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あそびにいくヨ!2 作戦名『うにゃーくん』
神野オキナ
目 次
プロローグ 猫の耳だと熱狂した
第一章 庭で料理を教えてた
第二章 朝からマンボで踊ってた
第三章 飛行機乗ったら大変だった
第四章 真奈美が一番ご苦労だった
第五章 電車は一本遅れてた
第六章 ふたりは捕まったままだった
第七章 作戦名は「うにゃーくん」だった
第八章 なかのひとなどいません
第九章 猫と犬とが準備をしてた
第十章 終わりに向けて逃げ出した
第十一章 犬と猫とでポカポカと
エピローグ
騒動はまだまだ続く
あとがき
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編集●大喜戸千文
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「君が話しなさい、わたしはいつでも聞いているよ」
映画「オー! ゴッド」より。
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プロローグ 猫の耳だと熱狂した
京浜東北線、JR新さいたま駅から徒歩わずか。
そこが「さいたまスーパーアリーナ」である。
六七〇億円をかけて建設された、日本国内では今のところ唯一、拡張、縮小が可能な可変型のイベント会場であり、競技場として使用した場合の面積一万四六〇〇平方メートル、最大収容人員三万七〇〇〇人。これは東京ドームのグランド面積よりも大きい。
「しかし、大内さん、世間は宇宙人騒動で大騒ぎだっていうのに、どうなってるんでしょうかねえ?」
その入り口の前に立って警備しながら、最近ここに配置された新人警備員が、隣に立っている先任の警備員に尋ねた。もっとも、警備員は表向き私語は禁じられているから顔は前を向いたまま、声も抑えてある。
「さぁな。だが宇宙人が来たからって、すぐに何かおっぱじまる訳じゃないようだし、人間、何かが動く、という不安に向き合うより、昨日と同じ今日に追われた方が良いと思うもんだからなぁ」
「深いッスね。大内さん」
「まあ、そろそろ四十だからなぁ」
その背後で、地響きさえ伴いそうな大歓声がわき起こる。
「……いったい、何のコンサートッスかね?」
ちら、と若い警備員は自分の背後を見やった。
ちなみにこの施設、土日祝祭日ともなれば、一日借りるだけで設営、撤去、リハーサルを含めると二〇〇万円近くかかる。
今彼等の背後で行われているイベントは、先週、沖縄の那覇市上空に宇宙人が現れた翌日、急に決定したものだ。確かに夏休みの土日にもかかわらずイベントが入っていないという奇跡のような状況ではあったが、それでも、急に予定をねじ込んだにしてはあまりにも人の入りが良すぎた。
恐らく中にいる観客は通常の最大からおよそ二十五%オーバー。四万人以上入っているのではないか。
「知らん。知ろうとも思わん。警備員は生きた案山子《かかし》、それ以上にも以下になってもいかんのよ」
「……深いッスね、大内さん」
「まぁ、そろそろ四十だからなぁ」
熱狂と怒号にも似た歓声が、さいたまスーパーアリーナの中を満たして、あふれ出していた。
中にいる観客は白人、黒人、アジア系を含め老若男女、上は六十歳から下は十代、どう見ても近所のご隠居から大会社の重役クラスらしい身なりの良い背広姿の壮漢、さらにどう見てもセル画と動画データから構築された娯楽システムによって人生踏み外したとおぼしい大学生(もしくは予備校生)から、その対極にあるぴちぴちした女子高生、小学生にいたるまで、何一つ統一されたデータの無い集団だった。
それが、四万人以上、この中にいる。
当然、この建物の収容人数を超えているため、全員が立ち見状態だ。
だが、彼等の心はすべて一つのアイテム……正確には一つのシンボルによって統一されていた。
その異様な熱気の中、舞台にそのシンボルを身にまとったひとりの少女が現れた。
年齢は十三、四歳。細い身体を、白いワンピース……それも詰め襟、ふんわりと大きな、フレーム入りのスカートというどこかのお姫様のような……につつんでいる。
手脚が長いのは白人系ならではのプロポーションだが、その広い額の下にある目の力は尋常なモノではなかった。
四万人の観客を前にして一歩も引かない……のみならず、それらを飲み込み、操る気概に充ち満ちていた。
コンサート会場の形態ではなく、競技場形態での運用ゆえ、本来なら彼女の後ろはその背中を拝むことになるのだが、後ろは後ろで、舞台前面に設置されたカメラから流れるリアルタイム画像が大スクリーンに映し出されている。
少女は傲慢とも、高貴ともとれる笑顔を浮かべ、二の腕の半分まである長手袋に覆われた腕を高々と掲げた。
カチューシャに装着された見事な三角の耳が揺れ、それに呼応して、ふわりとしたスカートのヒップ部分から伸びる尻尾が、根本に仕込まれたモーターの動きによって本物そっくりにくねった。
少女は、鋭い声をあげた。
「うにゃー!」
それを合図に彼等は叫ぶ。そのシンボルから連想される最もふさわしい言葉を。
うにゃー!
うにゃー!
うにゃー!
うにゃー!
ああ、読者の皆さん、なんということでしょう! キ○○イじみた絶叫轟《ぜっきょうとどろ》く暗闇の中、よくよく目を凝らしてみれば、そこにいる全ての人たちは、男も女も、老人も若者も、誰もが作り物の猫の耳と尻尾を着けて絶叫しているではありませんか。
そうです、ここは猫耳と尻尾に魂を売り渡した人たちの、秘密の大集会だったのです。
……と、故・江戸川乱歩《えどがわらんぽ》先生なら書きそうな光景が、ドームの中に展開していた。
少女の声に呼応する群衆の声は、ドームの壁にいくつもの亀裂を生じさせるほどの凄《すさ》まじさだった。
「うにゃー!」の連呼は数分間続き、やがては興奮と連呼のあまり軽い窒息状態になった老人や子供がバタバタと倒れ、外に担ぎ出される始末となったころ、少女の押さえつけるような仕草の前に、ようやく終息した。
静まりかえった会場内、押し黙る五万人弱の観衆を、少女は腰に両手を当てて睥睨《へいげい》した。
人々は、少女の言葉を待ち受けている。
少女はなおも黙ったまま彼女の観客を見つめ、焦《じ》らす。
ついに観客の焦れったさが頂点に達し、「飽き」へと切り替わる瞬間、少女は高く右の拳を突き上げて声を張り上げた。
襟元に巧妙に隠されたワイヤレスマイクが、その声を、的確な音量で拾い上げ、スピーカーから流す。
「諸君!」
偽物の猫耳と尻尾を着けた少女は朗々とした声で叫んだ。
「我々は、猫が好きなのだ!」
声の鞭《むち》の一撃は、冷めかけていた聴衆の熱気を引き締めた。
「否、正確には猫耳、猫の尻尾、および猫とそのパーツが生み出す『はにゃーん』で『にゃにゃー』なアレな感触、感性、キャラクター性が大好きだ! いや、それでは足りない! 愛してる、ラブしてる、L・O・V・E・INGしている!」
ここで少女は言葉を切った。頭にはめられたカチューシャを握りしめ、床にたたきつける。
「にもかかわらず、我々はかかる偽物で! 偽物で満足するしかなかったのだ! 何故か? それは我々がサルから進化した生物であるが故に! これは呪いだ!」
しかし、と少女は続ける。
「三日前、我々の上に福音《ふくいん》が現れた! 諸君らも見たであろう! あの神々《こうごう》しいお姿を!」
少女の目は天空に向けられていた。さりげなく、腰の辺りで少女の手が振られ、それを合図に背後にあるスクリーンいっぱいに、ここ一週間、何度も繰り返し放映されたニュース映像が静止画像になって大映しになる。
腰まである赤いロングヘアに前髪に金色のメッシュ、さらにメリハリの利いたプロポーションを包むのは|スキンタイト《ぴっちぴち》なボディスーツ。
だが、ここに集まった数万人の男女にとって最も重要なのは、その頭頂部と、腰から生えているパーツだった。
「本物の猫の耳と尻尾だ!」
皆知っている映像ではあるのだが、人々は少女の演出に酔っていた。五万人弱のため息が一斉に漏れる。
「素晴らしい! なんたる神の采配、神のお慈悲! 運命の偶然のような必然! まさに求めるモノは救われる、我々の前に、本物の猫耳少女が現れるとは!」
己の言葉に酔ったのか、少女はうっとりとした表情を浮かべ、天空に手を差し出し……その手をぐっと握りしめた。
「私は宣言する! 我ら猫耳系秘密結社『子猫の足裏』は、この人物をこそ崇《あが》める!」
握りしめた拳を胸の前まで引き寄せながら、少女は聴衆を睨《にら》んだ。
「この人物を、我らの真の教祖としてお迎えする! そのためには合法、非合法の手段も厭《いと》わない!」
歓喜のどよめきが群衆の間を走った。
「これより作戦名『うにゃーくん』を発動する! うにゃぁ―――!」
鋭い声がスピーカーから流れ、群衆の興奮は頂点に達した。
「うにゃー!」
再び少女の声。それを合図に彼等はまた最初のように叫ぶ。そのシンボルから連想される最もふさわしい言葉を。
うにゃー!
うにゃー!
うにゃー!
うにゃー!
ついに、声の振動で窓ガラスが何枚も内側から破裂したが、そのことに気づいた者は、会場の中にはまだいない。
さて、同日、同時刻。
「あらー、このところ帰ってなかったら沖縄、えらいことになってるわねー」
ぽりぽり。
広いマンションの居間に見合った大画面のプラズマ液晶テレビを観つつ左手を枕にし、右手ではリモコンで音量をあげながら、少女は横着にも、ちょっと遠いところにある菓子皿を器用に引き寄せた。
「あーん、んぐんぐ」
金髪の少女は、菓子皿に入った山盛りのカシューナッツを寝転がったまま器用に剥くと、幾つかまとめて口の中に放りこみ、ばきばきとかみ砕いた。可愛らしい外見に似合わず、意外に歯も顎も頑丈らしい。
ついさっきまで徹夜で動いていたゲーム機と、放り出された専用コントローラーが差し込む朝日に輝いている。
十数日前、少女はここ数年間の留守中に出たゲームを買いあさり、ずーっとテレビの前に座って遊んでいたのである。
いくら夏休み中とはいえ、随分と健康に悪そうな日々であるが、少女は一切気にしていないようだった。
「こら、大変だわねー」
テレビの画面には数年前まで彼女がいた沖縄の那覇市の空が映っている。
だが、その街並みのほとんどは暗い影に覆われていた……巨大な、「空飛ぶ円盤」としか呼べないような人工物がその上空に浮かんでいるのだ。
画像がスタジオに切り替わると、興奮さめやらぬアナウンサーが、昨日の正午、いきなりあらわれたこの物体は、宇宙から来た親善大使のものであるという発表をしている。
ちなみに今までの映像は昨日の正午に撮影されたもので、円盤は現在那覇港の沖合に浮かんでいるという。
那覇大橋の上から撮影した現在の映像が映った。
「うちゅうじん、ねー」
ぶかぶかのTシャツに大きめのスパッツという、かなりだらけた格好の少女は、手に握ったリモコンでぽりぽりとウェーブのかかった金色の頭を掻いた。
「どーんな格好してるのかなー? やっぱりアレかね? タコみたいな……」
などと勝手なことを言っていると、玄関のドアが勢いよく開いた。
ドタドタと慌ただしい足音がして、居間に一人の青年が飛び込んでくる。
「あ、旅士《たびと》ちん、あろはおえー。お土産なーにー?」
のんきに顔をあげる少女の顔が、すぐに強張った。
ぜえぜえと肩で息をしながら少女を見つめる青年の顔は、明らかに憤怒《ふんぬ》に染まっていた。青ざめているのは、恐らくここまで全力疾走しているからであろう。
ちなみにこの部屋は十二階にある。
「……どしたの?」
「お、お、お……」
少年は震える唇で何事か言おうとしたが、全力疾走による体力消費に加え、あまりにも感情が激昂《げっこう》しているらしく言葉がなめらかに出ない。
「お?」
よせばいいのに少女は首をかしげた。
別に悪意があるわけではないが、それだけに事態を最悪の方向に曲げてしまう行為というものがあるが、このときの少女の表情こそはまさにそれだった。
「……」
青年はものすごい目つきで少女を睨み付け、そのまま部屋にとって返すと、画用紙をあれこれ折り曲げ、その一部をガムテープでぐるぐる巻きにしながら戻ってくる。
「?」
「お、おまえはーっ!」
ばちこーん!
建物ならば大阪城に通天閣《つうてんかく》、食べ物ならばたこ焼きお好み焼き、芸なら吉本、上方《かみがた》落語、それらに肩を並べるは、大阪名物ハリセンチョップ。
それも、相手にたたきつける側の折り目をきっちりつけないで緩やかに曲げたままの本格派である。
「みぎゃああああああっ!」
下から上へすくい上げるようなその一撃に少女は面白いぐらいに高々と飛ばされた。
天井に当たって今度は床に落っこち、さらに反動で跳ね上がり、ゴムボールのように居間中を飛び跳ねた。
その動きは、あからさまに人ではなかった。人形か、たとえぬいぐるみでもこんなに飛ばない。
「しばらく大人しくするとかなんとか言っておきながら、舌の根も乾かぬうちにこれかー!」
ばちこんばちこんばちこん。
青年はそのまま少女の頭をケント紙(一〇〇枚一キロ)製のハリセンで数回ぶっ叩いた。
「うぎゃ、なに? 違う、ちがうぅー!」
「嘘つけ! お前以外にこんなたちの悪い冗談をやる奴がいるか!」
「何もしてないよー! ほんとだってばー!」
「じゃあ、アレは何だ!」
青年が指差した先、テレビモニターの中には、前髪にメッシュの入った赤毛に巨乳で、ほんわかした雰囲気の少女が、脳天気に取材陣のフラッシュに対して手を振っている。
「え?」
少女はそれを観て、思わず自分の頭と尻尾にあるモノに触れた。
頭頂部付近にある三角形の耳、小さなヒップから伸びていて、先ほど菓子皿を取るのに使った長い尻尾。
「…………」
青年は怒りのエンジンへの再点火の為に、少女は情報を整理するために数秒間沈黙した。
「何か言うことは?」
銃殺隊の指揮官が、死刑囚に問うように青年。
「あー」
人差し指を口元にあて、しばらく金髪碧眼《きんぱつへきがん》、猫耳尻尾付きの少女は天井を見ていたが、
「まぁ、やっぱりアレね。宇宙でも地球でもかーいらしーモノの基準は一つ、ってこと?」
再び、ハリセンが素晴らしい音を立てた。
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第一章 庭で料理を教えてた
前回のお話からだいたい一週間ぐらい後。
焼け付くような太陽の日差しと真っ青の空の下、嘉和騎央《かかずきお》の家の庭で、料理講習をやることになった。
「これで、よし、っと……おばーちゃん、そっちは?」
いかにも人畜無害、ちょっと人がよさそうな顔立ちをした十六歳の少年は、天日を遮るためのブルーシートを荷物用のビニールロープで庭の木に縛り付けて固定し、家の中へ声をかけた。
家の中では、沖縄髷《カンプー》に割烹着《かっぽうぎ》を着けた、やけに肌の艶《つや》のある老婆が、膝立《ひざだ》ちになって何やら最後の準備をしている。
「はいはい、キー坊、こっちも準備おっけーヨ」
そう言って、この料理講習会の講師、嘉和のウシオバーは、身支度を終えた生徒の背中をしわだらけの手で軽くぽん、と叩いた。
「ひゃっほう」という感じで両手をあげてぴょんぴょんジャンプすると、五〇センチほどの「生徒」たちの最後のひとりは、姉《あね》さんかぶりの手ぬぐいと短く切ったエプロンという格好で、とてとてと仲間達の所へと走っていった。
庭には上に張られたのと同じ大きさのブルーシートが敷かれ、その上には調理道具、および材料が置かれている。「生徒」たちはその周囲を囲むようにずらりと並んでいた。
最後のひとり……というよりも一体……もその列に加わる。
真っ赤なボディ、頭頂部には彼等(?)の主《あるじ》の姿を模した三角形の猫の耳を思わせる部品がひこひこと動き、巨大なそら豆に黒豆を配置したようなのんきな顔があって、ちんちくりんの胴体からは大きなミトンでもはめたような手、大きな頭部とのバランスを取るためか、短い足の先には「どたっ」と広い面積の足首がある。
この家に今のところ居候《いそうろう》している宇宙人が持ってきた、アシスタントアンドロイド……アシストロイドたちである。
「|どれどれ《だあ》、始めようねえ」
ウシオバーはそう言うと、庭先に置いたサンダルに足を通した。
「はい、『やきにく』の作り方、教えヨーねー」
沖縄県民ならではの独特のイントネーションで騎央の大祖母が宣言すると、ちんまりした手足のロボットたちは一斉にぺこりと頭を下げた。
「まず、豚の首肉……そうでなけれバ、|B《ブタ》ロースを用意シます」
スーパーの買い物袋(再利用)の中から肉のかたまりを取り出すと、老婆は持ち手に幾重も布を巻いた専用のフォークを取り出した。
「これに穴をアケます……いっぱいがいーネー……で、穴をあけたら、こうやってコショウをすりこんで……泡盛《あわもり》と、リンゴ、ニンニクをすり下ろしたものに、醤油を混ぜたものにつけ込むわけサー。冷蔵庫に一週間くらいかネー」
ふんふん、とお料理仕様といった趣のアシストロイドたちは頷きながら老婆の話を聞き、その手の動きをじっと見つめる。
「はい、今日はオバーはサービスがいいから、一週間つけ込んだものを用意しマシた。ははは」
料理番組の真似をしているようで気恥ずかしいのか、ウシオバーは笑いながら漬け汁に一週間浸されて真っ黒になった肉を大きなタッパーから取り出した。
「で、これを、中華鍋を熱〜くしたものの中……へ……ハイ、あんたたち、あんまり近づくと油が跳ねるヨ」
カセットコンロの上で十分に熱せられてた大きめの中華鍋の中へ、老婆はなれた手つきで油を引き、肉を落とした。菜箸《さいばし》を使って肉が鍋に張り付かないように、適度な間隔で転がしながら、
「これで焦げ目を全体につけマス……ハイ、タテヨコもよー。ほら、ここの切れ目の部分も箸で肉を掴んで、こうネー」
そして火を落とし、中華鍋の中へ漬け汁に砂糖とみりん少々の泡盛、さらにコーラを加えたものを流し込んで再点火、弱火でじりじりと煮始める。
「タレが絡《から》むようにこう……じっくりと転がしながら二時間ぐらいやって、あとはさっきのタッパーウェアの中に肉を入れて、冷蔵庫で半日冷やせばできあがり……アンタたち、分かったネー?」
オバーの言葉に、アシストロイドたちはコクコクと頷いた。
「だぁ、じゃあ肉は用意したからやってごらん……キー坊、クーラーから肉出してー」
「はいはい」
言われて、大きな釣り用のクーラーボックスから、漬け汁につけ込んだ肉を取り出してきちんと並んだアシストロイドたちに手渡していきながら、騎央《きお》はふと、アシストロイドたちの本来の主のことを思い出していた。
「エリス達、大丈夫かなぁ……」
その当人達は、ここから約数キロの地点にある、沖縄県庁に今出向いているはずだった。
クーラーの効いた大会議室で、交渉は続けられていた。
「……では、とりあえず交渉準備を行うという方向で検討中なので、我々はしばらくの間は現状維持、非公式な来賓待遇でこちらに滞在してもよろしい、というわけですわね?」
地球人類に直せば二十代半ばから後半、少々たれ目気味のおっとりした美人がそういうと、広い紫檀《したん》の机を挟んだ向こう側にいる外務省の役人たちは冷や汗を拭きつつ、「ええ、まあ、はい」とか、どうとでも取れる曖昧《あいまい》な返事をした。
「で、滞在中の諸費用なのですが、我々の職員は、民間人の方のところに居候している状態なのですけど……」
「あ、はい、もちろんですね、正式なものではないにせよ、国賓《こくひん》待遇ですから我々としても諸費用を負担したいと……」
思うのですが書類処理が、といいかけた政府高官を手で制し、
「借財としてで結構ですので、とりあえず年間費用としてそちらの貨幣単位でこれだけいただきたいのですが」
しなやかで細い指が二本拳の間から立ち上がった。
「二……ですか」
「ええ、二です」
にっこりと美女は微笑んだ。青みがかった紫色の髪の上で、ひこひこと三角形した部品が動く。
「これ以上はまかりません」
「し、しかし……」
「私たちの先行調査員は、あやうく殺されかかったのですよ……こちらの国内で。不幸な行き違いであったと認識してはおりますから、正式な謝罪も求めませんけども」
細いのど元で銀色に黒いラインが一本入った鈴がちりん、と鳴り、小首をかしげた美女の笑みはますます深くなった。
それだけに凄《すご》みがある。
「それにお金がないという状況はこちらとしても困りますので、もしもご許可いただけない場合、こちらで勝手に稼がせて頂きます……マスコミの取材とか、片っ端からお受けしてもよろしいですか?」
「……」
微笑んだ美女と、冷や汗を流す高官。
しばらくの沈黙。
ついに高官は「少々お待ちを」と言って懐から携帯電話を取り出し、部屋の外へと一旦退出し、二分ほどして戻ってきた。
「ね、年間の費用として二十億、ご用意致します」
「来年では困りますわよ?」
「い、いえもちろん二十四時間――いえ、書類のアレコレがあるので一週間以内にです」
「税金とかを差し引いて二十億、ですわよね?」
「は、はいそれももちろんでございますよ、ハイ」
「ありがとうございます」
美女と、彼女の側にいて交渉の成り行きを静かに見守っていたその仲間……少女と呼ぶべき外見年齢から、妙齢の美女というのがふさわしいものまで、バリエーションは様々だが、全員が美しい……たちが一斉に頭を下げた。
「では、嘉和騎央《かかずきお》さんのお宅に、まず現金で一億、残りは郵便貯金で」
「お、お言葉なのですが、ゆ、郵便貯金の上限は二千万円でして……」
「では二千万円は郵便貯金、残りは国内でもっとも大きな金融機関に、電子決済が出来る普通口座を作って頂いて……名義は『キャーティア大使館』でお願いします」
「は、はいっ」
「では、本日の交渉はここまで……よろしいですか?」
あわてて高官は手元にあるクリップボードの書類の最初のページを開いた。
口の中でモゴモゴ言いながら赤ペンで項目をチェックしていく。
「は、はい、本日の要項はすべて終わっております」
「そうですか……では、ごきげんよう」
言うと、深紫色した髪の美女は席を立った。
何故か白い布に「かんちょう・くぅね」とひらがなで書かれた白い布を縫いつけた、薄い濃紺の生地に包まれた、圧倒的な質量と張りをもった乳房が、それだけで「ゆさり」と揺れる。
見事なボディだった。サイズはどう考えても一〇〇(F)、六五、九〇。それを手足、背中、およびヒップの下半分を巧妙に露出させた濃紺の布地が覆っている。
この場にいる「彼女たち」のうち、同じ服を着けた半分がその次に席を立ち、最後にもっと布地が多く、かつゆったりとした服に身を包んだ半分が席を立った。
彼女たちは同じ種族であるのだが、ゆったりとした服を着けた残りの半分のうち数人が素早くドアを開けたところを見ると、階級によって着用する衣服が違うのかもしれない。
「お見送りを……」
思わず腰を浮かせかけた高官とその部下達を手で軽く制し、
「結構です、帰り道は分かってますから……では来月に」
再び美女は艶然《えんぜん》と微笑んだ。
「は、はいっ!」
汗を拭きながら高官は叫ぶように言い、すっかり薄くなった頭をさげた。
「じゃ、失礼しますー」
最後に、赤毛に前髪メッシュの入った少女が、足下をちょこまか移動する二頭身のロボットたちを送り出した後、愛想良く笑いながらドアを閉め、足音が遠のくと、ようやく外務省異星人対策室(つい数日前に設立されたばかりで正式名称ではないが)の官僚達は椅子にへたり込んだ。
「しかし……緊張しますなぁ……相手は日本語をしゃべるし、こちらの微妙な立場もある程度理解してくれる相手だというのに。いや、だからこそ難しいというか」
頭の薄くなった高官……対策室長に、すかさず煙草《タバコ》を差し出しながら、このメンバーの中ではもっとも高齢ながら、二流大学出のノンキャリアゆえに立場は下から三番手、副室長補佐に甘んじなければならない禿頭《はげあたま》の官僚が呟いた。
「しかし……資料で目にしていたし、テレビも見ていたが、まさか本当にあんな格好の連中だとは」
「格好といえば……何であの服装だったんですかね?」
今年、ようやく昇進したばかりの、もっとも年齢の若い(それでも三十は超えているが)室員が会話に入ってくる。
白い煙を吹き出しながら、室長はぼんやりと応えた。
「……分からん。我々に合わせてくれているのかもしれん。しかし参ったよ……目のやり場に困る、ああいう格好は」
「テレビじゃもう少し未来っぽい服装してませんでした?」
お茶|汲《く》み兼、事務管理担当の女性室員が言うと、若い室員が頷いた。
「そうですよ。何故スクール水着とメイド服だったんでしょうか?」
「あーん、もう、恥ずかしかったぁ!」
エレベーターのドアが閉まると同時に、それまで颯爽《さっそう》としていた深紫色の髪をした猫耳尻尾付きの美女は、顔を真っ赤にして子供っぽく身もだえした。
それだけで生唾もののボディが、そういう仕草をするとますますアンバランスに強調されてえらくデンジャラスだ。
「お尻もおっぱいも丸見えで……エリスぅ、本当にこの服で良かったのー?」
さっきまで官僚を圧倒していた雰囲気は何処へやら、ちょっと涙目にさえなりながら、つい先日地球へ降り立ったばかりの猫耳尻尾付き宇宙人たちの代表にして宇宙船の艦長……クーネは、隠しても隠し通せないのがまるわかりの圧倒的な胸元とお尻を手で隠す格好で、最初にエレベーターに乗り込んで階数ボタンを押した、赤い毛に前髪メッシュの少女……エリスに訊《き》いた。
「大丈夫ですよ、すっごい効果だったじゃないですか! 艦長の交渉術もお見事でしたけど、あの人達、完全に圧倒されてましたもん!」
こちらは健康的な太腿を大胆に露出させる、ミニのメイド服を着用したエリスは、喜色満面という笑みで自信たっぷりに頷いた。
「まぁ、いいんじゃないの? あたしはこういう格好、嫌いじゃないし」
半分眠ったような目をしたのは、赤い鈴を着けた船医のデュレル。黒髪に金のメッシュが入った髪をかき上げながら、両手で自分の乳房を持ち上げてみる。
「でもちょっとサイズは失敗したかな。もう少し小さい方が、もっとおっぱいが強調されてよかったかも」
エレベーターの中で、五人の猫耳宇宙人達の軽い笑いが溢れた。
「確かに、圧倒されていたし、交渉は有利に進んだと思う。けど……」
と口を濁して頬を染め、恨めしげに己の胸元を見ながら、銀色に二本線の入った鈴を着けた副艦長のメルウィン。こちらは青いショートヘアである。
「艦長や船医どのはいいが、私は……」
残念ながら、この場にいる一同の中で、もっとも若い(何しろ生まれてから十二周期だ)彼女のボディは、まあ、その年齢なら仕方がないよ、という言い訳がきく、いささかスレンダーな……だが世間的にはマイノリティながら一部の世界では圧倒的多数を占めるよーな人たちなら「むしろこちらのほうが」とハァハァしそうなラインを描いていた……まあ、ある面スクール水着本来の対象者体型でもあるのだが。
「副艦長の体型だって十分以上に魅力的ですよ! こっちの地球ではスクール水着とメイド服は最強のコスチューム、って言うらしいですから!」
エリスは両手を握りしめ、ぶんぶんと何度も頷きながら言い切った。
「……っていうか、いったいお前、どっからそういう情報を手に入れたんだ?」
この中では艦長に次ぐ年齢でありながら、一番小柄なチャイカが笑った。
「えーとですね、その……騎央《きお》さんの本から……です」
ちょっと赤くなってうつむくエリスの腰の辺りを、にやにや笑いながらチャイカが肘で小突いた……ちなみに彼女とエリスだけがメイド服だったりする。
「おーおー、騎央っちの本からなんだー。ふーんふーん、熱いね熱いねガンモドキ。これもアレも実際に着てみちゃったりなんかしちゃったりして、反応を実際に見てみたりしちゃったりするのかノシイカホタルイカ? 憎いよ憎いよ、チョンチョンコノこのー!!」
何処で覚えたのか、畳みかけるような早口のチャイカの言葉に、エリスは首をかしげる。
「実際に反応を見るのは普通じゃないんですか? ……今回はやってませんけど?」
「馬鹿だねーおまいわ。ほら、夜にさ、寝室で『騎央さん、こんなのはどうかしら……』とかなんとかいってこー、目の前で着替えたりとか、ちょっと半脱ぎになってみたりとかダヨおぅ……ぬふふふふふのふ」
エリスの顔が見るみる真っ赤になった。
「な、何言ってるんデスか? ちゃ、チャイカったらもー! そ、そういうことは発情期の時以外はしちゃいけないんですよ!」
「何言ってるんだよ、そういうことは普段でもやっておくもんだぁね。オスなんてそういう生き物なんだからさ」
「チャイカ!」
「と……とにかく、着替えるわ」
言うと、メルウィンは首に巻いた鈴のベルトに触れた。
彼女の身体が輝き、スクール水着は原子分解されて鈴の形をした高級士官用の携帯万能機《マルチタスクオーガナイザー》の中へ情報化して収納され、代わりに肌にぴったりとフィットした、あまり今までと変わらないような、ダークブルーのスキンスーツ姿になる。
「やっぱり、この格好の方が落ち着くわ」
「あ、わ私も」
クーネも慌てて、黒にイエローラインが入ったスキンスーツ姿になる。
「……仕方がないか」
デュレルもつきあいがあるから(この辺のメンタル部分まで彼女たちキャーティアは日本人に似ている)同じく白地に赤いラインの入ったスキンスーツ姿になった。
「いーなー。高級士官は。わたしたちはせいぜい翻訳と通信機能しかないのに」
「まぁ、役得ってやつだぁね」
デュレルは笑った。
「その代わり、いざというときには逃げられない責任がついて回るし、これ自体、凶器にもなるしね」
「それは、まぁそうですけど」
「あ、そうそう、エリス、これからのこと、お願いね。地上駐在員はあなただけになるんだから」
「はい」
こくん、とエリスは頷いた。
日本政府は正式な国交交渉を先延ばしにし、結果エリス達は無償無担保による援助金を勝ち得たのであるが、同時に正式な国交を結んでいない以上、大量にキャーティアが地球の上を歩くわけにはいかない。
そんなわけで、非常事態が発生しない限り、これから先キャーティア側の連絡員兼調査員としては、エリスのみが地上に残ることになる。残り三〇〇〇人近い宇宙船の中にいるキャーティアたちには不平不満も出たが、これは艦長がうまくなだめた……まあ、実際には代償として、地上からの生鮮食品を購入して配る、ということでカタを着けたのであるが。
エレベーターの階数表示が止まった。
「さ、スマイルスマイル」
艦長の声に、全員がにこにこと笑みを浮かべる。
ドアが開くと、すさまじいフラッシュの砲火がエレベーターの中を白く染めた。
「そろそろ車回して」
大あわてで県庁のロビーから戻ってきた騎央の幼馴染《おさななじみ》、金武城真奈美《きんじょうまなみ》の言葉に、大型のワゴン車の運転席で双葉《ふたば》アオイが頷いた。
今日のふたりはいつもの女子高生然とした服装ではなく、大人っぽくワンピースのスーツ姿で、それなりにメイクも施してある。傍目《はため》には新人OLにしか見えない……もっとも、新人そのものの外見にもかかわらず、これだけ落ち着いたOLがいれば、だが。
真奈美はCIAの非常勤職員を、アオイは入国管理局の仕事を辞め、今の彼女たちは共にエリス達キャーティアの「協力者」……実際にはなし崩し的に騎央の家に出来上がってしまったキャーティア大使館の臨時職員ということになっている。
とはいえ、地球の通貨を持たないキャーティア人に雇われているわけだから、やはり「協力者」もしくはボランティアと言った方が良いのかもしれない。
とまあ、金にならない商売ではあるものの(アオイはどうか分からないが)、真奈美にしてみれば、このお陰で騎央が自分を許してくれたことが一番有り難い。
一時、決定的な決裂を見そうになった幼馴染との関係は、嘉手納《かでな》基地への突入と、この仕事を引き受けたお陰で以前と同じように回復していた。
真奈美が助手席に座るのを待たずに、ワゴン車が動き出す。
「でも、私たちが付いてなくていいのかしら?」
走ったせいで乱れた髪を手櫛《てぐし》で整えながら真奈美が言うのへ、
「大丈夫、|アシストロイド《あのこたち》だけでも十分だわ」
「そうかしら?」
真奈美の言葉に、ふたりの間にちょこんと腰掛けた物体が「失礼な」とでも言いたげに顔をあげる。
言わずとしれたキャーティア御用達のアシストロイドだが、こちらは少々外見が異なっている。
前回、エリスが連れ去られたとき、彼等の武装が武装に見えないとか、見た目の愛らしさの為に戦力に数えられなかったコトから結局遠回りなことが起きた、という反省点から生まれたバリエーションモデルだ。
とはいえ、外見の変更点はさほど多くない。
目元を覆うサングラス状の広範囲データ収集センサーと、防御および簡易武器ホルダー、および高速移動時における安定性向上のバランサーとしての外套《コート》型の増加装甲。さらにコートの中に納められた射撃用武器専用のセンサーとして、人間なら口がある辺りに細い、爪楊枝《つまようじ》そっくりな端末が突き出していて、ボディカラーが黒と白のツートンになっている程度だ。
「分かった分かった、ごめんね」
真奈美《まなみ》が頭を撫でてやると、「分かったならいいけどさ」という感じで香港《ほんこん》ノワールな外見をした、機械仕掛けのチビスケは、これだけは変わらない頭頂部の猫耳センサーをヒコヒコさせながら前を向いた。
「それに、県庁にも警備員はいるし、私もあなたもいる……十分よ」
アオイはクールな物言いで、本来八人乗りのワゴンを軽々と操る。
車は見事なタイミングで県庁の入り口に横付けになった。
「とりゃあー!」
後部座席にいた、別のアシストロイドが素早くスライドドアを開くと同時に、エリス達が団子状態で飛び込んできた。
「もっとお話をお聞かせ下さい、大使!」
「大使! ○○テレビです、是非!」
成り行きで乗り込もうとするマスコミを、アシストロイドたちが押し出して、ドアを閉める。
「出発してください!」
エリスの言葉に、アオイは無言で頷き、車を発車させた。
ややもすれば前をふさいででも写真を撮ろうとするマスコミの一人をバンパーで優しく押しのけながら(さすがに跳ね飛ばすわけにはいかない)、道路に滑り出る。
国際通りを横切って五十八号線に出ると、しばらく北上する。
「マスコミの車、特定できた?」
アオイの言葉に、後部座席のアシストロイドの一体が「ぐっ」と親指を立てた。
こちらは情報戦特化型で、背中に大きな円盤状のレドームが付いた機械を背負っている。
「じゃ、始めて」
こくん、とアシストロイドが頷くと、ゆっくりと唐傘そっくりなレドームが回転をはじめ、背中の機械……どう見ても市松模様の入ったパネルといい、ずらずらと並んでいるだけの豆電球らしいパイロットランプといい、カタカタと音がするところといい、まるで昭和中期のテレビ番組に出てくる「電子計算機」そのまんまのデザイン……が機能し始めた。
視線センサーと傍受される無線の内容によって特定されたマスコミの車が、急に戸惑ったような動きを見せ始め、次々と路肩に停車する。
彼等は、目の前にいるエリス達を見事に「見失った」のだ。
情報戦特化型のアシストロイドの背負っているモノは、「認識攪乱《にんしきかくらん》装置」と呼ばれる代物《しろもの》で、これを発動させると、他人は「自分が目指しているモノ」と「そうでないもの」の区別がつかなくなるのである。
それでもしばらく車を走らせて、尾行者をチェックし、ようやくアオイは車を騎央の家……今ではすっかりエリス達キャーティアの臨時大使館と化している……に向けた。
「あ、そうそう。とにかく、これでお金の確保が出来たから、あなた達へのお給料も支払えるわ」
アオイのドライビングテクニックのお陰で椅子からずり落ちそうになっていたクーネ艦長が、髪の乱れを手で直しつつ、にっこり笑った。
「いくら欲しいですか?」
言われて真奈美《まなみ》はちょっと考え込んだ。アオイは黙っている。
「えーと、じゃあ十五……」
「ごめんなさいね。二十億しかないから、十五は無理。その五分の一ならいいけど」
「あ、い、いえあたしあの、毎月十五万円で良いって意味で……」
「では、ふたりで年間三億、お願いします。お支払いは十二回の分割」
「了解しました」
クーネが頷くのを横目で見ながら、真奈美は焦《あせ》ってアオイの耳元に唇を寄せた。
「だ、大丈夫なの?」
「向こうがいいって言ってるんだから、問題はないと思うわ……それに、お金は幾らあっても困らないモノよ……何しろかさばらないし」
ステアリングを握りながら、平然とアオイは応える。
「そ、そりゃそうだけど」
それにしても平凡な(?)高校生にとって一億五千万円という数字は非現実に過ぎる。
「それよりも、報酬分の働きをしなければいけない、ってことを忘れないで」
その一言に、真奈美ははっとなった。
一億五千万円は彼女たちの命の値段なのだということにようやく気づく。
彼等は、完全密閉された暗い部屋を好んでいた。
暗いところで謀議を巡らせるという習慣を地球に持ち込んだのは彼等であったし、紫外線は彼等にとってあまり有益なものではないからだ。
「日本政府はなんと?」
ふぁさ、と翼が動いて、あきれたような、良くない返事をあらかじめ予想した不機嫌な声が響いた。
「やはりああまで大々的に来訪を喧伝《けんでん》されてしまうと、断りようもない、と……」
大汗を掻きながら、スーツ姿の男は報告する。
「初動でマスコミを抑えられなかったのも敗因ですな」
他人事のように、翼を持たないほうの「交渉相手」のひとりが言った。
「仕方がない。過ぎてしまったことだ……宇宙にいる相手に対しては手を打った。効果が現れるにはもう少し時間がかかるが……となると問題なのは今この太陽系内にいる奴らのことだ」
「抹殺ですか?」
「何人かはな。残りは君らのお仲間に自主的に排除してもらう」
「?」
「まずはそのための一手だ……ジェンス中尉!」
「彼ら」の背後からカツカツという軍靴《ぐんか》の音も派手やかに、引き締まった身体を軍服に……それもアメリカ陸軍の軍服に包んだ女性が現れた。
ただし、「着こなす」ために服装規定は大分外している……彼女の髪の毛は腰まであり、襟元からは首輪と、銀色に輝く鑑札型の通信装置が覗《のぞ》いていた。
頭頂部……エリス達|猫族《キャーティア》とは対照的に、やや左右に開いた形で配置された、小さく、ピンと前を向いた鋭角な三角耳。
尻尾は無かった……彼女たちの種族で、軍事に携わるモノはまず最初に尻尾を切り落とす。任務に必要がないのと、決意を表明するためだ。
「彼女と、彼女の部下達を与えよう。君たちの全軍を彼女の指揮下に置き給え」
「しょ、承知しました」
背広の男は背筋を伸ばす。
それによって自分の「受け渡し」が終了したと判断したのか、ジェンスと呼ばれた女性は背広の男の横まで大股で移動すると、くるりと踵《きびす》を返し「彼等」のほうを向いて敬礼した。
「ジェンス中尉、これより任務に当たります」
「うむ」
翼を持つ「彼ら」の一人が頷き、その隣にいる彼女とほぼ同じ外見を持つもう一人が静かに言った。
「ジェンス中尉、期待している」
「はっ」
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第二章 朝からマンボで踊ってた
まどろみの中、双葉《ふたば》アオイは夢とも、記憶のフラッシュバックとも付かない光景を見ていた。
それは、彼女の最も古い記憶から始まる。
「おとうさん」の膝の上で、古い白黒映画を見ている光景。
あのころは、自分が何を見ているのか判らなかったが、今は判る。彼女の父親が生まれる前に大ヒットしたコメディのテレビ時代劇を映画にしたものだ。
今やすっかり渋い刑事役が定番となった顔の長い役者が、剽軽《ひょうきん》な身振り手振りで歌い踊っている。
子供は歌や踊りに反応しやすい。だから分けも分からず少女は楽しかった。父も微笑んでいるから、なおさらだった……優しい父親としか、アオイは記憶していない。
そして、もうひとつは「訓練所」に行かされる朝の記憶。
古くて暗い、大きな畳敷きの部屋で、五歳のアオイは文字通り母の着物の裾《すそ》にすがった。
いやです、おかあさま、わたしどこにもいきたくない。
アオイはここが好きだった。古い日本家屋も、広い庭も、庭にある竹藪も、そこに来る小鳥たちも。
母親とふたりっきりだというコトも気にならなかった。
アオイの頬が鳴った。
あなたは、よのためひとのためにつくさねばなりません。
毎日のように言い聞かされている言葉を、端正な……そして表情の動かない顔で母は口にした。
あなたのちからはそのためにあるのです。わたしのようなむりょくなおんなではなく、なんでもできる、ばんのうのおんなになるのです。
赤い唇が噛みしめられる……それは、アオイが父のことを口にすると見せる行為だった。
父親は、アオイが物心つく頃にはいなくなっていた。
どうしてなのかと問うと、母は決まって今と同じく唇を噛みしめ、「あのおとこはわたしたちをすててにげたのよ」と吐き捨てるように言い、怖い顔になった。
おいきなさい。にどとここにかえってきてはいけません。
そういって母親はアオイを突き飛ばした。
アオイはそれでも必死になって母親を追いかけようとしたが、着物姿の母はみるみる遠くなり……やがて扉が閉まった。
少女は訓練施設の中にいた。
振り向くと、屈強な教官たちが無表情にアオイを観ている。
訓練施設の教官達は厳しかったが、成功に対してはきちんと評価し、時間外ではそれなりにやさしく接してくれる者も何人かはいた。
が、少女はそれよりも何よりも、己が「捨てられた」のだという事実が悲しかった。
だから泣いた。毎日泣いた。
なぜなら、それは自分の部屋に帰るたびに、自分以外は誰もいないベッドを見るたびに突きつけられる現実だったから。
扉が開いた。
誰も見送らず、それを望むことなく、白いコートをまとった少女は施設を出た。
雪が降っている。
背は入ってきた頃の倍ほども伸び、肩までだった髪は、腰までのロングヘアになっていた。
外に出ると、待ち受けていた車のドアが開く。
アオイは、無感動に高級外車の中に入った。
このころには、人前で少女の目に涙が浮かぶことはなくなった。
施設で過ごした十年近い間、母親はついにアオイの前には現れず、それ以後も会っていない。
母がどうなっているのかを調べる手段も、その権利も彼女にはあったが、アオイは一切何もしようとしなかった……このころには、彼女の意識は変わっていた。
自分は捨てられたのだ。
だから自分も親を捨てる。
再び少女が、自分がまだ涙を流すことが出来るのだと知るには、さらに一年の歳月と、ちょっとした偶然……任務に赴いた先で待機中、たまたまホテルのケーブルテレビであの白黒映画を観るという……が必要になる。
「…………」
眼が醒《さ》めた。
アオイはのろのろと上半身を起こし、枕元の眼鏡を取る。
度の入っていない伊達眼鏡だが、この数年間ですっかり身体の一部となっていて、起きるとまず手に取るようになっている。
「…………嫌な夢」
しばらく布団の上でぼんやりとうつむく。
苦くてたまらない物が胸の中に貯まっているのを感じる。
沖縄の夏の朝は涼しいが、今のアオイには肌寒く感じられた。
自分以外誰もいない部屋。
ずらりと並んだ棚の中にあるソフト、質素な家具……普段はこれでいいと思い、気にも留めていない風景が、やけに空々しく、冷たく見える。
誰か、側にいてくれたら違うように感じるのだろうか?
アオイは深く溜息をついた。
「えーい!」
びりびりと、派手な音がしてA4版の書類が破られた。
「日本政府の愚か者めーっ!」
言うと、つい数日前、さいたまアリーナで四万人の群衆を相手に演説をぶっていた少女は、さらに書類を細かく引きちぎって床にたたきつけ、それでも足りずに書類の上に細い足を置いてグリグリとねじった。
「せっかく、せっかくせっかく猫耳の方々が、神が! 我らと国交を結びに来ておられるとゆーのに!」
外務省の最新極秘資料……持って行くところへ持って行けばかなりのお値段になるであろう書類を踏みにじりながら、少女は拳を握りしめ、嗚呼《ああ》と恐ろしく高い天井を見つめた。
「お爺さまがワタクシをこの船の上に乗せ、永劫《えいごう》の無国籍人としたのは正しかったと思わざるをえんな! まったく、これで政府か! 役人どもめ、議員どもめ!」
とひとしきり政府の無能ぶりを叩いた後、少女は矛先を変えた。
「これだけの横暴をゆるすマスコミもマスコミだ! 何故大々的に報道せん! 報道管制がしかれているなら、自分の新聞の売り上げを上げるために抜け駆け報道ぐらいせんかーっ!」
「お嬢様、ですから私、新聞社の株を手放すなとあれほど……」
横で冷静なツッコミを入れたのは、彼女のメイド長である。
冷たい感じのショートボブ、頬から通った鼻筋にかけての長い傷跡と、首に巻いたチョーカーと黒いフィンガーレスグローブが、何処かの格闘ゲームのキャラクターのように見せている。
「日本の新聞の発行権は編集部ではなくて社主にある以上、そうなるのは当然です……わたくしめは警告いたしましたものをお嬢様が」
外見に似合った冷静な声でメイド長が言葉を紡いでいると、少女の広いおでこに癇癖《かんぺき》を示す筋が浮いた。
次の瞬間。
「えーい、お前は主に意見するかぁーっ!」
少女は壁に掛かっていた小型ハリセン――この国に来た時に信者のひとりから献上されたモノ――で、ぱしぱしとメイド長を叩いた。
「ああっ、お嬢様、お嬢様ぁあっ! お許しを、お許しをおっ!」
メイド長は「よよ」と黒く磨き上げられた床の上に倒れ、なおも叩かれながら哀切な声をあげた……だが、その表情はどこかうっとりとしている。
――どうやら、ちょっと困った趣味の人であるようだ。
それからさらに数分間、怒りの矛先をメイド長に向けてハリセンを振るい続けた少女だが、
「……ま、まあ良い。全ては過ぎたことだ」
ぜえぜえと肩で息をしながら、そう呟くと、少女はハリセンを放り出して踵を返し、それまで腰掛けていた籐椅子《とういす》の上に腰をおろした。
「だが、考えようによってはこれはありがたい話でもあるな」
そう言う少女の目には冴《さ》え冴《ざ》えとした知性の輝きが現れていた。
「……」
形の良い細い顎に「Y」の字状にした親指と人差し指を当て、少女はしばらく沈思黙考していたが、
「よし、決めたぞ!」
一声叫ぶと、床に打ち据えられ、うっとりと身体を震わせていたメイド長に命じた。
「よいか摩耶《まや》、今からわたしの言うことを全て書きとめて所定のメンバーへと送るのだ」
「や・きやきやきやっきやき〜、焼き焼き焼き焼きぎょうざぁ(ウッ)♪」
朝、嘉和騎央が目が覚ますと、そんなアカペラが聞こえてきた。
「や・き・やきやきやっきやきー、焼き焼き焼き焼き焼きぎょーざぁ♪」
歌詞はともかく、曲はペレス・プラード(兄)によるマンボの代表的楽曲「マンボNo.5」そのまんま……というよりも、その「うろ覚え」バージョンとでも言うべきモノで、音程もテンポかなり怪しい。
「……?」
「や・きやきやきやっきやき〜、焼き焼き焼き焼きぎょうざぁ♪(ウッ)や・き・やきやきやっきやきー、焼き焼き焼き焼き焼きぎょーざぁ♪(ウー!)」
「エリスが歌ってる……のか?」
騎央が一階に下りてくると、そこには楽しそうに歌いつつ、マラカスを持って踊っているエリス、同じくマラカスを両手にそのバックダンサーと化したアシストロイドたち、さらにその後ろでバツの悪い笑顔を浮かべた真奈美が目に入ってきた。
「あー」
思わず目が点になる思いで見つめている騎央に気づかず、エリスはミュージカル状態を続けている。
「や・きやきやきやっきやき〜」
「……」
さてどう声をかけたモノかと騎央が思っていると、エリスの唄は三周目に入った。
「焼き焼き焼き焼きぎょうざぁ(ウッ)♪ や・き・やきやきやっきやきー、焼き焼き焼きぎょーざぁ♪(ウー!)」
「あのー。エリスさん?」
「あ、騎央さん、おはよーございます!」
元気いっぱいにエリスは返事した。
「何をなさっていらっしゃるんでしょーか?」
「あ、今日は朝から焼き餃子なんで、嬉しくって」
満面の笑み。本当に嬉しそうだ……そして、少々赤い。
「エリス……お酒、飲んでる?」
「いえ? 今日飲んだのはそこの瓶に入ってる液体だけですけど?」
「?」
見てみると、テーブルの上に見覚えのないインスタントコーヒーのモノを再利用して、梅酒のように、小さな木の実か何かがつけ込まれている瓶がある。
「……ごめん、騎央」
苦笑いとも、途方に暮れているとも取れる笑顔で、真奈美が言った。
「ウチの母さんがネットで買ったマタタビ酒なの……冗談半分でお猪口《ちょこ》一杯勧めたら、あっというまにこの調子で……」
「あ、これおさけなんれすか?」
さんざんマラカス振って踊っていたせいか、頬のほんのりとした赤が、どんどん顔全体に濃く広がっていく中、エリスはなーんだ、と手を打った。
「どーりでなんかこー、しゃーわせというか、あはははは〜というか、何ろものへへらーな、いー気分《きうん》になって来たれすぅ」
「え、エリス、何か会話がどんどんひらがなだらけになってきたんだけど……」
「えへー、えへー? そうれすかー? わらひはぜんれん、らいじょうう、れすけろー。れもー、おかひーなー? なんかほかのお酒《ちゃけ》とくらべへ、みょーにまわるのがはやいれす」
もうどこから見ても立派な「酔っぱらい」と化したエリスはへにゃーっと笑いながらその場に座り込んで頭をふらふらと振り始めた。
「れもー、らいじょぶ、よっれまへん」
古今東西世界中、老若男女を問わず酔っぱらいが必ず口にするお定まりのフレーズを言いながら、エリスはさらにコーヒーの空き瓶に満たされた液体を、危なっかしい手つきでコップに注ごうとした。
「だ、駄目だってエリス! もうこれ以上は駄目!」
慌てて騎央がそれを取り上げると、エリスは座り込んだまま騎央の脚にすがりついた。
「やらー。わらひ、もっとろむぅ」
ぐいっと猫耳少女は騎央の脚を引っ張り、引き倒す。
「うわわわっ!」
「こんろはろーやってろもーかな?」
赤い顔を天使のようにほころばせながら、エリスは引き倒した騎央の身体を登っていく。
「んふー。んふふふふっ」
「な、や、やめろったらエリス!」
少年は頭の上にマタタビ酒の詰まった瓶を掲げながら、何とか逃げようとするが、まあ、身体を圧迫しているのは普段はおとぼけとはいえ、「ゆさり」と揺れるほどの胸と、引き締まった腰と、どおんと張り出したヒップという素晴らしいプロポーションのエリスで、しかも身体にぴっちりした……少々上がり気味の体温さえ感じられるほどのボディスーツという格好である。
健全な十六歳の男子としては、いや、なんとも力の入らないことおびただしい。
「んふふふ、きおしゃんのからだ、ほしょくて、胸とかぺったんこー」
エリスはくすくすと微笑みながら騎央の胸元に鼻面をすり寄せる。
「んふふふ、きおしゃんのにほひー」
「わわわわわわ、な、なにすんだ!」
騎央は顔を真っ赤にして身をよじるが、あまりに慌てていて、手に持った瓶を放すなり転がすなりして逃れるという考えが頭に浮かばない。
「しょーら」
不意に顔をあげると、エリスはますます楽しそうな顔になった。
「きおしゃんに、くちうつしで、ろませてもらおー」
「!」
がちゃん、と音がした。
エリスの向こう側で、真奈美が思わず持っていた焼き餃子の皿を取り落としたのだ。
「く、く、く、くく……」
「くくくくくく」
騎央と真奈美が図らずも同じ言葉を言おうとしてデュエットになると、
「くちうつしー♪」
とエリスがオチを着けた。
まあ、この状況なら口移しで飲ませて「もらう」、というよりもエリスが騎央に口移しで飲ませて「あげる」ほうが正しいというか当たり前なのだが、酔っぱらいに理屈も何もあったものではない。
「やらー、くちうつしで、ろでますー」
とうとう完全にろれつが回らなくなって訳が分からない状態のまま、エリスは騎央の首っ玉にかじりついてうにゃうにゃとしはじめた。
「こ、こらエリス、離れなさいってば!」
さすがに真奈美がエリスに取りついて引きはがそうとするが、身長では十センチ、胸では三周りも差のある相手がそうそう簡単に思い通りになるはずもなく、猫耳少女はますます騎央の身体にからみつく。
「離れなさいってば!」
「やらー。きおしゃんにくちうつしでろでますー」
「んのーっ! ネコの癖に蛇みたいにからみついてー!」
「エリス、やめろってば、ねえっ……んむむむ……むぎゅうっ」
ついにエリスはうにゃうにゃと騎央の身体全体に巧妙にからみつきながら、その豊満きわまる胸で少年の顔を圧迫し、目指す酒入りのコーヒー瓶に指を伸ばす。
「ろでますー、ろでますー」
エリスの指が、コーヒー瓶にかかった時、一瞬だけ室内が明るくなった。
「何がコンボイだ?」
黒髪に金のメッシュの入った髪をかき上げながら、デュレルは地球で買い求めた白衣の胸ポケットから、ニコチンスティックを取り出して口にくわえつつ、足下にいた彼女専用のアシストロイドに短く一言、
「鎮圧装置《ティザー》使用、エリスを無力化せよ」
エリスのモノとは対照的に耳の間に小さな白い帽子を被り、ボディにも白地に赤いラインが走っているデュレルのアシストロイドは、右手を高々と上げた。
腕の部品が展開し、中からいかにも「おちゅーしゃ」という表記が似合いそうなずんぐりむっくりな注射器が現れると、その先端が、エリスのまあるいヒップにぷすりと突き刺さった。
「きみゃー!」
エリスの尻尾も耳も、電撃に打たれたようにぴぃんっ!と逆立ち、注射器が抜かれると、「ふにゅぅ」という情けない声を出して少女は気を失った。
「な、何を注射したんですか?」
何とかエリスの下からはい出しつつ、騎央が尋ねると、デュレルは「注射じゃないよ」と言って笑った。
「鎮圧装置《ティザー》っていってね、直接神経に電気パルスを流して失神させるんだ」
「つまり……スタンガン?」
「そう言うのか? そっちでは」
とかいう会話がされている内に、頭をふらふらさせながらエリスが起きあがった。
「わ!」
思わず騎央と真奈美が後ずさるが、エリスはぽやーっとした目つきから、すぐに通常のそれになった。
「あれ? わたし、どうしてたんでしょう?」
「え?」
まるでスイッチでも切り替わったように、エリスはすっかりしらふに戻っていた。
「えーと、真奈美さんが焼き餃子を持ってきてくださって、それと一緒にマタタビ酒とかいうのを、お猪口に一杯もらって飲んで……?」
きょとん、とエリスは首をかしげ、すぐに玄関に落下して砕けた焼き餃子の皿に気が付いた。
「あー!」
ばたばたと土間におりると、砕けた皿と汚れてしまった餃子を左右の手にとって、世にも情け無さそうな顔になった。
「もったいなぁい……真奈美さんの焼き餃子、おいしいのにぃ」
「…………エリス?」
騎央はネコの耳もぺたっとなって、尻尾も垂れ下がったエリスに、おそるおそる声をかけた。
「あの……何も覚えてないの?」
「え?」
さて、どう言い出したものかと躊躇《ちゅうちょ》する騎央を押しのけるようにして、真奈美が前に出る。
「お、踊ってたじゃないの! 『やっき、やきやきやっきやきー♪』って」
モンキーダンスのように手を振って、当時のエリスの真似をする真奈美に、エリスは首をかしげ、すぐに笑顔を浮かべた。
「またまたぁ。真奈美さんったらぁ。わたし、踊りも唄も大好きですけど、そんな恥ずかしい真似、しませんよー」
「な、何言ってるの! あげくに『もーいっぱいのむー』とか言って騎央を押し倒して」
「も、もー。冗談ばっかりー」
エリスは笑って手を振った。
「いくら何でも、わたしはキャーティアの現地調査員ですよー。そんな風にバカなことはしません」
「したの!」
「しません!」
「いや、違うぞエリス」
苦笑いに似た笑みを浮かべながら、デュレルがようやく割って入った。
「残念ながら彼女の言うとおりだ」
「またまたぁ。デュレルさんまでグルになってー」
なおも信じようとしないエリスに、デュレルは指を鳴らした。
手持ちぶさたにボケッとしていたエリスのアシストロイドたちがわたわたと集まってくる。
「上位命令者として命じる。今から一分前、エリスが行っていた行為をシミュレートせよ」
言うと、途端にアシストロイドたちはマラカスをシャカシャカ振りながら、真奈美がやっていたのと同じような踊りを始めた。
「え……?」
エリスの笑みが強張る。
「よし、止めろ」
ぴた、とマラカスの音が止み、つぎにデュレルは自分のアシストロイドに、
「私がこの家に来てからのエリスの映像を映写せよ」
と命じた。
頭頂部に乗っていた白い帽子状のパーツが跳ね上げられ、中からミニチュアサイズの八ミリ映写機そっくりな機械が現れた。
テープリールによく似たふたつのパーツがカタカタと回り始めると、レンズ部分が光り、小さな立体映像が投影される。
『やらー。わらひ、もっとろむぅ』
小型化された半透明のエリスが、同じく半透明の騎央の上にのしかかり、くねくねと身体を密着させながら騎央が頭の上に掲げたコーヒー瓶めがけて移動していくさまが映し出される。
「う……うそ……」
愕然《がくぜん》とした表情で、エリスは顔を青ざめさせた。
「以上だ」
「あ、あ、ああああああああああ」
青くなった顔は次に真っ赤になり、次の瞬間、エリスは真奈美と騎央の前に土下座した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「あ、いや、あの、その」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい〜〜〜っ!」
ここまで素直に……というか、身も蓋《ふた》もなく謝られると、かえって謝られる方が困る。
双葉アオイの新居に、新しい同居人が、宅急便の箱(特大)に入ってやってきた。
引っ越したばかりというのもあるが以前の、無味乾燥ながら一応は年頃の少女らしい偽装工作が施された室内とは違い、ここは市販、私製を含めた大量のDVDが並ぶ棚が部屋の四方を取り囲み、映画雑誌やサントラがうずたかくあちこちに積み重ねられた、いかにも「マニア」な室内となっていた。
箱はその真ん中に置かれている。
「……っと。『まず、手にしたマスターキーの持ち手の蓋を横にスライドさせ、中の記憶端子をなめてください。蓋を閉め、転送ボタンを押します』」
梱包《こんぽう》を解いたアオイは手にしたマニュアルに書かれたとおりの手順で、どこかのコーヒー屋の看板に使われそうなぐらい典型的な「鍵」の持ち手部分をスライドさせ、そこにある小さな赤いロリポップキャンディのような端子をちろっと舌先でなめ、蓋を元に戻すとその上にあるスイッチを押した。
「きゅいっ」というモーターが動く音がして、彼女の前にちょこんと腰を下ろしてうなだれていた物体が顔をあげる。
「『これであなたは最優先命令者に設定されました。次は起動実験です、何か可能な命令をしてください』……じゃあ、『立って』」
ひょこ、と二頭身の猫耳ロボットが立ち上がった。ちなみに、一体だけではない。二体いる。
エリス達キャーティア人の現地協力者として雇われたアオイにアシスタントとして与えられたのは、近距離接近戦に特化したタイプで、双方とも頭の後ろにバランサーと放熱装置を兼ねた繊維状《ファイバー》センサーが、馬の尻尾のようにぴょこんと飛び出し、腰には持ち主に似合ったディフォルメタイプの日本刀が長短二本。ちなみに見分けを付けるためか、一体は袖《そで》無し羽織を模した増加装甲で普通に両目があるが、もう一体は、短い袖無し羽織型の増加装甲を着けており、左目に当たる部分に眼帯のように円盤状のセンサーが装着されている。
「『小さくジャンプ』して『横飛び』、『三回回って』から『猫招き』」
言われたとおり、二体のアシストロイドはぴょんと飛び上がって着地と同時に右横へ飛び、つま先立ちで三回くるくると回ると、右手を頭の横に添えてくいっと手首を招いて見せた。
思わずアオイの顔がほころぶ。
「えーと……『踊って』……じゃない『舞って』」
猫の耳と尻尾を着けた二頭身ロボットたちは、意外に流暢《りゅうちょう》な動きで「能」を舞い始めた……もっとも、短い手足のせいか、妙に早回しな動きではあったが。
「『では次に不可能な命令をしてください』……か」
アオイはちょっと考え、
「『マツケンサンバU』を歌いながら踊りなさい」
と命じた。
すると、何を考えたのか二体は互いにじゃんけんを始めた……ちなみにこのバリエーションタイプは、県庁でエリス達を送り迎えしたときに助手席にいた射撃型と同様に、五本の指が分かれている。
二、三回じゃんけんをすると、眼帯なしの方が負けた。
まず、負けた方のボディカラーがそれまでの濃い緑と黒のツートンから、真っ白に変化した。短い足を曲げて正座の姿勢を取り、増加装甲の前部ジョイントを外して後ろに跳ね上げ、小刀を抜くと逆手に握り、眼帯付きのほうを見て頷いた。
もう一体の方は重々しく頷くと、刀を抜き、高々と正眼に構える。
どう見ても、粛々とした切腹&介錯《かいしゃく》の図だ。足りないのは背後の陣幕と花の散る桜の木、および渋めのBGM。
「?」
アオイは意味不明な行動を取った二体のロボットに首をかしげ、マニュアルに目を落とした。
「『不可能な命令を出した場合、機能が正常に働いていれば、ジャンケンの後、負けた片方が切腹、勝った片方が介錯をします。体勢が整ってから十秒以内に停止命令を……』って!」
ぐい、っと眼帯付きの構えた刀の切っ先が、一瞬後ろに動く。
「止めなさい!」
アオイの鋭い声に、眼帯なしの首に振り下ろされる数センチ手前で刀がぴたりと止まる。
さしものアオイもため息をついた。
「……メカはピーキーなチューンがされている方がいい、なんて言わなければ良かったわ」
彼女の前では、装甲(というか衣服)を整えた二体のチビロボが正座して「お粗末でした」とでも言うように深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「あー、もういいよ、そんなに謝らなくても」
さすがに真奈美もそう言わざるを得ない。
「でも、エリスってそんなにお酒弱かったっけ?」
騎央が首をひねった。
「申し訳ないです」
「やっぱほら、猫だからマタタビには……」
真奈美がフォローを入れる。
「それもあるが、微妙に違うな」
柱に寄りかかったまま、デュレルが口を挟んだ。
「エリス、お前『そろそろ』じゃないのかい?」
「え?」
「発情期《さかりどき》だよ」
「……あ」
「さかりどき?」
「そ。あたしらの種族はね、十六周期を超えると定期的に子作りのシーズンが来るようになるんだ。うっとぉしい話だけど、まあ、種族的特徴、って奴さね」
中が空になったニコチンスティックを、「ぷっ」と器用にくずかごの中に吹き飛ばし、それが見事に中に入ったことを確認すると、デュレルは続けた。
「で発情期が近づくとな、やたらに脳内麻薬が出るんだ。普段ならどうってことはない量のアルコールで酔っぱらったりとか、喜び方が尋常じゃなくなったりとかな。喜怒哀楽の内、喜と楽だけが強化されるのさ」
「……」
面目次第もない、という顔で、正座したエリスは首をすくめた。
「でも良かったよなあ。お前、初めての発情期《さかりどき》でちゃんと相手がいる奴ぁ、運が良いんだぞ。大抵は疑似体験装置《バーチャルマシン》だからな」
優しい顔でデュレルはいい、エリスの頭を撫でた。
「あ、相手って……」
真奈美の顔色が、何故か変わった。
「むろん、騎央君のことだが?」
何か問題があるのか、という顔でデュレル。
「あ、いや、そのそれは……」
真っ赤になってとまどう騎央とは対照的に、
「だ、駄目ですってば!」
真奈美が大声を上げた。
「何故だね?」
「に、日本の法律では、二十歳未満がそ、そのそ、そそういうことをしてはいけないんです!」
「ああ、その辺は大丈夫だ。この家から出ないで『行え』ばいい」
あっさりとデュレルは答えた。
「ここは一応、我々キャーティアの臨時大使館として機能している。この国の法律に照らしてみればいわゆる治外法権地だ。大丈夫、外でそういうことをするほど我々は性的に抑圧されてはいないよ」
「せ、性的に抑圧って……」
「この社会は性的なモノに対する歪んだ抑圧があるから、色々変わった方法があるらしいが、我々はそういうものを克服して社会のシステムの中に組み込んでいるからな。ちゃんとベッドの中でしか……」
「そ、そういう問題じゃなくって!」
「どういう問題なのだ? 騎央君は聞けば婚約者も恋人もいないそうではないか」
「そ、それはそうですけど……ちょ、ちょっと騎央、あんたも何とか言いなさいよ!」
「あー、い、いや、あの、ぼ、ボクはそのぅ」
「こらー! 何で逃げるのよ、アンタの話でしょーが!」
「と、とりあえず部屋、片づけてくるね」
「こらー、逃げるなー!」
バタバタと二階の部屋に逃げる騎央と、それを追いかける真奈美を見ながら、デュレルはため息をついてエリスの方を見やった。
「おい、あんなんでいいのか?」
「いいんです」
穏やかな笑顔で、エリスは頷いた。
「ああ見えても、結構勇気もあるし、漢気《おとこぎ》もある人ですから」
「そうかねえ……?」
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第三章 飛行機乗ったら大変だった
八時五分発、那覇空港発東京|羽田《はねだ》空港行き、日本航空三〇四便の通路を、世にも珍しいモノがとことこ歩いていた。
「おかーさん、新しいポ○○ンがいるー」
それを見かけた幼女が無心に指さし、そばにいた母親の袖を引っ張る。
「あら、本当。可愛いわねー。こんにちはー」
親子で手を振ると、猫の耳と尻尾を着けたメカニカルな二頭身は足をとめ、「やほー」という風に大きなミトンをはめたような手を「したっ」と上げて呼びかけに応え、また歩き始めた。
「あ、おとーさん、新しいデジ○○がいるよぉ」
また別の席で似たような声があがる。
「あ、こっちにもいるー」
反対側の通路でまた違う声。アシストロイドは二体いるのであった。
「あ、あのー、お客様」
かつてはスチュワーデス、今はフライトアテンダントの名前で呼ばれる客室乗務員の女性がちょっと困った笑顔を浮かべてある座席のほうへ来た。
「あの、お連れの方といいますか、ペットロボット……といいますか、その」
「あ、あれですか?」
にこにこと、座席に座ってしっかりシートベルトを着用したエリスが応じた。
「大丈夫です、人に危害は加えませんし、電磁波とかも出しませんから」
「あ、いえ、そういう意味ではなくてですね、そろそろ離陸致しますので、お席のほうか、荷物入れのほうに」
「はいはい、分かりました……戻っておいでー!」
エリスが言うと、とててて、と通常バージョンの赤いアシストロイド二体が戻ってくる。
「コンテナか何か、入れ物はございますでしょうか?」
言いながらフライトアテンダントもこれを電子機器に区分けするのか、ペット、動物の類とするべきなのか、カテゴライズに迷っているようだった。
「あ、大丈夫です、この子達『貨物』なんで」
「え?」
「はい、ふたりとも『にもつ』〜!」
言われると、二体のアシストロイドたちはくるっと身体を丸めた。
床にころん、と二つの塊と化したアシストロイドたちが転がる。
なるほど、確かに尻尾がちょこんと突き出して取っ手のように見えるから、荷物に見えないこともない。
「では、お願いします」
「は、はぁ……」
どこか、釈然としない顔でフライトアテンダントは、見かけよりもずっと軽い「荷物」のひとつを座席の上にある荷物入れに押し込んだ。
「あ、一個は私の足下に置いてください……それはいいんですよね?」
「は、はい」
言われるままにフライトアテンダントは、「荷物」のもう一個をエリスの足下へと押し込もうとした。
「あら、かわいそうじゃないの」
そう言って年かさのフライトアテンダントが顔を出した。
「あ、チーフ。でも……」
「今日は座席も空いているから、この子はそこの席に座ってもらいなさい」
「は、はい」
「ありがとーございます……んじゃ、『もどれ』」
ぺこ、とエリスとそのアシストロイドが頭をさげると、チーフパーサーらしい妙齢の美女はにこやかに微笑んで猫耳ロボットを空いている席に着けてやり、シートベルトを締めてやると頭を撫でた。
アシストロイドがぱたぱた耳を動かし「ありがとー」と手を振ると、ますます目を細める。
やがて、フライトアテンダントもそれぞれの席についてシートベルトを締め、飛行機はゆっくりと動き始めた。
「あ、動き始めた」
楽しげにエリスは微笑んだ。
「わたし、揚力で飛ぶ飛行装置に乗るのは初めてなんですよ。どんな感じでしょうね、騎央さん」
「まぁ、じきに分かるよ」
ちょっと強張った笑顔で騎央は応えた。
心なしか、座席越しに、後ろにいる真奈美とアオイの視線が妙に冷たい気がする。
事の起こりは三日前……例の「焼き餃子ダンス」事件があった日の午後である。
「東京に行きたい?」
「それも、飛行機でぇ?」
アオイと真奈美の言葉に、エリスはこっくんと頷いた。
「はい」
「何でまた?」
「調査仕事です。宇宙船《うえ》にいる学術研究班に頼まれまして」
「で、何でその学術なんちゃらとかいう班の人たちが降りてこないのよ?」
「学術研究班って、二〇〇人ぐらいいるんです。そんなに一斉に降りてくるのはマズいでしょ?」
「……」
確かにそれは言えた。
「それに私、一応調査員として駐在もしてますから」
「危険よ。目をつぶって地雷原を歩くようなモノだわ」
アオイは頭から否定したが、
「はい、それは承知の上です」
とあっさりエリスは頷いた。
「?」
「沖縄県内での危険度は大分下がりましたが、東京とかではどうなんだろう、という調査もこれは兼ねています……それと、デモンストレーションも。『我々はこれぐらい友好的で害意のない存在ですよ』という」
確かに、一理ある考えではあった。
これから交渉するにせよ、交渉をますます延期させるにせよ、余計な先入観以上に、警戒心や危機感は排除するべき感情だろう。
「そういう風に取ってくれるかは、そこでの行動によるわね……で、東京へ何の調査にいくの?」
アオイが話を元に戻した。
「えーとですね」
エリスは腰に巻いたベルトのパウチから小さな機械を取り出し、スイッチを入れた。画面の文字を読み上げる。
「文化水準、および情報と経済の関係、科学技術、機械技術の調査、です」
「具体的には?」
「オモチャと漫画本をいっぱい買ってきてくれ、ということですね」
「…………」
アオイと真奈美は思わず顔を見合わせた。
なるほど、そんなモノを山ほど買い込めば、少なくとも一般人は「害意のある存在」とは見なさない。
オタクグッズを山ほど買い占める宇宙人、外見以上に卒倒したくなる話である。
「んーとですね。文化水準は、当事者達が高いと思っているモノよりも、低いと顧みられないモノにこそ現れる、というのが、|キャーティア《わたしたち》の文化人類学の見解なんです」
エリスが、どうも本人も信用していないらしい言い訳をすると、
「まあ……文化人類学としては基本ね」
アオイが溜息をつきながらフォローする。
「でも……この前、騎央さんの部屋のモノを幾つかお借りして資料として送ってから急に、ですから、きっと興味半分だとは思いますけど」
「ちなみに、何を送ったの?」
「えーと、週刊の漫画雑誌と、要らなくなったオマケのフィギュアと、えーと、それと……」
ちら、とエリスは騎央のほうを見やって首をすくめながら、
「騎央さんのベッドの下にあった……」
「わー! わー! わー!」
それまで黙って興味深そうな顔をしていた騎央が急に顔を真っ赤にして大声をあげた。
「わー! わー! わー! わー!」
ジタバタと手を振り回して何とかその場の話題を切り替えようとするが、こういうときにうまく出来るような少年ならこんな苦労は最初からしていない。
「あーめんぼあーかいなうれしいなー♪」
「何デタラメ歌でごまかそーとしてんのよ、アンタは」
「痛い、痛いってば真奈美ちゃん」
ぎゅういいっ、と騎央の耳を引っ張りながら、真奈美は白い目になって訊いた。
「で、ベッドの下にどんな本を置いてたの?」
「あ、同性同士とか、相手に暴力をふるったりとかの、特殊な性癖のものは無かったです」
よせばいいのにエリスが言った。
「それに、騎央さんおっきい方がいいみたいなんで、ちょっと嬉しかった……かな? えへへ」
「……」
「…………」
真奈美と、何故かアオイも同時に自分の胸に手を当て、次いでますます白い目で騎央を見た。
「な、何だよ、ふ、ふたりとも……い、いいだろっ! こ、個人の自由なんだしっ」
とうとうここに来て騎央は開き直らざるを得なくなった。
「…………嘉和《かかず》君は、やっぱり大きい方がいいのかしら」
ぽつん、とアオイは呟いた。
飛行機は離陸し、水平飛行に入っている。
エリスといえばすっかりはしゃいで窓に張り付いて外を見たり、座席がちょうど翼からエンジンが見渡せる位置にあるから、エンジンの動きを見たりとかして、空の旅を十分にご満喫……つまり、騎央はその抑えに回っていて、彼女のつぶやきは聞こえない。
「ま、そうみたいね」
軽く返しながら、どうにも真奈美はこの、元・日本政府直属の破壊工作員《イリーガル・エージェント》、暗号名「紅葉」という物騒な素性を持つクラスメイトとの距離を測りかねていた。
いつもの彼女を知る人間からすれば意外に思うかもしれないが、真奈美はかなりこういう所で気を遣う。
ただのクラスメイトにしてはアオイは無口だし、かといってその道のプロとして上に(真奈美は何だかんだ言っても結局セミプロに過ぎないから、これは当然だった)扱うと今度は妙に硬い反応しか返ってこなくなる……どうも不機嫌になるらしい。
一度、どこかで席を設けてある程度腹を割って話し合った方が良いかもしれないが、この宇宙人騒動が一段落付くまではそれもなかなか難しそうだ。
大体、言下に拒否されたとして、次にどんな言葉で繋いで……というのがどうにも思い浮かばない。
前回、騎央を助けるために同じ戦場を戦った仲ではあったが、あの時はアオイの正体に圧倒されて、真奈美は彼女の指示に従うばかりだったし、その後も一緒にキャーティア大使館(仮称)に仮就職となったが、エリス達とそれを迎える日本政府とのドタバタは想像以上で、個人的に話すような時間もさほどなかったのである。
そして、真奈美は気づく。つまりこれから東京までの二時間、彼女とほぼ二人っきりであるという事実に。
(つまり、この間にちょっと仲良くなったほうが時間の無駄にならない、ってことよね)
これから先、一緒の職場でコンビを組むのだから、相棒のことはある程度以上知っておかねばならない……別に珍しい考えではなかった。
CIAも含め、大方の諜報《ちょうほう》組織、軍事組織は数名以上の「細胞《セル》」システムを導入しており、その中のコミュニケーションが己の生死を分けると叩き込まれる。
「……ところで、双葉さんって音楽とか、何聞くの?」
急に話しかけられて、アオイは内心動揺した。
彼女にとって、今隣にいる少女はどういう付き合いをすればいいのか、未だに決めかねている存在だからだ。
「……」
こういう場合、いつものアオイなら選択肢はひとつだ。
「何でも適当に聞いている」と応える。素っ気なく、突き放すような答え。
だが、金武城真奈美《きんじょうまなみ》という少女は、アオイの正体を知っている。それに、恐らくそんな答えを期待して話しかけているわけではない。
さらに言えば、彼女はアオイにとっては仕事仲間、パートナーなのだ。
では素直に応えるべきか……これは、彼女の自尊心が邪魔をしていた。
何しろ、騎央と意気投合したのが「ド」がつくマイナー邦画のDVD購入を巡って、というくらいの映画マニアである彼女にとって、音楽とは映画に流れているモノであった。
この年齢の|マニア《オタク》としては不幸なことに、彼女は自分の趣味が世間一般から見れば大分「風変わり」で「ズレ」たものだという自覚をするだけの常識を持っている。
さらに、そんなことを言うのが「恥ずかしい」と感じるだけの感受性も。
数秒間躊躇して、彼女は何とかジャンルを言い換え、その中に混ぜてしまうことに成功した。
「古い曲……歌謡曲とか、映画音楽とか」
「へえ、レトロなのが好きなんだ」
「あ、き、金武城さんはどんなのを?」
「あ? あたし? あたしはその……」
ちょっとだけ真奈美は考え、
「まあ、普通にJポップとか」
「そう」
「で、でも映画音楽って、どんな感じの曲?」
真面目な顔で真奈美は聞いてきた。
「そうね……ジャンルそのものは深いわ。クラシックも、ロックも、ジャズも、ヒップホップも入ってるし。でも微妙に違うの。やっぱりそれは、『映像』っていう…………」
真奈美とは逆に、常に「諜報部員」あるいは「職員」ではなく、「兵器」として「孤立無援《スタンドアローン》」な戦いを強いられていたアオイである。
だから真奈美の真摯《しんし》な態度の理由を理解できず、内心首をかしげながらも(この辺はオタクの悲しい性だが)己の中にある「サウンドトラック」というものの定義について、なるべく言葉を選んで話し始めた。
彼女……ジェンス中尉の掌の中、コンパクト型の簡易レーダーで光点が明滅している。
かなり近い。
「いっそ、ここからミサイルでも撃ち込めば話は早いんでしょうけど……」
彼女は、コンパクト型のレーダーの蓋を閉じた。
米軍の要人輸送用に購入されたビジネスジェットの中、ジェンスは長い脚を優雅に組み替えた。
「それだと派手すぎるのよね……どっか、遠くて、誰もいないところで永遠に消えてもらわないと……」
薄くて冷たい笑みが、その唇に浮かぶ。
羽田空港に飛行機は定時に到着した。
乗客はいそいそと機内を後にし、フライトアテンダント達は機内の点検に回る。忘れ物、不審物、およびこれから数分後にやってくる機内清掃の連中に申し送らねばならないような「汚れ」が無いかどうかの点検である。
「あれ? チーフは?」
機内をざっと一回りして戻ってきたフライトアテンダントのひとりが同僚に尋ねた。
「さっき、気分が悪いからって、トイレ」
「ふぅん……さっきまで全然そんな風には見えなかったけど、さすがベテランよねー」
適度に厳しく、優しく、人格も練れたチーフパーサーに対し、まだ年若いアテンダントたちは尊敬の念を抱いていたから、その程度で会話は終わった。
まさか、その当人が今トイレの中で鬼のような形相と女子高生もかなわぬほどのスピードで携帯電話のメールを何処《いずこ》かへ送るために打っているとは、誰も思っていなかったのである。
メールは興奮のあまり長々としたもので、何度も推敲《すいこう》と消去を繰り返し、最後にたった一行になった。
「目標東京到着、同行少年1、少女2、ロボット2(←激プリティ!)」
トコトコとアシストロイド二体はエリス達に先行して空港内の通路を歩いていく。
まあ、目立つことおびただしい。
「……」
覚悟はしていたが、騎央としてはサングラスとマスクが欲しくなる状況であった。
「……金曜日の最終便で来たほうが良かったかな?」
「何言ってるの」
こちらは用意周到にサングラスを用意していた真奈美が小声で諭した。
「東京で一泊、無事に出来ると思う? ……正直言って今回のこともマスコミに嗅ぎつけられないかヒヤヒヤものなんだからね……それに、今回誰がお金出してると思ってるの?」
「はいはい、分かりました、スポンサー様」
日本政府から貸与されるはずの年間予算が振り込まれるまでまだ一週間はかかる……結果、この中で一番小金を貯めていた真奈美が「緊急手段」としてこの渡航費用を出しているのだ。
最初、騎央は雄一叔父《ゆういちおじ》か両親に泣きつこうとしていたのだが、真奈美は「それはむしろ資料の購入費と東京での移動費用に振り分けたほうがいい」と自ら申し出たのである。
ちなみに、全ての費用は後日精算ということで、エリスが借用書を書いている……もっとも、本人は押捺《おうなつ》とか契約書の形式とかを面白がっていて、さてこれがどういうモノなのかという理解をしているかどうかは怪しいところがあるが。
「ちょっと待って」
エリスも含め、機内持ち込みの手荷物だけの騎央たちが手荷物受取所を通り過ぎ、そのまま出場ゲートへ向かおうとすると、アオイが呼び止めた。
「あ、そうか、双葉さん手荷物あったんだっけ」
「ええ」
アオイはすぐに戻るつもりで階段を駆け下りたが、何となく騎央たちも階段を下りる。
「すぐ戻るからそのまま待ってていいのに……」
騎央の方をみてすまなさそうにするアオイだが、
「いえ、こういうシステムって興味ありますから」
眼が輝きっぱなしのエリスが答える。
やがて、手荷物受け取りのベルトコンベアが動き始めた。
「で、双葉さん、何を預けていたの?」
「……あれ」
アオイが指さしたモノを見て、騎央は眼を点にした。
サムライの格好をしたアシストロイド二体が、手荷物預かり用の荷札を付けるためのビニール袋に入ったまま、ちょこんと正座してコンベアの上をやってくる。
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第四章 真奈美が一番ご苦労だった
「ほら、そこに販売機があるでしょ? 出てからチャージすればいいのよ。うっかり乗り越した場合は改札で止められるから、そこにある『乗りこし精算』って書かれた奴でお金を払うの……でも中身がゼロになってない状態で使うと、止められちゃうから、チャージするときは外に出るの」
「ふーん」
騎央は手に持ったJRご自慢のプリペイドシステム、Suicaカードとその自販機を交互に見ながら感心の頷きを返した。
その隣では同じようにエリスがためつすがめつしながらしきりに真奈美の説明に頷いている。
「便利なもんなんだなぁ」
「……ったく、田舎もん」
「何だよ、真奈美ちゃんだって同じじゃないか」
「違うわよ、田舎もんってのは、その心根と知識の問題なの、いい?」
「はいはい……じゃ、エリス行こうか」
「あ、はい」
ちょっとしゃがみ込んで、自分のアシストロイドたちにカードを見せていたエリスが慌てて立ち上がり、専用改札のセンサー部に「ちょこ」っと触れるようにして外へ出る。
駅の外はちょっとした広場になっていた。
「えーと、この先ね」
真奈美が前日にプリントアウトしたインターネット地図を片手に行き先を決める。
広場を横切るようにして、「中野駅前商店街」に入る。
「うわぁ。やっぱり平和通りとは違いますねえ」
エリスが嬉しそうに声を上げた。彼女の足下で二体のアシストロイドたちは片手をひさしにして、キョロキョロと周囲を見回している。
「……う、うんそうだね……あ、ユニクロまであるんだ」
「え? ホントだ……でも駐車場がないですよ?」
宇宙人のエリスはもちろん、騎央にしてみても生まれて初めての沖縄以外の土地であるから、まあ無理もない反応である。
「|ほら《エー》、立ち止まらない!」
真奈美が急かした。
「はいはい」
(いいなぁ)
騎央の背中を突っつくようにして歩みを急がせる真奈美を見て、アオイは心底彼女を羨《うらや》んだ。
真奈美はまだ、心底こちら側の世界に浸かっていない。それに……騎央の幼馴染なのだ。
(私も、あれくらい嘉和《かかず》君と……)
思わず頭の中で、真奈美と自分を入れ替えてしまっているのに気づき、アオイは頭を振った。
それは、とても幸せな光景で……しばらくすると思わず泣いてしまいそうなことに気づいたからだ。
ふと、彼女のスカートの裾を、誰かが引っ張った。
視線をおろすと、そこには彼女のアシストロイドたちが、どこか心配そうに(といっても無表情なので、そういう風にアオイが感じたに過ぎないが)こちらを見上げている。
「大丈夫。周囲の警戒、お願いね」
それぞれの頭を撫でてやると、また再びアシストロイドたちは騎央とエリスの周辺へと駆けていった。
駅前商店街の奥に、秋葉原に並ぶオタクの中心地《メッカ》中野ブロードウェイの建物がある。
「で、とりあえず一番上からずーっと降りてくる訳ね」
「はい」
真奈美の言葉に、エリスは元気いっぱいに頷いた。
ちなみに、階段あがってここは四階。エレベーターもあるのだが、商店街から来た場合、手っ取り早いのは階段を使用することなので、こうなった。
「でわ、さっそく参りましょー♪」
ということで、別名「四階建ての魔窟《まくつ》」と呼ばれるオタクビルの探訪が始まった。
「……ねえ、真奈美ちゃん」
ものの数分もしないうち、どこか首をかしげながら騎央は真奈美に話しかけた。
「なんかこの雰囲気、どっかで……」
「うーん、そうよねえ……」
低い天井、使い込まれたリノリウム張りの床、入り組んでぐるぐる回るような建物内の配置。
入っている店舗こそオタク向けが多いが、昭和の昔からあるらしい喫茶店を初めとする飲食店や美容室もあって、どこか懐かしい。
「あ、そうか」
ぽん、と真奈美は手を打った。
「あそこよ、ほら、国際通りに前あった……」
「ああ、ショッピングセンター」
騎央もようやく納得した、という顔になる。
ショッピングセンターというのは、今から五年ほど前に財政難を理由に取り壊された、『国際ショッピングセンター』のことだ。
「あそこの地下、ってこんな感じだったよね」
「そうそう……でも取り壊される前は不良のたまり場で」
「怖かったよねえ」
などという、暢気《のんき》な会話が出来たのはそこまでだった。
「あ、ここ入りましょう」
といって、エリスが食玩《しょくがん》を扱う店の一軒に入った。
「えーと……あの、すみません」
レジの中の店員を呼ぶと、レジの下の在庫を整理していた店員が立ち上がり、けげんな顔をしてエリスを見る。
「何でしょう?」
「えーとですね」
エリスは腰のポーチから紙片を取り出して広げた。
「タイムスリップスポロガムのオマケの昭和四十五年編と、ガシャポンの『タイム・アフタータイム』『ローリング・サンダー』『ザ・クラッカー』、それとちょっと古いんですけど『岡本喜八コレクション・殺人狂時代』『斬る』『必殺仕掛人』『必殺仕置人』『助け人走る』『若山富三郎シリーズ・賞金稼ぎ』『同・鬼一法眼《きいちほうげん》』、それと『神様家族』と『ガドガード』の第三弾ありますか?」
エリスがリストを読み上げていくうちに、店員は彼女の顔を何処で見たのか記憶を呼び起こしたらしい。
「あっ」という表情になるが、エリスがリストを読み終えると、やはりプロなのか「ちょっとお待ちを」と舌を噛みそうな口調で言いながらカウンターの下をひっくり返し始めた。
その辺りになると、レジに並ぼうとした客も気づくし、足下にいる四体のアシストロイドにも気づく。
何しろ、アシストロイドのうち、エリス専用の二体はトコトコと狭い店内の人の間を歩き回っては壁に、あるいはショーウィンドウに展示された、精緻《せいち》そのものの小さなフィギュアたちを見て回るのだから、気づかないのがおかしいのだが。
ざわざわとした喧噪《けんそう》が広がり始めた。
「あ、あの……あなた」
エリスの言うとおりのモノを精算しながら、おそるおそるレジの店員が尋ねた。
「あなた……その格好は、コスプレですか?」
「え?」
きょとんとした顔でエリス。
「いえ、ちが……」
「あ、そ、そうなんですよー!」
慌てて真奈美が割って入った。
「こ、今度宇宙人のゲームを出すんで、そのプロモなんですあははははー!」
乾いた笑い声をあげながら、エリスの腕とアシストロイドの耳を引っ張ってずりずりと外へ出る。
「エリス!」
押し殺した小声で、真奈美はエリスを叱った。
「うかつに自分が宇宙人だって言わない、って約束したでしょ?」
「あ、は、はい……すみません。つい」
「……ったく」
腕組みして溜息ついて、真奈美は今度は腰をかがめてぽかんと二人の会話を見上げていたチビスケどもにもお説教した。
「あんたたちも! あんまりチョコマカ歩くんじゃないの!」
もちろん、彼等に答える口はないから、言われるとくるりと背を向け、近くの壁に片手を付いてうなだれた……「反省」のポーズである。
「か、かーいー!」
はっ、と真奈美は気づいて後ろを振り向いた。
買い物帰りらしい女子高生が、アシストロイドを指さして黄色い声を上げている。
「あのー、これ、どこの商品?」
「あ、いえ、これはその」
「ねえ、幾らぐらいなの? もう発売されてる?」
「えーと、これはですね」
しどろもどろになりながら、真奈美は必死にこの場を取り繕う言葉を探した。
「ま、まだ発売されてないんです。こ、こんど発売されるんですけど、どこのメーカーからかは言えないんですよ、あの、まぁその、宣伝戦略、ってやつで……」
大汗をかきながらの真奈美の説明に、
「へぇー」
とか言いながら、女子高生たちはしゃがみ込んでアシストロイドたちを携帯に付属しているカメラでパシャパシャ撮り始める。
アシストロイド二体は律儀にもシャッター音がするたびに少女達へ片手を上げて挨拶した。
「ねえねえ、あなた、これ抱っこして写ってくれる?」
「え?」
思わずエリスが自分を指さした。
「だって、おそろいなんでしょ? あなたとこの子」
女子高生は当然だろうという顔である……ただし、この場合「アシストロイド」が「エリス」と、ではなく、エリス「が」アシストロイド「と」おそろいのコスチュームを着ていると解釈している。
「あ、は、はいはい……エリス、抱っこして」
「は、はい?」
わけもわからず、ただ笑顔を浮かべた真奈美の目つきの必死さに押されて、エリスは二体のアシストロイドを抱き上げて見せた。
「……そういえば、騎央と双葉さんは?」
いつの間にか、騎央とアオイの姿が見えないことに気づき、真奈美は周囲を見回した。
「こぉら、騎央、何してんの!」
思わず中古ゲームショップで、まるでパソコンにしか見えない古いゲーム機の前で腕組みして固まっている騎央の耳を、真奈美は思いっきり引っ張った。
「いたたたた、な、何だよ真奈美ちゃん!」
「あんたねー、今回は物見遊山《ものみゆさん》じゃなくて、エリスの護衛兼交渉役兼ガイド役でしょうが!」
「いや、だってPC・FXの本物なんて見たことが……いたたっ」
「はい、エリスの所行って、変なの近づけないようにしてくる! 今回ウチらはあのチビロボたちの販売員、エリスはキャンペーンガール、判った?」
「わ、わかったよ」
わたわたとエリスの方へ向かう騎央を見送り、真奈美はもう一人を捜すことにした。
「多分、どっかで護衛監視していると思うんだけど……」
きょろきょろと見回してみるがアオイの姿は何処にもない。
当人は見つからなかったが、アオイのアシストロイドたちがすぐに見つかったので手招きする。
とてとてやって来たアシストロイドに「あんたのご主人様は?」と聞くと、ちんちくりんのサムライたちは真奈美のスカートの裾を引っ張って角を曲がった。
「?」
アオイは、真剣な顔をしていた。
問題は、彼女が、どこで何に対して真剣な顔をしていたか、ということになる。
ちなみに場所は「マニアックな品揃えで大人気!」「中野ブロードウェイで一番マニア!」という手書きのポップも勇ましい、恐らく二つ分の店舗の壁を取り払ってひとつにまとめたとおぼしいDVDショップ。
どこかの会社帰りか、外回り営業をさぼったのか不明なサラリーマンや、薄汚れたジージャン姿の二十代、明らかに名画座通いで友達を無くした青春時代を保有しているとおぼしき、険《けん》のある表情の職業不明な三十代に混じっているのに、双葉アオイはその光景に奇妙にとけ込んでいた。
分厚い、DVDボックスを両手に持って、まるで己の罪業《ざいごう》を計る女神のように、厳粛な表情。
ちなみに、あからさまにカラーコピーもしくはカラープリンターによって印刷されたとおぼしいDVDボックスのタイトルは「Mr.BOO! 〜広川太一郎《ひろかわたいちろう》吹替版全集〜」と「ブルークリスマス・世界大戦争・ノストラダムスの大予言〜世界滅亡BOX」というかなりレアというか、マニアックな代物である。
「あ、あの……双葉さん?」
「!」
びくん、とアオイの背中が緊張し、ふたつのDVDボックスを後ろ手に隠しながら一瞬で振り向いた。
「な、何かしら?」
「あ、あのぅ……」
まさかこんな状況だとは思いもよらなかった真奈美は、しばらく言葉を探したが、
「さ、先行ってるから、買い物終わったら追ってきて」
「え、ええ。に、二分で行くわ」
「ま、まぁ……ヨロシク」
ぎこちなくふたりは別れた。
「そうか……邦画マニアだったんだ」
トッタカ歩きながら、真奈美は呟いた。
飛行機の中で話をしていて、どうも奥歯に物が挟まったような感じがあったのはこういうことらしい。
(だとしたら、こっちに気を遣ってくれた、ってことよね……悪いことしちゃったな)
ちょっと反省しつつ角を曲がり、真奈美はいつの間にかエリスと騎央が姿を消しているのを知って舌打ちした。
「ったく……ふたりともジッとしてられないのかな?」
ブツクサ言いながら、真奈美は携帯電話のスイッチを入れた。
「釣りバカ日誌とか、クボヅカの映画とかなんだろうなぁ……まさか、ゴジラ映画とかじゃないよね?」
アオイと同じ趣味の人間が聞いたら苦笑しそうなことを呟きつつ、真奈美はこの日帰り旅行がかなり難儀なモノになりそうだという確信を得ていた。
「……バレてしまった……わよね?」
ぽつん、とアオイは呟いた。
「……」
小さな溜息が出る。これで「引かれ」たのではないかという思いで頭がいっぱいになる……が。
ちょいちょい。
アオイのワンピースの裾を、サムライ型アシストロイドの一体……眼帯をした「チバちゃん(アオイ命名)」が引っ張った。
「?」
チバちゃんの指さす方を見ると、もう一体の「錦《きん》ちゃん」が両手で別のDVDボックスを抱えている。
「近衛十四郎《このえじゅうしろう》・柳生十兵衛《やぎゅうじゅうべえ》シリーズセット?」
思わずアオイは我を忘れて駆け寄ると、ボックスの文字を読んで目を見開いた。
白黒の写真を使ったボックスの装丁には、今や絶滅しかかっている苦み走ったいい男が、刀の鍔《つば》を使った眼帯に茶筅髷《ちゃせんまげ》、袖無し羽織に両刀を構えてこちらを睨み付けた写真がある。
「……さすが中野ブロードウェイ。確かに魔窟ね」
呟いて我に返り、ベテラン俳優|松方弘樹《まつかたひろき》、目黒祐樹《めぐろゆうき》の父親である日本映画黄金期の大剣豪スターの主演作品を棚に戻そうと思った途端、何故か正座して頭を下げる二体のアシストロイドの姿が眼に飛び込んできた。
「……買って欲しいの?」
訊くと、二体のアシストロイドはそろって頷いた。
アオイはじいいっと二体のアシストロイドを見た。
考えてみれば「チバちゃん」の方はあきらかにこのボックスにある近衛十四郎の格好……正確に言えば、彼の扮《ふん》する実在の剣豪・柳生十兵衛をイメージした造形になっている。
「……一週間後だったらよかったのに」
ぽつん、と溜息と共にアオイは呟いた。
「面白い所ですねー」
歩きながらきょろきょろと周囲を見まわしてエリスは言った。
「こんな小さな区画に、ほぼ同業異種の業者が詰め込まれてるなんて……価格差も色々ですし、細かい違いも多々ありますけれど、これで商業行為が成り立つんですね」
「エリスの所にはこういう所はないの?」
「規模的にはもっと大きな所がありますけれど、業者はひとつとか、あってせいぜい三つぐらいで、こんなに大量の業者はいませんね……それに、物品も含めて、大抵のものは情報化されてそれを取引する、ってパターンが多いですし」
「ふぅん……」
言ってる意味は騎央にはよく分からないが、まあ、何となくネットショップみたいなものしか無いのだろう、と見当を付けてみる。
「あ、あそこは宗教関係の書籍を扱ってるんですか?」
指さした先には、ショーウィンドウに水晶やらインド神像やら、「ムー」などのバックナンバーがこれ見よがしに飾られている。
「……というよりも、オカルト関係かなぁ」
「オカルト? 宗教とは違うんですか?」
「うーん、何というか、おまじないというか、迷信というか……」
そんな会話をしているふたりの足下でアシストロイドたちはキョロキョロと周囲を見回し、道行く人たちの注目を集めている。
「あら、真奈美? 無事に東京に着いたの? え? 今中野? そう……ああ、居るわよ。でも、お話しできるの? ……はいはい、わかりましたよ」
沖縄の真奈美の家。
真奈美の母は受話器を手で押さえながら、二階にいる新しい同居人を呼び出した。
「ロボちゃ〜ん、ゆんふぁちゃーん、真奈美から電話よー」
ひょこひょこと、小柄な影が階段を下りてきた。
黒いサングラスとボディにグレーのコート、口元から出ている爪楊枝型のセンサー。
射撃型のアシストロイド「ゆんふぁ(真奈美命名)」である。
黒いボディにサングラスのアシストロイドは片手をあげて「ういっす」と挨拶すると、真奈美の母親から受話器を受け取った。
「あ、ゆんふぁ?」
答える代わりに、アシストロイドは人差し指で受話器をコツコツと叩いた。
「悪いけど、人手が足りないの、すぐにこっちへ来て」
アシストロイドは「了解」の意味でまたコツコツと受話器を叩いた。
「んじゃ、またね」
一方的に電話は切れた。
「真奈美、なんて言ってたの?」
アシストロイドは懐から小さなプラカードを取り出すと同じく取り出したマジックで何やらミミズがのたうった様な文字を書いて上に掲げた。
「『ちよつととーきょーにいてきます』? あら、ひとりで大丈夫?」
こくん、と「ゆんふぁ」は頷いた。
きらり、と一瞬の輝きがあって、真奈美に与えられたアシストロイド、「ゆんふぁ」は真奈美の目の前に現れた……アシストロイドにはそれ自体に転送機能が備わっている。
幸い、背丈が小さいのと人混み、およびエリスへの注目が高いためもあってその光景は誰にも見られていなかった。
「よしよし、良く来たわね」
射撃型アシストロイドの頭を撫でると、真奈美は早速命令を下した。
「悪いけど、エリスを見つけ出したら、側にくっついて、守ってくれる?」
すかさずアシストロイドはプラカードに何やら書いて掲げた。
「『はっぽうしていい?』……って、それは駄目」
ちぇっ、とアシストロイドは指を鳴らした。
「大体、あんた本当に鉄砲持ってるの?」
するとプラカードに「しつれいな」と書いた後、アシストロイドは懐から自分の得物を取りだし、真奈美に手渡した。
「……?」
真奈美の目が点になる。
箱形のボディにグリップだから、一応、自動拳銃《オートマチック》らしい。
らしい、というのは、あまりにもいい加減な代物だからである。
形そのものは、コルト・ガバメントから取ってきたらしいが、遊底《スライド》と本体《フレーム》は分割されておらず、撃鉄らしいパーツもあるが、これまたスライドと一体化している。
「こるとのてっぽう」と書くしかないような、おおざっぱなディフォルメを施されたそれに良く似たものを、真奈美は何処かで見たのを思い出した。
「……銀玉鉄砲」
かなり昔、父親の書斎で見つけた、小さなオモチャの鉄砲にそっくりだ。
(ひょっとして……)
銃の遊底《ゆうてい》の上、リアサイトに指をかけて前へ押し出すと、案の定スライドした。
「……」
中には小さな丸い「弾」がぎっしり詰まっている。
どうやら構造まで銀玉鉄砲らしい。
試しに「弾」を一つ取りだしてみる……本物の銀玉鉄砲なら土を固めて銀色に塗装したモノだが、これは小型のカプセルだった。
中に何か入っている。
「?」
目を凝らしてみると、それは……通常型のアシストロイドの腕の中に装備されているピコピコハンマー……実は疑似反物質ハンマーという、無機物を完全に破壊する物騒な代物……の、小指の先ほどの大きさのミニチュアが入っていた。
「……ありがと」
銃を返すと、真奈美は頭痛がしそうな気分で騎央を捜し始めた。
だが、それはすぐに中断される。
あるものを、ショーウィンドウの中に見つけてしまったからだ。
「!」
慌てて駆け寄ると、そこは店と言っても細かく仕切られた鍵付きのショーケースを区割りで貸し出ししている所で、真奈美の眼が吸い寄せられたモノも含め、かなり雑多でジャンルも限られていない。
その一角に、張り付くようにして真奈美は中をのぞき込んだ。
「これ……モデルガン? ガスガンでも出てないのに金属モデルがあるなんて、聞いたこと無いわ!」
その疑問は、そばに添えられた紙のポップアップを読んで氷解した。
「六人部《むとべ》さんの一品もの……あるとは聞いてたけど、こんな所に……」
「ご覧になりますか?」
悪魔的とも言うべきタイミングで、店員(この場合は場所の管理と借り主の代行で料金を徴収するのが仕事でもあるが)が真奈美に声をかけた。
決して金武城《きんじょう》真奈美はガンマニアではない……だが、玩具《おもちゃ》の銃が嫌いなわけではないのだ。
ある意味、この瞬間が彼女の人生の分岐点でもあった。
マニアと、一般人との。
三階にある中古のオモチャを扱う大型ショップ。
「えーと、SICのスカルマンと、カゲスターと、超合金魂のライトニング、ハヤテ……」
エリスは手にしたPDAらしきものの表示を読み上げつつ、レジに積んだ商品を確認した。
「これでよし……全部でお幾らですか?」
機械から眼をあげると、それまでぽけっとしてエリスの猫耳を見ていた店員は我に返り、
「あ、はいはい……えーと」
とレジを打ち始めた。
「全部で二万三八五〇円になります」
「すみません、領収証を」
横にいた騎央がすかさず言う。
「えーと、何処ででしょうか?」
「嘉和、でお願いします。嘉手納《かでな》の嘉……いえ、あの、カタカナでいいです」
「はい……で、品名は?」
「えーと、資料代、で」
「判りました」
レジの店員が領収証を書く間、横にいる別の店員が山のような商品を袋詰めにしている。
(さすが東京。玩具買って資料代で領収証落としても変な顔しないや)
以前、漫研の知り合いの買い物に付き合って、領収証でもめているのを見たことがある騎央は、妙な感心をした。
「ねーねー、騎央さん」
そんな騎央の袖を、ちょいちょいとエリスが引っ張った。
「私たちが、この星で最初に来た宇宙人ですよねえ?」
「まぁ、そうだと思うけど……」
「あれ、何ですか?」
「!」
エリスの指さす先には、猫耳と尻尾を付けた美少女フィギュア(六分の一)がショーケースの中、しどけないポーズを作って座っていた。
具体的にどういうポーズかと言えば、薄布を豊満な胸の前で抱えるようにし、空いた手で後ろ髪をかき上げているという奴で、かなり名のある造形師が作ったのか、二次元のディフォルメされたデザインだというのに、ドキドキするような艶《なま》めかしさがある。
「あ、あれはその、つ、つまり」
「あれ以外にもああいうのをあちこちで見かけたし……そういえば、この前に来た『|美しい接触《ビューティフル・コンタクト》』って所のひとたちも、まるで私たちの格好を知っているような口ぶりだったのはそのせいなんですかね?」
「えーと、あの、いやね、その、それはつまり……あ、後で説明するよ。ほらレジ詰まってるし」
「は、はい」
「あ、あのー」
ふと、その場に居た客の一人がおそるおそるエリスに声をかけた。
「何かのキャンペーンなんですか、その格好?」
「あ、は、はい、そうらしい……です」
「?」
慌てて騎央が間に入る。
「えーとですね、今度出るこいつのキャンペーンなんですよ」
真奈美に言われたことをそのまま言いながら、騎央は足下できょろきょろ周囲を見回していたアシストロイドの一体を抱え上げてぎこちない笑みを浮かべた。
「ど、どうぞよろしくお願いします」
「へえ。じゃあ、君、アルバイトか何か?」
「あ、は、はいまあ、そ、そうです」
ここでうっかり「宇宙人とその付き添いです」などと口にしようものならどんな騒ぎになるか判らない。
「じゃ、あ、あの……写真、撮ってもいいですか?」
「え?」
この事態は予測していなかったから、思わず騎央は真奈美を捜したが、どこかではぐれたらしく、幼馴染の姿は見えない。
しかも、このお客の言葉に反応して、他の客までごそごそとデジカメやら使い捨てカメラ、デジカメ付き携帯電話を取りだして準備を始める。
「ねえ、どうなんですか?」
再び尋ねられた騎央が答えに窮していると、その前にさらりとした長い髪が揺れた。
「すみません。ここで撮影するとお店の方に迷惑がかかるので、出来れば明日、展示会が秋葉原でありますのでそちらでお願いします」
柔らかい、しかし断固とした口調で言ったのはアオイだ。
なおも客は食い下がろうとしたが、アオイの眼に何かを見たのか、すぐに顔を背け、モゴモゴと口の中で何かを言いながら引っ込んだ。
「さ、ふたりとも、次の場所へ行きましょ」
テキパキとした、まるで真奈美みたいな口調で言うと、アオイは騎央とエリスの手を引っ張って店を出た。
さて。
その後四階から一階に降りてくるまでの間に、どんな騒ぎがあったかは書かない。
ただ、建物を出た瞬間、エリスとアシストロイドたちを除く全員の口から疲労の溜息が漏れた。
全員の財布は、交通費と食費を除けばほぼゼロに近い。
あの真奈美に至っては一旦外に出て銀行のATMに行き、全速力で戻ってきたりしているからなおさらだった。
「凄いですねえ、ここ、また来ましょうね!」
エリスが目を輝かせて言うが、三人は顔を見合わせるばかりで、力無い笑いを浮かべることさえ出来なかった。
恐るべし、中野ブロードウェイ。
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第五章 電車は一本遅れてた
山のような荷物を、手近な所にあった宅配便で沖縄の騎央の家に送りつける手続きをし、荷も軽くなった一同はようやく中野駅に戻ってきた。
エリスとアシストロイドたちだけが元気いっぱい、残りは後悔やら今後のことやら、エリスに話しかけたり、写真を撮ろうとする相手への対応やらで疲労|困憊《こんぱい》という状況にある。
そんな中、アオイの背筋がぴん、と伸びたのは、駅のホームに来た瞬間だった。
「しまった……」
「?」
急に厳しい目つきになった相棒を見て、真奈美は襟を正し、歩幅を遅くした。眼で合図すると、器用にも「ゆんふぁ」はトコトコとエリス達の前に行った。アオイも同じような命令をしたらしく、その左右を固めるように「錦《きん》ちゃん」と「チバちゃん」が先行する。
エリスの左右にいる通常型のアシストロイドたちは、暢気に片手を上げて挨拶し、彼等もそれに答えた。
「どうしたの?」
前を行く二人には聞こえないように真奈美が訊いた。
「『誘われ』たわ」
アオイは周囲を指さした。
「土曜日の昼過ぎなのに、こんなにここが閑散としているわけ、ない」
「……つまり、何らかの力が働いてこんなに閑散としてるってこと? でもどうやって」
「道術か、西洋流かはしらないけど、魔法使いがいるのよ……私たち以外の人間がここに来ないように術を使っているんだわ」
「判るの?」
「何度か、やり合ったことがあるから」
どういう形で、なのかを聞く愚を真奈美は犯さなかった。さらに「魔法」の信憑性《しんぴょうせい》に関しては疑ってもいない。
何しろ、目の前に宇宙人がいるのだ。
「どうするの?」
さりげなく周囲を見回しつつ真奈美が訊く。
騎央は疲れ切った表情ながらも、熱っぽく中野ブロードウェイのことを語るエリスの言葉にきちんと相槌を打ってやっている。
「あなた、武器は?」
「あるわ」すでに盗聴されているかもしれないから、真奈美は何を持っているとは言わなかった。
肩から提げたトートバッグの隠しポケットの中、ベレッタの93Rが眠っている。
ホームのアナウンスが間もなく電車が来ることを告げた。
「嘉和君達と一緒に電車に乗って。私はここを『仕切って』いる奴を倒してから行く」
「大丈夫?」
「ひとりの方が気楽よ」
ちら、と薄くアオイは微笑んだ。
「じゃあ、|アシストロイド《ちびすけ》たちは連れて行かないの?」
「この子達は預かりモノだもの……血で汚れるかもしれないことには連れて行けない」
「……判った」
そして、不意にアオイの気配は消え、真奈美が横を向くと、彼女の姿はなくなっていた。
「……ほう。霊子力による『結界』とはね」
暗い指揮車の中、「犬」の将校は面白そうに唇の端をつり上げた。
「はい、『人払い』の結界です」
彼女の横で、技術官が答えた。
「トーキョーのど真ん中でよくやるわ……でも、本当に日本政府じゃないの?」
「はい。内閣調査室も、入国管理局、公安にいたるまで、今回は誰一人動いておりません……そもそも、日本人が彼女を害しても利益はありませんし」
日本政府は宇宙人の来訪が全世界に報道された時点で、アメリカからの要求をのらくらとかわしはじめ、かなり軍も手こずっているらしい。
「としたら何処?」
「第三勢力の可能性もありますが……」
「ロシアにその力はないわ……EU?」
「その場合にはイギリスから何らかの通告があるはずです」
「判らないわね」
ふん、とジェンスは冷たく鼻を鳴らした。
「英国紳士《ジョンブル》どもの考えは皮肉が過ぎるし、意地が悪いわ……第一、あの国は犬よりも猫を好む国だしね」
最後の所を特に吐き捨てるかのように言うと、ジェンスは腕組みして背もたれに体重を預けた。
「あれ? 双葉さんは?」
アオイだけがホームを離れていくのを見て、騎央が首をかしげた。
「あ、ちょっと用事があるんだってさ。浜松町で待ってくれって」
真奈美はつとめて普通に言ったつもりだが、エリスの顔が引き締まった。
「しばらくは大人しくしていると思ったんですがねー」
(この子、普段はボケボケなのに結構鋭いのね)
内心舌を巻きながら、真奈美はその言葉を肩をすくめる事でさらりと流した。
「?」
間に挟まれて、少年だけが首をひねる。
「騎央さんはまかせてください」
にっこりとエリスが請け合った……とはいえ、護衛される対象は本来エリスなので、ちょっとおかしな台詞ではあるが、この場合、もっとも攻撃能力が高いのは彼女と、彼女の引き連れているアシストロイドたちなのだから、これは当然とも言えた。
というより、むしろこの状況を正確に把握している分、有り難い。
「……ま、まあ、お願いね」
半分苦笑しつつ、真奈美はその言葉に素直に首肯できない自分に気づいて驚いた。
ドアが開く。
緊張しながらも真奈美はエリスと騎央の後ろにぴったりくっついて乗車した。
アオイが動くと同時に、ホームにいた四人のサラリーマン風の男達は駅の階段を下りていく……彼女を誘い込んで倒そうというのだろう。
四人総掛かりというところが、彼女の実力を正確に推し量っていると言えた。
ホームの隅にあるトイレに入ると、アオイはスカートの横をめくり上げた。
すらりと長く、十分に引き締まった白い太腿に対照的な黒いガーターベルト風のホルスターが現れる。
五連発のチーフスペシャルは、飛行機の中では貨物室のアシストロイドたちの懐に預けておいたものだ。
だが、彼女は銃ではなく、その横に差してあった細いナイロンの棒を取りだし、手の中に握り込んだ。
鉛筆二本を束ねた程度の太さの棒は、真ん中にある輪を中指に通して握り込むと、わずかに先端が掌の左右からはみ出る形になる。
その先端部分で点穴を突き、あるいは相手の武器を受ける。
侍だの武士だのと呼ばれる存在が現実にいた時代の隠し武器、寸鉄の現代版だ。
銃や、ナイフが無いわけではない……彼女の特殊能力である物体転送《アポーツ》の能力は半径五十メートル以内の、任意の場所から武器を取り出せるし、そんなことをしなくても、チーフスペシャル以外にもショルダーバッグの中にはフルオート射撃が可能なグロック製の小型拳銃が入っている。
だが、それはぎりぎりまで使いたくなかった……入国管理局を辞めてから、アオイはつとめて流血を避けるようになっていた。
白いワンピース姿のまま、少女は階段を下りる。
構内の駅員は、彼女が通り過ぎても視線を動かそうとしない……道術で意識の空白が無理矢理生じさせられているのだ……今のアオイと騎央達はここに存在しながら、存在していると認識されない幽霊だ。
「お嬢様、『眼鏡』は餌に食いつきました。『チビスケ』たちと『ショート』、および『オマケ』はまだ対象の周囲に」
ガタンゴトンという派手な音と微妙な振動の中、片目のメイドが、細い喉に巻かれたスロートマイクから、彼女の主《あるじ》に報告をした。
メイドの前には、横に長い座席の上に白黒のテレビモニターがある。
そこには双葉アオイが階段を下りていく姿と、嘉和騎央一行以外は誰もいないホームが交互に写されている。
「作戦2は終了、これより滞りなく作戦3に移行します」
言うと、彼女は通信を切り、後ろを振り向いて片手をあげた。
ずらりと並んだ他のメイド達が一斉に頷き、手にした武器の安全装置を外すメカニカルな音が響いた。
最初のひとりの背後に回り、首のツボに寸鉄をたたき込もうとした瞬間、アオイは違和感を感じて後ろへ飛び退《の》いた。
きょとん、とした顔で標的……サラリーマン風の若い男……は立ち尽くしていたが、やがて、ぺろんと一枚の紙切れになって床に落ちた。
「!」
振り向くと、後ろでも残った三人の男達も紙切れに変わる。
「……どういう事?」
「用事は済んだのよね」
どこからか、気だるげな女の声が聞こえてきた……恐らく、雇われた道術士だろう。
「それじゃ、『悪運紅葉』と会えただけでも面白かったわ……じゃあね」
「?」
その瞬間、術が解けて、アオイの耳に構内アナウンスが聞こえてきた。
「一番ホーム、中央線快速・東京行きは、現在緊急停止信号を受信した関係で、ただいま運転を見合わせております。お急ぎのところ大変申し訳ありませんが、しばらくお待ち下さい」
「!」
だとしたら、騎央たちと別れる寸前、ホームに滑り込んでこようとした電車は何なのか。
電車のドアが後で閉まった瞬間、真奈美は人がほとんどいないこの車内に強烈な違和感を感じた。
それが何なのか、気づいたときには電車はすでにホームを離れていた。
「気をつけて」
言いながら、真奈美はバッグの底からベレッタのM93Rを引き抜いた。
アシストロイドたちも、それぞれに銃を抜いたり刀を抜いたり、あるいはピコピコハンマーを構えたりして臨戦態勢を整える。
中心はエリスと騎央。
「どうしたの?」
騎央もさすがに緊張の面持ちで訊いた。
「この電車……車内広告が無いわ」
撃鉄を親指で引き起こす。
それにタイミングを合わせたかのごとく、空気の勢い良く漏れるような音と共に、座席の下から白い煙が噴出してきた。
同時に大きな横向きのGがかかり、ついでかなり急な降下の感覚がして、窓の外が真っ暗になった。
地下の路線に入ったのだ……むろん、中野駅に乗り入れている地下鉄東西線のルートではない。
「な……こ、これ……お酒?」
強烈なアルコール臭のする白い煙に、思わず騎央が鼻白んだ。
「あ……な、何かだめ……です」
エリスまでもがなにやら言葉がたどたどしくなる。
「固まって!」
口元を覆いながら、真奈美は騎央の後に移動した。
座席が勢い良く跳ね上がり、巨大な銃口が一同に向けられたのはその瞬間だった。
思わずそのまま騎央達の居るところへ向かおうとして、彼女はもう間に合わないと判断した。
北口へと走り出す。
改札をくぐり、外へ出ると周囲を見回す。
「ねえ、いいでしょー? このバイク、新品なんだよぉ」
「あの、い、いいです、放してください」
「遠慮しなくていーからさー。君、かわいいじゃんかぁー一緒にツーリングしようよぉ」
路肩に駐車したカワサキのZZR250にもたれて、真面目そうな女子高生の手首を掴んでへらへらしているライダーの姿が目に入ると、アオイは即座に走った。
「いいです! わたし、興味ありませんから!」
涙目になって女子高生は拒絶するが、男は彼女の気弱さにますます図に乗りはじめていた。
「そんなこといわずにさー。お金ならあるんだよぉ。今日はパパがさー……」
その先を、ライダーが言うことは出来なかった。
不意に顔面が暗くなり、眼をあげた彼がその日最後に見たモノは、しなやかな白い脚と、周りにまとわりつくようにして展開するスカート。さらにその奥に見える薄いブルーの布だった。
ごっ。
飛びながらの回し蹴りを見事こめかみに食らって、男はその場にくたくたとくず折れた。
その横にふわりと着地すると、アオイは即座にキーがバイクに差しっぱなしなのを確認、シートにまたがるとセルモーターを回した。
腹に響く音と共に、エンジンが動き出す。
黄色いボディのそれは、まだ大した走行距離もない。
「あ、あの……」
ようやく我に返った女子高生がおずおずとアオイに話しかけた。
「あ、ありがとうございます……」
「悪いけど、どいて」
とりつく島もない乾いた声で言うと、アオイは素早くクラッチを繋ぎ、アクセルを開けた。
エンジンの音が高くなって、一瞬でカワサキの前輪が立ち上がるが、そのままコケるよりも先に、アオイは絶妙のバランスで方向転換し、前のタイヤを再接地させると、またアクセルを開けた。
サマードレスの裾を翻し、悲鳴と怒号とクラクションを巻き起こしながら、アオイはそのまま改札へ向けて広場を突っ切る。
改札に入る直前、アオイはそれまでの間に、肩から下げたバッグから「取り寄せ」て口にくわえていたSuicaカードを、改札の読み取り部分に投げつけた。
彼女の「悪運」は裏切ることなく、ICチップは無事に読み取られ、ウィリーした中型バイクを通過させる。
思いっきりクラクションを鳴らしながら駅員と一般客を蹴散《けち》らし、階段を駆け上り、カウルの下が割れ排気管《エキパイ》が火花を散らすのもかまわずに、ホームから線路に飛び降りると、アオイはまだ最後尾が遠くに見える電車のあとを追い始めた。
巨大な銃口は、楕円形のゴムスタン弾を打ち出すための連射式ランチャーの物だった。
車両の全座席に隠れていた相手は、一斉にそれを発射した。
何発かはよけたが、一発が肩に当たって、真奈美はもんどりうって倒れた。
入り口付近の手すりに頭をぶつける。冗談ではなく、頭の中に星が散るのを見た。
何とか発砲しようとしたベレッタは、誰かの足に蹴り上げられて何処かへ行ってしまう。
「……ゆんふぁ! 騎央とエリスを追って!」
さらに撃ち込まれ、あるいは床や天井に跳ね返るゴムスタンを勘だけで避けながら真奈美は叫んだ。
煙の彼方にM93Rが見えるのへ飛びつき、遠ざかっていく足音を追うと、がさがさという巨大な紙を丸めてくしゃくしゃにするような音が聞こえた。
おそらく廃線であろう地下の線路を、ヘッドライトをつけてバイクは疾走して行く。
やがてエンジンの爆音に混じって、彼方で金属同士がこすれる重い音が響いた。するとそれまで中々追いつかなかった電車の最後尾が、次第に近づいてきた。
(違う……止まってる?)
線路の上を走っていたアオイは、最後尾車両の横をすり抜けるために速度を落とし、バイクを左方に寄せた。
案の定、電車は最後尾を切り離されているだけだった。
バイクの上にいるとはいえ、電車のほうが高い位置に窓があるから中の様子はわからない。
「嘉和君! 金武城《きんじょう》さん!」
人の気配がある車両に声をかけると、何故か手に、びりびりに破れた巨大な粘着シートを張り付かせた真奈美が顔を出した。
粉砕されて枠だけになった窓から顔を出す。
「ここはいいから、早く追って!」
それだけで十分だった。アオイは再びアクセルを開ける。
「……頼んだわよ、双葉さん」
シリアスに呟いて、真奈美はすぐに怒鳴った。
「こら! 動くと却ってくっつくんだから、じっとしてなさい!」
彼女の前には、もごもごと動く五つの塊をもった、車両一面に広がるほどの巨大な紙がある。
正確に言うとその紙は巨大で強力な粘着シートで、もごもご動く塊の中身は「ゆんふぁ」をはじめとしたアシストロイドたちだ。
床と、天井に仕掛けられていたそれに、エリスたちを追ってきた彼らは見事に引っかかったのである。
真奈美が駆けつけたときにはすでにこのありさまで、とまどううちに車両は切り離されてしまった。
こうなればもう打つ手はない。双葉アオイだけが頼みの綱だ。
(……やっぱりあたしはアマチュアだ)
自分もくっつかないように苦労しつつ、アシストロイドたちを包んだ粘着シートをはがしながら、真奈美は少々苦い思いで遠ざかっていくエンジンの爆音を聞いていた。
そろそろ目的地が近いのか、幸いにもフルスピードで数分間飛ばし続けていると、再び目標の電車を捕捉《ほそく》することが出来た。
近づいて、取り付こうとアオイが考えていると、電車の窓ガラスが叩き割られ、幾つもの銃口が現れた。
驚いたことに、銃を持っているのはメイドだった。
それも太腿もあらわなミニスカートという、秋葉原のそっち系統ショップで石を投げればグロス単位であたりそうなセンスのものである。
が、手にしているのは本物のドイツはH&K社製のPDWだ。
しかも、アオイに命中させるため、窓枠から大きく身体を出し、念のため仲間のメイドたちがそれぞれに脚を押さえているという念の入りよう。
撃墜されたパイロットが生き残るために作られた小型の自衛戦闘銃《パーソナル・ディフェンス・ウェポン》は、攻撃に使っても十分に凶悪だ。
「!」
アオイが急に体重を横に移動させると、それを追って四・六ミリ×三〇の銃弾が発射され、コンクリートのPCスラブと線路に当たって火花を散らす。
アオイは手の中にグロックを「取り寄せ」た。
素早く狙いをつけて撃ちまくると、弾丸は正確に射手を射抜……かなかった。
その手前で、射手の腕に装着された透明樹脂の防弾板が弾丸を阻んでいたのである。
「ちっ」
舌打ちすると、アオイは銃を天井に向けた。天井のパンタグラフを撃つ。
スパークする火花と共に、パンタグラフの破片がのたうちながら線路にたたきつけられ、跳ね上がるのをハンドルを切って避ける。
だが、電車の速度は落ちない。
(バッテリーを持ってる?)
ディーゼル機関の騒音が聞こえないことから、アオイはそう判断した。
後部扉が開いた。
三脚に据え付けられた重機関銃。なんと、ベルト給弾式の五〇口径ブローニングだった。
とっさにブレーキを使って後ろに下がりつつ、アオイは激しくバイクを左右に振りながら弾丸を避けるが、何発か黄色いカウルをかすめ、その際の衝撃でABS製のカウルはひび割れ、砕け、ズタボロになっていく。
だが、アオイは冷静だ。バイクを操りながら慎重にタイミングを計って、ベルト弾倉が途切れるのを見るや再びクラッチを繋ぎ、アクセルを開ける。
今度はみるみる電車に追いついた。
重機関銃に取りついていたメイド達が凍り付いた表情になる。
アオイはシートの上に立つと、思い切り飛んだ。
連結部の蛇腹《じゃばら》に手をかけ、中に飛び込む。
床を踏みしめた瞬間、重々しい音がアオイのみぞおちに叩き込まれた。
「不法乗車はお断りだ!」
オールバック、右目に黒革のアイパッチをした、二十代前半らしいメイドが両手に連射式のゴムスタンランチャーを構えて立っていた。
「!」
よろけるアオイにさらに一発。
アオイは入ってきた場所から、線路の上へと転がり落ちた。
かろうじて、脚から落ちた彼女は、そのまま地面を蹴り、衝撃を吸収しながら再び地面に転がった。
派手に土煙をあげながら転がり、起きあがったアオイは、すばやく銃を構えたが、電車は拳銃の有効射程距離を遠く去っていくばかりだ。
「…………」
立ち上がったアオイは、服の汚れも、ずれた眼鏡も直そうともせず、己の身体の状態も確認しようとはしなかった……自分が「悪運紅葉」とまで言われているのは、こんな状況でも傷一つ負わないからだ。
だが、歩き出そうとした途端、よろめいてアオイは地下鉄のトンネルの壁に手を突いて嘔吐《おうと》した。
嘔吐しながら、アオイは泣いていた。
嘔吐し終えて、再び歩き出す。
乗り捨てたバイクの所まで戻ると、引き起こし、再びエンジンをかける。
最初はすねたようにセルモーターの音をさせているばかりだったが、何度か繰り返すと再びエンジンは息を吹き返した。
「追わなきゃ」
ぽつん、とアオイは呟き、再びバイクにまたがるとアクセルを開けた。
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第六章 ふたりは捕まったままだった
現地調査員兼広告塔であるエリスが大使館であるところの嘉和家にいない場合、上司であるチャイカがその代役として船から下りてくることになっている。
「ふんふんふんふーん♪」
本来なら部下の尻ぬぐい……という所なのだが、猫人間《キャーティア》ならではの鷹揚《おうよう》さというか、それとも個人の冒険心が強いためか、チャイカは、非常に楽しい「お留守番」としてこの仕事を認識していた。
「あーあ、エリス、このまま代わってくれねえかなぁ」
などと暢気に言いながら、チャイカはごろりと嘉和家のリビングにあるソファに寝転がり、沖縄特産のソフトビスケットと饅頭の中間のような「タンナックルー」を囓《かじ》りつつ、ケーブルテレビを見ている。
「お、またサムライモノが始まった」
などと言いながら、お茶が入っているはずのマグカップが空だと気づくと、ひょいひょい、とマグカップの取っ手に指を通して振ってみせる。
すると、部屋の隅にいた青いアシストロイドがとててて、と走ってきて冷水茶を注いだ。
「ん、ありがと」
受け取りながら頭を撫でてやる。
エリスのアシストロイドを使うわけにはいかないので、チャイカは自分でアシストロイドを持ち込んでいた。
「惑星上《おか》はやっぱりいーねー」
うにゅにゅと口の中でモゴモゴ言いつつ、チャイカはもう一個、黒糖を練り込んだ「タンナックルー」に手を伸ばした。
と、テーブルの上に置かれたこの家の電話の子機が鳴り始めた。
「?」
発信人を見ると、アオイだ。
「はいはい、チャイカだけど?」
のんびりした受け答えも一瞬。すぐにチャイカはばばっと素早くソファの上に座り直した。
「エリスがさらわれた?」
しばらく状況報告を受けていたチャイカだが、それが一段落すると、しばらく目を閉じ、慎重な口調で言った。
「悪いけど、ウチらには今のところ何も出来ねえよ……エリスが無防備な状況で出たのは本人の判断であるわけだし、友好条約を締結《ていけつ》したわけでもない国の中で、何が起ころうとも、それは当事者だけでどうにかすべきことだからナ」
「ええ、それは判ってるわ」
早足で路地を歩きながらアオイは応えた。
「でも、現地協力者である私たちが彼女を救うことは大丈夫よね?」
『もちろんだ』
チャイカの声は少々固い。
『そっちはちゃんとした現地の人間だからな。その判断をどうこうする権利はウチらには無い』
「安心したわ」
言いながら、アオイは銃を抜いた。
路地の突き当たり、何もないはずのコンクリートのビル壁に向けて引き金を引く。
乾いた銃声がして、ビルの壁に偽装していたカバーごと、暗証番号を入力するためのテンキーボードが粉砕され、隠されていた扉が開く。
激しい警報ベルの音。
さて、これから数分以内に状況を終わらせねばならない……失敗は許されなかった。何しろ、東京都内で鍵を撃てば扉が開くようになっている「武器庫」はここ以外にない。
「じゃ、これから少々荒っぽいことになるから」
「……うにゅ?」
エリスが目を覚ますと、そこは随分と豪華な部屋だった。
天蓋《てんがい》つきのダブルベッドに、いくつものロココ調の柱。壁には窓こそ無いが、その代わりに巨大な絵画が何枚か掛けられ、高い天井までの「間」を補っている。
「……?」
まだふらふらする頭を巡らせて、猫耳尻尾付きの少女は記憶をたどる。
中野ブロードウェイでの楽しい買い物の後、駅のホームに来たら、急に真奈美たちの顔が引き締まって……。
「あ、そうか、わたしたち、捕まったんですよね?」
ふと横を見ると、騎央が寝息を立てている。
「んー……」
しばらくぽやぽやする頭で考え、エリスはうん、と頷いた。
「もう少し寝ておきましょう」
結論を出すと、エリスはぽてん、と再びベッドの上に横になり、きゅうっと騎央をお気に入りの縫いぐるみのように抱き寄せて目を閉じる。
「ふにゅうぅ……」
しばらく、彼女の尻尾がぱたぱたと上機嫌に振られていたが、やがてそれも寝息と共にゆっくりとベッドの上に横たわっていった。
天井に配された小さなビデオカメラが、その光景を逐一《ちくいち》録画しているのには気づかない。
入国管理局の本庁は港区にあるが、特別部のオフィスは渋谷にその本拠を構えている。
夕暮れの太陽が、室内を染める頃、ようやく仕事を終えた職員は帰り支度をし、またある者は仕事の続きをする前に、腹ごしらえと携帯電話を取る。
が、そんな光景は瞬時に一変した。
最初は入り口のドアが開いただけであった。
何かがとてとてと机の間を移動し、不意にぽてん、とその上に乗っかったのである。
身長は八十センチほど、ヒコヒコ動く猫の耳を模したらしい三角形のセンサーがふたつ。さらにグレーのコートらしいものを翻し、空豆のような顔にはサングラス、さらに口元からはどうみても爪楊枝にしか見えないものがひとつ、ちょこんと突き出している。
その姿が周囲に及ぼした感情は、畏怖《いふ》や驚愕と言うよりも喜びに近い。
「おお、何か可愛い!」
という最初の言葉が示すように、二頭身のアシストロイド「ゆんふぁ」は最初に愛くるしさを振りまいたが、すぐに懐から取りだしたモノが状況を変えた。
瞬間、立体映像の鳩が何故か室内を舞い、すちゃ、と巨大な銀玉鉄砲のようなモノを両手に構えると、「ゆんふぁ」は人のいない窓へめがけ、それを撃ったのである。
ばいーん、という板バネが弾ける音がしたとほぼ同時に、窓が……正確に言うと、窓とその周囲の壁がまあるく、切り取られたように消失した。
「!」
ようやく、この時になって全職員の間に緊張が走った。
そして、ボディの色が黒と灰色ゆえに認識していなかったこと……つまり、この愛くるしい機械人形が実は異星人のロボットの基本デザインを踏襲《とうしゅう》していることを理解する。
巨大な銀玉鉄砲(?)を構え、すかさず周囲を警戒しながら「ゆんふぁ」は左手を懐の中に戻した。
今度は銃の代わりに折りたたまれた携帯電話を取り出す。
スピーカーモードに設定されたそれを高々と掲げながら、通話スイッチを入れると、少女の声が流れてきた。
『こんにちは、皆さん。私は双葉アオイです。現在はキャーティア人のボディガードをしています』
「あ……『悪運紅葉』」
誰かがぽつん、と呟いた。
『ええ、そうです、かつては〔紅葉〕のコードネームでここに勤務していました』
ふい、とアシストロイドが声の方を向き、呟いた当人がすくみ上がる。
「紅葉」はその名で呼ばれるのを一番嫌っていたのだ。
『護衛対象のキャーティア人が、何者かにさらわれました。わざわざ偽の電車を仕立て上げて、ダイヤを調整し、廃線の中へ逃げ込むという手段で』
ここで一拍間をおいて、アオイは続けた。
『この国で、そんな真似をする場合、政府機関を通さずに話がすむはずはありません……ご存じのことがありましたら、お教え願いたいと思います』
「わ、我々は公安ではない!」
係長が聞こえるように大声を上げた。
「君ももとここの職員なら判っているはずだ!」
『ですが、非常回覧は回ってきますよね?』
アオイは素っ気なく切り返す。
『お答えなさらない場合、我々に対し、敵対行動を取りかねないと判断し……』
「な、何をしようというのかね!」
課長が怒鳴った。
『ここで、このアシストロイドを暴れさせます。先ほどの武器の威力はご覧になられていると思いますが……いかがでしょう?』
「……」
係長、部長、課長はおろか、全職員が顔を見合わせた。
まあるい穴と化した窓から、一陣の涼しい風が吹いてくる。
威嚇するように、アシストロイドがちょっと銀玉鉄砲を振って見せた。じゃらり、という音がする。
机の上に乗っかって辺りを睥睨《へいげい》するアシストロイドは「弾ぁまだ残っちょるけんの」とでも言いたげで、誰もがその意味するところを誤解しなかった。
このちんちくりんなチビロボは、この建物そのものを消滅させる能力を持っている。
「さぁ、どうなさいます?」
アオイの静かな声の後、沈黙が落ちたが、
「わ、わかった……」
数十秒後、ついに課長が折れた。
とってけてけ、と足取りも軽く「ゆんふぁ」は建物から出てくると、近くに停車していたバンのドアをコンコンと叩いた。
スライドドアが開いて、ひょい、と真奈美が「ゆんふぁ」を抱え上げ、すぐにドアを閉める。
「はい、ごくろうさん」
即座に走り始めたバンの中で真奈美が頭を撫でてやると、「ゆんふぁ」は「どだ、えらい?」といいたげに周囲を見回して腰に手を当てた。
「で、これからどうするの?」
頭を撫でながら真奈美は運転席のアオイに尋ねた。
声は少々固くなっている……無理もない話だった。このバンの中には、真奈美とアシストロイドたちが座るわずかなスペースを除いて、ぎっしりと武器弾薬の類が積み込まれている。事故った時のことは考えたくない光景だ。
ちなみに、車も含め「ゆんふぁ」の持った携帯電話を通じて交渉を進めながら、同時に入国管理局特別分室の武器倉庫から奪った物である。
「お買い物ね……あなた、今幾らぐらい引き出せる?」
持っている、ではないところを見ると大分な出費を予想せねばならないらしい。
しばし考え、真奈美は二〇〇ぐらいなら、と答えた。
「そう……私のも合わせて二〇〇〇、ってところね」
「買い物には、足りそうなの?」
「判らない……でも、必要だもの」
シフトノブを動かしながら、アオイは静かに答えた。
「それと、沖縄に連絡を付けて頂戴。状況の報告と……電子戦特化型の|アシストロイド《ちびすけ》を送ってくれ、って」
『ふにゅうぅ……』
監視カメラからの映像が、とある高級ホテルの一室の室内に流れると同時に、どよめきが広がり、悲鳴にも似た絶叫があちこちで巻き起こった。
「おお、本物だ」
「本物よぉ〜」
「耳、動いてたー」
「しっぽがー、しっぽがー」
「動いてるぅううう!」
老若男女問わず、着用している服の高級|如何《いかん》を問わず、センスを問わず、敷き詰められた分厚い絨毯《じゅうたん》の上を、思わず身をよじってのたうち回る者が何人も現れる始末。
都内に三十カ所、日本国内全体だと五〇〇カ所、全世界ならばソレこそ「無数」と呼ぶ数を越える彼等の「集会所」では、同じような光景が展開されているに違いなかった。
「やはり本物はいいなぁ」
「ですねえ……ああ、我々の時代がついに!」
興奮を含んだ会話もまた同じだったろう。
『……というわけで』
画面が切り替わって、あのおでこの広い少女が猫耳と尻尾の作り物を着用して映し出された。
『我らがご神体はこれにてお眠りに就かれた。しばし後のお目覚めの時、ご神体を奉り、我らは世界を制するのだ、うにゃー!』
その瞬間、全員の背筋が伸びて、高々と腕を振りかざした。
「うにゃー!」
『うにゃー!』
うにゃー! うにゃー! うにゃー! うにゃー!
終わることを知らぬ彼等の絶叫は、東京で、世界中で密やかに、しかし果てしない力強さを持って響き渡る。
「猫耳教団《キャッツ・イヤー・カルト》?」
その名前を聞いた途端、ジェンスは形の良い眉をくいっと持ち上げた……少々信頼しかねる、あるいは不快な単語を含む情報を耳にしたときの癖だ。
彼女を乗せた電子装備満載の指揮車両は、騎央とエリス達を奪った連中の行き先を突き止め、そこへ向かっていた。
「まぁ、色々な名称があるんですが、我々はそう呼んでいます」
DIAの日本支部員である男は軽く肩をすくめて見せた……極東の島国に飛ばされるだけはあって、どこか風采《ふうさい》のあがらない、アメリカ人にしては覇気のない男だった。
「信じられんな。猫を拝むのなら古代エジプトにもあったが……耳と尻尾をあがめるとは。切片淫楽症《フェチシズム》というやつか?」
「なにそれ?」
騎央とエリスをさらった連中の正体を訊いた途端、真奈美はさすがに大声をあげてしまった。
「ここ二十年ぐらい、急速に勢力を伸ばしてきている宗教団体……いえ、準宗教団体よ」
ハンドルを握るアオイの顔も、少々複雑だ。
そろそろ、東京に差し込む日は傾きつつある。
世の中には二通りの人間がいる。
犬が好きな人間と、猫が好きな人間だ。
犬猫、どちらも共に人類の友となって数千年の歳月が流れているが、好む人間同士の埋めがたい溝もまた、年月分の深さを持って存在しているのである。
ところが、こういう熱狂的な組織は猫の側にしか存在しない。
理由はいろいろあるが、それは犬という「狩猟」というせっぱ詰まった行為に必要な「道具」として「飼い慣らされた」生き物に対して、猫は「備蓄」された食料を鼠から守るという「役割」の為に「招かれた」という立場の違いからくる「余裕」、つまり「お遊び」の部分が大きいからであろう。
猫耳教団は、まず最初に古代エジプトに生まれたとされている。
エジプトの女神パステトがその最初の神体とされていたが、エジプト王朝の滅亡と共にいったんは消滅。次に十八世紀のロンドンにおいて、「黄金の夜明け団」等の魔術サークルの隆盛と共に現れた……とは言っても、それは好事家同士の洒落めいた、極々小さなもので大した勢力にもならず、二十世紀を迎えることとなる。
ここで、あのプレイボーイの初代オーナー、ヒュー・ヘフナーが「バニーガール」という世界最初の「萌え」コスチュームを完成させ、それに伴って「兎がいいなら猫も」という発想が登場……だが、意外なことに強力な猫耳教団を生み出す最大の土壌となったのは日本だった。
八十二年、とある少女漫画家が生み出した一本の漫画と、そのアニメ化作品が日本人のごく一部に存在した層の「スイッチ」を押してしまったらしい。
第三期とも十二期とも言われる猫耳教団の再々(以下略)結成はこの東洋の島国で行われたが、爆発的な広がりは日本製アニメーションの海外輸出によって本格化した。
当初、侮蔑《ぶべつ》の意味も込めてジャパニメーションと呼ばれ、今はANIMEという名称で呼ばれる日本製アニメの海外輸出、および放映はこの教団をあっという間に戦後最大の秘密結社として確立させてしまったのである。
SFという「知性」を基本とする『ビューティフル・コンタクト』と違い、「可愛い」という「感情」を基本にするだけに年齢、人種、階級に幅が広く、かつまた経済的にもかなり恵まれた組織となった。
さらに今、本物の猫耳尻尾のくっついた宇宙人が空から降りてきたことが、どれだけのことを引き起こすのか……。
「そりゃ、確かに凄いことになるだろうとは思うけど……そんなに凄いの?」
「ええ」
こくんとアオイは頷いた。
「何しろ人種や国籍では見分けが付かない存在だし……この前の『ビューティフル・コンタクト』よりも、経済力がある分、手強い相手なのよ」
ハンドルを切りながら、少女は付け加えた。
「だから今、嘉和君達が捕まっているのは海の上の要塞も同じなの」
湾岸道路を走りながら、アオイは眼下に広がる海の彼方を顎でしゃくってみせた。
「沖の彼方に大きな客船が泊まっているのが見える?」
「? ……え、ええ」
真奈美が目の上に掌をかざして目を凝らすと、日没に輝く水面の彼方、かろうじて船のシルエットが見える。
「総排水量二十五万トン、ちょっとした石油タンカー以上の大きさの船……リベリア国籍のモータークルーザー『アンドローラ』号よ」
その名前は真奈美も知っていた。
今はシルエットになって見えないが、特別な塗料で白銀に塗られたその船は、特大の豪華客船に等しい大きさでありながら、それは、たった一人の少女のためにあつらえられた、巨大な「船室付きの船」であるがゆえに、分類上はクルーザーと呼ばれる。
主である少女の名前はアントニア・リリモニ・ノフェンデラス・パパノーガス・アレクロテレス・クノーシス・モルフェノス……冷戦終了後、「第二のオナシス」の異名をとったギリシャ系アメリカ人の大富豪、ミハイル・J・C・D・A・E・モルフェスの孫娘。
かつてはアメリカ人だった少女は、その後、今は無き国へと亡命、その国が消滅して以降は国籍無しの異邦人として、しかしその経済基盤は世界の富の一割以上という状況で、どの国にも税金を払わない存在のまま、各国を放浪している。
「それが?」
「嘉和君たちは、あそこにいるわ」
素っ気無く、アオイは告げた。
「…………うそ」
さすがに、真奈美の顔が強張った。
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第七章 作戦名は「うにゃーくん」だった
「お嬢様」
メイド長の声に、少女は顔をあげた。
「そろそろご神体がお目覚めになる時間です」
「うむ、そうか」
アントニア・リリモニ・ノフェンデラス・パパノーガス・アレクロテレス・クノーシス・モルフェノス(以下長いのでアントニア)……は満足げに頷いた。
本来、小は部屋の|取っ手《ノブ》から大は搭載されたヘリコプターの修理までこなせる、広い工作室の真ん中には、ここ数日彼女がつきっきりで作っていたモノが、見事に完成している。
「頃やよし。わたしの方も準備は出来た」
「お見事です、お嬢様」
深々と片目のメイド長……摩耶《まや》は頭を下げた。
「この摩耶、そのまま泣き伏してコレを窒素ガスを満たした専用のアクリルケースに保存し、朝な夕なに泣きながら拝み、夜はお休みなさいのチュウをして子々孫々まで末永くお預かりしたいほどで」
「うむうむ、そうであろう、そうであろう」
メイド長の歯が浮くどころか超伝導でどっかに行ってしまいそうなお追従《ついしょう》に、アントニアは満足そのものという顔で頷いた。
「わたしの作品は常に完璧だからな!」
「はい……」
「よし……では、作戦名『うにゃーくん』をこれより発動する!」
「はっ」
「|PBR《ピバー》ならともかく、パワーボートは無理のコトよ」
印象をひとことで言えば「狐」か「英国紳士」という容貌《ようぼう》の七十近い、銀髪を丁寧に後ろに撫でつけた店主はそういって肩をすくめた。
「武装舟艇《PBR》では駄目、脚が遅いもの……どうしてもパワーボートが必要なの。それも市販の、せいぜい一〇〇キロが関の山のものじゃなくて、二五〇は出る奴が」
双葉アオイはひるまない。
「対艦ミサイルに魚雷、さらにはコンピューター制御のバルカンファランクスを相手にノット換算でしか動けない船では死にに行くようなものよ」
「何とやり合うつもりね? イージスでも沈めに行くつもりアルか?」
「似たようなモノね」
横浜中華街、その片隅にある小さな、寂れたと言うにはあまりにも小ぎれいな食堂の地下には、広大な武器庫が存在していた。
典型的な「闇の武器屋」だ。
東西南北思想の如何を問わず、金のある方によりよい兵器を。ある意味商業主義の究極とも言うべきアンフランチャイズながら、何故か同じような顔を持ってしまう連中の店だ。
真奈美も父の仕事に付き合ってこういう場所に出入りしたことがある。
どこかいかがわしい雰囲気は一緒だが、外観はそれぞれのお国柄が出る。
バンコクの武器屋は蒸し暑くて埃《ほこり》っぽく、ベトナムはクーラーが効いていた。武器よりもウオツカの箱の方が目立っていたロシアの武器庫では、その強い酒を飲み干さないと売らないと言われ、泡盛好きな父は嬉々《きき》としてややもすれば火炎瓶の材料にもなると言われる、そのアルコールを飲み干していたものだ。
日本の場合、それはまるで地上にある、エアガンやガスガンを取り扱うミリタリーショップそっくりだった。
広々としたショーウィンドウにずらりと並べられ、英語日本語|広東《カントン》語による手書きの説明の付いたポップが横に着いている。おまけに価格を示す単位は「円」だ。
違うのは中に納められているのが「本物」ということだけ。
少々あきれながら興味深く周囲を見回す真奈美とアシストロイドたちをよそに、交渉は続いていた。
「無理も道理も通すのが安善補《アン・ゼンポ》商会のモットーじゃなかった?」
静かに「紅葉」としての顔で、アオイが切り返すと、主人である安はしょうがない人だ、と頭を振った。
「ウチは武器屋ね。パワーボートは武器デナイのコトよ? アオイさん」
「マイアミでは警察《ヴァイス》も麻薬密売組織《スマグラー》も使ってるわ」
アオイは一歩も引かない。
「それに、最近、二隻だけ入荷した、って聞いてるんだけど?」
「何処でネ?」
「わたしは今でもこの業界にいるのよ、安さん。二〇〇〇でどう?」
安は顎に手をあててしばらく考え込んでいたが。
「まあ、隠しても仕方ないね。そう、確かに二|艘《そう》、パワーボート入れたね。でもそれ、もう予約入ってるのコトよ。それもそちらの言い値の四バイね」
「予約?」
「そうよ、マイアミ市警の使てたボート、中古で手頃だたが、すぐにお客ついたね。あなたよりも付き合い深くて長い人よ。ワタシ、どちらもお客、えこひき、出来ない。どしても欲しければ、その人と直接交渉、いいね?」
かつて日活アクション映画で悪役として知られ、晩年は国民的時代劇の主役を演じた俳優そっくりな武器屋の店主は、そう言って電話の子機を手にした。
「たたし、向こうがイヤ言たら、それでおしまい、オーケイ?」
目が覚めると、騎央の顔は思いっきりエリスの豊満なふたつの膨らみの中に埋没していた。
「え……う、うわぁっ!」
何とか離れようとジタバタあがくが、エリスはしっかり騎央の後頭部を抱きかかえているので不可能である。
「え、エリス、エリスったら! まずいよ、まずいったら!」
しばらく暴れていると、さすがにエリスも目を覚ます。
「……うにゅ?」
とろんとした目つきで胸元の騎央を見、
「あー、きおさんだー」
などと笑顔を浮かべてますます抱きつく。
「わーっ!」
ますます騎央は暴れ、それをエリスはますます面白がって……というやりとりが十分ぐらい続いた。
「ぜー・はー、ぜー・はー……」
冷や汗やら脂汗やらにまみれた騎央が、ようやく通常状態に復帰したエリスから離れる。
「おはよーございます、騎央さん」
それでもまだ眼をしょぼつかせているエリスに、騎央は長い溜息をついた。
キャーティアは種族的特徴なのか、男女の接触に関してあまり禁忌《きんき》がない。性行為に対しては地球人と同じ常識《メンタリティ》なのがせめてもだが、ともかく、目が覚めると隣にいたり、抱きしめられて目が覚めるというのはしょっちゅうだ。
何度も注意しているし、エリス自身も反省してはいるが、種族的特性ともなればしようがない部分もある。
「……もう、しょうがないなぁ」
と、溜息つくのが最近の騎央の定番となっている。
そして、溜息ついて気が付いた。
「……ここ、何処?」
「さぁ……わたしにもわかりません」
何か知らないがやたらに豪勢な部屋である。
天井は高く、床も、壁も磨き上げられた黒曜石のように輝いている。
壁には子猫を描いた大型の油絵が左右に二枚、天井からは豪勢なシャンデリア。オマケに二人が今さっきまで眠っていたのは天蓋付きのダブルベッドと来ている。
窓はなく、奥の方に小さな両開きの扉がある他は出入り口も見あたらない。
「やたらお金だけはかかっていそうだなぁ」
ぽつん、と騎央が感想を述べた。
「調度品も少ないですけど、妙に凝ってますもんね」
見事な彫刻の施された(ちなみにじゃれ合う二匹の猫を模している)、サイドテーブルの引き出しの取っ手を見ながらエリスも頷く。
「見ているだけで喉が渇きそうだよ」
ぼんやり呟く騎央の前に、
「どうぞ」
と、白い手に包まれた、小さなコップが差し出された。
「あ、どうも」
思わず飲み干し、数秒考えてから騎央は横を向く。
右目に黒革の眼帯《アイパッチ》をした、二十代前半のメイドが静かに佇《たたず》んでいた。
「わーっ!」
思わずベッドから騎央は転がり落ちた。
「いいいいいいいつからそこに?」
「はい、あなたがご神体の豊満なお胸で溺《おぼ》れて無様にドタバタしているあたりからずっと」
騎央の顔は面白いぐらいに真っ赤になったが、メイドの顔色は一切変わらない……無表情……というよりも、どこか小馬鹿にしたような雰囲気がある。
「……」
だが、もとより人のいい騎央はそれに気づかず、ただただ真っ赤になってうつむくばかりだ。
「あ、すみません、わたしにも一杯下さい」
「はい、ご神体様」
恭《うやうや》しく捧《ささ》げるように、メイドは片膝を突いてエリスに、騎央とは違い見事にカットされたボヘミアングラスに入った水を差しだした。
「…………如何《いかが》でしょうか」
「美味しいです」
にっこりとエリスは微笑んだ。
「で、ここは何処でしょうか?」
「はい、東京の沖三十キロの海上、無国籍船『アンドローラ』号のご神体専用室でございます」
「ご神体専用?」
「はい」
目を伏せたまま、かしこまって片目のメイドは頭を下げた。
「で、ご神体というのは何処でしょう?」
それは、現地調査員としては当然の問いだったのだが、答えは意外なものだった。
「ご神体様とは、あなた様のことです」
「やぁ、誰かと思えば君たちかぁ」
待ち合わせ場所である赤坂のイタリアンレストランの個室のドアを開けた途端、見覚えのある男が破顔して迎えてくれた。
「え……雄一叔父《ゆういちおじ》さん?」
真奈美の目はおろか、アオイの目まで丸くなる。
彼女たちに先んじてパワーボートを手に入れたという交渉相手は、騎央の叔父、宮城《みやぎ》雄一だった。
サングラスに口髭《くちひげ》、アロハにバミューダという、いかがわしさ全開の格好をした三十男は、二人の分の椅子を引いて腰掛けさせてくれた。
「で、一体何でパワーボートなんてものが必要なのかね?」
「…………えーと」
エリスが反応するには数秒の間が必要だった。
自分を指さし、
「ご神体?」
「はい、そうです」
片目のメイドは首肯した。
「あのぅ……それは困るんですけど」
心底申し訳ないような顔で、エリス。
「わたし、まだ自分の仕事がありますし、服務規程で、特定の宗教団体と必要以上の関わりを持ったり、『神』を僭称《せんしょう》したりすることは禁止されているんです。詐欺に繋がる犯罪行為ですから」
「いえ、詐欺ではありません。あなた様は事実『神』ですから」
「テクノロジーでは今のところ遥《はる》かにそちら側を上回っているのは事実ですけど……別に絶対存在じゃありませんし…………大体、この宗教団体の神様、ってわたしみたいな格好をしているんですか?」
「はい」
再びメイドは頷いた。
「我々猫耳教団『子猫《こねこ》の足裏』は本物の猫の耳と尻尾をもった存在が、実際にこの世に現れることを願い、祈り、また現れさせることを努力してきたのです。そしてお嬢様……いえ、教祖様のおっしゃるとおり、現れました……それが、あなたです。我々は、あなたをこそ、ご神体としてあがめます」
「あー、そのー、えーと……」
完全に存在を無視された形の騎央が、何とか割って入ろうとするが、メイドは「じろり」とエリスに向けるのとは質が完全に違う、凄みの利いた視線を向けた。
言葉に直せば「喋るな、小僧」というところだ。
「…………」
思わず黙る騎央だが、エリスはその間に反論を用意した。
「では、ご神体として命じます。わたしを崇めないでください。それと、すぐにここから解放してください」
「それは駄目です、ご神体様」
きっぱりと、しかし申し訳なさそうにメイドは応えた。
「教祖様のご要望により、あなた様にはここに居て頂くことになっております……それ以外でしたら、何なりとお望みをかなえますが」
「無理にでもここから出て行く、と主張したときは?」
「全力でお引き留め致します。それが我らの主命なれば」
声こそ柔らかかったが、メイドの眼の輝きは不退転の決意を固めた者のそれだった。
さすがの騎央でさえぎょっとした顔になってメイドとエリスを見比べる。
「それに、そこにいらっしゃる嘉和騎央さんが困ることになると思います」
「?」
思わず騎央が自分を指さした。
「大変失礼ではございますが、眠っている間にある薬物を投与致しました」
とメイドは騎央の首筋を指さした。
「習慣性も中毒性もない薬物ですが、一定時間ごとに抑制剤を投与しないと、内臓組織に致命的な障害を引き起こす物質で出来ております」
「!」
慌てて自分の首に触れた騎央は、注射の後に張られる小さな絆創膏《ばんそうこう》の手触りに愕然とした。
「投与する薬物がどの瓶に入っている、どんな成分のモノかは申し上げられません。また、形状も様々です。錠剤だったり、液体だったりもします。仮に、我々を振り切って逃亡しても、その薬が何であるかが判らなければ対策の立てようもありますまい。ちなみに時間は六時間。さらにここは東京湾の上ですので、陸地まではだいぶ泳がねばなりません」
「…………」
エリスの顔が不意に真面目になった。
「随分、勝手なんですね」
罵《ののし》らないだけ、相当に怒っていることが騎央には判る。
「申し訳ありません……ですが、せめてものお詫《わ》びの品をここに持ってきてございます」
言うと、片目のメイドは指を鳴らした。
奥の扉が開き、他のメイド達が次々と料理の載ったワゴンを押しながら現れる。
「そーかそーか、捕まったかぁ……やれやれ、騎央の奴め情けない」
とか何とか言いながら、雄一《ゆういち》はサーモンのマリネをつついた。
「だが弱ったな……こっちの件も急ぎなんだ……それに、友人からの頼まれ仕事でね。いくら甥のためとはいえ、あっさりキャンセルというわけにはいかない」
「……」
アオイはうつむいたまま、膝の上で掌を握りしめた。真奈美も伏し目がちになる。
「だがね」
サングラスの奥で、優しい眼をしながら雄一《ゆういち》は言った。
「交渉の余地がない訳じゃない」
アオイと真奈美は顔をあげた。
「ただし、君たちにも腹を決めてもらわないといけないだろうけども」
「大丈夫です」
勢い込んで、アオイが言った。
「どんな条件でも飲みます、飲んでみせます!」
「そうか」
満足そうに頷く雄一の前に、山盛りになったパスタが置かれた。真奈美、アオイの前にもボンゴレが置かれる。
「食べんのかね?」
早速フォークでパスタを巻き取りながら訊く雄一に、
「い、いえ……」
真奈美は遠慮し、アオイは首を横に振った。
「食べておいた方がいいな」
素っ気なく、しかし優しさを滲《にじ》ませた声で雄一は言った。
「これから会う相手はかなりタフな奴だし、それにだ……昔、何かのアニメで聞いたが、『人間、腹さえ満ちてれば何とかなる』もんだそうだしね。第一ここのパスタ、結構いけるんだよ」
少々険しい顔になったエリスだったが、すぐに驚きと喜びの表情に変わった。
「うわぁ……」
片目のメイドの合図によって現れたメイド達により、巨大なテーブルに並べられた料理は、それほどのボリュームと量だった。
「凄いですねえ、騎央さん」
「……」
騎央も驚くと言うよりもあきれてこくんと頷くほかにない。
「……本当に豚の丸焼きとか鳥の丸焼きとかって、あるんだ」
騎央の言葉に、少々誇らしげな響きをさせて片目のメイドが応える。
「他には、牛肉の炒《いた》めエビ味噌で煮込んだ『大正海老の山東風《さんとうふう》煮込』、豚スネ肉やアヒル、丸鶏、干貝などを半日煮込んだ『フカヒレの宮廷風姿煮』に甲乙膏《デャイ・イ・ガオ》、などなど、中国宮廷料理で今回はまとめてみました」
手間暇を掛けて煮込まれ、あるいは焼かれ、照り輝く料理がずらりと並ぶだけでも凄いのに、さらにとどめを刺すように、見事に龍や天女、鳳凰などの形に彫刻されたニンジンや大根の細工物がアクセントとなった、食欲の極彩色に染め上げられた食卓は、それだけで巨大な中国大陸のミニチュアを見るような、絢爛豪華《けんらんごうか》な大パノラマを形成している。
「如何でしょうか?」
「…………」
片目のメイドに問われても、しばらく目を丸くしてエリスは食材で出来上がった豪勢な光景を見ていたが、やがて騎央の方を向いて、
「……と、とりあえず、もう少しここにいましょう、騎央さん」
「…………う、うん」
ようやくメイドの顔に微笑みが浮かんだ。
「垂直式ミサイル発射装置《VLS》、RAM近接防御ミサイル発射装置、七十六ミリ単装砲五門、バルカンファランクス八門、|対空指向型電磁パルス砲《USEMPC》が四門の、火器管制コントロールは三次元レーダーを含んだ最新型のSPY・9? これでクルーザーか! ほぼイージス艦ではないか!」
とりあえず、エリスと騎央の行き先が判明して、状況が一段落した指揮車の中、報告書を読んだジェンスの呆れた声に、DIAの男は肩をすくめた。
「挙げ句に外洋には護衛艦隊、しかも二〇〇〇人の乗務員の内ほとんどが海兵隊並みの戦闘力を持っているだと?」
「まぁ、一応表だって装備しているわけではない隠し武装ですし、アントニア・リリモニ・ノフェンデラス・パパノーガス・アレクロテレス・クノーシス・モルフェノスの乗る船ですからねえ。それに猫耳教団は思想的狂信者集団《カルティック・バーサーカーズ》とは、昨日まで見なされてませんでしたから」
つまりは金持ちの道楽、あるいは当然の権利として黙認していた、ということだろう。
「…………」
のんびりした声に、ジェンスは「じろり」と男を睨み付けたが、あえて何も言わず、データに目を通した。
「つまり、大きさはタンカー並み、武装はイージス艦並みの船が、猫耳教団の移動する総本山というわけだな」
「さいです」
「……判った」
ジェンスはしばらく眉間にしわを寄せて考え込み、結論を下した。
「ヨコタに要請しろ、今から二時間以内に装備『K』を空輸しろと……翌朝を待って攻撃を開始する」
憤然とした顔で、ジェンスは頭の横にある犬の耳をひくつかせた。
「猫を信奉《しんぽう》する馬鹿者どもも、猫も、この際まとめて片づけてくれる……共食いでな!」
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜満足〜〜〜〜〜〜っ!」
自室のベッドの上にごろんと横になりながら、エリスは大きな目を糸のように細めて喉を鳴らした。
「にゃーん、ごろごろごろぉ……」
「でも、すごいねえ」
ベッドの側にいつの間にか運び込まれたソファに横たわりながら、騎央は食堂での光景を反芻《はんすう》してため息をつく。
「北京《ペキン》ダックって、皮しか食べないんだ……」
真奈美が聞いていたら三十分は馬鹿にされそうなことを呟きながら、味の記憶がよみがえってきて、満腹そのものの状態ながら、まだ「喰いたい」という感情がわきあがりそうになる。
「凄いなあ、料理って」
「ですねえ……これでお酒が最後に飲めればもっとよかったんですけど」
エリスがベッドの上で腰を高々とあげながらうにゅーん、と猫ののびをする。
食後の酒が無かったわけではない。むしろ薦められたのではあるが、発情期が近いエリスとしては、またぞろ「焼き餃子の歌」を歌い踊る失態を発生させないためにあえて固辞したのであった。
「さて、おなかも一杯になったとこですし、そろそろ帰りましょう」
ひょい、とエリスはベッドから降り立った。
「え?」
「言いませんでしたっけ? これ、簡易型のパワードスーツなんですよ」
自分の着用した衣服の胸元をちょいと摘みながらエリスは微笑んだ。
「で、でもあの、ぼ、僕のほうの毒が」
「ああ、あれはハッタリです」
エリスは即断した。
「さっき医療スキャナーで騎央さんの身体をチェックしました。毒物なんかどこにも無いですし、食後飲んだ錠剤もただの栄養剤です」
「でででででも」
宇宙人の科学力を信じないわけではないが、不安であることに変わりはないから、騎央が躊躇すると、
「大丈夫です、宇宙人を信じてください」
言いながら、エリスは|スキンタイト《ぴっちぴち》な服の襟元に軽く触れた。
きゅいん、という小さな音と共にスーツのあちこちが攻撃的に尖《とが》る。
「じゃ、壁を破壊して海に出ますから、後はお願いします」
「?」
「実は……」
エリスはちょっと照れたように舌を出した。
「私、泳げないんです……せーの!」
猫耳少女は拳を握り締めると、思いっきり壁にたたきつけた。
すさまじい轟音と共に壁はエリスの拳を中心にひしゃげ……なかった。
代わりに。
「いったぁあああああああい!」
エリスは拳を抱えて座り込んでしまった。
「痛い〜痛いです、騎央さ〜ん」
半泣きになりながら、エリスは背中を丸めた。
「だ、大丈夫?」
慌てて駆け寄る騎央。
「あの、すびばぜん、ごじのばうぢがら、医療用ごみにげーだーだじでぐだざい」
もう涙をだらだら流しながらのエリスの懇願に、騎央は猫耳宇宙人の腰ポーチから固形石鹸ほどの大きさの機械を取り出し、以前教えてもらったとおりに操作し、壁を殴ったほうの拳に近づけた。
機械の表面にエリスの拳が小さな立体映像となって映り、すぐ骨の状態が表示され、真っ赤になる。
「うわ……」
思わず顔を引きつらせる騎央の前で、エリスの掌は面白いように膨らみ始める。
急いで騎央は横のスイッチを入れた。モーターのハム音のような音がして、エリスの腕の映像が見る間に青くなっていく。
「……ふぅ」
ようやく涙も手の腫れも収まり、涙目ぐらいになってから、エリスはため息をついた。
「どうしたの?」
「判りません……いつもならこれぐらいの壁、一撃なんですけど……」
言いながら、エリスは左の手首を返して、なにやら右手の指を走らせる……と、腕の表面に白い文字が浮かび上がってきた。
「発情期につき、強化服性能制限中?」
横から文字を読んだ騎央が首を傾げる。
「うにゃぁあああ」
エリスは頭を抱えた。
「しまったー」
「?」
「わたし、この前の騒ぎで発情期認定されちゃったんですよー。とほほほほ」
なおも首を傾げる騎央にエリスは説明した。
「えーと、発情期になると正常な判断が出来なくなることがあるのは、騎央さんも……その……知ってるでしょ?」
「うん」
脳裏にあの「焼き餃子踊り」を思い出しながら騎央は頷く。
「その最中に、無茶なことが起こらないように強化服の能力とか、様々なアイテムの使用を制限するんです……あと二日は大丈夫だと思ってたんですけど、うっかりしてました」
そこまで言い、はぁ、とエリスは肩を落とした。
「これじゃルーロスも呼べないし、アシストロイドも使えないです」
「あー、それでしたらご心配なく」
「わっ!」
「い、いつの間に……」
いつの間にか、またあのメイド長がふたりの背後に現れていた。
「地球側のテクノロジーを駆使して、ご神体様のアシストロイドと同じモノを作りました」
ぎい。
ドアが開くと、その奥からトテトテと見覚えのあるシルエットが歩いてくる。
「どうぞお側に置いてあげてください……うえるかむ・『うにゃーくん』です!」
どこから見てもアシストロイド(通常型)そっくりなシルエットが「やほー」とばかりに片手をあげた。
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第八章 なかのひとなどいません
「どうぞお側に置いてあげてください……うえるかむ・『うにゃーくん』です!」
どこから見てもアシストロイド(通常型)そっくりなシルエットが「やほー」とばかりに片手をあげた。
上げたのはいい。
それから後、近づいてきたのもまあよろしい。
第一の問題は、その大きさだった。
どう考えてもエリスよりも大きい。
その次の問題は……どう見ても、頭が胴体の上に乗っかっているだけ、というか、手足の継ぎ目がくっきりしているというか……。
ぶっちゃけて言えば、どっから見てもその、メイドが「アシストロイド」と呼称する代物は、中に人が入っているとしか思えなかった。
というか、着ぐるみ。
「……あー、エリス」
「はい?」
「ひゃっほう」とぱたぱた手を振って挨拶する「うにゃーくん」に半ば呆れながらエリスと騎央は顔を見合わせた。
「どうするの、これ?」
「……そうですねえ」
さすがにエリスも腕組みをして考え込んだ。
「返品してしまうのも、中の人に悪いですし」
「中の人などおられません!」
ずいっとメイドがふたりに顔を近づけた。
「おられません、そのような方などおられません!」
「いや、あの、でもどうみて……」
「いないんです!」
騎央の反論を無理矢理封じるように力説するメイドの後ろで、「うにゃーくん」はエリスに対して手を振ったり口元を抑えて身体を左右に振ったり、ぴょんぴょんジャンプしたり、浦安にある世界一版権にうるさい会社が経営する遊園地の象徴キャラもかくやという忙しさで愛想を振りまいている。
「でも……」
「中の人などいないんです! アレはロボットです、ちゃんとした!」
ガレージは作業用のスポットライトで煌々《こうこう》と照らされている。
時折、シャッターの隙間から潮風が流れ込んでくるが、沖縄のような爽快《そうかい》な香りではなく、どんよりよどんでいるように感じてしまうのは、やはりここが東京湾に面しているという思いこみからだろうか……などとぼんやり考えながら、作業用のツナギを着けた金武城真奈美は今さっき組み立てたばかりの簡単な装置のスイッチを入れた。
とりあえず、本来の持ち主との交渉(たしかに、雄一の言うとおり、かなり難儀なものではあったが)した結果、「交換条件」つきで真奈美達はこのパワーボートを手に入れた。
カタカタとリレースイッチの音がして、テスト用に接続された六つの一〇〇ワット電球が順番に点滅する。
「よし……と……こっちはオッケー、出来たわよ」
「こっちも……もうすぐ終わる……わ」
真奈美の後ろで、溶接機を使っていたアオイが応えた。
激しい閃光《せんこう》と、バーナー独特の臭いがあって、遮光マスクを跳ね上げると、真奈美同様にツナギ姿の双葉アオイはまだうっすらと赤く輝く溶接箇所を、ためつすがめつ点検した。
「金武城さん、発射装置……頂戴」
「あ、うん」
よっこいしょ、と真奈美はちょっと豪華なDVDデッキほどの大きさのそれを両手で抱え、アオイの居る船の上にあがる。
「じゃ、バッテリーはここ……本体はここ……」
工事現場の足場に用いられるアングルと、太い鉄パイプ、鉄の板を曲げて作られた枠へ、真奈美とアオイは装置を据え付けた。
そしてまたテスト。再び点滅を確認すると、六個の電球を外し、本来接続されるべき、箱形のロケットランチャーを取り付け、トリガーシステムに配線を繋ぐ。
「出来たっ……よね?」
真奈美の声に、アオイはこくんと頷いた。
ちなみに、二人が今乗っているパワーボートは、高速を出すために飛行機のようなフォルムを持つタイプだが、外装を引きはがし、各種の武装をハリネズミのように取り付けている。
正直言ってスマートとは言い難い、溶接跡や鉄パイプやら補強材やらが丸見えのものだが、急ごしらえではしょうがない。
「でも、凄いわよねえ……双葉さん、溶接とかも出来ちゃうんだもの」
「……」
ふと、アオイは寂しげな笑みを唇に浮かべた。
「私の……母さん……母は、何も出来ない人だったの……だから、私は何でも出来るように育てられた……だから……なの」
「……」
理由の説明としては不明瞭《ふめいりょう》なその言葉の裏にある重いものを、真奈美ははっきりと感じ取った。
「悪運紅葉」と呼ばれ、入国管理局特別部のトップクラスエージェントとして活躍し、恐れられていたこの少女は、やはりそれに釣り合うだけの人生があるらしい。
……というわけで。
しっかりと「うにゃーくん」は騎央たちの部屋に居着いてしまった。
「…………」
しかもこの「うにゃーくん」。妙にエリスに懐く……というよりもベタベタしたがる。
やたらに抱きつきたがり、愛想を振りまきたがり、一緒のベッドに入ろうとまでする。
「弱りましたねえ……万が一の時、騎央さんとあーなったりこーなったりするのを他の誰かに見られたくはないんですけど」
さすがにエリスが困り顔になった。
「ど、どういう意味?」
騎央がドキドキしながら訊くと、エリスはぽっと頬を赤らめた。
「そりゃぁ……その……発情期、です……し、その……発情期、ってことはその……」
「…………」
まあ、そこまで訊けばさすがに判る。
「ですから、そのー、えーと、ちょっと、しばらくは二人っきりにして欲しいんですけども……」
という言葉を聞くと、今度は「うにゃーくん」露骨に落ち込む。
膝を抱えて背中を向けて、床に「の」の字を書いたりする。
しょうがないのでエリスが「いいんですよ」と肩を叩くと今度は露骨に飛び跳ねて喜びをあらわにする。
さらに抱きついて頬をすりすりとエリスにすり寄せた。
「あの、ちょ、ちょっと強いですよ、力が……うにゅぅ…………」
すり寄せられる「うにゃーくん」の頭に、ほとほと弱り果てた顔でエリスは騎央に目線で助けを求めた。
まあ、求められても騎央だって困る。
何しろ中の人がどんな人間か、男か女かでさえ判らないのだ。まさか訊くわけにもいかない(もっとも訊いたところで『中の人などいません』と反論されるのがオチだろうが)。
それでも、何らかのリアクションをしないと、なんかモヤモヤしそうな気がした。
「そうだ、エリス、『うにゃーくん』に船の中を案内してもらえば?」
騎央の言葉は単なる思いつきだったが、「うにゃーくん」が、まるでこの船の主であるかのように腰に手を当てて大きく頷いた。
「…………?」
途端、少年の頭の中で「状況」と「記憶」で作られたパズルのピースがひとつ、ぴたりとはまった。
だが、まだそれは彼の無意識の底の話で、表層意識は「やたら偉そうだな」とぼんやり思ったに過ぎない。
「……ところでさ何でまた、こんなに急ぐの? 相手は猫耳を崇めているトコなんでしょ」
なるべくさりげなく、真奈美は話題をそらした。
「だったらエリスに危害は加えないと思うんだけど……一週間待って、資金的にも潤沢になったところで攻勢を仕掛けた方がいいんじゃないの?」
ある意味理路整然としているが、これは、ちょっと意地の悪い質問でもあった。
「…………エリスは、ね」
アオイは溶接機を片づけながら答えた。
「でも、嘉和君は違うわ」
「まあ、そうだけどさ、騎央に何かあったらエリスも黙っちゃいないでしょ?」
「ふたりを引き離して、片方を殺しておいて『彼を殺されたくなければ』と脅すやり方もあるわ」
「…………」
「そんなことになったら、私、自分を許さないと思うから」
普段はクラスでも目立たない、文学少女の答えはその正体と何ら矛盾しない、世界の暗闇を生きる者の苦さに満ちていた。
半ば感心、半ば自分がそこまでの存在になっていないことに安堵《あんど》と羨望《せんぼう》の入り交じった感情を覚えながら、真奈美は、ちょっとアオイをからかうコトにした。
「双葉さん、やっぱり騎央のこと、好きなの?」
「うにゃーくん」はあっさりドアを開けると、トコトコと歩き始めた。
騎央とエリスもその後を追う。
船の中は驚くほど広かった。
よく「バカみたいに○○」という言い方があるが、それだけでは追いつかない。
夜でライトも柔らかい黄色い光に変えられているせいもあろうが、廊下の先が霞んで見えないほどだ。
行けども行けども黒い廊下である。しかもチリ一つ落ちておらず、床を歩く三人の姿が映るほどに磨き抜かれている。
やがて、十分も歩くと、歩き疲れたのか、「うにゃーくん」は身体を二つに折って肩で息をし始めた。
「大丈夫?」
とエリスが訊くと、すかさずホワイトボードとサインペンを取りだし、本物のアシストロイド達よりもかなり綺麗な字で「だいじょぶ、なかのひとなどいませんから」と書いたが、またすぐに肩で息をし始める。
外見は微笑ましい無表情なだけに、その光景は妙に凄惨《せいさん》な哀れさがあった。
「いかん!」
モニタールームでメイド長の摩耶は廊下のカメラが写す光景を見て慌てて命令を下した。
「す、すぐに『うにゃーくん』用電動カートを用意せよ! そうだ、以前トンガ国王が来たときに使った奴にサイドシートを着けた奴だ! 後ろにはオマケの為の荷台をな!」
モニタールームで固唾《かたず》を飲んで見守っていたメイド達はあたふたと外へ飛び出していく。
「しまった…………『うにゃーくん』の衣装が四十キロもあることを忘れていた……」
ちなみに、東宝のゴジラ映画で使われる「格闘家でさえ中に入って三十分後には悲鳴を上げる」と評判の撮影用着ぐるみが八十キロ、「冬場でも一週間中に入り続ければ確実に十キロ痩せる」と言われるアトラクションショー用の着ぐるみが五十キロ前後である。
「おじょ……いや、『うにゃーくん』、どうぞご無事で……」
目を潤ませながら摩耶は懐からハンカチを取りだし、口の端にくわえた。
電動カートが来てからの「うにゃーくん」は元気いっぱいだった。
横にエリス、後ろの粗末な荷台に騎央を乗せ、わざわざ作りつけたらしいハンドルを握って、広大な船の中をあれこれ見せて回った。
最後に来たのは、船の中央にある大きなゲームセンター……というより、小さな遊園地である。
飛行機を越える質、量を誇る、この惑星最大の輸送機関を見るエリスは船内を回る間も常に興味津々、といった風情であったが、ここを一番喜んだ。
「うわぁ……凄いですねえ」
確かに、規模こそ小さいが、そこに置かれた機械は最新だったり、メリーゴーランドやティーカップソーサーのように古くてもかなり高級な品物だと判るものであり、とても船の中にあると思えぬほどの広がりをもって配置されている。
「うにゃーくん」はエリスの手を取ってメリーゴーランドに乗る。
どう見てもあるとは思えない埃を払って、王女のようにエリスを馬の上に横座りにさせ、何処かに手を振って合図すると、メリーゴーランドは賑やかな音楽と共に回り始めた。
エリスは嬌声を上げて喜ぶ。さらにエリスの側に立つ「うにゃーくん」も喜んでエリスに手を振り、身体を左右に振る。
(でも……なんか、寂しい光景だなぁ)
ぽつん、と取り残された形の騎央は、その微笑ましい光景を見ながら思った。
周囲を改めて見回す。
あることに気づいた。
ここに置かれたゲームは全て一人用なのだ。たとえ対戦用に作られたものでさえ、対戦相手の為のコントロールスティックは取り外されている。
「…………」
騎央は改めて振り向いて、エリスの横で大はしゃぎの「うにゃーくん」を見た。
エリスに抱きついたり、跳んだり跳ねたりするアシストロイドの形を模した着ぐるみを。
どう見ても、それは人をもてなすための行為、というだけではなく、演技でもないような気がした。
本気であの中に入っている人物はエリスと会って、一緒にいることが楽しいのではないか。
何かとても、せっぱ詰まったような、必死な感じがする。
普段なら気づかないかもしれないが、「うにゃーくん」およびメイド達によって「エリスのオマケ」扱いで蚊帳の外に置かれているので、騎央はこの状況を客観視できたために、そのことに気づいていた。
「…………しばらく、ここにいた方がいいのかもしれないなぁ」
ぽつん、と騎央は呟いた。この辺が、真奈美にバカにされる人の良さであった。
「双葉さん、やっぱり騎央のこと、好きなの?」
ぐぁわぁらん。
片づけようとしていた溶接機のバーナーと余った鉄パイプを、思わずアオイは取り落とした。
「わっ!」
驚く真奈美だが、すぐにガスボンベ本体ではないコトに気づいて胸をなで下ろす。
アオイは、普段の無表情をガチガチに強張らせながら振り向いた。
「あ、い、いえ、あの、そ、それは、そ、その、あ、あ、あの、えの、うの……」
視線は宙をさまよい、顔はみるみる真っ赤に染まる。
(へえ……可愛いトコあるじゃん)
そんな少女の変化が微笑ましく、真奈美はまるで純情な妹を見守る姉の心持ちでパワーボートのシートにもたれかかった。
「あ、あの、いえ、あの……そ、それは……」
「好きなんでしょ?」
素直におっしゃい、というニュアンスを込めて真奈美がとどめの一言を放つと、ややあってアオイはこく、と頷いた。
「…………何でまた?」
「…………か、嘉和君はその……優しくて、明るくて、行動力があって……私とは正反対で……でも、だから、あの……」
「ふうん……」
真奈美に言わせれば、優柔不断でおっちょこちょい、ということになるのだが、惚れてしまえばアバタもエクボ、ということなんだろうと納得する。
「じゃあさ、いつ頃からなの? ね? ね?」
「…………」
真っ赤に熟したトマトのようになったアオイはひたすらにうつむき、身体を小さくしていく。
「エリスが来る前から、でしょ?」
こくん、とアオイは頷いた。
「……でも、良かったじゃない。騎央の中では双葉さんの株、大分あがってると思うよ」
「え?」
アオイがばっと顔をあげた。
「ほ、本当に?」
「うん、だってこの前、職をなげうって助けに来たでしょ? 今も協力してくれるし……双葉さんには足を向けて寝られない、って騎央、言ってたよ」
「ほ、本当なの金武城さん!」
ぐいっと襟首を捕まえて、アオイは勢い込んで訊いた。
「私のこと、怖がったり、嫌ったりしてないの?」
「ほ、本当だってば! 一度エリスを捕獲したあたしなんか、あれだけ命がけだったのに罪がチャラになっただけで、何の感謝もされてないんだから」
「……そう」
真奈美の襟首を掴んでいた手を放し、アオイは長い溜息をついた。
「…………よかっ……た」
驚いたことに、少女は涙ぐんでいた。
「よかった……よかった……」
「…………」
そんなアオイを見ながら、真奈美は軽い気持ちでからかおうとした自分に対して罪悪感を抱いた。
この少女は不安だったのだ。表向き、いつも通り接してくれている少年に嫌われているんじゃないかと。
馬鹿な話だ、と真奈美の、高校生としての部分は思う。だが、この少女は、双葉アオイは、有能な破壊工作員、裏切りと詐術が当たり前の世界を生きてきたのだ。
どんな真実でも「万が一」と疑わねばならない世界を。
「教えてくれて、ありがとう、金武城さん」
「……真奈美でいいわ」
優しく、真奈美はアオイの肩に手を置いた。
「あなたのこと、アオイ、って呼んでいい?」
「ええ」
ふたりはようやくうち解け合った笑みを浮かべることが出来た。
もっとも、すぐに照れて視線をそらし合う。
「……ところで、これ、どれくらいのスピードが出るの?」
「カタログで三五〇キロだけど……外装剥がして武装を取り付けているから、大分下がる……わ。三〇〇ぐらい……だと、思う」
「それ、下がったって言わないと思う」
少々あきれ顔で真奈美が言うのに合わせるかのごとく、シャッター横の、半開きになったドアが開いて、トコトコとエリスのアシストロイド(通常型)が姿を現した。
ちゃか、と片手をあげると、最近標準装備になったプラカードには「じゆんびできました」と例の、ミミズがのたうったような字で書いてある。
「そっか、そっちの準備も出来たのね」
遊園地で一時間も遊んでいると、ゼンマイが切れたかのように「うにゃーくん」はその場に座り込んで動かなくなった。
こけ、と小首を傾げたまま、「ぜーはーぜーはーぜー」という荒い息を内側から響かせ、着ぐるみの隙間から立ち上る湯気は、見ている方が気の毒になるほど凄い状況が内部で展開されていることを示している。
すぐに、どこからともなくメイド達がやってきて、「うにゃーくん」を大きな台車に乗せた。
「う、『うにゃーくん』はバッテリーが切れたようですので、回収致します」
深々とメイドたちの長《おさ》らしい女性が頭を下げた。
「そうですか……あの、大丈夫ですか?」
仰向けのまま、内部の熱気が表まで出てきそうな状態でうつろに頭を左右に揺らしている「うにゃーくん」の額に手を当てながら、エリスが訊いた。
「だ、大丈夫です、中の人などおりませんから」
「…………」
ちょっとエリスは困った顔になったが、すぐに「うにゃーくん」の頭の横に唇を寄せた。
「今日は、とっても楽しかったです。また遊んでくださいね……でも、明日明後日はたっぷり養生……じゃなかったオーバーホールしてください」
「うにゃーくん」の頭は動かなかったが、頷いたような気配があった。
微笑んでエリスは「うにゃーくん」の額を撫でた。
それを見ながら、騎央はメイド長のほうに向き直った。
「この船の持ち主の人にお礼を言ってください。招待の仕方はとても不愉快でしたけど、今日は一日楽しかったって…………よろしければしばらく滞在します。でもその前に沖縄の僕の家に連絡を取らせてください」
いいながら、騎央はちら、とエリスを見やったが、猫耳少女は静かに頷いただけであった。
「……そのお志、感謝致しますがご要請のことは後ほど結論を」
メイド長は、深々と頭を下げた。
それまでと違い、深く、長く。
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第九章 猫と犬とが準備をしてた
今日一日で五キロも体重が減った少女は、栄養剤の入った数時間の点滴のおかげで、顔色も元に戻り、今は小さな身体を丸くして、可愛い寝息をたてている。
「……」
メイド長・摩耶は万感《ばんかん》の思いでその寝顔を見つめていた。
少女、アントニア・リリモニ・ノフェンデラス・パパノーガス・アレクロテレス・クノーシス・モルフェノスは、誇らしげな笑みを浮かべたまま、眠っている。
主である少女の、こんな安らいだ、こんな輝いた表情を摩耶は見たことがない。
この少女は今から二年前、最後の肉親と引き替えに、有り余る莫大な財産と、高い教育と権力を手に入れながら同時に、「何をしてもいけない」義務を背負わされていた。
「労働」はおろか「経営」すらする必要性がないほどの裕福な暮らし。
血筋や歴史はともかく、経済面だけで言えば、日本人やアメリカ人が考えるようなものではない、ヨーロッパの人間にのみ正しく理解されている、本物の「上流階級《ハイ・ソサエティ》」に少女はなっていた。
「フォーブス」も「エコノミスト」も記事にはしない……それは、少女の祖父が巧妙に財産を小分けにして世界各地に配したためだ。このため、少女は本来支払うべき税金をほとんど支払うことはなかった。おそらく、これからもそうだろう。
国を失い、永遠に海の上をさすらう無国籍人《ボヘミアン》にその義務はない。
そのためだけにアントニアの祖父は国を一つ作り上げ、さらに潰《つぶ》したのである(さすがに戦争ではなく、無血クーデターによって、ではあるが)。
彼女の生活は祖父の残した「財団」が保証する。
彼女は何もする必要がない……むしろ「何もしない」ことが彼女の仕事であった。
彼女が全財産の一割を預金口座から引き落とすだけで、何処かの国が不況に陥る可能性が出てくる。二割を越えれば、恐らく世界経済が混乱をきたすだろう。
モルフェノスの財産は、それほどのものだったのである。
だから、アントニアは生きながら国宝級の美術品のような生活をせねばならないのだ。
ただただ、生み出される祖父のなした膨大な利殖の結果を消費し、上流階級と付き合い、「万能の平凡人」としてせいぜい道楽に身を入れる……。
死んだ彼女の祖父が両親を早くに失ったこの少女に、海の上での無国籍な人生を与えたのは、せめてもの心づくしだったに違いない。
だが、まだ少女は十二歳なのだ……未来は長く、情熱という炎はこれから燃えさかろうとしている。
己に課せられた鎖を引きちぎり、周囲の迷惑も顧みず好き勝手に野放図を繰り返すには、彼女は優しすぎ、また真面目な人間でありすぎた。
さらに不幸なことに、アントニアは優秀な頭脳と、卓越した技術、芸術のセンスさえもっていたのだ。
故に「ありったけの情熱を注ぎ込むための道楽」として「子猫の足裏」の教祖となり、人を集め、ただただ「猫の耳と尻尾は可愛い!」と絶叫するだけのことに心を傾けていた。
だが、それにさえ少女は疲れていた……明晰《めいせき》な頭脳は、それさえも結局、慰めの類でしかないことに、さらに自分に「飽き」がきていることを知っていた。
いずれ、少女は湿った失望と共に、教団を放り投げる……と思っていた矢先、テレビに宇宙船が……それも、本物の異星の船が映った。
さらにそこから降りてきたのは、本物の猫の耳と尻尾を着けた異星人だったのである。
少女の熱狂はただごとではなかった。
自分たちの妄想とも言える存在が、実在して、目の前に現れたのだ。
少女の目が輝き始めたのはその日からである。むろん、他の教団員の熱狂も凄かったが、少女の興奮はそれを圧するほどのものだった。
夢はいつかかなう……普通の人間なら、いやたとえ浮浪者でさえも口にするこの言葉が、少女の前に実在の出来事として現出したのだ。
その「夢」の入手手段がたとえ世間的には非合法のものであろうとも、非常識なものであろうとも、摩耶はその手伝いをしようと決めていた。
十二歳の時にモルフェノスの家にメイドとしてやってきて以来、結婚前のアントニアの母に可愛がられ、アントニアが生まれたとき、産褥故《さんじょくゆえ》に命を失う直前に手ずから「娘をお願い」と言われた時から、さらに二年前その父親……アントニアの祖父に「孫を頼む」と乞《こ》われてからはますます、アントニアの姉として、母として、何よりもその忠実な下僕として、摩耶は尽くすつもりだったのだから。
おでこの広い少女の前髪をそっとかきあげて、摩耶は寝室を後にした。
「〜〜〜〜〜っんッ・もぉおおにぃいいん!」
準備を終え、作戦開始時までの仮眠を取っていた真奈美達をたたき起こしたのは、異様なハイテンションのオカマ声だった。
「……?」
真奈美は寝ぼけ眼で起きあがったが、アオイはグロックを構えて銃口をすでに戸口に向けている。
「あーら、もー役作りはしっかりしてんのねぇ! さすがだわだわ! 雄一っちゃんの見つけてきた娘だわー」
向けられた銃が本物だとは思っていないのか、その筋骨隆々としたスキンヘッドの大男は、内股でクネクネと身体をくねらせた。
下半身は鰐革《わにがわ》のブーツにぴっちりしたレザーパンツ、上半身は素肌の上に紫のスパンコールでぎらぎら輝く袖無しのチョッキを羽織っているという強烈なファッションである。
どう見てもコントに出てくるオカマそのものだ。
「す・て・きっ。すてきよおおっ! それでこそアタクシの求める女闘美《めとみ》ックアクションの女優よね! フォOHHHh!」
さらに自分で自分を抱きしめ、くるくるとその場で回転、あまつさえするするとムーンウォークしたりする。
どこから見ても立派な「変態」である。いや、その上に「電波」とつくかもしれない。
「あ、何だカントクか」
ほけっとした声で真奈美。
この異様な筋肉オカマこそ、パワーボートをめぐる彼女たちの「交渉相手」だ。
名前を河崎貴雄《かわさきたかお》といい、低予算で女性ばかり出てくるアクションもの(うちスーパーヒロインものが七割)を大量生産し続ける、ある種のマニアにとっては有名な人物である。
「そーよー、カントクなのよ〜……って、あら、おチビちゃんたちもお元気〜」
アオイの動きに連動するようにすかさず警戒態勢を取っていたアシストロイド五体も、この頓狂《とんきょう》な人物を「無害」と認めたのか、態勢を解いて頭を撫でられるままに任せている。
「あんたたち、バ○ダイで量産されたら売れるでしょうねえ」
などと好き勝手言う筋肉オカマに、
「カントクぅ……早すぎますよぉ。まだ夜明け前の三時ですよぉ。約束は五時って言ったじゃないですかぁ」
真奈美がぼやいた瞬間、まるでフィルムのコマを抜いたように、一瞬でその大男は二人の前に進んでくると、腰をかがめ、ばちんとウィンクしながら、ちっちっちっ、と太い人差し指を左右に振った。
「だ・め・ねぇ〜。メイクと打ち合わせの時間があるでしょうが〜。あと衣装の合わせもあるしィ」
「?」
真奈美は何を言われているのかよく分からず、
「しまった……そういう意味だったのね」
アオイは苦い顔で呟いた……彼女は「カントク」との約束を踏み倒すつもりだったのである。
「ねえ、エリス、起きてる?」
ソファで横になりながら、騎央はベッドの上に寝ころんでいるはずのエリスに話しかけた。
「とりあえず、沖縄に連絡するとして、これからどうする?」
天井を見ながら、騎央は続けた。
「僕は、何とか交渉して帰れないかなぁ、って思ってるんだけど」
「そうですねえ……………………」
どこか、とろんとした声でエリス。
「そりゃあ、まあ、子猫の足裏、なんて名乗ってるし、人を無理矢理連れてくるような人たちだからちょっとアレかもしれないけれど……」
「……………………そーですね……人間……話し合えば…………」
「エリス?」
さすがに騎央は起きあがった。
どうもエリスの声がおかしい。熱っぽいというか、妙に低いというか……だが十六歳の悲しさ、それが妙に「色っぽい」から「おかしい」とは気づかない。
慌ててベッドに駆け寄ると、エリスは待っていたかのように上体を起こした。
「あの……騎央さん……」
ふらふらとしながら騎央の方に向く。
眼は潤み、唇はなまめかしく輝き、吐息が熱い。
何か、嫌な予感が騎央の背中を撫でていった。
「?」
「わたし……さっきから変なんですぅ……」
「?」
「何か、身体がぼぅっとしてて……ふにゃあああん」
言うなり、エリスは騎央に抱きついた。
「わー!」
「こ……これを?」
アオイは、手渡された「衣装」を見て目を点にした。
「そうよぉ。ほぅら、真奈美ちゃんの分もしっかりあるんだからもーほらほらぁー」
カントクははしゃぎながら持ってきたプラダのバッグから、真奈美の分の「衣装」を取りだした。
「はぁい、真奈美ちゃんのはこれねえ」
「これって……紐……」
「高いのよ、これえ……ちゃんとしたね、デザイナーズブランドなんだから」
「これが……?」
思わず下品にも真奈美はそれを広げてしまった。
それは、どう考えても紐に布きれ……それも「切れっ端」とか表現される程度のもの……がくっついている。
この筋肉オカマは、これに兎耳のついた白いヘルメット、わざわざ特注で作らせた白いコンバットブーツでパワーボートに乗り、ドンパチをしろと言いたいらしい。
「ねえ、アオイ」
小声で真奈美は横で同じ衣装を持ったまま固まっている眼鏡少女に尋ねた。
「この人って低予算映画の王様なんでしょ、どうしてこんなにお金があるわけ?」
確かに言われてみればこの紐水着も、作りはかなり上等なものであるようだし、ブーツやヘルメットも、既製品の改造ではない。
さらにパワーボートである。
「たぶん……宝くじよ」
ぽつんとアオイは答えた。
「去年の年末ジャンボ、一等三億円および前後賞が十本、同じ人間に当たった、って騒ぎがあったの覚えてる?」
「ええ」
その騒ぎは知っている。確か当選したのはどこかの中小企業の社長だった筈だ。
「その当たった人があのカントクの熱狂的なファンで、タランティーノに負けない映画を日本でも、って」
「それで……」
思わず真奈美は絶句した。
まったく、人の心の闇は何処にあるか判らない。
「……ったく、どうせなら手塚昌明《てづかまさあき》監督か三池崇史《みいけたかし》監督にでも渡せばいいのに……」
とかボヤいていると、急に、
「ふふふふふふふふふふふふ」
と、カントクの浅黒くてデカい顔がにゅう、と二人の間に突き出されてきた。
「わっ!」
「わっ!」
思わずひるんでしまったふたりに、
「さぁ、お着替えしたら呼んでね。次はメイクとパケ(パッケージのこと)撮影だから〜」
と、妙にドスの利いた声で言うと、
「YEAH! ビバ女闘美《めとみ》ック〜! るんるんるーん♪」
とスキップしながらガレージを出て行ってしまった。
つまり、真奈美とアオイはここで着替えねばならないらしい。
コンテナが開くと、四つと二十四の「眼」がジェンスを見た。
「良く来た。我が精鋭ども」
ジェンスは腰に手を当て、すらりと細長い「K装備」相手にひと演説ぶった……この辺が「犬族」の癖なのである。
「今から二時間後、お前達はパワーバランスを崩すべく発射され、ある船の装甲を破壊する」
と、動かない四つの「眼」に言い、コンテナ内を歩き回りながら演説をする彼女を追う二十四の「眼」に対しては、
「お前達はその騒ぎに乗じて内部に侵入、速やかに、姿を見られることなく内側から破壊していく……どちらも重要な役割だ。これは我々がこの惑星においてこれからも優位を保つための重要な作戦行動である。我らが母星のため、必中必殺を期待するものである! 猫どもに鉄槌《てっつい》を!」
軍服の犬耳美女は、そういってコンテナの中、拳を突き上げた。
コンテナの中に安置された対艦ミサイル四基と、二十四の眼を持つ「荷物」は何も言わずにその演説を聴いている。
「にゅうぅうん」
火照《ほて》った頬をすり寄せながら、エリスはゴロゴロと喉を鳴らした。
「騎央さんのほっぺた、冷たくて気持ちいいです〜」
頬同士をくっつけるだけでなく、とうとう夏の猫が氷の塊を前にしたように、ぺろぺろとなめ始めた。
「ん〜〜騎央さんのほっぺ、美味しい〜〜」
「わ、や、やめろってば、こら、舐めるな〜」
聞きようによっては人肉主食者《カニバリスト》のようにも思える物騒なコトをいいながら、ジタバタ暴れる騎央を片手で軽々とホールドしつつ、空いた手でエリスはボディスーツの襟元を操作した。
ぴぴ、という電子音と共に、スーツがバナナの皮でも剥くかのごとく、襟を中心にして縦の四つに分かれた。
闇の中にも浮かび上がるような白い肌が、少年の目を釘付《くぎづ》けにした。
さすがに豊満な胸を抱え込むようにして完全な露出はさせないものの、却って持ち上がることとなった胸の二つの水蜜桃《すいみつとう》が織りなす深く、柔らかそうな谷間は、騎央の目を吸い付けた。
「きおさぁん」
ふと目を上げると、熱く、濡れた唇が切なげに細められる。
「ねえ……繁殖しましょ?」
すらりと長く、しかしみっしりと肉ののった白い太腿があらわになり、つま先がきゅっと閉じられた。
ちゅっ。
騎央の頬に、エリスは口づけをした。
それだけで、騎央の頭のネジは、音を立ててすっ飛んでしまいそうになる……いや、実際に何本かすっ飛んでいたのかもしれない。
「摩耶様、ご神体とオマケが何か大変なことになってるようですが……」
アントニアの部屋から「アンドローラ」の通常|船橋《ブリッジ》に戻ってきた摩耶に、彼女の部下である片目のメイドが報告した。
アオイを略奪用の特別列車からゴムスタンガンで追い出した、あのメイドである。
普段は船内の監視を命じられていた。
「……構わん、放置せよ」
と摩耶は軍隊口調で答えた。
「男と女は成り行きだ、若かろうが年寄りだろうが関係ない。それに、これで猫耳尻尾付きの子供が出来れば、お嬢様が喜ぶ」
摩耶の思考回路は、あくまでもアントニア一人のために回っているのであった。
「はっ」
陸軍式の完璧な敬礼を返し、片目のメイドはモニタリングに戻った…………ただし、すぐに他のメイド達がわいのわいのとやってきて釘付けになる。
「わ、服が分離しました」
「やっぱり大きい……」
「いけいけ、オマケの子、据え膳食わぬは男の恥!」
「きゃぁ!」
「うわぁ……」
たちまちのうちにモニタールームは華やかな嬌声で満たされてしまった。
「………………」
摩耶は、形の良い眉をちょっと持ち上げ、しかるのち、自分の机の上にあるモニターに映像を回すように処理をしてから、どっかと椅子に座り込んだ。
悲しいのは、十六歳という年齢であった。
興味はあるが実践は皆無、だが、目の前には名実共にたわわな水蜜桃が迫ってくる。
頬への口づけはわずかに残っていた騎央の理性を消滅させたが、問題はさてそれから、である。
騎央にだって知識はある。何がどうしてどうすれば「繁殖」につながるか、ぐらいのことは判っている。
だがそれはあくまでも「頭の中」の出来事なのだ。
実際の場で、相手の手をどういうタイミングで、どのくらいの強さで握り、握ったらどのタイミングで引き寄せねばならないのか……なるほど、天然自然になるようになる、と大人達は言うが、その天然自然の声を聞くにはある程度冷静さが必要で、だが、頭に上った血というのはなかなか下がってくれないものだ。
かてて加えて、女性という生き物の手触り、匂い、外見……その全ての魅力がその状況下ではフル活用され、効果的に動く。とてもあがった血が下がるはずはない。
女性の「初体験」が甘く、美しく語られがちなのに対して、男の「初体験」がどこか悲しく、面白おかしく語られるのはこの辺にある。
まあ、つまり何が言いたいのかというと……。
騎央の理性は、エリスの口づけの柔らかさと、甘い体臭の前に、ついに最後のネジを吹っ飛ばした。
「え、エリスっ!」
と言って少女の肩に手をかけ、そのままの勢いで前に出る。
が、ここで誤算がおよんだ。
猫人間《キャーティア》はその体重が軽い。同じ身長、サイズを持つ地球人と比べるとその三分の二ほどの重さしかない。
そして、理性のキレた騎央は思いっきりエリスを前に押し倒していた。
最後の問題は、騎央とエリスのベッドにおける配置である。
ジタバタとエリスの抱擁から逃げ回っていたお陰で、ふたりはダブルベッドの端っこのほうに移動しており、さらに言えば、騎央とエリスの位置は、当初と逆になっていた。
となれば、床に落っこちるしかない。
「わっ!」
とっさに騎央はエリスをかばった。
ごちん。
思いっきり後頭部を打ち付け、少年の意識はそこで途絶えた。
「ふにゅ……騎央さん……」
騎央の胸に抱きしめられる格好になったエリスは、そのまま気を失って自分をキツく抱きしめるだけになった少年に気づかず、満面の笑みを浮かべてますますその鼻面を、相手の薄い胸板に潜り込ませて、機嫌良く尻尾を振った。
「うおー・のー!」
一方「アンドローラ」のブリッジではモニターを見つめていたメイド達が全員「やんぬるかな」という面持ちで天を仰いでいた。
「甲斐性《かいしょう》なし!」
「○×□△!」
「もーこれだから童○は!」
「誰か、今から部屋へ行ってあの甲斐性なしをたたき起こしてきなさいよ!」
「ご神体様のほうもアレよ、いつまでもじゃれてないで、さっさと起こしてスるコトをスればいいのに!」
などと口々に言っていたが、すっくと立ち上がった摩耶の、
「息抜きは終わりだ、各員、持ち場に戻れ!」
の大喝《だいかつ》にあっさりと言われたとおりに行動した。
「…………まったく」
苦笑いしながらメイド長は座席に腰を下ろしたが、その途端、肘掛け部分に据え付けられていた船内電話が鳴った。
即座に取った摩耶の顔が、みるみる緊張してくる。
「判った」
そのまま受話器を戻さず、指でスイッチを押して会話を切ると、今度は受話器の内側にある幾つかのボタンのうち、ひとつを操作した。
ビープ音と呼ばれる、警報のスイッチだ。
甲高い、短いサイクルの警報が三回鳴った。
「レーダー室、情報センターから共に入電、我が船を目差して横田《よこた》基地より攻撃ヘリ二機が発進、および東京港より武装したパワーボートが一隻こちらへ向かっている模様。総員、デフコン3オブ2! 繰り返す、総員デフコン3オブ2!」
一斉に摩耶の方を見たメイド達の表情が引き締まった。
ただの非常警戒態勢《デフコン3》ではない。戦闘準備態勢《デフコン2》に近い「3オブ2」であった。
「これより、戦闘指揮所《CIC》に移る!」
船内をメイド達の靴音が高々と響き始める。
「あら、面白いことになってるわねー」
港の倉庫街の一角で、あれこれ改造を施したとおぼしいデジタル無線機を聞いていた少女はにやりと笑った。
夜が明け始めたために、周囲はすでに薄明るくなっている。
「ちょっと見てこようかしら。宇宙から来た同類ってのも興味あるし」
いうと、デジタル無線機を背負っていたデイパックによっこいしょと押し込み、トコトコと歩き始める。
海からの風に、猫の耳と尻尾が揺れた。
警報が発令されて数秒後には豪華クルーザー「アンドローラ」は戦闘兵装の全てを惜しみなく露出させ始めていた。
まず全ての窓に装甲シャッターが下ろされ、戦闘時には使用されない区画にも同じ物がおろされた。
上部甲板に前後ふたつ設けられていた四十メートルプールから水が抜かれ、底の部分が開いて細かく区切られた|垂直式ミサイル発射装置《VLS》が現れるのに合わせ、船体に塗られた真っ白な塗料に一定周波数の電流が流れて黒く変色する。
甲板のあちこちが開いて、RAM近接防御ミサイル発射装置やバルカンファランクスが現れ、さらに船首部分と喫水線ぎりぎりに船腹の一部がスライドして七十六ミリ単装砲と全自動化された五〇口径の重機関銃の列がゆっくりと現れる頃、船の上にある通常|船橋《ブリッジ》も、巨大な電動モーターの作用でゆっくりと沈み込み、まるで一個の要塞のような姿になった。
ここまで一分とかからない。
そして、海の上には一個の巨大な要塞が現れた。
さらにこの要塞は、どんどん外洋へと移動を始める。
公海に出れば、さらに彼女らを保護するための護衛部隊と合流出来るためだ。
潜水艦と巡洋艦で構成された部隊とさえ合流してしまえば、核ミサイルでも使用しない限り、彼等を破ることは不可能になる。
「〜〜〜〜〜〜!」
真奈美は兎の耳が付いたヘルメットをかぶり、紐水着にライフジャケット、足下は白いコンバットブーツという出《い》で立ちで、必死になって座席の前にある金属のバーにすがっている。
港を出る前に聞いてはいたが、パワーボートという物は恐ろしい轟音と風圧を乗っている者にたたきつける乗り物だった。
周囲の風景は風のように流れ、抽象画のように見えるが、真ん前の光景だけが異様にクリアに迫ってくる。
時速三〇〇キロ近いスピードで走る上、海の上での体感速度というのは陸上の約二倍……つまり、真奈美は時速六〇〇キロの世界にいると言えた。
『そろそろ近づくわよ』
いつもと変わらぬ無表情で船を操るアオイの声が、ヘルメットにセットされたスピーカーから聞こえてきた。
『火器管制よろしく』
『りょ、了解!』
言いながら真奈美は勇気を出してバーから手を放し、アン・ゼンホ商会から手に入れた中古パソコンのタッチパネルに指を触れた。
ちょいちょい、とそんな真奈美を後ろからつついたのは、沖縄でマスコミを撒くときに活躍した、電子情報戦用のアシストロイドである。
万が一、振り落とされて海に投げ込まれても大丈夫なように浮き輪を着けた猫耳ロボットは、他のアシストロイド同様のホワイトボードになっているプラカードに「そろそろやりましか?」と書いて見せた。
「い、いまはいいから、もうちょっと待ってて!」
風とエンジン音に負けないように大声で真奈美が怒鳴ると、「あい」という風に頷いてアシストロイドは真奈美の後ろにあるミカン箱の上に「よっこいしょ」と腰を下ろし、ミトンをはめたような手でビニール紐を持ち、器用に自らをその即席座席に縛り付けた。
さらにその後ろでは、あの筋肉オカマ、もとい河崎貴雄《かわさきたかお》カントクを乗せたもう一台のパワーボートがカメラを回している。
CICとはコンバット・インフォメーション・センターの略称であり、空母、巡洋艦を問わず、戦闘時における艦《ふね》の情報・指揮中枢部を意味する。
映画やテレビの世界と違い、背の高い甲板上にある船橋《ブリッジ》での指揮は、実際の戦闘においては船橋《ブリッジ》そのものがよい目標になる上、見晴らしの問題もあるゆえに砲弾やミサイルの攻撃の前にたやすく破壊、粉砕される。
指令中枢が消滅してしまえば、戦闘は出来ない……さらに電子機器の発達が肉眼による観戦、状況把握の必要を無くしたために、今や世界のどの戦闘艦にもこの場所がある。
ゆえに中は計器類を見やすくするために暗く、モニターの輝きが戦闘員であるメイド達の顔を染めている。
「やりすぎではありませんか、摩耶様」
隻眼《せきがん》のメイド……非常時には摩耶の補佐をする副船長的立場になる…………が訊いた。
「たかがヘリ二機とパワーボート……」
「サラ、相手は『悪運紅葉』なのよ」
小声で摩耶は言った。
「え?」
摩耶の言葉に、サラの一つしかない眼が大きく見開かれた。
「そんな……ゴムスタンを確かに腹に命中させて、走っている車内から転げ落ちたんですよ! それも背中から!」
「私もそう報告を受けたわ……列車に着けたテレビカメラの映像もそうだった……普通なら全身打撲、裂傷で動けないでしょうね。でも、彼女は無傷で、パワーボートに武装を施してこっちへ向かってる」
「……」
「『悪運紅葉』を相手にするとロクでもないコトが起きると言うわ……彼女自身は排除されても、そういう空気や運の流れが影響を及ぼすかもしれない」
神懸かり的だと笑われそうな話であるが、メイドふたりの顔は真剣そのものだった。
おそらく、ここにいるどのメイドも同じような顔をするに違いなかった。
彼女たちは皆、ある程度の死線をくぐり抜けているし、その場において「日頃の訓練」と「運」というものがどれだけの作用をするのかを知っている。
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第十章 終わりに向けて逃げ出した
まず最初に、パワーボートめがけて火を噴いたのは甲板上と側面に配された七十六ミリ単装砲だった。
次々と装填《そうてん》された砲弾が朝の空気を切り裂くような発射音と共に放たれ、数秒の間をおいて着水、爆発する。
だが、アオイは難なくこれをかわし、みるみる肉薄していく。
ようやく、武器の射程距離内に来た瞬間、顔を前に向けたまま、真奈美に向けてアオイは怒鳴った。
「撃って!」
真奈美の指がキーボードの上を走り、さらにそれに接続された油圧ジャッキと鉄パイプとを組み合わせて作った固定具に取り付けられた五つの四連装ロケットランチャーが火を噴いた。
二十発のロケット弾は、白煙を吹き出しながらステルス効果を与えられて黒く変色した船へと突進していくが、着弾するよりも先に、甲板上に取り付けられたバルカン砲の餌食《えじき》になって四散する。
が、距離が短いだけに全てを処理できず、三発だけがその防御網をかいくぐって船腹に着弾した。
派手な爆発があったものの、船そのものは傷一つ負っていない……強固に装甲されているのである。
さらに、後部甲板から発進したヘリが銃撃を始めた。
パワーボートは上空と船からの攻撃を激しい波しぶきをたてつつジグザグに運動することで回避しながら、それでもどんどん船に近づく。
「準備ヨロシク!!」
言ってアオイはパワーボートのアクセルを思いっきり開けた。
みるみる船は近づき、船から建築物に、そして巨大な壁に変わる。
壁に激突するよりかなり手前で、アオイはハンドルを切った。
大きくUターンするボート。真奈美は太腿に装着した鞘からナイフを抜き、船の最後尾に結ばれていたロープを切断した。
港からここまで延々と曳航《えいこう》していた「荷物」が切断されて、勢いが付いたまますーっと船へ近づくのを見ながら、真奈美は床に転がり、ナイフを太腿にしまった。
「……おかしい」
最初に異常を感知したのは火器管制係のメイドだった。
「照準が……ずれてる?」
モニターには七十六ミリ単装砲に設置されたビデオカメラからの画像と、現在の照準位置が示されている。
照準位置を示すクロスラインは、右に左に移動するパワーボートに対し、どうも常に右上にずれているような気がしたのだ。
キーボードを叩き、あらかじめプログラムに組み込まれた数字を確認するが、固定されているはずの数字は、一秒ごとにランダムに変更される、まるっきりデタラメなものに変わり果てていた。
終了のメニューをクリックするが、システムは終わらない。
「クラッキングです!」
後ろにいる摩耶に振り向き、火器管制係は叫んだ。
「火器管制システムに何者かが強制介入しています!」
管制係の声に、摩耶は冷静に対処した。
「自動射撃を中止、手動射撃に切り替えよ……各システムもチェックを!」
慌ただしく各座席の横にある強制終了スイッチの蓋が跳ね上げられ、真っ赤なボタンが押された。
画面はいったん終了し、CICの中は真っ暗になる。
その瞬間、大きな振動がCICを揺さぶった。
ドンパチの激しいオーケストラの最中、さらにそれを盛り上げる爆発が起こった。
それを合図にしたわけではないが、アオイの操るパワーボートに曳航《えいこう》され、船の手前で切り離された「荷物」は行動を開始した。
「荷物」はちょっとした大画面テレビが収まるぐらいの大きさの木箱で、中には……アシストロイドが五体、ぎゅうぎゅう詰めになっていた。
内訳はもちろん、真奈美の「ゆんふぁ」アオイの「錦《きん》ちゃん」「チバちゃん」およびエリスの連れていた通常型のアシストロイド二体である。
例の書体で「ひらわないでください」と書かれた木箱の中から、アシストロイド達は子供用の小さなオールを取りだし、えっちらおっちらとこぎ始めた。
「ひらわないでください」号に乗っかった(乗せられた?)五体のアシストロイド達は一路、主のとらわれている船を目差す。
だがどう見ても傍目《はため》には「捨て猫海を行く」という感じにしか見えない。
「ふみゅうううん」
などと言って気絶した騎央の胸にすりすりと顔を寄せたり、抱きついたりしていたエリスだったが、急に激しい振動と共に、床が傾き始めた。
「にゃーん〜♪」
それでも状況を把握する能力の無くなったエリスは、喉を鳴らして騎央に抱きついていたが、天蓋付きの大型ベッドがずるり、と動いた。
がぁん。もしくは「ごちん」
そんな音がぴったりしそうな強打が、エリスの後頭部に炸裂《さくれつ》する。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〒□△○×!」
頭を抱えてその場に倒れ込み、しばらくしてエリスは我に返った。
「痛たたたたたた…………あれ? …………きゃあ!」
通常の思考回路に戻ったエリスは、己の姿を見て声をあげ、慌てて胸元を落ちていたシーツで覆おうとした。
「ん……」
気絶から騎央が目覚める。
「み、見ちゃダメです、騎央さんっ!」
「え? あ?」
真っ暗で何も見えない状態の騎央は首を傾げたが、やがて非常灯がついた。
「だめーっ!」
ぱあん。
騎央の引っぱたかれる音は広い室内に高々と響いた。
さらに調子を合わせるように激しい振動が室内を襲う。
「被害報告!」
船内電話と各配置員に向けて摩耶が怒鳴ると、
「着弾数は二発、左舷《さげん》側面、C・四五〜五〇区画大破、単装砲の四番、重機関砲十三番から二十四番が使用不能!」
「プログラム再起動、実行に問題ありません!」
という声がCIC内から、
『C・四五区画より火災発生、スプリンクラー作動中、消火活動、入ります!』
という船内非常要員からの報告が聞こえた。
「レーダー、何を見ている?」
「記録、確認しましたが反応、ありませんでした!」
半泣きになってレーダー手が答える。
「ステルスミサイル?」
「いや、知性化爆弾《スマートボム》の一種かも」
これまで、海面すれすれに飛行してきたミサイルをレーダーは探知できないことが度々あったが、この船に積んであるレーダーは海面下にもセンサーがあり、そういうミサイルを感知することが出来る。
「モニター係、記録はどうなっている?」
言われるまでもなく、これまでの船外の映像を巻き戻しながら外部モニターの係は、しばらく黙り、しかる後に、きっぱりと言った。
「信じられない話ですが……今のミサイルはいきなり出現しました。手品みたいに」
少し遅れて、パワーボートを機銃で追いかけているヘリからも同じ報告が入った。
「……今のミサイルは、何ですか?」
呆然とヘリパイロットが尋ねた。
「発射した瞬間、急に消えて……次の瞬間には爆発を」
彼のヘリはブラックホークの特殊型MH・60Kで、確かにいつもの空対空ミサイルランチャーの代わりに、特製の対艦ミサイル・ハープーンを一発ずつ左右に下げていたが、それは深紅に塗られている以外は通常の弾頭で、何ら特殊な外見をしていなかった筈だ。
どうも今回の「荷物」は普通と違うと思っていたが……パイロットと副《コ》パイロットは顔を見合わせた。
両者とも、頭の中では最近ようやく終了した、FBIの特別チームを主人公にしたオカルト番組のテーマ曲が鳴り響いている。
……はたして半年後、俺たちは生きているんだろうか、という顔になる。
「最新兵器である」
今はフリッツ型ヘルメットに戦闘服姿のジェンスが短く言い切った。
「最重要機密兵器であるから、他言は無用に願おう」
素っ気なく言って、操縦席から首を引っ込める。
「…………さて、仕上げと行こうか……総員配置!」
鋭い声をあげた「犬」の女軍人の横顔は、どう猛なドーベルマンを思わせたが、幸い、それを目撃する者は誰もいない。
いや、いた。
二十四の「眼」が彼女を向いた。
ブラックホークは、まっすぐに突っ込んでいく。
「んんんんんんっ、爆《ば》ぁく発よぉおおっ!」
ミサイルが二発、唐突に現れて黒い豪華客船に炸裂した瞬間、河崎《かわさき》カントクは身をよじって絶叫した。
「んー・イカスううううぅううっ、お客さぁんっ、すてきよぉおおおっ!」
黄色い蛮声をあげながら、くいくいっと引き締まった岩のようなヒップを振って興奮を現し、すぐにカントクはすぐ横にいるカメラマンにぴったりと顔を寄せた。
「で、今の撮った? クドーちゃん?」
打ってかわった冷静な、ドスの利いた声に、
「と、撮ってます、撮ってます!」
必死にハイビジョンカメラのファインダーをのぞき込みながら、アポロキャップを前後逆に被り、救命胴衣でモコモコになったカメラマンは怒鳴った……怒っているわけではなく、パワーボートの上ではエンジン音と風の音で怒鳴らないと話が通じない。
「アンドーちゃん、二人はしーっかり追ってるでしょうね?」
後ろにやぐらを組んで同じハイビジョンカメラを構えた別のカメラマンに怒鳴る。
こちらは怒鳴り返す愚を犯さず、片手を高々とあげて親指と人差し指で丸を作った。
ちなみにこのパワーボート、無理矢理四人の人間とカメラ、およびその据え付け台を装備したために大分速力が落ちているが、それが幸いして戦闘に巻き込まれるような距離にはいない。
さらにもう少し離れた場所には、これよりも速度は劣るモーターボートが数隻、ロングショットの固定画像を撮るべく浮かんでいる。
「ふふふふふふ、きわどい紐水着あーんどバニーな格好の女子高生ふたりが、パワーボートを操って謎の船とミサイルまで飛び出す大戦闘を繰り広げる絵が撮れるなんて! ああ、女闘美《めとみ》の神様はやはりお空の上から見ていてくださるのね! ウラー! 南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》アーメンありがとーぼんじゅーる!」
眼をうるうるさせながら、カントクは仏教徒とキリスト教徒双方から石を投げられそうなことを平然と言いつつ、両手を組み合わせて天を仰いだ。
その上を、ブラックホークが二機、過ぎていく。
「ひらわないでください」号はようやく船の横っ腹にたどり着いた。
オールを中にしまい込み、「ゆんふぁ」がコートの内側から例の銀玉鉄砲を取り出す。
立体映像の鳩が舞った。
引き金が引かれ、ばこん、という大きな音と衝撃波が水面を揺らし……大きな穴が船腹に出現した。
「錦ちゃん」が箱の中から鍵縄《かぎなわ》を取りだし、ひょい、と中に投げ込んで、壁を走るパイプの一本に引っかける。
あとは縄を引き寄せて、中に乗り込むだけだった。
最後に通常型二体が「よっこいしょ」と船の通路に入ると、アシストロイド達は任務の第一段階の成功を祝って、無言のまま二回バンザイした。
そして「ゆんふぁ」が預けられていた携帯電話を取りだし、ボタンを押す。
「アンドローラ」から飛び立ったのは、幸いにも戦闘ヘリではなく、本来は観測用の軽ヘリコプター、ベル 520Nノーターであった。
卵を横倒しにして先端をとがらせたような愛嬌《あいきょう》のあるヘリコプターで、真っ赤に塗装されているから余計にそう見えるが、機体下に設置されているのはM60軽機関銃であり、さらに後部座席からは連射式のグレネードランチャーを構えたメイドが攻撃してくる。
パワーボートの速力とアオイの腕がなければ、とっくの昔に真奈美は海の藻屑《もくず》となっていたに違いない。
ヘリのローターが生み出す圧倒的な風圧と、パワーボートの受ける風が混ざり合って竜巻のようになった上、さらにグレネードの爆発と船からの艦砲射撃やら軽機関銃の弾丸が断続的に起こる地獄の争乱のような海の上で、真奈美は空になったロケットランチャーとその固定台を切り離して海に捨てると、用意してあったミニミ機関銃で応戦を始めた。
だが左右に激しく揺れ、波しぶきが津波のように降りかかるパワーボートの上、しかもぶつかり合って渦を巻く風の中である。命中精度とコントロールの容易なミニミ機関銃とはいえ、そうそう当たる筈もない。
幸いなことに、それは相手も同じで、いたずらに洋上でパワーボートと鬼ごっこを演じている感がある。
状況の変化は、二機のブラックホークがやってきたことで起こった。
ノーターが進路を変えたのである……小さな、ミサイルも撃ち尽くして機銃程度の武装しかないパワーボートと、対艦ミサイルを左右につり下げたヘリでは、どちらが重要標的かは言うまでもない。
失敗は、方向転換をパワーボートの真奈美の目の前で行ったことである。
真奈美は横っ腹を見せたヘリの、ローターの付け根……エンジン部分を狙って引き金を絞った。
火花が散って、ヘリは方向転換を終了したが、すぐに黒煙を吹き出し始めた。
高度がみるみる下がり、乗っていたメイド達が海中に飛び降りる中、ヘリはよたよたと海の上へと落ちていく。
ブラックホークは無防備になった船の上に到達する。
「やったぁ!」
真奈美が指を鳴らす。
アオイの腰で、携帯が震えた。即座に取って、発信人を確認する……「ゆんふぁ」に持たせた真奈美のものだ。
「第一段階は成功したようよ!」
インカムに向かって怒鳴ると、真奈美が振り向いて指で丸を作った。
アオイはまっすぐボートを向ける。
すぐに、「こっちだよー」と飛び跳ねているアシストロイド達が、喫水線付近に口を開けた大穴から見えた。
CICは完全にパニック状態になった。
無理もない。パワーボートはともかく、厳重な電子防壁《ファイヤーウォール》をくぐり抜けたクラッキングに加え、いきなり出現するミサイルに、ヘリ二機……船体にはミサイルが大穴を開け、大きく傾いている。
「注水だ! バランスを取り直せ! 補修班、急げ! 火器類の手動操作切り替えも急げ!」
摩耶はその最中、声をからして命令した。
「アンドローラ」は半軍用艦として設計されているため、緊急事態にはブロックごとに注水して傾斜を修正することが出来るし、防災システムも同じく高いレベルのものを備えている。
「機関出力低下! どこか、大きなパイプが破壊された模様!」
「摩耶様! 船体に穴が開いてます! 場所はC・七六〜七七!」
「ミサイルが着弾した所じゃないのか?」
「違います! 爆発も熱も無し、ただ船内モニターと船外モニターからの映像による確認です! ……開口部そばに例のパワーボート!」
「上空からも降下兵!」
「侵入者だ! 警戒態勢を取れ!」
片目のメイド……サラがコンソールの下に設置されたホルダーから、H&KのPDWを取りだして摩耶を見た。
「私が、出ます」
「頼むわ……弥生《やよい》、副長《サラ》の任務を代行しなさい!」
「了解しました!」
外部モニターを統括する眼鏡のメイドが立ち上がって敬礼した。この辺はまったく軍人である。
「では、私以外にふたり必要だ、イライザとリーファ、ついてこい!」
言いながら、サラはCICを飛び出した。
『じゃあ、後はお願いね』
アオイは準備を終え、最後にヘルメットと首の部分の接続をチェックすると、真奈美に向けて言った。
今の彼女は、つま先までぴったりと覆うウェットスーツのような剛柔型《ハードスキン》パワードスーツを装着していた。
東京で、入国管理局特別室の武器庫を襲ったついでに奪った物である。エリスを最初に襲ったときに使用したやつとはちょっとデザインが違う。
内蔵のバッテリー容量の問題があって(充電装置はちょっとしたコンテナぐらいの大きさの代物なのでもって来られなかった)切り札として今まで取っておいたのだ。
「でも……一人で大丈夫?」
『任せておいて』、
唯一露出した口元が微笑んだ。
『あなた達が騎央君を見つけて脱出する頃にはこの船、どうあっても沈めてみせるわ』
冗談ではなく、本気の口調である。
ここで真奈美とアオイは別れ、アオイは敵の攪乱《かくらん》、真奈美はアシストロイド達と一緒に騎央とエリスの捜索と救出という分担になる。
「そうね」
真奈美は全幅《ぜんぷく》の信頼を置いて微笑んだ。
「でも、今度はあたしの分もソレ、取ってきてよ……ひとりだけ、この紐水着ってのは恥ずかしいもの」
『胸があるから、十分似合っているわよ………………私と違って』
慰めとも本気ともつかない一言を残し、アオイは巨大な長剣を両手に通路を走り去っていった。
「さ、あたしたちも行きましょ」
真奈美が言うと、アシストロイド五体は「えいえいおー」と拳を突き上げた。
試してみたがドアはロックされて開かない。
何が起こっているのか理解しがたいまま、騎央とエリスは不安げに顔を見合わせた。
「攻撃……されてるんですよね?」
「だと思うけど…………」
何しろここから出られない以上、どうしようもない。
「せめて通信機さえあれば……」
エリスは首元の、本来なら鈴がある場所に手を触れた。
「でも、何かできないかな?」
「でも、スーツも今の私には使用不可ですし………………」
エリスの言葉に、騎央はあることを思いついて、大した考えもなく口にした。
「ねえ、エリスのスーツって、中身が変わったって認識されたら使えるのかな?」
「?」
「たとえばさ、どこかにエリス自身だ、ってことを感知するセンサーがあるんでしょ? だったらそのセンサーを誤魔化せたら」
「……それは無理なんです」
エリスはすまなさそうにうなだれた。
「この服そのものがセンサーなんで、誤魔化すことは無理です……第一、私もいつまで理性が持つか判りませんし。服の機能が使える状態で発情期に本格突入しちゃったら……」
「……」
さすがにこれには騎央も黙るしかなかった。
強化されたエリスの腕でじゃれつかれたら、理性|云々《うんぬん》よりも先に身体の骨がバラバラになるのは楽に想像が出来る話だ。
「本当に中身が変われば別でしょうけど」
「じゃあ、誰か、違う人が中に入ればいいの?」
「ええ。服そのものにはフィッティング機能が付いてますし、男女も地球人も問わず、私以外の誰かが着用すれば、すぐに解除されます」
「…………」
あることを思いついた騎央の顔が見る間に赤くなっていった。
「? どうしたんですか? ひょっとして、騎央さんも発情期……」
「ち、違うよ!」
慌てて騎央は手を振ってエリスの考えを否定した。
「そ、その……さ、変態とか、その思わないで聞いてくれる?」
「? ………………はい」
「その、つまり……じゃあ、あの、僕が着けたら、それ、使える?」
一瞬の間があった。
「ああ!」
エリスはぽん、と手を打って大きく何度も頷いた。
「そうですね! その方法がありました! 騎央さん、すぐに着替えましょう!」
「え? あ、あのいいの?」
「ええ! だって、それ凄くいい考えですよ! 大丈夫、服の使い方は教えますから!」
メイド達をはじめ、この船に乗っている正規の乗組員は全員胸にバッチを付けている。
船内の動体センサーに、その反応のないものが写れば、それが侵入者だ。
だから、サラはまず一番手近な場所にいる敵へと向かった。
「乗船料を支払わせてやる!」
わざと汚らしいコックニー訛《なま》りで言いながら、彼女はPDWの装弾を行い、角を曲がった途端、これを標的に向けた。
「?」
それは、ひどく小さなものだった。
身長は彼女の足の付け根までもない。大きな空豆のような顔に、小豆のような眼、ちんまい身体に、バランスをとるためなのか大きな手足がどてっと付いている。
さらに背中には大きな箱状のパーツがあり、その上で、|AWACS《エイワックス》にくっついているようなレドームがくるくると回っている。
アシストロイド(電子戦型)である。
したっ、と片手をあげると、もう片方の手で「はろー」と書かれたプラカードを掲げた。
「な……か……」
サラの顔が引きつり、引き金にかけた指が震える…………そしてしかるのち、「でれーっ」とゆるむ。
「か、可愛いー!」
PDWを放り捨て、隻眼《せきがん》の戦闘メイドはアシストロイドに抱きつくと、ニコニコと、普段の彼女を知るものが見れば目を疑うような満面の笑みを浮かべてほおずりをした。
「可愛い可愛い可愛い可愛い可愛いーっ!」
「さ、サラ副長……」
同行していた中国系とアメリカ系のメイドふたりが眼を点にする中、サラはごろにゃーん、とどっちが猫か判らない声をあげながら、ますますアシストロイドに頬を寄せ、抱き上げる。
「えーと、ねこちゃんは、どこからきたでちゅかー?」
今までのハードな雰囲気を見ている人間なら誰もが脳の中身を疑うような赤ちゃん言葉で、サラはアシストロイドに話しかけた。
アシストロイドはすぐに「あっち」と矢印付きのプラカードを掲げる。
「あっち? 海でちゅかー? そう、とおいところをはるばるご苦労さまでちゅねー」
「あ、サ、サラ副長……」
「何?」
きっ、と振り向いたサラの顔は、いつもの厳しくてハードな副メイド長のそれであった。
「周囲を警戒しなさい、この子がいるってことは、きっと他にもいるわ……全部捕まえるのよ!」
「は、はい!」
「いい、傷つけてはダメよ!」
さすがは副長、きちんと考えあってのあの奇態な振る舞いなのだ、と最近入ってきたばかりのメイドふたりは駆け出していった。
「………………」
ふたりの姿が見えなくなると、ふたたびサラの顔がでれーっと緩む。
実はサラ、この船のメイドの中では珍しく、本当に「子猫の足裏」の教団員であった。
ハードボイルドな外見にもかかわらず、猫好きの可愛い物好きゆえにSASの将来有望なエリートとしての道を捨て、ここまで流れてきたという経歴の持ち主だったのだ。
「さぁ、ねこちゃーん、お友達はどこでちゅかー?」
ちゅっとアシストロイドの頬に口づけするサラに、通常型のアシストロイドは別のプラカードによる質問で答えた。
「ごしゅじんさま、どこ?」
その質問を見た瞬間、サラは本気で困った顔になった。
「あのねー、おねーちゃんもお仕事だから、教えられないのよー」
だが、アシストロイドは「おしえて」と同じプラカードを振って見せた。
「…………」
困った顔にちょっと泣きが入りそうになりながら、サラはアシストロイドとにらめっこをすることになった。
アシストロイドは無言のまま、ちょっと小首を傾げてサラの顔を見つめている。
隻眼のメイドがついにアシストロイドの魅力に屈服し、エリスの居場所を教えるまであと十秒。
影が行く。
音もなく影が行く。
「アンドローラ」号に無理矢理着艦しようとするフリをし、一気に高度をさげたブラックホークから飛び降りた影達は、音もなく扉を破壊し、中に入ると風のように船の通路を進む。
うち、ひとつの影が監視システムをクラッキングしようとしたが、それはすでに他の誰かによってなされており、全ての警戒システムが役立たずの状態にあった。
影達はちょこまかと走りながら、船の心臓……機関室を目差す。
彼等の指揮官は優雅な足取りでその後を追えば良かった。
「さぁ、猫どもめ、一泡ふかせてやるぞ」
にやりと笑ったジェンスの唇の端から、発達した犬歯が覗いた。
そして、彼等は二手に分かれる。
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第十一章 犬と猫とでポカポカと
アシストロイド達は三手に別れた。
電子戦特化型はある場所で残り、クラッキングに専念、さらにデータベースにアクセスして騎央とエリスの位置を探り、他のアシストロイドは二手に分かれる。
「ゆんふぁ」を初めとするカスタムタイプ三体はとにかく船倉から上へ上へと派手に移動し、通常型二体は真奈美と一緒に丁寧に下から順々に調べていく。
そんなわけで、「ゆんふぁ」は嬉々として両手に例の疑似反物質弾ランチャー(銀玉鉄砲型)を構え、あちこちに乱射しながら走り回り、「錦ちゃん」と「チバちゃん」は高速振動刃で出来た刀で手当たり次第に斬りまくるものだから、壁が消え、柱がいくつもの部品に切断され、おろされた隔壁もみじんに切り裂かれた。
メイド部隊があたふたと急行するが、相手は小さい上に、普段のトテトテした動きを止めて、かなりの高速移動をするものだから、その姿を見ることさえ出来ず、副長のサラが音信不通なのも手伝い、「一個師団が攻めてきた」と勘違いするものも出てくる始末である。
ちっこい割にはかなり凶暴な暴れっぷりを見せつけながら、アシストロイド達はちょこまかと船内を駆け回っていたが、不意に「ゆんふぁ」が足を止めた。
場所は、船の第三階層、中央にある大広間……本来はパーティ会場らしい広大な部屋である。
追いついた「チバちゃん」と「錦ちゃん」が顔を見合わせ、すぐに納得したかのように三体背中合わせになる。
ずらりと配置されたテーブルの陰から、「相手」が姿を現した。
ずんぐりむっくりの手足、大きな頭の二頭身。
そこまでは両者はほぼ同じだった。
問題は、彼等はすべてカーキ色に塗られており、かつ……猫ではなく、犬がモチーフになっているということだった。
全部で十二体いる。
手に手に、M4アサルトライフルを寸詰まりにしたような銃器を持ち、頭には犬の耳の間に小さな緑のベレー帽を被っている。
最初に、「ゆんふぁ」が動いた。
「………………これで、よし!」
最後に襟元の接合を直して、エリスは宣言した。
同時にしゅっとスーツそのものが縮小して騎央の体型にフィットする。
「どうですか?」
「う……うん」
さてどう答えたらいいものか。
ほのかにエリスの体温の残る服に身を包んだまま、騎央は真っ赤な顔で戸惑った。
「わ、悪くない、と思う」
そうですか、とエリスは微笑んだ。
彼女は騎央のシャツにバミューダという出で立ちだが、Tシャツは豊満な胸によってぱっつんぱっつんに張りつめ、ぶかぶかのバミューダはすらりとした長い足のお陰で大分短く見える。
服の交換は少々時間がかかった。
まずエリスに後ろを向かせた騎央が服を脱ぐ。
そして、シーツにくるまって後ろを向いた後、エリスがスーツを脱いで騎央の服に着替え、それから騎央がまず口頭の説明に従ってスーツを着、最後にエリスが細々とした調整をする、という具合だ。
「じゃ、使い方は判りました?」
「うん……えーと、こう?」
騎央は手首の部分に設けられたシステムコンソールに、着替えながらの説明通りに指を走らせた。
きゅい、という起動音と共に、スーツの各部が鋭く尖る。
「はい、これでオーケーです。あとはイマジネーションのままに動いてください……あとのフォローはスーツ自体がしますから」
「う、うん」
随分と大雑把《おおざっぱ》な説明にとりあえず頷き、騎央は扉の前まで行くと、思いっきり拳を振りかぶり、ぎゅっと眼をつぶって叩きつけた。
っごがぁああん。
扉は見事に吹っ飛んだ……騎央の拳には小さな痛みひとつない。
「………………すごい」
呆然と騎央は己の拳と、破壊されて転がった分厚い扉を見比べた。
戦闘は一瞬だった。
「ゆんふぁ」の放った銃弾は半分が外れ、半分が相手の持っていた武器に命中した。
「錦ちゃん」「チバちゃん」の刀も、相手の武器をまっぷたつに切断する。
だが、相手もまた同等のレベルの能力を持ち、「チバちゃん」「錦ちゃん」の刀は相手の銃弾によって柄《え》の部分に仕込まれたシステムを破壊され、「ゆんふぁ」の銃は片方が弾切れを起こした瞬間に、タックルしてきた犬のアシストロイドによって、壁の亀裂から海へと飛んでいってしまった。
ただし、「ゆんふぁ」の開けた穴から半分以上の犬型アシストロイドが投げ飛ばされたり、他の二体の攻撃を無効化するために発動した力場《フィールド》システムの反作用ではじき飛ばされている。
数はほぼ互角になった……これはもう、「ゆんふぁ」たちの性能勝ちと言える。
もっとも、相手も今の戦闘データを収集し、瞬時に再検討し終えているので楽に勝てたのもここまで、と言える。
三対三になったアシストロイド達は、ゆっくりと半円を描きながら対峙《たいじ》した。
そして、アシストロイドは双方共に最終武器を装備していた。
ぐいっと互いに拳を握りしめ、ぐるぐると回転させる。同時にプログラム処理の性能を多少落としてでも内蔵された力場《フィールド》システムを拳に収束させ、さらに反発するフィールドをボディ全体に展開する。
アシストロイド達は一斉に駆け寄った。
回転させた腕を、拳を……正確には収束されたエネルギーフィールドを相手に叩きつけ、それを受け、互いに、相手の防御が無効化され、相手が破壊されるまでコレを続ける。
何とも凄惨な、何とも暴力主義《バイオレンシズム》に溢れた戦い方だ。
が、外見の悲しさ、傍目からは「えいえい」と子供のようにポカポカ殴り合っているようにしか見えない。
「アンドローラ」のCICはパニック状態になった。
何者かのクラッキングは続き、ついに船内の全ての電子機器は役立たずとなりはて、「撃たれても死なない、まるでアメリカンコミックのヒーローみたいな格好をした」謎の敵が大剣を両手に走り回るだけでも騒ぎなのに、さらに謎の破損報告が相次いだ。
何の熱も、爆発もなく、船のあちこちに直径二メートル前後の大穴が開くというのである。
それも十や二十ではなく、ゆうに一〇〇を越えようとしていた。
各種センサー、テレビカメラも、侵入者の姿を捕らえる前にざらついた灰色の世界を映すようになり、サラ副長からの連絡も途絶えてしまった。
まさか、二頭身の猫耳ロボットに心をとろかしているとは思わない摩耶達は、敵はサラを沈黙させるほどの敵なのだと誤解し、同時に侵入した敵の数を一〇〇人……三個小隊以上、と断じた。
「仕方がない」
摩耶はついに決断した。
「『アンドローラ』を放棄、これより脱出艇で海洋に出る、お嬢様をお移し申し上げろ! ご神体はあとで構わん!」
何人かのメイドが他の猫耳教団員とこの場でご神体を手放すことから生じる非難のことを考え、「さすがにそれはまずいのでは」と言ったが、摩耶は、
「相手はご神体を奪い返しに来たのだ、この場合危険なのはご神体よりもお嬢様である!」
と鋭い声で檄《げき》を飛ばしてこの意見を封じた。
走り回ったあげく、アオイは機関室手前のボイラー室まで来ていた。
ここに来るまでに何人かのメイドたちを相手に戦ったが、まだ一人も殺していないし、不具になるほどの大怪我も負わせていない事実が、少し彼女を誇らしい気持ちにさせていた。
どうやら走りすぎたらしく、メイド達は彼女を見失ったようだった。
「そろそろ……嘉和君を見つけてくれる頃よね」
アオイは足を止めて一息つきながら呟いた。
それがわずかな油断を生んだのかもしれない。
突然、背中から脇腹にかけて、巨人の掌に引っぱたかれるような衝撃があって、アオイは横に吹っ飛んだ。
「な……?」
叩きつけられる寸前、アオイはかろうじて受け身を取ったが、それでも身体が壁に半分以上めり込んだ。
かろうじて頭部は壁に埋め込まれるのを逃れていたので、彼女は相手を見ることが出来た。
「……!」
そこに立っているのは、彼女と同じ背格好ながら、胸と腰だけは彼女が理想とするサイズの……そして、同じ剛柔型パワードスーツだった。
しかも、赤白青という|フランス国旗三原色《トリコロールカラー》でド派手に塗装されている。
「日本はサルの国だ、って聞いてたけど、確かに猿真似は上手いわね」
トリコロールカラーのパワードスーツの女は、見事な日本語で言った。
近づいて、アオイの腕を取ると、乱暴に引き抜き、そのまま床にたたきつける。
重々しい音と共に、アオイは仰向けの人型を金属の床に刻んだ。
「ほぉら!」
さらに相手はアオイの腕を掴んだまま、今度は別の壁へと叩きつける。
今度はアオイは空中で姿勢を制御して、脚から壁に突っ込み、即座に床に降り立った。
「!」
そこまでの体力の持ち主とは思っていなかったらしく、相手が驚いた一瞬、アオイは敵の懐に飛び込み、もっとももろいであろうバイザー部分へ拳を叩き……込めなかった。
固く握りしめられた拳は相手の顔面手前でぴたりと停まり、それ以上引くことも、押すことも出来なくなる。
腕だけではない、体中がそうであった。
「な…………」
アオイの視界一杯に「13SECT WARNING!」の文字が出た。
「なに、この警報?」
「驚いた?」
トリコロールカラーのパワードスーツを着けた女……ジェンスは笑った。
「犬の技術で作られたモノは、犬を攻撃できないのよ……基本OSに入っている不可視プログラムだから、その場にならないと誰にも判らないけど」
ゆっくりとジェンスの手が、アオイのバイザー部分にかかる。
「協力者は減らしておくのが私のやり方なの……悪いけど」
めりめり、という音と共に、バイザーが砕かれた。
バイザー内の|HUD《ヘッドアップディスプレイ》部分が破壊されたことで小さな火花が散るが、即座にゲル状の補修剤が破壊面を覆う。
「…………!」
歯ぎしりし、悔しげな表情を見せながら、アオイは最後に打つ手を実行した。
「じゃ、サヨナラ!」
ジェンスがアオイの喉に手をかけた瞬間、その腕が上がった。
「犬」の女の頭の横に向けて、アオイは引き金を絞った。
派手な火花が散り、ジェンスは首筋の辺りに軽い衝撃を受けたが、苦笑い程度でそれを受け流した。
「私自身を攻撃しなければいい、という考えはさすがだけど、無駄だったようね……|取り寄せ《アポーツ》能力も無駄ね、こうなると」
上の階で気絶させたメイドの持っていたPDWを、アオイの手からはたき落とし、犬の女軍人は笑った。
「でもないわ」
冷静に、アオイはジェンスのバイザーを見つめて言った。
「?」
次の瞬間、ジェンスの視界一杯に「WARNING!」の文字が映し出された。
「バッテリー障害?」
アオイを突き飛ばし、慌てて首筋に手を触れると、背中のバッテリーパックから首へと繋がる、小指の太さほどの幅しかない一点が破損しているのが判った。
「まさか……貴様、跳弾《バックショット》で!」
「猿真似も時には結構なモノね」
愕然とするジェンスへ、床にへたり込んだアオイが笑う。
「私のスーツも、そこが欠点なの。ここを補強したら、首の動きが悪くなるから、補強しようにも出来ないし……さらにまずいことに、そこは筋肉の電気信号も拾うセンサーとも直結してるから、破壊されると間もなくそのスーツは人型の棺桶になるわよ」
内側のセンサーが死んでしまえば、剛柔型のパワードスーツはただ人型をした中空の入れ物に変わってしまう……どちらにも曲がらない(つまり動かない)スーツは、アオイの言うとおり棺桶も同じだ。
「……くっ!」
言われるまでもなく、ジェンスは右腕の上膊部《じょうはくぶ》に指を走らせてシステム解除の命令をした。
ぱらりと、人間の筋肉のラインに沿って機能を失いつつあるスーツは展開し、黒のマイクロビキニを着けたジェンスの肢体が現れる。
「殺してやる!」
だが、彼女の前にもうアオイはいなかった。扉の閉まる音に振り向くと、機関室に続くドアがあり、更に内側からキー操作の音がして、重々しいロックの音が響いた。
「くそ!」
深追いする愚を、ジェンスは犯さなかった。相手もスーツを脱げば自分を攻撃できる。
その場合、どこからともなく武器を取り出すあの能力が厄介だ。
「…………」
不意に、ジェンスは笑みを浮かべた。手首に巻いた非常用の通信機のスイッチをオンにして、ブラックホークを呼び出す。
「こちらドッグリーダーよりウォードッグ、二分後に段階4を開始せよ」
ジェンスは次に、スーツの腰に装着されていたベルトを外し、そのホルスターに納められていたイングラムをドアの横、施錠用のテンキーを狙って引き金を絞る。
派手な火花が散って、ロックは解除出来なくなった。
「…………サヨナラ、紅葉」
呟くと、ジェンスはイングラムを片手に今来た道を走り始めた。
実際のアオイは、ジェンスが考えたような戦術を思いつくほどの余裕はなかった。
あばらが何本か折れているようだったし、何よりも叩きつけられた衝撃で、体中の関節がおかしくなっていた。
だから、はたき落とされたPDWを片手に、機関室の機械の陰に隠れるのが精一杯だったのである。
「…………」
朦朧《もうろう》とする意識の中、必死にアオイは己を奮い立たせていた……今にもジェンスがドアを破壊して中に入ってくると考えていたのである。
だが、代わりに来たのは盛大な爆発だった。
壁に叩きつけられ、その壁を突き破ってさらに幾つかの壁を破り、どこかの通路の壁にぶち当たってようやく停止する頃には、アオイの意識は完全に失われていた。
横田《よこた》基地に引き返す途中のブラックホークの中から、最後の転送装置付き対艦ミサイル……「『K』装備」が発射されたのだと知るものは、この船の中にはいない。
かろうじて、「ゆんふぁ」たちの防御フィールドが相手よりも長く保《も》った。
ついに相手の三体は防御フィールドをエネルギー切れから失い、頭をぽかん、と叩かれ、同時に内部のシステムをフィールドによって破壊されて、ふらふらとその場に倒れた。
外傷はなく、ただその場にひっくり返った敵をじっと見つめ、不意に「ゆんふぁ」はプラカードを書いた。
「たたかいはいつもむなしー」と掲げると、後ろでは「チバちゃん」が「てんまふくめつ」と掲げ、最後に「錦ちゃん」が「これはゆめじや、ゆめでごさる」と書いた。
どうもこの三体、預けられた持ち主以前に、作った側に問題がありそうだ。
そして、三体は頷きあうと、くるりと踵を返し、走り出した。
この船のどこかにいる電子戦特化型から彼等の命令者がいるであろう場所が通報されたのである。
騎央達が船内通路が四方より交わる十字路に来たときである。
「うわ!」
衝撃が天地を揺らし、いきなり床が大きく傾き、騎央はとっさにエリスを抱えたまま床を滑って壁にぶつかったが、身体は器用に衝撃を吸収するように受け身を取り、さらにスーツの効力か、まるっきり痛みはない。
「だ、大丈夫?」
これがスーツの能力なのかな、とぼんやり頭の片隅で思いながら少年は、本来の持ち主に安否を問う。
「……あ、はい」
騎央の腕の中でちょっと赤くなりながら、エリスは頷いた。
「じゃ、いこうか」
と顔をあげた途端、見覚えのある顔がアシストロイドをガイド役にしてやってくるのが見えた。
「ま……真奈美ちゃん?」
最後に疑問符がくっついたのは、彼女の格好が、頭は兎耳のついたヘルメット、身体は見ている方が鼻血を吹き出しそうなぐらいに過激な紐水着《ストリングスイムスーツ》、さらに白いコンバットブーツという、とても正気とは思えない格好だったからだ。
「あ、き、騎央……って、あんた、何でエリスの格好してるのよ!」
「ま、真奈美ちゃんだってその格好」
「あの、真奈美さん、兎耳人《ラビティアン》だったんですか?」
「んなわけないでしょ! エリス、これどーいうことなの?」
「まー色々ありまして」
「説明になってない!」
互いに素直に再会を喜べない格好なのが災いし、ちょっとした言い争いのような状態に陥ってしまうが、さらにタイミング悪く、別の方向から車椅子に載った、おでこの広い白人の少女と、CICから引き上げてくる途中の摩耶達が現れた。
「貴様達か! おのれよくも!」
「何よ、この誘拐犯!」
摩耶は真奈美を見つけるや鋭い叫び声をあげて銃を構え、真奈美も銃を構えた。
一触即発の瞬間。
だが、
「やめよ、両名とも」
疲れ切った少女の声が摩耶を制し、
「それどころじゃないだろ!」
という騎央の叫びが真奈美を制した。
「……」「…………」
両者とも、相手と、自分を制した人物とを見比べ、やがて渋々銃をおろした。
「で、この船、沈むんですか?」
騎央は自分を連れてきたメイド達の、リーダーらしい女性に尋ねた。
「残念ながら。おそらくあと十分もあるまい」
摩耶が頷く。
「……ご神体様にも、オマケ……いや、ミスター・カカズにも申し訳ない」
力無く、車椅子に座ったまま少女……アントニアは軽く頭を下げた。
「私が間違っていたのだ。すまぬ」
「………………」
騎央とエリスはどこか優しい眼でアントニアを見つめた。
「あなたですね、『うにゃーくん』の中にいた人は」
「あ、い、いや、わ、私は『猫耳教団』の教祖で、決して『うにゃーくん』の中には人など」
慌てて否定する少女だが、エリスは構わずぎゅっと少女を抱きしめた。
「……………………!」
最初驚いたアントニアだったが、やがて、頬を赤らめながらエリスの身体に抱きつく。
しばらく抱擁しあった後、エリスは少女に微笑んで、
「お別れするときも言いましたけど、今日はとても楽しかったですよ。でも、今度はもう少し考えて、常識的な方法でご招待してくださいね」
「…………はい」
アントニアは赤くなって頷いた。
「…………で、どうやって逃げるの? さっきからこの船、だんだん沈んでるみたいだけど」
真奈美がちょっと冷たい声で微笑ましい光景を打ち切った……もっとも、これは無理もない話で、こうしている間にも船の傾きは右に左に変わっているし、確かにだんだん沈下している感覚がある。
さらに、構造材そのものが軋《きし》む、おぞましい音も四方八方から響き始めている。
「この先に、万が一の時のための脱出艇がある。それで脱出する」
苦虫をかみつぶしたような顔で摩耶が答えた。
「……まさか、貴様ら、それに乗せろと言うのではあるまいな?」
「悪いけど、騎央とエリスがその船に乗るんなら、当然」
「…………貴様、船を沈めておいて」
この時点では、摩耶も真奈美も、自分たちの抗争に漁夫の利を得ようとジェンスが関わっていることを知らない。
「止めよ、摩耶」
つい数日前、ビシバシと摩耶をぶっていた時とは打ってかわった優しげな声で、アントニアは制した。
「この際だ、乗せてやれ」
「はっ、お嬢様」
「じゃ、アオイを呼ばなきゃ」
交渉が成立したところで、真奈美はヘルメットのインカムのスイッチを入れた。
「アオイ?」
騎央が首を傾げる。
「双葉さんのことよ。バカ」
「あ、そうか」
騎央はようやく思い出した、と頷いた。
構造材が、また不気味な軋みを響かせ、船が今度は右へ傾く。
「…………ったく、こんなバカに惚れるなんて、アオイも苦労するわ」
メイド達の悲鳴の中、真奈美は呟いた。
「今、何か言った?」
「何でもない」
言って、ヘルメット横のコールサインボタンを押す。
返答がない。何度押しても同じだった。
「?」
ちょいちょい、といつの間にか側にいた「チバちゃん」が真奈美の脚をつついた。
視線をおろすと、片目のアシストロイドは、アイパッチ部分をゆっくり回転させながらプラカードを掲げた。
「きせつちゅう? ……気絶してるの!?」
こくん、と頷くアシストロイド。これらカスタムされたアシストロイド達は、それぞれの主のバイオリズムをモニターする機能を保有している。
「そんな……どうしよう……?」
この巨大な船の中、気絶しているアオイをどうやって探し出し、どうやって戻ってくるのか、と真奈美が青くなっていると、
「よし、双葉さんのところに案内してくれ」
と騎央が「チバちゃん」に話しかけていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ騎央!」
慌てて真奈美は止めに入った。
「どうするつもりなのよ!」
「決まってるだろ、双葉さんを連れてくるんだ……えーと、|錦ちゃん《そっち》は真奈美ちゃんたちと一緒に行って、どこに脱出艇があるのかこっちに教えてくれ、出来るよな?」
頷く二体のアシストロイドに、騎央は満足げな笑みを浮かべるが、
「騎央!」
真奈美は幼馴染が「壊れた」としか思えない。
「大丈夫だよ真奈美ちゃん」
騎央は優しく笑った。
「このエリスのスーツがあるから、みんな無事に帰ってくるよ…………そう、|アシストロイド《お前》もな」
騎央はちょっと屈んで「チバちゃん」の頭を撫でた。くすぐったそうに片目のアシストロイドは身体をよじる。
「エリス!」
「大丈夫ですよ」
エリスはしっかりと頷いた。その笑顔の前に、真奈美は何も言えなくなった。
それは十分に覚悟した人の顔であったから。
「……騎央さん、でも気を付けて」
「うん……じゃあ、メイドさん達、このふたりとちびすけ達を頼みます」
エリスに微笑み、メイド達に頭を下げると、アシストロイドを肩に乗せ、騎央は走り出した。
「われわれは二十分待つ!」
その背中に摩耶は声をかけた。
「何が何でも二十分は待つ! だがそれ以上は待てんぞ!」
承知した、と騎央は走りながら手を振った。
少年はスピードをあげ、みるみるうちに見えなくなる。
船は深刻な被害を受けていた。
直撃した三発の対艦ミサイルは十二分にその威力を発揮し、構造材はおろか、機関部まで粉砕している。
船に開いた巨大な穴は周囲の構造材を歪ませ、やがてさらにその周辺の構造材をへし折り、ねじ曲げ、やがて船全体をひずませていく。さらに穴からの海水が、すでにぴったりとは閉まらなくなった区画閉鎖のシャッターの隙間から、やがてシャッターそのものを破壊する形で流れ込む。水圧は内外から船体を圧迫し、やがては引き裂きながら海に飲み込ませてしまうだろう。
双葉アオイは、完全に気絶していた。
パワードスーツはまだ機能を残しているため、彼女の身体を時折起こる爆発や衝撃から保護しているが、そのバッテリー残量はどんどん減っている。
もしもアオイが目覚めていれば、ヘッドアップディスプレイが「WARNING!」の文字と共に真っ赤に鳴っているのを見られただろう。
船がまた傾いた。
軋みすぎた船殻《せんかく》がまたどこかで破れ、どっと海水が流れ込む。
流れ込んだ海水は通路に横たわっているアオイを浮かび上がらせ、押し流していく……通路の奥、機関部まで、ぽっかりと開いた奈落の底へ。
双葉アオイは、まだ目覚めない。
脱出艇は船の中央よりやや上、前後で言えばやや後方部に配されていた。
「……呆れた、どこから手に入れたのよ、こんな化け物!」
キャットウォークから乗り移りつつ、真奈美が呆れた声をあげた。
無理もない。マンモスタンカー以上の大きさがあるとはいえ、船の中に「脱出艇」として用意されていたのはかつて「カスピ海の怪物」と呼ばれ、東西冷戦が終わるまで謎の存在と称されていたロシア製の特殊水上航空機《グラウンド・エフェクト・マシン》、エクラノプランA・90「オリョーノク」だったのである。
水上飛行艇の翼を切りつめたような独特のフォルムは飛行機としてではなく、対艦ミサイル母艦として水中翼船から発達したためで、尾翼上部に取り付けられた二重プロペラと、機種下部に取り付けられたジェットエンジンの力によって時速五〇〇キロで水上二メートルを滑空する。
「決まっている、ロシア政府からだ。さらに改良を加えて海面四メートルをマッハ一は出るようにしてある」
そういえば中途半端に短い翼の下にもロールスロイス製とおぼしいエンジンが二基ずつ取り付けられている。
「航空機相手じゃ勝てないわよ」
「そのために電子パルス砲も装備している。こちらの武装は全て手動式だからな、お前達がクラッキングを仕掛けても意味はない」
言いながら、摩耶は約一名を除いて全てのメイドがこの場所に来ていることを確認した。
「よし、お嬢様を先頭に乗船開始!」
「さ、サラ副長、た、ただ今参りました!」
「サラだと?」
死んだと思っていた部下の声がその背後にかけられ、摩耶は驚きと喜びの表情で振り向いた。
振り向いた摩耶の眼が点になった。
「あ! お前も来てたの?」
それまでふたりのやりとりからこの巨人機のスペックを想像しつつ頷いていたエリスの顔がぱっと明るくなる。
「あ、そういえば忘れてたわ」
真奈美はその姿をみて思い出した。
すでに「反応消滅」した筈の隻眼の副メイド長が、あちこち服を焼き焦がし、あるいは髪の毛の一部をチリチリにさせたひどい格好の、申し訳なさそうな顔で、電子戦特化型のアシストロイドを小脇に抱えて立っていた。
「やほー」という風に、アシストロイドが脳天気に手を振り、エリスの側にいた他の連中が同じように手を振って答える。
「ふえ……」
走りながら騎央は呆れたような、疲れたような声を出した。
「こりゃあ、ひどいや……」
船の中は進めば進むほど、広く、そして無茶苦茶に破壊されていた。
もう、通路はあからさまに歪み、ねじれている所さえある。
また、あちこちから亀裂が入り、中には大穴に化けているところもあった。
バカみたいに広いこともあったし、エリスのスーツを着けていなければ、数メートルも進めなかったろう。
「で、どっちだ?」
肩に担いだ形の「チバちゃん」に尋ねると、隻眼のアシストロイドは眼帯型のレドームを回転させながら「あっち」と指さした。
そこは壁に大きな亀裂が口をあけており、下から吹き上げる炎が赤く中を染めている。
「やれやれ……」
と騎央がそこへ向かおうとした時、中からしなやかな人影が現れた。
「あら、ようやくお出迎えなの?」
「?」
彼の知っているどの人物のシルエットとも似ていないため、騎央は思わず警戒した。
「チバちゃん」はすでに肩から降りてすらりと刀を抜いている。
「じゃ、この子、お願いね」
やさしく、その人物は今まで自分が肩に担いでいたものを床におろした。
すでにヘルメットは外され、長い黒髪が通路の上に広がった。
「双葉さん!」
慌てて駆け寄り、抱き起こす騎央に、人影はニコニコと笑いかけた。
「よかったねー。じゃあ、あとヨロシクね」
「あ、あの、ありがとうございます」
騎央は慌てて頭を下げた。
「いいのよ。まあ、騒動見学のついでだったし。あたしも人死にが出るのは大嫌いだから」
燃え上がる炎に照らされて、少々ウェーブのかかった金色の髪が燃え上がるように輝いた。
さらに、頭頂部にある三角形したふたつの「耳」と深紅のチャイナドレスのヒップから生えた髪の毛と同じ色をした「尻尾」も。
「あ、あの……ひょっとしてエリスのお知り合いですか?」
「ううん」
猫耳と尻尾の生えた美女は首を振った。
「あたしは地球産なの。で、宇宙から来た御同輩を見てみたかった、ってわけ。いずれ正式に挨拶に伺うわ」
どこかで爆発が起きて、また船が傾いた。
「わ!」
思わずアオイを抱きしめた騎央が顔を上げたときには、もう美女の姿はどこにもなかった。
「…………おい、今の人、どこへ行ったか判るか?」
騎央の問いに、アシストロイドはフルフルと首を横に振った。
「…………と、とにかく急いで戻ろう!」
アオイを軽々と抱きかかえ、騎央は「チバちゃん」に道案内をさせながら脱出艇の場所を目差した。
双葉アオイは、夢を見ていた。
夢の中で彼女はあのパワードスーツを着けていたが、何故かヘルメットは無く、燃えさかる通路を、誰かに背中と脚を支えるように抱きかかえられて、風のように走っていた。
爆発音や、構造材がひしゃげる不気味な音、燃えさかる炎の熱さまで感じる、リアルな夢だった。
そう、夢だ。
彼女を、どこかのお姫様のように抱きかかえているのは、あの嘉和騎央だったのだから。
少年は弾丸のように長い長い通路を走り抜け、閉まりつつあるシャッターの下をくぐり抜け、やがて青空の下に出た。
空の下には海がある。
その彼方に、以前資料で見たソビエトの特殊水上飛行機が背中をみせて走り始めており、開いたハッチから、紐のような水着をつけた金武城真奈美と、何故か嘉和騎央の服を着けた猫耳宇宙人のエリスがこちらへ向かって何かを叫んでいる。
「双葉さん、飛ぶよ」
騎央の言葉にアオイは頷いた……これは夢だ。きっと空だって飛べる。
ものすごい勢いで助走をつけて、騎央はアオイと、アオイのアシストロイドを抱えてジャンプした。
「嘉和君……騎央くん」
アオイは少年の胸に顔を埋めながら、言葉が風に消えてしまうよう、騎央には聞こえないようにそっと呟いた。
夢の中なら、もっと大きな声で言ってもいいはずなのに。
「私……あなたが、好きです」
アオイは目を閉じた。
この夢が、二度と醒めて欲しくないな、と願いながら。
双葉アオイはこの瞬間、幸せだった。
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エピローグ
「結局、猫同士でつぶし合わせるという計画は失敗に終わったわけだな」
うつむいたジェンスの前に座った彼女の「上司」たちのひとりが冷たい声で言った。
「申し訳ありません。今少し火力を集中させてさらなる混乱を起こしておればと」
「いい、済んだことだ」
別の声がジェンスの言葉を切る。
「ジェンス中尉、我々は一度の失敗を許さないような硬直した組織ではない。だが失敗を全て許容するような緩《たる》んだ組織でもない」
「はっ」
頭を上げながら、ジェンスは内心の安堵《あんど》を何とか表に出さないように苦労した。
これまでの経歴からまさかとは思っていても、やはり不安ではあったのだ。
「だが、子猫の足裏には打撃、さらに敵の力量は判明した。データはそろったな?」
「はい、もしもまた機会をいただけるのでしたら、今度こそは……」
「よろしい」
一同の中で最も年老いた声が裁決を下した。
「今回の失敗は不問とする。ただし状況は継続中だ……引き続き、君は指揮を執り給え」
「はい」
「罠を張るのだ中尉」
若い声が子供に言い聞かせるように響いた。
「何ヶ月かをかけ、閉まったら誰も逃げ出せないような、緻密《ちみつ》で厳重で非情な罠を」
(そんなことは百も承知だ)
と思いながらも、ジェンスは優秀な士官としての規範を守り、ただただ「ありがたくあります」とだけ告げて敬礼した。
「うにゅー」
最後の抵抗である。
「どうしても飲まないといけませんかー?」
嘉和家の居間。時間は午後二時を過ぎたところ。
海の上の騒動の翌日である。
身を縮こまらせた格好で、ソファに座ったエリスは恨めしそうに、対面に座ったチャイカの掌の上、ちょこんと乗った錠剤を見た。
「しかたがねーだろ」
チャイカも、少々気の毒そうではあったが、感情で仕事を左右する愚をキャーティアは犯さない。
「今回の事件は、お前さんが発情期になってなければもう少し小さな騒動で済んだんだ。あきらめろ」
「うにゅー。せっかく初めての発情期に騎央さんと、って思ってたのにー」
チャイカの掌の上に乗っているのは、発情期を抑制するための薬物である。
今回の騒動の報告を受けて、エリスの上司であるチャイカ、クーネ、など宇宙船の幹部たちは話し合った結果「今年は発情期ナシ」という少々キツいお達しを出した。
エリスは抵抗したものの、発情期による判断力の低下や、防御システムの使用不能状態がコトを大きくしたことは言い逃れが利かず、結局、それは決定事項になった。
「ま、諦めろ……お前はそういう仕事を選んじまったんだ」
「はい」
渋々エリスはチャイカの掌から青い錠剤を取ると、口の中に入れ、コップの水を飲み干した。
「はぁ」
がっくりと肩を落とす。
近くのソファではアオイと真奈美が座って、じっとエリスの喉が動くのを見ている。
エリスは水ごと錠剤を嚥下《えんか》し終えると、長い溜息をついた。
「さようなら、わたしの初めての発情期……」
アオイと真奈美も、なぜかほぼ同時に溜息をつく……ただし、こちらは失望ではなく、安堵のソレであったが。
これより二十四時間前。
船は機関部を下にして、一見ゆっくりと…………実際にはかなりの速度で沈んでいくのを、騎央達はオリョーノクの中から見た。
「すごい……タイタニックって正しかったんだ」
ぽけっと真奈美が言ったが、騎央は素直に頷いた。
日の光の下、逆立ちして沈む巨大な船は、それだけで畏怖に似た感情を呼び起こす光景であった。
「すごいですねえ」
エリスも同じ感慨にとらわれたらしい。
気絶しているアオイの治療を終えると、
ふたりの後ろで脱出艇を指揮しながら、摩耶は「沈めた当人達が何を言うか」という顔で見ている。
それから後、日常はあっさりと帰ってきた。
脱出艇で逃げ出してアントニアたちの護衛部隊と合流した後、騎央たちはヘリで東京に戻された。
世界有数の大富豪らしく、アントニアと、彼女の命を受けた摩耶の事後処理は適切で、飛行機の切符まで手配してもらったおかげで、その日のうちに騎央たちは沖縄に帰ってきた。
「いずれ正式に謝罪の話し合いがもたれるだろうが『子猫の足裏』はご神体様……いやエリス様に対して好き勝手しようとしたコトを反省し、今後は適切なおつきあいを願うだろう」
羽田空港での別れ際、わざわざヘリを操縦して送ってくれた摩耶は騎央とエリスに言った。
「お嬢様の考えが変わる以上、『子猫の足裏』も形を変えていく……恐らく新興宗教というよりはエリス様個人のファンクラブとして形を変えていくのではないだろうかな」
「それなら、とっても嬉しいです」
エリスはにっこり笑った。
「神様扱いされても困りますから……わたしもただの宇宙人ですし」
そして、一行は一路、沖縄へと向かった。
……で、その翌日の嘉和家の居間である。
帰ってきたのはいいものの、「とりあえず食事でも」と騎央家の居間でピザを食べ、コーラを飲み終えた辺りで全員の身体に疲労がどっと押し寄せた。
騎央とエリスは二階と一階にあるそれぞれの部屋へ引き上げたが、真奈美は「もーいや、動くのナンギー」と携帯で向かいにある自宅に「今日はこのままここで寝る」と報告してソファの上で寝息を立て始め、あろうことかアオイまでがちょっと目を閉じる、というつもりで寝入ってしまった。
「ま、何はともあれごくろーさん、ってこったな」
チャイカはそういってエリスのコップに麦茶を注いだ。
「でも、今回はしんどかったですー」
へとへと、という顔でエリスは麦茶に口を付ける。
もう午後も二時過ぎだが、さすがにあれだけの騒動があった翌日なので、騎央はまだ寝ている。
「すまなかったな、助けに行けなくて」
さすがにシリアスな声でチャイカが謝る。
「いいんですよー。わたしの仕事は、他のキャーティアが安全に地球を歩くための下地作りですから。わたしが有名になれば、それだけ他の仲間達が動きやすくなるし。それに条約を破るわけにはいかないでしょ」
でも発情期封印はひどいですー、と珍しくエリスは怨みがましい顔をした。
「まぁ、そうなんだがなー」
「ところで、アオイを助けてくれた人って、誰なん?」
真奈美が口を開いた。
アオイはあの時、意識を失っていて誰に助けてもらったのか判らないし、顔を合わせた騎央も逆光でほとんど顔を見ていない、というのはともかく、同行していたアシストロイドの記録さえほとんどまともに写っていないという不思議な存在である。
「さて、それさ」
チャイカはちょっと難しそうな顔になってソファの上にあぐらをかいた。
「エリスとオレ、それとこの前の艦長達以外にキャーティアは地球に降りてねえ。オレ達がここへは一番乗りだから前任者の可能性も無ぇ」
「誰なんでしょうねえ?」
「わからねえ……でもそいつ、いずれこっちに遊びに来るんだろ?」
「……って騎央さんは言ってました」
「なるほどねえ」
「どうなるんでしょ?」
「さぁてねえ」
とか首をひねっていると、ようやく騎央が上から降りてきた。
「あ、おはよー」
まだぽやーんとした顔のまま、騎央は片手を上げた。
「みんなはやいねー」
「アンタが遅いんでしょうが」
半ば苦笑しながら真奈美。
「みんな昨日はご苦労様でした」
台所に行ってコップを取ってくると、騎央は自分で麦茶を注ごうとしたが、アオイがさりげなくその役割を引き受けた。
「あ、ありがとう、双葉さん」
ちょっと頭を下げる騎央に、アオイは優しく微笑む。
「…………おい、いいのかよ」
その光景を見ていたチャイカは、エリスの腕を引っ張って、顔の横にある副耳に囁いた。
「あの眼鏡っ子、どーもアヤシイぞ」
「?」
きょとんとエリスはチャイカを見る。
「いつもの双葉アオイさんですよ? ねえ?」
と横にいる「チバちゃん」に話しかけると、片目のアシストロイドはこくんと頷いた。
「……………………」
さすがに何とも言えない表情でチャイカはエリスを見ていたが、
「やれやれ」
と肩をすくめて首を横に振った。
「こりゃあ、前途多難だゼ」
「?」
首を傾げるエリスをよそに、チャイカは頬杖を付いて横を向いた。
アルミサッシの向こう側、夏の日差しは強く庭の木々を照らしている。
「しかし、その謎の猫耳、どう対応しようか?」
「まぁ、向こうから来る、っていうんなら待っていればいいんじゃないですか?」
「それもそうか」
にやっとチャイカは笑った。
「今度は誰かが『遊びに来るよ』ってことだワナ」
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あとがき
えーと、神野オキナでございます。
「あそびにいくヨ! 2〜作戦名『うにゃーくん』」はいかがでしたでしょうか。
今回は少々アクション編であります…………まぁ、実質の主役が「彼女」なんで、これはもー仕方がないということで(笑)。
今回はメインの舞台を沖縄から東京へと移してのドタバタ騒ぎであります。前回かなりご好評をいただいたアシストロイドたちも容量二倍で走り回っておりますので、あとがきから読まれる方はご安心を(?)。
それもこれも、皆一作目を買って頂いた読者の皆さんのおかげです。
なんでも営業さんのほうからは「今年度中にあと数冊」という有り難いお話もいただいているので、何とか頑張ってみようと思っております、どうぞおつきあいの程を。
実は前巻の発売日に、珍しく私、東京におりまして「早売り」などというものを見たりとかしてたんですが、さらに編集さんのご厚意で挿絵を描いて頂いている放電映像《ほうでんえいぞう》さんともご一緒にお食事とかしました。
ちなみに、放電映像先生はほっそりとした好青年でありました。
放電映像先生。また今回もイラスト、ありがとうございました。
作家の榊一郎《さかきいちろう》先生、漫画家の環望《たまきのぞむ》先生、今回も相談に乗って頂き、ありがとうございました。
そして担当のオーキドさん。今回、胃の痛い思いをさせてしまいまして、申し訳ないです。
最後にこの本を購入して頂いた読者の皆様へ……おかげさまで二巻、三巻と続くことになりました。
ありがとうございます。皆さんのご期待に添えるように頑張りますので、どうぞお見捨て無きよう。
さて、とりあえず次回ですが……いよいよ学園モノに突入します。
エリスの着けるのはセーラー服かブレザーか、スク水はあるのか、アシストロイドは持ち物検査に引っかかるのか、とにもかくにも乞うご期待!
このあとがきを書いた翌日から、執筆開始ですので、結構早い時期にまた参上致します!
でわ。
二〇〇四年始まってまだ二週間めの夜に。
神野オキナ
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