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不死身のフジミさん 殺神鬼勧請
諸口正巳
カバーイラスト
口 絵     タカハシ
挿 画
[#改ページ]
目 次[#「目 次」はゴシック体]
壱  走馬灯のように
弐  やあ、三〇〇年ぶり
参  横たわる犬
死  すぐそこにある凶器
伍  オキツネサマの憂鬱
陸  VSカブリ
漆  フジミさん、車をもらう
あとがき
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[#挿絵(img/010.jpg)]
[#見出し] 壱  走馬灯のように
曇天《どんてん》の下を走っていくのは、年季の入ったカローラだ。年式はおそらく昭和のものだろう。マフラーが吐き出す煙《けむり》はどす黒く、エンジン音も息切れしている。
車内に流れていたFMラジオの音声も、砂が混じっているように細切れだ。進むうち、雑音は大きく激しくなり、やがてスピーカーは沈黙してしまった。
「あら。壊れた?」
運転席の男はラジオに(もしくは、車に)そう声を投げかけて、スピードを落とす。聞くまでもなく、古いカーラジオは調子を崩したようだった。埃《ほこり》をかぶった液晶画面には、壊れたデジタル文字がばらばらと表示されているだけだ。
「もう古いもんなぁ」
運転手は車とラジオにいたわりの(もしくは、あきらめの)言葉を投げかけた。彼はそのままラジオの電源を落とした。
ぜえぜえと息を切らすエンジン音の向こうで、風が吹いていた――冷気と湿気をわずかに帯びる、夏の終わりの風だった。
「あぁ、そろそろ車検だ……」
ラジオが壊れた、この車ももう古い、いつ走らなくなるかわからない、故障する前に診《み》てもらったほうがいいだろうか――いくつかの思案が連鎖《れんさ》した果て、彼はそれに気がついた。フロントガラスに貼《は》られた車検シールを見やり、大きくため息をつく。
「いつ出そうかなぁ、車検」
独り言の多い男だった。
年の頃は四〇代後半か五〇代。髪はゴマ塩。ロマンスグレーと言うのは聞こえがよすぎる。彼はさえない顔つきをしていたし、ちょっとたたずまいもくたびれていた。
車外に広がる光景も荒涼《こうりょう》としていて、ある意味、男の様相に似合いだった。
夏が終わったばかりだというのに、車道の両脇に広がる空き地の草木は、ほとんど黄土色だ。かさかさに干からび、雪の到来を待ちかまえているように見える。
道はどこまでも続いていた――脇目も振らずに進めば、やがて隣県に入り、国道につながるはずの道である。
しかし、カローラは荒野の只中《ただなか》で停まった。
枯れた草むらの中に、一軒の家屋が建っている。
「築四〇年……、いや三五年、かな?」
誰に投げかけられた疑問だろうか。
壮年は窓越しにその一軒家を見て呟《つぶや》くと、シートベルトを外した。キーを抜いた。が、わずかに思案にくれたあと、またキーをイグニッションスイッチに戻した。
周囲には、築三五年と思《おぼ》しき一軒家の他に建物がない。人影もない、コンビニもない。
どうせあの家にも人はいない。
ほんの数分だけ外に出るだけだ。ボロ車だから盗まれる心配もないだろう――彼はそう考えた。助手席に置いていたファイルを取り、よっこらしょ、と車外に出る。
途端に、鼻が曲がるような悪臭に襲《おそ》われて、男は露骨《ろこつ》に顔をしかめた。
「うわぁ……、なんだぁ? もう……」
男は鼻の前でぱたぱたと手を振った。
東から強い風が吹いてきて、立ち枯れた草と、男のコートを揺《ゆ》らした。しかし、不快な臭気はそこに居座っている。風でも吹き飛ばせないほど、強烈な臭いだ。
ゴマ塩頭の男は、中肉中背で、ヨレヨレの薄手のコートを着ていた。コートの下のシャツやネクタイも安物で、コートよりは手入れがされているが、やはりくたびれた感がある。
しかめっ面《つら》のまま、男は枯れ草の中に建つ一軒家を見やり、無言になった。口を半分、ぽかんと開けて。
車内からでは、ぽつねんと荒野に立ち尽くしているように見えた、古い家。一見心細そうだった。
それが今は、どうだ。そびえ立っている。
車内からは見えなかったが、家の陰には手作りと思しき犬小屋があった。トタンの屋根がかぶせられている。大型犬用なのだろう、子供も入れそうなくらい大きい。
男は動かなかった、動けなかった。あの家に、犬小屋に、これ以上近づいてはいけないような気がする。
いや、もしかすると、もう手遅れなのかもしれない。見えない境界線をすでに越えているのでは。車を降りた時点で、自分は禁忌《きんき》を侵《おか》してしまったのではないか。
そんな大げさな考えが脳裏《《のうり》をかすめ、壮年は一瞬|震《ふる》え上がった。
「……やめよっか。うん、戻ろう」
かすれた声で彼は呟き、踵《きびす》を返した。
「コぉふーぅぅぅうううッ
突然の雄叫《おたけ》び。
男は驚き、悲鳴も上げた。
なにかがどこからか、飛んできたようだ。
次の瞬間、ばォん、という派手な轟音《ごうおん》に、風と悲鳴はかき消された。枯れ草だらけの野原とくたびれた男の顔面を、熱い衝撃が駆け抜ける。
年季の入ったカローラが爆発し、炎上していた。
「えッ、そんな、ちょっ、うッそぉ!?」
あまりに突然の出来事に、ゴマ塩の壮年は素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げて目を剥《む》いた。
四つの車窓から炎と煙を噴き上げているのは、間違いなく、彼がここまで転がしてきた車だ、カローラだ、今年車検の愛車だ。
「てめえッ、て、てンめえええ! 字が読めねえのか、字、じ、ぢ! てめ! てめてめてめえ、こンのおおおぅ!」
野獣のような雄叫びが、炎上しているカローラのすぐそばで起こった。叫び声は足早に、壮年に近づいていく。
くたびれた風体の男はまた悲鳴を上げ、ファイルに入れていた書類を落とした。
駆け寄ってくるのは、黒っぽいものをかぶった人間だったからだ。しかもその人間は、汚れたシャツとオーバーオールを着ていて、バールのようなものと、めらめら燃えるビンを振りかざしていた。
枯れ草ばかりで見晴らしのいい野原だ、そんな危ない人物がいれば気づいていたはずだ。だから、まるでそのオーバーオールの男は、空から降ってきたか、地面からわいて出てきたかのようだった。
それに、字、字とはなんのことだ。
男の視界の中に、枯れ草に囲まれている立て札が見えた。立ち枯れた草に隠された立て札に、男はそれまで気づかなかった。しかも見えたのは汚れた立て札の裏側で、それになにが書かれているのかわからない。
けれども、男は混乱しながら納得した。
たぶん、『字』とは、あの立て札に書かれた文章のこと。「私有地につき立ち入り禁止」とでも書いてあるにちがいない。
意識が揺れる。
炎と黒煙をバックに、映画の殺人鬼としか言いようのないものが近づいてくる。物凄《ものすご》い速さだ。スプリンター並みの俊足《しゅんそく》だ。
意識は揺れる。
燃える油の臭いと、ただよう悪臭、炎と煙。迫りくるもの。すべてが、くたびれた男から意識を奪っていく。
バールのようなものが、脳天めがけて振り下ろされる。それを、壮年の男はなすすべもなく見ていた。試みた抵抗と言えば、両腕で顔をかばうことぐらい――。
漂《ただよ》っていた悪臭さえ、揺らめく意識の中に消えていく。
――ああ、なんて終わりかたの人生だ。
人が死に至るとき、走馬灯《そうまとう》のように想い出がよみがえってくるとはよく言うが、男はそれが真実であったとは思ってもみなかった。
彼の、暗転する意識の上に押し寄せてくるもの。それこそは、記憶という記憶。
富士見《ふじみ》功《いさお》の、生涯そのもの。
富士見功は四二年前に生まれた。
東京生まれの東京育ちだ。富士見家自体は、もともと静岡にあったらしい。姓に『富士』をいただいているのは、そのためか。
彼は老け顔だった。二〇歳を迎えた頃から早くも髪に白いものが混じり始め、四十路《よそじ》に入ってからは黒髪のほうが少なくなってしまった。幸い、あまり抜け毛には悩んでいない。それどころか髪の量が多いので、毎朝|寝癖《ねぐせ》に悩まされている。
しかしそのゴマ塩頭のせいで、老け顔だった富士見はよりいっそう老け、五〇代に見られることもしばしばだった。
ついでに言えば、老化が早いのは髪の色素だけではない。三〇代の終わり頃から、細かい字が読めなくなってきていた。老眼鏡《ろうがんきょう》の世話になる日は近そうだ。
それも宿命、運命ってやつかな、と彼は呑気《のんき》に受け入れていた。
富士見家は血筋的に短命であるらしい、ということを、すでに受け入れていたからだ。五〇代か六〇代半ばでお迎えが来てしまう。いや、現代日本の平均寿命が延びただけなのかもしれない。人生五十年と詠《うた》った大昔の歌がある。昔は富士見家も、長寿の家系と思われていたかもしれなかった。
ともあれ、平成の世に生きる富士見は、四二にして天涯孤独だった。祖父母《そふぼ》はとうの昔に、両親も一〇年ばかり前に他界している富士見功は、両親が三〇代後半になってからやっと生まれたひとりっ子だ。母親のほうが、父親よりも早くに死んでいた。
どういうわけか、『富士見』という姓をもらってしまうと、嫁《よめ》や婿《むこ》まで短命になってしまうようだ――単なる、不気味な偶然かもしれないが。
養うべき家族も、持っていたのだが、なくしてしまった。
ああ、これはとりわけひどい想い出だ。
富士見功は二四で結婚した。職場の同期だった永瀬《ながせ》文子《ふみこ》と。交際期間は約二年。
ちゃんと頃合を見計らって入籍したのに(今|流行《はや》りのできちゃった婚ではけっしてない、だって結婚するまでキスさえ二度しかしなかったのだ本当だよ二年間付き合ってキス二回だけ!)、急に仕事が忙しくなって、新婚旅行に行けなくなった。
文子とは凄《すさ》まじい大ゲンカになり、富士見は強烈な平手打ちを食らったが、離婚まではいかなかった。すぐに仲直りをして、ごく幸せな新婚生活を営んだ。
でも、結局、新婚旅行には行けずじまい。
結婚三年目に、ハワイに行くことにした。旅行会社の手違いで、富士見夫妻はべつべつの便で日本を発つことになったが、それさえも、後々いい語り草になるだろうと思っていたのに。
ハワイ行きの便は墜落《ついらく》してしまった。
富士見文子を乗せたほうの便が。
当時はかなりのニュースになった。テレビも新聞も雑誌も、連日、墜落事故一色だった。富士見はそっとしておいてほしかったが、しばらく周囲が騒がしかった。
これ以上思い出したくない。
それきり富士見は良縁に恵まれず、なんとなく独身を通してしまっていた。
そうして天涯孤独になるまで(なってからも)、富士見はまっとうに生きてきた。
こんな理不尽な死にかたをするとわかっていたら、もっと……もっと、破天荒に、自由に、勝手に、生きていたかもしれないのに。あるいは、文子と一緒に、あるいは後を追って、死んでしまったほうが幸せだったのでは。殴《なぐ》られて死ぬとは。しかも、よく知らない町の、見ず知らずの人間に。場当たり的な犯罪の報道があれば、被害者を運の悪い人だとあわれんできた。自分がその運の悪い被害者になる可能性など、ほとんど考えたこともなかった。
そうだ、今、富士見功は死ぬところだ、殺されるところだ。
ばつん、とどこかで音がする。
走馬灯のプラグがコンセントから引き抜かれる音だろう。たぶん。だが、動力を失ったはずの走馬灯は、未練がましく回り続けている。
音が彼の頭を殴りつける。
ばつん、ばつん、ばつ、
が、
がツん。
死臭がする。
死臭が混じった悪臭が……、
くさい。
富士見功は目を覚ます。
――あれ。生きてる。
「……ぅはッ! ごへッ! げフッ!」
大きくひと息吸いこんだだけで、昼に食べたものをその場に吐きそうになった。悪臭が強くなっている。まっとうな空気の味はどこにもない。息を吐いても、強烈な臭気は肺や鼻腔《びこう》にこびりついたようだった。
アンモニアでも含んでいるのか、悪臭には刺激臭も混じっていて、目がしかしかと沁《し》みる。何度もまばたきするうちに、眼底が熱くなってきた。そのうち涙を流すはめになりそうだ。
涙を流す前に、くささのあまりおかしくなってしまうかもしれないが。
富士見は、仰向《あおむ》けに倒れていたらしい。
らしい、というのは、富士見が意識を取り戻してからすぐに、わけもわからず身体を起こしていたからだ。悪臭と吐き気に咳《せ》きこみながら、床に手をついた。
――生きてる……。
床は濡《ぬ》れていて、富士見が動くと、にちゃりぬちゃりと陰鬱《いんうつ》な音を立てる。
「…………」
どうやら頭部も含めて、全身を激しく殴りつけられたようだった。動くと、身体のあちこちに鈍い痛みが走る。きっとどこからか血が出ているだろう。もしかすると、骨が一、二本折れているかもしれない。
なにもかも、はっきりと把握《はあく》できない。自分の身に一体なにが起きたのか、ここはどこなのか。どうしてこんなに、くさいのか。
「…………」
顔を上げて、四つん這《ば》いめいた体勢のまま、富士見は自分の目の前を確認した。
知らない部屋だ。だが、ホラー映画で見たことがあるような部屋だった。
壁も天井も、得体の知れない黒いもので汚れている。濃緑の黴《かび》が生えているところもある。富士見の正面にある壁は、半分ばかり壁紙が剥《は》がれていて、板がむき出しになっていた。
床も黒く汚れている。ぞっとして、富士見は床から手をどけた。
膝《ひざ》の下の床板がふわふわしているように感じられるのは、きっと、床板が腐っているせいだ。そして床板を腐らせているのは、部屋中に広がっている汚水《おすい》らしい。
部屋に詰めこまれたガラクタと富士見は、茶色と、青緑と、深紅が混じる黒色の汚水にまみれていた。
ここは物置だろうか。
――もしかしたら、地獄《じごく》、だったりして。ワタシゃやっぱり、死んでるのかも。いや……、いや、生きてる、よな。
ぼろぼろの毛布が部屋の隅《すみ》に広がり、汚水を吸い込んでいる。高校の美術室で見かけるような、牛の頭骨もあった。石膏像《せっこうぞう》もあるが、脳天に大穴が開いていて、中の空洞も傷口もどす黒く汚れていた。
石膏像と牛の骨を見て、富士見は気がついた。ここはただの物置ではない。アトリエだ。
転がっているものも、もはや汚れて壊れて使い物にならないだろうが、絵画用具ばかりである。額縁《がくぶち》もあるし、イーゼルもあった。
ああ。
富士見は我に返る。
出口は。
逃げなければ。
室内をぐるりとゆっくり見回していくと、板が打ちつけられた窓が見え、ドアが見え、壁を背にして立っている男が見えた。
「わあッ!」
ずっと後ろにいたらしい。ずっと同じ部屋にいたのだ。富士見の背後に、男は立っていた。膝をついていた富士見はそのまま腰を抜かした。
「コぁあああーーーッッ!」
富士見が大声を上げるまで、男はだらりと両腕を垂らして突っ立っていただけだった。まるでスイッチが入ったかのように、男は突如両腕を上げて、富士見に襲いかかってきた。
いや。
彼はたまたま富士見が振り返ったときに、じっと黙って見つめてきていただけだったようだ。彼の背後の壁に、描きかけの絵のようなものがあった。
黒と赤を塗りたくっているだけにも見えるが、それは漠然《ばくぜん》と人のかたちになっていた。彼は、富士見を見ながら――モチーフにしながら、絵を描いていたのだ。
富士見が初めて真正面からまともに見た男の顔は、犬の顔だった。確か、シベリアンハスキーという種類の。毛色が織り成す模様のせいで、眉間《みけん》にしわを寄せた般若《はんにゃ》にも見える、少し恐ろしい御面相。
その耳も口も鼻も、動いていなかった。一瞬、それはよくできた作り物のマスクに見えたが、それはあやまりだった。
男は本物のシベリアンハスキーの首をかぶっているらしい[#「本物のシベリアンハスキーの首をかぶっているらしい」に傍点]。異臭を放つ毛皮のところどころには、乾いた血がこびりついている。
犬の首の中身をくりぬいてかぶっているのだ。大きさも形も人の頭には合わないから、犬の首は奇妙に歪《ゆが》んでいる。
殴りつけられ、富士見は吹っ飛んだ。威力と速さは、まるで格闘家のフックだった。もちろん富士見は、格闘家に殴られた経験などないのだが、たぶんそれくらいの威力はあった。人間離れしていた。
倒れたところに、汚水溜まりとイーゼルがあった。犬男が着ているオーバーオールに、絵の具と思しき赤や黄色や白の汚れがついているのが見える。
さすがはアトリエ。
富士見は悲鳴を上げるのも忘れ、無我夢中で立ち上がった。殴られた頬《ほお》の尾を引く痛み、身体の軋《きし》みなど、知ったことか。足が折れていないのだから逃げられる。
「動くなあ! 動くな! 動くな! ぢっとしてろ、動くなあ!」
犬の首の中で男が叫んだ。ぴいぴいという甲高い音が混じった、奇妙で、太い声だった。
逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ!
この男の命令に従う義理はない。
こけつまろびつでドアを目指す富士見の後頭部に、凄まじい衝撃が走った。たまらずつんのめって膝をついた。すぐそばに石膏像が落ちて、汚水をしぶかせながら砕け散る。
犬男が投げつけてきたのだ、ジュリアス・シーザーの石膏像を。
一瞬気が遠くなったが、富士見は後頭部を押さえ、わめき、すぐさま立ち上がった。振り向けば、犬男が牛骨を拾い上げ、負けじと雄叫びを上げていた。
あの角で刺されたらひとたまりもない。汚れた角の鋭さを見て、また富士見は恐怖のあまり叫んだ。
腐った床をへこませながら、富士見は走り、ドアに飛びついた。汚水でぬめる手でノブを回す。ドアが開く。蝶番《ちょうつがい》がやけに軽い。予想よりもはるかに勢いよくドアが開いたせいで、富士見はまた転んだ。だがそこで奇跡が起きた。
牛骨を振り回しながら走り寄ってきた男が、腐った床板を踏み抜いて倒れたのだ。お笑いコントじみた滑稽《こっけい》な場面だった。富士見にはそれを笑う余裕などなかったが、立ち上がってドアを閉めることならできた。
目の前に雑誌が詰まった段ボール箱があり、富士見は必死でその箱をドアの前まで動かした。かなりの重さだ――ぎっしり詰まっている雑誌は『アイデア』。
薄暗い廊下も、黒い汚れと黴に席巻《せっけん》されている。天井は埃まみれで、古い蜘蛛《くも》の巣がかかっていた。そして廊下の床板も、アトリエと変わらずふわふわしていて、濡れている。
富士見は靴を履かされたままだった。黒ずんだ床を駆けると、ずこずこどこどこ騒々しい音が上がり、家中に響いた。
家人はあの犬男だけなのだろうか。アトリエから咆哮《ほうこう》が聞こえてくる。だがそれ以外に人の気配はない。
そう長くない廊下は、居間に通じていた。床にはペルシャ絨毯《じゅうたん》が敷《し》かれていた。やはり、悪臭を放つ汚水を吸っている。
「なんだ……、なんなんだあ……?」
肩で息をしながら、富士見は居間の中央で立ち尽くした。
壁。
壁いちめんに絵のようなもの[#「絵のようなもの」に傍点]が描かれている。
なにが描かれているのか、ぱっと一見しただけではわからない。だが、じっくり眺めたところで理解できそうなものでもない。
絵画はぐるぐると渦《うず》を巻き、ねじれて、歪んでいた。一刻も早くここから逃げ出さなければならないのに、思わず見入ってしまう不気味な引力が、渦と渦の間にあった。
慌てて壁から視線を引き剥がし、身震いして、富士見は居間を見回す。得体の知れない壁画に心を奪われていたのは、ほんの数秒だった。
廊下と同じくらい居間が薄暗いのは、窓という窓に板やビニールが張られているからだ。絵画はそこにまで及んでいる。ただ、窓の塞《ふさ》ぎかたは粗雑で、板の隙間《すきま》やビニールの破れ目から、曇天の白い光が射しこんでいた。
玄関。
玄関はどっちだ。
げんかん――
びりばッ、とビニール張りの窓から、大型犬が中に跳びこんできた。獣臭が富士見の鼻をつく。だが、富士見が驚いて、悪臭に気づいたときには、すでに犬が襲いかかってきていた。
「あ、ッ!」
突き飛ばされ、富士見は汚れたペルシャ絨毯のうえに転がった。犬もついでだ。犬は泥《どろ》だらけの爪で富士見の顔を引っ掻《か》いてきた。
犬、犬の息づかいが聞こえない、
「あ、わ、ああああ、ヒ、ぃッ……!?」
泥と枯れ草と糞《ふん》で真っ黒に汚れた犬には、首がない。胴体だけだ。首が切り落とされている。だが傷口はない。頭部を失った首の付け根には、ちゃんと皮が張っていて、まばらに毛が生えている。
首がなく、どこで息をしているかもわからない犬が、動いている――自分を襲っている。
もとは白と黒の毛並みの犬で、ちゃんと首がついていたはずだ。毛が固く、図体は大きい。たぶんおそらくきっと、これは、シベリアンハスキーだ。
富士見は我を忘れた。力いっぱい犬を押しのけた――つもりだったが、実際には、突き飛ばしていた。両手に、犬の生温《なまあたた》かい体温がこびりついた。
汚れた首なしの犬は、居間の壁に激しく叩《たた》きつけられ、床にのびた。四肢《しし》はぐったり投げ出されていたが、肋骨《ろっこつ》の浮き上がった胸が、ぜえぜえと上下しているのが見える。
生きている。息をして生きている。確かに生温かかった。首がないのに。
「……、……! ……、……」
富士見も肩で息をしながら、どろどろに汚れた大型犬を見つめていた。腰は抜けたまま、目は犬に無理やり釘付けにされている。
くぐもった怒鳴り声が遠くから聞こえる。
このまま、また気絶してしまいたい、と富士見は一瞬思った。もし夢を見ているなら、今すぐ覚めてほしい、とも。
そのときだ、
「大丈夫かい」
不意に、誰かが富士見の背後から声を投げかけてきたのは。富士見は飛び上がったが、その声は明らかに、あの犬男のものではなかった。
「こっちだ。早く」
濃紺《のうこん》のコートを着た男がすばやく居間に入ってきて、富士見に手招きした。男の目は、富士見の背後――富士見が命からがら走ってきた廊下のほうを、するどく見すえていた。居間の隅に横たわっている首なし犬には、気づいていないようだ。……そのほうがいい。
廊下の奥のアトリエから、犬頭の雄叫びが聞こえてきた。ドアになにかを叩きつけている音もする。
躊躇《ちゅうちょ》している暇はない。富士見は突然現れた壮年を頼りにするしかなかった。彼は少なくとも犬の頭などかぶっていなかったし、凶器の類《たぐい》も持っていない。服も汚れていないし、まともに喋《しゃべ》る。
富士見はようやく立ち上がり、危なっかしい足取りで居間を走った。男は駆け寄った富士見の背中を押すようにして、雄叫びの方向を見つめながら走りだす。
富士見が見たのは、開け放たれた玄関ドア。ドア口の向こうには、荒涼とした枯れ野原が広がっている。
富士見のボロ車は真っ黒に焦げて、周囲の草をいくらか道連れにしていた。火は消えている。煙も上がっていない。
ガソリンと、焼けた化学繊維と金属の残り香がある。黒焦げのカローラの後ろには、ダークブルーのシーマが停まっていった。
シーマ。いい車だ。
富士見を助けだした男は、俊敏《しゅんびん》だった。そのうえ、恐ろしいほど冷静だ。走りながらポケットからキーを取り出し、後方を確認しながらキーレス操作でドアロックを外した。
富士見は助手席に転がりこみ、コートの男は運転席に滑りこむ。
富士見には相変わらず余裕がない。だがコートの男はエンジンをかける前にシートベルトを締めるほど落ち着いていた。
「うううおおおおおおお、ワンッ! ワンッ、ワンワンワンわうううううんんん!」
咆哮が聞こえてきた。犬男が玄関から今まさに飛び出してくる。牛の頭骨を振り回している。車までの距離は一〇メートルもない。犬男の走る姿は、やけにぎくしゃくしていた。
足をくじいている。もしかすると折れているのかも。床を踏み抜いた足が、赤と茶色と黒でぐっしょり濡れているのだ。
「うわあッ、わあ、あ、来たッ、来たああぁ!」
「大丈夫大丈夫。落ち着いて」
運転席の男は恐慌《きょうこう》状態の富士見をなだめ、車を発進させた。口調は子供をあやすようにおだやかだったが、男の目は前方を睨《にら》みつけていたし、アクセルも思いきり踏みこんでいた。
富士見はシートに叩きつけられ、犬男の咆哮がたちまち遠吠えに変わっていく。
時速一〇〇キロでシーマは一本道を疾走した。枯れ草の野原は凄まじい速さで後方へ流れていく。そして住宅街が、行き先に姿を現し始めた。富士見が数日前から滞在している、さびれた蕪流《カムリ》町の街並みだった。
犬男も汚れた一軒家も、枯れ野ごと遠ざかっていく。
だが、富士見の息遣《いきづか》いや心拍数《しんぱくすう》が平素のものに戻るまで、かなり時間がかかった。
いつの間にか車は道ばたに停まっていた。
寂しく、頼りない路肩ではない。
反対車線側だが、道路沿いに交番があった。その隣にはコンビニがある。街路樹と花も見えた。少し辺りが暗いように感じられたのは、交番の裏に小山があるためだった。緑が生《お》い茂《しげ》った山からは、湿った風が降りてきている。
富士見は呆然《ぼうぜん》としながらも、ポケットからしわくちゃのハンカチを出して、滝のように流れる顔の汗を拭《ふ》いた。
濃紺のコートの男は、ハンドルに片手をかけ、じっと富士見の横顔を見守っている。
「災難だったね」
やがて、男が言った。声色にも、表情にも、茶化している様子はない。
「ええ、ほんとに」
「なにがあったの」
「さあ、ワタシにもなにがなんだかさっぱり……」
富士見はかぶりを振ってため息をつき、男に深々と頭を下げた。
「た、助かりました。ほ、ほんとに、ありがとうございました」
「いやいや。ところで、怪我なんかはない?」
「あ、ああ。しこたま殴られましたよ。もう、コテンパンです。ああヘンな犬もいた。でも、血も出てないし、どこもたぶん、折れたりなんかはしてないかと……」
「そんなのは診てみなくちゃわからないよ」
男は初めて、呆れたような苦笑混じりではねつけた。
「僕はこれでも一応医者なんだ。ちょっと診せてもらえるかな」
「え」
富士見はそこで、ようやくまともに、命の恩人の顔を見た。医者という一言にも驚いたが、男の目にも驚いてしまった。
顔立ちは日本人だし、話している言葉も日本語だが、男の目は青かったのである。黒い点のような瞳孔《どうこう》が、ひどくくっきり映《は》えているので、見つめられるとハッとする。
カラーコンタクトで変えている色には見えなかった。シベリアンハスキーのブルーアイのような、澄んだ、冴えた、アクアマリン・ブルーだ。
富士見の驚きには構わず、蒼眼《そうがん》の自称医師はシートベルトを外して手を伸《の》ばし、富士見のこめかみや首筋を診た。
富士見は汗だくだったが、男が気にかける様子はない。本当に医師なら、汗や唾液《だえき》や血には慣れっこだろう。
加えて、その真剣な眼差《まなざ》しには知性があった。医師だという言葉に説得力はある。――少なくとも、富士見は疑わなかった。
「……本当だ……」
蒼《あお》い目の医師は、富士見の後頭部を見ながら、低くつぶやいた。少しばかり、言葉には奇妙な響きがあった。
確信のような、驚愕《きょうがく》のような。
しかし、それに気づくほど、今の富士見は落ち着いていなかったし、もとよりよく「にぶい」と言われる男だった。大事な頭部に怪我がないということを信じてもらえて、ただ安心していた。
「確かに、頭部と頚部《けいぶ》に外傷はないようだね。あんなことがあったあとなのに顔色もいい。でも、レントゲンは撮ったほうがいいな。もちろん、ちゃんとした設備のあるところで診察も受けてね。あの家は汚かったし嫌な匂いがしたから、感染症の心配もしたくなる。僕は蕪流第一病院に配属される予定なんだけど――」
すらすらと慣れた調子で言ってから、あ、と医師は渋面《じゅうめん》を作った。
「やっちゃったな。名刺切らしてたんだ。――城田《しろた》|恭一《きょういち》と言います。はじめまして」
「あ、どうも。富士見功と申しますー」
条件反射で、富士見はぺこぺこしながら名乗り返した。
相手の名前を知るというのは、すべての『きっかけ」だ。富士見にはほとんど営業の経験がないが、四二年も生きていれば人付き合いのコツもつかめている。
まず名前を知ることだ。相手を観察し、品定めするのはそれからでも遅くない。
あらためて向き合うことになった城田という医師は、どことなく、奇妙な壮年だった。
おそらく四〇代だろう。ただ、富士見とちがってはつらつとしていて、隙《すき》がない。身なりも整っていて、落ち着きはらっている。服は特徴がないシンプルなものだが、清潔だったし、安物ではなさそうだった。
笑うと一見無邪気だ。
しかし、富士見にはわかった。
この男、目が笑っていない。
まるで『笑う』という概念を完全に理解していないかのようだ。こういう人間はたまにいる。そういう人は、大きな声で言えないような秘密を持っている場合がほとんどだ。
――ま、関係ないけどね。
後ろ暗いところがある人間であろうと、自分を救ってくれた事実は確かなもの。富士見は、城田のいびつな笑みの裏を探りたいとは考えなかった。
「でも、うーん、なんだろうな……」
「なにか?」
「いえ、あの……どこかでお会いしましたっけ」
「富士見さんはどこの人?」
「東京です」
「じゃ、もしかすると、どこかで会ってるかもね。僕もつい昨日まで東京にいたんだ。この町でしばらく働くことになったんだよ」
「はあ、それは偶然ですねぇ。ワタシもおとといココに来まして。長居することになりそうなんですよ」
「お互いにこの町を知らないということか。富士見さんもお仕事でこちらに?」
「えぇ。まあ……えぇ」
城田は富士見の返答に満足したようだった。ただ会話の隙間を埋めようとしていただけなのかもしれない。富士見は奥歯に物が挟まったような答えかたをしてしまったのだが、城田はそれ以上|詮索《せんさく》せず、窓の外に目をやった。
「ここ駐禁じゃないよね」
「みたいですね」
「じゃ、そこの交番行こう。車燃やされて人に襲われたんだから」
「あ、そうか……そうでした。普通、そうしますよねぇ」
すっかり息も整い、汗も引いた。無意識が、恐ろしい体験を記憶から排除しようとしているのか――富士見はつい一五分前までの出来事を忘れかけていた。
城田の言葉に納得して頭をかく。それを見て、城田は軽く声を上げて笑った。
「富士見さんって呑気なほう?」
「よく言われます」
ふたりは車を降りた。
そこで、呑気な富士見も、さすがに気づいたことがある。
コートも、手も、服も靴も、汚れていないのだ。あの恐怖のアトリエでさんざんのたうちまわって、汚水にまみれていたはずなのに。城田が感染症の心配までしていたほどだ。
そう――あの、吐き気をもよおす悪臭も感じられない。思わず富士見はコートの裾《すそ》に鼻をくっつけて、犬のようにすんすん嗅《か》いだ。
自分の汗の匂いがするだけだ。この匂いもけっして芳《かぐわ》しいものではなかったから、富士見はちょっと顔をしかめた。
悪臭も汚れも、まぼろしのように消えてしまった。
首をかしげながら、富士見は城田の後ろを歩く。交通量が皆無といっていい車道を、堂々と横切っていく。
町が眠っているように静かなのは、平日の昼下がりだからだろうか。それとも、空があまりにも真っ白で、気持ちという気持ちが塞ぎこんでまうからだろうか。買い物途中の主婦の姿くらいあってもいいものだが、蕪流町はまるでゴーストタウンのように死んでいる。
車が通る音はおろか、鳥の鳴き声すら聞こえてこない。思わず富士見は息を殺し、耳をすませてしまった。
……風も、止まっているように思える。
富士見は我に返った。城田は歩くのが早い。だいぶ離れてしまっている。彼は歩みを速めたが、足がもつれそうだった。まだ、震えが残ってる。
二人の男は、曇天の下の蕪流町を、無言で歩いていった。
二〇年以上勤めている潟Iーヤマ建築から、ある日突然、富士見が受け取った辞令。
それは行ったことも聞いたこともない、『蕪流町』の全戸の築年数を調べて、リストにまとめるというものだ。
『はァ!? なんだその仕事! もっぺん言ってみろよ!』
故富士見文子の年の離れた弟とは、今でも交流がある。永瀬《ながせ》|瀞《じょう》。字面だけ見ると女性のような青年。今年で二七歳になったそうだ。文子の死を悼《いた》み、ともに涙を流した仲だ。
彼はよく電話をかけてくる。携帯メールという便利なものが出回っている今では、もちろんメールもよこしてくる。携帯電話もポケベルもなかった時代は、手紙のやり取りまであったほどだ。
瀞は、一回り以上年の離れた富士見を、義理の兄というより、呑気な伯父《おじ》と見なしているようだった。
辞令があった日にタイミングよく瀞から電話がかかってきたので、富士見は愚痴《ぐち》(「いやぁ出張することになっちゃった。仕事の内容はかくかくしかじか」)をこぼした。
返ってきたのはそんな怒号で、富士見は肩をすくめた。耳鳴りがする。
瀞はまるで、人のいい富士見のかわりに怒りを爆発させているかのようだ。富士見はゴマ塩頭をかきながら、もう一度説明した。
「だから、町の、全部の、家の、築年数を調べて、表にまとめるの。めんどくさいよなぁ」
『違うだろ、文句言うところが! そんなこと調べてなんの意味があンだよ。功さんの会社、家じゃなくてビル建てるトコだろ? 都会にさ! なんで田舎《いなか》の家の築年数調べる必要あるんだ?』
「さぁあ、なんでだろ」
『ッあーーー! イライラする! フツーそこは怒って理由《わけ》訊《き》くトコだろ! 功さんまともに仕事してんのに、なんなんだよ、それ。オレがかわりに文句言ってやってもいいくらいだ。お人よしなのもいい加減にしろって!』
「でも出張費は全部会社持ちだから。領収書も切らなくていいって。仮払金もらっちゃったんだよ、現ナマで出張費五〇万。足りなくなったら言えってさ」
『……は?』
「ちょっとヘンだったんだよねぇ、高橋さん」
『誰だよ高橋って』
「専務。げっそりしててさ。ありゃ一〇キロは痩《や》せてるよ。専務の顔見たら、もうワタシゃ気の毒になっちゃってさぁ」
『ほんっとに人いいんだから……ヘンなのはその高橋の顔色だけじゃないだろ。普通、出張費に仮払金なんか出さねーし。そもそも出張費が現金なんて聞いたことねーし。仕事内容もワケわかんねーし。なんか、ウラあるんじゃね?』
「うーん」
『オレには会社が功さんにどっか遠く行ってもらいたいだけのように思えるんだけど』
「うーん、まあ、うん」
富士見は言いよどみ、受話器のコードをねぢねぢといじった。
「頼むから行ってくれ、って言われたんだよ。あんなふうに頼まれちゃねぇ……。ずっと勤めてきた会社だし、やっぱり、逆らうわけにゃいかないよ」
『功さんの年じゃ、会社辞めるわけにもいかないもんな。……それにオレが怒鳴ったって功さんが疑り深くなるわけでもないし……』
瀞は平静を取り戻したようだった。ざらざらとした雑音混じりのため息が、富士見の耳を打つ。
『行くんなら、気ィつけて行ってくれ。旅先でポックリ死ぬなよ』
「うんうん、気をつける。車には」
『オレは体調のことも含めて言ってんの! 確かに事故にも気ィつけてほしいけどさ!』
「轢《ひ》かれたらポックリ死んじゃうでしょ」
『いや、だから――』
瀞のお小言とツッコミはその後もしばらく続いた。しかし、にぶい富士見にも、彼が自分の身体を気遣ってくれていることは伝わっている。
それに瀞は、年の離れた姉をいきなりなんの前触れもなく亡くしているのだ。あの事故以来、突然親しい人を亡くすことを、極端に恐れているふしがある。
『じゃ、なんかあったら、これからはケータイに電話かけたほうがいいんだな?』
「あぁ、うん」
『東京帰ってきたら、酒でも飲もうよ。な』
電話は以上で終わり。
軽くため息をつきながら富士見は受話器を置いた。
「……今日のジョーくん、ばかに怒ってたなぁ」
ぽりぽりと首筋をかいて、富士見はひとりごちる。それから、のんびりと旅支度を始めた。いちばん大きい鞄《かばん》とスーツケースに、ありったけの服を詰めて、携帯電話の充電器を入れ、歯ブラシを入れて――
カローラと一緒に、蕪流町を訪れた。
蕪流町は県境にあった。人口は二万人にも満たない。過疎《かそ》化が進んでいるのか、住宅街には空き家が目立ち、役場前の商店街には活気がなかった。並ぶ店は、半数が錆《さ》びたシャッターを下ろしているのだ。
活気がないのは、なにも商店街だけではない。町のすべてが、ぐったりとしていた。
郊外に行けば、傾きかけた廃屋《はいおく》をいくつも見かける。そういった廃屋を囲むのは、平坦な野原や荒れ地だ。うち棄《す》てられた田畑のなれの果てらしい。
町の北側には小高い丘や小山があり、さらに進めば、日本の屋根に連なる山脈が現れる。山は鬱蒼《うっそう》としていた。迂闊《うかつ》に踏みこめば、人里に戻れなくなりそうなほど。森や林は植林によるものではなかったし、ろくに手入れもされていない様子だ。秋が深まれば紅葉《こうよう》が楽しめるかもしれないが、散策路のようなものは、どの山にも築かれていない。
夜になれば、北の山々から冷たい風が降りてきて、町をしんしんと冷やす。
陰鬱で、辛気《しんき》臭く、不気味と言っても過言ではない町だ。峠越《とうげご》えをする人間がひと休みするだけならいいかもしれない。町を貫《つらぬ》く国道沿いにはコンビニや食堂が多かった。もとは宿場町として栄えていた名残《なごり》だ。
その役目を引きずっているために、滅び時を逃し、だらだらと腐りながら生き長らえている――そんな暗い印象を与える町だった。
悠長《ゆうちょう》な富士見功をして、あまり長居したくはないと思わせる町――それが蕪流。
はじめ富士見は、カムリと読めずに、カブルと読んだ。それはあながち間違いではなかったようだ。町役場の入口に掲げられた町のあらましは、「カブル」が訛《なま》って「カムル」に、「カムル」がさらに訛って「カムリ」になった、と書かれてあった。
そのあらましの下にはガラスのケースがあり、白黒の写真パネルと、黒い小石が収められていた。説明書きによれば、明治時代、この町の北部に隕石《いんせき》が落ちたのだという。
写真におさめられているのは、焼け野原――隕石の墜落現場の光景だ。なにぶん明治の写真なので細部ははっきりしないが、まるで空襲《くうしゅう》後のような有様で、大きな被害があったことがうかがえる。
白い綿の上に乗っている黒い小石は、隕石のかけら。昭和のなかば、この隕石は少なからぬ人を町に呼んだらしい。
しかし現在は、隕石が収められたケースも埃をかぶり、見物しているのは富士見功のひとりだけ。町がにぎわったのは、大阪万博で月の石がもてはやされた時代が最後のようだ。
小さな町は、そんな昭和のなかばで時が止まっているようだった。
マンスリーマンションのような気が利いたものは見当たらず、富士見は安アパートを借りるか、宿に長逗留《ながとうりゅう》するかで少し迷った。
いつ頃終わるか見当もつかない、わけのわからない仕事を会社から命じられたために、富士見功は蕪流にいる。出張費はすべて会社持ちとはいえ、もとより質素でお人よしな男だったので、なるべく衣食住の経費を安くすませたかった。
富士見はどこでも寝られる男だ。それこそ、車中泊すら堪《た》えられる気がしていた。しかし東京から数時間の運転でさすがに疲れたので、すぐに適当な旅館の部屋を取り、そのまま成り行きで二日を過ごした。
そして――、いまに至る。
町外れで頭のおかしい男と首のない犬に襲われ、愛車を焼かれた。
走馬灯というのは、どうやら、命の危機にさらされていなくとも、突然スイッチが入って回り始めることもあるようだ。交番までの短い道を歩きながら、富士見はぼんやり記憶を反芻《はんすう》していた。どうしてこんなことになってしまったのか、原因を探ろうと、むなしくあがいていたのかもしれない。
車道は静まりかえっていた。
真ん中でぼんやり考えごとをしていても、車に轢かれる心配などなさそうだ。
気づけば、城田が交番の前に立って、富士見を待っていた。不安を誘う笑みを浮かべて。
富士見は歩みを速めた。
不安だ。
走馬灯を、ずっと眺めていたい。
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[#見出し] 弐 やあ、三〇〇年ぶり
成り行きで、結局最後まであの旅館『い志《し》の』の世話になるかもしれない。富士見は交番の中でちらと考えた。
車中泊はできなくなってしまったし、もうこの町にいないほうがいいのではないかとも思う。正直に言えば、今すぐ東京に帰りたい。
――ジョーくんに話しても、信じてもらえないだろうなぁ。彼、すっかり現実的になって。
横では城田と警官がかみ合わない押し問答を続けている。当事者である富士見は、すっかり小さくなって、ひとりで相変わらず回想しているだけだった。
……富士見と城田が交番に駆けこんでみれば、初老の警官がひとり暇そうに座っていて、ティッシュの上に鼻毛を抜いて並べていたのだった。
さすがに警官は二人の姿を見るとティッシュを丸めて捨てたが、隙あらば鼻をほじる男だった。
「あァ……合田《ごうだ》サンね。あの人ン家ちに行っちゃったんだから、そんな目に遭《あ》っても仕方ないわな」
事情を説明すると、警官は鼻をすすりながらそう言った。言葉尻には呆れた感情が見え隠れしている。城田はきょとんとし、富士見は唖然《あぜん》とした。
「あんたがた、この町の人じゃないね」
「僕は今日から町民だよ」
「そうかい。ようこそ、蕪流《カムリ》町へ」
にやっ、と警官は笑って頭を下げた。城田は本気なのか皮肉なのか、微笑《ほほえ》んで軽く頷《うなず》いた。
「まァ、よそから来たんじゃ知らなくて当然か。合田サンはね、画家でさ」
「そうだったみたいですねぇ」
「ホラ、画家だから。変わってるんだよ」
「車に火炎ビンを投げつけて、人を殴って監禁するような人は、変わり者じゃなくて異常者と言うべきじゃないかな。おまわりさん」
城田は相変わらず冷静だった。富士見は少しハラハラしながらその横顔を見守る。城田は――笑っていた。蒼い目が、いくらか輝きを増しているようにも見えた。面白いものを見て喜んでいる子供のような目だ。
「火炎ビン?」
警官の顔色も若干変わった。富士見も警官の聞き返しに首を傾げる。確かに車は突然爆発して炎上したが、火炎ビンによるものだとは知らなかった。
城田は話を捏造《ねつぞう》しているのか。だとしたら、後々面倒なことになるのではないか。富士見はますます緊張してきた。
「それに、犬の頭の皮をかぶっていたよ。僕なら精神科の隔離《かくり》病棟に入れるね」
「マスクじゃないの?」
「違うと思うな」
「うーん、でもねェ、合田サンだから」
警官は頭をかいた。心底面倒くさそうな表情だ。
「殴られたって話だけど、ケガした?」
「外傷はないように見えるけど、詳しく診察したわけじゃない」
「この町で、あの人ン家に近づく人はいないよ。近づかなけりゃおとなしいからね」
「……NHKと町内会費の集金の人はどうしてるんだろうねえ。水道と電気のメーターを確認する人も。なんでもない仕事が命がけだ」
あらぬ方向を見つめながらの城田の屁理屈に、警官はむっと言葉に詰まって鼻をすすり、富士見は拍手したい気持ちになった。
「この富士見さんも仕事で彼の家に近づいたんだ。せめて燃やされた車の検分だけでもしてあげてくれないかな、おまわりさん。保険の関係もあるんだから。それとも、いったん病院で診断書をもらってから警察署に行ったほうがいいかい。ここに駆けこんだけど適当にあしらわれた、って理由もつけてね」
もはや警官はなにも言わなかった。じろじろと敵意を持った目で城田を睨んでいたが、当の城田には余裕がある。
仕方なさげに、警官は鼻をほじりながら黒電話の受話器を取った。
「いやぁ、どーも、ほんとに、すみません。ワタシゃなんにも言ってませんでしたね。全部センセーにお任せしちゃって。ほんと助かりました」
「いいんだよ。でも、こんな交番じゃなくて本当に警察署に行ったほうがいいかもしれない。病院にも。もう遅いけど、事情が事情だから」
ダッシュボードの時計は、午後五時を示している。確かに、病院の受付は終わっているだろう。流血でもしていれば急患として診てくれるかもしれないが、富士見ははた目から見てもピンピンしていた。
「い、いや……今日は、もう、いいです……」
つっかえながら富士見が言うと、城田は蒼い目を大きく開いて、富士見の顔をのぞきこんだ。
キツネにつままれた顔、とでも言うべきか。車を燃やされた上にさんざん殴られた男が、警察にも病院にも行きたくないと言いだしたのだから無理もない。
「いいの?」
「センセーをこれ以上お引止めするのも悪いし。明日ワタシが自分でなんとかしますよ。どこもケガはしとりませんけど、ちょっと、さすがに、疲れたんで」
「そう」
城田はすぐに引いた。富士見は食い下がられるかと思ってひやひやしていたので、少し安堵《あんど》した。
「じゃ、送るよ。富士見さん、どこに泊まってるの?」
「旅館なんですよ。『い志の』っていう」
「了解」
ダークブルーのシーマはまた走りだした。富士見はほんの一瞬、車窓の向こう、車道の向こう、交番の中で、鼻をほじっている警官を見た。初老の警官は、鼻血を出していた。鼻をいじりすぎたせいにちがいない。
鼻血を出しながら、警官は迷惑そうに富士見と城田を睨んでいた。
「富士見さん」
車を走らせながら、城田が言った。富士見は窓から城田の横顔に目を移す。
「『アンブレイカブル』って映画知ってる? シャマラン監督のさ。ブルース・ウィリスが出てるんだ。『ダイ・ハード』のブルース・ウィリス」
「あ、ええと」
突然の話に、富士見は目をぱちくりして、それから眉間にしわを寄せた。
「すいません、横文字が苦手で。なんて映画ですか、アンブ……」
「レイカブル。観たことないかな。まあ、観てないならいいんだけど」
「ああ、ハハ……映画はあんまり観ないもんで。面白いんですか?」
「DVD貸すよ。……あ、ダメか。部屋にプレーヤーがある旅館なんてないよねえ」
前を見たまま、城田はくすりと笑った。
交番から旅館まで、そう遠くはなかった。旅館『い志の』は小さな池のそばに建っている。池と旅館の周りには緑があった。木があり、草花が生い茂っているが、ある程度手入れされているらしい。
まだ富士見はこの町に来て間もないが、このような池と緑をいくつも見た。郊外は荒れていてうら寂しいが、町の中心部には緑が多い。
車を降りると、緑の奥から、カエルの鳴き声が聞こえてきた。もう夏は終わっている。少し季節外れだ。
「ほんとにどうもありがとうございました。あの、お礼は近いうちに、必ずしますから」
「いいよ、そんなの。それより、急にめまい感じたり、ちょっとでもおかしいなって思ったら、すぐに電話してくれていいよ。けっこう夜更《よふ》かしするから、夜中の二時でも三時でもかまわないし」
「は、はい」
「それじゃ、また[#「また」に傍点]。お大事に、富士見さん」
城田とは、一応携帯電話の番号を交換した。
カエルの声を背に、律儀《りちぎ》な富士見は、ダークブルーのシーマが見えなくなるまでその場に立っていた。高級車は五〇メートル先の角を曲がり、富士見はため息をつく。
たまたま、旅館の隣にあるアパートの壁に目が行った。住所札が貼られている。
『蕪流南三条七丁目』。
「あれ……」
富士見は首をかしげて、ゴマ塩頭をかいた。
城田は昨日だか今日だかに、この町へ越してきたのではなかったか。なぜ旅館『い志の』の住所を知っていたのだろう。
しかし、考えるのが嫌になってきたので、富士見はぽりぽりうなじやのどやこめかみをかきながら、のろのろと旅館の中に入った。今日はあまりに色々なことが起きすぎた。
フロントで鍵《かぎ》を受け取ろうとしたが、女将《おかみ》や従業員の姿は見当たらなかった。ぴっちり閉め切られたすりガラスの窓の向こうに、気配はない。
フロントの中に呼びかけようとして、富士見はカウンターの上に、部屋の鍵が置かれているのを見つけた。こんな対応があっていいものだろうか。
『富士身様 おかえりなさいませ』
無造作に置かれた鍵の下に、ボールペンでそう走り書きされたメモ用紙があった。
漢字が違う。身ではなくて見だ。客の名前を間違えるとは。
「……、もー寝よう……」
ぐったりと肩を落とし、富士見は鍵を取った。メモ用紙が落ちていく。
この旅館の浴場はひとりで使うには充分すぎるほど広く、清潔だ。循環《じゅんかん》の湯は温泉ではないらしいが、温度もちょうどよく、疲れが取れる。
一風呂浴びる体力くらいは残っているかな、と富士見は自分の身体に尋ねた。
無理かもしれない。
自分で布団を敷いて寝るべきか。夕食もとらずに。
あとは、無意識で動いていた。鍵を開けたかどうかもよく覚えていない。富士見は床の間の中央で崩れ落ちていた。
目を閉じる。カエルの声が聞こえる。東京ではあまり聞いたことのない鳥の声も。
どういうわけか、まぶたの裏に、激しく燃え盛る赤と橙《だいだい》の炎の姿が浮かび上がった。もうもうと立ちのぼる黒煙。
なんだ、このまぼろしは。
「フジミ。フジミ、見つけたぞ」
短いまどろみだった。部屋のドアがノックされている。女将だろうか、仲居だろうか。
富士見はうめきながら身体を起こした。座布団を枕にし、コートも脱がずに倒れこんでしまったらしい。
頭痛がする――ような気がする。頭と身体が、やけに重い。鉛になってしまったかのようだ。
ゴマ塩の髪を撫《な》でつけながら、富士見は間延びした返事をして、ドアを開けた。
「フジミ。三〇〇年ぶりだな」
ドアの向こうにいたのは女将ではなかった。
「探したぞ。この罰当《ばちあ》たりめ!」
訪問者は、いきなり意味のわからない挨拶《あいさつ》をして中に入ってきた。富士見は呆気《あっけ》に取られたまま圧倒され、大股《おおまた》で後ろに下がる。
入ってきたのはふたり。問答無用だった。
「あ、あのっ……、えっ……?」
「町の北に行っただろう。お前はアラズガミを見たはずだ。今から話す。よく聞け」
「ど、どちら様で、すか?」
富士見の狼狽《ろうばい》を意にも介さず、高圧的な態度で話してくるのは、白髪の男だった。
部屋の中央まで追いつめられた富士見は、座布団の上で腰を抜かした。
富士見を見下ろし、白髪の男はわずかに眉を寄せたが、いったんそこで言葉を切った。彼の連れは若い女性で、おどおどと落ち着かない様子だ。
男はちらりとその女の顔色をうかがってから、むっつりと名乗った。
「私は稲木《いなき》|八郎太《はちろうた》。これは稲村《いなむら》|凛子《りんこ》」
稲木と名乗るのは、富士見よりも背が高く、端正な顔立ちをした、五〇代の男性だった。琥珀《こはく》色の、質のいいジャケットを着ていた。
[#挿絵(img/044.jpg)]
真鍮《しんちゅう》色のフレームの眼鏡《めがね》をかけている――レンズの奥にある目も、色素が薄いようで、琥珀か、真鍮の色か、……金色に見えた。
髪は、根元から白い。灰や黒の髪はほんのひと筋も見られない。肌も、男にしては白いようだ。
たたずまいや顔立ちは、一言で言えば「渋い」男だった。同性の富士見までそう思ったのだから、本当に渋い。
髭《ひげ》も似合いそうだし、『LEON』あたりの雑誌の表紙を飾ってもおかしくないような気がする。というより、富士見はこの稲木を、すでになんらかのメディアで見たことがあるような気がした。
俳優かモデルでもやっているのだろうか。やっているとしても、充分納得できる。
「……はじめまして」
稲木の後ろで自信なさげに小さくなっているのが、凛子というらしい、若い女性だ。稲木の紹介を受けて、富士見にぺこりと頭を下げた。
まだ二〇歳《はたち》前後だろうか。だが、「少女」と呼べるほど若すぎはしない。
こうした場面に慣れていないようで、ちらちらと稲木の顔色をうかがっている。ふたりの組み合わせは、まるで社長と研修中の新入社員だ。
凛子は稲木以上に色が白かった。蒼白と言ってもいいだろう。身体つきも華奢《きゃしゃ》で、吹けば飛びそうだ。
顔立ちは稲木同様に整っているのだが、あまり化粧《けしょう》に力を入れていないようだったし、なによりその髪型が時代遅れだった。今どき珍しいほど長い髪は、墨《すみ》のように黒く、前髪も多くて野暮《やぼ》ったい。
キツネ。
咄嗟《とっさ》に、富士見の脳裏にその動物の姿が浮かび上がる。
ふたりともちょっと目が細い。四肢がすらりとしていて、どことなく……キツネに似ている。
先ほどまで、怒りのためとも取れる激しい威圧感を放っていた稲木だったが、徐々に落ち着いてきたのか、物腰は静かなものに変わっていった。
「昨今、お前の身の回りで奇妙な出来事が重なっているはずだ。我々はその理由を知っている。これからそれを話す」
それでも彼は、近づきがたく、冗談をはさむ余地がなさそうな気を放っていて――富士見はごくりと生唾《なまつば》を飲んだ。
「ち、ちょっと待ってください」
混乱のあまり――いや、もともと人を怒鳴りつけたり追い返したりするのが苦手な性分であるためか――富士見は押入れから座布団を出して、突然の来訪者にすすめていた。
「ど、どうぞ」
稲木はさも当然のように、表情も変えず座布団の上に座った。稲村凛子のほうは、富士見にぺこぺこ頭を下げていたが。
稲木の座りかたはまるで武士で、富士見は父親の前に正座させられ、説教を受けたときのことを思い出した。
ずいぶん昔の記憶だ。セピア色に色褪《いろあ》せている。
いきなり見知らぬ男女に部屋に上がりこまれ、罰当たりと罵《ののし》られて説教されねばならない。どうにも理不尽だ。富士見は疲れているのに。
「お前は親や親戚《しんせき》から神を捨てろと言われてきたか」
「神様って、あの……」
富士見は目を泳がせた。
話を切り出したかと思えば「神」ときた。しかし宗教の勧誘とも雰囲気が違う。……ような気がする。
「日本の神だ。初詣《はつもうで》や七五三の経験はあるか」
「あァ……ないんです。神社には近づくなって教えられましてねぇ」
セピア色の記憶から、富士見は亡き両親に言いつけられていたことを引きずり出していた。
そう言えば、永瀬瀞にもつっこまれたことがあるのだ。
富士見には、初詣に行く習慣がないということを。両親や親戚に厳しく言いつけられてきたことで、富士見は四二年間、忠実に守り通してきた。
富士見家は、神社に近づいてはならない[#「神社に近づいてはならない」に傍点]のだ。寺にもなるべく近づかないほうがいい、とも言われていた。そして、神道式の冠婚葬祭《かんこんそうさい》にも立ち会うなという徹底《てってい》ぶりだった。神社に特別な思い入れなどなかったので、その制約を受けても、富士見功が不便を感じることはなかった。
子供の頃は疑問に思わなかった。親の言いつけには従う素直な子だったからだ。宗教のなんたるかを理解できるようになれば、自分の家は神道ではなく、仏教の珍しい宗派にでも入っているのだろう、と思うようになった。
瀞につっこまれて、気づいたのだ。思い返せば、初詣未経験ということを聞いた文子も、少し驚いていたような。
そんなにおかしなことだろうか、と彼は思っていた。
神社仏閣に一度も立ち入ったことがない、という日本人は、なにも自分ひとりだけではないはずだ、と。富士見にとって、驚かれるのもつっこまれるのも不本意だった。
ほかにヘンな家訓はないのか、と瀞は尋ねてきたものだ。彼が電話口の向こうでニヤニヤしているのが目に浮かぶようだった。実際に永瀬瀞と顔を合わせるのは、もう、数年に一度くらいになっていたが。
記憶は一度ほどけてしまうと、するする後から後から余計なものもついてきてしまう。物思いにふけりかけた富士見を、いま現実の眼前にいる稲木という男が、引きずり倒した。
「やはりな。お前の一族は本来神に従事しなければならない立場にあった。しかし三〇〇年ばかり前に、神や我々〈眷族《ケンゾク》〉の前から隠れたのだ。見つけ次第、神に代わって罰《バチ》を当てようと思っていたが、その様子では理由も真実も聞かされずに育ったようだな。祟《たた》るのも神罰も勘弁してやろう――お前が、使命を果たすなら、の話だが」
「は、はあ」
稲木はすらすらと伝奇的なことを言っているが、いたって大真面目な顔をしているし、反論できる空気ではない。
目を白黒させながら、富士見は言葉を切った稲木に尋ねてみた。
「その、なんですか、じゃあ、ワタシの一族は、神主さん……みたいなモンだったんですか」
「いいや、そんな生易しいものではない。お前の一族は、神から鬼神の魂《たましい》の器《うつわ》を賜った。お前は不死身の〈神殺し〉だ」
「…………」
富士見は言葉に詰まった。
彼がなにを言い切ったのか、すぐには理解できなかった。
稲木が、まっすぐに富士見を見すえながら、ゆっくりと立ち上がる。富士見は、ふつふつと肌が恐怖のあまり粟立《あわだ》っていくのを感じた。身体を流れる血液まで、冷えて、震えているようだ。
この男はなにを言っているのだろう。だが、最後までこの話を聞かなければならない気がする。この男は嘘《うそ》をついていないという根拠のない確信もあった。信じる信じないという次元ではないのだ。
それがなぜかわかっているから[#「それがなぜかわかっているから」に傍点]、たまらなく恐ろしい。
「その顔は、わかっているな。私が畏《おそ》ろしいだろう。お前はなにも知らなくとも、お前の血肉は我々眷族の気魄《きはく》を覚えているからだ。……だが、心は信じきれていないと見える。話すよりも――見せたほうが納得できるだろう。凛子」
稲木は富士見を睨みつけたまま、後ろに座っていた凛子に呼びかけた。
凛子の身体が、ぴくりと跳ねた。富士見同様、おびえた目で稲木を見上げる。はい、と蚊《か》の鳴くような細い声で、やっと返事をしていた。
「押さえつけろ」
えッ、と富士見と凛子の声が重なった。次にふたりは目を合わせていた。富士見はようやく危険を感じて逃げようとしたが、凛子が青褪《あおざ》めた顔ですばやく動いた。
立ち回りかたを知らない富士見は、たちまち凛子と稲木に押さえつけられた。凛子の白く細い手が、富士見の口をふさぐ。
稲木が腰の後ろに手を回し、なにかを取り出した。
鎌だ。
そんなものをどうして持っているのか。
刃の根元には鋸《のこぎり》のような歯があった。これは、稲刈りや草刈りに使う鎌だ。
研《と》ぎ澄まされた刃は蛍光灯《けいこうとう》の明かりを受け、凶悪な光を放った。それを振り上げる稲木は、変わらず真顔で、いたって素面《しらふ》だ。その冷静さがかえって富士見にとっては恐ろしかった。この男は、平常心で人を殺せるらしいのだから。
「うう、う!」
悲鳴を上げたが、口は凛子にふさがれていた。
ひょうッ、
稲刈り鎌は空気を裂いた。
がツん。
稲刈り鎌は富士見の右腕に当たった。
ぶュん、
稲木はまた振りかぶる。
ぼツん。
鎌が、今度は富士見の胸に打ち下ろされた。
ひゅうどすッ、ぴゅうぼスっ、ひょうごツっ。
痛い。
鎌がぶつかるたびに、鈍い痛みが富士見を襲った。これは死ぬだろう。間違いなく血まみれになって死ぬ。
あの犬男は、刃物を使っていなかった。だから血を見ずにすんだのだ。しかし今回は鎌だ。部屋も、稲木も、自分も血みどろだ。
ようやく稲木が凶行の手を止め、凛子が富士見の口から手を離した。稲木は表情を変えずに、鎌を備え付けの座卓に振り下ろした。
凶悪な刃が、だヅん、と天板に突き刺さるのを、富士見は見た。
鋸のような歯がついた刃。鋭い切っ先は硬《かた》い座卓の天板に突き立っているから、刃がつぶされているわけではないようだ。
ああ。しかし。
「……え、……あ……」
鎌には一滴の血もついていなかった。
富士見はこわごわと稲木の白い顔を見つめ、それから自分の手や身体を見た。一張羅《いっちょうら》のコートは、袖がところどころ破れてしまっている。
鈍い痛みはすぐに治まっていた。血や傷口など、影も形も見当たらない。
鎌で切られても傷がつかなかった。その事実を突きつけられて、富士見の中に、また――そう言えば[#「そう言えば」に傍点]、と思い当たるふしが次々と押し寄せる。
怪我をしたことがない。自転車の練習で派手に転んだこともあれば、徒競走で転んだこともあるし、カブトムシを採《と》りに行ってちょっとした崖《がけ》から落ちたこともある。その都度痛い思いはしたが、すり傷を負って絆創膏《ばんそうこう》を貼られた覚えはない。一度だけ同級生と取っ組み合いの大ゲンカをしたが、無傷で勝った。いかなる病気の予防接種も、ひとりだけ受けていないのだ。だがおたふく風邪もはしかもかかったことがない。そもそも風邪すら引いたことがない。会社で毎年インフルエンザが猛威をふるっても、富士見はけろりとしていた。学校や会社を休んだことがない。学校では毎年|皆勤賞《かいきんしょう》をもらっていた。後頭部に石膏像を投げつけられても気絶すらしなかった。一度も病気や怪我で病院の世話になったことがない、バカだから風邪も引かないんだよ、と瀞に言ったとき、彼はこう言っていた。
「……ちょっと待てよ。一回もカゼ引いたことなくてケガもしないなんて、そんなわけねーだろ。どんな超人だよ。男なら捻挫《ねんざ》くらいいっぺんはやらかすだろ」
富士見功は怪我をしたことがないし[#「富士見功は怪我をしたことがないし」に傍点]、病に倒れた[#「病に倒れた」に傍点]こともない。
「フジミの一族を探すために、我々は戦後から同胞を各地の病院にも送りこんでいた。お前は東京で健康診断を受けたな」
富士見はいろいろと納得した。また、自分の中では些細《ささい》なイベントにすぎなかった記憶が、奔流《ほんりゅう》のように音を立てて戻ってきた。
つい先月のことだ。つい先月のことだから、細かい部分もいろいろと、フィルタを通した他人事《ひとごと》の映像のように、想い出の中に浮かび上がってくる。
そう言えば、健康診断を受けたのだ。
あれが、きっかけ[#「きっかけ」に傍点]になってしまったとは。
「針が通らなかった?」
富士見の目の前で、医師が看護師に確認していた。驚いて上ずった声だった。無理もない。看護師が報告したとおり、富士見から採血ができなかったのだ。
「血管に入らなかったってことじゃなくて?」
「そうなんです」
「そうなんですよ」
富士見はへこへこと頭を下げながら、看護師に助け舟を出した。シャツの袖をまくって、採血に失敗した腕を出す。
どういうわけか注射針が刺さらず、富士見は肘《ひじ》の内側を何度もつつかれた。非常に痛い思いをした。しかし、傷はどこにもついていない。
べつに富士見の皮膚《ひふ》が鋼鉄《こうてつ》のように硬いというわけでもないのに、鋭い注射針は、それを破れなかったのだ。
医師は怪訝《けげん》な面持ちで富士見の腕を眺め、カルテに何事か走り書きをした。
カルテに書かれるのはドイツ語だと、富士見の記憶がささやいてくる。医療関係者にとっては常識だろうが、サラリーマンにとっては立派な豆知識だ。
富士見は目を糸のように細めて自分のカルテを盗み見たが、医師が書いたことはぜんぜんまったくさっぱり読めなかった。
「レントゲンはちゃんと撮れたよね」
「「はい」」
看護師と富士見の返事が重なった。診察室の三人は、軽く噴き出す。
「レントゲンも撮れないんじゃさすがに問題だったよ。あれはいい。大抵のことはわかるからね――僕はもともと整形外科だから骨が好きなのかもしれないけど」
「はあ」
「でも血液検査ができないんじゃなあ、つまらないよね」
「そ、そうですかねぇ」
「年に一度の健康診断なんだし、徹底的にやりたいじゃない? 血液検査とか、レントゲンとか、血液検査とか」
この医師の頭の中にはレントゲンと血液しかないのだろうか。消毒薬の匂いの中、富士見はぼんやり不安になった。
「あと、DNA検査とか」
「映画みたいですねぇ。実際誰でもやってもらえるもんなんですか? デーエヌエー検査って」
「できるよ。高いけど」
医師はボールペンを回しながらカルテを眺め、鼻で小さくため息をついた。
「……まあ、それはそれとして。血液検査ができないんじゃなあ」
「なんとかできませんかねぇ」
「今日のところは保留ってことにしておけるけど。意外と融通《ゆうずう》が利くんだよ。健康診断なんて結構いい加減だから」
「はあ、そうなんですか」
「血液のかわりに粘膜《ねんまく》の検査でもする?」
「……それ、どこから採るんです?」
少しおびえた富士見の問いに、医師はぱくりと口を開けて、頬をつついた。
レントゲンを撮られ、血液のかわりに口腔《こうくう》粘膜を採られ、尿《にょう》を差し出し、その他いろいろ……。忙しい一日だった。健康診断など、去年までは、ほんの一時間で済んでいたのに。
病院を出ても、帰路の途中でも、家に帰ったあとですら、富士見にはぼんやりとした不安がつきまとった。
血液と骨が大好きな医師が健康診断の担当だったためだけではない。この不安が罪悪感に似たものだと気づくまで、富士見は少し時間がかかった。もとからぼんやりしているからかもしれない。
健康診断を受けるなら、御殿場《ごてんば》病院で。
それは亡き父母からしつこく言われていた制限だった。祖父母も言っていたような気がする。
そこの院長は富士見が初めて健康診断を受けたときから相当な年で、いつ会ってもヨボヨボだった。すっかり禿はげ上がった頭をぽりぽりかきながら、カルテにミミズの絵を――もとい、多分ドイツ語を書いていた老医師。
彼は毎年、たったの一時間で健康診断を済ませてくれた。一時間といっても、古ぼけた待合室で待っている時間のほうが長かったはずだ。
御殿場病院の院長は、今年の春、とうとう亡くなってしまった。跡継《あとつ》ぎは家出して行方知れずになってしまったらしく、病院はそのまま廃院だ。富士見は都内の適当な総合病院で健康診断を受けるよりほかなくなった。
両親が生きていた頃、まだ御殿場病院の跡取りはいたのだ。だから、老医師にもしものことがあった場合どうするか、富士見家はあまり考えていなかったらしい。
一族が信頼するかかりつけの医師がいるというのは、それほど珍しいことでもないだろう――富士見はそう思っていた。むしろ、一族の体質[#「一族の体質」に傍点]を熟知している医師がいるというのは、心強いと――。
家族が健康診断を――病院を恐れていたことには、意味があったのだ。そうとなれば、会社が奇妙な辞令を出してきたことにも、きっと意味がある。
富士見は新しい記憶を引きずりだしてから、稲木を恐々《こわごわ》と見上げた。思い出しているうちに、彼の背はますます丸まって、うずくまるほどに小さくなっていた。
「その身体はフジミ家の始祖が神から授けられ、代々の男子が受け継いできたものだ。お前は絶対に殺されない[#「絶対に殺されない」に傍点]。何故かわかるか」
自分の身体にあった秘密を知らなかったのだ。どうしてその理由を知っているものか。富士見は激しくかぶりを振った。
「何故ならフジミは忌《い》まわしい〈非神《アラズガミ》〉を叩き殺す使命を帯びていたからだ。お前も町の北のはずれに行ったなら見ただろう――今やこの町はアラズガミの巣窟《そうくつ》だ。お前に会ったときにまず見せてやるつもりだったが、手間が省《はぶ》けた。あの邪悪は人や獣や大地をむさぼり、土地神の力を削そいでいく。神にも等しい力を持っているが、邪悪を神と認めるわけにはいかない。ゆえに奴《やつ》らは、神に非ず。忌むべき〈穢《ケガレ》〉だ。フジミ、お前の身体と力は、その非神殺しのためにある」
「あ、あ、あのう……」
有無を言わさず話し続けた稲木がようやく区切りをつけたので、富士見は固唾《かたず》を呑みながら口をはさんだ。
途方もない話を聞いたせいか、先ほど鎌でめった打ちにされた余韻《よいん》か、心臓は早鐘《はやがね》を打っていた。しかも胸ではなく、のどの奥まで飛び出してきているような気さえする。
稲木は明らかに腹を立てているようだった。金の視線に射すくめられて、富士見はろくに身動きもできない。
カエルと鳥の鳴き声が、聞こえない。
「き、急に言われても、こまります」
富士見はやっとのことで言葉を絞《しぼ》り出した。情けない声だった。
稲木も富士見のその泣き言のようなものに、束《つか》の間《ま》唖然としたようだった。即座にひれ伏すわけでもなく、反発するわけでもなく、ただ戸惑っている富士見を、稲木は拍子《ひょうし》抜けした面持ちで、しばらく見つめ返した。
ややあってから、稲木は目を閉じ、ため息をついた。
「……そうだな。無理もない。お前は今年で四二と聞いたが」
「はぁ、そうです」
「四二年も知らぬままか。親とは死に別れているな」
「ええ。……あの、男は不死身って話ですけど、ワタシのじいさんも父親もみんな五〇代で死んでますよ」
「寿命はある。お前たちは殺される心配がないというだけで、死なないというわけではない。ある意味、時間だけがお前たちを殺せるということでもあるだろうがな。生命は必ず死ぬ道理にある。道理を外れるものは、この世に途方もない歪みをもたらす」
「む、難しいですねぇ」
「使命については理解できたか。これは別段難しい話ではないだろう」
「……はぁ……、まぁ……」
話の内容はわかる。わかるのだが、そう簡単に納得はできない。要するに、「お前は不死身の戦士なんだから邪悪な魔物を退治しろ」と言っているわけだ。富士見功は、戦士ではなく、しがないサラリーマンであるつもりだったので、返答に困った。
「あの、それ、どーしてもやらなきゃダメなんですかねぇ」
「では、また隠れるのか。神に授かった身体でありながら、この罰当たりめ! 今度こそ眷族権限で神罰をくれてやるぞ。それとも祟られたいか!」
これまで高圧的だったにしろ、淡々と話をつづっているだけだった稲木が、はっきりと怒りや失望をあらわにした。
ぱン!
一瞬、部屋の蛍光灯が消え、座卓の上の湯呑み茶碗が突然欠けた。飛び上がった富士見に、背後で起きた大きな音が追い討ちをかける。富士見がさらに飛び上がって振り返れば、ひもが切れた掛け軸が落ちていた。
祟りだ! 祟りなのだ! ぜったいに!
丈夫な湯呑みが手も触れていないのにいきなり割れるはずがないし、あんなに太いひもが突然切れたりするものか。
「す、すいません! ごめんなさい!」
半分泣きながら、富士見は稲木に謝った。見れば凛子までおびえたような目つきで稲木の顔色をうかがっている。
稲木は――、殺気じみたもので爛々《らんらん》と双眸《そうぼう》を光らせていたが、富士見の謝罪を受けて、静かにため息をついた。
不整脈を打つ心臓をなだめながら、富士見はうまい言葉を探した。これ以上稲木を怒らせたら、本格的に祟られそうだ。
「そっ、その、アラ……なんとかっていうやつは、神様じゃやっつけられないんですか? ワタシでないと、ダメなんですか?」
「――彼奴《きゃつら》はあまりに穢《けが》れている」
「え?」
厳しい顔をして、稲木はつぶやいたのだが、それが意味することを説明してはくれなかった。
「それに、神も眷族も、無下《むげ》に人や獣を殺したくはないのだ。お前たちは、生命を奪うことに躊躇しない生物だろう。だから神は、人に殺す力を与えたのだ」
「そんな」
富士見は迷ったが、やはり、そこのところは否定しておくことにした。
「ワタシゃ、躊躇しますよ……」
稲木はなにも言わず、じっと富士見の顔を見つめた。探るような視線だ。眼鏡の向こうの目は、すべてを見透かせるのではないか――。
富士見はそれ以上なにも言えず、稲木の目を見つめ返すしかなかった。
湿った沈黙の中、やはりカエルと鳥の鳴き声は聞こえてこない。風も、旅館の従業員の気配さえも、まるで凍りついているかのようだ。
そんな静寂《せいじゃく》を、携帯電話のするどい着信音が切り裂いた。富士見は驚いた。凛子もわずかに飛び上がっていた。眉をひそめてジャケットの内側を探ったのは、稲木だった。
通話は二、三言葉を交わしただけで終わっていた。稲木は携帯をたたみながら凛子に何事か耳打ちし、立ち上がる。
「私が付いているべきなのだろうが、あいにく忙しい。この凛子をお前の仮の目付《めつけ》とする」
「……目付?」
「あくまで仮だ。凛子」
「は、はい」
凛子はか細い返事をすると、三つ指をついて稲木にお辞儀をした。
「せいいっぱい、つ、つとめさせていただきます」
稲木は大きく頷いた。凛子を見下ろす視線は厳しかったが、どこか優しくもあった。ひと昔前の師弟関係を目にしているようで、富士見はただ、やりとりをぽかんと見守っていた。
「その鎌はお前にくれてやろう。神殺しに役立てるといい」
富士見にそう言い残すと、稲木八郎太という男は部屋から出て行った。廊下を歩く足音が聞こえなかった気がする。だが、気配は確かに、消えてしまった。
「…………」
「…………」
湿った畳《たたみ》の匂いが漂う和室に、富士見と凛子のふたりだけが残された。凛子は、髪型こそ少し野暮ったいが、充分「美人」と言える類の女性だ。
こういった狭い空間できれいな女性と二人っきりになるという経験は、平凡に暮らしていればなかなかできないもので、つまり富士見は、年甲斐《としがい》もなく少しどぎまぎしていた。
「お」
「は、はい?」
「お、お茶でも、飲みますか」
「あ、は、はい。あっ、いえ! ど、どうぞおかまいなく」
ぎくしゃくした会話を交わし、富士見は座卓の上にポットを置いた。天板には例の稲刈り鎌が突き立ったままだ。緑茶のティーバッグを入れた湯呑みに熱湯を注ぎながら、富士見は横目で鎌を眺めていた。
凛子は落ち着かない素振りだ。髪をいじったり、富士見の顔色をうかがったりしている。稲木とはずいぶん態度が違う。
「あのう……こんなこと聞くのも、失礼かと思うんですけど……」
「な、なんですか?」
「あなたがたは、そのう、どういう……人たちなんですかね。イナキさんは、ええと……ケンゾク、って言ってましたけど」
富士見はどぎまぎしながらも凛子を警戒していた。いきなり部屋に上がりこんできて非現実的なことをしゃべり、挙句《あげく》の果てには鎌で人をめった打ちにするのだ。得体の知れない連中だった。警察を呼ぶべきなのだろうが、怖くて[#「怖くて」に傍点]できない。
「眷族は、神さまの遣いです。ひとつの神社につき、最低ふたりは、ついているんです。ひとやけもののおねがいを、神さまにつたえたり……するのが、役目です。むかし、ひとは、わたしたちを〈御眷族〉とよんで、神さまとおなじくらい、うやまってくれました」
暗記している内容を話すように、ゆっくりと凛子は言葉をつないだ。
「わたしたちは、神さまにかわって、いきものに罰を当てたり、ご利益《りやく》をさずけることが、ゆるされているんです。神通力が、つかえます。でも、そのかわり、永遠に、神さまにおつかえしなければなりません」
「え、永遠?」
「はい。ひととして生まれて死にますが、すぐ生まれ変わります。それまでの記憶を、ぜんぶ引きついで」
「……そう」
富士見は凛子の前に湯呑みを置いた。
「大変だねぇ」
「い、いえ。そ……そう思ってる眷族《ひと》は、あんまり、いないと思いますよ。あんまりむかしのことは、――わすれちゃうこともあるし」
「イナキさんは、ずいぶんエライ人なんですか?」
凛子は、目を見開いて、ぶんぶんと首を縦に振った。
「ふ、伏見稲荷《ふしみいなり》大社おつきの、白狐《ビャッコ》さまです。い、いまいる眷族のなかで、いちばん、つよいかたかも、しれません。わ、わたしたちは、神社におまいりしてもらえると、ちからが、つくんです」
「伏見稲荷大社って、テレビで見たけど、京都の? あの、でっかくて赤い? 鳥居がいっぱいあるところ?」
「はい」
「はー、どーりでキツネっぽいって思ったんだなぁ。あ、でも、京都弁じゃなかったなぁ。……じゃあ、イナキさん、キツネに化けられたりするの?」
「はい」
「するの!?」
「はい」
「……あぁ、なんだか、なんだかもう……」
頭を抱える富士見の前で、凛子が控《ひか》えめに微笑んでいた。部屋に入ってきてからずっとおどおどしていた彼女が笑ったのは、このときが初めてだ。笑うと、細い目が完全に糸目になって、よりキツネじみて見える。
けっこう、かわいい。
「リンコさんも、キツネさん?」
「はい。そうです」
「御眷族は、キツネさんが多いのかなぁ」
「そうですね。でもやっぱり、狛犬《こまいぬ》さんがいちばん、おおいみたいですよ」
「そうか。あぁ、そうかもねぇ」
「狛犬さんは、ほんとうは、〈神使《シンシ》〉……眷族ではなくて、〈神守《シンシュ》〉なんですけど、にたようなものですから、最近はあまり区別しなくなりました」
「へぇ。ちがいはあるの?」
「狛犬さんは、ごじぶんがついている神社の神域から、ほとんどはなれることができないんです。よっぽどおおきな神社で、おまつりしている神さまのおちからが強かったら、べつですけど。神通力も、護《まも》るちからがとくに強いんだそうです」
「そうなんだ。面白いね、……漫画みたいだ」
いつの間にか富士見は凛子に敬語を使わなくなっていた。態度も見かけも新入社員めいているから、ついそんな態度になってしまったのだ。凛子が語った御眷族の話が本当なら、彼女の魂は富士見よりもずっと年上ということになるのだが。
凛子は稲木と違って、腰が低い。常になにかにおびえているようにも見えるほど、今の状況に戸惑っているようだった。富士見の接し方に機嫌を損ねる様子などない。
「フジミさん」
「はい?」
「こ、この蕪流には、〈非神《アラズガミ》〉が、います。退治してもらえません、か?」
湯呑みを持った凛子は、上目遣いで富士見を見つめた。稲木のように強制こそしていないが、望んでいることは同じようだ。
「それって、合田サンっていう画家サンのこと? 確かに……かなりあぶない人っぽかったけど、そんなすごい怪物には見えなかったよ」
「非神は、人や動物に、とり憑《つ》くんです。そしたら、すんでいるところのまわりから、どんどん魂をすいとっていくんです。草も虫も、みんな、いのちというものはぜんぶ、食べられてしまいます。非神も、非神に食べられてしまったものも、とてもきたなくて……いいものじゃ、ありません」
凛子は相変わらず、つっかえながら暗唱しているようだった。
彼女も必死なのだろう。富士見の説得に失敗したら、稲木をはじめとした「上司」に怒られるにちがいない。
それを察して、富士見は湿った頭をかいた。
「やっつける、ったってなぁ。……ワタシゃ、弱いよ。ケンカだって、ほとんどしたことないし」
「フジミさんは、鬼なんですから、けっこう、ちからがある……はずなんですけど……」
「ない、ないよ。こないだ会社でシュレッダー移動させるのに二〇分もかかったんだから」
「おねがいします。どうか」
凛子は深々と富士見に向かって頭を下げた。頭を下げる直前の顔は、今にも泣きそうだった。
「うーん……まぁ、あの家の前に書類入った鞄落としてきちゃったしなぁ……行かなかったらイナキさんに怒られるんだろうしねぇ……」
手で顔をこすりながら、富士見は煮《に》え切らない言葉をもごもごこねまわす。若い女性を困らせた上に泣かせてしまったら、きまりが悪い。かと言って魔物退治をやりとげる自信もない。八方ふさがりだ。
「じゃ、い、行ってもらえますか」
しかし、はっきりしない返答でも、凛子はさっと顔を上げた。笑ってはいないが、表情には光明がさしていた。
「行ってもらえるだけで、けっこうなんです。おねがいします」
凛子は立ち尽くしている富士見を真っ向から見つめてくる。やはり金色だ。蛍光灯の強い光を受けて、彼女の瞳は金色にかがやいているように見える。そして、肌ははっとするくらい蒼白い。
彼女はどうしようもないほど必死だ。稲木に怒られたくないから、という単純な理由だけを背負っているようには思えず、富士見は泣く泣くほぞを固めるのだった。
「ホントに行くだけになるかもしれないよ……」
情けない声で言ったにもかかわらず、それを聞いた凛子は、いかにも嬉しそうに微笑した。小さくついたため息は、安堵のものだろう。
凛子は備え付けの古びた時計に目をやってから、富士見にうなずきかけた。
「……それでは、あす。ええと……すみません、わたし、アルバイトをしていて。夕方の四時ごろ、むかえにきます」
「おキツネさまなのにバイトしてんの?」
「神さまにおつかえするのは、わたしたちの使命だから、お給金みたいなものはでないんです」
「た……大変だねぇ」
富士見の言葉は心からのものだ。凛子ははにかんだような笑みを浮かべて、うつむいた。
「きょうは、失礼しました。いきなり押しかけてしまって、ごめんなさい」
「あぁ、いいよ。大丈夫。ちょっと、頭ン中ゴチャゴチャしてるけどね……ハハハ」
あとは、おやすみ、さようなら。
凛子の足音が遠ざかっていく。室内に――富士見の世界に、音がようやく戻ってきていた。網戸《あみど》の向こうから、町のかすかな息吹が聞こえた気がする。
すぐ近くを車が通っていく音や、季節外れのカエル、時間を間違えているセミの声。
ここは現実だ――間違いなく現実だ。ほら、風を感じる、音を感じる。たるんだ腹の肉でもつねってみろ。これは夢ではない。
富士見は座布団の上にどさりとへたりこみ、座卓の上をぼんやり見つめた。
ふたつの湯呑み、凶悪なフォルムの稲刈り鎌。流れなかった自分の血。畏ろしくて仕方がなかった御眷族。
――ああ。これがワタシの、人生だなんて。
古い蛍光灯の下、富士見功は、ぐったりと肩を落とした。
[#改ページ]
[#見出し] 参 横たわる犬
眠れないだろうと覚悟《かくご》していたが、結局熟睡してしまった。いつでもどこでも寝られる男、それが富士見功という男だ。ただ、毎日出勤時間に合わせて午前七時に目覚めるという習慣だけは破られた。
身体は昨日の騒ぎですっかりくたびれてしまっていたらしく、寝坊してしまったのだ。富士見が布団から這い出したのは、九時ちかくになってからのことだった。
もう年なので、なかなか疲れが取れなくなってきている。目は覚めたが、早くもヘトヘトだ。
しかも昨日はおおいに運動した。今朝はまだいいが、明日あたり、時間差の筋肉痛に悩まされるかもしれない。
「……ホントに不死身なのかなぁ、ワタシ」
目をこすりながら、富士見は洗面所に向かった。
昨夜、稲村凛子が帰ってから、なんとか気力と体力をしぼり出し、富士見は浴場で汗を流した。鏡に映したり、じかに見たりで、自分の身体をまじまじと観察した。中年男性らしい、だらしなく油断した身体には、痣《あざ》ひとつ残っていなかった。
無理にひねったり、つついたりつまんだりすると、ちゃんと痛みを感じる。叩けば、皮膚も一瞬赤くなっているようだった。鏡を見れば、目は充血していた。
初めて富士見は、まともに自分の血を見ずに生きてきたことに気づいた。充血した目は赤く、湯でほてった身体は赤い。
少なくとも、血の色が赤いのは確かだろう。
けれどもなぜか、泣けてきた。わめきちらしたくもなった。
このままなにもしないで鏡を見ていれば、絶対に泣きながらわめきだすはめになると思い、富士見は浴場から部屋に戻ると、布団の中に逃げこんだ。眠りに落ちたのは、そのすぐあとだったようだ。
「もっと若いうちに知ってたらなぁ、ぜんぜん違う人生だったろうなぁ。……当たり前か」
これからの人生が変わりそうな出来事から一夜明けても、富士見の独り言の多さは相変わらずだった。
富士見も人の子なので、いたいけな少年だった頃はある。功少年も鼻水をたらして野原や道路を駆けずりまわり、悪ガキたちと一緒にチャンバラやプロレスの真似事《まねごと》をして遊んでいた。ヒーローに扮《ふん》したこともある。
そんな他愛《たわい》もない、子供として当たり前の遊びに熱中しているとき、功少年はサムライやレスラーやヒーローになりきっていた。自分にも、彼らのような力があると思いこんでいた。
そのうち少年時代は終わってしまい、富士見功は自分にはなんら特別な力がないということを理解した。少年とは、そんなものだ。――だが、富士見の場合、大人になってから理解したことこそが、思いこみだったのである。自分でも、これがきわめてまれなケースであることはわかっている。普通、人は「自分は不死身だ」などとは考えない。そういう世の中だ。そして人間の身体は、ちょっとしたことで傷つくものなのだ。その常識が、富士見には通用しなかった。
だが、もし、
もしも、
自分がもっと若いうちに、その事実を知っていたら、本当に、どうなってしまっていただろう。
もしかすると、このほうがよかったのではないか。ここは無茶やヒーローごっこが通用しない世界だと自覚している、四二歳の今になって知った、この境遇のほうが。
――違う道進むどころか、道踏み外してたかも。
富士見は両親と祖父母から、絶対に人様には手を出すなと強くしつけられていた。心根がやさしかったから、彼は言われなくてもめったにケンカをしたことがなかったが、小学生の頃、一度だけ派手に同級生とやり合っている。
そいつがカエルの肛門《こうもん》に爆竹《ばくちく》を突っこんで点火する遊びを広めていたからだ。カエルがかわいそうだったから、富士見は立ち上がった。
それがおそらく富士見にとって、最初で最後の取っ組み合いの大ゲンカだ。功少年はストレート勝ちした。相手をコテンパンにしてしまい、自分はかすり傷ひとつ負わなかったのである。
富士見が両親から殴る蹴けるの暴行――いや、せっかんを受けたのも、それが最初で最後だ。ホウキと布団たたきでコテンパンにされた。
今なら、暴力に対して両親や祖父母が厳しかった理由がわかる。富士見の男子は不死身で、(御眷族の言うことが正しいならば)鬼並みの怪力の持ち主だ。
道を踏み外したりしないように、しつけていたのだ。
金庫の上の小さなテレビに、富士見功のぼんやり顔が映っていた。人畜無害を画《え》に描いたような、さえないおっさんだ。
見慣れた顔に、富士見は噴き出す。
「踏み外してもなぁ。この迫力のなさじゃ……」
いつもの独り言が、やけにひび割れ、ひとりの部屋に大きく響いたような気がした。
いたたまれない。
ひとりきりの静寂とは、これほど息苦しいものだっただろうか。もう、二〇年以上付き合ってきた空気のはずなのに、堪えられない。
富士見はテレビのスイッチを入れ、チャンネルを次々に切り替えた。
朝のワイドショーはどこの局も終わりかけている。そろそろ、主婦の時間だろう。生活情報番組と、再放送の古いドラマばかりだった。そして、いくら眺めていても、内容が頭に入ってこなかった。だが、音だけをあてにして、スイッチは入れたままにしておいた。
第何部のものかもさだかではない『水戸黄門』が、部屋にむなしく音を落とす。
今日は仕事をする気にならない。
だが、会社から連絡が入っているかもしれないと、昨日はほぼ一日中マナーモードにしたまま無視していた携帯電話を確認した。
会社からは一切コンタクトがなかったようだが、年の離れた義理の弟からは一度着信があった。
彼は富士見のカノジョではないので、いちいち着歴をたどって謝りの電話を入れなくても、怒りだしたりはしない。だろう。たぶん。
「……ジョーくん、なんて言うだろ……」
やぁ、ジョーくん。なんかねぇ、ワタシ、不死身らしいんだよね。だから風邪引いたことなかったんだよ。お稲荷さんが教えてくれたんだけど、どうもワタシゃ不死身だから、怪物退治をしないといけないらしくてさぁ、いやいやまいったなぁ。
はァ!? なに言ってんだ功さん! 頭ぶつけたか? 俺《おれ》そーいう冗談じゃ笑わねーぞバカ!!
「……ダメだな……、やめよう……。絶対病院連れてかれる……あっちの[#「あっちの」に傍点]病院に……」
実際に話したわけでもないのに、富士見は急に背筋が寒くなってきた。瀞の怒鳴り声まで聞こえた気がする。
携帯電話を置き、富士見が着替えでもしようかと浴衣の帯に手をかけたとき、突然部屋の中に旅館の女将が入ってきた。初老の女将はなぜか泣いていた。
「おはようございます、お客さま!」
「は、はい!? お、おはようございます」
部屋のど真ん中に飛びこんできた女将は、目にも止まらぬ速さで正座し、額を畳に打ちつけながらの激しい土下座をはじめた。『水戸黄門』の印篭《いんろう》シーンに便乗するにはまだ早いようだが。
「昨晩はほんとうにほんとうにご無礼いたしました! 鍵も置きっぱなしで布団も敷きに行かないで! どうも申し訳ございませんでした! 叱《しか》ってください! あたくしたちにどうぞクレームをどうぞ! もうなんとお詫わび申し上げたらよいのか!」
泣きながらまくしたてる女将に圧倒されながら、富士見は昨日の旅館の対応について、のろのろとマイペースに思い出していった。
確かに帰ってきてみればフロントには誰もいなくて鍵が置きっぱなし、八時には布団を敷きに来てくれていた仲居も、昨夜は来なかった。
しかし当の客富士見は、昨晩、それどころではなかったのだが。むしろ、宿の従業員と接触がなかったことが不幸中の幸いだと考えているくらいだ。
それに布団くらい自分でも敷けるので、旅館に物申す気にはならず、富士見は女将に照れ笑いのようなものを返した。
「いやぁ、いいですよ、布団くらい」
「お、お客さま!」
顔を上げた女将の唇はわなわな震えていた。
「お客さまはまるで神さまでございます!」
「あ、あの……」
「従業員一同、ずうっと裏の池で釣りをしていたのでございます、それから阪神戦に夢中になってしまったのでございます! おかげさまで横浜に8対1で勝ちました」
「おお、圧倒的じゃありませんか」
「ありがとうございます!」
女将は満足した様子で、嬉しそうに笑いながら部屋を出て行った。
「……ん?」
たった今、とても普通では考えられないやり取りがあったような気がする。女将はひとりで泣いて謝って阪神の勝利を喜び、そして満足して帰ってしまった。
うっかり乗せられてしまった富士見も、今になって、彼女は一体なにをしにきたのだろうと考えた。しかも彼は、巨人ファンだ。
「それに、裏の池で釣りって……」
富士見は首をかしげながら、窓を開けた。
網戸をすり抜け、朝の空気が部屋の中に入ってくる。むせかえるような緑の匂いがした。カエルの声は聞こえない。だが、風向きのためだろうか、旅館のすぐそばにある池の匂いが、かすかに感じられた。
『頭《ず》が高い! 控えおろう!』
テレビからよく通る声が飛んできた。ようやく印篭が出たらしい。
たぶん、他に逃避先のあてもなかったのだろう。
着替えたあと、富士見は旅館の裏にまわり、緑の影に沈む池を見に行っていた。
泥とカエルとミミズの臭いがする。けもの道のような散策路が池を囲んでいた。散策路の両脇には草が生い茂っている。
まだ昼間だというのに、クツワムシが鳴いている。
散策路には黴と湿気で黒ずんだ立て札がいくつもあった。まず目に入ったのはこれだ。
『泳がないでください 浅いので   い志の』
「……『浅いので』……」
黒のマジックでそう書かれた画用紙が、ガムテープで立て札に貼りつけられている。なんとも言えない趣《おもむき》だ。片田舎ならではの独特な雰囲気がある。
草をかき分けるようにして池の前に立つと、鼻をつく生臭さは一気に勢いを増した。富士見は少しだけ顔をしかめて、水面《みなも》を見た。
池の水は澱《よど》んでいて、一見、絵画のように不動のものだった。しかし時おり、見えない水底からあぶくが上がってきて音もなくはじけ、水面にいくらかの波紋を生んでいる。
立て札の注意書きには「浅い」とあったが、空を覆わんばかりの枝葉が落とす影、澱んで動かぬ水面のために、水深がどれくらいなのか見当もつかない。富士見の目には、底なし沼に見えた。
「ここで釣りかぁ」
富士見はかがみこんでつぶやいた。
「ドジョウでもいるのかな」
ぐつぐつ煮え立つ柳川鍋《やながわなべ》のイメージが思い浮かぶ。旅館の宿泊には食事をつけていないので、ここの料理がうまいのかまずいのかもわからないが、通りがかった厨房《ちゅうぼう》からは、毎夜|醤油《しょうゆ》と味噌《みそ》のいい香りが漂っていた。
富士見は池に適当な小石を投げてみた。なにを生かしているのかわからない池を、小石が立てたさざ波が走る。
クツワムシが黙りこんだ。
富士見も口を閉ざして、生唾を飲んだ。なぜここで固唾を呑んだのか、彼にもわからない。ただ、悪いことをしてしまったような気がしたのだ。
なにも起こらなかった。
なにも起こらない一分間ばかりを、富士見は黙って池を見つめて過ごした。呼吸さえ忘れていたような気がする。
富士見が安堵のため息をつく頃には、クツワムシやキリギリスの合唱が再開していた。
この池にいるのは、ドジョウではない他のものではないのか。そう考えた途端、富士見は寒気を覚えて身震いした。コートと背広とシャツを着こんでいるのに、鳥肌が立っている。
富士見は何度も池を振り返りながら、来た道を引き返した。表までの道のりは一〇メートルもないのだが、寒い背筋を負いながら歩くには、つらい距離だった。
散策路を出る直前、白い作務衣《さむえ》を着た男と出くわした。胸には旅館『い志の』の名が刺繍《ししゅう》されていた。彼が厨房と裏口の間を忙しそうに行き来している姿を、富士見は何度か見たことがある。
『い志の』の料理人らしき男は、あざやかな黄色いプラスチックのバケツと、釣竿《つりざお》を持っていた。
「あァ、どうも。昨日はすんませんでしたね」
男はへらへらと笑いながら富士見に頭を下げてきた。女将とは違ってあまり反省の色が見られない。
この仕事が長いのか、長逗留しそうな客は雰囲気でわかるようだ。富士見は早い段階で旅館の従業員に顔と名前を覚えられていた。
「いいんですよ。ワタシもねぇ、昨日は忙しくて」
嘘はついていない。昨日起きたことをリストアップするだけで疲れる。
「なにが釣れるんですか?」
「いろいろですよ。ナマズみたいのが釣れたこともありますわ」
「釣ったのはやっぱり料理に使うんですかねぇ」
「食べられそうなやつはね。ザリガニとか」
「え。ザリガニっておいしいんですか」
「エビとかカニと一緒。お客さん、たまにはウチで食事してくださいよ」
富士見は作務衣の男を愛想笑いで見送った。
うら若き少年だった頃、富士見もスルメでザリガニを釣って飼って死なせたものだったが、食べようとはついぞ思ったことがない。
余計に『い志の』の食事を食べる気にならなくなってしまったが、そこは人のいい富士見なので、あえて言わなかった。
「そうか、ザリガニかぁ……」
クツワムシの鳴き声に負けそうなくらい小さな声で、富士見はいつものように独りごちた。
稲村凛子は、時間どおりにやってきた。
富士見は約束の四時まで、具体的にどう過ごしたかよく覚えていない。仕事もせず、布団を敷いたままの部屋で腐っていた。
昨日起きたことを整理すると疲れてしまった。そして、なにもせずただ物思いにふけっているだけでも、時にはひどく疲れてしまうもの。
旅館の前で立ち尽くしていた富士見は、傍目《はため》から見てもかなりぐったりしていた。ただでさえくたびれた風貌《ふうぼう》だというのに。
凛子は車で富士見を迎えに来た。ワインレッドのミラジーノだ。凛子には似合いだ、軽《けい》でもいいから車買わないとな、あれって物損《ぶっそん》に入るのだろうか、と富士見は疲れた頭でいろいろ考えた。
「こんばんは。おつかれさまです」
「おつかれさんですー」
運転席の窓を開けた凛子は、再会の挨拶まで新入社員のようだった。つい条件反射で、富士見はにこやかに返事をしていた。
「どうぞ」
凛子は助手席のドアロックを外して、わずかに笑った。薄暮の下、車中の凛子の顔色は、昨晩よりも白く見える。
富士見は車の後ろを回って助手席に乗りこんだ。車の後ろ側には、電柱かポールにでもぶつけたか、ちょっとしたへこみがあった。助手席側のドアにも、こすった痕《あと》がついている。
「アルバイトは、どこでどんなことしてるの」
「ふつうに、スーパーですよ。レジ打ちしてます」
「時給安いでしょう」
「いいんです、生活できるぶんだけかせげれば」
車のへこみと傷を直す余裕がないのも当たり前か、と富士見は納得した。車内は質素で、車への愛着は感じられない。
――若い女のコなら、ぬいぐるみのひとつでも置いてあるもんだけど。オシャレにも興味ないみたいだなぁ。
そんなことを考えながら凛子の姿を見る。凛子の身なりは昨日とほとんど変わらなかった。小奇麗ではあるが、髪型も服装もぱっとしない。後部座席に置かれているバッグも安っぽく、くたくたに使いこまれていた。
富士見は「最近の若い女性はみんなブランド物のバッグを持っている」という偏見を持っていた。だがその認識も、凛子には通用しないようだ。それによく考えてみれば、車の傷を直せないようなフリーターなら、バッグや服に金をかけられるはずもない。
ただ富士見は、もったいないな、と思ったのだ。凛子は美人だ。おしゃれに手間と金をかける価値はあるだろう、と……富士見はぼんやり、考えてしまった。凛子ともう少し親しい関係であったなら、ずけずけと言ってしまったかもしれない。
富士見の物思いなど意にも介さず、ミラジーノはのろのろと発進した。富士見が予想したとおり、凛子はあまり運転がうまくなかった。
「フジミさんは、会社員、でしたよね」
「えぇ」
「……ごめんなさい。お仕事に、さしつかえがでてますよね……」
「あぁ。いいんだよ、大丈夫大丈夫」
謝られたり、心配されたりすると、富士見はついそれを苦笑いで否定してしまう癖があった。長年、当たり障《さわ》りのない人付き合いを続けてきた成果か、弊害《へいがい》か。
今は、嫌味をひとつ返しても許されそうなものだったが、富士見にはできなかった。
ただ、凛子は本当に富士見に申し訳なく思っているようだ。それきり、暗い面持ちで黙りこんでしまった。
車内に落ちた沈黙があまりにも重苦しく、たまらず富士見は自分から話を切り出していた。
「ワタシのご先祖さん、どうして逃げたりしたんだろうねぇ。おかげでなんにも知らない子孫のワタシがおキツネさんに怒られちゃったよー」
「ごめんなさい。イナキさんにとっては、三〇〇年って、そんなにながい時間じゃないとおもうんです。フジミさんのご先祖さんに何度もお会いしたことがあるって言ってましたし、フジミさんの顔をみたら、つい爆発しちゃったんじゃないでしょうか。まじめなかたですから……」
「ワタシ、ご先祖さんと似てるの?」
「雰囲気はおなじだって、言ってましたよ」
「リンコさん、イナキさんのこと、ホントに尊敬してるんだねぇ」
しみじみと富士見がそう言うと、がくん、と車が揺れた。凛子はちょっと赤くなっていた。
「き、急に、なんですか、それ」
「いやぁ、イナキさんの話になったら、ポンポンしゃべるもんだからさ」
「そ、それは、そうですよ。そ、総本宮《そうほんぐう》おつきの、かたなんですから。わたしなんか、あのかたにくらべたら、とても」
「でも、リンコさんだって何百年も生きてるんでしょう」
「…………」
また、凛子は黙りこんでしまった。
今度の沈黙は、さきのものとは少し様子が違うようだった。一見してそれを察した富士見は、小さくなって、凛子の横顔をのぞきこんだ。
「ごめん、気にさわること言っちゃったみたいだね」
「あ……、そうじゃないんです。ちがいます。ごめんなさい」
凛子は一瞬だけ富士見を見つめ返して、笑顔を見せた。強張《こわば》った笑顔だった。やはり富士見は、言ってはいけないことを言ってしまったらしい。
事情があるのなら、それを話してくれなければ、いつまた言葉で知らずに傷つけてしまうかわからない。だが、わけや過去を洗いざらい話してくれと注文するわけにもいかない。富士見はこまった。こまったが、どうにもならなかった。
「フジミさん、あの……」
「ん?」
「ちょっと、れいのおうちに行くまえに、見ていただきたいところがあるんです。より道しても、いいですか?」
「うん、それは、うん。いいよ」
富士見は例のお家[#「例のお家」に傍点]に行きたくない。どれだけその予定を先のばしにされてもかまわないくらいだ。彼が凛子の申し出をことわる理由はない。
車は町の北に向かっていた。町の北側は、緑が多い。
「この町は、池が多いねぇ」
「そうなんです。わき水が多くて。むかしは、いちめん田んぼだったらしいんですけど……」
「田んぼって、どんどん減ってるんだよなぁ」
「はい……」
車は、背の高い雑草が生い茂る空き地の前に停まった。白色の空は暮れなずみ、灰色の、不安げな光を野原に落としている。野原の奥には小山があった。
富士見は目をこらした。
小山の入口に、鳥居が見える。
凛子は車を降り、富士見も彼女につづいた。
野原も山も、ぼうぼうと茂る雑草に埋めつくされていて、けもの道すら見当たらない。
都会の若い女性なら、虫や泥を嫌って踏みこもうともしないだろうが、凛子は富士見を引き連れ、ずんずん先に進んでいく。
古びた鳥居が近づいてきた。
これまで富士見が、街中で見かけても特に意識していなかったもの――そんな鳥居が、今の彼には、落としている影すら重苦しく感じられる。
凛子は、富士見がついてきているかどうか、一度だけ振り返って確かめていた。足をとめたのはその一度きりだ。あとはひたすら、道なき道を進むだけだった。
小山の斜面はゆるやかで、鳥居をくぐった先からは、草の丈も短くなった。いくらか歩きやすくなった足元に目をやれば、白い砂利がまかれていることに気がつく。
富士見は振り返って、来た道を見下ろした。思っていたよりもずいぶんと鳥居が遠くにあった。
導かれるまま必死で歩いていたためか、自分が進んだ距離がわからなくなっている。凛子が運転してきたミラジーノなど、目立つ色だというのに、もう視界の中には見当たらない。
見上げれば、木々が枝葉を伸ばして天蓋《てんがい》を作っている。薄暮の光は頼りなく、木々の緑は黒色に見えた。
前方に目を戻せば、凛子はかなり先まで行ってしまっていた。富士見が慌てて進み始めたとき、その姿は、ふと消えてしまった。
「リ、リンコさん?」
こんなところにひとりきりにされてはたまらない。富士見はとっさに声を上げていた。
「こっちです」
凛子の声が降ってくる。姿は見えないが、そう遠くには行っていないようだ。富士見はすっかり息が上がっていたが、歩くペースを上げた。
なだらかな坂が急に終わり、視界が開ける。
たたずむ凛子が、富士見を見ている。
崩れかけた古い神社があった。
「ここは……、リンコさんの神社?」
「いいえ」
凛子がかぶりを振り、富士見は神社に目を戻した。そう大きくもない拝殿《はいでん》の前には、苔むした狛犬が置かれている。
「……ああ。そうみたいだね。失礼なカン違いしちゃったかな」
「いいえ、失礼なんかじゃ」
凛子は笑って、また首を横に振った。それから、小さく咳をした。
「ここは、蕪流《カムリ》神社です。わたしが、つかえているのは、蕪流稲荷神社で、こことは、べつの場所に、あります。ここで、おまつりしていたのは、氏神《うじがみ》さま。このまちが、宿場町になって、商人さんがふえたので、伏見稲荷の御祭神がまねかれました」
「商人さんがなんでお稲荷さんを?」
「あ、そっか……フジミさん、神社のこと、なにもごぞんじないんですよね。稲荷信仰のおもな御ご利益《りやく》は、豊穣《ほうじょう》と、商売|繁盛《はんじょう》なんですよ」
「……そうなんだ、勉強になるなぁ。ってことは、この神社、リンコさんがここに来る前からあったんだね」
「そうです。わたしが生まれる前[#「生まれる前」に傍点]からありました」
凛子の説明は、相変わらず、台本を読んでいるような調子だった。彼女は事実上、相当長く生きているはずだが――自分のことを話すときでさえ、どこか他人事にしているようだ。
富士見はしかし、その違和感については凛子にたずねなかった。今は、もっと疑問に思っていることがある。
蕪流神社についての話が、すべて過去形だということだ。それに、凛子が話したことが真実なら、神社には最低ふたりの御眷族がついている。富士見は神社についてよく知らないが、現実的に考えても、神主のような「持ち主」もいるはずだ。
蕪流神社は崩れかけていた。
屋根は一部が抜け落ちているし、拝殿の正面の引き戸も外れている。賽銭箱《さいせんばこ》にはクモの巣が張り、床板や柱には腐っているものまであった。
完全に廃屋だ。
この神社には、主も、護る者もいない。
[#挿絵(img/078.jpg)]
「どうして、ここは、こんなに……その、荒れてるんだい? ここの神様や御眷族は……」
「蕪流に〈非神《アラズガミ》〉がおりてきたので、御神体をよそにうつしました。眷族は、おふたりとも元気でいるはずですよ。御神体のそばをはなれられないから、もう、何十年も会ってませんけど」
「そう。避難したなら、安心だね」
「――はい。……そうなんです、けど」
凛子の表情が明らかにかげった。
またまずいことでも言ったかと富士見が不安になる前に、彼女は彼に向き直った。
しばらく上着のすそを握りしめていたが――うつむき加減での上目づかいで、凛子は富士見にうったえた。
「ここにわたしがフジミさんをおつれしたこと、イナキさんにはないしょにしてください」
「え、うん」
「非神から氏神さまをにがしたことは、眷族にとっての恥なんです。だから、イナキさんは、ぜったいに話さないとおもって」
ここにきてようやく、凛子がよどみなく話した。心の奥底に押しとどめていた想いが、彼女の白い面《おもて》にありありと浮かんでいる。
必死だ。その切羽詰《せっぱつ》まった様子は、正月明けの受験生にも勝るほどだ。将来どころか、命がかかっている者の気迫だった。
「ほんとうは、氏神さまをうつすなんて、かんがえられないことなんです。でも……、でも、もう、しかたがなくって。氏神さまのちからをなくして、このまちは、空や土まで非神に憑かれてしまいました。フジミさん、このまちはもう、わたしたち眷族のちからでは、どうすることもできないんです。おねがいです、非神を退治してください!」
ざ、ざ・ざ・ざ・ば・ば。
青臭い風が吹く。風には、かすかに、得体の知れない不愉快な悪臭が混じっていた。それこそが、蕪流町が腐ってしまっているという証《あかし》なのかもしれない。
凛子は、泣いていた。
涙がふた筋、白い頬を伝って落ちている――。
「……ワタシなんかが、役に立てるかな」
苦しく喉仏《のどぼとけ》を上下させてから、富士見はつぶやいた。凛子が、うつむいたまま涙をぬぐっている。
「この町がずうっと曇ってるのも、なんだかヘンな匂いがするのも、その、アラズガミのせい?」
凛子がうなずく。
「…………」
また風が吹いた。
湿った風は耳元で、ばばばばば、とわめいている。
はっきりとした風を感じたのは、この町に来てから初めてかもしれない。
神社の聖域は、まだわずかながら力を持っているのか。〈非神《アラズガミ》〉というものが排除しなければならない異分子であると、富士見に教えているようだ。この山を下りれば、風はきっと止まってしまう。
「そろそろ行こうか、リンコさん」
富士見は凛子に微笑を見せた。
凛子はなぜか、ぎくりとしたような、驚いたような、そんな表情を見せたが――すぐにまたうつむき加減にもどって、うなずいた。
「ごめんなさい。くらくなるまえに、おりましょう」
そそくさと、凛子がまた富士見の前を歩きはじめる。登りよりも下りのほうが危ない。足取りは慎重だ。
行きに踏みしめた雑草の道をたどりながら、何の気なしに、富士見は凛子にたずねた。
「リンコさん、さっき、〈非神〉がおりてきた、って言ったよね。非神って……どこから来るの?」
「〈外〉から、だそうです。イナキさんから、聞きました」
「〈外〉?」
凛子が頷いて足をとめ、上[#「上」に傍点]に人差し指を向けた。
つられて富士見は、見上げていた。
視界には、枝葉。しかしそれが、そのとき吹いた風で大きく揺さぶられ、灰色の空が富士見の視界をおおった。
月はおろか、星のひとつも見えない、よどんだ空。
空を凝視し、富士見はぽかんと口を開けた。
……なぜ、〈空〉からではなく、〈外〉からという言い回しを使ったのだろう。
「まさか、空よりも上? ……宇宙[#「宇宙」に傍点]?」
何の気なしにたずねたことが、裏目に出た。とほうもない不安と悪寒に襲われて、富士見は身震いした。
凛子はもう、歩きだしている。
「そんな、まさか。神様の次は宇宙人だなんて……、まさか。はは」
とうとう、富士見の口から、力ない笑い声が漏れた。
車は小山と野原、そして宅地をも離れ、ゆるやかなカーブを描く郊外への道に入っていた。
緑は消え、枯れ野が姿を見せている。枯れ野の光景が目に沁みるのは、今日もまた空模様があやしいからだ。
白一色の空。雨は降らないだろう。止まっている風が、あまりに乾いているから。
枯れた草、まばらな低木。その黄土色の光景の中に、ぽつんと黒い点がふたつ現れる。すなわちそれは、犬男の廃屋めいた住居と、カローラの屍《しかばね》だった。
凛子が車を止めた。まだ現場まで一〇〇メートル以上ある。
不審に思った富士見は凛子を見た。
凛子は青褪めていた。
しかも、唇がかすかに震えている。金色の目は、黄昏《たそがれ》時の車内で見ると、日本人らしい茶色にしか見えなかった。
凛子は富士見をまっすぐに見つめ、おずおずと口を開く。
「フジミさん。ごめんなさ
ローアンバーが足りない。バートンアンバーも足りない。ブラウンピンクはどこに行った。充分なのはアイボリブラックだけだ。アイボリブラック。あまり好きではないブラックだ。ブルーブラックは使い切ってしまった。
静寂の中で、画家は途方に暮れて、うなだれた。外には行きたくない。画材店に電話をするのも億劫《おっくう》だ。しかし絵の具は底をつきかけていた。特に、暗い茶と黒の系統が。
――仕方がない。
彼は部屋の隅に膝をつき、黒ずんだ床と壁の継ぎ目に、ペインティングナイフをあてた。犬を殺せそうなほど鋭い切っ先が、黒い黴をこそげとる。
黴をパレットの上に器用に乗せて、ペンチングオイルを垂らし、なけなしの茶系絵の具とあわせ、こねるようにして混ぜていく。揮発油《きはつゆ》と黴の臭いが混濁《こんだく》し、部屋に充満した。
――さあ、どこを塗っていたんだっけ。
ゆっくりゆっくり、彼は顔を上げて、制作中の絵画を、なめるように眺めた。
よくあることだ。絵の具を混ぜているうちに、どこに自分が手をつけていたか忘れてしまうのは。
ただでさえ、彼が今取り組んでいる作品は、制作過程がわかりづらいものなのだ。居間の壁をキャンバスに見立てていた。その広大な空間を、彼は暗い茶や黒、黴で、暗闇色に塗りつぶしているのだった。
だが、ただ一色で塗りつぶすだけなら三歳児にもできる。彼は画家だったから、その黒の中に、渦を巻くイメージを塗りこめていた。
――あ、そうだった……そうだった。ここにギンギツネを描いていたんだ。
ようやく中断箇所を見つけて、画家は黴を混ぜた黒を、壁の黒に持っていった。目をこらせば、見えるだろう。ぬりたくられた黒の中に、ぎざぎざの牙と、ぬめる鼻先、失明した瞳を持つ、黒い狐《きつね》がひそんでいる。
「!」
ぴくり、と彼の左耳が動いた。
「! !」
すんすん、と湿った鼻も動く。
居間に入れていた画家の愛犬も、すっくと起き上がって、落ち着きなくうろうろし始めた。
誰かが、誰かが来たぞう。また来たぞ。昨日も来たが、また来たぞう!
――なんとかしろ、奴らは俺を盗む気だ。
ここは彼の私有地である。三年前蕪流に越してきた彼は、棄てられた農地ごとこの家を買い叩いた。
そして、自作の看板を立てた。私有地につき立ち入り禁止、と。赤で。くっきりと。これもまた、彼の作品のひとつだった。
その看板の字も読めずに、たまに土足で進入してくる不届きな輩《やから》がいる。ここは彼の縄張りであり、彼は支配者だった。支配者はなにをしてもいいのだ。領土の中でなら、なにをしても。
赤でわかりやすく書いてあるのに、侵入者はあとを絶たない。最近はさすがに減っているが。
彼は、静寂を乱す者は、字が読めないのだと悟《さと》った。彼は立て看板を増やした。
今度は、ここが彼の私有地であり、不法侵入した際にはどうなるかを、セリフも効果音もないマンガで主張した。赤で。とてもわかりやすく。
それでも昨日や今日のように、人は来る!
字も読めず絵も理解できない者ども。
――てめえらは目が見えないのか!
目を抉《えぐ》ってやれ。目を抉ってやれ。目を抉ってやれ。どうせ奴らは絵画を理解できない。
言葉にできないような黒い感情が、彼の中でとぐろを巻いた。
画家はありったけのペインティングナイフとパレットナイフを、オーバーオールのポケットに入れた。このポケットの容量はかなりのものだ。子供の頭でも入るかもしれない。確かめることはできない。以前やってきた子供は、追い返してしまった。絵を習いたいと言っていた気がするが、忘れた、忘れた。
「どうせまた、どうせまたお前らは、ゥうるるるるるるるるルルルルルルルルルルルルるる」
誰かが、ドアを、蹴破ったような音が、した。
挨拶はない。画家はいちばん切っ先が鋭いペインティングナイフを逆手に持ち、玄関に向かった。彼の愛犬は飛び上がり、玄関を向いて、尻尾《しっぽ》を振っている。
狐面をかぶった男が立っていた。
狐面をかぶった男が無言で襲いかかってくる。手は焼け焦げた車のドア[#「車のドア」に傍点]をつかんでいた。
ドア口から外を見れば、昨日彼が焼いたカローラの残骸《ざんがい》から、ドアが一枚消えている。
画家は狐面の男に目を戻した。男はカローラのドアを振り上げていた。無言のままだ。片手で軽々と振り上げられたカローラのドアは、天井と壁を削り、がどがどと騒々しい音色を奏《かな》でた。
――ひ、人の家を、壊すなよ!
「コぁあああああああッ!」
画家は叫び、男に蹴りを入れた。
狐面は意外なほどあっさり蹴りを食らい、真後ろに倒れた。
カローラのドアはすっ飛んだ。
画家の肩をドアの端がかすめる。
シャツの繊維と血が飛び散る。
ドアは壁紙に傷をつけながら飛び、居間の入口に転がった。危うく犬が下敷きになるところだった。
「おがあああああ、ばかにしやがって! お前らばかにしやがっ、お、俺をばかにしやがったなあ!」
画家は抗議の叫び声を上げると、狐面の男にのしかかった。ペインティングナイフを振り上げ、力いっぱい、男の左胸めがけて振り下ろす。
手ごたえはあった。男のワイシャツを貫く手ごたえは。
だが、怒りに任せた渾身《こんしん》の力で叩きつけたのに、ナイフが裂いたのはシャツだけだった。男の皮膚と肉の温かさと柔《やわ》らかさは、まさしく人間のものだというのに、金属のナイフが、刺さらない[#「刺さらない」に傍点]。
こいつはぬりかべか。
サイボーグか。
石膏像でも、もっと脆《もろ》い。
狐面の侵入者と画家の、目が合った。
画家は、恐ろしいものを見た気がした。
男の目。光の炎。
――なんだ。なんだよその目。おまえ人間か。違うだろ。ば、バケモノ! ちくしょう、奴らとうとうバケモノけしかけやがった!
「お、お、俺を、まぢで、コケにしやがっ! た!」
画家は混乱し、隙を作ってしまった。たちまち狐面の男が、彼の頬をしたたかに殴りつけた。
狐面の下の顔が、笑っていたのかどうか――画家には、わからない。
メぐぁがッ、
男の拳《こぶし》で、画家の左の頬骨は粉砕された。
歯と牙が、血が、骨のかけらに刻まれた肉片が、四方八方に飛び散る。あまりの衝撃で、首の筋までみぢりと軋む。狐面の腕力は、まったく常軌《じょうき》を逸《いっ》していた。
どこからか、奇妙な楽器の音色が聞こえる。どこからだ。
――ああ俺ののどからだ。
画家の身体の下で、男が動いた。二人の間には有利な体格差があったが、狐面はそれをいとも容易《たやすく》はねのけてしまった。
画家は廊下に転がり、狐面の男は足と腹筋を使い、ぐらりと不気味に立ち上がる。
狐面の男はうなだれたまま動かない。
いや、動いていないのではない。
狐男は、睨んでいる。
ねめつけられ、画家は心胆からすくみ上がった。狐面の男の視線には、殺気が満ち満ちている。
――おお、お、俺を殺すのか殺すのか俺を殺すのか。どうして殺すんだ。追っ払うのはこの俺だぞ。俺を殺すな。殺さないで。
男がかぶっている白狐面は、夏祭りの露店で売られているような安物ではなかった。木彫りの、かなり精巧なもので、名匠の手による作品であることは間違いない。
木製の牙が並ぶ顎《あぎと》は、まるで竜の口吻《こうふん》のようだ。かっと大きく見開かれ、吊り上がった目は、金泥《こんでい》で色づけられている。金の目は、キツネというより、鬼や般若のもののようだった。
金泥で色づけられた眼窩《がんか》には、当然、目出し孔《あな》が開いている。丸くくり抜かれた孔の向こうには、人の目があるべきであった。
だが、その双孔の向こうにあるのは、目に焼きつくほど明るい光。赤とも橙ともつかないその光――それはまさしく、炎が発する光。
男の能面の下では、炎が渦巻いているのか。男が動くたび、双眸の光は揺らめいて、色合いや強さを変えるのだ。
かか、とかすかな音を立て、狐面の顎《あご》が動いた。
画家は知っている。狐面には、顎が稼動《かどう》するものもあるということを。だが彼は、その音を聞いたとき、震え上がった。
しね、とキツネが言った気がしたのだ。
ころす、と言っていた気もする。
「てめえ、字が、読めねえ、くせに」
だらだらと血を吐き、膨《ふく》れ上がった舌を出し、画家は狐面を呪った。
狐面の男が、腰の後ろに片手を回した。ベルトにでもはさんでいたのか、男は――稲刈り鎌を、取り出していた。
「ギぉああああああアアア!!」
画家はオーバーオールのポケットから油彩用ナイフをまとめて数本取り出した。慌てていたので、二本ばかり床にこぼれ落ちる。恐怖と怒りのあまりの奇声を上げて、彼はナイフを侵入者に投げつけた。
男は逃げようともしていない。
ナイフはほとんどが男の身体に命中した。
だが、刺さらなかった。もとより、ペインティングナイフはともかく、パレットナイフはものに刺さりにくいのだが。
狐面をかぶった男は、ナイフを浴びながら、画家に向かってのしのし歩き始めた。手にした鎌は、中途半端に振り上げているだけで、ナイフを振り払うために使おうともしない。
狐面は中肉中背の体格で、よれよれのコートと背広を着ている。筋肉質というわけでもなく、首から下の風貌は、ごく一般的なサラリーマンだ。その辺にいそうだ。
けれども、あまりに異質であった。ナイフが刺《さ》らない身体に、車のドアをもぎ取る怪力、徹底的な沈黙、その狐面、焔《ほのお》の双眸。
「ぎョあ、あッ、あおオオオオん!」
画家は居間までひと息に走った。廊下には、武器になりそうなものがなかったから。そして、狐面が怖かったからだ。
――ゴッホ! ゴッホ、逃げろ! 殺されちまうぞ、やつはバケモノだ!
居間の真ん中にたたずむ画家の愛犬が、彼の視界に飛びこむ。彼が必死になって追いたてようとしても、犬は尻尾を振っていた。
なにかが空《くう》を切る音がし、画家の背中に衝撃が走った。倒れる彼を、赤黒い血が追いかける。
涎《よだれ》を吐き飛ばし、画家は身をよじった。自分の右の肩甲骨のあたりに鎌が突き刺さっているのが、信じられなかった。
鎌の刃には、ぎざぎざの歯がある。稲や草を刈るとき、その歯は役に立つ。そして動物を攻撃するときにも役に立つ。歯が肉と血管に喰らいつき、引き抜くときには傷口をぐさぐさに痛めつけるのだ。
画家は奇声を上げてもがいたが、鎌は肩甲骨を貫き、その刃の半分ちかくが体内に埋まっていた。犬が大喜びで、倒れた画家にすり寄る。
足音。
ゆっくりと着実に近づいてくる。狐面は、急いでいない。
むぎ。ぎ、むむむ、ボき。
この奇妙で不愉快な音が一体なんなのか、痛みを感じるまで、画家には想像もつかなかった。肩の痛みと惑乱で、判断力が消え失せていたからだ。
狐面の男が、画家の右の太ももを踏みつけ、力と体重をかけて、大腿骨《だいたいこつ》をへし折った音だった。
画家の太ももはなかばほどで潰《つぶ》れてしまったが、オーバーオールのデニム生地は丈夫だった。踏みつけたくらいでは破れないものだ。
汚れてもいい作業着だったオーバーオールの右足は、見る見るうちに赤黒く染まっていった。狐面の男は、なにも言わず手を伸ばし、画家の肩に突き刺さっていた鎌を引き抜いた。
めぢめぢめぢ、ずホっ!
「野郎ッ、この野郎ッ、ひィあ、この野郎、出ていけッ出てッでっあッおっ俺をッ俺を俺をッ」
凶悪なぎざぎざの刃には、画家の真っ赤な肉片と、肺の一部が絡《から》みついている。びぅびぅと音を立てて、肩の傷口から血が噴き出した。
そして狐面は、いまだに画家の太ももを踏みつけたままだ。血を吸ったデニムがどんどん重くなっていく。画家の自慢のカーペットが、汚れていく。
犬が尻尾を振りながら、狐面に飛びついた。撫でてもらおうと。この犬はよく飼い主をこまらせていた――おつむが足りない[#「おつむが足りない」に傍点]のだ。
狐面はゆっくりと犬を見下ろした。そしておもむろに鎌を上げると、犬の首の付け根めがけ、無言で振り下ろした。
――あああゴッホ! 俺のゴッホ!
首なしの犬もまた無言だ。鎌の刃は根元まで犬の身体に埋まった。びびび、と犬の四肢が痙攣《けいれん》し、せわしなく振られていた尻尾の動きが止まる。
――俺のゴッホ! 俺のゴッホがぁ! てめえ、てめえええ、なんてやつだ、血も涙もないのか!
「コあああ、俺は絵描き! 絵を描く! わああアアアア、出ていけ!」
無我夢中で画家は暴れた。右足はまるで動かなかった。大腿動脈は折られた骨で分断されている。血は絶対に止まらない。右腕もうまく動かなかった。肩甲骨に穴を開けられているからだ。
それでも、死にもの狂いで暴れた成果はあった。狐面の男がバランスを崩して後ろによろめく。犬に気を取られていたせいもあっただろうか。
狐面は犬から引き抜いた血塗《ちまみ》れの鎌を、振りかぶりかけていた。左足で立ち上がりながら、画家は狐面に殴りかかる。
「お、俺を、ばかにしやがっ。くそ、俺、俺の絵、見ろッ、俺の絵見ろッ、ばかにすんなあ!」
ありったけの力で殴りつけると、狐面の男は倒れた。鎌は手放していない。
画家と男は今や、血と黴と汚水にまみれていた。犬は腹を真上に向けて倒れている。四本の足は、犬かきをしていた。鎌で穿《うが》たれた穴から、どろどろと赤黒い血が流れ出していた。
血は意外なほど大量で、居間の絨毯から見事な模様が消えていく。赤黒い血が、ペルシャの複雑な紋様を塗りつぶしていってしまう。
画家は怒りに任せ、狐面にのしかかった。左手の拳を固めて、殴る。殴って、殴る。殴りつける。
男の目が放つ光が、空間に軌跡を残す。
だが狐の能面は外れない。男は血を流さなかった。この男まで血まみれなのは、血を流す画家の下敷きになっているからにすぎない。
「ひぃぃぃん! ひぃぃぃんん! みんな俺をばかにしやがる! みんなが俺を! 俺は絵描きになってやるんだ。生きてるうちから、ゆ、有名に、なななっ、有名な絵描きにぃぃぃんん!」
画家は殴り続けた。自分を嘲笑《あざわら》いに来た男を、左手の骨が折れても、殴り続けた。
指は五本とも折れた。
皮と肉が破れ、血管は千切れて、ささくれだった。
殴る音は湿り始めた。びぢょっ、びだっ、べぢっ。それでも彼は、殴るのをやめられない。
しまいには手首の骨が、竹を割ったような音を立てて砕けた。もう拳を握れずに、画家は潰した手をべちべち狐面に叩きつけているだけだった。
狐面の男は、
無傷だ。
狐面がずっと無抵抗だったわけではない。画家に殴られながらも、もがいていた。
あまり焦りを感じさせない、総合格闘家のような、冷静なあがきだ。がむしゃらに殴り続ける画家とは違っていた。男は、痛みを感じる意識すら持ち合わせていないようだった。
いつの間にか狐面の右腕は自由になっていた。画家が二四一回目に振り下ろした左腕はつかまれた。
ぐっ、と狐面の手に力がこもる。
「ぎゃイ!」
ぱりぱり、ぱちバチびち! ブじ!
画家の二の腕が、握り潰された。そして、そこから下がちぎれ落ちた。ぐざぐざの裂け目から、びるびると血が噴き出す。びるびる、びうびう、びじじじじ。
かた、と狐面の顎がまた、控えめに開閉した。
次の瞬間、狐面の顔が、あの炎の目が、画家の顔面に迫った。凄まじい勢いだった。
狐面は、腹筋をばねに、強烈な頭突きを見舞ったのだ。
「おフ!」
画家の額は、ばリんと割れた。炎の視線によって目もくらんだ。彼はのけぞり、仰向けに倒れる。右足はあらぬ方向に曲がった。
ゆっくり、狐面の男が立ち上がる。悶絶《もんぜつ》する画家をまたぎ、もったいぶるように緩慢《かんまん》な動作で、腰を曲げ――そこに落ちていたものを拾う。
カローラのドアだ。
――待て。
「あぐウ、ウウウ、オオオ、おおおおンン……」
――待ってくれ。やめてくれ。殺さないで。
「俺を……おぅ……、ばかに……」
――助けて。頼むから。死にたくないよ。やめてくれ。どうして。
「絵描きに……な、な、な、……」
ごオ、
焦げた鉄のドアが、高々と掲げられ、そして打ち下ろされた。車のドアというのは、要するに、重さ数十キロの鉄塊《てっかい》だ。
それをまともに受け止めた画家の胸は、たやすく潰れた。筋肉と脂肪《しぼう》は裂け、折れたあばらはいろいろな方向に飛び出して、シャツを裂いた。しかし相変わらず、デニムは丈夫だった。
ぅぶ、と画家は血を吐いた。舌も飛び出した。見開いた目がとらえた世界は、ちかちかと赤いまたたきを繰り返す。
次第に暗転していく画家の視界の中で、殺戮者《さつりくしゃ》の目だけが、相変わらず煌々《こうこう》と光り輝いていた。
[#挿絵(img/092.jpg)]
狐面の男が、ぐっと足をふんばり、腰と腕に力をこめた。カローラのドアが、また、高く持ち上げられた。天井ががりがり削られる。
――どうして、俺を、殺しに来たんだ。お前……、だれ、だ……。
「ばう、わう」
そこでようやく、画家は、自分の口が自分の思惑とはまったく外れた、意味不明なことをしゃべっていることに気づいたのだ。
彼は絶望した。
愛犬も殺されてしまったし……、
カローラのドアが、今度は顔面に向かって落ちてくるから。
ぼぢぶッ。
火焔《かえん》の夢を見ていた。
炎はあまり好きではない。思い出したくないことを思い出すせいもあるが、あの揺らめきを見ていると、なぜか気分が悪くなる――気が遠くなるのだ。
火焔の夢は終わった。どんな内容だったかは、覚えていない。
富士見が目を覚ましたのは、布団の中だった。
窓が中途半端に開いていて、夏の終わりのセミの合唱が聞こえてきた。ミンミンゼミとツクツクボウシが声を合わせていて、頭が痛くなるほどの大音響だ。
「あれ」
枕に、汗と頭皮の匂いがついている。身体は湿っていた。朝の、白い光が顔を照らしている。まぶしさに目を細めて、富士見は身じろぎした。
かなり汗をかいていたようだが、よく寝たらしい。身体には痛みも気だるさもなく、むしろ爽快《そうかい》だ。こんなに清々しい寝覚めは、久し振りだった。
年を取れば取るほど、疲れは取れにくくなって、つらい朝ばかり迎えるようになっていた。それなのに、今朝は。
布団から這い出し、携帯電話をチェックする。年の離れた義理の弟から、着信とメールがあった。顔を洗ってから返信しようと決めて、富士見は立ち上がる。
部屋の隅に寄せられた座卓の上に、会社の書類を収めたファイルがあった。
町外れの家のそば、枯れ果てた野原に落としてしまった大事な書類。プラスチック製のファイルは土と枯れ草の葉で汚れていた。
「これ……、いつ……」
目覚めたばかりで、不愉快なところと言えば、口の中だ。湿っているようで乾いている。生唾で口中をうるおしながら、富士見はファイルを手に取った。
「……ワタシゃどうやって、持って帰ってきたんだろ……?」
自分は一体、なにをした。
ファイルを持つ手から、力が抜ける。
富士見は不安のあまり、すっかり見慣れたはずの室内を見回した。もはや自宅のように勝手がわかっている、旅館『い志の』の客室が――、自分がいる世界そのものが、未知の異次元のように感じられた。
とんでもないことが起きて、世界が裏返ってしまったのではないか。
だが、とても清々しい朝だった。
生まれ変わった気分だ。
[#改ページ]
[#見出し] 死 すぐそこにある凶器
仕事でもしようか。富士見はそう考えた。
相変わらずぱっとしない空模様と、半狂乱のセミの合唱だけが、今の富士見の不満だった。ジイジイミンミンという音は重なり、時おり爆《はぜ》るようなぱぢッという音も交えて、途切れることもなく続いている。かれらは、飽かない。
常識では考えられない話を聞かされたあとにしては、富士見の気力は充実していたし、仕事もせずに時間を浪費するのは、後ろめたく感じていた。
仕事をしなければならない。
富士見は落とした書類の束を拾い、一度身震いした。どうして自分が震えたのか、よくわからなかった。
瀞にはメールを返信しておいた。特に問題はない、今日も仕事をするつもりだ、と。すると、一〇分ほど経ってから電話がかかってきた。
『ああ、功さん。久し振り。大丈夫か?』
電話口の向こうの永瀬瀞が、開口一番にそう聞いてきた。
富士見は一瞬|肝《きも》を潰した。瀞の話しかたと言えば、やけに心配そうで――まるで、富士見の身にいろいろ起きていることを、知っているようなふしがあったから。
瀞が知るはずもないのに。
彼は今日も吉祥寺《きちじょうじ》にいて、ワカモノ向けのオシャレな店の店長を務めているはず。輸入雑貨と古着を売っているのだ。
「だ、大丈夫かって、なんで?」
富士見はひやひやしながらも、なんとか苦笑いをひねり出した。
『心配したらおかしいのかよ。何日もメールの返事来ないし、来たと思ったら誤字脱字すげーし』
「え。メールの誤字脱字なんていつものことでしょ。ワタシゃ指太いし、最近は目も遠くなっちゃってねぇ、メールはどーも苦手で……」
『だからそれがハンパじゃねーんだってば。あとで送り返してやるよ。――それで、マジで大丈夫なのか?』
「どうだろうねぇ。ちょっと疲れてるかもしれないなぁ」
本当は、身体も軽いし、気分もどこか晴れ晴れとしている。富士見にとって、嘘をつくのは少しつらいことだった。難しくもあったし、良心がとがめる。
『嘘だろ』
瀞がにべもなくそう言ったので、富士見はまた肝を潰した。
『あんた、だいぶ[#「だいぶ」に傍点]疲れてるんだ』
富士見は心底ホッとした。しかし、油断はできない。瀞は妙にカンがいいところがある。そして富士見はにぶいのだ。うまく嘘を隠し通せたためしがない。
さすがに、自分の身体のことや、知らずに帯びていた使命や、御眷族のことをうっかり話すほど、ぼんやりしてはいないつもりだが。
『例のどーでもいい仕事ははかどってんの?』
「あぁ……まぁ……」
『はかどってないんだな。よくわかった。まァ、無理もないよ。そんなワケのわかんねー仕事』
「でも、友達ができたんだよ」
『小学生かよ!』
瀞が声を荒らげ、富士見は電話をわずかに耳から離した。
「じ、ジョーくんのほうは、順調なのかい」
『まーな。心配されるほどじゃないよ』
「そりゃよかった。うん、ワタシゃ信じてるんだよ。ジョーくんはいずれ大社長になるって」
『なんだそれ。オレ社長になんかなる気ねーんだけど。まア、褒《ほ》められてると思っとくよ。で、功さん……今日も仕事するんだな』
「うん」
『ダメだろ。たまには休めよ』
「いやぁ、ちょっとサボっちゃってたから……」
『もう若くないんだからさ、無理すんな』
やけに心配そうだ。瀞は本当に、いろいろ知っているのではないか。富士見はまた不安になった。瀞にだけは、自分の一族が持っている秘密を知られたくないような気がした。
『あ、しまった。これからオーナー来るんだ。じゃあ、功さん。また電話するよ』
瀞が、一方的に電話を切った。仕事が忙しいのに、合間を縫《ぬ》って電話をかけてきていたらしい。
――ありがとう、ジョーくん。
心配してくれる人がいるのは、ありがたいことだ。
だが、富士見は、今朝は心配されるほど疲れていなかった。
旅館『い志の』の廊下は静かで、女将や仲居の姿が見えない。また以前のようにフロントに鍵を置かれるかもしれないと、富士見は今日から部屋の鍵を持ち歩くことにした。なくさなければいいのだ。
「あ」
旅館の前に、見覚えのあるセダンが停まっている。
ダークブルーのシーマ。
富士見が近づくと、パワーウインドウが下りて、蒼い目の壮年が顔を出した。
「やあ、どうも」
「あぁ、どーもどーも」
「元気そうでなにより。今日もはっきりしない天気だねえ」
「ええ、ほんとに」
城田恭一だ。富士見は彼が病院で働いているところや医師免許を確認したわけではないので、城田は今のところ「自称」医師という存在だ。
しかしながら富士見は、城田が偽医師とは思っていなかったし、少なくとも『い志の』の従業員よりは彼を信頼している。
なにしろ、助けてくれたのだから。
あのとき助けてもらわなかったとしても、不死身の自分は生きのびたかもしれないが、城田がその事情を知るはずはない。
――すすんで人助けする人に、悪い人なんかいないだろうし、ねぇ。
富士見はそう自答して城田の顔を見たが、相変わらずの薄っぺらい笑みは気になった。表情から彼の思惑を読み取るのは難しい。
「病院と警察署には行った?」
城田は尋ねてきた。富士見はばつの悪さを照れ笑いでごまかして、頭をかく。
「いやぁ、それが……」
皆まで言わずとも、城田は察してくれた。
「だと思ったよ。レントゲンくらい撮ったっていいのに。まあ、フジミさんがそれでいいなら、僕はこれ以上無理|強《じ》いしないけど」
「すんません。厄介《やっかい》な患者でしょ」
「まったくね」
城田がそこでようやく表情らしい表情を見せた。少し呆れた笑みをこぼしたのだ。
「フジミさん、これからお仕事?」
「ええ、そのつもりです」
「急いでる?」
「いえ」
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
まるでナンパだ。しかし城田の表情は相変わらずで、心のまわりに鉄の壁を築いている。さきの呆れた笑みは、とっくに消えていた。
この人はなにを企んでいるんだろう、と富士見は漠然とした不安を抱いた。
いっぽう、城田は人に己の心情を悟らせないが、他人の心を読む能力を持ち合わせている、やっかいな人間らしかった。あるいは、富士見があまりにもわかりやすい人間だったか――城田はたくみに食い下がる。
「見てほしいものがあるんだ。べつにあなたをさらって血液抜いて開頭して開腹してホルマリンのプールに浮かべようなんて考えてないから」
「……はあ」
いや、たくみではなかったか。脅しているのかブラック・ユーモアのつもりなのかさえ判断がつかない。城田の言葉には有無を言わせぬ力があるようにさえ感じられて、素直な富士見は気づけば、城田のシーマに乗りこんでいた。
「お昼はおごるよ」
城田は、ゆっくりと笑みを大きくした。
「そ、それはどうも」
車はゆっくりとすべり出した。
そして、住宅街を抜け、あの鼻血巡査のいた交番の前を通り、郊外へ向かっていく。
富士見が行きたいとも思わない、あの枯れ野へ。曲がりくねった道は、確実に、あの忌まわしい古屋へ続いている。
城田が見せたいものとは、あの家か。
不意に、富士見の頭の中がしくしく痛みだした。血管の脈打つ音が聞こえてくる。血圧が上がっているらしい。
会話がなかった。城田はそれを気にしてか、カーステレオの電源を入れる。ヴォーカルのない、BGMのような、存在感の薄い音楽が流れだした。どこか冷たく、背筋を這うような音楽でもある。
「CDはサントラくらいしか買わないんだ」
城田が静かに自嘲《じちょう》した。今流してるのはこれ、と富士見に差しだしてきたCDジャケットは、『エイリアン・オリジナルサウンドトラック』。
「最近の邦楽はよくわからないよ」
「えぇもう、そりゃホントに。……あの、センセーって、失礼ですけど、おいくつなんですか」
「今? 四四」
「嘘でしょ!」
「本当だよ。三月生まれ。若い頃はクイーンなんかよく聴いたね。……なんで『嘘』になるの?」
「そりゃ、だって、ワタシより年上ってことになるでしょ。とてもそうは見えませんよ。若さを保つ秘訣《ひけつ》でもあるんですか?」
「いつまでも若さは保てないって自覚することかな。老化を受け入れるんだ」
それは、若さを保とうと努力する者にとって、非常に難しい秘訣と言えた。さらりと言ってのけたので、城田は本当にそう思っているようだ。
「あとは、適度な運動」
付け加えられたまっとうな秘訣のほうが、半分冗談めかしている。富士見は束の間、気分が悪いことも忘れて、呆気に取られていた。
四四にしては、城田はかなり若々しい。けれども確かに、その落ちつきはらっているたたずまいは、四十路の男だ。
「驚かれませんか、年を言ったら」
「まあね。でも僕は、どうして皆そんなに年を気にするのか、わからないんだ。フジミさんも気にしてるんだね」
「してますよ。年は取りたくないモンです」
「……そんなこと思ったって、無駄なのに」
「え?」
「人は必ず死ぬんだよ」
城田の声が、低くなった。
富士見は城田の横顔を見つめた。城田は前を見たままだ。運転しているのだから当然だが。
富士見は無言になった。城田の言葉が、やけに重い。胸の奥にねじ込まれている気がする。
人は死ぬ。
富士見には殺されない身体があるが、御眷族が言うには、寿命がさだめられているらしかった。富士見功も、いつか必ず死ぬ。
――お医者さんがそんなこと言っちゃあまずいんじゃないの。
富士見は控えめに、心中で城田をたしなめた。性格上、口には出せなかった。
しかしそれが城田の本音の死生観であることは間違いない。医者であればこそ、そんな冗談は言わないだろうから。
富士見は城田の横顔から、前方に目を戻した。
心臓が止まりかけた。
不死身であるから、驚きのあまり心臓発作を起こすこともないのだろうか。しかし、その瞬間、富士見の左胸の内側が、いつも以上に、ばくんと大きく脈打った。
「あれだよ」
城田は、いつの間にか――富士見が驚愕のあまり硬直している間に――道路の脇に車を寄せて、停めていた。
「あれを見てほしかったんだ」
犬男の家だ。そしてカローラの死体。
カローラは黒焦げ。
そして犬男の家も、全焼していた。
今は枯れ野に、炭と化した柱と、それに支えられている屋根と梁《はり》があるきりの、四阿《あずまや》になっている。黒い柱と柱の間を、寒々しい風が通り抜けていくのが、まるで目に見えるような光景だ。
確か、鼻血巡査は彼を合田《ごうだ》と呼んでいたか。頭のおかしい画家が住んでいた家だ。画家の姿はもちろん、飼い犬の姿もないし、居間の壁を占拠していた黒い絵画も、燃え尽きてしまったらしい。
富士見はあの、黒焦げのカローラが停まっているあたりで、犬の頭をかぶった男に襲われて――
富士見の視界が、一瞬、びしゃりと赤黒く染まった。さらには、ごおう、とオレンジ色に揺らめいた。
火焔の夢が、今になって……、
火は嫌いだ。
火焔の白昼夢は、富士見の心をじわじわ炙《あぶ》る。
「……ひっかえしてください」
富士見はうつむいて、うめいた。こめかみでどくどくと脈打つ血管の唸《うな》りが聞こえ、鈍い痛みが頭蓋《ずがい》の中を這いずりまわっている。
「センセー、……町にひっかえしてください!」
「一週間前に火事があったんだよ」
富士見の訴えは聞こえているはずだが、城田はハンドルに片手を置き、冷静に話し始めた。映画のサントラCDは、いつの間にか黙りこんでいる。
「消防車は来なかったみたいだ。合田って画家が住んでるのは確かだし、枯れ草に燃え移ったらひどい野火になるかもしれないのに――だれも助けに行かなかったってこと。この町はおかしいんじゃないかな。僕もよくよくマイペースだって言われるけど、この町よりはましだよ」
「センセー、お願いですから、もう……、町に……」
「ああ、お腹空いたかい? じゃ、もう戻ろうか」
城田の口調は冷静なままだった。しかし、富士見の胸をえぐるような力を持っていた。
この男は、なにか知っている。
城田の車は豪快《ごうかい》に車道からはみ出し、野原に突っこみながら転回して、来た道を戻り始めた。いい車だが、城田はさほど愛していないと見える。枯れ草を踏みしだく間に車は派手に揺れ、富士見の肘がパワーウインドウのスイッチに触れて、窓がわずかに開いた。
車内に、外の空気と音が入りこむ。
空気は少し湿っていたが、かすかに緑の匂いがした。
清々しい風だった。夏の終わりの涼風だ。窓をいっぱいに開けて、顔全体で味わいたくなるような。
富士見は初めてここを訪れたときの記憶をたぐり寄せた。確か……、確か、あの犬男の家の周辺には、耐えがたい悪臭があったはず。
今は消えている。この、清らかささえ感じる風はなんだ。まるで嘘のようだ。あの、鼻がねじ曲がって折れてもげそうだった悪臭が。
慌てて窓を閉めたが、富士見は正直、もっときれいな空気を吸っていたかった。
「い、一週間前……?」
「そう、一週間前」
富士見はまた城田の横顔を見た。
おかしいではないか。火事が起きたのは一週間前。
富士見はこの町にまだ一週間も滞在していない。あの犬男の家を二度目に訪れたのは、蕪流《カムリ》に来て五日目のことだ。少なくとも、富士見の記憶の中では、そういうことになっている。
まさか。
富士見はまさかと思い、おっかなびっくり城田に尋ねた。
「あ、あの。今日は、何日ですか、ね」
「二〇日だよ。九月のね」
まさかと思っていたことが的中した。
富士見がこの町に入ったのは、九月初旬の終わり――一〇日ほど前のことだ。
犬男に襲われ、城田に助けられ、御眷族という存在に押しかけられたのは――城田の言うことが正しければ、一週間前。
一週間……、一週間。富士見の記憶と意識から、一週間ぶんの時間がごっそりと抜け落ちている。
どういうことだ。一体なにが起きた。
頭を抱える富士見ののどが、たちまち干からびていった。
城田は……、城田は、富士見のその途方に暮れたしぐさに気づいているはずだが、まるで無視している。やはり、富士見の身になにが起きたか、知っているような素振りだった。
「ここでいいか。ここにしよう」
城田は一軒の大型スーパーの駐車場に入った。生活雑貨や衣類も扱われている、蕪流町では最も規模が大きいスーパーだ。
恐らくこの片田舎の町で、もっとも頼りにされている店だろう。一階にはフードコートとファミリーレストランが入っているらしい。
富士見も蕪流に来て、車窓から、このスーパーの看板を幾度も目にしていた。
時刻はそろそろ正午になろうとしていた。広い駐車場は、半分近くが埋まっている。店に出入りしているのは主婦ばかりだ。
「あ」
城田に続いて車を降りた富士見は、驚いた。駐車場の奥に、見覚えのある軽が停まっている――ように見えたからだ。ワインレッドのミラジーノに見えるのだ。
しかし、城田がさっさと店内に入っていってしまったので、富士見はそれがまさしくワインレッドのミラジーノであるかどうか、確かめられなかった。
食材や什器《じゅうき》や冷房が放つ匂いが、一緒くたにされて、店内を満たしている。スーパー独特の香りだ。このスーパーの匂いには、少しばかり青臭さや生臭さが混じっていて、あまりいいものではなかった。日陰に何日も放置されている段ボールのような、かすかな汚《けが》らわしさが感じられる。
そういったことにあまり気を使わなくとも、客が入るからだろうか。床や什器は汚れていた。
おまけに、薄汚れた作業着と大きなマスクを身につけた男が、店内で堂々とゴミを集めていた。客がいるというのに、鮮魚売り場の片隅《かたすみ》のゴミ箱をひっくり返し、中身をゴミ袋に入れている。小太りの主婦がカートを押して、そんなゴミ集めの現場の前を、平気で素通りしていた。
たぶんこの店では、賞味期限切れの食品も気づかれずに陳列されている。バックヤードにはネズミやゴキブリがわんさとひしめいているかもしれない。
富士見はここに入るのが初めてだった。二〇年も一人で生活しているので料理もできるが、今のところ旅館暮らしなので、炊事とスーパーには縁がなかったからだ。食事はもっぱらコンビニと旅館付近の弁当屋に頼っていた。
おそらく、これからもこのスーパーは避けるだろう。あまりいい印象を持てなかった。
「フードコートで食べる? それともファミレス? どっちでもいいけど」
「はあ、ワタシもどっちでも……」
「ファミレスのほうがいいか。いろいろありそうだし」
城田は富士見とちがい、決断が早い男だった。そして、行動もいちいちてきぱきしている。歩く速度も競歩並みで、ついていく富士見は少し苦労していた。
何台も並んでいるレジの後ろを通り過ぎていく。レジに並んでいるのもやはり主婦ばかりだ。何気なくレジを眺めながら歩いていた富士見は、
「あ!」
駐車場の隅を見たときのように、声を上げていた。
城田も今度は富士見の驚きに気づいて、足を止める。
富士見はレジに目を奪われていた。三番レジに入ってレジ打ちをしている女性は、間違いなく、稲村凛子なのだ。
長い黒髪はひとつにしばっていて、赤いエプロンをつけているので、だいぶ印象は変わっているが――あれは凛子だ。
まじめに接客中だから、富士見には気づいていない。ときどき咳をしている。
「ここでバイトしてたんだ……」
「なに、知り合い?」
「え、ええ。イナムラさんっていうんですけどね」
「名前は『ジェーン』?」
「いやいや、下は『リンコ』です」
「なんだ。イナムラって言ったら普通、ジェーンなのにな」
「あぁ、サザンの」
「そうそう。映画は観たことないけど」
富士見は思わず笑った。その発想はなかった。しかし城田は、冗談なのか本気なのかわからない、相変わらずの表情だ。
「話はしなくていいの?」
「お仕事中ですから、いいですよ」
「いや、そうでもないみたいだ」
城田が顎をしゃくった。
主婦が会計を終え、カゴを抱えてレジを出る。凛子はレジの前に『レジ休止中』の札を置き、その場を離れた。
「休憩おねがいしまぁす」
かぼそい声を張り上げ、凛子は咳をした。
「おつかれさまでぇす」
「おつかれさまぁ」
一番と二番のレジに入っている店員が応じた。ふたりとも、凛子のほうは見ていない。自分の仕事に集中している。今の挨拶は、仕事をしているうちに身についた、条件反射のようなものだろう。
「はい、これ」
城田が富士見の手に二枚の千円札を握らせた。ぼんやり凛子を見ていたので、富士見はことわる機会を逃してしまった。
「な、なんですかセンセー、これ」
「彼女と一緒にお昼でも食べて。僕はファミレスで適当にすませるから」
「いや、センセー! こまりま――」
「フジミさん?」
軽くもめているうちに(いや、軽くもめていたせいだろう)、富士見は凛子に気づかれてしまった。驚きの声を上げて、凛子が近づいてくる。
城田は笑顔で頷くと、奥のレストランに向かっていった。富士見は仕方なく二〇〇〇円をコートのポケットに入れて、凛子を振り返り見る。
そして、驚いた。
凛子の顔色は前にも増してひどくなっていた。目の下にはアイシャドウでも塗っているかのような黒いくまがあり、肌は死人のようだ。蒼白を通り越して、土気色にさえ見えた。
色素の薄い、神秘的な雰囲気を持つその瞳も、充血して濁《にご》っている。
「だ……大丈夫かい、リンコさん」
思わず、挨拶よりも先に、富士見の口からそんな言葉がついて出た。
凛子の、体調の悪そうな顔が、ほんの少し赤らんだ。そしてなぜか、ばつが悪そうな顔にもなっていた。
「……どうしてわかったんですか。わたしが、ここで働いてること……」
「いやぁ、偶然だよ。お昼食べにたまたま寄っただけで。お昼休み?」
凛子は頷いた。
「じゃ、なんか食べよう。二〇〇〇円あるから。あ、いや、ワタシのお金じゃないんだけどさ」
富士見は隣のフードコートを指した。レストランで食事できるほど、アルバイトの休憩時間は長くないだろうと考えたのだ。
凛子が、じっと探るような目をしている。富士見は、それになんとなく気づいていた。悲しいような、不愉快なような、そんな複雑な思いが、富士見の胸中をかすめていった。
「なに食べる?」
「すみません……、じゃあ……、きつねうどんでおねがいします」
富士見はふきだした。
「や、やっぱり、おキツネさんは油|揚《あ》げ好きなんだ?」
凛子が、今度は明らかに赤くなった。
「イナキさんもそうですよ。お神みき酒とスズメの串焼きもあったら、もう、ごきげんになります」
「スズメ!?」
「伏見稲荷の名物ですよ。ごぞんじありませんか」
「し、知らなかった。おいしいのかい」
「とっても」
「そうかぁ」
パートやアルバイトの注文は急いで作る方針なのだろうか、富士見と凛子が注文したきつねうどん(富士見も同じものにした。彼もきつねうどんは好きなほうだ)はすぐに出てきた。吉野家ばりの早さだった。ちゃんと麺《めん》がゆであがっているのか、富士見は少し心配になった。
凛子は咳きこみながら食べていた。味はそれなりか、それ以下だ。汁は少しぬるいし、麺にはコシというものがない。肝心の油揚げもやけに薄い。だが、凛子はおいしそうに食べていた。
「今日……二〇日なんだってね」
凛子が食べ終わるのを待って、富士見は話を切り出した。
「ワタシゃ一三か一四だと思ってたんだ。どうも……一週間ばかり、ずっと寝てたみたいでねぇ。もしかしたら、記憶喪失ってやつなのかもしれないんだけど」
ゆっくり話しながら、富士見は凛子の顔色をうかがった。凛子の身体が強張っているのがわかる。
彼女は知っているのだ。というよりも――きっと、彼女しか真相を知らないだろう。
「ほら……町外れに、アラズガミの居場所だっていう家があったでしょう。今日、またそこに行ってみたんだ。――焼けちゃってた。確か、その、あなたと一緒にね、行ったのが……ワタシの最後の記憶って言うのかねぇ、そんな感じなんだ。気がついたらワタシゃ布団の中にいて、しかもあなたと一緒に出かけてから、一週間も経ってたんだよ」
「…………」
「ねぇ、リンコさん。ワタシになにかしたのかい。ワタシゃ、一体なにをしたの?」
ここ二〇年ばかり、若い女性とは、あまりこうしてふたりきりで話をしたことがない。しかしこの胸の高鳴りは、そんな不慣れと気恥ずかしさによるものではない。富士見は、不安だったのだ。
凛子は、見れば、唇が震えていた。赤い目には涙までたまっている。
「ふ、フジミさんは、しっかり、おつとめを、してくださいました」
咳をまじえながら、彼女は言う。咳をしたはずみで、右の目からぽろりと一粒涙が落ちた。
「じゃあ」
富士見は息を呑んで、声を落とす。
「ワタシゃ、アラズガミを殺したの?」
「ごめんなさい[#「ごめんなさい」に傍点]。フジミさん、ごめんなさい。わ、わたし、わたし、も、もうもどらなくちゃ……」
がたん、と席を立って、凛子はフードコートを出て行く。走っていた。
ごめんなさい。
凛子の謝罪が、富士見の脳裏でこだまする。
慌てて富士見も席を立ったのだが、その背にフードコートの店員の声が浴びせかけられた。
「ここセルフサービスですので!」
「ああ、ぁ、すいません」
『食器下げ口』の向こうに、不機嫌そうな顔がある。五〇代の女性だ。ここに長く勤めているのだろう。三角巾もエプロンもサマになっている。
富士見はぺこぺこしながら、凛子のぶんの食器も下げた。
いわゆる『食堂のおばちゃん』は、じろりと富士見を睨みつけた。厨房の中は鍋や鉄板から立ちのぼる煙でうっすらと白い。みるからに暑そうだった。おばちゃんの顔も、ゆでたタコ並みの赤さだ。
「あんた、リンちゃん泣かせてたね。なに言ったの。かわいそうに。見ない顔だね。どっから来たのさ」
おばちゃんはまくしたてた。富士見が反論する余地もない。頭をかきながら苦笑いでごまかすしかなかった。おばちゃんのお小言は容赦《ようしゃ》なく続く。
「あの子ね。最近具合悪そうなのよ。あんたのせいじゃないだろうね。ヘンなこと考えるんじゃないよ。もういいトシなんだから。奥さんいるんでしょ。なに考えてんの」
「かみさんなら、死にました」
富士見がそれだけ反論すると、カウンターの向こうの店員は、目をぎょろつかせながら口をつぐんでくれた。富士見本人はこの手のやりとりにもうすっかり慣れていたが、訊いた人をいつでもどきりとさせている。
この隙を逃すなと、富士見はできるだけすばやくその場を離れた。乱暴に食器を流しに投げこむ音が、背中に当たった。
凛子は完全に見失ってしまった。
フードコートの外には、待ちかまえたかのように城田が立っている。コートのポケットに両手を入れて。
「ジェーンさんとのお食事、どうだった?」
「はあ、まぁ」
はっきりしない返事をして、富士見はレジを見る。見ながら、城田に釣りの一一〇〇円を渡す。きつねうどんは四五〇円か[#「きつねうどんは四五〇円か」に傍点]、ずいぶん安いな[#「ずいぶん安いな」に傍点]、と城田が呟いていたが、富士見の頭の中にはほとんど入らなかった。
凛子の姿はなかった。三番レジは、空っぽのまま。『休止中』のままだった。
ごめんなさい。
凛子はそう言っていた。
ごめんなさい。
凛子に謝られたのはこれが初めてではない。富士見の中に、ちぎれた記憶が少しずつ流れ着いてくる。風と波が、集めてきてくれている。
富士見はそれを必死でかき集めた。記憶の断片は、炎にでもまかれたか、黒く焦げついている。
ごめんなさい。
フジミさん、ごめんなさい。
視界は煙と炎に埋めつくされる。
それから凛子は、呪文のような言葉を呟いた。富士見は体内が燃え上がるような凄まじい熱さを覚えて――そして――。
「どうかした? 大丈夫かい?」
富士見はその声ではっと我に返った。城田が腕をつかみ、顔を覗《のぞ》きこんできている。自覚はなかったが、富士見は後ろに一歩ばかりふらついていた。
身体中が熱い。全力疾走したあとのようだ。汗をぬぐいながら、富士見はうめいた。
「あぁ、う、ち、ちょっとめまいが……」
「やっぱりレントゲン撮ったほうがいいよ」
「いや、いいんです。それは。本当に。でも、部屋に帰って、寝ます」
「……いるんだよねえ、そうやって手遅れになる人が。でも、それでフジミさんがいいなら仕方ない。旅館まで送るよ」
富士見は消え入りそうな声で城田に礼を言った。
不調はすぐに治まった。ただ、心臓は痛いくらいに激しく打っている。
自分がなにをしたのか思い出せそうだ。だがそれを思い出してはならない、と身体が理性に向かって言っている。
城田はスーパーを出て車に乗り、旅館に行くまでの間、ほとんどしゃべらなかったし、サントラCDもかけなかった。
「ここに来てから太陽見てないな。ビタミンDが足りなくなりそうだ」
ただ一言、それだけ呟いていた。
旅館『い志の』に入る。予想はしていたが、出迎えはなく、フロントの窓は閉ざされていた。
廊下は静まりかえっている。空は白く曇っていて、けっして明るくないのだが、まだ昼下がりだからか、廊下の電気はついていなかった。
ぞわり、と富士見の皮膚が粟立つ。
幽霊や妖怪の気配を感じたというわけではない――むしろ逆だ。一切の生物の気配が感じられず、富士見はぞっとしていた。
「静かだなぁ。ヤな静けさだよ……」
また、裏の池に釣りに行っているのか。もしかしたら、総出で阪神を応援しに行ったのかも。
特に用事もないのに、従業員を呼びたくなった。
だが結局はなにもせず、富士見は部屋に戻った。鍵を持ち歩いたのは正解だったかもしれない。
客室の中は、富士見が出かける前の状態と、まったく変わりなかった。ゴミ箱の中のゴミもそのまま、鞄の位置も同じ。サービスの緑茶のティーバッグは切れている。掃除すら入っていないらしい。
何気なく座卓を見て、また、富士見の背を悪寒が走った。寒気は、炎のような熱さを引き連れていた。
座卓には、傷がついている。稲木が鎌を突き立てた痕。女将や仲居に見つかったら、怒られるだろうか。弁償《べんしょう》しなければならないかもしれない。いや、恐れるべきはそこではない。
富士見は膝をつき、傷を撫でた。焼けつくように熱い炎のヴィジョンが、ぼぅ、と富士見の視界を焼き尽くす。
――金庫。
焼けつくヴィジョンがまぶしくて、目を閉じたそのときだ。富士見は、金属が炙られる匂いを嗅いだ気がした。
そして――突然、テレビの下の金庫が、意識の上に浮かんできたのである。
金庫に、自分はなにかを隠したようだ。その事実を忘れていた。使った覚えなどないと思っていた。
開けるのが怖い。けれど、開けて中を確かめなくてはならない気がする。
古めかしい金庫の分厚い扉を開ける。開けてみて、富士見はうめいた。
中には、稲刈り鎌が入っていたのだ。
――鎌。
これには、漠然とした記憶がある。稲木が持ってきて自分を斬りつけたという記憶、そして[#「そして」に傍点]、自分がこれを使った[#「自分がこれを使った」に傍点]という記憶だ。
鎌に伸ばす手が震えているのを、富士見は他人事のように見つめていた。
稲刈り鎌は、窮屈《きゅうくつ》そうだった。ななめにして入れられている。見たところ、その刃や柄《え》には血がついていない。
ほんの刹那《せつな》、富士見は鎌の柄を持つことに躊躇した。
結局、つかんでいたが。
「あ、
旅館『い志の』の裏の池。
水深もさだかではないその池の底から、ぼぶぼぶぼぶとぬめる泡が上がっている。はじける泡で、水面は揺れている。揺れる水面に浮かぶ釣竿も、くるくる回っている。
だがそのダンスもすぐに止まった。水草に釣竿の先端と糸が引っかかってしまったから。
岸辺には、だれもいない。
あざやかな黄色のバケツが置いてある。
不意に、そのバケツが倒れた。中に入っていたものがじゃわりとこぼれる――そしてうごめく。
バケツからは、黒とも緑とも茶ともつかない、濁った色のザリガニが這い出してきていた。中には背骨の曲がった小魚もいたが、ザリガニにあちこちを食われて、半死半生だった。
鳴いているのはクツワムシとカエル。九月の昼下がりには、不釣合いな合唱。セミは鳴いていない、死んでいる。木々の根元に、セミの死骸が何十も転がって、落ち葉のように積もっていた。
池もうめいている。
ごぼぶ、とそのとき、ひときわ大きく池が唸った。暗い水底から大きな泡が浮かび、はじけ、ヘドロとアオミドロにまみれた人の手が、現れた。
手は、岸辺に生えていた草をつかむ。ゆっくりと、手の持ち主が水中から身体を引きあげる。
――池に落ちた。池に落ちちまったい。
「ザ、ぶはッ、ザリガニ、ぶぶはッ、天ぷら……」
濃緑と黒色に汚れているのは、『い志の』と胸に刺繍された作務衣である。彼は、旅館『い志の』の厨房を任された、料理長だった。
ここのところ彼は、憑かれたように池で釣りをしていた。蚊は多いし、妙な匂いがするし、わざわざこんな陰気なところで糸を垂らす義理などないのだが、どういうわけか……彼は、ここで釣りがしたかったのだ。
釣れるものと言えば、曲がったドジョウ、殻《から》に身体がおさまりきっていないタニシ、ザリガニ、そしてカエルとヒル。ろくなものではない。だが、そんなろくでなしでも、釣れると嬉しい。楽しい。ずっとここにいたい。
そんな至福の時間が、突然、暗転してしまった。
料理長はセイウチのように這いずり、池から脱した。ヒルが二〇匹ばかり、腕と顔にしつこく吸いついている。
げぇい、と飲んでしまった池の水を吐き出せば、吐瀉物《としゃぶつ》の中に、ねじれたドジョウが混じっていた。
奇形のドジョウは汚濁にまみれてしばらくのたうっていたが、やがて、腹がばちんとはじけて動かなくなった。
ぴち、ぱちゅ、ちぴちぴちぴ、
壊れる泡のような音を立て、料理長の身体に吸いついていたヒルが、次々に破裂していく。ヒルの体内からあふれ出した液体は、緑と黒だ。赤くはない。
「あ、エエエエエ、ゲ! おぅ、えええええぇ! ぶぅえええええエ!」
四肢で湿った土にすがりながら、料理長は激しく嘔吐《おうと》を繰り返した。吐いても吐いても、黒と緑の池の水は尽きない。
そもそもどうして、釣りを楽しんでいたはずの自分が、今現在ものすごい勢いで吐いているのか、彼は彼なりに順序立てて整理してみた。
池で釣りをしていたのだ。
そして池に落ちた。
整理するまでもなかった。ただそれだけのことだ。ただし、池に落ちたのは足をすべらせたためではなく、なにかに引きずりこまれたためなのだが。
――なにが、なにがいた? この池のヌシか。ものすごい力だった。ああああ胃が気持ち悪い。吐きそうだ。もう吐いてるか。一体なにが……どんなやつが、この池にいるってんだ。
「ザリガニ。ザリガ、ザリガニ……う、ぶぶ、ェ」
びしゃあ。
今度の吐瀉物の中には、舌が入っていた。
彼の舌だ。
喉の奥から飛び出して流れ出した舌は、まだ根元の一部がのどに張りついている。落ちた舌はまだ動く。ざりざりと地面を舐《な》めてみれば、池の水と石の味がする。
「カエルだ。カエル。CROAK! CRO……ぇぇえええええぶぇうるるる、カエルカエル……」
――よく覚えてない。池に落ちてから気絶したんだな、おれは。あんなに深い池だったなんてなあ。一体なにがいるんだ。でっかいドジョウかザリガニだな。
「カエルだ、ょ」
身震いしながら、料理長はよつんばいの体勢で、のろのろと前に進んだ。
黄色いバケツが倒れていて、ザリガニがぞろぞろと列をなしている。料理長はザリガニを一匹ずつバケツに戻していった。
彼の腕には破裂したヒルの吸盤だけが、しぶとく張りついていた。口だけになってもヒルは食事をしているようだ。腹がなくなってしまったから、永遠に満腹にはならない。ヒルが吸ったはしから流れ出ていく彼の血は、緑と黒混じりの赤だった。
ザリガニをすべてバケツに戻すのは不可能だった。そそくさと料理長の手から逃れるものもあったし、硬い甲殻《こうかく》につつまれているはずの身体は、彼がつかむと、たやすく潰れてしまうのだ。
くしゃりかしゃりとあまりに潰れやすいから、彼はシャボン玉をつかむときほどに力を加減しなければならなかった。
ザリガニの潰れた殻からはみ出すワタと血と身も、やはり、黴と水の華の色に染まっていた。
誰か、来る。
ザリガニを拾いながら吐いていた料理長は、そこで突然、殴られた。
そうっとそうっとつまんでいたザリガニが、はずみで潰れた。まっぷたつになったザリガニの身体は、びよびよ伸び縮みする黒いワタでつながっている。
それよりも、だ。
料理長の首は曲がってしまった。
『泳がないでください 浅いので   い志の』
池までの長くはない道にあった立て札。『い志の』の呼びかけは赤黒い緑色でべっとり汚れていた。立て札をハンマーがわりに使ったのは――狐面をかぶった男である。よれよれのコートとスーツを着た、中肉中背の男。木彫りの狐面だけが異質だ。
――お、おお、お、お、い、痛《いて》え。な、な、な、なに、なにが、起きた。だ、誰。
ぐぉん、と空気が突き飛ばされる音。
次いで、がドん、と鈍い音。
狐面の男が、信じられない怪力で、立て札を料理長の背中に振り下ろしたのだ。一撃目ですでに血にまみれていた立て札は、その二撃目でばらばらに砕け散った。
料理長の背骨もへし折れた。
犬のように四つん這いになっていた彼だったが、脊椎《せきつい》の支えを失って、湿った地べたに倒れこんだ。状況が把握できないうちに、狐面の男の追い討ちがきた。よれたスラックスの足が、高々と料理長の身体を蹴り上げる。
「ザリガッ! カ!」
身体をくの字に折り曲げながら、料理長は三メートルばかり吹っ飛んで、木に激突した。またどこかが折れた。たぶん腕だ。ヒルの口が、肉を食いちぎりながら外れて落ちていく。
――な、な、誰。どうして。やめろ。具合が悪いんだ。池に落ちちまって。痛いし。助けて。助けてえ! 誰かあ!
「ぐえぶぅるるう!」
料理長の手足と臓腑《ぞうふ》は激しく痙攣した。口からは、また、げるげると黒いものが流れ出す。
しかしすでに彼は、舌どころか、十二指腸まで吐いていた。胃袋は裏返っていた。内臓の裏側を、草や小枝や石がちくちく刺激してきて、痛い。
痛いし苦しい。
狐面の男は、無言で近づいてくる。
「お、おれはカエル。わ、かるか。ザ、リガニ食え」
――助けてくれ! 助けて! 来ないで、来るな! 誰かあ、殺されるう!
枝と旅館が落とす影が、狐面の男を黒に染めている。だが、その目だけははっきり見えた。金泥の中に、炎がたぎっているのだ。あの能面の内側は、めらめら燃えているのではないか。顔はなく、ただ火焔だけがそこにあるのでは。
男は料理長になんの説明もしない。ただ黙って、右手を腰の後ろに持っていった。コートの中から再び現れたその手は、稲刈り鎌を握りしめていた。
男は鎌を料理長の腹めがけて振り下ろした。ずぶ濡れの作務衣ごと、彼の腹はびりびりと切り裂かれた。
ぎさぎざがついた刃に、脂肪も血管も肉も、挽《ひ》かれたように荒々しく断ち切られていく。
――ギあああああッ! ぅわああああああッ!
「ザ、げ! てて天ぷら! うまいよ! あ!」
腹を裂かれた痛みが脳天を穿つ。それと同時に、料理長を、恐ろしい悪寒と苦痛が襲った。
立て札で殴打《おうだ》され、腹を蹴られ、鎌で腹をさばかれた痛みとは、似て非なるものだ。その苦痛は、身体の内側から湧《わ》いてきた。
料理長の皮膚が、濡れてぬめる汚れた皮膚が、池の水面のように泡立ちはじめていた。そして、はじけていく。緑と黒の粘液が、割れたあぶくから流れ出す。
「おっ……、お……、おっ……」
舌と内臓を吐きながら、すでにうめくことしかできなくなっている料理長を、男は炎の目で見下ろしていた。
と、不意に、振り向いた。
「ぃぃぃぃぃぃぃぃぃあああああああああアア!?」
すさまじい女の悲鳴が、旅館の裏手に響きわたった。
騒ぎを聞きつけたのか、旅館の女将が、この裏に入ってきていたのだ。
――女将さあん。女将さあん、女将さあん、女将、たすけて……。
「ぃぃぃぃぃぃぃぃぃあああああああああアア!?」
変わり果てた姿になってもなお生きている料理長を見て、女将は口を限界まで開き、絹を裂くような悲鳴を上げていた。
「あああああアアア、」
はずだった。
悲鳴が突如途切れた。
狐面の男も、倒れていた。
臓腑を吐き、肌もごぼごぼと泡立っていた料理長の身体が、内側から爆ぜたのだ。緑がかった黒の液体と、それにまみれた臓腑が、狐面の男を突き飛ばし、女将の大きく開いた口の中に飛びこんでいた。
「へ、ガ!」
黒いものと臓腑は、女将の顎を外し、唾液にまみれ、女将ののどの奥へと這い進む。
狐面はゆっくり身体を起こし、はじけ飛んだ料理長の腕を拾い上げた。上腕骨は鋭く折れて、肉から飛び出していた。
狐面は、どこか機械的にその腕を投げつけた。骨は、女将ののどの下に突き刺さる。
女将の喉も、料理長のちぎれた腕も、ぶずりと無残に潰れた。
だが、黒いものの侵攻は止まらない。すでに女将は白目を剥いて黒い泡を噴いている。四肢はぴんと突っ張って、小刻みに震えていた。
もとより恰幅《かっぷく》のいい彼女の身体が、ふくふくと膨れていく。
きっちり着付けされた赤い和服姿であった。模範的な女将の出で立ちだ。だが腰の帯が、彼女の膨張に耐えられず、爆ぜるようにほどけた。
顔。愛嬌《あいきょう》があったその顔も膨らんで崩れていく。女将の面の皮は、筋肉からみちみちと剥がれて、膨らむ。膨らんでいく。すでに女将は肉と血が詰まったボールと化し、ごろん、と後ろに一回転した。
黒髪のひと筋ひと筋が、意思を持ったミミズやヘビのようにのたうつ。
視神経を引きながら、女将の眼球が両方とも、同時に飛び出した。
黒にも緑にも見える粘液は、女将の皮膚の下にも入り込んでいるようだ。膨張する肉と伸びる皮膚の間を、どす黒い気配は、溶岩のように泡立ちながら這いずっている。
狐面の燃える双眸が、無感情に揺らめく。視線ははっきりと、暗黒のうごめきを見すえている。男は凶悪な得物《えもの》を下段に構えて、動いた。
俊敏だ。
またたきの間に、狐面は、風船女将との間合いを詰めていた。
鎌が弧月を描く。
刃に立てられた歯が、風船女将のまるい腹を斬り上げた。返す刃で、狐面はさらに斬り下ろす。女将の腹に、大きな×印が刻まれ――
狐面は、女将の変わり果てた首を一閃《いっせん》で刎《は》ねた。
ぶビゃ、と赤や黒や緑の粘液が、首の切断面と腹の×印から、噴きだした。
汚《オ》!
汚悪嘔《オオオウ》オお乎《オ》オ凹《オウ》ウウウ菟菟《ウウ》|悪悪汚《オオオウ》ぉ!
女将の皮膚を引きちぎり、内臓を潰しながら溶かし、骨をねじ曲げて、うめきと唸りの塊《かたまり》が、堰《せき》を切ったように流れ出す。
狐面の男はその奔流の只中に、立っていた。無言で黒い濁流を見つめながら。
黒色の粘液は、なにごとか呟いている。しかし、それは、この世の言葉ではなかった。人間はもちろん、地球上の生物のいずれも発音できないような、未知の声と言葉である。
それがなにを言わんとしているのか、だれにもわからないだろう。だが、怨嗟《えんさ》や憤怒《ふんぬ》の感情が、言葉を紡《つむ》ぎだしているのは漠然と感じ取れるかもしれない。
まるでその存在が、否定的な感情しか持ち合わせていないかのようだった。
見る見るうちに、汚物の表面は渇いていく。ぬらぬらと放たれていた光が失せ、ほんのそよ風を受けて、表面から干からびた組織が剥がれていく。黒塊がうごめくたび、パリパリとちいさな音がした。
得体の知れない意思の塊は、草や石を喰いながらひとつに集束し、ぶお、と飛び上がった。
狐面の男に、それは組みついた。ザリガニのハサミや、ヒトの顎のようなものが塊から飛び出し、狐面の身体に喰らいつく。
いや。
未知の怪物は、狐面の男を傷つけられなかった。硬質のハサミも、牙も、棘《とげ》も、男の服に穴を開けるばかりで、皮膚を破ることさえできない。
がちんがちんと、硬い音が上がる。怪物の自前の凶器は、金属ばりに硬いらしい。しかしその硬い刃が、狐面には効いていない。
悪の塊の猛攻と質量に、狐面はほんの数歩ばかり押されたが、それだけだった。塊から突き出した、ヒトの頭部のような突起を、狐面は右手でつかむ。
化物《ばけもの》の表面は渇いていた。男が手をかけると、パキパキとひび割れが生じた。乾いた組織が霧散し、男の指は、ぬめる黒と緑の肉にめりこむ。
伽《カ》アアア唖亜亞悪亞《アアアオア》ア!
男の腕をしりぞけようと、肉塊がまたかたちを変える。人と獣の腕やツタが伸び、狐面の男の右手に巻きついた。
しかし、男の腕にはすさまじい力がみなぎっていた。つかまれているヒトの頭部状のものが、めぎめぢと潰されていく。男の指の間から、ぬゅるり、と泥じみた肉がはみ出していく。
潰されていく組織の中には、ヒトの歯にしか見えない白いものが、ぱらぱら混じっていた。
狐面の眼窩の中にある光は、強さを増していた。
この男は不死身だ。なにをしても傷つかない。
意思ある黒い肉塊はそれを悟ったか。狐面にまとわりつかせていた触腕や舌や手を離し、すばやく後退を始めた。
池に飛びこむつもりなのか、それは明らかに、あの濁った池を目指している。
化物の行き先を見とめた狐面の目が、まぶしく、烈《はげ》しく、光り輝いた。
炎だ!
肥大した黒の塊が水面に触れた瞬間、灼熱《しゃくねつ》の炎が爆発した。形容しがたい断末魔が上がり、池の水ごと邪悪な存在が燃えていく。
池どころではない、木々や草花、地面までも、火が炙る。
ザリガニとセミの死骸も、料理人と女将の張り裂けた屍も、黒ずんだ樹皮や葉、カエルとクツワムシも――燃えた。それは、ほぼ一瞬の火災だった。
黒と濃緑と死が燃え尽きるまでの間、旅館『い志の』の裏手は、太陽が堕《お》ちたかのようなまぶしい光に包《くる》まれた。
ゴ、ぉ……。
炎が焼き尽くしたのは、誰が見ても邪悪と思えるような肉塊や色彩だけだった。生きている草木は、熱風が過ぎ去ったあと、風を受けて静かに揺れる。
静かに、
静かに、スズムシとコオロギが鳴きはじめた。
狐面をかぶった男は、稲刈り鎌といっしょに、姿を消した。
彼は、終始無言であった――。
――ぅあッ!」
富士見は鎌を投げ捨てていた。熱いものを触ったときのように、なかば手は痙攣し、振り払っていた。
意識の中に一瞬で浮かび上がったヴィジョンは、富士見の記憶に、それきり堂々と居座っている。この記憶は、この世の過去に起きた、まぎれもない現実なのだ。
旅館の女将と料理人が姿を見せないのは当たり前だった。狐面をかぶった男が惨殺《ざんさつ》したのだ。
狐面をかぶっていたのは自分だ。
「いやだ……、嘘だ、よ……、そんな……!」
記憶にかぶせられていたふたは、吹き飛んだ。
狐面の男は富士見功。不死身の殺神鬼。神の殺戮は彼の使命なのだ。使命を果たすためなら、〈非神《アラズガミ》〉に憑かれた人間にとどめを刺すことも辞さない。
神殺しの神事に、一切の慈悲《じひ》と妥協はない。
嘘だ。
自分はハエを叩くにも躊躇する人間だ。富士見はそれを自覚している。腰抜けだと言われようが知ったことか。彼はそうして生きてきたのだから。それが彼のなけなしの誇りだった。めったに人を傷つけず、虫さえなるべく殺さずに生きてきた、ということが。
嘘だ。
確かめるためだろうか、自分でもよくわからないまま、富士見は部屋を出て、旅館の裏手にまわっていた。
真実だ。
「…………」
涼しい木陰と、夕暮れの風が、緑を撫でている。スズムシとコオロギの美しい合唱が聞こえる。ときおりけたたましく鳴いているのはキリギリスだろう。
カエルは鳴いていない。
池はなくなっていた。
池があったという痕跡はしっかり残っている。水は干上がり、渇いて死にかけの水草が、空っぽのくぼみの底にひしめいていた。
くぼみのふちに、黄色のバケツが転がっている。
くぼみの中に、釣竿が落ちている。
黒とも緑ともつかぬ、悪臭の肉塊と、それに憑かれたものだけが――旅館の裏手から、そっくり消え失せていた。
呆然とその場に立ち尽くす富士見の脳裏を、また、フラッシュバックが照らした。
〈非神〉は死んでいない。見たはずだ。
不定形の塊が焼き尽くされた直後、目には見えない力の塊が、炎の中心から飛びだしていった。
やつはまだ死んでいないのだ。
死から逃れていった。
殺さねばならない。
この地から消し飛ばせ。
富士見はうめいた。
記憶が次から次へと戻ってくる。
ここ一週間の自分の足取り。町外れの犬男。蕪流に点在する池と沼。自分が殺したのは、犬男や女将だけではない。虫や動物や植物にとり憑いた非神もいたようだが、それも無残に叩き潰しているようだ。脳が、思い出すまでもない、とでも言いたげなザコ相手の記憶はおぼろげである。だが、ともかく――一週間、富士見は殺しどおしだった。
自分は不死身だが、ヒーローではない。怪物だ。ホラー映画の殺人鬼だ。ヒーローから、人から、憎まれる立場にあるものだ。
年甲斐もなく涙が出てきて、富士見はうつむいた。子供のようにしゃくり上げて泣きだした。
カローラと一緒に、なにもかもなくしてしまったような気がして。
「フジミさん」
スズムシとコオロギが一瞬息を殺す。
富士見も息を呑み、さっと振り返った。
幽鬼のようにやつれた女が――稲村凛子が立っていた。手には、見事な意匠の狐面。今の[#「今の」に傍点]富士見には見覚えがある。あれは、殺神鬼の顔なのだ。
「フジミさん、おつとめをおねがいします。アラズガミの居場所ちかくまで、おつれします」
富士見はぶんぶんと烈しくかぶりを振った。拒否の言葉は、口がぱくぱく金魚のごとく開閉するだけで、なかなか出てきてくれない。
凛子は鬼気迫る表情で、富士見に一歩詰め寄った。
「もうすこしなんです。もうすこしでこの町のアラズガミをほろぼせます。おねがいします、フジミさん。あとすこしなんです!」
「む、無理だよ! 思い出しちゃったんだ。無理だよ、ワタシゃできないよ、あんな、あんな残酷《ざんこく》なこと!」
「わかってます。わたしのちからでは、もう、フジミさんの記憶を封じられなくなりました。ごめんなさい[#「ごめんなさい」に傍点]。わたしのちからがいたらないばっかりに」
ぎゅう、と凛子が狐面を持つ手に力をこめる。
「おねがいします。わたしはどうなってもいいんです。この町をたすけてあげてほしいんです。フジミさんがやってくださらなかったら、この町は、アラズガミにぜんぶ食べられてしまいます。おねがいです。おねがいします」
一週間前よりも強く、凛子は富士見に懇願《こんがん》してきた。凛子は、湿った地面に髪がつきそうなくらい、深く深く頭を下げている。富士見は言葉に詰まった。凛子があまりにも真剣だったから。
「でも、人を殺すんでしょ、その仕事で」
富士見はやっと言葉を絞りだす。
「ワタシゃそんなことできない。……や、やめさせてくれ」
「アラズガミに憑かれたいきものは、もうたすけられません。殺さなければならないし、殺してあげたほうがいいんです。それに、フジミさんは……大丈夫なんです。むりだと思っても、大丈夫。フジミさんなら、できるんです」
「……嫌だ、……」
のろのろと、富士見は後ずさった。
抵抗しても無駄だろうと、なんとなくわかっていた。神と神の遣いに見つかってしまった今では、もうどうしようもないのだ。かれらには、自分を操る力があるらしい。
そして神殺しを行っている間、富士見には意思も感情もなかった。見聞きした物事の記憶はあるが、それだけだ。人間としての意識が凍結していた。
どういう理屈なのかはわからないが、かれらにはそれができるのだ。なにしろ、神の遣い、御眷族なのだから――。
――リンコさん。ワタシがお願いしたいくらいだ。あんな乱暴なこと、ワタシゃやりたくない。あの人たちは……、殴られたり斬られたりしたら、痛がってたもの。嫌なんだ。リンコさん、お願いだから。ワタシゃ道具じゃないんだ[#「ワタシゃ道具じゃないんだ」に傍点]。頼むから……!
凛子の目がぎらりと光ったのを、富士見はまともに見た。次の瞬間、彼は炎に取り囲まれた。ほとんど反射的に、引きつった悲鳴を上げていた。
熱さは不思議と感じない。だが、旅館の裏手の雑木林は、燃えている。激しく黒煙を噴き上げ、ごうごうと唸りを上げて。
視界が橙と赤と黒に染まっていく。
凛子は狐の面を抱いたまま、その場を動かない。彼女の黒髪はひと筋もなびかない。炎を背負う彼女の顔で、金の双眸が輝いている。
意識が揺れる。
富士見はがくりと膝をついた。立っていられなかったし、目がくらんで、感覚という感覚が麻痺《まひ》していくのを感じ取っていた。
意識が揺れる。
――そう言えば[#「そう言えば」に傍点]。そう言えば、小学校のときのキャンプファイヤー。見てたら、急に気が、遠くなって……。ああ。火と煙、嫌いだ。そうか。キツネは人を化かせるんだった。リンコさん。これは、あなたが見せてるんだね……。
意識が、落ちた。
旅館『い志の』の前から、ワインレッドのミラジーノが行く。時刻は午後一一時。町は眠りはじめている。
ミラジーノが『い志の』の前に停まったのは午後六時頃だ。それまで、稲村凛子と富士見功は、ひっそりとした旅館の中にいたようだ。夜が深まるのを待っていたのだろう。
旅館には、営業や買い出しで出払っていた従業員が午後七時頃に戻ってきていた。女将と料理長が消えているはずだが、特に騒ぎは起きていない。
この町の人々は異変に対して無関心だ。気づいていないというより、気づいているのに、どうでもいいと見なしているらしい。あるいは――無意識が、どうにもならないとさじを投げてしまっているのか。
建物と木が落とす影の中に、濃紺のコートを着た男が潜んでいた。アクアマリン・ブルーの瞳で、一部始終を見守っていたのである。彼の姿も気配も、温度を持たない影と完全に一体化していた。
彼は停めていたダークブルーのシーマに乗りこみ、ミラジーノの後を追う。車だというのに、その動きはしなやかで、まるで忍《しの》びのようだった。エンジン音が消えているようにさえ感じられる、完璧《かんぺき》な尾行だった。
赤い車が向かった先は、蕪流最大のスーパーだ。ここには昼間、彼が富士見とともに訪れている。
「もう少しで終わり、か……」
蒼い目の男は、そこでようやく言葉を発した。
「残念だな。もっと見物したいのに」
彼は、ゆっくりと微笑した。無邪気な笑みだ。目まで、子供のように笑っている。
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[#見出し] 伍 オキツネサマの憂鬱
蕪流《カムリ》最大のスーパーマーケット。ここが不死身の殺神鬼の、今宵の狩場だ。
凛子は震える手で、富士見の顔に狐面をかぶせる。その手から血の気は失せていて、白い肌に、青や紫の血管が浮き出ていた。爪も割れている。素人でも、この手の持ち主が健康を害しているのを見て取れるだろう。
凛子は荒れた唇をなめ、富士見の耳元でささやく。ただしそれは、美しい愛の言葉ではなかった。古《いにしえ》の日本を感じさせる、祝詞《のりと》じみた呪文だった。
「火産《ホムスビ》の火之迦具土神《ヒノカグツチノカミ》より忌火《イミビ》を賜《タマワ》る。彼者《カノモノ》は神に非《アラ》ず。何人《ナンピト》にも御魂《ミタマ》を奪われぬ不尽之人鬼《フジノヒトオニ》、忌火を以て穢《ケガレ》を祓《ハラ》うべし」
狐面の下で、はあっ、と富士見が息をつき、目を開けた。焦げ茶の瞳は、炎の輝きを帯びていた。
片づけても片づけても、ゴミの山は山のまま。身体に沁みついた匂いは、洗っても洗ってもとれない。カメムシの匂いよりもたちが悪い。悪臭は混ざり合ってひとつになり、なにが元凶なのかもわからなくなっていた。
片づけても片づけても……終わらない。
営業時間中に終わらなかったから、彼はこうして残業している。こういうとき、バイトやパートの時給制はいい。ヘタに契約社員になってしまった彼には、残業手当が出なかった。
文句を言っても、面倒が起きるだけだ。
夜の作業場はバックヤードの突き当たりだ。夏は暑く、冬は寒い。巨大な錆びついたシャッターが壁がわりだった。
朝一番にシャッターが開いて、ゴミの回収業者が来る。彼らの仕事が終われば、またシャッターは閉ざされた。
あとは一日中、この悪臭と暗がりの中で、彼だけが黙々と仕事をしている。
彼は、スーパーの職員のごく一部から、一応感謝されている。職員はゴミを出すだけで、あとは彼に任せっきりだ。
最近、世間はゴミを分別して出すようになっているというが、彼はそうは思わない。特にこんな田舎では、近代的な風習の到着が遅れる。
結局彼が、店中のゴミ箱をバックヤードの奥でひっくり返し、時には素手で、毎日ゴミをより分けているのだ。それを、アメリカの道ばたにありそうなほど巨大な、鉄製のボックスにシャベルで押しこんでいく。
その事実を知っている者だけが、彼に感謝している――同情し、ねぎらいの言葉をかけてくる。
手伝ってはくれない。
不景気になってから、スーパーも営業時間が延び、定休日もなくなって、大晦日《おおみそか》や三箇日《さんがにち》でも営業するようになった。このスーパーも、去年から元旦すら休日ではなくなった。そして彼の休日は、週一日あればよいほうになっていった。
誰もゴミの始末をしたくないからだ。
ゴミは増えていく一方だった。
片づけても片づけても増えていくのだ。
ようやく最後のゴミ箱をひっくり返して、彼は……振り向いた。なぜそこで振り向いたのか、自分でもよくわからない。
無意識が、気配のようなものを感じ取ったのか。
それとも、未来を予知でもしたのか。
背後の巨大な金属のボックスが、ごぅ、と唸ったようだった。
重い鉄製のふたは開いている。かさばる不燃ゴミや資源ゴミは毎度のことだったが、今晩は生ゴミと可燃ゴミも量が多く、どのボックスもふたが閉まりそうになかった。
もりっ、と生ゴミの山が動いた。
どうせまたネズミだ。彼がそう思った瞬間、可燃ゴミと不燃ゴミの山もうぞりとうごめいた。
ゴミに、人間並みの大きさの動物が埋もれているような……胎動《たいどう》のような……見る者の不安感をさそううごめきだった。
ネズミだ、ネズミにきまっている。
だがネズミはプラスチックや発泡スチロールも食べたりするだろうか。
彼は生唾を飲んだ。マスクの下で、唇が、舌が、もぐもぐと動く。壁に立てかけていたシャベルをつかみ、ゆっくり、彼は鉄製のボックスに近づいた。
生ゴミの動きがいちばん活発だ。不燃ゴミと資源ゴミの動きには、プラスチックの安っぽい音(ぱち、ぴ、パく、かチ)がついてまわっている。
彼はほぞを固め、生ゴミの山の中に、シャベルを突き入れた。
悲鳴の類は聞こえなかったし、ゴミが爆発するわけでもなかった。ただ、そのひと突きで胎動が止まった。
「…………」
シャベルを引き抜き、彼はさらに、ゆっくりとボックスに近づく。すさまじい悪臭を放つ山を、のぞきこんだ。
ゴミの山は沈黙している。本来なら、常にそうあるべきなのだ。しかし、不気味にうごめいているさまを目にしてしまった今、その沈黙は、かえって彼の不安をかきたてる。
からからに渇いた喉を生唾でうるおして、彼は目をこらし
バィん!
ふたが、閉まった。
見えない手が、渾身の力で重い鉄のふたを閉めたように。
彼の顔は生ゴミの山にめりこみ、首は鉄製のボックスのふちに叩きつけられた。
重いふたは閉まっていた。
彼の胴体だけが、ボックスの正面でくずおれる。手はシャベルの柄を握りしめていた。両足は小刻みにバタ足をしていた。無残な首の断面からは、音を立てて血が噴き出していた。
彼が動かなくなったかわりに、ボックスの中身が動いている。
鉄のふたが、開いた……。
マスクをつけた初老の男の首はどこにもない。積み上げられた生ゴミの山は相変わらず胎動し、中身はのろのろと撹拌《かくはん》されている。
魚の首、魚の骨。オレンジの皮。土色の液体を吸った白飯。イカのワタ、傷んで裂けたトマト、芽が出たジャガイモ、ウジの死骸。皮だけになったドブネズミ。
ゴミとゴミの間から、ゴミを押しのけるようにして、ごぽんと泡立つ液体があふれ、ボックスの錆びた外側を伝い落ちる。
ゴプん、ゴほ。ごは。
生ゴミが飛び散り、濁った液体も飛び出す。動かない男の胴体に、その首の断面から流れた血に、降り注ぐ。
血だまりを作っていたおびただしい量の血液が、湿った音を立てながら這いずり、男の胴体へ戻り始めた。粗雑に切断された首の断面に、じるじると。
やがて、首のない男が、シャベルを持って、立ち上がっていた。
首なしの男が、ゆらりと振り返る。目もないというのに、彼は――閉め切られたシャッターを見つめていた[#「見つめていた」に傍点]。
がシぁん、
シャッターを外から叩いた者がいるようだ。
がシぁああん、
重い鉄製のシャッターが揺れている。耳をつんざくような大音響だ。誰かが、開けろと言っている。開けないならこじ開けてやるまでと、鈍器をシャッターに叩きつけているのだ。
首なしの男は、だらりと力なくその場に立って、シャッターを見つめているだけだった。騒々しい破壊音の中、一度だけ、彼はシャベルを落とした。のっそりと屈み、シャベルを拾い上げると、またシャッターを見つめ始めた。
シャッターに穴が開いた。
誰かが鉄パイプで壊したのだ。スーパーの裏には回収してもらえなかったガラクタが積まれ、粗大ゴミの日まで放置されている。その山をあされば、手ごろな鉄パイプなどいくらでも見つかるだろう。
分厚い鋼鉄のシャッターに穴を穿ったパイプが、引っ込んだ。
二つのまばゆい光が、首なしの男と、うごめくゴミの山と、陰鬱なバックヤードの内部を覗き見た。
「…………」
「…………」
暗黙。
首のない男は話せず、シャッターの向こうの人物も無言だ。ふたりはややしばらく、見つめあっていた。
やがて炎のような双眸は、闇に軌跡を描きながら穴から離れた。そして、また轟音が始まった。
がうん、がつん、ばシャあ、ばしゃあ、がシぁ、が、が、ずが!
鉄パイプが穴を広げ、しまいには、男がひとり、シャッターの亀裂《きれつ》めがけて体当たりをした。
叩き破られた鉄のシャッターの傷口は、鋭利な刃物によってふちどられているようなものだ。だが、体当たりをしてシャッターの内側に殴りこんできた男は、うめき声ひとつ上げなかった。
傷ついているのは、くたびれたコートと背広だけだ。侵入者の身体には傷がついていない。ミミズ腫《ば》れさえもできていない。
鉄パイプ片手にバックヤードに侵入してきた男は――鋼鉄の皮膚と、狐面をかぶっている。悪臭にも動じず、首がない男がゆらゆら立っているのを見てもひるまない。
それどころか、狐面は、問答無用で首なしに襲いかかった。燃え上がる眼光は、明るいオレンジの光で闇を引き裂く。鉄パイプが、唸りを上げた。
首なしはただ立っているだけではなかった。腕を無造作に振り上げる。
汚れた鉄パイプと、ゴミまみれのシャベルがぶつかった。火花が散るほどの激しさで。
狐面ははね返った鉄パイプを両手で構えなおし、力いっぱい振り下ろす。シャベルで応じた首なしは、よろめいた。狐面の腕力は並大抵のものではない。
狐面は首なしに反撃の余地を与えなかった。よろめいて後ずさる首なしに一歩近づき、鉄パイプの一撃を浴びせる。
間一髪で受け止めたシャベルが傾いた。
狐面は鉄パイプから左手を離した。この男は右利きらしい。右腕だけが駆る鉄パイプは、首なしがシャベルを持つ右手首をとらえた。
力任せのようで、正確だ。狙いは確かだ。
ごブぎッ、
鈍い音が上がる。
首なしはシャベルを取り落とす。
彼の右手首の骨は粉々に砕かれていた。砕けた骨で手首の内側の皮膚が破れ、ちぎれた血管と筋が飛び出す。赤い肉と血管は、一拍遅れて噴き出した血によって、すぐに覆い隠された。
狐面はまた鉄パイプを両手で持つ。
首なしに横殴りの一撃を見舞う。
そのフォームは、バットスイングに似ていた。
メがし!
がォん!
野球ボールの勢いで首なしの身体が吹っ飛び、生ゴミが積まれた鉄のボックスに叩きつけられた。バックヤード中にその音が響きわたる。
鉄パイプの横薙《よこな》ぎを食らった瞬間、首なしの身体は横に[#「横に」に傍点]くの字に折れていた。左腕は半ばでへし折れた。肋骨もまとめて数本砕けた。
とどめを刺すつもりか、狐面は無言で首なしに歩み寄る。首なしは倒れて、痙攣しているだけだった。両腕が使いものにならなくなったから、なかなか立ち上がれない。
狐面は念を入れたかったのか、首なしの右足めがけて鉄パイプを振り下ろした。その、たった一発で、たやすく首なしのすねが砕けた。硬い足の骨は、皮膚と服を突き破る。緑色のツナギがたちまち血で汚れていく。
狐面がまた一歩前に進んだ。
だしぬけに転んだ。
狐面の足をとったのは、暗闇の下では見えないものだった――ゴミの中からあふれ出し、ボックスの下を汚していた黒い粘液だ。
粘液は一〇本指の手のようなかたちを取り、狐面の左足をつかんでいた。いや、指ではない――鉤爪《かぎづめ》だ。鉤爪は狐面のスラックスに穴を開けている。しかも、指めいた鉤爪の数は、どんどん増えていた。爪と爪は次第に癒着《ゆちゃく》し、狐面の足は、多量の接着剤に固められたようになっていった。
首なしが、ゆらりと腹筋を使って身体を起こし、折れた右足にも構わず力をこめて、立ち上がった。狐面が手放した鉄パイプを、折れた左腕で拾い上げる。
振り下ろした。
だが、折れた腕にはあまり力が入っていなかった。狐面の無防備な背中に命中したが、ぺひ、と軽い音がしただけだ。衝撃にいたっては、子供のパンチに等しいくらいだろうか。
だが首なしは、弱々しい打撃を応酬《おうしゅう》し続けた。見ようによっては、けなげな抵抗だ。両腕が折れていても、狐面を殴らねば気がすまなかったのか。一撃一撃に、無言の憎しみがこもっているようだった。
狐面はまだ立ち上がれない。黒い粘液は接着剤のように、彼の足をとらえている。首なしに殴られながら、狐面は手を伸ばした。
首なしの、折れた右足をつかんだ。
傷口を握りしめられても、首なしは痛がる素振りを見せない。機械のようにぎくしゃくと、鉄パイプで狐面を殴っている。
めち、め、めめめめぢッ、
狐面が、足をつかむ手に力をこめる。常軌を逸した握力だった。
異様な音、
硬いものが圧搾《あっさく》され、やわらかいものがねじ切られる音。
首なしが、鉄パイプを振り上げた体勢のまま倒れた。狐面は――引きちぎった首なしの右足をぶっきらぼうに投げ捨てた。
狐面は渾身の力をこめて、黒い粘液から自分の足を取り戻す。必死さはみじんも見せていない。冷静と言うより、機械的だ。彼は悠々と立ち上がり、首なしが得物にしていたシャベルを拾った。
首なしの男には、まだ無傷の左足が残っている。胴体も痛手は少ない。肋骨が折れているくらいだ。
左足だけで、首なしは立ち上がった。
だが、狐面はシャベルを振り下ろしていた。
生ゴミの汁で汚れたシャベルの刃が、首なしの左肩にめりこんだ。左腕は、根元から斬りはなされて、宙を舞った。
狐面がもう一度、同じ左肩にシャベルをぶつける。
ザク、り!
首なしの鎖骨が砕け、肉は裂け、なおもシャベルの刃は突き進む。道中の肋骨はばりばりと折れていった。
肺が破裂した。
ついには脊椎が断ち切られた。
狐面の男の怪力にかかれば、シャベルも大剣に等しい凶器だ。
大きく抉れた傷口から、狐面は荒々しくシャベルを引き抜く。
ずホり、という湿った音とともに――
痙攣のように小刻みな脈を打つ心臓が、首なしの体内から飛び出した。血管がまだ二本ほど、身体とつながっていた。
狐面はシャベルの鋭い先端を、心臓に向けた。
容赦《ようしゃ》なく、渾身の力で振り下ろした。
拳大の心臓はあえなく潰れ、赤黒い血が噴き出した。血沫飛《ちしぶき》を浴び、男がかぶっている狐面とコートが、赤く汚れていく。
首なしの男はようやく動かなくなった。狐面は死骸となったものにはそれ以上構おうともせず、すぐに別のものに目線を移す。
ゴミがあふれんばかりに詰めこまれた鉄製のボックス。それが、狐面にとっての次なる標的らしい。
彼は唸り声ひとつ上げず、シャベルを振りかぶり、ボックスに叩きつけた。激しく火花が散った。ボックスのふちは一撃でひん曲がり、生ゴミの山が崩落《ほうらく》して、汚れた床をさらに汚した。狐面はそれだけでは満足できないらしい。何度もシャベルをぶつけ、ボックスを徹底的に破壊していった。
黙々と。
やがてシャベルが折れた。狐面はまじまじと柄だけになったシャベルを見つめてから、無造作に投げ捨てた。
そして、自分がここに持ちこんだ鉄パイプを拾い上げ、何事もなかったかのように破壊作業を再開した。
鉄によって鉄が壊されていく音は、その場にいる者の鼓膜を破りかねないほど大きい。そして、ボックスは頑丈だった。完全に破壊されるまで、二〇分近くかかっただろうか。
音は近所にも聞こえているはずだが、駆けつけてくる人の姿は見られない。世間は、深夜バラエティと睡眠の時間だ。
首なしの男が生前、残業してまでかき集めた店中のゴミは、バックヤードの奥、シャッターの前に広がっていた。分別されていた生ゴミも不燃ゴミも、いまや一緒くただ。ボックスの底に溜まっていたゴミは、腐汁と潰れた虫の死骸を吸って、凄まじい悪臭を放っていた。
腐臭はもちろん、排泄物《はいせつぶつ》や血液、有害化学物質や、硫黄の匂いまで感じ取れる、不吉な悪臭だった。
男がかぶっている狐面は、長い口吻が木で表現されていて、口はある程度開閉できるしくみになっている。今、その顎は半開きで、木製の牙がうかがえた。息をしているなら、彼にも匂いが嗅ぎ取れるはずだ。しかし男は、この悪臭の中でも平然としている。じっと、そのまばゆい双眸で、ゴミの山を睨みつけている。
狐面の視線に射抜かれながら、ゴミは――また動いた。溶岩のように。アメーバのように。
『ぁぁぁ』
ゴミの中から、音のような、声のようなものが、聞こえる。
『ぉ ……お、亞亞亞……』
ぼうッ!
ゴミの山が突然、起き上がった[#「起き上がった」に傍点]。
生ゴミとどす黒く汚れた発泡スチロールの間から、一瞬、赤い光が漏れていた。ゴミの山をかぶったなにものかが、狐面に襲いかかる一方で、シャッターの穴から逃げようとしている。
ゴミをかぶっているものは、不定形の化物《ばけもの》だ。
ゴミの間から、ゴキブリの脚に似たものが、同時に五〇本ばかり飛び出して、狐面を突き飛ばす。狐面はよろめき、壁に激しく背をぶつけた。
毛と棘だらけの脚は、ざわざわと宙をかき、ゴミの中に引っ込む。そして、それとは入れ違いに、シャッターに進んでいる側の隙間から脚が伸びた。
脚には二本の鉤爪がついていた。シャッターの穴にその脚がすがりつき、穴を広げ始める。
逃げる気だ。
この化物は狐面を恐れているのか。
狐面はすぐに体勢を立て直し、鉄パイプでゴミの山を殴りつけた。発泡スチロールとプラスチックが割れ、生ゴミが潰れる。
はああああああああああああああああああああ、
とゴミの中のものが低い呼気をついた。
あああああああ亞亞亞亞亞亞唖唖唖唖唖唖唖唖。
恨《うら》みがましい吐息に構わず、また狐面は鉄パイプで殴る。ゴミの山が――ゴミの皮膚[#「皮膚」に傍点]が爆ぜた。赤い光が、ゴミの中の闇でまたたいた。
シャッターの穴をこじ広げる動きから、秩序は消え、ひと息にせわしないものになった。
焦っている。
一刻も早く、ここから、狐面から逃げようと……。
いっぽう狐面は、化物を追っている。鉄パイプでかち割ったゴミの皮膚の穴に、両手をかけていた。
鋼鉄のシャッターの穴が広げられていくより早く、ゴミの山に開いた穴がびしゃりと広がる。
中には暗黒。ねっとりと渦を巻き、生温かく、皮膚を切りそうなほど冷たいものが、煮詰まっている。狐面は燃える目で、それを見つめた。
中の暗黒の中の中、
赤いものが、
赤い光がそこに、
橙と白の光が、炸裂した。
シャッターの穴からスーパーの外へ、爆炎が噴き出した。肉片や虫の脚のようなものが、その炎にまかれて消し炭になっていた。
不思議なことに、炎はシャッターを傷つけなかった。こじ広げられた鉄の傷口には、焦げ跡がない。
そして炎は、シャッターの外にまとめて置かれていた段ボールの山にすら燃え移らず、姿を消した。ほんのそよ風にかき消されたかのようだった。
ただ白々と白煙がのぼる――
異唖唖唖唖《イアアア》あァアアア唖亞亞亞《アアアア》あ悪悪汚《オオオウ》お菟菟《ウウ》」
シャッターが激しく揺れ、傷口が裂ける。白煙を振り払い、なにかがスーパーのバックヤードから飛び出した。それは無色透明であり、人間はおろか、どの生物の目にも映らなかった。
しかしその気配は――確かに、炎から、煙から、スーパーから逃れ、弾丸のような勢いで空を目指していく。
言葉ではない怨嗟と憤怒が、どんよりとした蕪流の空にこだました。いや、地響きか。ともかく町全体が、さけびによって震えた。
得体の知れない存在が飛び去ったあと、狐面をかぶった中肉中背の男が、のっそりとシャッターの穴から外に出てきた。
服にはあちこちカギ裂きができている。しかし、彼は無傷で、あまり汚れてもいなかったし、悪臭を放ってもいなかった。右手に、曲がった鉄パイプを引っ提げていた。
ゆっくりゆっくり、確実に地を踏みしめるように、男は歩く。彼はスーパーの裏から、駐車場にまわる。夏の終わりの冷めた夜気が、彼をつつみこんだ。
終わった――。
彼の中のどこが、そう考えたのかはわからない。ともかく彼は、そこで曲がった鉄パイプを落とした。耳をつんざく音が反響し、彼ははたから見えるほど大きく身震いした。
「あ、アア、う……」
息苦しい。
皮膚の下がむずむずする。皮膚と肉の間を、熱い虫が駆けずり回っている。耐え難《がた》いまぼろしだ。虫など存在しないことはわかっているのに。
富士見は狐面を引き剥がした。顔の皮が、この能面の裏に張りついてしまうのではないかという妄想が、頭の中を駆けめぐっていた。
幸い狐面はすんなりと顔から離れた。視界が一気に広がる。風が顔を撫でる。とても涼しい――ひどく心地いい。
皮膚の下を這いずりまわっていた不快感、自分の身体が他人のもののような違和感が、まるで夢のように消えていく。
旅館『い志の』の裏で凛子と会い、暗くなるのを待ってスーパーに来た。
アラズガミと戦って殺した。
首のない男が……。
シャベル。シャッター。ゴミの山。
ぼんやりとだが、自分の午後の足跡がわかる。これまで一週間も記憶を封じられていたはずなのに。富士見はまた身震いした。記憶を反芻するうち、先ほど見た化物の姿とその死に様がフラッシュバックしたからだ。
首なしの男がシャベルを振り回していた。
ゴミの中から、黒い粘液が流れてきて……。
そして、すさまじい悪臭。
なにもかも、今は見る影もない。しかし富士見は、悪臭を思い出しただけで咳きこんだ。
――忘れてたほうが、いいのかも。この仕事を続けるつもりなら……。
傷がついた狐面を見つめ、富士見は生唾を飲んだ。
――おいおい、ちょっと。ワタシゃこんなこと、続けようなんて思ってるのかい?
不快感と違和感が消えて、
気力と充足感がみなぎってくる。
もう夜も深いというのに、まるで眠くない。若い頃に戻ったようだ。学校行事の前日や、妻と旅行の計画を練っていた夜の気分だ。
最近は少し走っただけであちこち筋肉が痛むようになっていたが、そんな運動の反動も感じられない。
自分が自分ではなくなっている。
それとも、今までの自分が本来の自分ではなかっただけなのか。
そう考え始めると、富士見は自分が恐ろしくなってきた。なにをしても身体は傷つかないのだから、自分はなんでもできるのだ。懸命に生きている命も、素手で簡単に握り潰せる。仮に不死身の殺人鬼として世間を騒がせても、この身体なら捕まらない。機動隊の包囲網すら無傷で突破できる。
「どうしたらいいんだろうなぁ……」
のろのろと、富士見は歩きだした。もっと速く歩けるのだが。
月や星が見えないから、夜でも蕪流の空は曇っているらしい。夜風も冷たく湿っていて、上着がなければ歯が鳴ってしまいそうだ。
スーパーの駐車場は、やけに広い。赤い軽自動車が一台だけ、隅のほうに停めてある。かたわらには、髪の長い女が立っていた。かすかな風が、ひかえめに彼女の髪を揺らしている。
フジミさん。
彼女の――凛子の声が聞こえたような気がして、富士見は眉をひそめた。声は、頭の中にかすかに響いたのだ。
フジミさん――。
かぼそい、頼りない、小さな声。
自分の意識を奪って、無慈悲な殺戮者に仕立て上げる御眷族――富士見は彼女が、怖かった。
凛子はおとなしくて、性格が悪いわけではないから、嫌いではないのだ。一生懸命やっている様子も、見ていると思わず応援したくなってしまう。だが、なるべく近づきたくはない。
けれども、帰るためには、彼女の車に乗っていかなければならなかった。
富士見は自分が抱えているジレンマに、押し潰されそうだった。足取りがますます重くなる。
「フジミさん……」
今度は、声にして、凛子が彼を呼んだ。
そして倒れた。
「リンコさん?」
富士見は驚いて声を上げ、彼女に駆け寄っていた。近くの街灯の光が、おぼろげに彼女の顔を照らす。顔色はひどかった。完全に死人だ。黒い髪からはつやが消えていて、ぼさぼさだった。
「リンコさん、どうしたの!」
呼びかけても、返事はなかった。凛子は身じろぎひとつしない。倒れたとき、まともに顔を打ったらしく、唇が切れて血が流れている。唇は荒れていて、白い皮がめくれ上がっていた。
富士見は凛子の首筋に触れてみた。彼女の白い首は、大量の汗で濡れている。その汗は温かかったし、脈もあった。
「……よかった、生きてるよ……」
でもどうしよう。
富士見はきょろきょろと辺りを見回した。深夜の暗黒と静寂があるだけだ。車が通る音すら聞こえない。
御眷族の身体は、人間のものとなんら変わりない。とすると、医者に診せるべきだろうか。しかしこんな真夜中に開いている病院などないだろう。旅館まで運んでやるしかないか。布団は四人分くらいあったはずだ。しかし凛子はずっと具合が悪そうだった。身体が人間なら、悪い病気にかかったりもするだろう。やはり、今すぐ救急車を呼んで――
「あ」
せわしなく思考をめぐらせていた富士見は、そこで、自分には医者の知り合いがいるということに気づいた。
――起きてるかな。けっこう夜更かしするほうだって言ってたけど。
出会った日にとりあえず電話番号を交換していたが、結局今日まで一度も城田に連絡を入れたことがない。この番号にかけるのは、自分の骨なり脳なりによほどの危機感を覚えたときだろうと思っていたが。
迷ったが、富士見は結局、城田の番号にかけていた。
呼び出している音はする。
しかし、城田が出てくれる気配はない。
そのかわり――
「やれやれ」
富士見の背後で、聞き覚えのある声が――少し呆れたふしのある声が、上がったのだ。富士見は息を呑み、携帯電話を耳に当てたまま振り返っていた。
「普通は救急車を呼ぶところじゃないの?」
駐車場に、城田恭一の姿がある。
しかも、富士見から五メートルも離れていない位置に。富士見は驚き、城田の電話を呼び出したまま固まっていた。
城田が、例のうっすらとした笑みを浮かべながら、自分の携帯を取り出した。ストラップをつまんでぶら下げている。
ランプが青く点滅している――携帯は着信していた。マナーモードに設定しているらしく、バイブレーターの低い唸りが聞こえてくる。
「……センセー、どうして……、いつから……」
のろのろと、富士見は携帯を下ろした。呼び出しを止めるのも忘れていた。
城田は震え続けている携帯をいたずらっぽく見つめ、電源ボタンを二度押した。着信はようやく途絶えた。
「『いつから』? それは、あなたとジェーンさんがここに来る前からさ」
城田は携帯を懐《ふところ》にしまいながら、富士見に歩み寄る。富士見は少し、逃げだしたい気持ちになっていた。
この夜の闇と、ずっと自分についてきていたという城田の告白の組み合わせが、なんとも空恐ろしい。くわえて、城田はあの表情だ――目が笑っていない笑顔なのだ。
「すまないね、白状しよう。全部知ってるんだ[#「全部知ってるんだ」に傍点]――フジミさんが不死身だってことも、その子が御眷族っていう存在だってことも」
「え……」
「まあ、ともかく、彼女を診てほしいんでしょう? 僕も医者の端くれだから放っておくのはまずいんだよ。立場っていうのはほんとに厄介だ」
まるで「仕方ないから診てやる」と言わんばかりであったが、城田の表情はそれほど迷惑そうでもなかった。それに、富士見が固まっていることにはかまわず、凛子のかたわらに膝をついている。
凛子の首筋と手首に手を当て、まぶたをこじ開け、頭や胸に触れる城田の動作は、一様に手慣れていた。
「ずいぶん顔色悪いなあ。血液検査受けさせたくなるよ。でも貧血ってわけでもなさそうだ。精神的なものかも」
つぶやいていた城田は振り返り、富士見を見上げた。
「彼女の家まで運ぼう。ちょっと手伝って」
「え、あの、ワタシゃこの子の家知りませんよ」
「僕は知ってる。ええと、鍵は――あった」
城田はためらいもせずに凛子のスカートのポケットを探り、車のキーを取り出した。朱色のお守りがついていた。
「伏見稲荷のお守りだ。さすが」
城田は、くすりと笑った。
凛子を後部座席に寝かせ、城田が運転席に座った。富士見は助手席だ。
ミラジーノは、大の男ふたりが乗ると、少しばかり窮屈だった。しかもふたりの風体には不気味なくらい似合わない。
「実は、僕とフジミさんの間の『偶然』は一度しかなくてね」
ハンドルを駆りながら城田は言った。
「僕が偶然、あなたの健康診断を担当したんだよ」
「あ! ……え!?」
富士見は城田の横顔を見た。
確かに、初めて会ったとき、なんとなく彼には既視感を持っていた。そのとき城田は、「東京に住んでいたなら、会ったことがあるかもしれない」と曖昧《あいまい》で無難な答えを返してきたはずだ。
今年の健康診断は、都内の総合病院で受けた。
しかし、医者の顔と名前など、富士見の記憶にはまったく残っていない。言われてみれば思いだすのは、やけに血液検査をやりたがっていたということと、レントゲンにこだわりを持っていたこと、口腔粘膜を取られたということ。
そして少なくとも、目が蒼くはなかったこと[#「目が蒼くはなかったこと」に傍点]だ。
「僕はあまり人の記憶に残りたくないほうでね。この目は自前なんだ。病院にいるときはコンタクトをしてる。医者の顔っていうのは、意外と覚えてもらえないものだから」
まるで富士見の思考を読んでいるかのように、城田が話し始めた。
「人間の記憶っていうのは、結構ごまかされやすいんだ。僕の顔を見たら、日本人はまず、この目の色にばかり意識が行くからね。僕の『目が蒼い』ことは強く印象に残るけれど、人相までは詳しく覚えられないのさ」
「は、はあ」
「健康診断の結果。僕は言っただろ、けっこういい加減でごまかしがきくってね」
「じゃ、まさか、検査で――」
「そう。あなたの身体には異常が一切見られなかった[#「異常が一切見られなかった」に傍点]。現実的に見れば、それ自体が異常[#「それ自体が異常」に傍点]なことでね。どこにも問題を持っていない完璧な身体なんて、現実的にはありえないんだよ。でも――」
城田はいったん言葉を切り、おかしげに口元をほころばせた。
「〈ザイフル種〉の研究がひそかに行われているんだ。よく調べたことはないけれど、理論上では存在するらしいんだよね。なにをしても傷つかない、不死身の生物っていうものが。さっき言ったことと矛盾《むじゅん》してるようだけどさ。医学上では、それを〈ザイフル種〉と呼んでる」
「じゃ、ワタシゃ、そのナントカ種なんですか」
「わからない。〈ザイフル種〉は理論上の存在だから、まだはっきりとした定義を持っていないしね。――だから僕はあなたを調べることにした。〈ザイフル種〉だったら面白いじゃない?」
「はあ……」
城田はどうやら純粋な好奇心に駆られているようだが、富士見は複雑な心境だ。城田にとって、自分は珍獣や新種の動物に等しい存在のようだ。まさか偉い科学者たちが、不死について真面目に研究しているとは思わなかった。それに、理論上では不死生物が存在するというのも、とんでもない話であるような気がする。
そして城田は、またさらりととんでもないことを言ってのけた。
「尾行と盗聴については謝ります」
「と、盗聴って! ちょっとー!」
「だから、謝りますから」
「いつのまに、どこにしかけたんですか!」
城田は運転しながらひょいと手を伸ばし、富士見のコートの後ろ襟から、小さなものを取り出した。それが答えだった。
初めて会ったとき、城田は頭に傷がないか診てくれた。しかけられたのは、きっとそのときだ。
何気なく手渡された超小型の機械を見て、富士見は絶句する。これが盗聴器というものか。城田はなぜそんな映画のスパイのような真似《まね》ができるのか。そもそもこういうものはどこで手に入るのだろう。
「謝ります」
謝る城田はニヤニヤしていた。間違いなく、彼はちっとも罪悪感を持っていない。
富士見は頭痛を覚え、頭を抱えた。盗聴されていたという事実は知りたくなかった。聞かれたくないほど恥ずかしい独り言や会話はなかったと記憶しているが――。
「ところで、髪の毛も一本ばかりもらったんだけど」
「いつですか!」
「まあまあ、話は最後まで聞いてください。それで、髪の毛を一本ばかりもらったんだけど、フジミさん、髪と爪はどうなの? ああ、ヒゲもだ。伸びたら伸びっぱなしってわけじゃないよね」
「……伸びたら切ってます。あ」
「気づいた? 注射針も通さないほどフジミさんは頑丈なのに、髪と爪は切れるっていうことだ」
「なんででしょう」
「さあ。……そう言えば口腔粘膜も採れたんだったね。もしかしたら……血や神経が通ってなければ……きっとそうだな」
城田は自分で提示した疑問を、勝手に自分で解決してしまっていた。それに満足したのか、彼は口を閉ざす。どこまでもマイペースな男だ。
富士見はため息をつきながら、後部座席を見る。気持ちのやり場がなく、混乱していたのだ。
凛子は身動きひとつしていない。まるで死体だ。
偶然[#「偶然」に傍点]通りかかって富士見を犬男から救ったのも、富士見を凛子の勤め先に偶然[#「偶然」に傍点]連れて行ったのも、すべて城田の危うい嘘だったというわけだ。
この自称医師は、なにもかも見聞きして、知っていたのである。現に今など、富士見すら知らない凛子の自宅へ車を走らせている始末だ。
表情から読めない感情といい、一連のスパイ行為といい、この男はつくづく恐ろしい。
ただものではないことは薄々わかっていたにしろ、事実を知ってしまったから、富士見は城田が怖くなってきた。『城田恭一』という名前すらまやかしなのではないか。
「でも、安心して。神とか神の遣いとか、非科学的すぎて学会じゃ取り合ってもらえないから」
「はあ、でも……センセーは見たんでしょう。暴れてるワタシとか、アラズガミとか」
「僕自身はオカルトを否定しないたちなんだ。だから信じてるよ。この目が見たものも全部」
「お医者さんなのに? い、意外です」
「医者と学者は違うものだし、これは僕の個性だから。まあ、確かに医者には現実的な人間が多いけど……変わり者も多いんだよねえ」
ふふ、と城田は笑みを漏らす。
きっと自嘲だ。
「フジミさんとアラズガミの対決は、見ててすごく興奮した。アラズガミはまるで遊星からの物体だし、あなたはジェイソンみたいだったよ」
「そ……そうですか……」
「キツネのお面かぶってるから、さしずめ和製ジェイソンだね」
見れば、城田の目が笑っている。不敵な、口元だけの笑みが消えて、顔が子供のように生き生きしていた。「すごく興奮した」という言葉に嘘はないようだ。
――変わったお医者さんってこと、なんだなぁ。
富士見の顔にも、かすかな笑みがこみ上げてきた。もう、なにがなんだか、よく、わからない。
稲村凛子の家は、築三〇年と思しき古アパートの、二階の一室だった。城田はまた有無を言わさず凛子のポケットやポーチの中を探り、鍵を見つけだした。
狭いワンルームだ。台所も引き戸も使い古されている。
「月二万でも高いなぁ」
富士見は思わず呟いた。最近の若い女性には敬遠されそうな部屋だ。
「東京じゃないから、もっと安いんじゃない?」
中は片づいていた。しかし、ミラジーノの中同様、飾りっ気がなく、少し殺風景だ。家具や寝具やカーテンの色彩にも、あまり統一性がない。
女性らしいものと言えば、壁にかかっている服と、すみにちょこんと置かれているオオカミのぬいぐるみくらいだった。
西側の壁に小さなテーブルがあり、その上には、神棚があった。最近では正しい祀《まつ》りかたがわからない人間のほうが多くなっているはずだ。富士見は育ちが育ちだった[#「育ちが育ちだった」に傍点]ので、この年でも神棚の祀りかたをまったく知らない。
しかしその神棚は、きちんと正しく祀られているようだった。たぶん[#「たぶん」に傍点]。供えられている榊《さかき》も米も新しいし、なにより塵《ちり》ひとつかぶっていない。凛子は神道にかかわりの深い存在だから、それも当然だろうか。
城田がさっさと布団を敷いて、富士見がぎこちない手つきで凛子を寝かせた。肩と腕が、めちめちと悲鳴を上げていた。
「あぁ、重かった……なんて聞こえてたら、リンコさん、ショック受けるか」
「そうかな。軽いよ、この子は。やせすぎだ。それにフジミさん、怪力でしょう」
「それが不思議なんですよ。ワタシゃそんなに力持ちじゃないんです。リンコさんにも話しましたけど、まえ、コピー機移動させるのに二〇分もかかっちゃったんですから」
「シュレッダーじゃなかったっけ?」
「……あぁ、そうでした。聞いてたんでしたよね、センセーも」
「もしかしたら、普段は制御がかかってるのかもしれないな。フジミさん、痛覚はあるんだよね」
「ええ、まあ。人並みなのかどうかはわかりませんけど……」
「人にとって、痛みは一種のリミッターなんだよ。限界まで力を使うと筋肉や骨や関節に負担がかかりすぎるからね。たぶんフジミさんは普通の人よりずっと力があるんだけど、ほぼ人並みの痛覚で抑えられてるんだ。御眷族には、その制御を外す力があるんじゃないかな」
「なるほど!」
富士見は城田の説にいたく感心し、心の底から納得した。しかし、説いた本人の城田は、自嘲しながら肩をすくめる。やけに欧米人然としたしぐさだった。
「仮説だよ。根拠なんかない。僕の妄想」
「妄想って……。いやまぁ、人並みの力じゃ、怪物退治なんかできませんしねぇ」
「そうかな? 物理的な攻撃が通用するなら、人間はなんだって殺せるよ。道具を使えるんだから」
城田は物騒なことを言いながらタオルを探しだし、水で濡らして、富士見に手渡した。
これでなにをしろというのかと、富士見は城田に無言で問いかける。
「汗拭いてあげて。それから――ちょっと熱があるみたいだから、額に乗せてやったほうがいいよ」
富士見は言われるがままにした。よく考えてみれば、タオルを渡された時点で思いつくような仕事だ。それがわからなかったのは、まだ頭が混乱しているからかもしれなかった。
部屋の隅に移動させた机の上には、どういうわけか、メンズファッション誌がある。それが富士見の視界に入った。
本棚を見てみれば、同じ雑誌が何冊も収まっている。毎月買っているらしい。
「す……、ス、」
タオルを額に乗せてやったところで、凛子が呻《うめ》いた。
「スズ、コ」
富士見が見守る中、彼女は確かに、そう言った。
スズコ。人の名前にちがいない。
「フジミさん」
凛子の顔をのぞきこんでいた富士見に、城田が携帯電話をつきつけてきた。富士見のものでもなく、城田のものでもない。
金の鈴のストラップがついた白い携帯。凛子のものだろうか。思わず富士見はそれを受け取っていた。
「ほかの御眷族に連絡してあげたほうがいいと思うんだけど」
「え! い、イナキさんにですか」
「そう。貸しを作ることができるかもしれないよ」
「でもこれ、リンコさんのケータイ……」
城田は、それがどうしたと言わんばかりに首をかしげた。
他人の携帯電話を無断で使用するのは、富士見の良心がとがめる。だが、凛子の今の状態では、富士見の目付など務められそうもない。そして富士見は、稲木の連絡先を知らなかった。
――待てよ。連絡しないでこのまま町を出たら、また逃げられるんじゃ……。
一瞬魔が差した。
次の一瞬には、稲木の恫喝《どうかつ》が脳裏をかすめる。
「この罰当たりめ!」
想像の中、日本最強のオキツネサマがものすごい形相《ぎょうそう》で怒っていた。
――た、祟られる。ダメだ。ムリだ。
富士見は冷や汗をかき、心中で凛子に謝りながら、白い携帯を開いた。電話帳からそれらしき番号を呼び出す。
どう説明しようかと、富士見は発信音を聞きながら必死で考えた。
『――はいはい。どうした? リンちゃん、なんかあったんか?』
「あ。え? あれっ」
相手はすぐに出たが、それはまったく聞き覚えのない声だった。若い男だ。しかも言葉のアクセントが関東のものではない。
驚いた富士見の心臓が一瞬不整脈を打った。
『……あんた、誰よ』
電話口の向こうの声も、冷ややかに凍りつく。
富士見は慌てて携帯の画面を確認した。
……画面の中の字が小さすぎてよく読めない。だが確かに登録名は『イナキさん』になっているようだが……。富士見は目を細め、携帯電話を顔から離す。
そこでようやく間違いに気づいた。『イナキさん』にかけたつもりだったが、今通話中の登録名が、『イナギさん』になっている。こんな間違いを犯したのも進行中の老眼のせいだ。
「す、すいません。その、間違えました……」
富士見は素直に白状した。
『はァ、なに?』
相手が即座に反応してきたので、富士見は通話を切るタイミングを逃した。切ってもすぐに折り返されるのが関の山だとわかってはいたが。
『なんでアンタ、リンちゃんのケータイで――』
相手は、知っていた[#「知っていた」に傍点]ようだ。
『……もしかして、アンタ、フジミさんか?』
これを知っているということは、イナギさんも、御眷族。
「……はい」
蚊の鳴くような声で、富士見はまたしても素直に答えていた。
『リンちゃんになんかあったんか?』
「その、た、倒れちゃったんですよ」
相手は大きくため息をつき、数秒ばかり押し黙る。イナギさんが思案に暮れているのがわかる。驚いていないところを見ると、凛子が倒れた原因に心当たりがあるようだ。
イナギさんは決断の早い男で、沈黙はそう長くなかった。
『今リンちゃんとこか?』
「ええ」
『ほな、ちょっと待ちぃや。すぐ行くさかい』
通話は一方的に切られた。
相手はすぐ行くと言っていたが、この町に住んでいるのか。富士見が携帯をたたんだとき、部屋の隅でカタカタと木が揺れる音がした。
「…………?」
「神棚だ」
城田の蒼い目が、神棚を射抜いた。
バんッ!
神鏡が一瞬白い光を発し、供え物が飛び散った。窓も玄関も閉めきっているのに、風が富士見と城田の顔を打つ。
白い光は、キツネのかたちをしていたように見えた。
「ぅおっとッ!」
光が消え失せ、空中から――
黒髪の青年が現れ、狭い部屋の中でもんどりうって、危うい着地をし、前に二歩ほどよろめいて、東側の壁に手をついた。
「あぁもう、せまいせまいわぁ、この部屋」
若い男性向けの雑誌――この部屋にあるメンズファッション誌――に載っているような、イマドキの服装だ。バイカースタイルというのだろうか、富士見は逆立ちしてもあんな格好はできない。腰ではウォレットチェーンがチャラチャラと音を立てている。
黒髪は一見オールバックだったが、うなじのあたりでひとつにくくっているのが見えた。男にしては、かなり髪が長いだろう。ほっそりとしていて手足が長く、一八〇センチ以上はありそうな長身だった。
青年は振り向き、布団の中の凛子を見つめ、それからようやく富士見と城田を見た。
色白で、目と眉がほそく、顎のラインがすっきりしていて、やはり――どことなく、キツネに似ている男だ。しかし、稲木や凛子以上に顔立ちが整っていて、「美形」と呼ぶのがふさわしい。
彼は細い目をさらに細め、眉をひそめた。富士見を右手で、城田を左手で指さし、
「どっち?」
簡潔に、そう尋ねる。
どっちがフジミさんか、と聞いているのだろう。
[#挿絵(img/156.jpg)]
富士見はおずおずと手を上げた。青年は露骨に憮然《ぶぜん》とした表情になった。
「なんや、迫力ないおっちゃんやなぁ! ……まぁ、ある意味、こっちの蒼い目ェのよりマシかもわからんけど」
青年は城田に、明らかに不信と敵意を持った一瞥《いちべつ》をくれた。城田はうっすらと笑って会釈しただけだ。青年は城田からなにか感じ取っているらしい。
「オレは稲城《いなぎ》|夜七《やしち》ちゅうモンや。フジミさん、これ誰?」
夜七と名乗った青年は、相変わらずのしかめっ面で城田を指さした。
「お医者さんです。リンコさんを診てもらったんですよ」
「城田恭一です。よろしく」
「医者ァ? 嘘やん。あんた、ぎょうさん殺しとるやろ。オレにはわかんねんで」
「医師免許見せようか?」
夜七の辛辣《しんらつ》な言葉にも、城田は動じなかった。
「僕にもわかっていることがいろいろあってね」
「なんね?」
「きみや凛子さんが御眷族だってこととか、フジミさんが不死身だったこととかだよ。アラズガミもこの目で見た」
「…………」
「きみの言葉、京都だねえ。伏見稲荷大社おつきの御眷族かな」
城田の言葉は鋭利だった。夜七は口を引き結んで、自称医師を睨みつけている。富士見はというと、一歩下がったところでハラハラしていた。
「せ、センセーはワタシの知り合いというか友人というか、でしてねぇ。お世話になってるんです」
城田は別段こまっているようには見えなかったが、富士見は小さくなりながら助け舟を出した。
「知り合い以上友人未満ってやつだね」
城田が訂正する。
が、考え直したように付け足した。
「フジミさんが友人だって言うなら、それでもいいんだけど」
「あぁ……じゃあ、友人ということで」
「……まぁ、どっちでもええ。ただ、オレはアンタと付き合うの、遠慮させてもらうわ」
夜七は難しい顔で城田を警戒しながら、凛子の枕元に膝をついた。凛子はこのちょっとした騒ぎの中でも目を覚まさず、時おりうなされているようにうめいている。
「この町の〈非神《アラズガミ》〉はまだ片づいてへんのな」
「リンコさんは、もう少しだって言ってた気がします」
「リンコさんの不調とアラズガミ退治にはなにか関係があるのかな?」
城田が尋ねると、夜七は鼻の奥でかすかに唸り、眉間をもんだ。答えは、YESのようだ。
「……しゃアないんよ。もうどうしようもないねん。八《は》っつぁん――八郎太のやつは説明せえへんかったろ、御眷族のことは」
「リンコさんから、だいたい聞きましたよ」
「リンちゃんが話しとらんことがあるはずや。〈対《ツイ》〉のことは言わんかったろ」
対。
富士見は思いだした。凛子は、神社ひとつにつき最低ふたりの御眷族がついていると言っていた。
神社の門の前には、阿吽《あうん》で一対の狛犬や狐が鎮座《ちんざ》しているものだ。対というのは、おそらくその阿吽とも関係があるのだろう。
「あ……」
そうだ、そう言えば。
富士見は、凛子の相方にあたる御眷族に、一度も会っていなかった。それどころか、凛子はその存在をほのめかすことすらなかったはずだ。
「オレと対の眷族は、アンタも会《お》うた八郎太や。オレと違うていっつもカッカカッカしとるけど、ええ奴なんやで。仕事は確実やし頭も切れる。んで――リンちゃんと対なんは、スズコ。稲村鈴子」
夜七は凛子の顔を見下ろしながら、ため息をついた。
「〈非神〉に喰われてもうた」
凛子がうめきながら寝返りを打った。
富士見は息を呑み、夜七のそばに座りこんで、身を乗りだす。覗きこんだ夜七の横顔からは、外見の年齢にそぐわない、年経た者の苦渋が滲《にじ》みだしていた。
「オレらは動物よりずっと〈穢〉に弱いねん。特に〈非神〉は天敵みたいなモンやさかい、力のうなっとると、すうぐ喰われてまう」
富士見は納得した。
稲木は話してくれなかったが、これで、なぜ自分がアラズガミを殺す役割を担っているのか、ようやくわかった。
瞬間移動が朝飯前の御眷族でも、アラズガミには近づくことすらできない。不死身の人間を遣わして退治させるのが手っ取り早いのだろう。
「眷族が喰われたら、ついとる神さんの力も弱なって、しまいにゃ村やら町ごと〈非神〉の餌《えさ》や。オレら眷族を経由して、神さんの力が土地に届いとるさかいな。三〇〇年まえにフジミさんが逃げてもうて、もう、何個も神社が潰されたわ」
「……すいません」
「アンタが頭下げてもしゃアないやん。八っつぁんから聞いてん、アンタは親御さんからなァんも教えられてへん、てな。そらほんまやろ?」
「ええ、そうなんですよ。イナキさんとリンコさんも、詳しくは話してくれなくて」
「リンちゃんは八っつぁんに釘刺されてたんやろ。八っつぁんはむかぁしいっぺんフジミさんの目付もやってんけど、人間嫌いでなぁ。あればっかりはどもならへんわ。かんにん」
夜七がそこで初めて笑った。苦笑いではあったが。
「なんや見た目はパッとせえへんけど、アンタ、ええ奴みたいやな。最後に会おうたフジミさんとはえろう違うわ。――安心して頼みごとできるちゅうモンやな」
夜七が、そこで何気なく居住まいを正した。凛子の顔に目を落としながら、彼は、小さく呟く。
「フジミさん」
「な……なんでしょう」
「この町の〈非神〉を殺しておくれやす」
ぇハああッッ!
夜七の嘆願を、聞いたかのようなタイミングだった。大きく息を吸いこみ、のどを鳴らしながら、凛子が布団の中でのけぞったのだ。
見開かれた目は、今にも飛び出して転がり落ちそうだった。白目の中をめぐっていた赤い血管が、ぱちぱちと音を立ててはじけ、凛子の目を真っ赤に染める。
見る見るうちにまぶたの中には血が溜まり、流れだし、彼女の白い顔に赤い筋をつけた。
『殺すだと! 殺すだと、スズコ殺すの? スズコやだ、スズコ平気だもん、へいき、へェああああ!けオソ まぎ! ばるろろふスはアアア、エぎ! エ、へぃああああア! いあ! ああ!』
凛子の口から飛び出したのは、凛子の声ではなかった。ただの異音や、甲高い声、季節外れの虫の鳴き声が、ないまぜになっていた。
凛子の身体はばね仕掛けの壊れたオモチャと化した。関節を無視して曲がっている。黒く長い髪は、水中の藻《も》のように揺らめく。
髪のひと房が海洋生物の触手のように伸び、枕元に座っていた夜七の腕に絡みついた。
あッ、と夜七が顔を歪める。彼の右手に黒髪が食いこんで、毒々しい緑色の煙が上がった。夜七は反射的に無事な左手で髪をほどこうとしたが、指は髪に触れたとたん、はじかれたように引っ込んだ。指先からも、煙が上がっていた。
「リンちゃん、アンタももう、あかんのか!」
夜七は叫び、富士見は腰を抜かしていた。
城田だけは、動いていた。
古びた台所のバスケットから包丁をつかみ取り、すばやく夜七に近づいて、彼の手に絡みつく髪の毛を断ち切ったのだ。
目にも止まらぬ早業で、夜七さえ呆気に取られた。
「スズ! スズコぉ、ィやああああッ! いやあ、いやぁああああ、スズぅううう!」
凛子が[#「凛子が」に傍点]、泣き叫んでいる。流しているのは血の涙だった。その表情は、叫んでいる間こそ、悲痛なものだったが――すぐに彼女の動きはぎくしゃくしたものに戻り、表情も化物じみたものになっていた。
『あぶ! ぃあ! げ、げぎェげげ……!』
殺せるものなら殺してみろ。
富士見は、そんな声を聞いたような気がした。凛子の口から吐き棄てられているのは、およそ言葉とも思えないような『音』だったというのに。
殺してみろ。
殺してみろ。
さあ殺してみろ。
『へァあああガガガガ! あァ、ばばばばばァ!』
凛子の身体はがくがくと異様なダンスを踊った。そして、やっと立ち上がった富士見を頭突きで吹き飛ばし、そのまま窓へ突っ込んでいった。
古ぼけたガラスは粉々になった。富士見はテーブルの角でまともに後頭部を打った。破片は凛子の顔や手や胸元を傷つけ、湿った丑三《うしみ》つ時の中に飛び散る。
二階からアスファルトの地面に落下して、凛子の手首と足首から、竹を割ったような音がした。骨が折れたのだ。だが、彼女の身体はかまわず、四つ足で走りだしていた。
無言で城田が彼女を追った。割れた窓から、ひらりと外へ。濃紺のコートは翼のようにひらめく。彼はいつの間にか靴を履いていた。猫のように軽やかに着地した医師は、暗闇の中、追跡を始めた。
「あ、あいたたたた……」
ごく一般的な人間なら、脳震盪《のうしんとう》で失神していただろうか。打ち所が悪ければ死んでいたかもしれない。しかし富士見は、幸い、気絶すらしない身体を持っていた。ゴマ塩頭を抱え、彼はのろのろ起き上がる。
「ヤシチさん、大丈夫ですか」
「…………」
夜七は自分の右手を睨みつけていた。まるで焼けただれたような痛々しい傷が、その手に刻みこまれている。皮膚が破れて、赤黒い血がしたたり、黒いジャケットの袖を汚していた。
御眷族は〈非神《アラズガミ》〉の力に弱い。その言葉に、偽りはないようだった。伏見稲荷大社という大きな神社の遣いでも、〈非神〉には歯が立たないのか。
「ヤシチさん」
「まだ、話しとらんことがある」
ただれた手を見つめながら、夜七は声を落として話しだした。こんな事態であっても、話そうとしているのだ――よほど大切なことなのだろうと、富士見は口をはさまず、無言で先を促した。
「眷族は死んでも生まれ変わる。これくらいは聞いたやろ?」
「ええ」
「せやから、数は昔っから変わらんはずやろ」
「あぁ、そういうことになりますよね」
「それがな、最近、減ってきとんねん」
「……アラズガミのせいですか」
「それもある。ヤツら魂まで喰いよるさかい、〈非神〉にやられたら生まれ変われへん。せやけど、どうも眷族が減っとる理由はほかにあるらしいんよ。気配はわかるさかい、ヤツらからは逃げりゃアええ。やっぱり怖いのは、減っとる理由がわからん[#「減っとる理由がわからん」に傍点]ちゅうことや。オレもそうだし、眷族みんな、戦々恐々としとる。最近は顔合わせても、暗ぁい話ばっかりや」
夜七の切れ長の目が曇っていた。彼は正直らしい。稲木や凛子があえて秘密にしていたことを、富士見に話してくれている。それが、その正直な性分からなのか、こんな状況だからなのかはわからない。
「なぁ、頼むわ。ヒトと違《ちご》うて、眷族は億もおらんのや。なんでかわからんのに仲間減って、非神にまでデカい面されとって……オレら絶滅してまうよ。オオカミさんとトキさんみたいにな。……フジミさん、オレらを助けてくれんか?」
「…………」
富士見は細いため息をついた。もみあげのあたりが急にくすぐったくなって、思わず手をやる。汗が伝い落ちていたのだ。自分が汗をかいていることに気づきもしなかった。
「リンちゃんは……」
夜七は富士見の答えを待たずに、呟いた。
「リンちゃんは、昔っからようオレになついとってなァ……。八っつぁんがおっかないもんやから、よけいやったんかもしらん。……こないなことになるなんて、思いもせんかったわ……」
彼は、テーブルの上の雑誌に目を落とした。富士見がつられて雑誌を見下ろす中、夜七はそっと雑誌のページをめくる。
メンズブランド〈HIBUSE〉の紹介カラーページの中に――稲城夜七がいた。ダークグレーのスーツに、朱色のシャツを着て、気だるげに立っている。
驚いて富士見が顔を上げると、夜七は苦笑いのような自嘲のようなものを浮かべていた。
「オレ、モデルやっとん。『メンズガラン』で」
メンズガラン。
若者向けのファッション誌なので、富士見は買ったことこそなかったが、そこそこ有名な雑誌だ。コンビニでも見たことがある。
本棚を見た。凛子が定期的に買っていると思しき、メンズファッション誌は――すべてメンズガランだった。
おそらくは、稲城夜七の仕事ぶりを見るためなのだ。凛子は、伏見稲荷大社の御眷族など、雲の上の存在だと言っていた。一般人が芸能人に抱くような、尊敬と憧《あこが》れの的なのだろう。
「オレが人間やったらなァ。ちっとは、アラズガミ退治の手伝いもできたやろうになァ……」
夜七はかぼそい声で呟き、自分が載っているページから、ただれた右手をどけた。
「あァ、あかん。汚してしもた。ナイショな、フジミさん」
メンズガランの一〇月号は、気づけば、夜七の血で汚れてしまっていた。夜七は照れ笑いしながら、左手で慌てて雑誌を閉じる。汚れた表紙を隠そうと、彼は裏表紙を上にしてテーブルに戻した。
「……リンコさんとスズコさんは、今からでも助けられますか」
富士見がかすれた声で言うと、夜七が驚いたように振り向いた。
「なんね、急に男前なこと言うて」
「お、男前?」
逆に富士見も面食らった。
「アンタ、オロオロしたりコケたりしとっただけやないか。それに、そないなこと言うフジミさん珍し――」
しゃべりすぎだと考えたのか、夜七はそこでぐっと台詞《せりふ》を呑みこんだ。
「おスズちゃんは、もう無理やろう。リンちゃんは……わからへん。間に合うか手遅れか……」
「ギリギリなんですね」
夜七は口をへの字に曲げて頷いた。どんな顔をしても映えるのは、美形の役得だ。
「あの、まさか、その……〈対〉の片方が死んじゃったら、もう片方も死んじゃうなんてこと、ないですよね?」
「んー、死んだときに感覚とかつないどったらヤバいけどなぁ。……って、言っても人間にはわからんか。まぁ、死ぬこともあれば平気なこともあるってぇことで、ひとつ納得したって」
「はぁ。……いや、でも、やっぱり、悲しいですよね。相方さんが亡くなるっていうのは」
「そらな。相方のうなったら、ひとりでふたり分の仕事せなあかんし、しんどいわ。……伏見稲荷大社は眷族が一〇人おるさかい、ひとりふたり欠けてもなんとかなるやろうけど、ここはなぁ……リンちゃんとスズちゃんのふたりだけやし」
はあ、と渋面でため息をついて、夜七は居心地悪そうに首筋をかいた。そして、不意に閉じていた目を開け、富士見に尋ねてきた。
「リンちゃん、自分の神社の位置は言うとった?」
「聞いてないです」
べつの神社なら見ました、という言葉が、危うく続けて飛び出すところだった。
「まぁだ思い出しとらんかったかぁ。ちゅうことは、神通力もあかんなぁ。まいったわ」
富士見は、どういうことかと首をかしげる。夜七は富士見の気持ちを察して、話を続けてくれた。
「神社と相方がアラズガミにやられてしもて、リンちゃんは記憶ごっそりなくしとんねん。オレら自慢の神通力も弱なってなあ。ただでさえこの町、神社大事にせえへんかったみたいやし」
「……そうだったんですか」
だから凛子の説明はどこか諳《そら》んじているようで、なにかと過去形だったのだ。稲木も凛子も、つくづく、話してくれていないことが多すぎる。富士見はそのせいで、何度か凛子にぶしつけな質問をしていたことに気づいて、胸が痛んだ。
今夜偶然こうして夜七を呼び出さなければ、富士見はほとんどなにも知らされないまま神殺しを続けることになっていただろう。
凛子があのような状態になっても、なにもできなかったかもしれない。途方に暮れてそのまま会社の仕事をして東京に戻り、また神々や御眷族の前から姿を消すことになっていたかも。
御眷族は秘密主義なのだろう。富士見の一族が姿を消したことに関係があるのだろうか。
富士見の疑問は後を絶たなかった。
この町に来てから――いや、実際は健康診断を受けたときから始まっていたらしいのだが――考えることが多すぎる。高校を卒業して就職してからというもの、頭を使う機会にはそうそうめぐりあわなかった。
頭がおかしくなることはないだろうが、知恵熱を出しそうだ。もう、あまり難しくものを考えたくない。
「ここいらの土地全体にアラズガミの気配がこびりついとるわ。えろうデカいのが一匹残っとるな。……あー、リンちゃん、どこ行ってもうたんやろ……」
「城田センセーもどこ行っちゃったのかなぁ」
割れた窓に歩み寄って、二人はほぼ同時にため息をついた。
夜気がずいぶんと冷たい。山間《やまあい》に位置する蕪流には、東京よりも早く秋が訪れるのだろう。
古アパートの二階から見下ろす住宅街は、寝静まっている。
それは、不思議な光景でもあった。ガラスが割れ、若い女が奇声を上げ、男たちがさんざん怒鳴り声を上げたのに、周囲にはざわめきひとつ聞こえないのだ。
富士見は、城田の言葉を思いだす。
この町はおかしい。マイペースすぎる。
「……静かですねぇ」
「喰われとるからな」
「アラズガミがいると静かになるんですか?」
「おかしなる」
夜七は夜を睨みつけていた。
「この国、昔に比べたら、えろうおかしなってもうたわ――」
〈非神《アラズガミ》〉はこの町だけにいるわけではない。日本中に、はびこっている。それを倒す役目の鬼が、三〇〇年も前に隠れてしまったからだろうか。
富士見はなにも言い返せずに押し黙った。その沈黙を、彼の携帯の着信音が打ち砕く。
「お!」
「あ、わ、ビックリしたぁ」
「かんにんしてえな、心臓止まるわ」
迷惑そうな金色の目に睨まれながら、富士見はコートのポケットから携帯電話を出した。
城田からだ。富士見は慌てた。
「せ、センセー?」
『やあ、城田です』
電話口の向こうの城田は、いつもより少し息遣いが荒い。しかも、興奮を押し殺しているような口調で話し始めた。
『ジェーンさんを見失っちゃったよ――交番の裏山のふもとでね』
「そんなところまで追いかけてったんですか!」
『これが和製ホラーみたいな雰囲気なんだ、最高だよ[#「最高だよ」に傍点]。ちょっと山の中に入ってみたら、傾いた鳥居があった。ボロボロでね、相当古いか……しばらく手入れされてないかだ』
富士見は思わず夜七を見た。夜七は耳がいいのか、城田の話が聞こえていたようだ。張り詰めた顔で、頷いた。
しかし現場の城田はその状況を楽しんでいるらしい。声に張りがあって、うきうきしている様子だ。
『僕は逃げたほうがいいのかな? 不死身の人でないと危険だよね』
「に、逃げてください」
『了解』
沈黙した携帯電話を抱えて、富士見は夜七を見上げる。覚悟は決めたものの――やはり、行くのは、怖かった。
「く……車で行ったほうがいいですよね」
「オレも行く。運転頼むわ」
「わ、ワタシ?」
「……オレ、大型二輪しか持ってへんねん」
神様の遣いが、すまなそうなその一言で、ひどく現実的な存在になった。少なくとも、富士見の中では。
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[#見出し] 陸 VSカブリ
鳴いている、ヒグラシ。
子供たちの歓声も聞こえる。
太陽はだいぶ西に傾いているから、そのはしゃいだ声もじきに聞こえなくなるだろう。
だが、寂しくはない。明日になればまた聞けるのだから。激しい雨さえ降らなければ、この声は毎日町の中にある。
「カンけり、あきたぁ」
「おれも」
「あたしも」
「なにする? まだあそべるよね」
「はないちもんめ」
「それ、カンけりのまえにやったぁ」
「じゃあ、かごめかごめ」
「いいな、やりたぁい」
「でも、ごにんじゃちょっとすくないよ」
「あのこ、さそえば?」
「しらないこだよ」
「べつにいいじゃない」
「――ねえ。ねえ、そこの、きみ」
石段に座って、うっとりと子供たちの輪を眺めていたところに、声が飛んできた。ぎくりとした。自分のことかと顔を指さす。
鼻水をすすって、坊主頭の男の子が頷いた。
「いっしょにさ、かごめかごめ、やろうよ」
「やろうよ。ね?」
少年の誘いに乗じて、後ろにいた女の子たちも声をそろえる。とまどって、長い黒髪の少女は、後ろを振り返った。
朱塗りの鳥居の向こうで、古びた拝殿が立ちすくんでいる。扉は開け放たれていて、神鏡がにぶい光を放っていた――神社は、なにも言わず、そこに在った。
「やんないのぉ?」
「……、やる」
黒髪の女の子は立ち上がり、そそくさと石段を下りて、子供たちの輪の中に入った。
うれしかった。
知らないうちに、笑顔になっていた。なぜか最初から鬼に決まってしまっていたが、それでも喜々として、彼女は輪の中に入る。
かごめ かごめ
かごのなかのとりは いついつでやる
よあけのばんに つるとかめがすべった
うしろのしょうめん だあれ
「……あかいおびのこ」
「あたり!」
日が暮れてカラスが騒ぎだすまで、子供たちはかごめかごめで遊んでいた。黒髪の少女は何度か鬼になった。けれども、必ず後ろの正面が誰なのかを当てるのだ。
すごいね。
すごいや。
子供たちは少女を畏敬《いけい》のまなざしで見つめていた。
カラスが燃える空を飛び始め、六人の子供たちは鳥居の前で別れた。次に会う約束はしなかった。手を振って、茜《あかね》色の景色の中に散らばっていく。
じゃあね。
さよなら。
黒髪の少女は、鳥居の前に立ち、子供たちが見えなくなるまで手を振っていた。
「――なにしてるの、リンコ」
冷ややかな声が、黒髪の少女を貫いた。
手を下ろし、首を縮めて、凛子は振り向く。
鳥居の向こうから、おかっぱ頭の少女が歩いてきていた。
「スズ」
凛子は、ばつが悪い顔で彼女の名前をこぼした。
おかっぱの鈴子は、凛子より年嵩《としかさ》だ。凛子は九歳、鈴子は一四歳。どちらも目は細く、少し吊り上がっている。人にキツネめいた印象を与える、怜悧《れいり》な顔立ちだった。
「探したのよ。また人の子と遊んでたのね」
「い、いけないことじゃないでしょ」
凛子は言い返した。眷族が人間と交わってはならないという掟《おきて》はない。ただ、御眷族は皆、人に神通力を見せるのは自重していたし、自らが神とかかわりがあることを吹聴しなかった。
鳥や獣に比べれば、人間は頭がいいぶん、厄介な生き物だ。御眷族はいつしか、人間と深くかかわり合いになるのを避けるようになっていった。
鈴子は、もとから人間に対してあまりいい印象を持っていなかった。はっきりとそう言ったことはなかったが、凛子の目には、そう映っていた。
「怒ってるんじゃないわ。私は呆れてんの」
鈴子はするどく息を吐き、腕を組んだ。
「あんたはもう何百年も生きてるんだからね。人の子とは違うのよ。よく子供のふりなんかして遊べるわね」
「ねえ、スズ、まえからききたかったんだけど」
「なあに?」
「……にんげんきらいなの?」
「犬とか猫とおんなじ。好きとか嫌いとか、思わない。神様に生かされてるだけの動物でしょ」
「わたしたちだって、そうじゃない……」
「違うわ。私たちは神様に選ばれてるの。リンコはおかしいわよ!」
鈴子はただでさえきつい目を吊り上げ、声を荒らげた。何気ない反論が、逆鱗《げきりん》に触れてしまったようだ。凛子はまた首をすくめる。
「あんた、人間にかまってばっかり。ただでもグズなのに。そんなだから、いっつも私の仕事が増えるのよ。いい加減にして!」
「す、スズ……」
一方的にまくしたて、鈴子はくるりときびすを返すと、鳥居をくぐって拝殿のほうに行ってしまった。凛子は石段を必死で駆け上がった。
鈴子の後ろ姿がちらと見えたが、彼女はふうっと煙のように消えてしまった。拝殿の中の神鏡が、無音できらめいた。
鈴子は確かに昔から少しきつい性格で、サバサバしている。不届きな人間に罰を当てるのは、いつも彼女だ。
眷族は、そういうものだった。神の厳しさと優しさの二面性をあらわすかのように、性格のきつい者とおだやかな者が『対』になることが多い。
稲荷神の狐などは、特に厳しい眷族が多いので、人や獣から畏れられていた。凛子は狐にしてはおとなしすぎると言っていい。
それにしても――。
誰もいなくなってしまった境内で、凛子はしゅんと首をうなだれた。
鈴子は怒りっぽいが、今日はずいぶんご機嫌ななめだったようだ。凛子と鈴子のケンカは、べつに珍しいことではないが――凛子は今まで、人間の子と遊んでいたくらいでグズ呼ばわりされた覚えはなかった。
少し傷ついた。
「……あ」
しかし、拝殿の入口に包みが置いてあるのを見つけて、凛子は声を上げた。近寄って見てみれば、それは、二人前のわらび餅《もち》だった。
拝殿の前には、手折《たお》られた花や草が散らばっていた。草には、編んで頭飾りにされたものもあった。
凛子の目に、ありありと、その光景が浮かび上がってきた。
子供たちと輪になって遊ぶ凛子。冷えたわらび餅を買ってきて、凛子と一緒に食べようと思っていた鈴子。鈴子は鳥居の内側から、子供たちと遊ぶ凛子の姿を見止めて、ため息をつき……凛子が子供たちと別れるまで、待っていた。
ずっと待っていた。拝殿の入口に腰かけ、草を編み、花を摘《つみ》、蟻《あり》を眺め、雛菊《ひなぎく》の花びらを一枚ずつちぎったりして、日が暮れるまで待っていたのだ。わらび餅がぬるくなってしまっても、凛子を、待っていた。
「スズ……」
あやまらなくちゃ。
凛子は拝殿の中に飛びこんだ。
「ごめん、スズコ!」
ごめん。ごめんなさい。
あやまらなくちゃ。
死にもの狂いと言ってよかった。今すぐに謝らなければならないという焦燥《しょうそう》にかられて、凛子は草履《ぞうり》も脱がずに狭い拝殿の中を走り、曇った神鏡に飛びつく。
御眷族は神鏡から神鏡への移し身を得意としていた。怒った鈴子はこの鏡を通って、どこかに行ってしまったのだ。
「スズ! スズ、ごめんなさい!」
鏡に向かって、凛子は謝った。その言葉が、鏡を通って鈴子のもとに届くわけでもないのに。
「スズ――」
だが、まるで呼応したかのようだった。
鏡からふっと光が消え失せ、ひと息に辺りが暗くなる。神じみた大いなるものが、夜色の帳《とばり》を広げ、蕪流《カムリ》稲荷神社にばフりとかぶせる幻想が、凛子の脳裏を焼いた。いや、その、帳がひらめくばフりという音を、彼女ははっきり耳にした。
振り向けば、拝殿の外から見える空が、ごうごうと激しく動いていた。鈍《にび》色と白色の雲が、濁流のように――東から西へ、南から北へ、渦巻きながら流れている。
太陽の断末魔を見た。西の空を染めていた赤が無音で爆発し、ほんの刹那、空のすべてを血色に変えた。
蕪流が轟音につつまれ、激しく身悶《みもだ》えた。すさまじい勢いで、空からなにかが落ちてきて、蕪流の北に突き刺さったのだ。狂った炎が、生きたまま草花を、散歩中の飼い犬と人を、田を焼いた。
その映像が意識の中に割りこみ、凛子は悲鳴を上げ、その場にうずくまった。
すぐに、地震はおさまった。
凛子は鏡に向き直る。
悲鳴を上げる。
さかさまになった鈴子の顔が、神鏡の中に大写しになっていた。凛子自身の姿など、鏡の中のどこにもない。
『ココこ、んりね、ズぐ、とんホたんあああああ』
『あああアアああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!』
固いはずの鏡の表面がたわみ、水銀のように揺れて、盛り上がった。
「ひいッ! ひぃい、ひゃあああッ! スズ、いやぁ、はぁあああア!」
飛び散る鉛色の鏡に、凛子は両手を押しつけた。鏡をもとに戻したかった。もとに戻してどうなるというわけでもない。だが凛子は叫びながら手を伸ばす。それくらいしか、彼女にできることはない。
鈴子の姿はねじ曲がり、ちぎれて、飛び散っていた。鏡の中で、水に落とした油のように、不穏な虹《にじ》色を放ちながら、鈴子の顔と黒髪が――歪んでいる。渦ととぐろを巻いている。
ねじ曲げられた鈴子の顔から、舌が、目玉が、ひねり出されていた。潰れた眼窩からは脳味噌までがひり出されて、鏡の鉛色の中に溶けていく。
「スズコぉ! スズコ、わ、わたし、あ、あやま、ごごごごめんなさあぁいッ、ごめん、ごめんねっ、ゆるして、スズコぉゆるしてごめんなさいぁぁぁああああああああひィィィイッ!」
鏡に押しつけた凛子の両手に、めちめちと水銀じみた鈍色の液体が絡みつく。それは無数の牙を生やし、凛子の手首にザリザリと咬みついた。引き裂いた。鮮血がしぶいた。
「リンコ、この、グズ! あんたなんか、な、なんでここにいるの、あ、あんたなんか、はやくもうどっかいっちゃいなよ、顔も見たくない! グズ! グズグズグズ、泣き虫! もう、しらないッ!」
ど・ん。
凛子の耳に、鈴子の声がはっきり聞こえた。
白い両手に突き飛ばされたような気がした。
彼女の両手は鏡から離れ、血をまき散らす。
――スズコ、あなたにあやまりたいの……。
凛子は、拝殿の外まで吹き飛ばされていた。
富士見から見ても、交番の裏にある小山は、近寄りがたい気迫を放っているようだった。
またしても凛子のミラジーノを拝借し、富士見の運転で駆けつけたのだが、城田と凛子の姿はない。
ドアを開けると、深夜三時だというのに、カラスとカッコウの鳴き声が耳に飛びこんできた。ヒキガエルの野太い歌声も聞こえる。
ねっとりとした夜気が、衣服の外の腕と顔に絡みつく。いやな暑さ、いやな寒さだ。汗がにじみ出してくるのに、ふつふつと身体の産毛が立つ。
助手席からすべり出た夜七も、しかめっ面でうめき声を上げた。
「こらあかんわ」
「あ、あの。どうしたらアラズガミやっつけられますか?」
「そら、フジミさんに任せてきてん。オレらは〈神勅《しんちょく》〉でフジミさんの〈荒御魂《アラミタマ》〉起こして、迦具土《カグツチ》様から〈忌火《イミビ》〉借りて渡しとくだけやさかい」
「……???」
呪文を並べ立てられた気分になって、富士見は首を突き出した。夜七は口をとがらせた。『通訳』をしている場合ではないと言いたいようだ。
と、急に夜七が山の入口を見た。富士見も見ていた。子供たちの声が聞こえたからだ。
「いっぱいとれたな!」
「な!」
真っ黒に汚れた顔にはいっぱいの喜び。満足げに、ふたりの男の子は虫かごを振り回していた。緑色のチープな虫かごの中には、びっしりと黒いものが詰めこまれて、ひしめいている。
クワガタとカブトムシ。カミキリムシとコガネムシも混じっているようだ。緑の格子のすき間から、立派な脚とツノとアゴが何十もはみ出して、かしかしと音を立てている。
ばちっ……、パき、ばぢっ。
カゴの中からは、そんな音もする。
クワガタがそのアゴでとなりの甲虫《こうちゅう》の胴を真っ二つにしている音だった。カブトムシのツノが、甲虫の腹にめりこむ音でもある。
キいキいギい、ぎぎキキキキキキキ!
これは、カミキリムシが脅す声。
黒々とした虫たちは、逃げ場のない虫カゴの中で、殺し合っていた。ふたりの男の子は、ようやく手元のバトル・ロワイヤルに気づいた。
「あっ、すっげえ!」
「たたかいだ!」
男子はその場に立ち止まり、懐中電灯でカゴを照らして、ますます顔を輝かせていた。
「コラ、あほ!」
夜七が怒鳴ると、子供たちは飛び上がった。懐中電灯の光が、でたらめに暴れた。
「それ、はよ捨てぇや!」
「なんでだよ!」
子供たちの抗議も至極もっともだ。いきなり見知らぬ青年にアホ呼ばわりされたうえ、獲物を捨てろと命じられたのだから。
しかし富士見は逆に彼らに対しての疑問も持っていた。カブトムシとクワガタの季節は終わっているのに、虫カゴいっぱい捕まえられたのはどういうことなのか。
甲虫の脚や上半身や下半身がばらばら落ちているのに、ひるむどころか顔を輝かせているのも、少し不気味だ。よく子供は残酷だと言うが――。
「言うこと聞かんとおきつねさんにどつかれるで!」
「うっせ、バァカ!」
「そーだ、バァカ!」
「ばっ、バカやと? こ、こンの罰当たり――」
「やややヤシチさん、相手は子供ですから、ねっ」
人間の富士見から見ると、プライドが高いせいか、伏見稲荷の御眷族というのはずいぶんと怒りっぽい印象がある。
今にも大人気ない行動に出そうな夜七の腕をつかんで、富士見はおっかなびっくり制止した。
ぱチっ!
虫カゴの中から、ひときわ大きな音が響いた。その音の直後、男の子のひとりが、ぎゃッと短く叫んで左目を押さえた。
オオクワガタにはさみ斬られたノコギリクワガタの頭が、火中の栗の勢いで飛び、彼の片目に命中したのだった。
「あ、ユウくん!」
「あああ、あ、ば、ああああああああ、いでぃ!ああああ……」
「言わんこっちゃない」
夜七は富士見の腕を振り払わず、ただ、かすれた声でつぶやいた。
「あば、あ、あああああああ……! あ゛!」
フぽん!
軽快な音を引き連れて、少年の左目が飛んだ。
富士見ともうひとりの少年は絶句した。ユウくんの目玉はアスファルトに落ち、一度跳ね、あざやかに着地した[#「着地した」に傍点]。
血はさほども流れていない。だが――眼球は血走っていた。枝葉のように伸びている血管が、耳に届かないほど小さな音を立てて切れていく。
眼球からは十数本の脚が生えていた。甲虫のもののような、足先がカギ状になっている脚だ。
茶色の瞳はひとつだけだったはずだが、今は赤い虹彩《こうさい》が無数に開いている。眼球の中に眼球が生えている。
夜七は反吐を見るような目で目玉|蟲《むし》をねめつけ、左の手のひらを上に向けた。
ふッ!
するどい吐息が、手のひらの上を馳《は》せる。
その一瞬後、脚と目玉を生やした眼球が、橙色の炎にまかれた。眼球はぎろぎろ細かく震え、足は踏まれた虫のもののように、常軌を逸した速さでめちゃくちゃに動く。
だが、無言の怪物はすぐに燃え尽きた。炎は煙も上げずに消え、タールのような黒色が、アスファルトにこびりついていた。
「ああ。あああ。めぇぇえ。めぇ、めぇばああああ……」
「はよ捨てや。ほんまにどつくで」
深夜の暗黒に、夜七の双眸が――金の光が、浮かび上がる。威圧する視線に射抜かれて、両目とも無事な子が虫カゴを落とした。
ぱち、
その爪弾《つまび》きを皮切りに、
ぱぱぱぱぱぱパぱ、と緑の虫カゴから黒い破片が四散した。プラスチックの安い虫カゴは大揺れに揺れる。
隻眼《せきがん》になった子は眼窩をかきむしりながら泣き叫び、もうひとりはその場に腰を抜かした。
「ええ、クソ!」
稲城夜七の姿が消え、
白く巨大な狐が現れた。
富士見は息を呑んで、白狐が跳躍《ちょうやく》するのを見ていた。左手には、まだ、夜七の腕をつかんでいたときの感触が残っている。
狐の大きさは、はるか昔、富士見が動物園で見たホッキョクグマを軽く上まわる。クマどころか、ゾウすら凌駕《りょうが》するのではないか。黒い闇夜の中に、白狐の姿はぼんやりと浮かび上がっていた。燐光《りんこう》をまとっているらしい。
巨躯《きょく》にもかかわらず、その動きは敏捷《びんしょう》で、しなやかだった。よく見れば、その手足は犬よりもずっと細くて長い。
白狐は黒い破片をまき散らす虫カゴを、軽々と跳び越えた。太い尾を、腰を抜かした子に巻きつける。次には、細い顎で隻眼の子をとらえた。
狐の目からは、金色の炎がちろちろと舌を出している。焔の双眸が、ちらと富士見を振り返り見た。
あれが御眷族の本性だ――。
富士見はうっかり、見とれてしまった。息が詰まるほど畏ろしいのだが、見たこともないほど美しかったから。
白狐の巨躯が、吹き飛んだ。
「あ、」
虫カゴがプラスチック爆弾ばりの大爆発を起こし、あふれた黒い奔流が、子供を救って着地した白狐を薙ぎ払っていた。白狐の甲高い悲鳴はこの世のものでも、稲城夜七という青年のものでもなかった――富士見や子供たちの頭の中で響いていた。
しかし、狐は起き上がって、ぶるりと武者震いをした。脇腹や肩から噴き出す血が、びしびしとアスファルトの上に飛び散っていく。
虫カゴがあった場所には、甲虫の甲殻が寄り集まって、くぐもった音を立てながらうごめいていた。白狐を殴り、引っ掻いたのは、巨大な昆虫の脚に見えなくもなかった。だが今は、その脚が、黒い殻の山の中に隠れている。
ぼフ、と甲殻の塊が息をついたように見えた。
「ヤシチさん!」
富士見が叫ぶと、白狐も危険を察知して、ひらりと跳んだ。今度はかわせた。しかし、血の雨はやまなかった。
黒い生き物のようなものから充分に距離を取って、白狐はふたりの子供を解放した。
腰を抜かした子は、ふらふら立ち上がって、狐の顔を見上げる。片目をなくした子は相変わらず、眼窩に指を突っこみながら泣きわめいていた。
『フジミさん、のけや!』
身をひるがえした狐が、黒い塊に向き直る。なにか派手なことが起きる気がして、富士見は素直に白狐から離れ、子供たちの前に立った。
白狐の双眸からまぶしい炎が噴き出す。
どこからか、かすかに雅楽《ががく》が聞こえてきたようだった。
しかしその光も音色も、次に起こった爆発にかき消された。白狐が炎を吐いたのだ。あまりにまぶしかったので、富士見は目を閉じ、顔をそむけた。
白い顎の内側から放たれた火球は、黒の塊に命中し、大爆発を引き起こした。
カブトムシとクワガタの甲殻は爆ぜ、消し飛んだ。その下に潜んでいた黒いものが、声にならない声を上げた。
黒煙と白煙を貫き、無色透明の存在が、爆発の中心から飛び出していった。それは空中をよろめきながら泳いでいった――流星のような速さで。
それを見送った富士見は、くらりとめまいを覚えた。
「や、ヤシチさん。御眷族でも、退治できるんですか……アラズガミ」
『それができれば世話ないわ。枝やら花を潰すんがせいぜいや。根っこ掘り返して燃やさんかぎりは、どもならへん。やつら、竹やら芋《いも》やらとおんなじや』
狐は細い目を細め、富士見の後ろにいる子供たちを睨みつけた。細長い顎の隙間からは、涎のように白煙が流れ出ている。
『ほら、はよ、いね』
ゥるるるるる、
狐は獣の声で唸っているだけだったが、子供たちと富士見の心に、その言葉は届いた。
『礼も言いひんか、こンの罰当たり。おまえら長生きせえへんで。いねや、顔も見とうないわ』
オキツネサマの恨み節《ぶし》は、言葉こそぞくぞくと背筋を撫ぜる冷ややかさを持っていたが――言っているその顔には、なぜか苦笑いのようなものが浮かんでいた。
獣は笑わないが、この白狐は笑っている。耳まで裂けた口の端を、苦々しく歪めて――。
子供たちはその場を動かず、白狐が血の混じったため息をついた。
『あァ。オレ、こないどんくさかったかなぁ……』
どさり、と倒れた姿は、稲城夜七のものだった。
脇腹と肩から流れ出す血の匂いが鼻をつく。富士見はそのかたわらに膝をついて、声をかけることしかできなかった。
「ヤシチさん!」
「いらんことしてしもた。八っつぁんになに言われるかわからん。――かんにんな、フジミさん……ちーと、〈神勅〉無理かもわからへんわ……」
致命傷ではないのだろうか、それも医者ではない富士見にはわからない。ただ、夜七は自分の不始末を力なく嘲笑っていた。
ただ、子供たちは――命が助かった。富士見には、それが余計なことだったとは思えない。
片目をなくして半狂乱のユウくんの腕を引っ張り、もうひとりの子供が、立ち上がっていた。ふたりは夜七に礼も挨拶もしない。ただ、ずりずりと引っ張り引っ張られ、この場を立ち去った。
「ヤシチさん、ワタシゃ……」
「なんね? い、今……今八っつぁん呼ぶさかい、ちぃと待ちぃや」
「いえ。い、今、リンコさん、助けに行ってきます」
「はぁ? なんやて!」
がば、と夜七が身体を起こした。意外と、瀕死《ひんし》というほどの傷でもないようだ。たちまち顔をしかめて悶えたが。
「あぃたた……、いや、フジミさん、今行ってどないすん? 今のアンタは力も心も人並みなんやで。〈忌火〉持ってへんし――」
「すっかり時間取られちゃったじゃないですか。ここ、御眷族の天敵がウジャウジャいるんですよね。だったら、その、一秒でも早く行ってあげないと。リンコさん見つけて、かついで、下りてきます。それくらいなら、できるんじゃないかなぁって……思うんですけど、甘いですかねぇ……」
富士見は苦笑いをして、ゴマ塩頭をかいた。
「でもワタシゃ不死身なんでしょ?」
「……せやな」
「ヤシチさんはケガしてるんですから、ここで休んでてください。ちょっと……行ってきますんで。すぐ、戻ってきますから」
「なんでや?」
「え?」
「なんで行くん?」
その短い問いかけには、夜七のさまざまな疑問が入り混じっている。
稲村凛子は富士見の家族ではない。出会って一ヶ月も経っていない、多くの人間にとっては非現実的な種族の女だ。しかもその女に妖しい術をかけられて、凶暴な殺神鬼に仕立て上げられてしまった。
そんな、恨んだり憎んだりしてもおかしくはないような者を、どうして助けにいけるのか――。
「その、ワタシゃ、なるべく誰かの役に立てたらなぁ、って思って生きてきました。人に迷惑かけちゃいけないって、さんざん言われて育ちましたからね。二〇年前に結婚して、少なくともかみさんの役には立てそうかなー、なんて思ってたら、かみさん死んじゃいまして。結局、大して役に立てなくて。――今度こそ誰かの役に立てるかなって、思ったんです。そ、それに……」
ひと息に話そうとして、息が切れた。唾を呑みこみ、富士見は自分の手をちらと見る。
「なんだか身体が、喜んでるような気がして。やっと役目を果たせるぞ、って。わ……若い頃より、ずっと元気になってるような……」
「…………」
「だから、ひとりよがりなのかもしれません、役に立ちたい、リンコさん助けたい、っていうのは。そのついでに、おかしくなってる町ももとに戻るなら、いいじゃありませんか……素敵じゃないですか。いやついでなんて言っちゃ失礼ですね、すいません。で……でも、こういうふうに考える人、結構多いと思うんですけど、ワタシゃ、甘いんですかね」
夜七は口を引き結び、じっと富士見の目を見つめている。探りを入れるような目ではあった。
だが、敵意や反感は感じられなかった。富士見がつっかえながらも切々と話すのを、彼は黙って聞いていてくれた。
そして、すぐに答えてもくれたのだ。
「正直、多いとは思わんわ」
「そ……そうですか」
「せやけど、世の中にひとりもおらんわけやない」
御眷族はかすかに笑った。
「アンタ、ええやつやな。そういうこった――納得したわ」
富士見は頭をかき、また苦笑した。
やはり、ごまかし笑いは癖になっているのかもしれなかった。
深夜三時すぎの小山は、深渊めいた暗闇を抱えて、黒い空の下にそびえ立っている。季節外れな鳴き声が聞こえ、地響きのような耳鳴りのような低い唸りが、地面すれすれを這いずっていた。
つい数分前まで、ここには子供たちの叫び声があり、火炎をともなう爆発があった。それでも、蕪流町は深夜の沈黙の下にある。
交番は無人であり、コンビニの狭い駐車場には一台の車も停まっていなかった。客はなく、店員がカウンターで漫画雑誌を広げたまま眠りこけている。
眠っているのは店員ばかりではなかった。当たり前のように、住民のほとんどが、いつもと変わらない午前三時をすごしている。
多くの者は眠っていた。家々には灯がない。明るいのは、コンビニと、街灯と、信号機くらいのものだ。
蕪流町の北部にある小山は、そんな閑静すぎる住宅街を切り抜き、町を見下ろしていた。
そして、真正面に立つ富士見功を見つめていた。
風があえぎ、虫たちが束の間、歌を慎《つつし》む。富士見はけもの道を見つけた。もともとは参道だったのだろう。何年も、ひょっとすると何十年も人の手が入らなかった道は、草木に侵食されていた。
草をかき分け、行く先々の虫たちを黙らせながら、富士見は黒い山を登り始める。
車に乗るわけにはいかない。血でシートを汚してしまう。この車は、稲村凛子のものだ。汚せば彼女が、こまるかもしれない。
夜七はミラジーノの冷たいドアに背を預け、冷たいアスファルトの上に座りこんで、きつく目を閉じていた。傷は痛いというより熱い。だが、息を吸いこむと、全身の骨の上を冷気が駆け上がる。血はこんなにも熱いのに、凍えて死にそうだ。
――あかんなぁ。死にゃせんやろうけど、……死んだらどないしよ。オレ忙しいちゅうねん。あぁ、死にとうないわぁ。死にとうない……。
彼はこれまでに何度も死んでいる。今際《いまわ》の際《きわ》の記憶は、どんなに古いものでも、褪せることなく魂に焼きついていた。だが彼だけではなく、どの御眷族も意見は同じだ。死ぬのは嫌だった。死の感覚を知っている生物は、おそらく、自分たち御眷族だけだろうとも考えている。もしかすると、それは優越感であり、自尊心の一部なのかもしれなかった。
何度迎えていても恐ろしい死。夜七は顔をしかめてかぶりを振った。考えるな考えるな考えるな。もっとほかのことを考えろ。この際、〈非神《アラズガミ》〉のことでもいい……。
この町には、汚らわしい、アラズガミの気配が充満している。小山付近の空気などは、夜七にとって最悪だった。息もしたくないほどだ。
御眷族は、対の片割れとなら思念で会話ができる。感覚を共有することも難しくない。現代でも日常的に参拝者があるような神社の眷族であれば、呼吸のようにたやすく使える神通力だった。
稲木八郎太を呼ばなければならない。彼はここ八〇年ばかり東京を拠点にしている。今も東京だろうか。夜七は彼のスケジュールをよく知らない。時間が時間なので、たぶん寝ているだろうという予想はつく。
八郎太は京都訛りもすっかり抜けて、標準語を話すようになっていた。京都を深く愛している夜七にとっては、それが少し気に入らない。
最近では、八郎太を人に紹介する機会があれば、たいてい「こいつは地元を捨てやがった」と茶々を入れている。
――フジミさんにも、そう言うてやろ。
笑いがこみ上げてきた。
そのときだ――さりげない足音が近づいてきたのは。
「おや。フジミさんは?」
この声と気配には覚えがある――あまり夜七が快く思えないものだ。
夜七がゆっくり顔を上げると、そこには城田恭一が立っていた。顔を上げる前には、どんな皮肉を言ってやろうかと思っていたが、城田の姿を目にしたとたん、その思惑は吹き飛んでしまった。
城田は凛子をおぶっていたのだ。
「り、リンちゃん!」
「きみ、血が出てる」
「なんでや、なんでおまえがリンちゃんを!」
「動かないほうがいいよ。診てあげようか」
ちぐはぐな会話が交わされた。夜七は思わず身体を起こしかけ、猛烈な傷の痛みにうめいた。
城田はミラジーノの後部ドアを開け、ひとまず凛子を座席に寝かせた。迅速ではあったが、慎重だった。
夜七は苦心しながら立ち上がり、彼女の様子を見る。
凛子も、夜七同様〈非神〉に傷つけられている。切り傷やすり傷のような単純な傷ではない――深く肉を抉られ、ただれているようにも見える傷口だ。
しかし、燐子の両手首と右の足首は、枝と布きれで固定され、傷のまわりの布地は切り取られていた。深そうな傷は、簡単に縫合《ほうごう》までされている。傷口がさほど汚れていないのは、ちゃんと消毒されたからだろうか。
夜七は目を丸くした。
「……アンタ、ほんまに医者なんか」
「そうだよ。僕は嘘がヘタでね、なるべく本当のことを言うようにしてるんだ。都合が悪くなったら黙ればいいからね」
「お医者さんが、なんでそないぎょうさん怨念しょってんねん。よう肩こらんな。墓場が動いとるように見えるわ」
「…………」
都合が悪いらしい。城田は五秒ばかり笑顔で黙った。
「ところで、僕の質問にまだ答えてもらってないんだけどね。『フジミさんは?』」
「……今、リンちゃん助けに行く言うて、山に」
「そうか。じゃあ、入れ違いだ」
城田は車内の凛子に目をやった。
「リンちゃん、どない?」
「かなり衰弱《すいじゃく》してるし、重傷だ。衰弱は精神的なところが大きいかもしれないけど、両手首と右足首を骨折してる。もしかしたら肋骨も折れてるかもしれない。全治三ヶ月。入院してください」
「救急車やな」
「きみも入院するはめになるかもよ。アラズガミでも出てきたかい」
「ほっとけ!」
夜七が金の目に怒りをたぎらせたのを受けて、城田は薄く笑い、すばやく話を変えた。
「フジミさんは例によってジェイソン化?」
「……それが、オレ神通力派手に使いすぎてん。ご覧のとおり、ケガもしてもうてな。フジミさん、〈忌火〉も持たんと、行ってもうたわ」
「そのイミビっていうのがどんな兵器かはくわしく知らないけど、要するにフジミさんは丸腰か。痛みのリミッターも外れてないんだろうな。まあでも、心配はないでしょう。不死身なんだし」
「この町の〈非神《アラズガミ》〉の根っこはここやろ。さっさとしとめんと逃げよるかもしらん」
「せっかちだねえ、皆。心拍数高そう」
城田の呆れた声を聞き流し、夜七は携帯電話を出した。救急車を呼ぶつもりだった。二歩ばかり歩いて山を見上げた城田は、不意につぶやく。
「御眷族っていうのも本当に興味深い存在だな。身体は人間なんだよね、ヤシチくん?」
この男はなにを聞くのか。
夜七は振り返ろうとした。
「う、」
城田の動きが、見えなかった。ただ夜七は、うなじに軽い衝撃を覚え、携帯を落とし、その場に崩れ落ちていた。
城田が、蒼い目を細めて、夜七の携帯を拾う。
「ヤシチくん、ね。ヤシチと言えばやっぱり……風車《かざぐるま》だ」
119番につながったばかりだったようだ。城田はその通話を即座に切り、電話帳を呼び出した。『八っつぁん』という登録名の電話番号を探しだし、城田は薄い笑みを浮かべたまま、通話ボタンを押す。深夜だということなど、まったく考慮していなかった。
『なんだ。なぜ電話だ』
相手は、開口一番、不機嫌な声でそう言った。寝起きかもしれない。無理もない、もう丑三つ時すら過ぎている。
「稲木八郎太君。伏見稲荷の御眷族だな」
『――』
城田の一言に、稲木がはっきりと驚いていた。息を呑む音まで聞こえてきたようだ。眠気も吹き飛んだだろう。
『何者だ』
しかしその返事は冷静で、怒りさえ孕《はら》んでいた。
「〈白衣《ラボ・コート》〉とでも呼んでくれ。君たちの秘密はおおむね把握している。君たちが秘匿《ひとく》し続けてきた富士見家の身体能力についてもだ。現在、私のそばには稲村君と稲城君がいる。――とりあえず眠ってもらっているが。君は、私の質問に答え、私の指示に従ってほしい」
『眷族を脅すか。この罰当たりめが』
猛烈な怒気を含んだ恫喝に、城田は目を細めた。口の端に笑みが浮かぶ。しかし、蒼眼はぴくりとも笑っていなかった。
「答えはYESかNOか、どちらかにしろ」
『……、わかった』
意外と素直だ。
それとも、人間よりずっと種族意識が強いのか。
「フジミにアラズガミを殺させるには、イミビというものが必要だそうだが」
『神から賜《たまわ》る浄化の炎だ。あらゆる〈穢《ケガレ》〉を焼き尽くせる。我々も狐火や幻術で対抗はできるが、神の炎の威力には及びもつかん。忌火は、フジミの体内に宿すのだ。人間ならば焼け死ぬが、やつは不死身だからな』
「現在、フジミは蕪流町にはびこるアラズガミの本拠地に乗りこんでいるが、その〈忌火〉を持っていない。勝ち目はないということか」
『……なんだと。まさか、〈荒御魂〉も眠らせたままか!』
「アラミタマ?」
『フジミの一族に宿らせた鬼神の本性の一部だ。〈荒御魂〉が目覚めている間、フジミからは恐怖も痛みも慈悲も消える』
[#挿絵(img/190.jpg)]
「なるほど。痛みがなければ本来の筋力[#「本来の筋力」に傍点]を発揮できるというわけだな。確かに、普段は眠らせておかなければ周りも本人も迷惑をこうむる。うまく考えているな。目覚めさせる方法は」
『まずフジミの表層にある意識を飛ばし、眷族が〈神勅〉をもって〈荒御魂〉を呼び覚ます。……〈神勅〉とは、有体《ありてい》に言えば、呪文のようなものだ』
「訊く前に答えてくれるとは、親切だな。さすがは神の御遣いだ。有り難い」
『黙れ、無礼者。貴様、長生きはできんと思え』
「死など恐ろしくもない。その脅しは私には通用しないぞ」
城田は横目で、凛子と夜七の状態を確認した。ふたりとも、屍のように動かない。
「これから私もフジミを追跡する。見つけ次第、また君に連絡しよう。〈神勅〉とやらの準備をしていてくれ」
『なに。貴様は人間だろう。なぜアラズガミ殱滅《せんめつ》の手助けをする?』
「これまで調査した限りでは、アラズガミは人類の敵でもある。私は死を恐れることができない[#「死を恐れることができない」に傍点]が、あれに憑かれて狂気に走るのも、醜《みにく》く歪むのもごめんだ。自分の身は守りたいのでね」
『貴様はすでに歪んでいるぞ』
「残念ながら自覚している。だからこそ、これ以上歪みたくはないのだよ。それに……」
『……?』
「まるで映画の中に入りこんだような気分だ。映画のような人生を送ってきたが、ここまでフィクションじみた世界は初めてだ。この状況が楽しい。私もぜひ間近で体感したい。アラズガミ討伐《とうばつ》の儀を」
小山を見つめる城田の目が、一瞬、子供のような光を放った。大の大人が、持ってはいけないような――無垢《むく》の光だった。
『ふざけるな』
ただ一言、稲木ははき捨てた。
そこらじゅうにいる。
そこらじゅうに、怪物が、化物《ばけもの》が、アラズガミが。
道などはもう見えない。まっすぐ進んでいるのかどうかもあやしい。
城田は、古い鳥居を見つけたと言った――富士見はその言葉を信じて山中を進む。
――センセー、ずいぶん奥まで行ったんだなあ。
今のところ、城田の姿は見かけない。凛子ももちろん見当たらない。叫び声のようなものでもあれば居場所の見当はつくだろうが、聞こえるのは耳鳴りと虫、カエルの鳴き声だけだ。
「リンコさーん!」
富士見は懸命に声を張り上げた。恐怖と不安で、呼びかけはたまにひっくり返った。
「センセー! リンコさーん!」
富士見の声に、答えるものはない。
急に傾斜がきつくなった。両手で草をつかまなければ登るのがむずかしいほどだ。
他の道はないかとあちこち見まわした富士見は、そのとき、凍りついた。
鳥居。
古い鳥居が、彼の左側、一〇メートルばかり向こうにあった。気づかずに少し通りすぎていたらしい。視線がななめ下に伸びる。
鳥居は、もともと朱色に塗られていたらしい。稲荷神社の特徴だ。だがその朱色も剥げ落ちていた。塗装が剥げてむき出しになった部分は、禍々《まがまが》しく黒ずみ、ひび割れている。
傾いたまだらの鳥居は、草に埋もれていた。大樹の枝をかぶってもいる。しかし、よく見れば、その根元には白い石畳があるようだ。鳥居の向こうには、崩れかけた石段があった。
まるで肝試しに来たようだ。いや、あの鳥居をくぐってその先に行くなら、夜の墓地で肝試しをしたほうがまだましだ。
富士見は心臓を吐きそうだった。昔からあまり度胸がある男ではない。
だが、稲城夜七に向かって「凛子を今すぐ助けに行く」と啖呵《たんか》を切ったのは、虚勢《きょせい》を張ったわけでも、格好をつけたかったためでもなかった。
彼は素直だったから、思っていたことを言ったまでだ。凛子を助けたい。稲村凛子を。
彼女は一生懸命だった。正直者と努力家が馬鹿を見るのでは、あんまり気の毒ではないか。謝ってばかりいた彼女に、富士見は謝りたい。自分を頼ってきてくれた彼女を、一度ならず拒絶してしまった。道具扱いするなと思ってしまった。
彼女はこの町を救おうと必死だっただけなのに。
彼女は、あんなに謝っていたではないか。
「リンコさ……」
富士見の身体が、宙を舞った。
「だッ、あ!」
まだらの鳥居をかすめ、彼の身体は大樹の幹に激突した。背骨が軋む。激しい痛みが全身を駆けめぐる。なにが起きたのかわからなかった。
左の足首が動かない。固いものが巻きついているような感覚がある。なにか――そう――機械のアームのようなもので、足首をつかまれているような感覚だ。
暗闇の中で自分の身になにが起きたか、富士見には、確かめる暇もなかった。身体がまた、ぐぉん、と風を切って宙に浮いた。
「わっ、あッ、どぁあああああああ!?」
あとは、一方的だった。
ずどば、
「だッ」ばばば、ばきッめきッ「いだッ」ずざざざん「あがッあッいだだッ」!
ばどッ、
「いッ」ざばばば「わわわわ」、ばぉんどオん「ごへっぺっぶはッ」!
枝が折れ、ちぎれた葉と草が舞い、土が抉れる。大きな音がするたびに、富士見の身体に激痛が走った。目の中に枝が突っ込んできたせいもあって、涙が止まらない。
階段から落ちたり雪道ですべって転んだりしたこともあるが、富士見は人生のうちに、ここまで激しく衝突したことがなかった。痛みもまったく未知のものだ。気を失いたいくらい痛い。
そして、いまだになにが起きているのかよくわからない。どうやら木や地面に身体がぶつかっているようなのだが。
凛子を助けるどころではない。
――こっちが誰かに助けてほしいよ!
何十度目かの激突のあと、樹木の断末魔が聞こえた。めりめりと生きている幹が裂けていき、ついにその樹木は倒れてしまった。
放り投げられた。
ゆるやかな放物線を描いて富士見は吹っ飛び、地面で嫌というほど強く全身を打った。
富士見は全身血まみれの自分を想像した。骨も何百本も折れているのではないか。いやヒトの骨は何百本もないか。混乱の中で、富士見は自分の身体を見た。
無傷だった。
枝がもろに刺さったはずの目も、ちゃんと見えている。
その事実に、安心したのかどうかはわからない――富士見は肩で息をしながら、視線をゆっくり、暗闇の中に這わせていった。
「う……、あ……、ぁ……」
無意識のうちに、悲鳴がうめき声となって、富士見の口からこぼれ落ちていた。
夜の山で、暗黒が動いている。ふらふらと頼りなく揺らめいているように、見えなくもない。黒い空間にある黒い輪郭は、闇に慣れた目をこらしても、はっきりとはうかがえなかった。
懐中電灯くらい持ってくるべきだったのだ――そう思う心の片隅で、今のようによく見えないほうがよかったのだ、とほっとしている自分がいる。
あれをまともに見たくない。
どうせ、まともな姿をしていない。
虫とカエルの鳴き声が遠くから聞こえた。富士見と怪物が視線を合わせる、この付近は、凍りついたように静まりかえっている。風さえ息を殺していた。だから……聞こえてくる、
かちかちきちきちという奇怪な音と、日本語でも英語でもアラビア語でもおよそ人間の言葉とは思えない――
呪詛《じゅそ》が。
相手は富士見を睨みつけ、なぜこの人間が死なないのか、血すら流さず骨の一本も砕けないのか、理由がわからず、いらだっているようだった。
「う、……う……、……!」
富士見は相変わらず肩で息をしながら、呆然と暗黒の塊を見つめ、呻いていた。視線は感電し、対象から引き剥がせなくなっていた。見たくて見ているわけではない。本能が、あれは見てはならないものだと叫んでいる。
あんなものを、殺せるか?
あんな存在と、戦えるか?
勝つか負けるか生きるか死ぬかという問題ではない。あれは、人間などがどうあがいても相手にならないだろう。あれは人間を含めた、すべての生命の天敵だ。本能が教えてくれる。
あんな怪物を、殺せるものか!
怪物が動いた。影が、突然ほどけたようにも見えた。
ひぃッ、と富士見ののどが情けない音を立てる。痛みと恐怖で固まっていたから、その一瞬は、悲鳴すら出なかった。
ロープのようなものが、すばやく富士見の足に絡みつく。
次の瞬間には、ずざざッ、と草むらの中を引きずられ、足から身体が空中に浮き上がった。
まただ、また地面か木に叩きつけられる。予想される痛みと衝撃を、富士見は覚悟した。
そして目を見開いたとき、見たのだ。怪物の背後に、廃屋同然の、古い神社が――
BLAM!
聞き慣れない音がした。
その音が、立て続けに何発も続いた。
「ぅわッ、」
宙に浮いていた富士見の身体が、地面に落ちる。
鈍い痛みに耐えながら、富士見は足首を見た。黒い鉤爪のようなものと、巨大なタコの触手のようなものが絡み合って、自分の足首をつかんでいる。
ぞっとした。
息を詰まらせながら必死で足をばたつかせると、鉤爪はぽろりと落ちた。
怪物が怒りの息をつく。すさまじい悪臭が、たちまち森を包んだ。この、臓腑さえ吐きたくなるほど強い悪臭は、あの怪物の吐息らしい。
足は自由になった。逃げなければ。
這うような体勢で後ろを向いた富士見は、そこに、すっかり馴染《なじみ》深くなった濃紺のロングコートを見た。
「せっ……」
「ケガはしてないね。ずいぶん乱暴にされてたみたいだったけど」
城田恭一が、涼しい顔をして立っている。右手に黒いものを持ち、前方に構えていた。その形には富士見も見覚えがあったが――
「センセー、そ、それ、鉄砲! どうして鉄砲! なんで鉄砲なんか!」
日本では、テレビの画面や漫画でしかお目にかかれないようなシロモノだ。もし目にすることがあったとしても、警官が持っている小ぶりなリボルバーくらいだろうが、城田が持っているのは無骨なオートマチックだった。
「『鉄砲』とは古い言い方だね。せめて『銃』って言ってよ。これは|H&K《ヘッケラー&コッホ》 USPっていうやつでねえ、長い付き合いなんだ」
まるで愛車を紹介しているような口ぶりで、城田は話した。いや……、ダークブルーのシーマよりも、よほどその拳銃を愛しているようだ。嬉しそうな笑みはすぐに消え、彼は顔をしかめる。
「しかし、ひどい匂いだな」
蒼い目は、のたうつ怪物を睨みつけている。
富士見には、信じられなかった。城田はあの怪物を見てもまるで動じていない。恐怖や危機感を持ち合わせていないのだろうか。
城田はコートの中に手を入れ、汚れた狐面を取り出す。富士見の記憶が確かなら、それはスーパーの駐車場で落としていたはずだ。城田はいつの間にか拾っていたらしい。
富士見はそれを受け取った。狐面は相変わらず、鬼のような形相で怒っている。
「僕は御眷族じゃないけれど、お手伝いくらいならできる。フジミさん、あれを殺してくれるね」
「で、でも、リンコさんが……」
「彼女は僕がふもとまで運んだ」
「ほんとですか!」
「僕は嘘がヘタでね。都合が悪くなっ――」
ずざざっ、と怪物が動いた。鞭《むち》がしなるような音がして、空気が引き裂かれた。富士見は頭を抱えてうずくまった。城田は――むっとした顔で銃を構え直す。
「話の腰折らないでほしいな」
銃声!
頭を抱えていた富士見は、反射的に耳をふさいでいた。立て続けの銃声は、思っていたよりずっと大きい。
弾丸は怪物に命中しているようだ。肉が爆ぜる音がする。湿った大きなものが草むらに落ちる音も。怒号と苦鳴が聞こえる。
「なんだ、銃が効くじゃないか」
城田が空いていた左手を強く振った。
コートの袖からもう一丁、H&K USPが飛び出して、グリップが彼の手のひらにおさまった。
「フジミさん、後退!」
「はっ、はいッ」
二丁の銃が黒いものに弾丸を浴びせかける中、富士見は言われるがまま逃げた。ここは完全に戦場だ。城田も、発砲しながら後退している。
傾いた鳥居の裏側が見えた。
壊れた石段や石畳にけつまずきながら、富士見は鳥居をくぐった。背中を無言で城田に押され、茂みの中に倒れこむ。
城田は銃を一丁コートの内側に戻すと、かわりに拳大のものを取り出した。口に持っていって、なにかをくわえた。
――ま、まさかアレ。アレだ、アレ! 嘘でしょ!
最近物忘れが激しい富士見の脳裏に、『手榴弾《しゅりゅうだん》』という単語が戻ってこなかった。城田が手にしているのはまさに手榴弾だ。口でくわえて引き抜いたのは、手榴弾のピンだ!
「ぅわッ、わ、あああ!?」
悲鳴を上げたのは富士見だけではない。手榴弾を投げつけられた化物も叫んでいた。ばらばらぼたぼたと、肉片が落ちる音が続く。
「よかったよかった。ああいうモンスターには銃が効かないものだとばかり。映画の観すぎかな」
城田も硝煙《しょうえん》から飛びだしてきた。富士見のそばに屈みこんで、苦笑いを浮かべながら、呑気なことを言いだした。だが、異様に慣れた手つきで、無骨なハンドガンのマガジンを交換している。ホールドオープンされていたスライドが、映画でよく聞く音そのままに、元の位置へと戻った。
まるで夢や映画を見ているような気分で、汗だくの富士見は、城田の挙動と銃を見つめていた。
「せ、センセー」
「なに?」
「お医者さんって、嘘ですよね」
「なに言ってるの。東京の病院で会ったじゃない?」
「いえ、でも……だって、鉄砲……爆弾……」
「フジミさん、民間警備会社って知ってるかい。日本のじゃなくて、欧米の」
「が、外国の警備会社って、に、日本のとは違うんですか」
「知らないなら、それでいいんだ。ま、気になったなら調べてみてよ」
城田はそこで話を切り、コートの内側に手をやった。取り出したものは、口から白い布きれのようなものが飛び出したビンだ。その口からは、かすかに、ガソリンの匂いがした。
これも映画やニュースで見たことがある。火炎ビンだ、たぶん。ぽかんと口を開けて絶句している富士見の表情に気づき、城田は笑って肩をすくめる。
「画家さんちからひとつ拝借したんだ」
彼のコートの内側は武器庫なのだろうか、と富士見は呆気に取られた。
「フジミさん。さっきいろいろとイナキさんから聞いたんだよ。まずイミビだ。覚えていないかもしれないけど、あなたは神殺しの際、火の神から浄化の炎を預かる。僕は今まで神事の一部始終を見てきた。これは傍観者からのアドバイスだ――今言っても、あなたに宿るアラミタマが実践してくれるかどうかの保証はないけど、一応、聞いてください」
城田は富士見の目を真っ向から見つめ、早口で話しだす。その言葉は、一種の熱さえ帯びているようだった。わけもわからず、富士見は熱につられて頷いていた。
「イミビは強力だけど、単発なんだよ。だから確実に、アラズガミの本体を撃つんだ。いいね?」
「は、はい」
「次に、アラミタマ。あなたを殺神鬼にするには、まずスイッチを切る[#「スイッチを切る」に傍点]必要があるらしい」
「え」
「痛覚も恐怖もなくなって……徹底的に無慈悲になる。『富士見功』は意識を失って、身体の中で眠っている鬼神の魂が、かわりに身体を支配するってわけだ」
城田は訥々《とつとつ》と語りながら、ビンの口から出ている白いものに、ライターで火をつけた。
城田の顔が、橙色の光に照らしだされる。彼は笑っていた――その蒼い目が、期待と異様な喜びによって輝いているように見えた。
城田は富士見がなにか言う前に、火炎ビンを投げた。暗黒の中、弧を描いて、ゆらめく橙が鳥居をめざす。
ビンが割れた。
鼻をつくガソリンの匂いと、火炎が炸裂した。傾き、古ぼけた木造の鳥居は、たちまち燃え上がった。生きたまま焼かれる木の枝からは白い煙が、鳥居からは黒い煙が噴き上がる。
「御眷族さんたち、罰当たりだって怒るかな」
隣の城田のおかしげな独白が、富士見には、ひどく遠くから聞こえていた。
意識が揺れる。
だが、目は火と煙に釘付けになっていた。脳髄《のうずい》の中で、赤と橙が躍り、ひらめき、富士見功の意識を焼き尽くす。
「富士見家は」
城田が、耳元でささやいている。
「富士山にゆかりのある一族らしい。大きな火とたくさんの煙を見ると、一種のトランス状態におちいるようだ。まあ、納得はいく話だよ――昔からそうして、人はシャーマンの中に神霊を降ろしてきたからね。今ここでは、空っぽになった不死身の器に、鬼神が収まるんだ。――イナキさん、どうぞ」
消えゆく意識の中で、富士見は、耳に冷たいものが押しつけられたのを知った。
携帯電話だった。
そこから、朗々と、呪文が流れ出してくる。言葉は、富士見の耳の中に、注ぎこまれた。
「火産《ホムスビ》の火之迦具土神《ヒノカグツチノカミ》より忌火《イミビ》を賜る。彼者《カノモノ》は神に非《アラ》ず。何人《ナンピト》にも御魂《ミタマ》を奪われぬ不尽之人鬼《フジノヒトオニ》、忌火を以て穢《ケガレ》を祓《ハラ》うべし」
はあ、ッ!
墜落現場に駆けつけたのは、第一報があってからすぐだった。ハワイ行きの直行便が成田空港を発ったのは、ほんの数分前だ。燃料を大量に積んでいたジャンボ機は、まだ盛大に炎上している。
文子。
乗客と乗務員の生存は絶望的だと、ひと目でわかる。妻は、文子は死んだ。急に足から力が抜けて、富士見功はその場に崩れ落ちた。
目はただ、炎と煙をとらえていた。
文子。文子が死んだ。
焼け死んでいる。今このとき、燃えている。
細い放水の筋が幾本もあった。だが、まさに焼け石に水だろう。炎の勢いは一向に衰《おとろ》えず、頭の中身を焦がされるような感覚に襲われながら、富士見功はその場で気を失った。
半日後、彼が目を覚ましたときには鎮火しており、機内から富士見文子の焼け焦げた遺体が見つかった。文子が風呂に入るときさえ外さなかった結婚指輪が、身元確認の決め手になったのだ。
そして彼女の死によって明らかになった真実が、富士見功の傷心に追い討ちをかけた。
文子は妊娠《にんしん》していた。五週目だった。
葬儀も終わって、故人のものを整理しているときに、富士見は母子手帳を見つけてしまったのだ。
慌てて家計簿を確認した。文子が家計簿のメモ欄を日記がわりにしていると、知っていたから。結婚してからの二年間、富士見は誓って一度も覗き見したことはなかったから、読むのをためらってもよかった。だがとても、そんな余裕はなかった。
彼女が話してくれなかったのは、些細な迷いからだったようだ。夫の仕事の都合で新婚旅行がお流れになって、やっと二年後に実現しそうになった海外旅行だ。
長旅は妊娠した身体にこたえる。夫婦は子供を欲しがっていた。だが、新婚旅行も望んでいた。文子がそうして葛藤《かっとう》しているうちに、当日を迎えてしまったというわけだ。
七月四日
ハワイがまたお流れになるかも。今度はわたしのせいで。どうしよう。あのとき功さんに「最低」なんて言って、ビンタまでしちゃった。わたしが最低だ。誰にだってどうしようもない事情がある。功さんはわたしと違って怒らないと思うけど。もうちょっと考えてみる。
七月五日
やっぱり功さんに話すのは旅行から帰ってきてから。嘘をつくのは気が引けるけど、八週目くらいまで気がつかなかったことにする。あの人は疑ったりしないから大丈夫。もし嘘がバレても怒ったりなんかしない。それにおめでただってわかれば、功さんはきっと喜んで喜んで、疑うどころじゃなくなるはず。子供が大きくなってから、本当のことを話せばいい。たぶん笑い話になるから。あんまりはしゃがなければ大丈夫。わたしもともとそんなに泳げないし。大丈夫。ハワイ行きたい、功さんとハワイに。
[#地付き]ゴメンネ、わたしの赤ちゃんと功さん
捨てた。読まなかったことにした。
だが事実は消えなかった。
富士見功の脳髄に、富士見文子の細やかな文字と、謝罪の言葉が――ばつが悪そうに微笑み、ちろりと舌を出す彼女の顔が――深く刻みこまれてしまっていたから。
もしあの便に、自分が乗っていたら。富士見功は、そう考えたこともある。
今になって――また、そう思うようになっていた。
もしあの便に、自分が乗っていたなら、
富士見家は[#「富士見家は」に傍点]、誰も死ななかった[#「誰も死ななかった」に傍点]。
燃える鳥居に照らしだされ、〈非神《アラズガミ》〉と呼ばれる存在の姿が浮かび上がる。
黒色。
巨大な黒色の触手と脚の束。
おお、おおお、それこそは、神に非ず!
それは、薄汚い化狐の尾の先と、口の中から伸びている。ブリッジをした人間のように、巨大な狐の身体は腹と四肢を上にして反り返り、尾と口は完全に地面に向かって垂れていた。獣の背は総じて猫背であるはずだが、その道理はなかったことにされている。
狐の眼窩は空っぽで、節穴と化している。二つの孔の奥底で、うつろな闇が湿った音を立てながらのたうっていた。
恨みと怒りと呪いの言葉を延々と繰り返しながら、黒い怪物は一歩前に出る。
無数の脚は、甲虫の脚に似ていた。節があり、先端に鉤爪がついている。一歩歩けば、枯れ草や生きている草が爪に絡みついていた。
脚の節の数は一定ではない。三つある脚もあれば、一〇以上の節があるために、触手のようななめらかな動きを見せるものもあった。
怪物には、対称に見える部分がどこにもない。いびつである。
そして、炎に照らされたその姿は、黒一色というわけではなかった。黴のような濃緑や、腐汁のような濃灰、毒々しい紫、腐りかけた血の赤黒さもあわせ持っていた。色は、常に移動している。この怪物はせわしなくその姿を変えている。
巨大だ。背後にあるうち棄てられた神社が、すっぽりと覆い隠されてしまうほど。
脚と触手があまりにも長すぎる。そして、その数がべらぼうに多すぎた。化狐の口と尾から触手を伸ばしたシルエットは、直立するイカか、逆立ちしたイソギンチャクだ。
『ノぉ、ううヴぁああああアい亞亞亞亞汚! 汚汚汚悪悪悪悪悪悪唖唖ア!』
無数の脚の間から、すさまじい怒号が落ちてきた。
狐面をかぶった不死身の男が、かれの前に現れたからだ。
かれは覚えている。
その狐面によって、自分の縄張りが荒らされていること――自分の一部、仔、同胞が殺されかけたということを。
なにをしても男は死ななかった。傷つくことすらなかった。かれは、それすら許せない。許すことをそもそも知らない。
その狐面に対する殺意と憤怒さえも、かれにとっては普遍的な感情と衝動でしかない。こいつも殺してやる。脚と暗黒と牙の間で、化物はそれだけを考えた。
狐面は、
なにも考えていないように見えた。
狐の口から伸びた触手と、尾の先を突き破って伸びている脚が、何十本も同時に動いた。すべてが狐面の男を狙っていた。
狐面の両腕と両足は、瞬く間に掌握《しょうあく》される。触手は絡みつき、脚はわしづかむ。
男は声を上げなかった。ただうつむき、そのまばゆくかがやく炎の目が、束の間化物からそらされる。
両腕の、両肩の、筋肉が唸りを転がし、
ず、
ば!
一瞬にして無になった!
怪物の拘束が、たったの刹那で無に帰した。
狐面の男が両腕を広げただけで、拘束していた触手と脚が、なかばからちぎれた。
たちまち自由になった腕で、狐面は胴に絡みつく脚の束を殴りつける。悪臭を放つ黒い液体をまき散らし、脚と触手が砕け散った。
拘束を苦にもせず、狐面が、歩く。
腕力のみならず脚力までも、およそ人間のものではなかった。ただ、のっしのっしと無造作に歩く動作だけで、彼の身体は当然のように前に進む。無数の黒い脚が両足に絡みついているのに、だ。
化物は身じろぎすると、脚を鞭のように振り回し、男を殴り始めた。
暗い山中に響くのは、寒空の電線が風に打たれる音。ぴょうぴょうという唸り。びシばシと肉が打たれる、痛みの音色。音は何十も何百も重なって、すべてがひとつの目標に降り注ぐ。
触手と脚に打たれるたび、狐面の身体は衝撃でよろめいた。一度ならず後ろにふらつくこともあったが、彼の前進は止まらない。倒れもしない。
破れていくのは、彼が着ているコートと背広だけだ。彼は傷つかなかった。
偶然だろうか、
とりわけ太い一本の触手が、空を裂かんばかりに振り上がり、すさまじい速さで狐面の足元をすくった。
さすがに男は倒れた。
その背に、鉤爪と鞭が応酬された。
狐面は殴られつつも無言で立ち上がろうとしていたが、鉤爪が腕をつかみ、触手が頭や背を打ちすえ、彼を地面にねじ伏せる。
狐面の男は、燃える目で地面を見ていた。這いつくばりながら、反撃の隙をうかがっているようだ。あるいは、堪えているようだった。
男の足をすくった太い触手から、びちびちみりみりと異様な音が上がる。触手から棘が生えはじめていた。
棘の先端には銛《もり》のようなかえしがある。真正面から見れば、棘の先端が星状に見えなくもない。
無数の凶悪な銛を生やした触手が、また、するどく風を切って男を襲った。
ばずッ、
鈍い音は、男のコートの背が大きく裂けた音だ。裂けたのはそのコートだけで、破れ目からのぞく男の背中には、蚯蚓《みみず》腫れさえできていない。
ぴョおう、と棘の触手がまた振り上げられた。同じ音を立てて、すぐに振り下ろされた。
狐面の男が、渾身の力で身体をひねった。
ばちばちぶちぶち、彼の身体を掴まえていた黒い脚がちぎれ、外れて、うつ伏せだった男は、仰向けになっていた。
棘つきの触手は、まっしぐらに狐面の胸をめざした。その胸板を破り、心臓を貫くために。狐面は、迫り来る星を見たか。矢の勢いで、流星は狐面の胸に命中した。
しかし棘は、男の皮膚一枚破れなかった。触手の拘束を引きちぎりながら、男が腕を伸ばす。向かってきていた棘つきの太い触手を、彼は、がっちりつかんだ。
男が、立ち上がる。
触手をつかむ右手が、みぢみぢと黒い肉に食いこむ。男の手中の触手は、脈動していた。まるで触手が血管そのものであるかのようだ。狐面の指が、触手の黒い皮を破る。赤黒い血が噴き上がる。
男は左腕を締め上げていた脚や腕を振りほどき、右手同様、太い触手をしっかりつかんだ。銛状の棘の存在など、意にも介していない。
両手で触手をつかんだ男の両肩に、尋常ならざる膂力《りょりょく》がこもった。
ぐん、
その力でもって、狐面は太い触手を引っ張る。
ただのひと引きで、怪物の巨体がぐわらと激しく傾いだ。化狐の身体から生える脚という脚が、わらわらうごめき、慌てて地面をつかむ。木に巻きつく。
ぐゥん、
二度目。
狐面の男が、さらに怪物の触手を引いた。さきよりも、いっそう強い力だった。腕だけではなく、腰と足にも確実な力がこもっていた。
怪物がすがっていた木が折れる。地面が抉られる。
ぐおあッ、
三度目!
ついに化物の身体は宙を舞った。
狐面は触手を抱えたままだ。てんでばらばらにうごめく脚の中で、よろめきもせず、腰を落とし、地面を踏みしめている。
地響き!
振り回された化物の巨体は、激しく地面に叩きつけられた。脚は折れ、触手はちぎれた。薄汚れた狐の巨躯が、長々と草むらに横たわる。
狐面の男は、触手から生えていた黒い銛を一本へし折り、化狐の身体の上へ駆け上がった。狐の身体には、いくつもの銃創がある。つい先ほど、濃紺のコートの男が穿ったものか。
男は逆手に持った銛を、ずふりと力任せに毛並みに突き刺した。
汚れた狐は悲鳴のひとつも上げなかった。ただ、触手と脚は激しく動き、狐面の身体を打ちすえる。勢いあまって、化狐の身体――自らの身体をも叩いてしまう脚さえあった。
狐面の男は、荒々しく銛を引き抜いた。かえしには黒い血と筋が絡みついた。傷口は爆ぜたようにめくれ上がっている。
彼はそこに、右手をぶちこんだ。
化狐の、汚れた毛並みが、不気味に波打つ。男はかまわず、毛皮に穿った穴を素手で広げていく。びりびりと色褪せた毛ごと、皮が破れた。しかし、その下に赤い肉はない。
悪臭を放ち、暗い色彩が渦巻く、タールのような粘液が――狐の皮の下にあった。穴から流れ落ちた粘液は、たちどころに渇き、かさかさと崩れる。
この粘液が、神に似たものの本体か。
これは、狐の皮をかぶっている。
『いぃ、唖、ああ亞亞亞亞悪……」
脚を吐いている化狐の首が、動いた。あぐあぐと脚を甘咬みしながら、かぶりを振る。
『リンコはにげた。リンコはにげた。リンコはあ、ぁぁぁぁぁぁ……』
『ザリガニうまい』
『くさい、くさい、うまいまういうまままいう』
『ザリガ、うま、水うまい、ぎげげげげげげ』
『いあ、いあ、いあなあいらあととほてあ、ふ』
『たすけて。たすけて。たすけて』
『ぇらっしゃいませえええええようこそようこそ』
『ころさないでいたいようこわいよころされたくないよやめてやめてゆるしてしね』
『ゴミがクズが』
『ぢが、ぢ、字があ、よよよ読めえ、字を読めえ、おれはアアチストだあああああぉう』
『天ぷら、いあ』
『リンコ。リンコ、リンコ。リンコ……リンコ、リンコ、リンコ、元気でね……』
『亞アアアア唖唖唖唖唖ギ唖唖亞亞亞亞亞アぁあア亞唖唖 唖 ァアアアアアアアアアアア!!』
知っている日本語をただ並べただけだったのかもしれない。神に似た怪物は陰鬱な声で叫び始めた。いや、皮袋の中で渦巻くタールから、あぶくのように、無数の声が湧き出ているのだ。
声を聞いた虫と鳥が落ち、木々の葉も落ち、草木はしおれて枯れていく。
暗闇の中、虫や鳥、枯れ草と枯れ木が落とす影が、液体のように地面を流れた。流れつく先には、化物の巨体がある。影を吸い、狐の毛皮をかぶるものは、ぼぐぼぐ泡立った。
不死身の男は、全身を黒く染めながら、狐の皮を引き裂いていた。まるでその作業に没頭しているようだった。泡立つ暗黒にも、這い寄る混沌《こんとん》にも、気づいていないか――気にかけてもいないのか。
素手によって毛皮は引き裂かれ、引きちぎられ、泡立つ粘液は次第に空気のもとへさらされていく。渇いていく。
ごぽ、とひときわ大きく毛皮の中身が泡立った。狐面の男がゆっくり、あぶくの中心に焔の目を向ける。
粘液をかきわけるようにして、黒々とした粘液の中から、赤く丸いものが、現れた。
まぶたを開けた目のようだった。ただしその目は、人間や獣のものではない。非常灯のような赤一色で、白目の部分は一切見当たらなかった。
赤い眼球の中の瞳孔は三つあり、正三角形を描くように配置されていた。瞳孔と瞳孔は黒い筋でつながっている。だが、その拡大と縮小の動き方は、まるでそろっていなかった。
ぐるり、と瞳孔が描く三角形が回転する。
ぎゅるり、……きゅるり。
狐面は右手を混沌に突っこみ、赤い眼球をつかんだ。眼球はその見た目とは裏腹になかなか硬く、大きさも硬さもちょうどハンドボールくらいだった。
しかし、男の怪力はハンドボールなどたやすく握り潰した。
ばぢ、と破裂した赤い眼球からは、濁った灰色の膿《うみ》じみた液体が飛び散り、流れだす。
無残に潰れた眼球の残骸を、男は力任せにづるりと引きずり出した。眼球は黒い筋で混沌とつながっている。人間の視神経のように。
狐の皮をかぶった化物が身じろぎした。
混沌が、また目を開ける。ひとつ潰されたくらいではこまらないらしい。
ううううウウ、こ・こ・コ・コ・コおお……。
不吉な音は、化物の吐息だったかもしれない。
赤い眼球は、三角形の瞳孔を回転させ続け、狐面を睨み続けていた。のたうつばかりになっていた脚と触手が、再びざわめき始める。
狐面の背後に、無数の脚が迫った。
振り返りもしない男の身体に、脚と触手は絡みつく。獲物をがんじがらめに縛り上げる蜘蛛の糸のようだった。化物は男の四肢だけではなく、身体も頭も締め上げた。
ぎ、
ぎり、ぎぎぎにににぎききぢぢぢぢぢ。
化物が、力をふりしぼって、男を高く持ち上げ、身体から引き離した。持ち上げながら締めつけている。あまりに強く力をこめていたから、折れる脚さえあった。
ぎぢ――
だが、結局、それも、無駄だった。
BLAM!
BLALALALALALALALAM,
BLAMBLAM!
猛烈なラピッドファイアが、狐面を援護した。
一発の弾丸が正確に一本の脚を撃ち抜き、本体から切り離す。
狐面の身体が、地面に落ちた。身体には、ちぎれた触手や脚が、痙攣しながらまだしつこく絡みついている。
狐面は自力で触手と脚の糸巻きをこじ開け、振りほどき、引きちぎった。肋骨の一本すら折れていない。
『唖嗚呼! 大汚!』
脚という脚をざわつかせ、怪物がいらついたような声を上げた。赤い視線がせわしなく辺りをうかがい、援護射撃を見舞った人物を探している。
見つからない。見つかるわけがない。銃撃者は、闇夜をあまりにもたくみに手なずけている。姿も気配も完全に、影の中だった。
化物は腹立ちまぎれに、狐面の男を突き飛ばした。
弾丸の勢いで、狐面の男は古い神社の中に突っこむ。腐った木材と床が、騒々しく破壊された。
拝殿の中には、割れた神鏡があり、腐り落ちた祭壇《さいだん》がある。床は湿気と黴で膨れ上がっていた。
梁からは埃を吸って肥った蜘蛛の巣が垂れ下がっている。そして、ありとあらゆるものが、鼻がまがるほどの悪臭を放っていた。
破壊の跡から悠々と起き上がる狐面は、無言で辺りを見回した。
彼のすぐそばに、丈夫なヒノキの梁がある。もうもうと埃が舞い上がっていた。今の衝撃で接合部が外れ、落ちてきたのだ。
ヒノキの梁は蜘蛛の巣まみれだったが、大きなひび割れも腐食もなかった。狐面はその巨大な木材を、ゆっくり両手で持ち上げる。
『苛、唖唖唖亞亞アアアぁ……』
拝殿の中が、ふっと、更なる闇に包まれた。
化物がその巨体をかがめ、中の様子をうかがっているのだ。圧倒的な暗闇に、赤く丸いランプがいくつもともった。ランプの中には、あの、回転する三角形がある。
狐面の男は両手で梁を掲げると、
赤い灯めがけ、投擲《とうてき》した。
無言だった。
『唖!』
巨大なヒノキの材木は、化物がかぶっている毛皮の傷口に、まともに命中した。ばちばちと赤い眼球が潰れ、粘液が押し出され、巨躯は後ろに倒れた。
床を踏み抜きながら狐面の男が前に突き進む。拝殿の外、うっすら藍色を帯び始めた外へ。
午前四時は間近だ、朝もすぐにやってくる。だが早朝の清々しさはここにない。ただ、鼻と正気をねじ曲げる、不愉快な悪臭があるだけだ。
横たわり、ばらばらと無数の脚をばたつかせる化物の身体の上には、丸太のように大きいヒノキの梁が横たわっている。
化物に追いすがった狐面は、腰をすえ、地面を踏みしめ、両手で梁を持ち上げた。建物そのものが傾ぐような、木の軋む音が響く。
狐面は鈍器[#「鈍器」に傍点]を振り下ろした。
べづん、
化狐のぼろぼろの皮ごと、怪物の身体がひん曲がる。怪物が奇妙な悲鳴を上げる。
狐面の男は、全身の力をもって、また梁を振り上げた。鈍器にするには梁があまりに大きく重く、狐面の男は、一歩ばかり後ろによろめく。
前に一歩踏み出しながら、男は再び梁を怪物めがけて振り下ろした。
ぼグん、
脚と触手はめしゃめしゃとにぎやかに動いた。
狐面の焔の目は激しく輝き、彼は、また梁を振りかざす――
どぢッ、どづッ、ボっ、ぼぐっ、ぼごん、めぢっ、めちっ、べぢッ、ゴがッ、ばキ、ぼムっ、
ばギギッがッ!
殴った、狐面は執拗《しつよう》に殴った、殴る殴る殴った、殴打した、徹底的に、無慈悲のあまり無言で、殴った殴った殴った。ヒノキの梁が曲がり、赤黒い血にまみれ、ついには音を立てて折れるまで。
化狐の顎は一八〇度近く開いていた。その喉の奥から、触手や脚の他に、げろげろ赤と緑と黒の泡がはみ出している。
尾は潰れていた。くしゃくしゃになって、黒ずん
だ汚濁にまみれていた。尾の先から生えている触手と脚は、動かなくなっていた。
『亞亞亞亞唖……ァ、慧慧獲汚悪悪菟宇宇羽ゥ!』
狐面の視線が、ゆっくりと、上に向けられていく。
化狐の毛皮の裂け目から、ぬめぬめとした色彩を持つタールが流れだし、そして――無色透明の気配が、上空へ向かって伸びていくからだ。
『異異異唖! 異唖唖ァ、無唖羅唖兎腐菟菟唖唖、異亞! 威遺揖違亞亞ァ! 無唖羅唖兎腐菟菟唖柘植ァ唖亞亞、異唖ァ!』
言葉でも音でもないもので、そいつはなにかを叫んでいる。耳と脳髄をつんざく、ねじ曲がった嘆願と怒号だ。
目には映らない、化物の中身[#「中身」に傍点]。本体[#「本体」に傍点]。化物は、乾燥に弱い粘液状の肉をかぶり、さらにその上に狐の皮をかぶっていたのだ。
狐面の男は、それを焔の目で追っている。逃がしはすまいとねめつけている。そして透明な存在も、狐面を憎悪の瞳で見下ろしているのだった。
[#挿絵(img/214.jpg)]
藍色の空のかすかな光が、神に似た者の身体を通り抜けるとき、わずかに屈折した。透明な輪郭が、おぼろげに空に浮かび上がる。
それはヒトのかたちも、獣のかたちも成していない。不定形だ。触手のようなものを持っているらしい。原初から生きる単細胞生物になら、そんな姿をしているものもいるだろうか。
無色の体内に、いくつもの赤い点が生まれ、小刻みに震えながら膨らんでいる。
三角形の瞳孔を持つ赤い眼球だ。
赤い視線を受け止めながら、狐面はわずかにうつむいた。
こホおおおお、と彼は初めて大きく息をつく。
体内に四四の眼球を生やした怪物が、その、見えない触手を振り上げた。どんな木よりも、拝殿よりも、はるかに大きい怪物だ。触手が動いただけで、蕪流の空気のすべてが揺れたようだった。
空を切り裂きながら三本の触手が振り下ろされた瞬間、狐面の男は、さっと顔を上げた。
火焔!
その両眼は人間の網膜を焼きかねないほどまばゆく光り、火山が噴火を起こしたような轟音が町を揺らした。
狐面の男は、反動を受けたかのようにのけぞって、一歩後ろによろめいた。コートははためき、ネクタイが暴れる。
神ならざるものがずばんと燃え上がった。四四の眼球は一度にすべてが破裂した。無色透明の身体が、たちまち紅蓮《ぐれん》の焔につつまれ、蕪流の小山の中腹から、巨大な火柱が上がったようだった。
蕪流町の北側が、真っ赤に染まる。
『アエエエエエエエエ!』
『しゅエエエエエエエ!』
『ニフ、ニフ、ニフ……』
『ワエエエエエエエエ!』
『ニャ・ルシュシュシュシュタ! ニャ・ア・アア・アア! ニャ、シャシャ、シャ、ガ・ガガナァア!』
町中に無数の断末魔を響かせて、橙と赤の炎は消えていく。
もちろん、無色透明の化物を道連れに。
化物の足元でのびていた、ぼろきれ同然の化狐の皮や、黒い脚と触手も、炎によって焼き尽くされた。
すさまじい業火が消え失せたあとには、ただ――破壊の跡と、狐面の男だけが残されていた。
ためらいがちに、コオロギが初めに鳴きだした。
スズムシが、マツムシが、あとに続く。
鳥が、朝の歌を――
ぼほぅ、と夜明けの冷たい風が吹いて、
男ががくりと膝をつく。その手が、震えながら狐面を顔から取った。
狐面の下にあった男の目から、ふた雫《しずく》ほどの涙がこぼれ落ちる。……いや、それは、汗だったか。
フジミさんが勝った。
[#改ページ]
[#見出し] 漆 フジミさん、車をもらう
稲村凛子は、蕪流《カムリ》第一病院の病室で目覚めた。
四人部屋の、窓側のベッドだ。残りの三つのベッドは空だった。広い病室を、ひとりじめだ。
ここは蕪流でも一、二を争うほど大きいが、古い病院だった。冷房はないし、窓の下に波型のヒーターが設置されているだけだ。このヒーターもかなりの年代もので、ちゃんと動くのかどうかは疑わしい。
両手が動かない。右足もだ。それどころか、息をしただけで胸がしくしく痛むし、脳味噌が割れて流れ出しそうなほどの頭痛がある。
気分も体調も最悪だった。
「おはよう。気分はどうかな」
そばにいたらしい医者が、ぬけぬけとそんなことを凛子に尋ねた。
凛子は目だけをなんとか動かし、声の主を見上げる。見たことがあるようなないような、そんな顔の医師だった。胸には『出張医』とだけ記されたネームプレートをつけていた。
「あたまが、い、たい、です。とても」
凛子はかすれた声で素直に答えた。医師は生返事をしながら、用箋《ようせん》ばさみの上の紙面に、なにごとか書き入れた。
「それじゃ、もう一回レントゲンだね。レントゲンはいいよ、たいていの異常がわかる。念のため血液検査もしたほうがいいかな」
「あ、の」
「ん?」
「いつ、わたし……だれが、ここ、に……」
「搬送《はんそう》されてきたのは一昨日の夜中。誰が救急車を呼んだかまでは、ちょっとわからないかな」
医者の応対は事務的だったが、声は少しやわらかい。けれども、聞いていてかすかな不安を誘う雰囲気だ。目にも笑みにも、はっきりしない違和感がある。
「しかし、そのケガでこんなに早く意識が戻るとはね。身体は丈夫なほう?」
「……わかり、ません」
「そうか。じゃ、もう少ししたらレントゲン撮ろう。それまで休んでて。いいね」
ボールペンを胸ポケットにしまい、医師は立ち去る素振りを見せた。凛子は慌てて、かすれ声で彼を呼びとめる。
「あ、あの」
「ん?」
医師は微笑しながら振り返った。
「どこかで……、おあい、しました、か。センセイ」
医師は微笑んだまま、無言だった。
窓の外は、晴れているようだ。
晴れ。
青い空を見るのは、久し振り。
医師が行ってしまったあと、凛子は広い病室に一人だけになった。
空が青くて、自分は助かっていて、太陽がまぶしいということは……ようやく、終わった[#「終わった」に傍点]ということだ。
自分だけが助かってしまった。大切な存在を失ってしまった。もう手遅れだということはわかっていたし、もう少しで自分も喰われて化物《ばけもの》に取りこまれるところだったというのも、わかっている。
けれども……。
凛子は泣きかけた。
涙が勝手にこみ上げてき――
「はぁ、ようやっといなくなったわ。あンの罰当たり、いつか祟ったる」
突然若い男の声が上がって、凛子は飛び上がりかけた。顔を動かせない彼女にはわからなかったが、青年がひとり、空のベッドの下から這い出してきていた。
長い黒髪をうなじのあたりでひとつにくくった、細身の男だ。ことばは京都訛り、ファッションセンスもいい。
「い、い、イナギさん!」
「あぁ、大声出したらあかんよ。リンちゃん、アバラ折ってんねんで」
稲城夜七。白い肌に白い笑み、黒い髪と流行の服。凛子が会うのは、久し振りだ。前に会ったのは、まだ、空がそれほど濁っていない頃だっただろうか。ともかく、本当に久し振りで、突然だった。
夜七はなにも変わっていない。凛子がそう思えたのは、彼を誌面で毎月のように見ていたからかもしれない。ただ、少しだけ疲れているように見えたが。
驚きは、嬉しい驚きに変わっていった。凛子は顔を赤らめて、言われたとおり、おとなしくした。
「ほんまにおつかれさんやったなあ。フジミさん、片づけてくれたで」
「いつ……」
「昨日……いや、もうおとといになんのかなあ。まぁまぁまぁ、しんどかったわぁ、ほんま」
夜七はベッドのそばの椅子《いす》を引いて、苦笑いしながら腰を下ろした。うなじをかく右手に、真新しい包帯が巻きついている。
「でも、いっちばんしんどかったんはリンちゃんやろな。リンちゃんも喰われるまえにフジミさん見つかったんは、不幸中の幸いっちゅうやつや」
夜七の顔から笑みは消えて、凛子も唇をかんだ。
「〈非神《アラズガミ》〉の根っこがリンちゃんの神社ンとこにあったんやな。リンちゃんが暴れだしたときは、もうダメかと思うたよ」
「……フジミさんが、〈非神〉の分身を、追いつめて。〈非神〉がどんどん機嫌をわるくしていって……。わたし、具合が、わるくなっていきました。たおれてしまったあとのこと……、ほとんど、なにもわからなくて。イナギさん、ご迷惑をおかけしませんでしたか」
凛子は、ちらりと夜七の右手を見た。視線を感じたのかどうかはさだかではないが、夜七はそっと腕を組んで、包帯まみれの右手を隠した。
「迷惑なんて、めっそうな。よう言わんわ。リンちゃん、今風に言うと『被害者』なんやで。もっと大きな顔しとったらええねん」
「でも、イナギさん……」
「ええって、もう」
「…………」
夜七は苦笑いを浮かべていたのだが、凛子の表情は曇っていた。せっかく空が晴れたというのに、彼女のまわりだけはいまだに雲がかかっている。夜七の苦笑も、ゆっくりゆっくり、消えていった。彼は、うつむいてしまった凛子の横顔を、静かに見つめる。ふたりともなにも言えないまま、重たい時間がのろりと進んだ。
自分でも知らないうちに、凛子は涙を流し始めていた。両手が動かないから、涙を拭《ぬぐ》うこともできない。しかし、拭いたくはなかった。嗚咽《おえつ》だけはかみ殺し、彼女は鼻水をすすって、涙は流れるままにしておきたかった。
だが、夜七がサイドボードのティッシュを取り、凛子の涙を拭きだした。結んでいた凛子の唇が開いて、嗚咽が激しく漏れ出した。
「スズ、スズコが……」
「うん」
「スズ、わたしを……」
「うん」
「た、たすけてくれました。スズ、グズなわたしを、た、たすけてくれて……スズ、スズが」
「うん、……うん」
「あああああぁ、ああああああぁ……」
「あぁ、つらかったなぁ。かわいそになぁ。あぁ、オレがリンちゃんの『対』になれたらええんやけどなぁ、なぁ、すまんかったなぁ、オレ、なぁんにもせえへんで――」
ティッシュが積もった。
いくらでも積もっていった。
出張医[#「出張医」に傍点]は稲村凛子の病室を出て、白い廊下を歩いている。出張医だというのに、蕪流第一病院の勝手を知っているような、確実な足取りだ。
曲がり角から突然現れた急ぎ足の看護師をひらりとかわし、車椅子の老人に笑顔で挨拶し、迷路のように入り組んだ廊下を進んでいる。
途中、小児科を通り過ぎた。出張医はぱたぱたと歩き回っている子供にも変わらぬ笑顔と挨拶を落としたが、子供はなぜか身体を強張らせて硬直していた。
彼は子供に嫌われているようだ。しかし、肩をすくめて苦笑いしただけで、あとは何事もなかったかのように歩みを進める。
この病院は無計画な建て増しや改築を繰り返してきたため、ひどく構造が複雑だ。何年勤務しても場所を覚えられないと、どの関係者も患者も愚痴をこぼしていた。
また急ぎ足の看護師だ。出張医は再びあざやかに身をひるがえした。出張医は彼女にぶつからなかったが、彼の後ろをぼんやり歩いていた患者が被害に遭っていた。
「キャー! すすすすいません!」
「どぁー、いてぇええ!」
「あらら」
けたたましい悲鳴に、出張医は振り返ったが、足は止めない。看護師がぶつかったのは、片手をギプスで固めて首から吊っている青年だった。
「僕がぶつかっておくべきだったか」
苦笑いを一瞬浮かべた出張医は、ロビーの隅にある携帯電話ブースに入った。ブースはふたつあったが、一方は使用中だ。病院関係者が携帯電話を使用したいときは、奥に専用の場所があるのだが、彼はあえてここを選んだようだった。
懐から携帯電話を出して、耳元に持っていく。
「〈白衣《ラボ・コート》〉」
彼は、短くそう告げた。
『今日付で届いたサンプルだが、あれはなんだ?』
英語だ。
「〈ザイフリート〉の組織片がなかなか手に入らないものでな。確かそちらは先日、毛髪では満足できない、と」
出張医も、流暢《りゅうちょう》な英語で返した。
「こちらとしては、それはある意味〈ザイフリート〉組織片より価値のあるものだと思うのだがね。つなぎ[#「つなぎ」に傍点]はご不要だったかな?」
『私は、あれはなんだ、と聞いている。地球上の物質ではなかったぞ』
「答えが出ているではないか。その分析結果がすべてだ」
『…………』
白衣の彼は、にやりと唇を歪めた。相手の沈黙が心地いい、と言わんばかりに。
「扱いには気をつけることだな。それは人も喰うらしい」
『……連絡がもうひとつある。〈ザイフリート〉が移動する可能性が高まった』
「引き続き調査を続行か?」
『無論だ』
「有り難い」
『なに?」
「独り言だ」
『死神が独り言か』
出張医はなにも言い返さなかった。
『では、報告を待つ』
通話は終わった。だが、出張医はブースを出ない。
「まだ、私の興味は尽きていないからな」
携帯電話をいじっている素振りを見せながら、彼は――となりのブースとの仕切りでもある壁を、横目で見つめている。
『仕事進んでるかー、功さん』
久し振りに、年の離れた義弟の声を聞いた……気がした。富士見はほっとして、電話のマイクが拾わないよう気をつけながら、慎重にため息をつく。
ここは狭くて暑苦しい。ため息がすぐにはね返る。
「いやぁ、それがね、ぜんぜん進んでなくてねぇ」
『なにしてんだよ』
「あぁ……いろいろあって……」
とても「いろいろな出来事」については、瀞にも詳しく話せない。腹を割って話せる仲だとお互いに言ってはいるものの、多少の秘密は持っている。
わけあって富士見は身体の調子が悪いわけでもないのに病院に来ているのだが、それも瀞に悟られてはまずいのだ。説明が面倒になる。
『功さんってボサッとしてるけどさ、仕事はけっこう早くて、しっかりしてるほうじゃなかった? ちゃんとしろよ。東京帰れねーだろ、そんなんじゃさァ、いつまでたっても』
幸い、瀞は根も葉も掘らず、単に呆れてくれた。
「あー、そうだよね。どうしよう」
『そんなことオレに相談してどうすんだ! オレが言えるのは「さっさと仕事終わらせろ」ぐらいだぞ』
「でもホラ、まぁ、アレだから」
『アレじゃわかんねーよ』
「その、厄介なところが、片づいたんだ。やっと本腰入れられるよー」
『ふうん。よかったじゃん』
「うん。ジョーくんの声聞けて、ワタシゃなんだかすごく嬉しいなぁ」
『女かよ! ……まァ、確かに、なんかちょっとすっきりした声してるかな、功さん。やりとげたんだな[#「やりとげたんだな」に傍点]な?』
相変わらず、ジョーの台詞にはギクリとさせられる。自分がこの蕪流でなにを成し遂げたか、見透かされた気になって、富士見は一瞬息を呑んだ。
「え、えぇ、はい」
『なんで敬語なんだよ!』
「ジョーくん、どうしていっつもすぐ怒るんだい。怖いよぉ、ヤクザ屋さんみたいだよ」
『怒ってんじゃねーの、ツッコんでんの! ったく、しっかりしてくれよ』
「そ、そうだね。あんまりぼんやりしてるとアレだし、気をつけるよ、いろいろと」
『アレじゃこまるんだって。まぁ、……とにかく、早く仕事終わらせて東京戻ってきてよ。酒飲もう、パーッとさ』
「うん。これから仕事しに行くよ」
『そんじゃ、邪魔したら悪《わり》ィから』
「あぁ、じゃ、また」
富士見は携帯をたたむと、すっかり蒸し暑くなった携帯電話ブースを出た。
消毒薬の匂いと涼しい空気が押し寄せてくる。目の前には受付があり、顔色の悪い人や老人がちらほらと座っていた。
蕪流町では最も大きい病院だ。看護師や医師や患者がせわしなく移動している。
「おや。フジミさん」
携帯電話ブースはふたつある。となりのブースのドアが開いて、聞き覚えのある声がした。振り返ってみて、富士見はぞくりと総毛だった。
いけしゃあしゃあと胸に『出張医』のネームプレートをつけている、四〇代男性。
「し……、城田センセー」
「やあ。偶然だね[#「偶然だね」に傍点]」
しれっ、と城田恭一は笑顔で言った。富士見の背に、どっと冷や汗が噴き出る。もしかすると本当に偶然なのかもしれないが、この男が言う「偶然」ほど信用できないものもない。
「大丈夫だよ、この壁は防音だから、富士見さんの話なんか聞こえなかった。僕もずっととなりで電話してたけど、聞こえなかったでしょう」
「はあ、まあ」
「それで? レントゲンでも撮りに来たのかい?」
城田が目を細めた。
その目が茶色をしている。
白衣がサマになっていて、本当に、医者として不自然なところはどこにもないように思われた。
「リンコさん……、稲村凛子さんのお見舞いに。いえ、意識が戻っていれば、なんですけど」
「今朝戻ったよ」
城田はさらりと答える。それを聞いて、富士見は純粋に、嬉しくなった。自分の顔に光明がさしていくのがわかる。〈対〉の片割れを亡くしたが、凛子は死なずにすんだのだ。
「ほんとですか! そりゃあよかった。会えますかね?」
「どうだろうな、医者としては絶対安静にしててほしいけど。今は、例のヤシチくんが面会中[#「例のヤシチくんが面会中」に傍点]」
城田は、意味ありげに笑った。
富士見はその意味に気づかず、考えこむ。稲城夜七。彼なら、いつでもここに出入りできるのだろうが――積もる話もあるだろう。
「……じゃ、ワタシゃ日をあらためますわ」
「いいのかい? フジミさんもレントゲンくらい撮っていけばいいのに。ジェーンさんもこれから撮るんだよ」
「センセーってなんでそんなにレントゲン好きなんですか……」
「血液もUSPも同じくらい好きだよ。僕は信頼できるものが好きでねえ」
「はあ」
「今日は、いい天気だ。久し振りのビタミンD日和だよ。この町で太陽が見られたのも、フジミさんのおかげだな」
城田はふと、病院の玄関を見てそう言った。彼が本当に富士見に感謝しているのかどうかは――わからなかった。
「それじゃ、僕はこれからレントゲンの確認だから」
彼の退《ひ》き際はいつもあっさりしている。彼はしかし、一見、嬉しそうに笑っていた。相変わらず眼光が医者にしては鋭いのだが、レントゲンが大好きなのは事実なのだろう。もしかするとビタミンDも大好きなのか。
城田が颯爽《さっそう》と曲がり角の向こうに消えていくのを、富士見は見送った。それから、多くはない荷物を持って、蕪流第一病院をあとにした。
旅館『い志の』は今朝チェックアウトしている。女将と料理人の行方がわからなくなったからと、従業員に追いだされてしまったと言ってもいい。
従業員が慌てていたうえに混乱していた。富士見がその失踪《しっそう》に関与しているのではないかと疑うほどの余裕はなさそうだった。
富士見は後ろめたい気持ちと重い荷物を抱えて、とぼとぼと蕪流の住宅街を歩いている。『い志の』の女将と料理人を殺したのは〈非神《アラズガミ》〉だが、跡形もなく焼き払ったのは他でもない彼だった。
警察は、自分を追ってくるかもしれない。
富士見の胸に、不安が爪を立てる。
もし事情聴取されたとして、そのときは、なんと言えばいいのだろう。この町で、彼はよそ者だ。しかも、致命的に嘘が苦手な。どうごまかしても無駄だろう。かと言って、真実を話すわけにもいかない。富士見はあっちの病院[#「あっちの病院」に傍点]に入りたくなかった。
病院のまわりは緑が多く、道ばたにベンチが備えつけられている。あまり使われている形跡はなく、うっすらと砂をかぶっていた。
右手には大きな鞄、左手にはスーツケース。あるだけの服を詰めてきたので、持ち歩くのはかなり難儀だ。両腕は悲鳴を上げていて、引きちぎられそうな痛みがあり、富士見はすっかりまいっていた。これで本来は怪力なのだという。まったく信じられる要素がない。
「……どっこいしょ、と」
富士見はため息をつきながらベンチに腰かけ、空を見た。
抜けるような青空だ。陽光が遠慮なく目を突き刺してくる。
コートを着ている富士見が、少し汗ばむくらいの陽気だった。しかし、風は涼しくて、心地いい。東京ではあまり聞かない鳥の声が、耳をくすぐる。
鳥の声が、近づいてきた。
「……あ」
見たこともない鳥が、ベンチの背にとまったのだ。手を伸ばせばつかまえられそうなほどの距離だった。地味な羽根色の鳥だったが、さえずりは録音しておきたいほど美しい。そして、富士見の手ほどもない体格だというのに、驚くほどの声量だ。富士見は黙って、知らない鳥の歌に聞き入った。
ひとしきり歌い、野鳥は飛び去った。富士見はかれを、座ったまま見送る。鳥はすぐに空に吸いこまれ、見えなくなった。
山間の九月下旬にふさわしい風と空だ。
久し振りに、青い空を見た。
この空を取り戻したのは……、
「フジミ」
「よ、フジミさん」
突然横から声をかけられ、富士見は素っ頓狂な悲鳴を上げて振り返った。
いかめしい顔をした稲木八郎太がいる。
となりには稲城夜七だ。
「あ、どど、どーもぉ」
いつの間に現れたのか。まったく気配を感じなかった。いや、富士見はもとよりにぶいのだが。ぺこぺこしながら、富士見はベンチから立った。
「いまの鳥さん、アンタにお礼言うとったで」
夜七は笑顔だ。
笑顔で、稲木の脚を踏みつけた。踏まれた稲木は夜七を睨み、富士見のほうに向き直って、軽く咳払いした。
「〈非神《アラズガミ》〉討伐ご苦労。よくやってくれた」
稲木は相変わらず不機嫌そうな表情だし、態度には威圧感があったので、富士見は少しもねぎらってもらった気にならなかった。
だが、仕方がない。稲木はたぶんそういうたちなのだろうから。夜七は彼が人間嫌いだとも言っていたはず。きっと筋金入りなのだろう。
と、富士見があきらめにも似た気持ちでいると、稲木がじろりと夜七に目をやって、吐き捨てた。
「これでいいか、夜七」
「だぁッ、なんやそれ、台無しやんかぁ!」
……どうやら稲木は夜七に言われて、しぶしぶ富士見をねぎらったらしい。夜七は芸人のように相方を怒鳴りつけ、富士見に向かって手を合わせた。
「か、かんにん! 許したってくれ! あぁもぅ、よう言わんわ、ほんまにコイツ!」
「人に手を合わせる眷族《やつ》があるか、阿呆め! だいいち、〈非神〉の討伐はフジミの当然の使命だ。なぜ我々がわざわざねぎらう必要がある!」
「アホはどっちゃ、コラ! フジミさんがおらんかったらリンちゃんも死んどったんやぞ!」
伏見稲荷の御眷族が激しくどつき合いを始めたので、富士見は八秒ばかりおろおろした。眷族同士、しかも『対』の間柄のふたりというのは、仲がいいのではないのか。
「ちょっ、ま、まぁまぁまぁ、落ち着いてください! あっ、えっと、おそばでもどうですか。きつねそばとか!」
ちょうど車道の反対側に食堂があった。メニューはわからないが、たぶん、きつねそばやきつねうどんくらいはあるだろう。
ほとんどその場しのぎの出まかせのつもりだったが、フジミがそう言ったとたん、ふたりのオキツネサマがぴたりと喧嘩《けんか》の手をとめた。
「フジミさんのおごり?」
「お前からの捧げ物か?」
「……はい」
「いやぁ、そらおおきに!」
「受け取ってやらんでもない」
オキツネサマはおとなしくなった。夜七にいたっては、子供並みの喜色満面だ。
油揚げにはこれほど劇的な効果があるのか。覚えておかなければ。
富士見は自分に言い聞かせながら、さっさと先に車道を渡っていく御眷族に続いた。
きつねそば/きつねうどんは五八〇円だった。
取り立てて特徴のない小ぢんまりとした食堂だった――この町の縮図のようだ。
無難に六三〇円の親子丼を食べる富士見の前で、御眷族のふたりはご満悦だった。本当に油揚げが好きらしい。ふたりはわずか五分でぺろりときつねそばをたいらげた。
「はぁ、ごっつぉさんどした」
「いい揚げだった。この店をもっと繁盛させてやってもいい[#「この店をもっと繁盛させてやってもいい」に傍点]」
「そうですか。よかった」
機嫌も直ったようだし、と富士見は心中で付け加える。神様の遣いの相手は骨が折れる。これから先、ずっと付き合うことになるのだろうが、さぞかし大変な毎日になるにちがいない。富士見は覚悟しておくことにした。
「あのう、リンコさんなんですが……」
夜七は凛子に会っている。容態を聞こうと富士見が話を切り出すと、
「その凛子のことで話がある」
稲木が割りこんだ。彼は眼鏡を直し、居住まいを正した。夜七は富士見が自分に話しかけようとしていたのがわかっていたらしく、一瞬、横槍《よこやり》を入れた稲木をものすごい目で睨んだ。
稲木は相棒の無言の抗議を知ってか知らずか、平然と話を続ける。
「この町の神殺しが無事に終われば、凛子をお前の正式な目付にする予定だった」
「はあ」
「フジミさんの目付になるとな、どんなちいさい神社の眷族でも、特別に全国|津々浦々《つつうらうら》まわれるようになるんよ」
「全国に三万二〇〇〇の分社を持つ我々でも、足が届かない土地はある。それに忙しい。お前は眷族と神の力がなければただのしぶとい人間だ。目付はどうしても必要になる」
言いながら稲木は分厚い手帳を出してページをめくっていたが、あまり嬉しいことは書かれていないのか、渋面でため息をついていた。
「だが、あいにくお前の世話を満足にできそうな者がいない」
「皆さんお忙しいんですねぇ。……いや、ワタシもこの町の仕事が残ってるんですけど……」
その言葉を受けて、稲木は顔を上げる。右手の包帯をいじっていた夜七も、「あぁ」と声を上げた。
「それについては心配しなくてもいい」
「うん」
「なんでですか?」
「わけは知らんほうがええと思うよぉ」
夜七がわざとらしく怖い笑みを浮かべ、声を落としてそう言った。ご丁寧に、含み笑いまでつけていた。
世の中には知らないままのほうがいいこともある。
富士見はごくりと生唾を呑んで、頷いた。
「目付については考えておこう。追って連絡する。それまで休んでおけ。それと……」
稲木はため息をつき、隣の夜七をちらりと睨んでから、面倒くさげに話した。
「こいつがうるさいから、お前に利益を授けよう」
「なんや、その言いかた! リンちゃんからの頼みもあんねんぞ」
二人はまた睨みあってぶつぶつと言い争いをしたが、人の目がそばにあるからか、殴り合いまでには発展しなかった(御眷族がきつねそばを食べ終わってから、急に客の数が多くなったようだ……)。
言い合いもすぐに終わって、富士見が戸惑っている間に、稲木が正面を向いて二度手を打った。柏手《かしわで》だろうか。
「店を出て南に八五歩」
稲木が手を合わせたまま低くつぶやく。
その隣では、夜七がジェスチャーで「メモれメモれ」と言っている。富士見はそれに気づき、慌てて紙ナプキンにボールペンを走らせた。
「然《しか》るのち西に一一八歩。北を向け。お前の望むものがある」
「八っつぁんおまえ、住所で言うたれよ」
「こんな田舎町の地理など知るか」
「あぁ、今のリンちゃん聞いたら泣くわ」
紙ナプキンに書きとめた「お告げ」を眺め、富士見は頭をかいた。自分が今望んでいるものがなんなのか、よくわからない。
だが、神様の遣いが「ある」と言っているのだからあるのだろう。ここで聞き返しても結局やっぱりきっと祟られそうだ。
「あとほかに、この町でフジミさんに都合悪いこと、こっちで片づけとくわ。リンちゃんもしばらくはオレが看《み》とくさかい、フジミさんはなんにも心配せんでええよ。ほんまに」
夜七はからから笑いながらひらひら左手を振っている。確かこの男は脇腹や肩に傷を負って、かなり流血していたはずなのだが。富士見は今さらのように思いだした。
ほんの二日前のことだ。あの夜更けは。まるで遠い日の思い出のようだ。凛子も、ずっと長いこと入院しているような気がする。
そう言えば[#「そう言えば」に傍点]彼女もかなりひどい怪我だったが、もう意識を取り戻した。御眷族は身体が人間のもののはずだが、やはり普通の人間とは気力も回復力も違うのだろうか。
――まぁ、いいさ。元気なら、それで。
彼女に伝えたいことがある。元気で生きているなら、今日や明日でなくとも、言う機会はあるだろう。彼女が退院してからでもいい。
――できればスズコさんを助けたかったんだけど、できなかったよ。ごめん。彼女の身体も、全部焼いちゃったんだ。スズコさん、リンコさんになにか言ってたようなんだけど、仕事中の[#「仕事中の」に傍点]記憶はどうもぼんやりしてて……覚えてないんだよ、スズコさんが、なにを言ってたか。ごめんよ。こんなワタシゃあ……お礼をもらえるほど、役に立てたのかなぁ?
考えこんだフジミの前で、稲木と夜七が席を立った。
「ほな、フジミさん」
「あ。ど、どうも」
「また連絡する」
偉い御眷族がお帰りだ。
富士見は立って、ふたりを見送った。手を振ってまともに別れの挨拶をしてくれたのは夜七だけだった。稲木は振り向きもしない。
食堂を出たふたりが見えなくなってから、富士見はすぐに代金を払って外に出た。ぱっとしない食堂だったが、いまや席を待つ人がいるほどに混雑していたのだ。
左右には直線の道路がのびている。
けれども、御眷族の姿はどこにもなかった。
見上げれば、太陽。
「……南に、ええと、八五歩……」
紙ナプキンにしたためたお告げは、ずいぶんとケタが大きい。両手に提げた荷物はずっしりと重く、腕のだるさはいや増すばかり。
――あぁ、せめて車があればなぁ。
しかし、せっかくオキツネサマがなにかくれるというのだからと、富士見は歩数を数えながら歩き始めた。
西に一一八歩。
北を向く。
「あー!」
思わず富士見は大声を上げていた。中年の素っ頓狂な驚愕が、閑静な町に響きわたって、どこかの犬が狂ったように吠え出した。
お告げにしたがって歩いてみれば、たどり着いたのはみすぼらしい中古車店。砂利と雑草がむき出しの敷地に停められている売り物は、どれも古く、冗談のように安かった。
そんな廃車寸前の売り物の中に、トヨタのカローラがあるのだ。カローラ。いい車だ!
しかもそのカローラは、おそらく、富士見が失くした相棒と年式が変わらないように見えた。ボロで、絶対にどこか壊れていて、冬の冷えこむ日にはエンジンがかからなくなりそうな、あのカローラ。
フロントガラスの内側に入っている大きな値札は、破格の五万円を示していた。車の値段とは思えない。
「うわぁ、……うわー、コレだ! いやぁちょっと! オキツネサマってすごい!」
「なに、あんた。客?」
ざくざくと砂利を踏む足音が近づいてきた。面倒くさげな顔をした髭面の老人だ。敷地内の錆びついたプレハブから出てきたらしい。ということは、店主だろう。
プレハブの屋根には、これまた錆びついた鉄板の看板が取り付けられていた。カーショップミズタニ。ということは、彼はミズタニさんというのだろう。
「コレ売ってもらえますかね」
「あア? こんなんでいいの? 大通りにもっといい店あるよ。おれの甥っ子がやってるんだけどさ」
「いや、コレがほしいんです」
「ふうん……あんた頭大丈夫かい」
客には言っていいことと悪いことがある。富士見は腹を立てるより、なんとなく悲しくなって口をつぐんだ。
店主は富士見ではなく、自分の店を見つめていた。眉をひそめ――まるで初めてこの店の中に立ったと言いたげな表情だった。
「なんだこりゃ、ひどいな」
呆れた口ぶりで、彼は呟く。
「おれァ、いつから草抜きサボってたんだ。おまけにこんな、売れるわけねえゴミばっかり置いてよ……とうとうボケちまったかなア」
「でも、このカローラ、ワタシにとっちゃゴミじゃないです」
店主が驚いた顔で富士見を見た。
「そんなに気に入ったんなら、二万で売るよ」
ラジオが壊れていて、マフラーとエンジンが息切れのような音を出すカローラ。二万の価値しかない車。ガソリンを満タンにして、富士見は蕪流の町を走りだした。
どこから仕事を始めようかと考えた矢先だ、会社から電話がかかってきたのは。富士見は急ブレーキをかけ、あたふたと懐から携帯電話を取り出し、路肩に車を停めた。運転中に携帯を使っていて、東京で一度警察に止められたことがあるのだ。
後ろを走っていたトラックが壮絶なクラクションを浴びせてきて、富士見は「すいませんすいませんすいません」と魔除けの呪文を唱える。
仕事の進み具合を聞かれるのかと思って富士見は生きた心地がしなかったが、向こうの用件は、彼の予想をはるかに上回ったものだった。
「え、戻れって……戻るんですか、本社に?」
『あ、ああ、そうなんだよ、悪いんだけどさ……。急にね、フジミさんに行ってほしいところができて』
「でも、蕪流の調査、ぜんぜん進んでないんですけど」
あまりに意表を突かれたので、思わず富士見は正直に言ってしまった。しかし、高橋専務は怒らなかった。それどころか、弱りきった声が返ってくる。
『いいんだ、それは、べつに。頼むからそこの町は切り上げて、早く東京に戻ってきて。ほんと申し訳ないんだが』
「は、はあ」
専務の青褪めた顔が目に浮かぶようだ。声も泣きだしそうなほど震えている。彼はなにをそれほど恐れているのだろう。まるで銃か刃物で脅されながら電話しているような雰囲気だ。
「あのう、高橋さん、どうしちゃったんですか。ワタシの仕事っていったい――」
『頼むよぅ、フジミさん、帰ってきてくれえ! そんで次の町に行ってくれえ! ちゃんと給料は払うから、お願いします! お願いですぅうう!』
ぶヅん。
突然切れた通話に、富士見は呆然と携帯電話を見つめるしかなかった。
「……なんなんだろう、もう……。仕方ないなぁ。それに高橋さん、なんで敬語……」
四二年も生きていれば、あきらめも早くなってくる。もっとも、富士見の場合、昔からそれほど覇気を持っているほうではなかったが。
携帯電話はしまわずに、富士見は永瀬瀞の電話番号を呼び出した。昼前に話したばかりだが、新しく話さなければならないことが一気に増えた。向こうは仕事中だろうが、きっと出てくれる。瀞はそういう男だ。
呼び出し音を聞きながら、富士見はちらりとルームミラーに目をやった。
遠くに……、ダークブルーのシーマが停まっているように見える。運転席には、彼が乗っているようだ。今の目の色は、青だろうか、茶色だろうか。あの冷たい、恐ろしい、ある意味無邪気な視線を感じる。視線が、富士見の眉間を貫いている。
恐々と、富士見はゆっくり、目を前方に戻した。
「あぁもうセンセー……、でも、仕方ないか……」
ため息。
ため息のほかに、なにができる?
富士見功に、なにができる。
彼は身体が頑丈なだけで、結局は――それだけの、そういう男なのだ。
――それでいいよ、ワタシゃ。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
あとがき
諸口《もろくち》|正巳《まさみ》です。はじめまして。
はじめてではない方もいらっしゃるかもしれませんが、他社で出させていただいたデビュー作含む既刊は絶版になってしまっている上に部数も少なかったので、稀少《きしょう》かと思われます。色々ありましたが元気でしたよ。唐突ですが、そんな珍しい方向けのご挨拶。
捨てる神あれば拾う神ありという格言を実感した一年でした。人生というのは何がきっかけで何が起きるかわからないものです。使い古された言い回しですが、本当にそう思います。前述の捨てる神あれば拾う神ありという言葉も含め、このような格言というのは一体、どこのどなたが初めに口にしたのでしょうね。
C★NOVELS編集部の方々からは「とにかくお好きなようにお好きな作品を好きなだけ書いてください、いやあんまり長すぎると困りますけど」という豪気《ごうき》なご依頼をしていただき、おかげさまで『不死身のフジミさん』を書き上げることができました。タカハシ様による素晴らしすぎるイラストまで付けていただくことができました。
オヤジ、殺人鬼、グロ、血、アクション、おきつねさん、スプラッター、殺人、内臓、イカレた人、神道、鈍器、外宇宙、目からビーム、好きなものをありったけ詰めこんだので弁当箱がはちきれそうです。ごちそうさまです。今回入れる余地がなかったのはチェーンソーくらいのものでした。
「なんで不死身の主人公が眉目麗しい吸血鬼とか出会って恋をはぐくむ少年少女じゃなくてオッサンなんだ」と言われても、「主人公は眉目麗しいヤツや年頃の少年少女にしろという法律はないから……わたしがオヤジ好きだから」としか答えられません。すみません。
一応、今のところ、このフジミさんシリーズは全三巻という構想で執筆しておりますので、最後までお付き合いして下さると幸いです。続刊で必ずチェーンソーを出します。
二〇〇七年四月の始めごろ、まあ色々あって、こうして本一冊分の原稿を書き上げ、あとがきを書くことになる日は二度と来ないのだろうなあと、殺人鬼フィギュアを眺めながらしみじみ感慨《かんがい》にふけっておりました。しかし二〇〇七年一二月のわたしは、こうしてしみじみとあとがきを書いています。あのときよりも数を増やした殺人鬼フィギュアに、温かく睨《にら》まれながら……。
フジミさんもそうでしたけれど、人生、何が起こるかわからないものです。同じこと二回も言ってますね。わたしたちが何気なく口にしていた言葉が、後世に格言として伝えられる可能性もまったくのゼロではありません。まあ色々あって、諸口正巳は、そんなささやかな、ある種の希望を抱きながら『不死身のフジミさん』を書かせていただきました。とてもそんな神妙な心境で書かれた作品とは思えないでしょうが、本当です信じてください。
しかしこの小説やわたしの言葉は、べつに後世まで残らなくてもかまいません。少しでも読者の皆様の心に残っていただければ、充分にしあわせでございます。続刊を楽しみにしていただけるのなら、もっとしあわせ。
それでは、本当に、色々とありがとうございました。
おお、なんか遺言みたいになってしまった。
だから付け足し。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
二〇〇七年一二月某日
[#地付き]諸口正巳 拝