あそびにいくヨ! 8 バレンタインデーのおひっこし
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(例)[#地から1字上げ]カバー・口絵・本文イラスト●放電映像
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2月に入り、沖縄は表に出ることはない不正規戦の最中にあった。アオイとアントニアのメイド部隊の活躍で、なんとか押さえ込みに成功しているが、破壊活動が頻発。もちろん元凶は公海上に存在する『軌道エレベータ』。一方、キャーティア大使館は莫大な数のメール対応や各国政府からの交渉依頼によって、完全にてんてこまい状態。そんな時、騎央はこの事態を打開する作戦を思いつく。だが各国情報部に張り巡らせた情報網を分析するフローチャートシステムによって、この作戦を「予測」した鳥の人ことニルメアが対抗作戦に出た。どうする驕央!
バレンタインデーの思惑もからんで突き進む大人気シリーズ第8弾!!
神野オキナ (かみの・おきな)
70年生まれ。山羊座。ガンマニアでアニメファン、ついでに少々古めの特撮ファン。99年『ファミ通えんため大賞』に『かがみのうた』で小説部門佳作を受賞。同年『闇色の戦天使』(ファミ通文庫)でデビュー。代表作『南国戦隊シュレイオー』(ソノラマ文庫)『鬼姫斬魔行』(カドカワハルキ文庫)『シックス・ボルト』(電撃文庫)など。最近刊に『あそびにいくヨ! 7』(MF文庫J)がある
webページURL
http://www.cosmos.ne.jp/~kim-nak/index.html
illustration
◎放電映像(ほうでんえいぞう)
1979年5月生まれ。まだ絵仕事始めたばかり。『あそびにいくヨ!』シリーズのほか、『我が家のお稲荷さま』シリーズ(電撃文庫)などで活躍中。また『トレモロ』(月刊ドラゴンマガジン)で漫画にも挑戦した。近刊に『我が家のお稲荷さま。5』(電撃文庫)がある。
webページURL
http://www12.ocn.ne.jp/~wakuseig/
カバーイラスト/放電映像
装丁/伸童舎
[#地から1字上げ]カバー・口絵・本文イラスト●放電映像[#「放電映像」は太字]
[#地から1字上げ]編集●大喜戸千文[#「大喜戸千文」は太字]
「天国なんざ何もない、ダイスがあるだけさ。パラダイス、なんつって」
[#地から2字上げ]「ミスターBoo! ギャンブル大将」より
プロローグ 放火を未然に防いでた[#「プロローグ 護衛がとっくに付いていた」は太字] [#小見出し]
☆
いろいろあったので、夜半を過ぎてしまっていた。
昼間、真《ま》奈《な》美《み》に教わったとおりにお湯のなかに容器を入れて、コトコトと茶褐色の塊《かたまり》を煮てみる。
とろりとなった茶褐色の液体を金属枠に流し込み、金属ボウルに張った氷水で冷やしてあら熱を取った後、冷蔵庫へ。
「…………」
双《ふた》葉《ば》アオイは、冷蔵庫の扉を閉める寸前、枠に入ったふたつのチョコレートを、しばらく眺めて溜《ため》息《いき》をついた。
ドアを閉める。
ふたつは本当に必要だったろうか。
悩んでいても仕方がない。
今日は、久々の荒仕事がある。
☆
まだ夜の終わらない午前四時。
男たちはバラバラに、足取りも、服装も違えて作戦区域に入ってきた。
ある者は浮浪者、ある者はすっかり酔っぱらったサラリーマン、建設作業員。
手に手に握っているのは拾ったとおぼしい泡《あわ》盛《もり》の瓶《びん》、仕事用のカバン、丸めた雑誌、新聞。いずれも共通しているのは持ち主同様、その中身と外見は別物だという事実。
カバンのなかには起爆装置、丸めた雑誌のなかには紙状に伸ばしたプラスティック爆薬。泡盛の瓶にはゲル化ガソリン…………組み合わせれば広範囲焼夷弾《ナパーム弾》だ。
彼らは最初、通りに入ってきたときに互いを警戒し、あるいは虚《うつ》ろに見やりながら、さりげなく目的地点に近づき、まず建設作業員が雑誌を棄《す》てた。
次にサラリーマンが、いかにも酔っぱらったまま、という顔で腰を下ろし、さりげなくカバンを置いたまま立ち上がる。
そして、そのふたつを、浮浪者が拾い上げ……ようとした時。
路地の奥から、悪夢のように音もなく大型バイクが突っ込んできた。
外見自体はドゥカティのスーパーバイク、749Rだが、カウルもタンクも真っ黒に塗装され、ライトすらつけていない。
乗り手は黒いフルフェイスのヘルメットを被《かぶ》った、ぴっちりした革ツナギに身を包む細身の少女…………と、訓練された男たちの目は見抜いた。
フルカウルのバイクの主は路地から出て、通りを風のように横切りざま、起爆装置であるカバンをひっつかんで持ち去った。
男たちが反応する隙《すき》を与えない、一瞬のことであった。
「な!」
男たちはバイクを追って走った。
かなりの速度が出ているはずなのに、バイクにはエンジン音というモノがなく、それが登場の唐突さも合わせて、どこか現実離れした世界に彼らを引きずり込んでいた。
走りながらようやく男たちは隠し持っていた銃を抜き、引き金を引く。
だが、走りながらの銃撃で当たるハズもない。
「くそ!」
追いかけるのを諦《あきら》めて、振り向いた男たちの視線の先で、小さな影がゲル化ガソリンの詰まった一升瓶と、プラスティック爆弾を擬《ぎ》装《そう》した雑誌を頭上に担《かつ》いでてってけてーと走り去るのが見えた。
「しまった!」
サラリーマン風の男が叫んで銃を撃《う》つが、小さな……赤ん坊ほどの大きさのその影は意外なほどの素早さでこれを避けて、路地のなかに逃げ込んでいく。
「くそ、起爆装置は何とかする、本体を!」
だが、すでに小さな略奪者の姿は路地のなかにはなかった。
「どうなってる…………」
呆《ぼう》然《ぜん》とする男たちの足元で、アスファルトが弾《はじ》けた。
狙《そ》撃《げき》である。
思わず四方に飛んで狙撃を避けようとする彼らの携帯電話が鳴った。
「!」
あまりのタイミングの良さに、思わず三人が三人とも電話をとった。
「これは、最終警告です」
静かな、二〇歳そこそこの女の声が告げた。
『いますぐ、ここを立ち去りなさい。あなたたちの作戦は失敗に終わりました。地下のパイプラインを行く人たちも、間もなく阻《はば》まれることでしょう』
穏やかだが、どこか底知れぬものを感じさせる、見事なクィーンズ・イングリッシュ。
『二度目はありません』
まさか、と男たちのひとりが呟《つぶや》いた。
「お前、モルフェノスの……」
『ご存知なら、これがただの脅《おど》しではないのはご存知でしょう?』
薄く女の声に含まれた笑みが、男たちには魔女の嘲《ちょう》笑《しょう》のように聞こえた。
☆
エンジン音のないドゥカティ…………正体は、最近モルフェノス財団の依頼で極秘開発されたばかりの電動オートバイを、ある場所から地下に乗り入れると、双《ふた》葉《ば》アオイは頭部をすっぽりと覆《おお》う、BMWシステム4エリートヘルメットのバイザーに仕込まれたシステムを調整した。
オリジナルには存在しない黒いフルフェイス越しに見えるのは、まるで昼間のように明るい地下道だ。
フィルム状の暗視システムはエリスからもらったものである……もっとも、彼女はいつもの親切心から「夜、オートバイに乗ってて、ライトの電球が切れたら困るでしょうから」という理由で、だったが。
「こんなものを残してるなんて……」
アオイは呟《つぶや》いた。
この地下道は、このへん一帯が米軍の燃料タンクで埋め尽くされていた頃から存在する。もともとはパイプラインの点検用通路だったという。
戦後二〇年ほどして返還された時、彼らはこの地下道の存在を沖《おき》縄《なわ》県庁にはもちろん、日本政府にも告げなかった。
日本政府も具体的な数や長さを掴《つか》んでいるわけではないが、沖縄県内にこのような「抜け道」は山ほどあるそうな。
まさか、こんな状況を想定していたわけではあるまいが、それにしても迷惑極まる話である。
すでに上に住宅が建っている以上、破壊するわけにも行かない。
「厄介なことを…」
呟くと、少女はバイク用のショルダーホルスターから、予備の[#「予備の」に傍点]銀色のクーナン三五七マグナム自動|拳《けん》銃《じゅう》を二|挺《ちょう》引き抜いて、装弾を確認した。
さらに、バイクのコンソールを操作して、カウルの中、ドゥカティのこのシリーズ特有の三つあるライトの側に仕込まれた、二二口径マシンガンの安全装置を解除、装《そう》填《てん》する。
アオイは少々怒っていた。
軌道エレベーターをアメリカの秘密工作船が襲撃してから、かれこれ一週間が過ぎようとしている。
状況はかなりセンセーションに報道された。
無理もない。
|宗教介在型アメリカ新保守主義《ネオ・コンサバティブ》ことネオコンを筆頭にしたアメリカの昨今の政策が非難されている中、さらに異星人との外交という「人類全体の檜《ひのき》舞台」でも勝手に裏から工作しようとしたという事実が剥《む》き出しに(明らかに、ではない)されたのである。
膨《ふく》れ上がった各国の不満、嫌悪感がここへ来て爆発した。
もともと嫌米感情の高いヨーロッパ諸国はここぞとばかりに特集報道を繰り返し、日本のマスコミもその論調に乗り始め、それを受けたアメリカ政府は瞬《またた》く間に態度を硬化させた。
さらにアメリカ側のマスコミも保守と革新同士で微妙なネガティブキャンペーンを打つという悪循環が始まっていた。
皮肉なことに、この状況の火消し役を買って出たのは襲撃された当のキャーティアと、その代理人、嘉《か》和《かず》騎《き》央《お》とその一党である。
騎央は即座に「アメリカの軍事力が世界一なのはキャーティアも知っているので、それで彼らに引き渡した。『返す』と書いたのはいつものミス」とフォローを入れ、つとめてアメリカ政府の面《メン》子《ツ》を潰《つぶ》さないように、と動いた。
別にこれは親切心ばかりではない。
ここでアメリカ政府に逆ギレされては困るからだ。
この対応は二つの結果を生み出した。
ひとつは、アメリカ政府との間に、表だった外交チャンネルが正式に発足したこと。
各国政府がキャーティアとの正式外交を考えるようになった、ということである。
つまり、にらみ合いの時代は終わり、どこの国が先に、正式に国交を結ぶかという勝負になりつつあった…………のである。
同時にそれは、反対する勢力にとって巻き返しを図らねばならない、という意味でもある。
結果、このような「いやがらせ」は連続して発生し、アオイとアントニアの私兵でもあるメイド部隊がその「火消し」にと奔《ほん》走《そう》する日々が続いている。
今日は完全な「火消し」だ…………何しろ、彼らはこのあたり一帯に放火を仕掛けようというのだから。
今回は週末だからいいものの、これが新学期にまで延長されるのは何とかしておきたい……ついでに言えば、三日後に控えた登校日の前日までには、こんな血なまぐさいコトからは遠のいていたい。
何しろ、生まれて初めてのバレンタインデーなのだから。
(せめて……そんな日ぐらいは…………)
そう思いながらアオイは、ギアを入れ替えようとして苦笑した。
このバイクはスクーターといっしょで、独立したギアがない。
アクセルを慎重に開けながら、真っ暗《くら》闇《やみ》のなかを走り始める。
間もなく、相手の姿が見えた。
こちらと同じ……いや、完全に光が封殺されているために、かなり旧式の赤外線暗視装置を使っている、完全武装の集団だ。
手にしているのは強化ポリマーの盾《たて》。どうやら襲撃されるのは覚悟の上らしい。
この時点で、アオイはカウルに内蔵されたマシンガンの使用を諦《あきら》めた。
メインスイッチの上にあるボタンを押してアクセルを固定し、腰の後ろからメインウェポンを両手に引き抜いた。
S&W M500の三+一インチモデル。
奇妙な銃身の長さ表示だが、それは銃身の三インチにくわえて、一インチ分、反動軽減装置が占めている、という意味だ。
こうでもしないと短銃身では撃《う》てないという少々、どころかかなり製作者の頭のなかを疑うような反動と威力を持った銃なのである。
別名「人間の撃てる限界」。それまでのマグナム拳《けん》銃《じゅう》と違い、熊《くま》狩《が》りのメインウェポンとして使えるという評判まである強烈な破壊力を持っている。
それを二|挺《ちょう》、左右の手に構える。
「悪運」、あるいは「悪縁」紅葉《もみじ》と呼ばれた頃にはまだこの銃身ではなかったが、同じ銃は扱い慣れている。
時速八〇キロに固定したバイクの上から、アオイは二挺の拳銃を乱れ撃ちにした。
音もなく迫り来るバイクの上から、轟《ごう》音《おん》と火花も派手派手しく、銃撃が開始される。
とっさに強化ポリマー製の盾《たて》の陰に隠れる兵士たちだが、その破壊力に小口径高速弾のみを想定したポリマーの壁はあっさり粉砕される。
相手が手に持ったM4ライフルを撃ち始めた。
アオイはコンソールの真ん中にあるボタンを銃を握ったまま引っぱたく。
前後のタイヤのなかに仕込まれたモーターの回転数が変更され、前輪が勢いよく持ち上がり、防弾板を貼《は》りつけたアンダーフレームが盾となって火花を散らす。
両脚だけでバイクを締め付けるようにしながら、アオイはさらに引き金を絞った。
着弾時の衝撃が二トン近い銃弾は、薄皮一枚をすり抜けていくだけで、銃を取り落とすには十分な衝撃波を発生させる。
彼らの横をすり抜け、回転数を元に戻しながら、アオイは絶妙のテクニックで方向転換して停《と》まった。
相手との距離はおよそ二〇メートル。
すでに二挺のM500リボルバーはホルスターに戻り、カウルの内側にあるホルダーから、ベルギーFN製P90PDWを取り出し、引き金を絞る。
防弾チョッキを貫通するべく本来|装《そう》填《てん》されているはずの五・七ミリ特殊弾の代わりに、アオイの親友である金武《きん》城《じょう》真《ま》奈《な》美《み》のアシストロイド「ゆんふぁ」の武器に使われている超小型対物対消滅装置を内蔵した硬質ウレタン弾が発射され、振り向いて態勢を立て直している最中の米軍特殊部隊の武器だけを消滅させた。
まばゆい閃《せん》光《こう》が通路のなかを満たす。
それでも敵は挫《くじ》けなかった。
背中に、腕に、あるいは腰に下げた戦闘用ナイフを抜いてアオイに向かって襲《おそ》いかかってくる。
アオイは銃をしまい、バイクを降りて、太《ふと》腿《もも》に装着したホルダーから一本の棒を抜いた。
少し捻《ひね》ると捧は瞬時に伸びる。
両端に電撃装置のついたスタンスティックだ。
それを構えようとして、アオイは行動を中止した。
彼らの背後に、小さな影が飛び上がるのが見えたからである。
どちらも茶《ちゃ》筅《せん》髷《まげ》に結ったような頭をして、片方は袖《そで》なし羽《は》織《おり》、片方は普通の羽織。片方は片目で、片方は両目がある。
どちらも頭が大きい二頭身で、手足の先端がどてっと大きい。
アオイに、異星人キャーティアたちから与えられた小型サポートロボット、通称アシストロイドの「チバちゃん」に「錦《きん》ちゃん」である。
すでに刀型の鎮圧器《テイザー》は抜かれていた。
一瞬の後。
麻《ま》痺《ひ》モードの刀の起こす青白い輝きが通路を満たして、アメリカ軍特殊部隊は全滅…………といっても命に別状はない状態だから完全無力化、というべきか…………させられた。
するりと刀を納めながら「あんしせえ、みねうしじゃ」とプラカードを掲《かか》げる二体に、アオイは「ありがとう」と微笑《ほほえ》んだ。
『そっちは終わったかしら?』
ヘルメットにアントニアの腹心にしてメイド部隊の長、摩《ま》耶《や》からの通信が入ってきた。
「はい、地下通路はもう大丈夫です」
『こちらも空を含めた全区画の処理が終了したわ』
摩耶の声にわずかな柔らかさが混じった。
『お疲れさま、状況終了よ。あとは私たちがやるから、帰還なさい』
「ありがとうございます」
通信を切って、アオイはバイクに戻った。
「ほら」
ぽんぽん、と燃料タンク(中身はフライホイール型蓄電池)部分とシートの後ろ部分を叩《たた》くと、二体のサムライ型アシストロイドは「わーい」とばかりにとたとたとバイクに昇り、少女の前後にちょこんと乗っかった。
「しっかり掴《つか》まってて」
そう言うと、アオイはアクセルを開けた。
☆
『状況終了、アオイさんは無事…………先に帰しました』
携帯電話に入ってきた報告に、嘉《か》和《かず》騎《き》央《お》は自分の部屋で安《あん》堵《ど》の溜《ため》息《いき》をついた。
「ありがとうございます、摩《ま》耶《や》さん」
『いいえ』
簡単な挨《あい》拶《さつ》の後電話を切り、深く椅《い》子《す》に腰かける。
もう使い始めて四年以上にもなる安物の椅子はキィ、と小さな音を立てて背もたれをたわませた。
「よかった…………」
平凡な、石を投げれば当たりそうなぐらいの平均的一六歳の顔が、この時ばかりは大人びる。
アオイには知らせていないし、これから先も知らせるつもりはないが、彼女がこういう「火消し」行為を行う場合、必ず通報して欲しいと少年は摩耶に頼んでいる。
ここしばらくの騒動の後、突発的な状況はともかく、こういう大がかりな状況の時だけでも「知って」いたいと考えるようになっていた。
何ができるわけでもない、だが、彼女が命がけで戦っている間、のんびり眠っていられるほど、騎《き》央《お》は図《ずう》々《ずう》しくはなれなかった。
「アオイさん、大丈夫でした?」
ちょこっとドアが開いて、紅《あか》い髪に前髪金メッシュ、猫の耳と尻尾《しっぽ》の生えた少女が、心配そうに顔を出す。
地球にやってきたお人《ひと》好《よ》しの宇宙人、キャーティアの少女、エリス。
彼女もまた、アオイを気《き》遣《づか》って眠っていない。
ボディスーツの上から、このごろすっかりお気に入りのどてらを羽《は》織《お》った猫耳少女は、騎央が「大丈夫、もう家に帰したって」と答えると、少年同様|安《あん》堵《ど》の溜《ため》息《いき》をついた。
「よかったあ」
「もう、眠った方がいいよ。僕もそろそろ眠るから」
そう言って、少年は伏せたままになっていた本を手に取った。
キャーティアの宇宙船を去るときにもらってきたデータを、アントニアに頼んで本の形にしてもらった物だ。
題名は「星間外交入門」。
他《ほか》にも似たような内容の物や、地球に関するキャーティア側の考察を記した本が何冊か積まれている。
それだけではない。ここ一週間ほどで、少年の読書量は飛躍的に増えていた。
他にも、これは地球で手に入る外交官の手記、政治力学の解説書なども床に積まれていた……すべて少年が「必要」だと感じて購入してきたものである。
「あの、インストールマシン、お貸ししましょうか?」
エリスがふと訊《き》いた。
インストールマシンとは、エリスの持っている紙|媒《ばい》体《たい》情報を圧縮して脳に直接転写する機械の名称だ。
「解釈」する時間は短縮できないが「入力」時間は大幅に節約できるという代物である。
「今はいいよ……何となく、ズルした気分になりそうだから」
微《び》苦《く》笑《しょう》を浮かべ、少年は首を横に振る。
いずれ必要になるかもしれないが、何となく今は「学んでいる」という手《て》応《ごた》えが欲しかった。
「それじゃ、お休み」
「…………はい」
来たときと同様、ドアはそっと閉じられた。
☆
「状況終了、か」
こちらは最初からメイドとアオイの無線を傍《ぼう》受《じゅ》していた金武《きん》城《じょう》真《ま》奈《な》美《み》は、呟《つぶや》いて、スクーターにプレーキをかけた。
学校には内《ない》緒《しょ》で取得した原付免許なので、当然スクーターは母親の物だ。
買い物用に取りつけられた前カゴのなかにちょこねんと収まった彼女専用のアシストロイド「ゆんふぁ」が「どしたの?」とプラカードを掲《かか》げる。
「どうやら無事に終了したみたい」
言って、真《ま》奈《な》美《み》は背中のギターケースを背負いなおした。
中身はもちろん、武器弾薬だ。
万が一、アオイに何かあれば、ということで持ち出してきた物である。
アオイに比べればアマチュアも良いところの自分だが、それでも、と思っての行為だった……誰《だれ》にも話すつもりはないし、「ゆんふぁ」にも厳重に口止めしている。
「帰るわよ『ゆんふぁ』」
黒いコートにサングラス、爪《つま》楊《よう》枝《じ》をくわえたような造形のアシストロイドは「なんだ、どんぱちなしでしか」と物騒なことをプラカードに書いて、残念そうに首を振った。
「ほらほら、帰りに肉まん買ってあげるから」
苦笑しつつ相手をなだめながら、真奈美は自宅へとスクーターの進路を向けた。
☆
一時間後、すべての状況は終了した。
「よし、警戒要員を残して引き上げろ」
那《な》覇《は》市の沖数キロに浮かぶ豪華クルーザー「アンドローラU」の指揮所《CIC》でマイクに言うと、摩《ま》耶《や》は通信を終えた。
メイドという裏方仕事の女性というよりは、ファッションモデルになったほうが良いほどの美《び》貌《ぼう》の持ち主だが、頬に走る一本の傷が、彼女の覚悟を表すような、内面の鋭利さを示している。
「夜明け前には何とか終わったな」
沖《おき》縄《なわ》の夜明けは東京などと比べてだいぶ遅い。冬の五時はまだ夜の世界だ。
「お疲れさまです、メイド長」
元|S A S《イギリス軍特殊部隊》で片目の副メイド長……サラが湯気の立つ熱いココアの入ったマグカップを手渡した。
「うむ」
猫耳|尻尾《しっぽ》付きのアントニアの周囲に「アントニア様LOVE!」と印刷された自分専用マグカップに口をつけながら摩耶は微笑《ほほえ》む。
「お嬢様は?」
「二時間ほど前まで起きておられましたが、もうお床につかれております」
「あの『へいほん』もこういう時には役に立つな」
いささかむすっとした顔で摩耶は言い、サラはくすりと笑った。
「何が可笑《おか》しい」
「いえ、メイド長でも嫉《しっ》妬《と》なされるのだな、と」
「だ、だれが嫉妬なぞ……相手はただのカラクリ人形だぞ」
絶対無敵、完《かん》璧《ぺき》超人とかの四文字熟語で表されるこの女性にしては珍しく、言葉に色がつく。
摩《ま》耶《や》は明らかに最近、主《あるじ》であるアントニアに贈られたアシストロイド「へいほん」に嫉《しっ》妬《と》しているようだった。
何しろ彼女にはアントニアの腹心としての業務がある。
いっぽう、アシストロイドにある役職はただひとつ「アントニアの側《そば》にいて、その護衛をする」ということだけだ。
つまり、摩耶よりも長い時間、それこそべったりとアントニアの側にいることができるのである。
アントニアにしてみれば摩耶は摩耶で大事だし、「へいほん」は「へいほん」で大好きなエリスから与えられた宝物なのだから、対比することがナンセンスだし、そのへんの理屈がわからぬ摩耶ではない。
しかも「へいほん」に限らずアシストロイドたちというものは妙に気配りが利いていて、何かにつけて摩耶を立ててくれる。
…………が、難儀なことに、人間には感情という物がある。
ゆえに日々|親《しん》睦《ぼく》を深めていくアントニアと「へいほん」を観《み》ている摩耶は、非常に心中穏やかではないのだ……周囲にいる他《ほか》のメイドたちが気づくほどに。
「そうですね」
くすくすと笑いながら、サラは話題を切り替える。
「ところで、今回の情報、大当たりでしたね」
「う、うむ……そうだな」
今回のことは、情報|漏《ろう》洩《えい》が行われて発覚した。
漏洩元はアメリカ合衆国政府の高官たちとアメリカ軍の総合作戦本部からだ。
今回ばかりではない、このところ、ぽろぽろと米国政府の意向、あるいはこういった「いやがらせ」の作戦内容に至るまでが頻《ひん》繁《ぱん》に摩耶たちの元にもたらされるようになってきている。
これは、例の「おかえししまし」騒動以降のことだ。
単純に考えれば、アメリカ政府も一枚岩ではなくなった、ということだが、そんなに簡単にいく物ではないと、謀略の海を泳いできた摩耶たちは考えている。
今はまだ、情報収集の時だと。
「どちらにせよ、いきなり襲《おそ》われることだけはしばらくなさそうだな」
言って、摩耶は一気にココアを飲み干した。
☆
電動バイクをアパートの前で摩耶の配下に引き渡し、アオイは自室に帰ってきた。
苦労してブーツを脱ぎ、台所に入ると、帰る途中、コンビニで購入した納《なっ》豆《とう》のパック(アシストロイド二体の好物なのだ)を冷蔵庫に入れ、代わりにエビアンの小|瓶《びん》を取りだして扉を閉める。
ふと、扉が閉まる瞬間、型枠が目に入る。
「…………」
アオイは考え込む顔になったが、すぐに頭を振って部屋に戻った。
(まだ…………三日もあるもの、三日も)
いつものようにアシストロイド二体はさっそく液晶テレビをつけ、HDDデッキを起動して今日録画されているはずの「杉《すぎ》良《りょう》太《た》郎《ろう》の一《いっ》新《しん》太《た》助《すけ》」か「さむらい探偵事件簿」を観る準備に入っている。
HDDの起動画面が終わるのを待ちきれないと言った風に慌《あわ》ただしく座布団を敷いたりお茶を淹《い》れたりする二体を見て微笑《ほほえ》みながら、アオイはプロテクターつきの革ツナギのジッパーを降ろした。
一時間後、着替えたアオイは、電気毛布にくるまり、二体のアシストロイドを抱きしめながら眠りに落ちた。
彼女にとってはいつもの、そして少しだけ新しいことを始めた夜は、こうして終わった。
第一章 気がつきゃバレンタインデーだった[#「第一章 気がつきゃバレンタインデーだった」は太字] [#小見出し]
☆
ジェンスが朝食をとる頃には、決まってお隣りの足袋《たび》屋で怒《ど》鳴《な》り声が響く。
「馬鹿野郎!」
「何だとクソ親《おや》父《じ》!」
どしゃんがしゃんばきばき、ぼかすか、どがかしゃ。
あとは乱闘の音だ。
足袋屋の大学生になる長男とその父親が茶の間から庭先にかけて大げんかを繰《く》り広げているのだ。
「…………時間きっかりだな」
ジェンスは給《きゅう》仕《じ》の手を止め、手首に巻いた、小さな女物の時計(彼女の今の『上官』からもらったものだ)を観て、ちょっと感心する。
毎朝七時四五分。
最初の時こそ驚いたが、一週間もするとそれが年中行事だということに気づき、むしろ時報代わりに考えるようになった。
「毎朝、よく飽きないねえ」
いささか苦《く》笑《しょう》の混じった声で言ったのはジェンスと同じく和服に身を包んだ彼女の現在の上司、「大佐」である。
かなり昔に軍を辞めて以来、ここに居着いてしまった「犬」の美女はもう八代前からここにいるかのように、和服を着こなし、粋《いき》に煙管《きせる》なぞくゆらせるのが似合う。
「もう、どれくらいこの状態なのであります…………いえ、なのですか?」
ジェンスが訊《き》くと、
「昔は二軒隣りの石屋の親子だったけど、ここ五年ぐらいはお隣りさんになっちゃったねえ」
すでに食事を終えた「大佐」はぷかりと食後の一服の煙をはき出した。
「まあ、東京の下町じゃあ珍しくない話さね」
さらに、しばらくすると縁側からひょっこりとご飯|茶《ぢゃ》碗《わん》と味《み》噌《そ》汁《しる》椀《わん》を持った足袋屋の末っ子、啓《けい》介《すけ》が顔を出した…………これもいつも通り。
「すみません、おかみさん、場所借りていいですか?」
「ああ、啓介ちゃん。今日も学校かい?」
子供の頃からの顔なじみである『大佐《おかみさん》』はにっこりと頷《うなず》いて「いいよ、しっかり食べな」と言った。
「ええ、冬期講習。これさぼると受験がキビシイから」
あはは、と笑って、少年は縁側に腰かけ、食事の続きを始めた。
といってもおかずのない味噌汁だけの食事である。
最初はジェンスも気を遣《つか》って何か出そうとしたが、少年は「ここに来る前におかずは先に食べちゃうんだ」と笑って、また「大佐」も「気ぃつかわなくっていいよ」というので今はせいぜいお茶を出すぐらいだ。
「ケイスケ、ここに置くぞ」
「ん、ありがとジェンちゃん」
少年はあらかた飯粒のなくなったご飯茶碗に湯飲みのお茶を注いでかっ込むと、空になった器《うつわ》を重ねて「じゃ」と家に帰っていった。
二分後きっかりに、自転車に乗った少年が玄関を出て行く。
「…………」
そんな光景を見つめながら、ジェンスは不思議に透明な気分になっている自分を発見していた。
(こんな穏やかな気分になるのは、久しぶりだな)
故郷で、まだ両親が生きていた頃、朝はこんな感じで賑《にぎ》やかで、穏やかだったような気がする……いや、もっと静かであったが。
だが、ここの妙な朝も、それはそれで良いモノだと、だんだん彼女は思うようになっていた。
(リュンヌ……リュシー……お前は、今、どうしているのだ?)
そう考えたとき、ジェンスの胸に痛みが走った。
☆
二月の頭からは試験休みと相場が決まっている。
ので、毎朝、一〇時頃には騎《き》央《お》の家の居間……というか、臨時キャーティア大使館会議室のほうに関係者が集まって会議となる。
この日集まった人間は全員のパトロンであるアントニア・リリモニ・ノフェンデラス・パパノーガス・アレクロテレス・クノーシス・モルフェノス、摩《ま》耶《や》とその部下二名、アオイに真《ま》奈《な》美《み》といういつものメンバーとそのアシストロイドたちである。
「なんとか最近は記事が沈静化してるみたいだね……ウェブの方はともかく」
ざっと国内の雑誌、新聞に目を通した騎央が言う。
「まあ、ウェブはね、ちょいと圧力かければ、ってわけにはいかないから」
真奈美は涼しげな顔だ。
「でも迷惑メールの数も減ったし、人の噂《うわさ》も何とやら、ってね」
言って、庭の方へ目をやる。
そこにはカスタムタイプ、通常型を含めたアシストロイドたちが庭の木《こ》陰《かげ》に腰を下ろして何やら会話をしているようなそぶりを見せている。
そぶりというか、実際に会話……情報交換をしているわけであるが、「声」が伴《ともな》わないので、妙に可愛《かわい》らしい。
「しかし、腹立たしいのはアシストロイドを『うにゃーくん』と勝手に呼称するのが定説になっておることじゃな」
アントニアがオタク色の強いサブカル雑誌の切り抜き(青少年には有害かつ余計な記事を読ませないように摩耶がそうしているのだ)を見ながら口をへの字に曲げた。
おでこの広い、理知的な顔立ちだけに、そんな表情をすると妙にコケティッシュな魅力が立ち上る。
そこには「守れ! 軌道エレベーター」というタイトルのついた見開きぺージがあり、実物よりもはるかに巨大なアシストロイド艦隊がアメリカ軍相手に戦っている水彩画が掲載されていた。
まだ年号が「昭和」だったころの学習雑誌の特集よろしく、かなり誇張された活躍想像図である。
そのなかにおいて、軌道エレベーターを守っているのは「うにゃーくん」ということにされてしまっているのである。
「『うにゃーくん』は強化外骨格、アシストロイドはアシストロイドじゃ、まったくごちゃ混ぜにしおってからに、これだからサブカルチャーの連中は嫌いなのじゃ。自分の言いたいことのためには多少の事実はねじ曲げよる」
「まあまあ」
騎《き》央《お》が苦《く》笑《しょう》しながらなだめる。
アントニアの言い分はもっともだが、世間一般では未《いま》だにこの二つの区分けがついていない、という事実がその根底にあるのも本当の話だ。
(情報公開かぁ)
もう少し真剣に考えなければならないな、と頭の片隅にメモを留《と》めておく。
「んで、ヨーロッパの方は?」
「こちらはブームは過ぎたものの未だにくすぶっている、という所でしょうか」
数カ国語が堪《たん》能《のう》な摩《ま》耶《や》の言葉に、同じく数カ国語が堪能なアオイが肯定の頷《うなず》きを返す。
「あとテレビの出演依頼がエリスさんに三〇件近く来ています。バラエティと報道が半々の比率ですね」
「ウェブラジオからも出演依頼来てるわ…………こっちは大小含めて二〇〇件ぐらいかしら」
真《ま》奈《な》美《み》がうんざりした顔で言う。
「…………どうしましょうか?」
エリスがきょとんとした顔で騎央に尋《たず》ねる。
「うーん……このへんは考え所だよね」
あんまり出演しすぎるのも問題だが、全然出演しないというのも問題だ。
先ほどの情報公開の問題が騎央の頭にはあった。
「アントニアの場合はどうしてますか?」
「お嬢様をマスコミなどという下品な場所に晒《さら》すことは絶対にありません」
絶対に、という言葉に盤《ばん》石《じゃく》の重みを置いて、摩耶が即答する。
「ですが、外交官としてエリス様は来られているわけですから、そのへんは考慮すべきかと」
「じゃあ、とりあえず報道番組を優先で、番組ではなく、放送局ごと、時間は一時間以内、ということではどうでしょうか」
前から考えていたインタビュー依頼への対応策を騎央は口にした。
「その際、悪いことは言いませんから原稿を用意するべきですね」
「?」
「ある程度の対応を決めておく、ということです……マスコミは真実を報道するのではなく、センセーショナルな物をほじくり返すことを肯定する組織です。どんな卑《ひ》怯《きょう》な手を使ってくるかわかりません」
と摩耶は断言した。
「おもしろい、あるいは不謹慎な、後々になっても騒げるようなコメントが取れるのなら、どんな下《げ》衆《す》なことでもやります」
「…………」
唖《あ》然《ぜん》と騎《き》央《お》はその話を聞いていた。
バラエティ番組やワイドショーの傍《ぼう》若《じゃく》無《ぶ》人《じん》さは少年でも知っている話であるが、新聞や報道番組も同様だというのは初めて聞いた。
「今までの報道もそうですが、マスコミ関係者に誠意という言葉はありません。面白|可笑《おか》しく、番組のなかの、あるいは紙面の何%かを埋めることができればいいのです。バラエティだろうが、報道だろうが、ワイドショーだろうが同じです。特にこの国では」
摩《ま》耶《や》はここで言葉を切り、
「彼らは真実を知りたい、映したいのではないのです、映したい物を映したいのです」
「それじゃあ情報公開とか、インタビューとかは無意味じや…………」
「ただし、彼らにも役立つことがあります……それは、多数の人たちに数%の真実を与えることができる、という一点です」
「その、つまり……やらないよりは、マシ、ということですか?」
「ええ。好き放題にやらせてしまうよりは、遥《はる》かにマシです」
にわかには、納《なっ》得《とく》できない言葉ではあったが、騎央は何となく理解した。
所《しょ》詮《せん》、すべてをコントロールすることは誰にもできないということだ。
だから自分のできる範囲をできる限りコントロールし、なおかつ用心せねばならない。摩耶が言いたいのはつまりそういうことだ。
「わかりました…………エリス、後で打ち合わせ、いいかな?」
「あ、はい」
こっくん、とエリスは頷《うなず》いた。
「原稿|添《てん》削《さく》はまかせてもらいたいのじゃ♪」
アントニアが大乗り気の表情で身を乗り出す。
「そうだね、この場合はアントニアにも知恵を借りた方がいいかな?」
「うむ、よいぞ♪」
「それと、この周辺のセキュリティなんだけど……」
騎央がアオイの方を向いた。
「え? あ、は、はい!」
珍しくぼんやりしていたアオイが我に返って声を上げるのがおかしくて、騎央はくすりと笑った。
ふだんのアオイは(実は本人は意図的にそうしているのだが)こんな風に非常に穏やかで大人しく、ロングヘアに眼鏡《めがね》という姿も相まって、どこか夢見がちな少女に思える。
「珍しいね、双《ふた》葉《ば》さんがぼんやりするのって」
「そ、そう…………かしら?」
頬《ほお》を赤らめたアオイは慌《あわ》てて頭を振り、メモを開いた。
「今のところ、セキュリティシステムは好調に起動して……ます。特に、先週導入した対人レーダーは…………」
☆
「…………ふう」
ざっとした報告が終わり、簡単な今後の展望を決めると、エリスはお茶を一口すすって溜《ため》息《いき》をついた。
「とどのつまり、本格外交を始める前に軌道エレベーターをどうにかしないといけないみたいですね」
ちょっと哀《かな》しそうに呟《つぶや》く。
実際、軌道エレベーターの所有権をめぐっての騒ぎが、対キャーティア外交に関して各国を本気にさせてしまったのだが、逆を言えば、軌道エレベーター問題を解決しないと、かえって状況はややこしくなる。
「…………」
騎《き》央《お》は何も言えなくなってしまった。
キャーティアからすれば、本当に親切心で授《さず》けたはずの「おくりもの」である。
それがますます外交を難しくする火種になっているのだ。
途方に暮れたような顔になるのも無理はない。
「あのぅ…………やっぱり、引き取った方が良いんでしょうか?」
「それは駄目だよ」
これだけはきっぱりと騎央は言い切った。
「こんなことで軌道エレベーターを引き上げたら、それこそ地球とキャーティアの関係は一歩も二歩も退《しりぞ》いてしまうもの」
「そりゃあそうですけれど……」
「それに……これは地球人として、だけれど、ああいう凄《すご》いものを手放すのは、絶対に良くないと思う」
騎央の脳裏に、ひと月前の光景が浮かんだ。
あの壮大な風景を、何の肉体的抑圧(つまり体にかかるGや衝撃)なしに見た興奮は、忘れられない。
あれなら、父母でも、祖母や百歳を越える大祖母のような人たちでも、宇宙にいける。
自分たちの住む「地球」という星を見下ろすことができる。
そう言えば宇宙飛行士の何割かは、字宙空間に出て地球を「見た」時そこに「神」を見たり「孤独」を見て、人生観が変わったり、宗教にのめり込んだりすると言う。
その数がもっと増えてくれれば、「この宇宙にひとりっきりではない」という喜びに、人類の二割ほどが気づいてくれれば……何かが変わるかもしれない。
そんな希望が、地球に戻ってきて、ふとその記憶を思い起こした時から、何の脈絡もなく少年の脳裏に浮かんでいる。
だから、あれをまた持ち主に返すことは避けたかった。
「私も騎《き》央《お》の意見に賛成じゃ」
アントニアも同意の頷《うなず》きをする。
「第一、まだ私は軌道エレベーターのなかにさえ入ったことがない」
「そうね、アオイや騎央の話聞くとおもしろそうだし、あたしも行ってみたいわ」
真《ま》奈《な》美《み》がわざと脳天気に言う。
「第一、一度もらった物を返すのは礼儀に反するわよ」
「でも、いつまでもあんな場所に置いておくというのも問題ですし」
摩《ま》耶《や》がさりげなく議論をリアルに引き戻す。
「…………」
アオイだけが何も言わず、目を伏せている。
しばらくの沈黙。
騎央はゆっくりと深呼吸した。
頭のなかに水面を思い浮かべる。
波紋一つない、広い湖。
その上で考える…………今か、それとも待った方が良いか。
静かに深呼吸。
今だ、と頭の片隅で誰《だれ》かが囁《ささや》いた。
「しかし、いつまでたっても受け身、てのもイヤだよね」
ぽん、と騎央は全員のどこかにある本音を口にした。
さあ、これからが大変だ。
夕べも今朝も、その前から、ずーっと考えていた計画を口にするときが来たのだ。
上手《うま》く口にできるか、説明できるか。
「いっそ、こっちから仕掛けてやろう、って思うんだ」
もしかしたら考えそのものが間違っているのかもしれない。
「話、聞いてもらえるかな?」
でも、それはそれで構わない。
やらなくちゃ。
☆
「えーと、副メイド長、これでいいですか?」
電動力ートの上にどさっと積まれたカカオ豆の袋と、グラニュー糖の袋等々、早い話が「ゼロからチョコレートを作るための」材料を前に、隻《せき》眼《がん》の副メイド長、サラは「うむ」と頷《うなず》いた。
ここは那《な》覇《は》市沖に浮かぶ豪華クルーザー(というよりも世間の認識では客船のスケールだが)「アンドローラU」のCIC……ではなく、その近くにある作戦会議室前の廊下。
「…………にしてもマメですねえ。おチビちゃんたち用のチョコレートなんて」
くすり、と材料を運んできたメイドの一人…………雪《ゆき》乃《の》という…………が微笑《ほほえ》むと、サラのクールな美《び》貌《ぼう》が「でれーっ」と笑み崩れた。
「うふふふ、だってー、ほらぁ、通常型の子たちはともかく、カスタムの子たちは食事できるしねー、ほら、ウチの子やお嬢様の『へいほん』だって食事できるわけだしぃ」
まるで女子高生のように掌《てのひら》を合わせ、ぐにゃぐにゃと体をよじりつつ左右に動いたりするさまは、女性を採用しないことで有名なSASの数少ない例外として名を馳《は》せた猛者《もさ》の面影は欠片《かけら》もない。
心なしか、いつも片目を覆《おお》っているアイパッチさえもハート型に見える。
「あの子たちが、あのおっきな手でチョコレートを持ってはぐはぐって食べるの、可愛《かわい》いと思わない?」
「まあ、そうですよねー」
うんうん、と雪乃が頷く。
サラの入れ込みようは少々異常な程だが、メイドたちにとってもやはりアシストロイドは受けが良い。
外見もそうだが、時折発揮されるけなげな所が、同じく「|仕える者《サーバント》」としての人生を選んだ彼女たちの心に「ぐっ」と来るのだ。
「でもそれだと大きさが……副長はどれぐらいのを作るつもりなんですか?」
「そうねえ…………あの子たちの頭がだいたいこれっくらいだから…………やっぱり顔が隠れるぐらいが可愛いと思うんだけど」
「でもハート型でしょう? やっぱりある程度小さい方がいいんじゃありません?」
「そのへんが問題なのよねえ」
しみじみとサラは腕組みをした。このへんのコーディネイトのこと、かなりの本気だったりするから大変である。
「とりあえず四パターンほど作ってみて、それから考えようと思うのよ」
「ああ、なるほど」
それで材料がこれだけ必要なのか、と雪乃は納《なっ》得《とく》した。
それからすぐにサラは表情を引き締め「ではこれを私の自室前まで頼む」と命じて敬礼した。
雪乃もそれに答えて敬礼を返し、電動力ートを軽く押しながら去っていく。
「…………」
彼女が去った後、サラは発注表を取りだしてチェックした。
「よし…………と。でもアントニア様、本当にこれっぽっちでいいのかしら?」
発注表には、提出直前に書き足された数字がある。
密《ひそ》かにアントニアから命じられた数字であった。
材料のうち、掌《てのひら》サイズのチョコレートを二個作るだけの分量がこっそりアントニアの元にいく手はずになっている。
これは、摩《ま》耶《や》にも内緒のことであった。
☆
さらにそこからとある方向へ数百キロ。
公海上、とマスコミが表記する「微妙な海域」にある問題の焦点、「軌道エレベーター」。
そこでは、時間通りの巡回が行われていた。
本物の空母より二回り以上小さな、ディフォルメ艦隊の定時パトロールである。
その絶大な攻撃力はすでに一ヶ月前、アメリカ軍の擬装工作部隊の拿《だ》捕《ほ》&引き渡しという、二一世紀に入ってから世界のどの軍隊も未《いま》だかつて行ったこともない行為で明らかだが、ふだんの彼らは、大概の軍人同様、穏やかで暢《のん》気《き》なものだ。
今日も今日とて、妙な格好をした「西崎造船」号を筆頭にした戦闘部隊はのてのてとゆっくりした速度で日本の海自の待機している前を進んでいく。
甲《かん》板《ぱん》では、デッキブラシを手に甲板を泡だらけにしながら磨くアシストロイドがいる横で、ほけーっと、コントに出てくる飛行機の着ぐるみを着たような(正式にはフライトユニット、というべき代《しろ》物《もの》だろうが、自前の脚《あし》が飛行機のコックピット下からちょこんと出ているので、そう表現するしかない)アシストロイドが、「やほいー」と手を振る。
海自艦の上では、手《て》空《あ》きの者たちがにこにこと手を振った。
「定時通りですな」
「まあ、機械だからねえ」
海上保安庁の巡視船「いしがき」の艇《てい》長《ちょう》と副長は、またそんな会話をしていた。
「海自さんはどうかね?」
「むこうも暢気なもんですよ」
手空きの者は甲板に出て、すれ違う船に並んだ小さな船乗りたちに挨《あい》拶《さつ》、というのはもはや彼らとその部下にとっては日課である。
「ほら、雑誌だ、一週間遅れだがあげるよ!」
海自の甲板から誰《だれ》かが大声をあげて、紐《ひも》で縛った雑誌を放《ほう》り投げた。
甲板上を「わー!」とあたふた動き回りながらも、二頭身の猫耳ロボットたちはこれをがっちり受け取り「ありあとー!」とプラカードを掲《かか》げてみせる。
当初はきちんと上官や先《せん》任《にん》が叱《しっ》責《せき》していたが、何となく馬《ば》鹿《か》らしくなって今は苦《く》笑《しょう》しつつ見守るばかりだ。
すると、甲板上にアシストロイドたちは集まり、短い足を器用に動かしてダンスを踊り始めた……これも、もはや珍しくない光景である。
今日はちょっと特別なのか、飛行機の連中が四体ほど「よっこらせ」と甲《かん》板《ぱん》から飛び降りると、ふわりと浮かび上がり、そのまま「とてとて」という感じで舞い上がると、空中で器用に曲芸飛行を行った。
本来ならエンジンが轟《ごう》音《おん》を立てているべきところから、「ぽぽぽぽ」と白い煙がたなびき、空に「ありあとー!」の文字を描く。
「ほう、今日は芸が加わったな」
艇《てい》長《ちょう》がくすりと微笑《ほほえ》む。
「しかし、いつまで続くんですかね、この任務」
副長も笑いながらふと疑問を口にする。
「わかんね」
あっさりと艇長。
「だが、このまま彼らの芸がどこまで進化するか観《み》てみたい気はするな」
☆
騎《き》央《お》の説明が終わると、アントニアがぽかんと呟《つぶや》いた。
「驚いた、騎央、お前、進歩しておるのぅ」
「そ、そうかな?」
意外な人物に褒《ほ》められて、騎央はちょっと顔を赤らめた。
「どうかな?」
ちょっと安心して少年が問う。
「うむ、そのやりかたは悪くないぞ、第一、皮肉が効《き》いておる」
にやっとアントニアが笑った。
こういうとき、この世界有数の大富豪はまるで猫のように見える……それも、だいぶ剣《けん》呑《のん》な、童話に出てくる悪い猫の精霊だ。
「じゃが、少々作戦が真っすぐ過ぎるな」
「そうでしょうか? 金銭が絡《から》む作戦はストレートな方がよろしいかと」
紅茶を淹《い》れながら珍しく、摩《ま》耶《や》がアントニアに意見する。
「そうでもないぞ、摩耶」
アントニアは腕組みをして目を輝かせている。
「ふふふ、このところ受け身ばかりで『攻め』はなかったからのぅ」
(あれ? そうだっけ?)
と首を捻《ひね》った騎央だが、すぐに最近の「攻め」が自分とエリスを拉《ら》致《ち》したあの事件以来、ということに気がつく。
(そっか、もともとは敵だったんだよなあ)
わずか半年も経過していないのに、不思議な気分になる。
もう、生まれたときから友達のような気で付き合っているのだ。
「よし騎《き》央《お》、やってみるがよい。資金はモルフェノスが責任を持ってバックアップする…………エリス様、よろしいですか?」
「あ、は、はい!?」
あまりにも早く話が進むため、よく事情を把握していないエリスが慌《あわ》てて返事をする。
「あ、えーと、怪《け》我《が》人とかが出ない方法でしたら、わたしのほうは全然オッケーですから」
「というわけで許可が出たのぅ」
うふふふふふ、とアントニアが微笑《ほほえ》んだ。
「では、具体的な役の割り振りじゃ」
そう言うと、彼女は庭に出ているアシストロイドたちも呼び集めた。
庭先でほけーっと日向《ひなた》ぼっこしていたアシストロイドたちは「わー」とばかりに家のなかに転がり込んでくる。
「よしよし、ではお前たちにも、ちゃんと役割をふるでな、そこでまっておれ」
にこにことアントニアはアシストロイドたちの頭を一体一体|丁《てい》寧《ねい》に撫《な》でていく。
☆
「…………」
朝になったというのに、目が冴《さ》えて眠れない。
リュンヌは、暖かいベッドのなかで寝返りを打った。
大人しい、どこか控えめながらやはり姉であるジェンスに似て華《はな》のある美《び》貌《ぼう》は、珍しく暗く、よどんでいる。
ようやく先週見つけたお気に入りの枕《まくら》を抱きしめ、ぎゅっと目を閉じる。
もともと「犬」としては垂れ耳の種族なのであまり外見変化はないが、その顔には明らかな焦《しょう》燥《そう》と、諦《あきら》めと、何よりも失望と不安の色が濃い。
寝付けないのは、真っ暗な部屋の中、つけっぱなしになっている立体モニターのせいである。
正確には、そのなかに展開されている能動的作戦《フレキシブル・ミッション》チャートシステムである。
さらに言えば、それは正式なチャートシステムではない。
どちらかといえば、ロボット型の検索、情報収集システムを組み合わせた万能分析装置プログラムと言った方が良い。
情報を収集し、分析、解析した後、「推理」する……もっともその「推理」の「核」になる「予想」は使用者が決めねばならないのだが。
ある「予想」…………というよりも「直感」を否定して欲しくてリュンヌはこれを起動させたのであるが、たいていの直感がそうであるように、彼女の「直感」はかえって肯定されてしまっていた。
(まさか…………私たちが、意図的にこの星の発展を阻《そ》害《がい》してるなんて)
理由はいろいろあるにせよ、事実はそうだった。
これだけの時代が過ぎながら、未《いま》だに宇宙への発展も、惑星における統一政府が存在しない理由も…………要因の何割かはこの星の原住民に起因するが…………そのほとんどは彼女の仲間たちのやったことであった。
そんなはずはない、と彼女は最初|焦《あせ》った。
彼ら「犬」の種族は誇り高く、気高く、それゆえに「あえて」禁《きん》忌《き》を犯し、厳格なオルソニア人によって封印される憂《う》き目にあったハズだ。
それにもかかわらず、自分たちの種族はなおもその誇りを知らしめ、よりよい宇宙を目指して封印を破り、三惑星同盟を作り…………。
学校で教えられたことが、実はすべて嘘《うそ》の皮であると、リュンヌは思い知らされた。
少なくとも、この惑星において、自分たちは着飾った、そして決して表には出ない陰険な略奪者だ。
表向きの理由はいくらでもあった。
プログラムを使って調べてみるという気まぐれを起こさなければ、リュンヌはあっさり騙《だま》されていたかもしれない。
だが、広大なネット社会にばらまかれた真実の破片を丁《てい》寧《ねい》に拾い集め、組み上げて本来の姿に戻してしまうプログラムはすべてを彼女に明かしてしまった。
驚いた彼女は慌てて、この「直感」が的中していることを知った自分の「未来」を予想させてみた。
結果は…………それが彼女を眠らせない。
「…………お姉様」
目をつぶると涙が溢《あふ》れそうになった。
この場に、今は別の任地へ赴《おもむ》いた姉のジェンスがいてくれれば、どんなにいいだろうか。
彼女なら、きっと自分の迷いを一《いっ》喝《かつ》し、それだけでリュンヌはまた任務に赴くことができる。
だが、姉はここにいない。
彼女は自分で行動せねばならなかった。
ふと、ドアがノックされて、リュンヌはベッドの上に起きあがった。
「どうぞ?」
言いながら、サイドボードの上に置いたリモコンでキーロックを解除する。
のこのこと、「猫」のアシストロイドに比べると、どこか角張っていて、鈍重な印象のアシストロイドがやってきた。
人間で言えば口に当たる部分に放熱用のスリットが開いているその姿は、垂れ耳なのも相まって、笑うビーグル犬という感じだ。
かつてはリュンヌの姉のジェンスに、そして今は彼女に仕《つか》えている作戦|参《さん》謀《ぼう》型アシストロイド「マットレイ」である。
「ああ、あなただったの」
にっこりと、しかし幾《いく》分《ぶん》疲れた笑みを浮かべて、リュンヌはベッドから降りた。
姉と違い、まだまだ発育途上のしなやかな体は、残念ながら趣味のいい厚手のネグリジェに包まれている。
「何か、あったの?」
と尋《たず》ねると、犬のアシストロイドは手に持った液晶モニターに「オ眠リニナラレテオラヌヨウデスガ、大丈夫デアリマスカ?」と気《き》遣《づか》わしげな言葉を表示する。
「大丈夫……ちょっと気がかりな問題があって」
そう答えると「デハ、ワタクシメニ何カオ手伝イデキルコトハアリマセヌカ?」と。
(ああ、しまった)
内心、リュンヌは途方に暮れた。
アシストロイドにこんなことをいえば、こういう対応をするのは当たり前なのだ。
だが、アシストロイドに頼める話ではない[#「アシストロイドに頼める話ではない」に傍点]。
「だ、大丈夫……」
自分で何とかするから、といいかけて、リュンヌの頭に閃《ひらめ》く物があった。
そうだ、普通はそう思う。
アシストロイドの処理できることには限界があるからだ。
これは突破口になるのではないか?
リュンヌの頭のなかで瞬《またた》く間に一つの考えが組み上がった。
「限定的に記憶を消すことはできるかしら? ────私の」
第二章 「定やん」口座を作ってた[#「第二章 「定やん」口座を作ってた」は太字] [#小見出し]
☆
お昼頃、真《ま》奈《な》美《み》はお茶請けを買うためにちょっと外出した。
「あんた、ホント変わってるわねえ」
と真奈美は自分の横を歩いているアシストロイドに呟《つぶや》いた。
そこにいるのはいつもの「ゆんふぁ」ではない。
「ゆんふぁ」は今、彼女の後ろで護衛の役をはたしている。
そこにいるのはハンチング帽に唐《とう》桟《ざん》のお仕着せ、○に「定」と描かれた前かけに「かけとり」と大書された大福帳、さらに小さな鼻かけ眼鏡《めがね》という典型的「丁稚《でっち》」姿のアシストロイド「定《さだ》やん」だ。
手には「粗品」と描かれた小さな箱と、ボールペンを大事そうに持って、とことこ歩いている。
それぞれには地元の有名銀行のマークが入っていた。
「騎《き》央《お》に内緒で銀行口座作るなんて」
真《ま》奈《な》美《み》には少々理解できない話であった。
アシストロイドに多少の金銭感覚があることは、「ゆんふぁ」やエリスの通常型アシストロイドがちゃんと「おつかい」をこなすのを観《み》て理解していたが、「貯蓄」という行為までやりたがるとは思わなかったのである。
朝のミーティングが終わって、一《いっ》旦《たん》家に帰ろうとした真奈美のスカートの裾《すそ》をちょいと引っ張ったこの丁稚《でっち》型アシストロイドに「だんさんにはないしょでおねがいがありますう」とプラカードに書かれたときは何ごとかと驚いたのだが。
幸い、真奈美の父の知りあいでもある支店長がいる銀行があったので、そこで『嘉《か》和《かず》さだきち』の名前で口座を作ることができた。
「ま、知りあいの支店長さんがいるところだから良かったけれどさ……ひょっとしてあんた、そこまで考えてた?」
真奈美が訊《き》くと「定《さだ》やん」は「?」という顔で少女を見上げた。
「…………どーも、あんたといい『ゆんふぁ』といい、あたしを上手《うま》く利用してるような気がするのよねー」
こまったもんだ、と真奈美は息を吐いた。
「ま、いいけどさ」
もっとも、「定やん」が手にしている「粗品」がある一定額以上の金額を口座にもつ相手にのみ配られるものだと知ったら対応は違っていたかもしれない。
ふと真奈美は歩みを止めた。
視線の先には、目を凝《こ》らさないとわからない程度に軌道エレベーターがある。
あまりにも透明度が高いため、それは注視しなければ霞《かす》んだ雲の生み出した偶然とも取れるようなはかなさがあった。
もっとも、真奈美の視線はそのはるか手前の、はるか下だ。
そこには小さな洋菓子店がある。
店の前ののぼりには、派手に「バレンタインセール!」の文字があった。
「…………『定やん』」
気づかずにてくてく先に行こうとしたアシストロイドは振り向いて「?」という表情になる。
「あんた、甘い物好きよね?」
ちょっと小首をかしげ、「定やん」は「わがしはこうぶつですぅ」とプラカードを掲《かか》げた。
「じゃ、ちょっとケーキおごってあげるわ」
そういうと、真《ま》奈《な》美《み》は方向をかえて歩き始める。
丁稚《でっち》型アシストロイドは素直に「でもがいこくのすいーつはちとにがてですけどー」と書こうとしたが、
「ほら、何してるの、とっとと行くわよ」
その襟《えり》首《くび》を真奈美はむんずと掴《つか》んで引きずり始めた。
大《おお》慌《あわ》てで「あーれー!」というプラカードを掲《かか》げ、じたばたあがく「定《さだ》やん」に後ろからやってきた「ゆんふぁ」が、「無駄だから抵抗はよせ」とでも言うかのように短い首を振った。
☆
「うーむ」
コタツの上に、無発泡ポリウレタン……日本の模型業界で言う所の「キャスト」でできた塊《かたまり》が置かれている。
背中に巨大なロケットパックを装着した猫耳ロボットの形をしていた。
コタツの片隅にはうずたかく、作りかけのプラモデルやキャストキットのパーツが積まれていた。
「うーん、うーん」
ちまちました手指が、タミヤマークの入ったノギスを片手にそのポリウレタンの塊を計り、床に置かれたノートに書かれたデッサンに数字が書き込まれていく。
「難しいなあ」
手にしたシャープペンシルを放《ほう》り出して、地球産金髪|碧《へき》眼《がん》猫耳少女、いちかはごろんと横になった。
セーターの上から羽《は》織《お》ったどてらの懐《ふところ》から禁煙パイポを取りだして口にくわえる。
「やっぱ格好良くないとねえ」
「何やっとるんだ?」
がらりと、プレハブ小屋のスライドドアが開いて、母《おも》屋《や》の主《ぬし》、瑞《ず》慶《け》覧《らん》旅《たび》士《と》が入ってきた。
「あ。旅士ちん、ちと相談相談〜♪」
がばっと起きあがったいちかは、にこにこ微笑《ほほえ》みながらスケッチブックとコタツの上の物体を両手に、眼鏡《めがね》の青年に差し出した。
「これさ、やっぱ三つに分割した方が良いかな? それとも五つかな?」
「なんだそりゃ? 型取り用の分割ならお前の方が本職だろうが」
手にした井《い》村《むら》屋の肉まんをコタツの上に置きながら旅士は首を傾《かし》げた。
「いや違うってば。やっぱほら、ロボットはさ、分離合体が格好いいワケじゃない」
「お前なあ」
呆《あき》れ顔で旅士はコタツに脚《あし》を入れる。
「人の物だろうが。勝手に切った貼《は》ったしていいわけなかろう?」
「違うもーん。この前シュレイオーって名前つけたから、あたしんだもーん」
ぽか。
側《そば》に置いてあったハリセンの角でいちかの頭を叩《たた》くと、
「お前、まさかとは思うが、この前のアレ、どっかに隠《いん》匿《とく》してるんじゃあるまいな?」
この前のアレ、というのは一ヶ月近く前、キャーティアがらみの事件で彼らが協力したときに与えられた巨大ロボット「うなーどの」改め「守礼皇五号《シュレイオーファイブ》」のことだ。
つまり、今コタツの上に転がっている玩具《おもちゃ》の一分の一…………本物のこと。
じろり、と白い目で睨《にら》まれると、慌《あわ》てていちかは顔の前で手を振った。
「いや、そ、それはしてないわよ、今度のワンフェス用にさ、こいつを合体ロボで提出しようと思って……そのへんの版権はアントニアちんにお願いしてOKもらってるし」
「…………」
なおも疑わしげに、旅《たび》士《と》は自分の家に先祖代々住み着いている謎《なぞ》の生き物を観《み》ていたが、そこは付き合いが長いのかすぐにことの真《しん》贋《がん》を見極めたらしく、
「ま、本当らしいな」
とあっさりハリセンを部屋の隅に投げた。
「ねえ、どうかな? やっぱ三つ? 五つ?」
「なんで俺に訊《き》く?」
「だってほら、この前のパソゲーでメカやってたじゃない」
「馬鹿。あれは田《た》沼《ぬま》さんのデザインを作画用にまとめただけだって」
言いながら、旅士は別のコンビニの袋からお茶のペットボトルを取りだして封を切る。
「とりあえず頭は取り外して、この前作ったゲパルト対空戦車に乗っけるつもりなのよ…………ほら、こんな感じで」
言うと、いちかはポリキャップで接続していたロボットの頭をきゅぽっと外し、ジャンクパーツの山から引っ張り出したドイツの対空戦車の砲塔がはまるハズの部分に乗っけた。
「なんで頭が戦車なんだ? アニメとかだと普通飛行機だろ?」
「そこが素人《しろうと》。通はやっぱり戦車か宇宙ロケットのてっぺんにくっつけるものなのよ」
「ふうん…………でもさ、砲塔がコレってことはどうやって攻撃するの?」
「それはさ、こうよ」
言って、いちかはジャンクパーツの山からSFチックなレーザーガンだかバズーカだかのパーツを二つ取り出し頭の左右にくっつけた。
「…………なんか意味がないような。というか、それ、合体させたら戦車と大砲が余るわけだろ? 全部合体させないと意味ないんじゃないか?」
「ふふふ、それが素人なのよ。合体物はすべてのパーツが無駄なく使用されるものと、大量の余剰パーツが出るものがあるの。そして後者のほうがより粋《いき》ってものなのよ」
「…………訳がわからん」
とかやってると、充電ホルダーに収まっていたいちかの携帯が布《ふ》施《せ》明《あきら》の「少年よ」を高らかに鳴らし始めた。
「…………? アントニアちんからだ」
赤いG‐SHOCKバージョンの携帯を開いて、いちかは電話に出た。
しばらく会話があって、旅《たび》士《と》がペットボトルのお茶を飲み終える頃《ころ》には電話が終わった。
「どした?」
「うーん。どうやら三つに刻むしかないみたい」
「?」
☆
ずる。
エリスが説明を終えると、立体映像のなかのクーネは艦長席から落っこちそうになった。
「そ、それ…………騎《き》央《お》君の発案なの?」
「あ、はい」
エリス自身もちょっと驚いた顔のまま、頷《うなず》いた。
「言われるまで、私もそれは気づきませんでした」
会議後、エリスは自分に任された役割をこなすべく、母船と連絡を取っていた。
「結構、応用力というか、想像力があるのね…………確かに、不可能じゃないけれど、普通、思いつかないわよ」
驚きと感心がない交《ま》ぜになった表情で、エリスよりも豊満なボディを持つ、キャーティアシップの長は頷いた。
「いやあ、彼も成長したわねえ」
「…………で、どうでしょうか?」
「うん、いいわよ」
あっさりとクーネはエリスの要請に許可を出した。
「あとでパーソナルデータを送って頂《ちょう》戴《だい》、すぐに用意するわ」
☆
アントニアを乗せたリムジンが騎央の家の前から出た。
「しかし、お嬢様」
アントニアの対面に座り、必要なデータをリムジン内にあるパソコンから出力しつつ、摩《ま》耶《や》が尋《たず》ねた。
「途中から我々が指揮権を奪う形になりましたが、よろしかったのですか?」
「ん?」
横に座らせた「へいほん」と携帯対戦ゲームをしながら、アントニアが生返事をした。
「騎《き》央《お》さんの手《て》柄《がら》を横取りしたことになりはしませんか?」
「気にするでない」
アントニアは一瞬だけ視線をあげたが、すぐに携帯ゲームに熱中し始めた。
「騎央は、そんな中途半端な器《うつわ》の男ではないのじゃ」
「へいほん」がムキになってかたかたと体を揺すってまで頑張るが、すぐに「まけたー」と扇《せん》子《す》に書いてこてんと転がる。
「?」
「手柄を横取りされて我らにいやな感情を抱く程度なら、エリス様は惚《ほ》れたりしないのじゃ……第一、我らに相談した、という点を考えてみよ」
「……はあ」
ちょっと片|眉《まゆ》をあげて、摩《ま》耶《や》は薄く微笑《ほほえ》んだ。
己《おのれ》の主《あるじ》の人を見る眼《め》が曇っていないと確認したのである。
「摩耶…………騎央はおもしろい奴《やつ》じゃ」
ぽつん、とアントニアは言った。
「あやつ、よっぽどの小物か、よっぽどの…………いや、ちょいとおもしろい人間になるような気がする」
わずか一四年の人生ながら、権《けん》謀《ぼう》術《じゅつ》数《すう》の世界を渡り歩いてきた少女ならではの直感を、
彼女は正直に口に乗せていた。
その横顔はぞっとするほど虚《うつ》ろで、冷たい。
エリスはもちろん、アオイも真《ま》奈《な》美《み》も知らない、摩《ま》耶《や》だけが知っているもうひとつのアントニアの顔。
「…………」
何も言わず、摩耶は静かに頷《うなず》いた。
「ささ、『へいほん』もう一戦じゃ」
次の瞬間、少女の顔はいつものどこか偉そうな表情に戻っていた。
猫耳すらない弁《べん》髪《ぱつ》ヘッドのアシストロイドは「でわこんどこそ」と扇子に書いて再びの戦いへと挑《いど》んでいく。
☆
「えーと、クーネさんの方面はオッケー、と」
エリスの報告に、手にしたメモ帳に書いたスケジュールに一本線を引いて騎央は次のスケジュールを見た。
「はい」
こっくん、とどてら姿のエリスは頷いた。
「あとはウチの大祖母ちゃんの返事待ちか」
「ですねー」
腕組みして、騎《き》央《お》は居間のソファーで横になった。
「何か、はじめてみたら結構簡単に進むなあ」
アントニアと話し合っていたときには一週間弱で間に合うかどうか、とさえ思っていたのだが。
「…………双《ふた》葉《ば》さんのことを考えたら、もう少し短い時間でもよかったかもね」
「え?」
アオイが驚く。
「ど、どうして…………ですか?」
「いや、一週間の作戦期間、ずっと双葉さんには護衛とか、警護とかしてもらうわけだしさ……結構大変だなあ、って思って」
「大丈夫…………摩耶さんたち……も手伝ってくれる……から」
眼鏡《めがね》の少女はにっこりと笑う。
「でも、これからは騎央君や、エリスのほうが大変じゃない……の?」
アオイが言うと、騎央とエリスは我知らず、同時に首を横に傾《かし》げた。ついでに側《そば》にいた通常型アシストロイドも主《あるじ》の真似《まね》をしてみる。
「うーん、僕らよりも大変なのはアントニアと摩耶さんじゃないかなあ」
「ですよね。当日までの裏方作業はアオイさんとアントニアさんの双《そう》肩《けん》にかかってくるわけですし」
「私は…………慣れてるから」
思わず(いいなぁ…………)とその光景に見とれ、慌《あわ》てて視線を手に持ったマグカップのなかのお茶に戻してアオイ。
「でも、気の抜けない仕事じゃないですか」
すごいですよ、とエリス。
「…………ありがとう」
エリスの顔を見て微笑《ほほえ》むのは少し勇気が必要だった。
どうも最近、アオイは騎《き》央《お》以上にエリスの顔がまともに見られなくなっている。
にこっとエリスが笑い返した瞬間、アオイの心臓の鼓《こ》動《どう》は跳ね上がった。
その場から逃げ出したくなるのを堪《こら》えて、微笑み返し、そっと視線を外す。
「ただいまー」
がらがらと引き戸を開ける音がして、真《ま》奈《な》美《み》が帰ってきた。
思わずホッとする。
ぱたぱたと足音がしてまず最初に「定《さだ》やん」と「ゆんふぁ」が入ってきた。
「あ、お前どこ行ってたんだ?」
騎央が「定やん」に言うと「ちとやぼようだす」と丁稚《でっち》型アシストロイドは答えた。
「真奈美ちゃん、うちのが迷惑かけなかった?」
「うんにゃ、大人しいモンだったわよ…………はい、お茶請け。これ領収書とおつりね」
がさがさと、真奈美はスーパーのビニール袋をテーブルの上に置き、ジーンズスカートのポケットから出した領収書をエリスに渡した。
「あ、はいありがとうございます」
エリスはそう言うとどてらの懐《ふところ》に入れてあった、冗談みたいなデザインのがま口にそれぞれをわけて入れた。
「そういえば、大使館予算はどーなのよ?」
「えーと」
エリスはいつもの万能携帯システムを取り出し、画面を呼び出した。
日本政府から貸与された二〇億の資金は、現在(はなはだ心配ながら)エリスが総《そう》括《かつ》管理をしている。
「まだ一五億以上は残ってます」
「あのさ、ちょいと提案なんだけど」
と真奈美は切り出した。
「そろそろ、ここも手《て》狭《ぜま》だし、大使館としての機能だけでもどっかに引っ越した方がよくないかなぁ? 今度の計画が上手《うま》く行けば、必要になるだろうし」
「うーん、それはそうなんですけれど…………」
「何もあんたまで引っ越せ、ってんじゃないの。各国政府の高官を民間人の家に上げるわけにはいかないでしょ? 下手《へた》をすると大統領とか総理大臣とかが来るわけだしさ」
「やっぱり迎《げい》賓《ひん》館《かん》としての機能は必要ですかねー?」
「いると思うわよ」
「ふむ…………」
どこで覚えたのか、懐《ふところ》手《で》でエリスは考え込む。
「まあ、さほど急ぐことはないんじゃないかな?」
騎《き》央《お》が助け船を出した。
「だって、どこもまだ正式な外交を依頼してこないわけだし。その時はその時で」
「それじゃあ遅いわよ、きっと」
「真《ま》奈《な》美《み》ちゃんはせっかちだなあ」
「あんたがのんびりすぎるの、ねー『ゆんふぁ』?」
主《あるじ》を差し置いてさっさとこたつに入っていたサングラスにコート姿のアシストロイドは「ぜんわいそげ、あくはもといそげ」とプラカードを掲《かか》げる。
「そういうもんかなぁ」
「そーゆーもんよ」
ええ、そーですとも、と年上のような口ぶりで、真奈美はスーパーの袋のなかからお茶請けのビスケットを取りだした。
それを見たカスタムタイプのアシストロイドたちが「まてました」とばかりにぱちぱちと手を叩《たた》く。
☆
金色の髪をたなびかせ、ニルメアはフランスパンをメインに、シチュー、分厚いベーコンに目玉焼き、山盛りの野菜サラダをたっぷり時間をかけて取った後、|〆《しめ》の珈琲《コーヒー》という優《ゆう》雅《が》な朝食を終えた。
リュンヌは昨日遅くまで何やら調べ物をしていたらしく、起きてこない。
まあ、今のところ「犬」の少女の役割は、せいぜいニルメアの個人情報処理システムに常駐するチャートシステムのメンテナンスと彼女の話し相手ぐらいだし、今日は日曜日なので、こっちも気にせずに、自分自身も休みを楽しむことにしていた。
「この星は田舎だけど、こういう食べ物がある、ってのが救いよね」
などと呟《つぶや》きながら、インスタントコーヒーの香り[#「インスタントコーヒーの香り」に傍点]を楽しむ。
折り畳まれた翼も相まって、まさに天使の休息、といった風《ふ》情《ぜい》だが、それは唐突に鳴ったフローチャートシステムの警告音にかき消された。
CIA、DIAを含めたアメリカ政府関連の情報ネットおよびデータバンクと一般インターネット、さらに三惑星連合のデータバンクにもリンクし、情報を収集、統合、予測を行っていたフローチャートシステムが、何ごとかを「推測」したのだ。
「…………」
あからさまな不満顔を浮かべてニルメアは机に戻る。
「いったい、何があったっていうの?」
ブツブツと言いながらシステムを展開、表示された狂人の戯《たわ》言《ごと》のような「推測」を人間の言葉として「翻訳」させる。
「ふうん…………」
不満顔はすぐに、飢えた虎《とら》のような笑みに変わった。
「猫どもめ……何をまた考えているんだか」
☆
お茶の時間が終わると、最近ようやく開設したキャーティア大使館ホームページの処理が始まる。
さっきまでは会議室だった居間に、「たいしかん」とマジックで書かれたパネルのノートパソコンを置いて、騎《き》央《お》の部屋にあるサーバーから引き上げたデータをLANでそれぞれに流し込む。
実を言うと、キャーティア大使館最大の「お買い物」は今のところこの四台のノートパソコンと、サーバーマシンであった。
そこへやってきたメールを開封し、あるいは消去し、何通かはエリスに読んでもらい、上にいるクーネ艦長に回覧させ、何通かはエリス自身が答える。
「掲示板つけなくて良かったわぁ」
幾《いく》つかあるメールアドレスのうち一つを担当している真《ま》奈《な》美《み》が溜《ため》息《いき》をついた。
「ぜーったい騒ぎになってるもの、うん。間違いなく」
「そうだねえ」
あからさまなスパムメールを消去し、さらに悪意のあるメールを冒頭数行だけ読んで削除という、気の重い作業をしながら、騎央も頷《うなず》く。
こういうとき、みんながいるのはありがたい。
世の中の無責任な言葉の暴力や、それ以上に厄《やっ》介《かい》な勘違いに対応せねばならない時、ひとりぼっちだったらとてもじゃないが耐えられない、と思う。
また、何よりもエリスに悲しい思いをさせたくない、という気持ちもある。
「今でさえも結構、ぶん殴ってやりたいようなメール、多いもんね」
「仕方がないわよ。世の中のすべての人間がきちんと自分の言ったことに責任を持って何か言う、ってわけじゃないもの」
高校生なのに、真奈美は訳知り顔で頷きながら何通かのメールを開封し、消去し、あるいは「エリスいき」と書いたフォルダにまとめる。
「中には目的も意味もなく、喧《けん》嘩《か》をしたいから喧嘩を売りに来る○○ガイも多いから」
「…………」
アオイは黙っているが、彼女の表情を見ると、どうやら同意と言うことらしい。
事実、この作業をやってる間中、アオイの顔は紙のように白く、見るからに不機嫌そのものになる。
時には終わると同時にしばらく机の上に突っ伏して起きてこなくなることもたびたびだ。
「…………」
エリスにいたっては難しい顔をして艦長へ提出するメールと自分で判断するメールの選《よ》り分けを行っている。
返事は毎日暇な時間に集中して書いているのだが、それでも最近は間に合わなくなってきて、時折ホームページ上で「まとめてお返事」という行為をせざるを得なくなっているのが、本人としては不本意らしい。
だが、適当に流すことができない性分だから勢い、こういう時に力が入ることになる。
「あ!」
真《ま》奈《な》美《み》が珍しく高い声を上げた。
「どうしたの?」
「国交の相談って……えーと、これ、北欧の国だ」
「こっちにも…………あるわ」
アオイの方にも別の国の大使館からメールがあったらしい。
「国交樹立の相談をしたいって……こっちはアフリカの方ね」
「さすがに軌道エレベーターの一件で動き出した、ってことなのかな」
騎《き》央《お》が目を輝かせて身を乗り出すと、騎央のノートパソコンにメールの到着を知らせるベルの音が響いた。
「あ……メイドさんたちからだ……わ、こっちにも二件ぐらいあるみたい!」
大使館のホームページにきた英語圏以外のメールはアントニアのところにいるメイド部隊に頼んで翻訳をしてもらっている。騎央のところに届いたのはその結果だ。
「こっちはEUみたいだ」
「良かったぁ……少しは良い方向に動き始めてますね」
作業の手を止めたエリスが何度も頷《うなず》く。
そんな主《あるじ》たちの苦労を知ってか知らずか、アシストロイドたちはのんびり庭で遊んでいる。
ほとんどが縁側でごろごろと日向《ひなた》ぼっこだが、なかにはトランプをやったり、数名で縄跳びをしたり、読書をしているものもいる(もっとも、アシストロイドの「目」は本の上下逆さまは問題ではないので傍《はた》目《め》にはその真似《まね》にも見えるが)。
そのなかからひょい、と「定《さだ》やん」が抜けた。
居間を横切ることを避けて、わざわざ勝手口に抜けてから中に入る。
雪《せっ》駄《た》を脱いで家に上がると、とてて、と階段を上り、突き当たりにある納《なん》戸《ど》……つまり彼にとっての自室に入る。
そっと扉を閉じて、壁のフックにひょいっとハンチングを引っかけると、「定《さだ》やん」は奥にあるみかん箱に向かい、上に置かれたノートパソコンの電源を入れた。
このパソコン、棄《す》ててあった物を「定やん」が独自にレストアし、パワーアップをしたもので、よく見ればフレームやケース部分にいろいろと怪しげなコードやらパーツやらがくっついていたり、伸びていたりする。
しばらくするとOSの起動が終了し、前かけ同様|濃《のう》紺《こん》に白い筆文字で「もうかりまっか」と書かれた壁紙の、無味乾燥な液晶画面が現れる。
迷惑にならないように真奈美の家からこっそり分岐させた[#「真奈美の家からこっそり分岐させた」に傍点]光ファイバーに繋《つな》がるLANケーブルに接続されたノートパソコンは、たちまちのうちにある証券会社における株式のデイトレードの画面を映し出した。
物言わぬ丁稚《でっち》型アシストロイドは、そこに表示された株式の情報を見ながらいちいち頷《うなず》いたり、肩を落としたりしつつ、タッチパネルを操作し始めた。
第三章 とちがみむよう[#「第三章 とちがみむよう」は太字] [#小見出し]
☆
その日の夕方近くから、沖《おき》縄《なわ》の土地の価格が激しく高騰した。
といっても、一般の土地ではない。
軍用地、と呼ばれる、アメリカ合衆国が日本政府を通じて借り上げている「名目《たてまえ》」となっている土地の値段である。
実際には現在、アメリカ政府は一銭も払わず、日本政府がせっせとその「土地預かり代」を支払っている。
こうなったのはまあ、第二次世界大戦にまで遡《さかのぼ》るもろもろの理由があるのだが、それはここで語る話ではないので、興味を持たれた方は調べるがよろしい。
とにかく、沖縄がアメリカ軍に統治された名《な》残《ごり》であり、戦後六〇年以上が経過した現在、そこから入ってくる収入、およびそのための損失|補《ほ》填《てん》(何しろ平地の八割は米軍基地に取られているため、他の産業を呼び込むことができないのだ)のために国が支払う特別予算も含め、沖《おき》縄《なわ》県の経済のかなりの割合を占めているから、当然、その土地は何だかんだで「価値」のあるものなのである。
ただし、常に高値安定であり、めったに値動きは起こらない。
おおっぴらに取引するものではないし、また買いあさったからといってそれ以上の利益を生まない代《しろ》物《もの》だからである。
特に、嘉《か》手《で》納《な》基地の中ともなれば。
それが、この日の夕方から大幅に動き始めた。
きっかけは、一本の電話である。
個人営業の不動産屋数軒に、閉店間際にかかってきたその電話の主《ぬし》は老《ろう》婆《ば》で、年齢を感じさせないはっきりした発音でこう言ったのだ。
「久しぶりねえ、○○さん。だぁ、ちょっと訊《き》きたいけど、今軍用地はいくらねー? え? ドレくらい? さあ、どれくらい買おうかネエ」
そして、その日のうちに、不動産屋仲間に通達が走ったのである。
あの人が、大規模に軍用地を買おうとしておられる。
何か、起こるかもしれない。
とにかく、軍用地を押さえておけ。
☆
独特のイントネーションの声が響く。
「だぁ、とりあえず三ヘクタールぐらいは買ったよー」
黒電話を置いて、騎《き》央《お》の曾《そう》祖《そ》母《ぼ》、嘉《か》和《かず》家名物のひとり、嘉和ウシ(一〇八)は、振り向いてにっこりと、アントニア・リリモニ・ノフェンデラス・パパノーガス・アレクロテレス・クノーシス・モルフェノスへと微笑《ほほえ》みかけた。
「あ、ありがとうございます」
珍しく、アントニアが素直に頭をさげた。
ウシの家は首《しゅ》里《り》にある。
今時の那《な》覇《は》にしては珍しい、木造部分の多い、ブロック塀にフージ、と呼ばれる風水の「返し」が門を入ってすぐにある家であった。
家の中の作りも、ほとんどにおいて昔の琉《りゅう》球《きゅう》王朝時代だが、素材がすべて今風という、ちょっと変わったところである。ここも、騎央の家同様引き戸で入るのも珍しい。
「子供が正座してはつらいでしょ。脚《あし》崩して。ほら」
とても一世紀生きているとは思えない、かくしゃくとした老《ろう》婆《ば》は、しゃちこばってテーブルの前で正座しているアントニアに笑いかけた。
元はかなりの美人だった、という話が納《なっ》得《とく》できるような、明るい笑顔に、アントニアはほっと息をついて言われたとおりにする。
今度の「計画」には地元に顔が利《き》くこの老《ろう》婆《ば》の協力が不可欠であり、実質的な作戦指示者であるアントニアは、騎《き》央《お》の取り持ちを得て、彼女に協力依頼をしに来たのである。
「では翌日」となるものだとばかり思っていたら、老婆はあっさりと腰を上げその場で何軒かの不動産屋に電話をかけて、三ヘクタールの軍用地を手に入れる約束を取りつけてしまったのである。
その隣りにいる摩《ま》耶《や》はにっこりと微笑《ほほえ》むばかりで、脚《あし》を崩さないが、こちらに対して老婆は満足そうに頷《うなず》くだけで足を崩すようには言わなかった。
「だぁ、どうねー? お菓子食べなさい、育ち盛りでしょー?」
言って菓子皿の蓋《ふた》を取る。
中には意外なことにハーシーのキスチョコと、まだ銀色の包装紙に入ったビスケットが詰め込まれていた。
「あ、は、はい………」
人に命令することはあっても、頼みごとをするのは得意ではない上、善意の年寄りとの付き合いがあまりないアントニアは、すっかり老婆のペースに乗せられてキスチョコを手に取った。
こういうときいの一番に手をだしそうな「へいほん」は他のメイドたちといっしょに家の外で警護の任務に就いている。
「ああ、そうだ、飲み物をわすれてたネー」
どうぞお構いなく、とか何とか摩耶が言うよりも早く、とことこと老婆は台所に行って、木の盆に青い琉《りゅう》球《きゅう》ガラスに入った麦茶、さらに騎央の家でもよく出てくるタンナックルーを盛った皿を手に戻ってきた。
「だぁ、そこの大きい|ネーネー《お姉さん》も食べなさい」
「はい」
いささか苦笑しながら、摩耶も老婆の言うことに従って、柔らかい黒糖ビスケット、という風《ふ》情《ぜい》のタンナックルーを手に取る。
「美味《おい》しい?」
「はい」
「でもキー坊から訊いてたよりもふたりとも美人ネー。最初びっくりしたヨー」
ようやく二人の前に座りながら、老婆は呵《か》々《か》と笑った。
「あまり方言はお話にならないんですね」
摩耶が言うと、老婆は、
「まあねー。昔はもっと綺《き》麗《れい》に大和言葉《ヤマトグチ》が喋《しゃべ》れたけれど、年取ると難儀になるサーね」
とまた笑う。
「のう、その…………おばあ…………ちゃん」
いまだにどう呼べばいいのかわからないアントニアがおっかなびっくりで口を開く。
「ん? なんねー?」
「この家は、ずいぶんシンプルなのじゃな」
騎《き》央《お》に、一族の神事を司《つかさど》る、と訊いていたのでさぞかし賑《にぎ》々《にぎ》しい神具に囲まれているのだろうと想像していたのだが、ウシ刀《と》自《じ》(年老いた女性に対する敬称)の家にはそれらしいものは何もない。
家具も至ってシンプルにタンスが一個、テレビにラジオ、ちゃぶ台に仏壇。
ポスターも、カレンダーもない。
八畳の部屋というからおそらく騎央の家の居間よりも狭いのだが、ここはだいぶ広く感じられる。
そのことを言うと、また老婆は笑った。
「昔はねー、ハァ、いっぱい物を持ちたいと思ったこともあったサー。でも、戦争でわかったよ。何もかも爆弾が来たら…………」
と、老婆は掌《てのひら》側を上に向けた拳《こぶし》をぱっ、と開いて見せた。
「これよー。もう何もない。命があれば後は」
と、両の掌が、重ねられて着古したワンピースの胸に当てられる。
「ここにあるさー」
にこっと笑う。
「思い出も、何もかも、ココにある物は取られないからねー。あとは暇つぶしの道具、人をイヤな気分にさせないための道具ヨー。そうしたら、物はそんなにいらないサー」
「…………」
アントニアはぽかん、と老婆の顔を見つめた。
モノマニアの気《け》がある騎央の血筋とはとても思えなかった。
☆
「…………こんばんは」
引き戸が開いて、聞き覚えのない声がした。
「ちーっす! エリスいるかー?」
こちらはもう聞き覚えどころか、声を出す前の気配でわかる…………チャイカだ。
「あら、久々に来たのね」
トイレから帰ってきた真《ま》奈《な》美《み》が手を振る中、居間からどてら姿のエリスが顔を出した。
「あれ? どうしたんですかチャイカ」
「サイズの測定だよ」
どう見ても外見はアントニアと同じくらい…………その実三児の母という、ちょっと信じられない素《す》性《じょう》を持つエリス直属の上司、チャイカは満面に「にかーっ」という笑みを浮かべた。
その隣で、ずいぶんと背の高い、こちらはエリスと同い年ぐらいのキャーティアの少女がすまなさそうに肩身を狭くしている。
ベリーショートの黒髪で、そのままきりっとした表情をすればきっと宝塚男役系の美女なのだろうが、今はぽやーっとした表情で猫背なのでとても茫《ぼう》洋《よう》なイメージだ。
スキンスーツの色は灰色。このへんもキャーティアにしては珍しい地味なイメージだ。
「生体電流とか、バイオリズムとかも調査必要だからな」
「ああ、そうでしたねー」
ぽん、とエリスは手を叩《たた》いた。
「で、こちらの人は?」
どうやらエリスも初めて会う人物らしい。
「ああ、こいつはセルカ。オレの一番上の娘だ。今回は助手兼今後の仕事を覚えさせるためにも連れてきた」
「えー!」
娘がいるという事実さえ未《いま》だ知らない真《ま》奈《な》美《み》がそれこそ倒れんばかりの大声を上げる。
「……母がお世話になってます」
ぽりぽり、と後頭部をかきながら、チャイカの二倍はありそうな身長をかがめてセルカは頭を下げる。
皆の注目を浴びるのが恥ずかしいのか、顔が赤らんでいた。
「……申し訳ないです」
「いえいえ、こっちこそいつもお母さんにはお世話になってます」
エリスは深々と頭を下げる。
その横で、わたわたとやってきた通常型アシストロイドたちも「ますたぁがおせわになりますた」とプラカードを掲《かか》げて頭を下げる。
「いえ……つたない母ですが」
「こら、誰《だれ》がつたない母親だ、この親不孝者」
さっそく足首から先のスーツを除装して家に上がったチャイカが、こつんと娘の頭を叩いた。
「……イタイです、母さん」
大げさに身を縮め、涙目で背の高い少女は母親を見上げた。
「愛の鞭《むち》だ」
腕組みしながらも、チャイカは苦笑している。
「へー。チャイカの娘さんなんだ。ラーマちゃんは?」
遅れて顔を出した騎《き》央《お》が尋《たず》ねる。
「ああ、あいつは家で次女のレイーマと遊んでるよ。アシストロイドもいるから安心だしな……それにもうそろそろあたしのツレが家に来てるはずだから」
「ツレ?」
「……父です」
言葉のすぐ後ろに「困ったものです」と続きそうな口《く》調《ちょう》でセルカ。
「しかし、驚いたわねー。チャイカって子供いるんだ」
真《ま》奈《な》美《み》がつくづく感心したように言う。
「ま、いーや、あんたもあがんなさいよ……えーと、セルカでいいんだっけ?」
「……はい」
真奈美に言われて、ようやくセルカは足首から先を除装した。
「…………夕食、鍋《なべ》にしようか」
騎《き》央《お》は隣りにいたアシストロイドの「6」に言い、「変わり者」のアシストロイドはこっくんと頷《うなず》いて「そでしね」と同意のプラカードを掲《かか》げた。
☆
「ふう……」
嘉《か》和《かず》ウシ刀《と》自《じ》の家を辞して、リムジンに乗ったアントニア・リリモニ・ノフェンデラス.パパノーガス・アレクロテレス・クノーシス・モルフェノスは、ごろりとそのまま座席に横になった。
「すまぬ、摩《ま》耶《や》。不《ぶ》作《さ》法《ほう》をする」
「いえ」
くすり、と摩耶は微笑《ほほえ》んだ。
ウシ刀自の家で、最初はお菓子、次には食事の「|食べなさい《カメーカメー》」攻撃が待っていた。
前後が逆だと普通なら思うところだが、まあ、そのへんは流れとか勢いとかを重視する沖《おき》縄《なわ》の年寄りらしく、ウシオバーは頓《とん》着《ちゃく》していないらしい。
気がつくと、刀自手製の油《あぶら》味《み》噌《そ》やグルクン(タカサゴ)の唐揚げ、ナーベーラー(ヘチマ)の味噌汁など、騎央の家でも食べないほどの量を腹に詰め込んでアントニアはようやく家を辞したのである。
途中で呼び戻した「へいほん」が、アントニア以上の健《けん》啖《たん》ぶりを発揮したおかげで、「人を歓迎するのはまず食べ物の量」という刀自の目的は達せられたのがせめてもだ。
が、そのカンフーマスターを模したアシストロイドもアントニアの横で膨《ふく》れ上がった腹を抱えて「けぷー」と書かれた扇《せん》子《す》をだらしなく振っているありさま。
「あんなに人の手料理を食べたのは初めてじゃ……断り切れぬ料理というのは、けっこうシンドイものなのじゃな」
うーとか時折|唸《うな》りつつ、世界一の大富豪は、しかし何となく嬉《うれ》しげに微笑んでいた。
賑《にぎ》やかな食卓というものが、何だかんだ言っても好きなのである。
「しかし摩耶、ずいぶんと楽しそうな顔をしておるのぅ」
「そうでしょうか?」
「そうじゃ」
アントニアは頷《うなず》いた。
「あの家にいるときからずーっとそうじゃ。なんぞ懐《なつ》かしい物でもあったか?」
「ちょっと昔を思い出しまして」
「?」
「あんな感じの場所で、暮らしていたことがあるのです……もう一五年も昔になりますが」
そう言った摩《ま》耶《や》の目はどこか遠くを見ているような気がして、アントニアは何となく不機嫌になった。
「こんどそのころのことを話せ。命令じゃ」
それだけ言って、少女はごろりと背中を向けた。
☆
というわけで、頭数も増えたので嘉《か》和《かず》家の夕食は「鍋《なべ》」となった。
買い出しはいつも通りのアシストロイド……も含めたエリスと双《ふた》葉《ば》アオイである。
アオイは白いセーターにジーンズ、エリスはさすがに外でもどてらではなく、いつものスキンスーツの上から、クリスマスプレゼントに騎《き》央《お》の両親からもらった赤いレザージャケットを羽《は》織《お》っている。「目立たないように」と頭にはニット帽。
もっとも、頭隠して尻隠さず、尻尾《しっぽ》の方はそのまんまだからあまり役には立っていないが、近所の連中も最近は慣れたらしく、注目する者はほとんどいない。
いつもなら頭の上に買い物|籠《かご》を乗せてトテトテ歩くところを、今日は「ご主人様」ふたりが押して歩くカートのなかに放《ほう》り込むだけなので、妙に通常型のアシストロイドは元気が良い。
「とりあえず、豆《とう》腐《ふ》としらたきと、鳥の胸肉、おだしはあるからいいとして……あとはネギと、生しいたけとえのき、あとポン酢が切れそうですからそれもお願いします」
とか言うとぴゃーっと走って目的の物を持ってきた。
あとはのんびりと売り場を回るだけである。
売り場の担当店員から手を振られたり、試食品を渡されるところを見ると、もうアシストロイドたちはこのへんでは「顔」らしい。
問題は、本来騎央の家の近くにあるこのスーパーに来る必要がない「チバちゃん」と「錦《きん》ちゃん」まで「あら、今日はご主人様といっしょなの?」とか試食のおばちゃんに言われたことである。
「あなたたち……時折姿が見えなくなると思ったら、ここまで試食しにきてたの?」
呆《あき》れ顔でアオイが言うと、二体は「めぼくない」とプラカードを掲《かか》げて頭を掻《か》いた。
なんでも「ちまちまたべのは、とてもおもろくて」という理由らしい。
つまり、試食に「ハマった」ということか。
「…………まったく」
「アシストロイドは基本的に好奇心|旺《おう》盛《せい》ですからねー」
にっこりとエリスは笑う。
「それも愛《あい》嬌《きょう》のうちですよ、アオイさん」
「そ、そう……かしら」
思わずその笑顔を見つめてしまいそうになり、慌《あわ》ててアオイは顔を前に向けた。
「こ、これなんか鍋《なべ》の材料にいいんじゃない……かし……?」
その場を誤《ご》魔《ま》化《か》すために手に取ったモノはなぜか沖《おき》縄《なわ》名産、ブルーシールアイスクリーム(バニラ)の特大箱であった。
「えーと」
どう対応していいのかわからず、エリスは目を点にしながら指摘した。
「それはちと鍋にはマズイのでは……?」
「ち、違うわ、えーとこ、こっち」
箱を放《ほう》り投げそうになりながらも必死にアオイは隣りの冷蔵庫のなかに入っていた鳥のささみの詰め合わせ(冷凍)を取り出す。
「うーん、ささみは柔らかくておいしいですけれど、味が今ひとつなんですよねー…………でも、ポン酢でいただくのにはいいのかな?」
「そ、ソウダと思うの……あ、こ、これもいいんじゃ……ない?」
今度は白菜を取る。
「あ、そうでした、白菜を忘れてましたよー」
わーい、よかったーとエリスはアオイの手から白菜を取る。
ふたりの手が触れあった。
それだけでアオイの呼吸が一瞬止まる。
「どうしたんですか、アオイさん?」
「あ、い、いや何でもないの!」
戦闘状態でもないのに妙に良くなった滑《かつ》舌《ぜつ》にも気づかず、アオイは慌ててあらぬ方向を見た。
「え、えーと、で、デザートがいるわよね? え、エリスは何がいい?」
「そうですねえ。お鍋の後はちょっと冷たいのが……ああ、それでアオイさんさっきアイスクリームを?」
「え、ええ、そうなの、そうなの」
ぎくしゃくと、関節に砂でも詰まったような動きでアオイは何度も頷《うなず》いた。
だんだん自分が情けなくなってくる。
☆
「なーんか、最近あのふたりおかしいんだよねえ」
部屋の片づけをしながら騎《き》央《お》が真《ま》奈《な》美《み》に言った。
チャイカとその娘のセルカは、「定《さだ》やん」の案内で家のなかを見て回っている。
「何が?」
「妙にさ……双《ふた》葉《ば》さんがエリスを避けているような、でも妙に近づきたがってるみたいでもあるし…………」
「何それ?」
電源を落としたノートパソコンと周辺機器を専用の棚にしまい込みながら真奈美が首を傾《かし》げる。
「時折、じーっとエリスの顔を見るクセに、エリスが見ると慌《あわ》てて目をそらしたり、エリスが今日みたいにいっしょに何かしよう、とかいうと飛び上がるぐらい驚くクセに、絶対に拒否しないんだ……変だろ?」
「そうねえ……」
真奈美は腕組みして首を捻《ひね》った。足元ではわたわたと箒《ほうき》で周囲を掃いていた「ゆんふぁ」が「どしたの?」という顔で見上げている。
しばらく真奈美は考えていたが、うん、と大きく頷《うなず》いて、
「あんた、今度アオイとデートしなさい」
「え、え??」
唐突な言葉に慌てる騎央だが、少女は構わず、
「いい? とにかく近いうちにデートしなさい。コレ命令」
「な、何で真《ま》奈《な》美《み》ちゃんが命令するんだよ!」
「…………」
しばらく「じとー」という目で真奈美は騎《き》央《お》を睨《こら》んでいたが、
「あんた、ホントに何も気づいてないの?」
「え?」
「…………はぁ、何でこんなのがふたりのおねーチャンからモテるかねー?」
イントネーションが後半上下する、沖《おき》縄《なわ》独特のイントネーションでそう呟《つぶや》くと、真奈美は「いい、ヒントはこれだけよ」という口《く》調《ちょう》で、
「このままだと、逆三角関係になるかもしれない、ってこと!」
「え?」
「ったく。なんだってこんなのが……」
ブツクサ言いながら真奈美はさっさと部屋を出て行ってしまった。
「…………」
部屋には通常型アシストロイドの「1」と騎央だけが残された。
「なあ、どういう意味だろうね?」
思わず足元の「1」に訊《き》いてみる騎央であるが、「1」の答えは「にげんはいろいろたいへんでしね」という物であった。
☆
「…………♪」
茫《ぼう》洋《よう》としたセルカの表情にじんわりと「しあわせ」という単語が浮かんでいた。
愛《いと》おしげに二階の木の柱を撫《な》で、時に鼻を近づけたりする。
「いいなぁ。合成木材じゃない、本物だぁ」
「お前、ホントに好きね」
微《び》苦《く》笑《しょう》を浮かべながらチャイカが言う。
「うん♪」
セルカは素直に頷《うなず》き、ぴとっと柱に己《おのれ》の頬《ほお》を押し当てる。
「いいなあ、この微妙な温度、硬さ」
足元でふたりを案内している「定《さだ》やん」はちょこっと首を傾《かし》げ「いとさん、なにしてはりますのん?」とプラカードを掲《かか》げる。
「ああ、こいつな、生きた木や木工品が好きなんだよ。子供の頃《ころ》にあたしが森林惑星に駐留してたもんだからさ」
「懐《なつ》かしいね、母さん、FD4号星」
「お前、この間行ってきたばかりだろ?」
「うん…………でもやっぱり懐《なつ》かしい。あそこは私の生まれ育った場所だもの…………でも、ここは同じぐらいいい惑星《とこ》だね♪」
「ったくまぁ。いちおうここの警備主任に出世したんだろが、しっかり点検してくれよ」
「あ、う、うん」
柱から離れて(それでも名《な》残《ごり》惜しげに手で触れたまま)こくこくと頷《うなず》いて、セルカは首の鈴に触れた。
真っ黒なボディのアシストロイドが空中から現れる。
黒い革のジャケット、アオイの「チバちゃん」同様のアイパッチに顔が半分かくれるほどのマフラー、耳が出るように切れ込みの入った大きなベレー帽を被《かぶ》ったそのアシストロイドは、仲間である「定《さだ》やん」を見つけると「すねいくとよびな」とプラカードを掲《かか》げた。
一方、大阪|丁稚《でっち》のパロディめいた外観のアシストロイドは「さだやんとおよびやす」とプラカードを掲げ、深々と頭を下げた。
「あれ? バージョンJK7か?」
アシストロイド同士なのにプラカードで会話をするのを見て、チャイカはこのアシストロイドが最新型だと気がついた。
「うん、この前届いたばかり。パッチは明日届くって」
ちょっとだけ嬉《うれ》しそうに言うと、セルカはすぐ真顔になり、
「『すねいく』、このへんの立体データを取って。壁のなかに配線もあるそうだからその位置も把握して。分差は二千分の一」
セルカの言葉に「りょうかいだ、ぼす」と答え、「すねいく」はどこからともなく8ミリカメラのような機械を取りだし腹《はら》這《ば》いになって周囲を写し始めた。
そのまま匍《ほ》匐《ふく》前進を始める。
不思議に思ったらしい「定やん」が「なにしてますのん」と尋《たず》ねると「すねいく」は「ろーあんぐるはおとこのかくどだ」と意味不明な答えだけを返し、再び匍匐前進を始めた。
「しかしあれだ、お前もベレー帽かぶせたのか」
同じく鈴を起動させて中から同じような機械を取り出し、周囲を撮影しながらチャイカ。
「うん…………だって……可愛《かわい》いから」
同じようにセルカも撮影を始めた。
「そうか。『定やん』も艦長の奴《やつ》も被ってるから、ウチの奴も最近帽子を欲しがっててナア。何がいいかね?」
「そうだなあ……シルクハット、ってのが良い感じにオシャレだと思うけど」
などとアシストロイドをよそに猫耳|母《おや》娘《こ》は暢《のん》気《き》な会話をしながら、「定やん」の案内であちこちを歩き回り始める。
☆
レジを終えてスーパーを出る。
大荷物をふたりと五体でわけて、エリスとアオイは家路についた。
すっかり周囲は日も落ちて、外灯や道路沿いにある店の明かりがまばゆい限りだ。
流れていくヘッドライトが小川のようでもある。
「…………」
「♪」
自動車のエンジン音などにかき消されるためもあって、二人はあまり会話をせずに歩き続けた。
路地を一本はいると、そこは住宅地だけあって、かなり静かな風景が続く。
前に沖《おき》縄《なわ》大学の校舎裏を見上げるようにしながら奥へと進む。
さらに小さな、車二台が何とかすれ違える程度の路地の行き止まりに、騎《き》央《お》と真《ま》奈《な》美《み》の家のシルエットが見えた。
ふと、アオイの前を歩いていたエリスが足を止める。
しばらくの沈黙。
猫耳少女の肩が、ゆっくりと上下した。
赤い髪の毛の上にある、猫の耳が、むずかるようにひこひこと動く。
背後からわずかに覗《のぞ》く人間の耳…………キャーティア言うところの副耳《サブイヤー》がほんのり赤く染まったように見えた。
「あの…………アオイさん」
「は、はいっ!」
両手でスーパーの袋を抱えるように歩いていたアオイは硬直したように立ち止まった。
「……大丈夫ですよ」
ぽつん、とエリスは言った。
「え?」
「心配しないでも、大丈夫ですよ」
エリスはアオイに背中を向けたまま、優しく呟《つぶや》くように言った。
「わたし、アオイさんのこと、騎央さんと同じぐらい、好きですから」
それだけ言うととたたたた、とキャーティアの少女は小走りに家路を急いだ。
「…………」
尻尾《しっぽ》を揺らしながら遠ざかる背中をぼんやりと見送りつつ、しばらく息を止めていたアオイだったが、ふと思い出して息を吐いた。
瞬間、たまらない安《あん》堵《ど》と、暖かい物が背中から自分を包んでくれるような気がして、視界が歪《ゆが》む。
「…………?」
気がつけば、アオイは泣いていた。
しばらくわけもわからず目を擦《こす》っていたアオイだったが、嬉《うれ》しくても涙が出ることを、彼女はようやく思い出した。
足元では事情が飲み込めない「チバちゃん」と「錦《きん》ちゃん」が「だいじょぶ?」「どこかいたい?」と心配顔でプラカードを振っている。
☆
「た、ただいまーっ!」
ガラガラと玄関の引き戸を開けて中に入ると、エリスはドタバタと台所に向かい荷物をソコにいた他の通常型に手渡し、廊下を小走りに駆け抜けた。
「あれ? エリス?」
「す、すみませんお手洗いー!」
とか何とか振り向きもせずに言いながらトイレに飛び込んだ。
「ふぁー」
便座のふたの上に腰を下ろし、大きく溜《ため》息《いき》をつく。
顔は真っ赤に染まっていた。
しばらく豊満な胸の上に掌《てのひら》を置いて猫耳少女は息をついていたが、
「これって……浮気になるんでしょうかね?」
ともっともな疑問を口にした。
「でも…………」
ぽつん、と呟《つぶや》いて天井を見上げ、うん、と頷《うなず》く。
「後悔は、しません!」
と声を上げたとたん、「なにをでっか?」と書かれたプラカードが顔の前に掲《かか》げられた。
「あれ?」
そこにはお仕着せの裾《すそ》をはしょって口《くち》許《もと》にはタオル、帽子を外して猫耳が見えるような姿になった「定《さだ》やん」が小首を傾《かし》げて立っている。
どうやらトイレ掃除の最中に入ってきたまま気づかなかったらしい、
「ど、どうしてこんな時聞に?」
と言うと「いや、おきゃくさんもきてはるので、おふろにはいるまえにねんのためそうじしとことおもいましてん」とかなり気の利《き》いた理由が提示された。
ばつの悪そうな顔になるエリスに、「なんぞわるかったでっか?」と丁稚《でっち》型アシストロイドは尋《たず》ねたが、さてどう説明したものか。
「あ、いや、あの…………さ、『定やん』、いいですか、いま私が言ったことは内緒ですよ? 誰《だれ》にも」
なんとかそれだけを思いついてエリスは「定やん」に口止めをした。
「だんさんにもでっか?」
「そ、そうです。騎《き》央《お》さんには私から言いますから……あとでお団子つくってあげますから…………ね?」
そう言ってエリスは手を合わせた。
第四章 準備はとても楽だった[#「第四章 準備はとても楽だった」は太字] [#小見出し]
☆
那《な》覇《は》港の片隅にある巨大な倉庫である。
今から一ヶ月前、謎《なぞ》の爆発を引き起こしたものの、その後はあっという間に再建され、今は静かなたたずまいを見せている。
一週間ほど前、巨大なトレーラーとクレーン車が何かを倉庫のなかに運び込んだが、それ以外はたいした騒動もなく、ごくごく普通の倉庫の一軒として存在中だ。
建物の中は無人だが、各種の警報装置、警戒システムが設置され、下手《へた》な侵入者なら生きて出られる可能性は少ない。
が、その日の朝はちょいと事情が違っていた。
まず、外部からリモコンで警報装置が解除された。
がらがらと出入り用の小さなシャッターが開く。
「おーし、あったあった♪」
まだ朝《あさ》靄《もや》の残る中、なぜかテンガロンハットにワークシャツにジーンズという出《い》で立ちのいちかは、背中に背負ったリュックからアメリカの鍛冶《かじ》屋が使うような無骨ななめし革のエプロンを取りだして身にまとった。
大きな作業用の使い捨て革手袋もはめる。
さらに、リュックサックから取りだした代《しろ》物《もの》は……巨大な電気のこぎりだった。
「さーて、ガンガン行こうかね、ガンガン」
ぬひひひ、と笑いながらいちかは、それまで首に下げていた防《ぼう》塵《じん》用の作業ゴーグルを顔にかけた。
「さーて、切るぞーぶった切るぞー!」
楽しそうに言いながら、いちかは壁のコンセントに延長された電気のこぎりのコードを繋《つな》ぎ、ジーンズのポケットから小さなカードリモコンを取りだしてシャッターを閉鎖し、倉庫のなかの照明を灯《とも》した。
彼女の前には、巨大な物体が横たわっている。
見る人が見れば、それが一ヶ月前、この倉庫が謎《なぞ》の爆発を起こした時にその場から飛び去っていった物と同一とわかるかもしれない。
あの騒動が終わってから、国内某所でシステムの点検、補修等々を行い、メンテナンスを終えた、それは「守礼皇五号《シュレイオーフアイブ》」の名を持つ巨大アシストロイドだった。
☆
「ほいほいー、並んどくれ、並んどくれー」
「すこし直立不動で…………はい、終わりです、次の方」
いちかが高笑いしているところから沖合に数十キロ。
アントニアの御《ご》座《ざ》船「アンドローラU」の一室を借りて、妙な身体検査が行われていた。
妙な、というには理由が二つある。
ひとつは、誰《だれ》も服を脱がない身体検査だということ。
もうひとつは、行っているのがキャーティア人ふたりということだ。
チャイカとその娘のセルカは、手に手に小さなラケットめいた機械を持って、並んだメイドたちの体を上から下へ、さっと撫《な》でるようにするばかりなのである。
ひとり頭五秒ほどもない。
だから、あっという間に艦内にいるすべてのメイドたちの身体検査は終了した。
とはいえ、検査する方からすれば気の遠くなるような回数、同じ動作をすることになるから、当然ヘバる。
「ふひー」
息をつきながら、ツインテールの房《ふさ》をゆらして、チャイカはようやく椅《い》子《す》に腰かけた。
「大丈夫、母さん」
言いながらセルカが後ろに回り、どう見ても妹にしか見えない母親の肩を揉《も》む。
「ああ、ありがとう」
目を閉じて、三角形の黄色い識別標を耳に装着したキャーティアの母は微笑《ほほえ》んだ。
「久しぶりだねえ。こういうの」
「…………そうだね」
人のいなくなった部屋で、ふたりはしばらく黙ったままの時間を過ごした。
「なあ、セルカ、お前本当にいいのかい? 地球じゃエリスだって苦労してるんだぜ?」
「でも……良い場所だよ」
「人間はそうとは限らねえぞ。騎《き》央《お》とかアントニアとかは例外中の例外だ。それに、『犬』だの『鳥』だのが後ろには控えてるんだ」
「心配?」
「あったり前ぇだ。オレはお前の母親だぞ。今時珍しく、自然|分《ぶん》娩《べん》で生んだんだ」
「その話は何度も聞いたよ」
おっとりした風《ふう》貌《ぼう》の少女の顔に微《び》苦《く》笑《しょう》が浮かぶ。
「…………ったく、親不孝な娘だぜ」
そう言いながらも、チャイカの顔は微笑んでいる。
「仕方がないよ、親が親だからね」
「どうせなら、父親の方に似てくれた方が良かったのによ」
「つがいの相手は父さんみたいなのを探すよ」
「ばぁか」
ひょい、とチャイカは立ち上がった。
「ほら座れ馬鹿娘。恐れ多くもお母様が肩を揉《も》んでやるよ」
「…………うん」
☆
ニルメアは、あまりにも外に出てこない自分の参《さん》謀《ぼう》を起こすためにドアをノックした。
「リュンヌー? どうしたの? ねえ、リュンヌー!」
反応はない。
「何かあったのかしら?」
しばらく考える。
すぐに結論は出た。
「開けるわよ」
そう言ってドアノブを捻《ひね》ると、ドアはあっさりと開いた。
カーテンを閉めているらしく、外はもう明るいのに部屋の中は真っ暗だ。
同時に、濃厚なアルコールの香りがニルメアの鼻を刺した。
「…………?」
リュンヌはアルコールに溺《おぼ》れるようなタイプではない。
「リュンヌ?」
念のため、ひとさし指に填《は》めた護身用の指輪型レーザーガンのスイッチを入れ、指を伸ばした…………不《ふ》審《しん》な侵入者があれば、それを指さすだけで焦点温度八〇〇〇度のパルスレーザーが相手を焼き尽くす。
ゆっくりと歩く。
少女の部屋は機械いじりの趣味を持っているとは思えないほど整然としていた。
寝室に入る。
アルコールの匂《にお》いは、ひときわ濃厚になった。
「?」
薄くついたルームライトに照らされているのは、子犬のように寝こけているリュンヌと、その伸ばされた手の下で潰《つぶ》されたらしいウィスキーチョコレートボンボンだ。
「やれやれ」
どうやら、彼女が起きてこなかったのはこれの食べ過ぎらしいと知って、ニルメアは安《あん》堵《ど》の溜《ため》息《いき》をつきながら指輪型レーザーガンに触れ、安全装置をかける。
この「犬」の少女は、彼女の種族にしては珍しく酒に弱い。
見るとウィスキーチョコレートボンボンは三箱もある。
「リュンヌ、起きて。ほら、もう朝よ。通常勤務の時間よ」
揺すると、少女は「くぅん…」と犬耳の外見を裏切らない声でのそのそと起きあがった。
「あれ? ニルメア?」
「いったいどうしたのよ?」
「えーとね、確か怖い夢を見て、こういうときにはお酒で忘れるモンダ、って地球のテレビでいってたけど、私はお酒が飲めないからウィスキーボンボンを買ってきて、最初は辛《つら》かったんだけど、だんだん気持ちよくなってきて…………」
ゆらゆらと頭をふりながら、少女はだらだらと説明を続けようとしたが、ニルメアは苦笑混じりにそれを制した。
「まったく、どんな怖い夢を見たの?」
「んーと、えーと」
しばらく半分眠った目と頭でリュンヌは考えていたが、
「んーと…………忘れちゃった[#「忘れちゃった」に傍点]」
と幸せそうに微笑《ほほえ》んだ。
☆
この基地のなかには一つしかない記憶解析機を元の保管庫に戻し、貸し出し管理記録を改ざんすると、犬側のアシストロイド「マットレイ」は最後の仕上げをしようと外に出た。
横《よこ》浜《はま》の米軍基地は今日も快晴である。
のてのてと四角いボディのアシストロイドは建物を出て、PXのそばにあるゴミ箱に持っていたビニール袋を棄《す》てた。
三箱弱分のウィスキーチョコレートボンボンが入ったゴミ袋はアメリカならではのブリキのゴミ箱に入れられたが、すぐに回収業者がそれを拾っていく。
「マットレイ」はそれを確認すると、トコトコと建物のなかに帰っていった。
歩きながら、手のなかにある小さな物を見る。
数時間前からつい三〇分前までのリュンヌの記憶と、彼女が偶然得てしまった情報を記録した、情報|素《そ》子《し》である。
それをマフラーと首の間に突っ込み、「マットレイ」は歩いていく。
そろそろ時間的にはニルメアがリュンヌを起こし、仕事場である事務所に引きずっていく頃《ころ》だから、アシストロイドもその場に行かねばならない。
☆
眠れないままに朝を迎えてしまった者もいる。
「…………」
横になりはしたものの、まんじりともせずにアオイは朝を迎えていた。
自分の家である。
あの時から、どうやって家に帰ってきたのか、はっきりとした記憶はない。
あれからチャイカの娘も加えた面《メン》子《ツ》で鍋《なべ》を囲み、ちょっと歓談して、あとは帰って来た…………ぐらいの記憶しかない。
ずっと雲の上を歩いているような、そんな気分だった。
それが、ずーっと終わらない。
疲労を感じないわけではないのに、妙に目が冴《さ》えてしまう。
それが異常だと理性は認識しているのに、どうしようもない。
しかも、妙に気分が高揚している。頬《ほお》が緩《ゆる》む。
部屋のなかに「チバちゃん」も「錦《きん》ちゃん」もいなければ、そのまま「みゃー」とか何とか言って転げ回るトコだ。
気がつけば周囲は明るくなり始めていた。
仕方がないのでノソノソ起きる。
主《あるじ》の活動再開に、部屋の片隅で目を閉じていた「チバちゃん」と「錦《きん》ちゃん」が「おはやござます」とプラカードを掲《かか》げた。
「…………ん、おはよう」
言いながら、アオイはフラフラと立ち上がって台所に立った。
冷蔵庫の中はこのところドタバタしていたので買い置きは卵とこの前買ってきた納《なっ》豆《とう》、漬け物ぐらい。
炊飯器を開ける。なかにあるご飯はおそらく二体のアシストロイドの分ぐらいしかないと見当をつけた。
(まあ、いいわ)
今朝はパンとコーヒーぐらいですませようと思う。
というよりは、食べなくてもいいじゃないか、と思うほど心が浮いていた。
パックの卵を取り出し、火にかけたフライパンに油を引いてしばらく待つ間、コーヒーサーバーにコーヒーの粉末と水をセットする。
そして卵を割ってスクランブルエッグ用にかき混ぜているうちに、アオイはふと気がついた。
「そうか……私」
ぽつん、とアオイは呟《つぶや》いた。
「人から好きだ、って言われたの、初めてなんだ」
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☆
「なーんかあったに違いないのよねえ」
まばゆく輝く白米のお茶《ちゃ》碗《わん》を受け取りながら真《ま》奈《な》美《み》は唸《うな》るように呟《つぶや》いた。
ここは真奈美の実家である。
食卓には彼女と母親、およびアシストロイドの「ゆんふぁ」がいるばかり。
いつもなら納《なっ》豆《とう》を楽しげにかき回している、ほぼ居《い》候《そうろう》同様のCIA工作員《エージェント》、ジャニス・アレクトス・カロティナス・カリナートことジャックは、珍しく東京へ報告のために移動している。
「あのアオイの様《よう》子《す》、エリスのそぶり……ぜーったい、変だわ」
「珍しく早起きしたと思ったらどうしたの?」
何やら考え込むような、不機嫌そうな、どっちでもあり、どっちでもないような我が娘の様子を見て、真奈美の母はすっかり慣れた顔である。
「それがねー」
と口にしかけて、少女は慌《あわ》てて己《おのれ》の口をつぐんだ。
「?」
「…………こればっかりは母さんにも言えないんだ、御《ご》免《めん》」
「アオイちゃんのこと?」
味《み》噌《そ》汁《しる》を椀《わん》に注いで「ゆんふぁ」の前に置きながら真奈美の母親は図星を突いた。
「……!」
「あんたね、少し立ち入りしすぎかもしれないわよ」
短く、娘を怒らせない程度に真奈美の母は少女に警告を与えた。
「な……」
「アオイちゃんは確かに守ってあげたいような可《か》憐《れん》な子だけどもネー。ほら、言うじゃない『親しき仲にも礼儀あり』って」
「…………」
ある意味、イタイ部分を突かれたという驚きと「何も知らないクセに」という憤《いきどお》りがない交《ま》ぜになって、真奈美はむすっとした顔になった。
「もう、別にいいサー、子供じゃないんだから!」
「はいはい」
娘のささやかな憤りをさらりとかわし、真奈美の母は真奈美の分の味噌汁を置いた。
一瞬、穏やかな笑みを浮かべた顔が真っすぐに真奈美を見る。
「同じこと、アオイちゃんに言わせないようにね」
「お母さん! あたしそれほど馬鹿じゃないってばー!」
どん、とテーブルを叩《たた》いて大声をあげる真奈美に、「ゆんふぁ」はびくっと反応したが、
「はいはいはいはい」
と真《ま》奈《な》美《み》の母親は首をすくめてさっさと台所から出て行った。
「母さん、ちょっと買い物行ってくるわね」
朝ご飯が終わったばかりにしてはちと苦しい言い訳だが、真奈美はそれにツッコミを入れる気にはなれなかった。
「…………」
あっさり貫《かん》禄《ろく》であしらわれた感のある真奈美だったが、やがて「いただきます」と手を合わせて朝食を取り始め、「ゆんふぁ」もホッとした顔で食事を始めた。
☆
食事の片づけも終わり、エリスと騎《き》央《お》は台所から応接間に戻ってきた。
「じゃあ、私が呼ぶまでしばらく自由行動です」
とエリスが言うと「らじゃ」とプラカードを掲《かか》げてアシストロイドの「1」が踵《きびす》を返し、ずらりと並んだアシストロイドたちに告げるように頭を動かす。
全員がざっと敬礼し、すぐ「ほにゃー」という感じでだらだらし始めた。
食事を終えたアウラが「にゃー」と鳴くと、「2」は「はいはい、わかりした」という感じでとててと近づき、アウラは彼(?)の頭に駆け上るとくるりと丸くなる。
そのまま「2」は日向《ひなた》ぼっこを始める。
「さて…………いよいよ明日かぁ」
騎央はソファーに座りながら大きくのびをした。彼の専用アシストロイド「定《さだ》やん」はすでに家のどこかに消えているが、いつものことなので気にはしていない。
「そうですねえ」
「ところでさ」
ふと、騎央が尋《たず》ねた。
「エリス、昨日、双《ふた》葉《ば》さんとなにかあったの?」
「え?」
「昨日の晩ご飯、ふたりともちょっとおかしかったし、今朝もほとんど寝てない、って顔だし」
「あ、いえ、あ、あの、そ、それはそのえーとつまりですね、あのそのこの」
慌《あわ》ててエリスは両手をわたわたと振って「大丈夫です、何もないです」というジェスチヤーをして見せたが、それはますますもって「何かありました」という証明に他《ほか》ならない。
「…………」
しばらく、何とも言えない微《び》苦《く》笑《しょう》でそれを見ていた騎央だったが、やがてエリス自身がそのことに気づいて「へにゃー」と耳もしっぽもくたっとなって俯《うつむ》くのを待って、
「…………話して」
とだけ言った。
「僕にとってはふたりとも、その、あー、えーと…………つまり…………だ、大事な人には違いないから、し、知っておきたいんだ。何か、あったの?」
沈黙があった。
エリス自身の理性が騎《き》央《お》に何が起こったのかを告げていいものかどうか迷っている、というよりも、彼女の羞《しゅう》恥《ち》心《しん》に深く関《かか》わることらしい。
騎《き》央《お》は、辛《しん》抱《ぼう》強く待った。
この半年の付き合いで、エリスがどういう人間であるかを知っているからである。
話すべきことは話すし、話してはいけないことなら必ずそう言う、と。
そしておそらく、今回は話してくれるのではないか、と考えていた。
(何があっても驚かないようにしなくちゃ)
それだけを頭のなかで何度も呟《つぶや》く。
(驚くな、驚くな………)
乏《とぼ》しい人生経験から最悪の状況というのを考える。
エリスとアオイが再び喧《けん》嘩《か》をした。エリスがアオイを嫌っている、あるいはその逆。さらに…………ひょっとしたらアオイが自分に愛想を尽かした、あるいはその逆…………
そして、両方ともが自分に愛《あい》想《そ》を尽かした。
ぞく。
さすがに最後の想像は少年の背中を冷たくした。
可能性がないわけではない。
何だかんだ言いながら、二人へのはっきりした答えを延《の》ばし延ばしにしているのは自分なのだから。
ちょっと昔に見た古いドラマの一部が頭のなかで再生される。
(どうしてもっと早く『愛してる』って言ってくれなかったの?)
今はめっきり母親役が多くなったその女優は、アイドル時代の顔で叫んでいた。
(遅すぎたわ、何もかも…………もう、私はあなたを愛せない!)
荒れた日本海をバックに絶《ぜっ》叫《きょう》する、今から二〇年前のアイドルの顔に、アオイと、エリスの顔が重なる。
さらに、キャーティアシップでエリスの両親が話したことが頭のなかでリフレインされる。
同性同士の結婚も生殖行為も可能なのだと。
さらに、キャーティアシップのなかで見た、抱き合うエリスとアオイ。
それこそ十字架を交換しあって疑《ぎ》似《じ》姉妹になるアニメの話から、今はベッドの奥深くに隠し「定《さだ》やん」にさえも触らせない一八歳未満は買っても見てもいけないことになっている「秘密の本」にあるような内容に至るまで、さまざまな「悪い予感」が頭のなかを駆けめぐる。
落ち着くための、冷静に行動するための行為のハズだったのに、いつの間にやら、騎《き》央《お》はすっかり混乱し始めていた。
(落ち着け、落ち着けったら!)
拳《こぶし》を握りしめ、軽く太《ふと》腿《もも》を叩《たた》く。
大きく息を吸った。そして吐く。
やがて、エリスは口を開いた。
「あの……わ、わたし、アオイさんに『好きだ』って言ったんです。騎央さんと同じぐらい好きだ、って」
「…………え?」
「ごめんなさいっ!」
エリスは頭を下げた。
「これってやっぱり地球では『浮気』っていうんですよね?」
「…………」
「それとも、えーと、フタマタ、っていうんでしょうか?」
「…………」
「と、とにかく、その、あの、えーと、そのあの、でも、アオイさんも騎央さんと同じぐらい大事ですし、このところすっごく仲良くさせてもらってるし、あの、えーと、そのつまりですね…………」
大汗を掻《か》きながら、エリスは必死に説明しようとしては堂々めぐりに陥っている。
一方の騎央の方はといえば。
こけ。
騎央は安《あん》堵《ど》のあまり惚《ほう》けてしまった。
「…………騎央さん?」
あまりにも騎央が無反応なので、エリスはしばらく黙っていたが、それでもおそるおそる声をかけた。
「あ…………そ、そういう…………そういうことか…………あは、あはははは」
笑い始めると停《と》まらなくなった。
「あははははははっ、あはっ、はははははははは」
安《あん》堵《ど》。
第三者の立場で見ればむしろ騎《き》央《お》の方が「フタマタ」だというのに、というおかしさ、エリスの律《りち》儀《ぎ》さが嬉《うれ》しかった。
「ははははははははっ!」
騎央は体を二つにおって笑い続けた。
「き、騎央さん、騎央さん!?」
一方、なぜ少年が笑い出したのかわからない猫耳少女は、どう対応していいのかわからず、おろおろと周囲を見回すばかりだ。
☆
「本当に、これでよろしいのですか?」
摩《ま》耶《や》は非常に複雑そうな顔で言った。
「うん、これがいちばんいいや……|セルカ《こいつ》はこいつで別にやってくれ」
喜《き》色《しょく》満《まん》面《めん》の笑みを浮かべ、チャイカは割り箸《ばし》を割った。
「母さん……」
隣りに座ったセルカも、ちょっととまどったような顔である。
無理もなかった。
せっかくココまで来てもらったのだし、せめてもの心づくしを、ということで、アントニアとの会食になったのだが、チャイカが「食べたい」とはっきり意思表示した品物は非常にシンプル…………というか、何というかな代《しろ》物《もの》であった。
漆《うるし》塗《ぬ》りの椀《わん》に山盛りの白米、そして削り立ての鰹《かつお》節《ぶし》に、ちょろりと醤《しょう》油《ゆ》。
横には豆《とう》腐《ふ》と油揚げの味《み》噌《そ》汁《しる》に、たくあんが三切れ。
世間で言うところの「猫まんま」。
豪《ごう》華《か》きわまりない、「アンドローラU」の来《らい》賓《ひん》用食堂にこれほど似つかわしくない食べ物も珍しい。
「いやあ、この前こっちに降りてきたときにいちかに食べさせられたんだけど、どうにも忘れられなくってねえ」
「はぁ」
摩耶は「いちか」という単語を聞いてなるほど、という顔になった。
「では、お嬢様、セルカ様も、どうぞ」
「う、うむ」
「では…………いただきます」
ちょっと出鼻をくじかれたような顔でアントニアが、そしてセルカが前菜のスープを食べるためにスプーンを持った。
「じゃ、オレも」
おそらく、いちかに習ったのであろうが、割り箸《ばし》を器用に親指と人さし指の間に挟《はさ》んで合《がっ》掌《しょう》し「いただきます」と断ってからツインテールのキャーティアは食事を始めた。
「へえ」
一口、かつおぶしのまぶされたご飯を口に運んで、チャイカは目を丸くした。
「凄《すご》いなあ。これ、いちかのところとはえらい違いだ。あれはあれでチープな味がそこはかとなく郷《きょう》愁《しゅう》を誘う感じだったけど、こいつぁ……まるで別の食い物だな。飯自体にも何かわずかな酸味と香りの立つものが入ってるし、醤《しょう》油《ゆ》も味が違う……あ、鰹《かつお》節《ぶし》のなかにも何か小魚が入ってるし!」
「…………お褒《ほ》めにあずかり、ありがたく」
摩《ま》耶《や》が頭を下げた。さすがアントニアのメイド長だけあるらしく、たかが猫まんまにも手を抜かなかったらしい。
「…………」
コーンポタージュのスープを飲もうとする手を止めて、アントニアはじーっとチャイカの嬉《うれ》しそうな笑顔と食事風景を眺めていた。
「あー、摩耶」
おそるおそる、己《おのれ》の腹心の機嫌を取るかのようにアントニアは口を開いたが、
「ダメです」
摩耶は前を向いたまま言《げん》下《か》に主《あるじ》の予想される言葉を拒絶した。
「むぅ」
そんな光景を見て、表情の硬かったセルカがくすりと笑った。
「あ、い、いやお恥ずかしい」
そのことに気づいてアントニアが恥じる。
「いえ、そんなことはないです。そういう顔ができる相手がいてくれるって、いいですよね」
にっこりとセルカはアントニアに微笑《ほほえ》みかけた。
「食事は、肩《かた》肘《ひじ》張ってはおいしくありませんから」
「そーそー。プライベートの食事は楽しいのが一番だって」
チャイカも同意する。
「母さん、ご飯粒」
そう言ってセルカがチャイカの口の横についている飯《めし》粒《つぶ》を取った。
「…………え?」
アントニアはおろか、摩耶の口までぽかんと開く。
ふたりが親子だということは、彼女たちにまだ知らされていなかった。
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☆
「え?」
唐突な騎《き》央《お》からの電話というだけでもアオイにとってはパニックだというのに、エリスと一《いっ》緒《しょ》に少年は、何を考えているのかアオイの家で昼食を、と言ってきた。
「あ、で、でもあの、ちょっと」
『いや、あのね、もちろんご飯とかおかずとかはこっちで持っていくよ。エリスが双《ふた》葉《ば》さんの家に行ったことがまだない、っていうから……うん、真《ま》奈《な》美《み》ちゃんも誘っていこうと思うんだけど』
「いや、あのでも」
ざつと自分の部屋を見てみる。
八畳の部屋は、この二日ほど掃き掃除すらしていない。
『部屋の都合が悪ければ近くの公園で食べようよ。じゃあ、一時間後に家をでるから…………えーと、そっちに着くのは二時半ぐらいかな? それじゃ』
ぶつ、と電話が切れた。
「…………」
しばし、アオイは呆《ぼう》然《ぜん》と受話器を見つめる。
数分後、ようやく元特殊工作員の少女は我に返った。
「ど、どうしよう…………」
生まれて初めて、とまどいの心がモロに声に出た。
ちょいちょい、とジーンズに包まれたその長い脚《あし》がつつかれる。
「?」
ふと視線を落とすと、そこにはタオルを姉《あね》さんかぶりにし、両手に箒《ほうき》とはたき、あるいはバケツと雑《ぞう》巾《きん》を持った「チバちゃん」と「錦《きん》ちゃん」が立っていた。
二体のサムライ型アシストロイドは「でわやりませう」「まだまにあいまする」とプラカードを掲《かか》げ、アオイはようやく思い直した。
あと一時間ある。
☆
「騎央さん、ちょっと強引すぎるんじゃ」
電話を切った騎央に、エリスが心配そうに言う。
何しろ友好の電波を送って数年待った挙《あ》げ句《く》、そっと様《よう》子《す》を見に来るようなキャーティアであるから、当然、最初から「押しかける」という行為に対して抵抗感がある。
「うん、そう思う……でも、こういう状態は早めにケリをつけておかないと」
騎央はにっこりとエリスに微笑《ほほえ》んだ。
少年にだって罪悪感はあるのだが、この際無視することにした。
「それに、場所を移しての食事は悪くないと思うんだ」
この半年で「一《いっ》緒《しょ》にご飯を食べる」ことの有効性というのを、騎《き》央《お》は身をもって体験したし、また見もした。
エリスは思い切ってすべてを騎央に話したので、いつもの彼女に戻ったが、咋夜の状況を考えると、アオイは未《いま》だに混乱しているに違いない。
会って話をしても混乱が収まるとは限らないが、何もしないよりはマシだろう。
が騎央にひとりで彼女を呼び出す度胸は、まだない。
だからこその苦肉の策ではあったのだが。
「さて、どうしようかな、お弁当……近くのほか弁に頼もうか?」
と言うと、いつの間にか応接間に入ってきた「定《さだ》やん」が「そろそろすーぱーのほうがさんじゅっぱーせんとびきでっせ」とプラカードを掲《かか》げた。
☆
倉庫に、あたらしい客がまた一人増えた。
痩《や》せぎすの影は、手にしたトランクを置き、被《かぶ》っていたソフト帽を脱いで、物体を見上げながら言った。
「おぅ、ずいぶんとバラしたもんだな」
数時間前まで一つの塊《かたまり》だった巨大な物体は、今は三つほどにわかれている。
「まーね」
シャッターをカードリモコンで再び閉めながらいちかが答える。
影…………地球に帰化した「犬」のひとりである「大尉」は、不敵な笑みを浮かべた。
「で、どうするんだ」
東京から那《な》覇《は》空港についたその足でここへ来ているというのに、痩せぎすの男はいっさいの挨《あい》拶《さつ》を省《はぶ》いていた。
「んーとね、これ」
コンビニのおにぎりを片手に、もう片方にはお茶のペットボトルを持って、いちかは地面に広げた青写真を顎《あご》でしゃくってみせる。
「なんだ、内蔵式じゃなくてオプション方式か。合体するときにパーツが余るぞ」
「いーのよ。ほら、なかにバリュート仕込んであるでしょ? あとで回収して再利用すんの」
「非効率的だな。いっそ船に乗せて投《とう》棄《き》、海のなかで合体、の方が良くないか?」
「作戦のリズムの問題よ。今回は緊急発進《スクランブル》どころか、戦時離陸《バトルアウェイ》の可能性もあるんだから、のんびり海中合体はできないのよね」
「最悪の予想値は?」
「エンジン入れて一分以内に上空。一分一〇秒で○・五(マッハ)ってところかしら」
「パイロットが死ぬぞ」
軽い笑みを含めて「大尉」が言うが、いちかは軽く片|眉《まゆ》をあげた。
「その程度でどーにかなるような人間は集めない、ってさ」
「なるほど」
言って、「大尉」はコートのポケットから小さな鑑《かん》札《さつ》を取りだし、倉庫の片隅に向けた。
指で触れると、淡い光が鑑札の薄い側面から地面に照射され、その光の円のなかからすっと、ドラム缶数本分の大きさをした金属の筒が現れる。
さらに鑑札を握ったまま、表面に指を走らせると、光は消え、金属の筒の表面に複雑な紋様が走り、さらに、そのいくつかが扉の形に筒の表面に刻まれた。
ゆっくりと、金属筒の表面が開く。
中は幾《いく》つかの棚に仕切られており……そのなかには、数百|対《つい》の輝く目が存在していた。
「出てこい、仕事だぞ」
言われて、わらわらと全高一五センチほどの小さな影が出てくる。
それは、手に手にスパナ型の万能工作機を持った犬型のアシストロイドだった。
小さい分だけキュートさも倍増、というところか。
「よし、集まれ。そしてこの図面に注目」
「大尉」の言葉に、四角いラインで構成され、通常の物と違い、ピンと立った三角の耳を持つそのアシストロイドたちはわたわたと地面に置かれた青写真の回りに集まった。
「これを作る、良いな」
小さな頭がいっせいに頷《うなず》いた。
「ほい、細《こま》かい仕様書」
いちかが小さなヒューズを思わせる記憶|素《そ》子《し》を手渡すと、「大尉」はそれを鑑札に接続した。
きゅい、と小さな音が鑑札型のコミュニケートマシンから起こり、すべての作業用アシストロイドに中のデータが送り込まれたことを示す。
「仕様書は以下の通りだ、無事にダウンロードが完了したら作業にかかれ」
☆
最後のバケツの水が風《ふ》呂《ろ》場《ば》の排水口に流れ込んでいく。
「ふう……」
アオイは汗を拭《ぬぐ》いながら、「チバちゃん」と「錦《きん》ちゃん」のタオルを外し、洗濯機のなかに放《ほう》り込んだ。
もともと、テレビ関係とDVDのパッケージ以外はほとんどナニもない部屋である。
窓を開け放ったまま数分もすれば……と思っているうちに、今度は何の調度品もないことがひどく「まずいこと」のような気がしてきた。
ポスターとか、写真立てとか、そういうものが一つぐらいあったほうが、いや、むしろ花《か》瓶《びん》と花ではないか。
女性らしい部屋、としての唯一のサンプルである真《ま》奈《な》美《み》の部屋を、目を閉じて必死に思い出す。
淡いピンクとか、赤とかが印象的に使われていて……そう言えば布でできた装飾品とか、クッションとかが多かったような気がする。
壁紙はやっぱり花のイメージで。
目を開ける。
「…………」
今からで間に合うだろうか、と時計を見ると、時間がちょうどを差していた。
ぴんぽん♪
「こんにちはー♪」
珍しい、というかアオイの家に初めての「客」が来た。
大《おお》慌《あわ》てでドアを開ける。
顔の真ん前に騎《き》央《お》が立っていた。
にっこり笑ってる。
その隣りにはエリス。
「え、あ…………あ、あの、そ、その」
数秒間、脳の中が空白になり、ようやくアオイはこの場合の言葉を思い出した。
「よ、ようこそいらっしゃいましたっ!」
そしてそのまま前転しそうな勢いで頭を下げる。
その足元でアシストロイド二体もぺこんと頭を下げ「ようこそいらしやいしすた」とプラカードを掲《かか》げる。
「あ、あの、えーと……上がっても、いい?」
騎央が尋《たず》ねると、アオイは再びしどろもどろになりながらも、何とか「ち、ちらかってますけれども」と言うことができた。
「お邪魔しますー」
エリスと、通常型アシストロイドの「1」がトコトコと家に上がり、騎央と「定《さだ》やん」が後に続く。
ようやく、その時にアオイの鼻をまだ暖かい弁当の香りが撫《な》でていった。
「うわー、スゴイですねえ」
部屋の四方をほぼ囲むようなDVDラックに、エリスは驚きの声を上げる。
「双《ふた》葉《ば》さんは映画好きだからね」
「あ、そうでしたよね。いいなあ。映画は好きですけれども、ゆっくり見ている暇があまりなくて」
「いや、あの、そんなたいしたもんじゃないから……」
真っ赤になりながらも、アオイも後に続いた。
三人は部屋の真ん中にある小さな食卓を囲むように座った。
「えーと、コーヒー、あったかいのがいいですか? 冷たいの?」
弁当とは別の、コンビニのビニール袋をがさごそとあさりながらエリス。
「え? あ、あ、じゃ、じゃぁ、暖かいのを」
「はいはい♪」
エリスは楽しそうに太い缶コーヒーを手渡した。
「…………」
プルタブを引っ張る。
無糖のコーヒー独特の甘い香りが幾《いく》分《ぶん》かアオイの神経をなだめてくれた。
「じゃあ、私もミルクたっぷりのコーヒーを♪ 騎《き》央《お》さんはどうしますか?」
こちらはカフェ・ラテだが、細《こま》かいことはエリスにはわからないらしい。
「僕はお茶がいいな」
「はい♪」
「……ところで、双《ふた》葉《ば》さんは唐揚げ弁当でよかったんだっけ? それとも芥《から》子《し》明太子か、ハンバーグ弁当にする?」
騎央は弁当を取り出しながら訊《き》いた。
「あ、あの、えーと……唐揚げで、いいです」
「えーと、チビちゃんたちは、これでいいのかな?」
と、騎央は焼き鮭《ざけ》弁当を三つ取りだした。
騎央とアオイのアシストロイド三体は万《ばん》歳《ざい》してこれを受け取る。
その横で、食事の機能がない通常型が「いいなー」という表情で指をくわえるような仕草をした。
「ごめんな」
騎央はそう言って「1」の頭を撫《な》でた。通常型は「だいじょぶでし」とプラカードを掲《かか》げてそれに答えてくれる。
エリスはにこにこ笑ってそれを見つめている。
アオイはそんなふたりが少し羨《うらや》ましかった。
何も言わないでも通じている、そんな感じである。
「はい、これ、双葉さんの分」
「あ…………あ、ありがと……う」
受け取る手が震えそうになる。
妙な罪悪感があった。
昨日、騎央以外の人間(となりにいるエリスだが)に「好きですよ」と言われて凄《すご》く嬉《うれ》しくて、眠れなかったという事実が、ひどく騎央に対してすまないことをしてしまったような気がしてならない。
悩みながらも元非合法工作員の悲しさ、こういうときでも「周囲に目立たないように」と手は勝手に動いて、弁当の包装をほどき、割り箸《ばし》を手に取る。
「じゃ、いただきます」
「いただきまーす♪」
「…………ます」
もふもふと言葉もなく食べる。
「この小松菜、って美味《おい》しいですけれど、どうしてちょこっとしか入ってないんでしょう?」
ふとエリスが箸で付け合わせの小松菜をつまみながら訊《き》いた。
「あんまり食べると胃に穴が空く、って訊いたことあるけど」
騎《き》央《お》が答える。
「じゃあ、胃酸を活発に出すような成分が入ってるんですかね? アオイさんはどう思います?」
「単純に……その、箸休めだから、じゃない……かしら? 味も濃いし、そのままひと皿とか食べられそうにはないような……?」
「あ、なるほど」
そんなきっかけから、ぽつぽつと会話が始まった。
いつもなら、この顔合わせに真《ま》奈《な》美《み》がいるはずなのだが、彼女がいないせいか、盛り上
げる人のいない、淡々とした食事の会話になる。
だが、それはそれで、不思議に心地よい物に思えた。
のべつ幕なしに誰《だれ》かの会話があるのではなく、必要なときだけ、すぐに会話が自然消滅してもいいような。
竹林のなかを流れる小川のほとりに佇《たたず》むような、そんな気がした。
昔の入国管理局の工作員だった頃《ころ》には考えられない話だが、どうやら、この世界には「楽しい」の形はひとつとは限らないらしい。
これまでの彼女が知る「楽しい」の形態は静かに、互いに黙ったまま騎《き》央《お》と二人っきりになることだけだったのに、今では賑《にぎ》やかに大勢で食事をしたり、青空の下みんなで遊んだりする「楽しい」がこの世にはあって、それを自分が味わって良いのだと知っている。
それが、とても嬉《うれ》しい。
これが幸せ、という物なのかもしれなかった。
食事が終わると、空になった器《うつわ》を元のビニール袋に入れ、最後にエリスがお茶のペットボトルを出した。
「やっぱり|〆《しめ》はお茶ですよね♪」
といって、持ってきた紙コップにお茶を注ぎ、アシストロイド三体にも配る。
ひと口飲んで、アオイはほのかな香りを楽しんだ。
こんなにペットボトルのお茶が美味《おい》しいと思ったことはなかった。
柔らかな冬の日差しが差し込んできて、穏やかな沈黙が部屋のなかを満たす。
そのうち、「チバちゃん」と「錦《きん》ちゃん」が「定《さだ》やん」と「1」を案内するように部屋のなかをトコトコ歩き回り、まるで四体のアシストロイドは遊びに来た友達同士のように頷《うなず》いたり説明しているかのような仕草を始めた。
それを三人は眺めたりしながら、ぽつぽつと会話が生まれ、消え、また生まれる。
☆
「アンドローラU」における最も小さな応接間で、その契約は成された。
最後に印鑑が押され、ウェブでの入金が確認された。
「では、これで」
と今までにない金額を扱った興奮に顔を赤らめながら、大手不動産屋の社員はしっかりと抱きしめるように契約書をブリーフケースに収め、そのまま抱きかかえた。
彼はホンの二時間前、同僚の誰もが「冗談だろ」と取り合わなかった電話を直感で受けた自分の幸運に感謝した。
彼にとって、この二時間は驚《きょう》天《てん》動《どう》地《ち》の時間であった。
一時間半前にはやってきたヘリコプターに唖《あ》然《ぜん》とし、一時間前には着陸した豪華客船(一般人にはここまで巨大な個人用クルーザーと客船の区別はつかない)の内装の凄《すご》さと、ニュースでしか見たことのない「メイド」という存在にも驚いた。
だが、今はこのブリーフケースのなかに入っている契約書だ。
これだけ巨額の取引をあっというまに成功させてしまったという幸運と、そこから導《みちび》き出されるもろもろの賞与が頭のなかをよぎる。
「では、例の件も即座にお願い致します。できれば夕刻までに連絡を」
摩《ま》耶《や》は微笑《ほほえ》みとも無表情とも取れる微妙な表情で釘《くぎ》を刺した。
「しょ、承知しました」
へこへこと何度も頭を下げながら、社員は摩耶の部下であるメイドの一人にエスコートされてヘリデッキへと向かった。
高い天井に革靴の足音が遠ざかっていく。
ドアが閉じると、アントニアは大きな溜《ため》息《いき》をついてソファーに脚《あし》を投げ出した。
「やれやれじゃ。摩耶、どうせ私はお飾りなのじゃから、こういうときぐらいは立ち会わぬでもよかろうに」
「決まりごとです、お嬢様」
「わかったわかった…………あーあ、チャイカ殿とセルカ殿ともう少し遊びたかったぞ」
「あの方たちもお仕事ですから」
そんな会話を続ける主従の前にあるテーブルには、およそ嘉《か》手《で》納《な》基地のど真ん中四キロ四方の軍用地の権利書が積まれている。
「まあ、とりあえずこれで第一段階は終了、あとは明日の最終作業じゃな」
☆
そうこうしていると、アントニアのところから帰ってきたチャイカたちから、騎《き》央《お》の携帯に電話が入ってきた。
「はいはい、今日はじゃあそのまま『やきにく』だからね、はいはい」
電話の向こうでは、相当な騒ぎになっているらしい声が、アオイのところまで響いてきた。
騎央も思わず携帯電話を耳から離して苦笑する。
「大祖母ちゃんが来たんだってさ……何か『やきにく』置いてったみたい」
「え?」
エリスの目も輝き、尻尾《しっぽ》がぴんと伸びる。
それを見て、アオイと騎央は顔を見合わせて笑った。
「…………あ、いや、あの」
エリスも自分の現金さに気づいて赤くなる。
やがて三人とも笑った。
「じゃあ、そんなわけだから、そろそろ帰るね……後でウチにくる?」
「今日は…………やめておく……わ」
アオイは首を振った。
「そうか……じゃあ、また明日」
「アオイさん、また明日会いましょうね!」
そういうわけでふたりとその連れのアシストロイド二体は双《ふた》葉《ば》アオイ宅を辞した。
エリスと「定《さだ》やん」が出て行った後、不意に騎《き》央《お》が足を止める。
「あ、あのね、双葉さん」
ふと、騎央がアオイに話しかけた。
「…………!」
思わず緊張するアオイに、
「エリスと仲良くしてくれて……ありがとう」
「え、あ、あの……あ、あ、え、えとあの」
へどもどしていると、騎央は真っすぐにアオイを見つめた。
「僕…………凄《すご》く、嬉《うれ》しい」
言葉以上の意味のある声と、表情で騎央は言った。
「あ…………」
「その、あの…………ふ、ふたりとも大事な人…………だから」
それだけようやく口から言葉にすると、騎央はギクシャクと回れ右をしてアオイの部屋を後にした。
「…………」
アオイは、閉まったドアの向こうをいつまでも見つめていた。
いつまでも。
☆
「どうしたの?」
「奴《やつ》らの狙《ねら》い、わかったみたい」
情報収集による理解率が八割を越えた、という表示が出ていた。
「どれどれ?」
言ってリュンヌがニルメアに代わってフローチャートを操作する。
理論と情報に裏打ちされた枝葉が伸び、展開し、また違う物に接続し、変質し、また枝葉を伸ばしていく。
やがて、枝葉の伸びが終了した。
演算が始まり、数秒後に「確定」の答えが出る。
「…………」
その答えはリュンヌの首を捻《ひね》らせた。
「へえ…………」
フローチャートシステムの展開を見ながら、ニルメアは目を細くした。
そこにある表示を書類風に文章に直せば、次のようになる。
軌道エレベーターの移動→それによるこちら側の構成人員の動揺→こちら側からの妨害→その阻止→勝利状態を見せつけることによる周辺の動揺→…………
「相変わらず派手なことが好きな猫どもだこと」
「どういう意味があるの?」
その後ろからフローチャートシステムを覗《のぞ》き込み、ニルメアは苦《にが》笑《わら》いした。
「インパクト、よ」
「インパクト?」
「世界はあのエレベーターのお陰で揺らいでるわ。今さらにひと揺らしすれば、また状況が動く。そうやってほころびを作っていくつもりなのよ」
にやりと天使の外見を持つ少女は不敵な笑みを浮かべた。
「いいわ、乗ってあげましょう……ちょうどこっちも暇をもてあましていたところだしね」
少し顎《あご》を引いて、ニルメアはフローチャートの向こう側にいる、『猫』の外交官と、その現地協力者たちの顔を思い浮かべていた。
「どんな顔になるか、最後の最後が楽しみよ」
第五章 当日いろいろ大変だった[#「第五章 当日いろいろ大変だった」は太字] [#小見出し]
☆
その日の夜明け前に、那《な》覇《は》港のある倉庫から三台のトレーラーが姿を現した。
トレーラーはそれぞれ昨晩遅く倉庫のなかに入ってきたもので、運転手が珍しい格好をした若い女性、車が新品で三〇トン積みという以外は特に目立たないモノである。
三台はすぐ国道五八号線に乗ったが、ここで一台が南へと方向を変えた。
二台はそのまま北上を始める。
さらに一台が、沖《おき》縄《なわ》本島の北端まで続く高速道路に乗った。
一台はそのまま走り続ける。
そのどの運転席にも、メイド姿の美女たちがいた。
[#改ページ]
☆
「へいほん」がとことこと歩いていく。
洋上は穏やかで、朝日がうっすらと差す「アンドローラU」の廊下を、カンフー型アシストロイドは後ろ手に悠然と歩いていく。
敷き詰められた絨《じゅう》毯《たん》のお陰で足音ひとつしない。
途中、サラに貸し出しされている通常型アシストロイドの「22」と行き交《か》う。
二体は互いに手を挙げて挨《あい》拶《さつ》した。
執事の格好をしたアシストロイドはそのまま通り過ぎる。
いっぽう、「へいほん」自身はその場に止《とど》まった。しばらく周囲を見回し、天井に仕掛けられた監視カメラの動きを確認して、瞬時にその死角に回り込む。
ぴこん、とその頭頂部からゆるやかな二等辺三角形のパーツが立ち上がった。
この「へいほん」には一見するとアシストロイドの特徴である「ネコ耳」がないように見えるが、実は頭部パーツと一体化して伏せられた状態になっていて、格闘の邪魔にならないように考慮されているのだ。
半径数十メートル以内にひとの気配がないのを確認すると、巧妙に壁の一部に擬《ぎ》装《そう》されたアシストロイド専用の通路の入り口に飛び込むと、そのまま広大な船内を移動していく。
以前の戦闘で「必要」と判断されて作られたものの、なかなか使う機会もなく、たまにサラのアシストロイドと「へいほん」が掃除する程度の小さな通路を、今日は用事を抱えてカンフーマスター型アシストロイドは急ぐ。
梯《はし》子《ご》を登り、あるいは滑り降り、時折迷ったりもしながら(デフォルト機能)、「へいほん」は目的地…………第三|厨《ちゅう》房《ぼう》に現れた。
「アンドローラU」では唯一、扉のサイドにある挺子《レバー》で開くようになっている冷蔵庫の前にやってくると、「へいほん」は二回ほどジャンプし、三回目でレバーに取りついた。
そのまま上手《うま》く反動を使ってレバーを動かすと、扉が開く。
素早く手近な椅《い》子《す》を持ってきて蝶《ちょう》番《つがい》のある側に置いて閉じないようにし、さらに別の椅子を持ってきて上に登る。
そこには、山ほどのチョコレートが冷やされていた。
冷蔵室は棚を増やしてあり、二〇ほどはある。
それらすべてが型枠に入れられたチョコレートであった。
大小、形はさまざま、それがびっしりと詰め込まれている。
大きさはさまざまながら、そのすべてがある一人の女性の手になる物であった。
が、たったふたつだけ、このなかにそうではないチョコレートがある。
しばらく小首をかしげて、まるで戦争中の弾薬倉庫を思わせる光景を眺めていた「へいほん」だが、やがて、主《あるじ》から言われた「目印」を見つけた。
「A」と書かれたポストイットを貼《は》られた型箱がある。
それを「よっこいせ」と取り出すと、「へいほん」は懐《ふところ》から風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みを取り出し、チョコレートの型をふたつそのなかに包むと背負い込んだ。
どこからともなく取りだした棒の先にくくりつけるように風呂敷の結び目を作ると、椅《い》子《す》を元に戻し、危うく閉じる扉に巻き込まれそうになりながらも無事に冷蔵庫を閉じることができた。
額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》うような仕草をしたあと、「へいほん」は元来た道を戻るべく壁の隠し扉をくぐつた。
数分後、小さな影がアントニア・リリモニ・ノフェンデラス・パパノーガス・アレクロテレス.クノーシス・モルフェノスのベッドの下からちょこんと顔を出した。
「おお、もどったか。えらいぞ」
ベッドの上で、今日の世界ニュースをノートパソコンを使ってウェブで確認していたアントニアが「へいほん」のご帰還に液晶モニターから目をあげて微笑《ほほえ》む。
風呂敷を広げると、きちんと枠に入ったチョコレートがある。
それを、起動中の時限爆弾を扱うような手つきで、アントニアは整然と片づけられた自分の大きな文《ふ》机《づくえ》の上に置いた。
この日のためにこっそりと入手した包装紙と、専用の箱を引き出しから取り出し、チョコレートの枠を慎重に外す。
かこ、と外れはしたが、チョコレートは二つとも割れていなかった。
「でかしたぞ!『へいほん』」
背後で「だいじょうぶかな?」という顔で覗《のぞ》き込んでいた弁《べん》髪《ぱつ》をイメージした頭部を持つアシストロイドはほっと胸を撫《な》で降ろした。
「よしよし♪」
少女は素早いが適切な動作でチョコレートふたつを箱に詰め、包装してリボンをかけると、枕元《まくらもと》からメッセージカードを取りだしてリボンのなかに差し込んだ。
「よし!」
そしてそれを、中身をくり抜いた辞書のなかに納め、さらにその辞書をカバンに収める。
☆
「…………」
こちらは打ってかわって小さな台所で、さらに小さな息をついて同じような作業を終えたのは、双《ふた》葉《ば》アオイである。
だが、アントニアと違って二個あるうちの一個に関しては未《いま》だに少し迷いがある。
だが、少女はかぶりを振ってカバンの留め金をかけた。
振り向くと、「チバちゃん」と「錦《きん》ちゃん」の二体が両手を差し出している。
「…………」
くすりと微笑《ほほえ》むと、アオイは別に用意してあったチョコレートの包みを二体のアシストロイドの掌《てのひら》の上に乗せた。
とたんに二体は文字通り小《こ》躍《おど》りしながらアオイの周囲を回り始める。
「もう、現金なんだから」
くすっとアオイは微笑み、その瞬間に迷いが消えたことに気づいた。
☆
「おはよう、エリス」
いつものようにアシストロイドに起こされた騎《き》央《お》が降りてくると、珍しくもうエリスは起きていて、「はい」と小さな箱を差し出した。
「?」
半分眠った頭で受け取る。
「これ…………?」
「今日は、バレンタインデーなんでしょう? なんでも好きな人にチョコレートをあげる日だとか」
とたんに脳の中身がしゃきっとして騎央は背筋を伸ばした。
生まれて一六年、今まで一度だって縁のなかったモノが今、自分の手のなかにあるのだ。
義理じゃない、母親や従姉妹《いとこ》からのじゃない、本物のバレンタインチョコレート。
「あ、あいや、あ、あ、その」
「チョコレートは、これまで食べたことはありましたけれど料理に使うのは初めてで…………上手《うま》くいったかどうかはわかりませんけれども」
「あ、あ、あ……」
何度も口をぱくぱく開けては閉じを繰《く》り返し、騎央は手のなかにある薄い箱とエリスの顔を交互に見やった。
確かに、猫耳|尻尾《しっぽ》付きの宇宙人とはいえ、自分に好意を持ってくれている女の子と一つ屋根の下にいるというこのシチュエーションを考えれば、これは当然の話ではあるのだが、これまでの一六年の記憶が、少年にこの日のあることを完全に忘れさせていた。
「ああ、ああ、あ、あ、あ、あり、あり、あり、ありが、ありがと、う、ございます」
ペコリ、でもぺこん、でもなく、あえて言えば「けくてかたか」という変な擬《ぎ》音《おん》が入りそうな動きで騎央は頭を下げた。
「えーと、あの…………いえ、その、どういたしまして」
ひょこん、とエリスも頭を下げる。
騎《き》央《お》の後を追うようにして階段を降りてきた「定《さだ》やん」がワケもわからず「?」と首を傾《かし》げていた。
☆
「どうやら、敵は運搬にはクレーン以外のものを使うつもりみたいね」
港の周囲に張りめぐらせたあらゆる情報網からの報告に、ニルメアは不敵な笑みを浮かべながらコーヒーを啜《すす》った。
「意外と頭が悪いというか、なんというか」
「……普通に宇宙にいったん持ち上げてから移動させればいいのに」
リュンヌがスコーンを囓《かじ》りながら言う。
「第一、軌道エレベーターの引っ越しなんて、聞いたことないわ」
「まああくまでも半分は地球の側《がわ》に託してある、という体裁を取りたいんでしょ。あと技術のデモンストレーションとかね」
「モルフェノスの持ち株の価格上昇のために?」
「まさか、その程度で上下するような資産だったらとっくに前任者が潰《つぶ》してるわよ」
といったところでニルメアははっと口をつぐんだ。
前任者、といえばそれはリュンヌの姉で、転任先でトラブルに巻き込まれ現在|M I A《作戦中行方不明》扱いになっているジェンスのことで、そういう表現をすると、決まってリュンヌは哀《かな》しげな顔になり、しばらく会話が成り立たなくなる。
その状態はせいぜい一時間ぐらいだが、素早い対応を必要とする今日は避けたいと思っていたのに……と自分の迂《う》闊《かつ》さに舌打ちしていると、妙なことに気がついた。
「そうね。それだったら楽なのに」
とリュンヌはまるでそのことに気づかなかったかのように、フローチャートのプログラムを調整していく。
どうやら「仕事」で脳が一杯で、このことに気づかなかったのだとニルメアは安《あん》堵《ど》する。
「さて、こちらも電子戦の用意をしないとね」
リュンヌが気づく前に会話を流してしまおうと、ニルメアはわざとらしく手を叩《たた》きながら別のシステムを立ち上げた。
☆
そんなわけで、登校時間なのだが、玄関付近の風景はいつもと違って妙に高揚したというか、緊張感漂う、あるいは静かな諦《てい》念《ねん》もぽつぽつかいま見られる物となっていた。
騎央の学校の下駄箱は蓋《ふた》がないタイプだから、そこに何かあることはまずない。
たいていが教室、自分の机だ。
もっとも、玄関に待ち受けて渡す、という光景がないわけではない。
ただ、堂々と渡すような度胸の女生徒も、それを受け取るほどの男生徒もいないから、いかに周囲の注目を浴びずに渡すか、ということに女子は勢いしのぎを削ることになる。
だから、下駄箱から追尾して、ちょっとした渡り廊下への曲がり角、階段の踊り場など、ちょっと微妙に他者と標的(といっていいものかどうかわからないが他に表現のしようがないのでこう書く)の距離が空いたところを見計らって、なるべく短時間で、しかしありったけの思いを込めて手渡すのだ。
「……みんな、いろいろなんだなあ」
下駄箱に靴を納めながら、騎《き》央《お》は周囲の状況を見回してぽつりと呟《つぶや》いた。
生まれてこの方、全然関係のない人生だったせいか、視界に入らなかった(あるいは無意識に入れなかった)光景とその事情というやつが、今はビシバシと目に入ってくる。
さりげなく立ち止まった風を装《よそお》いながらもう五分もそのままの女子、いつも通りに下駄箱に靴を預けるふりをしながら周囲に思わず視線を走らせる男子。
その横をすり抜けながら、どうやら彼が教室にたどり着くまでの時間を計算しているとおぼしい女子。
久々に会った嬉《うれ》しさにお喋《しゃべ》りが弾んでいると見えながらも、実は腹の探り合いをしている女子たち。
さらに、その間を去年までの自分同様、「みんな幸せでイイネエ」と達《たっ》観《かん》した顔で横切っていく男子たち。
「うらやましいねえ、今年は二個以上確実だもんな、お前」
振り向くとクラスメイトの普《ふ》久《く》原《はら》聡《さとし》が微《び》苦《く》笑《しょう》を浮かべながら立っていた。
「二個以上?」
「またまた、おとぼけをー」
普久原は高校生とも思えない達観した表情を、ますます深めながら笑った。
「エリスちゃんだろ、双《ふた》葉《ば》のアオイ女史だろ、あとは適当にクラスの女子」
「なんだよ、その適当にクラスの女子、ってのは」
「女の子ってのは有名人に弱いからねえ。今年はそっからのチョコも期待できるだろ?」
「……騎央さん、案外モテるんですね」
エリスがきょとんとした顔で言った。
「まあ、バレンタインのチョコってのは世間的には『洒落《しゃれ》の一種』ってことで同意が取れてるイベント商品だからね。特に騎央の場合は『義理』が増えるんじゃねえの?」
「なんか複雑ですね」
「まあ、日本だけだよ、こんなにチョコレートが飛び交《か》うのは……俺には関係ないけどさ」
と寂しげに肩をそびやかし、普久原は「じゃ、お先に」と教室へ向かってしまう。
ちょいちょい、と騎央の足元がつつかれた。
「?」
視線を下げると、今日はそのまま「現場」に向かうために連れてきた「定《さだ》やん」が片手を口《くち》許《もと》に当てて「くふふ」と体を震わせながら「だんさん、もてもてでんな」とプラカードを掲《かか》げた。
「…………」
二秒ほど考え、騎《き》央《お》は「定やん」の被《かぶ》っていたハンチングを取って、裏側に内蔵されている「つっこみよう」の白い紙が貼《は》られたスリッパでその頭をはたいた。
☆
高速道路に乗って沖《おき》縄《なわ》本島を北上しつつある、真新しいベンツのトラックの車内には冬《ふゆ》木《き》透《とおる》作曲の名BGMが流れている。
「何か妙に緊張感高まりますねえ」
運転席に座ったメイドの一人が言うと、助手席で楽しげに頭を揺らしていた金髪|碧《へき》眼《がん》、猫耳|尻尾《しっぽ》付きの生き物が「そでしょー」とにっこり笑った。
「やーっぱ出撃テーマはワンダバじゃないとねー」
ちなみに、かかっている曲は「帰ってきたウルトラマン」のM‐3、マニアの間では「MATのテーマ」と呼ばれる、男性コーラスとオーケストラの見事にマッチした、静かながら緊張感と高揚感が一体となった名曲である。
「えーと、目的地までは…………と」
助手席に座ったいちかは、カーナビを起動させて目的地までの距離と時間を確認する。
「まあ、だいたいこんなもんでしょうねー。しかし、技術の進歩ってのはいいわねー」
うんうん、とか頷《うなず》きながら首から提《さ》げたMP3プレイヤーを取り出す。
「こんな小さいのに二千曲入ったり、土地|勘《かん》がない人間でも無事に目的地にたどり着けるようになったり……お陰でロマンがひとつ成《じょう》就《じゅ》、と」
持っていたi‐Pod miniをダッシュボードに置いて、いちかは「うふふふ」と笑みを浮かべた。
「さー、これからが楽しみ楽しみ♪」
「でもあれ、本当に現地組み立てで大丈夫なんですか?」
メイドの言葉に、いちかは「だーいじょーぶ」と請け合った。
「組み立て、つーよか、あれよ、艦《かん》載《さい》機が羽根広げるのと理屈は変わらないから」
「とりあえず、エンジンかけるときには私、遠くに行ってますからね」
メイドはどうやらいちかの腕を信用していないようであったが、ご本人は慣れているのかそれとも右から左に言葉を流しているのか、
「おけー♪」
と上機嫌である。
☆
入学試験(高校の)前の週末、しかも半ドンと決まっている日、なんてものは特にすることがあるわけではない。
ただ、試験のために掃除をし、机や椅《い》子《す》の配置を変えるだけのことだ。
簡単な出席の点呼があった後、すぐに机や椅子がガタガタと動き始める。
「それぐらい、受験生にやらせればいいのに」
などと口を尖《とが》らせる者もいるが、
「何言ってるのあなたたち。去年受験しに来たとき、『自分で机を並べ替えなさい』なんて言われたら、どうだった?」
という担任の糸《いと》嘉《か》州《ず》マキの言葉に、まだ高校受験の生々しさが記憶に残っている身としては「しゅん」となってしまうのがオチであった。
「まあ、そらそうだわなー」
騎《き》央《お》のクラスメイトの普《ふ》久《く》原《はら》が呟《つぶや》いた。
「そんなワンクッションあったら、それだけでテンションぐだぐだだろうしな」
「良かったねえ、高校生で」
他のクラスメイトがしみじみ言うが、
「何言ってんだい、再《さ》来《らい》年《ねん》には受験だぞ俺たち」
という言葉に何となく溜《ため》息《いき》をつく。
「受験って、そんなにひどいんですか?」
エリスが首を傾《かし》げるが、
「まあ、そうだね」
必死になって単語帳を捲《めく》っていた思い出を懐《なつ》かしく思いながら騎《き》央《お》は笑った。
大学を受験するわけでもないのに、あの時はまるで自分がもう大学受験をするような緊張感だったこと、国語と数学の点数が上がらなくて焦《あせ》ったことが苦く思い出される。
「落ちることよりも、自分だけ高校に行けなくなるってことが怖かったなあ」
追い込みの半年は、従兄弟《いとこ》の大学生がつきっきりで家庭教師をしてくれたお陰で何とかここに入学できたけれど、公立に落ちたらどうしよう、と発表の日の前日、眠れないでいたっけ…………。
そんなことを頭の片隅でほろ苦く思い出しながら、騎央は簡単な受験システムとその理由の説明をした。
「僕らより五歳下になると、大学も高校も、もうどこを受けても定員割れだから誰《だれ》でも学校に行ける時代になるんだけどね」
「不思議な制度ですねー」
まあ「可能性」とそれを追求する個人を決して否定しないキャーティアの社会からすれば、「定員制」というシステム自体が理解しがたいのだろう。
「しかし、おかしなものです」
珍しく摩《ま》耶《や》が会話に加わってきた。
「日本で高校はもはや義務教育のようなものですのに、選択制ならともかく、どうして今も受験なんかさせるんだ、という気もしますね」
「摩耶さんでもそう思うんですか?」
騎《き》央《お》にしてみれば意外な話だった。
摩耶たちの頃《ころ》なら、何となく唯《い》々《い》諾《だく》々《だく》と従っているような気がしたのだ。
「私が現役で高校生だった頃からそういう話はありました」
ふぅん、と頷《うなず》いたエリスが、こちらは教室の窓ガラスを拭《ふ》いているサラに話を振った。
「サラさん、イギリスはどうなんですか?」
新聞紙で窓ガラスを磨く手を止めて、サラは少し考え込んだ。
「まー、これほどひどくはなかったと思います。もっとも私は軍の士官学校でしたから」
どうしても目で掃除の手伝いをしている「定《さだ》やん」たちを追ってしまう自分を抑《おさ》えきれない隻《せき》眼《がん》の副メイド長は、それでもしっかりと答えをよこした。
「なるほど」
世界はいろいろなのだなあ、とか思いながら騎央は頷《うなず》いた。
「ほら、さぼってないでみんな掃除して!」
真《ま》奈《な》美《み》が冗《じょう》談《だん》半分でそう言うと、慌てて騎央たちは手を動かし始めた。
その足元を、手ぬぐいを姉《あね》さんかぶりにした通常型アシストロイドたちが、はたきやら箒《ほうき》やらを片手にてってけ走っていく。
「…………」
さて、そんな会話に入れない人間がふたり。
言わずとしれたアントニア・リリモニ・ノフェンデラス・パパノーガス・アレクロテレス・クノーシス・モルフェノスと、双《ふた》葉《ば》アオイである。
アントニアの方は家庭教師による英才教育の人生であったし、アオイにとってこの学校に来たのは単なる偶然で、非合法工作員時代の「決定」であったから高校受験なんて物はしたことがない。
「なんか、あれじゃのぅ」
いっしょに窓を拭きながらアントニアは言った。
「疎《そ》外《がい》感《かん》じゃなぁ」
「…………」
こっくり、とアオイは頷いた。
「でも……今はいっしょだもの」
つまり、これからのことを大事にすればいいじゃない、という意味で少女は言った。
それはすぐにアントニアにもわかったらしい。
「うん、そうじゃな、おぬし、なかなか賢《けん》者《じゃ》じゃのぅ」
「…………」
くすっと二人の少女は顔を見合わせた。
その横をモップで床を拭《ふ》きながら『へいほん』がだーっと走っていく。
「こら! 『へいほん』、廊下を走るではない!」
アントニアの声にカンフー型アシストロイドは立ち止まり「しかしじんそくにせよとあるじはいうたではないか」と口答えした。
「じゃからと言うて、ルール違反を奨《しょう》励《れい》したわけではないぞ」
言って「めっ」という顔をすると、「へいほん」はしばし腕組みをして首を傾《かし》げ、やがて思い至ったらしく壁に手を突いて「反省」のポーズを取った。
「もうよい、掃除を続けよ」
苦笑いしてアントニアが言うと「へいほん」は再び頷《うなず》いて、今度は走らない程度の速度でトコトコと廊下をモップで拭いていく。
その隣りで泰《たい》然《ぜん》自《じ》若《じゃく》、という感じで「ゆんふぁ」がのんびりモップを洗い、絞ってから悠然とした足取りで床を拭き始めた。
「……大変ね」
「できの悪い子ほど可愛《かわい》い、というでな、さほどではないぞ」
にっこりとアントニアは笑った。
「そうね」
そのへん、「チバちゃん」と「錦《きん》ちゃん」を抱えているアオイにもわかる部分だった。
☆
『…………デ、一つ聞きたーイですが|仔猫ちゃん《ケイティ》?』
那《な》覇《は》空港に降り立ったとたん、待ち受けていたメイドたちに拉《ら》致《ち》されるように車に乗せられたジャックは、手渡された車載型のテレビ電話でいちかに文句を言った。
「なしテ、私も協力せねばナンネですか?」
液晶ディスプレイで数秒遅れの静止画で映された猫耳少女は、やがてにんまりと満面の笑みを浮かべ、言った。
『まあ、そういう運命だから。諦《あきら》めてチョーダイ』
「あのネー」
『どうせ|CIA《ラングレー》でもそういう決定、出てるんでしょうが』
液晶のいちかの顔がウィンクした表情に変わった。
「…………」
つい数時間前に決定したことを、はたしてどうやってこのネコが知ったのか、思わず三秒ほどジャックは液晶画面を呆《ぼう》然《ぜん》と見つめていたが、やがて、長い溜《ため》息《いき》をついた。
「…………了解」
肩をすくめ、テンガロンハットの鍔《つば》をぴん、と人さし指で弾《はじ》いて、ジャックは苦笑いを浮かべた。
☆
「よし…………っと」
最終シークエンスの終了を確認して、チャイカは一息ついた。
ずうん、という鈍《にぶ》い音とわずかな地響きがあって、わずかに体が宙に浮く感覚がある。
軌道エレベーターと海底との接合が解除されたのだ。
スキンスーツの手首部分に指を走らせる。
「こちらチャイカ、準備完了。これより帰投します」
『ご苦労さん』
クーネの声が聞こえる。
「でもまあ、よくこんな馬《ば》鹿《か》なネタを思いついたモンだねえ」
『ネタじゃないわよ』
艦長の声が苦《く》笑《しょう》を含む。
「まあ、ネタみたいなもんだよ…………こんな冗《じょう》談《だん》みたいな引っ越し方法、普通考えつかねえって。騎《き》央《お》って、結構トンデモないかもしれねえな」
『まあ、地球の人の創意工夫ってのはやっぱりスゴイってコトよ』
「創意工夫ねえ。やっぱり一発ネタのノリのような気がするガ」
『…………さ、そろそろ転送の準備もできたわよ』
「了解」
答えたチャイカの細い身体が次の瞬間、光の粒《りゅう》子《し》に変換されて消え去った。
☆
軌道エレベーターの振動は、周囲の各国艦隊を緊張させた。
そう言えば海の上に仔《こ》猫《ねこ》艦隊の姿もない。
各国の船の上から「調査」名目で偵察機が飛び交《か》い、準戦闘態勢を取る部隊も出た。
アメリカ第七艦隊はむろんのことである。
何しろ、彼らには「原因を引き起こしてしまった」という負い目がある。
結局は、艦《かん》載《さい》機の発進、そして上空での待機という形で現れた。
それを見た各国艦隊も緊張し、戦闘準備を整える。
彼らには彼らの「防げなかった」という負い目がある。
☆
騎《き》央《お》の家の留守番は、珍しくキャーティアではなかった。
公海上にある軌道エレベーターの異変が起こってから数分後、嘉《か》和《かず》家の電話がひっきりなしに鳴り始めた。
数ヶ月前から、万が一を考えて密《ひそ》かに数回線に増やされていた嘉和家の電話線は、数台の電話機につなげられ、さらに専用のオペレーターとしてアントニアのメイド部隊から四人ほどが配属されていた。
「はい、こちらキャーティア臨時大使館です。本日より、軌道エレベーターを一時保管するべく、移動作業を開始致しました…………はい、周辺への配慮は十分しております。細《こま》かい説明は後で、文書にて致しますのでしばらくお待ち下さい」
「はい、こちらキャーティア臨時大使館です……いえ、機密上の問題でございます。はい、現在国連も日本政府も受け取りに来られない以上、あれは宙に浮いた存在でございますので、これ以上放置するのも何らかの悪影響を及ぼしかねないと……はい、残念ながら今は地球の上、としかお答えができません、お許し下さい」
受話器を置くたびに間髪入れずベルが鳴り、同じ説明を日本語で、英語で、ドイツ語で、ロシア語で繰《く》り返していく。
戦場のようになった嘉和家の居間を、残った通常型アシストロイドたちがお茶やお菓子を持って歩き回り、メイドたちの口《こう》舌《ぜつ》滑《なめ》らかなところを損じないように配慮する。
「はい、こちらキャーティア……」
彼女たちは懇《こん》切《せつ》丁《てい》寧《ねい》に、しかしスピーディに各国の言語を操り、状況説明をこなしていく。これより少し前の時刻に「アンドローラU」の通信室では、別のメイド部隊たちが状況説明の電話を各国大使館とマスコミ各社にかけているはずだ。
軌道エレベーター、本日引っ越しと。
第六章 空からメイドが降ってきた[#「第六章 空からメイドが降ってきた」は太字] [#小見出し]
☆
その日の午後、校庭に悠然とUFOが降りてきた。
といっても完全な未確認飛行物体《アンノウン》ではなく、シャンパンゴールドの少々派手なエリス専用小型宇宙|艇《てい》「ルーロス改」である。
細長いシルエットの宇宙船はゆっくりと横に回転しながら、その輝く機体に周囲の風景を映して地上数センチのところで静止した。
午前中で用事を済ませて下校の途《と》に着いていた生徒たちは声もなく、空から舞い降りてきた巨大な物体の周囲を遠巻きに囲む。
宇宙人が通っている、という事実を考えればいつか当たり前になる光景かもしれないが、今のところ人類はまだ宇宙人やUFOに慣れているわけではない。
だから校内は騒《そう》然《ぜん》とした。
下校時ということも手伝って、校舎の窓には生徒たちが鈴なりになる。
「んじゃ、行きましょうか♪」
ヘリのローターのような派手な風を巻き起こすわけでなく、静かに降り立った船に、玄関で待ち受けていたエリス、騎《き》央《お》、真《ま》奈《な》美《み》、アオイ、アントニア主従およびそのアシストロイドたちはさっさと乗り込んだ。
あまりの出来事に生徒たちは近づくコトすら考えられないらしく、遠巻きに眺めている。
「ではルーロス、発進してください」
コックピットに着きながらエリスが言うと、ネコとも熊《くま》ともつかない立体映像の変な縫いぐるみが空中に現れ「はいな、発進ですしますです」と答え、ふわりと「ルーロス改」は空中に浮かび上がった。
携帯電話のカメラのシャッターが切られる音があちこちから霰《あられ》の降る音のように響くなか、シャンパンゴールドの宇宙船はゆっくりと空中高く舞い上がると、放《はな》たれた弓矢のようなスピードで一瞬にして空の彼方《かなた》へ消え去った。
☆
ほぼ同時刻。
沖《おき》縄《なわ》本島は北の奥地の奥地、その名もずばり「奥《おく》」というまんまな名前の場所で、トレーラーの一台は準備を終えた。
停車して荷台を展開し、なかに納められていたモノが自動的に組みあがり、通電をチェックするのに二分ほどかかる。
やがて、トラックを運転していたメイドがかなり離れた距離まで走っていき、曲がり角を曲がると、その妙な格好をした荷物は轟《ごう》然《ぜん》とエンジン音を轟《とどろ》かせ、短距離型の電磁カタパルトでもある荷台を真っ黒に焦《こ》がしながら飛び立った。
☆
「やっぱり、こう、手を振り上げて『来ぉい、ルーロス!』とか叫んだ方が格好良かったですかね?」
宇宙船のコックピットに座りながら、制服姿のエリスは言った。
「いや、そ、それはちょっと恥ずかしいからやめた方が……」
さすがに騎央が疑問を呈《てい》すると、
「やっぱ、そうですか。いちかさんの言うことは時々おかしいからなー」
とエリスはうんうんと頷《うなず》いた。
「でも、サラさんは本当にあれで良かったんですか?」
後ろを振り向いて「へいほん」とじゃれ合っているアントニアに尋《たず》ねるが、
「大丈夫ですエリス様」
と世界有数の大富豪である少女は言い切った。
「ちゃんとパラシュートは開きましたし、本人からも無事に配置についたという連絡がありましたから」
「はぁ」
でもどこかすまなさそうな顔をするエリス。
今度の計画ではいちいち着陸している時間はない、ということで、飛び上がってすぐにサラは「ルーロス改」から直接、彼女の配置ポイントへ向けてパラシュート降下を行ったのである。
「どうぞエリス様、ご心配なく」
その側《そば》で微笑《ほほえ》みながら主《あるじ》とそのアシストロイドの戯《たわむ》れを眺めていた摩《ま》耶《や》が言った。
「サラはそれぐらいのことは大丈夫です。アシストロイドも一体つけていただきましたし。それにこの計画は時聞が勝負でもありますし」
☆
ハッチが閉じられた。
制服から耐圧G機能付きの特殊メイド服に着替えたサラは、こればかりは軍用のモノと大差がないジェット機用のヘルメットを被《かぶ》り、バイザーを降ろした。
「さーネコちゃん、いきまちゅよー♪」
高度一五〇〇メートルからのパラシュート降下の後だというのに、サラは非常にご機嫌であった。
理由は、彼女の膝《ひざ》の上で、こちらはイギリス空軍のパイロットスーツにヘルメット姿という、二頭身のチビスケである。
いつもの執事の格好をしたアシストロイドは、今も「アンドローラU」でお手伝いの真っ最中で、これは新規である。
額《ひたい》にある番号は「3」。
別にサラのご機嫌を良くするためだけに貸し出しされたのではなく、このアシストロイドの首の鈴には、コックピットのコンソールから数本のケーブルが接続されている……実はサラが操ることになる代物の、ナビゲーターなのだ。
「3」は「はいでし、おかーしゃん」とプラカードを掲《かか》げ、サラはにこにこ微笑みながらシステムを立ち上げていく。
やがて、周囲にジェットエンジンの奏《かな》でる振動と独特の音が臨場感を伴《ともな》って響き渡る。
じっと前を見つめるようにアシストロイドが動かなくなると、ばらばらに動いていた各種計器類が安定した数値を刻むようになった。
「ネコちゃんはえらいでちゅねー!」
んーっ! とそのままキスでもしかねない顔でアシストロイドの頭を撫《な》でながら、サラは操《そう》縦《じゅう》桿《かん》を握りしめ「じゃ、いきまちゅよー!」と、スロットルを開けた。
☆
同時刻。
こちらはアメリカ海軍パイロットの格好をしたアシストロイドを後部座席(というよりも座席のヘッドレスト後ろにあるチャイルドシートみたいなものだが)にのっけて、ジャックは最終チェックを終えた。
「でーワ、|仔猫ちゃん《ケイティ》、頼みますヨ」
手を伸ばして後ろのアシストロイド(通常型の『5』)の頭を撫《な》で、Gスーツのフロントファスナーを胸元ギリギリまで降ろしたCIA職員は、教えられた通りスロットルレバーを押し出しながら操縦桿を握りしめた。
エンジンの振動に、ブラをしていないまま着替える羽目になった胸の谷間がぶるぶると震える。
「まったく……ジエット戦闘機なんて操縦したことないんだけどなあ」
英語で愚《ぐ》痴《ち》りながら、ジャックは己《おのれ》の機体を発進させた。
☆
その数分後。
那《な》覇《は》港の海のなかから、一つの巨大な物体が飛び出し、また同時に南部の海岸でそれよりは小さな物体が空中めがけて打ち出された。
これら三つの物体はそのままある海域を目指して加速していく。
後に判明した最高時速はマッハ三。
嘉《か》手《で》納《な》基地から警戒態勢ということで上空に上がっていた偵察機が、これを撮影できたのは奇《き》蹟《せき》のようなモノであった。
☆
「…………」
F‐4ファントムを改造した戦術偵察機《RF‐4E》からの映像を見たニルメアはしばらくぽけっとそれを眺めた。
「ネコのセンスって時折訳がわからないわ」
ぽつん、と呟《つぶや》く。
「どうしたの?」
刻一刻と入ってくる情報を無事に処理し、正しい答えを導《みちび》くべくシステムの微調整を繰《く》り返していたリュンヌが一段落したのか手を止めて、肩越しにニルメアの見ていた画像を覗《のぞ》き込み、同じく目を点にした。
「うーん…………私もよく分かんない」
正直言った感想であった。
移動用クレーン代わりのものを三つに分断、同時に軌道エレベーター周辺に向けて撃《う》ち出す、という所までの予想はついたモノの、彼女たちが考えていた「形」とはかけ離れた外見の代《しろ》物《もの》であった。
隣りでリュンヌの手伝いをしていた「マットレイ」だけが冷静に「コレハネコドモノせんすデハナイノデハ?」と突っ込みを入れる。
粒《りゅう》子《し》の粗いビデオカメラからの映像に映っていたのは、巨大なアシストロイドの生首の両脇に、ばかでかいジェットエンジンと翼を二つくくりつけたような、とても飛ぶとは思えない物体であった。
さらに、両の拳《こぶし》を前に突き出した格好の上半身に翼とジェットエンジンを取りつけたモノ、気をつけ、をした下半身にジェットエンジンと翼を取りつけたようなモノが並んで飛んでいる。
どう見ても小学生がアシストロイドを見て思いついたような「合体ロボ」だ。
てっきりカプセルに詰めるなど、空力のことを考えた形状になると思っていた彼らにとって思いつきもしない形である。
「…………まあ、とりあえず、第七艦隊には迎《げい》撃《げき》させるように指示を出しましょ。連絡が遅れたから、あれは所属不明機《アンノウン》だと判断した、ってことで」
「…………ええ」
どうにも盛り上がらない標的に、リュンヌもいささか浮かぬ顔である。
「あとは二の手、三の手の警戒ね」
こほん、と咳《せき》払《ばら》いをして、ニルメアはシリアスな思考に戻ろうとした。
「え、ええ」
「さて、連中……どうするつもりかしら?」
☆
第七艦隊の上空に待機していた戦闘機は、沖《おき》縄《なわ》本島からの「敵機」に対して戦闘態勢を整えた。
レーダーサイトのなかに飛び込んできた三つの光点にロックオンされた空対空ミサイルが群れを成して発射される。
海の上では警報が鳴り響く中、対空ミサイルが発射準備を整え、万が一に備えて艦《かん》載《さい》速射砲の用意も行われる。
それまで数ヶ月、穏やかだった海上は時ならぬ戦場と化した。
三つの光点は複雑怪奇な動きを三次元レーダーに刻みながらも、その大きさゆえにCAP(空中戦闘待機)状態にあった戦闘機の攻撃を避けることができなかった。
やがて、空の片隅に閃《せん》光《こう》と、爆発の轟《ごう》音《おん》が響き渡り、三つの炎の塊《かたまり》が海に向けて落下していく。
着水と同時に上がった水柱は、すぐに爆発のそれへと変化し、周囲に雨のごとく海水を振りまいた。
各国の軍隊も、事態を傍《ぼう》観《かん》していたわけではない。さっそく落下した物体を回収すべく、アメリカ軍の制止を無視する形でヘリコプターが殺到する。
彼らが最初に観《み》たのは、ぽっかりと浮かんできた暢《のん》気《き》な造形の頭だった。
誰《だれ》も意図したモノではない、本来なら粉砕され、跡形もなくなるはずのモノが、偶然それを免《まぬか》れ、偶然一瞬だけ浮上したのだ。
真っ黒にすすけ、三割以上を破壊されていても、それが何を造形したモノか、誰《だれ》もが理解した。
それはあの猫耳|尻尾《しっぽ》付きの宇宙人たちが必ず連れている、可愛《かわい》らしい二頭身のロボットの頭部を、そのまま拡大した代物だったのである。
「ひでえ……」
イギリス海軍のヘリのなかで、パイロットが吐き捨てるように言いながら、シャッターを切った。
別の乗組員はビデオカメラを回し始める。
同じように日本の、中国のヘリのなかで同じ行為が行われていた。
彼らはいっさい通信を交《か》わしたわけではない。
だが、その場には明らかな共同体のごとき意識があった。
彼らは皆、等しくあの仔《こ》猫《ねこ》艦隊と親しくしていたのである。
それらの写真は数時間後、意図的に流出し、世界各国の報道系サイトで公開され、あるいはテレビのニュースの冒頭を飾った。
それは、リュンヌたちはもちろんのこと、エリスたちでさえ思いも寄らぬ事態を後々に引き起こすことになる。
☆
「GAME OVER」の文字がコックピットのすべての計器、およびキャノピーの正面一杯に広がった。
「あーあ、やーっぱバル○リーみたいに避けるのはむずかしーねー」
コックピットの横にある退出用スイッチを拳《こぶし》で殴りつけ、地球産猫耳尻尾付きのいちかは、精密に作られたシミュレーターシステムから外に出た。
ちなみに、今のいちかの格好は「安全第一」と書かれた工事現場用ヘルメットに剣道で使う胴《どう》丸《まる》、なぜか背中には玩具《おもちゃ》の刀という意味不明な出《い》で立ちだ。
すでに先に「撃《げき》墜《つい》」された巨大アシストロイド「守礼皇五号《シュレイオーファイブ》」の各パーツを操っていたサラ、およびジャックは外に出ている。
「や、そっちもやられた?」
「はい、とりあえず予定通り」
幸せそうにアシストロイドを抱っこしたサラが答える。
「でもいちーか、非常にめちゃくちゃデースネ」
ジャックはしかし、おもしろそうに言いながら、手に持ったジェット機用ヘルメットをくるくると回した。
「遠隔操作《ソサ》でマッハの戦闘機もどきを飛ばーす、ナーンテ」
「まあね、こういうことはド派手にやった方がおもしろいから」
「でも、もう少し抵抗したほうがよかったのでは?」
サラの言葉は武装を使うべきだったのでは、という意味だ。
「まあ、武装をつける暇もなかった、と思ってくれるんじゃないかな? ま、たぶん大丈夫よ。バレる頃《ころ》には決着がついてるわ…………ささ、次行きましょ次」
「人使いのアラーイ猫ちゃんですーネ」
ジャックは肩をすくめて見せた。
☆
「…………では、無事に撃墜されたようですね」
上の出来事を、多次元スキャナーで確認したエリスが表情を引き締めた。
現在、『ルーロス改』は海の中。
例の「ぬこ」部隊に守られての移動中である。
「メイドさんたちはセッティング終わりましたでしょうか?」
ヘッドセット姿の摩《ま》耶《や》が「どうやら準備完了のようです」と親指を立てた。
「では、あと十分後に計画開始、ということで」
そんな会話を聞きながら、騎央は居心地悪そうに肩をすぼめた。
「どうしたの? 騎《き》央《お》君、気分が悪いの?」
すでに戦闘モードに入ったアオイが滑《なめ》らかな言葉|遣《づか》いで尋《たず》ねると、
「いや、そうじゃなくて……本当に僕の計画が動いてるんだなあ、って」
「ええ、そうよ」
にっこりとアオイは微笑《ほほえ》んだ。
「騎央君、凄《すご》いわ。私は……そういうこと、思いつけないもの」
兵士として、あるいは破壊工作員として、作戦(計画)立案という広範囲なモノを見つめる「目」はむしろ作戦そのものを破《は》綻《たん》させかねない部分がある。
だから、アオイはひたすら作戦と任務を遂《すい》行《こう》するための機械として育てられているのだ。
「あ、あと……これ」
騒《そう》然《ぜん》となったコックピットのなかで、そっとアオイは騎《き》央《お》に白い小さな箱を差し出した。
「今日、バレンタインデーだから」
「あ…………う、うん」
二人とも、耳まで赤くなりながら、チョコレートを受け渡しした。
騎《き》央《お》はチョコレートの入った箱を押し隠すようにしながらカバンのなかに納める。
「あとで…………食べるね」
「…………ありがとう」
「ふたりとも、どうしたんですか?」
準備の手を一瞬止めて、エリスが二人の間に入ってくる。
「あ、あの、こ、これエリスにも……」
そう言って、アオイはエリスに騎央と同じ箱に入ったチョコレートを差し出した。
「あ、私もアオイさんに」
そう言って、エリスも腰のポーチから、小さな箱を取りだした。
「…………」
まさか、エリスからもらえるとは思ってなかったアオイは、呆《ぼう》然《ぜん》とそれを受け取った。
「えーと、騎央さんにも言ったんですけれど、チョコレートを使うのは初めてなので、上手《うま》くできてないかもしれませんけれど」
「あ、ありがとう……」
「…………」
いつの間にか、三人の輪を覗《のぞ》き込むようにアントニアが立っている。
「大丈夫です、アントニアさんの分もありますから」
「ほ、本当ですか、エリス様!」
ぱあっと明るくなるアントニアの顔に一同は笑み崩れたが、アオイは自分だけじゃないと知って少しだけがっかりした。
(な…………何考えてるの、私?)
慌《あわ》てて頭を振ってその考えを追い払う。
☆
その光景を微笑《ほほえ》みながら眺めつつも、摩《ま》耶《や》はヘッドセットを使っての通信に余念がない。
今回の計画…………彼女にとっては作戦だが…………はタイミングが命だ。
現場はココともう二箇所ある。同時進行で、上手い具合に切り返さなければ意味がない。
ギリギリまで、ここは作戦指揮所《CIC》なのだ。
ふと、ちょいちょい、と肘《ひじ》がつつかれた。
視線をおろすと、お下げ部分をつかって「へいほん」が彼女の肘をつついたのだとわかる。
「なんだ、『へいほん』」
彼女にしかわからない程度だが、言葉に刺《とげ》が入る。
どうにもこのアシストロイドが摩《ま》耶《や》は好きになれなかった。
おでこの広い弁《べん》髪《ぱつ》型の頭部も、お下げの部分も、カンフースーツも、妙に態度がデカい所も含めて気に入らない。
サラの方に貸し出しされている通常型は、むしろサラの玩具《おもちゃ》にされて可哀《かわい》想《そう》だな、と思うほどなのだが、コレに関してはとにかくお嬢様にべったりというのが気に入らないのだ。
「用件は早く言え」
そう言うと、カンフーマスター型アシストロイドは傷つく風もなく「まやどのにちょこはないのか?」と訊《き》いてきた。
「あるわけはなかろう。私はお嬢様のメイドだ」
いらだたしげに言って、メイド長は通信に戻ろうとする。
だが、「へいほん」は自在に動くお下げ部分を手のように操ってそれに待ったをかけつつ、「だが、わがあるじがもっともしんらいしているのはまやどのだ」と扇《せん》子《す》に書いた。
「…………?」
何が言いたいのか、と訝《いぶか》しげな表情になる摩耶に、「へいほん」は懐《ふところ》からチョコレートの入った箱を取りだした。
さらに「このよでもっともあいじょーをよせるにんげんどうしがちょこれーとをかわすのがばれんたいんでーであるから、これはまやどののものである」と書いた。
これには摩耶も二の句が継げなかった。
さらにこうも書く「われはあしすとろいどであるから、うれしいがせいとうなけんりのほゆうしゃではないのである」と。
「…………」
珍しく、摩耶がどう反応していいのかわからずに固まっていると、「へいほん」は「ほれ」という感じで摩耶の手にチョコレートの箱を押しつけると、とったかた、と踵《きびす》を返してアントニアのところに戻ろうとする。
「まて、『へいほん』」
言って、摩耶は素早くチョコレートの包装を解き、なかのチョコレートを半分に割った。
「半分だけ受け取る。すべてもらったのではお嬢様の思いに対して悪い」
こんどはしばし「へいほん」が考え込んだ。
だがすぐに「りょうかいした」と受け取り、その場でぱくつきながらアントニアのところへ戻っていった。
「…………」
摩耶は数秒の間その小さな賢《けん》者《じゃ》めいた後ろ姿を眺めていたが、ふと一瞬だけ笑みを浮かべて消し去ると、すぐに通信による指示を再開した。
☆
「どうしたのじゃ、『へいほん』」
アントニアは、見覚えのあるチョコレートを「へいほん」がぱくついているのを見て声をかけた。
ちょこねん、とアントニアの膝《ひざ》の上に座ったアシストロイドは「まやどのとちょこをはんぶんこしたのである」と素直に扇《せん》子《す》に書いた。
「私はお前にあげたのじゃぞ?」
首を傾《かし》げるアントニアに、「へいほん」は「かたいことをいうな、あるじどの」と扇子に書いて、ふわふわと己《おのれ》を扇いだ。
「変な奴《やつ》じゃ」
そういいながらもアントニアは微笑《ほほえ》み、後ろからぎゅっと「へいほん」を抱きしめた。
☆
「さて、こっちも用意は終了……っと」
フローチャートが示した「状況」を打破するための手を、リュンヌはあっさりと終えた。
「あと二分ほどで始まるわ」
「ご苦労さん」
ニルメアは笑いながらコーヒーサーバーからコーヒーを入れる。
横《よこ》須《す》賀《か》基地にある彼女たちの部屋は、すっかり春めいた日差しのなかにある。
据《す》え置き型の情報処理装置の側《そば》に置かれたテーブルの上は、女子校の文化系部活の昼休みのようにお茶菓子が広げられ、ちょっとしたブレイクタイムになっている。
「彼女たち、やっぱり動かすのかしら、あれを?」
「たぶんね…………まあ、いつも向こうの考えはこっちの斜め右下を行くから、きっと下品な方法だとは思うけれど」
ニルメアはちょいと口《くち》許《もと》を引き締め、クッキーを摘《つま》む。
「いったい、猫たちは何を考えているのかしら?」
「たぶん、引っ越しなのは間違いないわ」
ニルメアは即座に言い切った。
「嘉《か》手《で》納《な》の基地内の軍用地を買いあさっているのもそのためだし、あの迎《げい》撃《げき》されたでっかい変なのは、たぶんフェイクね」
「なんで、そこまでやるのかしら、猫は?」
「自分だけ、良い子になりたいのよ」
吐き捨てるようにニルメアは言った。
「彼女たちはこの星の連中が本当に理解できてはいないのよ。この星の連中は基本的に粗《そ》雑《ざつ》で、自己管理ができない上に、知的水準も低いわ。こんな連中に山ほどの技術供与をしてご覧なさい。何が起こるか」
「…………」
何も答えず、リュンヌはコーヒーカップのなかを見つめた。
「そりゃあ、宇宙からやってきて、いろんな技術供与をすれば神様扱いもされるし、人気者にもなるわ。でも、それではダメなのよ、この星の連中は。子供なんだもの」
次第に、ニルメアの言葉は熱を帯びてくる。
それは、バルンムウ、「犬」も含めた三惑星同盟の者たちの共通認識でもあった。
「七〇年前、核分裂の方程式を見つけ出したとたんに兵器に転用するような連中だもの。貨幣経済を生み出して二〇〇〇年以上経過しているのに知的資産を占有することで貧者を生み出して経済を回すことぐらいしか思いつかないのよ? それに疑問を持ったからまともに進むかと思えば、共産主義なんて馬《ば》鹿《か》なモノに化けてしまうし……つまり、獣《けもの》なのよ」
口をきわめて罵《ののし》るニルメアの言葉に、リュンヌはジッと耳を傾けていたが、
「そうよね」
とぽつんと呟《つぶや》いた。
「彼女たちが、聞違っているのよね」
静かに、納《なっ》得《とく》するように頷《うなず》く。
「そ、そうよ」
その真っすぐな口《く》調《ちょう》にいささか気《け》圧《お》されながら、ニルメアは頷いた。
「だから、我々が保護し、彼らの血のなかにある愚かな部分を徐々に排除していって、導《みちび》くことが必要なのよ」
リュンヌの隣りで、彼女のサポートをしている犬ロイドの「マットレイ」が一瞬、肩をすくめたように思えたが、それはニルメアの気のせいだったのかもしれない。
☆
「…………では、本当によろしいので?」
県内最大の不動産屋…………つまり、東京系列の不動産ネットワークの支店長は、冷たい目を眼鏡《めがね》の向こうからメイドたちの代表に向けた。
「ええ、そうです」
摩《ま》耶《や》、サラに次ぐ、いわばメイドたちの副|参《さん》謀《ぼう》であるロシア美女は、静かに頷いて見せた。
名前はマヌーカ・ペトロスカヤ。ブルネットの髪をクレオパトラカットに切りそろえた彼女は、背後に数名の部下を従え、メイドと言うよりはどこかの大会社の女社長という威厳を醸《かも》しだしていた。
「失礼ながら、こちらの試算では、この取引は非常にあなたたちにとって不利と出ておりますが? 軍用地は値上がりしませんが、値下がりもしませんよ」
「構いません。そのことは計算済みです」
マヌーカは己《おのれ》の懐《ふところ》に手を突っ込むような支店長の不《ぶ》躾《しつけ》な言葉にも眉《まゆ》一つ動かさず、冷然と微笑《ほほえ》んだ。
この支店長が問題の多い人物であることはすでに知っている。
女性店員へのセクハラ訴訟で、東京本店から飛ばされてきており、地位と名誉のある女性に対し、異様なまでの敵《てき》愾《がい》心《しん》を抱いている、という……昨今、珍しくない「性《せい》癖《へき》で失敗する」タイプの人物だ。
だが、目的のものを入手するためにはここと取引せねばならず、またそれだけの状況なら、彼がどんな人物であろうと問題はない。
かつて、彼女がつとめていた職場で「氷の女王」の異《い》名《みょう》を馳《は》せたのも納《なっ》得《とく》の、温度のない、しかし、見とれてしまうような笑顔。
二の句の継げない相手に、マヌーカは畳《たた》みかけるように言った。
とにかく、彼女の交渉が上手《うま》くいかなければこの計画は頓《とん》挫《ざ》してしまう。
のみならず、下手《へた》をすれば嘉《か》手《で》納《な》を舞台にアメリカ軍との総力戦が待っている。
世界平和、地球平和が自分にかかっているのだ。
「では、お売りいただけますね?」
「はい…………しかし、入金は当日、その場で、ですがよろしいですか?」
「そのために、今直接参りました」
マヌーカが手を軽く挙《あ》げて合図をすると、ノートパソコンを持った若いメイドが一人、前に進み出てきた。
☆
いったん「アンドローラU」に向かった「ルーロス改」は、その機内に大量のメイドを詰め込んで目標海域に戻ってきた。
大量、といっても「ルーロス改」は以前のモノと比べて少々大型化した、という程度なので、人数は二〇人ほどであるが、それでもパイロットのエリス以外は立っているのがやっとという状態である。
「えーと、みなさん、そろそろ目標の場所です、準備、いいですかー?」
エリスの言葉に、
「はーい!」[#特大見出し]
とまあ、小学生のような元気な声が返ってくる。
摩《ま》耶《や》がいれば叱《しっ》責《せき》が飛ぶところであるが、彼女は今、アントニアとアシストロイドたちとともに「アンドローラU」に残り、あれこれ指示を飛ばしている。
メイドたちは鬼の目の届かぬことからか、それとも今朝方ようやく届いたばかりの「装備」を使いたくてうずうずしているらしい。
満員バスもかくやの状況になった「ルーロス改」はやがて、目標の場所に来た。
「ルーロス、側面装甲開放準備!」
〈はいですマスター、おっしゃるとおりにするです〉
「みなさん、では装備を起動してください!」
「はーい!」[#特大見出し]
いっせいにメイドたちは手首をたくし上げ、細い、金属とも樹《じゅ》脂《し》ともつかぬ物質でできたブレスレットに指を走らせた。
「せーの…………変身!」[#特大見出し]
☆
「しかし、この友軍のフネはなんなんでしょうねえ」
アメリカ海軍ロサンゼルス改級攻撃型潜水艦「デトロイト」の副長は識別信号のデータを渡されて口をへの字に曲げた。
「何のことかね、|副 長《ナンバー・ツー》」
艦長の言葉に、副長は手にしたサインボードを示した。
「コールサインはあるのに、『通信無用』っていうこのただし書きですよ」
「ああ、これのことか、たぶん……これが例の新兵器なんだろう」
「?」
「聞いたことはないかね? 『ボーグシップ』だよ」
「ああ、あの無人潜水艦……本気で実戦に投入するんですか?」
最近、陸の研修で教えられた少々|荒《こう》唐《とう》無《む》稽《けい》な最新情報を、ようやく副長は思い出していた。同時に少々|呆《あき》れ顔になる。
「少し声を落としたまえ、これでもいちおう機密事項だ」
まだ若い副長をたしなめながら、艦長は微《び》苦《く》笑《しょう》を浮かべた。
彼らが口にしたのは正式名称ではない。話を聞かされた潜水艦乗りが、皮肉を込めてつけた、いわば通称である。
人工知能によって制御され、空母などに備えつけられた遠隔操作によって任務を遂《すい》行《こう》する完全自動型潜水艦《フルオートメーションサブマリン》。あるいは|自立式魚雷発射ステーション《スタンドアローン・トーピードランチャー》とか長ったらしい名称のついた代《しろ》物《もの》だ。
だが、陸上ですら未《いま》だに上手《うま》くいかないAI&遠隔操作兵器が、海のなかで上手くいくとは最前線で働いている連中には未だに信じられず、ただどんな最新兵器でも最初はそんな時期があると教えられた士官クラスは「ひょっとして……」という思いで注目している。
「一隻だけ、ですか」
「たぶん、データ取りか何かだろう」
「僚艦、『キッシンジャー』、当艦を右から追い越します」
ソナー係からの報告が入った。
艦長と副長は顔を見合わせた。
その艦《ふね》こそが、彼らのいう「ボーグシップ」だったからである。
☆
第七艦隊を含めた、各国海軍はあまりのことに唖《あ》然《ぜん》としながらその状況を見ていた。
いきなり、シャンパンゴールドの宇宙船が浮上したかと思うと、その側面が大きく開き、大量のメイド服姿の美女たちが飛び降りたのだ。
ただの飛び降りではなく、一〇名ずつ、伸ばした手を繋《つな》いだり、肩を抱き合うようにしてリング状になって、だ。
あっと思う間もなく彼女たちは海面に水しぶきをぼしゃぼしゃと上げ続け、空っぽになった宇宙船から、各国の艦船に対し、全周波数で通信が入ってきた。
〈あーと、えーと、キャーティアのエリスです〉
声に続いて、同じ内容が中国語、英語、フランス、ドイツ、ロシア、韓国語で繰り返された。
〈驚かせてスミマセン。移動用クレーンが不幸な行き違いで撃《げき》墜《つい》されちゃったんで、これから手で動かします。今の飛び込みはそのためのモノです、驚かないでくださいね〉
どう対応するべきか、各国の責任者が話し合う暇もなく、
〈では、急ぎますので失礼しますね。あとから何回かこっちに同じように人員投下のために参りますので、よろしくお願いしますー!〉
言うだけ言って、さっさとシャンパンゴールドの宇宙船は水平線の彼方《かなた》へと飛び去ってしまった。
☆
「ルーロス改」から海面まで数十メートル。
着水の手前ですべてのメイドたちは、ブレスレット型に圧縮されていたキャーティアお手製のスキンウェアのカスタムバージョンを着用していた。
カスタム、といっても特殊な機能が付加されているわけではなく、単に、海中活動用のための頭部ドームと靴底部分に重りがあること、さらにデザインがメイド服に準拠したモノになっているというだけである。
海のなかには「ぬこ」部隊の小型潜水|艇《てい》が待ち受けている。
ハッチから顔を出したアシストロイドの「こちです」という電飾プラカードに従って、最初の美女たちは海の底を目指していく。
手指の先までスキンウェアに覆《おお》われ、ある意味ボンデージなメイドさん、という格好のメイド部隊は、みるみるうちに沈んで、海底にたどり着いた。
巨大|極《きわ》まる軌道エレベーターの基部の周囲は、まるで往年のハリウッドもかくやの光の城と化していた。
基部自体の電飾に灯《ひ》が灯《とも》っているのもあるが、周囲を潜水艦部隊がサーチライトで照らしているのだ。
何のつもりか、基部の一部には巨大なネオンサインの看板が取りつけられ、「おいでませ」と輝いている。
キャバレー竜宮城一歩手前、というところか。
あやまって遠くに落ちてしまったメイドたちを探しに他の潜水艇が忙しく動き回る。
「総員、点呼ーっ!」
あらかたの連中が海底に着いたと確認したメイド部隊第一陣のリーダーは声をあげた。
「番号!」「1」「2」…………で始まる点呼は、無事に最後まで終わった。
「よし、ではこれより我々は第一陣として移動を開始する!」
二列|縦《じゅう》隊《たい》になったメイド部隊は、「ぬこ」の小型潜水|艇《てい》の水先案内に従う形でぞろぞろと軌道エレベーター基部を目指す。
その頭上で、新しいメイド部隊が着水するのが見えた。
☆
「機材の投下がない? 海のなかを移動させたんじゃないの?」
データのなかに「予想成立せず」の項目を見つけ、チェックしたリュンヌの言葉に、こルメアは首を傾《かし》げた。
「違うみたい。だってあれを地上にあげて移動させるつもりなんでしょう?」
「まあ、間違いなくね……そうじゃないと意味がないから」
お菓子を撤去して広げられた地図のある箇所につけられた×印の集合部分を見やりながらニルメアは言った。
「ひょっとしてもう一回宇宙に上げて再び降ろすつもりじゃ」
「万が一のことが起こったとき、向こうが不利になるわ……いくら猫でもそれほど間抜けではないでしょう?」
軌道エレベーターが海の上に降ろされたのは偶然ではない。多少のズレが発生しても問題がない場所だからだ。
一ミリのズレが十キロのズレになるような状況で、しかも、たいした時間もかけずにそれができるものだろうか。
「ひょっとしたら、この活動そのものが何かのフェイクなのかしら?」
「あり得ない話じゃないけれど……今までの状況証拠から考えれば、それ以外のことに使えるようなモノは何一つないわ」
「…………」
二人の少女は椅《い》子《す》の背もたれを倒して考え込む。
☆
往復は三回、ほぼ五分で終了した。
ルーロスの内部は、さっき飛び降りていった華《はな》やかな女性の香りで満たされている。
「じゃ、僕らも行こうか」
いつものキャーティアお手製スキンウェアに着替えた騎《き》央《お》が言うのへ、エリスとアオイは頷《うなず》いた。
エリスはともかく、アオイと騎《き》央《お》のスーツの襟《えり》元《もと》には予備のバッテリーが装着されている……通常なら三〇分制限を、今回はほぼ丸一日に延《の》ばすためと、重力制御のためだ。
「ルーロス、後のことはお願い。待機状態で待っててね」
〈ハイです、まつですマスター御《お》達《たっ》者《しゃ》でデス〉
ぺこん、と頭を下げて奇妙な動物のホログラフィーは消え去った。
「では!」
エリスがコンソールに手を走らせて側面ハッチが開く。びょうびょうと吹きつけてくる海風は、すぐに頭部を覆《おお》うドーム状の力場に遮《さえぎ》られた。
「じゃ、さっきの皆さんみたいに抱き合って行きましょうか」
エリスが言うと、思わず騎央とアオイは顔を見合わせた。
「だ、抱き合ってって…………」
騎央が顔を赤くするが、エリスの顔も少し赤い。
「ダメ…………ですか?」
ちょっと恥ずかしそうに上目|遣《づか》いで猫耳宇宙人の少女は訊《き》く。
「さっきからメイドの皆さんがああやって降りるのを見て、すごくいいなあ、って思ったんですけれど……やっぱり、恥ずかしいですよね?」
「…………私、大丈夫」
意外なことに、きっぱりとアオイが言った。
「これから、大仕事だもの」
理由になっていない理由だが、何となく騎央は頷《うなず》いてしまった。
「そ、そうだね……大仕事だものね」
三人はおずおずと肩を組んで円を作った。
スキンウェア越しに互いの体温が溶け合う。
「じゃ、じゃあ、どうやって出る?」
「えーと、わ、わたしの方からいっせいの、で」
「了解」
「んでは…………いっせい、の、で!」
三人は同時に床を蹴《け》ってエリスの側《がわ》から空中に飛び出した。
そのまま、脚《あし》からちゃぼん、と着水する。
水しぶきは意外と小さい。
思わず息を止めた騎央だが、すぐに力場が顔を覆っているのだと思い出して目を開ける。
重力制御で三人はすみやかに軌道エレベーターの基部へと降りていった。
真っ黒い水の底だと思っていたが、軌道エレベーター基部の照明があまりに明るいので、そのへんの心細さがないのがありがたい。
海底は砂が敷き詰められて、妙に柔らかかった。
ぽん、と一《ひと》蹴《け》りすると数メートルずつ進むので、あっさりと基部にたどり着く。
「皆さん、大丈夫でしたか?」
少年の問いに、メイド軍団はにこやかな笑みで答えた。
「大丈夫、誰《だれ》一人欠けてません」
リーダーがそう答えると、騎《き》央《お》は表情を引き締め、宣言した。
「では…………そろそろ引っ越しを開始します!」
☆
ふたりの少女の結論はまだ出ない。
「でもどうやってあんな巨大な塔みたいなものを移動させるつもり……」
一番考えやすいのはあの巨大アシストロイドだが、エレベーターに向かう途中で撃《げき》墜《つい》されているから、おそらくは使えまい。
「塔というよりはエレベーターシャフトよね」
「まあ、中身は空っぽ、衛星軌道上に通じるだけの……」
言いかけたニルメアの目が見開かれた。
「しまった、それよ!」
がばっと起きあがって翼をばたつかせながら、ニルメアはフローチャートのシステム
を遡《さかのぼ》らせた。
「やっぱり…………この軌道エレベーターは建っているんじゃなくて、衛星軌道上からつり下げてる構造なのよ! 忘れてたわ完全に!」
フローチャートの一部から展開されたウィンドウに、具体的な設置方法のシミュレーションが描かれていく。
「だとしたら、地面に繋《つな》がっている部分を取り外してもたいした問題はないわ……本当の土台は宇宙にあるんだもの!」
リュンヌはそのころには必要な計算を終えている。
「普通の人間じゃ持ち上げられないけれど、軌道上にあるコントロールシステムで塔自体の質量のほとんどを宇宙側が引き受けて、キャーティアの簡易装甲服の倍力システムを使えば ……百人ほどで持ち上げられるわ! その場合、誤差はニメートル以内に納められる!」
「そうか、じゃあやっぱり…………」
ニルメアは沖《おき》縄《なわ》本島の拡大地図を凝《ぎょう》視《し》した。
「嘉《か》手《で》納《な》基地のど真ん中に移設するつもりなのね!」
☆
「おーお、始まったか」
地元銀行のATMに並びながら、騎《き》央《お》の伯父《おじ》、宮《みや》城《ぎ》雄《ゆう》一《いち》はロビー内のテレビを見て相《そう》好《ごう》を崩した。
遠距離のヘリコプターからの画像を急いで振動補整したとおぼしい、画像の粗いライブ映像がテレビに大写しになっている。
『動き始めた軌道エレベーターが、どこへ引っ越しをするのか、現在日本政府からの発表はなく、消息筋からの話によると事前勧告さえないという事態に、官房長官の……』
あれほど巨大な物が動く、というにわかには信じがたい情景に、アナウンサーの言葉も支離滅裂になりつつある。
「今のアナウンサーは言葉|遣《づか》いだけじゃなくて度胸もダメなんだなあ」
と進んだ列に合わせて移動したとたん、ATMの最前列の人たちが、そろいも揃《そろ》って係員の呼び出しブザーを押した。
ブザーに呼ばれたにしては妙に早いタイミングで係員がすっ飛んでくる。
しばらくすると、最前列にいた人たちの怒号やら、溜《ため》息《いき》やらが聞こえてきた。
それが一段落すると、係員は深々と頭をさげ、
「申し訳ありませんが、ATMによる沖縄県外銀行への振り込み、お引き落としはただ今中断されております。原因究明を今いたしておりますが、当面は窓口にてお願い致します」
とハンドマイクで訴えかけた。
むろん、今時ATMに並ぶ人間が窓口用の印鑑など持っているはずもない、不平不満があっという間に巻き起こり、係員に食ってかかる者も出る始末だ。
「…………」
その光景を眺めながら、雄《ゆう》一《いち》は苦い表情になった。
「こいつは…………マズイかもしれんなあ」
携帯電話を取り出し「アンドローラU」への直通電話の番号を呼び出す。
☆
「全員、配置につきました」
メイドたちのリーダーから報告が来る。
騎《き》央《お》も、この日のために設置された「持ち手」部分に手を入れた。
数十メートル右隣りにはエリス、同じく数十メートル左隣りにはアオイ、さらに向こう側にもメイドたちという布陣である。
こうやって、数百人のメイドたちが直径一キロ、外周三・一四キロの軌道エレベーターの基部に取りついて、いっせいに持ち上げるのだ。
「じゃあ、行きます、いち、にの、さん!」
騎央のかけ声に、全員が力を込めると、あっけなく、軌道エレベーターは持ち上がった。
質量や慣性をコントロールしている軌道上のカウンターウェイト部分は無事に機能してくれているらしい。
「皆さんの行き先はヘルメットの|H U D《ヘッドアップディスプレイ》に表示されます。その指示に従ってください」
☆
一方、「アンドローラU」のCIC。
騎央の言葉を受けて、アントニアが重々しく頷《うなず》いた。
「では、テンポを取る、皆の者、音に合わせよ!」
台の上に登った「へいほん」が両手に持った太鼓用のスティックを、目の前のティンパニーに振り下ろす。
どおん、どおん、という腹に響く一定のリズム音は、そのまま前のマイクに拾われて全員の耳元に聞こえるようになっている。
その横で「定《さだ》やん」が「えりっく・ざ・ばいきんぐ?」とプラカードに書き、「チバちゃん」が「もんてぃぱいそん?」と書いたが、皆、軌道エレベーターの動きに注目して、こちらを顧《かえり》みる者がいないとわかると、つまらなさそうにプラカードをしまい込んだ。
☆
ニルメアの要請に対し、慌てて放《はな》たれた無人海中|哨《しょう》戒《かい》機が送ってきた映像は、彼女の考えを裏づけるものであった。
「…………やられたわ」
驚《きょう》愕《がく》と呆《ぼう》然《ぜん》がない交《ま》ぜになった声でニルメアは言った。
いくらか遅れてモニターのなかに表示されているのは、巨大な建築物を持って移動していくメイドと少年少女の姿だ。
「確かに、遠心力でつり下げられている軌道エレベーターは地上側から見れば重量ゼロに等しいから、手で持ちあげることはできるけれど……ホントにやるバカが出るなんて」
「でも、行き先は決まってるんでしょう?」
「ええ。嘉《か》手《で》納《な》基地の方にはすでに迎《げい》撃《げき》命令を出してあるわ。借用期限切れ間近の軍用地とはいえ、まだ軍基地の内部だもの…………しかも、正面ゲートの真ん前に、なんて」
くくく、とニルメアは笑った。
「さあ、どうなるか、見せてもらうわ。立ち止まれば日本政府を巻き添え、そのまま行けばアメリカ軍との全面対決!」
楽しそうに天使の翼がばさばさと羽ばたく。
「逃げられないし、逃がさないわ、絶対に!」
☆
嘉手納基地は蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎになった。
軌道エレベーターが移動を開始したのみならず、その目的地が彼らの基地のど真ん中、正面ゲート入り口に、となっているという情報が来たためだ。
しかも、その土地は収用期限が切れた土地であり、書類的には空白状態にある場所でもあった。
が、軍からすればはいそうですかと明け渡すことはできない。
そこは彼らからすれば未《いま》だに己《おのれ》の祖父の、父の、兄の、あるいは先祖伝来の血が染みこんだ「確保された土地」なのだ。
陸軍のMlA1エイブラムスがキャタピラの音も高く配置され、アスファルトに固定用のピンを打ち込みながら地上兵器が次々と設置されるが、米兵たちのなかにも、とまどいの表情が濃い者が多い。
また、基地内の住宅地でもパニックが起こっていた。
何しろ、嘉手納基地が襲《おそ》われる、という事態そのものを考えている人間なぞおらず、また襲われるにせよそれは避けようのないミサイル攻撃で、こうまで時間がかかるとは誰《だれ》も思わなかったためだ。
しかも、一番大きなゲートである正面ゲートがターゲットなのだ。
家族の避難のための車の列は、別の小さなゲートへと延々続いた。
唯一、このなかで賢明だったのは基地指令と現場指揮官であり、彼は四〇年近く昔に起こった「コザ騒動」の後始末がいかに大変だったかを知っているので、戦車の砲塔をゲートの向こう側に向けさせなかったし、急に銃口の向きが変えられない重機関銃や榴《りゅう》弾《だん》砲に関しては装《そう》填《てん》をさせなかった。
あくまでもこれは「万が一の時」のための用心であると考え、しかし緊張感を失わない程度に兵を用いる準備をしていたのである。
だが、何も知らされていない沖《おき》縄《なわ》市の住民はフェンスの向こうで行われているあからさまな戦闘準備に青ざめ始めていた……アメリカ軍は、今回「も」その他の問題行為と同じく、沖縄県側にいっさいの事情説明を行わなかったためである。
☆
「厄《やっ》介《かい》なことになったなあ」
第七艦隊に合流した元アメリカ第五艦隊、アーレイ・バーク級ミサイル駆《く》逐《ちく》艦「オークランド」のブリッジから、艦長のドワイト・K・ボブソン大佐は双眼鏡を取り出し、レンズ越しにそれを確認した。
「やれやれ、確かに動いてる」
双眼鏡の視野に広がるのは直径一キロの硝子《ガラス》の塔…………軌道エレベーターだ。
いつもは穏やかなその周囲の海が、白く泡立っている。
波を蹴《け》立《た》てて進んでいるのだ。
計算された速度はパワードスーツのお陰もあって時速五〇キロのハイスピード。
半日も経《た》てば沖縄本島に上陸する。
そして、最短コースは嘉《か》手《で》納《な》基地を横切る。目的地は正面ゲート入り口になるからだ。
事前通告も、交渉も何もない、すべては予測の事態でしかないのだが、それがパニックを起こさせる寸前に来ていた。
しばらく待って、このまま予想地点……それは嘉手納基地の滑走路付近だった……に上陸するようなら、これを全力をもって阻《そ》止《し》すべし、それが彼らに与えられた任務であった。
外交チャンネルを通じて、現在交渉はスタートしているはずであるが、さて、これがどうなるのか。
「できれば、これ以上のことはしたくないんだが」
毎朝毎晩顔を合わせる、暢《のん》気《き》な造形の二頭身ロボットたちの愛《あい》嬌《きょう》溢《あふ》れる振る舞いを思い出して、ボブソン大佐は溜《ため》息《いき》をついた。
☆
「お嬢様、日本外務省の代理交渉者と、アメリカ総領事がヘリでこちらに向かっているそうです。あと沖《おき》縄《なわ》県知事も」
摩《ま》耶《や》の報告にアントニアは優《ゆう》雅《が》に頷《うなず》いた。
「よろしい。では県知事から先に会うことにしよう」
「逆ではないのですか?」
「騎《き》央《お》のアイディアからすればそのほうが妥《だ》当《とう》じゃ……それに、国の連中というのはいつも威張り腐ってつまらぬ。自分たちがてっきり一番だと思っているのに、県知事が優先されると知ったときに奴《やつ》らがどんな顔をするか楽しみじゃ」
「御《ぎょ》意《い》」
「お嬢様」
別のメイドが声をかけた。
「直通回線の三番に、宮《みや》城《ぎ》雄《ゆう》一《いち》さまからお電話ですがいかが致しましょうか?」
「何じゃ?」
「金融がらみで気になることが起こっているとか」
「?」
回線を回すように目で合図しながら、アントニアは腕置きの部分に内蔵された受話器を取った。
二言、三言|交《か》わすうちに、少女の顔色が変わる。
「わかった。報告、感謝する…………摩耶!」
と、珍しく切《せっ》羽《ぱ》詰《つ》まった表情でメイド長を呼び出した。
「何か?」
「マヌーカに連絡を取れ、確か入金はウェブ取引じゃったな? 時間を早める、今すぐに取引を行え!」
「はい!」
さっそく摩耶はヘッドセットを装着してしばらく会話をしていたが、見る間に青ざめた。
「ダメです、もうすでに全銀行におけるウェブ取引は中断しております!」
「くそ………奴らもバカではない、ということか」
エレベーター輸送における移転先への罠《わな》、および妨害工作を少しでも小さくするため、そして相手の度《ど》肝《ぎも》を抜くことで行動を遅らせるため、あえて移転先を嘉手納基地のど真ん中と発表し、ギリギリで別の土地を購入、変更するというやりかたで相手に「猫だまし」をかけるという作戦ではあったが、金融システムダウンで日本経済を混乱させてまで、キャーティアとアメリカ軍を本気でぶつける方向に来るとは、騎央はおろか、権《けん》謀《ぼう》術《じゅつ》数《すう》の世界を渡り歩いてきたアオイやアントニアにも理解の外にある行為であった。
ぎりぎりと歯ぎしりしながら、アントニアは次の命令を出した。
「引き出せ! 現金を急いで揃《そろ》えよ! 現金取引に切り替えるのじゃ!」
現金、という言葉に、それまでじーっとメインモニターを見ていた「定《さだ》やん」が振り返った。
「摩《ま》耶《や》、金庫を開け、日本紙幣をすべて引き出してマヌーカのところへ移送せよ! ……このままではアメリカ軍と戦争をせねばならなくなるぞ!」
☆
「…………」
軌道エレベーターは重くない……というのも語《ご》弊《へい》があるが、アオイにとっては正直、そんな感じだった。
やたら嵩《かさ》だけはデカイが、中身のない張り子を持って歩いているような気がする。
簡易装甲服機能を使用したキャーティアのボディスーツの力のおかげで、歩く速度も速く、何よりもみんなで何かをしている、という行為があまり経験がないのでおもしろい。
「なんか、海底ピクニックみたいですねー」
数十メートル向こうにいるエリスが、ずばり今のアオイの気分にぴったりの言葉を言い当てた。
「そうね……悪くないわ」
ぽつん、と言ってアオイは上を見上げる。
揺らめく水面が、まるで異世界の入り口のようだ。
すべてが心地よく遠い。
アオイは、くすりと微笑《ほほえ》みながらも、小さく聞こえてくる太鼓のリズムに合わせて脚《あし》を動かし続けた。
「双《ふた》葉《ば》さん、大丈夫?」
騎《き》央《お》の気《き》遣《づか》う声。
「大丈夫。このスーツのお陰でずいぶん楽だわ」
そう言いながら、見えもしない少年の顔に向けて、アオイは微笑んだ。
悪くない。この気分は、悪くない。
ふと、アオイは眉《まゆ》をしかめた。
じいっと一点に目を凝《こ》らす。
「何もいない…………わよね?」
肉眼では海面まで何も見えない頭上に何かが通り過ぎたような気が、したのである。
だが、暗視機能を強化されたバイザー越しに、代わりに遠くから一隻の潜水艦がこちらに来るのが見えた。
☆
「さぁて、ではそろそろ、仕上げにかかりましょうかね」
ニコニコと笑いながら、ニルメアは立体映像ディスプレイのスイッチに手を触れた。
「BOMB!」の文字の書かれた赤いスイッチ。
指が触れた。
☆
爆発音が水を通して内臓を揺さぶった。
即座に身体の周囲に保護フィールドが展開し、その衝撃波を和《やわ》らげる。
危うく軌道エレベーターを落としそうになった。
振動の方向を見たアオイの目には、はっきりと、アメリカ国籍とわかる潜水艦が爆発を繰り返しながら沈み始める風景が映る。
内側からの爆発、攻撃ではない。
どう見ても自沈したとしか思えなかった。
(しまった…………)
今、この状況で自沈を『撃沈』だと言い張られたら、誰《だれ》にも反論はできない。
そうした場合、世界最強の第七艦隊が動く可能性はすこぶる高い。
いやむしろ、それを望んでの自沈なのであろう。
数度の爆発を艦の中央で繰り返し、ゆっくりと潜水艦は沈み始めた。
あれが海底に着床すれば、振動はこちらを揺さぶるだろう。
もしも手を離してしまえば軌道エレベーターだってタダではすまない。
「みんな、気をつけて、振動が来る!」
騎《き》央《お》の切《せっ》羽《ぱ》詰《つ》まった声が聞こえた。
その時、海の中が揺らめいた。
巨大な影が、蜃《しん》気《き》楼《ろう》のように現れる。
「え…………?」
アオイは、自分が先ほど感じた直感が正しかったことを知った。
海の上同様、照明などで真昼のごとく明るく照らされた海底に、ずんぐりした、暢《のん》気《き》な影が忽《こつ》然《ぜん》と刻まれた。
どこか見覚えのある巨大な影は、そのまま潜水艦に向かった。
☆
「いーやっほー♪」
その影のなかで、威勢の良いかけ声が四つ響いた。
正確には威勢の良いかけ声は三つ、後の一つはやけくそ気味である。
「やーっぱ真打ちは最後の最後に登場、ってねー!」
それまで光学的、音声的に「隠れ」ていたため、消されていた室内灯が輝き、息を潜《ひそ》めていた四人の姿を浮かび上がらせる。
「ロミュランの宇宙船みたいでカッコイーネー!」
と声をあげたのはジャックであり、
「うーん、ねこたんのお陰でギリギリまで正体がばれなかったでちゅよー♪」
と膝《ひざ》の上でナビゲーションシステムと直結したアシストロイドの頭を撫《な》でまくっているのはサラだ。
「どーしてあたしまで巻き添えなのよー!」
ただ一人、この場に巻き込まれる形で同道させられた少女が喚《わめ》いた。
「家で悶《もん》々《もん》と待ってるよりはいーでしょーが、真《ま》奈《な》美《み》たん♪」
「『たん』言うなー!」
「まーまー、マナーミもいちーかも仲良くネー!」
ジャックがとりなし、真奈美の膝の上で状況をほけーっと眺めていた「ゆんふぁ」が「まーかたみこというな」とプラカードを掲《かか》げた。
『遮《しゃ》蔽《へい》』システムを統《とう》括《かつ》していたアシストロイドの「2」が「しすてむおーるぐりん」とプラカードを掲げる。
そして、この船の主《ぬし》である猫耳|尻尾《しっぽ》付きが宣言した。
「よーろしい、でぇわ、全速浮上開始ー!」
☆
ミトンを填《は》めたような巨大な掌《てのひら》が、しっかりと沈没しかけた潜水艦を支えた。
無人の潜水艦であったが、念のため周囲をエネルギーフィールドで覆い、なかから人がこぼれてもフォローできるようにする。
短い足の先、どたっと広がる靴底部分に新たに設置されたハイドロジェットと、背中の推進装置がうなりを上げ、海面へと向かう。
やがて、海を割ったのは三角形の耳。
そら豆のような巨大な頭には、何を考えてか、水中|眼鏡《めがね》とシュノーケル。
短い首に鈴。
背中に二つ並んでいるのは今は亡きマブチモーター(水中用)の超巨大化版。
昼の日差しを浴び、虹《にじ》をまといながら現れたその姿は、撃《げき》墜《つい》されたはずの「守礼皇五号《シュレイオーファイブ》」!
超特大アシストロイドは両手に抱えた潜水艦をもったまま、背中のモーターの力で第七艦隊の旗艦、ブルーリッジに近づき、彼らが迎《げい》撃《げき》態勢を取る前にその甲《かん》板《ぱん》へ「よっこいせ」と荷物を置いた。
重々しい音がして、「ブルーリッジ」が沈み込む。
「事故を起こした潜水艦、確かにおたすけしましたよー♪」
頭部に設置されたスピーカーから暢《のん》気《き》な日本語と英語が繰《く》り返された。
水中|眼鏡《めがね》にシュノーケル、背中にはマブチ水中モーター二個、という、まるで昭和の昔に売られていた夏向けのプラモデルめいた外見の巨大なアシストロイドは、駆けつけたマスコミ各社、および各国艦隊へと手を振りながら再び海のなかへ沈んでいった。
しばらく、人々はあまりの出来事にぽかんとそれを見守るのみであった。
「なんだ…………いったい?」
誰《だれ》かの言葉が空白の時間を解除した。
当然、船の上は騒《そう》然《ぜん》となった。
☆
「…………やられたわ。なるほど、最初からこういうつもりだったのね」
ニルメアは遅れて入ってくるライブ映像を見ながら苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔になった。
撃《げき》墜《つい》した、と思ったあの三つのパーツは完全なフェイクだったのだから無理もない。
「やれやれ、今回も負けね…………まあいいわ。こっちのやるべきことはお陰で何とかなったわけだし[#「こっちのやるべきことはお陰で何とかなったわけだし」に傍点]」
そう言って彼女はリュンヌに「もう良いわ、こっちの方は終了して」と告げた。
「いいの?」
さらに次の作戦チャートを広げようとしたリュンヌが尋《たず》ねるが、ニルメアはゆっくりと首を横に振った。
「ええ。全部に勝利するのはあまり良い方法じゃないわ」
☆
「まあ、こちらも商売でございますから、お約束のお金をいただかないうちに取引を成立させる、というのは無理でございますねえ」
支店長は口《くち》許《もと》だけの笑みを浮かべた。
「払わないというのではありません、本日、手持ちの現金をすべてお支払いし、翌日には残りの金額を、手数料込みでお支払いするので、本日だけはどうか、ということなのです」
マヌーカは内心の煮えたぎりを押さえ込みながらも懇《こん》願《がん》した。
「ウェブによる商取引が何らかの事惰で日本国内全体で不可能になっているというお話は今もニュースでやっていたではありませんか」
今回、ギリギリまで軌道エレベーターの移転先を嘉《か》手《で》納《な》基地の内部と思わせて敵の緊張をあおり、ギリギリのところでまるっきり別の場所に移転先を決める……相手に一泡ふかせつつも、安全に移転を終了させるための作戦だ。
そのために、わざわざ「守礼皇五号《シュレイオーファイブ》」の偽物を用意してまで敵の目を「力押し」一点に引き寄せることまでしたというのに。
すべてが、最後の最後になって、崩れ去ろうとしている。
しかも、自分の責任において、だ。
マヌーカの背筋は凍りつく寸前だった。
「まあ、それはそれ、これはこれ、ですな」
支店長は笑みを崩さない。
「現金の納入がなければ、我々も証紙に印鑑を押せません。何しろいろいろな詐《さ》欺《ぎ》が流行《はや》っておりますから」
「貴様、モルフェノスの人間の言葉を疑うか!」
怒ったメイドの一人が詰め寄ろうとするのを、マヌーカは手で制した。
不動産会社本社からの圧力を、と思い、先ほど別室で手を打っては見たが、この状況は不動産屋のほうでも恐慌状態を引き起こしているらしく、それどころではなかった。
つまり、この場所は孤立無援なのである。
ついでに言えば、マヌーカはアントニアたちのグループにおける経理管理者でもあり、摩《ま》耶《や》の次に経済状態を把握している。
モルフェノスの財産は全地球の富の一割を構成するほどであるが、それゆえに現金の保有はさほどではない…………とは言ってもつねに億単位の金銭は保有しているのであるが、あくまでも現金保有はドルがメインであり、また貴金属は額が大きすぎるものがほとんどで(なぜなら、そこに手をつける、という状況は本当に最後の最後であることになるからだ)、こういう微妙な額の買い物のために即換金できるとは思えない。
また、場合によってはそれがますますこの国の経済をかき回す可能性もある。
つまり、金庫のなかにあるドルよりもはるかに少ない金額の円紙幣で、今彼女たちが買おうとしている土地の代金がひねり出せるか、と考えると。
(…………これは、ギリギリのところで難しい)
とマヌーカは判断している。
金庫の金は出入りしているから微妙な増減はあるものの、おそらく、今朝彼女が出発した段階で|札束一つ《ブロック》分…………およそ一千万円ほど足りないはずだ。
(いっそ、われわれ全員で消費者金融に駆け込んで)
とも考えたが、一〇〇人のメイド部隊の審査が終わる頃にはおそらく、「こちらが指定した」取引時刻は終了してしまう。
県内の「知人」たちのなかで、こういう場合頼れる人間をまだ作っていないのが痛い。
そういう人物から借金をしてでも、という手が使えないのだ。
「そうですねえ……」
眼鏡《めがね》の奥の細い目が、いやな光り方をした。
「まあ、魚心あれば水心、とも申しますけれどもねえ」
口《くち》許《もと》が、舌なめずりでもしそうなほどだらしなく歪《ゆが》む。
「…………」
一瞬、信じられない珍獣を見たような気分で、マヌーカは支店長を見た。
時折見かける日本製ドラマで、そういうキャラクターが出てくるのは知っているが、まさか実在するとは思えなかったのである。
(やはり……撃《う》つか)
銃で脅《おど》して書類を書かせ、あとは自分の責任であったと自首して出て、この取引をまとめる……そこまでマヌーカが思い詰めたとき。
窓ガラスが粉砕され、荒縄で縛られた銀色の物体が三つ、テーブルを粉砕して飛び込んできた。
「!」
思わず飛び退《の》くマヌーカの耳に、それまで防音ガラスでシャットアウトされていたヘリの爆音が轟《とどろ》く。
銀色の物体の正体はサムソナイト製の巨大なジュラルミンケースだった。
さらに、ジュラルミンケースにはおまけがついていた。
通常型と違い、五本の指を持つ大きな手が「おまちー」と書かれたプラカードを振った。
丁稚《でっち》型アシストロイド「定《さだ》やん」は、どこか暢《のん》気《き》な造形で社長に向き直ると、別の…………明らかにアントニアの手による文字の書かれたプラカードを掲《かか》げて見せた。
「一七億九千万円、確かにお送り致しました、アントニア・リリモニ・ノフェンデラス・パパノーガス・アレクロテレス・クノーシス・モルフェノス…………?」
思わず声に出して読んでしまい、支店長は眼鏡をずらしたまま、引きつった笑みを浮かべた。
「ば、バカを言っちゃいけない、必要なのは一八億だ、びた一文まけられないですよ、とにかく一八億…………」
ぱかあん。
その横顔を、「定やん」が手に持った何かではり倒した。
さらに、さらに、さらに。
右に左にそれぞれ三回。目にも止まらぬ早《はや》業《わざ》である。
「な、なにをするんだ、このぬいぐるみは!」
怒鳴った支店長の前に「ふそくぶんだす」とのプラカードとともに、ぽん、と札束が一個|放《ほう》り出された。
呆《ぼう》然《ぜん》とする支店長の前でくるりとプラカードが裏返り「いっせんまんえんあります。かぞえなはれ」と。
「『定《きだ》やん』!」
思わずマヌーカがアシストロイドに飛びついて頬《ほお》ずりした。
「ありがとう、ありがとう!」
どこか心地《ここち》よさげに豊満なマヌーカの胸に抱かれて頬ずりされながら、「定やん」は「かかずさだきちおとこでござる」とプラカードを掲《かか》げた。
☆
海上から戻ってきた超特大アシストロイドは「ぬこ」艦隊と合流して塔を先導するように泳ぎ始めた。
「いったい、どういうことなの?」
アオイの問いかけに答えたのは、意外にも騎《き》央《お》だった。
『僕が頼んだんだ』
「え?」
『きっとあいつらのことだから、最後の最後に何か仕掛けてくると思って』
『まーそこであれよ、急いで作ったダミーを使って派手に撃《げき》墜《つい》されて、本物はこっそり那《な》覇《は》の港からここまで超伝導推進でやってきた、ってわけ』
『超伝導推進ねえ……≪ぬこ≫部隊の船に引っ張ってもらってただけだけどねー』
いちかの補足に、真《ま》奈《な》美《み》のツッコミが入る。
「真奈美?」
『家で留守番してたら「どーせ暇なんでしょ」って引っ張ってこられたのよ』
いささかむすっとした声で真奈美が答えた。
『まーったく、どうして地球の猫はこうもアレなのかしらねー』
『ぬははは、そりわ人徳、ちゅーことで♪』
いちかはからから笑って答えた。どっちもいい心臓と言える。
『まあ、おかーゲ様で『スターウォーズ』のハン・ソロよろしくカッコイイ真似《まね》ができまーシタネ』
真奈美の家の居《い》候《そうろう》であるCIA局員が落ちをつけた。
「…………」
思わずアオイは呆《ぼう》然《ぜん》とする。
一見気づかないが、この組み合わせがかなり壮絶な呉《ご》越《えつ》同《どう》舟《しゅう》だということを、彼女だけは気づいていた。
それが不思議に思えないのはどういうことなのか……。
何となく、数十メートルの彼方《かなた》にいる騎央とエリスを見やってしまうアオイであった。
☆
かねてから嘉《か》手《で》納《な》基地と第七艦隊が全チャンネルを使って警告していた、最終警戒ラインギリギリの位置で、巨大な塔は向きを変えた。
第七艦隊と嘉手納基地に安《あん》堵《ど》の空気が流れたのは言うまでもない。
数分の後、嘉《か》和《かず》家に残されたメイドたちと、地球のどの政府よりも先にアントニア自身から事情説明を受けた沖《おき》縄《なわ》県知事の口から、各国政府に新しい軌道エレベーターの落ち着き先、そして同時にキャーティアの正式な大使館建設予定地が知らされた。
それは沖縄の北部、普《ふ》天《てん》間《ま》基地のゲートの真ん前にある土地であった。
嘉手納基地から北上すること数十キロの地点であり、アメリカ軍の訓練などが行われる時以外、ふだんは静かな町である。
夜遅く、一二時近くに、海が割れた。
すでに気の早いマスコミがずらりと並んでフラッシュやら投光器やらを向ける中、直径一キロの硝子《ガラス》の塔はゆっくりと海から上がってきた。
驚《きょう》愕《がく》と感嘆の声。
それは数百名の男女によって「持ち運び」されてきたのだ。
メイド服らしいスキンウェアの集団と、キャーティア独自のスキンウェアを着込んだ少年少女によって、それはまるで幻のように、しかし同時に圧倒的質量を人々に見せつけながら悠然と砂浜から道路へと出た。
わざとなのか、それとも技術的な理由なのか、彼らの頭部はすっぽりと球状のガラスめいたモノに覆われ、鏡のような表面のそれは彼らの顔を判然とさせない。
まるで、別の国から来た住人のようであった。
「皆様、ご覧いただけますでしょうか? あの巨大な硝子の塔が、ゆっくりと、ゆっくりと地上にあがり、こちらへ向かってやって参ります」
フラッシュが焚《た》かれ、照明の輝きが向けられる中、アナウンサーが興奮気味に状況を伝え続ける。
「今にもこちら側へと倒れてしまいそうですが、ご安心ください。あの塔は物理学的には衛星軌道上からつり下げられており、質量などは宇宙に出ている部分で調整されているため、重量的には…………」
幸い、ガードレールも並木林もない所で、移動には特に問題なかった。
持ち運びしているメイドたちのうち数名が列を離れて、念のための交通整理をした以外は停滞することもなかった。
ふだんは口やかましいマスコミ各社の連中ですら、ここまでのことが、と事態が脳に本格的に浸透していくことで次第に口数が少なくなり、この頃《ころ》には非現実と現実が交《こう》錯《さく》する光景に声も出ないありさまだ。
「えーと、このへんでいいのかな?」
黒いスキンウェアに身を包んだ騎《き》央《お》が尋《たず》ね、エリスが腰に下げた情報端末を開く。
「えーと、右に一歩、前に二歩進んでください、それでドンピシャです」
「じゃあ、動くよ……いち、にの、さん! はい右一歩、前に一、二歩!」
その通りに硝子《ガラス》の塔は動き、感動のどよめきが起こる中、位置決めが終わった。
「じゃあ、降ろします…………ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり……」
運搬してきたスキンウェアの男女は責任者である騎央の言葉に従って、そろそろと腰をかがめていく。
地面と、軌道エレベーターの底の幅が、指一本ぎりぎりまでになった。
「じゃあ、着床させます…………いち、二の、さん!」
かくて砂浜から上陸した軌道エレベーターは数分後には国道五八号を横切って北上し、目標の場所へ設置されたのである。
設置の瞬間も振動はなかった。
ただゆっくりと降ろされ、慎重に地面と本体の間からそれぞれが手を抜いたのである。
その様子は全世界がテレビを通じて目撃した。
予定地の通達が遅れたこと、混乱を招いたことに関してはすぐにキャーティア大使館側から謝罪の言葉が出た。
むろん、それに対する非難や批判も相次いだが、運搬者の一人でもあり、キャーティア大使館の地球|側《がわ》代表である嘉《か》和《かず》騎央少年は、引っ越しを終えた身体で記者会見に臨むとひたすら頭を掻《か》き、「申し訳ありません」と頭を下げた。
ここで興味深いのは、アメリカの国務省の長官から「まあ、仕方がないじゃないか、高校生のしたことだし」という好意的な声明が非公式にあった、ということである。
「高校生のしたことだし」という言葉は、マスコミによって面白|可笑《おか》しく伝えられ、物事の本質を上手《うま》く煙《けむ》に巻くことができた。
嘉和騎央に対する非難と中傷は、その後も残ることになったが、かねて予想されたような激しさは、この一言によって回避されたと言っていい。
この「聖バレンタインデーのお引っ越し」は後に教科書に載るような騒ぎとして、そして、その後のキャーティアと地球人類の関《かか》わり合いにおいて重要視されるエポックな出来事とされることとなる。
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エピローグ ところでこのチョコ誰のチョコ?[#「エピローグ ところでこのチョコ誰のチョコ?」は太字] [#小見出し]
☆
光が収束して、玄関の三和土《たたき》で人型になった。
「はにゃー」
エリスたちが、那《な》覇《は》市の騎《き》央《お》の家に帰ってきたのは午前三時を回る頃《ころ》であった。
「はい、お疲れちゃーん」
といって待ち受けていたのは真《ま》奈《な》美《み》といちか、ジャックたちだ。
「ささ、上がって上がって」
「うにぃ〜」
「あー疲れたぁ」
「…………」
騎央、エリス、アオイの三人は言われるがままにされるままに家に引っ張り上げられた。
それまで詰めていたメイド数名はもう迎えの車で帰っている。
「帰ってるんでしょう騎央君〜話聞かせてよ〜!」
「ドケって言ってるだろ警官!」
「エリスちゃーんお話お願いします〜」
「通せよポリ公!」
周囲ではマスコミと警備の警官たちが揉《も》めている声が聞こえてくるが、誰《だれ》もフォローに行こうという気力も湧《わ》かない。
何しろ一二時間近く歩きづめなのである。
さすがにキャーティア母船に頼んで、ここまで転送してもらうぐらい誰もが疲労|困《こん》憊《ぱい》していた。
それでも、メイドたちを先に送り出し、自分たちは一番最後なのだから、騎央たちも気を遣《つか》っているのであった。
「あうー」「うみー」「…………」
とりあえず、ソファーに横になると三人ともひっくり返った。
「ほい、とりあえず飲み物」
そう言っていちかと真奈美が手渡したポカリの缶を手に取り、んぐんぐ飲む仕草もアシストロイドに似てしまうほど、疲れ切った三人である。
「ところでさ……」
ふと、思い出したように騎央は言った。
「何か忘れてるような気がしない?」
「んーと、実はわたしもそう思うんですが…………」
「私も…………」
そんな三人を見ていた真《ま》奈《な》美《み》が、すぐにその理由に気づいたが、いちかが横から手を引っ張ってそれを制した。
☆
「本日の、功労賞なのじゃ」
アントニアがそう言って、「へいほん」と「定《さだ》やん」の前にステーキが置かれた。
まあ、そんなこと言っても形ばかりで、横に並んだ「チバちゃん」や「錦《きん》ちゃん」の前にも同じ分量のステーキが置かれているのではあるが。
「では、どうぞ」
摩《ま》耶《や》が言うと、四体のアシストロイドは「いただきます!」と書いたプラカード(および扇《せん》子《す》)を掲《かか》げて食事に取りかかった。
「しかし、『定やん』はえらいのう。いつの間にあんな金を作ったのじゃ?」
頭を撫《な》でながらアントニアが尋《たず》ねると、「定やん」は「ひごろのけんやくだす」と単純な答えを返した。
「ふむ、そうか」
明らかに信用していないが、相手を認めている不敵な笑顔でアントニアは頷《うなず》いた。
「騎《き》央《お》も聞いたら喜ぶであろうぞ」
と、「定やん」はナイフとフォークを止めて、「それこまりま」とプラカードを掲げた。
「どうしてじゃ?」
アントニアの問いに「だんさんにはないしょにしてやっておくれやす」と、意外なことを口(?)にした。
「なぜに内《ない》緒《しょ》なのじゃ?」
丁稚《でっち》型アシストロイドは「だんさんがわてにかしだのかりだのかんがえるのがいやなんどす」と答えた。
「さよか」
思わず大阪弁で答えてしまい、アントニアは慌《あわ》てて口を押さえた。
「確かに、金銭は人の背中を丸めもすれば伸ばしもする…………よろしい、このこと、極《ごく》秘《ひ》にしようぞ…………皆の者、良いな?」
メイドたちも、「へいほん」も含めたアシストロイドたちも頷いた。
「チバちゃん」と「錦ちゃん」に至っては腰に差した刀の鍔《つば》にフォークを打ち付け、「ちゃりん」という音をさせた……サムライ型だけあって金《きん》打《ちょう》という行為で「約束」としたつもりらしい。
「でも、本当にありがとう」
そう言って側《そば》に来たのはマヌーカであった。
「あなたがいなければあの時、どうなっていたことか」
何しろ一時は犯罪者になることも覚悟の上であったのだから、マヌーカの感謝も無理はなかった。
だが、意外に照れ屋な「定《さだ》やん」はハンチングの鍔《つば》をひょいと押し下げて、その感謝の言葉を「はーどぼいるど」にかわし、「たいしたことやおまへん」とプラカードを掲《かか》げた。
「でも、私は感謝するわ…………ありがと」
ちゅっ。
「定やん」の頬《ほお》にマヌーカの唇《くちびる》が押し当てられた。
今、騎《き》央《お》の家に残っているサラがこの場にいれば今《いま》頃《ごろ》大騒ぎになっていたかもしれない。
もっとも、それはメイドたちにとっては当然織り込まれている状況のようで、
「副長がいないうちに私もー」
と誰《だれ》かが言うと、
「じゃ、私も」「私も」
と、ちっちゃな英雄に感謝の意をささげんと集まり始める。
小さなキスの音がしばらく響き、しばらく丁稚《でっち》型アシストロイドは美人メイドの山に埋もれて見えなくなった。
他《ほか》のアシストロイドは食事の手を止めて「いいなー」とその光景を眺め、アントニアと摩《ま》耶《や》は微《び》苦《く》笑《しょう》を浮かべた。
「定《さだ》やん」、モテモテの巻、であった。
☆
目が覚めると、騎《き》央《お》の家のソファーの上であった。
「!」
びっくりして思わずアオイはその場に起きあがり、とんび座りの恰《かっ》好《こう》のまま周囲を見回した。
あからさまに身体の動きがおかしいことに気づく。
疲労が筋肉と骨の間にびっちりと詰め込まれて、ぎちぎちと音を立てるような、筋肉が悲鳴を上げる寸前の状態にあった。
無理もない。ずっと軌道エレベーターを持って歩いていたのだ。
しかも一二時間。
全然疲労らしいものを感じたわけではなかったが、それなりに蓄積があったらしい。
腰のあたりに毛布がわだかまってるところを見ると、真《ま》奈《な》美《み》か誰《だれ》かが冷えないようにしてくれたらしい。
とはいえ、人の気配はもうなかった。
家の外にあるのは、おそらくマスコミのものだろうと判断する。
場合によっては極寒の北海道の端で毛布なしで眠ることも可能な少女は、その心《こころ》遣《づか》いが嬉《うれ》しかった。
改めて毛布を肩から羽《は》織《お》るようにする。
だが、体中が疲労でバキバキと音を立てそうなことに変わりはなかった。
しばらくぼんやりしていると、目の前の風景に何かが足りないことにようやく気づく。
「あ…………『チバちゃん』に『錦《きん》ちゃん』」
それだけではない。騎央の「定やん」もアントニアの船に預けたままになっている。
時計を見ると夜中の四時を回っていた。
「…………」
と、エリスの通常型アシストロイドにして、今回は嘉《か》和《かず》家でお留守番をしていた「6」が小さなメモを持ってやってくる。
「?」
広げてみるとそれはFAXの感熱紙で、「『チバちゃん』『錦ちゃん』『定やん』は明日までこちらで預からせていただきます」とアントニアの文字(サイン入り)で書かれていた。
とりあえず、安《あん》堵《ど》の溜《ため》息《いき》をついてアオイは「あとで騎央君にも見せてあげて」と紙を元通り畳《たた》んで「6」に手渡した。
「6」は頷《うなず》いてそれを片手に、部屋の奥へとトテトテ引っ込んでいく。
「…………」
思わず「忘れて」しまった二体のアシストロイドに(ごめんね)と内心手を合わせながら、アオイは周囲を見回した。
応接間の、残ったふたつのソファーには騎《き》央《お》とエリスが丸くなっている。
それが、まるで姉弟の仔《こ》猫《ねこ》のようで、思わずアオイはくすりと笑った。
(そういえば、キャーティアシップで見た仔猫たちもそうだったわね)
とか思っていると、ひょい、とエリスが起きあがった。
「!」
思わず硬直するアオイだが、エリスはほけーっとした半ネボの状態でふらふらと頭を揺らしながらソファーから降りると、少女の横をすり抜けてトイレへと入った。
しばらくして中から出てくる。
再びアオイの横をすり抜け…………なかった。
「ぬー」
と短く言うと、そのままアオイの横に滑《すべ》り込んでくる。
「わ!」
思わず声を上げそうになるのを必死に堪《こら》えると、そのままエリスは「ぬーに」とかいいながらアオイに抱きついたまま、ころんと横になった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」[#特大見出し]
思わず悲鳴を上げようとしてはやめ、あがいては逃れられず、アオイは進《しん》退《たい》窮《きわ》まって脳の中が真っ白になった。
「〜♪」
エリスは暢《のん》気《き》なもので、微笑《ほほえ》んだりしながらそのままアオイをお気に入りの縫いぐるみのように抱きしめる。
「ちょ、ちょっとエリス、エリスったら!」
アオイの必死の囁《ささや》きも、眠りこけたキャーティアには聞こえないらしい。
「にゅー♪」
じきに、規則正しい寝息が聞こえてきて、アオイは途方に暮れた。
「…………まったく、もう」
だが、それもまたエリスらしいと、小さく微笑んで目を閉じた。
やがて、「6」が応接間に戻ってきた頃《ころ》、寝息はみっつに増えていた。
変わり者のアシストロイドはそっと毛布をかけ直し、ふたりの少女が寝冷えしないようにすると、自らもまるで欠伸《あくび》をするようなそぶりをしながら、仲間たちが待機している仏間に戻っていった。
☆
最後にババ抜きで勝ったのはアントニアだった。
「お嬢様、そろそろお眠りになりませんと」
「う…………む」
ようやくアシストロイドたちに勝ったことで緊張の糸が切れたらしく、すでに半分船を漕《こ》いでいるアントニアは、摩《ま》耶《や》に促《うなが》されると素直に頷《うなず》いて立ち上がった。
本日はお泊まりと決まったアシストロイドたちは「あんとにあちゃんおやすみー」と書いたプラカードを振ってお見送りである。
「うむ、先に休むであるぞ」
アントニアは寝ぼけ始めた顔で微笑《ほほえ》み、手を振った。
ただ一体、「へいほん」だけが主《あるじ》に付き添ってトコトコついていく。
アントニア専用の遊戯室のドアが、主とその小さな従者を奥へ吸い込んだ。
「あなたたちも、明日は早いから、きりの良いときに休みなさい」
摩耶もその後を追う。
ドアが閉まった。
言われたとおり、というわけではないだろうが、残された「定《さだ》やん」たちもカードを整理して、そろそろ休もうか、という時に、別のドアが開いた。
「あ、アントニア様やっぱりもう寝てるみたい」
ひょこ、と顔を出したのはマヌーカを始めとしたメイドたちである。
半分は寝間着姿だが、残り半分は哨《しょう》戒《かい》任務の間を抜けてきたらしく、メイド服のままである。
「ねー、三体ともしばらく大丈夫?」
一番若いメイドが尋《たず》ねると、「定やん」たちは顔を見合わせた。
「今日は副長もさっさと寝ちゃったんで、いっしょに遊べたらナーって思うんだけど……どうかしら?」
マヌーカの言葉にしばらく「定やん」「チバちゃん」「錦《きん》ちゃん」の三体は顔を見合わせて話し合うように頭を動かしていたが、「錦ちゃん」が「じゃあ、にじかんだけでし」とプラカードを掲《かか》げた。
「やったー!」
黄色い声をあげて、メイドたちはアシストロイドを囲んだ。
☆
摩耶の手が、そっとアントニアのシーツを肩までしっかりかぶせた。
「おやすみなさいませ、お嬢様」
すでに寝息を立て始めているアントニアに囁《ささや》いて、摩耶はアントニアの部屋を整えた。
その側でじっと「へいほん」が摩耶のやることを見ている。
「お前も早く寝なさい」
アシストロイドに睡眠は必要ない、と知っていながらも、つい摩耶はそう言ってしまう。
そしてこっくん、と「へいほん」は頷《うなず》いて、ベッドにもたれかかるようにして床に座り込んだ。
腕を組み、まぶたが閉じられる。
「おやすみ、『へいほん』」
呟《つぶや》くように言って、摩耶は部屋の明かりを落とし、音もなく部屋を出た。
☆
「…………」
いきなりいちかに拉《ら》致《ち》されるような形で「守礼皇五号《シュレイオーファイブ》」に放《ほう》り込まれてナビゲーターの真似《まね》ごとをさせられた真《ま》奈《な》美《み》は、家に帰ってきてすぐに眠ったのは良いものの、何となく夜中に目が覚めていた。
ジャックは隣りの部屋でどうやらすっかり眠っているらしく、彼女が起きても何の反応も見せない。
ただ、「ゆんふぁ」だけが主《あるじ》が起きたのを察知してひょこひょこと現れる。
「ちょっと目が冴《さ》えただけよ、あんたは休んでなさい」
というものの、いつも通り律《りち》儀《ぎ》なアシストロイドの答えは「きにしなすんな」という簡単なものだった。
微《び》苦《く》笑《しょう》をしながら何となくパソコンを立ち上げる。
自分たちがやったことがドレくらいの影響を及ぼしたのか、少し興味があったのだ。
今日の出来事はどのニュースサイトでもトップに扱われている。
むろん、好意的な意見ばかりではない。賛否両論、ましてことがマスコミ規制を越えて目立つようになった以上、意見も膨《ふく》れ上がり、そのなかには当然手厳しいものもあれば、「自分が」目立ちたいがために罵《ば》詈《り》雑《ぞう》言《ごん》を並べ立てるモノもある。
特に非難が集中しているのは嘉《か》和《かず》騎《き》央《お》だった。
「…………」
あまりこのへんを詳しく読んでしまうと今度は眠れなくなるのですっ飛ばし、真奈美はつとめてニュースのリンクを辿《たど》っていくのみに止《とど》める。
ふと、「NEW!」の文字が増えた。
クリックする。
「え?」
しばらくだまりこみ、真《ま》奈《な》美《み》はマウスのスクロールボタンを回した。
「米、対キャーティア外交交渉団の結成を国連に提議……米を中心にした、宇宙外交本格化……?」
最後まで記事を読み、さらに元に戻ってもう一度読み返す。
「……これって……どういうこと?」
しばらく腕組みして考え込む。
「ゆんふぁ」が部屋に備えつけのT‐FALの電気ケトルからアールグレイティーを入れて持ってくるが、しばらくそれに気づかないほど、真奈美は思考に没頭していたが、やがて顔をあげ、アールグレイを受け取って一口すすると、携帯電話を取りだして、ある電話番号を呼び出した。
☆
「…………」
ちょっと真奈美たちの家から離れたところで、同じように腕組みをしているものが一人。
その携帯が「少年よ」を流し始めた。
布《ふ》施《せ》明《あきら》の歌声が華々しく盛り上がるよりも早く、持ち主は携帯を開き、猫の耳の下、人間の耳に押し当てる。
『あ、いちか?』
真奈美の声に、地球産猫耳|尻尾《しっぽ》付きのいちかはそれ以上の言葉も待たず、「やっぱり同じ情報《もの》、見てたみたいね」と短く応じた。
「真奈美ちん、これどう思う?」
いちかのノートパソコンに表示されていたのはロイター外電で「アメリカ、対宇宙人交渉団結成を国連に提案!」とある。
☆
「そっちも同じこと考えてると思うけど…………額面通りの意味じゃないわ」
素早くあちこちの外国語ニュースサイトを回って自分の憶測を補強しながら真奈美は言った。
「アメリカが中心になって国連主導の交渉団を作る、ってことは、これまで私たちのところに接触してきたような小さな国の動きを封殺できる、ってことよ。ヨーロッパの各国で見られていた抜け駆け交渉は、これでできなくなる」
さらにそれだけじゃない、と真奈美は付け加えた。
「アメリカが中心、ってことはいくらでも引き延《の》ばしができて、その間、決裂のための破壊工作とかもやり放題、ってことだと思う」
『さあすが、元CIA志望者』
「一言余計よ」
苦笑しながら、真《ま》奈《な》美《み》はとにかく、明日の朝の会議にはアンタも出て頂《ちょう》戴《だい》、と付け加え、携帯を切った。
重い溜《ため》息《いき》を、真奈美は吐いた。
自分たちが相手を引っかき回してやろうと軌道エレベーターのことで右往左往している間に、相手はもっと現実的な手段を打ってきたのだ。
これで、しばらくはキャーティアと地球の外交は足踏み状態になる、と真奈美は判断していた……今までの指揮官とは違い、今度の指揮官は、まるで天使のようでありながら、同時に性格の悪さを感じさせた第一印象以上に「食えない」相手らしかった。
「騎《き》央《お》…………」
真奈美は電気の消えた向かいの家に視線を注いだ。
「あんた…………本当に大丈夫?」
我知らず、寂しげな声が出た。
それは、朝がきて、このニュースを知ったときの少年の反応と、これからのことをおもんぱかっての言葉であった。
☆
翌朝、しっかり抱き合って目覚めたエリスとアオイは、気恥ずかしい笑みを浮かべながら顔を洗い、居間に戻ってきた。
そこには、難しい顔をした騎央が、あるものを前に腕組みしていた。
これだけは、昨日の仕事前に「ルーロス改」から転送しておいた学生|鞄《かばん》である。
「どうしたんですか、騎央さん?」
「えーと、エリス」
「はい?」
「君が僕にくれたチョコは一個だけだよね?」
「はい」
「えっと…………その…………双《ふた》葉《ば》さん?」
「…………は、はい」
「そっちも一個、だよね?」
「ええ」
「じゃあ」
と、少年はカバンを開けて中から小さな箱を取りだした。
うち二個にはエリスとアオイは見覚えがあった。
それぞれが自分の送った物だからである。
問題は、見知らぬ小箱がさらにふたつ、あったことだ。
「騎《き》央《お》さん、どなたからですか、それ?」
「わからないんだ」
ふたりの方を振り向いた少年は、途方に暮れた声を出した。
「カードもないし、差出人も書いてない。振ってみたけどメッセージカードらしいのも入ってる気配がないし……もしかして、誰《だれ》かに送るはずのものが間違って持ち込まれたんじゃないか、って思ってさ」
「…………」
ふたりの少女は、思わず顔を見合わせた。
「こういうのって、大事な思いがこもってるモノだろ、間違えて僕のところにきたんじゃないかと思うんだ……だとしたら下手《へた》に開けるわけにも行かないし」
「…………」
「…………」
騎央は間違っている、とアオイとエリス両方とも思っていた。
このチョコレートは、間違いなく彼に向けてもたらされたものに違いない。
問題は、誰が、いつ、どこで少年のカバンに滑り込ませたか、ということだ。
そして、そんなことをするということは……。
「えーと、これってつまり…………」
「前途多難、というか…………」
アオイも完全にとまどった顔になる。
「また、一波乱、てことでしょうか…………ね?」
エリスが小首を傾《かし》げた。
「え? どういうこと?」
事情が理解できない騎央が尋《たず》ね、アオイとエリスはそれぞれの思うところを口にした。
やがて「あさごはんでしよ」とプラカードを掲《かか》げた、エプロン姿の通常型アシストロイドたちが応接間に入ってきて「?」と首を傾げた。
「うーん…………」
「…………」
「……」
三人の少年少女は、まだこれからの一波乱も知らず、ただひたすらに等身大の問題に思案投げ首の状態であった。
[#地から1字上げ]「バレンタインデーのおひっこし」終
[#改ページ]
あとがき[#「あとがき」は太字] [#小見出し]
えーと、神《かみ》野《の》オキナでございます。
年の瀬も押し迫っているころでございますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
私は毎週楽しみにしていた「仮面ライダー響《ひび》鬼《き》」が路線変更&脚本家変更でひどいことになっているので、ちとガッカリしております(この本が出る頃《ころ》には元に戻ってますように)。
あれは私のような一週間の区別がよくつかなくなる商売の人間にとっては非常に良い区切りの番組だったんですが。
それはともかく。
前回は夏の発行だったので夏のお話でしたが、今回は冬ですのでバレンタインデーのお話であります(笑)。つとめてこういうイベントは拾っていこう、というのが「あそびにいくヨ!」のテーマでもあるので、異星人接触テーマを進めろ! という方々には申し訳ないですが…………まあ、こんな大きな問題がすぐに片づくわけはないので長い目で見てやってくださいませ。
騎《き》央《お》たちも次の巻ではようやく二年生。お話の上ではようやく半年をすぎたばかり、というのが感慨深い話でございます。
あと、前回かなりの衝撃をもって迎えられたチャイカの子供ですが(笑)今回は長女が同乗でございます。つれているアシストロイド同様、どうぞごひいきに。
まあ偶数巻はこれまでシリアスの度合いが多い話だったのですが、今回は半々、というところでしょうか。
そんな次の巻は奇数巻ですが、ちょいと今までと違って、のんびりムードは半分ぐらいになるかもしれません(理由はこの巻を最後まで読まれればわかるはず)とはいえ、あの連中がそうそうなことでガラリと人格が変わるわけではないので、お楽しみに。
今回も、さまざまな人たちにネタ出しを手伝っていただきました。
漫画家の環《たまき》望《のぞみ》さん、田《た》沼《ぬま》雄《ゆう》一《いち》郎《ろう》さん、作家の榊《さかき》一《いち》郎《ろう》さん(いちかの客演、ありがとうございました。いずれこっちで榮《えい》太《た》郎《ろう》ちゃんを!)、和《わ》田《だ》賢《けん》一《いち》さん、友人のなかえいしんさん……他、読者の皆さんも含め、さまざまな方たちのご協力の下、今回も本を出すことができました。感謝致します。
またイラストの放《ほう》電《でん》映《えい》像《ぞう》さんはもちろんのこと(毎度バカネタを素晴らしい絵にしていただき、本当にありがとうございます)、担当のオーキドさん、編集長さんにも多大なお世話になっております。
どうぞ今後もよろしく。
そして、何よりもこの本をお買いあげいただいた読者の皆さん。
どうぞ来年もよろしくお願い致します。
では、次の本で。
[#地付き]師走《しわす》にはもう少し遠い日に。
※珍しく追伸
えーと、どういうわけだか有り難くも嬉しいことに、「あそびにいくヨ!」がCDになります! 来年の一月末発売だそうです。わーお。
騎《き》央《お》がレントンでエリスがまほろさんで、アオイが眼鏡《めがね》の菊《きく》川《かわ》さん、さらに叔父さんは砂漠の虎で先生はメイド学校の理事長さんという豪《ごう》華《か》絢《けん》爛《らん》なキャスティングで、ちょいと今でも信じられません。残念ながらアシストロイドの声は無いんですが(当たり前だ)どうぞこちらのほうもよろしくお願い致します!
[#地から2字上げ]神野オキナ