心霊探偵八雲1
赤い瞳は知っている
神永 学
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幾重《いくえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時間|潰《つぶ》し
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あり得ない[#「あり得ない」に傍点]
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〈カバー〉
学内で幽霊騒動に巻き込まれた友人について相談するため、晴香は、不思議な力を持つ男がいるという「映画同好会」を訪ねた。しかしそこで彼女を出迎えたのは、ひどい寝癖と眠そうな目をした、スカした青年。思い切って相談を持ちかける晴香だったが!? 女子大生監禁殺人事件、自殺偽装殺人……次々と起こる怪事件に、死者の魂を見ることができる名探偵・斉藤八雲が挑む、驚異のハイスピード・スピリチュアル・ミステリー登場!!
神永学(かみながまなぶ)
1974年山梨県生まれ。2003年『赤い隻眼』(文芸社)で本格デビュー。その後、『赤い隻眼』を改題した『心霊探偵八雲 赤い瞳は知っている』から始まる「八雲」シリーズが、圧倒的な支持を集める。小説の他、舞台脚本の執筆など、活動の場を広げている。
http://kaminagamanabu.com/
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心霊探偵八雲1
赤い瞳は知っている
[#地から1字上げ]神永 学
[#地から1字上げ]角川文庫
PSYCHIC DETECTIVE YAKUMO
MANABU KAMINAGA
01.
プロローグ
ファイルT  開かずの間
ファイルU  トンネルの闇
ファイルV  死者からの伝言
添付ファイル 忘れ物
あとがき
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主な人物紹介
斉藤八雲………大学生。死者の魂を見ることができる能力を持つ。
小沢晴香………八雲と同じ大学に通う学生。
後藤和利………刑事。「未解決特殊事件捜査室」所属。
斉藤一心………八雲の叔父。寺の住職。
畠 秀吉………監察医。変態。
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プロローグ  PROLOGUE
その日は、朝から幾重《いくえ》にも重なった雲が、太陽の光を遮《さえぎ》っていた。
それでも、分娩室《ぶんべんしつ》の中は、まとわりつくような熱気に包まれていた。
「大丈夫ですよ」
看護師である飯田陽子《いいだようこ》は、妊婦に呪文《じゅもん》のように何度も、何度も語りかける。
彼女は、額に汗を滲《にじ》ませ、青白い血管を浮き上がらせながら、歯を食い縛り、身をよじる。
身体が軋《きし》むような苦痛に、必死に耐えているのだろう。
少しでも、彼女の苦痛を和らげよう。陽子は、妊婦の腰をさすりながら、一緒にラマーズ法の呼吸を繰り返す。
「ひぃーひぃーふぅー」
分娩室に入ってから、もうずいぶん時間が経過している。かなりの難産だ。
妊婦の目は、もう虚《うつ》ろになっている。
状況によっては、無痛分娩に切り替えた方がいいのではないか?
陽子は、医師である木下英一《きのしたえいいち》に視線を送る。
「頭が出てきた。もう少し」
陽子の考えを、打ち消すように木下が言った。
「さあ、もう少し、頑張って」
声をかけながら、陽子が肩を叩《たた》くと、妊婦は苦痛に表情をゆがめながらも、頷《うなず》き返してきた。
「いきまないで。力を抜いて」
「力を抜いてください」
陽子は、木下の言葉を、そのまま妊婦に伝える。
妊婦は、目に涙を浮かべながら、苦しそうに息を吐く。
「よし! 出た!」
木下が言うのと同時に、分娩室に元気な赤ん坊の泣き声が響き渡った。
「あぁ!」
妊婦は、苦しそうに呼吸をしながらも、安堵《あんど》とも歓喜《かんき》ともつかぬ声を上げた。
「おめでとうございます。今日から、お母さんですね」
陽子は、妊婦に微笑みかけ、額の汗を拭《ぬぐ》った。
妊婦に、その声は届いていないのか、返事はなく、ただ弛緩《しかん》した表情で、荒い呼吸を整えていた。
難産ではあったが、とりあえずこれで一安心だ。陽子がそう思った矢先、木下が声を上げた。
「ペンライトを持って来てくれ」
木下の口調は、決して荒々しいものではなかったが、そこには焦《あせ》りと緊張の色が窺《うかが》えた。
陽子は、すぐに作業台の上に置いてあるペンライトを木下に差し出す。
「はっ」
赤ん坊の顔が見えた拍子に、陽子は思わず息を呑《の》んだ。
目の前に起こっている現実を、受け入れられない。
「動揺するな。母親がいる」
木下が、声を潜めて言った。
陽子は、その言葉で我を取り戻す。
だが、その一瞬の狼狽《ろうばい》が、母親に伝わってしまった。
「私の赤ちゃん」
母親が、喘《あえ》ぐように言う。
その表情からは、不安が滲み出ている。
「もう少し待ってくださいね」
「私の赤ちゃんは?」
陽子は、母親に近付き、身体をさすりながら話し掛ける。
だが、彼女の不安を抑えることはできなかった。
「どこ? どこなの?」
母親は、爪を立てて陽子の腕を掴《つか》む。
「大丈夫です。大丈夫ですから」
陽子は、痛みに耐えながら母親を落ち着かせようとしたが、効果はなかった。
彼女の不安が、みるみる増大していくのが、肌を通して伝わってくる。
「私の赤ちゃん。無事なの?」
母親は、まさに鬼の形相だった。
その迫力に圧《お》されて、陽子は思わず目を逸《そ》らしてしまった。それが、いけなかった。
「私の赤ちゃん!」
母親が、陽子を突き飛ばすようにして、一際大きな声で金切り声を上げた。
「大丈夫です。元気な赤ちゃんです」
答えたのは、木下だった。
木下は、マスクを外し、赤ちゃんを抱えてゆっくりと母親の下《もと》に歩み寄っていく。
母親からは、さっきまでの必死の形相は消え、初めて見る我が子に対する穏やかな微笑みに変わった。
陽子は、すぐに木下の横に駆け寄り、小声で耳打ちする。
「本当に、いいんですか?」
「いつまでも隠せるものじゃない」
木下は、表情を引き締める。
彼の言う通りだ。いつまでも、隠し通せるものではない。いずれは知られてしまうこと。それが、何時かというだけだ。
「どうぞ」
木下が、赤ちゃんを母親の胸の上に持っていく。
「ああ、私の赤ちゃん」
母親は、それをしっかりと抱きとめると、至福の表情を浮かべ、頬を涙で濡《ぬ》らした。
そして――。
わが子の顔を、優しい微笑みで覗《のぞ》き込んだ。
母親の表情が、一瞬にして凍りついた。
「いやぁ!」
悲痛な、その叫び声が、分娩室に響き渡った。
陽子は、唇を噛《か》み、胸の前で手を合わせ、生まれてきた子の将来を想い、悲観に暮れた。
赤ん坊は、左眼を開けたまま産まれてきた。
そして、何よりその瞳《ひとみ》は、燃え盛る炎のように真っ赤に染まっていた――。
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ファイルT  開かずの間
FILE:01
その大学のキャンパスの外れに、雑木林がある。
もともと山を切り開いて造ったようなキャンパスなので、不自然ということはない。
その雑木林を分け入った奥に、コンクリート壁造りの平屋の建物があった。
何の目的で造られたのかを知っている者は誰もいない。
今はただの廃屋《はいおく》である。
雑木林の奥にあることもあり、普通の学生生活を送っていれば、その存在にすら気づかない者も多い。
その廃屋には、昔から幽霊が出るという噂があった。
ある者は、その廃屋近くで人影を目にし、あとを追ったがその姿は忽然《こつぜん》と消えたという。また、ある者は、その廃屋の近くを通った時に「助けて、助けて」ともがき苦しむ声を聞いたという。ある者は、いや、あれは「助けて」ではなく「殺してやる」という呪いの声だったという。
そして、この廃屋の噂には続きがあった。
建物の一番奥には、鉄製のドアに厳重に鍵《かぎ》のかけられた開かずの間がある。
中に何があるのかは誰も知らない。なぜなら、それを見た者は、今まで誰一人として戻って来なかったからだ――。
空っ風が吹いたせいで、昼間のうちに雲は全部流されてしまったようだ。
青白い月がよく見える。
満月である――。
月影は音を吸収すると誰かが言った。そんな戯言《ざれごと》が真実に思えるくらい静かな夜だった。
居酒屋で飲んでいた美樹《みき》、和彦《かずひこ》、祐一《ゆういち》の三人は、終電を逃してしまい、始発電車までの時間|潰《つぶ》しの方法を考えていた。
そこで、大学内に広がる噂が話題にのぼった。
三人とも噂を知ってはいたが、実際に確かめにいった者は一人もいない。
「噂が本当かどうか確かめに行こうよ」
美樹が言い出した。
和彦も祐一も美樹の意見に賛同し、夜の大学に忍び込むことになった。
網目のフェンスを乗り越え、校舎の裏を抜けて雑木林に分け入る。
枝を掻《か》き分け、道なき道をいく。
ちょっとした冒険気分だ。
想像していたよりずっと歩きにくい道だった。
問題の廃屋に到着した時には、すっかり汗だくになり、酔いもかなり覚め、美樹は当初の勢いを失い、後悔し始めていた。
その建物は平屋の陸屋根《りくやね》で、コンクリート打ちっぱなしの造りになっていて、無機質で、建物というより、コンクリートの塊《かたまり》が放置されているといった感じだ。
「せっかく来たんだから、記念撮影しようぜ」
祐一が言い出した。
そこで、最初に和彦がカメラを構え、廃屋を背景にシャッターを切る。フラッシュの青白い光が、廃屋のくすんだ壁に人の影をつくる。
次に祐一がカメラを構え、和彦と美樹が並んで笑顔を向ける。
ふたたびフラッシュが光る。
コツン!
何か金属がぶつかり合うような音がした。
美樹がびくっと肩を震わせる。
「今、何か聞こえなかった?」
美樹が周囲を見回す。和彦と祐一もそれにならい、息を潜め辺りに目を配りながら耳を澄《す》ます。
ガサガサッ。
聞こえてきたのは、枯れ枝が風に揺れる音だった。
「何も聞こえねぇぞ」
祐一が耳に手を当ててジェスチャーする。
「何だ? 言い出しっぺのクセに怖くなったのか?」
和彦が、冷やかすように言う。美樹はふてくされた様子で和彦を睨《にら》みつける。
「怖くなんてないわよ」
美樹は、自分が先頭になって廃屋の入り口に向かって歩き出した。和彦と祐一は、お互いの顔を見合わせてから、美樹の背中を追った。
「鍵がかかってるわ」
入り口にたどり着いた美樹が、錆《さ》び付いた鉄製のドアのノブをがちゃがちゃ回す。
美樹に代わって和彦がノブを回してみるが、やはり開かない。
「こんな時のために、じゃじゃぁん」
祐一はズボンのポケットからフックのような形をした鉄製の細い金具を取り出した。
「何だ? それ?」
和彦が言う。
「まあ、見てなって。あ、和。ちょっとライターで照らしてよ」
和彦は言われるままにライターを点《つ》け、ドアノブに近づける。祐一はドアの前に立て膝《ひざ》をつき、さっき取り出した金具を鍵穴に差し込む。
「何やってんの?」
「いいから、いいから」
祐一がドアノブと格闘を始めて数分後、祐一は立ち上がり、ドアノブを回した。
ぎぃ。
金属の擦《す》れる音とともに、ドアが開いた。
「お前、すごいね!」
和彦が歓声を上げる。
「道具さえあれば誰でもできるよ」
祐一が得意そうに鼻をこする。
「お前、そんなのどこで手に入れたの?」
「ネットだよ。今度URL教えるから見てみな」
和彦と祐一は、躊躇《ちゅうちょ》することなく室内に入っていく。
一人取り残されるのを嫌い、美樹があわててあとを追いかけた。
外の冷たい風が室内に入りこみ、床に積もった埃《ほこり》を舞い上げる。外に比べて室内は暖かかったが、自分の指先を見るのも不自由なほど暗かった。
和彦は持っていたライターの火を灯《とも》してみたが、ゆらゆらと揺れる小さな火では頼りなさすぎて、室内を見渡すことはできなかった。
一瞬、青白い光が瞬いて室内を照らし出す。
美樹は、その光に驚いて飛び上がる。美樹の怯《おび》えようを見て祐一がニヤニヤ笑っている。祐一がカメラのフラッシュを焚《た》いたのだ。
「やっぱり帰ろうよ」
言い出したのは美樹だった。
「何だよ。怖気《おじけ》づいたのか?」
和彦と祐一が声を合わせて言う。
「で、でも、さっきから誰かに見られているような気がするの」
美樹は隠れるように和彦の腕にしがみつく。
三人は、しばらく暗闇の中に目を凝らした。何もない。ただ真っ黒な闇が部屋全体を覆っているだけだった。
「大丈夫。平気。平気」
和彦は美樹にそう言うと、壁を伝ってゆっくりと歩き始めた。
「ねえ、守ってよ」
美樹は和彦の腕を引っ張る。
「ああ、任せとけ」
和彦は軽い調子で美樹の肩を軽く叩《たた》き、ふたたび歩き始めた。
入り口を入ってすぐの広いフロアーのような部屋を抜けて、その奥に延びる廊下に進む。
廊下は人が擦れちがうのがやっとの幅だった。そして、その両側には、等間隔《とうかんかく》で窓付きのドアが並んでいて、そのドアの向こうには四畳ほどの広さの部屋があった。
各部屋には、一台ずつベッドが置かれていて、そのほかには何もない。
三人は、壁伝いに問題の開かずの間を目指した。
廊下の突き当たりにその部屋はあった。
何とも不気味な部屋だった。ほかの部屋とは明らかに違う重量感のある鉄製のドア。そのドアには鉄|格子《ごうし》付きの覗《のぞ》き窓があった。通常の鍵《かぎ》のほかに、ドアノブと廊下の脇にあるパイプを結ぶかたちで、幾重にも鎖が巻き付けられ、ダイヤル式の南京錠《なんきんじょう》がかけられていた。
「これは開けられないな」
祐一がぼやく。
「この中に何があるんだ?」
和彦は、背伸びをして覗き窓から部屋の奥の闇を覗き見た。
「何か見えたか?」
「何も。真っ暗でよく分からん」
和彦が諦《あきら》めかけた時、
カサッ!
闇の奥で何かが動いた。部屋の隅の、影が一番濃くなっている場所。
そこに何かいる。和彦はその一点を凝視《ぎょうし》した。
目!
和彦は、闇の中にいる何かと目が合った。
闇の中にあって、その目は異常なほど鮮明に見えた。白く濁った瞳《ひとみ》。眼球に浮き出した血管。憎しみに満ち溢《あふ》れ、すべてを飲み込んでしまいそうな目――。
和彦は悲鳴をあげて、後ろに飛び退《の》くと尻《しり》もちをついた。
「どうしたの? 何かあったの?」
美樹の呼びかけに、和彦は怯えた表情のまま、何かを言おうと口をパクパク動かしていたが、呼吸が乱れて巧《うま》く話せない。
ひゅー、ひゅー、と喉《のど》が鳴るだけだった。
和彦は、祐一の助けを借りて何とか立ち上がる。
「何か見えたのか?」
祐一が和彦に問いかける。和彦は、ドアの方に目を向けた。
それにあわせて祐一も同じ方を見る。
次の瞬間、和彦と祐一は言葉を失った。
覗き窓の鉄格子の隙間から、とても生きている人間のそれとは思えない青白い手が伸びてきて、いきなりドアを背にしている美樹の肩を掴《つか》んだ。
美樹は、ハッとした。
和彦と祐一は目の前にいる。
だとすると、今私の肩を掴んでいるのは誰?
振り返ってそれを確かめる勇気はなかった。美樹の頭からスーッと血の気が引いていく。
力が抜けて悲鳴をあげることすらできない。
美樹は、震える手を懸命に前に出し、和彦と祐一に助けを求める。しかし、和彦と祐一も、恐怖におののいてまったく動くことができなかった。
「……お願い……助けて……」
美樹は掠《かす》れた声を絞り出した。祐一は、美樹をドアの前から引き離そうと、美樹に向かって必死に手を差し出す。
その瞬間。
鉄格子の隙間から、またあの目がのぞいた。
「ウワーッ!」
和彦も祐一も、頭の中が真っ白になり、悲鳴をあげると後ろも見ずに逃げ出した。
「待って、置いていかないで!」
美樹のその悲痛な叫びは、声にはならなかった。
これは、事件のほんの始まりにすぎなかった――。
午前中の講義を終えた小沢晴香《おざわはるか》は、友だちの誘いを断り、教室を飛び出《だ》した。
風が、冷たい。
スキニーのジーンズに、グレイのパーカーを合わせただけのラフな出《い》で立ちでは、さすがに寒い。
もう少し、厚着をしてくれば良かったと後悔する。
ショートカットの髪型だから、余計に首回りが冷たく感じた。
晴香は、オーケストラサークルの先輩である、相澤《あいざわ》に紹介された人物を訪ねるために、校舎のB棟の裏にあるプレハブ二階建ての建物に向かっていた。
その建物は四畳半ほどの小部屋が、一、二階にそれぞれ何室かあって、大学側が、部活動やサークル活動を行う拠点として、学生に貸し出しているものだ。
一階の一番奥に目指す部屋はあった。
『映画研究同好会』
晴香はプレートを確認してからノックをした。
返事はない。「こんにちは」と声をかけたが結果は同じである。失礼かとは思ったが、ドアを開けて中を覗き込んだ。
ドアを開けるとすぐ、正面に座っている長身の男と目が合った。
陶磁器《とうじき》のように白い肌をしている。
今にも眠ってしまいそうな、半開きの目でまじまじと見つめられると、言葉に詰まった。
「あ、あの……」
「入ったらドアを閉めてもらえますか?」
晴香の言葉を遮るように男が言った。
あわてて部屋の中に入ると、ドアを閉めた。
男は、地肌に白いワイシャツを着ていて、二つ目までボタンがはずれ、胸元がはだけている。
意識的に見せているのか、だらしないだけなのか、微妙《びみょう》なところだ。
寝グセだらけの、鳥の巣みたいな髪を見る限り、だらしないだけのような気がする。
最近、無造作ヘアというのが流行《はや》っているが、その男の髪は誰がどう見てもそれは見事な寝グセだ。
部屋の中には、正面の男のほかに二人の男がいた。
その二人の男は、一枚のトランプを正面の男に隠すようにして一緒に見ていた。
カードはスペードの5。
「悪いけど、座ってもらえませんか? 集中できない」
「あ、はい」
晴香はドアを離れ、男が指さした壁際にあるパイプ椅子に座った。
室内には、テーブルの他に、部屋の隅に冷蔵庫が置かれ、その隣には、目隠しの布がかけられた、棚《たな》が置いてある。
部室というよりは、アパートの誰かの部屋のような感じだ。
さっきの男は、目を閉じ、眉間《みけん》を指で摘まみながら、何かを考えている様子だったが、やがて目を見開くと、薄く赤い唇を開いた。
「スペードの5」
当たった。すごい!
さっき男たちが見ていたのは確かにスペードの5だった。晴香は驚きを隠せなかった。対して、二人の男は落胆《らくたん》の声をもらし、カードをテーブルの上に投げ捨てる。
「くそっ。またやられた」
男たちは、悪態《あくたい》をつきながらポケットから千円札を取り出し、テーブルの上にたたきつけると、部屋を出て行った。
「どうぞ、用事があったんでしょ?」
男はテーブルの上の千円札をワイシャツの胸ポケットに押し込み、大きなあくびをしながら言う。
晴香は勧められるままに、さっきまで二人組が腰掛けていた椅子に座る。
「あの、もしかして斉藤八雲《さいとうやくも》さんですか?」
「もしかしなくても、そうだよ」
男が答えた。この人が、斉藤八雲――。
晴香は、相澤から、幽霊がらみの話なら、映画研究同好会の斉藤八雲に相談してみることを勧められた。
噂では、彼には霊感のようなものがあるらしく、相談に乗ってくれるかも知れないということだった。
正直、ここに来るまで半信半疑だったし、どういう類の能力かもわからなかった。
だけど、さっきのトランプ。
心を読んだのか、透視したのかは分からないが、彼は間違いなく何かの能力を持っているようだ。
「で?」
八雲が話の先を促した。
「実は、サークルの先輩に紹介されてきたんですけど」
「誰?」
「相澤さんです」
「知らない。誰だ? そいつ」
「え?」
話が違う。紹介してくれたのだから、てっきり知っていると思っていた。
「まあ、誰の紹介でもいいや。何しにきたのか要約して説明してくれ」
「あの、えっと、友達が大変なんです。斉藤さんが、あっちの方に詳しいと聞いたんで、その、助けてほしくて……」
「要約しすぎで、全然意味が分からない。あっちってどっち?」
「あ、すみません。ちゃんと説明します」
「ところで、君はどこの誰?」
嫌な奴――。
この人は、さっきからまったく表情を変えていない。ずっと眠そうなままだ。まるで、人があわてているのを見て喜んでいるみたいだ。
「あ、私、小沢晴香といいます。この大学の二年生です。文学部の教育学科で……」
「名前だけでいいよ」
八雲が面倒くさそうに手をふり、話をさえぎる。
嫌な奴だという感情は、怒りに向かってエスカレートしていく。
「それで、用件は?」
「実は、何日か前に私の友達の美樹って子が、この大学で幽霊が出るって噂のある廃屋に行ったんです。そこで、実際に幽霊を見たらしいんです」
「どんな?」
「私も詳しくは分からないんです。一緒に行ってないから。ほかに和彦って美樹の彼氏と、祐一君っていう友達も一緒に行ったらしいんです」
「それで、わざわざ怪談《かいだん》話をしに来たんですか?」
「違います。それ以来美樹の様子がおかしいんです。高熱を出して、ずっと眠り続けているんです」
「最近の風邪は怖いからね」
「ですから! ちゃんと最後まで話を聞いてください!」
抑えきれない苛立《いらだ》ちに、自分でもビックリするくらい大きな声を出していた。
しかし、八雲は椅子によりかかり、相変わらず眠そうな目をしている。
「それで? 続きは?」
八雲が、ガリガリと寝グセだらけの髪をかきまわしながら先を促した。
「……ただ眠っているだけじゃなくて、ずっとうわ言のように助けて≠ニかここから出して≠ニか言い続けているんです」
「医者には?」
「もちろんお医者さんにも診《み》てもらいました。でも、熱があるほかは、身体に特に異状はないって……おそらく精神的なものだろうって」
「精神的なものねぇ……」
八雲は、腕組みをして椅子の背もたれに寄りかかった。
「彼女一人暮らしだし、彼女の両親に連絡をとっているんですけど、電話がつながらないし……どうしたらいいか……」
友だちのために何かしてやりたい。だけど、こういう場合、何をしたらいいのかも分からない。
その間にも、美樹はどんどん衰弱していくように見える。
「それで、彼女の症状は、その廃屋で見た幽霊と関係があるかもしれないので調べてほしいと?」
「はい。斉藤さんがそういうのに詳しいって聞いたんで」
八雲は大きく息を吸い込み、天井を見上げて何やら考えている。
「駄目? ですか?」
晴香は、大きな目で八雲の表情をじっと見つめる。
「二万五千円。消費税込み」
「え? お金取るんですか?」
「君とぼくは友達か?」
「いえ、違います」
「じゃあ、恋人?」
「とんでもない」
「じゃあお金」
「なんで?」
「恋人でも友達でもないのに無料で何かしてあげるって不自然でしょ」
言っていることは、とりあえず正論なのだが、何だか素直に納得できない。
かといって、このままにしておくわけにもいかない。
「分かりました。払います。払いますけど、後払いにしてください」
「前金で一万円。終了次第、残りの一万五千円」
晴香は財布の中から千円札を一枚取り出し、テーブルの上に置く。
八雲は首を横に振った。晴香はやむなく、あと二千円出したが、八雲は、また首を横に振る。
「ケタが違う」
「今はこれ以上持ち合わせはないんです」
晴香は、八雲の目の前に空になった財布をつきつけて振ってみせた。
「分かりました。調べてみましょう」
八雲は、大きなあくびをしてから、仕方ないという風に言った。
今までの会話の流れからして、本当に調べてもらえるか怪しい部分はある。でも、他に頼る当てがあるわけじゃない。
「何か分かったら連絡して下さい」
晴香は自分の連絡先を書いたメモをテーブルの上に置いて立ち上がり、ドアのノブに手をかけた。
これは――。
信じられないことに気がついた。
ドアには映画のポスターやら写真やらが所せましと貼り付けてある。
その隙間に、垂れ目がちな目と、あまり高くはない自分の鼻が映り込んでいた。
それは、小さな鏡だった。
やられた。
「さっきのトランプ……」
晴香は振り返りながら言った。
「危なく騙《だま》されるところだったわ。さっきのトランプの数字当て、あれインチキですね。ドアのところに貼ってある鏡。あれで、あなたの位置からはトランプの数字が丸見えになってる。……そうか、それで私をドアの前からどけさせたのね」
晴香は怒りで顔を紅潮《こうちょう》させながら一気にまくし立てた。
何てことだ。一瞬でもこの人を信じようとした自分の馬鹿さ加減に腹が立った。こんなことだから友だちにも単純すぎると馬鹿にされるのだ。
「正解。見抜いたのは君が初めてだ」
八雲は悪びれた様子もなく、しらっと言ってのけると、パチパチと拍手をした。
「最低。お金返してください」
「何で?」
「何でじゃないですよ。あなた、私からお金を騙し取ろうとしたんですよ。返してください」
信じられない。人の弱みにつけこむなんて。本当にそう思った。
「失礼なことを言わないでくれ」
「どっちが」
「別に騙すつもりはないよ。君の友達を助けられなかったら全額返すよ」
「そんなの信じられません」
この斉藤という男、図々《ずうずう》しいにもほどがある。
「だいたい、あなたに何ができるんですか? 超能力があるっていうからきたのに、ただのインチキじゃないですか」
「超能力があるなんて誰が言ったんだ? ぼくは言っていないよ。君の言う通りさっきのトランプはインチキだ」
そんなに堂々《どうどう》と開き直られたら言い返す言葉がない。
「超能力がないのなら、どうやって美樹を助けるんですか?」
「今からぼくが言うことを信じるかどうかは自由だ。もし、信じるなら任せてくれればいい。信じられなければ、出口はあそこだ」
八雲はドアを指さして言う。
「お金も返す」
八雲はテーブルの上に千円札を三枚置いた。
「ぼくにはほかの人に見えないものが見えるんだ」
「なぞなぞですか?」
「どう取ろうと勝手だ。答えは?」
「分かりません」
「死んだ人間のタマシイ」
「タマシイ?」
「分かりやすく言うと幽霊だよ」
「そんなバカな」
「バカは君だ」
八雲は晴香を指差した。
初対面の人にバカって――。
「でも、さっき超能力はないって……」
「言ったよ。ぼくに超能力はない。ぼくはただ死んだ人の魂が見えるだけ」
「同じことです」
「違うね。これは超能力ではなく体質《たいしつ》なんだよ」
「体質?」
さっきから、理屈を並べて、話を煙《けむ》にまこうとしているだけのような気がする。
「例えば、絶対音感なんかは超能力とは言わないだろう。生まれついての体質、才能でもいいが……とにかくぼくは透視ができたり念力が使えるわけではない。生まれついて死者の魂が見える体質なだけだ」
「そこまで言うなら証明できますか?」
「証明になるかどうか分からないけど、今この部屋にも一人幽霊がいる」
八雲は、形の整った眉の間に、人差し指を当てた。
確認するまでもなく、ここには二人しかいない。
「そんな手に騙されませんよ」
「今、この部屋にいるのは、君のお姉さんだ。双子の……」
「嘘よ」
首を左右に振った。指先が震える。
「そう、君のお姉さん。名前は綾香《あやか》。七歳のときに交通事故で亡くなっている」
「どうしてそれを……」
喉《のど》が詰まった。
「だから言っているだろ、見えるんだって」
自分に姉がいたことは、幼友だちしか知らないことだ。
なのに、なぜ初対面のこの人がそのことを知っているのだろう。腑《ふ》に落ちぬというより、何か得体のしれないものを感じた。
「君は、今でもお姉さんの事故は自分の責任だと思っている」
八雲のその一言は、胸の奥に深く突き刺さった。
血の気が引いていく。今にも倒れそうなくらい頭の中が真っ白になった。
アスファルトの上を転がるボール。
車のクラクションの音。
真っ赤な血が、トクトクと流れ出していく。
「君が投げたボールを取ろうとしたお姉さんが、道路に飛び出した。そこで……」
「やめて……私は……違うの……まさかあんなことになるなんて……」
晴香は目を固く閉じ、両耳を手で塞《ふさ》いだ。
――いくら呼びかけても、姉の綾香はピクリとも動かなかった。
あまりに突然の出来事に動揺して、泣くことも叫ぶこともできなかった。
掌《てのひら》が、姉の頭から流れる血で真っ赤に染まった。
血――。
ぬるぬるとした感触がはっきりと甦《よみがえ》る。血を止めようと必死に押さえたがダメだった。姉である綾香の命の灯がゆっくりと消えていくのを、掌に感じた。
「そうか……君は、わざとボールを遠くに投げたのか」
「違う!」
八雲の言葉に、はっと顔を上げ、歯を食い縛った。
それでも、八雲は構わずに話を続ける。
「自分はいつもボールをそらすのに、お姉さんは器用にボールを取ってしまう。だから、お姉さんが取れないように、わざと遠くにボールを投げた」
「やめて!」
手が震えた。呼吸が乱れた。
どうして? 誰にも話していないことだった。誰も知らないはずのことだった。自分の意思とは関係なく涙が溢《あふ》れた。
「どういうつもりなの……」
晴香は掠《かす》れる声で絞り出すように言うと、指先で涙を拭《ぬぐ》った。
「………」
八雲は、晴香の問いには答えなかった。
晴香は、八雲を一瞥《いちべつ》すると、バッグを持って立ち上がり、ドアを開けて出て行こうとする。
「信じられないなら、ほかにもある。君のお姉さんは後悔していることがあると言っている」
「後悔……」
「お母さんの指輪を隠したのは自分だと。あの時は君が怒られたって。指輪はゲタ箱の天板にガムで貼り付けてある。ちゃんと言おうと思っていたのに、言えなくなっちゃったって……」
息が詰まった。目頭が、じんじんと熱を持つ。
「私は……」
「あと、お姉さんは君のことは恨んでないって言っている」
晴香の言葉を遮《さえぎ》るように、八雲が言った。
恨んでない? そんなの出任せだ。だって、お姉ちゃんは私のせいで――。
いたたまれない感情に突き動かされ、部屋を飛び出した。
※  ※  ※
晴香は、中庭まで来たところで、崩れるように白いベンチに座った。
秋の乾《かわ》いた風が、ショートカットの髪を、後ろになびかせる。
行き交う学生たちの喧騒《けんそう》が、やけに耳障りに聞こえる。
両手で顔を覆うようにして俯《うつむ》いた。
今まで、誰にも話さず、ずっと自分の胸の中に抱えてきた過去の記憶。
それを、初対面の男に無造作に言い当てられた。
抑えきれないほどの、怒りや屈辱《くつじょく》に襲われると思っていたが、実際は少し違った。そういう感情がまったくないといえば、嘘になる。
でも、どこか心が軽くなったような気がしていた――。
そんな風に感じることが、自分でも不思議でならなかった。
晴香は鞄《かばん》の中から携帯電話を取り出し、しばらく考えたあとに実家の電話番号をプッシュした。何回かのコール音の後に、母である恵子が電話に出た。
「どうしたの?」
母は、開口一番そう言った。
「別に、ちょっと……」
「あいかわらず嘘がヘタね。何かあったんでしょ」
たった一言で、見抜かれてしまった。
あまり長く話していたら、泣いてしまいそうだ。
「ねえ、母さん。ずいぶん前に指輪なくしたよね。まだ、姉さんが生きている頃」
「何よ、急に」
「ゲタ箱の天板のところを捜してみてもらえる?」
「どうして今さらそんなこと気にするの?」
「何でもいいから見てきて」
「はい、はい」
母親のあきれた声の後に、保留音が流れた。
ショパンの「別れの曲」だった。姉の綾香はピアノが巧《うま》かった。大人が弾《ひ》いても難しいとされるこの曲を、細く長い指で、踊るように弾いていた。
それに比べて私は、ピアノに限らず音楽はからっきし駄目だった。どうしてもリズムがずれてしまう。よく姉と比較《ひかく》された。
ピアノだけじゃない。勉強をやっても、運動をやっても、姉には敵《かな》わなかった。
二人でいると、姉と弟に間違えられることも多かった。
私が髪を短くしていたせいもあるけど、双子なのに全然雰囲気が違った。
姉の存在が、疎《うと》ましいと思ったことさえあった。
そして、あの事故――。
斉藤の言うとおり、わざと姉が取れないようにボールを遠くへ投げた。
まさか、あんなことになるなんて思っていなかった。
両親が悲しみにくれる姿を見て、自分がのうのうと生きていていいのだろうか?
いつか、姉の死の秘密を知られるのではないかという恐怖心を抱きながら、今まで生活してきた。
「あった。あったわよ」
受話器から聞こえてきた母の声で、現実に引き戻される。
「晴香、やっぱりあんたの仕業《しわざ》だったのね?」
「違う。お姉ちゃんよ」
「え? 何?」
母の問いには答えず電話を切った。
私は、指輪の隠し場所など知らなかった。
本当にお姉ちゃんが――。
晴香は、再び「映画研究同好会」の部屋のドアをノックした。
ドアを開けて部屋の中に入ると、紙ヒコーキがゆっくりと旋回《せんかい》していた。
「何してるんですか?」
「紙ヒコーキ、飛ばしてるんだ」
ふわふわと揺れながら、紙ヒコーキが、晴香の足元に落ちた。
「見れば分かります。何でそんなことしてるのか訊いているんです」
着地した紙ヒコーキを拾いあげる。その紙ヒコーキは、千円札で作られていた。
「君が戻るまでの時間つぶしだよ」
「………」
「どうぞ」
八雲は、晴香に座るように促す。
晴香は拾った紙ヒコーキを、テーブルの上に置いてから椅子に座った。
「一つ訊いていいですか?」
八雲は、大きく伸びをしながら頷《うなず》いた。
「ここって、映画研究同好会の部屋ですよね。斉藤さん以外の人はいないんですか?」
「いないよ。だってここはぼくの部屋だから」
「どういうことですか?」
晴香は、形のいい眉《まゆ》を歪《ゆが》めて訊きかえした。
さも当たり前のように話を進めているが、事情が飲み込めない。
「そもそも映画研究同好会なんて存在しない」
「でも、ここは……」
「簡単な話さ。学生課に行って、適当な学生の名前を借りて、同好会を作ったから部屋を貸して欲しいって申請しただけだよ。秘密の隠れ家みたいなもんだ」
「完全に私物化してるじゃないですか」
「そうだよ」
「本当に最低の人ですね。大学まで騙《だま》してる」
「あ、その三千円返すよ」
八雲は、晴香の抗議を聞き流し、テーブルの上の千円札を指差した。
「インチキがバレたからですか?」
「インチキじゃないと思ったから戻ってきた。そうだろ?」
否定はしないが、何でも分かっているみたいな言い回しに腹が立った。
「それは……」
「あったんだろう。お母さんの指輪」
八雲は、頭の後ろで両手を組み、背もたれに寄りかかった。
「どうしてそれを知ったんですか?」
晴香は、大きな目を瞬かせながら訊いた。
八雲は返事をしなかった。
顎《あご》を突き出した表情が、もう説明しただろうと言いたげだ。でも、そんなことで納得はできない。
「教えてください」
「だから、君のお姉さんに聞いたんだよ」
「嘘。あなたみたいなインチキ、幽霊が見えるとか言って、お金を騙し取るんでしょ」
晴香は、身を乗り出すようにして、八雲に詰め寄った。
八雲は、長く白い指先でトントンとリズミカルにテーブルを叩《たた》き、何かを思案している様子だった。
やがて、指の動きが止まり、切れ長の目が、真っ直ぐ晴香に向けられる。
「じゃあ、こうしよう。その問題の廃屋に一緒に行く」
「一緒にって、私とあなたがですか?」
「ほかに誰がいるんだ?」
「そうですけど……」
この人は、いちいち――。
「一緒に行動していれば、ぼくが言っていることがインチキかそうじゃないか、分かるだろ。ドアの鏡みたいに」
「………」
すぐに返事ができなかった。
ドアの鏡のトリックを見抜いたのは、単なる偶然。次も見抜けるという保証はない。
晴香は、黒目がちの目で、じっと八雲の顔色を窺《うかが》った。
嘘が見抜けると思ったのだが、甘かった。
今にも眠ってしまいそうな眼差《まなざ》しで、頬杖《ほおづえ》を突いている。
「ま、ぼくはどっちでもいい。正直、君の友達がどうなろうと知ったこっちゃないんだ」
八雲の言ったその一言で、晴香の心は決まった。
問題の場所に行く前に、美樹に会っておきたい。
八雲の要望で、晴香は八雲を美樹のいる病院まで案内することになった。
大学から歩いて二十分。駅の構内を抜けて北口を出て、大通り沿いに二百メートルほど歩いたところに、その病院はある。
歩道を並んで歩きながら、晴香はちらっと八雲の横顔を見た。
真っ直ぐ伸びた鼻筋に、尖《とが》った顎。黙っていれば、モテそうだが、彼にはどこか人を寄せ付けない雰囲気が漂っている。
「なんだ?」
視線に気付いたのか、八雲が冷ややかな視線を送ってくる。
「一つ訊いていいですか?」
「一つだけだ」
「あなたは、除霊《じょれい》とかそういうのができるんですか?」
「そんな器用な真似《まね》できないよ」
「え?」
晴香は八雲の答えに面食らった。
自信満々だが、どうやって美樹を助けるつもりなのだろう?
「何度も言うが、ぼくはただ死んだ人の魂が見えるだけだ」
「でも私の友だちを助けるって……」
「助けられるかもだよ。もしかしたらってこと」
八雲は、さも当たり前のように言う。
「そんなの無責任です。今やってることも意味ないじゃないですか」
「そうでもない」
「どうしてです?」
「見えるってことは、そこに何があるか分かるってことだよ。何があるか分かれば、なぜかが分かる。なぜかが分かれば、その原因を取り除いてあげることもできるかも知れない」
理屈は分かる。
だけど、具体的にどういうことなのか? 全然イメージが湧《わ》かない。
そうこうしているうちに、病院に辿《たど》り着いてしまった。
釈然としないけれど、しばらく一緒に行動してみるしかなさそうだ。
白い壁の、四階建ての病院。
アスファルトの駐車場を抜け、正面の受付で、看護師の指示に従い、面会者|名簿《めいぼ》に記入をして、待合室の一番奥にあるエレベーターに乗り込んだ。
「こっちも一つ訊いていいか?」
エレベーターのドアが閉まるのと同時に、八雲が口を開いた。
「失礼な質問でなければ」
晴香は警戒の色を濃くしながら答える。
「例の廃屋に行ったのは三人だよな。ほかの二人はどうしたんだ?」
「和彦も、祐一君も、怖くなってその場から逃げ出してきたらしいんです。でも、祐一君はキャンパスの出口で、みんなとはぐれたことに気付いて、怖かったけど引き返したんです」
「なるほど」
「雑木林まで戻ったところで、茂みに倒れている美樹を見つけて……。それで美樹を連れて逃げたらしいです」
「その時、意識はあったのか?」
晴香は首を左右に振った。
「美樹が全然目を覚まさなくて、それでそのまま病院に連れてきたらしいの。翌朝になって、祐一君から連絡があって、それで私も……」
「もう一人の和彦ってのは?」
「知らないわよ、あんな奴。彼氏なのに、美樹を置き去りにしたんですよ」
「別に、ぼくが見捨てたわけじゃない」
八雲が言うのと同時に、エレベーターのドアが開いた。
晴香の先導で、廊下を進み、三つ目の病室の前で立ち止まり、ドアをノックして中に入った。
ベッドが四つ並んだ大部屋ではあるが、美樹が寝ている一番手前のベッド以外は、全て空いていた。
美樹の腕からは、点滴のチューブが伸びている。
おそらく栄養剤か何かだろう。目は開いているのだが、虚《うつ》ろな状態で、何も見えていないようだった。
額に汗を浮かべ、顔色も蒼《あお》ざめている。微《かす》かに聞こえるふゅー、ふゅー、という風船から空気が抜けるような呼吸音が聞こえなければ、死体と区別がつかない。
「こんな状態なのに、お医者さんは身体に特に異状はないって。おそらくストレスからくる疲労だろうって……。昨日まで元気に話していた人が突然こんなになると思います?」
晴香は、興奮気味にまくしたてたのだが、八雲はまるで聞いていない様子だった。
ベッドの脇に立ち、じっと美樹の様子を窺っている。整った眉《まゆ》の間に皺《しわ》が寄り、それまで眠そうだった八雲の目が、険《けわ》しいものになっている。
「何か見えるんですか?」
同じ人物とは思えないほどの雰囲気の違いに戸惑いながらも、晴香は声をかける。
「君は誰だ?」
八雲が、囁《ささや》くように言った。
「……すけて……たすけて……お……ねが……い……」
美樹の口が開き、獣の唸《うな》りのような声が漏《も》れる。
八雲は、美樹に覆《おお》い被《かぶ》さるような姿勢になり、耳を口元に近づけた。
「……だして……ここから……」
再び、美樹の口が動き、声が発せられる。
「君は、今どこにいるんだ?」
八雲は、今度は美樹の顔を両手で押さえて、美樹の目をじっとのぞき込む。八雲に見つめられて、美樹の瞳《ひとみ》が微《わず》かに動いたような気がした。
「……見えない……ここはどこ……出して……」
「今、君はどこにいるんだ? 教えてくれ」
美樹は何も答えなかった。さっきまで弱々しかった呼吸が、激しいものに変わった。
ぜー、ぜー、と喉《のど》が鳴る。
「いやぁ!」
美樹は突然金切り声をあげると、両手を天井に向かって突き出し、背中を逆エビの状態に反り返らせる。
何? 何が起きているの?
晴香が混乱しているうちに、美樹は脱力したように腕を下ろし、死人のように動かなくなった。
八雲は何も言わずに、ただ深い溜《た》め息を吐き出し、足早に病室を出て行く。
「ちょっと」
晴香は急いで八雲の後を追って病室を出た。
八雲は病室を出てすぐの廊下で、壁に寄りかかり、左の額と目の辺りを手で押さえていた。
呼吸が乱れていた。苦しそうに、肩を大きく揺らしている。
「大丈夫ですか?」
晴香は、八雲に歩み寄り、顔を覗《のぞ》き込もうとした。しかし、八雲はそれを避けるかのように急に姿勢を正すと歩き始めた。
左手は、額と目を押さえたままだ。
「痛むんですか?」
晴香は八雲の背中を追いかける。
「いや」
「診てもらった方が、いいと思います」
「うるさい!」
振り返り様に、八雲が鋭く言い放つ。
額からは大量の冷や汗が噴き出し、大きく見開かれた目で、晴香をじっと睨《にら》みつけている。
「な、なんですか……」
晴香は八雲の苦渋《くじゅう》に満ちた眼差《まなざ》しを、正面から受け止めながら言う。
「言っても無駄だ」
「言わなきゃ分かりません」
「君は質問が多すぎる」
八雲は、晴香から逃げるように足早に歩き出す。
「もう。少しは説明してよ」
晴香は文句を並べながら、小走りで八雲の後を追いかけた。
「ねえ、病室で何か見えたの?」
晴香は、エレベーターに乗り込みながら、改めて質問をぶつけてみる。
しかし、八雲は何も答えない。
エレベーターの壁に背中を預け、腕組みをしながら不機嫌そうな顔をしている。
もう――。
「教えてくれてもいいじゃないですか。一緒に行くって言ったのは、斉藤さんですよ」
「後悔してるよ」
八雲は、ガリガリと髪をかきまわすと、ようやく説明を始めた。
「君の友だちには、女の霊がとり憑いている。おそらく、ぼくらと同じ歳くらいだろう。ただし、死んだ当時ってことになるけど……髪の毛は肩くらいまで。目の下に黒子《ほくろ》がある」
「それで?」
「暗い。真っ暗な部屋……せまい……水の滴る音……空腹……重い空気……苦しい……恐怖……恐怖……恐怖……」
「どういうことですか?」
「そんなに簡単に分かったら苦労しないよ。少しは君も考えてくれ」
「アホみたいに言わないでください」
「違ったのか?」
エレベーターが一階に到着し、八雲はふたたび足早に歩き出す。
晴香はまた小走りで八雲を追いかけるはめになった。
※  ※  ※
秋の夕暮れは独特の色を出す。
空一面が、色鮮やかなステンドグラスに覆われたように見える。
病院を出た晴香と八雲が駅前に辿《たど》り着くと、人だかりができていた。
帰宅ラッシュの時間ではあるのだが、それとは明らかに様相が違う。
駅のホームに入れない人々が改札から溢《あふ》れかえっている。
通りには救急車が停車していて、今まさに救急隊員が降りてくるところだった。
電車の運行状況を示す電光掲示板には〈人身事故のため上下線ともに運行を見合わせています〉の文字が流れている。
「当駅で人身事故が発生したため、現在列車の運行を見合わせております! 事故処理がありますので、申しわけありませんが一旦《いったん》改札の外に出て下さい」
駅員が大声で叫んでいた。先を急ぐ人と、ヤジ馬がごちゃまぜになり、犇《ひしめ》きあっている。
「人身事故みたいですね」
「見れば分かる」
八雲が腕組みしながら言った。
本当に、この人はいちいち――。
「あ、高岡《たかおか》先生」
晴香は、人混みの中に、知っている顔を見つけて声を上げた。
「高岡先生?」
「ゼミの先生です。ちょっと待っててください」
晴香は人混みを掻《か》き分けながら、高岡に向かって進んでいく。
「高岡先生」
何度もぶつかりながら、やっとの思いでお目当ての人物に辿り着いた。
呼ばれた高岡は、晴香を認めて「ああ」と気の抜けた返事をする。
丸い眼鏡をかけ、一見優男に見えるが、肩幅は広く、がっしりとしている。スーツ姿が板に付いている。
清潔感があり、爽《さわ》やかな印象を与える。
温和な物腰と、親しみ易い人柄から、女子学生には結構人気があった。
「先生。何かあったんですか?」
晴香の問いかけに、高岡は視線を泳がせ、少し迷った様子をみせたが、やがて口を開いた。
「市橋《いちはし》君が、電車に飛び込んで……」
「市橋って、祐一君ですか?」
高岡は、頷《うなず》いた。
「飛び込んだって、もしかして……」
トクンと音をたてて心臓が脈打った。喉が干上がっていく。
信じられない――。
「自殺だ」
「そんな……」
友だちが、次々と災難に巻き込まれていく。しかも、廃屋に肝試しに行った二人だ。
「私も信じられない。まったく気がつかなかった」
高岡は苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したみたいな顔をしている。
「先生の責任ではないです」
「晴香君は、市橋君から何か聞いていなかったかい?」
晴香は、高岡の問いに首を左右に振った。どうせ、話しても信じてもらえない。
重苦しい空気が流れた。
そうこうしているうちに、高岡は駅員らしき人物に呼ばれて、駅長室の方に歩いていってしまった。
「何事だ?」
いつの間にか八雲が隣に立っていた。
「祐一君が自殺したって……」
改めて口にしてみると、それが物凄《ものすご》く恐ろしいことだと実感する。
昨日、電話で話した時には、自殺なんてするとは思えなかった――。
「祐一っていうのは、例の肝試しをしに行った三人のうちの一人か?」
晴香は頷く。
足が震え、立っているのがやっとの状態だった。
「行方不明のもう一人も、捜した方がよさそうだな」
八雲が、ガリガリと髪をかきまわしながら言った。
「昨日までは、普通だったんです。それなのに……」
喉《のど》が詰まって、途中からうまく言葉が出なかった。
「確証はないが、断言できる。彼は自殺じゃない――」
八雲が、真っ直ぐ駅の改札口の方向も見ながら言った。
あまりに唐突なその言葉に、晴香は目を丸くする。
自殺じゃない――。
「どういうことです?」
「確証はないと言っているだろう」
八雲が、ジーンズのポケットに手を突っ込み、足元に視線を落としながら歩き始めた。
「美樹に憑いているっていう幽霊の仕業――」
晴香は、後を追いかけながら声をかける。
「それは、あり得ない[#「あり得ない」に傍点]」
「あり得ない?」
「君の友達に憑いた魂は、何かに怯《おび》えているようだった。悪意ではない」
「怯える……。悪意……?」
「少しは自分の頭で考えてみたらどうだ?」
この人は、いちいち――。
「考えても分からないから訊《き》いてるんです」
八雲が、ぴたっと足を止めた。
怒られるかと思ったが、違った。
「今回の事件にはおそらく生きた人間がかかわっている」
八雲は、筋雲が浮かんだ暮れ行く空を見上げながら言った。
生きた人間がかかわってるって――。
「どういう意味です?」
「それを調べるんだ」
「はあ」
「今日はここまで。あとは明日だ……」
八雲の一方的な宣告により、行方不明の和彦の行方を分かる範囲で確認しておくという役目を仰せつかり、その日はその場で別れた。
晴香は午前中の講義を終え、約束通り昼過ぎに八雲の隠れ家を訪れた。
昼過ぎだというのに、八雲は相変わらずの寝ぼけ顔である。
「おはよう」
晴香は、声をかけながら、八雲の向かいの椅子に座った。
「それで?」
不機嫌そうに八雲が切り出す。
晴香は何度か和彦の携帯電話に連絡を入れたが、電源が入っていないらしく、連絡がとれなかったことを伝えた。
わかる範囲で和彦の知人に聞いてみたりもしたが、誰も知らなかった。
事件以来、消息不明ということになる――。
「話を整理してみよう」
八雲は、言いながら大口をあけてあくびをする。
「もう一度肝試しに行ったときの詳しい状況を話してくれ」
「整理?」
八雲の申し出を受け、晴香は記憶を手繰り寄せながら、三人が肝試しに行ったときの状況説明を始めた。
何か疑問点があって質問されても、答えられない。
祐一から聞いた話を、できるだけ正確に再現しているだけで、実際自分がその場所にいたわけではない。
確認したくても、当の祐一は死んでしまっている。
話を終えるのと同時に、八雲は寝グセだらけの髪を、ガリガリとかきまわし、腕組みをした。
「これから、どうするんですか?」
怒られることを承知で、訊いてみる。
「そうだな、まずは、君の友達に憑《つ》いている魂が誰なのか? それを調べる」
「心当たりは?」
「あると言えばあるかな?」
「いつも曖昧《あいまい》なんですね」
「世の中は曖昧なことばかりだよ」
八雲が、すっと立ち上がった。
※  ※  ※
晴香が、八雲に連れられて来たのは、A棟の地下にある資料室だった。
この部屋には、何度か入ったことがある。
五十坪ほどの広さがある白壁の部屋で、天井までの高さの移動式キャビネットが規則正しく並んでいる。
学生名簿や、授業の資料などが保管してある。
「こんな所で何を調べるんですか?」
「ぼくの勘では、君の友だちに憑いていた魂は、この大学の学生だった人間だと思う」
「まさか、手当たり次第探すつもりですか?」
「そのつもりだ」
八雲が、さも当たり前だという風に答える。
そんな原始的な方法で探していたら、
「この大学に入学した学生が、何人いると思っているんですか? ここで歳とっちゃいますよ」
晴香は部屋の奥に、三台並んでいるパソコンラックの前に座り、マウスをクリックする。
スクリーンセーバーが解除され、パスワードの入力を求める表示が出る。
「パソコンで検索するのはいいが、パスワードはどうするんだ?」
八雲が、腕組みをして鼻を鳴らす。
「去年、ここのデータ整理をやったんです。人手が足りなくて、何人か学生がアルバイトをしたんです」
「その中の一人が、君ってわけだ」
「はい」
「まさか、君はその時からパスワードが変わってないとでも思ってるのか?」
確かにそれは一理ある。
でも、試さないよりいい。あの時のパスワードは、学校の創立記念日の数字を羅列《られつ》したものだった。
テンキーで数字を入力し、エンターキーを叩《たた》く。
モニターに画面が表示される。なんだか、勝った気がする。
「あきれたセキュリティーだ」
八雲がため息混じりに言った。
「これだけ膨大な資料を手当たり次第調べようとするのも、十分にあきれた行為ですけど」
晴香は、今までの恨みを込め、言ってやった。
八雲は珍しく何も言い返さないで黙っている。平静を装っているが、きっと内心は穏やかではないだろう。
晴香は学生名簿の入っているファイルをクリックする。氏名、住所、生年月日、連絡先、所属学部などが配列された画面が出てくる。
「写真も取りこんであるのか?」
八雲が画面を見ながら感嘆《かんたん》の声をあげた。
「ここ十年分だけですけど」
「充分だ」
「それで、誰を調べるんですか?」
「ユリという名前。漢字は分からない」
晴香はフリガナの欄《らん》にユリと入力して検索《けんさく》をかける。対象者が二百人近く出てきた。
「これだけじゃ厳しいですね。ほかに何か情報はないんですか?」
「性別は女性」
「分かります」
「目の下に黒子《ほくろ》がある」
「検索できません」
そこで、会話が止まってしまった。
いきなり手詰まりだ。晴香も、考えをめぐらせてみたが、何も思いつかない。
苛立《いらだ》たしげに髪をかき回していた八雲が、不意に顔を上げた。
「休学、もしくは退学になっている人間で検索できるか?」
そうか。それなら、対象者はぐっと絞られる。
「多分できます」
晴香は端末を操作する。対象者が三人に絞られた。
三人の女性の写真を、一人一人確認していく。
「彼女だ!」
二人目の女性の写真を見たところで、八雲が声を上げた。
篠原由利《しのはらゆり》。文学部、教育学科。休学中。
長い髪を、後ろで束ね、度の強そうな眼鏡をかけている。八雲の言うように、目の下に黒子もあった。
全体的に、神経質そうな雰囲気がある。
私――。
「この人知っているわ」
隣に立つ八雲を見上げながら言った。
「友人か?」
「一年の時、同じゼミだったの。直接話したことはないけど、何度か姿を見たことある。先月の終わりくらいから、急に大学に来なくなったの」
「休学の理由は?」
「そこまでは……。でも、行方不明らしくて。ご両親が警察に捜索願を出したとかで、ちょっとした騒ぎになってました」
「行方不明ねぇ」
八雲が、シャープな顎先《あごさき》を撫《な》でるようにしながら言った。
ここまでくると、単なる偶然として片付けられるものではない。
「そうだ! 高岡先生が何か知ってるかもしれない!」
晴香は興奮を抑えきれずに早口に言う。
しかし、八雲は冷静そのものである。人差し指を耳につっこんで、うるさいと言いたげな表情をしている。
「もう少し落ち着いて話してくれ。そもそも高岡先生とは誰だ?」
「忘れたの? 昨日、駅で会ったでしょ。あれが高岡先生。私たちのゼミの担任なんです」
「あんまりあてにならないね」
八雲が、あくびをしながら言った。
「誰にでも否定的なんですね」
「君は誰でも信じるのか?」
「あなた以外は」
「そりゃ光栄だ」
八雲は晴香の嫌《いや》みを気にする風もなく、ポケットから携帯電話を取り出すと、電話をかけはじめた。
「あ、後藤《ごとう》さん? ちょっと頼みたいことがあるんです……」
電話が繋《つな》がったらしく、八雲が話し始める。
相手の声は聞こえないが、話の内容はだいたい分かった。篠原由利に関することで何でもかまわないので調べてほしいというものだった。
八雲は用件だけ告げると一方的に電話を切ってしまった。
「今の、誰ですか?」
素性調査を依頼できるような人物の想像がつかず、訊《き》いてみた。
「知り合いだ」
「その人は行方不明の人の消息なんて分かるんですか?」
「可能性がなきゃ、わざわざ電話なんてしない」
それはそうなのだが、電話一本で行方不明者の消息が調べられるなんて、いったいどういう知り合いを持っているのだ。
晴香が考えをめぐらせている間に八雲はドアを開けてさっさと出て行ってしまった。
「まただ」
本当に、自分勝手なんだから。うんざりしながらも八雲のあとを追って部屋を出た。
「晴香君」
資料室を出たところで声をかけられた。
ふり返ると、さっき話題にのぼったばかりの高岡が歩いてきた。
「先生――」
晴香は一瞬八雲を追うべきか迷ったが、結局立ち止まって、高岡の到着を待つことにした。
「昨日は大変だったね」
「いえ、そんなことは――。先生のほうが大変そうです」
高岡は昨日よりあきらかにやつれた顔をしている。自分の教え子が死んだのだから当然かもしれない。
逆に微笑みかけられたりしたらどう反応したらいいのか分からない。
「そうでもないさ。もちろん元気というわけではないがね」
高岡は表情をゆるめてみせたが、それがよけいに痛々しかった。
「とにかく、こういう時、無理は禁物だよ」
「先生も――」
「そうだな」
高岡は苦笑いを浮かべながら言うと、晴香に背を向けて歩き出した。
「あ、あの。先生」
晴香は歩き去ろうとする高岡を呼び止めた。
高岡は歩みを止めてふり返る。
「何だね」
「いや、あの……」
晴香は言葉に詰まってしまう。
由利のことを高岡に訊かなくてはという思いから呼び止めたまではよかったが、どう切り出したらいいのか分からない。
「どうした。気にせず言ってみるといい」
晴香の心情を察したのか、高岡が話の先をうながす。
その言葉に甘えて話を始める。
「先生、篠原由利さんて覚えていますか?」
「覚えてるよ。今、大学を休んでいる子だね」
「はい。行方不明になっています」
「そうだったかな……。しかし、なぜ突然篠原君のことを訊くんだい?」
高岡は怪訝《けげん》な表情を浮かべる。
当然の反応だ。
「今は詳しく話せませんけど、もしかしたら今回の祐一君の件に関係があるかもしれないんです」
「市橋君の?」
「はい。何か、覚えていることはありませんか?」
「覚えていることねえ……」
高岡は顎をさすりながら記憶の糸をたぐり寄せているようだった。
「何でもいいんです。行方不明になる前の様子とか、仲のいい学生や、恋人とか……」
晴香は高岡が記憶を呼び覚ます手伝いをしようと考えられる事柄を羅列する。
「恋人か――」
高岡は何か思い出したのか、急激に口を開けてあっという表情をした。
「何か思い出したんですか?」
「ああ、篠原君には確か恋人がいたな。一学年上の相澤君ではなかったかな?」
「相澤ってオーケストラサークルの?」
「そう、そう、その相澤君だ」
晴香は驚きのあまりそれ以上言葉を発することができなかった。今、高岡が口にした人物の名前を晴香は知っている。
「ちょっと、用事を思い出したので失礼します」
この事実を、早く八雲に伝えなければ。
晴香は、その衝動に駆られて、高岡に一礼すると、廊下を走り出した。
廊下の最初の角を曲がったところで、急に八雲の姿が目に飛び込んできた。
「そんなにあわててどこに行く」
八雲が、あくびをしながら言った。
「あっ」
人間、急には止まれない。晴香は転びそうになりながら急停止して、あと戻りするはめになった。
「話はだいたい聞こえていたよ」
いったいどんな地獄耳だ。でも、聞いていたなら話は早い。
「由利って人の彼氏、相澤さん」
「聞こえていたと言っているだろ」
ならもっと驚け! 晴香は叫びたくなる気持ちをぐっとこらえた。
「相澤|哲郎《てつろう》さんは、私に、あなたを紹介してくれた人物ですよ。これって、ただの偶然にしては怪しくないですか?」
「君の方が百万倍怪しい」
八雲は興味なさそうにすたすたと歩き出した。
本当に、なんて男だ!
晴香が八雲に連れられてやって来たのは、校舎の裏手にあるプレハブの小屋のような建物だった。
大学の用務員の部屋として使われている場所だ。
なぜ、こんな場所に足を運んだのか? その理由をいくら問い質《ただ》しても、八雲は答えようとはしなかった。
「こんにちは」
八雲は入り口のドアの前で声を上げる。
反応が無いと分かると、八雲は勝手にドアを開け、部屋の中に足を踏み入れた。
「ねぇ。勝手に入っちゃっていいの?」
晴香は、さすがに中に入る気にはなれず、八雲の背中越しに部屋の中を覗《のぞ》いた。
入り口からすぐのところに、長テーブルとパイプ椅子が置かれている。その奥には冷蔵庫と流し台。壁にはスコップやら鎌《かま》やら農機具が立てかけてあった。
「ねえ。マズイんじゃないの?」
八雲の背中に呼びかけるが、無視された。
晴香が、はぁっとため息を吐くのと同時に、部屋の奥にあった、裏口と思われるドアからぬうっと人影が現れた。
「きゃっ」
晴香は、反射的に飛び退《の》いた。
「お、お、お前ら、な、な、なにをしている」
部屋に入って来たのは、グレイの作業服を着た中年の男だった。
細面で、皺《しわ》が深い。鼻の頭と頬が、赤く染まっていて、肌も浅黒い。典型的なアルコール依存症といった感じだ。
名前は知らないが、何度か学内で姿を見たことがある。
この大学の用務員をしている男で、いつもずるずる左足を引きずりながら歩いている。
本当かどうかは知らないが、以前、ある女子学生が、この用務員にイタズラをされそうになったという噂を聞いたことがあった。
少し、身構えてしまう。
「突然すみません。実は裏手の廃屋の鍵《かぎ》を貸していただけないかと思いまして」
勝手に侵入したのを見つかったにもかかわらず、八雲は落ち着いた口調だった。
「あ、あ、あんな所に何しにい、い、く」
男はセミのように、耳に突き刺さる声で言う。
「実は、友だちがこの前、あの建物で肝試しをしたらしいんです」
「肝試し?」
「ええ。それで、その時に大事なものを落としてしまったらしくて、捜しに行きたいんです」
八雲は、予《あらかじ》め考えていたかのように、すらすらと出任せを並べる。
用務員の男は、八雲のつくり話を疑っている様子はなかったが、太い眉《まゆ》の間に皺を寄せ、露骨にあきれた表情を浮かべる。
「お願いします。山根《やまね》さん」
八雲が頭を下げた。
この用務員の男は山根というのか? 彼の名前を初めて知った。
山根は、足をずる、ずる、と引きずりながら、壁際のキーボックスまで進むと、中から鍵を取り出し八雲に向かって投げてよこした。
「か、か、鍵は今日中に返さなくていい。もう帰るから」
「ありがとうございます」
「き、き、肝試しなんてバ、バカなまねはもうするなよ」
「やっぱり出るんですか?」
八雲がおどけて幽霊のマネをする。
「そ、そうじゃないが……た、建物が古い。ら、来月には壊す……」
「なるほど、分かりました」
八雲は部屋を出ようとしたところで、はたと動きを止め、山根を振り返った。
「あの、あそこにダイヤル式の南京錠《なんきんじょう》ってありますか?」
「さ、さあ。し、し、知らないね。あ、あそこには何の用事もないから、い、今まで一度も入っていない」
八雲はもう一度礼を言って部屋から出てきた。
「ねえ、なんであの用務員の人の名前知ってたの?」
疑問をぶつけてみる。
「作業服に名前が刺繍《ししゅう》してあったろ。君はいったい何を見ている」
なるほど――。
※  ※  ※
晴香が、廃屋の前に立った時には、もうすっかり陽は暮れていた。
遠くに見える山の稜線《りょうせん》に、かすかに青い色が残っているだけだった――。
静かだった。木の枝を揺らす風の音が、必要以上に大きく聞こえる。
建物の不気味さに加えて、祐一が死んだという事実が、晴香の胸に重くのしかかる。
意識を集中していないと、立っていられないほどに足がすくんでしまっていた。
友だちのためとはいえ、とんでもないことに首を突っこんでしまった。後悔の念を抱かずにはいられなかった。
ちらっと隣に立つ八雲に視線を向けた。
彼に動揺している様子はない。おおぐちをあけてあくびをすると、目に浮かんだ涙をゴシゴシと腕で拭《ぬぐ》っている。
「いざとなったら助けてよ」
掴《つか》みどころのない男だが、頼りになる人間はほかにいない。
「努力はするけど、保証はできない」
政治家の答弁みたいだ。
「訊《き》いた私がバカだったわ」
一番の間違いは、この斉藤八雲という男に関わってしまったことなのではないか? そんな気さえしてくる。
「怖くなったのか?」
「別に。平気です」
八雲に言われて強がってみたが、喉《のど》に意識を集中しないと、声が震えてしまう。
「じゃあ、行くか」
八雲はドアの前に立ち、借りてきた鍵の一つを鍵穴に差し込んだ。
だが、意味はなかった。鍵を回す前にドアは開いた。
無言のまま、二人並んでドアを押し開け、建物の中に足を踏み入れた。
懐中電灯の光が、室内を照らし出す。
外から迷い込んだ落ち葉が、床に散乱している。
それを踏む度に、バリッという音が響く。
部屋の奥へと通じる廊下を、慎重に進んで行く。
空気がこもっていて、黴臭《かびくさ》い。息苦しささえ感じる。
八雲は懐中電灯を使い、左右にある小部屋を照らし、中の様子を観察していく。
どの部屋も同じ作りのようだ。正方形の部屋にベッドが一つ、窓が一つ。ここは、もしかしたら学生寮か何かに使われていたものかもしれない。
晴香は、暗闇で八雲とはぐれないように、彼のワイシャツの裾《すそ》をつまみ、足元に注意しながら歩く。
――と、急に八雲が立ち止まった。
「君の友達が幽霊を見たのは、この廊下の突き当たりにある開かずの間だったな」
「はい」
「ダイヤル式の南京錠があって部屋の中には入れなかった」
「私も訊いた話だから確かじゃないですけど……」
「これ」
八雲が、屈《かが》み込むようにして、何かを手にとった。
じゃりじゃりっと小銭を擦《こす》り合わせたような音がする。
「何、それ」
八雲は、晴香にも分かるように懐中電灯で照らす。
そこにあったのは、地面まで垂れ下がった鎖と、ダイヤル式の南京錠だった。
「切断された跡はない。〈7483〉の数字が合わされている……誰かが開けたんだ」
晴香は、状況が飲みこめず、八雲の顔を見る。
「開かずの間のドアが、開いている――」
八雲は鎖を足元に置くと、目の前のドアに手をかける。
晴香の背筋に冷たいものが走る。祐一の話では、この部屋の中に何かがいたのだ。
「待ってください」
思わず声をかけた。
晴香の制止が八雲の耳に届く前に、錆《さ》びた金属の擦れる音がして、ドアが開いた――。
恐怖に身を硬くしたが、何も起きなかった。
目を閉じているのでは? と疑いたくなるほどの、深い闇が広がっている。
八雲は、懐中電灯を使って部屋の中を照らした。
部屋の中は、他の部屋と変わらない間取りになっている。ベッドが一つだけ置いてあり、ほかには何もない。
でも、何かが違う気がした。
すえたような臭いが鼻につく。
「何か不気味ですね」
晴香は、八雲の背中越しに部屋を見ながら言う。
「窓のせいだ」
「窓?」
懐中電灯の明かりを頼りに、部屋を見回してみる。
八雲の言うとおりだった。他の部屋には小さいながらも、窓が付いていた。しかし、この部屋には一つもない。
八雲は、ゆっくりとした足取りで部屋の中に入って行く。
晴香も、それに引き摺《ず》られるように、部屋に入った。
その瞬間、水中にいるように、急に空気が重くなったような気がした。
八雲は、黙って周囲に目を凝らす。
部屋の中には、特に目立ったものはないように思える。
「何かありました?」
晴香は、ワイシャツの裾を、ぎゅっと握り締めながら訊いた。
「何もない。でも、何かあるはずだ」
「それが分かれば、美樹は助かるの?」
「分からない。ただ、可能性はある。君の友だちに憑《つ》いていた魂は、この部屋にある何かに怯《おび》えていた」
八雲は、コンクリートの床に跪《ひざまず》き、丹念《たんねん》に視線を這《は》わせる。
晴香も、同じように屈んでみたが、何も見つからない。
「これか……」
不意に、八雲が呟《つぶや》いた。
「え? 何?」
「ここを見てくれ」
八雲が、ベッドの足の部分に懐中電灯の光を当てた。
目をこらして見るが、よく分からない。
「何です?」
「ここだ」
八雲が人差し指で、床の一点を指し示した。
そこには、何かを引き摺ったような跡が見てとれた。ベッドの位置を動かしたということだろう。
でも――。
「これがどうしたんですか?」
「なぜ、ここのベッドだけ動かしたんだ?」
八雲は呟きながら、ベッドの下を覗《のぞ》き込もうとした。
そのときだった――。
〈危ない! 後ろ!〉
突然女の子の叫び声が聞こえた。
晴香はビクッとして声のした方をふり返る。
そこには、人が立っていた。暗くて、顔はおろか、相手の性別すら分からない。
ただ、手に棒のようなものを持っていることだけは分かった。
それを大きくふりかぶる。スコップだ。それが、晴香の頭めがけてふり下ろされる。
恐怖に凍りつき、身じろぎ一つできなかった。
ごつっ!
晴香は大きな石が地面に落下したような音を聞いた。
腰の力が抜けて崩れ落ちる。痛みはなかった。
「ぐぅ……」
晴香はうめき声を聞いて目を開く。
「!」
目の前に、八雲がうつ伏せに倒れていた。
両足をふんばって起き上がろうとしている。思うように体が動かない様子で、四つんばいの姿勢になるのがやっとだった。
ポタポタと顔から血が流れ出している――。
私をかばったの? 混乱の極みの中で晴香はそれだけを感じ取った。
「だ、大丈夫……」
「に……逃げろ……」
八雲は額を押さえながら掠《かす》れた声で言う。逃げろと言われても、置き去りにするわけにはいかない。
「……いいから! 早く逃げろ!」
八雲が吼《ほ》えた。晴香は、反射的に立ち上がった。
「早くしろ! バカ!」
八雲がふたたび吼える。
晴香は正直まだ迷っていた。
「でも……」
「いいから行け!」
八雲の迫力に圧《お》されて、晴香はドアに向かって走り出した。
しかし、ドアの前には、黒い影が待っていた。
どん! と肩を押され、部屋の奥まで突き飛ばされた。
黒い影がゆっくりと近づいて来る。
逃げたくても背中は壁に密着している。これ以上|退《さ》がりようがない。
影がふたたびスコップをふり上げる。
胸の前で、ぎゅっと拳《こぶし》を握り締めることしかできなかった。
もう駄目だ――。
その瞬間、猛然と、何かがその影に体当たりした。
縺《もつ》れ合うようにして倒れる二つの影。
ゴツ、ゴツと何度もぶつかりあうような音がする。
晴香はただ、硬直して成り行きをみているしかできなかった。
不意に影のうちの一つが立ち上がった。
「逃げるぞ!」
聞き覚えのある声。八雲だ。
無事だった。
〈伏せて〉
また、女の子の声がした。意味が分からないでいる晴香に対して、八雲が素早く反応した。
八雲は、晴香の頭を抱え込むようにして床に伏せる。
ブンと風を切る音とともに、頭上をスコップが水平に通過する。
ガツッと壁にぶつかり火花を散らした。
八雲は、混乱の収まらない晴香の腕を引っ張り部屋を飛び出した。
「おぉ!」
咆哮《ほうこう》と共に、後ろから影がスコップをふりかざして追って来る。八雲は体当たりをしてドアを閉じる。ゴンッと鈍い音がした。
八雲はすぐさま床に落ちていた鎖を拾い上げ、ドアに巻きつける。
ガチャ、ガチャ。
ドン、ドン。
向こう側から執拗《しつよう》にドアをこじ開けようと、ドアノブを回したり、ドアをたたいたりしているようだ。
不意に音が止んだ。あきらめたのだろうか? 晴香が思った瞬間、
ガン!
一際大きな音がした。
部屋の内側から、ドアに体当たりしているようだ。
晴香は驚きで肩を震わせる。見ると、ドアに少しすき間ができていた。そこから軍手をはめた手が、ぬうっと出てきた。
晴香は、再び八雲に腕を掴《つか》まれ、ぐいっと引っぱられた。
もはや悲鳴も出ない。
「行くぞ!」
晴香は、そのまま八雲に引きずられるようにして走り出した。
木の枝の跳ね返りが晴香の頬や腕を打った。
不思議と痛みはなかった。ただ、八雲に腕をひかれて夢中で走った――。
どこをどう走ったのかは思い出せない。
晴香は、気がついた時には、八雲の隠れ家である「映画研究同好会」の部屋にいた。
床に座って、呼吸をしているだけでも苦しかった。
額から汗がしたたり落ちる。
心臓の鼓動が、速く、激しく胸の内側を打っていた。
「痛っ……」
八雲が額を押さえて声を上げた。
「大丈夫?」
晴香は、さっき、八雲がスコップで殴られたことを思い出し、慌てて声をかけた。
「ああ」
八雲は頷《うなず》きながらも、歯を食い縛るようにして、表情を歪《ゆが》めていた。
「見せてください」
晴香は、八雲の正面に回り、顔を覗き込んだ。
八雲が、押さえていた手をどける。
右の眉《まゆ》の少し上に、三センチほどの盛り上がった傷口があった。
肉がめくれたようになっている。血は、止まり始めているようだが、浅い傷ではない。
晴香はハンカチを取り出し、八雲の傷口に当てがう。
「大丈夫。自分でやるから」
八雲は晴香からハンカチを取り上げて、自分で傷口を押さえた。
その瞬間、晴香の頬を大粒の涙が伝った。
あれ? 何で涙なんか――。
意識すると逆に止まらなくなった。
何で? 何で泣くの?
「怖かったのか?」
八雲の掌《てのひら》が、晴香の肩にそっと触れる。
とても温かかった――。
張り詰めていた緊張の糸が、いっきにゆるむ。
そうだ、私は怖かったんだ。
スコップを持った影が目の前に立ちはだかった時は、本当に死ぬかと思った。
今までにこれほどの恐怖を味わったことはない。でも、八雲に助けられ、今こうして生きている――。
晴香は小さく頷くと、沸き上がる衝動に任せて、八雲のワイシャツの袖《そで》を掴み、声を上げて泣いた。
八雲は何も言わず、晴香が泣き止むまで、ただじっとしていた。
今まで人前でこんなにも泣いたことはなかった。
お姉ちゃんが死んで以来、泣かないと決めていた。それが八雲の前でもう二回も泣いている。
この不愛想な捻《ひね》くれ者の前ではなぜか心がゆるんでしまう。晴香はそれが不思議でならなかった。
「ごめんなさい……」
晴香はひとしきり泣きじゃくった後に、掌で涙を拭いながら言った。
八雲は、何も言わなかった。それが、余計に気恥ずかしく感じた。
「もう一回、傷口を見せて」
晴香は、断る八雲から強引にハンカチを取り上げ、額の傷を覗き込んだ。
血は完全に止まっていた。
「ちゃんと病院で診てもらった方がいいよ」
「大丈夫だ」
八雲は相変わらずぶっきらぼうに言う。
「何が大丈夫よ。場所が場所だし、異状が出たりしたらどうするの」
「お節介が……」
やっぱりひと言多い。そのひと言で全部台無し。
「あのね、だいたいあなたは……」
言いかけた晴香だったが、八雲の左眼を見て言葉を失った。
蛍光灯の光に照らし出された八雲の左眼の瞳《ひとみ》は、燃え盛る炎のように真っ赤だった。
晴香が今まで見たどんな赤より鮮やかで、深みのある色だった。
「生まれつきなんだ……」
八雲は晴香の視線の先にあるものに気づいたのか、面倒くさそうに言う。
「きれい……」
「は?」
「きれいな瞳」
八雲はしばらく鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしていたが、やがて声を押し殺して笑い始めた。
次第にその笑いは大きくなり、しまいには腹を抱えて笑った。
いったい何がそんなにおかしいのだろう――。
「ねえ、何で笑うの?」
晴香が八雲の肩を叩く。
「だって……傑作《けっさく》だろ。きれいだなんて。君の感性はどうかしているよ」
「何、それ?」
八雲は深呼吸をして笑いを抑えてから言う。
「悲鳴を上げると思った。もしくは、気持ち悪いものでも見るような目で見るか、あるいは哀《あわ》れみだな……」
「何で悲鳴を上げたりするの? きれいなものを見て悲鳴を上げる人はいないでしょ」
「だから君の感性がおかしいと言っているんだ。今まで、ぼくのこの赤い眼を見た人間は、まず悲鳴を上げるか気味悪がるかのどちらかだ。稀《まれ》に哀れみの視線を投げかける奴もいたかな。きれいだなんてすっとぼけたことを言ったのは君が初めてだ」
すっとぼけたって――。ひどい言われようだ。
八雲は一呼吸おいてから、話を続けた。
「きっとさっき殴られた時にコンタクトを落としたんだな」
「コンタクト?」
「普段はコンタクトレンズで隠している。瞳の色を変えられるやつあるだろ、あれだ」
「さっき生まれつきだって言っていたけど……」
「そうだ。生まれた瞬間から赤かった。しかも、左眼だけ開いたまま生まれてきたそうだ。母親までぼくの赤い眼を見て悲鳴を上げたっていうんだから、笑えるよ」
全然笑えない。母親にその存在を気味悪がられるというのは、いったいどれほど深い傷を心に残すものだろうか?
想像などできるはずもない。
「その目のせいかどうかは知らないが、ぼくの左眼は他人には見えないものが見える」
「他の人に見えないもの?」
「そう。前にも言ったが、死んだ者の魂だ。それが、自分にだけしか見えないものだって理解するまでに随分時間がかかったよ。それまでは変人扱い。本当に見えると言っても誰も信じやしない」
それはそうだろう。現に晴香も信じていなかった。
八雲が捻《ひね》くれた態度を取り続ける意味を少しだけ理解した。
今まで誰一人として彼に正面から向き合った人物はいない。
怯《おび》え、奇異、哀れみ、八雲に接してきた人間たちはそれらの感情を前提に八雲にかかわってきた。母親でさえ――。
同情ではなく、せめて自分だけでも八雲に正面から接してみよう。
晴香の中に、そんな思いが芽生えていた。
「痛っ」
八雲がまた声を上げた。
断続的に痛みが襲ってくるようだ。
私を庇《かば》って負った傷。そう言えば、まだ八雲に助けてもらった礼を言っていなかった。
「さっきは、助けてくれてありがとう」
「礼なら君のお姉さんに言ってくれ」
「姉さん?」
八雲の言っている言葉の意味が分からず首を傾げた。
「あの時、君のお姉さんが危険を知らせてくれたんだ。もし、それがなければ君の脳みそは今頃あの部屋の床の上だ」
あの時、晴香も〈危ない〉と叫ぶ女の子の声を聞いた。
「あの声、姉さんだったの?」
「そうだ。ずっと君の後ろに憑《つ》いている。君を見守っているんだ」
「本当なの?」
周囲を見回したが、晴香の目には、何も映らなかった。
「信じるかどうかは君の勝手だ」
「お姉ちゃん……」
昨日までであれば、八雲の言葉など信じなかったかも知れない。
だけど、今は違う。
お姉ちゃんは、今までどんな思いで私を見て来たのだろう? 何を思い、何を考えているのだろう?
「私にも見えたらいいのに。羨《うらや》ましい……」
視線を漂わせる晴香の瞳に、再び涙が浮かんだ。
翌日、昼過ぎに晴香は八雲の隠れ家に向かった。
鍵《かぎ》はかかっていなかった。
昨夜あんなことがあったのに不用心極まりない。
ドアを開けてすぐのところで、八雲が寝袋に包《くる》まって丸くなっていた。まるでイモ虫だ。晴香が爪先で軽く蹴《け》ると、迷惑そうに薄く目を開けた。
「もう昼だよ」
八雲は、眼を擦《こす》りながらモゾモゾと動き出す。
「よく、こんな所で生活できるね」
晴香はパイプ椅子に座り、八雲の身支度を待った。
「時々は帰ってるよ」
「家、あるの?」
八雲は答えずに、冷蔵庫の中から歯ブラシを取り出し、歯を磨き始めた。
なんで冷蔵庫?
「家があるなら帰ればいいのに。両親が心配してるよ」
「心配? それはないね」
八雲が歯ブラシをくわえながら、もごもごと答える。
まるで反抗期の中学生みたいな物言いだ。
「そんな、自分勝手なことがどうして言えるの? 少しは両親の気持ちを考えたら?」
八雲は、そんな話には興味がないという風に、のんきに口を漱《すす》いで、うがいをしている。
「ねえ、人の話、聞いてるの?」
「聞きたくないが耳に入ってくる」
八雲はタオルで顔を拭《ふ》きながら向かいの椅子に腰を下ろした。
眠そうな目は相変わらずだ。
「聞こえてるなら答えてよ」
「もし、心配してたら、殺そうとしたりしないだろ?」
「え?」
「親の話だ」
「?」
ますます分からない。
「ぼくの赤い左眼。見えないものが見える。怖かったのか? それとも憎かったのか? それは分からないけど。ある日、母親はぼくを車で連れ出した」
八雲が、淡々《たんたん》とした口調で続ける。
「ごめんねって言いながらぼくの首に手をかけたんだ。だんだん力が強くなって、意識が薄れていった――」
八雲は、晴香の想像を超える悲劇を、まるで他人事のように語っている。
「そこをたまたま通りかかった警察官に助けられた。母親はその場から逃亡。それ以来、行方不明。父親に至っては、ぼくの記憶するかぎり存在していない」
「そんな……」
何かを言おうとしたけど、言葉が出て来なかった。
八雲の話したようなことは、ニュースやドラマなんかではよく見聞きするが、自分とはまったく離れた世界でしかないものと思っていたのに――。
「世の中には子を愛さない親もいるし、親を愛さない子もいるってことだ」
言い終わるのと同時に、八雲は髪をかきまわして大あくび。
他人を受け入れない態度の裏には、計り知れない大きな傷がある――。
「今は、叔父《おじ》さんの家で世話になってる」
「そうなの?」
「叔父さんは遠慮《えんりょ》しないようにとは言ってくれてるけど、あんまり迷惑はかけられないし、いろいろと事情もあるんだ」
八雲の左眼には、すでにコンタクトが填《は》められていて、黒い瞳に変わっていた。
「私――」
晴香は、長い睫毛《まつげ》を伏せ、唇を噛《か》んだ。
私は、事情も知らずに、好き勝手言ってしまった。なんだか恥ずかしくなる。
「そんなに気にするな」
八雲は、晴香の心情を察したのか口を開く。
「ごめんなさい」
晴香は頭を下げる。
「何で謝る?」
「だって……」
「君はぼくの目を見ても逃げなかった。それだけでいい」
八雲は自分で言っておきながら、自分の口から出たその言葉が意外だったらしく、急に苦虫を噛み潰《つぶ》したみたいな顔をした。
晴香はそれを見て少し笑ってしまった。
八雲が睨《にら》みつけてくる。晴香は、あわてて口を塞《ふさ》ぎ、笑うのを止めた。
「昨日、一つ分かったことがある」
八雲は、よっぽど気まずかったのか、急に話題をかえた。
「何?」
「昨日、ぼくらを襲ったあの影。間違いなくあれは生きた人間だ」
「何でそれが分かるの?」
「ぼくの目は便利にできていてね、右眼は実体のある物しか見えない。左眼は、死んだ人間の魂しか見えない」
八雲が、眉間《みけん》に人差し指を当てながら言った。
「昨日私たちを襲った影は、右眼で見えて、左眼で見えなかったってこと?」
「そのとおり。昨日あの開かずの間が開いていたことも気になる」
「でも、いったい誰が?」
「さあね、候補者はたくさんいるよ」
「用務員の山根さん」
とっさにその顔が頭に浮かんだ。
「可能性はあるね。ぼくたちがあの廃屋に行くことを知ってたわけだし、鍵も持ってるから出入りも自由だ」
「相澤さんも関係あるのかも」
「相澤?」
八雲は首を傾げる。
「ほら、昨日、高岡先生が話していたじゃない。由利さんの彼氏だった人。私に斉藤さんのことを紹介してくれた」
「なきにしもあらずだ」
八雲は腕組みして天井を仰ぎながら言う。
「随分否定的ね」
「そういうわけじゃないが、どうも引っかかる」
「なら、直接|訊《き》きに行ってみようよ。それに高岡先生にも、もう一度話を訊いておいたほうが……」
「調べてみたければ、勝手にすればいい」
八雲が、言葉を途中で打ち切るように言った。
「それって、私一人でやれってこと?」
「役割分担と言ってくれ。ぼくは、他にも幾つか気になることがあるから、そっちを調べる」
確かにその方が効率がいい。
結局、八雲と晴香は夕方にもう一度落ち合う約束をして、別々に行動することになった。
別行動をするに当たって、晴香は八雲に三つの約束をさせられた。
人気のない所に行かないこと。
誰かに何か質問する時は、遠回しに訊くこと。
何か分かったらすぐに連絡すること。
そうすれば、昼間から襲ってきたりはしないだろうが、昨日の今日のことだし、十分に用心をするようにと言い含められた。
※  ※  ※
晴香はさんざん歩き回ったあげく、食堂で相澤をみつけることができた。
授業を途中でさぼったらしく、缶コーヒーを飲みながら求人案内誌を読んでいた。
ここなら人目もあるし、大丈夫だろう。
「相澤さん」
晴香が声をかけて向かいの席に座ると、相澤は顔をあげ人懐っこい笑顔を浮かべる。
背が低く、丸々と太っていて、ぬいぐるみ的なかわいさを持っている。
晴香は頭の中で、由利と相澤を並べてみたが、何となく不釣り合いな感じがする。
「どう? 何か分かった?」
晴香は相澤の問いに首を振る。
分かったというより、よけい混乱したという感じである。
「しかし、小沢も大変だね。あの斉藤八雲ってなかなかのクセ者だろ?」
「ええ、それはもう――。そういえば、彼、相澤さんのこと知らないって言ってましたよ」
相澤は吹き出し笑いをする。
「それはそうだろ。あいつにとってみれば俺なんて風景の一部だからな。前に友だちに付き合って、トランプの数字あてを見たことがあるだけだから」
それはインチキですよ、と突っこんでやりたかったが止めておいた。
それにしても、
「そういうことは、最初に言ってください」
「でも、困ってるみたいだったし、俺は友だちとは言ってないだろ」
確かに、サークルの友だちには相談をした。その時、たまたま近くにいた相澤が「斉藤八雲を訪ねてみれば」と言い出した。
改めて思い出してみると、知り合いだとは一言も言っていなかった。
「まあ、そうですけど……」
「大変だろうけど、がんばって」
相澤が席を立とうとする。
「あ、ちょっと待ってください」
晴香はあわてて相澤を呼び止めた。
「何?」
相澤は椅子に座り直す。
質問する時は遠回しに訊くこと――。
晴香は八雲の忠告を思い出しはしたが、どう切り出したらいいか分からず、結局ストレートな問いを投げかけた。
「相澤さん、篠原由利って人を知っていますか?」
「篠原由利ね――」
相澤はその名前を聞いた瞬間、頬をひくつかせ、露骨に嫌な顔をした。
この反応、何かある。晴香は臆《おく》せず話を続ける。
「相澤さんが篠原さんと付き合っていたって話を聞いたんですけど」
「付き合ってねえよ」
「え? でも……」
相澤は舌打ちをする。
「誰に聞いたか知らねえけど、付き合ってねえって」
「そうなんですか?」
「俺が篠原にコクってフラれただけ。だいたいそれが今回のことに関係あるの?」
相澤は、テーブルの下で貧乏揺すりをする。
「それは、本当ですか?」
「フラれたなんて話、嘘でするわけねぇだろ」
それは、そうだ。
そこで、会話は止まってしまった。
「俺、もう行くぜ」
晴香は何も言えずに、ただ歩き去る相澤の後ろ姿を見ているだけだった。
八雲は資料室の中にいた。
スライド式の書棚を動かし、整然と並んだファイルの背表紙を目で追っていく。
目的のものはすぐに見つかった。学生寮の竣工《しゅんこう》図面。
八雲は書棚の一番上にあるその資料を引っ張り出す。かなり古びたものだった。黄色く変色していて、カビ臭い。
竣工昭和三十年、と記載されている。
八雲は閲覧台まで移動し、ページをめくっていく。
境界線図や、完成予想図などが細かく記載されている。
十ページほど進んだところで、八雲は建物の平面図を見つけた。
平面図は二つ記載されていた。一つは例の廃屋の一階図面。そして、もう一つは、地下一階――。
八雲は指で慎重に図面をなぞる。
見つけた。開かずの間には、地下室に通じるドアの位置が記載されている。
八雲は、ポケットから昨日山根に借りた鍵を取り出す。
キーホルダーについた三つの鍵。
一つは入り口のドアの鍵。一つは各小部屋のマスターキー。
そして、もう一つは地下室の鍵だ。
開かずの間のベッドだけ違う位置に置いてあったのは、おそらく地下室へのドアを隠すためだろう。そこに何かあるにちがいない。
八雲はできるだけ目立たないよう、一度キャンパスを出て、林道から雑木林に入った。
道のない雑木林を進むのに、思いのほか時間がかかった。
靴の中には、落ち葉と土が大量に入り込んでいた。
考えが少し甘かったのかも知れない。額の汗の量に比例して後悔が増していく。
木の枝を掻《か》き分けながら黙々と歩を進めた。
10
晴香が時計に目をやると、三時を少し回ったところだった。
八雲との待ち合わせの時間まで、あと一時間近くある。
あれ以上しつこく相澤を追及するわけにもいかなかった。晴香は、特にすることもないまま、ぼんやりと食堂で時間を潰《つぶ》すことになってしまった。
テーブルに突っ伏し、ため息を吐く。
八雲は何か分かったのだろうか?
自分だけ何も収穫がないのは癪《しゃく》にさわる。
「晴香君」
晴香は声をかけられて顔をあげる。
高岡だった。目が充血し、昨日よりさらに憔悴《しょうすい》しているようにみえた。
「先生。ちょっと訊《き》きたいことがあるんです」
いい機会だ。もう一度、由利のことを聞いてみよう。
「訊きたいこと?」
高岡は、首を傾げながらも、テーブルの向かいに腰を下ろした。
「あの、昨日話した篠原由利さんのことなんですけど……」
肝試し以来の美樹のことや、昨日廃屋で襲われたことなど、今まで自分の身の周りで起こった奇妙な出来事を信じてもらえるかどうかは分からなかった。ただ、少しでも情報がほしかった。
ただ、話を聞いて、何か思い出してくれれば――。
高岡は、両手で顔を覆い、大きく首を振った。
「変なこと言い出して、ごめんなさい……」
「いや、気にしなくていい。それより、君の話を聞いて、一つ重要なことを思い出したよ」
高岡が、顔を上げながら言った。
「え? 本当ですか?」
「ただ、ここで話すのも何だから、場所を変えよう」
高岡が、声のトーンを低くする。
晴香は、申し出に同意して、席を立った。
11
廃屋に辿《たど》り着いた八雲は、ドアのノブに手をかける。
鍵《かぎ》がかかっていた。
昨日、あの後に、誰かが閉めたことになる。
おそらくは、昨日、自分たちを襲った人間だろう――。
八雲は、鍵を開けて中に足を踏み入れた。
窓から差し込む光で、昨日よりはっきりと確認することができる。
廊下を進み、突き当たりの開かずの間の前まで足を運んだ。
ここもだ――。
鎖が巻きついていて、ダイヤル式の南京錠《なんきんじょう》が施錠してある。八雲は、鍵の四|桁《けた》のダイヤルを〈7483〉に合わせる。
昨夜、記憶しておいた数字だ。
カチッと音をたてて、ロックが外れた。
ドアの取っ手から鎖を外し、ドアの鍵を開け、慎重に中に入った。
室内は窓がないせいもあり、この部屋だけは、昼間なのに懐中電灯の光に頼らなければ、中を見渡すことができなかった。
部屋の隅にあるベッドを力いっぱい引きずって移動させる。
予想どおりベッドの真下から、一メートル四方の金属製の床が現れた。
正確にはドアだ。取っ手が付いている。
鍵穴のついた南京錠で、閉じられている。
三本目の鍵を差し込むと、ピッタリ形が合った。取っ手を掴《つか》み、力いっぱいドアを持ち上げた。
金属の軋《きし》む音がして、埃《ほこり》が舞い上がる。
黒く塗《ぬ》り潰されたみたいに、四角い穴がぽっかりと空いている。
懐中電灯を使って地下室を覗《のぞ》いてみるが、ほとんど何も見えない。
八雲は意を決して、垂直に伸びた木製の梯子《はしご》に足をかける。
ぎぃ、と音を立てて足場になる木の板が歪《ゆが》む。
あっ! と思った時には、もう遅かった。
足を滑らせ、一気に地下室に転がり落ちた。
床に腰を打ちつけた痛みに顔を歪めるが、すぐにそれを忘れるくらいの、強烈な腐臭に襲われ、むせ返りながら、あわてて鼻と口を押さえた。
八雲は臭いの元を探ろうと、落とした懐中電灯を拾い上げ、室内を照らしてみる。
壁に、黒い線のようなものが見える。
ゆっくりと壁に近づき、目を凝らす――。
「何てことだ……」
八雲は思わず声を漏らした。
それは、壁についた瑕《きず》だった。
一ヶ所や二ヶ所ではない。壁のいたるところに、無数の瑕がつけられている。
しかも、その瑕は、自然に出来たものでもなければ、工具で引っ掻いたものでもない。
手をかざして比較してみる。
大きさからして、多分、人間だ――。
誰かが、壁に爪を立てたのだ。
その瑕の一つひとつに赤黒い染みが付着している。
おそらくは、ここを抜け出ようとして、無駄だと分かっていながら何度も何度も、この壁を引っ掻いたのだろう。
剥《は》がれた爪が、壁に刺さっているのを見つけた。
血が滲《にじ》み、指の肉が剥がれてもなお、壁を引っ掻き続けたのだ。
八雲はその瑕を指先でそっと撫《な》でる。
「ここが、本当の開かずの間だ――」
ふと、八雲の首筋に冷たいものが落ちる。
懐中電灯で照らしながら見上げると、天井を二本のパイプが走っていた。
水道管か何かだろう。その繋《つな》ぎ目から水が滴り落ちていた。
この場所に閉じ込められていたあの女性は、この水を頼りに何日か生き延びたのだろう。
もし、ここに水道管がなければ、彼女の苦しんだ時間も、少しは短くてすんだのかも知れない。
この水は、彼女に希望を与え、そして苦しめた――。
彼女は、この部屋にある何かに怯《おび》えていたのではなく、この部屋自体から逃げ出そうとしていたのだ。
問題は、誰が何のために彼女をここに閉じ込めたかだ――。
12
地下室から這《は》い出した八雲は、そのまま足早に廊下を抜け、廃屋を出た。
冷たい風にさらされ、生き返った心地がした。
あの場所に由利が閉じ込められていたってことは分かったが、決定的な証拠がない。
死体だ――。
おそらくは、由利を閉じ込めた人間が移動させたのだ。
「こ、こ、こんなところで何をやっているんだ?」
背後から声をかけられた。八雲の思考は一瞬、硬直する。聞き覚えのある嗄《か》れた声。鍵を持っていて、いつでもこの廃屋に出入りできる人物、用務員の山根だった。
山根は相変わらずの酒に酔ったような赤い顔をして、首からはタオルをぶら下げ、錆《さ》びついたスコップを持っていた。
「お、お、お前さんが捜していた物はこれだろ?」
山根は、作業ズボンのポケットからデジタルカメラを取り出し、八雲に渡した。
「あ、あ、あそこに落ちてた」
山根は廃屋から十メートルほど離れた林の中を指さす。
八雲は礼を言ってそれを受け取る。
これはおそらく祐一が記念撮影をしたカメラだ。
電池はまだ生きている。
八雲はカメラの電源を入れ、カメラ内蔵のモニターに画像を映し出す。
居酒屋かどこかだろう。何人かがバカ騒ぎをしながら酒を飲んでいる。
しばらく、同じような写真が続く。写真をどんどん飛ばしていく。
十枚ほど先送りした後に、廃屋を背景にした写真が出てきた。
最初は祐一、次に和彦と美樹。その次は怯えた美樹の横顔のアップだった。
そして、その奥に部屋の隅に隠れるようにしている一人の男の姿が映っていた。何かを引きずっている。
暗くてよく見えないが、おそらくは由利の死体――。
「何てこった……」
八雲の表情は一瞬で凍りつき、次の瞬間には脱兎《だっと》の如く、地面を蹴《け》って走り出した。
背後で山根が何か怒鳴ったが、もう、そんなことにかまっている余裕はない。
八雲は走りながら、晴香の携帯に電話を入れる。
しかし、コール音が鳴り響くばかりだった――。
「どこに行った」
八雲は、地面を蹴りながら呟く。
〈こっちだよ〉
どこからともなく、女の子の声が届いた――。
13
晴香が、高岡に連れてこられたのは、B棟の屋上だった。
屋上に上がってすぐのところにある、給水塔の前に、並んで立った。
コンクリート張りのその場所は、フェンスがなく、三十センチほどの高さの折り返しがあるだけ。
見晴らしはいいのだけど、下を見ると、足がすくんだ。
なぜ、私をこの場所に連れて来たのだろう?
晴香は、疑問を胸に抱えたまま、高岡に視線を向ける。
「何から話したらいいだろう――」
高岡が、沈みゆく陽の光を浴び、赤紫に変色した雲をながめながら言った。
「何でもいいんです」
高岡に懇願する。
「私は、君に一つ嘘をついた」
「嘘?」
晴香は、サイドの髪を、耳の後ろに回す。
なんだか、落ち着かない気分だ。
「相澤君が、由利と付き合っていたって話。あれは、嘘だ」
高岡が無表情に言った。
なんだか、物凄《ものすご》く嫌な予感がした。
バクバクと鼓動が速くなる。
「どうしてそんな作り話を……」
晴香の問いに、高岡は薄い唇をゆがめ、白い歯を見せて笑った。
だが、その目は笑っていない。冷たい目。
「あれは失敗だった。まさか、君の口から由利の名前が出るとは思ってなかった。とっさのことで、話をそらしたつもりだったが、それがいけなかった――」
高岡の声が、遠くに聞こえた。
呼吸が苦しくなっていく。
耳鳴りがする。逃げろ。本能がそう言っていた。でも、足が動かなかった。
「先生、もしかして、先生が篠原さんと……」
「そうだ。私は、由利と不倫の関係にあった」
「先生が……殺したんですか?」
晴香が高岡に求めていた答えは、肯定ではなく否定だった。
「それは少しちがう……」
高岡は、晴香の腕を掴《つか》んだ。
身体を硬くして、抵抗するが、力で勝てるはずもない。
晴香が、高岡の腕に噛《か》みつこうとした時、ふり上げられた高岡の拳《こぶし》が、側頭部を打ちすえた。
脳が揺れ、膝《ひざ》から崩れ落ちた。
「申しわけないが、君には死んでもらわなければならない。屋上から飛び降り自殺ということになる。市橋君と同じだ」
高岡は、晴香の髪の毛をわし掴みにして、引き摺《ず》るように屋上の縁まで連れていく。
嫌だ――。
晴香は、必死に抵抗を試みるが、痛みで思うように動けない。
「あれは、事故だったんだよ。彼女はあの日、子供ができたと言い出した。私の妻にすべてを話すって。それはルール違反だ。ルールは守らなければいけない。君もそう思うだろ?」
高岡の言葉は、自らを正当化させるための、言い訳にしか聞こえなかった。
「だからって、殺すなんて……」
痛みに耐えながらも、怒りに任せて高岡を睨《にら》んだ。
「殺すつもりはなかった。口論になり、つい彼女を殴ってしまった。そしたら、それきり動かなくなった……」
「彼女は死んでいなかった」
急に声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。
視線を向けると、そこには八雲の姿があった。
額に汗を浮かべ、肩で大きく息をしている。
「何の話だ?」
高岡は、突然の八雲の登場に、顔の筋肉を引き攣《つ》らせながら、惚《とぼ》けてみせる。
八雲は、ふうっと息を吐いた後、寝グセだらけの髪をガリガリとかき、面倒臭そうに説明を始める。
「あなたも気づいていたはずだ。あの地下室には彼女が逃げ出そうとした痕跡《こんせき》が残っている」
高岡は、何も答えなかった。ただ、頬を震わせながら、視線を逸《そ》らした。
八雲は、一歩前に足を踏み出し、高岡に詰め寄ると、さらに続ける。
「おそらく、あなたは殴って動かなくなった彼女を見て、殺してしまったと思い、あの地下室に捨てた。ところが、彼女はただ気絶していただけだった――」
そこで、一呼吸置いた八雲は、突き刺さるような鋭い視線を高岡に向けた。
「あなたは、生きた人間を、あの部屋に閉じ込めたんですよ」
「何を証拠にそんな嘘を……」
「惚けるな」
八雲が怒りに満ちた声を上げた。
「あなただって見たでしょ。地下室の壁を」
「し、知らない」
「無数の瑕《きず》。あれは、彼女が逃げ出そうと必死になって引っ掻《か》いたものです。死人にそんなことはできません」
高岡は、肩で大きく息をしている。視線が、左右に揺れる。
「市橋祐一という学生を殺したのもあなたですね」
八雲が、手負いの高岡を、さらに追い詰める。
「何を根拠に……」
「根拠はあります。もっと早く気づくべきだった。駅であった時、あなたは市橋という学生が飛び込んで[#「飛び込んで」に傍点]――そう言ったんです」
「そ、それの、何がおかしい」
「あなたはどうして彼が飛び込んだと断言できたんですか? 警察は、遺書も残っていないし、あれを事故としてみていました」
「それは――」
「彼が死ぬところを目撃していない限り、あの段階でそれを断言できるはずがない。あなたは、彼を、電車に飛び込んで自殺したことにしたかったんでしょ?」
「私に、彼を殺害する理由はない」
高岡が、震える声で言った。
晴香にも、その理由が分からなかった。
高岡先生は、由利さんを殺害する理由はあったかもしれないけど、祐一君は無関係だ。
八雲は、薄い唇を動かし、薄《うっす》ら笑みを浮かべると、語り始めた。
「あなたは、由利さんをあの地下室に閉じ込めたあと、ひとまず安心した。しかし、あの廃屋を取り壊すという話を聞き、あわてた。彼女の死体が発見されれば、ことが露呈する。そこで、死体の場所を移動させようとした。そこで――」
「美樹たちに会ったのね」
晴香は、八雲の言葉をつないだ。
全てのことがつながった。
八雲は、頷《うなず》いてから、さらに話を続ける。
「偶然にも、肝試しに来ていた三人組と出くわしてしまったあなたは、物陰に隠れてやり過ごそうとした。だけど、彼らはあの建物で写真を撮影した。背後にあなたがいるとも知らずに――」
八雲が、目を細めて高岡を見据えた。
その視線に搦《から》め捕られたように、高岡は身体を硬直させていた。
「私には、君が何を言っているのか分からん」
「証拠があるんです」
「証拠?」
八雲はポケットからデジタルカメラを取り出す。
「これがほしかったんでしょ」
八雲はそう言うと、デジカメを高岡の方に向かって投げる。
高岡は、両手でそれを受け取る。それと同時に、晴香を掴《つか》んでいた手が、離れた。
晴香は、その隙を突いて駆け出し、八雲の許《もと》へ走り寄った。
高岡は、八雲に怒りの視線を向ける。
「そこまでつき止めたのはさすがだが、証拠を渡してしまったら、どうやって証明する?」
強がってはいるが、高岡はまさに崖《がけ》っぷちにいた。
「一つ言い忘れました」
八雲はそう言うと、ポケットの中からデジカメのメモリーカードを取り出し、高岡に見せた。
「画像データは、ここです」
高岡から思わず笑い声がもれた。
それは、必死に自分の罪を隠そうとした愚かな自分自身に向けられていたのかもしれない。
「もう終わりです。警察も呼んであります」
高岡は蒼《あお》ざめた。これまで築き上げてきたものが一瞬にして崩れ去った。
笑い声は、やがてすすり泣きに変わった――。
「そうだな……もう終わりだな……」
高岡は掠《かす》れた声で言うと、魂を失ったように、コンクリートの上に座り込んだ。遠くから、サイレンの音が聞こえた。
それは、まるで泣き声のように耳に響いた――。
14
八雲と晴香は、参考人として警察で事情聴取を受けることになった。
ほとんど、八雲が喋《しゃべ》り、晴香は頷いて応《こた》えるだけで済んだ。
事件の概要はそんなところだ。八雲も晴香も、美樹に取り憑《つ》いた幽霊の話はしなかった。言ったところで信じてもらえない。
あとから聞いた話だが、由利の死体は、廃屋から十メートルほどしか離れていない木の根元に埋めてあったそうだ。
何ともお粗末な話だ。
もう一つ、彼女は妊娠などしていなかった。恋の駆け引きが、誤解を生み、結果として二人もの命を奪った。やりきれない――。
「よう。お手柄だな」
事情聴取を終え、八雲と帰ろうとしたところで、スーツ姿の男に声をかけられた。
クマのような巨体で、緩んだネクタイに、よれよれのワイシャツ。無精ひげを生やし、八雲と同じ眠そうな顔をした男だった。
「なんだ。後藤さんですか」
八雲が、髪をかき回しながら、不機嫌そうに言う。
「なんだじゃねぇだろ! 俺にも少しは感謝して欲しいね」
後藤と呼ばれた男は、いきなり大きな声でまくしたてる。
八雲は、面倒臭そうに表情を歪《ゆが》め、耳に指を突っ込んでうるさいとアピールした。
「散々、ぼくに手間かけさせておいて、一度頼んだくらいでギャーギャー言わないで下さい。大人気ない」
「おま……」
言いかけた後藤が、急に目を丸くして、晴香の顔を覗《のぞ》き込んできた。
な、なに?
迫力に圧《お》されて、思わず首をすくめる。
後藤は「ははぁん」と呟《つぶや》きながら、納得顔で顎《あご》を撫《な》でた。
晴香はどう反応していいのか分からず、作り笑いを浮かべて軽く会釈する。
「なかなか、かわいいじゃねぇか」
後藤が、ニヤリと笑いながら言う。
「何の話です?」
八雲は、後藤とは正反対に、嫌そうな表情をする。
「八雲もそういう歳になったか。しかも、かわいい」
「そんなんじゃないですよ」
「またまた、そういうつれないこと言ってると、逃げられちまうぞ」
「後藤さんの奥さんみたいにですか?」
「うるせぇ! 余計なお世話だ!」
後藤が舌打ち交じりに言う。
「人の世話を焼く暇があったら、少しは仕事してください。警察が最初からちゃんと捜査してれば、こんなことに巻き込まれたりしないんです」
八雲の意見はもっともだ。
「そう言うなよ。警察だって人手不足なんだ。年頃の女の子が行方不明になるなんて、よくあることだ。いちいちそんなの調査してたら、身体が幾つあっても足りないよ」
「そりゃお忙しそうで何よりです」
「まあ、何にしても大変だったな。事後処理は巧《うま》く辻褄《つじつま》合わせてやっとくよ」
後藤は八雲の肩を軽く叩《たた》いてから、ガニ股《また》で去っていった。
「ねえ、今の人、誰?」
晴香は、後藤の姿が見えなくなるのを待ってから訊《き》いてみた。
「あれでも、一応は刑事だ」
八雲が、後藤の去った方向を顎で指しながら言う。
「へえ、刑事さんと知り合いなんだ」
「知り合いというより、腐れ縁だよ」
「腐れ縁?」
「母親に殺される寸前のぼくを助けてくれた人だよ。それ以来いろいろとね」
「いろいろ? 面倒を見てくれてるってこと?」
「そんなんじゃないよ。ぼくにとって世の中の人間は二種類だ。ぼくの赤い左眼を奇異の眼差《まなざ》しで見る奴と、それを利用しようとする奴。後藤さんは後者だよ」
晴香には八雲の言葉が納得できないでいた。
自分に関わる人間をたった二種類に分類できるものだろうか? 人と人との関わりは、もっと複雑で意味深いもののはずだ。
でも、それをどう説明していいのか分からず、口を閉ざしてしまった――。
「そう言えば、一人だけ変わり者の例外がいたな」
八雲はポツリと言うと、足早に歩き出した。
「ねえ、変わり者って、まさか私のことじゃないでしょうね」
晴香はあわてて八雲を追いかけた。
15
数日後、晴香はあらためて八雲の隠れ家を訪れた。
美樹は、あれ以来、すっかり元気になった。
廃屋で意識を失ってから、何が起こったのかはまったく覚えていないようだった。
一人行方不明になっていた和彦だが、その後、何事もなかったように大学に顔を出した。晴香が和彦に問い質《ただ》すと、怖くなって実家に逃げ帰っていたのだという。
晴香は、あきれて怒る気にもなれなかった。
大学内は、今回の事件で報道陣が詰めかけ、ものすごい騒動になっていた。
ニュースのアナウンサーは、来年の入試の競争倍率は過去最低になるだろうとコメントする始末で、今後の就職活動に及ぼす影響を考慮して、他大学へ転学する学生も何人かいたらしい。
でも、こんな騒動もしばらくすれば、風化していくのだろう。
昼過ぎだというのに、八雲は相変わらず寝癖のついたままの頭で、眠そうな目をしていた。
日向《ひなた》ぼっこをしている猫みたいだ。
「いつ会っても寝起きみたいね」
「君が寝起きにしか来ないからだ」
八雲は相変わらずぶっきらぼうに応える。
晴香は、少しふてくされた八雲の表情がおかしくて、笑ってしまう。
「今日は、わざわざ何の用だ?」
用がないならさっさと帰ってくれと言わんばかりの口調だ。
晴香は、口を押さえて笑いを止めると、バッグの中から封筒を取り出し、テーブルの上に置く。
「これは?」
「約束のお金。いろいろあったけど、美樹は元気になったから」
八雲は差し出された封筒を、押し返してきた。
「いらない」
「どうして?」
「君のお姉さんにはずいぶん借りがある。それでチャラだ」
「借り?」
意味が分からずに、首を傾げた。
「屋上に、君たちがいることを教えてくれたのは、君のお姉さんだ」
「お姉ちゃんが……」
私を助けようとしてくれた――。
それを思うだけで、胸の奥がじわっと熱くなった。
「ごめんなさい」
「?」
「私、初めて会った時、斉藤さんのことインチキだって……」
「気にするな」
「でも……」
「それと、その斉藤さんっていうのは止めてくれ」
八雲が、晴香を指差しながら言った。
「じゃあ、何て呼べばいいの?」
「普通に名前で呼んでくれてかまわない」
彼の心の中に、一歩足を踏み入れたような気がした。
「私、八雲君の不思議な能力、インチキじゃないって認める」
「そりゃありがたいね」
八雲は、どうでもいいという風に大きくあくびをする。
動きがまるで猫である。
「私、八雲君が羨《うらや》ましい」
「羨ましい?」
「だって、お姉ちゃんに会えるんでしょ。私は会いたくても会えない。ずっと謝りたかったのに、いろいろ言いたいこともあったのに、私には見えない……」
晴香の声は、微《わず》かに震えていた。
私のせいでお姉ちゃんが死んだ。
以来、十三年もその業を背負ってきた。
下ろしたくても下ろせない。この先の人生、ずっと背負い続けていくであろうことを思うと、今さらながら我が身の罪深さを呪わずにはいられなかった。
「そんなに自分を責めるな。前も言ったが、君のお姉さんは君のことを恨んではいない」
「恨んでないなんて嘘。お姉ちゃんは私のせいで死んだの……」
「だったら自分で訊いてみればいい」
八雲は、左眼のコンタクトを外し、その赤い瞳《ひとみ》を晴香に向ける。
何度見ても、きれいな赤い色だった。
まるで自らが光を発しているかのようだった。
「目を閉じてみろ」
晴香は、八雲に言われるままに、目蓋《まぶた》を閉じた。
目の前が、真っ暗になる――。
「お姉ちゃん」
ふと気がつくと、目の前に姉が立っていた。
あの頃の姿のままだった。
事故にあった七歳の時のまま――。
「お姉ちゃん。ごめんね。私があの時……ボールを遠くに投げたりしたから……」
晴香は、唇を噛《か》みしめ、絞り出すように言う。
綾香は何も言わなかった。ただ、微笑んでいるだけだった。
それだけで十分だった。
晴香の目からは、自分でもどうしようもないくらいに涙が溢《あふ》れた。
とても温かくて、穏やかな綾香の笑顔。
自分の今までの苦悩を洗い流してくれているようだった。
晴香は、止まらなくなった涙を、何度も何度も拭《ぬぐ》い、ふたたび目を開いた。
目の前から綾香の姿が消えていた。代わって、眠そうな目をした八雲の姿があった。
「ありがとう……」
晴香の言葉に八雲は何も聞こえていないという風に、天井を見上げていた。
「私、八雲君の前で二回も泣いちゃったね」
「三回だ」
八雲は指を立てて訂正する。
「そんなのいちいち数えないでよ。好きで泣いているんじゃないんだから」
晴香は、ハンカチを使って涙を拭ってから席を立った。
「本当にいろいろありがとう。これでお別れね」
八雲は晴香の言葉に応えなかった。
ただ、大きな口を開けて、あくびをしただけだった。
素直じゃないんだな――。
晴香は微笑を浮かべ、ドアのノブに手をかけた。
本当に八雲とはこれでお別れなのだろうか? ふと、そんな思いが頭を過《よぎ》った。
「ねえ、もし、もしもう一度お姉ちゃんに会いたくなったらどうすればいい?」
晴香は、八雲に背を向けたまま訊《き》いてみた。
八雲からの答えはなかった。
私はいったい何を期待していたのだろう? 自分の口から出た意外な言葉を、笑いで誤魔化《ごまか》しながらドアを開けた。
「そのドアを開けて、ここにくればいい」
晴香はあわてて振り返る。
八雲は椅子の背もたれにのけぞって相変わらずの眠そうな目をしている。
「え?」
「好きなときにくればいいって言ったんだ。ただし、次は金取るぞ」
「次は、金額交渉させてもらうから」
晴香はそう言い残すと、微笑みとともに、ドアを開け部屋を出た。
いつもと変わらないはずの空の色が、すがすがしく見えた――。
[#改ページ]
ファイルU  トンネルの闇
FILE:02
そのトンネルは、住宅地から市街地に抜ける最短コースであるが、地元の人間はほとんど使わない。
以前から事故の発生率が異常に高いことで有名なトンネルだった。
毎年必ず一回は死亡事故が起きる。
トンネル内は、照明灯がなく、昼間であっても薄暗く見通しが悪い。
トンネルを抜けてすぐの所には急なカーブが待っていて、必ずと言っていいほど不運な車はそこで事故を起こしている。
しかし、事故を起こす理由は、ただ見通しが悪いからということだけではないようだ。
このトンネルには、昔から何か得体のしれないものが出るという噂が、あとを絶たなかった――。
ある運転手は、窓の外を人間の生首が飛んでいるのを見たという。
怖くなって逃げようとすると、今度はブレーキが利かなくなり、危うくガードレールに突っ込むところだった。
またある者は、トンネルの壁面に無数の人間の顔を見た。
また、あるタクシー運転手は、トンネルの前でずぶ濡《ぬ》れの女性を乗せたが、トンネルを出る時にふとルームミラーを見ると、その姿が忽然《こつぜん》と消えていた――。
真相はわからない。
ただ、そのトンネルの出口で、たくさんの人が死んでいるという事実があるだけ――。
静かな夜だった――。
「寒い」
晴香《はるか》はできるだけ風に当たらないように、ベージュのコートの襟《えり》を立て、背中を丸めるようにして歩いていた。
日曜日の深夜ということもあって、駅前の道だというのに、人通りがほとんどない。
時々、タクシーが通り過ぎていくだけだ。
ブーツを踏み鳴らす足音だけが、やけに響いて聞こえる。
美樹《みき》の強引な誘いで参加した飲み会だったが、蓋《ふた》を開けてみればいわゆる合コンだった。
いまどきと思われるかもしれないけど、ああいう飲み会は、あまり好きになれない。
美樹なんかは、彼氏がいなければ寂しくて死んでしまう、ウサギみたいなタイプなのだが、私は無理して相手を探そうとは思えない。
「晴香はまだ本当の恋をしていないんだよ」
美樹には、よくそう言われる。
それは確かに一理ある。
過去を思い返してみても、恋愛らしい恋愛をしていないような気がする。
「それなら、一回誰かと付き合ってみなよ」
これも美樹の台詞《せりふ》だ。
でも、無理に出会いを演出してまで恋人を探そうという気にはなれなかった。
恋愛感情は自然に湧き上がるものであって、ショッピングみたいに品物と、財布の中身を検討して決めるものじゃないと思う。
「やっぱり、固いのかな……」
晴香は、呟《つぶや》きながら真っ白い溜《た》め息を吐き出した。
駅のロータリーに差し掛かったところで、クラクションの音が聞こえた。
白い車が速度を落としながら近付いてきて、晴香の前で停車した。
なんだか、怪しい。晴香は後退《あとずさ》りしながら身構える。
と、助手席のウィンドウが開き、車の室内灯が点《とも》った。
「晴香ちゃん。家まで送っていくよ」
運転席から男が身を乗り出して声をかけてくる。
どうして私の名前を? ますます不審感が募った。
「忘れちゃったわけじゃないでしょ? さっきまで一緒だったじゃない」
男の、巻き舌気味の口調を聞いて思い出した。
「あ!」
さっき飲み会にいた中の一人だ。確か中原達也《なかはらたつや》とかいう名前だった気がする。
中肉中背《ちゅうにくちゅうぜい》で、顔つきはこれといって特徴がないのだが、髪型だけは有名なサッカー選手を真似《まね》ている。かといって、本人はサッカーが好きなわけではないらしい。
「早く、乗りなよ」
達也は、笑顔を浮かべながら助手席のシートを叩《たた》く。
「まだ電車がありますから大丈夫です」
晴香は頭を下げて申し出を断り、ふたたび歩き出した。
「ねえ、ちょっと待ってよ」
達也は車から降りて、小走りの晴香の正面に回り込むと、ニヤニヤしながら左の手首を指差す。
「今、何時?」
突然、何だろう?
意味が分からないと思いながらも、晴香は腕時計の時刻を確認する。
「十一時五十分ですけど」
「残念。最終電車はもう行っちゃったよ」
「え? 最終は十二時六分ですけど」
「ああ、それは平日の話だろ。今日は日曜日、休日なの。電車が終わる時間が早いんだよ。休日の最終は十一時四十八分。ギリギリアウト。おれにとってはセーフだけどね」
知らなかった。今日は本当についていない。
「だから、送っていってあげるって。晴香ちゃん、家の方向同じだからさ」
達也は、言うのと同時に助手席のドアを開けた。
「でも……」
「お願い。おれ、一人で帰るの怖いんだ」
達也が、拝《おが》むように両手を合わせて頭を下げる。
怖いって――。
車に乗るのはいいけど、
「中原さん。お酒飲んでませんでした?」
「あ、おれ、下戸《げこ》だから。ずっとウーロン茶」
押し問答の末、晴香が根負けするかたちで車に乗り込んだ。
達也は、出発するなり、今乗っている車の説明を始めた。
有名なスポーツタイプの車種で、知り合いの自動車整備士から安く譲ってもらったことを熱っぽく語っていたが、晴香は車に興味がないので、それがどういうことなのか、今いちピンと来なかった。
車がどんなものかは分からないが、必要以上に暖房がきき、むせ返るような芳香剤《ほうこうざい》の臭いに汚染されていることは分かった。
そればかりか、日本人のグループが歌う四拍子のラップ音楽が、お腹を揺さぶるほどの大音量で響き渡っている。
こんなところに閉じ込められていたら、ものの五分で気分が悪くなる。
乗せてもらっている以上、悪いと思って黙っていたが、我慢の限界だ――。
「あの、ちょっと音下げていいですか?」
晴香は、運転席の達也に声をかける。
「だろ。この曲、最高だろ?」
何が最高だ。人の話を全然聞いていない。
サッカー選手を真似た髪に、日本人のラップ音楽、そのうえ服装はちょい悪風のスーツ。いったいどういう趣味をしているのだ。
流行《はや》りものの継ぎはぎみたいで滑稽《こっけい》だ。
晴香は、パネルを操作して、ヴォリュームを下げた。
達也が怪訝《けげん》な表情を浮かべる。
晴香は達也の視線を無視してウィンドウを少し開け、芳香剤に汚染されていない外の空気を思いっきり吸いこんだ。
「あ、次の道を左ですから」
晴香は、警察署の角まで来たところで、達也に言う。
「左ね。了解」
達也は返事とは裏腹に、ウィンカーも出さずにハンドルを右に切った。
横にGがかかり、晴香はバランスを崩す。
危ない運転だな――。
「右じゃないです。左です。戻って下さい」
「この先に夜景のきれいな場所があるんだよ。知ってた?」
「知りません」
「騙《だま》されたと思ってちょっと見ていこうよ」
「結構です」
「本当にきれいなんだぜ。絶対気に入るよ。そこの丘を登ったところなんだ」
駄目だ。全然人の話を聞こうとしない。
世の中の人間すべてが自分と同じ価値観を持っていると思い込んでいる。
もう何を言っても無駄だ。
夜景を見て満足すれば帰ってくれるだろう。諦《あきら》めてぼんやり窓の外を眺めた。
そういえば、もう一人、何を言っても無駄な自分勝手な男を知っている。
頑固で捻《ひね》くれ者で、曲がったことが大嫌いなくせに自分も少し曲がっている。矛盾だらけの男だ。
でも、同じ自分勝手なのに、達也という男とは根本的に何かが違っている気がする。
あれからもう一ヵ月が経つ。
彼は今頃どうしているだろう。あの眠そうな顔を思い浮かべ、晴香は少し笑ってしまった。
「このトンネルの先にあるんだ」
達也の声で我に返った晴香は正面に目を向ける。
言葉通り、目の前にトンネルがあった。
入り口の脇に「事故多発。速度注意!」という標識が見えた。
トンネル内には照明灯がないらしく、漆黒の闇がぽっかりと口を開けていた。
このトンネルの先に繋《つな》がっているのは、あの世なのではないかとさえ思えてしまう。
車がトンネルの中に入った瞬間に、急に空気が重くなったような気がした。
エンジンの音が、トンネルの外壁に反響する。
おぉぉ。
まるで、人の呻《うめ》き声のようだ。
本当に気味の悪いトンネルだ。
トンネルの出口に差しかかったところで、急に何かが横切ったような気がした。
「うわぁ!」
声を上げながら、達也が急ブレーキを踏む。
タイヤが「きぃぃ!」と悲鳴をあげる。
晴香は、慣性の法則に振り回され、ウィンドウに頭をぶつけた。
痛みで涙がにじむ。
車はトンネルを出てすぐのところで、横向きに停車していた。
危うくガードレールに接触するところだった。
タイヤの焦げた臭いが車内に充満している。
晴香は運転席の達也に目をやった。
達也はハンドルにしがみつくような恰好《かっこう》で、うつむき、背中を震わせていた。
額からは、滝のように汗が流れ出し、だらしなく口を開き、顎《あご》をガタガタと震わせていた。
「ねえ、どうしたの?」
尋常でない様子の達也に、声をかける。
晴香の問いに、達也は何かを答えているようであったが、もごもごと口を動かしているだけで、言葉になっていない。
「はっきり言って。何があったの?」
晴香は達也の肩を揺さぶる。
そこで、初めて達也は顔を上げた。顔面|蒼白《そうはく》とはまさにこのことを言うのだろう。マネキンの方がまだ血色が良い。
「……こ、子どもが……」
「え? 子どもがどうしたの?」
「……また、轢《ひ》いちゃった……かも知れない……急に……子どもが……」
達也は震える指で、フロントガラスの向こう側を指し示した。
「轢いちゃったって……まさか……」
子どもを? 急ブレーキがかかったあと、車自体にそれらしき衝撃はなかったように思う。
でも、楽観視はできない。とにかく確かめなければ。
晴香はドアを開けて外に出ようとしたが、その前に達也に腕を掴《つか》まれた。
「行くな」
「どうして? 確かめなきゃ」
「おれが悪いんじゃない。子どもが、子どもが……急に飛び出してきたんだ……」
晴香の腕を掴む達也は必死の形相だった。
目にはうっすらと涙を浮かべている。
「どっちが悪いとかの問題じゃないでしょ。早く救急車を呼ばないと」
「駄目だ……人、轢いたなんてことになったら、もう車乗れないし、大学だって、就職だって……親も黙ってないし……おれの人生めちゃめちゃだよ……頼む、晴香ちゃんさえ黙っていてくれたら……」
「信じられない」
何て男だ。人の命を奪ってしまったかも知れないこの瞬間に、自分の保身しか考えていない。
そんな人と議論すること自体無駄だ。
「放して!」
晴香は大声で叫びながら、達也の腕を強引に振りほどいて車の外に出た。
強烈な温度差に身が縮《ちぢ》む思いがした。
辺りは、闇に包まれてはいたが、幸い車のライトで、ある程度の視界は確保できる状態だった。
晴香は恐るおそる車のフロント側に移動する。
かなりのスピードを出していたような気がする。
あのスピードで轢かれたら一たまりもない。
晴香は血まみれで倒れている子どもの姿を想像して足がすくんだ。
でも、そこには何もなかった。
アスファルトにタイヤの焦げ付いた黒い線が見えるだけ。車のバンパーも見てみたが、傷ひとつ付いていない。
晴香はフロント側だけでなく、サイドやリアも丹念に見回してみた。
でも、何も見つからない。達也の思い違いだったのだろうか? それならそれにこしたことはない。笑い話ですむのだから――。
タッ、タッ、タッ。
誰かが走り去る足音が聞こえた。
達也だろうかと思ったが、彼はまだ車の中でうずくまっている。
タッ、タッ、タッ。
まただ。
車の下の反対側から聞こえる。
晴香は身を屈《かが》めて車の下を覗《のぞ》いた。子どもと思われる足が見えた。
まさか! 晴香はあわてて上体を起こし、反対側へ回ってみる。
でも、そこには誰もいない。達也が子どもを轢いたなどと口にするから、幻《まぼろし》でも見たのかも知れない。
それなら、それでいい。
車内に戻ろうとした晴香だったが、背中に突き刺さるような視線を感じて、足を止めた。
振り返ると、大きな黒い半円のトンネルの穴が見えた。
そして、そこには、背中を向けて立っている女性がいた。
さっきまで、誰もいなかったはずなのに――。
後ろ姿だけなのではっきりは分からないが、おそらく二十代後半の女性だろう。
グレイのスーツを着ていたのでそう思っただけで、実際はもっと若いのかも知れない。
その女性は何をするわけでもなく、ただぼんやりとその場に立っていた。
少し茶色く染まった長い髪が風に揺れている。
こんな時間に、こんな場所でいったい何をしているのだろう?
「あの……」
晴香が声をかけると、その女性はゆっくりと身体をこちらに向けた。
驚きで、心臓が止まるかと思った。
その女性の眉間《みけん》には、大きな傷があり、そこからトクトクと脈打つように、大量に血が流れ出していた。
白いシャツの胸元が真っ赤に染まっている。
そればかりか、右腕が折れているのか不自然な方向に捻《ね》じれていた。
立っていられるのが、不思議なくらいだ。
「大変……」
達也が轢いたのは子どもではなく、この女性だったのだ。
晴香はあわてて女性に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
その女性は晴香の問いに、まったく無反応だった。そればかりか、痛みをまるで感じていないように、無表情でもあった。
感覚が麻痺《まひ》しているのだろうか。
「今すぐ救急車を呼びます。とにかく座ってください」
晴香が女性に触れようとした瞬間。
がくがくがくがく。
女性の身体が激しく痙攣《けいれん》する。
ゴホゴホッと苦しそうに咳《せき》をしたかと思うと、口からも血を吐き出した。
「きゃっ」
晴香は思わず悲鳴を上げ、飛び退《の》いた。
それと同時に、まるで風景と同化してしまったみたいに、女性の姿が忽然《こつぜん》と消えた。
どうして――。
混乱する晴香の耳に、トンネルを抜ける風の音だけが聞こえた――。
翌日、晴香は達也と八雲《やくも》の隠れ家である「映画研究同好会」の部室を訪れた。昨日、体験したのは心霊現象に間違いない。
だとすれば、彼に相談するのが最良だと判断したからだ。
しかし、八雲は晴香が昨日の出来事を説明している間も「興味がありません」と言わんばかりに、一人で将棋を指している。
「そうきたか……」
八雲は一人で双方の駒を動かしながら何やら感心したりしている。
一人でやる将棋の何が面白いのか? まったく理解できない。
「ちゃんと人の話、聞いてるの?」
晴香は、不安になり訊《き》いてみる。
「ああ、一応ね」
「一応って。少しは真剣に聞いてもいいんじゃない?」
「君も、もう少し謙虚《けんきょ》になるべきだね。いきなり人の部屋にやってきて、こっちの都合も考えずに怪談話だ」
八雲の指摘に、返す言葉をなくした。
仰《おっしゃ》る通りだ。興奮していて、その辺のことは、全然考えなかった。
「ごめん」
「まあ、だいたいの話の流れは分かった。ビジネスはビジネスとして受けようじゃないか」
八雲が、大きく伸びをしながら言った。
「ホント?」
「要は君の彼氏を助ければいいんだろ」
「何度も言いますけど、彼氏じゃありません」
「本人を前にして冷たいね」
晴香はあきれて溜《た》め息を吐き出しながら視線を落とす。
その隣では、何がそんなにおかしいのか、達也がニヤニヤ笑っている。
達也は、目が合うと、顔を近づけて耳打ちしてきた。
「おれたちって恋人同士に見えるんだよ」
「いや、見えないね」
達也の言葉を否定したのは八雲だった。
「見えないって……さっき君がそう言ったんじゃないか」
「記憶にないね」
言ったの、言わないの、まるで子どものケンカだ。
晴香は口を出す気にもなれない。達也はしばらく八雲の表情を窺《うかが》っていたが、急に何か思いついたらしく、ニヤリと口の端を吊《つ》り上げて笑った。
「分かったぞ。君も晴香ちゃんのことが気に入っているんだ。だから、おれが晴香ちゃんと仲良くするのが面白くない。そうだろ」
達也が勝ち誇ったように声を上げた。
「ちょっと、何言ってるの」
晴香が抗議する。達也はそれを無視してなおも続ける。
「残念だけど、君みたいな唐変木《とうへんぼく》と、晴香ちゃんでは釣り合わないよ」
「そうだな。そもそもぼくは、すぐに感情的になる頭の固い女は嫌いなんだ。煮て食おうが焼いて食おうが、ぼくの知ったこっちゃない」
八雲が、表情一つ変えずに言った。
「いいの? そんなこと言って。おれ、本当に晴香ちゃん食っちゃうよ」
「好きにしてくれ。もし食うつもりなら、食あたりに注意したほうがいい」
「ちょっと、それどういう意味?」
いくら何でも言い過ぎだ。晴香はテーブルを叩《たた》いて抗議する。
「意味も何も言葉通りだ」
八雲は相変わらず顔も上げずに、淡々とした口調で答える。
晴香は怒りで紅潮し、唇を噛《か》み締めた。
本当に、この男の物言いにはいつも腹が立つ。人を怒らせる天才に違いない。
「じゃ、好きにさせてもらおっと」
達也は、相変わらずの勝ち誇った笑みを浮かべたまま、将棋盤から角の駒を取り上げ、マス目を動かす。
「王手だ」
今まで無表情だった八雲の眉間に、みるみる深い皺《しわ》が寄った。
薄い唇を真一文字に結び、切れ長の目を細める。
「一つだけ忠告させてもらう」
八雲は達也が動かした駒を元の位置に戻し、達也を指差した。
「忠告?」
「そう。忠告」
「へえ、どんな?」
「避妊《ひにん》と水子の供養《くよう》はしっかりやった方がいい」
「な、何を突然言い出すんだ」
達也は八雲の指を払いのけて立ち上がった。
ひどく狼狽《ろうばい》している。過剰な自信の陰に隠れた、臆病《おくびょう》な本性が顔を出した。
こころ当たりがあるから、動揺するんだ。晴香は、達也に冷ややかな視線を浴びせる。
「晴香ちゃん、誤解しないで。こいつ頭がおかしいんだ。おい、お前、勝手なこと言うな。いい加減にしないと、こっちも黙ってないぞ」
「いい加減なことじゃないさ。相手の名前も言った方が分かりやすいかな?」
「お前、誰に聞いた」
達也は言ってから表情を強張《こわば》らせた。
まさに語るに落ちた。今のひと言でしっかりと肯定してしまったことになる。額に汗を浮かべる達也に、八雲が追い討ちをかける。
「しかも一人じゃない。二人だ。懲《こ》りないね」
「違う。あれはあいつらが勝手に妊娠したんだ。おれのせいじゃない」
達也は動揺のあまり墓穴を掘った。それもかなり深い。
もう弁解の余地は残っていない。
そして、達也が不用意に発した言葉は、八雲のさらなる怒りを買った。
「勝手に妊娠だと? それはいったいどういう状況のことを言っている? 想像妊娠ならまだしも、相手がいて初めて成立することじゃないのか?」
「それは……」
「たとえ小さくとも、この世に誕生しかけた命だ。それを、君は勝手に妊娠したなどと戯言《ざれごと》を言って無残《むざん》に殺したのか? 君のような人間に殺人罪が適用されない日本の法律が残念でならないよ」
達也は何か言おうと必死に口をパクパクさせていたが、結局何も言わなかった。
調子に乗って八雲に舌戦を挑んだ達也が愚かだった。
おそらく達也の自尊心《じそんしん》はズタズタだろう。
達也は、憤然とした態度で席を立ち、ドアを荒々しく閉めて部屋を出て行った。それが精一杯の抵抗だったのだろう。
「一緒に行かなくていいのか?」
八雲は、相変わらず将棋盤とにらめっこをしながら言った。
「あの人も最低だけど、あなたも負けないくらい最低ね」
「おほめ頂き光栄です」
棘《とげ》のある言い方に聞こえる。
「もしかして、怒っているの?」
晴香が問いかけた。八雲はやれやれという風に溜め息を吐いた。
「少しは考えてくれ。君にとっては好みかも知れないが、ぼくはあの手の人間が大嫌いなんだ。自分のことを世界で一番だと思っているし、そうでないと気に入らない」
「それで、あんな嘘を言ったの?」
「嘘?」
「そう。水子がいるとか、いないとか」
「君が勝手に判断してくれ。ぼくには、まったく関係のないことだ」
「そうね。確かに関係のないことでしたね。ご迷惑をおかけしました」
晴香は言いながら席を立ち、部屋を出て行こうとした。
「さっきの話、まだ続きがあるんだろ?」
八雲はやっと顔を上げた。
結局、その時は何かの見間違いだろうということになり、そのまま帰った。
でも、翌日になり事態は変わった。達也の車のフロントバンパーに、真っ赤に染まった子供のものと思われる手形が残されていた。
血に濡《ぬ》れた手で触ったような。
達也は気味悪がって、その手形を洗い流そうとしたが、洗剤を使っても、ブラシで擦《こす》っても汚れが落ちない。
以来、恐ろしくて車には乗っていないのだという。
晴香は、話の概略を説明した。八雲は無言で腕を組み天井を眺めていた。聞いているんだか、いないんだか、さっぱり分からない。
「ねえ、ちゃんと聞いているの?」
「ああ、聞いている。ただ、少し話が混乱しているようだ」
「混乱?」
「そう、混乱だ。例えば……」
言いかけた八雲だったが、何か引っかかることがあるのか、苛立《いらだ》たしげに、髪をガリガリとかき回した。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。憶測《おくそく》でいろいろ並べ立てても何も始まらない。こういう時はとにかくその場所に……」
「行ってみる」
晴香が八雲の言葉をつなげた。
「そういうことだ」
「今度は置いてきぼりにしないでよ」
「置いてきぼり? 前回の事件のことを言っているのなら、あれは君が望んで単独行動をしたんだ。勘違いしないように」
ひと言多い。
晴香は八雲を睨《にら》みつけたが、八雲はまったく気にしていない。
「歩いていける距離じゃないんだろ?」
睨み続けているにもかかわらず、八雲はまるで気にしていない風で、質問を投げかけてきた。
「え?」
「だから、事件のあったトンネルだよ」
「あ、うん。道は分かるけど、歩いていくのは厳しいわね」
「車は持っているのか?」
「免許すら持っていません」
「威張るな」
「威張ってなんか……」
「あてはあるか?」
「さっきの達也君に頼んでみる?」
「歩いたほうがマシだ」
八雲は、こめかみを指先でトントンとリズミカルに叩き、何かを思案している様子だったが、やがておもむろに立ち上がり、部屋の隅にかかっている黒いフード付きのコートを着て、身支度を始める。
「あてがあるの?」
「ないことはない」
八雲は冷蔵庫を開け、中から鍵《かぎ》を取り出した。何で、冷蔵庫に鍵?
「出発する前に、一つだけ約束してくれ」
言いながら、八雲は晴香の鼻先に人さし指を突きつける。
「何?」
「これからしばらくの間、何も質問しないでくれ」
「どういうこと?」
「分かりやすく言うと、そのお喋《しゃべ》りなお口を閉じておいてくれ」
「お喋りって……」
酷《ひど》い言われようだ。
反論しようと思ったが、その前に八雲はさっさと部屋を出て行ってしまった。
「ねえ、ちょっと待ってよ」
晴香は、急いで八雲の背中を追いかける。
八雲は急に振り返り、晴香に向かって何かを投げた。突然のことにあわてて、バランスを崩しながら両手でそれを受け取る。
「冷た」
さっきまで、冷蔵庫に入っていた鍵だった。
「戸締まりはしっかりな」
「ちょっと……」
「お口の戸締まりも忘れんなよ」
何て奴だ。仮にも女の子に向かって――。
本当に無神経で、自分勝手で、嫌な奴。
「バカヤロウ」
晴香はこらえきれずに叫んだ。
しかし、八雲は何を勘違いしたか、手を上げてスタスタと歩いていってしまう。
晴香はドアの鍵を閉め、またしても八雲のあとを走って追いかけるはめになった。
晴香は、八雲のあとについて歩いていた。
お口の戸締まりとまで言われては、話をすることもない。無言のまま、かれこれ十五分くらい経っている。
やがて、急勾配《きゅうこうばい》の上り坂に差し掛かる。
道の両端に、銀杏《いちょう》の木が黄色い葉っぱをつけて並んでいる。
ふと足を止めたくなるような、綺麗《きれい》な小道。
だが、八雲には情緒《じょうちょ》を楽しむ心はないらしく、スタスタと坂を登っていく。
その坂を登りきったところにあるお寺の山門の前で、八雲は足を止めた。
ずい分、古い造りのお寺だったが、掃除が行き届いているらしく、荒れた感じはしない。
どうやら、ここが目的地のようだ。
何でお寺なんかに来たのだろう?
「ねえ……」
「忘れたのか? 質問はなしだ」
晴香が理由を問い質《ただ》そうとした瞬間、八雲に冷ややかな視線で睨まれた。
私はそんなにお喋りだろうか? 周りの友達と比べてみても、大人しいとは言わないまでも、とりたててお喋りというわけではない。
そもそも、何の説明もなければ疑問に思うのは当たり前だし、それを訊《き》きたくなるのが人間の心情というものだ。
私がお喋りなのではなく、八雲がおかしいんだ。
「その門の前から動くな」
「私は行かなくていいの?」
「質問はなしだ」
八雲が無表情にぴしゃりと言った。
木彫りの仏像の方がまだ表情豊かだ。
本当に何も語るつもりはないらしい。晴香は諦《あきら》めて門の柱に寄りかかり、これでいいでしょと両手を後ろで組んだ。
八雲はその様子に満足したのか、すたすたと歩き出す。
砂利の敷き詰められた境内を抜け、本堂と渡り廊下で繋《つな》がれた、庫裡《くり》と思われる離れの建物の玄関に入っていく。
インターホンも押さなければ、挨拶《あいさつ》もなかった。
このお寺は、八雲と何かしらの係《かか》わりがあるのだろうか? 事情を話したくない理由もその辺りにあるのかも知れない。
それにしても寒い――。
歩いている時はそれほど感じなかったが、こうして一人でじっとしていると、吹きつける風がこたえる。
何で私が一人こんな所で待っていなくちゃいけないんだ。
待っている間に、怒りがふつふつと沸き上がってきた。
「早く戻って来い!」
怒りを抑えられなくなった晴香は、足元に落ちている石を拾い上げ、八雲が歩いて行った方向に向かって投げつけた。
「痛い!」
突然聞こえた声に、ビクッとする。
山門の横から、ゆっくりと人が現れた。
「す、す、すみません」
晴香はあわてて頭を下げる。
石を投げた方向には誰もいなかったはずなのに、まさか当たってしまうなんて――。
「寺に向かって石を投げるとは何とバチ当たりな」
「本当にごめんなさい」
晴香はますます萎縮《いしゅく》した。
「いや、いや、そんなに恐縮しなくてもよい。本当は当たってないんだ。さあ、頭を上げて」
低く柔らかい響きのある声に促され、晴香はおずおずと顔を上げる。
紺《こん》色の作務衣《さむえ》に草履姿の、中年の僧侶《そうりょ》が立っていた。
卵形の顔に、糸のような細い目。弥勒菩薩《みろくぼさつ》に似た、温和な印象の人物だった。
「あっ」
晴香は僧侶の顔を見て驚きのあまり声を上げてしまった。
「どうかしたのかね?」
「いえ、何でもありません」
事情を訊くなと言った八雲の言葉が思い返される。これが、八雲が事情を話したくなかった理由なのかもしれない。
晴香の前に立つ僧侶の左目は、八雲と同じように真っ赤に染まっていた。
「こんな所で何をしているのかね?」
「あ、あの、八雲君が、いえ、友だちと待ち合わせをしていて……」
別にやましいことがあるわけでも、嘘をついているわけでもないのに、何となく口ごもってしまう。
「そうか、八雲のガールフレンドだったか? そりゃ珍品《ちんぴん》だ」
「ち、珍品?」
「いや、失礼。八雲がガールフレンドを連れて来るなんて、初めてのことだったから、つい興奮してしまってね」
もしかして、この人は八雲の肉親なのかな?
「あ、あの、もしかして、八雲君をご存じなのですか?」
八雲は自分に質問はするなとは言っていたが、他の人に質問するなとは一言も言っていない。
晴香は勝手に解釈を変えて訊いてみた。
「八雲の父親です」
「あれ?」
八雲は、前に父親は行方不明だと言っていたはずなのに――。
「あ、いや、正確には父親のつもりでいる。あいつは絶対に認めないがね。私はあいつの母親の弟。つまり叔父にあたる」
八雲の叔父は苦笑いを浮かべながら、剃《そ》り上がった頭をポリポリと掻《か》いた。
「まあ、こんな所で立ち話もなんだから、さ、さ、中に入りなさい」
「え、でも……」
「よい、よい。八雲の言うことなど聞き流せばよいのだよ。あいつは何をしたってどうせぶつぶつと文句を言うに決まっている」
戸惑いながらも、晴香は叔父に促されるままに山門をくぐった。
庫裡の中に入ると、居間に通されコタツに入って八雲を待つことになった。
叔父さんはお盆に載せてお茶を運んでくると、晴香の向かいに腰を下ろした。
あらためて見てみると、叔父さんは八雲に似ていなくもない。
具体的にどこが似ているのかと訊かれたら説明しづらいが、強いて言うなら顔全体の造りだろうか。
ただ、かもし出す雰囲気は八雲とはまったく正反対である。
「すまんね。招いておいて、たいしたもてなしもできない。羊羹《ようかん》でも買っておけばよかったな」
「いえ、そんな。お構いなく」
「寒かっただろう。あんな所に一人で」
「ええ。とても」
本来なら、そんなことありません、と言うところなのだが、つい本音が出てしまった。
「正直だね」
叔父さんは少し笑った。
笑うと目がなくなる。穏やかな表情だ。
「正直過ぎるってよく言われます。自分でも直さなきゃって思っているのですけど」
「いやいや、正直が一番。あなたの言葉に救われた人もいるだろうに」
「そうでしょうか? 傷つけてばかりです」
なんだろう。この人は、いとも簡単に人の懐の中に入り込んでしまう。
でも、そのことに全然不快感がない。
「そんなことはないよ。少なくとも私は一人、君の言葉に救われた人間を知っているよ」
「え?」
初対面の人に、そんなことを言われるとは思わなかった。
私が、誰と会ったかなんて、知るはずはないのに――。
「あなたでしょ。八雲の瞳《ひとみ》をきれいだと言ったのは」
確かに晴香は初めて八雲の赤い瞳を見た時にそう言った。
八雲には、そんなことを言う奴は初めてだと笑われた。
「どうして、それを?」
晴香の問いに、叔父さんはずいっと身を乗り出して言う。
「ここだけの話だがね……」
「叔父さん。それ以上よけいなことは言わなくていい」
突然、八雲が割って入ってきた。
八雲は居間の入り口に立ち、言いつけを守らなかった晴香に対して非難の視線を浴びせている。晴香はそれに気づきながらも、ゆっくりとお茶をすする。
「何をのんびりしている。行くぞ」
八雲の命令口調に腹が立ち、聞こえないフリを決め込んだ。
私は犬じゃない。たとえ犬だとしても、横暴な飼い主の言うことなんて聞いてやるもんか。
「何だ。八雲。邪魔せんでくれ。私は、もう少しお前のガールフレンドと話をしたい」
「こいつはガールフレンドじゃない。トラブルメーカーだ。勘違いするな」
「ほほう。もうそんな深い仲になっているのか。お前もなかなかやるな」
「叔父さん。人の話はちゃんと聞いてくれ」
「そんなこと言って、あんまりモタモタしてると他の男に取られちまうぞ。彼女はかわいいから引く手|数多《あまた》だ」
本人を目の前にして、この二人はどういう会話をしているんだ。呆《あき》れるというか、なんというか――。
「取りたい奴がいるなら好きにしてくれ」
「別に、いちいち言われなくてもそうさせて頂きます」
晴香は聞こえないように言ったつもりだったが、しっかりと八雲の耳に届いていたようだ。
八雲の冷ややかな視線が飛んでくる。
「八雲、お前もう少し人に優しくできんか?」
「金額次第では考えてもいいよ」
叔父さんはやれやれという風に首を振った。
「叔父さん。悪いけど、車を借りる」
「彼女とドライブかね」
「しつこい」
八雲は一喝してさっさと部屋を出て行ってしまった。
晴香はどうしたものかしばし思案したが、八雲の言う通り元々は自分が持ち込んだトラブルだ。八雲一人に任せるわけにはいかない。八雲の叔父に丁寧《ていねい》に礼を言って席を立った。
「ああいう子なんだ」
晴香が部屋を出ようとしたところで、叔父さんが小声で言った。
どことなく寂しい響きだった。
「八雲は、人よりたくさんのものが見えてしまうばかりに、心を閉ざしてしまっている」
「幽霊のことですか?」
叔父さんは、頷《うなず》いてから話を続ける。
「人と深く関わることを恐れて逃げている。少しばかり、感情表現が捻《ひね》くれてしまっている。ああ見えても、本当は優しい子なんだ。……うーん……あまり説得力ないか……」
叔父さんは、困ったような表情を浮かべて首を捻った。
「分かっています」
晴香は笑顔で応《こた》え、部屋を出た。
叔父さんの前だから気を遣ったのではない。その時はなぜか素直にそう思えた。
「ねえ、叔父さんの目」
白いセダンの助手席に収まった晴香は、運転席の八雲に、おそるおそる訊《き》いてみた。返事はなかった。
八雲は、表情一つ変えずにハンドルを握っている。
諦《あきら》めて、ぼんやりと窓の外を眺めた。
車内は、カーオーディオも、ラジオも流れていなかった。
聞こえるのはエンジン音と、車が冷たい風を切る音だけだった。
会話すらない車内にあって、晴香は不思議と居心地の悪さは感じなかった。
「叔父さんの目は、生まれつきでも何でもない。赤いコンタクトレンズを入れているんだ」
車が、丘へと通じる坂道に差し掛かったところで、急に八雲が話し始めた。
晴香は、まじまじと八雲の横顔を見つめる。
「え?」
「何だ。それが訊きたかったんじゃないのか?」
八雲が、言いながら横を向いた。
一瞬、目が合った。晴香は、ドキッとして目を逸《そ》らした。顔全体が熱を持つ。
「どうして、わざわざそんなことをしているの?」
「わざわざ赤い目にすることで、世間の好奇の視線に晒《さら》され、ぼくが味わったのと同じ苦しみと孤独《こどく》を味わおうとしている」
「自分を、犠牲《ぎせい》にしてまで?」
「そういう人なんだ」
八雲は簡単に言っているが、叔父さんのやっていることは簡単にできることではない。
「そこまで気にかけてくれる人がいるのに、何で八雲君は大学なんかに住んでいるの? 少しは叔父さんの気持ちも考えてあげるべきよ」
いつになく強い口調になってしまう。
「君の悪いところは、ろくに考えもしないでベラベラ喋《しゃべ》ることと、何でも自分の価値観だけで決めつけてしまうことだ」
「八雲君の悪いところは、無愛想《ぶあいそ》なところと、人の気持ちも考えずに無神経な言葉を発するところね」
晴香は八雲に負けじと噛《か》みつく。
八雲は、聞きわけのない子どもを相手にしてあきれたと言わんばかりに、力なく首を左右に振った。
「君はあそこがどこだか分かっているのか?」
「お寺」
「そう。お寺だ」
「それがどうしたの。それとこれとは話が別でしょ」
「忘れたのか? ぼくの左眼は、死者の魂が見えてしまう。自分の意思に関係なくだ」
「あ……」
晴香はやっと八雲の言わんとしていることが分かった。
そうだ。死者の魂が見える人間がお寺などにいたら、毎日何十、いや何百という死者の魂と顔を突き合わせることになる。
死者の魂が抱く憎しみ、怒り、悲しみ、それら負の感情の渦の中で生活することになるのだ。
とても普通の神経でいられはしない。
自分たちにとっては、ただのお寺かもしれないが、八雲にとってはそうではない。
「叔父さんも、それは承知している。あそこは、ぼくにとってはうるさすぎるんだよ」
晴香は初めて八雲の心情を覗《のぞ》き見た気がした。
八雲の言う通り、私は自分の価値観だけで、物事を決めつけてしまっているのかもしれない。
晴香は窓を開け、少し顔を外に出した。
風が頬を打つ。冷たすぎる風が、今は心地よかった――。
問題のトンネルに近づいたところで、八雲は路肩に車を停車させた。
トンネルの入り口辺りに、空き瓶に活《い》けられた菊の花が置いてあった。
元は鮮やかな白い色をしていたのだろうが、今は茶色く萎《しお》れてしまっている。
昼間でも、不気味な雰囲気の漂うトンネルだ。
「ここで間違いないな?」
確認を求める八雲に晴香は黙ってうなずいた。
あの時の恐怖がじわじわと思い出される。八雲はシートにもたれかかり、真剣な眼差《まなざ》しでトンネルの奥を見据えていた。
それほど長いトンネルではないはずだが、曲がっているのか、坂になっているのか、トンネルの出口は見えない。
ただ真っ暗な穴が、別世界への入り口のように、ぽっかりと空いている。
トンネルを吹き抜ける風が、獣の鳴き声のように低い唸《うな》りを上げた。
路上に散らばった枯れ葉が、ガサガサと音を立てて舞い上がる。
「何か見えた?」
八雲の横顔に訊いてみた。
「何かいるのは確かだ。でも、ここからじゃはっきりとは分からない」
「行ってみるしかないってこと?」
「そういうことだ」
八雲はそう言いながらサイドブレーキをゆっくりと下ろす。
トンネルの中に吸い込まれるように車が動き出した。
車がトンネルの中に入って行く。
急激に暗くなる。空気が重くなり、耳鳴りがする。あの時と同じだ。
ごぉぉ。
一瞬、風の唸り声が大きくなったような気がした。
トンネルを半分ほど進んだところで、エンジンの音が明らかに変わった。急勾配《きゅうこうばい》の坂道なんかで、馬力が足りずエンジンが悲鳴を上げることがあるが、そんな音だった。
「まずいな……」
八雲がポツリと言って下唇を噛む。
その表情からはいつもの寝ぼけた様子は消えていた。獲物《えもの》をねらう狼の眼だ。額に少し汗が浮かんでいる。
「不用意すぎた」
「え?」
「ぼくがいいというまで顔を伏《ふ》せていろ。絶対に窓の外を見るな」
「どうして?」
「いいから伏せていろ!」
八雲が怒鳴る。おそらく八雲には何かが見えているのだ。
とてつもなく恐ろしい何かが。晴香は言われるままに両手で頭を抱えて、前屈《まえかが》みになった。
それと同時に八雲がアクセルを思いっきり踏み込む。エンジン音が一際大きくなる。しかし、その割に一向に速度は上がっていないようだ。
晴香は身体を伏せて目を閉じてはいたが、車の外に何かの気配を感じた。
うぉぉ。
エンジン音とは明らかに違う、唸り声のようなものが聞こえた。そして、それに交じってペタッ、ペタッ、と窓に何かが張り付くような音も聞こえる。
いったい何だろう。晴香は頭を上げようとした。
「見るな! 伏せていろ!」
すかさず八雲が叫ぶ。
晴香はびくっと肩を震わせて元の体勢に戻る。不意に晴香の首筋を、何かが擦り抜けた。
何だ?
いったい何が通った? 分からない。
ペタッ。
何かが頬を触る。
冷たい。とても冷たい。
おぉぉぉぉ。
唸り声がまだ聞こえる。何が起きている?
分からない。
嫌だ、もう耐えられない――。
晴香は、顔を上げた。
トンネルの出口が見えた。そこには、急カーブが待っている。
八雲は、まるで前など見ていないかのように、呆然《ぼうぜん》としていた。
「危ない!」
とっさに叫んだ。
ハンドルを握っていた八雲が、我に返る。
「掴《つか》まっていろよ」
八雲が叫ぶ。
掴まれっていったいどこに?
晴香が尋ねる前に八雲は急ブレーキを踏む。タイヤがロックして白い煙を出し、車体が回転を始める。
結局掴まる場所を見つけられないまま、遠心力にふり回され、勢いよくサイドウィンドウに額をぶつけた。
これで二回目だ。目の前が真っ白になった。
タイヤの焦げた臭いで晴香は正気を取り戻した。
八雲は運転席のシートにのけぞり、目を閉じてゆっくりと深呼吸している。
車は一回転半してトンネルと向き合う形で停車していた。
ガードレールまでほんの数センチのところだった。その先は、崖《がけ》のようになっていて、下まで十メートルはある。
ぎりぎりのところで命拾いしたわけだ。
「急ブレーキを踏むなら先に言ってよ」
晴香はぶつけた額をさすりながら言う。
「先に訊《き》いてくれ」
「どうして素直に謝れないの? 瘤《こぶ》ができちゃったよ」
「君こそ瘤程度ですんだことに感謝してほしいね」
本当にこの男は言えば言うだけ皮肉が返ってくる。
「ねえ、何かいたの?」
「ああ」
八雲は言い終わると車をUターンさせ、歩道に寄せてから車を降りた。
晴香も八雲のあとに続く。
八雲は車の正面に回りこむと、フロントガラスを指さす。
「!」
晴香は言葉を失った。爪先から脳天までぞぞぞっと音を立てて震えが這《は》い上がる。
車のフロントガラスには誰かが素手で触ったような手形が付着していた。
それも、一つや二つではない。隙間をすべて覆い尽くすように、至る所に手形がついていた。
何かがいることは感じていたが、まさか、これほどだとは――。
「最初は一人だった。三十代くらいの男が車のボンネットに乗った」
八雲が、眉間《みけん》に人差し指をあてがい、話し始めた。
「その後はどこから湧き出したのか、次から次へと車に張り付いてきた。まるで、トンネルの中に引きとどめようとしているみたいだった」
「これが、その手形?」
晴香は力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
昔、深夜映画で見たゾンビを連想した。主人公たちの乗る車を囲む、途方もない数の死者の群れ。
「このトンネルでは、ものすごい数の人間が死んでいる」
「どうして、そんなことに――」
「多分最初は単純な事故だった。そこで死んだ浮かばれない魂が彷徨《さまよ》い、次の事故を誘発する。そこで、また浮かばれない魂が一つ増える。その繰り返しだ。死が死を呼んで、際限なく同じことが繰り返される」
聞いているだけで、背筋がぞっとした。まるで、死の連鎖だ。
「ねえ、どうするの?」
晴香の問いかけに、八雲はゆっくりとトンネルの穴まで歩みを進めた。
「どうするも何も、ぼくにはどうにもできない」
八雲がポツリと言った。
「除霊してもらうとか?」
「無駄だよ。そんなことをしても何の解決にもならない」
「前もそんなこと言ってたけど、どういうこと?」
晴香の問いに、八雲は苦笑いを浮かべ、ガリガリと寝グセだらけの髪をかきまわした。
「ぼくは、除霊の呪文《じゅもん》やお祓《はら》いは認めていない。あんなものは邪道《じゃどう》だよ。呪文を唱《とな》えて霊を撃退したり、お祓いをして霊を追い払うなんて、ぼくには本当に信じがたいね」
「八雲君の幽霊を見る眼だって、私から見れば同じくらい信じがたいものだったわよ」
「君は死者の魂を妖怪《ようかい》か何かと勘違《かんちが》いしている」
「どういうこと?」
「幽霊の元は何だと思う?」
これはまた突飛《とっぴ》な質問だ。
でも、答えられないわけではない。当然――。
「生きた人間」
「ご名答。別に卵から生まれて来るのでも、宇宙からやって来るのでもない。元はちゃんと感情のある人間なんだよ。では、幽霊とはそもそも何だと思う?」
それは――。
「分からない……」
「これはあくまでぼくの持論だが、死んだ人間の意思というか、想いというか、そういったものの塊《かたまり》じゃないかと思う」
「塊?」
今いちピンと来ない。
「人間の記憶や感情はつきつめると、電気信号だと言われている。インターネットを流れる情報の渦は、人間の脳の仕組みに酷似《こくじ》しているなんて言う人もいる」
「そうなの?」
なんだか、分かったような、分からないような――。
「そう考えると、器をなくしてしまった瞬間に、人間の感情がすべて無に帰すわけでもないだろ。電気は器がなくたって流れるし、ネットの情報は元々の器が失われても、他の器に移り住むわけだ。死んだ人間の想いや情念が、その辺をふらついていても、何の不思議もない」
「確かに」
「ぼくの経験から、勝手に構成した理論だから、科学的に説明しろと言われても無理だけどね」
「つまり、肉体を持たない、感情だけの存在ってこと?」
「まあ、そんなところだな。幽霊をその感情だけの存在だとして、さっきの除霊の話に戻るが、霊媒師は呪文を唱えたり、お祓いをすることで、いったい人間の感情にどんな影響を与えているんだ? 何度も言うが、幽霊は妖怪ではないんだよ」
何となく話が見えてきた。八雲の言う通りかも知れない。
生きていようが、死んでいようが、幽霊というのは新種の生物ではない。死んだら別の生物になるのではない。
紛《まぎ》れもなく人間なのだ。
「百歩|譲《ゆず》って霊媒師にものすごいパワーが宿っていて、霊を消し去ったり、黄泉《よみ》の世界に送ることができるとしよう。でもそれは人間の感情を無視して、強制的にそうしているわけだろ」
「そうね」
「それは、言うことを聞かない奴を、殴りつけて服従《ふくじゅう》させているのと、やっていることは変わらない。はっきり言って野蛮だ」
少し偏見を持っている気もするが、言っていることは概《おおむ》ね理解できた。
それにしても、八雲が幽霊を人間として見ていることが、少し意外だった。
八雲の叔父さんの言っていた言葉が頭に浮かんだ。「少しばかり、感情表現が捻《ひね》くれてしまっている」と――。
晴香は何だか急におかしくなって笑った。
「何がおかしい?」
八雲は、不機嫌そうに眉間に皺《しわ》を寄せ、睨《にら》んで来た。
おお、怖。
晴香はあわてて笑いを呑《の》み込み、別の疑問をぶつけてみることにした。
「じゃあ、美樹の時は?」
「ぼくは、ただ、魂を束縛《そくばく》し、苦しめている原因を追及して、それを死者の魂に説明してやったに過ぎない。つまり、説得しただけだよ」
なるほど、晴香は何度も頷《うなず》いた。
思い返してみると確かにそうだ。
八雲は美樹には直接何もしていない。とり憑《つ》いた女性の霊が死んだ理由を突き止めることで、彼女の怯《おび》えを取り除いた。
それが結果として美樹を救うことになった。
「君はトンネルの前で女性の姿を見たって言っていたな」
八雲が、唐突に口を開いた。
獣のように鋭い視線で、トンネルの穴を凝視している。その背中からは、今までにない緊張感が漂っていた。
「そうだけど……」
「二十代後半。髪が長くて、グレイのスーツを着た女性か?」
晴香の脳裏に、あの光景が蘇《よみがえ》る。
眉間《みけん》から血を流し、無表情に立っていた長い髪の女性――。
「そうよ。その人。見えるの?」
「今、目の前に立っている」
「え?」
慌てて辺りを見回してみるが、晴香の目には何も映らない。
あの時、あの女性は何かを訴えかけようとしていた。私には、それが何か分からなかった。
でも、八雲なら――。
八雲は、おもむろにガードレールに歩み寄ると、身を乗り出して下を覗《のぞ》き込んだ。
この下に何かあるの? 晴香も同じように覗き込んでみる。
急な斜面に、雑草や杉の木やらが無造作に生え、林のようになっていた。
よく見ると、その林の奥には冷蔵庫やテレビ、自転車等といった粗大ゴミが転がっている。
道路から見えにくいのをいいことに、ゴミ捨て場にされてしまっているようだ。
「ここか……」
八雲は呟《つぶや》くように言うなり、ガードレールを飛び越え、木の枝を器用に掴《つか》みながら斜面を滑り降りていく。
辺りは暗くなり始めていた。
トンネルが大きな口を開き、その異様な存在感を放っている。
晴香はトンネルに飲み込まれてしまうような錯覚に陥った。
八雲の姿はどんどん見えなくなっていく。
こんな場所に一人取り残されるのはご免だ。晴香もガードレールを乗り越え、八雲のあとを追うことにした。
考えが甘かった。
上から見るよりずっと急な斜面だった。
晴香はいくらも進まないうちにバランスを崩し、転げ落ちるように斜面を下った。
木の枝に腕や足を何度も弾《はじ》かれた。痛いけど、止まるに止まれない。一人で待っていればよかった。後悔しても、あとの祭り。
晴香は、斜面を下りきったところで、勢いあまって前に倒れ込んだ。
膝《ひざ》を強く打ったようだ。痺《しび》れるような痛みがあった。
何だか惨めな気分になって泣きそうになる。
涙をこらえて顔を上げると、目の前に手を差しだしている八雲の姿があった。
白く、冷たい手を握り、引っ張ってもらいながら立ち上がった。
「待ってろって言っただろ」
「そんなこと言わなかったじゃない!」
痛みでつい口調が荒くなる。
晴香は近くにある石に腰を下ろし、ぶつけた膝を覗き込む。ジーンズが破れて、膝が丸見えになっていた。皮が捲《めく》れて血が滲《にじ》んでいる。
「痛い……」
思わず声が漏れた。
八雲は晴香の正面に回り、立て膝をつくと晴香の膝にハンカチを押し当てた。
「血が止まるまで押さえていろ」
ありがとう、そのひと言が言えなかった。
「急にこんなところに来て。ちゃんと説明してよ」
礼を言う代わりに、晴香の口からは不満の声が飛び出した。
八雲は、やれやれという風に首を振りながら立ち上がると、数メートル先の地面を指さした。
晴香は、八雲の指す方向に視線を動かす。
はっ、と息が止まった。
そこにはグレイのスーツを着た女性が仰向《あおむ》けに倒れていた。
もしかして、あの女性――。
確認するまでもなく、息絶えていることは分かった。
眉間から流れ出した血は、黒く変色し、生気を失った肌にこびり付いている。空に向けられた濁った瞳《ひとみ》は、何を見ているのだろう。
「おそらく、さっきの道で事故か何かにあったんだろう」
八雲がポツリと言う。
こんな場所で、何日も放置されていたのか。
きっと彼女は見つけてほしくて、あの場所に現れたのだ。
私が八雲みたいにはっきりと見えたなら、もっと早く見つけてあげられたのに。
ごめんね。
晴香は胸の内でつぶやいて目を閉じた――。
晴香が、八雲の隠れ家を訪れると、前の事件の時、警察署で顔を合わせた男の人がいた。
確か、後藤《ごとう》という刑事さん。
大きな身体に、険のある目つき。悪役レスラーかと思ってしまう。
先日発見した女性の件で分かったことがあるので、興味があったら訪ねて来いと八雲に言われていた。
先客がいるのなら、また時間をあらためて来ようとドアを閉めかける。
「ちょうどいいところに来た。説明するから入れ」
八雲が椅子に座るように促し、後藤が椅子を引いた。
こうなると、入らないわけにはいかない。
晴香は後藤の隣にちょこんと座る。刑事が隣にいると思うと、何だか恐縮してしまう。
「後藤さんには前に一度会ってるだろ」
晴香はうなずく。
「おい、八雲。ちゃんと紹介しろ。俺は名前を知らねぇんだ」
八雲は面倒くさそうに背中を掻《か》く。
「彼女は、小沢《おざわ》さん」
「おいおい。それだけかよ。もっとこう、いろいろあるだろ」
「そういうことはあとで個人的に訊《き》いて下さい」
「あーあ。冷たいね。ほんと。で、下の名前は?」
後藤は急に晴香の方に向き直った。
満面の笑みを浮かべているが、目の下の隈《くま》と無精ひげが目立って、不気味だ。
「あ、晴香です」
「へえ。八雲にはもったいないくらいかわいいじゃねぇか。で、どこで知り合ったんだ?」
「えっと……」
「あとでと言ったでしょ」
八雲は会話を遮るように一喝した。「ケチ」後藤は小声で言う。
二人の力関係がよく分からない。
後藤は、仮にも刑事だし、年齢は私たちよりずっと上のはずだ。
八雲は敬語を使いはしているが、完全に後藤をバカにしたような態度だし、後藤は後藤で、八雲と友だち感覚で話しているように思える。
「さあ、面子《メンツ》は揃った。説明を始めて下さい」
八雲は後藤に促す。そういうことか、と晴香は心得る。
八雲がわざわざ時間まで指定して来たのは、後藤にすべて説明させるためだったのだ。
「ああ、そうそう。すっかり忘れるところだった」
「まったく。何しに来たんですか。刑事はそんなに暇なんですか」
後藤は八雲の皮肉を完全に無視して、ヨレヨレのスーツの内ポケットから手帳を取り出し、咳払《せきばら》いをしてから話し始めた。
「例の死体の女性だが、死因はおそらく脳挫傷《のうざしょう》」
「殺人ですか?」
八雲がポツリと言った。
「それは違う。監察医の話では、身体に車の塗料の一部とライトの破片が付着していたらしく、車に撥《は》ねられたのは確実だ」
後藤は、掌《てのひら》で顎《あご》の無精ひげを擦《こす》りながら言った。
晴香は困惑した。今、後藤が話しているのは、警察の捜査情報だ。
「あ、あの。そんな話、してしまっていいんですか?」
思わず口を挟んだ。
八雲と後藤が同時に晴香を見る。
別におかしなことを言ったつもりはないのだが、何だか不安になってしまう。しばらくの沈黙の後、後藤は何事もなかったかのように話を続けた。
「それで、被害者の女性だが、鞄《かばん》やら財布やら、身元の分かりそうな物はすべて抜き取られていたんだ」
「誰かが意図的に身元を隠蔽《いんぺい》しようとした」
八雲が、眉間《みけん》に人差し指をあてがう。
「その通り。歯の治療記録からすぐに身元が判明した。被害者は近くの住宅街に住む女性。名前は仮にA子さんとしよう。で、数日前勤務先の会社を出たところを目撃されたきり、行方が分からなくなっていた」
「捜索願は?」
「両親から出されていた。で、早速両親が遺体を確認したってわけだ。A子さんの両親はかなり錯乱していたが、娘を見つけてくれた人にお礼を言ってほしいってよ」
後藤が、ちらっと八雲に視線を送ったが、当の本人は無反応だった。
「で、犯人は?」
「ああ、車の破片が交じっていたからな。車種も特定できたし、それほど時間はかからなかった」
「一件落着ですか」
「いや、ここからが酷《ひど》い話なんだ。犯人は、被害者のA子さんと同じ住宅街に住んでいる、中学生二人組だ」
「無免許だったわけですね」
「調子にのって車を乗り回し、はねちまった。何でもトンネルの中で幽霊に追いかけられてスピードを出し、カーブを曲がり切れずに女性をはねちまったって言ってる」
「その話、本当です」
晴香は思わず口を挟んだ。
「俺も、信じてはいるが、残念ながら、日本の法律は幽霊の存在を認めていない」
「人が一人死んでいるんです。幽霊の存在なんて、言い訳になりません」
八雲が、方向の逸《そ》れた会話の打ち切りを宣言するように言った。
「手厳しいな」
後藤は、苦笑いとともに、元々緩んでいるネクタイをさらに緩めると、内ポケットからタバコを取り出し咥《くわ》える。
「知っていると思いますが」
「分かってるよ。禁煙だろ。火は点《つ》けないよ。咥えただけだ」
八雲の突っ込みに、後藤は苛立《いらだ》たしげに言う。
咥えただけとは言ったものの、手にはしっかりとライターを握っているのを、晴香は見逃さなかった。
後藤は、咳払いをしてから、話を再開する。
「まあ、その少年たちはさておき、もっと問題があるのは、彼らの両親だ。少年二人は事故を起こしたあと、恐ろしくなって両親に電話を入れている。そこで、両親のやったことは……」
「事故の隠蔽《いんぺい》工作」
八雲が、唇を噛《か》みながら言った。
「ご名答。財布や鞄を盗み、死体を崖下《がけした》に投げ捨てた……」
後藤のその言葉を聞き、晴香は胃が収縮し、中身を吐き出しそうになるほどの不快感を覚えた。
もはや人を人として認識していない。
死体を投げ捨てるなんて。人間は自らの保身のためにいったいどこまで冷酷になれるのだろう――。
「まあ、事件の概要はざっとこんなところだ。大方、八雲が予想した通りだったな」
後藤は話の締め括《くく》りに、パタンと音を立てて手帳を閉じた。
予想した通り? 八雲は今回の一連の事件を見抜いていたというのだろうか?
晴香はただ混乱するばかりで、その先の真実などまったく見えていなかった。
八雲の目は、死者の魂だけではなく、未来が見えているのではないかと疑いたくなるくらいだ。
「ああ、一つ言い忘れてた。事故を起こした車なんだが、ちゃっかり修理が終わっていた。どこかの整備工場に依頼したらしいが、血がたっぷりついていたはずだ」
「人を轢《ひ》いた車だと知った上で修理した」
後藤の言葉を、八雲がつなげた。
「まあ、そんなところだろう。その整備工場がどこだったのか、目下両親を追及中……」
本当に、後味の悪い事件になった。
でも、晴香には一つだけ分からないことがあった。
「結局、今回の達也君の件はどうなるの?」
「死にたくなきゃ、二度とあのトンネルには近づくな」
八雲が、あくびをしながら言った。
まあ、そういうことになるのだろうが、嫌な予感が胸から離れなかった――。
久しぶりに車を走らせていた達也は、大学へ向かう途中の坂道で、思わぬ人物の後ろ姿を見かけた。
クラクションを鳴らすと、眠そうな目がふり返った。
斉藤《さいとう》八雲。この前は晴香の前で随分と恥をかかされた。
これ以上周りでうろうろされるのは、はっきり言って迷惑だ。
ここは念を押しておいた方がよさそうだ。
達也は運転席の窓を開け、車を八雲の隣につける。
「この前は随分世話になったね。晴香ちゃんから聞いたよ。君の忠告通りあのトンネルにはもう近づかない」
八雲は、露骨に嫌そうな顔をして、無言のまま歩いていく。
「ちょっと待てよ。こっちはちゃんとお礼を言っているんだぜ」
達也は八雲の歩調に合わせ、車を徐行させながら話を続ける。
「お前に礼を言われる筋合いはない」
八雲は、ちらっと視線を向けながら言った。
この男は気に入らない。達也はあらためて思う。
人の心の奥底まで見透かしたような、その目を見ていると、何だか落ち着かなくなる。
「そんなこと言うなよ。次にまた何かあったら頼むよ」
「次はない。勝手に何とかしてくれ」
達也は舌打ちをする。
「恋敵を助けたくはないか?」
「それは、ぼくに言っているのか?」
「君以外に誰がいる?」
「ぼくに言っているのなら、見当違いもいいところだ。君とあいつがどうなろうと、ぼくの知ったこっちゃない。邪魔もしないし、干渉するつもりもないから好きにやってくれ。ぼくが君に対して冷たく接するのは、生理的に嫌いだからだ。深読みするな」
達也はふつふつと沸き上がる怒りを、何とかこらえた。
「確かに聞いたぜ。おれ、今から晴香ちゃんと仲直りのデートをするんだ。文句はないだろ」
「ご自由に……」
八雲は言いかけて言葉を止めた。眉間に皺《しわ》を寄せ、車の後部座席を凝視している。
「おい……車に乗っている子どもは誰だ?」
「は?」
達也には八雲の言葉の意味がまるで分からない。
後部座席に目を移す。確認するまでもない。そこには、誰もいない。
こいつ――。
「また水子がどうしたとか言うつもりか?」
こいつは誰に聞いたか知らないが、余計なことを吹聴《ふいちょう》しやがって、頭に来る。
「違う。水子じゃない。その子は……もしかして……」
「もう、お前なんかに構っていられるか! お前が死ね!」
達也は吐き捨ててアクセルを踏み込んだ。
八雲の姿がどんどん小さくなって行く。あの野郎。まだこっちを見ていやがる。
不気味な野郎だ――。
晴香は、美樹に呼び出されて駅のロータリーで待っていた。
美樹の新しい彼氏を紹介するとかしないとか。正直どうでもいい。
どうせこの前の合コンに参加していた男だろう。
品評会じゃあるまいし、友だちの彼氏を見てどうしろというのだろう。普段はそうでもないが、こと恋愛となると、美樹とは全然合わない。
クラクションの音で顔を上げる。
一台の車が晴香の前に停まった。あの車は確か。でも、色が違う。元の色は確か白だったはずだが、今はけばけばしい赤い色に変わっている。
「どうも」
違うことを祈っていたのに、顔を出したのは達也のニヤケ顔だった。
達也はあれ以来しつこくメールを送ってくる。書かれている内容は、全部自分のことばかり。
最近は、返信をしないようにしていた。
「何してるの?」
「友だちと待ち合わせです」
「あ、そう。ちょうど良かった。おれは、友だちと待ち合わせしているお姫様を、迎えに来る役を仰せつかったところだったんだ」
晴香はしまったと思う。
今日の美樹の誘いを断ればよかった。
考えれば分かりそうなものだ。美樹の新しい彼氏が、この前の合コンで知り合った人だとすれば、当然達也と美樹の彼氏は友だちになるわけだ。
「さ、行こう。みんな待っているからさ」
またこの車に乗せられると考えただけで気分が悪くなる。
ここまで来るとドタキャンの言い訳もない。
晴香はしぶしぶ車に乗り込むことになった。
後藤は、郊外にある自動車整備工場の前にいた。
車三台を収容できるガレージに、作業場と思われる小屋が併設されている。
周囲を取り囲むように、パトカーが何台も停車し、警官がところ狭しと走り回っている。
その喧騒《けんそう》を逃れるように、道路まで出てから、後藤が携帯で電話をかける。
三回目のコールで八雲が電話に出た。
あいつにしては奇跡的な早さだ。
〈何の用ですか?〉
開口一番これである。
「この前の事件の続きなんだがな。例の車を修理したと見られる自動車整備士が判明した……」
〈それで〉
八雲が話の先をうながす。珍しいこともあるものだ。
後藤は、八雲が機嫌を損ねないうちにと、説明を始めた。
この自動車整備士は、市内に住む暴走族あがりの男で、死んだ父親の跡を継ぐ形で工場を経営していた。
近所の評判はズタボロ。
修理に出すと、必ず違うところが壊れてかえってくると有名だった。
ある程度、証拠が固まり、警察が家宅捜索したところ、裏庭から子どもの死体が発見された。
本人を追及したところ、知人と車を乗り回しているときにはねてしまったようだ。そして、そのまま証拠隠滅のために死体を裏庭に埋めた――。
どいつもこいつも本当に腐ってやがる。子どもの身元は現在捜査中。
確定させようにも、自動車整備士自身はねた子どもがどこの誰だか分かっていないし、遺体の損壊状況があまりにも激しくて判明までに時間がかかりそうだ。
ウチの変態監察医が喜びそうなネタだ。
〈それで、ぼくにどうしろと?〉
事情説明を終えるのと同時に、八雲が不機嫌そうに言った。
「お前にその子の身元とまではいわないが、せめて顔の特徴くらい掴《つか》めないかと思ってな」
後藤は無駄だと思いながらも訊《き》いてみる。
八雲に死んだ少年の魂を見ることができれば、少しは捜査もスムーズにいく。
まあ、どうせ「興味ありません」とか言って断られるんだろうな。
〈後藤さん。遺体の写真を見ることはできますか?〉
八雲から返ってきたのは意外な回答だった。
「本当か!」
後藤は歓喜の声を上げる。
言うだけでも言ってみるもんだな。
早速八雲と落ち合う約束を取り付け電話を切った。
10
晴香は、憂鬱《ゆううつ》な気分のまま、車の助手席に乗っていた。
車内には、相変わらず四拍子のヒップホップミュージックが流れている。
「この車の色、どう?」
あまり興味がない。「はあ」と何となく気の抜けた返答をする。
「結局、あのあとも赤い手形が残っちゃってさ、それで思い切って色を変えちゃったってわけ。結構|恰好《かっこう》いいでしょ」
そんなことより――。
「どこに行くんですか?」
運転席の達也に問いかける。
予定では美樹の家に向かうはずなのだが、明らかに方向が違う。
街から外れ、ぐんぐん山道を登っていく。
「ちょっとね。この前見れなかった夜景を見ようかと思って」
「美樹が待ってますから。夜景なんて別に見たくないですし」
何だかこの前の再現VTRみたいだ。
「大丈夫。美樹ちゃんも知ってるから」
「へ?」
思わず素っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。
「おれたちのために気を遣ってくれたってやつかな」
達也が、ニヤニヤしながら言った。
お互いの認識の共有があって、初めて気を遣うということになる。
これでは、ただの嫌がらせだ。
あとで美樹に思いっきり文句を言ってやる。
でも――。
「その夜景がきれいな場所って例のトンネルを通って行くんですよね」
「大丈夫、大丈夫。違う道があるんだよ」
何で私の周りには、こうも自己中心的な人間しか集まらないのだろう。
情けない気分になってくる。晴香は、がっくりと肩を落とした。
※  ※  ※
後藤は、大学の校門の前に十年おちの、白いセダンを停めた。
一度も洗車したことがないのが自慢の愛車だ。
停車するなり、校門の向こうから八雲が走ってきて、車に乗り込んだ。
この寒空の中、俺の到着を待っていたのか? 八雲が、そんなことをしたことは、一度もなかった。
「写真を見せて下さい」
息を切らしたまま八雲が言う。
後藤は室内灯を点《つ》けて、ダッシュボードの中から取り出した封筒を差し出した。
八雲はそれを奪い取ると、丹念に一枚一枚写真を観察し始めた。
本来なら目をそらしたくなるような写真のはずだが、八雲の目は真剣そのものだ。その能力が彼から死体に対する畏怖《いふ》の念を奪い去ってしまったのだろう。
八雲はこの年で、血、肉、骨、そしてそれらの腐敗する様を、日常的に眼にしてしまっている――。
八雲が頭を抱えるようにして、ため息を吐いた。
「何か心当たりがあるのか?」
「残念ですが、あります」
八雲は笑いはしたが、目が全然笑っていない。
「教えろ。どういうことだ?」
「後で説明します。それより、確認しないと」
八雲は、そう言うと、コートのポケットから携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけ始めた。
※  ※  ※
助手席に収まっていた晴香は、バッグの中で携帯電話が振動しているのに気付いた。
「もしもし」
〈今、どこにいる?〉
聞こえて来たのは、慌てた様子の八雲の声だった。
「車に乗ってる」
〈車っていうのは、例の達也とかいう奴の車か?〉
「そうだけど……」
〈今すぐその車から降りろ〉
八雲は、有無を言わさぬ口調だった。
「降りろってどういうこと?」
〈いいから、死にたくなければ、その車から降りるんだ〉
え? 死にたくなければって――。
確かに達也と一緒にいるのはいい気分のするものではないが、別に死にはしない。
考えている間に、晴香は携帯電話を奪い取られた。
達也だった。突然何をするの? 晴香があわてている間に達也は携帯電話に向かって話し始めた。
「約束が違うじゃないか。君には関係ないはずだろ」
ずいぶん棘《とげ》のある言い方だ。
そんな口調で八雲に話をしたら、手痛いしっぺ返しを食らう。
「黙れ! お前には関係ない!」
予想通り。何かを言われたらしく、達也はずいぶん憤慨している。
人の電話に無理やり割り込むなんて、非常識なことをするから、そういう目にあう。
「とにかく、おれの好きにさせてもらうからな!」
達也は怒鳴るように言い、勝手に電話を切ると、晴香に手渡すのが気まずかったのか、携帯電話をダッシュボードの上に置いた。
マナーも何もあったもんじゃない。
正直、もうウンザリだ。
「私、降ります」
ダッシュボードの携帯電話をバッグにしまいながら言った。
11
「おい、八雲。どういうことだ。説明しろ」
後藤は、携帯電話を握り締め、落胆している八雲に問い質《ただ》した。
「その写真の子どもを見ました」
八雲は、写真を後藤に返却しながら、ポツリと言った。
「分かるのか? だって子どもの顔は潰《つぶ》れて……」
「はっきりではありませんけど、性別、背恰好《せかっこう》、輪郭《りんかく》、それと状況がある程度分かっていれば絞り込めるでしょ」
なるほどな。後藤は素直に納得する。
誰か分からない身元を捜すのではなく、八雲の場合は自分が目にした顔と一致するかどうかの作業だけなのだ。
それにしても――。
「どこで?」
「今日、車の後部座席に座っていました。おそらく、その車が少年をはねた車でしょうね」
「なるほど」
後藤は窓を開けて煙草に火を点けた。
「吸うなら外に行って下さい」
「おいおい、これは俺の車だぞ。とやかく言われる筋合いはないね。それで、その子どもの幽霊は何か問題を起こしそうなのか?」
「おそらく……。トンネルに気を取られていて気がつかなかったけど、よくよく考えてみれば分かることだったんです。まったく別のものを同一視してしまっていた……」
八雲は悔しそうに唇を噛《か》む。
どこかで事故を起こす可能性があるということか。
何とかしたいが、正直難しい。無線を使ってその車の行方を追わせれば、事故を未然に防げるかもしれない。
だが、理由がない。警察は幽霊が原因で事故を起こすかもしれないという理由では動かない。
子どもを撥《は》ねた車だと説明しようにも、現在のところ、八雲の証言しかない。
「その車の持ち主は、お前の友だちなのか?」
後藤は、ふと思いついた疑問を口にした。
「違います。頼まれても、あんな奴の友だちになるのはご免ですね」
「なるほどね」
「ただ……」
「ただ……何だ?」
訊《き》き返しながらも、ある程度見当がついていた。
八雲の慌てぶりを見れば分かる。
「知り合いが乗ってます」
「例のあの娘《こ》か?」
後藤は、晴香という女子学生の顔を思い浮かべた。
八雲とは不釣り合いなくらい、愛嬌《あいきょう》のあるかわいい娘だった。
「そうです」
八雲がぽつりと言う。
「何てこった」
後藤は後部座席に資料を放り投げると、脱力してシートにもたれかかった。
「とにかく、参考になりました」
八雲は、会話の終了を宣言《せんげん》して、車のドアを開けた。
「どうする気だ?」
「あいつは別に友達じゃないけど、放っておくわけにもいきません」
「あてはあるのか?」
「今から作ります」
相変わらず強がりを言う。
本当はあてなどないくせに。素直に頼ればいいものを。世話が焼ける。
「おい、八雲」
「何です?」
「貸し一な」
八雲が、驚いた表情を浮かべている。
こいつの、こういう顔、初めて見た。病み付きになりそうだ。
「いいから乗れよ。連れて行ってやるよ。急いでいるんだろ。もたもたするな」
「ありがとうございます」
八雲が、多分、初めて後藤に礼を言った。
「礼なんて止《よ》せよ。女房に愛してるって言われるくらい気持ちが悪い」
「言われたことなんてあるんですか?」
「うるさいよ」
まったく、こんな時でもこれかよ。
「しっかり掴《つか》まっていろよ」
後藤は思いっきりアクセルを踏み、急発進すると、勢い良くハンドルを切り、車をUターンさせた。
バランスを崩した八雲は、思いっきりサイドウィンドウに頭をぶつけた。
「Uターンするならするって言ってください」
「訊かれなかったからな」
後藤は勝ち誇ったように声を上げて笑った。
八雲はぶつけた頭を押さえながら、何か言いたそうな目をしていたが、結局、何も言わなかった。
なんだか、勝った気がする。
「いつもこんな運転をしているんですか?」
「仕事柄急ぎの用ばかりでね」
後藤はパトランプを点《つ》け、調子に乗ってなおもスピードを上げた。
そのまま赤信号の交差点を減速せずに一気に走り抜ける。
後方でクラクションの音が鳴り響いていたが、そんなものに構っていられない。
「今の信号赤でしたよ」
「パトランプ点けてんだぞ。向こうが勝手によけるもんだろ」
「あきれたお巡りさんだ」
「あんまりぐちゃぐちゃ言うなら、制限速度で走るぞ」
後藤は言いながらさらに速度を上げた。
ダッシュボードの上の書類の山が崩れて車内に散乱する。
「二度と後藤さんの運転する車はご免です」
言葉とは裏腹に、八雲がニヤリと笑った。
「こっちの台詞《せりふ》だ。もう、お前なんて乗せねぇよ」
「次を左に曲がって下さい」
八雲の指示に合わせて、後藤は勢い良くハンドルをきった。
その度にタイヤが悲鳴を上げる。
「おい、八雲。この道を行くともしかして……」
「そのもしかしてです」
気分が重い。
自分で連れて行くと言っておいて、引き返したい気分になる。
「幽霊トンネルか……」
「そうです。あの子どもはおそらくあのトンネルを目指している」
「どうしてそれが分かる」
「呼んでいるんですよ。同じように事故にあって死んだものすごい数の魂が……」
確かに、あそこの事故の数は普通じゃない。事故処理をやった鑑識が撮った写真にも、けっこう写り込んでいることがある。
それも、一つや二つじゃない。
トンネルの至るところに人の顔がある。それで、そいつらが全員まっすぐにこっちを見ていやがる。
正直あれを見たら、事故の一つや二つ、当たり前だと思う。
だが――。
「八雲。一つ訊いていいか?」
「つまらない質問でなきゃいいですよ」
八雲が、煙草の煙に迷惑そうに顔をゆがめ、窓を開けながら応じた。
「前から不思議に思っていたんだが、お前は常に死んだ人間の魂が見える。それはいいとして、普通の人間はまったく見えないのかというと、決してそういうわけじゃない。時々見えたりする奴もいる」
「ええ」
「心霊写真にしても、撮影している本人は気付かなかったりするだろ」
八雲は、髪をかき回しながら、何かを考えている様子。
後藤は、煙草の灰を落とすのも忘れて返事を待った。
「多分……」
八雲が独り言でも言うように話し始めた。
「いろいろな条件によって違ってくるのだと思います」
「条件?」
「そうです。例えば、死者の魂が強い意志を持った時に何らかの変化が起こるのかもしれません。もしかしたら、見る側の意思とか、意識とかが影響するのかもしれません。よく、怪談話をすると、幽霊を呼ぶなんて言うでしょ」
「ああ」
その話はよく聞く。
電気を消して、怪談話をしていると、人数が一人増えるなんて都市伝説もある。
「そのどちらでもなくて、自然現象に左右されている可能性もあります。気温とか、湿度とか、光の加減みたいな……」
「蜃気楼《しんきろう》みたいなもんか?」
「いろいろと可能性は考えられますが、正直、ぼくにも分かりません。もし、その原因が解明できるなら、ぼくの目も治せるはずですから……」
「そうだったな。つまらん質問だった」
後藤は苦笑いを浮かべ、素直に詫《わ》びた。
「そんなことは気にしないでください。煙草の煙はもう少し気にしてほしいですけど」
「いいか、何度も言うがこれは俺の車だ」
後藤は煙草を灰皿に押し付けると、また新しい煙草を咥《くわ》えて火を点けた。
12
八雲はあれきり電話をかけて来ない。
死にたくなければ、なんて意味ありげなことを言っておいて、いったい何だったのだろう?
さっき、車を降りるとは言ったものの、達也はそれを無視している。
さすがに、走っている車から飛び降りるほどの勇気はない。
ぼんやり窓の外を眺めていた晴香は、ふと妙なことに気付いた。
この景色。見たことある。
達也はトンネルを通らないように、前と違う道を行くと言っていたはずである。
でも、外に見える風景は前回来た時と同じだ。
「ねえ、達也君。この道って……」
返答がない。運転席に視線を向けてみる。
達也の様子がおかしかった。
正に顔面|蒼白《そうはく》。唇がわなわなと震えている。
「ねえ、達也君。このままだと、あのトンネルに着いちゃうんじゃないの?」
「……わ、分かってるよ……」
達也は分かっていると言いながらも、一向に引き返す様子がない。
それどころか、どんどんスピードが上がっていく。
目の前にカーブが迫ってきた。それでも、スピードは落ちなかった。危ない。
タイヤが甲高い悲鳴を上げながら、ギリギリのところでカーブを曲がっていく。
こんな車に乗っていたら、八雲の言葉通り、いつ死ぬか分かったもんじゃない。
「ねえ、達也君!」
晴香は声の調子を荒らげて達也を睨《にら》む。
達也は額一杯に冷や汗を流し、目を充血させ、必死にハンドルにしがみついているという感じだ。
「ねえ、ちょっと」
晴香の再三の問いかけに達也は答えなかったが、何かを訴えるように視線をルームミラーに送っている。
晴香は、促されるままに、ルームミラーに視線を向けた。
そこには、少年の姿があった。
細い目で、ふっくらとした赤みのある頬をした少年が、こちらを見て笑っていた。
晴香は、あわてて後部座席を振り返る。
少年の姿はなかった。もう一度ルームミラーに視線を移す。
後部座席で、微笑んでいる少年の姿が見えた。
しかし、ふり返ると誰もいない。
ルームミラーの中にだけ存在する少年――。
「どういうこと?」
「……ブレーキが……ブレーキが利かないんだ……」
達也は、今にも泣き出しそうな声で言う。
「利かないって、どういうこと?」
「おれが悪いんじゃない。おれのせいじゃない。助けてくれ。頼む、助けてくれ」
達也は急に大声で叫びながら、涙を流し始めた。
もうまともに運転できる状態ではない。
いったい、どうすればいいの? 混乱している晴香の耳に、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
横を見ると、パトランプを点《つ》けた白い車が並走していた。
その車の助手席から、一人の男が身を乗り出して何かを叫んでいる。
見覚えのある顔――。
八雲だ。
※  ※  ※
「見つけたはいいが、ここからどうする。対向車がきたら、こっちが先にお陀仏《だぶつ》だ」
運転席の後藤は、苛立《いらだ》った口調で八雲に言う。
片側一車線の道路を、二台の車が並走している状態だ。
ずっと、こうやって走っているわけにはいかない。
「まずは、状況を確認します」
「どうやって? ここから叫んでみるか? まず聞こえないね」
八雲は思い出したようにポケットから携帯電話を取り出すと、窓を開け、身を乗り出すようにして、ジェスチャーをする。
「電源を入れろ! 電源だ!」
八雲は力一杯叫ぶ。
やばい! 対向車だ!
「八雲! 戻れ!」
後藤は叫びながらブレーキペダルを踏んで減速しつつ、車から投げ出されそうになる八雲のジーンズのベルトを掴《つか》んだ。
そのまま左にハンドルを切り、晴香が乗る車の後ろに付けた。
その横を、トラックがクラクションを鳴らしながら通り過ぎて行く。
危ないところだった。
八雲は、シートにもたれて、深く深呼吸をした。
風が強い。スピードを出している車のエンジン音と重なって、八雲の声が届いたかどうかは分からない。
ただ、届いたと信じるしかない。
ふと、前を行く車の後部座席に、子どもの姿があるのに気付いた。
窓にへばりつくようにしてこっちを見ていた。愛くるしいまでの笑顔を浮かべている。
あれが、あの子の幽霊――。
※  ※  ※
晴香には、八雲が何を言っていたのかは聞き取れなかった。
その前になぜ八雲が? という疑問はあったが、そんなことを深く考えている余裕はなかった。
八雲は何を訴えようとしていたのだろう。
携帯電話を手に持って叫んでいた。
そうか携帯電話だ。
晴香は、バッグの中から携帯電話を取り出した。
信じられないことに、電源が切れていた。さっき、達也は電源まで切っていたのか。
あわてて携帯の電源を入れる。
そのとたん、携帯電話が振動を始めた。
「もしもし」
〈大丈夫か? デートの邪魔だったら帰るが〉
八雲の声だ。こんな時にまで憎まれ口。本当に嫌な奴だ。
ただ、今はそんな八雲の憎まれ口が、唯一の救い。
「デートじゃないわよ。私は、どうしたらいい?」
〈まず、お喋《しゃべ》りを止めて今の状況を説明しろ〉
もし、生きて帰れたら、絶対にデコピンだ。
「ブレーキ、突然車のブレーキが利かなくなったって言ってるの」
〈ハンドルは動くのか?〉
「達也君、ハンドルは動くのね?」
晴香は携帯電話の通話口を押さえて、達也に尋ねる。
達也は声が出せないのか、何度も鼻水をすすりながらうなずいた。
「ハンドルは大丈夫みたい」
〈サイドブレーキは?〉
「達也君、サイドブレーキは?」
晴香はもう一度同じように達也に尋ねる。
達也はただ口をパクパク動かすだけで何を言っているのか分からない。
「ちゃんと喋って! サイドブレーキは?」
怖いのは、私も一緒。晴香は、達也を怒鳴りつける。
「分からない。まだ試してない……」
達也はやっと口にした。
※  ※  ※
「ブレーキが完全に死んでいるみたいです。ハンドル操作は可能。サイドブレーキは、まだいじってません」
後藤は、早口でまくしたてる八雲の説明を聞きながら、ハンドルを操作していた。
「まずいな……」
サイドブレーキをかけたところで、この下り坂だ。
車が完全に停止できるとは思えない。
さあ、どうする?
「何か方法はないんですか? もう少しであのトンネルまで行ってしまいますよ」
「待て。今考えてる」
後藤は煙草のケースを取り出すが、中身が空なのを見て、それを投げ捨てた。
「危険だが、仕方ない」
後藤はそう言うと、八雲から携帯電話を取り上げる。
「申しわけないが、この電話を運転手に替わってもらえるか?」
すぐに、半べそをかいている男が〈もしもし〉と震える声で、電話に出た。
「いいか、今から言うことをよく聞けよ」
後藤は相手を動揺させないように、できるだけゆっくりとした口調で話す。
「俺が合図をしたら、まずはシフトレバーをローに入れる。その後、サイドブレーキを踏んで、車のハンドルを少しだけ左に切る」
〈そ、そんなことしたら、ガードレールに車が……〉
「当てるんだよ! 車を当てた後にハンドルを戻すなよ。ガードレールに擦《こす》り付けたままの状態にするんだ。分かるか?」
時間を置いて、弱々しくはあるが達也の返答が聞こえた。
こいつ、本当に大丈夫か?
不安ではあるが、やってみるしかなかった。後藤は大きく息を吸い込み、タイミングを計る。
「いいか? 行くぞ……今だ!」
車が少しだけ減速する。達也が指示どおりに動いたようだ。その後、車はゆっくりガードレールに近づいていく。
ガリガリ。
車のフロント部分が、ガードレールに接触し、擦れながら火花を散らす。
だが、それでも、車は走りつづける。
この先のカーブに差し掛かったら、アウトだ。
「他に方法は?」
八雲が叫ぶ。
「クソ!」
後藤は悪態をついて携帯電話を投げつけた。
フロントガラスに当たって、部品が幾つか弾《はじ》け飛んだ。
「八雲。しっかり借りは返してもらうからな」
後藤はそう言うと、アクセルを踏み込み、ふたたび並走する。
「しっかり掴まってろよ」
後藤は言い終わる前に、自分の車を体当たりさせる。
金属のぶつかり合う音と衝撃、後藤の車は弾かれ、大きく蛇行するが、すぐに体勢を整えて再度チャレンジする。
ふたたび衝撃、今度は弾かれることなく車をガードレールに押し付ける形になる。
甲高い金属の擦れる嫌な音がして、黄色い火花が散る。
やがて火花が消え、いやな金属音も消えた。
トンネルへのカーブの手前で、白い煙を噴き出しながら二台の車は停車した。
「ぶつけるならぶつけるって言ってください」
八雲が左肩を押さえながらぼやく。
「訊《き》かれなかったからな」
13
頭が、くらくらする。
晴香は、足をふらつかせながらも、何とか自力で車から脱出することができた。
「おい、大丈夫か?」
肩を叩《たた》かれて、ぼやけていた晴香の視界がだんだんはっきりしたものになる。
八雲の赤い左眼が見えた。
珍しく、心配そうな表情をしている。
「何とか……」
晴香は、ぶつけた額を押さえながら言った。
痛みはそれほどないが、意識が朦朧《もうろう》としている。
「無事で何よりだ」
「もう少しマシな助け方はなかったの?」
晴香は、八雲の胸をドンと押しながら文句を並べる。
「何か文句あるのか?」
すかさず後藤が口を挟んできた。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
晴香はあわてて後藤に頭を下げる。
八雲がその姿を見てニヤッと笑う。
「何がおかしいのよ。元はといえば、八雲君のせいだからね」
「人に責任をなすりつけるのはやめてくれ。自業自得《じごうじとく》だろ? こっちはコンタクトを落として大損害なんだ」
「何よ。もう少し優しい言葉をかけてくれたっていいじゃない」
ありがとう――なぜ八雲の前だとこのひと言が素直に出ないのだろう。
晴香は自分でも説明のつかない感情に頭をひねってみたが、結論は出なかった。
ごぉぉ。
会話を遮《さえぎ》るように、風の唸《うな》る音がした。
八雲は不意に、トンネルに視線を向けた。
その先に、何かが見えているようだ。
同じ場所に視線を向けてみるが、真っ黒なトンネルの穴が見えるだけだった。
八雲は、ふらふらとした足取りで、トンネルに向かって歩いて行く。
「ねえ。どうしたの?」
晴香の言葉が、八雲には聞こえていないようだった。
「駄目だ! そっちに行っちゃいけない!」
八雲は、急に叫びながらトンネルに向かって走り出した。
「行くな! そっちに行ったら、戻れないんだぞ!」
尚《なお》も八雲は走る。まるで、何かを追いかけるように――。
だが、追いつけなかったようだ。
途中で立ち止まり、脱力したように、アスファルトの上に膝《ひざ》を落とした。
そして、そのまま随分長い時間動かなかった。
冷たい風だけが、時間が止まっていないことの証明だった。
どれくらい、そうしていたのだろう――。
「どうして……どうして分かってくれないんだ……」
八雲は最後に呟《つぶや》くように言いながら、ゆらりと立ち上がった。
「八雲」
後藤が呼びかける。
その声に反応して、八雲が酷《ひど》くゆっくりとした動きで、ふり返った。
背筋がぞくりとした。
八雲は、死人みたいに無表情だった。ただ――。
赤い瞳《ひとみ》が怒りに震えていた。
「お前たち……あの子はまだ生きていたんだな」
八雲はそのままゆっくりと、だがしっかりとした足取りで、達也に向かって歩いて行く。
達也は闇の中に光る八雲の赤い左眼を目の当たりにして、「うわぁぁ」と掠《かす》れた悲鳴を上げた。
怯《おび》えたように、後退《あとずさ》る。
「おい、八雲、どうしたんだ?」
「八雲君?」
八雲は、後藤の声にも、晴香の声にも反応しなかった。
ただ、まっすぐ達也の前まで歩いていく。
「お前たち。あの少年をこの車で撥《は》ねたんだな」
「ち、違う」
八雲は、達也の弁明などお構い無しに続ける。
「でも、少年はまだ息があった。それを、お前たちが殺したんだ。きっと助からないから、死んでしまった方がいいだろうって――」
「な、何を言うんだ」
「何度も、何度も、頭をハンマーで殴って殺したんだ」
達也の恐怖は、限界に達していた。
八雲の迫力に気圧《けお》され、ボロボロと涙をこぼしながら、後退りを続ける。
だが、八雲はそれを逃がさない。
「死んだ方がいいなんて、いったい誰が決めたんだ?」
「そうじゃない。仕方なかったんだ」
「お前たちは、事故を隠すためにあの子を殺したんだ! それがどういうことなのか分かるか!」
八雲が、達也の胸倉を掴《つか》みあげ、鼻先に頭突きを食らわした。
達也は、鼻と上唇を切ったらしく、血を滲《にじ》ませながらその場にくずおれる。
「おい。八雲。まさかこいつら」
「そうです! こいつらは、自分たちの事故を隠すために、まだ生きている子どもを殺して埋めたんです。あの子はまだ息もしていたし、意識もあったんだ!」
八雲の一言は、深く胸に突き刺さった。
達也たちのやったことは、絶対に許されないことだ。
「死体遺棄じゃなくて、立派な殺人じゃねぇか」
後藤が、鋭い眼光で達也に迫り寄る。
「う、うるさい。黙れ! 証拠がない。どこに証拠があるんだ。こいつ頭がおかしいんだ。そんな話、誰も信じねぇよ」
達也が、狂ったように両手をバタバタさせながら叫ぶ。
「俺が信じるさ」
後藤が、達也を見下ろしながら言う。
「証拠がないんだ、証拠が」
達也は、肩で大きく息をしながら、必死にわめき散らす。
「いいか、あの子はあの場所でずっと彷徨《さまよ》い続けているんだ。分かるか? ずっとだ。お前をこの場で殺して、お前にも同じ思いを味わわせてやろうか?」
八雲は達也の髪の毛を掴みあげ、無理矢理立ち上がらせる。
精一杯|虚勢《きょせい》を張ってはいるものの、達也の精神は、もう限界だった。
八雲が固く握った拳《こぶし》をふり上げる。
「止めとけ」
後藤が八雲の腕を掴み、制止した。
「なぜです」
「お前がそこまでする必要はない。こいつは俺が責任持って刑務所に送り込んでやる。だから、今は耐えろ。お前にはもっと他にできることがあるだろ」
八雲と後藤は、睨《にら》み合ったまま動かなかった。
今にも、爆発してしまいそうな、緊張感――。
「八雲君! 止めて!」
晴香は、それに耐えられなくなり、叫んだ。
八雲のふり上げていた拳が、ゆっくりと下ろされた。
「後藤さん。必ず証拠を見つけて下さいよ」
「頼まれるまでもない」
後藤はそう言うと、抗《あらが》う達也を車の後部座席に押し込んだ。
「おい、引き上げるぞ」
後藤が声をかけたが、八雲は動かなかった。
放心したように別世界への入り口のようなトンネルの闇を見つめていた。
晴香は、八雲のその哀しげな背中を、じっと見ていた。
「あとでまた迎えに来るよ」
そう言い残して、後藤は、達也を乗せた車をUターンさせると坂を上って行った。
「真実が分かったんだもん。あの子だってきっと……」
晴香は八雲の横顔に向かって声をかける。
八雲はいったいどんな感情を抱いているのだろう? 怒りなのか? 哀しみなのか? 晴香には分からなかった。
「時々、歯痒《はがゆ》く思う」
「歯痒い?」
「前に君が言っていただろ。除霊とか、そういうのができないのかって」
「うん」
「除霊が邪道だと言ったが、本当はそれができないのが歯痒い」
「八雲君――」
「ぼくは、何もできずにただ見ているだけなんだ」
晴香はゆっくり八雲に近づいて、その隣に立った。
八雲が、今何を見て話しているのか知りたかった。
私は、赤い目を持っていないけど、同じ場所にくれば同じ物が見えるかもしれないと思った。
「ただ見えるだけでみんなに化け物扱いされる。そのクセ、見えるだけで、何もできない」
違う。八雲の横顔にそう呼びかけようとしたけど、うまく声が出せなかった。
「何もできないのに、何でぼくの目は見えるんだろう――」
八雲が、ポツリと言った。
少なくとも、私は八雲君に助けられている。
その目のおかげで、十三年間苦しんだお姉ちゃんの事故からも解放された。
それに、三回も命を救われた。
晴香は、心の中でそう呟《つぶや》き、八雲の横で同じようにトンネルの暗い闇を眺めた――。
14
晴香は必死に自転車をこぎながら、あのトンネルへと続く坂道を登っていた。
自転車の籠《かご》には、駅前の花屋で買った白い菊の花が入れてあった。
達也の犯した罪は、後藤の捜査によって殺人として立証された。
逃げようなんて思ったりしなければ、ただの事故ですんだものが、いろいろな人を不幸にした事件になってしまった。
その後の調べで、あの少年の両親は、例のトンネルで事故を起こし、すでに他界していたことが分かった。車に撥《は》ねられた時、その少年は、両親の供養に来ていたのかもしれない。
少年が両親の許《もと》に行ったのだとすれば、少しは救われた気がするが、落とさなくてよい命を落とした事実は何も変わらない――。
冬とはいえ、かなりの運動量だ。
トンネルの前に辿《たど》り着いた頃には、汗びっしょりになっていた。
着てきた茶色のブルゾンを脱ぎ、籠から花を出そうとしたところで、声をかけられた。
「こんな所まで自転車で来たのか?」
顔をあげると、トンネルの前に、八雲の叔父である住職が立っていた。
前に会った時とは違い、黒い法衣《ほうえ》に、袈裟《けさ》をかけている。
挨拶《あいさつ》をしながら、住職の前まで歩いて行く。
トンネルの脇の歩道には、白いきれいな菊がしっかりと花瓶にさして供えられていて、束ねた線香が白い煙を揺らしていた。
「これは、叔父さんが?」
晴香の問いかけに住職は首を横に振った。
「八雲だよ」
晴香は、座り込んでその白い菊の花を眺めた。
八雲が、こういうことをするのは、意外だった。
「私は八雲に呼び出されたんだよ。ここのトンネルの話をされて、浮かばれない魂がたくさんいるから何とかしろってね」
住職は苦笑いを浮かべて続ける。
「何とかしろと言われても、私は八雲みたいに死者の魂が見えるわけじゃないからね。本当のところはどうにもならない……」
「八雲君は、歯痒いって言ってました」
晴香は、この前の出来事を思い起こし口にした。
「歯痒い?」
住職は、不思議そうに首を傾げる。
「ええ、見えるだけで何もできない自分が歯痒いって」
住職は突然、そうか、そうか、と何度も満足そうにうなずきながら笑った。
「何がおかしいんですか?」
住職は咳払《せきばら》いをして笑いを止めてから話し始めた。
「前の八雲はね、ただ見えることを嫌っていたんだ。何で自分だけ見えるんだってね。中学生くらいの頃だったかな、自分の目をナイフで刺そうとしたこともあったんだ」
「そんな――」
「見えなければ、誰も自分を怖がらないし、自分も怖い思いをしなくてすむってね」
もし、自分が同じ立場だったら、八雲と同じことを考えたかも知れない。
「そうだったんですか」
八雲に対する印象が、少しだけ変わった気がする。
「その八雲が、見えるだけで、何もできないのが歯痒いなんて、すごい進歩だよ」
「進歩ですか? 私には全然そうは見えないですけど」
住職は、ふたたび笑い出した。
何が、そんなにおかしいのか? さっぱり分からない。
「八雲の名前を付けたのは私なんだよ」
住職は、晴香と並んでその場に座り込んでから話し始めた。
「八雲とは、雲が幾重にも折り重なった状態のことを言うんだ」
「そうなんですか」
「あの子が生まれたとき、あの赤い眼を見たとき、この子にはきっと数え切れない困難が待ち構えているのだろうと思った。太陽の光を遮る幾重にも重なった雲と同じだ」
「それで、八雲」
「そんな困難に、負けてほしくないという願いを込めたんだ。まだまだ先は長いが、きっと八雲は一つ雲を破ったんだよ」
「八雲……か……」
晴香はもう一度その名前を口に出してみた。
遠くで、鳥の囀《さえず》りが聞こえた。
何が起きても、時間は変わりなく流れていく。
「あ、そうだ」
晴香は自分の持って来た花を籠から出し、八雲が置いていった花瓶の横に供え、両手を合わせて目を閉じた。
八雲はここにきて、あの少年と話をしたのだろうか?
そんなことをふと考えたりした。
「面倒をかけると思うが、これからも八雲を頼むね」
「はい」
晴香は住職の言葉に笑顔で応《こた》えると、勢いをつけて立ち上がり、住職に礼を言ってその場をあとにした。
晴香がふと空を見上げると、雲一つない冬の澄んだ青空が広がっていた。
いつか八雲にもこんな日がくるのだろうか?
ふと、そんなことを思った――。
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ファイルV  死者からの伝言
FILE:03
虫の知らせというものがある。
誰か親しい者が死に直面した時、何らかの兆候《ちょうこう》でそれを感じるというものだ。
その兆候の現れかたは人それぞれである。
何となくそんな感じがしたという曖昧《あいまい》なものもあれば、真冬に一匹の蛍が舞っているのを目にしたり、夢の中でその人物の死の光景を見たという者も少なくない。
なかには、遠く離れた場所にいるはずのその人物が、急に眼の前に現れ「ありがとう」とか「さようなら」などと最後の言葉を残して忽然《こつぜん》と姿を消した、などという体験をした者もいる。
この知らせは、死にゆく者が残る者に最後の別れを告げにきている――。
一般的に、そう考えられているが、それとは異なる場合もある。
虫の知らせには、時として重要な意味が込められていることがある。
死に行く者が最後の力をふり絞って残す言葉。
それは決して見落としてはならないメッセージ――。
晴香《はるか》はその夜、寝つけなかった。
講義が終わった後にバイトもあったし、家に帰ってから、翌日に提出しなければならないレポートも仕上げた。
ベッドに入ったのは午前二時。
本当ならすぐに眠りに落ちそうなものだが、全然眠れない。
薄目を開けてちらっと時計を見る。もう三時を回っていた。かれこれ一時間以上も布団の中でもぞもぞしていることになる。
今までも眠れない夜というのは頻繁《ひんぱん》にあった。
そういう時は決まって姉の死を思い出し、罪の意識に苦しんでいた。
でも、八雲に会い、姉の存在を近くに感じられるようになってからは、安眠できる日が続いていた。
だから、ずいぶん久しぶりの経験だ。
不意に晴香は何かの気配を感じて目を開けた。
薄暗い自分の部屋が見える。首の動く範囲で室内を見回してみるが、何も見えない。
思い違いだ。人がいるはずがない。
目を閉じようとした時、視界の隅に、蠢《うごめ》く影が映った。反射的に起き上がる。
心臓が激しく暴れる。どっと汗が噴き出した。恐るおそる影の見えた部屋の隅に目を向ける。
「……詩織《しおり》?」
影の正体は、高校時代からの友人、詩織だった。
「どうしたの? こんな時間に。来るなら電話してくれればよかったのに」
晴香の言葉に、詩織は何も応えなかった。
ただ、無表情に晴香を見ている。
でも、詩織はどうやって部屋に入ったんだろう?
「私、鍵《かぎ》かけ忘れてた?」
言いながら、電気を点《つ》けようと手を伸ばした。
「……に、げ……て……」
詩織が弱々しく掠《かす》れた声で言う。
明らかに様子がおかしい――。
「ねえ、どうしたの?」
「……お願い……に、げ、て……」
「逃げるって、何から?」
「早く……に、げ、て」
詩織が何のことを言っているのか分からない。
晴香はベッドを下り、詩織に近づこうとした。
その瞬間、詩織のこめかみから一筋の赤黒い液体が流れ落ちた。
ぽたっ、ぽたっ、ぽたっ。
一度流れ出した血は、ダムが決壊するように、一気に噴き出す。
詩織の顔と、白いセーターを真っ赤に染めただけではなく、足元の絨毯《じゅうたん》にも赤黒い染みを作った。
晴香は驚きで硬直し、声を上げることもできなかった。
詩織はもう一度「逃げて」と声を上げると、ゆっくりとその場に倒れた。
「詩織!」
晴香はやっとの思いで叫び声を上げ、倒れている詩織に駆け寄ろうとした。
だが、晴香が詩織に触れようとした瞬間、ごおぅ、と炎が巻き上がり、詩織の身体を包み込んだ。
晴香は反射的に身体を仰《の》け反《ぞ》らせ、そのまま後ろに倒れた。
なぜ突然炎が? いや、考えている余裕はない。
気を取り直して立ち上がる晴香だったが、目の前からは炎はおろか、詩織の姿も忽然と消えていた。
慌てて電気を点ける。
突然の光に、目の前が真っ白になる。何度か目蓋《まぶた》を瞬かせて、ようやく目が慣れてきた。
部屋のどこを見ても、詩織の姿はなかった――。
幻でも見たのだろうか? いや、それにしては、あまりにもリアルだった。
考えていても始まらない。晴香はテーブルの上の携帯電話を取り上げ、詩織の番号を発信する。
〈お掛けになった番号は、現在使用されておりません〉
アナウンスが流れてきた。
動揺して違う人の番号を呼び出してしまったのか? 発信履歴を確認してみる。
確かに詩織の番号だ。電波が混線しているのだろうか。もう一度発信してみる。結果は同じだった。
詩織から、電話番号を変えたなんて話は聞いていない。何かがおかしい。
ざわざわっと妙な胸騒ぎがする。
詩織のアパートは、ここから歩いて五分程度のところだ。
考えていても仕方ない。とにかく行ってみよう。
晴香は、ハンガーラックからベージュのコートを手に取り、それをパジャマの上から着ると、サンダルを引っ掛けて部屋を飛び出した。
エレベーターに乗り、マンションの外に出るなり、晴香は自分の軽率さを呪った。
冷たい空気がコートの隙間から入り込んでくる。
おまけに裸足《はだし》にサンダル履きでは、すぐに足の指の感覚がなくなってしまう。
部屋に戻って重ね着をしようと思ったが、うっかりしていた。マンションのエントランスは、オートロックになっている。
鍵は部屋の中。
どうにもならない。
途方に暮れる晴香だったが、よくよく考えれば詩織のアパートはすぐ近くだ。
少し我慢して詩織の所へ行って説明すれば、ひっひっひっひと独特の笑い声を上げながら、温かいココアを出してくれるだろう。
詩織のココアはスーパーで売っているインスタントとはちょっと違う。香りが、格段にいい。
秘密の隠し味を使っているらしいけど、訊《き》いても全然教えてくれない。
今度こそ、訊き出してやる。
晴香は、詩織のアパートまで通じる一本道を、足早に歩いた。
詩織とは同じ高校の出身で、大学も同じだった。
家も近くで、頻繁に行き来していた。
一緒にどこかに遊びに行くというよりは、どちらかの家に行き、お互い本を読んだり、テレビを見たり、好き勝手に時間を過ごすということが多かった。
でも、最近は会う機会がめっきり減った。
昨年の暮れに詩織の両親が火災で亡くなり、詩織は大学をやめたからだ。
そのまま実家に帰るのかと思っていたが、デパートに勤めはじめて、そのまま今も同じアパートにいる。
晴香は今まで通りの付き合いができると喜んでいたが、実際は大学生と社会人では生活のリズムが違う。前みたいに、頻繁に会うことはなくなっていた。
最後に詩織に会ったのは、二ヵ月くらい前だったと思う。
八雲との出会いと、それを彩る事件の概要を半ば興奮しながら聞かせた覚えがある。
晴香は五分ほど歩いて、詩織のアパートに辿《たど》り着いた。
二階の一番奥が詩織の部屋だ。
見上げると、部屋の電気は消えていた。
当たり前か。そんなことを考えながら、晴香は鉄製の階段を上り、一番奥の二〇四号室のドアの前に立った。
呼び鈴を鳴らす。反応がない。
もう一度鳴らしてドアに耳を付けてみる。やはり無反応。
この時間だ、あまり頻繁に鳴らすわけにもいかない。大声を出したり、ドアを派手に叩《たた》いたりなどはもっての外だ。
「詩織」
晴香はドアに顔を付けて、コツコツと指先でドアを叩く。
お願い。起きて。祈ってみたが、ドアが開くことはなかった。
晴香はドアに寄りかかり、顔を上げた。空が白み始めていた。
何だか水の中にいるみたいだ。
「その部屋の人なら引っ越したよ」
急に聞こえた声に、驚きではっとなった。
一目でそれと分かる風体。新聞配達の青年だった。
青年は、好奇の視線で見ている。そう見られても仕方ない。
「あ、あの、引っ越したって……」
青年の言った言葉が信じられずに、問いかけた。
「そうだよ。一週間くらい前だったかな? 引っ越すから新聞を解約したいって電話があったんだ」
「あの? それ本当ですか?」
「別に嘘つく必要ないでしょ」
それはそうだ。
「どこに引っ越したか分かりますか?」
「さあ、そこまでは分からないね。引っ越し先でもうちの新聞とってもらおうと思って、いろいろ訊いたけど教えてくれなかったし」
詩織は本当にいなくなってしまったのだろうか?
「それより、風邪ひくよ」
青年はそう言い残すと、また配達に戻って行った。
晴香は、ただ呆然《ぼうぜん》とするよりほかなかった――。
後藤和利《ごとうかずとし》は、昇り始めた太陽の光に目を細めて、煙草に火を点《つ》けた。
目の前には、焼け落ちた家屋があった。
壁も屋根もほとんど残っていない。柱は真っ黒で、何本か倒壊していた。
消防隊員がホースなどの片付けを行っているが、疲労の色が濃い。
それはそうだろう。路上駐車の車に阻まれて、彼らが到着した時には、既に手遅れだったのだ。
黒いシートに包まれた、遺体が運び出されていく。
「くそっ」
後藤は唾《つば》と一緒に吐き捨てた。
今回の事件で、警察の捜査はすべて後手に回った。
無理もない。犯人の動きが想像の範囲《はんい》を超えていた。おまけに、最後は警察に遺書を送りつけ、ガソリンを被って燃えちまった。
何とも後味の悪い事件だ。
後藤は煙草を投げ捨てる。
「もう一回火事を起こす気かい?」
妙に甲高い声がした。
小柄な、白衣を着た老齢の男が後藤の横に歩み寄ってきた。
四角い顔の中心に目鼻口が集中している。干し柿みたいに皺《しわ》だらけだ。
監察医の畠秀吉《はたひでよし》だ。
「何だ。爺《じじい》か」
後藤がつまらなそうに言う。
「しかし、やられたね」
くくくくっと畠は肩を震わせて笑う。
この爺は、相変わらず気味が悪い。ねずみ男の方がまだかわいい。
「ああ、完全にやられた」
「まあ、何にしてもこれで一件落着じゃないか」
「何が落着だよ。爺《じい》さん。こんなところでウロウロしてていいのか? 遺体の検死があるだろ」
「私が解剖《かいぼう》するまでもない。どうせあんなに真っ黒じゃ、解剖したって何もでてこないさ」
「やらねぇのか?」
「わしは、やらん。下に任せる。血液型は一致してるし、指輪なんかの装飾品も確認できてる。死因を調べて終わりだ」
やっぱりこの爺は、かなりの変態だ。
遺体の状況によって仕事への取り組み方が全然違う。
遺体損壊の度合いが激しければ激しいほど、やる気が出るのだそうだ。ただし、焼けているのは駄目。こんな男に解剖されていると知ったら、遺族は卒倒《そっとう》するだろう。
「職務放棄じゃねぇのか?」
「お前さん。年間に、何体調べなきゃならん遺体があるか知ってるか?」
畠が、急に真顔になった。
「さあ? 百体くらいか?」
「全国で、十万体だ。全部に時間をかけられるほど、人的余裕はないんじゃよ」
そう言われると返す言葉がない。
「やっぱり、死体は生だね」
畠は恐ろしい言葉を口走って、再びくくっと笑う。どうして自分の周りには、こういう得体の知れない人間が集まってくるのか――。
うんざりする。
「ところで後藤君。例の幽霊が見えるという青年。今度会わせてもらえないかね?」
なぜ畠が八雲《やくも》のことを? と一瞬驚いたが、すぐに思い出した。
そう言えば、前回の事件の時、迂闊《うかつ》にも畠に八雲のことを話してしまった。
「なんで、八雲に会いたい?」
「医学的な興味じゃよ」
「断る!」
後藤は一蹴《いっしゅう》した。
医学的興味だって? 己の変態欲求だろうに。
うっかり畠に八雲を会わせようものなら、生きたまま解剖しかねない。
「バカなこと言ってないで、さっさと仕事に戻ってくれ」
後藤は野良犬を追い払うように手を振り、煙草をもう一本取り出して火を点けた。
「後藤さん。ちょっといいですか?」
今度は誰だ? 走り寄って来たのは最近配属された青二才。
名前は忘れた。いや、最初から覚えていない。
「何だ?」
「ちょっと見て頂きたいものがあるんです」
青二才は、一枚の写真を後藤に差し出す。これは――。
後藤は驚きを隠すことができなかった。
晴香は、布の擦《こす》れるような物音で、目を覚ました。
いつの間にかテーブルにうつ伏せて、眠ってしまっていたようだ。
寝起きでぼやけていた視界が、次第にはっきりしてくる。目の前に、不機嫌そうに座っている男の顔が見えた。
「君はここでいったい何をしているんだ?」
棘《とげ》のある言い方。ああ、八雲か。
晴香は目を擦りながら顔を上げた。
八雲は、相変わらずの寝グセ髪で、黒のジャージ姿だった。
「おはよう」
晴香は挨拶《あいさつ》をしながら、部屋の隅にある時計に目をやる。
まだ六時前。どうやら眠っていたのは十五分ほどだったようだ。
「何をしているのか、説明してくれ」
八雲は相変わらずの寝グセ髪を、かきながら言う。声から苛立《いらだ》ちが感じられる。
それはそうだ。自分の部屋に無断侵入されたら誰だって怒る。
「実は――」
晴香は、自分の体験した奇妙な出来事について説明した。
詩織の身に、何か起きたに違いない。
そう感じた晴香は、非常識な時間であることは分かっていたが、八雲の許《もと》を訪れた。
ノックをしても、呼んでも返答がない。
困り果てた晴香が、試しにドアノブを回したら何の抵抗もなくドアが開いた。
八雲は部屋の隅で、寝袋にくるまって眠っていた。眠っている時も何だか機嫌が悪そうだったので、起きるまで待たせてもらおうと椅子に座った。
そして――。
「で、君は鍵《かぎ》が開いていれば人の部屋に勝手に入るのか?」
晴香が説明し終わるなり、開口一番に言う。
「無用心なのがいけないのよ。鍵はかけるためにあるの。知ってた?」
「鍵を持たずに、オートロックのマンションから出てしまうような間抜けに言われたくないね」
口で八雲に勝てるはずもなかった。
八雲は大きなあくびをして立ち上がると、晴香に背を向け、突然シャツを脱ぎ始めた。
「ちょっと、何してるの?」
晴香は、両手で視界を塞《ふさ》ぎながら言った。
「何って、着替えに決まっているだろう」
あきれた。
何て無神経なのだろう。
「女の子のいる前で着替えを始めるなんて、いったいどういう神経しているの?」
「言っておくが、ここはぼくの部屋だ。何をしようとぼくの勝手だ。男の部屋に勝手に忍び込んでおいて、偉そうに言うな」
言われてみれば、確かにそうである。
このところ、いろんなことがあって、八雲に対しての警戒心が薄れていたが、よくよく考えてみれば、一人暮らしの男性の家に、明け方忍び込んだも同然ということになる。
火が点《つ》いたように顔が熱くなる。
それに、よく考えてみれば、私はスッピンだ。
「八雲いるか?」
聞いたことのある濁声《だみごえ》がしたかと思うと、突然ドアが開いた。
顔を出したのは後藤だった。
後藤は部屋の中の晴香を見て目を丸くして驚く。
地球の終わりでも見たかのような目だ。
口に咥《くわ》えていた煙草がポトリと落ちた。
「あ、これは失礼」
「あ、あの、これは、その、違うんです……」
晴香は必死に言い訳をしようとしたが、説明するのに適切な言葉が見つからず、しどろもどろになってしまう。
誤解の渦《うず》は大きくなるばかりだ。
「いや、いいんだ。またあとで来る」
後藤は不器用に片目をつむる。ウィンクのつもりなのだろう。
そのままドアを閉めてどこかへ行ってしまった。
何とタイミングの悪い。これは完全に誤解されてしまった。自分が同じ立場なら、やっぱり誤解する。
「朝から揃《そろ》いも揃って騒々しい」
八雲が面倒くさそうに呟《つぶや》く。
見ると、八雲は既に着替えを終え、相変わらずの寝グセ頭をボリボリ掻《か》いている。
ずい分|呑気《のんき》に構えている。
「ねえ、どうするの? 誤解したまま行っちゃったよ」
「何か都合の悪いことでもあるのか?」
「都合がどうとかいう問題じゃないでしょ」
「別に気にするほどのことでもない。誰だって、何もしていなくたって、他人の行動を見て頭の中であれこれ詮索《せんさく》するだろ。何をしていたって邪推《じゃすい》されるんだよ」
「それは……」
そうなのだが――。
「まあ、そんなにあわてなくても、あのおっさんの行動パターンなんてたかが知れているよ」
八雲はそう言うと、ドアの向かいの壁にある曇りガラスの窓のところまで歩いていくと、勢いよくその窓を開けた。
そこには、身を屈《かが》めて部屋を覗《のぞ》こうとしている後藤の姿があった。
「ばれた?」
「ばれたじゃないですよ。いい年して、そんな子どもみたいなことしないで下さい。そんなことばかりしていると、また奥さんに逃げられますよ」
「また、とは何だ。またとは。いいか八雲、一度逃げた女は二度と戻ってこない。あとから後悔したってもう遅い」
「へえ、奥さんまだ戻っていないんだ。それに、少しは反省しているみたいですね」
後藤はぎりぎりと歯軋《はぎし》りをして悔しがる。
「こんな可愛い娘《こ》を目の前にして、何もしないような根性なしに言われたくないね」
後藤はふんっと鼻を鳴らす。
「あいつに何もしないのは、根性とかの問題じゃないでしょ」
「は?」
「その人の嗜好《しこう》。つまりぼくの好みの問題です」
本人を目の前にしてよくもまあ――。
抗議する気にもなれない。
「つまらないこと言っている暇があったらさっさと入って来てください。何か用事があったんでしょ」
「おお、そうだ、そうだ。忘れるところだった」
後藤はおふざけの時間の終わりを宣言するように大げさにうなずいて、正面に回り、ドアから部屋に入った。
このまま後藤と顔を合わせているのが気まずい。それに、着替えもしなきゃいけないし、鍵を開けっ放しの部屋のことも気になる。
晴香は、後でまた顔を出すと言って、八雲の隠れ家を出た。
「せっかく来ていたのに、何だか悪いことしちまったな」
後藤は脇腹をボリボリと掻きながら、晴香の座っていたパイプ椅子に座った。
しかし、今回の話は、晴香に聞かれたくなかったというのも本音だ。
前回の時は、いずれ分かる事実であるのに対して、今回はあくまで後藤の推論でしかないうえ、個人のプライバシーに大きく関わってくる。
自分の上司はおろか、同僚《どうりょう》にさえ話していないことなのだ。
「うるさいのが一人減って、ぼくとしては有り難いですけどね」
八雲は、あくびをしながら、相変わらずの憎まれ口を叩《たた》く。
後藤は苦笑いを浮かべた。
こいつは口ではこんなことを言っているが内心はその逆だと思う。
恋愛感情という部分になると定かではないが、少なくとも、晴香に対して全幅の信頼を置いているし、程度の問題もあるが、他の奴よりは大切に思っているはずだ。
しかし、それを指摘したところで、八雲は絶対認めないだろう。
もしかしたら八雲自身気づいていないのかもしれない。
「何ニヤニヤしているんですか? 気持ち悪い」
後藤は、八雲に指摘され、妄想から目覚める。
「き、気持ち悪いとは何だ、気持ち悪いとは!」
後藤が食ってかかったが、八雲は相手にしようともしない。
「それで、今日は、こんなに朝早くから、お忙しい刑事さんが何の御用でしょうか?」
八雲の敬語は、慇懃無礼《いんぎんぶれい》で人を見下しているような響きしかない。
「お前にとっては朝かも知れないが、俺は昨日から一睡もしていないからまだ夜なんだよ」
「後藤さんの時差ボケなんてどうでもいいんですよ」
「そうだな。どうでもいい。どうでもいい」
本当に頭に来るが、八雲の一言一言いちいち相手をしていたら、近いうちに胃に穴が空いちまう。
後藤は話を進めることにした。
「お前に見てほしい物があったんだ」
「心霊写真でしょ」
「ご名答。よく分かったな」
「後藤さんから他の物を見せてもらったことがありません」
八雲が断言する。
「俺も、見せた覚えがない」
後藤は言いながら手に持っていた茶封筒をテーブルの上に置き、中から何枚かの写真を取り出し、テーブルの上に置いていく。
その写真には、焼け落ちた民家が写っている。
鎮火したすぐ後の写真なのだろう。
焼け残った柱の所々にまだ燻《くすぶ》っている箇所がある。
後藤が二枚目の写真を置く。それには、人の形をした真っ黒な塊が写っていた。仰向《あおむ》けに倒れ、上に向かって手を突き出している。もがき苦しんでいるように見える。
「今朝撮影したものだ。それで……」
後藤がもう一枚写真を置く。
三十代半ばと思われる女性が写っていた。
結婚披露宴のようなパーティーの時に撮影したと思われる写真で、派手なパープルのドレスに身を包んだその女性が、大口を開けて笑っている。
「さっきの黒焦げ死体の女性ですか?」
「そうだ」
さらに、もう一枚写真をテーブルに置く。
さっきの焼け落ちた家屋と同じ写真だ。しかし、この写真では、家屋の中に立っている人影がある。白っぽい服を着た女性だ。
「これは……」
八雲が声を上げた。
それを聞いて、後藤はニヤリと笑う。
「やっぱり分かるか。おそらくお前の察している通りだ。この写真を撮影した時、ここには誰もいなかった……」
「普通に考えれば、焼死した女性の魂が写り込んだってことになるのでしょうけど、わざわざ持ってくるからにはそうではない何かがあるんでしょう?」
「さすがに察しがいいな。お前を俺の部下に欲しいよ」
「死んでも嫌です」
「そんなに警察が嫌いか?」
「勘違いしないで下さい。ぼくが嫌なのは後藤さんです」
ずい分とはっきり言う。
後藤は八雲の言葉を無視して、もう一枚写真を取り出してテーブルに置く。
三十代後半の浅黒い男が写っている。日本人離れした、目鼻立ちのはっきりした顔立ちをしている。
男前なのだが、顔色が悪く、浮腫《むく》んでいるように見える。
「この人、内臓に疾患《しっかん》がありますね」
「連続正解。おめでとう。ハワイ旅行にご招待」
「関東から出たことのない人が偉そうに」
八雲が聞こえるように呟《つぶや》いた。
うるせえ! 無視だ、無視。
後藤は、説明を続ける。
「この男の名前は、加藤謙一《かとうけんいち》。一ヵ月前に心不全で亡くなっている。だが、死因に不審なところがあって調査した結果、長い年月に亘《わた》って、ごく少量ずつ毒物を服用させられていたことが分かった」
「よく、そんなことが分かりましたね」
「そういうことを調べるのが大好きな変態|爺《じじい》がいてな」
「優秀ですね。後藤さんも見習った方がいい」
後藤は、あの変態爺の顔を思い出し、気分が悪くなった。
冗談じゃない。あんなの見習ってたまるか。
「それでだ。長期に亘って毒物を服用させることができる人物ってことになると、おのずと犯人は絞られてくる」
「肉親ですね」
「そう。加藤謙一というのは、なかなかの資産家でね。まあ、本人は小さな不動産屋を経営していたに過ぎないんだが、父親が相当土地を持っていた」
「遺産目当て?」
「そうだ。弟が一人いたんだが、これがなかなかの遊び人で、この父親が遺言で相続はすべて兄の謙一にってことにしちまったのさ」
「では、弟を疑っていたのですか?」
「弟は、捜査線上に上がったことは上がったが、隣の市に住んでいて、ほとんど行き来はなかったってことで、対象から外れた。残るは……」
「奥さんがいた。それでもって、この焼死体がその奥さんなんですね」
後藤は思わず手を叩く。
「その通り。お前相手だと説明が楽だよ」
「つまらない合いの手はいいから、早く説明を続けてください」
せっかちな野郎だ。
「警察は妻の恵美子《えみこ》をずっとマークしていた。証拠が固まって、逮捕しようって時になって警察に手紙が届いた。恵美子からの物で、罪の意識に耐えられなくなったので、自らの命を絶ちますって内容だった……」
「写真の火災は、自殺の結果ってことですね」
「そうだ。あわてて駆けつけた時には、家が炎に包まれていたってわけだ」
「間違いなく本人が書いたものだったんですか?」
「ああ。筆跡鑑定は終わってる」
「よかったじゃないですか。一件落着ですね」
八雲が、興味無さそうにあくびをした。
何が一件落着だ。
「もし、そうだとしたら、わざわざ俺がお前の所に来ると思うか?」
「お暇《ひま》なんですね」
ぶっとばすぞ。
「ここからは、俺の勘だから証拠は何もない」
「あてになるんですか?」
いちいちうるせえ!
「俺にはあの女が自殺するようなタマとは思えない。夫の謙一を殺した手口を見たって、用意周到で抜け目がない」
「まあ、そうですね」
「あの変態監察医でなければ、殺人の事実には気づかなかっただろうな。金のために何年も何年も夫に対して殺意を抱き、それを悟られないようにする。並大抵の図太さじゃない。それが罪の意識を感じて自殺なんてすると思うか? バカにしている!」
後藤は勢いに任せて一気にまくし立て、興奮のあまりテーブルをバンバン叩《たた》く。
八雲は指先で眉間《みけん》の皺《しわ》を摘まみながら何かを考えているようだ。
「で、後藤さんは実際のところはどう思うのです」
「俺はな、弟の純一《じゅんいち》が怪しいと思う。兄の謙一を妻の恵美子が殺して、恵美子を弟の純一が殺す。遺産は純一の総取りだからな」
「でしたら、その純一さんとやらを締め上げればいいじゃないですか」
後藤は「あぁぁ」と唸《うな》り、頭を掻《か》き毟《むし》った。
「もうやったさ。だが、奴にはアリバイがある。駐禁で切符切られて警察署に出頭している。しかも、純一の路上駐車が原因で消防車の到着が遅れた。話ができすぎているんだよ」
鉄壁のアリバイ。
万策《ばんさく》尽きたという感じだ。
「それで、ぼくに何をしろと?」
分かっているくせにわざと言っているな。
後藤は思いながらも、あえて説明をする。
「俺は、この心霊写真が何かの突破口になるんじゃないかと思っている」
「なるほど。話は分かりましたけど、情報が少なすぎるうえに、話が抽象的過ぎて何をどう始めたらいいのかまったく分かりません」
「やっぱりダメか……」
「保証はできませんが、調べるだけ調べてみましょう」
「本当か?」
八雲にしては珍しく、あっさり話を聞き入れたので、驚きのあまり立ち上がってしまった。
「ただし、これで前の事件での借りはチャラにして下さいね」
八雲が後藤を指差しながら言った。
後藤は「なるほど」と、納得する。
先回りされたわけだ。
八雲が断った場合、前回の事件の貸しをタテにしようと考えていた。
本当に抜け目のない奴だ――。
晴香はマンションの管理人に頼みこんでエントランスの鍵《かぎ》を開けてもらい、どうにか部屋に入ることができた。
玄関がオートロックになっていたこともあり、幸い荒らされた形跡《けいせき》はなかった。
ふうっと一息吐いたところで、電話が鳴りだした。
携帯ではなく、めったに使わない固定電話の方だった。
「もしもし」
晴香が受話器を上げると、しばらくの沈黙の後、突然プツリと電話が切れた。
イタズラ電話かな?
晴香はシャワーを浴び、着替えをすませる。
すぐにでも八雲の所に行きたい気持ちもあったが、また後藤と鉢合わせをするのは好ましくない。ベッドに腰を下ろし、ぼんやりとガラス戸の外を眺めた。
昨夜の出来事を整理しようと試みたが、そう簡単にはいかない。
どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが幻なのか、その判別すらできない状態にあった。
カーテンがふわりと舞い上がった。
おかしいな。窓は開けていないはずなのに。
立ち上がり、窓に近づく。
レースのカーテンを挟んで窓の向こうに、詩織が立っていた。
「……詩織?」
晴香はあわててカーテンを払いのけ、窓を開けてベランダに出る。
しかし、いくら見回しても詩織の姿はなかった。
どこに行ったの?
ベランダから身を乗り出して下を覗《のぞ》いてみる。いるはずがない。ここは、マンションの四階だ。
ベランダの外に人が立てるわけがない。
やっぱり、幻だったのか――。
晴香が、八雲の隠れ家を訪れたのは、昼過ぎのことだった。
今度はちゃんと化粧もしていたし、パジャマではなく、タートルネックのセーターに、デニム地のスカートを穿《は》いている。
「まったく、ぼくは探偵ではないんだよ。揃いもそろって……」
改めて部屋を訪れた晴香に対して、八雲の発した第一声だった。
八雲は不機嫌さを隠しもせずにぶつぶつ言いながら、アルコールランプとビーカーでお湯を沸かしている。
おそらく後藤も何かトラブルを持ち込んだのだろう。
八雲は、文句を並べているが、率直な意見として、心霊探偵か何かに鞍替《くらが》えした方が世の中のためになると晴香は思ってしまう。
そんなことを考えている間に、湯飲み茶碗《ちゃわん》が晴香の前に置かれる。
緑茶だ。
「え? これってもしかして、さっきビーカーで沸かしたやつ?」
「もしかしなくてもそうだ。実験室からちょいと拝借《はいしゃく》してきた。わけの分からない化学反応の実験に使われるより、ぼくに使われた方が幸せだよ」
うげっ。いったいどういう神経をしているのだ。
「そういう問題じゃないと思うけど……。こんなの飲んだらお腹壊すよ」
「ぶつぶつ言ってないで、試しに飲んでみな。隠し味は塩酸だ」
絶対に飲むものか!
「それで、君の話ってのは?」
八雲が説明を促す。
どう説明するべきか? 晴香は効果的な説明方法が思いつかずに、実際に起きたことを順番に並べてあらためて八雲に説明した。
八雲は両腕を組んで椅子に仰《の》け反《ぞ》り、天井を見上げながら黙って聞いていた。
知らない人が見たら、憤慨しそうな態度だが、八雲は、これでちゃんと人の話を聞いている。
「後藤さんより、マシな説明だったよ」
八雲は、両手を合わせ、テーブルに肘《ひじ》を突きながら言った。
「あのおっさんは話を劇的にしようとして、説明の順番がバラバラになるから、聞いている方は大変だ」
晴香は実際聞いていないので、判断ができない。
「で、何か分かる?」
「それとこれとは、話が別だ。話が理解しやすかったってことと、話の裏にある事情が分かるってことは違う」
それはそうだ。
だが、それを言われてしまうと、返す言葉がない。
意気消沈して肩を落とす。
「ただし、君の周りで起きた事件が何だったのか、考えられる可能性は、ある程度整理できたよ」
その場を取り持つように、八雲が話し始めた。
「可能性?」
「そう。考えられる可能性は二つだ。客観的に聞けば、君でもその結論に至るはずだが、今回、君はかなり主観を入れてしまっている」
「主観?」
「そのせいで、当然|辿《たど》り着くであろう可能性を、二つとも気づかないうちに否定してしまっているんだよ」
「はあ……」
何のことだか意味が分からない。
「検証しよう。まず、一つ目の可能性は、君が見たものが全部幻だったって場合だ」
「そんなことない。この目で確かに見たんだから」
晴香が強く主張する。
「な、いきなり可能性を否定するだろう」
晴香は「あっ」と思う。
八雲の言う通り、第三者的に話を聞いていたのであれば、真っ先にその可能性を挙げたに違いない。
そういうことか、とここに来て納得する。
「君が見たものがすべて幻で、君の友だちは、何かの事情があって、何も告げずに引っ越しをした……」
「詩織に限ってそんなこと!」
「だから、最後まで話を聞けよ」
八雲が晴香を諫《いさ》める。
「でも……」
「そうやって、自分で可能性を消してしまっているから、考えが破綻《はたん》する」
「でも……」
「実際何かの理由で、あわただしく引っ越しをして、後から連絡が来ることだって十分に考えられる。事情を聞いてみたら、何だ、そんなことだったのかって、笑って終わることだってあるだろう」
そう言われてみればそうだ。
晴香は少し肩の力が抜ける気がした。本人は嫌がっているようだが、やっぱり八雲のところに話を持ち込んでよかったと思う。
「もう一つの可能性は?」
晴香の問いに、八雲が露骨に表情を歪《ゆが》めた。
「できれば、もう少し事情が分かるまで話したくはないが……」
「可能性の一つなんでしょ?」
「そうだ、あくまで可能性の一つとして聞いてほしい」
晴香がうなずく。
八雲は、ガリガリと髪をかき回してから、話を始めた。
「君が見たものが幻ではないと仮定した場合……」
聞きたくない。
頭の中で誰かが言った。おそらくは自分自身。もう一人の自分。
でも、その声は八雲には届かない。容赦なく、八雲の言葉は続く。
「おそらく、君の友達は既に死んでいる。幽霊として君の前に現れたってことは……」
高い場所から落下していくような感覚。
耳鳴り。八雲の後の言葉が聞こえない。
幽霊だから死んでるの? 詩織は死んでしまったの? そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。認めたくない。生きている幽霊はいないの?
生きている幽霊――。
「ねえ、生霊《いきりょう》っていうのがいるんでしょう? それは生きている人の魂ってことではないの?」
晴香はテーブルを掴《つか》み、身体を乗り出す。
八雲は晴香の突然の行動に怪訝《けげん》な表情を浮かべていたが、それでも晴香の問いに答えてくれた。
「まったく可能性がないわけではない。前に話したように、幽霊が人の想いの塊だとすれば、死ななくても、肉体を離れる可能性だって否定はできない。君の言う生霊や、幽体離脱なんてのもよく聞く話だ。第三の可能性か……」
八雲は眉間《みけん》の皺《しわ》を揉《も》みながらぶつぶつ何かを言っている。
晴香は八雲の考えが纏《まと》まるのをじっと待った。
「希望的観測ではあるが、話が繋《つな》がらないわけじゃない。その可能性に懸《か》けてみるか」
八雲の言った一言で、晴香の胸に希望の灯《ひ》が灯《とも》った。
詩織に会える。きっと会える。
八雲と晴香が最初に向かったのは、詩織が住んでいたアパートの管理会社だった。
東京に出て来た時に、一緒に部屋を探したのを覚えていた。
駅前の商店街に軒を連ねる小さな店舗だった。
八雲はここに来る途中のケーキ屋で、クッキーの詰め合わせを購入し、しっかりと包装したうえ熨斗《のし》まで付けてもらっていた。
支払いはもちろん晴香である。
八雲は、何に使うのかは説明せず、必要経費だと言い張った。
来客用のテーブルとカウンター、その奥にある向かい合わせの机。
それだけで窮屈《きゅうくつ》さを感じるような狭い店内だった。
入店したにもかかわらず、「いらっしゃいませ」の挨拶《あいさつ》もない。かといって気がつかないほどに必死に仕事をしているわけでもなかった。
「あのー。すみません」
八雲がカウンターから身を乗り出して声をかけて初めて、禿頭《とくとう》の太った男がのそのそと対応に現れた。
「あの、すみません。ハイツ檜《ひのき》二〇四に住んでいた伊藤《いとう》詩織の兄ですが、妹がちょっと忘れ物したらしくて……申し訳ないのですが、鍵《かぎ》を貸して頂けないでしょうか」
八雲が丁寧な口調で嘘を並べる。
禿頭の男は、特に確認するわけでもなく部屋の壁の鍵棚から鍵を取り、八雲に手渡す。この間ひと言も言葉を発しなかった。
何といい加減な管理会社だ。
「あ、ところで、うちの妹、ちゃんと挨拶に来ましたか?」
禿頭の男は相変わらず言葉を発せず首を左右に振る。
「やっぱり、あいつ……いやね、お世話になった管理会社にはちゃんと挨拶しろって言ったんですよ。本当にそういうところはいい加減だな」
八雲が一気にまくし立てる。
それにしても、自然な演技だ。
「あ、これ、遅れてしまって申しわけないのですが、皆さんで」
八雲は購入した菓子折を禿頭の男に渡す。
とたんに男の表情がぐにゃぐにゃになった。何とも分かりやすい。
「実はうちも困っていたんですよ。突然解約するって電話が来て、その翌日には鍵を返却しに来ましてね。こっちも悪かったんだが、敷金の返金先とかも聞いていなかったし」
「本当にすみません」
八雲はすっかり恐縮した兄を演じながら続ける。
「あの、必要な書類とかあったら今書きますから、契約書とか見せてもらっていいですか?」
「ああ、ちょっと待ってて」
禿頭の男は、机に戻り、そこに積み重ねられた書類の山から、一冊の契約書を引き抜き、八雲に見せた。
八雲はそれを丹念に見ている。
晴香は後ろからその内容を覗《のぞ》き見た。
契約書の最後のページには、解約申込書がホチキスで留めてあって、その引っ越し先の欄には、長野県にある、詩織の実家の住所が書き込まれていた。
詩織の長野の実家は焼け落ちて今はないはずだ。それなのに――。
悪い予感がする。
「あらためて詩織に挨拶に来させます。その時に、敷金の返金先なんかもちゃんと記入させますよ」
「いや、悪いね」
禿頭の男はハンカチで額の汗を拭《ぬぐ》う。
「他に、うちの妹、何か迷惑かけたりしていませんでしたか?」
禿頭の男は少し考えてから、八雲にずいっと顔を近づけて話す。
「いや、こんなことお兄さんに話していいかどうか分からないけど、男が出入りしていてね。まあ年頃の娘だからそれくらいだったら別に何も言わないですがね……」
詩織に彼氏? そんな話聞いていない。
二年前まで付き合ってた彼氏なら知ってる。でも、その後は、まったくそんな素振りは見せていなかった。
今までは訊《き》かなくても、いちいち細かく報告されていたのに。
「それでね、いつだったか修羅場っていうんですか? もう一人の女とアパートの前で取っ組み合いの大喧嘩《おおげんか》ですわ。近所からもクレームがあってね……それが引っ越しの理由かと思ってたんですがね……」
「嘘!」
晴香が思わず声を上げた。禿頭の男の視線が突き刺さる。
「あ、どうもありがとうございました。鍵は明日までには返しますので」
八雲は早口に言うと、晴香の腕を掴《つか》んで店舗を出た。
今の話は、詩織のイメージと凡《およ》そかけ離れている。
詩織は男をめぐって争うようなタイプではない。
恋愛に限らず、晴香は今まで逆上する詩織の姿を見たことがない。晴香と喧嘩する時も、いつも謝るのは詩織の方だった。
晴香はそれが癪《しゃく》にさわることもあった。何だか子ども扱いされている気がしたのだ。それがもとでさらに喧嘩したこともあった。
そんな詩織が、取っ組み合いの喧嘩――。
※  ※  ※
晴香と八雲は、詩織が住んでいたアパートの前に立っていた。
二階建ての古びたアパートだった。
手摺《てす》りはところどころ錆《さび》が浮き出し、壁も汚れでグラデーションがかかっている。詩織がもういないのだと思うと、よけい薄汚れて見える。
「多分何も残ってないだろうな」
八雲は呟《つぶや》きながら、階段を上っていく。
何も残っていなくてもいい。実際に目にしないと、詩織がいなくなったことすら認められないような気がする。
晴香は、無言のまま八雲の背中を追いかけ、二〇四号室のドアの前に立った。
八雲が、ドアを開けるのと同時に、ふわっと甘い香りがした。
詩織の部屋の匂いだ。引っ越したなんて嘘だ。詩織は、まだここにいる。
晴香は八雲を押しのけて部屋に上がった。
「詩織……」
しかし、そこには何もない空間が広がっていた。
家具はおろか、段ボール箱の一つも残っていない。きれいに掃除されていて、今すぐに他の人が入居しても何の問題もないくらいだ。
残っていたのは、香りだけ――。
「きれいなもんだ」
いつの間にか部屋に入ってきた八雲が言う。
八雲は部屋の中央まで歩み出て、じっくりと室内を見回す。
六畳1K、ユニットバスの、何の変哲もない一人暮らし用のアパート。
「なあ、その詩織って娘《こ》は煙草吸ってたのか?」
晴香は首を振る。
今まで一度もそんな姿を見たことはない。
「どうして?」
「壁をよく見てみろよ」
晴香は言われるままに壁をじっと見て納得した。
壁には脂《やに》の黄色い汚れが染み付いている。
一見しただけでは分からないのだが、家具や壁に貼ってあった写真をどけたところだけ、元の色を残して真っ白だった。
自分の知らない詩織の姿が次々と目の前に突きつけられる。
何だか力がぬけてしまい、晴香はその場に座り込んだ。
フローリングの床が冷たかった。八雲はそのままユニットバスのほうに移動していく。
「ちょっと来てくれないか?」
しばらくして、八雲の声が聞こえた。
晴香は立ち上がり、ユニットバスを覗き込む。
八雲は一枚の写真を差し出してきた。その写真には詩織が写っていた。本当に穏やかな笑顔を浮かべている。
自分たちに向けるのとは明らかに違う笑顔。
それもそのはず、その隣には彫りの深い顔の男が写っていた。三十代後半だと思われる男性だった。
「それが詩織って娘か?」
「そうよ……これ、どこに?」
「鏡に貼り付けてあった……不自然だ」
「どうして? ただ、忘れただけじゃないの?」
「それはない。これだけきれいに片付けておいて、写真を一枚だけ置き忘れるわけがない。それに、もともとユニットバスの鏡に写真を貼り付けていたなら、湯気でびしょびしょになるだろ」
この写真は少しも濡《ぬ》れていないし、それらしき跡もない。言われてみれば確かにそうである。
もともと詩織は几帳面《きちょうめん》なところがあり、日記もかかさず付けていた。
「わざとここに残したんだろうな」
「なぜ?」
「誰かにこれを見てほしかったんだろ」
八雲が、耳の後ろをかきながら言った。
「誰かって誰?」
「君かも知れないな」
私に?
手に持った写真をじっと見つめてみたが、なぜ、詩織がこの写真だけ残したのか? その意味は分からなかった。
「彼女、右手の小指がないのか?」
八雲が、写真を指差しながら言った。
「うん。小さい時に事故で……本人は全然気にしていないって言っていたけど、本当はすごく気にしていたと思う」
「強いんだな」
「詩織はね、辛《つら》いことや、悲しいことがあっても、絶対に他の誰にも話さないの。全部自分一人で抱え込むの。いつも後から聞かされる……」
そう、詩織はいつもそうだった。自分の胸の内を絶対に表には出さない。
「ねえ、詩織は何で私に恋人のことを話してくれなかったのかな?」
「不倫だからだろ」
「え? どうして分かるの?」
「写真の男の指を見てみな。結婚指輪をしている」
「え?」
もう一度写真に目を落とす。
八雲の言う通りだ。男の左手の薬指には銀の指輪が嵌《は》まっていた。
「ぼくは、結婚指輪を嵌めたまま、他の女と写真を撮る男の神経を疑うがね」
無神経ということでは、八雲も他人のことを言えた義理ではない。
でも――。
「どうして不倫だと私に話してくれないの?」
「知ったら君は反対するんじゃないか?」
「そんなこと……」
言いかけたが心当たりがあった。
前に一度、詩織の付き合っていた男が二股《ふたまた》をかけていると聞いて、わざわざ相手の男の所まで出向き、ボロクソに文句を言ったことがあった。
「誰でも、自分の恋人を否定されたくはないだろ」
それは、そうだろう。
大切な物を、否定されることほど哀しいことはない。しかも、それが友だちならなお更だ。
自分に対して腹がたった。
「何それ? 私のせいだって言うの。私が堅物で頑固だから詩織は言わなかったってそう言いたいの?」
「何だ。分かっているじゃないか」
こんな時でも、八雲の皮肉は容赦なかった。
「酷《ひど》い」
「君は、今ここでメソメソ泣いている暇はないはずだろ」
八雲に言われて、唇を噛《か》んだ。
そうだ。私は、詩織を捜さなきゃいけないんだ。
後藤は携帯電話の着信音で目を覚ました。
八雲の隠れ家を出て、車で署に戻って来たまでは覚えている。
どうやらそのままハンドルにしがみついて眠ってしまったようだ。ろくに睡眠をとっていなかったから当然か。
「誰だ?」
後藤は相手も確認せず、寝起きの不機嫌な声のまま電話に出る。
〈どういう電話応対をしてるんですか〉
「何だ、八雲か……」
後藤は目を擦《こす》り、大きな欠伸《あくび》をすると、煙草を咥《くわ》えて火を点《つ》けた。
〈何だはないでしょう。ほんと〉
相変わらずの八雲の声が聞こえて来る。
後藤より眠そうな声に聞こえなくもない。
「何の用だ?」
〈後藤さんが依頼してきた案件で、有力な情報を入手したんですが、あまり興味がなさそうなので切ります〉
一気に目が覚めた。後藤はシートから飛び跳ねる。
「それで、何が分かった?」
後藤は噛みつくような勢いで言う。
しかし、その言葉は八雲に伝わらなかったようだ。
ツー、ツーという音が、空しく耳に届いた。
「あの野郎。本当に切りやがった……」
あいつは俺をいったい何だと思っていやがる。
後藤は、すぐに八雲に電話をかけなおしたが、何回コールしても八雲は電話に出ない。こっちのあわてた反応を見て楽しんでいやがる。
出て行った女房よりも性質《たち》が悪い。
八雲が電話に出るまで、たっぷり五分はかかった。
「いやあ、八雲君。さっきはすまなかった。反省しているよ。ほんと」
〈いつもそうやって奥さんに謝るんですか?〉
「ぐっ」
目の前にいたら引っ叩《ぱた》いてやりたいところだ。
まあ、実際目の前にいても、今はこっちがお願いしている身だから、そんなことできるはずもない。
後藤はただ、引き攣《つ》った笑い声を上げるしかなかった。早いとこ本題に入ってもらおう。
「それで、何が分かった?」
〈その前に、ちょっと行方を捜してほしい人がいるんです〉
「は?」
〈あいつの友達なんですけどね〉
「あいつって、晴香ちゃんか?」
〈そうです。で、名前は伊藤詩織……〉
「おいおい、ちょっと待て、いくらお前の頼みでも、友だち捜しに協力はできない。それくらい、分かっているだろ」
いったい何を考えている。
交換条件にしたって、やり過ぎだろう。
〈まあ、そうあわてないで下さい。今からぼくの話をきけば、後藤さんは彼女を捜したくなりますよ〉
催眠術でも始めたのか?
「ものすごい美人なのか?」
ふざけて訊《き》いてみたが、あっさり八雲に無視された。
〈その詩織って女性なんですが、数日前にアパートを解約して、突然姿を消しているんですよ〉
「若い女なら、よくあることだろ」
〈今日、その娘の住んでいたアパートに行って来たんですけどね、彼女の部屋で面白いものを見つけました〉
勿体《もったい》つけやがって。
「何だ?」
〈恋人と写っている写真です〉
「別に珍しくも、なんともねぇよ」
捜したくなるとか、意味深なことを言っておいて、肩透かしを食らった感じだ。
〈隣に写っていたのが、加藤謙一さんだったとしたら? それでも興味が湧きませんか?〉
「何だと? 加藤謙一の愛人だったのか!」
後藤は興奮のあまりハンドルの上を叩《たた》く。
けたたましくクラクションが鳴り、自分でも驚いてしまう。
〈まだ、はっきりとしたことは何も言えませんが、後藤さんの事件とまったく関係ないとも言えないでしょう〉
八雲の言う通りだ。
殺された男の愛人が、このタイミングで行方不明。偶然であるはずがない。
「二時間後にそっちに行く」
後藤は怒鳴るように言うと電話を切り、車を降りて走り出した。
晴香は、八雲と別れた後、とぼとぼとマンションの自分の部屋に戻った。
八雲から、彼女と共通の友人から、事情を訊《き》いておくようにという指示を出された。
高校時代の卒業アルバムを引っ張り出し、ページをめくりながら、対象になりそうな人物の選別を始めたところで、インターホンが鳴った。
何だろう? インターホンのモニターに、郵便局員が立っているのが見えた。
エントランスのロックを開錠すると、すぐに部屋のドアの前に郵便局員がやってきた。
「すみません。印鑑《いんかん》もらえますか?」
差し出したのは配達証明付きの封筒だった。
差出人の名前はなかったが、その筆跡からすぐに差出人が詩織だと分かった。晴香は興奮のあまり、奪い取るように封筒を手にした。
「あの、すみません。印鑑。サインでもいいですけど」
催促されて晴香は我に返った。
郵便局員からペンを借り、サインをすると、追い出すようにドアを閉じた。
震える手で手紙を開封すると、中から五枚の便箋《びんせん》が出てきた。
〈晴香へ――〉
女性にしては角ばった特徴のある文字。
男みたいだとからかったものだった。本当に詩織からだ。よかった。晴香は胸が熱くなった。
八雲が言っていた可能性の一つを思い出した。
事情があって黙って引っ越したが、実際理由を聞いてみれば、何だ、そんなことだったのかと思うことがあると。
晴香は部屋に戻り、ベッドに腰掛けて手紙を読み始めた。
その手紙は〈ごめんなさい〉で始まっていた。
10
後藤は、きっかり二時間後に八雲の隠れ家を訪れた。
「後藤さんが時間を守るなんて、万馬券《まんばけん》よりめずらしいですね」
開口一番に皮肉だ。
八雲が皮肉を言えなくなったら一日中口を開かないのではないかと疑う。
後藤は、反論するのも面倒になり、無言のまま椅子に座った。
「何か分かりました?」
八雲が、退屈そうに伸びをしながら言う。
「簡単に言うね。たかだか二時間やそこらじゃ限界がある。警察の捜査力も無尽蔵《むじんぞう》じゃねぇんだよ」
「二時間後を指定したのは後藤さんですが」
「あーあー、俺が悪かったよ」
後藤は持ってきた封筒をテーブルの上に投げた。
「二時間の捜査の結果だ」
八雲が封筒の中身を取り出し、書類に目を通し始める。
「とりあえず、現段階で分かっていることは名前と住所。それから勤務先」
「デパートの販売員ですか」
「ああ。そこも、数日前に突然退職している。退職願が郵送されて来たそうだ。部長だか課長だか知らないが、すごい勢いで怒っていたよ」
後藤はその時の状況を思い出す。
別に、俺が悪いわけでもねぇのに、一方的に怒りをぶつけられた。
思い出しただけで腹が立つ。
「だいたい、あいつらは警察を何だと思っていやがる」
「日々一般市民の安全を守るため、ご活躍ありがとうございます。愚痴は後で聞きますから、話を続けてください」
それもそうだ。
後藤は、咳払《せきばら》いをしてから話を続ける。
「両親は、一年前に火災で亡くなっている。唯一の肉親として祖母がいるが、認知症でな。施設に入っている。両親の保険金で、とりあえず死ぬまでは面倒|看《み》てもらえそうだ」
「天涯孤独《てんがいこどく》ってわけですか」
「ああ。祖母は、孫の顔を見ても誰だか分からないらしい。焼けちまった家の跡地はすでに売り払っちまっている……」
後藤は、そこまで言ったところで、捜査中に感じていた違和感が、再燃する。
「どうしました?」
その感情を、いち早く感じとったらしい八雲が言った。
「いや、両親が死んだ時に、なぜ実家に戻らなかったんだろうって思ってな」
「帰る場所が無かったんじゃないですか?」
「そうかもしれねぇな。人が帰る場所ってのは、そこに誰かがいて、初めて成立する」
「少しは人の気持ちが分かるようになったんですね」
八雲がニヤリと笑った。
「お前にだけは言われたくないね!」
後藤は、歯を剥《む》き出し、威嚇《いかく》するようにして言った。
「しかし、帰る場所がなかったとしたら、なおさら彼女はどこに行ったんだ?」
「帰る場所を失った人間が行く場所は一つしかありませんよ……」
八雲は悲しげな目をして言う。
果たして、八雲の帰る場所とはいったいどこなのだろう? 後藤はふとそんなことを思った。
こいつも帰る場所を持たない人間の一人なのかもしれない。
「引っ越し業者の線から行方を追おうと思ったが駄目だった」
「駄目とは?」
「家具とかそういったものは、すべて売り払っちまってた。売れない物は、全部処分を依頼している。それに、携帯電話もその日のうちに解約しちまってる。どうやら、彼女はどこにも行く気はなかったようだ。お前の言う通り……」
死を望んでいた。
孤独な女が、自分の愛する男を殺された。
もう生きている理由なんてないだろう。生きている理由――。
生きるのに理由が必要なのだろうか? 疲れているからか、また取りとめのないことを考えてしまった。
「とにかく、目下消息不明でお手上げだ……あ、危なく忘れるところだった。これは唯一の手がかりで、有力情報だ」
「なんです?」
「アパートの管理会社で聞いたんだが、今日兄だと名乗る男が訪ねて来たそうだ。アパートの鍵《かぎ》を借りていったらしい。彼女は一人っ子のはずだ。怪しいだろ。今指紋を採らせて身元を割り出し中だ」
八雲が親指を、後藤の目の間に突きつける。
「ん? 何だ?」
「これです」
「何が?」
「鍵に付いている指紋。これですよ」
「は?」
「だから、その兄と名乗って鍵を借りていった人物は、ぼくなんです。だから、ぼくの指紋が出る」
「バカヤロー! 先に言え! もうその線で捜査しちまっているよ」
「訊《き》かれなかったから。とにかく、適当にごまかしておいて下さいね」
後藤は落胆で全身の力が抜け、首《こうべ》をだらりと垂れた。
唯一の手掛かりが消えてしまっただけではなく、よけいな仕事まで増えちまった。この疫病神《やくびょうがみ》め!
「でも、わずか二時間でよくここまで調べましたね」
「部長に褒められるよりは全然ましだが、それでも、お前には言われたくない!」
後藤は八雲を指さし、大声で叫ぶ。鬱憤《うっぷん》が爆発した。
「うるさいな」
八雲は、耳に指を突っ込んで表情を歪《ゆが》めた。
「まあ、何にしても、俺の勘では、その詩織って娘が怪しいな。いや、晴香ちゃんには悪いが彼女は真っ黒だよ。彼女が恵美子を殺して姿を消した。恋人を殺された復讐《ふくしゅう》だよ。辻褄《つじつま》が合う」
「合いませんよ」
八雲が腕を組んで言う。
「どうして?」
ことごとく、人の考えにケチをつける野郎だ。
後藤は八雲をねめつける。
「だって、遺書があるじゃないですか」
「そんなものはお前、あれだよ、ナイフとかで、こう脅して書かせたんだよ」
後藤が、ナイフを突きつける仕草をしながら言う。
「脅して書かされたもので、筆跡が合うんですか? だいたい、遺書を書かせるってことは、殺されることが確実なわけですよね。書いたら助かる文章を書くならともかく不自然だ」
言われてみればそうだ。
「もともと後藤さんの思い込みだった線が一番|濃厚《のうこう》ですね」
八雲が、止《とど》めを刺すように言った。
この二時間は、いったい何だったんだ。
疲労が、一気に噴出した。
「気が重いよ……」
「まあ、何にしてもはっきりしないのは気持ちが悪い。駄目もとで現場に……」
「行くか!」
後藤は、急に元気を取り戻し、八雲の言葉をつないだ。
11
詩織からの手紙を読み終えた晴香は、頭が真っ白になっていた。
その内容のすべてが信じられなかった。
手紙の文字は詩織なのに、その内容は他の誰かのものとしか思えなかった。
「ごめんなさい」で始まったその手紙は、まず詩織が付き合っていた男性のことが書かれていた。
八雲の予想通り、二人は不倫の関係にあった。
出会ったのは居酒屋で、ふとしたきっかけで二人は会話をするようになったという。
彼は、奥さんとの関係に問題があり、家には自分の帰る場所がないと言っていたという。
同じように帰る場所がないと感じていた詩織。
二人はお互いを帰る場所にした。
やがて、詩織は妊娠した。彼も奥さんと別れることを決意した。
そんな折、彼が死んだ――。
死因は心不全。詩織はそのショックで流産した。
しかし、詩織には納得できなかった。
詩織は彼の言った言葉を思い出した。
妻に殺される――。
まさか? と思いながら、彼の奥さんを追及すると、彼女は詩織の家に訪ねて来たらしい。
そして、つまらないことを言いふらさぬようにと現金百万円を渡されたようだ。
その時、詩織は悟った。彼女が彼を殺したのだと――。
そして、アパートの前で彼女と大乱闘を演じた。
その瞬間から、詩織は彼女に対する憎悪が膨らみ、殺意を抱くようになったという。
自分の愛する人を殺し、そのうえ、自分に口止め料を払い平然としている。その神経が許せなかった。自分にはもはや失うものは何もない。
詩織は彼女を殺し、自分も死ぬことを決意した。
そして、手紙の最後にも「ごめんなさい」と書かれていた。
今まで黙っていたこと。友人が殺人者になり晴香に迷惑がかかること。
自分だけ勝手に死んでしまうこと――。
自分勝手だ。本当に自分勝手だ。すべてを自分一人で背負い込むなんて。死ぬなんて、絶対許せない。
でも、どこにいるかも分からないのに、いったいどうやって助ければいいの――。
いた! たった一人、詩織を助けることのできる可能性を持った人物。
晴香は携帯電話を手に取った。
12
後藤は、車の運転席から外を見上げた。
幾重にも重なった雲が、ゆっくりと動きながら暗くなり始めた空を覆っていく。
「こりゃ一雨きそうだな」
助手席の八雲に向かって言った。
しかし、当の八雲は、何も聞こえていないように無反応。
さっきからしきりに何かを考えている。
八雲の思考など後藤には考えも及ばない。分からないなら訊《き》いてみるしかない。
「なあ、何を考えているんだ?」
「何も考えていませんよ」
八雲が迷惑そうに顔を歪める。
話す気はねぇってか。後藤は舌打ちをした。
その時、携帯電話が鳴り出した。
後藤の携帯の音ではない。八雲がポケットから携帯を取り出して電話に出る。
「もしもし……」
八雲が怪訝《けげん》な表情を浮かべた。
はっきりと会話は聞こえないが、慌てた様子の、女性の声が漏れ聞こえて来る。晴香ちゃんか?
「頼むから落ち着いてくれ。何を言っているのか分からない」
八雲はたまりかねたようで、口調を荒くして言う。
「……それで、手紙が届いたんだな……分かった……それで……」
おっと、八雲の会話を気にして、赤信号を見落とすところだった。
後藤は急ブレーキを踏んだ。
皮肉の一つも飛んで来るかと思ったが、八雲は集中しているらしく、何も言わなかった。
「分かった……なるほど……そういうことだったのか……」
ずい分まどろっこしい会話をしていたが、八雲は、動揺する晴香からどうにか話を訊き出すことができたようだ。
「あとで連絡するから、それまで待ってろ」
言ってから八雲は電話を切った。
「どうした? 何の話だ?」
「後藤さんの勘も、タマには当たるって話ですよ」
さっきまで真剣に話をしていたら、とたんにこれだ。
「つまらんこと言っていないで、さっさと話せ」
「あいつのところに」
「晴香ちゃんか?」
「ええ、そうです。詩織って娘から手紙が届いたそうです。恵美子を殺して自分も死ぬって……」
「何だと! そりゃ大変だ! すぐに、その詩織って女を押さえるぞ!」
後藤は、いきり立つ感情に任せて、大声で言った。
「押さえるって、どこを捜すんですか?」
「そりゃいろいろだよ……」
言われてみればその通りである。
親友にすら、行き先を告げずに姿を消した孤独な女性が、そう簡単に見つかるはずもない。
「それに、彼女が本気で自殺するつもりなら、タイミングから考えて、もうとっくに死んでますよ」
「なんで、そう思う?」
「恵美子さんの死で、彼女の目的は、達成されたわけです。他にも目的があるなら話は別ですけど。逆に、今死んでいなきゃ、この先も死ぬつもりはないでしょ」
「お前はそう言うが、人間の感情が、化学反応みたいに特定の結果しかもたらさないとは言い切れないだろ」
「見解《けんかい》の相違《そうい》ですね」
八雲は腕組みをして、窓の外に目を向けた。
「しかし、これで解決だな。わざわざ現場に行く必要もないだろう」
後藤はUターンしようとするが、八雲がそれを制する。
「いえ、行ってみましょう。どうしても気になることがあるんです」
「気になること? 何だ?」
「……」
それっきり八雲は口を閉ざした。
独自の思考回路を使って、今回の事件の青写真を描いているのだろう。
悔しいが、こいつの勘は外れたことがねぇ。
後藤は、八雲の推測に付き合うことにした。
※  ※  ※
後藤と八雲が、火災現場に到着した時には、ポツポツと小雨が降り始めていた。
十二月の雨は痛みを感じるほどに冷たい。
「雪にならなきゃいいが……」
後藤は、空を見上げて呟《つぶや》いた。
八雲は、ゆっくりと焼け落ちた建物の中に入って行く。
「ちょっと待てよ」
後藤も、すぐに八雲の背中を追いかける。
家の中に入るといっても、天井も壁もほとんど焼け落ちていて、家とは言いがたいものだった。
床には、熱で変形したガラスやらプラスチックやらが転がっている。
放水の時に出来た水溜《みずた》まりも、そのまま残っていた。
「一つ気になることがあるんです」
八雲は、白い息を吐きながら立ち止まった。
「何だ?」
「詩織って娘が恵美子を殺したとして、何のために、警察に恵美子名義の遺書を送ったりしたんです?」
「そら、警察の目をごまかすために決まっているだろ」
「本当にそうでしょうか?」
振り返った八雲の目は、まるで何かを悟ったようだった。
恐ろしくさえある。
「どういうことだ?」
「もし、罪を隠す理由があるとすれば、それは、自分が生き残って生活を続けるからじゃないんですか?」
「まあ、そうだろうな」
「では、なぜその詩織って娘は、あいつに手紙なんか送ったんですか? しかも、自殺するつもりだと……」
八雲の言う通りだ。
ざわざわと胸騒ぎがする。
最初から自殺するつもりの人間が、殺人を自殺に見せかけるなどという、偽装《ぎそう》工作をする必要はない。
真相が見えたような気がしたが、そうではない。
まだ、重要な何かを見落としている。
雨脚はだんだん強くなって来た。
足元には、煤《すす》で黒く染まった水が流れ出している。
吐く息が視界を遮るくらい白い。
八雲は白い線で描かれた人型の前に片膝《かたひざ》を突き、じっと何かを見ている。
「何か見えるのか?」
後藤の問いに八雲は答えない。
聞こえていないのか? それとも答える気がないのか? 分かるはずもなかった。
どちらにしても、待つしかない。
後藤は、煙草を咥《くわ》えて火を点《つ》けようとするが、湿気《しけ》っていて、なかなか火が点かない。
「どうして、君がここに……」
八雲が呟いた。
雨が、地面に当たって弾《はじ》ける音だけが響いている。
後藤の目には何も見えない。
「そうか……君は最初からここにいたんだ。だとすると……彼女は……」
八雲が言うのと同時に、遠くで雷が落ちる音がした。
「何てことだ……それじゃあ……」
血相を変えて、八雲が立ち上がる。
「おい、八雲、どうした」
「後藤さん。大至急、監察医に確認してほしいことがあるんです」
「監察医? お前、何を言っている」
「いいから早く!」
八雲が鬼の形相で叫ぶ。
こんなに興奮している八雲を見たことがない。緊急を要する。後藤は直接、畠の携帯を鳴らした。
〈何の用だ?〉
ワンコールでのんびりした畠の声が聞こえて来た。
「ちょっと確認したいことがある」
〈確認したいこと?〉
「おい、八雲! 何を確認すればいい?」
八雲は答えるより先に、後藤から電話を奪い取った。
「この前の焼死体。もしかして、右手の小指が欠損していませんでしたか?」
八雲は電話を握ったまま沈黙した。
この反応。おそらく八雲の勘が当たったのだろうが、それが何を意味するのかはまったく分からない。
八雲は電話を切ると、そのまま後藤の携帯を使って、どこかに電話をし始めた。
13
晴香は、八雲との電話を切った後、手紙をコートのポケットに入れて、マンションを飛び出した。
八雲は、後で電話すると言っていたが、後では遅い。
こうしている間にも、詩織は自らの命を絶とうとしている。
両親を失った。愛する人を失った。愛する人の子どもを失った。生きる意味そのものを失ってしまったのかもしれない。
でも、生きることに意味など必要なのだろうか?
確かに、晴香には想像できないほど大きな悲しみだろう。
お姉ちゃんの死で、ぐずぐずと何年も苦しんだ私が言えた義理ではないのかもしれない。
それでも、詩織には生きていてほしいと思う。
この先が苦しみを共にする苦難の道であったとしても――。
マンションを飛び出したまではよかったが、捜す当てなどなく、捨て猫みたいに、街を徘徊《はいかい》した。
やがて、ポツポツと雨が降り出してきた。
公園へと続く、誰もいない道をトボトボと歩いていたところで、雨の音に交ざって、携帯電話の着信音がした。
見たことのない番号が表示されていた。もしかして? と思い電話に出る。
〈無事か? 今どこにいる?〉
八雲の声だった。無事とはいったい何のことだろう?
〈今、どこだ?〉
戸惑っている晴香に、八雲がもう一度問いかける。
冷静な八雲が、取り乱していた。
「詩織を……捜している……」
〈いいか、今すぐ家に帰って、ぼくが行くまで一歩も家から出るな〉
「どういうこと? 私は詩織を……」
〈彼女はもう死んでいる!〉
八雲の叫ぶ声が耳の奥に突き刺さり、脳を揺さぶる。
詩織が死んでいる。やっぱりそうか――。
意外にもふと頭に浮かんだのはそんな思いだった。
八雲が言う前から、私には分かっていた。だけど、それを認めたくなかっただけ――。
鼻がつんとして、目頭が熱くなる。
頬を伝う水滴が雨なのか、涙なのか分からなかった。
〈できるだけ人通りの多い道を選んで帰るんだ〉
八雲が、念を押す。
人通りが多いって――。
晴香は辺りを見回してみる。視界には一人も人がいない。
車のエンジン音が聞こえた。ワゴン車だ。
ゆっくり、晴香の横を通過して行く。突然車のドアが開いた。車の中から腕がぬうっと出てきて、羽交い締めにされた。
携帯が、アスファルトの上に落ちた。
「きゃぁ……」
口を押さえつけられ、叫び声が途中で消えた――。
14
「おい! 返事をしろ! おい! くそっ!」
八雲は叫び声を上げながら携帯電話を地面に叩《たた》き付けた。
折り畳み式の携帯電話が真っ二つに折れ、部品がバラバラに飛んで行った。
「……おい。それ、俺のだぞ……」
後藤の声など八雲には届いていない。
後藤は無残な姿になった携帯電話をつまみ上げる。
「あぁあ。こりゃもう駄目だ」
「クソ! どうする……」
八雲が、苛立《いらだ》たしげに、地面を蹴《け》りつけている。
こんな八雲は、今まで見たことがない。
「落ち着け。いったい何があった」
後藤は、八雲の腕を掴《つか》んだ。
「ぼくたちは、とんだ思い違いをしていたんですよ!」
八雲は言いながら、手をふり払う。
「思い違い?」
「ここで焼死したのは、加藤恵美子じゃない。詩織さんだ!」
「な、な、何だと!」
あまりのことに、声が裏返った。
「恵美子は生きています! おそらく、恵美子と詩織さんは、背恰好《せかっこう》が似ていたのでしょう。血液型も同じだ。だから、身代わりにされた」
「嘘だろ」
「本当です。今、監察医に確認を取りました。詩織さんは幼い頃の事故で右手の小指を欠損していた」
「例の焼死体も、右手の小指が欠けていたのか?」
なんてこった。
人員不足のツケが、こんなところに回ってくるとは――。
後藤は、頭を抱えた。
「わざわざ警察に遺書を送り、詩織さんを殺して、ガソリンをかけて火を放ち、家ごと燃やす。弟の純一が路上駐車をして消防車の到着を遅らせる。身元が判別できないくらいに焼くためにね!」
「駐禁で、警察に出頭したことが、そのままアリバイになるってわけだ」
それで、遺産を山分け。
死んだはずの人間に捜査の手は及ばない。
悠々自適《ゆうゆうじてき》な生活が待っているってわけだ。
後藤の背筋に寒いものが走った。何とおぞましい。吐き気がする。ゴキブリ以下だ。
しかし、またしてもやられた。
いくら科学捜査が進んだとはいっても、すべての事件に対してDNA鑑定を行うほどの予算も時間も労力もない。
証拠がある程度揃っていれば、それで終わりなのだ。その盲点を突かれた。だから、わざわざ遺書を送りつけたりしたのか――。
「とにかく、大至急恵美子の行方を追おう」
「それじゃ遅いんです!」
八雲が、腹の底から声を上げる。
「遅い?」
「詩織さんは、死ぬ前にあいつに手紙を出しているんですよ」
「さっき言っていたあれか?」
「そうです。そして、恵美子はそのことに気づいている」
「どうして?」
「日記です。詩織さんは日記を付けていたんです。その日記には、あいつに手紙を送ったことも書かれているんでしょう。おそらく加藤恵美子が持っている」
「なんだと!」
八雲が怒り狂ったわけが分かった。
今回の計画において、たった一つの誤算。それは詩織さんが残した手紙だった。
「で、晴香ちゃんは今どこだ? 誰か向かわせる」
「さっき悲鳴の後に突然電話が切れました……」
八雲が力なく言う。
この冷血漢も、一端《いっぱし》に誰かのことを心配するようになったのか。
大した変貌《へんぼう》ぶりだ。こいつから、この感情を奪い取ってはいけない。何が何でも助けてやる。後藤は強い衝動に突き動かされた。
「もたもたするな! 行くぞ!」
後藤は車に向かって走り出した。まだ、諦《あきら》めるのは早い。
15
晴香は車の後部座席に座らされていた。
喉元《のどもと》にはナイフの冷たい感触がある。少しでも動いたら切れてしまいそうだ。
ナイフを突きつけている男は、詩織の恋人に顔が似ていた。
でも、持っている雰囲気は、全然違った。
顔ははっきり見えないが、車を運転しているのは女性のようだ。
ソバージュのかかった髪がやけに膨らみ、車内は化粧の臭いで充満している。
「これからどこに行くんですか?」
震える喉に意識を集中して問いかけたが、二人とも答えなかった。
「私にいったい何の用があるんですか? あなたたちはいったい誰です?」
冷や汗がポタリと落ちる。
車が信号で停車する。
運転席の女が後部座席の方に身を乗り出して来て、脂《やに》で黄ばんだ歯を見せてニヤリと笑った。
「そうね。自己紹介がまだだったわね。晴香ちゃん」
「なぜ、私の名前を?」
「あなたの友だちに聞いたの。詩織ちゃんだったかしら」
「詩織を知っているんですか?」
晴香が身を乗り出したが、すぐに隣の男に髪の毛を鷲掴《わしづか》みにされ、シートに押し付けられた。
「ぐちゃぐちゃ、うるせぇガキだ」
男は鼠のように頬をひくひくさせながら言う。陰湿で、ねばねばした声。
「私の名前はね、加藤恵美子っていうの。そっちは加藤純一」
運転席の女が言った。
晴香は一気に血の気が引いていくのを感じた。この女が加藤恵美子。
詩織が殺したはずの女性――。
でも今、目の前にこうして生きている。ということは――。
「その顔。やっぱり事情を知っているのね」
恵美子が、冷ややかな視線を送って来た。
「………」
「そう。私は死んだことになっているの」
死んだことになっている?
もしかして――。
晴香は、目に力を入れて恵美子を睨《にら》んだ。
「そんなに怖い顔しないで。別に私はあなたに何をしようってわけじゃないのよ」
恵美子は晴香の髪をゆっくり撫《な》でる。
寒気がした。恵美子の言葉に真実味はまるでない。
もし本当に何もする気がないのなら、自分が恵美子だと名乗ったりしないはずだ。
「私たちはね、手紙を探してるの。届いたでしょ? 手紙」
そうか、それが目的だったのか。
「手紙なんて知りません」
「嘘言うんじゃないよ!」
言うなり恵美子の平手が飛んで来た。
避《よ》ける間もなくまともに当たった。じんじんと熱が伝わって来る。
「隠したって無駄だよ。ちゃんとこの日記に書いてある。あなたにだけは、真実を伝えるために手紙を出したってね!」
恵美子は晴香に一冊の日記帳を投げつけてきた。
晴香は何も答えずに、その日記帳を抱き締めた。
そうか。詩織はこの人たちに殺されたのだ。身代わりにされて――。
激しい悲しみと怒りが、同時に沸き上がってきた。
「さあ、手紙はどこにあるの?」
「……」
「失礼かとは思ったのだけど、あなたの部屋はもう探させてもらったわ。鍵《かぎ》もかけずに部屋を出るなんて不用心ね」
「……」
絶対に応えるものか。私はこの人たちを絶対に許さない。
「さあ、早く! どこだい!」
もう一度、平手が飛んで来る。
晴香は勢いよくシートの下に倒れ込んだ。わざとだ。そのまま痛みに呻《うめ》く真似《まね》をする。
後ろからクラクションの音が聞こえた。信号はとっくに青に変わっている。恵美子は舌打ちをして車を発進させた。
晴香は気づかれないようにコートのポケットから手紙を取り出し、車のシートの下に押し込んだ。これでしばらく時間稼ぎはできるだろう。
でも、時間稼ぎをしたところでいったい何になる?
じわっと胸の奥から絶望が広がっていく。
16
車に乗り込んだはいいが、ここからどこに行く。
ただやみくもに車を走らせたところで、何の解決にもならない。どこを捜せば晴香ちゃんを見つけることができるんだ。
くそっ。どうする。後藤は舌打ちをした。
「後藤さん。加藤謙一には、親の遺《のこ》した土地があるって言っていましたね?」
「ああ。それがどうした」
「その土地って今はどうなっているんですか?」
こんな時にいったい何を考えているんだ。
後藤は八雲の横顔を見る。その表情は真剣そのものだった。
「一ヵ所はあの焼け落ちちまった家だ。静岡と長野にもあったかな。それと、もう一ヵ所は確か市内で、マンション建設中の場所があるんじゃなかったかな?」
「そこです」
八雲がはっきりとした口調で言う。
「本当か?」
疑ったところで、他に向かう場所の見当などつかない。
八雲もきっと可能性で言っているのだろう。迷っている時間が一番無駄だ。その可能性に懸《か》けるしかない。
後藤はアクセルを踏み込む。
ガリガリッと砂利を弾《はじ》き飛ばしながら、車を急発進させた。
「あいつらは、どうしても手紙を手に入れたいんです。どこか、人目につかない場所でありかを喋《しゃべ》らせる必要がある」
八雲が、早口に言う。
「なるほどね……」
読みが外れた場合は完全にアウトだ。
たとえのちのち恵美子を押さえることができたとしても、死体が確実に一つ増える。
「飛ばすぞ。掴《つか》まってろ」
後藤は、パトランプのスイッチを入れ、さらにアクセルを踏み込む。
※  ※  ※
加藤恵美子の運転するワゴン車は、建設途中のマンションの敷地に入っていった。
建物自体はほぼ完成している。
あとは内装だけといったところだ。
二棟ある建物の間を通り、裏手に回って地階への入り口を入り、傾斜を下って地下に潜っていく。
傾斜を降りきった所で、左に曲がり、突き当たりまで進んで停車した。どうやら、地下駐車場のようだ。
明かりは車のヘッドライトだけだった。
晴香は純一に腕を掴まれ、車から引きずり出される。
体勢を崩して日記を抱きかかえたまま、うつ伏せに倒れ、反動で顔をぶつけた。
唇が少し切れたようだ。痛みで顔を歪《ゆが》めたが、息つく間もなく、純一に髪を鷲掴みにされ、無理やり引き起こされる。
「自分で立つから放してよ!」
晴香は叫び声を上げて純一の腕を振り払った。
恵美子は、壁に取り付けてあるスイッチのような物を操作していた。
電機のモーター音と金属の擦《こす》れるような音がした。おそらくシャッターを閉めたのだろう。晴香は青ざめる。
希望の灯を吹き消されたような気がした。
これで、駐車場は完全に密閉された空間になってしまった。
叫んでも、誰も助けてくれない。
私は、もう駄目なのだと悟り、目を閉じた。
悔しかった。詩織を殺した人間を目の前にしていながら、私は、何もできない――。
でも、仮に私が死んだとしても、少なくとも八雲だけは真相に辿《たど》り着いてくれるに違いない。
それがせめてもの救いだ。
八雲は、仇《かたき》をとってくれるだろうか?
私が死んだら、あの無神経で無愛想な捻《ひね》くれ者も少しは悲しんでくれるだろうか?
ふとそんなことを考えた――。
※  ※  ※
「間に合えばいいが……」
後藤が、誰にともなく呟《つぶや》いた。
焦りのせいで、掌《てのひら》に汗をかき、ハンドルが滑る。
「間に合わせてください」
八雲が、すかさず言った。
「簡単に言うね」
「後藤さんでも難しいですか?」
こいつは、こんな時でも本当に嫌らしい言い方をする。
「楽勝だ」
さっきからブレーキは一度も使っていない。
叩《たた》き付けるようにクラクションを鳴らしながら、次々と車を追い越して行く。
急ブレーキや、クラクション、罵声《ばせい》と、後藤の乱暴な運転を非難する音が聞こえてきたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
一分、一秒の遅れが、取り返しのつかない結果を招く。
とにかく急げ。
晴香ちゃんが脅しに屈してすぐに手紙を渡したりしなければ、助け出せる可能性はある。
諦《あきら》めないでくれ。今、八雲を連れて行く。だからがんばれ。
後藤は届くはずのないエールを送る。
「後藤さん! 前!」
交差点を突っ切ろうとしたところで、八雲が叫んだ。
対向車が、強引に右折してきた。
「クソ!」
ハンドルを切ったが、遅かった。
ゴン!
ものすごい音がして、車体が大きく揺れる。
車が縁石に乗り上げ、停まっていた自転車を三台なぎ倒し、電柱に激突した。
フロントガラスに、くもの巣状のヒビが入り、バンパーから白い煙が上がっていた。
畜生。こんな時に、やっちまった。
後藤は舌打ちをする。額にぬるぬるとした感触があった。手で触ると、べっとり血が付いていた。
助手席の八雲に目を向ける。
「大丈夫か?」
「何とか……」
八雲が肩を押さえながら答える。
後方を振り返る。黒い乗用車が路肩に寄って停まっている。
フロントバンパーがひしゃげているが、掠《かす》っただけだ。怪我人《けがにん》はこちらだけのようだ。
後藤は、再び車のエンジンキーを回そうとする。
エンジンに点火しない。もう一度試す。
駄目だ。くそっ。
「頼む! かかってくれ!」
※  ※  ※
純一が晴香からコートを剥《は》ぎ取り、ポケットというポケットを漁《あさ》っている。
恵美子は背後からズボンのポケットなど、服の中に手を突っ込んでまさぐっている。
晴香は、じっと屈辱《くつじょく》に耐えるしかなかった。
「こっちは何もないぞ」
純一が言いながらコートを投げ捨てる。
恵美子も諦めたらしく晴香の正面に回りこむ。ナイフを目の前でチラつかせる。
「いい加減に話したらどう? 手紙はどこ?」
恐怖がないと言えば嘘になる。
でも、だからといって屈するつもりはまったくない。
どうせ、殺される。せめてもの意地だ。晴香は真っ直ぐに恵美子を睨《にら》みかえした。
「あなた、自分だけは大丈夫なんて思っているんじゃないの? 言っておくけど、現実の世界ではね、主人公も死ぬのよ」
「分かっています。素直に言ったって、どうせ助ける気なんてないんでしょう」
一瞬間を置いて、恵美子の拳が飛んできた。
今までの平手とはわけが違う。さすがに痛みで目が眩《くら》み、よろよろと後退《あとずさ》りして、車にぶつかり尻餅《しりもち》をついた。
口の中にじわじわと血の味が広がっていった。
「早く言いな! こっちは時間がないんだよ!」
恵美子が髪をふり乱して叫んだ。
いい気味だ。どんなに強がっても、この人たちは不安なんだ。
詩織の手紙のありかが分からない限り、自分たちの破滅を想像して怯《おび》え続けなければならない。
そうだ。この人たちのあせりを利用すればあるいは――。
でもいくら動揺させても、二人相手ではどうにもならない。
「手紙の場所を喋《しゃべ》ったら、本当に助けてくれるんですね」
晴香は、ゆっくりと立ち上がりながら口にした。
恵美子が驚いた顔をする。
が、しかし、それはすぐに甲高い笑いに変わった。
「そうだよ。お嬢さん」
嘘つき。晴香は心の中で叫ぶ。
「手紙は部屋に置いてあります」
「嘘を言うな。部屋は調べた」
「ちゃんと調べましたか? 冷蔵庫の中も」
咄嗟《とっさ》に浮かんだ嘘だ。
八雲じゃあるまいし、何でもかんでも冷蔵庫などに入れたりはしない。
純一は思い返すように視線を宙に漂わせている。
「ちっ」
純一が舌打ちをして車に向かって走り出す。
恵美子が純一に向かって車の鍵《かぎ》を投げ渡した。成功だ。
シャッターが開き、車がタイヤを鳴らして走り去っていく。これで、恵美子と一対一。
「もし、嘘だったら承知しないよ」
どう承知しないのだろう。晴香は、恵美子を正面から見据え、微笑んでみせた。
恵美子の頬がひきつる。
「なぜ詩織を殺したんですか? 旦那《だんな》さんを奪われたから?」
「あなた、大きな勘違いをしているわね」
「勘違い?」
「そう、勘違い」
恵美子は勝ち誇ったように晴香を見下ろすと、薄笑いを浮かべ、煙草を咥《くわ》えて火を点《つ》け、晴香に向かって煙を吹きかけた。
「全部計算ずくだったのよ。夫を病気に見せかけて殺すことはもちろん、警察が殺人事件だと見抜くことも、あなたのお友だちが、私が夫殺しの犯人だと気づくことも……」
「あなたは、最初から詩織を殺すつもりだったのですね」
「そうよ。今回の計画はね、あなたのお友達なしでは成立しなかったの。いえ、あなたのお友だちが現れたからこそ思いついた計画なの。背恰好《せかっこう》も血液型も一緒。おまけに、両親が死んでいて、身寄りがない。私の代わりに死ぬにはもってこいの人選だと思わない?」
なんて人だ――。
「思わない! 詩織は、あなたなんかの身代わりになるために生まれたんじゃない! 詩織には詩織の人生があったの! それを! あなたは全部壊した!」
晴香は力の限り叫んだ。
許せない。この人だけは絶対に許せない!
晴香は生まれて初めて、本気で誰かを憎いと感じた。
「強がるんじゃないよ!」
また恵美子の拳が飛んできた。今度は倒れずに踏ん張った。
「強がってるのはあなたよ」
「小娘が。あなたのお友だちも、不倫の恋なんてしなければ、巻き込まれずにすんだのにね。自業自得よ。禁じられた恋に熱くなりすぎて、本当に燃えちゃったわね」
恵美子は声をたてて笑った。
「本当は旦那さんを取られて悔しいくせに」
「口の減らないガキだね。あなた、もういいわ。死になさい」
恵美子は晴香の首筋にナイフを這《は》わせる。
冷たい感触があった。
もう駄目だ。
晴香は目を閉じた。
人生の終わりなんてあっけないものだ。
私が死んだら、とりあえず八雲に会いに行こう。
八雲ならきっと私を見つけてくれる。
そして、相変わらずの寝ぼけ顔で「何しに来たんだ?」なんて皮肉を言うんだ――。
「諦《あきら》めないで……」
晴香の耳元で声が聞こえた。
これは、詩織の声――。
晴香は、目を見開く。そこに、希望の光が灯《とも》った。
まだ、諦めちゃダメだ。
晴香は、力一杯、恵美子を突き飛ばした。
恵美子はよろよろと後退りして尻餅をついた。一瞬、信じられないという顔でぼんやりと晴香を見ていたが、すぐに立ち上がり、向かって来ようとする。
「あなたも大きな勘違いをしているわ」
晴香は恵美子を指差し、言い放った。
恵美子の足が止まった。
「勘違い?」
「そう。勘違い。あなたたち以外にも、手紙の存在を知っている人たちがいる。そして、その人たちも今回の事件の真相に気づいている」
「つまらない嘘を言うんじゃないよ!」
恵美子は怒声を上げるが、その目は落ち着きなくゆらゆらと揺れていた。
突然の晴香の変貌《へんぼう》に何かを感じとったのだろう。
だけど、何をどう感じようと、もう遅い。
「嘘だと思うなら後ろを見てみれば」
晴香の言葉に、恵美子は、錆《さ》び付いたカラクリ人形のようにゆっくりとふり返る。
途端、驚愕《きょうがく》で目が大きく見開かれた。
そこには、八雲と後藤が立っていた。
「加藤恵美子。お前さんにはいろいろと訊《き》かなきゃならんことがある」
なぜか血まみれの顔の後藤が警察手帳を翳《かざ》しながら言う。
恵美子は何か言おうと口をパクパクさせているが、言葉にならない。
「あ、それと純一は入り口で偶然見かけてね、今手錠で繋《つな》いであるよ」
後藤は、両手を広げておどけて見せた。
恵美子は、キョトンとした表情だった。当然だろう。逃げ道はない。
彼女たちの計画は完全に破綻《はたん》したのだ。
もはや抜け殻。後藤が恵美子の肩に手を置く。
その瞬間だった。恵美子は急に晴香をふり返り、ナイフを翳して襲いかかってきた。
後藤が恵美子を止めようと飛びかかるが、一瞬遅かった。
後藤の腕の間をすり抜け、恵美子は晴香に向かって突進してくる。
晴香にはすべてがスローモーションに見えた。
驚きと恐怖で身体が硬直する。
「いやっ!」
力の限り叫んだ。
八雲が何か言っていた。
刺される。
思った瞬間、晴香の前に誰かが立ちはだかった。
恵美子は晴香に辿《たど》り着くことなく、何かに躓《つまず》き、前のめりに倒れ、ナイフを取り落とした。
後藤はその隙を逃さなかった。
恵美子の背中に馬乗りになり、両手を後ろに回し、素早く拘束《こうそく》する。
「大丈夫か?」
八雲が晴香に駆け寄って来た。
「詩織……詩織が助けてくれたの」
晴香は、言いながら、その場にへたり込んだ。
恐怖と、それから解放された安堵《あんど》で、身体の震えが止まらない。
「そうだ。彼女だ」
八雲が、恵美子のいる辺りに視線を向けながら言った。
やっぱり、そうだったんだね。
「ありがとう」
晴香は、八雲と同じ場所に視線を向けながら言った。
「見えるのか?」
八雲の問いに首を振った。
「見えない。見えないけど、感じる。詩織が今ここにいるって……」
晴香は詩織の日記帳を胸の前でしっかりと抱えた。
その日記帳からは微《かす》かにシナモンの香りがした。
「そうか。分かった。分かったよ……」
晴香はクスクスと笑い出した。
詩織のココアの秘密が分かった。隠し味はシナモンスティックだ。
「君はたくさんの人に助けられている……。そうさせる何かがあるのだろうな」
何を思ったのか、八雲がポツリとそんなことを言った。
お姉ちゃんに、詩織。本当に、私はいろんな人に助けられている。
八雲の顔を見て、ずっとこらえていたありとあらゆる想いが、急に湧き出してきた。
唇を噛《か》みしめ、こらえようとしたが駄目だった。
それは、涙となって目から溢《あふ》れ出した。
晴香は八雲にしがみついて、声をあげて泣いた。
17
事件から二日後、後藤は八雲の隠れ家を訪れていた。
取り調べで、恵美子は全面的に罪を認めた。
DNA鑑定の結果、焼死体となって発見されたのは、詩織だということが判明した。
恵美子と純一は二件の計画殺人と、晴香を襲った罪に問われることになる。裁判の結果が出るまでには何年もかかるが、計画殺人となると罪は重い。
死刑。運が良くても無期懲役になるだろう。
わざわざ足を運び、事件のその後を説明しているにもかかわらず、当の本人は無関心を決め込んでいる。
椅子に反り返って、大あくび。
「まったくよ、せっかく説明してやっているのに興味なしかよ……」
後藤は、苛立《いらだ》ちを露《あらわ》にして吐き出した。
「今さら興味を持ったって仕方ないでしょう。ぼくらにできることは、すべて終わっています。真相なんてわざわざ警察の捜査報告を聞くまでもなく分かりきっていますよ」
「まあ、それはそうなんだが……」
「それに、警察の調書では、事件解決の糸口になった詩織さんの魂の話は、伏せられているわけでしょ。真相とは少し違うじゃないですか」
「ああ、ああ、もう分かったよ」
後藤は力なく手を左右に振った。
こいつに説明しようとした俺がバカだった。
「ぼくが知りたいのは、後藤さんの処分の方ですよ」
それは、頭の痛い話だ。
今回の事件を解決したものの、当然表彰などされない。
犯人追跡中とはいえ、一般の車に当て逃げしたのだ。
「とりあえず、処分が決まるまでは自宅|謹慎《きんしん》だ。もしかしたら馘首《くび》になるかもな」
「それは踏んだりけったりですね」
まるで他人事みたいに言いやがる。
責任の一端は、お前にもあるんだと言ってやりたかったが止めた。
晴香ちゃんを救うことができたのだから、それで良しとしよう。
「でも、悪いことばかりじゃないでしょ」
「何だ?」
「奥さん。帰って来たらしいですね」
八雲が、しれっと言った。
「お、お前、何で知ってる!」
驚きのあまり立ち上がった。
「畠さんって人が教えてくれました」
「お前が何で畠さんと……」
後藤は言いかけて止めた。
大体想像がついた。あの爺《じじい》のことだ、自分の欲求を満たすためなら何でもやるだろう。
「でも、せっかく奥さん帰って来ても、仕事なくなったらまた出て行っちゃいますね」
「よけいなお世話だ。それに、考えがないわけじゃない」
後藤は、パイプ椅子に座り直しながら言った。
「どうせろくでもない考えなんでしょ」
「決めつけるなよ。実は探偵事務所を開こうと思っているんだ」
「勝手にがんばってください」
八雲は大きなあくびをする。
「それでな。探偵事務所を開いたら、優秀な助手を募集しようと思っているんだ」
後藤は、八雲に熱い視線を投げかける。
最後まで言わなくても、分かるだろ。
「気持ち悪いからこっちを見ないでください」
「考えてくれるか?」
「死んでも嫌です」
やっぱりか。
後藤はふんっと鼻を鳴らした。
「で、話はそれだけじゃないんでしょ」
八雲は腕を組んで天井を見上げる。
本当に恐ろしい勘の持ち主だ。完全に見抜かれている。
正直、八雲に話すべきかどうか、まだ迷っている。どういう反応を見せるのかまったく分からない。
できれば話したくないという気持ちが強かった。だが、今隠したところで、いつかは八雲が通らなければならない道のようにも思える。
後藤は、意を決して口を開く。
「実はな、加藤恵美子の取り調べ中に、彼女がおかしなことを言ってたらしいんだ」
「おかしなこと?」
「そう、今回の計画を立てたのは自分ではない」
「純一ですか?」
後藤は、首を左右に振る。
「ある日、恵美子のところに一人の男が訪ねて来たそうだ。彼女が夫を殺したいと願っていることを見抜いた上で、今回の計画の立案をしてくれたそうだ」
「……」
「住所、職業はおろか名前も聞いたような気はするが、覚えていないという。罪を軽くしようとして話をでっちあげているのだとしたら、あまりにお粗末過ぎる。だが、信用しようにも、本人たちが相手のことを覚えていないんじゃ話にならない」
「後藤さんは気になっている……」
「そうだ。俺の考えでは催眠術か何かで記憶の一部を消されたんじゃないかと思うんだ。それに、あいつらが、その男について覚えていた、たった一つの情報が気になって仕方ない」
「何です。もったいぶらずに話して下さい」
「その男の両目は真っ赤に染まっていたんだそうだ……」
八雲は、髪をかき上げながら目を閉じた。
「……あいつ、まだそんなことを……」
しばらくの沈黙のあとに、八雲がポツリと言った。
やはりそうだった。八雲のひと言は、危惧《きぐ》していた事柄を肯定した。
単なる偶然であると信じたかったのだが。
※  ※  ※
晴香が八雲の部屋を訪れたのは二日後のことだった。
これから、詩織の告別式と葬儀に参列するため、地元に帰る。その前にちょっと顔を出しておきたかった。
「少しは落ち着いたか?」
向かい合って座るのと同時に、八雲が言った。
晴香は、ただ黙って頷《うなず》き返した。
正直に言えば、まだ心の整理ができていない。
「何か、あれだな」
八雲が、気まずそうに頬をポリポリとかいた。
「何?」
「……いや、何でもない」
「何よ、言いかけたんだから言ってよ」
八雲は腕組みをして少し考えたあとに口を開いた。
「いつもお喋《しゃべ》りなのが、急に静かになると調子狂う」
「何それ? 人を歩く騒音みたいな言い方しないでよ」
「違ったのか?」
相変わらずの八雲に、あきれて物が言えない。
でも、今は、言い返す気力がない。
今だけじゃない。事件があってからずっと、ろくに食事も摂《と》らず、家に籠《こ》もり、詩織の日記を何度も何度も読み返しては泣いていた。
「詩織さんが、君にありがとうって言っている」
八雲が、ポツリと言った。
「見えるの?」
晴香は身を乗り出して八雲に問いかける。
八雲が、黙って頷く。
「私のほうこそ、ありがとう。それに、ごめんね」
晴香は、静まり返った部屋の中をゆっくり見回してから、小さな声で言った。
返事はなかった。
「聞こえたかな?」
「ああ」
「そっか……」
「詩織さんから君に伝言がある」
「伝言?」
「なんだか知らないが、想像してたよりずっといい男だって言っている。あと、君は肝心なところで意地を張るからもっと素直になれって……」
詩織らしい言葉だ。
晴香は、事件以来、初めて声を上げて笑った。
八雲はなんのことか事情が飲み込めずに首を傾げている。
「よけいなお世話だって言っといて」
「いったい何の話だ?」
「いいの。何でもない」
八雲はそれ以上追及しようとはしなかった。
どうせろくなことじゃないだろう。そんな顔をしていた。
「私ね、ずっと考えてたの。もし、私がもっといろいろな価値観を理解して、不倫とかそういうのも、偏見《へんけん》持たないで受け入れられてたら、詩織はもっと早く私に話をしてくれていたのに……それが悔しい。自分がすごく小さく見える」
「それはどうかな?」
八雲は、ガリガリと寝グセ頭をかきまわしながら言う。
「え?」
「君が、もっと物分かりがいい大人だったとしたら、詩織さんは、友だちでいなかったんじゃないかな?」
晴香は八雲の言葉の意味を必死で考えてみたが、やっぱり分からなかった。
「人と人の関わりは難しいってことだよ」
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せる晴香を見て、八雲は肩をすくめて付け加えた。
「それじゃ分かんないよ」
「不完全な方が、人間としての味があるってことだよ」
「全然分かんない」
「……つまり、君はそのままでいいってことだ」
八雲は、呆《あき》れたように首を振ってから言った。
「ねえ、そろそろ、その君って呼び方は止めてよ」
「何て呼べばいい?」
「普通に名前で呼んでくれていいよ」
「断る!」
八雲はぶっきらぼうにそう言うと、お茶をゆっくりとすすった。
晴香は腕時計の時間を確認して、立ち上がった。
「そろそろ行かなきゃ」
八雲は相変わらず何も言わなかった。
猫みたいな大あくびをしている。「じゃあね」とか「またね」とかいう言葉の一つも言えないのだろうか?
言われたら言われたで気持ちが悪いけど。
「ねえ、今度何もないときにここにきてもいい?」
やっぱり八雲は何も答えなかった。晴香は諦《あきら》めてドアノブに手をかけた。
「頼むから、今度くるときはトラブルを持ちこまないでくれ」
晴香がふり返ると、八雲は相変わらずの眠そうな表情のままお茶をすすっていた。
「そうさせてもらうわ。とびっきり美味しいココアの作り方を知ってるの。今度作ってあげる」
晴香はドアを開けて部屋を出て行った。
晴香はこのときの八雲との約束を破ってしまうことになるとは思ってもいなかった――。
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添付ファイル 忘れ物
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トンネルでの事件から、一週間ほど経ったある午後のことだった――。
レポートを仕上げようと立ち寄った図書館で、あいつの姿を見かけた。
寝グセだらけの髪をかきまわし、眠そうな眼をした皮肉屋の斉藤八雲。
いつになく真剣な表情で、書棚にある本の背表紙を目で追っている。
私は、なぜかすぐに声をかけることができずに、アホみたいに棒立ちになったまま、八雲の姿をじっと見つめていた。
思いがけず、誰かに会うと、必要以上に緊張してしまう。
夕闇迫るオレンジ色の光に照らされて、その端整な横顔がよりいっそう際立ってみえた。
黙ってれば、かっこいいのに。
「何か用か?」
八雲が、書棚に視線を向けたまま言った。
私がいることに気付いてたんだと思うと、火が点いたように身体が熱くなり、足元に視線を落とした。
「べ、別に……。レポートを仕上げようと思って」
「そうか」
八雲は短く答えながらも、書棚から視線を動かそうとはしなかった。
「何してるの?」
「探し物」
「何を探してるの?」
「図書館で服を探す奴がいるなら、ぜひ紹介して欲しいもんだね」
どうして、そういう言い方しかできないかな? 素直じゃないというか、なんというか――。
でも、二回の事件を通じて分かってきた。八雲相手に、これくらいで怒っていたら身が持たない。受け流すのが一番。
「本のタイトルは?」
そんなにおかしなことを言ったつもりもないのに、八雲は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、怪訝《けげん》な表情でこちらを見た。
「知ってどうする?」
「手伝うよ」
「なぜ?」
なぜって――。
「一人より二人で探した方が早いでしょ」
八雲は、腕組みをしてしばらく黙っていた。
彼は、誰かが他人のために無条件に何かをするなんてないと思っているのだろう。それは、すごく寂しいことだ。
「巌窟《がんくつ》王」
しばらく黙っていた八雲だが、やがて呟《つぶや》くように口にした。
「ガンクツオウ?」
「そうだ。アレクサンドル・デュマ」
「デュマのガンクツオウね」
反芻《はんすう》しながら、図書館の入り口脇にある端末のところまで足を運ぶ。
「どこに行く?」
八雲が、文句を並べながら歩み寄って来た。
前の事件のときにも思ったけど、八雲は頭がいいのに、部室でなんか生活してるから、ひどくアナログなところがある。
「今はね、本のある場所を端末で調べることができるの」
ここぞとばかりに嫌みを込めて八雲に言ってやった。
八雲は、ふんっと鼻を鳴らし、露骨に顔を背ける。こういうときじゃないと言い返せない。いい気味だ。
端末のタッチパネルで『巌窟王』を検索すると、すぐに対象が見つかった。
読んだことがないから知らなかったけど、文庫で7巻まである。かなりの大作のようだ。
「えっと……海外文庫のコーナーだから、D−1の棚かな」
「違う」
八雲が、すかさず口を挟む。
「え?」
「ぼくが探してるのは、ハードカバーの方だ」
「読めれば、どっちでもいいじゃない」
「良くない。ハードカバーでなければダメ[#「ハードカバーでなければダメ」に傍点]なんだ」
「どうして?」
「どうしてもだ」
私には、そこまでこだわる理由がさっぱり分からない。もしかしたら、ハードカバーと文庫で訳し方が違うとか、そういうことなのかな?
私の友だちにも、その違いを見つけては楽しんでいる人がいる。
えっと、ハードカバー版は――。
モニターに表示されたリストに改めて視線を向けた。
「あった。えっと……あ、倉庫保管になってる」
うちの大学の図書館は、そんなに広いわけではない。入りきらなくなった古い本は、定期的に倉庫に移し、必要なものだけ取り出すという形式をとっている。
「どうりで見つからないわけだ」
八雲が髪をかきまわしながら、ポツリと呟いた。
そのあと、図書館司書の先生に鍵《かぎ》を借り、八雲と二人で地下にある倉庫に向かった。
コンクリート打ちっぱなしの四十坪ほどの空間に、本が詰められた段ボール箱が、無造作に積まれていた。
近くにある段ボール箱の一つに目を向けると、マジックで日付だけが書かれていた。
おそらく、図書館から倉庫に移された日付だろう。
「データでは、二年前の三月十日に倉庫に移したことになってたわよ」
「三月十日ね」
八雲は短く答えると、手近な段ボール箱から、一つ一つ日付を確認する作業を始めた。
それにしても――。
「すごい量だね」
見上げるほどの高さまで段ボール箱が積まれている。
日付を確認するだけで、ものすごい時間がかかりそうだ。それに、同じ日付の段ボール箱が、幾つあるのかも分からない。
その中から、一冊の本を探すのは、骨の折れる作業になりそうだ。
「本当に、文庫じゃダメなの?」
「嫌ならいい。ぼくは手伝ってくれなんて一言も言ってない」
八雲は突き放すような口調で言った。
どうしてそういう言い方しかできないかな。
腹を立てながらも、カバンを近くにある作業台の上に置き、八雲と一緒に段ボール箱の日付を確認する作業を始めた。
「どうして、その本を急に読みたくなったの?」
最初の段ボール箱を調べたところで、八雲に訊《き》いてみた。
こうまでして探すのだから、何か特別な思い入れがあるに違いない。
「読むつもりはない」
「え?」
八雲の言葉に、思わず手が止まった。
「なんだ?」
「読まない本を、どうして探すの?」
「喋《しゃべ》っている暇があったら、手を動かせ」
「はいはい。分かりました」
「はい、は一回だ」
さっきは『ぼくは手伝ってくれなんて一言も言ってない』とか言ってたクセに――。
それから、ほとんど言葉を交わすこともなく、三月十日の日付が書かれた段ボール箱を開け『巌窟王』を探すという単調な作業が続いた。
「これだ」
一時間ほどしたところで、八雲が立ち上がりながら声を上げた。
八雲は、作業台の上に本を置き、額の汗をぬぐってからパラパラとページをめくっていく。
一番最後のページに、白い封筒が挟まっていた。
「見つけた」
八雲が、ふっと肩の力を抜きながら言った。
「もしかして、探してたのは……」
「そう。これだ」
さも当然だという風に、八雲が封筒を手にとり、スタスタと歩きだした。
「だったら、最初から言ってよ」
慌ててあとを追いかけながら抗議する。
「訊かれなかった」
また、これだ。それに――。
「ちゃんと訊きました」
「いちいちムキになるな。それと、鍵よろしく」
八雲は、そう言うと、さっさと倉庫を出て行ってしまった。手伝わせておいて、お礼もなし。
しかも、鍵って――。
「もう! なんなのよ!」
絶対に謝らせてやる。電気を消し、鍵を閉め、大急ぎで八雲のあとを追いかけた。
階段を駆け上がり、校舎の外に出て、中庭にあるカエデの木の前で、ようやく八雲に追いつくことができた。
「なんで、そんなに勝手なの! 手伝わせたんだから、説明してよ!」
八雲の背中に向かって叫んだ。
足を止めた八雲は、やれやれという風に、首を左右に振ったあとに、ようやく説明を始めた。
「この大学に通っていた、ある学生が、実家の両親に宛てた手紙を書いた。彼女は、学校から借りたこの本と一緒に、カバンの中に入れて家を出た」
「それで、本の間に封筒が挟まっていたのね」
「そうだ」
でも――。
「なんで、それを八雲君が?」
「その女性に頼まれたんだ」
「へぇ」
自分で訊いておいて、なんだか気のない返事になってしまった。
このひねくれ者で、他人と一線引いている八雲が、わざわざ手間隙《てまひま》かけて探すのだから、それなりに親しい女性なんだろうな――。
そう思うのと同時に、なぜか胸の奥が痛んだ。
何を気にしてるんだろう。彼に付き合っている女性がいたって、全然不思議じゃない。
そもそも、私がそれを気に病む理由なんてない。
「ついでだ。もう一つ頼みがある」
八雲が、大きなあくびをしながら言う。
「な、なに?」
「この手紙、ポストに出しておいてくれ」
そう言いながら、八雲は封筒を差し出してきた。
「え、私が?」
「そう」
「本人が出した方がいいんじゃない?」
「できない」
「どうして?」
「彼女は、家を出た後、車に撥《は》ねられて死んだ」
八雲のその言葉は、大きな衝撃となって私の身体をゆさぶった。
そうか。八雲は、死んだその女性から頼まれたんだ。両親に届けることのできなかった手紙を、探して欲しいと――。
「ねえ。ご両親に事情を説明した方がいいんじゃない?」
思いついた考えを、そのまま口にした。
「必要ない」
「でも、いきなり送ったら、イタズラだと思われるかも」
「親なら、字を見てイタズラじゃないと分かるだろ」
「でも……」
「これで、もうぼくに付きまとうのはやめてくれよな」
八雲は、振り返りながらそう口にした。
自分に言われたのかと思い、心臓がぎゅっと締め付けられたような気がしたが、すぐにそれは違うのだと気付いた。
八雲の視線は、葉を落とし、枝だけになった木に向けられていた。
きっと、八雲にはそこに誰かいるのが見えているんだ。
私も、同じ場所を凝視してみる。一瞬だけ深々と頭を下げる女性の姿が見えたような気がした。
多分、錯覚だけど――。
「やれやれ」
八雲はそう呟《つぶや》くと、退屈そうに大あくびをして、寝グセだらけの髪をガリガリとかきまわしながら、のんびりとした調子で歩き出した。
皮肉屋で、素直じゃないけど、なんだかんだいって八雲は、困っている人を見たら放っておけないんだ。
それを思うと、なんだか心が躍った。
「ねぇ。手伝ったんだから、お礼くらいしてよ」
走って八雲のあとを追いかけた――。
[#改ページ]
あとがき
『心霊探偵八雲1 赤い瞳は知っている』を読んでいただき、本当にありがとうございます。
この作品の始まりは、四年半前、私がサラリーマンをやりながら執筆した『赤い隻眼』という小説でした。
これは、私が初めて書いたミステリー作品でした。
賞に応募したものの、受賞に至ることはなく、貯金をはたいて自費出版したものの、売り上げは低迷し、ローンだけが残りました。
その一年後、意気消沈していた私は、担当編集のY氏に出会い、この作品に全面改稿を加え『心霊探偵八雲』として出版するに至りました。
それから三年半。シリーズは八作品を数え、ついに文庫化されることになりました。
人生、本当に何が起こるか分からないものです。
文庫化する際に、角川書店の担当編集であるKさんにわがままをいい、大幅に改稿をさせていただきました。
その一番大きな理由は、私自身が、この三年半で、どれだけ変化を遂げたのか、作品を通して体感してみたいと思ったからです。
こうして、三度目の改稿が始まりました。
いざ始めてみると、過去の自分と向き合うのと似ていて、妙に気恥ずかしく、そして楽しい作業でもありました。
時を経て、改めて自分の作品と向かい合い、私自身、一段と成長できたと信じています。
今回、このような機会を与えてくださった、角川書店の関係者のみなさまには、心よりお礼申し上げます。
次回作も、大幅に改稿したいなと願望を抱きつつ――。
平成二十年  春
[#地から2字上げ]神永 学
[#ここから5字下げ]
本書は、二〇〇四年十月に文芸社より刊行された単行本を加筆・修正し、文庫化したものです。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
底本
角川文庫
心霊探偵八雲《しんれいたんていやくも》1 赤《あか》い瞳《ひとみ》は知《し》っている
著 者――神永《かみなが》 学《まなぶ》
平成二十年三月二十五日  初版発行
発行者――井上伸一郎
発行所――株式会社角川書店
[#地付き]2008年7月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
「……」
「………」
修正
飛び出《い》した。→ 飛び出《だ》した。
二カ月 → 二ヵ月
置き換え文字
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56