色川武大
花のさかりは地下道で
目 次
花のさかりは地下道で
赤 い 灯
善 人 ハ ム
星の流れに
同  年
夜 明 け 桜
友  よ
故  人
幻について
聖ジェームス病院
[#改ページ]
花のさかりは地下道で
数日前、ある文学賞のパーティの席で、大手出版社の一族の人が、そばに寄ってきて、
「弟さんはお元気ですか」
と突然|訊《き》かれた。私は知らなかったが、その人は私の弟と小学校で同級だったという。
私はその出版社と同じ町内で生まれ育ち、そういえば、私の生家の近辺に、その出版社の社主の一族の人の家が点々とあった。だから、どうという話ではすこしもない。つまり、私とその人は、弟の話に連ねて、同じ場所での幼時体験を、しばらく話しあった。
「しかし、あの道は、広い道路だと思ってたんですがなァ」
とその人はいった。あの道とは、その出版社の前を走る舗装道路のことで、今見直してみると、一車線のために時間によって渋滞がひどく、変哲もないというよりは、やや古ぼけた脇道に見える。
しかし、私たちは、昔、その道のことを、ただ、大通り、といった。大通りといえばその道のことであった。
「まったくです――」と私も唱和した。「私はあの大通りを渡って、べつの小学校に行ったんです。しかし弟は、大通りを突っ切るのが危険だから、という理由で、私とちがう小学校に行かされたのです」
「黄バス、というのが通っていましたね。まっ黄色なバスが――」
「黄バスね」
といって私は笑った。私は、自分の中で血肉になったようなイメージを、他人の口からいわれると、笑いだす癖がある。
「あの大通りは、トンボの道でもありましてね。どういうわけか、夕方になると、あとからあとからトンボが通るんです。それで子供たちが、道路の左右の岸に並んで、手に手に竹竿を持ってね――」
麦わらとか、塩からとかいう名のやや小型のトンボは、いつだって手近をうろうろしている。秋になると、赤トンボが、空中を埋めるほど飛び交い、電線にズラリ並んでとまった。都会といっても、当時は、水たまりや雑草の茂みにことかかなかった。
けれども、やんまのような大型のトンボはさすがにすくない。私たちの町内では、胴体が黒と黄の縞《しま》になっているのを、やんま、或いは、鬼やんま、といった。
|ぎん《ヽヽ》というのは、胴体が青い。そっくりの形だが、青でなく、緑のやつを、|ちゃん《ヽヽヽ》、といった。
鬼やんま、ぎん、ちゃん、そういう大物が、昼間はどこに居るのか知らないが、夕方になると、大通りの北の方から、飛行機が滑走するように、南の方に飛び抜けていくのである。
麦わらや塩からなどは混ざっていない。すべて大物だけで、それもいちどきにではなく、一匹ずつ、順々に、地上の車と同じく行儀よく、やってくる。
夏休みだから、子供たちは総出で、大通りにたたずんで、待っている。
北の方に位置した子供たちの竹竿がいそがしく揺れ騒ぎはじめると、それッ、という感じで、沿道の子供たちが身がまえる。
すうっ、とトンボが滑走してくる。夢中で竹竿を振りまわす。竿に黐《とりもち》が塗ってあるので、トンボがどこかで、ぺたっとひっついてしまう。捕《と》った子は、勲章を得たような顔になる。
トンボは竿を避けて、大通りのまん中を、矢のように飛び抜けようとする。子供たちは車が通るので両側の人道から竿を振りまわすからである。しかし、どうしてか、竿の届かない上空を飛ぼうという心算《こころづも》りはないらしい。
稀《ま》れに無事駈け抜けるのも居るが、七八割は、ぺたっと捕まってしまう。けれどもあとからあとからとやってくるのである。どうしてかわからないけれども、毎日毎日、夏の間じゅう同じようにやってきて、懲《こ》りるということがない。
夕闇がだんだん濃くなり、トンボの姿がとらえにくくなるけれども、私たちはとっぷり暮れるまで、思いきり遊んだ。そうしてあともふりかえらずに、腹をすかしててんでに我が家へひきあげてしまったが、大通りには、きっと、トンボたちの羽や、ひきちぎられた胴体が散らかっていて、風に舞ったりしていたのだろうと思う。
トンボというものは、一見スマートだけれども、手にとってみるとなんとなく引き裂きたくなるような恰好《かつこう》をしている。私もご多分に洩《も》れず、衝動的によく引き裂いた。両掌で羽をつかんで、ぱっと横に裂く。茶色い小さな筋肉のようなものが中にある。生きている姿を、ようく見ておいて、死ぬんだぞ、といいきかせておいて、ぱっとやる。すると胸がどきどきする。
小学校に入る前だったかと思うけれども、近所の豪邸の門の前で、私は一人で遊んでいた。豪邸の向かいの家もやはり豪邸で、門と邸の周辺に広い空間がある。
その空間を、まっ黒いごみのようなものが飛んできて、私はなんだろうと眺めていた。黒い羽のようなものがあり、そうすると、身体《からだ》の部分もまっ黒で、それがなんだかよたよたと、塀をすれすれに越えてこちらにやってくる。
後で、公園の池のまわりなどで見かけたが、お羽黒トンボ、と私たちはいっていた。しかし、そのときは、黒いトンボなど見たこともなかった。
奇異なものを見たおもいで私は眼《め》をそらさずに居たが、トンボは、塀を越えたあたりで、力つきたように、ふらふらと落ちかかった。そうして結局、私の足もとに近い、豪邸の門前の石畳の上に落ちてきた。
トンボはそれでもう動かなかった。しばらくして私は、そのまっ黒いものをひろおうとして手を伸ばしたが、そのとき風が吹いて、トンボは石畳のうえを、すうっとすべっていった。
私はそのことを、奇妙な絵を見たときのように、頭の中にとどめていた。しかし、後で、トンボを引き裂いたり、竿にぺたっとはりつけたりしたときには、つなげて考えていない。
どういうわけか、殺戮《さつりく》したトンボたちよりも、自然死らしく見えたお羽黒トンボの方に、私は哀れを感じていた。
私は、敗戦後の五六年ほど、特に烈《はげ》しく、グレていたことがある。
グレていた、と折り折りに文章に記してきた。けれども多くの場合、そういう一行で片づけてしまって、その内容をあまり記そうとしない。そうでない場合も、部分をチラリと出すにとどめるか、あるいは虚構にする。
それは、混沌《こんとん》とした時期で、一言にいいつくしがたいということもあるが、主として、絵にならないほど、恰好のつかない日々だったからである。
グレるということは、つまりは、あさはかなことだと見られがちであり、事実そういう要素がたっぷりあるのだが、本グレということになると、これでなかなか軽々しい日々ではない。
その内容は人によって千差万別であるが、私は、私の場合を、あまり語りつのりたくない。
私は、今でも女性に臆病である。特に、女性を軽く口説くということが、はなはだ苦手である。その他万事、女性に対して軽快な動きをすることができない。
それは、十六の年から二十二の頃まで、普通の男の子ならば、異性への関心がめざめ、本能の助けを借りて異性のあつかい方を自然におぼえていく時期に、私は女とほぼ絶縁した日々をすごしているからである。
私はグレていたが、風態《ふうてい》は、乞食、と思っていただけば、わかりやすい。その時期、世間の人々も服装の整っていなかった頃だが、私が電車に乗って、坐ると、まわりに三人分ほど空間ができた。誰も近寄らない。
深夜の国電で、私がそうやっていると、年上の知人に会ったことがある。その知人は親切な人であったが、私を見て絶句した。それから、少し離れたところで、
「なんとかして更生したまえよ、君、靴をはく人間になりなさい」
といった。私は、そうやって|ばくち《ヽヽヽ》に専念しているつもりだったので、当時は、そういうふうな周囲をほとんど無視していた。その頃の私を知る人は、後年の私と同一人物とは見ないだろう。だいいち、形相がちがう。
しかし、これでは女性が近寄るわけがない。また私の方も、女性に近寄ろうとしなかった。年少で、プロばくちの世界にとっついて、そこで沈没しないだけで、全精力を使いはたした。だから、女を買いたいともあまり思わず、その余力もなかった。
だから私は、グレていたが、ばくち以外の遊びをほとんど知らない。
女性そのものは、かなり年少の頃からたくさん見てはいた。性経験も、そうといえないくらいお粗末な経験がその前にあった。その時期のあとで、いろいろな女性と出会ったが、例外なしに、軽快でなく、よくもわるくも盤根錯節としてしまう。処理のパターンはあとで知識で知ったが、自分が空白の五六年をすごした意識がはなれず、すぐにぎくしゃくする。経験で身についたことと、人のあとから頭でおぼえたことはちがうと思うと、もういけない。
対女性に限らず、対男性にも人見知りをする。但し、かりに今、本格のばくち場に復帰したとすると、誰よりも軽快に動けるかもしれない。
上野駅の地下道に、巣のない人たちが群れていた頃のことだが、私は生家はあったけれど寄りつかずに、方々で寐《ね》ており、ときおり上野でも寐た。
そこに、アッケラという通称の女性が居た。本名も知っているが、記さない。アッケラという名も、実際はべつの通称と思っていただきたい。
もうひとつおことわりするが、私をべつにして、この時期、地下道のコンクリートの上で寐ていた人々を、私は、グレた、というふうに思っていない。
空襲で、焼野原になった。その時期、どういう経緯かで住むところを失い、事情が重なって復活できないままに、そんなところで寐起きするようになってしまった。いうならば、難民、である。地下道に寐起きしているが、勤務先を持っていて毎日出かけていく人も居た。
アッケラは、生家は群馬県にあるといっていたから、またいくらかちがう経緯でそうなったのだろう。
女一人で、しかも若い。私よりは十ぐらいも年上だが、とにかく地下道では若い。
だから、まずい。地下道で、楽、というほどではないにしても、まァ困らずに日をすごせてしまう。
アッケラは、夜になると、上野の山の暗がりの方に行って、客をひいた。そればかりでなく、地下道の住人のめぼしい者たちとも、情を通じていた。けれどもそれは、当時、べつに特別のことではなかった。アッケラも、それがごく自然な生活のように思っていたようで、歌に唄われるパンパンガールのように、ヤケな感じではなかった。
嚊《かか》ァ天下と空っ風が名物の上州女らしく、さばさばした気性の強そうな女だった。地下道にひびくような高笑いに特徴があって、彼女の所在はすぐわかる。
巣なしの女としては綺麗好きで、それは客をとるせいもあったろうが、そればかりでなく、身を汚しているのを見たことがない。
「あたしは、不忍池《しのばずのいけ》で毎夜、身体を洗ってくるんだから――」
といっていた。そんなことから尾鰭《おひれ》がついたのだろうが、当時の夕刊新聞やカストリ雑誌などで、不忍池に深夜、裸女が現われ、水浴する、というような話が煽情的に載ったりした。この伝説は、それからあとも、たびたび活字になったらしい。
が、実際は、彼女のホラで、アッケラは毎日、銭湯に行っていた。それも上野駅のそばでは顔を知られていてまずいといって、遠く三《み》ノ輪《わ》の方まで出かけて行って、銭湯に入ってくるらしい。気性は強いが、こういうところは妙に気にするたちで、どこの銭湯でも隅っこで小さくなって入ってくるという。多分、生家がそう悪い暮しではなかったのではあるまいか。
それに、見知らぬ銭湯なら、うとまれない程度の服装を彼女はしていた。
ある夜、私が地下道でうずくまって寐ていると、あそこは元来独特な臭気がするところだが、それとは明瞭に区別される臭いが鼻をついた。
私のすぐ隣りで、新聞紙の上に横になって寐ていたアッケラが、眠ったまま汚物を洩らしているのである。
酔い痴《し》れているのかと思った。しかしその気配ではない。で、下痢しているのだとすぐにわかった。地下道は夏冬を通じて、冷えからくる下痢に大半がなやまされるのである。
世間の人は、地下道の臭気と汚れを、浮浪者独特の投げやりな生き方に結びつけて、その意味でも顔をしかめるが、あれは主に、慢性の下痢便なのである。もっとも、栄養失調の下痢便も、薬物の中毒からくるものも、混じっているが。
まわりは誰も起きない。アッケラは、とにかくここでは若い女性の範疇《はんちゆう》に入るのだからと思って、こんなところがあまり人眼にたたないように、私はそっと揺りおこした。
彼女は気がつくと、ぱっと起き直って汚れた物に新聞をかぶせた。蒼《あお》い顔をしていたし、とろんとした眼をしていた。けれども、薬物は平常からいっさい手にしない女だった。
「熱があるんだろ――」
と私は低い声で早口にいった。
「山下の派出所のそばに行って、倒れてな。巡査がみつけて救急車を呼んでくれるよ」
「冗談じゃない、いやだよ」
とアッケラはいった。彼女はその場でスカートを脱ぎ捨てようとし、思い直したように両手を支えにして立ちあがった。
「身体を洗ってくるよ――」といった。
「どこで――?」
「どこだっていいわよ」
「歩けるのか」
アッケラは宙を浮くような足どりで歩きだしたので、私も立って彼女の腕を肩にまわした。
「ついていってやるよ」
「臭いだろ。近寄らないでよ」
私たちはもつれるように地下道を出て、暗い上野の山にあがった。
「なんだ、不忍池じゃないのか」
「あそこは人眼があって、駄目」
アッケラが目指したのは、博物館の前の噴水だった。彼女は全裸になって、噴水の池の中に入った。荒療治だが、他にどうする術《すべ》もない。
私は、離れたところに立って、見張りの役をつとめた。そうして彼女が池からあがってくると、汚いズボンだったが、脱いで彼女に渡した。
「これ、穿《は》いてろよ」
「あんたは――?」
「いいよ。俺は紳士じゃねえや」
私は汚れたパンツの上にシャツを垂らしていた。アッケラは素肌にじかに私のダブダブのズボンを穿いた。
私たちはそれまで、ほんの顔見知りという程度だったのだ。
彼女は一度ズボンを穿いてから、急に脱ぎ捨て、草むらの中に走りこんだ。
どどッ、とくだしている気配がした。
下痢しているのに水の中に飛びこむというのが、その点では無茶だが、いかにも彼女らしい。
アッケラは私の前に出てくると、いくらか人心地のついた表情で、ふふふ、と笑った。
「へんだねえ。こんなところ見られたの、あたし、はじめてだよ」
「臭い仲だ」
「ほんとだ、臭い仲だわ。はずかしいねえ。あんた、寐てもいないのにあたしの一番はずかしいとこ、見ちゃったね」
「気にするなよ。明日になりゃ忘れちまう」
「ズボンがあるでしょ。忘れないよ。明日、返すからね。でも、あんた、パンツ一枚でほんとに大丈夫?」
私たちは公園の中の暗い細道を引き返した。アッケラは私の腕に彼女の両腕をからめてぶらさがるようにしていた。
「あんた、抱いてもいいよ」
彼女はそういい、しばらくして、また、
「――ね、――ね、――よゥ」
そんなふうに私の腕を揺すって、誘った。
「下痢女なんか、抱けるかい」
その私の声が、ちょっと強くて、彼女に痛くひびいたかもしれない。が、私はそんなとき、いつも妙に気取って尻《しり》ごみしてしまう。
それで彼女は沈黙してしまって、そのまま地下道に帰ってきた。
ズボンは翌日、
「洗濯して返さなくちゃいけないんだけどね――」
といいながら、私に手渡してきた。彼女は新しいスカートを身につけていた。しばらくたってからだが、彼女は昼間銭湯に行く途中で、銀行に寄ってこつこつ貯金をしていることを知った。
私と彼女は、頻繁ではないが、行きあうたびに、独特の親しさを示し合うようになった。
「稼いでるかい――」
と私が声をかける。
「そっちはどう。ツイてるの」
とアッケラもいう。
すれちがったり、別れたりするときに、
「お稼ぎよ」
「ええ、ありがとう」
べつに、深い交渉は何もない。身体に触れたわけでもないし、相談事をしたわけでもない。
ただ、顔を見合わせると、お互いに、睦《むつ》んだような眼の色になる。そうしてほんのちょっとした挨拶《あいさつ》なのだけれど、彼女は私にだけは(私にはそう思えた)いつも素直な優しい声音になってくれた。
私たちはそこに、味方の眼、味方の声、のようなものを感じていた。それで充分、という気がした。私とアッケラは、何から何までそっくりというわけではなかったけれど、当時、いずれも友だちを持っていなかった。亭主や情人とはちがう。誰かと本格的に仲好くしたいが、そんなふうな交際がはじまるきっかけがない。まわりは、敵か、情人か、他人だった。
私はしばらく生家に戻ったり、他の場所でわだかまってしまったりで、だいぶ長いこと上野へいかなかった。ある日、そこに居つく心算《つもり》ではなかったが、通りがかりに上野駅に寄った。
地下道も、だいぶ住人がすくなくなっていた。アッケラの姿も見えない。私は顔見知りの浮浪者に彼女のことを訊《たず》ねた。
アッケラは腹をふくらまして、ここを去ったという。子供はどこかで産んだらしいが、その後どうしているかわからない。
男をみつけたのか、と訊くと、ゲラゲラ笑われた。
お前じゃないのか、という。
じゃ、男は居ないのか。
そんなこと知るかい。自分で探せ。
それだけのことで、あとはどうする術もない。また、探しだしてどうするということでもない。
街には、進駐軍の姿も消えていたし、復員服の日本人もあまり見かけない。そうして、歌に唄われたパンパンガールやオンリーさんたちも、どこへ行ったか街の表面には現われてこない。
私は、ひょいと、大通りを北から南へ飛び抜けようとして滑走してくるトンボたちを思いだした。同じようなコースへ、あとからあとからとやってくるが、たいがい途中で、ぺたっと竹竿に張りついてしまう。
三年ほどたった。私はもう彼女のことをほとんど思い出さなかった。
松戸競輪に行った帰り、北松戸の駅が混雑していて、私は連れと一緒にバスに乗り、市川市に出た。競輪でかなり儲《もう》けた男が居て、その男のおごりで酒を呑《の》んだ。
女たちが居る店で、当時まだ目新しかったジュークボックスがおいてある。
向かいのボックスの客についていた女が私から視線をそらさなかった。私は一度、その女を見、少ししてまた眺め直した。
濃い化粧で、眼尻が吊《つ》りあがっているような感じだったし、気の勝った年増風で、容貌《ようぼう》も見映えがしなかったが、彼女だった。
「アッケラ――?」
と私はいった。彼女は大口をあけて何度も頷《うなず》き、あとでそっちへ行く、という手真似《てまね》をした。
彼女は私のそばに坐って、
「ッイてる――」といった。
私は苦く笑って首を振った。
「でも、元気みたい」
「びっくりしたぜ」
「そうだろ」
連れが居たのでとりとめのない話しかしなかったが、彼女は近く日本橋の方の店に移るのだといって、店の名と場所を教えてくれた。
「そっちへ来てよ。お金使わせないからさ」
私は、一度、行ってやりたいと思っていた。竹竿にぺたっと張りついたのではなくて、どうやらまだ滑走中らしい。とにかく、生きていて何かやっていれば、あの頃より悪いということはない。
ある夜、いくらかの銭を懐中にして日本橋に出かけた。酒場かと思っていたが、小料理屋で、彼女は仲居をしていた。
私は一番せまい座敷に入れられて、肉の鍋《なべ》を突ついた。アッケラは、今度は化粧も濃くなく、揃《そろ》いの紺の着物を着ていて、かえって初々《ういうい》しく見えた。
「――これだったってな」
私は腹がふくらむ恰好を両手で示した。
「ええ。子供つくって――」と彼女は声をひそませた。「地下道にも寐てられないだろ。そのつもりで貯金もしてたし、部屋を借りてね。最初は赤ン坊が居て働けないから、居喰いよ。大変だったよ」
「男の子かい」
「女――」
「まだ小さいな」
「近所のお婆さんで、ずっと見てくれる人が居るの。あたし昼間はいろいろ習いに行ってるからね。三味線だとか、お花だとか。どれかひとつ物にしようと思ってね。手編みの機械だとか、マッサージも習いに行ったことがある。だってなんとか子供を喰べさせていかなきゃならないからね」
彼女はときおり他の座敷に立ち働きにいくほかは、ずっと居ついて、弟に喰べさせるように世話を焼いてくれた。
「あんたは――、もうあそこには居ないんだろう」
「あそこには居ないが、変り映えもしないな。まァそのうち、生き方を少しずつ変えようと思う」
「男はいいよ。あたしなんかもう年だし」
「まだ若いよ」
「子供を持つとね、先のことばかり考えるようになるのね。毎日、何につけても、先のことばかり。男なんて眼にも入らない」
アッケラは一人で高笑いした。
「子供子供って、ぞっとするね。自分が婆さんになる日のことばかり考えて生きてる。花のさかりは地下道でさ」
その地下道の頃はそうとも思わなかったが、こうして座敷で眺めてみると、アッケラは器量のいい女ではなかった。そのうえ、荒い世渡りをしてきた色が顔にも身体にも現われていて、女として人を惹《ひ》いて生きていくのがかなり難事のような気がする。だが私には、彼女があの頃と同じく素直な優しい声音でしゃべってくれるのが気分がいい。
ビールを呑み干して、又来るよ、といった。
「帰るの、そう――」
彼女は伏せてあった勘定書を懐中に入れた。私が金を出しても受けとらない。
「いつかのお礼よ」
「なんの礼?」
「ホラ、臭い仲」
「じゃ、俺におごったと思って、子供に何か買ってやりなよ」
私はきわめて間遠《まどお》ではあったが、ときおり彼女の顔を見に行った。平常は少しもそんな気にならない。一年に一度か二度だろうか。ふっと、寄ってやろうかな、と思う。
行くと、彼女はいつもいそがしく立ち働いていて、席にはあまり居なかったが、そのかわり、看板の時間まで居てくれ、といい、店が終ると私をそのへんのスナックなどに連れこんだ。そうして自分の暮しざまをあれこれ語った。
常磐津《ときわず》がものになりそうだ、とあるときいった。常磐津の師匠にかわいがられて、その家に子供と一緒に置いて貰《もら》っているのだ、といった。今度、おさらい会に出るから聴きにきてくれ、といったが私は行かなかった。
ある夜、つきあっている男のことをしゃべった。結婚、という話ではない。逢《お》う瀬が重なった男の話だ。そんなことを語りながら彼女も酒を呑んだ。
そうやってなんでも語りつくす一刻を楽しんでいるように見える。また、それだけでなく、私の誘いを待っているふうにも見える。私は逡巡《しゆんじゆん》しながら、いつもそのへんの暗い道で、さよなら、といって別れた。
常磐津の師匠は自宅を酒亭にしていたが、やはり下町の花柳界のそばに、もう一軒、店を出すことになって、アッケラが代理ママ格で働くことになった。
その店は、女や板前たちを合わせて七八人も居て、二階に小部屋が三つもあって臨時に芸者も入るようになっており、本拠よりも支店の方が規模が大きい。本来は芸者あがりの師匠の内儀《かみ》さんが出張って采配《さいはい》をふるうところなのだが、師匠に持病があり、いつもそばに居ないといけないのだという。
アッケラのどこが気にいられたのかわからない。おそらく、働き者で、物堅いという印象を植えつけたのであろう。師匠が、アッケラの過去をどの程度知っていたか、そのあたりは私はいっさい立ち入らなかった。
あいかわらず、眺めるような恰好で、ときどきその店に行っていた。しかし回数は前より増えた。勘定がツケが利いたから。
私はその店で、はじめてアッケラの娘に会った。
一重|瞼《まぶた》の、眼のきつい、勝ち気そうな娘で、私と初対面のときも、笑みを浮かべず、じっとこちらを見ているような子だったが、さりとて人見知りをするでもなく、いろいろの男を遠巻きに眺めているふうだった。
私はときどき、二階に泊ってしまう。
「おじちゃん、ママの、何」
と娘――まり子といったが――によく訊かれた。
「おじちゃんは、おじちゃんよ――」
とアッケラがいう。
なんでも噛《か》む癖のある子で、白い小さな糸切歯で輪ゴムをいくつも噛み切ってしまう。
そのうち、少し打ちとけてきて、
「あんまり、お酒、呑んじゃ駄目」
なんていう。その頃は、ママと、ことさら濃い関係にあると見える男が、まり子にもわかっているようだった。その男は富山の薬屋の小頭で、商売で東京に来るたびに店に居続けをする。
気さくな、いい体格をした男だったが、アッケラより年齢は少し下だったろう。
酔っぱらって二階で寐てしまって、その夜ふけ、薬屋の清さんが来たことを知らずに、私は朝方、階下の店土間へおりてきて水を呑んだ。
奥の帳場風の和室で、アッケラと娘がいつも寐ている。
「お湯がポットにあるから、お茶、自分でいれて頂戴よ」
「OK、勝手知ったる他人の家だ」
私はさらになにか冗談をいおうと思って、帳場の障子をさっとあけた。
清さんが赤くなって、なにやらヘドモドして布団の中に顔をひっこめてしまい、寄りそって寐ていたアッケラも、ばつのわるい表情になった。そうして、その横で、まり子が一重瞼の眼をぱっちりあけて私を見あげていた。
私は、一瞬、度胸をきめて、失礼、などとはいわず、
「まり子、起きてこいよ、散歩に行こう」
わざとゆっくり障子を閉めて、二階にあがった。
薬屋の清さんは、しかし一年の半分以上、東京には居ない。大野の旦那、と呼ばれている公認会計士も、清さんの居ないとき、帳場の部屋にときどき泊っていくようだった。
それから、つまみ喰いのような関係では、まだ一人二人の男が居た。もっともその男たちはいつも彼女の身体を求めていたのではないかもしれない。
実際、その店は、客を二階に泊めて女をあてがうという風評もたっていた。
私はべつに気にしない。アッケラも、私にはあまり隠さない。
彼女は清さんには、惚《ほ》れているようであった。多分、彼女の方が、貢いでいただろう。秋ぐちになって富山から、清さんの輩下の若い衆が大勢出てくると、連中を呑ましてやり、清さんがいい顔ができるようにあれこれ面倒を見る。そうして、若い衆を叱《しか》りつけたりしている清さんのそばで、姐御《あねご》のような顔をしている。
清さんは、向こうに妻子も居ることだし、アッケラのところは東京での便利な足場のようなつもりでいたのだろうけど、彼女は本当は、もうすこし男を定着させたくてしかたがない。
ただ、何も強いことがいえないのである。
清さんが、わきに馴染《なじ》みの女をこしらえてそっちへもちょくちょく行くらしい、といって、私にこぼした。
「妬《や》いてるんじゃないよ」
とアッケラはいい、私は笑った。
「妬いてるんじゃなきゃ、何なんだ」
「まり子のことだわよ。娘にも、父ちゃんていわしたいよ」
「娘か――」と私はいった。
「ありゃ、ここへおいといちゃ駄目だぜ。どこかに部屋でも借りて、通いにしな」
「それも、考えてるんだけどねえ。今は、お店を手を抜くわけにいかないから」
その店が、税金のことでごたごたして、結局、やめることになった。アッケラは、もっとずっと小さい店だったけれど、神田の駅のそばに、今度は文字どおり自分の店を持った。
小女一人をおくくらいの、小規模な店で、もう中年に見えるアッケラでは、はたして客を呼べるかと思っていたが、元の店の客がけっこう移ってきてくれて盛《さか》っていた。
清さんも、大野の旦那も、あいかわらず来ていた。
まり子はそろそろ学校へ行く年頃の筈《はず》だったが、店には住んでいなかった。
「父ちゃんが欲しいよ」
とアッケラはいった。
「あの子、いつも部屋で一人ぽっちなのよ。やっぱり気になるねえ。こうして酒もおちおち呑んでられない気分よ」
秋葉原のラジオ屋で、いい客が居た。彼は男前だったし、朗らかな酔っ払いで派手に金を使う。もちろん妻子が居るけれど、彼女の店に来る客は中年ばかりだし、彼女も独身を期待してるわけではない。
ラジオ屋とはよくつるんで外に呑みに出る。私が顔を出しても、すれちがいで、
「ちょっと行ってくるからねえ、アハハハ、妬くな、妬くな」
私は何も期待していないからかまわないけれど、清さんや大野の旦那にも、むろんその気配は伝わる。
「フン、かァちゃん、第二の青春だな」
そういって清さんは笑った。
「いい年こいて、怪我するなよ」
ラジオ屋はアッケラのことを、おばちゃんと呼ぶ。清さんは、かァちゃん、といい、大野の旦那は、婆ァ、などという。アッケラももう四十であろう。病気ひとつしなかったが、朝見ると、顔色が紙のように生気がない。ある夜、近くに火事があって、風の強い晩で一気に火勢が襲ってくるかと思われた。
清さんも来ており、客も手伝って、皆で店の品物を路上に出した。アッケラは腰が抜けたように店土間から動かなかった。
隣りのバーのママは南方からの引揚者だったが、その最中に心臓の発作をおこして救急車で連れ去られた。
清さんはいったん路上に出した品物を肩にかついで附近の小学校の校庭に運んだ。
「風がおさまったようですぜ」
「それでもここにおいてたら水をかぶっちまう」
清さんはこんなとき働き者だったが、ラジオ屋も自宅から飛んできた。
「大丈夫だよ、大丈夫。おばちゃん、元気を出せ」
清さんはラジオ屋が来てからは、彼女のそばに行こうとしなかった。私と並んで火を見ながら、
「燃えたってどうってことないよ。手前の家じゃなし」
「ここは保険に入ってるのかなァ」
「さァどうかね。でも、燃えたら、もうこんなベニヤのフヨフヨした建物は建てられないかもしれないね」
やっと鎮火にいたったが、アッケラはカウンターに張りついたままだった。
彼女は一言も口がきけなかった。昂奮《こうふん》で、ポロポロ涙ばかり流した。そうしてあとでこういった。
「精いっぱいやってきたつもりだけど、考えたら、ここが燃えちまったりしたら、あとなんともならないんだよねえ。地下道の頃とおんなじだよ」
「ちがうさ――」
と私はいった。
「ちがうよ、アッケラ。警察が狩りこみにも来ないし、下痢にもならない」
「燃えたら同じよ。あそこへ行くわよ」
「行かないよ。もう行けるもんか。お互いに若くないし――」
「それじゃ、年とっただけあの頃よりわるいじゃないの」
そうやって話していると、私にもたいして好転していないようにも思えた。トンボはトンボだ。毎年、大通りを北から南へ、竹竿の列の中を滑走していくだけだ。
アッケラはラジオ屋にのぼせあがり、清さんはわきの女と馴染み、けれどもこの二人は、袂《たもと》をわかつというわけでもない。清さんはあいかわらず、東京に出てくると彼女の店に荷をおろした。絆《きずな》が深くなった夫婦者のようでもあるし、便利だから利用しているだけの関係のようにも見える。
そうしているうちに、ラジオ屋が倒産した。ラジオ屋のおびただしい勘定《ツケ》の他に、アッケラも相応の貸金がパアになったらしいが、そのことではあまりこぼさない。
ただ、
「まり子がね、あの人、好いてたのよ――」
といった。
アッケラがそうやって生きしのいでいったように、私も生き方をだいぶ変えていた。彼女が地下道を出た翌年あたりから、大グレの足を徐々に洗いはじめた。
私の場合は、好んでグレていたようなところもあり、さほど大仰な決意やきっかけがあったわけではない。グレて生きるだけの体力気力が乏しくなり、全体にゆるんできて、そこで生きられなくなってきたからだ。
それでも転向の最中はいくらかきびしかった。底辺のような職場を転々とし、しばらくの間、ばくちからも酒からも離れた。けれども、慣れてみると、半分市民、半分人足みたいなその日常も、特に生きにくいこともない。
一匹狼でごろちゃらしていた頃の方がよっぽど張りがあった。私は、アッケラとは逆にそうした緊張の世界を忘れかねていた。
昼間は勤め人の姿をしていても、夜になると、当時の匂いを嗅《か》ぎに行く。アッケラの店ばかりでなく、私はよく、その頃からの知り合いの居る場所に顔を出していた。
それが、ある年あたりから、なんとなく間遠になった。自分が現実にすごしている世界でいろいろと深い交際も出来、同じ呑みに行くにしてもそちらの線が多くなる。
街には、もうどこにも焼跡はない。地下道にも、むろん人の姿は絶えている。焼跡や浮浪者が遠い存在に思えるように、私も、グレていた頃を遠く感じるようになっていた。
たまに、ふとその気になって、おそく顔を出すことはあったが、私はそういう店にあまり友人を連れていかなかった。そして、呑みに行くというより、元気で居るかどうか顔を見に行くという趣きになった。したがって、あまり腰が落ちつかない。
アッケラは、その間も転々とし、おいおいに店を大きくしていった。威張るので、店の者からあまり評判のよくなかった大野の旦那は亡くなった。
清さんは、ある年、魔がさしたのか、他のことに手を出し、見事にすってんてんになって、小頭もやめさせられ、故郷に逼塞《ひつそく》しているという話だった。
女ばかりでなく、男たちもどこかでつまずいていく者が多い。アッケラは、本当に文字どおり、あっけらかんと生きている。
ある年、私が突然、小説の新人賞を貰って新聞に名前と写真が出たことがあった。
私の知っている限り、その時の新聞記事を切り抜いて壁に張ってくれた店が、東京で二軒あった。
一つは新宿西口に戦後すぐの頃から食堂横丁というごみごみとした一帯があったが、その中の一軒で、煮こみと焼鳥の店S=B鹿児島県の離島出身の夫婦がやっていて、気さくないい人だったが、油で照りの出たベニヤにいつまでも張ってある。その店の客はむろんまったく無関係だが、私が現われるたびに、お内儀が壁を指して、お客に披露してくれる。
もう一軒は、アッケラの店だった。
「よかったねえ、よかったねえ――」
と彼女はいってくれた。
「男はいいねえ。こういうことができるんだから」
「しかし、これで金が儲かるわけじゃないしね。どうってことないんだ」
「そうじゃないだろう。肩書になるよ。あんた他に肩書なんかありゃしないじゃないか」
「わるい方の肩書ならいっぱいあるがな」
「そりゃそうだわね。半紙に履歴を書いてったら面白いわね」
「半紙じゃ書ききれない。特技って欄は特にすごいな。賞罰って欄も、罰の方はにぎやかだ。それで新人賞、人が見たら筋書が読めねえだろうな」
「馬鹿だねえ」
アッケラは、ビールを愛《いと》しいように両掌で抱えながら注《つ》いで、乾盃しようね、乾盃、といった。
この乾盃は、私にはちょっとこたえた。地下道のあの晩を思いだしたからだ。
「妙な縁だな」
「本当。どういうんだろうね、くされ縁でもないし、だいいち、何の関係もないんだから――」
「一度も、手を握ったこともなかったな」
「あんたに好かれてないことは知ってたからね」
「そうでもないぜ。嫌いならこう長く続くもんか」
「いいえ、嫌われてましたよ。でも、そんなこともうどうでもいいわよ」
それから数年して、私の巣に、アッケラから電話がかかってきた。今夜、ちょっと出てこないか、という。アッケラが電話してくるなんてはじめてのことだったので、とりあえず出かけた。
私が顔を出すと、いきなり二階に招じあげられた。膳に、料理と酒が並んでいた。
「なんだい、誕生日か」
「ばかばかしい。この年になって誕生日なんか祝うものかね」
アッケラは、私と差し向かいに坐って、
「でも、今夜はお祝いなのよ」
「なんのお祝い?」
「嬉《うれ》しいんだよ、あたし――」
といって彼女はもう声をつまらせた。
「まり子がね。学校を出て、就職がきまったんだよ」
あ、もうそんな年だったか、と思った。
「そりゃァよかった」
「M商事だよ、あんた、きいてちょうだいよ、M商事――」
私でも耳にしているような大手の名前をいった。職場など大手だから偉いというわけでもないような気がしたが、それはそれとしておめでたいことに変りはない。
「そうか、乾盃しよう。よかったね」
娘は実力で試験を受けて入ったのだ、とアッケラはいった。大手の偉い人など誰も知らない。親がなんにもしてやれなくて、知らないうちに就職をきめてきたのだという。
「あんた、母親一人の娘でさ、こんな環境で育って、よく一人前になってくれたと思うとね、嬉しくてねえ。これはどうしても、あんたにも祝って貰いたいと思ってさ。昔からのことを知ってるあんたと二人で」
「うん、よくやったな。がんばったね」
「ええ、あたし、はじめて、何かやったような気がしたよ。もう死んでもいいよ」
「そうもいかないよ。嫁に行くまではな」
「馬鹿だねえ、死んでもいいってのは、セリフだよ。こんなときはそういうものだろ」
私は、一重瞼のすっとした視線を大人たちに向けていた幼い娘を思いだした。あの頃以来会っていない。しかし今でも、勝ち気そうにふるまっているにちがいない。
アッケラは、その夜、卓の上に突っ伏して泣いた。私は、白いものがまじっている彼女の髪や首筋を眺めていた。
まったく、彼女が涙にひたるのももっともで、当時、夜の姫君などといわれた人たちで何人生き残っているかしらないが、それを思うと感慨無量のはずだった。
そして、私が彼女に招《よ》ばれたのは、私が地下道の頃からの知人だからというばかりではないのだった。アッケラには、そんなに大きな嬉しさを、ともに祝ってくれそうな者が私以外に、ただの一人も居ないのだった。
そういうふうに思うと、アッケラの三十年近い年月が、すごく重量感のあるもののように感じられるのだった。私は、泣きくずれている彼女の頭の上で、一人でもう一度乾盃した。
アッケラの話は、ここで終ってもいいのだが、なおもう少し、書きつらねてみたい。
その夜は彼女と深く呑んだが、私があまり街中へ出なくなったせいもあって、めったに彼女の店にも顔を出さなかった。
又何年かして、あるとき、彼女の店からそう離れていない盛り場で、夕方ぱったり会った。その日は日曜日だった。
アッケラは、ちょっと先をいそぐような素ぶりで、私をやりすごそうとした。
「どうしたの」
「麻雀よ、麻雀――」といって彼女はバツわるそうに笑った。
「麻雀をおぼえたのかい」
「まだカモなんだよ。若い人にいいようにされてるよ。この前まではスマートボールをやってたんだけど、あれは一人遊びだからね、何時間も黙ってやってると淋《さび》しくなるからね。この頃は、雀荘に行くようになったの」
娘は結婚して、やはり商社に勤める亭主と幸せにやっている、という。娘たちは一緒に暮そうというが、アッケラは遠慮して行かない。店に一人で泊っているらしい。日曜は、だから特にヒマを持てあますのだという。
それがきっかけで、私はまたアッケラの店にときに寄るようになったが、昔のようにアクの強い空気はうすれ、女たちも居ず、アッケラ一人で切り盛りしていて、いかにも老いた客が淡々と呑めそうな店になっていた。
それからまたしばらく月日がたつが、三年ほど前、私が半年ほど入院している最中に、彼女が突然来てくれた。どこのお婆さんかと思ったら、アッケラだった。
「どうしてわかったの」
「わかるわよ。地獄耳よ」
その時は客観的には、七八割は死を宣告されていた身だったが、本人はそんなふうには思わず、のん気で、むしろ急に老けこんだように見えるアッケラを、そっと見守っていた。
「店をやめることになってね」
と彼女はいった。
「ほう――」
「娘の亭主が転勤でね。東京を離れるのよ。で、思いきってあたしに一緒に来いっていうの。なんだかねえ、泥水育ちのあたしが、うまく折り合えるかどうか、心もとないんだけどねえ」
「そりゃァいい。どうせ、行末は娘さんたちの世話になるんだろうから。早い方がいいよ」
アッケラは、はかばかしい返事をしなかった。思いなやんだせいだろうが、ちょっと疲れているように見えた。
私も、ずっと点滴だけの身で痩《や》せ細っていたが、自分よりもアッケラの方が、どうしてかお羽黒トンボのように見えた。
「東京を離れてしまうと、あんたとも、会えないかもしれないねえ」
「アッケラ――」
別れるときに私は笑顔でいった。
「大丈夫だよ、案ずることはない。娘さんがあんたの気性はみんな呑みこんでるよ」
元気でやれよ、と私はおしまいの一句を、口の中でいった。
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赤 い 灯
国電の線路ぎわを歩いていたら、女の靴が片方転がっているのを見かけた記憶がある。ただの空想や夢が長年の間、頭の中にたゆたっているうちにこんぐらかって、現実の出来事かどうかわからなくなってしまうことがしばしばあるが、これはたしかな事実だったと思う。
それはハイヒールではなくて、女学生がはくような踵《かかと》の低い粗末なものだった。たしか中野の先の方だったと思うが、靴底を上方に向けて砂利の中に半分沈んでいた。私が小さな出版社に職を得ていた頃だから昭和二十六七年頃で、中央線がまだ高架でなく、地面の上を直接走っていた頃である。
私はしばらく立ちどまって、その片方だけの靴を眺めていた。靴はそこに転がってかなりの時をへているようで、皮の色が風雨にさらされている。
附近の誰かが、ごみや不用品をこんなところに捨てたのだろうか。それは一番おとなしい想像であって、ばらばらにされた轢死体《れきしたい》の一部が飛んで、それが意外に遠くだったために見落されてそのままになっている、というような想念が浮かばざるをえない。
だとすると、靴だけが脱げて遠くへ飛んだのだろうか。それとも、靴の中身も一緒に千切れて、足首が入ったままになっているのだろうか。
それだけのことで、その靴がどうしてそこにあったか何もたしかめられたわけではない。そのときはあれやこれや類推することを面白がる気分の方が濃かったが、あとで考えると少々うす気味わるい気がしないでもない。
その当時、私は月のうちの大部分一文無しで、したがって社の仕事で原稿をとりに行くときも電車賃がなくて歩いていった。都心ならば都電に沿って、郊外ならば国電の線路わきを歩く。安月給のせいもあったが、その以前にグレていた時期があるので、体質が勤め人になり切っていない。小遣いを月の中で割って使うということができない。交通費を請求するが、その金は、何に使うというわけでもなくあッというまになくなってしまう。
だから私の働き振りは何をするにも時間がかかって不評だった。定期券を買わないから、出勤するにも歩かなければならない。朝、家を出たとしても昼近くになる。昼まで寐てしまうと、起きてすぐ飛びだして夢中で走っていっても夕景に近くなる。同僚は呆《あき》れるが、本人は出勤しただけでへとへとに疲れている。
そうしてよく呑んだ。金もないくせに、なんとか呑ましてくれる店がけっこうあって、終夜盛り場を徘徊《はいかい》していた。都電の始発に乗って帰ってくる。するといつも同じ牛乳配達と会って、つくづく自分が遊冶郎《ゆうやろう》だということを思い知らされる。
そういえば、六郷川の件はどうだろう。私は事実談として近頃でもよく人に話すが、実際はどうだったのだろうか。
「昔、六郷川の鉄橋の上で寐ていたことがあってね」
「――酔っ払ってかい」
「ああ。眼をさましたら鉄橋の上だったんだ。それで立ちあがって鉄橋を渡りきって、しばらく線路伝いに歩いていたら、向こうから電車が走ってきた。始発だったんだろうな」
「嘘《うそ》だろう」
「本当だよ。あの頃はどうしてか悪酔いしたね。電車に乗ると終点まで行ってしまって、その駅のベンチで夜明かしをする。そんなことは珍しくなかった。けれども、その晩は新宿で呑んでいて、市川へ帰る連れと一緒に国電に乗ったんだ。それははっきり憶《おぼ》えている」
「新宿からの電車は六郷川を通らないよ」
「ああ、途中で乗りかえなければね、だいいち俺は六郷川なんてふだんは縁がない」
「変だな」
「変だろう。嘘ならもう少し筋をとおすよ」
こんなふうな調子なのであるが、会話の性質上、ちょっと端折《はしよ》った部分がある。それは蒲田《かまた》の駅で、駅員にうながされて、そこ止りの車内からホームにおりたったことをうっすら憶えているのである。
乗りかえたことは記憶にないが、多分、飯田橋でおりるつもりで乗り越し、終点の東京駅まで行き、半ばうすれた意識でホームにおりたち、ふらふらと別のホームに行ったのであろう。そこで京浜線の終発に乗って蒲田でおろされる。
駅をどうやって出たか知らないが、いつものとおり線路ぎわを歩いているうちに、どこかで寐てしまったのであろう。
六郷川の川風が冷たくて、上に星が見え、橋桁《はしげた》の間から下の方に草地が見えていたことを、その当時は事実と思っていたが、だんだん年月がたってみると、鉄橋の上に寐ていたなどはいかにも話を大仰にするための作為が混じっているように思われてくる。
昔のことは、いずれも夢のように茫漠《ぼうばく》としてしまって、記憶をはっきりさせようがない。けれども、鉄橋の上であろうと普通の線路の上であろうと、まもなく電車が走ってきたので、どうかした拍子に眼が覚めなかったならば、そこが私の死場所になっていたのである。
ひょいと、眼を覚まして立ちあがってみると、そこにあの片方の靴が転がっていたということになると、いささか怪談風になってくるのだが、これはもう別の日、別の場所のことで、記憶の混じりようがない。
粋《いき》がった先輩に教わって、はじめて生レバというものを喰べた。豚の生レバに大蒜《にんにく》の擂《す》ったのをなすりつけて喰う。もちろん鮮度が問題だが、うす気味わるく冷たくて、味もないに等しい。
グレていたまっ盛りの時分で、私は十七か八。昼も夜もぶっとおし、毎日遊ぶから、いくら若くても身体が雑巾《ぞうきん》をしぼったようにスカスカになる。
「おう、生き返るな、極楽極楽――」
先輩はそういって、レバの一片ずつを、しゅるッ、と音させて口に含む。血汁のようなものをごくっと呑みこむ感触が伝わり、唇がうまそうにぬめっと光っている。
「どんどん喰いなよ、精がつくぜ」
レバの合の手に、焼酎《しようちゆう》に唐辛子の粉をまぶした奴を、きゅっとあおる。先輩は、喰い物といえば、生レバ、軟骨、タン塩、それだけで、他の物はいっさい口に入れない。そのかわり懐中を叩《はた》いて五六十本も喰う。
そのうち私も、うまいと思うようになって一人でもよく出かけた。それが当時の私の奢《おご》りだった。
ヤミ市とはべつに、葦簾《よしず》にかこまれた赤提灯《あかぢようちん》が駅の周辺などに並びだした頃だ。
人形町の裏通りに、ハルちゃんの屋台というのがあって、私のために、入荷のすくない新鮮なレバをとっておいてくれるようになった。その頃、人形町から鎧橋のあたりにかけて、小ばくちがもっともさかんな一帯だった。
ハルちゃんは当時二十七八だったか。私にはおばさんに見えたが、里芋を逆さにしたような顔つきで、笑うと金歯が見える。酒が呑めないし、とりたてて愛敬があるわけではないが、気さくなのが取柄だった。
私の顔を見ると、勝負事をやってると知ってて、
「どうしたの、今夜は受かってるの」
と必ずきいてくる。
「駄目だよ。はっきりしない」
「それじゃまだ寐れないね。中つぎだろ。お酒はやめとき」
「一杯だけおくれ。気合をつける」
生レバを喰って、銭をおこうとすると、
「いいよ、また目が出たときに貰うから」
「このくらいは払えるぜ」
「いいったら。出銭はゲンがわるいだろ」
「それじゃ、な」
「お稼ぎなさい」
「ああ、お稼ぎ」
ハルちゃんの屋台はなかなか繁昌《はんじよう》していて、粗末な木の長椅子《ながいす》にたいてい客が鈴なりになっていた。土地柄、商人や遊び人が多いが、医者や会計士で日参する人もある。だからどうしても店じまいがおそい。夜明け近くまでやっていることがある。
一度、彼女の巣まで、屋台をうしろから押してやったことがあった。
小伝馬町に寄った方のバラックに間借りしていた。亭主と小さな子が二人居るという。亭主は洋服の職人だが、病気でずっと寐こんでいる。
「これから帰って子供の弁当をつくってやらなくちゃ」
「なんだ、もう学校へ行ってるのか」
「そうじゃないけど、あたしが寐てしまうからね。朝と昼の弁当。亭主の分も」
「大変だな」
「病気ひとつできないよ。あたしが寐たら親子四人飢え死」
「貧乏くじをひいたな」
「――戦争中でね、ろくな男が居ないときだったから」
彼女はいつも黒っぽい絣《かすり》のような着物、私は黒シャツの着たきり雀で、袖口も襟も垢《あか》で艶々させている。洗濯してやろうか、と何度もいってくれた。彼女には私がまだ本当の子供に見えたのだろう。
私は他の土地でも遊んでいたから、常時ハルちゃんの店へ顔出しはできなかったが、だいぶ間をおいて行ってみると、ケミーという似たような年頃の女が屋台を手伝っていた。二人は古い友だちだという。
ケミーはハルちゃんと対照的にグラマーで、なにかというとオッパイを誇示したがる。酒が強いから客の相手もできるし、その点では屋台がぐっと華やいだ。ハルちゃんはもっぱら水仕事をしたり焼鳥を焼いたり、ちょっと見にはケミーに使われているように見える。
それはいいが、おそくなるとたいがいケミーが酔っぱらってしまって、何の役にも立たないどころか、ハルちゃんは客とケミーを両方あやさなければならない。
ケミーにも子供が一人あり、親子でハルちゃんのところに転がりこんできたのだそうで、昼間は二人で仕込みをやり、夕方、ハルちゃんが屋台を曳《ひ》き、ケミーが後押しをして出てくるが、帰りは屋台を曳くのはハルちゃん一人で、ケミーの方は正体がなくなり、ハルちゃんの荷物のような形で帰っていくのである。
「ケミーってのはどういうわけ?」
「あけみよ、だからケミー」
「そうか、あけみが本名か」
「本名じゃないわよ」
「ふうん――」
ケミーとハルちゃんは、以前、同じ一座で踊っていたのだという。戦争が烈しくなる前のことだが、踊子といっても洋舞ではなく、漫芸団と称する一座に居たらしかった。
ケミーはうすく色のついた縁なし眼鏡をかけていた。
「眼鏡をかけて踊ってたのかね」
すると彼女は眼鏡をとって、毛糸のセーターをふくらませたまま、深夜の路上で所作を演じてみせた。
※[#歌記号]はッ
みずごり みずごり
とおく雪さえ風さえ せってね
かんのまわしに笠ひとつ
足よわを
かかえいたわり
むんじゅくわえて
すっこらさとまいる
はッ はッとね
ほら、ハルちゃん、と相棒をうながして、
※[#歌記号]ほうたい ほうたい
闇にまぎれて
思案がみだれ
娘よくきけ俺さが心は
さすり
おさわり
かばちこ 突つきやぶからし
はッ はッとはッとはッとね
察するに道行のパロディであろうが、二人が男と女にわかれて所作を演じ、客よりも本人たちが笑い崩れて途中でやめた。もっともそういうことはその晩一度だけだったと思う。
その頃は私も度ごとに銭を払わず、ときおり見当をつけて渡すようになっていた。多分、徐々に勘定が溜《たま》っていったのだろう。
いろちゃん、と私のことをいっていたのが、間に子がついて、いろ子ちゃん、となった。ケミーは、いろ子、と呼びすてにした。
けれども私たちの間柄は少しも色気がまじらなくて、私は一番若い常連客というだけだった。
ある寒い夜更け、客の姿もなく、ハルちゃんが屋台のある道のまん中で、ぽつんと立っていた。
「ケミーがどっかへ行っちゃったよ」
「どうして――」
「客と一緒に、さっき出てったんだけど、しょうがないねえ」
「酔っぱらってるんだろう。いつものことじゃないか」
「でも、いつもは帰ってくるのよ。この時間やってる店はないよ」
私は焼酎を貰い、唐辛子を少し落した。
「あんたたち、レズかね」
「なに?」
「同性愛かよ」
「馬鹿ねえ」
「じゃ、どういう仲だい」
「友だちよ、もう聞いてるでしょ」
「何年、一緒に踊ってた」
「一年半、くらいかしらね」
「友だち、か」
「あの人、親兄弟、ないのよ」
「亭主は?」
「そんなもの、最初からないよ」
「子供が居るんだろう」
「あたしもね――」と彼女はいった。「一人ッ子だよ。親は空襲でね。死んでどこへ行くわけでもないし、骨と粉だけであとは何にもなくなっちゃうんだから、もう永久に一人だよ」
「あんたは亭主と子供が居るな」
「そう、病人のね。――だからケミーとあたしは、親戚で、姉妹で、親子でもあって、何もかもひっくるめた関係よ。もう離れるわけにいかない。ケミーがここへ来たとき、そう思ったよ」
私の次に若い客で、上野という人が居た。新婚で、小さな玩具店を通りに出したばかりだった。毎晩来て、にこにこしながらコップ酒をなめる。たしかに好青年だったが、ケミーが猛烈にほれたという。
商店街の寄合いの帰りに、先輩の店主たちと呑みに来て、一番隅に坐り、遠慮がちにしている彼に、彼女はいつも集中的にサービスしていた。
「上野ちゃん、さわってごらん」
彼の膝の上で大きな乳房を出して見せる。他の客には見向きもしない。
「ね、さわってごらんよ」
彼の方は弱っている。ケミーはもちろん新婚の邪魔までする気はないし、彼もそれはわかっているが、街の先輩たちと来て自分だけふざけるわけにはいかないという気がある。
あはは、とソツなく笑い、先輩たちが立ちあがると救われたように出て行く。ケミーは気持のやり場がなくて、深酒になってしまう。
上野は、数軒おいた近くの大きな商店主にいっとき眼をかけられて、よく一緒に呑み歩いていたようだが、結局、金貸しも兼ねているその商店主にひっかけられた形で、店を取られてしまった。夜逃げする前の晩、一人で屋台に呑みに来て、わずかな借金を払っていった。
その次は郵便局の青年とだった。これは男の方が喰いドクとばかり、一気に気が合ってどこかへしけこんだ。そうしてそれっきりだった。ケミーの方も、あんな奴一度で嫌になった、といっていた。
常連客のうち、特に老人たちが、淫風《いんぷう》が吹くといって怒りだした。色気抜きだったハルちゃんの屋台の気分がこわれるというのである。
ハルちゃんが母親のような顔つきになって謝る。ケミーも郵便局の青年でこりて、今度は年寄りたちを挑発して面白がるようになった。
禿、と呼ばれる老職人が居て、彼とケミーはいつも、やらせろ、やらせない、で揉《も》めた。手前なんかな、行き倒れちまえば、いいんだ、この、罰あたり奴《め》――。そのくせ禿は毎夜かよって来て、ケミーがガブ呑みしてしまう分まで払っていくのだった。長さんという肥大漢の老運転手もあしらわれながらかよってくる組だった。長さんは冬の夜、屋台から五メートルほど離れたところで不意に倒れ死んだ。
全身に刺青《いれずみ》を彫っている商店主が居た。彼は、大将、と呼ばれて取り巻き連以外には敬遠されていた。地声が大きいうえに、訛《なま》りが烈しい。酔うとよけい何をいっているのかわからない。で、彼は一人でいきりたってわめくような調子になる。
あるとき、彼がハルちゃんに執心で、連夜|吠《ほ》えているのは、何とかしろといっているのだとわかった。何だかわからずにハルちゃんが生返事をしていたせいもあり、また彼が取り巻きを連れていた手前もあって、そうとわかった夜は、大将はすでに怒り狂っていた。
「にぇい、すっぽって、ほかすンかァ――!」
大きな掌で台を叩いた。何度も顔を潰《つぶ》されてへらへら笑ってもいらんめえ、今日は首に綱つけてもひっぱっていく、そんなことをいった。
「ハル。大将をなめるな」
「生意気だぞ」
取り巻き連もどなる。
客の焼鳥を焼きかけていた手をはじかれた。
「ハルちゃんは亭主があんのよ。あたしを連れてきなさいよ」
「おン前なんぞ、すっこんでろ」
大将は焼鳥の大皿を路上に投げて、粉々にした。
「商売なんぞさせね。屋台はひっくり返す。俺ァの采配で明日からこの一帯を歩かせね」
ケミーがハルちゃんのいつも居る位置に代って立った。
「あたしンとこだって、これがあんのよ」
肉庖丁を示した。
「やってみィ、いェィ、面白え」
「脅しじゃないよ」
「俺ァもだ、やれッ、こう、斬ってみろ」
ケミーが両手で庖丁を持って大将の肩先に振りおろした。私たちは峯打《みねう》ちしたのだとばかり思っていた。ところが大将の浴衣がみるみる血で汚れだしたのである。
ケミーは取り巻きに殴られて眼鏡を飛ばした。彼女は昂奮してぽろぽろ涙をこぼしていた。
「もっと殴って頂戴よ。連れてってどうでもするがいいや。でも、覚えとけェ大将、ハルちゃんに何かしてごらん。今度は胸を一突きしてやるから」
ハルちゃんが近くの薬屋を起こして応急処置をしてやり、大将は取り巻きに囲まれて帰った。この一件は表向きにならなかった。
常連客たちは、このことがあってから、吹き寄せられた流木を見るような眼でケミーを眺めることをやめて、ハルちゃんとケミーの店だと認識するようになった。
けれども附近の商店主たちが後難をおそれて、この通りに屋台を入れさせない取りきめをした。このときも、常連客の何人かが働いて、ハルちゃんの住居にぐっと近い空地の一隅で商売できるようにした。ベニヤで囲った屋台に毛の生えたようなものだったが、毎日、曳き廻さなくてよくなった。
赤提灯に、おやま、という名が入った。焼鳥屋としては変った名だが、地名で、ハルちゃんが生まれた土地らしい。
常連客のほとんどは大分歩いて来てくれたし、新しい客もついた。けれども、そこに集う客は、いずれも、彼女たちに対して忌憚《きたん》のない交際をしているとはいいがたかった。哀れで、つましくて、好感の持てる存在だけれども、自分たちとは微妙に一線が画された女たちで、彼女たちと向かいあっていると安心できるのだった。そう意識的ではないけれど、自分たちが安心できる存在であることを、知らぬ間に要求しているようなところがあった。
ハルちゃんはハルちゃんなりに、ケミーはケミーなりに、その分を心得ているところがあって、それでわずかに空地の一隅に定着するという幸せがもたらされたのだった。焼鳥屋とはそうしたものだと思ってしまえばそれまでのことだけれど、だんだん世の中がおちついてくると、彼女たちと客との差が、比例してついてくるようだった。
そのうちに私も無頼の足を形ばかり洗い、市民生活の下積みの方に居場所を変えた。けれども私は、小さな空地の一隅に定着したつもりはなかった。先のことはわからないし、空地の一隅にすら定着できないかもしれない。その不安定なところが一種の救いで、どこであろうと定着などするものか、とひたすら自分にいいきかせていた。
で、私は他の常連客のように、彼女たちを区別した眼で見ようとは思っていなかったけれど、また一方で、彼女たちの分を心得たつましさに同調もしていなかった。
彼女たちももう三十を大分越えており、安直な店としてあいかわらず盛ってはいたが、世間の変化につれて客筋もだいぶ変っており、医者や会計士などはめったに現われない。禿は患った後死んだという。早い時間は商店や小企業の若い人たちで埋まり、彼等《かれら》は彼女たちを色気の対象には見ない。おそい時間は商店主の常連が来るが、彼等も、主として家庭の鬱憤《うつぷん》や世の中の乱れを嘆いたりしておとなしく呑んで帰るだけだった。彼女たちだけが、当初のつましいところに居て、それは離れ小島に置きざりにされているようなものだった。
昼頃から、配達された臓モツ類を、血汁に汚れながら小さなナイフで細かく切りきざんで串《くし》に剌す。夜は、子供たちが寐静まる時間まで店にたてこもる。それで、酒屋の勘定をかつかつに払って残らない。
その空地のあたりは周辺の中で、ぽつッと暗がりで、赤い提灯がかえって沈んだ色に見える。
私が現われると、彼女たちは、若い客たちに向かって交《かわ》る交《がわ》る昔話をする。
「この人はね、昔、暗黒街の有名人でね」
「よくやってたねえ、ばくち。痩せて骨と皮でさ」
「生レバ――」
「そう、それと焼酎に唐辛子の粉かけて」
「それで往来走っちゃうの。酔っぱらうのよ、あれが一番安あがり」
「お金がなくてねえ」
「泥々の黒シャツ」
「とっくにどうかなっちゃうと思ってたけどさァ」
「いろ子ちゃん、元気だったァ?」
彼女たちは、なんとなく世間との差を感じていて、そうでなかった頃をなつかしんでいるのである。
ハルちゃんは少し老けてひとまわりしぼみ、眼と口の大きさが目立つようになった。ケミーは反対に肥えはじめ、もともとグラマーだったのが、ぼってりとたるんで見えた。全体に重そうだったが、口のあたりにも肉がついて締りがわるくなり、言葉が不明瞭になった。
もちろん、他人のことばかりはいえない。私も黒シャツは着ていなかったかわり、世故《せこ》ずれて、下卑《げび》てきていたと思う。
ある夜、珍しく客がいっせいに帰ったので、カウンターに腰かけているケミーに訊いた。
「娘さんはいくつになった」
「子供、どうして?」
「うん――」
「いろ子――」とケミーがいった。「呑んだら、行こ」
「――呑みにかい」
「なんでもいいわよ」
ケミーは隣りにきて、ゆさゆさする胸のものを押しつけてきた。
「ね、行こ――」
その夜ふけ、私たちは上野へ行って、まず呑んだ。ケミーの呑み方は想像したとおりただ野卑で、痴呆《ちほう》のようになるばかりで、私にとって少しも面白くなかった。彼女に対する親しみは変らないのに、うとましさが増した。多分、友だちのように見えて、私も少しも友だちではなかったのだろう。私はトイレに行くふりをして店の人に金を渡し、一人で巣に帰った。
その次、日をおいて行ったときはケミーの姿が店になかった。ケミーはお休みよ、とハルちゃんがいった。彼女たちの店は年中無休だったのである。
「病気かい――」
「あたしが少し怒ったら、出て行っちゃったのよ」
ハルちゃんは弾まない調子でいった。
「だってさァ、毎日、朝帰りだろう。子供の手前もあるよ。あたしの子ばっかりじゃない、自分の子にだってさ」
私はだまって煙草《たばこ》を吹かしていた。
「いろ子ちゃん、洋服、作らない」
「自慢じゃないが、洋服を作るほど銭を稼いじゃいねえ」
「安くしとくよ、お金なんかいつだっていいんだよ」
「ははァ――」と私はいった。「旦那が元気になったんだな」
「まだ本復じゃないんだけどね。ときどき、働くようになったのよ」
「すげえな」
「駄目だよ、人並みじゃないんだけどさ」
ハルちゃんはケミーより子持ちが早かったから、もう母親の手を離れかけていた。上の娘は勤めに出たというし、男の子も中学を出たら働くといっているらしい。娘の勤め先が一流会社だといって、ハルちゃんは涙ぐんだ。
「こんな親だのにさ――。うまく育ってくれて」
けれども私はケミーのことを考えていた。赤提灯の中で、世間との差がどんどん開いて、と考えていたが、赤提灯の中でも、二人の状況に微妙な差がつきだしているのだった。ケミーには亭主が居ない。店もない。枝にひっかかった凧《たこ》のように、やっと存在を保っているだけで、自分を変える手がかりがない。
ケミーは一再ならず出て行っては、数日すると悄然《しようぜん》と戻ってきてしまうらしい。
あるとき別の店のママとおそく呑みに行っていた。そのママは着物の袖に私の手を入れ、その手を着物の中でこっそり背中の方にひっぱり、脇の下から廻して乳房を握らせていた。ママの向こう隣りに彼女の情人も来ていたので、ママとしては冒険を楽しんでいる風情だった。私はあいている右手をわりに派手に動かして見せて、左手のないのをごまかしていた。
そこへ、やつれた感じのケミーが入ってきた。
「ハルちゃん、あたし、坐っていい?」
「――どうぞ」
ケミーは私の姿など眼に入らないようだった。
「ハルちゃん、あんたの昔持ってたのとそっくりの帯留めねえ、デパートで見かけたよ、今度見に行かない」
「あんた、そんなところへ坐っていると銭を貰うよ。お客じゃないんだからこっちへ来たらどう」
ケミーは小走りに裏へまわり、こんなときに限っていそいそと水仕事などやる。
それですんでしまうらしかった。そうして何日かたつと、しょうこりもなく乱行がはじまるのである。
「ケミーの再婚、じゃない、初婚か、とにかくそういうことを考えるべきじゃないか。あのままじゃ、身体だって駄目になる」
そんなことをハルちゃんに提案したことがある。けれども私自身、知人にケミーを紹介する気はなかったし、はなはだ無責任ないいかたであった。
「あるかねえ」
「あるんじゃないの。年寄りかもしれないし、子だくさんかもしれないけれど、だからって悪い条件とは限らないよ。カミさんを失って不自由してる男なんか、探せば珍しくないよ」
「そりゃ男はたくさん居るだろうけど」
「当人だってその気あると思うな。あんなに男を欲しがってるんだから」
「でも、ケミーは初婚で、娘が居るのよ。そういう事情をわかってくれる人となると、むずかしいよ。中に入ってくれる人にだっていいにくいわ」
「店へ来る客で、そこいらを呑みこんでくれる男が居ないかい」
「ケミーがあれじゃねえ」
私はたいして名案も浮かばないまま、言葉を続けた。
「それでも、ケミーだって居場所が必要だ。皆がごく普通に持ってるようなものがね」
「あの人は、あたしの家族よ」
「それはわかってる」
「ケミーだってそう思ってるよ」
「そうだけれどもね――」
どんな男だっていいじゃないか、とはさすがにいわなかった。厄介払いという発想ではない。またそれではハルちゃんが納得しない。私だって、ケミーを案じていた。けれども、案じることはできても、救うことはむずかしい。
新宿のデパートの前で、昼間、ばったり会ったことがあった。
「いろ子――!」
ケミーはそういって私の足を止め、まっ昼間なのににやにやして、スカートの裾を持ちあげた。
「ほら、触ってごらん。足が細くなったよ。身がなくなってきたのかしらねえ」
ケミーが離れないので、私たちは中華ソバ屋に入って、焼ソバとビールを頼んだ。横に坐ったのでわかったが、彼女は酒くさかった。
また出て来ちゃったのよ――、と彼女はいった。もう帰らないよ――、ともいった。ケミーは眼鏡をはずして卓の上においた。そうして私の身体に手を伸ばしてきた。
「楽しもうよ、いろ子、花の青春はすぎちゃったけどさ、あたしだってまだやれるんだから――」
「おい、しっかりしろよ」と私はいった。「娘が居るんだろう。お前がこんなことしてるひまがあるかい。娘がすぐに追いついてきて、追い越すぜ」
ソバが来たとき、ケミーが不意に泣きだした。うッ、うッ、と声を放って泣いた。店の中の視線がこちらに集まった。
「娘の顔が見られないよ――」
ケミーはそういった。
「もう何年かすると、娘だって、一人前のことをしたいだろう、男も作りたくなるだろう、――呑まなきゃ娘が寐てるところへ帰れない」
「娘は、ケミーの、妹になってるのか」
彼女は身もだえするように身体を揺すった。
「籍は、何かの形で入ってるんだな」
学校に行ってるのだから、籍がない筈はない。
「いいさ、娘は娘だ、なんとでもなるよ」
「何度か、死のうとしたんだよ。出てくるときはいつも死ぬ気なのよ」
店主が、私が女を泣かしてると思って、咎《とが》めるような視線を浴びせてきた。実際、私の風態はそんなふうに見られても仕方がない。外見ばかりでなく、内実も他人に説教ができる立場ではなかった。私は少しの間従事していた実業らしいものを廃《や》めて、その頃はまた無職だった。競輪などをやってわずかにその日をしのいでいた。私は、焼鳥を前にした常連客のように、安心してケミーに対していたのかもしれなかった。
結局、私はケミーそのものではあり得なかった。だから彼女の泣き所をただ押してみたにすぎない。私は金がないせいもあったが、自分のことにかまけて、長いこと彼女たちの店に行かなかった。
その次行ったとき、やはりケミーの姿はなかった。
「あいかわらず出奔かね」
「ケミー――? お嫁に行ったわ」
「へええ、そうかい」
それで話がとぎれた。で、私の顔を見るとすぐ報告するような話ではないのだな、と思った。ハルちゃんとしてはあまり乗り気にはなれない、後味のよくない嫁に行きかたをしたのだ、と想像できた。
「ケミーは泣いたんだけどね」
「嬉し泣きの方じゃないんだな」
「でも、どの道、苦労は避けられないんだからねえ。ここが辛抱のしどころだよ。ケミーも電話でそういってきてるし」
「もう、どのくらい?」
「二カ月半になったかしら」
「それじゃ大丈夫だ」
私は相手の人のことをほとんど訊かなかった。訊いたって私が力になれるわけはない。
ハルちゃんの店は、娘が勤めをやめて、いっとき手伝っていた。その娘もまもなく嫁に行った。息子は勤めには出ないで、地方名産品の註文《ちゆうもん》をとって歩き、品物をとり寄せて販売するような仕事を自力でやりだしている。
ハルちゃんは一人で店を続けているが、日曜祭日は休むし、十一時半頃にはさっさと店を閉めてしまう。いわば普通の商店並みになったのである。
ケミーが自殺したのは、嫁に行って二年目のことだった。飯田町の貨物引込線に飛びこんだのだという。私が偶然店に立ち寄ってそのことを耳にしたとき、初七日がすんだばかりだった。
「ずいぶん我慢したようなんだけどね」
「幸せにはなれなかったんだな」
「ひどい仕打ちをされたんだろう。そうじゃなくて、誰が死ぬもんかね」
娘の顔が見られない、といって泣いたケミーを私は思いだしていた。
「あたしがすすめたのがいけなかったんだよ。嫁に行きさえすりゃ幸せになれるんなら、女なんて簡単だけど――。まわりのやれる事なんて、こんなものなんだね」
「で、娘は、ケミーの娘は――?」
と私は訊いた。
「あたしが引きとってるよ。あの子はあたしの子よ。ずっと前から、ケミーに何かあったらあたしの子にするつもりだった――」
ハルちゃんが店をしまいはじめたので、ケミーの追憶にひたりながら送っていくつもりで、彼女と肩を並べて店の外に出た。
満月に近い月が空の高みにあって、道にくっきりと影をこしらえている。
ハルちゃんの住居はほんの二三分のところだ。少し話しこんだので閉店がいつもよりおそくて一時を廻っていただろうか。人通りは絶えていたし、車が通るほど幅のある道でもなかった。
私たちは自分の影法師と一緒にゆっくり歩きながら、ハルちゃんの住居のそばまで行った。影法師が道に長く伸び、さらに家並みの塀やガラス戸にまで伸びている。もう少しまっすぐ歩けばハルちゃんの住居という、通りへ出る横丁のところで私たちは立ち止まった。
重ねて書くが、人通りは絶えていたし、車のヘッドライトがあったわけではない。二人が立ち止まったのに、影のひとつが止まらずに、すっと先へ動いていった。私たちはぽかんとしてそれを眺めていた。
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善 人 ハ ム
突然ですが、肉屋の善さんについて記してみたい。
近頃の団地やアパート街では住民の横の交流が濃くないので、だいぶ感じがちがってしまったが、以前というものは、どこの町内でも、その一帯だけに通じる人気者が居たものである。つまり、私たちはそれぞれ地に根をおろして住みついたつもりになっていたのだろうと思う。
私が生まれ育った町内にも、いろいろスターが存在していた。髭重さんという、髭の立派な老人は町会事務所に欠くことのできない人物で、出征兵士の歓送、ラジオ体操、少年相撲大会、毎朝の国旗掲揚から葬式の弔辞まで、いつも町内を飛びはね、独特のしわがれ声が誰にも親しまれていた。しかし結局、私は髭重さんの本職が何であったか知らない。私ばかりでなく、近隣の人も知らなかった。要するに、生まれるとまもなく立派な髭をはやし、挨拶ばかりしていた人のように見えた。
マッカーサー。――あの占領軍のボスのダグラス・マッカーサーその人ではない。松川さんという、化けて出そうな年齢のお婆さんで、破《わ》れ鐘《がね》のような声を出す。この女性が何かを主張しはじめたら、うるさくて誰もさからえない。それゆえ、本名をもじって呼んで、お婆さんと面と向かうと、皆、不動の姿勢になった。
柳家金語楼、これは本物が町内に住んでいた。彼は息の長いタレントだったが、ピークは、私の幼時の軍隊落語℃桾ェではないかと思う。それで大邸宅を買った。キンゴロウ、という発音はおぼえやすかったが、人間の名のようでなくて、幼い私は、正体は何だろうかと思っていた。
私にとって、金語楼がもっとも精彩を発揮して見えたのは空襲期である。その頃は、ときたまの慰問ぐらいしか仕事もなく、彼の邸宅も焼け失《う》せて、多分、近くの焼け残った場所に宿借りをしていたと思う。
喰う物もない時期に、苦心して調達してきた酒で、ひそかに一盞《いつさん》している家があるとする。すうっと、金語楼が入ってくる。彼はあがりこみ、その亭主とともに語らい、ともに唄い、際限なく笑いあって、酒がなくなる頃、すうっと消え失せていく。焼けはぐった家だろうと、バラックだろうと、トタンでかこった壕舎だろうと、見境《みさかい》がない。むろん、同町内というだけで、平生は口をきいたこともない人たちが大半である。とにかく酒の匂いさえすれば、すうっと、陽気な幽霊のように現われる。
私の父親は酒をたしなまなかったが、同居していた罹災《りさい》者が比較的物資を入手する才覚に富んでいたので、私の家にもたびたび現われた。唐紙一枚へだてて、部屋の主と一緒くたになって呑みかつ笑っている様子が手にとるようにわかる。金語楼は実にどうも、軽快で、ふてぶてしくて、今夜の酒はもうおしまいだという気配を見るや、何のためらいもなくすうっと消えていく。私はただもう讃嘆し、尊敬の眼でこの人物を眺めていた。
肉屋の善さんが、町内の有名人になったのは、日中戦争のごく初期に、金鵄《きんし》勲章を貰ったからである。この勲章は戦死者が対象になることが多く、生存している一兵卒に与えられることが稀れであるうえに、当時は戦争がはじまったばかりで、町内どころか界隈《かいわい》でもはじめての人だった。
むろん新聞記事にもなった。善さんはそのときすでに帰還していて、英雄として、区主催の、母校である小学校の、また町内の祝賀会にひっぱりだこになった。髭重が、最大級の讃辞をつかった祝辞をかけもちで読みあげた。
善さんは母親につきそわれ、ごわごわの和服で突っぱらかって、神妙な顔をしていた。彼は、背丈も肩幅もがっしりし、骨太で、そうして眉も髭も濃く、いかにも精力的で、勇猛な兵士に見えた。しかし五分刈りの頭にはその頃すでに白髪があったように思う。私はまだ小学生だったが、今考えてみて、善さんの若々しい顔を知らない。そのとき初年兵ではなく、ずっと前に兵隊検査をすませており、甲種合格で兵隊として理想的に見えたため、まず徴兵係の眼にとまって、まっ先に召集されたのではないかと思う。
そうして長い戦争の間、実に頻々と、善さんは召集され、不思議にかすり傷ひとつおわずにいつも帰還する。
善さんの家は母親との二人暮しで、これも理由はわからないが、彼は結婚しない。町内の知名人であり、べつに男前ではないが、人一倍精力的に見え、しかも勇士にありがちな粗暴なふるまいはまったくない。寡黙ではあるが、話しかけられればにこにこしている。こういう人物には、普通、糟糠《そうこう》の妻なるものが居るような気がする。居なければ、周辺が放っておかない。
だいいち、善さんの本業は肉屋で、商店というものは、妻君が居ないと不便なことが多い。戦場との間を往復しながら、帰還している束《つか》の間《ま》のあいだ、彼はたった一人で店に立ち、彼らしくなく陰気に、店を切り盛りしていた。召集がくると、店を閉めてしまう。
私はその店の前をよく通るし、母親の使いで何度も買いに行ったことがある。
客が居なければ、店には誰も居ない。店先で声をかけると、いらっしゃい、という低い声がして、善さんが現われる。
こちらの註文を訊いて、ケースの中の肉片をうすく切ってくれる。あらかじめうす切りにして値段別に並べておくということをしない。また多くの店が、油脂の部分を利用してコ口ッケやカツを揚げる、そういうこともしない。ただ、ケースの中に肉片が、投げやりに放りだしてあるという感じである。
そのうえ、どういうわけか、彼の店には、いわゆる霜降りのすき焼用ロース肉をおいてなかった。脂身のない、赤いところばかりで、そういう部分にも質の上下はあろうから、べつに不当な商いというのではないのだが、すき焼用、と念を押しても、だまって赤いところを切ってくれる。
「善さん、脂ンところが嫌いなのよ」
という定評になっており、
「きっと、あの商売をあまり好いてないんだわね」
という声にもなっていた。
その時分、大通りの方に公衆市場ができてぼんぼん盛った。勇士の店は、対照的に閑散としていた。そのうちに戦時下の統制期になり、それでなくとも売る品物がなく、彼の応召と関係なしに店は白いカーテンで閉ざされたままになった。そうして、やがて空襲で焼け失せた。
戦争が終って、ふと気がつくと、旧住居のあたりの焼跡に、あいかわらず精力的な身体をした善さんがちゃんと住みついているのだった。店のあった部分は復活していなかったが、少し奥まったところに小さな壕舎があった。何をして暮しをたてていたかしらないが、すぐそばの幼稚園跡に木製のベンチがおいてあり、周辺の人たちがたむろしていつも駄弁《だべ》っている。善さんのあから顔もその中にあって、彼は愉快そうに高笑いをしていたりする。店に居るときの表情とはちがう。まァしかし、もともと明るい人物だと私は思っていた。
当時は乱世で、善さんに限らず、何をして生計を立てているか、誰しも定かではない。しかし町内の女房連からは、善さんはあいかわらず、寺町のお肉屋さん、と呼ばれていた。
いつも、不思議というか、面白いと思うのは、肉屋はどこの肉屋もお肉屋さんと呼ばれ、豆腐屋はどこの豆腐屋もお豆腐屋さんと呼ばれる。通産省に勤めている人を、通産省さん、とは呼ばない。
通産省と町内の女房連は直接の関係はないから、といってしまえばそれまでであるが、そればかりでなく、肉屋は肉を売る人、豆腐屋は豆腐を売る人、という機能でしか眺められていないような気がする。これは知識人が庶民を眺めるときも同じ図式で、職業のパターンでわけるか、或いは風俗的にしか眺めない。姓名に代表されるような個性的なものは、背広にネクタイをつけた人種にしか認めていないようですらある。
善さんは、もう肉を売っていなかったが、やっぱりお肉屋さんと呼ばれていた。彼はそのことに不満であった様子はないけれど、それは彼が慎み深い人間だったからだということに、後になって私は気がついた。
その頃私も育ってきて、街の若者として一人前の顔つきでそこいらを徘徊するようになった。
麻雀を、その界隈の人たちとときおりやる。それでわかったけれど、善さんには、界隈に、とてもいい友人が何人も居るのだった。
ハンコ屋さん、板前上りの鳥料理屋の店主、花屋さん、魚屋さん、漬物屋さん。彼等はいずれも(戦争は負け戦で終っていたが)金鵄勲章を貰った勇士の善さんを、依然として誇りに思っていた。で、定職のない善さんのために、それぞれが用事をこしらえたり、知人の家の雑用をみつけてきたりして、一丁前《いつちようまえ》の日々がすごせるように計らってやっているのだった。
彼等が集まって呑むときは、必ず善さんも呼んだ。そうして善さんも、へんにひねくれないで、鷹揚《おうよう》な笑顔でそれに応じているのだった。
善さんが麻雀をおぼえたのも、彼等に手をとり足をとられたからである。彼等としては善さんを加えずに自分等だけで楽しみを貪《むさぼ》りたくなかったのであろう。
しかし善さんは、あきらかに麻雀のセンスは欠けていた。一牌ツモるごとに、太い腕を頭に廻して、考えこんでしまう。ようやく方寸をきめて、打った牌が放銃になると、
「ああ、そうですかァ――」
高笑いする。
善さんの麻雀はかけひきがなかった。正面から攻めてくるが、スピードがなく、ねばりに欠ける。あんなに何度も応召し、戦場で砲弾をかいくぐって生きのびてきた人物とはとても思えない。
卓にすわれば必ず負ける。しかし善さんは仲間と一緒に呑んだり打ったりするのが大好きのようであった。そうしてどんなときでも負け分はきっぱりと払った。その夜の小遣いがなくなると、退いて、皆が解散するまで観戦している。
あから顔を一層赤くし、脂が噴き出たような顔をタオルでごしごし拭《ふ》いた。
善さんの家が麻雀荘になった。その時分は壕舎でなく、小さなバラックに建てかわっていたと思う。
麻雀荘といっても、六畳くらいの居間に坐卓を二つおいただけで、近所の顔見知りが夜集まるというだけのことだった。つまり、善さんのよき友人たちが、どうせならせめて、ゲーム代だけでも善さんの収入になるように計らったとおぼしい。
発足すると私は好んでこの店にいった。レートは安かったが、やれば必ず勝てたからである。
当時、賭け麻雀の流行《はや》りはじめた頃であり、その頃はまだ賭博は現行犯でなければ逮捕できなかったから、刑事たちもいろいろ苦心して、縁の下に忍びこんだり、変装して客になって店内にまぎれこんだりした。
私たちが善さんを入れてやっていて、半チャンのきりで精算し、お金のやりとりをしていると、もう一卓を囲んでいた四人組が立ちあがってきて、
「そのまま、そのまま――」
といった。それが刑事たちの一行で、私たちは簡単に警察に連行された。
証拠の牌や卓をてんでに持たされて署に行き、調書をとられた。
善さんは手入れと知ると、以前、町内の歓迎会に出かけたときのようなごわごわした着物に着かえてきて、まじめな顔つきで歩いていった。ほんの煙草銭ぐらいの賭け金なのだけれど、賭博は非合法で、そこを押されるとぐうの音も出ない。私たちは単なる客で、賭博現行犯というだけだが、善さんはそのうえに主人側で、賭博をさせてテラ銭をとるという意味のなんだかむずかしい罪名がついている。
「善さん――」と私は警察でそっといった。
「あんたは勲章貰ってるんだから、そう申し出ればこんな罪ぐらい帳消しになるんじゃないの」
「そんなこと、ないですよ」
と善さんは実直に答えた。
「もうあんなもの、通用しませんよ」
善さんが調書をとられているのを眺めていると、実に体格がよくて、刑事の方が貧相に見えた。
「――花引善蔵、四十三歳」
そんなふうに答える彼の声も他を圧して大きかった。しかし、五分刈りの頭髪だけでなく、眉毛のあたりにも白いものが混ざっている。
どうして店主みずから賭博に参加するようなことをしたか、という問いに、片腕で頭を抱えるようにして、
「いやァ、はっはっはっ――」
と善さんは高笑いして、刑事に叱られた。その笑い方は、何故《なぜ》か、勇士を感じさせた。
ゲーリー・クーパー主演の善人サム≠ニいう映画がその頃封切られて、わりに評判になった作品だったが、しかつめらしく、そのうえ主人公が善人の干物みたいで、私たちは失笑した。私には、特にこの夜の善さんの方が、この映画に主演する値打ちがあるように思われた。
そのときは、私は未成年者ということで説諭だけで帰され、他の連中は始末書をとられ、こらしめにひと晩だけ留置場に泊められた。善さんだけは二三日かかったと思う。
そんなことでケチがついて客も集まらなくなり、彼の店は半年も続かなかった。
善さんは再び、何を本業にするでもないごく消極的な日を送っているようだった。といって、中年でグレていたわけでもない。
切れ切れに見る印象では、引越しの時の荷運びをしていたり、町内の資産家の家の庭でどういうわけか大きな穴を掘っていたりした。
お祭りのときだけは、町内の知名人に戻って、お神酒所《みきしよ》であぐらをかいていたり、神輿《みこし》の先導に立ったりしていた。演芸会で、請われて軍歌を唄ったことがある。彼はふとくたくましい声で、道は六百八十里――、というのを唄い、これは大変に受けた。
ある夏の夜だったが、麻雀の帰りに、善さんとハンコ屋さんと三人で、焼鳥屋で呑んだことがある。
話がはずんで、怖い話の競演になった。
「善さんなんか怖いものなしだろう――」とハンコ屋がいった。「なにしろ金鵄勲章なんだから」
「あたしはね、鈍感だから――」と善さんが笑いながらいった。彼はお酒を呑むと、嬉しがってはしゃぐ方だった。
「怖いものなしだったんですよ。だけど、あれはいけません――」
「あれ、って?」
「そのゥ、ね、あれだけは、いやだ」
彼はちょっと口ごもった。
「――夢ですよ」
「夢か」
善さんは、拳骨《げんこつ》を二つ並べて差し出すようにし、それをさらに前方へ突きだした。
「こういう夢――」
「それは、何?」
「突け、っていわれたんですよ」
彼はもう一度、両拳を突きだす恰好をした。
「それであたしは夢中で突いちまったんだ。馬鹿だから」
私はあらかたを諒解《りようかい》した。
「つまり、戦場で――」
「ええ、二度目の応召のときね。あたしは勲章を貰った兵隊だってんで、やっぱり分隊じゃ皆が知っていて、何かってえと名ざしされるんです。勲章のことなんかあると、そねまれるんだな、軍隊ってところは。――案外にくまれてたのかな。そのときもまずあたしが指名されて、――」
「当時のいいかたでいえば、シナ兵ね」
「兵隊じゃない。普通の人ですよ。お百姓だ」
善さんは、まずそうに酒を呑んだ。
「なんというのかな、あたしがもしできないってことになると、金鵄勲章に恥をかかすような気が、してたんですね。どうかしてたんだ、あたしゃァ」
善さんはそういうときでも、告白がいい恰好にならないように、慎み深く、深刻そうな顔にならないように努めていた。で、そのため、へへ、へへ、と笑っていたが、それがかえって哀《かな》しそうに見えた。
「強がって、銃剣術のときのように――」
「命令だったんでしょ」
「ですが、自分で何をしてるか、わからなかったんです、その瞬間まで」
「忘れようよ、善さん、そんなこと」とハンコ屋がいった。
善さんはまた、銃剣を突きだす恰好をした。
「――ああ、自分の一生は、これで終ったな、そう思いました。やってしまった瞬間にね。ヘヘヘ、どういうわけかそう思っちゃった。自分はもう、何もできないな、って」
「忘れようったら、善さん」
「戦争は終るからいいよ。あたしだって昨日のことは片づけたいよ。ですがね、夢を見ちゃうんだ。夢はいけません。ずいぶん長く戦場を渡り歩きましたがね。鉄砲の弾丸ひとつ、射《う》ったことだって、いちいち夢を見る。あたしゃ忘れてるんだけど、身体はちっとも忘れてくれないんだから――」
その界隈は都心に近いところとしては、比較的に復興がおそい地帯だったが、それでも家並みが徐々に焼跡を埋めてきて、特に商店の並ぶ道筋は、ぐんぐん化粧を整えていた。
善さんの家の周囲も、バラックから本建築に近くなった。善さんのとこだけが小さなバラックのままで、店舗のあった跡はそのまま空いている。
善さんは表面無頓着で、あいかわらず何をしているのか要領をえない。けれども、例の夢のことなど平生はおくびにも出さなかったし、深刻そうな表情も見せない。
なんとなくにこにこして、町内の野球を見物に来たり、小遣い銭があれば下手な麻雀をやったり、安酒を楽しんだりしている。
そういえば善さんは、家族をつくろうとしていない。周辺が放っておいたわけでもないはずだが、奇人というあつかいだったのだろうか。それとも、甲斐性なしと思われていたのだろうか。
私たち若者が麻雀屋にとぐろを巻いていると、昼間でも善さんがフラリと入ってくることがある。そういうのん気な中年男はめったに居ないから、いい年をした遊び人のように見える。
けれども私たちがそんなところでとぐろを巻いているときは一文無しで、獲物がくるのを待っているのだし、善さんはたとえいくらでも遊び金のあるときでなければ来ないのだ。そうして善さんは必ず負ける。
「ああ、そうですかァ――」
を連発し、まるで勝つ気などなかったように鷹揚《おうよう》にひきあげていく。
どこへ行って打っても最低に出来がわるくて、腹をすかした私は、たびたび善さんのところに直接無心に出かけた。彼が麻雀屋に出かけてくれば必ずカモれるのだが、とてもそれまで待っていられなかったのだ。
「善さん、すみません、面目ないんだけど――」
そういって私は、彼のバラックの入口に立って笑う。母親はもう亡くなっていて、気をかねる家族の居ないのが都合がよい。私と善さんは、その頃、そういう笑顔を向け合うほどには近い仲になっていた。
「どうしたんですか、どうしたの」
善さんは、うんと年下の私などにも、言葉つきを変えなかった。
私は口から出まかせの理由をのべたてる。もちろん高額の無心ではない。ほんの飯代か、煙草銭である。
「ああ、そうですかァ――」
はっはっはっ、と笑って、小さながま口から一二枚の札を手渡してくれる。
私はいつも、麻雀をやったときに、善さんの負けからさしひいて、腕で返していた。
「ごめんなさい、善さん、あの分を差しひいてください」
「ああ、この前のね、あれがありましたね、助かっちゃった。貸しといてよかった」
必ずそんなふうにいう。
当時の私のような、愚連隊まがいの若者を、善さんがどんなふうに思っていたか、さっぱりわからない。ただ、私のような者にも、善さんは少しも自分を主張しなかった。
私に対してそうだったくらいだから、他の人間関係はすべてそうだったといってもよいと思う。要するに善さんが、ずっと(多分、例のことがあって以来)要領をえないまま生きてきた道は、いっさい自分を主張しない生き方だったように思う。彼は、外貌やその態度からは想像もつかないほど頑《かたく》なに、そのあたりを守って生きてきたらしかった。
そのうちめったに麻雀荘にも現われなくなり、私はなお執拗に甘えて、善さんの家に行き、無心していたが、腕で返す折りがなくなった。
やはり夏の暑い日だったと思う。私はやはりバス代もなくて、神田川のへりの電車道をテクテク歩いていた。
リヤカーの大きいような荷台に、筵《むしろ》に詰めた荷を山と積んで、善さんが自転車を押す恰好で、のろのろと歩いていた。彼はほとんど身体を四十度くらいに倒し、汗の大きい粒を額いっぱいに浮かべて、馬力の馬みたいにあえいでいた。自転車を押すだけでなく、荷台から伸びたふといベルトが、善さんの肩先に巻きついている。
車やバイクがスイスイと追い越していく。歩いている私さえ、簡単に追い抜いてしまうことができる。しかし知らん顔で追い抜くこともできないので、
「善さん――」
私は声をかけて、荷台の荷に両手をかけ、押すのを手伝おうとした。
「あ、だめ、だめ、手が汚れますよ」
私は、これも善さんのアルバイトというか、頼まれてやる雑用のひとつだと思っていた。
信号で歩を停《と》めたとき、訊ねた。
「重そうな荷だけど、なんですか」
「臓物ですよ、臓物――」
青信号になって曳きはじめても、容易に一歩が前に出ないほど重たそうだった。
「臓物って――」
「牛や豚の臓物。ホラ、焼鳥屋で喰べるでしょ。毎日、焼鳥屋をまわっておろして歩いてるんですよ」
毎日とすると、アルバイトではない。実際、それからたびたび、善さんのこういう姿を眼にした。いつ頃からか善さんは、こういう本業に従事していたのだ。
「でも、それならオート三輪かなにかを借りた方が早いな」
「いやァ、ハハハ、あたしはこんなことしかできないから」
オート三輪を借りるくらいは造作はないことで、善さんがそこを考えつかないとは思えない。
で、私はいろんなことを質問するのをやめた。彼は肉屋をやればやれるのに、やらない。長いことかかって、結局自分はこういうふうに日を送ろうと思って、こうやりだしたのだ。それなら黙って見ているよりほかはない。
ちょうどその頃から、私もすこしずつ生きる恰好を変えていったせいもあり、善さんとの交際も絶えがちになった。
けれども、電車の窓からふと眺めると、善さんが、四十度に身体を傾斜させて大きな荷をひっぱっている姿がときおり眼に入る。私にはそれが文字どおり重たい絵のように見えた。
私は生家を離れて、各所を転々としながら、さまざまなことをしてどうにか日を送っていた。それで、もう二十五六年になる。
そう頻繁ではないが、ときおり親に顔を見せるために生家へ立ち寄ることがある。そんなとき、生家附近の昔から馴染んだ商店に立ち寄って、あれこれ買い物をする。
魚屋も肉屋も、八百屋も豆腐屋も、長くなじんで、相互に気性や好みをのみこんだお店に行きたい。ただ、物と金を交換するという関係にしたくない。
それで生家に立ち寄る以外にも、近くへ行くと迂回《うかい》してこれらの店に寄る。煙草を吸い、茶を呑ませてもらって、世間話をする。
これらの店で、昔の友人知人の死をきいたり、また逆に発展を喜んだりする。
もう十数年前になるが、善さんが嫁を貰ったという話をきいたのも、彼の竹馬の友の魚屋の主人からだった。
「どういうわけかねえ、奴、急にその気をおこしやがって」
「へええ、恋愛でもしたの」
「まさか。もう五十すぎてるもの」
「じゃァ、見合いか」
「そう。まァ縁なんだろうねえ。相手は再婚なんだがね。臓物屋には過ぎた女房だよ」
善さんの口から直接きいたわけではないが、怖い夢ばかり見ているような彼の胸の中の傷が、年月とともに徐々にうすれていっているのがわかる。
自分に苦役を課すような恰好ではあるが、いつ頃からか、仕事をみつけた。それからまた、家族をつくろうという気になったらしい。彼も、やっと普通の市民の暮し方をすることを、自分に許可したようであった。
ただ、そこにくるまでに、実に長い年月がかかるのである。そこのところが、勇士であり、善人である証拠なので、捕虜を殺そうが、豚箱に入ろうが、そんなことに関係なく、そうなのである。
善さんの結婚では、面白い話がある。
新婦は善さんと十歳ちがいで、女の子を一人連れている。町内の守護神であるA明神の境内で、夫婦の盃を交し、知人たちに披露の宴を張った。
それから、箱根山中へ、親子三人水入らずの新婚旅行に出た。小田急のロマンスシートに新妻が窓辺に坐り、善さんがその隣りにごわごわの着物を着て坐った。小学生の一人娘は向かい合って、平生に似ずおとなしくしている。
小柄な新婦が伸びあがるようにして、顔を寄せてささやくが、その言葉がはっきりききとれない。
急に耳が遠くなるわけはないし、電車の音が喧《やかま》しいわけでもない。緊張している関係で、一時的にどうかしたのだろうと善さんは思った。そうして、ほとんど聞きとれないのだけれど、空返事をしてごまかしていた。
旅館について、部屋におちついても、新妻は善さんの右側に坐ったそうである。あいかわらず、隣家の人声のように、遠くかすかにしかきこえない。
娘を連れて展望風呂に行った。善さんの身体は年齢よりもずっと若く、隆々としている。湯音を立てて、身体を洗っているうち、善さんの右の耳の中から、ぽろりと白い塊《かたまり》が落ちた。
そのとたんに、世間の物音がいっぺんにきこえてきたような気がした。
「紅葉が、綺麗ですわねえ――」
新妻が耳もとでささやく声が、突然きこえた。善さんは耳の中から出てきた白い塊を掌でいじくっており、新妻が不思議そうにそれをみつめていた。
はっはっは、と善さんは笑った。
「なんですの、それ――」
「今年の夏にプールへ行ったんですよ」と善さんはいった。「耳の中に綿をつめた奴が、今、とれたんです。ああそうか、それでなんだかおかしかったんだ」
後に善さんがその話をするたびに、妻君が口惜しがるという。
「紅葉が、綺麗ですわねえ――」
新妻の気分でいったよそゆきのセリフだけをいつもひきあいに出されるのはたまらないという。
おそい春であったが、淡々として十数年が経《た》った。小学生の娘が成人して、一丁ほど離れた炒豆屋《いりまめや》の息子と結婚した。
ところで、つい先日のことであるが、ハンコ屋や、鳥屋の大将や、古くからの友人たちと麻雀を夜更けまでやった。善さんは例によって一人で負け、そのせいか手酌でウィスキーをずいぶんあけたらしい。
いい身体のわりに大酒家ではなく、呑めばすぐにはしゃぎたくなってしまうのだから、ウィスキーはさっぱり良い効果にならない。仲間が帰ったあと、善さんは昏倒《こんとう》するように寐た。
別室の妻君が眼をさますと、善さんの寐ている部屋で、にぶい物音が続けてする。
起きて部屋をのぞくと、彼が、手に触れる物を手当り次第にほうり投げて壁にぶつけたりしている。口がきけなくて、妻君をおこそうとして物音を立てていたのだという。
もう顔つきが、呼吸困難の相を呈しはじめている。
「貴方《あなた》、どうしたの、苦しいの」
「――苦しい」
「水を持ってきましょうか」
善さんは手を振って、いらないという意思表示をした。
「――苦しい」
「どこが苦しいの、息ができないのかしら」
「――医者」
「ええ、お医者を呼びますわ。でも日曜だから、どこも休診日ねえ。藪《やぶ》医者の竹井さんしか居ないけど――」
そういっているまも、善さんは虚空をつかむような形になっている。
「――死ぬ、もう駄目だ」
「ええ、もう駄目みたいね。貴方、安心して。娘も片づきましたし、あたしはあたしで何とかやっていきますから、気持を楽にしてください。なんにも心配することはないのよ」
善さんは、無言でじたばたした。
「貴方、――貴方」
妻君は声を限りに叫んだそうである。
「ひと足お先に向こうへ行っていてくださいね。あたしもまもなくまいります。それで、向こうでまた二人で暮しましょうね」
善さんは、ときおり息を吐くたびに、弱々しい表情で妻君を見返った。
ほどなく、妻君の電話で竹井医師が来、急性アルコール中毒と診断したという。
「何故、こんなに呑んだのです。こんなふうになるまで呑んでは危険ですよ。これで生命を落す人もあるんです」
「ええ、主人もそう申しておりました。駄目だって――」
「駄目とは限らないが、とにかく、応急処置をして、明日まで様子を見てみましょう」
善さんは、駄目ではなくて、二三日するとケロリとして起き直った。そうして、友人たちに、弱々しくこぼしたそうである。
「あいつは、安心して死ね、といったんだ」
けれども、妻君は微塵《みじん》も他意はなかったのである。はじめての経験で、なんとか夫の心を安んじたいと思って、死ぬ人を勇気づけようと一生懸命だったのである。
妻君は、平生から、そういう奇妙な優しさのある女性で、この話に作為はあまり感じられないのである。
けれども、なんとなく、似た者夫婦、という気がしないでもない。
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星の流れに
表通りの区役所の横手に坂があって、コールタール色に塗られ鈴をつけた|ごみ《ヽヽ》の荷車がたくさん集まってくる。本式には清掃課の、というべきなのであろうが、当時の呼称にしたがえば、ごみ屋のおじさんたちが、坂の上から、梶棒《かじぼう》にぶらさがるようにしていっさんに走りおりてくる。満載したごみの重みで梶棒と一緒に身体が浮きあがり、辛うじて時折り地面を爪先《つまさき》で掻《か》くようにし、うらァい、うらァい、などと叫びながら列をなしてすべってくる。
たいそう威勢がよくて、また楽しそうで、小学生の頃、私は好んで彼等の活躍を眺めていた。内向的な子供だったせいかもしれない。夜になると坂道の石垣沿いにその車が並んでおかれる。私より五つ六つ年上で、直接は交わらなかったが、ひそかに尊敬していた番長の虎ちゃんが、ある夜、未成年をかえりみず酒を喰らって手拭《てぬぐ》いで鉢巻きをし、※[#歌記号]ごみ屋の虎ちゃんまっくろでェ、などと放歌しながら、荷車をよじ登り、車の屋根から石垣にはりついて上の道に這《は》いあがるのを、ほれぼれと眺めていた記憶がある。
私の子供の頃は、冬の雨の日など、道ばたで働く人たちが、藁《わら》で編んだ蓑《みの》をつけていた。登校の途中でにわかに横丁が騒がしくなり、火だるまになった清掃員が表通りに飛びだしてきた。多分、焚火《たきび》に背をあぶっていたかして、乾いてきた蓑に火がついたのだろう。彼は懸命に蓑を脱ぎ捨てようとしたが、慌てていて敏速にいかない。もうそのとき背中の焔《ほのお》が頭髪の上まで伸びて見えた。彼はとっさに路上に倒れ、濡《ぬ》れた地面に転げまわって消そうとした。が、転げ方が早すぎるので、一瞬消えていぶっているようなところにまた火がついてしまう。ほとんど同時に附近の商店の人がバケツで水をかけたが、彼は白煙に包まれたままで起きあがらなかった。厚着をしている季節だったけれど、或いは虫の息だったかもしれない。それからしばらく、夜、寐衣に着かえるときに、きまってその様子が眼に浮かんだ。私はのろまで、着衣に火がついても、するりと脱げないだろう。
もっともその後中学生の頃、空襲で、火の災難にはいやというほど出会《でくわ》した。いざとなると、私は張りつめていて、平常思っているよりもずっと敏速に動いた。しかしたとえ鹿のように速く逃げたとしても、結果は運八分だっただろう。
焼死体というのが、その頃は、まったくありきたりの日常の産物だった。そうして、八方が火の海になると、火が風を呼び、夜気が渦を巻いてきて、その風に乗って火柱が舞い飛ぶのだった。改正道路や公園の広場や学校の運動場をその火柱が右往左往し、たくさんの焼死体をつくった。
隣家の老人は、足のわるい妻女を乳母車に乗せ、いち早く避難場所に向かったが、避難先で焼夷弾が乳母車に当った。老人は顔と胸を焼かれ、燃えて金枠だけになった乳母車をひきずって、踊るような足どりで戻ってきた。町内の配給所の主人は、逃げおくれた老母を背負い、火と煙の中で進退きわまったかに見えた。あたしをここにおいていっておくれ、と老母がいう。息子に背負われただけでいい、もう満足して死ねる、早く一人でお逃げ――。そのとき老母の背にもう火がついていたという。
その種の話も、当時かくべつ珍しいわけではなく、いたるところでささやかれていた種類の話だったと思う。けれども、文字どおり焼け死ぬという例はわりにすくなかったのではないか。焼死体の大半は、まず煙に巻かれて窒息死し、しかるのちその屍体《したい》が焼けるのである。
私の経験でいえば、ああいう火の海というものは、まず眼をやられる。そうして夜気全体が乾き、熱くなる。もうそのとき、一面に煙の濃度が増しているので、どこからどこまでが煙だと識別ができない。不思議に煙というものはあまり眼にうつらなくて、空気だと思って煙を吸っているのである。濃度は刻一刻と増し、息苦しくなり、肌がそりかえるように乾き、足が動かなくなり、そして倒れる。私は辛うじて助かったが、その間、熱いとも、息苦しいとも、ほとんど感じなかった。けれども火煙がおさまってみると、眼が膿《う》み腫《は》れていて激しく痛み、何日も物を見ることができなかった。
サダ子が火をかぶった、という報《し》らせをきいたとき、何が起きたのか、急には呑みこめなかった。
「火を、かぶった――?」
「なんだかしらねえが、火だるまになったとよ。山下じゃえらい騒ぎだぜ。都電が止まって長い列になってらァ」
「――で、死んだのか」
「知らねえ」
「火だるまって、何の火でそうなった?」
「だから、手前で手前に火ィつけたんじゃねえのか。まァ行って見ろよ」
私たちはもうすこしで笑いだすところだった。長いこと戦争で、あたり一面の焼野原で、それがやっと終って、私たちは麻疹《はしか》を終えた小児のように、元気を出してあたりを飛びまわりはじめたところだったのだ。
サダ子は上野界隈でよく知られた女のパン助だったが(というのは男のパン助もたくさん居たので)もともとは三筋町の鳶《とび》の娘だとかで、親兄弟みんな戦災で焼け死んだという話だった。
なんで今になって、火だるまにならなければならないんだ――。
私たちは池之端《いけのはた》の方でバッタ巻きをやっていて、その翌日、ぞろぞろと山下を歩いていったとき、道路に黒い焦げあとらしきものを認めたが、サダ子はどこかに運び去られたきりで、どうなったかわからない。
アメリカ兵に病気をうつされて、頭にきちゃったんだろう、という噂《うわさ》が飛び交《か》った。
それから五六日して、おトシが、西郷さんの銅像の前で、同じようなことをやった。ガソリンに浸した着衣に火をつけたという。そのとき私は偶然、京成電車の地下道の入口あたりに居て、騒ぎを耳にして石段を駈けあがっていった。おトシは両脚をぴんと虚空に伸ばし、両腕を前に合わせて顔を覆うようにし、身体を折り曲げたまま転がっていた。
私たちはいずれも、警察の人たちに近寄りたくなかったので、天幕布が屍体の上にかけられるのを遠望していただけだった。
それでおトシの身体もどこかへ運び去られてしまった。
サダ子の場合とちがって、おトシには、順子という十二になる妹が居た。二人とも、地下道で寐起きしていて、おトシは地下道のパン助の中では一番器量がよかった。
芋飴屋の爺さんが義侠心を出して、死体をひきとってきてやろうか、といったが、順子は反応を示さなかった。それで爺さんも動かない。
「こんなことは流行物なんだ。一人がやると必ず、後をくりかえす奴が居る」
と誰かがいったけれど、まさか、ロングスカートとはわけがちがう。地下道だけでなく、山下にも広小路にも池之端にもたくさん女は立っていたが、あとはもう誰も真似しなかった。
その時分、私は上野では八郎という男と親しくて、彼のひきで地廻りなんかともたいして衝突もおこさずに遊んでいられたのだった。戦争が終ってまもなくの段階では、私のように一人でグレていた男の子にとって、上野ほど居心地のよい場所はなかった。とにかく浮浪者かそれに準じる人たちが多くて、警察はもちろん、地廻りすら深く介入しにくい。治外法権の外国人系も多く、それにからんで酒や薬が密造されており、私がもっとも関心がある小ばくちがいたるところで開帳されていた。
浮浪者にとっても、上野は利点がある。東京の庶民層に特に多い東北や北関東への出入口なので、汽車を待つ客の弁当を狙《ねら》えるからである。切符は長時間行列をしなければ買えない。客たちは地面にしゃがんで用意してきた食物の包みをあける。するとたちまち二三人の浮浪者が立ちはだかる。幼い浮浪児から大人まで、間断なく客たちの間を泳ぎまわって少しずつ貰って喰う。それで上野の周辺には大軍といっていいほどの浮浪者が集まっていた。
ちょっと註釈をいれるが、浮浪者というのは、当時は、戦災で家や職を失い、或いは家族関係が半端になってしまった者たちのことで、いわゆる根っからの乞食とはちがうのである。
八郎は、姉夫婦が大工で、車坂にいちはやくバラックを建て、その二階に住んでいた。そうして附近の仲間と三人で河岸へ行って鰯《いわし》などの小魚を買いつけ、御徒町《おかちまち》の道ばたで、鉄板で焼いて売っていた。身体は大柄だったが結核で、うるんだような眼をしており、巣の二階に女をしょっちゅうひっぱりこんでいたが、気のいいところがあって、私もときどき泊めて貰う。
朝、姉夫婦が炊いてくれた白い御飯に、きざみ玉葱《たまねぎ》と生卵と納豆を和《あ》えた奴で喰った飯のうまさはまだ忘れられない。
八郎は私より四つ上の二十一。姉のつれあいはその二つ上。これはまったく堅気の大工さんで、八郎とは山岳会の仲間だそうで、戦争中に山で写した彼等の写真が一枚だけ焼け残ったのだといって額に入れて飾ってあった。
しかし、八郎の他の係累については語ったことがない。彼も大なり小なり戦火の災厄を受けて育ってきたのだろうけれど、多分、まだその度合がゆるかったのだろうと思う。ノーテン気であっても、どこかに暖かさやのどかさがあった。
これにくらべて地下道に居つきの人たちはつきあいにくかった。地下道の人たちのことを悪く思っているわけではないし、また悪く書いているつもりもないけれど、彼等はおしなべて、他者に対する関心を失っているようだった。その余裕がなかったのであろう。いくらか小ざっぱりした服装で、地下道に寐、昼間勤めに行く人たちも居たが、夜、立ち戻って新聞紙を顔にかけ、黙りこくって寐るだけである。仕事を持たない連中はその日の喰い物を確保すれば動かないし、それすらほとんどしないで放心したように寐たきりの人も居る。よそ者とはもちろん、隣り合って寐ていても、会話というものをしない。
いい例がおトシに置き去りにされた順子だった。吹出物だらけで、めったに口も利かないし、笑顔というものを見せない。もっとも吹出物がなければいち早く誰かの手で吉原あたりに売り飛ばされてしまったかもしれない。
ある日、私はさすがに眼を疑った。
八郎たちの焼き魚の露店で、順子が下働きをしていたのである。吹出物はいちいち絆創膏《ばんそうこう》でかくしていたが、それでも汚い手で、客たちの使った皿をバケツの水の中に申しわけ程度につけて、布でひと拭きしている。まァしかし、当時、客たちも不潔などを恐れてはいない。
「へええ、八ちゃんの肝煎《きもい》りかね」
「手が足りないからな」
八郎は、楽天的に、ふふッと笑った。
「喰わせるだけで、なんとか半人前には使える」
昼少し前に魚を売りはじめて、夕方を待たずに売切れてしまう。その間順子はずっと立ったままで、無表情に、よそ見などしながらのろのろと手を動かしていた。そうして八郎が、順――! というと、すっと首筋を伸ばす。
魚が売切れると八郎たち三人は手荒く銭勘定をし、三人でわけてヤミ酒を呑むか、ばくちを打ちにいくかする。客が喰い残した魚の頭や骨は石油缶に溜《た》めて、順子が背負い、昭和通りを渡った先の石鹸屋に売りにいくのである。
店の終りかけに、
「順――! ほらよ、ほら」
八郎が、魚と、飯盒《はんごう》で炊いた飯を皿に盛って、瓦礫《がれき》の山の方を指さし、
「そっちに行ってな、客に見えないようにして喰えよ」
順子は素直に歩いていって、手づかみで喰った。
私は上野とだいぶ離れたところに生家がある身で、それを面映《おもは》ゆく感じながらときおり帰っていた。戦争中に中学をしくじってしまったきり、文字どおりふらふらしている私は、生家の方から見ると案じられてならぬらしくて、母親や縁者たちが私でも間に合いそうな職場を探してくる。
「堅くおなりよ。どんな仕事だっていいのよ。堅く生きれば一生生きられるんだから」
それで半強制的に虎ノ門の焼けビルの二階にある商事会社に勤めた。といってもヤミブローカーの集まり風で、当時まだ会社なんてぽつりぽつりしかなく、その焼けビルも他の部屋はすべてガランとしていて、窓ガラスもはまってなかったと思う。
私はていのいい給仕みたいなものだったが、大人の社員の立ち動きについていけず、ただ息を詰まらしていた。
不思議なもので、ばくち場やヤミ市の中では楽に動ける。特にばくち場では、十六七の小僧ッ子の私が、大人たちの気持を先読みし、口先ひとつで機嫌をとったり押さえつけたりすることができた。当時、敗戦を契機に皆が遊びはじめたときで、私は子供の頃から盛り場の空気を吸っていたから、遊びにかけては年期が入っている自信があった。私はばくちに勝つだけでなく、大人たちを平均に面白く遊ばせようとして心をくだいていた。
それが、会社みたいなところへくると、何ひとつ満足に口が利けないのである。電話が鳴って、モシモシ――という常套語《じようとうご》がいえない。そういう市民的な言葉は、周辺の誰もが私より年期が入っているように思える。
使いに出されて、街を一人で歩いているときが、救いであった。私は一度会社の外に出るとうろうろして時間を喰ってばかりいて、いつも叱られた。
結局、二カ月しないうちに、ひとりでに足が向かなくなり、盛り場に戻ってしまう。小ばくちを打つ銭がなくなれば万事休すだが、いくらかの銭があるうちは、男たちに混じって居る場所がある。
八郎は魚の店からずっこけて、稲荷町の方で芸能社をやっている女のヒモにおさまっていた。
「役者になって旅でもしてくるか――」
そんなことをいいながら、二階で寐そべってばかりいた。
ある日、その芸能社から私が出てくると、路上に順子が立っていた。私を見ても無表情で、鼻の穴をふくらますようにして二階を見上げている。
会社における自分の経験で、此奴も、息が詰まってるんだろうな、と思った。
「おい、順子、飯をおごってやるよ、一緒に来な」
私はスタスタ歩きだしたが、ついてくる気配がないので振り返った。順子は私を無視して動かなかった。
チェッ、あいつ八郎にほれてるんだろうか――と思った。
まだ十二か三で、胸も尻もふくらんでいない。顔にも色気が出ていない。
それじゃァ、犬が飼い主になつくように、奴に尻尾《しつぽ》をふってるんだろうか――。
後年になってからの私の判断だが、多分、順子は、甘い誘いに乗るとろくなことがないということを、直感|乃至《ないし》見聞でさとっていたのではなかろうか。
もし八郎に傾斜していたとすれば、八郎のあつかいが甘くなかったからであろう。犬のようにあつかわれて、しかし、だからこそ、八郎からそれ以上の危害は受けないと踏んだ。順子にはそれすら貴重な関係だったのであろう。
それからしばらくして、根津の方で麻雀をして、夜明け前に公園の裏側から入り、美術館のそばの空いているベンチに転がった。
寒い時分ではなかったが、風の強い日で、砂埃《すなぼこり》がたえず吹きつけてきた。
不意に、乾いた大きな布のようなものが身体の上にかぶさってきた。
暗がりに、順子が立っていた。
「いいんだよ、俺は平気だ――」
と私はいった。
「お前、寐るんだろう、自分で使いな」
「いいよ、もう寐たから――」
彼女がはじめて口をきいた。きィきィ声に近い声だった。
そうして駅の方角に小走りに去った。
私は以前とはくらべものにならないほどの関心を持って順子を眺めるようになった。べつにどうということはないが、順子は私の気持の中で知友の列に入っており、姿を見かけると、口はきかなくとも、ねんごろな視線を向けた。
地下道よりも、上野の奥山の方で主に寐起きしていたらしい頃は、その一帯で勢力を張っていたおカマたちとつながってよく歩いていた。その時期のあとは、永藤《ながふじ》のパン屋のあたりにたむろしているダフ屋の一群の中に混じっていることが多かった。
何をしていたか、くわしくは知らない。八郎が芸能社の仕事で上野を離れてしまったので、私も別の土地でばくちを打ち歩いており、上野に居つくことが減っていた。
しかし、何をしていたにせよ、もはや浮浪児でもない、さりとて女にもなっていない、はんぱな年齢にかかっていて、どの群れに居ても、もっとも映えない附録の存在でしかなかった。病気にもならず、定期的な狩り込みにも屈せず、とにかくその一帯に居るということを見て、私はなんとなくほっとする。
ミッチーという名古屋辺から流れてきたという洋パンがいて、あいそのない青白い顔をした女だったが、不思議に統率力があって、女たちばかりでなく、浮浪児たちも一様に彼女をたてていた。有楽町のガード下の楽町おトキだとか、そういう女がときどき居る。
ミッチーたちと一緒に私も焚火にあたっていた。順子もその中に居た。彼女たちはめいめいに棒きれで自分の名前を地面に書いて、きゃっきゃっと笑っていた。
順子も自分の名前をひらがなで書いた。じ|ょ《ヽ》んこ、となっていた。
「じょんこ、かよ、てめえは。じゅん、だろう」とミッチーが笑う。
順子は足で消してまた書いた。やっぱり、じょんこ、だった。
「兵隊じゃあるめえし、じょん、なんて名前を親がつけるかよ」
笑声が大きくなった。笑わずに、彼女に視線を投げていた私の方を、順子がふっと見返してきた。
順子は以前より少し肥《ふと》って、吹出物もなく、水で洗ったような顔をしていた。しかし髪は短く五センチほどに切って、男の子のように逆立たせていた。水で洗ったような顔になっているのが、そもそも子供を脱しかけている証拠で、けれども彼女自身は直感的にそれを嫌がって、わざと髪を切っていたのかもしれない。
その時分は、パンパンガールではなく、その予備軍的存在でもなかったように思う。年上の女たちの順子をあつかう様子がそうではなかった。
焚火の一件以来、彼女は、じょん、と皆から呼ばれるようになった。
「じょん、水|汲《く》んどいで――」
とか、
「じょん、立ち番するんだよ――」
とかいわれていた。彼女の主な役割は、MPの巡回や狩り込みの見張りらしかった。
そのうち、あまり姿を見かけないようになった。私は上野へ舞い戻るたびに意識して彼女の姿を探したが、居ない。もっとも当時の上野界隈はカスバのようで、ざっと眼で探したくらいでは実体はわからない。
「じょんか――? ああ、居ねえな」
「どうしたろう」
「知らねえ」
順子のことにかぎらず、誰のことでもそれだけの返事しか返ってこない。
私は、順子が女になった恰好を想像した。
四季のうつりかわりにつれて、地下道から壮年の男女が減り、高年齢の者がとり残されるようになっていた。一人前の女たちは公園の中や、池之端や、御徒町《おかちまち》近辺のバラック街に移っていた。
八郎は芸能社の女と切れて、土建に勤め、またそこの上役の女とできて、上役を巣から追いだし、女の家で亭主面していた。私はほとんど八郎と会わず、もっぱら厚木や立川や横須賀など、基地周辺で兵隊と打っていた。
ミッチーは敗血症で急死した。軍隊でいうと将校然として、仲間内のたむろしている場所では、いきなり上座を押しわけてドカッとすわるような気の強い女だったが、死んでみると意外に若く、二十二とか三だとかいう噂だった。ミッチーだけでなく、死んでいった女は三人や五人ではなかったと思う。さすがにガソリンをひっかぶって死ぬような真似は見られなかったが、女たちはたいがい急死で、どこかで倒れ、救急車で運ばれて病院につくかつかないうちに、あっけなく死ぬ。
前に焼け死んだ女と同じ名のサダ子は、冬の寒い夜に、不忍池に浮かんでいた。
ひきあげられたときに見ていた女が、
「口をあけて、歯をかみしめるようにしてさ、突っ張った両肢がぶるぶる震えてるんだよ。いえ、ほんとに震えてたんだから。――寒そうだったよ」
「裸だったのか――」
「裸じゃないよ。でも、うすいブラウス一枚だった」
私の徘徊していた基地周辺にも、たくさんの女たちが群がっていた。附近の農村部の女たちや、方々から流れてきたやはり農村出の女たちだったが、地下道の女たちとちがって、戦火の臭いはあまりしない。
そのせいか、彼女たちはいちようにはしゃぎ屋で、騒々しかった。けっして明るくはなかったが、よく笑い、よく呑む。
香椎《かしい》(あるいはキャシイだったのか)さんという中年の女は、兵隊と一緒にジンを三本半あけて、急性アルコール中毒で卒倒し、死んだ。
もっとも店の経営者は、客が買って女に呑ませる酒をケチって、お化け≠ニ称する色つきの水を女用に売りつけたがった。
多くは日本人オフリミッツだったが、その標識は無も同然だった。戦時特別手当の軍票時代は終っていたが、それでもまだ兵隊のドルを狙って、一癖のある男たちが寄ってくる。
横須賀で、黒人兵の寄るブロックへ行って私はよく呑んでいた。私は当時、一帳羅で汗と埃でピカピカに光った黒シャツをずっと着ていたが、女たちはよくそれにさわって笑った。
クロちゃん、と私はそこで呼ばれていた。そうした女たちの一人を、順子によく似てるな、と思って眺めていた。そういう場所の若い女は、大体似たような顔立ちをしていて、他の店でも、おや、と思って遠くから眼をこらして見ることがよくあった。
しかし、その女は、若いに似ず、あまりはしゃぎたてなかったし、酔ったそぶりも見せなかった。
まずい化粧で、鼻がペチャッと低く見えた。口もとから顎にかけてがっしりと大きく、女っぽい感じがうすい。
兵隊がすくない夜に、私の卓へ来て坐った。
「じょん、――」と私はいった。「いつからこっちなんだい」
彼女はほとんど表情を変えず、面白くなさそうにうつむいていた。
「春から――」といい、さらに小さくつけたした。「じゅんこ、よ」
私は彼女の胸を眺め、その視線をいそいではずした。
「まァ、いいや。元気なんだからな」
乾盃、といった。順子は手を動かさなかった。
「ミッチーが死んだよ――」
といっても、あまり反応がない。
「酒が、強くなったか」
こっくり、頷《うなず》くだけ。
センチメンタルジャアニー、という曲が大きな電蓄から流れており、女たちは踊ったが、順子はそちらを眺めたままだ。
まもなく彼女は他の女と席を替って立ち去った。私はまったく通りすがりの単なる顔見知りでしかなかった。実際それだけの話で、私は彼女をどうしようと思ったわけでもないし、もっと広い意味で救い主になろうとしたわけでもない。
子供のときに|ごみ《ヽヽ》屋のおじさんを好きになったように、ただ遠くから眺めていただけだ。それ以外のことは何もできなかった。
その店にたまに行っても、彼女は二度と私に近寄ってこなかった。というより、一人の黒人兵が彼女に大変な熱のいれようで、ほとんど独占しているのだった。
黒人兵が店を出ていくと、順子もまもなく姿を消した。
「あのコンビ、これから青カンよ」
と女たちが笑い合った。
「きまってるんだから。砲台公園にあがっていってね、抱きつくの。安い遊びね。あんなしみったれの相手してたってしょうがないじゃないのさ」
砲台公園は海に面した崖《がけ》の上にあって、日本の軍隊で使っていた大きな防空壕が、地下道のようにいくつも残っていた。
そこで兵隊に首を締められて殺された女がある。そんなことは珍しくなかったのかもしれないが、私がポーカーで居続けしていたときにも、そういう事件があった。
殺されたのは順子ではない。その黒人兵とは順調に続いているらしく、あいかわらず砲台公園に行っているようだった。
事件は他の女の身の上と思っているのか。それとも、さまざまのことを思っていても顔に出さないだけのことか。
そのうち私が他の土地に流れて、横須賀へ見向きもしないようになった。
八郎は結核を宣告されたとかで、清瀬の療養所に入り、ほとんど同時に元上役の女に捨てられた。
一度だけ、見舞いに行ったことがある。
何かの話のついでに、順子のことを私は口にした。
「横須賀で、黒人兵とアツアツでね」
「ほう、あいつがか。いくつになったのかな」
「十五か、六かな――」
「早いな」
「しかし、あの順子が、その兵隊にはもたれるようにして踊ったり、くっくっと笑ったりするんだ」
「あいつにはそういうところがあるな。なついてしまうと、いちころなんだ」
八郎はじっと天井を眺めていた。彼が何を考えていたか知らないが、私はそのときになって、あのカップルが妙に幸せそうに思えだしてきた。
話は飛ぶけれども、八郎は清瀬で死んだ。三年ほどあとのことだが、私はその噂をききながら、姉夫婦のところへ焼香に出向くこともしなかった。私の方も、戦後の乱世がひとまず終って、あれほど苦にしていた会社勤めをせざるをえなくなった。
やっぱり小僧ッ子みたいなもので、新聞の三行広告ですべりこんだところだった。私はグレて巷《ちまた》を徘徊していたぶんだけ、劣等感を抱いており、刑期を勤めているようなつもりで辛抱しようと考えていた。
朝なども誰よりも早く出社して、特に命じられたわけでもない掃除をしたりした。私は順子のように表情を消していた。
ある朝、事務所で一人で新聞を眺めていると、小さな旅館が焼失した記事が眼についた。死亡者の中に通称ジョンという名の女が居たという。二十五歳と出ていて、年齢は私の概算とはちがうけれど、男名前のジョンなどという女は珍しい。
私はしばらく、あの順子が火煙に包まれている有様を頭に描いていた。
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同  年
私の父親は、一日に三回、厠《かわや》に立った。朝昼晩、三度の食事が終って三十分もするとちゃんと催すので、これは長年のしつけによってついに得られたものだ、とみずから自慢した。ああいう汚物を腹の中に貯《た》めておいてよいことはひとつもない、鳥を見なさい。
しかし、父親は、私が物心ついたときからずっと恩給生活で、汚れはしないけれども無為に近い日々の重なりであり、飯を喰って、排泄の刻を静かに待つというペースを誰に邪魔されるわけでもなかった。もっともそのずっと以前は職業軍人で軍艦に乗っており、その頃、軍艦の中で日に三度ずつ、何もおいても厠に行っていただろうか。
父親は慢性下痢症だったのかもしれない。それで腸が吸収しないで喰べたものを皆押しだしてしまうために、こういう喰べすぎの時代にはもってこいの体質ということになって、延々長々九十余歳まで生き永らえているのかもしれない。
門前の小僧習わぬ経を読みというけれど、私は逆に反動で、父親がやることは小さい頃からいっさいやらなかった。海に身体を浸さない。碁を打たない。国家及び元首を尊敬しない。清潔にならない。
厠にもめったに行かない。どういうわけか厠に立つことがはずかしい。小学校にあがってしばらくしてやっと自分の家の厠には、夜陰に乗じてこっそり行くようになったけれど、それは何日か貯めた末で、昼間我が家に帰りついたとたんに爆発するように洩らしてしまうことも再々であった。そうして、そのせいでいつも(厠に行ったばかりでも)便意に脅迫されていた。
日中戦争がたけなわになっていた頃で、便衣隊、という言葉が教師の口から出たとたんに、猛烈に便意が湧《わ》きおこってきた覚えがある。
遠足のかわりに行軍というのがあって、隊伍を組んで郊外まで出かけて行く。そういうときにきまって便意と格闘するというのは、日常がふしだらだからだそうで、まったくそれにちがいないが、延々と道路を歩いていっていつ区切りがつくのかはてしがないようにも思え、また歩調を自分の都合で速めることもできない、そういうときの我慢というものは死ぬ苦しみであって、絶えず烈しく精神を鼓舞しつづけなければならない。石神井《しやくじい》公園だったか、最終地点についてそこで大休止となり、そこで公園内の厠に向かって最後の歩調を整え、走って身体を弾ませたりしたら洩れてしまうので、すべるように静かに小早く、厠に行きつこうとした寸前で、うしろから走ってきた鳥井くんに追い越された。鳥井くんはそのままの勢いで厠の扉をあけて中へおどりこんだ。大便所はひとつしかなかった。もしそれが鳥井くんでなかったら、私はその人間に飛びかかっていって首を締めあげていたかもしれない。
小学校の三四年生の頃、鳥井くんは、私の一番好きな友人だった。
もう一人、一級上の池田という子にも深く関心を持っていた。彼とは一度も口をきいたことはなかったけれど、休み時間で運動場に出ると必ず七八人のグループで相撲をとっていて、私は白線の土俵のそばに立っていつもそれを眺めていた。
池田という子は上背はそう低い方ではなかったが、細身で、一年じゅう相撲をとっているほど好きなわりに強そうでもなかったし、事実強くもなかった。ただ、二枚腰とでもいうのか、反り身になってよく踏んばった。だから、寄り倒されることが多い。打棄《うつちや》りで勝つか、上手からの投げを下手から打ち返すか、そういう展開になっていくので、いつもコンクリートの校庭に烈しく身体を打ちつけていた。そうしてうす赤い歯ぐきを出してケラケラと笑った。星勘定でいえば絶えず四勝六敗ぐらいのところだったろうか。ときおり、喰いさがって下手から捻《ひね》り倒したり、相手の出鼻を突き落したりする。それが完勝のケースで、そうなると手を拍《う》ちたいほど私も嬉しかった。
今考えてみるに、結局、彼のどういう部分に強くひかれていたのかはっきりしない。身体は軟らかかったけれど、華奢《きやしや》な美しさはなく、町場で売っている駄菓子のようにごわごわしていた。にもかかわらず、単なる素朴でなく、一種の洗練があった。そうした洗練は、当時、たとえば教師の口などから表立って語られたことのないものであった。そのへんだろうか。もうひとつ、圧勝する力に乏しいが、いかにも人間として当然と思えるガッツがあった。
そのどちらも、私には欠けているものだった。といって私が彼と正反対だというわけでもない。おそらく彼も、劣等生に近い存在だったろう。私は学業も、それ以外のことも何ひとつできない子だった。そうではあったが、この学校の中で彼のよさを理解できうるのは私以外にないとも思っていた。それが、辛うじて、ひそかな自信につながっていた。
鳥井くんともよく相撲をとった。下校の途中の原っぱで、或いは私の生家の前の道路に白線を描いて。彼は、池田という上級生とちがって、お屋敷町のかなり大きな家の息子で、色白、小柄。まんまるい顔に都会風の洗練がにじみでていた。
鳥井くんの相撲は徹底的に半身だった。立ちあがると横を向き、一方の肩を突きだして相手の突進を受けようとする。私などは特に闘争心に乏しいから、相手から突進してくると懸命になるが、受けの構えをされるとそこを押し破ってしゃにむに出ようという気をおこさない。ちょいと肩を小突く程度で出方を眺めている。それで私たちの取組みはいつもダレ相撲になった。そこが当人には面白い。何番でもできる。展開の綾で決着がつくことが多いので勝負がいつも拮抗《きつこう》する。ヘボ碁同士が、お互いに唯一の相手となる、あの趣きに似ている。
彼も池田という子と同じく、よく笑った。両頬に笑《え》くぼができるのが自慢で、相撲をとるときばかりでなく、人前ではいつも満面に笑みを湛《たた》えている。しかし、組み合ってみると存外にこりこりと身体は固くしまっていた。
一度、鳥井くんの家の座敷で相撲をとっていて、私が珍しく積極的に喉輪《のどわ》にして攻め、彼は顔を紅潮させてこらえた。喉輪をはずされたあとも組みついて必死に押した。そうされると、私とおなじで、彼もよくねばってなかなか崩れないのである。
畳のへりが、べりっとはがれた。
私たちは身体を離して足もとを見た。
彼が怒るか、すくなくとも眉根に小皺《こじわ》を寄せて不機嫌になるかと思った。
鳥井くんはいきなり笑いだした。それで私も笑った。
「駄目だなァ、俺たち――」
そういってやはり笑いつづけた。笑えば、いくらでも笑える。鳥井くんはその畳のへりの上にお盆をおいた。
「馬鹿押しだよ。馬鹿押しです」
「ちがうよ。馬鹿こらえだよ」
「馬鹿押しに馬鹿こらえか。ひがァし、馬鹿押し川――」
「にィし、馬鹿こらえェ――」と私も和した。
「どうしてお相撲の名前には馬鹿という字がくっつかないンだろう」
「省略してあるンだろう」
「じゃァ、僕たちの名前もかい」
「そうだ、省略さ、多分ね」
「先生もだね」
「先生もだ」
「ひがァし、馬鹿清水ゥ――」と彼は教師の名をつけてさらに笑った。「おい、いくよ、馬鹿押し川、もう一番」
鳥井くんは形態の特徴をつかむのがうまく、力士の戯画化なども、テレビのない時代にほぼ全関取のができた。たいがいの子は主要人気力士しか知らなかったから、その芸は私たちにしか通用しない。私たちはさらに本場所や靖国神社の祭礼相撲にも早朝からいって取的たちを見ていたので、私たち二人だけに共通なスターを持っていた。鳥井くんは弱さというものを素早く眺めとってしまう子だった。それからまた、失策というものを仮借なく眺められる子でもあった。
昔の下積み力士らしく、しぼんだ身体に未練らしくちょん髷《まげ》を残して、協会の雑役に甘んじている老人が居た。名前などもちろん知らない。私は相撲場へ足を運ぶたびに、つんつるてんの羽織を着て髷だけをわずかに大事にしている老人を眼の隅に入れ、ああ、まだ居るな、と思ったり、いつか居なくなったときのことを想像したりしていた。だから、鳥井くんが、力水の桶を前後につけた天秤棒《てんびんぼう》を肩にかついだ思いいれで、頭を烈しく左右に振り、眼もとに力を入れ、土俵下まで運ぶ恰好をすると、すぐにあの老人だとわかった。私たちは涙が出るほど笑った。
鳥井くんの模写芸は、そのひとつひとつに一種の冷たさのようなものがひそんでいたかと思うが、私は当時、そう思わなかった。それよりも何よりも、私が眼を離さなかったものを、彼もまた見ていてくれたという嬉しさ、親近感でいっぱいになっていた。
私は、相撲場の老人や、池田という上級生や、その他にもぽつりぽつりとある対象物に、自分が何故こだわるのか、問いただしていなかったし、そんな気持も芽ばえていなかった。ただ、それらを話題にできるのは、鳥井くんだけなのだった。私は自分の場合と同じように鳥井くん固有の条件をたしかめることをせず、いくらか不思議に思いながら、彼とだけは普通語を使って隔意なくしゃべっているつもりになっていた。私は、劣等生としての自分にあるひそかな自信と同様、いやそれ以上の才能を彼の中に認めていた。
おかしなことに(私は彼をいつも年長の友のように思っていたが)、鳥井くんも私も早うまれで、誕生日が三月末の一日ちがい、つまり同級生では二人とも一番の弟分なのだった。
誕生日を私の家で二人一緒にやったことがある。彼はよく喰べ、よく笑い、私の親たちとよくしゃべった。そういうとき、子供らしくなく流暢《りゆうちよう》で、私は口をはさむすきがない。
「ぼくは医者になります――」と鳥井くんはいった。「あれは、仕事がはっきりしてるから」
「では、もし医者になれなかったら」と母親がいった。「第二候補としては何?」
「さあ、その場合は何にもなれやしませんよ」
「ははァ、医者なら兵隊にならなくてすむからじゃないの」と私がいった。
「それもあるけどね」
「でも、僕の従兄で軍医になって戦死したのがいるぜ」
彼はいきなり笑った。
「医者じゃなけりゃね、落語家」
あとで母親が、あのひと、医者の息子じゃないンだろう、といった。ちがう、と私は答えた。しかし、大きな家、という印象だけで、彼の家の職業を知らなかった。だいいち、私たちはいつも私の家の方で遊んでいて、鳥井くんの家に行ったことはきわめてすくない。畳のへりを破ったときと、あと一二度だったか。それは、私の方が乞《こ》うて遊んでもらっていた証拠のような気がするし、また彼も、あまり友だちを連れ帰りたがらなかったのかもしれない。
両親のほかに弟妹も居たはずだが、たまさか行っただけの印象としては、なんとなく、無人の家という感じがした。そうして彼の一家は、私たちが卒業する前後に、すぐ近くだが、バス通りに面したところに移転した。門から敷石を踏んで奥の方に玄関があって、ちゃんとした住まいではあったが、敷地はだいぶせまくなった様子だった。
当時、私たちの小学校の優等生グループは府立四中→陸軍幼年学校というコースヘ行く者が多かった。それに対して劣等生の私は、新設された市立の中学に、ようやくすべりこんだ。優等生グループの次くらいにランクされていた鳥井くんは、たしか慶応の附属だったかを受けたと思う。多分、医者の学校へ進む前段階を考えていたのだろう。周囲からは成績を無視して高望みをしすぎる、と陰口を叩《たた》かれていた。
母親が道ばたで鳥井くんを見かけて訊いた。
「鳥井さん、どこにきまったの」
うう、と彼は鼻息を出すようにどもって、
「すべりました――」
「あら。――どうして」
「いや、すべりました」
彼は笑くぼをつくったまま、しかし眉根に小皺をよせてそういった。
まもなく、高等小学校(中学に行かない者が二年だけ行くことになっていた)にとりあえず行くことになった、という噂をきいた。その間、あまり親しく会っていなかったことになる。多分、鳥井くんの方が皆を避けていたのだろうが、私は、一面で気にしながら、また一面では彼は彼でなんとか自分の思う道を行くだろうと思っていた。なにしろ私は、無神経で楽天的であった。
私は中学にかよいだしたが、都電をおりて私の家まで帰ってくる途中のバス通りに彼の家がある。ある日、とおりかかると彼が門前にたたずんでいた。
私たちは笑顔で会釈しあい、私は配慮してことさら学校なんかに関係のない、映画や野球や相撲の話をあれこれしゃべった。なんの話にせよ誰とでもできそうでいて、鳥井くんとしか話せないような話し方があったのだ。
何かのはずみから、話題が一変した。
「――で、俺ね、君のところに行ってるんだよ、二部(夜学)だがね」
「俺のところって、俺の中学か」
「そうだよ」
「そうか――」といったが私はうろたえを押しかくせなかった。「一時的なんだろ、また来年受け直せばいいな。君のいきたいいい学校を」
「ああ、――そのつもりだけど」
それで私はその会話を打ち切りたかった。打ち切って、相撲場の老人の話でもしたかった。
「じやあ――」
と鳥井くんがいい、私はうながされて歩きだした。歩きながら、中学で定められたランドセルや制帽を身につけている自分を不意に意識した。
無駄かもしれない、と思いながら、なんとか確執を埋める手だてを考えて、何度か、彼の家へも寄ったことがある。
「鳥井くん――!」
玄関で連呼したけれど、応答はなかった。
私はそのときもまだ、二人だけの独特の関係が永久に失われてしまうなんて思っていなかった。だって私たちはしょっちゅう相撲をとっていたのだ。お互い勝ったり負けたり、勝つときは勝ち、負けるときはさっと負けて、風格を残す、そういう面白さを二人とも知っていたのだ。現実には大変な屈辱かもしれないけれど、そうした概念に抜きさしならずはまってしまう大人たちを我々は笑い、逆にまた、誰もが概念の糞だとして不要に思っていることにこだわることで結びついていたのではなかったか。
私は大劣等生で、負けることになれていた。そうして相撲と現実とを平気で同等に考えていた。負けたら失笑すればいい。また勝てるときに勝てばいい。怪我さえしなければ、鳥井くんぐらいの才能があれば、放っておいても適当に恰好がつくのじゃないか。そういう私の意見を伝えたかった。もっとも彼は、またべつの意見を持っていたろう。
授業がおそくまである日は、私たちの下校と二部の登校が重なりあう。校則で、登下校は一列縦隊で歩調を合わせてわき目をふらずに歩くことになっていた。予想したとおり、登校する鳥井くんが向こうの列に加わっていて、これも規則どおり、お互いにまじめくさって挙手の礼をかわしてすれちがった。私たちがどう考えようと、この関係は無視できない。そうして、そうでばかりはないのだ、という会話はもうできなかった。
ある日、バス通りの坂を昇りきると、鳥井くんが門の前に立っているのが遠くに見えた。しかし彼の家に近づいたときは、その姿がなかった。
彼は門扉の陰にかくれて、私がとおりすぎるのを待っていたのだった。
その後は、私も彼と歩調を合わせて、二人の関係を遠いものにしようと努めた。裏道を歩くか、都電をおりてバスでもう一停留所乗りつぐかした。バスの中から見ると、鳥井くんはほとんど連日、門の前にたたずんでぼんやり通りを眺めていた。私にも覚えがあるが、門のあたりというものは、家の中でなく外でなく、居場所がないときの居場所として適当なところだ。
まもなく私たちはすっかり遠くなった。私の劣等不品行ぶりは轟《とどろ》いていたから、鳥井くんもきっと耳にしていたろう。しかし戦争が激烈になり、それぞれ工場に動員されるなどして、そのうちお互いの消息もわからなくなった。鳥井くんの家は焼けたし、私は結局中学をしくじって、戦争が終ったあとはどこの学校にも籍をおかない身となった。
私はまっすぐに無頼の道に入っていった。特にそうしたいわけでもなかったけれど、まあ成りゆきだ。そうやって成りゆきにまかせていって、しかし成りゆきにまかせるだけが人生ではないという部分では、とっくに中学の同級生の中から友人をえらんでいた。そのバランスのとりかたは、ほかならぬ鳥井くんに教わったもののひとつである。
その頃、ばくち常習者として豚箱に入っていると、小学校の同級生の金くんに遇《あ》った。彼は大勢と一緒に思想犯として留置されており、私は自分を面目なく思った。
看守の眼を盗んで、何か君たちのためにやれることはないか、といった。「いいんだ――」と金くんは強い口調でいって、それから笑った。「今度、出たら、どぶろくでも呑みに行こうぜ」
金くんも小学校では劣等生の一人だった。けれどもその面影はない。後日、本当に新宿の裏手のどぶろく部落へ行って呑んだ。彼は唐辛子の粉で口辺を赤く染めながら、その夜、軒昂たる口調でしゃべりつづけ、私は気圧《けお》されるばかりだった。
金くんは母一人子一人で、その後、ある事件で少し長いこと喰らいこんでいた折りに、住所不定の私が代りにその家に入りこんでしまって、母親と暮した。私は冷水で作る味噌汁や干した明太《めんたい》の味にすっかり馴染み、金くんが出てきたときはその家から離れがたいほどだった。金くんはやがて北朝鮮系の人たちがやっている会社に勤めだし、結婚して立派に母親を養いはじめた。
稲村伝四郎、稲伝ちゃんとも浅草のヤミ市で会った。彼も劣等生の一人だったけれど、そのときは古着を売ってひどく勢いがよく、私の顔を見ると金を使いたがった。
魚屋の息子の伊原くんは、明治大学で相撲の選手になっていた。大男になった伊原くんも昔の面影からはるかに遠かった。
優等生の秋山くんや後藤くんも電車の中で見かけたけれど、声をかけなかった。戦災でばらばらになって大半は会うよすがもなかったけれど、それぞれ、私をぐんとしのいで生きているようだった。
バラックが建ちはじめ、ヤミ市も勢いを失ってきた頃、生家近くの大通りを夜更けに歩いていると、背後から鳥井くんに声をかけられた。私は誰に会うよりもびっくりしたけれど、さしてなつかしい気持もおこらなかった。
彼は童顔のままだったが、声が大人っぽく変っていて、東大に行ってる、といった。
「医学部かい」
「ああ」
「ふうん――」
どういう経路でそうなったか、くわしくはきかなかったが、しかし境遇がちがいすぎていてとりたてて口惜しいとも思わなかった。私はこういうことに慣れていたし、もともと学校なんかどうでもよかったのだ。でないとしたら、無頼をとおしている理由がない。
「相撲、見てるかい」
「いやァ、あまりね」
「今度、取らないか」
「ああ、そうだね、昔よくやったものな」
彼は旧住所に小屋を立てている、といった。まもなく、私は彼のところを訪ねていった。以前の敷地の隅に小屋があり、そのほかは草が一面におい茂っている。奥の部屋に父親が居り、玄関に彼の机と台所道具が並べてあった。
「お父さんと、二人だけなの」
「ああ――」
「――で、あとの人は」
「戦争で、居なくなっちゃった」
戦争で、といったか、空襲で、だったか、とにかく私はそのとき、母親も弟妹たちも戦災死した、というふうに受けとっておどろいたが、あるいは別居、別離、ということだったのかもしれない。彼は眉根に小皺を寄せてその話を手早く片づけ、中学の教師や、共通の知人の噂を面白おかしく語りあった。けれども私はあまり乗らなかった。彼が東大生だったからではなくて、私たちの共通語がもう死んでおり、お互いにわざとらしく過去に戻ろうとしていただけだったから。
それでも日暮れまで邪魔をして、また来るよ、といった。
「や、それじゃ――」
彼は待ちかねたように立ちあがった。
結局、相撲をとろうという約束は実現しなかった。
それから大分たって、私が生家に戻り、おそまきながら市民社会の最底辺に復帰した頃、突然、彼が現われて、金を貸してくれ、といった。
借金の常識としてはわずかすぎる額だったが、解せない点では同じだった。
「どうしたの」
「いや、なに、ちょっとね」
格子戸のところで、相撲をとるときのように半身になって、こちらをうかがっていた。童顔に笑くぼをつくってはいたが、容易に引かない気配が見えた。
それっきり、会わない。卒業して大病院の医局へ勤めたという噂をその頃きいたが、年月がたち、中年を越えてしまうと、同じ年ということなどさほどの意味もなくなってしまう。
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私は、中学の途中で学校を脱落してしまったので、同じ年頃の者が高校から大学に行っている頃、プロばくちの世界に居た。満の十五六から二十一二ぐらいまでで、大戦争が終ったあとの五六年である。この年齢の頃までは、誰でも、どこに居ても、さまざまなことを学びとっていくもので、私は、幼い頃から眼に映じてきたこの世というものの姿形を、ばくち場で総仕上げしたことになる。
で、今日になると、大変面白い経験をしたと思っている。しかしまた、私の原型の特徴に加えて、その経験が特殊な感性を育て、自分を特殊に追いこむことで、辛うじて存在しているというだけのことに終りそうである。
こういうことを得意気にいう年齢がすぎたから、ここに記すが、十九か二十の頃、当時のその道のプロのランキングで、私は関東のうちの七位か八位にランクされていた。関東ブロックは、北海道、大阪南部、北九州、よりはっきり弱く、山陽や四国ブロックともどっこいといわれていたから、全国的にいえば三十位以下であったろう。関東ブロックの十位までの者は、暗黒組織の中の代打ちと称される貫禄者がほとんどだったから、私のように年少で、組織にも入っていない者がランクされるのは異例のことだったのである。
けれども、プロばくちの世界に居た、というのは、ひとくちでいえば、という話であって、私はけっしてその期間、ばくち場だけに居坐っていたわけではなかった。といって、ばくちを趣味のように考えていたわけではない。その五六年のうち、後半はばくちそのものにやや不真面目であったが、前半の二三年は、ここを生きる正念場と心得、励み、怖《おそ》れ、一瞬ごとに身を反らして打っていた。
そうして同時に、他のこともいろいろとやっていた。銀行員が、音楽をきき、株を買い、女を漁《あさ》る、そういうことと少しちがうのだけれど、家に帰れば家の人間になり、野球場に行けば野球場の人間になる。当時、乱世であったせいもあるが、私はばくちを打っていて、自分をそれほど特殊人間とは思っていなかった。むしろこれは狩人みたいなもので、商人などにくらべたら人間の原則的な生き方のひとつだというくらいに思っていた。だんだん深入りしてみて、ばくちも他のことと同じく、深淵《しんえん》のところは異様だと思ったが。
だから、ばくちで淪落《りんらく》して、その不充足を他で埋めようと思ったわけではない。私は、若さのせいで、もっとあっけらかんとしていた。自分が学校のコースをはずれ、世間の表面を渡りにくいという点の屈託はあったが、それは同時に、世間をまだ完全に捨てていたわけではないということにもなる。だいいち二十歳になるやならずで、本格的な世捨人の気分になれるわけはない。私がこの時期、ばくち場以外のところに出張っていたのは、特殊になりきることを怖れた防衛本能だったろうと思う。ただ、私には、自分がなにかしら一人前でない、という意識が幼時からあり、世捨人的な感じ方をする癖があった。そのせいで、どんなところに居ようと当り前に近く思っていたし、また逆に、ばくち場に居るときとさして心を入れかえないで、他の場所にも出張っていけたような気がする。しかし、ひとくちにいえば、やはり特殊人で、寒々しい人間であった。
そのへんのところにちょっとこだわって、一人の男の一生の中のほんの数年間に、どんなことをしていたか列記してみようと思う。
敗戦直後の上野で、アベック専門に恐喝をやった。この手は、まっ先にとはいわないが、私どものグループがかなり早い時期にはじめたと思う。暗がりで抱き合っている奴等から金品を奪うので、これは後にもっとも気のきかないチンピラの小遣い稼ぎになり、暗い公園などではどこでも当然とされていたものである。
私は、地下道に住みつく小童《こわつぱ》たちと一緒にずいぶんやった。小童たちはどうしてもアベックに向かって言葉で脅そうとするのである。私は、物をいう前に殴れといった。どんな言葉だろうと口を利くと、どうしても凄味《すごみ》が失せるし、そのため時間がかかる。顔をおぼえられるということになる。で、男がズボンをずりさげるのを見ていて、いきなり行って殴るなり蹴るなりした。ズボンがさがっていれば、相手は自由が利かない。上野では、他のグループも、私たちを見習っていたようである。
しかしそれは、私が上野で遊んでいるほんの数カ月の間のことで、私はそれまで喧嘩などしたこともなかったし、不良児ではあったがあまり積極的に人の中に混じらない子供だった。どういうわけか、あの頃、尖《とが》っていた。私はまもなく、山下の浮浪児たちにばくちを教わり、その連中に連れられて横須賀の進駐軍専門のばくち場に行くようになる。
それも毎日ではなかった。一週間に二日とか三日とかで、家に居ればそれこそ家の子であった。父親が生計の道をふさがれており、母親と二人で田舎に野菜類を買出しに出かけ、背負ってきた荷を往来で売った。母親にいいつかって、私一人で静岡や福島に果物を背負いに行っていた時期もあった。背負いに行かずに、露店専門だった時期もある。そんなときは一日じゅうほとんど口を利かない。田舎道で、天気のいい日は陽光をぼんやり眺めていることが好きだったし、悪天の日は、雲や風や樹や山が怖くてしかたなかった。
麻雀もその頃修業したけれど、横須賀では主にカードとサイコロだった。勝ちこめる日と小負けの日がある。ばくちというものは、総体的に勝てている間は敗因の誘発を未然に防げるものだ。しかし、外国語がうまく使えなかったので、自分一人では行かない。上野の先達に連れていって貰う。
その同じ時期に、いずれも長続きしなかったけれど、商事会社(ヤミ屋)の給仕、炭屋の事務員、日本通運の少年社員、少しあとで出版社の編集見習いもやっている。母親は、なんとかして、私をどんなところでもよいから勤め人にさせようとした。定着する気で大阪へも行った。ばくちでいろいろな土地を流れ歩いたし、その間、割烹《かつぽう》の用心棒、旅館の番頭、特飲街の裏方。東宝争議のときはバリケードの中で組合員と一緒に泊りこんで戦ったが、あれは何であそこに居たのか記憶がない。窃盗、三人で輪タクを分捕って客を乗せていたこともあるし、実現できなかったが掏摸《すり》を志向したこともある。どの場合も、ばくちを主体に考えていたせいもあるが、引っ込み思案すぎるか手荒すぎるか、周辺とちぐはぐになった。
むしろ職とはまったく関係のない、一人遊びのようなことに力をそそいでいることが多かった。弟と二人で都電(市電)の年式を調べ、それが全国のどの都市に移譲されているか調べるために、駅に寐、ほとんど呑まず喰わずで調べて歩いた。ついでに地方廻りの小劇団の構成人員をメモし、東京では見られない下級芸人(主として漫才、浪曲)をメモした。ジャズ。競輪はばくちの中の最高級な種目の一つであるが、後楽園競輪場に行った帰り、大曲《おおまがり》の能楽堂に寄る日は最高に充実した一日だった。横須賀で知った二世に乗馬を教えて貰っている。女義太夫。洋邦ともに映画のスタッフキャストに関する隅々までの自己流名鑑。野球はノンプロまで、相撲は取的までカードを作っていたし、競輪選手は四千人以上居てこれも大学ノート。都電乗務員の名前風貌個性の番線別ノート。邦楽の関係に居候していたことがあるので日舞の世界、さらに男色の世界の人も知っていたし、特飲街に関しては、一時期本職の女衒《ぜげん》について毎日東京中の赤青線を廻って、お女郎さんたちの特徴をメモして歩いた。要するに私が行かなかったのは学校だけで、したがってこれらのすべてが何の肩書にも役にも立たない。外から見てひとくちにいえば、給仕であったり、ばくちゴロであったりするのである。
ほんの数年間に(以前から続いていたものもあるが)そういうことをあれこれやって、ひどくいそがしい。会社のようなところへ勤めだしても、会社へ行く閑《ひま》がなかなかつくれないのである。そのうえ私は、遊び場で大人たちがとち狂う有様を、プロの側から眺めていたから、歓楽街で単純な遊び手に廻るということができなかった。女を買うことも苦手である。その遊びに熟練しないうちに、自分が内所《ないしよ》の方から眺めてしまった。だから女遊びをほとんどしていない。
あれこれやっていたように見えて、そこが欠落している。精力が他の刺激で費消されていたせいもあろう。それから、自分はどこか一人前ではない、という例の意識が邪魔をしている。
けれども、ラジオの子供の声が耳に入っている途中で、いきなり涙がどっと湧いてくることがある。しゃべっている言葉の内容とは関係ない。いかにも健やかそうな、伸びやかな子供の声というものに弱い。私の父親が六十の坂を越えてからやはりそうであった。
それから、誰かと誰かが、少しでも理解しあったというような場合、涙が出てくる。ことの大小とは関係がない。それは、堪えるというような余裕がなくて、気がついたときは滂沱《ぼうだ》と流れている。私は、ばくち場で戦うか、自分一人の穴に入りこむか、その両極端ですごしていたから、占いカード式にいえば、団欒《だんらん》を強く求めていたのであろう。そうしてその団欒の場が現実にあれば、むしろ避けてしまう。
今、へんなことを思いだしたが、好んで乗馬クラブを覗《のぞ》き見していた時期がある。乗馬そのものは、少年時代に父親に教えて貰ったり、横須賀や鎌倉で二世たちから再教育されたりしたが、それは中途半端に終ってしまった。私は続けたいと思っていたが、東京のクラブはなにやらとりつきにくく、ビジターにも時間貸しをすると知ってからも、気が臆して申し出ることができなかった。
したがって、近くへ行くたびに覗きに行ったのは、乗るつもりではなく、眺めるだけの気持だった。この衝動の中には満たされぬセックスの臭いがむらむらとする。
馬場に集まる男女の雰囲気は、外から見るとよそよそしくとりつきにくいが、内側では団欒なので、それを眺めている自分というものが、いじましく、不体裁で、人に見られてはならぬもののような気がし、しかし騎乗者からは眺められており、彼等は不体裁な者を見る視線を投げてくるから、まず緊迫をおぼえる。そうしてまた騎乗者の中にはいかにもふっくらとした、完全な、伸びやかにすごしているような人間がおり、彼等は、幸せでない生き物の犠牲によって全能の楽しみにふけっている。不幸な動物、完全な男女、いじましく眺めている私、この三角関係が非常に私自身を刺激する。
ある日、身を隠すようにしてクラブの門の中に入ると、馬場の柵のところに、私と同年くらいの、成人しかけているような若い男が、柵に附着した泥のようにひっそりと立って馬場を眺めていた。彼は発育不全であり、顎を細く尖らせ、蛸《たこ》のように口が丸まり、眼が哀しく光っていた。
彼は私が行くたびに居て、そそくさと立ち去っていった。一カ所だけではない。他の乗馬クラブを覗きに行っても居る。大きな競技会があると私も時に見物に行ったが、周辺のムードを汚すように、ひょっこりと彼もまぎれこんでいる。
女子野球にも私は一時期凝っていた。Aワンとか三共とか、主に薬屋さんがチームを持っていて、十二社《じゆうにそう》とか上井草《かみいぐさ》の貸球場でやる。小さなスタンドに、チラホラと通りすがりの閑人が坐っている。けれども見慣れて女子選手の個性など知ってくると、捨て難いのである。近藤というショートの球さばきなど今も眼の中に出てくる。
私は一人で、そういうところばかり廻っていた時期があった。例の彼が、屈託ありげにそこにも居るのである。
多摩川園のサーカスでも会った。彼も、私を意識していたにちがいない。私が居ると、そそくさと居場所を変える。しかし、お互いに表情も変えないし、口を利くでもない。
私はその頃、幼稚園の保母代りのような仕事をしているこれも発育不全の男が他人の焼跡に不法に建てた乞食小屋のようなところに寐ていた。そこには街をごろごろしている若者たちが常時四五人は泊っていた。大半は家出人である。地面の上に茣蓙《ござ》を敷き、破れ布団を敷いて、折り重なって寐るか、蝋燭《ろうそく》の火で小ばくちをやる。
持主の発育不全の男は、皆にその場を貸し与えて、代償に遊んで貰っていた。誰も金が無い。たとえ懐中に金を含んでいても見せないし、誰も出せといわない。堅気の人の小遣い銭とちがって、遊び一概ですごす連中は懐中の銭が全資産であり、遊びの場での武器である。宿銭とか食費とか、そういう増える可能性のないただ捨てるようなところに出費はできない。
私たちは夜更けにパン屋の裏口へ行って、売れ残って固くなりかかったパンにバターを塗って貰って抱えてくる。パン一斤分くらいの値段で四五人で喰える。そのうえ、店員が店の方でバターを塗っている隙に、ラスクのできかけだのビスケットをポケット一杯に詰めてくることができる。
かけソバに唐辛子の粉を一袋かけてかきまわすと赤いどろどろした液になる。そいつをひと息に呑みほすと、もうそれだけで胃が焼けて一日は何も喰べないですむ。
屠殺場から内臓を車に積んで曳いてきて、焼鳥屋などに卸す爺さんがばくち場に来ていて、この人からレバをひと塊《かたまり》買って生で喰っちまう。小屋主の青年が、魚屋で魚のあらを貰って来て煮て喰う。
その小屋は近隣の人たちからも掃溜のように見られていて、女は近寄らない。私はよく夢精をしたが、他の者も同様だったろう。小屋には異臭が濃く漂っていた。総体的に金はないのだけれど、どうかするとその年頃には不似合いな大金を手にするときがある。そんなときには誰も小屋に寄りつこうとしない。
私は、いくらかまとまった金が手に入った折りに、入会金を払って横浜の乗馬クラブの会員になった。どのクラブも入会審査がきびしそうに見えたし、申し出ていく勇気がなかったけれど、ふとしたきっかけで事務所に入っていって頼みこんだ。今考えても相当な執着だったように思う。
馬との接触が少年時にあったために、跨《また》がる、或いは跨がられる、ことに感性が敏感になった。私は小学校でも級友にさかんに跨がりたがった。それがセクシーなものの目覚めだったろう。女色より、男色より、馬が、性的なものの故郷のような位置を占めていた。それが執着のひとつ。
それから、馬との関係で、騎乗者に神に近いような完全さがある。完全で、揺れようのない充足した世界。私は当時、ばくちにも、他の趣味的な対象物にも、妙に完全さを求めていた。自分一人で完全になりえない市民的な世界には最初から深く立ち入ろうとしなかった。何かしら非常に不充足だったのだと思う。これが執着の二。
私は当時、自分がふだん身をおいている場所を嫌っていなかったが、さりとてそういう場所だけに定着しようとも、するとも思っていなかった。そこがあっけらかんとしている。警察ははっきり私を常習賭博者と認定していたのである。世間の表面の筋には乗れない。しかし本人の私は、なんとかなるさと思っていた。そうしてそこいらの気持が失せないように、バランスをとりたがっていた。それが執着の三。
その他に、ふっくらとした、育ちのいい女の子と知り合いになりたかった。その兆は生まれなかったけれど。
最初の日、騎乗して馬場に出たとき、私は自分の執着がすっかり萎《な》えるのを感じた。それは今でもはっきり覚えている。完全なる者と股下の不幸な生き物、この関係が何の根拠もないことに忽《たちま》ち気がついたのだった。私は馬に指令を発することができなかった。
例の彼は、そこには居ない。けれども、乗っている私自身が、いじましく、自分には得られない馬場の世界の輝きを覗き見している男なのだった。アベックを脅した男だった。自分の都合だけをむきだしにしてばくちを打っている男だった。嫌なことには背を向けて関心のあることだけに手を染めるだけでなんとか生きられると思っている少年だった。そうしてまた、覗き見という位置からしか、この世界に居つけない存在でもあった。
私は馬の上であっけらかんとしていられなくなった。持ち時間の四十分の半分も馬場ですごせず、すごすごとおりた。
それでも、時折りクラブに顔を出すことをやめなかった。たいがい、横浜で夜を徹してばくちを打った帰途だった。東北訛りの素朴な老調教師が居て、親切に教導してくれた。私はまず、この馬一筋に暮してきたような老夫妻とうちとけるようになった。
私はとうとう騎乗そのものには、当初に予想していたような快をおぼえなかったけれど、陽《ひ》だまりで飼料を馬に与えたり、マッサージしたりしていると、おちついた気分になれた。私はここでは、何も知られていなかった。父親が軍人だったということだけで、年頃なのに学校へ行っている様子がない、そういう不審さがあったと思う。老調教師は、私がいつも疲労している顔つきなので、軽い病人だと思っているようだった。
会員も、医者の一団をのぞいてはブルジョワ的でなかった。安定した生活を送っているという程度の人たちだった。私は、朝早い遠乗会や競技会の日は、学生たちと一緒に馬場内の小屋に泊るようになった。横浜に小さな部屋でも借りて住みついてもいいとさえ思った。
竜天という馬が居た。国体にも出る馬で、障害もよく飛んだし、馬場馬術の成績もよかった。しかしそれよりも、歩調が高く、並みに歩いていても豪快に大きく揺れる。背筋も柔らかくて、俗にこの道でいうクッションのいい馬だった。
私はこの馬が欲しいと内心思っていたし、持主はもう飽きて、値が折り合えば新しい馬に買い換えたがっていた。持主は横浜の古い商家の若主人で、私は会員の中でこの人と一番親しくしており、馬場の帰りにはたいがい彼の家に寄って話しこんだりしていた。
竜天を買わないか、という話は持主からも老調教師からもあった。私はあっけらかんとして、金が造れるかどうか真剣に考えた。そのために、暗黒街に行って平素より大きいばくちをやってみたりした。
もちろん、手にあまった。欲しいが、自分はまだ親がかりだから、といった。
若主人とは、御殿場によく同行して騎乗キャンプをやったりした。大きい競技会に出場する彼を応援するために、彼の家族たちの席に居た。馬場のつながりだけの、根のない交際だったが、そんなことのためにクラブから離れられなかった。
ある日、彼が不意に、女房の妹とつきあってみてくれないか、といった。彼女は競技会の日の見物席でチラと見かけていたが、ふっくらした、育ちのよさそうな美人だった。
私はびっくりして、固辞した。そんなこというなよ、今度、馬を習わせるから、と若主人はいった。私はしばらくクラブへ顔を出さなかった。自分と馬との関係をいやでも思い起こしていた。
しばらくして、不意にクラブへ顔を出すと、若主人が居て、竜天は先月、脚を折った、といった。繋留車で屠殺場に連れていかれたという。私はその日も徹夜ばくちで寐ていなかったが、誘われるままに若主人の家へ寄って、ビールを呑んだ。
ビールの酔いが廻って、話しながら私は少しの間、居眠りをした。眼をさますと彼の妻君がじっと私を眺めている。
女房の妹だがなァ、と若主人がいいかけると、言下に妻君が、何か否定的な言葉をいった。その日から彼は、妻君の妹のことをいっさいいわなくなった。多分、どの点でだか知らないが、私の無頼の色がすかし見えたのであろう。
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夜 明 け 桜
どうも、どうも、と彼はいった。地下鉄から吐きだされた一団の群れの中から女も彼を認め、口もとに笑いを浮かべていた。
写真、送ってもらってありがとう、と彼はいった。気にいったよ。
そう、と女も立ちどまった。
偶会だったので彼は女の名前も思いださなかったが、それはたいしたことではない。
飯、まだなんでしょう、お礼に、ごちそうするよ。
俺もだいぶ調子いいな、と思う。軟派するとき、或いは、呑んだり麻雀したい感じのとき、ふだんよりなんだかちょっと調子よくなる。彼は自分のことをそんなふうにいつも思っていた。
今年の二月末、ひょんなことから関東麻雀選手権というのに出て優勝した。どこかの雑誌社がインタビューに来て、女がそのとき写真をとった。伸ばして送ってあげるよといったが、本当に、四つ切りに大きくしたやつを送ってくれた。会社からではなく、女の住所からだった。そんなこととはべつに、また会ってもいい女だな、と思った。
だから偶会したあと、一人前二千円の豪華版の鍋を、奢《おご》った。とりとめのない話をぽつりぽつりした。女はフリーのカメラマンで、仕事があったりなかったり、でもちょうど自分の能力には合っている、といった。
それから卓球の話をした。そうしてその店を出て、F会館の三階にある時間五百四十円の卓球場に行った。腕はたいしてちがわないが、女の方がいくらかすばしこくて、紙一重の差で勝負がきまる。彼は汗をかき、ついでに小腹がへって、今度はうんと安い店を二三軒まわって呑んだ。それから、ちょっと、行こうか、といった。じゃ、そうしようか、と女もいった。
こんなに酒を呑ませてこんなふうにするなんてはじめてだなァ、それならはじめからラブホテルにいこうっていえば、いいじゃないの。
どっちだっておなじじゃないか。
そのくせ、やっぱり女も、酒がまだ充分にまわりきってないらしくて、愛撫する手も冷たかった。彼は冗談に、フカザケナミコ、と呼んだ。
女は彼のことをおぬし≠ニいう。
おぬし、あたしをどう思ったの。
どうってことはないけれど、わるい感じじゃなかったさ。
偶会したときは調子よくはずむかと思われたのに、だんだんはずまなくなった。もちろん、それを隠そうとはしていたが、彼はその前日の昼まで、小さなことで一緒に居る女性としっくりいかずにふて寐をしていた。その女性は朝、出勤していく。彼の好物である彼女手製のハンバーグが鼠入らずにおいてあったが、そのまま手をつけずに出てきた。気持のはずまない理由はいろいろあったが、それらはすべて口にするほどのこともない。だから、彼はあまりしゃべることがなかった。
それから三日目の昼さがり、三時頃だったか、急にフーテンがしたくなって女の部屋に、電話をいれた。
この前の盛り場に女の方が先に来て待っていた。その日も卓球をやり、酒を呑んでからラブホテルへ行った。二発、やった。次のときは女の方が、電話をいれてきた。
一緒に居る女性が電話に出て取りついだ。その日は、その女性のことがひとしきり話題になった。
おぬし、いつも外泊してるんでしょ。
ああ、何日も帰らないこともある。
女の誘いで出かけて、いつ戻るかわからないのに、そのひと、なんにもいわないの。
少し考えて、まァね、と彼はいった。
妬かないの。
あ、そりゃなにか思ってるだろうな。
いつもこんなふうに浮気をしてるの。
浮気、と彼は表情をくずさずにいった。俺、浮気をしてるんだろうか。
女はだまった。そのときは駅の反対側の、安いのでよくはやる呑み屋にいたのだが、もう一軒いこう、と彼がいっても、いいわよ、もう、と女が動かない。
女は皿の種類をあれこれとって並べるのが好きで、そのときもまだ喰べ残したものが相当あった。
彼は酒の追加を頼んだ。満員の客のざわめきが低い天井のせいで渦を巻いたようになっていて、二人向き合ってだまっていても、特に居づらくはない。
彼はゆっくりと酒を呑み、煙草を吸った。彼はべつに何も考えたくなかった。
彼女、奥さん――?
そうでもないんだ。
なんなの。
なんだろうな。
じゃ、じき別れちゃうの。
どうかな。
おぬしはどうなのさ。ずっと一緒に居るんでしょう。
去年、他の女に子供ができちゃって、と彼がいった。電話をかけてくるんだ。俺が出ると、何もいわずに切っちゃう。彼女が出ると切口上で何かいうらしい。毎日、夜になるとかかってくる。そのうち、女ばっかりじゃなくて代理人という人からもかかってくるようになった。
で、どうしたの。
二十万円で勘弁してもらった。それも、月賦で。彼女の貯金から、借りた。
おぬしの子供だったの。
わからない。こんなの、もうやめてくれ、ってそのとき叱られた。もっとスマートにやってくれって。
女は数の子をぽつぽつ喰べていた。
今の所は安いよ、と彼がいった。
今の所って――?
五反田の奥。住まいさ。
ああ、そう、そうだったわね。
3DKにせまい庭、陽当りは悪いし家は古いが、一軒家で五万八千円。
へええ、優雅ね。
一人毎月三万円ぱさ。家賃ガス電気代、食費その他なんでも、俺たちは折半なんだ。彼女は勤めてるからね。
おぬしはなにしてるの。
俺か、麻雀やったり、さ。稼げないこともあるがね。俺、使わないから、あんまり。
出ようか、と彼がいった。鰹のたたきが女の皿に残っており、店の人にわるいといって鼻紙に包んで、赤いカメラバッグの中に入れた。女はその紙包みを路上の隅においた。金曜日の夜のせいで、人が出盛っている。
どうするの。
ああ。
それから、女がいった。
あたしたちって、なんなの。
なんだろうねえ、俺たち。
と彼もいった。
卓球友だち、かな。
卓球友だち、と女も復唱してキャッキャッ笑った。
おぬし、はじめて面白いことをいったわ。
駅の方に歩いているつもりが、いつのまにか卓球場の方に近くなった。
捨てられるんだよ、俺が。
え? 誰に?
彼女に。
どの彼女?
どの彼女にもさ。今、一緒に居る女も、きっと俺を嫌いだす。
何故?
俺が、ぐうたらだから。
ぐうたらなの?
ああ。
しばらく歩いてから、彼がいった。
だから俺、今まで女の人と別れるのに苦労したことない。向こうが離れてって、俺はいつも一人になるだけさ。
Sの前をとおった。Sは以前よく溜っていた喫茶店で、仲間たちと抜け伝をやったりして出入禁《でりきん》になった店だ。学園闘争のすこしあとで、まだその当時の連中が同じような溜り場にきて、まるで一族のようにひとつボックスに集まったりしていた頃だった。彼はSのすぐ横の煙草屋でショートホープを三箱買った。
俺、いくつに見える、と彼はいった。二十代もそろそろ終りさ。
そうだろうね、と女。そう見えるよ、それがどうしたの。
いや――、と彼はいった。
じゃ、あたしはいくつに見える。
彼はのろのろ歩きながら答えた。そうだな、似たようなものじゃないか。
女が笑った。何故、そう見えるの。
彼はしばらく返事をしなかった。
俺なんかにひっついてくるのは、みんなその年頃さ。
二十六よ、と女がいった。
そうかい。
もっともね、もうひと月足らずで、七――。
Sの店内の暖炉のそばで、ノンセクトのラジカルな連中と言い争いになって野沢を殴り倒した夜のことを思いだしそうになって、いや、もうそのとき瞬間的に頭の中がそうなっていたが、思いをぶち切るようにした。野沢の一件に限らず、以前のことはすべて二度と浮かび出ないように心に目張りをしてしまいたい。
F会館の卓球場に行く。この晩は賭けてやった。一セット一ゲームで千円。連続ジュースに持ちこんだりして大接戦で、勝ったり負けたりし、勝負球がわりによくきまって気をよくしていたが、20回戦終ってみると負け越しになっていた。彼は大汗をかき、荒い息になっていた。
でも、いいゲームだったな。
女もはァはァいいながら、笑ってみせた。彼は約束どおり、負け分の千円札を算《かぞ》えてだした。
いらないよ。いいったら。
とっとけよ。敵を認めない気か。
じゃァ、これであたしが奢るよ。もうちょっと呑みにいこうよ、ね。
いつかのうんと安い店に行って、カウンターに水割りのグラスを並べたが、話がなかった。二人とも、卓球の疲れを癒《い》やすように、真正面を向いて、ときどき、チビリチビリと呑んだ。それで、いっとき融けあっていた二人が、凧の糸が切れたようにまたべつべつの思念を浮かべだしたようだった。わるいことに、客が一人はいってきて、いろんなことを彼に話しかけだした。
十年前の新宿争乱の日の話になった。あンときなァ、あンときなァ、といってその客は饒舌《じようぜつ》になった。俺、まだ高校生だったから、彼はそれだけいって黙った。高校生だったけれど、あの日、小さな麻雀屋に辛うじて逃げこんだのだった。そうして麻雀を打った。それが麻雀屋というものに入った初体験だった。
出ようか、と女がいった。あたしのときどき寄る店がこの二三軒先にある、といった。
もう酒はいい。これ以上どこで呑んでも代り映えがしない。そう思いながら彼はついていった。女が知っている店は、やはりカウンターだけの店だったが、さっきと対照的に混《こ》みあっていて、そのうえ女を知っている客が何人も居り、女は彼等とにぎやかにしゃべり、ふざけあった。女の隣りはバギオと呼ばれる筋肉労働者風の若者で、バギオは女をまるでとりしきっているように、尻を撫《な》でたり、卑猥《ひわい》なことをいったりした。バギオは長距離トラックの運転手だという。
女がふっと彼の方を見返って、バギオにだけひきあわした。
あたしの、卓球友だちなのよ。
女は笑ったが、バギオには通じなかったろう。ふん、という感じで彼を見て、すぐに自分たちの冗談口に戻っていった。バギオはガボガボ呑み、女にもすすめた。
つまんねえな、と思いながら彼はだまって自分の水割りをなめていた。
女が自分の前に皿数を並べだした。彼が、するめ焼いてくれ、というと、あたしにも、とすかさずいう。
やめろよ、と彼はいった。ひと皿で充分だし、さっきだって捨てたりしたじゃないか。
あれは、まずかったからよ。
バギオたちがこっちを見ていた。
あたしの奢りだよ、ここは。
誰の奢りでも、そういうままごと遊びみたいの、好きじゃねえんだ。
じゃ、帰ればいいじゃないの。卓球はもう終ったでしょ。
彼は動かずに、水割りをなめるようにして呑んでいた。どうしてだか、帰れといわれて帰る気はしない。
卓球のにイさん、とバギオが声をかけてきた。卓球のほかに、何をやってるんだね。
麻雀よ、と女がいった。プロだってさ。
プロってなんのことだ、とバギオがいった。どっかで看板もらってるのかい。
麻雀で喰ってる連中なら、とバギオの向こうの若い連れもいいだした。はいて捨てるほどいるぜ。セイ公もそうだろ、クニオだって半プロだ。あいつ等、強いぜ。
俺だって強いぜ、と彼もいった。
バギオは笑った。
にイさん、|おとし《ヽヽヽ》、知ってるかよ。
|おとし《ヽヽヽ》って、ブーマンのことか。
俺ァトラック便で全国へ行くがな、どこでも負けたことないよ。
でも、俺の方が強い、といって彼も笑った。
お前も強いだろうが、俺ァ負けねえんだよ。
俺も負けねえよ。
呑め、おい、とバギオがいった。じゃァ、やってみるかよ。
女はブスッとして押しだまっていた。
麻雀やりたい感じだな、と彼は思った。この連中と一緒に行くつもりで、バキオたちと一緒にドヤドヤッと席を立った。バギオと連れの若者、それに店の主人らしいのが一緒に出てきた。
バギオは外へ出ると一変し、女の背中を抱いて、ほうるように彼の方へ押しだした。
お前たち、粋がらずに一緒に行けよ。
バギオたちは、呑もう、呑もう、といいながら逆方向に歩きだした。
女はしらけたように黙りこくっている。彼も、酒のせいで少し頭が痛かった。
帰るんでしょ、と女がぽつりといった。
そうだな。
そんなに家をあけるもんじゃないよ。五反田の方の田舎へ帰ったら。
どうしようか。
もう三時すぎだが、まだ人が往き交っていて、街の雰囲気が騒がしい。
彼はタクシーをとめて、女が乗るのを待った。
どうするのよ。
送ってくよ。
女の身体がちょっと小さく見える。並んで乗って、青梅街道沿いに走った。
いろいろ考えたけど、おぬしとは、もう会わないことにする。
そうか。だけど、これっきりか。
ああ、これっきりよ。面白くないもの。
電話もか。
そうだね、と女はいった。まァ、じゃ、電話ぐらい、いいか。
タクシーに乗ったときは、まだ夜は長いように思えたけれど、タクシーをおりて、細い路地の奥にある彼女のアパートまで歩いていくうちに、夜明け近い空気になっていた。
彼女の四畳半は、小さなベッドがあるきりで、畳が見えないほど乱雑に散らかっていた。一方の三畳は暗室になっている。
彼は、小さいベッドに腰かけた。
寐るよ、あたし、すぐに。
彼女はくりかえしていった。
明日、一時に、新橋へ行かなければならないのよ。
下で寐なよ。寐れるだろ。
いやな男だね。実の兄貴が泊るときも、あたしは自分のベッドで寐るのよ。兄貴はそんなこといわないよ。
俺は兄貴じゃないよ。
彼が吸っていた煙草の煙を外に出すためかのように、彼女がカーテンをたぐり、窓をあけた。突然、満開の桜の木が見えた。おや、もう桜なんか、と思ったが、それは八重桜で、案外、大木だった。
彼は立って窓のところにいった。
よく見ると、八重の花弁がなまあたたかい色気をじっとりと含んで、たわわに咲きほこっている。どういうわけか、それがひどくうとましく見えた。長い年月を越して、もう来るべきところに来てしまった生命の終りのようなものも感じさせた。
夜風が吹きこむたびに、花びらが散って部屋の中にも降りかかる。彼は少しの間、花びらの舞う部屋の中と女を眺めていた。
窓の外になにか生き物の気配がして、妙な声で猫が鳴いた。小さなテラスの金枠のところに皿がおいてある。毛布にくるまって寝ていた女が起きあがって、彼女としては珍しく情緒的な声音で、ぽんちゃん、といった。
猫がまた卑猥な声で鳴いた。女はパンにバターを塗って、窓の外の皿にその小片を少しずつおいた。
飼ってるのかい。
野良猫よ。ここは動物禁止。二軒先に猫好きが居てね、いつもそこで餌をもらうんだけど、留守だとこっちへくるのよ。
猫の皿の上にも花びらが散っている。喰い物をやったら窓をしめてくれ、と彼はいった。そうして小さなベッドにひっくりかえると一気に酔いが出た。
眼がさめると女はもう外出の仕度をしていた。ただ単に眠ったというだけで、前後不覚だったらしい。彼はおきあがって、ぼんやり彼女の仕度ができるのを待っていた。
どうしたの。おぬし、だまってると、悲しそうな顔してるね。
午後一時に、新橋だっけ。
そう。
じゃ、俺も、新宿まで一緒に出よう。
国電で、新宿で別れて、彼は山手線に乗りかえて五反田に帰るつもりで、途中で気をかえた。
駅を出てごちゃごちゃと映画館や呑み喰いの店の集まっている方に歩く。T会館の地下のポルノ映画三本立ての看板を眺め、向かいのビルの方に行く。そこにも各階に映画館があって、七百円、九百円、千円だという。千円のところを買おうとしたら、そこはアベック席で、一人客には売らないという。
九百円の切符を買って、中へ入った。そこもポルノ三本立てである。そのうち二本見て、トイレに行った。誰も人影がないので、安心して手淫した。わりに久しぶりの手淫だったが、昔は、猫が歩き廻って液体をひっかけるように、至るところで彼はやっていたものだ。
もう映画を見る気もなくなって、大通りの立喰いソバで、生卵を割りいれたうどんをすすった。四辺がますます散漫に見えてくるようだったが、それはそれでしかたがない。
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友  よ
一人の男友だちについて記したいと思う。私は、学校というコースから早くに脱落してしまったので、同世代の大勢の人が学生生活を送っている間、主としてフーテンの世界で日を送っていた。そうして、他人が学校を卒業して社会人になる頃、思うところがあってフーテンの世界から、形ばかり、足を洗った。
けれども、遊び人はもうあきたから、そちらの市民社会でよろしく面倒みてください、というわけにもいかないし、実際に人が動いてくれない。自分一人で手筈を造れることをやっていくよりしかたがない。私は新聞の求人三行広告を見て、学職歴不問の勤務先を何カ所か転々とした。
中道昭平と知り合ったのはその中の一軒で、ごく小さな雑誌社だった。彼は私よりあとで、同じように新聞の三行広告を見て応じてきたのだった。しかし私とちがって彼は、一時的にもせよ花形誌として栄えた雑誌に在籍していたこともあり、職歴のうえで一人前の編集者だった。
私が二十三、彼が三つ年上で二十六。西国の、荒波にもまれる島の出身で、大阪に居た長兄を頼って早く街に出た。学歴は、知らない。商業学校程度だったろうか。戦争末期は兵隊にとられていたかもしれない。戦争が終って、明るい生き方を一途にのぞんだのだろうと思う。当時まだ人々は痩せていたが、もともと純朴な心と、固い筋肉に守られた堅固な肉体の持主だった。
中道は映画が好きだった。大阪で、さまざまの下積みに類する仕事を摸索した中で、映画サークル誌の編集という仕事があり、その社はすぐに潰れたが、この方向でいこうと心を決めた。そうして、東京に出てきた。当時、出版は水商売といわれて浮沈が烈しかった。映画好きが機縁で首を突っこんだけれど、浮沈にもまれて転々とするうち、いつのまにか一般娯楽誌の編集部に居た。
中道は、自分は他人に、ろくなものを与えることができないと思いこんでいた。他人を喜ばせたくてしようがないが、自分には特に与えるものがない。その点で自分は大きな望みを持つことができない。身近なところで人々に楽しみを与えているかに見えるのは映画であり、せめてその空気に浸っていたい。中道に即していえば、そういう順序で映画に接近したのだと思う。彼は映画を見るより、他人に映画を見せたいと思う男だった。
こんなことがあった。彼に誘われて外国の喜劇映画を観《み》に行ったことがある。中道は笑い転げるたびに、隣席の私の方に顔を向けた。私が笑っているかどうかを見る。そう意識して私も彼の様子をうかがうと、彼はスクリーンを眺めるよりも、私がどの場面をどんなふうに感じ、どんなふうに面白がり、或いはつまらないと感じているか、むしろそこに神経を向けて観察しているといった方がよかった。私が笑うと、彼は嬉しそうに笑った。多分、あの映画を、彼は先に一度見ていたのにちがいない。
私たちが出会った雑誌社は、中どころの印刷屋の経営で、ヤレ紙を処理するために存在していたので、そのツボを心得て編集関係の仕こみを安くつくれば、たとえ売れなくても消極的な利潤があがるのである。
五人で月二冊を編集していたが、実際は、全権をまかされている老編集長と、その愛人のヴェテラン女編集者の二人でとりしきっていて、私ともう一人の青年は、手伝いか助手のような恰好に甘んじていればよかった。
中道は、そのへんの事情に対する呑みこみがやや雑で、というよりも元来邪心がすくないから相手の顔色をうかがうことをしない人間で、生地《きじ》のままに、屈託なくふるまった。老編集長はそれが気にいらない。率直ということそのものが、上司に対する邪魔立てに映る。そうしてまた、気のきかない田舎者のようにも見える。
入社してきたとき、彼は小さなネックを抱えていた。給料を安く叩かれていて、妻と赤ン坊を抱えている身としてはやっていけない。独り身で生家が近くにある私でさえ、給料日に一杯の生ビールを呑むと、あとは煙草もろくに吸えなかったくらいだから、それに照らして考えて中道の給料も安かったと思うが、それでも入社したのは、よほど逼迫《ひつぱく》していたからであろう。
昼休みになると、私たちは近くの国電を見おろす崖の上に腰をおろして、街を眺めた。中道はそうやって何も喰わなかったので私もつきあったのだ。たまに、二人で、コッペパンをかじることもあった。この職場は俺には合わない、と彼はいい、そうだろうね、と私もいった。
「君は、よく居られるな」
「会社というものを、俺はよく知らないんだよ。こういうところだと思えば、どこにだって居られる」
「この会社がはじめてなのかい」
「まァ、それに近い」
「前は何をしていた」
「――不良少年だ」
「そうは見えない」
「そうかね」
「将来も、ずっとつきあおうぜ」と中道はいった。
「将来――」
「ああ。俺たちにだって、まだ中年もあるし、初老も、老年もある。そうだろう。いろいろのことがあるよ。いつか、ここで二人してコッペパンをかじったことが、思い出になるといい」
私は誘われるままに、ときおり、中道の住居に行って泊った。お互いに金がないから街を徘徊するわけにはいかない。彼の住居は下町もはずれの方の、焦げくさい臭いがまだ残っていそうな焼け残りアパートで、土間の廊下で七輪で煮炊きするような所だった。私はそれ以下のところで寐起きしたことが山ほどあったが、中道のような市民的な男がここに居れば、将来を楽観視して生きるよりほかあるまいと思われた。
それでも灯の下で坐っていると、家庭の味がした。同じ島で幼馴染だったという妻君が居ておでんを煮こんでくれたり、うまい納豆汁を作ってくれたりした。妻君はおとなしそうだったが、中道にいわせると不平の塊だという。彼女は、私にもある夜、島に帰りたいのだ、といった。島にいれば、衣食住、なんとかなるのよ。
中道は、アルバイトの計画を熱心に立て、私にも加担しろといった。それは東京サービス集団という名で、ひとくちにいえばメッセンジャー業だった。会員制にして、会員が命じてくる小用を忠実に足してやる。
「誰が、その小用をやるのかね」
「俺たちさ――」と彼は苦もなくいった。
「自分以外に誰が居るもんか」
「手が廻らなくなったら」
「そのときは仲間の編集者にアルバイトしてもらう。編集者なら少しの時間くらい自由になるからな。小遣い稼ぎになるだろう」
彼は苦心して綱領をつくり、乏しい小遣いを叩《はた》いて三行広告を出した。しかし反響は二三通しかこなかった。
発足できない旨の返事を書いて丁寧に入会金を送り返した。それから似たような二三の計画をたててもがくようにくりかえしたが、いずれもものにならなかった。中道はそのうち、伝手《つて》を頼っていくらか大型の雑誌社に移籍していった。
勤務先は別々になったけれど、私たちはあいかわらずよく会っていた。彼は目立って快活になっており、新入社員のくせに、どうしても私をその社に引っ張る、といった。
「売れ行きのいい雑誌は皆よく働く。やっぱり張った気分のところで働かなきゃ駄目さ。絶対呼ぶからね、待っててくれよ」
「うん。でも、あまり気にしないでくれ」
「本気でいってるんだぜ。できたら君ばかりじゃなく、あの社の若手を全部こっちへ呼びたい」
中道は本当に、三月とたたないうちに、履歴書を持って社に来い、といってきた。まだその社に実績のない中道が、人事にまで口を出すのは、それだけの負担が彼にかかることになる、と思ったけれど、私はその言葉に甘えることにした。彼は私の肩をぽんと叩き、かすかな鼻音をさせて微笑した。中道の顔は精悍《せいかん》で健康な色を湛えていたが、ときおり、ひどく小さく見えることがあった。特に微笑したりすると小さくなる。鼻音も、彼の喜悦の感情が小さな鼻孔をもどかしそうに走り抜けていく音のようであった。
私は社の幹部に面接し、その結果移籍した。ギャラもいくらかよくなった。しかし中道とはちがう雑誌に配属され、以前のように机を並べるという感じではなかった。
私は、数日たつと、中道に対して弱音を吐いた。
「駄目だ。俺はここではやっていけそうにない」
「何故」
「皆、一人前の編集者たちばかりだ。俺はただの不良あがり。息がつまる」
「最初だけだろう、そう思うのは」
「それに、ここはもう会社そのものでありすぎるよ。タイムレコーダー、給食、編集会議――」
「俺は勤まってるぜ」
「あんたは一人前の編集者だからな。こんなところが柄に合ってるんだろう。俺はちがう。俺は野の獣で、会社のために、とか、仕事を愛する、とか、いろめきたって働くという線に気持が達するまでにまだ何年もかかるよ。小学生が高等学校に来た気分だ」
「俺はただ――」と彼はいった。「地でやれるところに居ようと思うだけだよ。会社のために働くなんて思うなよ。ここで生きてるんだ、それだけのことさ」
「だが、皆に負けたくないって気分になるよ。またそうしなくちゃ、あんたにもすまない」
「そんなことないよ。自由にやれよ」
「俺が地を出したら、一日だって居られないよ」
中道は困ったような顔をして、いつまでも私のこぼしにつきあってくれた。私たちは例によって彼の家に行った。彼は一度も、じゃ、どうするんだ、とはいわなかった。
「俺は、やめるよ」
「まァそういうなよ」
「あんたのお荷物にはならない」
「いいじゃないか。お荷物だって。またいつか、役どころが交替することだってある」
実際、当時の私は、流行作家を追うために社の車を使って行ったり、他社の編集者と競ったり、そういうことのひとつひとつに身体が馴染もうとしなかった。私は電車にも乗らずに歩いていくのが至当だと思っていたし、かまわずにそうした。その結果、能率がわるい。また、毎日深夜まで働き、そのあとで社員全員が社長を囲んで討論を交すなどという熱気が不可解至極だった。私はせいぜい給料分ぐらい働いて、なるべく個人の時間に戻りたいと考えていた。
私は中道と二人きりになるたびに際限なくこぼし、中道は、偏屈な男だな、という顔つきをしながらも辛抱づよく私の相手になってくれた。彼は三つ年上の兄貴であり、私は人混みの中でも、社内でも、彼の姿がまっさきに眼に入ったし、背後に声をきいただけで和《なご》むことができた。
そうするうちに、だんだんと私も慣れた。社のシステムに慣れたのではなくて、そういう場所に出ている私そのものに慣れてきたのだった。私は地を出しはじめた。
私は平気で仕事をサボるようになり、若輩のくせに調和に染まらなかった。そのかわり軽蔑《けいべつ》されることに甘んじる。しようがない奴ちゃ、が愛敬になっている間は、憎まれない。出張校正のとき、家で寐ている私を、先輩がタクシーで迎えに来た。私は自分のセクションの先輩たち一人一人と気分的な癒着を謀っていた。それで辛うじてクビにならずに居坐った。いきおい、別のセクションの中道とは、以前ほど寄り添わなくなった。
私は所詮《しよせん》勤め人にはなれないと思いだしてきた。足を洗った直後、自分を罰するようなつもりでいたときは、どういうことでも我慢できたが、少しその期間がすぎると一から十まで身に合わない。それに、大手ならともかく中小企業ではじっとしていても行末骨を埋めるところがない。無頼経験が土台にあるので、私は何かというと、アンサンブルをとるより一人で小動きしてしのごうとする。
会社ひとつをあてにして給料生活をしているのが弱い生き方に見える。いろんな方向と提携していなくては安心できない。
ゆくゆくはフリーになるのがよいと思うが、しかし急にまとまった原稿は書けないので、手はじめに、他の社をまわってカラーセクション四頁という仕事をとってきた。私は中道の家に行って合作しないかといった。
中道はその頃、下町のアパートから杉並の2DKに越していた。彼はいくらか逡巡の色があったが、
「やろう、やろう――」
すぐにいつものように軽い調子になった。
「前の社のとき、アルバイトの件でよくおそくまで話し合ったね」
「あれはまだ捨ててないよ。やろうと思ってる」
「この方が簡単に金になる」
「しかし、あれはいい企画なんだ。世間がそういうものに慣れてくればね」
中道の妻君は、ミシンを買って内職しているということだった。中道は、小さくても一軒家を借りて煙草屋の認可をとろうと思っている、といった。すると内職の線が八方に拡《ひろ》がることになる。
「我々の中年は、内職エージになりそうだね」
「子供がいるからな――」と中道は答えた。
「でもべつに暗く見えないだろ。けっこう好きなこともやってるんだから」
「でも俺は子供をつくらないな。世帯も持ちたくない」
「そうだ、君もカミさんを持てよ。どんな女が良いんだい」
私が軽く相槌《あいづち》を打った。
私たちの合作は、出来はわるかったけれど、いくらかの金になった。私は次々と仕事をとって来、中道をはじめ、社の同僚たちを合作にまきこんだ。そうする一方で、ぽつりぽつりと小説めいたものを書いて載せてもらっていた。
私の社での立場はさらに悪化した。サボるうえに、競争誌の仕事をしているのでは、無茶苦茶すぎて話にならない。もっともその社も急速に経営内容がわるくなり、私は体裁のいい馘首《かくしゆ》だったが、同僚も他社へ転出する者が続出し、さらにそのうえ、人員整理のかわりに希望退社を募るという事態になった。
当時の中小雑誌の編集者は離合集散に慣れているせいもあったけれど、独身者だとか、他へのコネのある者とかがわりに素直におりて散っていったという。
中道もそのとき自発的に社を離れた一人だった。しかし当面、当てがあるわけでもなさそうで、彼はまた、東京サービス集団のことをいいだした。
中道が私と知り合う前に在籍していた花形誌の編集者たちで、やや年輩の人たちはすでに編集者に復帰することをあきらめ、さまざまなところで中途半端になっていた。銀行の雑務員をやっている人もあった。
中道も、表面は変らず軽々しい感じだったが、多分、それらの人々のイメージが心にあったにちがいない。その頃から少しずつ、まるで呑めなかった酒を呑むようになった。
「いざとなりゃァ、島へ帰ればいいのさ。ヘヘヘ、簡単だよ」
と彼はいった。
私はその頃出入りしていた二三の小雑誌社の編集者に、彼をひきあわせた。もちろん、私は生家に逼塞《ひつそく》していたからなんとかなっていただけの話で、フリーランサーの顔つきをしていたわけではない。しかし中道も、もう宮仕えは嫌だ、といった。
「それじゃ、一緒に雑文を書こうよ」
「うん、雑文を書こう」
「一時の方便くらいにはなるだろう。そのうち時間をかけて先のことを考えればいい」
「やろう、やろう」
そういって彼は、ケケケ、と笑った。
中道は働き者だったが、存外にはた眼《め》にはそれほどに見えず、編集部での仕事の実も特別にあげたとはいいがたかったようだ。ひとつには、一般娯楽誌なのに、彼の得手は映画関係で、レイアウトに凝ったりしても、本文関係ほど目立たない。総体的に、小器用で小きざみな男だという評価が多かった。
何かの折りに、上半身裸になった中道の、筋骨隆々とした身体つきを見て、上司が眼をまるくした。
「おや、君は、胸を患ってるんじゃないかと心配してたんだがなァ」
たしかに日常の中道は、おっちょこちょいで軽薄に見えた。事実そうでもあったし、そのうえ度しがたく世話好きで、楽天的で、少し離れたところで見ると、つまり頼りにならなかった。そうして小器用と思われているわりに、皆が器用芸を競いあう酒宴やリクリエーションのときには彼の存在が光らない。そういうときには、かえって彼の実直さ、暖かさのようなものが現われてしまうのだった。
中道の働き振りは、本質的には、他人につくすという種類のもので、今日の一般社会では、通常、働くとは、自分、乃至自分たちのために働くことをいう。そこが喰いちがっているのかもしれない。余裕のない小さな組織では、特に無私≠ニいうやつほど邪魔に思えるものはない。
中道は、半生を通じてどの職場にかわっても、誰かを輔佐《ほさ》する副将としては重宝がられたし、個人的には誰からも疎まれなかったけれど、責任のあるポストはただの一度も声がかからなかった。経験、地力とも劣らないのに、候補にすらのぼらない。
ひとつには、他の候補の誰彼が、中道を副将に欲しがるために、彼自身が候補からはずされてしまうことがあったかもしれない。中道もまた口先では、俺はサブに徹するのだといっていた。そうして、先手を打って、という感じで、候補と目されている男に、
「大丈夫だよ、デスクワークは俺がうまくまとめるよ。安心してていいよ」
などと強調した。けれどもそれがまったくの本音でない証拠に、このあともずっと、一社に骨を埋めるという姿勢にならなかったし、絶えずサイドに雑文の仕事など抱えていて、俺の生きる道はここばっかりじゃないよ、という顔をしていた。
中道が、ぐしゃっと心を潰した気配が感じられるときにも、見た眼の軽快さを失わないので、周辺はつい見逃してしまう。そのうえ彼の存在まで淡いものに思ってしまう。けれども彼自身は、そのつど本当にしょげてしまっているのだった。彼は腕力は強かったが、争論も喧嘩もできない男だった。そうして自分の生地に自信を失いつつも、ふと気がつくと生地で働いており、そこでまた気弱になってしまうという感じだった。
私もまた生地を制御できずに生きている一人だったが、私は一人で勝手に動きだしてしまうところがある。中道の生地の方が整っていて温和であり、私よりはるかにインサイドなところにいて、生きる場が広いように思える。けれども、当時の私たちのように下積みで、しかも生地のままに生きているような場合、内側も外側もそう変りがないともいえるのだった。アウトサイドに居られるのは、どこかに恵まれた条件があるせいで、むしろ内側のほうが背水の陣ともいえる逼迫があり、孤立し、流暢に見えてひずみを貯めてしまうようでもあった。中道は、私の偏屈な部分を案じて絶えずリード役を買って出てくれたが、私は私で、彼を案じていた。どこをどんなふうに案じていたかうまくいえないが。
中道は私と連れだって雑文書きのようなこともしたが、しかしまたその一方で、あちこち飛び歩いて雑多なことに首を突っこんでいた。一番多かったのがコンサルタント的なものであろう。けれども収入になっていたかどうかわからない。彼はすぐに人と親しくなるので、飲食業からブティックまで、いろいろな店で相談相手として頼りにされた。その人たちはいずれも、中道の無私≠ネ好意に驚かされるらしかった。中道の方も、私と会うたんびに、ちょっと面白い奴がいてね、とか、店の一部を無償で使ってくれというから俺たちの事務所にしないか、とか話題にするのだが、その話のあとをきかないうちに、次に会うとべつの似たような一件に話題が移っている。
その中で一件だけ、文房具屋の若主人に気に入られたのだそうで、
「彼とは兄弟の誓いをしちゃってさ――」
中道のアイディアで、若主人は金を出し、会員制で各地のこけし人形を配る組織を作るという。
「もう発足するばかりなんだ。君のポストも造ってある。来いよ。一緒にやろう」
「俺は何もできやしないよ」
「会員に配るパンフレットを月刊で出すんだよ。何でもいいんだ。儲かるんだから、ちょこちょこ顔を出しててくれりゃいいんだよ。安原稿書いてるばかりじゃしようがないだろう」
私も閑なものだから彼等の事務所に出かけていくと、いかにも遊び好きらしい若主人が居り、酒場を何軒もひきまわされる。
私もよく遊ぶけれど、人の奢りでその尻《し》っぽについて歩くのは、勤めているみたいで窮屈なものだから敬遠しがちになって、けれどもこけし販売組織はけっこう続いた。
中道はその事務長格で、満足していたかというと、そうでもなかったようで、折り折り会うたびに新しい仕事に手を出したがっていた。
温泉旅館にアッピールして、何軒かの旅館をスポンサーにしたPR誌を造ろうと計画していたこともある。
「こけしだけじゃ、結局、番頭だからね。給料だもの。俺の旨味《うまみ》はないんだよ。会社の金で呑めるってだけだ。それじゃつまらんものなァ」
ある年の暮、そんなことをいったあとで、
「カミさんが出て行っちゃってねえ、往生したよ――」
そういって、ケラケラと笑った。
「島へ帰ったんだがね。向こうだって彼女が思ってるほど住みやすくないんだ。なァに、どうせまた戻ってくるさ」
それからまたこうもいった。
「何故かなァ。俺は街で暮したいんだ。人がごちゃごちゃ多いところでさ。こんなことしてて何になると思うがね」
こけしの会がいつまで続いたか。いつとなしに、会が衰亡したのか、彼の方が身をひいたのか、そのへんははっきりしないが、一転して大部数を出していた芸能誌の編集部に入っている。
「また、宮仕えをしちゃうよ」
彼はそういって照れたように笑った。
「うん――」と私もいった。「いいじゃないの。宮仕え結構。淘汰《とうた》の烈しい編集者がまだ勤まるんだから、地力だよ」
妻君は子供を連れて戻ってきていたし、発展途上の会社だったし、もともと映画雑誌畑から足を踏みこんだ男が古巣へ戻ったようなものだったし、表面おだやかに見えた。
彼はその時分、月賦の車を乗り廻し、しかし酒もかなり強くなっていた。私の方はあいかわらず、生家の居候のような形で、ただの道楽息子に甘んじていた。
私が電話も引かず、外にも出ないので、中道は私と会う気をおこすと、車を私の生家に横づけする。
ある夜、私のところへやってきて、女と会ってくれ、といった。
「このすぐそばに部屋を借りてるんだ。いや、まだ気持を固めたわけじゃないんだけどね、一度、見て貰おうと思って――」
と彼はいった。
女は酒場のママだった。べつにわるい女ではなさそうだった。火燵《こたつ》に足を突っこんで三十分ほど話した。丹前を着て、女に酒をつがせている中道が、彼にはわるいが、さまになっていなかった。彼に器量がなかったとか、そんなことではない。中道には、まったく似合わないことというものがあるのだ。ということは、逆にいうと、べつの構図でツボにはまる姿を持っているはずだった。いずれにしても、この男のよさは、女の人にはなかなかわかるまい、と思った。
「どうだい――」と表に出てから彼がいう。
「貴方次第じゃないの。でも、何故――?」
と私は訊いた。
芸能誌を退社したのは、自分がズレちゃったから、だと彼はいった。
その社は経営者の郷里から十代の青年を集め、寮に入れて通わせていた。若い彼等はがんがん働く、中道は、その若い人たちがやるような仕事を、彼等と競ってやらされていたらしかった。
「体力でも気力でも彼等にはかなわない。俺たちも年齢を喰ったなァ」
彼はそういって自分の二の腕のあたりを見た。
たしかに私たちもそれなりに年齢を喰っていて、もう昔のように気軽に、お互いの生き方を批判したりできない。できたとしてもよほどうまくいわないと、すっと相手に入っていかないおそれがある。或いはそうではなくて、ちゃんとそういう対し方があるのに、サボっていたのかもしれない。
芸能誌から離れたけれど、得意の交際の広さを発揮して、友人たちと自動車会社のパンフレットを軌道に乗せた。片っ方でかなり達者に雑文をこなしていたようだし、カメラもうまい。写真入りレイアウトつきの読物をこしらえる。
もともと落着きのない男だったけれども、かなり慌ただしい毎日を送っているらしかった。こういうふうに、彼がやっていることだけを記すと、類型がたくさん居るのであるが、どこか、ちがうのである。
「好人物であることはすぐにわかるけど、かなり、異様だね」
といった編集者がいた。
実際、彼は会う人ごとに大童《おおわらわ》になるのである。一緒に呑めば相手が帰るまできちんとつきあうし、一人の女を競いあう形になれば必ず引く。卑屈に仕事を求めているわけではないのだけれど、そう誤解されやすいし、また彼自身、仕事をさせて貰っていることで恐縮しすぎてもいるのである。
誤解していない人間からは、異様と受けとられる。
だから、結局、慌ただしく働いても、何もプラスになっていない仕事が多く、仕事先の人間ともぴったり息が合わなくて、便利なときだけ使われるという形になってしまいがちだった。
中道は、私がひと頃のように小動きしないで逼塞しているのを、えらいと、いった。
「べつにがんばってるわけじゃないから、えらかァない。これしかしようがないんだ」
「それがいいのさ」
「よかァない。厄介なだけだよ」
「俺なんか、いい年齢して、うろうろするだけだ」
彼は私にも気を使っていて、けっして怒った顔を見せなかったけれど、それでも私のことは、昔コッペパンをかじった同士として世間と引き離して考えているようだった。私の前では憩う顔つきになっているときがある。彼にとってそういう存在は、私以外には妻君だけだったろう。
中道は妻君のところへ戻っていた。あの女の話は当夜以外に二度と出ない。しかし、子供ももうだいぶ大きくなっているはずだけれど、折り折り口にする家庭の味は、さして芳しいものではなさそうだった。
老舗《しにせ》の出版社が雑誌をやることになって、その社に雑誌造りの手練《てだ》れがすくなかったせいもあるが、幹部から私のところへ、中道を入社させたいが説得してくれ、と非公式にいってきた。
中道はその社のアウトブレーンでもあったらしい。幹部と中道は、私の家の近くまでやってきて三人で会った。中道は、宮仕えはしないという。幹部は彼を副将にして揺籃期《ようらんき》を乗り切り、雑誌が安定したら彼の格上げも考えているといった。
私は中道のために、少し迷った。途中参加の傭兵《ようへい》が、使い捨てほどでなくても、主流になりにくいのはどの社でも同じことである。それがわかっていても、中道は、入社すれば大童になるだろう。そして損な籤《くじ》ばかりひくだろう。
けれども私は、やや遠慮がちに入社をすすめた。ということは、彼のフリーとしての実績を認めないという響きになる。はっきりいえば、私は中道を、フリーとして生きるには極《き》め技が足りないと思っていた。それが能力の問題かどうかわからないが、今のうちに大樹に添っておいた方がいいと思った。
「年齢からいって、入社の話というものはこれが最後だと思う。慎重に考えるべきだよ」
「じゃ、君なら受けるのか」
「俺はできない。能力がない」
「俺には、やれるというのか」
「そうだろう。幹部がそういってる」
「君は他人事《ひとごと》みたいにいう」
「そんなことあるもんか」
「いや、そうだ。安全策なら誰にだっていえるさ。平均の力を何点として、此奴は何点ぐらいだから、このへんのところが居場所だろう。君は自分のことをそんなふうに考えるかね」
「しかし、――安全策以外のことを、薦められるかね」
「俺は野武士だ。君も野武士だ。そのうえ、友人だぜ。俺たちは今、ばらばらだけれども、野武士の心ってものがあるだろう。入社を薦めるなら、べつのいいかたでいってくれよ」
中道は私ばかりにでなく、幹部に対しても珍しく頑強だった。また、幹部の方もなかなか退かず、三人で幾夜も会ったが、結局物別れになった。
それからしばらくして、新宿でばったり会ったときには、以前の上司でちょっと不遇にある人を連れて歩いていた。彼は女好きの上司に酒場の女をとりもとうとしていた。私を見て、先夜と打ってかわり、へらへら笑って、
「あの社には、Uを紹介していれたよ」
といった。Uは大昔の花形誌時代の同僚だった。
私は、自動車会社のパンフレットが順調に行っているのだろうと思っていたが、よくきいてみると、彼は内輪のメンバーからはずされていて、ギャラを貰って記事を造っているだけらしかった。
そのうちに、あれほど宮仕えを嫌っていたのに、何故か、洋紙の会社へ勤めだした。これは社長とどこかで知り合ってウマが合った結果らしい。彼の仕事は宣伝部みたいなものらしかったが、今度は車の洗車関係のパンフレットの契約をとりつけるのだといった。
「自動車業界はこれからいいからね。これがとれれば仕事になる」
「でも、洋紙屋さんの仕事としてやるわけだろう」
「うん――」
「まァ大きな仕事なら貴方の立場がよくなるわけだな」
「俺個人じゃなァ、信用して貰えない」
私はその頃、身体をわるくして急に肥りだし、入院費稼ぎの頭もあって、いくらか働き加減になり、生家をまた飛びだしていた。
そのせいもあって中道と会う折りがかなり間遠になった。ときおり電話をくれる。電話ではにぎやかなことをいっている。彼の人柄で、一度知り合った昔の連中が、離れていかないで、それぞれの立場から協力してくれる。事実また、こけし時代の若主人とコンビでプロデュースした洗車関係のパンフレットは相当な実績をあげていたという。
ある日、共通の知人から電話がかかってきて、中道が怪我して頭を打ったという。自動車の雑誌の取材で信州に行った、そこの旅館の階段から落っこちたそうであった。
「まだよくわからないが、命には別条ないらしい」
「じゃァ、単なる事故なんだね」
「中道ちゃんが自殺なんかしますか。なんでも、山ン中で撮影しているときに、不注意で崖から足を滑らして落ちたらしい」
「崖から――?」
「うん、その晩、旅館でまた落ちたんだ。べろべろに酔ってたんだね。近頃はふだんでも酒びたりらしいから」
そういえば、ここ二年くらいは彼の声をきいていない、とうかつにもそのとき気がついた。中道が遠くなったのはそれだけの事情があったはずなのである。
しかし彼が逆境だとすると、私の方からは会いに行きづらい。中道は私の三つ年上であり、昔からその関係は毫《ごう》もかわらない。中道はいつも兄貴たらんとして、微妙に張っているところがあった。どういう事情か知らないが、窮地におちいったところを、私に目撃されたくないだろう。
中道と関係があった人たちにきくと、しばらく前から洋紙会社に行かなくなってしまった。多分、人間関係のいざこざに巻きこまれたのだろう。そういうときに彼はすかさず身を引いてしまう。そうして、ウィスキーをあおりたてるようになり、近頃は外出も積極的ではなかったという。
ひょっとして、お互い前後して宮仕えをやめたとき、私がその後へこたれるなりして、生き方を二転三転変えていれば、彼ももっと気楽に大樹に添えたのではないか。存外に私を意識して、フリーにこだわったのではあるまいか。
私の生家はそばにある、彼の故郷は遠い、たとえば、そういう条件のちがいをひとつひとつ考えてみた。私は墜落しなくて当り前、単独飛行の彼は条件的にきびしすぎた。そのうえ、中道には、人を喜ばせたい、という天職のようなものがあり、これが荷物にもなり戒律にもなる。唄ったり踊ったり舞台に立つわけではないから、彼の天職は職という形になりにくい。おそらく彼は、したいことははっきりしていたろうが、何を職にしたらよいか、ずっとわからなかっただろう。
中道の頑健さをもってしても、五十歳をすぎて疲弊しきったようであった。病院から出てきたとき、ずっと以前、私も彼も一緒に勤めていた頃の上司が、半分は救いの手をさしのべた気で、半分は彼の腕を惜しんで、新雑誌の編集長に据えた。
けれども彼は満足にその役が果たせなかった。烈しく酒をあおりたてなければ眠れない。すると定時に起きられない。ぐずぐずしているうちに日中がすぎてしまう。
たまに出社してくると、口先だけは以前のようにアイディアを並べる。けれども実行する気力がない。夕方近く電話がかかってきて、大丈夫だ、任しといてください、とくりかえす。けれども校了の段階に至っても誌面に大穴があいたままだった。
中道を呼んだ上司が、酒をやめさせようと骨を折った。そのときは誓うが、翌日社に現われたときは大酔している。
私も彼と会うべく手配したが果たせなかった。自宅に何度も電話したが帰っていない。
このままでは退社させて病院にでも入れるよりほかない、という声が出ている。折りあしく、暮が近づいていた。
ある夜ふけ、突然、中道の声で電話がかかってきた。
「今、どこに居るんだ」
はっきりしない口調で、彼は場所をいった。
「でも、来なくていいよ」
「行くよ、行くよ」
私はすぐに立って、盛り場のスナックへ行った。
私はどういっていいかわからずに、しばらく彼と一緒に水割りを呑んだ。
「中道ちゃん、俺ン所へ行こうよ。それで今日は寐て、明日一緒に社へ行こう。大丈夫だよ。心配することなんか何もないよ」
中道は黙っていた。
「雑誌は引き受けたんだから、やらなければいけないし、貴方はまだやれるんだ。ここでへたばったら、奥さんたちが困るぜ。何十年もやってきたんじゃないか。同じことをやればいいんだ。なんてことないよ」
彼が黙っているので、私は一人でしゃべった。
「昔、コッペパンをかじりながら、中道ちゃんがいったろう。俺たちにはまだ中年も、老年もあるって。まだ、先があるぜ。一生は長い。ひと休みしたら、また走ればいい」
「俺は、お前を、殴るぞ――」
と中道が言った。声音が暖かくなかった。
「殴っていいか」
「――いいよ」
「ここじゃ駄目だ。便所へ来い。皆の見てないところで、殴る」
私は中道を抱きかかえるようにして、便所へ行った。
中道は、残った力をしぼりだすようにして飛びかかってきた。私は二発、殴られて洗面器のそばに倒れた。
彼は、それで出ていった。
私は倒れたままで、じっとしていた。長いこと、友だちとの交際の仕方を知らなかったような気がしてきた。なるほど、中道を理解し、中道を愛し、案じていたつもりだったけれど、私もまた世間流の能力指数の方からばかりで彼に対していたのだった。どこにでもあるありふれた、自分にとってたいして骨の折れない交際の仕方しかできなかった。
中道が一番欲していた、一番むずかしい地点に深く首を突っこもうとしなかった。
それでなおさら、痛みが増してきた。
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故  人
昔、私はへんな物が怖かったことがある。円形のすべすべしたような物が怖い。空の低いところにある満月が、屋根のうしろから、ぽっと現われたりするとびっくりする。
まアるいガラスの球の中に灯がついているスタンドだの街燈だのという物が、ときとして怖くてたまらぬ感じになる。その連想で、直接まアるく見えなくとも、灯を見ると背筋がぞっとなることがある。
また、怖いと思いだすようなときは、何もきっかけがなくともただもうやみくもに怖いもので、私が一人で自分の部屋に居て最高に怖かったことがある。なんだか怖い気分になっていたから、瞳を動かさないようにしてじっとしていると、夕焼けが視野の隅に入った。静かな紅だが、赫《か》っと明るい。夜半だし、窓のある方角ではないのである。それが異様で肝を潰したが、気持がおちついてみると、ベッドサイドのスタンドの笠が点《とも》っているだけなのである。
二十代の頃、雑誌編集者をやっていた折りに、夜、山田風太郎さんのところへ原稿をいただきにあがった。そのときも、なんだか怖くなってきたところへ、まるい軒燈が眼に入り、山田さんの玄関に入ってから、押し殺したような悲鳴をあげた。
それで山田さんの方がかえって肝を潰したが、あとでそのことが評判になり、新人賞をいただいたときのお祝いの席で、当時まだ編集者だった綱淵謙錠さんが、
「色川さんは私が怖いでしょうが――」
といって一座を笑わせた。綱淵さんはその頃、まるまると肥ってすべすべしていた。
では、私は怖がりかというと、そうとも限らない。怖くないときにはまるっきり怖くない。墓場で一人で寝ていたこともあるし、お化けのようなものにはわりに驚かない。
もっとも、芝居の幽霊のように、恨みつらみで怖がらせようとするようなお化けには出会ったことがない。
故人の霊というけれども、本当にそんなものがあるのかどうか。死ねば、身体と一緒に無と化してしまう。それが一番納得がいく。
「いや、魂の方は、しばらくそこらを浮遊してるんですよ。四十九日まではね――」
という人が居る。
そんな気がしないでもないときがあるが、そうすると、四十九日たったあたりで、魂はどうなるのだろうか。
切り花が枯れるように、身体を失った魂が、スーッと消えざるをえないのだったら、ちょっと面倒くさい。我々は、二度、死んで行く気分を味わうことになる。どうせならそんな手数をかけずに、身体も魂もいっぺんになくなっていった方がよろしい。
私は出版界とフーテン界を往ったり来たりしている妙な男で、ごく小さい頃からへんな人間をたくさん見てきたから、人間に関する限り、あまりもの驚きをしない。
戦争中に生家の近くに南蛮堂という骨董屋《こつとうや》さんがあって、このご主人が、まことに外出の好きな人だった。いつだって出歩いていて店にはほとんど居ないから、いつも鍵がかかっている。そのくらいなら、店なんか持たなければよかったのにと思うほどである。
そうしてどんな用事があるのかしらないが、トコトコと道ばたを歩いていく。世間の人は国民服でゲートルを巻き、鉄兜《てつかぶと》を背に背負っているが、南蛮堂さんは羅紗《ラシヤ》のテーブル掛けをぐるぐるッと身体に巻きつけ、マドロスなどくわえて歩いているから、遠くからでもすぐに目立つ。私は中学生だったが、この人に憧《あこが》れた。それで二十メートルほど離れて、羅紗はないから、木綿の大風呂敷をぐるぐるッと身体に巻いて歩いたりした。
南蛮堂さんは長髪で異相の人だったが、私はこの人と方々で実によく出くわした。あの戦争中で交通も不自由なときに、浅草の路上ではよく会う。多摩川園などというところに何かの用事で生まれてはじめて行くと、ちゃアんと前を歩いている。
横浜ですれちがったこともある。池袋の先の赤塚というあたりでぶつかったこともある。そのくせ一度も口を利いたことがない。
戦争が終って、さア南蛮堂さんのすごしよい時代が来たなと思っていたら、早々と亡くなってしまった。
袖振り合うも他生の縁というけれど、こう何度もぶつかりあうのはひどく濃い縁があったのだろうに、今でも残念な気がする。未亡人が二人の男の子を抱えて、南蛮堂は喫茶店に生まれ変り、ここには私も戦後、蟠踞《ばんきよ》したこともあったが、今は未亡人も逝ったようである。
路上でよくぶつかるというと、もう一人、大坪砂男さんを思い出す。
大坪砂男といっても、現今では推理小説マニアの方以外には忘れられかかった名前であるかもしれない。
戦後、『宝石』という推理小説専門誌から数多くの新しい作家が登場して第一次推理小説ブームを起こしたことがあったが、大坪さんは、高木彬光、山田風太郎、島田一男などの諸氏と並んでその一人だった。この人たちはそれぞれに個性の強い作風だったけれど、大坪さんの作品はロマネスクでグルーミーな感じなので、一部の都会派に愛好されていた。
代表作は天狗≠ニいう中篇で、これは映画にもなった。他にも中短篇がいくつかあるが、非常に寡作《かさく》な人だった。そのかわり、経歴も年齢もはっきりせず、本人がたまに口にするけれどそのたびごとにちがうことをいっているとか、謎《なぞ》に包まれた作家だということだった。
私が一時期、籍をおいていた小さな出版社に、ある日、ジャンパー姿でゴム草履《ぞうり》をはいた中年男が現われた。
ちょっとみると作家という感じでなく、古道具屋のおっさんか、或いは腕の良い大工さんか、という印象だった。顔色が渋紙色に焼けていた。
編集長が出ていって、丁寧に応対している。
「いやア、今日はまいりました。新宿から上野の先の根岸の方まで、歩いて行ってきました――」
歯切れのいい江戸弁で、にこやかにそういう。
「金を高く買うという家《うち》がありましてね。そこへ行って売ってきました。ホレ、ごらんなさい。金歯をね。これでしばらく息がつけます。ハハハ――、どうです、コーヒーでも呑みにいきませんか。今日はあたしがおごりますよ」
いやいや、まアまア、などと編集長がいっている。金歯を売った金では、おごって貰うわけにもいかない。
その人はさわやかな口調で、チェスタートンという英国の詩人作家について、しゃべっている。編集長が、それにひっかけて、チェスタートン風の味を生かした推理小説を手がけてみては、などといっている。
「なるほど、それは面白い。パロディですな。チェスタートンのパロディならやってみる値打ちはありますね。いいですよ、今度持ってきましょう」
そういってその人は帰っていった。
「あれは、誰ですか」
「大坪砂男という推理作家さ」
あれが大坪砂男か、と思った。でも、知名の人なのに、どうして金歯を売ったりするんだろう。私が不思議そうな顔になっているのを見て、編集長がいった。
「そうだ、大坪さんの担当をしてくれ給え。ただし、なかなか一筋縄にいかないよ」
しばらく日がたって、例の原稿ができたかどうか、大坪さんを打診してみようと思いたった。そのときは私も、大坪さんはちょっとやそっとでは原稿を書かない人で、そのために中年放浪者のような日々を送っているのだという噂をきいていた。
「金歯を売ってきた、というのはあの人の十八番《おはこ》でね、どこの出版社でも一度はやってみせるんだ。それで次に前借りを、という寸法さ」
そんなことをいう編集者もあった。
「つきあわない方がいいよ。タカられるだけで原稿はとれない。あの人とつきあってトクなことはひとつもないぜ」
私は大坪さんの小説を何本か読んだ。非常にスタイルに凝っていて、文章も構成も作者の好みらしきもので統一されている。そのため小説としての発展が閉ざされる感じはしたけれど、それがかえって美術品のような趣きをもたせていた。あの人は天才だといわれ、作品がなかなか発表されなくても根強い大坪ファンが居るという理由がわかった。
当時は中間小説というジャンルがまだ生まれてなくて、純文学と大衆小説にわかれすぎているきらいがあり、大坪さんの作風がぴったりはまる雑誌がすくなかったのも、作者にとって不幸だったかもしれない。
私は編集者としてよりも、文学青年として興味を感じて、訪問する気になった。
編集長は、大坪さんは新宿の青線地帯の中に仮寓しているといったが、その情報は不正確で、青線の女は、
「ああその人ならね、歌舞伎町の方に住んでるわよ」
といった。しかし歌舞伎町のどこだかはわからない。困ったままぼんやり歩いていると、ほんとに偶然に、その大坪さんが伊勢丹の裏の小道から出てきたのだった。ジャンパーにゴム草履という先日と同じ姿で、腰に手拭いをぶらさげていた。
私の名刺を見て、大坪さんはすぐに自分の部屋に案内してくれた。歌舞伎町が今のような盛り場になる前のことで、裏通りは水商売の女たちの下宿や曖昧《あいまい》な格子戸造りの家が並んでいた。パン助の巣でもありそうな暗い家の隅の三畳が大坪さんの寐起きしている部屋だった。小さな文机に原稿用紙がきちんとおかれ、存外に四辺が整頓されている。
アセチレンランプの上に小さなフラスコをおいて、湯を沸かした。寒い頃だったが火の気はそれだけで、私は安外套を羽織ったまま坐っていた。
「茶もコーヒーもないんだ。お湯のままですがね、呑んでください」
私はお湯を口に含んだ。そうして話は原稿料の前借りのことだった。私は原稿とひきかえに前借りの件を社に具申してみるといった。
「ああ、チェスタートンね、原稿は大丈夫ですよ、だからひとつ、お金の方をね」
ところがそれから一週間ほどして、昼休みに神田の古本屋街を歩いていると、大坪さんとまたばったり鉢合わせしたのだ。
私はちょっと具合が悪い表情になった。というのは、前借りの件を編集長にいって、けんもほろろに一蹴されていたからだった。
「――ああ、そういえばあの原稿ね、もうすぐできあがります。だから、お金をね」
締切りの日、私は仕方ないので、自分の安月給のうちの半分を大坪さんのところに持っていった。原稿ができれば、原稿料からひいて返して貰うつもりだった。
大坪さんは私が差し出した封筒を見て、事情は察したらしかったが、すっと懐《ふところ》に入れた。
「ところがねえ、悪いんです。原稿ができてないんだ。しかし、すぐやりますよ」
「――結構です」と私はいった。「お気になさらないでください。でも原稿は、ぜひともいただきたいんです」
大坪さんの下宿に電話はあったが、電話ではいつも不在でらちがあかない。私は日参した。原稿もだが、早く原稿料を社から出さして、私の立替えた分を返して貰いたかった。
毎日行って、のれんに腕押し、すぐできるようなことをいってるが、その実一枚も進んでいないのである。
私の顔を見ると、そばを喰わしてくれ、などという。
「もう二日も食べてないんですよ――」
しょうことなしに、外に出てそばやに入ると、
「私は詐欺師ですからね、貴方、そのつもりでいてくださいよ」
「かまわないんですよ。立場上、原稿が貰えないと困りますが、よいお作品を造る苦しみにくらべれば、僕の困惑なんかたいしたことじゃありません」
私のいいかたは、文学青年の甘いセリフにきこえたと思う。けれども私は、そのもっと以前、二十歳前の頃にばくちの世界に身をおいていて、他人をぺてんにかける類のことをさんざんやってきていた。自分がだまされることを、それほど腹立たしいことに思っていなかった。
もうひとつ、私は自分も将来、できたら自分流の小説を書きたいと思っていたけれど、どうしても形にならないでいた。もちろん既成の作家である大坪さんと比較したわけではないが、私の友人の文学青年の誰彼とくらべてみると、テーマを基に小説を造っていくタイプは、出来の良し悪しはべつにして、わりに形になりやすい。
その反対に、イマジネーションを基にして小説を造るタイプは、彫心鏤骨《ちようしんるこつ》してなお寡作の者が多い。イマジネーションというのはいかに工夫しても完全に文字にしがたいのであろう。そうして大坪さんはこのタイプだし、私もその末席に居るような気がしたのだ。
大坪さんはとうとう、原稿を一度も書いてくれなかったけれど、私はそのことを責められなかった。
大坪さんは私のそういう寛大さを、いくぶん不思議そうに眺めていた。
大坪さんは酒は一滴も呑まなかった。誰かにたかるときも、コーヒーか、せいぜいおそばだった。貧窮はしていたけれど、諸事にうるさい人だったから、食べ物も、おそらくそれなりに凝る人だったのだろうが、私のような若輩者にたかるときは、けっしてそれ以上のものをいわなかった。
そうしてコーヒー一杯で、大坪さん流の絢爛《けんらん》たる話術を駆使して、古今東西の美術品について、詩について、文化について、飽くことなく語ってくれた。私は自分があさはかに金主のつもりでいたが、大坪さんはそれ以上に豊かなものを私に与えてくれていたのであろう。
大坪さんのこういう魅力にひかれて、たかられるのを百も承知で取り巻いていた人たちが居た。私と同年輩で当時もう書き手の世界に入っていた都筑道夫さんは、大坪さんを尊敬し師事していた一人だ。
大坪さんの生家は、江戸に官軍が攻め寄せる頃、土地を買い占めて、ひと頃は江戸の三分の一ぐらいを持った大地主だったという。そういう家に生まれて、経歴が謎に包まれているというのは不思議だが、警視庁鑑識課に一時籍をおいたということぐらいしかわかっていない。しかし、離婚し、或いは別居していた女性がいたことは確かで、細い収入をまずその女性に仕送っていたらしかった。
数年して私は編集者をやめ、大坪さんとも疎遠になってしまったが、その後も、どの雑誌にもほとんどその名を見かけない。
江戸川乱歩さんと木々高太郎さんが、探偵小説は文学か否か、という論争をやったとき、木々派、つまり文学派の論客として幕内で活躍した。その後、推理作家クラブの書記長を務めたが、これは率直にいって悪評が多かった。どういう経緯での人選か、私などには知る由もないが、大坪さんをその任にあてるというのはもともとミスキャストなのである。
多分、その悪評が原因になったのだろうが、大坪砂男|失踪《しつそう》という説がたった。一説によると、柴田錬三郎氏が救いの手を出して、眠狂四郎の下稿を作らせていたともいう。大坪さんは佐藤春夫一門で、柴田さんとは同門である。
ある年、新宿駅の西口のあたりで、ぽこっと遭遇した。大坪さんは私を覚えていてくれて、なつかしげに声をかけてきた。
「今、どこの雑誌に居るんですか」
「いや、編集者はやめました。目下風来坊です」
「それじゃあたしと同じだ――」といって大坪さんは笑った。「新宿で息子が喫茶店をやってましてね。これからコーヒーを呑みにいくところですが」
大坪さんはそこに私を誘いたそうな気色だったが、私は丁度友人と待ち合わせていたところだった。
その翌年だったか、翌々年だったか、夏の宵だったと思う。水道橋から神保《じんぼう》町に向けて歩いて行くと、細い横丁の角のところに、店舗にひっつくようにして大坪さんが立っていた。
「おや――」と私は立ちどまった。
大坪さんは、いくらか痩せていたが、私を見てすぐに笑顔になった。
「これはお久しぶり。どうしてますか」
「あいかわらず風来坊です。いつまでたっても恰好がつきません」
「ははは、風来坊がいいんですよ。恰好なんかついたって、たかが知れたものです」
「そんなものでしょうか」
「ええ、そうですとも。ところがね、あたしは引っ越しましてね」
と大坪さんはいった。
「今、目黒のそばです。白金台というところでさア。電話もあるんですよ。知ってるでしょう」
「いいえ、編集者をやめてますんで、ちっとも知りませんでした」
「そうですか、知ってると思ったがなア。じゃ教えますがね、いいですか、芝の千三番」
「芝の千飛んで三番ですか」
「わかりますか、芝の千三番です」
「わかりました」
「わかってないでしょ。芝の千三番ですよ」
私はなんとなく大坪さんの顔を見た。以前のように渋紙色で、いくらか造ったような笑顔だったが、べつに変った気色はなかった。
「わかってますか、芝の千三番――」
「はア――」
「千三つ屋ですよ。千三つ屋――」
そういって私に背を向けると歩み去っていった。
千三つ屋とは、千に三つくらいしか信用のおけることをしない嘘つきのことを、昔そういう名でいった俗語である。
妙に自虐的なことをいうなア、と思ったが、大坪さんには以前から時折りそういうところがあったのである。
それからしばらくして、何かの用事で山田風太郎さんのお宅にうかがった。
「そういえば、この前大坪さんとばったり会いましてね」
と私はこの夜のことを話した。
「いつの話――?」
「夏の頃です」
山田さんは妙にむっつりとした表情でこういった。
「あんたは昔から、へんなものを見る人だから、造り話をしているとは思わないけれどもね。大坪さんは今年のはじめ頃、癌で亡くなってるよ――」
追記
この話は事実そのままであるが、大坪砂男氏の霊に失礼にあたるような気がして、活字にすることを躊躇《ちゆうちよ》してきた。私の病的な幻想に近いものとお受けとり願いたい。
なお大坪さんは癌で入院してから、病気を感知していたらしいが、手術をはじめ医者の手当てに頑として応ぜず、最後まで苦痛の声も洩らさず、精神的なスタイリストに徹した人らしい壮烈な最期であったという。そのことを記した愛弟子《まなでし》都筑道夫さんの名文がある。
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幻について
私の生家がある東京|牛込《うしごめ》の矢来町《やらいちよう》というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来の樅並木《もみなみき》、というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟《たた》って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜、教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて、家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
矢来町にはその頃、某大名の末裔《まつえい》の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友は皆オーバーなので私はその服装が嫌でしようがなかった記憶がある。
その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顔が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
その女の人は、お面をつけていた。
(ああ、お面か――)
そう思ったあとで、急に怖くなった。私は背後を振り向くことができなかった。汗をかくような思いで家まで帰ってきた。
今、そのお面の顔を思い出せない。特に怖い表情の面ではなく、子供にもすぐわかる種類の面でもなかったと思う。
しかし家に帰ってからは、わりにおちついた気分に戻っていた。私は内向的気質で、喜怒哀楽を(よく泣いたけれども)あまり発表しない子供だったが、その件も親に報告していない。そういう種類のことは、日がたって、自分の気持が揺れなくなってから、今度は好んで口に出す。
私は子供部屋で、すれちがっただけで、なんてことはない、というふうに自分にいいきかせていた。こんなことは、まア、ありがちのことなんだろう、と思った。
子供部屋の押入れの唐紙に、カレンダーかなにかの美人画を切り抜いて、ところどころに貼りつけてある。父親は恩給生活者で閑だから、よくそんなことにかまけていた。
視線がこちらに来ている美人画に偶然眼が行ってしまって、それから眼が離せなくなった。もちろん相手の表情は動かない。それが、いやだ。静けさがしんしんと身にこたえてくる。神経が立ってきて、虫が飛んでも怖い。そういうことは以後にもたびたびあって、たとえば投げだしてある雑誌の表紙の顔がふと気になりだすことがある。それで努めてさりげなくその雑誌を裏返してしまうが、そういう行為に出たことでなおさら怖さが増してくる。
私は幼時も今も怖がりで、ちょっとした気配にも耳をすましてしまったりするが、そのくせ怖いことに出会うとそれほど騒ぎたてない。びくッ、とするのと、びっくりした、というのとは微妙にちがう。
道で、へんなものに出会うという経験は一再ならずあるけれど、もうひとつ、その代表的なものを記そう。
戦争中から戦後にかけて、食糧不足のために配給以外の食物を漁りに農村部に出かけていく。いわゆる買出しであるが、我れも我れもといくからお百姓さんも次第に此方《こちら》の足もとを見て、簡単に売ってくれない。したがって駅から遠い奥の村落に入っていく。
日が暮れるまでほっつき歩いて、やっと芋や野菜を背負うことができ、駅までの一本道を一人で歩いた。林があり、田畑があり、樹立《こだ》ちに包まれた農家がある。星空だが、闇になれた眼に行く手がうっすら見える。遠くに人影が見えた。やはり和服の女の人で、此方に向かって歩いてくる。
ああ、また、と思って、ちょっといやな気がした。怖い想像を打ち消しながら、歩くより仕方がない。彼我の差はずんずん縮まり、女の人が素足で歩いているのがわかった。年老いた女性だが、女らしくない外股に近い恰好で歩いてくる。
その顔が異様に長かった。顎が長く伸びて着物の打合わせのところに届きそうである。彼女は私など見ず、正面切ったまますれちがっていった。
かっと喉が乾き、空を掻くような手つきになった。しかし声は立てていない。走り出しもしなかった。辛うじてそのままの姿勢で歩いた。私が走り出しでもしたら、老婆の方も急に後返って追いすがってくるかもしれない。駅までの道がひどく長かった。
私の女房は、こういう種類の話をひどく嫌う。それを知っていて私はときおりからかい半分に口にするが、その気配を察するや、あらゆる手段を講じて、私の口を噤《つぐ》ませようとする。そのじたばたが尋常でない。
まだ娘時代のことであるらしいが、吉祥寺本町の住宅地の深夜の路上で、うずくまっている老婆に会った。
彼女は眼がわるい。お婆さん、どうしたの、と声をかけながらのぞきこんだ。老婆は、大きな鼠のような、兎のような、突き出た顔をしていたそうである。
彼女は叫びにならぬ声を発しながら転がるようにしてすぐそばの姉夫婦の家に至り、ベルを押して戸を開けて貰う余裕もなく、高いコンクリート塀を一気に乗り越え、庭に落ちこんだという。
今、突然、思い出したけれど、あれはどういうことだったのか。合点がいかなくて困ることではないが、どうもよくわからない。
酔った友人が私の部屋に泊ることになって、枕を並べて寐た。当時、寒い季節をのぞいて、庭に面した雨戸と障子を半開きにしてあった。うっすらと夜が明けてきた頃だったが、眠っていた友人が不意に起きあがって、跣足《はだし》のまま庭におりたった。そうして庭の隅の葉蘭が茂っているところにうずくまった。私もあわてて彼を追った。気分が悪いのかと思ったからだ。友人はそこで両掌を祈りの形に前で合わせていた。
「どうした――?」
「ああ、ごめん、ごめん」
「どうしたの」
「いいんだ。悪かったね」
友人は若かったし、宗教に関心も持っていない。奇癖がある噂もきかない。
それだけの話である。日常の隅々をほじくりかえしていくと、明快に説明のつかないことがわりにあるけれど、特に不自由と直結しない限りどんどん忘れていってしまう。それですこしもかまわない。
私にしても、超自然、超人間的な事象を、とりたてて重く思っているわけではない。ただ、自分の周辺のそういう部分をナンセンスなものとしていくらか面白がっているだけで、怪異なものが本当に有ろうと無かろうと、どっちだっていいのである。我々の頭脳が持っている筋道などたかの知れたもので、したがって不思議に思えることがあったところで、素直に不思議に思っているに限る。
長いこと無人になっていた生家の離れに、しばらく一人で住みついたことがあった。私は卓と夜具を運んで、ある時期そこで毎日ぼんやりしていた。
これは真ッ昼間であるが、座椅子にもたれて卓に向かっていると、矢庭に、瞬間のことでどうなっていたのか確かな叙述ができないが、感触を主にしていえば、襟髪を掴《つか》まれたような感じで(具体的に誰かに掴まれたという実感があるわけでもないが)背後に曳きずられ、私の居た六畳のまン中から次の間の四畳半のガラス窓のきわまで持っていかれてしまった。
それは荒々しいというより、至上の力ともいうべきもので、座椅子が薙《な》ぎ倒されている。部屋の境の襖《ふすま》は開いていたが、窓ぎわまでは鉤型《かぎがた》に曲がらなければ達しない。もちろん家内に人は居ず、かりに居ても人力では一瞬でそんなところまで私を曳いていけない。
それだけのことで、まことにナンセンスである。どんなことだって、有ってみれば不思議ではない。そう思うより仕方がない。
私は、睡眠発作症(ナルコレプシー)という持病があって、持続睡眠ができないために、睡眠のリズムが平均して散ってしまって、頻々と睡眠発作をおこす。発作がおこると、諸関節の脱力症状とともに、幻視幻覚幻聴などが現われる。
幻視幻覚が出てくる病気はナルコだけではなくて、今は数多い。もともと普通ならば意識の表面に出さないで押さえつけてしまうような要素、アンバランスなもの、まがまがしいもの、不必要なもの、それが体力の消耗で押さえきれなくなって現われるわけだから、手術後の消耗時や薬の禁断症状の時なども同じ現象であろう。ナルコレプシーの疲労感は常人の四倍といわれる。
だから私は幻を見ることには慣れている。毎日毎日、その症状に襲われている。けれども、そう納得しても不思議さが消えるわけではない。
ある夜、友人が庭に飛びだしたことのある自分の部屋で、万年布団に横になって雑誌を読んでいると、突然、ひどい耳鳴りに襲われた。
耳鳴りは、轟《ごう》ッ、と形容したいほど烈しいもので、しかも鳴り止《や》まない。同時に、身体が金縛りにあったように動かなくなってしまった。
もうそのときに、寐ていた(眠っていたのではない)私の足もとの方に、はっきり、女の人が出ていた。髪が非常に長く、一部が胸の方にも垂れている。そうして黄色と黒の格子縞の着物を着ている。二十七八から三十歳ぐらいの見当だろうか。おだやかな日本美人だったと思うが、どういう顔だったか、その直後にすでに思いだせない。
そうして、ここのところが俗っぽくて自分でも面白くないのであるが、両手が、ちゃんと、前に廻って掌を下向きにしているのである。そのうえ足の方が、すうッと霞《かす》んでいる。本当にそうだったのだから仕方がない。
耳鳴りは続き、身体は依然として自由にならない。けれども、女は怨《うら》みがましい感じではないし、何かを訴えてくるというわけでもない。
私は彼女と話をした。何を話したか、と訊ねられると、何も頭に残っていないので困ってしまうが、道で知人とすれちがうときにする会話のように、友好的な世間話の雰囲気だったと思う。
そのうちに耳鳴りがはたと止まり、身体が伸び伸びとして楽になった。そのときは女は消えている。女が居た場所のすぐうしろは、例によって雨戸が半開きになっており、私はその向こうの暗やみを、しばらくきょとんとして眺めていた。
全体に、怖いという感じではなかった。悪寒がしたというわけでもない。けれども、また同じ手順で現われてくるとなると、どんなふうに感じるかわからない。あるいはそういうこともありうるかと思って多少身がまえていたが、それっきり、音沙汰がない。
彼女が現われた翌晩、当時親しくしていた夏堀正元の家に出かけていって、早速この話をした。夏堀は興味なさそうにきいている。けれども、大きな図体はしているが、彼は存外怖がりなのである。
終電近くなって私は辞し、彼が駅まで送ってきてくれた。線路沿いがまだ強制疎開の空地のままになっていた頃である。ワンパターンで恐縮だが、ぽつんとある街燈の灯だまりの外は、暗い。
我々がその灯だまりの中へさしかかったとき、向こうの闇の中からも女の人が歩いてきて、突然明るいところへ現われた。その女の人は黄色と黒の格子縞の着物を着ていた。
夏堀が奇声を発した。驚いたのは先方の方で、慌ただしい足音を残して駈け去った。
これはただの偶然であるが、しかし当時、そういう古典的な着物はざらには見かけなかったのである。
この件にはもうひとつ、後日譚めいたものがある。私の部屋に女が現われたのは晩春の頃であったが、その夏のある夜、煙に噎《む》せて眼を覚ますと、足もとの方に炎が見え、部屋に煙がたちこめていた。炎は烈しく燃えたって天井に届くかという勢いである。
私は飛び起きて、燃えている雑誌類を庭へほうりだし、畳の火を足で踏み消した。そのあたりに蚊とり線香があり、寐ていた私が足で蹴とばしたかして雑誌類の上におちたらしい。
大事にはならなかったが、畳にまんまるの黒い痕《あと》がついた。それが、どうもあの女が立っていたあたりなのである。
それはそうと、過ぐる年、私の母親が家のそばの大通りで、深夜、タクシーからおりた。
その横丁のところで停めて、というと、運転手がふりむいて、
「ああ、この横丁は、お化けの出るところですね」
といったそうである。
「へええ、どういうお化けが出るの」
「――こんな顔です」
となると従来の怪談のパターンであるが、むろんそうでなく、また矢来の樅並木のことをいったのでもなくて、多分、以前に酔った私が車内で連れにでもしゃべった怪異譚を耳にしていた運転手なのであろう。
母親は足早に帰宅してきて、ほかならぬ私の前でこういった。
「気味がわるいねえ、お化けが出るんだってさ。いったいどこに出るんだろう」
ダーンバ、と少女がいい、照れくさそうに笑った。或いはそれが芸人笑いだったかもしれない。そうして誰かに強制されたように、べつのポーズをとった。
音楽が耳の底で鳴っているような気がする。むろん、それは私の夢の中の話で、もう怪異とは関係ない。
薄幸の少女のように思えたが、ポーズの途中で、眼が全然べつの年増女のものになったりする。そうしてまた、どうかしたはずみにひどく性悪《しようわる》な顔になりかける。現実とちがって夢の中の人間は、須臾《しゆゆ》に別人になり得るところが面白い。
少女は全裸ですべすべした肌の白さが眼を射るが、こういう夢は、ダイヤモンドが急転直下、馬の糞に変ることがあるから油断ならない。
少女が両腕を水平にひろげ、綱渡りの姿勢になっている。足が踏まえているのは綱ではなくて、宙吊りにされた男の身体である。次の瞬間、少女の両腕が男の背中に刺さり、両脚が宙に浮いた。男の背中がきしきしとしなうようだ。
少女は倒立したまま二本の足を水平にひらき、腰を使って足を百八十度廻転させる。それからその足をゆっくりと男の頭に乗せた。少女は片手で命綱をつかみ、男の頭の上にすっくと立ってにっこり笑った。
雨がパラついている電車通りの信号機の下に私は立っている。どういうわけか、裸にズボンだけをつけている。この恰好ではどこへも行けない、と気がついて、ホテルに引返した。ズボンのポケットに小さな鍵が入っており、エレベーターをその鍵であける。
エレベーターは動くものかと私は思っている。夢で、そんなにうまく行くものか。けれどもいつのまにか二階で、扉があくと、浴槽に大勢がつかっているのが見える。
三階も浴槽で、湯煙が流れこんでくる。少女の肌が私に触れており、私の性器にシャボンの泡がふりかかり、それは速度計の針のように、私の下腹のところで弧を描き、誰かにもてあそばれている。少女の口が性器に触れる。
少女は私の身体の上を這いずり、私の顔に口を寄せる。その口から白い乳液のようなものがほとばしり出ている。私は充分身がまえていて、口をへの字に結んで白いねっとりしたものを拒否し、掌の甲ですばやく拭きとって少女の身体になすくった――。
これは、トルコ風呂の夢だろうか。私の欲求不満の具体的発露だろうか。
いずれにしても、実に駄目な夢であるが、この種の夢を、若い頃よりも近年になって、頻繁に見るようになってきている。このトルコ風呂の夢のときは、数分おいて、第二幕がはじまった。今度は、少し姉さん株のと二人になった。
顔を見覚えている女優や歌手が現われて、何だかわからぬが非常に気持を通じあうという夢がある。愛しあうのではなくて、皆が理解しないことをわかりあうという夢である。かと思うと、庖丁で彼女たちを切って料理してしまう。逆に私が、彼女の家の大鍋で煮られている。麻雀牌のひとつひとつに女や男の顔があり、モー牌してツモってくるというのがある。また、私が誰かにモー牌されていたりもする。
昔、よく読んだSM刺激小説の影響が、こんなところに現われているのだろうか。
けれども、それとはべつに、ふと変な想像をすることがあるのである。誰か、映写技師のような人がその附近に居て、私の脳波に向けて映像を発射しているのではなかろうか。
そういえば、頭を枕につけていると、電磁波のようなものがおこって、頭が、がくんがくんバウンドしはじめることがある。
そういうときは気をおちつけて静まりかえろうと思っても無駄で、とても頭を何かに接触させていられない。肩こり器のように接触した部分がぶるぶる慄《ふる》えだし、痛いような熱いような感触になり、そうしていつのまにか急にその気配がなくなる。
すると、つい今の今まで、かすかなモーターの音がしていたような気がするときがある。
あの格子縞の女も、倒立する少女も、麻雀牌の顔も、みんな、チカチカとフィルムを映したときのようにまたたいている。
丁寧によく思い返してみると、夢のはしばしに、ジャンパー姿の男が、私の表情を盗み見るような顔つきで立ち現われていたような気もするが、はっきりした形では残っていない。
論より証拠、私が気を取られている正面でなく、背後か、寐ている場合には、頭の上の方にでも、視線をやるといい。或いは、部屋の外の死角になった空間の方をのぞいて見るべきだ。今度そうしてみようと思いながら、いつも忘れてしまう。
夢だからといって、これが自分の密室だと思いこむわけにはいかない。もともと私だけにしか見えない幻なんてものはあるわけがないので、油断の気をこらえて、どこかに人前の顔つきをとっておく。けれども、結局、油断に溺《おぼ》れていることにはかわりない。
昔、昭和二十年代の食糧不足の頃、糞尿を化学で再生させて食糧にするという研究が進められた。折り折り新聞記事になっていたものだ。そうしてその開発が成功して、糞尿を素《もと》にした食物がつくられ、大臣や学者などが研究室に呼ばれて試食した。その化学製品の名称も、記憶によみがえらないがつけられたはずだ。そこまでは記事になっていた。
その後、ばったりと、関連記事が出なくなった。糞尿は食物化できたはずだが、私たちにはそれがどうなっているか、行方がわからない。或いは、食糧不足の状態が遠のいて、糞尿を使う必要がなくなり、学問的研究の上だけで放置されているのかもしれない。
しかし、私の経験によれば、新聞記事にならなくなると、かえって危ないのである。そこから世間の眼を遮断して、隠微に地中で蠢動《しゆんどう》しているかもしれない。そうでないという保証はない。
私は、そのことが新聞記事にならなくなって以来、ずっと、あれは何に形を変えて私たちの前に出てくるだろうか、と思っていた。なにしろコストが安い。手間がかからずいくらでも穫《と》れる。しかし食物として売りに出す方は、混入する場合も、あれのイメージがあらわれてはまずい。出廻っている場合もそういう顔つきはしていない。もちろん不衛生なわけではないし、ただイメージの問題だけであるが。
そのものが主になっている場合は、非常に安くて、原料が不明確なものである。けれども多分、混入されて使われているのであろう。
もうひとつ、昭和二十年代に、わりに頻々と外電で入って記事になっていたのに、その後、絶えてお目にかからない一件がある。
テレビの電波の中の限られた一部分、フィルムでいえば何十|齣《こま》という部分に、たとえば赤い色を入れる。すると放映される速度では、その赤い色は視聴者の肉眼にはとまらない。赤など見えないのであるが、脳の方がなんらかの形で受けとめる。これを頻繁にくりかえすと、従来の伝達の形式ではない形で、赤が伝達されてしまうのである。これはテレビの現場ではもう常識になっている。
それから、また発展して、テレビなどの受信機を通さずに、空中に電波を飛ばして、直接に人間の脳の中に受信させるという分野がかなり確立された。
当時の外電による小さなニュースの中にたびたび含まれている。主としてアメリカであるが、これをCMや、選挙や、思想関係や、その他人間を律し、影響を与えるようなことに使用しないよう、電波管理委員会が出来、規制をおこなっていた。私のような、あまり新聞を熱心に読まない者にもそういう記事が眼についたのである。
この一件も、昭和三十年頃からこちら、記事になったのを私は見たことがない。新聞記事にぱったりとならなくなったらば、危ないと思う必要がある。電波管理が非常にうまくいって、まったく問題が派生しなかった、というふうには考えにくい。
これはアメリカの話であるが、日本ではどうなっているか。もう堂々と(ひそかに)使われているのか、それともまだ開発途上なのであるか。
糞尿とちがって、これは悪魔の武器である。お化けなど、存在しようとしなかろうと、たいしたことではないが、妙な電波の方はすこぶる気にかかる。新聞にその気配すら現われないというのが、臭い。
誰かが試験的に流して、長時間かけて実験しているかもしれない。受信しやすい体質の人と、しにくい体質の人があるのかもしれぬ。私の前に現われてくる幻は、いかにも他人から与えられているような内容のものが、すくなからずあるのである。暮夜、ひそかにそんなことを考えていると、これこそがちょっと怖い。
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聖ジェームス病院
※[#歌記号]あいつが 俺をおっぽりだしてよ
どこかへ逃《ふ》けちゃった――
それからってものは
からきし つかねぇんだ
こうもつかねぇのは
そういうわけなのさ
畜生奴 俺だっていつもいい顔していてえんだが
こうつかねぇんじゃ
どうもこうもしょうがねぇや
あいつは 俺をおいて
もう二度と出てきやしねぇ
※[#歌記号]あいつが ぶっ倒れたってきいたから
聖ジェームス病院に 行ったんだ
チェッ いつも手こずらせやがって
ひでぇスカを喰わせたうえに
びっくりさせるんだからなァ
――だが なんてったって俺の女
俺ァ 泣かなかったがね
あいつのために
何かしてやらなくちゃな
だから せめて
俺があいつの身がわりになれればと思ったさ
※[#歌記号]シーンと 静まりかえった
聖ジェームス病院に行ったらよ
あいつは青白くなっちゃって
死体置場の台の上にのびてやがるんだ
糞ッ 勝手な女で
情がなくって
俺をトコトンこけにしやがったが
今じゃそんなこと気にしてねえぜ
見ろ 俺までこんなに
魂を抜かれちゃったじゃねえか
だから 死んだらまたどっかで会わなくちゃな
※[#歌記号]本当だぜ 聖ジェームス病院の
あそこであいつを見たんだ
冷たくなって まっ裸で
かわいい顔して
白い台の上にのびていやがった
神さま どうか祝福を――
あいつを好きなとこに
行かせてやってくれ
あいつがたとえどんなふうだろうと
どこへ行ったって
俺よりいい男は みつかりっこねぇんだからな
※[#歌記号]俺が 死ぬときはよゥ
レースの飾りのある靴と
ストットスンハットと
ボックスコートで正装させてくれ
懐中時計の上に二十ドル金貨も
忘れずにつけておくれよな
そうやって
ちゃんとしたばくち打ちの
死にざまさせてくんねぇ
そうすりゃ 皆もすこしは
俺を見直すだろうからな
ヴァース(序詩)からはじまってだいぶ長いけれども、レコードに吹きこむときや劇場用の、つまり表向きの歌詞を、意訳したものである。黒人の唄うブルースは、彼等の寄り合いで、あるいは酒場で唄われるとき、実にさまざまに変型され、卑猥な、乃至は剣呑《けんのん》な、無数の歌詞が造られているのが常で、またそうしたものの方が迫力があるにちがいないのであるが、残念ながら表向きの歌詞しか手に入らない。
聖ジェームス病院≠ニいうこのブルースは、古いスタンダード曲で、一番有名なのは、インディアンとの混血トロンボーンのジャック・ティーガーデンの名唱であろうか。ルイ・アームストロングと共演していた時期も、この曲になるとルイは唄わずに伴奏にまわり、ジャック・ティの持ち唄にさせていたそうで、そういうレコードもある。
日本でも、戦争前は、主に浅草の芸人たちがよく唄っていた。伝説的な天才ヴォードビリアン林葉三が得意にしていたという。彼は日本の芸界からはずれて上海《シヤンハイ》に落ち、早死したので、私は眼にすることができなかったが、浅草の後輩たちが彼を模倣してよく唄っていた。そうして私は、同じ時期に、アメリカ製短篇ショー映画で、キャブ・キャロウェイやテッド・ルイスなど当時の黒人芸人がこの曲を唄うのを見て、子供ながら唸《うな》っていた。
もちろん歌詞はよくわからない。日本人が唄うときは、日本語に造りかえられた歌詞があったがそれも今ははっきりおぼえていない。けれども、一種の名曲で、その暗さや、倦怠《けんたい》感や、それから投げやりだが開き直ってたしかに生きているという感じが、どうしてか幼い私にも迫ってきた。
ああ、これが唄だな。つまり、悲鳴なんだな――、そう思った最初の経験である。
私は音楽は嫌いだが、こういうものになると好き嫌いでかたをつけられない。
当時、いろいろなブルース曲が日本にも輸入され、そのいくつかは人口に膾炙《かいしや》したが、この曲はあまり一般受けしなかった。その理由はよくわかる。セントルイスブルース≠フようにメロディックでないし、ロイヤルガーデンブルース≠フようにリズミックでもない。異国の唄は、歌詞(内容)の方から入らずに、純粋に音楽として聴いてしまうのが普通だから、おぼえにくい旋律は印象としてまとめにくいのである。
では、私がどうして強く受けとめたかというと、私自身が、当時、どうにもツキに見放されたような子供で、幼いなりに、生きていく方策が皆目たたず、しかも、生きていくことしか考えられないので困惑しきっていた。私は場末の小劇場の客席の隅でじっとうずくまっているよりほか術がないという状態であった。もちろん一人でそう思っていたのであるが、このことに関してはいつも書き記しているので重複をさけたい。
ただ、こう思っていた。
私は、当時、言葉というものを、何ひとつ、口の外に発することができなかった。
たとえ何かをしゃべることができたとしても、自分の気持に即して何かいったり、思いこみで何かいったり、そういう発言は、言葉などではあるものか、と思っていた。
たったひとつの言葉でも、意識のうえで捕まえていること以外に、触れたくないもの、忘れたくて忘れてしまったもの、まるで気がついていないもの、そうしたことを総点検して、さまざまな色合いを抱きかかえて見たうえで、なお発する必要があるという形でなければ、言葉が本来含んでいる意味の重たさとは似ても似つかない、不正確なことの表白になってしまう。
そういう言葉は、なかなか口にすることができない。しかし、口にするならば、そういう重い言葉を発したい。
私は、歌詞もよくわからなかったくせに、ひょいと、この曲にその臭いを嗅いだ。
もうひとつ、これは蛇足であるが、私の好みをいわせてもらえば、ジャック・ティの素直な名唱よりも、キャブ・キャロウェイのおどけた唄いぶりが絶品だったように思う。
一九四〇年当時すら、白人客の面前では、黒人芸人はいかなる意味でもシリアスな役割は演じられなかった。ラブソングすら、主情的に唄ってはいけなかったのである。恋、というような精神的なことは白人の世界のもので、黒人が同じく精神的だなんて白人たちは思いたくない。黒人芸人がラブソングを唄う場合は、白人の恋を脇から見ていて讃美するという形をとらなければならない。
だから、黒人芸人が受け持たされる役割は、道化、もしくは忠実な召使い、という領分になるのである。キャブは、ミュージシャンというよりも、ピエロ的芸人として白人社会に受けいれられたスターだったが、ファッツ・ウォーラーもルイ・アームストロングも、そういう形を要求されていた。
そのキャブがピエロを装って、ヴォードビル風に、この歌詞を唄うところをご想像ねがえると、子供の私に重たい印象を残した所以《ゆえん》が、いくらかでもおわかりいただけるかと思うのだが――。
水原ヨヨ嬢は、私の昔からの知人の娘さんで、したがって彼女が小学生の頃からずっと、育ちゆく様子をそれとなく眺めている。私とすれば姪《めい》っ子のような親しさを覚える女性である。
けれども、どれほど彼女の内心を知っているかというと、ほとんど何も知らないというに近い。誰の内心についても、知っていると思うことは危険であるが、年齢のちがう異性の心象は、とりわけ私にはつかみがたい。
ヨヨ嬢の父上は、年少の頃から陶工を志し、生家がその世界とかかわりがなかったので苦労したけれど、その道で着々と地歩を築きつつある人である。若いとき戦争にとられて中国戦線に長くあった。至極平和な人物で、軍服が似ても似つかず、要領でしのいでいくタイプではないので、本人はもとより周辺も生きのびて帰還するとは思わなかった。
「君は、うっかりする癖があるから、味方の一個師団を全滅させるような失敗をするおそれがある。どうかこの村の名を汚すことだけはしないでくれたまえ」
当時の村長にそういわれたという。
それが、まる五年も戦線でしぶとく生き抜いた。北支に定着したあと、補給路がわるくなって、あとの初年兵が来ない。だから水原二等兵が一等兵になっても、後輩が来ない以上、実質的に初年兵のままで、五年の歳月は辛《つら》かったろう。
そういうブランクを克服して、戦後、西国の小都市に住みつき、結婚し、窯《かま》に向かって好きな仕事にはげむようになった。現在は彼の作物を愛する人々がついて、家も建ったが、もともと自分の作物に値段をつけられない人で、ただ同然のお志で渡してしまう。手元の苦しい時期に私などが居候に飛びこんでも平然としている。十歳年下の夫人は、水原さんの焼く壺や皿を愛し敬い、ついにみずから望んで女房になった人で、自由業のむずかしさに直面してもくじけない。その点で理想的な妻といえよう。
ヨヨ嬢は、その夫婦の一人娘である。ヨヨという珍しい名前は、父親が四十四歳のときの子だからである。
「それがねえ、年齢を計算するとおかしいのよ。ひとつちがうの」
と彼女はあるとき笑いながらいった。
「どう計算しても、あたしは、水原さんが四十三のときの娘なのよ」
ヨヨ嬢は、父親のことを、水原さんと呼ぶ。そうして母親のことは、水原さんの奥さんという。
「よく考えたら、そうだったんだ――」
と父親もいった。
「いいかげんなのよねぇ――」
彼女は、そういう父親を、いくらか面白がるような笑い方をする。
「じゃァ、三四郎も、ひとつちがうのね」
「ああ――」
「いいかげんたらないわね」
「そのずっとあとで気がついたんだから、しょうがない」
ヨヨ嬢が生まれる十年前に、男子が生まれ、生後半年で亡くなった。その子は三四郎と名づけられたが、正確を期すならば、三三男とか、そういう名前になっていただろう。
水原家では父親のその種のミスはしょっちゅうで、ピクニックに誘うための電話で、プラトニックに行こう、といったりする。水原さんのそういう人柄を慕って来客も多く、家の中に笑声が絶えない。一人娘のヨヨちゃんは人形のようなかわいい娘で、口数はすくなかったが、どちらかといえば父親っ子だった。彼女は小さい頃から、父親が世間からちぐはぐなあつかいを受ける気配があるたびに、ぴたっと寄り添うような子だった。暮し向きが辛い時期は、作物を持って出かける父親にはいつも幼い彼女が同道する。
「水原さんは、一人にしておいてはいけない人だからね――」
小学生のヨヨちゃんがそういったのを耳にしたことがある。
といって、母親と離反していたというわけではない。母親は、むしろ夫のことに一生懸命で、その点でこの母娘は心を通いあわせている。水原家では、世間並みの親子のしつけなどあまりしなかったせいもあるが、ヨヨちゃんは、母親のことを、父親の同伴者として、自分と同僚か友人のように思っていた気配がある。そうしてある場合には、父親に対する母親のあつかいを、批評家のような眼で見ていたこともあったかもしれない。
ヨヨちゃんが小学校に融和していない、ということを母親からきいた。特に中学に入ってからは、学校へ行くのを嫌う。勉強もしない。その原因がどこにあるか、口をつぐんで答えようとしない。
母親は私の顔を見ると相談をしかけてくる。私が、やはり学校を嫌う子で、そのまま学歴なしでとおしてしまったことを知っているからだが、私も返答に窮する。男と女の子ではちがうし、それ以上に個人的なことで、そのへんを雑にした一般論は意味がない。
しかし、普通にいうグレた感じもなかった。彼女は以前と同じく人形のような顔で、つまり子供のままの顔立ちで、何も変化したように見えない。笑うと細い眼になり、しげしげと哀しそうにうるませ、あるいは、物問いたげだが適当な言葉が見当らなくて絶句するような表情をする。
人間としての感性にいびつなものは感じられなかった。
「いいじゃないですか、女の子なんだから――」と私は母親にいった。
「むしろ、心にそむ生き方を選び、執着するという方が、女の子にとっては大切なことですよ」
「それがはっきりしていればいいんですけれど――」
「まだこれからでしょう、みつけるのは」
同じ頃、私はヨヨちゃんに、学校が面白くない理由を訊いた。
「先生が嫌い――」と彼女は答えた。「級の人も、皆、嫌い――」
「じゃァ、何が好き?」
「――こうやって、一人で、なんとなくいろんなことを考えているのが、好き」
「そのほかには――?」
「そのほかって、何もないわ」
「そういうふうにして、一生を送れるかい、一生は長いよ」
彼女は自分のおでこを見上げるような眼つきになって、
「――困っちゃう」
そういった。
私も小さいときに、他の子供がなんでもなく渡ってしまうことが痺《しび》れるようにできなくて、困惑を抱えた男である。このままでは成人しても生きていけないと思っていた。そうしてとうとう、その関所を渡らずに成人し、運に恵まれてなんとか生きのびている。水原さんにもそういう部分があったかもしれない。私や水原さんのように強引に自分の領分にこだわってきた男をはたで眺めていると、のん気に好きなことだけやっているように見える。しかし、そのへんの誤差を説明することがむずかしい。
ヨヨちゃんが、どうして世間並みのコースをためらい、脇へそれようとしているのかわからないが、たとえ年少の人間の迷いのようなものにすぎないとしても、私には、彼女の困惑を軽視して踏み潰す真似はできない。といって援護もできず、すべて彼女自身がしのいで定めるよりない。
私も東京をあまり離れなくなり、水原家とも無沙汰がちになって何年かすぎ、個展を開くために上京した水原夫妻の口から、ヨヨちゃんがアメリカに渡ったことを知らされた。
附近の県庁都市に住む玉川という若い画家の紹介で、シヤトルのアメリカ人の家に下宿しているという。そうして彼女は、人形造りの学校にかよっているらしい。
「駄目だ、近頃の子供は平気で親を捨てるんだからな――」
と水原さんは低くいった。
「いくつでしたっけ、彼女は――」
「十六。いや、七だったかな」
「学校は――?」
「高校を止めてましたの」
「しかし、シヤトルとはね、遠い所へ行ったな。言葉だって、向こうで覚える気なんだろうけど、若い人はすごいなァ」
西国から東京を通り越して異国まで飛んでしまった彼女の決断は、私には何も内容がわからないけれど、そうか、というふうにも思う。十六七というと、私が生家を飛びだしてばくち場にへたりこんだ年齢である。
「どうせ、どっちの親に似ても、普通にはいかないだろうと思ってましたけれど――」
あたしもそうでしたのよ、と奥さんがいった。
「娘というものは何通りかの生き方しかないように思えるでしょ。あたしも生き方をまとめることができなくて、だって納得する生き方をみつけるって大変なことよ。娘時代には、このまま先細りに生きにくくなって親たちの厄介物になってしまうって恐怖がありましたわ。そのとき水原と知り合ったんです。年齢的にも職業的にもあたしの相手らしくなかったのが逆によかったのね。どういうわけか、嫁に行こうなんて気にまるでなれなかったのに、そのとき、もうこの人しかない、って思いましたの。この人をはずしたら、あたしは生きのびられやしないって。で、しゃにむに、押しかけ女房でね。それから一生懸命、この人の女房として生きようと思って――」
「すると、ヨヨちゃんも、向こうでいい人をみつけて、なるようになるんですかね」
「ヨヨはわかりません。母親のあたしだって一寸先は闇ですもの。あの子が生きのびられるのは、偶然に恵まれることでしょうかしら――」
シヤトルでの彼女の生活は、親もとにも様子がつかめないらしかった。人形造りの学校にも行ってないらしい。そのかわり、自己流の人形を造って街で売っているという。中国人経営の寿司屋でアルバイトしているともいう。
小一年も音沙汰がなかったが、
「――モシモシ、水原さんの奥さん、少しでいいから、お金を送ってくれませんか」
という国際電話が不意にかかってきた。
「どうしてるの、ヨヨ――」
「どうもしてないわ」
「だから、何をしてるのよ」
「何もしてないの」
それだけで切れた。水原夫妻は毎月手紙を書き、お金を送った。ヨヨちゃんから、お金はこっちから頼んだときだけでいいといってきた。
たまに会うと、ヨヨは帰ってきたいのじゃないかと思う、と夫人はいう。
「何かいってきましたか」
「何もいってきませんけど、勘がするのよ。ねぇあなた、ヨヨに飛行機代を送ってやりましょうか」
「そんなことしたら、よけい帰ってこなくなるぞ」
ある年の秋、パリの画商の肝煎りで、水原さんの陶器が出展され、渡仏した夫妻に会いにヨヨちゃんがシヤトルからパリに来た。それが三年振りだったという。そうして夫妻はついでに娘を日本までひっぱってきた。
東京のホテルで会ったヨヨちゃんは、いくらかふっくらしてはきたが、あいかわらず人形のような、ぱっちりとした顔だった。長髪でもじゃもじゃに縮らせており、ヒッピー風の恰好をしていたが、なんとなく、子供のままの感じが濃い。それは私が小さい頃から知ってるせいだろうか。
彼女の日本語は、いくらかたどたどしい感じになっていた。
「ある晩ね、二階へあがろうとしたら、上が赤くなって焔《ほのお》の先が見える。下宿した家のマダムがドライフラワーにこってて、暖炉のそばに乾かしておいたのが燃えてるのね。あたし、怖くて声が出なくなっちゃって、マダムたちの居間に行って、ねえ、火事よ、火事、そういうんだけど誰も信用しないのよ。小声だし、静かにそういってるもんだから。そのうち、ヒューズが飛んで電気が消えちゃって、はじめて騒ぎになったのよ。結局、床と天井を少し焦がしただけですんだけど、ジェームスさんたらおかしいの。そこの家の主人だけど、熱湯の入った湯わかしを手に持って、早く消しに行けってあたしの背中を押すもんだから、あたし、背中にやけどしちゃったの――」
彼女はそのとき、私の巣へも遊びに来て、古いブルースやディキシーのレコードをかけてきいた。自分も、向こうで黒人の友だちがたくさんできた、といった。ひまさえあれば彼女はハーレムに行って遊んでいるらしかった。
「黒人のお年寄りは、何もすることがないから昔話をよくしゃべってくれるの。そうしてときどき、街頭でタップを踊ったり、ブルースを唄ったりして投げ銭を貰うの。あたしもああいうふうに芸ができたらいい。だって、すごく一生懸命にやるのよ」
彼女は一九三〇年代、つまり私の子供の頃の映画、特に黒人のショー映画にくわしくなっていた。古物専門の映画館があって熱心に見ているらしい。シカゴ派のクリーンヘッド・エディやサニーランド・スリムにも会ったといった。それから、キャブ・キャロウェイにも。
「キャブ・キャロウェイ――?」と私はいった。
子供の私には当時相当のおじさんに見えたが、ニューヨークで矍鑠《かくしやく》としてレストランをやってるという。
キャブに習ったといって、聖ジェームス病院の一節を唄ってくれた。それから黒人がよくやるのだといって、櫛《くし》にセロハン紙をかぶせて口に当て、ラッパの音を出した。
私の家の犬が不思議そうに寄ってきた。私は、黒人の老人たちの後ろにくっついて見よう見まねで身体を動かしている異国の熱心なファンを思い描いた。彼等はどんなふうにヨヨちゃんを理解していたろうか。
私はとにもかくにも彼女を小さい頃から知っていて、さほど不思議に思わないが、火事、と静かに告げるあたりも、普通に理解しようとするとなかなか手間がかかる。ヨヨちゃんにはそういうわかりにくい部分があって、それはとてもいい所なのだが、結局、その下宿は長続きせずに移ったようだった。
彼女は、そのとき、三カ月近くも両親のそばに居た。シヤトルに帰るとき、私が昔のジャズにくわしいのを知って親しみを覚えたらしく、一人で寄った。
「もう、こっちに居つくかと思ったのに」
「そう、水原さんの家も嫌いじゃないんだけどね。居心地がいいと思うと、あたしって、そこに居たくないのね。居つくようになると大変だと思うから」
「その筆法でいくと、シヤトルは、居心地がよくないから帰っていくということかな」
「どうなんだろう――」
「ひとつ説教するよ――」と私はいった。「アメリカ開拓時代にも、人々は新天地を求めて西へ西へと行った。でも、どこかで居ついてしまわないかぎり、移動してるだけじゃ限りがない。そのうち太平洋があってもう西へは行けなくなっちまう。ヨヨちゃんが、知人の居ないところに救いをみつけてるんだったら、いずれシヤトルも知人だらけになってどこかへ逃げだしたくなるよ。とにかく、どこかに居つく覚悟を定めなきゃあ」
シヤトルに戻ったヨヨちゃんのところに、水原夫妻は頻々と電話し、そう言葉でいわないにしても帰郷の意志を募らそうとしているようだった。彼女ももう二十歳をすぎている。両親を嫌って離れているわけではない。こちらで失恋をして心に傷を受けたかどうか、それは知らないけれども、そういう通俗小説の筋書のようなことが、この場合、当てはまるのだろうか。
彼女は、近く一度帰るといいつつ、姿を現わさない。水原さんが病床についたときも、夫人はいいチャンスと思って旅費を送ったようだが、とうとう帰らなかったようだ。私は、どこかに居つく覚悟をしろ、といったことが変な影響を与えたかと気にしていた。
そうして彼女も二十三か四になった筈だ。
昨年の暮に上京した水原夫人から、ヨヨちゃんが薬を呑んで病院に入ったという話をきいた。様子はくわしくはわからない。しかし、自殺未遂とみなされていったんは精神病院にいれられたという。
何かのまちがいでしょう、と私はいった。その少し前、彼女の元気そうな葉書を受けとっていた。私のタップダンス≠ニいう短い小説を読んでいて、戦争中、タップダンスが敵性音楽として禁止され、浅草の芸人たちが民謡を伴奏に下駄をはいてタップ風の踊りを工夫するという話をハーレムの皆にしてあげた、と記してあった。
しかし水原家では放っておけなかったらしい。強硬に申し入れて、今年になってから彼女はひさびさに日本へ帰ってきた。そうして東京で私の巣にひと晩泊った。
「スリム・ゲイラードと仲よくなったわよ」
ヨヨちゃんは私の顔を見るなりそういった。スリム・ゲイラードはシカゴ派のミュージシャンで唄も唄う。が、やはり老人である。
「彼はね、汚い言葉ばっかり並べて汚いことを唄うのよ。だから職場がないの。でもそれがハーレムの本当の言葉なのよ。とってもいい人だけど、家族もつくらずに放浪してるわ」
「しかし、ヨヨちゃんの友だちは爺さんばかりだな。少しは向こうで、男友だちでもこしらえたかと思っていたが――」
「だって、お爺さんが好きだもの」
「薬呑んだって、睡眠薬かい」
「アスピリンよ。でも下宿の人が自殺だと思って警察に連絡したもんだから、精神病院に運ばれちゃって、あたしも必死だったわ。電話帳で少しでも知ってる人は皆呼びだしちゃって、説明して貰ったの」
彼女は日本人とつきあわないし、知人はハーレムの住人が多いから、異郷で精神病院に入れられたときは不安で一杯だったろう。
「もういいだろう。日本へ帰っておいでよ。日本なら、とにかく言葉の障害がないから」
「でも、ひと月ぐらいでまた向こうへ行くつもりだけどね」
「何故、向こうで誰か待ってるかい」
「――いいえ」
「こちらじゃ、両親が待ってるぜ。水原さんも年をとったし――。俺は今まで何も訊かなかったが、いったい何故なんだい」
「しゃべらない。胸の中のことは誰にもいわないわよ」
とヨヨちゃんは人形のような顔でいった。
「でもねぇ、訊かれるたびに何かサービスしたくなっちゃうでしょ。それでしゃべりだすと、嘘になっちゃうの」
彼女は、自作の人形を売って辛うじて生計をたてていたらしい。市場《マーケツト》に持ち寄りの品物を並べる露店のようなスペースがあり、ハーレムの友人たちと一緒にそこに立つ。彼女の人形は買い手に媚《こ》びず、自己流に仕上げるから、彼女が理解しがたいように、やっぱり人形も売れないのである。
「でも、クリスマスの前になると、あたしのでも買っていく人があるの。で、毎年、その時期の売上げを貯めといて、翌年の六月頃まで喰いつなぐの。喰いつなぐといっても、ほとんど喰べないのね。だから日本に帰るといつも喰べすぎてお腹《なか》をこわすわ」
「何故なのかな。いや、訊かないけれど、そんなにまでして日本に居たくない理由って何だろう」
「去年の暮も、やっといくつか売れて、ほっとしたのね。だって普段はまるで売れないんだもの。それで、ほっとして、薬を呑んでしまいましょう、と思って――」
「そのいいかたも、よくわからないがね」
「ええ、ほっとすると、緊張がとれて、何もかもよくなってしまうことってあるでしょう」
私にはうまくのみこめない。しかし私にわからないことはたくさんあるだろうと思う。のみこめないが、けれども、ヨヨちゃんにすれば、そうするしかないのだろうというふうにも思う。
彼女は、人形を精魂こめて造るあまり、人形の幻想を見るらしい。今まで造った人形の顔をひとつひとつ憶えているので、自分は大家族を持ってるという。そうして、私に似せた人形もそのうち造るのだといった。
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今、何気なく机の横のテレビに眼をやると、薄鼠色のブラウン管に私の姿が映っている。パジャマ姿で腹の脹《ふく》れた私の身体と、顔のある頭部が、かなり間隔のあいたべつべつのところに映っている。
私はあまり物驚きをしない男で、そういう自分の姿を眺めても、だからどうだという気持の動きがおこらない。ブラウン管の中の私の顔は、ぶすけて疲労が浮き出ており、不景気な表情のまま向こうも此方を眺めている。
いったん机に向けた視線を、ふたたびブラウン管の方に戻してみると、もうそのときは私の顔は、心もとなげではあるが胴体とつながっている。
ただそれだけのことで、記述するに足りることとも思えないけれど、机に向かっておずおずと手を動かすきっかけにはなったような気がする。その程度には気持に枠組をつけているのだろうか。しかし、私のような男にとって、きっかけというものはなかなか大事なポイントで、たとえば無人電車が逸走するにしても、それは最初のほんのちょいとしたきっかけによっておこるので、私には、それ以外にかまえて逸走するということができにくい。運転台はいつも無人である。そのくせ、きっかけというものを、自然発生のままにまかせている。
平生から、諸事にわたって理でまとめようとしない男で、したがって、規範というものを念頭におかない。だから理にはずれた事柄にぶつかっても、理の有無で区わけをしない。おおかたは黙って見ている。五十年の余すごしてきて、いろいろの物を見、事にあたっているうちにその習慣ができてしまったのか。それとも、その中でもとりわけ深く心象に影を残したことの影響なのか。たとえば、首と胴体が切り離されてしまった人間というものを、私は成人する前にたくさん見ている。一つや二つや五つや七つではない。道路を埋めた焼死体の中にたくさんの直撃死体があり、それらを跨いだり踏みつけたりしなければその道を歩くことができなかった。そこは幼い頃から馴染んだ道筋で、ある夜、突然とはいえないにしても、ごく短い時間――中空を飛び交う飛行機から花火のように美しい火の粉が一面に降りだし、煙と火と人波に押されて私たちがざわざわと逃げまどっているうちに、そうなってしまったのだった。私は規範を表だたせて物を見ないから、今夜ふたたびあのことが起こったとしても、さして驚かない。
ブラウン管に映った私の首と胴体が離れ離れになって見えても、おや、とは思うけれど、さのみ異常と感じない。他人がそうなったとき驚かずに、自分の場合だけ驚くわけにはいかない。あのとき、私はたくさんの死体と同じく、異形と化して地に伏したままになっていてすこしも不思議でなかった。私は一方で、焼け死ななかった自分をあらためてたしかめながら、また一方で、どうしてか、死体と自分を区別することを厭《いと》うた。変り果てた人々や道筋に対して、驚くまいとした。そうして同時に、生き残った自分に対しても、驚くまいとした。
あの夜に代表される経験は、私の身体の中のある種の部品を、壊したのだろうか。それとも、損なうまいとして、しらずしらずにそういう姿勢に馴染んでいったのだろうか。
が、こんなふうに記述をしていっても、不確かなものがやはり残っていって、安手な納得しか得られない。もともと私は物事を整理することなどできはしないので、物驚きをしないというより反応が鈍いのである。あの夜よりもっと幼い頃だってほぼ同じことであった。表面はすこしも実直ではないが、体質としては農耕人的で、毎年、同じ場所で種をまき、やがて収穫を得る、その反覆をつづけていくことを軸にして生きている。雨が降ろうと槍が降ろうと、軸のところではそうしているだけである。そうして新しい、乃至は異なった事象に直面しても、ほとんど対処する術を知らず、ただ努めて揺れずに眺めているだけで、あとへあとへと問題をくりこしていく。したがって私が自分の身の内にひきこんで、本気で検討をはじめるのは、反覆を非常に長く続けて、よかれあしかれ我が肉と化してあるようなことに限られるのである。それも非常に時間がかかる。なかなか諒承しないけれど、結局は、どういうふうに諒承するかということでとどまってしまう。私は自分の在りようというものに対して、攻めていくことをしない男である。それは劣等感として、いつも深く胸の中にある。にもかかわらず、自分が他の筋道らしきものに乗りかかったりすると非常な抵抗を覚える。結局のところ、自分の地所に満ち足りておらずとも、他のどんな所に移りたいとも思わない。私は見境《みさかい》というものを持たない。自分も他人もごっちゃにしている。あの夜もこの夜も差異をつけていない。ただ、自分があり、あの夜の重要な経験があり、その他もろもろの自分の軌跡があるだけなのである。
私はいつも、後返ることしかしない。自分の軌跡を後返るだけでは不充分なので、後返るための走路を奥に拡げたいと思う。だから私は、新しい異常には物驚きをしないが、反覆される性質の、乃至は以前に経験した種類の恐怖については、いつまでも怖れていることができる。
もっとも私の日常そのものは、農耕人のごとき定着の色はまったくうすい。種をまき刈りとるという作業はほとんど水面下にかくれ、日々新たな事象を迎えて、きっかけがあるたびに逸走し、暴走している。ただ私の消極的な平衡感覚が、辛うじて事故を未発にしているだけである。
私は今、都心を少しはずれたホテルの一室に居る。机もテレビも、だから私の所有物ではない。このホテルには、大きな書物机を常置している部屋があって、そのため稀れに仕事を敏速に片づけるために利用することがある。
が、今は、生業《なりわい》である娯楽読物ふうの原稿を記すためにホテルに入っているわけではない。その必要は生じているが、おちついてその作業にいそしむ気持になれない。
私は数日前、二三の友人と一緒に国外に逸走していたのである。友人たちにはそれぞれ多少の理由がその旅に附加されていたが、私にとってはまったく遊びの旅行だった。その噂を小耳にはさんだのがきっかけ≠ナ、俺も行くよ、と申し出たのである。実際出発することになった折りには、仕事の手順もうまく運んでおらず、そのうえ身体がずっと不調で、それにともなう屈託をかかえこんでいた。
「香港《ホンコン》へ行くくらいなら、医者へ行くべきでしょう」
と妻君がいい、そのとおりだと思うけれども、そうしない。
「医者もそうだが、大事な仕事もあるんだ」
「じや、それをおやりなさいよ」
「うん――」
といったまま、私はのろのろと旅仕度をしていた。
「何故、こんなときに香港に行くの」
「何故といわれたって、わからんさ。行かなくたっていいんだ」
私はいつもこれで、でたらめばかりしている。若いときは体力で、なんとかでたらめを持ちこたえてきた。今は収拾をつける体力が不足している。
それでも出かけて行って、けっこう浮かれ騒いだりしながら、暗雲にも包まれたまま、数日後、帰国した。現地の悪天候のために二時間ほどおくれたけれど、成田空港には同行した漫画家の妻君が迎えに来ていた。
その妻君の運転する車に、新劇役者と私が便乗し、まず役者を彼の家の前でおろし、次に私のところに寄ってくれるという。
私の家の近くに来たとき、ちょっと寄っていきませんか、といった。
「いや、もうおそいから」
「しかし、飛行場で二時間も待ったうえに長距離ドライブじゃァ奥さんもお疲れでしょう。お茶でも呑んでひと息入れていった方がいいですよ」
漫画家の妻君と私の妻君は仲が良くて、折り折りに往き来して話しこんでいる。私はうっかりして鍵を持たずに出てしまったので、門扉をあけ、漫画家の車を中に入れてから、ベルを押した。
二階の妻君の部屋も、玄関も、灯はついているが、応答がない。
「ははァ、また夜遊びに出かけているな」
と私は苦笑してみせた。べつに珍しいことではない。私が規範で動いていないから、彼女にもある彼女自身の都合を制限するわけにはいかない。
「灯はついてますね」
「犬が居ますから、いつもつけっぱなしなんです」
漫画家は私が鍵を持たずに出ていることを知ると、
「――じゃ、また車に乗ってください。ぼくのところにでも行きましょう」
「いや、まもなく帰るでしょう。ご心配なく」
「しかしどんなことで出られたかわからないし、すぐ帰られるかどうか。遠慮しないでください。どうせ寐酒を呑む気だったから、一緒に一杯やりましょう」
私は比較的近い盛り場に出て知り合いの酒場でしばらく時間をつぶす気だったが、夫妻に親切にすすめられるままに、漫画家の家に行った。
しかし、彼は売れッ子で、翌日から私以上に過密なスケジュールが待っているはずであり、遊び疲れた身体を今夜は早く解放して休ませなければならない。
私は彼のところから頻繁に電話をした。ベルが鳴るだけで、誰も出ない。
「昨夜、奥さんからお電話がありまして、お帰りは今夜だと申しあげておいたのですけれど――」
「ああそうだ、ぼくは旅程をうろおぼえなものだから、帰りを一日早くいいおいて出ちゃったんですよ。昨夜待っていたのでしょう」
「でも、もうご存じのはずだから、まもなくお帰りになりますわ」
「いや、ぼくがいつも鍵を持っているから、まさかこんなふうにお邪魔してるとはね、彼女は思ってないでしょう。さがっちゃ怖いよ芝居の幽霊、か。旅がご難のうえに、帰れば宙ぶらりんだ」
旅の最中にマカオのカジノに寄って、私はほとんどはじめてといっていいほどの大惨敗を喫していた。
しかしそれは誰を恨むこともない。女房に対しては中ッ腹ではあったが、鍵を忘れた自分がまずいけない。
「ご心配ね」
「いや、それより、闖入《ちんにゆう》してお邪魔してることが心苦しくてね」
「いいんですよ、家は――」と漫画家の妻君が、電話ばかりしている私を見かねたようにいった。「それより、いっそ、ここでお寐みになって、明日、お帰りになったら」
誰かの大きな掌が、私の尻の穴をふさぐように、尻のところにぴったりひっついている。幼い頃、眠りに落ちて、ふと眼ざめたときなどに、その大きな掌ががっしりとそこに来ていることがある。それは|おむつ《ヽヽヽ》のように優しい感触である場合がある。|ばった《ヽヽヽ》の尻のように尖った私の下腹部をぎゅっと掴まれているような按配のこともある。それからまた、余分なパンツをもう一枚はいてしまったように邪魔なこともある。
ごま塩髭の屑屋の老人が大きな籠を背負って、夜半に台所の方から来て茶の間を通りかかる。くずーい、という声を耳にすると私はすぐに布団に身をもぐらせて、籠に入れられないように息をひそめている。足音はゆっくりと、廊下を伝って便所の方に消えてしまう。そんなとき、あの掌が尻をふさいでいたりする。私はいつも思うのだ。これは屑屋の掌なのか。それとも、身を委《ゆだ》ねるに足る者の掌なのか。
学校の運動場で体操をしていて、身体を振った途端に、尻のあたりにあの掌の感触が蘇《よみがえ》る。頭上の空が蒼く、大根を薄切りにしたような月がある。そんなときは、その月のように淡い感触になっている。
蝉を捕まえたときに、ジャバラのような下腹を自分の掌で覆ってみたことがあった。そうして、あの掌も、そのときの私のような表情をしているのか、と思って怖くなった。
私は小さい時から、大根《おおね》のところではごく楽天的で、私だけは決定的な災厄には遇わないように思っていた。多分、それは誰の場合もほぼ同じなのかもしれないけれど、今になって考えてみると、私のでたらめさはいつも、そういう思いこみに支えられていたことがわかる。行儀よくできたかもしれないときも、行儀よくしない。他人が忍耐して作法に従うときに私だけはずれている場合がある。それで結局は災厄をこうむるけれども、私はいつもその災厄を決定的なものに思わないで、あとへあとへとくりこしてきた。
そのことと、あの掌の感触と、関係があるかどうか。
あの掌はなにもしゃべらないし、何かの保証をよこす気配を示したこともない。けれども、いくら私でも、今日まで自分の力だけで生き抜いてきたというふうには思いにくい。毎夜のように来る屑屋に一度も捕まらなかった。あの夜だって焼け死ななかった。そうなって少しもおかしくないのに。
私はふだん努めてそうしたことを考えないようにしている。私が考えても物事が何ひとつわかるはずはないということもあるけれども、そうやって考えたりすること自体が、なにか相手の術中におちいるような気がしてならない。
台所口から入ってきて、土足のままゆっくりと茶の間を歩いていく老屑屋の姿を、写真に撮りおくように、努めて鮮烈に頭の中に溜めておく。そのディテールのまま保存したい。私は老屑屋を依然として怖しく思っている。嫌悪感もある。なつかしくもあるし、父親のような趣きも感じる。比較的体調のよいときは、それらの印象を混在させ、保留させたままでおこうとする。
焼け焦げた道筋に立ったあのときと同じように、一方で、例の掌が何なのか知りたい衝動に駆られながら、また一方で、何だってかまうものかと思う。
それで、未清算のままもたれこんでとりとめもなく終ることが、できるのかどうか。
「阿佐田さん(私のこと)に狐がついてね」
「狐――?」
といって漫画家の妻君は私の顔を見た。この妻君は平生の私の言動に慣れているから、特に奇妙な顔はしない。
「ええ、そう、狐――」と私は笑った。「今まで僕の前に出てくる幻は、みんな、わたしは誰、というようなことはいわないの。それにたいがいは背中の方から来るからね、姿を見とどけるだけでも大変なときがある。それがたしかにはっきりいったんです。自分は狐だって」
「そうね、狐ってお話は、はじめてのようですわね」
「いやなんだ。話すのが。狐って、俗な概念があるでしょ。でも彼女がほんとにそういったんだから――」
「雌狐、ですか」
「姉妹だとさ」と漫画家がいった。「マカオまで姉妹で追いかけてきたんだ。ところがそこへノックして我々が入っていったものだから、狐が消えちゃった」
「もう長年の馴染みだったんだけどね――」と私。「いつも、眼がさめて中断しても、その気で眼をつぶれば、また続きがはじまったんだ。それなのに――」
「阿佐田さんは、十ドル札を握ってましたね」
「そうか。もう大半おぼえてないんだけど。なんでも、チップを誰かにあげようと思ってね。最初ポケットを探ったんだけど小銭がなかったものだから、続きを見ようとしたときに手に握って――」
「でも、出てこないのね」
「ええ、あれ以来、現われない」
「美人なんですか」
「姉の方は、そう、般若《はんにや》に似た古典的な顔立ちですね。妹の方は、現代風な普通の顔。でもこっちの方が愛敬はあるんだ」
「それがお前――」と漫画家が妻君にいう。「カジノでね、親《ハウス》が自分のカードをひいているときに、子側の方が、親のドボンを祈っていっせいに合唱するんだ。コン、コン、って」
「そうだ、そういってたな。――クウラ、ってのは」
「それはカードをもう不要ってときにいう。相手を呪うのは、コン、コン、さ。僕はあれはどういう言葉だろうと思って、香港できいたんだが、中国人が首をひねるのね。そういうときは広東語で、ボウツ、か、ボンツ、かな。コンじゃないらしい」
私は笑った。「そうか、狐の合唱か」
「狐がつかなかったんだから、我々は勝てないですね。でも不思議だな、コン、と、ボン、はきちがうはずないのに」
漫画家は気を使ってくれていて、私を気楽にさせようとしている。居所が宙に浮いてしまった私の不恰好さを笑う気配は、夫妻ともにない。そうして私も、こういう事態を特に恥じたり怒ったりしているわけでもない。
ただ、私のために、漫画家は貴重な休み時間を空費しなければならない。それが心苦しい。私がダイヤルを廻す間、沈黙が流れる。応答がなければ、なりゆきで彼等も私につきあう気でいる。といって応答がないままに立ち去ろうとしても、立場上彼等が許すまい。
夜半の三時を廻ったとき、
「それじゃ、泊めて貰います。申しわけないが――」
と私はいった。すでに別室に漫画家のと二つ寐床が敷かれてある。
翌朝、家内が寐静まっているうちに、足音を忍ばせて外に出、タクシーに乗った。不意に、歯がズキズキ痛みだす。昨日はどうしたことか一日中ケロリとおさまっていたのに。私の歯は車に乗ると痛みはじめることがしばしばある。
再び自分の家の呼鈴を鳴らした。昨夜、玄関の廂《ひさし》の下においていった私の旅行バッグがそのままになっている。門扉は横にずらすことができるが、玄関の扉は微動もしない。郵便物や新聞が受け箱に充満しさらに廂の下にも積んである。もっとも私の所は一日二日放置するとこうなってしまうのだが。
二階で犬たちの騒ぐ気配がきこえる。
私は痛む歯を舌でそっと舐《な》めるようにしながら、少しの間、手をつかねて立っていた。妻君が居ないとなると、ここにただ突っ立っているのはもっとも阿呆な姿のように思える。妻君が居ようと居るまいと関係のない自分の恰好というものを造らなければならない。ホテルに行って生業《なりわい》の原稿でも書こう。実際その必要があって、今日は方々に私の方から所在を知らさねばならない。日本円はほとんど持って出なかったので、私の財布には米ドルの残り以外、小銭しかないが、ホテルは顔見知りなので前金をおかなくてもすむだろう。しかし、旅行バッグには基本的な仕事道具しか入っていない。数社の仕事を片づけるためには自分の部屋に入る必要がある。私の机の抽斗《ひきだし》には通帳や小切手、実印が入っていて、それを手に入れたい。
中ッ腹なのと、家に未練を持ってまごまごしていたくないという気持とで、私はまもなく大通りに出て車をとめた。そうして馴染みのホテルに向かった。そのときになって、庭に面した窓や勝手口から家の中にあがりこめなかったかと思う。私の現在の巣はこういう点は堅固にできていて、壊して闖入《ちんにゆう》しない限り簡単には入れまい。近所交際もしないし夫婦二人きりなので他の者が鍵を持っている可能性もない。
歯の痛みが増してくる。土曜日の筈なのに道路が渋滞していて、居場所の浮きあがっているくせに狭い箱の中に閉じこめられているような趣きになっている。こうなったらホテルに十日ほど居坐ってやろうか。
待てよ、犬が鳴いていたな――と思う。妻君は二匹のチワワを唯一の自分の持ち物と思っているようなところがあり、家をあけることは珍しくないが、犬に餌をやるために翌朝には必ず戻ってくる。もし二日以上にわたって外出するときは、まず犬をどこかに預けていくのである。
すると何かの事情でおくれたが、おっつけ戻るのかもしれない。
タクシーが私の生家のそばを通っているのに気がついて、急に気を変えて車をおりた。平生は、ごくまれにしか生家に顔を出していない。
私は生家の庭先から入って、旅行バッグを縁側におき、座敷にあがりこんだ。九十六歳になる父親がぽつんと一人でテレビを見ている。テレビはプロ野球の大試合をやっているようだが、私は興味ない。
父親は若い者が着るような薄いジャンパーを着こんでいる。ファスナーの下の部分をいじくりながら、
「ここが具合がわるいんだがね、おい――」
私は返事をする気分になれない。黙って立ちあがって電話をした。応答はない。それでしばらくテレビに眼をやっている。
母親は外出しているらしい。私は気をとり直して、父親のジャンパーの腕に手を伸ばしながら、
「いい物、着てるじゃないか――」
「これか――」と父親はまたファスナーを示した。「駄目だ。ここが具合わるいんだ」
弟が隣り棟からのそっと入ってくる。
「土曜日は、会社、休みなのか」
「うん――」と弟は重く応じた。「大磯の叔母さんが死んだよ。お袋は今行ってる。俺も夜になったら行くんだ」
すると、妻君も大磯に行ってるのだろうか。しかし、私は妻を縁者の間にあまり引き廻さないので、大磯の叔母と妻君は面識がない。
私は台所に行って氷水をつくり、口に含んで歯を冷やした。
私は、香港でもマカオでも、ずっと冷水を口に含んで歯の痛みを喰いとめていた。ホテルに居るときだけでなく、外出している際にもあたうかぎりミネラルに氷を割ってもらってそうしていた。
子供のときに虫歯がなかったせいもあるが、私は歯医者に一度も行ったことがない。そうしてまた歯を磨くということもこれまでに数えるほどしかない。妻君は、丈夫な歯ねえ、という。長い年月がかかったが現在は菌に喰い荒され放題になって、半数以上が根っこだけになり、骨髄炎になっていると思えるほどの深い穴があき、なお着々と進行している。ムラに痛んだり痛まなかったりするが、痛みはじめたら、売薬などでは効き目がない。
冷水を間断なく口に含んで口熱をさます。その間はわずかに痛みが遠のくが、仕事も手につかないし、眠ることもできない。夜通し痛めば夜通しそうしている。
そのために何日も眠れないことがある。平生は居眠りばかりしている私が、睡眠薬を呑み、灯を全部消して、眠ろうとするけれど、痛みに勝るものはない。横になると、水を含むたびに身体を動かさなくてはならないので、床に坐ってベッドの際《きわ》に上体をもたらせ、水を含み、手桶に吐きだし、数秒間、ぐぐっと眠る。たちまち痛みで眼がさめて水を含む。果てしなくそうしているが、そのうち何のきっかけもなくケロリと治まるときがある。
「何故、歯医者に行かないの――」
と知人たちは口を揃えていう。
「ええ。行かないことにこだわっちゃったものだから」
「俺は肝ッ玉が小さいが、怖がらずに行くよ。君はいつも無鉄砲だのに、奇妙だね」
「自分でもこだわりたくないなと思ってたんだけど、今はもう駄目ですね。この歯で死にます。そう定めてるんです」
相手は笑う。
マカオは二日間とも吹き降りで、私は冷水を口に含みながら、荒れる海を眺めていた。湾の中の離島にかかる長い橋を、水しぶきに濡れた車が渡っていく。それが歯の虫が動いているように見える。
空のアイスボックスを一つ余分にとりよせて、含んだ水をそれに吐く。椅子に枕をいくつも重ねてそれに頭を乗せている。国外に逸走してきて、浮かれ騒がないわけでもないが、根幹は変らず歯が痛いだけである。
長い橋を、さっきと同じ色で同じ型の車が、さっきと逆の方から一散に走ってくる。それからまもなく、たしかに同じ車がまた向こうに渡っていった。何をしているのだろうと思ったとき、例の姉妹が出てきたのだった。
しかし、私は彼女たちとのやりとりを大半忘れている。
「歯が痛くてお気の毒――」
「ああ――」
「お気の毒でお気の毒――」
「―――」
「こっちへおいで。休ませてあげる――」
「―――」
そういった主に妹娘のうたうようなセリフと、姉娘が、狐だ、といったことだけをおぼえている。彼女たちは私の夢の中のレギュラー的存在で、友人のように気易かったが、狐だとは思わなかった。狐などよりももうすこし意外なものだと思っていた。
昔、小学校の二年生頃だったが、私は小さい頃からよく学校をサボる子で、昼休みに校門の外にまぎれ出ると、ためらい、迷いながら、だんだん遠ざかっていってしまう。そのうちに表通りは見咎められるような気がして、横丁に入り、学校のざわめきをかすかに意識しながら、もう二度と戻らない。
ある日そうやって、現在郵便局と学校が建っている大きな原ッぱに来て、草叢《くさむら》の中にしゃがんでいた。表通りを市電が走っていくのが見える。その向こうはバスの車庫で、昼さがりのことでもあり、誰も人影が見えない。
ところが、夫婦者らしい中年のチンドン屋が、原ッぱの縁の電車道を、蛇行し、踊りはねていた。
※[#歌記号]――パピプペ パピプペ パピプペポ
うちの女房にゃ ヒゲがある
打楽器のセットを抱いた女が鐘を鳴らしながら、身体で拍子をとってそう唄い、男の吹くクラリネットが、空に向け或いは地を這うように、それに和した。そうして二人は当然のように、十歩ほど移動するとするりと向きをかえて、ひとつところを往ったり来たりしているのだった。先導はクラリネットで、クラリネットが停まらないから女も停まらない。そうして女も、男の歩様にひっついて疑う様子もない。二人は捻子《ねじ》がこわれたように動きをとめられなくなっているように見えた。そうして音はだんだん鋭く、急テンポになって私の耳に迫ってきた。
※[#歌記号]――パピプペ パピプペ パピプペポ
うちの女房にゃ ヒゲがある
それはリフレーンのところで、その唄は前に歌詞があるのであるが、私の耳の底にはその部分しか残っていない。そうして、車庫からうすい煙が昇っているだけで、通行人もなく、草叢の向こうに彼等の姿だけが往きつ戻りつしている。
父親は、私と弟が揃ったのを見て、しゃべりだした。
「一度、お前たちの意見をきき、かたがた俺の気持もきいてもらおうと思ったが、いい機会だからいっておく」
父親は老耄《ろうもう》して、息子の顔を見るたびに同じことをいう。
「自分は今、五百万ほど持っている(しかし金額はその場の思いつきでいつもちがう)。女房はいくら持っているか知らない。おそらく俺より多いだろう。なんとか葬いだけは出せるか、どうか。しかしどういう事情ができるかわからないから――。そこで訊きたい。お前たちはいくら持っているか」
弟が、そんな心配は不要なのだ、というようなことを、毎度のことで、面白くなさそうに答えている。
「しかし、自分は、なんだかだで、五百万ほどあるのだ」と父親はいった。「お前はどうだ――。お前は俺の世話ができるか」
気がつくと私は坐ったまま眠りこけていた。いつのまにか弟は居ない。歯の痛みはやわらいだが、父親は不機嫌に黙っている。
軽い会話をして父親を和《なご》めるべきだが、その気分になれないし、といって肉親にぜひしゃべりたい用向きがみつからない。私はもう一度電話をしてから縁側に行き、旅行バッグを抱いた。
「――また来るよ。元気で」
そういって、生家を出た。ホテルへ行こうか、巣へ行くか、迷った。
私は事故のことを考えていた。妻君がずうっと居て、しかも風呂場かなにかに倒れている場合だ。或いは外出先で事故に遇った場合もある。
私は古い友だちで、気のおけない男を訪ねた。彼の家は私の巣にやや近い。
その男は私の旅行バッグを見て、どうした、といった。
「妻君が居らん。それで家へ入れない」
「何故――」
「鍵を持ってない」
「ふうん。――それで行き場がなくなったのか」
「まァ、そうだ。妻君の件ばかりでなく、通帳類も家の中にある」
友人の妻君が電話して、ほんとだ、居ないわ、といった。
「旅から帰る日は知ってるのだろう」
「知ってるが、それより犬のことがあるから、普通は帰っているはずだ」
「――ちょっと、変だな。しかしお前のカミさんはもともと変だ。お前と十年も一緒に居るだけでも変だ」
「死んでる場合は、どうするんだ。まず医者かね。それとも警察か。はっきりと死んでる場合だが」
「変死だろうから、警察、かな」
「医者だろう。頭を叩き潰して、生き返らないようにしておいて」
「なんだ、死んでほしいのか」
「死ななくたっていいが、死んだか生きたかわからないというのは、気になって困る」
「死んだら死んだと返事しろ、か」
友人はひとしきり笑ってから、一緒に行ってやろうか、といった。
「いや、いい。俺はホテルに行くよ。歯も痛まなくなったから、ちょうどいいんだ」
「奥さんの実家とか、友人とかに電話したか」
「電話の控えが家の中にある」
「調べりゃわかるだろう」
「いや、いいんだ――」
私は友人の家で寿司を馳走になってからホテルに向かった。そうしてもう電話する気にもならず、書物机に向かって原稿用紙をひろげた。
窓外は夜。マカオの雨雲がこちらに来たらしく、雨が降りだしている。居心地がいいというわけではないが、どこに居ても大差はないというふうに思いたい。
私は物驚きをしないから、妻君が男と逐電しようとガス自殺をしようと、どうにかしのいでしまうだろう。もっと突拍子もないことをさまざま見てきたのだから。
けれども、その私が思わずバランスを崩してしまうことにぶつかったら、どうするだろう。
窓のすぐ近くに電燈が光っていて動かない。ここは十六階で、だから部屋の灯が窓に映っているのだとわかる。しかし、私の顔は映っていない。
電話のベルが鳴って、妻君の声がした。私の友人からこのホテルに私が居ることを知らされたのだという。妻君は緊張した声で、自分の行動を弁明しだしたが、私は何もきかずに、ごく平静な調子で、鍵を持っていないから、明日の朝は家に居てくれよ、といった。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
単行本  昭和五十六年六月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十年十月二十五日刊