色川武大
恐 婚
目 次
虚 婚
雑 婚
連 婚
風 婚
恐 婚
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虚 婚
一
ある夜ふけ、外出から戻ったすみ子が、なんとなく上機嫌な顔つきでこんなことをいいだすのです。
「誠《せい》ちゃん、あたし、易者に見てもらったのよ」
「そうかい――」
「また軽蔑《けいべつ》してる。いいでしょ、あたしだってたまには誠ちゃん以外の人の意見もききたくなるわよ」
「――易者に知り合いがあったかね」
「ううん、道ばたよ。女の易者」
「何を見てもらったんだ」
「あたしたちのこと。っていうより、あたしのこと」
「――それで?」
「あんたたちの結婚は続かないって。別れた方がいいんですって」
彼女はそういって笑いましたが、私はべつに面白いと思いません。だって、私たちは二年ほど前に正式に離婚していたからです。離婚をしておいて、お互いに夫婦なんぞという枷《かせ》をはずして気楽になったところで、再び同棲をはじめたのですが、このへんのところは当事者以外の人間には、いくらかわかりにくいかもしれません。
「――それだけか」
「ええ――」
「だったらどうということはないじゃないか。俺たちはもう別れてる」
「だからそういったのよ。もう別れちゃったって。じゃあいいじゃないですか、っていうけど、そんなもんじゃないわよね。だって別れたって一緒に居るんですもの。そうしたらその易者のおばさん、なんていったと思う」
彼女はそこでわざと言葉を切って、私の顔をのぞきこむようにしながら、
「一緒に居てもいけないって。星が合わないんだから、居れば居るほど駄目になるって」
「どっちが駄目になるんだ」
「もちろんあたしがよ。あたしのことを見てもらったんだもの」
彼女はその翌日も、易者の話をむしかえしました。
「ねえ、ちょっと話をきいてくれる」
「いいよ」
「易者って当るわよねえ」
「そうかね。だって、別れた方がいいっていっただけだろう」
「もっといろいろいったわよ。誠ちゃんにわるいからくわしくいわないだけ」
「俺の悪口か」
「うん。ご亭主は蜘蛛《くも》なんだって。それであたしは蜘蛛の巣にかかって手も足も出ないんだって。早く逃げないと血をみんな吸われてしまうのよ」
「君が客だから、君にお世辞をいったんだ」
「そうとばかりもいえないでしょ。だって易に出ちゃうんだもの」
「君のデータだけで占うから、そうなったのかもしれん」
「誰が見てもそう思えるのねえ。あたしたち、この先もいいことないわねえ。おばさんと話しこんじゃって、とうとう駅まで送ってきてくれたの」
「おばさんて誰」
「易者よ」
「ああそうか――」
「別れるとき背中を叩いてくれてね、勇気を出しなさいよ、まだやり直しは利くわよ、っていうの」
「しかし、そう思うなら事は簡単だぜ。俺たちは法律上は夫婦でもなんでもないんだから、君の一存でさっさと出ていけば、それでいいんだ。もともと、別れたあとで転がりこんできたのは君なんだから」
「あら、それなら居ろっていったのは誠ちゃんじゃないの」
「それで俺が蜘蛛の巣かね」
「誠ちゃんだって、本当は、あたしと別れたいんでしょう」
「うん――」
「本当は縁を切りたいんだけど、そう簡単にもいかないんでしょう」
「まあ、そんなところだね」
「あたし、別れないわよ」
と、彼女は突然、癇《かん》を立てていいました。
「もう死ぬまで居るわよ。どんなことがあったって、駄目よ」
「そりゃ、どういうことだね」
「誠ちゃんのお世話になるのよ。そうします。だって他に行くところもないんだもの」
「他に行くところがないから、ここに居るってのは、君でなければちょっといえないセリフだな」
「じゃ、どうしろっていうの」
「易者のおばさんの意見はどうなったんだ」
「おばさんは心配するでしょうよ。だけど人生ってそういうものなのよ。結局、あたしは不幸なのね。不幸だってしようがないけど。こんなふうな道しかないんだから」
二
私たちが形式の上でも完全な夫婦だったおよそ六年間の頃のことは、もう思い出したくもありません。ごく簡単にいって、当初のきっかけは、野合《やごう》同棲であります。厳粛なものなど何もなくて、お互いに、続くところまで続けて、駄目なら別れればいい、と思っていたのです。
もちろん、とにかく一緒に暮しだしたということは、私たち双方にとって、かなり特殊なことでありまして、ただ厳粛でなかったというだけで、それなりに惚《ほ》れ合っていたということもいえましょう(もっとも彼女に関してはやや疑わしい点もありますが。といって私が一方的に手を出したという覚えもありません)。そうして、たとえば野合同棲にしろ、このまま長く続けば、それが一番面倒くさくないと思っておりました(この点に関しては彼女もたしかにそうでした。というのは彼女は何にもまして面倒くさいことを好みませんでしたから)。
余談になりますが、私も、というか、私は何かに則《のつと》って生きるということをしない男で、諸事にわたり、厳粛というような気分に縁がありません。週刊誌ライターという職業も、楽でいいかげんそうに見えたから(実際やってみるとそうでもない面もありましたが)選んだまでですし、将来一軒持って、表札出して、肩書つけて、なんてそういうこと考えない。どんな肩書見たって感動するようなものはないし、争いごとなんかでも、ツッぱってどちらかへ旗色を定めるなんてことは嫌で、昨日はこちら今日はあっちと、そういうのが好きなんです。それですむなら両方についちゃって、ああ俺は、どっちつかずの男だな、って慨嘆してみせたりする、そういうのがやりたくてしようがない。結婚≠ノ関してだけいいかげんなのじゃなくて、すべてがいいかげんだから、だから、この野合同棲はズバ抜けていいかげんでもなかったんですね。
すみ子の方も、最初、
「あたし、お妾《めかけ》がいいわ――」
っていって来たんです。私は一応独身でしたから、一緒に暮しだすと、どうしても本妻的になる。それが面白くない。べつに、他に本妻を持ってんじゃないんだけれど、本妻的となると、どうしてもいいかげんではすまないようなことになりますからね。私の方は諸事いいかげんなくせに、日常では本妻的なことを要求しますから。
そんな私たちでも、両方の親などがからんできて、やがて籍をいれたりするようになる。そうなるともういけません。どんなにいいかげんな生活でも、毎日生きていくとなると、ただのいいかげんではすまない。持続させなくてはならないし、いろいろなことが積み重なってきて、ルールのように縛《しば》りつけてきますから。
朝、飯が喰いたい。
彼女は朝なんか起きません。午後の三時頃まで寐《ね》ていて、それから風呂に入って、夕方近く買物に行って、家に居るにしても、彼女のペースでひと息入れたりしながら、夜の十時頃、私が喰う物を造る。そうやってずるずるとすることがずれていって、掃除や洗濯は夜中の三時か四時頃にやります。
朝、飯が喰いたければ、私が自分で造らなければならない。しかし私は昼夜をわかたず仕事をしたり客の応接をしたりで、放縦《ほうじゆう》ではあるが、台所仕事まで手が廻らないのです。そうしてまた、普通の男より台所仕事などを苦にしないところがあって、その気になれば自分の喰う物ぐらい造ってしまう。もうひとり人間が家の中に居て、朝飯ぐらい造ってもよさそうなものだと思いながら。
それが私の一貫しないところで、亭主とか、女房とか、おさまってしまうような生き方を嫌っており、亭主の特権など振りかざしたくないのに、現実には、朝飯ひとつでも自分でルールを造ってしまいたくなる。すくなくとも俺はそんな顔つきをするべきじゃないと思う。だから口に出さない。それが澱《おり》のように溜っていく。
朝飯など小さな例のひとつにすぎませんが、一事が万事なのです。
まずいことに私の日常がまったく規範を成していないので、今日、徹夜仕事をやって朝方空腹だったとしても、明日は夜明け頃ベッドに入って、朝はぐうぐう眠っているかもしれません。妻がたとえ私の生活に合わそうとしても、なかなかむずかしかったでしょう。
最初から誰も居なかったら、私一人だったら、事は簡単なのです。たとえ不便でも、人を恨むことはありません。すべて自分の中で葛藤《かつとう》させて、愉快だ、不愉快だ、或いは、便利だ、不便だ、といってりゃァいいのです。
ところが、そんな我々が、人恋しくなったり、誰かに執着したりするから、こんがらかってくるのです。
私以上に、すみ子の方は世間知らずで、二人の暮しというものと、自分の望みのギャップに驚愕《きようがく》し、怯《おび》え、居直ったり打ちしおれたりしながらくたくたに疲れていったようでした。彼女は、ことごとに干渉してくる実家の親たちと折り合いがわるく、必死で外に自分のねぐらを造ろうとし、それでも誰とでもいいというわけではなく、私を見つけてとにかく移動してきたのです。それで自分の居場所ができたけれども、都合《つごう》のわるいことにそこには私が居るものだから、一から十まで自分勝手にはいかない。私が居なければねぐらは成立しないし、ねぐらにするには私が邪魔なのです。幼稚な悩みのようだけれども、世の中というものはこういう種類の二律背反で成り立っているので、私も彼女を笑うわけにいきません。
彼女は世間知らずではありますが、女特有の直覚は私などよりずっと発達しているところがありました。私は、自分がいいかげんに生きていると思いながらも、世間や彼女とのかかわりの中で、そうばかりでもない表情をしたり、いいかげんでない取引きを強《し》いたり強いられたりすることもあるのですが、彼女はあくまで恣意《しい》的で、何に対しても自分を変えようとしません。純真で、正直で、我儘《わがまま》であります。お妾になりたい、というセリフなども彼女流の直覚的発言で、実際に妾というものをわかっていっているのではなく、他の人なら別のいいかたをする種類のものでありましょう。
あるとき私はこういいました。
「つまり、君が欲しいのは、亭主じゃなくて、女房なんだろう」
「そうなのかしら」
「君は君のペースで生きたい。だが一人じゃ生きられない。君が生きるための助手が居る。男はよくそういうことを考える。君が考えたとしても不思議じゃないね」
「ちがうわよ。それじゃ駄目よ」
「そうかね」
「だって、それじゃ誰がお金を取ってくるのよ」
「ああ、そうか。そうすると、亭主と、助手と、二人居るわけだな」
「なんの助手?」
「君がやりたくないことをしてくれる助手」
「その助手とも、一緒に暮すの」
「俺の話じゃない、君のことだ。どうでも好きなように考えろよ」
「あたしは誠ちゃん一人でもうたくさん。一緒に暮せる人なんか、まず居ないと思うし、この家にまだ他の人が居るなんて、ゲッーと吐いちゃうわよ」
「それじゃこのままかね」
「そうね」
「それでいいか」
「――よくない」
「よくないだろう」
「いいことなんかひとつもない」
「そうすると、どうなるね」
「あたしは助手なんていらないわよ。自分一人なら食事もつくらないし、ラーメン喰べにいくだけでいいもの。助手が必要なのは誠ちゃんでしょ」
「そうか、俺かな」
彼女はそこで不安げに黙ります。私ももうものをいいません。その先は彼女の一番苦手な問題にからんでくるからで、そのあたりをつついたところで不毛なのはわかりきっているからです。
というのは、彼女と私は他の点は五分五分でも、ただ一点ちがうところがあるからです。私はとにかく稼《かせ》ぎがあるが、彼女には稼ぎがない。自立できない以上、他人と妥協提携して暮さざるをえませんが、それをしないどころか、妥協せず、自立もせずに、欲しいものを手に入れていくというのが彼女の生甲斐《いきがい》なので、妥協した結果多少の安定を手に入れてもそんなものなんの値打ちもないのです。そのくらいなら現状のまま行きづまってどうにもならなくなる方が、まだしも自分らしいと思っている様子でした。
ですから、妻の本分を(それがどういうものか私にもよくわかりませんが)つくして、とにかく夫と二人三脚で助け合って、その末に妻としての立場を拡大していこうという動きもありません。大体、妻になるという意識は最初からうすいのです。
世の中の多くの人はもう少し幼稚でない悩みと向かい合っているのでしょう。たしかに虫がいい悩みです。けれども、望みというものはなんにせよ虫がいいものだし、私にいわせれば、幼稚だろうと高級だろうと五十歩百歩で、埒《らち》を放れれば生きていけないし、埒の中では生きた心地がないという類のものです。いや、五十歩百歩に見えるくらい、人の気持や身体の条件というものは動かし難いものがあります。いったん育ってしまった人間を変えることは、よほどのことがない限り不可能です。そのよほどのことというやつを、私たちは自分で仕組めるでしょうか。また、私たち以外の他のものに、私たちを動かすようなよほどのことというものがあるでしょうか。
もっとも彼女も、やむをえず、最低の辛抱はしておりました。それは認めます。妻としての辛抱とはいえませんが。
「――お金を、ちょうだい」
時折り、小声でそういってくるときの表情、それは一種の迫力があります。その瞬間、彼女は平生のすべての主張を挫折させ、プライドを消して、瀕死《ひんし》の獣《けもの》のような顔で来るのです。
もちろんそう大きな額ではありません。予算で仕切るという観念がないので、生活費プラス小遣いとして渡してある額はすぐになくなってしまい、しかし彼女自身にそのとき必要な最低限を口にするのです。
「――すみませんが」
どうかすると二日も三日も続けて、私の部屋に来るときがあります。
「――お金を、ちょうだい」
たとえどんなに頻繁《ひんぱん》に口にしても、彼女はそのセリフに慣れるということがありません。そうしてまた、だから、そのセリフをいわないように努力するということもありません。それはいっそ魅力的で、彼女の申し出を拒絶することなどできっこないのです。
こう記していくときりがありません。それに私たちの結婚生活の具体的内容など二度と思い出したくもありません。しかし彼女のことを記しだした以上、もうひとつだけ、彼女のために記しておかねばならないことがあります。
一見したところわかりませんが、彼女はとても眼が悪いのです。片眼はほとんど視力がありません。いい方の眼も○・○いくつとかで、ちゃんと度数の合うレンズがないのです。こういう視力では疲れが烈《はげ》しく、忍耐力、持久力が育たないのも無理はありません。
そのうえ、このために幼いときから家庭でも学校でも常に庇護され、特殊あつかいされ、親たちとも社会とも五分五分になる経験が乏しい。彼女の偏頗《へんぱ》はおおむねそこに因があり、原質のところでは私などよりも健康なものがあることがほの見えるのです。
ただ彼女は、眼を使って正確に認識を計ることを軸にするのでない世界、つまり、感触、官能の世界を軸にして育ってきた、そうせざるをえなかったところがあるのです。その点に関して見事なほど正直で、ほとんど矛盾は認められません。もし彼女を理解しようとするなら、この点に沿うしかありません。
他人を理解するのはむずかしいことですが、私は比較的、彼女を理解していたかもしれません。だから、じたばたしながら六年も続いたのでしょう。
私たちは六年で別れました。外見はどうあれ、内実は惨憺《さんたん》たるもので、彼女もそうでしょうが、私も大小の傷が無数についていました。首尾よく別れられたときは、真《ま》ッ蒼《さお》な大空の中にぽっかり我が身が浮かんだような気分でした。私も彼女も、たとえどんな相手であれ、もう二度と人と一緒に暮す気持はなかった。それがです、私たちはまもなく、また一緒に暮しはじめたのです。
離婚を取り消したわけではありません。死んでもそんな馬鹿なことはやりません。
たとえ理由がどうあれ、彼女にとって離婚話はもともと私の恣意に見えたはずです。彼女はただプライドから、OKしたにすぎません。何故といって、私が生活保障したある期間の傀儡《かいらい》的自立が手に入っただけで、その先の完全自立の当てがありませんでしたから。いざとなれば実家が保証するでしょうが、それには無数のいやな手続きを我慢しなければなりません。
で、彼女は依然として(結婚離婚とは無関係に)私を必要とする部分があるのです。けれども私が何故、また彼女を受け入れたのか。
どういうわけか、別れて夫婦という枷《かせ》がとれてみると、離れがたい気持があとに残ったのです。
私は当初、理解に苦しみました。
長年起居をともにしたので、肉親に対するような執着が消えないのか。
馴染《なじ》んだ身体のせいか。
それとも、私たちのような者でも、愛、が生まれていたのか。
なんだかわからないが、関係を取っ払ったら、何かが残ったのです。何であれ、私にはそれがとても貴重なものに思えました。
「不思議だなァ。こんな方法があるとは思わなかったな。俺はきっとひとりでに、君に対して妻たるべきを要求していたんだね。それをしなくなって、なんでもないただの女だと思ったら、急に、自然になった」
「だからいったでしょ、最初からあたしは、こういう関係がいいと思ったのよ」
「結局、結婚なんて崇高な真似は俺たちにはできない。これがいいね」
「そうよ、身のほどに合わさなきゃ」
彼女はそういって、笑顔を私にくれました。私たちの関係は彼女の感触の世界にふさわしいものとなりましたが、そのかわり、何の保証もなくなったのです。たとえあやふやな保証でも保証なしには生きられないはずだのに、私はそれ以上にあやふやな境遇に満ち足りて居りました。
三
私たちはそれからまた二年ほど、一緒に暮しました。
離婚したとき、すみ子は所帯道具一式持って、お城みたいな建物で有名なマンションの賃貸し部屋に移り住み、私の方は仕事机と本だけでガランとした家でどうしようかなと思ってるうちに、友人の妻君が家具つきマンションをみつけてくれて、そこに移転。
その部屋に慣れるか慣れないうちに、実質的には元女房とヨリがもどっちゃったんですから。もちろん、ヨリがもどったのじゃなくて、今度はあくまで、夫婦でもなんでもないとりとめのない関係ですけれど。
私たちはもともと仲人も居るわけじゃなし、双方の親たちに事後報告したほかは、こちらから誰に告げたわけでもありません。
友人によっては、別れちゃったんだよ、と告げて、その話で一杯呑んだり、あんまり説明してるひまもないときは、夫婦のままの顔をしていたり。
次に会ったとき、
「本当は、どうなのさ――」
と念を押されて、
「本当は、いったん別れて、とりあえずまた一緒に居るんだ」
というときもあるし、
「本当は、届けを出さなかったんだよ」
いいかげんなもので、どっちだってかまわないのです。それに、籍などというものは入って居ようと居まいと、現在の日常になんの影響もありません。
けれどもすみ子の方は、それほど暢気《のんき》ではなかったようです。私が、仕事場にした家具つきマンションで友人の妻君と非常に親しくなってしまい、妻君が秘書役を買って出てくれて一日の大半べったりとくっついていたりするようになったので、女らしい闘争心に燃えたようでした。そのうえ彼女は、わずかな期間の傀儡的自立とはいえ、自立の重さに打ちひしがれておりました。あれほど自分以外の人間を邪魔にしたのに、一人になると(彼女はすぐにそうなるのですが)食物も喉《のど》に通らなくなったのです。
もしかすると、離れがたいつながりを意識したのはお互いの錯覚で、彼女の弱い哀れな姿が私の自尊心を満足させたのかもしれません。そうして、その弱い生き物が飾りたてたマンションで自由な生活を送っている不釣合な恰好《かつこう》が、存外に魅力的に見えたのかもしれません。
ともかく、私は仕事場の人妻におおいに魅《み》せられながら、その余の時間は元女房の部屋で、これまた自分の居場所のような顔で落ちついておりました。計画的にしたわけではないけれど、私は両手に花でしたし、そうであってもすみ子に対してはやましい気持を持ちませんでした。そうしてまた、単なる女友達になった彼女に過重な期待も要求もしませんでしたから、裏切られるということもありませんでした。いうならば、三十八度線が南に移行して、私は侵略者でしたが、今度はその移行した地点で波風をおこさないことが、即ち平和ということになったのです。
もちろん彼女はじたばたしました。彼女としては珍しく行動的で、私たち二人が住む新しい住居を探し出して再び移転し、仕事場の人妻を切り離そうといろいろ画策し、私をなじり、罵《ののし》り、哀訴し、少しも効果がないと知って、不充足にさいなまれ、以前よりも寒々しい表情になったようでした。
「でも、、すくなくとも、不安で飯が喉をとおらないということはないようじゃないか」
と私は残酷にいいました。
彼女は黙っていました。返事のしようもなかったでしょう。けれども、それゆえ彼女は緊張し、私に対して燃えた気持になっていたともいえるのです。
私たちのセックスは、その期間、比較的しっくりいっておりました。
そうして、彼女はそう思っていないし、私もそんなことを一言も洩らしたことはないが、仕事場の人妻とは手も握っては居ませんでした。
なぜ、躊躇《ちゆうちよ》していたのか、その理由が、自分であれこれいいたてることはできますが、内実のところは私にもはっきりしません。
私だって初心《うぶ》な若者じゃなし、これでも学生時代は人並みに不良めいた真似もしていたのです。相手の人妻の事情もありましたが、しかしその女性だけでなく、他の誰とも、トルコ風呂にすら、その時期行っておりませんでした。私は自分の中の小さなしこりにこだわっておりましたが、そういう気宇を持つこと自体はずかしいような気がして口外もせず、よくたしかめてみることもしませんでした。
そのうちに、友人の父親が老衰でもう長くないとかで、そばに居てやるために友人夫婦は帰郷し、私はあいかわらず仕事場に出ておりましたが、すみ子にとって暗雲が晴れたような状態になりました。
つまり、離婚前とほとんど変らない状態になったわけです。ところがそうなってしばらくしてみると、ここしばらく、二人がお互いに感じていたスリルが、まるで消え失せていることに気がつきました。
ある夜、私のものが立たなくて、そのときは何かちょっとしたコンディションのせいだぐらいに思っていたのですが、どうも、それが恒例のようになってきました。
私はまだ四十です。もともと、セックスなんかどちらかといえば面倒くさい方ではありますが、この年で、不能というのもどうも面白くありません。
気にして、折りあるごとに――隆々としている気配なので挑んでみると、彼女の身体に手を伸ばしている間に萎《な》えてしまったとか、半立ちみたいな状態で味気なくやったとか、彼女を抱き寄せたとたんにみるみるしぼんでしまって、力なく笑ったり。
そういうとき、彼女はとても鷹揚《おうよう》です。すみ子は彼女自身がほんの少しでも優位にあると、なかなか優しい、幼い女になってしまうのです。
「お疲れなんでしょ。誠ちゃんは一人で働いてるんだから」
うなだれている私に、彼女はさかんにいいました。
「そうでなけりゃ、身体がどこかわるいのかもしれないわね。医者に見て貰《もら》ったら」
「世間のたいがいの男は、身体もどこかよくないし疲れてもいるよ。だが皆、やってる」
「じゃ、どうしてなの」
「わからん」
「あたしが悪い女房だから、よけいくたくたなんでしょ。ごめんね」
「謝罪されたってしようがない。それに、これは、君のせいじゃないよ」
「とにかく寐なさいな。ゆっくり休むといいわ。あたしはべつに淋しくなんかないんだから。ネチョネチョなんて、やらなくたって平気よ」
それで私の仕事机の方まで追っかけてきて、
「ねえ、死ぬの――?」
「死ぬの、ってのはどういう意味だ」
「死んじゃ駄目よ。あたしが困るんだから」
「君が困るんなら、いっそ死にたいね」
「だってそういうより仕方ないじゃないの。誠ちゃんが死ぬようなら、あたしも死ぬわよ。とにかく、あたしが死ぬまで、居てくれなくちゃ駄目」
「おい、そんな頃まで一緒に居る気か」
「そうよ」
「どうして」
「困るじゃないの。困ってしまうわよ。でも大丈夫よ。あたしそんなに長生きしないもの」
私は、ごく初期の頃以外に足を踏みいれたことのないトルコ風呂に行きました。すると、どういうわけか、隆々として立ったままで、なんの支障もなかったのです。
その晩、私はすみ子にいいました。
「おい、俺たちはどうも、ますます別れるきっかけがつかみにくくなっちゃったな」
「あら、別れたじゃないの」
「別れたさ。だがこうして一緒に居るじゃないか。別れたからもういつでも自由だぐらいに思ってたら、別れても一緒に居るというやつは案外、しつこい関係だな。別れた以上、また別れるというのがむずかしい」
「また別れたいの」
「そうかどうかは別としてだ。大体、俺たちは、サヨナラっていえばそれですむはずなんだろ」
「あたしは別れないわよ」
「そういったって無理だ。俺たちは夫婦じゃない」
「夫婦なら一緒に居るもんですか。夫婦じゃないから居るんじゃないの」
「じゃ、このままでいいのか」
「よくなんかあるもんですか。あたしの人生はもう終っちゃったわ」
「いつ頃、終ったね」
「二十歳ぐらいかしら。二十二ぐらいかな。だからいつ死んでも平気」
「すると、俺は抜け殻を背負って歩いているわけだ」
「そうよ。そうとでも思わなきゃ腹が立ってしようがないわ。なんであたしが、掛け替えのない一生を、この世の中にあたししか居ないあたしってものを、誠ちゃんにおぶさらなくちゃならないの」
「べつに、そうしなくたっていいんだぜ」
「だからこの前もいったでしょ。困っちゃうんだもの。困っちゃっちゃしようがないでしょう」
考えてみるまでもなく、私も、彼女も、ちっとも変らないのだから、その以前の六年間と同じことになるのは当然なのでした。
私はとにかく仕事があって、いくら働いてもスイスイと赤字が増えていくばかりで、ますますいいかげんな仕事をとらざるをえず、ぼやいてばかりもいられませんでしたが、彼女は一日ヒマで、私が仕事場に行って居ないときが多いものだから、なおのこと、遊び歩きます。夜中に私が帰っても、たいがいは不在。誰も居ない家というものは空虚なもので、それ以前も同じとはいえ、今は、私が彼女のところに戻らなくてはならない枷なんかなんにもないのですから、ひとしお腹が立つのです。
それで昼前に、私が仕事場に出ていくときは、いつのまにか彼女が居て、ぐうぐう寐ている。俺もよっぽど阿呆《あほう》だな、と思う反面、どうして仕事場のベッドで寐ないで、わざわざ往復しているのか、そこのところに簡単に片づけられないものがありそうにも思えたり。
そういう弛緩《しかん》状態が続いたある日、人生とはよくしたもので、天から降ったように、向うからスリルがやってきました。私が病気で倒れたのです。きりがなく澱《おり》を溜めながら続いていくかに見えた日常が、そこでまたいくらか立ち直ってきたかに思えました。
四
どうもばかばかしい言い廻しになりますが、私たちがそのとき新展開に思えたスリルは、私の生命がかかっていて、危うく、私たちの関係どころか、元も子もなくす可能性に満ちていたのでした。
私は長いこと極めつけの不摂生で、芯《しん》が丈夫なのを頼りに、医者と無関係にずっとすごしてきまして、すこしぐらい身体が変調でも、水風呂に飛びこむか、塩湯でシップをするか、それでも駄目ならば大酒を呑《の》んで寐てしまうぐらい。
原稿商売というものは自由に見えても拘束度の烈しい稼業で、無名でもその点は変りません。特に私のように家計失調のために、非力をかまわず三流誌ばかり無茶に抱えこんで、ぎりぎりの刻限に危うく原稿をいれているライターは、代打も効かず、その場その場に追われて入院などしてはおれないのです。
毎週の激痛発作が三日おきになり、一日おきになり、意地にも我慢にも仕事を減らさざるを得ず、飛行機が逐次《ちくじ》高度をさげるように自転車操業の廻転を止めて病院に着陸した頃は、腹から背中にかけて天地十センチほど帯状に腫《は》れあがって身体を横にすることもできず、激痛で三日三晩は部屋の中をぐるぐる歩き続けていたような状態でした。
ともかく胆石という診断でしたが、病院に来たとき、私は脱水状態にあり、脈不整、血圧二百数十、白血球は健康人の四、五倍の四万ぐらいに増えているという状態で、とりあえず痛み止めを打つしか手がつけられず、しばらく病院で体調を整え、手術に耐えられる体力をつくるのだということでした。
「胆嚢《たんのう》が腐って、ぶわっと大きくなってまわりの臓器にくっついちゃってるよ。腹膜も汚れてます。胆汁が洩れてるからね」
「そうですか」
「そうですかって、貴方、胆嚢が決潰《けつかい》したら一巻の終り。ここまで歩いてくる間に決潰しなかったのが奇蹟だったね。どうしてこんなになるまで放っておいたの」
「しかし、どのくらい悪いか自分じゃ判断できませんよ」
「だって苦痛があったでしょう」
「苦痛は我慢します」
「何故、我慢なんか――」
「我慢は得意なんです。長年、もっと大変な我慢をしてますから」
といって私は笑いました。するとすみ子もそばで競《きそ》うように、
「先生、うちは我慢の展覧会みたいですよ。なにはなくても、我慢はあるの。あたしもすごいのよ。あたしもついでに身体を診ていただこうかしら」
その場から私は個室に入って、たくさんの若くて美しい看護婦の訪問を受け、手当てだの検査だのを目まぐるしくされているうちに、私の両腕には点滴注射の針がささり、絶対安静とかで小便も溲瓶《しびん》にする始末。この期《ご》におよんでもいくらかの売文をする気で高価な個室にしたのですが、だって、高利貸しにせめて利息だけでも払わなければなりません。
「借金が、また増えるな」
「同じことでしょう。どうせ無くならないんだから」
「しかし、複利だから、増え方がすごいんだ」
「しようがないわよ。病気だもの。あたしがどこか他のところから借りてくるわ」
「君が借りられるのか」
「借りるのは簡単よ。返すのは誠ちゃんだけど」
「よく今まで、借りずに来たな。それとも俺の知らない借金があるかね」
「無いわよ。そんなことしない。誠ちゃんを困らそうだなんて、あたし思ってないもの。あたし別に贅沢《ぜいたく》じゃないでしょ。誠ちゃんの無駄使いにくらべれば、あたしの無駄使いなんか十分の一ぐらいだもの」
「まァ、しかし、君は病院につきあうことはない。どこかへ行っちゃっていいぜ」
「どうしてなの」
「そんな義理はないだろう」
「居るわよ。あたし、かまわないわよ。看病してあげる。ほんとはね、こういう誠ちゃんが好きなのよ」
彼女は上機嫌でした。そうして私も彼女のそういう気持は手にとるようにわかりました。自分を律してくるもの、自分より大きいものは、何によらず彼女は好みません。しかしその反対に、彼女を脅《おびや》かさず、彼女より弱くて小さいものには、とてもうちとけて、優しい女になるのです。
「俺が身動きできないからだろう」
「あたしを叱らないからね。犬も可愛いけど、誠ちゃんも可愛い。変っちゃうものねえ。憎らしいときがあるんだけどねえ。うふふふ」
と彼女は笑いだして、毛布の中に手を入れ、私の股間《こかん》を探るのです。そうやって際限なく遊びだすので、
「おい、よせ、針がはずれるよ」
「何かしたいことない。何でもしてあげる」
「俺は死ぬかもしれないぜ」
「死んじゃ困るわ。でも元気になっちゃ駄目よ。ずっとこのままでいてちょうだい」
入院してから激痛発作が来ない。鎮静剤や何かを打ち続けているからだそうで、注射はそれこそ山と打ちましたが、そうなると落ちついて寐ても居られないもので、点滴の針から解放される夜中の短い時間に、すみ子の眼を盗んで、地下の通用口から脱走して街に出たり。
「ええと、附添をつけてください」
「ええ、お願いします」
「奥さんも大変でしょうからね」
すみ子は彼女としてはとても努めてくれており、やつれが外に見えたほどでした。昼間も毎日顔を見せるし、泊ってそばについていてくれる夜も多く、看護婦たちも明るくて可愛い奥さんだといいます。実際、彼女の体力、気持の範囲内ではそのとおりなのですが、その限度を一歩でも越すことはできません。その容積は普通の人よりはるかに小さい。私にはそれがよくわかっています。
能力というものはいずれにせよ個人差、個性があるもので、現今は、能力の量だけをもって評価する風《ふう》がありますが、自分の能力をどれほど発揮しているか、それを基準にして人を測るのが理想的といえましょう。80の能力者が40しか努めなければ諦《あきら》められるべきだし、40の能力者が40努めていれば讃《たた》えられるべきです。彼女なりの健闘を見せていれば、ムラが生じようと、蔭《かげ》日向《ひなた》があろうと、許しています。
けれども、だからといって看護人の彼女を完全に信頼するわけにはいきません。ひとつ機嫌を損じれば、私が死にかけていようと、他に気持が動いた方角に出かけてしまうかもしれませんから。
看護もすると同時に、彼女の外での気散じもやみません。夜中の三時、四時頃、私の脱走径路と逆に、地下の通用門を通って酔った彼女が入ってきたりします。ある夜、そうやって彼女が現われたとき、私と須田カル子が笑い合っているところでした。
須田カル子は附添婦として派遣されてきた女です。地味な毛糸のセーターとズボン姿で、言葉にも北の訛《なま》りがあり、そのせいか土臭い感じで最初老けて見えましたが、私とおっつかっつ、いや、もういくらか若くてまだ四十に間があったかもしれません。
さすがにプロで、はじめて病室に現われた瞬間から、くるくるとよく働き、何をやらしても手早いし、動きに無駄がなく、力持ちで、そのうえ、ただ努めるだけでなくて、心がこもっているのを感じるのです。
だいいち、何かの合い間に廊下の椅子でトロトロと二時間ほど眠る以外に、休まないのです。病院の附添婦というものは重労働で、忍耐強い未亡人の犠牲的職種のように見えますが、彼女はそうした激務を、軽々と、楽しそうにやっているように見えました。
休み休みやるようにいくらいってもきかないのです。あたしは寐れない性《たち》だから、と笑っています。
「寐れない性ってのがあるのかね」
「二時間も寐ると、身体が痒《かゆ》くなってね」
「見習いたいね」
「家に帰ったって寐ないよ。三時に寐て五時半頃には起きちゃうもの」
「起きて、何をしてるの」
「たくさん、やることあるわよ。まだ時間が足りない」
「そういえば、そうだな」
「東京の人は怠けてるから、あれじゃ病気にもなるわよ」
すみ子とはまったく対照的でしたが、彼女たちはすぐに親しくなったようで、両方ともまるで隔意なく、カルちゃん、スー子ちゃん、などと呼び合っていました。
カル子は、はじめ私たちを親娘と思っていたようです。私たちは八つちがいでしたが、すみ子は不思議に年齢を喰わない顔立ちで、私の方は老けて見られます。
女房ときいて、
「嘘《うそ》――!」
「嘘ついたってしようがない。もっとも正確にいえば、元女房かな」
「それじゃ、親娘で結婚したんですか」
「何故――」
「お父さんっていってるじゃないの。パパ、っていったり」
「人が居るとそうだが、二人のときは呼び方がちがうよ。そう見せたいんだ」
「――処女よ、っていってるけど」
「自分から処女だって吹聴《ふいちよう》する若い娘なんかいるもんか」
「信じられないねえ」
「俺の家に来る客にも、処女だっていってるらしい」
「病院じゃ皆、お嬢さんだと思ってるものね」
「まァ、それでもいいんだがね」
最初の十日間の入院費の支払いのために、枕の下に入れておいた二十万円が無くなっていて、あわてて友人を呼びだして借りてその日の支払いをすませたことがあり、検査などで病室を空にすることも多いし、出入りも自由だし、誰と定《き》めるわけにはいかないが、私は内心すみ子の仕業だと思っていました。
あいつめ、相変らず外で無駄使いしているな。俺が居ないものだから、いっそう羽を伸ばしていやがるな。そう思うと、さすがに心おだやかではありません。
けれども、この金は私ので、彼女の金ではない、というのもどこか妙な気がするし、とすると、盗みになるのかどうか。盗みとしても、家庭内のごく個人的なケースでありましょう。
すみ子もカル子も、私と一緒に探してくれたり、特にカル子は病院内の看護婦や附添婦たち一人一人についての風評をあれこれ探ってくれたり、推理小説もどきに、当日、現場に出入りしうる人間をしぼっていったり、それで私たちはけっこう楽しみました。
「もっともね――」と私はいいました。「手癖のわるい点では俺も人後におちないからね。故郷《くに》に居た子供の頃は、両親の財布にいくら金があるか、いつも知っていたからね」
「あたしもよ――」とカル子も笑って「皆、そうなのね」
「東京で大学に行ってた頃だって、叔父の家でよくかっぱらったもんだ。どうしてかな、近頃はそういうことを忘れちゃったな」
「近頃はこの人――」とすみ子。「盗《と》る前に高利貸しから借りちゃうのよ」
「ああ、そうか、年齢《とし》をとったからな。そのかわり、自分のを盗られたってわりに平気だよ。自分で盗るくせに、人に盗られて怒っちゃまずい」
「わかったわ――」とカル子が笑っていいました。
「これも旦那さんが犯人じゃないの」
「それはあるわ。カルちゃん、頭いいわねえ。枕の下にお金があるなんて、おとうさん以外誰も知らないもの」
「俺が何のために、枕の下から金をとるんだ」
「そういう手のこんだことをやるのよ。よくやるじゃない」
しかし、すみ子の仕業としても納得がいかないこともあるのです。彼女は私のポケットから一枚二枚の札をよく持っていったりはしますが、まとまった金に手をつけるようなことはこれまで一度もありません。彼女なりに堪《た》え難《がた》きを堪えて、お金、ちょうだい、などといってくるのですから。もし私なら、そんなしぼり出すような声を出さずに、その前に盗みまくっていたことでしょう。
そのうえ、彼女は今、通帳類をいっさい占有して、金の出入りを一手に握っているのです。もちろん金を引き出せば記帳されて、あとで私の眼に触れるわけですが、それでも盗むよりは簡単なはずでした。
五
私の手術の朝は、出征兵士になったようなものものしい雰囲気で、看護婦の出入りも慌《あわ》ただしく、すみ子まで珍しく早朝に現われて、
「がんばってね、おとうさん――」
一睡もしていないカル子も、
「そうよ、がんばらなくちゃ、おとうさん」
カル子もすみ子に倣って、私をおとうさんと呼ぶようになっていました。そうして彼女は私の足もとに廻って、
「あ、大丈夫よ。足の裏がしっかりしてる。死ぬ人はここが扁平《へんぺい》になっちゃうんだものねえ」
「死んだっていいよ、俺は」
「駄目だってば。あたしを失業させないで」
「患者はたくさん居るだろう」
がんばるといっても私は何をするわけでもありません。むしろ、一番勇みたっているのはカル子で、ベッドから私を移動車に移すときも、彼女は一人で、うんしょ、と私を抱きあげてしまうし、看護婦の先くぐりして万端世話を焼き、手術室の入口まで、だぶだぶのセーターの腕をまくり、看護婦たちの中を割って入るようにして、小走りについてきながら、
「スー子ちゃんと二人で、祈ってるからね、ね、ね――」
私は二人の娘に見送られるような按配《あんばい》で、手術を受け、癒着した胆嚢をはがしとるのに麻酔の時間ぎりぎりまでかかったそうで、あとできけば容易ならぬケースだったそうですが、そんなことは私は知りません。
気がつくと、病室で、はじめにおぼろげに眼に入った顔をすみ子と思っていましたが、それはカル子なのでした。そうしてカル子に、すみ子は反対側の枕辺に居る、と注意されました。彼女たちはいずれも床に両膝を突いて、左右から近々と私を眺めていたのです。
「よかったねえ、――本当に」
カル子が涙を出していて、横なぐりにぐいっと手でこすり、
「あたしも失業しなくてすんで」
「まだわからんぜ」
「大丈夫よ」と私の足の裏に手をのばして、
「保証するわよ」
「しかし、生きてる気分はまだしないな」
「スー子ちゃんは廊下でさんざん泣いたのよ。今、ケロリとしてるけど」
「そりゃ泣くわよ。涙もろいんだもの。それに死んだ方がいいと思ってるわけじゃないし」
「もう長生きするわよ。厄《やく》を払ったんだから」
「でもあんまり元気になられても困るのよ。適当にしておく方法ってないかしら。頭を半分|潰《つぶ》すとか」
「へへへ、スー子さん、そういう男が好きなの」
「いいえ、でも元気になったら悪いのよ。カルちゃんはまだ起きあがったところ知らないから」
すみ子の話では、カル子は案外いっていて四十をいくつか越えているんだそうです。別れた亭主との間に一人娘があり、娘は故郷の大学に入ったところだとか。
「別れた旦那さんが、ときどきここに会いに来てるらしいわよ。車でね。運転か何かをやってるみたい。チラッと二時間ぐらい、旦那さんの車でデートしてくるの」
どこかで寐てくるのかと思った二時間ほどを、そういうことに使っているとすると、彼女はいつ寐ているんでしょう。
「デートしてくると、なんとなく色っぽいの。すぐわかっちゃう」
「彼女は、色っぽいかね」
「色っぽいわよ。それに本当はいい顔立ちしてるわよ。病院じゃかまわないからだけど、美人だわよ」
「しかし、強靱《きようじん》な体力だなあ。俺と二十四時間格闘して元旦那ともか」
ある夜、私がうとうとしていると、カル子が、はめこみの洋服ダンスの戸をそっと開けてから、従業員用のトイレに行くらしく、病室を出て、まもなく戻ってきました。洋服ダンスの戸が締まる音をききながら、私はわざと鼾《いびき》をかいていました。
(――ははァ、金は、こっちの方だったか)
その日、すみ子が金を引き出してきて私の財布に入れておいたのです。
私はどうしてか、笑いを堪《こら》えるのに苦労してしまいました。笑えば患部が痛いし、カル子も恥をかきます。このまましばらく深く眠っているようにして、徐々に眼をさましていかないと、カル子が不審に思う、それを承知しながら、早く眼をさましたくてしようがありません。
何度もいうように私は規範で生きない男で、総じて物事に見境いというものがありません。ばくちをやったりするから、他人の金を盗みはしなくなったが、勝てば無限に自分のものになるわけで、他人の金は自分の金と思っている点では、盗っ人と少しもかわりません。それでは自分の金だって、他人のものであるわけで、カル子が私の金を盗って不都合というのは自分勝手です。私がいえるとすれば、ただ、迷惑だという私の都合に関してだけです。
けれども、よく考えてみると、迷惑のような気がするだけで、はたして本当に迷惑かどうか、それすらあやふやなのです。私のところでは、お金はどうせ湯水のように消費してしまうし、高利貸しに借りるだけだから、誰が使おうとそれほど変りはありません。借金は返さなければいいし、それでどんどん増えて困るといっても、子供を造らなかったから、はたが迷惑するというわけじゃなし、借金も溜れば次第に熱気を帯びてきて、全力で返そうとするし、血相も変ってきますが、慣れればそれが生活というもので、私は比較的そういうことに頓着しません。
笑いがこみあげてきたというのはそこのところで、私はすみ子とまったく同類項だなと思ったのです。すみ子は容積が小さいから、この一件の反応は私とちがうでしょうが、もしかしたら、私はすみ子の理想像なのかもしれません。
数日たって、何かの必要ですみ子が私の財布をあけたとき、金が減っているのを発見して、
「誠ちゃん、また脱走してお金使ったでしょ」
「よせやい。俺はまだトイレにも一人じゃ行けない」
「嘘。なんだって行っちゃう人よ」
「いくら減ってるんだ」
「五万円――」
「あ、それは友人が来て、借金を返したんだ」
「変ねえ。見舞いをおかないでお金を持ってったの」
この前みたいにそっくりでなく、財布に金を残してあるというところが、なんとなく可愛くも思えるのです。
私の身体が回復期にあったせいもありますが、病院の風呂に入ってきたカル子が、洗髪にメリヤスのシャツ姿で病室に戻ってきたときなど、ことのほかなやましかったものです。なるほど、少し色は黒かったが、東北美人といってもおかしくはありません。私はいわゆる日本風の美人をあまり有難がらない方ですが、そのかわり色は浅黒い方が好みで、すみ子は肌は絶品だが色が白すぎると思っているくらいなのです。そうして、四十だろうと五十だろうと、よけりゃいいのです。
「くらくらッとくるね」
と私は先手を打ってすみ子にいいました。気配だけ匂わして覚られるより、彼女の場合はその方がいいのです。
「あら、そうなの――」とすみ子はつりこまれて陽気にいいました。「おとうさんが、くらくらッときたんだって」
カル子は眉を八の字にして笑っています。
「元気が出てきたんだろうか」とカル子。
「そうよ、いやァねえ。でも前はこんなこといわなかったわよ。胆嚢とったら色気狂いになったんじゃない」
「それでもいいよゥ、元気が出れば」
カル子はそういってから、
「じゃ、今度、見せてあげる」
「何を――?」
「あたしの裸――」
「うわァー」とすみ子がはしゃいで、「見せて、ね、見せて」
「看護婦の来そうもないときね」
「大丈夫よ。あたしが廊下で見張っててあげる。誰か来たら、今、病人はトイレに入ってますから、あとで、っていうわ」
カル子はバスタオルを持ってトイレに入って、着ている物を脱ぎ、呆《あき》れたことに私の前で孔雀《くじやく》みたいに、身体に巻いたタオルをぱっとひろげて、
「もういい、すんだ――?」
すみ子が廊下から顔だけのぞかして、
「あたしにも見せて――」
二人で、ぱッ、きゃッ、うふふ、などと笑いつのり、
「おとうさんのためだものね、スー子ちゃん、許してね」
「変な親娘ねえ、カルちゃんの方が年上よ」
「年齢関係ないわよ。なんだかだんだんおとうさんみたいな気がしてきたもの」
「面白かった。おとうさん、あたしもやっていい」
私はカル子のすごしてきた四十年を、なんとなく考えておりました。貧しかったかもしれない。水商売もやったかもしれない。そうでなくて男を手玉に取ってきただけかもしれない。或いはまた、男にしぼられて苦しんでいるのかもしれない。そうして、いずれにせよ波風が多かっただろう四十年を。
私は、すみ子とカル子を等分に眺めて、つくづく感じ入りました。世の中には、全然似ていない別タイプに見えて、根の方では存外に同質に近い人も居ます。また、似ているように見えて、まったく異質な人も居ます。
すみ子とカル子は、一見、似ている部分が多そうに見えて、根のところではまるでちがいました。全然正反対といってよく、あまりにも対照的なので、時計の三時と九時のようにうっかりすると似ているように見えたりするのです。
私は、ひょいと一案を思いつきました。
退院後もカル子にこのままギャラを払って、家に来て貰ったらどうだろう。
すみ子にも捨てがたいところがあるが、彼女が家の中に居て、女房にしろ妾にしろ、パートナー然としていたのでは、他の女の入りこむ余地はありません。すみ子に女房的日常作業を満足に果す適性がない以上、他に誰かが必要になりますが、その点カル子とは気が合うようだし、附添婦と思っているから、自分の位置を侵蝕されるとは思いますまい。
すみ子の欠落を満たす存在として、カル子以上の女は考えられないくらいのところがありました。なにしろめったに寐ないで、一日二十時間以上働きづめに働くのです。病院でも私の下着は毎日かえ、パジャマも三日と同じものを着せません。枕カバーやシーツは週に一度病院でかえてくれますが、カル子はちょっとのヒマを見て風呂場でゴシゴシやり、屋上に干してきます。うっかりすると私そのものも洗濯したがっているかのようです。
一日二度、熱い湯を沸かして、タオルでほぼ全身を拭《ふ》き、マッサージをしてくれるし、かと思うと冷蔵庫に仕込んだよく冷えたタオルを額に載っけてくれます。私が寐ているときは団扇《うちわ》で、あるかなしかの風をそっと送り続けます。話し相手としては、はしゃぐとき、しんみりするとき、どちらも応用が効きますし、いい声で東北民謡を唄ってくれます。見たいと所望《しよもう》すれば――。
どうも揃いすぎています。やることがすべて芸になっていると同時に、人なつこいような、心に餓えているようなところがあって、上すべりしていません。
美点だけをあげれば、すみ子にも独特の持ち味がありますが、ちょうど二人を足して一にすれば、私としては理想のパートナーを得たことになるのではないでしょうか。
そのかわり、二十四時間勤務のカル子の日当は高い。三食つきで一日一万円はします。そのうえ、例の手癖の被害も覚悟しなければなりません。
但し、私の方としては、仕事場を引き払って、住居一本にできるのでその分の家賃が浮くし、助手をやとえばやはり応分のギャラがかかるのですから。
退院を目前に控えて、私はそのことをカル子にいってみました。
彼女は少し黙っていましたが、やがて、ぽつりといいました。
「でも、あたしは、高いのよ」
「いいよ」
「病気のときならいいけど、ずうっとじゃ大変よ」
「高利貸しに借りてくるからいい。しかし、ずうっとといったって、先のことはみんなわからないよ」
「病院じゃできなかったけど、あたし、料理もうまいのよ。娘も料理の短大に行かせてるんだから。おとうさんにおいしいもの喰べさせてあげる」
「うん――」
「買物もうまいのよ。その方は年期が入ってるから、スー子ちゃんにコツを教えてあげるわ」
「日計表をつけられるかい」
「日計表、それなに」
「金銭出納簿みたいなものだな。日割りで作るんだ。俺たちは税金の関係でそれが必要なんだが、うちのカミさんにはどうしてもできない」
「やってみる。やらしてちょうだい」
そうしてカル子は、ほろりと涙を流しました。ぐいと手でこすっても、あとからあとから涙が出てくるようでした。
「そんなふうにいわれたの、はじめてよ。おとうさんがはじめて」
「そうだろう。皆、もういくらかは健全だろうからね」
「あたし、あとになって悪く思われるの嫌だから、最初に言ってしまうわ」
とカル子は涙声でいい、古風な仕草で私に向かって一揖《いちゆう》しました。
「お願いがあるんです」
「ああ――」
「そういうことなら、前借りをしたいんです」
「ほほう――」
「二カ月分でいいの。あとになっていただきませんから」
「なるほど――」
「別れた亭主が居るんです。この前、事故を起こしてしまったの。あたしが助手席に乗っていて、叔母さんの家へ行こうとして、ぶつけちゃったんです。あたしにもちょっと責任があるの。保険がおりるんですけどね、被害者が、五十万ほどどうしても即金でよこせって、うるさいの」
私はカル子の話の具体的内容はほとんどきいていませんでしたが、盗らずに、借りるという手段で出てきたことを興味深く思いました。もっとも、ごく普通に考えれば、盗るより借りた方が、諸事にわたって賢明な方法であることはたしかです。
但し、手癖の病気として考えた場合、借りるより盗るような気がしましたが、だから、手癖であるよりも、金が必要な条件が先行しているのでしょう。
仕掛けが素早すぎて、やや愉快ではないが、前借りということなら、ことわる理由もありません。私はこの件もすみ子にいわず、ただ、しばらくカル子に手伝って貰おうと思う、といっただけでした。
すみ子は、私が仕事場を引きあげて、住居一本にする、ということに気を奪われていたようです。
六
私は二人の女に附添われて、凱旋《がいせん》将軍のように病院を出ました。私ばかりでなく、カル子も、まるで何かにスカウトされたような表情で、同僚の附添婦や看護婦たちに笑顔を送ったりしていました。すみ子だけが、いくらか影がうすくなっていたようです。
しかし、家に着いて茶の間におちつくと、カル子は四角く両手を突いて、
「それでは、改めてよろしくお願いいたします」
カル子はすみ子に向かって、奥さま、といいました。
「誰のこと――?」
「あんたよ、奥さまでしょ」
「やーだ、スー子でいいわよ。人が来てもそんなこといっちゃ駄目よ。あたし、こう見えても独身なんだから」
すみ子の顔色を読む早さは舌を捲《ま》くほどで、これは容易ならぬ悪女かな、と一瞬思いました。
しかしながら、カル子の働き振りは、病院でと同じく毫《ごう》もおとろえず、その点の蔭日向はまったくありません。なるほど、料理も手早く、小まめにします。私が不規則で、二十四時間のうち、いつ何を喰べようとしてもオーケーで、朝の五時頃、ステーキを喰べようとしたらスラリと出てきたことがあります。ずいぶん変てこなものも出てきますが、これが、正式だ、といって彼女はゆずりません。私はそれでいいので、本式の料理が喰いたいわけでもなし、だいいち、彼女の料理はつつましくて無駄がなく、すみ子のやっていた頃の食費の五分の一くらいですみます。カル子は丹念に出費をつけていて、そこいらにごまかしはないようでした。
彼女は私が原稿商売らしいのを見て、本が好きだ、といいましたが、実にマンガ好きでした。これも彼女くらいの世代の女性ではやや珍しいかもしれません。彼女の荷物の中には、じゃりン子チエ≠竅Aドラえもん≠フ揃いが入っており、マンガ週刊誌を買ってきては、ごみの袋の中に捨てていました。私の家では夜中に私に附添っている必要がないので、チョロッと寐てはマンガを読み、またチョロッと寐ては読みしているらしいのです。
病院時代といくらかちがうのは、毎晩、顔のパックに時間をかけたり、わりにおシャレで、メリヤスのシャツのかわりにオールインワンの下着を、割烹着《かつぽうぎ》の下に着こんでいたり、すみ子の情報によると、その下にぴっちりとしたコルセットをつけていて、それは病院時代からだったそうですが、それらのことはすべて、特に非難するに値いしません。
「元旦那はね、大川橋蔵にそっくりなのよ」
といったことがあります。さもありなん、と私は思いました。彼女はせいぜい下着のおしゃれぐらいで、乱費するヒマはないから、男にしぼられているか、貢いでいるか、どちらかでしょう。
私のところの収入は、おおむね銀行振込で来ますが、中には、はじめてのつきあいの社のギャラだとか、少額の取材費などが、現金書留などで送られてくるものがあります。時折り、受領証が返送されてこないという電話がかかってきますから、多分、チラリホラリとくすねては居たでしょう。が、その点でも私の予想をだいぶ下廻って、少しの間、静穏にすぎました。
「どうしても、お願いなんですよ。悪いんだけど、また前借り――」
ある夜カル子がいいだしたとき、私は思わず噴きだし、彼女はそういう私をじっと眺めていました。
「いやねえ、カルちゃん、それもいいが、前借りばかり重なって、いつまでたっても女郎みたいに君はしばられちまうぜ」
「だって、あたしは身体でしかお金をつくれないもの」
「まァね、先は永遠という考え方もあるがね」
「娘がイタリヤに行くんですよ――」
とカル子はいいました。
「料理の勉強に。学校から二週間、行くの。八十五万ですよ。どうしても出してやりたいんです」
私は小切手帳を持ってきて、三十万の金額を書きこみました。
「イタリヤに二週間で八十五万はかかりすぎだよ。もちろん旅の仕方によっちゃいくらでもかかるがね。安い切符もあるし、学生なら方法もいろいろある。まァこのくらいで我慢おし」
「だって――、ツアーなんですよ。娘だけ安い切符ってわけにはいきません」
カル子はこの時も涙を流しました。
「一人娘なんですよ。あたし、そのために働いてるんです。大学を出すまでは――」
「しかし俺はそれしか出せない。そのかわりこれは貸すんじゃない。あげるよ。ばくちですったと思えばいい」
その晩はやや不満気でしたが、しかしそのために翌日から、働き振りが変ったという気配もありません。
彼女は青色申告用の日計表を一生懸命作っていて、これにひどく悩まされているようでした。控除される必要経費を明瞭にするためのものですが、なにしろ私の金銭の出入りがひどくだらしがないし、高利貸しが何人も立ち入っていて、その利子だけでも全体のバランスを崩し、名目のつけように困るのです。
しかしまた私の生活の実体が如実に出ていて、カル子には特にそれを見せておく必要があると思っていました。私の収入は借金の額を追って増え、それをまた借金の額がはるかに引き離して増えていきます。収入の額、それから乱脈ぶりを見れば、カル子はこの家に長く居つこうとするでしょう。
もし、収入の底が浅くて、たいした実もないと思えば、盗っ人なら、乃至《ないし》は大川橋蔵風遊び人のコーチなら、短期決戦と出て一気に大穴をあけて去るでしょう。
私のところは長期にじわじわと攻めた方がよい。しかしその高利貸しの活躍を見れば、息がつまり、私が彼等の金策の申し入れを受けつけなくても説得力はあるのです。その結果、私を生殺しのようにして居つく。生殺しなら私の無茶苦茶の方が上廻るので、彼女の蠢動《しゆんどう》などたいした傷にはなりません。
私はむしろ、カル子の方よりも、すみ子の方の気配に細かく眼をとめていました。彼女の機嫌がどうなっていくか、私にとって、カル子の欠陥よりも、すみ子の欠陥の方が、ずっと苦手なのです。
もちろん、すみ子がよほど手にあまれば、別れてしまえばよい。カル子が居れば私の日常はほぼ困りません。多少ごたごたしても、縁を切れば万事解決。私はこれまで何度もそう思ってわずかに心を慰めているのですが、しかし、現実にまだ一緒に居り、私自身がその方向に沿って動き出しても居ないのですから、なんの慰めにもなりません。
何故、すみ子と綺麗さっぱり、いかないのか。それがどうしてもわからないのです。
すみ子は病院でもそうでしたが、家に戻ってからも、しばらく影をうすくしていました。カル子の日常的活動がそれだけ凄《すご》かったのです。
すみ子としては、いやな仕事は全部カル子に委ねて、一気に楽になったようでもあり、同時になんとなく不安でもあって、ひと頃は、台所に立ったり、家具の配置を変えてみたり、張り合う気配を見せました。
すみ子もそうですが、カル子も仕事を引き受けたらすべて一人でやらねば気がすみません。すると、どうしても、カル子が部署を独占し、すみ子ははじかれます。
自然に二人は部署を異にし、すみ子の方はもともと得意の飾りつけや、来客の応対などに持ち場を得ようとしましたが、それも束の間、家の中より外で活路を見出そうとしはじめました。
しばらくやめていたテニスやスキーをはじめたり、友人の輪をひろげたりしはじめ、連日、昼か夜か、どちらかは居ません。ときどきやっぱり不安で、私とカル子の様子を見守るように家に居つくことがありますが、そんなときでも自分の部屋に閉じこもって、友だちとの電話に明け暮れています。
ある日、私の予後の薬を貰いに行って、病院でカル子の噂《うわさ》をきいたらしく、声をひそめてこういいました。
「あの人、あまり置かない方がいいんじゃないかって、皆そういってるわよ」
「そうかね」
「本当よ。あたしがそうしたいからじゃないのよ。附添婦の会からも請求書が届いているそうだし、元ついていた患者の人もカルちゃんの行方《ゆくえ》を探してるんだって」
「そんなこともあるだろうな」
「なにか、変なことがないうちに、ヒマを出した方がいいんじゃないの」
私は笑い出して、
「しかし、カルちゃんより俺の方がよっぽど変だぜ。ここは魔窟《まくつ》だよ」
「誠ちゃんはそうでも、あたしはちがうわ」
「そうかね」
「あたしは普通よ。一緒にしないで」
「とにかく俺たちは、もうとっくに破滅してるんだよ。俺だって君だって、何ひとつ、結婚ひとつ、ちゃんとできなかったろう。それでも生きてることができるんだから、怖いものなんかあるもんか」
「ひどいこというわね。あたしは犠牲者じゃないの」
「それでもここに居るじゃないか」
「居るわよ。負けてばかり居るもんですか。あたし馬鹿だったわ。ね、お金ちょうだい。カルちゃんに月給出して、あたしにどうしてくれないの」
「君は附添婦じゃなかろう」
「じゃ、あたしは何なの」
私もちょっと口ごもって、
「うーん、何かな」
「ね、指輪買って。ダイヤの指輪」
「いきなりなんだい」
「あたし、なんにも、指輪も貰ったことないわよ」
「結婚指輪か」
「そう」
「離婚したじゃないか」
「だからいってるんじゃない。あたし、自分で買うわよ。指輪でもなんでも、それでなきゃここに居る意味がないわ。そのこと、ケロッと今まで忘れてたの」
私もそれはとうに覚悟していたようなところがあります。入院代、手術代、カル子のかかり、その間の収入の空白。借金。頭の痛いことばかりですが、また同時に、何人殺そうと死刑は一つ、という感じもあり、すくなくとも、あれはよくて、これはいけない、というけじめがつきません。
二人を一組にして、理想的パートナーをつくるという方策は、二人それぞれの欠陥がひとつに固まって、完全な難点をつくるということでもあるわけで、長所には欠点、便利には不便がともなうのは当然です。
すみ子は、ツケで物を買うことを覚えました。そうして、私が何もいわないのを見て、徐々にその方向を発展させる気配を示しだしました。
すみ子がそうやって夜遊びしているときのことですが、カル子が私の寝室に突然入ってきたことがあります。
彼女はコルセットもしておらず、浴衣一枚で、
「お父さん、淋しいでしょ……」
病室でのようにベッドのそばに両膝を突き、
「見せてあげましょうか……」
「ああ――」
と私はいいました。カル子は含み笑いをしながら、気取って私の頭を自分の浴衣の中に入れようとしましたが、そのあとは急に燃え、泣きそうな表情になって私にしがみつき、おとうさん、おとうさん、といいました。彼女の身体は、病院での印象よりもややたるんでいるようでしたが、胸乳も大きく、全体にむっちりとしていて、すみ子のように軽やかではありません。私たちはしばらく、ベッドの上でものをいう余裕もありませんでしたが、やがてカル子がまたくすくすと笑いだしました。
「おとうさん、スー子ちゃんとは、どうなってるの」
「どうもなってないよ」
「スー子ちゃんが怒るね」
「君の橋蔵さんはどうなんだい」
カル子は答えません。
「しかし、内腿《うちもも》がふといねえ。女の競輪選手みたいだなァ。胸板も厚いんだねえ」
「おっぱいもでしょ」
「ああ、どこもかしこも、がっしりだ」
一盗|二婢《にひ》、という言葉がありますが、そういう感じでは、これはありません。しかし、それ以上のものでもありません。私は、私の中のすみ子へのこだわりを、気持の中で探しておりました。あれはどこに行ったか。その思いが、即ちこだわりであったかもしれません。
この期《ご》におよんで、何のメリットもなさそうなすみ子と縁を切る気持がさっぱり起きてこないのが、不思議なような、もどかしいような感じでありました。
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雑 婚
一
私の巣には、目下、二人の女性が住みついています。一人は、羽鳥すみ子、私の元女房です。元女房で離婚したわけだから、正確にいうと彼女の本姓に戻って、会津すみ子ということになるのでしょうが、私はどっちでもかまいません。もともと結婚と同じく、離婚もたいした事件とは思っておりませんから。
私たちはなんとなく野合同棲して、六年間も夫婦として一緒に暮し、ある日、双方の合意のもとにめでたく離婚したのでしたが、そうやって夫でも妻でもなくなってみると、かえって一緒に暮してもいいな、という条件が双方に残っていたのです。
で、私たちは離婚後、ただの同棲を続けてきました。もう二年にもなります。解《げ》しかねるという方もありましょう。私たちだって、べつに明快な結論をくだしてそうしているわけではありません。なんだかわからないが、しがらみを取っ払ったら、何か眼に見えない執着が残って、元の鞘《さや》に近いところにおさまったのです。
もう一人の女性は、カル子といいます。姓は知りません。最初に聞いた気もしますが忘れました。カル子というのだって本名かどうかもわからない。要するに戸籍を経由しない交際です。といって、すみ子は妻ではないから、妻妾同居ともいえません。此方はまだ知り合って半年そこそこで、もともとは入院中の私の附添婦として現われたのでした。だから私の病気が治った現在も、もし正式な名称が必要なら、附添婦です。年齢もよくわからないが、すみ子よりも大分年上で、四十そこそこというところでしょう。色白なすみ子と対照的に浅黒くて土臭いが、競輪選手のように太い腿《もも》をしており、お尻もむっちりと大きくて充分になやましい魅力を備えています。
が、何よりも私が瞠目《どうもく》したのは、カル子が、エキセントリックなくらい働き者であることでした。病院でも、その後私の巣についてきてからも、夜中の三時頃まで起きていて五時頃には、寐《ね》ていると身体がかゆい、などといって起きてしまいます。私が徹夜で仕事をしていると、長椅子で毛糸など編みながら起きていて、茶をいれたり、軽い喰べ物を作ってくれたりします。いくら寐るようにいっても、だって、わたしは附添婦だから、というのです。二十四時間勤務で一日一万円という病院の時と同じギャラなので、突っ張ってそうしているというふうでもありません。家事いっさいの労働に関して蔭《かげ》日向《ひなた》なく、情をこめて、軽々と、楽しそうにやっているように見えます。
実をいうとカル子のギャラは、一日一万円という契約よりもかなり高いものにつきました。絶えまなく前借りにくるのは結局支払いからさっぴくからいいとして、ちょこちょことかなりまとまった額を盗っていくのです。もっとも私自身が社会から前借りを重ねてすごしているようなもので、いつも収支が合わない生活をしていますから、カル子が盗ろうと盗るまいと、それが原因で私が破滅するというわけでもありません。
私から見れば手癖のわるさなどはいっそコケットリーに見えたほどで、いずれにしても、人には長所短所が混在するというが、すみ子とカル子に見事にそれが対照的でした。それでは、二人かかえてしまおう、と思ったのです。
私どもはそれでけっこう平和にすごしていました。何が平和か、というご意見もあるでしょうが、平和というものはもともとこんな具合になんの保証もなく、血なまぐさい要素が沈潜しているものであります。
体力の相違や、ガッツの相違で、家の中ではいくらか影がうすくなっているすみ子が満たしてくれた湯につかって、
「ああ、平和だな――」
などと呟《つぶや》いたりしていると、本当にのうのうと悩みすくない人生を送ってでもいるかのような錯覚すら湧《わ》いてくるのですが。
風呂といえば、私は風呂というものにめったに入りません。湯につかれば人並みにリラックスしていい気分でないことはないのですが、どうも面倒くさい。それに昔から、私は自分の手で身体を洗っても綺麗にならないように思えてしようがないのです。私の身体なんてものは、洗っても洗っても不潔が根絶しないにちがいないので、もう放っておくより手がありません。
だから、顔を洗い髭《ひげ》を剃《そ》ったりすると、もう身体は洗わない。ほんの申しわけに胴体に石鹸《せつけん》をぬりたくると、手足はそのまま洗わないでおく。頭から手足から、胴体から背中から、足の裏までいっぺんに全部洗ってしまうのは、もったいない。そんな苦労努力までしていちどきに洗うほど、ご大層な身体じゃありません。
ところが、その日はどういうわけか機嫌がよくて、髪の毛から足の裏まで一カ所残さず、どっと洗っちゃった。おまけに歯までみがいちゃった。
湯につかっていても、自分の身体が光り輝くようです。どうも、綺麗で綺麗でしようがない。近所じゅう歩きまわって皆に見せたいような気になるもので、こういう感動というものは常日頃風呂に入って身体を洗ってばかりいるような、自堕落な人にはわからないでしょう。
「俺、綺麗になったよ」
そういうと、すみ子もカル子もそばに寄ってきて、鼻をクンクンいわせたりして、
「――本当だ。臭わない」
「身体、全部、洗っちゃった」
「本当に全部?」
「ああ。あとは腹わたの掃除だけだ」
「それで、何を考えているのよ――」とすみ子は二人きりのとき以外はいつも突っ張る女で「あたしが欲しいったって駄目よ。今日は疲れてるんだから」
「綺麗になったうえにそんなことまで考えない。これで腹でもいっぱいになれば、あとは寐ちゃうだけだ。平和だな」
「自分だけ平和なんでしょう。あたしもカルちゃんも、不幸よ。どうしてくれるの」
「とにかく俺は風呂に入って平和だ」
「仕事はないの」
「あるよ」
「じゃ、働きなさいよ。風呂なんか入ってないで。また病気になるわよ」
すみ子のいうことはあいかわらず脈絡がありません。
だまって笑っていたカル子が、ちょっと居ずまいを正して何かいいかけました。彼女が居ずまいを正すときは前借りの相談ときまっているのですが、たいがいはすみ子の居ないところでです。
「おとうさんにお願いがありますの」
カル子も、すみ子に倣《なら》って、私のことをおとうさんといいます。
「スー子さんにもお願いなんです」
私もすみ子も黙ってカル子を眺めました。
「明日、娘が東京に出てくるんです」
「ああ、あの山形だか秋田だかで、料理の短大に行ってるという娘さんね」とすみ子。
「ええ、それがね、なかなかじっとしてないで――」
「でも今、夏休みでもないし、変ね」
「わたしにもよくわからないんですよ。突然、速達が来て。それで申しわけないですけど、こちらさんにご厄介になるわけにいかんでしょうか」
「それはいいけど、空部屋がないから、カル子と一緒に寝るんでよければ」
「それはもう、親娘ですからひとつの布団だって」
「しかし、この家は魔窟《まくつ》みたいなところだから、教育にわるいよ。カル子の元亭《もとだん》の方には泊られないのかい」
カル子には別れたか、乃至《ないし》は別居している男が居て、時折りここに来て彼女を連れだしたりする様子で、察するにカル子は娘にばかりでなく彼にも相当に貢いでいるらしいのです。
「それは関係ありません」
「そうかね、娘はやっぱり母親のものか」
「あの人の娘じゃありませんもの」
「ああ、そうか」
「ねえ、カルちゃん、娘さんて、綺麗?」
「それはまあ、年頃ですものね」
「いいわねえ、おとうさん。また美女が増えて」
二
「――いいわねえ」
すみ子はその夜、仕事をしている私のそばに来て、またそういいました。
「誠ちゃんばっかり、いい思いして」
「そうだな――」
「あたしはいいことなんかちっともないわ」
「しかし君だって、外じゃ適当にちやほやされてるんだろう」
「いいことなんかないわよ。あたし、いったいどうすりゃいいの」
「だから、君も自由におやりよ。俺たちは夫婦でもなんでもないんだから、自分の責任で君も楽しくすりゃいい」
「だってあたしはそう簡単に誰ともつきあえないわ。誠ちゃん知ってるでしょう。あたしが神経質だってこと」
「そんなに口惜《くや》しがるほどのこともないだろう。カル子の娘が東京に来て、ひと晩だか二、三日だか知らないが、ここに泊るというだけの話だ」
「いい話じゃないの。カルちゃんばかりか、そんな娘まで誘惑して」
「俺が呼んだわけじゃないよ」
「どっちだって同じよ。どうせ、居ついちゃうんでしょう。誠ちゃんは一見お金に困ってなさそうだし、人に気がねをさせないから、皆、居ついちゃうわ。それで、あたしだけに辛く当るんだもの」
「そんなことを今から心配したってしようがないだろう」
「いいえ、そうよ。あたしにはわかってるわよ」
すみ子は、いうところの負けず嫌いで、相手が自分より劣っていたり、弱々しかったりした場合には、彼女流に優しくすることができますが、そうでなければ突っ張るだけです。たとえば私の来客が、お世辞に私を称賛しても彼女は猛烈に機嫌をわるくします。
もっとも、どんなに彼女が私に対抗して突っ張ってみても、私の目茶苦茶の方が上廻っておりますから、私が病気にでもならないかぎり、彼女のペースで私をとりしきることはできません。だから、あたし、どうすりゃいいの、という彼女の実感は、どんな場合であろうと、充分にリアリティがあると申せましょう。
もしも私たちが、結婚という保証つきの生活を営み続けているのだったら、こんな場合、彼女のために打つ手が或いは残されていたかもしれません。私も彼女もそういう埒《らち》を離れて自由競争のような生き方を選んだために、私たちの関係の中でいえば、特に彼女の方が、あらゆる意味で地力が劣るために損な要素を濃くしたはずです。
私は、いくらか曖昧《あいまい》な彼女への執着を意識しながら、そういう彼女を冷たく眺めざるをえません。そうしてまた私が彼女を圧迫して勝利の美酒に酔っていたというわけでもなく、私自身がフリーランサーというあまり保証にすがれない世界でその場かぎりのいいかげんな生き方を重ねていて、とうの昔に破綻《はたん》し、世間でいうバランスを失した暮しをして居り、ただ度胸と突っ張りで辛うじて現状を保っているにすぎないのです。大きく見ればすみ子と五十歩百歩で、だから彼女の寒々しさもよくわかりますが、同時に私はほとんど何もしてやることができません。私たちは大河を流れる塵芥《ちりあくた》のようなもので、ただなんとなく一緒に流れているだけです。
「まァ、心配するなよ――」
と私は慰めにもならないセリフをいいました。
「これ以上気をもんだってしようがないし、事態が好転するわけでもない」
「悪魔ね、誠ちゃんは」
「そうだ。それに近いね」
「どうしてくれるの」
「どうもなりゃしない。なるわけがないだろう。俺も君も、苦労して未来をつくっているわけじゃなくて、出たとこ勝負で借金でしのいでるんだから。とにかく、こうしてるうちに死んじまう。それでまた何度も生まれ変ればいい」
翌日、夕方になると、今、運転手をしているとかのカル子の元亭《もとだん》が迎えに来たらしく、カル子はその車に乗って上野駅に行ったようです。少しは着飾っていくかと思ったが、いつものとおり、古めかしいブラウスと地味なグレイのズボンで、それで帰りは元亭の車じゃなくて、国電と私鉄を乗りついで来たようでした。
ただ今、とカル子が部屋にあがりこんできて、そのあとから静かに入ってきた娘を見たとたんに、私はびっくりして、
「どうしたんだ――!」
と叫んでしまったほどです。
それはまったく美少女でした。美少女すぎて、絵から抜けだした人形のように覇気《はき》がなく、少々うす気味わるく思えたくらいです。
すみ子も似たような思いだったらしく、
「貴女《あなた》、本当にカルちゃんの娘さん――?」
「――はい」
「よかったねえ、おとうさん――」とすみ子は複雑な眼で私を見返り、「お望みどおりの美少女が来て」
しかし、私よりもむしろすみ子の方が、美男美女を好む傾向があり、その証拠に、今日の晩御飯はカルちゃんの娘に作らせればいい、料理の短大の学生なんだもの、なんていっていたのが豹変《ひようへん》して、近所の中華料理屋からコース料理を運ばせることにし、いそいそと彼女にビールをついでやったりするのです。
美少女は、須田ハム子と名乗り、少しも笑わずに、よろしくお願いします、といってゆっくり一揖《いちゆう》しました。
「ハム子は、つまり公子ってわけかい」
「いいえ、カタカナのハム。お父さんがハムが好きだったんですって」
「なるほど。そう聞けば、とてもいい名前のような気がするな」
「それでねえ――」
とカル子がちょっと居ずまいを直しました。
「ああ、前借りかね」
「いえ、おとうさんもスー子さんも、ご迷惑でしょうが、きいてほしいんです。この娘がねえ、どうしても向うは嫌だっていうんですよ。東京がいいって。それでもう荷物をまとめてチッキにしてこっちに送っちゃったんだって」
「――ほうら」とすみ子が勝ち誇ったようにいいました。「そうだと思った。あたしはちゃあんとわかってたわよ」
「今学校やめたって免状もとれないし、突然出てくることないのにねえ。お金かけたことが皆パーじゃないの。馬鹿な娘だよ」
「でも若いんだもの、東京がいいわよねえ、わかるわ」とすみ子。
「そんなこと一人前になってからいうものよ」
「それじゃ年とっちゃうもの。年とってから東京に出てきたってねえ」
「ひと晩泊めていただいて、帰るのよ、ハム子」
「カルちゃん、貴女、娘さんの前じゃずいぶんお母さんぽくなるのねえ」
「当り前よ。こんなにして働いてるのだってこの娘が居るからよ。ハム子、母さんだってここにご厄介になってるだけで、お前が住むところなんて東京にはないよ」
「そりゃどうだかわからないわよ。おとうさんがなんていうか、きいてごらんなさい」
二人の女がちょっと黙って私の方を向いたので、私はとりあえず、こう訊《たず》ねました。
「東京に来て、どうしようってんだね」
ハム子はいくらかうなだれたまま黙っています。そういう姿態が周囲を挑発して自分の望みを叶《かな》えることを知っているようでもあり、逆にまた幼さのようなものも感じさせるのです。
「それじゃ、向うはどうして嫌なのかな」
「――だって、一人で御飯作ったり、洗濯したり、つまらないんですもの」
「ははァ――」
カル子は中毒症状を呈するくらい働き者なのに、と思いました。しかし、これは孤独を訴えていたのかもしれません。多分そうでしょう。
「そうすると、東京にくれば淋しくないってわけか」
ハム子はやっぱり無言。
「ごちゃごちゃいってないで、どうなの」とすみ子はひと口吸った煙草を灰皿の中でぐちゃぐちゃに潰《つぶ》しながら「置いとく気があるの、ないの。ねえ、男は理屈ばっかりでちっともはっきりしないんだから」
「まァ二、三日居てごらん。それでお母さんとよく話し合ってみるんだな。結論は君たち母娘で定《き》めることだ」
翌日、ハム子は原宿を歩いてみたい、といい、原宿|界隈《かいわい》のことならくわしいすみ子が張り切って、ハム子を妹のように引具《ひきぐ》して出かけていきました。
カル子はそんなすみ子をちょっと意外そうに眺めて、
「どうしてかしら。スー子さん、ばかに機嫌がいいですね」
私は、ふふふ、と笑ったきりで、それには答えず、
「それで、カル子としてはあの娘をどうする気だね」
「帰します。親としてはそうしたいですね。一人ぼっちというけれど、わたしの姉もそばに居ますしね。でも、親のいうことはきかないでしょう。わたしがそうだったし」
「なるほど――」
「旦那さんならどうしたらええと思いますか」
すみ子がそうであるように、カル子も私と二人きりになると、おとうさんとはいいません。
「俺にはわからん。俺の都合を軸にしたいいかたはできるがね。人がどう生きたらいいかなんて俺にはさっぱりわからんよ。特に女性の生き方となると、なおさらだ」
三
すみ子が、ハム子を見て張り切ったのは、生来のおっちょこちょいや、美しい人形を好むような気質のあらわれでもありましょうが、むろんそれだけではなく彼女の思惑もあってのことでしょう。彼女だって、自己流ではあるがちゃんと生存競争の本能は備えています。
彼女は、男は女好きだと単純に思いこんでいて、私がハム子を容易に手放さないだろうと思っています。カル子たちが親娘で居ついた場合、すみ子の位置は今までにも増して浮きあがってしまう可能性があり、すみ子が私に対して執着しているにせよ、いないにせよ、この家に居ついている以上面白からぬことにちがいありません。で、すみ子としては珍しくファイトを燃やして、親娘の絆《きずな》をできるだけ分断しておき、娘を自分の味方にしておきたかったのでしょう。すみ子は、まだ幼そうなこの娘なら自分の力でとりしきれると思ったかもしれません。
けれども、多分、すみ子のアタックは不成功に終るでしょう。何故なら、視力の弱さからくる(彼女はほとんど独眼に近いのです)疲れがひどく、身心両面で集中力、粘着力を欠くために、せっかくのアタックが永続きせず、いつも負けの籤《くじ》をひいてしまうのです。これまでの実績がなにより証明しています。内心の希求を(それはおおむね身勝手なものではありますが)ひとつも実現できなくて、頭を抱えて退却してくる。私はそういうときのすみ子が、自分の子のように愛《いと》しくてなりません。
ひょっとすると、こういう形になってまでも、すみ子から離れようとしないのも、彼女の手傷を舐《な》めてやれるのは、親をのぞけば、私しかいないという自負があってのことかもしれません。なにしろすみ子は、対肉親戦、対亭主戦をのぞくと、外での戦いは全敗に近いと思えたのです。私は自分が不充足に弱いから、ほとんど全域にわたって自分の希求が思うようにならない彼女に甘い。また彼女も、そういうことを意識しているから、私との生活に不充足を感じながら、私以外の男に走れません。すみ子が対肉親用の突っ張りを捨てて、ほぼ全面的に私の奴隷になってしまう道を選べば、私たちは、世にいうしっくりした夫婦になれたかもしれません。それほどの魅力は私にはないのだ、とすみ子はいうでしょうが。
もっとも私の都合を軸にしていうと、私はすみ子をどこまでも許す気持の用意もあり、積極的な害意もないけれど、一方、私自身の欲求に基づく日常の構えを万全にしたい望みも当然持っています。そのことを犠牲にしてまですみ子のために尽くそうなどと思っても居ません。すみ子に対する気持とは別筋で、私にはカル子が必要です。私の日常は今ではカル子の忠実でムラのない気働きによって支えられているといってもよく、現状では、私の原稿の自転車操業はすみ子が居なくても不充足なだけでさしつかえはないが、カル子が居なくては成立しかねるていのものになっていました。だから私にとっては、カル子の盗癖など物の数でもなかったのです。むしろ、多少の欠陥があるからこそ私のところなどに居ついてくれたのだと思っていたほどです。
すみ子は、カル子親娘が共謀してこの家の中での橋頭堡《きようとうほ》を拡げようとしていると読んでいたかもしれませんが、私はそう思っていませんでした。盗みなどという特殊なことができる人間は、おおむね楽天的なもので、どこにだって日は照ると思っているところがあります。共謀してまで私の家などにこだわりますまい。実際、ハム子が現われてから、カル子はすっかり平常のなめらかさを失ってしまい、娘の見ている前で働くなど照れ臭いとでもいうように、諸事に輝きを失ってしまいました。
そうして私は、すみ子が思っていたほど、ハム子を貴重なものとしていませんでした。まず第一に、ハム子は美少女というだけで、私が必要とする能力の極め手がありません。第二に、私はあまりの不節制の連続のためか、その当時、肝心のものが立ったり立たなかったり、なにしろムラで、自信をもって女体に手を出すことがはばかられます。そういう状態の男にとって、女の魅力など、さほどの値打ちもないのです。
さて、原宿に行った翌日、すみ子はテニスにハム子を伴《つ》れていきました。すみ子は近頃、生甲斐を求めると称して、テニスだのジャズダンスだのスキーだのを生齧《なまかじ》りしていましたが、はしゃいで帰ってきて、
「ハム子さん、うまいの――!」
雪国育ちのハム子にスキーを本格的に習うのだといって、
「今年の冬は一緒にすべりましょうね。それまで居なさいよ。絶対よ」
ハム子も、これは母親に対する面当ても含まれていたかもしれませんが、すみ子とすっかり打ちとけて、際限なく二人で笑い転げたりしています。
すみ子は、気に入った女友達に対していつもそうですが、内輪《うちわ》の顔つきでは考えられない明るい陽気な面を出し、ピエロに徹してあらゆるサービスを敢行します。それが彼女流の他人との交際の仕方で、ほどのよさということができません。だから多くの場合、結局は相手に軽く見られ、そのうち軽視されていることに気づいたすみ子が一転して不機嫌な応対になるという結末を呼ぶのですが、私にはそれも、すみ子を愛しく思う一因になっていました。多分、離婚の余慶でしょう。亭主という立場からは我慢できかねた彼女の軽々しさが、いくらかうすらいだ関係になってみると、彼女の培《つちか》ってきた哀しさをのぞく思いになるのです。
ハム子は三日目になっても立上る気配はなく、リビングルームに横坐りしたままでした。
その夜ふけのことです。カル子の部屋で不意に物音がし、女二人の甲高《かんだか》い叫び声とともに、一方が一方を打ちすえている気配で、どちらかが壁に身体をぶつけて家鳴りをさせます。
二階の自室から出て行こうとするすみ子を、廊下で私はとめました。
「放っとけよ。水入らずにさせとけ。彼女たちで定めることなんだから――」
と私はいいました。
四
ハム子は翌日もその翌日も頑強に帰りません。で、私の眼には、カル子が急に老けこんだように見えたほどです。
五日目の昼下がりでしたか、私の仕事場兼寝室にハム子がひょっこり入ってきました。すみ子は友達に呼び出されて都心の方に出ていたし、カル子は買物に出かけていたと思います。
「先生、お邪魔していいですか」
「いいよ。しかし俺は先生じゃない。しがない週刊誌ライターだ」
「母はこちらで、もう長いんでしょうか」
「いや、まだ半年足らずだがね。何故?」
「そうすると、母のことをあまりご存じなくて――」
「ああ、何も知らんね。しかしこの家じゃ、猛烈に活躍しとる。今のところ必要欠くべからざる人材だね。だから何も知らなくていいよ」
「母はどんな人なんですか」
「そりゃ君の方がご存じだろう」
「いいえ。あたしは一度も一緒に暮したことがないんです。だから、母と一緒に暮したいなんて嘘。親だと思ってません」
「しかしカルちゃんの方じゃそう思ってるぜ」
「どうでしょうか。あの人はいろいろ男をつくって、いれあげてばかり。親戚の人は皆そういいます。鬼っ子だから相手にするな、って。よくいろんなところで訴えられたりするんです」
「そうかもしらんが、それでもやっぱり君の存在は彼女にとって大きいよ。男をつくったって子を忘れるわけにはいかん。人間という奴はいろんなものが混在してるからね」
「先生もだまされてるんですよ」
「しかし、君はどうして東京に出て来たんだね。母親のところに来たんじゃなかったのかい」
「どんな人だが見てみたいと思って。でも、一緒には暮しません。あたし、貯金もすこし持ってます」
「カル子が送ったお金かね」
「あの人、お金なんか送ってくれませんよ。伯母のところで貰うんです」
「それがカル子のお金かもしれないじゃないか」
「男が居るんでしょう」
「俺は知らん。詮索《せんさく》しないから」
「来るまでは、先生が男かと思ったわ」
「なるほど」
「――母は本当にただの女中なんですか」
「女中というか、家事主任兼秘書兼マネジャー兼マッサージ師兼同居人兼――」
「すみ子さんは――?」
「あれは、まあ、元女房。しかし素人《しろうと》にはちょっとわかりにくいだろうな。世紀末になるとね、だんだん衰弱して奇形が続出するから――」
「ねえ、あたしもここにおいていただけません」
「君は貯金があって、外で自立するんじゃなかったのか」
「だけど、あたしもおいていただきたいわ。あたし、料理上手です」
「今のところ、人手はいっぱいだな。それに俺だっていつまでこうしていられるかどうか。明日をも知れぬ経済状態だよ」
「母はそのうちどこかへ行っちゃいますよ」
「それじゃ困る。カル子は居てくれなくちゃ。あの働きぶりは誰にも真似できないよ」
「でも、行っちゃいますよ。あの人、長いことひとつ所に居たことないらしいから」
「そりゃ、附添婦をやっていると、病人から病人をわたり歩くことになるんじゃないか」
「あたし、母より若いです」
「――当り前だ」
といって私は笑いました。
「当り前って、本当に若いんですよ」
二度、念を押されて、はぐらかす構えがいくらか揺れます。
ハム子はそのときまで私の机のそばに立ったきりでしたが、身をひるがえすようにベッドの端に腰をおろしました。
「ほら、見せてあげましょうか」
彼女は今にもブラウスを脱ぎそうにします。私は吹きだして、
「ははァ、そういうところは、なるほど、カル子の娘だな」
「母も、こんなことをしたんですか」
「俺が入院して手術をしたあとに、附添いについてくれたカル子が、俺の気をひきたたせようとして、病室で裸を見せてくれたことがあったよ。すみ子も一緒に居てね。二人できゃァきゃァいって騒いだ」
「それで気に入ったんですね」
「いや、そうじゃない。そうじゃないと断言もできないが、俺がカル子を気に入ったのは別の点さ。彼女の値打ちは、別だとも」
「くるくる働くから――?」
「それもあるが、なんというか、何をしてくれても、心がこもっているんだよ。俺にはそう思える。そこが不思議なんだ。俺は今まであんなふうに心がこもったあつかいを他人からされたことがないよ」
ハム子は躊躇《ちゆうちよ》せずにブラウスを脱ぎ、そうして立ちあがり、下半身にも手を延ばして身につけたものを次々とはぎとるのです。
私は窓の外の明るい陽ざしの方に眼をやりました。
「先生、見て。あたしの値打ちはどう」
とにかく、輝くばかりの美少女なのです。白い胸乳がゆるみなく盛りあがり、腹のくびれから腰まわりにかけて、まだ幼くこりこりと小さく固まっています。
私は吐息をつく思いでした。神秘な傑作のように思える裸体を、腕を伸ばせばすぐに抱きすくめることができるのです。
「わかった、わかった――」と私はかすれた声でいいました。「わかったよ。とにかく、着たまえ」
しかし、ハム子はそのまま立っています。
この娘は、資源という点では、すみ子やカル子より、格段に恵まれているようです。肉体ばかりでなく、すべてがおおむね整っていて、特に大きな欠落はないように見える。すくなくとも、すみ子やカル子のように、大きな欠落を抱えていて、そのため全体がエキセントリックにならざるをえないような苦しみ哀しみを経験しなくてもすみそうです。
ハム子はきっと、俗で、汚れっぽくはあるが気楽な一生を送れるでしょう。
だが私は、すみ子がいい。又別の面でカル子の方がいい。こんな美少女なんてまっぴらだ。特にすみ子は、平生は一挙一動が閉口のきわみだが、この娘と並べてみると、得難い女に思われます。すみ子のいいかげんさと、この娘のいいかげんさとでは、重さがちがうのです。
私はハム子を見捨てて机に向かおうとしました。そのときはじめて気づいた、と記すと自分でも嘘をついているように思えますが、股間《こかん》のものが怒り立っているのに気づいたのでした。私はハム子の方にまた顔を向けました。
彼女は両手を肩に廻すようにして胸乳をかくし、いくらか腰をうしろにひきながらいいました。
「あたしだってお役に立ちますわ。そうでしょう。おいてください」
私は黙っていました。
「不良少女と思ってるんですか」
「いや。――君みたいな女の子はいっぱいいるよ」
「そうですか」
一瞬、彼女の眉根に筋が立ちました。
「母親に面当てをしてるんだろう」
私はなお意地わるくいったつもりでした。ところが、あッと思ううちに、この娘を苛《いじ》めぬいてみたい、という気持でいっぱいになっていました。何故だかよくわかりません。私や、すみ子や、カル子が、こんな娘に馬鹿にされてたまるか、と思ったのです。
私は立ちあがって、試験でもするように彼女のそばに近寄り、唇を吸いました。もし彼女が騒いで逃げようとしたら、内心で嘲笑《ちようしよう》して終りにしようと思っていたのですが、ハム子はじっとしたままで私の唇を受けました。
私はもう少しで、俺はお前の母親と、一度寝たことがあるんだぞ、というところでした。それは辛うじて押さえましたが。私の腕の中に彼女の冷たい柔らかい身体が入ると、もう抑制がきかず、人魚を寝かせるようにベッドの上に乗せました。実際、カル子のことを考えると、昂《たか》ぶりの波がひっきりなしにやってくるのです。
ハム子は、異様なほど従順でした。ただ、眼をつぶって、身体を動かさず、しかし私のなすがままになっていました。じっと堪えていたのか、それとも経験の幼さのせいなのか、私には判別がつきません。
最中に、カル子が買物から帰ってきた物音がしました。私は思わずハム子の表情をうかがいましたが、あわててやめようとする気配はありません。ただ、表情がはじめて崩れて声を出しそうになったので、唇を重ねて防ぎました。
終ったとき、私は小声で、
「すぐに出るな。しばらくここに居なさい」
「大丈夫――」
と彼女もささやきます。
「駄目だ。彼女は母親だ。それに女だ。君の気配を見落すものか」
「いいわよ――」
ハム子はそういって、髪をちょっと直すと、手早く着衣をつけて部屋を出ていきました。
五
誰よりハム子自身がまっさきに、この家の一員という顔つきをしはじめました。
カル子はもちろん、その微妙な変化をさとっていたでしょう。すみ子はどうだったか。
すみ子は、いかにも手柄顔で、彼女の実家が人を探している、というニュースを持ってきました。
彼女の実家は店員をたくさん使っており、そのための寮を持っていますが、炊事のおばさんの代りを探している由。
「ハム子ちゃんは料理専攻なんだからちょうどいいでしょ。寮の部屋も空いてるし」
誰も返事をしません。
「ねえ、どうなの」
「まあ、そう急にきめるわけにもいくまい。考えてみる、それでいいだろう」
私はそういい捨てて、二階に逃げあがりましたが、階下の妙な空気はすべて私の失点で、さすがの私も今回ばかりは居たたまれない感じです。
けれども、自分の机に坐ってみると、反省するよりも、苦笑が湧き出てくるのです。大体私は(階下の女たちと同じように)あまり反省というものをしない体質ですが、今回も、どこを反省したらよいのか、結局は要点がつかめないような気がします。
ハム子を喰った。更にいえば、カル子も以前に喰ってる。いくらか弁解がましくいえば、両方とも据膳《すえぜん》が出てきたようなもので、私の方から積極的に仕かけたわけではありません。また、据膳が出てきて振り向きもせずに生きられるほど鉄壁の道徳を持っているわけでもありません。
そうであっても、このことは、多分、すみ子を傷つけるでしょう。夫婦ではないのだから、お互いに自由だ、といったところで、そんなことに関係なしにすみ子は傷つくだろうし、私も呵責《かしやく》を感じます。だとすると、とりもなおさず、それが私たちの愛のかたちだとはいえますまいか。
ひょっとしたら、カル子も、ハム子も、私とすみ子の奇妙な絆《きずな》を存立させるための脇役のようなもので、カル子やハム子があってこそ、私たちの関係は鮮明に浮きあがるのかもしれません。愛のかたちのみならず、生活のかたちが全体に衰えてきているので、こうした虚像や破綻の助けを借りて、はじめて写真の陰画のように眼の前に現われてくるような気もします。
今回のことだけでいえば、いかにも私の身勝手のようにきこえますが、私たちの歴史の中でいえば、すみ子の方だって大小さまざまの違反をくりかえしているのです。私もすみ子もお互いに閉口して、あるときから夫婦という枠をとっぱらいました。そうしてなお一緒に暮している以上、それなりに相手の違反を我慢してもいたのです。すみ子だって、彼女流のじたばたをくりかえし、しかもまた復帰してくるたびに、内心の執着を確かめられたのではなかったでしょうか。
私は、ハム子を好きではありません。べらぼうないいかたをすると、あれからもう一度ハム子を抱いたりしてそれなりに快感を得ておりますが、それでもやっぱり、ハム子を好きになれません。また、ハム子の身体を喰ったという罪悪感もありません。身体なんぞ、それこそ減るものじゃなし、お互いの思惑で喰いっこをしただけです。私としては、むしろそのたびに、すみ子の存在が色濃く頭に浮かんでしまうのです。
すみ子とは、夫婦として(お互いに)落第。ただの人間同士としてもやっぱりちぐはぐ。私にとっては(多分彼女にとっても)お荷物に近い。すっぱり別れることができれば無上の幸福のように思えます。だが、それだけじゃない。ただの喰いっこでもないし、悪い運命とあきらめているだけでもない。この、それだけじゃない、というところに常々私はこだわっているのです。
カル子には、必要な面も不必要な面も、すべて私の中で明瞭になっています。はっきりいって、元女房など不要なのです。何故、私も彼女も、別の新鮮な生き方を考えないのだろう。
私が以上のようなことを漫然と思っているとき、階段を荒く昇る足音がして、血相を変えたすみ子が部屋に入ってきました。
「あたし、出て行きます――」
と彼女はいいました。
「――うん」
「お世話になりました。あとで荷物、取りに来ますから」
切口上でそういって、後も見ないで去っていきました。
もちろん理由は聞かなくてもわかっています。すみ子の持ってきた就職兼宿舎の案を、ハム子がにべもなく蹴ったのにちがいありません。
そうしてハム子は、カル子とすみ子の双方に等分に、私と寝たことを告げたでしょう。ハム子は特にカル子に対してそう告げたいために、私に抱かれたのでしょうから。
すみ子が家の外に走り去っていく気配を耳にしながら、私は階下におりていきました。このままではハム子がいい役になりすぎます。
最前坐っていたところから動かずに、カル子もハム子も固く坐っていました。
「――異変が起きたね」
と私は笑いながらいいました。
「しかし見た眼ほどの異変でもないんだ。しばらくたってみると、自然におさまるべきところにおさまっていて、何も変りゃしないような気がするよ。大体、俺もすみ子も、カルちゃんだって、おのおのもう変りようがないよ。異変が起きたから次の日からちがう生き方をするなんてことはできないだろう」
カル子は顔をあげて、沈痛な表情でいいました。
「わたしもおヒマをいただこうと思っています。こんな娘が飛びこんで、ご迷惑をかけました」
私はカル子からハム子に眼を移しました。
「あたしは残ります――」とハム子。
するとカル子も、続けて、
「ハム子が残るんなら、わたしも残ります」
「ちょうどいいわ――」とハム子が叫ぶようにいいました。「あたし、先生の奥さんになったっていいのよ。それで母さんを女中にして召使ってやる」
「そういってみたいだけなんだろ。君の気持はよくわかるがね」
「いいえ、本気よ」
「ところがそりゃ無理さ――」と私はいいました。「第一に、結婚というやつは、君が考えるような、そんな子供じみたものじゃないし、第二に、俺も結婚はこりごりなんだ」
「それじゃ、あたしはおいていただけないんですか」
「おかないとはいわない。どうしても居たければ居るがいい。但し、此方が頼みこんでいて貰うわけじゃないから、君にはギャラは払わない。ただの同居人だ。お母さんになら頼んでも居て貰うがね」
「へええ、あたしは一銭の値打ちもないんですか」
「一緒に寝たからって、銭は払わないよ」
「お金なんか欲しくないわ。でも、あたしが欲しいっていったら」
「腕ずくで取ってみろよ。それしか手がない」
「それじゃ、あたしは丸損ね」
「そうだよ」
「そんなに母さんがいいの」
「ああ。君とくらべれば、プロとアマチュアぐらいちがう。俺はアマチュアは認めないからね」
ハム子の寒々しい顔を見て、私は少し気持をゆるめて言い直しました。
「あのね、何の道だって同じだ。プロで通用するためにはね、極め球を二つ以上持たなければならない。野球を見てるかい。いくらいい投手だって、同じコースにストレートばかり投げていたら、カモさ。ストレートを生かすにはカーブだ。そのカーブだって一種類でない方がいい。コンビネーションが大切だ。ストライクという奴はもはやひとつの道徳じゃ律しられなくなってるからね」
ハム子も、カル子も無言。
「それでね――」と私は続けました。「本当のことをいうと、君の極め球はすばらしいよ。しかしその極め球を単純に使いすぎる。どんなにすばらしくたって、それだけじゃ相手がミートしてくるからね。喰われちまうだけだ。もうひとつ、別の極め球を持ちたまえ。君のそのすばらしい身体に見合うような極め球をね。もちろん今からだっておそくない」
「たとえば、どんなことですか」
「そりゃ俺にはわからん。しかし、お母さんを見習いなさいよ。君は、子供の面倒を見ないとか、男をつくるとか、不満なようだけれども、お母さんはすごいよ。極め球が二つ以上ある。しかもどの球も、楽に投げられる球じゃない。すくなくとも自分の生活が奇形になるほどの苦しい球を身につけて武器にしてる。母親としてとか、女としてとかいう前に、人間としてプロだね。俺はその点を尊敬するんだ」
「世間じゃそういいませんね」
「そりゃ世間は彼女と直接ゲームをしてるわけじゃないからね。概念で片づけてるんだ」
私のお説教も人を喰ったもので、子供相手に大人の修羅場の戦法を駆使しているようなものでしたが、それも続いておこった椿事《ちんじ》のために中断されました。
玄関の扉があいて、若い男の訪《おとな》う声がし、それはたしかにこうきこえたのです。
「須田ハム子は、こちらにお邪魔しておりませんでしょうか」
ハム子は立上らず、カル子が代りに玄関に行きました。そうして学生服の若い男を招じ入れたのです。
彼は、私もカル子の方も見返る余裕がないようで、突っ立ったまま、ハム子を見つめ、
「君、ひどいじゃないか」
ハム子はゆっくり青年を見ました。私たちの前では子供でも、青年に対すると意外に動揺しません。
「お坐んなさいよ。どうしてここがわかったの」
「どうしてって、僕があのまま黙ってあきらめてしまうと思ってるのか」
六
電話のベルが鳴って、はたしてすみ子の声がきこえました。あれから、もう三日目です。
「――モシモシ、誠ちゃんなの」
「ああ。機嫌は直ったかね」
「何をいってるのよ。荷物をとりに帰ります。それから、お金を頂戴《ちようだい》」
「いいよ。今度のことは俺がわるい。好きなようにしたまえ」
「お金があるの」
「無いが、高利貸しがすぐ持ってくる」
「それで、もう誠ちゃん一人なんでしょ」
「いいや――」
と私はいいました。自分でもおかしく思いましたが、
「また一人増えたよ」
電話口はしばらく沈黙したままでした。
「――誰が?」
「今度は男。若い男だ」
「どこの人――?」
「ハム子の男らしい。追いかけて東京に出てきたんだ」
「あの二人もまだ居るのね」
「居るよ」
「わかったわ」
ガチャンと乱暴に電話が切れましたが、それからまもなく、すみ子が疾風のようにやって来て、階下のリビングにわだかまっている連中を無視し、二階に駈けあがってきます。
「わかんないわねえ、男って」
「そうかね」
「誠ちゃんは特にわかんないわ。あの娘と一緒になる気なの」
「俺はあの娘は好かん。あの娘だって今は、自分の男と応戦するのに夢中だよ」
「だったら何故、連中を投《ほう》りださないの。それがあたしに対する礼儀でしょ」
「しかし、どっちだって似たようなものだろ。家に入りこんでくる連中もあるし、入りこまないで外にとぐろを巻いてる連中も居る。生きてるとだんだん澱《おり》が溜ってくるよ」
「誰の家だかわからなくなるわよ。あたしがほうりだされて、今度は誠ちゃんだって影がうすくなるわよ。今にそっくり占領されちゃうから」
「占領されるったって、この家は借り家だし、俺は借金だらけだ。家があるように見えるけど、実際は蜃気楼《しんきろう》みたいなものでね。占領のしようがない。ある日俺が家を出ていって、そのまま帰らないつもりなら、それで片がついちまうんだよ」
「よくもそんなふうにのうのうとしてられるわねえ。あたしは駄目。とてもおつき合いはできないわ」
「それで、今、どうしてる。親のところには戻ってないんだろう」
「どこかに部屋を借りるわよ。それで一人で暮すわ。ことわっとくけど、誠ちゃんが皆お金だすのよ」
「それじゃ、前に離婚したときと同じようなことだな」
彼女はちょっと弱い声音《こわね》になっていいました。
「そうよ」
「それでそこへ俺が泊りにいくのか」
「おつきあいできないっていったでしょ。きこえなかったの」
「うん。しかし、面白いな」
「面白くてお幸せね。あたしはちっとも眠れないわ」
「いや、そういう意味じゃない。家なんてものも、それから俺なんかの場合、仕事も、なんだかみんな泡のようなものだが、君という存在がちょっと気になるんだ」
「今頃なにいってるのよ」
「これこそ典型的な泡で、吹けば飛ぶような関係なんだがね――」
「もういいわよ。お金を頂戴」
私は立っていって財布を渡しました。
「今日は有るだけだぜ。しかし、荷物を取りにって、手で持って帰るつもりか」
「だってお金がなかったんだもの。毎日来て少しずつ持っていくわよ。だからお金もいっぺんでなくていいの。本当は誠ちゃんの顔も見たくないんだけど」
「おい、もういっぺん、やり直そうか」
すみ子はびっくりしたように私の顔を見上げました。
「やり直すって、結婚のこと?」
「そうだよ」
「――嫌よ。それは絶対に嫌!」
「そうだな」
「わかりきってるでしょ。あたしたちがうまくいくと思うの」
「うまくなんかいくもんか。うまくいくわけがないよ。俺たちはもう変りようがないんだから。しかしうまくいかなくたっていいじゃないか。また別れて、何度でもやり直せば。いつか言ったろう、そうしてるうちに死んじまう。それでまた生まれ変って――」
「どうしてそんなふうに、人を赤とんぼみたいにいうの」
「――だって、赤とんぼとどこがちがう」
「あたしは嫌。あたしの一生は一度きり。かけがえがないわ」
「そう思うだろうが、それでも結局は同じことじゃないか」
「嫌よ。絶対に嫌。なにもかも、嫌よ」
すみ子は眼に涙を溜めかねまじき気配で、さらにこういいました。
「いつだって誠ちゃん、そんなことをいってからかうんだから。あたし救われないわよ」
すみ子が玄関を出ていくあとから、私も見送るように外に出て、それで彼女が向うの角を曲がって、姿も見えず、声も届かない頃合を見はからって、おうい、すみ子――! と私は叫びました。
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連 婚
一
ただいま、私の家庭は、珍しくいくらかの静謐《せいひつ》を保っております。もしも、家の囲いの中を家庭というならば、ですし、同じ家に住んで財布の中味にほとんど戸を立てない者たちを家族というなら、ですが、それぞれが自分の問題を抱えこむあまり、家の中で顔を合わせても波風をたてる余裕がないといった状態でした。おかげで私もなんだかだらけて、生業にしている三流週刊誌の実話ダネ書き飛ばし原稿もさっぱり身が入りません。
当然、家計失調です。失調は昔からだから、大失調とでも申しましょうか。したがって高利貸したちの取立てはきびしい。けれども当方も、取立てのきびしさに負けぬくらい烈しく借りまくってしまいますから、先方もなんとか取立てようという攻めの寸法だけでなく、絶対にこれ以上貸すまいという守りの技術も駆使しなければならず、そこのところで混乱し、中途半端になって攻めも守りも迫力がうすれます。
利息のついた借金が雪だるまです。それでべつにかまいません。私が学生時分から金貸したちと親しく往来しておりますが、全額を返済して彼等と断絶し、綺麗な身体に戻ろうと思ったことは一度もありません。もちろん働いて端から返す。必要があればすぐに借りる。必要だらけで、収入をそっくり返金してしまうから、すぐに借りに行かなければならない。銀行で出すパーソナルチェックのような小切手帳を高利貸しに出して貰って、買物はすべて高利貸しの方にツケが廻ることにすればどれほど便利だろうと思うことがあります。私は子を造らず、家も建てず、資産など残す力も気持もないから、借金を残して死んだとて誰に迷惑も負担もかかりません。完済する気持がほとんど無いのだから、高利だろうが低利だろうが、さほど関係ないのです。
もっとも、素人の方が甘く見てはいけませんよ。素人というのは、人並みに、あれもしたい、これもしたいと思うお方のことで、物であろうが心であろうが、何かを持っていたら根こそぎ剥《む》かれて裸にされます。サラ金もプロですから、プロの仕組みと技術を持っています。ここに手口は記しませんが、壮絶を極めるもので、素人が正面から対していてはどんな人だって、銀行ギャングや殺人を犯すはめに立ち至るでしょう。どんなことにしろ、プロというものを侮《あなど》ってはいけません。しかし、その方々のために敢《あ》えて記しますが、金貸しは、彼等独特の保険に入っているものでして、かりに客が返済できなくても、金貸しが損するわけではなく、彼等の保険会社が欠損になるだけなのです。ただ、彼等は、元金と利息を、借りた人からとり戻すのが直截《ちよくせつ》であり、かつ概念的にも正当である以上、できるだけ客を責めなければならぬと思っているにすぎないのです。
借金をするのは中途半端な気構えではいけません。人格も俗気も無くし、身も心も貸し主に捧げて、生涯の収入をすべて金貸しに持参する。そうなれば自分を失ったも同然なのですから、そこではじめていくら借りようが、借りも貸しもどっちでもいいという事態になるのです。
ですから、たとえ一銭たりとも自分の金などと思わぬこと。ふだんはどうでも肝心のところでチャランポランになること。これがなかなか、素人にはむずかしいですね。肝心のところでどうしても一生懸命になりがちですから。しかし、事業家というものは(彼等が幸せであるかどうかは別にして)そういうものではありませんか。
話が横にそれました。これは借金小説ではなくて、私の家族のことを記述する所存でした。が、なんとなく、こう記してみると、借金生活も、結婚生活も、どこか似ているような気がしてくるのです。
では、私の(現時点における)家族なるものをご紹介しましょう。
まず、元女房のすみ子。彼女と私は六年ほど結婚生活を送ったのに離婚して、夫婦の恰好《かつこう》を解き、するとお互いに離れがたいものを感じて、改めて一緒に暮しはじめました。もちろん二度と再婚する気はありませんが、といって、まるっきりつながりを絶ってしまうわけにもいかない。ちょうど借金のように。
しかし、このところすみ子はなんだか存在をうすくしてしまって、自分の部屋にひきこもったきり、ほとんど顔を見せません。なんでも風邪をひいたとかで、近頃の流行性感冒が悪質であることも確かなのですが、それ以上に過敏性の体質なので、風邪ではないかな、とふと思ったとたんにもう本物の風邪と同じ症状が来ているのです。そのうえ、薬負けをするとかで、風邪薬を呑《の》むと、がっくり胃をやられ、そのため胃薬を呑むと頭が痛くなり、頭痛薬を呑むと食欲不振におちいるという具合で、次から次へと薬負けをし、身体の中を四方八方に悪寒《おかん》が伝播《でんぱ》していって、蟻《あり》地獄のように這《は》い出る隙《すき》もないほどの重態におちいってしまいます。
そうしてなおいけないことには、いったん不調になると、ただ押し黙って自分の殻の中に閉じこもってしまうのです。彼女の(私もですが)ただひとつの凛《りん》とした特長は、人に沿わないということです。天災のような形で災厄に出遇ったときは、まっ先に悲鳴をあげて助けを乞うでしょうが、自分自身に理由があるような場合、あるいは自分の内心を折れ曲げねば解決しそうもないような場合は、一人で押し黙るだけです。ひしゃげたような乾いた顔つきをして、何日でもそうしています。私もそうですが、彼女も、どんな場合でも反省ということをしません。彼女が待っているのは自然治癒か、滅亡か、その二つだけであるようです。そうして、滅亡ということを、すくなくとも観念としてはそれほど恐ろしがっていないように見受けられます。
もちろんそうした状態のときに、彼女が折れて助力を乞うのではなく、誰か他人が積極的に救いの手をさしのべれば、喜んでその手にすがってくるのですが。
カル子が家の中に居たら、女同士のことでもあり、眼ざとい気質ですからきっと何か面倒を見ていたでしょう。けれどもカル子はこのところしばらく、埼玉の方の地主の得意先に出張していて我が家に帰ってきていないのです。
カル子というのは、さァなんと説明したらいいのでしょうか。もともとは私が大病をして入院していたときの附添婦でした。短大生の娘を持っているくらいの年齢ですが、類を見ないほどの働き手で、二時間も寐《ね》ていると身体がかゆくなるといって、昼夜の別なく、家事いっさいの労働に関して蔭《かげ》日向《ひなた》なく、情をこめて、軽々と楽しそうにやります。そこを見込んで退院後も我が家に住みこんで貰っているのですが、色白なすみ子と対照的に浅黒く、むっちりとした身体の魅力も備えており、私としては、日常に関してならすみ子以上に不可欠の存在でした。
カル子のギャラは病院のときと同じく、二十四時間勤務で一日一万円。そのうえ、絶え間ない前借りは結局支払いからさっぴくからいいとして、彼女には盗み癖があって、ちょこちょことかなりまとまった額を盗っていくのです。しかしこの家の中に転がっている金は残らず高利貸しのものであるわけだし、私自身がいつも収支の合わない生活をしていますから、彼女が盗ろうと盗るまいと、それが原因で私が破滅していくわけでもありません。
カル子の方も、決して無軌道に盗りまくるというのではないのです。なにしろ猛烈な働き屋だから以前から固定の得意先を持っているらしく、埼玉の地主の要望に応《こた》えて出かけていったのも、私の払うギャラの負担を減らすだけでなく、私のところからばかり盗らずに埼玉の方からも盗ってくるつもりで行ったのに相違ありません。彼女は彼女なりに、家の中に波風を立てまいとしていたのでしょう。
すみ子という女はベビーフェイスのせいか、外見はいつまでたっても年齢《とし》を喰わないタイプですし、カル子も熟年の艶《つや》っぽさを失っていませんが、我が家にはもう一人、美少女が居ます。カル子の娘でハム子といい、山形だか秋田だか(多分そこがカル子の故郷なのでしょう)の短大に母親の仕送りで行っていたのをすっぽらかして東京に出てきてしまったのです。
彼女は、美少女という点では本格的で、肉体ばかりでなく、すべてがおおむね整っています。すくなくともすみ子やカル子のように、相当な欠落を抱えていてそのため全体がエキセントリックにならざるをえないような苦しみ哀しみを経験しなくてすみそうです。
それだけに、俗で、汚れっぽくなる感じがあり、すみ子がどう思おうと、私はあまり魅かれていません。
ハム子も出奔してきた当初は、一緒に住んだこともない母親に対する愛憎で突っ張っているようでしたが、そのうち自然に気持が方々に散って、目下はジャズ歌手になるための勉強に余念がありません。毎日、師匠の付人みたいにしてライヴハウスを廻り、深夜か明け方に帰ってきます。
いずれにしてもハム子は、私にとってはカル子の付録みたいなものですが、もう一人、菊井良治という青年のおまけが加わりました。ハム子を追っかけて、山形だか秋田だかから私のところに転がりこんできたのですから、ハム子とは相当に近しい関係にあったと見ていいでしょう。
菊井は私のところでは、個室が不足しているので、リビングの寐椅子《ねいす》に寐転がっています。ハム子はすくなくとも私たちの前では冷淡で、ほとんど彼女の部屋に入れようとしません。といって菊井が立ち去らないところを見ると、曲折しながらも彼等なりの関係があるのでしょうか。菊井は出奔に際していくらかの金を握ってきたらしく、わりにのんびりと私のところの電話番兼雑用係に甘んじているようです。
以上。これが家族だとすると、まことに支離滅裂で、一人として家族の態《てい》をなしていないようにも思えますが、私はもともと見境いがないし、出鱈目《でたらめ》なのです。一度出鱈目にしたら、どこかで線を引いても詮のないことで、なんでもかんでも呑みこんで、行けるところまで行ってみるしかありません。
二
徹夜作業の余波で昼すぎに起きて階下におりていくと、珍しくすみ子が、ガスストーブのそばにぽつんと坐っておりました。その向うの寐椅子には菊井青年が寐転がって週刊誌など眺めています。
「おや、元気になったのかね」
「――死んでは居ないわよ。ご不満でしょうけど」
「どういう意味だい」
「それでも、あたしが具合がわるいということくらいは知ってたのね」
「誰かにチラときいた気がするな」
「――ねえ菊井さん。うちのおやじさんはね、粗大ゴミなのよ。あたしに何があっても何の役にも立たないの」
私は菊井と顔を見合わせて苦笑しました。
「ほんとに呆《あき》れちゃうわ。優しくないんだからねえ」
「うん――」
「ほんというと死にかけてたのよ。だけどこんな冷たい男を持ってと思ったら、怒りで死ねなかったわよ」
「そりゃよかった。気持に張りが出ればね」
「それで死んでやろうと思って、呑まず喰わずに居たけれど、死ねないのよ」
「――いったいどこがわるかったんだ」
「ほら、これだからね。元女房がなんで寐こんでるかも知らないのよ。一軒の家に居ながら」
「しかし、俺は仕事で関西に出かけていたぜ。君が寐ついたのはその頃だろ。電話しても、病気だなんていわなかったし」
「当り前よ。口がきけないほどわるかったんだから」
「俺が帰ってきたときは、もう部屋から出てこないし、たまにトイレのあたりで出遇っても、ぶすっとしてるだけで、なんだか俺にはひとつもわからない。君は機嫌がわるくなるといつも黙りこくっちゃうからな」
「誠ちゃんがわるいのよ。ひとが死にそうというときにのほほんと旅をして」
「しかし俺は知らないんだ」
「知ろうとしないんじゃないの。帰ってきたってお見舞いの一言もないし」
「それはまァ、病人だと思えばこちらがサービスをしたっていいな」
「そうよ。粗大ゴミよ。今度寐ているときにビニールの袋に入れて外に出してやろうと思ったって、重くて運べないし、よけい腹が立つわ」
「しかし君だって、熱があるのよとか、頭が痛いのとか、一言ぐらいいったっていいじゃないか」
「それじゃあたしがわるいの」
「わるいとはいわないが、俺は知らされてないんだから」
「今死のうって病人がいちいち報告なんかできると思う」
「菊井くんからざっときいたがね。この家に君と俺と二人っきりだったら、君が死んでたって、俺は気がつかない」
「菊井さん、きいてよ。こういう人ですからね。死んだ者がどうやって死んだっていえるの。どこの家だって、いちいち報告がなくても、誰か死ねば皆ちゃあんと知ってるわ。それが家族ってものでしょ」
「そういえばそうかな」
「今度だけじゃないわよ。いつだってそうだったじゃない。四十度くらい熱が出てうんうん唸《うな》ってるときに、麻雀やりに行って帰ってこなかったでしょ、二日間も。あたし身動きができなくてね。ベッドから手をのばして電話をお母さんの所に三十分おきにかけて、うわごとみたいなことをしゃべってたわ。そうやってるよりしようがないもの」
「そんなこともあったな」
「それ以来、絶対に黙ってることにしたの。あたしがどうなろうと、誠ちゃんには無関係ですからね、って、そう思ってるのよ」
「今度はそうするよ。頻繁に部屋をのぞきに行こう」
「冗談じゃない。困るわよ。そんなこと誠ちゃんの自由にされてたまるもんですか。あたしはずっと処女だって皆にいってるんですからね。誤解されちゃ困るわ」
「どうすればいいんだ」
「どうもしなくていいの。ただ粗大ゴミだっていっただけ」
「しかし、結局死なないで、なおってよかったな」
「なおってなんか居ないわよ」
「それだけしゃべれればよくなったんだろう。死にそうな奴はもう少しおとなしい」
「これだからね。菊井さん、きいててね。こういう人よ。優しくないの。結婚生活が六年間、離婚して三年、よくあたしが生きのびてきたと思うでしょう。九年間、孤独だったのよ」
「それで、どこが悪かったんだ。結局、風邪かね」
「知るもんですか、そんなこと」
「君が知らんことを俺が知らなくてもしようがないな」
「ただ寐てたのよ。熱が出て、ものが喰べられなくて、歩けなかっただけ」
「まァなおってよかった」
「なおってないったら」
「すると、今はどこがわるいんだね」
「今は、胃――」
「ああそうか。君は薬負けするんだったな。胃薬を呑むと歯が痛くなって、歯の薬を呑むと下痢をして」
「どうせ始末がわるいわよ。誠ちゃんみたいに無神経じゃないから」
「永久になおりそうもないのに、それがどうしてなおるのかね」
「なおってない。もうずいぶん何も喰べてないわ」
私は思わず笑いだしてしまった。
「――菊井さん、見たでしょ。鬼の笑い」
「ごめん。君のことを笑ったんじゃない。俺たちは大体、話が無いんだが、さすがに病気は共通の話題になるね。他にはしゃべりたいことがないみたいだ」
「あたしが死ぬのを待ってるからでしょ。それ以外にこの人は話題がないのよ」
「まァそういってみたいんだろうが、けっしてそんなわけじゃないぜ。俺は誰だろうと死ぬのは好かん。ずっとこのままの方がいい」
「誰だろうと、ってのはどういう意味、あたしを他の人と一緒にしないで」
「一緒にはしてないさ。君とは結婚して、離婚した。それだけだって特別の人だ。そのうえ、別れてもまだ一緒に住んでるんだ。別れないで一緒に暮しているよりずっと、特別の関係だと思うね。いってみれば、建前なしで、実質だけで続いてるんだ」
すみ子は急に、警戒するように鈍感な表情になりました。
「そんなに、むずかしい間柄にしないで」
「俺一人でむずかしくしたわけじゃない。俺と君と二人で、気を合わせてそうしたんだ。それに、むずかしい点もあるが、やさしい点もあるよ。責任もない、義務もない、死のうと生きようとお互いの勝手だ」
「――ほら、ね」
「しかし、そうなんだけれども、死んじゃ困る。そう思っているうちは、さほど苦労せずに続くよ。そのうえ、すくなくとも俺は、この先も多分、その気持が変らないのじゃないかと思ってる」
「嘘でしょう」
「いや、そう思ってるよ。ただ、どうしてそう思うのか、よくわからないだけだ」
「あたしねえ、ただの風邪じゃないように思うのよ」
「いつか、だいぶ前にいってたことがあるな。あたしは風邪|癌《がん》かもしれないって」
「冗談じゃないのよ。今度は本当。澱物《おりもの》がおりるの」
「どんなふうに――」
「それが変なのよ」
「医者に見せろよ」
「そうですよ――」と菊井もロをはさみました。「大体はじめから、なぜ医者に行こうとしないのか、すみ子さん、不思議ですよ。こういうタイプの女の人はすぐに悲鳴をあげて病院に駈けつけるもんですがねえ」
「いや、医者は駄目なんだ。過敏症だからね。医者に行かなければと思っただけで、どっと重態になっちゃうんだ」
三
私はいつものとおり、多少からかい気味でしたが、それでも彼女のやつれ具合、顔色の生気のなさ、動きの乏しさなどに眼をとめておりました。とにかく十日間以上も寐こんでいたらしいのだから、やつれは当然でもありましょうが、もともとそう頑健でない彼女が私と暮しだしてから大病をしたことがないというのが、むしろ不思議だったのです。
ある日、すみ子がぽつんとこういいました。
「あたし、思いきって、検査をして貰いに行ってみようと思うわ」
「澱物がとまらないのか」
「なんだかおかしいの。あたしももう三十三だものね。女の厄年っていくつだっけ」
「もうすぎたろう。満で三十二かな」
「お婆ちゃんだものね。癌になってもおかしくないわ」
「じゃ、すぐに行けよ。決心したときが一番いい。気が変らないうちに」
「嬉しそうね」
「べつに嬉しかない」
「あたしは嬉しかったわ。誠ちゃんが入院するとき。元気な人間て憎らしいものね」
「とにかく俺の入院したあの病院がいい」
「ええ、そのつもりよ」
「電話をかけといてやる。君はまた冷たいというだろうが、俺は仕事で今日はついていってやれない。カル子が居れば一番いいが、菊井くんに一緒に行って貰え。健康診断なんだから、怖がらずに行けよ」
「いやあねえ、病気って」
「病気だかどうだかまだわからん」
「だってあたしが病院に行く気になるなんて、普通じゃないでしょ。癌だったら自殺するわ。スキーに行って凍死するの。ねえ、凍死って楽だと思わない」
「またそこでごちゃごちゃいっていると気が変るぞ。早く行って早くすませてこい」
菊井と一緒に、すみ子は都心にある病院に出かけていきましたが、なかなか帰って来ません。そうして夕方近くなって、この前に私の生命を救ってくれた内科の医者から電話がかかってきました。
「――奥さんね、今夜ひと晩、病院の方に泊っていただきましょう。奥さんもそのつもりになっておられますし」
「そうですか。どこか悪かったのですか」
「いや、まだ検査をはじめたばかりですから。今夜、絶食して貰って、明日内臓を調べようと思いますが、いろいろ守っていただくことがありましてね、病院の方がなにかと守れるでしょうから――」
私は笑いをかみ殺しました。すみ子のノーテン気なわがままは、医者もよく知っているので、検査を遂行するためには病院に留置すべきだという判断に至ったのでしょう。
それはいいが、菊井青年も帰ってきません。
夜に入ってから、菊井から電話があり、
「すみ子さんがですねえ、やっぱりかなり面目を発揮してますよ。朝からなんにも喰べてないというので、今日午後、早速に胃の検査をしたんですがね、すみ子さんはレントゲンの若い技師をふらふらにさせて、結局バリュウムを規定の半量以下しか呑まずにやったそうです。それでもなんとかパスしたようですが。胃に大きな異常は無いんで」
「――なるほど」
「すみ子さん、やっぱり魅力的ですからねえ、天真爛漫《らんまん》で、無茶苦茶で――」
「検査は夜もやってるのかね」
「ええ、夕食抜きで、これから糖の検査で、三十分おきにシロップを呑まなければならないし、逃走して街へ出ちゃうおそれもあるから、ぼくはひと晩見張ってますよ。ぼくは眠らなくたって平気ですから」
「何にも喰わずに、身体は保《も》つかな」
「今日は喰べないで、そのかわり点滴で栄養を入れるそうです。明日が本番で、腸の方にバリュウムをいれるそうですから」
「また半量にさせちゃうんじゃないか」
「今度は大丈夫でしょう。お医者さんがやるんですから。レントゲンの技師を誘惑したことを彼女は笑い話のつもりで、お医者さんにみんなしゃべっちゃうんだから、罪がないんですよ。もっともそれでこちらに泊るはめになったんですが」
「まァよろしく頼むよ」
「彼女、面白いことばかりいって笑わすんですよ。この分じゃ寐そうもないな。あのねえ、すみ子さんの意見によると、癌になるのは歯をみがくからなんだって――」
「―――」
「歯みがき粉がいけないんだそうです。兎は癌にならないんだそうだけど、つまり、歯をみがかないからですってさ。だから貴方も癌にはならないそうです。自分は駄目だって、歯をみがくから――」
すみ子はけっして明るい女ではなくて、むしろおずおずと、ふさぎこみながら生きているのですが、他人にはなかなかそう見えません。生まれつき視力が非常に弱く、強度の眼鏡をかけなければ(そのくせ眼鏡を嫌ってかけませんが)ほとんど手探りで歩くような状態で、そのためさまざまな後天的特徴を生んでいます。怖がり、偏愛、非論理性、忍耐力のなさ、など。そうして幼時から周辺に庇護されて育ったために基本的な社会訓練がなおざりになっています。もちろん彼女が持っている天性の良さもたくさんあり、原質としてはほとんどの感性が具《そな》わっているのですが、ルールに沿ってそれを現わすことができず、他者との対応がいつもちぐはぐになってしまうのです。彼女は多分、それをとても負担に感じているでしょう。
したがって他人を怖れます。適当にさばくということができません。内輪には極端にわがままですが、他者には反対に、極端にサービスします。そのひとつひとつの動きを見ていると、単に恐怖心だけでなく、彼女の原質にある優しさやみずみずしい感性の現われでもあることがうかがえるのですが、多くの場合、コケットリーに見られるか、突飛で少々|痴呆《ちほう》的に受けとられてしまうのです。偏頗《へんぱ》というものは、おおむね、先天的乃至後天的なハンデ条件から生じてくるもので、たとえばエキセントリックなくらいの働き者にならざるをえなかったカル子の偏頗も、私の知らないそうした条件が母体になっているでしょう。私だって他人のことはいえません。
すみ子と私は従兄妹《いとこ》同士で、彼女の幼時からを知っており、なんだかんだと口先ではいっているようでも、彼女が私と一緒に暮し出したのはそういう安心感が下敷になっているのです。逆にいえば(他人にはそうは見えないと思いますが)彼女は街で出遇った男にたとえ憧《あこが》れても、一緒に暮すという形にはなれなかったにちがいありません。そういう意味で、彼女には、私しか居ないのです。そうしてまた、もうひとつ押していうと、離婚はしても、私が彼女を離さないし、離したがらないのも、そこに原因のひとつがあるように思われるのです。
だから、すみ子のベッドのそばに、若い菊井がひと晩つきそっているということを、私はさして気にしませんでした。彼女は尻軽な女ではありません。紙一重の差のようでもありますが、大差ともいえるのです。彼女が菊井の前で道化になって懸命にサービスしているという様子からして、他者に対するものであるはずです。
ところで、その翌朝、検査をすませたにしてはばかに早い時間に、まずすみ子が帰ってきた物音がし、続いて三十分ほどおくれて菊井が帰ってきました。
私が階下におりていくと、二人は気拙《きまず》そうに向き合っていましたが、やがて菊井がぷっと噴きだし、すみ子もつられて笑いだしました。
「どうしたんだね。どこもわるくなかったのか」
実にどうも、呆れたものだ、と菊井はいいました。二人がこもごも語り出したことを綜合すると、以下のようになるのです。
朝、かつて私が入院していた頃は、たわいなくすみ子と馬鹿話をしていた看護婦たちが打って変った表情でぞろぞろと入って来て、
「さァ、はじめましょうねえ。パジャマを脱いでください。男の方はちょっと出ていてくださいね」
パジャマだけでなく、すべて脱がされて、かわりに薄布の半纏《はんてん》のようなものを一枚だけ着せられたそうです。
「浣腸は終りましたね」
「ええ――」
「そう。じゃ、ちょっと注射を打ちますからね」
肩のあたりに、チクリと痛いやつを一本。
「なんの注射ですか」
「神経を楽にする注射よ。これ打てば大丈夫。そんなに痛くないからね」
「――検査でしょう」
「ええ、そう、検査よ。そのために来たんでしょう」
移動椅子が運ばれてきてそれに乗せられます。
「どこへ行くの」
「手術室――」
ゆっくりとした動きのエレベーターで六階へ。すみ子は私の手術の日の模様を眺めていて知ってます。私もモルヒネを一本打って、こうやって出陣したのです。
「検査なんでしょ」
「そうですってば」
「手術室でやるの」
「そうよ」
手術室には若い医者を含めて三人、物々しく白衣の人が立っていて、手術台に寐かされ、ライトが煌々《こうこう》とつきます。
「――どうかしたんですか、あたし」
「検査ですよ。ただね、肛門からバリュウムを入れますからね。その前に空気を送って腸をふくらませましょう。それで一応レントゲンに写してみて、あとで内視鏡を入れてみましょう」
「先生、肛門はあたし、大丈夫なんです」
「しかし澱物がとまらないんでしょう。はい、両足をあげて」
「ちょっと、待ってください」
器具が来る前に、彼女ははね起きて、手術台からずりおちました。
「ちょっと、用事があるんです」
彼女はそういったそうです。
「用事があるもんですから――」
用事、用事、と連呼しながら、手術室を走り出て、必死に逃げる。むろん若い医者と看護婦たちが追ってくる。
「貴方、何をいってるんですか。昨夜から泊ってるくせに――」
「急用なんです。すみませんけど」
「検査に来たんでしょ。戻りなさい。そんなことってないですよ――」
彼女の病室に走りこんで、パンタ口ンだけはき、ハンドバッグをわしづかみにし、あとの着衣は菊井にまかせて、転がるように病院を出、タクシーに乗って我が家まで。
「ああ、お腹すいた――」
と彼女はいいました。
「ずっと何も喰べてないのよ。あたし、死にそうよ」
「癌だったらどうするんだね」
「もうなおっちゃったわよ。どこもわるくないわ――」
四
出版社に原稿を届けに行って、その社の取締役に出世している山根と廊下でぶつかると、
「おい、ちょっと話があるんだが、今いいかね」
山根は週刊誌の編集長を後進にゆずっていますが、もともとは私をこの世界でどうやらしのげるようにしてくれた恩義のある男なのです。
小さな応接室に連れこまれて、
「コーヒーの呑みすぎでね。喫茶店に行くのも面倒くさいから――」
なんとなく人の気配を避けているような感じで、
「――ところでねえ、君のところはなにかごちゃごちゃしたようだが、奥さんとうまくいってるかね」
「いや、三年も前に離婚しました」
「それはきいている。しかしずっと一緒に居るそうじゃないか」
「ええ――」
「すると、よりが戻ったわけだな」
「そうじゃなくて、他人同士が一緒に居るんですがね」
「実質的にはよりが戻ってるんだな」
「身体に触れてるかといわれれば、触れてないこともありませんがね」
「そうか。やっぱり、こりゃァ、夫婦だな」
「一緒に寐れば、夫婦ですか」
「いや――、だってこの場合は、元夫人なんだから、それと一緒に暮して、寐てもいるとすると、夫婦だろう。籍に入って居ようが居まいが」
「そうじゃないんですよ」
「ちがうのかね」
「それなら離婚の必要なんかないでしょう。離婚したからこそ、一緒に居れるんです」
「そういうものかな」
「それがどうかしたんですか」
「うん――、そこのところをたしかめておかないとね、話しにくいんだ」
「つまり、我々は結婚生活を維持していくに値いしないんですよ。いい学校に入っちゃって成績がわるくてあっぷあっぷするよりは、学校なんか行かないで勝手に生きた方が、まだ我々らしいんじゃないか、とそういうことです。むろん、学歴がなくて生きにくいこともあるし、保証もないから先はどうなるかわかりませんがね」
「奥さんもそう思ってるのかね」
「でしょうね。どこまで深く思ってるかはわかりませんが」
「わかったようでわからんが、要するに、そんなことを含めてだ、君たちは今、その在《あ》り方に満足してるのかね」
「うーん、それはむずかしい。しかし気に入らなければ彼女も方向転換するでしょう。夫婦じゃないんだから、拘束は何もありません」
「すると、彼女が何をしてもいいわけか」
「もちろんです」
「君もそれでいいわけだね」
「いいというよりも、仕方がないでしょうね」
山根は煙草に火をつけて、しばらく考えこんでいました。
「どうもむずかしいな。君はどの程度に知ってるのか。――いや、いろいろ噂が入ってくるんでね」
「元カミさんのことでですか」
「いっていいのかどうか」
「――男ができたんですか」
「まァ、そうなんだ」
「噂はよくあるんですがね、これまでも。しかし、発展的に見えるわりには――」
「噂というより、奥さんが自分で方々に相談をかけてるんだ」
「――なるほど」
私は苦笑しました。彼女はあまり腹に溜めておくことができないから、編集長や同業者の夫人で親しくしている所に片っ端からしゃべって廻ることは考えられます。私には一言も言わないが、私には一番話しにくいことだろうし、第一、私は亭主でもなんでもないのだから、相談がなくたってルール違反とはいえません。
「面白いですね」
「面白いかね」
「彼女が男をつくるとはね。しかし、うまくいくんならそれもいいでしょう」
「ほう――」
「相手はどんな男なんだろう」
「それが、君の家に居る人らしいよ」
「ははァ――」
「なんだかまだ若い人らしい」
「ええ、元カミさんより十歳は下かな」
「君が痛手を受けないのなら、もともと俺が話すべき筋合いのことじゃないんだ。ただ、耳に入れておいた方がいいかもしれんと思ってね」
「それで、どの段階まで行ってるんでしょうね。できたってだけですか」
「結婚、といってるようだな」
「急だな」
「今すぐ結婚かどうかは知らん。いずれということなのかな。男の方もかなり本気になってるようだよ」
「それなら、まァよかった」
「どうも君たちの間柄は、よくわからんね」
「べつに僕がそう望んでるわけじゃないですよ。ただできたってだけで、玩具のようにあつかわれるよりも、彼女のためには、その方がいいでしょう」
「それはそうだが、俺はその男性を知らないけれど、年齢の点からいっても、うまくいくのかね」
「しかし僕と一緒に居たって、この先どうなるわけでもない。僕等がまた夫婦になる気はないんだから」
「受け取り手ができてよかったということか」
「そうもいえますね。いや、とにかく気を遣《つか》って貰ってすみませんでした」
その出版社を出て私の巣に帰る途中で、私はやっぱり笑いをかみ殺すのにかなり苦労しました。
何故って、すみ子をよく知らない人にはわからないでしょうが、彼女にはそういう話の前科が何回もあるのです。娘時代のことではありません。私と結婚している最中も、男が自分に惚《ほ》れこんで夢中になっていると錯覚し、その男と一緒にならなければ事が解決しないと思う一方で、たとえ誰であろうとよく知りもしない男と一緒に暮すなんてできるわけがないとも思うのですから、どうしていいかわからない。思いあまって亭主である私に相談するということになります。しかし、結局、彼女の幻想ですべて終るのです。
離婚して、また一緒に暮しはじめてからも、一度ありました。その青年はたしかにすみ子に魅かれていたのでしたが、彼女の思いこみの方が大きく先行して、このときは結婚を決意し、相談を受けた私も彼女のその決意の烈しさに動かされて、先方の家ととりもちをするやら、嫁入り支度を整えかけるやら、大騒ぎをしたのですが、それを知った青年の方が驚き怖《おそ》れました。彼はただ、彼女とお茶を呑んで、なんとなくしゃべりたいと思ったにすぎなかったのです。
今度もそんなことではありますまいか。同じ過失を何度でもくりかえす人は珍しくないのですから。それで、過失とわかったときに、傷ついてひしゃげた顔つきになってしまうのですが、意地わるくいうと、そういう彼女がまたちょっと捨てがたいのです。
すみ子は優しい言葉や、ちょっとした労《いた》わりに弱いから、ちょいちょいと周辺の男性に気持を傾けますが、たとえどれほど心が揺れても、その部分以外の心や身体が簡単についていきません。そんなに簡単に、他者とうまく対応できるわけもなく、難事をこなす勇気が出るとは思えません。
しかし、今度は、例外かもしれないぞ――と私はふと思いました。何にだって例外はあるぞ。この俺のところにも、例外のようにして飛びこんできたじゃないか。
五
「――おい、君」
と私は、平生あまり入らないすみ子の個室に行って呼びかけました。彼女が怖がったり、誤解したりするといけないから、笑顔になっていたつもりですが、いくらか私もこわばっていたかもしれません。
「菊井と、一緒になるんだってな――」
軽い口調でいったのですが、すみ子はベッドからはね起きて、壁ぎわに立ちすくんだようになりました。
「いや、怖がることはないんだ。君はフリーランサーなんだから、何をしたって叱られることなんかないよ」
「――誰にきいたの」
「出版社の人だがね」
「今日、きいたの」
「そうだよ」
すみ子は、こういうときにはどの女も同じような感じになるものだな、と思わせるような、沈痛な表情でたたずんでいましたが、やがてまたベッドに腰をおろしました。
「――うすうす感づいてると思ってたわ」
「何故」
「誠ちゃん、なんでもわかってるようなところがあるもの」
「いつ頃からその気になったんだね」
「この前、病院に二人で行ったでしょう」
「ははァ、するとまだほやほやだな。そりゃあまた君の早呑みこみじゃないのか」
「早呑みこみって、あたしが」
「前にもあったじゃないか」
「今度はちがうわよ。彼の方からいったんだもの。結婚してくれ、って」
「病院でか」
「ええ」
「それで、――それだけか」
「――そうよ。まだなんにもしてないわよ」
「菊井くんのことはよく知ってるのか」
「――今、故郷へ帰ってるわ。彼は一人息子なんですって。だから、ご両親といろいろ相談しなければならないんだって」
「そうか。まァそれは、うまく運ぶといいけれども、菊井くんの親たちはどういうかな」
「結局、彼が定《き》めることでしょう」
「それでもさ。一人息子となるとな」
「あたしねえ、誠ちゃんの女房ってわけじゃないものね」
「ああ、そうだよ」
「自由よね。誰と一緒になろうと」
「うん」
「やっぱり、悪いことなの」
「悪いったってしようがないだろう。君が本気でそうしようと思ったのなら」
「こんなことに、いいもわるいもないわよねえ」
「まあ、そうだ」
「彼は優しいわよ。誠ちゃんとはちがうわ。病院でだって、本当に親切だったわよ。頼れるなァ、って思っちゃった」
「親切にもいろいろあるがね。そういう親切は、まァわかりやすいだろうなァ、君には」
「誠ちゃんは不親切だもの」
「しかし俺だって何もしてなかったわけじゃないぜ。その間、働いてた。そうしなきゃ病院代も払えない」
「嘘よ。仕事はあたしのためじゃないもの。高利貸しのためでしょ」
「まァそれは、俺のところは筋道が混乱していて、説明しにくいな」
「そうでしょう。なにがなんだかわからないわよ。それでもお前、生きてたじゃないか、っていわれてもねえ」
「階下に行って、茶でも呑まないか」
菊井が不在だと知って、私は声をひそませなくてもいいと思いました。どういうわけか、このことで菊井に会うのがおっくうで、しばらく避けていたかったのです。私が遠慮することもないように思えるのですが。
「あたしも、三十三だものねえ」
「三十三がどうかしたのか」
「結婚、っていわれると弱いわよ」
「しかし君は、大騒ぎして離婚したじゃないか」
「そりゃァそのときは結婚してたもの」
「なるほど」
「やっぱり弱いのよねえ。どうしてかしら」
「わかるよ。結婚すりゃァ離婚、離婚すりゃァ結婚、それが手順だよな。しかし、うまくいけばそれに越したことはない。うまくいく自信があるかね」
「わからない。でも、うまくいくことだってあるわよ」
「それもそうだな」
「結局、あたし、誠ちゃんについていけなかったのよね。悪い女だったわ。いつもそう思ってたのよ。お荷物だったでしょう。あたしバカだから」
「涙ぐましくなってきたな。そう湿っぽくならなくたっていいさ」
「あたしなんか、もっと並みの男でいいのよ。菊井さんの方がいい。わかりやすいもの」
「うん。しかしそう思いこむとまた裏切られるぜ。俺のとはちがう欠点が、どんな男にだってあるからな」
「いいわね、こういう話って。緊張して」
「頼ってるだけじゃ駄目だぜ。どんな男だって君のためにだけ生きてるわけじゃないからな。頼ってだけ居たら、必ず頼れない部分が出てくる」
「じゃ、どうすりゃいいの」
「どうすりゃいいっていわれてもなァ。自分でも頼られるようにしなきゃ。しかし君はいろいろの点でむずかしいかなァ」
「でも、お荷物が消えて助かったでしょ」
「そんなことはないよ」
「さっぱりした顔してる」
「悲しんだってしようがない。君が誰かと結婚するのが不満なら、離婚しなければいいんだから。しかしさっぱりはしてないよ」
「誠ちゃん、それで、どうする」
「なにが――」
「カルちゃんと一緒になる」
「いや、俺は結婚はもうしない」
「それじゃ、このままで、カルちゃんともハムちゃんともうまくやっていくの。いいわね、親子丼で」
「俺は一人だよ。いつだって」
「そうよ。誠ちゃんに合う女なんて、居ないわよ」
「今、どうしようかと考えてるんだがね」
「皆、クビにしなさい。そうしたら、あたしが毎日来て、お洗濯やお食事を造ってあげるわ」
「またはじまりやがった」
私は笑いました。実にどうも、臆面もなく同じことをくりかえす女で、以前、離婚してしばらく別々に住んだときも、毎日、家事をしにやってきて、秘書役を頼んだ友人の細君の存在を、嫉妬《しつと》しまくったことがあるのです。
「こんな生活、無理よ。続かないわよ。皆に利用されて、結局何も残らないわ。誠ちゃんはお人好しなんだから」
「残らないって、もともとなにも無いんだからな。家は借り家だし、子供があるわけじゃないし、あるのは借金だけだ。取られるものがない」
「取られてるわよ。あたしだって、頼ってるだけだったでしょう」
「君からもずいぶん貰ったよ。いろんなものを。取られたり取ったりだ。そうしたものさ」
六
菊井はなかなか郷里から戻ってきません。この家には戻って来にくいにしても、東京のどこかに舞い戻っているという気配もありません。
ほうら、といいたいのを私は我慢していました。すみ子だって、口には出さないが、はらはらする思いで待っているでしょう。彼女をいじめて、また例のひしゃげた顔つきを眺めたくもないし、菊井がこのまま私たちの前に現われないからといって、私とすみ子の間柄が発展していくわけでもないのです。
それでも私は、なんだか仕事に気が入らず、すみ子の表情を盗み見るようなことばかりしていました。どうも自分でも、例によってうまく整理がつかないけれども、彼女はたしかに現状では菊井に気持を動かしており、菊井との結婚を胸に描いている以上、なんとかその思いを実現させてやりたくてしかたがないのです。まるで、子供が望んでいる玩具を買ってやりたくて仕方がない親のように。
しかし、また一方で、すみ子の夢をたてつづけに見ます。つい隣りの部屋にまだ彼女は一人で寐ているのですが、夢の中では、もう手の届かない女になっているのです。
これはいったいどういうことか。彼女を失いたいのか、失いたくないのか。
どうも私も彼女に似て同じことのくりかえしばかりやる男で、今までにも再々の経験があるのですが、平生とはちがう条件が出てくるたびに、彼女に未練が生じる。平生は、厄介至極に思っているし、整理できたらどんなにさっぱりするだろうと思っているのですけれども。
もっと、彼女に優しくするべきだった、と思いました。彼女がどんなにこわれやすい玩具のような存在であろうとも、彼女の五体はかけがえのないみずみずしさに満ちていて、私の宝物のようにも思えました。
その宝石を所持している値打ちは自分にはない。だから、彼女を束縛することはできない。しかし、そう割り切って、手を束《つか》ねているわけにもいかない。
彼女は他の女とはちがうのです。何にも代えがたいものなのです。何故そうなのか、どうしてもそれが納得できませんが、とにかくそうなのです。
ある日、長電話をしていたすみ子が、トントンと階段を昇ってきて、その音の軽やかさを、おや、と思ったのですが、
「お食事、作っときますからね。あとでお腹がすいたら喰べて。ちょっと出かけてきます――」
彼女はそれだけしかいわなかったけれど、表情に隠しておけるような女ではありません。
「菊井くんかね――」
「――ええ」
彼女は泣き笑いのような顔になりました。
「ご両親が反対だったんですって」
「うん――」
「一人息子だから、家を継がなければならないの。東京に出ることも反対なのよ」
「そうか」
「ひとつも条件が合わないのよ」
「それじゃ、駄目なんだな」
「ううん。それが、飛び出して来ちゃったの。バーテンでも、運転手でも、なんでもやるんだって」
私は彼女の方を向いて、祝福の微笑を投げかけました。
「よかったな――」
彼女はだまって頷《うなず》きます。
「不動産屋に、彼と一緒に行ってくるの。お部屋をみつけなくちゃ」
「アパートかね」
「小さい部屋をね。貧乏なんだもの。四畳半でもいいわよ」
「いや、部屋数は多い方がいいよ。お金は俺のところから持っていくといい」
「どうして――」
「どうせ高利貸しに返す金だもの。どこに使ったって同じだ」
「そうじゃないのよ。どうして部屋数が多い方がいいの」
「だから、俺も行くよ」
すみ子は小首を傾《かし》げました。
「行くって、不動産屋になの」
「そうじゃない。君たちのところにさ」
「あたしたちのところ――」
「俺もこの家を逃げ出そう。ここに根を張っているわけじゃないし、俺がぱっと出ちゃえば、それでもう何も残らない。俺は身軽さ」
「だって――、カルちゃんやハムちゃんは」
「カル子は埼玉に行ったきりかもしれないし、ハム子は自分で飛び廻ってる。帰ってきたって、彼女たちだってもともとフリーランサーだから、どこか好きなところへ行くだろうよ」
「それで、誠ちゃんがあたしたちのところに来るの」
「ああ」
「何故」
「だって俺は君とは夫婦でもなんでもないだろう。なんでもないのに一緒に居たんだから、君が結婚するからって別れ別れになる理由もないさ」
「変ねえ。それじゃ、菊井さんがここに来て一緒に住んだって同じことじゃないの」
「いやちがうよ。今度は菊井くんと君が所帯を持つんだろう。そこに俺が転がりこむわけだ」
「そうすると、あたしは、どっちの女房なのかしら」
「もちろん菊井くんのだろう。俺とは今だって、夫婦じゃないんだから」
「じゃ、何故、誠ちゃんと一緒に移らなくちゃならないの」
「もちろん君は拒否できるよ。君が嫌だといえば、俺は行きやしない。ただ俺は、一緒に行きたいな、といってるだけだ」
「菊井さんがなんていうかしら」
「彼は、嫌がるだろうな。しかしこの場合は、俺の意志をまずいってるんだ。次に君の意志が問題さ」
「あたしが菊井さんに抱かれているそばに居るわけなの」
「そういうことになるかな」
「変態じゃないの、誠ちゃん」
「変態かもしらん。しかしそれとも少しちがうかもしらん。混り合ってるのかな。とにかく俺は、どうして一緒について行きたくなったのか、そのへんの気持をたしかめたいんだ。迷惑かね」
すみ子は、すぐには返事をしません。
「離婚したって別れなかったんだからなァ。どんなことがあったって離れる理由にはならんよ。それに俺はもともと、君たちの結婚に反対していない。邪魔しにいくわけでもないからね」
「あたしを抱きたくなったら」
「そりゃ、そうなれば抱きに行くよ」
「無茶苦茶ね」
「うん。俺は人格なんて無いも同然だからね。それに、君ほど結婚というものを大きく考えてないから。そんなことは気にしないが、たったひとつ、気にしてることがあるんだよ。俺が君を、結局どういうふうに思っているのか、俺が、はたして、人を愛したりすることができるのか、なにもかも取り払っちゃって、俺と君がまだつながっている力があるのかどうか、それをたしかめたいんだ」
「きっと喧嘩《けんか》になるわ。菊井さんと」
「菊井くんも、揉《も》み合ってみて、たしかめればいいんだよ」
「よくわからない。わからなくたっていいけどね、あたしは。わかりたくもないし」
そういいながら、すみ子はあきらかに、さっきとはちがう重い足どりで部屋を出ていきました。
かわいそうに、彼女は私の語気にひきずられて、せっかく整理しかかった自分の生き方が、また中途半端の泥沼にひき戻された恰好になったようです。しかしながら、そのために、なんだか得体の知れない充足にも似た気分も、同時に味わっていたかもしれません。
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風 婚
一
出版社の廊下で山根を見かけて、私はあわてて後を追いかけました。
「ああ、山根さん、今、貴方《あなた》の部屋へ行こうと思っていたのですが――」
山根は取締役に出世していますが、先年までは週刊誌の編集長をしていて、私が実話ネタのライターとして飯を喰うきっかけを造ってくれた恩義のある男でした。
「実はね、今度、すみ子の奴が結婚することになりましてね――」
「すみ子って、君の奥さんがかい」
「いや、もう何年か前に離婚してるから、元女房ですが」
「ああ、そうだったね。しかし、その後もずっと一緒に暮してたんでしょう」
「ええ――」
「いつから、本当に別れてたの」
「――いや、まだ一緒には暮してますが」
「ふうん。――それで、すみ子さんが結婚するというと?」
「結婚してくれ、という相手が出てきたんです。面白いじゃありませんか」
「――まァ、君が面白がってるんなら、それでいいが」
「それでね、山根さんに彼等の仲人をお願いできないかと思って」
山根はじろりと私の顔を見ました。
「――何故」
「何故って、新郎はね、山形だか秋田だかから出てきたばかりで東京には知り合いがすくないし、結局ぼくが一人で世話を焼いてやらなきゃと思ってるんです」
「ということは、君も奥さんの再婚に賛成なんだな」
「いや、それはすみ子の意志の問題だから」
「しかし、同意したんだろ」
「一人で定《き》めたようですよ。べつにぼくが同意しなくちゃという問題でもありません。ぼく等は夫婦じゃないんだから」
「それじゃ君は捨てられたんですか」
「どうなんでしょうかなァ。とにかくぼく等に再婚の可能性はゼロなんだから、すみ子が片づくのを喜ぶべきでしょう」
「そういうことになるかな」
「で、仲人の件ですが、どうでしょう」
「それほど世話をやいてるなら、君が仲人したらどうですか」
「最初はぼくもそう思ったんです。しかし、仲人は相棒が必要でしょう。すみ子を相棒にしてもいいが、彼女は新婦の席に居るわけだし――」
「何をいってるんだ。どうも君たちの考えは理解がつかんねえ」
「しかし、すみ子の結婚を祝い、幸せを願う気持に関しては誰にも負けないつもりなのです。幸い相手の男もなかなか好青年ですし」
「相手もよく知ってるんですか」
「ええ。しばらく前からぼくのところに同居していた青年ですから」
「なんだ。いつか噂《うわさ》にきいた青年かね」
「彼はすみ子の気心ももう呑《の》みこんでいますし、だいたい彼女の気心を知って結婚の意志を固める男なんて、そうは居ないです。それだけでもなかなかの大物ですよ」
「しかし、君もそうだったじゃないか」
「ええ、まァ、だから同時に不安にもなるんですね。なんとか末長く続いてくれればいいと思うんです。万一、すぐに駄目になって、ぼくのところに転がり戻ってくることを考えると――」
「せっかく厄介払いしたのにか」
「ええ。こういう気持は、結婚に失敗した男でないと本当にはわからないでしょうなァ。なんといっても一人の人間をかかえているというのは大変な重圧ですよ。もちろん男ばかりじゃないです。お互いに、お互いがうまく片づいてくれることを願うものです。ぼくはずいぶんめちゃくちゃな人間で、具体的にも精神的にも破綻《はたん》ばかりで埋まっているような男ですが、それでも自分の事よりも、やっぱり相棒のことが気になりますねえ。彼女への責任から解放されると思ったとたんに、すうっと、肩のあたりが楽になりました」
「羽鳥くん――」
山根は、むずかしい顔で私をにらむのです。
「君はずいぶん勝手な男ですねえ。さっきはすみ子さんの幸せを願う気持は人後に落ちないようなことをいっていたが、体裁のいい人員整埋じゃないか。君はそのやましさで、なんだかんだ世話を焼きたがるのでしょう」
「むろんそうです」
「むろんとはどういう意味だ」
「ぼくはぼくのことを考えますよ。それは誰だってそうでしょう」
「だったら、彼女の幸せなんというキザないいかたはやめたまえ」
「いや、それがやっぱりそうなんです。ぼくはむろん自分のことを考えるが、同時に彼女のことも考えるんですよ。けっしてそれはつけたりじゃありません。自分のことと同じくらい、比較がむずかしいが、或いはそれ以上、かもしれないが、彼女のことが気がかりでもあるんです」
「そうかな――」
「だって、ぼくはなにも彼女を相手に押しつけたわけではありませんよ。誰かに押しつけて、責任がなくなって、ああよかったというだけなら、そもそも簡単なんですが、そうじゃないから困るんです」
「口ではなんとでもいえるがね。いざとなると惜しい気もするんでしょう」
「それはそうですね」
「ほら。君はいつもそうなんだ。勝手すぎるよ。責任は嫌だが、権利だけは持っておきたい。そもそもそれで変則的になってるんでしょう」
「そうなんです」
「そうなんですって、おちついていちゃいかんね。いいところだけ喰おうとしてもそうはいかん。世間の夫婦を見てごらん」
「最初は特にそう考えて、だから離婚したんですね。だけれども、夫婦じゃなくなって一緒に暮しているうちに、勝手放題にちがいないけれども、同時にいくらかちがうことでもあるんじゃないかな、とだんだん思いはじめてきたんです」
「ちがいはしないでしょう」
「いや、ちがうところもあるんですよ」
「それじゃ、どうちがうの」
「どうちがうんですかね」
「とにかくね、他人事みたいに言ってないで、君たちがまた再婚しなさい。責任を回避しないこと。それではじめて世間並みの男女だよ。ぼくはそう思うね」
「ぼくもそう思います」
「それじゃ、なにも紛糾することはないじゃないですか」
「ところが、そうは思わない部分もあるんです」
「堂々めぐりだね。ぼくはいそがしいから」
「仲人の件は、駄目ですか」
「まだそんなことをいってるのかね」
二
つくづく君は、へんな男だね、と知人たちからいわれました。もう少し親しい人たちは、君くらい駄目な男も珍しいね、といいます。
結婚生活ぐらい、しのげなくてどうするのかね――。皆、やってるじゃないか。
その言われかたは今にはじまったことではありません。私自身が、自分をつゆほども立派な男だとは思っておりませんし、知友たちの嘲笑以上に自分を軽く見てもいます。
私は、たしかに、皆がやっているらしいことをやってきませんでした。できもしませんでした。しかし、やろうとも思わなかったのです。そうなんです。ここのところに、ぽっつりと、小さな点のような私の立場があるような気がするのですが、そこをほじくるとますます私の無能、無知、無軌道があらわになるので、そこを深く詮索することをやめてしまうのです。
私ばかりではありません。すみ子もそうでした。ほんとうに私たちは、あらゆる点で同類項だともいえるくらいなのです。私の知友たちは、この点もいくらか誤解していて、私が悪妻のすみ子に悲鳴をあげて離婚したと思っている人が多いようですが、私は自分が善良な亭主で、すみ子が悪妻だなどと思ったことはほとんどありません。初期の頃は感情的にそう思ったことがあったにしても、すくなくともそういう一方的な理由で離婚にふみきったわけではありません。
すみ子はたしかに、女房としても、人間としても、欠陥がありますが、私もそれに劣らず駄目なのです。正常な結婚(というものがどんなものか、それすら二人ともはっきりと確認できていません。そのくらい駄目なのです)を営むには、二人ともに駄目すぎるから自分たちからすすんで失格の印を押したので、どちらか一方だけの問題ではありません。私がすみ子と別れて、誰か別の良妻を迎えればいいということではないのです。
すみ子もそう考えたかどうか、はっきりたしかめてはおりません。けれども彼女が考えていようといまいと、そうなので、彼女は思考力よりも直感力がすぐれていますから、無意識にそう感じていたにちがいないのです。
彼女は私と別れて、どこか別の道を、すいッと行けばいいというふうには思いませんでした。
「(別れたって)もう死ぬまで居るわよ、どんなことがあったって、駄目よ」
と言い、
「誠ちゃんのお世話になるのよ。そうします。だって他に行くところもないんだもの」
と言ったりしますが、実家は裕福で、多少の折り合いわるささえ覚悟して戻れば、結局は親たちが面倒を見るでしょう。また他の男が番をかけてくる可能性が皆無なほど年齢《とし》を喰っているわけでもありません。普通ならばまださまざまな可能性を考えてもいいはずなのに、他に行くところがない、ということを自分で疑いませんでした。
私という男と夫婦になって、彼女もずだぼろになったせいもありましょう。わがままで小心で贅沢だから、一見したところとちがって尻軽にはなれず、同じ理由で実家にも戻れない。私もそう見ていたし、彼女自身もそう思っていて、しきりに困惑していましたが、実はもうひとつふっきれない理由が、(私と同じく)彼女にもあったのではないか。
私の方は男だから、自立そのものはなんということもない。従前と同じことで、だからその分、確としないその理由のことをあれこれ考えたりしますが、すみ子は自立の段階で困惑が先に立ちました。私との生活も困惑に包まれ、他との生活には身体が向いていかない。身勝手といえばそれまでですが、終始困惑に浸りきって、しかも長いこと他の男には眼もくれなかったのです。
私はその彼女の困惑を(身勝手が多量に含まれているために、まことに難解な部分がありますが)、なんというか、貴重なものに思っておりました。同時に、離婚はしたが一緒に暮しているという私の困惑(を含めた実意)をも、できることなら彼女に理解してもらいたいと思っていました。
彼女は少しも理解しようとはしませんでしたが、それでもやっぱり、どこかしらで覚《さと》ってもいたのでしょう。何の保証もないし、将来ますます困惑の度が深まるであろう私との生活を続行して、他の困惑に切りかえようとしないのは、彼女もどこかこの生活を貴重なものに思っていたからにちがいありません。
私たちの離婚同棲は、世間から見るとたとえようもなくふしだらで、愚かで、無意味なことに見えたでしょうし、実際そのとおりでもあるのですが、しかしまた、ぎりぎり決着これしかないという形でもあったのです。
ところがそのすみ子に、男が現われた。誰だって、男なら誰でもよいはずがないけれども、特に彼女はそうなのです。むしろ、誰であろうとよくないのです。その彼女が、姿勢を変えて、その男に気持を移した。私は彼女のこういう直感力は信用しているのです。これはもう万に一つの機会であって、私たちの貴重な困惑を上まわる男などというものは、この後、もう現われるかどうかわかりません。すみ子はただ単に、たまたま惚れ合ったと思っているだけかもしれないが、私はどうしても、彼女のチャンスを盛りたてて、今度は首尾を全うさせてやりたいのです。
これが挫折したら、すみ子にはもうチャンスがあるかどうか。また私のところに戻ってくるようでは、私も困るが、彼女の方ももっと沈みこんでしまうでしょう。
なんとしても、この結婚は、持続してもらいたい。多分、前の経験からさとって、今度の男は、すくなくとも私のようなタイプの駄目男ではないでしょう。別タイプの駄目男であったとしても。
「山根さんは、仲人の件、はっきりした返事をくれなかったけどね、もう一回、頼んでみるよ」
「どうでもいいのよ、あたしは。式なんてやらなくたっていいの」
「いや、やった方がいいよ」
「自分のときは、なんにもしなかったくせに」
「菊井くんがやりたいといってるんだから。それに最初をきちんとして、ひとつひとつきちんとしていけば、別れなくてすんだかもしれない」
「そうとも限らないでしょ。それに、そんなにきちんとしていけやしないわ」
「それはそうだな」
すみ子はちょっと言葉を切ってから、こういいました。
「――それでねえ、誠ちゃん、式には出ないでほしいの」
「――俺がか」
「ええ」
「菊井くんがそういったのか」
「多分そういいたいんじゃないかしら。だって、やっぱり不自然でしょう。そのかわり、あたしの両親に出て貰うわ。親たちはびっくりするでしょうけど。なんにも知らないんだから」
「俺はいいよ、それならそれで」
「もうひとつ、お願いがあるの。あのねえ、誠ちゃん、あたしたちのところについてくるって、そういったでしょう。あれもやめてほしいの」
三
「――それも、菊井くんがいったのかね」
「彼にはまだ話してないわよ」
「それじゃ、君の意見なんだな」
「だって――、菊井さんはもうこの家を出て行っちゃったじゃない。今だってそうなんだから、三人じゃ、暮しにくいと思うわ」
「しかし、そもそも君たちは、俺と一緒に暮しているときにできちまったんだろ。そのときだって三人だったじゃないか」
「怒ってるの」
「怒ってない。怒るわけがないだろ。三人で乾盃したいぐらいだ」
「それじゃ、全然、嫉妬してないの、菊井さんに」
「まァ、その点は、そうに近いな」
「あたしがとられても、なんともないのね」
「――嫉妬していた方がいいのか」
「じゃ、どうしてなのよゥ。どうしてあたしたちについてくるって、いったの」
「だから最初からいってるだろ。邪魔する気はこれっぽっちもないって」
「だから、なぜなのよ」
「ただ、なんとなくだよ。悪いかね」
「だって、誠ちゃんは、あたしの前の亭主なのよ」
「俺はそんなことにこだわっちゃいない」
「でも菊井さんは困るでしょ」
「君はどうなんだ」
「あたしだってやりにくいわ。間にはさまって困るもの。ねえ、しばらく菊井さんとも会わないでね。喧嘩になるといやだもの」
「俺が菊井くんと喧嘩する理由なんかないぜ」
「彼の方はどうだかわからないわよ」
「そんな男なのか」
「どんな男だがそこまで知らないもの。そりゃァね、あたしは頼れる人が多い方がいいけれども、そううまくもいかないでしょ。とにかく今は、彼とのことをうまく行かせたいもの。だからあたしのために、一緒に居ないでよ」
「わかった。君がそういうなら、離れるよ」
「そのかわり、わるいようにはしないわ。あたし、誠ちゃんを困らしたいなんて思ったことないもの。ちょっと考えてることがあるのよ。菊井さんとも相談してから、また話すわ」
先年、私が大病したときに知り合ったカル子という特異な附添婦が、そのまま私の巣に住みつくことになりましたが、カル子が故郷の秋田だか山形だかにおいてある一人娘のハム子が出奔して東京に飛び出して来、それをまた追いかけて来たのが、ハム子のボーイフレンドだった菊井なのです。
順を追って彼女たちは私のところに同居していき、一時はだいぶにぎやかでしたが、ハム子は東京の空気に染まって、ジャズ歌手になるとかいいだし、目下、師について飛び廻っていて、他のことは眼中にありません。
菊井はもともと東北の良家の息子らしく、実直なような、引っこみ思案のような、図々しいような、優しいような、とりとめのない青年でしたが、すくなくとも私のように無軌道でも無道徳でもないようです。しかしハム子を追って出奔してきたときに持參したひと握りの金は、いつのまにか使い果たしたらしく、このところは経済的な力をいちじるしく欠いています。
すみ子に結婚を申しこみ、ほとんど時を同じくして私の眼を避けるようにこの家から出ていって、どこかの小さなアパートを(それがどこだかは、すみ子が私に教えないからわかりませんが)借りたようですが、それもすみ子がお金を用立てたようでした。
ということは、つまり、筋道としては私が出したのです。実際、他にお金を用立てる適当な人物は居なかったし、当初は私ものこのこと彼等について同居しようと思っていましたから。
部屋数は多い方がいいな、と私はいい、すみ子は一DKか、せいぜい二DKでいいといいました。
「しかし、俺は仕事場兼用だからね、客も来るし、部屋数はどうしても必要なんだ」
「駄目よ、それじゃ誠ちゃんの家にあたしたちが居るような具合になっちゃうじゃないの」
「ああ、そうか」
「それならこのまま、この家に皆が居たって同じだわ。よく考えなさいよ、頭がわるいわねえ」
「すると、一DKに、菊井くんと君と俺がぎゅうづめになって居るわけか」
「誠ちゃんは、居なくちゃいけないの」
「いけないわけじゃないが、居たいね」
「だったら遠慮してよ。菊井さんは当分、アルバイトぐらいしか仕事がないから、あたしたち大変なのよ」
「しかし、金は俺が出すんだろう」
「じゃ、あたしたちに出せっていうの」
「いや、俺が出すよ。しかし君は一DKで、我慢できるのか。君は他のことはともかく、我慢だけはしない女だろう」
「あたし、反省してるのよ」
「何を――」
「菊井さんはまだ若いし、まだ収入もないでしょう。だからあたしがしっかりしなければ、と思うの」
「立派な決心だな。しっかりというのは、どうする気なんだ」
「それはまだやってみなければわからないじゃないの。なにしろはじめてのことなんだから」
彼等は結局、小さいアパートの一室におさまったようです。私が同行しないことになったので、それで特に不都合はないのです。そうして、最初の移転費だけでなく、その後も一週間と間をおかずに、すみ子は私のところからお金を持って行きます。新所帯で、諸事にお金が要《い》るのでしょうが、すみ子が私の家に居たときよりも、ずっと持っていく額が多いのです。
誤解のないように記しておきますが、私はべつにそうした金を出し渋っていたわけではありません。私はしがない実話物ライターで、身体にまかせて荒っぽく売文をやっても、収支のバランスはいつもとれず、高利の借金が山になっています。私の収入は、高利貸しのところにそっくり進呈して、必要な金をまた借りてくるので、借金がすべて綺麗になる見込みがない以上、どれほど借りようと似たようなもので気にするほどのことではないのです。
もっとも、菊井くんも、もちろん遊んでいたわけではなかったでしょう。何をしているのかくわしくはきかないが、毎日まっくろになって働いてきているらしく、彼は、私から大量に金が流出しているとは思っていなかったでしょう。
すみ子は、しかし、十歳も年下の男を持った三十女の常で、上気するほど昂揚し、諸事にわたって油断しないように懸命に心がけている顔つきでした。
「生活って大変ねえ。主婦の仕事ってものがどんなに大変か、あたしもよくわかったわ」
「そうかね」
「一銭だって無駄使いはできないものね。野菜を買うんでも、ずいぶん何軒も廻って一番安い八百屋に行くのよ」
「しかし、それにしちゃ、生活費がかかりすぎるね。貯金でもしてるのかね」
「貯金ができるわけないでしょう。誠ちゃんから貰ってるのに。あたしがそんな図々しい女だと思うの」
「足りなくなれば俺んところに来ればいいんだから、君はまだ気楽だよ」
「偉そうな顔して。誠ちゃんだって、高利貸しのところへ行けばいいんじゃないの」
「ああそうか。俺も同じだな」
「本当に疲れるわ。式をあげる前からこれじゃ、先が思いやられるわね。あたし、続くかしら」
「続かせなければいけないよ。反省したんだろう」
「反省はしたけど、実行がねえ。あたしって昔からそうなのよ。一人になると反省ばかりするの。あたし本当はとてもいい人だと思うのよ。ね、そう思わない。だから反省なんかしても無駄なのよ」
四
彼等はともかく、吉日を選んで式をあげました。その模様はつまびらかにしませんが、彼女は、お化けのように、とても新鮮だったそうです。そのうえ菊井夫人になって、どう見ても生まれたときから彼に寄り添っているように見えたそうです。
儀式なんてものは、なんということはない無意味な形式のように見えて、なかなかそういうものではありません。特に思いこみの烈しい者にとって、軽視できないポイントになりうるのでしょう。
私までが、ああ、彼等はもう式をあげたのだな、と思うと、寂寥《せきりよう》のようなものを感じたほどでした。どこかそこいらへんの家の中に、すみ子の声や息使いが、こぼれ落ちていないか、と思ったりもしました。
居れば始末がわるい。枷《かせ》のようになればなおさら地獄。しかし居なければいいかというと、そういうわけにもいきません。考えてみれば、そういう二律背反が、人恋しさにはいつもくっついているようです。
その一方で、彼女から逃れた解放感を、満喫しました。正確にいえば、彼女からというより、相棒、同居者、肉親、同胞、なんでもよろしい、とにかく一人になるということがすばらしい。いいことばかりはないが、しかし、いい。この状態を、もう二度と失いたくありません。
私は私で、すみ子の声音や息使いがどこかに残っていそうなこの家を移る気持を固めました。そうして、埼玉の方で長患いの病人の附添をしているカル子にも手紙を出して事情を説明し、この一家を解散させたいから、荷物をとりにくるように、と告げました。
ハム子の方は、コーチしてくれるミュージシャンとできたのかどうか、ほとんど家に寄りつかなくなっていたので、これは簡単。
たとえどんなに便利な女が居ても、もう二度と、同居人をおくまい――。
「――誠ちゃん、何してるの」
どういう気なのか、すみ子は毎日、私の家に入りこんでくるのです。
「おい、君、式をあげたんだろう」
「あげたわよ」
「新婚旅行は、行ったのか」
「行かないの。行かなくたっていいわよ。あたし、そんなのどうでもいい」
「まァとにかく、もう菊井夫人なんだろう。少しは自分の家に居なさい。こっちに入りびたっていて主婦がつとまるかね」
「そういうわけにもいかないわよ」
「――金か」
その一言は彼女をひどく傷つけたらしく、以前にそうだったように、ひしゃげた顔つきになりました。
「――お金じゃないわよ」
「お金だっていいんだがね。俺は遠ざかった方がいいって、君がいったんだろう」
「それじゃ、あたしの顔なんかもう見たくないっていうの」
「そんなことをいってやしない。ただ、君の方を心配してるだけだよ」
「せいせいしてるんでしょう。うまいこといって。いつも神様みたいな顔していて、その実、鬼なんだからね。皆だまされてるけど、あたしはちゃんと知ってるわ。――鬼!」
「何故――」
「自由でいいわね。鬼の居ないうちに洗濯でしょ」
「それじゃ、鬼は君じゃないか」
「あたしはどうすればいいのよ」
「簡単だよ。菊井くんと一緒に居なさい」
「あの人は昼間、働きに出かけて居ないわ。夜だけよ。だから夜はこっちに来ないでしょう。でも昼間は誰と一緒に居ればいいのよ」
「なるほど――」
「うちはアパートだから、お風呂がないのよ。お風呂に入りに来るのがどうしてわるいの。あたし今までずっと毎日、昼と夜と二度、入ってたのよ。今は夜は入らないの」
「風呂に入りに、毎日来るのか」
「それだけじゃないわ。誠ちゃんがあたしたちと一緒に暮さないかわりに、いいこと考えるっていったでしょう。誠ちゃんとうちの旦那が顔を合わさずに、あたしが毎日往復すればいいんじゃない」
「ははァ、なるほど――」
「あたしが出て行って、誠ちゃんが困るんじゃ、申しわけないでしょう。毎日来て、お洗濯もお掃除も、お食事だってときどき作ってるじゃない。あたしは二軒分、主婦の仕事をしてるのよ」
「それは、菊井くんは知ってるのか」
「話したわよ。あの人、いいっていってくれたのよ。羽鳥さんが次の態勢を作るまで、なんでもやってあげなさい、って」
「なんでも、か」
「なんでもって、馬鹿ね。アラ、そうかしら。そういうふうに、あの人、いったのかしら――」
「まあいい。それはいいが、菊井くんも君も、そんなことに気を使わなくていいのになァ」
「放ったらかしといて、いいの」
「ああ――」
「いいじゃないの。したくてしてるんだから――」
「それが怖いんだ。君は前科があるだろう。こうなふうにしているうちに、また俺のところに戻ってきちゃったら、どうするんだ」
「もしそんなことになったらどうする」
「今度は前のときとはちがう。同じヘマはしない」
「あのときは誠ちゃんが、居ろよ、っていったから――」
「とにかく、俺が今、一番望んでいることは、君が永久に菊井夫人であり続けることだ」
「わからないわよ、あたし、我慢強くないから」
「しかし、万一、今度離婚ということになった場合は、離婚した妻の行先は、当然、実家ということだろう」
「――あたしの実家は、ここよ」
「おい、脅かすなよ。君は菊井くんに惚れて、ここを出て行ったんだろう」
「そうよ。彼は大好きよ。本当に優しいもの。誠ちゃんは優しそうに見えて、鬼」
「そうだ。だから、おとなしく、菊井くんと一緒に居なさい。ここにはお金を取りにくるときだけでいい」
「――あたし、もうここには来ないわ。誠ちゃんにそれほど嫌われてるとは思わなかった」
「嫌ってるわけじゃない。ただ、一緒に暮したくないだけだ」
「同じことじゃないの。嫌がられているところに居たくないものね」
「君はわかってると思うがなァ」
「じゃ、帰ります。長いこと、お世話になりました」
すみ子はひしゃげた顔で、今はじめてこの家を出て行くようなことをいって、立ちあがりました。そうして、部屋を出るときに、もう一度、私の方を振り向いて、こういいました。
「もう、来ないと思うでしょ」
「――いや、来るね」
「そうよ。来るわよ。そんなに簡単に、誠ちゃんを自由にさせてたまるもんですか」
「俺は自由だよ。すくなくとも君からは」
「駄目よ。そんなことをいうと、夜も来るわよ」
「菊井くんの方はどうするんだ」
「うちの亭主のことは放っといてよ。彼は好きだもの。誠ちゃんは嫌い」
五
私にはやや意外でしたが、外での(知人たちの)菊井夫婦に対する評判は、概してよくありませんでした。そうして、取り残された私に対する評判も、よくありません。
私は、評判のわるいのは慣れておりますからさほどのことに思いませんが、何故、菊井くんとすみ子の新夫婦が、あまり善くいわれないのか、不思議な気さえするのです。
たとえば、荷物を取りに来たカル子は、その日も風呂に入りに来ていたすみ子に向かって、
「――すみ子さんて、あいかわらず、可愛いわねえ」
いくらか含んだような言葉を吐きます。
「どこが可愛いの。もうそんな年齢じゃないわよ。所帯じみちゃって」
「年齢とは関係ないわよ」
「あたし、つくづく昔は子供だったと思うわ」
「そうかしら。だって、前の旦那様のところに、毎日、湯あがり姿を見せにくるんでしょう。そういうところ、ちっとも変らないわ」
「誠ちゃんがそういったんでしょ」
「いわないけど、きっと楽しんでるわよ」
「いやな奴ねえ。鬼ね。今度、ひっぱたいてやるわ」
カル子は私には、はっきりこういいました。
「あたしはそんなこという筋合いはありませんけど、ずいぶん、人を踏みつけにした話ね」
「――どこが?」
「そうじゃありませんか。菊井がわるいんだわ。すみ子さんはああいう人だから、なんにも思わずにやってるかもしれないけれど、人を踏みつけにしてるわ」
「そうかね」
「羽鳥さんだってそうですよ。だらしがなさすぎますよ」
「俺はもともとだらしがないんだ。近頃そうなったわけじゃないよ」
「菊井は、すみ子さんをひっさらって行っちゃったんでしょう」
「それは仕方がない。惚れ合ったんだから」
「でも、相当に変ですよ。勝手に転がりこんできて、世話になっている家の奥さんに結婚を申しこむなんて、普通じゃちょっとできないでしょ」
「なんでもかでも普通にはしてられないだろう、誰だってね。いくらか普通じゃないところが特長になるんだから、それはそれでいいんじゃないのかな」
「それはまだいいですよ。皆、子供じゃないんだから。自分たちが所帯を持ってから、それも羽鳥さんのお金でよ、それでいろいろ世話を焼いて、羽鳥さんの面倒見てるような顔をするなんて、あたしならそんなことできないわ」
「なるほど――。でも俺はそんなこと気にしてない。俺だって人妻に手を出すこともあるだろうし――」
「奥さんを奪っちゃってですよ。そのうえ、犬っころに餌をやるみたいにして、恩を売ってくるんだもの」
「そういうふうなカル子の思い方ってのは、わかりやすいよ。俺にもよくわかる」
「羽鳥さんも羽鳥さんよ。なんで怒らないの。人間あつかいされてないわよ。あたしならそんなことになったら、いくら自分が困ったって、きっぱり拒絶するな」
「だけれどもね、彼等はべつに、俺を犬っころと思ってやってるわけでもないんだよ」
「思ってますよ」
「無意識には思ってるかもしれないし、結果的にもそうなってるかもしれないが、たとえそうだとしても、そんなこと、たいした問題じゃないよ」
「そうですか――」
「人を踏みつけた、とか、踏みつけられる、とか、どっちが偉い、とか、偉くない、とか、勝ったとか負けたとか、そういうことはどうでもいいんだ」
「そうじゃないわよ。あたしなんか、踏みつけにされないために一生懸命気を張って生きてるのよ」
「それもそうだな」
「そうでしょ」
「だけど、やっぱりどうでもいいことなんだよ」
「羽鳥さんがどうでもいいなら、それでもいいんだけどね」
「踏みつけたって、たいして嬉しかないよ」
「そうでもないわ」
「世間に人は大勢居るから、全部踏みつけてるわけにいかないだろう。踏みつけたり、踏みつけられたりだ。だからそのたびに大喜びしたり、大怒りしていたってきりがない。皆、実際はほんのちょっぴりしか、喜んでないんじゃないかね」
「そうでもないったら――」
「もし、人がそれで本当に喜ぶのなら、俺はたいがいのことなら踏みつけられてあげるよ。いくらだって卑下してもあげる。俺はそういうことはわりに骨を折らずにできるんだ。けれども、そんなことしたって、大喜びするとは限らないからね。だから、とりわけ進んではやらないだけさ」
「やらなくちゃわからないでしょう」
「でも、菊井くんもすみ子も、俺を踏みつけにして大喜びしてるわけでもなさそうだぜ」
「それじゃ、どうしてこんなことになったんですか」
「だから、俺を踏みつけようと思ってやってるんじゃないんだよ。菊井くんはすみ子のためを思って、すみ子は菊井くんのためを思って、やってるし、やりたかったんだろう」
「羽鳥さんとは関係ないのね。やっぱり無視されてるわ」
「無視されていていいじゃないか。今のところ、彼等がそうしたいんだから」
「そうなの」
「俺はね、よほどのことでないかぎり、人がそうしたいと思ってることは、残らず叶《かな》えてやりたいね。もし、ちょっぴりじゃなくて、どうしてもそうしたいと思っているとしたら、なおのこと叶えてやりたくてしようがない。ただ、現実には、俺だって、どうしてもそうしたいと思っていることがあったりして、やっぱり自分だってそれは叶えたいと思うから、簡単に一方的にはいかないがね」
「むつかしいのねえ。きいてるだけでも頭の中がごちゃごちゃするわ」
「――話のついでだからいうがね。君はよく、俺の金を盗っていったろう」
「――ええ」
カル子は案外わるびれずに頷《うなず》きました。
「やっぱり知ってたんでしょう。何にもいわないから不思議な人だなァ、って思っていたわ」
「カル子の場合はわかりやすいんだ。何が君を喜ばすか、わかってたからな。君はなんだか切迫していて、しょっちゅうお金が欲しかったろう。だから俺は、カル子には安心していたよ。お金さえ盗ってれば嬉しがってるんだからな。俺のお金ったって、あんなもの、高利貸しのお金みたいなものなんだ。それに、誰のお金だって、それも結局たいしたことじゃないんだよ」
「――あたしもねえ、ハム子があんなになる前は、働くんでも、盗むんでも、張り合いがあったんですよねえ」
「カル子は、楽しみってものの種類がすくないからな。いや、誰でもそうだがね」
「娘が手を離れちゃってからは、もう何にもする気がないの。ただ、のろのろ働いてるって感じ。今思うと、一生懸命お金を盗んでたりした頃が、幸せな頃だったんですねえ」
「もう盗っていないのかね」
「ええ、ほとんどね。――でも、あたしのことを、泥棒女って思ってたんですね」
「そりゃ思ってたさ。泥棒女、ってね」
「そうでしょうねえ」
「しかし、別のことも思ってたよ。泥棒女だけれども、だからこそ、君は異様なほどよく働いてくれたし、一生懸命つくしてくれたよねえ。俺はそういうカル子が好きだったよ。お金を盗ろうともしない君の娘さんなんかよりは、よっぽど好きだった。――そういえば、すみ子も、金額ははるかに細かいんだけど、やっぱり俺のポケットから、ときどき盗っていくんだ。すごい顔つきでねえ」
「当分、このまま、犬っころみたいにすみ子さんから餌をもらって暮すんですか」
「彼女がそうしたいらしいからね。俺は、本当をいうと、しばらく、誰の顔も見ないで、一人で暮したいんだが」
「あたしがまた戻りましょうか。埼玉の方はなんとでもいえますから」
「カル子とすみ子が両方居てくれた頃も、もうなつかしいね」
「あたしなら、また働きますよ。おかみさんにしろ、なんていわないけど、おかみさんの代用品ぐらい、できますよ。身体だって、ご自由よ」
「うん。――しかし、やめよう。誰ってことなしに、しばらく一人になりたいんだ。俺、すこし変なんだよ」
六
ある日、突然、菊井が私のところにやって来ました。
彼はさすがに思いつめたような顔つきでしたし、緊張でうっすら汗をかいているようでもありました。
「いろいろ、ご迷惑をかけています――」
菊井は丁寧《ていねい》に頭をさげました。
「いや、そんなことないよ」
「こんなふうになるなんて、ぼく自身、意外でした。ぼくはハム子と一緒になろうと思って東京へ出てきたのに」
「でも、君が申しこんだそうじゃないか」
「それは、そうなんですが――」
「いいから、うまくやってください」
「はァ――」
「それで、うまくいってるんでしょう」
「それがねえ――」と菊井はばつがわるそうに汗をふきました。「今、夫婦喧嘩して飛び出してきたところです」
「君が来るんなら、まだいいが、彼女が飛び出してくるようになったら、どうしたらいいだろう」
「羽鳥さん、実は、おねがいがあるんですよ――」
私は、なにがなし身慄《みぶる》いをしました。
「まさか、もう離婚の相談に来たんじゃあるまいね」
「そうじゃないんですが、このままだと、ぼくたち、むずかしいことになっちゃいそうなんです。羽鳥さんに、ぜひ、おねがいしてみようと思って――」
「なんだか怖いね。早くいってくれたまえ。この、びくびくしてるという気持が面白くない」
「羽鳥さんは、いつまで独身を続けるおつもりですか」
「いつまでって、今やっと、一人になったばかりですよ。ずいぶん遠廻りして」
「なにかとご不自由でしょう」
「いや、ちっとも」
「ぼくがいうのは変だけれども、再婚されるおつもりはないんですか」
「ありませんね。今のところは」
「気にいった女の人ができても、ですか」
「仮定でいわれても困るけれども、まず結婚はしないね」
「なにがどうあっても、金輪際《こんりんざい》、しないんですか」
「それに近いね」
「何故――?」
「何故って。やっと解放されて一人になったとき、そんなことを考えると思いますか」
「そんなに、すみ子で懲《こ》りたのですか」
「彼女というよりも、お互いだね。ぼく等は似た者同士でね、一人ずつが一緒になると、相乗作用をおこしてお互いに目茶苦茶になるんですよ」
「それじゃァ、別の女ならいいわけでしょう」
「ぼくを救ってくれるような女は、居ませんよ」
「居ますよ。居ますとも。そんなに捨てたものでもありませんよ」
「かりに居たって、ぼくのところへ来ると思いますか。そんなむごいことはできないよ」
「そこをなんとか、おねがいしたいんです。ぼくたちのために」
「何を願ってるの」
「再婚です。もし女の人の心当りがなければ、ぼくも一生懸命探します。羽鳥さんにふさわしい、羽鳥さんが好きになるような女の人を。まだお若いんだし、その気になれば――」
「君も、ずいぶん介入してくるねえ。すみ子を持ってってくれたのはいいとして、どうしてまた、古道具屋みたいに売りつけにくるんですか」
「女房の気持がどうもぴしっと坐らなくて、なんかふわふわふわふわしてるんですよ。毎日、羽鳥さんの方に来てるでしょう。それはいいんですけど、彼女は絶えず、試行錯誤していきますから、ぼくのそばに居るときだって、どっちに居るのかわからなくなるらしいんです」
「ふうん、夫婦喧嘩も原因はそこなの」
「大根《おおね》の方をいえばね。どうもいつまでたっても、他人の女房と暮しているような気がしてしようがないんです。彼女の方だって、ふんぎりがつかないでしょう。ぼくの見るところ、羽鳥さんがそうしているのが大きいんですよ。貴方がはっきりと別の砦《とりで》を築いてくだされば、すみ子も錯誤をしなくなると思うんです」
「そうすると、君は、君たち夫婦のために、ぼくにまた地獄に行けというんですか」
「そういうことになるんですかねえ」
「ぼくが誰か女の人をひきずりこんで再婚したとするね。すみ子は、それではっきりとぼくから離れていくことができるかもしれないが、ぼくはどうなるんです。新しい女房とまたお互いにずだぼろになって、こりゃァいかん、これでは瀕死の深傷《ふかで》になるからというんで、離婚する。別れたって、一度一緒に暮してしまった者が、明日から他人になれますか。傷だけじゃなくて、いい目も見てるんだし、傷そのものがまた微妙な味わいを持ってくるんだ。家族のしがらみというものは、離婚なんて役所の通知みたいな一枚の紙片でなくなるもんじゃないですよ。それでお互いに他の相棒をみつけないかぎり、またずるずると一緒になる。首尾よく誰かが出て来て、別のコンビを組めたとしても、ちょうど今の我々の話のように、もっとはっきりした決着をつけなければいけないということになって、ぼくはまた他の女を探さなければならない。それでその女と結婚して、離婚。その離婚を名実ともに完全にしようとすると、また別の女を探す。結婚、離婚。そのたびに、ぼくばかりじゃなく、相棒もずだぼろになる。君はそういう気の遠くなるような大事業を、ぼくにしろと要求するんですか」
「――そこまで考えませんでしたが」
「そこまで考えてください。一度やっちゃったことはね、ピリオドがつかないんです。もう死ぬまで紆余《うよ》曲折しながらひきずっていくよりしようがない」
「しかし、何にもやらないわけにはいかないでしょう」
「しかし、好んで戦争をくりかえすこともないでしょう。ぼくの身体の中にはね、ちょうど空襲で燃えた灰が地面の中でうすい層になって溜っているように、自分がしたことの灰が溜ってるんです」
私は少し言葉を切って、適当ないいかたをあれこれ探しました。
「ぼくはいいかげんな男でね。今までずっと、いいかげんでないことは一度もやったことがないくらいだったんです。彼女についてもね、最初から浮わついた気分で、結婚というよりは同棲気分。嫌になったら別れちゃえばいいくらいな気持だった。ところが、あんまりお互いにずだぼろになるものだから、ちっとやそっとじゃ、足を抜いて元の傷ひとつない身体に戻らなくなっちゃったんだな。それで、年月とともにだんだんかけがえのない女になってきた。最初はちがうんですよ。それで離婚してみたら、もう離れがたいくらいに思えた。おかしいんだな。今度、式をあげてはっきり君の奥さんになってみると、そのことがますますわかる。ぼくは彼女を、非常に愛してるんです」
「やっぱりね――」
「ああ、そうだ、これははっきり君にいっておいた方がいいんだな。愛、なんて、ぼくにはまるでふさわしくない言葉なんだけど、だから今まで怖ろしくて口にしなかったんだけど、ぼくはあの女を愛してるんですよ」
「なんだか、矛盾してますね」
「ぼくが人を本当に愛することができるなんて、おどろきだねえ。だけれども、もしできたら、これだけはやりとおしてみたいねえ。ぼくはそれだけだ。彼女の身体も心も、なんにも要求しない。欲しいとも思わない。欲しくなったって自制しますよ。彼女の亭主は君だし、彼女が君を好きになって選んだんだから、君たち夫婦を尊重する。ぼくはただ、彼女を愛しているだけ。一人になってそのことに徹底してみたいんです」
「すると、なんだか、余分なものはぼくにくれて、ポイントだけを貴方が抱きこんでいるふうにも思えますね」
「ぼくはぼくの立場で収斂《しゆうれん》していうから、勝手にきこえるだろうけど、すみ子にはすみ子の立場があるし、君には君の独特の立場があるはずでしょう」
「そんなに独特とも思えませんが」
「君は、彼女がぼくの元女房だと知って求婚したんだし、一度あったことは容易に白紙にはなりにくいのを承知で一緒になったんだから、それ相応に時間をかけるべきですよ。そうして自分の方法で、どんな形であれ、君たちの生活の恰好を作っていくべきですよ」
菊井は、なんだか私に攪乱《かくらん》され、宙に迷った様子で帰っていきました。
私は昂ぶってしゃべったために、自分の気持を正直に打ち明けることができたような気分になっていましたが、ふと考えると、たちまち不安になってきたのです。
私がこんなふうに彼女への気持を募らせているのなら、すみ子だって、菊井のことは菊井のこととして、私に対するふっきれなさを日毎に濃くしているのではありますまいか。
菊井が言ってきたとおり、私が何かはっきりした手を打たないかぎり、彼女の新生活は不安定の度を濃くし、ついには破綻に至ってしまうかもしれない。
そうなったらどうしよう。私は彼女のためにも、少しもそれを望んでいません。
では、私は可及的|速《すみ》やかに、誰か別の女と再婚するべきでしょうか。それがすみ子を愛する者の義務なのでしょうか。どうも、私にもなんとなく、物事が混乱して感じられるこの頃なのであります――。
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恐 婚
一
春のさかりの好日に、都心のホテルまで出かけるので、私は珍しく時間を気にしながら、なるべく目立たない実直そうな色の上下揃いの洋服を着、そのうえしなれないネクタイなど結んでおりました。というのは、そのホテルの広間で、友人の神戸塚夫の結婚披露宴がおこなわれるからです。
神戸は私より五つ六つ年下で、私と同じく週刊誌のライターをしていたのですが、なかなか独特の才能のある男で、片手間に小説など書きはじめ、昨年は直木賞を受け、原作の映画化も大当りするなどして、一挙に世間の耳目を集めていました。ライターとしていくらか先輩面などしていた私は、あいかわらず蔭の仕事で、もうその社会的位置は段ちがいです。本来なら、交際も遠のいたりするところでしょうが、神戸が磊落《らいらく》な男でなんのこだわりも見せないので、ずっとそのまま交際が続いていたのでした。
支度ができると、私は自分の巣を出て、表通りを南に二丁ほど歩き、三階建てのマンションの一室に居るすみ子を誘って、そこからタクシーで行くつもりでした。すみ子は私の元の女房で、離婚後もしばらく一緒に暮していたのですが、この頃はやっと男をみつけてそのマンションに移っているのです。そうして彼女も私を通じて神戸をよく知っており、披露宴には自分も出席したいといっていました。
「おうい――」
ドアが半開きになっていたので、私は大声で中に叫びました。
「行くぞォ――」
「――待ってよ」
すみ子の声がやや不機嫌です。
「そう簡単に出られやしないわよ」
「どうしたんだ」
「寐坊《ねぼう》しちゃったの」
「あれほど電話で時間をいっておいたぞ」
「夜中に、雨が降っていたでしょう。だから――」
「今は、晴れてるよ」
「夜中はじゃァじゃァ降りだったのよ」
「遠足じゃないぞ。雨が降ったっていいじゃなぃか」
「そういうことってあるでしょ。雨だと、油断しちゃうわ」
「とにかく、もう午後だぜ」
「せかさないでよ。女はいろいろ支度があるのよ」
「しかし先方だって時間があるよ。普段のままでいいじゃないか」
「――じゃ、行かない。一人で行って」
「なんだ、せっかく寄ってやったのに」
「あたし行かないわよ。無理なことばかりいうんだから」
「無理ったってしようがないじゃないか」
「なにしてるの、早く行きなさいよ、おくれるんでしょう」
やれやれ、彼女と事を画するとおおむねこういうことになるのです。それなら誘わなければいい。私たちはまず離婚し、いや、まず結婚してから離婚し、それでお互い気楽になって同棲をしましたが、現在はそれも打ち切って別居し、彼女は別の男のものになっているのですから。してみれば私とは全然無関係の女であるわけで、無関係な女と痴話喧嘩《ちわげんか》をするほどばかばかしいことはありません。
もっとも私は、ばかばかしいというくらいの理由ではびくともしないくらい、ばかばかしいことばかりやって生きている男で、ともかく足が自然にそっちの方に向いていくかぎりは足の気分にまかせてみよう、そうしているうちに一生が終ってしまうだろう、と暢気《のんき》に考えています。
すみ子のことだって、名実ともに無関係になって、本当にせいせいしたので、そのせいせいしたところでまた会ってみたいという気分にだってなるのです。
神戸くんの披露宴はまことに盛大で、人気者らしい華やかさに満ちていました。その日の午前中に某教会で式をあげたときから、テレビカメラが後を追っているらしく、ホテルの大広間にも何台も来ています。彼の映画に出演した俳優たちが新郎新婦を中心にして行列を組み、広間をうねるように進む。近間の人たちがいっせいに拍手する。各界の人たちの祝詞、くりかえされる乾盃。
私は隅っこの方にぽつんと立って、華やぎの中心を遠望していました。ひとつ感心したのは、新郎の神戸くんが、人生の頂点のひとつを絵にしたような華やぎにもひるまずに、むしろその華やぎに立ち向かうような雄々しい表情で、みずから大騒ぎの先頭に立とうとしていることでした。彼は、雰囲気に毫《ごう》も負けていなかったし、見方によってはまずご当人がばかばかしくなってしまうような要素にも、敢然と突進してたじろぐところがありませんでした。男はたいがい、結婚式なんて内心うんざりなんだろうに。
(――そういえば、奴は、前から雄々しい男だったな)
かなりおくれて、すみ子がひょっこり会場に入ってきました。彼女は華麗な雰囲気が大好きなので、もう機嫌が直っていて、私のくわえた煙草に火をつけてくれたりしながら、
「綺麗なお嫁さんねえ」
「ああ」
「直木賞を貰うと、あんな若い可愛いお嫁さんがくるかしら」
「関係ないだろう。嫁さんは個人的なことだから」
「誠ちゃんも欲しいでしょう」
「何を――?」
「若いお嫁さん」
「ああそうか。しかし俺は、もう結婚はいやだね」
「そうね。あたしみたいないいお嫁さんを逃がしちゃうんだから」
彼女はホテルが好きで、ホテルなら一生居てもいいといいます。その日もそうで、すぐには立ち去りかねて、ロビーでコーヒーを呑《の》みました。
「あたし、神戸さんが結婚するとは思わなかったわ」
「どうして」
「それもあんなかわいいお嫁さんを」
「彼は雄々しいところがあるから、女の子に持てるだろう」
「雄々しいって、どういうこと」
「そうだなァ、叩いたり引いたりしないで、攻めて行くな、彼は、いつでも」
「それで小説も成功したのね。誠ちゃんは駄目ね」
「俺は駄目だ。勝負をまとめないからね」
「あたしは最初からまちがえちゃったのね、結婚相手を」
「そうだけれども、君はもともと、まちがえないようになんて考えなかったろう」
「それじゃあたしが馬鹿みたいじゃないの」
「まァしかし、結婚の儀式もこれだけ大仰《おおぎよう》になると、いっそ面白いだろうなァ」
「これからハワイに新婚旅行ですって」
「うん――」
「あたしたちは、式も旅行もしなかったわねえ」
「しかし君は、菊井くんとしたんだろう」
「式だけね。それも淋しい式」
「いいさ。とにかくしたんだから」
「ああそうだ、あたし、指輪も貰わなかったわ」
「菊井くんからもか」
「菊井はくれたわよ。菊井のことを話してるんじゃないわ。誠ちゃんから、ほんとに何も貰わなかった」
「そうかね」
「かわいそうな女ね、あたしも。こんな男と、結婚生活が六年、それから離婚生活が――」
「フフフ、離婚生活か」
「ええと、三年目、かな。合計ちょうど九年よ。はじめて会った頃は、あたしも若かったでしょう」
「ああ――」
私はベッドの中で一生懸命|媚《こ》びてみせたあの頃の彼女を思い出しました。
「あたしね、今度お誕生日が来ると、四だものね。あたし、変った――?」
「比較的、変らない方だろう」
「でも、変ったでしょう」
「鼻が、みずみずしくなくなったな」
すみ子は自分の鼻を掌《てのひら》でつかみました。
「もうお婆ちゃんね」
「仕方がない。誰だって年をとる」
「青春を返してよ」
私は虚を突かれてちょっとたじろぎました。
「今頃、何をいう」
「まじめな話よ。青春を返して」
「じゃ、俺の青春も返せ」
「誠ちゃんは青春もクソもない。いつだって同じじゃないの」
「そうかなァ。やっぱり、俺が奪ったと思うか」
「他に誰が居るの。誠ちゃん以外に居ないわよ。残念なことに」
二
神戸塚夫家の新婚生活もだいぶおちついたろうという頃合のある日、夫人が里帰りをしているとかで、ふらりと神戸くんが遊びに来ました。
「おや、仕事に追っかけられてるんじゃないのかね」
「いや、僕はあれこれ書かないから」
「そうだな。君はうまいこと仕事をしぼってやってるね」
「このところはもっぱら、女房サービスに追われてますよ」
すみ子が私のところに居て(彼女は、菊井くんが外で働いている昼間は私のところに来ている方が多いのです)たちまち話に加わります。
「お幸せでしょう、神戸さん」
「幸せですよ」
「奥さんも」
「ええ、彼女も幸せです」
「いいわねえ。夢みたいねえ。あたし、そういう人に会ったの、はじめてだわ」
「そうですか。僕らは稀《まれ》にみるほど、うまくいってます」
私は苦笑しました。しかし、神戸くんが口先でいいかげんなことをいってるとは思いません。かりに一から十までうまくいっていなくても、幸せとはこういうものだ、と自分にも相手にもいいきかせるでしょう。そうして、幸せだ、幸せだ、といっているうちに、他ならぬその幸せなるものと接近してつばぜり合いを演じるに至るでしょう。彼のよさはそういうところにあるといえます。
「うちとは正反対ね。奥さんお幸せね」
「だから、幸せだといってますよ」
「誠ちゃんも少し見習ったらどう」
「新婚家庭を見習え、といわれてもなァ」
「アラ、うちは新婚の頃から暗かったじゃないの」
「そうだったかな」
「そうよ。あたしはハワイなんかに連れてって貰えなかったわよ」
「ハワイに行けばよかったのか」
「指輪も貰わなかった。あたしってすごいわねえ。宝石も毛皮も、何ひとつ買ってもらわないけど、欲しいなんていわなかったでしょ」
「ああ」
「黙ってればそのうち買ってくれるかと思ったけれど、駄目だったわね。あたしの指輪、みんな親に貰ったの」
「羽鳥さん、指輪くらい買ってやらなきゃ駄目じゃないですか」
「ウーン」
「この人、なんにも買おうとしないのよ。家だっていまだに借り家」
「そりゃどういうことですか、羽鳥さん」
「どういうことって、神戸くんみたいにどっさり印税が入らないからね」
「けっこう稼いでるじゃないですか」
「駄目なの。高利貸しにみんな返しちゃうの。誠ちゃんは高利貸しが好きなのよ。どんどん借りて、どんどん返しちゃう。あたしのところは素通り」
「羽鳥さん、ぼくはね、一千万の指輪を五百万に値切って、女房に買ってやりましたよ」
「ほほう――」
「それから一億のマンションでしょう。週刊誌で見たわよ」
「ええ。借金ですがね。とにかく女房を喜ばさにゃァ。それが男ってもんですよ。高利貸しを喜ばしたってしようがないよ」
「神戸さん、好きよ。どうして毎日遊びに来てくださらなかったの」
「奥さん――」
と神戸くんはすみ子にいいました。すみ子の再婚は彼女の方で必要最低限にしか知らせなかったし、私は、結婚離婚すべて誰にもことさら通知しないので、神戸くんも私たちのことを、どうやら離婚はしたようだが、改めて同棲している、といまだに思っているようです。
「かまわないから買っちゃいなさいよ。そのくらい当然だよ」
「だってお金くれないもの」
「ハンコ持ってて、だまって銀行に行ってお金おろして、買っちゃうんですよ」
「ハンコは誠ちゃんが肌身離さず持ってるから駄目なの」
「羽鳥さん、あんた女房にハンコも預けられないんですか」
「まァ、あたしは女房じゃないけどね」
「ハンコがあったって――」と私は消極的に応戦します。
「銀行には金を預けない主義なんだ。出版社から入金があったときに引き出すだけでね」
「引き出してどうするんです」
「高利貸しに返すのさ」
「なぜそんなに高利貸しに借りるのかなァ」
「だって生活費を借りなきゃ。みんな入金は返してしまうんだから」
「そうすると、高利の分だけ損してるわけだな」
「いや、そうとも限らないよ。いつもかなりの借り越しになっているから」
「だって返すんでしょう。いつかは」
「しかし、そのうち死んじまう」
「でも、奥さんが返さなきゃ」
「いや、それはないだろう。彼女は女房じゃないんだから」
「ああ、そうか――」と神戸くんはうなずいて、考え深そうに、「なんか複雑でよくわからないけど、それじゃこうしたら、銀行で借金したら。その方が利息が安いでしょう」
「銀行で、俺に貸すかねえ」
「貸しますよ。家を建てたり買ったりするんだったら、それが担保になるわけだから。どうせなら買っちゃったら」
「家を買って、どうする」
「住むんですよ」
「俺は、要らんなァ」
「どうせ家賃を払ってるんだもの。ローンの方が楽でしょう」
「家賃は現実とひきかえだもの。自分の家を持つってのは、要するに未来を含めて先払いすることだろう。俺はもうそれほど未来はないから」
「奥さんが困るでしょう。羽鳥さんが死んだら」
私はすみ子と顔を見合わせました。
「あたし、ほしいわ」
「奥さんが一人残されたときのことを、羽鳥さん考えないんですか」
「一人残されるとは限らんがね」
「どうして」
「彼女がべつの男と一緒になってるかもしれないでしょう」
「そりゃ逃げ口上だよ。男はそんなことをいうものじゃないな。ねえ奥さん、羽鳥さんはおっくうがりだから放っといたら駄目ですよ。どんどん自分から手を打たなくちゃ」
「そうねえ。――神戸さんにそういっていただくと、なんだかその気になっちゃうわね」
その翌日、麻雀をやる約束になっていて、神戸くんがまたやって来ましたが、そのとき不動産会社の社員を一人ともなってきたのです。
そのときもすみ子は私の巣の方に来ていました。麻雀のメンバーに神戸くんが居ると知って、お茶のサービスをしに来たのだそうですが、もしかしたらこれは最初から彼女の企みで神戸くんが一役買って出たのかもしれません。
「奥さん、デパートをひやかして歩くようなつもりで、いろいろ物件を見てください。見るだけだってけっこう楽しいでしょう。彼が万事世話してくれますから」
昨日の話題を翌日すぐに実行するところがきびきびしていて神戸くんらしいけれども、本当に生真面目にすみ子に同情しての挙なのか、それともシャレっ気が充分混っているのか、真意をはかりかねてまじまじと眺めている私に、神戸くんは、
「羽鳥さん、もうこうなったら観念してください。奥さんに何かしてやるというのも、けっこう楽しいですよ」
「奥さんというけれどもね――」
「まァ黙って。どうせ借金しまくっているんだから、同じことじゃないですか」
「そりゃそうだが――」
「奥さん、どうせ借金で買うんだから、安物はいけませんよ。羽鳥さんの仕事場も含めて、五LDKで一億、一億以上でなくちゃ」
「夢よ。神戸さんのところとはちがうわ」
「そんなこといってないで、買っちゃえばいいんだってば」
三
時間で締切の迫った実話原稿をせっせと書いて居ると、玄関から人が入ってきた気配がします。
勝手知ったる編集者なら、私の机のそばまでずかずかあがりこんでくるだろうと、仕事を続けていましたが、妙にひっそりしているので、立っていくと、すみ子でした。
彼女は朝食用の椅子にかけて、現われた私に妙にしっとりとした視線をよこしました。大体、今の亭主の菊井くんが帰宅しているので、夜は私のところに現われないのですが。
「お邪魔でしょ」
「なんだい」
「あたし、夢を見てるようよ」
「なにが――」
「すばらしいお邸《やしき》があったのよ。荻窪に」
「お邸って、家のことか」
「すばらしいの。中はちょっと古いんだけどね。外観がね。アールヌーボー風ってのかしら。蔦《つた》が、どどっとからんでいて」
「おい、まさか、あんな話をまともに受けとっちゃったんじゃあるまいな」
「あんな話って、神戸さんのこと?」
「ああ。神戸くんは、俺たちがまだ一緒に住んでると思って、あんなことをいってるんだ。ところが俺たちはもう一緒に暮しても居ないし、君はべつの男の女房なんじゃないか」
「でも、こうして毎日のように会ってるじゃないの」
「近所のおばさんとしてな」
「あたしが近所のおばさんですって。近所のおばさんが洗濯や掃除をしていくかしら」
「俺が頼んだわけじゃない。君がするのをことわるのも依怙地《いこじ》に見えるから、放ってあるだけさ」
「じや、どうすればいいの」
「どうすればって、なにが」
「菊井があの家を見た瞬間いったわよ。ああこれは、羽鳥さんが絶対気に入る。羽鳥さんにぴったりだ。絶対ここに定めるべきだ、って」
「菊井くんも見に行ったのか」
「そうよ。彼だって心配してるわよ」
「何を心配してるんだ」
「彼がね、不動産屋さんからとてもすばらしいことを聞いて来たの。銀行ローンというものは、ローンに見合うくらいの生命保険に入ることになっていて、途中で死んだ場合、保険がおりて自動的に完済になるんですって」
「――それが、どうしたんだ」
「何も心配することはないじゃないの」
「誰が心配するって?」
「わからない人ねえ。いくら借金したって、保険がついてるんだから、返す心配なんかしなくたっていいのよ」
「死ななかったらどうする」
「保険をかけ増していけばいいのよ。利子の分だけ」
「おい、君はわかってないぞ」
「あたしだって、誠ちゃんをこれ以上苦しめようなんて思ってないわよ。お金の貯まらない人だってこともよく知ってるわ。誠ちゃんに無理させようというんじゃないの。だけどこんないい条件があると」
「おい、おちつけよ。君のことだから、やっぱり本気でいってるんだろうけどな。第一、俺たちはもう夫婦でもなんでもないんだ」
「そうよ。ずっと前からそうだわ」
「そうだろ。それで君は、菊井くんと暮してる」
「ええ」
「それで、なんで俺が君に、家を買ってやらなくちゃならない」
「菊井は若いし、東京に出て来たばかりで、収入も不安定だわ。銀行が貸してくれるわけないじゃないの」
「それじゃ、菊井くんが収入が安定するまで待てばいい」
「そうすれば買ってくれるの」
「銀行が貸してくれるだろう」
「それで誠ちゃんは、どうするの」
「俺はこの問題にはタッチしない。そういう立場でもない」
「よくもそんなことがいえるわねえ。あたしの青春を奪ったのは誠ちゃんじゃない。あたしがあの時分、指輪買ってくれ、毛皮買ってくれ、っていったことある? あたしだってもう年よ。でなきゃこんなこといいださないわ。あたしってもともと欲がないから、人に何か頼むって苦手なのよ」
「年齢《とし》なのはわかるが、それをいう相手は、やっぱり菊井くんだな」
「菊井をそんなにいじめないでよ」
「いじめちゃいない。いいかね、きみと俺は離婚証書にちゃんとサインして――」
「――あのとき、慰籍《いしや》料、貰ったかしら」
「定めた分は払ったよ」
「途中までしか貰わなかったんじゃない」
「うん。それはきみがこっちへ転がりこんで来て、一緒に暮しはじめちゃったからじゃないか」
「誠ちゃんが居ろっていったんじゃないの」
「またはじまったな。それはどっちでもいいが――」
「でも、もう一緒に暮してないわ」
「ああ」
「もういっぺん、慰籍料、ちょうだい」
「君は勝手に男を作って出て行ったんだろ」
「誠ちゃんも賛成したわよ」
「こういう場合、慰籍料は、俺の方が貰ってもいいんじゃないか」
「あら、あたしは女よ」
「女も男もありゃしないよ」
「いやな性格ねえ」
「そうかね」
「やっぱり、鬼ね」
「しかし家一軒となりゃ大変だよ。洋服買ってやるようなわけにはいかない」
「いつからそんなに理屈をいうようになったの。都合がわるくなると理路整然とするんだから」
「都合がわるくて理路整然となる奴は居ないよ」
「入金はみんな、高利貸しのところに持ってっちゃうんでしょう。それで生活費をまた借りてくるんだもの。借金がなくなりゃしないわね」
「――うん」
「借金がなくなるまで、生活費を借りるのを待ってられる。待ってられないでしょう」
「ああ」
「それごらんなさい。お金がないからって、年老《と》るまで待ってられないわ。同じことじゃないの」
「――そういうことになるかな。しかし生活費だから。家を買うというのとはちがう」
「ずいぶん怪しげな生活費もあったわよ。誠ちゃんが使うんだからかまわないけど」
「まあ、俺はえらそうな顔はできないな」
「そうでしょ。家を買いましょうよ」
「買いましょうよ、って、君ね、君と俺は、家を買いましょうよって間柄じゃないの。今はね」
「どうしてそんなひがんだようなことをいうの」
「ひがんじゃいない」
「あたしと菊井と誠ちゃんと、三人で暮そうっていってたのは誰?」
「君たちがことわってきたじゃないか。つまり君と菊井くんとがペアーで、俺は他人だろう」
「じゃ、いいわよ。一緒に暮しましょうよ」
「家と引きかえにか」
「平気だったら。誠ちゃん、死んじゃえばいいんだから」
「俺がか」
「そうよ」
「俺が死んで、君たちが残るのか」
「それは仕方がないじゃないの。三人一緒に死ねないわよ」
「君たちは平気だろうが、俺は殺されて――」
「殺すなんていってないわよ。死んじゃえば借金はひとりでになくなるって話。ね、そうすればいくら借りたって平気でしょう」
「その、お邸ってのは、いくらなんだね」
「安いのよ。九千八百万。それももう少し値切れる自信はあるわ。今は不景気で、不動産屋さんも物件がほとんど動かないんですってね」
「安いって、九千八百万が、どうして安いんだ」
「だからいってるでしょ。生命保険が、ちょうど見合うようについてるんだから」
「百歩ゆずって、死ねばいいよ。病気になって、まだ生きてるけど働けない、ということになったらどうする」
「誠ちゃんが病気になるもんですか」
「この前なったじゃないか。死にかけたぜ」
「だから、死ねば、保険が――」
「保険のことばかりいうな」
「内臓が丈夫だものねえ。誠ちゃんは」
「内臓以外の病気だってあるよ。そのうち半身不随になって二十年くらい生きるぞ」
「それじゃ、あたしが年を老って、路頭に迷ってもいいの。子供もないし、お金もない、どこかの駅のお便所掃除をするようなお婆さんになりたくないわ。あたし、せめて家をほしいくらいのことをいう権利はあると思う」
「それは菊井くんと相談しなさい」
「菊井菊井って、あたしが菊井の女房だなんて簡単に考えてもらっても困るのよ」
「おや、それじゃ君は何なんだ」
「人間ってそんなにひと口じゃいえないわよ。あたしは誠ちゃんの元女房でもあるし、親の娘でもあるし、姉の妹でもあるし、叔母さんの姪《めい》でもあるし」
「ずいぶん相談する人が居るじゃないか」
「誠ちゃんが一番近いのよ。前にもいったでしょう。あたし、ここが実家みたいに思ってるんだから」
「――どうしてそう思うのかなァ」
「菊井と別れたら、ここに戻ってくるわよ」
「それが、困るなァ」
「誠ちゃんと再婚しようというんじゃないわよ」
「再婚しなくても、困る」
「じゃ、家を買いましょうよ。そうすれば、もうどこへも行かないわ」
四
大筋はいかにもすみ子らしい無茶苦茶な話ですが、私はこの件を笑ってばかりは居られませんでした。生活費を高利貸しから借りてくるのと、ローンで家を買っちまうのは、同じことだという彼女の意見は、なるほどという点があります。入金はすべて高利貸しに入れるかわりに、それ以上に無計画に借りてしまうという私のやり口は、欲しい物がすぐ手に入る方式ではありますが、他から見れば危険な無計器飛行に見えましょう。無意識にせよ、すみ子はその私のやり口を踏襲してきたわけで、当のご本尊の私がそれを笑うわけにはいきません。現に、すみ子の一件が、一億円近くの家ではなくて、二、三十万円の着物か何かだったら、ひょっとすると高利貸しのところへ走って買ってやったかもしれないのです。
してみると、問題は、この一件の本質的な部分ではなく、第一に金額の大きさ、第二に、すみ子に対する私の心情の如何《いかん》、にあるといえましょう。
金額の点はさておくとして、すみ子への私の気持だけをいうなら、どうしてかとても優しい情緒を含んだものになってしまっていて、うっかりすると、いいとも、といってしまいそうになるのを辛うじて理性で圧《お》し殺している、といった按配《あんばい》でした。
だから恐ろしい。まことにどうも、自分という生き物が、気持の表面の方はともかく、その奥の隙間《すきま》の方で何を考えているのか量りがたいものに思えてなりません。
私は懸命に、世の中の尺度に則《のつと》って、私たちがもう夫婦でないこと、すみ子が菊井と暮していること、を指摘して、私が彼等の住む家を購入する義務はないとくりかえし主張したのでしたが、そんなことは私自身の耳にすら、そらぞらしい響きとなって返ってくるのです。
もともと私は、夫婦だとか、他人だとか、そういう形式にさほどこだわっているわけではありません。ですから、いったん離婚して、お互いに夫とか妻とかいうことでなく、一緒に暮し直してみたのです。その結果、私としてはすみ子のことを、戸籍上の(つまり文字どおりの)妻としても失格だし、そこいらをとっぱらったただの同棲相手としても不適当だと確信しましたが、だからといって彼女を憎んだり、侮《あなど》ったりしているわけではありません。
すみ子の方もそうだったでしょう。彼女は女だからもう少し屈折したり受け身に現われたりしますが、一緒に居れば私を憎み、離れれば無視できなくなるという様子が手にとるようにわかります。
私どもは、権利とか義務とかこの世の約束事とか、そういう段階で話し合っていたのではないのです。つきつめればお互いのエゴイズムでしょうが、それだけともいえない漠然とした惹《ひ》き合うもの、その執着を根にしているだけで、だから、私がいくら私たちは赤の他人だなどといっても、彼女には少しもこたえないのです。
夫婦じゃない、だとか、他の男と暮してる、だとかいう拒否の理由は、逆にいえば、なんとか納得できる理由がもしもあったら、拒否しないだろうか、ということにもなります。
たとえば、私が家を購入して住みつく。そこに下宿人として、すみ子と菊井がやってくる。これなら、私とすみ子が夫婦であろうとなかろうと関係ありません。しかも、現実問題としては、彼等は下宿人の域を逸脱するだろうし、私は私で家主という顔つきを守っていられないでしょう。つまり理由などどう整えたって同じことで、三人がただごちゃごちゃと、或いは、本来のつながりにそぐうような形でおちつくだけなのです。
実際、私は一人で部屋に居るとき、早くもこうした未来図を想定しかけて、慌《あわ》てふためく始未でした。すみ子のいうとおり、豪邸をかかえこんで、私と彼等夫婦が暮す。私は一番早く死に、その時点で保険と借金が相殺になり、彼等が私のあとを継いで正式に家の持主になる。おや、すると私は彼等の舅《しゆうと》みたいなことになるのかな。
一億だかなんだか知らないが(銀行が私の必要とするだけ貸し出すとして)それだけの借金を新たにかかえこんで、すみ子の未来を保証してやるということが、甘い蠱惑《こわく》を呼びます。実現の暁には、無茶苦茶だった私のこれまでの生き方に錦上《きんじよう》花をそえる愚行になりましょう。第一、誰かがそのくらいの愚行を注ぎこまなかったら、すみ子はこの先満足に生きられないでしょう。
ある夜、菊井がかなり緊張した表情で私の巣に現われたとき、私はもう少しで自制心を失って、すみ子の申し出をそっくり受ける心の用意があると口走るところでした。
「女房が、今夜はお前が行ってこい、というものですから」
「うん――」
私は構えてむずかしそうな表情をしました。
「いろいろご迷惑をかけます」
「いや、ちっとも。今のところ、迷惑どころか、ぼくは非常に助かっていますよ」
「それで、家をどうこうという件ですが、ぼくにはどうもよくわからないのです。なぜ、急に彼女が、家、家、と騒ぎだしたのか」
「うん――」
「この間までは、四畳半ひと間でいい、最低のところからやっていきましょう、といい暮していたんですからね」
「脈絡がないからって、発想が浅いともいえないだろうからね。おそらく彼女は、君との生活が一応のおちつきを得たのを感じているんだろう。それで、次のテーマに切りかえたんだよ」
「ぼくとの生活も、さっぱりおちついてはいないんですがねえ。ぼくがだらしがないもんで」
「でも、気持として、君と所帯を持ったという実感が固まってきたんじゃないかな」
「――どうでしょうか。彼女は、ぼくなんかじゃ物足りないんじゃないでしょうか」
「そんな気弱なことをいってちゃ困るねえ。お互い、あんたとならばどこまでも、という気持でぼくのところから巣立っていったんでしょう」
「それはそうですけど――」
「まだいくらもたってないよ。がんばってくださいよ。ぼくだって、離婚するまで六年もかかったんだよ。男だったら、すぐ放り出すような真似はしないでくれ給え」
「ぼくはがんばってもいいんですけれど、彼女にその気持がなければ――」
「その気持がないって、どういうこと?」
「どういうことかわかりませんが、そんな気がしますね」
「――だって、彼女はああ見えて、他の男に簡単に気持を移すような女じゃないよ。だから困ってしまうくらいなんだ。ぼくがかかえこんで、ええと、八年目だが九年目に、やっと君が現われたんだからね。そう簡単に君から離れやしないよ。離れられるもんか。もし離れそうな気配を漂わしているとすれば、彼女の強がりですよ」
「強がりか。それはたしかにありますね」
「強がってるけど、弱い女なんだよ。弱い犬がよく吠《ほ》えるでしょう。あれと同じだね。もっとも、弱いからあつかいいいというわけじゃないが」
「強がりばかりでもないんだな」
「そうかい」
「彼女は結局、誰とも一緒に暮したいわけじゃないんだな。ただ、経済的に自立できないから誰かを必要とする。やむをえずね。それで頭を押さえこんでくる相手に腹を立てるんですね。ぼくなんか彼女よりずっと年下だから、ぺこぺこしなくていいと思ったんじゃないですか。ところが目下のぼくは、経済的にまだ頼りにならないし――」
「そんなこといわないでくれよ。金ならなんとかするから。とにかく君は、彼女にとっても、ぼくにとっても、九年間に一人の貴重な男なんだから」
「しかし、他にも居ますよ」
「男がかい。ほう、初耳だな」
「羽鳥さん、貴方ですよ」
「あ、ぼくはもう兵役はすんだんだ。めでたく除隊になってね。長い軍隊生活だったが」
「まだすんでいませんよ。家が欲しいと思うと、貴方のところに行くじゃないですか。なんでもない男に、家をくれ、なんていわないでしょう」
「しかし、ぼくは彼女に手も触れてないぜ。菊井夫人というあつかいをしているよ」
「でも、彼女はごちゃまぜにしてますね。ぼくと羽鳥さんと、二人男を持った気になってます。しかし、それでもまだ、自分は男運がわるいとこぼしていますが」
「なるほど。しかしそれは目下のところ亭主たる君の責任だな。君がしっかりと彼女をひきつけないからいけない。それに実際は、彼女はぼくのところを実家のように思ってるだけなんだよ」
「実家――?」
「うん。多分、親たちと折り合いがわるいせいなんだろうな。君に捨てられたらここに帰ってくるといってる。口にするだけでぞっとするがね。大体、すべてに恣意《しい》で対しているから世の中をせまくして、実家も男もごちゃごちゃにせざるをえないくらい、身のおきどころがないんだ」
「そうでしょうかね」
「ぼくもそうだから、よくわかるよ」
「そうすると、ぼくはまだ、亭主であるだけで、実家ではないんだ」
「そうだな」
「貴方は実家ではあるけど、亭主ではない」
「そうだよ。ぼくは棄権したから。それに実家にもなりきれないよ。だから、亭主になった以上、君がもっと亭主らしくならないと、彼女はかわいそうだよ」
「――家の件なんですがね。現状では、ぼくは彼女の望みを満たす力はありません。銀行も貸してくれませんしね。家なんか、もっと先の話と思ってました」
「そうだろうね」
「ただしかし、これもあまり役にはたちそうにも思えないんですが、ぼくの親から貰えることになっている土地が、二百五十坪ばかりあります」
「ほう、土地があるのか。それは強い」
「都心からは少し遠いんですが」
「どこなんだい」
「山形県の蔵王《ざおう》のそばです」
「――都心からでなくたって、遠いじゃないか」
「でも温泉地帯ですよ。温泉の権利をとってあって、遊ばしておくにはもったいないところです」
「売ればどのくらいになる?」
「土地をですか」
「土地しかないんだろう」
「売れば、まだ、二束三文ですよ。でもぼくは、いつかそこで旅館をやるのが夢でした」
「山形県ねえ。彼女がついていくかなァ」
五
翌日の夜、菊井くんから電話がかかってきて、
「すみ子がそっちに行くと思いますが、よろしくおねがいします」
「脅かしちゃいけない。よろしく、というとどういう意味ですか」
「出て行く、といって、出て行っちゃったんです」
「おいッ、それは大変だ。出て行くといって出て行ったとなると、これは、来ますよ、こっちに。いったいどうしてまた――」
「山形県の例の土地に、家を建てて住まないか、といったんですがね」
「ははァ――」
「あそこなら、土地があるから、ぼくでも銀行から借りられますから」
「まァとにかく、もう来るだろう。いったん電話を切るよ」
私としたことが、急に動悸《どうき》が早くなりだしました。
すみ子が菊井と結婚して以来、よくこういう夢を見るのです。外出先から帰ってくると、彼女が、ちゃあんと部屋の中に坐っている。或いはまた、自分一人の家なのに、トイレに行こうとすると先客が入っていて、スラリとすみ子が中から出てくる。
そういう悪夢が不意に現実になりかかっているのです。私の方もそうだが、彼女だってけっして朗らかに戻ってくるわけではないでしょう。いくら実家だと宣言しているにせよ、かりにも男を作って出て行ったところに戻ってくるのですから。彼女の新天地でも、自分の恣意と相手の条件を融和させることができずに、ひしゃげた顔つきで戻ってくる、そんな彼女を見たくありません。恣意は世の中と融和しないのが普通で、それが通るように見えるとすれば、好運か、まわりの犠牲か、愛情か、いずれにしても何かに感謝しなくてはなりませんが、彼女には感謝するという余裕に欠けているのです。もっともそういう余裕は、体力気力とか、自分に授かったいい条件とかから生じてくることが多いので、まず体力のないすみ子が余裕がないのも無理からぬ気もします。
私がすみ子なら、こういう場合、へこたれずに突っ張ってなお無茶苦茶になり、生き方が一層乱雑になりますが、彼女はがんばらずに戦線を放棄して退いてくるので、はた迷惑でもあり、かわいそうでもあるのです。
私はしばらく緊張して待ちましたが、なんの気配もありません。
「来ないぜ――」
と菊井に電話しました。
「そっちに戻っては居ないんだろう」
「ええ。それじゃァ女友達のところかもしれませんね。きっと、あれこれこぼしてるんでしょう」
女友達のところに居続けるわけはないから、こぼしで気がすんで彼のもとに戻るか、或いはこちらに向かってくるか。
それにしても、私は(私のような自堕落な男でも)、まずできるだけ自分の思いどおりの生き方をしたい。私だって好き好んで雑文を書き散らしているわけではありません。最初、この世界に入ったときはなんとなく面白そうだというくらいのことだったのですが、年月がたつにつれ、やっぱり、まがりなりにも文章を売って生きている以上は、自分の名前で、全力投球をしたもので勝負してみたい。神戸くんのように脚光を浴びなくてもよいから、せめて無署名の雑文書きでは終りたくない。いつもそう思ってはいるのです。ただそのためには現在のような濫費を慎み、放縦を維持するための雑仕事を整理しなければなりません。それが次から次へと、いったんできあがったペースに沿って日常が進行するので、改めるに一大手術を要するのです。
多分、私のような男は、この生活を変えられないでしょう。雑文に汲々《きゆうきゆう》とし、体力が尽きるとともに窮死していくのでしょう。それでも、夢は夢として、消してしまいたくない。男の仕事というものはべつにあるんだと思い続けて居たい。
一億円はともかく、三千万くらいのマンションなら、借金で買い与えることも不可能ではありません。或いは、今でなくとも、先に行ってすみ子が手に入れることができるように貯蓄しておくという方法もあります。けれども、その条件を枠組としてつけてしまうと、なおさら雑仕事をこの先もやめるわけにいかず、私は自分の夢を我が手でもみ消してしまわなければなりません。
すみ子が誰の女であろうと、彼女のためになることを何かしてやりたい。一緒に暮すことだけはまっぴらですが、それ以外のことなら、なんでも願いをきいてやりたい。そう思いながら逡巡《しゆんじゆん》したままだったのは、以上のようなことがあるからです。
私は、もう一度おちついて考え直してみました。
どうもよくわかりません。
彼女は、私の夢を捨ててもよいほどの価値のある女か。
答えはノーです。これはもう文句なしにノーで、何と比較しても彼女ほど釣合いのとれない女は居ないだろうとすら思えます。たとえ私が、やっぱり同じくらい無価値の男だったとしても。
では、彼女の勝手な願いを拒否すれば、それでいいか。
答えは、やっぱりノーなのです。彼女に限って、例外として身のほど知らずの一生を送らせたい。世の中は彼女の身のほどにふさわしいあつかいをするでしょうが、私だけはそれから守ってやりたい。
すみ子はその次の日の朝、私のところに現われました。
「どうしたい、家熱はもうさめたかい」
「さめちゃいないわよ」
「しかし、神戸くんにいわれたにしても、急に熱病のようになるってのはどういうわけだ」
「急にじゃないのよ。前からずっと思ってたわよ。あたし、誠ちゃんと暮して何を得たろうって。十年近く居たけど、いつまでたっても、あるものは高利貸しの証文だけじゃないの」
「うん」
「誠ちゃんあたしに何をくれた。指輪や宝石ばかりじゃなしに、なんにもくれなかったでしょう。途中から籍だってなくなっちゃったじゃない。あたしだってもう年だもの、ひとつくらい、形のあるものがほしいわよ」
「そりゃァまァ、やくざな男と一緒になっちゃったんだからな。しかし君だって、これまでそういう手順は全然踏んでなかったぜ」
「あたしのせいにしないでよ。引越しするっていったって、もう働けませんからね。一人で家ン中を散らかしておいて、さァ引越しだって。あたしそのたんびに熱を出すほど辛かったのよ」
「それはもう大丈夫だ。俺は一人で住んでるんだから。君の手は借りないよ」
「菊井のことよ。あの人も放っておくと、これからずいぶん引越しをやりそうだわ」
「菊井くんのことは、彼にいいたまえ」
「菊井はね、秋田だが山形だかへ帰るんですって」
「向うに、親から貰えそうな土地があるんだそうだな」
「あたし、嫌よ」
「しかし、君が家が欲しいというから――」
「そんなところに欲しくないわよ」
「きっといいところだぜ。空気がよくて、自然に恵まれて、温泉の権利もついてるんだそうだ。俺がもし君で、先のことを考えるなら、とにかくその土地の様子を見るぐらいしてみるね。それで旅館でもやってさ。平和にすごすさ」
「誠ちゃんはどうするの」
「俺――? 俺がどうするって」
「あたしに何も残さないで、無責任におっぽらかしたままなの」
「ああ、そうか。いや、今度はできるだけ君のためにお金を貯めて、送金するよ」
「貯まるわけないでしょ。いいかげんなことをいって」
「いや、俺はね、君が遠のけば遠のくほど、君のことを真剣に考える癖があるんだ。まちがいなく送金できると思うよ」
「だったらこうして。その送金は銀行に送って。あたしはその前に、とりあえずお家でいただくわ」
「家は菊井くんが建てるといってるよ」
「あら、どこに」
「山形にさ。君はそれで温泉旅館でもやるだろう。俺もときどき、客になって行くよ」
「あたしが山形ですって。どうして皆であたしを山形に行かせたがるのよ」
「君が、家が欲しいっていうからさ」
「じゃ、あたしを山形に押しこめて、誠ちゃんだけ東京でのうのうと暮そうというわけなの」
「だって、俺は山形に土地はないもの」
「卑怯《ひきよう》ねえ、誠ちゃん」
六
なるほど、私は卑怯者かもしれません。
私が内心で熱望していたことというと、まず第一に、すみ子が私から遠く離れること。遠い土地か、他の男のきびしい砦《とりで》の中か、とにかく私の手の届かないところに行ってもらいたい。第二に、そのうえで、そればかりでなく、彼女がどういう意味かの幸せをつかんでいてもらいたい。
この二つの条件のうち、どちらが重要かというと、それはもう、圧倒的に、第一の条件であると思えるのに、しかしそれに劣らず第二の条件もじわじわと私の身体を浸触しているようなところがあって、いつもそれが謎なのです。
結局それで、すみ子が菊井青年の求愛を受け入れたとき、私もそれを祝福し、また彼が山形の件を持ち出したとき、二人が彼《か》の地でおちついて、しかもすみ子もその生活を満足してくれればどんなにいいだろうと夢想したのです。そうして、できることなら、彼女に指輪も宝石も毛皮も家も、形あるものを全然与えぬままに、遠ざかっていきたいと思っていました。
卑怯であるばかりか、エゴイストにありがちなふてぶてしい狡猾《こうかつ》さにみなぎっていて、男の風上におけぬというご意見もありましょう。まったくそのとおりのようにも思えます。また、いかに謗《そし》られようと、彼女を遇するにこれ以外の方法はないというようにも思えます。
ところが、私自身、すんなりとそうはいかぬというふうにも思っているのだから、なんにも片づかないのです。
「結局のところ――」
と菊井くんもいいました。
「ぼくも、山形へ帰るほかはないのかなァ、と思います」
「ひょっとしたら、風邪と同じで、盛りを越すと家熱も衰えていってしまうのかもしれないぜ。むろん、因子は残るだろうけれど」
「家熱は、ぼくにとってたいした問題ではありませんよ。それはすみ子と羽鳥さんの間に湧いたことでしょう」
「まァそうだ。できればぼくだって、彼女に家の一軒もくれてやりたいよ。ぼくはわりに、人に物をやるのが好きな方だし、彼女を憎んで何もやりたくないというわけじゃない。ただ、今すぐには無理なようだし、将来、金を貯めて贈呈するといっても彼女が信用しない」
「そうでしょうね。それに、ぼくは、羽鳥さんから貰った家に住みついても嬉しくないです。だって、今でも彼女は羽鳥さんとの縁を払拭《ふつしよく》しきれないのに、そうなったらますます縁が切れないことになるでしょう」
「ははァ、そうなるかな」
「ぼくにとっては、わるいけど、羽鳥さんが邪魔なんですよ」
「うん――」
「ぼくがすみ子を奪っておいて、こんなことをいうのは変ですが、いや、実際のところ、奪ったのかどうかよくわからないんで、もっとちゃんと、奪いたいです」
「そうだろうね。しかしぼくも、そうしてほしいと思ってるんだ」
「まァぼくがいけないんでしょう。今のところ、ぼくがだらしがなくて、生活の面倒まで見てもらってるようですからね。だからぼくは、羽鳥さんから離れるためにも、できたら山形に彼女を連れて帰りたい」
「しかし、彼女がその気になればいいがね。山形がどうというのじゃなくて、彼女は臆病だから、知らない土地には行きたがらない。東京都内だって、馴染《なじ》んだところ以外はいやだというだろうよ。また彼女くらい、どこもかしこも不案内な女は居ないくらいなんだ」
「それなら強引に連れていって馴染ませてしまう手もあるな」
「どうかな。いやとなったら、強情だからなァ」
「しかし、羽鳥さんから離れない限り、ぼくは彼女と続いていかせる自信がありません」
「おい、また脅かしちゃいけない」
「本当ですよ。ぼく等が山形へ行くか、羽鳥さんに山形へ行ってもらうか、です」
「――君も彼女の言い方に似てきたな。ぼくが山形に行ってどうなる」
「その気持がおありなら、向うで温泉旅館をやってくだすってかまいませんよ」
私も一瞬釣りこまれて、東京での泥々の生活を一掃して、田舎でこつこつと雑文でない原稿を書いたりする自分を想像しました。
「ありがたいが、そのご好意には甘えられない」
「好意じゃありませんよ」
「それはわかってるが、やっぱり駄目だ。ぼくとしたっておよばずながら、すみ子に何かを贈ってやりたいが、田舎に行ってしまったんじゃ、現在の収入を捨てなくちゃならないからね」
「ほら、又。どうも貴方くらい始末のわるい人は居ませんね。すみ子の気持もわかるような気がするなァ。彼女から遠ざかりたいといっておきながら、他に女を作るわけでもないし、なんだかどこかでぼくたちにつるんでいて離れないんだから」
「これでも離れようとはしてるんだがね。ただ――」
「ただ、なんですか」
「彼女のいうとおり、ぼくは実家なのかもしれんなァ」
「とにかく、ぼく等は、山形へ行くか、彼女を羽鳥さんにお返しするか、どちらかだな」
「よし、そういうことなら、ぼくも彼女が山形に馴染むように努力してみるよ。実家の親がわりとして」
「ぼくもこのさい、少し強いことをいってみるつもりです。ぼくをとるか、羽鳥さんをとるか、どっちかにしろ、と」
「いや、それは君、誤解してもらっちゃ彼女がかわいそうだよ。彼女はすでに、君を選んだんだ」
「ぼくにはどうもそう思えませんね」
「君もよくないんだな。君がもう少し亭主として、彼女を引っ張っていく力があれば、彼女は実家なんか忘れるよ。もっともぼくも、それができなかったんだけどね」
とにかく私の気持は慌ただしくなって、次にすみ子が私のところに洗濯に来たとき、こういいました。
「おい、もう洗濯はいいよ」
「どうして――?」
「派出婦でもまた頼むから」
「――カルちゃんでも来ることになったの」
「そうじゃないが」
「ちょっと待ってね。洗濯したら、お風呂に入るから」
「まァちょっと、こっちへおいで」
「――菊井に叱られたんでしょう」
「叱られたというより、脅された」
「生意気ね。稼ぎもわるいくせに。あたし、銭湯なんか嫌よ。ここで入るわ」
「それよりも、三人で旅でもしよう」
「三人で――?」
「ああ、二人で行くわけにいかんだろう。考えてみたら、君とまだ旅をしたこともない」
「どこへ行くの」
「山形さ」
「あらやあだ。あたしを押しこめに行くのね」
「ただ行ってみるだけさ。実際いいところかもしれないしな。それに菊井くんは、気にいったらぼくが住んでもいいというんだ」
「誠ちゃんが――」
私はここで、嘘も方便という格言を実行しました。
「むろん、代償は払うつもりだがね。君のいうとおり、ローンで君たちにマンションを進呈して、俺は山形に移ってもいい」
「ずいぶんいうことが変ったのね」
「気に入ったらだ。――俺にしても、もうそろそろ、新しい生活に入りたい気もあるからな」
「わかった。カルちゃんとでしょう。カルちゃんも向うに帰ってるのね」
「そうじゃないよ。君が気に入ったら、君たちが向うに住めばいい」
「あたしは嫌よ。友だちも居ないし、刑務所に入ったみたいなものだわ」
「しかし、この先もし菊井くんがどこかに勤めて、転勤にでもなれば、一緒に知らない土地に行かなくちゃならんぜ」
「あたしは東京に残るわよ」
「うん、君は残りそうだな。だから心配だよ。まァ軽い気持でハイキングしてみよう。こういう機会はもうないよ」
「カルちゃんと一緒になるからね」
「いや。菊井くんと俺は、絶交するよ」
「絶交っていうと、もう会わないの」
「もう会わない。そうすれば君ともこれきりだ」
「家は、どうなるの」
「手切れのしるしなら、俺も真剣に考えるよ。一億円はむりだが」
「菊井がそんなこといったの。でもあたしは菊井のいうとおりにはならないわよ。あたしはあたし」
「女は亭主に添っていくのがいいよ。もしできたらね。亭主に喰い殺されるくらいでちょうどいいんだ。もっとも君は臆病だからむりかなァ」
七
秋の一日、私たちは新幹線に乗り、途中で乗りかえて山形県下に入りました。
山形市で支線に乗りかえて小さな駅でおり、バスで十五分ほど揺られ、またべつの路線のバスに乗りかえたりして、どこにきたやらわからなくなってしまいましたが、ようやくここだといわれて、
「ずいぶん遠くなのね。全部で何時間かかったかしら」
「――通勤するわけじゃないからね。そこで暮すんだから、家から一歩も出なかったら、どこに居たっておんなじさ」
「誰が暮すの」
「誰が暮すにしても、さ」
来たのはいいが、温泉町とは名ばかりで、湯治宿のような旅館が五、六軒。申しわけのように県道に沿った家並みに、土産物屋兼食堂が二軒、パチンコとスマートボールを一緒においた遊技場が一軒、閉鎖された芝居小屋が一つ。
「しかし、さすがに紅葉はいいねえ。山が深いから豪華だなァ」
「もっと赤くなるんですよ。関東あたりとちがって、こっちのは本当に綺麗です。もっとも、すぐに雪が積り出しますが」
「それで、土地ってのは、どこなの」
とすみ子。
「ぼくもよく知らないんだ。電話で親父に訊《き》いてみるから」
「あることは確実なのね」
「土地がかい。無きゃァこんなところまで来るもんか」
まァここまで来た以上は、と菊井くんは私にいいました。慌てたってしようがない、ゆっくり湯につかって、今夜は地酒でも呑みましょうや。
「しかし、その前に、できればその土地というのを拝見したいね」
「そうですね。いや、ちょっと電話してきます」
すみ子はあきらかに、興味のなさそうな顔つきです。彼女が気持を魅《ひ》かれるのは、モダンな家具や優雅な衣裳や柔らかな照明、それらを縫ってひびく自分への讃辞などであって、どう考えても、この土地の風物が、讃辞をささやいてくる可能性はありません。
「スキーはできるのかしら」
「そりゃ雪国だもの。できるだろう」
「でも、スキー場じゃないのね」
「至るところそうだから、名乗ってもしようがないんだろう」
「――テニスはできないわね」
「――小学校に行けばテニスコートがあるかもしれない」
「でも相手が居ないわね。菊井もやらないし」
「君だって、東京に居たってやりゃあしないじゃないか」
「習いに行ってたわよ、昔」
「やめちゃったんだろ」
「誠ちゃんにこき使われていて、そんなヒマなかったじゃないの」
「それじゃ、ここに来て、みっちりやれるね」
「あたしが――? 誠ちゃんが来るんじゃなかったの」
「まず君たちに権利があるんだ」
「あたしは棄権。紅葉は嫌い」
「しかし、菊井くんは、君とこちらで住むか、でなければペアーを続けられないといってるよ」
「じゃ、別れる」
「――そう大胆なことをいいなさんな。ついこの間、結婚したばかりじゃないか」
「なにいってるの。離婚したって別れなかった人も居るじゃないの。こだわることないわよ」
「そうすると、君は一人で、どうやって暮すね」
「誠ちゃんに家を貰って、菊井に生活費を送って貰うわ」
菊井が電話を借りた店から駆け戻ってきて、
「わかりました。ちょっと行ってみましょうか。車があるといいんだけど、ここいらはタクシーがあるかな」
「そんなに遠いの――?」
「いや、すぐそこなんですけどね。田舎の道は、埃《ほこり》っぽいから」
渓流にかかった橋を渡って、もう少しうす暗くなった細道を少し歩くと、道がだんだん昇りになります。
「この先の、高みになったあたりなんだそうですがね」
メモを手にした菊井が先頭、私はだいぶ離れかけるすみ子をなだめすかしながら、あえぎあえぎしばらく歩きましたが、
「高みというより、これは山道じゃないの」
「ええ。このへんは山ばかりだから」
「階段でもつけてあるといいがな」
「そうするより仕方ないでしょうね」
やっと、それらしい斜面の空地に出たときは、当の菊井くんすら不機嫌になっていました。
「これは車がないと生活できないな」
「彼女だったら、エスカレーターをつけろといいだすぜ」
「親父もひでえなァ。こんなところくれたって、どうにもならんわ。道理で、坪数を訊いても、かなり広い、っていうだけなんですよ」
すみ子は、茫々たる秋草の茂みを見渡して、
「狐《きつね》が居そうね――」
といっただけ。
湯治宿みたいな旅館の一軒に泊まって、その晩は、菊井くんが呑んでかなり荒れました。
「明日は、親父のところに寄って、うんと毒づいてやります。自分が誰かにだまされて買って、そいつでぼくに恩を着せたんだな。礼をいって損しちゃった」
「親父さんはどこに居るの」
「市内ですよ。山形市内――。質屋をやってるんですがね。畜生。火をつけてやろうかな。息子にえらい恥をかかして」
「べつに恥なんかかきゃしないよ。土地はちゃんとあったんじゃないか。温泉も、ちゃんと鉄管が来てたし」
「ぼくは恥をかきました。女房にも、羽鳥さんにも」
「これはよくあるような話だよ。君があそこに住みつこうとは思ってなかったんだろう」
「いえ。はずかしい。こんなところまで女房を連れてきて――」
「彼女はべつに残念がってないよ。なァ、そうなんだろ」
「そうよ。でも、あそこじゃ売るったって売れそうもないわねえ」
「質流れかなんかをあてがったんですよ。恩に着せて」
「親父さんもだまされたのかもしれない」
「とにかくひどい。詰腹を切らせてやる。そうだ。親父を隠居させます。それでぼくが、店をひき継ぎます」
「しかしまァ、ただ貰いの土地で、君はべつに損したわけじゃないんだからな」
菊井くんは、殺気をみなぎらせて、剣舞のごときものを舞いました。
その最中に、愕然《がくぜん》としたことには、すみ子が不意に手を伸ばしてきて、私の股間のものを握ろうとしたのです。
「なんだ、君も酔っぱらったのか」
「この頃、立ってるの」
「いや。信頼度はゼロに近い。全然立たないというわけでもないがね」
私は体力酷使のせいか、不摂生のたたりか、まだ四十そこそこだというのに、勃起《ぼつき》不能のことが多くて、すみ子に以前からよく笑われていたのです。
「かわいそうね」
「女が要らなくて便利でいいよ。早く完全に立たなくなればいいと思ってる」
菊井くんが酔いつぶれてしまったあと、私は一人で、湯につかっていました。
ふだんはほとんど湯なんかに入らないのに、こんなところでも温泉と名がつくと、食前食後に入ったりするのだから妙なものです。
窓から見える晩秋の月と虫の声。
「――入るわよ」
すみ子がガラス戸をあけて、おそれ気もなく入ってきました。
いわゆる大浴場ではありませんが、四、五人は楽に入れる石風呂です。窓をあけているので涼気が吹きこんで、湯気で煙っているわけでもないから、湯壺《ゆつぼ》のそばにうずくまったすみ子の裸身が、くっきりと眺められます。
べつに珍しいものでもなんでもない、従前の彼女とさほど変らぬ身体でしたが、私は意味もなく苦笑いして、
「――だいぶサイズが太くなったな」
「そうかしらね」
「こうして大胆に、人が入っているところに来るというのが、年齢を喰った証拠だな」
「そうよ、年齢はとったわよ。みんな誠ちゃんにとられちゃったのよ」
「俺がとったわけじゃない」
すみ子と入れかわりに、私は流し場で身体を洗いはじめました。
「背中を流してあげようか」
「いいよ」
「あたし、人の身体を洗うのは好きなのよ。昔はよく洗ってあげたでしょう」
「まァね、しかし人妻がそういうことをいっちゃいけない」
「だって、他人じゃないでしょう」
「他人だよ。君が出て行って、他人になったんじゃないか」
「誠ちゃんが嬉しそうに、そうかい、それじゃそうしなさい、っていったんじゃないの」
「仕方がない、っていったんだ。だって仕方がないだろう」
すみ子は泳げないくせに、泳ぐ恰好《かつこう》だけしたり、湯の中でスキーをする恰好をしたりして遊んでいました。
それから黙って湯から出て来て、私の背中を洗いはじめました。
「そういえば――」と私。「昔、風呂場の中で、トルコごっこをしたことがあったな」
ほとんど同時に、すみ子が、
「あらッ――」
といって私の前をのぞきこみました。
私は慌てました。
どうしたことか、どこに原因があり、どういう経路でそうなったか、まさに謎ですが、めったに立たなかったはずの私のものが、不恰好に隆々となっているのです。
「慌てることないじゃないの」
といわれて、慌てることはやめましたが、私は、意にそむいている自分の化け物を、あっけにとられて眺めているばかりでした。
すみ子が、太い溜息を洩らしました。
八
「誠ちゃん、歯をみがきなさい」
「なぜ――」
「なぜでも――」
「じゃ、君もみがけ」
私は実に久しぶりで、歯なるものをみがき、これまた実に久しぶりで、すみ子とくちづけをしました。彼女の歯並みが慄《ふる》えるようにかすかな音を立て、いくらか肉のつきはじめた身体がずっしりと私に重なりました。
ちょっと待て――、私は彼女の唇の中で、そういおうとしました。
セックスはおそれない。やるのはいいんだが、もっと軽く、すらりとやってしまわないと――。
こういう恰好で、重たく抱き合ってしまうと、とりかえしのつかないことになってしまうんじゃないか――。
ひょっとして、まさか、また一緒になるまではいかなくても、お互いの気持が危険な一線を越えそうで、これ以上もつれ合うようなことになったらどうしよう――。
彼女は遠く眺めているに限る。近づけば地獄だ。それはお互いにそうなのだ。冷静になれ。バランスを崩すな――。
なんとしても、彼女は私の身体の下に居て、抜きさしならないことになっていました。そうして私たちは、何があっても離れられないような心境になっていました。
私はそそくさと身体を洗い、まだ流し場に横たわったままの彼女を振り返って、
「出るよ――」
「出ないで」
と彼女はいいました。
「だんだんのぼせてくるよ」
「いいじゃないの、のぼせたって」
「それはそうと、君は今度は、質屋のおかみさんになるみたいだな」
「あたしが――?」
「菊井くんがいってたぜ。親父を隠居させるって。それは言葉の勢いだとしても、考えてみたら彼は一人息子だからな。ゆくゆくは質屋を継ぐんだろう。どうしてそこへ気がつかなかったのかな」
「誰が、気がつかないって?」
「君がさ。家の問題は最初から解決してるじゃないか。老後も安心だよ」
「冗談じゃないわよ。誰が質屋になりたいっていったの」
「誰もいわないが、亭主が質屋の息子だ。自動的に君は、質屋の息子の嫁だ」
「あたしはあたしよ」
「いつかも君がいってたろう。君は君だが、親の娘でもあり、姉の妹でもあり、叔母さんの姪でもあり――」
「親の娘だからって、どうしたの」
「うん。まァいいんだが、このままいくと、君は質屋の女房で、めでたしめでたしだ」
「誠ちゃんはどうなの」
「俺――? 俺はやがて野たれ死だ。もっともそれでいいんだがね」
「家はどうするの」
「家――? 誰の家?」
「あたしの家よ」
「君の家は、山形市内の質屋さ」
「そうじゃないの。それは菊井のことでしょう。誠ちゃんがあたしにくれるっていった家のこと」
「俺がか――」
「そうよ」
「すると君は、家を二軒、欲しいわけか」
「二軒でも三軒でも欲しいわよ。だってあたしは、誠ちゃんからなにかひとつくらい、形になったものをもらう資格はあるわよ。玉のように美しかったあたしが、こんなになっちゃうんだもの」
「それはお互いさまだが、水掛論だな」
「家じゃないとしたら、何だったらくれる気があるの」
「お金か――」
「一億――?」
「どうして一億なんだ」
「だって一億はするんだもの、家が」
「のぼせてきたよ、俺」
「簡単よ。ローンで借りて、保険で」
「もうそれはいうなよ」
「じゃ、何をくれるのよ」
私は哀しく、考えをめぐらしました。
「――君が望んでいるようなものは、俺はやれそうもないな」
「じゃ、どうするの」
「どうするって、どうしよう」
「このまま腐れ縁が切れないわよ。あたし、一生、誠ちゃんを苦しめてやるから」
「そんなこというなよ。それじゃお互いに、なんのために別れたんだか、わからなくなるじゃないか」
といいかけて、私は湯の中でガバと身を起こしました。
「おい――、君は、そんなつもりだったのか」
いったんは驚きましたが、
「嘘だろう。話の勢いでそんなことをいってるんだろう」
「あたしはなんにもいってないわよ」
「だって、君は、こりごりだったはずだぜ。今もいったばかりじゃないか。玉のような自分を無茶苦茶にされたって。そうだろう。俺も君もその点は同じく地獄だったろう。だからじたばたして、地獄を這い出す工夫をしてたんだろう」
「あたしはなんにもいってないってば」
「俺がそういったにしろ、同意してたじゃないか」
「そうするよりしようがないでしょ。男がそういうんだから。あたしは女よ。女がそういうときに、なんていえばいいの。一番ぎりぎりの、いいにくいことをいうしかないでしょう。そんなの嫌よ」
私は言葉につまりました。彼女が、実は私との生活の延長を望んでいたとは。
「信じられないね。君はそんなに計画的な女じゃない。今、情緒的に思いついたことをいってるんだろう」
「そうならそうでもいいわよ」
「じゃ、なぜ、菊井くんと結婚したね」
「誠ちゃんが刺激されて、またおいで、というかと思ったわ」
「ずいぶん冒険だな」
「離婚したときそうだったじゃない」
「あれは君が転がりこんできたから――」
「今度だって、毎日、行ってたわよ」
「家の一件は――?」
「家が買えなきゃ、あたしを抱きこむしかないでしょう。誠ちゃんのことだもの」
「君にはわるいがね――」と私ははっきりいいました。「俺は、君と一緒に暮す気は、今もないんだ」
「うぬぼれないでよ。あたし、誠ちゃんに憧れたり惚れたりしてるんじゃないのよ。誠ちゃんが何も与えられないっていうのなら――」
「そっちも誤解しないでくれよ。俺は君をけっして嫌いじゃない。ぞっとするほどではあるが、君のことが頭から離れたことはないよ。ただ、また同じことをくりかえしたって、うまく行きっこないだろう。それに、絶対、お互いに、同じことになるんだ」
「しようがないでしょう。こうなっちゃったんだもの。避けてたって不自然よ。あたしだって泣きたい思いよ。自分の人生が、あそこにしかないなんて、金輪際、思いたくないわ。だけど、しようがないじゃない。ひとつひとつ、年齢をとってっちゃうようなものよ」
「――そうすると、また、結婚か」
「しようがないわね」
「菊井くんとは、離婚するのか」
「どっちでもいいけど、誠ちゃんと結婚したら、菊井は別れたがるでしょうね」
「菊井くんとは妙な縁だなァ。彼と離婚したとたんに、彼に未練が出ないか」
「あの人の方が嫌がるわよ。彼は変人じゃないもの」
「俺だって嫌がってるんだぜ。こう見えても」
「ねえ、――今度は、神戸さんみたいに、あたしたちもお式をしない」
私は、心も身体もよれよれになって、布団の中に身を横たえました。
どう考えても、また、絶望的な穴ぼこに落ちこんだような気がします。すみ子の幸せを願っているとか、一生懸命いっていましたが、そしてそれも偽りではないにしても、告白すれば、私だって我が身が一番かわいいのです。私自身の因果で破滅するのはかまいませんが、すみ子と一緒になることで破綻を大きくする勇気が出ません。
それなのに、どうもレールの上をまっすぐにすべって行きそうなのです。地獄行き特急に乗って。
翌日、菊井くんの顔を見ても何もいいだすことができず、のそのそと、山形市内の質屋さんまで意味なくついていったのですが、その途中の汽車の中で、すみ子が、こっそりとこういいました。
「ねえ、今度は本当に、家を買ってよ」
「――!」
「もう高利貸しは駄目よ。ちゃんとローンを借りて――」
「もうはじまったな、地獄が」
「心配することないったら、死んじゃえば、ちゃんと保険が利くでしょう」
私は彼女の表情をまじまじと観察しました。彼女の発言はどうも本気だかシャレだか見当のつかないところがあって、前のときもわかりにくかったのですが、今回は、その表情の中に、本当にかすかに、うっすらと、気配の芽のような、冗談の色が見えかくれしているようにも思えました。それで、私も、なんとなく、おずおずと、楽天の芽を、芽ばえさせかけたのですが――。
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初出誌
虚婚 別册文藝春秋 159号/昭和五十七年三月
雑婚 別册文藝春秋 161号/昭和五十七年九月
連婚 別册文藝春秋 163号/昭和五十八年三月号
風婚 別册文藝春秋 164号/昭和五十八年六月
恐婚 別册文藝春秋 166号/昭和五十八年十二月
単行本
昭和五十九年三月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年四月十日刊