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禁忌
神崎京介
目 次
プロローグ
第一章 部下の女性
第二章 上階の奥様
第三章 妻の魅惑
第四章 友人の恋人
第五章 学校の先生
第六章 上司の若い奥方
第七章 誕生日の先生
第八章 タブーの果て
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プロローグ
やりたい、やりたい、とにかくやりたい……。
通勤電車に乗っていても、会議をしている時でも、スナックで飲んでいても、仲本満夫は女性と抱きあっている姿を想像してばかりいる。
特定のある女性を想い浮かべているわけではない。誰でもない美人とベッドで抱きあっている姿を想像するだけだ。しかも抱きあう以外、具体的に何かをしているというわけではない。その誰でもない女性は、瞳《ひとみ》が大きかったり、茶色の長い髪だったり、張りのある豊かな乳房だったりするけれど、それ以上のことは想像できなかった。
四十歳にして突然、頭の中が女性の裸体とセックス、快楽を追求したいという欲求に占領されてしまったようだった。
それにはもちろん原因がある。
四カ月前、自宅のトイレで吐血して倒れた。救急車で運ばれ緊急入院。胃|潰瘍《かいよう》が原因だった。
健康には自信があったし、最大の取り柄だと思っていた。実際、一年に一度風邪をひくかひかないかという程度だったから、寝込むこともまずなかった。丈夫で長持ちを自負していた仲本は、病院のベッドで初めて死を身近に感じたのだ。
退院して健康への不安は消えたが、それでも身近に感じた死の感触というものは失せなかった。それが焦りにつながった。
毎日コツコツと真面目に働いて妻と子どもを養っているという事実に満足していたし、責任を果たしているという充足感があったはずなのに、自分にはやり残したことが何かあるようだという漠然とした焦りが募った。しかし、日を追うごとに焦りの輪郭がはっきりとしていった。
華やかな女性とつきあいたい、めくるめく愉悦に満ちたセックスに溺《おぼ》れたい、自分の好きなようにできる女を得たい、という願いだ。つまりやり残したことは、女性とのつきあいだったのだ。
仲本は吐息をついた。
現実が戻ってきた。
今、駅前にある馴染《なじ》みのスナックにいる。深く息を吸い込むと、隣に坐《すわ》っているミサがつけている香水の甘い匂いが全身に染み入ってきた。
「仲さん、どうしたの? さっきから渋い顔しちゃって……。お酒、ちっともすすんでいないじゃないの。飲みましょうよ。それとも、カラオケ唄《うた》う?」
「とりあえず、どっちもまだいいや。ウーロン茶、くれるかな。それともうひとつ、頼みがあるんだ」
「ふふっ、なあに?」ミサが微笑んだ。
「セックスしたいんだ」
仲本は勢いにまかせてミサの耳元で囁《ささや》いた。
彼女はしかし、何を言われたのか理解できないようだった。数秒の沈黙とともにミサの表情が固まり、ホステスの顔から自称二十二歳の素の顔になった。その直後、ぷっと噴き出すような笑い声をあげて、彼女はホステスの顔に戻った。
「真面目な仲さんがエッチなこと言うなんておかしい。病気しておかしくなっちゃったんじゃない?」
「ミサちゃんと、したいんだ。ずっとそう思っていたんだ。だから、死ぬ前に一度でいいからさあ、ミサちゃんのそのおおきなおっぱいに顔を埋めて極楽を味わわないと、死んでも死にきれないよ」
「変なこと言わないで……。仲さん、飲み足りないんじゃないの? そうだ、カラオケ唄って、発散しましょうよ、ねっ」
「ミサちゃん目当てにずっとこの店に通っているんだからさあ、頼むよ」
「嘘ばっかり。駅からお家に直行したくないから、途中のこの店で一杯やるんだって、いつも言っていたじゃない」
「露骨にミサちゃんが目当てだっていうのがわかっちゃうなんて、カッコ悪いから、そんな風に言っていたんだよ」
仲本は食い下がった。しかし本当は、ミサは自分の好みでもないし、いい女だと思ってもいなかった。必死になっている自分が情けない。それでもどうにかして彼女を口説き落とせないかと、思いついた言葉を並べていく。
「ずっと好きだったんだよ。冗談でこんなこと言う男じゃないっていうことは、ミサちゃん、わかっているだろ? お願いだから、しようよ」
「お願いされてもねえ。もうちょっと、そうね、少なくとも週に三回は通ってくれたら、考えなくもないんだけど……」
「まずは商売が先ってことか、まいったな」
「仲さんが、思いつきで口説くからよ。本気かどうかわからないでしょ? わたしはね、ほんとに好きになった人とじゃないと、エッチはしないの」
仲本はミサを見つめた。
自称二十二歳のホステスの厚みのあるくちびるに熱い視線を送る。そこに十秒ほどとどまった後、ブラウスの胸元から溢《あふ》れ出ている豊かな乳房のすそ野のあたりで止める。そこで視線を逸《そ》らすと、吐息をついた。
乳房がつくる谷間をずっと見ていたかったけれど、自分の眼差《まなざ》しがスケベ根性丸出しのイヤらしいものになっている気がしたのだ。
女性とのつきあいの経験が多ければ、齢《とし》が十八歳も下のミサの口実などすぐに覆せる気がした。しかし、真面目に生きることだけを考えてきた四十歳の男には、そんな経験などないのだ。気の利いた口説きのせりふのレパートリーの持ち合わせもない。そんな自分が恨めしい。
仲本は視線を定められないまま、うつむいて照れ笑いを浮かべた。今しがた、ミサに「セックスしたいんだ」と言った時の勢いは失せていた。
妻子を養い、真面目に生きることだけを考えてきた四十歳の男にとって、たとえそれがホステスに向けているものとはいえ、露骨な視線を送ることは気がひけるのだ。
「仲さんたら、どうしたのかしら?」
「やっぱり、いくら誘ってもダメみたいだな」
「ずいぶんと諦《あきら》めが早いのねえ」
「帰るよ、ぼく。店にこれ以上いると、惨めな気持になっちゃうからね」
「諦めが早すぎるわ」
「うん?」
「鈍いわねえ、仲さんって……。そんなことだと、チャンスがあっても逃しちゃうわよ」
「ということは、ミサちゃん、いいのかい?」
「今夜は早番だから、十一時であがらせてもらえるの。あと三十分あるけど、待っててくれるなら、アフターをしてもいいわよ」
「ほんと? だったらそれくらいの待ち時間なんて、どうってことないさ」
「ほんとに大丈夫かしら。七、八分も歩けばご自宅に着いちゃうでしょ? 夜中だから奥さんに見られることはないだろうけど……」
ミサの気遣いはありがたかった。
マンション暮らしとはいえ、ご近所づきあいをしている人も多い。家庭を大切にするマイホームパパと思われている。しかし今さら、他人の目が気になるからという理由で断るというわけにはいかない。
無茶は承知だ。
仲本は勢いをつけるために、カウンターに置かれている水割りをひと息で飲み干した。
結婚して十五年。初めて妻を裏切ろうとしている自分にドキドキする。
ミサとはお茶をするだけかもしれない。しかしその一方で仲本は、駅の裏手のラブホテルに入るふたりの姿を脳裡《のうり》に浮かべていた。
「ごめんなさい、仲さん、待たせちゃって……」
ジーンズにピンクのジャケット姿のミサが店の脇の通用口から出てきた。
店にいる時の胸元がざっくりと開いた艶《つや》やかなワンピース姿からするとずいぶんラフな恰好《かつこう》だ。二十二歳と教えられていたけれど、どう見積もっても十代としか見えなかった。
仲本は駅の裏手のラブホテルへの道順のことを考えながら歩きはじめた。
胸の奥のほうがドキドキしている。血圧が上がっているのは間違いない。なにしろ、ここ数年、深夜にこんなに若い女性とふたりきりになったことなどなかった。
何を話していいのか思いつかない。つまらないことを言って齢が十八も下のミサに嫌われたくないし、オジンなどと茶化されたくもない。それでいて、頭の中はエッチなことでいっぱいになっている。
深夜十二時を過ぎた薄闇に浮かび上がるラブホテルのネオンがはっきりと見えてきた。胸が高鳴り、体温が高くなった。
「ミサちゃん、すごく若く見えるけど、本当に二十二歳なのかな。年齢詐称しているんじゃないかい?」
「アフターにつきあっているんだから、そんなことは気にしなくてもいいの」
「そりゃそうだ。でも、若いなあ、ミサちゃんは十代にしか見えないよ」
吐息をついている間に、ミサが早歩きをはじめた。あっという間に三メートル程の距離が開いた。そこで彼女が微笑を湛《たた》えながら振り返った。
「仲さんって見る目があるのね。だてに四十年生きてきた訳じゃないってことがわかったわ」
「どういうことだい?」
「あなたの見立てどおり、二十二歳じゃないの。本当の年齢は十九歳なんだ……」
「えっ」
仲本は立ち止まった。
彼女の言ったことが本当だとすると、三十九歳の妻よりも小学五年生の息子のほうに年齢が近い。
深呼吸をひとつした。
エッチな気持は失せていない。けれども、ラブホテルに誘いたいという強い情動は薄らいでいた。
できないな、これじゃ。
残念だ。
仲本は胸の裡《うち》で自嘲《じちよう》気味に呟《つぶや》いた。
ミサの本当の齢を聞いたのが間違いだった。性欲よりも圧倒的に理性が勝りはじめているのを感じる。駅前のラブホテルの屋上で輝く看板が見える。やっとの思いで彼女を口説き、抱けるかもしれないというところまできたのに……。
店で大人びたワンピースや胸元の開いたドレスを着ている時でも、ミサはとても二十二歳とは思えなかった。今こうしてジーンズを穿《は》いたラフな恰好を眺めてみると、やはり十九歳らしく見えた。
こんな幼い女性を、性欲を満足させるためだけに抱く気にはならない。遣《や》り場のなくなった欲望が、今は萎《な》えてしまった陰茎の奥のほうで澱《おり》のように沈んでくすぶっている。陰茎の芯《しん》には諦めきれない思いが残っていて、脈動が駆け上がったりしている。
二十代の頃は、こんな風ではなかった。
性欲に引きずられるままに、脈があると感じた女性を誘っていた。あの頃の自分は、思慮も理性も知性も分別もなかった。とにかく、セックスしたいという情動が何よりも勝っていた。そんな自分に戻りたいとは思わないけれど、欲望に対して素直だった自分が懐かしい。
ミサが怪訝《けげん》そうな表情を浮かべながら声をあげた。
「とにかく歩きましょうよ。夜中の道端に立っていられないわ」
「ファミリーレストランでお茶でも飲もうか」
「えっ、それだけでいいの? お店で熱心に口説いていた時の仲さんとは別人みたい」
「もう、いいんだ。こんな風になっちゃうなんて、ぼく自身も驚いているよ」
仲本は首を横に小さく二度三度と振ると、ミサと並んで歩きはじめた。
滅多にないチャンスを活《い》かせない自分が歯がゆい。
性欲が湧かないのならば諦めもつくが、そうではない。
残り少ない人生だ。悔いは残したくない。しかしそれだけではどうやら、自分を納得させる理由や根拠にはならないらしい。
若い頃の性欲に引きずられる情動に代わるものが必要だと考えるうちに、仲本はそれが理論武装ではないかと思った。
理論武装をしていないから、ためらいや迷いが生まれてしまうし、チャンスも簡単に逃してしまう。罪悪感に負けてしまうのも、理論がないからだ。
そうだ、そうなんだ。
自分には理論武装というものがまったくなかったんだ。だから、チャンスを掴《つか》んでみても、臆《おく》してしまって何もできないんだ。
仲本は目から鱗《うろこ》が落ちるのをはっきりと感じた。
自分がいかに漠然とミサを誘ったのかと思い知らされた気分だった。
妻を裏切るということについての心の準備もしていなかったし、罪悪感をどういう風に整理すればいいかも想定していなかった。ミサのように齢の若い女性との接し方も思い描いていなかった。
夜風が足元をすり抜けていく。ミサが歩きながら屈《かが》み込むようにして、こちらの顔色をうかがう。
「仲さん、ほんとに、もういいの? わたしが誘いに乗ることなんて、二度とないかもしれないのよ」
ミサの表情には戸惑いが浮かんでいた。不満の色合いも滲《にじ》んでいて、怒っている風にも見えた。
「やっぱり今夜は、お茶だけで帰ることにしよう」
「どうして? せっかく誘いに応じたわたしに恥をかかせるつもりなの?」
「そんなつもりじゃないよ。恥を承知で言うけど、十代の女性を誘うのに馴《な》れていないせいなんだ」
「馴れていないから、お茶だけ一緒にするってこと? それってすごく変」
「変かなあ」
「ここが仲さんの自宅に近いから、誰かに見られるかもしれないと思って不安なんじゃないの?」
「そうかもしれないな」
仲本は小首を傾げながら曖昧《あいまい》にうなずいた。
十九歳のミサにとっては変なことだろう。もしも自分が彼女と同じ年齢だったとしたら、間違いなく情動にまかせていっきにセックスをしているはずだ。しかし四十歳という年齢になった自分には背負っているものが多い。十代の頃と同じように簡単にセックスなどできない。
そんなことを彼女に説明したところで、理解してもらえないだろう。臆病な男と思われるのがオチだ。
彼女が大げさにあくびをした。それは眠気から出たものでなく、こちらに見せつけるような意味合いが込められているようだった。
「わたし、つまんない。このまま帰ってもいい?」
「仕方ないかな」
「わたし、タクシーをつかまえるわ」
ミサはそう言うと、車道に出て手を挙げた。タクシーはすぐに止まった。仲本は彼女に車代のつもりで五千円を握らせた。
タクシーのテールランプを見送りながら、女性を誘う時は必ず理論武装をしようと心に誓った。それがなければ、妻を裏切れないし、若い女性を抱くこともできない。自分が気づかないうちに持ってしまった禁忌は破れないのだ──。
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第一章 部下の女性
男をふたつの種族に分けることができる。種類ではない。種族だ。
女性にモテたいと思いながらもまったくモテなくて自信を喪失しているか諦《あきら》めている種族。そしてもうひとつは、女性にモテている自信に満ちた種族だ。
仲本は自分のことをずっと、前者の種族の男だと思っていた。実際、四十歳になった今まで、妻を裏切る情況になったことはない。それどころか、好意を抱いてくれる女性とふたりきりになったことすらなかった。
不思議なことに、いや、悲しいことにと言ったほうがいいかもしれないが、自分と同じ種族の男を見分けることができる。
会社の同僚にも数多く同じ種族がいる。ほかにもたとえば、電車に乗っている時、うたた寝している見ず知らずの中年男を同じ種族だと感じたこともある。
同じ種族を見る時の思いというのは複雑だ。
自分のことは棚に上げて哀れだと思ったり、おまえも頑張れよと心の中でエールを送ったりもする。そうかと思うと、あいつみたいに、女性に見向きもされない悲しい男にならないようにしなくちゃ、と反面教師的な存在としてとらえたりもする。
仲本は日々、どういう心構えで、女性とつきあうべきかを考えるようになった。きっかけは、ホステスのミサを誘い、そして罪悪感を乗り越えられないまま諦めたことだった。
小さな努力が実を結ぶように、女性とつきあうために足りなかったものが何なのかがわかってきた。
たとえば清潔な印象を与えるみだしなみとか、女性を飽きさせない話題とか、ガツガツしていないゆとりとかといったものも身に付けないといけない。しかしもっとも大切なことは心の準備であり、理論武装なのだ。
女性を口説く時、理論武装がないと浮気をするという罪悪感を引きずることになる。そういったことを曖昧にしている限り、どんなに熱心に誘っても徒労に終わる可能性は高い。たとえ誘うことに成功しても、充実したふたりの時間を過ごすことはできない。
そこまでわかってきたからこそ、仲本は意中の女性を誘う勇気が持てるようになったのだ──。
[#3字下げ]*
金曜日、午後九時過ぎ。
仲本は今、新年会を終えて会場となったイタリアンレストランから出てきたところだ。
「宮川君は、二次会に出ないのかい?」
二次会のカラオケ店に向かう一団とは逆方向にひとりで歩きはじめた部下の宮川麗子に、仲本は思いきって声をかけた。
彼女は長い髪をなびかせながら振り返った。
新年会ではずいぶんとはしゃいでいた。酒もすすんでいたようだ。酔いが回っているらしく、白目の部分が赤く染まっている。そのせいだろうか、仕事中の時よりも瞳《ひとみ》から放たれている輝きは艶《つや》やかで、上司としての立場の裏側に潜む男心がくすぐられる。
仲本は宮川麗子が新人の時の指導社員だったこともあって、特に目をかけていた。あれから五年経つが、年々、彼女の美しさには磨きがかかってきているように思う。最近では、近寄りがたい凄《すご》みさえ感じることもある。
指導社員という立場だったし、去年の異動で部下になったこともあって、彼女に気安く声をかけられた。もしそうでなかったら、いくら酒を飲んでいるからといっても、親しげに話せなかっただろう。
宮川麗子は小首を傾げながらくちびるを開いた。
「調子に乗って飲みすぎてしまいました。少し気分が悪いので、二次会は遠慮するつもりです。課長はどうされるんですか?」
「二次会、カラオケだったよな。苦手だから、このまま帰ろうかと思っているんだ」
「だったら、地下鉄までご一緒しましょうか」
仲本はうなずくと、駅に向かって歩きはじめた。
二次会に向かう部下たちに見られているのを感じたが、まったく動じなかった。なにしろ、単に上司と部下の関係でしかないし、部下たちもそんな風にしか思っていないとわかっているからだ。
狭い歩道のために、肩が触れるくらいに近づいて歩く。放置自転車をよけたりすると、ふたりの肩が接触する。そのたびに、宮川麗子はくすくすっと親しみのこもった笑みを洩《も》らした。
「宮川君、何が可笑《おか》しいんだい?」
「だって課長のコート、樟脳《しようのう》の臭いがしているんですよ。びっくりしました」
「きれいな顔して、きついこと言うなあ。仕方ないだろ? 今朝、洋服ダンスの奥から引っ張り出してきたんだからさ」
「わたし、子どもの頃、樟脳の臭いが好きだったんですよ」
彼女は立ち止まると、顔をこちらに向けてやさしい笑みを浮かべた。
美人特有の冷たい印象は薄らぎ、人なつっこさのようなものがふいに滲《にじ》み出てきたように感じられた。
「宮川君とは一度くらいふたりきりで酒を飲んでみたいな……」
仲本は思いきって誘いの言葉を投げかけた。
やっと言えた……。
仲本はさりげなく囁《ささや》いた誘いの言葉に満足した。
彼女が新入社員の頃からの想いだった。いつか言おうと漠然と思っているうちに、あっという間に五年が経ってしまったわけだ。
宮川麗子は驚いたとも意外だともとれる複雑な表情を浮かべた。
「課長、酔っているんですか? 個人的にふたりきりで飲みたいだなんて、今までに一度も言ったことがないじゃないですか」
彼女はそれでも朗らかな声で言った。しかし、美しい顔が微妙に歪《ゆが》んだように感じられた。顔に滲み出る怪訝《けげん》そうな色合いを隠そうとしたのかもしれない。
仲本は彼女の瞳をじっと見つめながら口を開いた。
「声をかけたかったさ。でもね、仕事を覚えなくちゃいけない君を、煩らわせてはいけないと思って自主規制してきたんだ」
「課長。どうして今頃になって自主規制を解いたんですか? わたしたち、知り合ってから五年も経っているんですよ」
「タイミングをずっと見計らっていたんだ」
「結婚しているのに、ですか?」
「宮川君とぼくとの関係では、結婚しているかどうかなんてことは関係ないと思うな。その証拠に、ぼくが指導社員だった時、君はぼくのことを結婚している男として接してはいなかったはずだよね」
「もちろん、そうです。そんなことをいちいち考えながら会社の人と話しません。でも、さっきの課長のお誘いは個人的なものですから、考えざるを得ません」
「君はぼくのことを、仲本満夫というひとりの男として見ることができないと言うわけだね。つまり、結婚している男というフィルターを通してしか、ぼくを見られないということか……」
「だって、おつきあいをしたら不倫になっちゃうでしょ? わたし、そんなのいやです」
宮川麗子が眉間《みけん》に皺《しわ》をつくり、あからさまに不快そうな表情を浮かべた。
仲本の目には、そんな彼女の表情も美しいものとして映っていた。この美しさをひと晩だけでもいいから自分のものにしたい。快感に漂う表情を見てみたい。声をかけた時には漠然としていた情動の輪郭がはっきりとした気がした。
今こそ、短期間につくりあげた理論武装をぶつける時だろう。それが通じるかどうか。試みる相手として考えた時、宮川麗子がもっともふさわしい。
「ぼくは上司と部下という関係を恐る恐るだけど飛び越えて、君を誘ったんだ」
「わかっています。だから驚いているし、戸惑ってもいるんです」
彼女がうつむいた。驚きや戸惑いから、迷いに変わったようだった。
宮川麗子の心が見て取れた。誘った直後は驚きや戸惑いしかなかったが、話をするうちに迷いに変わったのだ。
迷っているということは好意を持っているということだ。
口元に浮かべた微笑にも親しみが感じられる。それは部下が上司に対するものではない。明らかに、職場にいる時に浮かべる愛想笑いとは違う。今しがたまで彼女の躯《からだ》から放たれていた拒絶のバリアも薄らいでいる。それはつまり、宮川麗子というひとりの女性が仲本満夫という四十歳のひとりの男に対して示した好意の表れなのだ。
「とにかく、立ち話をしていても仕方ないから、近くの店に入ろう」
「それは上司としての誘いですか? それとも個人的なものなんですか?」
「個人的なものだよ」
「わたし、課長のことを五年前から知っているのに、今はなぜかそんな気がしません」
「どうしてだろうね」
「きっと、仲本さんが強引だからです」
仲本は微笑んだ。「強引だから」というところに反応したのではない。彼女が初めて「課長」と言わずに「仲本さん」と苗字《みようじ》で呼んだことに気づいたのだ。
仲本は彼女の肩を軽く突っつくと歩きはじめた。
駅に向かう方向でもなければ、部下たちが行った二次会のカラオケ店の方角でもない。この近くに、雰囲気のいいバーがあることを思い出したのだ。一年程前、接待をした取引先の役員との待ち合わせに利用したことのある店だ。
仲本は彼女にかまわずに歩いていく。
もしも彼女がついてくるとしたら、酒を飲むだけでは終わらないということを受け入れたことになるだろう。そう思うからこそ我慢して振り返らない。
耳を澄まして背後の気配に集中する。
胸が苦しくなるくらいにドキドキする。口の底に唾液《だえき》が溜《た》まる。結婚して十五年経つが、妻以外の女性を相手に初めて味わうスリルと興奮だ。
車の排気音しか聞こえてこない。仲本は足の運びを緩める。バーに向かうためには左の道に曲がらないといけないが、彼女の視界から消えないためにそのまま真っすぐ歩く。
信号が赤になった。
車がスピードを緩めはじめた。街に少し静けさが戻ってきた。
アスファルトを踏み鳴らすヒールの音が近づくのが聞こえた。けれどもそれが宮川麗子のものかどうかはわからない。
彼女であってほしい。
仲本は願いを込めながら立ち止まると、恐る恐る振り返った。
宮川麗子だ。
長い髪をなびかせ、口元に微笑を湛《たた》えながら足早に歩み寄ってくる。
やはり美しい。
乳房のあたりが大きく上下しているのが、厚手のコートの上からでも見て取れる。近くで見ている時より、乳房が豊かだという印象を抱いた。
信号が青に変わり、車が動きだした。彼女のヒールの乾いた音は排気音にかき消された。
彼女が傍らに立った。
照れたような笑みを浮かべた後、黙ったままうなずいた。仲本は彼女に話しかけていないし、彼女も口を開かなかった。
仲本の目には、彼女はそうすることによって、部下と上司という関係から個人的な関係へと飛び越えることができたと自分自身を納得させているように映った。
「近くにバーがあるんだよ。そこでゆっくりとふたりで飲もう」
「個人的に、ですよね」
「もちろん、そうだ。だから、ぼくのことをひとりの男だと思って話をしてほしいな」
「仲本さんも、わたしのことをひとりの女として見てくださいね。仕事の話もしないし、世間知らずだった新人の頃を引き合いに出したりもしないで……」
仲本は短く応《こた》えると、彼女に躯を寄せた。
彼女に拒む気配は感じられなかった。このままふたりで街灯もなければ人も歩いていない脇道に入る。そうしたことが、ふたりの関係をさらに濃密なものにしようという勇気につながった。
ためらいがちではあったけれど、彼女の肩を抱いた。
彼女の足の運びが急に遅くなった。華奢《きやしや》な肩にあてがったてのひらにも、女の緊張が伝わってきた。
「宮川君のことを、もっとよく知りたいんだ」
「苗字でなんて呼ばないでください。麗子と呼び捨てにしていいですから」
「そうだね……。気恥ずかしいけど、これからは麗子と呼ばないとね」
「照れないでください。わたし、そういうところから、個人的な関係ってはじまると思っているんです」
麗子が顔を上げ、上目遣いで見つめてきた。
大きな瞳《ひとみ》を覆う潤みが厚くなり、まばたきをするたびにさざ波が立った。それがあまりにも艶《つや》やかだったので、キスを求めているに違いないと思った。
くちびるをゆっくりと開いた。
瞼《まぶた》を薄く閉じた。
茶系のアイシャドウが青白い月光を浴びて輝く。唾液で濡《ぬ》れた舌先が震える。深く息を吐き出す。乳房のあたりが前後に大きく動く。そのたびに、コートの内側から彼女の躯に温められた湿った空気が溢《あふ》れ出てくる。
仲本は顔を近づけた。
彼女の細い首筋のあたりから漂ってくる香水の甘い匂いを吸い込んだ。背中に回した手に力がこもる。厚手のコートを通してぬくもりを感じる。
性欲が全身に拡がっていく。それは単に、美しい女性とキスができるからではない。部下と性的な深い関係になるというタブーを冒そうとしているからだ。
仲本はしかし、恐れなかった。
つまりそれは、タブーに縛られながらつまらない人生を歩むのではなく、タブーを冒すことで得られる人生の充実のほうを選んだということだ。
自分の心に正直に生きようと肚《はら》をくくっていた。それが自信となり、タブーを冒すことに怯《おび》えたり、心が揺れることもなかった。だから、通行人にキスをするところを見られてもかまわないと思った。見ず知らずの人に遠慮することはないし、そんなことでひるむこともない。
「ぼくは麗子と触れ合いたいんだ。心と躯にもっともっと近づきたいんだ」
仲本は彼女のくちびるを見つめながら囁《ささや》いた。言い訳がましいとチラと思ったけれど、今それを言わなければキスできないし、その次に進むこともできないと思ったのだ。
「そんなこと言われたら、わたし、今夜限りのことでは済まなくなってしまいそうです……」
「一時の感情ではないからね。酔った勢いでこんなことをするのでもない。麗子の素顔をもっと深く知りたいんだ。麗子、教えてくれるね」
「はい、仲本さん……」
麗子は素直に言うと、もう一度、くちびるを半開きにした。
初めてのキスだ。
冷たい風に晒《さら》されていた彼女のくちびるはひんやりしていた。だがそれはほんの一瞬で、すぐに生温かいぬくもりが伝わってきた。
仲本は彼女を引き寄せるように背中に回している手に力を入れた。
舌を差し入れる。
厚手のコートを通して、彼女の体温が上がっているのが感じられる。高ぶっているはずなのに、彼女の舌は口の底にとどまっていて応えない。誘い出すように、舌先を突っつく。それを二度三度と繰り返しながら、薄目を開けて彼女の表情を探る。
ためらいや戸惑いといったものが美しい顔に滲《にじ》み出ていた。彼女はまるで、迷いながらキスしているようだった。
不思議だし意外だった。
上司と部下という関係を飛び越えてキスしているのに、なぜ迷うのか。キスをしたことが迷いを吹っ切るきっかけになってもおかしくないだろう。
妻と同じように、麗子もキスをするのがあまり好きではないのだろうか? チラとそんなことが脳裏を掠《かす》めたけれど、すぐに考えるのを止めた。
今は自分の欲望に忠実に生きようとしているのだ。心の充実につながることをしているのだから、麗子に没頭すべきだ。妻のことを想うのは、麗子に対して失礼だし、自分のためにもよくない。
「仲本さん、ちょっと待ってください」
麗子がのけ反るようにしながらくちびるを離した。
街灯のない暗い路地だったけれど、彼女の頬が紅潮しているのが見えた。そこにはやはり、迷いや戸惑いといったものも浮かびあがっていた。
「どうしたんだい?」
「今しがた、個人的なおつきあいをしましょうっていう風になったばかりなのに、すごく熱烈なキスをするから……」
「ぼくの気持を伝えたいと思ったんだよ。麗子はキスが嫌いなのかな?」
「ううん、大好きです」
「だったら、素直になってほしいな」
「今夜はだめ。恥ずかしくてできません」
「自分の気持に素直になることが大切だと思うけどな。それに、恥ずかしさって伝染するからね」
「ごめんなさい……」
「互いが素直でいられる関係にしたいじゃないか」
咄嗟《とつさ》に思いついた言葉だったけれど、仲本は自分の考えたそれに満足した。
確かに羞恥心《しゆうちしん》は伝染するだろう。そして素直でいようとする心をむしばんでいくのだ。
仲本は麗子を見つめる。
彼女の恥ずかしさを取り去ってあげるためにどうしたらいいのかを考える。
強引さだけを頼りに、麗子の羞恥心を蹴散《けち》らしてしまうこともできるだろう。今夜だけのつきあいと割り切っていたら、そんな方法でもいい。けれどもそんなつもりはない。
麗子とは長いつきあいをしたい。会社では上司と部下。それがいったん会社を出たら、深い仲になった不倫の男と女。誰も気づいていないふたりだけの秘密。仲本はそういう関係を望んでいた。
だからこそ、強引なやり方をしてもあまり意味がないと思う。今それができても次に会った時、また同じことの繰り返しになる。彼女自身が納得しない限り、無用な羞恥心はずっとついてまわるはずだ。
「わたしって、人見知りをするほうなんです」
「だから、普通じゃないくらいに恥ずかしがってしまうのかい?」
「仲本さんと次にお会いした時は、きっと、今夜みたいに恥ずかしがったりはしないと思います」
「次にできるなら、今夜から自分に素直になることもできると思うけどな」
「わたし、そんな風にできません」
「麗子の言う『次』という言葉って、ぼくには『次はない』という意味を含んでいるように思えるんだ」
麗子が小首を傾げながら長い髪を梳《す》き上げた。口元にゆとりのある笑みを湛《たた》えると、低く粘っこい口調で言った。
「仲本さんって、女の気持がわかっていないんですね。本当の意味は『次はない』んじゃなくて、『次もあってほしい』と思っているから、そういう言葉を使うんです」
麗子が顎《あご》を上げて、くちびるを半開きにした。それに引き寄せられるように、仲本はもう一度、彼女に顔を寄せた。
くちびるを重ねる。
舌を差し入れるとすぐに勢いよく吸って、彼女の舌を引き出した。美しい顔にわずかに戸惑いの色が滲んだけれど、気づかないフリをして舌先を絡めたり突っついたりした。
彼女の背中に回している手をゆっくりと脇腹のほうに移す。コートの上から乳房を愛撫《あいぶ》する。しかし彼女はそれを拒むように二の腕で押さえつけてくる。
「やめて……。人に見られちゃいます」
「止められないよ」
「ああっ、だったら、ふたりきりになれる場所に、連れていってください」
麗子が潤んだ瞳を輝かせた。そこには羞恥心を感じさせる光はなかった。
「バーで飲まなくてもいいのかい?」
仲本は抱きしめている麗子の耳元で囁いた。
新年会を一次会で帰る彼女を、軽く飲み直そうという意味合いの言葉で誘っていたことを忘れていなかった。しかしそれは、彼女がバーに行きたいとは言わないと予測したからこそ訊《き》いたのだ。
四十歳の真面目だけが取り柄の男に、なぜそんなことがわかったのかというと、女性とつきあうための理論武装をしたからだ。
「仲本さんが飲みたいのなら、わたし、お伴させていただきます」
「ほんとに、それでいいのかい?」
「応《こた》えないといけませんか? 仲本さんは何も言わずに、ふたりきりになれる場所に連れていってくれないんですか?」
「そのつもりだよ」
彼女の瞳《ひとみ》を見つめたまま言った。しかし内心では、彼女の迫力にひるみそうだった。
まさか社内一の美女と評判の麗子が、こんなにも簡単に暗にホテルに行ってもいいと言うとは思っていなかった。
女性というのは、いったん肚《はら》を決めてしまうと大胆になるものかもしれないと思った。けれどもすぐ、冷静に考えれば不思議ではないだろうと思い直した。
彼女は部下と上司という会社の関係を乗り越え、個人的な関係に踏み込んだ。短時間のうちに、キスするまでに至った。だからこそ、ここで終わらせるわけにはいかないという思いが強かったとしてもおかしくない。
仲本はもう一度、くちびるを重ねた。
彼女が舌先を踊るようにして差し出してきた。そこにはためらいや戸惑いなどまったく見られない。
舌を絡める。
抱き寄せなくても、彼女のほうから乳房を押しつけるようにしてくる。厚手のコートの上からでも、体温が上がっているのが感じられる。キスをしながら唾液《だえき》を呑《の》み込む時、呻《うめ》き声に似た高ぶった音をあげる。
「さあ、ちょっと寄って行こうか」
仲本はくちびるを離すと麗子の肩を抱き寄せた。
ラブホテルに入る時、こんなにも戸惑ったりためらったりするものとは思わなかった。
仲本は人の気配の感じられないロビーまで辿《たど》り着いたところで、安堵《あんど》のため息を麗子に気づかれないように吐き出した。
誰に見られてもかまわないと漠然と思っていた。けれども、実際にラブホテルの前まで来てみると、そんな風に泰然とした気持ではいられなかった。
仲本は不倫をするということについての理論武装をしてきたけれど、駅の裏手にある通行人の多いラブホテルに入る時のことまで考えていなかった。スケベな中年男が若い女を連れ込んでいやがるとか、あのカップルは絶対に不倫だよとか、風俗嬢を買ったんじゃないのか? といったことを通りすがりの人に思われている気がして、その場から逃げだしたくなったほどだ。
胸がまだドキドキしている。けれども彼女の手前、冷静な表情を装っているだけだ。黙っているのはおかしいと思うけれど、麗子にかける言葉が浮かんでこない。
ロビーの壁に掲げられている、部屋を写したパネルに目を遣《や》った。
ラブホテルを利用したのはかれこれ十五年以上も前だけれど、時代が変わってもパネルが点灯している部屋の中から選ぶだろうということは想像がついた。
二時間で一万五千円の部屋を映すパネルのボタンを押した。
鍵《かぎ》が出てくるのかと思って待っていたが、パネルには何の変化もなかった。フロントで鍵を渡してくれるということでもなかった。
鍵はどうやら必要ないらしい。
「ラブホテルってすごく変わったんだな。ぼくの学生時代には、こんなシステムはなかったよなあ」
仲本は言い訳がましく呟《つぶや》いた。
「わたしも、お値段にびっくりしました。シティホテルに泊まれちゃいそうですね」
「ほんとだね。まっ、いい経験をしたよ」
仲本は彼女の肩に腕を伸ばすと、エレベーターに向かった。
部屋に入った。
部屋は広かった。キングサイズのベッドが置かれているスペースだけで二十畳は優にありそうだ。気泡バスが使えるバスルームもゆったりしている。
麗子がソファに腰をおろした。仲本はそれを見て、彼女に寄り添うようにして坐《すわ》った。
くちびるを重ねているだけに、さすがに上司と部下という意識はあまりない。しかし、まったくないと言ったら嘘になる。
オフィスにいる時の冷たい表情をしていることが多い彼女と、今のやさしげで妖《あや》しい輝きを放っている彼女とを比べたりしている。その差が大きければ大きいほど、性的な刺激も強くなっていくのだ。
「やっとふたりきりになれたね。麗子、今どんな気持だい?」
「どんなって言われても困ります。ただ、うれしいような恥ずかしいような複雑な気持です」
「羞恥心《しゆうちしん》は伝染するって言っただろ?」
「はい、課長。いえ、仲本さん……。ごめんなさい、やっぱり急に呼び方を変えるのって難しいですね」
「呼び方なんて馴《な》れだから、最初は違和感があっても無理してでも苗字《みようじ》で呼びつづけないとね」
「あの、お子さん、おいくつになったんですか?」
「そういう話はしないこと。ぼくは今、麗子だけを見つめているんだからね」
「ごめんなさい。何を話したらいいのか、わからなくて……」
麗子は伏し目がちに囁《ささや》くと、わずかにうつむいた。
耳に留めていた長い髪が落ちて、横顔が見えなくなった。その拍子に、甘い香りが湧きあがるようにして漂った。
欲望が煽《あお》られる。キスだけで抑えていただけに、ようやく彼女を抱けるという思いが胸の裡《うち》に膨らむ。それに応えるように、坐っている窮屈な状態にもかかわらず、パンツの中の陰茎がいっきに屹立《きつりつ》する。先端の笠《かさ》を半分ほど覆っていた皮がめくれ、笠の外周がひくつく。幹の芯《しん》に脈動が走り、ふぐりの奥のほうが熱くなる。
麗子の肩を抱いた。
ソファの背もたれに押しつけるようにしてくちびるを重ねていく。
舌を差し入れる。
唾液のぬるぬるした感触とともに、彼女の体温が伝わってくる。鼻息の荒さが増し、興奮が強まっていることも感じられる。
麗子のほうから舌を絡めてきた。
高ぶりに突き動かされたような激しいキスではないし、羞恥心をあらわにするためらいがちなものでもない。ねっとりとしていて、キスを味わっているような舌遣いだ。
唾液を送り込んでくる。うながしたわけではない。くちゃくちゃという粘っこい音をあげて吸う。淫靡《いんび》な濁ったその音がラブホテルの広めの部屋に響く。
仲本は麗子の背中に回していた手を脇腹に移した。
ふたりともすでにコートを脱いでいる。彼女はワンピースの上にジャケットを着ている。
脇腹をさするようにしながら、ジャッケットの下にてのひらを潜り込ませる。彼女はキスに夢中なのか、それとも気づかないフリをしているからなのか、そのことを気にする様子はない。
ワンピース越しにブラジャーが感じられた。腋《わき》の下のあたりまで手を運ぶと、湿り気の強い火照《ほて》りが伝わってきた。
乳房を包むようにして、てのひらをあてがった。
麗子は何も言わずに、上体を小刻みに震わせて受け入れた。
乳房は豊かだ。
仲本は彼女を新入社員の頃から見ている。冬だけでなく、夏の薄着の姿も目にしている。乳房の豊かさは変わってはいない。いや、それどころか、年を追うごとに膨らみが増しているようだった。
麗子が名残惜しそうに、くちびるを離した。
三分近くキスをしていただろうか。妻とはここ何年もキスをしていなかったから、舌先だけでなくつけ根のほうまで痺《しび》れた。
仲本は指先を乳房に埋めるように力を入れた後、彼女の耳元で囁いた。
「麗子のおっぱいは、やっぱり、すごく大きかったんだね」
「やっぱりって?」
「君の裸を想像したことが何度かあるんだ」
「あん、いやらしい」
「大きいだろうなって思っていたんだ。実際に触ってみて、想像が間違っていなかったと思ったんだ」
「そんなエッチなことを仕事をしながら考えていたんですか?」
「昼休みとか廊下ですれ違った時に、ひょっと考えるだけさ」
仲本は嘘をついた。仕事中にそんなことを夢想していたとは、とても言えなかった。麗子は安心したような表情を浮かべると、キスをまた求めてきた。
仲本はキスをしながら、ワンピースの上からブラジャーのホックを何度も撫《な》でる。次の愛撫《あいぶ》をどうしようかと考えているのだ。ホックを外すためにはまず、ワンピースを脱がさないといけないが、いきなりそんなことはできないからだ。
麗子がもしブラウスを着ていたら、こんな風に迷うことはなかっただろう。ブラウスをスカートから引っ張り出して右手を潜り込ませるだけでいいのだ。
「キス、お上手ですね。きっとこれまでにもたくさん、経験してきたからでしょうね」
彼女のほうからくちびるを離すと、上目遣いで見つめてきた。何を言いたいのかわからなかったから、仲本はそれを無視して、麗子の太ももに手を置いた。
ストッキング越しにゆっくりと撫でる。そうしながらワンピースの裾《すそ》をめくり上げていく。裏地とストッキングが擦れ合い、すべすべした感触が指先に伝わってくる。撫でる前と撫でた後ではストッキングの編み目の大きさが微妙に変わり、輝きも変化する。後のほうが妖しく思えてならない。
揃えている膝《ひざ》がわずかに割れた。その隙を見逃さずに太ももの中程までワンピースの裾を上げた。
彼女は何も言わずにうつむいている。しかし何も感じていないというわけではない。息遣いは荒いし、太ももから伝わるぬくもりも熱くなっている。
「仲本さん、これまでにも会社の女の子を誘ったことがあるんじゃないかしら」
麗子がうつむいたまま囁くように言った。穏やかな口調の中に、トゲのようなものが感じられた。
「まさか、麗子が初めてだよ。会社にバレたら大変だろ? そんな冒険をしてまで親しくなろうと思ったのは君だけだ」
「ほんとに?」
「誓ってもいいよ」
「会社の中に、仲本さんとセックスした女子社員がいたらいやだなって思っていたの。わたしは何も知らずに、そういう子とランチを食べに行ったりするのかなって……」
「大丈夫。安心していいよ。それにしても、そこまで考えるとは驚きだね」
「仲本さんは今『冒険』と言ったでしょ? わたしにとっても冒険なんですから」
仲本はうなずくと、右手を伸ばすようにして太ももの内側に手を入れた。
ワンピースの内側には、湿り気をはらんだねっとりとした熱い空気が溜《た》まっていた。ストッキングの編み目にまで火照りと湿り気がこびりついているようだった。
呼吸が苦しくなるくらいに胸が高鳴る。唾液を何度|呑《の》み込んでもまたすぐ溢《あふ》れ出てくる。太ももを撫でている気持よさを味わうゆとりなどない。
仲本はそれでも、自分でもじれったくなるくらい慎重に愛撫をつづけていた。それは麗子との初めてのセックスだからという理由ではない。セックスに馴れていないことを、部下である彼女に気づかれたくなかったからだ。
仲本は何度も彼女に、上司と部下という壁を乗り越えなさいと言っていた。それなのに、自分自身がまだ男を剥《む》き出しにできなかったのだ。
「仲本さんって、焦《じ》らすのが上手ね」
「そうかい?」
「若い男性だったら、終わっちゃっているかもしれないと思います」
「ぼくだってまだ若いつもりでいるけどな……。気持的には三十二歳かな」
「まあ、図々しい……。四十歳でしたよね」
「男盛りの年齢だってことだよ」
「四十代って、男の人がもっとも輝く年代かもしれませんね」
仲本は応えなかった。その代わりに、太ももの内側のつけ根に近いところをゆっくりと撫でた。指の腹で押し込むようにした後、爪の先をすっと滑らせた。
麗子と話をしている間ずっと、不倫をすることやセックスについての理論武装がいかに脆弱《ぜいじやく》なものだったかと思い知らされている気がした。
彼女が囁くさりげない言葉ひとつにさえうろたえそうになる自分がいやだった。そういったものから逃れ、セックスに没頭するためにも強引なくらいに積極的にならないといけないと思った。
彼女の肩を抱いているもう一方の手を、さりげなくうなじに回した。そして迷うことなく、ワンピースの背中のホックを外し、ファスナーを下ろした。
彼女の華奢《きやしや》な肩とブラジャーのストラップが見えるあたりまでワンピースをめくった。
「麗子の裸を見せてくれるかい?」
「ここのソファではいやです。仲本さん、ベッドで脱がせてくれますか」
「うん、わかった」
太もものつけ根のあたりまで入れていた手を引き抜くと、仲本は彼女とともに立ち上がった。
ベッドの端に辿《たど》り着くと半ば強引に、ワンピースを脱がせた。
ブラジャーからは乳房の上半分くらいが溢れ出ていた。ウエストのくびれは見事な曲線を描いていた。麗子の肢体はエロティックで美しかった。
仲本は麗子の胸元に顔を寄せた。
豊かな乳房にくちびるをつけた。
これが社内一の美女の乳房なんだ。そんな想いが胸の奥底から迫《せ》り上がり、満足感や達成感のようなものが満ちる。上司である自分が部下の乳房を舐《な》めているという事実が、さらに興奮を煽っていく。
ブラジャーに寄せられた乳房は、深い谷間をつくっている。入口のあたりに汗がわずかに滲《にじ》んでいるために、くちびるの滑りがよくて気持いい。
舌を尖《とが》らせて、乳房にねじ込んでみた。
二十七歳のそれは、弾力と張りに満ちていた。なめらかな肌は、舐めているだけでもうっとりしてしまうくらいだ。
仲本は左手で自分の上体を支えると、右手で彼女の太ももを撫ではじめた。
揃えている膝が愛撫のたびに割れていく。かすかな喘《あえ》ぎ声が彼女の口から洩れる。それがラブホテルの部屋に響き、ふたりの高ぶりは増幅していく。
小さなパンティは淡いピンク色だ。陰毛の茂みのあたりだけ盛り上がっていて、濃いピンク色に変わっている。下腹がうねるたびに濃いピンク色の形がわずかに変わっていく。
割れ目に触れてみたいと思った。
うるみが溢れているかどうかを確かめたい。彼女がどれくらい興奮しているかを、うるみの量で見極めたい。どの程度まで愛撫したら、二十七歳の女性が高ぶるのか見当がつかなかったからだ。
仲本はしかし我慢して、彼女の耳元に舌をつけた。首筋に沿って舌を移した後、髪の生え際を舐めた。
初めての交わりなのだ。スマートにすべきだ。
「すごく素敵だよ」
具体的に何が素敵なのか言うべきかどうか迷った末に、曖昧《あいまい》な言葉を囁《ささや》いた。
性的な高ぶりを煽《あお》るつもりで具体的に言うことが、逆に、彼女を冷静にさせかねない。今はまだその時ではない。
太ももから手を離すと、背中に回してブラジャーのホックに手をかけた。それは戸惑う間もなく外すことができた。ストラップが弾《はじ》かれるようにして緩んだ。乳房からカップが浮き上がった。それでも谷間は深いままだったし、美しい形が崩れることもなかった。
ブラジャーを丁寧に剥《は》ぎ取る。麗子が乳房を隠すような素振りを見せたので、
「ぼくに君のすべてを見せてほしいんだ」
と囁いて、思いとどまらせた。
乳房は美しかった。
仰向けになっても美しい形を保ったままだ。尖った乳首を包むように乳輪が迫り上がっている。荒い呼吸をするたびに、乳房が波立ち、乳首が震える。
仲本は乳首を口にふくんだ。
硬く尖ったそれは、口の中でも小刻みに震えつづけている。性的に敏感な躯《からだ》なのだろう。舌で弾くとつけ根からよじれた後、勢いよく戻ってくる。ごつごつした幹は張りがあって、芯《しん》が硬いのが感じられる。
麗子がためらいがちに小さな呻《うめ》き声を洩《も》らす。高ぶっているのを知られるのが恥ずかしいようだ。チラと彼女の表情をうかがうと、乳首から口を離した。
「気持よくなったら、遠慮しないで声をあげていいんだよ」
「わかっているつもりです。でも、できません」
「どうして?」
「だって、仲本さんはわたしの上司なんですよ。明日、会社に行ったら、何事もなかったように仕事をするわけでしょ?」
「それはそうだ」
「でも実際は、仲本さんに、乱れた恥ずかしい姿を見られているんです。バツが悪いでしょ? だから、声をあげるのをためらってしまうんです……」
「ふたりだけの秘密ができるんだ。そう考えてみると、スリリングだと思わないかい?」
「秘密ですよ、このことは絶対に」
「もちろん、そうするつもりだ。だから、麗子は思いきってタガを外すんだ。快楽に素直になることは大切なことだよ」
「気持よくさせてくれたら、わたし、自分の心を守ろうとしているタガを外せるかもしれません」
麗子のねっとりとした声に後押しされるように、仲本は腕を伸ばして彼女の股間《こかん》に指を這《は》わせた。
陰毛の茂みを覆っているあたりだけパンティがわずかに盛り上がっている。少しずつ指を割れ目に近づけていく。湿り気が強まっているのを指先で感じる。
うるみがパンティを濡《ぬ》らしていた。割れ目はすでにめくれ返っているようだ。パンティに深い溝ができていて、割れ目の輪郭が浮かび上がっていた。
敏感な芽を撫《な》でた。
掠《かす》れた鼻声を洩らすだけだった彼女が、喘ぎ声とわかる声をあげた。
「ああっ、だめ。そこ、感じちゃうところなんです」
「もっともっと快感に没頭するんだ。気持いいということを素直に受け入れるうちに、タガは自然と外れていくはずだからね」
「わかりました、仲本さん……。ああっ、いい」
麗子が背中をのけ反らせながら呻き声を放った。
敏感な芽をパンティの上から円を描くようにして撫でる。彼女はうっとりとした表情のまま、腰をかすかに上下させる。
仲本はパンティの中に指を潜り込ませた。
小さな布地のパンティの中はしっとりとした火照《ほて》りに満ちていた。
陰毛の茂みは押し潰《つぶ》されていて、いくつもの束のようになっている。仲本はそれをかき分けながら、割れ目を目指した。
敏感な芽に触れた。
女性のもっとも敏感な性感帯だ。掠れた鼻声をあげていた麗子が息を詰め、上体をビクッと震わせた。
妻以外のそれを撫でるのは結婚以来初めてだ。しかも二十七歳の部下のものをだ。冷静に考えれば、やってはいけないことだと思う。罪悪感がまったくないかというと嘘になる。胸の奥の片隅がチクチクと痛むのを感じる。
仲本はくじけなかった。
自分の人生なのだ。
妄想だけを膨らませて生きるよりも、実際に行動して充実させたい。ひどい胃|潰瘍《かいよう》で吐血して、死というものを身近に感じたからこそ辿り着いたこの強い想いは、誰かに非難されるものではない。自分の心の中にある罪悪感と折り合いがついている限り、自分の想いに誠実であっていい。
仲本は胸の裡《うち》でそんなことを呟《つぶや》き、あらためて意を強くした。
尖って硬くなった敏感な芽を指の腹に密着させて円を描くようにして撫でる。ねっとりとしたうるみにまみれているそれは、熱く火照っている。時折、指先に力を入れて押し込むようにして刺激を加える。
明日、会社で麗子と顔を合わせるだろう。洋服の下の生身の躯がこんなにも熟れていることを知っているのは自分だけなのだ。仲本は身震いした。タブーに踏み込んだからこそ得られる快感に全身が貫かれる。
敏感な芽を離れると、割れ目に指を伸ばした。
肉襞《にくひだ》はざっくりと割れていた。
パンティ越しに触った時に想像したとおりだ。深い溝から粘り気の強いうるみが流れ出している。お尻《しり》のほうから敏感な芽に向けて、うるみをすくい取るように滑らせる。その動きに割れ目の外側の厚い肉襞が鋭く応《こた》えるように小刻みに震える。
「すごく濡れているよ。感じやすい躯なんだね」
「あん、いやっ」
「こんなに淫《みだ》らな女だっていうことを知っているのは、会社ではぼくだけだ」
「意地悪……。そういうことは言わないっていう約束だったでしょ?」
「それを考えると、高ぶった気持がさらに強くなるみたいなんだよ」
「わたしは、ちょっと複雑……。だからもう言わないでください」
麗子がゆっくりと足を開いていく。うながしたわけではないのに、敏感な芽や割れ目全体を撫でやすい体勢に変えていく。足の開きが九十度以上になったところで、麗子は腰を浮かしながら大胆な言葉を投げてきた。
「わたしの大切なところを、舐《な》めてくれますか」
麗子は瞼《まぶた》を閉じたまま言った。一瞬にして、頬から首筋にかけて赤く染まった。パンティの中に差し入れている指に、彼女の躯の震えが伝わってきた。
「何て言ったのかな、聞こえなかったよ。もう一度言ってほしいな」
「あん、聞こえていたはず。仲本さん、すごく意地悪なんだから」
「とっても淫らな声だったな。麗子は舐められるのが好きなんだね」
「いいえ、違います」
「職場にいる時も、舐めてほしいなんて考えているんじゃないだろうね」
「ううっ、まさか……。わたし、どうしよう。恥ずかしいと思わないように頑張ってきたけど、もう無理」
麗子がのけぞった。背中を弓なりにさせたかと思ったら、上体をベッドに落とした。
割れ目からとろりとしたうるみが溢《あふ》れ出た。仲本はパンティから手を引き抜くと、ピンク色のパンティのウエストのあたりに指を引っかけていっきに脱がした。
縦長の陰毛の茂みがあらわになった。麗子が太ももを閉じようとしているのを察して、仲本はすかさず彼女の膝《ひざ》に手をあてがった。
「見せてほしいんだよ、麗子のすべてを……。会社では絶対に見られない君の真の姿を」
「ああっ、恥ずかしい」
「舐めてほしいって、言ったじゃないか」
仲本は屈《かが》み込むようにして、陰部に顔を近づけた。
パンティに押し潰されて束のようになっていた陰毛が少しずつ立ち上がってきている。そこから甘く生々しい匂いが漂ってくる。
彼女は太ももを閉じようとする。そうさせないように仲本は腕に力を込める。
陰毛の茂みの地肌に舌を這わせる。口の中に陰毛が束になって入ってくる。それをくちびるで引っ張ったり吸ったりする。
敏感な芽に近づいた。
彼女の太ももから少しずつ力が抜けていくのがわかり、膝にあてがっている手を離した。顔がすっぽりと入るくらいまで足が広がった。不思議なことに、陰毛の茂みの横幅も広がった。
敏感な芽を舐める。尖《とが》ったそれは粘り気の強いうるみに覆われていた。くちゃくちゃという音を意識的にあげながら舌先で芽を突っつく。
麗子の喘《あえ》ぎ声混じりの息遣いが荒くなっていく。
仲本は舌の動きを速くして、敏感な芽を舐める。とろりとした粘度の高いうるみと唾液《だえき》が絡み合う。めくれ返った割れ目の肉襞が、挿入をほしがるようにひくつく。下腹部のうねりが大きくなり、腰を何度も上下させる。
「仲本さん、気持いい。わたし、こんなのって初めて……。自然と声がでちゃいます」
「こんなに興奮したことがないってことかい?」
「はい、そうです」
「どうしてかな。ぼくが上司だから?」
「ああっ、そのことは言わないで……」
麗子がのけ反った。数秒間、そのまま全身を硬直させた。その次の瞬間、彼女は力を抜いてベッドに背中を落とした。
仲本は体中に充足感がみなぎっているのを感じた。
結婚して十五年。妻以外の女性と躯《からだ》を重ねるのも初めてなら、高ぶりの中に導いたのも初めてなのだ。
妻を裏切っているという罪悪感はない。部下に手を出すというサラリーマンのタブーを冒したことへの後悔もない。怖れずにいられるのは、女性とつきあうということについて理論武装をしたおかげだ。仲本は今この瞬間が充実していることを実感して、幸せな気持になっている。
パンツの中の陰茎が痛いくらいに硬い。皮が張り詰め、先端の笠《かさ》の外周が何度もうねりながらひくつく。こんな風に勃起《ぼつき》したのはずいぶんと久しぶりだ。三十五歳の頃はまだ勃起に自信があったが、四十歳になってからは、勃起そのものに力がなくなっていた。
麗子の足の間に入っていた仲本は、彼女に寄り添うように躯を移した。
腰を前後に動かしながら、彼女の太ももに陰部をなすりつける。パンツの生地に笠の端の敏感な筋が擦られ、細い快感が生まれる。彼女を裸にしただけで、仲本はまだ、服を脱いでいない。
「すごく、硬い……」
「麗子に興奮しているんだ。触ってくれるかい?」
「たっぷりと舐めてもらったから、お返しをしないといけないんですね」
「うーん、どうかな。そういう気持だとしたら、ちょっとためらうな」
「どうして?」
「高ぶって止むに止まれぬ気持から舐めるという風になってほしいんだ。義務じゃないからね」
「やさしいんですね、仲本さんって」
「舐めてくれる?」
「はい、わかりました」
麗子は素直に言うと、上体を起こした。
ためらいを見せずに陰部に顔を近づけた。ズボン越しに頬をなすりつけて膨脹している陰茎を圧迫してきた。
麗子の細い指がズボンのファスナーを摘んだ。同時に、股間に寄せている顔を押しつけたまま左右に動かし、陰部に刺激をくわえてきた。
長い髪が乱れて顔の半分を覆う。仰向けになっている仲本の目には、彼女の細い指が震えているように見える。それが性的な期待によるものなのか、部下が上司の陰茎に触れることへの怖れや戸惑いなのか判然としなかった。が、ためらっている様子は見えない。
彼女はファスナーをいっきに下ろした。そこでひとつ小さな吐息をつき、乱れた髪を梳《す》き上げた。
ズボンの窓に手を差し入れる。パンツの上からてのひらをあてがう。圧迫したり撫でたりしながらもう一方の手で、ベルトとズボンのボタンを素早く外していく。仲本は腰を浮かして彼女に協力しながら、ワイシャツを自ら脱いだ。
パンツだけの恰好《かつこう》になった。腹筋の緩んだ腹の向こう側に、麗子がこちらに顔を向けるようにして頬を陰部に寄せるのが見える。瞼に塗られた茶系のアイシャドウが明かりを浴びて艶《つや》やかな輝きを放っている。
仲本は腹筋に力を入れると、意識的に陰茎を跳ねさせた。
痛いくらいに勃起した陰茎は、圧迫されながらも小さく跳ねた。彼女のふっくらとした頬がわずかに揺れた。先端の笠がパンツのウエストのゴムの下まで這い出てきた。
麗子はパンツ越しにくちびるをつけた。
陰茎の輪郭が浮き上がったパンツに唾液を塗り込むようにして舌先を滑らせていく。それを何度も繰り返す。唾液がパンツに染み込むにつれて、舌から火照りや熱気が伝わってくる。彼女は陰茎をなかなか直接舐めない。じれったい。けれども、それが快感への期待につながり、性欲がさらに膨らむ。
「麗子の舌、すごく熱いよ。口の中はもっと熱いんだろうね」
仲本は腕を伸ばして彼女の髪を撫でた。腹筋に力を入れて陰茎を跳ねさせ、口の奥深くまでくわえてほしいと無言で求めた。
「わたし、仲本さんくらいの齢《とし》の人とおつきあいしたことがないんです」
「これまでは同年代の男ばかりだったわけか」
「三歳年上の人がいちばん年齢が離れていました。だから、わたし、どういう風にしていいのか戸惑っているんです」
「戸惑う?」
「やりたいようにやっていいものかどうかわからなくて……」
「年齢差がいくらあるからって、関係ないよ。男と女が互いを求めあっているだけじゃないか」
彼女は安心した表情を浮かべてうなずくと、パンツを引き下ろし、陰茎を直接握った。
麗子の細い指に力が入った。美しく整えられた長い爪が陰茎に重なった。
下腹に沿って屹立《きつりつ》している陰茎がゆっくりと垂直に立てられる。痛いくらいに張り詰めた幹の表側のつけ根に太い節が浮き上がり、幹にも細かい節や青黒い血管が見えてくる。
「ああっ、すごく、おっきい……。こんなに逞《たくま》しかったなんて、信じられない」
麗子が呻《うめ》いた。うっとりとした表情を浮かべながら瞼《まぶた》を閉じた。
指先の感覚だけで陰茎を味わっているようにも、恥ずかしさを堪《こら》えるために目を閉じたようでもあった。
指の腹やてのひらから彼女の熱気が伝わってくる。指先に力を入れたり緩めたりする。皮を引き下ろしたり、上げたりを繰り返す。先端の笠の輪郭が変わり、充血して濃い赤色の色味が薄くなったりする。
麗子が顔の位置をわずかに上げた。その拍子に、耳に留めていた長い髪がばさりと落ちた。会社一の美女と噂された顔が半分ほど隠れた。
くちびるが開く。
薄かったそれが少しずつ厚ぼったくなっていく。くちびるが性欲の高ぶりを表しているようだった。職場にいる時には見たことのない変化に、陰茎が鋭く反応した。てのひらの中で小さく跳ね、幹の芯に脈動が走り抜けた。
「あん、いやっ。手から飛び出ちゃいそう」
「こんなに元気になるのは久しぶりだよ。麗子のおかげかな」
「嘘、そんなの。職場でもこんな風に元気になっているんじゃないですか?」
「神聖な職場では、こうはならないし、いかがわしいことも考えないな」
仲本は笑みを湛《たた》えながら冗談めかして応えた。
本当は、麗子が集中して仕事をしている横顔を見て勃起したことが何度かあった。こうして触れ合っているからといって、さすがにそのことは明かせなかった。
麗子の湿った鼻息が吹きかかる。半開きだったくちびるがさらに広がる。陰茎の先端に近づく。
笠に触れた。
背筋にビリビリと痺《しび》れるような刺激が走った。
快感とは違う。部下にこんなことをさせてしまったという想いに、躯が反応したのだ。それはタブーを破ったことへの怖れや罪悪感ではない。真面目一筋で生きてきた男が、よくもこんな大それたことができたものだという想いだった。
笠と幹をつなぐ敏感な筋に舌が這う。その間も、指先に力を入れたり緩めたりして幹を握っている。笠全体に唾液を塗り込んだ後、それを濁った音をあげてすすったりする。
「気持いいよ、麗子」
仲本はうわずった声を投げた。しかしまだ、躯よりも心の快感のほうが勝っている。
腰をゆっくりと上げた。
膨脹している陰茎を握る麗子の指に力が入る。彼女の口の奥に先端の笠が入っていく。息を詰めて受け止める。舌先に動きは感じられないけれど、舌のつけ根は震えている。
笠が口の最深部に当たった。麗子が濁った息を洩《も》らした。
これ以上奥まで挿し込むのは無理だ。肉の壁が押し返してくる。膨らんだ笠がひしゃげる。幹の芯《しん》に脈動が走り抜け、笠の形が元に戻る。
くわえてもらうことの気持よさを初めて知った気がしてならない。麗子の丹念な愛撫《あいぶ》によって、妻のやり方が結婚当初から今に至るまでずっとおざなりだったということや、快楽を引き出そうという熱意や工夫があるとは言えないことがわかった。
口の中のぬくもりや熱気が、麗子の愛を端的に表している気がする。それは誰でも感じ取れるものではなく、心が通じている自分だけの特権だと思う。だからこそ、口の奥深くまで挿し込んでも、彼女はいやがらないし拒みもしないのだ。
満足感が全身に拡がっていけばいくほど、心の快楽も深まっていく。全身が敏感になり、幸福な気持も胸に満ちていく。そしてそれは、躯の快楽にもつながっていく。
「麗子、躯の向きを変えてくれるかい?」
「えっ……」
「くわえたまま、ぼくのほうに足先がくる体勢に変えてほしいんだ。大切なところに触れたいんだ」
「あん、エッチ……」
麗子が陰茎を口にふくんだまま、くぐもった声を洩らした。くちびるが幹から離れると同時に、粘度の低い唾液《だえき》がつけ根からふぐりのほうまでつたった。
彼女は素直に従った。
仲本は躯を横にした。互いに向かい合う。いわゆるシックスナインの恰好だ。
割れ目から生々しい匂いが湧きあがっていて、鼻先だけでなく頭全体が包まれる。むせ返るほどの濃密さに息苦しささえ覚える。それを吸い込めることがうれしい。
妻とは最近、セックスをしていない。記憶に残っている割れ目の匂いは、麗子ほどの生々しさはなかった気がする。
仲本は胸の奥深くまで息を吸い込み、二十七歳の若さに満ちた匂いにうっとりとした。部下と関係を持つというタブーを怖れずに冒したからこそ味わえたものだ、とあらためて思った。
麗子の湿り気を帯びた陰部に指を伸ばした。
敏感な芽に触れた。うるみにまみれているのを確かめると、顔を近づけた。生々しい匂いがいちだんと濃くなる。舌先で陰毛の地肌を舐める。敏感な芽に近づく。それに反応するように、陰茎をくわえた麗子のくちびるがきつく引き締まる。
仲本は鼻先を麗子の陰部にねじ込むようにして、敏感な芽を舌先で突っついている。麗子は下腹を大きく前後にうねらせながら、陰茎をくわえたくちびるの引き締めに強弱をつける。
ふたりの荒い鼻息がラブホテルの部屋に響く。
互いに相手の快感を引き出そうと夢中になっているのだ。
麗子の太ももに滲《にじ》む汗に頬が濡《ぬ》れる。割れ目からのうるみに口の周りがベタベタになる。そうしたことが気持いい。これこそ、初めて肌を重ねた時の思いやりなのだ。勇気を出して麗子を誘ってよかった。舌を動かしながら、心からそう思った。
「仲本さん……。わたし、我慢できない」
麗子が陰茎からくちびるを離した。うわずった声が掠《かす》れていた。腰を小さく上下に揺すって挿入をほしがるような素振りを見せた。
上体を起こした。
口の周りを舌先で拭《ぬぐ》いながら、ねっとりとした眼差《まなざ》しを送ってきた。豊かな乳房が波打ち、胸元のなだらかな斜面に細かい皺《しわ》が浮かんでは消えた。
「ぼくも我慢できないよ……。さあ、麗子、横になるんだ」
「ああっ、うれしい」
「いやらしい顔だ。職場でこんな顔を見たことがないな……」
「いやっ。会社でのことは言わないっていう約束だったでしょ?」
「ごめん、ごめん。麗子の淫《みだ》らな姿を知っているのが自分だけかと思うと、ほんとにうれしくて……」
「内緒ですよ、本当に。仲本さんは大人だから、おおっぴらに言うことはないって信じていますけど、親しい人にも絶対に教えないでくださいね」
「本当は自慢したいところだけど、我慢するよ。麗子のためだし、ぼく自身のためでもあるからね」
「もし、言いふらしたとわかったら、わたし、仲本さんの奥さんに、このことを言っちゃいますから」
「おいおい、怖いことを言わないでくれよ。ほんとに大丈夫だから、信用してほしいな」
麗子はようやくうなずいた。しかし本気で心配しているという表情ではなかった。ふたりでつくった秘密をネタに、甘えているといった感じだった。
仲本は彼女に仰向けになるようにうながした。
ベッドの白いシーツに長い髪が広がった。
桜色に染まっていた肌はいつしか朱色に近い色合いに変わっていた。
張りのある乳房はほんのわずかに脇に流れるだけで美しい形は崩れない。ウエストのくびれも見事だ。
仲本は彼女の足の間に入ると、覆いかぶさるようにして上体をあずけた。
仲本は腰を前後に動かしながら屹立《きつりつ》している陰茎を操った。
先端の笠《かさ》が肉襞《にくひだ》を掠めるものの、麗子の割れ目にあてがうことはできなかった。
妻のそれとは場所が違っているようだ。舌とくちびるでその在処《ありか》を確かめていたはずなのに……。こんなところに、女性経験の少なさが表れてしまうものかと思った。結婚して以来ずっと真面目な夫でいたことが恨めしい。
挿入すべき場所がわからずに戸惑っていることを麗子に気づかれるかもしれない。高ぶりが焦りに覆われてしまいそうだった。手を添えればすんなりとあてがうことができるだろうけど、それはしたくなかった。
「仲本さんって、焦らすのが、ほんとに上手。わたし、我慢できない……」
「我慢すればするほど、興奮するものだよ。ぼくのものがほしければ、麗子、腰を動かすんだ」
「あん、いやっ。そんなことしたら、淫乱《いんらん》な女になっちゃうみたい」
「そういう麗子を見たいんだよ」
仲本は咄嗟《とつさ》に言い繕った自分の言葉に満足した。こんな風に応《こた》えられたのは、理論武装をしたことによるものではない気がした。
この瞬発力はたぶん、課長という中間管理職になったことによって自然と養われたのだ。自分に非があってもそれを認めずに、相手に気づかれないように転嫁する。自分の立場を守るために、日々神経を磨り減らしているといってもいい。そういうことがこんな時に役立つのだから面白い。仕事上での経験が、女性との会話で活《い》かされるとは思わなかった。普段どおりの思考パターンでいいのだ。苦手だと思っていた女性との会話に少し自信がついた。
麗子との会話が気楽にできる気がする。これまでは、部下という立場の女性だから気安く話ができていたが、これからは、ひとりの女性として麗子と接しても気楽に話せるに違いない。仕事の人間関係と、女性とのつきあいが似ているものだとわかったからだ。
「ぼくのものがほしいと言ってごらん」
「仲本さんって、ほんとに意地悪。職場ではやさしいのに、ベッドではぜんぜん違うんですね」
「やさしいと思うよ。麗子が気持よくなることばかりを考えているんだから」
「もっと気持よくさせてください」
麗子の甘えたような口ぶりに高ぶりが増幅した。可愛らしさの中に潜む淫らな女の部分を垣間《かいま》見た気がした。仲本はもう一度、腰を操った。今度はすんなりと火照《ほて》った割れ目にあてがうことができた。
麗子が足を開いた。
太ももの内側のやわらかい肉が小刻みに揺れる。割れ目の外側の厚い肉襞がうねりながら、あてがった笠にへばりついてくる。
笠がひときわ膨らみ、硬さが増す。幹の芯の熱気が強まっていく。割れ目の微妙な動きが、笠を通してありありと伝わってくる。
二十七歳の割れ目だ。妻のそれとは比べものにならないくらいに生き生きとうねっている。うるみもほとばしるように溢《あふ》れ出て、笠や幹に伝う。
「さあ、仲本さん、きてください。わたしの中に、さあ……」
麗子はうわずった声をあげると、瞼《まぶた》を薄く閉じた。両手を伸ばして、覆いかぶさっている腰を掴《つか》んだ。
仲本は息を詰め、下腹に力を込めた。シーツを足の指に絡めてふんばると、腰をゆっくりと突いた。
笠が入る。
社内一の美女と噂される麗子の割れ目だ。自分の部下に入っていくのだ。タブーを冒したという想いが胸に拡がる。しかしそれは全身に満ちている満足感に呑《の》み込まれていく。
「もっと、深く、入ってきてください」
「味わいたいんだ、麗子を……。澄ました顔で仕事をしている君が、こんなにも淫乱だっていう真実を味わいたいんだ」
「ああっ、意地悪。そんなこと、言わないで。わたし、ううっ、我慢できない……」
「腰を動かしてごらん。自分のほうから、ぼくを求めるんだ」
「あんっ」
麗子は弾《はじ》かれたように腰を上下させた。膝《ひざ》を立て、腰を掴んでいる両手に力を込めた。
笠がずるりと入った。
厚い肉襞が幹にまとわりつき、奥に引き込もうとする動きに変わった。それに連動するように、内側の薄い肉襞が幹を挟んで圧迫してきた。
割れ目の奥のほうでは、細かい肉襞がうごめいている。襞はひとつひとつが別々の動きをしている。けれども、それらはバラバラの動きではない。互いに連動することで、大きなひとつの肉の塊のようになって笠や幹を刺激してくるのだ。
圧迫する襞もあれば、やさしく撫《な》でるものもある。奥のほうに導こうとうごめく襞の一団もあるし、突っつくような硬さのある襞の群れもある。
快感は色とりどりに彩られていた。まるで快感の園だった。仲本は陰茎から全身に拡がっていく快感の種類の多さに圧倒された。
腰をさらに突っ込んだ。
笠が最深部の肉襞の塊に当たった。いくら押し込んでも、それ以上は奥に進めない。
「ううっ、すごい」
麗子が口の端に唾液《だえき》を溜《た》めながら呻《うめ》いた。
麗子の呻き声に煽《あお》られ、割れ目の中で陰茎が勢いよく跳ねた。それが引き金になり、陰部の奥のほうがひときわ熱くなった。ふぐりがひくつき、腹筋に力を入れていないと快感に埋没してしまいそうだった。
絶頂の兆しだ。
仲本はくちびるを噛《か》みしめると、腰の動きをさりげなく止めた。腹筋への意識を忘れない。力を緩めてしまうと、すぐにも昇ってしまいそうなのだ。
「どうしたんですか、仲本さん……」
瞼を開いた麗子がおずおずと囁《ささや》いた。彼女の表情には戸惑いの色とともに、なぜ? という疑問の色合いも滲んでいた。
「ちょっと早いかもしれないけど、いきそうなんだよ。麗子が気持よすぎるから……」
「男の人はそういうことを気にするのね。わたしは、早いとか遅いとか関係ないわ。仲本さんがいきたい時にいって」
「麗子はどうだい?」
「わたしはいつでもいけます……。こんなに気持よくなったことなんて、初めてなくらいだから」
「ぼくも初めてだよ」
彼女の言葉に安心して、腰を動かしはじめた。
これほどまでに強烈な快感は初めての気がする。部下の女性に手をつけるというタブーを冒したという想いが、快感を増幅させる刺激になっているに違いない。
男と女が躯《からだ》を重ねているだけじゃないかとシンプルに考えるようにしても、心の片隅にはいつも、タブーを冒したという怖れにも似た気持があった。忘れようとしても忘れられないと言ってもいい。
仲本はしかし、それがマイナスに作用するものではないことに気づいた。その逆だ。つまり、その気持は、快感を強くする装置の役割をしているということだ。これは自分だけでない。麗子もその装置によって生まれた猛烈な興奮に包まれているのだ。
上体を麗子にあずけながら、腰を素早く動かした。
絶頂の兆しが膨らむ。腹筋に力を入れていても、抑えきれないくらい強まっている。
「もういきそうだ…。あっ、いくぞ、麗子」
「わたしもよ。きて、きて、早く」
麗子が全身を硬直させながら呻いた。仲本は腰の動きを止め、脈動から生まれる快感に酔った。
ふたりはこの瞬間、同時に絶頂に昇った。タブーを冒したからこそ得られる至福に包まれた。
穏やかな午後だ。
昼休みが終わったすぐ後ということもあって、職場にはまだのんびりとした空気が漂っている。
ブラインドの隙間から陽光が条《すじ》となって射し込んでいる。仲本はそれを背中に浴びながら、デスクに向かっていた。
左手で頬杖《ほおづえ》をついて、書類にボールペンを走らせたりする。その合間にチラと直属の部下の麗子の横顔に視線を送り、うつむいたまま小さな笑みを洩らす。彼女はぼくの前で淫《みだ》らな女になったんだ。全身にみなぎる満足感に浸っては、書類にまた視線を戻す。
肌を重ねてから二週間が過ぎたけれど、彼女は一度も、あの晩のことを想い起こさせる甘い視線を送ってくることはなかった。
もちろん、仕事上の話をすることはあるし、目を合わすことだってある。しかし、それらはあくまでも事務的なものであって、ふたりだけの秘密を職場で確認しようとしたり、スリルや甘美さに浸ろうとするものではない。
彼女は常に毅然《きぜん》とした態度で接してきた。彼女はそうすることで、あなたも秘密を守ってくださいね、職場では上司と部下という関係なのですから、と暗に戒めていたのだ。
仲本に不満はなかった。だから麗子との仲を深めようと、無理にデートの約束を取りつけたりしなかった。
社内不倫の場合、社内で携帯メールのやりとりをしたり、内線電話をかけたりといったことをしがちだろう。でも、そんなことをしても長つづきなどするはずがないのだ。不倫経験がなくたってそれくらいのことはわかる。
しかし。しばらくすると、このまま麗子と二度とセックスできないかもしれないと考えるようになった。
社内一の美女という呼び声の高い女性なのだ。別れてしまうのは惜しい。そんなことを想像するだけで恐怖に襲われた。
しかし、自分の立場だけでなく麗子の立場も危うくしてまで交際を迫ることはできないとも思った。だからもし、彼女に別れを切り出されたとしても、何もできないまま現実を受け入れるしかないと、諦《あきら》めの気持を抱いたりした。
つまり仲本は、麗子との別れを想像し、別れがきた時は仕方ない、スマートに別れよう、と自分の取るべき態度をシミュレーションしていたのだ。
けれども、諦めきれないことがあった。それは美人の麗子を失うことではないし、セックスの相手を失うことでもない。
タブーを冒すという悦《よろこ》びやスリルを味わえなくなることへの未練だ。この悦びだけは、そう簡単には捨てられない。
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第二章 上階の奥様
「奥さん、おはようございます」
仲本はマンションのゴミ置き場で自分たちの部屋のちょうど上に住む奥さんとばったり出くわした。
三十歳前後だろうか。いや、もう少し上かもしれない。共働きだと思うが、最近は、ご主人をほとんど見かけたことがなかった。
名前は確か、西本沙緒里だったと思う。仲本はマンションの管理組合の理事になった時、彼女が出席していたことを思い出した。
「仲本さん、今朝は気持のいいお天気ですね」
「今日はご主人とご一緒ではないんですか?」
「最近は一緒に出かけることがないんですよ。今もまだ東南アジアに出張中です。というか、単身赴任状態ですね。二カ月に一度くらいの割合でしか帰ってこられませんから」
「大変ですね、それは。寂しいでしょう」
「馴《な》れましたよ、さすがに。こんなことがもう、二年近くもつづいていますから」
「久しぶりに会うと、やさしいんじゃないですか」
「それが、ぜんぜん……。うちの主人はゴミ出しなんて、一度もしてくれたことがないんですよ、共働きだっていうのに」
「わたしの場合、家庭に波風を立てたくないだけです。気が小さいのかな。いや、そうじゃなくて、かみさんに頭が上がらないんですよ」
「またまた、そういうこと言って……。仲睦《なかむつ》まじい姿を拝見して、うらやましいなあって思っているんですよ」
「ははっ、そんなことありません。うちは、ふたりとも外面がいいんです」
仲本は照れたような笑みを浮かべた。
朝の出がけにゴミ出しするのは仲本の担当だ。そのくらいのことは専業主婦の妻がするべきことだろうと思う気持もあるけれど、そんなことで妻といさかいを起こしたくなくて、何も言わずに自分の家事分担のひとつにしていた。
仲本は吐息をついた。
上階の奥さんに言ったことは本当だ。妻に頭も上がらないし、気も小さい。だからたとえ、妻に言いたいことがあっても、不機嫌になりそうだと思えば言わないようにしていた。そうすることが、家庭円満の秘訣《ひけつ》だと思っているからだ。
「それでは、また。奥さん、お仕事、頑張ってくださいね」
「ふふっ、仲本さんも頑張ってください」
西本沙緒里は軽く会釈をすると、十メートルほど小走りをして離れていった。
人妻とは思えないくらいの長い髪だ。プロポーションも整っている。服装のセンスもいい。ふくらはぎを包んでいるストッキングが、朝陽に照らされてキラキラと輝いている。
仲本はゴミ置き場を出ると、最寄り駅まで足早に向かった。
西本沙緒里と、同じ通勤電車に乗ることができるかもしれないと思ったからだ。
彼女ともう少し親しく話す時間を持ちたかった。時候の挨拶や今日の天気のことを話すといった通り一遍のことではなく、互いの心が通い合うような会話をしたかった。
もちろん、話をしたいだけだ。それ以上の、たとえばふたりきりで食事をしたいとか酒を飲みたいということではない。なにしろ、彼女は自分の住んでいる部屋のすぐ上の階で暮らしている人妻なのだ。
仲本は駅に入り、ホームに立った。あたりを見回してみたが、サラリーマンやOLでごった返していて、彼女の姿を見つけることができなかった。
なぜかホッとした。
仲本は安堵《あんど》していることに気づいて、複雑な気持になった。
彼女を見つけて話しかけていたら、今までとは違うつきあいがはじまると予感していた。安堵の気持は、そんなことになるきっかけがなくてよかったというものだった。
彼女のご主人は東南アジアに出張に行っていて、二カ月に一度くらいしか帰ってこられないということだった。つきあいがはじまれば、会話だけでは済まなくなるはずだ。ふたりきりで食事をしたいと思うようになるだろうし、さらにもっと深い関係を望むようにもなるかもしれない。
ご主人がいない間に、そんなことをしていいはずがない。
上り電車が入ってきた。
仲本は乗り込んだ。
いつものことだけれど、車内は混んでいた。電車の揺れに堪えられる姿勢とスペースをつくったところでようやくゆとりができた。
あたりを見回した。
西本沙緒里の姿を見つけようとしている自分に呆《あき》れながらも、探さずにはいられなかった。出張で留守がちなご主人を持つ人妻の姿を探す。その行為に、タブーを冒しているという思いが募った。それはスリルだけでなく、淫《みだ》らな妄想もつくりだしていた。
電車が大きく揺れた。
踏ん張って堪《こら》えているその時、背中に近い左の脇腹のあたりを突っつかれた。
誰かの肘《ひじ》か鞄《かばん》が当たっているのかと思って上体をよじって避けていたが、逃げられなかった。意図的に突っついてきているとしか思えなくて、顔を左後方に向けた。
仲本は驚いた。
「またお会いしましたね」
西本沙緒里は親しみのこもった口調で囁《ささや》くと、上体を重ねるように近寄ってきた。
「まさか、同じ電車だとは思いませんでした」
仲本は胸の奥が熱くなっているのを感じながら、西本沙緒里の耳元で囁いた。
彼女は視線を絡ませたまま黙ってうなずくと、指を立てて口元にあてた。
話しかけるなということではなくて、声を出さないでほしいという意味だ。
朝の通勤電車の中では、男女の親しげな話し声ほど耳障りなものはない。彼女はそれがわかっているからこそ、そんなしぐさをしたのだ。
電車がスピードを緩め、次の駅に入っていく。
乗客がわずかずつ移動をはじめた。西本沙緒里もそれに合わせるようにして立ち位置を変えながら、躯《からだ》を寄せてきた。ふたりは左半身を密着させて、ダンスをするようにして立った。
車内アナウンスが流れ、そのタイミングで彼女が小さな声をかけてきた。
「こんなに近づいてしまったら、奥様に叱られてしまいますね」
「通勤電車なんですから仕方ないですよ」
「偶然とはいえ、仲本さん、いやではありませんか? 同じマンションの住人とここまで密着するなんて……」
「さあ、どうでしょう。答えにくいな……。西本さんこそ、どうですか? わたし、次の駅で隣の車輛《しやりよう》に移りましょうか」
「このまま、そばにいてくださってかまいません。いいでしょ?」
仲本はうなずくと、照れ笑いを浮かべた。それから慎重に、足先を肩の幅くらいまで広げた。彼女が寄りかかってきてもいいように踏ん張った。
新たな乗客が乗り込み、電車はいっそう混みはじめた。
四方から押される。密着しないようにしても無理だ。意図したわけではないが、ふたりの左半身がぴたりと重なった。
ジャケットを通して、西本沙緒里の乳房を感じた。やわらかみやぬくもりが伝わってきた。仲本は強く意識して、彼女の躯の感触が性欲に結びつかないようにした。
電車が動きはじめた。
車体の揺れが乳房に連動しているようだ。意識してはいけないと思えば思うほど、乳房の微妙な動きを追ってしまう。乳房のやわらかみとともに、ブラジャーのカップの硬さも感じられるようになる。
ちょっと手を伸ばせば、躯に触れられる。彼女のやさしそうな表情を間近で見ていると、触っても許してくれそうな気もする。
仲本はしかし、即座に自戒した。
絶対にそんなことをしてはダメだ。痴漢行為は身の破滅につながるんだぞ……。
その時だ。
股間《こかん》を突っつかれた。
意図的だ。鞄などが偶然当たっているのではない。
互いに左半身を重ねるように密着している西本沙緒里が、左の指で撫《な》でたり突っついたりして刺激を加えてきているのだ。
仲本は息を呑《の》んだ。
胸が痛いくらいにドキドキしている。呼吸をするのが苦しい。混雑した車内に目を遣《や》っても、瞳《ひとみ》を覆う潤みにさざ波が立っているために滲《にじ》んで見える。当然ながら、誰も彼女の大胆な行動に気づいていない。それでも気が気ではない。
「ダメですよ、そんなことしちゃ、奥さん……」
西本沙緒里の耳元で、彼女だけに聞こえるような囁き声を投げかけた。
いったい何を指してダメと言っているのか、当の本人にもよくわからない。電車の中でのいたずらがダメなのか、人妻だからそんなことをしてはいけないと言っているのか、それとも、同じマンションに住んでいて、しかもすぐ上の階の住人だからダメなのか……。
全身が熱い。
電車の揺れを踏ん張って堪えながらも、陰茎は勢いよく膨脹している。先端の笠《かさ》はパンツのウエストのゴムから半分くらいまで這《は》い出ている。さらにその先に向かおうとしているのをベルトが抑えている状態だ。
西本沙緒里にこんな趣味があったのだろうか。いや、そんなことはない。これほどまでに上品なたたずまいの女性が、電車の中で男にいたずらして興奮するとはとても思えない。
ファスナーに沿って、彼女は指を何度も上下に滑らせていく。それはちょうど陰茎の裏側で迫《せ》り上がっている嶺《みね》のあたりだ。
彼女の撫で方は、陰茎の在処《ありか》を確かめるといったものではない。性感を引き出そうとする指の動きだ。それを感じられるから、よけいに気持が高ぶる。
これもタブーを冒すということなのか。チラとそんなことを考えたけれど、スリルと性欲を求めるにはあまりにも危険なやり方だと思った。
小脇に抱えていた書類鞄を、さりげなく陰部の前に移して、彼女の動きがすぐそばに立っている人の目に入らないようにした。
電車が揺れるたびに、周囲の人もわずかに動いた。そのたびにヒヤッとした。隣り合っている人たちとの間に隙間が生まれ、彼女の大胆な行為が見えてしまいそうだった。
ファスナーが下ろされていく。仲本は躯を硬直させた。彼女の顔を覗《のぞ》き込んでみたけれど、頬のあたりがわずかに赤く染まっているだけで、我関せずといった表情だった。
「自分で上げないでくださいね」
彼女は囁いた。周囲の人に聞かれるのを怖れて、ファスナーという言葉を省略したのだと、仲本はわかった。
電車のスピードが遅くなりはじめた。
次の駅で降りる乗客が、わずかずつ移動していく。左半身をぴたりと密着させていた西本沙緒里も少しだけ躯を離した。
仲本はうつむいて、股間に視線を遣った。ズボンのファスナーは、彼女に下ろされたままになっている。白色のパンツは見えないけれど、誰かに気づかれたらどうしようと不安だった。
満員電車の中でそんなことをしているなんて、どう考えたって変態だ。冷たい風が開いたファスナーから入り込んでくる。異様な情況に陰茎は勃起《ぼつき》しているけれど、欲望は湧きあがってこない。漠然とした不安だけが膨らんでいく。
西本沙緒里の姿が見えなくなった。電車を降りる客の流れに巻き込まれて、いったん降りたようだった。
あらたな乗客で混みはじめる。西本沙緒里が人混みをかき分けながら近づいてきた。頬のあたりの赤みが増して、瞳を覆う潤みにさざ波が立っていた。
ふたりは黙ったまま、先ほどと同じように、左半身を重ねられる位置取りをした。車内の混み方が激しくなり、ふたりの密着度も増した。
次の駅まで二、三分だ。
西本沙緒里が頬を胸元に寄せて囁いた。
「次の駅まで、じっとしていてください」
「どうして?」
「わたしが何を望んでいるか、仲本さん、おわかりになっているでしょ?」
「まあ、そうですね……。以前から、こういう趣味があったんですか」
「いいえ、そんなことありません。自分でも驚いているんです」
「ほんとに?」
「はい……。でも、これと似たことを空想したことはあります」
西本沙緒里がためらいがちに言った。ほかの乗客に気づかれないようにするために、漠然とした言い方で終始した。
仲本は上階に住む人妻の彼女が、性欲が充満した火照《ほて》った躯を冷ますために、オナニーしている姿を思い浮かべた。
マンションの間取りは自分の住んでいる部屋と上階は同じだ。仲本家の場合は、北側に位置している部屋を夫婦の寝室にしている。
「奥さんのお宅も、北側が夫婦の寝室なんですか」
「基本的にはそうしています。最近は、ずっとひとりで使っていますけど」
「うちと同じですね。ということは、ぼくがベッドに横になっている時、数メートル上で奥さんは、火照った躯を持て余していたということですね」
「露骨な言い方、やめてください」
西本沙緒里は低い声で言うと、ズボンの窓に手をさっと差し入れてきた。
彼女はさらに躯を密着してきた。そうすることで、周囲の人たちに気づかれないようにしているのだ。
パンツの上から陰茎を圧迫してきた。屹立《きつりつ》しているそれの輪郭を確かめるように、細い指が幹の両側に沿って上下に動いた。
仲本は電車が揺れても躯がふらつかないように、太ももの筋肉に力を入れて踏ん張った。彼女は乳房をなすりつけるように上体をあずけてきた。
仲本は黙っていた。西本沙緒里もひと言も口にしなかった。
朝のラッシュの電車の中で、同じマンションの上階に住む人妻との間で濃密な秘密がつくられていく。いくつものタブーを冒しているという想いが募る。
人妻の指は熱く、なめらかに動く。陰茎をきつく握ったまましごく。時折、爪を立てて、幹の裏側で迫り上がっている嶺を撫でる。
彼女がまさかここまで大胆なことをするとは思ってもみなかった。親しいつきあいをしてきたわけではない。今朝偶然、ゴミ置き場で出くわして、久しぶりに挨拶《あいさつ》をしただけなのだ。
電車のスピードが遅くなりはじめた。
次の駅で降りるつもりの乗客が、出口付近に少しずつ移動をはじめた。
彼女は一度強く陰茎を握った後、手を引き抜いた。素早くズボンのファスナーを引き上げると、密着させている上体を離した。
「わたし、次の駅で地下鉄に乗り換えなんです……。名残惜しいわ、仲本さん」
「こんな中途半端なまま別れるなんて酷ですよ」
「わたしだって同じ。会社に行っても、きっと、仕事にならない気がするわ」
「西本さんに最後まできちんと責任を果たしてほしい気持でいっぱいですよ。いかがですか?」
「わたしは、今日はそれほど忙しくないので、六時半には帰宅できます。仲本さんは?」
西本沙緒里が上目遣いでこちらの表情をうかがってきた。彼女の言葉から推して、会社帰りにどこかで会うのではなく、自宅で会いたいと言っているのだと察しがついた。
タブーを冒すことになりそうな予感に、陰茎が鋭く反応した。強い脈動が走り抜け、膨らんだ笠の外周がうねった。
「携帯電話の番号を教えてもらえませんか?」
「仲本さん、ごめんなさい。お互いのためを思ったら、知らないほうがいいんじゃないかしら」
「事前に何の連絡もしないでお宅にうかがうのは、ちょっと不安だな」
「わたし、それがいちばん安全だと思ったんだけど」
彼女は伏し目がちに言うと、振り返ってドアのほうに躯《からだ》を向けた。
仲本は今、職場の自分のデスクにいる。
部下から上がってきている報告書を読んでいるけれど、頭の中は今朝の電車の中での出来事がグルグルと巡っていて、文字が入ってこなかった。
満員電車の中でズボンのファスナーを下ろされ、しかも、パンツの上から陰茎をしごかれたのだ。忘れようとしてもすぐ、その時の感触が蘇《よみがえ》る。
西本沙緒里の指の感触はありありと覚えているが、気持よかったという実感はまったくない。今思い起こしてみても、周囲の人に気づかれたらどうしよう、とヒヤヒヤしてばかりいた気がする。それでいて、陰茎は確かに勃起していた。しかも笠の端の細い切れ込みからは、透明な粘液が溢《あふ》れ出ていた。
仲本は今日のスケジュールについてぼんやりと脳裡《のうり》に浮かべた。残業しなければいけないことは、たぶんないだろう。部下のほうから飲みに誘ってくることは滅多にないから、つきあいで酒を飲むこともない。帰宅は午後七時前後だ。
そこまで考えたところで、西本沙緒里の自宅を訪ねる気になっている自分に気づいて驚いた。
彼女の部屋は四〇一号室で、こちらは三〇一号室。上階に住む西本沙緒里を訪ねる時には、間違いなく妻はいるはずだ。ということは、妻が数メートル下にいるのを承知のうえで、人妻の部屋を訪ねることになる。
妻を裏切るというタブーと、人妻と密室でふたりきりになるタブーのふたつを同時に冒す……。
仲本はこれまで、浮気をするための理論武装をしてきたつもりだけれど、今回は想定外のことだった。
タブーを冒すことで得られるスリルや快感は魅力だけれど、あまりにタブーが強すぎて、自分の気持が西本沙緒里に向かっていけるかどうか不安になった。
仲本は顔を上げた。
数メートル先に、ノートパソコンにむかっている宮川麗子の横顔が見えた。
彼女を眺めながら、部下の女性とセックスするというタブーよりも、今回のほうがずっと手ごわそうだと思った。
陰茎はやはり、反応していた。もちろんそれは、麗子を見つめていたからではない。背徳の意識や強烈な快感といったものへの期待からなのだ。
仲本は椅子の背もたれに上体をあずけた。
吐息をひとつついた。
どうしたらいいのかと迷っているというより、どうすれば妻の目をごまかして上階で過ごせるかということを考えていた。
午後六時五十分。
夕闇はゆっくりと濃さを増していて、夜の暗闇に変わりはじめている。
仲本は自宅マンションのエントランスにやってきたところで立ち止まった。
エレベーターに乗り込む前に、もう一度、自分の気持を整理しないといけないと思った。三階のボタンを押せば自宅に帰ることになる。四階のボタンを押したら、そのままの流れで西本沙緒里の部屋を訪ねることになるはずだ。
仲本は口の底に溜《た》まっている唾液《だえき》を呑《の》み込んだ。
上階の人妻のもとに、階下に妻がいるのを承知で向かうことへの踏ん切りがつかない。それでいて、タブーを冒す寸前の躯の奥底から湧きあがってくる緊張感や痺《しび》れるような快感に、呼吸するのがぎこちなくなっている。
エントランスを通り、オートロックを解いてエレベーターホールに立った。もしもほかの住人に出くわしたら、自宅に戻ろうと決めた。大切なことは秘密を守ることだ。仲本は自戒しながら、エレベーターに乗り込んだ。
四の数字のボタンを押そうか三にしようか、仲本は一瞬迷った。
三の数字を選べば、これまでどおりの平穏な生活が待っている。四のボタンを押したら、自分の人生は波瀾《はらん》に富んだものになってしまう。
岐路に立っている。
仲本は自覚した。
指を伸ばして、四のボタンを押した。指の腹に、重大なことを決定したという感覚が走った。
扉が閉まり、エレベーターが動きはじめた。
胃|潰瘍《かいよう》で入院生活を送らなかったら、こんなことはしなかっただろうと思う。
吐血し、救急車で病院に運ばれた。退院した時、九死に一生を得たという感慨があった。だからこそ、一度きりの人生を、悔いなく生きたいと願った。もしもタブーを冒すことで充実するならば、敢《あ》えてその禁断の果実を食べよう。人様に迷惑をかけないように気をつけながら、充実を追い求めようと決めたのだ。
四階にエレベーターが着いた。
四〇一号室に向かう。
廊下のつくりは三階と同じだから戸惑うことはない。エレベーターを降りて右に折れ、廊下の端だ。東南角部屋の最上階。このマンションの中でもっとも資産価値の高い部屋だ。
ドアの前に立った。
西本という表札がかかっている。それを取り去ってしまったら、何階なのかわからない。ここが三階ということはあり得ないが、チャイムを鳴らした時、妻が現れたらどうしようかと本気で不安になった。
仲本は深く息をついた。
呼吸を整え、チャイムを鳴らした。
四〇一号室のドアがゆっくりと開いた。
三〇一号室の自宅のドアを開いた時と同じように、カチッという軽やかな音が廊下に響いた。
「いらっしゃい」
西本沙緒里はためらいがちながらも、朗らかな笑みを浮かべて出迎えてくれた。もう少し思い詰めた表情をしていたら、いきなり抱きしめられただろう。けれども、彼女の微笑の裏に潜むよそよそしさを感じ取ってしまったことで、抱きしめるタイミングを逸してしまった。
彼女は部屋着のワンピースに着替えていた。リラックスした雰囲気ではあるけれど、丁寧に化粧をしていて、長い髪もきちんとセットしていた。帰宅してからもう一度、化粧も髪も直したようだ。
「本当に来てくれたんですね。いらしてくれないかもしれないって、ずっと不安で、今日の仕事、手につきませんでした」
「ぼくも同じです。訪ねるべきか、止めるべきか、迷っていました」
「でも、来てくれた……。わたしに会いにいらしてくれたわ」
「電車の中でのことを考えたら、会わないわけにはいかないっていう気になったんです」
仲本は胸元の高さの靴箱に手をついて靴を脱いだ。自宅の靴箱と同じつくりだから、ついつい、帰宅した時と同じ行動をしていることに気づいた。タブーを冒しているという想いが強まり、心地いい息苦しさを覚えた。
彼女の後ろについて廊下を歩く。
ウエストのくびれがワンピース越しでもはっきりと見て取れた。尻《しり》を包んでいるパンティのラインがうっすらと透けていた。そして期待を込めて肩口に目を遣《や》った。けれどもそこには、ブラジャーのストラップは見えなかった。
リビングルームに入ると左側にキッチンがあった。自宅と同じ間取りだから当然だけれど、仲本はそれを目の当たりにして、あらためて、タブーを冒してしまったという想いが胸の奥底から迫《せ》り上がった。
罪悪感を含めて、いろいろな想いが交錯する。今ごろ、妻はこの真下のあたりで夕刊でも読んでいるのだろうか。それともキッチンに立って料理をしているかもしれない。
「お食事はご自宅でとられるんですよね」
西本沙緒里はキッチンに向かった後、「お茶を淹《い》れますから」と言ってコンロに火を点《つ》けた。
キッチンに立った西本沙緒里との二メートルあまりの間隔を縮められないまま、仲本はダイニングテーブルの前に坐《すわ》った。
幅二メートル、奥行き一メートルほどもある大きなテーブルだった。自宅に置いてあるものよりも間違いなく立派だ。壁にはさりげなく風景画が飾られているし、調度品も高価そうなものが目につく。生活レベルが違うことがひと目でわかった。
仲本は安堵《あんど》した。
もしも生活に困っているようだったら、躯《からだ》を求めないほうが賢明だと漠然と思っていた。もちろん、西本沙緒里がそんなことのために電車の中で、いかがわしいことをして誘ってきたのではないとは思っていた。
湯が沸騰をはじめる。彼女はコンロの火を止めて、湯を急須《きゆうす》に注ぐ。ブラジャーを着けていないからだろうか、たったそれだけの動きにもかかわらず、乳房のあたりが大きく揺れる。真正面からではなく、真横から眺めているからはっきりと見えるのかもしれない。
うっすらと、ワンピースに乳首の先端が浮かび上がっている。階下にいるはずの妻のそれを見ても何とも思わないけれど、西本沙緒里のそれに勃起《ぼつき》した陰茎が反応して脈動が走った。
仲本は立ち上がった。窮屈な状態だった陰茎がさらに勃起するための空間が生まれた。
キッチンに入り、彼女の傍らに立った。緑茶のいい香りが湯気の広がりとともに漂いはじめた。
彼女のそばにいるのに、とてつもなく遠くに感じられる。触れることなどとてもできそうにない。その原因が、彼女の警戒心の強さを察しているからなのか、自分がただ臆病《おくびよう》なだけなのか、どちらなのかよくわからない。いずれにしろ、ちょっと手を伸ばせば触れられるのに、手が出せない。
「ゆっくりとしていられるだけのお時間、ないんでしょうか?」
湯を注ぎ終えたところで彼女は顔を上げた。
朗らかな表情は失せていた。潤みを湛《たた》えた瞳《ひとみ》が艶《つや》やかな輝きを放っていた。緊張のためか、声は震え、うわずっていた。
「九時頃には帰宅したいところですね」
「ということは、二時間弱はご一緒していられるということ?」
仲本はうなずきながら、ラブホテルの休憩時間と同じだ、などとつまらないことを考えた。そして、もし自宅ではなくて、ラブホテルに入っていたら、抱きしめることやキスすることをためらわなかっただろうと思った。
このままの成り行きで、ダイニングテーブルを挟んで坐ってしまったら、この人妻に触れるのは難しくなる……。
西本沙緒里が湯飲み茶碗《ぢやわん》にお茶を注ぎ終えたのを、仲本は傍らで見ながらそんなことを考えていた。
彼女が急須を置いた。
ワンピースに浮かび上がる乳首が震えた。唾液を呑み込んでいるらしく、喉元《のどもと》のあたりが上下した。頬から首筋にかけて赤みが濃くなった。
彼女は触れられるのを待ち望んでいる……。
絶対にそうだ。これは男の都合のいい思い過ごしではない。お茶を飲みながら世間話をしたかったわけではないはずだ。
おれはいったい何をためらっているんだ?
仲本は自問した。しかし興奮しているせいか、同じマンションに住んでいる人妻だからとか、階下に妻がいるからではないかとか、旦那《だんな》がいない間に上がり込んでいるからといった、すでに何度も考えたことしか思い浮かばなかった。
「どうして、黙っていらっしゃるんですか?」
西本沙緒里がためらいがちに言った。しかしその言葉の奥には、どうして触れてくれないのか、といった熱い想いが込められているようだった。
「せっかく淹れてくれたのに、今はお茶を飲みたくないなって思っていたんですよ」
「あら、ごめんなさい、そうでしたのね。ほかに何か、お飲みになりますか」
「いえ、いりません。西本さん、本当に、お気遣いなく」
「何かおっしゃってください。せっかく、いらしてくれたんだから」
「だったら……」
「何?」
「西本さんが……」
「えっ」
「あなたが欲しい……」
仲本は腹の底に力を入れながら言った。
膝《ひざ》がかすかに震えた。ついに言ってしまった。彼女の反応を見極めたかったが、ここまではっきりと口にしたからには、ためらっていてはダメだと思った。
仲本は彼女の応《こた》えを聞かずに、抱きしめた。拒まれたらどうしようと不安だったけれど、それはすぐに消えた。
キッチンにはふたりの息遣いだけが満ちている。コンロのすぐ横に置かれたままになっている湯飲み茶碗から、今しがた淹れた緑茶のいい香りが漂ってくる。
仲本は黙っていた。タブーを冒したという想いに心が痺れていた。だからただこうして抱きあっているだけでも満足だった。
彼女も同じ気持なのかもしれない。腕の中でじっとしたまま、口を開かず、男の腕の強さの感触を味わっているようだった。
「男の人って、こんなに逞《たくま》しかったんですね」
西本沙緒里が頬を胸につけながら呟《つぶや》いた。旦那は長期の出張で家を空けているということだったけれど、彼女のさりげない言葉からも、それが事実だということがうかがえた。
「ほんとに、男に触れていなかったんですね」
「ずっとひとりにさせられていたの……」
「この部屋で、ひとりで悶々《もんもん》としていたんですね」
「そうよ……。下の部屋に住んでいる仲本さんが奥さんと仲良くしている時、わたしは、自分のこの躯《からだ》を、持て余していたの」
「かみさんと仲良くなんてしてませんよ。今では飯をつくってくれる単なる同居人っていう感じなんですからね」
「いいのよ、そんな風に卑下しなくても」
「西本さん……。これからは、ぼくがそばにいるんですから、躯がうずいてどうしようもなくなった時は、呼んでください」
「苗字《みようじ》でなんて呼ばないで……。名前を、わたしの名前を言って」
彼女は甘えるように、頬を胸にすりつけながら頭を左右に揺すった。
背広に化粧や匂いが付いてしまうと思ったけれど、彼女を止めるわけにはいかなかった。その代わりに仲本は、抱きしめている腕に力を入れて、
「ぼくが沙緒里さんを可愛がってあげますよ」
と、長い髪に隠れている耳に向かって囁《ささや》いた。
沙緒里が顔を上げた。
頬が紅潮していた。瞳を覆う潤みが厚みを増していて、まばたきのたびにさざ波が立った。
キスをしたわけでもない。もちろん性的な交わりもしていない。それなのに、彼女が女として熟れきっていると感じた。女体に溜《た》めている欲望が噴き出していた。
仲本は、彼女の豊かな乳房に手を伸ばした。
ブラジャーを着けていない乳房は、ワンピース越しでもダイレクトにそのやわらかみが伝わってきた。
乳房は豊かだ。とりわけ下辺が充実している。いくらか外に開いているようだけれど、それでも乳房がつくる谷間は深そうだ。
乳房の下辺は、人妻とは思えないくらいに弾力に富んでいた。仲本はこれまで人妻の乳房を揉《も》んだことはなかったけれど、旦那に揉まれてやわらかくなりすぎていると想像していた。それがいい意味で裏切られたのだ。
腰を落とし気味にして頬と頬を重ねた。
すべすべした肌だ。肌理《きめ》の細かさが感じられる。もちろん、そうしている間も乳房を揉みつづける。
「いけないことを、わたし、しているのかしら」
沙緒里が瞼《まぶた》を閉じたまま呻《うめ》くように囁いた。
いけないことをしているから止めたい、という意味ではない。自分が不貞を働いているという罪の意識を、そう言うことで薄くさせているようだった。
仲本はすかさず言葉をつないだ。
「いけないことかもしれませんけど、男と女が求めあった結果なんです。ふたりの素直な心が結びついたからなんです。それを、いけないとは責められないと思います」
「仲本さんはそういう考え方をしているから、奥さんに悪いって思わないんですね」
「ぼくは自分が歩みたいと思うところに向かって突き進んでいきたいと思っているんです。もちろん、妻と一緒に歩む人生もあるとわかっています」
「奥様に悲しい想いをさせてはダメよ」
「もちろん、わかっています……。だからといって、自分の望みや希望を捨てた人生にしたいとも思っていないんです」
「しっかりと考えたうえで、訪ねてくださったのね」
「ぼくだけでなくて、沙緒里さんも幸せになるだろうと思うからこそ、訪ねようと決めたんです」
「ああっ、うれしい」
沙緒里は上体をのけ反らせた。バランスを取るために、彼女は腰を前方に突き出すようにした。
彼女のふっくらとした下腹部と、屹立《きつりつ》した陰茎が触れ合った。その瞬間、
「ああっ、仲本さん、すごく熱い……」
と、喘《あえ》ぐように言った。
仲本は乳房を揉み上げる速度を速めた。
ワンピースの上から乳首を摘んだ。
硬く尖《とが》ったそれは、小指の先くらいの大きさだ。芯《しん》から硬くなっていて、熱気を放っている。指の腹で圧迫するたびに、彼女の口から掠《かす》れた吐息が洩《も》れ、くちびるが震える。
「ああっ、どうしよう、わたし。おかしくなっちゃいそう……」
沙緒里が感極まったように、とぎれとぎれにうわずった声を洩らした。
ぎくしゃくしていた動きがしなやかになった。受け身一辺倒だった彼女が、愛撫《あいぶ》をしようと少しずつ指先を動かしはじめた。
人妻の緊張が、今まさに、性的な高ぶりによって覆われていく……。
彼女の肌を通してそれを感じた。
仲本は腰を突き出し、陰茎を彼女の下腹部にこすりつけるように寄せた。その間も、乳房や乳輪、そして硬くなった乳首への愛撫を怠ることはなかった。
下辺がたっぷりとしている乳房がやわらかみを増している。ワンピースの胸元の隙間から、女性特有の生々しい匂いが立ち昇ってくる。男の情動が煽《あお》られ、欲望が増幅する。
仲本はそれでも、彼女とキスをしていいものかどうか迷っていた。沙緒里は人妻だ。心のどこかで貞操を守ろうとしても不思議ではないし、それがキスだけはしないということであってもおかしくない。
キスを迫って、沙緒里に拒まれたら……。
そうなったらきっと、彼女の人妻としての貞操観念や旦那のことを、否応なしに思い起こさせられるだろう。情動はいっきに醒《さ》めてしまうに違いない。仲本の迷いはそこにあったのだ。
彼女のお尻《しり》に左のてのひらをあてがった。
小さな面積のパンティを穿《は》いているというのが、指先に伝わってきた。
揉んだり掴《つか》んだりを繰り返す。見た目はふっくらしていたけれど、実際に触れてみると、引き締まったお尻だ。そこは乳房と同じくらいに鋭い性感帯があるようだった。強弱をつけた愛撫をするたびに、彼女は上体をよじり、太ももを交差させたり膝《ひざ》を震わせたり、甘えたような吐息をかすかに洩らしたりした。
「キス、して……」
沙緒里が顔をあげて、熱い眼差《まなざ》しを送ってきた。
「いいんですか? 沙緒里さん」
「わたし、キスって大好きなの。それとも、仲本さんはおいや?」
「まさか……。こんなにも魅力的なくちびるが、いやなわけないじゃないですか」
「だったら、お願い」
沙緒里は顔をあげたまま、乳房をなすりつけるように押しつけてきた。
薄いくちびるが半開きになった。ワインレッドの口紅が唾液《だえき》に濡《ぬ》れて、妖《あや》しい輝きを放った。
「仲本さん、キスして」
彼女の掠れた声が、頭の芯まで響いてきた。うねっているくちびるに、仲本は引きつけられるように顔を寄せた。
くちびるを重ねた。
ワインレッドの口紅の甘い香りが一瞬にして口の中に拡がった。妻がつけている口紅の香りとは違っていたせいか、仲本はあらためて人妻とキスをしたのだと思った。
舌を吸われる。舌先を突っつかれる。唾液が送り込まれる。沙緒里にためらいはない。キスをしながら、彼女のほうから乳房をなすりつけてくる。
長いキスになった。
仲本は舌先が痺《しび》れるのを感じた。それでも、彼女がキスを止めるまでは、自分から口を離すつもりはなかった。
口の底に溜まった唾液を呑み込む。舌先の痺れがつけ根のほうまで拡がっている。口紅の香りは薄らいできたが、その代わりに、彼女の躯《からだ》から放たれている甘く生々しい匂いが口に拡がっている。
口を重ねたまま、彼女のくちびるの周りを舌先で舐《な》め回す。下くちびるを軽く噛《か》む。噛んだまま、引っ張って口の中に引き込んだりする。キスを味わっているつもりだったけれど、いつの間にか、彼女の快感や性欲を引き出そうとする愛撫に変わっていた。
沙緒里がくちびるを離した。頬を染めている赤みが濃くなっていて、瞳《ひとみ》を覆う潤みも厚みを増していた。
「キス、お上手なんですね。こんなに素敵なキス、わたし、初めて……」
「そのセリフは、ぼくが言いたいところですよ。さすがに、キスが好きっていうだけのことはあるな」
「仲本さんにリードしてもらっただけです。キスは好きだけど、あんまりしたことがないんです」
沙緒里がはにかんだような微笑を口元に浮かべた。
唾液に濡れたくちびるの周りが鈍く光った。淫靡《いんび》さを湛《たた》えた輝きだった。男の性欲を煽る表情だった。
もう一度、くちびるを重ねた。
舌を絡めながら、仲本は右手を彼女のお尻にあてがった。ワンピースを摘んで少しずつ上げていった。
裾《すそ》をすっかり上げきったところで、ストッキング越しに、太ももの裏側のやわらかい部分を撫で回した。
「ねえ、ソファに行ってください。ここだと落ち着かないから……」
「このままキッチンにいたくない?」
「わたし、立っていられなくなりそうなんです」
沙緒里のウエストのあたりに腕を回した。
人妻ではあるけれど、腰回りに余分な肉はついていない。くびれがつくる鋭角的な曲線を、仲本は指先ではっきりと感じ取った。
L字に置かれた革張りのソファに坐った。
少し居心地の悪さを感じた。このソファだけでなく、壁際に置いたプラズマテレビまでも、階下に住んでいる自宅の置き場所と同じだった。
今頃、夕食の支度を終えた妻も、ここと同じ場所に据えたソファに坐っているかもしれない……。
そんなことをチラと考えただけで、タブーを冒しているという想いが全身を巡った。
沙緒里の膝頭に触れる。ストッキングに包まれたそこをゆっくりと撫でる。ワンピースの裾をめくりながら、太ももを撫で上げていく。細かい編み目のストッキングはツルツルした感触だ。指先が心地いい。太ももの中程までがあらわになっても、彼女は照れたような表情を浮かべるだけで拒む様子はない。
仲本は勇気を得た。
彼女の揃えた太ももに割って入るように、右手を差し込んだ。
張り詰めたストッキングの内側にある太もものやわらかい肉を感じる。そこは湿り気を帯びていて、熟成された女だけが放つ生々しい匂いが湧きあがってきている。
右手の指をゆっくりと広げる。そうやって、太ももを押し開いていく。それを察した彼女は太ももに力を入れて抵抗する。仲本は諦《あきら》めずに、指を広げたり閉じたりする。それでも彼女は受け入れない。
無言のやりとりが、静まり返った人妻の家のリビングルームでつづく。仲本は彼女がソファに坐ったままの恰好《かつこう》で、足を広げる淫《みだ》らな姿を想像する。それが高ぶりを刺激し、強引につづける後押しとなる。
「だめ、仲本さん。やめて、恥ずかしいわ」
「奥さんの恥ずかしがっている表情って、すごく淫らですよ。男の気持が掻《か》き立てられてしまいます」
仲本は猥雑《わいざつ》な言葉をわざと囁いた。沙緒里の顔の赤みが濃くなり、熱気が強まった。それとともに、太ももに入れている力が少しずつ抜けていくのを感じた。
もうひと押しだ。
彼女の長い髪を掻き分けると、耳たぶに向かって息を吹きかけた。
「ああっ……」
彼女の半開きのくちびるから、甘い吐息が洩れた。閉じた太ももから力が抜けた。
仲本はすかさず、彼女の太ももに差し入れている指を左右に押し広げた。ここで時間をかけてしまうと、彼女の心にためらいや迷いを芽生えさせるだけだからだ。
膝が割れた。
ストッキングに包まれた太ももが震える。ワンピースの裾がめくれあがる。沙緒里は恥ずかしそうに瞼《まぶた》を閉じる。
足の開きが九十度くらいの角度まで広がった。裾はずりあがり、太もものつけ根まであらわになった。
仲本はソファから尻を落として、フローリングの床に坐った。そしてすぐ、彼女の足の間に躯を入れた。
両手を彼女の膝にあてがった。さらに大きく、足を開かせた。
人妻の陰部が剥《む》き出しになった。
ベージュのストッキング越しに、小さな面積のパンティが透けて見える。
ボルドー色のような赤黒い色味だ。レースがウエストと股《また》ぐりの部分にあしらってある。陰毛の茂みあたりがこんもりと盛り上がっていて、そこだけボルドー色が濃くなっている。
膝に触れているてのひらを、太もものつけ根に向けて滑らせる。内側の筋肉が震える。パンティに覆われた下腹部がそれにつられるように、小さく波打つ。
「すごく淫らな恰好ですよ、奥さん」
「仲本さん、そんな言い方しないで……。お願いだから、名前で呼んで、ねっ」
「奥さんと言っちゃ、いけませんか?」
「どうしても、それがいいのね」
仲本はうなずいた。沙緒里の名前に「さん」とつけるよりも呼び捨てのほうがいいし、それよりも、奥さんのほうがもっといい。タブーを冒しているという背徳の気分が強まるのだ。それは自分だけでなく、沙緒里にしても同じだ。
「奥さんを、ぼくは自由にできるんですね」
「ええ、そうよ。あなたの好きなようにして……。そして、わたしをエッチで淫らな女に変えて」
沙緒里は上体を震わせると、太ももからすっかり力を抜いた。
仲本は屈《かが》み込むようにして、陰部に顔を寄せた。割れ目から溢《あふ》れたうるみだろうか、パンティに小さな染みを見つけた。それはわずかな時間に大きくなった。
「パンティに染みができていますよ。やりたくてたまらなかったんですね」
彼女の羞恥心《しゆうちしん》を煽《あお》るつもりで、わざと下卑た言葉を選んで言った。
仲本は顔を沙緒里の股間《こかん》に近づけた。
ベージュのストッキングの編み目のひとつひとつまで見て取れる。ボルドー色の小さなパンティが透けて見える。甘さの濃い生々しい匂いが湧きあがり、鼻腔《びこう》に入り込む。
陰毛の茂みのあたりに、くちびるをつけた。
人妻の下腹が大きくうねった。太ももの内側のやわらかい肉が揺れた。ううっという濁った呻《うめ》き声が彼女の喉《のど》のあたりから響いた。
仲本は舌先に唾液《だえき》をたっぷり載せると、陰部に這《は》わせた。
ストッキングのざらついた感触が伝わってくる。甘い匂いが口に拡がる。下腹のうねりを直にくちびるで受け止める。
彼女が足を閉じようとして太ももに力を入れたのがわかり、咄嗟《とつさ》に、彼女の両膝に手を当てた。
「ああっ、恥ずかしい。こんなエッチな恰好、初めて」
「でも、いやじゃないでしょ? もっともっと淫らな女になりたいでしょ?」
「そうなの…。わたしは淫らなひとりの女になりたいの。貞淑な女を演じるのはもういやなの」
「あなたに電車の中でいたずらされた時から、ぼくはわかっていましたよ」
「わたしがエッチな自分を晒《さら》け出したいと願っていると見抜いたの?」
「今朝、ゴミ置き場で沙緒里さんの表情や瞳を見た時、そう感じました」
彼女は小さく喘ぎ声をあげると、ブルブルッと上体を震わせた。それにつられて、太もものつけ根までめくれあがっているワンピースの裾が揺れた。
「床に着けている足をソファに乗せてください」
「えっ……」
「その前に、ストッキングを脱がしたいな」
仲本は言うと、ストッキングのウエストのゴムに指を引っかけた。そして彼女の同意がないまま、いっきに引き下ろした。
太ももの肌は透きとおるような白さだった。人妻とは思えない初々しさだ。生々しい匂いがあたりにさっと拡がる。ボルドー色の濃い色のパンティが際立つ。そこについた染みが、先ほどよりも拡がっている。
「さあ、奥さん。足をソファに乗せて」
彼女をうながした。
床に足をつけた足がおずおずと上がる。淫らな恰好だ。膝を折り曲げ、窮屈そうにソファに足を乗せる。
仲本は彼女の向こう脛《ずね》を掴むと、左右に広げた。
パンティがあらわになった。陰毛の茂みがうっすらと透けて見えた。そればかりか、割れ目を覆っている外側の厚い肉襞《にくひだ》がめくれているのも見て取れた。
淫らな恰好だ。
人妻がソファの上で膝を曲げて足を開き、陰部を晒している。
パンティを着けているとはいえ、盛り上った割れ目の形がくっきりと見える。荒い息遣いをするたびに、厚い肉襞が波打つ。恥ずかしそうな表情をしているけれど、その恰好に酔っているようでもある。
同じマンションのすぐ上の階に住んでいる人妻が、ここまで淫らな恰好をしているのだ。
ヒリヒリするくらいに、陰茎が膨脹している。笠がパンツのウエストのゴムの下まで這い出てきている。幹の芯を脈動が駆け上がるたびに、細い切れ込みから透明な粘液が溢れている。
「このままの恰好で、パンティを脱いだ姿も見てみたいな」
「ううっ、できない、そんなこと……」
沙緒里は、ソファの背もたれに寄りかかったまま、上体を震わせた。しかしその拒絶の言葉とは裏腹に、瞳《ひとみ》を覆う潤みが厚くなり、好奇心に満ちた艶《つや》やかな輝きを放っていた。唾液に濡れたボルドー色のパンティに、うるみが濃い染みとなって広がっている。
「ほら、早く」
「強引すぎます。できません、わたし。恥ずかしくて……」
「ひとりで脱げないんだったら、ぼくが手伝ってあげますから」
仲本は強引に、小さな面積のパンティのウエストのゴムに指をひっかけた。
彼女は絶対に拒まないはずだ。もしも拒むなら、ストッキングを脱がした時に拒んでいておかしくない。
パンティを引き下ろす。
いやがるように首を左右に振ったが、足を閉じることも、両手でパンティを押さえることもしない。その逆に、彼女は腰をさりげなく浮かして、協力さえしてくれた。
沙緒里は、濃い陰毛の茂みを剥き出しにして、先ほどと同じ恰好《かつこう》になった。
仲本は顔を割れ目に近づけた。
陰毛を口にふくむ。それを唾液をつけながら束のようにしていく。地肌を舌先で突っつく。ゆっくりと割れ目の端に向かう。そうしながら、両足の膝から太もものつけ根にかけて、指を滑らせていく。
敏感な芽に辿《たど》り着いた。
ぷくりと大きく膨らんだそれは、うるみにまみれていた。
沙緒里は何も言わない。だが、躯は正直だ。舌を動かすたびに、割れ目からうるみが流れだしていた。
割れ目の厚い肉襞が圧迫されてぷくりと盛り上がっている。下腹が前後に大きくうねり、肉襞が連動して波打つ。そのたびに、尖《とが》った敏感な芽があらわになったり隠れたりを繰り返す。
人妻の割れ目だ。
独身の女性とは違う、熟れた割れ目だ。
こんなに淫靡《いんび》で魅力的なものを旦那《だんな》は放っているのか、もったいない……。
真面目そうな旦那の顔がチラと脳裡《のうり》を掠《かす》めた。
旦那は自分よりも四、五歳は年下だろう。マンションのロビーですれ違ったことが何度かある。東南アジアに出張に出かけることが多いということだが、どんな仕事をしているのか知らない。知りたいとも思わないから、沙緒里に訊《き》きもしなかった。
仲本は舌を差し出した。
敏感な芽をすっと掃くようにして舐《な》めた。
「ああっ、いい……」
「こんなふうに舐められることって、ずいぶん久しぶりみたいですね」
「どうしてわかるの?」
「奥さんの大切なところが、愛撫を悦《よろこ》んでうねうねと動いてたり、ひくついているからですよ」
「仕方ないの……。主人なんて、わたしのことになんて興味がないから」
「こんなに熟れきった躯なのに……。もったいない。躯のいたるところで、男をほしがっているのがわかりますよ」
「ああっ、言わないで」
「ご主人に『奥さん、欲求不満ですよ』って、教えてあげたいくらいです」
仲本は彼女の高ぶりを煽る言葉を囁《ささや》いた。
恥じらいが強まれば強まるほど、うるみが溢れ出てくる。興奮も強まり、性感も鋭さを増すようだ。
「ご主人に、こんな恰好を見せたことがあるんですか?」
「あの人はセックスに淡泊だし真面目なの。そんなことを求めてきません」
「ぼくは見たいな。もっともっと、奥さんの淫《みだ》らな恰好を」
「これ以上の恥ずかしいことがあるの?」
彼女の声は震えていた。
いやがるふうなところも、拒もうという響きも感じられなかった。それどころか、恥ずかしいことを求めている艶やかさがあった。
「ソファの上で、今度は四つん這《ば》いになって……。後ろから奥さんの大切なところを眺めたいんです」
彼女は苦しげな呻《うめ》き声をあげた。しかし、すぐ腰を浮かした。そしてためらいがちではあったが、躯をずらしはじめた。
沙緒里はソファの上でお尻《しり》をこちらに向けた。座面の端に膝をつき、背もたれの上側に肘《ひじ》を乗せた。
ソファから突き出た足先は緊張のためにピンと伸びている。ふくらはぎの筋肉が、時折、わずかに盛り上がる。それに連動するように尻が引き締まるらしく、ワンピースの裾《すそ》がゆらゆらと揺れる。
彼女は何も言わない。
唾液《だえき》を呑《の》み込む濁った音と鼻にかかった掠れた息遣いが響くだけだ。
仲本は手を伸ばした。
ワンピースの裾を摘む。ゆっくりとめくり上げていく。太ももの裏側が少しずつあらわになる。人妻の太ももだ。日焼けなどまったくしていない部分だ。そこは白さよりも、透明感のほうが印象的だ。
パンティはすでに脱がしている。裾をめくってしまえば、人妻の陰部があらわになる。仲本はそれを見る愉《たの》しみを少しでも先に延ばすために、ゆっくりとしか裾を上げない。
「ううっ、ゾクゾクする……。仲本さんって、お上手なのね。奥様、こんなご主人を持って、幸せね」
「女房にこんなことはしませんよ」
「どうして?」
「新婚当時は似たようなことをしたことがありますけど、生活を一緒にするうちに性的な好奇心を抱く対象ではなくなりましたね」
「そう思っているのは仲本さんだけじゃないの? 奥様は待っているかもしれないわ」
「ははっ、まさか……。そんなことより、奥さんの太もも、すごく白かったんですけど、赤く染まってきていますよ」
「だって、こんな恰好させられるのって初めてだから……」
「淫らでいやらしい恰好になったことを、躯が悦んでいるみたいだ」
沙緒里のお尻がキュッと引き締まった。太ももの裏側の筋肉が波打ち、肌を染める赤みが拡がった。
仲本は我慢できなくなった。長く愉しむつもりでゆっくりと裾をめくっていたのに、欲望に焦れてしまった。
裾をめくり上げた。
エロスを感じるよりも先に、太ももから尻にかけての肉の壁が押し寄せてくるような迫力を感じた。
人妻の割れ目は、太ももに圧迫されて盛り上がっている。それでも左右の厚い肉襞《にくひだ》はめくれている。赤黒い色に染まったそれは、うるみに濡《ぬ》れて妖《あや》しくテカっている。深く息を吐き出すたびに、肉襞は尻から敏感な芽に向かってゆったりと波打ち、テカり方が微妙に変わる。
「奥さんの大切なところが、うれしそうにひくついていますよ……」
仲本は言うと、盛り上がった肉襞にくちびるを寄せた。
ぷくりと盛り上がった厚い肉襞が震えたかと思ったら、うるみがいっきに溢れ出てきた。
くちびるも舌も濡れた。そればかりか、口の中にまで流れ込んできた。
人妻のうるみだ。
濃厚な甘味がある。溢れ出るのをじっと待っていたかのような濃さが、生々しい味の中に感じられる。むせそうになりながら、仲本は唾液とともに呑み込む。
お尻のほうから敏感な芽に向けて、波立つようにめくれた肉襞がうねる。内側の薄い肉襞が立ち上がり、意志を持っているかのように舌先に絡みついてくる。外側の厚い肉襞と連携を取りながら、割れ目の中へと引き込む動きをする。
肉襞の熱気が強まる。
うるみも熱くなる。
彼女のたっぷりとしたお尻も太ももも高い熱を放ちはじめる。肌の赤みが濃さを増す。それでいてその赤みには透明感が感じられるようになっている。
割れ目全体に顔を押しつける。生々しい匂いのうるみに顔全体が濡れる。そんなことをすることで、同じマンションの上階に住んでいる人妻と交わるというタブーを冒した悦びが全身に満ちていく。
仲本は顔を離した。
吐息をついて呼吸を整えると、両手を伸ばして割れ目に触れた。
割れ目を左右にゆっくりと押し開いた。
赤黒い肉襞の内側は、鮮やかな朱色だった。沙緒里は旦那のことを、セックスに淡泊だと言っていたが、この鮮やかな朱色の肉襞がそれを証明しているような気がした。
「奥さんの大切なところが丸見えになっていますよ」
「ああっ、そんな恥ずかしいこと、言わないで」
「何かを求めるようにヒクヒクしています……。何が欲しいんですか」
「あん、わかっているくせに……。意地悪っ」
彼女は腰を左右にゆっくりと振った。それに連動するように、外側の厚い肉襞が波打ち、内側の薄いそれはびらびらと震えた。
仲本の視線に入っているのは、沙緒里のお尻と太ももと割れ目だけだ。
肉襞に集中するうちに、割れ目だけしか見えなくなってきた。それでもじっと凝視していると、人妻と触れ合っているというより、自分がまるで、割れ目とだけ向きあっているような気になった。
仲本はもう一度、割れ目にくちびるをつけた。
舌を押しつけながら、お尻のほうに上がった。ウエストのあたりまで舌を滑らせた。ワンピースをめくると、背骨の凹みに沿って、うなじから髪の生え際まで唾液を塗り込んでいった。
沙緒里のうなじのあたりから舌を離すと、仲本はもう一度、彼女を眺めた。
淫らな姿だ。
割れ目が剥《む》き出しだ。
深く息を吸い込むたびにお尻の左右の丘が揺れる。太ももの内側のやわらかい肉が小刻みに震え、うるみにまみれて艶《つや》やかに輝いている割れ目の光り方が微妙に変わる。
敏感な芽に触れた。
めくれ返った厚い肉襞が指にへばりついてくる。ぷくりと膨れた芽が、くっきりとした円錐《えんすい》の形になっていく。
沙緒里はソファの座面の端に膝《ひざ》をつき、背もたれの上側に両肘をつたけまま、お尻を緊張させる。荒い息遣いに、くぐもった喘《あえ》ぎ声が混じるようになる。
「ああっ、いい……」
沙緒里がためらいがちに呻き声を洩《も》らしながら、お尻を左右に振った。
これこそ、成熟した女が男を誘うしぐさだ。
右の指で敏感な芽を撫《な》でつづけたまま、沙緒里の背中に凹みに沿って舌を滑らせた。そして左手で、ワンピースを腋《わき》の下のあたりまでめくり上げた。
左のてのひらで、乳房を包みこむ。豊かな下辺から揉《も》み上げる。もちろん、敏感な芽への愛撫もつづけているし、うなじから髪の生え際にかけて舌先で舐めてもいる。
沙緒里の背中が丸まったり反り返ったりする。そのたびに、胸板をつけている仲本の上体も揺れる。
「ううっ、わたし、信じられない」
「何がですか?」
「だって、こんなに、気持がいいんですもの。ずっと忘れていた気持よさのような気がします」
「ご主人は、悦ばせてくれなかったんですか?」
「何度も言ったけど、主人は本当に性的に淡泊な人なの。わたしとセックスすることなんかに、興味のない男なのよ」
「欲求不満が溜まるんじゃないかな」
「主人しか知らなかった時は、そんなことはなかったわ。でも、もうだめ」
「どうして?」
「あん、わかっているくせに……」
「聞きたいな。どうして、もうだめなんだい?」
「あなたと気持いいことができるって知ったから……」
沙緒里はうわずった声で囁いた途端、全身をブルブルッと震わせた。
彼女の体温がいっきに上昇するのがわかった。背中もお尻も乳房も、そして敏感な芽の先端の尖った部分までも熱が上がった。
「して、仲本さん」
「ここで? ベッドに行かなくてもいいんですか?」
「いやっ、それは」
沙緒里はこちらに顔を向けると、苦しげな表情で言った。最後の声だけは冷静だった。
なぜ寝室に行くのを拒むのか、仲本には理解できた。
旦那と共に眠る空間だ。神聖な場所というわけではないだろうが、そこだけはタブーを冒していない場所として残しておきたかったに違いない。
「寝室はダブルベッド?」
四つん這《ば》いになった沙緒里の背後から覆いかぶさりながら、仲本は囁いた。
彼女は首を小さく横に振った。垂れ落ちた長い髪が揺れ、化粧の甘い香りが漂った。
「結婚当初からツインベッド……。ごめんなさい、どうしても見せたくないの」
「旦那との秘め事の場所だもの、仕方ないさ」
「ベッドルームを守ることで、あなたとの関係で必要な約束事も守れそうな気がするの。気持の持ちようかもしれないけど、そうしたいの、わたし」
「奥さんの気持がわかるから、もうそれ以上説明しなくていいよ。ぼくはこのソファで十分だ」
「ねえ、して」
「旦那が坐っていたこのソファで?」
「ああっ、意地悪」
沙緒里は四つん這いになりながらも背中を反らし、お尻を突き出した。美しい円錐の形になっている豊かな乳房が震えながらひときわ張り詰めた。
お尻がつくる谷間に、屹立している陰茎がぴたりとかぶさった。
彼女のお尻はわずかにひんやりとしていた。そこは乳房が持つ弾力とは微妙に違う張りがあって、陰茎全体を包み込んできた。しかも、乳房と同じかそれ以上に、そこは強いエネルギーに満ちていた。
それは欲望なのか? それとも、彼女の満たされない想いを埋めようとする生きるエネルギーなのか?
仲本には判然としなかった。しかし、欲望であれ何であれ、彼女の求めるものを与えたいという想いだけは募った。
乳房をゆっくりと揉みながら、お尻がつくる谷の底に、陰茎を嵌《は》め込むように押しつけた。お尻の筋肉が緊張と弛緩《しかん》を繰り返すうちに、最初に感じたひんやりとした感触はなくなった。仲本は勢い込んで、沙緒里の腋の下のあたりまでめくり上げていたワンピースを脱がした。
人妻は全裸になった。
四つん這いのままでも、彼女のプロポーションの良さはわかった。
「奥さん、ソファから降りて……」
「ああっ、わたし、ゾクゾクする。セックスする前にこんな気持になったのって久しぶりよ」
「何を期待しているのかな? 言ってごらん」
仲本は敢《あ》えて訊《き》いた。
恥ずかしそうにうつむいた沙緒里の躯が、一瞬にして朱色に染まった。
「痺れるくらいに……、抱かれること……」
彼女は四つん這いのまま、恥ずかしそうにうつむいて途切れがちに囁いた。
沙緒里の腰を掴《つか》んだ。
膝立ちして、硬く尖った陰茎を寄せた。
妻との交わりの時ではあり得ない角度で勃起《ぼつき》している。幹を包む皮も痛いくらいに張り詰めていて、跳ねるたびにヒリヒリする。細い切れ込みから透明な粘液が溢《あふ》れていて、それが笠《かさ》と幹を隔てる深い溝に流れ込んでいく。
沙緒里がフローリングの床につけていた両手を、ソファの座面の端に乗せた。
割れ目の外側の厚い肉襞がひくつく。うるみに濡れたそれは、うねるたびに妖しさが増していく。うるみの条《すじ》が、白っぽい色合いに変わっていく。背中を染める鮮やかな朱色が濃くなっていく。
タブーを冒す。
仲本はそう思った。その瞬間、腹の底がブルブルと震えるのを感じた。斜め七十五度くらいの角度で屹立《きつりつ》している陰茎が、割れ目を掠めた。
ほんのわずかだったけれど、生温かい感触が先端の笠に伝わってきた。割れ目のうるみと透明な粘液が混じり合うのも感じた。
「ううっ、もう我慢できない……。きて、お願い。思いきり、貫いて」
「ずっと欲しくて、悶々《もんもん》としていたんだね」
「ああっ、そうよ。わたしはセックスのことばかり考えている女よ。欲求不満で眠れない女なのよ」
「ぼくの住んでいる上の階の奥さんが、そこまで欲求不満だったなんて……」
「絶対に、絶対に秘密ですから」
「もちろん。ぼくだって秘密にしてもらわないと困ってしまう」
「秘密の関係……。仲本さん、素敵よ」
沙緒里は腰を左右に小さく振った。お尻《しり》を落とし気味にして、割れ目を陰茎に近づけてきた。
割れ目に笠が重なった。
めくれていた厚い肉襞がまとわりついてきた。そして割れ目の奥に導くような動きに変わった。内側の薄い肉襞がそれに連動して、笠を挟み込んできた。肉襞だけでなく割れ目全体が、歓喜に酔い、踊っているようだった。
仲本は腹筋に力を込めると、腰を突いた。
笠が入った。
ぬるりとした感触とともに、陰茎がいっきに半分ほど埋まった。
「ううっ、すごい」
沙緒里が四つん這いになったまま、背中を何度もビクビクッとのけ反らせた。
肌を染める鮮やかな朱色が深みを増して、赤黒くなっていく。それは背中だけでなく、ウエストやお尻にも拡がる。
仲本は腰を突き入れ、割れ目の奥に向かった。
挿すというより、重ねた肉の隙間に無理矢理、ねじ込んでいくような感覚だ。陰茎全体がうねっている肉の塊に圧迫されている。それだけでなく、細かい肉襞が笠の端の細い切れ込みに入ってくる。
割れ目の入口付近の肉襞と中程、そして奥のそれとは動き方が違っていた。
入口付近の肉襞は、陰茎を奥に引き込むようにうごめいている。それは挿し込んだ後もつづいていて、まるで波が退く時のような動きに感じられる。中程のそれは、陰茎の幹を圧迫したり、撫でたりを繰り返す。最深部の細かい肉襞は、敏感な細い切れ込みの周囲を撫でて快感を引き出そうとしたり、内側に入り込もうとしたりする。
気持よさは格別だ。
女盛りの人妻の割れ目というものは、こんなふうになっているのかと感激した。彼女の躯《からだ》は、熟れていながらも、どこかしら初々しさもあるのだ。それが旦那とのセックスレスによるものなのか、ほかに理由があるからなのかはわからないが、いずれにしろ、女としての魅力に満ちていることだけは確かだ。
割れ目の外側の厚い肉襞は、幹にべたりと張りついている。前後に幹を動かすと肉襞はめくれたり、元に戻ったりする。
粘り気の強いうるみが、幹と肉襞のわずかな隙間から流れ出てくる。生々しい匂いとクチャクチャという濁った音が、静かなリビングルームに響く。
「ほんとに、すごいの。こんなのって初めて。ああっ、気持がいい……」
「奥さんの中も、熱くて、すごくいいですよ」
「だって、仲本さんのものが逞《たくま》しいから」
「これが欲しかったんですよね。奥深くまで挿し込んで欲しいって、奥さんはひとりで悶々としていたんですよね」
「躯のすべてが、悦んでいるのがわかるの。すごく、いい……」
沙緒里はソファの座面の端に両手をついたまま、肩で荒い息をする。頭を左右に何度も振り、深々と吐息をつく。
仲本は上体を倒して、彼女の背中を覆った。
深い挿入になった。それを感じながら左手で体重を支え、右手で乳房を包み込んだ。
沙緒里はフローリングの床について四つん這いになった。
仲本はそれでも深い挿入をつづける。割れ目の奥の肉襞のうねりが強まった。陰茎の笠や幹でそれをはっきりと感じる。
「わたし、いっちゃいそうな気がします」
「えっ? 気がするってどういうこと? 自分でわからないのかい?」
「だって、わたし、こんなに気持よくなったことがないから……。それに、そもそも男の人を迎え入れること自体が久しぶりだから」
「こんなに魅力的な女性を放っておくなんて、旦那は罪な男だな」
「あの人はわたしにまったく興味がないから、もう諦《あきら》めているの」
「その言葉、これまでにも何度か聞いているけど、大げさに言っているんだろうなって思っていたんだ。でも今はそれが事実だったとわかったよ」
「悲しいけど、わかってもらって少しうれしい……」
沙緒里はそこで言葉を呑み込むと、息を詰めた。
割れ目が引き締まった。
陰茎の膨らんだ笠も幹も圧迫された。細かい動きを見せていた肉襞《にくひだ》は、この時だけ肉の塊のように変わって圧《お》してきた。しかも、笠と幹をつなぐ深い溝にも、細い切れ込みにも、そして幹に浮き上がる血管や節の小さな凹凸にまでも張りついてきた。
圧力の強さに陰茎全体が痺《しび》れる。ふぐりの奥の熱気が強まる。我慢できなくなりそうだ。新たな快感が陰茎から引き出されたら、すぐにも白い樹液を放ってしまいかねない。
「奥さん……。このまま、いきたいよ」
「いって、お願い。わたしも我慢の限界。ああっ、いく時の感覚って、こういう感じだったのね」
「もしかすると、あまりにご無沙汰《ぶさた》で、いき方を忘れていたのかい?」
「恥ずかしいけど、そうなの……」
「もったいない……。これからは、ぼくがいかせてあげますからね」
「ああっ、うれしい」
沙緒里は呻き声をあげながら全身を硬直させた。背骨に沿って走るわずかに凹みが深くなった。お尻が引き締まり、それとともに割れ目の入口の肉襞にも力がみなぎった。
仲本は腰を前後に動かすスピードを速くした。
下腹部と彼女のお尻がぶつかる。四つん這いになっている彼女の上体が前のめりになる。それを両手で食い止めているのが、華奢《きやしや》な両肩の筋肉の動きでわかる。
階下の自宅に妻がいるかと思うと、頭の芯《しん》の痺れが強まった。ふぐりの奥の熱が高くなった。全身に熱気が拡がる。
絶頂は近い。
仲本は息を詰めながら腹筋に力を入れた。こうすれば絶頂に向かう時間を少なからず遅らせることができるからだ。
しかし、うねっている割れ目はそれを許さない。笠や幹に新たな刺激を加えて快感を引き出そうとしてくる。まるで躯の渇きを癒《いや》すかのように、陰茎を求めてくるのだ。
「仲本さん……。あなたの顔を、ううっ、見させて」
フローリングの床に四つん這いになりながら、沙緒里が首をよじってこちらに顔を向けてきた。
長い髪が頬にべたりと張りついていた。半開きにした口の端を濡《ぬ》らす唾液《だえき》が鈍く光った。ギラギラと輝く瞳《ひとみ》からは、性欲に彩られた輝きが放たれていた。
仲本は女の欲望の深さを垣間《かいま》見た気がした。白い樹液を放つことで満足するという男の単純な性欲とは違う、粘り気の強い欲望のように思えた。
「昇っていく時は、やっぱり、正常位がいいっていうことかい?」
「そのほうが安心して気持よさに浸ることができそうなの。後ろ向きだと、ひとりきりになっているみたいだから……」
「馴《な》れたつながり方が、気持よさをもっとも味わえるということか……」
「仲本さんは、正常位がお嫌いなの?」
「大好きです……。フローリングの床で、大丈夫かなと思っただけですよ」
「だったら、ソファで、お願い」
沙緒里はくぐもった声で言うと、腰を落として陰茎を抜いた。気だるそうに上体を起こし、粘っこい視線を送ってきた。
四人がゆったりと坐《すわ》れるくらいの幅のソファに、人妻が肌を朱色に染めながら横になった。
膝《ひざ》を曲げて足を開く。
腰を上下に小さく動かして誘ってくる。
淫《みだ》らな恰好《かつこう》だ。欲望を晒《さら》そうと決めた女の迫力を感じた。
割れ目の厚い肉襞がめくれたまま、お尻《しり》のほうから敏感な芽に向かって何度も波打つように動く。うるみが白い条となって流れ落ちていく。
沙緒里が右足を上げた。
ソファの背もたれに右足を乗せた。割れ目が剥《む》き出しになった。外側だけでなく、内側の肉襞まで、はっきりと見て取れた。
「さあ、いらして」
「こんな恰好、旦那《だんな》の前でも見せているんですか」
「ううん、初めて……」
人妻は瞼《まぶた》を閉じた。そして右足を上げたまま、腰をまた上下に動かした。
仲本はソファに上がり、彼女の足の間に入った。乳房を覆うように上体をかぶせた。
女体は燃えていた。
乳房も下腹部も割れ目も強い熱気に満ちていた。汗もうるみも熱く、吐き出す息も熱を帯びていた。
仲本は腰を突き入れた。
恥骨同士が何度もぶつかり、鋭い快感とともに細い痛みが生まれる。それらはすぐ、絶頂の兆しを増幅させる刺激に変わる。
仲本はソファの上での腰の動きをスムーズにするために腕の支えを外し、上体を彼女にあずけた。
乳房が潰《つぶ》れていく。尖《とが》った乳首を胸板で感じる。彼女の肩口に顎《あご》を乗せるようにしながら、腰を突く。長い髪から湧いてくる生々しい匂いが鼻腔《びこう》に入り込む。ソファの皮革の臭いがそれに混じる。
「ああっ、いい……」
沙緒里が部屋に響き渡る呻《うめ》き声を放った。それまでずっと控え目な呻き声だっただけに、彼女が快感に浸りきった証《あかし》に思えた。
仲本は瞼を閉じた。
快感に対する集中度が増した。
絶頂の兆しが限界に達したのがわかった。腹筋に力を入れても堪《こら》えていられなくなった。
「いきますよ、奥さん」
「きて、ああっ、きて。わたしも、ううっ、いきそうです」
「一緒に、いけそうですね。もうすぐです」
「ああっ、すごい、すごいわ。大きな波が押し寄せてきている……。どうしたらいいの、わたし、どこかに流されていっちゃいそう」
沙緒里が全身を硬直させた。太ももや下腹部の筋肉が引き締まるのが伝わってきた。割れ目の外側の肉襞だけでなく、奥のほうまでいっきに収縮した。
「いくわ、あなた」
「ぼくもだ、沙緒里……」
仲本は部屋に響くのもかまわずに、はばかりのない声をあげた。
瞼を閉じていながらも、目の前が真っ白になった。膨らんでいる陰茎の芯に強い脈動が駆け上がった。
白い樹液が噴き上がっていく。割れ目の最深部にぶつかるのを感じる。猛烈な快感が全身に満ちる。
沙緒里と出会ったばかりだということも、タブーを冒したということも忘れて快感に酔いしれた。
仲本はぐったりとして、躯の力を抜いた。沙緒里も荒い息遣いをしながら、黙って受け止めてくれた。
「よかったよ、すごく。こんなに気持よく最後までいけたのは久しぶりだ」
「わたしも、そうです」
「不思議だけど、奥さんとなら、何度でもできそうな気がするよ」
「うれしい……。なによりの誉め言葉だわ」
沙緒里が微笑んだ。穏やかな表情だった。
仲本は気だるさを感じながらも、腕の中にいる沙緒里の額にへばりついている髪を梳《す》き上げ、頬をやさしく撫《な》でた。
白い樹液を放った後というのは、ひとりになりたいものだ。それが遊びのつきあいだとしたらなおさらだ。しかし、沙緒里とはこのままでいたいという気持だ。階下が自宅だ。ひとりになるための言い訳などいくらでもつくれそうだったけれど、そんなことは考えもしなかった。
タブーを冒し、それを達成したという充実感だろうか? 人妻を抱いたという満足感だけでは、こんな気持にならない気がした。
これこそが、タブーを冒すということの本当の醍醐味《だいごみ》かもしれない。
単にセックスして欲望を解消することでは得られない充足感だし、好きな女性とのごく普通のセックスで得られる満足感とも違っている。
遊びでセックスしたという感覚もない。たぶんそれは、タブーを冒すという覚悟をしていたからだ。覚悟するということは、リスクも受け入れていることにほかならない。そこまで踏み込むことは、遊びではできないことだ。
「奥さん、すごく気持がよかったよ」
「わたし……。こんなに汗をかいたセックスって、何年ぶりかしら」
「それって、どういう意味かな?」
「言葉どおりです……。主人とする時はたいがい、パジャマの上着を着たままだから、汗が混じり合うなんてことがなかったの」
「そんなのはセックスじゃないよ。性欲を吐きだしているだけだな」
「だから言ったでしょ? 主人はわたしになんか興味がないって」
仲本はうなずいた。
妻とのセックスのことを思い浮かべ、そこまで冷えきった交わりではないと思った。そんなことをしたら後味が悪いだろう。夫婦関係が冷えていく原因にもなりかねない。
「仲本さん、また会ってもらえますか?」
「ぼくが先に、そう言いたかったな」
「わたしはあなたの家庭を壊そうとは思わないし、自分の家庭の亀裂《きれつ》を深くしようとも思っていません。だから、安心してください」
「それくらいのことはわかっているよ。奥さんが信頼できる女性だと思ったからこそ、ぼくはこの部屋を訪ねたんだから」
「ああっ、よかった……」
沙緒里は甘えた声で囁《ささや》くと、抱きついてきた。背中に爪が食い込むくらいに腕に力がこもっていた。
彼女のぬくもりを肌で感じながら、仲本はタブーを冒す悦《よろこ》びに浸りつづけた。
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第三章 妻の魅惑
仲本は落ち着かない日々を送っている。
自宅のソファでテレビを観ていても、ついつい、上の階のことが気になってしまう。同じ場所に据えられたソファに人妻も同じように坐《すわ》っているのだろうかとか、広い部屋で悶々《もんもん》としているかもしれないとか、細い指で女の敏感なところを慰めていないだろうかと妄想を膨らませてしまうのだ。
午後九時二十分。
子どもはちょうど風呂《ふろ》に入ったところだ。妻の久美が洗い物を終えて、キッチンから出てきた。
「久美、ちょっとここにおいでよ」
仲本は妻に声をかけた。少し照れ臭い。なにしろ、ずいぶん長いことセックスしていないし、触れ合うようなこともしていない。
妻の顔に戸惑いの色が浮かんだ。照れているのは自分だけではないようだった。
「どうしたの? 最近のあなたって、ちょっと雰囲気が変わったわよ」
「変わったってどういうこと? まさか、痩《や》せたなんて言わないだろうな。病気は全快して、今ではいたって元気だよ」
「ううん、そういうことじゃないの……。わからない?」
「何かな」
「最近のあなたって、出会った頃みたいにやさしいのよね」
「最近って、いつ頃からそんなふうに感じるようになったのかな」
「一カ月くらい前からかしら。浮気でもしているんじゃないでしょうね?」
「ははっ、まさか」
「そうよね、あなたがモテるわけないものね」
妻はソファに坐ると、穏やかな微笑を浮かべた。
仲本は風呂場のほうから音があがっていないかどうかを確かめた後、妻の肩にさりげなく腕を伸ばした。
ぐいっと引き寄せる。
ワンピースの胸元から、乳房が揺れるのが垣間《かいま》見える。上階の人妻のそれよりもわずかに小ぶりだが、小さいというほどではない。
仲本自身も自分の変化に気づいていた。
タブーを冒す以前は、性的に淡泊な妻を冷ややかな目で見たり、邪険に扱うところがあった。タブーを冒した後は、妻に対してやさしくしてあげることが多くなっていた。
理由は漠然とではあるがわかっている。
濃厚なセックスをするようになって心も躯《からだ》も充実感がみなぎるようになった。そのせいか、妻との淡泊な交わりを、ひとつの味わいと思えるようになったのだ。中トロや大トロばかりがうまい寿司《すし》ではない。白身の握りも味わい深いということに似ている気がする。
「だめよ。康一がお風呂からあがってきますから」
抱いている腕から逃れるように妻は立ち上がった。
妻の久美はにっこりと微笑むと、康一が寝てからにしてください、とねっとりとした声で囁《ささや》いた。
仲本は黙ってうなずき、妻に気づかれないように吐息をついた。
少しうんざりした。
妻とのセックスになぜ積極的に向かっていけないかというと、礼儀正しさといったものが常につきまとう。それに、ふたりきりの情況をつくった後、明かりを落としてワインを飲んだりして気分を盛り上げるという儀式めいたこともしないといけないのだ。
無我夢中といった情動がまったくない。無心に互いを求めあうということがないのだ。
今だってそうだ。康一が風呂に入っている隙を狙ったのだから、キスくらいしてもよさそうなものなのに、彼女は絶対にそんなことはしない。
タブーを冒したのは、妻との交わりへの不満も理由のひとつだ。胃を壊して死の予感に震えたというだけではなかったのだ。
妻の淡泊さや礼儀正しさを否定する気はない。けれども、妻とのセックスを想うと、同時に、タブーを冒してのセックスに強烈な魅惑を感じてしまう。その交わりは、興奮や狂乱、そして情動が渦巻いている。互いに貪《むさぼ》るように躯を求め、快感を引き出そうとする。仲本にはそれが心地よかったし、魅力的に思えた。
風呂場の様子をうかがった。康一は風呂場で歌を口ずさんでいる。すぐにあがってくる気配はない。
妻はダイニングテーブルの椅子に腰かけ、夕刊を開いている。仲本はゆっくりと彼女の背後に回り込み、屈《かが》み込んで囁いた。
「康一が寝静まるまで待てそうにないな。ほんのちょっとでいいんだ」
「だめですよ、やめてください。あの子、性的なことにすごく興味を持つようになってきているの」
「そりゃ、そうだろう。それが普通だよ。興味を抱かないほうがおかしいよ」
仲本は妻の耳元にくちびるを寄せた。上階の奥さんのように、化粧の甘い匂いもしないし、うっとりとするような香りに包まれているわけでもない。そんなことはわかっていても、少しがっかりした。それでも妻の耳に湿った息を吹きかけ、舌先で舐《な》め上げた。
「キスだけでいいんだ。してくれるかな」
「康一が家にいるんですから、そんなこと、はっきり言わないでください」
「だめ? こういうことをしちゃ……」
「悪いとはいいませんけど、あなた、初めてくらいでしょ? こんなことするのって。どうしたの?」
妻は怪訝《けげん》そうな声で応《こた》えると、こちらに顔をゆっくりと向けてきた。
「特別な何かがあったわけじゃないよ。陽気がよくなってきたせいかな」
仲本は朗らかな声をあげて応えた。それでようやく、妻の顔から怪訝そうな表情が消えた。
妻の言うとおりだ。確かにこれまで、キスしたいなどとはっきり言ったことはない。それは妻が性的に淡泊だからというより、夫の側からそういう言葉を口にするのは照れ臭いし、求めさえすれば応じるはずだから言葉など必要ないと思い込んでいたのだ。
妻はダイニングテーブルに広げて読んでいた新聞を閉じた。それからゆっくりと視線をこちらに送ってきた。瞳《ひとみ》が輝いていた。艶《つや》やかさを帯びた光は、母の立場のものでも妻としてのものでもなく、ひとりの女のそれに感じられた。
妻がひそやかな声をかけてきた。瞳を覆う潤みにわずかにさざ波が立った。恥じらいを含んだ視線はねっとりとしていた。
「康一が寝てから……」
「酒を飲んだりして雰囲気をつくらないといけないとしたら、また次の機会にしたいな」
「どういうこと?」
「時には、そういうのを抜きにして、いきなりしてみたくなったんだよ。だからもし、子どもがいなかったら、今この場で抱いているはずだよ」
「やめてください、そんなことを言うのは」
「どうして? 独身時代には、そういうことがあったはずだけどな。昔の話をするつもりはないけど、久美はもっと、性的に大胆だったよね」
「わたし、本当のことを言うと、あなたに合わせていただけです。そうしないと、あなたは満足しなかったでしょ?」
「えっ……。というと、無理していたっていうことなのかい? 初耳だな。結婚したことや子どもを産んだことで変わったのかと思っていたけど……」
「あなたには悪いんだけど、性的なことって好きではないみたいなの」
「ということは、最初から変わっていなかったということなんだね」
妻の本音を聞かされ、仲本は驚いた。
今夜、妻は誘いに応じてくれるようだが、本心ではどう考えているのか。
セックスするのは妻としての務めだからで、嫌々ながら応じているのかもしれない。そうだとしたら最悪だ。
タブーを冒して浮気をした時の甘美な快感がすっと蘇《よみがえ》った。あんなふうに互いにがむしゃらになって求めあうことの醍醐味《だいごみ》や悦楽を、妻とは味わえないのかとチラと思った。仲本は少し寂しさを感じて、小さく吐息をついた。
妻とのセックスでは、めくるめくような快感に浸ることはできないのか……。
セックスそのものが好きではなかったと明かされた衝撃が、体中にじわじわと拡がっていて、ショックが大きかったことをあらためて感じた。
妻は嘘をついているのではないか? 仲本はそう考えた。なにしろ、セックスが嫌いな人などいるなんてことが信じられなかった。たとえいるとしても、それが自分の妻だというのは納得できなかった。
ほかに理由があるに違いない。好きな男がいて、そいつに操を立てているのだろうか? それとも、夫に対して男としての性的魅力を感じなくなったのか?
いくつかのほかの理由を考えたが、そのどれであってもショックは大きいし納得できそうにない。
「なあ、久美……。これからぼくはどうすればいいのかな? まだ四十歳なんだよ。男として枯れるにはまだ早い。二十代の時と比べたら確かに落ちているけど、それでも性欲はまだ強いんだ」
「そういうことを、あからさまに言わないでください。わたし、困ってしまいます」
「困るのは、ぼくのほうだよ。妻がセックスに興味がないからといって、浮気をするわけにはいかない。たとえ風俗店なんかで性欲を満足させたとしても、心は充実しないだろうし……。なあ久美、ぼくはどうすればいいんだ?」
仲本は妻の答えを待った。
妻の顔から表情が消えている。夫婦の危機を感じているようだ。言葉を慎重に選んでいるのか、それともうまい答えが見つからないのか。いずれにしろ、くちびるを噛《か》みしめたまま黙りつづけている。
助け船を出したほうがいいかもしれないと思ったが、仲本も沈黙を守った。成り行きでこういう厳しい話になったけれど、いつか話さないといけないことだと思っていたことだ。先に延ばすよりも、今解決してしまったほうがいい。
「あなたはどうしたいんですか?」
「ぼくに訊く前に、久美の考えを聞きたいんだけどなあ」
「今までどおりでは、いけないんでしょうか」
「ということは、一年に一、二度、おざなりなセックスをしてお茶を濁したいということか……。そんなもので、男の性欲が満足すると本気で思っているのか?」
妻はためらいがちに首を振った。彼女の様子からして、男の性欲については理解しているようだった。
「わたしが努力すればいいんですか?」
妻はうんざりしたように吐息をついた。今しがたまで瞳を覆っていた艶やかな潤いも、いつの間にか失せていた。
仲本はどういう応え方をしたら、今のこの重苦しい空気を変えられるかと考えた。
妻のことを愛《いと》おしいと思っている。子宝にも恵まれている。家事もしっかりとやってくれる。セックスするのが好きではないと言われたからといって、その理由だけで、別れる気にはならない。
「久美に努力してもらってまでセックスしてほしいとは思わないよ。そんなのじゃ、セックスしても味気ないからね」
仲本は言うと、大げさにあくびをした。話を終わりにしようというサインのつもりだった。こういう微妙な話を夜遅くにしても、悪い結果にしかならない気がしたのだ。妻はしかし、意に介さずに口を開いた。
「あなたが早く枯れてくれればいいなあって思う時があります……」
「年に数回しかやっていないと思うけどな。それでもいやなんだ」
「いやっていうほどではないけど……」
「好きで結婚したんだから、触れ合いたいと思わないのかい?」
「抱きあうくらいだったら……。あなたはそんなことじゃ、いやでしょ?」
「抱きあうだけで性欲は満足しないだろう。まあ、いいや。話はこれくらいにして寝よう」
仲本はもう一度、大きなあくびをした。脳裡《のうり》にはしかし、妻にセックスを拒まれつづけて本当にいいのかとか、こんなことで夫婦生活が成り立つのかとか、これでもう堂々と浮気をすることができるとか、このままではいつか破綻《はたん》してしまうといったことが次々に浮かんでは消えた。
妻が視線を絡めてきた。
瞳には戸惑いの色が浮かんでいる。生き生きとした輝きはなく、ほんの少し前にほんの一瞬見せた艶やかな色合いもまったく見えなくなっていた。
「あなたには申し訳ないなと思っています。でも、そういう気分にはならないんです」
「ぼくだって毎日のようにべたべたしたいわけじゃないんだ。時々でいいから、久美のぬくもりを感じさせてほしいな」
「わたしも、あなたにそういうことをしてもらいたいと思います」
「今夜、久美を抱きしめたいな。康一が寝た後、ちょっといいかな」
「そうね……。わたしのわがままを聞いてもらったんだから、夜中にあなたのベッドに潜り込みます」
妻の言葉を耳にして、仲本は少し恥ずかしくなったけれど、表情を変えずに黙ってうなずいた。
康一が浴室から出てきたようだ。仲本は妻の気持を確かめるように、彼女を見つめながらうなずいた。
午前零時半過ぎ。
薄闇に包まれた夫婦の寝室に、妻の布団をめくる音が響いた。
妻は一時間ほど前にベッドに入ったが、眠ってはいなかったようだ。
「あなた……。ベッドに入ってもいい?」
妻がひそやかな声をかけてきた。隣の子ども部屋に聞こえないように気をつけているふうだった。仲本はのびをした後、自分のベッドの掛け布団をめくった。
シングルの狭いベッドに潜り込んできた。布団の中にひんやりとした空気と妻のぬくもりが入り込み、同時に、シャンプーや石鹸《せつけん》の匂いが拡がった。
仲本は冷静だった。欲情はしていない。セックスしたくないと妻に宣告されたのがずしりと心に響いていた。
「寝たふりをして、やり過ごすと思っていたよ。腕枕をしてあげたいんだけど、久美、いいかな?」
「いちいち、訊かないでください。それとも、イヤミのつもり?」
「久美のいやがることはしたくないだけだよ。ぼくと触れ合うのはいやだって言っていたからね」
「そんなふうには言っていないでしょ? わたしはね、セックスしたくないと言ったの。ここ数カ月、そういう気分がずっとつづいているのよ」
仲本は伸ばした腕を、妻の後頭部の下に潜り込ませた。肉がつきはじめている肩を包むようにしながら抱き寄せた。
「セックスしたくないのかあ……。何か、原因でもあったのかい?」
「体調のせいかもしれないけど、はっきりしたことはわかりません」
「ほかに好きな男ができたとか、その男に操を立てたいとか……。そういうことではないんだろうな?」
「まさか……。康一の勉強のことを考えるだけで精一杯。あまり成績がよくないのよ。すごく心配なの」
仲本は何かが間違っていると思った。子どものことを考えるあまりに、夫に気を遣わなくなって、セックスもしなくなるなんておかしいではないか。
本末転倒という言葉が脳裡に浮かんだ。妻はまず、仲本家の主である自分との関係について真っ先に考えるべきだろう。子どものことはその次だ。
もちろん、妻の言い分もわからないではない。妻にとって康一が生き甲斐《がい》になっているフシがある。幼稚園受験に失敗してから、その傾向が強くなったようだ。
夫との関係を良くすることへの諦《あきら》めなのか、ひとり息子を溺愛《できあい》している故《ゆえ》なのか、どちらなのかはっきりとはわからないが、いずれにしろ、妻にとっての優先順位は第一位が子どもで、夫は二番目なのだ。
「たまには夫であるぼくのことも大切にしてほしいんだけどな。そのための努力をしても、バチは当たらないと思うけど……」
「セックスしていないからって、大切にしていないわけではありません」
「久美はそう思っているだろうけど、ぼくは粗末に扱われている気がするな」
「あなたは、康一の成績が悪いままでいいんですか? 中学受験を目指すためにも、今頑張らないといけないんですから」
薄闇に包まれた寝室に妻の声が響いた。仲本は反論したい気持を抑え、深々と吐息をついた。
康一の中学受験は大切だ。でも、それは康一自身の人生であって、自分の人生ではない。康一の進路を心配し、よりよい方向に導くのは親の務めだけれど、自分の人生の充実を投げだしたくはない。
親として失格なのだろうか。しかし自分は、子どもの人生に乗っかり、それを自分の人生として喜ぶだけでは満足しないのだ。
「久美は今この瞬間も、康一のことを考えているのかな……」
「そんなことはないわ。今はあなたと真剣に話しているつもりです」
「だったら、抱きたいと言ったら、受け入れてくれるかい?」
「いきなりそんなことを言われても困るわ。今夜の約束では、触れ合って抱きしめるだけで、セックスはしないはずだったでしょ」
「ぼくの何がそんなにいやなのかなあ……」
「べつに、いやというわけじゃありません」
妻は即座に言った。仲本はそれには応えなかった。これ以上話しても堂々巡りにしかならない。
妻に腕枕している手に力を込めた。何も言わずに引き寄せると、くちびるを近づけていった。
気配を察した妻は、のけ反るようにしてキスを避けようとした。仲本はすかさず、彼女の肩を掴《つか》んでいる手に力を入れた。
妻の肩や首筋から力が抜けた。避けきれないと観念したのだろうか。それともキスくらいは仕方ないと諦めたのだろうか。
仲本はわずかに不快感を感じながらも、くちびるを重ねた。
久しぶりのキスだ。
妻のくちびるは乾いているせいか、火照《ほて》りや熱気が感じられない。舌を差し入れ、妻の舌先を引き出すように軽く突っつく。それでも妻の舌は口の底に留まっていて、突っついていても応える気配がない。
仲本はそれでも諦めずに舌を動かした。今ここで舌を離したら、今夜は二度とキスできないような気がしていた。
妻が鼻を鳴らす。
唾液《だえき》を送り込めば呑《の》み込むし、くちびるの端を舌先で撫《な》でるように舐《な》めると、頬の筋肉を細かく震わせて反応する。その様子から妻がいやがっているようには感じられなかった。それどころか、セックスをしようという気になっているようにも感じられた。
もちろん、男の身勝手な解釈だと思う。だから仲本は、自分が知らず知らずのうちに、妻にセックスを強要していることになっていないか不安だった。好きで結婚した女性だ。本気でいやがったとしたら、止めるつもりだった。
妻が首を大きく振って、くちびるを離した。
「あなたって、強引すぎます。わたしの気持を考えてくれているの?」
「触れたいとか、キスしたいといった気持に、素直になっただけだよ。久美にはそうした突き動かされる情動がないのかな」
「わたしにだってあります、もちろん。でも、今はそういう気分ではないって説明したはずです……」
「キスも受け入れてもらえないということか」
仲本は妻とキスをしたかった。セックスもしたかった。身勝手だと承知しているけれど、妻と円満なセックスをしてこそ、たとえば、上階の奥さんとのダブル不倫というタブーにも、同じ課の女子社員との関係にも踏み込んでいけるのだ。
妻との関係が悪くなったことを口実にして、浮気はしたくない。つまり仲本にとって、夫婦関係が円満であることが、浮気をするために必要な条件であると考えていた。
人生を充実させるためにいろいろな女性との出会いを求めていた。そのためにも、夫婦関係が壊れていてはいけないのだ。
仲本は妻を抱いている腕に力を込めた。やわらかい乳房を押し潰《つぶ》した。胸元にまで乳房のすそ野が盛り上がり、パジャマから溢《あふ》れそうになった。
妻の首筋にくちびるを這《は》わせた。それくらいのことは妻も許してくれた。
耳たぶの裏側や、髪の生え際に沿って舌をゆっくりと滑らせた。時間をかけて丁寧に愛撫《あいぶ》をした。
パジャマの上から、乳房に触れた。
やわらかい乳房だ。てのひらから溢れるくらいの豊かさだ。もしかすると、少し豊かになったかもしれない。太ったと思ったが、仲本は言葉にしなかった。
円を描くようにして乳房を揉《も》む。時折、下辺からすくい上げて揉み上げる。妻が鼻にかかった甘い吐息を洩《も》らす。くちびるが薄く開いているが、それでも仲本はキスを求めずに愛撫をつづける。
太ももの内側を撫でた。
割れ目や敏感な芽にいきなり触るのはまずい。そうしたい気持を抑えながら、太ももの中程から膝《ひざ》のあたりまでしか触れないように気をつける。
「だめよ、あなた……。そんなふうに撫でても、今夜はしませんから」
「わかっているよ。触るだけだから」
「ほんとね? 隣の部屋で康一が寝ていることを忘れないでくださいよ」
「夜中だよ。さすがに起きてこないだろう」
仲本は手を伸ばし、妻の太ももの裏側を撫ではじめた。そこは妻の性感帯だ。知りあった頃から変わっていない。ほかには、膝の裏側、ふくらはぎも敏感に感じるところだ。
触るか触らないかの微妙なタッチを繰り返した。妻はそれに反応して、小さな呻き声を何度も洩らした。撫でている足が痙攣《けいれん》を起こしたように震えたり、引き締まったりした。
妻は瞼《まぶた》を閉じていた。
愛撫に心から浸るようになっているのか、きつめの表情がずいぶんとやわらかいものに変わっていた。
仲本は思いきって、妻の陰部に触れた。
「そこは、だめ」
妻は頬を赤く染めながら首を振った。拒絶の声はうわずっていて、艶《つや》やかな色を帯びていた。
タブーを冒す悦びに心おきなく浸るために、妻を抱かなければいけない。それは仲本が自分に課した義務のような感覚だった。しかし性欲が全身を巡るうちに、そんな意識は失せていた。
妻がほしい。自分の思いどおりになる女になってほしい……。
性欲がそれを痛切に願っていた。夫としての欲望というより、ひとりの男が女を求めるものだった。
陰部をまさぐる。濃い陰毛の茂みはこんもりしていて、熱気をはらんでいる。お尻《しり》をしっかりと包み込んでいるパンティは湿り気も帯びている。
「久美がほしいんだ。ずっと触れていなくて、寂しかったよ」
「ほんと? わたしのことなんか、興味がなくなったんだろうなって思っていました」
「そんなこと、あるはずないじゃないか。ぼくのほうこそ、拒まれるんだろうなって思っていたよ。拒まれるくらいなら、求めないぞって意地を張っていたんだ」
仲本は言った。そうしたことを考えてきたのか、咄嗟《とつさ》に今、思いついたことなのか、自分でもはっきりとしなかった。が、妻に夫婦の営みのことを考えさせる刺激になったことは確かなようだった。
「わたし、康一の塾やお稽古《けいこ》の送り迎えと、予習復習を見てやるだけで精一杯なの。そのうえ、あなたに求められたとしたら、躯を壊してしまうわ」
「夜の生活のことは、これからの課題にしてほしいな。円満な日常生活を送るためには、考えなくちゃいけないことだと思うよ」
「それって、ふたりで考えることでしょ?」
「もちろん。だからこそ、恥ずかしがっちゃいけないんだよ」
仲本はためらわずに言った。
セックスのことについて、ここまで突っ込んで話題にしたのは、結婚して初めてだ。たぶんそれは、タブーを冒して妻以外の女性とも触れ合ったという自信のようなものがあったからだ。
「具体的に言ってください。わたし、よくわかりませんから……」
「今夜はぼくの好きなようにさせてほしいんだよ。妻としてではなく、ぼくの女として触れ合ってほしいんだ」
「どこに違いがあるかわからないけど、あなたが望むなら、そうしてみます」
「そういう素直な女であってほしいよ」
仲本は指先を押し込み、割れ目の端の敏感な芽を圧迫した。
妻の上体がのけ反った。太ももを緊張させながら小さな呻き声を洩らすと、足を開きはじめた。
薄闇の中でも、妻の表情が艶やかなものに変わりはじめているのがわかる。荒くなった息遣いに、時折、湿った呻き声が混じる。ねっとりとした生温かい空気が掛け布団の下から、噴き出してくる。
パジャマの上からでも、敏感な芽が割れ目の厚い肉襞《にくひだ》から突出しているのを感じた。妻は触れ合うことをいやがっていたけれど、躯の方は受け入れてくれたということだ。これでもう、拒まれることはないと思い、仲本は少し安心した。もちろん、それでも妻の表情を用心深く探っていた。
慈しむ気持が芽生えてくる。しかしそれが強烈な性欲にはつながらない。慣れ親しんだものへの愛おしさであって、タブーを冒した時に感じるめくるめく高ぶりではない。
パジャマの上から、乳房をゆっくりと円を描くようにして揉む。乳首が尖《とが》りはじめている。指の腹で挟み込み、軽く圧《お》す。乳房の下辺を持ち上げるようにして愛撫する。
妻は子ども部屋に聞こえないように、息を殺しながら小さな呻《うめ》き声を洩らす。くちびるが半開きになり、うっとりした表情になっている。
妻を愛でているこの瞬間が人生の充実と思えたら、どんなに幸せだろう……。
仲本はふと思った。そして、妻との夜の営みに充実を感じていたら、タブーを冒したりしなかっただろうかと考えた。
答えはノーだ。
実際にタブーを冒してわかったことだが、その愉悦と妻とのセックスで得られる快感とでは、快楽の種類が違うのだ。もちろん仲本は、そういうことを味わえるのは、妻との関係がうまくいってこそだということもわかっていた。
「たっぷりと可愛がってあげたいな」
「珍しいわね、あなたがそんなことを言うなんて」
「そうかな?」
「わたしを男の性の捌《は》け口のようにしか扱ってこなかったでしょ? それも、気が向いた時だけ……」
仲本は応《こた》えなかった。確かにそうだ。妻の言葉が胸に突き刺さるようだった。
返す言葉が見つからず、仲本は黙っていた。
独身の時だったら、「セックスが目的の躯《からだ》だけの関係ね」といったなじられ方をしたかもしれない。しかし夫婦なのだ。夜の営みとはそんなものだろう。
そんな考えをするのは、男としても夫としても身勝手すぎるだろうか? 仲本は自問したが、自分を否定する答えは出せなかった。
パジャマの上から乳房にあてがっている右手に力を込める。そうしながら、わずかに肉がつきはじめた首筋にくちびるを這《は》わす。右足を妻の足の間に入れ、太ももで陰部を圧迫する。
性的な高ぶりを引き出すことで、会話を終わりにするつもりだった。妻はしかし、性感に没入することはなかった。
「結婚しても、わたしはひとりの女なんです」
「当たり前じゃないか」
「だったら、なぜ、わたしの気持よりも、自分の気分や都合を優先させていたの?」
「意外だよ、そんなふうに言われるなんて……。久美のことは、大切にしてきたつもりだけどな」
「あなたにとって、わたしは空気のような存在になっちゃったのよ。女だということも、忘れたとしか思えないわ」
「女らしいかどうかは別にして、家庭を支えてきてくれたことに感謝しているよ。結婚してよかったと思っているけどな」
「信頼のおけるお手伝いさん、でしかないのよね」
妻は自虐的な言い方をした後、「ふんっ」と小さく鼻を鳴らした。夫である自分を小馬鹿にしたのか、自嘲《じちよう》的な意味合いを込めたものだったのか、どちらなのかわからない。
仲本はふと思った。
妻を満足させる答えなどあるのだろうか?
セックスをしないことが妻の望みかもしれない。根本にあるその思いが、話が噛《か》み合わない最大の原因かもしれない。しかし、そんなことは訊《き》けない。もしも訊いたら、今後、セックスレスになってしまいそうな気がした。
「パジャマ、脱がしてもいいかい?」
妻の首筋からくちびるを離して囁《ささや》いた。
返事はなかったが、薄闇の中で、妻が小さくうなずくのが見て取れた。
「久美のことは、これからも大切にしていくから。それで納得してくれないかい? 久美を、思いきり抱きたいんだ、いいね」
仲本は意識的に低い声で囁いた。そして妻の反応を見極める前に、パジャマのボタンを外しはじめた。
ようやくだ。
妻がベッドに入ってから優に三十分以上は経っているだろう。仲本は妻の足の間に入れている太ももを緊張させると、陰部をなすりつけるように腰を寄せた。
勃起《ぼつき》した陰茎が、妻の下腹部に当たる。結婚当初とは比較できないくらい弾力が増した下腹部に、硬くなった幹が埋まる。圧迫された笠《かさ》に、やわらかみとぬくもりが伝わってくる。肉の感触は、まさしく妻のそれだった。久しぶりのせいか、感触から生まれる快感より、懐かしさのほうが先に芽生える。
妻は自らパジャマの上着を脱いだ。
薄闇の中でも、豊かさを増した乳房の輪郭はくっきりとしている。乳輪と乳首は色合いが濃いせいか、闇に溶け込んでいる。熟女を想わせるそれがエロティックで、性欲が煽《あお》られる。
乳首を指先で挟んだ。
軽く圧迫を加えた。痛くしようというより、愛撫《あいぶ》の刺激に変化をもたせようとした。
仲本はゾクゾクした。
妻へのその愛撫が、上階の奥さんにしたそれと同じやり方だったと気づいたからだ。タブーを冒した時のスリルと深い愉悦の記憶が蘇《よみがえ》った。
それだけではない。
浮気のことを、妻に気づかれるのではないかという不安も胸を掠《かす》めていた。
乳首を圧迫するといった愛撫は、べつだん特別なやり方ではない。しかしもしも、これまでの妻との交わりでやったことのない愛撫だとしたら、と思った。
新たな性的な技巧をどこで身につけたのか、と不審に思ったとしても不思議ではない。浮気を疑う発想につながるかもしれない。
仲本は指先の力を緩め、乳首から手を離した。そしてごく自然に乳房を包み込み、揉み上げた。
二度とタブーを冒さないと決めていたら、妻にどんなに不審がられても、新たな愛撫をしていただろう。
だが仲本は、心の中で思っていた。人生の充実につながるタブーへの冒険は止めたりしない、と。
「久美……。したくなってきたけど、いいかな?」
「わたしも、したくなってきちゃったみたい」
「いいんだね」
「脱がして……」
妻が甘えた声で囁いた。
陰部を圧迫している太ももに、妻の火照りが伝わってきた。仲本はそれをはっきりと感じながら、せわしなく、妻のパジャマのズボンを脱がした。
妻は久しぶりの愛撫に酔っているようだった。これでいいんだ。仲本はこの時間は、妻とつながることだけを考えようと思った。
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第四章 友人の恋人
仲本はビールを飲み干すと、注文を待ち受けていたバーテンダーにウイスキーのダブルをオーダーした。
隣に坐《すわ》っている佐山裕子と会うのは、これで三度目だ。彼女のことは名前以外、年齢も仕事も、どこに住んでいるかも知らない。
三十一、二歳だろうか。時折見せる笑顔は二十代を想わせた。身だしなみにも気をつけているようで、清潔感が感じられた。これでいつも朗らかだったら魅力的と思うだろうが、彼女はたいがい、陰気な表情をしていた。
「どう思いますか? 仲本さんは……」
彼女はカウンターに置かれたグラスをじっと見つめながら言った。
グラスに浮かんだ水滴を右の指先で何度も拭《ぬぐ》う。その様子からも十分に、思い詰めた様子がうかがえた。
仲本は気分を変えるように、背筋を伸ばしながら明るい声で応《こた》えた。
「二十年近いつきあいをつづけていてわかるんだけど、津田って男は、悪い奴じゃないんだよなあ」
佐山裕子は、津田友行の恋人だ。つきあいはじめて一年半。しかしここ半年近くは、ふたりの関係はしっくりいっていないということだった。
原因が何なのか見当もつかなくて、彼女は途方に暮れていた。なんとか打開策を見つけようとして、彼女は津田に内緒で恋愛相談を持ちかけてきたのだ。
仲本は、津田から彼女を紹介してもらっていた。会ったのは一度。それだけの縁だったから、会社に電話がかかってきた時は本当に戸惑った。
同僚の恋愛に首を突っ込んでも、いいことは何もない。面倒に巻き込まれるのが関の山だ。そう思ったが、断れなかった。佐山裕子にとって、自分が唯一、津田のことを知る同僚で、相談できる相手だとわかっていたからだ。
佐山裕子がグラスの水滴を拭っていた手を止めた。それからゆっくりとした低い声を投げてきた。
「彼、奥さんとなぜうまくいっていないのか、その原因について教えてくれないんです。仲本さん、もし知っていたら、こっそりと教えてくれますか?」
「そんなことを聞いても、何の役にも立たないと思うけどな」
「彼、本当に離婚するんでしょうか」
佐山裕子は半身になってこちらに顔を向けると、震える声で言った。
悲しげな顔が魅力的だと思ったが、仲本はそんなことを考える時じゃないと思い直した。しかし、それでも胸の裡では、四十歳の妻子持ちの男なんかにいつまでも執着していないで、もっと将来性のある男を探したほうがいいんじゃないか、といった言葉が何度も浮かんでいた。
「津田は、奥さんと別れて、君と結婚したいと言っているのかい?」
仲本はためらいながらも佐山裕子に訊《き》いた。
自分と同期入社で同い年の津田が、どういうつもりで明らかに九歳も年下の女性を惹《ひ》きつけているのか知りたかった。
うつむいていた佐山裕子は顔を上げると、ぼそぼそとした低い声で言った。
「はっきりと言ってくれたことはありませんが、それでもわたしにはわかっていました。別れたがっているという彼の気持が、何気ない会話にも滲《にじ》み出ていましたから」
「それを信じて、つきあっていたということかな」
「結婚すると約束をしてくれたからつきあっていたんじゃありません。彼のことが好きになって、一緒にいたいと思っただけなんです」
「不倫の関係というのはたいがい、そういうものだろうな」
「彼は本当に、奥さんとうまくいっていないんですよね」
「残念ながら、ぼくは彼のプライベートについて、ほとんど知らないんだ。たまに一緒に飲むことはあるけど、会社の愚痴を言い合うのと、ゴルフスイングのことを話しているうちに時間が経っちゃうからね」
相談相手になれないという意味を込めて、仲本は意識的に申し訳なさそうな表情をつくった。
一途《いちず》に津田のことを想っている佐山裕子がかわいそうだ。仲本は、津田が財布に妻子の写真を入れているのを知っている。つい先日には、父親参観日ということで、会社には午後から出社していた。そういったことを考えると、津田の家庭がうまくいっていないとは思えなかった。
妻との不仲を匂わせながら若い女性とつきあうなんて……。
男として最低だ。
不倫ということを、彼女に納得させたうえでのつきあいだとしたら、津田ばかりを責められないだろう。だが、どうやらそうではなさそうだ。彼女の気を惹こうとして、いくつも嘘をついているようだった。
仲本はしかし、自分の知っている津田の姿を、彼女に教えるつもりはなかった。ふたりの関係に踏み込むことになるし、別れのきっかけになってしまいそうだったからだ。
佐山裕子は迷っていた。
別れたいという気持に傾いている中での迷いのようだった。背中をポンと押せば、別れの決心を固めるように感じられたし、彼女の様子からして、背中を押してくれるのを期待しているようでもあった。
「どうして君みたいな素敵な女性が、四十にもなる中年男に熱を上げるのかな……」
彼女がなぜ、妻子のある津田に執着するのか、まったく理解できなかった。
彼女によると、津田はやさしい男性だということだったが、不倫している男はやさしいに決まっている。津田でなければいけない理由がわからなかった。中年男が好みというなら、彼と同い年の自分でもいいではないか。やさしさだって、彼に負けるとは思えない。同期入社で、自分のほうが役職もちょっとではあるが上だ。
「わたしは仲本さんに、津田さんのことを相談しているんです。別れさせようとするなら、わたし、これ以上、お話ししたくありません……」
彼女は睨《にら》みつけるような表情で見つめてきた。
仲本は頭を掻《か》いた。友人の津田を貶《おとし》めるつもりも、ふたりを別れさせようという思惑もない。たぶん、津田でなければいけないという理由を知りたい、という気持が空回りしてしまったのだ。
彼女が吐息をついた。
苦しげな表情を見せながら、照明を落としたバーの天井を見上げた。
「不倫って、苦しいですね。わたし、本当のことを言うと、なぜ、津田さんがいいのか、自分でもよくわからないんです」
「ようやく、本音を明かしてくれたね」
「ごめんなさい、仲本さん。あなたとは数回しかお会いしていなかったから、信頼できる人かどうか、わからなかったんです」
「無理もないさ。微妙な問題だから、相談相手を選びたいよね」
「ここのところ、なかなか眠れないんです。食事も喉《のど》を通らないし……」
「苦しいのは理解できるけど、君は、いったい何に苦しんでいるんだい?」
仲本は訊いた。
津田とうまくいかなくなって悩んでいるということはわかる。しかし、その奥に別の大きな悩みが潜んでいるような気がしてならなかった。
ふたりの関係を修復したいけどその方法がわからないための悩みのようではあった。が、彼女の様子からすると、別れたいけど未練や情があって関係を断ち切れないというふうにも感じられたのだ。
「津田さんと別れたら、わたし、どうなっちゃうんでしょうか」
彼女はぼそりと呟《つぶや》いた。そしてせつなげな吐息をつくと、グラスに残っていた酒を飲み干した。
「好きという自分の気持に素直でいたいから津田さんとおつきあいしたのに、どうして、こんなに苦しいのかしら」
佐山裕子が涙を溜《た》めながら独り言のように言った。
彼女の涙を見て、自分とは関係のない女性だと思いながらも、仲本は胸が詰まった。もし彼女とふたりきりだとしたら、間違いなく、抱きしめていただろう。
彼女と不倫関係にある同僚の津田を、ここに呼び出そうか。彼女の気が済むように、津田を問い詰めてみてはどうだろうか。そんなことを思ってみたが、もちろん、そんな大胆なことをするつもりはなかった。いくら親しい同僚とはいえ、大人の恋愛に他人が踏み込んでいいはずがない。
「苦しいせいで、涙を流しているのかい?」
「よくわかりません。ただ、とっても不安だし、怖いんです」
「それは、別れる時のことを想定しているからこその不安や怖れといったものではないのかな」
「そうかもしれませんけど、よくわかりません」
彼女の頬にまた、一|条《すじ》の涙が流れた。薄暗いバーの照明に、涙がキラキラと光った。
理性が壊れそうな気がした。こんなにも美しい涙を流す女性を放ってはおけない。この女性を守ってあげたい。悲しみや辛《つら》さを癒《いや》してあげたい、と。
彼女の肩にさりげなく手を伸ばした。肩口に触れた瞬間、屈《かが》み込むようにして丸めていた背中が、ビクッと大きく震えた。
「君は別れを怖がっているんだ。心の中ではもう、別れようと決めている。踏み出せないでいるだけじゃないか?」
「そんなふうに断定して言わないでください。自分でもよくわからないんですから」
「いや、君はもうわかっているはずだ」
「ひとりになってしまうのが怖いんです。ひとりになるくらいなら、辛いつきあいをしているほうが、わたしにとっては心が楽だと思っています」
「だけど、今のままでいいとは思っていないよね」
佐山裕子はうなずくと、照れ隠しのためだろうか、口元に微笑を湛《たた》えた。
仲本はまたしても、胸が詰まった。彼女のけなげさが心に響いた。この女性を守ってあげたい。そんな想いが胸の奥底から迫《せ》り上がってくるのがわかった。
「君にとって、津田がやさしい男だってことはわかった。ほかに、津田でなくちゃいけない理由というのはあるのかな」
「津田さんのことが、好きになったんです。それで十分だと思います」
「ぼくが、君を……」
仲本はそこまで言ったところで言葉を呑《の》み込んだ。
この女性は津田の恋人なのだ。彼を裏切るようなことはできない。仲本は誘いの言葉を口にするのを、なんとか思いとどまった。
佐山裕子がすがるような眼差《まなざ》しで見つめてきた。
流した涙の潤みが瞳《ひとみ》を覆っていた。まばたきをしていない時でもさざ波が立っている。瞳の奥から放たれている光には、怯《おび》えや不安だけでなく、助けを求める訴えも混じっていた。
彼女と会ってから数時間経つ。真剣に相談に乗り、慰めの言葉もかけてきた。しかし、彼女の不安や怯えは、少しも取り除けていないようだった。
どうにかしてあげたい。
それが相談を受けた者としての使命だし、頼ってきた女性に対する年上の男としての役目だと思う。だから仲本は同僚の津田に気を遣わずに、目の前にいるこの女性の側《がわ》に立って行動すべきだと思い直した。
「仲本さん……。さっき、何かを言いかけて止めたでしょう。『ぼくが、君を』というふうに聞こえたんですけど」
「慰めてあげる、と言おうとしたんだよ。でも、そんなことをしたら津田に怒られるだろ?」
「うれしい……。やっぱり思ったとおり、やさしい方だったんですね」
佐山裕子はうつむき加減で言い、洟《はな》をすすった。
仲本はもう一度、彼女の肩に手を回した。今度はさっきよりも強く抱きしめてあげた。
彼女が顔を上げた。
粘っこい視線を送ってきた。瞳が放つ光の中に、不安や怯えに混じって、艶《つや》やかな色合いが見て取れた。彼女の体温がいっきに上昇したようだった。
「わたし、どこかに、連れていってください……」
佐山裕子が湿った声で、思いがけない言葉を洩《も》らした。仲本はそれに応《こた》えるように、肩にあてがっている手に力を込めた。
タブーを冒そうとしている……。
仲本は腹の底が震えるのを感じた。だめだ、この子に手を出しては。
これまでに何度かタブーに踏み込んだけれど、今回がもっとも冒してはいけない領域だ。下手をすると、同期入社の仲のいい同僚を失うことになってしまう。
「どこか、静かなところに連れていってください」
彼女はまた囁《ささや》いた。絡みつくような粘っこい声だった。性感を刺激する声音でもあった。
「静かなところって?」
「仲本さんに慰めてほしいんです」
「でもなあ、津田に知られたら、とんでもないことになっちゃうよ」
「何かのきっかけがないと、わたし、壊れちゃうかもしれません」
「まいったな、脅かさないでほしいな」
仲本は彼女の耳元で囁くように言った。だが肚《はら》は決まっていた。津田の側ではなく、佐山裕子の側に立って行動しよう、と。
佐山裕子の瞳を覗《のぞ》き込んだ。
「裕子さん、本当にいいのかい? 津田を裏切ることになるんじゃないかな」
「狡《ずる》いとわかっていますけど、今、必要なのは、わたしの心を真剣に考えてくれて、助けてくれる人なんです。そうでないと、心が壊れてしまいそうです」
「ぼくは君が心配だし、本気で助けたいとも思っている。でも、それは君に踏み込むことになる。津田に秘密にしていられるかどうか、君の気持を聞いておかないと……」
「お願いします。津田さんも大切ですし、あの人と仲本さんとの関係も、わたしは大切に思っています」
「いいんだね……」
仲本は念を押した。
同じマンションの上階に住む人妻と交わった時よりも、漠然とした怖れはずっと強い。津田に知られたら、という不安や怖れだ。でも、ほかにも得体の知れない不安がつきまとっている。相談する者とされる者が親密になるというのはありがちなことだけど、こんなにも怖いものなのかと思った。
「仲本さん、わたしを慰めてください……。津田さんと離れてもやっていけるだけの勇気をください」
「よし、わかった」
佐山裕子の瞳を見つめながら、仲本は力強くうなずいた。頼りにされているのだからそれに応えたいという気持に、スケベ心が入り交じった。しかもそこに、タブーを冒すという高ぶりが加わって、不思議な高揚感がみなぎった。
「さっ、行こうか」
仲本はカウンター席を立つと、彼女の背中を軽く叩《たた》いてうながした。振り向いた彼女の表情には、不安とも戸惑いともつかない色が滲んでいた。
「どこに、ですか」
「まだどこに行くかは決めていないけど、とにかくこのバーは出よう」
「決めてからのほうがいいんじゃないですか?」
「ぼくに任せなさい、いいね……」
「そうですね、ごめんなさい……。仲本さんにも奥さんやお子さんがいらっしゃるから、場所を選ばないといけませんものね」
仲本は小首を傾げながらうっすらと笑みを浮かべると、支払いを済ませてバーを出た。
夜風が気持いい。
仲本はまだ、どこに向かうのか決めていなかった。が、シティホテルよりも安っぽいラブホテルにしたいとは考えていた。タブーを冒す者には、小|洒落《じやれ》たシティホテルより、場末の雰囲気のほうが合っているはずなのだ。
しばらく歩いているうちに、離れ気味だった佐山裕子が寄り添ってきた。人目を気にしなくなったのか、それとも、ふたりきりになるのが待ちきれなくなったのかもしれない。三十歳を過ぎているけれど、あまえたしぐさが可愛らしい。
彼女の華奢《きやしや》な肩に触れるたびに、仲本は自分の体温が上がる気がした。胸の高鳴りも強まり、性欲も少しずつ腹の底に溜《た》まっていくようだった。
腕を組んで歩きたい衝動に駆られた。
しかし、それはさすがに堪《こら》えた。誰に見られているかわからない。彼女の恋人の津田に目撃されるという偶然が絶対にないとは言いきれない。
夜風が冷たく感じられるようになってきた。
タクシーをつかまえようと思った時、佐山裕子の携帯電話が鳴った。
一瞬、空気が凍りついた。彼女はコール音を無視していたが、仲本は電話に出るようにうながした。
「バッグの中で、携帯が鳴っているよ。出たほうがいい。津田だったら、どうするつもりだい?」
「いいんです、今は」
「ぼくのことは気にしないで、ほら、とにかく出なさい。津田との仲直りのきっかけになる電話かもしれないじゃないか」
彼女は渋々、バッグから携帯電話を取り出した。
液晶画面を見た。
彼女の顔色がさっと変わった。
当たってほしくない予想が当たってしまったようだ。
佐山裕子は背中を向けて小声で話しはじめた。こんな夜遅くに何ですか? 奥さんに気づかれたら大変ですから、無理に電話をかけてこなくていいんです、今ですか? わたしのことが少しは心配になったりするんですか、今、信頼できる人に不倫のつきあいについて相談していたんです、心配しないでください、何もありませんから……。
彼女はさらに一分近く話してから電話を切った。仲本は耳を澄ませていたが、最後のほうの会話は聞き取れなかった。
「ごめんなさい、長く話しちゃいました」
「電話の相手は、津田だったみたいだね。仲直りできそうな内容の話だったのかな?」
仲本は訊《き》きながら、嫉妬心《しつとしん》が芽生えるのを感じた。
なぜ嫉妬するのか?
仲本は自分の心の動きを掴《つか》みかねた。
不倫関係とはいえ、佐山裕子は同僚の津田とつきあっている。その彼から電話がかかってきたからといって、嫉妬するのはおかしいではないか。
こんなにも素敵な女性とつきあっている津田に対しての嫉妬かもしれない。いや、そんな単純な嫉妬ではなくて、津田に未練を残している佐山裕子に対する恨みがましさといったものかもしれなかった。
彼女は自分を相談相手として選んだだけであって、つきあうつもりなどないだろう。たとえ、これからラブホテルに行ったとしても、津田への想いを棄てたからではない。心の迷いや不安に駆られたことによる行動でしかない。
仲本はそこまでわかっていながらも嫉妬していた。彼女の傷ついた心を癒《いや》せるのは津田ではない。自分にしかできないのだという自負が強まるほどに、嫉妬心も大きくなっていく。
「仲直りできそうな内容だったのかい?」
同じ問いかけを彼女に送った。
彼女の表情に、不安の色がまた滲《にじ》んだ。
仲本は答えを聞かなくても、ふたりがどんな話をしたのか察しがついた。
互いに不信感を抱いている時、電話だけで胸に膨らんでいる不信感を拭《ぬぐ》えるはずがない。かえって関係が悪化したとしても不思議ではない。津田は女心を知らなさすぎる。佐山裕子を大切な女性だと思うなら、直接会って話をすべきではないか。仲本は胸の裡《うち》で舌打ちをした。
「津田さんのことは、今夜はもう考えたくありません……。仲本さん、わたしを可愛がってください」
「いいのかい? 後悔するくらいなら、今のうちに帰ったほうがいいよ」
「いいんです。わたし、ひとりで部屋にいたら、おかしくなってしまいそうですから」
「ラブホテルに、行ってもいいかな」
仲本は腹の底が震えるのを感じた。
タブーの領域に踏み込んだと思った。もちろん、彼女の不安な心を癒すため、という大義名分も失せてはいなかった。
「津田に知られたら、ふたりとも困るってことを肝に銘じておかないとな」
「わたしと仲本さんの、ふたりだけの秘密なんですから、あの人に知られるはずがありません」
「腕を組んでほしいな。そうしてくれないと、ぼくも津田のことを忘れられないからね」
「はい、わかりました」
彼女はうつむき加減で言うと、躯《からだ》を寄せてきた。寄り添いながら、ゆっくりと腕を絡めてきた。
肘《ひじ》にやわらかい乳房が何度も当たるうちに、仲本はタブーを冒す愉悦を感じはじめた。
佐山裕子と組んでいた腕を解くと、仲本は車道に出て右手を上げた。幹線道路だけあって、タクシーはすぐにつかまった。
彼女に先に乗るようにうながし、仲本は彼女の背後に回り込んだ。
彼女は屈《かが》み込んで、右足をあげた。むっちりとしたお尻《しり》がスカートに浮き彫りになった。目の細かいストッキングを穿《は》いているのだろう。ベージュのそれは、自分好みのデリケートな輝き方をしていた。
たったそれだけなのに、性欲が噴き上がりそうだった。後部座席の背もたれにもたれかかった時には、陰茎はパンツの中で窮屈な状態になっていたのに、鋭く勃起《ぼつき》していた。
「渋谷《しぶや》の道玄坂《どうげんざか》に向かってください」
運転手に言ったその勢いに乗って、彼女の太ももに手を伸ばした。
佐山裕子がすかさず顔を向けてきた。だめよ、タクシーの中なんだから、そんなことしちゃ、運転手に気づかれてしまうわ。彼女は黙ったまま、そういった意味の視線を投げてきた。
仲本は微笑んだだけで、彼女と同じように黙って首を横に振った。
運転手に気を遣い、ふたりは目だけのやりとりをつづける。
彼女の太ももを撫《な》でつづける。スカートの生地を通して、火照《ほて》りだけでなく太ももの筋肉のわずかな動きも伝わってくる。タクシーは沈黙に包まれている。それがタブーを冒すという高ぶりにつながっていく。彼女は膝《ひざ》をきっちりと揃えて、フロントガラスのほうに顔を向けている。愛撫《あいぶ》になど関心ないといった表情だ。それが逆に、愛撫を意識していることの表れのように思える。
「津田とつきあっている時、道玄坂に行ったことはあるかい?」
「いいえ、一度も」
「あいつと張り合うつもりはないけど、ちょっとうれしいな」
仲本は彼女に寄り添うようにしてから、運転手に聞かれないように囁《ささや》いた。
渋谷の道玄坂と言っただけで、彼女は円山町《まるやまちよう》のラブホテルだとわかったということだ。セックスすることを前提にした会話になっているわけだ。
太もものつけ根から下腹部にかけて指を這《は》わせた。あと少しで陰部に辿《たど》り着くというところで、彼女の手が伸びてきた。
「いたずらは、もうおしまい。歩いている人に覗かれてしまうわ」
「そういうことも、愉《たの》しいかもしれないよ」
「いやね、仲本さん」
彼女は笑みを湛《たた》えながら睨《にら》みつけてきた。だが、言葉ほどにはいやがっている表情ではなかった。
渋谷駅前のスクランブル交差点の赤信号で、タクシーは止まった。
ネオンの明かりが車内に入り込む。佐山裕子は黙ったまま、車窓から人の流れを眺めている。
「ほら、見てごらん。ぼくたちが乗っているこのタクシーを覗き見する人なんかいないだろ?」
仲本は彼女の耳元で囁きながら、強引に太ももにてのひらをあてがった。
もうすぐ道玄坂に着く。だからこそ、彼女の高ぶりを少しでも煽《あお》っておきたかった。
彼女はラブホテルに入ることを同意してくれた。けれどもそれは、ラブホテルの入口に着いた時も同じ気持でいるという保証にはならない。いざ、ラブホテルに入ろうとした時、拒まれる可能性があると思う。ラブホテルの玄関の前で、「入ろう」「いやよ」といった恥ずかしい言い合いはしたくない。
仲本は右手を伸ばし、彼女の太ももから下腹部にかけてゆっくりと撫でた。
彼女は相変わらずフロントガラスのほうに顔を向けている。躯はしかし、明らかに反応していた。下腹部が前後に何度も大きくうねっている。スカート越しでも、火照りと熱気が指先に伝わってくる。揃えている膝が緩み、スカートの裾《すそ》がわずかにずり上がりはじめている。
「指先から君のぬくもりが伝わってくるよ。早く触れたいな」
「歩いている人に、ほんとに見られてしまいますから、やめて……」
「誰も見ていないじゃないか」
「仲本さんって、落ち着いているように見えていたけど、せっかちだったんですね」
仲本は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべて小首を傾げた。喉元《のどもと》まで出かかった、津田はどうなんだい? という言葉をなんとか抑え込んだ。
彼を思い出させるようなことを言うのはまずい。佐山裕子とラブホテルに行くことは、自分にとってだけではなく、彼女自身にとっても勇気がいることなのだ。
信号が青に変わった。
タクシーがゆっくりと走りはじめる。道玄坂まであと一、二分だろう。仲本は下腹部を撫でている右手を膝頭にあてがった。
緩んだ膝が緊張し、さっと閉じられた。仲本はすかさず右手に力を入れ、膝の間にこじ入れた。
太ももの熱気を感じた。ストッキングが湿り気を帯びていた。同時に、スカートの奥のほうから噴き出してきた生温かい空気に、右手が覆われた。
高ぶっている……。
佐山裕子のスカートの内側に手を差し入れた時、仲本は確信した。ラブホテルの入口の前で拒まれることはない、と。
タクシーは渋谷駅前のスクランブル交差点を通り抜け、道玄坂を上がる。ラブホテル街につながる路地が見えてきたところで、仲本は運転手に声をかけた。
タクシーを下りた。
並木の下を歩きはじめると、彼女のほうから腕を絡めてきた。肘が乳房に当たる。彼女はそうなるように意識的に躯を寄せてきている気がした。
ラブホテル街に向かう路地に入る。けばけばしいネオンが目につく。何組もの若いカップルが恥ずかしがる様子も見せずにラブホテルに入っていく。この路地だけは気取る必要のないオープンな雰囲気に包まれている。そのおかげで、四十歳の中年男がラブホテルなんかを利用していいのだろうか、というためらいが薄れていく。
「さてと、どこに入ろうかな……」
「わたし、どこでも、かまいませんから、早く入ってください」
佐山裕子は恥ずかしそうにうつむいた。しがみつくようにして、腕に力を込めてきた。彼女の初々しさが心地いい。津田はこうした姿を知らないに違いないと思うと、優越感や満足感が胸に満ちていく。
乳房が肘だけでなく、二の腕にも当たる。彼女の躯の火照りが伝わってくる。同僚の不倫相手だというのに、彼女への愛《いと》おしさが強まっていく。
仲本は新しい外観のラブホテルを選んだ。ほかと比べてけばけばしくもなければ、安っぽさもさほど感じられなかった。
彼女と腕を組んだまま、薄ピンクのタイルを貼り巡らしたホテルに入った。
ラブホテルの利用の方法は心得ている。ロビーに掲げられたパネルの中から部屋を選ぶのだ。明かりが消えている部屋は使用中だから、明かりがついている部屋の中から選ばないといけない。
空室は二部屋しかなかった。二時間の休憩料金を見比べて、仲本は少しだけ見栄を張って高額な部屋のほうを選んだ。
エレベーターに乗り、四階に上がった。
廊下を歩く。彼女は腕を絡ませたままだ。仲本はドアの脇の壁の明かりが点滅している部屋を目指した。
ドアの前に立った。
このドアを開けるということは、タブーに踏み込むのと同じことだ。
仲本は吐息をついた。怖れの混じった悦《よろこ》びが、胸に満ちていくのを感じた。
ドアを開けると、佐山裕子よりも先に部屋に入った。いつもはレディーファーストを心がけていたが、ラブホテルでの場合は男のほうが先に入るべきだと思っていた。
高い休憩料金の部屋を選んだだけあって、部屋は広かった。キングサイズの大きなベッドが据えてあっても、窮屈な印象はなかった。JポップのインストゥルメンタルがBGMで流れている。渋谷の喧騒《けんそう》はまったく聞こえてこない。
佐山裕子は立ち尽くしている。緊張した面持ちで、いくらか青ざめてもいる。
不倫関係とはいえ、つきあっている津田を裏切ろうとすることへの罪悪感なのだろうか。それとも、相談相手に選んだ男とラブホテルにやってきたことへの後悔が芽生えているからか……。
仲本はふたり掛けの小さなソファに腰を下ろした。そうやってゆったりとした雰囲気をつくってみたが、佐山裕子はどうしていいのかわからないといった表情のままだった。
「ぼくの隣においで」
「恥ずかしいんです。仲本さんのこと、ほとんど知らないでしょ? 親しそうに振る舞おうとしても、できないんです」
「ほら、笑って……。自分では気づかないかもしれないけど、せっかくの美人が台なしになるくらい、怖い顔になっているよ」
「だって、緊張しているんです。嫌いですか? こんな女」
仲本は微笑を湛えながら首を横に振った。
彼女は美人顔だけど可愛らしい。好みのタイプだ。性格も本来は素直で明るい。なにより、これからタブーの領域に踏み込んでいくパートナーなのだ。嫌いなわけがない。
佐山裕子がおずおずとソファに坐《すわ》った。
スカートの裾がずり上がり、ストッキングに包まれた太ももが膝上五センチくらいまで見えた。
「仲本さんのこと、どんなふうに呼んだらいいんでしょうか」
「君はどう呼びたいんだい?」
「苗字《みようじ》に『さん』付けというのはよそよそしいですよね。そうかといって、名前を呼ぶのは、正直、少し抵抗があります」
「だったら、『あなた』というのはどうかな」
「はい、そう呼ばせてもらいます。あなたは、わたしのこと、何て呼びたいですか?」
「そうだな。強いて言えば、名前を呼び捨てにしたいかな……」
「あなたの言いやすい呼び方にしてください」
彼女はこんなふうにして互いの心の距離を縮めようとしているのだ。津田との初めての交わりの時も、きっと、こんなやりとりをしたのだろう。
「裕子、おいで」
仲本は彼女の肩を抱いて引き寄せながら囁《ささや》いた。
息をするのがぎこちないと感じるくらいに興奮している。
裕子の体温を感じるほどに、冒したタブーの領域の奥深くまで侵入するという意識が強まる。美しい横顔を見つめていると、そこに彼女の不倫相手の津田の顔がダブり、興奮がいっそう強まっていく。
津田と交わる時も、こんなふうにゆっくりとはじまるのだろうか……。
彼に対してライバル意識など持っていなかったのに、仲本はそんなことを思った。それがさらなる高ぶりにつながったし、彼と同じ流れでセックスはしたくないとも考えた。
「津田のキスは上手なのかい?」
「意地悪……」
「断っておくけど、彼を貶《おとし》めようと思って訊《き》いているんじゃないんだよ」
「だったら何?」
瞼《まぶた》を閉じていた裕子が目を見開いた。
戸惑いの色とともに、瞳《ひとみ》を覆う潤みが厚くなっていた。男の性欲を煽《あお》る艶《つや》やかな輝きも瞳の奥から放たれていた。つきあっている男のことを訊かれ、女心が揺り動かされたのかもしれない。性的な高ぶりは醒《さ》めるどころか、増幅しているらしい。
「男として、同期入社の津田より、裕子を気持よくさせてあげたいからね」
「あの人に、ライバル心が芽生えたんですか?」
「いや、違うよ。今、裕子とここにいるのは津田ではなくてぼくだからね、彼に対して圧倒的に優位に立っているんだ。ライバル視する必要はないさ」
「あの人、キスはとっても上手。やさしいの、すごく。とろけちゃうと思ったことが何度もありました」
「まいったな……。それはノロケのつもりかい?」
「違います。あなたが訊くから、正直に答えただけです」
裕子が妖《あや》しい微笑を湛《たた》えた。タブーを冒すことに怯《おび》えているだけだった時の表情ではなくなっていた。津田のキスについて話すことで、目の前にいる男の嫉妬心を煽ろうとしているようだった。
女心にしたたかさが備わったのかもしれない。
仲本はゾクゾクする興奮を覚えた。ひとりの女がタブーを冒すことで成長するのを目の当たりにした気がした。
「だったら、ぼくはもっと甘美なキスをしないといけない」
仲本は腕に力を入れ、彼女を引き寄せた。
いきなり、くちびるを重ねた。
少し乱暴かなと思ったけれど、津田がやさしいキスをするなら、その逆にしようと思ったのだ。
仲本はくちびるを意識的に荒々しく押しつけた。
裕子のくちびるがめくれる。互いの歯がかすかに当たる。溢《あふ》れ出た唾液が口の周りを濡《ぬ》らしている。それでも彼女の口を吸いつづけた。
彼女が甘えるように鼻を鳴らす。喉元《のどもと》から呻《うめ》き声のようなくぐもった音があがる。いやがっているのではない。その証拠に、彼女のほうから舌を差し入れ、舌先を突っついてきた。
仲本は右手を伸ばした。指を目一杯広げ、乳房を鷲掴《わしづか》みにした。
やわらかい乳房だ。
押し込むようにしながら揉《も》む。弾力の張りが指先に伝わってくる。舌先を絡めながらも、彼女の口の端から吐息が洩《も》れる。
白色のブラウスに、薄いピンクのブラジャーが透けている。
清純さを強調しているかのような淡い色味のブラジャーが、セックスに対する彼女の貪欲《どんよく》さを隠すための道具に思える。
ブラジャーを剥《は》ぎ取ってしまおう。そうすれば、彼女の欲望の深さがわかるに違いない。彼女は自らの意思で、タブーの領域に踏み込んだのだ。心を晒《さら》すことに、もう、少しの怖れもないはずだ。
ブラウスの裾がずり上がり、スカートから出る。そのうちに、揃えていた膝《ひざ》が緩みはじめる。仲本はそれに気づくとすぐに半身になり、彼女の太ももの間に右足を入れた。
スカートの裾をめくり上げていく。ストッキングのスベスベした感触が、ズボン越しに伝わってくる。
彼女は鼻息を荒くしながら、舌の動きも激しくしていく。火照《ほて》りも強くなり、めくれたスカートから生々しい匂いが漂ってくる。
裕子は首を振った。舌を引っ込め、太ももを閉じようとした。仲本はくちびるを離し、乳房への愛撫《あいぶ》もいったん止めた。
「あなた、ちょっと待って……」
「どうしたんだい?」
「いきなり激しくされたから、わたし、びっくりしたんです」
「津田は、こういう愛し方はしなかったのかい?」
「意地悪のつもりで言っているんでしょうけど、津田さんの名前はもう、口にしないでください」
「彼の愛撫は、行儀のいいものだったのかな?」
「真面目な人ですから、あの人は」
仲本は小首を傾げながら曖昧《あいまい》にうなずいた。
中途半端に真面目だから、津田はダメなんだ。裕子との不倫関係がうまくいかなくなっているのは、真面目にも不真面目にもなりきる覚悟をしていないからだ。
仲本はチラと考え、彼よりも自分のほうが突き抜けていると思った。それに応《こた》えるように、陰茎の芯に強い脈動が駆け上がった。
裕子を抱きしめながら、仲本は人の良さそうな津田の顔を思い浮かべていた。
不倫することへの覚悟ができていない男や、タブーを冒すことへの理論武装ができていない男は、女を不幸にするものだ。
裕子が不憫《ふびん》だ。
津田のような中途半端な男と、どうしてつきあったのかと不思議に思う。
彼のことをやさしい男だと言っていたが、不倫の関係を続けていく上では肚《はら》をくくっていない中途半端なやさしさだと、なぜ、わからないのだろう。
仲本はブラウスの下に手を入れた。
彼女がいやがっていないかどうかなど関係なく、ブラジャーに直接、てのひらをあてがった。キスの時の荒々しさをつづけるつもりだった。
乳房を鷲掴みにする。
レースをふんだんにあしらったブラジャーから乳房が溢れる。ブラウス越しに触れた時より、火照りやぬくもりが感じられ、性感が刺激される。
彼女の太ももにこじ入れた足を動かし、スカートをずり上げた。パンティストッキングの切り返しのあたりまで見えた。ブラジャーと同じ薄いピンクのパンティだった。
彼女の耳たぶにくちびるを寄せる。耳の後ろ側に舌を這《は》わす。髪の生え際に沿って舌先を滑らせる。口での愛撫を繰り返しながら、乳房を揉み、こじ入れた足を揺すって彼女の陰部への刺激につなげていく。
左手でブラウスの上からブラジャーのホックに触れた。親指と中指でホックを摘んで浮き上がらせると、人さし指をそれに添えながら外した。
ブラジャーが緩んだ。
もわりとした生温かい空気が、カップの内側から湧き上がるのがわかった。ワイヤーの下から指を潜り込ませると、乳房の下辺に指の腹を這わせた。
乳房はやわらかくて弾力に満ちていた。
しっとりとした肌は、肌理《きめ》が細かくて、指の腹に吸いついてくるようだ。汗ばんだ肌からは、女性が性的に興奮した時に漂う独特の生々しい匂いが立ち昇ってくる。
「ああっ、やめて……。汗かいているから、シャワーを浴びさせてください」
「君の匂いを嗅《か》ぎたいんだ。シャワーでそれを流してしまうことはないよ」
「そんなこと言わないでください。わたし、朝から働いていて、汚れていますから……」
彼女はイヤイヤをするように首を左右に何度も振った。頬から首筋にかけて染めている赤みが濃さを増していた。
肌が輝いていた。
透明感がありながらも、妖しく艶やかだった。津田とのセックスではこんなに美しく肌が赤く染まることはないはずだ。
意識していないと思っていたのに、仲本は知らず知らずのうちに、津田と自分を比較していることに気づいて驚いた。
中途半端な覚悟しかないまま不倫している男のことなど無視すればいいのに、彼へのこだわりを切り捨てられないらしい。
こういう時、女のほうが強くてしたたかだ。裕子はすでに、つきあっている津田のことなどすっかり忘れているようだった。いや、そこまでではないかもしれない。しかし、彼女はセックスや快感に没頭しようとしているのは間違いなかった。
裕子は瞼を開くと、視線を絡めてきた。
「シャワーを浴びてきていいですか?」
「それなら、一緒に入ろうか。どうだい?」
「あん、恥ずかしい」
「津田とは一緒に風呂《ふろ》に入ったことはないのかい? あいつはそんなに行儀がよかったんだ。そういうのは男のやさしさじゃないってわからないかい?」
「お願いだから、彼の悪口を言わないで……。どんどん嫌いになってしまいそうなの」
「いいじゃないか。どういう結論にしても、ケリをつけられるんなら」
仲本はゆとりの笑みを浮かべた。
意地悪で言っているのではない。裕子にわからせたかった。津田との関係で悩んでいるのは彼女の努力が足りないのではない。彼が中途半端な覚悟しか持っていないことが原因なのだ。
乳房をゆっくりと揉む。ホックを外したブラジャーが少しずつずれていく。すでに硬く尖《とが》っている乳首を摘んだり圧迫したりする。彼女は顎《あご》を上げ、くちびるを半開きにしたまま甘い喘《あえ》ぎ声を洩らす。
彼女は二度三度と首を横に振った。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた彼女の表情は妖《あや》しくて、男の性欲を煽《あお》るのに十分な艶《つや》を放っていた。
「ひとりでシャワーを浴びさせてはくれないんですか?」
「うん、そうだよ。それがいやなら、汗をかいて汚れた躯《からだ》を抱きたいな」
「絶対にいやです……。ああっ、それならシャワーを一緒に浴びてください」
裕子はしがみつくように抱きついてきた。恥ずかしさのために、全身の火照りが強まったようだった。仲本はそんな彼女の初々しさが愛おしかった。
太ももの間にねじこんでいた足を抜いた。スカートはずり上がったままだ。そこにすかさず、右手を伸ばして股間《こかん》に触れた。
裕子の躯がビクンと痙攣《けいれん》を起こしたように揺れ、短い呻き声があがった。
「お願い、シャワーを浴びさせてください……」
裕子はうわ言のように喘ぎながら言いつづける。仲本は了解しつつも、彼女の股間に伸ばした手を離さなかった。
彼女の望みを聞いてあげるのはたやすい。それに、躯が汗で汚れているからシャワーを浴びたいと思う気持はわかる。それでも、愛撫をつづけた。
裕子が立ち上がれないようにしたかった。シャワーを浴びるよりも、ソファに坐《すわ》っていることを選ばざるを得ないくらいの高ぶりに導きたかった。
主導権は自分にある。裕子ではない。
彼女の言いなりになってしまうと、その主導権を渡すことにもなりかねない。それがいくら、やさしい男性という評価と引き換えだとしてもいやだ。
ストッキングの上から割れ目のあたりを撫《な》でる。こんもりとした陰毛の茂みが押し潰《つぶ》されているために、敏感な芽をなかなか探り当てることができない。
彼女の太ももを、指と足を使って九十度以上の角度まで押し広げる。スカートがすっかりめくれ上がる。手を股間に差し挟みやすくなり、お尻《しり》に近いところまで指が届くようになる。敏感な芽があると思われるところにあたりをつけて撫でる。
円を描くように愛撫するうちに、鋭く盛り上がってきた。裕子が上体をよじりながら呻《うめ》いた。
「ううっ、どうしてクリトリスがあるところがわかっちゃうんですか」
「ここまで大きくなっていたら、いくらストッキングの上からでもわかるものさ。それとも、津田はわからなかったのかい?」
「ああっ、津田さんの悪口を言わないで……。あの人は女性とのつきあいに慣れていないんです」
「慣れてないから、やさしくするしかないんだよ。だから、それは本当のやさしさじゃないんだ」
「男の人って、そういうものなんですか?」
「君がつきあっている津田がそういう男なんだよ」
「別れたほうがいいってことなんですか?」
「決めるのは裕子であってぼくじゃない」
仲本は言い放つと、敏感な芽の愛撫に戻った。
彼女はさりげなくソファの端までお尻をずらし、愛撫を受け入れやすいように体勢を変えた。
仲本は前屈《まえかが》みになりながら、裕子のストッキングの内側に指先を差し入れた。
半身にはなっているものの、かなり辛《つら》い体勢だ。それでもパンティの上から愛撫をつづけていると、彼女のほうから体勢を変えてきた。二の腕がつりそうだということがわかったかのようだった。
仲本は指をさらに深く入れた。
ストッキングの上からの愛撫の時より、火照りや湿り気をはっきりと感じ取れる。陰毛の茂みがパンティに押し潰されている感触も伝わってくる。下腹部のうねりや息をするたびにパンティのレースがわずかに形を変えるのもはっきりと感じられる。
彼女の左手がおずおずと動きはじめた。パンツの中で窮屈に勃起《ぼつき》している陰茎に触れてきた。互いの陰部を愛撫する恰好《かつこう》だ。
「ううっ、すごく、おっきい……」
「裕子が欲しいんだ。だからこんなに硬くなっているんだよ」
「恥ずかしい……」
「それって、つまり、触りたくないっていう意味なのかい?」
「そんなこと言っていません。やめて、もう意地悪は……」
裕子がうわずった声をあげた。その間も指を動かしていて、ファスナーをためらいがちに下ろした。
ズボンの窓から指先を入れる。パンツの上から陰茎を撫でる。黙っているけれど、息遣いの荒さは確実に増している。
「くわえてほしいな」
仲本は彼女の耳元で囁《ささや》くと、指の腹で敏感な芽を圧迫した。
彼女の陰部の火照りが一瞬にして強まった。割れ目を覆っている外側の厚い肉襞《にくひだ》がめくれはじめた。溢《あふ》れ出てきたうるみにパンティが濡《ぬ》れた。
「キスをしたばかりなのに、くわえるだなんて……」
「いやかい?」
「そうは言っていませんけど…。ああん、あなたって強引すぎます」
「いやかな? 強引なのは。だったら、君が望むことだけをしたほうがいいのかい?」
「ううん、意地悪」
彼女は拗《す》ねたような声を洩らしながら、頬を擦り寄せてきた。
パンツの上から陰茎を握る指に力が入った。幹をゆっくりとしごきはじめた。笠と幹をつなぐ敏感な筋を弾《はじ》いたりした。幹全体を握り締め、太さを確かめているようだ。まるで、くわえるための準備をしているようだった。
裕子の指遣いに熱がこもる。陰茎の幹全体を握っている指の腹から熱気が放たれているのを感じる。
仲本はソファの背もたれに上体をあずけた。それとともに、彼女のストッキングの内側に差し入れている右手を引き抜いた。
「くわえてほしいな」
彼女の華奢《きやしや》な肩に回している腕を引き寄せると、もう一度、うながした。
裕子はうなずき、前屈みになった。
長い髪が乱れる。唸《うな》るような低い声を洩らしながら吐息をつく。顔を陰部に寄せていく。パンツから手を抜いたかと思ったら、ベルトに手をかけた。
そつのない素早い動きだった。男のベルトの外し方を心得ている。
彼女がつきあっている不倫相手の津田のことが、考えないようにしているのに脳裡《のうり》をよぎる。きっと、あいつのベルトもこんなふうにして外しているのだろう。
津田が裕子にふさわしい男だとしたら、そんなことは考えなかっただろう。しかし彼女から聞かされる津田の姿は、臆病《おくびよう》で自己保身の気持の強い、中途半端な覚悟しかない男だったのだ。
裕子は手を休めない。
ベルトが抜き取られ、ズボンがわずかにずり下げられた。パンツがあらわになったところで、彼女が頬を寄せてきた。
陰茎が隆起している。幹の裏側で盛り上がっている嶺《みね》がくっきりと見える。くわえてもらえることを期待して、脈動が幹の芯を駆け上がる。笠の外周がうねりながら膨らむ。そのたびに、笠の端の細い切れ込みから透明な粘液が滲《にじ》み出てパンツを濡らしている。
仲本はもう一度、彼女の肩を引き寄せた。もちろんそれは、彼女にくわえさせるためだった。
シャワーを浴びる前にくわえさせることで、津田の女から自分の女にすることができたという実感が得られる気がしていた。もちろんそれが妄想に近い解釈だとわかっている。それでも、どうしても彼女にくわえさせたかった。
彼女が顔を押しつける。頬骨が幹に当たる。グリグリと擦り込むようにして圧迫してくる。笠と幹をつなぐ敏感な筋が引きつり、痛みとも快感ともつかない鋭い刺激が生まれる。
「早く……」
「強引なんだから、あなたって……」
裕子が湿った熱い息をパンツに吹き込むようにして囁いた。そしてパンツのウエストのゴムに、指先をゆっくりとかけた。
下腹に沿って屹立《きつりつ》している陰茎があらわになっていく。唾液《だえき》を呑《の》み込んでいる鈍い音が、裕子の後頭部のあたりから響いてくる。
「ああっ、すごく、おっきい。お口に入らないかもしれない……」
独り言を呟《つぶや》くように細い声を洩らした。吐息をついた後、ほんのわずかな間、彼女の手や足、肩、そして頭まで動きが止まった。
ラブホテルの部屋の空気が張りつめた。
津田を裏切ることへの罪悪感を振りきろうとしているとも、決意を今この瞬間にしているともとれた。仲本はだからこそ、彼女が自らの意思で動きはじめるまで何もしないと決めた。
時間が止まったようだ。
彼女の荒い息遣いだけが聞こえる。ずり下げたパンツにあてがっている頬が、時折、ピクピクッと震えるのが伝わってくる。長い髪があらわになった笠を掠《かす》める。透明な粘液が髪にくっついて拭《ぬぐ》われていく。
「あなた……。くわえてもいいんですね」
「それが今のぼくの素直な気持だよ」
「津田さんには絶対に秘密にしてください。それだけは約束して……」
「もちろん、約束する。彼とは同期入社の同僚なんだ。ぼくだって、このことが知られたら困るよ」
「ああっ、わたしたち、共犯者になっちゃうのね」
「ふたりだけの秘密だ。わかったね、裕子」
彼女の後頭部に声を投げかけた途端、肉の快感ではない高ぶりが全身にいっきに拡がった。下腹が痙攣《けいれん》を起こしたように震えた。
後戻りができないところまで、タブーの領域の奥深くまで入り込んだと実感した。同僚がつきあっている女を抱くことが、こんなにも甘美だとは思わなかった。それは同じマンションの上階に住む人妻を抱く時とはまったく別の種類の快感だった。
パンツが太もものつけ根のあたりまで引き下ろされた。
彼女は陰茎のつけ根を摘みながら、ソファから腰を落とすと、ためらいをまったく見せずに足の間に入り込んできた。
「秘密を持つことって怖いけど、うっとりしちゃうくらい刺激的なのね」
「秘密を持つことでつながりが強まるからだよ。だから安心して高ぶれるんだ」
彼女は視線を絡めながらうなずいた。
瞳《ひとみ》を覆う潤みにさざ波が立っていた。まばたきをするたびに、潤みが厚みを増した。彼女のくちびるがめくれながら開いた。
裕子が唾液を呑み込みながら前屈みになった。
長い髪が垂直に立てられた陰茎を掠める。笠の端の細い切れ込みから透明な粘液が滲み出て、小さな滴となって留まっている。それが脈動が幹の芯を駆け上がるたびに小刻みに震え、今にも落ちそうだ。
裕子に限らず、陰茎をくわえる時の女性の顔は妖しく美しい。性的な高ぶりが表情に満ちているし、男を手中に収めたという満足感も見て取れるのだ。
くちびるが笠を覆った。
熱いと思った。
仲本は右手を伸ばして、彼女の乱れた長い髪を梳き上げた。
美しい顔を見下ろす。
陰茎をくわえ込んでいるこの女性は、津田の恋人なのだ。そんなことを思うと、タブーを冒しているという怖れの混じった愉悦と充足感が全身に拡がった。
舌がチロチロと動く。舌先が硬く尖《とが》る。笠《かさ》の端の細い切れ込みを覆っている両側の肉をめくろうとするかのような力強い動きになっていく。クチャクチャという粘っこい音が響く。ラブホテルの静かな部屋の空気が淫靡《いんび》さを増していく。
笠全体をくわえる。
くちびるが幹を締めつける。舌だけでなく、唾液も熱を帯びる。それを鋭く察して、性感が刺激され、幹がひときわ膨らむ。
「すごく逞《たくま》しい……」
「硬くなったものをくわえるのは、好きかい?」
「たぶん……」
「それはいったい、どういう意味かな。くわえてほしいと言われたから、とりあえず、やってあげているという程度なのかい?」
「本当のこと言うと、あんまり好きじゃなかったんです。だけど、今は好き。あなたのおちんちんを、愛《いと》おしいって思うんです」
「津田のものをくわえている時は、そう思わなかったということかな」
「たぶん……」
彼女は陰茎をくわえたまま、ためらいがちにうなずいた。陰茎のつけ根を摘んでいる指先に力を入れて圧迫しながら、口の奥深くまでくわえ込んだ。
つけ根の太い筋を、くちびるで圧迫する。幹の裏側で迫《せ》り上がっている嶺を舌先で弾く。ふぐりを小指で撫でながら、時折、ふたつの肉塊を刺激する。
愛おしいと言った彼女の言葉は真実だ。それは、陰茎から快感を引き出そうとしている細かい愛撫から感じ取れた。
仲本は腰を突き上げた。
口の最深部に硬い笠が当たった。彼女は苦しげな息遣いをあげながらも、陰茎を離そうとはしない。
仲本は胸の奥が締めつけられるような息苦しさを覚えた。
ラブホテルに入る前も入った直後も、仲本は同僚の恋人と肌を重ねるというタブーを冒す悦《よろこ》びだけに浸っていた。それがどうしたことか、彼女への愛しさが膨らむにつれて、津田への嫉妬心《しつとしん》が芽生えはじめていた。
タブーを冒すことへの理論武装をしてきたつもりでいた。妻に対する罪悪感、不倫関係になることへの後ろめたさといったことは、自分の人生を大切にしようという想いによって乗り越えられた。
しかしそういったものとは別の、たとえば、恋心とか愛しさといったものが生まれた時の心の惑いをどうすべきかということまでは考えていなかった。
裕子は熱心に陰茎をくわえている。幹をくちびるで締めつけたり、口の最深部まで陰茎を呑み込んだりしている。呻き声をあげ、自分のその声に高ぶる。くわえることで気持よくなっているように思えたが、そんなに単純でもなさそうにも感じられた。彼女はまるで、不倫関係の津田とうまくいっていないことや、彼を裏切っていることを忘れるために、意識的に今のこの瞬間に没頭しているかのようだった。
「ほんとにいい女だな、裕子は……。不倫をする覚悟のない津田なんかには、もったいない女性だよ」
「ううっ、そんなこと言わないでください」
「ぼくが津田の代わりになってあげたいくらいだ」
「やめて、今はそんなこと考えたくない……」
「どうして?」
「だってあなたは、津田さんの同僚だし、わたしの相談相手でしょ?」
「よくあることじゃないか。相談しているうちに、その相手とつきあうようになることって……」
「いやなんです、そういうふうになることが……。自分が安易な女になってしまうみたいだから」
「気持はわかるけど、自分の心に素直になってほしいな……」
「素直です、今は。だからわたし、あなたとラブホテルに来たし、愛おしいと思いながらおちんちんを舐《な》めているんです」
裕子は呻《うめ》き声を放った。自らブラウスを素早く脱ぎ、ホックを外したブラジャーを剥《は》ぐようにして取った。床に坐ったままの恰好《かつこう》でスカートを下ろし、ストッキングを脱いでパンティだけになった。
彼女は黙ったまま、陰茎をまたくわえた。
豊かな乳房が揺れる。見事なプロポーションだ。尖って硬くなった乳首が見え隠れしている。呻き声が洩れるたびに下腹部が前後に動く。津田にはもったいない女だ。
裕子の頭が前後に素早く動きはじめた。
乱れた長い髪が揺れ、陰茎のつけ根を撫でていく。
くちびるを締めつけながら、幹を包む皮をしごく。口の奥深くまでくわえ込んだところで動きを止め、呼吸を整える。口の最深部の肉の壁に、陰茎の先端をぶつけるようにして押し込むと、二度三度と小さく咳込《せきこ》んだ。頬から首筋にかけての赤みがひときわ濃くなり、同時に、肌の透明感が増していく。
彼女の高ぶりや情熱を感じ取り、仲本はうっとりとした。
ここまで熱心に陰茎をくわえるのは、好きになっているからだと思う。少なくとも今のこの瞬間は、間違いなくそうだ。今はきっと、彼女の恋人の津田より、自分のほうが愛おしく想っているに違いない。
陰茎のくわえ方に熱がこもるにつれて、裕子が好きなのは津田ではなく自分のほうではないかという気になっていく。
今ならきっと、同僚である津田の恋人を横取りすることができるだろう。しかし、そんなことをしていいのかと戒めの言葉がすぐに心に浮かんだ。
残り少ない人生を充実させるために、タブーを冒してきたが、横取りをすることが心の充実にはつながらないと思う。もちろん、一時の満足感はある。津田に対する優越感も得られるだろう。でも、その後に残るのは苦い後悔だけのような気がする。そんなことは経験してみなくても容易に想像がつくことだ。
裕子がふぐりを小指ですっと撫《な》で上げた。
鋭い快感が陰部の奥から背中に拡がり、背中からうなじにかけて走った。
絶頂は近い。
白い樹液を放ちそうだ。
仲本は慌てて腹筋に力を込めてその兆しを押さえ込むと、素早く彼女の頭に触れた。
「裕子、ちょっと待ってくれないかな」
「どうしたの?」
「気持がいいから、このままいっちゃいそうだ」
「いってください。今ならあなたのものを一滴残らず呑《の》めそうです」
「津田のものも呑んでいるのかい?」
「ううん、そんなこと、一度もしたことない」
「そんなことを言われると、呑ませたくなるな」
仲本はそう言ったものの、彼女の頭から手を離さなかった。
快感を得るためならいいが、優越感を得るためにくわえさせたり、絶頂に向かいたくはないと思った。
裕子がまたくちびるをきつく締めつけてきた。
幹の芯に響く圧迫だ。血流が悪くなるのが感じられる。それが鋭い刺激となって快感が拡がっていく。
くわえるのが好きではないと言っていたが、それでも、すでに十分以上は陰茎を口にふくみつづけている。そのためだと思うが、仲本は津田に対する優越感を得たいためにくわえさせたり、絶頂に向かいたいという気持が、少しずつ薄らいでいた。
彼女の頭にあてがっていた手を離した。その瞬間、絶頂につながる兆しがいっきに強まった。
裕子が愛しい。
愛しさを彼女にぶつけたい。
この思いは、津田に対する優越感とかタブーを冒しているという満足感とも違う。
愛しさを表すことで、裕子との関係がどんなふうに変わるのかわからない。津田と別れると言いだすかもしれないし、妻と別れて結婚してくれと切りだしてくるかもしれない。そうした一抹の不安がつきまとう。それでも今のこの愛しい想いを裕子にぶつけたいと思う。
タブーを冒す時、「好き」とか「愛している」という言葉を囁くのは、自分が培ってきた理論武装に反することだ。今はしかし、自分でつくったルールに違反してでも、愛しい気持を伝えたい。
「あなたの逞《たくま》しくなったもの、ああっ、すごくおいしい……。こんな気持になったのって、わたし、初めてよ」
「ぼくだって、心まで気持よくなったのは、初めてだよ」
「心までって?」
「裕子のことが可愛くて仕方ないんだ。離したくないよ……」
「そんなこと言っちゃダメでしょ? あなたはわたしの相談相手だってことが前提になったおつきあいでしょ?」
「男と女のつきあいは、時とともに変わっていくものじゃないかな」
「そうかもしれないけど、今のわたしには津田さんがいるの。わかっているでしょ? これから先、彼とどうなるかわからないけど、それまではつきあい方を変えられない。わたし、ふたりの男性と同時につきあうなんていう器用なことはできません……」
裕子がうわずった声を洩《も》らした。性的な興奮に心の高ぶりが加わったようだった。彼女の心根の正直さを感じ取り、さらに愛しさが膨らんだ。
いきたい……。
彼女の口の中で果ててしまいたい。
仲本は両手を彼女の後頭部にあてがった。
愛しい想いをぶつけるために、腰を突き上げた。
彼女の口の最深部に笠が当たった。舌のつけ根に陰茎の先端が押された。幹の両側から圧迫された時とは違って、陰茎が自分の下腹に埋まるような感じになった。それはしかしほんのわずかな時間で、つけ根から押し返した。
「裕子、このままいっていいかい」
「ああっ、いって、お願い。呑みたいの、あなたのものを。一滴残らず、躯《からだ》の中に入れたいの……」
「いい子だ、裕子」
仲本は彼女の髪をやさしく撫でた。それでも後頭部にあてがっているもう一方の手は離さなかった。
陰茎の奥の熱気が強まっていく。絶頂の兆しは確実に増している。しかし仲本の心には、これまでとは別の迷いが生まれていた。
このまま裕子の口の中で昇ったら、いくら彼女が魅力的とはいえ、二度目に向かうのは無理だ。悲しいけれど、仕事をしてきた今日の体力を考えるとできそうにない。
昇ってしまっていいのか。口の中で果てるだけで、タブーを冒したという充実や満足が得られるのか……。
うまくいっていないとはいえ、津田は裕子の恋人なのだ。そしてその彼は、同期入社の同僚だ。自分の人生の充実のために、仲のいい同僚から彼女を奪うようなことをしてはいけない。しかしそう考えると、そもそも、裕子とラブホテルにやってきたこと自体がいけないことになる。
今さらそんなことを思っても無駄だ。
こうなるのは必然だった。
タブーを冒す時、負の気持を抱くくらいなら、最初からそんなことをしないほうがいい。自分の充実のための行為によって、心がすさんでいくとしたら、本末転倒だ。何のためにタブーの世界に踏み込むのかわからなくなってしまう。
仲本は腰を突いた。その勢いで、裕子の頭が後ろに動いた。後頭部にあてがっている両手に力を入れ、それを食い止めた。
陰茎が熱気を増した。
笠の外周がうねり、ふぐりの奥の火照《ほて》りが強まっていく。
もうすぐいきそうだ。
絶頂は近い。
「いきそうだ、裕子。いいか、いっても」
仲本は腰を突き込み、裕子の後頭部を両手で包むようにしながら声を放った。
彼女の口の中で、陰茎がひときわ膨らむ。幹の芯に痺れをともなった脈動が駆け上がる。ふぐりの奥がざわつき、白い樹液を溜《た》めている堰《せき》が切れそうになっているのを感じる。
津田のことを頭から追い出し、絶頂に向かうことに集中する。すでにもう、口の中で果てることだけで彼女との関係は終わりにしようと肚《はら》を決めていた。
「さあ、きてください。わたしが初めて愛おしいと思ったおちんちんの逞しい高ぶりを、思いきり、ぶつけてください」
「もうすぐだ、裕子」
「あなたを、待っています。ああっ、いって」
仲本はソファの背もたれに上体をあずけると、全身を硬直させた。太ももの筋肉が盛り上がった。ふくらはぎがつりそうになる。
息を詰め、ふぐりの奥で白い樹液を溜めている堰を意識する。今にも切れそうだ。白い樹液が煮えたぎっていて、いくぞと気合を入れさえすれば意識的に堰を切ることも、樹液を噴出させることもできそうだ。
裕子の舌の動きが止まった。絶頂を待ち受ける体勢を整えたのだとわかった。
裕子の口の温かみを意識する。陰茎がひくつくのを感じる。堰を切るタイミングをはかる。彼女は息をひそめて待ち受けつづける。
仲本は腰を一度思いきり突き上げた。舌の動きの止まった口の中を貫き、陰茎は最深部までいっきに到達した。喉《のど》の肉の弾力を感じると同時に、うわずった声をあげた。
「いくぞ、裕子」
「きて、あなた」
「ぼくのものをすべて呑み干すんだ」
「わかっています。最初からそのつもりでした」
「いい子だ、裕子。ぼくのものにしたいくらいだ。もちろん、そんな無茶なことは言うつもりはないから安心していいからね」
「ああっ、あなた」
裕子は緩めたくちびるの端から言葉を洩らした。しかしすぐにキュッと締め、樹液の噴出を待った。
もうすぐだ。
そう思った瞬間、堰が切れるのがわかった。それとともに白い樹液が幹を走り抜け彼女の口の奥に向かって噴出するのを感じた。
うっとりとした。
彼女を津田から奪うことは諦《あきら》めたが、今のこの時間だけは自分のものだと思った。タブーを冒す悦びが体中に拡がっていく。仲本は、せつなさも感じながら吐息をついた。
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第五章 学校の先生
土曜日、午後三時。
初夏の強い陽射しが照りつけている。熱風がビルの間を吹き抜けていたが、今は風がぴたりと止み、新宿の街全体が湿度の高い熱気に覆われている。
仲本はゴルフクラブの品定めのために新宿にやってきた。一時間程、精力的に見て回っていたが、あまりの暑さに堪えられなくなり、デパートの二階の喫茶店に入った。
強い冷房が心地よくて、アイスコーヒーを飲み干してもまだ窓際の席についていた。新宿通りを見下ろしながら涼んだ。さあ帰ろうかと思った時、隣のテーブル席についている女性と目が合った。
彼女はにこりと微笑んだ後、小首を傾げた。肩までの髪が揺れ、それが陽射しの照り返しを浴びてキラキラと輝いた。
親しげな笑みだった。こちらが何者であるかわかったうえで微笑を送ってきているようだった。
仲本は猛烈な勢いで二十五歳から三十歳までの知り合いの女性の顔を思い浮かべてみたが、二メートル程先に坐《すわ》っている女性の顔は出てこなかった。
誰だろう、この人は。まさか自分ではなく、後ろのテーブル席の人に視線を送っているのか? 仲本は彼女の目を見つめながら、恐る恐る右手の人さし指を自分の顔に向けて、ぼくですか? と問いかけの表情をつくった。
彼女は微笑を絶やすことなくうなずいた。
仲本はますます訳がわからなくなった。いくら考えても、彼女と面識があるとは思えない。黒髪が美しくて印象的だが、知り合いにそんな女性はいない。
まさか、女性からのナンパではないだろう。数々のタブーを冒すことで男としての魅力が増しているかもしれないが、だからといって、四十歳の中年男をナンパする奇特な女性などいるはずがない。
何かの勧誘か? それとも、何かを売りつけるための新手の方法か?
仲本は視線を逸《そ》らした。
都会には見えない罠《わな》があると思っている。これもそのひとつかもしれない。
見ず知らずの女性に親しげに微笑まれたからといって、ホイホイと喜んでついていくほどバカではない。
「あの……」
彼女が腰を浮かしながら、声をかけてきた。
なんという大胆さだ。ノルマを課されたキャッチセールス要員かもしれない。
彼女が席を立った。
淡いブルーのブラウスに紺色のスカートという地味な恰好《かつこう》だ。
彼女がこちらに近づいてくる。口元には笑みを湛《たた》えている。
仲本は身構えた。
ブラジャーがうっすらとブラウスから透けているのを目の端に入れながら、くちびるを噛《か》みしめ、厳しい表情をつくった。
黒髪をなびかせながら、見知らぬ女性が近づいてくる。穏やかで親しげな笑みさえ浮かべている。
仲本はテーブルに乗せた両手を強く握って拳《こぶし》をつくった。全身を緊張させ、妙な勧誘をされないように、バリアをつくったつもりでいた。
女性は目の前で立ち止まった。小さく礼をした後、にっこりと微笑んだ。
「仲本さん、ですよね。偶然ですね、こんなところでお会いするなんて……」
女性は小首を傾げながら朗らかに声をあげた。
仲本は驚いて声を出せなかった。
なぜか、彼女がピアスをしていないことには気づいた。今時、ピアスをしない女性なんているものなのかと思って彼女の姿をよく見るうちに、地味な部類に入る女性だと認識をあらたにした。
最初は派手なタイプの女性かと思った。顔立ちがはっきりとしていて華やいだ印象だったからだ。それに、艶《つや》やかな黒髪に目を奪われていたせいもあるだろうし、ブラウスに透けているブラジャーに気を取られていたからかもしれない。
「ごめんなさい、驚かせちゃったみたいで……。おわかりになりませんか?」
「すみませんが、どちら様でしょうか」
「無理もありませんね。まだたぶん、一度しかお会いしていませんから」
「ぼくがあなたと会ったんですか。これほどまでの美人なら、絶対に覚えているはずなんですけどね」
「照れますね。そんなこと言われたことないから」
「もしよかったら、こっちのテーブルに移ってきませんか? それとも、ぼくが移動しましょうか」
仲本は胸の高鳴りを感じながら、彼女を見つめた。やはり見覚えがない。キャッチセールスの類《たぐい》ではなさそうだ。
彼女が水の入ったグラスだけを持ってこちらのテーブルに移ってきた。
屈《かが》み込んだ時、ブラウスの隙間から、ブラジャーが直に見て取れた。たっぷりとした乳房だった。ブラジャーの縁からはみ出して盛り上がっていた。
薄いピンクの口紅がぬめりを湛えている。肉厚のくちびるが淫靡《いんび》さを醸し出しているように見える。
黒髪の女性は背筋を伸ばした美しい姿勢で坐った。たたずまいが上品だ。いったいどこで、この女性と会ったというのか……。
「康一君、今日は何をしているんですか」
康一。ひとり息子の名前だ。
担任の先生? 仲本は必死になって、一週間ほど前の父親参観の時に話した担任の先生の顔を思い出そうとした。
あの日は、朝からよく晴れていた。ひとり息子の康一は緊張していて、お父さんに授業を見られるのはいやだなとこぼしていた。
三階の教室の風景がよく見える窓際の列の最後尾にひとり息子の康一は坐っていた。ぼんやりするには特等席だが、勉強に集中するには最悪の席だと思った。
先生はベージュのスーツをびしりと着こなし、黒縁の細い眼鏡をかけていた。今目の前で坐っている女性と同一人物という気がしない。今でもちょっと信じられない。
名前は何だったろう。
記憶にとどめていなかったから、思い出そうにも手がかりがなかった。
先生は黙ったまま、相変わらず親しげに微笑んでいる。仲本は名前を思い出せないだけに、居心地の悪さを感じながら、
「康一がいつもお世話になっています」
と、神妙な面持ちで頭を下げた。
先生もそれにすぐに応《こた》えて上体をわずかに前に倒した。
黒髪が揺れた。ピアスの穴のない耳たぶは白さが際立っていた。首筋から顎《あご》にかけてのラインが美しい。
薄化粧しか施していないにもかかわらず、彫りの深い顔立ちのためかやはり華やいだ印象を受けた。
仲本はため息をついた。
眼鏡をかけていない先生の顔が、こんなにも品があって美しかったとは……。
美人に対するアンテナを広げているし、感度も鋭いと思っていたのに、どうやらまだまだのようだ。
息子の担任の先生にそんなことを考えるのは不謹慎だと思ったが、魅力的な女性なのだから仕方ない。教師としてだけ見ることは無理だ。
息子のことを話題にすべきかと思ったが、仲本は敢《あ》えて触れなかった。自分のことを顧みた時、休みの日に仕事のことは話したくない。教師もきっと同じだ。休日くらいは児童のことを考えたくないとしても不思議ではない。
先生とは偶然、出会ったのだ。だからなおのこと、学校のことは話題にしないほうがいいと自制した。
「先生は今日は買い物ですか?」
「ずっと観たかった映画があったんですね」
「どんな映画なんですか」
「不倫をテーマにした映画でしたけど、素敵な恋愛映画に仕上がっていました……」
仲本は驚いて、先生を見つめた。
担任の教師の口から、まさか、不倫という言葉が出てくるとは思ってもみなかった。
教師とはいえ、やはり先生もごく普通の女性なのだ。そんなふうに考えた瞬間、仲本は先生に、女を感じた。
担任の先生に女を感じたことだけで、仲本はもう、自分がタブーの領域に入り込んだ時に味わった愉悦やスリルと同じものに触れた気がした。
黒髪が印象的な美人の先生の表情を覗《のぞ》き込む。美しい人だ。父親参観の時に眼鏡をかけていたが、その時のほうが教師っぽい。今ここにいるのはやはり、二十代後半のひとりの女性としか見えない。
「ちょっとびっくりしました。先生も恋愛映画を観るんですね」
「ごめんなさい。仲本さんがもっている教師へのイメージを壊してしまうことを言ってしまって……」
「言われてみれば当然のことなんですよね。でも正直言って、息子を預けている先生を、ひとりの女性として見るというのは難しいものですね」
「親御さんにしたら、そうでしょうね。今わたしが言ったことは忘れてください。お休みだし、学校ではないから、ちょっと気が緩んでました」
先生は少し困ったような表情を浮かべながらぺこりと頭を下げた。仲本は慌てて右手をあげて、謝ってもらおうと思って言ったわけじゃないんですから、やめてください、と制した。
右手を下ろした。その時ふいに、先生の名前が脳裡《のうり》に浮かんだ。
滝川友理子。二度、三度と胸の裡《うち》で繰り返して、この名前に間違いがないかどうか確かめた。滝川友理子。この名前だ。
「滝川先生。いや、今日はお休みだから、滝川さんと呼びます。いいですね」
「仲本さん、無理にそんなことをされなくてもけっこうですよ。今さっきのことで、わたし、教師の顔を取り戻しましたから」
「滝川さんは、さっきの話の流れからすると、独身ということですか?」
「いい縁に恵まれないんですよね。わたし、教師である自分と、プライベートの女の自分をうまく分けられないんです。そのせいで、男性と出会っても、歯止めをかけちゃって恋愛ができないんです」
「ご冗談を……。素敵な先生だから、男性が放っておかないでしょう」
「ははっ、ダメですね。わたしはどうやら、男性には縁がないみたいです」
滝川友理子は自嘲《じちよう》気味な笑い声をあげた。やはり表情にはどこかしら寂しげな色が滲《にじ》んでいた。
仲本は彼女の坐っている姿を盗み見るようにして視線を送った。
ブラウスの胸元が大きく盛り上がっていて、乳房の豊かさがうかがえる。それとは対照的に、ウエストのくびれが際立っている。黒髪は魅惑的だし、顔立ちも整っている。
もったいない。女になりきれないのなら、このぼくがしてあげたのに……。
仲本はここに新たなタブーの世界があると思った。
そうは思っても、誘えばついてくる女性ではない。地味な服装からもそれはうかがえる。それに警戒心と自制心は、これまで出会った女性たちより格段に強いようだ。
「先生は、どちらにお住まいなんですか?」
「世田谷《せたがや》です。一昨年、引っ越しました。本当は、小学校に近いところに住んだほうがいいだろうと思ったんですが、近すぎると、公私の区別がつかなくなるでしょ? それで、近からず遠からずっていう、今の場所を選んだんです」
「おひとりで住んでいらっしゃるんですね」
「ひとりって、休日が辛《つら》いですよね。実家が神奈川で近いので、暇になると帰っているんです。実は今夜も、実家に帰ろうかなって思っています」
「つまり、今夜も暇ということ?」
「そんなこと、わたしに言わせないでください」
滝川先生は困ったような顔で言いながら、頬のあたりを赤く染めた。
恥ずかしがった表情が可愛らしい。父親参観の授業の時にかけていた眼鏡がないせいか、厳しい女教師という雰囲気はない。とても女性らしく思える。眼差《まなざ》しにも甘えたものが感じられ、男心がそそられる。
当たり障りのない会話がつづく。時間だけがズルズルと無駄に流れていく。誘うタイミングなど、どこにもない。
滝川先生は自分の女の面を出さないように自制しているとしか思えなかった。しかし、彼女は席を立たなかった。仲本はそこに希望を見出《みいだ》していた。話をしたくないなら、席を立つだろう。そうしないのは、彼女の心のどこかに、女の自分を晒《さら》け出したいという思いがあるからだ。そして、担任している児童の父親としてではなく、ひとりの男として目の前にいる中年男性を見ているからだ。
「暇だったら、少しでいいので、ぼくに時間をいただけますか」
仲本は思いきって言ってみた。
先生は驚いたように瞼《まぶた》を大きく開き、顔をこわばらせた。
恋愛に対する自制心が強いということは、裏を返せば、男という生き物を過剰なくらい意識しているだろう。ということはつまり、男からの誘いについても過敏になっているはずだ。
だから、『暇だったら、少しでいいので、ぼくに時間を……』というさりげない言葉にも、滝川先生は敏感に反応して表情をこわばらせたのだろう。
恋愛経験が少なくてウブだからではない。ウブにさせてしまったのは、彼女の強い自制心が原因だ。そう考えるからこそ、仲本はひるんでいた。
彼女の警戒心を考えると、タブーの領域まで踏み込んでいくのは容易なことではないと思った。
お手軽な関係を望んでいるわけではないが、膨大なエネルギーと時間、そして金を費やす必要があるはずだ。そこまでやって、はたしてタブーを冒す快感に浸れるかどうか。
滝川先生を見つめた。
頬のあたりが赤く染まっている。息遣いも荒くなっていて、胸元に手を当てて呼吸を整えたりしている。瞳《ひとみ》を覆う潤みも厚みを増していて、まばたきをするたびに潤みにさざ波が立つ。
先生が視線をさりげなく外した。恥ずかしそうにうつむいた後、聞こえるかどうかの小声で囁《ささや》いた。
「時間はありますけど、何をするつもりですか」
「ははっ、そんなに深刻な顔しないで……。先生のことを取って食べようなんて思っていませんから」
「茶化さないでください、康一君のお父さん」
親密になる雰囲気にならないように、先生はわざとふざけた口調で言っているのだ。だから仲本も大げさにうなずいた。
「茶化してもいませんし、冗談でもありませんよ」
滝川先生を誘ってはみたものの、ふたりになった時に何をしようかということまでは考えていなかった。とにかく、このまま別れてしまうのが惜しかった。この機会を逃したら、もう、二度とふたりきりでは会えない。だから後先考えずに、先生を誘ったのだ。
「散歩でもしませんか。それとも、ぼくみたいな中年男では不満ですか?」
「困ったわ……」
「どうして? 誰かに見られるとまずいんですか」
「わたし、予定があるんです。ここでひと休みしたら、仕事用のスーツを買おうかと思っていたんです」
「ぼくでよければ、お伴しますけど……」
今しがた、滝川先生は今日は暇だと言っていた。買い物の予定を忘れるはずがない。ということは、彼女は無理矢理、予定をつくったのだ。
なぜか?
それはつまり、先生と父兄という関係から、踏み込んだ男女の関係になるのを怖れているからだ。
滝川先生は小首を傾げた後、微笑みながら小さく左右に首を振った。
仕事用のスーツを買うと言った言葉は苦し紛れの言い訳だと思っていたが、どうやら予定していたことだったらしい。
仲本は吐息をついた。
妄想を膨らましすぎて、現実を冷静に受け止めなかったようだ。
残念だが、諦《あきら》めたほうがいいみたいだ。タブーの世界に踏み込むためには、相手の女性の同意や好意が必要になる。ひとりよがりでは無理だ。
「先生はどうやらお忙しそうなので、さっきのお誘いはなかったことにしてください。では、わたしはこれにて」
仲本はゆっくりと礼をして席を立った。彼女のお茶代を払ってあげようとしたが、固辞された。
喫茶店を出た。
彼女が追いかけてこないかと淡い期待を抱きながら、ゆったりとした足取りでエスカレーターに向かった。しかし、想像したようなムシのいい話にはならなかった。当然といえば当然だ。
デパートの出入り口までやってきた。彼女はもう追いかけてこない。諦めをつけたところで、軽い徒労感に襲われた。
デパートのウインドウ・ディスプレイを眺めながら歩く。帰りたくないわけではないが、滝川先生とタブーの世界に踏み込むことを期待しただけに、妻の待っている家に向かう気にはならない。
デパートの建物を離れ、仲本は仕方なく駅に向かった。歩行者用の信号が赤になり、立ち止まった。
背中を突っつかれた。
何? と思った。そして何も考えずに振り返った。
黒髪がきれいな女性がにっこりと微笑んでいた。滝川先生だ。
「わたし、忘れ物でもしましたか?」
仲本は自分でも情けないと思うくらい、つまらない言葉しか口に出なかった。
「さっきは、冷たい言い方をしちゃって、ごめんなさい。ご一緒しても、いいですか」
「ほんとに?」
「もしかしたらご迷惑だったかしら。お宅にお帰りになるところでした?」
「そんなことないけど、どうして……」
仲本は声を詰まらせた。先生は絶対に心変わりなどするはずがないと思っていただけに、すぐには戸惑いを整理できなかった。
信号が青になった。
歩きはじめると、彼女は寄り添ってきた。仲本の戸惑いは強くなった。
新宿の雑踏を、仲本は滝川先生と寄り添って歩いていく。午後の強い陽射しが照りつけている。冷房の利いたデパートの喫茶店で躯《からだ》の芯《しん》まで冷やしたのに、ほんの少し歩いただけで汗ばみはじめた。
仲本は彼女をうながし、新宿駅の東口から西口に通じる地下道に下りた。
人の目がいくらか少なくなってホッとしたが、気は緩めなかった。
一緒に歩いている女性は、一人息子の担任の先生なのだ。こんなところを学校関係者に見られたら、どんな噂を立てられるかわからない。先生に迷惑をかけられない。行動は慎重にすべきだ、と肝に銘じた。
仲本の心配をよそに、滝川先生は相変わらず、寄り添って歩いている。
踏みだした足がアスファルトに着地するたびに、豊かな乳房が揺れる。ストッキングを穿《は》いていない生足がぬめりを湛《たた》えているように見える。先生の肩が触れるたびに、湿り気をはらんだ火照《ほて》りが伝わってくる。
仲本はたったそれだけのことに刺激を受け、腹の底が熱くなるのを感じた。陰部がムズムズしたが、歩いているだけあって、さすがに陰茎が膨らむことはなかった。
地下道を抜け、新宿駅西口に出た。東口に負けないくらいに西口にも人は多かった。これでは散歩など楽しめそうにない。
ふたりきりになれる場所に行きたい……。
欲望の混じった想いが募った。妄想は一緒にいる時間が長くなるにつれて膨らむ。それが愉《たの》しいし、刺激的だから快感もたっぷりと味わえる。滝川先生が同意してくれるなら、陽はまだ高いけどラブホテルに入ってもいい。タブーの世界に踏み込めるかどうかわからないのに、仲本はそんなことまで考えた。
数棟の高層ビルを通り過ぎて新宿中央公園までやってきた。
想像していたとおり、駅前と違って人は少ない。誰かに見られたらマズイという不安がわずかではあるけれど失せ、のびやかな気持と性的な高ぶりが迫《せ》り上がってきた。
ふたりで木陰のベンチに坐った。
「滝川さんに明かしたいことがあるんです。聞いてもらえますか?」
「何でしょうか」
「失礼を承知で言わせてください。滝川先生に、女を感じてしまいました」
仲本は思いきって口を開いた。怒って走り去るかもしれないと覚悟していたけれど、滝川先生は恥ずかしそうに目を細め、こくりとうなずいただけだった。
仲本はみじろぎひとつせずに、隣に坐っている滝川先生の様子をうかがった。
どんな応えが返ってくるのだろう……。
恋愛だけでなく、男という生き物について極度に警戒し、慎重になっている先生に、『女を感じてしまいました』と告白してしまったのだ。救いがあるとすれば、恥ずかしそうにうなずいたことだったが、今はまったく反応がない。
午後の陽射しがジリジリと照りつける。
滝川先生は黙ったままだ。車の排気音が聞こえてきたり、子どもたちの歓声や叫び声が飛び込んでくる。周囲からそうした騒音が入ってきていても、仲本は静まり返った空間にいる気がしていた。
呼吸をするのもぎこちない。自分の息遣いまではっきりと聞こえてくる。
先生が吐息をつき、上体を揺らした。
何を言うつもりだ……。仲本は緊張して先生の言葉を待ち受けた。
「黙り込んでしまって、ごめんなさい。担任している児童の親御さんに、そんなことを言われたのが、初めてだったんです。どういうふうに応えていいかわからなくて……」
「驚かせてしまって、すみませんでした」
「男の人に慣れていなくてごめんなさい。ちょっと恥ずかしかったわ。経験のなさを見抜かれてしまったみたいで……」
うつむいていた滝川先生が顔を上げ、こちらを向いて微笑んだ。口の端が痙攣《けいれん》を起こしたように震えていて、無理して笑っているとわかった。
女性の中には、性的なことを話すのが苦手な人がいる。先生もきっとそういったタイプなのだろう。男女のことやセックスにつながる話題を無理にしないほうがよさそうだ。先生の笑い顔を見て、仲本は少し反省した。
「わたしは先生と出会ったのは、偶然ではないかもしれないと思ったんです。だから、ひとりの女性として見てしまいました。勝手な妄想をしていたんです」
「わたしも、妄想をいくつも浮かべていました」
「えっ?」
「わたし、自分の本性を言い当てられた気がして、戸惑っていたんです」
「よくわかりません、どういうことですか?」
「仲本さんにだけは正直になれそうです……」
「正直になってください」
「わたし、男の人が好き。触れ合うのも好き。でも、先生になったからには、そんなふうに見られたらいけないって気をつけていたんです」
滝川先生の思いがけない告白に、仲本は驚いた。
異様とも思えるくらいに男を警戒していたのは、男好きという気持ちの裏返しだったわけだ。女の人の心理というのは面白いものだ……。
「異性が嫌いな人なんていないんじゃないですか? 恥ずかしがることはないと思いますが……」
「よかった、わかってもらえて……。教職に就く女なのにふしだらだ、なんて言われたらどうしようかと思っていました」
「先生である前に、滝川さんはひとりの女でありたいんですよね。わたしは理解していますから」
「誰にも言わないでください、仲本さん。お願いします」
「もちろん、ふたりの秘密です。わたしだって、明かされたら困りますから」
「よかった」
滝川先生がようやくこわばっていた表情をほぐして微笑んだ。
木漏れ日が黒髪に当たっていた。髪の色に深みと艶《つや》が増して、女の色香が滲《にじ》み出ていた。
彼女なりに精一杯、自分の姿を晒《さら》している。でも、まだ十分ではない。すべてを剥《む》き出しにした時、彼女の女としての美しさや色気も表れるのだろう。
しかし、先生にばかり要求しても応《こた》えてはくれないだろう。それに、自制心も緩まないはずだ。仲本はまず自分が先に想いを包み隠さず明かさないといけないと思った。
「さっき、『先生に、女を感じてしまいました』と言ったでしょ? 今ではもっと強く、それを感じています。ふたりきりになって、先生を感じてみたいとも思っているんです」
「そうなんですか? びっくりですけど、ちょっとうれしいかしら……」
「実は、それだけではありません。触れたい、触れさせたいとも思っています」
「昼の明るい時間から、そんな大胆なこと、言わないでください。仲本さんはどうかわかりませんけど、わたし、慣れていないんですからね」
彼女は流し目を送りながら正面に顔を向けた。
美しい顔立ちは、横から眺めても美しい。それだけでなく、鼻からくちびるにかけてのラインがエロティックでもある。
「夜なら、きわどい話をしてもいいということ?」
「仲本さんのご想像にお任せします」
滝川先生は肉厚のくちびるをめくるようにして、口元に艶やかな笑みを湛えた。
仲本は腕時計に視線を遣《や》った。午後四時半を過ぎたところだ。
夜になればきわどい話ができると匂わせた滝川先生の言葉の裏には、夜に再会しましょう、という意味が込められていると察した。
しかし、それは無理だ。自宅にいったん帰ったら、外出するのは難しい。
仲本はそれでも、妻への言い訳を考えた。
なにしろ、警戒心の強い滝川先生がせっかく心を開きはじめたのだ。この機に乗じて、一気|呵成《かせい》にタブーの世界に踏み込んでいきたかった。このタイミングを逃したら、先生はきっとこれまでどおりの警戒心の強い女に戻ってしまうだろう。
そうかといって、このまま滝川先生と夜まで一緒にいるのも気がひけた。
父親参観の時に会っていたが、ほぼ初対面のようなものなのだ。お互い、知らず知らずのうちに気を遣っているだろうから、夜になる頃には疲れ果てて、触れ合いたいといった気力が失せてしまうはずだ。
日をあらためるべきか、それとも、一緒に夜になるのを無理して待つか……。
仲本は迷ったが、日をあらためるほうを選んだ。
こういう時、女性はふたつのタイプに分かれる。ひとつめは、その場の雰囲気に乗って流されていくことを良しとするタイプ。もうひとつは、自分を客観視するためにいったん退いて自分を納得させた後で行動を起こすというタイプだ。
警戒心や自制心が強い滝川先生は、きっと、後者のタイプだと思った。だからこそ、日をあらためることを決めたのだ。そう決めてしまった途端、全身を巡りはじめていた欲望も、陰茎の芯からもすっと力が抜けていった。
「来週の金曜日の夜、お会いしませんか?」
仲本は切りだした。彼女がどういう表情をするのかしっかりと見つめた。
滝川先生の瞳が放つ光がわずかに揺れた。それは落胆の意味合いを帯びてはいなかった。どちらかというと、安堵《あんど》した様子が滲んでいた。
「よかった……、来週で」
「会えますか?」
「たぶん、大丈夫だと思います。今日はやっぱり、わたしには無理でした」
「お互いが心身ともに調子のいい時に会ったほうがいいですからね」
「わたし、本当はこのまま流されてもいいかなって思ったんですけど、やっぱり、それはできないって思い直していたんです」
「お互い、無理は禁物だからね。でも、正直言ってちょっと残念かな」
「愉しみを来週までとっておけると思ったら、残念とは思わないんじゃないですか?」
そんなに長く待ちきれないと思ったが、仲本は同意するように滝川先生を見つめてうなずいた。
滝川先生と約束した金曜日になった。
午後七時三十三分。
仲本はイタリアンレストランにいる。ここは会社の送迎会に利用した店だ。ほかに気の利いた店がすぐに思いつかなかったし、この店なら、かつて部下の宮川麗子と入ったラブホテルまで歩いていけるという思惑もあった。
滝川先生はまだ来ない。いや、もう来ない気がする。教師という職業に就いている女性は、時間に正確なはずだ。約束の時間からまだ三分しか経っていないけれど、残念ながら彼女は姿を現さないと諦めてしまおうと思う。仲本は最悪の事態を想定することで、不安を少しでも減らそうとした。
テーブルに置かれたグラスの水を飲む。炭酸の入った水が舌の上でプチプチと割れていく。それが喉《のど》を通る時、ヒリヒリするような感覚が生まれ、そこに後悔が混じる。
先生と出会った先週の土曜日。せっかくいい雰囲気になったのだから、一気呵成に性的な関係まで突き進んでしまえばよかったと思った。
やはり、考える時間を一週間もつくってしまったのが間違いだったのだろう。彼女は警戒心や自制心が強いのだ。彼女が言った『わたし、男の人が好き。触れ合うのも好き』という言葉を信じきってしまったのがいけなかった。
後悔しても遅いが、彼女の警戒心や自制心の強さについて、甘く見ていた気がする。彼女のそれは、待ち合わせの約束を破ることをいとわない強さを持っていたということだ。
社会人として約束を違えるのはどうかと思うけれど、彼女は社会人である前に、ひとりの女として決めたのだろう。電車の遅れや担任の児童が事件に巻き込まれたといった突発的な理由ではないはずだ。
仲本は腕時計に視線を落とした。
午後七時四十分。
時間が経つのが遅い。カップルの多いこの店で、四十歳の中年男がひとりで待っているのは辛《つら》い。
あと五分待って来なかったら、店を出よう。何の注文もせずに席を立つのは気がひけるけれど、ひとりで食事をする居心地の悪さよりもずっといい。
その時だ。
店のドアが開き、薄いブルーのワンピースを着た滝川先生が現れた。
意外だった。もう来ないと決めていたから、思いがけないプレゼントを贈ってもらった気がした。
「ごめんなさい、遅くなってしまって……」
席につくなり、先生は申し訳なさそうな表情を浮かべながら頭を下げた。印象的な黒色の髪がオレンジ色の間接照明の明かりを浴びて輝いた。
午後七時四十二分。
十分強の遅刻だ。仲本はそこに、滝川先生の迷いを読み取った。
でも、気にすることはない。先生は待ち合わせ場所に来た。それだけで十分にもう、タブーの領域に踏み込むために必要な了解がとれたと考えていい。
アラカルトでオーダーしようと思ったけれど、先生がメニュー選びに迷っているのを見て、コース料理を頼むことにした。
デートの経験が少ないのだろう。それだけでなく、男性と食事する機会も多くはなさそうだ。
料理とワインを頼み終えると、先生の表情に安堵の色が浮かんだ。
「電車が止まったりしたんですか?」
仲本は漠然とした訊《き》き方をした。責めるつもりはなかったけれど、訊かないのも不自然だと思ったのだ。
「ごめんなさい……。わたし、ギリギリまで迷っていたんです。でも結局、来てしまいました」
「絶対に再会できると思っていました。根拠はないんですけどね」
「わたし、そんなに物欲しそうな顔をしていたんでしょうか」
「まさか、違いますよ。滝川先生がこの再会を、先生としてではなく、ひとりの女として考えたら、必ずやってくるだろうって信じただけです」
「わたしのこと、軽蔑《けいべつ》しませんか?」
「どうして、そんなふうに考えるのかな? 男が女を求め、女が男を求める。シンプルな気持を大切にすることって、素敵だと思いませんか」
フォークを動かしていた手を止めて、仲本は力説した。彼女の瞳を見つめ、同意を求めるようにゆっくりとうなずいた。
彼女も視線を逸《そ》らすことはなかった。そして黙ったまま、うなずいた。
彼女がタブーの世界に踏み込むと同意した瞬間だと思った。
もはや、滝川先生に対して遠慮はいらない。警戒心や自制心の強さへの不安を抱くこともない。タブーに立ち入ることを了解したふたりは、同志であり、共犯者なのだ。
「このことは、絶対に誰にも言ってはいけない、ふたりだけの秘密ですよ。いいですね、先生」
「わかっています……。仲本さんもお願いします」
「ぼくたちは、出会うべくして出会ったんです。正直に気持を明かしていきましょう」
仲本は囁いた。先生の頬はすでに真っ赤に染まっていた。それは、タブーに踏み込もうという決意や高ぶりによるものだ。
長い髪の黒の色が深みを増している。微笑を湛《たた》えたくちびるが震えている。
ワイングラスを持つ指も小刻みに揺れ、白のワインが細かい波紋をつくっている。
先生はグラスを置くと、前屈《まえかが》みになって小声で囁いた。乳房がつくる谷間がワンピースの胸元に、くっきりと浮かび上がった。
「わたし、足が震えています。仲本さん、わかりますか?」
「興奮しているのはわかるかな。でも、それはぼくも同じですよ」
「わたし、秘密をつくることって、怖いことだと思っています。絶対にバレない秘密なんてないでしょ? いつか、ふたりだけの秘密も明かされてしまう。だから怯《おび》えて震えているんです」
彼女の不安はよくわかる。タブーの世界に踏み込んだからには不安は常につきまとうのだ。だからこそ、そこに甘美な成果があり、スリルも魅惑に変わっていくのだ。
「たぶん、秘密であると思いつづけることと、不安を愉《たの》しみに変えるようにすることが大切じゃないかな。この先のことは誰もわからない。そのためにも、悔いが残るようなことはしないことです」
滝川先生の瞳を見つめながら言っていたが、仲本は自分に向かって言い聞かせてもいた。
人生とは、はかない。だからこそ、後悔などしたくない。やり残したことを死に際に考えたくない。
仲本は瞼《まぶた》を閉じた。吐血して、死の寸前まで行きかけて戻ってきた時のことが鮮明に蘇《よみがえ》った。あの時の後悔はもう二度と味わいたくない。生きていけるなら充実した人生を、自分のための人生を送るぞ。あの時の強い思いが脳裡《のうり》を何度も巡る。
「滝川さん、まずここで小さな秘密をふたりでつくってみませんか」
「何?」
「先生のワンピースの内側を、見たいな」
仲本はふっと浮かんだことを口にした。
テーブルには白い布がかけられている。テーブルの脚が半分くらいまで隠れているから当然、ウエイターや客の目線からは彼女の股間《こかん》は見えない。けれども、正面に坐っている仲本が屈んで覗《のぞ》き込めば、太ももの内側まで見える。
そのためには、彼女が足を開き、お尻《しり》を椅子から落とし気味にするという協力が必要だ。このレストランでも、ふたりで秘密の共有はできる。ラブホテルでセックスしなければつくれないわけでない。
滝川先生は困ったような表情を浮かべていた。けれども拒絶はしていない。曖昧《あいまい》に微笑んでいた。彼女にも、タブーの領域に踏み込んだという意識があるからこそ、即座に拒んだりはしないのだ。
「ほんとに、ここで見たいんですか……」
滝川先生が恐る恐る囁《ささや》いた。
フォークを握っている細い指先が震えている。教職に就いているだけあって、OLのように長い爪ではないけれど、薄いピンクを塗ったマニキュアが艶《なま》めかしい。首筋から胸元にかけて、肌の赤みが濃くなっている。乳房がつくる谷間には妖《あや》しい翳《かげ》が生まれていて、荒い呼吸をするたびに深みを増している。
仲本はワインで口を湿らせた後、ゆったりとした口調で応《こた》えた。
「食事をしながら、自然なしぐさの中で、足を開いてくれるとうれしいな」
「たとえわたしがそうしても、仲本さんの位置からでは見えないでしょ?」
「膝《ひざ》に置いたナプキンを落としたらどうかな。そのタイミングで、滝川さんが動いてくれたら可能になると思うけど……」
「わたしにかかっているということですね」
「小さな秘密をつくるところからはじめてみないかい? できることから少しずつやってみようよ」
「でも……」
滝川先生は口ごもった。
なかなかOKがもらえないけれど仕方がない。
焦りは禁物だ。男の欲望を前面に押し出しすぎると、せっかく緩んだ警戒心が強まりかねない。
「できないかな?」
「恥ずかしいけど、やってみます。ああっ、秘密を持つには、恥ずかしさを乗り越えるための勇気が必要なんですね。わたし、初めて知りました」
「ナプキンを落とすよ。心の準備はできたかな?」
滝川先生がうなずいた。仲本は彼女と視線をかわしながら、さりげなく、太もものナプキンを膝のほうに滑らせながら落とした。
静かに椅子を退いた。ウエイターが来る前に、屈み込んだ。テーブルクロスをめくって頭を入れた。
彼女の足が動く。しかしあまりにもゆっくりしていて、仲本が床に落ちたナプキンを摘んでもまだ、拳《こぶし》がひとつ入るかどうかしか膝は広がっていなかった。
滝川先生がワンピースの裾《すそ》をめくりはじめたところで、仲本は頭を上げた。長い時間、テーブルの下に頭を突っ込みつづけるのは不自然だからだ。
滝川先生は顔を真っ赤にしている。白目まで充血していて、額にはうっすらと汗も滲《にじ》んでいる。口紅を塗ったくちびるは、先ほどよりもぬめりを湛《たた》えている。そのくちびるが震えながらゆっくりと動いた。
「仲本さん、どうでしたか? 見えたでしょ?」
「もう少し膝を広げてくれないと……。それに、ワンピースの裾を上げてくれないと」
「見えませんでした?」
仲本は曖昧に小首を傾げると、穏やかに微笑んだ。
不満のひとつもこぼしたかったが、彼女なりに精一杯やったはずだから、非難してはいけないと自分を戒めた。彼女は男性経験が少ないのだ。焦らずゆっくりと導いていかなくてはいけない。
滝川先生は高ぶった表情を浮かべながらためらいがちに言った。
「もう一度、やったほうがいいでしょうか」
「不自然だから、やめておこう。それにしても残念だな。もうちょっと滝川さんに勇気があれば、本当にふたりだけの秘密をつくれたんだけどね」
「そんなふうに言わないでください……」
「責めているわけじゃないよ。ぼくのほうこそ、無理を言ったようだから」
「いけないのは、わたしのほうです。跳ぼうと思ってここにきたのに……」
「跳ぶ?」
「わたし、このまま男性を警戒して生きていくのはよくないって思っていたんです。男性のことが本当は好きなのに、それを表せないことが、自分で歯がゆく感じていたんです。仲本さんと出会って、そんな自分を変えられるチャンスだと思ったんです」
自分を変えるために、タブーの世界に踏み込もうとしていたのだ。仲本は彼女の動機が自分のそれと似ていると思った瞬間、愛《いと》しさが全身に拡がった。
「だったら、跳んでみようよ……」
「もう一度、やってみます。仲本さん、チャンスをくれますか?」
彼女は紅潮した頬を震わせながら言った。
「同じことはやってほしくないな」
仲本はすかさず応えた。
自分の声がうわずっているのがわかった。屹立《きつりつ》した陰茎はさらに硬くなり、幹の芯《しん》には欲望を煽《あお》る鋭い脈動が何度も駆け上がっていくのも感じ取った。
「別のことをする、ということですか?」
滝川先生は伏し目がちに視線を送ってきた。どんなことを言われるか不安なのだ。紅潮した頬が、震えているうちに青みがかった色味に変わりはじめた。
「さっきと同じように足を開いてほしいんだけど、その前に、パンティを脱いできてほしいんです」
「えっ……」
滝川先生は絶句した。青みがかっていた頬は一瞬にして透明感を強め、青白い色に変わった。
うつむいたまま、腰を左右に小さく揺する。その動きにつられて豊かな乳房が上下に波打つ。まばたきの回数が増え、瞳《ひとみ》を覆っている潤みが波立つ。
「仲本さんが望んでいらっしゃることって、下着を取った姿を、ここで見たいということでしょうか」
「そうです……。滝川さんは、さっき、『跳ぼうと思ってここにきた』と言っていたはずです。だから、跳んでほしいんです」
「ああっ、そんな大胆なことできません」
「跳ぶためのチャンスがほしいって言ったばかりじゃないですか? 自分を変えるために、勇気を持って成し遂げるつもりでいたんじゃないんですか?」
仲本は囁き声ではあったが、力強い調子で言った。
そこには、先生を説得しようという思いが混じった響きもあった。
タブーの領域に踏み込むためには、互いが心のそこから納得している必要がある。だから、説得などをするのはおかしいのだ。
仲本はしかし、強引に話を進めた。
彼女に今必要なのは、背中を押してくれる人なのだ。
「滝川さん、ふたりで秘密を持つんです。小さな秘密の共有が、つながりを深く強くするんですから」
「ああっ、できない……。ショーツを着けたままで許してもらえませんか?」
「跳ぼうとする強い意志と、自分を変えようという願いがあれば、今ここで席を立ってパンティを脱いでくるはずです」
仲本は小さくひとつ咳払《せきばら》いをした。そして、それきり黙った。彼女が何を思い、何を決めるのか待った。
沈黙がつづいた。
彼女の顔色はその間、青白いものから、赤くなり、そして鮮やかな朱色へとめまぐるしく変わった。
「わかりました。わたし、脱いできます」
彼女は朱色に染まった顔を伏せながら席を立った。
仲本は緊張したまま身動きひとつせずに、滝川先生が戻ってくるのを待った。
ストッキングとパンティを脱いでくるのだから時間はかかる。それくらいのことは理解していたはずなのに、たった三分を過ぎたあたりでもうジリジリしてきて、五分経ったころには、先生はここに戻ってこないかもしれないという不安が芽生えていた。
洗面所まで先生を探しに行きたい……。
でも、信頼しよう……。
彼女はタブーの領域に踏み込むパートナーなのだ。
「ごめんなさい……。少し手間取ってしまったの」
滝川先生がはにかんだ表情を浮かべながら、ようやく戻ってきた。
あと一分後だったら、席を立っていたと思う。それとともに、彼女への信頼も揺らいでいたはずだ。とにかく、自分にとっても彼女にとっても、ぎりぎりセーフだった。
「ストッキングとパンティ、脱いできたよね」
「ええ、仲本さんのおっしゃるとおりに、脱いできました」
「こういうことするのって、初めてかい?」
「もちろんそうです。体中が火照《ほて》っているの。わたし、じっと坐っているのが辛《つら》いわ」
「パンティを脱いでレストランにいるというのは、どういう気分だい?」
「すごく心細いの。ワンピースを着ている気がしないんです」
滝川先生は恥ずかしそうに応えた。
可愛らしい表情だ。この女性となら、タブーの世界に足を踏み入れても悔いはないと思う。刺激もきっと強いはずだ。男性経験が極端に少ない女性だけに、理性を解き放ったらきっと、欲望に対して猛烈に貪欲《どんよく》になるはずだ。
「あの……。わたし、ブラジャーも外してきました」
思いもかけなかったことを彼女が言った。それに反応して、硬く尖っている陰茎の芯に高熱が走った。
ワンピースの下は裸なのだ。
乳房のすそ野の細かい揺れや乳首の輪郭が見えたのは、先生がブラジャーを着けていなかったからだ。
「いいかい? もう一度、ナプキンを落とすから、そのタイミングに合わせて足を開くんだよ」
彼女の目を見つめながら言った。瞳の輝きは艶やかで力強かった。今度は大丈夫そうだ。
ナプキンをさりげなく落とした。仲本はゆっくりと屈み込んで、テーブルの下に頭を入れた。
先生はワンピースの裾をめくり上げ、両足を九十度の角度で開いていた。
仲本は息を呑《の》んだ。
見事な眺めだった。
黒々とした陰毛の茂みがはっきり見える。しかもすでにうるみが溢《あふ》れ出ているらしく、割れ目のあたりが濡《ぬ》れて輝いている。
先生の覚悟を、仲本は確かに受け取ったと思った。床に落としたナプキンをゆっくりと拾う。もちろん、視線は股間《こかん》を見つめつづける。下腹部がうねり、陰毛が波打つ。割れ目から生々しい匂いが湧きあがっていて、それがクロスに覆われたテーブルの下全体に拡がっている。
仲本は上体を起こした。
頭に血が昇っている。屈み込んだためというより、性的な高ぶりによるものに思える。
先生に視線を絡めようとしたが、彼女は恥ずかしそうにうつむいたままだ。その初々しさに恋心が触発され、さらに、陰茎への刺激にもなる。
「滝川さん……。やればできるじゃないですか」
「顔から火が出るんじゃないかっていうくらい、恥ずかしいです」
「すごい姿を見させてもらいました。とってもきれいでしたよ」
「ううっ、恥ずかしいから、もうこれ以上、言わないでください」
「どうして?」
「だって、変な気持になってきているんです……。わたし、ワンピースを汚してしまいそうです」
彼女は顔を上げ、困った表情を浮かべた。顔を染める朱色に透明感が加わっていた。瞳は厚い潤みにまみれていて、涙を流したのではないかと勘違いしそうだった。
「デザートを食べますか? それとも、どこか別の静かなところに行きますか」
「仲本さんのお好きにしてください」
「いいんだね、本当に」
「そんなに念を押さなくても、わかっているはずです。覚悟ができたから、言われたとおりに、はしたない姿になったんです」
「下着を取ったままの恰好《かつこう》で、ちょっと歩こうか」
「ああっ、そんなこと、できません」
彼女は呻《うめ》き声を小さく洩《も》らして天を仰いだ。目尻《めじり》に潤みの滴が溜《た》まっていて、朱色に染まった肌の色がそこに映り込んでいた。
仲本は立ち上がった。滝川先生もつづいて席を立った。ブラジャーを外した乳房がわずかに揺れた。
「ラブホテルに入ったことって、わたし、一度もないんです」
滝川先生は物珍しそうな表情で、部屋をゆっくりと見渡した。
イタリアンレストランを出ると、仲本はどこにも寄らずにこのラブホテルに入った。先生にためらいは見られなかった。それどころか、彼女は玄関の自動ドアが開くと、足早にフロントまで進んでいった。
「ブラジャーとパンティを着けずに散歩した気分はどうでしたか?」
仲本はベッドの端に腰をおろして、左手で軽く布団を叩《たた》いた。
横に坐《すわ》りなさい。そんな意味を込めたしぐさのつもりでいたが、先生は立ち尽くしたままだった。意味がわからないというより、気持を落ち着けるために立っていたいという雰囲気だったから、仲本はしつこくうながさなかった。
「小さなショーツ一枚の違いなのに、すごく涼しかったから驚きました」
「恥ずかしくはなかったんですか?」
「もちろん、すごく興奮していました。誰かに見られているという気がして、早くどこかに入ってほしかったんです」
「それにしても、ラブホテルに入ったことがないなんてびっくりですよ」
「今までおつきあいしていた人は、真面目だったから……。こういうところに連れてきてくれなかったんです」
「ラブホテルの印象はどうだい?」
「きれいなんで驚きました。汚らしいイメージを抱いていたんですけど、そんなことないんですね」
「もしかすると、安っぽいシティホテルよりもきれいかもしれないよ」
仲本は先生に視線を絡めながら、もう一度、布団を軽く叩いた。
彼女は照れたような笑みを浮かべた後、ためらいがちにベッドに坐った。
仲本は横に並んだ彼女の左肩を抱いた。その瞬間、華奢《きやしや》な躯《からだ》がビクッと震え、避けるように右の肩が上がった。
背中を丸め気味にしたけれど、乳房の豊かさは隠れなかった。ワンピースの胸元は張りつめていて、くっきりとした深い谷間がよく見える。抱いている指先に力を込めただけで、先生は反応して乳房を大きく前後に動かした。
「キス、したいな」
仲本は先生の黒髪に触れるかどうかのギリギリにくちびるを寄せて囁《ささや》いた。
滝川先生の華奢な肩がまた、ビクッと揺れた。
彼女の初々しい反応がうれしい。タブーの世界に踏み込んだという自覚はあっても、たぶん、男性経験が少ないせいで、そういった反応になるのだろう。
男というものを少しずつ教えてあげよう。そのためにもまずは、キスするところからはじめなくちゃ……。
仲本はそんなことを考えるうちに満足感の混じった悦《よろこ》びを感じて、キスするよりも先に、右手を彼女の太ももに伸ばした。
「あっ、だめ……」
滝川先生がうわずった声を洩らすと、わずかに開いていた膝をきつく閉じた。
仲本はさりげなく右手を太ももから離した。
この情況では無理強いしてはダメだ。いくらラブホテルにやってきたからといって、先生を自分の好きなようにできると思わないほうがいい。とにかく今は、不安を煽ってはいけない。先生の不安と警戒心をなくすことによってはじめて、タブーの世界をふたりで自在にはばたけるようになるのだ……。
先生はうつむいたまま、申し訳なさそうな表情を浮かべた。しかし、性的な高ぶりが拡がっているのは間違いなかった。
瞳《ひとみ》を覆っている潤みは厚みを増し、妖《あや》しい輝きとともにさざ波も立っている。ワンピースに浮き上がった豊かな乳房は前後に大きく動いているし、レストランにいる時よりも、ワンピースには乳首の輪郭がくっきりと見える。
「キス、したい……。そこからすべてをはじめたいんだ」
「わたし、あまり経験がないから、下手なんです。それでもいいですか?」
「上手だとか下手なんて関係ないよ。相手を求める気持があるかどうか。それが大事でしょ? そうした想いが舌の動きにつながるんじゃないかな」
「キスって素敵だけど、気持がいいって感じたことがないんです」
「どうして?」
「恥ずかしさが先に立ってしまって、何も感じられなくなっちゃうんです」
「恥ずかしさは、何も創りださない。関係を深める材料にもならない」
「ええ、そうね。担任しているクラスの子でも、異常なくらいに恥ずかしがり屋がいますから……」
「先生、自分を変えるんでしょ? だったら、恥ずかしさをかなぐり捨てて、キスするんです」
仲本は左手に力を込め、彼女の華奢な肩を強く抱きしめた。勇気を持って、欲望をあらわにするんだ。そんな励ましの意味を込めたつもりだった。
先生が顔を上げた。
瞼《まぶた》をゆっくりと閉じた。
くちびるを震わせながら半開きにした。
仲本は顔を近づけた。
滝川先生にくちびるを重ねた。その途端、ベッドに並んで坐っていた先生が勢いよく抱きついてきた。
会話を通してだけでなく、躯でもふたりはタブーの領域に入り込んだ、と仲本は思った。
先生がくちびるを勢いよく押しつけてきた。
顔全体で圧迫するようなキスだ。くちびるをめくり上げて唾液《だえき》を塗り込んでくる。お世辞にも洗練されたものとは言いがたい。しかし、その不慣れな感じが自分の独占欲を満足させてくれる。
「ううっ、これがキスなんですね。ずっと想像していたとおりです」
「どんなふうに、想像していたんだい?」
「キスの気持よさに浸りながら、きっと、男の人の体臭とか、タバコの臭いとかを感じ取るんだろうなって思っていたんです」
「そのとおりだった?」
「はい、そうです。でも、甘美な感触は、想像を越えていました」
「もっともっと淫《みだ》らになってほしいな。先生は、自分が淫乱《いんらん》な女になった姿も想像していたんじゃないのかい?」
「淫乱だなんて……。ああっ、いやらしい言葉」
「想像していたね」
「はい、そうです。わたし、他人に言えないエッチなことを考えていたの」
先生は囁くと、瞼を薄く閉じ、顎《あご》を上げた。それとともに、頬を染めている朱色の色合いが濃くなり、瞳が放つ光は艶《つや》やかさを増しはじめた。さらに、黒目の色が深みを強めることで、青みがかった白目も際立ってきた。
そのせいだろうか、キスをする前と後では、先生の印象がずいぶんと違っていた。ウブな女から、性欲が顔に滲《にじ》む貪欲な女に変わったようだった。
くちびるに軽く触れると、そのまま首筋に沿って舌を滑らせた。
先生の湿った艶《なま》めかしい吐息とともに、押し潰《つぶ》されている豊かな乳房が、大きく前後に動いた。
乳房から火照《ほて》りがはっきりと伝わってきた。乳首が硬く尖《とが》っているのも感じる。閉じていた足が緩みはじめ、膝に拳《こぶし》がふたつ入るくらいになってきた。
首筋に唾液を塗り込む。耳たぶに向かって、くちびるを這《は》わせていく。そうしながら、緩んだ太ももをやさしく撫《な》でる。
ワンピースの裾《すそ》をめくり上げる。ストッキングとパンティはすでに、レストランで脱いでいる。素肌はしっとりとしていて、触れたところが赤みを帯びる。
「仲本さん、お願いです。やさしくしてください」
「やさしくしてあげるからね」
仲本は滝川先生の太ももを撫でながら、彼女の耳元で囁いた。ワンピースの裏地と素肌が擦れ合い、スベスベした感触が指先に伝わってくる。
太ももはやわらかみと硬さが同時に感じられる。緊張によるものだと思いながらも、先生の男性経験の少なさが躯に表れているのではないかと、自分の満足につながるように都合よく考えたりする。
ワンピースの裾の内側に指を差し入れた。
先生は瞬時に、ワンピースの上から太ももを押さえて、指の侵入を防ぐような動きをみせた。
「触られるのが、いやなんですか? その手をどけてください、先生」
「ごめんなさい。わたし、恥ずかしくって、どうしていいのかわからないんです」
「恐かったり恥ずかしかったりして混乱すると、拒んでしまうんですね」
「そうなの……。でもそれが、男の人の気勢を削《そ》ぐとわかっているんです」
「恥ずかしいからじゃなくて、貞淑な女性だと思われたいからじゃないかな」
「ああっ、わたし、わかりません……」
「先生はエッチなことが大好きな女なんですよ。貞淑な女の姿はもういいから、淫乱な女のほうを見せてもらいたいな」
滝川先生は瞼を閉じると、華奢《きやしや》な肩を震わせながら濁った呻《うめ》き声を洩《も》らした。
エッチで淫らな女の姿を見せはじめる。
太ももを押しつけていた細い指がゆっくりと離れていく。それとともに、足がさらに開く。ワンピースの裾がめくれ上がり、赤く染まった太ももがあらわになっていく。
太ももの内側を指の腹で撫でる。触れるかどうかの微妙なタッチで、足のつけ根のほうに滑らせる。顎を上げている先生の息遣いが荒くなり、乳房が前後に大きく揺れる。
ワンピースの内側は湿った熱気に満ちていて、噴き出すように拡がった。
滝川先生は息を呑《の》み、全身を緊張させている。それは拒みたいからでも、タブーの領域に入り込んだことへの怖れからでもない。男性経験の少なさによるものなのだ。仲本にとっては、それも初々しく感じられた。
股間《こかん》の深いところに指をねじ込んだ。敏感な芽を探った。すると彼女は、愛撫《あいぶ》を受け入れやすいように腰を突き出した。
豊かな乳房が上下に大きく揺れる。レストランでブラジャーを外したために、やはり、揺れ方が激しいのだろう。
「先生がすごく興奮しているのが、わかりますよ」
滝川先生の耳元で、仲本は意図的に羞恥心《しゆうちしん》を煽る言葉を囁いた。
女性の羞恥心というのは、ある程度の性的興奮のレベルに達すると、性欲を煽る刺激になる。妻に対してそんなふうに羞恥心を利用したことがなかったから、仲本はタブーの世界に踏み込むようになって、そのことを知ったのだ。
経験は知識と知恵を増やす。仕事や人間関係についてだけのことではない。それは女体についてもセックスについても、女性の心の機微についても言えることだった。だから仲本は、タブーの手前でとどまっていなくて本当によかったと思った。滝川先生の印象的な黒髪にくちびるで触れながら充実感を味わった。
「どうしたらいいんですか、仲本さん。わたし、体中が熱いんです」
「もっともっと触れてほしいんじゃないかな?」
「ううっ、そうなの。たっぷりと可愛がってほしいの。頭の中が真っ白になるくらい、気持よくしてほしいの」
「先生、仰向けになって」
滝川先生は素直にうなずくと、足を開き気味にしたままキングサイズのベッドに仰向けになった。
股間にゆとりの空間が生まれ、敏感な芽を愛撫しやすくなった。
指の腹で円を描きながら、硬く尖った部分を集中的に撫でる。下腹がうねり、厚い肉襞が波立つ。
先生は苦しげな表情を浮かべながら喘《あえ》ぎ声をあげはじめた。
「ううっ、ほんとに、いいのかしら……。担任している児童の親御さんと、こんな関係になって……」
滝川先生は喘ぎ声をあげた後、苦しげな表情のまま囁いた。
仲本は驚いた。タブーの世界に踏み込む覚悟をしたはずなのに、なぜ今さら、そんなことを言うのだろう。わけがわからない。もしかすると、先生はそう言うことで性的な刺激を得ようとしているのか?
仲本は彼女の囁き声を聞き流して、割れ目への愛撫をつづけることにした。本気でいやがっているとしたら、愛撫を拒んだとしてもおかしくない。そうしないのはいやではないからだ。
「ぼくたちは、男と女なんですよ。担任の先生と父兄の関係じゃありませんからね」
「頭ではわかっているんです。でも、躯《からだ》がそれを納得していないみたいなんです」
「どうしてそんなふうに思うんだい? こんなに濡れているのに……」
割れ目の厚い肉襞に触れていた指を勢いよくかき混ぜるように動かした。
クチュクチュという粘っこい音があがった。愛撫をつづけると、それはグジュグジュという濁った音に変わった。
「滝川さんにも聞こえるよね? 躯も十分に気持ちよくなっている証拠だよ」
「ああっ、恥ずかしい。信じられない、わたしがそんなに濡れるなんて……」
「自分では気づかなかったのかい?」
ベッドに仰向けになったまま、先生はうなずいた。
目を閉じているが、落ち着きがない。茶系のアイシャドウをつけた薄い瞼に瞳《ひとみ》の輪郭が浮かび上がっていて、それが不安げにせわしなく動きつづけている。
「仲本さん、ほんとに、やめてください」
「どうして……」
「わたし、無理かもしれません……。触ってもらっていて気持はいいんです。でも、躯が悦《よろこ》んでいる気がしないです」
「慣れていないからじゃないんですか? ふたりの世界に浸ることに慣れたら、間違いなく大丈夫ですよ」
「ううっ、どうしよう。わたし、仲本さんには悪いんだけど、もう少し、時間が必要かもしれません」
仲本には先生の言った意味がわからなかった。
きっと、不安や怖れが臨界点に達したために、そんなことを言うのだろう。高をくくって愛撫をつづけていると、先生が足を閉じた。
割れ目を愛撫していた指が挟まれ、動きがとれなくなった。先生が腰を動かしたために、指は締め出されてしまった。
「ごめんなさい……。仲本さん、もう少し、時間をいただけませんか?」
「ほんと? ラブホテルまで入ったのに?」
仲本は自分の落胆ぶりが表情にでないようにしながら滝川先生を見つめた。
ふたりで覚悟してタブーの世界に踏み込んだはずなのに、なぜ、この女性はひとりで引き返そうとするんだろう。男性経験が少ないからとか、セックスへの怖れがあるからといって、そんなことは理由にはならない。大人が覚悟したことなのだ。今さら、引き返すのは狡《ずる》いではないか。
仲本は視線を、彼女のあらわになっている太ももに遣《や》った。
きつく閉じたままだ。彼女の強い決心が見て取れる気がして、割れ目から締め出された指をそこにねじ込む気にはならなかった。
「理由を話してくれないと、わかりませんよ。ぼくたちは互いに求め合ったからこそ、ホテルにやってきたんですよね? 違いましたか?」
「最初はそうでした。仲本さんに触れられて、すごく気持よくなるうちに、ちょっとずつ、その想いが変化していったんです」
「変化って?」
「気持よくなってはいけないんじゃないかって……。あってはならない関係をつくっただけで満足すべきだと思ったんです。これ以上の悦びがあったら、罰が当たる気がしました」
「欲がないんですね、滝川さんには……」
仲本は軽い皮肉を言うのが精一杯だった。
彼女の考え方はわからないでもない。でも、心と躯を充実させたいから禁断の世界に踏み込んだはずだ。その前提を忘れたかのようなことを言われても、説得力のある理由とは思えなかった。敵の前から怖れをなして逃げていく卑怯者《ひきようもの》ではないか。怒りがフツフツと湧き上がってきたが、仲本はそれを堪えた。
「時間がほしいんだね。でも、何のために?」
「わたし、今は覚悟が足りなかったと反省しています。仲本さんのことが嫌いになったとか、触れ合いたくなくなったというわけではないんです。それだけはわかってください」
「どのくらいの時間が必要なんだい?」
「冷静に受け止めたいんです。一カ月か二カ月くらいは時間をください」
「そうしたら?」
「きっと、わたしのエッチで淫乱な姿を見せられると思います。必ずまたお会いしますから、今夜は許してください」
仲本は不承不承ではあるがうなずいた。無理強いできないから仕方がない。時間が必要というなら、待つしかない。
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第六章 上司の若い奥方
仲本はゆっくりと車を走らせた。
住宅街に入ってからは、狭い道路ということもあって眠気はすっかり失せていた。
高速道路を下りてから自宅までの道順を、助手席でナビゲートしてくれていた近藤良純部長が、そこを右に曲がって三十メートル先の左側がぼくの自宅だから、とあくびまじりに言うと背筋を伸ばした。
仲本は接待ゴルフ要員として駆り出され、早朝から部長とずっと一緒だった。
ようやく解放される。
取引先はもちろんのこと、部長にも気を遣っていたから身も心もヘトヘトだ。
茶色のタイル張りの重厚な一戸建ての前で車を停めた。仲本がドアを開けようとすると、部長がまた大きくのびをひとつした。
「仲本君、お疲れ。どうだい、ちょっと寄っていかないか」
「いえ、お邪魔でしょうから、今日のところは……」
仲本は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべながら、さりげなく断った。上司の誘いだからといって、言葉どおりに受け取ってはいけないのだ。
自宅まで送ってきた部下へのねぎらいのつもりのはずだ。もしそれを素直に受け止めてしまったら、気の利かない男と思われかねない。
十八年のサラリーマン生活で、そうした深読みができるようになったのだが、もちろん、誘いに乗っていい時があるということもわかっている。二度三度と誘われたら、その時こそ、素直に応じるべきなのだ。だから仲本は、部長が次にどんな言葉を口にするのか待ち受けた。
「遠慮しないで、ちょっと寄っていかない。疲れが少しはとれるだろう」
「夕食時ですけど、よろしいんでしょうか」
「女房も君に会えることを楽しみにしているんだ。遠慮しないで、お茶でも飲んでいってくれないか。よかったら、飯を食べていってもかまわないよ」
部長にそこまで言われて断る理由はない。ここで断ったら、それこそ失礼になる。面倒だと思った。しかしもう一方では、部長の奥さんと会えるチャンスが得られたと喜んでもいた。
部長が結婚したのは一年前。四十九歳の時だ。初婚の男がめとった女性は二十四歳だった。今、夫は五十歳。奥さんは二十五歳。これほどまでに年齢差のある夫婦を仲本は知らない。社内でも評判になっていたから、どんな女性なのだろうかと好奇心が膨らんだ。
「素敵な奥さんだと噂を聞いたことがあります。ご挨拶《あいさつ》させてもらえるなら光栄です」
「ははっ、若いだけで気が利かないんだ」
部長はうれしそうに言いながら車を降りた。仲本はトランクを開け、部長のキャディバッグを取り出し、玄関先まで運んだ。
部長のキャディバッグを玄関先に置いた時、外灯が点《つ》き、ドアが開いた。
「あらっ?」
髪の長い色白の美人が驚いた顔で声をあげた。
奥さんだ。部長が一年前に二十四歳の女性をめとったということを知っていなかったら、娘さんと思っただろう。それにしても、お世辞にも、いかつい顔の部長と似合いのカップルとは言い難かった。
「仲本君にここまで送ってきてもらったんだ。ちょっとあがっていってもらうけど、いいね、友梨」
遅れて入ってきた部長の穏やかな声が奥さんに投げられた。
仲本は軽く一礼すると、キャディバッグを玄関に運び入れた。
「いつも主人がお世話になっておりまして、ありがとうございます」
二十五歳の奥さんが丁寧にお辞儀した。若いのにしっかりしている。仲本はそんなことを思いながら、
「わたしのほうこそ、部長には迷惑をかけっぱなしで、お世話になっているんです」
と、部長の奥さんだと思いながらも、若い女性ということもあって親しみを込めて気さくに応《こた》えた。
奥さんの身長は百五十五センチくらいだろうか。小柄で可愛らしい。百八十センチ近い部長とは、年齢差だけでなく身長差もずいぶんと開いている。
小柄ながら、乳房は豊かだった。Tシャツを着ているせいかもしれないが、たっぷりとした乳房は見事だった。
やはり、と仲本は思った。部長とは銀座のクラブで飲んだことがあるが、お気に入りのホステスは皆、巨乳ばかりだったからだ。
「素敵なお宅ですね。すごくセンスがいいんですね、部長は……」
リビングルームに通されたところで、仲本は部屋を見渡して言った。お世辞も含んでいたが、イタリアモダンを想わせるシンプルな内装は好感が持てた。
モノが少ない。そのために、散らかっている感じがまったくしない。突然訪ねたのだから、来客があるとわかっていて片づけたのではないはずだ。
仲本はオフィスの部長のデスクが同じようにいつもきちんと整理されていることを思い出した。
「何度も海外出張をしているうちに、インテリアについてはずいぶんと目が肥えたからね」
部長はあくびをしながら言うと、洗面所に入った。入れ替わりに、奥さんがさっと麦茶をソファに運んできてくれた。
ローテーブルにグラスを置いた。
豊かな乳房が際立っている。ブラジャーのレースが透けて見える。濃いピンクのストラップも襟口からのぞいている。見てはいけないと思いながらも、仲本はついつい、視線を遣《や》ってしまった。
近藤部長が洗面所から戻ってきた。
仲本は前屈《まえかが》みになってソファから尻《しり》を浮かすと、部長が腰を落ち着けるのを待った。目の端には、対面式のキッチンに立った二十五歳の若い奥さんの胸元から上のいわゆるバストアップの姿を入れていた。
「部長、うちなんかのくたびれた女房と違って、素敵な奥さんですね……。うらやましい限りです」
「ははっ、そうかい?」
部長はうれしそうに頭を掻《か》くと、ソファの背もたれに寄りかかった。それは自慢したい気持になっている時の部長のしぐさだ。
それにしても、と仲本は思う。
妻のことを訊《き》かれて、『そうかい?』などと気分よさそうに言える部長がうらやましい。まあ、それもそのはずだ。奥さんは二十五歳なのだから。
もうすぐ四十歳になる自分の妻と比べると、肌の艶《つや》も張りも違うし、醸し出す雰囲気も若々しい。齢《とし》の離れた若い奥さんと結婚して苦労することもあるかもしれないが、それを受け入れても余りある悦《よろこ》びが得られるはずだ。
「おひとりで生活していた時とは、違うでしょうね。どうですか、部長」
「君が思うほど楽じゃないね。いやあ、ひとりの時のほうがよかったくらいかな。とにかく大変だよ、世間知らずだからね。一から教えて仕込んでいかないといけないんだ」
「男としては、それも楽しいものじゃないですか。あんなに素敵な奥さんなんですから、教え甲斐《がい》があるでしょうね」
仲本は視線をキッチンに立っている奥さんに遣った。会話の内容からしてごく自然な動きだったが、自分ではぎこちない動きに思えてならなかった。
下心があるわけではない。そんなことは考えたくもない。
社内にはゆるやかな派閥がある。部長はもっとも大きな派閥に属していて、仕事もできる。専務や常務は無理にしても、取締役にはなるだろうと目されている。そんな人の奥さんに色目を使うことなどできるはずがない。
「今日は君が参加してくれたおかげで、取引先の人たちも楽しくゴルフができたみたいだね……。仲本君、また頼むから、よろしく」
部長は大きな生あくびをひとつした。眠そうだ。車内で大いびきをかいて寝ていたはずなのに、それでもまだ寝足りないらしい。
「部長、おやすみになったほうがいいんじゃないですか? お邪魔でしょうから、おいとまします」
「まあ、飯でも食べていってもいいじゃないか。ふたりで食べるより、三人のほうが楽しいからな」
「まだ新婚さんなんですから、夢のないことは言わないほうがいいですよ」
仲本は朗らかな声で冗談めいた言い方をすると、また、視線を奥さんに遣った。
どうして近藤部長は、さほど親しくもない部下を夕食に誘うのだろうか?
接待ゴルフ要員として参加した部下をねぎらおうとしているだけとは思えない。ほかに何か理由があるからこそ、しつこく誘っている気がしてならない。
仲本は曖昧な笑みを浮かべたり、小首を傾げたりしながら、部長の誘いをさりげなくかわした。
部長は二十五歳も齢が下の奥さんのことを、持て余しているのか?
だからさっき、『ふたりで食べるより、三人のほうが楽しいからな』と言ったのかもしれない。謙遜《けんそん》をまじえた冗談だと思って聞き流していたけれど、あれこそ、五十歳の男の本心だったのか? いやまだ結婚一年しか経っていないのだから、持て余すということはないだろう。単に喧嘩《けんか》しただけかもしれない。
いくら考えてもそれを部長に訊くわけにはいかない。たとえ、遠回しに訊いたとしても、社内に噂として流れることを怖れるだろうから、本心を吐露するはずがない。
部長の本心を察するしかない。仲本は意を決して、
「奥さん、ほんとにいいんですか? 夕食までご馳走《ちそう》になっちゃって。突然訪ねただけでもご迷惑なはずなのに……」
と、対面式のキッチンで料理をはじめている若い奥さんに向かって声を投げた。部長が深々とうなずいているのが目の端に入り、これでよかったのだと安堵《あんど》した。
若い奥さんは手を止めると微笑んだ。相変わらず、やさしげな表情だ。若い割には落ち着いている。乳房のボリュームの豊かさは遠目からでもはっきりと見て取れる。
魅力的な女性だ。
二十五歳も齢が上の男と結婚したというのに、若々しさをまったく失っていない。生活に疲れた雰囲気というのは感じられない。彼女がそんなふうにしていられるのは、部長に度量があるからだろうか。それとも、夜の生活が充実しているからか……。
「ご一緒にどうぞ。ちっともかまいませんから……。わたしばっかりがいつも、お友だちを招いていたから、たまには、主人も招きたいんではないでしょうか」
二十五歳の若い奥さんの言う「主人」という言葉が耳に新鮮に響いた。自分の妻が言うのとでは、意味が違っているように感じられたほどだった。
「招いたのが部下っていうのは、ちょっと野暮な気もするけどな……」
奥さんの言葉を継ぐように部長が言った。冗談だとはわかっていたが、仲本はいい気分がしなかった。
「うれしいのに、素直に言わないんだから……」
若い奥さんは部長の言葉をフォローするかのように穏やかに言った。
夕食は和食だった。
家庭料理というより、創作料理といってもいいくらい手が込んでいた。しかもそれらは二十五歳の女性がつくったとは思えないくらいのおいしさだった。
夫である五十歳の近藤部長の嗜好《しこう》に合わせているのかもしれない。いずれにしろ、軽やかに料理をつくりあげた奥さんの腕は見事というしかなかった。しかも、晩酌のビールも冷えていたし、グラスには霜がうっすらとついていた。冷凍庫に入れていたのだろう。気の利く女性だ。酒飲みの心理も心得ているようだ。
部長は上機嫌でビールを一本、ひとりであけた。
自慢の奥さんを部下に見せることができたからだろう。それに、接待ゴルフでのプレイに満足いくスコアを出せたこともあっただろう。もちろん、接待した取引先の社長と専務が楽しんでプレイしてくれたからだが……。
「奥さん、とってもおいしくいただきました」
仲本は供された料理をすべて平らげた。部長の奥さんがつくったものだから残してはいけないという義務感によるものではなくて、本当においしかったから食べたのだ。
部長の横に坐《すわ》って食事をしていた奥さんが、箸《はし》をもつ手を止めた。はにかんだような笑みを浮かべると、視線を絡めながら応えた。
「こんなにきれいに食べていただけたんで、つくった甲斐がありました」
「手際もいいし、盛りつけもきれいですよね。しかも、味はとびきりいいんですから。料理関係のお仕事でもされていたんですか」
「料理をするのが好きだったので、学生の頃から、お料理教室に通っていたんですよ」
「和食ばかりですか?」
「和洋中、ひと通り習ってきました」
「部長がうらやましいですよ、本当に。若い奥さんで、しかも、料理も最高においしい。男にとっては夢のようなことですね」
仲本は素直に本音を言って部長に目を遣った。
「ずっと独身を通してきたけど、友梨と出会えてよかったと思っているかな。もう少し、ものわかりのいい大人の女になってくれると、もっとよくなると思うんだけどね」
「部長、それは欲張りっていうもんです」
「そうかい?」
部長はうれしそうに言うと、眠そうに大きなあくびをひとつした。それからグラスに残ったビールを飲み干すと、椅子を引いて腰を浮かした。
「仲本君……。申し訳ないが、朝が早かったせいか、猛烈に眠いんだ。ほんの五分、部屋で横にならせてもらっていいかな」
「休んでください。それじゃ、わたしはこれで引き揚げますから」
仲本も素早く立ち上がった。しかしすかさず、部長に制せられた。
近藤部長はスリッパの音を響かせながら、二階に上がっていった。
今日は接待ゴルフで早朝から気を遣いつづけたせいだろうか、それとも二十五歳の奥さんの姿を見てホッとしたからだろうか、自宅に戻った途端、部長の顔に疲れが浮き上がっていた。だから少しの時間、横になって休みたいと思ったとしても不思議はなかった。
仲本は麦茶をいただきながら、この場を辞するタイミングを見計らっていた。
初対面の若い奥さんと話すことなどない。仕事のことを話題にしても仕方がないし、部長のことを誉めちぎったとしてもすぐに話題は尽きる。
しかし、居心地が悪いかというと、そうでもなかった。なにしろ、気難しい部長と違い、奥さんは人なつっこい魅力的な笑みを絶やすことがないのだ。
「部長は本当にお休みになられたみたいですね。それじゃ、わたしは、これで失礼させていただきます」
「仲本さん、もう少し一緒にいてくださいませんか。わたしの相手をしてほしいんです」
若い奥さんは小首を傾げて微笑んだ。そしてブラウスの胸元のあたりを大きく前後に揺らしながら深呼吸をひとつした。
誘うような眼差《まなざ》しに、仲本はドキリとした。
彼女がどんなに魅力的だとしても、そして、たとえ積極的に誘ってきたとしても応じることはできない。彼女は直属の部長の奥さんなのだ。
「それなら、部長が起きてきた時にわたしは帰らさせていただきます」
「主人はきっと、明日の早朝まで、寝つづけると思います。ゴルフの時はいつもそうですから……」
「そこまではいられませんよ。わたしも、明日は仕事がありますからね」
「ワガママを承知でお願いしているんです。仲本さん、お願いします」
なぜこんなにも執拗《しつよう》に一緒にいてほしいと望むのだろうか。もしかしたら、夫婦仲が悪いのか? それともこれは、若い奥さんの誘いなのか? 禁断の領域に入ろうという意思表示か?
仲本はためらいがちにうなずいた。
ソファの背もたれに寄りかかると、ゆっくりと足を組んだ。そうやって、膨らみそうになっている陰茎を押さえ、冷静に会話をするためだった。
しかし妄想は拡がっていた。いや、妄想というより、願望と言い換えてもよさそうだった。五十歳の部長では、二十五歳の若い奥さんの性欲を満足させられない。だからその捌《は》け口として、自分を選んだとしたら……。
「わたし、仲本さんのご気分を害するようなことを言ってしまったかしら」
ソファの向かい側に坐った二十五歳の若い奥さんが不安げな表情を浮かべた。そこには、年上の男に甘えている気配が漂っていた。
胸の奥底からヒリヒリするような欲望が迫《せ》り上がってくる。ここにも禁断の世界があったのかという驚きと、ここにだけは踏み込んではいけないという自制心が入り交じる。
「奥さん、どうしてそんなふうに思うんですか?」
「だって、すごく怖い顔しているんですもの。わたし、気に障ることをしてしまったんでしょうか」
「ははっ、奥さん、気にしすぎです。そんなこと、ありませんよ」
仲本は朗らかな表情をつくった。だが次の瞬間、笑い声は消え、くちびるが緊張した。
正面で坐っている奥さんが、揃えている膝《ひざ》をほんのわずかに緩めた。
偶然ではない。
彼女のそれは、目の前に坐っている男の視界に入っていることを意識したものだった。しかも淫靡《いんび》な雰囲気をたっぷりと込めた流し目を送りながら、スカートの裾《すそ》をわずかにたくし上げたのだ。
誘われている……。
仲本は性的な高ぶりよりも、逡巡《しゆんじゆん》や戸惑いのほうが勝った緊張に包まれた。
リビングルームが静寂に覆われる。奥さんの意味深な笑みは消えない。瞳《ひとみ》から放たれている光は妖《あや》しく、迫ってくるのを待ち望んでいるようなのだ。
沈黙を破る言葉が見つからない。その言葉によって自分の進む道が決まってしまいそうな気がする。
「主人は起きてきませんから」
奥さんが先に静寂を破った。彼女の表情同様、その言葉も意味深だった。
「それはいったい、どういうことでしょうか」
「おわかりでしょ? 仲本さんなら」
「情況が微妙ですから、わかるとは簡単に言えないでしょう」
「大人の男性のお返事、ですね……」
「そういうことです」
仲本は曖昧《あいまい》に応えた。
彼女はさらにスカートの裾をたくし上げた。白い太ももの中程まであらわになった。二階にご主人が横になっていることを気にしている様子はない。こういう大胆なことに慣れているのか、それとも、意を決しているのか……。
仲本は口の底に溜まった唾液を呑《の》み込んだ。そんなわずかな間にも、目の前に坐っている部長の若い奥さんはスカートの裾をさらにたくし上げていた。
どうしよう……。
仲本は迷った。
中程まであらわになった白い太ももを凝視しながらも、二階の自室で横になると言って上がっていった部長が今にも下りてきそうで気が気ではなかった。
新たなタブーの世界に踏み込む千載一遇のチャンスだとは思う。しかし、あまりにも都合がよすぎて、罠《わな》でもあるのではないかと疑心暗鬼になってしまう。
たぶん、若い奥さんのことをほとんど何も知らないからだ。五十歳の部長よりも二十五歳も若いということくらいしか知識はない。
部長との夫婦関係がうまくいっていないのか? それとも、やはり夜の生活に不満があるのか? それを解消するために誘ってきているのか?
タブーの領域に踏み込むためには、納得してからにしたい。だから仲本は高ぶりが強まっているのを感じながらも、ソファに坐ったままじっとしていた。
性欲に流された行動をとる年齢ではない。それにタブーの世界には、お互いの納得と了解が必要だ。誘われるままにホイホイと乗っかってセックスをしても、極上の愉悦を味わえるものではないのだ。
若い奥さんは流し目を送りながら、自らの細い指で太ももの内側のあたりを撫《な》でている。時折、舌を差し出しては、半開きのくちびるを舐《な》めたりする。
誘ってきているのは間違いない。
けれども、こんな大胆なことをする理由がわからない。
本当の理由でなくてもいいから、とにかく、納得させてほしいと思った。そうでないと、禁断の領域に踏み込めない。
「ねえ、仲本さん……。ダメなんでしょうか」
部長に友梨と呼ばれていた若い奥さんは太ももを撫でるだけでなく、もう一方の手を乳房にあてがった。
「ダメではないんです。でもその前に、理由を知りたいんです。部長との夫婦の仲はすごくよさそうな感じでしたけど……」
「夫婦仲が悪くないといけないんですか?」
「そんなことはないんですけどね……」
「わたし、このままだと恥をかいてしまうことになります」
若い奥さんは妖しい流し目を送ってきた。そして乳房の下辺を持ち上げるようにしながら、粘っこい吐息をついた。
奥さんがどんなに淫らな姿になっても、どんなに妖しい流し目を送ってきても、仲本はソファから立ち上がらなかった。
彼女は直属の上司の奥さんだ。しかもここは上司の自宅で、二階では上司が疲れて寝ている。奥さんが教えない限り、上司に知られることはないだろうと思いながらも、もしタブーを冒すとするなら、最悪の情況を覚悟しておかないといけない。
この場合の最悪の情況とはいったい何だ?
いろいろな最悪が浮かんだ。
たとえば、事実を知った上司に会社でネチネチと苛《いじ》められ、それに耐えられなくなって退職を余儀なくされるとか、夫婦仲が悪くなった末に離婚が成立した場合、部長からは慰謝料を請求され、若い奥さんからは離婚後の生活の面倒を見てほしいと半ば強制のように言われたりとか……。
中途半端な気持ちのままタブーを冒すことはできない。とにかく、リスクは大きい。人生が左右される危険性もあると思っていいだろう。
絶対に踏み込んではいけない……。
胸の裡《うち》でそんな声が響いている。しかしその一方では、リスクが大きければ大きいほど刺激や快感も強いだろうとも思っていた。そして、自分の身を安全なところに置いたうえで、タブーに踏み込むのは卑怯《ひきよう》だと考えたりしていた。
仲本は吐息をついた。
彼女がなぜ誘うのか、その理由さえわかればタブーに踏み込めると思ったが、考えを深めるうちに、そんなことで意を決することはできないと気づいた。
理由が必要ではなかったのだ。彼女に自分が求められているかどうかをはっきり知りたかったのだ。
性欲を満たしてくれる男であれば誰でもいいなら、自分が敢《あ》えてこのリスクの高いタブーに近づくことはない。ほかの男に、リスクとともに奥さんを譲ろう。
仲本は視線を送り、二十五歳の若い奥さんの瞳の奥を覗《のぞ》き込んだ。
欲望が渦巻いていた。男の理性を狂わせる妖艶《ようえん》な輝きを放っていた。そこまでは見て取れたが、ほかの誰でもなく、仲本という男を求めているということまでは見極められなかった。
「奥さんは、わたしが必要なんでしょうか」
「あなたでなかったら、こんなことはしていません……。今朝主人から、あなたと一緒にゴルフをすると聞かされた時から、きっとこうするだろうって考えていたんです」
「どうして? 会ったことがあるならまだしも、一度もないんですよ」
「主人から、時々、あなたのことを聞いていましたから……」
奥さんは囁くように言うと、ソファを立ち上がって近づいてきた。
奥さんの表情は性的な高ぶりに彩られていた。
正面に坐《すわ》っている時には気づかなかったけれど、隣に腰を下ろした彼女の全身からは、甘さの濃い生々しい匂いが放たれていた。それだけでなく、夫である部長が一緒にいる時よりも、豊かな乳房が前後に大きく揺れるようになっていた。
「仲本さん……。主人が何を言っていたか、知りたくありませんか」
「できる部下とかいった誉め言葉だったら聞きたいですけど、それ以外のことなら、今は耳にしたくないですよ」
「ふふっ、安心して。主人、誉めていましたから。それにきっと、信頼もしているんでしょうね。だから、接待ゴルフに誘ったんじゃないかしら……」
彼女は腰をずらして、上体を寄せてきた。ふたりの間隔は十センチもない。正面に坐っていた時にずり上げていたスカートの裾《すそ》を、彼女はまた上げはじめた。
白い太ももが少しずつあらわになる。細い指がかすかに震えている。ぴたりと重ねた膝を少しずつ割っていく。スカートの奥から生々しい匂いが湧き上がってくる。
正面からの眺めより、妖《あや》しさが濃密だ。ブラウスの隙間も目に入ってくる。濃いピンクのブラジャーから溢《あふ》れている乳房のすそ野が波打っているのも見える。
ほんの少しの勇気さえあれば太ももに触れられる。しかもそれは自ら求めたものではない。二十五歳の人妻からの誘いがきっかけになっているのだ。
仲本はそれでも迷っていた。
「怖いんですね……。だから、わたしに恥をかかせるんですね」
奥さんは囁《ささや》くように言うと、スカートの裾をさらに上げ、拳《こぶし》がふたつ入るくらいまで膝《ひざ》を開いた。
それだけではなかった。
彼女は右手を伸ばすと、男にとっての性感帯でもある太ももの内側を、ズボン越しにすっと撫でてきた。
初めての直接的な接触になった。
奥さんの指からは、男の理性を崩壊させる熱気が放たれているようだった。
仲本は咳払《せきばら》いを短く二度繰り返した。そんなことをしても彼女の熱気は離れていかなかった。
足を組んでいられないくらいまで、陰茎の芯が硬くなった。笠の端から滲《にじ》み出ている透明な粘液が、下腹を濡《ぬ》らすのもわかった。
理性が壊れそうだ。
隣に坐っている奥さんの存在を強く感じれば感じるほど、タブーが秘めている禁断の魅力が増していく。しかもそこに、腹の底から迫り上がっている猛烈な性欲が絡んできて、理性が脆《もろ》くなっている。
もうどうなってもかまわない……。
仲本はその言葉を胸の裡《うち》で何度も呟《つぶや》いた。追い打ちをかけるように、奥さんのてのひらが何度も太ももを這《は》い、性感を引き出そうとしている。
「奥さん……。いったい、なぜなんですか」
仲本はうわずった声で囁いた。そして思いきった。
スカートをめくりあげて剥《む》き出しになった奥さんの太ももに手を伸ばした。
やわらかくてしっとりとした肌だ。二十五歳の人妻の肌。五十歳の部長が手塩にかけて可愛がっている奥さんの肌。そんなことを思うだけで、頭の芯がクラクラとしてくる。なぜ誘うのかなんてことはどうでもいい気分になってくる。
奥さんは拒まない。
太ももの白い肌がわずかずつ赤みを帯びていく。息遣いも荒くなり、豊かな乳房の上下の揺れも大きくなりはじめる。
二十五歳の人妻のねっとりとした吐息がリビングルームに響いた。
「なぜって……。わかってくれませんか?」
「部長が相手をしてくれないからでしょうか」
「いいえ、そんなことないんです。やさしいし、面倒見もいいんです。でもそれは、夫というより保護者のような感じなの」
「二十五歳も年下の奥さんなんだから、仕方ないんじゃないのかなあ」
「わたし、ワガママなんですか? 本当の男の人に接してみたいと思うのは、いけないことなの?」
「友梨さんの話を聞いていると、ないものねだりをしているだけのような気がしますよ」
仲本はさりげなく奥さんを名前で呼んだ。そして太ももを撫でている指に力を込めた。それに応《こた》えるように、奥さんも指先を滑らせた。
「主人はわたしに触れたくないみたいなんです。もしかしたら、普段からそうなんでしょうか」
「女性にはやさしい部長ですよ」
「たとえば、接待でクラブに行った時とか、主人はホステスさんに興味を持たないんでしょうか」
「そんなことはありませんよ。年齢相応だと思います。もちろん、いつでも紳士的です」
「仲本さんの答えってとても慎重ですね。わたしは主人の浮気を疑っているわけじゃないんです」
仲本は奥さんがなぜ誘ってきたのかようやくわかった気がした。
彼女は保護者のような愛し方をする部長に不満を抱いていたのだ。そしてその不満には、たぶん、セックスも含まれている。
若い奥さんは、夫である部長に男を求めていたということだ。部長は二十五歳も齢の離れた年下の女性と結婚したものの、どんなふうに接していいのか戸惑ったのかもしれない。
ならばわたしが代わりにやってあげよう。
満足するまで愉悦を与えよう。
仲本はソファの背もたれに寄りかかりながら、下腹から腰、そして背中にかけて震えが走るのを感じた。
武者震いだ。
タブーの世界に踏み込んでいく時に必ず味わう恐怖感と、その先で待っている快感を予感した震えだ。
「部長は友梨さんに触れないんですか?」
仲本はまた意識的に、隣に坐って足を開いている奥さんを名前で呼んだ。そして剥き出しになった太ももの内側を撫でた。指先をつけ根の近くまでゆっくりと這わせ、スカートの裾をさらにめくり上げた。それらは性欲に流され、無自覚にやったことではない。タブーの領域に入るという強い決意を彼女に伝えるためであり、彼女の意思をはかるためだった。
もしもほんの少しでも彼女にいやがる素振りが見られたら、タブーに踏み込んではいかない。いや、いってはいけないのだ。もちろん、ここまでの気持になったのは、奥さんからの誘いがあったからだ。当然、いやがらないと思いながら愛撫《あいぶ》をしていたが、やはり、彼女はそれをすんなりと受け入れた。
「わかっているでしょうけど、ここから先は、ぼくと友梨さんの秘密です。部長、いや、ご主人にはどんなことがあっても打ち明けないように」
「もちろん、わかっています。わたし、家庭を壊すつもりも、主人との関係を台なしにするつもりもありませんから」
「そうなるリスクがまったくない、と言いきれないということはわかっていますよね」
「はい……。わたし、抑えられないんです。半年以上も我慢してきて、限界を越えてしまっているんです」
二十五歳の若妻の囁き声はうわずっていた。頬から顎《あご》にかけて赤く染まっていて、厚みを増した瞳の潤みにはさざ波が立っていた。
「二階で休んでいる部長が起きてくるまで、あとどのくらいでしょうか」
「たぶん、少なくとも二時間はぐっすりと休んでいるはず。ひどい時は、翌朝まで眠りつづけることもあります」
仲本は部長が絶対に起きてこない時間を一時間半と見積もった。
それだけあれば、タブーの世界に踏み込み、互いにたっぷりと愉悦を味わって現実の世界に戻ってくることは十分に可能だ。
「さあ、おいで」
仲本は低い声で力強く言った。そして友梨の肩に手を回すと、自分のほうに引き寄せた。そしてすかさず、もう一方の右手を乳房に伸ばした。
部長の奥さんの乳房を愛撫しているという事実に、息が詰まるくらいの緊張感が拡がる。快感や満足感を味わうゆとりなどはない。タブーの世界に踏み込んだという高揚感に頭も躯《からだ》も痺《しび》れていく。
乳房の下辺からゆっくりと揉《も》み上げた。
重量感のあるたっぷりとした豊かさと同時に、強い弾力を感じる。指先を押し込んだ時に伝わってくる反発力は、人妻とはいえ、二十五歳の若い女性ならではのものだ。
仲本は彼女の躯から漂ってくる甘い香りにうっとりとした。スカートの奥から湧きあがってくる生々しい匂いとは違うものだ。
女性の躯は不思議だ。
彼女のその甘い香りは、隣に坐っていた時には感じられないものだった。直に触れ合ったことによってはじめて、肌から滲み出てきたのだろう。性的な高ぶりの強弱がその香りを引き出すというより、男性との触れ合いによるものとしか思えなかった。
仲本は乳房を愛撫しながら、指先の感触に集中した。もちろん、部長がいつ二階から階段を下りてきてもいいように、心の準備だけはしていた。乳房への愛撫をしていても、ブラウスの裾がスカートから出てこないように加減したり、ブラジャーの胸元に妙な皺《しわ》が残らないように気をつけた。
若妻が顔をあげた。
潤みに覆われた瞳《ひとみ》が艶《つや》やかに輝いている。粘っこい視線を絡めながら、くちびるを半開きにした。
「キス、してください」
男の欲望を煽《あお》る甘い囁き声だった。若くて美しく、エロティックな若妻。しかもこの女性は直属の上司の奥さんなのだ。禁断の領域に入り込んでいるという背徳感が満足感につながっていく。
薄いピンクの口紅を塗ったくちびるは、濡れたように光っている。並びの整った白い歯が、リビングルームの蛍光灯の明かりを浴びてキラキラと輝く。
仲本は顔を寄せた。
若妻のくちびるまで、あと三センチ。ふたりの荒い鼻息がぶつかり合う。流し目を送りながら瞼《まぶた》を閉じる。口の端を震わせたまま、顎を突き出してキスを求めてくる。
くちびるを重ねた。
仲本はすぐに舌を差し入れた。ううっという呻《うめ》き声が、若妻の喉元のあたりからあがった。そして舌の求めに応じるように、ためらいがちに舌を出してきた。
肉の薄い舌だ。
左右の幅もさほどない。
可憐《かれん》な舌だということは間違いない。けれども、それは彼女の持って生まれた舌というより、キスに慣れていないことによるという気がしてならない。
部長の奥さんの舌が小さく薄く感じられるのは、緊張すると極端に縮こまってしまう陰茎と同じだからかもしれない。
二十五歳の若妻の舌を、仲本はくちびるでしごくように舐《な》める。それをつづけながら、乳房をゆっくりと愛撫する。快感を引き出すためというより、彼女の緊張をほぐすための愛撫になるように心がける。
若妻の膝がさらに割れ、拳が四つほど入るくらいまで広がってきた。
「友梨さん、どんな気持ですか? 部長以外の男とキスをした感想は……」
「キスって、こんなに気持がいいものだったと、思い出させてもらった気がしました」
「部長はキスをしてくれないんですか?」
「結婚して二カ月くらいは熱心にしてくれたんですけど、今ではないに等しいんです」
「それは寂しいな」
「そんなこと言わないで……。自分だけで考えているなら我慢できるけど、それを指摘されるのは辛《つら》すぎます」
若い奥さんは二階に視線をチラと遣《や》りながら囁くように言った。
仲本は彼女の視線の意味を読み取った。二階に休んでいる部長のことが、やはり気にかかっているのだ。ゴルフで疲れて寝ているからといって、いつ起きだしてくるかわからない。どんなに快感に浸っていようとも、そのことだけはけっして忘れてはいけない。そんな自戒の意味を込めている表情でもあった。
乳房から手を離すと、大きく開いている太ももにてのひらをあてがった。
太ももの内側を撫でる。膝のあたりからつけ根にかけて何度も往復する。くちびるで頬を愛撫する。唾液がくっつかないように気をつけながら、首筋にくちびるを滑らせる。
若妻から滲み出ていた甘い香りが濃さを増したようだ。鼻先で髪を掻《か》き分けた時、濃密な甘さにむせ返りそうになったくらいだ。
太もものつけ根に指を這《は》わせた。
「ああっ、そんなところまで触れられたら、わたし、おかしくなっちゃいます」
「友梨さんは、おかしくなりたかったんじゃないですか? 女を剥《む》き出しにして、快感に没頭したかったんじゃありませんか?」
若妻は苦しげな表情を浮かべながら呻き声を洩《も》らすと、二度三度と首を横に小さく振った。それはしかし、恥ずかしさを表すしぐさであって、否定を意味したものではない。
「奥さん、そんなに恥ずかしがらないで……」
うつむいた奥さんの髪を掻き分けながら、仲本は囁いた。太ももへの愛撫はつづけていて、パンティまであと数センチというところに迫っていた。
「もう一度、キスをしてくれますか」
部長の奥さんは頬を赤く染めながら、くちびるを半開きにした。
くちびるを重ねる。
今しがたより、奥さんの舌は厚みを増していて、幅も広がっている。縮こまっていた舌がのびやかに動きはじめる。緊張が解かれているのを感じながら、仲本は舌先で突っついたり、絡めたりをする。
パンティに触れた。
キスをしながらも、奥さんは口の端から鼻にかかった呻き声を洩らした。腰を震わせ、下腹部を上下に大きく波打たせた。
パンティはしっとりと濡《ぬ》れていた。汗とうるみにまみれているのを、仲本は指先で鋭く感じる。甘さの濃い匂いがソファのあたりだけでなく、静まり返ったリビングルーム全体に拡がっていく。
部長が二階から下りてきたら、この匂いに気づくのではないか。
仲本は新たな不安の芽生えを感じながら、キスをつづけ、奥さんのパンティを撫《な》でたり圧迫したりしてまさぐった。
「ああっ、おいしい。キスの味を感じたのも、わたし、久しぶりです」
「ずっと我慢してきたんですね。かわいそうに、二十五歳だというのに……」
「ああっ、そんな言い方をしないで……。なおさら辛くなっちゃいます」
「これからは、ぼくが慰めてあげますよ。部長にはもちろん内緒でね」
「素敵……、仲本さん。主人は怒ると怖い人だから、絶対にあなたとわたしのふたりだけの秘密ですよ」
二十五歳の若妻は火照《ほて》った表情で、念を押すようにうなずいた。
視線が絡んだ。
仲本もそれに応えて力強くうなずいた。
タブーにふたりで踏み込んだという実感が全身にみなぎる。ひとつの目的にふたりで向かっていく時に味わう一体感を、見つめあっているだけでも感じる。
「声をあげないように、気をつけてくださいね」
仲本はそう言うと、陰毛の茂みを覆っているパンティのあたりにあてがっていた指先を、もっとも強い快感が生まれる敏感な芽にゆっくりと移した。
「ううっ、そこ。だめ、あんまり触らないで」
彼女は苦しげな声を洩らしながら、ソファの背もたれに上体をあずけ、足をさらに広げた。
ソファに寄りかかった奥さんは目を閉じると、足をさらに広げた。
淡いピンクのパンティがあらわになった。仲本は奥さんの敏感な芽にあてがっていた指をいったん離し、そこをじっくりと眺めた。
リビングルームの蛍光灯の明かりが陰部のすべてを照らしている。陰毛の茂みがわずかに透けていて、淡いピンクがくすんだ色合いに変わっている。指先をあてがっていたあたりがうるみで濡れている。ちょうど一円玉くらいの大きさだったけれど、ほんのわずかな間に面積を広げていった。
これが部長が可愛がっている二十五歳も年下の奥さんの割れ目だ。
パンティの上からでも、割れ目の厚い肉襞《にくひだ》がうねるのがわかる。うるみに濡れて張り付いているために、割れ目の溝まで輪郭がくっきりと見て取れる。
「奥さん、すごく濡れていますよ。我慢していたっていうのがわかります」
「恥ずかしいけど、仲本さんの言うとおりです。主人に放っておかれて、わたし、もうどうにかなっちゃいそうだったの」
「そうでなければ、パンティに染みをつくるまで濡れないでしょうね」
「意地悪。わざわざそんなこと言って……」
若妻は瞼《まぶた》を開くと、ねっとりした絡みつくような視線を送ってきた。
ねだるような眼差《まなざ》しだ。
愛撫《あいぶ》だけでは物足りないと訴えているようだった。鼻を鳴らして、上体を寄せてきた。
若い肉体は熱く火照っている。奥さんの肌からは、性欲に膨れている時に滲《にじ》み出てくる匂いが漂っている。しかもそれは時間とともに濃密になっている。
やはり、キッチンに行こう。
換気扇がすぐ近くにあるから、これ以上は甘く生々しい匂いがリビングルームに拡がることはない。それに、部長が二階からいきなり下りてきたとしても、ソファにいるよりも誤魔化しがききそうだ。
仲本はしかし、立ち上がらなかった。
移動する前に、やっておきたいことがあった。いや、若妻にやってもらいたいことがあったのだ。
仲本は腕を伸ばして、奥さんの手首を掴《つか》んだ。そのまま自分の股間《こかん》に運び、ズボンの上から膨脹した陰茎に触れさせた。
交わる前に、陰茎をくわえさせたかった。若妻を自分の思いどおりにしたいからではない。くわえさせることで、ふたりで入ったタブーの領域のさらに奥深くまで踏み込んでいくんだという覚悟を若妻にさせたかった。
「ああっ、逞《たくま》しい」
「くわえてくれますね」
「上手にできるかしら。わたし、自信がないわ」
「くわえてくれることが大事なんです」
仲本は低い声で力強く言うと、若妻の後頭部を押してうながした。
二十五歳の若妻が、首筋に力を入れた。陰茎をくわえるのを拒んでいるか、単なるためらいや戸惑いなのか、どちらなのか見極めがつかなかった。それでも仲本は、彼女の後頭部を押し込みつづけた。
「仲本さん、ちょっと待って……。どうして、あなたのものをお口にふくむことが大事なんですか」
「ふたりでこれから重大な秘密をつくるんです。友梨さんが、そこに踏み込んでいくつもりかどうか、もう一度、しっかりと確かめたいんです」
「わたし、わかっています」
囁き声ではあったが、彼女の声音にはためらいや戸惑いが混じっていた。
タブーの領域の深いところに向かうには、秘密を守るということも含めて、互いに覚悟が必要だ。それを確認した後でなければ、踏み込んでいってはいけない。性欲にまかせてしまうと、後でとんでもないことが起きることもあるはずだ。
でもこれは保身のためではない。ふたりにとって必要なことであり、ふたりを取り巻く人間関係を良好に保つためでもあるのだ。
「できないなら、それでもかまいません……。さあ、友梨さん。迷っている時間はありませんよ」
若妻の名前を呼ぶことで、彼女と一緒にタブーに踏み込みたいと伝えたつもりだった。その想いが通じたかどうか。それはもうすぐわかる……。
仲本は彼女の後頭部から手を離した。
彼女がどこに向かおうとしているのかを見守った。
ひそやかで張りつめた時間が流れる。
今まで以上に、部長の自宅のリビングルームが、ふたりだけの空間になっていく。
若妻が小さく呻いた。それをきっかけにして、細い指が動きはじめた。
濃密な時と空間がかすかに動く。ファスナーを下ろし、ズボンの中に手を入れる。ためらいがちながら、その後、勃起《ぼつき》している陰茎をパンツから引き出した。
「ううっ、すごい。わたし、躯《からだ》が熱くなって、ジンジンしてきています」
彼女はうわずった声で言うと、幹を握りしめた。
陰茎は硬く尖《とが》っている。陰毛の茂みがパンツの中におさまっているために、陰茎がそそり立っているように見える。幹に浮かぶ節や血管が波打ち、笠《かさ》の外周が大きくうねる。
「ふたりの意思を確かめ合うために、さあ奥さん、くわえて……」
「ふたりだけの本当の秘密が生まれるんですね」
彼女は屈《かが》み込み、顔を陰茎に寄せた。長い髪が陰部全体を覆った。甘く生々しい匂いが拡がった。
くちびるが笠に触れた。
熱い……。
仲本がそう感じた瞬間、笠全体がくわえられた。
若妻が寄りかかるようにして上体を倒してきた。もちろん、陰茎はくわえ込んだままだ。彼女はくちびると舌を使いやすいように、さりげなく体勢を整えたようだった。
笠と幹を隔てる溝にくちびるをあてがい、きつく締めつける。それを何度か繰り返しながら、同時に、幹のつけ根を指先で圧迫したり、曲げたりする。
舌先に唾液《だえき》をたっぷりと乗せ、幹に塗り込む。豊かな乳房をなすりつけるようにして太ももに当てる。くちびるを幹から離し、湿った熱い息を吹きかける。
仲本はブルブルッと下腹が震えるのを感じた。
部長が仕込んだのだろう。部下の使い方がうまいと評価を得ている人だけのことはある。部下だけでなく、奥さんの舌の使い方まで指導していたのかと思ったら少し可笑《おか》しかった。
笑い声をあげるわけにはいかないから、仲本は腹筋に力を込めて堪《こら》えた。不思議なことに、それが快感を増幅させていた。
「上手ですよ、奥さん。うまくないって言っていたけど、謙遜《けんそん》だったんですね」
「そんなこと、ありません。主人に何度も叱られましたから……。それももう、ずいぶん前ですけど」
「部長の教え方が上手だったのかな。それとも、友梨さんの呑《の》み込みがいいのかもしれないな」
仲本はそこまで言ったところでくちびるを閉じた。
若妻の舌先が、幹のつけ根を弾《はじ》きはじめた。さらに、パンツの上からふぐりを突っついてきた。
パンツ越しに感じるねっとりとした舌の熱さが気持いい。彼女はそうしたやり方も、男に快感を与えるとわかっているらしい。若いから性的に未熟だと思っていたけれど、それは間違いだったようだ。
若い奥さんを仕込んだまではよかったけれど、部長が考える以上に、奥さんは性的に成長した。そしてそれと反比例するように、部長の性欲は減退していったのだろう。たぶんそうに違いない。
「もっと深くまで、呑み込んで……」
「はい、仲本さん」
「素直ですね、奥さん。部長にもそんなふうに素直に応《こた》えるんですか?」
「夫のことは、言わないで。気持が醒《さ》めてしまいますから……。それとも意地悪のつもり?」
「いけないことをしているっていう背徳の気持が強まるでしょう」
「ううん、だめみたい。それはきっと、男の人が抱く幻想です」
陰茎を浅くふくみながら、若妻は囁《ささや》いた。話し終えるとすぐ、頭を押し込み、陰茎の先端を深々とくわえ込んだ。
口の最深部に笠が当たった。若妻はうれしそうに呻《うめ》き声を洩《も》らした。
屈《かが》み込んだ若妻の乳房を、仲本は太ももで感じる。やわらかみとともに、二十五歳の女性らしい弾力も伝わってくる。
仲本はソファの背もたれに上体をあずけた。
若妻のシャツがめくれていた。腰から背中にかけてがあらわになった。
肌は白い。触れてみなくても、張りやみずみずしさのある肌だとわかるくらいだ。お尻《しり》はむっちりとしていて、ウエストのくびれが見事だ。部長がこんなに素敵な奥さんをめとったのかと思うと、嫉妬《しつと》めいた気持ちも湧いてくる。
若妻は陰茎をくわえ込んだままだ。丹念な舌遣いをつづけている。笠や幹の感触を愉《たの》しんで味わっているようだった。「ううっ」という苦しげな呻き声だけでなく、「あんっ」とか「おいしい」といった独り言が洩れていた。
荒い鼻息がパンツに吹きかかっている。若妻の鼻先が太もものつけ根に当たる。ふぐりやそれに触れている股間のあたりがねっとりと汗ばんでいく。そうしたことによっても性感が刺激され、高ぶりが強まっていくのだ。
「わたし、もう我慢できない……」
陰茎からくちびるを離した若妻が、上気した火照った顔で視線を絡めてきた。
愉悦を求めている表情だった。二階で夫が休んでいることに気を取られているふうではない。タブーの世界の淫靡《いんび》な魅力に引き込まれたかのようだった。
「ぼくも我慢できませんよ……。奥さん、キッチンに行ってください」
「ああっ、わたし、どこにでも行きます。だから、ねっ、早く……」
彼女はソファから立ち上がった。
太もものつけ根までずり上げていたスカートの裾《すそ》を直すと、ふらふらとした足取りで五メートル程先の対面式になっているキッチンに入った。
仲本は陰茎を剥《む》き出しにしたまま歩いた。
斜め六十度くらいの角度で屹立《きつりつ》したままの陰茎は、歩くたびに上下に跳ねる。四十歳のそれとは思えない。まだまだ勢いが感じられて頼もしい。
タブーの領域に踏み込んだことで得られる刺激や愉悦が、若々しさをもたらしてくれているに違いなかった。禁断の世界には危険が常につきまとっているけれど、躯と心に悦びをもたらすだけでなく、こうした効果もあったということだ。
「奥さん、シンクに両手をついてください」
仲本は若妻を背後から抱きしめながら囁いた。そしてスカートの上から、お尻の谷間に沿って陰茎をあてがった。
若妻は両手をシンクの縁につくと、腰を左右に小さく振った。お尻の谷間に沿ってあてがっていた陰茎は、そこから外れるどころか、深くはまって密着度が増した。
スカート越しにかかわらず、若妻の熱気が陰茎に伝わってくる。ブラウスから透けて見える背中がうねっている。
仲本は腰を退いた後、スカートの裾をゆっくりとめくり上げた。
剥き出しになったお尻は豊かでむっちりとしている。背後から眺めるとそれがはっきりと感じられる。ブラジャーと同じ淡いピンクのパンティがお尻に張りついたように見え、若々しさが匂い立つようだ。
ソファに坐《すわ》っていた時からずっとあらわにしている陰茎が何度も勢いよく跳ねる。そのたびに、先端の細い切れ込みから透明な粘液が滲《にじ》み出てきて、そこに溜《た》まっている滴が大きくなっていく。
甘く生々しい匂いが鼻腔《びこう》に入り込んできた。ソファで愛撫《あいぶ》をしている時よりも明らかに濃くなっている。キッチンからリビングルームに流れていると容易に想像がつき、仲本は左手を伸ばして換気扇のスイッチを入れた。
換気扇が空気を切り裂く音が響く。自宅のマンションのそれより、一戸建てのほうが音が大きいような気がする。こんなに音に包まれていたら、部長が二階から下りてくる足音が聞こえないかもしれないといくらか不安になった。
「どうして、換気扇を回すんですか」
若妻は両手をシンクについたまま、首をねじって囁いた。
「奥さんの甘い匂いがリビングルームにまで拡がっているんですよ」
「ほんとに? ああっ、自分では気づかなかった……」
「部長は観察力が鋭いから、そんな匂いを嗅《か》いだら、ぼくたちのことを疑うかもしれませんね」
「だったら、主人が下りてこないうちに、ねえ、早く、お願い」
二十五歳の若妻はうわずった声を放った。そして自ら腰を落として、お尻を陰茎に寄せた。仲本は自由になっている両手で、スカートをめくり、パンティを引き下ろした。
お尻は火照り、朱色に染まっていた。むっちりとした張りは、息を呑むくらいに見事だった。
お尻を左右に小さく揺する。そのたびに甘い匂いが湧きあがる。それは換気扇に吸い込まれていきながらも、男の肌に染み込んでくるようだ。
仲本は膝《ひざ》を落とした。小さく深呼吸をひとつすると、陰茎の先端を割れ目にあてがった。
うるみが熱い。
二十五歳の人妻のぬくもりだと思うと、それだけで性的な高ぶりが強まった。うるみにまみれた先端の笠《かさ》が、膨脹しながら大きくうねった。
割れ目を覆っている厚い肉襞《にくひだ》はめくれながら、笠にへばりついてくる。意識的とは思えないが、それはへばりつくだけでなく、圧迫したり緩めたりを繰り返すのだ。高ぶりが全身を巡っているのが、厚い肉襞のそうした動きからも伝わってくるようだった。
「焦《じ》らさないでください、仲本さん」
「いきなり挿し込んだら、大きな声をあげるんじゃないかと思ったんです。いいですか、ゆっくりと入っていきますからね」
「ああっ、いや、そんなの。思いきり、突いて。わたしを目茶苦茶にして……」
若い妻はひそやかな声を洩らした。これまでにない切羽詰まった声音だった。その声に男の欲望が煽《あお》られた。割れ目にあてがっている笠だけでなく、幹もふぐりも熱くなった。
仲本は踏ん張った。
彼女も呼応して、シンクの縁についている両手を突っ張らせながら、腰を落とし気味にした。
若妻のくびれたウエストを両手で掴《つか》んだ。息を詰め、腹筋に力を込めた。
仲本は腰を突いた。
ぬるりとした感触とともに、割れ目の中程までいっきに挿した。
若妻は小さな呻き声を洩らした。すぐに、キッチンの換気扇の音にまぎれた。
二十五歳の割れ目の奥は窮屈だった。そんなところからも、五十歳になる部長との交わりの少なさがうかがえた。
仲本はさらに腰を突き入れた。くちゅくちゅという粘っこい音があがり、割れ目からうるみが流れ出しているのを感じた。それは幹のつけ根を濡《ぬ》らし、縮こまっているふぐりの皺《しわ》にまで流れ込んだ。
若妻の甘いうるみにまみれている…。
仲本は頭の芯が痺れるような愉悦を感じた。禁断の世界に踏み込んだからこそ得られる愉悦であり強烈な快感だった。
「仲本さん、すごく硬い。ああっ、とろけそう。こんなに気持がいいなんて……」
「ぼくも、すごくいい気持ですよ」
「遠慮しないで。さあ、もっと思いきり突いて。あなたを奥のほうでも感じたいの」
若妻は両手をさらに突っ張らせた。お尻《しり》を落とし気味にして、小さく左右に振った。
割れ目がいっきに引き締まった。挿し込んでいる陰茎が圧迫された。仲本はそれに応えるように腰を突き出し、笠を割れ目の最深部に当てた。
二十五歳の若妻の喘《あえ》ぎ声が、換気扇の音にまぎれることなく響く。荒い息遣いがつづく。薄い背中が波打ち、突っ張っている両腕が震える。
「ううっ、すごい。こんなに気持いいことなんて、初めて……」
「部長はこんなふうに気持よくさせてくれないんですか」
「あの人はいつも、疲れているんだと言うばかりで、何もしてくれないの。だから、ああっ、仲本さん、わたしにいっぱいして」
若妻は苦しげな声を洩らすと、自分で乳房を揉《も》みはじめた。
仲本は驚いた。
うながしたわけではなかった。ブラウスに透けるブラジャーのストラップが微妙に動く。頭を上げたかと思ったら、ガクリと首を折る。陰茎を挿し込むタイミングに合わせた呻き声に、乳房への愛撫によって得られる快感がもたらす喘ぎ声が加わる。
快感を求める女の貪欲《どんよく》な姿だった。
仲本は初めて見る光景に、欲望が刺激された。窮屈な割れ目に挿しているにもかかわらず、陰茎が大きく跳ねた。
彼女の背中に胸板をつけるようにして体重をかけた。それから左手で乳房への愛撫をはじめた。右手は、彼女のもっとも敏感な芽に伸ばした。
体勢は苦しかった。けれども、女性のもっとも感じる性感帯をすべて愛撫しているという充足感が、苦しさを忘れさせてくれた。
敏感な芽を撫でている右の指先がうるみに濡れる。厚い肉襞から突出している芽は硬く尖っていて、腰を突き入れるたびに痙攣《けいれん》を起こしたように震える。
左手で愛撫している乳房は、ブラジャーとブラウスに包まれているけれど、それでもやわらかみや弾力が感じられた。乳首が屹立《きつりつ》しているのもはっきりと伝わってきた。
妻との行儀のいい交わりだけしか知らなかったら、いくつもの性感帯を愛撫する方法など、絶対に思いつかなかっただろう。禁断の世界に何度か踏み込み、経験を重ねることによって得られたやり方だ。
「ああっ、わたし、おかしくなっちゃいそう」
「いきたくなったら、言うんですよ。ぼくも一緒にいきますからね」
「うれしい……。もう少しなの。もう少しで昇っていきそうなの」
若妻はうわ言のように低い声で囁いた。
膝がガクガクと揺れている。荒い息遣いの中に呻き声が混じる。背中に密着させている胸板に、全身の震えとともに火照《ほて》りや熱気も伝わってくる。
仲本はブラウスの上から乳房を揉み上げていたが、それでは飽き足らなくなって、裾《すそ》の下に手を差し入れ直した。ブラジャーを上側にずらして、乳房の下辺に直接触れた。そうしている間も、右手の指先では、敏感な芽を撫《な》でつづけた。しかも割れ目には陰茎を挿していた。
両手を意識するのは意外と難しい。撫でることはできても、両手で快感を十分に味わえないのだ。経験の多寡ではなくて、どうしても、強い快感が生まれる陰茎にばかり意識が向かってしまうからだ。
「奥さん、右手でふたりがつながっているところを触ってみて……」
仲本は彼女の耳の後ろ側で囁いた。若妻は素直にうなずくと、細い右手を股間《こかん》におずおずと運んだ。ふたりの右手が股間で交錯した。
彼女の指先が割れ目の厚い肉襞に触れる。うるみにまみれた仲本の指をなぞるように這《は》う。肉襞から陰茎の幹に移る。彼女の下腹部が波打ち、陰毛の茂みが震える。
指先が陰茎の幹に触れた。その瞬間、彼女はのけ反りながら甲高い呻き声を放った。
「ああっ、すごくおっきい。本当に仲本さんの逞《たくま》しいものが、入っているんだわ」
「奥まで挿しているんですよ。奥さんの中はきつくて気持がいい……」
「ううっ、そうなの? わたしのあそこって、気持いいの?」
「そうですよ。我慢していないと、すぐにでもいってしまいそうです」
「うれしい……。ああっ、これが女の幸せなのね」
若妻は喘ぎながら言うと、濡れた陰茎の幹をきつく摘んだ。
仲本は息を詰めた。
思いがけない刺激だった。幹の芯に脈動が駆け上がり、縮こまっているふぐりがひくついた。
「わたし、もうすぐなの。仲本さんも一緒にいってください」
仲本は右手を敏感な芽から離し、乳房を愛撫している左手もさりげなく腰に移した。
両手で若妻の腰を掴んだ。太ももに力を入れて踏ん張った。
二十五歳の女体は燃えている。胸板だけでなく指先や太ももにも、彼女の熱気が伝わってきた。
絶頂は近い。
白い樹液を堰《せ》き止めている堤防は今にも崩れそうだ。たぶん、我慢をつづけるのをやめると思った次の瞬間には、絶頂に昇っていけるはずだ。
しかし昇ってしまうのは惜しい。仲本は何度もくちびるや舌を噛《か》んで、その兆しを抑え込んだ。
若妻との関係をこの一度だけにはしたくない。彼女が了解してくれたら、ふたりで禁断の世界を歩みつづけたい。それは愉悦が深いというだけの理由ではない。初々しさの残る二十五歳のこの女性となら、今以上に強くて深い欲望の世界を漂えるような気がしてならないのだ。
「友梨さんに訊《き》きたいことがあるんです」
仲本は全身に強い快感が巡っているのを感じながら口を開いた。その間も腹筋から力を抜かないように努めた。
「ああっ、こんな時に何? 難しい話はしないでくださいね」
「あなたとなら、もっと深い快感を求めて歩んでいけると思ったんです」
「ううっ、よくわからない。どういうこと?」
「これっきりにしたくないんです。友梨さんとだからこそ、回数を重ねることでしか得られない快感を求めたいんです」
「そんなこと言わないでください。わたし、ちょっと怖い……」
「強要はしません。ふたりが納得しなければ実現できないことだとわかっていますから」
仲本は彼女を安心させるために言った。そういったことをさりげなく囁くことも男としてのやさしさだ。
禁断の世界に踏み込んだ女性が恐怖に感じることは、男のしつこさであり執着だろう。男の常軌を逸した想いや行動によって、平和な日常生活を壊されるのではないかと不安を抱くはずだ。自分はそんな男ではない、ふたりが不幸になることをしようとは思わない。彼女のためにも、そういうことを言葉ではっきりと伝えることが大切だ。
「怖いと思うのは当然です。ぼくだって怖いですからね」
「わたしは、仲本さんに迷惑なんてかけませんから」
「わかっています。友梨さんだけの不安や恐怖ではないと言いたかったんです」
「主人に内緒で、つづけられるかしら。裏切ることになるのが怖い」
「不幸になるためではないんです。今の生活をもっともっと充実させるためです……。この場で今すぐに結論を出す必要はありませんから、考えておいてくださいね」
若妻はキッチンのシンクに両手をつきながら、深々とうなずいた。その瞬間、割れ目の外側の厚い肉襞がきゅっと引き締まった。
厚い肉襞の締めつけの強さに、仲本は思わず唸《うな》った。快感は生まれたがそれよりも先に、軽い痛みのほうを感じたからだ。
きつい締めつけをする女性は何人かいたけれど、痛いとまで感じたのはこの若妻が初めてだ。二十五歳という若さに加え、彼女ならではの天性によるものに違いない。
部長がうらやましい。
自分の年齢の半分の女性をめとるだけでもすごいことなのに、妻にした女性の割れ目がとにかく素晴らしい。うらやましいと思うのは当然だ。
「ううっ、すごくきついんです。仲本さんのもので、わたし、壊れちゃいそう……」
「ぼくのほうこそ、友梨さんの締まりがすごいから、千切られてしまいそうです」
「そうなの? わたしなんて、ちっともよくないんじゃないんですか。その証拠に、主人はわたしに触れもしないんですから……」
「友梨さんに原因があるんじゃないんですよ、きっと。部長は今年で五十歳。男としての機能が弱くなってくる年齢なんです」
「そんな……。わたしはこれから女盛りを迎えるっていうのに」
「ぼくが満足させてあげます。友梨さんの女としての盛りをぼくに見せてください」
キッチンのシンクに両手をついたまま、若妻はうなずいた。背中に流れていた長い髪が肩口から落ちた。その拍子に、濃厚さを増した生々しい匂いがさっと拡がった。
「ふたりで秘密の世界に漂いましょう。女盛りの友梨さんと、男盛りのぼくとなら、きっと信じられないくらいの愉悦に浸れるはずです」
仲本は呻《うめ》きながら、自分の囁《ささや》いた言葉の大胆さに驚いた。それが引き金となって、きつい割れ目の中で、陰茎が膨脹してつけ根から大きく跳ねた。
舌先を噛んだ。痛みを加えてみたが、絶頂を抑える効果はなかった。
「友梨さん、もうだめだ。いってしまいそうです。だから、一緒に。友梨さんもいって」
「ああっ、はい」
彼女は喘ぎながら言うと、全身を硬直させた。割れ目の締めつけが強まった。短い呻き声がつづいた。荒い呼吸のテンポが早くなり、急な坂道を昇っていくようだった。
彼女が背中をのけ反らせた。息を詰め、細い躯を震わせた。次の瞬間、甲高い声を放った。
「あっ、いく。もう、わたし、だめ」
次の瞬間、仲本は腰を突き入れた。
白い樹液が陰茎の芯を駆け上がる。
猛烈な快感が生まれ、全身に拡がっていく。
若妻はそれに合わせるように、キッチンのシンクに両手をついたまま躯を硬直させる。割れ目が収縮する。奥の細かい襞が、さらに奥に導こうと動く。外側の厚い肉襞が幹にへばりつきながらうねる。引き締まったり緩んだりを繰り返して、呑み込んだ白い樹液を逃がさないようにしている。
陰茎を抜きたかった。でもそれを割れ目が許してはくれなかった。
女の貪欲《どんよく》さは絶頂を迎えた後もつづくものなのか……。
仲本は若妻の荒い息遣いを聞きながら、女の欲望の深さやそれを求めずにはいられない女の業のようなものを感じた。
その時だ。
空気を切り裂いて回っている換気扇の音に混じって、ドアが開いたような音が聞こえてきた。
仲本は一瞬にして緊張した。二階で休んでいた部長が、目を覚ましたのだ。聞き違いではない。
「奥さん、部長が下りてきますよ。離れますからね、いいですか」
「えっ……」
「時間がありません。ぼくはソファに戻りますから、奥さんはこのままキッチンに立っていてください。今しがたのぼくたちのことは、永遠に秘密ですから。わかりましたね」
「夫はほんとに起きてきたんですか?」
「ほら、今、ドアが閉まる音がしました」
「ほんとだわ。どうしましょう、わたし」
「ぼくたちはずっと話をしていただけです。何もなかった。そうでしたよね、奥さん」
「ええ、そうね」
仲本は腰を退いて、陰茎をゆっくりと抜いた。うるみと白い樹液の混じった粘液にまみれた陰茎が鈍い輝きを放った。同時に、鼻をつくほどまでに濃度を増した生々しい匂いがふたりの陰部から湧きあがった。
陰茎をパンツの中におさめ、ソファに坐った。深呼吸をひとつした。しかし、落ち着かなかった。胸が締めつけられる。呼吸が荒くなり、初めて経験するスリルに躯がこわばっていく。
階段を下りてくる音が聞こえてきた。
部長は間違いなく起きていた。空耳ではなかった。
若妻はせわしげに冷蔵庫を開け、部長が下りてくるのを待った。
リビングルームのドアが開いた。
仲本も何事もなかったかのように立ち上がり、部長を迎えた。
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第七章 誕生日の先生
仲本は今、汐留《しおどめ》の高層ビル群が間近に見えるホテルにいる。
三十分前に頼んでいたルームサービスのイタリア料理のディナーが届き、テーブルセッティングが済んだところだ。
仲本は若いホテルマンに渡された伝票に名前を書き込んだ。
「ありがとうございました。それではごゆっくりと、お食事をどうぞ」
若いホテルマンは丁寧にお辞儀をして部屋を出ていった。
仲本はテーブルに並べられた食事に目を遣《や》った後、夜景を眺めた。そして満足げにため息をつくと、口を開いた。
「ようやく、ふたりきりになれましたね。これで落ち着いて話も食事もできそうだ」
「お招きいただいて、とってもうれしいです」
目の前に坐《すわ》っている女性がぎこちなく微笑んだ。
息子の担任の滝川友理子先生だ。
約一カ月半ぶりの再会を果たしたのだが、誘ったのは彼女のほうだった。一昨日、携帯に電話がかかってきて、『わたし、明後日に誕生日を迎えるんです。もしよかったら、一緒に祝っていただけないでしょうか』と、ためらいがちに言ったのだ。
一カ月半前、先生とは親しい関係になる寸前で別れた。
仲本は今でもはっきりと、別れ際の彼女の言葉を覚えている。
『きっと、わたしのエッチで淫乱《いんらん》な姿を見せられると思います。必ずまたお会いしますから、今夜は許してください』
誕生日を祝ってほしいと電話してきたのは、彼女なりに考え抜いた口実だと思った。本当は、タブーの世界に入る覚悟ができたと言いたかったに違いなかった。
仲本は彼女の言葉をそう解釈したからこそ、奮発してシティホテルの広めのダブルルームを予約し、部屋で食事をしようと思ったのだ。
「先生の雰囲気がずいぶん変わっていたので、びっくりしました」
「どんなふうに変わったと感じたんですか」
「大人の女の色気をすごく感じます。学校の先生とは思えないくらい艶《つや》っぽいんですよ」
「なぜかしら。わたし、何かを変えたわけではないんです……。そうだ、ひとつあるとすれば、仲本さんと会うからにはお洒落《しやれ》して、女らしくしようと心に決めたことかしら」
男心をくすぐる言葉に仲本は満足した。シャンパンの入ったグラスを持つと、彼女の誕生日を祝って乾杯した。
「正直言って、仲本さんがこれほどまでにわたしの誕生日を祝ってくれるとは思っていませんでした……」
滝川先生はシャンパンを飲み干すと、頬を桜色にほんのりと染めながら照れ臭そうに言った。
「どうして、そんなふうに思ったのかな」
仲本は白い布で覆ったテーブルに両手をついて先生の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込んだ。
「だって、この前のことがあったから……。もう会ってくれないかと思っていたくらいなんです」
彼女は言うと、うれしそうに微笑んだ。仲本もそれに応《こた》えるように、黙ったまま笑みを湛《たた》えた。
一昨日、先生から電話で誘われた時、実は仲本は迷った。今度も、期待を裏切られるのではないかという不安が掠《かす》めたからだ。
この前の時は、ラブホテルに入り、キスをしたし、ペッティングもしていた。タブーの世界に踏み込むという覚悟をしたはずだから当然なのだが、躯を重ねる寸前で断られた。仲本はそれを理性でなんとか受け止めたが、そんな経験はもう二度としたくなかった。
「先生は、覚悟したからこそ、電話をかけてきたんですよね」
「あなたと別れてから一カ月半、ずっと考えていました」
「どんなことを?」
「先生として生きるだけなんてつまらない。わたしは、女としても生きたいし、その生き方を充実させたいって……」
「で、結論を出したというわけですね」
「仲本さんと歩んでいこうと決めたんです。いいんですよね、それで」
「先生がそう言ってくれるのを、ぼくはずっと待っていました」
待った甲斐《かい》があった。一カ月半。長いようで短かった気がする。今夜からは、ふたりで愉悦を求めていくのだ。
仲本は窓の方に目を遣った。
汐留の高層ビル群の夜景がよく見える。新宿のシティホテルの部屋からの眺めとはひと味違う。レインボーブリッジが間近に迫っているからかもしれないし、海の気配が感じられるからかもしれない。
「ようやく、先生とタブーの領域に踏み込んでいけるんですね」
「あらたまって言われると、わたし、緊張してしまいます」
「誕生日が覚悟を決めた日になるなんて、素敵じゃないですか。そうだ、この記念に何か特別なことをしてほしいな」
仲本の言葉に先生は鋭く反応した。桜色に染まっていた頬が一瞬にして濃い赤色に変わり、瞳を覆う潤みも波打った。
「特別なことって……」
先生は性的な好奇心に満ちた表情で囁《ささや》いた。
ナイフとフォークを動かしている手を休めると、
「特別なことって……」
と、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
仲本は口の底に溜《た》まった唾液《だえき》を呑《の》み込んだ。特別なこと。それは、シティホテルを予約し、ルームサービスでディナーを愉《たの》しむと決めた時からずっと想像していたことだ。
「本当に言ってもいいかい? 変態だなんて言わないって約束してほしいんだけどな」
「仲本さんとタブーの世界に踏み込むって覚悟したんです。だから、安心してください」
「ほんとに?」
「どんなことでもするって決めてきたんです。先生としてだけじゃなくて、女としても生きたいんです、わたし」
「だったら言うね……。洋服を脱いで、食事をしてほしいんだ」
仲本は思いきって言ったが、先生はそれを理解できなかったらしい。視線を絡めながらも、瞳に落ち着きがなかった。
「それは、つまり、裸でディナーを愉しみたいということですか」
「そういうことになるかな。もしいやだったら、無理にとは言わないつもりだけど……」
「仲本さんは、それをしたいんですよね」
先生は念を押すように言った。頬の赤みがいっそう濃くなった。わずかにうつむいた表情は、迷っているように見えた。
「男の人って、みんなそういうことを望むものなんですか」
「特別だと思っている女性だからこそ言うんだよ」
「それって、反対ではないですか。遊びだから言えるんじゃないですか?」
先生がそんな疑問を抱くのも無理はない。でも、それは違う。タブーの領域に一緒に踏み込んだ相手だからこそ、無茶なことが言えるのだ。仲本は手を伸ばしてテーブル越しに先生の頬に触れた。
「あなたとだから、いろいろなことを経験したいんです」
熱く火照《ほて》った頬を撫《な》でながら言うと、指先を首筋から乳房にかけて這《は》わせていった。
洋服越しに豊かな乳房に触れた。先生は何も言わずに躯を震わせている。乳首が硬くなっているのが、ブラジャーの上からでもわかった。
「裸で食事だなんて……」
滝川先生はため息をつきながら言った。拒むかと思ったけれど、彼女はゆっくりと立ち上がった。そしてルームサービスでとったディナーのためにセッティングされたテーブルからわずかに離れた。
意を決したらしい。
仲本は椅子の向きを彼女のほうに変えると、左手を肘掛《ひじか》けにつけて待った。
立ち上がったまま黙ってもじもじしていたが、ぎこちない手つきでワンピースを脱ぎはじめた。
黒色のブラジャーを着けていた。しかもガーターベルトとパンティもお揃いのデザインだった。ベージュのストッキングが艶《なま》めかしく輝いた。
学校の先生でもガーターベルトを持っているものなのか。仲本はふっとそんなことを思った後、先生だって女なのだからそれくらい持っていて当然だとすぐに思い直した。
先生は恥ずかしそうに背中を丸め気味にしながら、長い髪を梳《す》き上げる。太ももを重ねて陰部を隠している。頬の赤みが先ほどよりも濃くなっていて、それが全身にまで拡がっている。
「下着も脱いだほうがいいでしょうか」
先生はためらいがちに声を洩《も》らした。仲本は小首を傾げ、曖昧《あいまい》にうなずいた。
裸で食事をしたいと言ってはみたけれど、ガーターベルト姿というのもエロティックに思えた。それに自分の手でそれを脱がしてみたいという新たな欲望も芽生えていたから、どうしようか迷ったのだ。
ブラジャーは乳房の三分の一しか隠していない。乳房のすそ野の盛り上がりやくっきりとした谷間が見える。ブラジャーを取ってしまうと、生々しさは増すけれど、寄せてつくられた妖《あや》しい谷間は消えてしまうかもしれない。
「前言を撤回しよう。下着姿もいいものだね」
「よかった……。わたし、見てもらいたかったんです、下着姿を」
「いわゆる、勝負下着ということだね」
「そんなんじゃありませんけど……。買って持っているだけで、着けていく機会がない下着でした。先生という仕事をしているのに、わたし、下着を集めるのが趣味なんです」
「ということは、学校にもガーターベルトを着けて行ったりするのかい?」
「たまに、です……。前の晩に性欲が高まって、それを解消しきれないまま朝を迎えちゃった時くらいです」
先生は恥ずかしそうに言うと、椅子に腰を下ろした。豊かな乳房が揺れた。谷間に陰翳《いんえい》が生まれ、妖しさが増した。
滝川先生は下着姿のまま坐ると、ナイフとフォークを握った。
右手を動かすたびに、ブラジャーに包まれた右の乳房が揺れる。深い谷間に宿った翳《かげ》に濃淡が生まれ、左側の乳房が波打つ。
高校生の頃、教壇に立つ若い女の先生を見ながら、ブラウスにブラジャーやストラップが透けているのを発見しただけで勃起したことを思い出した。あの頃は、先生のスカートに浮かぶパンティのラインとか、袖口《そでぐち》から垣間《かいま》見える腋《わき》の下にも興奮したものだ。
「わたし、恥ずかしくって何を食べているのか、わからなくなりそうです」
先生は手を休めると、恥ずかしそうな表情を浮かべながら視線を絡めてきた。
食事はあらかた済んでいる。仲本は笑みを湛えて応えると、ポットを持ち、コーヒーを注いだ。先生はグラスに残っているシャンパンを飲み干した後、深々と吐息を洩らした。
「先生にとって、忘れられない誕生日になったんじゃないですか?」
「学校に行っても、今夜のことを思い出しそう……」
「エッチな気持になることってあるんですか」
「まさか……。常に誰かの目があると感じていますから、そういう気持に浸れるゆとりがないんです」
「ということは、学校にいる時はずっと先生の気持のままということ?」
「ええ、もちろんそうです。その緊張が帰宅してからもつづいていて、ひとりの女に戻れないんです」
「これからは、今夜のことを思い出せば、女に戻れるんじゃないかな」
仲本はもっと大胆なことを先生に経験させないといけないと思った。教師という責任のある仕事に就いている彼女を解放するためにも、それが必要なのだ。そうはいっても、先生にとってもっと大胆なことが何かわからなかった。
性的な経験が少ないのだから、何をしても大胆なことになるかもしれない。こうして担任している児童の父親と会っていることだけでも大胆な経験になっているだろう。仲本はそうは思ってみたけれど、満足も納得もしなかった。
先生はコーヒーを飲み干した。胸元に手をあて、
「お腹いっぱい。どうも、ごちそうさまでした」
と言って微笑んだ。
席を立った。口紅をひき直したいということだった。下着姿を晒《さら》しているのに、口紅のことが気になるものかと不思議だった。
二十八歳の先生の後ろ姿を見送った。
むっちりとしたお尻《しり》にパンティが食い込んでいる。足を運ぶたびに、ストッキングを吊《つ》っているガーターベルトのストラップが張りつめたり緩んだりを繰り返している。
仲本は立ち上がると、先生を追った。
ほんのりと甘い香りが帯のようになって洗面所までつづいていた。
洗面所のドアは開け放たれていた。壁面いっぱいの鏡の前で、下着姿の先生は口紅を塗っていた。
黒色のガーターベルトのストラップが張りつめている。むっちりとした太ももを包んでいるベージュのストッキングが、妖しく輝いている。豊かな乳房は尖《とが》っていて、右手を動かすたびにわずかに揺れている。
父親参観の時に会った息子の担任とはとても思えない。エロティックな姿が艶めかしい。裸以上に、黒色の下着姿は男の性欲を掻《か》き立てるもののようだ。
「とっても素敵ですよ、先生。化粧を直している女性というのは、男から見ると妖しいものなんです」
仲本は言いながら、洗面所に入った。足を進めるたびに陰茎がヒリヒリした。脈動が幹の芯を勢いよく駆け上がり、それにつられるようにふぐりが何度もひくついた。
「あん、こんなところ、見ないでください」
口紅を直していた手を止めると、先生は甘えたような声をあげた。シャンパンを飲んだせいなのか、恥ずかしさが募ったからなのか、頬から首筋、そして肩口のあたりまで鮮やかな朱色に染まっていた。
仲本はかまわず洗面所の中に入り、彼女の背後に立った。ふたりの顔が鏡に映った。乳房がブラジャーのカップから溢《あふ》れ出しそうになっていた。
先生を背後から抱きすくめた。むっちりとしたお尻に硬くなった陰茎を押しつけた。
「やめてください、仲本さん」
「いいんですか、ほんとにやめても……。そう言うなら、やめますからね」
「意地悪。夜は長いんですから焦らないで」
「夜はもうはじまっているんです。しかもこの夜は、ふたりではじめたんです」
彼女の背中を胸板で圧迫しながら囁いた。シティホテルの鏡の前であらわな姿の女性を抱く。映画のワンシーンのようなことを、一度やってみたかったのだ。それを実現できたという満足感が、性欲をさらに煽《あお》っている。
ブラジャーに包まれた乳房に両手をあてがった。先生は苦しげな表情で口紅を大理石の洗面台に置いて、両手をついた。
仲本は左右の指先に力を込めた。ブラジャーのレースのざらついた感触とともに、乳房のやわらかみも伝わってきた。
ゆっくりと揉《も》み上げる。その動きに合わせるように先生が爪先立ちした。洗面所の狭い空間は、先生の吐息や荒い息遣いで満ちた。
仲本は胸板を滝川先生の背中に押しつけながら、乳房を何度も揉み上げた。
黒色のブラジャーの縁から、乳房のすそ野が溢れ出てくる。それは大理石の洗面台の前に全面貼られた鏡に映っているし、指先でもはっきりと感じられる。
二十八歳の乳房は弾力に富んでいる。ブラジャー越しでも確かな手応《てごた》えが伝わってきて、男の征服欲のようなものが煽られる。
ブラジャーの背中のホックを外した。
カップが弾《はじ》かれたように乳房から外れた。その瞬間、先生が短く呻《うめ》いた。けれども、拒む素振りも、苦しげな表情を浮かべることもなかった。
肩口からストラップを落とし、ブラジャーを洗面台の隅に置いた。
乳房は見事と言っていいくらいに豊かだ。
どうやら先生は、着やせするタイプらしい。乳房の下辺にボリュームがあって、乳首は上向き加減だ。それは迫《せ》り上がった乳輪の中央にあるためか、ひときわ大きく見えるのだ。
乳房を両手で揉む。
鏡に映るその光景を見ていると、自分がまるで肉をこねているような気がしてくる。女という肉。性欲に彩られた肉。タブーの世界に踏み込んだ意思を持った肉だ。
「こんなところで、女と男が抱き合うなんて……。わたし、ああっ、信じられません」
先生がのけ反りながら呻き声をあげた。洗面台についている腕が震えた。それに連動するように、お尻の谷間が縮こまったり緩んだりを繰り返した。
「どこにいたって、ぼくたちは男と女なんです。だから、どんな場所で抱き合ってもいいし、つながってもいいんです」
「仲本さんはまさか、ここで、したいんですか?」
仲本は鏡を介して先生と視線を絡めた。二十八歳の瞳《ひとみ》は妖《あや》しく輝いていた。まばたきをするたびに、瞳を覆っている潤みにさざ波が立ち、男を誘うような光が放たれた。
乳首がさらに硬く屹立したらしい。乳房の奥のほうに熱がこもっているのも感じられる。
すごい……。
鏡には、性欲を剥《む》き出しにした女の姿が映し出されていた。息子の父親参観日の時の、楚々《そそ》とした女性教師の姿ではなかった。
パンティに手をかけ、ゆっくりと下ろした。肌理《きめ》の細かい白い肌があらわになった。
滝川先生はガーターベルトとストッキングだけの姿になった。
むっちりとした白いお尻が、洗面所のオレンジ色の光に照らされて艶《なま》めかしく輝いている。そして、肌理の細かい肌は、じわじわと朱色に染まっていく。
男の征服欲が刺激される色味だった。仲本はこの時初めて、女体の肌を染める色によっても、男の欲望は煽られるものだということを意識した。
急いでシャツを脱ぎ、ズボンを下ろした。パンツだけになった自分の姿が洗面台の大きな鏡に映し出されているのを見た。あまり美しくないと思い、どうせならパンツも脱いでしまおうという気になった。
先生は洗面台に両手をついたまま、視線を送ってきている。陰茎を見つめているわけではない。かといって、目を合わせようとしているのでもない。高ぶりのあまり、惚《ほう》けているような表情だった。
肌を染める朱色はお尻だけでなく背中にまで広がっていた。背骨に沿った凹みには、女の欲望を表すように淫靡《いんび》な濃い翳《かげ》が潜んでいるのが見て取れた。
仲本は半歩踏み出し、陰茎をお尻の谷間を塞《ふさ》ぐようにくっつけた。
陰茎を圧迫するように、お尻の左右の丘が何度も収縮した。
男性経験の少ない先生がそれを意識的にするとは思えなかった。ということは、女の本能が男を悦《よろこ》ばせようとしているのかもしれない。そう考えた途端、陰茎の芯に強い脈動が走り抜け、笠の細い切れ込みに透明な粘液が溜《た》まった。
「あん……。お尻に当たっているものが、すごく熱いんです」
「お尻が悦んでいるのがよくわかりますよ」
「そうなんですか? わたし、自分ではわかりません。ああっ、恥ずかしい」
「どうしてほしいのか、言ってごらん。望むことをしてあげるよ」
「わたし、よくわからないから、仲本さんのやりたいことをしてください」
「あなたが性欲を剥き出しにすることが、ぼくの望みですよ。だから、何をしたいのか、はっきりと言ってほしいんだ」
「どうしても、言わないといけませんか?」
仲本は鏡越しに、彼女と目を合わせながら力強くうなずいた。そして、腰を突き出し、お尻の谷の底に陰茎をつけた。
「ううっ……。仲本さんの、熱くて硬いおちんちんで、わたしを貫いてほしい。ずっと、そのことばかりを考えていました」
彼女は顔を真っ赤にして言い放った。
滝川先生が華奢《きやしや》な肩を震わせた。わずかな動きなのに、洗面台の前の大きな鏡には、上下に波打つ乳房と、左右に細かく揺れる乳首が映し出された。
鏡を介することで、実際に見ているのとは違った生々しさが感じられた。仲本は新たな刺激を得た気分だった。それに応えるように、先生のお尻の谷間を塞いでいた陰茎が鋭く反応した。
だが、仲本の欲望はそれだけでは満足しなかった。それはタブーの領域に一緒に踏み込んだ滝川先生が相手だからこその貪欲《どんよく》な欲望だった。
二十八歳の小学校の先生が、夢中になって陰茎をくわえているところを、鏡に映して見てみたい……。
仲本は腰を退き気味にして、陰茎を先生のお尻から離した。先生は首をよじってこちらに顔を向けて、うわずった声を洩らした。
「きてください。さあ、わたしを思いきり、貫いてください」
「もうちょっと、愉しみたいんだ。つながるだけがセックスじゃないんだよ」
「わたし、どうすればいいんですか」
「先生に、これを味わってほしいんだ」
仲本は、離していた腰を動かし、陰茎の先端で先生のお尻を突っついた。
「味わうって……。ああっ、恥ずかしい」
「いやかい?」
「お口で、するんですよね……。そうでしょ?」
「まさか、経験がないわけじゃないよね」
「経験はありますけど、あまりしたことがありません。今までつきあった人は、仲本さんみたいにはっきりと求めてきたりしませんでしたから」
「先生は、欲望に控えめな男とばかりつきあってきたみたいだな」
仲本は茶化し気味に応えたが、本心ではそんなふうには思っていなかった。
先生が醸し出している雰囲気はあくまで上品だ。ガーターベルトとストッキングだけの恰好《かつこう》になった今もそれは失われていない。これまでつきあってきた男たちは欲望を抑えることで、そんな先生の上品さに敬意を払ったのだろう。
性欲を自主規制していたら、本当の満足は得られないし、充実も愉悦も味わえない。それが結果として、相手の女性に対する不満になるし、別れの原因につながっていくのだ。そんなことになったら、男にとってだけでなく、女にとっても不幸なだけだ。
つまり、男が性欲を抑えることが、女性を大切にしているということにはならない。仲本はそのことを、タブーの世界に踏み込むようになってわかった。
「さあ、口の奥深くまでくわえるんだ、先生」
仲本は彼女の肩に手かけ、押し下げてうながした。
先生はためらいがちにうなずき、腰を落とした。長い髪がふわりと揺れて、甘く生々しい匂いが拡がった。
大理石に膝《ひざ》をついた先生が振り返った。仲本はそのタイミングに合わせて腰を突き出して、剥《む》き出しになっている陰茎を彼女の目の前に晒《さら》した。
「ううっ、見られない……。大人のものって、こんなに大きかったのね」
二十八歳の先生のうわずった声が洗面所に響いた。頬を染めている朱色が濃くなった。まばたきをしていないのに、睫毛《まつげ》が細かく震えた。
「先生、さあ、くわえて。口の奥までくわえて、淫《みだ》らな女になっていくんだよ」
もう一度、彼女の前で腰を突き出した。
瞼《まぶた》が薄く閉じられ、ダークブラウンのアイシャドウが光る。くちびるが開きはじめる。美しいラインの鼻筋がほんのわずかに動く。唾液に濡《ぬ》れた下くちびるが輝く。口紅を塗っているところと口の中の粘膜との境目のあたりが、とりわけぬめりを湛《たた》えていて淫靡に感じる。
くちびるが近づく。
仲本はそれを洗面台の前の大きな鏡越しに眺めた。豊かな乳房の下辺のラインが小刻みに揺れる。上向き加減の尖《とが》った乳首が太ももに当たる。
くちびるが笠に触れた。
ぬくもりとともに、湿った鼻息が吹きかかった。見下ろしている光景と、鏡に映っている姿は違っていた。ふたりの先生に、陰茎をくわえられている気がして、仲本は頭の芯《しん》がクラクラとした。
「鏡のほうを、見てごらん。先生の淫らな姿が映っているから……」
仲本は手を伸ばすと、彼女の顔の半分を隠している長い髪を梳《す》き上げた。
「ああっ、そんな姿が映っているんですね……。でも、わたし、見えません」
彼女は呻《うめ》くように声をあげると、洗面台のほうに視線を遣《や》った。
仲本は先生に言われて初めて気づいた。床に両膝をついた彼女の目の位置からは、鏡に映った姿は見えるはずがなかったのだ。
どうしても見せたい。
タブーの領域に踏み込んだのだから、淫らな欲望を共有したい……。
仲本は高ぶりながらそう思った。そのためにも、先生にこの淫らな姿を自身の目で眺めさせたかった。それによって、理性が崩れ、貪欲に快楽を求めるようになると考えたのだ。
廊下にあるクローゼットの引き戸のドアが全面鏡貼りになっている。仲本はそのことを思い出して言った。
「先生、ぼくのものをくわえたまま、廊下まで行ってください」
仲本は言いながら、洗面台の大きな鏡に目を遣って目の前でうずくまっている先生を見つめた。
廊下のクローゼットの引き戸に貼られた全面鏡まで三メートル程だ。距離は短いけれど、そこまで陰茎をくわえながら辿《たど》り着けるだろうか。自分で言っておきながら、仲本は無理かもしれないと思った。
陰茎はしかし、それに鋭く反応して何度も大きく跳ねている。タブーの領域に入ったのだから、普段なら絶対にやりそうもないことを試したい。これもそのひとつなのだ。
先生が陰茎をくわえなおした。
ゆっくりと口の奥深くまで呑み込む。幹の裏側で迫《せ》り上がっている嶺《みね》を舌先で何度も弾《はじ》く。くちびるをきつく締めつけながら、頭を前後に動かす。幹全体をしごいている時も、舌先で弾きつづける。
「このまま、移動しますよ。いいですか、外したりしないように」
「ううっ、わたしがこんな変なことをするなんて、自分でも信じられない……」
「いろいろなことを試してみるんです。そのうちにきっと、先生も自分の殻を破れるんじゃないかな」
「仲本さんとこうして会っているだけでも、わたしにとっては殻を破ったという達成感があるんです」
「でも、まだそれだけじゃ足りない。自分の欲望が何なのかわかるまで、ふたりで試すんです。その第一歩がこれです」
仲本は慎重に半歩踏みだした。
先生は陰茎をくわえ込んだまま、中腰になって上体を移した。くちびるをひき締め、陰茎が外れないようにした。
ふたりで移動する。
洗面所の鏡に、中腰になっている先生の姿が映る。
奇妙な恰好だ。それが刺激になって、くわえられている陰茎が歩きながら大きく跳ねる。
「ううっ、ちょっと待って。元気が良すぎて、外れそうです」
「外れたら、もう、くわえさせてあげないからね」
「いやっ、そんなの」
先生が陰茎をくわえ込んだくちびるの端から、甘えた声を洩《も》らした。それを聞いて、仲本は初めて先生が、自分の欲望をあらわにしたと思った。これまでは、男性経験が少なくて、くわえるのも得意ではないといったことしか聞いていなかったのだ。
洗面所を出る。
クローゼットまであと一メートル程だ。先生の長い髪が揺れ、陰茎のつけ根がくすぐられる。毛先が当たり、チクチクとした刺激が性欲につながっていく。
クローゼットの前に辿り着いた。鏡にふたりの裸体が映った。
「先生、見てごらん。くわえている姿が、はっきりと映っているよ」
仲本は先生の羞恥心《しゆうちしん》を煽《あお》るように囁《ささや》いた。それでも先生はカーペット敷きの床に両膝をついて、陰茎を口にふくみつづけている。
頬のあたりがぷくりと膨らんでいて、そこに陰茎の先端があるのがわかる。くちびるはめくれ返り、口の端から唾液《だえき》がわずかにこぼれ落ちている。
淫らな姿だ。
ガーターベルトとストッキングだけの恰好というのにも、燃えたぎっている男の欲望が刺激される。
先生が顔をわずかに横に向けて、鏡を見た。
「ううっ、恥ずかしい。こんなふうに、わたし、くわえているのね」
くぐもった声を洩らしながら、先生は首を左右に小さく振った。それにつられて豊かな乳房が上下した。下腹がうねり、陰毛の茂みが盛り上がった。
くわえられた陰茎は、つけ根のあたりしか鏡に映っていない。唾液に濡れたそれは、艶《つや》やかな輝きを放っている。しかし目を凝らすと、口紅がくっついているところだけ、光り方が微妙に違っている。
仲本はゆっくりと、腰を突き出した。
口の中をえぐるように先端の笠が動く。そして舌のつけ根を滑りながら、口の最深部に向かう。そのほんの少しの間にも、笠と幹をつなぐ敏感な筋は、舌のざらつきに刺激を受ける。
先生の表情が苦悶《くもん》に満ちたものに変わった。額にはうっすらと汗が浮かび、薄く閉じた瞼が小刻みに動いていた。
「ううっ、苦しい……。まだくわえていないといけませんか」
「くわえることに集中するんです。そうすれば、この苦しさが快感を引き出してくれるはずです」
「ああっ、そうなんですか? わたし、こんなに長い時間、おちんちんをくわえていたことないんです」
「でも、いやでは、ないでしょ?」
「たぶん、わたし、好きです……」
先生が掠《かす》れた声で言うたびに、熱のこもった鼻息が陰毛の茂みに吹きかかる。唾液を呑《の》み込む時、ヌルヌルした舌のつけ根が笠を包み込んでくる。
「どうですか? 自分の姿を見て」
「いやらしいんですね、わたしって……」
「それは、わかっていたことでしょ?」
「もちろん、薄々は気づいてはいました。でも、ここまでいやらしい女だとは思いませんでした」
「いやらしい女だ」
「ああっ、いやっ」
先生は甲高い呻き声をあげた。そして全身を震わせながら、陰茎をさらに深くくわえ込んだ。
二十八歳の滝川先生の心の中で、何かが弾けたのかもしれない……。
引き戸のクローゼット全面に貼られた鏡の前で、先生はうれしそうに陰茎を口の奥深くまでくわえ込んでいる。
舌の使い方も積極的になってきた。
陰茎の裏側で迫り上がっている嶺をなぞったり突っついたりするだけでなく、舌のつけ根で圧迫したり、ズルズルと唾液を濁った音をあげてすすったりしている。それは男の性感を引き出すためだけでなく、自分の高ぶりを煽るためにもやっているようなのだ。
うながしたわけでもないのに、先生はふぐりをてのひらで包み込んで握る。そこで終わりではなく、その奥のふたつの肉塊の輪郭を確かめるように撫《な》でる。さらにお尻に近い部分にまで指を滑らせる。
先生は肉の快楽を求めている……。
今までのためらいがちな動きとはまるきり違っていた。自分から快感を探り、引き出そうとしているし、それに没頭しようとしていた。
タブーの世界に漂うということの意味を、彼女はようやく理解したのだ。自分の性欲に忠実になること、肉の愉悦を心から味わうこと、そして今のこの瞬間のふれあいに生きることに、喜びと充実感があると気づいたのだ。
ここまで考えが深まったのだから、先生にはどんなことでも求められそうだ。たとえ恥ずかしいことでも応じるだろうし、変態的なことでも拒むことはないだろう。
仲本は腰を退いて、陰茎を先生の口から抜いた。その瞬間、先生が小さく驚きの声をあげた。
「どうして? わたし、もっともっと味わっていたいのに……」
「先生の肌に、ぼくのものを味わわせたいと思ったんです」
「肌に?」
先生は怪訝《けげん》そうな表情で呟《つぶや》いた後、ごくりと唾液を呑み込んだ。そして斜め六十度の角度で屹立《きつりつ》している陰茎に目を遣った。
唾液に濡れた陰茎は、間接照明の明かりを浴びて、ぎらりと輝いた。先端の細い切れ込みからは、唾液とは別の透明な粘液が滲《にじ》み出て、滴となっていた。
仲本は右手で陰茎のつけ根を掴《つか》んだ。
水平に折り曲げた。唾液と粘液にまみれた先端の笠は、先生の鼻先にある。仲本は腰を突き出すと、陰茎を先生の目元に運んだ。
笠が先生の火照《ほて》った頬に触れた。
さらに半歩踏み込み、頬にねじ込むように押しつけた。
「ああっ、こんなことされたことない……」
先生が呻き声を放った。そしてうっとりとした表情を浮かべながら、ダークブラウンのアイシャドウを塗った瞼《まぶた》を閉じた。
「目を閉じないで……」
仲本はうわずった声を飛ばした。鏡には、陰茎の先端を先生の顔になすりつけている姿が映っている。
頬には笠の先から溢《あふ》れていた透明な粘液と、先生自身の唾液が、帯のようになって鈍く光っている。
先生を陵辱《りようじよく》しているつもりなどまったくない。滝川友理子という二十八歳の女性に、四十歳の自分の高ぶりを直に伝えたいからやっているのだ。
そうした思いは、相手にも伝わる。だからこそ、先生は受け入れているのだ。タブーの領域に踏み込んだからといって、相手のことを考えずに欲望をぶつければ、やっと築いた信頼関係を壊すことになる。
「硬くなったおちんちんって、こんなに熱いものだったんですね。手で触っている時とまるきり違うなんて、信じられない……」
「先生をほしがっているから、きっと、熱も上がっているんです」
「わたしだって、仲本さんがほしい……」
先生が掠れた声を洩らした。甘えたような声音には、親しみがこもっていて、信頼が深まっていることがうかがえた。
仲本はいったん腰を退いて、先生の頬から陰茎を離した。右手で陰茎のつけ根を握り直したところで、半歩近づいた。
陰茎の先端を先生の髪の生え際に軽く当てた。そのまま額をゆっくりと下りて眉間《みけん》までいった。そこでひと呼吸おいてから、鼻筋に沿ってゆっくりと鼻の先端に滑らせた。くちびるを横切り、顎《あご》から喉元《のどもと》まで下りていった。顔の中心を縦に陰茎で割っていくようなことをしたのだ。
「変な気持……。こんなふうにも、おちんちんを使うものなんですね」
「初めてですよ、ぼくだって。先生の躯《からだ》の中にぼくのものを入れたいと思っているうちに、自然とやっていました」
「わたし、ドキドキしちゃいました。頬に押しつけられた時より、仲本さんを強く感じたんです」
「興奮しているかどうかを、先生、自分で触って確かめてごらん」
「この鏡の前で?」
「もちろん、そうです。ぼくにも先生にもよく見えるように、鏡のほうに向きを変えるんです」
彼女は恥ずかしそうに足をさらに開きながら下半身を鏡に晒《さら》した。
乳房を剥《む》き出しにして、ガーターベルトとストッキングだけの姿が映った。
先生は陰毛の茂みを隠すように右手をおずおずと伸ばす。人さし指と中指の二本の指が割れ目に向かう。それを見て、先生はオナニーする時、二本の指を使うのかと想像した。
二本の指が動く。それはけっして激しくはない。動いているのかどうかわからないくらいだ。
引き戸のクローゼット全面に貼られた鏡の前で、滝川先生はうっとりとした表情を浮かべながら、足を開いて両膝をついている。
右手で陰毛の茂みを覆っていて、人さし指と中指を伸ばして割れ目に触れている。
指の動きが激しくなってきた。それまではひっそりとした動きだったから、直接見ても、鏡を介しても、さほど刺激的でなかった。
しかし今は違う。
爪に塗られたピンクのマニキュアが、黒々とした陰毛の茂みに見え隠れする。指先はねっとりとしたうるみに濡《ぬ》れていて、割れ目から抜かれるたびに光り方が変わっていく。甘さの濃い生々しい匂いが湧きあがってくる。
「ほら、見てごらん。先生は男がいる前で、自分で敏感なところを触っているんだよ」
「ああっ、いやっ。仲本さんがやりなさいって言ったからです」
「ひとりでこっそりとやっているオナニーと、同じやり方かい?」
「ええ、そうです……。ああっ、恥ずかしい」
「鏡を見るんだ。太ももにまで、うるみが流れ出しているじゃないか」
「どうしたらいいんですか……。恥ずかしくて、わたし、何をしていいのかわかりません」
顔を真っ赤に染めながら、先生が粘っこい視線を鏡に遣《や》った。
自分の指の動きを見つめている。惚《ほう》けたような表情だ。無防備な姿を晒している先生が愛《いと》おしい。
初めて見る自分の淫らな姿が、きっと刺激となっているのだろう。息遣いが荒くなっている。時折、息を止めては深々と吐き出す。華奢《きやしや》な肩が震え、豊かな乳房が大きく上下に揺れる。尖った乳首が、せり上がった乳輪の中央で小刻みに左右に波打っている。
仲本は腰を突き出した。
彼女のくちびるの前に、膨脹している陰茎をかざした。くわえなさい、というつもりでそうしたのを、彼女は察したようだ。
口紅の剥《は》げたくちびるが開く。視線を自分の指と陰茎に交互に向けている。唾液《だえき》を呑《の》み込む。喉元が上下するたびに、乳房が連動して揺れている。
先生がくちびるを大きく開いた。そして、自ら求めるように、前のめりになって陰茎をくわえ込んだ。
目を閉じた。
仲本はすかさず、先生に声をかけた。
「先生。自分の初めてのあられもない姿を見るんです。目をつぶっちゃうなんて、もったいない。忘れられなくなるまで、しっかりと見るんです」
「わたし、もうだめ。見られない……。意地悪、言わないで」
先生は陰茎をくわえながらくぐもった声で応《こた》えた。そう言いながら、鏡を介して自分の口元をしっかりと見つめていた。
人さし指と中指で割れ目の端の敏感な芽を撫《な》でているのが、仲本の目線からもはっきりと見える。
うるみにまみれた二本の指や爪が艶《つや》やかに輝いている。先生の高ぶりが強まるにつれて、陰毛の茂みがしんなりしてきている。乳房全体が鮮やかな朱色に染まり、硬く尖った乳首が充血しているのもわかる。
恥じらいをかなぐり捨てた女の姿だと思った。男性経験が少ないとは思えないくらいの大胆さだ。きっと、タブーの領域に踏み込んだという覚悟の表れなのだ。
仲本は右手を伸ばして、先生の頬に指先をあてがった。指の腹を押し込んでみる。頬の薄い肉を通して、自分の陰茎の先端を確かに感じる。
もう一度、頬に指先を押し込んだ。
自分の指が一瞬、細い陰茎に見えた。太い陰茎を先生の口に挿し、別の陰茎を頬に当てていると錯覚しそうだった。
先生が深々と陰茎をくわえ込んだ。くちびるがめくれ、唾液が口の端からこぼれて顎につたっていく。それを直に見た後、鏡を介しても眺める。まったく違った角度で見えるから、興奮が強まるのだ。
仲本は右手を少しずらして、先生のめくれたくちびるに触れた。そして口の中に指を入れた。
先ほどの一瞬の錯覚が蘇《よみがえ》り、ゾクゾクした。先生の口に、太い陰茎と細い陰茎を無理矢理挿している気になったのだ。
熱くて粘っこい唾液に指が濡れる。太い陰茎の芯《しん》に脈動が駆け上がる。口の中で大きく跳ね、それを舌のつけ根が押さえ込む。
「わたし、もうダメ……。欲しいんです。もう我慢できません」
陰茎を口から外した先生が呻《うめ》いた。短く咳《せき》込んだ後、顔を上げて物欲しそうな表情をした。瞳《ひとみ》の奥には淫《みだ》らな光が宿っているのが見て取れた。
「ベッドに連れていってください。ねっ、いいでしょ? わたしだって、ロマンチックな心を持っているんですから」
「鏡の前ではいや?」
「どうしても、と仲本さんが言うなら仕方ありませんけど……。ううん、やっぱりわたし、初めてつながる時はベッドがいい」
先生はカーペット敷きの床に両膝をついていたが、ゆっくりと立ち上がった。
鏡の前でなければいけない理由はなかった。仲本は手を差し伸べると、先生を抱えるようにして立ち上がらせた。
ダブルベッドの端に腰を下ろした。閉じ気味の太ももの間から陰茎が屹立《きつりつ》している。わずかに遅れて、滝川先生が恥ずかしそうに寄り添って坐《すわ》った。
ふたりとも全裸だ。いや、それは正確ではない。仲本は全裸だが、先生はガーターベルトとストッキングを着けている。
先生の華奢な肩を抱き寄せた。洗面台の鏡の前や、ふたりの全身が映るクローゼットの全面鏡貼りの前で抱いている時のほうが刺激が強いけれど、ベッドに坐って抱くと、安心感のようなものがあった。
乳房をてのひらで包み込むようにしてあてがった。
ゆっくりと揉《も》み上げる。親指と人さし指で硬く尖った乳首の幹を圧迫する。ごく普通の愛撫《あいぶ》ではあるけれど、先生の火照《ほて》りが強まっていくのを感じる。
「ああっ、素敵。やっと仲本さんに抱かれているっていう気がしてきました」
「今までは、そんなふうに思わなかったのかい?」
「だって、あまりにも刺激が強いことばかりで、無我夢中でしたから」
「どっちが好きかな」
「今はこうしてやさしく抱かれるのがいい。でも、さっきみたいに鏡の前で荒々しくされるのも好き……」
「なんだ。どっちも好きっていうことじゃないか。貪欲《どんよく》なんだな」
仲本は意識的に呆《あき》れたような声をあげて、先生の羞恥心《しゆうちしん》を煽《あお》った。
先生のきれいな顔を見ていると、セックスなんか絶対にしません、といった清楚《せいそ》な雰囲気が漂っている。だからこそ、荒々しくして征服欲を満足させたいと思ったりもするのだ。
先生をベッドに倒した。
豊かな乳房は仰向けになっても扁平《へんぺい》にならない。わずかに崩れるけれど、お椀《わん》の形を保っていた。
男性経験の少ない二十八歳の乳房には、張りと弾力があった。揉み甲斐《がい》もあるし、乳房に触れている指先は気持いい。やわらかいだけではない。乳房の奥にはしっかりと肉の塊のようなものが存在していた。
乳房をゆっくりと揉み上げ、くちびるを重ねた。もう一方の乳房を胸板で押し潰《つぶ》すようにして刺激を加えた。仲本はそれらをつづけながら、先生の足の間に太ももを差し入れ、割れ目を圧迫した。さらに、勃起《ぼつき》したままの陰茎をウエストのあたりに押しつけた。
「ううっ、すごく気持がいい……。わたし、とろけちゃいそうです。わたしばっかり気持よくならせてもらって、仲本さんに申し訳ないと思っています」
「そんなことないよ。指先でも、胸板でも、気持よさを味わっているから」
「ほんとに? わたし、男の人っていく時だけ気持よくなるのかと思っていました」
愛撫に身をまかせていた先生は、ためらいがちに陰茎に触れてきた。
「誕生日に、男の人のものに触るのって、わたし、初めてだと思います」
剥《む》き出しの陰茎におずおずと触れながら、滝川先生が囁《ささや》いた。
指の動きがぎこちない。洗面所でも鏡貼りのクローゼットの前でも陰茎をくわえ込んでいたのに、触るとなるとためらうものなのかと不思議な気がした。しかし仲本にはそれが、彼女の男性経験の少なさの証《あかし》に思えてならなかった。
陰茎をしごいてもらいながら、彼女の割れ目に指をあてがった。
敏感な芽はすでに厚い肉襞《にくひだ》から突出して、うるみにまみれていた。
「ははっ、そういう巡り合わせなんだな……。ぼくにも似たようなことがあってね、それはバレンタインデーの時なんだ」
「つきあっている女性がいなくても、チョコレートはもらえるでしょ?」
「義理チョコだとわかっていて、心の底から喜ぶ男はいないよ。高校生の頃からずっとそうした不幸な巡り合わせだったな」
「チョコレート程度のことでムキになるなんて、仲本さん、可愛いっ」
先生は微笑みながら呟《つぶや》いた。だが、次の瞬間には腰をよじらせ、呻《うめ》き声を洩《も》らした。
割れ目の奥に挿し込んだ指の動きに、鋭く反応したのだ。これだけの高ぶりを表す女性に、男性経験の少なさはもう感じられない。
陰毛の茂みは湿ってしんなりとしている。指に絡みつく。先生が腰をよじるたびに、ストッキングを留めているガーターベルトのストラップが緩んだり張りつめたりする。
彼女の足の間に入った。
ダブルベッドの上で這《は》いつくばるようにして、割れ目と向かい合った。
甘く生々しい匂いが鼻をつく。頭の芯《しん》が痺《しび》れる。深く吸い込むと、躯《からだ》のすみずみまで染み渡っていくような気がする。
仲本は顔を寄せ、くちびるをつけた。
めくれた厚い肉襞から、うるみが滲《にじ》み出てきた。甘い味だ。いつまでも口に含んでいたいと思うくらいの深い味わいがある。
敏感な芽の膨らみや硬さを、くちびると舌で敏感に察する。円錐《えんすい》形のそれは、舐《な》めたり突っついたりするたびに肥大していく。しかもそれを守っている肉襞がうねったり、震えたりを繰り返すのだ。
割れ目の奥まで舌を挿し入れた。うるみが口の中に流れ込み、肉襞が口の周りにへばりついてきた。
「ああっ、すごく気持がいい……」
「素敵な誕生日になりましたね、先生。これはタブーの世界に踏み込んだからこそですよ」
仲本は口の周りのうるみを舌で拭《ぬぐ》いながら囁いた。すると、その言葉に反応するように肉襞が痙攣《けいれん》を起こした。それに引き寄せられ、もう一度、割れ目にくちびるを寄せた。
割れ目全体が収縮する。くちびるを覆うように、めくれていた厚い肉襞が元に戻りながらうねる。甘さの濃い生々しいうるみが溢《あふ》れ出てきて、口の中に流れ込む。くちびるを動かすたびにクチャクチャという粘っこい音があがり、そこに先生の呻き声が混じる。
太もものつけ根に舌を這《は》わせた。舌先を膝《ひざ》のほうに滑らせた後、軽く噛《か》んだ。
「ううっ、ダメッ」
先生が部屋に響き渡る喘《あえ》ぎ声を放った。
仰向けになったまま背中を反らせた。荒い息を止め、全身を硬直させた。
交わりの途中で噛まれたことが意外だったのか、それが先生の性感を刺激したのか、仲本にはどちらなのかわからなかった。しかしいずれにしろ、先生にとって、噛まれるというのは強い刺激になったようだ。
乳房と割れ目への愛撫、そして羞恥心を煽ることに加え、噛むことも先生の高ぶりを煽ることにつながるのだとわかった。
仲本はもう一度、太ももの内側のやわらかい肉を軽く噛んだ。
「ああっ、すごい。だめっ、わたし、おかしくなっちゃいそう……」
やはり先生は鋭く反応した。腰を揺らしながら呻き声をあげた。息遣いが荒くなった。噛んだところの火照りがいっきに強まった。
歯形がうっすらとついている。唾液に濡れたそれが間接照明を浴びて、妖《あや》しく輝いている。歯形のあたりの赤みが濃くなっているのは、照明のせいではなくて内出血しているからだ。
仲本はもう一度、割れ目にくちびるをつけた。
うるみとともに肉襞を吸い込んだ。
口の中が厚い肉襞で満たされた。舌先でそれを突っついたり弾《はじ》いたりを繰り返した。その後、口の中の肉襞を軽く噛んでみた。
「ああっ、怖い……。千切れちゃう。だめっ、ああっ、だめよ」
肉襞の中でも厚いはずなのに、噛んでみると頼りないくらいに薄かった。ほんの少しの力で、本当に千切れそうだった。くちびるを引き締めて肉襞を引っ張ってみると、うるみが噴き出すようにして滲んだ。
「怖いだけ? 気持はよくないのかい?」
「よくわからない……。女にとっていちばん大切なところを目茶苦茶にされているみたいで、怖いの。でもいやではないのよ」
「気持いい?」
「ああっ、わからない」
彼女がまた背中をのけ反らせながら呻いた。
痛みが気持よさにつながっているのだろうか。それとも、初めて味わう感覚にどういった反応をしていいのか戸惑っているのかもしれない。
仲本はもう一度、肉襞を軽く噛んだ。
「ああっ、だめ。だめよ、そんなことしちゃ」
滝川先生が甲高い声を放った。その瞬間、割れ目全体の火照りが強まった。それだけでなく、太ももの内側のやわらかい肉がひくつき、下腹部全体が引き締まった。
彼女はしかし、いやがってはいなかった。腰を上下させながら押しつけてきたのだ。彼女の圧力を、仲本は口の周りをうるみで濡らして受け止めた。
「わたし、腰が抜けちゃいそう……」
仰向けになっている先生が切れ切れに囁いた。瞼《まぶた》を閉じたままだったけれど、それでも甘えた表情だということが見て取れた。
「愛撫《あいぶ》って、こんなにも気持がいいものだったんですね。わたし、初めてです、無心のままで愛撫に浸ったことって……」
「今までは、どんなふうに受け入れていたのかな」
「躯は気持いいって感じるんですけど、心では気持悪いなあって思っていたんです。だから、早く終わってほしいって思ってばかりいました」
「どうして? 先生のことだから、好きでもない男とセックスするはずがないよね。それなのになぜ、気持悪いだなんて思っちゃうのかな」
「恥ずかしいですけど、わたし、指ならいいんです。舌とかくちびるとかがダメだったんです」
「粘膜の触れ合いが、いやってことかい? それなら、挿入も気持悪いって思っていたのかな」
「避妊具をつけてもらっていたおかげで、さほど抵抗は感じなかったんです」
仲本はうなずいた。
女性というのは千差万別だ。
直に触れ合わないと気が済まない女性もいれば、先生のように直接的な触れ合いに嫌悪を感じる女性もいるということなのだ。どちらがいいとか悪いといったことではない。個々の女性の感覚なのだから、それぞれを尊重すべきだ。
「先生がこれまで、男性とあまりつきあってこなかったのは、そうした理由があったからなんですね」
「でも、仲本さんと出会ったことで、わたし、変われるかもしれないと思ったんです。だって、気持悪いなんてちっとも感じなかったから……」
先生の頬を染めている赤みが増し、瞳《ひとみ》を覆う潤みが厚くなりながら波立った。
太ももをおずおずと開いていく。めくれ返った肉襞がうねっている。流れ出したうるみが、太ももを伝った後、シーツに染みをつくっていく。
「仲本さん、わたしの中に入ってきてください」
彼女の足の間に入っていた仲本は上体を起こした。
ベッドの上で膝立ちして、仰向けになっている滝川先生を見つめた。
男を迎え入れる時の女性はたいがい、悦《よろこ》びと期待に満ちた表情をしているものだけれど、先生の表情はそれよりも緊張感のほうが勝っているようだった。
豊かな乳房は弾力があるために、こんもりとしたお椀の形を保っている。さすがに乳房の下辺は盛り上がりは消えているけれど、それでも美しい乳房の曲線に変わりはない。
荒い息をするたびに、尖った乳首が震える。くすんだ肌色の赤みが濃くなっている。迫《せ》り上がった乳輪はつやつやしていて、凹凸がほとんど消えている。
きれいな躯《からだ》だ。
仲本は満足感を噛み締めながら、口の底に溜《た》まった唾液《だえき》を呑《の》み込んだ。その拍子に、斜め六十度程の角度で屹立《きつりつ》している陰茎が垂直になるくらいまで跳ねた。
先生を覆うように上体を重ねた。その瞬間、先生の表情がやわらいだ。
包み込むようなやわらかみが感じられる女体だ。それは乳房の豊かさだけによるものではない。くびれたウエストや太ももの内側のやわらかい肉にも触れているからだ。いや、そういうことより、瞼を時折開いた時に見せる、先生の慈しみに満ちた眼差《まなざ》しを感じるからだろう。
腰を操りながら、陰茎を割れ目にあてがう。しかし、すんなりとはできない。女性によってその位置が違っているせいなのだ。こればかりは、いくら経験を積んでも、事前に割れ目を舌やくちびるで愛撫して位置を確かめていたとしても、初めての挿入の時は戸惑ってしまう。
二、三度試してみたが、先端の笠が肉襞《にくひだ》を掠《かす》めただけでうまくいかなかった。仕方なく、仲本は陰茎のつけ根を自分で摘んだ。
笠をあてがった。
「ああっ、すごく熱い。わたし、おかしくなっちゃいそう……」
「そうです、おかしくなっていいんですよ。没頭することで、ぼくたちはひとつになれるんです」
「焦《じ》らさないで。ねえ、お願い。わたしの中に入ってきてください」
両手を広げてシーツを掴《つか》んでいた先生が、いきなり腕を上げて、抱きついてきた。そして伸ばしていた膝を曲げ、両足を上げた。
腰に絡みついてきた。胴締めをするようにして、先生は自分のほうに引き寄せた。挿入をうながすやり方としては少し強引かと思ったけれど、男性経験が少ないからだと察した。
「さあ、仲本さん。お願い、奥まで入ってきて」
先生が上体を密着させながら、うわずった声をあげた。
あてがっている笠に、厚い肉襞がうねりながらへばりついてくる。割れ目の奥に引き込もうとしているのを感じる。胴締めするように腰に回してきている滝川先生の両足が、何度も締めつけてくる。
先生は全身で挿入を求めている。割れ目も厚い肉襞も陰茎をほしがっているのを確かに感じる。
「先生、これからふたりでタブーの世界に向かうんだよ。いいね……」
「わかっています。だから、早く、きて」
「やっと、先生とつながって愉悦を味わえるんだ。すごくうれしいよ。ぼくたちは、タブーの領域に踏み込んだんだ」
「ああっ、焦らさないでください……」
焦らすつもりではなかった。初めての交わりの時だからこそ念を押したかった。そうすることによって、恥じらいやためらいをかなぐり捨てられると思ったのだ。
仲本はゆっくりと腰を突き入れていった。
割れ目は窮屈で、肉がぴたりと重なっているようだった。うるみが溢《あふ》れているのに、陰茎はすんなりと入っていかない。無理矢理こじ入れているような錯覚にとらわれた。
意外ではなかった。
男性経験が少ないと聞かされていたから、つながるのに手間取るかもしれないと思っていたのだ。
仲本は陰茎の先端を挿し入れたところで腰の動きを止めた。先生の表情をうかがいながら囁《ささや》いた。
「大丈夫ですか? 先生、我慢しないで。痛かったら言ってください」
「やさしいんですね、仲本さんって……。よかった。無理矢理入ってくるかと思っていたんです」
「痛かった?」
「ええ、ちょっと……。少しずつ入ってきてくれたら、大丈夫だと思います」
先生は恥ずかしそうに頬を赤く染めると、視線を逸《そ》らしながら瞼を閉じた。深呼吸をひとつした。そして足を下ろし、ゆったりとした体勢になった。
「わたし、すごく緊張していたみたいです。足がつりそうになっていることにも気づきませんでした」
「ぼくに任せて。躯の力を抜いて、ゆったりとした気持でいてください」
仲本は意識的に穏やかな微笑を湛《たた》えた。
男性経験が長い期間途絶えた後の交わりというのはきっと、怖いのかもしれない。そうだとしたら、男にはわからない女性の心理だ。こういう時に無理強いするのはよくない。わからないからこそ、やさしくすべきなのだ。
仲本はもう一度、ゆっくりと腰を突いた。
緊張を解いたからか、先ほどよりもすんなりと陰茎は入っていった。割れ目は男にとってほどよい窮屈さに変わっていた。
快感が躯を弛緩《しかん》させるのかもしれない。先生は最初、ほんの少し挿しただけでも痛がっていたのに、今は快感のほうが勝っているようだ。いや、痛みなどまったく感じていないのかもしれない。
挿したり抜いたりするたびに、躯が悦びの反応をしている。最初はぎこちなかったけれど、いつの間にか、自然になっていた。
仲本は陰茎を挿し込みながら、腰を左右に振った。
「ああっ、すごく、気持がいい。どこかに飛んでいっちゃいそう……」
先生が瞼を閉じたまま、喘ぎ声をあげた。そして腰を激しく上下に動かして応《こた》えてきた。
ベッドが波打ち、ふたりの躯が大きく揺れる。快感の波に漂っているという気分が強まり、さらに深い愉悦に向かっていくような気になる。
割れ目が収縮し、笠を圧迫してくる。厚い肉襞が引き締まり、幹をきつく締めつける。それだけでなく、割れ目の奥のほうの細かい襞が、笠と幹をつないでいる敏感な筋を、撫でたりもする。気持よさが全身に拡がっていく。
今まで味わったことのないようないくつもの鋭い快感が、陰茎のいたるところから生まれている。快感のひとつひとつの種類が微妙に違っていて、それらが次々、腹の底に響いてくるのだ。
意識的に割れ目や肉襞を操ることは難しい。ということは、無意識のうちに陰茎を刺激することができる女体なのかもしれない。
陰茎を挿し込むたびに、快感が波のように全身に拡がる。手足の指の先まで、気持よさに染まっていくようだ。
「仲本さんを、すごく近くに感じるの。ううっ、こんなこと、初めてです」
「躯だけでなくて、心もひとつになっているからです。ふたりがつくりあげた快感に、心が浸っているからですよ」
「躯の快感って、心にまで通じているものだったんですね。知らなかった……」
「ぼくだってよく知りませんでした。ふたりで気づいたんです」
「本当によかった、思いきって飛び越えて」
「タブーの世界に入るという勇気が、快感を引き出しているんです。先生は飛び越える時に、自分を晒《さら》す覚悟をしたからです」
「仲本さんは、何でもわかっているんですね」
「そうじゃない。先生によって、教えられている部分も多いんですよ」
仲本は正直に言った。男性経験の少ない先生の初々しい反応から学ぶことがたくさんあったのだ。
絶頂は近い。
白い樹液がふぐりの奥に溜《た》まりはじめているのを感じる。それを堰《せ》き止めている堤防は、今すぐにも崩れそうだ。
汗が噴き出す。腰を動かすたびに、滝川先生と重ねた肌からクチャクチャという粘っこい音があがる。割れ目の厚い肉襞が、陰茎のつけ根を締めつけてくる。その圧力を感じながら挿したり退いたりすると、濁った音が響いてくる。
先生が腰を上下に激しく動かしはじめた。腰を上げた時はとりわけ、割れ目の奥の肉襞が肉の塊となって陰茎全体を圧迫してくるようだった。
「ううっ、ううっ……。ああっ、すごく、いい」
先生が喉《のど》の奥で呻《うめ》くような濁った音をあげた。その音が消えた瞬間、大きな喘《あえ》ぎ声がくちびるの端から洩《も》れてきた。
乳房の弾力が強まる。尖《とが》った乳輪と乳首の硬さが増し、荒い息遣いとともに胸板を突っついてくる。
先生が膝を伸ばした。
太ももの内側のやわらかい肉が、緊張と弛緩を繰り返す。その間隔が、高ぶりの強まりとともに短くなっていく。緊張した時は、割れ目にも伝わり、厚い肉襞が収縮する。それが荒い息遣いと重なると、収縮の度合いがさらに強まるのだ。
仲本は絶頂の兆しをはっきりと感じていた。
腹筋に力を入れているだけでは、白い樹液の堰き止めている堤防を守れなくなりそうだった。くちびるをきつく閉じたり、舌先を軽く噛《か》んだりした。痛みを感じることで、絶頂を抑えていたのだ。
「先生……。もうすぐ、いきそうです」
「ああっ、怖い……。躯が宙に浮いているの。こんなこと、初めて」
「先生はいつもそうやっていくんですね」
「わからない。わたし、まだ、いくっていうことがわからないから」
「そうなんですか?」
「経験が少ないって言ったはずです。だから、わからないんです」
「だったら、きっとそれが先生のいき方なんですよ。そのまま怖がらずに、宙に浮かんで漂うのを味わうことです。きっと、宇宙の果てまで躯が昇っていくはずですから」
「仲本さんには、わかるんですね。ああっ、また少し浮いたわ。どうしよう、怖いわ、わたし」
先生は両手を広げてシーツを握りしめた。膝を伸ばして太ももを硬直させた。荒い息遣いが、時折止まるようになった。厚い肉襞がひくつき、幹にへばりつきながらうねった。うるみが隙間から流れ出て、ふたりの太ももが濡《ぬ》れた。
絶頂は近い。
先生の熱い肌との密着度を強めた。頬をくっつけると両手をつないだ。胸とみぞおちを下腹、そして太ももまでも重ねた。
先生の存在を今まで以上に強く感じた。先生の躯から滲《にじ》み出てくる愛情と、自分の心が溶け合って、ひとつになったようだった。
もうすぐだ。
仲本は腰を突いた。
鋭い快感が、陰茎の先端からも幹の中程からも生まれた。ふぐりが縮こまり、その奥のふたつの肉塊がカッと熱くなった。
我慢の限界だ。
仲本は引き締めていたくちびるを緩め、舌先から歯先を離した。
陰茎から生まれている快感が、口の中まで雪崩れ込んでくるようだった。舌先の痛みが薄らぐうちに、唯一、口の中に残していた理性も愉悦に染まった。
腰を突く。左右によじりながら、陰茎の先端で割れ目の奥に押し込む。先生に快感を与えることより、自分の絶頂の兆しを確かなものにしているようだ。陰茎だけでなく、ふぐりや下腹、そして太ももまで、熱いうるみにまみれる。
「いきそうです、先生。一緒に、いくんです」
「はい、仲本さん。ああっ、浮いているの。宇宙にまで昇っていきそう……。怖いけど、気持がいい」
「ぼくも、もうすぐだ。先生は勝手にひとりでいっちゃだめですよ。いく時は必ず、ぼくに言って」
「もうすぐ。ああっ、もうそこまで。すごい波。浮いている躯が、どこかに持っていかれそう……」
先生が上体をのけ反らせながら、全身を緊張させた。くちびるを噛み締めながらも、うっとりとした表情になっていた。
「ああっ、すごい……。こんなの、初めて。どこかに、わたし、いっちゃう」
先生が息を詰めた。仲本も同時に、呼吸を止めた。
部屋の空調音も、かすかに聞こえていた車の排気音も消えた。音という音がまったくなくなった。静寂というより、真空の宇宙に漂っているような感覚に浸った。
仲本は息を吐いた。
それがきっかけだった。
空調音や車の排気音、そして先生の荒い息遣いまで耳に入ってきた。
先生の全身が痙攣を起こしたように震え、苦悶《くもん》しているような表情を浮かべる。割れ目の奥が収縮し、厚い肉襞も引き締まる。
昇っている…。
仲本はそれを見て取った瞬間、白い樹液を堰き止めている堤防がいっきに崩れていくのを感じた。
「ぼくも、いくぞっ」
瞼を閉じたまま、切れ切れに声をあげた。白い樹液が噴き上がっていく。快感が全身を巡る。先生の震えと自分の痙攣がひとつになって、大きな波となる。
「すごい、すごいわ。ああっ、セックスってこんなに気持がよかったのね」
「タブーの世界にふたりで踏み込んだからだよ」
「あなたが身近に感じられます。あなたの心まで感じています」
「ぼくもだよ、友理子。素敵な誕生日になったね」
仲本はやさしく囁くと、先生に体重をかけた。愉悦の次に襲ってくる気だるさを感じながら、充実感に浸った。
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第八章 タブーの果て
日曜日の午後だ。
仲本は今、自宅マンションのリビングルームのソファに坐《すわ》っている。
小学五年生の息子は近所に遊びにいっているために、部屋は静かなものだ。妻は今しがた取り込んだ洗濯物を畳んでいる。
タブーの世界に踏み込んだからだろうか、見慣れた光景を眺めているのに違ったように感じられる。
妻を成熟したひとりの女として見られるようになったことが、違いのひとつだろう。空気のような存在だった妻を女と意識するようになったのは、うれしいことだった。しかし、それ以上に、生きている充実感を感じるようになったことが、仲本にとっては大きな収穫だった。だからこそ、見慣れた日常生活の光景を、ゆとりをもって眺められるのだと思う。
今までは違った。正確には、吐血して生死の境をさまよった後の、自宅で療養している頃は、自分でよくわからない焦りを感じていて、何もかもが不満だった。
それは結局、死が近くにあるのを感じているのに、自分の人生がちっとも充実していないと痛切に思ったからだ。だから、たとえば妻が洗濯物を畳んでいるという生活の中のごくありふれたことを目の当たりにすると、自分の充実とはほど遠いと感じたりしたのだ。
今はしかし、妻の姿を微笑ましい気持で眺めていられる。
会話をしていないからといって疎外感を抱くこともない。饒舌《じようぜつ》な妻に話しかけられても、素直に耳を傾けられる。
「洗濯物を片づけたら、ぼくの横に坐ってほしいんだけどな」
仲本は穏やかな声を投げた。妻は顔をあげ、笑みを湛《たた》えながら小首を傾げた。
「最近のあなたって、変じゃない?」
「変って、どういうことだい? まさか、妙な勘繰りをしているんじゃないだろうな」
「その可能性はないでしょう。モテるはずがないでしょ? 結婚して子どももいる中年男なんて」
「ははっ、そういうことになるかな。自由になる金がふんだんにあれば、モテる可能性もあるけどね」
「ちょっと待っていてください。洗濯物、片づけちゃいますから」
妻は畳んだ洗濯物を持ってリビングを出て洗面所に向かった。
日曜日ののんびりとした空気に包まれた。仲本は伸びをひとつした。それから、これも充実のひとつかな、と呟《つぶや》いた。
妻が戻ってきた。照れたような微笑をわずかに浮かべながら、ソファに腰を下ろした。
「昼間に、変なことしないでくださいね」
妻がためらいがちに囁《ささや》いた。しかし、言葉とは裏腹に、誘っているような雰囲気が漂っていた。
仲本は背もたれに上体をあずけながら、ソファから落ちそうになるくらいまでお尻《しり》をずらした。並んで坐っていた妻が、躯《からだ》をすかさず寄せてきた。
妻にしては大胆だった。
気紛れとは思えない。何かがあったのだろうか?
なにしろ、夜の営みの時くらいしか、妻のほうから積極的に触れてくることはなかった。部屋着のワンピースの裾《すそ》がずり上がり、陽に焼けていない白い肌があらわになっても、妻は裾を直そうとはしなかった。
「ねえ、あなた……。久しぶりにふたりきりになったからって、変なことしないでくださいね」
妻は自分のほうから躯を密着させてきているのに、不快そうな言葉を口にした。もちろん、それが口先だけのことだとわかる。非難めいた響きなどはまったくなくて、甘えているような口調だった。
恥ずかしいのだろう。
何年結婚生活をつづけているのかと思ったが、昼日中に求め合うといった大胆なことに慣れていないのだから仕方がない。仲本は妻のぎこちない大胆さを微笑ましい思いで受け止めた。
これまでならば、自分の欲望を隠そうとしながら求めてくる妻に不満を感じただろう。それがずっと尾をひいて、肌の触れ合いに没頭できなかったはずだ。
しかし、仲本は自分の意識が変わったことに気づいていた。
ゆとりを持って、妻と接していられた。
妻をやさしく抱いた。仲本はソファから落ちそうになるのを気にしながら、腕に力を込めた。
「たまには、昼間に変なことをしてみたいな。誰に咎《とが》められるわけでもないんだからね」
「わたしが咎めているんだから、だめよ」
「ぼくはしてみたいんだ。盛り上がっている気持を無視してほしくないな。それに、悪いことをしようって言っているわけじゃないんだから」
仲本は右手を伸ばして、妻の乳房にてのひらをあてがった。強引すぎるかなと思ったけれど、妻に恥じらいを忘れさせるためだったから、揉《も》み上げる手を緩めなかった。
実は、こんなチャンスを狙っていたのだ。
タブーの領域で味わっている充実感を、日常生活に取り込んでみたかった。
タブーの空間に漂うことも日常生活もすべて自分の人生だ。そのふたつを充実させたいと願うようになっていた。ごく自然な欲求だった。
自分は狡《ずる》いのか?
仲本はチラと思った。
だがすぐに、違うと思い直した。
妻に内緒でタブーの世界に立ち入ったのは、残り少ない自分の人生を充実させるためなのだ。悔いを残したまま終わりたくはなかった。それは、生死の境をさまよったからこそ得られた結論だった。
妻を裏切っているつもりはない。妻を抱いている時は妻だけのことを考えている。タブーの領域に踏み込む前よりもずっと、妻を愛《いと》おしいという気持が強まっていた。もしも非難する人がいたら、その人に向かって訊《き》いてみたい。「結婚しているのだからタブーを冒すのはおかしい、と非難するなら止めてもいい。その代わりに、あなたがぼくに充実感を与えてくれるのか」と……。
きっと何も言えないはずだ。そんな約束などできるわけがない。
妻はソファからずり落ちそうになりながら、粘っこい視線を絡めてきた。
「あなたったら、うわの空なのね。せっかく気分が盛り上がっているのに……」
「そんなことないよ。だから、ほら、こんなになっているんじゃないか」
仲本は見透かされていると思った。ヒヤリとしたけれど、表情を変えずに妻の手首を掴《つか》んで、勃起《ぼつき》している陰茎に運んだ。
仲本は妻のぎこちない誘いに興奮していた。陰茎はすでにパンツの中で硬く尖《とが》っていて、ウエストのゴムの下から、先端の笠《かさ》が這《は》い出てきている。妻の細い指に軽く圧迫されているだけなのに、鋭い快感となって全身を巡った。
「まさか、このソファで何かしようとしているんじゃないでしょうね」
妻がねっとりとした口調で囁いた。訊いているというより、そうしたいと訴えているようだった。
まどろっこしい誘い方だったけれど、苛《いら》つかなかった。今までならば間違いなく、セックスしたいと口にしない狡い女だと思っただろう。
仲本はゆとりと余裕を失っていなかった。これもきっと、タブーの世界を密《ひそ》かに持っているという自信の表れだ。
ワンピースの裾がずり上がっている。
仲本は手を伸ばすと、日に焼けていない白い太ももに触れた。湿っているのではないかと思えるくらい、白い肌が指に吸いついてきた。そのまま、太もものつけ根まで指先を這わせた。
妻は拒まなかった。
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せていやがっている表情を浮かべながらも、自ら、足を開いた。
「あなた、康一が帰ってきたら困るから、ベッドに行って。お願い……」
妻は指を求めるように腰を上下に動かした。
「ベッドでゆっくりとしてほしいんです……」
妻はもう一度、同じ言葉を囁いた。腰の動きを止めていなかった。敏感な芽への愛撫《あいぶ》をねだっているのがわかり、仲本は微笑を浮かべながらうなずいた。
「ベッドルームに入ってしまうと、康一が帰ってきても気づかないんじゃないか? 大丈夫かな」
「あの子、鍵《かぎ》を持たずに遊びに出ましたから、チャイムを鳴らしますよ」
「それなら安心だ」
仲本は微笑を湛えたまま、ソファから腰を浮かしかけた。が、すぐにまた、坐り直した。
躯に異変を感じた。
胸の奥のほうがムカムカした。
体中が火照《ほて》るような感覚とともに、呼吸が苦しくなった。
仲本の脳裡《のうり》に、吐血した時の忌まわしい記憶が蘇《よみがえ》ってきた。
あの時と同じ症状に思えた。
単なる胸焼けとは違う。食事中や食事のすぐ後ならわかるけれど、昼食を食べてからもう二時間近く経っている。胸焼けなどするはずがない。
血の気が退いていく。目の前が薄暗くなってきた。妻に触れているのに、指先にはその感覚がほとんどなくなっている。
「あなた、大丈夫? 顔が真っ青よ」
妻も異変を感じたようだった。すぐ横で声をかけてくれているはずなのに、仲本には妻が遠くで囁いているように聞こえた。
「どうしたのかな。急に変になっちゃった……。胸のあたりがおかしいんだ」
「救急車を呼びましょうか。普通じゃないわ、あなた……。マンションの人たちに見物されたってかまわないでしょ?」
「ちょっと横になっていれば、良くなるような気もするけどな」
「食あたりかしら。でも、わたしも同じものを食べているから……」
「そうだね、たぶん違うだろうな」
仲本は力なく応《こた》えた。胸に手を当てた。鼓動を感じようと思ったけれど、吐き気のほうが勝っていた。
妻のひきつった顔が、灰色に染まった視界にうっすらと浮かんでいる。心配ないよと声をかけたくても、その気力が湧かない。トイレにいって吐いてしまいたいけれど、歩いていくだけの力もない。
おれはいったい、どうしちゃったんだ?
目が回る。吐き気も強まっている。しかも胸のムカムカだけでなく、錐《きり》で刺されているような鋭い痛みも加わりはじめた。
「久美、トイレまで連れていってくれないか」
仲本は胸に手を当てながら言った。大声で叫んだはずなのに、消え入るような弱々しい声だった。
仲本は妻に担がれるようにしてトイレに入った。ドアを閉めようとしたが、心配している妻がそれを許してくれない。
床にへたり込んだ。胸の奥が熱くなっている。吐きそうだ。込み上げてくるものがあって、咄嗟《とつさ》に、便座に顔を向けた。
濁った音とともに、白い便器が鮮血で染まった。その時だけ、灰色に染まっていた視界が晴れた。
仲本は恐怖に包まれた。
死ぬのか?
生死をさまよった時のことが脳裡を掠《かす》めた。
全快したと思っていたのに、なぜなんだ。なぜ自分ばっかりがこんなことになるんだ。そんなことを考えていると、側頭部から後頭部にかけてズキズキと痛みはじめた。
鮮血の混じった唾《つば》を何度も吐き出した。
深呼吸をしたが、胸の奥のムカムカも吐き気もおさまらない。まずいことになったと思ったし、妻と子どもを残しては死ねないとも思った。
「わたし、やっぱり救急車を呼びます。あなた、待っていて」
妻がドアのそばから離れていく。床をペタペタと鳴らすスリッパの音が遠ざかる。そばにいてほしいと思ったけれど、声をかける気力がなかった。
仲本はうずくまったまま瞼《まぶた》を閉じた。荒い呼吸をしているはずなのに、笛の音のように細くなっていた。
死を目前にした時、過去の記憶が走馬灯のように現れては消えていくと言われているけれど、まったくそんなことはなかった。
タブーの世界に一緒に踏み込んだ女性の顔が浮かんでは消えた。
息子の担任の先生、上司の若い奥さん、同僚の不倫相手、部下の女性……。彼女たちの豊かな乳房や尖った乳首が生々しいまでにはっきりと瞼に浮かんだ。
自分の人生を後悔のないものにしたいためにタブーの領域に踏み込んだことが、間違いではなかったと思った。
意識が薄れていく。灰色に染まっている視界が暗くなっていく。トイレの中の景色が消えていく。
仲本は呻《うめ》き声をあげた。
後悔の念が胸に拡がり、無意識のうちに濁った声となってトイレに響いた。
後悔しないためにタブーを破ったのだが、後悔が膨らんでいた。
妻を裏切ったという罪の意識が芽生えたのではない。恐る恐るタブーの世界を漂っていたことに対する後悔だった。
まだ死にたくない。
薄れていく意識の中で痛切に思った。
タブーの領域の奥のほうにはまだ、今まで味わったことのない強烈な快感や愉悦があるはずだ。それを経験しないままでは、死にたくない……。
救急車のサイレンの音が聞こえてきた。仲本は瞼を開くと、気力を振り絞って助けを待った。
角川文庫『禁忌』平成18年7月25日初版発行
平成20年8月15日7版発行