小説アンジェリーク
【魔女のささやき】 須和雪里(イラスト・杉山志保子)
知恵を与える地の守護聖の執務室は、大きな本棚が並べられ、たくさんの本で埋まっている。この守護聖の名をルヴァという。ルヴァの私邸も執務室同様に本で埋め尽くされている。この守護聖と書籍は人生のパートナーと言っても過言ではなかった。つまり、ルヴァは本を読むことが三度のご飯よりも好きなのだ。
「ねえルヴァ、これなーに?」
ある日のことだ、ルヴァの屋敷にお茶を飲みに来ていたオリヴィエは本棚の一角に厚い紙で包装されたものを見つけて、首を傾げた。オリヴィエは美しさをもたらす夢の守護聖だ。その華やかな美貌を誇り、人となりといえば自由奔放といったところか。どこか浮き世離れしていないでもない。好奇心は人一倍旺盛だ。その包みを手にし、量った重さで推測する。
「これ本?」
振り返ってルヴァに聞いたが、その時ルヴァはいなかった。
「ルヴァは、なんかうまい茶があるとか言って、取りに行ったぜ」
ルヴァの所在を知らせたのは、オリヴィエと同じくお茶を飲みに来ていたゼフェルだった。器用さをもたらす鋼の守護聖は、険のある顔つきの少年だ。手におえないひねくれ者と言われるが、それも彼を取り巻く諸事情によるものと思われる。彼は自分の意志をまるで無視されるようにして聖地に連れてこられ、守護聖の任を与えられた少年だった。そのためか、権威というものに極めて反抗的で、光の守護聖などの頭を痛ませている。
だが、そんなゼフェルもルヴァとはうまくやっている。ルヴァといると落ち着くためか、こうして彼の屋敷を訪れることも多い。落ち着く、という理由でルヴァのもとを訪れる守護聖は多いが、この日はオリヴィエとゼフェルのふたりだけだったようだ。
「なんだよ、それ?」
「なんだろうね? 本みたいなんだけど、いやに丁寧に包んであるんだよ。大事なものなのかな?」
ゼフェルがオリヴィエの手の中のものに興味を抱いて近寄ると、オリヴィエはそれを手の中で二、三度弾ませた。
「オレは本なんか読まねーからよくわかんねーけどよ、本ってのは読むから価値があるんじゃねーのか? こんなにご丁寧に包装してしまってある本が大事なモンなのか? その包み紙、かなり古くなってるじゃねーか。本マニアって、大事な本を眠らせておきたいんか?」
「私だって本マニアの気持ちなんかわかんないよ」
「ひょっとして人に見せられねーよーな本じゃねーの?」
「エッチな本とか?」
「呪いの魔術とかよ」
「ダイエットの本だったりして」
「それより筋トレの本だった方が笑えるぞ」
そこでふたりは、ルヴァが筋力トレーニングをしている姿を想像して吹き出した。
ちょうどそこに、ルヴァがティーセットをのせたワゴンを押しながら戻ってきた。
「あー、何だか楽しそうですねえ。おまたせしました。私が特別にブレンドしたお茶ですよー」
ニコニコと愛想のいい笑顔のこの守護聖、知的好青年といえば聞こえはいいが、そのおっとりとした気性のせいか、守護聖の年長さんであるせいか、ゼフェルなどには「おっさん」と言われている。
「これをぜひ飲んでいただきたかったんですよねー」
ご機嫌な様子でやってきて、やってきたとたんにオリヴィエが手にしているものを見て、悲鳴をあげた。
「ヒーッ! なぜそれをーっ?」
なんだなんだ、とゼフェルがルヴァの顔を覗き込むと、地の守護聖の顔は真っ青になっていた。
「いったいどこから見つけ出したんですかー?」
「どこって、本棚の奥にあったよ」
オリヴィエが、また本を手に弾ませる。
「ああ、わからないようにしておいたのに……」
「すぐにわかったよ?」
「あああー、とにかくその本をもとに戻してください。ああっ、投げ上げたりしないで!」
ルヴァがあわてるものだから、オリヴィエはおもしろがってゼフェルに本を放った。ゼフェルがそれを放り返すので、キャッチボールならぬキャッチブックが始まった。
「ああああっ! その本に刺激を与えないでくださいよー。魔女が目覚めちゃったら、どーするんですか」
その一言に、オリヴィエもゼフェルも「はあ?」と口をあける。
「魔女ぉー?」
ゼフェルは、ちょうど放られてきた包みを凝視した。
「なんだよそれ? この本てなにかいわくつきなのか?」
それを聞き、疑わしそうな目でルヴァを見る。
「なんかおめー、じじくせー迷信とか信じてそーだよな」
「それにしても興味あるよね、その魔女ってなんなの?」
ゼフェルとオリヴィエに注目されて、ルヴァは肩をすくませた。ゼフェルのそばにいって、そっとその本を取り戻す。
「この本には、魔女が住んでいるんですよ」
またゼフェルとオリヴィエは口をあけた。そんなことはとても信じられないという表情である。ルヴァがそれに気づいて、苦笑した。
「そういう話です。私も見たわけじゃないですけどね」
「なんだよ、そりゃー」
「なーんか、納得いかないことって好きじゃないな」
えーとですねー、とルヴァが説明する。
「これは前任の地の守護聖が私に預けていった本なんですよ。その時はすでにこのように封印されていて、決して本を開いてはならない、と言い渡されたので、私もこの包みをあけたことがないのです。だから、本当のことは私にもわからないんですよ」
ルヴァは、よっこいしょ、とソファーに腰をおろして、ティーカップにお茶を注いだ。そのカップを口許にもっていき、コクリと飲む。さもおいしそうに宙を眺めて一息ついた。
そしてもう一口飲む。
さらに、もう一口。
「って、おっさん、話は終わっちまったのか、さっきので!」
「あんた、人が続きを待ってりゃ、ひとりで茶ーなんか飲んでリラックスしまくってー」
ゼフェルとオリヴィエは、話の続きを待っていたらしい。こんな時に怖いのは、ゼフェルではなく、オリヴィエだ。
「納得いかないことはキライっていわなかったっけー? 私の長い爪でほっぺたつねられたら痛いんだよー?」
「ヒ……ヒイ」
オリヴィエににじり寄られて、ルヴァのリラックスした気分は、ほどよい緊張と取って代わった。
ルヴァの話はこうだった。
「えーとえーと、この本っていうのは、よくある童話なんですよ。一目で恋に落ちてしまった王子様とお姫様がおりまして、だけどお姫様は悪者にさらわれて、王子様がお姫様を助けるために冒険の旅に出るんですね。ふたりとも、その後はまるで運命に翻弄されるように数々の危機に見舞われ、それでもそれを乗り越えていくという冒険譚でもあり、そのたびに人としての心を磨いていく成長物語でもあるんです」
ふう、と息をついて、ルヴァは再びお茶を飲む。そこで本当にオリヴィエにほっぺたをつままれた。
「はうっ? あっ、そーそー、それでですね、王子様の冒険の中に、ひとりの魔女が出てくるんです。魔女は齢はとうに二百歳を超えているんですが、若々しい肢体と美しい容貌をもってるんです。でもその美貌を維持するために若くてきれいな男を、おぞましくも食べていて、諸国の民を震え上がらせていたわけです。必要が嗜好となったのか、魔女はそりゃー面食いで、いい男がいればさらってきて、男を動物の姿に変えて食べてしまうんですよ」
ルヴァは、ブルッと身震いした。
「怖いですねー。で、王子様もまた美男子だったんで、魔女に目をつけられて、さらわれてしまうんです」
「へえ、その王太子殿下はどうしたの?」
「そこは知勇兼備の王子様ですから、知恵を働かせて魔女を逆に退治してしまうんですよ。ところがです、物語の中で魔女は死んだことになっているんですが、ホントは生きていたんです。魔女は王子様に恋してしまっていて、その思いは熾烈なまでだったんですよ。その狂おしい思いが、彼女を冥府から甦らせたのかもしれません」
「でもよー、なんで魔女が生きているってわかったんだよ?」
「だって、この本をひらいた若いきれいな男性は、次々と姿を消してしまったからです」
ゼフェルとオリヴィエは、ぞっとしたように肩をすくませ、本に視線を落とした。本は今はテーブルの上に置かれてある。しばし本を凝視し、それからうつろに笑った。
「ハハハ、消えるって、煙みたいにか?」
「そうらしいですよ、本の中に引きずり込まれるんじゃないですか? それでこんな危険な本は聖地預かりとなって、ここにきたんです。本のことなら地の守護聖にまかせておけばいいらしいですからね」
ゼフェルとオリヴィエは、顔を見合わせ、しばし声もない。
黙っていたかと思うと、ゼフェルがいきなり声を張り上げた。
「ハッ! バッカみてー。そんなのデマにきまってんだろ。地の守護聖ともあろうものが、そんなバカげた話を信じて、こんな本を大事にもってるなんて信じられないぜ!」
「そーだよ、そんな話あるわけないって」
オリヴィエも相づちを打つ。ルヴァは弱々しい瞳で彼らを見つめた。
「じゃあ、この本をひらいてみます〜?」
とたんに、ウッと声をつまらせるふたりである。
「い、いや……、オレはその、美男子ってモンじゃねーから、ひらいても魔女につかまったりしねーし、やっても無駄ってモンだ」
ルヴァが包みをそっとオリヴィエの前に差し出した。オリヴィエが、グッとのけぞる。
「私はこのとおりの美貌だけどさ、ホラ、魔女って王子が好きだったんでしょ。だったらその王子様みたいな人がいいんじゃないカナー、なんて」
「あーそうですねー、きっと王子様は、オスカーみたいにハンサムでカッコ良くて勇敢な人なんでしょーねー」
ゼフェルとオリヴィエは、いやそうに鼻にしわを寄せた。
「ケッ、あんなのがかっこいい男っていうのかよ」
「王子って知勇兼備なんでしょ? まあ『勇』は認めてやるとしても、あいつのどこに『智』があるっての?」
「でもですねー、数々の冒険に挑んでいく勇者で、しかもいい男っていうとオスカーがまず頭に浮かびますよ」
ルヴァは両手で頬杖をついて、うっとりとしたように目を細めた。
「かっこいいですよねー、伊達でハンサムで眼差しは時に鋭く、時に甘い。不敵な微笑も板について、畏るるものなしってカンジじゃないですか。女性の扱いなんかにも長けていて、きっと女の人っていうのは、彼みたいな男性が好きなんでしょーねー、私なんかおよびもつかないですよ」
「……ちょっと、誉めすぎだよ。ひょっとしてあんたって、オスカーみたいな男になりたかったの?」
「ええっ?」
ルヴァはとたんに顔を赤くした。
「そ、そんなつもりは、あ、いえ、もしかしたらそーかも……」
「ルヴァ……」
ゼフェルもオリヴィエも、あきれ果てたという態だ。
「私なんか非力だし、長剣なんか持ったらよろけちゃうだろうし、さっそうとマントをひるがえして広野を駆け抜けることなんかできないだろうし、なんのおもしろみもないつまんない男だし、ふう……、英雄とか、戦国の武将とか、冒険物語の主人公なんかには、絶対になれないしー……」
ルヴァは自分で言っているうちに、情けない気分になってしまったらしかった。うなだれて、私なんか私なんか、とつぶやくのみになった。
「そう、あんなモノがあんたの憧れだったんだね……」
あんなモノ、とはオスカーのことだ。哀れむような瞳でルヴァの丸くなった背を眺め、ぼんやりとつぶやくオリヴィエの声に、ゼフェルの鼻息が重なった。
「フン、あれのどこがいい男なのか、魔女に審査してもらおーぜ」
すばやく包みをつかむ。
「ど、どうする気ですか、ゼフェル」
「決まってるじゃねーか、この本をオスカーのやつにひらかせてやるんだよ」
「いけませーん!」
ルヴァがゼフェルに躍りつくようにして、彼の腕をつかんだ。
「もしもオスカーが本の中にひきずりこまれちゃったら、どーするんですか? この本の秘密を知っていて、オスカーにそんなことをさせたら、それは犯罪なんじゃないですか」
「そんなこと言ってたら、魔女の話がウソなのかホントなのか、いつまで経ってもわかんねーじゃねーか」
「だからと言って、そんなことは私が絶対に許しません」
「じゃあ、あんたがこの本をひらいてみろよ」
「いやですよー、怖いじゃないですか。もしも魔女の好みが私みたいなシンプルな顔の男だったりしたら、どーするんですか」
「だから、魔女なんかいねーってば」
「そんなに言うなら、ゼフェルがひらいて確かめてみればいいでしょー」
「やなこった。魔女の許容範囲にオレが入ってたらどーすんだ」
「ホラ、みなさい、信じられないって言っても、あけられないじゃないですか。それなのにあなたは私をバカだバカだと……」
「だって、あんたってなんかバカなんだもん」
「なんですか、それはー」
やいやいとやっているところに、それを眺めていたオリヴィエがポツリとつぶやいた。
「ねー、それじゃあやっぱり魔女の話がウソかホントかわかんないね」
「はあ」
ルヴァとゼフェルが口を閉じてオリヴィエを見る。
「もしもホントだったら、と思うと、ひらくことができないし、人にひらかせることもできないでしょ。もしもウソだと思ってひらいてみても、消えなければブサイクな男に分類されただけの話かもしれないし、やっぱり魔女がいるのかいないのかわかんないじゃない」
「そーですね」
「ってことは、いつまで経っても、本当のことはわからなくて、ルヴァはずーっとその本を保管していくわけだよね」
「そーですね」
「ルヴァのサクリアが衰えて、聖地を去ることになっても、次の地の守護聖がその本を守っていくわけだ」
「そうなりますね」
「そして永遠に、魔女のことは謎のまま」
「いいんじゃないですか?」
オリヴィエは目を据わらせた。
「ヤだ」
「はあ〜?」
「なんとも思わないのルヴァは。あんたほど知的好奇心の旺盛な守護聖がだよ、この謎を解きたいと思わないの?」
「ですが、私は本をひらいて消えてしまうのも遠慮したいし、ブサイクな男に分類されてしまう勇気もありませんよ。あなたやってみますか?」
「あたしなんかが本をひらいたら、たちまち魔女につかまってなにされるかわかったもんじゃないじゃないの!」
そして、コホンと咳払い。
「まあ、魔女がいるとしての話だけど」
「結局、みんな本をひらく勇気はないんですよねー、やっぱりこーゆーことができるのは、オスカーみたいに勇敢でかっこいい人なんでしょーねー」
ゼフェルもオリヴィエも怒ったようだ。
「やっぱりオスカーにこの本をひらかせてみようぜ!」
「あー、そうだね、あの男がどこまで勇敢でかっこいいか見せてもらおうじゃないの!」
ルヴァから本を取り上げて、部屋を出ていく。
「だっ、だめですよ〜っ!」
ルヴァが追いかけたが、ゼフェルとオリヴィエの足に追いつくことができずに、ヒーヒー言いながら彼らの後を追うことになった。
ズンズンと足を速めるゼフェルとオリヴィエは、途中でチュピと遊んでいるマルセルとランディに会った。
「あっ、ゼフェルとオリヴィエ様、どうしたんですか、そんなに急いで」
「なんか後ろの方からルヴァ様が追いかけてきますけど……」
マルセルがふたりに笑いかけ、ランディが後ろを見て困惑したように眉を寄せた。
「ルヴァのことはほっといていいよ、オスカーがどこにいるのか知らない?」
「オスカー様なら、執務室にいると思いますけど」
「あっそう、ありがと」
そう言って、またふたりはズンズンと行ってしまう。
「なんだろあれ?」
「さあ?」
マルセルとランディが腕を組んで、首をかしげたところにルヴァがやっとやってきた。
「ルヴァ様、いったいどうしたんですか?」
ランディの質問に、
「た、たいへんなんです〜、オスカーに危機がせまってます〜」
ルヴァは答えて、ゼーゼーと乱れている息をととのえた。
「ええっ、それはどういうことなんですか!」
「それはですねー」
ルヴァは少年たちに長い話を聞かせているうちに、オリヴィエたちとの距離をいよいよ広げていくのだった。
しばし後、オスカーの執務室にジュリアスとクラヴィスとルヴァを除いた守護聖たちが集まっていた。マルセルとランディが、本の話をひろめた結果である。
その話はジュリアスには伏せられていたので、ジュリアスはおらず、またクラヴィスはこの世のすべてのことに興味がないのでいないのだった。ルヴァは、たんに足が遅いのでまだここにたどりついていないのである。
オスカーは、額に汗を浮かべていた。彼の前には、包装された本がある。一同は、じっとオスカーを見守っていた。
オリヴィエから本の由来を聞いたオスカーは、「なぜ俺が……」と思っていた。まこと、オスカーには分の悪い話であった。
本をひらかなければ、臆病者の汚名を着ることになり、本をひらけば消えてしまうのかもしれないのだ。もしも消えなかった時には、ブサイクとそしられるのである。
そんな事情で、本をひらくこともひらかずにいることもできず、額にじっとりと汗を浮かべているのである。
オスカーの心の声はこうだった。
「二枚目と自負しているこの俺が、もしも面食いの魔女に選ばれなかったら、皆はなんと思うだろう。やっぱりこの男、自分で言うほどたいしたことないじゃん、と思われるに決まっている。俺がちょっとでも女の子の前でいいカッコをすると、侮蔑の眼差しがふってくるだろう。そんな噂が、女の子たちの間に流れでもした時には、もっと悲惨だ。かっこいいセリフを決めてみても、吹き出されてしまったりして……。そんなことになったら、俺のプライドはズタズタだ。もう立ち上がれないかもしれない。だからといって、魔女に選ばれてしまうのもいやだ。男を動物に変えて食らうような女につかまったりしたら、一巻の終わりじゃないか。でも、この場から逃げることもできない。俺は王子様のようにかっこよくこの場をキメなければならない。この炎のオスカーが、この場を逃げて、臆病者だなどと思われてはならないのだ。その時はその時でまた、女の子たちの失笑を買うだろう。なんてこった、いったいどうすればいいんだ。いや待て、よく考えろオスカー。こんな危険なことを誰も止めないはずがないじゃないか。平和好きなリュミエールかなんかが必ず止めてくれるはずだ」
心の中でそんなことをつぶやき、チロリとリュミエールに目をやる。
「ハッ! リュミエールが瞳を輝かせている。もしかしてワクワクしているのか! なぜだっ? 俺がこんなに危険な目にあっているというのに、まったく止めてくれる様子がない。しまった、こんなことだったら、もっとリュミエールと仲良くしておくべきだった。じゃあ、ランディはどうだ。……ダメだ、こいつもまたワクワクしているみたいだ。マルセルもだ。どうしてみんな止めてくれないんだ。もしかして、俺にこの本をひらく勇気なんかないと思っているのか? 侮辱だぜ。それとも、魔女の話なんか信じていないのか? まあそうだろうな、俺だって信じられないんだからな。しかし、こうして本を目の前にして、ひらかねばならない状況に追いやられた者の心理状態というのを少しは察してくれてもいいじゃないか。みんな冷たいんじゃないのか? そういえば俺は敵は多いが、友だちは少ないよな……。ああ、ここにジュリアス様がいてくれたら、絶対に止めてくれるのに、どうして必要な時にいてくれないんだ、あの人は……」
オスカーの心の葛藤など知らぬげに、オリヴィエが声をかけてきた。
「ねえオスカー、どうしたの? やっぱり怖いならやめてもいいんだよ?」
オスカーは、フッと笑った。
「怖いことなどないさ。だが、面食いの魔女がこの俺を本の中に連れて行かないわけがないからな、しばしこの世との別れを惜しんでいるのさ」
俺のバカー! と絶叫するオスカーの心の叫びは、誰も聞きつけてくれなかった。
「もう充分に惜しんだでしょ、そろそろやってもらおうか」
「ああ、俺もそうするつもりだぜ」
ウウウ……、と心で泣くオスカー、しかたなく本の包装を開いて、中の本を取り出した。その本は薄汚れていて、表紙の文字も判別がつかないほど古い本だった。
「じゃあ、ひらくからな」
皆の聴覚が優れていたら、オスカーの心臓がドックンドックンと大きな音を立てているのに気づいただろうが、ここにいるのは人並みの聴覚しか持ち合わせていない者ばかりだった。
誰でもいいから、止めてくれー! と心で絶叫しながらオスカーが本の扉に手をかけた、その時である。
「いけませーん!」
ルヴァが部屋に飛び込んできた。一同はびっくりしてルヴァを見る。オスカーもまた。オスカーにとって、この時ほどルヴァがたのもしく思えたことは後にも先にもないだろう。さながらルヴァは、窮地に現れた白馬の王子様で、オスカーは救われるお姫様のような気分だった。
「あなたたちはー! オリヴィエとゼフェルはともかく、どうして止めないんですか、もうっ!」
リュミエールが申し訳なさそうに頭をたれた。
「すいませんルヴァ様、寸前でとめようとは思っていたんですが……」
俺も、僕も、とランディとマルセルが手をあげる。
「わかりました、今回のことは見なかったことにしましょう。ジュリアスにでも知れたら大目玉ですからね」
ルヴァは珍しく怒っているようだった。怒っていても口調がおっとりしているので、まるで迫力はないが、皆はこの温和な守護聖を怒らせたかと思うと、申し訳ない気分になるようだった。
「ちょっと待てよ、ルヴァ!」
シュンとしょげる素直な守護聖の中にまじっている素直でない守護聖が、声を上げた。
「そーだよ、待ちなって、せっかく盛り上がってたのに、そりゃないよ」
「そりゃない、って、そりゃーあなたたちのことじゃないですか。まったくそりゃーないですよ、こんなことをして」
ルヴァは本を抱えて執務室を出て行く。それを追いかけて、オリヴィエとゼフェルが廊下に出た。
「ねえ、ルヴァ、魔女がいるなんて、絶対にありえないってば」
「そーだよ、そんなことがあるわけねーって」
「そんな事を言ってるあなた方だって、本をひらくことができなかったじゃないですか。なのにオスカーに肝試しをさせるようなことをして、私はね、それが情けないんですよ」
ゼフェルとオリヴィエ、短気なのはゼフェルの方だった。
「わかったよ、じゃあ俺がひらいてやるよ、貸せよその本!」
ルヴァの手から本を奪い取る。
「あっ、ダメですったら」
ルヴァが取り返そうとする。
ゼフェルの手から、本が弾かれて、宙に舞った。
「ああっ!」
三人の目が、本を追う。本はきれいに弧を描いて飛んでいき、そこにちょうど通りかかった人物の手におさまった。
「ジュリアス……」
その人物は、厳格で有名な光の守護聖だった。
「騒がしい! 廊下でなにをもめているのだ」
「あっ、すいません、その本を……」
返してください、とルヴァが言おうとしたが、ジュリアスのきつい眼差しで睨まれて、その言葉は消え入った。
ジュリアスが手にした本を見る。
「これは……、例の本なのか?」
「は、はい、そうなんです」
フム、とジュリアスは、あっけなくその本をひらいてしまった。
ゼフェルとオリヴィエとルヴァの三人は、いっせいに蒼白となり、地の守護聖は、自分の勘違いに気がついた。
そういえば、ジュリアスには先日、宇宙物理学の本を貸してくれと言われていた。ジュリアスの言う「例の本」とは「魔女のいう本」のことではなく「宇宙物理学」のことなのである。それなのにルヴァは、はいそうです、と答えてしまったのであった。
三人は、半ば呆然とジュリアスを見た。本を開いたジュリアスは、その形のまま目を瞠った。
「これは一体なんなのだ!」
次には怒って、開いたページを三人に突きつけた。
ハウッ、と声を詰まらせて、三人が見たものは、なにも書かれていない真っ白なページだった。
「この本はなんだ、なにも書いてないじゃないか、ここも、ここも!」
三人の目の前で、つきつけた本のページをペラペラとめくるジュリアスだ。
「それは、あぶり出しの本なのかもしれませんー!」
「バカ、そんな本があってたまるか、魔女の魔力で活字が消えたんじゃねーのか!」
「やだ、ジュリアス、そんなにペラペラめくらないでよ、魔女の章が開いちゃうじゃない!」
「なにを言っているのだ!」
ジュリアスはのばしていた腕をもとに戻し、本を覗き込んだ。
そのとたんに。
「ウッ!」
ひとつ唸って硬直する。
「ど、どうしました、ジュリアス」
「こ、これは一体……!」
ジュリアスの腕が、肉眼でも見えるほどにブルブルと震えだした。
三人の守護聖は、今度こそ真っ青になった。
「ジュリアス、その本を閉じてください」
だが、ジュリアスはあるページに釘付けとなってしまって、ルヴァの声も聞こえない様子だ。いや、それよりも、得体の知れぬ力によって、身動きひとつできないというように見えた。
「ああ……、そんな……」
立ちすくむルヴァとオリヴィエの横を、ゼフェルが風のように跳躍した。
「本を閉じろーっ!」
彼は反射的に本を閉じさせようとして、疾走したのだが、その勇敢なゼフェルの顔面に、本のページがぶつかった。
「一体これはなんなのだー!」
とどろくようなジュリアスの怒声がはなたれたのと、突き出されたページにゼフェルが顔面を打ち付けたのは、ほとんど同時だった。
「ってー……」
ゼフェルが顔を押さえて、床にしゃがみこむ。
ルヴァとオリヴィエは見た。そのページに書かれてある、得体の知れない力を放つ文字を。
そこには、こう書かれてあった。
『おバカさん』
と。
「フフ……」
ルヴァは笑った。
「フフ……」
オリヴィエもまた、うつろに笑った。
前任の地の守護聖のいたずらが、ここに確たる証拠を持って、明らかにされたのだった。ルヴァとオリヴィエが、廊下にへたりこんだ時、ルヴァ達の後ろにやってきていて事の顛末を見ていた他の守護聖たちも一様にへたりこんだ。
誰もいなくなったオスカーの執務室では、オスカーもまたへたりこんで、安堵の溜息をついていたが、そのことは誰も知らない。
同じ時刻、笑っていたのはクラヴィスだけだった。彼は自分の執務室で、いつものように水晶球を眺めており、その水晶球には「おバカさん」という文字が浮かび上がっていた。
「フッ、まこと愚かな……」
つぶやき、フッという笑いを三度ほど漏らしてから、クラヴィスはまた無表情になる。
前任の地の守護聖が、どうしてこんないたずらをしたのかということは、その後もわからないことだった。自分の未熟さを知って戒めとせよ、という教訓を残したのかもしれない。それにしても、彼は自分の置きみやげが、こんな事態に発展するとは、つゆとも考えなかっただろうということは確かだった。
fin.