[#表紙(表紙.jpg)]
好きになってはいけない国。 韓国発! 日本へのまなざし
菅野朋子
目 次
序章 韓国から見たヨン様ブーム[#「序章 韓国から見たヨン様ブーム」はゴシック体]
空前のヨン様ブーム
韓国でのヨン様評価
韓国への意識の激変
第1章 J−POPから広がる日本[#「第1章 J−POPから広がる日本」はゴシック体]
安室奈美恵をこよなく愛す
好き好きジャニーズ
日本の歌謡≠売るオトナの事情
光州で開かれた「日本週間」
第2章 日本を語るオトナたち[#「第2章 日本を語るオトナたち」はゴシック体]
激動した九〇年代 韓国で揺れる日本
百万部を売り上げた日本バッシング本
「反日」から「知日」へ
若い世代のカッコイイ≠ェ変わった
第3章 韓国の若者たちの原風景[#「第3章 韓国の若者たちの原風景」はゴシック体]
現在進行形の街 大学路
高校を辞めてプロダンサーを目指す十七歳
髪を染めた呉真姫
原宿にやって来た呉宣柱
女子高生たちへのアンケート
日本人高校生が見た韓国
第4章 韓国社会のターニングポイント[#「第4章 韓国社会のターニングポイント」はゴシック体]
二〇〇四年、再会
ファンクラブ卒業
今でもジャニーズのコンサートは欠かさない呉宣柱
ターニングポイントは九八年の経済危機
韓国での援助交際
若者たちの性意識
オトナたちの分析
最終章 変わりゆく日本へのまなざし[#「最終章 変わりゆく日本へのまなざし」はゴシック体]
あとがき[#「あとがき」はゴシック体]
[#改ページ]
序章 韓国から見たヨン様ブーム[#「序章 韓国から見たヨン様ブーム」はゴシック体]
[#改ページ]
空前のヨン様ブーム[#「空前のヨン様ブーム」はゴシック体]
ネオンが灯る頃になると、ヨン様の顔がより一層はっきり映し出される。
ソウル中心部にあるロッテホテルとデパートを結ぶ回廊には、ヨン様の大きな広告パネルが弧を描いて並んでいる。
その前で写真を撮る日本のファンの人たち。
空前の大ブーム──。
二〇〇四年は、まさに、ヨン様の年だった。
二〇〇四年十一月二十五日。
ペ・ヨンジュンことヨン様が、日本での写真展オープニングセレモニーのため、四月の訪日以来七カ月ぶりに日本を訪れた。
私は、韓国での反応をまとめて日本に発信するために、ソウル市庁近くにある友人の事務所のテレビで、その様子を見ていた。
成田空港到着直後の様子は、韓国では、ニュース専門チャンネル「YTN」が第一報で報じた後、各放送局で続々とその模様が映し出された。
ゲート前を埋め尽くしたファンの波。「とても会いたかったです。待っていました」という大きな垂れ幕がうねっている。垂れ幕に書かれた角張ったハングル文字。そんな光景を見ながら、一瞬デジャブ現象を感じた。
「どこかで見た光景なんだけど、どこだったろう──」
そんなことを思っていると、携帯が鳴った。
「人気冷めやらずだね」
成田での様子をテレビで見たという知り合いの韓国全国紙の記者からだった。そう言ってから、彼は、ふうっと、軽くため息をつき、吐き出すように、
「すごいね。こんなに長く続くとは思わなかったんだけど、人気は本物だったんだなあ。でも、なんであんなに人気があるのかね。理解に苦しむんだけど……」
翌朝、韓国の全国紙ではほとんどが国際面で記事を掲載し、一面には成田の様子をとらえた写真が入り、スポーツ紙では、各紙が一面トップで報じた。
スポーツ紙五社中二社が、ヨン様の訪日に合わせ日本へ記者を出したが、これはかなり異例のことだという。
「コンサートなどの大きなイベントとか映画の撮影ならまだしも、芸能人個人の写真展開催に記者が海外まで出張するのは初めてですよ」
そう教えてくれたスポーツ紙記者も苦笑いしている。
この後、四泊五日のヨン様日本滞在の様子は、韓国でも連日トップで報じられた。
韓国で韓流≠ニいう言葉が堰《せき》を切って使われるようになったのは、このヨン様訪日後のことである。それまでは、日本のヨン様ブームを報じつつも常に懐疑的な視線がつきまとっていた。それが、この久しぶりのヨン様熱風を目の当たりにして、これは本物だと認識を新たにしたようだった。
知り合いの日本通の韓国人の二十代の女性は、一連の報道を見ながら、
「熱烈だね。アジュンマ《おばさん》でも芸能人の追っかけができるのは、やっぱり日本だなあってしみじみ思う。年齢に縛られることがないところは、うらやましい」
訪日前の十一月二十日からソウル・蚕室《チヤムシル》ロッテホテルで開催されたペ・ヨンジュン写真展。ここにも、日本、香港、台湾からのファン約五千人(二十一日現在)が訪れ、ホテルの従業員も少し興奮ぎみだった。
「初めてですよ。話には聞いていましたけど、こんなに一度に日本のおばさんを見たのは」
化粧室では、お掃除のおばさんに声をかけられた。
「あなたも日本人?」
ええと言うと、
「ヨン様っていうのは、どういう意味なの」
と言う。説明すると、様≠フ意味は知っていたが、日本語と韓国語のヨン≠フ発音が違うため、ペ・ヨンジュンのヨンではなく、何か特別な意味があるのだと思っていたという。
「でもさ、やっぱり日本は経済大国だね。今日来ていた人たちは、みんな私と同じくらいの年の人だけど、私なんて食べて生きていくことだけで精一杯。好きなスターのために海外旅行なんて考えられない」
似たようなことを、私はマンションの隣人からも言われたことがあった。
「なんでおばさんたちが、なんて言う人もいるけど、動き回れるっていうことは、それだけ余裕があることよ。今回の騒ぎで、ペ・ヨンジュンが本当に日本で人気があることが分かったし、やっぱり、日本は豊かだとしみじみ思った」
ヨン様ファンの中心は、四十代〜五十代の女性といわれている。韓国では、この世代が、芸能人を好きになり、その撮影地を訪れたり、イベントに海外にまで駆けつけるという感覚≠ェない。「いいオトナが」という人もいるし、「芸能人を好きになるのは若者の特権だ」という人もいる。
その一週間前の十一月十九日、ソウル。
「見れた〜。もう、死んでもいいっ」
「うそお、全然見れなかった」
韓国のスポーツ紙、スポーツ朝鮮が主催する青龍映画祭恒例の手形モニュメントイベントに、ヨン様が、訪日より一足先に韓国で七カ月ぶりに人前に姿を現した。会場前は、ヨン様を一目見ようという日本、香港、台湾から来たファンたちの押し合いへし合いで、まさに、阿鼻叫喚の様(失礼!)。
警備員数人にかろうじて堰き止められていたファンの塊《かたまり》は、イベント開始時刻少し前の突然のヨン様登場で、もろくも崩れさった。雪崩を打ってヨン様に倒れ込むファンに、なんとかその中に割り込み、踏ん張っていた私などは簡単に場外に押し出されてしまった。これはいかんと気を取り戻し、人波をかき分けたが、時すでに遅し。ヨン様はあっという間に控え室へと消え、その後は、悲喜こもごもの喚声の渦となった。
東京から来たという四十五歳の主婦は、「見れましたよーーっ。うれしーーっ。世の中であんなにキレイな人はいませんよ」
顔から汗が噴き出している。その横では、一緒に日本からきたという友人ががっくり肩を落としていた。
「あまりにも人がすごくて、全然見れなかった……」
年齢こそ高いが、若いファンと反応は同じ。若い人より、経験が豊富なためか、機知に富んでいて、動きが早く、記者顔負けだ。
韓国のマスコミは、ファンの中でも、特に日本人ファンのインタビューをとろうと目の色を変えていた。プレスの札を掲げていても、日本語を話そうものなら、マイクが突撃してくる。コメントを出してくれる人の取り合いで、私などは日本人記者ということで、取材拒否ばかりされた。日本のマスコミは、おもしろおかしく書き立てるので、絶対に答えたくないというのがその理由だ。なんとか応じてくれる人を探し出しても、今度は韓国のマスコミが割り込んでくる。
ようやく外の取材を終え、イベント会場に入ろうとしたときに、知り合いの韓国人記者と偶然一緒になった。
額には汗が光り、背広がよれよれになっている。
「実はさあ。久しぶりのペ・ヨンジュン登場だから、ヨン様人気のバロメーターが測れると思ってきたんだよね。最近ではやっぱり少し冷めたんじゃないのかなあなんて少し懐疑的だったんだけど、まだまだすごいね」
この日のファンの様子から、訪日のニュース方針がほぼ決定したそうだ。
確かに、韓国では、「なぜ、ペ・ヨンジュンなの?」と日本でのヨン様人気に首を傾げる人がほとんどなのだ。
韓国でのヨン様評価[#「韓国でのヨン様評価」はゴシック体]
二〇〇四年五月。私は、韓国人の夫の転勤に伴って、ソウルに移り住んだ。
その一カ月前に、ヨン様が初めて日本を訪れ、羽田空港は五千人ものファンでパニック状態となり、韓国でも初めてヨン様≠ニいう言葉が一般の人々の間に広まった。
引っ越し早々、夫の家族が開いてくれた引っ越し祝いの席で、義理の姉が、待ってましたとばかりにこんなことを聞いてきた。
「ねえねえ、ペ・ヨンジュンって本当に日本で人気があるの」
韓国のスターが、先進国・日本≠ナ人気があるはずがないと思っていたのだそうだ。
「韓国のマスコミが作っているんじゃないかと思ってさ。このあいだの羽田空港の様子もテレビで見たけど、人がたくさんいる所だけを放映したのかと思ったのよ」
義理の姉は、四十六歳。韓国で三年前に放映された『冬のソナタ』はそれなりに面白くみたが、
「韓国では、次々と面白いドラマをやるでしょ。だから、終わっちゃうと熱が冷めちゃうのよ。それに、ペ・ヨンジュンは昔こそ人気があったけど、最近は全然出てこないから、話題になっていなかったし。なんで日本で人気が出たのかしら。ファンも、私と同じ四十代から五十代のアジュンマなんでしょ。うーーん、分からないなあ」
そう言って、私の答えをじっと待っているのだが、私もうまく説明することができない。
義理の姉にも、もちろん、お気に入りのスターはいる。けれど、そのためにわざわざ海外に行ったりはしないし、そこまで夢中になる情熱ももうなくなってしまったという。
「それに、韓国でやったら、だんなから文句言われて、即離婚よ」
その話を横で聞いていた姑などは、
「日本人は、どうなっちゃったんだろうね」
と私の顔をしげしげと見つめる。
姑は七十三歳。日帝時代を経験した人だが、どちらかというと日本びいきで、日本は、慎ましく、秩序があるというのが口癖の人だ。そのつい数日前も、高校の同窓会の席で日本のヨン様ファンの話題になったという。
「まあ、ペ・ヨンジュンはハンサムだけど、いいオトナが、なんであんなにきゃあきゃあ騒ぐんだろうね。みんな不思議がっていたよ。日本人は慎ましやかな人たちだったはずなのに。みんなで、日本っていう国がおかしくなっちゃったのかもしれないねって言ってたんだよ。一体どうなっているの」
その頃の他の韓国人の知り合いも、皆同じような反応だった。
私は、挨拶回りも兼ねて、知人のマスコミ関係者などを訪ね歩いたのだが、スポーツ新聞の芸能担当記者からも全く同じことを聞かれ、驚いてしまった。
「ペ・ヨンジュンってさあ、日本で本当に人気があるの?」
現場を知る、情報を発信する側でさえこんな調子である。ともかく、私が日本人と分かると、同じようなことを何度も聞かれた。
そして、男性だと決まってこんなことを言うのだ。
「ペ・ヨンジュンよりもイケ面はいくらでもいるじゃない。チャン・ドンゴン、ウォンビンなら分かるよ。彼らは、実力もあるし、男から見たってかっこいい。ペ・ヨンジュンはね、キーセンオラビみたいで、なんでそんな男に日本女性が熱狂するのか全く分からないんだよ。俺のほうがよっぽどいいのに……」
キーセンオラビは芸子≠ナある妓生《キーセン》が稼いだ金で遊び回る色男≠ニいう意味で、どちらかというと甘い顔をした男性によく使われる。
それにしても必ず冗談混じりに、いや、半ば真剣にこう締めくくるので、韓国男性はやはり、自己過大評価の人たちだなどと思わず笑ってしまったのだが、皆、どうしても解せない、日本女性は見る目がないんじゃないかと、もごもご言う人ばかり。韓国の男性は、無骨好みで、イケ面≠ナも柔らかい甘いマスクには抵抗感や嫉妬など諸々の感情が激しく入り乱れるらしく、サッカーの安貞桓《アンジヨンフアン》選手なども韓国女性には人気があるが、男性の支持者は少ない。
韓国の人たちは、本来、お国自慢の人たちだ。さぞや、ヨン様ブームを喜んでいるだろうと思っていたのだが、皆首を傾げるばかり。私の予想はしっかり裏切られた。ブーム自体が韓国の人たちの想像を遥かに超えていたということもあったのかもしれない。
知り合いの三十代後半の男性も、何度も眉間にしわを寄せながら、
「妻が、ヨン様を好きになるのまではいいよ。DVDを買ったり、映画を見たりするところまでは許す。でも、そのために撮影地を見に海外に行ったりするなんてことは、絶対にだめ」
と、日本の男性はなんでそこまで寛大になれるのだろうとつぶやいていた。
若い世代も似たような反応だった。友人の女子大生が言う。
「韓国で人気のある人なら納得するんですよ。ペ・ヨンジュンはトップスターではあっても、今の人じゃないでしょ。もっと好きになってほしい人はいるのに──って思っちゃって」
韓国で人気のある俳優は、日本で言われている韓流スター≠ニはまた少し様子が違ってくる。
韓国では、その時々の人気のドラマ、映画で、俳優たちの人気度が激しく入れ替わる。ヨン様が韓国で人気がないと言われる理由はここにあって、あまりにもアップダウンが激しいため、常に露出をしないかぎり、人気上位に顔を出すのは至難の業なのだ。
二〇〇四年は、若手スターが、韓国芸能界をにぎわせていた。
代表格は、二〇〇三年に映画デビューしたカン・ドンウォンだ。一九八一年生まれの二十四歳。百八十六センチという長身でひょろっとしていて、どちらかいうとカワイイタイプだ。ちなみに、大学は漢陽大学出身で、韓流四天王、イ・ビョンホンの後輩にあたる。このかわいいのに、インテリという点も女心をくすぐるらしい。年上から言わせると、かなり母性本能をくすぐるタイプだ。
他の若手では、『皇太子の初恋』に出演したキム・ナムジン、『ごめん、愛してる』のソ・ジソプ、映画『サム』のコ・スあたりの人気が上がっていた。皆どちらかというと、カン・ドンウォンとは対照的に野性的なイメージの俳優だ。
彼らの前の世代には、日本でも二〇〇四年秋から放映されたドラマ『天国の階段』(韓国では二〇〇三年冬放映)主演のクォン・サンウが人気があったが、同年春に高視聴率をとったドラマ『火の鳥』が始まると、人気は、アイドルグループ、神話《シンフア》のメンバーの一人、エリックに移った。だが、春から初夏にかけて放映され、二〇〇四年度の最高のドラマに選ばれた『パリの恋人』が放映されると、今度は古参俳優のパク・シニャン株がぐんと上がったりした。
余談だが、『パリの恋人』の主人公、財閥二世の役には、最初、ペ・ヨンジュンにオファーがいったのだという。だが、ヨン様は興味がなく、結局主役を演じたパク・シニャンは、実は第三番目の候補だったというから、配役も運である。このパク・シニャンは三十六歳の中堅俳優で、韓国では演技派として知られ、人気うんぬんのカテゴリーに属さない俳優だったのが、このドラマ出演で一気に大衆的な人気を得た形となった。
韓国での俳優の人気度も、CMに顕著に現れるが、パク・シニャンも『パリの恋人』でギャランティがぐんと跳ね上がり、契約していたCM金額が折り合わず一度白紙に戻した、なんていうエピソードもあった。
もうひとつ、韓国ならではなのが、街の露店だ。
露店ではドラマで流行ったグッズや、その時人気の俳優たちのグッズがあっという間に並べられては、あっという間にお払い箱になる。人気の一つのバロメーターだ。
二〇〇四年初夏に入った頃から、ソウルの中心部、日本人観光客が最も多いと言われる明洞《ミヨンドン》には、ヨン様や韓流スターグッズを売る露店が一気に増殖した。
その中で元祖といわれるのが、明洞の片隅で韓流スターグッズを売るキムさん(仮名)の露店だ。
キムさんは、二年前、たまたま友人からこの商売を引き継いだが、本当にラッキーだったと自分にも言い聞かせるようにしみじみと言う。
「まさかこんなブームになろうとは思ってもみなかったんです。それが、二〇〇三年の冬あたりから、店をのぞき込んでくる日本の人が増えて、あれ、何だろうなあって思っていたら、冬ソナブーム、ヨン様ブームだった。今では、ライバル店もどっと増えちゃって、少し困っていますけどね」
彼と最初にこんな会話を交わしたのは、二〇〇四年夏の頃だ。それから、店を訪れる度に品揃えが変わっていった。
「今では、日本の人たちもヨン様だけじゃなくて、いろいろな俳優のものを欲しがるんですよ。チェックするのが大変です(笑)」
ニュースはもちろん、日本人観光客からのヒアリングも欠かさず、今誰が日本で人気があるのか、常にアンテナを張っているという。冬には、ヨン様の他にイ・ビョンホン、パク・ヨンハ、クォン・サンウなどのグッズが増えていた。
キムさんの商売は絶好調だそうで、
「日本人のお客さんがあまりにも多いので、日本語も独学で勉強しました。僕は、日本に対して特別な感情はなかったですけど、直に接してみると、韓国人とそんなに変わらないんだなあと思いましたね。いらっしゃる方は、みなさんアジュンマですけど、すごくこだわって買っていかれます」
店の前で立ち止まるのは、日本人観光客が九九%だが、日本人の知り合いへのおみやげにという韓国人サラリーマンの姿も見かける。
「今度日本に出張なんですけどね。相手の奥さんがヨン様ファンなので買っていこうかなと思って。でも、ヨン様ブームで話題が増えて、こちらとしては、交渉しやすくなりましたよ」
実はこれには、後日談がある。
キムさんの商売は絶好調だった。──そのはずだった。ところが、二〇〇四年十二月、ヨン様の所属事務所「BOF」がカッチャ製品(偽物)を売る露店などを取り締まると発表し、事態は急変してしまった。
ヨン様は、十月に本格的に個人ブランドを立ち上げたが、その理由の一つが「大事な家族《ファン》に偽物を買わせてはいけない」というものだった。
ニュースを聞き、キムさんの店に行ってみると、露店の台は幌をかぶったまま。間をおいて何回か訪ねてみたが、キムさんの姿はなく、幌が冷たい風にさらされていた。
キムさんが姿を現したのは、年が明けてからのことだった。帽子を深めに被っている。寒いからではなく、顔が分からないようにしていたのだという。
「取り締まりのニュースを聞いて、しばらく休んでいたんですよ。この辺(明洞)でやっていた他の店は春川《チユンチヨン》市のほうに移動したっていう噂です」
製品を製造している業者も今は身を隠している状態で、露店の台に並べられた品数はかなり少なくなっていた。
「新製品が作れないから、痛いですよ。あれだけ、震災に寄付している人なんだから、少しくらいお目こぼししてくれてもいいのになあって同業者仲間で言っていたんですよ。お裾分けくれてもいいじゃないですか」
状況は小康状態で、キムさんは様子を見ながら韓流ブームが続く限り、商売を続けていきたいと力のない声で言う。というのもキムさんは商売が好調だったため、稼いだ資金を元に次の事業を計画していたのだという。おまけに、彼女にプロポーズをしようと思っていた矢先の出来事だったそうで、「予定が完全に狂ってしまった」とがっくり肩を落としていた。
韓国への意識の激変[#「韓国への意識の激変」はゴシック体]
二〇〇四年度に、韓国を訪れた外国人は、前年度の約百八十万人から約二百四十万人と約一・三倍増加した。国別に見ると日本が断トツで、次に韓流ブームの元祖、中国、台湾が続く。いうまでもなく、ヨン様効果、である。
私は、ソウルで開催されたヨン様の写真展にやってきていた人たちを捕まえて、同じ質問を繰り返した。ずっと聞きたかったことだった。
「ヨン様以前に韓国に関心がありましたか」
大阪から来たという四十代半ばの女性は、
「全然。近くて遠い国でしたよ。それが今では、ウソみたい。ヨン様で、もう、韓国なしでは生きられない体質になっちゃって(笑)」
他の女性からも同じような答えが返ってきた。
「韓国に興味? なかったです。抵抗感があったわけでもなくて、ただ、興味がなかったの。だって、情報もなかったし、知らなかったんですもの。それが、冬のソナタのすばらしさ、それに、ヨン様のすてきさでもっともっと知りたくなりました。今年三回目なんですけどね。また年末に来ようと思っています。韓国のみなさんは優しくて、もっと早く来ていればよかったなんて思っています」
あくまでも私見だが、日本でヨン様ファンの中核である四十代〜六十代が一番、韓国に関心がなかった層ではないだろうか。その世代の韓国への意識が百八十度変わったことは、日本の中の韓国のイメージをもがらりと変えることになったと思う。
実は、私自身、韓国への意識が、ある時がらりと変わった一人である。
私は、九五年から九六年にかけて韓国の延世大学語学堂に一年間語学留学した。留学するきっかけになったのは、その前に留学していたカナダで出会った韓国人男性に一目惚れしてしまったことだった。
その彼とは、彼が帰国する前までつき合うことになったが、彼や彼の友人らとは多くの時間を過ごした。その中で、私はいつもたった一人の日本人だった。
そうして韓国の友人たちと親しくなっていくうちに、彼らが日本のことをよく知っていることに驚いた。歴史、政治、流行りものなどなど。そして、何より、自分の国に対しての真摯な姿勢、政治への関心の高さ、国≠フことを考える真剣さがあった。異国にいるという特殊な雰囲気があったとは思うが、彼らの何もかもが私には新鮮に映ったのである。
そもそも、カナダに留学する前は、韓国になど全く興味がなかった。というより、デモは多いし、事件などで号泣する姿に、強烈な違和感さえ持っていた。それまで、私の中では、韓国は相容れない国≠セったのである。それが、このカナダ留学で彼と友人らと出会ったことをきっかけに、韓国に対する意識はあっさりと変わってしまった。
そうして、韓国語を話したくて、韓国のことをもっと知りたくて、カナダから、ついには韓国留学までしてしまうのだが、そのとき送り出してくれた日本の知人友人の反応は、今とは全く異なるものだった。
当時の日本人が持つ韓国のイメージといえば、「焼き肉」「キムチ」「デモ」程度。友人知人からは「なんでまたよりによって韓国に」といわれる始末。
実際、留学した頃の韓国は、反日ブームで、『イルボヌン オプタ』(邦題『悲しい日本人』)などの日本バッシング本がベストセラーになり、竹島問題(韓国では独島)などで、日韓関係が大揺れしていた時代だった。
けれど、実際訪れたソウルの街には、日本≠ェあふれていた。ニュースでは日本が話題にならない日はなく、日本食の店も今と負けないくらい数多くあった。日本の大衆文化は禁止されていたが、日本の歌はコピー品が違法で堂々と出回っていて、道ばたの音の悪いデッキからは、長渕剛の歌がかすれた音を出して流れていた。
そして、私が留学を終え、日本に帰国する頃には、X JAPANや安室奈美恵、SMAPやV6を擁するジャニーズファミリーなどの人気が若者たちの間で密かに広がってきていた。
デジャブ現象──。
ヨン様ファンの熱狂は、この頃に見たものだった。それは、安室奈美恵ファンクラブ、ジャニーズファンクラブで見た、彼女彼らの熱いまなざしだった。
私は、そんな彼女彼らは、過去にとらわれない新しい日本像を持っているだろうと、これからの日韓関係を書きたくて取材を始めたのだが、感情は、当然のことだがそんなに簡単にほどけるものではなかった。
「日本の歌は好きですけど、日本は、好きになってはいけない国っていうか──」
これは、当時、ジャニーズファンだった女の子の言葉である。
それでも、彼女彼らのまなざしは、戸惑いながらもまっすぐに日本へ向けられていた。あの頃、そんな複雑なまなざし≠ノ気づいていた日本人が、どのくらいいただろうか。
ヨン様の熱狂の前には、こんなまなざしがあったことを知っていただければと思う。
これは、あの頃の、韓国の若者たちのまなざしの物語である。
[#改ページ]
第1章 J−POPから広がる日本[#「第1章 J−POPから広がる日本」はゴシック体]
[#改ページ]
安室奈美恵をこよなく愛す[#「安室奈美恵をこよなく愛す」はゴシック体]
一九九八年十二月三十一日。
日本の女子高生の元祖カリスマ、アムロ(安室奈美恵)が、NHK紅白歌合戦の舞台で一年ぶりの復帰を飾った。本当に子供を産んだのだろうか──。茶髪だった髪の毛を黒色に染め長いコートに身を包んだ、以前と変わらない華奢な体は震えているように見える。
「韓国のアムラーたちも喜んでいるんだろうな」
ぼんやりそんなことを思っていると、電話が鳴った。
「オンニーやったね。アムロが復帰したあ! うれしいー。今ちょうどみんなのメールをオンニに転送したところ」
韓国の安室奈美恵ファンクラブのメンバー、呉真姫《オジンヒ》の電話の声も興奮で震えている。「オンニ」は、韓国で女性が目上の女性を親しみを込めて呼ぶときに使う「お姉さん」の意味で、お店の女性店員を呼ぶときなど、さまざまな場面に応用して使える便利な言葉だ(男性が呼ぶ場合は「ヌナ」と、呼び方が違う)。
パソコンのスイッチを入れてみる。海の向こうから届いたメールには、「これからもアムロを見守っていきたい」「アムロが復帰してうれしい」……。角張ったハングル文字が躍っている。アムロの復帰を待ち望んでいた、韓国アムラーたちからの熱いメッセージだ。
「キヨウォー《カワイイー》」
一九九八年九月二十日。
安室奈美恵の二十一回目の誕生日会が開かれると聞き、私はソウルの繁華街・明洞《ミヨンドン》にある喫茶店「SHOW BOAT」を訪ねた。集まったのは、韓国の安室奈美恵ファンクラブのメンバーが十人。上映会とケーキでのお祝いだ。
ホームパーティー用の五メートル四方ほどの小さなスクリーンに映し出されたのは、通信社のロイターまで駆けつけた結婚記者会見でのアムロだった。
長かった髪の毛をばっさり切り、ショートカットにくるまれたアムロの顔が余計小さく見える。小さな顔一杯に喜びがあふれている。少しはにかみながら、結婚指輪をはめた手をあげる。
瞬間、ファンクラブのメンバーから一斉に、「キヨウォー」の歓声があがった。
「友達が録ったスターTVをまたダビングした」という映像は、時折ブチブチという音を鳴らす。香港の衛星放送「スターTV」を録画した画面に出ている字幕は広東語。画面の中のアムロは当然、日本語だ。
隣に座っている真姫が、時々笑みを浮かべている。
「言っていること分かるの?」
私が聞くと、黒いTシャツに黒のジーンズできめた真姫はあっけらかんと、
「ぜーんぜん。見当はつくけどね」
ヒット曲『Can you celebrate?』が流れ始めた。真姫が横で口ずさんでいる。ざわめきがひき、アムロの声だけが異国の街・ソウルの喫茶店の空気に溶け込んでいく。組んだ腕に顎をのせ、うっとり画面に見入る女の子。野球帽をかぶった男の子はまばたきもせず、まっすぐにアムロを見つめている。
日本の女子高生のカリスマだったアムロの人気は海を越え、今は解散してしまったビジュアル系バンドの先駆者、X JAPANと並び、韓国でのJ−POP人気に火をつけた。韓国の若者に「日本の歌手で知っている人は誰?」と聞くと、必ずアムロの名前が挙がる。海賊版のCDやブロマイドが店頭に並んでいる数でも一、二を争う人気ぶりだ。
J−POPが韓国で知られるようになったのには、衛星放送が一役買っている。韓国政府の認可を受けているのは、九八年当時で、KBS(韓国の公営放送)二チャンネル、教育テレビ一チャンネル、香港のスターTV二チャンネルだ。しかし、日本のNHK衛星放送も電波圏内のため、韓国の家庭で簡単に受信できる。朝の連続ドラマには結構ファンがいる。
余談だが、韓国政府はこの電波もれに対し、九〇年「文化侵略」として日本を非難している。NHKは早速、電波を制限してしまうのだが、韓国のNHKファンはその電波を取り込むべく、大きいパラボラアンテナをつけてしまった。最近では、CATVに加入し、NHK衛星放送を選択すれば自動的に観られるようになっている。非難はしてもこの調子。韓国の新聞にはちゃっかりNHK衛星放送の番組表まで載っている。結局、法的な取り締まりはなく、韓国政府も黙認状態になってしまった。NHK衛星放送の音楽バラエティ番組『ミュージックジャンプ(二〇〇〇年三月終了)』なども人気があり、集まった十人全員が知っていた。
韓国でのJ−POP人気は、ともかくすさまじい。
九八年五月、X JAPANのhideが自殺したとき(不慮の事故死だという説もある)には韓国でも追悼会が開かれ、街を歩けば、V6、宇多田ヒカルの新曲が最大ボリュームで流れ、歌に合わせて韓国の若者が口ずさんでいたりする。日本での新曲発売とほぼ同時に韓国では海賊版ができてしまうのだ。カッチャ文化(偽物文化)──。韓国の面目躍如といったところだ。
誕生会を開いたファンクラブ『安室奈美恵』は、九八年七月にPC通信《トンシン》(=パソコン通信。韓国のパソコン通信上にはファンクラブのほかにもさまざまな同好会が作られている。開設するためには通信会社に申し込み、IDを取得しなくてはならない。二〇〇一年頃からポータルサイト上でのコミュニティサイトカフェ≠ノとって代わられている)で作られた。当初は二百名ほどの会員だったのが、九八年秋に韓国政府が日本の大衆文化開放を発表したのを契機に五百名に膨れ上がり、九九年十一月には会員が一千名に達した。
一番早く誕生会にやってきたのは、高校二年生の李慈恵《イジヤヘ》だ。
「アムロを知ったきっかけはPC通信。外国人歌手のファンクラブがあって、初めに知ったのはX JAPAN。すごい! 韓国にはない! っていっぺんで好きになっちゃった。YOSHIKIが、めちゃ大好き。それからPC通信のいろいろなファンクラブを見ているうちに、アムロを見つけたの」
そう言いながら、デイパックの中に手を突っこみ、なにやら探し始めた。韓国の若者なら誰もが持っているアメリカのイーストパック・ブランドのデイパック。慈恵のはブルーだ。韓国ではペナンヨヘン(リュックサック旅行)が流行した九八年、このイーストパックのデイパックが爆発的なヒット商品になった。
中をかき回しながら、ファンクラブの会合に参加するのは今日が初めてだから、どんな人が来るのか実は少し緊張している、と笑った。
中から出てきたのは、分厚い手帳だった。開くと、アムロの写真が隙間なく貼ってある。写真の横には、小さなハングル文字でプロフィールがびっしり書き込まれている。他に、X JAPAN、華原朋美、そして両親やクラスメイトの写真などもあった。
「アムロが大好き! 夏休みに日本に行って、アムロのものを買ってきたの。ほとんどがCDかな。でも、もしかして日本ではもうアムロは人気がないんじゃないの? アムロのグッズが減ったような気がするんだけど……。そうだったら、なんかカナシー」
眉を八時二十分に下げ、大きな体一杯で「カナシー」の表情をする。慈恵は、韓国の女の子にしては珍しく太めの女の子だ。
韓国では、十代、二十代の若者のキムチ離れが進んでいる。「韓国の人といえばキムチ」なんて思っていたら大間違い。キムチがまったく食べられない韓国人も結構いる。若者の嗜好は、韓国料理からハンバーガーやピザなどの洋食へと変わり、肥満体型も年々増えてきた。
「ソテジ・ワ・アイドル(ソテジと少年たち)も、すごく好きで、オッパ部隊《ブテ》(追っかけ)にいたの。でも、解散しちゃってから、韓国にいいなーと思うグループがなかなか出てこなくて……。そしたら、X JAPANが現れて、その後アムロを見つけたの。J−POPもなかなかやるなーって思った」
ソテジ・ワ・アイドルは、韓国で九二年に大ブレイクしたラップダンス・ミュージック・グループだ。その奇抜なファッションと独特の音楽性が若者層から圧倒的支持を受けた。その後、人気絶頂の九六年に解散。韓国ポップ界の流れをダンスミュージックに変えた立て役者として、韓国ではカリスマ的存在だった(二〇〇〇年八月、四年八カ月ぶりにソテジがカムバック宣言をし、二〇〇四年六月から始まった全国ツアーのチケットが十分で完売するなど、いまだに人気は不動である)。
慈恵に、四十代だというご両親はなんて言っているのと聞くと、
「最初はびっくりしたみたい。日本の歌手だからとかいうんじゃなくて、芸能人に狂っちゃうところが、よく分からないって言っている。ソテジ・ワ・アイドルのときもすごく騒いだからね。今はもう何も言わない。日本に行くときも何も言わなかったよ」
どやどやと男女の六人組が入ってきた。慈恵がじっと彼らを見つめている。その中にファンクラブ副会長のパク・チャニョンと呉真姫がいた。
チャニョンに日本から取材に来たと言うと、テレたように体をくねらせながら、
「ええっと、僕が副会長のパク・チャニョンです」
その脇で、人なつこそうな顔の真姫はニコニコしている。
チャニョンは落ち着かないといった感じで、首を横にふりながら、
「ファンクラブを作ったきっかけですか? 最初はアムロを分かっている人も少なかったし、日本に対して抵抗がある人たちも結構いるしで、初めはなかなか作れなかったんだ。ようやく七月に大邱《テグ》にいる会長が立ち上げて、それからぼくが参加してって感じなんだけど。いまじゃ、ものすごく会員が増えてびっくりしている」
ここまで言うと、ちゃんと質問に答えられたという安堵感からか、チャニョンは少し落ち着いてきた。まだまだ純粋な高校生なのだ。
それにしても、日本に抵抗感か……。
「十代でもそんな感情があるんだ?」
と聞くと、チャニョンは黙ってしまった。
現代っ子≠ゥら直接こんな言葉を聞いたのは初めてだった私は、なんだかショックだった。韓国の若者にまだこんな感情が残っているなんて思ってもいなかったのである。
私の思いをよそに、チャニョンの「始まりまーす」の声で、バタバタと上映会が始まった。「どうぞこっちに座って」。真姫にうながされて彼女の横に座る。ビデオがスタートしてまもなく、真姫が小声でささやいてきた。
「ねえねえ、アムロが離婚するってほんと?」
姐御《あねご》肌といった感じの真姫が真剣な眼差しで私をのぞき込む。どこか『トップガン』で女性教官を演じたアメリカの女優、ケリー・マクギリスに似ている。黒のTシャツに黒のジーンズ、映像プロダクションに勤めている二十一歳だ。
離婚の話なんて聞いたことないよ、と言うと、ふーんとやや懐疑的な眼差しで視線をスクリーンに戻した。
真姫がアムロを知ったきっかけは、会社の同僚だったという。
「日本にすごい歌手がいるって聞いたの。それがアムロだった。韓国の歌手にはいないタイプだって言われて。そう言われたら、よけい見たくなっちゃったの。初めて見たのは、スターTV。韓国にはないダンススタイルだから、初めはしっくりこなかったんだけど、エンタテインメント性があるなと思った。見ているうちに、これだけダンスができて、歌も上手いタレントは韓国にいないと思うようになって、ファンになっちゃった」
結婚記者会見のビデオが、アムロ主演の映画『That's カンニング!』に変わっている。真姫はそれをちらりと見ながら、
「私とアムロは同じ歳なの。同じ歳であれだけの成功を収めて、しかも結婚して子供産んで、自分にできないことを全部やっている。カッコイイよね」
日本で二十代で結婚したアイドルといえば、山口百恵、松田聖子、アムロの三人が代表格だ。九八年九月の日刊スポーツによれば、広告会社五社で作られた団体「AD−VAN」が首都圏に住む女性(十八歳から五十四歳まで)を対象にアンケートを行ったところ、現代の日本の女性は結婚、子育て、復帰という「再登板」のアムロのスタイルを支持した人が三五%で、「両立型」の松田聖子の支持二二%を上回りトップだった。ちなみに「結婚退職、家庭優先」の山口百恵スタイルを支持した人は、わずか七%しかいなかった。
真姫も、アムロのCDや写真は日本に行ってまとめ買いするという。CDは新宿や原宿で中古品を買う。春に二泊三日で滞在したときは、「十万円くらい使っちゃって。痛かったなー」。
CDも写真もソウルで買おうと思えば買えるじゃない、と言うと、「CDは台湾製の海賊版の輸入モノが多いし、本物は日本より高いもん」。
ソウルの街では、J−POPのCDもブロマイドも簡単に手に入る。海賊版のCDは一万二千ウォン(百ウォンは約十円)前後、本物は三万ウォンから、稀少品だと四万〜五万ウォン、ブロマイドは大体一千〜二千ウォンで売られている。
アムロのためにわざわざ日本に行くなんて、ご両親は何も言わないの? と聞くと、ぜーんぜんと笑いながら、
「お母さんもアムロファンだし。退屈な時は、『アムロのビデオを見ようよ』ってねだったりしてくるよ。私もアムロと同じ髪型にしようかなって言ったら、『アムロだから似合うの。あなたがやったら、ぜんぜんダメ』って。ひどいでしょ。
お父さん? お父さんは、部屋に貼ってあるアムロのポスターを見て『女の子の部屋に女のポスターっていうのもヘンだな』とか言っている」
真姫の父方の祖父は、太平洋戦争の時、日本兵として徴用をうけ、生還はしたが、その後大変な苦労をしたという。その苦労話を聞いて育った真姫の父親は、どちらかといえば日本に批判的だ。
「でも、本人が好きならしようがないって。ただね、『日本のタレントが好きなのは構わないけど、日本人を結婚相手にするのだけはやめてくれ』って言われた。私は関係ないと思っているんだけど」
韓国でのJ−POP人気は、X JAPANから始まった。日本でのビジュアル系バンドの先駆者といわれるX JAPANだが、韓国にはこうしたビジュアル系のバンドはなく、人気は爆発的なものとなった(二〇〇四年にはマニア層でGacktの人気が上がっていた)。
X JAPANからアムロ、SMAP、Mr. Children、GLAY、L'Arc〜en〜Ciel、日本でヒットしたJ−POPはタイムラグなしで、あっという間に韓国に渡る。
韓国の若者たちに日本の歌手に傾倒する理由を聞くと必ず、「韓国にないサウンドだから」という答えが返ってくる。韓国では、ダンスミュージックとバラードが人気を二分している。アムロの曲のなかでは『Can you celebrate?』『a walk in the park』などに人気が集まるという。
九八年十一月に韓国の映像プロダクション「デジタル・メディア」が日本の歌謡について五十人を対象にアンケートを行ったところ、「日本のロックの水準はアジアで最高」と回答する人が過半数を占めた。
その華やかな衣装と外見で、日本で人気のビジュアル系バンドは韓国でも人気が高い。「実力もある上に、夢を与えてくれる」「人を楽しませるという商売に徹している」という理由からだ。
J−POPの人気筆頭グループ、X JAPANは韓国で絶大な人気を誇る。そもそも、韓国の人気グループ「ノクセクチデ」がX JAPANの曲『Endless』を剽窃《ひようせつ》したことから、その存在が知られるようになったというから、皮肉な話だ。
韓国の剽窃は、驚くほど恒常化していた。
九六年には人気グループ「ルーラ」が日本のアイドルグループ「忍者」のヒット曲『お祭り忍者』の一部をそのまま引用して告発され、メンバーの一人が自殺未遂を起こすという騒ぎがあった。最近では、韓国の人気歌手「チョ・ソンモ」がアルバムの中で「DEEN」の歌をそのまま韓国語に変えて収録している。こちらなどは問題にすらなっていない。
インタビュー中に口ごもってしまった、ファンクラブ副会長のパク・チャニョン、十七歳。
「大邱にいる会長は仕事が忙しくて大変だから」と、サラリーマンである二十五歳の会長に代わって、ファンクラブのソウルでの活動を引き受けている。
彼は、ソウル市郊外の光明《クアンミヨン》市に住む高校二年生だ。
その日は、韓国の人気グループ「H.O.T」(十代の男の子五人組のダンスグループ)と同じダブダブのビニール製のジャージ姿での登場だった。日本では動くとシャリシャリと音がすることから、シャリジャンと呼ばれるものだ。
チャニョンは、従兄弟が日本に留学していたこともあって、昔から日本に興味があったという。ミュージシャンになりたい彼は、スターTVでX JAPANを見てファンになり、しばらくしてコンサートのアムロを見て一目惚れしたという。
「アムロは、きれいで、歌もうまくて、ダンスもできる。本物のスターだと思う」
真姫と私が「アムロは、きれいというよりかわいいんだよね」と言うと、「アムロはきれいなんだよ」とチャニョンからすかさず訂正されてしまった。
チャニョンは、X JAPANのラストコンサートのビデオを一万円で買ったと少し自慢げだ。
「雑誌は明洞、江南《カンナム》あたりで買う。PC通信で誰かに聞けば、日本のCDは龍山《ヨンサン》とかテクノマートとか、どこで何が売られているかすぐに分かるから便利だよ。CDは、台湾経由のものは安いけど、質が悪いからあんまり買わない。あとは、日本に行って買ったり。去年の夏休みにアムロのコンサートを見に日本に行ったんだ」
ビデオに一万円、コンサートを見に日本に行く、か──。
チャニョンの家は光明市で焼き肉屋を経営している。お父さん、お母さん、妹一人の四人家族だ。みんな、なんて言っているの? と聞くと、
「何も言わないよ。従兄弟が日本に行ったとき、韓国人ってばかにされたって言っていたけど、いまでも日本に住んでいるし。日帝時代の話も聞いたことはあるけど、韓国が弱かっただけでしょ」
従兄弟が差別されたことも、あまり気に留めていない。日帝時代もすぱっと切ってしまう。好きなミュージシャンのX JAPANやアムロのものを買うために日本に行く。
日本の大衆文化開放については「開放されればもっとたくさんの人が知ることができるからいいよね」と屈託ない──。
話が終わる頃には、すでに上映会も終わりに近づいていた。せっかくの上映会をじゃましてごめんねと言うと、ニコニコ笑いながら、
「何度も見ているから。ケンチャナー(大丈夫)」
そう言うと、チャニョンは、今日の記念品として、アムロのステッカー、ポスターなどを落ち着かない様子でみんなに配り始めた。勢い余ったのか、私にも渡そうとする。貴重なんだからいいよ、と言うと、
「あっそうか、日本人だった。日本人にアムロのものをあげるのもヘンな感じだけど、あげるよ」
と照れくさそうに、体をよじらせながら、ステッカーをひとつくれた。
〈韓国でアムロのステッカーをもらうとは思わなかったな〉
私もなんだか妙な気分だった。
みんな、もらったものをうれしそうに手にしながら、とりあえず外に出る。昼間の快晴がウソのように雨が降っていた。湿度の低い韓国ではめずらしくモワッとした空気が漂っている。このまま帰るのは惜しいね、みんなでピザでも食べようと、近くのピザハットに向かった。
アムロの誕生会が開かれた喫茶店「SHOW BOAT」の店内は帆船をかたどったシックな雰囲気で、平日の夜はショットバーになる。照明を落とした内装は、大人の隠れ家的な雰囲気で、ファンクラブのメッカという週末の顔とは対照的な趣だ。オーナーがかなりの頻度で代わるという韓国特有の事情のため、こうした日本の歌手のファンクラブを含め、韓国や香港などのファンクラブのビデオや映画の上映会がいつ頃から始まったのか、正確な時期は分からない。店の人に尋ねてみても、十年前とも三年前とも、なんともはっきりしない。
それでもずいぶん前から、日本の音楽や映画が韓国の人に受け入れられていたのかと思うと、妙な気持ちになる。昼は反日、夜は好日≠ネんて言葉がぼんやり浮かんでくる。
「SHOW BOAT」の予約は三時間単位が基本で、料金は三時間で十二万ウォン(約一万二千円)。それ以上延長が可能な場合は、一時間単位で料金が加算される。飲み物は、一人一品が原則だ。
このシステムは口コミで広がり、土・日は予約でほとんど埋まってしまうという。最近(九八年)では、ファンクラブのメッカとして広く知られるようになり、「SHOW BOAT」のほかにもあちこちでこの手のスタイルの喫茶店ができ始めた。オーナーがSMAPファンだという理由で「SMAP」と名付けられた喫茶店なんかもある。こちらも週末は、さまざまなファンクラブの上映会の予約でいっぱいになる。
上映会で多いのは、香港映画についで日本の映画、コンサートビデオで、映画は岩井俊二監督作品、歌手では、X JAPAN、安室奈美恵、SMAPが人気株である。
明洞は、原宿の竹下通りが街になった印象だ。休みになると地方からソウルにやって来た人たちは必ずといっていいほどこの街に立ち寄る。路上で雑貨品や食べ物を売る人。途切れることのない人の流れ。流行りの服を着た、いまどきの女の子たちが手をつなぎながら闊歩していく傍らで、お金を入れてもらう籠を手にした身体障害者の人がもう片方の手にマイクを握りしめて絞りだすような声で歌を歌っている。こんななんともアンバランスで奇妙な光景が見られるのは、明洞ならではだ。
行き交う若者たちは皆元気だ。九七年十月のウォン暴落から始まった経済危機で、韓国はIMF(国際通貨基金)による支援策を受け入れた。IMFで失業だ、リストラだ、と戸惑うオトナたちなどカンケイなし。若者たちの姿からはつい最近この国を経済危機が襲ったなどという現実は微塵も感じられない。女の子たちは腕を組み、楽しそうに笑いながら、私の横をすり抜けていく。
韓国では、女性同士が腕を組んだり、手をつないだりするのはごく自然なことだ。韓国に行った人はみんなびっくりするが、所変われば友情の念もこんな形で表れる。韓国の人は、とにもかくにも親愛の情を大事にし、日本よりもスキンシップで感情を表現することが多い。私が韓国に留学していた頃、日本人留学生の男性諸氏が、「ここにこんなイイ男がいるのに、女の子同士で手をつなぐなんてもったいない」とさかんに言っていたことを思い出す。
韓国の街には、地下道が多い。一九五〇年に起きた朝鮮戦争(韓国では六《ユ》・二五《ギオ》事変と呼ぶ)で国土が焦土化し、まさにゼロからの出発となった韓国では、「復興」が第一の目標となった。すべてに「合理主義」が掲げられ、経済再生のために物流が最優先となった。
道路の渋滞を作らないよう綿密に計算された道路設計のため、ソウルの街中では片側だけで最大五車線あるところもあり、ともかく横断歩道が少ないのだ(二〇〇二年サッカーW杯日韓共催が決まった頃からソウル市内は整備され始め、横断歩道も増え、特にW杯前後からは速いペースで都市計画が行われた。現在では埋め立てられた「清渓川《チヨンゲチヨン》」復元工事が進んでおり、ソウルの街は刻一刻と変わっている)。
ほんの向こう側なのに、地下道を降りたり上がったりで、息が切れる。おまけに、地下の中はまるで迷路。目的地はこのあたりだろうと見当をつけて階段を上ってみても、まったく違う風景が広がっていたりして、やりきれない。
道路の向こう側にあるピザハットに行くのも、地下道を通らなければならない。十人がぞろぞろ階段を降りていく。地下の商店街は、ともかく派手だ。店単位で並んでいるにもかかわらず、店の境目もわからない。ごちゃごちゃといろいろなものが目に飛びこんでくる。このごちゃごちゃさについつい手が伸びてしまうのだから、不思議なものだ。
煌々と照らされた白熱灯のまぶしい光に、ひと際目立っていたのは、女性の下着店だ。
「わぁーこんな下着、誰がつけるのお」
十人のなかで一番若い高校二年生の慈恵が大声で叫ぶと、オトナぶった真姫が一言「カワイイじゃん」。女の子たちがウインドーチェックしている後を、男の子がもぞもぞとついてくる。何処も同じ、ウーマンパワー強しの図だ。
三階建てのピザハットの前は、待ち合わせの若者たちで寸分の隙間もない。脇の通りには、屋台がずらりと並び、Tシャツやホットドッグなどを売りさばいている。
はあはあ息を切らせながら、三階まであがり、ようやく空いている席を見つけた。Lサイズの大きなピザひとつをみんなで分ける。ペッパーの効いた辛めのピザだ。
さっき見た結婚記者会見の話、アムロの新しい情報……。話に参加せず、一人で雑誌をめくる者もいる。初めて会った人もいるというわりには、気兼ねせず思い思いのことをしているように見えるが、会話のほうはまだまだぎこちない。
「ねぇ、私ってちょっとアムロに似てない?」
サービス精神旺盛な真姫が、場を盛り上げようとそんなことを言って、みんなの反応をうかがっている。みんなのまばたきが一瞬止まった後、「やだあー」と慈恵がコロコロ笑い始めた。
真姫の捨て身(?)の発言で空気がほぐれていく。
韓国のアムラー≠ヘ、日本のひと昔前のアムラーのようにミニスカートやブーツで身を固めるわけでもなく、髪の毛を茶髪にするわけでもない。ただ純粋にアムロが好きで、応援しているだけだ。日本に行ったことのある彼らは、本物の(?)アムラーを見てびっくりしたという。
好きなアムロがいる日本≠ニは、彼らにとってどんな国なのだろう。
慈恵が言う。
「うーん、難しい。韓国では、日本ってずーっと悪く言われてきたから、イイ感情を持っているかというと、ちょっと違う。でも、アムロのファンになって、日本人の考え方とかなんとなく分かってきた気がする。コンサートとかでアムロが何度も『ありがとう』って言うじゃない。韓国ではあんまり『ありがとう』って言わないから、あー、そういう違いがあるんだなーって」
「そんなことを考えていちゃ、もういけないって思うよ、私は。もともと日本に対して特別な感情はないけど。いまどき、韓国と日本の関係を特別視するのはナンセンスだよ」
そうきっぱりいい放ったのは真姫だ。
だが、男子高校生の言葉にはまいった。
「もともと嫌いだった。お父さんが日本のモノを扱う商売をやっているんだけど、日本人はいばっているって言ってる。好きか嫌いかっていうなら、嫌い。昔のことをきちっと謝らないし。だけど、アムロを知ってから、少し変わってきたけど……。でも、好きではない。アムロはアムロ、日本は日本だから」
チャニョンはまた口ごもったまま、なかなか答えない。ようやく口を開いたが「日本のことは嫌いではない……」と歯切れが悪い。
その後、ある韓国の女性誌が組んだ「日本特集」の中でインタビューを受けたチャニョンは、「日本の歌手が好きだからと言って、日本のことを認めることにはならないのだから」と答えている。
「イイ感情を持っているかというと、ちょっと違う」
「韓日関係を特別視するなんてナンセンス」
「好きか嫌いかっていうと、嫌い」
「日本の歌手が好きでも日本のことを認めることにはならない」……。
彼らの言葉が、私の頭の中で絡まってくる。J−POPに夢中になっている十代、二十代の彼らにとっても、日本はまだ特別な国≠ネのだ。複雑に絡み合っている彼らの感情をどこからほどけばいいのか、私は途方に暮れてしまった。
「アムロのファンになって、日本人の考え方とか、なんとなく分かってきた気がする」
十代の慈恵の言葉は、私を気遣ってくれての言葉だったのだろうか。
「お母さんと一緒にアムロのビデオを見ている」と言っていた真姫の家は、ソウル大学の近く、新林洞《シンニムドン》で下宿を営んでいる。世話好きのお母さんが十年前から始めた。お父さんは普通の会社員である。下宿学生は十五人全員、韓国の超エリート<\ウル大学の学生だ。
「遊びに来て」という言葉に甘えて、真姫の家を訪ねたのは、風が冷たくなった十一月末のことだった。
「アンニョンハセヨ」
玄関には、脱ぎ捨てられ、重なり合った、男性ものの大きな靴が散らばっている。玄関のすぐ脇の台所で遅めの昼食をとっていたジャージ姿の学生が、怪訝そうな顔をしながら、ペコッと頭をさげた。
「いらっしゃい」
奥の部屋から小柄な女性が出てきた。ヒョウ柄のニットに黒いスパッツ、ショートカットが明るい雰囲気を醸し出している。
真姫のお母さん、朴《パク》チョングェさん、五十一歳だ。韓国では、結婚しても女性の姓は変わらない。これは、嫁の地位が低く考えられているためで、日本でいう夫婦別姓≠ニは異なった意味がある。
真姫の部屋に入ると、アムロの大きなポスターが目に飛び込んできた。他にキムタク(SMAPの木村拓哉)のポスターも壁に貼ってある。お姉さんと共同の部屋は六畳ほどで、壁際にベッドがドンと置いてある。他には机、タンスなども置かれていて、部屋は家具でぎちぎちだ。
三人がやっと座れる空間に小さな卓袱《ちやぶ》台を出した。
寒かったでしょう、そう言いながら温かいコーヒーをいれてくれる。卓袱台の回りに三人車座に座った。お土産に持っていった「鳩サブレー」を口に運んだお母さんが、
「お菓子ありがとう。日本のお菓子はきれいに作るねー。マシッソヨ《おいしい》」
私は内心、韓国の人の口に「鳩サブレー」が合うかどうか心配だった。味がはっきりしている韓国では、日本の曖昧というか繊細な味は分かりにくい。以前、韓国人の友達におかきをお土産に持っていったときに「ウエー、シンゴプタ(味がうすい)」と真顔で言われたことがあったからだ。私は、お母さんにも日本についてどう思うか聞いてみた。
「日本に対してねえ……。上の人から日本についてよくない話をさんざん聞かされてきたけど、正直言ってみんな昔のこと。自分が体験していないから、実感がわかないっていうのが本音かな。あっ、韓国語ちゃんと分かっているかしら」
真姫が「大丈夫」という風に目配せすると、お母さんはホッとした表情で、韓国語で一気に話し出した。
全羅道《チヨルラド》の小さな島、莞島《ワンド》出身のお母さんの実家は農家だという。自分の母親があまりに厳しい人で、農作業もイヤでイヤでたまらなくなり、高校を出た後すぐソウルに飛び出してしまった。
「夫とは、ソウルで知り合ったの。でも、私が全羅道出身だから姑にすごく疎まれたわ」
韓国では地域差別が激しいが、全羅道出身の人たちにはいわれなき差別が残っていた。原因は、古くは後三国時代からあるというものや大統領の利権政策から、など諸説ある。けれど、疎まれてへこたれるお母さんではなかった。
「どうしたら姑に気に入ってもらえるかなって、一生懸命考えた。それで、姑が好きなもの、例えば、何色の服が好きで、何が好物かとかは逃さないようにしよう、と思ったの。逃さないっていうのは、必ず用意するとか心配りをみせるということね。韓国も日本も同じだと思わない? 互いを理解しようとしなきゃ、ずっと同じなままじゃない」
ミカンの皮を剥いてくれる。甘くて、おいしい。韓国のミカンの名産地・済州島《チエジユド》産だという。五十一歳のお母さんは、よくしゃべり、よく笑う。韓国の女性がこんなに笑う姿を、私は留学中も見たことがなかった。私がそう言うと、真姫がもっとすごいことがあるのよと、こう言う。
「お母さんはいつも朝一番に起きて、きれいにしているの。ずっと、きれいにお化粧して、いつもカワイイの」
真姫は自慢げだ。女はいつもきれいにしているべし、がお母さんの信条なのだそうだ。
「えぇーあなた、適齢期すぎてるのに、結婚してないの。だめねー」
私が笑ってごまかしていると、すかさず、
「男の人はみんな同じ。きれいにしているほうがイイでしょ。心意気よ。超ミニのスカートをはいて、うふんてやるの。みーんな寄ってくるわよ、あはは」
と笑ってから、真顔に戻って言う。
「人は自分から口説くものだと思うの」
一瞬どきりとする。しばらくしてまた、アムロの話になる。
「アムロはかわいくて、私もファンなの。何より音楽でもなんでも、自分の子供に楽しめるものがあるということが、本当にうれしい」
とそこまで言ってから、何かを思い出したように笑い出した。
「私も、昔はチョー・ヨンピルのファンだったのよ。オッパ(韓国語で女性が使うお兄さんの意味、恋人や好きな人に対しても使う)のコンサートに必ず行っていたな。そうそう、コンサートでファンの一人がパンティ脱いで、オッパに投げたことあったな」
ええー、と思わず真姫と顔を見合わせた。
「日本のことも、昔は昔。ホント、正直言って体験していないから実感がわかないのよ」
自分の伯父も、日本の徴用にあい、命を落とした。兄を失った母(真姫の祖母)は当然、日本は許せないと言っているという。
「でも、そういう風に口汚く言っている母親がイヤだったのかもね。息苦しいほどに厳しい人でね。反対のことをやりたくてやりたくて、いま、実践しているわけ」
そう言って茶目っ気たっぷりの笑顔をみせる。
外が暗くなってきた。「夕食の野菜を買いにいかなくちゃ」とお母さんが立ち上がる。
三人で一緒に外に出た。吐く息が白い。冬はすぐそこだ。
真姫とお母さんと私が、三人並んで坂を下りる。
私たち三人の誰が日本人で誰が韓国人か、いったい誰が見分けがつくだろう。
「反日感情なんてありませんよ」
チャニョンのお母さんは、慣れた手つきで豚カルビを切り分けながら、少しあきれた口調で、はっきり言い放った。
真姫の家を訪ねた次の日。私は真姫と一緒にソウル市郊外の光明市にあるチャニョンの家を訪ねた。光明市は団地が林立する新興都市≠セ。団地の真ん中に、チャニョンの両親が営む豚カルビ専門の焼き肉屋がある。客のほとんどは団地に住む人たちで、私と真姫が店に入ったときは、二組の家族連れが豚カルビを食べていた。
「上の人に聞かされていたことや学校で習ったことと、実際に自分の目で見た日本は違っていましたからね。日本が作る製品やお店のサービスは優れているでしょ」
だから、日本には学ぶべき点がたくさんあるという。
「もう、日本がああだこうだという時代じゃないでしょう。子供たちにはそう言い聞かせてますけどね。チャニョンが日本のアムロっていう歌手が好きでも、自分が好きなことなんだから。親が口を出すことじゃないですよ」
そう早口で言いながら、チャニョンのお母さんは、器用に豚肉をはさみで切り分けていく。私の隣の真姫は少しかしこまった仕草で、借りてきた猫状態だ。
後で、なんでおとなしかったの? と真姫をからかうと、
「だって、私はチャニョンより年上だし、お母さんとは初対面だし、礼を尽くすのが韓国人でしょ」
と、〈もう、そんなこと聞かないでよお〉と言わんばかりに、少ししかめ面をしながら言う。
チャニョンが日本の女性と結婚したいと言ったらそのときお母さんはどうしますか? と聞くと、ほとほとあきれたといった感じで、苦笑いを浮かべながら、
「チャニョンが好きならどこの国の人でも、いいですよ。アメリカの人でもどこでも」
お母さんは三十九歳、どこか女優の池内淳子に似ている。
「チャニョンは日本の学校に行きたいって言っているのだけれど……。経済危機、IMF支援の影響もあってお客さんが激減しているんですよ。来年二月には店も小さくして、私は別の店をやろうかと思っているんですけどね」
韓国特有のオンドル式(床暖房)の、百人ほどが入れるだろう広い店内を見回しながら、ため息をつく。韓国を襲った九七年の経済危機は、韓国の失業率を八%台にまで押し上げた。IMF支援を受け入れた韓国では、「節約」がキーワードにもなった。客足の激減にはそんな背景がある。その日のお客さんは家族連れ二組から増えなかった。
口数の少ないチャニョンが、珍しく強い口調で「韓国では、肥える人だけが肥えている」とつぶやいた。
真姫のお母さんもチャニョンのお母さんも特別なケースなのかもしれない。けれど、日本人が思っているほど韓国の姿もひとつではない。日本と韓国の関係を肯定的に考えている上の世代の韓国人が、ここにいる。
チャニョンの店で豚カルビをごちそうになった後、真姫とバスを乗り継いで地下鉄の駅まで出た。
「日本うんぬんなんて、もうホントにナンセンスだと思うなー」
真姫がつぶやく。
バスの窓の向こうには漢江《ハンガン》の水面が揺らめいている。バスを降りると、首に巻いたマフラーの隙間から冷たい風が入り込んできた。
好き好きジャニーズ[#「好き好きジャニーズ」はゴシック体]
「日本は好きになっちゃいけない国だと思っていたんだけど、最近日本が好きになっちゃったみたいなんですよー。もうまずい、っていう感じ」
九五年から九六年にかけて、一年間日本に留学していたという権星南《クオンソンナム》が流暢な日本語で言う。彼女は韓国外国語大学に通う二十二歳の女子大生だ。長いストレートの髪をかき上げながら、日本語という外国語を駆使して韓国人の心情を話してくれる。
日本は好きになっちゃいけない国か──。
一瞬、胸がチクリとする。
話し続ける彼女の声が、突然黄色い声でかき消される。
「キャアー、オッパー」
ファンクラブのメッカである「SHOW BOAT」を私が再び訪れたのは、九八年十一月のある土曜日の午後三時。二カ月前にアムロの上映会で来たばかりだ。その日は、ファンクラブ「ジャニーズファミリー」が上映会をしていた。
ファンクラブのメンバーが、スナック菓子をほおばりながら、食い入るようにビデオに見入っている。ほとんどが制服姿のままの、あどけなさが残る、純朴な感じの高校生たちだ。視線が釘付けになっているスクリーンには、十月二十九日に大阪で開かれた『ジャニーズ&オールスター 夢対決in大阪ドーム '98』のリレー・シーンが映し出されていた。KinKi Kids、TOKIO、V6の「ジャニーズファミリー」にジャニーズ・ジュニアが加わった総勢なんと百十三人のタレントが赤組と白組に分かれ、リレー、サッカー、野球で対抗する大運動会である。
「SHOW BOAT」の中は、まるで会場にいるかのような大騒ぎだ。
「オモナー《あーあ》。もうちょっとだったのに」
リレーで抜かれたジャニーズ・ジュニアのファンたちの、トーンの下がった「あーあ」がこだまする。
「ジャニーズファミリー」は月に一度、定例会として日本のテレビ番組等を録画した約三時間のビデオ上映会を開いている。ビデオの中身はドラマだったり、コンサートだったりとさまざまだが、すべてジャニーズ事務所のタレントたちが出演しているものだ。
メンバーの高校生たちは、学校から直行したらしい。膨らんだかばんが彼女たちの隙間にちらほら見える。
「今日は少ないほうかな」
二十人ほどのメンバーを見回しながら、星南が言う。彼女は、このファンクラブの副会長だ。メンバーは全部で四十人ほどいるという。
星南は、高校二年生までは、香港の俳優、アーロン・コックのファンだった。同じファンの友達が香港の雑誌のペンパルコーナーを通して日本人と文通を始めたのがきっかけで、自分も日本人と文通するようになった。
「このビデオもその日本人の友達が録画して送ってくれているの」
その友達がいなかったら、ファンクラブの上映会は成り立たないという。
「それから、SMAPのファンになって、高校の時の友達と『LEGEND』っていうSMAPのファンクラブを作ったの。日本に留学する九五年まで一年ちょっとやっていたかな」
SMAPのファンになったきっかけは、キムタクこと木村拓哉だ。文通していた日本人の友達が送ってくれた雑誌でキムタクを見た瞬間、超カッコイイ! と一目惚れしてしまったのだという。ファンクラブ名の「LEGEND」は、ある雑誌に載っていたSMAPの記事中にあったタイトルからとった。現在の「ジャニーズファミリー」の会長、申嗜恵《シンギヘ》(二十二歳)とは高校の同級生で、「LEGEND」も彼女と一緒に始めた。
嗜恵は高校を卒業するとすぐに日本に留学した。とにかく早くSMAPのいる日本に行きたくなったからだという。五カ月は親戚のいる京都に、その後一年は東京で星南と北新宿のアパートで一緒に暮らした。
「『LEGEND』を作った九四年当時は、まだ日本の歌手とかが好きだって言える雰囲気じゃなかったんですよ。だから、私たちが作ったファンクラブが初めての日本の歌手のファンクラブじゃないかな」
メンバー募集も日本の雑誌を売っている明洞近辺にポスターを貼って回ったという。
星南は話をしているうちに回想モードに入り込んでしまったようだ。
「ホントにあの頃は、日本の歌手が好きって言える雰囲気じゃなかった。メンバーを集めるのに雑誌に載せてもらおうと思って、何枚も原稿を書いてファクスしたんだけど、ダメ。音楽雑誌も、女性誌もみーんなダメ。まあ、メンバーが百人以下はファンクラブとして認められていなかったっていうのもあるけど」
ファクスを送った先に、韓国版TVガイドの『スターチャンネル』もあった。この雑誌には、当時では珍しく日本に関する情報コーナーが一ページもので掲載されていた。
どうしてダメなのかと何度も尋ねると、こんなことを言われたという。
「ただでさえ日本のコーナーなんか作りやがって、ってにらまれているのに、これ以上やったら何言われるか」
いまでこそ変わりつつあるが、日本のものを肯定的に扱う報道なんて、つい最近まで、とんでもない話だったのだ。
『スターチャンネル』は、その後一年で廃刊になったという。九五年の話である。
星南も嗜恵も「SMAPが好き」という理由で日本に留学している。星南の大学での専攻も当然日本語かと思いきや、英語だという。いくらSMAPが好きだといっても、英語を勉強するのなら、どうしてアメリカなどの英語圏の国に留学にしなかったの? と聞くと、「父親にも同じこと言われた」と笑ってから、
「結構迷ったんですよ。でも、ちょうどそのとき、SMAP解散の噂が流れたの。私がアメリカに行っている間に解散したらヤダーって思って、それで日本に行っちゃったわけ」
細い体で、てきぱきと動き回る彼女は、どちらかといえばシャープでクールな印象だ。何かにのめり込むようには見えない。その彼女がSMAPのファンになって日本に留学までしてしまう。しかも、「好きになっちゃいけない国」にである。
日本での語学学校も、ジャニーズショップがあるという理由で原宿の原宿国際語学院に決め、一年間そこに通った。周りにいる人は韓国人か他の外国人。日本人の友達のほとんどは韓国に興味のある人だったから、日本にいるときはイヤな思いは一度もしなかったな、唯一苦労したのはアパートを借りるときだったかな、と星南はさらりと言う。
「いまでもSMAPは好きだけど、V6とかジャニーズ・ジュニアもいいなって思い始めた。いいなと思う人は全部ジャニーズ事務所の人なの。だから、『ジャニーズファミリー』を結成したわけ」
ファンクラブ名の「ジャニーズファミリー」は、日本のジャニーズ事務所に所属するタレントのファンクラブの名称「ジャニーズファミリークラブ」からとったものだ。
私が「SHOW BOAT」の上映会に行ったのは、九八年七月にファンクラブが結成されてから五カ月ほどが経った頃だった。最初の頃は、まだ流行りのPC通信に載せるわけでもなく、九四年当時と同じように相変わらずポスター貼りで人を募っていた。それでも、口コミでみるみる広がり、特急電車で三時間かけて大邱《テグ》からやって来るファンもいた。
大邱は、韓国第三の都市だが、まだこの手のファンクラブがない。大邱からやって来たという三十歳の家事手伝いの女性は、ファンクラブのあるメンバーが出していたPC通信の告知を見てやって来たという。
「ヤダー、やめてー」
画面はV6が出演している秋のドラマ『Pu-Pu-Pu』に変わっている。V6のメンバーのひとり、森田剛と女の子のキスシーンに、悲鳴のようなキンキン声が天井に突き刺さる。
ドラマのエンディングソング、V6の『OVER』が流れ始めると、星南が立ち上がった。会場の使用終了時間がきたらしい。
「みんなゴミ集めてー」と声をかけ、ビニール袋を持って各テーブルを回り始めた。六時までの予約を五分ほど過ぎている。未練たっぷりの高校生のメンバーたちは、視線をビデオ画面に残したまま、慌ただしく帰り支度を始めた。
外にでると、吐く息が白い。昼間零度だった気温がまたぐんと下がったようだ。あとで聞いたら、マイナス七度だったという。会場の熱気から一気に現実に引き戻された感じだ。
「チュオー(寒いー)」
まだ興奮がぬけない彼女たちは、押しくらまんじゅうをしながら、互いに大声で寒い寒いを繰り返している。
「時間のある人はいつもの Hardees に来てー」
星南のかけ声に、みんなが一斉にのろのろぞろぞろ歩き始める。「SHOW BOAT」から歩いて十分ほどの所にある三階建てのハンバーガーショップ「Hardees」は、大勢で行っても必ず席があるという、「ジャニーズファミリー」御用達の場所だ。
「Hardees」の三階に集まったのは、総勢十八人。星南、嗜恵、大邱から来た三十歳の女性、台湾に一年留学していた朴志訓《パクチフン》(二十六歳)の四人、中学生一人を除いた他は、全員高校生だ。
貸し切りのように二人の時間を楽しんでいたカップルは、大群で押し寄せた「ジャニーズファミリー」の面々を見て、びっくりとイヤを足して二で割ったような顔をして、しばらくすると帰ってしまった。もはや「ジャニーズファミリー」の貸し切り状態だ。
手帳を見せ合ったり、雑誌の切り抜きのスクラップなんかも持って来ている。小さなグループができ、各自思い思いの話をしながら、わいわいやっている。
そのなかの一人が興味深げに私をうかがっているのに気がついた。「何か言いたいことがあるの?」と彼女に視線を送ると、もじもじしながら「あまり似ていないけど」と言って、ノートの切れ端を見せてくれた。
切れ端には、関西ジュニア(ジャニーズ・ジュニアの関西チーム。対して関東ジュニアというのもある)の渋谷すばるの似顔絵と韓国の詩人・ハン・ヨンウンの『因縁説』の中の一節「私は、あなたをこんなにも愛しています」が鉛筆で書かれてある。
彼女の名は、呉宣柱《オソンジユ》。ソウルの女子高校に通う二年生だ。ひょろひょろっとした、どちらかというとおとなしい印象の女の子だ。
彼女の分厚い手帳を見せてもらうと、中にはぎっしりジャニーズ・ジュニアの写真が貼られ、それぞれにメッセージが書いてある。手帳をきれいに作るのは韓国の高校生たちの間で流行になっていて、互いにきれいに作った手帳の中身を自慢げに見せ合っては「キヨウォー《かわいい》」と、エールの交換をしている。
「写真は、龍山とか江南とかいろいろな所で簡単に手に入るし、日本の雑誌から切り取ることもあるかな」
ひとつのグループにどよめきが起こる。ジャニーズ・ジュニアの生田斗真がタバコを吸っている写真を日本のスポーツ新聞にフォーカスされたという。
「捕まっちゃうのかな」
まだ中学生のジンシルが心配そうにつぶやくと、少しお姉さん格の高校生の子は、「大丈夫だよ。大したことないって」と諭している。
すかさず星南が「タバコぐらい吸ったことあるでしょ」と突っ込むと、ヘヘと笑っている。私が思わず「えっ、ウソでしょ!?] どこで吸うの?」と聞くと、
「よく行くトイレとかに隠しておいて、そこで吸う。でも、ほんのちょっとだよ」
なんと……。こんなあどけなさの残る少女たちが、タバコを吸う姿なんてまったく想像できない。思春期の頃ってこうだったかなー、なんとなくワルにあこがれる年頃だもんなと考えていると、宣柱が私の持っているカメラを目ざとく見つけ、記念写真を撮ってほしいと言ってきた。
それぞれのお気に入りの表情で一回撮り、しばらくするとまた宣柱が何か言いたげに近寄ってきた。
「もう一度撮って」
どうして? と聞き返すと、
「あの時はかわいくなかったから」
なるほど、そりゃかわいく撮ってもらいたいよね、女の子だもん。でもね、実証済みだけれど、そんな簡単に人は変わるものじゃないよ、などと思いながら、カメラを向けてよく見ると、宣柱の髪型が変わっている。化粧室にいって髪の毛を水でなでつけてきたというのだ。
「前髪のこの部分が格好悪かったから」
うつむきながら、宣柱がかぼそい声で言う。
そんな彼女たちがのめり込んでいるジャニーズ・ジュニアは、まだグループを結成していないスター予備軍で、関西チームと関東チームがある。その数は合わせて二百人ともいわれているが、入れ替わりが激しいために正確な人数は分からない。SMAPもV6も、もともとはこのジャニーズ・ジュニアから選ばれてグループとして売り出された。
日本で人気のタッキーこと滝沢秀明は韓国ではさほど人気がなく、韓国で人気があるのは大坂俊介だ(九八年当時)。さわやか系の整った顔立ちである。
日本でもこのジャニーズ・ジュニア人気はすさまじく、コンサート、運動会は常に満員御礼。チケットはなかなか手に入らない状態だ。
「ジャニーズの中でもジュニアは自分だけが発見したっていう感じがするんだよね。でも、ショックなのは、みーんな年下だっていうこと」
こんなことを言うのは、二十二歳の星南だ。彼女は、いいと思った男の子が年下だと分かったときはものすごくショックだったという。
「でも、今韓国でも年下の男の子ブームだから、まっいいかと思って」
九七年頃から、韓国でも年下の男性と付き合うケースが急増しているという。ママボーイ(日本でいうマザコン)が増えれば、当然起きる現象なのかもしれないが、結婚に至るケースもあるというから韓国社会も変わったものだ。私がカナダに留学していた九三年、二歳年上の同じ韓国人留学生の女性とつきあっていた韓国の友人は「親に言えない」と真剣に悩んでいた。彼がいまの韓国にいたら、何も悩むことなどなかったろうに。
ちょうど、この「ジャニーズファミリー」の上映会の直後に、禁止されていた日本の大衆文化が一部開放されることになる。そのことについて、話題をふってみた。
「開放についてどう思う?」
瞬時にみんなが腕を一斉にクロスする。バツのマークだ。思わず胸がドキンとなる。そうか。こうして日本のタレントを受け入れていても、いろいろ考えるところがあるんだな、ヘンな質問しちゃったな、聞かなきゃよかった、と思っていると、
「だって、みんなに知られたら、つまんないじゃない」
宣柱が口をとがらせている。
そういうことか──。
自分たちだけが知っているということ、自分たちだけが見出したことに価値があるという。開放になれば、みんなに広まって逆にイヤになるかもしれない、そうなったら、また新しいタレントを探さなきゃいけない、というのだ。
若い女の子たちがタレントに熱をあげるのは、世界中どこでも同じだろうが、韓国では、受験地獄も彼女たちのタレント熱に拍車をかける原因のひとつになっている。
韓国の高校生の猛勉強ぶりは有名だ。一流大学進学にかける執念≠ヘ日本の比ではない。受験シーズンともなると受験生の母親とおぼしき人々が、名門といわれる大学の門に水飴のようなアメをくっつけている光景をよく見かけるようになる。「合格する」という意味のある韓国語「プッタ」は「くっつく」という意味もあることから、合格祈願のアメを門にくっつけるのである。こんなのもある。韓国の大学受験日は十一月の第三水曜日と決まっているのだが、その百日前《ペギルチヨン》には友人や先輩達と合格を願ってパーティーを開くのだそうだ。この日だけは勉強をせず、みんなでワイワイやって受験勉強のストレスを発散させるのだという。このとき受験生(女子学生)は百日指輪《ペギルパンジ》をもらうのが習慣で、一種のおまじないのように指輪をはめて試験に臨む子もいる。
「毎日朝の八時くらいには学校に行って、授業が終わるのが四時三十分ごろ。その後は自由学習で、塾に行ったりすると、家に帰るのは夜の十時から十一時。帰ってからも勉強するから、寝るのは二時ごろかな。もう毎日が寝不足。でも、勉強はしなきゃいけないし」
宣柱がいやになっちゃう、といった表情で説明してくれる。
星南が言葉を継ぐ。
「だから、ボーイフレンドなんてつくる暇もないし、ストレスも発散できない。それでスターに熱をあげちゃうのかも」
星南も、大学に入ってから|ナムジャチング《ボーイフレンド》ができたと笑っていた。
集まった何人かは、家には「自由学習で学校に残って勉強してくる」と言って出て来たという。そのうちのひとり、中学生のジンシルは「ここにいるってお母さんは知らないはず」と話す。
ジンシルは、中学三年生だ。春頃からジャニーズ・ジュニアにのめりこみ、親に嘘をついてファンクラブの集まりに参加していた。
「家で日本のことを話すと怒られた。勉強もしないでって。おばあさんの前では絶対日本のことは言っちゃいけないし」
六十代のおばあさんは、反日感情が強くて、日本のことが大嫌いだそうだ。
「でも、両親は、高校に受かったら日本語学校に通ってもいいって。だから、日本語を勉強して二宮くん(当時ジャニーズ・ジュニアのメンバーで、現在「嵐」のメンバー)と話ができるようになるんだ」
大好きな彼らが何をしゃべっているのか、もっともっといろいろなことを知りたいと日本語を勉強し始めた子が、集まった中で半分ぐらいいた。大体の子たちが挨拶程度の日本語を話すことができ、書くこともできる。
と、突然一人の子が泣き出した。
「かわいそう」
ジャニーズから次の新しいグループのメンバーが発表されるという話の途中だった。そのメンバー選考で、小原裕貴が落ちるのは確実だという言葉を聞いたとたんに泣き出したのだ。ちなみに、そのグループが、九九年に結成された男性五人組の「嵐」である。
「一生懸命やっているのに、どうしてダメなの。かわいそう。年ももう二十歳だし、これを逃したらもう引退するしかない……」
宣柱にそっと耳打ちした。
「そんなに悲しいのかな?」
宣柱が憮然とした表情で、
「当たり前だよ。自分が好きな人だよ。私だって、すばるがデビューできなかったらいやだもん」
「日本のスターが好きなら、日本のことも好きでしょ?」
私がこんな質問をぶつけると、皆互いに顔を見合わせて、首をかしげた。
「嫌いではないけど、好きでもないな」
と、一人が口火を切ると、
「だって、レオナルド・ディカプリオが好きなら、アメリカは好きっていうのと同じことでしょ。日本自体は好きか嫌いか分からない。関心はあるけど」
「日本には学ぶべき点が多いって聞くよ。日本の道路にはゴミなんてなくて、すごくきれいだって。日本のイメージは、きれいな国かな」
「国史で習うと、昔いろいろあったから、好きとはいえないかな。でもすばるは好き」
国史とは韓国の歴史、日本でいうところの日本史に相当する。日本と同じ六・三・三制の教育制度をとる韓国では、中学、高校で国史を学ぶ。日本と違い、教科書は国定のみの一種類しかない。
この国史の中には、当然、一九一〇年から四五年までの日本による植民地統治時代も含まれており、かなりのページ数が割かれている。日本の植民地時代に比重をおいた韓国の教科書を「反日感情を醸成している」と批判する単眼的でばかばかしい声も日本国内にあったが、国の歴史として避けられない三十五年間を教えているにすぎない。問題は、日本同様、受験勉強主体のカリキュラムで、韓国が独立してからの戦後史にまで授業が進まない教育システムのほうだ。
そもそも「国を好きか」という質問自体、あまり意味がないと私は思っている。好きでも嫌いでもいい。大事なことは、互いを等身大で見ようとする視線と、感情に流されず大勢を冷静に見極められる知力である。意味がないのを承知で星南や宣柱たちに聞いたのは、新聞社やシンクタンク等が調査する世論調査に、このての質問が必ずあり、十把一絡げ的に人々の感情を集約しようとするからだ。
一九八四年から断続的に行っている朝日新聞社と韓国の東亜日報の共同世論調査に、必ずある質問項目が「あなたは日本(韓国)が好きですか」である。九九年の結果は、日本では「韓国が好き一三%、どちらでもない七二%、嫌い一二%」、韓国では「日本が好き一〇%、どちらでもない四八%、嫌い四三%」。
前回の九六年の調査から大きく変わったのが、日本側で韓国を「好き」という人がわずかに増えたことと、韓国側で日本が「嫌い」が減り、「どちらでもない」が増えたことだ。しかし、こうして実際に韓国の十代、二十代の若者たちに会ってみると、数字で表れてくる「日本を嫌い四三%、どちらでもない四八%」のなかに、「好き」とは言えない、微妙な感情が織り込まれていることが見えてくる。
数字だけを見て「韓国での反日感情は健在だ」「日本に対する意識が変わった」などと言い切ってしまえるほど感情なんて割り切れるものではないはずだ。
「ここのうどん屋さんは関西で修業した人が作っているから、おいしいよ」
夕食は、ハンバーガーでは腹持ちが悪いということで、近くのうどん屋に移動した。他のメニューに比べて三千ウォン(約三百円)と一番安いということもあるが、たぬきうどんを注文する子が多い。宣柱は、「ダイエットしているから」ともりそばにしている。もやしのように細いのにどうしてダイエットするの? と言っても、「細くなりたい」と頑《かたく》なだ。味は韓国にしては薄めで、日本人の口にはなじみやすい。
台湾に一年間留学経験のある志訓は、台湾で日本人の友達がたくさんできたという。
「友達はみーんないい子ばかりで大好きだけど、日本に対しては認められない、何かひっかかり≠ンたいなものがあるんだよね。嫌いっていうのとは、少し違うんだけど。歴史を習えば、自然なことじゃないかな」
志訓のたぬきうどんは、七味唐辛子で埋め尽くされて、ほぼ真っ赤だ。
「日本人を好きでしょっていわれると、うーんって考えちゃう。ちょっと待ってっていう感じかな」
たぬきうどんをすっかりたいらげた星南が言う。
「学校で習う国史の影響もあるけど、歴史として習うだけだし、決して反日教育をやっているわけじゃない。でも、解放記念日(光復節とよばれる。日本の終戦記念日にあたる)とか三・一節(日本の植民地時代の一九一九年に起きた日本からの独立運動が始まった日)が近づくと、テレビドラマや新聞で反日の内容のものをよくやるでしょ。あの影響ってすごいと思う。なんか、日本は好きになってはいけない国って思わされるっていうか」
そんな星南も日本の政治家の妄言≠ネど確信的に日本が嫌いな部分ももちろんあるという。ただ、「日本をよく知りもしない人が日本について批判的なことを言うのは許せない」。だから「弁護しちゃったりするんだよね」と笑う。
どこか身内的発想に似ている。分かってはいるのだけれど、他人に言われると腹が立つという感情だ。
「でも最近、ほんとに日本が好きになっちゃったみたい。まずい、って感じ。なんか自分自身変わってきている」
外に出ると、粉雪が舞っていた。地面がうっすら白くなっている。互いに転ばないように並んで、地下鉄の駅に向かう。もう十時近い。
星南と嗜恵は十二月末に行われるジャニーズの大阪コンサートに来るという。ホテルを予約しなくちゃ、と言いながら、服にうっすらと積もった雪を払っている。
「また今度ねー」
みな、散り散りに帰って行った。
「『ジャニーズファミリー』はこの人がいなかったら、成り立たない」
と星南が言う、日本人の友達、染谷満佐子さん。東京生まれ、東京育ちの三十代だ。勤めていたコンピュータ会社を辞め、東京・練馬にある自宅の会計事務所の仕事を手伝っていた。
月に二、三回、ジャニーズのタレントが出演したテレビ番組を録画したビデオ、四、五本を星南に送っているという。
「自宅にいるもんですから、ビデオを録画して送ることも別にたいしたことじゃないんですよ。時間的に融通が利くし」
私が、それでも大変でしょう、と言うと、
「私自身がジャニーズのファンですから」
とおおらかに笑う。
韓国の人気グループ「H.O.T」のファンでもある。
「だからギブ・アンド・テイクなんです。星南から『H.O.T』のビデオなんかも送ってもらうし」
「H.O.T」は、韓国で人気の少年五人組だ。星南と知り合ったきっかけは、文通だった。
「当時は、香港のアーロン・コックという俳優が好きで、香港の雑誌を買っていたのですが、そこの文通コーナーに星南がペンパル募集をしていたんです。その頃、私は韓国のソテジ・ワ・アイドルにも興味を持っていたので、韓国の人と友達になりたいなとちょうど思っていたんですよ」
ソテジ・ワ・アイドルは、安室奈美恵ファンクラブの慈恵もファンだったグループだ。
染谷さんが彼らを知ったのは、写真週刊誌『フライデー』の記事だった。
「へえ、韓国にもこんな歌手がいるんだって思いましたね」
そう思っていると、フジテレビの深夜番組『アジアNビート』で、タイミングよくソテジ・ワ・アイドルが紹介された。これは歌もイケるぞ、と染谷さんは日本にあった彼らのファンクラブに入ってしまう。こうした韓国の歌手のファンクラブは日本にもいくつかあり、それぞれ韓国のコンサートに行ったり、会報を出したりしているそうだ(九八年当時)。
「ソテジ・ワ・アイドルのもっといろいろなことが知りたいなと思って探しているうちに、ファンクラブの存在を知ったんです。だから初めて韓国に行ったのは、そのファンクラブの旅行でした」
三泊四日、十五人のツアーだった。それまで、まったく韓国に興味なんかなかったのに、とつぶやくように言いながら、
「私たちの親の世代はなんとなく韓国はダメっていう世代ですよね。だから、私も漠然と韓国の人は日本にいい感情は持っていないと思っていたんですよ。それが、韓国に行ってみると、まったく印象が違いました」
道ばたで地図を広げていると、迷ったのかと道を教えてくれる人がいたり、荷物を一緒に持ってくれる人がいたり、「韓国の人は本当にやさしかった」という。
「星南も、文通しているときもそうだけど、実際会ってみてもすごくいい人だった。私が少し年上だということもありますけど、すごく気を遣ってくれるんですよ。いまじゃ、お互いの家に泊まったりしていますしね。日本語も韓国の人はすぐうまくなっちゃって、見習わなきゃって、思ってはいるんですけど」
染谷さんは、まだ韓国語が思うように話せない。日本語が上手な星南との会話はすべて日本語だ。そうそう、こんなことがあったんですよ、と染谷さんが急に笑い出した。
星南と文通して間もない頃、福岡ドームで行われたSMAPのコンサートに星南がやって来た時のことだそうだ。星南に会うのはそれが初めてだったのだが、
「こんにちはって言ったら、さようならって言われちゃって(笑)」
まだ日本語があまりできなかった星南は、私はまだ日本語ができないという意味を込めて、唯一知っている日本語の「さようなら」を言ったのだという。「いまでは笑い話なんですけどね」とおかしそうに染谷さんがまた笑う。
星南と知り合ってから、年に三、四回はソウルに遊びに行くようになった。
ただ、染谷さんの周りにはまだ韓国に対して偏見を持っている人も多いという。染谷さんの友人が韓国に行ったとき、案内のガイドさんに向かって韓国の子供たちが「なんで日本人なんかにガイドするんだ」って言っていると聞き、いやな思いをしたというのだ。
「韓国≠カゃなくて人≠ノよって違うんだと思うんですけどね」
星南との付き合いはもう五年近くになる。
「私の送ったビデオが、みんなに喜んでもらっているのがうれしいですね。SMAPやV6を通して日本に触れてもらっているっていうことでしょ。感激です」
ジャニーズのコンサートを見に来た星南を一週間近く家に泊め、一緒にコンサートも回る。
チケットはどうしているんですか? と聞くと、
「私の家に星南が間借りしていることになっているんですよ」
ジャニーズのチケットは、ファンクラブに入っていなければ購入できない仕組みになっている。ファンクラブに入るのには条件があり、日本に住所がないと入会できない。星南は染谷さんの家に間借りしていることにし、染谷さんがコンサートの度に申し込む。
ビデオを送ったり、チケットを取ったりと本当に大変じゃないんですか、としつこく聞くと、
「全然。楽しいですよ。星南なんか日本に来るために一生懸命アルバイトしていて、エライなって思うし」
しばらく経って、コンサートを見に日本にやって来た星南と、染谷さんを交えて会ったときのことだ。星南が、こんなに日本に来ていると日本がなんだか外国に思えなくなってきてとつぶやいた。
「もちろん、外国なんですけど、身内の所に来たみたいな感じなんですよ」
それは、単に日本の歌手が好きだということだけではなく、染谷さんとの五年間のやりとりから感じ始めたことなのだろう。
大上段からのどんな言葉より、「音楽」と「人」が一人の人間の思いを変えつつある。星南は、「日本は好きになっちゃいけない国」「最近日本が好きになったみたいで、まずい」と頭の片隅で思っていながら、一方では学校などで教えられた日本≠ナはない、自分自身で触れて感じとった日本≠持ち始めていたのである。
年が明けた九九年一月半ばのことだった。韓国の宣柱から留守電が入っていた。
「オンニ、志訓オンニが大変で、ファンクラブも今度集まりをするかどうか、大変なことになっています。大坂と尾身と浜田が、なんかあ、パーティーでとんでもないことをしたのが『フライデー』という雑誌に書かれたって、大騒ぎになっています。本当にそんなことがあったのか、これから大坂とかどうなっちゃうのかあ、すいませんが、調べて連絡ください」
いまにも泣きそうな声を出している。おまけに韓国の若い女の子特有のイントネーションが混じって、私は宣柱の韓国語がうまく聞き取れず、何度も何度も留守電のテープを聞き直さなければならなかった。
それは、『フライデー』一月二十九日号のトップ記事になっていた。
「ある不動産関係者が集まった忘年会にジャニーズ・ジュニアのメンバー、大坂、尾身、浜田らが出席。パーティーが終わった後、某高級ホテルのカラオケボックスで二次会となり、そのままホテルのスイートルームで三次会となり、女の子たちとホテルに入ったメンバーはそれぞれお目当ての子と事に及んだ」
ジャニーズ事務所のマスコミ封じは有名だ。事務所所属のタレントの醜聞がメディアに載ることなどそれまでほとんどなかった。
宣柱から電話が入ったのは、一月十八日の月曜日で、『フライデー』の発売は、そのたった三日前だ。どうやってこんな情報を手に入れたのだろう。私は星南に電話を入れてみた。
「もうショック、ショック、大ショック」
電話の向こうで、甲高い星南の声もいつになくトーンが下がっている。
どうやって記事のことを知ったのかと聞くと、まず志訓がインターネットで『フライデー』の情報を知ったのだという。ところがそれが日本語だったので、日本語がよく分からない志訓はすぐに嗜恵に連絡。嗜恵がインターネットを見てみると、くだんの記事が載っていた。星南が力のない声で言う。
「これはみんなに知らせなくちゃってなったんだけど、ホテルの話はちょっと……。だから、一次会、二次会の話だけPCに載せたの」
通信をみた会員からは電話が殺到したという。
星南は、PC通信に載せてはみたものの、ジャニーズ事務所はいままで悪い噂は全部つぶしてきたから、ガセネタじゃないかとも思ったという。『フライデー』が間違っているんじゃないか……と。
「でも、日本にいる友達とかに聞いていろいろ調べてみるとどうもホントらしい。あー、もうみんな終わりだなって思ったら、カワイソーになっちゃった」
星南のいうみんなとは、パーティーに参加した大坂、浜田たちを指している。その後、日本でジュニアたちが事務所を解雇されるという報道が流れる前に、ジャニーズを熟知している彼女たちは、「解雇」は当然と覚悟していたらしい。
「大坂最高!」と言っていた、明るい志訓は、その後一週間泣き続けたという。
「なんでこんなことになったのか、信じられない!」
志訓は食欲もなくなり二キロやせた。
喫煙や飲酒だけでなく、乱交の事実もあったことから、ファンたちに与えた衝撃はすさまじかった。日本ではインターネットで解雇取り消しを求める三千名の署名が集まり、大坂などの解雇取り消しを求める嘆願書も提出されたという。
「韓国では考えられない。タバコ、お酒ならまだいいけど、女の子とそういう風になったという記事がでるなんて」
幻滅した? と聞くと、
「ううん。みんなカワイソーって言っている。悪いのは、情報を流した女の子たちだって。これから解雇された子たちどうなっちゃうんだろう」
星南は細い体から力が抜けるような声を出している。
韓国では、「私書箱」という日本のダイヤルQ2に相当する電話サービスがある。特定のダイヤルをまわし、暗証番号を押せば自分の行きたい場所(情報部屋)にアクセスできる。ファンクラブ「ジャニーズファミリー」もそういった場所を持っていて、情報をもっている人はメッセージを録音し、情報がほしい人はそれを聞くというシステムだ。PCを持っていない会員は『フライデー』事件の真相をここから知ったという。
この『フライデー』事件の顛末を聞いてつくづく思ったのは、インターネットの威力だ。新しいメディアは、「規制」なんてもうとっくに飛び越えてしまっている。「日本大衆文化開放」の八文字がやけに薄っぺらく感じられる。
こうしたウラ事情はもとより、オモテの事情も韓国経済危機、金大中大統領誕生と、日韓の風向きは着実に変わってきた。二〇〇二年のサッカー・ワールドカップ共同開催も控え、日韓はいつになく友好ムードが醸成されつつあった。
九八年十月の金大中《キムデジユン》大統領来日が、日韓の最初のターニングポイントになった。日韓両首脳による「日韓共同宣言」は、「韓国の甘えと日本の弱腰のもとに作られた」と揶揄する世論も日本国内にはあったが、これにより日本はともかく、韓国のほうはさまざまな面で日本への積極的なアプローチを開始している。
日韓の交流目的で韓国の高校生を年間一万人日本に研修旅行させるという試みが、九九年八月の二百人から始まった。大阪・今宮高校で行われた日本の高校生との交流会は時間にして二時間という短いものだったが、最後には、住所交換や写真撮影をするなど、別れを惜しんでいる日韓の高校生たちがいた。
「韓国の人って日本とぜんぜん変わらない。ちょっと意外だった」
「日本人って思っていたより優しかった」
初めて互いに触れ合ってみての驚きだ。
金大中大統領は帰国後、第一次の開放として、アカデミー賞、カンヌなどの四大国際映画祭の受賞作品と日韓合作作品に限って日本映画を解禁した。純粋な日本映画の第一作として上映されたのが、『HANA−BI』と『影武者』だ(その前に日韓共同制作の『家族シネマ』が上映されている)。
しかし、解禁前にも日本映画はビデオという形で入り込んでおり、またシネマカフェ(映画を上映する喫茶店)などでも上映されている。九八年九月の釜山国際映画祭で上映された岩井俊二監督の『四月物語』は、前売りチケットが発売と同時に売り切れた。後日、岩井監督は「日本の映画が禁止されている韓国で、あんなに僕のファンがいるなんて想像もしなかった」と語っているが、九七年ごろからアンダーグラウンドで出回っていたビデオ『Love Letter』で、岩井人気はすでに不動のものになっていたのだ。九九年九月の第二次開放で、国際映画祭の受賞作品が解禁となり、十一月には、その『Love Letter』も正式公開され、二十二万人もの観客を集めた。
禁止されていた日本の漫画も映画も、アンダーグラウンドではすでに入り込んでいたのが韓国の実状だ。韓国の若者たちは何らかの形で日本の大衆文化に触れていたと言っていいだろう。金大中大統領が「日本大衆文化開放」を明言すると、韓国マスコミはこぞって歓迎論を展開し始めた。それまでは一貫して「国民感情に配慮し、慎重に」という論旨で横並びの姿勢だったマスコミは、どうやって日本大衆文化を開放するかという手順の問題へと、にわかにその論旨をスライドさせた。
その後の金大中大統領の日本大衆文化開放政策は、三次(二〇〇〇年六月)まで進み、国際映画賞受賞のアニメーションのビデオ化、ケーブルテレビ・衛星放送での放映が認められ、日本の歌手の公演は完全に自由化された。
実は、韓国で日本大衆文化が禁止されていたことについての法的根拠は何もない。「国民感情を考慮したもの」(文化観光省監督)として、韓国政府が実質禁止してきただけなのだ。実体法としては、一九六一年に制定された「公演法」という法律があるが、国民感情を害する恐れがあるものは公演してはならないという内容のもので、日本のものに限って禁止しているわけではない。韓国にとって、日本は、歴史的清算がなされていない特別な国≠ナあり、だから日本のもの(文化)は、韓国の国民感情を害するものとして扱われてきたのである。
語学留学のため、私が初めて韓国・ソウルの地を踏んだのは、一九九五年の四月である。韓国はやたらにキャンペーンの多い国だが、その夏に政府が行っていたキャンペーンのひとつに「日本のタバコを買わないようにしましょう」というものがあった。
このキャンペーンは、自国の経済に貢献しましょう、だから外来のタバコは買わないように、という趣旨だったらしいが、なぜか「日本のタバコ」だけ名指しで槍玉に挙げられていた。ポスターには、伊藤博文を暗殺した韓国の英雄、安重根《アンジユングン》の手形が使われていた。安重根の左手の薬指は第一関節から先がない。「大韓独立」を仲間と誓い合った「断指血盟」で切り取ったのである。
しかし、国をあげて、一国を名指ししてその国の製品を排斥するキャンペーンなど、私はそれまで聞いたことがなかった。韓国に行く直前まで留学していたカナダは多民族国家だったこともあり、差別的なキャンペーンが張られにくかったのかもしれないが、韓国の「日本は叩いてもいい」という、いまだ強しの反日感情にただただ驚いてしまった。
「日本のタバコを買わないようにしましょう」というぐらいだから、韓国のお店からは、売れ筋のマイルドセブンは表向きには姿を消した。
ある日のこと。日本の友人が「絶対マイルドセブンは店においてある」と言うので一緒についていくことにした。店に入り、「マイルドセブンありますか?」と聞くと、どの店でも、少し様子を窺って裏のほうからすばやく出してくる。たいていどの店でも透明の大きなビニール袋にばらばらに入っていた。お金を払い、意地悪く「売っちゃいけないんじゃないの?」と聞くと、「そんなこと言ったって、客が買いたいっていうから仕入れてくるのさ」。で、なんでそんな袋なの? と畳みかけると「何カートンか買い付けたヤツからみんなが共同で買って、それぞれ十個とか二十個とかずつ分けるのさ」という返事が返ってきた。
こんなこともあった。韓国の友人と雑談していたときだ。
「『課長 島耕作』っていう漫画は、日本のサラリーマンの構造をよくとらえているって、米国の雑誌『TIME』が絶賛していたんだけど」
日本語を勉強するものとして読んでみたいという。日本の漫画(日本語版のもの)は名目的にはまだ禁止対象だった。まあ、一冊くらいは大丈夫だろうと思い、冬物の衣類にいれて一緒に送ってくれるよう、日本にいる母に頼んだ。
そろそろ届くころかなと待ちわびていたある日。荷物の代わりに一通のはがきが国際郵便局から届いた。
「国際郵便局に出頭しなさい」
荷物に入れてもらったダウンジャケットの羽毛が輸入禁止だったのか、何事かと思いながら、学校の帰りに国際郵便局を訪ねた。窓口に行くと、開口一番「この漫画はなんだね」と厳しい一言が飛んできた。くだんの『課長 島耕作』の第一巻である。「しまった。違法行為にひっかかった」と一瞬思ったが、とりあえず知らないふりを装った。
「なんだねってなんですか?」と聞き返すと「こんなにいやらしい漫画は初めて見た」と言う。違法ではなく、いやらしい*汢謔セったから私は呼び出されたらしい。見せられたページを見ると、主人公の島耕作と仕事先で知り合った外国人女性とのベッドシーンだった。思わず出かかった「だからこれが何だって言うんですか?」という言葉をかろうじて呑み込み、代わりにあきれた顔をすると、その表情が相手のカン所を刺激してしまったらしい。
係の周りにいた二、三人も「そうだ、そうだ」の大合唱。なんだ、結局みんな見ているんじゃないの、とついかっとくるのが、私の損な性分。
「あなた方はこういうことをしないんですか。世界中の男性ほとんどが似たようなことをやっているじゃないですか」
常々、諸先輩、友人たちから「無駄な怒りはやめなさい」と何度も言われているにもかかわらず、懲りない性分なのだ。予期せぬ反撃に、
「これだから、日本の女は。あなた、結婚は?」
「してません」
「結婚していないから、そんな恥ずかしいことが言えるんだ」
と、本筋から話題はどんどんそれていく。最後には、
「どうだ、あそこに座っているヤツは。独身だ。いいやつだぞ。韓国の男と一緒になればそんなことは言えないだろう」
奥に座っている男性をしきりに薦めてくれた。本音ではきっと規制なんてばかばかしいと思っているのだろう。韓国男性を半ば本気で薦めてくれる姿が、なんだかかわいそうになってきてしまった。
結局漫画は没収、日本に返還となった。
九五年冬のことである。
日本の歌謡≠売るオトナの事情[#「日本の歌謡≠売るオトナの事情」はゴシック体]
規制の隙間を狙う商売は、世界中どこでも元気がいい。
ソウルでも日本のCD、ビデオ、タレントの写真を売る店は、露店を含めるとかなりの数になる。街を歩いていると、この手の店を簡単に見つけることができる。すでに解禁になっている日本の雑誌などは大きな書店でも扱っている。
ソウルと地方を結ぶバスの発着駅、高速バスターミナル。ソウル市内には、目的地別に地方へ向かう高速バスのターミナルが大小併せて七カ所ほどある。高速道路を使ってソウルと釜山《プサン》、慶州《キヨンジユ》など慶尚道《キヨンサンド》(韓国の南東部)方面と江原道《カンウオンド》(韓国の東部)、全羅道《チヨルラド》(韓国の南西部)の各都市を結ぶバスの発着場所だ。
ターミナルの道路を隔てた向かい側に、三階建ての建物が三棟並んでいる。その向こう側には、韓国のミドルクラスが多く住んでいるというマンション群が延々と続いている(今では再開発が行われ、高級ホテルや新世界百貨店などが駅に隣接する一大スポットとなっている)。
三棟には、飲食店、雑貨店などがパズルのようにこまごまと並んでいる。その一号棟の一階の端っこに日本のアニメ専門店「アニメイト」がある。
広さ六畳ほどの店内に、日本の雑誌やアニメのキャラクターグッズがびっしり詰まっている。入っていくと高校生らしき客が二人。一人は熱心に何かを探している最中で、もう一人は、雑誌を立ち読みしていた。
店主は高齢の夫婦だった。風呂屋の番台のようなところに、二人仲良く座っている。
おばあさんにまず話しかけてみた。事情を説明しても眉間にしわを寄せて、うるさそうに「何言っているんだか、さっぱり分からない」と横に座っているおじいさんに助けを求める。こんなに自分の韓国語が通じないとは……大ショック、と思っていると、おじいさんが、
「イルボンアガシ(日本のお嬢さん)?」
そうです、と答えると、流暢な日本語で「私は日本語が少しできます」。
李用杰《イヨンゴル》氏、七十歳。出身は、いまは北朝鮮の首都である平壌《ピヨンヤン》だという。
「文化開放はね、早くやらなくちゃいけない。もうこうやって入ってきているのだから。いいものは入れて、よくないものは入れないようにすればいいことでしょ」
言葉を一つ一つ丁寧に選びながら、ゆっくり話す。「アニメイト」で扱っているものはすべて合法的に仕入れたものだという。
韓国の赤十字社などが日本の大衆文化開放に反対している一番の理由は、日本の漫画の表現にいやらしい描写が多すぎるという点だ。ハラボジ(韓国語でおじいさんの意味)は、
「あまりにもまがいものが多すぎるんですよ。きちんと輸入すればいい。日本の漫画だっていいものはある。ここに雑誌なんかを買いに来る子たちも、みんな普通のいい子たちばかりですよ」
流れるような白髪、柔らかい表情。話はいつしか日本の植民地時代のことになった。当時の日本軍がやったことに話が及ぶと少し語気を荒らげた。優しいまなざしのハラボジも過去について語るときは厳しい口調になる。
「あなたがたが終戦だと言ったとき、我々は解放だった。そのとき、日本人が周りに何人もいましたよ」
その中で、渡辺さんという日本人とハラボジの父親は仲が良かったそうだ。終戦の混乱時、日本人が本国に帰らなければならなくなったときに、渡辺さんの本国帰還の手立てを講じたのが、ハラボジの父親だったという。
「運命というのは不思議でね。ひょんなことから、その息子さんと知り合いました。手紙が来て、私は大阪にいる彼の所に会いに行きました。そしたら、泣きながら、『ありがとうございました』って言うんですわ」
そういう因縁のある知り合いも日本人の中にいる、とゆっくり話すハラボジの言葉に、日帝時代を生きた人々のさまざまな姿が浮かんでくる。
なぜ、日本≠ノ関係ある仕事を選んだのですか? と聞くと、ハラボジは笑いながら、
「友達にお金を貸してね。そいつがどうしようもなくなって、そいつの店を私が代わりにやったまで」
それまでは普通のサラリーマンだったという。これも縁だね、とつぶやいた。明洞で五年近く店を営み、二年前にこの高速バスターミナルのそばに移ってきたという。
帰るとき、ひとしきり私たちの話を横で聞いていたおばあさんが一言。
「あんた、韓国語上手だね」
えっ、最初と言っていることが違うんじゃないの? 私がハラボジと話しているうちに疑心が消えたらしい。
暇《いとま》を告げると、ハラボジは私が見えなくなるまで店の前に立ち、見送ってくれた。
「アニメイト」のように著作権問題もクリアになっているものだけを扱い、合法的に商売を営むケースもあるが、こと日本商品の商売となると違法の店が多い。
一九九八年に竣工した、財閥の一つ、現代《ヒヨンデ》が資本を出している「テクノマート」。十一階建てのハイテクビルは、十階まではビデオやCD、パソコン関連グッズのショップなどで埋め尽くされている。ビルの最上階には、映画館、レストランがあり、まさに欧米のショッピングモールスタイルだ。
平日でも学生、若い主婦で溢れかえっている。エレベーターはいつも満杯、一回で乗れた例《ためし》がない。IMFの介入以降に完成したということを考え合わせると、経済危機後の再建に向け、世界的にアピールしたかった韓国のメンツのようなものも感じる。
最上階にあるレストラン街は、十店舗ほどあるうちの四店舗が日式といわれる日本料理店だ。すし屋、天ぷら屋、うどん屋が入っている。
ビデオ、CDなどを扱う小さな店が並ぶ八階は、まるでパズルのように、店同士がうまい具合に組み合わさっている。その一角「J SHOP」の前に人だかりがあった。何をやっているのだろうと行ってみると、大型画面で上映していたのは、なんとアムロのコンサートビデオだった。こんなに堂々と違法行為をしていていいの!?]
ブースで区切られた店のなかに入ると、棚にはキャラクター商品とともにX JAPAN、Mr. Children、アムロと錚々《そうそう》たる日本人歌手のCDが並べられているが、陳列されているCDは、発泡スチロールにCDカバーのコピーが貼られたものだ。
価格は大体が一万二千ウォン。カバーもコピーだが、実は中身もコピー品だ。コピー品はすべて違法である。本物は三万ウォン前後だという。種類の多さにびっくりしたと言うと、店主のオ・ギョフン氏はうれしそうに「ソウルで一番揃っている」と自慢した。
奥の引き出しの中には、日本のCDのコピーがお宝のようにぎっしり詰まっていた。こんな一等地での違法行為である。警察は何も言わないのだろうか。
「五月と十月に見つかって、罰金を払ったよ。五百万ウォンずつ払ったんだけど、また捕まった。先週の月曜、十一月十九日にまた罰金。今度は一千万ウォン払わなきゃいけないかも……」
とギョフン氏はため息をついた。
「こうなったら早く日本の大衆歌謡が開放されればいい。そうしたら、罰金を払うこともなくなる」
そんなに何度も取り締まりを受けて、なぜ商売を続けるのだろう? ギョフン氏は「一度やり始めたことだから」と言うが、おそらく本当の理由は、罰金を払ってでも儲けが出るからだろう。
ギョフン氏は、もともと韓国財閥のひとつ、LGグループのLG電子に二年間勤めていたサラリーマンだった。事情があって会社を辞めて独立した。パソコン店からスタートし、次に日本のアニメグッズ販売に移行し、扱う商品を雑誌、CDに変えたのは一年前からだ。
「日本のCDが商売になると聞いて、アニメからCDに切り替えたんですよ。日本と韓国の情緒はすごく似ている。昔と今を分けて考えていかないと、韓国だって生き残れないでしょ」
以前は、ソウル郊外で小さい店をやっていた。商売は市場が大きいぶんソウルのほうが売り上げが多いが、家賃などの固定費を考えるとトントンだという。けれどギョフン氏はスポーツカーを乗り回し、もうじき狎鴎亭《アツクジヨン》(ハイソ≠ネ人が集まるエリア)に支店も出すというから、羽振りはいいほうなのだろう。
三十六歳の彼は、中学生くらいまでは反日だったという。反共、反日教育のまっただ中で育ち、韓国の政権が軍事政権から文民政権へと代わる流れを作った、八七年の「民主化宣言」に一役買った世代だ。そのギョフン氏は「いまでも決して親日ではない」と言う。ここに韓国の人たちの日本に対する複雑な感情が垣間見える。日本は嫌いだけど、日本のものは商売になる──。
「歴史というのは、その国の人自身が作るものでしょ。韓国は、日本の植民地にされたことによってその歴史が一部欠落してしまった。当時の韓国に力がなかったといえばそれまでだけど、やはり納得することはできないでしょう。でも、このままではいけないとは思いますよ。日本から入ってくる情報も確実に以前とは違うなと思うしね。アニメなんかでも日本のものは子供だましなんかじゃない、非常に精巧に作っている。見習うべき点もたくさんある」
裕福な家に育ったギョフン氏の転機は高校生のときだった。お父さんの会社が倒産し、大学もアルバイトをしながら通ったという。
「我々の世代は、386≠ニいうんですよ。いま三《ヽ》十代で、八《ヽ》〇年代に大学を卒業した六《ヽ》〇年代生まれという意味。キン(挟まれた)セデエ(世代)≠ニも言う。つまり旧世代と新世代にはさまれた世代という意味でね。一生懸命勉強して大学に入って、会社に入って、なのにIMF支援でとばっちりを受けてリストラされる、そんな世代なんですよ」
ちょうどこの頃から386$「代という言葉が使われるようになっていた。二〇〇二年の暮、慮武鉉《ノムヒヨン》大統領誕生当時、その脇を固めたのは進歩派の386世代だった。
ギョフン氏の言葉には、「でも俺は違う、絶対に金持ちになってやる」という野心が感じられた。
日本に対する感情は複雑だけど、日本のモノは好きな韓国の人たち。だから、日本関連の商品は商売になる。親日ではないギョフン氏の生活の糧は日本商品だ。私は、なんとも妙な気持ちになりながら、ギョフン氏の話を聞いていた。
光州で開かれた「日本週間」[#「光州で開かれた「日本週間」」はゴシック体]
光州《クワンジユ》空港に着いたのは、夕方の六時頃だった。市内行きのバスに乗り込んだのは、私を含めて三人しかいない。運転手は気兼ねなくラジオの音を大きくしている。
一般道路までの一本道は、私の故郷・仙台の風景とどこか似ていた。伸びやかな、田舎の都会という匂いがする。
日本の大衆文化は、ソウルという都会でこそ蔓延しているが、地方ではどうなのだろう? ジャニーズのファンクラブには大邱からやってきた子もいたけれど……。そんなことを思っていた矢先、全羅南道・光州市で「日本週間」というイベントがあると聞いた。私は、地方の中の日本≠探しに、九八年十月、その光州を訪れた。
人口約百三十万人の光州市は金大中大統領のお膝元であり、全羅南道《チヨルラナムド》の道庁所在地だ。その光州市で九八年十月二十四日から十一月二日まで、駐韓日本大使館や地元紙の光州日報などの主催で「光州日本週間」が開催された。金大中大統領訪日記念の意味もあるのだろう。金大中大統領が来日したのは、その直前の十月七日だった。日本の大衆文化が一部開放される前のことだ。
「光州日本週間」は、市民・地域レベルでの日韓友好を謳い文句にしたイベントで、日本映画『Shall we ダンス?』『めぞん一刻』の上映、日本の観光地紹介、日本人の父と韓国人の母を持つ歌手の沢知恵《さわともえ》のコンサートなどが盛り込まれた。日本の歌の公演が初めて公式に許されたのが、沢の『こころ』である。
『こころ』は彼女の祖父、韓国を代表する随筆家であり詩人の金素雲《キムソウン》氏が日本語に訳した金東鳴《キムドンミヨン》の詩『こころ』に曲をつけたもので、たおやかなメロディのバラードだ。沢はこの曲を「書かれたときの言葉でしか表現できない詩があります。日本語で書かれた『こころ』は、日本語でないとその美しさが半減してしまいます」と表現している。
「光州日本週間」と日を前後した十月二十五日、ソウルでは「地球村」という国際的イベントが予定されていた。日本からは在日韓国人のオペラ歌手・田月仙《チヨンウオルソン》が招待を受け、日本の歌を紹介することになっていたが、予定していた三曲中の一曲、『夜明けの唄』だけは日本の大衆歌謡として直前に禁止された。韓国のあるスポーツ紙には「日本の大衆歌謡無産」(無産は実現ならず、という意味)という見出しで報道された。
沢の『こころ』はOKで『夜明けの唄』はダメだという。理由は『夜明けの唄』は大衆歌謡≠セからだった。
空港からバスに揺られて三十分ほどして、ようやく光州市内の姿が見えてきた。高い建物はほとんどなく、スプーンですくいとったように同じような高さのビルが並んでいる。途中の繁華街で降り、予約していたビジネスホテルに向かう。退社時間にあたったらしく、バス停には人が溢れていた。ソウルよりもなんだか女性がきれいに見えた。
途中、聞いたとおりに歩いていくと、古ぼけた建物が見えてきた。初めての土地なので一応ホテルと名のつく宿泊所を予約していたのだが、うーん、ホテルというよりさびれた温泉の傾きかけた旅館といったほうが当たっている。
まっいいか、ととりあえずチェックインし、荷物を置いて、さっそく目抜き通りに出てみた。通りは、まるでソウルの明洞のミニチュア版、若者たちでぎゅうぎゅう状態だ。ソウルではあまり見かけないドトール・コーヒーを見つけた。それにしても狭い通りは人でいっぱいだ。
そうか、今日は金曜日だった、などと思いながら、彼らから逃げるように文具店に飛び込んだ。入ってすぐ目に入ったのは、クレヨンしんちゃん、ドラえもんの形をした時計だった。まさかこんなに簡単に日本グッズ≠ノ出会えるとは思っていなかった。おそるべし、日本のアニメ・キャラクター、である。
思っていたよりも、日本≠ヘ地方にも入り込んでいるのかもしれない。
翌日──。
光州の国鉄の駅から車で十分ほど行ったところにある光州芸術文化会館の小ホール。そこで、日本の歌が初めて公に歌われるという、マスコミ曰く「歴史的公演」が催された。
その歴史的名誉に与《あずか》ったのが、先のシンガーソングライター、沢知恵である。
沢が韓国でコンサートを開くのは、ソウル・大学路《テハンノ》のライブハウス、日本文化会館に次いで三度目だ。日本歌謡が禁止されている韓国では、日本語で歌を歌うことは許されない。沢の二度のライブもすべて韓国語と英語だった。
牧師だった日本人の父と、金素雲氏の娘である韓国人の母を持つ沢の曲は、アイデンティティに揺れる歌詞が印象的だ。例えば、『私はだれでしょう』という曲はこんな言葉で始まる。
「川崎でうまれて あちこちで育ち 朝は納豆夜はキムチ 私はだれでしょう」
彼女の祖父、金素雲氏は、日本が朝鮮半島を植民地支配した時代に育った。素雲氏は、釜山で生まれ、一九二〇年、十三歳の時に日本の地を踏む。北原白秋にこよなく愛され、日本の文学界にも大きな功績を残した人物である。
彼が在日朝鮮の人々から聞き取った民謡を日本語に訳した『朝鮮民謡集』は高い評価を受けた。この作品は、一九二〇年代、日本が「内鮮一体」を声高に叫んでいた当時のものである。その後、現在韓国で方言研究の貴重な資料とされる『諺文朝鮮口伝民謡集』を出し、これをもとに『朝鮮民謡選』『朝鮮童謡選』(いずれも岩波文庫)が刊行された。
彼は『朝鮮童謡選』の「朝鮮の児童たちに」と題した前書きにこう記している。
「私は自分のただ一つの誇を忘れはしない。
君たちと郷国を一つにして生れたことは何という倖《しあわせ》な偶然であったろう。(中略)
世紀は開《ひら》ける。君たちの背後には暗い歴史が続いた。今こそ君たちの手で、君たちの鶴嘴《つるばし》で、新たな光明を打拓《うちひら》くのだ」
一九三二年に記されたこの言葉から六十年以上の時を経て、彼の孫、沢が韓国の舞台に立っている。
会場は実質半分埋まっているかどうか。空席が目立つ。観客の年齢層は高く、若い人は本当に少ない。最前列の真ん中にずらっと並んだのは日韓の報道陣だ。
私が街で高校生や大学生に「日本週間」のことを尋ねても誰も知らなかった。目の前にずらりと並んだ報道陣が滑稽に映る。
私の隣に座ったのは、五十代の主婦三人連れだった。趣味で日本語を習っていて、私が日本人だと分かると流暢な日本語で話しかけてきた。
「昔のことを考えれば特別な感情はありますよ。でも今はそういう時代じゃないし、日本語も話してみたいなと思って。英語よりは簡単だしね」
日本語の先生に勧められてやって来たという。
幕が開く。沢が演奏の合間に客席に話しかける言葉は韓国語だ。ドラマーの日本人には日本語で話す。そのわずかな言葉ひとつひとつに反応する隣の三人組はコンサートに来たというより日本語を勉強しに来たといった感じだ。
歌が始まる瞬間、場内が静かになる。神妙な雰囲気が広がっていく。せわしないのは、この歴史的な瞬間≠切り取ろうと躍起になっている日韓のマスコミ陣だけだ。急にたかれたフラッシュライトに驚いて振り返る観客もいる。
沢の声が響きわたる。会場の空気が沢の声に圧倒される。彼女の声には、細胞を目覚めさせるようなパワーがみなぎっている。
『こころ』に続いて歌ったのは日本の童謡の『ふるさと』。沢の声にまじって観客の口ずさむ声が聞こえてきた。隣の三人も一緒に歌っている。日本語クラスで習った曲だという。
『ふるさと』の後は、韓国の童謡『コヒャンエポム(故郷の春)』。観客は大喜びで、場内は大合唱になった。
コンサートが終わり、会場を出た観客を待ち受けていたのは、報道陣の歴史的イベント≠ノついての取材攻撃だ。マイクをつきつけられて、
「関心はなかったけど、たまたま友人に連れられて来た。開放になってもっと日本の文化が入ってくれば偏見もなくなるような気がした」
二十二歳の女子大生はおどおどと答えていた。
昼間、街で出会った高校生の言葉を思い出した。
「日本週間? シラナーイ。日本の歌ってダメなの? それ、漫画の間違いじゃないの。漫画はヤラシーって聞いたけど」
あっけらかん。日本に対して何の感情もなかった。歴史的イベント≠ネどと勝手に騒ぎ立て、日韓の「特別な関係」をクローズアップするのは、双方のマスコミだけなのかもしれない。
日本週間で日本映画上映会を手伝っていた金周漢《キムジユハン》に会った。友人曰く「日本オタク」。光州の朝鮮大学日本語学科に通う三回生だ。会場脇のソファに座ると、窓から差し込む日の光が一七五センチの長身にさえぎられる。
「オタクじゃないよ」と笑いながら、流暢な日本語で話し出した。
「日本の漫画が好きなだけ。小学生のとき、猿渡哲也の『力王』が好きになって。はじめはなんて残酷なんだろうと思ったんだけど、なぜだか興味がわいちゃって」
彼が中学生のときのことだという。友達に「セーラームーンとかガンダムは日本の漫画なんだ」と言われたが、周漢はハナから信じなかったそうだ。ところが、しばらくすると、日本に行った友達が証拠品を持ってきた。ここで初めて、本当に日本のものだということが分かり、周漢はかなりのショックを受けたという。
「それまで韓国のものだって思っていたから、なんとなく裏切られたような感じだった。日本の漫画はいやらしくて、価値がないって韓国の知識人はいうけど、知りもしないでよく言うよって感じ。僕に言わせりゃ、漫画はひとつの芸術作品。特に日本の漫画はね。宮崎駿の『天空の城 ラピュタ』なんて大変な芸術作品だよ」
彼もまたPC通信で日本のいろいろな情報を手に入れるという。CDは町のレコード屋で簡単に手に入るし、ないのは頼めばいいだけのこと、とさらりと言われた。
韓国はPC通信が盛んだ(九八年当時)。韓国インターネット情報センターの統計によると、韓国のPC通信加入率は二五%、インターネット利用率は約三〇%だ(二〇〇四年現在約七〇%。ちなみに日本は約六〇%)。PCバン(バンは韓国語で部屋という意味。ほかにビデオが見られるビデオバン、漫画バンなどがある)という一時間当たり千五百ウォン程度でパソコンを利用できるスペースが街のあちこちにある。最近では、インターネット・カフェが主流になっている。
光州は、日本に近いという立地条件もあるのだろう。電波の関係でNHKの衛星放送に加え、日本のCS放送も見ることができる。そのためか日本の大衆文化の情報がソウルよりも手に入りやすいようだ。
簡単に手に入るか──。
周漢と別れて通りに出る。学校帰りの高校生が塊になって歩いている。途切れ途切れに舗装されていないでこぼこの道を歩いていく。快晴の陽差しが気持ちいい。
韓国を訪れるたびに思うことは、空が人に近く感じられることだ。太陽の陽差しが日本よりも強く感じられる。なぜなのかは分からない。人の気質のせいか、道路が広いせいなのか──。
朝鮮大学近く。
女子高校生が塊になって入っていくレコード店「DOORS」があった。一緒に中に入ってみる。しばらくウインドー・ショッピングを装い、「X JAPANを探しているのだけれど」と言うと、「端にない?」と店主のあっけないお言葉。確かに隅のほうにしっかり陳列されていた。なんだ、本当に簡単に手に入る! あまりのあっけなさになんだか物足りない。
店主が言うには、日本のCDは日本で買うとともかく高くて手が出ないので、台湾まで行ってコピー品を仕入れてくるのだそうだ。
「たまたま、日本人の友達にX JAPANのレーザーディスクをもらったんだけど、それを韓国のDJの友達にかけてもらったら、反応がよくてさ。これはイケルぞって、それから仕入れるようになった」
売れるのは、X JAPAN、アムロ、ミスチル。最近アムロのCDは手に入らなくなってきたという。いままでお目こぼし的だったのが、日本の大衆文化開放の声に急に取り締まりがキツくなったのだそうだ。開放と言っていて、既に入り込んでいたのではバツが悪いということなのだろう。そこにあったX JAPANも残りわずかだという。
DOORS のファンで店名もそれからとったというこの店が特別で、日本のCDなどを仕入れている店はそう多くはないだろうと思いながら歩いていくと、通りにもう一軒日本のアイドルのブロマイドを売っている店を見つけた。
中に入ると、CDも置いてあった。価格は四万〜五万ウォン、コピー品ではなく本物だ。エヴァンゲリオンのアニメ写真が壁いっぱいに貼られている。
正直言って光州ではこの手の店を探すのは難しいと思っていた。こんなに簡単に見つかるものなのかと、店の重たいドアを押して外に出た。ソウルや第二の都市といわれる釜山ならまだしも、光州は地方都市だ。ぼんやりそんなことを考えながら、ゆっくりバス停に向かった。ここまで日本の大衆文化が浸透しているとは私は思ってもいなかったのである。
金大中《キムデジユン》氏が大統領に当選する以前は、朴正煕《パクチヨンヒ》大統領以降歴代の大統領は皆|慶尚道《キヨンサンド》出身、利権はすべて地元の慶尚道に注がれた。韓国の友人が「東側だけ見て韓国の発展を判断しないでほしい」と言っていたことを思い出す。私が泊まったホテルしかり、街全体が開発途上といった印象を受けたのもこのためだ。光州のある全羅道は地域差別も加わり、利権のうまみにありつけず、開発が遅れた。
韓国の地域差別は、後三国時代、全羅道が後百済の時代に遡るといわれている。百済が統一新羅に滅ぼされた後、再び覇権を奪回すべく立ち上がったのが、後百済の始祖だった。統一新羅、高麗、後百済の三国間での覇権争いは、高麗が統一新羅を吸収し、後百済との二国間争いに突入する。このさなか、後百済の始祖・甄萱《キヨヌオン》は、長子・神剣の手で山麓の寺に幽閉されてしまう。息子による謀反≠ナある。王位を奪われた始祖・甄萱は、敵である高麗の王・王建の力を借りて、長子を殺してしまう。そして遂に後百済は滅亡する。
高麗の王・王建は遺訓として『訓要十条』を残したが、後百済のような血族の悲劇を後世残してはならないという戒めをこめ、「全羅道地域は、地勢が悪く、人心もまた同じである。この地域から国政を担う人材を登用してはならない」という韓国では有名な第八条を記した。この時から全羅道差別は始まったといわれている。
加えて、肥沃な土壌を持つこの地域への租税は、国の中で最も厳しかった。官職への道も閉ざされ、収奪ばかりが繰り返された歴史的背景に尾ひれがつき、全羅道の人々の気質は嫉妬深く狡猾だ、などのレッテルを貼られるようになる。その地域差別はいまだに消え去ることなく根強く残っている。何かあると「あいつは全羅道出身だから」とうがった見方をされてしまう。
光州はまた、八〇年、全斗煥《チヨンドフアン》が民主化運動を鎮圧するために全土に拡大した戒厳令に対し、市民が大規模な反対デモを起こしたことでも有名な地だ。市民と戒厳軍が対峙し、多くの犠牲者を出した、あの光州事件である。
光州の人々は、そうした歴史的背景からみても、自立精神が強い、そんな気質なのかもしれない。私は、光州で初めて女性のタクシードライバーに出会った。韓国で女性ドライバーに会ったのはそれが初めてだった。
彼女に、珍しいですね、と言うと、光州では、タクシードライバー全体の一割を占める三百人ほどが女性なのだという。ソウルでは見られない現象だ。
家計の助けのためにと観光バスから始めて学校バスの運転手を経て、タクシーのドライバー歴は五年になる。「将来は個人タクシーをやりたい」と熱っぽい。なんでまたタクシーを? と聞くと、おかしそうに「みんなができるんだから私にもできないことはないと思って」と笑う。
韓国では十一年間、無事故無違反であれば、個人タクシーの資格が自動的にとれる。稼いだカネが全部自分のものになるまであと六年、と笑っていた。
韓国には、日本≠ェ溢れている。J−POPや映画、アニメグッズなど、日本≠ノ夢中になっている若者たちがいる。
音楽でも映画でも、その時代時代に出会えたものに、それぞれの思い出がオーバーラップして、懐かしんだり、がんばれたりする。アムロやジャニーズも、韓国の若者たちにとっては、十代、二十代というひたむきな時代に聴いた思い出の曲になるだろう。
日本と韓国は特別な関係≠ニいうことを前置きして、同じ場所で足踏みを続けながら、その時々の状況で、都合よく隔たり≠作り出してきた。
誰が何を叫ぼうと、音楽も映画も、もう楽々とそうした日韓の隔たりを飛び越えてしまっている。ただ、韓国の若者たちが持つ日本≠ヨの複雑な思いは隔たり≠フ向こう側でまだ彷徨い続けているだけなのだ。
私には、J−POPにのめり込む一方で、時の積み重ね≠フあるオトナたちよりも彼らの日本への思いのほうが絡まっているように見えた。
彼らのもつれた思いはほどけるのだろうか。──私は、その糸口を探し始めていた。
[#改ページ]
第2章 日本を語るオトナたち[#「第2章 日本を語るオトナたち」はゴシック体]
[#改ページ]
激動した九〇年代 韓国で揺れる日本=m#「激動した九〇年代 韓国で揺れる日本=vはゴシック体]
「日本は好きになっちゃいけない国って思っていた」
「日本ってずっと悪く言われてきたから、イイ感情を持っているかって言われると、ちょっと違う」
「国史で習うと昔いろいろあったから、好きとは言えない」──。
J−POPに夢中になっている¥\代、二十代の韓国の若者たちに日本≠ノついて尋ねると、決まってこうした答えが返ってくる。
こんな言葉を聞くたびに、私はなんとも言えない気持ちになった。日本が韓国を植民地支配したという史実を考えたとしても、「韓国で最初の資本主義の申し子」とも言われ、新しい価値観の中で生まれ育ったはずの彼らが、なぜ日本≠ノこんな複雑な感情を持ってしまうのだろう。
七〇年代後半から八〇年代前半に生まれ、九〇年代という時代に成長してきた彼らは、韓国ではX世代=A最近ではN世代=iネット世代)とも呼ばれる(二〇〇二年以降、慮武鉉《ノムヒヨン》現大統領を生み出した世代として二〇〇二年世代とも呼ばれるようになった)。彼らがともに歩んできた韓国の九〇年代は、目まぐるしい変化を遂げた時代でもある。
「好きになってはいけない国」という彼らの言葉は、どこから来ているのだろう。彼らが過ごした韓国の九〇年代とは、どんな時代だったのだろうか。
韓国の激動の九〇年代は、八〇年代の韓国経済の大躍進を受けたものだ。
一九六三年に大統領に就任し、十六年間その座に君臨し続けた朴正煕《パクチヨンヒ》。七〇年代から八〇年代にかけての韓国経済は、朴政権とその後の全斗煥《チヨンドフアン》政権が舵取りした開発独裁型の計画経済により、「漢江の奇跡」といわれる高度経済成長を遂げる。タイの通貨危機をきっかけとした韓国の経済危機が起きる九七年まで、三十年にわたる平均経済成長率はなんと八・六%という驚異的な数字を記録している。
その間、八五年には、現代《ヒヨンデ》の自動車「ポニー」の販売台数が、カナダ市場でホンダを抜き、一位に躍り出る。アメリカの経済誌『フォーチュン』が発表した「世界の製造業売上高上位ランキング」の二十三位に三星《サムソン》が登場したのを始め、現代、大宇《デウ》といった財閥も顔を出し始める。
経済成長は、韓国の人々の暮らしも一変させた。国が豊かになり、ミドルクラスが拡大し始める。それまでは国費留学生しか許されていなかった海外留学制度も、八〇年に誕生した全斗煥政権から自費留学生の海外渡航が自由化され、学生が次々と海外に飛び出していった。
八〇年代半ばになると、外に飛び出した留学生たちが博士号をとって続々と帰国し始める。テレビのカラー放送が始まったのも八〇年代だ。新しい情報がさまざまな形で人々にもたらされ、就任当時に「七年で辞める」と憲法にも明記した全斗煥大統領の言葉を信じ、軍事政権に耐えてきた韓国の人々の目は、自然と「民主化」へと向かうようになる。そうした流れの中で、全大統領は任期切れの一年前になっても後継者を明らかにせず、院政を敷くなどの権力保持を図る。
さらに全大統領の「オリンピック後に憲法改正の論議を再開する」という発言に韓国の人々の怒りは爆発した。学生中心だった反政府デモに、拡大したミドルクラスが加わって、韓国の人々の「民主化」を求める運動は全国で激化していく(この時の中核になったのが386世代≠ナある)。
一九八七年六月──。
「六月政変」ともいわれる「民主化宣言」が、当時の与党・民正党の代表委員だった盧泰愚《ノテウ》氏から発表された。韓国民主化の第一歩といわれるこの宣言は八項目から構成されており、言論の自由の保障、大統領の直接選挙制への法改正、そして金大中氏を含む政治犯の大幅な赦免・復権などが盛り込まれた。
七三年に起きた東京での金大中氏の拉致事件を覚えている人も多いと思うが、金大中氏は朴正煕政権時代、野党・新民党のリーダーであり、「韓国民主化の闘士」として知られた人物である。六年間の獄中生活、六年半の軟禁生活、そして八〇年の光州事件の際には内乱陰謀罪で死刑判決を受けている。盧泰愚氏による八七年の「民主化宣言」がなければ、九八年の金大中大統領誕生もあり得なかったかもしれない。そう思うと、運命というか、因縁≠フ妙を感じてしまう。この「民主化宣言」が政変といわれたのは、時の大統領・全斗煥が野党の民主化の意向を退けていたにもかかわらず、盧代表委員が独断で宣言を決行し、野党の意向をほぼ受け入れた形となったためだ。
そして、一九八八年──。
韓国経済発展を語る際に最も大きなターニングポイントとなるであろうソウルオリンピックが開催される。
ソウルオリンピックが開かれたとき、八二年生まれの宣柱《ソンジユ》は六歳、七七年生まれの星南《ソンナム》は小学校五年生だった。
オリンピックのことは覚えている? と聞くと、宣柱は考え込んだ。
「なんかお祭りみたいなのがあったということは覚えているけど……」
ほとんど記憶にないらしい。
一方、星南は、幼いときからオリンピック競技場近く、漢江の南に位置する蚕室《チヤムシル》に住んでいる。名前の通り、蚕のエサになる桑の木がたくさん植えられているだけで「昔は何もなかった」蚕室は、オリンピック開催前後から急激に発展し、今ではテーマパーク「ロッテワールド」や高級ホテル、高層マンションが林立する新興住宅地として生まれ変わっている。
星南も「オリンピック自体はあんまり記憶にないなー」と言いながら、
「そうそう、突然オトナたちが『ゴミを拾おう』とか言い出して街がきれいになったのだけは覚えている。外国からたくさんの人が来るからって」
ゴミを拾っただけではない。衛生管理上の問題や美観を損ねるという理由で、街中から屋台が消えた。また、欧米の動物保護団体から激しく非難された犬肉鍋『補身湯《ポシンタン》(栄養湯《ヨンヤンタン》とも言う)』を扱う店が、表通りから一斉に退去させられた。
「いま考えてみると、オリンピックが終わった後ぐらいから、ハンバーガーショップが増えたんだよね」
と星南が言う。コンビニエンス・ストアの「セブン−イレブン」が韓国に進出したのも、オリンピックの年だ。ちなみに日本に「セブン−イレブン」の第一号店ができたのは、七四年である。
オリンピックの成功は、自国が先進国と肩を並べたという自負心を韓国の人々に与えた。日本による植民地支配、一九五〇年からの朝鮮戦争(韓国では六・二五動乱と呼ぶ)という苦難を乗り越えて、文字通りゼロから出発した韓国の人々は、六〇年、七〇年、八〇年代とひたすら猛進してようやく「自分たちにもできる」という自信を持つことができたのだ。それだけソウルオリンピックの成功は韓国の人々に大きな自信を与えたのである。
国際関係を見てみても、九二年に中国との国交が回復し、オリンピックの成功と合わせ、国際社会での韓国の認知度はぐんと上がった。こうした外的な変化も手伝い、民主化を願う空気も韓国国内で急速に広まっていった。
八七年の「民主化宣言」の流れを受け、九三年には、三十余年に及んだ軍事政権が終わり、人々が待ち望んだ初の文民政権、金泳三《キムヨンサム》政権が誕生する。国のスローガンは「世界化」「一流国家、一流国民」になり、経済の分野でも三星電子の半導体は世界市場を脅かすまでになった。一人当たりのGDP(国内総生産)は九六年には一万ドルを超え、先進国≠ニしての証となる経済協力開発機構《OECD》の加盟国にもなった。九〇年代、韓国経済は九七年末に起きる経済危機まで恐いもの知らずだった。
韓国経済が急速に成長し、民主化を望む声が大きくなっていく中で、韓国での日本≠ニいう振り子も揺れに揺れた。一足先に高度経済成長を遂げた日本に追いつけ追い越せという「克日」が命題として掲げられる一方で、「反日」の旗も幾度も振られた。八〇年代には、日本の教科書で日本軍の大陸「侵略」が「進出」と書き改められたとする新聞報道をきっかけにして、「侵略」か「進出」で論議が巻き起こった。いわゆる「教科書問題」である。九〇年代に入ると、元従軍慰安婦の補償問題が起きた。
九二年一月。韓国の新聞各紙に「日本軍は小学生まで挺身隊に連行した」という趣旨の記事が掲載された。ソウルの国民学校の元日本人教師が、戦時中にクラスの七十人中六人の生徒が富山市の軍需工場に動員された、と証言したというのである。韓国では「従軍慰安婦」のことを「挺身隊」と称している。そのため、本来の「女子挺身隊」と意味が混同されてしまい、「日本軍は小学生まで性の対象にして連行した」という誤報になってしまったのである。
しかも、その記事が掲載された二日後には、当時の宮澤喜一首相が韓国を訪問することになっていた。韓国各地で従軍慰安婦問題のデモが繰り広げられるなか、韓国で初めて日本の首相が演説するという記念すべき場で、当時の宮澤首相は八回にわたって謝罪の言葉を述べなければならなかった。宮澤首相の訪韓を控えた一カ月前に加藤紘一官房長官(当時)の「政府・軍が関与した資料はない」という不用意な発言が従軍慰安婦問題という火種に火をつけたといわれている。
こうした日本の政治家の韓国に対する「妄言」は、まるで恒例のように繰り広げられてきた感がある。
「日本はアジア侵略の意図は持っていなかった」(八八年、奥野誠亮国土庁長官)
「あの戦争を侵略戦争というのは間違っている」(九四年、永野茂門法相)
「植民地時代には日本はよいこともした」(九五年、江藤隆美総務庁長官)
など挙げればきりがない。
「日本の政治家の妄言には腹が立つ」という星南の言葉は、何度も同じことを繰り返すこんな日本の政治家たちの発言を指しているが、そうした発言を韓国のマスコミがフレームアップしている面もある。「小学生まで従軍慰安婦として性の対象にした」という記事が誤報だったにもかかわらず、そんな話が確認も訂正もされずにまかり通ってしまうことに誰も異を挟まないほど、韓国マスコミの「反日」を煽る報道は通例になっていたのだ。
対日報道は、時の政権の意向を代弁する形になっていて、日本に関しては「裏付けをとる」なんて悠長なことは言っていられないのだろうか。対日報道については、いかに早くセンセーショナルな報道をするかに、より力点が置かれていたのが、韓国のマスコミ事情だったのである。
それは、つい最近(九八年)までもそうだった。
しかし、私には忘れられない、こんな新聞記者もいた。
尹《ユン》さんは、韓国全国紙の東京特派員だった。
あるとき、新橋の韓国料理屋で一献傾けていたときのことだ。
「俺は絶対いままでのような記事は書かないって誓ったんだ」
語気が荒い。そう言って、ぐいっと焼酎を一気に飲み干した。尹さんのピッチがいつになく早い。
尹さんの言う「いままでのような記事」とは、日韓の間で起きたさまざまな事象について、日本側に少しでもつけ入る隙があれば、事実を拡大解釈してより反日的要素を盛り込んだ記事のことである。尹さんの新聞社だけでなく、韓国のすべての新聞社が志向してきた対日記事を書く際の要諦である。
尹さんは、東京赴任が決まったときに誓ったという。
「韓国も日本もさまざまな側面がある。いままでのような一面的な記事ではこれからの日韓関係は築けない。偏向的記事は絶対に書かない」
例えば、九四年十月に広島で行われたアジア大会でのことだ。
「日本は組織的かつ巧妙な作戦で、韓国の戦力弱化を企んでいる」という記事が掲載された。
ある日突然、選手村の食堂からキムチが消えた。なぜなくなったのか。それは、日本が韓国の戦力ダウンを意図したためだ……。韓国選手にとってキムチはパワーの源、それを日本が奪ったというのである。事実ならそう言われても仕方がないが、実際は、単に食堂からキムチの在庫が切れてしまっただけだった。要するに、いちゃもんをつけただけである。他にも「マラソンのコースが、前半が難しく後半がやさしくなっているのは、後半に強い韓国選手が不利になるようにするためだ」という指摘もあった。結局、大会では、韓国は中国に次いでメダル獲得数で第二位に輝き、三位の日本を上回る金メダルを手にしている。
そうかと思えば、九五年六月、韓国の有名デパート、三豊《サムプン》百貨店の建物が突然崩れ落ちてしまうという事件が起きたときには、日本の建物を引き合いに出し、日本の建物はいかに優れているかという検証をさかんに行っていた。「憎っくき日本」と、ある種尊敬する「技術大国日本」。自分たちが思う日本像≠ノ当てはめようとするため、日本のカタチは、その時々で都合よく変化させられてしまう。
そして、九六年二月には、韓国の某全国紙にこんな記事が載った。
「今回の独島《トクト》問題提起は、日本の北方領土問題解決への隠れ蓑にすぎない。日本の某新聞によれば、日本の焦点は独島ではなく、北方領土だ。我々は踊らされている」
結論から言えば、こういった内容の記事が日本の新聞に掲載された事実はなかった。つまりこの記事は、何かの記事を拡大解釈したか、捏造したかのどちらかということになる。
覚えている人も多いと思うが、九六年の春、日本海(韓国では東海《トンヘ》)に浮かぶ竹島(韓国では独島)の領有権問題という、日韓間で長年くすぶっていた火種に火がついた。もともとは、日本と韓国が排他的経済水域の方針を打ち出した頃に、韓国のある新聞が「日本はこれで独島を日本のものだと主張してくる」と報道したのが始まりで、ここで韓国は独島に埠頭を建設する計画を発表する。この時、自民党内での「北方領土同様抗議すべき」の声を受け、当時の池田行彦外相が「竹島(独島)は日本の領土である」と発言。この一言で、韓国中は火がついたような大騒ぎになってしまった。
老若男女誰彼かまわず独島談義∴齔F。四歳くらいの幼い子供までが、テレビのマイクに向かって「トクトヌン ウリタン(独島は我々の土地)」なんてかわいらしい声で訴えていた。
♪ハワイは米国の土地、対馬は日本の土地、独島は我々の土地♪
八〇年代に流行になり、当時の全斗煥大統領の日本正式訪問を受けて禁止されていた歌『トクトヌン ウリタン』が突然解禁になり、街のあちらこちらで最大級のボリュームで流れた。アップテンポでノリノリのこの歌に、普段はこの手のキャンペーンにのらない人までも、「独島は我々の土地だ」と熱くなっていた。
このときちょうど留学中だった私など、たまにタクシーに乗り、私が日本人だと分かろうものなら、たいてい独島談義をふっかけられた。
「日本は北方領土がほしいから、独島をやり玉にあげているんだろう」
「独島は昔から韓国の土地だ。こっちには証拠がある。あんたら日本人には証明するものがないだろう」
などなど、こちらが何か言い返そうものなら、その百倍ぐらいの言葉が弾丸のように返ってきた。
世論をアジテートするように、新聞は独島に関係のない教科書問題、従軍慰安婦問題へと論議を広げ、日本批判論を連鎖的に掲載していった。
「日本を肯定するような記事はたいていボツにされる」
尹さんが、また焼酎を一気にのどに流し込んだ。
「今の局長クラスのほとんどは五十代。記事掲載に決定権のあるデスクたちは反日をよしとする傾向にある。日本の現実を知ってもらおうと馬に食わせるほど記事を書いても、親日的とみなされて全部ボツにされる。私はもう本当に疲れたよ」
韓国でいう親日には「売国」という意味も含まれる。尹さんのような四十代の世代がいくら頑張っても実権≠握っている会社の保守本流≠ェそうだったら、どうしようもない。
尹さんは豪放磊落。仕事もお酒も、何より人をこよなく愛する人だった。古い言い方でいえば非常に男くさい、人間くさい人だった。直球しか投げられない人だった。
「ストレス解消はね、KNTVで韓国のコメディを観ること」
本当に疲れた、とつぶやくような声で言う。
なんとか日韓関係を変えよう、今までのようではダメだと孤軍奮闘していた尹さん。日韓関係という体制が、その情熱をすべて呑み込んでしまう。
九九年二月のその日が、尹さんと会った最後になった。尹さんは、その後すぐ病に倒れ、入院。二カ月後の四月、韓国の土に還った。四十三歳だった。
九三年、韓国国民待望の金泳三大統領の文民政権が誕生する。日本に対する論調が大振れし始めたのも、この頃からだ。ソウルオリンピックで韓国の人々が世界の先進国と肩を並べたと自信をつけたこと。盧泰愚大統領の時代に広まった自由≠ネ雰囲気が定着したこと。金泳三大統領自身が反日であったこと。そして、民主化が実現したことで、政権の求心力を高めるために反日≠ニいうカードがどうしても必要だったことなどが、大振れの背景にある。
その時々で反日だったり、克日だったり、かと思うと知日になってみたり、韓国の中の日本≠ヘ大忙しになる。
九三年から九四年にかけて、韓国では三十代の作家たちが次々に現れた。既存の視点を覆した、著者自身の主観を前面に押し出した著書が目立って出版された。後世に残る反日ものが出たのも、この時期である。オリンピックの成功で「民族中興」(昔のパワーが蘇ったという意味)という言葉がさかんに使われ、自負心が最高潮に達したことに加え、民主化の流れが重なったことが背景にある。
なかでも、四百万部という驚異的なベストセラーとなったのが、九三年に出版された、金辰明《キムジンミヨン》氏の『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』だ。これは実在の人物をモデルに韓国の核武装の必要性を主題に書かれた小説だが、ラストが振るっている。
長年、朝鮮半島統一に脅威を感じていた日本が竹島(独島)の領有権を口実に韓国侵略を企てる。これに対し、金日成と手を組んだ韓国は日本に核攻撃を行うと警告するが、日本はまったく取り合わない。遂に、韓国側から日本の無人島に核ミサイルが発射され、日本は大混乱になってしまう。この無人島というのがミソで、日本は韓国の情≠ノ感謝し、韓国侵略を取りやめるプロットになっている。
この小説は映画化もされた。ラストは原作通り、日本の閣僚たちが「朝鮮半島のバカなやつらに核なんて作れるはずがない」などと暴言をはきながら呑気にレーダーを見ていると、核が落とされてしまうという、日本人にとっては、なんとも間抜けなシーンに仕上がっている。私が九五年にこの映画を観に行ったときの観客の反応は、パラパラと拍手があった程度だったが、私の日本の友人が見に行ったときは、ヤッターという歓声が上がったそうだ。
それまで、日本関連の書籍は、「日本は憎いが、長所を認めて学べ」という「克日」や「知日」の立場が多かった。それが一転、もはや日本に学ぶものなど何もない、韓国はすでに日本を追い越している、自国に誇りを持て、など、既存の視点とは違ったものがベストセラーになるようになる。
『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』と並んで反日本の代表となったのが、九三年に出版され、九五年までに百万部を売る大ベストセラーとなった、田麗玉《チヨンヨオク》氏のノンフィクション『イルボヌン オプタ』(直訳「日本はない」、邦題は『悲しい日本人』)だ。
百万部を売り上げた日本バッシング本[#「百万部を売り上げた日本バッシング本」はゴシック体]
「あれはひどかったですね。全部が間違っているとは言わないですけど、デタラメのほうが多い。日本に行ったことのない人は、あの本に書いてあることがそのまま日本の真実だって思っちゃいますよ」
『イルボヌン オプタ』をどう読んだ? という私の問いかけに、星南は少し興奮ぎみにそう答えた。宣柱も同じような返事だった。
「単純に日本の悪口ばかり言っている感じで、好きじゃない」
ただ、日本に行ったことのない若い人に聞いてみるとまた違った意見が出てくる。宣柱の友人たちに配ってもらったアンケートを見ると、
「日本の思考がよく分かった」
「学ぶべきような日本はないことが分かった」
「本と同感」
「日本のことを知るきっかけとなった」
「知らなかった日本を知ることができた」
など、本に対して肯定的な意見が圧倒的に多くなる。
「売るための戦略としか思えないね。問題なのは、日本のことを全く知らない人が読んだら、本のままの日本のイメージを持ってしまうことだよ」
私の韓国の友人が、そう言って困った顔をしていたことを思い出す。
異国の地で目にする日本≠ニいうのは、妙な懐かしさを感じるもので、九五年、ソウルでの留学生活をスタートさせたばかりだった私も、表紙のきもの姿の日本女性に里心をくすぐられてどんな内容か分からないまま『イルボヌン オプタ』を購入した。
いまよりももっとつたない韓国語の力しかなかった私は、辞書を脇において少しずつ読み進めた。ほんの数行を理解してから「?」とひっかかってきた。
「(日本と)わが国との大きな違いを偶然発見することになる。(中略)なんて日本女性は醜いのだろう」
読み進むうちに「?」「!」が、どんどん膨らんでいく。
「日本はきわめてアブノーマルな国である。国家も国民も、ともにそうである。日本のあらゆる社会構造と人間関係は、力のある者とない者、金のある者とない者、という非常に単純な図式によって支配されている」
「第二次世界大戦後五十年。あのとき、日本はまたやってくると誓って韓国を去った。(中略)日本人はもはや金持ち国だけでは満足できない。力を望んでいる。再びアジアを、世界を支配しようとしている」
「人類の残酷な歴史の中でも、女性を戦場に連行し娼婦役を強要した国はこの地球上で日本しかない」……。
日本バッシングのオンパレードだ。とてもジャーナリストを名乗る人が書いた本とは思えない。単なる日本バッシング本だというのが私の結論だった。
著者は、田麗玉《チヨンヨオク》氏。一九五九年生まれ。韓国の名門女子大、梨花《イフア》女子大学を卒業。大学時代から大学新聞『梨大学報』の記者として、鋭い筆致ですでにスター的な存在だったという。大学卒業後、韓国放送(KBS、韓国の公営放送)に入社。九一年から東京特派員として東京に二年半あまり滞在している。その体験をもとに書かれたのが『イルボヌン オプタ』だ。
田麗玉氏はどんな思いでこの本を書いたのだろうか。本の出版から五年経った九九年三月、私は田麗玉氏のオフィスを訪れた。
「あー、菅野さんですか。こんにちは」
流暢な日本語で迎えてくれた田麗玉氏は、思ったよりも小柄な人だった。写真から、一六〇センチ以上の体格のいい人を思い浮かべていたのだが、一五六センチの私よりも背は低かった。目鼻立ちのはっきりした顔つきは、気鋭のジャーナリストというより、経験豊かな女社長の貫禄を感じさせる。
麗玉氏は、本を出版した後、九五年にKBSを退社し、自身で映像プロダクション「リマージュ」を経営していた。オフィスは、ソウルの副都心・ヨイドにある|63《ユクサム》ビルと並んだ近代的なビルの一室にあった(彼女は二〇〇四年、野党ハンナラ党のスポークスマンに変身している)。
63ビルは、六十階建て(地下三階を含めて63と呼んでいる)の、ソウルの街が一望できる観光名所だ。ソウルのマンハッタンと呼ばれるヨイドには、国会議事堂、63ビルをはじめ、KBS、SBSなどの放送局やマスコミ関連の大企業が集中している。
リマージュのオフィスは西向きのせいか、午前中だというのになんとなく薄暗い。十八人いたスタッフは九七年の経済危機の余波を受け、六人に減らしたという。私がオフィスを訪ねたときは、二人のスタッフが入れ違いに会社を出るところだった。
私は、麗玉氏に促されて、部屋の中央にある打ち合わせテーブルについた。テーブルの真正面に置かれた本棚には、韓国の本に混じって日本の映像に関する本や『ノルウェイの森』などの村上春樹氏の本が何冊か並んでいる。韓国では、村上春樹、村上龍の両氏は絶大な人気を誇る。ともに「ハルキ」「リュウ」の愛称で親しまれていて、市内の大きな書店には必ずといっていいほど両氏のコーナーが設けられている。
デスクに背を向けて座った私の後ろからは、麗玉氏の電話の声とスタッフのパソコンの音がやけに大きく響いてくる。
彼女には女性で初≠ニいう形容詞がつきまとう。女性初の海外旅行番組担当、女性初の東京特派員。その女性初の東京特派員として二年半を過ごした日本観が、著書『イルボヌン オプタ』だ。
第一章の冒頭部分には「憎くとも恥ずかしくとも仕方がない。いやでも日本は我々の目標であり、全世界で我々を助けてくれる唯一の国なのだ。我々は学ばなくてはならない。我々には日本しかない。(中略)日本に来る前、私もまたそう考えた」と記されている。しかし、二年半の滞日は、彼女の考えを百八十度変えてしまった。『イルボヌン オプタ』を書こうと思った動機は何だったのだろう。
「日本のいろいろなことに怒りを覚えたんです。これは書かなくてはいけない、韓国の人の持つ日本の幻想に対して現実を教えなくてはいけない、と思いました。勤勉で、きれい好きな、道徳観のある幻想の日本≠ヘないんだ、と」
彼女が怒りを覚えた日本とは、こんな日本だった。
「日本がどんな国であるかを知ったきっかけは、東京でのアパート探しの経験だった。日本人は自分たち以外の人間を『外国人』と呼ぶ。ところが、もう一つ『害国人』というのがある。外国人への敵意と軽蔑の表現だ。特に在日朝鮮人は日本にとって外国人ではなく、害国人だ」
こんな日本人のどこに道徳観があるのか。電車の中では、いねむりをする人ばかり。どこが勤勉なのか──。冒頭に抜粋した部分も含め、内容は徹底して感情論に終始している。
「女性の特派員だから本物の日本が見られたんです」
話すこと≠ノ慣れている人なのだな、と思った。こちらの問いかけに対して、順序立ててよどみなく答えていく。
「私は、日本の男性社会の中で、韓国人という点でひとつ、女性の特派員という点でもうひとつの差別を受けました。だから男性特派員が見た日本よりも、より現実的な日本を見ることができたんですよ」
本の中にこんな挿話があった。麗玉氏が日本に赴任してまもない頃、ある勉強会に参加したときのことだ。勉強会が終わり、メンバーと一緒にある居酒屋に入った。メンバーの中に女性は麗玉氏と日本の女性の二人だけ。麗玉氏は、韓国の習慣で誰にもお酒を注がず、じっと座っていた。すると、後日メンバーの日本人男性が「教養のない女だ」「韓国女性はやはりきつい」と自分のことを陰で非難していることがもれ伝わってきた。ひどいのになると「特派員以前に女ではない」とも言っていたという。
最近では少し事情が変わり、ごく自然な形で韓国の女性が男性にお酒を注いだりすることもあるが、もともと韓国では、女性が夫や父親以外の男性に酒席でお酒を注いだりする習慣はない。
こういうことは、やはり男性の特派員では経験できないことだろうし、こんなことをのたまう日本人も日本人だろう。けれど、こんな一部だけをフォーカスして現実的な日本を見たと言い切ってしまうのは、あまりにも稚拙な話だ。日本を知らない韓国の読者がこれを読んだら、KBSという韓国を代表するマスコミのジャーナリストが書いたのだから、すべての日本人は皆そうなのだという錯覚に陥ってもおかしくない。
麗玉氏は著書『イルボヌン オプタ』を一個人≠ニして書いた、と前書きで断っている(当時はまだKBSの社員だった)。
「報道では伝えられなかったことがたくさんありました。ただ、一個人として書きましたが、視点は、ジャーナリスティックですよ」
大きな目でじっと私を見つめる。『イルボヌン オプタ』がジャーナリズム──。私は思わず眉間にしわを寄せてしまった。一呼吸おいてから、
「ジャーナリズムとは、体験したものを、勇気をもって発言していくこと、社会に発信していくこと、そうじゃない?」
そう言った麗玉氏の表情は、先輩が後輩を諭すような感じだった。
韓国のマスコミは、意外にも『イルボヌン オプタ』のベストセラーを冷静に分析していた。
「ちょっとひどすぎやしないか」
「体験に頼った感情的でドグマ的な日本観」
毀誉褒貶《きよほうへん》が激しく、「視点が既存のものとは違い、新鮮」と肯定的なものもあったが、全般的にマスコミは批判的な立場を取っていた。ソウルの大手書店・鍾路《チヨンノ》書店の店長は『イルボヌン オプタ』がベストセラーになった背景を「自国の経済・文化の発展を受け、特に若い層の日本への憎悪感が増したため」と分析している。
九四年十一月には、『イルボヌン オプタ』に対抗して、「日本はまだまだ参考になる」という内容で、日本通の外交官・徐賢燮《ソヒヨンソプ》氏が書いた『イルボヌン イッタ』(直訳「日本はある」、邦題は『日本の底力』)も出版された。日本は持ち上げられたり、下げられたり。九〇年代の韓国で、迷走する日本の姿が、ぼんやり浮かび上がってくる。
マスコミは概ね冷静な対応をしていたが、新聞の投稿欄になると様相が違ってくる。
「日本人は自分の利益になるかならないかで見せる態度が違う。『イルボヌン オプタ』にあるように日本には見習うべきところはなく、私たちは自分たちの伝統を守っていくべきだ」
「日本には学ぶべきことはないというのは多少無理があるとしても、経済大国といいながら水準の低い生活環境であるというのは、この本にあるように明らかだ」
「本のおかげで日本へのコンプレックスが解けた」
「いままで言いたかったことをよく書いてくれた」
など、「克日」というスタンスに飽き飽きしていた韓国の大衆は「日本はない」という主張を聞いて完全にストレスを発散したという形だ。九四年のハンギョレ新聞には、「韓国人の自尊心が作り出したベストセラー」として紹介されている。
著書は、韓国の人の目を日本に向けさせるきっかけを作ったという点で意義があったと麗玉氏はいう。
麗玉氏自身はもともと日本に対してどんなスタンスだったのかと問うと、
「韓国人で反日感情を持たない人はいませんよ。個人は別にして日本を国として好きになる韓国人なんていません」
麗玉氏はソウル生まれのソウル育ち。生粋のソウルっ子だ。建築家の家に四人姉妹の長女として育った。父親はソウル出身で、ソウル大学卒業後、建築家となった。母親は忠清北道《チユンチヨンプクト》(ソウルの南)出身で、麗玉氏と同じ梨花女子大の法学部出身だという。父親は中学校時代を、母親は小学校時代を日本の統治下で過ごしている。建築家だった父親の本棚には、建築に関する日本語の本がたくさん並んでいた。
「夏目漱石や太宰治の本なんかもありました。私はもっぱら、夏目漱石とか太宰治の小説を読みましたね。五木寛之の『青春の門』なんかも好きだったな」
麗玉氏は、日本語は表現力が豊かだといい、日本語の「せつない」という言葉が好きだといって目を細めた。
日本の植民地時代を過ごした両親は、当然反日だ。けれど、東京特派員に決まったときは両親も喜んだ。
「日本をしっかり見て、いろいろなことを発見してきなさいって言われたわ」
発見した成果が、『イルボヌン オプタ』という著書になった。
麗玉氏は『イルボヌン オプタ』という日本バッシング本を書いた理由を「韓国の人が持つ日本の幻想に対して現実を教えなくてはと思ったからです」と言っているが、実は、この本は盗作だという噂が出たことがあった。あるノンフィクション作家の原稿の三分の二を盗用したというのだ。
麗玉氏にこのことを糺《ただ》すと、言下に否定されたが、いまだに真相は闇の中だ。けれど、そうしたことを考え合わせると、当時の時代背景がくっきり浮かんでくる(この問題は二〇〇四年夏に再燃。現在、野党ハンナラ党のスポークスマンである麗玉氏に対し与党寄りのインターネット新聞「オーマイニュース」がこの問題を掘り起こし、裁判に持ち込まれる様相だ)。
時は金泳三政権。ようやく自由に発言できるようになった時代だ。オリンピックの成功で韓国の人々の自負心が最高潮に達し、反日がよしとされた時代。もともと、韓国の出版界では、「日本に関する書籍」は基本部数が確保できるという不文律があり、韓国民の自尊心を駆り立てる克日、反日小説は、商業的にもっとも効果的だといわれていた。九三年から九四年にかけて日本関連本はひと月に平均して十冊も出版されている。『イルボヌン オプタ』のベストセラーも、そうしたさまざまな事情がうまい具合に噛み合った結果なのだ。
ただ、確かに言えることは、慶玉氏はこのベストセラーによって一躍有名になり、時の人になったことだ。そして、およそ百万人の人々が彼女の持つ「日本観」に触れたことである。
インタビューの礼を言い、オフィスを出た後、すれ違って出ていった二人が帰ってきた。
「オットケテッソ?(どうなった?)」
辞したオフィスから、麗玉氏の声だけが響いてくる。
私は、エレベーターホールに向かいゆっくり歩きながら、ある人が教えてくれた話を思い出していた。日本で韓国料理店を営んでいる人の話だった。
「『イルボヌン オプタ』を読んで、日本は教育もめちゃくちゃで、韓国人にアパートも貸してくれない、性犯罪の多い意地の悪い、大変な国だと思っていた。そして日本にやって来たら、本にあるような体験はまったくせず、いい国だった。結局、日本が気に入っていまは結婚して日本に暮らしている」
過去は過去としてきちんと検証し、反省すべき点は反省すべきだと私は思う。けれど、一国を徹底してこきおろす本が出てしまうこと自体が、私には異常なこととしか思えない。ある国の批判をするのであれば、その国の中ですべきだろう。日本でも嫌韓本がたびたび出版されたが、両国のマスコミや政府によって喧伝されてきた特別な日韓関係≠ヘ、何かマッチポンプ的に作り出されてきた面もあるような気がしてならない。
偏った見識に翻弄されるのは、その現場にいない者の側なのである。
九四年一月三十一日。
当時、駐日大使だった孔魯明《コンノミヨン》氏が「韓国はそろそろ日本の大衆文化を開放する時期にきている」と発言し、韓国中で蜂の巣をつついたような大論争が巻き起こった。
このとき、韓国の新聞はこぞって、日本文化に対する意識調査や有識者のコラムなどを掲載している。調査はどれも「日本の大衆文化開放は時期尚早」という結果に終わっているのだが、目を引いたのは、日本の大衆文化開放に肯定的だった人の大半が、日本に行ったことがあり、住んだことのある人だったことだ。
ハンギョレ新聞の記事の中に、次のようなものもあった。
コンピュータ通信会社のハイテルや千里眼の『青瓦台広場』という意見交換サイトに、十代、二十代の若者から日本の大衆文化開放の是非を論じる意見が三日で約四百五十余りも集まったという。
「『スラムダンク』『ドラゴンボール』など日本の文化はもう生活の一部になっている。すでに入ってきている日本の大衆文化をいまさら反対するなんて、なんていう矛盾」
「既存世代(韓国では四十代、五十代を指す)は光復節(八月十五日の解放記念日)、三・一節(三月一日の独立運動記念日)が来ると声高に反日になるけれど、日本の文化開放とどんな関係があるのか」
反対意見も振るっていた。
「将来韓国を掘り返したら、出てくるのは、日本のデザインの服、CD、アメリカの靴だろう。自分の国のものも大事にしなくてはいけない」
「日本に克つためには、日本の大衆文化を開放しなくてはならないのか」
こうした若者たちの理論的な意見と対照的だったのが、東亜日報に掲載された、四十代のある漫画脚本家の激情型コラムだ。
「日本の大衆文化が開放されれば、一年以内に韓国の漫画市場は席巻される。緻密な日本人は十年後には韓国を完全に日本漫画の植民地にするだろう」。締めくくりは「日本の漫画によって韓国の未来を担う青少年が日本の思うように形成されてしまう」だった。
日本の大衆文化は生活の一部と言っている十代と、開放は絶対に許せないとする四十代の漫画脚本家の温度差。実態とかみ合わない韓国のオトナたちの事情。この温度差もさることながら、「日本の漫画によって韓国の未来を担う青少年が日本の思うように形成されてしまう」という極端な意見が堂々と掲載されてしまうことに、私は正直驚いてしまった。
結局、孔魯明氏の発言で物議を醸した日本の大衆文化開放論争は、花火のようにどんと打ち上げられたとたん、あっけなく消え去ってしまう。
そんな騒ぎがあった中、九四年から九六年にかけて、韓国はバブル期に突入する。経済的にも社会的にも安定し、余裕≠ェ人々の間に浸透していった。九六年には海外旅行者は年間四百六十万人に達した。しかし、海外への持ち出し額が制限されるなど、この九六年十月には、過剰消費追放運動が起きている。これは韓国人の海外旅行熱に警鐘を鳴らしたもので、なんと運動推進団体の百二十人が金浦《キムポ》国際空港の到着ゲート前で「過消費は国家経済をむしばむ」と書いたプラカードを持って抗議したというから、当時の韓国経済の好景気ぶりが浮かんでくる。
この頃から、韓国の中の日本≠ヘ、じわじわっと変化し始める。
九六年には、韓国のスポーツ新聞・スポーツソウルの特派員・李炯燮《イヒヨンソプ》氏が書いた『日本を読めばお金が見える』が一カ月で約十万部を売り上げ、話題を呼んだ。日本の商業的な部分にスポットを当てたものが増えたのはこの頃からだ。
そして、九七年。韓国経済が急転回し始める。
発端は、負債額約五兆ウォンを抱えて倒産した韓宝《ハンボ》鉄鋼だった。会長の鄭泰守《チヨンテス》氏は、税務公務員から一代で韓宝グループを作り上げたたたき上げ≠セ。この倒産で、巨額の不正融資疑惑が持ち上がり、財閥の銀行や政界との癒着「官治金融」の実態が明るみになる。時の大統領・金泳三氏の長男、金賢哲《キムヒヨンチヨル》氏も疑惑に関わっていたことから、政権の求心力は急速に衰え始める。
こうした状況を背景に、在韓歴三十年の商社マン、百瀬格氏が韓国で九七年夏に上梓した『韓国が死んでも日本に追いつけない18の理由』が、三十万部を売る大ベストセラーになる。韓国の経済がなぜこうなったのか、腐敗政治はなぜ作られたのか詳細に検証されている。韓国の人々の関心が自国批判に向けられ、なんらかの解決策を求めていたことがベストセラーにつながった。著者の百瀬氏は、「韓国が死んでも……」という煽情的なタイトルから「本が出版されたら漢江で遺体で発見されるかも」と、友人から冗談とも本気ともつかないようなことを言われたそうだが、結果は韓国で大人気となった。
自国批判の気運は一気に盛り上がり、百瀬氏の著書と前後して『韓国が嫌いだ』や『なぜ韓国がダメなのか』など、韓国人による自国批判の本も出版された。
九六年までいけいけどんどんと驀進してきた韓国経済の第二のターニングポイントは、九七年十月のウォン下落だ。この通貨危機で韓国の経済危機は、IMF支援下という屈辱的事態に陥ってしまう。このIMF支援下という状況が、韓国の人々の自尊心をこなごなに砕いたといわれている。時を同じくして、九八年二月に誕生した金大中大統領の対日本政策の方針が韓日関係改善に置かれたこともあり、これからを模索し始めた韓国の人々の目が再び日本≠ノ向いてくる。
こうした流れの中で、対日報道も沈静化していき、書籍も、九八年には、反日≠烽フはすっかり影を潜め、知日≠ェ目立って出版された。
九八年春に出版された、柳在順《ユジエスン》氏の『日本の女性を語る』も、その中の一冊だ。
「反日」から「知日」へ[#「「反日」から「知日」へ」はゴシック体]
柳在順氏は『蘭芝島《ナンジド》』(邦題『ゴミの島で生きる』)で八一年、韓国の全国紙、東亜日報社の新東亜ノンフィクション賞を受賞した、韓国の女性ノンフィクション作家である。韓国では「初の女性ルポライター」として広く名前が知られている。
一九八七年から九五年までの八年間、夫の企業派遣留学に伴って日本に滞在した。その後いったん帰国し、三年間を韓国で過ごし、九九年から法政大学大学院で国際文化を勉強するために再来日している。
八一年頃からすでに雑誌の仕事などで、年に二、三回は日本を訪れていたというから、途中三年間のブランクをのぞいて、足かけ十六年ほど日本に滞在していることになる。
「上がって。いま、掃除しているところだから」
在順氏のアパートを訪ねたのは、梅雨が明けた七月末だった。駅から十五分の道のりをまだかな、まだかなと歩いていくうちに、汗がじわっと出てきて、アパートに着く頃には、シャツが体にへばりついてきた。
言われるままにダイニング兼居間に入る。冷房のきいた部屋に汗が急激にひいていく。奥には仕事机がドンと置いてあり、机の前の壁には、二人の子供たちの写真と原稿の締切表のようなものが一緒に貼られていた。
冷たいポリ茶(麦茶)をいれてくれる。ポリ茶をごくりと飲み干してから、最初の日本の印象は、ともかくよくなかった、と短く言う。
「来る前まではまったく日本に興味がなかったんだけど、行ったり来たりするようになって、退廃的なところだなって思うようになったの。実際暮らしてみて、昼間のテレビのワイドショーだって、こんなに他人のスキャンダルばかりの番組が高視聴率を取っているのなら、日本は崩壊するだろうって思ったもの」
崩壊という言葉が妙におかしくて、思わず笑うと、在順氏も笑いながら、
「日本に住んで最初の二年くらいはずっとそう思っていた。だけど、なかなか崩壊しないじゃない?」
そんな風に思っているうちに、大家さんや近所の人たちとどんどん仲良くなっていく。実際、日本の女性とつきあうようになって、自分の思っていたことは間違っていたと思い始めるようになる。
「日本の経済が揺るぎない一因は、陰で支えている日本女性じゃないかと思うようになったの。日本の女性は遊ぶけれども、やることはきちっとやるじゃない。茶髪にしたってなんだって、個性的に自己表現はするけれど、けっこうきちっと家庭を守っている人も多いし」
まあ、そうじゃない人もいるけどね、と言ってから、
「『日本の女性を語る』は、韓国の女性のために書いた本だったの。ところが、韓国の男性からは、よく書いてくれたってほめられたけど、韓国女性からは、なんでこんなことを書くのかって非難|囂々《ごうごう》だったわ」
著書『日本の女性を語る』は、日本の母親たちの日常から援助交際、からゆきさんの歴史、皇室の女性たちなど、日本の女性のさまざまな姿を多面的にとらえながら、韓国女性への辛口批評も織り交ぜている。
偏見めいた箇所がないとは言い切れないが、日本人として面映ゆくなるような所もある。「日本で私≠ニいう言葉が頻繁に使われるのも責任回避を避けるためで、幼い頃から自分の責任は自分で負うように教えられている」と言い、成人になっても働かない子供の面倒を見る韓国の親たちを暗に批判したり、援助交際についても、アメリカやイギリスのマスコミの意見などを紹介しながら「日本社会が不感症になっているからなのではないだろうか」と分析し、夜這いの歴史なども繙《ひもと》いている。
印象的だったのは、「日本に住んで一、二年経った頃は日本についてほとんど知っているような気になっていた。ところが三年間畳の上で生活してみると、今まで知ったような気になっていた日本は表面的なものだったと思うようになる。四年目に入ると、日本はないとかあるとか、好きだとか嫌いだとかそんな風に日本を即断してはいけないと思うようになる」というくだりだった。
安室奈美恵ファンクラブの真姫は、表紙の浅野ゆう子の写真に惹かれてこの本を買ったという。
「韓国とは違うなーと思うところも多くて、へえと思いながら読んだ」
日本に行ったときには、ついつい日本人観察をしてしまったという。
韓国の新聞の投稿欄にこんな投書も掲載された。
「日本の女性から学ぶところなんてあるはずがないという先入観から買った本だった。日本女性の性への軽さにまず驚いたが、昔、国を救うために身売りしたからゆきさんの存在を知り、そんな日本の女性たちが日本社会を引っ張ってきた事実に驚嘆した。この本を読んで、女性の意識が目覚めれば社会も変わるのだということを実感した。私たちの子供が社会の主流になる日のために、彼らに何を教えればいいのか。著者の日本に対する客観的洞察を胸にとどめるべきではないだろうか」
『日本の女性を語る』の最終章にはこんなことが書かれてある。
「韓国社会で不正腐敗が問題になっているが、彼らを量産したのは、韓国女性だ。もっと韓国の女性はしっかりしなければいけない」
日本に来る前まで、五八年生まれの在順氏は「国内のことで精一杯だった」という。在順氏の青春は、そのままそっくり軍事政権の歴史と重なっている。
ソウルの大学を出てすぐ、小さな経済誌の出版社に入社した頃は、光州事件でその名を知らしめた全斗煥政権の時代だった。新米だった在順氏の書いたものすべてが、編集長によって書き直されていく。
最初は仕方ないと思っていた。しかし、ここでいう書き直し≠ニは、本来の意味での書き直しではない。政府を間接的にでも批判するようなものはすべて直されたという意味である。書き直しで事実がどんどん歪曲されていった。
「たまらなかった。自分の意識や思考が実現できないなんて、ゴミを拾って食べているほうが、まだ人間らしい。全斗煥の手下になんてなるものかと思って、会社を辞めたの」
こうして半年で出版社を辞め、ゴミの島に入る。ゴミの島で暮らした八カ月間を綴ったのが、第一作の『ゴミの島で生きる』だ。いまはなくなったが、八〇年代、金浦空港近くの漢江のほとりにゴミの島があった。当時、そこで五千人ほどの人がゴミを拾って暮らしていた。
「寝場所は、切り株みたいな丸太の上で、硬くて痛くてね。おまけに臭いが強烈で眠れなくて、最初は睡眠薬を飲んで無理矢理寝てたわ。いくらか残しておいたお金で睡眠薬を買ってね。だんだん飲まなくても眠れるようになったけど」
お金が底をつき、お兄さんのところに無心に行ったことがあった。悪臭をまとっていた在順氏にお兄さんは、たった一言。「下の喫茶店で待っててくれ」。
「久しぶりに会ったのに感激もしてくれなかった。あー、身内にも自分がしていることが分かってもらえていない。人目とかさ、気にされちゃうんだと思って、ものすごくショックだった」
これは、八カ月間のゴミの島の暮らしの中で一番傷ついたことだという。
反権力だけで、人はゴミの島で暮らせるのだろうか。この人の小さい体のどこにそんなパワーがあるのだろう。話をしながら、在順氏が始終姿勢を変えるのに気がついた。
「その時の後遺症でもないんだけど、睡眠薬で内臓がちょっとね。腰も悪くなっちゃったし」
茶化した口調で言う。ニコッとすればいいものを、私には引きつった笑いしか出なかった。ゴミの島の八カ月なんて想像もつかない。
在順氏は今回単身で日本にやって来た。夫とは離婚している。大学院に通いながら、現在、韓国の新世代に日本の情報を発信する月刊誌『C−JAPAN』やスポーツ新聞などに三つの連載を抱えている。
「日本の批判? しますよ。だけどね、私が日本についての記事を書く目的は、読者に刺激を与えることなの。いい刺激をね。日本の中で、韓国よりも優れている点はいっぱいある。それを知ってもらいたいの。完璧な国、完璧な人なんてありえない」
そうですね、と私が言うと、
「日韓交流だって簡単にできるでしょ。韓国だって、日本だって、いい人もいれば、ウマのあわない人もいる。無理して仲良くなる必要なんてない。自然にやっていけばいい。私だって、日本の友達は好きだけど、日本という国に対しては、挺身隊ハルモニ(日本でいう従軍慰安婦)とかいろいろ言いたいことが山ほどありますよ」
だからといって、日本に対する批判ばかりしていたら、韓国は前に進まないという。
「私は韓国人ですからね。韓国の人にもっと精神的に豊かになってほしい。だから、日本の優れている、いい点を記事にしていくんですよ。そこからいい刺激をうけてもらいたいの」
話をしているうちに、とっぷり日が暮れてしまった。
在順氏が手料理の夕飯をごちそうしてくれた。キムチ、ケジャン(生ガニの醤油漬け)、牛肉の炒め物、韓国の家庭料理がテーブルの上に並ぶ。
「田舎育ちだから、料理は得意なのよ」
在順氏の故郷は、三国時代、百済の首都だった時代もある忠清南道《チユンチヨンナムド》・公州《コンジユ》市の近くで、実家は農業を営んでいるのだという。在順氏の作ってくれた本場の韓国料理はどれもおいしくて、久しぶりの韓国家庭料理の味に、私は韓国留学時代の下宿生活を思い出して、なんだかしみじみとしてしまった。
壁際に置かれた本棚には、日本の本がずらりと並んでいた。中に森崎和江さんの『からゆきさん』を見つけた。『からゆきさん』は、天草からからゆきとしてアジアに売られていった女性たちの物語だ。その静かな文面からは切々とからゆきさんの心情が伝わってきた。『からゆきさん』は、私がいつかこんな風に人を綴れるようになりたいと思った一冊だった。
「『からゆきさん』ですね」と私が言うと、在順氏は「感動しちゃった」と言う。私はなんだかうれしかった。
ともかくやらなければいけないことがいっぱいあると在順氏は自嘲気味に言う。本当の日本通になるために、再度日本を学ぶための来日だ。
「それはね、韓国の人のためなのよ」
帰り道。在順氏の心意気がしばらく私の体の中に響いていた。
九八年には、日本関連本で五月に出版された『僕は日本文化が面白い』(邦題は『私は韓国人。でも日本文化がスキだ!』)が、三十万部を売り上げるベストセラーになった。同じ年の暮れには、日本語版も出版された。
著者・金智龍《キムジリヨン》氏は、この本で一躍有名になり、韓国の若者文化評論家として、新聞、テレビなどで活躍する売れっ子になった。
若い世代のカッコイイ≠ェ変わった[#「若い世代のカッコイイ≠ェ変わった」はゴシック体]
三月も末だというのに、ソウルの春はまだ先だ。
ソウルの中心街、市庁から景福宮へまっすぐ延びる六車線の道路には、豊臣秀吉を破った英雄・李舜臣《イスンシン》の銅像が君臨し、その向こうにはごつごつした岩山が見える。
九五年の夏に始まった、日帝時代の象徴ともいえる旧朝鮮総督府の解体作業も完全に終了し、ようやく姿を現した韓国李朝時代の宮殿・景福宮がのびやかなシルエットを描いている。歩道に植えられた街路樹は葉を落としたまま、吹きすさぶ風に寒そうにしなっている。
作家・金智龍氏と会った日も最高気温零度。待ち合わせのホテルまで自然と早足になる。
市庁の目の前に建つ高級ホテルのひとつ、プラザホテルの狭いロビーは、日本人観光客の団体で溢れかえっていた。日本から韓国への旅行者が「九八年末現在で前年比二九%増」という新聞の見出しを思いだした。九九年には韓国を訪れる日本人観光客の数はハワイを抜き、二百万人を突破している。
こんな日本人だらけのところで待ち合わせするんじゃなかった、などと所在なく立っていると、ヒゲをはやした男性が私の前を何度か通り過ぎる。本の写真とあまり似ていなかったので、最初は全く気がつかなかったのだが、その人が、韓国の若者世代で人気急上昇中の作家、金智龍氏だった。
「普通の観光客とはなんとなく違うし、この人かなと思って前を通り過ぎて反応をみたんだけど知らんフリしているから。本の写真は修整済みなんですよ」
プラザホテルの裏にある喫茶店に腰を落ち着けると、開口一番そんな冗談を言って、ニコッと笑った。
「ホテルはどうも落ち着かなくて」
夜はパブにでもなるのだろう、韓国の喫茶店特有のソファ式の店内には、化粧の濃いアジュンマ(おばさん。結婚した女性の呼称。単に中年の女性を呼ぶ時にも使われる)が三人、カウンターにだらりと座っている。コーヒーを持ってくる態度は、いかにも面倒臭そうだ。
金智龍氏の著書は、一般の人はもちろん、韓国の日本通の人々の間でも「出色」との評判をとり、新聞の書評欄などでも「客観的に日本をとらえている」とかなり評価が高かった。
宣柱は「オタクっていう言葉自体が面白かった」と言う。言われてみると韓国語でオタクに当たる言葉がない。社会≠フ違いである。
著書は、九二年から六年あまりを過ごした日本での留学時代に得た情報が基調となっている。従来の日本に関する本と違い、ともかく切り口が絶妙だ。
特有の文化の上に成り立っている日本社会を「野球」と「ベースボール」の違いやジャイアンツファンとアンチジャイアンツから切り取ってみたり、五五年体制が日本に及ぼした影響や、「日本文化のパワーはオタクにある」「小室ファミリーが成功したのは、マーケティングの勝利にある」という指摘など、日本人が読んでも「そういう見方もあるのか」と新しい日本を発見することができる。何より、読み終わった後に、ちょっと得をした気分にさせてくれる本なのだ。
「なんで日本に行ったかっていうと、ともかく外に飛び出したかったんですよ」
そう言いながら、くしゃっと笑った。窓に向けられた視線の向こうでは、経済危機で急増した屋台がワッタカッタ(行ったり来たり)と場所を探している。黒のタートルニットにジーパン、少し無骨さを感じさせる姿は、あの超エリート、ソウル大卒を全く感じさせない。
「エリート、ですか……。勉強なんかより漫画が好きでした。小学生のときから漫画ファンだったんですよ。貸し漫画屋に出入りするようになってから読んだマジンガーZの原画は、感動的でしたね。描かれている人間模様なんて、極上の小説です」
そう言いながら、韓国タバコ「this」に手を伸ばす。いいですかという仕草をしてから、一呼吸するようにタバコを吸い込んだ。
智龍氏は「朝起きるのがつらくて」「教えられる化学の内容はすでに全部分かっていたから」という二つの理由で高校を三年生に進級してすぐに辞めてしまった。
著書でも暴露しているのだが、化学の知識がなぜ身についたかにはワケがあった。それは、「憎んでいた教師を殺すための爆弾を作りたくて、化学の本をむさぼり読んだから」なのだそうだ。
信じられない話だが、儒教の教えから先生は絶対とされる韓国で、ワイロを強要する教師が多いという。「ワイロ」というのは、親におカネを要求することで、ひと月に一回程度の割合で、金額は十万〜五十万ウォン。これは勉強に自信をつけさせる時期であると韓国のオンマ(母親)たちが考える、小学校と中学校の時にさかんに行われるもので、先生が生徒に試験の内容を教えたり、授業中に指名する回数を多くしたりするのだそうだ。智龍氏は、小学校の時に、試験の成績がトップになった時に担任の先生からワイロをほのめかされた。「トップになったのは私のおかげだ。だから、カネを持ってこい」。
「うちはソウル郊外の仁川《インチヨン》の農家でね。すごく貧しかったんですよ。だからまずそんなおカネが出せるはずがない」
深く傷ついた幼心に追い打ちをかけたのは、智龍氏が小学六年生のときに亡くなった父親の葬式に、ワイロを渡さなかったからなのか、担任の先生が遂に姿を見せなかったことだ。深く傷つけられた智龍氏は、その教師を爆死させるための爆薬作りを試みる。半年間化学の本をむさぼり読み、研究しているうちに化学の知識が身についてしまったというのだ。智龍氏の名誉のために言っておくが、「他人に殺意を抱いたのはそのときが最初で最後」だそうだ。
高校を中退した智龍氏は、大検を通って、ソウル大学に入学した。韓国ではかなり、いや相当特異な人なのだ。
「大学を出て就職したのは、韓国開発リースという会社で、株の二〇%を日本のオリックスが持っていた会社です。釜山勤務で二年ほど働いたんですが、このまま同じ毎日でいいのかな、もっと違う世界があるのにって思ったら、無性に外に飛び出したくなっちゃって」
場所はどこでもよかったという。米国でも南米でもよかった。手持ちのカネの額と漫画が好きなこと、それに距離を考えて日本に決めた。そこからの行動は素早かった。
さっそく試験を受けて、慶応の大学院に合格する。
「日本の大学に留学する」
そう周りに告げたとき、今の環境を捨ててまで留学する意味があるのかと、会社からも母親からもモーレツな反対に遭った。そう言いながら、また窓の外の屋台に目を向ける。
「だから、日本に行ったときは、プレッシャーからの解放感で、ただもう、うれしくてうれしくて」
東京の駒場東大前で下宿することになり、持っていた五十万円のうち授業料を払い込むと、残ったのは二十万円。授業が始まるまでアルバイトをしようとパチンコ店で働き始める。
「パチンコ店は在日の人がやっていると聞いたから、すぐ雇ってくれるだろうと思って。時給千円だったかな。アルバイト仲間の一人が『今度の休みは、クニに帰るんだ』っていうから、こいつ日本語知らないのかって思ってさ。そしたら、田舎に帰ることをクニに帰る≠チていうんですね(笑)。言われた時は、おまえの国はここだろって、思ったんだけど」
智龍氏が日本に来て一番驚いたのが、いろいろなタイプの人間がいることだった。特に日本の若者は、ファッションもさまざまで、韓国の人が思っているような画一的な流行ファッション≠ネど見当たらない。思ったより個性的で、びっくりしたという。
韓国のテレビ局が、日本のファッションをマネている自国の若者をバカにしようという企画を立てて、日本にやって来たことがあった。反日というのではなく、日本のマネをする韓国の若者たちをちょっとからかってやろうという趣旨のもので、その取材に智龍氏は同行したのだが、「自分たちが描いていた絵がいくら探しても見つからなくて、大変だったんですよ。日本の若者たちはともかく個性的で、いろんな格好をしているでしょ」。
韓国で出版されていた今までの日本関連本≠ヘ一体何を見聞きして書かれていたのだろうか──。智龍氏の中で、韓国にいるときに持っていた日本≠ヨの懐疑心がどんどん膨らんでいった。
智龍氏が日本に行くまで持っていた日本人像は、勤勉で、愛国心が強く、アフターファイブは酒で憂さ晴らしをするいやらしいおじさんだ。韓国の女性を買いに行く、妓生《キーセン》旅行華やかなりしころのイメージなのだろう。妓生とは韓国の芸妓のことで、李氏朝鮮時代には、朗吟や舞踊をする官妓と両班《ヤンバン》の宴席などで芸を披露する私妓があったが、一九七〇年代、八〇年代に入ると私妓の伝統だけが残り、宴席の後で春を売るほうで有名になってくる。この妓生を求めて、多くの日本人男性が韓国に足を運んでいたのだ。
智龍氏は、漠然と日本は狡猾《こうかつ》で怖かった≠ニいうから、なんで留学先を日本にしたのか聞いてみた。
「怖いというのはね、憧憬の裏返しですよ」
しかし、智龍氏は六四年生まれの三十五歳。私と同世代の年齢の人までも、そんな日本人観を持っていたと改めて言われると、まるで自分自身のことを言われているような気になってきて、なんとも複雑な心境になった。
「マジンガーZも韓国の漫画だと思ってましたからね。それが日本の漫画だと知った時は、友達と、『あぁ、俺たちは知らないうちに日本にマインドコントロールされていたんだ』って言ってました」
──シャレにもならない話だ。
いろいろな人が出入りして面白かったパチンコ店は三カ月ほどで辞め、下宿も韓国人の留学生ばかりだった駒場から、二子玉川のアパートに移った。
「駒場の下宿は、毎晩韓国の留学生と韓国語で酒ばかり。これじゃあ、日本語はうまくならないと思って」
バイトは、時給のいい家庭教師に乗り換えた。生徒は、駐在員の子女たちで、数学専門の家庭教師をやった。
「一時間四千五百円で、週十一回やりましたから、月に五十万円くらい稼いだかな。いまより稼いでいるかも。狭い社会だから、名物先生で有名でした」
プレッシャーから解放されて、名物先生は、実にのびのび過ごしたという。
「飲んで、しゃべって、コンビニで立ち読みして、少し勉強して。ロンバケ(ドラマ『ロングバケーション』の略)じゃないけど、『ああー、オレは今、人生の休暇中なんだ』って思いましたね(笑)」
コンビニでは、ゆうに二時間は立ち読みにふけったという。大好きなアニメ、漫画もそこで思う存分楽しんだ。
「ゼミも面白かった。ゼミの友達と神宮球場に月に一度は通ってましたね。宣銅烈《ソンドンヨル》のいる中日とヤクルトのファンだった。ヤクルトはなんとなく好きだったですね。みんな集まると研究室で宴会。ゼミの先生がワイン好きで、ワインか洋酒でどんちゃん騒ぎ。居酒屋にもよく行ったな」
日本のゲームや芸能の知識は、このときの仲間から仕入れたという。コンビニの立ち読みと仲間との交わりからできあがったのが、韓国で三十万部を売るベストセラーとなった『僕は日本文化が面白い』なのだ。
「何で売れたかっていうと、韓国の人は、日本人は個性がなく、みな同じだと思っていたから、衝撃を受けたんですよ。例えば、日本人は建前と本音を分けて、肩書きが好きで、若者はみんな同じファッションをしているっていう風にね」
それは日本も同じことだ。ある時、居酒屋で隣りあわせた女性たちが韓国行きの話をしていた。なんとはなしに聞いていると「韓国っていうとやっぱり焼き肉よね」「あとキムチ」「そうそう辛いっていう感じよね」。
その話をすると、智龍氏もうんうん分かる分かると言ってから「韓国人の世界観っていうのもひとつしかないんですよ。韓国人にとって、日本人は一種類なんです。せっかく入ってきた新しい情報も、今までのステレオタイプに合わせようとするから、情報は全く違ったものになってしまう。今まで、韓国人は、『すべては国の発展のため』と驀進してきました。愛国心が先に来るとじゃまになるのが日本だったんですよ」
いまでこそ少なくなったとはいえ、日本≠ニいえば全く容赦をしない、韓国のマスコミ報道の影響も大きかった。時の政権色を色濃く反映した報道体制には、政権の求心力を高めるために反日≠ニいうカードをふんだんに使おうとする韓国政治が背景にあった。
「驀進から一転したのが、今回の経済危機とIMF支援です。これでいろいろなものが崩壊した。まず、ミドルクラスの崩壊。いままでの終身雇用という常識にかわって、力のあるものが生き残るという能力主義になった。これで九割のミドルクラスは崩壊し、残り一割が実力で逆転したんです」
ある証券会社では、年俸三億六千万ウォンという三十代の社長が誕生した。彼はそれまでは役員でも何もない、営業成績一位の社員だったというから、まさにコリアンドリームだ。IMF支援で構造調整が求められ、五財閥(現代、三星、大宇、LG、SK)間で重複している事業を交換し過剰設備投資の解消を図る事業交換=ビッグディール政策がとられ、韓国で資産規模第二位を誇っていた五財閥のうちの大宇は、三十一兆ウォンもの負債を抱え、遂にブランド名を失った。その打撃を受けたのがミドルクラスだったことは想像に難くない。
経済危機の影響は、私がソウルを訪れた九九年初めでさえ街を歩いていても感じられた。街の屋台が急に増えたのだ。屋台は、八八年のオリンピック時に環境保護、衛生管理などの目的で一斉取り締まりをうけ、いったんは姿を消した。それでも夜になると、酔客を狙った屋台がぽつんぽつんと寂しく並んでいた。それが、経済危機、IMF支援で、会社が倒産した、リストラされたなどで失業者が急増し、憂き目に遭った人たちが、とりあえず資本金のいらない屋台に集中したのだ。プラザホテルの裏は、焼き肉などの飲食店が立ち並ぶ繁華街だ。喫茶店の窓の向こうには、飲食店の前で商売する屋台が隙間なく並んでいるのが見える。喫茶店の前の通りにいた屋台の中には、いつか巻き返してやると豪語していた、元サラリーマン店主も何人かいた。
「若い世代(十代、二十代)の中ではカッコイイ≠アとが変わってきたんですよ」
智龍氏がしみじみと言う。
「昔はエリート≠ェカッコイイことだったんだけど、彼ら若い世代は、これからは実力勝負だということに気づいたんです。発展途上国生まれの先進国育ちの若者たちが、オトナ社会のカラクリを見抜いてしまった。いま、彼らの一番のあこがれは、バックダンサー。次が美容師。どちらも実力で勝負する仕事でしょ。大学路《テハンノ》(若者が集まるスポット)に行くとストリートダンサーがけっこういますよ」
バックダンサーか──。韓国のステレオタイプからいえば、目立つ歌手、俳優なんかのほうに人気が出そうなのにと言うと、
「そういう人になれるのはほんの一握り。そういう限界はちゃんと感じているんですよ。それに、さりげなくカッコイイがカッコイイことだと思い始めているんですよ。誰が何を言おうと好きなこと、やりたいことを始めたんです」
いい意味でも悪い意味でも韓国の人は自己主張型と言われている。「船頭多くして舟、山に登る、が韓国人」と韓国の人が言っていたほどだ。それが、さりげなくがカッコイイことになってきたというから、私は正直驚いてしまい、思わず智龍氏の顔をのぞき込んでしまった。
「韓国はウリ(私たち)からナ(自分)に意識が変わった、つまり、実力本位の個人時代≠ノ入った」
智龍氏が驚いている私に畳みかけるように言葉をつないでいく。
これは、柳在順氏が日本語の「私」を解釈した、責任の所在を明らかにするという点と通じるものがある。
「だから、崩壊なんです。いままで信じてきた既存の価値観がすべて崩れた。いまこそ、新しい価値観が生まれるチャンスなんです」
経済危機は、韓国社会に次のステージに進むための過渡期をもたらしているのではないか。韓国では今、新しい価値観が生まれつつある、と智龍氏は言う。
「その中で、韓国のこれからの主流となり、日本との新しい関係を築いていくのは、いまの十代、二十代なんですよ。五十代は反日教育にどっぷりつかった世代。彼らの親の多くは日帝時代の経験者で、次世代に徹底した反日教育を行った。四十代には、その教えを忠実に守っている人も多い。僕ら三十代もその影響を少し受けていますが」
九八年当時の韓国の三十代はベビーブーマー世代で、学生運動を経験したのちに、二十代のときに政治革命(軍事政権から民主化)、三十代で生活革命にあった世代だと智龍氏は言う。
『僕は日本文化が面白い』は、智龍氏の強い意志で出版されたものではない。日本の文化をきちんと伝えたくて、新聞社、出版社などに企画書をファクスで送ったがすべてダメだったという。
「全部ダメでした。そうこうしていたら、新聞社の中央日報に記事でやりましょうと言われて、九七年の七月から七回シリーズで日本の文化≠ニいうタイトルでやったんですよ。日本文化に対する被害者意識をなくそうという主旨の記事で、記事が出てしばらくして、出版社から連絡があってね。『勇気をもって日本と交流しよう』ということでした」
「勇気を持って」出版した本は、三十万部というベストセラーになり、韓国の人に受け入れられた。
「好きになろうよ、交流しようよというのが、そもそもおかしい。もちろん、経済的な交流というのは不可欠です。でも、これから韓国と日本は、個人と個人の関係になっていくべきだと思う」
漫画ファンの智龍氏の次の目標は、日本で漫画の脚本家としてデビューし、世界で成功することだという。
「日本の野球選手が大リーグを目指すのと一緒で、まず日本で成功してから、世界デビューですかね」
智龍氏は今、韓国語で遊ぶという意味の「ノルダ」という名の企画コンテンツ会社を立ち上げようとしている。「個人主義万歳」をコンセプトに本を出版したり、映画を撮ったり、イベントを催したりしたいのだという。
「韓国は欲望の時代≠ノ入ったんです」
韓国は確実に変わりつつある。
九〇年代──。韓国社会自体が大振れした時代、韓国の中の日本≠煢Eに振れ、左に振れ、行きつ戻りつしている。
そうした日本≠ェ揺れているただ中で、真姫、チャニョン、星南、宣柱たちの世代は育ってきた。
こうしてみてみると、私が出会った十代、二十代の彼彼女らは、生まれながらにして高度経済成長の恩恵をたっぷり受け、物心がついたときには、すでにインターネットがあり、経済危機で韓国の社会構造が大きく変わった時期に青春時代を過ごしている世代だということが分かる。
けれど、学校では日本の統治下の歴史を学び、新聞や書籍から入ってくる日本の情報は大振れして一貫性のないものばかりだった。果たして、日本≠ニいう国は信じていい国なのかそうではない国なのか。何が本当の日本なのか。「いいものはいい」と、日本の大衆文化に惹かれてはいるけれど、どういうスタンスをとったらいいのだろう。彼らの日本に対する複雑な思いは、韓国という国が日本に対して持つ揺れとそっくり重なっているように思える。
智龍氏の言う「発展途上国生まれの先進国育ち」であり、「日本との新しい関係を築いていける世代」とは、この揺れの中で育ってきた、彼らの世代なのである。
[#改ページ]
第3章 韓国の若者たちの原風景[#「第3章 韓国の若者たちの原風景」はゴシック体]
[#改ページ]
現在進行形の街 大学路[#「現在進行形の街 大学路」はゴシック体]
一九九九年夏。
夕方四時も近いというのに、日差しが強い。韓国の日差しは、紫外線もストレートだ。「これはまた日焼けするなー」などと思いながら、マロニエ公園に向かった。
金智龍《キムジリヨン》氏が言っていた、「オトナ社会のカラクリを見抜いた」、「新しい価値観の中でこれからの主流になっていく」韓国の若者たちの原風景を探しに、私は演劇の街・大学路《テハンノ》にやってきていた。
マロニエ公園は、美術会館や大学路を代表する大小の劇場を備えた文芸会館に囲まれた野外音楽堂があることで有名な場所だ。夏休みということもあって、公園のベンチは老若男女でびっしり埋まり、隙間もない。
音楽堂では、コメディアンがコントをやっている。ステージを取り囲んだ、若い子や家族連れから時々どっと笑い声が起きる。オレンジ、ブルー、紫色に髪の毛を染めた子たちがパフォーマンスに見入っている。
その中で、ひと際目立つブルーの頭をした、背の高い男の子を見つけた。
「この髪? 最近、近所で染めたんですよ。染めた場所は、江南《カンナム》(ソウルの街を流れる漢江《ハンガン》の南を指し、ハイソ≠ネ若者たちが集まる所でもあり高級住宅も並ぶ。日本でいえば、麻布といったところ)。いま弘大《ホンデ》(弘益《ホンイク》大学。韓国の芸術大学)の三年です。あなた日本人? 僕、日本で生まれて中学生の時まで住んでいたんですよ。大学の専攻は、演劇です。将来は歌手になりたくて。デビューには遅い年ですか? あなたも結構保守的ですね。年なんて関係ないです。そんなこと気にしていたら何もできない。夢が大事ですから」
「夢が大事」という彼は、大学に通いながら、MBC(韓国の民放テレビ。日本のフジテレビと提携関係がある)傘下のプロダクションでアルバイトをしているという。
「韓日関係についてですか? 僕個人は日本って好きですよ。開放的だし、自由だし。韓国にはまだそういう雰囲気がない。七〇年代に生まれた人たちが社会の主流になったら、韓日の関係は確実に変わりますよ。それまで待たないといけない」
一気にまくしたてる。隣にいる彼女は高校生だという。
「私は日本のことはよく分かりません」
彼女のほうは、そう言うと下を向いてしまった。
私が韓国の若者たちに突撃インタビューをしている、と言うと、彼は去り際に「がんばってくださーい」とエールをくれた。おーし、がんばるけんねえと私も手をふり返す。
彼の言う七〇年代生まれは、年齢でいうと二十歳から三十歳に当たる。星南《ソンナム》や宣柱《ソンジユ》の姉、ユンジンがちょうどこの世代だ。韓国の九九年という年は、経済危機で大企業神話が崩れ、三十代が起こしたベンチャー企業があふれ始めた年でもある。キンセデエ(既存世代と新世代に挟まれた世代)=386世代の三十代パワーが炸裂し始めた年なのである。七〇年代生まれは、その少し下の世代。彼らが社会の主流になるのは、もう少し先のことだろう。
そんなことに思いを巡らせながら、ぐるりと辺りを見回すと、木陰に女の子の三人組が座り込んでいるのが目に留まった。コンサートの開演を待っている彼女たちは中学生だという。
「いま好きなことですか? PC通信かな」
互いに顔を見合わせながら、もじもじしている。韓国でのPC通信加入率は人口比で二五%というからかなり高い。インターネット利用者も三〇%(二〇〇四年現在では七〇%)にのぼる。最近ではインターネット・カフェが急増し、ここでのお見合いチャットが大流行になっている。
「将来は、幼稚園の先生になりたいです」
だから、高校、大学には絶対に行かなくてはいけないのだという。日本について知っていることはある? と聞くと、
「安室奈美恵、X JAPAN、キティ……」
話をしているうちにどんどん声が小さくなる。ごめんね、せっかく三人で楽しくおしゃべりしていたのに、と心の中で頭を下げ、お礼を言って大通りに出た。
心地よい風が吹いてきた。
しばらく通りをぶらりぶらり歩いていく。劇団の芝居のポスターがあちこちに貼られている。しゃれたカフェ、ノレバン《カラオケ》、レストラン。大学路の街並みは、東京の青山と原宿がミックスしたような感じだ。街路樹のケヤキが青々と茂っている。ケンタッキーフライドチキンの前では、待ち合わせの子たちが、それぞれの携帯電話に向かって大きな声を出している。すれ違う若者たちの顔にはみな生気がみなぎっていて、これぞコリアンパワー、エネルギーの塊が闊歩している感じだ。
風に当たりながら歩いていくと、若者たちがアリのように集まっている小さな公園を見つけた。待ち合わせの場所らしい。四人組の男女は、友人の誕生日パーティーをするために集まったという。皆大学二年生だ。一人の男の子が、少し長めの髪にカチューシャをしていた。それっていまの流行なの? と聞いてみると、
「えぇーいや、あの、暑いから」
隣の女の子が笑っている。
「日本についてはですねえ、知りたいことがいっぱいある国かなあ。韓国より進んでいるからね」
「経済大国っていうイメージしかないなー」
「私ははっきり言って関心ないですね。国史を勉強すれば、誰だっていやな感情しかないんじゃないかな」
「関心はない」と言いながらも、いやな感情は持っている──。なんだか少しやるせない気持ちになる。
将来の進路を聞くと、一人は翻訳者、一人は公務員になりたいと言う。
男の子二人は「わっかりませーん」と笑っていた。
大通りから横にそれた細い道に入っていくと、こんなに同業者がひしめきあう所でよく商売になるなと思うほど、アクセサリーの露店が仲良くずらりと並んでいる。その前を腕を組んだ若い女の子たちがはずむように歩いていく。大学路は本当に女の子が多い。それを追いかけるようにして男の子が集まってくる感じだ。
三人の女の子が腕を組んで歩いて来る。韓国では珍しくない光景なのだが、三人だと結構な迫力で、一瞬ぎょっとする。
「今日ですか? 芝居の『初恋の人』を見に来たんですよ」
はきはきと答えるその姿に、てっきり高校生かと思ったら、みな中学三年生だという。
「受験もあるから、毎日毎日、勉強勉強。家で新作のビデオをみている時が本当に幸せ」
ショートカットが似合う長身の女の子がペロリと舌を出す。彼女は将来宇宙飛行士になりたいのだという。なったら、韓国初の女性飛行士かもねと私が言うと、少しはにかんで、ニコッと笑った。
「日本についてですか?」
ポニーテールにメガネをかけた、賢そうな女の子が眉間にしわを寄せる。
「日本は、イメージとしては、自由奔放で個性的かな。昔は、韓国にとっては、絶対勝たなければいけない国でしたよね。上の人なんかも悪い過去にしばられてばっかりだし。でも、そんなことを言っている場合じゃないと思いますよ。お互いにいいことを学んでいけば、もっと違う関係ができると思うんですけど」
思わず、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。中学生ってこんなにしっかりしていただろうか──。彼女は、将来コピーライターになりたいのだという。
「コピーライター? 何それ?」
ほかの二人が、からかうように彼女の顔をのぞき込む。
日本について知っていることは、学校で習った歴史とX JAPANとファッション、そして技術大国、と競うように言い出した。
「あなたが初めて話をした日本人です」
ええー、私が最初だなんて、まずいなー。いやな印象を与えなかったかな、私が日本人の典型だと思われたら困ったなーなどと思っていると、「日本の人が韓国語を話しているなんて、なんだかうれしいです」と殊勝なことを言ってくれた。
芝居が始まる時間だという彼女たちと別れ、しばらく若者たちの喧噪の中に立ち止まる。なんだか私だけとり残されたような気分になる。どの子たちも友達同士やカップルなどのグループで、私の周りを流れていく。一人で歩いている子はほとんどいない。
向こうから、女の子の五人組が歩いて来た。彼女たちは、中学一年生だという。
突然話しかけられた彼女たちは、びっくりプラス何だろう? という好奇心が入り混じった表情を浮かべていた。日本について聞いてみる。みな一斉に首をかしげて、顔を見合わせている。考えてみると、まだ小学校を卒業したばかりの子たちだ。答えられるかな、としばしみんなの顔をためつすがめつしながら待っていると、
「日本の民族はよくないって聞いた」
一人が元気よく答えてくれた。ほかには? という視線を投げかけると、
「うーんと、マルタ」
えっ?
「マルタの話を聞いたことがあって、日本って気持ち悪いって思った」
一九三七年に起きた日中戦争以後本格化された細菌戦の研究のため、中国・ハルビンに置かれた関東軍防疫給水部、通称七三一部隊。ここでは捕虜たちの人体実験が行われ、その実験台となった人々は通称「マルタ=丸太」と呼ばれ、一本、二本と数えられていたと言われている。日本でもこんな言葉を知っている中学生は少ないだろう。
マルタという言葉に打ちのめされている私に追い打ちをかけるように、日本のイメージは、「ひどい」「残酷」。なんともはや。出てくる言葉は極端にマイナスのものばかりだ。
いまの日本については何を知っているか聞いてみる。
「服。ファッションの傾向は知っている」
「映画かな。学校で観た。『HANA-BI』っていうやつ。よく分からなかったけど」
韓国の中学では週に一度、CAというカリキュラムがある。日本でいえばクラブ活動に当たる時間だ。彼女たちの学校ではCAクラスは二十クラス程度あり、その中に「日本」を学ぶクラスがあるのだという。
日韓関係について聞いてみると、答えは、全員が仲良くしなくちゃいけない、だった。
気持ち悪くて、残酷で、ひどい国でも仲良くしなくちゃいけないの? と意地悪く聞いてみると、あっけらかんと、
「だって、本当のところはよく知らないもん」
将来の夢は、博物館勤務、お嫁さん、幼稚園の先生、スチュワーデス、学校の先生。あどけない顔が五つ並んでいる。
夕方六時を回っても、日が落ちない。表通りに引き返す。湿度が低い韓国の夏の風が心地いい。
表通りは、さっきより人が増えていた。歩道のガードレールに腰をかけている男の子と女の子を見つけた。男の子の髪の毛は緑色。長い髪はひと昔前の江口洋介風のワンレングスで、ボロボロのジーパンにサングラス。女の子はオレンジ色に髪の毛を染め、黄色いTシャツにオーバーオールを着ている。二人とも二十歳前後ぐらいだろうか。まず、女の子に話しかけてみる。
面倒くさい、うっとうしいというのが視線でびんびん伝わってくる。それでも、視線がこちらに向いているだけありがたい。男の子は「うるさいのが来たな」という感じでプイとそっぽを向いた。
「今日なんでここに来ているかって? 毎日来ているから。ワケ? 面白いから」
オレンジ色の頭は近所のパーマ屋で染めたという。
「将来は放送局のプロデューサーになりたい。日本? よく知らない。日本に興味があるかって? あるわけないじゃない」
プロデューサーはカッコいいからなりたいのだそうだ。男の子は彼氏なの? と聞くと、プゥーと噴き出した。彼のほうは、私にちらりと視線を向け、一瞬凝視したと思ったら、またあさっての方向を向いてしまった。話しかけても、横を向いたまま。とりあえず、礼を言い、その場を離れた。
高校を辞めてプロダンサーを目指す十七歳[#「高校を辞めてプロダンサーを目指す十七歳」はゴシック体]
大学路を後に、私は、眠らない街・東大門市場《トンデムンシジヤン》に向かった。
一九〇四年に開設された東大門市場は、韓国一の規模を誇る市場だ。商人相手の服飾専門の市場として発展してきた歴史を持つ。
扱うものが服飾ということもあって、集まって来るのは、バイヤーと若者が圧倒的だ。留学していた頃、チェミキョッポ(在米の韓国人)の子たちは、よくこの東大門市場で服を仕入れていた。アメリカの人気カジュアルブランド製品などは韓国で作られているものが多く、タグが付く前の韓国での値段は米国の二分の一から三分の一くらいなのだそうだ。
「東大門のミリオレの入り口の所で会いましょう。えっ、ミリオレ知らないのー。ミリオレっていえば、みんな知っているから大丈夫」
ファンクラブ「ジャニーズファミリー」で知り合った星南とそのミリオレの入り口で会うことにした。彼女の言葉を信じ、地下鉄東大門市場の駅の階段を上がっていくと、人、人、人……。人の大群が吸い込まれるように歩いていくその先に、ミリオレが燦然《さんぜん》と姿を現した。
ミリオレは、九八年夏にオープンした若者に大人気のファッションビルだ。服飾関係の問屋がびっしり入っている。問屋といっても一般の人も自由に買い物ができるようになっている。各問屋それぞれがデザインから仕立てまでの一貫体制をとっているのが特徴だ。海外で流行ったデザイン、特に日本で流行ったデザインなどはほとんど同時に入手し、すぐに縫製《ほうせい》に取りかかるので、店頭には、日本とほぼ同じデザインのものがあっという間に並んでしまう。速さが勝負なので、多少縫製に難ありというのもあるが、なんといっても魅力は値段の安さ! いまでは、ミリオレは日本人観光客の人気スポットになっている。一、二階は服、三階は帽子などのアクセサリー、四、五階は靴、とフロアごとにおいてある商品が違う。すべて卸値価格と格安だ。レストラン街もあり、二十四時間営業の問屋デパート=uミリオレ」は、一日中、若者や観光客であふれかえっている(今では、日本人観光客のメッカとしても知られている)。
ミリオレの建物の周りに待ち合わせの人がぐるりと並んでいる。入り口のすぐ脇に設置された小さなステージでは、なにやらコンサートをやっていた。若い女の子たちの黄色い声とすごいボリュームの音楽。暑さと熱気でぼぉーとしてくる。
ともかくすごい人で身動きがとれない。星南と会えるのか心配になってくる。待つこと十分。
「菅野さーん。よかった会えて。すごい人で、どうしようかと思っちゃった」
実は、目と鼻の先にいたらしい。
コンサートは誰が出ているの? と聞くと、
「デビューを目指している人たちみたいですよ」
ステージの裏のほうがやけに騒がしい。追っかけ歴五年の星南のアンテナに、何かびびっときたらしい。
「菅野さん、ちょっとあっちに行ってみよう」
星南に引っ張られて裏手に行くと、狭いスペースで、男の子六人のダンスグループが練習をしているところだった。グループ名は、「リバティ」。
中でも、髪の毛を金髪に染めた男の子に「オッパー!」の悲鳴に近い声が集中していた。横にいた星南も「かっこいい!」。その男の子に話を聞いてみた。
チョン・ヒョヌク、十七歳。高校には行っていないという。
「中一の時から本格的にダンスをやり始めて、高校は行っていてもしようがないなって思って休学しました。初めはプロダクションに入っていたんですけど、新しいチームを作るからって友達に言われて、結局リバティに入ったんです。親には最初、すごく反対されました。今では、応援してくれていますけどね。歌手になりたいのかって? まさか。ダンスが好きなんです。踊っているときが一番楽しい。日本ですか? あんまりよく知らないし、考えたこともない」
彼を見つめる星南の目がなんだか潤んでいる。後で聞くと、かなり好みのタイプだったのだという。
「いつもどこでコンサートしているの?」と星南が聞くと、「あちこち」。
リバティの活動は巡業が主で、明日は、大邱《テグ》に行くという。どのぐらい稼げるの? と聞くと、「ちょっとそこまでは……」と言いながら、「少しです」と言って笑った。
「でも、踊れるだけでいいんです。巡業、練習であっという間に時間が経っちゃう」
彼を取り囲んでいる女の子の後ろをおばあさんが通りかかった。何事が始まったのかと私の脇から首をつっこみ、金髪の彼を見ると「外国人みたいだね」とひとこと言って去っていった。私は思わず噴き出してしまった。
ヒョヌクは、ステージに上がる番が来たので、と他のメンバーの後を追っかけていった。
ステージが始まると黄色い声がそこら中からとびかい、「キャア」と「オッパー」の声の絡み合いになっている。彼らのダンスが始まると、立ち止まる人も増えて、ステージの前は押しくらまんじゅう状態だ。
近くにいた男の子が「モシインナ《かっこいいー》」と彼らのダンスに合わせてリズムをとっている。
星南がぽつりと言う。
「デビューできればいいけど、デビューしちゃったら、人格も変わるからな」
さすが、追っかけの大御所は見ているところが違う。
高学歴で大企業への就職を目指すのを理想とするのが韓国社会というイメージからどうしても抜けきれていなかった私にとって、好きなダンスのために学校を休学してしまった韓国の若者に会ったのは、ヒョヌクが初めてだった。
四カ月後の十二月。ヒョヌクはあれからどうしているのだろう──。ヒョヌクのことが気になっていた私は、彼の事務所に連絡をとり、もう一度話を聞くために彼のダンス練習場を星南と一緒に訪ねた。
ステージでの仕事が終わってからの練習は、だいたい夜の十一時からだ。十一時から十二時くらいまでに三々五々メンバーが集まってくる。十二月のソウルはともかく寒い! マイナス五度の寒さの中、メンバーは「チュオー(寒い)」と言いながら、皆顔を紅潮させて練習場に入って来る。
ビルの地下にある練習場では、何人かがもう練習を始めていた。板張りのフロアはたっぷりとした広さがあり、小学校の体育館みたいだなと思っていると、メンバーの一人が、日中はエアロビクスに使われていると教えてくれた。百四十六時間で月二十万ウォン(二万円)払っているという。
久しぶりに会ったヒョヌクは、金髪から栗色のスタンダードなヘアスタイルになっていた。私が、夏にも話を聞いたんですよと言うと、
「えっと、すいません。全然覚えていないんです」
首をしきりにかしげながら、苦笑いしている。私たちは、練習場の入り口のすぐそばに置かれた椅子に腰かけた。
「ダンスに興味を持ったのは、小学校三年ごろ。テレビとかでカッコイイと思って、友達と一緒に踊ったりしていました」
小さな声でぼそぼそっと話す。話が終わり、乗り込んだ帰りのタクシーの中で、「ダンスをやっていてなんであんなに声が小さいんでしょうね」と星南が不思議がったほど、本当に小さな声だった。
ヒョヌクは、中学に入ると、文化祭などで踊るのが面白くなり、本格的にダンスを練習し始めるようになる。高校に入っても仲間と一緒に路上などで踊ったりしていたという。勉強はするほうだったの? と聞くと、困ったような笑いだけが返ってくる。
彼の所属する「リバティ」は、九九年四月に結成されたばかりだ。たまたまメンバーの一人が小学校のときからの友達だったという。それまでダンスのプロダクションに入っていたヒョヌクは、その友達に誘われて「リバティ」の活動に参加するようになる。私が夏に見たミリオレのステージも、六月から本格的にスタートしたばかりで、やっと二カ月経った頃だった。
そういえば、高校はその後どうしたのだろうと思い、聞いてみると、
「リバティに入って、初めは両方並行してやっていたんだけど、六月に休学したままです」
私が会った十二月のその日は、学校に復学届を提出する締切日だった。
「親は最初、反対していて。だから学校も来年復学するっていって休学したんですけど、結局……」
復学届は提出しなかったというのだ。口ごもって、向こうで練習しているメンバーをちらっと見る。
「学校は同じことしか教えないし、なんか統一されているでしょ。いまはそんな学校に通いたくない」
こんなことを言うヒョヌクが、珍しいわけではない。
韓国でもここ数年、日本でいう不登校が表面化している。九八年七月には「脱学校の会」(仮称)という会ができ、参加者は九九年末には六十余名になった。学校を自主退学したり、これから退学しようと考えている小学生・中学生・高校生たちは、ここでさまざまな行事や、陶器制作、ホームページ制作などを行っている。「脱学校の会」は真の教育≠学ぶことと、不登校に対する韓国社会の偏見を取り除くことを目的に作られたという。
不登校になった原因はそれぞれだが、教師の体罰によるものが多いという。儒教の国・韓国では、日本と違い教師は絶対的な存在だ。ある親の談話が新聞に載っていた。抗議をしたら、「子供が悪い。悪いものには体で覚えさせるしかない」。教師にそう言われて、学校を辞めさせることを決心したという(その後、事情は相当変わり、二〇〇四年には生徒に体罰をふるった教師の様子を他の生徒が携帯のカメラに写し、それがインターネットに流されるという事件が起きた。教師の体罰≠ヘ急速に減少しているという)。
「いまは」とヒョヌクが断ったように、彼の場合は学校を全否定しているわけではない。
「軍隊に行く前には、高校の卒業試験を受けたいです。やっぱり学校を出たっていうことは、韓国の中では必要だと思うし。ダンスがダメってなったら、大学に行って就職しちゃうかも」
ヒョヌクの言う高校の卒業試験というのは、韓国の大検制度≠フことだ。試験で及第点をとれば、高校に通っていなくとも、大学入学試験が受けられるようになっている。
彼に言われて私は、韓国に徴兵制度があることも思い出した。韓国男性と日本男性の一番の違いは、兵役を経験しているか否かだと韓国男性の魅力を力説していた日本人の友人がいた。彼女曰く「韓国の男性は兵役を経験しているから、腹の括り方が日本人と違うのよ」。兵役経験後の魅力うんぬんはともかく、自由を謳歌する現代にあって、禁欲的な兵役に入るというのは、当事者たちにとっては一大事だろう。十七歳のヒョヌクにとってもいま一番身近で深刻な問題に違いない。
韓国の徴兵制度は、憲法三十九条で義務兵役制度として定められており、体格が規定に達していないとか、何らかの理由で父親がいない家庭の長男で家計を背負っていたりなど、特別な理由がないかぎり、成人になった男性は必ず兵役につかなくてはならない。九八年の大統領選のときに、当時与党だったハンナラ党の候補者・李会昌《イフエチヤン》氏の子息が多額の献金で兵役を逃れた事実が明るみに出たが、一部、その義務をすり抜けたり、十八カ月という任期が一番短く、きつくない防衛兵に入る富裕層の子息や俳優もいる。一般的には三十カ月の軍隊生活が義務だが、最近では、「時間の浪費」「なんとかして避けたい」と徴兵制度に「?」を持つ若者たちが急増している(二〇〇四年夏には、プロ野球選手の兵役不正問題に端を発し、韓流スターのソン・スンホンの不正も明るみになり、彼は結局十一月に入隊している)。
夜十一時から始まる練習は朝の五時くらいまで続く。ご両親は何も言わないの? と聞くと、
「父はいません。母と姉が三人いて、いまは、一番上の姉が住んでいる自炊アパートで友達とハッパンしているんです」
自炊アパートはチャッツイ(自炊)と呼ばれ、部屋は個人で借り、台所・トイレ・シャワー室を他の部屋の人とシェアする形式のものだ。下宿と違い食事などの世話をしてくれるおばさんがいないので、文字通り自分たちで身の回りのことをしなくてはいけないが、その分自由だ。ある程度の年齢になると、この自炊アパートを選ぶ人が多くなる。ハッパンは、一部屋を二人で借りることで、大抵六〜八畳程度の広さをシェアする。
お姉さんが三人いると聞き、星南がすかさず「すごく期待されたでしょうに」とヒョヌクの目をのぞき込んだ。私はこの反応に思わず笑ってしまったが、みんなに同じことを言われるのだろう、ヒョヌクはまいったという感じで、苦笑いしてうなずいた。韓国では、子孫繁栄のために男子を産まないと嫁失格、という雰囲気がまだ残っている。血にこだわり、先祖の族譜(日本でいう家系図)をいまでも大事にする韓国ならではだが、ヒョヌクの場合、最後に生まれた男の子というだけあって、両親の期待度は相当なものだったに違いない。
初めはダンスをすることに反対していた母親も何も言わなくなり、いまでは自分が好きなことならしようがない、そう言っているという。父親の話は、口をつぐんだまま、答えてくれなかった。
ミリオレのステージ代、地方巡業で月に稼ぐおカネは、大体二十万〜三十万ウォン(二万〜三万円)だという。アパートの家賃、食費などはお姉さん持ちらしい。
冷たい風に振り向くと、私の背後のドアが開いて、グループのリーダーが入って来た。髪型はヒップホップの編み込みスタイル。ダブダブのジャージにジャンパーと全身ヒップホップ系で決めている。
「アンニョンハセヨ」
練習していたメンバーたちの大きな声が束になる。小さな声で私のインタビューに答えていたヒョヌクも立ち上がり、頭を下げ、大きな声で挨拶した。
「お、インタビュー受けてる!」
タップでも踊るように、リーダーがおちゃらけて、私たちの脇をすり抜けて、練習の輪の中に入っていく。その後ろ姿をヒョヌクは目で追いながら、
「しばらくはヒップホップ系をやって、将来はジャズダンスの資格もとりたい」
ジャズダンスの資格は、後々振り付け師になるために必要なのだという。
早くメジャーになるための近道としてバックダンサーはやらないの? と聞くと「歌手の後ろで踊るなんてまっぴら」なんだそうだ。これは目立ちたいという意味ではなく、
「テレビに出るとかじゃなくて、専門的にダンスをやっていきたいんです。リバティみんなで一流のプロになりたい」
プロ≠フ二文字に力を入れる。金智龍氏が言っていた「実力勝負の若者世代」という言葉を思い出す。
「あっ、でもバックダンスもやったことありますよ(笑)。ミリオレのステージを見た日本のカラオケ会社の人たちに言われて、カラオケビデオの映像を撮りました」
大阪の会社だったという。
「初めて日本に行きました。日本のダンサーもダンスが上手だし、ダンス用の服とか靴は日本のものはすごくよかった」
その仕事で初めて日本≠意識したという。それまであまり日本を意識したことはなかった。当たり前だが、こんな子も韓国にいる。けれど「日本は意識にない」と言われた私は正直なんだか少し寂しかった。
練習場では、皆へたりこんで座っていた。
最近では、ライブハウスやナイトクラブでの仕事も入ってきた。彼女に会う暇もないね、と言うと、
「月に一度くらいしか会えないかな。紹介してくれた友達に彼女は文句言っているみたいだけど」
明日は久しぶりにデートをするのだと照れくさそうに言う。
またレッスンが始まった。
ヒョヌクがちらちらそちらのほうを見始めている。時間をとってくれてありがとうと言うと、ペコッと頭を下げ、なんだか恥ずかしそうにみんなの輪の中に入っていった。
髪を染めた呉真姫[#「髪を染めた呉真姫」はゴシック体]
久しぶりに会った呉真姫《オジンヒ》の髪は、みごとな金色になっていた。
真姫は安室奈美恵ファンクラブで知り合った子だ。待ち合わせのマクドナルドに真姫が座っていることに、私はしばらく気がつかなかった。
「何か自分を変えたかったの。金髪にしたら、なんだか、今まで持っていたコンプレックスから、解放された気がするんだ」
私がなんで金髪にしたのか尋ねると、真姫は視線を前に向けたまま、そう言って気持ちよさそうに笑う。後ろ姿だとどこの国の人か全く見当がつかないほどのさらさらの金色だ。
お昼を食べようと近くのレストランに向かって歩き出す。夜になると若者の喧噪の街になる新村《シンチヨン》も、昼前の眠たそうな気配をしている。行き交う人もまばらだ。
髪の毛を染める前までは、会社や街で、人の視線が気になってしようがなかったのだと真姫は言う。
「髪の毛を金髪にしたら、そういう人の視線が全く気にならなくなったの。今こちらをちらっと見た人は、私が金髪だからこっちを見たんだって思えるようになって」
以前は他人が自分に向ける視線を、きっと「足が太いから」「スタイルが悪いから」と思ってこちらを見ていると感じていたのだという。本人が気にするようなことは全くないし、なにより真姫はともかく明るい子で、そんなことを気に病んでいたようにはとても思えなかった。脳天気な私が「真姫がカワイイなと思って見ていた人もいるんじゃないの」と言うと、噴き出してから「オンニがそういってくれるのはうれしいけど、会社にはカワイイ女の子たちがいっぱいいて、どうしても比べちゃったりとか、まあ、いろいろあったんだ」と肩をすくめる。
真姫は、九九年の冬まで映像プロダクションに勤めていた。会社の同僚たちや出入りする人たちは業界人≠ナ、洗練された$lたちが多かったのだという。そんな環境の中で、自分が他人にどう見られるかがおそらくもっとも気になる二十二歳という年齢もあったのだろう。けれど、そんな思いも髪の毛を染めたことで吹っ切れたというのだ。
お昼前のレストラン・TGIフライデーズには、私たちが一番乗りだった。すんなりと角の窓際の席に案内される。このTGIは、もともとはアメリカ資本のカジュアルレストランで、今韓国でもっとも人気のあるアメリカンスタイルのレストランだ。九一年に韓国進出して、今では、ソウルだけでも十四軒あるという。週末ともなると入り口から人があふれるようにして並んで待っている。メニューはハンバーガー、スパゲティ、ピザ、メキシカンのタコスなどで、ボリュームはアメリカ並み。韓国の人はこれを皆ぺろっとたいらげてしまう。韓国料理そのものもボリュームは日本食と比べものにならないほど多い。韓国の人が日本に住んで困ることの一つにこの食事の量の違いをあげる人が多いのも納得がいく。
昼前ののんびりとした空気が店内に漂っている。窓から差し込む日の光に、真向かいに座った真姫の金色の髪がキラキラ光っている。
髪の毛を染めることに、お父さんは大反対だったそうだ。
「オンマは、『やってみれば』ってあっさり言ってくれたんだけど、お父さんはねえ。土下座して『今、この年齢だからできることなんです』って言って、ようやく納得してもらった感じ」
真姫だけではない。二〇〇〇年春のソウルの街は、髪の毛を思い思いの色に染めている若者たちの姿がやけに目立つようになっていた。一年ほど前までは、真姫自身「日本の人はなんで髪を染めるの? 韓国ではまだ髪の毛を染めることに抵抗があるし、私も否定的」と言っていたから、まさに劇的な変化なのである。
真姫には、新しい出来事がもう一つあった。この春から、明知《ミヨンジ》大学夜間部の演劇・映画学科に通い始めたのだ。
「金髪もそうだけど、大学に入ってまたひとつ何かを越えた感じなんだ」
実は、真姫は中学生のとき、ミュージカルスターを目指していた。高校も演劇学科のある芸術系の高校を受けたが、不合格。
「すごいショックだった。がんばってがんばって自分で保っていた自信が粉々になっちゃった。私は何にもできない人なんだって、今思うと人生で一番落ち込んだときかもね」
挫折感をひきずったまま、実業高校の秘書科に入学する。秘書の仕事も世話好きの自分には合っているのかもしれないと自分に言い聞かせ、学校に通った。挫折感をとり払うために、エアロビクスをやったり、ドラムの学校に行ったり、真姫はいろいろなことにチャレンジした。
「自分に何ができるのか探していたのかもしれない」
エアロビクスのインストラクターも自分には合っているようにも思えたが、大学に進学するか、就職するかという岐路にさしかかったとき、真姫は学校の推薦で映像会社に就職する道を選んだ。
「大学は、また落ちたらどうしようっていう恐怖感みたいなものがあって、その時は試験を受けること自体がいやだったの」
映像会社では秘書として働いた。上司にも恵まれ、有名人が立ち寄ったり、自由な雰囲気の中で不満はなかったけれど、何かが足らない──。一年前、社長が新しい会社を起こしたのを機にそちらの会社に移ったが、状況は同じだった。何かが足らない。
「なんか見抜かれてたのかな。お母さんが『大学に行ってみたら』って。そう言われて、あーそうか。私は、ずっと勉強したかったんだなって気づいたっていうか。もう一度挑戦してみようと思ったの」
真姫は今、昼の十二時から夕方五時まで中古CD屋でアルバイトをしている。時給は二千ウォン(二百円)。日本と比べると激安だが、韓国のアルバイトは、時給二千〜三千ウォンが相場だそうだ。一日一万ウォンの勘定で、月に三十万ウォンぐらい稼げるから結構いいバイトなのだという。
アルバイトが終わると学校に直行し、六時から始まる授業が終わるのは夜の十時三十分だ。休みは日曜日だけだというから、まさにフル回転状態。毎日ヘトヘト、と笑う。けれど、真姫の顔にはエネルギーが満ちている。
「課題も多いけど、学校が終わってから遊びにも行くから(笑)、今はホントーに忙しい。けど、ずっとやりたかった勉強だから、すごく楽しい」
クラスメイトのほとんどが十代で、皆俳優や映画監督を目指している。皆今まで知り合った誰よりも個性的な人ばかりで、刺激を受けることも多い。「それにみんなから若さももらえるしね」。真姫はそういって、最近ではしょっちゅう十代に間違われると言ってうれしそうに笑ってから、オンニも大学に入る? といたずらっぽい目つきでこちらを見る。「若さがもらえるならね」と私が言うと、一瞬間があった後、二人で大笑いしてしまった。
学校に通いだしてから街の風景に目を止めることが多くなったと、真姫が視線を外に向ける。授業には、ビデオ製作などの実習があり、グループで街の風景を八ミリ・フィルムに収めるのだという。
ビルの六階にあるレストランの窓の下には、新村のでこぼことした街並みが広がっている。新村には延世《ヨンセ》大学や西江《ソガン》大学などがあり、学生を狙った食堂、居酒屋、ゲームセンターが一塊になっている。はるか下の歩道には、だんだん人が増えてきた。ごちゃごちゃと小さな店が並んでいる通りの向こうには、民家がぎちぎちに並んでいる。瓦が一部落ちてしまった家、トタン屋根がへこんでいる家もある。富≠ニ貧≠ェ入り混じっている感じだなとしばらく外の風景を見やっていると、真姫がポツリと言う。
「あそこのベランダで洗濯物を干している人は今何を考えているんだろうとか考えると、街の風景は物語のワンシーンになるよね」
そのベランダの人は洗濯物を全部干し終わったのだろうか。しばらく、ベランダの手すりに腕をおいて、周りの風景を眺めていた。
真姫が今一番やってみたいことは、ラジオのDJだそうだ。自分の好きな音楽を思う存分リスナーに聴いてもらったら最高の気分、と言う真姫の表情は、細胞の一つ一つにやりたいことがいっぱい詰まっている感じで、今にもはじけそうだ。大学卒業まではとにかくいろいろなことをやってみて、何をやりたいか、何がやれるかを見極めるつもりなのだという。
大学の教授がこう言ったそうだ。
「人生はいつも二つのうちの一つを選択している」
何も一大事ばかりではなく、バスに乗るのかタクシーに乗るのか、日常のごく些末なものも含めて、誰もがこれをしている。二つのうちから一つを選ぶ。つまり一つは捨てなければいけない。
「その捨てた一つを後悔するなって、教授が言ったの。あー、そうだなって。自分ですべて選んでいるんだなって思って、なんか感動しちゃった」
だから、私も選んだことには後悔しないようにしようって思ったの──。
真姫は、夢に向かって突き進んでいた。
原宿にやって来た呉宣柱[#「原宿にやって来た呉宣柱」はゴシック体]
狭い店内は、若い女の子の独特のにおいでむせ返っている。入り口近くのレジの前は、写真の購入表を持った女の子たちですし詰め状態だ。
「新しい写真が出てるー」
あどけなさの残る女の子たちが、壁に張られたジャニーズ・ジュニア、V6、KinKi Kids、TOKIOの写真の前で甘ったるく甲高い声を上げている。
「どうしよう」
「カワイイー」
写真を選ぶ真剣な顔、顔、顔。その中に呉宣柱《オソンジユ》の顔もある。
「来週日本に行くんですけど、会いませんか?」
宣柱から電話をもらったときには、すぐには信じられなかった。どちらかと言えばおとなしい印象で、一人で外国に行くようには見えなかったからだ。
宣柱は、ジャニーズ・ジュニアのメンバー、渋谷すばるの大ファンだ。どうしても原宿にあるジャニーズショップに行きたい、絶対行きたい、と親を説得して日本にやって来た。
暮れも押し迫った九八年十二月二十九日、私は宣柱と一緒に、原宿のジャニーズショップを訪れていた。
店内の十代パワーが充満する中で、顔を紅潮させ、ぼーっと立ちすくんでいる母親の姿が見える。その母親ではないけれど、もわっとした空気にピーチクパーチク声のダブルパンチで、私も気が遠くなってきた。
写真のほかには、うちわ、下敷き、鉛筆などのキャラクター商品、大判のポスター、一年に一度発行される『ジャニーズ年鑑』などが売られている。人気の的は、それぞれの顔写真入りのうちわで、一本五百円だ。
ショップ一番の売れ筋はジャニーズ・ジュニアのグッズで、写真のコーナーもそこだけ人があふれている。
「この番号合っているかな」
一緒に来た宣柱は不安そうな顔でこちらを見て、写真の番号と購入表に書き込んだ番号を何度も何度も見比べている。群がる女の子たちをすり抜けて選んだ大切な写真だ。
宣柱は、ソウルにある善日《ソニル》女子《ヨジヤ》高校に通う二年生。これが初めての海外旅行になる。
「ジャニーズショップに行きたいってアッパ(お父さん)に言ったら、いいよ、行っておいでって。埼玉に叔母さんがいるし、心配もないからって。いい機会だから日本という国がどういう国か見ておいでって言ってた。でも、オンマ(お母さん)は一人で行くのはダメだってずうっとぐちぐち。心配しすぎなんだよね」
宣柱の父親は四十六歳。一代で鶏肉の卸会社を起こした。母親は四十歳だ。
もしかしたら、日本だから反対されたのかもしれない。そう聞いてみると、宣柱は不思議そうな顔をして「そうじゃないよ。一人で行くのは心配だって」と口をとがらせた。
ジャニーズショップ原宿店は、JR原宿駅から徒歩七分程の閑静な住宅街のただ中にある。一九八八年十一月のオープン当時、ファンが殺到し、近隣の住民から抗議文が出たことを覚えている人も多いだろう。
宣柱とは原宿駅の改札で待ち合わせをした。新しい年まで残り二日という師走真っ只中のせいか、駅は閑散としていた。
一人で待たせるのはかわいそうだなと思い、遅刻魔の私が珍しく約束の時間よりも前に駅に着くと、既に不安そうな宣柱の姿があった。
「アンニョンハセヨ」
声をかけると、顔からみるみる不安が溶けていく。
「アンニョンハセヨ。チンチャオシルカヘソ コクチョンハグイソッソヨ(本当に来るか心配してました)」
と、はにかんだような笑顔を見せた。埼玉の叔母さんの家を早めに出て、二十分くらい前に着いてしまったという。
異国で一人ほど心細いものはない。私が、三十歳といういいオトナになってから留学したカナダでも韓国でも、初めての土地で一人になった時は泣きたいくらい不安だったことを思い出した。
ジャニーズショップに向けて並んで歩き出す。宣柱が、日本と韓国の街はすごく似ていると感じたこと、新宿に遊びに行ったことなどを、下を向きながらぽつぽつ話す。頬をなでる外気は冷たくて、針のように痛い。セーターにコートとがっちり着込んだ私に比べ、宣柱はTシャツにパーカーと薄着だ。
「だって、東京はあったかいもん」
ソウルの冬は雪こそほとんど降らないが、寒さは厳しい。冷え込むときはマイナス二十度くらいになる。留学時代、私は山から吹いてくるカラっ風に身を縮ませて歩いたものだ。
表通りからちょっと細い道に入ると、ここが原宿かと思うほど静かになる。ショップの前は警備員らしき男の子が一人いるだけだ。なんだ、けっこう空いている。少し拍子抜けしていると、宣柱も同じことを思ったのか「人がいない」とつぶやきながら、背伸びをして入り口を見やっている。
人気があるといっても、この不況だからモノを買う人も少ないのかな、それとも人気は実はさほどでもないのかもしれないなどと考えながら、すたすた中に入っていこうとすると、入り口に立っていた警備員に呼び止められた。
「整理券持っていますか?」
「整理券?」という「?」マークの顔に追い打ちをかけるように、
「公園で整理券をもらってください」
公園とは名ばかりの歩道橋下の小さなスペースに人が二列に並んでいた。ショップのジャケットを着た男の子が三十分ごとの時間が書かれた紙切れを配っていた。この整理券に書かれている時間を越えれば入ってもよいのだそうだ。
「ここジャニーズの整理券もらうところですか?」
列の一番後ろに並んでいた私たちに話しかけてきたのは、二人組の女子高生だった。
「東京のほうが新しい写真がはよう手に入るって聞いたから」
と、大阪からわざわざ東京にやって来たという。
ジャニーズショップは全国で五店舗、東京、名古屋、京都、大阪、福岡にある。言うまでもなく独占販売だ。他のタレントショップが次々と消えていく中で、ジャニーズショップの勢いはそのままだ。
ご存じ、メリー喜多川とジャニー喜多川の姉弟が立ち上げたジャニーズ事務所は、九七年には、芸能・娯楽関係法人申告ランキングで吉本興業、劇団四季を抜き、一位の座を獲得し、名実ともに日本一の芸能プロダクションとなった。
ファンクラブ「ジャニーズファミリークラブ」の運営も特異だ。入会金は千円、年会費は四千円と他のタレントのものとあまり変わらないが、コンサートのチケットは、このファンクラブに入っていないと手に入れることができない仕組みになっている。ファンの子たちは必然的にファンクラブに入らなければならない。これが、韓国のファンには困ったところなのだ。
ファンクラブに入るには、条件があり、日本に住所がないと入会できない。このシステムのため、韓国のジャニーズファンの子たちは、日本人の友達にファンクラブに入ってもらったり、友達の家に下宿させてもらっていることにして、チケットを購入している。日本人の友達はこうした意味でも必要な存在なのだ。星南が染谷さんの家に間借りしていることになっているように、宣柱も日本の友達の家に住んでいることになっている。
韓国のジャニーズ人気に火をつけたのは、SMAPのキムタクだった。いまではキムタクからV6、ジャニーズ・ジュニアへと人気が移行し、韓国のジャニーズ系のファンクラブもグループ別からジャニーズ全体まで、その数も格段に増えた。ファン層は十代、二十代が圧倒的だが、三十代のファンもちらほらいる。
「最初にNHKの衛星放送で見た時は、へんなのって思った。だって韓国では着ないようなセンスの悪い服を来て、振り付けもヘンだし。学校で誰かが持って来た『Myojo』を見た時もみんなでダサーイって言ってたんだけど、見ているうちにだんだんよくなってきて、自分で発掘した人を応援したいって思うようになったの。なんたって、かわいいもん」
そうか、かわいいんだ、と私が言うと、韓国の十代の子特有の語尾を揚げたイントネーションで話をしていた宣柱が恥ずかしそうに「うん」とうなずいた。
二時間半待ってようやく入れたジャニーズショップ。宣柱は、何度も何度も写真の番号を確かめて、決意表明をするかのような顔つきで、レジの列に加わる。並びながらも気もそぞろだ。
「やっぱりうちわも買っていこう」
いい? というような目つきでこちらを見る。目配せすると人をかき分け、あっという間に見えなくなった。
隣でもお母さんに順番を任せて、下敷きを手にした女の子が戻ってきた。美香ちゃん、十歳。小学生の彼女のお気に入りは、タッキーこと滝沢秀明だという。
「絶対行くってきかなくて。でも私もファンなのよ」
と楽しそうに笑う三十代のお母さんのお気に入りは、小原裕貴だそうだ。
渋谷すばるのうちわを手に戻ってきた宣柱はまだ落ちつかない。レジの順番が近づいてくると、
「年鑑も買おうかな、どうしようかな」
レジの前に立った瞬間、「決めた」という表情できっぱり「年鑑を一冊ください」。結局、年鑑一冊千円も購入。写真五点とうちわふたつ、下敷き一枚に年鑑一冊で、総計三千五百五十円。財布の中を見ながら、お父さんからもらったお小遣いを全部使い切ってしまう、と眉毛を八の字にしている。
そんな表情も一瞬のこと。「次はステッカーに行こう」と腕を引っ張られた。ステッカーとは韓国でのプリクラの通称だ。
ショップの地下にあるプリクラコーナーへの細く短いらせん状の階段を降りていくと、プリクラを手にした三人連れの女の子とすれ違った。宣柱がうらやましそうに手に持っているプリクラを目で追っている。
納戸のような場所に、プリクラ機が無造作に数台置かれてあった。それぞれジャニーズの中のお気に入りグループやメンバー一人ひとりとのツーショットが撮れるようになっている。はやる気持ちはもうだれにも止められない。宣柱は乱暴にコインを入れると、もう彼≠ニ写真をとる雰囲気。私などは眼中にない。
ポーズをきめて、カオをつくって、撮影すると、早く出てこないかなと現像完了を示すランプが消えるか消えないかで手を入れて取り出している。プリクラのいいところは、言葉が分からなくともビジュアルで遊べるところだ。
もう夢中だ。なかなか納得のいくショットがとれないらしい。Vサインをほほにつけて、すばるくんに寄り添った全部同じポーズだ。
「オンニもう一回」を何度も繰り返し、合計七回も撮り続けた。
細く短いらせん階段を、宣柱が余裕の足取りで上っていく。大満足といった表情の宣柱と近くのカフェに入った。宣柱は、買ってきた写真とプリクラをテーブルに並べ、年鑑をめくりながら、うれしいうれしいを繰り返している。外国にいるっていう緊張感は全然ないんだねと私が言うと、
「ソウルと変わらないんだもん」
それでもソウルと違うところは、「交通費が高い、物価が高い」。そして「なんで夫婦なのにありがとうを何回も言うの?」。
宣柱の叔母さんの夫は日本人で、叔母さんが何かしてくれるたびに「ありがとう」と言うのだそうだ。これが、宣柱にとっては不思議でならない。
安室奈美恵ファンクラブの李慈恵《イジヤヘ》の言葉を思い出した。
「コンサートで何度もありがとうって言うから、韓国だとそういうことはないし」
日本が「親しき仲にも礼儀あり」なら、韓国は「親しき仲に礼儀なし」の人間関係なんだな、本当に、と私は宣柱の話を聞いてしみじみ思った。もちろん一概には言えないだろうが、いったん友、夫婦となれば言葉などは無用の長物、逆に水くさいというのが韓国流なのだ。それはそれでまた、粋な話じゃないか。
一カ月後、宣柱と韓国で再会した。
「東京で面倒をみてもらったお礼に」と言われるまま、私は、宣柱のお宅に泊めてもらうことにした。
会社を一代で起こし、成功を収めた宣柱の家はソウル市郊外の高陽《コヤン》市の豪華マンション。4LDKの間取りは、うさぎ小屋(韓国では鶏小屋)といわれる日本の住居に比べると、百六十平方メートルとともかく広い! 日本ではまずこの広さのマンションの供給自体が少なく、東京都内では間違いなく億ションだが、韓国では、約五千万〜七千万ウォン(約五百万〜七百万円)の破格の安さ!(二〇〇五年一月現在、不動産は高騰している。ソウル市郊外の高陽市でこの広さだと約一億七千万〜三億ウォン、ソウル市内では約十五億ウォンにも跳ね上がっている)。小さなことをあまり気にしない韓国の人たちのケンチャナヨ(大丈夫)精神≠ヘこんなところから来ているのかもしれないと思ってしまう。
お父さんに、娘さん一人を日本に旅行させる時は心配されたでしょうと聞くと、
「最初は大丈夫かなと思いましたよ。この子は上の子《ユンジン》と違って消極的ですから。それが一人で原宿に行って、友達までつくったっていうからびっくりしましたよ」
と目を細めている。
姉のユンジンは自分でファンクラブを作ったり、リーダーシップのある、活発な子だ。対照的なのが宣柱で、いつも話し出すときは、小さな声で恥ずかしそうにもじもじしている。驚いたのは私も同じだった。
「オンニと行った次の日にまた行ったんだ」
もしかしたら新しい写真が入っているかもしれないと思い、一人で原宿のジャニーズショップに出かけて行った、と屈託ない。唯一困ったことは、時計をして行かなかったことだという。
「整理券をもらったんだけど、時間が分からなくて。しようがないから、紙に英語を書いて後ろに並んでいた子に聞いてみたの。そしたら、その子たちもすばるくんのファンでさ。時間まで一緒にぶらぶらして、クレープ食べて。中学生だった」
その子たちとは住所を交換して別れたという。
「まだ書いていないけど、日本語で手紙を書いてみようかなって思っている」
宣柱と日本の中学生との手紙のやりとりが続けばいいな、と思いながら、私はなんだか意気揚々としていた。
女子高生たちへのアンケート[#「女子高生たちへのアンケート」はゴシック体]
「日本の話だとなんだか盛り上がるんだよねー」
宣柱の言葉に、みんながそうそうとうなずく。
日本がいやだと言っては盛り上がり、好きな日本の歌手やタレント、キャラクターの話をしては盛り上がるというのだ。
夏休みに入ったソウルの喫茶店には、大学生らしき若者何組かが、それぞれソファに身をうずめながら、なにやら楽しそうだ。
九九年八月。その日は、摂氏三十五度。
韓国にしては珍しく湿度が高く、外を三時間ほど動き回った私と宣柱、宣柱の姉で韓国外語大学一年になったばかりのユンジンは、猛暑でぐったりした体をひきずって、待ち合わせの喫茶店にやってきた。喫茶店に入るなり宣柱が「生き返ったー」。冷房でキンキンに冷えた店内は、まさにオアシス、気持ちがいい。
韓国の若者たち、十代、二十代は、日本という国や日本人を、どんな風に見ているのだろう。私は、韓国の若者たちの気持ちをもっと知りたくて、宣柱の友人、知り合いの高校生や大学生にアンケートを配ってもらった。アンケートの質問項目は十五項目。
『イルボヌン オプタ』は読んだことがあるか、あればどう感じたかから始まって、日本のことはどう思っているか、韓国で自慢できるところ、恥ずかしいと思うところ、マイブーム、日本のいいと思う点、よくない点などを聞いてみた。百人ぐらいに配ってもらった中で、六十人くらいから返事が返ってきた。
韓国の自慢できるところで圧倒的に多かったのは、「情が厚い」だ。愛国心やどんな逆境にも共に立ち向かっていく、団結心をあげる子もいた。逆に恥ずかしい点は、「無秩序」「時間を守らない」「地域差別」、「日本をあまりにも追いかけるところ」なんていうのを挙げた子もいた。思わず笑ってしまったのが「互いに自分のほうが優れていると思っているところ」。
日本のいい点で圧倒的に多かったのが、「キャラクター」だ。『キティー』『たれパンダ』などは、韓国でも大人気だ。そういったキャラクターのほかにはウォークマン、ゲームソフトなどの商品≠ノいい点が集中していたのに対し、よくないと思う点になるとかなりメンタルな部分を指摘してくる。日本は、「狡猾《こうかつ》」「如才ない」「妄言」「韓国を見下しているところ」「歪曲された歴史」。よくまあこれだけ出るなと思うほど、ズル賢く、傲慢を意味する言葉が並んでいた。具体的なものになると、「日本には絶対負けたくない」「歴史を考えただけでも腹が立ってくる」……。
中に「日本に対しては嫌悪感と同じくらい尊敬の念を持っている」という男子高校生の答えがあった。彼は、韓国の恥ずかしい点は「日本をあまりにもバッシングするところ」と答えている。入り乱れる複雑な感情──。私は、彼の答えにうーんとうなってしまった。
こんな風にいろいろ書き込んでくれた子たちは、どんな子たちなのだろうと思い、私は宣柱にその友達に集まってもらえないかと頼み込んだ。結局男子生徒は「パス」ということで、日本の歌手が好きなわけでもなく、格別興味があるわけでもないという女子生徒三人が集まってくれることになった。
彼女たちと待ち合わせた喫茶店には一足早く到着した友達二人が待っていた。放送部の二人は、部活の帰りで、薄いグレーと白のセーラー服姿だ。宣柱が私に二人を紹介してくれる。
「アンニョンハセヨ」
声をかけると、二人ともニコッとして会釈をかえしてくれた。ニコッがなんとも、感じがいい。
奥の席に座ってほどなくして、短パン姿の女の子が遅れてやってきた。宣柱に「時間厳守」と怒られている。ゴメンゴメンと謝る仕草の彼女は、他の子より少し大人びていて、大学生のように見える。
韓国の夏の味、パッピンス(あずきのかき氷)、レモンスカッシュと一通り注文したあと、自己紹介をしてもらう。パク・ミンヒ、イェ・ミンニョン、イェ・ヘオク。皆高校二年生だ。なんとなく溶けきらない氷のような雰囲気だ。互いに顔を見合わせながら、ひそひそ話をしている。BGMがやけに大きく響いてくる。
みんなの顔を見回しながら、まず日本にどんなイメージを持っているのか聞いてみた。
「頭がいい。だから経済大国になれたんだと思う」
ミンヒがそう言うと、それまでニコニコ笑っていたミンニョンの顔からは穏やかな表情が消え、急に怒ったような顔つきになった。
「いいイメージなんて全くありません。そりゃあ、日本は韓国より進んでいるかもしれない。でも、それは韓国が日本の植民地だったから、後れただけでしょ。なのに、日本は韓国を見下している」
この言葉を聞いて、他の四人が唖然としている。
ミンニョンは、小学校の頃から、テレビ、新聞、オトナたちに教えられた悪い日本≠、好きではないと感じていたという。
どんなときに見下していると感じるの、と聞くと、少し考えた後、
「いとこが日本に留学したんだけど、朝鮮人ってばかにされたって言っていたし。留学した人みんなが同じようなことを言っている。それに、旅行で来る人も、なんとなくいばっているから」
と、歯切れが悪い。
圧倒された他の四人ではないが、いきなりのアッパーパンチに、私も不意をつかれた感じだった。私自身、日本で生まれ、日本人として育ち、それでも決して日本がまるごと好きなわけではない。けれども、日本の自然や住んでいる人々には深い愛着がある。
国≠ニいうのは、イデオロギーとかではなくて、その国が持っている自然とか住んでいる人々のことを言うのだと、ある人が言っていたことを思い出した。八〇年代に生まれた、外国人である若い世代からこんな風に言われる日本──。
自然と眉間にしわを寄せた表情の私を取りなすようにミンヒが私の顔をのぞき込みながら、
「八・一五の光復節(解放記念日)が近くなるとテレビ局が一斉にやる反日のドラマのことは、菅野さんも知っているでしょう」
八月十五日の日本の終戦記念日は韓国の解放記念日だ。その日が近づくと必ず、日本の統治時代のことを題材にしたテレビドラマが流れるのだが、結局は、ウリドゥル(私たち)の歴史を奪った日本という反日∞抗日≠ェテーマになってしまう。歴史の流れからいえば当然といえば当然な話だ。ミンヒが話し始めた。
「私は、あれは大げさだと思う。全部が本当のことだとは思わない。うちの両親は日本に興味があって、日本語を勉強していたことがあるの。小さいときにこんにちは≠ニかありがとう≠ニか教えてもらった。だからかな、私は日本っていやなところももちろんあるけど、嫌いって言えるほど知らないし、日本に対して興味はある」
日本が好きではないと言ったミンニョンはミンヒの言葉に不思議だ、解せないといった表情だ。私が奥に座っているヘオクの顔を窺うと、〈私も何か言わなきゃいけないの?〉という表情をしながら、ようやく口を開いた。
「日本のことをなんだかんだ言ったって、今の韓国は全部日本のマネばかりでしょ。ファッションもドラマも、流行っているものはほとんど日本のもの。日本で流行ったものはすぐ持ってくる。個性的じゃないのは、韓国の悪いクセなんだけど。私もファッションは日本のほうがカッコイイと思うし、マネしたい。でも、だから日本に対して肯定的かって言われると分からないなー」
日本について知っていることは何? と聞くと、「ソニー」「漫画」「温泉」「X JAPAN」「安室奈美恵」「きもの」。彼女たちが持っているものの中で日本のものは、ウォークマン、キティ、ドラえもん。
「商品以外で知っている日本ってないんじゃない?」
改めて聞かれるとそうだね、とみな顔を見合わせる。
「それと、性が氾濫していること」
ミンニョンがすかさずパンチをくり出してくる。漫画などのいやらしい描写、雑誌、ビデオ……。
「援助交際だって日本からでしょ」
九八年ごろから韓国でも女子高生の援助交際が増えてきている。特に多いのが、ソウルから電車で一時間ほどの仁川《インチヨン》市地域で、「あの辺はアルバイトできる場所も少ないから、おこづかい稼ぎのためだと思うけど」というのがもっともな説らしい。援助交際はインターネットやテレホンクラブ(これも日本から入ったというのが定説になっている。九七年ごろからじわじわ出没し始めた)の普及で瞬く間に急増し、九九年十月には、この現象を重く見た韓国与党の現・新千年民主党(当時、国民会議)が「児童・青少年保護法案」を国会に提出した。これは、二〇〇〇年一月に可決、施行され、未成年者に金品を与えて性行為をした場合、三年以下の懲役と、氏名・職業が公開されることになった。
日本でも援助交際が蔓延し、五七年に施行された売春防止法では対応できなくなり、児童買春・ポルノ禁止法というのが、九九年十一月一日から施行されている。日本が買春に三年以下の懲役に百万円以下の罰金と、カネ≠ナ解決しようという措置なのに対し、韓国は「氏名・職業が公開される」という倫理観に訴える措置なのが、双方の特徴がでているようで面白い。
「日本は開放的な国だと思うけど、性についてはいき過ぎだよね」
みんなホント、ホントと高い声の大合唱だ。確かに日本で電車に乗れば、中吊り広告には女性のきわどい写真が堂々とかかげられ、隣に座った男性が食い入るようにみている雑誌を覗けば、露わな格好をした女性のページだったりする。全世界に行ったことがないので断言はできないが、そんな国は日本以外では少ないだろう。はっきり言えることは、私が韓国でそういう光景にでくわしたことは一度もないということだ。
六月に大阪のジャニーズ・ジュニアのコンサートに行って来たばかりのユンジンと宣柱が少し興奮した口調で、
「広告もエッチだし、同じ高校生がすっごいミニスカートで、お化粧して、タバコを吸いながら、ちゃらちゃら男の子と歩いてるのにはびっくりしたあ」
他の子が「タバコを吸いながら!?」と素っ頓狂な声を出す。女の子がそんなことをするなんて分からないとミンヒが首をかしげている。
カナダに留学していたとき、街でタバコを吸っているアジア系の女性を見かけると、韓国人の友人たちは決まって「ありゃ、日本人だな」と確信的に言い放っていた。韓国の女性にもタバコを吸う人はいるが、皆化粧室などの隠れた場所で吸っているのが一般的だ。公衆の面前で吸ったりする人はまだわずかだし、道端で吸うなんていうことは今のところありえない光景だ。化粧室の中でさえ、個室それぞれに灰皿や灰皿がわりの空き缶がおいてあったりする(だが最近、カッコイイ≠ニいう理由から喫煙する女性が増加しており、酒場などでは堂々と吸っている姿も見受けられるようになった)。
宣柱はみんなの反応に気をよくしたらしい。
「それに顔が真っ黒の女の子が多くて、びっくりした。あれって流行なの?」
私は思わず噴き出してしまった。日本の世に言うガングロ≠フことだ。韓国ではここ最近日焼けに対して肯定的な風潮がでてきたが、まだまだ色白信仰は根強い。
ヘオクが宣柱の話に思い出したように「最近日本の観光客がたくさん来てるじゃない」と前置きをしてから、
「だから、明洞で、イルボンサラム(日本人)ウオッチングっていうのが流行っているんだよね」
これは、日本人観光客が集まる明洞に行って、日本人の、特に女性が何を着ているかをチェックして、日本の流行ファッションを押さえたり、どんな行動パターンなのかを観察して楽しむことだという。話し方に特徴のある日本人は、聞いているだけでも楽しめるというのだ。おちおち歩けないなーと私が言うと、ヘオクがすかさず「菅野さんはたぶん大丈夫。年が上だから」。若い女性が対象なのだそうだ。
そんなのが流行っているなんて知らなかったと言ってから、ミンニョンが、
「そういえば『イルボヌン オプタ』っていう本があって、あれからも日本についてちょっと知ったかな。感情的すぎるっていう声もあったけど、私は、日本に行ったことがないから、書いてあることは全部本当だと思っている」
第2章で触れた『イルボヌン オプタ』の影響は、思わぬところで顔を出してくる。日本を実際には知らない韓国の人が、『イルボヌン オプタ』を読んで、その内容を正しいと思っても不思議ではない。情報を発信する怖さはそこにある。
ユンジンが言う。
「私は、ジャニーズ・ジュニアが好きだし、日本に何回も行っているから知っているけど、あの本は最低だと思う。いき過ぎだし、感情的すぎる」
そんなユンジンでも、日本について解せないものはいっぱいあるという。
「例えば、日本人のペンパルがいるんだけど、彼女に韓国のものを送るじゃない。そうすると、同じぐらいの量が必ずお返しとして送られてくる。いっつもそう。だから、私もきちんとお返しするようにしているけど、韓国の友達同士ではないよね。なんでああなんだろう」
皆、興味深げな表情になる。そう思うなら、送り返さなくてもいいんじゃない、韓国と日本の習慣の違いなんだからと私が言うと、
「そういうわけにはいかないよね。韓国人は非常識って思われたくないもん」
非常識だっていいじゃないという言葉を、急いで飲み込んだ。留学時代、やはり韓国の友人とのちょっとしたいき違いに悩んだことを思い出したからだ。とにもかくにも、言葉を交わしていく中から、自分たちなりの納得する術《すべ》をみつけなければいけない。日本人同士だってそうなのだから。
「菅野さんは、韓国について何を知っているのですか」
またまた、ミンニョンからジャブが飛んできた。
「まず、挺身隊ハルモニは?」
ミンニョンの射るような視線、強い口調。挺身隊は、日本でいう従軍慰安婦のことで、ハルモニは韓国語でおばあさんの意味である。知っているよと答えてから、私は知っている限りのハルモニたちの話をした。
留学時代の話だ。
ソウル駅近くの龍山《ヨンサン》の先に、ハルモニたちが暮らすアパートがあった。留学生だった九六年三月、ハルモニたちの研究をしている日本人の大学の先生の紹介で、私はそこを訪ねた。紹介してくれたその先生とは、挺身隊として初めて名前を名乗った金学順《キムハクスン》ハルモニの講演会で偶然知り合った。軽い、気持ちだった。挺身隊だったハルモニたちはどんな生活を送っているのか、見てみたかったというのが、正直な気持ちである。講演会に足を運んだのも、そういった好奇心からだった。
ハルモニたちのお世話をしていた一人のおばさんが、よく来たわねと迎え入れてくれた。お昼までごちそうになり、せめてもとお皿を洗うために私は台所に立った。おばさんと一緒にお皿を洗っていると、おばさんの父親は日本人に殺されたと聞かされた。なんともいえない苦い思いが肺腑に浸み込んでいく。ハルモニたちが私を見る視線。一瞬が長く感じた。
皆、優しかった。申し訳ないくらいに優しすぎて、私は何度もそこを訪ねることができなくなった。ハルモニたちから、逃げたのかもしれない──。しかし、ハルモニたちのことを本当に真剣に考える意志がないものは、中途半端なことをしてはいけないと強く感じた。
皆、真剣な表情で聞いている。
「昔、ハルモニたちはファニャンリョン(売女)と呼ばれて、故郷に帰ることもできなかったんだって。日本人がだまして連れて行ったんでしょう。なのに謝ってもいない」
私がファニャンリョンという言葉が分からないと言うと、彼女たちは一生懸命に説明してくれた。売女という意味を知らなかったのか、故郷に帰ってくるなという意味だと説明してくれた。
誰に謝ってもらえばいい? と聞くと、皆互いに顔を見合わせながら「上の人」。上の人って誰? と畳みかけると、「大統領かな」。
彼女たちの言う大統領とは、日本の首相のことである。謝罪をしていないと言うが、細川元首相ははっきりとした謝罪を言葉にしている。彼女たちはこういう事実を知らないのだ。それは韓国のマスコミが垂れ流す「日本は謝罪していない」の一点張りの報道姿勢に原因がある。
どうすれば解決できるのかなと聞くと、しばらく、うーんと言ったきり、解決方法はまだよく分からないと首をふる。
「私たちの力だけではどうしようもできない。みんなに、特に日本の人に挺身隊ハルモニたちの存在を知ってもらうことが大事だと思う」
挺身隊ハルモニの話が具体的に出たのは、この日が初めてだった。それまで、幾度か韓国の若い人と話す機会があったが、彼らはこの話題を意識的に避けていたのだろうか。出たとしても興味がないか、逆に「当事者だけで解決を」といった冷めたものが多かった。
「他に、|三・一《サミル》運動は知ってます?」
三・一運動は、韓国が日本の植民地当時の一九一九年三月一日、日本からの独立を掲げ、大規模なデモ行進を行った反日独立運動である。韓国のジャンヌ・ダルクと言われる梨花女子大生の柳寛順《ユガンスン》が先頭に立ったことでも有名である。
私が知っているよというと、「合格」と言わんばかりの顔つきのミンニョンが「ふーん、そうか、まあけっこう知っているんだ」とつぶやいた。誰だってそうなのだ。相手(日本)が自分(韓国)にちょっとでも関心があったり、知っていたりするとうれしいものなのだ。さっきまで強硬姿勢だったミンニョンが少しほどけた口調になる。
「国史の先生がすごい反日なの。ともかく日本を敵対視している。そういう影響も少しはあって、だから日本は信用できないってどこかで思っちゃう」
持ち物検査の日のこと。ある学生の手帳に日本の歌手の写真が貼ってあったのを見た国史の先生は、生徒から手帳を取り上げてしまった。その生徒が卒業するまで、先生は手帳を返さなかったという。日本の歌手の写真が貼ってあったという理由だけで、だそうだ。実に筋金入りの反日姿勢の人らしい。日本の歌手のファンの生徒は、日本人と同じチョッパリ(直訳すると豚の足。昔多くの日本人が下駄をはいていて、親指と人差し指の間にすき間ができるその様が豚の足に似ていることから転じた日本野郎≠ニいう意味の差別用語)だと言い切ったこの先生は、三十代後半だという。
これからの日韓もこのままだと思う? と聞くと、
「変わると思う」と皆きっぱり。
「結局日本のモノって好きだし、これから、二〇〇二年ワールドカップサッカーとかもあるし、関わりが増えてくるから、よくなっていくと思う」
「もっと近くなる。私たちの世代の本音は、日本みたいな先進国になりたいというところがあるから」
これはヘオクだ。
「変わると思うけど、政治家の妄言や独島《トクト》のような問題がまた起きれば元の木阿弥だと思う」
少しやわらかい口調になったミンニョンが言う。
宣柱がみんなに聞いてみたいことがあると言い出した。宣柱は、前述したように、ジャニーズ・ジュニアのメンバー、渋谷すばるの大ファンだ。彼のコンサートを見るために、そしてグッズを買うためにわざわざ日本に出かけている。
「私が日本の歌手が大好きなことやそのために日本に行ったり、ファンクラブに入ったりしていることをどう思っているのかなって」
そんなことを思っているなんて、私は想像もしていなかった。時々不安になっていたんだな、みんなはそんな自分をどう思っているのだろうかと──。
「宣柱が好きなんだから、日本のなんとかっていうのは関係ないと思うよ。でも最初は不思議だった」
「韓国にもいい歌手がいっぱいいるのに、なんで日本の歌手なのかなって思う」
「日本うんぬんは関係ないけど、すっごくのめり込んでいるから大変そうだなとは思う」
みなそれぞれだ。オンニは? と不安そうな顔で私をのぞき込む。
最初は韓国の人が日本の歌手を好きなんて、へぇと思った。一体どこから情報を仕入れるのか、韓国にだってカッコいいタレントもいっぱいいるのに。
「やっぱりヘンだと思った?」
ううん、うれしかったよ、韓国の人が日本のタレントが好きだなんて思ってもいなかったと言うと、一通りみんなが考えていることが分かって、宣柱はなんとなくほっとした表情だ。
みんなにおみやげのジャイアントポッキーを配る。日本に来たことのあるユンジンと宣柱は、
「あーオンニ古ーい。これ昔流行ったヤツでしょ」
いいからだまって食べなさい、と笑いながら答える。ミンニョン、ミンヒ、ヘオクは、話が終わってリラックスしたようだった。「大きーい」といいながら、珍しそうにポッキーを眺めている。最初にアッパーをくれたミンニョンは「家でみんなで食べようっと」と大事そうにポッキーをかばんにしまいこんだ。
みんなと別れ、私は一人、宿泊していた旅館に戻るために地下鉄に乗り込んだ。地下鉄の中も暑さでもわっとしている。クーラーが効かないほど外が暑いということなのだろう。私はぼんやりとそれまでに出会った韓国の若者たちのことを思い浮かべていた。
ミンニョンにはパンチもくらったけれど、彼女もミンヒもヘオクも、よくも悪くも日本のことが頭にあった。大学路で出会った子たちも、それぞれがそれぞれの日本のカタチを持っていた。私は、ソウルに来る前に会った、北海道札幌|藻岩《もいわ》高校の生徒たちのことを思い出していた。
日本人高校生が見た韓国[#「日本人高校生が見た韓国」はゴシック体]
「ざっと二百人くらいにインタビューしたんですけど、大体韓国っていう言葉を出すと、みんな『やめてください』とか『知らない』とか言って逃げちゃう人のほうが圧倒的に多かったですね」
九九年、NHKなどが主催する第四十六回全国高校放送コンテスト。藻岩高校放送部の作品「二つの歴史〜日本と韓国〜」はテレビ番組第二部門で第三位に輝いた。この放送コンテストは、各都道府県の代表校のみが参加できる、いわば甲子園≠フ放送部版で、アナウンス部門、朗読部門などの六、七部門で作品を競う。
藻岩高校放送部の受賞作「二つの歴史〜日本と韓国〜」は、街頭インタビューと二人の韓国人留学生のインタビューで構成されている。休日返上で行ったという街頭インタビューは、「韓国」という言葉を出すと分からないと言って逃げてしまう人が多くて、本当に大変だったと皆口を揃える。
そもそも日韓関係をテーマにしたのは、新聞記事がきっかけだったという。地元の新聞、北海道新聞が九九年四月から韓国の東亜日報との合同取材で三カ月にわたり連載した「日韓企画」がそれだ。
「前に旭川工業高校が従軍慰安婦問題をとりあげていて、北海道大会で入賞して全国大会に出たっていうこともあるんですけどね」
夏休み中のがらんとした教室に集まってくれた放送部員の一人がケロッとしてこう付け加える。窓の向こうからは、サッカー部の掛け声とボールを追う音が聞こえてくる。
「街頭インタビューで答えてくれた人のほとんどは、韓国のことは意識になかったですね」
作品を作った彼ら自身も実は同じだったという。
「企画を立ててから、二カ月くらい韓国について勉強したんですけど、それまでは、食べ物が辛いとか日本と韓国はあまりいい関係じゃないとか、その程度しか知りませんでした」
作品を見てみると、十代、二十代の人たちは、「食べ物が辛い」や「ワールドカップ」と答える人が圧倒的だった。信じられなかったのが、六十代の人だろうか、「韓国は日本だと思っていた」という答え。無関心もここまでくるとあきれてモノが言えない。
韓国人留学生のインタビューの中には、こんなエピソードもあった。
「妹がある日、泣きながら電話してきたことがあったんです。遊びに行った家でスイカをだされたときに、韓国にはスイカがないだろうから、たくさん食べなさいって言われたって。日本の人は韓国のことを本当に知らなすぎます」
単純に、韓国にはスイカという種類の果物がないという意味だったのかもしれないが、スイカもないだろうという見下された感じを受けたのだろう。日本はどうもアジアの人を低く見る傾向にあることは否めない。
編集はしやすかったな、と一人がつぶやいた。
街頭インタビューの答えのほとんどが「分からない」「興味がない」に近かったので、答えが偏っていた分、編集はしやすかったというのだ。
「若い人たちは、韓国に対して特別な意識はないんですよね。韓国については分からないとか知らないって言っているけど、垢すりなんかは結構な人が持っているって言っていましたから」
「垢すり」は韓国の有名なエステ法の名称で、垢をこすってもらい、マッサージしてもらう手法のものだ。その時に使われる韓国製垢こすりは通称垢すり≠ニ呼ばれ、日本でも人気商品になっている。
反韓も嫌韓もないんだなーと思いながら聞いていると、一人が思いついたように、
「日本と韓国の高校生が、もっとじゃんじゃん話し合えるような座談会みたいなのがあればいいんですよ」
韓国人と日本人の互いに対する思い≠フベクトルは、なかなか双方向にならない。相手に対する意識があまりに違いすぎることを、私はしみじみ感じていた。反韓でも嫌韓でもないのだから、二十一世紀の真っ白なキャンバスには、今までとは違う日韓の未来志向的な絵も描けるのだろうけれど……。日韓の若者たちのすれ違う意識が、私の中でもつれたまま、ひっかかっていた。
何カ月か経ったあるとき、ぼんやりめくっていたスクラップ記事の中に、第二外国語に韓国語を取り入れている高校の記事が目に留まった。韓国語の授業が取り入れられている高校は、全国で百七十三校(二〇〇〇年五月)あり、中でも大阪の三十四校が断トツだ(二〇〇四年十二月に朝日新聞社が行った調査では、三百四十七校と急増している)。
高校三年生のタケシ君(仮名)とは、学校で待ち合わせた。
「あっ、こんにちは」
通された応接室でしばらく待っていると、ひょろっとしたタケシ君がデイパックを下げて現れた。受験勉強で一番忙しいときなのに、インタビューを受けてくれてありがとうと言うと「そんなに大変じゃないですから」と余裕|綽々《しやくしやく》で言われてしまった。
タケシ君の学校は、中学、高校とエスカレーター方式で、中学三年生のときから第二外国語を選択するカリキュラムになっている。第二外国語には韓国語の他にドイツ語、フランス語、中国語がある。韓国語は、九〇年から取り入れられた。
「お隣の国の言葉ですし、歴史的に見て日本との関係は大きな課題でもある。これからの国際的な広がりを考えて取り入れました」
と、同席した教頭先生が説明してくれた。
「韓国語を選択したのは、英語が苦手だったし、なんかみんなと違う言葉をやってみたいなって思ったからです」
タケシ君の高校で、赤丸人気急上昇は中国語クラス。韓国語の人気は、毎年最下位だそうだ。彼の同級生は、中三のときに十人選択していたはずが、高二になってみると五、六人に減ってしまったという。
韓国語を選んだのに何か特別な理由があったのかなーとタケシ君はしばらく考えこんで、あっそうかと笑ってから、
「小学校六年生まで福岡に住んでいたんですよ。福岡は韓国の人とか中国の人が多くて、小学校の時のクラスに韓国人の女の子がいたんです。日本語が上手な子で、他の韓国から来た転校生に通訳していたんですね。彼女に対するあこがれもあったのかな、もしかして」
話が終わる頃には、彼女のことを思い出したのか、顔はすっかりメロメロ状態になっている。
福岡に住んでいた彼は、東京よりも釜山のほうが簡単に行ける、身近な場所に感じていた。
「だからかな、韓国が外国っていう意識がなかったです」
タケシ君は、高校三年生になるとき、九九年の三月末から五月中旬まで、韓国の高麗《コリヨ》大学の語学堂に短期留学し、韓国の一般家庭にホームステイしながら、学校に通った。
「韓国に行ったのは、それが初めてでした。街並みは日本とあんまり変わらないって思ったんですけど、最初はバスが恐かったです。慣れたら、楽しくなって、追っかけて乗っていましたけど」
韓国の、というより、ソウルのと限定したほうがいいのかもしれない。市内を走るバスはともかくすさまじいスピードを出す、荒っぽい運転で有名だ。おまけに、だんごのように次々とバスが連なってくるため、バス停できちんと止まってくれるなんていうことは奇跡に近い。乗客のほうが目指すバスをめざとく見つけ、後はダッシュあるのみなのだ。
「先輩たちから聞いていた韓国っていうのは、乗り物に乗ると、若い人は皆お年寄りに席を譲るとか、韓国の人はともかく親切だっていうことでしたね」
彼も実際、韓国のバスに乗ってそういった光景にも出くわした。
「でもたまに譲らない人もいたりなんかして。あれ? 韓国の人ってみんな譲るんじゃないの、と思ったりもしましたけど」
杓子定規じゃないところが、かえって安心したという。
「人間関係でいえば、ひとつだけ面食らったことがありました」
ある日、紹介された高麗大学日文科の学生とお昼を食べていたときのことだそうだ。初対面のその学生が日韓漁業問題の話を持ち出してきた。流暢な日本語で、最後に言われた言葉は「独島(竹島)は韓国の領土だ。日本は欲張りだ」だったという。
「あっちが日本語で言っているから、こちらも韓国語で意見しなきゃって思ったんだけど、僕の韓国語の実力じゃそれは無理だったし。日本のことをよく知っている人にそう言われて、気分はよくなかったです。韓国の人とかっていうことより、国籍に関係なく倫理観の問題で、初対面の人に向かってそういう微妙な話題を持ち出すなんて、人としてルール違反だと思いました」
日本語で議論すればよかったのに、と私が言うと「それはフェアじゃないでしょう。あっちはきちんと日本語という外国語で意見していたわけですから」。後から考えてみると、言葉と文化を学ぶっていうことは違うのだなとしみじみ思った、と彼はぽそっとつぶやいた。
それ以外は特に不意をつかれるようなこともなく、ホームステイ先の人や韓国で出会った人たちは皆よくしてくれたという。
「そうそう、衝撃的なこともあったんです」
彼の語学クラスに在日韓国人がいた。彼が在日の人に会ったのは、それが初めてだった。どこかで会っていたのかもしれないけど、本人の告白がないかぎり分からないでしょ、と断ってから、
「一歳年上の在日の人で、高校を卒業したばかりの人だった。その人が、高校の卒業式の時に無理矢理、君が代を歌わされたって言ったんです。日本は国籍はくれないのに、自分の国の歌を外国人に強制するってね」
ちょうど、広島の世羅高校で日の丸掲揚と君が代斉唱を巡って、校長が自殺するという事件が起き、日の丸・君が代を国旗・国歌とする法制化の論争が起きていた頃だったこともあり、彼自身考えさせられたという。社会で論議されている問題を身近に感じたのは、そのときが初めてだった。
面食らうこともあったり、衝撃的なこともあったりで韓国の短期留学は「ハランバンジョーだった」という。
韓国が外国という意識がなかった彼にとって、短期留学での体験で感じた韓国とは、「文化はもちろん違うけど、個人でつきあったら、人間どこに行っても同じ」というものだった。
日曜日の午後四時。浪人中の吉井俊弥君、十九歳と待ち合わせたお茶の水のスターバックスは、学園天国状態だった。予備校生、大学生で、熱気むんむん。彼らの元気の中にいると、不況まっただ中の日本の将来も大丈夫、なんていう気になってくる。しかし──。この中で初めて会う人を探すのは至難の業だな、などと思っていると、ヒゲをはやし、赤いダッフルコートを着た長身の男の子が外から中を窺っているのが目についた。
挨拶も早々に、隙間もないスターバックスを抜け出して近くの喫茶店に向かった。
「韓国語を選択したのにちゃんとした理由はないんですよ。文字が面白そうだなぐらいで」
ただ、他のドイツ語、フランス語より選択する人が少ないので、マンツーマン的に教えてもらえる魅力があったという。吉井君はタケシ君の高校の先輩にあたる。
吉井君の韓国でのホームステイはのっけから珍道中だった。
「教えてもらっていたホームステイ先の住所が違っていて、実は連絡がついていなかったんですよ」
なんとか正しいホームステイ先に連絡がとれ、ホッとしたのも束の間、
「行った次の日がちょうどサッカーの日韓戦で、やっぱり、なんとなく中立の立場で応援しちゃいました(笑)」
初めて訪れた韓国は、漢江のほとりにアパート群がごちゃごちゃと並び、屋台が混在する「過去と未来が同居している国」だった。吉井君は、高校で韓国語を選択してはいたけれど、韓国に対してはこれといったイメージもなく、焼き肉、キムチぐらいの知識しかなかったという。
それが劇的に変わったのが、韓国で過ごしたホームステイだった。ホームステイから一年以上経って、なにより心に残っているのは、知り合ったり、すれ違った韓国の人たちだという。
吉井君が金浦《キムポ》空港から、ようやく見つかった正しいホームステイの家まで地下鉄を乗り継いでいったときのこと。スーツケースを持って、階段をえっちらおっちら上っていると、通りがかりの人がすうっと近づいてきてだまって手伝ってくれた。
「最初はびっくりしました。スーツケースを持っていかれる! と思って。でも、ただスーツケースを運ぶのを手伝ってくれただけで、その人は階段を上りきると何も言わずに行っちゃったんですよ。最初からいろいろあったから結構めげていたこともあって、なんていうか、感激しちゃいました」
バスでも電車でも重たい荷物を持って立っていると、前に座っている人が突然荷物を持ってくれたりするのが韓国だ。私も最初は訳が分からずびっくりしたが、事情が分かるとしみじみうれしくなったものだ。
「知り合った韓国の人によく言われたのが『日本人は韓国のことを知らなすぎる』っていうことですね」
言われてみると、韓国のことについて知っている友達がいないことに吉井君は気付いた。
「知らないっていうより、眼中にないっていうか。逆に韓国の人は日本のことをよく知っていますよね。X JAPAN、ZARDが好きだとか、韓国の人は日本に興味津々ですよね」
韓国が眼中にない日本人の友達でも「はっきりとした理由があって韓国のことを敬遠する人はいないですね。ただ知らないだけなんですよ」。
日本の若い人たちにとって、韓国はもはや嫌韓とか反韓という対象ではなく、単に外国≠フ一つにすぎないのかもしれない。
短期留学中は、授業が終わると街を歩き、友達とビリヤードをやったり、ともかく楽しかったという。
「短い間でしたけれど、韓国の人って気さくだから、知り合って話して、楽しかったです。アジアの人は内にこもっていて、オープンじゃないって言われているけれど、それは日本だけじゃないかな」
そう言ってから、しばらく吉井君が考えこんでいる。
「そういえば、ホームステイ先でその家の親族が集まったことがあったんですけど、そのときに『歴史のことは知っているのか』って聞かれて、どきっとしたことがありました」
韓国に行く前に数冊韓国に関する本を読み、従軍慰安婦などについても、国がやったのか、民間がやったのか、吉井君自身考え込んでしまったという。そんな思いを胸に渡った韓国での、不意の問いかけだった。
「やっぱり、漠然と分からない、知らないっていうのはよくないと僕自身は思うんです」
日韓が特別な関係≠セとうすうす知っている人はいても、一体どこに端を発しているのか知らない若者のほうが多いだろう。漠然と分からない人があまりにも多すぎるのだ。
「韓国の人たちは、本当に気さくで親切でした。日本と韓国のお互いに対する意識の違いをしみじみ感じましたね」
短い留学の間、韓国の人が自分と交流しようとしているのが、痛いほど伝わってきた。
「なんか自分もそれに応えなきゃって思いました」
吉井君は大学に入っても韓国語の勉強を続けるつもりだという。
「韓国はもっともっと知りたい国になりましたから」
韓国でも、日本でも、少しずつ何かが変化し始めている。韓国と日本の若者たちの原風景≠ニいう大きな円は、どこかで交わってきているようにも見える。皆それぞれがそれぞれに、前に向かって走っているひたむきな若者たちだ。
ただ、まだ互いの実像の一歩手前で足踏みしているだけなのだ。
[#改ページ]
第4章 韓国社会のターニングポイント[#「第4章 韓国社会のターニングポイント」はゴシック体]
[#改ページ]
二〇〇四年、再会[#「二〇〇四年、再会」はゴシック体]
待ち合わせの場所は、すでに人であふれていた。おしゃれな若者たちが集まる弘益《ホンイク》大学駅前。日本でいうと東京の下北沢といったところだろうか。クラブも多いこの街には、夕方ともなると、吸い寄せられるように若者たちが集まってくる。
呉真姫《オジンヒ》(二十八歳)に会うのは、一年半ぶりだった。彼女は、安室奈美恵ファンクラブにいた女の子だ。
「オンニー」。真姫が手を上げて、きょろきょろしていた私のほうに走って来た。「すごい人だね」と二人で人混みを抜けだし、近くのカフェにすべりこんだ。
久しぶりに会った真姫は昔のままだった。パーマがかかった長い髪に、カジュアルなスタイル。母親の看病疲れから、一時体調を崩していたと聞いていたが、そんなことは全く感じられない。私は、少しほっとした。
「日本にすごい歌手がいるって聞いたの。それがアムロだった」
真姫は、あの頃こんなことを言っていた。彼女と出会ったのは、九八年九月。安室奈美恵の二十二歳の誕生日の日だった。
ファンクラブは、その後、自然消滅している。
「チャニョン(副会長)も軍隊に入っちゃったし、私も母の看病があったから、なかなか参加できなくて、そのうちになんとなくなくなっちゃった。でも、アムロのことは今でも好き。夏のソウルコンサートにも行ってきた。やっぱり、歌も踊りもあれだけ上手なシンガーはいないよ」
ファンクラブを立ち上げた九八年は、まだ日本の大衆文化開放前で、日本のものはほとんどコピー品しか手には入らなかった。ファンクラブではダビングにダビングを重ねたミュージックビデオの上映会をしたり、メンバー同士で持っているものを交換したり、CDを買いにわざわざ日本に行ったりしながら、アムロの曲を聴いていた。
「苦労していたよね。今じゃ考えられない。CDもソウルで買えちゃうし、テレビで日本のドラマも見れちゃうし。もっと早くに開放してくれればあんな苦労をしなくてすんだのに(笑)」
日本の音楽、映画、ドラマは、解禁前から韓国に入り込んではいたが、あの頃はまだ、特別のものという意識があった。
九八年十月に金大中大統領が訪日し、「日韓共同宣言」が謳われた翌月には、第一次の日本大衆文化開放が行われた。段階を経て、二〇〇四年一月一日の第四次では、映画、音楽、ゲームの三分野にかぎり全面開放となっている。
「テレビでも音楽でも生活の中にすんなり入ってきているから、日本のものを知らない人たちも、なんだ、日本のものってこうなんだって自然に受け止めるようになっちゃったみたい。お姉ちゃんも、昔は日本のものっていうと構えていたけど、今は普通の反応だものね」
そう言うと、真姫がほらっと人差し指を立て、私の顔をのぞき込んだ。えっと思い、耳をすますと、店内のBGMが中島美嘉の曲に変わっている。
二〇〇四年、韓国で最も売れた日本の歌手は、中島美嘉が二万七千枚を売り断トツで、次に安室奈美恵が一万三千枚、SMAPのベストアルバムが一万枚と続いた。中島美嘉の場合、日本でもヒットした『雪の華』が韓国の歌手にカバーされ、人気俳優主演の韓国ドラマの主題歌になったことも人気につながったようだ。他に、m-flo、L'Arc〜en〜Ciel、ZARD、w-inds.などが韓国では人気株だった。
日本大衆文化開放第一次の時には、「日本の文化脅威論」がさかんにいわれた。ところが、二〇〇〇年、韓国映画が日本でヒットし始めた頃から、風向きは大きく変わる。真姫が言う。
「はっきり言って映画は韓国のほうが面白いと思うよ。岩井俊二監督の『Love Letter』なんかはいい映画だと思うけど、その他のはストーリーとか作りが韓国よりダイナミックじゃない。日本のもの韓国のものっていうより、やっぱり面白いものが見たいから。そういう意味でいくと、日本映画は全然面白くない。今は、断然、韓国映画だね」
ドラマも然りだ。
日本のドラマは、第四次の開放で、ケーブルテレビでのみの放映となったが、視聴率も振るわず話題にすらならない。
「だから、冬のソナタが日本で流行っちゃったんじゃないの」
真姫が、ヨン様という言葉が韓国でも広く知られるようになった二〇〇四年夏、地下鉄に乗っていたときのことだという。隣でフリーペーパー(無価紙といい、この普及により韓国のスポーツ紙は存亡の危機に差しかかっている。現に二〇〇四年十一月には、『グッデイ』が休刊している)を読んでいた五十代くらいのおばさんが突然話しかけてきた。掲載されていた写真を指差し、
「ヨン様ってどの人?」
日本でのヨン様人気によって、寡作の人ペ・ヨンジュン≠フ韓国での認知度が上がった象徴的なエピソードだ。
真姫は、二十代にしては珍しく、ヨン様派だ。韓国男性にはあまりない柔らかいイメージが気に入っているのだという。日本の熱烈なヨン様ファンの様子はテレビや新聞、ネットでよく知っているよと笑う。
「私からすれば、好きな芸能人に熱狂するのはごく普通のこと。年齢は関係ない。好きなものは、いくつになっても好きだと思う。でも、あれだけ集中して熱中できるのは、やっぱり、心配ごとがなくて、時間とお金があるからだなあって、日本のアジュンマ《おばさん》の経済力をしみじみ感じた」
心配ごとのない、といったのには理由がある。
この六年の間に、真姫にはいろいろなことがあった。
高校を出て、すぐ働いた真姫は、母親の勧めもあり、二十四歳のときに大学に進学した。だが、それも束の間。入学して一年経った頃、母親に食道ガンが見つかったのだ。お母さんっ子の彼女は、その後三年間つきっきりで看病した。大学は休学せざるを得なかった。
チョー・ヨンピルが大好きだった彼女のお母さんは、底抜けに明るくて、元気はつらつ、おきゃんな女性だった。
「お母さんのこともあって、余計、ヨン様ファンの日本のアジュンマがうらやましいの。好きなことを存分にやっているわけでしょ。思う存分とことんやってほしい。ペ・ヨンジュンは、本当に民間外交官だよね。夜九時のニュースにもなるくらいの時の人になったし、これだけ韓国に来る人が増えたのは、やっぱり彼のおかげだと思う。エンタテインメントに国境などない。すばらしい」
その言い方があまりにもおかしくて、思わず大笑いしてしまった。
真姫は、今、登山用品専門のスポーツ用品店で働いている。二〇〇三年九月にお母さんは他界したが、看病疲れから、真姫自身も倒れ、ひと月ほど入院した。だから、体の面でも精神面でも、現在社会復帰準備中と少しおどけた口調で言う。
最近では、テコンドー、カヤグムを習い始めたという。
「体を作りたくて、テコンドー。韓国伝統の文化も何か一つやりたいなあと思っていたから、カヤグムにしたんだけど、今は、なんでもやってみたい気分なの。時間を取り戻したい」
カヤグムは韓国の伝統楽器で、日本の琴に似た楽器だ。
真姫は、二十代の一番遊びたかった時間を、看病に捧げた。だからなのだという。今はともかくなんでもやりたくてしようがないのだそうだ。
そうそう、世間でいう結婚適齢期じゃないのとからかうと、
「結婚? 今は相手もいなくなっちゃったしね(笑)。なんだかまだいいやっていう感じなの。あと二年で三十なんだけど、他の友達みたいに結婚したい、しなきゃっていう、なんていうの、焦りみたいなのは湧いてこないんだよね。ともかく、やりたいことをやらなきゃあ」
結婚しようと思っていた相手が最近までいたが、地方の人だったこともあり、家族からも反対されたのをきっかけにあっさり別れてしまったのだという。
韓国でも三十歳が近づくと周りの目もあり結婚をせかされたり、本人自身も焦りを感じる女性もいるが、遅くに結婚したいという韓国女性のほうが増えていると思うよと真姫は言う。
「今の女の子たちは結婚そのものより、どう生きるかに関心があるんじゃないかな」
真姫は、ここ弘大エリアがとても気に入っている。それは、集まってくる若い世代がおしゃれだけれど、皆、個性的だから、そう言ってから、
「みんな同じじゃ、つまらないもんね」
最近は、この辺りでは、おでんバーでひれ酒を飲むのが流行っているの、と真姫が一杯やる手つきをする。元気になってよかったわ、などと思いながら、二人で夜の街に繰り出した。
ファンクラブ卒業[#「ファンクラブ卒業」はゴシック体]
「すいません。場所すぐ分かりました?」
ソウルのオフィス街・江南《カンナム》区|宣陵《ソンルン》。三星《サムソン》電子、KTFなどの大企業のビルが立ち並ぶ。権星南《クオンソンナム》(二十九歳)の会社は、このビル街の一角にある。
その日は、気温が急激に下がり、ビル街に吹き荒れる風が針のように突き刺さってくる。待ち合わせのカフェの前に、権星南が、オフィスレディの華やかさをまとって走ってきた。
トレンチコートの下は、大きめのタートルネックに韓国で流行のプリーツのミニスカート。長い髪はずっとストレートだったが、毛先に緩いパーマがかかっていて、女性らしさが増している。星南は、今、某外資系会社で日本人ボスの秘書を務めている。
軽く食事をした後、ここが一番遅くまでやっているというカフェに腰を落ち着けた。
星南は、大学時代、ジャニーズファンクラブを友人と運営し、大学では英語学科専攻だったにもかかわらず、ジャニーズ好きが高じて、日本に留学してしまった女の子だ。
「上映会は、大学に入った九五年くらいから始めて、結局会社に入るまでだから四、五年間やってましたね。あのときは、X JAPAN、小室哲也系のTRFとかアムロが人気だったんですよね」
日本でSMAPの人気が上がっていくのとほぼ同時に韓国でもSMAPファンが増え、その人気は、V6や嵐へと拡散していった。ちなみに、今、韓国で、ジャニーズファミリー中一番人気があるのは、嵐、KAT−TUNで、以前はあまり人気のなかったKinKi Kidsはマニア層で人気が出てきているという。
星南は、ジャニーズの中でもV6が好きだった。
「あの頃は、日本の文化は韓国にはなかったから、新しかったんです。だから、見ているうちに引き込まれちゃった。ヨン様ブームも同じじゃないですか。韓国のドラマなんか全く知らなかったところに『冬のソナタ』が放映されて、見た人から次々と口コミで評判が広がって、人気が爆発した。違います?」
ジャニーズファンクラブも、やはり、自然消滅し、今は、それぞれが自分のペースで追っかけをしているという。星南自身は、「もう、ただただ忙しくて」ほとんど卒業状態。今は、結婚を前提にした彼と遠距離恋愛中ということもあり、それどころじゃないのだという。
星南は、大学を卒業後、財閥系の流通会社に就職した。三年間そこで働いたが、昨年、今の会社に移った。どちらも、日本人のいる外資系≠ネため、上に立つ日本人と韓国人社員のソリが合わない場合、社員同士の神経戦が絶えないという。常に、日本人ボスのもとで働く星南は、「ボスのために働くと韓国人社員からにらまれるし、難しいです」とため息をつく。
六年前に知り合った頃、「日本は好きになっちゃいけない国」って言っていたよね、と言うと、星南は、そんなこと言いましたっけ、と笑いながら、
「私が大学生の頃まで、八月十五日の光復節が近づくと、必ず反日がテーマのドラマをやっていて、それを見て育ったんですね。だから、日本人って悪いなあって思っていました。日本を良く言ったりすることには、韓国語でいう罪責感があったんですよ」
韓国語の罪責感≠ニいう言葉は、罪悪感とは違い、モラル違反ではなく、義務に反するという意味である。ファンクラブ「ジャニーズファミリー」を主宰していた頃、友人からは変わり者≠ニ言われたこともあったそうだ。
「でも、今は、日本の歌も映画もドラマも普通に見られるから、そんな罪責感なんてなくなっちゃった。周りの人たちも日本≠ノ対して普通の感覚になったし」
けれど、日本を好きかと聞かれると答えるのが難しいのだという。
「結局、国を好きですかっていう質問自体がナンセンスだと思うんですよ。私も含めて、今の若い人たちは、日本に抵抗感なんてないですし。日本のヨン様ファンも、韓国が大好きっていうのは、ヨン様とか春川《チユンチヨン》、南怡島《ナミソム》が好きっていうことでしょ」
一人の芸能人を好きになった人にその国やその国の文化までを愛せと言うこと自体おかしいことですよ、と言う。
解禁前には、あれだけ人気のあった日本のエンタテインメントは、今では風前の灯だ。星南も、こんなことを言う。
「韓国では、日本ブームはもう来ないと思います。日本が韓国を知らなかったのと違って、日本文化は、解禁前からもともと知っていたもので、新鮮ではない。それに、日本の映画は今競争力がないでしょ。ジャニーズも、アイドルのいなかった昔の韓国ならともかく、今は無理。ジャニーズの誰かが出演しているドラマがヒットすることは可能性としてはあるかもしれないですけど、ブームまではいかないでしょうね」
星南自身は、ヨン様ブームは韓国にとっては喜ばしい現象と受け止めていた。ヨン様には関心はないが、韓国人として外に出しても恥ずかしくない、礼儀正しい人物を演じてくれるので、韓国のイメージアップにもつながるというのだ。
時々韓国の人たちと話をしていると、この恥ずかしい≠ニいう言葉がよく出てくる。例えば、韓国で起きた連続殺人事件の取材などをしていたときは、「こんな事件、日本の雑誌に書かないでくださいよ。恥ずかしいから」。日本でいう援助交際の取材の時も同じだ。「国の恥ですから、日本の人にはあまり言いたくないんですけど」。
星南が、そんな韓国人の心情をこんな風に解説してくれた。
「韓国人は、よその人が自分たちについてどう考えるか、ものすごく気になる質《たち》なんです。自分たちは、重要な位置にいると思っているから。これは、気質。永遠にこうだと思いますよ(笑)」
私と会った次の日は、実は遠くにいる彼氏を訪ねる予定だったが、休日出勤となり、泣く泣くチケットをキャンセルした。
「最近友達から電話がかかってくると、必ず『結婚した?』って聞かれるんです。もう三十歳になりますけど、もう少し仕事をがんばってから結婚したい」
三年以内に、一億ウォン(約一千万円)貯めるのが、目下の目標なのだそうだ。
今でもジャニーズのコンサートは欠かさない呉宣柱[#「今でもジャニーズのコンサートは欠かさない呉宣柱」はゴシック体]
呉宣柱《オソンジユ》(二十一歳)は、去年も、恒例のジャニーズのコンサートを見に日本に行ってきた。
現在、大学三年生。
宣柱は、高校生の時に友達が持ってきた『明星』からジャニーズのファンになり、星南が主宰していたファンクラブに参加していた。
彼女は、ジャニーズの中でも、関西ジュニア・渋谷すばるの熱烈なファンだ。初めてコンサートに行ったのは、高校三年生の春。以来、一昨年の冬を除き、毎年欠かさずコンサートに通っている。
「夏のコンサートでは、すばるがヨン様のコスプレをしたんですよ。面白かった。やっぱり、こんなにヨン様ブームなんだあって実感しましたね」
知り合った頃は一言も話せなかった日本語を、今ではまるで日本人のように流暢に話す。高校生から大学生になり、少し大人びたけれど、「時々中学生に間違われるんですよ」とふくれるように、まだどこかあどけなさが抜けない。
宣柱とは、狎鴎亭《アツクジヨン》で待ち合わせをした。芸能人もよく来るこの街には、無数のブティックや飲食店がパズルのように細々《こまごま》とうまい具合に組み合わさっている。彼女の大学の友人らの間ではこの狎鴎亭で遊ぶことが、最近の人気なのだそうだ。
宣柱が案内してくれたのは、狎鴎亭でも奥まった所にある隠れ家的なしゃれたカフェだった。
彼女は、ジャニーズの記事が書かれた雑誌をきちんと読めるようになりたくて、韓国外国語大学の日本語学科に進学した。二〇〇二年の二年生のときには、一年間日本に留学もしている。
彼女は、大阪コンサートに行くと必ず立ち寄るカフェがあるという。去年の夏のコンサートのときもそのカフェに行ったのだが、そこで、自分(韓国人)に対する日本人の変化≠体験した。
「雰囲気が好きで通っていたんですけど、韓国語で話していたりするといやな顔したり、あんまり愛想がよくなかった店員さんがいたんです。でも、去年の夏は、私が帰るときに小さな声で『カムサハムニダ』って言ったんですよ! ヨン様のファンになって、韓国語を勉強し始めたんですって」
日記を書くのが好きな彼女は、日本でもベンチに座り、時々日記を書いていたが、「あなた韓国語が書けるの」と日本のおばさんから突然声をかけられたのだという。
「韓国人なんですって日本語で言ったら、『まあ』って驚かれて、韓国のドラマの話とかしばらくしました。韓国のことをいろいろ聞かれてあせっちゃった(笑)」
その人たちは、熱烈なヨン様ファンだったという。
「お母さんより、年が上だったんですけど、ファンになるとみんな同じですね。韓国には何度も来ていて、韓国の芸能界のことをよく知っていてびっくりしました。私と違って、バイトなんかしなくてもお金があっていいなあって、うらやましかった」
宣柱は、ヨン様ブームと言われ始めた当初は、韓国のマスコミが作りだしたカッチャブーム(偽物ブーム)と信じて疑わなかったという。
「韓国のマスコミが大げさに書き立てていると思ってました。いくらトップスターでも、韓国では、あそこまで人気があった人じゃないし、もっと人気のあるスターがいるでしょ。カン・ドンウォンとか。だから、ペ・ヨンジュンが、まさか日本であんなに人気が出るなんて思わなかったんですよ」
ヨン様より断然カン・ドンウォンですよーと言ってから、「もう、チョーカワイクテ」と体をくねらせる。プロローグでも触れたが、カン・ドンウォンは、十代二十代に圧倒的な人気がある若手スターだ。渋谷などの街に行けば、ひょこっと会えそうな、そんな親しみやすさも人気につながっているらしい。
ジャニーズが好きで、大学でも日本語を専攻している宣柱は、韓国の若い人たちの中でも、日本のドラマや映画をかなりチェックしているほうだ。
インターネット天国・韓国ならではだが、最近は、日本で放映されたドラマは早いと翌日にはネットで配信されており(違法です!)、ほとんどタイムラグなしで見られる。宣柱はネットで日本の人気ドラマなどもいち早くチェックしているが、「昔は面白かったんですけどね」と一息おいてから、
「最近は、韓国のドラマのほうが、やっぱり面白い。日本のドラマは、念のために一度はチェックするけど、つまらないです。テンポが遅いし、難しすぎる。映画は、妻夫木聡の『ジョゼと虎と魚たち』は面白かったけど、話題の『世界の中心で、愛をさけぶ』はいまいちだったなあ」
宣柱が通っている韓国外大の日本語学科に通う友人らは、皆、X JAPANが好きだったり、漫画が好きだったり、ほとんどが日本のエンタテインメントにはまって%本語を勉強しようと思った子ばかりだという。
「オタク≠ネんですよ。日本オタク。個人の趣味から日本語を専攻している人ばっかりです」
いまだに韓国社会が親日派、知日派などとくだらない定義付けをしている中で、若者たちの口からは、「日本オタク」なんていう言葉がすんなりでる。
「みんな超個性的だから、他の学科から『日本人が個人主義だから、学科の連中まで個人主義だ』なんて言われちゃうこともあるんですけどね」
そこまで韓国の若者たちを惹きつけていた日本のエンタテインメントの姿は、一体どうなってしまったのだろう。
彼女たちがJ−POPを追いかけ始めたのは、九〇年代後半だ。その後、二〇〇〇年に映画『シュリ』が日本でヒットし、翌二〇〇一年には、日本で韓国人歌手BoAがデビュー。そして、二〇〇二年には日韓共催のサッカーW杯が開催され、二〇〇三年から昨年にかけて、ヨン様ブームがまき起こった。
こうして見ると、九〇年代後半からの数年は、ヨン様ブームを醸成する助走期間のようにも見える。この流れの中で、韓国の中の日本のイメージも、劇的に変わってきた。
そして、その背景には、韓国社会の変移がある。
ターニングポイントは九八年の経済危機[#「ターニングポイントは九八年の経済危機」はゴシック体]
「シュリの成功が、僕たちを変えたんだよ」
映画会社勤務の友人がしみじみと言う。
南北分断の悲劇をベースに男女スパイの悲恋を描いたこの映画は、韓国では、九九年に公開され、六百二十万人もの観客を動員する大ヒット作品となった。エンタテインメント性を持ち合わせた韓国初のブロックバスター映画とも言われ、二〇〇〇年一月には日本でも上映され、韓国映画として初の大ヒットを記録している(最近ではチョン・ジヒョン主演の『僕の彼女を紹介します』が興行的に『シュリ』の記録を抜き、大ヒットとなった)。
『シュリ』は、文字通り、韓国映画のターニングポイントとなった。韓国エンタテインメントの躍進は、ここから始まったのである。
「日本のものはオモシロクナクナッタ」
J−POPが好きな彼女たちから、こんな言葉を聞くことになろうとは思ってもいなかった。日本のエンタテインメントコンテンツが競争力を失ったといわれればそれまでだが、韓国のエンタテインメントの変貌にはそれこそ目を見張るものがある。
映画『シュリ』の登場などの変貌の背景には、韓国社会のすさまじい変移が隠されている。
九五年の留学以来、日本に帰国した後も毎年韓国を訪れていた私だが、ここ数年の韓国社会の変化の速さには息をきらしていた。まるで、ずっと高速道路を走り続けているような感じなのだ。
あっという間に見慣れた風景は過ぎ去り、新たに現れた風景もそこにとどまってはいない。とめどなく新しい風景が繰り出されていく、そんな感じだ。
九三年、軍事政権に代わって初の文民政権が誕生し、韓国社会はこのときから変貌への第一歩を踏み出した。そして、韓国社会が激変したターニングポイントは、なんといっても、一九九七年末に起きた経済危機からだろう。
経済危機直後に会った作家・金智龍《キムジリヨン》氏は当時こんなことを言っていた。
「驀進から一転したのが、今回の経済危機とIMF支援です。これでいろいろなものが崩壊した。今まで信じてきた既存の価値観がすべて崩れたんです。今こそ新しい価値観が生まれるチャンスなんです」
智龍氏の言う通り、韓国社会では、ドミノ倒しのように、新しい価値観が古い価値観に取って代わり始めた。
韓国最大の経済危機を迎えた、まさにその年に誕生したのが、金大中大統領である。金大中政権は、「第二の建国」をかけ声に、否応なしに大胆な改革へと駒を進めることになる。
政官癒着といわれた財閥は解体され、銀行の統廃合が進み、リストラの嵐が吹き荒れた。失業率は八%近くにまであがり、代わりに雇用対策として芽吹いたのが、ベンチャー育成だった。政府がベンチャー支援政策を打ち出したこともあり、一発当ててやるという韓国人の気質とも相まって、起業の機運が一気に盛り上がる。
こうした中で、韓国のエンタテインメント業界の構図も、がらりと変わっていった。その変貌の途上で生まれたのが、映画『シュリ』である。
先の友人が続ける。
「シュリの成功は、映画はお金になるという意識を植え付けた。だから、まず、大きく変わったのが、ファンド形態だった。それまで三億〜五億ウォン程度だった制作費が十倍に跳ね上がった。百億ウォンファンドなんかも出てきて、いってみれば映画業界にバブルが訪れたっていう感じかな。今はまだその延長線上にいるんだよ」
それまで、韓国の映画制作の資金源は、九四年、九五年頃から映画産業に参入し始めた財閥頼みだった。当時まだ三星系列だった第一《チエイル》製糖(現CJ)が、スピルバーグのドリームワークスに三億ドル(五年間)を投資したのもこの時期である。財閥の資金に依存していたため、この時代に製作された映画は、スポンサーの意向に左右されがちな作品だったという批判もある。
だが、IMF傘下に入り、財閥が解体されていく過程で、映画産業部門は凍結されてしまう。この時、資金に窮した映画産業に手をさしのべたのが、政府と映画振興公社で、「緊急振興資金」という名目で、一作品当たり約三億ウォン計六十億ウォンを投資したのである。
九四年頃からコメディタッチの作品も登場してはいたが、それまでの韓国では、映画は芸術≠ニいう観念が強かった。『シュリ』も、もともとは芸術性の濃いシナリオだったという。『シュリ』の姜帝圭《カンジエギユ》監督は、「韓国映画も産業化していくべきだ」という思いから、クランクイン寸前にシナリオをエンタテインメント性≠フ強いものに書き換えたというエピソードがある。
産業一般を分析・研究する産業研究院のク・ムンモ研究員が、『シュリ』の映画業界への功績をこう解説してくれた。
「韓国で映画産業、エンタテインメントというのは、それまでは、生産ではなく、単なる消費にすぎなかったんです。そこから収入は生まれないと言われていた。ところが、『シュリ』から投資が活発になり、新しい市場として認識されるようになったんです」
『シュリ』が登場する下地には、それまでのさまざまな規制緩和もあった。
韓国では、映画会社を作ろうとした場合、「登録制」といわれ、政府に預託金を払い、資本金五千万ウォン以上を持ち合わせた会社でなければ認可されなかった。好き勝手に会社を作れる状況ではなかったのである。
それが、九五年の映画振興法改正により「登録制」が「申告制」に変わり、申告さえすれば自由に映画会社を設立できるようになった。九八年まで百余社だった映画会社は、『シュリ』のヒットにより、次の年には、三倍に増え、二〇〇四年十一月末現在では十三倍の千三百六十九社に激増している。
九九年二月には、「文化産業振興基本法」も施行され、エンタテインメント全般を支援するフレームが確立したと言われている。
検閲制度も残されていた。
再びク研究員の話。
「昔の映画には、ヨク(悪罵的、恥辱的な言葉)の部分は、カットされた。それが今では、ヨクがない映画なんてないでしょ」
公開前に検閲制度があり、公序良俗に反するものは削除されていた。これは映画事前検閲制度に則ったもので、一九二六年から九六年まで、憲法裁判所で事前検閲が憲法違法という判決が下るまで続いた。
韓国語を全く知らない友人と韓国映画を見た後で、「あのよく出てくる○×△っていう言葉はなんなの」と聞かれたことがあった。すべて相手をなじる時に使うヨク≠セったが、韓国映画にあまりにもひんぱんに使われているため、自然に耳で覚えてしまったという。ヨク≠ヘ、日常でも男性はよく使っており、それだけ、台詞には欠かせないエッセンスなのだ。
二〇〇三年、日本でも話題になった映画『猟奇的な彼女』の魅力は、このヨク≠ノある。キュートな主人公が使うところにヨクの中にある人間味のようなものがにじみ出ていたが、規制緩和前なら、こんな作品は制作できなかったわけだ。
韓国映画の躍進に一役買ったのには、政府が行ったスクリーンクオーター制の影響も大きいといわれている。これは、国内映画の上映日数を年間百四十六日以上に規定したもので、二〇〇四年は占有率五〇%を超えている。
映画の躍進は、俳優たちのギャランティをつり上げ、芸能界にも変化をもたらした。
「数年前くらいからなあ。昔と比べると本当に取材がしにくくなったんだよね」
韓国のスポーツ紙で二十五年間芸能当記者として活躍してきた先輩記者が、あるときこんなことをぽつりともらした。
韓国の芸能界は、マネジャーとの二人三脚的なところがあり、家族的で、何度か顔を合わせて気心が知れてくると、わざわざアポイントメントなどをとって取材するようなことはなかったのだという。
「でも、今は違う。マネジメントが強力になって、簡単には取材を受けない。取材を受けさせてやるっていうスタンスというか。新しくできたプロダクションが人気のある俳優たちを高い契約金で次々とつり上げていったから、俳優たちの価値がいつのまにか高騰してしまった。ハリウッド志向だよ。取材も以前のようなわけにはいかない。昔のように考えていると痛い目にあう」
IMF以降のベンチャー企業の機運と韓国映画の隆盛は、芸能界においては、力のあるマネジャーたちが次々と自分たちの芸能プロダクションを設立していく形となって現れた。
ドラマ制作会社関係者が言う。
「このときにベンチマーキングにしたのが、ホリプロ、吉本興業、ジャニーズなどの日本の芸能プロダクションです。日本のようなシステムを目指したんですよ」
その中からは、コスダックという韓国の株式市場(九六年、米国ナスダック市場をベンチマーキングして開始した店頭市場)にも上場し、現在では、マネジメント、制作、企画、投資まですべて行う韓国最大のプロダクションも登場している。
ただ、ここ二年くらいの間に、またプロダクションが細かく再分裂し、ヨン様のように独立し、自らプロダクションを設立する俳優もでてきた。
韓国エンタテインメント業界の第一のターニングポイントが映画『シュリ』なら、第二は、昨年日本で巻き起こった『冬のソナタ』、ヨン様ブームである。
冬ソナ、ヨン様ブームは、韓国のドラマ制作の現場を変えてしまった。海外市場を念頭に置いた制作に重点が置かれる傾向が強くなったのである。
昨年十月に韓国では初めて七十六億ウォンもの制作費を投じたドラマ『悲しい恋歌』の制作発表が行われた。投資額もさることながら、キャスティングの面でも業界からは様々な声が飛び交った。知り合いのスポーツ紙の芸能担当記者はこうこぼしていた。
「ともかく今の韓国では、日本、中国、台湾に人気のある俳優をキャスティングさえすれば、海外に売れるという認識が蔓延《はびこ》りすぎている。作品が完成していないから判断は難しいけれど、少なくとも作品ありきじゃない。キャスティングありき。これは、以前からもあったことだけど、今は日本に売ろうというのが、見え見え。クオリティーは関係なくなってきてしまったのかと、これからが心配だよ」
CMが入らない韓国のドラマ制作資金は、放送会社に依存するところが大きく、残りは制作会社が掻き集めるといった状況だった。
余談だが、『冬のソナタ』のユン・ソクホ監督も、制作会社の負担を軽減する目的で、ポラリスのネックレスをあらかじめ宝石デザイナーと契約し、制作資金にあてたそうだ。
「日本の冬ソナ、ヨン様ブームで、成功のノウハウが見えたんです。こうなると、そこに殺到するのは当然の現象でしょう。それに日本からのオファーも格段に増えた。この波に乗らない手はない」(ドラマ制作関係者)
日本での冬ソナの成功で、日本側も韓国ドラマを次々に買い占めていったが、その度に放送権料が更新されている。今までの最高額は、前述したドラマ『悲しい恋歌』で、四十八億ドルで売買された。
視聴率を四〇%とって成功と言われる韓国ドラマの真骨頂は、なんといってもその作り方にある。撮影前にシナリオが完成していることはまずない。放映していく段階で、視聴者の反応をネットなどで窺いながら、書き換えていくのである。つまり、視聴者の好み通りに変えていくわけで、この予定調和が六〇%などという高い視聴率になって現れてくる。
日本のドラマ全面開放で、昨年前期だけで、計四十本の日本のドラマが韓国のケーブルテレビで放映されたが、一%の視聴率で成功といわれるこの世界で、日本のドラマはたった一本しか一%を超えることができず惨憺たる結果に終わった。このことを記事にしようと取材していた私は、テレビ局のプロデューサーから、こんなことを言われた。
「日本のドラマがなぜ面白くないのか。それは、制作にある。日本は、完璧なシナリオ、完璧なセットでしょ。韓国のようにこっちのほうが面白そうだから変えちゃえなんていうことはしない。ある一定のフレームから出ないから、見ているほうもつまらない」
まるで、ジェットコースターに乗っているかのような、どんでん返し続きのストーリー。この究極のファンタジーに日本人が引き寄せられた、というのが彼の主張だった。
韓国のドラマ制作の現場が海外市場を視野に入れたことにより、今までの放送会社とドラマ制作会社という二人三脚の構図が崩れ始めている。
海外市場は、放映権にDVD、オリジナルサウンドトラックと利益が出る旨みが大きい。そのため、権利の奪い合いが、放送会社とドラマ製作会社の間で起きているのだ。
ドラマ制作会社の中では、海外での全ての権利を獲得するために、独自に製作し、その後放送会社に売買する事前制作=i事前に製作して売ることから、こう呼ばれる)という形態をとる会社が増え始めた。
また、韓国政府は、ドラマ制作会社が制作したドラマのみを放映する専門チャンネルを地上波に新たに加えると宣言した。これには、地上波の四社が反対していたが、昨年九月、「着手する」と文化観光部長官が明言した。これは、日本での冬ソナ、ヨン様ブームから、国際的に競争力を持った韓国ドラマを育成することを目的にしたものと言われている。
ブームの立て役者、ヨン様の次回作『外出』には、シナリオが未完成にもかかわらず日本からオファーが殺到しており、噂の域を出ないが、八億〜九億円という数字が韓国側から提示されていると業界ではまことしやかに伝えられているという。このまま韓国のドラマ、映画の価格が高騰すれば、日本側は購入することが不可能になり、韓流ブーム早期終焉などという声もあがっている。
韓国の映画、ドラマ、特にドラマ製作の現場では、第二のヨン様探しに余念がない。
中国から始まった韓流≠ヘ、IMF支援以降変貌を遂げた韓国エンタテインメントの成果≠ネのである。
そして、崩壊し、生まれ変わったのはシステムだけではない。エンタテインメントを育てる大衆≠ナある人々の価値観も、IMFを境に、また大きく変わったのである。
韓国での援助交際[#「韓国での援助交際」はゴシック体]
「IMFで家族がすごく変わったんじゃないですかね。家族崩壊っていうか」
韓国人の友人と韓国社会の変移について話をしているときに彼女が突然こんなことを言い出した。
「韓国で援助交際が始まったのが、IMFの直後の九八年頃だったと記憶しているんですけど、その後どんどん広がって、今、ネット上ではすごいことになっていますよ」
韓国では、「援助交際」は日本から渡ってきたというのが通説だ。
援助交際は、九〇年代中盤頃からささやかれるようになり、IMF以降、顕著になり始めた。事態を重く見た当時の与党は、九九年十月には、援助交際行為者を罰する「青少年の性的犠牲からの保護に関する法律」を提出し、翌二〇〇〇年の国会で可決されている。
「援助交際」という呼び名は、行為の内容と合わないと論議され、〇一年、公式には「青少年性売買」と記されるようになった。だが、一般的には、やはり、援助交際という言葉のほうが使われているようだ。
韓国では、IMF以降、雇用対策の一環として、インターネットも国策として大々的に取り組まれた。現在、韓国は、高速インターネット普及率では、世界第一位。PC房《バン》とよばれるインターネットカフェもあちらこちらにあり、大体一時間約千五百ウォン程度の安価で利用できるため、皆気軽に利用している。
だが、こうしたインターネットインフラの好環境が、性売買をも加速させている。韓国の青少年の動向を調査する青少年保護委員会によれば、青少年売買の九〇%がネットでの|チャッティング《おしゃべり》がきっかけになっているという。
試しに私もやってみると、五分もしないうちに男性からのチャットがどんどん入ってきた。私を十代後半の女の子だと思って猛烈に誘ってくる。相手に顔の見えないネットの中では何者にもなれてしまうところがネットの怖い所でもある。こうして、「お金あげるからセックスしよう」「いいよ。じゃあ、どこで会う?」という風に援助交際が進んでいくのだという。
青少年保護委員会の金《キム》ヨンラン所長は、
「IMFで家族が崩壊したというのは、私も同感ですね。IMFで失業したり、金銭的に苦しくなるにつれて、親の方が子供を守るという意識が薄れたような気がします。IMF離婚をしてしまってから、子供を捨ててしまうケースも出てきたり、オトナたちの家族を守る≠ニいう意識が希薄になってしまった。この辺りから、家出のケースが目立って増えています」
こうした変化は、ドラマなどにも現れている。
九六年、『愛人』というドラマが放映されたが、これは、互いに家庭を持つ男女が恋に落ちるというストーリーだった。ところが、視聴者からの反発はすさまじく、結局、最終回では、それぞれ自分の家庭に戻っていくという結末になった。
ところが、最近のドラマでは浮気、不倫、離婚は当たり前。夫が浮気をして離婚するが、妻のほうは一念発起し、ビジネス家として成功するといったような、主婦のファンから拍手喝采の作品などもあった。
若者たちの性意識[#「若者たちの性意識」はゴシック体]
私は、今の韓国の若い人たちの意識を直接聞きたくて、呉宣柱と彼女の友人の女子大生四人に集まってもらった。
風の冷たい、日曜日の夕方。ソウルっ子の定番の待ち合わせ場所、江南《カンナム》駅六番出口でみんなと待ち合わせた。
階段を上がると、日曜だというのに、人の熱気で、そこだけむせかえっていた。マイナス一度という寒さでも女性のほとんどが、流行のミニスカートをまとい、肩を振るわせて、誰かを待っていた。
三年生の宣柱を除き他の四人は大学四年生。それぞれ八一〜八三年生まれだ。いずれも名門大学に在学中だ。彼女たちは、ネット世代∞資本主義の申し子≠ニいわれ、中学から高校にかけての多感な時期にIMFに直面した世代でもあり、韓国社会の激変とともに育ってきた世代でもある。
就職先が決まっているのは、二人。残りの一人は、日本留学を計画中で、もう一人は、父親の不動産業を継ぐために公認仲介士(日本の宅地建物取引主任者にあたる)の勉強中だという。
韓国では、四年生になってから就職活動を始めるのが一般的だ。就職先が決まると、その旨を大学に報告し、担当教授により試験を受けたり、レポートなどを提出して卒業となる。
ここが一番話しやすいという、駅の近くの喫茶店に入った。クラシックな作りで、彼女たちはよくここでおしゃべりするのだという。
「ラズベリチーズケーキってどんなの?」「あそこのケースにあるじゃん。このあいだ食べたけど、結構イケたよ」「ああー、あれ。パス。おいしくなさそう」
席につくやメニューを広げ、これもいいし、あれもいいしとなかなかオーダーは決まらない。ようやくオーダーを済ませたと思ったら、一人が、「最近、ヨン様バッシングが始まったってネットにあったんですけど、どのくらいのバッシングなんですか」と唐突に聞いてきた。やはり、ネットがあると情報が早いなあと思い、なんて答えようかと考えあぐねていると、前に座っていた宣柱が、「これでまた反日が出てこないといいんだけど」と心配そうにこちらを見る。ネットの書き込みには、「やっぱり、日本だ」などの意見もみられたが、日本を中傷するようなひどい書き込みは少数だった。宣柱の隣にいた恵程《ヘジヨン》は、一喝するような口ぶりで、
「そんなのすぐ消えると思うよ、今さら反日だなんてナンセンス。でもさ、顔が見えないからって何でも書いちゃうのはネットの最大の問題だよね」
その横にいた敬順《キヨンスン》も「ネットに書き込んで満足しちゃう所があるから」と宣柱に言い聞かせている。
日本のヨン様ブームについて聞くと、皆口を揃えて、「全然納得できません」。
「自分的には、好みじゃないから。他の人だったら理解できるんだよね」
「やっぱり、今は、カン・ドンウォンでしょ」
「カン・ドンウォンだよね──」
ひゃあ〜という甲高い声が一斉に上がる。カン・ドンウォンの人気はすごいと実感。彼女たち曰く、「カワイクて、セクシー」なのだという。
日本で空前のブームを巻き起こしたのが、彼女たち世代のスターではなくペ・ヨンジュンだったことが、なんとも歯がゆいらしい。
「冬のソナタのセリフも私たちにとってはダサいんですよ。今のドラマ全般がそうだけど、あんなこと言われたら、鳥肌もん」
彼氏はそういうこと言わないのと聞くと、皆、首を横に振って、「言わないよねー」。
「でも、今日本に留学していたら、ペ・ヨンジュンに感謝するかもね。後輩が今日本にいるんですけど、韓国語のアルバイトがたくさんあるって喜んでいました」
そう言った恵程は二〇〇一年に、韓国では二十五歳までのワーキングホリデーを利用して日本に一年間滞在した。
「まだW杯前だし、ヨン様ブームなんて考えられないときだったでしょ。韓国語に興味のある日本人なんてそんなに簡単に探せなかったですもん」
こんなに簡単に日本人の意識って変わっちゃうんですね、と言いながら、ケーキのクリームをフォークで弄んでいる。話題は、どんどん散らばっていく。
栄愛《ヨンエ》がこんなことを言い出した。
「今の三十代の間では移民が増えているんですよ。なぜかって? これだけ長い不況が続いていることと国に力がないから、この国を脱出したいわけです」
国に力がないと思うなら、それを自分たちで変えようなんて思わないのと聞くと、
「できるわけないですよ」
とあっさり言われてしまった。
「年をとって限界を知りつくしたっていうか。中学の時は、自分が天才だと思っていて、ソウル大、延世《ヨンセ》大、高麗《コリヨ》大以外には絶対行かないなんて思っていたんだけど、高校になると自分の実力が分かってきて」と、ここからみんな一斉に、「もうソウルにある大学ならどこでもいい──ってなっちゃう」と声を揃える。
ソウルでは、ソウル市内にある大学は皆名門、郊外はレベルが落ちるという人が多い。彼女たちが通っている大学はもちろんソウル市内にある名門だ。それでも、大企業に入れるだけのネームバリューに欠けるのだという。
「三星《サムソン》なんて、ソウル大だらけ、米国留学帰りだらけっていいますよ。もうハナからあきらめて書類なんてだしません」
けれど、入社できるのであれば入りたいのは、やはり、三星や現代《ヒヨンデ》、LGといった大手企業だという。理由は、給料がいい、環境がいい、何より、経歴にプラスになり、キャリアアップしやすいからだそうだ。
学生に人気なのは、LGで、「三星より厳しくない」「家庭的で働きやすい」という理由からだという。
韓国には、もともと終身雇用という概念があまりない。男性などは、絶えず、キャリアアップを図り、実力のある人は、転職を繰り返す人も多い。
就職の決まった二人は特に希望した職種ではなかったが、とりあえず就職してみるのだという。不本意なところに入社するより、もっとがんばっちゃうなんてことはないのと問いかけると、
「まあこれでいいかなあっていう感じ」
じゃあ、何年間か働いて寿退職の道を考えているとか、と重ねて聞くと、
「結婚なんて全然考えていないですよ。日本みたいにバイト代が高かったら、フリーターになりたいくらい。韓国はバイト代がものすごく安いからフリーターにもなれない」
韓国人の結婚は、家と家の体面の対決で、女性が犠牲になる部分が多く、今のところ考えたくもないのだそうだ。五人の中で二人は、「一度は結婚してみたい」と言っていたが、他の三人は、「すぐ離婚しそうだから(笑)。韓国ではバツイチ女性は価値が下がっちゃうから、いっそのことしたくない」「独身主義。一人で気ままにやっていきたい」「同棲はいいんですけどね、結婚となると……」。
韓国の大学でも、最近では、同棲するカップルがちらりほらりいるという。結婚に足踏みしている三十代前半の友人も、現在同棲中だ。ただ、同棲に対する韓国社会の視線はまだまだ厳しいものがある。
二〇〇四年十二月八日付けのソウル新聞にこんなタイトルが躍っていた。
「愛していれば婚前交渉OK七七%」
これは、プロテスタント系の女性相談所が二十〜三十代の未婚女性五百名へ行った性意識調査の結果だが、現実の数字はもっと高いだろうというのが正直な感想だった。結果の中で、特に目を引いたのは、「性が自分の人生において重要な部分と答えた人が七二%」もいたこと、そして「自慰行為をしたことがあるかの質問には五九・八%がないと答えているが、これは、『女性にも性的欲求がないとはいえないが、これを卑下する社会的雰囲気のせいであえて欲求を無視しようとしている』」というコメントが出ていたことだ。また同棲についても、「いつか別れるのに同棲なんてナンセンス」「やってみたいけど、社会の視線が怖くてできない」とあった。この調査を行った相談所は、「最近韓国女性が性に対して開放的になったといわれているのでその実態を調査してみた」と語っている。
性関係について聞いてみると、「今は普通の感覚なんじゃない。大学のときから二人で旅行にもじゃんじゃん行くし」と口々に言うが、「でも、友達同士ではまだ話しにくい感じかな」とお互いの顔を窺いながら、牽制しあっていた。
後日、彼女たちより上の世代、三十歳前後の友人にこのときの話をすると、こんな風に言われた。
「今の二十代前半から半ばくらいの女の子たちはすごくドライ。お金があれば楽しいことに使って、性に対しても積極的。私たちが大学のときはそんな話をしたら、ヘンなレッテルを貼られちゃうので、話すらできなかったですよ」
私自身、韓国の劇的な移り変わりを肌で感じていながらも、まだ、「韓国は儒教の国だから」という固定観念から抜け切れていないところがあった。彼女たちの話を聞きながら、韓国は確実に変わっているのだなとあらためて感じた。
IMF支援という試練は、韓国の産業形態を変え、ビジネスを変えた。そして、人々の価値観をも、大きく変えたのである。
オトナたちの分析[#「オトナたちの分析」はゴシック体]
「韓国社会は、今、昔の価値観が崩れていく過程の真っ只中にいるんですよ。逆に、日本は、昔を取り戻す過程に入っている。だから、冬ソナが、日本人の心にすうっと入ったんだと思う」
ヨン様が写真展を開催した、ソウルの東、蚕室《チヤムシル》にあるロッテホテルのレストラン。人はまばらで、ルポ作家、柳在順《ユジエスン》氏の声とフォークのカシャカシャという音だけが聞こえる。昨日のオープニング時の狂騒がまるでウソのようだ。
在順氏は九九年から再来日しているが、このひと月ほど子息の大学入試のため、一時韓国に戻ってきていた。
彼女は、韓国紙のコラム上で、ヨン様ブームを「ヨン様教」と評していた。
「教≠ニいってもヘンな意味ではなくてね。私は、このブームは純粋だと思うの。まだ、人を愛する、慕う気持ちがあって、でも、彼女たちは、家庭の主婦で、家庭を壊すつもりはない。現実に恋愛するわけにはいかないから、代理恋愛っていうのかなあ。ヨン様に熱中できるっていうのは、純粋な精神の現れだと思うんだけど」
韓国でさかんに言われていた韓流ブームの行方について聞くと、彼女はあっさり、
「こんな大きな波は今までなかったことだから、そんなに簡単には消えないと思う」
在順氏は、再来日の前、八七年から八年間日本に住んでいたこともあり、ルポ作家として日韓を行き来していた頃から数えると、日本との関わりは足かけ二十年になる。日本社会の変化を外国人としてつぶさに観察してきた人でもあるのだ。
「日本は、人様に迷惑をかけてはいけない、遠慮しなさい、失礼をしてはいけないといういけない尽くし=B時々息苦しくなる。それが、強迫観念になっているから、なかなかその場所からはみ出せない。だけど、今回のヨン様ブームは、そういう意味でも、感情を押し殺すことなく、ストレートに表現していて、ようやく日本人も人間らしくなったと感じたんだけどね」
これに私が、「韓国の人は人間らしすぎるんですよ」と応酬すると、「そうかもね」と苦笑してから、「でも、日本にいると、日本は人間性が死んでいるように感じるんだよね」と言う。あまりにも機械的に合理的に動く社会だと長年住んでみてしみじみ感じるようになったと言うのだ。外国人から見ると、そんなに日本は殺伐として見えるのだろうか──。
ふと、日本在住の韓国の人がこんなことを言っていたことも思い出した。
「日本に来た頃、バスに乗ったら、みんなしんとしていて、気持ち悪くてね」
携帯も小さい声。大きな声で話す人などはいない。自分も肩に力を入れて、縮こまっていたというのだ。
逆に私がソウルに移り住んでしばらくは、韓国はとにかく、うるさい街だった。電車の中もバスの中も、携帯は当たり前。そうでなくとも、友人知人同士で大きな声で話をしている。何を悩んでいるのか、彼氏彼女とどういうカンケイなのか、どんな職業なのか、これからどこへ向かおうとしているのかなどなど、知らない第三者でも分かってしまうほど、あけすけなのだ。
バスに至っては、好みの曲をカセットで流している運転手などもいて、曲に合わせて気持ちよさげに歌っていたりもする。
最初こそ、「ああー、うるさい」と思っていたのだが、慣れとは恐ろしい。いつしか我が声も大きくなり、日本に一時帰国したときは、日本はなんておとなしいんだろうと不思議に感じてしまった。
「静かで、気持ち悪かった」という先の韓国人の知り合いは、逆に、韓国に帰る度に騒音に慣れず、日本に帰ってくるとほっとするようになったと笑っていた。
在順氏が言う。
「日本はシステム社会なのよ。選択肢が多様だから、システムがきちっとしていないといけない。だから、制約が多くなる。反対に、韓国は、感情表現がストレートなぶん、まだシステム的じゃない。人間同士がぶつかり合って解決方法を探していく形。でも、最近では韓国でもそれが壊れてきていて、今は、日本と同じシステム化に向かっている過渡期だと思う」
日本と韓国が、逆の方向に進んでいるというのだ。その中で起きた『冬のソナタ』のヒット、ヨン様ブームは、日本と韓国社会の写し絵にすぎないのだと。
在順氏が今回久しぶりに韓国に戻ってきて驚いたことがあった。テレビでドラマを見ていたときに、突然どこかで聞いたような曲が流れてきた。
「どこで聞いたんだっけって一生懸命考えてみたら、日本でしょっちゅう流れていた曲なのよね」
平井堅の『大きな古時計』のカバーバージョンだったという。
「昔なら考えられなかったよね」
在順氏は、そう言って肩をすくめた。
日本の大衆文化が次々と開放されたが、韓国の若い人たちの関心は、逆に遠のいているように感じると私が言うと、彼女は、首を振って、
「遠のいていると言うより、選択肢が増えて、拡散したのよ。それぞれの関心度は、むしろ高まっていて、特化していくと思うよ」
在順氏は二〇〇五年末には韓国に帰国する予定で、韓国で日本の専門雑誌発行を計画している。が、ひとつ困ったことが起きたのだという。小学生の娘さんが韓国に帰りたくないと言い始めたのだそうだ。
「韓国に帰るとたくさん勉強しないといけないから嫌だっていうのよ。どうしよう」
日本の小学校に通っている娘さんは、日本語もあっという間に上手になり、いじめられることもなく、「これもヨン様のおかげかもね」と在順氏が笑った。
駅の階段を上り、ぐるりと人混みの中の一人一人に目をやっていると、スーツを着た男性がこちらを見て微笑んでいる。待ち合わせたのは、確か金智龍《キムジリヨン》氏のはずなのだが……。
「ビジネスマンになったんですよ」
ネクタイ姿は、初めてだった。トレードマークだった口ひげもない。取引先に信用されないと言われ、ついこの間剃ってしまったのだという。日本でもひげの経営者は信用されないというジンクスがあるが、韓国も同じらしい。
一九九八年、智龍氏が出版した『僕は日本文化が面白い』(邦題は『私は韓国人。でも日本文化がスキだ!』)は三十万部のベストセラーになり、その後は日本文化評論家として、テレビに出演したり、コラムを新聞に掲載したりとマスコミに引っ張りだこだった。
常にラフな格好で、当時は、評論家というより、ルポ作家%Iな雰囲気を漂わせていたのだが……。
二〇〇〇年には、「遊ぶ」という韓国語の名前をつけた企画会社「ノルダ」を起業し、そこではファンタジー小説を書きまくり出版までしていたのだが、二〇〇三年、倒産。現在は、オンラインゲームのコンテンツ関係の仕事をしているという。
「ノルダは、名前の通り、社員みんなが自分の好きなことを遊ぶようにやろうって始めたんですけど、遊び過ぎて倒産しちゃった(笑)。倒産してからは、人生で初めて一生懸命働いたかもしれない。貿易関係なんていう、自分には似合わない仕事もしたし」
そう言いながら何度も苦笑するが、ご本人は、ちっとも応えていない様子で、むしろ楽しんでいる風が見え隠れする。
「IMFで既存の価値観が崩壊し、新しい価値観が生まれる」
IMF危機直後に会った時に、智龍氏はこんなことを言っていた。
「社会構造だけでいえば、とっくに変わってしまってよかったんですよ。ただ、きっかけがなかった。昔の価値観から抜け出られなかっただけ。すべては自然の形に戻ったんです」
援助交際が増えたことも、性の意識が変わったことも、もともとあった欲望が、IMFにより社会構造が変化したことで、噴き出しただけだというのだ。
智龍氏は、最近、今の中学生に生まれていたらどんなによかっただろうと思うときがあるという。
「僕が中学の頃は、全然知らない人から『それはしちゃいけない』と怒られたりしたんですね。それがすごく嫌だった。放っといてくれって心の中で思っていたんだけど、その時の社会は口応えできない雰囲気だったから、だまっていたんですよ。今の中学生はばんばん口応えするでしょ。うらやましい」
他人の子も我が子と同じようにというのが、韓国社会の特長だったのだが、智龍氏にとっては煩わしくてしようがなかったようだ。
彼は、「朝起きるのがつらくて」「教えられる化学の内容を全部分かっていた」という理由で高校を中退。大検を通ってソウル大学にストレートで入学した、韓国の常識からするとかなりはみ出た人である。
日本の大衆文化開放の時に、彼は、「日本の文化は恐れるに足らず」を繰り返していた。
当時、日本の大衆文化開放反対の論点は大きく二点あった。一つは、日本の文化は強い、だから、日本の文化に浸っていると日本人になってしまうという精神的、民族的側面。もう一つは韓国の文化産業へのダメージが大きいという市場的側面だ。
「韓国のエンタテインメント産業は、焦土化されるってみんな本気で言っていました。僕が日本文化を開放してもなにも変わらないと言っても、お前は狂っているとだけ言われましたから」
当時懸念されていた二点がいかに杞憂にすぎなかったかは、今の現実が証明している。
「日本の文化で競争力があったのは、漫画、アニメーション、そしてゲーム。でも、これらは、七〇年代からなんの規制も受けずに韓国に入ってきていた。なぜ規制しなかったかというと、子供だましで大人の文化ではないと思われていたからです」
もっぱら論争の的になっていたのは、地上波≠ナ公開される映画、ドラマ、音楽だった。それらを開放してしまえば韓国のエンタテインメント業界へのダメージは避けられないと、当時の韓国では猛烈に反対する人のほうが多かった。
「僕は、全然そう思わなかった。まず音楽だけど、今は音楽は聴く時代じゃなくて、歌う時代。カラオケで歌えなければヒットしないですよ。だから、歌詞が日本語のものが大ヒットするわけがない。映画はいうまでもなく、日本の作品は面白くない。面白くないものに大衆はお金をださない。次はドラマ。これは、日本のドラマは韓国人の生活速度に合わないんですよ。ドラマがダメなら、ドキュメンタリーですけど、韓国人自身がドキュメンタリーだから、お涙頂戴モノじゃない限り、まず見ない(笑)」
言われてみると、韓国で人間もの以外のドキュメンタリー番組は少ないですねと言うと、そうでしょと笑ってから、
「動物の弱肉強食のような世界は、日本とか先進国では放映しているけど、韓国では現実がまさにそういう世界だから、テレビでまで見たくないんですよ」
日本で『冬のソナタ』がヒットしたことも当然だという。
「韓国ドラマのいい所は心が和むんです。現実離れした童話なんですよ。見ているとばかばかしいんだけど、癒される。制作の立場からすると、台詞なんかは開いた口がふさがらないほどひどい。でも、人は見るでしょ。逆に日本のドラマは、現実的で細かくて、見た後どっと疲れちゃう。人生の勉強にはなるんだけど、ドラマぐらいはぼうっと見たいじゃないですか」
ヨン様ファンの追っかけもそれを体験できる経済力があれば当然の現象だというのが、智龍氏の見方だった。
そのとき、彼は、コンテンツビジネスの傍ら日本語教材の本を執筆中だった。日本に留学経験もあり、日本のこともよく知っている智龍氏だが、教材は作る度に目から鱗が落ちるような発見があるという。先日も「女性を口説く日本語編」を書いていた時に、アシスタントの日本人女性から、「こんなこと日本ではまず言いません」と指摘された表現があった。それは、美人ですね、きれいですね、かわいいですね、の三つの表現である。
「日本人は、顔について言及しないと言われたんです。ああそうかと思って新たな発見でした。韓国の男は、女性に会ったら、まず一言何か言うでしょう」
ヨン様ブームもあって、韓国男性株は上昇中なんですよと言うと、にやっと笑って、
「韓国男性はちやほやするのが上手だから。我々には明日はない。とことん口説く」
でも、手に入れたら別でしょうと言うと、
「結婚したら、もっとダメ。釣った魚にはエサをやらないから。韓国の男は、結婚した次の日から浮気相手を探す人種ですから」
私が、さすがアジアのラテン民族とあきれたような顔をすると、彼はものすごく愉快そうに笑った。
ソウルに住み始めてまだ一年にも満たないが、私は、韓国の人の物言いのストレートさはパルリパルリ(早く早く)という気性からきているのではないかと思うときがある。ヨン様ブームで韓国男性株が上昇しているが、その理由に、ストレートに愛情表現してくれる、リードしてくれる、頼もしいなどがよく挙げられているが、これは実はせっかちな性格だからではないかと私は思うのだ。だからこそ、持続しないというか──。
韓国の人はなんでこんなにせわしないんですかねと言うと、智龍氏がそうならざるを得ないよとお手上げといった感じで手を頭にあてて、
「韓国は軍隊があるでしょ。だから、男性が社会にでるスタートはだいたい二十八〜二十九歳。スタートが遅いから、ゆっくりなんかしてられない」
昔は、就職したら、次の日に結婚して、また次の日に子供を産む≠ニ冗談混じりに言っていたそうだ。
三十歳近くで社会人としてのスタートを切り、五十歳まではたったの二十年。言われてみると、四十代前後の韓国人男性に会うと、皆、会社をいつ辞めて、次に何をするかという話ばかりだ。この頃から、自分の会社での立ち位置も見えてくるし、ことに韓国ではIMFのときのリストラの後遺症がいまだに残っている。景気もIMF時より悪いと実感する人のほうが多く、先行きの不透明感が蔓延しているためだ。
「だから、急いで、ダイナミックに生きていかなければならないのよ」
智龍氏自身、現在そのダイナミックを実行中、とまた愉快そうに、大きく笑った。
[#改ページ]
最終章 変わりゆく日本へのまなざし[#「最終章 変わりゆく日本へのまなざし」はゴシック体]
[#改ページ]
今思えば、すでにこの頃から韓国の中の日本≠フイメージは少しずつ変わってきていたのかもしれない。
一九九九年夏のことだ。
「菅野さん、『Y2K』って知ってる?」
星南《ソンナム》と一緒に遅い夕食をとっていると、ふいに彼女が聞いてきた。所用で訪れたソウルでの久しぶりの再会だった。
知らない、と首をふると、星南は〈もうしょうがないんだから〉と言いたげな表情で、
「超カワイイんですよ」
「Y2K」は、ピンク・レディーを世に送り出した音楽プロデューサー、故・相馬一比古氏と韓国の朝鮮音響が共同でプロデュースしたロック・グループである。松尾雄一(十八歳)と光次(十六歳)の日本人の兄弟二人と、韓国人・高在根《コジエグン》(二十歳)の三人で構成するユニットで、日本人二人は韓国で韓国語を学んでからのデビューだった。星南は、九九年五月に韓国でデビューした彼らをめざとく見つけ、すでに追っかけになっていた。
彼らの追っかけのほとんどが、あんなカワイイ男の子は韓国にはいない、だから、韓国語がちょっとぐらいできなくても敢えて韓国語で歌っているのがすごい、と夢中なのだそうだ。
菅野さんも聴いてみて、という星南の迫力に負けて、結局私は彼らのCD『Y2K』を買わされるはめになった。韓国で大ヒットとなった『別れた後で』は、別れた彼女に新しい恋人ができたのを知らされた男性の微妙な気持ちが歌われている。日本人二人の韓国語は、言われなければ外国人だとは分からない。これは相当練習したに違いないと感心したが、そのときの私はまだ、日本人がメンバーにいるグループが韓国で大々的に人気が出ることはないだろう、と高をくくっていた、のだが。
その五カ月後。私の予想を大きく裏切って、「Y2K」の人気は爆発した。
二〇〇〇年一月十七日と十八日の二日間、「Y2K」は世宗《セジヨン》文化会館でコンサートを開いた。韓国最大規模の世宗文化会館でコンサートを行うことは、韓国ではある種のステイタスを得たことを意味する。スター≠ニして認められた証拠なのだ。また、松尾兄弟の弟、光次は、日本人としては初めて韓国のコマーシャルに出演した。大手菓子会社・オリオンチョコレートのコマーシャルだ。コマーシャルに日本人が出演するなんて、少し前までは考えられなかったことである。
日本人の十代の若者が韓国語の歌を歌ってコンサートをするなんて……。しかも、そのコンサート会場では、なんと彼らに向かって韓国の若者が日の丸の旗を振ったのである。二月六日に行われた釜山でのコンサートでは、サッカーのサポーターのようにおでこに日の丸の旗を描いているファンまで現れた。何もかもが、これまでの日韓関係では考えられないことの連続だった。
日本のマスコミは、これまでの日韓の常識を覆す出来事の連続に、「Y2K」の松尾兄弟を日韓の新しい架け橋≠ニいう冠詞つきで華々しく登場させた。
「こんなに人気が出るなんて思わなかった」
二〇〇〇年三月。芸能人のおっかけ歴はすでに六年になる星南も、心底びっくりしているようだった。私はその日、日本のマスコミが言う日韓の新しい架け橋≠ナある「Y2K」のファンに会うために、再びソウルを訪れていた。
金曜日、ソウルの繁華街・明洞《ミヨンドン》は、人、人、人であふれかえっている。路上に延々と続く露店ではTシャツなどの洋服がずらりと並んでいる。客引きの声に混じって、すれ違う人の隙間からは、時折日本語も聞こえてくる。
星南がPC通信で知り合った、「Y2K」のファン五人と一緒に、一軒、二軒と満席のレストランを渡り歩いて、待つこと三十分、ようやくピザ屋に入ることができた。大学一年生二人、二年生一人、四年生一人と二十七歳のOL、そして星南の六人。皆でテーブルを囲むと、若い女の子独特の弾むような空気が広がっていく。
テレビで見た瞬間、もう一目惚れしたと興奮して言うのは、大学一年の朴恩雅《パクウナ》だ。髪の毛を栗色に染め、ひとなつっこそうな笑い顔で、「ゆういち命!」と甲高い声を出している。一目惚れしてからはもう夢中なのだそうだ。「Y2K」が出るテレビ番組は全部チェックしてすべて録画しているという。
「高三だったから、受験勉強もしなきゃいけないし、雄一も見なきゃいけないし、忙しかったあ」
天真爛漫。全羅北道《チヨルラプクト》・全州《チヨンジユ》市出身の彼女は、受験生だったというのに、「Y2K」の野外公演を見るためだけに、バスに三時間も揺られ、ソウルまで何度もやって来た。それくらい好きなのだ、と真剣に私に訴える。前にも述べたが、韓国の受験地獄はすさまじい。そんな中で、よくご両親が許したね、と私が言うと、親にはウソをついてたの、としれっとしている。それでも名門の高麗大学日文科にストレートで合格したというから、なかなかの強者《つわもの》である。
芸術大学の弘益《ホンイク》大学で家具デザインを専攻しているという大学四年の康慧元《カンヘウオン》は、大学を卒業したら、ドイツのマイスター≠ノ留学して家具の勉強をしようと思っていた。
「それが、大学の学園祭で『Y2K』を見て、もう本当に好きになっちゃって……」
ドイツではなく日本に留学することに決めてしまった。六月から渋谷の語学学校に通うことになっている。光次が何を話しているのか、どうしても知りたくなったと戸惑ったような表情で言う。思わず、「Y2K」で人生が変わっちゃったね、と私が言うと、ホント、まさか日本に行くことになるとは思っていなかった、いままでこんなに芸能人を好きになったことはただの一度もなかったんですよ、と今度は溜め息をつく。
「Y2K」の人気に火がついたのは、秋ごろから。日本人の松尾兄弟の弟、光次が目線笑い≠放つようになってからだという。これにしびれてしまうファンが続出したのだそうだ。日韓の新しい架け橋≠セとかなんとかいう前に、彼らは本当に韓国の若者のアイドルになっていた。
私と少し離れたところに座った二十七歳の姜賢星《カンヒヨンソン》は、結婚してまだ一年目の新婚ホヤホヤである。「Y2K」のファンになる前までは、新居の冷蔵庫にはだんなさんと二人の写真でいっぱいだった。
「それが今では、ぜーんぶ、Y・2・K!」
これを聞いたみんなが、エー! と歓声をあげる。「だんなさんは何も言わないの?」と大学一年の|姜京MIN《カンギヨンミン》が聞くと、賢星がいたずらっぽく笑ってから「だんなは、なんじゃこれは! ってのけぞってた(笑)」。
ヤダー、カワイソー、の声がころころ転がっていく。
賢星は、「Y2K」のホームページを作って自ら主宰しているという。雄一の誕生日にはネット上で誕生会を開いた。ホームページの中には、「成人バン」というオトナの部屋があり、そこに参加してくるファンの中には五十代、六十代もいるという。ファンの年齢層が広いのも韓国では初めてのことだそうだ。星南がいつだったか、つぶやいていたことを思い出した。
「日本で年齢が上の人たちがジャニーズに夢中になれるのは、日本の社会が成熟しているからだと思うんです」
年代の上の層が若い芸能人のことを好きだと言えるようになったというのは、韓国の社会もまたその価値観が変わってきていることの一つの表れなのかもしれない。
京MINのお母さんも、雄一のことをカワイイと言っているのだそうだ。私が、日本人だって知っていて好きなの? と聞くと、もちろん、と当たり前のことのように言う。
皆彼らのことを話すときは本当に楽しそうだ。弾んだ言葉だけが私たちの輪の中を飛び跳ねている。〈日本寄りの政策を推し進める金大中大統領の誕生、日本大衆文化の段階的開放と日韓関係は確実に変わってきているのだ〉。皆の弾むような言葉の中で、私はぼんやりそんなことを考えていた。〈日韓の隔たり≠ネんてなくなったのかもしれない──〉。
一月のコンサートの話になった。皆そのときの様子を身振り手振りを交えて説明してくれる。彼らがどんなにカッコよかったか、観客席に掲げるプラカードには日本語で「好き」と書いて持って行ったこと、彼らの母親がきれいだったこと……。
私は皆が喜ぶだろうと思い、コンサートの後、「Y2K」は韓日の新しい架け橋として日本のテレビなどに取り上げられたことを話してみた。
けれど、皆ただ、ふーん、とあまり興味がなさそうな感じで聞いている。日本のマスコミで取り上げられた彼らは、「DOGGY BAG」という名で二〇〇〇年二月、日本で逆デビューを飾った。日本にもすでに彼らのファンがいて、韓国語を勉強し始めたファンもいると言うと、ようやく、私たちと逆だね、と恩雅がなんだかおかしそうに笑った。
「そういえば、みんなも日の丸の旗を振ったの?」
私がこう聞くと、皆うーんと考えこむような、驚いたような少しあきれた表情に変わった。
「日本のファンの人たちは、日本人って韓国に嫌われていると思っていたから、日の丸の旗を振っている韓国のファンの姿にびっくりしたって言ってたよ」
私がこう付け加えると、慧元が一瞬ためらってから、こう言う。
「雄一・光次が好きだから日の丸の旗を振ったっていうことは、理解できるけど……」
冷蔵庫には彼らの写真で一杯と言っていた賢星が強い口調で言い放った。
「日の丸の旗を振るなんて、私には全く理解できない。だって雄一が好きでも、日本のことを認めたわけじゃないから。日本の人って、もしかして、私たちが『Y2K』のことが好きだから、日本のことも好きだっていうか、認めたと思っているわけじゃないですよね」
ええっ。一瞬私は言葉に詰まってしまった。
星南が賢星の言葉を引き取る。
「単純に、そう思われちゃうんだよね」
星南まで、そんな……。
天真爛漫に、「ゆういち命」と言っていた恩雅が言う。
「高校の国史の時間に日本の植民地時代のことを習ったとき、日本軍のあまりの残酷さに怒りで震えがとまらなかった……」
さっきとはまったく違う表情で声もうわずっている。私は戸惑ってしまった。いままであんなにのびのびと「Y2K」のことを話していた子たちが、一瞬にして怒り≠フ表情に変わってしまった。恩雅の怒りに満ちた言葉がじわじわ私に浸み込んでくる。
大学二年生の李旻亭《イミンジヨン》が恩雅に加勢する。
「韓国は日本と違って刀文化じゃないから、独立記念館に行ったときは日本はなんて恐ろしい国なんだろうって思った」
独立記念館は、韓国の学生なら中学、高校のいずれかで必ず社会科見学などで訪れるところだ。ソウル郊外の天安《チヨナン》市にあり、韓国の歴史や日本の植民地時代の光景が再現されている。日本軍が韓国の民衆に対して行った拷問風景が蝋人形で再現されていて、実に生々しい。
「日本は好きだとか言えない気持ちがどこかにあるんですよ」
星南に最初に会ったときに言われた彼女の言葉を思い出した。
「日本は好きになっちゃいけない国っていうか……」
あれだけ日本と韓国を行ったり来たりして、日本人の友達とも長いつき合いになり、日本が身内のように感じ始めている星南にも、まだ日本に対してひっかかっているものがある。
「Y2K」の日本人兄弟が好きという感情は、いまだに日韓の隔たり≠飛び越えるパワーにはならないのだろうか。彼女たちを隔たりの向こう岸に押しとどめているものは何なのだろう。
日本の何がそんなに引っかかっているの? と私が聞くと、賢星が間髪を容れずに答える。
「韓国と日本では解決していない問題があまりにも多いでしょう。挺身隊問題、独島問題、日本が歪曲した歴史を教えていること。それに韓国を見下げていること」
恩雅もその勢いに乗った。
「ドイツだって謝罪したときは相手の国の言葉で謝ったっていうじゃないですか。日本にもそのぐらいの気持ちがあってもいいと思う」
謝罪とは具体的にどんなことを指しているのかと私が聞くと、
「補償とかでもないんだな。なんていうか。韓日関係ってすごく歪曲されすぎちゃっていて、いまさら言葉できちんと謝罪してもらっても、もうこういう感情はなくならないと思う」
聞けば聞くほど、やるせなさが募ってくる。
横で旻亭が私をなぐさめるように言う。
「時間が経てば変わりますよ」
賢星は違う。
「謝罪とかじゃなくて、日本の人にきちんと歴史を知ってほしい。みんなが知らなければ何も変わらないでしょう」
話に夢中になって、十一時の閉店時間を過ぎてしまった。興奮をひきずったまま、追い立てられるように外に出る。彼女たちのもつれた感情は、ほどいてもほどいても次から次へと結び目ができてしまう。私はひとり途方に暮れていた。
店から放り出されて、なんだか皆話し足りない様子だ。よし飲みに行こう、と近くのビアホールに場所を移した。
その後は、さっきの日本についての真剣な議論がうそのように、「Y2K」の話に戻り、皆また弾んだ声になる。学校の話、これからの日本留学のこと、恋愛について……。彼女たちは青春真っ只中を生きている。いまが楽しくてしようがないらしい。会話は延々と続いていく。私はみんなの楽しそうな笑顔を見ながら、一人寂しい気持ちになっていた。
夜中の二時を回ってようやくみんな散り散りになり、タクシーを拾って帰っていく。みんなを見送った後、私は宿泊していた近くのホテルまでの道を一人でぼんやり歩きながら、なんだか、そのままずっと外を歩いていたい気持ちになっていた。
このほぼ一年後の二〇〇一年三月。韓国人の女性シンガー、BoAが日本デビューを飾った。日本人が韓国でデビューした前述のY2Kと、ちょうど逆のパターンである。
BoAは、当時、韓国で全盛を誇っていた音楽プロダクションSM企画の李秀満《イスマン》元代表に見出され、日本デビューのために約三年間ほど、発声やダンス、日本語などのトレーニングを受け、満を持して≠フデビューだった。そして、当初はまだ、韓国人ということを前面に出すことはなかった。
キュートなルックスに歌唱力、ダンスと三拍子揃ったBoAは、翌二〇〇二年一月にリリースされた『LISTEN TO MY HEART』で初めてオリコン・ウィークリーチャート十位圏内に躍り出た。この時、韓国人歌手初の快挙と韓国のマスコミはさかんに書き立てた。
当時、彼女はまだ十四歳だった。デビューしたての頃、過労で入院したこともあったという。十四歳という幼い肩には、日本で成功するという重い使命が課せられていたのである。
BoAが一般の人々に韓国人として知られるようになったのは、この頃からではないだろうか。
だが、ヨン様ブームにも懐疑的だった宣柱は、このBoAの日本での成功も、当初は何かの間違いではないかと思ったそうだ。
「BoAは、日本で先に本格デビューしたから、韓国では全然知られていなかったでしょ。だから、またマスコミが大げさに書いているんだと思っていたんですけど……」
彼女がこう言った背景には、その頃、韓国ではBoAと同じ所属事務所の男性アイドルグループ、「H.O.T」が解散の憂き目に晒されていたこともある。その頃、ファンの間では、事務所がBoAを日本デビューさせるために資金をつぎ込んだので、彼らが解散に追い込まれたと噂されていた。韓国の若者たちの間では、BoAの日本での成功を素直に受け入れられないような雰囲気があったのである。
BoAが日本での快挙を成し遂げた四カ月後の五月末、日韓共催のサッカー・ワールドカップ(W杯)が開かれた。
日韓共催≠ェ決定した九六年。私は、留学中のソウルでそのニュースを聞いたのだが、「共催なんてまっぴら、やるなら単独」という声が韓国でもかなり強かった。共催の第一報が伝えられた日、私は、下宿で一人ぼんやりラジオを聞いていた。と、突然、アナウンサーの弾んだ声が流れてきた。正確には覚えていないのだが、こんな内容だった。
「日本との共催が決まりました。日本は国際社会において先進国です。その日本と共催にすることになったことは、我々も先進国と認められたからです。日本からも多くのことを学びましょう」
それからは、お祭りムード一色。それまでの日本批判はすっかり影を潜めてしまった(正確に言えば、すっかりではなく、多少騒音もあったのだが……)。
ただ、日本と韓国とで果たして共催が可能なのだろうかという雰囲気は、開催まで根強くくすぶっていた。
だが、フタを開け、W杯が始まってしまうと、そんな懸念はどこへやら。もちろん、インフラの不備などの問題はあったが、試合自体を楽しむ人のほうが多かったのではないだろうか。
私は、W杯当時、東京でその様子を取材をしていた。韓国代表の試合のある日は必ず新宿の職安通りに足を運んだ。韓国料理店がずらりと並ぶ職安通り一帯は、東京を代表するコリアンタウンだが、その中の一軒が駐車場に大型スクリーンを設置していて、そこは大応援場と化していたからだ。ここでは、韓国のすべての試合を放映していた。試合の日には、歩道にはみ出るほどたくさんの人が集まり、滞日韓国人や在日の人に混じって、日本人も熱い声援を送っていた。日本はベスト8をかけた試合で敗れたこともあり、「手持ちぶさただから」「こうなったら、共催国・韓国を応援するっきゃないでしょ」と理由はそれぞれだったが、韓国代表が勝ち進んでいくにつれて人が増え、あまりの熱狂ぶりに、警察まで出動したほどだった。
韓国代表のベスト4進出が決定した瞬間、駐車場は狂喜乱舞の嵐。職安通りにも人があふれ、一時は交通が麻痺状態に陥った。
韓国の応援団は、ぴょんぴょん跳ねながら、それぞれ太極旗をなびかせて新宿中を練り歩き始めた。私は、その一団にくっついて取材をしていたのだが、コマ劇場まで来た時に偶然日本の応援団と鉢合わせしてしまった。すると、誰彼となく抱き合って、声をあげながら勝利を祝いはじめ、そのうちに日本人の一人が突然、太極旗がつけられている竿に日の丸をくくりつけたのである。
高々と揚げられた太極旗と日の丸。韓国でタブーといわれる日の丸が、太極旗と並んで仲良く風になびいている。不思議な光景だった。〈こんなことがあるなんて〉と私はぼうっとそれを眺めていた。もちろん、特殊な雰囲気の中での行動だったことは確かなのだが、それでも、大げさに言えば、時代が動いたと感じたのである。
韓国代表は、結局ベスト4で終わった。W杯期間中、韓国代表チームのパワーと同時に印象に強く残ったのは、ソウル市庁前を真っ赤(公式応援団レッドデビルの赤いTシャツを着て応援したため)に埋め尽くした韓国人の一致団結した応援ぶりだった。そして、それは日本でも同じだった。東京・新宿でも韓国人の応援ぶりを見た日本人の若者が、「すげえ。なんであんなに夢中になれるんだ?」と、あきれながらも半ば感嘆してつぶやいていたことがある。
W杯開催期間中、日本も確かに熱狂はしていた。だが、韓国の人たちのように心底、我も忘れて熱狂していたかと言われると首を傾げてしまう。なんとなくこの宴を楽しまなければという雰囲気が漂っていて、韓国の人たちの応援に圧倒されていたと言ったほうが当たっているかもしれない。
韓国にとって、日本は永遠のライバルだった。対日本となるとことさら熱くなるのが、韓国だった。W杯でも勝ち進むことはもとより、日本よりも上位の成績を上げることに執着していた。
韓国代表チームのヒディンク監督(当時)は後に自伝の中で、そうした心理を利用して、日本がベスト8を逃した試合での日本チームの試合ぶりを批判し、選手たちの闘志に火をつけたと語っている。
知り合いの韓国の全国紙記者も、こんなことを言っていた。
「日本には負けられないし、負けたくない。でも、日本人は、そんなことを考えてもいない。韓国なんて眼中にないのさ」
日本は、それまで「韓国がまた何か言っている」程度にしか受けとめず、W杯でも隣国がそんな風に思っていることに、気づいてもいなかったのではないのだろうか。
意識の違い、そして、すれ違うまなざし──。
だが、こんな構図が一転したのは、日本のベスト8進出の夢が破れたのとは裏腹に、韓国が悲願のベスト8進出を成し遂げてからである。日本よりも上位の成績という安心感と優越感、そして勝ち進んでいるという自負心で、韓国はもはや日本など意識することもなく、W杯という宴≠ノ集中し、心底楽しんでいた。
韓国は、こうしてW杯でまた一つ大きな誇りを得、日本人は、韓国と共催したことで、初めてそのストレートな姿を目の当たりにしたのである。
この頃から日本の中の韓国≠ヘ確実に変わってきたように思う。韓国≠ニいう存在が、にわかに日本で形を帯びたと言った方がいいかもしれない。
また、私には忘れられない言葉がある。
韓国代表がベスト4進出をかけて戦った試合の時だった。試合終了後、応援していた人たちのコメント取りをしていた私に、二十代のある在日三世の女性がこう言ったのである。
「今までは、韓国人ということをなかなか言い出せなかったんですけど、今は韓国人として生まれたことをとても誇りに思います」
私は、一瞬言葉が出なかった。そのときまで、在日三世という世代までがこんな思いを抱いているとは思ってもいなかったのである。すでに、在日韓国人にそうした思いを抱かせる日本人の偏見はなくなってしまったと、勝手に思い込んでいた。
「ようやく韓国が認められた、そんな思いです」
そう言った彼女の顔は晴れ晴れとしていた。
そして、W杯が行われた翌二〇〇三年四月。NHK・BSで『冬のソナタ』が初めて放映された。今更言うまでもなく、空前の冬ソナ、ヨン様ブームの始まりである。
二〇〇〇年、映画『シュリ』の日本でのヒット、二〇〇一年、歌手BoAのデビュー、二〇〇二年、サッカーW杯の日韓共催で、韓国≠ヘ日本の若者層にはどんどん身近になっていったが、冬ソナは、それまで、韓国に対しておそらく関心が最も薄かった女性層を一気に引きつけた。
日韓の大地核変動≠起こしたのである。
『冬のソナタ』というドラマは、今まで知っていた、知っているつもりになっていた韓国のイメージをことごとくうち砕いた。そこに登場したヨン様も、ストーリーもそれまで抱いていた韓国のそれを見事に裏切ったのである。
韓国という国に対して何かしらマイナスのイメージを持っていたか、もしくは、漠然としたイメージしかなく、それまで視線すら向けなかった日本の女性たちが、冬ソナを境に、一瞬にして韓国に熱い視線を向けるようになった。
エンタテインメント力≠ェ、日本の中の韓国のイメージ≠地核から揺るがしたのである。
「日本は好きになってはいけない国」
「日本のものが好きでも日本を認めることにはならない」
かつて、韓国の若者たちが持っていた、揺れる二つの日本。
私は、当時、彼らの複雑に絡まった感情をほどく糸口をずっと探していた。どうしたら、ほどけるのだろう。どこからほどけばいいのだろう。ただひたすら、韓国の若者たちに問いかけ、彼らの話に耳を傾けた。
韓国の人たちの心の中には、常に、日本が漂流している。私たち日本人が思っている以上に、韓国人のまなざしは日本に向けられている。
「謝罪とかじゃなくて、日本の人にきちんと歴史を知ってほしい。知らなければ何も変わらないでしょう」
最後までほどけなかった日韓のすれ違う思いのなかに、ただ一つ鮮明に残ったのは、韓国の人たちの日本へ向けた、まっすぐで真剣なまなざしだった。
けれど、そんな彼らの、日本に対して揺れて戸惑う真摯なまなざしを、いったいどれだけの日本人が気づいていたのだろうか。
[#改ページ]
あとがき
四年前に出版した単行本『好きになってはいけない国 韓国J−POP世代が見た日本』の取材を本格的に始めたのは、一九九八年夏のことだった。韓国は、IMF支援直後で、混沌としていながらも、新しい道を猛烈に探していた時期でもある。そして、まだこのときは、日本の大衆文化は開放になっていなかった。
私は、九五年から九六年にかけて韓国の延世大学語学堂に語学留学をしたのだが、留学生活の中で強烈に残ったものは、韓国人の日本へ向けたまなざし≠セった。
反日を口にしていながらも、なんとなく日本が気になってしようがない。悪口を言いながらも、罵詈雑言を並べながらも、意識の底には常に日本≠ェ漂流している。そんな韓国の人たちの姿が、私は、とてももどかしかった。ならば、日韓の間に山積する問題はまた別として、日本なんぞは眼中に入れず、ただ黙々と堂々と発展し続けて、ざまあみろと舌をだせばいいじゃないかと。けれど、こんなことを言う私に友人らは困ったように「この微妙な感情は日本人に言っても分からないだろうなあ」とつぶやくだけだった。
そんな中、ひょんなことから、J−POPに夢中になっている韓国の若者たちの存在を知った。
日本の音楽、歌手が好きという彼らなら、旧世代≠フような凝り固まった考え方とは違ったものを持っているだろう、そんな思いから取材を始めたのだが、当然ながら感情はそんなに単純なものではなかった。彼らもまた、日本には、「好きになってはいけない国」という複雑な思いを持っていたのである。
それがいつの頃からだろうか。そのとき以来つき合いを続けてきて彼らの日本へのまなざしは、徐々にだけれど、確実に、微妙に変わってきていた。日本へ向けたどこか不安げなまなざしは、次第にしっかりと日本を見据えるようになっていた。
それは、韓国社会のすさまじい変移と、日本と韓国を取り巻く環境の激変とにそっくり重なっている。
二〇〇四年末、韓国のマスコミは、ヨン様ブーム総括として、さまざまな特集を組んでいたが、最大の関心事は、ブームがいつまで続くかということだった。
何度聞かれても、私にもその答えは分からず、ただ、はっきり言えたことは、ヨン様ブームが日本で起きたことにより、それまで韓国に関心のなかった日本の人々の目が、韓国に向けられたという事実だった。
韓国へ向けられた日本人のまなざしがこれからどう変わっていくのかは、未知である。一瞬にして別の対象に向けられてしまうかもしれないし、視野が一層広がっていくかもしれない。
けれど韓国を実際に訪れたり、韓国について知ったり、関心を持ったことで韓国に触れた意味はとても大きいと思う。
触れてみなければ実像なんて分かりはしない。
数年前、日本に向けられていた韓国の若者たちのまなざしに気づいていた人は一体どのくらいいただろうか。
本書があらためて、知らなかった韓国を知る一助になれば幸いである。
最後に、文庫として出版の機会を与えてくださった松井清人・第二出版局長と藤田淑子副部長、そして、的確なアドバイスをくださった担当編集者の山本浩貴氏に感謝の意を表します。
二〇〇五年一月
[#地付き]菅野朋子
単行本 二〇〇〇年九月 文藝春秋
〈底 本〉文春文庫 平成十七年三月十日刊