連中の尻を蹴飛《けと》ばし、現状打破という抗《あらが》いの叫びを教えてやれ!」
目の前、光翼《こうよく》の展開を見ながら、月読《つくよみ》は一つの声を聞く。
「全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》代表、佐山・御言《みこと》はその権利をもって宣言する。我々は滅びのことごとくと向き合って行くと。我々はいかなる過去にも屈しないと。我々は全てを思い出し、そして全ての先を見ていくと。そして我々は、最後まで共にあると!」
一息。
「――命令だ。総員|進撃《しんげき》せよ。そして殴り倒してでも連中をこちらに連れてこい。名前だけではない世界へ。高名《こうみょう》主義者達に過去を持たせ、安寧《あんねい》のベッドから叩き出せ!」
月読の眼前。
森と夜を貫《つらぬ》き、風見《かざみ》の巨大な翼《つばさ》が夜空に突き立ち終えた。
一方、光を失った水|飛沫《しぶき》は重力に引かれて落下するが、
「――!」
月光の翼が一打《ひとう》ちしただけで全て破裂し、霧と化した。
そして、荒王の方から問いが来る。
「……返事はどうした?」
翼を天に向け、身を折った風見が口を開く。
答えは一つだ。
背後の出雲《いずも》と共に、彼女は叫んだ。
「――|Tes《テスタメント》.!」
Tes.、という声を佐山《さやま》は聞いた。
それは森の向こうから、中から、そして空からだ。
Tes.、Tes.、Tes.。
それらはもはや全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》だけではなく、2nd―|G《ギア》の者達の声も含んでいる。
そうか、と佐山は思う。快いものだな、と。
誰が何を望んでいるのか、解《わか》る気がする。
「――ならば我々の望む決着は勝利のみ、だ!」
声を挙げ、佐山は動いた。
全身は未だ軋《きし》んでいる。だが、軋みを吹き飛ばしている間は動けるだろう。
目の前から来るフツノの一撃《いちげき》に、佐山はまず背後へ飛んだ。
力任せの跳躍《ちょうやく》回避。
そして足が地面に着くなり、
「!」
前へと身体《からだ》をぶちまける。
跳躍は、左の一刀《いっとう》を抜き打つ動作と同期。
銀の直線が熱田《あつた》に向けて走った。
「……!」
熱田が地面に振り下ろしたフツノをかち上げた。
真下からの迎撃《げいげき》。
だが熱田は間に合わない。斬《き》るのではなく、刃《やいば》を持ち上げて受けるだけで精一杯《せいいっぱい》だ。
|Low《ロ ウ》―Gの名を持つ刃と2nd―Gの名を持つ刃が激突《げきとつ》し、金属音が一つ響《ひび》いた。
火花が散り、両者を照らす。
そして熱田が大きく下がった。
距離五メートル。慣れた距離を取り、熱田が改めて身構えた。
対する佐山は着地の姿勢。彼は熱田を見て舌打《したう》ち一つ。
仕留《しと》め切れなかった。
……今の一撃が入らねば……。
左胸の軋みが、動き終えて止まった身体を捉《とら》えようとしている。
歩法《ほほう》の呪縛《じゅばく》を破った痛みこそが、今度はこちらを縛《しば》る鎖《くさり》となる。
向かう熱田《あつた》はもはや何も言わない。そしてもはやこちらに踏み込まない。
彼はフツノを大上段《だいじょうだん》の両《りょう》手構えに持ち、いきなり、
「――!」
叩き落としてきた。
熱田の狙いは一つ。フツノの切断力をもって、剣圧《けんあつ》範囲の全てを叩き斬《き》ることだ。
「剣神《けんしん》としちゃあ情けねえ方法だが……、絶対に勝つにはこれしかねえだろ!」
刃《やいば》が宙を割り、地面に突き立った。
土打つ轟音《ごうおん》に応じるように、異変《いへん》が起きた。
フツノから佐山《さやま》の背後、数百メートルの位置に渡って陽炎《かげろう》が生まれたのだ。
それはフツノの威力《いりょく》が爆発する前触《まえぶ》れ。全てを断ち割るための初動《しょどう》だ。
「行けフツノ! 切断の刃よ! 御言《みこと》即ち――、命《みこと》を斬り果たせ!!」
直後。
佐山は見る、剣神《けんしん》の威力が爆発したのを。
裂音《れつおん》が来る。
だが、その中で佐山は一つの声を聞いた。それは、
「――佐山君!」
新庄《しんじょう》の声だった。
新庄は陽炎の中で動いていた。
ふと思い出したのは、佐山と初めて逢《あ》ったときのこと。
人狼《じんろう》を前にして、かつての自分は何も出来ず、佐山を危険な目に遭《あ》わせた。
……いつまで引きずっているんだろう。
思い、しかし、これはきっとずっと忘れないことなのだと思う。もし忘れたら、
……佐山君を救《たす》けられない。
では今、どうすればいい。
そんなことは解《わか》っている。
だから新庄は己が理解している言葉を叫んだ。自分に言い聞かせるために。
「2nd―|G《ギア》の概念《がいねん》よ! 名に力を与える空に大気に大地よ!」
肩に担《にな》った杖を構え、前を見る。前方にある佐山の背を。
動かぬ背。まるでこちらの言葉を待っているような背を見据《みす》え、新庄は告げた。
「佐山・御言を断ち切ろうとする切断の力を、ボクはボクの名に従い否定する!」
認めよう、と新庄は思った。もはや運《さだめ》でもなく、切《せつ》でもなく、改めて己の本当の名を、
「ボクの名前、運切《さだぎり》の名は、命《みこと》を切り捨てるのではなく……」
叫んだ。
「命《みこと》を縛《しば》る運《さだめ》を切り、自由にするための名だよ!」
言葉とともに、新庄《しんじょう》はトリガーボタンを押し込んだ。
そして光が生まれた。
それは一直線の光条《こうじょう》であり、とめどなくも見える勢いをもっていた。
発射するのは新庄の肩上《けんじょう》、|Ex―St《エグジスト》。虎星《とらぼし》 の名を持つ大砲だ。
「――!」
鉄の吠声《こうせい》とともに反動で後ろへ倒れていく新庄の肩上、快音が一つ響《ひび》いた。
Ex―Stの前部側、砲塔《ほうとう》部分が破砕《はさい》したのだ。
機械は主《あるじ》に応《こた》え、自壊《じかい》すら厭《いと》わない。
金属音の炸裂《さくれつ》とともに、新庄の身体《からだ》が後ろへと吹き飛ばされる。
だが、光は前へ飛んだ。
弧を描いて飛んだ白の光は、真っ正面からフツノの切断力を撃墜《げきつい》する。
連続して迫る切断を一瞬《いっしゅん》で叩き潰す光の音は、宙に響く爆撃音《ばくげきおん》に等しい。
快音と重音が大気を殴打《おうだ》した。
光は前に。
広範囲に展開しようとしていた切断力を圧縮《あっしゅく》状態のまま突き破り、止まらない。
そして光は更に前へと進み、フツノに直撃《ちょくげき》した。
高音。
その音を響《ひび》かせ、フツノが空に舞った。
ゆっくりと、ゆっくりと回転しながら、今の2nd―|G《ギア》を| 象 徴 《しょうちょう》する刃《やいば》が月の浮かぶ空に舞い上がった。
森を流れる川面《かわも》の上。
月読《つくよみ》の目の前から、一瞬《いっしゅん》で風見《かざみ》の姿が消えていた。
否《いな》、消えたのではない。彼女は飛んだのだ。
移動は刹那《せつな》。そして方向は天上。
空を月読は見る。
今、自分の名を持つ星が浮かぶ夜空に、二枚の翼《つばさ》がある。
月光の翼。それは空を打ち、跳ね返るようにこちらへと。
月読は、一直線に向かってくる翼とそれが持つ槍《やり》の先を見て、
「――|Tes《テスタメント》.、ね」
笑みを浮かべた。
この表情に一切の迷いも過ちもないと、そう思いながら、月読は己の大弓《おおゆみ》を空に構える。
狙いは頭上。迫る翼と槍の向こう。
己の名を持つ円に向かって、月読は血に濡《ぬ》れた手指の先、弦《つる》を解き放った。
弾《はじ》けるような高音が夜空に走り、続く時間で決着の担《にな》い手が舞い降りた。
空の中、鹿島《かしま》は一つのものを見ていた。
月光の夜空に浮かんでいるのは、回転しながら落ちてくる一本の剣だ。
そのフォルムを見る鹿島は、一つの事実に気づいた。刃《やいば》を覆《おお》っていたはずの機殻《カウリング》が、
……外れている。
新庄《しんじょう》という少女の射撃《しゃげき》によるものか。機殻《カウリング》は外れ、鋼色《はがねいろ》の刃が見えた。
鉄弧《てっこ》の反《そ》りが月光に反射したとき、鹿島はふとこう思った。
……このままだと危ないな。地面で跳ねて誰かに当たるかもしれない。
自分は軍神《ぐんしん》の家系だ。危険なものの扱いには慣れている。
そう思い、つい手を伸ばしていた頭上。広げた右手に剣が落ちた。
鉄の冷たさ、重さ、そして確実さ。それらが一気に右手に来て、
「と」
声とともに、つい左腕からノートPCを落としていた。
地面、雑草の上に落ちたパソコンは一度|跳《は》ねてから、液晶《えきしょう》画面をこちらに向ける。
右の剣と左のパソコンと、どちらを優先すべきか。鹿島《かしま》が一瞬《いっしゅん》迷ったときだ。
ノートPCの画面にウィンドウが一つ開いた。
落としたときの衝撃《しょうげき》で、クリックボタンが入ったのだろうか。
画面上に展開されるのは、
「動画……」
ある晴れた日の自宅。庭のひな壇《だん》の前で、一人の女性が幼子《おさなご》を抱いている。
カメラは子供をアップで写すが、子は、自分の目の前に何があるのか解《わか》っていない。
ただ、幼子はこちらに目を向けた。
カメラのこちら、全てに向かって、笑みに見える口を開き、声を発する。
スピーカーから音を出していないため、声は聞こえない。
だが、口の動きで発音は解るし、鹿島にとっては何度も見た動画だ。
幼子が告げている言葉はよく解る。幼子は、まずこう言ったのだ。
「あ」
と。そして幼子はまた口を開き、
「あ」
という声を再び繋《つな》げた。
あ・あ、という言葉は何を示すのか。
思わず引いたカメラは、子を抱える女性を写す。
ショートカットの髪を揺らす女性は、少し驚いた顔。
だが、彼女はその顔を笑みに変え、口を開いた。
告げられる言葉は、やはり覚えている。
「パパ、でしょうか?」
僕は何と答えただろうか。
……ママと言ったのかもしれないよ。
そうだったろうか、どうだったろうか。肝心《かんじん》なところで美化してないか?
苦笑。そんな笑みとともに右手のフツノを見れば、
……フツノの重さを感じていない……。
何故《なぜ》だろうかと思い、何故と思うまでもないな、と思い直す。
「僕が2nd―|G《ギア》の人間だと、その力を思い出したと、……そういうことなんだ」
頷《うなず》き、
「鹿島の姓《かばね》は軍神《ぐんしん》を示す」
鹿島は右の手に力を込め、眼下を見る。
と、ウィンドウの中、女性が幼子《おさなご》を抱えてこちらに見せたまま、手を振った。左の手、二本の指を失った手を。
動画が止まり、ウィンドウが閉じた。
鹿島《かしま》が前を見れば、雑草の野の上、手持ちぶさたにこちらを見ている熱田《あつた》がいる。
「御家族ムービーは終了か? だったらあっちの相手してやれ」
と、熱田は右の方を顎《あご》で示した。
右手側。そこに二つの人影がある。
佐山《さやま》と新庄《しんじょう》。
二人は寄り添い、しかし、佐山の方は腰の一刀《いっとう》を引き抜いていた。
だから鹿島は問う。気楽に誘うような口調で、
「……行こうか、決着をつけに」
フツノを掲げ、切《き》っ先《さき》を佐山に向けた。
その動きに、新庄が佐山を見た。彼女の表情は眉尻《まゆじり》を下げたもの。
そこから感情を読みとった鹿島は、二人の繋《つな》がりを知る。
だから鹿島は告げた。
「――スサノオは、大蛇《おろち》を討《う》って姫を娶《めと》り、か」
「まだ気が早い。竜はこの後も八匹はいる。娶るのは当分|先《さき》となるだろう」
佐山の言葉に新庄が顔を赤くした。
そして彼女は、何か気づいたかのように、佐山の手の中の刀《かたな》を見た。
「……佐山君。ちょっとその刀、貸してくれる?」
「何かね?」
「うん。……御守り」
新庄が刃《やいば》を手にして、ゆっくりと、自分の髪を一房《ひとふさ》断ち切った。
吐息つきで切った一房を、新庄は手に取る。
「気持ち悪かったら御免《ごめん》。でも、こういうおまじないって、あるよね?」
と、髪の房で佐山の左手と刃を軽く結んだ。
一種の注連縄《しめなわ》か、と鹿島は頷《うなず》き、こう言った。
「充分だよ。名を持つ人の髪によって、彼の刀は運切《さだぎり》の加護《かご》を持つだろう」
フツノですらも、打ち破るのは難しいということだ。
そして佐山は試すように一度左の刃を振ると、こちらを見た。
「この勝負、新庄君にもつき合って欲しいのだが、……駄目《だめ》かね?」
「構わない」
今の僕も、常に妻と子供と共にあるようなものだ。だが、
「戦闘に巻き込んだ場合、責任は君がとるんだろうね?」
「そのつもりだ。私は新庄《しんじょう》君であるならば、死体とでも構わない」
そして佐山が問うてきた。
「貴方《あなた》はどうかね?」
「僕はそれだと少し嫌かなあ……」
「ふふふ、ではまず私の一勝だ。喜びたまえ新庄君。――何かねその表情は」
「か、勝手に人を殺して勝たないでよっ!」
声に鹿島《かしま》は苦笑した。これはまたおかしなスサノオと姫がいたものだと。
対する僕達はどれだけおかしなヤマトタケルと姫だろうか。
だが、鹿島は笑みを止めるとフツノを構えた。
自分は軍神《ぐんしん》の家系。握った剣|自《みずか》らが使い方を教えてくれる家系だ。
そんな自分にとって、調整をほぼ完全に終えたフツノは強い武器となる。
「では行こう、全竜交渉《レヴァイアサンロード》の担《にな》い手よ。戦いと、決着に至る道を」
「ああ、十拳《とつか》を手に入れ、八叉《やまた》の問いに答えさせてもらう」
出来るかい? と鹿島は応じた。
「出来るならば、決めよう、現状打破の行く先は何なのか。|Low《ロ ウ》―|G《ギア》か2nd―Gか、嘘《うそ》か真実か、それとも……、別のものがあるのかを!」
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第三十章
『求めの場所』
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聞こえ見えるのは過去
感じ取れるのは今
ならば何も出来ぬのが未来か
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初めの戦場となった草原の上。
もはや個人単位レベルでの戦闘を繰り広げていた全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》と2nd―|G《ギア》の面々《めんめん》は、あるものをきっかけに戦闘行為を止めていた。
皆の中央、歌を止めたシビュレが顔を上げる。
彼女は額《ひたい》に浮いた汗を拭《ぬぐ》い、
「……音?」
ひそめた眉と傾《かし》げた小首《こくび》が見るのは、北にある森の向こう。
全高五〇〇メートルの巨人、荒王《すさおう》だ。
今、その荒王から大きな音が響《ひび》いている。
それは、金属音だ。
重厚《じゅうこう》な、腹に響くような大音《たいおん》が、しかし何度も何度も、繰り返し響いている。
響き続けている。
金属音が鳴り響く湖の前。
先ほどまで佐山達が戦闘を行っていた広場には、新しく二つの人影が立っていた。
出雲《いずも》と風見《かざみ》だ。
風見の両腕にあるのは|V―Sw《ヴイズイ》と|G―Sp《ガ ス プ》2、肩にあるのは月読《つくよみ》の月天弓《げつてんきゅう》だ。
G―Sp2のコンソールが文字を打つ。
『チカラモチ』
「女に言うことじゃないわよ」
と呆《あき》れた声で見た右横。出雲が、背に一人の人間を背負っていた。
それは月読だ。出雲の頭に顎《あご》を載せた彼女に、風見は言う。
「月読部長、ギックリ腰はダサ過ぎ……」
「あたしゃ柳腰《やなぎごし》でね。最近の体育会|系《けい》の若い子とは違うの」
それより、と月読は湖に架《か》かる桟橋《さんばし》の袂《たもと》を見た。
雑草の上、一人の男がこちら向きに胡座《あぐら》をかき、ノートPCと向き合っている。
熱田《あつた》だ。彼は首を傾げ、
「っかしいぜこのトランプゲーム、八百長《やおちょう》じゃねえのか……、全然勝てねえ」
「こら熱田。馬鹿|自慢《じまん》してないで。鹿島とあの二人は? それとこの響いてる音は何?」
「あれ見ろよ。俺の出番じゃねえ」
と、熱田は手を上げて、親指で後ろを示した。
荒王《すさおう》。
月下の闇に立つ巨大な影に、月読《つくよみ》が眉をひそめた。
「さっきから聞こえてる金属音って、……まさか」
「まさかじゃねえ。――文字通りの頂上|決戦《けっせん》ってヤツだ」
熱田《あつた》が首を曲げ、後ろを見る。
同時。荒王の腹部あたりから、白い霧のようなものが噴《ふ》き出した。
風見《かざみ》はその正体を知っている。
「物体の高速移動で生まれる水蒸気|爆発《ばくはつ》……」
続き、金属音が響《ひび》いてきた。腹に響く、何かを砕くような音。
その音の響く下で、戦いは続いているのだ。
鹿島《かしま》は金属をぶつけ合いながら、巨大な鉄塊《てっかい》を上へ上へと移動していた。
荒王。
全高五〇〇メートルを形作る大型パーツの側面には、つづら折れの階段がついている。
幅一メートルほどの鉄階段。過去からの腐食《ふしょく》で足場としては心許《こころもと》ないが、
「軍神《ぐんしん》と、それと戦おうという者には無意味な障害か」
告げた言葉と送る視線、階段の下側へと向けた目が、追ってくる少年の姿を認める。
ステップを走り、蹴《け》り、手摺《てす》りすらも駆けて追いすがる少年は、手持ちの刀《かたな》一本でこちらと渡り合う。
いい相手だ。鹿島はそう思う。
自分は剣術《けんじゅつ》など、ほとんど学んだことはない。
しかし今、剣が全てを教えてくれる。
軍神にとって、剣という存在は従者《じゅうしゃ》に近い。剣は自ら、担《にな》い手に己の力の使い方を教えてくれる。知識や経験、そしで体術として。
戦える。
踏む足の下、返るのは鉄の足場の感触《かんしょく》。
周囲の風の中、敵と渡り合うのは自分の身体《からだ》。
全てが踊るように響き、舞うように動いている。
走り、駆け上がれば、視界が段々と高くなっていく。
今、自分達は荒王の胸のあたりまで到達している。
あと百メートルも上がれば頭部|艦橋《かんきょう》だ。
近い。
あの場所が近づくにつれ、鼓動《こどう》が高鳴る。
かつて震えを寄越《よこ》した感覚が、今は快さをくれる。
……僕はあの場所を望んでいる……!
鹿島《かしま》はフツノを振った。
下からの刃《やいば》に対し、空中からの上段を一撃《いちげき》。
刃がぶつかり合い、金属音が響《ひび》く。
散る火花と、手に返る硬い手応《てごた》えが快い。
音は瞬時《しゅんじ》に轟音《ごうおん》となり、振った刃の軌跡《きせき》から白い煙が爆発した。
一体、自分達はどれくらいの速度で動いているのか。解《わか》りもせず、解る気もない。
ただただ鹿島は上へ。
気づけば視界が高くなっていた。
高度約四百メートルから臨《のぞ》めるのは、月と、青黒い空と、眼下に広がる、
「東京の夜景か」
東にあるのは光の集まり、都心の夜の姿だ。
かつての第二次大戦において、一度失われたことがある光。
だが、自分はそのことをよく知らない。
自分が知っているのは、祖父から聞いた概念《がいねん》戦争のことばかりだ。
苦笑。
笑みとともに、鹿島《かしま》は夜景を見る視線を西へと走らせる。
そこにあるのは夜の光。
中野《なかの》、三鷹《みたか》に国分寺《こくぶんじ》、そしてここ立川《たちかわ》へと線路づたいに描かれる東京の灯火《ともしび》。
それは光の数を少なくしながらも更に西へ。
街の形を示す光は拝島《はいじま》から青梅《おうめ》へと走り、奥多摩《おくたま》の山へと続いている。
山の影の向こう、今、奥多摩には奈津《なつ》達がいるはずだ。
どうしているだろうか、と鹿島は考える。
こんなところで僕が戦っているなど、思いもしないだろうな、と。
……こうして、僕はずっと嘘《うそ》をついていく。
きっと、真実を言うことはないだろう。
今日の戦いも、今までのことも、これからのことも、ずっとずっと、黙るという意味で、嘘をついたままだ。だが、それで得られることもある。
「そうだろう?」
と敵に無意《むい》に呼びかけ、鹿島はフツノを振った。
金属音の響《ひび》きを敵が受け、衝撃《しょうげき》が手に返る。
頭に響く震えに、鹿島は思う。
……僕は、どういう決着を望んでいるのだろうか。
もはや2nd―|G《ギア》でも|Low《ロ ウ》―Gでもない、あやふやな自分。
嘘をつくことで両者を得ようとする自分に対し、答えは出るだろうか。
……もし出なかったならば?
自問。
それは今、問うてはならないはずの自問だった。
しかし、鹿島はその問いを己に投げかけ、自分が持つ最新の答えをつぶやいた。
「――それでもいいか」
今、心の中に浮かぶのは、一人の女性と、一人の幼子《おさなご》。
戦いの中、何を考えているのだろうと思いつつ、
……会いたいなあ。
鹿島は思う。
……会いたいよ、奈津さん、晴美《はるみ》。
僕の家族よ。
「ああ」
西の光、彼女達がいる場所を見て、頷《うなず》く。
帰ろう。
この戦いを終えたら、僕は帰ろう。
……2nd―|G《ギア》とか、|Low《ロ ウ》―Gとか、そんな括《くく》りではなく。
彼女達のいる場所に帰ろう。
きっと帰りは明日の朝、腹も減っているだろう。
奈津《なつ》さんは僕の実家で、朝食を作ってくれるだろうか。
炊《た》いたばかりの米、味噌汁《みそしる》に、実家には魚はないか。だとしたら卵と野菜、この前出た| 筍 《たけのこ》の生ハム包みは結構《けっこう》いけた。
ああ、いいよな、これ。
家に帰れば、そういうものが待っているんだよな。
剣を合わせ、鉄の音をほとばしらせながら、鹿島《かしま》は思う。
奈津さん。
晴美《はるみ》。
……帰るよ、必ず。
君達のもとへ。
そして皆で御飯を食べよう。
だけど、その前に言うことがあっただろう。自分が帰るべき場所へ帰ったという証《あかし》。
名前とは違う、単純な一言。それを言う必要があった。
ただいま、と。
「ああ」
その一言を言うために、僕は必ず帰る。
だから待っていてくれ、嘘《うそ》つきの夫を待つ嘘つきの妻と、その子よ。
僕は、他の何ものの下でもなく、どのGでもなく、君達のいる場所へこそ、
「必ず……!」
縁側《えんがわ》の雨戸を閉めるのは客人たる自分の役割だと、奈津はそう思っている。
締まりの悪い雨戸は八枚。全て閉める頃には小汗《こあせ》をかく。
最後の一枚を閉め、木製の鍵《かぎ》を軒《のき》に差し込みつつ、奈津はふと左の手を見る。
小指と薬指を失った手。雨戸を閉める際に力が入らないのはいつものことだ。
吐息を一つつくと、背後から声が掛かった。鹿島の母だ。
「――有り難うね、奈津さん。うちにずっといてくれると有《あ》り難《がた》いんだけど」
「私もそうしたいですけど、昭緒《あきお》さんが絶対|嫌《いや》だって」
「馬鹿の癖《くせ》にプライドばかり高いんだからねえ、あの子も」
苦笑。
「でも昭《あき》がクビになったらうちで雇ってやるって言っといてな。農家はただでさえ人材不足に跡継《あとつ》ぎ不足だから」
と、縁側《えんがわ》に面した居間に彼女は座布団《ざぶとん》を三枚。すぐにお茶も三つ持ってくる。
どうも、と奈津《なつ》が座ると、正面二つの座布団のうち、一つに鹿島《かしま》の母が座る。
すると、廊下を歩く音とともに鹿島の父が顔を出した。
浴衣姿《ゆかたすがた》の彼に奈津は、
「晴《はる》ちゃん、寝ました?」
「ああ、寝たとも寝たとも、もう一発、これでも俺ぁ昔から子供寝かしつけるのは得意でさ。何ていうの? 昭《あき》なんかも毎度毎度こう首のあたりをキュっと押さえ――」
「黙れ爺《じじ》い、ちょっとそこに座んな」
女房《にょうぼう》の言葉に鹿島の父はおとなしく座る。
肩を落として震えながら正座する彼に、横の妻が、
「どうしてここに呼ばれたか、アンタ解《わか》ってる?」
「……さ、寂しくなったから?」
「違う。そーじゃなくてね」
と、奈津は、鹿島の母がこちらを見たことに気づく。
正面、応じるように、老《ろう》夫婦が一息。
その後に二人は姿勢を正すと、
「改めて、鹿島・昭緒《あきお》を宜《よろ》しくお願いします……」
と、両者共に手を前に着き、座礼《ざれい》した。
対する奈津は慌《あわ》てて手を差し伸べ、
「あ、あの、おやめ下さい。私の方こそ、その」
と、相手よりも低さを競《きそ》うように、奈津も手を着き頭を下げる。
十秒。
それだけの時間をおいてから、三人は身体《からだ》を起こした。
奈津は眉尻《まゆじり》を下げ、
「……どういうことでしょう?」
「こういうのは何度やっても構わないものさ。ただ、昭が仕事に対して本気になると言ったなら、奈津さんのこと、少しおろそかになると思うしね」
それに、と母親は言葉を繋《つな》げて言った。
「きっといろいろ、嘘《うそ》をつくと思うんだよ、昭は。それを――」
「許すも何もありませんよ」
奈津は告げた。表情を落ち着かせ、胸に手を当て、
「私だって、昭緒さんにいろいろと嘘をついてますから」
「料理のことかい?」
「それだけじゃありませんよ、義父《おとう》様。……女の子は、男の子には解《わか》らない嘘《うそ》をたくさんついて生きているんですから」
「おっかねえ」
笑みが一つ漏れ、奈津《なつ》が頷《うなず》く。
「それに、私、実は昭緒《あきお》さんに対して、ものすごい嘘を一つついてるんです」
「……え?」
「あの雨の夜、この下の道路で、私、バスに乗ったまま崩落《ほうらく》事故に巻き込まれましたよね」
その言葉に、鹿島《かしま》の両親が顔を見合わせた。
父親が困ったような顔で、
「そ、そうだったなあ。確か、奈《な》っちゃん、上の方で発掘された遺跡《いせき》の調査とかナントカで」
「ええ。そのことです。……そして、先ほど言った嘘のことですけど、もう時効《じこう》だと思うので義父様と義母《おかあ》様にはお話しますね? 八年前のあの崩落事故のとき、実は私――」
また少しうつむき、二人から目をそらして奈津は告げた。
「上の遺跡に行くつもりはなかったんです」
「――――」
二人の無言に奈津は面《おも》を上げ、視線を合わせてからこう言った。
「あのとき、私、両親には遺跡に行くと言いましたけど、実は、ここに来るつもりだったんです。昭緒さんと、学校を卒業してからも手紙の遣《や》り取りはありましたけど、どうしてるのかなあって……。夜|訪《たず》ねて、送ってもらえたらな、って、計算して……」
言っている間に頬《ほお》が赤くなっていくのが自分でも解る。
「今思うとすごくはしたないんですけど」
「いや、でも、それが……」
「ええ。事故に遭《あ》って、驚きました。救ってくれた人が、一番会いたかった人でしたから」
頷き、静かな表情と声で言う。
「私は遺跡調査に行く途中で事故に遭ったことになり、そして昭緒さんは私のリハビリにつき合って下さって、結婚を申し込まれて」
かすかにうつむいた。
「だから怖かったんです」
「…………」
「私がそんなはしたない考えでここに来ようとして、まるでしっぺ返しのように事故に遭ったのに、昭緒さんは何も知らず、何も問わずに一緒にいて下さって……」
吐息。
「私、昭緒さんが思ってるような女じゃないんですよ? 世間《せけん》知らずで、繕《つくろ》ってばかりで、いやらしくて。それなのに昭緒さんが結婚してくれたのは――」
左手の指を右手で包み、
「何でなのか……」
でも、
「そんなこと、怖くて聞けません……」
奈津《なつ》は告げて、一息。
前を見ると、鹿島《かしま》の両親がじっとこちらを見ている。
あ、と奈津は慌《あわ》てて両の手を広げて左右に振り、
「あ、あの、今は違いますよ? こういうことをお話出来たということは、もう吹っ切れたということですから」
「そうなのかい? でも、それは……」
「――ええ、今は大丈夫になりました。晴《はる》ちゃんがお胎《なか》の中に出来たとき、吹っ切れたんです。卑怯《ひきょう》な話かもしれませんけど、子供が出来たということは、……私と昭緒《あきお》さんの間に、同情や責任以外のものが確かに出来たということなんだって」
苦笑。
「普通、大事でもない相手との間に生まれた子を、わざわざビデオに撮《と》っておこうと思ったり、毎日ちゃんと帰宅して下さったりしませんよね? それに、気づいたんです。昭緒さんは帰ってくるといつも、ただいま、ってちゃんと私に言って下さいますし、御飯のときはいただきますと言って下さいます。……私が、そういうの、ずっと見えていなかったんです」
「昭《あき》もたまには役に立つねえ……」
「あ、でも、ビデオカメラを衝動《しょうどう》買いしたときは、私、三日間|口《くち》をききませんでしたから」
苦笑を微笑に変え、奈津は背筋《せすじ》を伸ばす。
「始まりは嘘《うそ》かもしれません。しかし、本当かもしれません。それは解《わか》らないことですけれども、でも今、私と昭緒さんと晴ちゃんは、本当の家族です」
そう、と母親が頷《うなず》いた。微笑で、
「頑張ったねえ……」
いえ、と奈津は首を横に振った。
「頑張ったのは昭緒さんですよ、きっと。だから、これからは私達に向けていた頑張りを、御《ご》自分の方に戻していただくだけです。少し寂しいですけど、……その分、これからは晴ちゃんが私達を支えてくれます」
だから大丈夫です、と言って、奈津は左の三つ指を右の手で押さえた。
そして彼女は、ゆっくりと自分の前に両の手を着き、己の頭を深く下げる。
告げる言葉はしっかりした口調。
「この高木《たかぎ》・奈津改め鹿島・奈津を、昭緒さんと晴美《はるみ》と共に、――これからも宜《よろ》しくお願いいたします」
戦闘は荒王《すさおう》の頂上に達した。
頭部|艦橋《かんきょう》跡。そこは熱に焼けただれて生まれた鉄の広場。
月光を鈍く反射する十五メートル四方の空間だ。
中央にあるのは墓標《ぼひょう》のようなシルエット。
それは鉄の薄板を束《たば》ね、縒《よ》り合わせて作り上げた大剣《たいけん》だ。
長さ二メートルは下らぬ刃《やいば》と柄《つか》は鉄の床に突き刺さり、垂直に空を見上げている。
そんな艦橋跡に躍り込む姿は二つ、遅れて一つが追加。
先に行くのは佐山《さやま》と鹿島《かしま》、続くのは新庄《しんじょう》だ。
鹿島が、艦橋中央部にある十拳《とつか》の前に跳躍《ちょうやく》する。
が、彼は勝利条件ともなる鉄の剣を手に取らない。
勝敗はもはやそこにない。だから彼は、フツノを手に身構えた。
「――来い! 竜を制する者よ!」
おお、と佐山が答えた。
彼は走り込みつつ、フェイントのため、身を右に飛ばす。
疾走と跳躍。風を巻き、走り来る佐山の姿は、己を縛《しば》るものから解放された動き。
速い。
だが、鹿島には見えている。
彼はフツノを全力で叩き込むため、身を後ろに捻《ひね》った。
次の瞬間《しゅんかん》。鹿島は佐山が来る位置に向かって、先読みでフツノの刃を放つ。
「お……!」
切れろ、と軍神《ぐんしん》の末裔《まつえい》は意を放った。
そのときだ。佐山はまっすぐにこちらと視線を合わせると、一つの技を見せた。
歩法《ほほう》。
「――!?」
鹿島は見た。佐山の姿がいきなり消えるのを。
……見覚えたのか!
何度も剣を合わせ、息を合わせるように動きを重ねた。その上で正面から目を合わせれば、幾《いく》つかの同調を得ることは出来る。
敵は、最後の最後でやってきた。
「……2nd―|G《ギア》の技を、|Low《ロ ウ》―Gの者が使うか! 敢えて勝つために!」
面白い。そう思う感情には必ず喜びが付属する。
ああ、と鹿島は思った。快いと。
佐山《さやま》の勝つ意志がよく解《わか》る。こちらの技を使ってまで勝とうとする意志が。
勝つためには、そう、|Low《ロ ウ》―|G《ギア》も2nd―Gも関係ないということだ。
だから鹿島《かしま》は、剣を振り下ろすことを止めない。
この剣が落ちる先、佐山はいまい。彼は知覚の外で急《きゅう》制動を掛け、次の一瞬《いっしゅん》でこちらに斬撃《ざんげき》を寄越《よこ》してくるはず。
歩法《ほほう》を見切る必要がある。
そのためには自分をズラさねばならない。
先ほど、佐山は己の過去を深く思い出した。
ならば自分はどうするべきか。
「僕は――」
問いの答えは視覚が教えてくれた。
夜空の向こう。西側、ここからは確かに奥多摩《おくたま》の山並みが見える。
ああそうだ。
……僕を待っている人がいる。
自分の帰るべき場所。
それを自覚し、鹿島は、もはやその場所を願うのではなく受け入れた。
その場所に、勝つためでも殺すためでも、失うためでもなく、
「帰るために、僕は戦う……!」
直後。いきなり腕の中に重さが来た。
鉄の重さ、刃《やいば》の重さ、そして断ち切る風の重さだ。
大事なものを思う意志が、一瞬ではあるが、鹿島を軍神《ぐんしん》ではないものにする。
それは本当にわずかな一瞬。だが充分な一瞬だ。
軍神の束縛《そくばく》から離れた鹿島は、佐山の同調からも離れていた。
ゆえに鹿島は佐山の歩法を破り見た。
佐山はたった一歩左にずれた位置にいる。
彼が腰だめに構えた一刀《いっとう》は、こちらの一撃《いちげき》をすかして放つ最後の攻撃だ。
佐山は、こちらがフツノの刃を床にぶち込んだ瞬間《しゅんかん》、攻撃を仕掛けてくるだろう。
だからこれで終わり。その筈《はず》だった。
判断は一瞬で果たされる。
鹿島は振り下ろす柄《つか》から右の手を離した。
直後。
「お……!」
鹿島は全身力を右|拳《こぶし》に乗せ、振り下ろすフツノの右側面に叩き込んだ。
右の拳が一瞬で砕け、鈍い衝撃《しょうげき》が首筋《くびすじ》を通って脳に来る。
だが、構わない。
正面。巨大な刃《やいば》は軌道を確かに変えた。
フツノの軌道は今や、佐山《さやま》の身体《からだ》を捉《とら》えていた。
それは脳天《のうてん》から入って左腰に至る流れ。
「……!」
対する佐山が動いた。
腰の一刀《いっとう》を抜き打ち、上から振ってくる高《こう》重量に叩き込む。
無駄《むだ》だ。こちらの斬撃《ざんげき》は今までとは違う。軍神《ぐんしん》の初速を持って、確かな足場の上で発射された一発だ。左腕一本で支えて弾《はじ》けるものではない。
威力《いりょく》は瞬時《しゅんじ》に証明された。
刃よりも先に砕けたのは、刃と佐山の腕に巻かれていた髪の毛。彼を守り続けていた姫の加護《かご》は一瞬《いっしゅん》たわみ、直後に千切《ちぎ》れ飛んだ。
髪が散り飛ぶのと同時に、二つの刃が激突《げきとつ》した。
「――佐山君!」
少女の声が聞こえるが、結果は変わらない。
佐山の刃がいきなり折れた。
金属音。
フツノは切断の速度を落とさないが、佐山に防ぐ手立てはない。
対する鹿島《かしま》に止める手立てもない。
「これが……!」
叫ぶ。
「これが君の答えか!」
響《ひび》いた己の声に、鹿島は一つのものを見た。
それは答え。
一つの金音が響いたかと思うと、
「フツノが――」
砕けた
「!」
超《ちょう》重量の鉄塊《てっかい》。切断力の| 塊 《かたまり》であり、八年前に全てを問いかけた刃が、まるで砂で出来ているかのように破砕《はさい》した。
その砕きは亀裂《きれつ》を得て、振り下ろす動作にすら耐えられない。
切断の剣身《けんしん》は、まるで大気を抱くように散らばり、壊れていく。
「これは……?」
問いに続く瞬間《しゅんかん》で、鹿島は見た。
眼前、佐山《さやま》が右手で掲げているものがある。
それは一枚の黒いフロッピーディスク。
「2nd―|G《ギア》における、八百万《やおよろず》の神々、2nd―Gそのものともいえる名前の集合だ。2nd―Gの| 象 徴 《しょうちょう》として作られたフツノが断ち切ることは出来まい……!」
手の中、砕け残ったフツノの柄《つか》を握りしめながら、鹿島《かしま》は佐山の声を聞いた。
「それは、貴方《あなた》が2nd―Gとして完全なものを作り上げたという証明だ!」
佐山が動く。
身を回し、背を見せて、跳躍《ちょうやく》と同時に下から跳ね上がるのは後ろ回し蹴《げ》りだ。
直撃《ちょくげき》する。
「――!」
鈍い音が胸から響《ひび》き、鹿島は後ろに吹き飛んだ。だが、
「……まだだ!」
「そうだとも!」
佐山も叫んだ。
鹿島と佐山は同時に笑う。
鹿島は両手を広げ、宙に散ったフツノの破片《はへん》を払い、鉄の床を踏みしめた。
おお、と息を吐き、胸部からくる痛みを無視し、鹿島はただ前に出る。
「問うぞ! 竜の担《にな》い手よ! 竜を治め切れなかった者の末裔《まつえい》が問おう!」
眼前、十拳《とつか》がある。
自分の祖父が作り上げた2nd―Gの剣。そこから出るべき答えを自分はまだ見ていない。
そして鹿島は砕けた右手を伸ばし、十拳を掴《つか》み込んだ。
そのときだ。
鹿島は見る。佐山の装甲《そうこう》服の胸ポケットから、一匹の動物が顔を出したのを。
獏《ばく》だ。
佐山は過去を見た。
それは低い天井が覆《おお》う鉄の部屋の中、まるで船の艦橋《かんきょう》にも似た一室だ。
中央部、何か人型のものをはめるための寝台が一つ。
だが今、その中には何も残っておらず、艦橋部の中にいる人影も、たった二つだけだ。
二つの人影を照らすのは窓からの朱《あか》い光。
窓のすぐ向こうでは、巨大な炎《ほのお》の流れがある。
炎は噴《ふ》き上がり、揺れ弾《はじ》け、また沸き上がる。しかし無形ではない。
炎は巨大な竜の形状をしていた。八首《はちくび》の竜の形状を。
見れば、この艦橋《かんきょう》の両脇から前に生《は》えた巨大な腕が、その炎《ほのお》を抱えている。
そして今、艦橋内部に残った二人は、言葉を交わし合っている。作業服を着た背の高い方は、右腕に一本の大剣《たいけん》を携《たずさ》えていた。
対する一人は白い作務衣姿《さむえすがた》の短躯《たんく》で、こちらがずっと叫び続けている。
大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》と、カシマだ。
カシマが告げる言葉は退避《たいひ》を促《うなが》す言葉。
彼の言葉が連《つら》なる間にも、外の朱色《あけいろ》は強くなる。それに応じるように、二人の首から下がる青い小石が光を放ち始めた。その光は段々と青く強く、二人をそれぞれ照らしていく。
だが、青い光の中、宏昌はカシマに笑みを向けた。
「――駄目《だめ》だ。美影《みかげ》も外した今、この荒王《すさおう》を余力だけで手動|制御《せいぎょ》するには誰かが必要だ。そして、十拳《とつか》に八叉《やまた》を封じるには、答えを告げる者も必要だ」
「しかし……!」
宏昌は首を横に振った。
彼は掛けていた眼鏡《めがね》を外し、床に投げ捨てる。
と、眼鏡は宙のある一点でいきなり溶解した。
「さあ、行け、もはや賢石《けんせき》の加護《かご》すらも怪しい熱の中だ。君とて、無事で退避出来るとは限らないのだぞ。――カシマ」
彼は短躯の初老《しょろう》、カシマに顔を向けた。
その顔、目を見たカシマが息を飲む。
宏昌の目は焦点が結ばれておらず、光もなかったのだ。
「――解《わか》るか? 君達の|G《ギア》が滅びたときと、あの空襲《くうしゅう》で目をやられた」
「………」
「これからは君が皆をまとめていってくれ。その約束だろう? |Low《ロ ウ》―Gと2nd―Gをまとめるため、……まず、2nd―Gの代表たる君が過剰に僕達を拒否し、しかし八叉の封印《ふういん》後、君が反対派をまとめてLow―Gに下り、僕の代わりに皆を率《ひき》いる、と」
「馬鹿|野郎《やろう》……」
「そうとも。だが、決めたんだ。君達のGを救えなかったとき、君がLow―Gの大地を踏み、僕に対して抗議の言葉を叫んだときに、ね」
笑う。
「あれは効いたなあ。お前は2nd―Gの滅びと本当に向き合う気が無かったのだ、か」
「あ、あれは、俺に言うべき言葉であって……」
「僕達は同じだよ、カシマ。同じ技術者だ」
頷《うなず》き、彼は見えぬ目で窓の外を見た。
咆哮《ほうこう》。
炎竜《えんりゅう》の八連吠声《はちれんほうせい》が夜空を穿《うが》ち、艦橋《かんきょう》を震わせる。
それは抗議の叫び、全ての恨みを果たそうとするのに、押さえつけられてもがく叫びだ。
だが、宏昌《ひろまさ》の目は竜を見ない。彼の焦点《しょうてん》定まらぬ目は、竜の向こう、概念《がいねん》空間の壁を超え、遠くに広がる小さな夜景に向いている。
「君には見えるかカシマ、まだ東京は復興《ふっこう》に取りかかってすらいないが、それゆえ、生き残った光があるだろう?」
問いかけ、彼はまた口を開き、
「――――」
やめた。次に告げられる言葉は、一度息を吸ってからの落ち着いた口調で、
「……さあ、やはりこの荒王《すさおう》だけでは抑え切れない。このまま君の作った十拳《とつか》を利用し、八叉《やまた》の問いに答えよう」
「ば、馬鹿、解《わか》っているのかー!? 八叉の問いの答えが!」
ああ、と宏昌は頷《うなず》いた。右手の大剣《たいけん》を掲げて見せる。
「今の僕に解らない筈《はず》がない」
その言葉に、カシマが何かを言おうとした。
口を開き、顔を歪《ゆが》め、何か、腹の奥から言葉を絞《しぼ》り出そうとする。
「俺は……、俺は別に、アンタのことを……!」
が、宏昌の声がそれを封じた。
「行けカシマ。軍神《ぐんしん》であり剣工《けんこう》である者よ。これは僕が君に初めて送る命令だ」
言葉に応えるかのように、荒王が揺れた。
竜が暴れ、身の戒《いまし》めを解こうとしている。
一気に艦橋が傾き、鉄が軋《きし》みを挙げ、カシマが転んだ。
傾斜によって宙に浮いた身は、そのまま艦橋の扉に当たり、
「!?」
艦橋の扉がいきなり開き、カシマを飲むと、そのまま閉じていく。
扉の操作を行っているのは、艦橋前部に貼《は》り付いていた宏昌だ。
だが、宏昌は聞いた。扉の向こうに消えていくカシマが、泣き顔をこちらに向け、
「――!」
届いた叫びは問い掛けだった。竜意《りゅうい》の代弁。カシマしか出来ぬ問い掛けだ。
別れの際に、カシマは宏昌に全てを預けた。
艦橋の姿勢が元に戻り、カシマの声を聞いた八叉が吠《ほ》え立てる。
だが、そんな中、宏昌はコンソールを操作する手を、ふと止めた。
彼の手は艦橋前側、コンソールの正面に付けられたバケットの縁《ふち》を、確かに押さえている。
ややあってから、宏昌がかすかに首を傾《かし》げ、ボックスを開けた。
そこから取り出されたものは、一枚の和紙《わし》だった。
耐熱《たいねつ》加工が施《ほどこ》された紙には、文字が大きく墨《すみ》で書かれている。
目が見えぬまま、宏昌《ひろまさ》は窓の外、八叉《やまた》の朱《あけ》の光に紙を照らし、指で触れる。墨の感触《かんしょく》が手指に伝わるのか、紙に触れる彼の顔が笑みとなった。
宏昌は指で触れる字、汚い筆跡《ひっせき》の片仮名《かたかな》四文字を再び読みとった。
「オ・オ・シ・ロ、か……」
宏昌は笑みを浮かべ、和紙を折り畳み、作業着の胸ポケットに入れた。
そして彼は前を向いた。八叉の方へ、見えぬ視線を投げかけ、
「字が下手《へた》だよなあ、君は……」
告げた瞬間《しゅんかん》、艦橋《かんきょう》の中へと朱の光が満ちていく。
そして宏昌が、答えを告げるために口を開いた瞬間、過去の展開は終了した。
大地の上、湖の畔《ほとり》に展開したUCATの面々《めんめん》は頭上に広がる光を見た。
それは、天球図《てんきゅうず》のように広がる名前の疾駆《しっく》。
名前という微小な文字の羅列《られつ》が、白や青の光を帯びて艦橋から夜空へ流れ出た。
名は一直線に連《つら》なり、譜面《ふめん》のような形で弧《こ》を描き、空を囲んで幾重《いくえ》にも回り出す。
速く、遠く、広く、外へ。白や青の文字の羅列は速度差によって積層《せきそう》を描き、楕円《だえん》軌道や真円《しんえん》軌道を描き、空いっぱいに巨大な天球の檻《おり》を展開する。
これが十拳《とつか》の本体、八叉を封印《ふういん》する名前の陣形《じんけい》だ。
皆は聞く。高速で展開していく名前とともに、小さな金属音が跳ねる音を。
その音に対し、2nd―|G《ギア》の老人がつぶやいた。
「十拳を形作る金属片が、彫り込まれた名前を展開しておる……」
言葉に頷《うなず》くように光は走る。
そして、天球図が概念《がいねん》空間の範囲ぎりぎりまで広がったとき。
それは来た。
まず初めに見えたのは、月下の虚空《こくう》に浮かぶ朱の色。
そこから、まるで宙にこぼれ落ちるようにして、朱の色は広がり、炎《ほのお》の形となった。
炎は流れる。まるで水のように、蛇《へび》のように、竜のように。
火焔《かえん》はついには竜そのものとなり、
「――来るぞ!」
誰かが叫ぶと同時、形状は完全なものとなった。
咆哮《ほうこう》が挙がって現れるのは八首八尾《はちくびはちお》の大|炎竜《えんりゅう》。
全長は一瞬《いっしゅん》で一キロを超え、概念空間の天頂部《てんちょうぶ》で更に展開した。
空に巨大な赤花《せっか》が咲く。
咲き誇る朱竜《あけりゅう》が生むのは叫び。大気と大地を震わせる抗議の叫びだ。
「――!」
吠声《ほうせい》が響《ひび》き、焼音《しょうおん》が渡り、名前で作られた天球図《てんきゅうず》が、
「軋《きし》む……!?」
八叉《やまた》のうねりに、封印《ふういん》を| 司 《つかさど》る八百万《やおよろず》の名が悲鳴を挙げた。
船が歪《ゆが》むような軋《きし》みの音に、急げ、と誰かがつぶやいた。
「急いでくれ……! 八叉が解放されたら、この概念《がいねん》空間で押さえ込めるか解《わか》らないぞ!」
叫びを挙げたのは月読《つくよみ》と共にいた開発部の主任達。八叉|封印《ふういん》を伝え聞く者達だ。
が、彼らの声を無視して夜空の炎竜《えんりゅう》は動く。
八本の首が八連《はちれん》の鎌首《かまくび》をもたげ、
「――!」
夜の月に向かって八重《やえ》の獣声《じゅうせい》が響く。
そして八叉は動いた。
約千五百メートル下の湖面、自分を抱くように腕を広げた鉄の巨人に向かってその身を一直線に落としてくる。
開いた顎《あご》を先頭にして、炎《ほのお》の八竜《やつりゅう》はかつて己を封印した刃《やいば》を食いに掛かった。
[#改ページ]
第三十一章
『水穂の竜意』
[#ここから3字下げ]
竜の叫びは天地に問う
答えるならば見上げる新見はない
応答とは一つの打撃なのだから
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
過去からの覚醒《かくせい》は一瞬《いっしゅん》。
鹿島《かしま》は、自分の見たものが、ずっと望んでいたものだと悟る。
今、彼の右手の中で十拳《とつか》は変形している。剣を作り上げていた鉄片《てっぺん》、名を打ち込んだ鉄片は全て花開くように外へ展開し、全体はもはや螺旋《らせん》の形状を取っている。
そして、鹿島の左手は、胸のポケットから一枚の和紙《わし》を取り出す。
祖父が書いた一枚。
広げて見た紙には大きく×印が入り、その向こうに片仮名《かたかな》の四文字がある。
オオシロ、と。
……下手《へた》な字だそうだ、爺《じい》さん。
そして鹿島は思う。祖父が、赦《ゆる》しを請《こ》うたことを。
……大丈夫だ爺さん。彼は、爺さんの書いた名を見て笑っていたのだから……!
過去と同じように笑みを作るなり、鹿島は祖父の和紙を十拳に結びつけた。
直後。彼はためらいなく十拳を床から引き抜く。
螺旋の刃《やいば》が現れた。
正面を見れば、佐山《さやま》が新庄《しんじょう》と共に立っている。
彼らの視線に応じるように、背後の空から咆哮《ほうこう》が響《ひび》く。
八叉《やまた》だ。
鹿島には解《わか》る。八叉が六十年ぶりに外気を味わい、歓喜《かんき》と同時に怒りを放っているのだ。
天から近づく熱風は、八叉が八つの顎《あご》と牙群《がぐん》をこちらに落としている証拠《しょうこ》。
あと一分も経《た》たぬ内にここは焼かれ、八叉は自由の身となるだろう。そして、
「――フツノが無い以上、熱気を切ることは出来ない。だが、八叉の問いを答え、あの姿を鎮《しず》めた上で、またこの十拳に封じることが出来るか?」
差し出した鉄剣《てっけん》に応じる答え。佐山の解答は、一つの態度だった。
佐山はこちらに近づくと同時に、ゲオルギウスの左手で十拳を握ったのだ。
そうか、と鹿島は思う。
問うまでもない。彼は答えを告げに来たのだから。
佐山に続き、一人の少女がその傍《かたわ》らに寄り添う。
そして佐山は十拳を手に走り出した。
「問いを寄越《よこ》したまえ。――竜意《りゅうい》の代弁者よ」
彼の行くべき場所は艦橋《かんきょう》前部の縁《へり》、溶け崩れて切り立った鉄の崖上《がけうえ》だ。
そこは八叉を討《う》つ際に最も有利な場所。風当たる断崖《だんがい》の縁《ふち》だ。
走り行く佐山と新庄と、彼らの駆ける足音を耳に、鹿島は口を開いた。
彼は両腕を広げ、空を見上げ、天から降る咆哮《ほうこう》を代弁する。
「私には――」
言う。
「忘れたくても思い出せぬ名前があります」
声が蕩々《とうとう》と響《ひび》き、そして響き渡っていく。
「問うぞ! ――八叉《やまた》の二つ名、草薙《くさなぎ》と叢雲《むらくも》、そのどちらが本当の名だ!?」
一息。
「答えてくれ! 2nd―|G《ギア》の真理、我々がどういう民《たみ》であるべきなのか!」
頭上、逆落《さかお》としに降ってくる炎竜《えんりゅう》の姿を見据《みす》え、佐山《さやま》は走った。
天には八叉と、八百万《やおよろず》の名による封印《ふういん》がある。
この封印は祖父の考案によるものだとUCATの食堂で鹿島《かしま》に聞いた。
その事実は左胸に痛みとして来る。
息が詰まり、身が固まりそうになる。
……だが、避けられぬ現実だ!
意気を叫んで佐山は走った。八叉を討《う》てる場所へと。
疾走《しっそう》する身に、空から八つの竜顔《りゅうがん》が問う。
咆哮。
それはかつて夢で聞いた声。怒りと| 憤 《いきどお》りを含み、しかしもっと深い感情に縛《しば》られた問いかけ。言葉ではなく、音で解《わか》る感情表現だ。
佐山は八叉に頷《うなず》いた。
貴様《きさま》の叫びを解ると思う。それは自惚《うぬぼ》れだとも思うが、自らが信じなければ、
「誠意にはなるまい!」
叫び、足を止めた。
そこは定位置、最も強く風を浴びることの出来る鉄の断崖《だんがい》の上だ。
頭上に迫る竜の顔は今や視界|一杯《いっぱい》。幅五十メートルほどの竜顔に向かって佐山は叫ぶ。
「答えよう! それは、かの世界の全てに通じる名――」
応《おう》、と言うように、八叉が落下速度を緩めぬまま、しかし顎《あご》を開いた。
竜の咆哮は響き問う。
己の名は何かと。己が支配した世界と、そこに住む者達の姿は何かと。
そして佐山は告げる、八叉の本来の名を。
草薙と叢雲という風の名前の内、選ぶのは、
「早薙……」
告げ、しかし言葉はそこで終わらない。八叉《やまた》の顔から視線を外さず、佐山《さやま》は言った。
「――そして叢雲《むらくも》!」
頷《うなず》き、佐山は己の答えを選んだ。
「この二つの名を同時に有するのがお前だ……!」
佐山の言葉に、鹿島《かしま》は確かに頷いた。
だが、口元に満足げな笑みを浮かべつつ、彼は問う。
「いいのか? その答えで? 間違えば――」
「舐《な》めるな軍神《ぐんしん》! 佐山の姓《かばね》を持つ者が何かを告げるとき、――それは絶対だ!」
いいか? と背後から佐山の声が響《ひび》く。
「草薙《くさなぎ》とは地の人々と舞う地の風なり! 対し叢雲とは天に人が見上げて敬《うやま》う天の風なり! 両者は風、どこまでも踊り行く、形無きゆえに万物であるもの。それは炎《ほのお》の穂《ほ》である八叉が嫌う、水の穂を生む空の竜の名! 両の名を併せ持つお前の正体は、風の雨竜《うりゅう》だ八叉!」
そして、
「2nd―|G《ギア》の大竜《たいりゅう》よ、間違いはあるまい。かつてその世界はお前が作る天上と大地の風に統《す》べられていたのだろう? ならば八叉よ。また再び異なる二つの名を持ち、人の地にあるなら草薙を名乗り、天より見守るなら叢雲を名乗るがいい!」
彼の言葉に、鹿島は叫んだ。笑みをもって、
「――合格だ!」
対するように八叉が吠《ほ》えた。
己の正体を告げられ、頷き、理解し、しかし竜の怒りは余熱《よねつ》を残す。
竜は最後の試練として十拳《とつか》を担《にな》い手ごと焼き尽くそうとする。かつての大城《おおしろ》・宏昌《ひろまさ》のように。
だが鹿島は佐山の声を聞いた。笑みのある声を。
「――御老体《ごろうたい》! 出番だ!!」
言葉の示した人物は、湖の畔《ほとり》に出雲《いずも》を連れて立っていた。
頭上で起きている竜の動きと咆哮《ほうこう》など全く気にする風もなく、大城は脇に抱えていた紙包みから、一つのものを取り出した。
それは硝子《ガラス》の一升瓶《いっしょうびん》。表面に書いてあるのは、
「神酒《みき》。名称は カシマ とでも名付けようかなあ」
彼は栓《せん》を抜いた。
しかし中身を飲むことも、湖の中へと流すこともなく、宙に放り投げる。
振った腕、宙に浮いた瓶《びん》を追った視線が見るのは夜空。
そこにいるのは朱色《あけいろ》の光を放ち、概念《がいねん》空間の空|一杯《いっぱい》に広がった八つ首の竜だ。
「八叉《やまた》の封印《ふういん》後、2nd―|G《ギア》の者達はカシマの意見に従い、この荒王《すさおう》の周囲を水で包んだんだな。その理由は……、|Low《ロ ウ》―Gの日本神話では、大蛇《おろち》退治《たいじ》に酒が使われたからだという」
宙に飛んだ瓶が、上昇の最高点に達した。
そのときだ。瓶を上から砕くものがあった。
それは跳躍《ちょうやく》した出雲《いずも》の|V―Sw《ヴイズイ》。
V―Swの姿は刃《やいば》前部の機殻《カウリング》を解放し、後部のスラスターを展開した第二形態。
出雲は瓶を砕き割り、中身の酒とともに光刃《こうじん》を振り下ろす。
刃の行く先は湖面。
「大城爺《おおしろじい》さん。――今なら少しは格好《かっこう》付けたっていいぜ。ここでなら、な」
「いやいや、わしゃいつも格好いいし」
出雲は無視した。V―Swのグリップにあるトリガーを押す。
『ガンバルヨッ』
コンソールの文字とともに、まず刃から光が噴《ふ》き出した。
そして、刃の逆面《ぎゃくめん》にあるスラスターから彗星《すいせい》のような光が噴出《ふんしゅつ》された。
「ああああああああぁっ!!」
加速と叫びを連れてぶち込まれるのは、湖面を爆発させる一撃《いちげき》。
そして、そこで終わらない。
出雲は露《あら》わになった湖底に立つなり、四方の水へと下段からの打撃を入れる。
四|連撃《れんげき》。
爆布《ばくふ》の轟音《ごうおん》が四度|響《ひび》き、荒王《すさおう》周辺の水が酒を含んで空へと舞う。
軍神《ぐんしん》の名を得た神酒《みき》入りの水柱《みずばしら》は、上空の八叉をカウンターで打つ砲撃《ほうげき》として展開。
大滝《おおたき》の四連打の中心で、出雲が夜空の竜に叫ぶ。
「――出雲! 雲を呼ぶ風の名、そして今は全竜《ぜんりゅう》を望む者の名だ! 憶《おぼ》えておけ!」
彼の言葉は果たされる。
高加速で上昇した水柱は螺旋《らせん》を描き、神酒を含んだ水竜《すいりゅう》と化した。
四匹の水竜はその全長を数百メートルに伸長。
咆哮《ほうこう》を一つに重ねて八叉に躍りかかった。
そして両者の攻撃が開始される。水竜が蒸発し、八叉に水の穴が穿《うが》たれ、だが、
「――!」
八叉は水竜の直撃《ちょくげき》を、身を展開することで避けようとした。
八つの首を左右に広げ、八叉は水柱の竜を浅く受けただけで下へかわす。
しかし、その動きを止めるものがあった。
光。
それは、月の光だった。
概念《がいねん》空間|天井《てんじょう》から落ちる六本の太い光柱《こうちゅう》が、八叉《やまた》の左右展開を檻《おり》のように阻止した。
左右それぞれ三本ずつの光柱は、月の光の色を持ち、八叉の身体《からだ》を押さえ込む。
天球の檻《おり》の中、八叉が光柱に身を狭められ、叫びを上げる。
同時。神酒《みき》を身に含んだ水竜《すいりゅう》が、空から| 翻 《ひるがえ》って八叉に直撃《ちょくげき》。
打撃音と、炎《ほのお》の吠《ほ》える焔音《えんおん》が夜に響《ひび》く。
その光景と音を見る姿、月光を操《あやつ》る者の姿は、やはり湖の畔《ほとり》にあった。
腰を熱田《あつた》に支えられた月読《つくよみ》が、空に己の弓を向けている。
「御免《ごめん》なさいね、八叉。……だけどそろそろ、私達も赦《ゆる》して欲しい頃合《ころあ》いだわ」
「ちっ、格好《かっこう》つけやがって……。俺、この年でババアの尻を抱えることになるたあな」
「うるさいヤツねえ。変なトコ触らないでよ?」
「変なトコなんてもうねえだろ。あるのはガタが来て――、いてて何すんだババアっ!」
怒る熱田を無視して、月読は空を見た。表情を引きしめ、
「まだ、八叉が――」
動いている。光の柱に押さえられ、水竜の打撃を受け、しかし八叉は鎌首《かまくび》をもたげ、全力を振り絞《しぼ》るように下へと加速した。
一瞬《いっしゅん》で四匹の水竜が蒸発する。
身を狭められた分、心なしか、八叉の火力が上がっているようにも見えた。
皆は息を飲み、しかし思う。これが最後だと。
皆の視線の行く先は一つ、荒王《すさおう》の頭部|艦橋《かんきょう》跡、その先端に立つ二つの人影だ。
十拳《とつか》を下段に、頭上から来る竜に叩きつけようとする佐山《さやま》と、彼の背に寄り添う少女の姿。
彼らの姿が、皆には確かに見えていた。
二人を見る内の誰かが叫んだ。
行け、と。
そして二人は応えた。
艦橋跡の縁《へり》に立つ佐山は八叉を見た。
光の檻の中、身もだえするように落下してくる八重《やえ》の炎竜《えんりゅう》がいる。
竜は力を失いながらも熱を発し、
「……!」
轟《とどろ》く咆哮《ほうこう》に、十拳を振り上げる佐山の身は震える。
だが、それ以上に確かなものを佐山は感じていた。
背後、背に寄り添った新庄《しんじょう》の言葉だ。
「大丈夫。何かあってもボクが一緒にいるから。――悪い運《さだめ》は断ち切るから!」
ああ、と頷《うなず》き、佐山《さやま》は言う。
「そばにいてくれ、新庄君……!」
力を込めて上を見た視界。もはや直近に竜の顔面がある。
だが、吹き来る熱も光も、運切《さだぎり》の名が持つ力によって緩和《かんわ》されている。
ならばあとは行くだけだ。
竜が八つの首を連《つら》ねて牙《きば》を剥《む》くのと、佐山が十拳《とつか》を振り切るのは同時。
斬撃《ざんげき》一発。
炎《ほのお》に刃《やいば》が激突《げきとつ》した瞬間《しゅんかん》。一つの異変《いへん》が起きた。
背後、新庄のしがみつく力に呼応《こおう》するように、左手の中に震えが来たのだ。
「……!」
ゲオルギウス。その手甲《てこう》にはまったメダルが放つ青白い光が、十拳に回り、包んでいく。
「これは――」
新庄の驚く声に、佐山は答えない。
八叉《やまた》が2nd―|G《ギア》から伝えられるものならば、これは母から自分に伝えられたものだ。
この光はゲオルギウスの問いなのだろうか、と佐山は思う。
八叉が己の名を問うように、このゲオルギウスも自分に何かを問うているのか、と。
「感傷《かんしょう》だ……!」
叫び、しかし微《かす》かな胸の軋《きし》みを得ながら、佐山は一つの事実を思い出す。
熱田《あつた》との戦闘のとき、彼の同調を外すために掘り返した過去の一時を。
まだ両親が存在したとき、自分の父は、遼子《りょうこ》の言った通りの存在だったろうか。
そして、隣《となり》にいた母は、自分の記憶《きおく》によく残っているような顔をしていただろうか。
……それは。
答えを胸に秘め、佐山は八叉を封じるために十拳を振り抜いた。口を開き、
「――諸君!」
概念《がいねん》空間の中にいる全ての視線の先で、空に炎の爆発が生じた。
火焔《かえん》の破裂は高度五百メートルの位置で八連続し、後に風の爆風《ばくふう》が八方へ続く。
そして、響《ひび》く大音《たいおん》の中、声が響いた。
声の持ち主の名は、佐山・御言《みこと》だ。
その名前の通り、彼の言葉は力を持ち、空を渡り大地に染みる。
「――諸君! この戦闘の後、理解という勘違《かんちが》いを信じ、我々は2nd―Gを迎え入れる!」
空、炎竜《えんりゅう》が破裂していく。その中央で声は響《ひび》く。
「諸君、隣人《りんじん》の声を聞け。そして隣人を目にも見よ。2nd―|G《ギア》の真理、これより共にある者達の姿を。佐山《さやま》の姓《かばね》はここで敢えて言う。――2nd―Gと我々は等しいと!」
最後の一言に答えるように、八叉《やまた》の全身が破裂した。
「――今ここに、神剣十拳《しんけんとつか》は八叉より人に草薙《くさなぎ》を生《う》み天に叢雲《むらくも》を生む! 皆よ、我らは彼らを受け入れよう。そして移ろう風と天地の意を持つ神剣の民《たみ》よ。もはや己が力を恐れるな。我らは共にあるのだから!」
一拍の間を置き、
「……返事はどうした!? 今宵《こよい》は快い祭の夜だぞ!」
問いかけに、応じるかのように響き渡るのは、多重《たじゅう》の声と一つの叫び。
「――|Tes《テスタメント》.!」
人々の声と、空に散る最後の獣声《じゅうせい》が重なった。
竜鳴《りゅうめい》。
夜空で火の爆発に散る獣《けもの》の声は、概念《がいねん》空間の中を渡り、凛《りん》と走る。
だが、それは今までのものとは違う叫びだった。
喜悦《きえつ》の高音。
己の姿を取り戻した証《あかし》に、竜の歌が風として空に抜け、高らかに天に響く。
概念核は十拳に封じられた。
応じるように概念空間の全てが動いた。
始まりは、夜空を覆《おお》っていた火の飛沫《しぶき》が消失すること。
続いて空にあった名前の天球が一瞬《いっしゅん》で消え、爆心地《ばくしんち》からの風が概念空間の中を走り抜ける。
大風《おおかざ》。
それは森を揺らし、荒れた湖面を吹きすさび、概念空間の壁面を駆け上る。
風は概念空間の頂上付近に集《つど》い、激突《げきとつ》した。
大気の衝撃《しょうげき》音を| 雷 《かみなり》と呼ぶ。
そして、誘われるように雨が来た。
大地の風、草薙の息吹《いぶき》を含んで生まれた叢雲の雨が、夜の月下に降り注《そそ》ぐ。
木々も、大地も、人々も、概念|空間《くうかん》中央に立つ鉄の巨人さえも雨に濡《ぬ》れる。
誰もがじっと、荒王《すさおう》を見ていた。
降る雨の下、まるで泣いているように水に濡れていく荒王を。
荒王の艦橋跡《かんきょうあと》、雨打つ床の上に佐山達は立っていた。
元の形状を取り戻した十拳を左手に、そして右に新庄《しんじょう》を置き、佐山は前を見る。
艦橋《かんきょう》の背部側、壁が残る側に、鹿島《かしま》が一人たたずんでいる。
鹿島は雨に打たれるに任せたまま。
同じように濡《ぬ》れる佐山《さやま》は、こちらに顔を上げた彼に問うた。
「下に行くかね?」
「いや、……僕は少し考え事をしていくよ」
そうか、と佐山は十拳《とつか》を鹿島に渡そうとした。
が、彼は左手を上げた。雨に濡れた笑みを見せ、
「持っていくといい。……全ての証《あかし》だからね」
彼の言葉に、佐山はただ頷《うなず》くだけで答えとした。
右手で新庄《しんじょう》の背を押し、歩き出す。
新庄は雨に濡れる前髪《まえがみ》を掻《か》き上げ、ついてくる。
戦い終えてみれば、この艦橋も狭い場所だ。すぐに下に降りる階段へ辿《たど》り着く。
その折に、艦橋の床に鹿島が座り込むのが見えた。
彼の手には、先ほど佐山が砕いたフツノの柄《つか》が握られていた。
が、佐山は何も言わない。
横の新庄がちらりとそちらを窺《うかが》い、
「大丈夫かな……」
「大丈夫であるために、ここに来たのだよ、彼は」
そうかな、と新庄は首を傾《かし》げた。
そして新庄は、こちらの言葉を疑問|視《し》する自分に気づいたのか、苦笑を一つ。
「相変わらず逆だね、僕達」
「そうでなければいかんよ、新庄君」
佐山は、上着を脱ぐと新庄の肩に掛けた。
新庄を見ると、困ったような顔をしているが、拒否はしない。
ただ、新庄はこちらの右の腕にしがみついてきた。
今は女性である新庄は、窺うような表情を返し、
「迷惑《めいわく》、かな?」
「構わないとも。男の子のときであっても、ね。……それが君なのだから」
「そこらへん、ボクはまだ正常だから吹っ切れないけど、でも、あのね? ホントに、この数日さ、いろいろあって、その、あの」
御免《ごめん》ね、と唇の動きだけで告げて、しかし、新庄は笑みでこう言い直した。
「有《あ》り難《がと》う」
「――――」
「ホントは謝るべきなのかもしれないけど、でも、……有り難う。このところ一度も言ってなかったね。ずっと謝ってばかりで」
「だとしたら新庄《しんじょう》君、これからは」
「うん、ボクはずっと、佐山《さやま》君と一緒にいる限りそう言いたいよ。――だって僕が謝ったら、佐山君が仕方なく僕といることになるもんね。だから……」
と、新庄が頷《うなず》き、絡めた腕を外した。
階段の踊り場の上、新庄は指輪をはめた右手を差し出してくる。
佐山はやや考えて、不意に新庄の下、階段を一段降りた。
「私は、こちらの手が利《き》き手でね」
左手の十拳《とつか》を右に持ち替え、空《あ》いた左手で、
「姫の手は、こう取るものだろう?」
下からすくい上げるように新庄の右手を取った。
佐山の左手の指輪と、新庄の右手の指輪が軽くぶつかり、音をたてた。
頬《ほお》を赤くして新庄が頷いた。そして階段を一段下りれば、二人は並ぶ。
ステップを踏む音を繋《つな》げ、佐山と新庄は肩を並べて降りていく。
湖を渡る桟橋《さんばし》、その向こうで自分達を待つ人の元へと。
降りていく頭上、ゆっくりと雨が止みつつあった。
月光だけが、後に残ろうとしている。
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最終章
『風の伝えること』
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何を言うべきか
何を聞くべきか
全て大事だと――
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鹿島《かしま》は始発の電車より早く、奥多摩《おくたま》に到着していた。
朝、西立川《にしたちかわ》の概念《がいねん》空間を出るとき、事後《じご》調整を行っていた者達と合流し、奥多摩駅まで送ってもらったためだ。
だから今は身軽《みがる》。治療《ちりょう》してもらった右手にやや痛みがあるが、逆に目が醒《さ》めていいと思う。
鹿島は歩く。朝日の出ていない奥多摩を、実家の方へ。
実家では、きっと両親が起きているだろう。
田圃《たんぼ》の田植えは今日の筈《はず》だ。手伝おうか、どうしようか。
「どちらにしろ、奈津《なつ》さんは田植えを手伝いたがるだろうな……」
言い終えて苦笑。昔は自分もよく手伝った。そのときは、
……爺《じい》さんも一緒だったっけか。
足下、濡《ぬ》れた泥に足首まで浸《つ》かった感触《かんしょく》を思い出す。
……やっぱ手伝おうか。
きっと今日は開発部も休業状態だ。この五月の初め、電話一本で有休は数日取れる。
その休みを終えたら、僕の周囲は、
……どうなるだろうか。
全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》は、きっとこれからも他のGとの交渉に赴《おもむ》くだろう。
昨夜、手を取り合って荒王《すさおう》を降りていった少年と少女を思い出す。
スサノオと姫は、風渡る出雲《いずも》の地を選んだのだ。きっと彼らは幾《いく》つもの概念核をこれから献上《けんじょう》していくこととなる。その手伝いとなるべき装備|類《るい》、武器を作るのは、
「僕達か」
うん、とカシマは首を一度下に振った。
心の奥にそのことを秘め、思いを変える。
……実家に急ごうか。
両親が起きているならば、奈津さんも、晴美《はるみ》も起きているだろう。
特に晴美は、僕がいないとよく泣くという。迷惑《めいわく》をかけてなければいいけれども。
急ぐ足は森の中、通り抜ける坂道を行く。
急なカーブを曲がり、前を見れば、そこはかつての崩落《ほうらく》の現場だ。
だが、望むべきは、ここではない。坂を上り終えたところにある実家だ。
急ごう、と足を速めた。
そのときだ。
鹿島は目の前に人影を見た。
先日、自分が殴りつけた斜面の前。
その前にあるガードレールの縁《へり》に、シャツにジーンズ姿の女性が腰を下ろしている。
奈津《なつ》だ。
彼女は晴美《はるみ》を抱いた姿勢、シャツのボタンを緩めて、右の胸を露《あら》わにしたままで、
「…………」
ふと、細めていた目が、こちらに気づいた。
「昭緒《あきお》さん……?」
奈津は身を震わせ立ち上がる。首元、鎖《くさり》をつけた指輪を揺らしながら、
「……昭緒さん」
声を挙げ、こちらに近寄ろうとして、しかし奈津は、あ、と頬《ほお》を赤くした。
下を見た彼女の視線の先、こぼれた胸があり、眠っている晴美がいる。
脚《あし》が迷い、表情が困る。こちらと自分と晴美と、どれを優先しようかと。
そんな彼女に鹿島《かしま》は苦笑で近づいた。
「じっとしてて」
あたりを見回し、人影がないのを確認してから奈津の胸元《むなもと》に手を伸ばす。
胸に触れ、軽く緩められた下着を授乳《じゅにゅう》パッドとともに戻す。
ん、とくすぐったそうな声を挙げる奈津に、鹿島は自分も困ったような視線を合わせる。
そして鹿島は彼女のシャツのボタンを閉め、
「あのね、奈津さん」
「あ、はい、何でしょう?」
「朝の散歩の途中だと思うんだけど……。僕《ぼく》以外の人が来たら、どうするつもり?」
「え? そ、その場合は開き直ってしまいます。幸い、知り合いのいない場所ですし」
「じゃあ、僕が来て慌《あわ》てたのは?」
「だって、昭緒さんには、はしたないと思われたくないですから……」
頬赤く、うつむいて目を細める奈津に、鹿島は吐息した。
参ったなと思う眼前で、奈津がこちらに会釈《えしゃく》を一つ。
二人|揃《そろ》って歩き出す。
「義父《おとう》様と義母《おかあ》様が、もう起きられてます。私が散歩から戻ったら、御飯にしようって」
「僕は奈津さんの手料理が食べたかったけど」
「追加の一名分は、私が作りますよ」
目を細め、くく、と機嫌《きげん》のいい笑みを奈津は喉《のど》で鳴らす。
そして小首《こくび》を傾《かし》げ、
「聞かないんですか? どうして私が、ここに来ていたのか」
「聞いたら、嘘《うそ》をついてくれる?」
「ええ。……それでも昭緒さんは解《わか》って下さいますから」
随分《ずいぶん》と回りくどい嫁《よめ》さんだが、笑みに邪気《じゃき》は全くない。
彼女と並んで歩く鹿島《かしま》はこう思う。
君も、僕が何をしていたのか聞かないんだよな、と。右手がこんな風になっているのに。
奈津《なつ》が問わない理由はきっと、彼女自身が告げたものと同じだろう。
「僕達は、ヤマトタケルとその姫か……」
鹿島はつぶやきとともに目を細め、奈津を見る。
話したいことはいろいろある。
背後、遠くに広がる街並みが、過去に一度滅び掛けたこと。
祖父が仲間と共に、自分達の受けた滅びを再来させなかったこと。
その祖父の思いと、応えた一人の技術者のこと。
彼女を追った自分が力を求め、事故を起こしたこと。
そして昨夜、一つの戦いがあったこと。
……僕が見てきたこと全て。
感じたことも、得た答えも、そこから生まれる問いかけも、全て、話したい、と。
だが、言わなくても、いいとも思う。
荒王《すさおう》と同じことだ。
背後の街の中、概念《がいねん》空間に立つ鉄の巨人。それは、誰にも知られることなく、そして忘れられようとも、
……彼がこの世界を守った事実は失われない。
何もかも、たとえ忘れられても、失われることはない。
「…………」
鹿島は隣《となり》を歩く肩を、包帯《ほうたい》を巻いた右手で抱き寄せた。
ん、という吐息とともに、奈津が晴美《はるみ》を抱いたまま、身を寄せてきた。
そのときだ。不意に背後から、風が来た。
東の風。朝を告げる強い風が吹くのは、
「朝日が……」
奈津の声とともに、背後から、朝の光が来る。
風が吹く中、ふと、奈津が首を傾け、背後を見た。
そこには、森の間から東京の街並みが見えるはずだが、
「あら……?」
奈津が目を細めた。
「何だか、一瞬《いっしゅん》、街の中に大きな人影が立っていたような……」
鹿島は一瞬だけ息を飲んだ。一度目を伏せ、錯覚《さっかく》だろう、と思う。
だが彼は口を開き、言葉を選んでこう告げた。
「よく見て御覧《ごらん》」
ええ、と頷《うなず》いた奈津《なつ》は、しかし朝日の光に目を細めた。
「不思議《ふしぎ》ですね。東京の街に、朝霧《あさぎり》が掛かっているんですけど……。朝日を浴びて、霧が金色に光って見えるんです。まるで、――父が描いた絵本の一枚のように」
そうかい、と鹿島《かしま》は息を吸った。
「きっと、スサノオはその地を守っているよ」
ええ、と奈津が微笑をこちらに向けた。
そして、二人の間を風が抜けていく。
東の風、この時期の風はまだ冷たい。田植えを終えてしばらくすれば梅雨《つゆ》が来て、夏になる。
綺麗《きれい》に晴れる空は、じきに湿《しめ》った濃い空に変わるのだ。
今、この地を抜け、草木を撫《な》でる草薙《くさなぎ》の風は、梅雨や夕立《ゆうだち》を生む叢雲《むらくも》の風となるだろう。
どうだろう。
どうだろうか、爺《じい》さん。この世界の風は、爺さんの住んでいた世界の風と同じだろうか。
答えは解《わか》らない。が、解る気もする。
……そういうものか。
風を見送り、鹿島は、ふと、一つのことを思い出した。
腕の中、共に歩く人に言うべき言葉。それを思い出したのだ。
戦いの中、ずっと思っていた言葉を、言おうと思う。
頷《うなず》きを一つ。
振り向けば、奈津はこちらを見ている。小首《こくび》を傾《かし》げ、言葉を待っている。
だから鹿島は口を開いた、奈津と、彼女の腕の中で眠っている晴美《はるみ》に、
「……ただいま」
東の風、いずれ叢雲となる草薙の風よ、僕の言葉は届いているか。
貴方《あなた》達の遺《のこ》した2nd―|G《ギア》の力。それをもはや否定していない僕は、しかし、
「帰ってきたよ。君達のところに」
告げた言葉に、奈津は頷き、晴美が目を開けた。
「あ……、あ」
小さな声に応じるように、奈津が笑みを見せた。
大事なもの。それを示す笑みを奈津はこちらに寄越《よこ》してくる。
「昭緒《あきお》さん……」
微《かす》かに濡《ぬ》れた瞳《ひとみ》を向け、名前の次に告げられる言葉は一つ。
どこにでも移ろい行く風が、だからこそ望む大事な一言。
その言葉を、奈津は小さな、しかし確かな声で告げた。
風は、その言葉を聞いているだろうか。
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終わりのクロニクル
「お帰りなさい……」
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あとがき
どうもです。『AHEADシリーズ 終わりのクロニクルA〈下〉』、決着しました。
何か妙なことに前より分厚《ぶあつ》くなってますが、厚さはここらでストップだと思います。何とも書きたいことが多くてこんな状況ですが、お付き合い下さった方、どうも有《あ》り難《がと》う御座《ござ》います。
では作中《さくちゅう》情報など。
東京|大空襲《だいくうしゅう》は諸処文献《しょしょぶんけん》などによって判断の変わるところが多い事件です。が、この話では作中通りの扱いとしております。自分が学生時代には丁度《ちょうど》戦後五十周年とかで文献を調べやすくなっていたのですが、今はどうでしょうか。他、空襲などは日本の各地で起きましたが、ちょっとでも調べてみると己の足下に戦争の跡があることが感覚できると思います。
ちなみにうちの父親も昔に川で泳いでいたら戦闘機による空襲に遭《あ》ったそーですが、
「無茶苦茶《むちゃくちゃ》慌《あわ》てた」
ってそりゃそーだ……。
なお、裏《うら》表紙ですが、このクロニクルは一貫《いっかん》してAHEADの第一エピソードなので二話目《にわめ》以降も1st扱いとなってます。ここらへん、都市と同じ扱いですね。宜《よろ》しくお願いします。
と、そんなところでいつものようにチャットに入ってみんとす。
「おはよう奇言《きげん》の| 源 《みなもと》、今日は何を聞かせてくれるんだか言ってみるといいかもよ?」
『相変わらずですね貴方《あなた》。大体いつ私が奇言を述べましたか。訂正を要求します』
「解《わか》った。上方向に訂正しておくから二度と忘れるな」
『あ、すいません、最近|魚《さかな》を食べていないもので脳にDHAが……』
「ネコに魚食わせといて自分はどーしてんだよっ」
『そんな、貴方、人の食生活を管理しようなんて私の女房《にょうぼう》か母ちゃんですか。とりあえず全然関係ない方面に話が向いているんですがどうしましょうか?』
「うーん、そうだなあ。単刀直入《たんとうちょくにゅう》に言うけど、読んだ?」
『ええ読みました。また猫があまり出ませんね。――最悪ですこの話しかも上下で!!』
「無視していい?」
『いいですよ。しかし手からビームとか出せるといいですねえ』
「試したことあんの?」
『いえ、流石《さすが》にビームはありませんが』
「他はあんのかよ!?」
『ええ、高校時代、何故《なぜ》か朝に起きたらそのまま部屋の中央で しょーりゅーけん! ってやりまして。技はしっかり出たんですが、天井の蛍光灯《けいこうとう》を突き割って血ダルマに』
「ああ、| 上 昇 《じょうしょう》最高点で無敵が切れたんだな……」
『着地《ちゃくち》失敗で床に転がったら破片《はへん》が散らばっているじゃないですか。床の上で痛みにのけぞったら余計に刺さったりして最悪でしたよ』
「追い打ち攻撃で点数|倍率《ばいりつ》アップか……。しかし何でそんなことを」
『まあ、受験で疲れていたんでしょう。日本の教育が悪いと思います』
「確かにアンタみたいなのを作り出してしまった教育は悪いな。つーかわしの周囲、学生時代にロクな思い出持ってるヤツがいない気がするんだが」
『それよりも全く作品の話をしていない気がするんですが』
「何か言ってみ、猫《ねこ》以外」
『うわ、それは難しいですねえ』
難しくねえよ、ってかここで終わりかー。
てなとこで。今回の作業中BGMはさだまさしで 関白《かんぱく》宣言=iいい歌詞《かし》です)ですが、
「一体|誰《だれ》が嘘《うそ》をつき通したのだろうか」
などと思ってみたり。
さて次、足場も固まってきたので遠出《とおで》+加速してみたいところです。
平成十五年九月 月の綺麗《きれい》だった朝っぱら
[#地付き]|川上 稔《かわかみみのる》
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|AHEAD《ア ヘ ッ ド》シリーズ
終わりのクロニクルA〈下〉
発 行 二〇〇三年十一月二十五日 初版発行
著 者 川上 稔
発行者 佐藤辰男
発行所 株式会社メディアワークス
[#地付き]校正 2007.02.17