ジュリエットと紅茶を
――ようこそ、呪殺屋本舗へ――
著者 神埜明美/挿絵 日鵺祭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)笹蟹《ささがに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)死の三|徴候《ちょうこう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ただ[#「ただ」に傍点]の廃工場
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目次
ジュリエットと紅茶を――ようこそ、呪殺屋本舗へ――
プロローグ
1 紅茶専門店『ティーコジー』……と?
2 一尺八寸《かまつか》家の悲劇
3 雨と少女と不思議な依頼
4 ターゲットを巡る冒険
5 理論系呪術・実践系呪術
6 康祐と留美の長い夜
7 深夜の来客たち
8 康祐、ビジネス論を語る
9 潜入・哀信セレモニー
10 バナナ埠頭《ふとう》の決戦
エピローグ
あとがき
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ジュリエットと紅茶を
――ようこそ、呪殺屋本舗へ――
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プロローグ
群青《ぐんじょう》の衣《ころも》に包まれ、小さな町は深い眠りに落ちていた。
東京《とうきょう》から特急で二時間あまり。強引に通勤圏に加えられたこの町では、早朝出勤する家主のために住民は早くに寝てしまう。人々は閉じこもり、夜は静寂《せいじゃく》に満たされる。
町の外れに、マンションがぽつんと一棟建っている。都会からの移住組目当てに建てられた御殿《ごてん》だったが、新築時の入居は半分にも満たなかった。施工中暴落した首都圏の地価に負けたのだ。くすんだ壁は人の足を遠のかせ、いつしか誰も住まなくなった。
無人のはずのマンションに、今夜、二人の客が訪れた。
一人は青年。黒いスーツに黒いネクタイ。無造作に立てた黒髪も含め、全《すべ》てが夜と同じ色。
もう一人は中年の男。なぜだかこちらは、パジャマ姿で裸足《はだし》だった。しかも両腕、両足ともロープで一まとめに縛《しば》られている。
二人は屋上の縁ギリギリに立っていたが、もちろんそれは仲良く夜景を眺める為ではない。
「待ってくれ! 何でオレが? どこだここは? そもそもお前は誰だ!?」
上半身を空中へ投げ出して、中年男は矢継《やつ》ぎ早に問いただす。彼としてはもちろん真《ま》っ直《す》ぐ立ちたいのだが、後ろからぐいぐい押してくる青年の腕が、それを許してはくれなかった。
顔面|蒼白《そうはく》の男に対し、青年は契約《けいやく》目前の営業マンのごとく笑みを絶やさない。
「あれ。さっき話したんだけどな、巣田《すだ》さん。ここは十階建てマンションの屋上で、あんたは人から恨《うら》みを買って、殺されるところなんですよって。あんたのインチキスカウト商法で、自殺しちゃった女の子いっぱいいるんだって?」
「だ、誰からそれを……?」
「知る必要ないと思うけどなー。どうせ今すぐ死んじゃうんだから」
青年は明るく告げると、笑顔のまま巣田を蹴《け》り落とした。
自分が落下していると気づいたのは、上を向いた瞳《ひとみ》が小さくなった青年を捉《とら》えたからだ。
「うあぁぁぁぁぁっ!!」
巣田はきつく目を閉じた。もう駄目だ、アスファルトの地面に叩《たた》きつけられる!
次の瞬間。柔らかな衝撃が全身を包んだ。耳に飛び込むベリベリという音。恐る恐る瞼《まぶた》を開くと、目の前を白い梱包材《こんぽうざい》が羽毛のように舞っていた。左右には堆《うずたか》く積まれたダンボール箱の城壁が。寝そべったまま見上げると、布の天井《てんじょう》が裂けて垂《た》れ下がっている。
「トラックの……幌《ほろ》?」
上半身をむっくり起こす。尻《しり》の下には潰《つぶ》れたダンボール。これがクッションになったのだ。
「た、助かった!」
左右へ身体《からだ》を捻《よじ》ると、意外にもパラリとロープが解《ほど》けた。こんな町のこんな時刻に、車が通ることは滅多《めった》にないだろう。自分にとっては嬉《うれ》しい誤算だ。とにかく助かったのだ。
トラックが赤信号で停《と》まった隙《すき》に、巣田は荷台を降りた。町中を目指し走り出す。小さな石が足裏に突き刺さるが、構わずに駆け続けた。交番、いや民家でもいい、誰か助けを!
暗色で構成された視界の中に、突如《とつじょ》、赤い服の少女が立ち塞《ふさ》がる。風になびくスカートとセミロングの黒髪。十代の幼い表情が、巣田の挙動を窺《うかが》っていた。
こんなところに、なぜ少女が? いぶかしがる巣田の前で、少女は目を細め小さく口を開く。
「死ななかったんですね」
可憐《かれん》な声が神経を逆撫《さかな》でする。青年の仲間か? 巣田は身構えると精一杯声を振り絞った。
「貴様ら、何なんだ! 殺し屋か!?」
「いいえ」
少女は頭を振ると、凜《りん》と声を響かせた。
「呪殺屋《じゅさつや》です」
少女の背後で、巨大な黒い影が持ち上がった。
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1 紅茶専門店『ティーコジー』……と?
東京《とうきょう》、六本木《ろっぽんぎ》。多くの人が憧《あこが》れる地にありながら、その場所は店舗物件としては最悪だった。
二本の幹線道路に挟まれた中州《なかす》のような細長い土地は、幅が狭く大きなビルは建てられない。しかも首都高速高架道路の真下にあって、一日中|陽《ひ》が当たらない。
それでも繁華街近くには、数軒の洒落《しゃれ》たお店が並び、横断歩道が対岸と中州を繋《つな》いでいる。
ところが。中州の奥に進むにつれ、土地の幅はどんどん狭くなっていく。両脇の幹線道路がその先で合流しているからだ。
物好きにも歩いてきた観光客も、ビルが減り、駐車場だらけになり、更には歩道がなくなると、一〇〇パーセント元来た方へと引き返してしまう。この時点で、横断歩道のある場所から軽く一キロは離れている。
駐車場のネットのさらに先、三角地の先端に小さなビルが建っていようとは――誰も思わない。
その四階建ての貸しビルは、主に倉庫として使用され、昼夜を問わず人がいなかった。
しかしその一階に。広さにして十二畳程度の小さな店舗が存在した。
レトロ趣味な硝子《ガラス》扉を押し開けると、洋館風の一室が広がる。天井《てんじょう》から下がる、硝子細工のシャンデリア。緋色《ひいろ》の絨毯《じゅうたん》の上には、曲線を生かした大テーブルと赤いベルベット張りの椅子《いす》四脚。有名ブランドのティーセットを陳列したキャビネット。どれもアールヌーボーを基調とした重厚なインテリアだ。
壁紙と、ダミーの窓に付けられたカーテンも落ち着いた色合いだが、そんな店内で一つだけ中華風な家具がある。
壁際にそびえる黒塗りの薬箪笥《くすりだんす》。天井に届くほどの高さのそれには、小さな引き出しが数えきれないほどついており、一つ一つに手書きのラベルが貼られていた。試しにラベルを読み上げると、誰もが知っている銘柄から、誰も知らないようなハーブティーまで、多種多様な紅茶の名前が書かれている。これらが、この店『TEA COSY(ティーコジー)』の商品だ。
平たく言えば、紅茶屋さんである。
今、この店舗には二人の人物がいた。
一人は少女。歳《とし》の頃は十代の真ん中あたり。椅子に腰掛け、ティーカップを傾けている。
少女の外見を何かにたとえるならば、『洋服を着た日本人形』が一番ぴったり当てはまる。肩の少し下で切り揃《そろ》えたストレートの黒髪。前髪は眉《まゆ》の位置で揃えてある。白い肌と黒目がちの大きな瞳《ひとみ》、身の丈は小柄で細身。着ている服は赤いツィード地のスカートスーツ。ジャケットの合わせはファスナーで、何かの文様らしき黒い刺繍《ししゅう》がさりげなく入っている。
テーブルの向かい側には青年が座っていた。
黒いズボンに黒いネクタイ。上着の代わりに店員の証《あかし》のエプロンを着けている。立てた黒髪は襟足《えりあし》だけが少し長い。すっきりした目鼻立ちに、健康的な肌の色。笑みの絶えない柔らかな表情は、誰に対しても好印象を与えるだろう。椅子に腰掛け、足を組み、新聞を広げ、すっかりリラックスモードだ。
つまり、そんな態度を注意する必要もないほど、店には客が来ないというわけだ。別の用事で訪れる予約客を除いて、は。
「どうしてお客が来ないのかしら」
目の前の紅茶を飲み干して、少女はぽつりと呟《つぶや》いた。
青年は返答に詰まる。そんな分かりきったことを……と思う半面、これ以上の難問はなかった。
『立地条件が悪いから』『宣伝が足りないから』『いっそ通販だけにすれば』何を答え、どう転んでも、
「じゃあ従業員はいらないわね」
と言われるに決まっている。自分はめでたくクビ。月の収入半減。
「いやそれは困る」
「そうね、困るわ」
思考が食い違ってるわりには、二人の会話は息が合っていた。
深いため息とともに席を立つと、少女はキャビネットから別のポットと茶葉、そしてティーカップを取り出す。古くなってゆく茶葉を消費するためと称して、少女の一日の紅茶摂取量は常識的なそれを超えている。付き合わされてたまるかと、青年は慌《あわ》てて新聞に目を落とした。
「ほら鏡花《きょうか》、載《の》ってるぞ」
青年は上機嫌《じょうきげん》で顔の横に新聞を掲《かか》げると、手にした部分を指差した。朝刊の社会面、下段ではあるが、そこそこに大きな見出しが。
「『悪天候つり船から転落――行方《ゆくえ》不明になったのは巣田《すだ》譲《まもる》さん(35[#「35」は縦中横])、生存は絶望』」
ふーんと鼻で返答し、少女は砂時計を引っくり返した。
「ところで康《こう》ちゃん。つり船から転落なんて、どうやってセッティングしたの? 今回あまりお金も使ってないでしょ」
少女の問いに、青年は待ってましたとばかり、饒舌《じょうぜつ》に語りだす。
「裏稼業やってるのは、別に俺たちだけじゃないってこと。夜逃げ業者と保険金|詐欺師《さぎし》を差し向けてやっただけだよ」
青年は得意げに回想する。
「事前の脅しが効果あったな。『殺し屋』に命を狙われてる巣田にしてみたら、渡りに船だからな。殺し屋から逃げられて、生命保険金も貰《もら》えるってんで、二つ返事でOKしたってさ」
青年は紅茶を一気に飲み干すと、皮肉に微笑した。
「バカな奴《やつ》だよな。戸籍《こせき》を失うのがどんだけ不便なことか……」
「数年|経《た》ったら、失踪《しっそう》宣告を取り消すつもりなんじゃない?」
少女は砂時計の砂が落ちきったのを確認すると、白磁《はくじ》のポットへ手を伸ばした。新しい二つのカップに琥珀《こはく》の露《つゆ》を注ぎながら、独り言のように呟く。
「場合によっては再度脅す必要がありそうね。監視を雇って数年は見張りましょう」
少女がさも当然と頷《うなず》くと、青年は慌てた。
「その代金はどこから出るんだよ」
「呪殺代《じゅさつだい》からに決まってるでしょ。かけた呪術が解けないようにするのは、最重要事項よ」
「じゃあ、今回の俺の報酬《ほうしゅう》は?」
一瞬小首を傾《かし》げて、少女は悪びれもせず明るく告げる。
「一万円……くらい?」
「一月近く駆け回ってその額かよ!」
青年が声を荒らげると、少女の不敵な微笑が待ち構えていた。
「なぁに? こないだ壊したティーセットの弁償《べんしょう》でもしたくなったの?」
「う」
「最初に言ったはずよ。私達の取り分は、必要経費を引いて残った額を半分こ。契約内容、覚えてるわよね?」
「……覚えてます」
「よろしい」
少女はにっこり笑うと、香る液体に満ちたカップを持ち上げる。
またやられた。青年は苦い想《おも》いで、押しつけられた紅茶を胃に注ぐ。確かに納得ずくで就職したのだ、文句のつけようがない。
あれやこれやの仕掛けを施《ほどこ》し、依頼人にはターゲットが死んだと思い込ませる。
嘘《うそ》の映像をビデオで流し、偽物《にせもの》の死体を調達したり、時には公共のニュースまで利用して。
実際には殺していないのに[#「実際には殺していないのに」に傍点]、だ。
少女はそれを呪術《じゅじゅつ》だと言い張る。
「私達は、依頼人に言霊《ことだま》の呪術をかけるの。――憎いあの人は死にました。そんな言葉の呪術をね。だから私達は呪殺屋なの」
しかし仮にも商売、ここまで採算を度外視するとは、夢にも思わなかった。しかも毎月、何かと給料から引かれている気がする。全《すべ》て舌先三寸の少女のせいで。
「この詐欺師め」
青年はこっそり呟《つぶや》いた。
店長、小泉《こいずみ》鏡花《きょうか》。十七歳の女子高生。
従業員、波多野《はたの》康祐《こうすけ》。二十四歳。
以上が紅茶専門店『ティーコジー』と、そしてもう一つの稼業『呪殺屋本舗』の、たった二人のスタッフである。
卓上のオルゴール時計が午後七時の曲を奏《かな》でる。白い箱の上で人形達が踊り終えたのを契機に、康祐は立ち上がった。
「んじゃ俺、そろそろ帰るよ。バイトの前に何か食っとかないと」
「康ちゃん! 忘れたの? この後予約のお客様が来るでしょう」
あー、と康祐は抜けた声を出す。そういえば昨日聞いたような。
「最近予約客多いな。注文|捌《さば》ききる自信ないぞ」
「大丈夫よ、受けるか受けないかはこっちが判断するんだから。……ほら来たみたいよ」
鏡花の声に硝子扉を透かし見ると、黒塗りの高級車がビルの真ん前を勢い良く通過するところだった。車は最後に、店の前に駐車していたシルバーボディのバイクを倒して、やっと停《と》まった。
「あーっ俺のバイク!」
「あら」
対照的な反応の二人を前に、運転席を下りたウェストのきつそうな婦人が店内に入ってきた。
「ちょっと。車、駐車場に移動してくれない?」
平凡な顔立ちを派手な化粧で隠しているふうな顔。奇抜な柄のジャケットとスカートにハイネックのブラウス。殴り合いの喧嘩《けんか》をすれば無敵なのでは、と思えるほどゴツイ指輪を複数つけている。中年の婦人は片手を上げると、指先にぶら下がる車のキーをカチリと鳴らした。
「専用の駐車場はないんですが……」
「あらそう。いいわ、駐車違反の切符を切られても罰金を払えばすむことだし」
バイクについては一切言及しないまま、婦人は一人で勝手に納得する。康祐がタンクの凹《へこ》んだバイクを起こして店内に戻ると、踏《ふ》ん反《ぞ》り返《かえ》って告げられた。
「お約束してあるんですけど、奥へ通していただけるかしら?」
「お店はここだけで、受付も応接室も兼ねているんです」
鏡花が答えると、婦人は甲高《かんだか》い声で怒鳴り出した。
「なんですって。こんな所で話して、他人に聞かれたらどうするのよ」
抗議内容はもっともだが、ない部屋はない。
「入り口には閉店の札を出させます。安心してこちらへおかけくださいな」
そう声をかけ、鏡花は曲線のみで構成された椅子を引く。康祐が硝子扉に札を下げカーテンを閉めたのを見届けると、立ったままのヒステリックなご婦人を悠然《ゆうぜん》と見据《みす》えた。
「どうぞおかけください――ようこそ、呪殺屋本舗へ」
天井の照明をやや落とし、テーブルのランプを灯《とも》す。人は明るい光の下では決して本音を語らない。鏡花が以前解説したことだ。変化した雰囲気《ふんいき》と客用の茶器を見て、ようやく婦人は静かになった。金持ちの彼女には、鏡花が手にした陶器《とうき》の価値が分かるのだろう。
入り口側に依頼人である婦人が、対面に鏡花と康祐の二人が座り、やっと商談が始まった。
「わたくし、こういう者です」
出された名刺に康祐は目を走らせる。
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『 専業主婦
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一尺八寸 薫子 』
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肩書きにはツッコむべきだろうか。悩んだ末康祐は、取りあえず名前を読んだ。
「いっしゃくはっすんさん」
「『かまつか』です」
初《しょ》っ端《ぱな》から撃沈した。むっとした婦人を前に、鏡花は隣を叱《しか》りつける。
「しっかりしてよ康ちゃん、有名な苗字《みょうじ》よ」
そして婦人へ向き直ると、こう続けた。
「確か読み方は、鎌の柄の長さから来てるんでしたよね。その昔、草刈り競争で優勝したご先祖様に、領主がこの名を与えたという……」
「ええそうです。実家は地元では名士ですのよ。最近の若い子はものを知らないようね」
彼女はチクチクと愚痴《ぐち》を引き摺《ず》る。
場をとりなすためか、あるいは本気で非常識と思っているのか、鏡花は尖《とが》った声で康祐を叱《しか》る。
「いいこと康ちゃん、人の名前を間違うなんて本当に失礼よ。ごめんなさい、かまやつさん」
「『かまつか』です」
「お前が失礼だよ、鏡花」
康祐の声はあっさり無視された。
「――ところでかまつかさん」
数秒後。仕切り直しに正しく発声された名に、ようやく婦人は頷《うなず》いた。しかし彼女の顔には怒りが蓄積《ちくせき》しっぱなしだ。手遅れかもしれない。
「お電話で若干《じゃっかん》説明しましたが、もう一度、改めてお話しします」
依頼人に一通りの説明をするのは鏡花の役割だ。康祐は黙って助手に徹していた。
「ホームページにも書いてある通り、当店の呪殺は、明らかに被害を受けた方からの依頼しか受けないことになっています。私怨《しえん》や逆|恨《うら》みは一切お断りです。……あなたは、どちら?」
「被害者です。悪いのは向こうです!」
「確認をもう一つ。殺したいのはあなたのご主人、そうですね?」
婦人の返答を待たずに鏡花は続ける。
「今ここに、ご主人がいるとしましょう。そしてあなたの前に包丁が置いてある。今回に限っては、何をしても警察にも世間にも知られることはない。そんなルールがあるとしたら……あなたは、あなた自身の手でご主人を殺せますか?」
「それは……」
婦人は言い淀《よど》む。眉根を寄せる彼女の顔を、鏡花は挑《いど》むように真っ向から見つめる。
返事はなかった。鏡花は微《かす》かに首を振ると、駄目ね、と小さく呟いた。
「かまつかさん。人を呪い殺すとは、そういうことですよ。直接であれ間接であれ、あなたが殺すことに変わりはありません。その覚悟が出来ない人は、呪殺などしない方がいいでしょう」
「冗談じゃないわ。あの人はわたしに隠れて、他の女と会ってるのよ!」
「ご主人が浮気されてるということですか?」
「そうよ! 婿養子《むこようし》のくせに生意気にも!」
「……はい?」
康祐が間の抜けた声で聞き返すと、婦人は誇らしげに胸を張った。
「あの人はわたしの父の力で銀行の支店長になったんです。車の購入費だって食事代だって学生時代から全部わたしが出してあげたんですよ。月に十万もお小遣いをあげてるのに、半年前からお金は自分で管理したいなんて我儘《わがまま》を言い出して」
はい先生、と小学生のように挙手したのはもちろん康祐だ。
「あの、あなた専業主婦でしたよね。お小遣いって、もともとご主人の稼いだものでは?」
「わたしの力で今の地位があるんだから、本来わたしのものでしょう」
父親の力はわたしの≠ナはないと思うのだが。康祐は出かかった言葉を飲み込んだ。
その後も婦人は、自分がいかに手を回して夫を出世させたかを雄弁に語り、これだけしてあげたのだから、夫は毎日|真《ま》っ直《す》ぐ家に帰り、甘い言葉を囁《ささや》くのが当然だと締《し》め括《くく》った。
「浮気とおっしゃいましたが、証拠はありますか?」
慎重に切り出す鏡花。婦人はハンドバッグに手を入れると、夫の鞄《かばん》の底にあったものだと告げながら、皺《しわ》だらけのメモ用紙を差し出した。
『ジュリエット 5月*日 7:00〜』
「ジュリエット? ああ」
覗《のぞ》き込んだ康祐は思わず声を上げた。なあに、と鏡花が目でせっつく。
「いや、銀座《ぎんざ》のとあるクラブにジュリエットって有名なホステスがいるんだ。これが綺麗なお姉さんでさ〜」
と回想に耽《ふけ》っていると、鏡花の白い視線が肌を突き刺す。
「康ちゃん不潔。いつもそんな所に行ってたの……」
今にも減給を言い渡しそうな雰囲気だ。
「ちがっ、バイト先の社長に連れられて一度だけだよ! 俺にクラブ通いするような金、あるわけないだろ」
「それもそうね」
あっさり疑いは晴れたが、釈然《しゃくぜん》としない。
げふん、と音がして慌てて顔を上げると、放ったらかしにされた婦人が咳払《せきばら》いをしていた。
「どうです、動かぬ証拠でしょう」
「まあ確かに女性の名前のようだけど、それだけじゃなあ」
「これは明日の日付ですね。明日、本当に逢引《あいびき》されるかどうか、確かめてはいかがですか」
鏡花の至極《しごく》まっとうな提案に、婦人は顔を真っ赤にして反論した。
「昨日今日のことじゃないんです! 毎日毎日、残業で遅いと嘘をつき、ホテルやマンションへ通っているんですよ!」
「よく分かりましたね」
康祐は本気で感心した。調査会社に頼んだのかと思いきや、婦人は得意げに答えた。
「たいしたことじゃありません。GPSの端末をあの人の靴、鞄、スーツ全部に仕込んでおいただけです。遅いのは仕事だと言うから、一日の行動を監視してたんです。帰ってから指摘したら、突然怒り出しました。やましいことがないなら普通怒らないでしょう?」
「いや、普通に怒ると思うんですが……それで口論になったんですか?」
「いえ、わたしが一方的に殴りつけました」
どこらへんが被害者なんだろう。康祐は悩んでいた。
ま、すっぱり断った方がいいよな。目で隣に語りかけると、鏡花もまた康祐に意味ありげに頷いた。前に向き直ると、少女特有の柔らかい声で、紅茶を飲み干した婦人に告げる。
「分かりました。お引き受けしましょう」
「ええ!?」
大声を上げた康祐のわき腹に鏡花の肘打《ひじう》ちが炸裂《さくれつ》。痛みに腹を押さえる約一名をあっさり無視し、鏡花はスラスラ先に進む。
「そうですね。病死などいかがでしょう。私なりに占《うらな》ってみたのですが、ご主人は現在軽い病気を抱えていますね。心臓|疾患《しっかん》でしょうか?」
[#挿絵(img/Juliette_025.jpg)入る]
「は、はい、仰《おっしゃ》る通りです。主人は胸に圧迫感があると言って、半年前から通院しています」
「それは好都合。その心臓を止めてしまいましょう」
鏡花は引き出しから数枚の白い和紙を出した。そこには手書きの文字と記号が記されている。
「道教《どうきょう》や陰陽道《おんみょうどう》では、術によく札《ふだ》を用います。病魔退散もその一つ。ところで、かまつかさんは逆呪《さかしゅ》というものをご存じですか?」
「いいえ……」
「密教には逆真言というものが存在します。お経をわざと後ろから読むというもので、読み上げられたお経は元々の意味と真逆の働きをするようになります。もちろん、仏教だけとは限りません。物を後ろ向きに渡すなど、物事の理《ことわり》を逆さにすれば、それだけで立派な呪術になるのです。……さて、ここに病治癒祈願《やまいちゆきがん》のお札があります。ここに記された文字を、全く逆さに書いたとしたら、どうなるでしょう」
婦人は青ざめた表情で語る。
「病を呼ぶお札になる……?」
その通り、と鏡花は満足そうに頷いた。
「今回は道教由来の去五臓病符《きょごぞうびょうふ》を使いましょう。康ちゃん、筆の準備を」
その言葉に康祐は立ち上がる。準備といっても、硯《すずり》も墨《すみ》も筆も引き出しに入っている。康祐のすることは水を汲《く》むくらいだ。
鏡花は丹念に墨をすった。やがて満足したのか、筆を手に取ると和紙にスラスラと何かを書き付けた。
「どうぞ、ご確認ください」
夫人の前に、たった今書いた札と、見本として示した病治癒祈願の札が並ぶ。見本を一瞥《いちべつ》もしないで書いたのに、鏡花の書いた文字は完璧《かんぺき》な鏡文字だった。
康祐が水を張ったお盆を運んできた。鏡花は書いた札をその中へ落とし、十分に浸す。文字がするりと水に溶ける。
引き出しから、アロマオイルでも入っていそうな小瓶を取り出し上澄《うわず》みを掬《すく》い入れると、きつく栓《せん》をした。親指と人差し指で瓶の上下を挟み、婦人の目の高さに掲げる。
「これを、ご主人の飲み物へ入れてください。心臓は徐々に弱り、およそ一月ののちに停止します。自然な死に方ですからあなたに疑いはかかりません」
「なぜ一月も?」
「すぐに死んだら、私達やあなたが疑われるじゃないですか。いいですか、基本的なルールですけれど、あなたがここで受け取った品のことは決して誰にも話してはいけません。約束を破った場合はペナルティを与えます」
「ペナルティ……どのような?」
厚化粧の下の皮膚《ひふ》が、傍目《はため》にも分かるほど青ざめた。鏡花は天使の微笑で言い返す。
「約束を破らないなら、知る必要はないでしょう?」
伸ばした鏡花の手が婦人のそれを掴《つか》むと、シャックリのような悲鳴が上がった。小瓶を婦人の手に握らせ、鏡花は腕を戻す。
「最後に一つ、重要な話をします。呪殺は人の命運を捻《ね》じ曲げる行為です。当然、その歪《ゆが》みはどこかに影響を及ぼす。……私の呪術を使った人間は、将来必ず、何らかの不幸に見舞われます。小さなものですが、それがいつ起こるかは私にも分かりません」
「不幸に? 必ずなるのですか?」
「ならない場合もありますが、断言できません。……どうしますか。やっぱりやめます?」
鏡花は首を傾げながら、人差し指で婦人の手の中のものを示す。婦人は一分近く、目をあちこちせわしく動かしていたが、やがて小瓶を握り締めると毅然《きぜん》と顔を上げた。
「使います」
「……そうですか。では、契約は成立です。本日はご足労をおかけしました」
鏡花はすっくと立ち上がり、優雅《ゆうが》なほどゆっくりと頭を下げた。
「あの、たったこれだけで?」
「ええ。どうぞ、お帰りください。当店は代金後払い制です。お支払い方法は後日お知らせします」
笑顔を向けながら、鏡花は硝子扉へ近づくと自ら鍵を開ける。押し開かれた扉を前に、帰る以外にないと悟ったか、婦人は多少不満げな顔のまま向こうへ出た。ゆっくり扉を閉める、鏡花。
聞き耳を立てていると、エンジンのかかる音と、少し遅れてドン! というあまり愉快でない破壊音が届いた。どうやら車を出す際にまたどこかへぶつけたらしい。
再び鍵《かぎ》を閉めくるりとこちらを向いた鏡花の顔は、どこか楽しげだ。
「鏡花……」
「なあに、康ちゃん」
「どうすんだよ、あんな依頼受けて。あのおばさんは明らかにやり過ぎだろ。指摘してやらないと、そのうち旦那《だんな》の体にICチップでも埋めかねないぞ」
「あら、それは便利ね」
どこふく風とテーブルへ戻り、新しく淹《い》れなおした紅茶を優雅に嗜《たしな》む。確かにここは鏡花の店であり、依頼を受けるかどうかは彼女の胸一つで決まる。しかし動くのは主に康祐なのだ。
「大体、お前の呪術は依頼人はターゲットに接触しないこと≠ェ絶対条件だろ。どうすんだよ、おばさんとターゲットは一つ屋根の下に住んでんだぜ」
「そうなのよ、それがいけないんだと思うの。……康ちゃん、座って。まずは打ち合わせよ」
鏡花は対面の、婦人が座っていた席を指差した。
「イブニングティーといきましょう」
「かまやつさんは、旦那さん中毒なのよね」
カフェイン少なめのブレンドティーを傾け、鏡花はうそぶく。
「浮気で逆上するのは、自尊心からの人もいるんだけど……かまやつさんは違うわね。旦那さんを愛してるんだわ」
そんな迷惑な愛はいらん。康祐は心の中、呟いた。
「好きだから何でも与えて、行動も束縛《そくばく》したがるのよね。多分彼女自身、親からそんな接し方しかされなかったんじゃないかしら。外の世界を知らないから他の愛し方が分からないのよ」
「そうか? 有閑《ゆうかん》マダムならエステだのなんだの、外ばっかり出てんじゃねーの?」
「銀行の支店長って、最近はあまり羽振りが良くないのよね。ご家庭に専属運転手はいないと思うの。そうなるとあの運転の下手《へた》さ……自分で運転して出かけることは滅多《めった》にない。それにあのジャケットは、四星《よつぼし》デパートの独自ブランドで、外商販売でしか買えないの。買い物も自宅で済ませちゃうんじゃない?」
「よく知ってるな」
「うちにも来たもの、あそこの外商」
あ、そ、と康祐は投げやりに呟いた。デパートの外商なんて、自分は一生お目にかからないだろう。
「かまやつさんに必要なのは、間違った恋愛観を正すことよ。とりあえず心臓病が悪化したことにして旦那さんを強制|隔離《かくり》。拘束することが愛じゃないって分からせるのよ」
「でも旦那、浮気してるんだろ? よりが戻るとは限らない」
「その場合はそれこそ、病院と裏で結託して嘘の死亡を演出してもらいましょう」
鏡花は楽しげに計画を語る。
「あの奥さんが離婚に応じるとは思えないし。もし旦那さんが、愛人と二人|慎《つつ》ましく生きることを望むなら、失踪手伝い人と称して叶《かな》えてあげればいいのよ。上手《うま》くすれば旦那さんからもお金が取れるわ」
康祐はじっくり計算する。確かに夫が協力してくれるなら、同居夫婦でも騙《だま》すことは可能だろう。しかも料金増額。けれど夫に全くその気がなかったら?
「やっぱバス。俺たちのやり方じゃ限界があるんだよ。せめて、本当に呪殺できるんならな」
「やろうと思えばできるわよ?」
「あーはいはい」
康祐は面倒臭そうに頷いた。本当なら遠慮なく力を発揮してくれよ。と胸のうちで呟く。
自分には呪力があると言いながら「この力は使いたくないの」と屁理屈《へりくつ》を捏《こ》ねられ、実はこいつの呪力って嘘なんじゃね? と自然な結論に達したのは一年も前のことである。
まあそれでも、鏡花が呪術≠使えるのは事実だ。呪術とはいかなるものか、その本質を掴んでいる者にだけ使える呪術を。
「ま、俺はただの従業員なんで、店長の命令には従うけどね。本音は反対してるんだからな」
「でも、かまやつさんの依頼を受けないと、康ちゃんバイクに乗れないし……」
え? と目を見開いた康祐は、立ち上がり硝子扉に駆け寄る。嫌な予感とともにカーテンを開けると、店先にはフロントフォークがひしゃげ横たわる愛車の姿が。何故!?
「かまやつさんが帰る時、踏んづけたみたいよ」
「はあっ!? 何でバックで出る車が前にあるバイクに激突できるんだよ!」
「それは、運転が下手だからじゃない?」
そういう次元の問題ではない。
分かった。これはきっと天のお告げだ。呪殺を執行して、いつもの二倍の金をぶん捕れとの。
康祐は無理に納得すると、悪気なく微笑む鏡花に一瞥を投げた。
「ところで鏡花。さっきから『かまやつ』って言ってるけど、『かまつか』だろ?」
鏡花は瞼を閉じて微かに首を振ると、ため息交じりに続けた。
「いいこと、康ちゃん。一つ教えてあげる」
そして教師のような口調で。
「細かいこと気にする男は、嫌われるわよ」
「お前が先に非常識だと言ったんだろが!」
「そうそう、前回の呪殺代を貰いに行かなくちゃ」
さらりとかわし、鏡花は帰り支度を始める。人の話を聞いてんのかと問い詰める康祐をよそに、てきぱきと指示を出す。
「じゃ、片づけと戸締まりお願いね。今夜のうちに仕掛けの計画書をメールで送るから、明日午前中に必要なものをかまやつさん宅に届けてちょうだい」
「……俺もこれからバイトなんだけどなー」
「今日は暇でしょ。友引《ともびき》なんだから」
事情を知っている鏡花は容赦《ようしゃ》がない。よろしく、と手を振って、さっさと帰っていった。
「……本気で転職考えよっかな」
鏡花には聞かせられない、康祐のボヤキであった。
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2 一尺八寸《かまつか》家の悲劇
夢の世界に浸っていると、耳の傍《そば》で不快感を誘《いざな》う音が鳴る。携帯の着メロだ。手だけ伸ばしてそれを取ると、半分眠ったまま受け答える。
「へい、波多野《はたの》っス」
『お前は江戸前《えどまえ》寿司《すし》職人か。それじゃ早起きして、東京湾《とうきょうわん》にお客さんを迎えに行ってこいや』
電話の向こうのオヤジ声は、早朝から遠慮がない。
「無理っス社長。俺、午前中用事あります」
『んじゃ午後からでいい。一旦《いったん》こっちに来てくれ』
それだけ言うと、電話は切れた。
「……社員にやらせろよ、ったく」
バイト先の社長とは、学生時代から五年越しの付き合いになる。人の入れ替わりが頻繁《ひんぱん》な職場で、康祐《こうすけ》は古株だった。そのせいか社員以上に信頼されているわけだが……最近とみに、その信頼が重い。
もっと寝ているつもりだったのに完全に目が覚めた。電話を放り投げるついでに時計を見る。目覚ましが鳴る三分前だ。中途半端な時間が余計に損した気分にさせる。
「はー、仕事すっか……」
康祐は布団《ふとん》から渋々出ると、すぐ隣のデスクの椅子《いす》へ這《は》い上がり、パソコンを起動させた。
2Kの古い賃室。若者が住むには時代遅れな外観のアパートに、康祐は一人で暮らしている。
二部屋のうち、奥の和室は布団部屋と化していた。TV、パソコンデスクに、家中の雑貨が押し込められた棚《たな》。動くのが面倒だから、普段使うものは全《すべ》てこの部屋に置いてある。
入り口に近い方は板の間で、小さなキッチンと冷蔵庫に洗濯機が置いてある。冬はコタツになる足の低い丸テーブルがあるが、使うのは友人と酒盛りする時くらいだ。
本当は二部屋も要らないのだが、上京直後に住んだワンルームマンションより賃料が安いので引っ越した。……もちろん安いのには理由がある。
さて、言い訳でなく本当に用事を片づけなければ。眠い目を擦《こす》り、鏡花からのメールを探す。
「印刷すんのか、これ。面倒だな」
一尺八寸《かまつか》夫人の案件用≠ニ書かれた添付ファイルを開き、パソコンに向かって愚痴《ぐち》をこぼす。メールには簡単な説明も添えられている。
今回の作戦はこう。まず一尺八寸家の玄関先に忍び込んで郵便受けを開け、医療機関からの通知書をすり替える。
鏡花《きょうか》情報によるとご主人は検査入院の申し込みをしており、今朝《けさ》配達される通知書に日時と指定の病院が記されているのだそうだ。鏡花がよこしたファイルはその通知書の中身のデジタルコピーだ。どうやらこれを書き換えて偽造《ぎぞう》しろ、ということらしい。
問い合わせ先の電話番号は鏡花に繋《つな》がる転送サービスの番号に。『ご主人にはまだ真実は教えない』とあるので、多分どこかの施設を借り、自分が医者に扮《ふん》するのだろう。
「十人単位でエキストラが必要だよなぁ……。あいつ本当に、節約の概念《がいねん》がないな」
鏡花の実家はどうやら金満家らしい。聞き出したところによると、あの店舗の入っているビルは丸ごと鏡花の持ちものなのだそうだ。金を出したのは恐らく親だろうが、娘に甘いなんてもんじゃない。しかし親は裏の商売を知っているのだろうか。
さて物思いにふけるのはここまでだ。
「袋綴《ふくろと》じの用紙なぁ……」
紙を選択し、パソコンに直結してあるカラープリンターで両面印刷。その気になれば偽札《にせさつ》だって作れそうな高性能機器のおかげで、この手の細工は朝飯前だ。
もちろんこれは鏡花が買って、強引に配達させたものだ。「いちいち出てこなくて済むから、康ちゃんも助かるでしょ?」が言い分だったが、アパートの床強度は考えてないらしい。
「うむ、どこから見ても立派な病院のお知らせだ」
今日はこれをすり替えて終わり。あとは向こうからのコンタクト待ちだ。
次の用事を考えて結局いつもの黒スーツを着て、アパートを出る。住所を見ると一尺八寸宅は白金台《しろかねだい》。最寄りの駅から電車で十五分程度だが、常にバイクで移動していた身としては、電車に乗るだけで面倒だ。
「早く修理代なんとかしないとな」
恨《うら》みがましく独《ひと》りごちた。
連日の経営|破綻《はたん》の報道もどこへやら、銀行支店長の自宅はでかかった。
「そういやおばさんの実家が名士とか言ってたな」
とすると、この家も夫人の父親名義というオチか。
康祐は一旦通り過ぎると、物陰でじっと時を待つ。
一尺八寸宅は駐車場が半地下、玄関が中二階に位置している。門扉《もんぴ》から続くアプローチの昇り階段も郵便受けも、うまい具合に高い塀に囲まれている。人目を避けるには持ってこいだ。
郵便配達の原付二輪が現れた。一尺八寸宅に手紙らしきものが投函《とうかん》されたのを確認し、通りへ出て歩き始める。
歩きながら、提《さ》げていた革《かわ》のバッグに手を突っ込み、ビデオショップのチラシを取り出した。駅前で配っている人がいたので、積んであった箱から一束こっそり失敬してきたのである。それをご近所の郵便受けに入れながら、徐々にターゲット宅に近づいていく。
こういう閑静《かんせい》な住宅街に限って、誰が見ているか分からないものだ。
ターゲット宅に到達すると、ちょうど郵便配達の二輪が走り出した。完璧《かんぺき》なタイミング。チラシをポストに突っ込みかけ、あれ入らないぞ、という演技をする。仕方ないな、直接玄関ドアに挟んでやれ――そんな言い訳を呟《つぶや》きながら、塀の内側へ入り込んだ。
郵便受けの取り出し口は、入ってすぐ、塀の真裏に位置していた。ご丁寧《ていねい》に小さい南京錠《なんきんじょう》がついている。番号ボタンではなく鍵《かぎ》を使って開けるタイプだ。
黒革の手袋をはめると、内ポケットからピッキングツールを取り出す。鍵穴にテンションと呼ばれる押さえ棒とピックを差し込み、くるっと手首を返す。三秒と経《た》たずに南京錠の腕が外れる。
「こういうタイプはねー、すぐ開いちゃうんだよー」
陽気に囁《ささや》きながら郵便受けに手を入れて、お目当ての通知書を引っ張り出す。持参した偽物とそっくりな色柄で、そこに住所、氏名が印刷されている。綴じられているので中は見られないが、自分がモニターで確認したものと同じはずだ。
偽造通知書と、ついでにチラシも入れると、蓋《ふた》を閉め再び南京錠を掛けた。ここまで合計三十秒とかかっていない。
さあ行くか、と気合を入れたその時。
前方からサイレンを鳴らした救急車がやってきた。やり過ごしてから出ていこうと待っていると、なんとそいつは目の前で停車した。目的地はこの家!?
白衣の隊員達がバラバラと降りてくる。担架《たんか》を担《かつ》いでアプローチを登り、玄関を激しく叩《たた》く。
なんだなんだと、そこかしこの家の窓から住民達が顔を出す。間一髪、裏へ回って隣の庭に逃げ込んだ康祐は、通りへ抜け出ると、手袋を外し、何食わぬ顔で再びこの家の方角へ歩き出した。
「あなた、あなた――!」と聞き覚えのある声とともに、担架を担いだ隊員達が家から出る。遠目で分かりにくいが、夫人が取りすがって叫んでいる所から察するに、担架に横たわっているのはご主人その人か……?
訓練された隊員の素早い連携《れんけい》で、救急車はあっという間に走り去る。夫人も一緒に乗っていったらしく、叫び声はもうない。覗《のぞ》いていた人達も窓辺から姿を消した。玄関先に飛び出して井戸端会議に突入したおばちゃん二名以外、たった数分で全ては元通りになっていた。
「心臓病でも悪化したのかな……」
致し方ない。康祐はチラシだけをあちこちの郵便受けに投函しながら、その場を通り過ぎた。鏡花の携帯へメールして返信を待つ。
たっぷり一時間以上|費《つい》やして一尺八寸宅に戻り、先ほどと同じ手順で通知書を本物にすり替える。足早に立ち去ると、ちょうど鏡花からメールではなく電話が入った。
『康ちゃん、ホント?』
「嘘《うそ》ついてどうすんだ。作戦は延期だな。このまま入院されたら、あの案は無効だろ?」
『そうね。搬送先の病院を調べてまた計画を立て直すわ。午後はお店来るでしょ』
無駄骨《むだぼね》折りに疲れて、ちくりと嫌味を一つ。
「今日は一日みっちりバイトです、これで生活してるんでね」
『貧乏暇なしって本当ね』
学校の休み時間にこっそりかけているんだろう、言い返すより先に電話は切れた。見事な嫌味返しだった……いや、鏡花はこれで労《いたわ》っているつもりなのだ。天然は強し。
「俺だってティーコジーで寛《くつろ》ぎたいよ」
鏡花の給料支払いが不定期かつ不定額なため、辞《や》めるに辞められないのだ、バイトを。
文句を言いつつ駅へ向かい、再び改札をくぐった。
続くときはよく続くのが康祐の仕事で、翌朝またも社長の電話で起こされた。
今回はただ[#「ただ」に傍点]の廃工場とのことだが、自分が指名された時点でただ[#「ただ」に傍点]じゃあないだろう。行くのは構わないが、せめて時間を考えて欲しい。
バイクのない不便さを百ぺんほど愚痴り、ようやく職場へ到着。二階より上が社長の自宅になっている、鉄筋三階建ての小さなビル。引き戸のスリガラスには屋号が。
『有限会社|稲生《いのう》葬儀社』
学生時代に軽い気持ちで始めて以来、腐れ縁的に続いているバイトだった。最終学年の頃は「正社員になれ、なれ」と顔を出すたび社長に言われ、希望した会社に軒並み落ちた時などは、社長の呪《のろ》いじゃねぇのかと本気で考えた。
会社によるかもしれないが、この業種は年中無休、二十四時間営業だ。理由は簡単。いつ何時《なんどき》誰が亡くなるか、予測不能だからだ。仕事が立て込めば土、日だって休めない。
その代わり、なんでもない平日にいきなりポカッと休みを貰《もら》えたりする。稲生葬儀社はわりと社員数の多い方で、交代で長期休暇を取ることも可能だ。深夜勤務や友人と休日が合わないことを気にしないなら、労働条件は悪い方ではない。
ではなぜ正社員を拒み続けるかと言えば、一〇〇パーセント、原因はここの社長にある。
上司に気に入られるといいことがあるなんて嘘だ。むしろ人生最大の危機に直面してるぞ!
考えていたことが顔に出たらしく、奥から出てきた社長は自分を見た瞬間、仏頂面《ぶっちょうづら》になった。
背の低い人だが、体力と顔の大きさだけは非凡中の非凡だ。しかも厳《いか》つい。設営で寺に行くと、社長と顔のそっくりな金剛力士《こんごうりきし》像があるので、いつも噴き出しそうになる。
「遅かったな」
「すんません急いで行ってきます。ところで現場ですか、今日の引き取り先って」
昨日の溺死体《できしたい》もそうだが、法医学教室や警察署に運ばれた変死体を最後に預かるのは、ここのような警察に出入りを許された葬儀社だ。場合によっては現場から運ぶのも引き受ける。
普通、こういった仕事はバイトにはさせない。腐乱した遺体は通常のそれとは大違いで、気の弱い者なら翌日スピード退職していた、なんてこともある。
バイトを始めたばかりの頃、人手が足りなくて仕方なく、社長と一緒に康祐が引き取りに行ったことがあった。真夏の気温に三週間も晒《さら》された遺体だったが、それを平気な顔でちゃきちゃき処置したのがいけなかった。酔った社長に「お前はうちの婿養子《むこようし》決定だ!」と言われ、知らぬ間に一人娘とのデートがセッティングされていた。
確かに年上の女性は大好きだが、年上過ぎ……というか、顔にもいろいろ好みが……というか、初対面で無理やり唇《くちびる》を奪われて後でこっそり泣きました……とか、まあいろいろあって、逃げ出す算段を熟考中。それがティーコジーへの就職だったはずなのだが。
「社長、寝台車の鍵下さい」
康祐は手を出した。が、どうしたわけか相手は直立不動だ。不思議に思い顔を上げると、目の前の小男はさめざめと泣き始めた。
「残念だ康祐……おめぇには目をかけていたのに」
「な、なんスか社長? いよいよ倒産したんですか」
「アホウ、うちは相変わらず安泰《あんたい》だ! それよりお前、なんてことしでかしたんだ」
話が見えない。先月の葬儀で、棺《ひつぎ》をうっかり横倒しに積んだことだろうか。でもあれ誰も気づかなかったぞ。
などと記憶のカスを絞っていると、奥からもう一人、スーツ姿の顔見知りの男がやってきた。
「あれ、山縣《やまがた》刑事」
変死体を受け取りに行くと、刑事や鑑識《かんしき》とはしょっちゅう顔を合わせる。だから自然と互いの名前も覚えてしまう。三十代後半、痩《や》せた体躯《たいく》に柔和な顔の山縣刑事は、現場で会うと間違って紛《まぎ》れたサラリーマンに見えるが、どうしてなかなか優秀らしい。
その山縣は、康祐の肩に手を置くと社長同様、表情を曇《くも》らせた。
「波多野《はたの》君、悪いがちょっと一緒に来てくれないかい?」
「いや行きますよ、今から引き取りに」
何を今更、と思いつつ返事をすると、山縣刑事は首を横に振る。
「そっちじゃない。署の方だよ」
「遺体、警察署に運んだんですか?」
「いや。平たく言うと、任意同行なんだけど……波多野君は容疑者なんだよね」
へ? と顔を上げると、社長は滝のように涙を流し、うんうん頷《うなず》いていた。
「ひょっとしてチラシ百枚盗んだ罪ですか? いやー、ほんの悪戯心《いたずらごころ》で」
「違う違う。殺人だよ。ぶっちゃけ犯人扱い」
「あー、殺人か…………て、えええっ!?」
一応義務であるためか、山縣は何の容疑か説明を始めた。
「一尺八寸《かまつか》靖《やすし》殺害のねー、犯人だって夫人が主張してて。ま、ちょこっとおいで」
一尺八寸!? ひょっとすると昨日運ばれていったのは、既《すで》に死体だったのか。しかしどういうことだ。呪殺を依頼した翌日に、偶然にも別の誰かに殺されたというのか。
康祐は誤魔化《ごまか》すことに決めた。
「や、あのおばさんとは勤め先でお話ししましたけど、それだけっスよ。任意なら行かなくてもいいんですよね?」
山縣刑事は聞き分けよさそうに、うんうん頷いて続ける。
「拒否されたら強制力はないがな。でももう一人の嬢ちゃんが、署で待ってるんだよ」
「……鏡花が?」
山縣刑事の覆面《ふくめん》パトカーで白金警察署へ同行すると、取調室ではなく下のロビーに鏡花がいた。長椅子に腰掛けて退屈そうにしていたが、康祐の顔を見つけ微笑《ほほえ》みを浮かべる。横にいた山縣刑事が何を勘違《かんちが》いしたか、真っ赤になって鏡花へ話しかける。
「待たせるね、嬢ちゃん。悪いけど事情聴取は一緒にはできないから」
「康ちゃんのが終わるまで待ってます」
切りそろえた髪をさらりと流して、鏡花は会釈《えしゃく》した。見ると山縣刑事の口元がだらしなく歪《ゆが》んでいる。鏡花の懐柔策《かいじゅうさく》だとしたら、なかなかのものだ。
「荷物預かっててくれよ」
さりげなくバッグを鏡花の膝《ひざ》に乗せる。中には、今朝回収したニセの通知書が入っている。鏡花は笑みを浮かべ頷いた。
署内の奥、取調室に入り席につくと、対面の山縣刑事がにこやかに水を向ける。
「まー容疑者つっても、夫人の思い込みっぽいんだよね。だからほれ、遠慮せずに知ってることをどんどん」
康祐は深呼吸すると、一尺八寸夫人が店に訪れたあたりからを、丁寧《ていねい》に説明しだした。
呪殺屋を始めた時、鏡花と康祐はいくつかの打ち合わせをした。依頼人が殺人犯として自分達を告発した場合の、証言のシミュレーション。
いわく、殺して欲しいうんぬんはお客が言い出した話。購入前に必ず試飲してもらうティーコジーの販売方法は、カウンセリング状態になることもしばしばだ。自分達は客の言葉に反論しないことにしている、だから客が誤解したのだろう。と。
「それで、旦那の呪殺を一方的に依頼して奥さんは帰った、と。なんで紅茶屋に頼むんだ?」
「うちの女の子がおまじないに詳しいからっスよ。客の希望で占いもよくやるんで」
|HP《ホームページ》についてはすっとぼけた。依頼を受けた段階で呪殺屋のサイトはとっくに移転済み、メルアドも宛て先不明になっている。
全部話し終えると、山縣はさっぱりした笑顔で礼を言った。
「や、悪かったね。それじゃ帰っていいよ」
あっさり放り出された。案外、真犯人の目星はついているのかもしれない。
「念のためってやつか。緊張して損した」
「お疲れさま、康ちゃん」
階段からロビーに降り立った途端、目の前に鏡花が現れた。
「ご主人の死因、聞いた?」
首を横に振ると、鏡花は複雑な笑い方をして一言。
「心不全ですって」
「なんですと?」
「しかも、病院に運び込まれてからの自然な死に方。だから私達が殺したなんて、夫人以外、誰も思ってないの」
あのおどけたような山縣刑事を思い出した。
「それ最初に言えっての……まあ、とばっちり食らったようなものか」
深く頷いてから、鏡花は真顔になった。
「ちょっと場所を変えましょう」
二人は警察署を出ると、近くにある大きな公園へ足を運んだ。木立の陰に身を寄せれば、人目を気にせずに会話ができる。
「自分で頼んでおいて人殺し呼ばわりとは、さては本気で信じてなかったんだな。でも、おばさんが俺達のこと喋《しゃべ》りまくるのは良くないな」
「ええ、ついさっき夫人に電話で、『これ以上吹聴すると困ったことになりますよ』って釘《くぎ》を刺しておいたわ」
康祐は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、足を止めた。
「いや鏡花、それはマズイよ。困ったことになるって言い方は脅迫《きょうはく》と見なされるんだ。夫人が録音でもしてたら、また警察に呼ばれちゃうぜ」
禁止令を出す康祐に納得がいかないらしく、鏡花は口元を膨《ふく》らませながらブツブツ呟《つぶや》いた。
「どうして脅迫なのよ、実際困ったことになってるじゃない…………私達が」
そっちかよ! と康祐はずっこけた。一方の鏡花は何が悪いの? とキョトンとしている。
「あのな、鏡花」
ぽん、と肩に手を置いて重々しく語った。
「お前の電話はな、いつも話の内容を端折《はしょ》りすぎなんだよ。相手の顔が見えない分、言葉多めに説明しなきゃいけないって分かるだろ?」
鏡花はう〜んと唸《うな》りながら、不承不承《ふしょうぶしょう》頷いた。
「一尺八寸夫人がちょっと気がかりだけど……仕方ないわよね。肩を持つ義理はないし。でも康ちゃんは大変ね」
「何が?」
黙ったまま見つめあうこと数秒。すこし呆《あき》れた口調の鏡花。
「バイクの修理代、弁償してもらえないでしょ?」
「あっ!」
やっぱり忘れてたの、と呟いて、鏡花は軽く笑った。
「うちから出る給料はしばらく当てがないから。バイトの方で頑張ってね」
薄情にも鏡花はひらひら手を振ると、公園を出た所でタクシーを拾って行ってしまった。
「しまった……」
ますます脱出が遠のいた。社長は大喜びだろう。当分どころか永遠に足抜けできない気がしてきたが。
「俺ひょっとして、ドツボにはまってる?」
当然ながら、ツッコんでくれる人間はいなかった。
その後しばらくの間、この一件は二人の脳裏《のうり》からきれいに消えていた。
一月後の雨の夜に、少女と出会うまでは……。
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3 雨と少女と不思議な依頼
叩《たた》きつける雨脚《あまあし》が全《すべ》ての音を吸収する。
梅雨《つゆ》入りを宣言させた雨は、台風と見紛《みまが》わんばかりの勢いだった。水滴が地面を叩き、リズムの外れた曲を奏《かな》でる。
雨が一層激しくなる……いや違う。それは水を蹴る人の足音だ。
右、左と上下する赤い運動靴。変色するほど水を吸い、どんなに重たくなっても、持ち主は動きを止めない。持ち主――幼い少女を、追う者がいるからだ。
「いたぞ、逃がすな!」
少女の耳に確実に届く、複数の男の声。
渇《かわ》ききった喉《のど》を強引に鳴らし、わずかな唾《つば》を飲み込んだ。神様はいるのかもしれない。煙のように飛び散る雨は、小さな身体《からだ》を隠してくれる。少女は男達を引き離すのに成功した。
男達の姿は完全に少女の視界から消える。最後に、男達の悔《くや》し紛《まぎ》れの言葉だけが残った。
「絶対捕まえるんだ、ジュリエットを――」
* * * * * *
雨の夜の、湿った匂《にお》いが心地よい。バイクのない時期と梅雨が重なったのは幸運かもしれない。普段はバイクで走っている道のりだ、晴れていたら腹だたしくなる。
六月最初の金曜の夜。気象庁が梅雨入りを宣言をしたこの日、康祐《こうすけ》はこうもり傘を持ち、街灯に黒光りするアスファルトを踏みしめていた。
今日の康祐は薄手のフリースにブラックジーンズという出立《いでた》ちで、いつもの黒スーツ姿ではない。周囲に並ぶ数少ない店舗やオフィスビルは、明かりは灯《とも》っているものの人の出てくる気配は皆無だ。頭上の高速道路の騒音がなければ、ここが都心部であることを忘れそうだ。
地下鉄の駅を出てから黙々と歩き、二十分後にようやくティーコジーの立て看板が見えてくる。硝子《ガラス》扉からは明かりがこぼれていた。腕時計を見ると、夜の十一時。何となく想像がついたので駆け足で残りの行程を乗り切った。傘を開いたまま店舗の硝子扉に手をかけると、案《あん》の定《じょう》、鍵《かぎ》はかかっていない。
「鏡花《きょうか》!」
扉を開け声をかけると、店内には鏡花が一人、いつもの席で紅茶を楽しんでいた。
「いらっしゃい康ちゃん、早かったわね」
「おい危ないぞ!」
説明なしの警告メッセージに鏡花は目をぱちくりさせる。
「何が?」
「何がって……こんな人通りの少ない所で、深夜の店番は危険だっつってんの。強盗でも来たらどうすんだよ」
康祐の心配をよそに鏡花はなんだ、と呟《つぶや》くと華《はな》やかに笑った。
「大丈夫よ。式神《しきがみ》『笹蟹《ささがに》』がついてるから」
「ささがに?」
何だか分からんが旨《うま》そうだなと考えつつ、とりあえず傘を畳《たた》んだ。薔薇《ばら》のあしらわれたブロンズ製の傘立てに突っ込むと、店内へ足を入れる。突如《とつじょ》、鏡花はテーブルの下から真っ黒い銃《じゅう》のようなものを取り出し、笑いながら康祐に向かって引き金に指をかける。
「うわちょい待ちっ!」
パシュッと間の抜けた音がして、先端に棘《とげ》のついたワイヤーが二本飛んできた。ワイヤーは康祐の真横を通過して後ろのカーテンに突き刺さる。目でたどると、それは鏡花の持つ銃の口から繋《つな》がっていた。
「なんだコレ」
棘の部分を摘《つま》もうとすると、鏡花が声を上げた。
「駄目よ康ちゃん、感電するかもよ」
その言葉で、これが遠距離用スタンガンだと分かる。
「テーザー銃《ガン》よ。アメリカの警官が使ってるの。このワイヤーが笹蟹って感じしない?」
感じしない? と言われても、そんな蟹は庶民ゆえ知らないので返答のしようがない。また妙な物に妙な名前をつけてるな……と思ったくらいである。
鏡花にはポットやパソコンに名前をつけて可愛《かわい》がる、変な癖《くせ》があった。
「ま、使う事態に陥《おちい》った時点で負けな気がするけどな。だいたいもう営業時間終わってるだろ。なんで店開けてるんだ」
「そうなの、そこが康ちゃんを呼んだ理由なんだけど」
鏡花はワイヤーを回収すると、おいでおいでをして康祐用のカップに紅茶を注いだ。駆けつけ三杯という言葉はまさに康祐のためにある。
康祐が席につき、ため息込みで茶を飲み干すのを待ってから、やっと説明が始まった。
「実はこれから、予約のお客さんが来るの」
予約、のところを強調する。顔を上げた康祐は真面目《まじめ》な顔つきになった。
「こんな時間に?」
「この時間じゃないと来られないんですって。ネットカフェからの申し込みで、夕方一度、携帯電話で直接話したんだけど……」
鏡花はテーブルに置いたテーザー銃の溝《みぞ》を指でなぞる。
「どうも、子供みたいなのよね」
「子供が夜しか来られないってどういうことだよ。それ多分、悪戯《いたずら》だろ?」
「そうかも。でもちょっと気にかかったから、もう少し待ってみようかなって」
「まあ俺も、今日はバイトないから付き合ってもいいけどね」
そういえば、と鏡花はちょっと首を傾《かし》げる。
「礼服着てない康ちゃんって、康ちゃんに見えない……」
「悪かったな。バイト三昧《ざんまい》なのは、どっかの店長が固定給でくれねぇからだよ」
「それはいけないわね」
と鏡花は他人事《ひとごと》のように呟いた。
通常ならカーテンを閉め切っている時刻であるが、人待ち状態ではおいそれと実行できない。ガラスに打ちつける雨が激しくなってきた頃、鏡花が「康ちゃん、お使いお願い」などとふざけたことを言い出した。
「実は晩御飯食べてないの」
「お前ね。そういうのは駅を出る前に言えよ」
「駅前のお店じゃなくて反対方向に行って欲しいのよ。あっちの牛丼屋」
気軽にあっちと言うが、牛丼屋のある場所はほとんど隣町。歩く距離も、駅へ向かうより段違いに遠い。
「好き嫌い言ってると胸が大きくならねーぞ」
うそぶいた瞬間、テーブルの下で脛《すね》を蹴《け》られた。突っ伏して呻《うめ》く康祐に「セクハラは厳禁って言ったでしょ!」と非情な声が。涙声で謝る康祐。いつもの光景である。
「あのね、ついでに依頼人を捜してきて欲しいの。駅からここまでは、それらしいのはいなかったんでしょ?」
「ああ、そういうことか。ならしょうがないな」
自《みずか》らに言い聞かせ、康祐は立ち上がる。
「うんありがとう! お新香もつけてね」
満面の笑顔に見送られ、ハタと気づく。依頼人なんて言い訳で、単に牛丼食いたいだけじゃないのか、あいつは。
「ま、俺も腹減ったから、いっか……」
すでに十一時だというのに牛丼屋には数名の客がいて、皆一様にもくもくと箸《はし》を動かしていた。二人分のパックを買い、ビニール袋を提げて外に出た。雨だれが広げた傘を集中攻撃する。
どうも一番|酷《ひど》い時分に外に出た気がする。スニーカーが重くなるのを感じながら、競歩並みのスピードで歩いていると。
暗い路地から、傘も差さずに走り出る男がいた。しかも一人ではない。別の路地からも黒ジャケットを羽織《はお》った男達四、五人が出たり入ったりを繰り返している。泥棒ではないようだが、それにしても挙動不審《きょどうふしん》だ。
緊張しつつ脇《わき》を通り過ぎると、紺《こん》のダブルのスーツを着たスキンヘッドが、男の一人を叱咤《しった》しているところだった。スキンヘッドは頭一つ分背が高い。夜だというのにサングラスをかけている。筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》、格闘技の選手のような体格だ。
「いなくなっただと? 馬鹿野郎、とっとと捜せ!」
叱《しか》られた男は無言のまま慌《あわ》てて路地へ戻る。すれ違う瞬間、スキンヘッドが振り返りこちらを向いた。サングラス越しの強烈な視線を感じる。口元に皺《しわ》のある五十がらみの男だが、とてもサラリーマンには見えない。
やべぇやべぇ。康祐は前に向き直ると足早に立ち去る。触らぬ神に祟《たた》りなし、だ。
背中に刺さる男の視線を傘で防御し、その場をやり過ごした。高速道路を走る車が途絶えた一瞬、微かにその男の声が耳に届いた。
「いいか草の根分けても捜しだせ! ジュリエットを――」
あいつら逃げたホステスでも捜しているのかな。それにしても、またジュリエット? ホステスの間でこの名が流行《はや》っているのだろうか。
なんにせよ関《かか》わり合いにならないのが一番だ。康祐はさらに足を速めその場を離れた。
ティーコジーのある一帯は、夜になると全く人はいなくなる。あまりに薄暗いので、駐車場脇のゴミ捨て場に見慣れぬものがあっても、気にも留めなかった。
「あれ?」
十数歩離れてからようやく、さっき見たものを反芻《はんすう》する。ポリバケツに隠れるように座っていたが……小学校四、五年生くらいの女の子のようだった。
依頼人は子供と言ってなかったか?
慌てて引き返し、傘の陰から恐る恐る顔を覗《のぞ》かせる。いた。青いバケツの裏。黒いフード付きトレーナーにデニムのキュロット、背中にもデニム地のリュックを背負っている。スニーカーの赤だけ目立つが、それ以外は暗がりに溶け込んで妖怪《ようかい》のようだ。
「そこのお嬢さん」
思い切って声をかける。少女は完全に隠れているつもりだったのか、びくっと身を震わせバケツのさらに裏へ回ろうとした。
「おいおい、そんな隙間《すきま》に入るかっての。あのさ、ひょっとして予約のお客さん?」
ぴたりと少女の動きが止まる。康祐を見上げ、フードに隠れていた顔が初めて露《あらわ》になる。
赤い細いフレームの眼鏡《めがね》に、柔らかそうな茶色い髪。染めているのではなく天然っぽい。少女は康祐をじっと見詰めると、か細い声で鳴いた。
「紅茶屋さん?」
[#挿絵(img/Juliette_057.jpg)入る]
「そ、従業員。一緒に行く?」
軽く笑みを浮かべると、安心したのか少女は頷《うなず》きながら大きくくしゃみをした。
二人は連れ立って歩き出す。街灯の下でよく見ると、彼女の服は乾いた箇所が全くない。海から上がってきました、と言わんばかりだ。背負っているリュックも持ち主に同じ。
ティーコジーが見えた所でふと思い立ち、駐車場の中の公衆トイレに入る。洗面台の前で少女の泥まみれのトレーナーとキュロットを預かり、脱いだ自分のフリースを着せる。トレーナーの内側に首から提《さ》げた小さなポシェットがあった。財布代わりかな? と康祐は感心した。
「康ちゃん……」
着替え後に店へ連れ帰ったところ、鏡花は不審そうな目を向けた。
「変なことしたんじゃないでしょうね」
「何だよ変って! 服を提供した俺をねぎらうところだろ、ここは」
「康ちゃんが無神経よ。女の子に外で着替えさせるなんて」
つまり年齢に関係なく、男が女の子の服を脱がせた時点で鏡花的には痴漢《ちかん》決定らしい。店の内装を汚したら鏡花が困るかと気をつかっただけなのに、酷い決めつけだ。
「俺はロリコンじゃねーっての。妙齢のお姉さまならともかく」
ちなみに現在の康祐はランニングシャツ一枚に店のエプロンという、極めて変態チックな格好。少女の方はフリースが大きめだったのが幸いして、ちょっと短めのワンピースのようになっていた。
未使用の雑巾《ぞうきん》を探し出し顔や髪を拭《ふ》いてやって、どうにか少女を風邪《かぜ》の危機から救出した。
「今から相談始めたら終電なくなるぞ」
「別にいいわよ、タクシー呼ぶから」
「お前じゃなくて、俺やこの子の話をしてんだよ」
世間の人間はお前みたいに金持ちじゃねーの、と嫌味っぽく呟くと、向こう脛《ずね》に鏡花の踵《かかと》が飛んできた。のたうち回る康祐をよそに鏡花は椅子を引き、少女を座らせにっこり微笑《ほほえ》む。
「ようこそ呪殺屋本舗《じゅさつやほんぽ》へ。まずは身体を温めましょう」
そして優雅に紅茶を入れる。緊張が全身から滲《にじ》んだままの少女は、ぺこりと一礼してティーカップを両手で取ると、ゆっくり一口飲み込んだ。
「……おいしい」
ほんの少しであるが、少女の口元に嬉《うれ》しそうな表情が浮かぶ。
「でしょ? カモミールティーにはリラックス効果もあるの。ノンカフェインだから、欧米では夕食後や就寝前に」
「講釈《こうしゃく》はいいから早くしよーぜ」
「……康ちゃん」
達人級の速さで鏡花の指が飛んできた。今度は耳たぶを摘まれ引っ張られる。
「いだだ、痛いっちゅーに!」
「いいから、お聞きなさい」
囁《ささや》き声ながら凄《すご》みがある。こんな時の鏡花は年齢からは想像できないほどの威圧感に包まれる。半眼で睨《にら》まれると、このまま呪い殺される気がしないでもない。
「落ち着きなさいよ。まずは彼女の緊張を解かなきゃ駄目でしょう」
鏡花の言い分には一理ある。それにそろそろ首も痛い。康祐はおとなしく負けを認める。
「……すいません、てんちょー」
「分かればいいの」
ころっと声音《こわね》を変えて耳を離す鏡花。ふと二人揃って少女を見ると、鏡花の豹変《ひょうへん》を目《ま》の当たりにしてか、固まっていた。震えているのは寒さのせいではないはずだ。
「あ、えーと」
生暖かく笑う二人の耳に、ぐるる、とくぐもった音が。途端に少女は真っ赤になった。
「ご飯、食べてなくて……」
二人は反射的に、牛丼二つを少女の前に並べていた。
ポリエチレンの器の一つが空いて、二つ目に割り箸が差し込まれた。二杯目のカモミールティーをお代わりする頃には、少女の顔にも赤みが差す。表情も幾分か和《やわ》らいでいる。そろそろ頃合と感じたか、鏡花が優しく話し始めた。
「初めまして、店長の小泉《こいずみ》鏡花と申します。電話で少しお話ししたわよね、留美《るみ》さん」
少女は顔を上げ、慌てて箸をテーブルに置く。
「食べながらでいいわよ。メールに書かれていたことを私の口から話すから、間違っていなければ頷いてちょうだい」
半分は康祐に聞かせるためだろう。少女が時折頷くのを確認しながら、鏡花は語り始めた。
「あなたの名前は広田《ひろた》留美、小学五年生。半年前、お母さんが親戚《しんせき》の叔父《おじ》さんに殺され、その後お父さんまでもが失踪《しっそう》してしまった。今は施設でお父さんが帰ってくるのを待っている」
俯《うつむ》いたまま微かに動く小さい頭を前に、康祐はかなりのショックを受けた。子供の悪戯《いたずら》なんて揶揄《やゆ》した自分の首を絞めたくなる。夜しか来られないというのも、深い事情がありそうだ。
「呪殺のターゲットは、お母さんを殺した犯人であり、お父さんの実の弟で名は健二《けんじ》。これは間違っていない?」
こくり。箸を咥《くわ》えた頭が動く。鏡花は深くため息をついて、自らのカップに手を伸ばした。
「どうしたよ?」
「ターゲットの名前が気にかかっていたの。直接確認するしかないって思ってたんだけど」
広田健二が?
二つ目の牛丼を半分残し、留美がごちそうさまと頭を下げたところで、鏡花は改めて姿勢を正した。
「留美さん。残念ながらこの依頼は受けられません。いくら私でも――既《すで》に死んでいる人は呪殺できないわ」
その後、康祐が声を上げるまでたっぷり一分はあった。
「死んでいる?」
その声に留美も顔を上げる。緊張の面持《おもも》ちで、次の言葉を待った。
「メールで依頼を受けた直後に、基礎情報を調べたの。留美さんとターゲットの本名、住所、その他|諸々《もろもろ》。広田健二は確かに留美さんの母親を殺して逃走した。でもその翌々日、潜伏先の箱根《はこね》で急死してるのよ。遺体は火葬され、既にお墓に入っているの」
「そんなことありません!」
「事実よ。親戚の人に聞いてごらんなさい」
「だって、お父さんが……」
「お父さん?」
留美は、鏡花の声の鋭さに一度は返答を詰まらせたが、勇気を奮《ふる》い訴えた。
「お願いです、呪殺を引き受けてください。早くしないとお父さんが殺人犯になっちゃう!」
そして目を手で擦りながらしゃくりあげだした。
鏡花と康祐は顔を見合わせる。どうやら留美にとって重要なのは、叔父さんを殺すことよりも父親を救うことのようだ。
「それなら、お父さんのことをもう少し教えてくれる? 場合によっては……引き受けられるかもしれない」
何度も頷きながら、涙声混じりに留美は語った。
失踪の前夜。父親は寝ている留美を起こし、こう伝えたそうだ。
お母さんを殺した健二おじさんが、生きていることが分かった。だからお父さんは、おじさんを殺しに行く。既に死んでいる人間だから殺しても殺人にはならないんだ。でももしかすると、お父さん逮捕されちゃうかもしれない。だからその時は…………。
「ごめんね、って。でも、お父さんが殺す前におじさんが死んでいれば、お父さんは人殺しにはならないでしょ? そしたらお父さんは、きっと帰ってくる」
鏡花は留美の泣き顔をじっと見つめていた。やがて無表情だったその顔に、微かに憐憫《れんびん》が浮かぶ。さっきまでとは違う、優しい声で問いかけた。
「では、最後に聞かせてちょうだい。犯人を呪殺すること、お父さんと以前のように一緒に暮らすこと。二つのうちどちらかしか選べないとしたら、あなたはどちらを選ぶ?」
「お父さんと、暮らしたいです」
泣いて乱れた声だったが、迷わず留美は答えた。
「……決まりね」
鏡花は前を見つめ敢然《かんぜん》と言い放つ。
「この依頼、あなたではなくお父さまを依頼人にすることで、承《うけたまわ》ります」
変則的ではあるが、契約《けいやく》はまとまった。依頼人を捜し出すことから始まるという前代未聞な仕事ではあるが。鏡花は表情を引き締めると康祐に次々と指示を下す。
「広田健二の周辺を洗うわよ。留美さんのお父さんが言ったことが真実かどうか、ハッキリさせましょう。康ちゃんは逃亡してからお墓に入るまでに、健二が接触した全ての人物に事情を当たって。明日までにリストを出しておくから」
「なんで健二なんだ。お父さんの方でなく」
意味が分からず尋《たず》ねると、鏡花は薄く笑って続ける。
「留美さんのお父さんは、健二を追ってるんでしょう? だったらその後を辿《たど》っていけば、絶対どこかでお父さんは見つかるわ」
「なるほど」
「さ、そうと決まったらお開きよ。私はジョナサンと調べ物に取りかかるから。康ちゃんは留美さんと一緒に自宅待機ね」
「誰だよジョナサンって、パソコンか?……って、なんで留美ちゃん俺ん家に? 住んでるとこに送ってやりゃいいだろ」
「留美さんは家出中なのよね」
こくりと頷く留美。康祐は慌てる。
「そりゃ余計に泊められないだろ! 警察来るじゃねーか」
「それは大丈夫。留美さんの施設は、親戚がいる子は、月のうち数日をその家で過ごさせることになってるの。ちょうど今日から三日間がそうなのよね」
「ひょっとして、今回はあっちにいますって両方に嘘《うそ》ついたってことか?」
留美は頷いた。康祐の口調に威圧され、本当に小さくではあったが。
「電話で一芝居打ってどちらにも確認取ったけど、大丈夫だったわよ。とりあえず日曜の夜までは心配いらない」
「別に家出なんかしなくたって、普通に来て普通に帰りゃいいのに……。とりあえず、泊めるなら鏡花の家にしろよ。女の子なんだから」
「だって康ちゃんはロリコンじゃないんでしょ? ならいいじゃない」
康祐はうっと言葉に詰まる。さっきの復讐か?
「俺は良くても世間様はそう見ないの」
「仕方ないわよ。私の家、第三者は入れないんだもの」
「俺のとこだって第三者用の布団《ふとん》はねえよ!」
ごめんなさい、とか細い声で留美が立ち上がった。そのまま息を継ぐ間もないほど、ごめんなさいを連呼される。
「お願い、喧嘩《けんか》しないで――」
喧嘩? 思わず両者顔を見合わす。いつも通りに会話してるだけなのだが。もしかして、時にお客さんが引きつった笑みのまま帰ってしまうのは、このせいか?
己《おのれ》の行為を回顧して反省に浸る康祐だった。が、
「ほらごらんなさい、康ちゃんのせいよ!」
鏡花の一言でそれは数秒で終わった。
「あのなぁ……」
口を開くと、ぐい、っと背中からランニングを引っ張られる。見ると、横に立つ留美が涙の滲んだ瞳で見上げていた。
ああ、仕方ない。
「今回だけだぞ、泊めるの」
「ありがと、康ちゃん。タクシー代|弾《はず》むわね」
当たり前だ、の言葉は飲み込んだ。また喧嘩≠ノなったらかなわない。
「じゃあ留美ちゃん、行こうか」
「あ、あの、よろしくお願いします、お兄ちゃん」
留美はぺこんと頭を下げた。
康祐は留美を連れ、店の前からタクシーで帰宅した。数千円かかったが自分の懐《ふところ》は痛まないので良しとしよう。それよりもランニングシャツ一枚の変態と思われなかっただろうか?
「静かにな、もう日付変わってるし」
囁きながら、雨ざらしになっている錆《さ》びた鉄階段をそっと昇った。
アパートは築三十年以上経た木造二階建て。階段を昇って外廊下の右端が康祐の部屋だ。
玄関を入るとまずキッチンのある板の間へ留美を座らせる。それから自分は奥の和室へ急行。部屋に転がる『教育によろしくないもの』を隠し、準備万端で板の間に戻ると、留美はテーブルに突っ伏して眠っていた。
「ああ……子供の起きてる時間じゃないものな」
留美の眼鏡を外し、万年床にフリースのまま寝かせる。そして自分はどこで寝ればいいんだと自問する。結局、押し入れの奥からコタツ用の布団を引っ張り出すと、それで身体を巻いて空いている隙間《すきま》に転がった。畳《たたみ》なのが幸いして痛くはない。
真横にある留美の寝顔を見守りながら、明日はどうするかを考える。二日間も閉じ込めっぱなしというわけにはいかないだろう。施設か親戚の家に戻って、そこで待ってもらうのが一番だというのに、なぜ彼女はそうしないのか。
「もう少し、この子の事情を聞く必要があるな……」
熟睡する小さな顔を見ながらそう考えた。
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4 ターゲットを巡る冒険
翌朝はまたも携帯のコールに起こされる。電話ではなくメールだったが、時刻を見て康祐《こうすけ》は舌打ちした。朝の六時だ。マナーモードにしておけばよかった。
『康ちゃんへ。パソコンへ指令書(添付ファイル付き)送りました。よろしく鏡花《きょうか》』
何がよろしくだ。いやいや、もしや徹夜で今まで頑張っていたわけか?
鏡花の頑張りに敬意を払って、起こされたことは我慢《がまん》しよう。机に座りパソコンを起動する。
添付ファイルの一つは画像で、当時の新聞記事をスキャナで取り込んだものだ。事件を報じる三段抜きの社会面記事。その隣は翌々日の日付で、一回り小さい犯人死亡の記事。
もう一つは施設と人物のリスト。潜伏先の宿と、広田健二《ひろたけんじ》が運び込まれた病院、親戚《しんせき》の住所一覧。留美《るみ》の父親、慎一《しんいち》の写真もある。眼鏡《めがね》を外した留美と顔がそっくりだ。
宿の所在地は神奈川《かながわ》県の箱根《はこね》だった。まずは足をどうするか……悩んでいると、背後でもぞもぞと布団《ふとん》が持ち上がる。振り向くと目の開いていない留美が、布団を被《かぶ》って座っている。
「おー、おはよう。ひょっとして起こしちまったか?」
留美は首を横に振ると、掛け布団を引き寄せ自分をすっぽりと包み込んだ。そして目の前の布地に顔を近づけ匂《にお》いを嗅《か》いでいる。そんなに臭《くさ》いのかと康祐はいささかショックを受けた。
「悪りぃ、たまにしか干さないんで」
ううん、と小さな声が続く。
「お父さんと同じ匂いがする……」
そのまま布団をぎゅっと抱きしめて、ころんと横になってしまった。寝ぼけていたらしい。
「お父さん、か。こんな小さな子を置き去りにして、何考えてるんだよ父親は」
掛け布団を直してやりながら康祐は呟《つぶや》く。父親がいなくなって数カ月。その名がいつ殺人犯としてニュースに出てくるか、留美は気が気じゃないだろう。
「……お父さん、早く見つかるといいな」
呪殺《じゅさつ》の代金目当てではなく、純粋にそう願った。
「さ、出かける準備だ」
留美を起こすのはあとでいいとして、一日部屋から出さないつもりだから、食料を買い置きしないといけない。ジーンズに適当なシャツを重ね着して外に出た。
数分後。コンビニの袋を提げた手で玄関を開けると、室内の留美は着替えの真っ最中だった。ゆうべ干しておいたリュックの中身が足元に散らばっている。康祐の姿を見ると下着姿の留美はびくっと肩を上げ、バッテン掛けにしているポシェットをぎゅっと握った。
「ごめん、外で待ってる」
ドアを閉めゆっくり十数える。いーですかー、とノックして、改めて中に入った。着替えた留美の肩にはポシェットがない。ということは服の内側に入れているのだろう。
「これ、朝飯と昼飯。腹減ったろ?」
こくり。ぎこちなく首が傾く。まだ康祐に対する警戒心は解けきらないようだ。
「コンビニ弁当、何種類か買ったから好きなの取れよ。残ったら冷蔵庫に入れといて」
袋をテーブルへ乗せると、留美は怪訝《けげん》そうに顔を上げた。
「お兄ちゃんは、食べないんですか?」
「今日は忙しくなりそうだから早めに出るよ。お父さんの手がかりを探しに行ってくる。帰るのも夕方になりそうなんだけど、一人で留守番できるな?」
できないと言われても困るのだが、幸いにも留美は聞き分けよく頷《うなず》いた。
「いくつか注意事項ね。大声、どたばた歩きは厳禁。退屈だったらテレビと、その辺に転がってる漫画も読んでいいよ。それと……悪いけど、外には」
「出ません」
留美はこわばった顔で断言する。自《みずか》ら望んでいるように見えるのは、考え過ぎだろうか。
「うん、それじゃ……」
革《かわ》ジャンを着てバックパックを背負う。ドアノブに手をかけ、そうだ、と振り返る。
「注意事項、もう一つね。あのさ、この部屋の窓の下。そこの床に大きなシミあるだろ?」
玄関の正面に、木枠のガラス窓がある。その真下に畳《たたみ》一枚分の、丸い黒いシミがあった。
「あそこ雨漏《あまも》りが酷《ひど》くて、床が腐りかかってるんだ。だから絶対乗っかったらダメ。OK?」
「はい」
康祐は今度こそ安心すると、軽く手を振って自室を後にした。
学生時代の友人にバイクを借り、一路箱根へ。一時間と少しで塔《とう》ノ沢《さわ》にある『袴田《はかまだ》旅館』にたどり着いた。温泉観光地箱根といっても、宿の規模は様々だ。袴田旅館は木造|瓦屋根《かわらやね》のこぢんまりとした二階建てで、民宿と言ったほうがしっくりする。
ここは健二が死ぬ直前まで潜伏していた宿だ。事件が起きてから半年たらず、従業員も記憶に新しいだろう。とりあえずツーリング客を装って正面玄関の引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
と出迎えてもらうのに五分以上待たされた。しかしやってきた和服姿の女将《おかみ》を見て納得。シミと皺《しわ》の多彩な顔、どう見ても七十歳以上のお婆さんだ。
「立ち寄り入浴なんですが、まだ早いですか?」
「結構ですよ。今日は他にお客様がおりませんので」
週末でそれはマズイんじゃなかろうか。余計な心配をしつつ、ついでにと朝食をお願いしてみたところ、二つ返事でOKを貰《もら》う。コンビニを探す手間が省けた。
十分ほど湯に浸かり、すぐさま教えられていた食堂へ向かう。二十畳ほどの和室にテーブルが四つ。外から見た窓の数から察するに、客室の数もそれくらいなのだろう。
テーブルの一つに生卵や納豆、梅干しなど日本の食卓を代表する品々が並んでいた。冷蔵庫に入ってたものをそのまま出したんじゃないか、という疑問は捨て置く。
席に着くとさっきのお婆さん女将が茶碗《ちゃわん》と味噌汁椀《みそしるわん》の乗ったお盆を持ってやってきた。どうやら客だけでなく従業員までいないようだ。
給仕してもらう間、それとなく健二のことを聞いてみる。話し相手がいない時間が長かったらしい女将は、ちょっと水を向けるとノンストップで喋《しゃべ》り続けた。
「あのお客さんはね、最初から挙動不審《きょどうふしん》だったのよ。泊まりなのに手荷物は小さいバッグのみ。服もよれよれ。ああ、こりゃやりそうだなーと思ってね」
「さ、殺人犯って分かってたんですか?」
「いんや、無銭宿泊の方だよ。多いんだよねぇうちは。ババア一人なら騙《だま》せると思うのかね」
「はぁ」
「ちなみに今のところ連戦連勝だけどね。全員ム所送りになってるよ」
「はぁ」
「ところでご飯お代わりどうだい?」
返事もしないうちにお櫃《ひつ》から茶碗へ白米が移動していた。まあいい、話を全《すべ》て聞くまで、食事タイムは続いた方がいい。
しかし何故《なぜ》かその後、話題は夫に先立たれた女将の女|繁盛記《はんじょうき》になった。口を挟む間が掴《つか》めない。女将も喋り続けている割には、康祐が箸《はし》を休めていると鼻息荒くしゃもじをしゃくる。仕方なくご飯を平らげると、目を逸《そ》らした隙《すき》にまたも茶碗の中身が元通りになっていた。
恐怖・食べても減らない白米の怪!
「あのー、殺人犯が泊まった日のことなんですが……」
汗を滲《にじ》ませつつ軌道修正する。ここに至るまでにご飯を四杯も食べ、かなり苦しい。
「そうそう、それで緊張していたら、その日の夜半にお友達と仰《おっしゃ》る方が見えてね」
「え!?」
新事実が浮上する。白米四杯分、頑張った甲斐《かい》があったようだ。
「スーツを着たきちんとした人だったから、安心して同じ部屋に泊めたんだよ。遅くまで二人で熱心に話してたねぇ。あとで警察から聞いたんだけど、自首するよう説得してたようですよ。……でも結局、あの方の努力も無駄《むだ》に終わってねぇ」
そこからは深夜の騒動についてだった。
夜明け前の、薄暗い中。女将は客室から自分を呼ぶ大きな声で目を覚ました。駆けつけると、身体《からだ》を痙攣《けいれん》させている健二と、それを抱きかかえ叫んでいる友人の姿が。
「病院はどこだ! って、血相変えててね。ご友人の車に乗せられてすぐさま教えた方向へ。でも結局、二人とも戻ってこなかったね。数日後にご友人から宿泊費が現金書留で送られてきた。犯人の方は、あのまま亡くなったんだってね」
「亡くなった理由って、なんだったんですか?」
自殺かと思ったが、病気だよとあっさり否定された。
「働き盛りの男性に稀《まれ》にある病気だとかで……詳しいことは、病院の先生じゃないと」
搬送先なら控えてある。ここらでいいだろう。
「どうも、ごちそうさまでした!」
「え、まだお櫃に残ってますよ」
どうもお櫃を空にするまで食べさせるつもりだったらしい。この女将、単なる片づけ魔か。
「いえもう十分で。ありがとうございました」
康祐と女将は連れ立って玄関へ向かう。帳場の前で、康祐は大げさに声を上げた。
「そうだ、やっぱりさっきのご飯下さい。おにぎりにして貰えませんか? お昼のお弁当に」
「お安い御用ですよ。いやぁ、若い人が腹いっぱい食べる姿はいつ見ても気持ちいいねぇ」
俺は気持ち悪くなりましたよ、という言葉は封印した。
女将が上機嫌《じょうきげん》で引っ込んだ隙に、康祐は帳場で宿帳を探す。A4判|縦《たて》のサイズで、古めかしい紙表紙に綴紐《とじひも》の冊子《さっし》だった。住所、名前、電話番号を記載する欄《らん》が一ページに十人分。
ページを前へ繰る。半年前なら別の冊子かもしれないと考えたが、初めの日付は半年どころか一年近く前だった。
「ということは……」
事件の日付でチェックすると、広田《ひろた》健二の文字を見つけた。本名で書いているとは思わなかった。深く考えない性質《たち》だったのだろう。さて、最も重要な次の名前は。
『横川《よこかわ》 春樹《はるき》   住所 東京都』
偽名《ぎめい》の可能性もあるが、もしこれが本名なら、一気に健二の謎《なぞ》に近づける。
心のメモ帳にしっかり書きつけ、カウンターから出て女将を待った。
「そういや女将さん」
おにぎりを受け取りつつ、再度質問をぶつける。
「事件の後はマスコミ、大変だったでしょう。友達の兄もここに取材に来てるんだけど、女将さん覚えてるかなぁ。事件から何カ月も後にふらっと再調査に来たらしいんだけど」
「さあてねぇ……うちはふらっと来る客ばかりだから」
それならと、用意してきた物を取り出した。グループ旅行の写真だが、パソコンの画像ソフトで加工して、康祐の隣人を慎一の顔と挿《す》げ替えてある。
「ああ、この人なら二カ月くらい前に来て、いろいろ聞いてったよ。その人もご飯いっぱい食べてったよ」
それは食べさせられたんだろ……? 康祐はまだ見ぬ留美の父に、深いシンパシーを感じた。
「友達の兄貴、ふらっと出ちゃうとなかなか帰ってこないらしくて……ご両親が心配してるんだ。次はどこに行くかって、女将さんに話さなかった?」
「……搬送先の病院に行くとは言ってたけどねぇ」
康祐は適当にお礼を言い宿をあとにした。二時間近くを費やしてしまったが、得るものも大きかったので良しとしよう。
鏡花へメールで『横川春樹。健二の友人。宿で一緒だった』と最低限の情報を送る。しかしこれだけで鏡花は、横川春樹≠フ情報全てを拾ってくるのだ。
「本当、どこにそんな技術があるのかね、あのお嬢様は」
康祐流|褒《ほ》め言葉を呟き、バイクへ跨《またが》り次なる目的地、搬送先の病院へと走り出した。
病院は山を下りた麓《ふもと》の町、箱根《はこね》湯本《ゆもと》にあった。メインストリートから外れた一角に建つ、鉄筋コンクリート二階建ての小ビル。入院施設はないようだが、内科外科小児科泌尿器科と大病以外ならほとんど用が足りそうだ。
ところで、医者には守秘義務がある。警察でもない人間に健二の死因をペラペラ喋ってくれるとは思えない。そこで康祐は付近の飲食店を当たってみることにした。
目をつけたのは病院から歩いてすぐの、小さな食堂。いかにも昔からある風情《ふぜい》の造りで、ゆっくり近づくと、古びた立て看板に「昼定食 五〇〇円〜」と書いてある。
「随分《ずいぶん》安いな」
胃の中に茶碗四杯分の白米が入ってなければ食べていくところだ。康祐は店の少し先にバイクを止めた。引き戸には準備中の札がかかっているが、十一時ならば仕込みの店員がいるだろうと、戸を開けた。
狭い空間に四人掛けの小さなテーブルが六つ並んでいる。店員らしいおばさんが一人、椅子《いす》に腰かけてテレビを見ていた。
「恐れ入ります、実はこういう者なんですが」
康祐は『適当な肩書きを印刷した名刺』をおばさんに差し出す。そこには「フリーライター矢野《やの》大輔《だいすけ》」としか書いていない。疑う隙を作らないよう、一気に捲《まく》し立てる。
「事件ってすぐに風化してしまうんですよね。新聞や週刊誌も通り一辺倒なことしか載《の》せないし。僕は一つの事件を、犯人の生い立ちから性格まで綿密に調べた上で、記事にするのを生業《なりわい》にしているんです」
「へえー、作家さん?」
「残念ながら本はまだ出てないんですが。半年ほど前、この町で客死した殺人の容疑者がいたんですが、ご存じですか?」
おばさんは、「ああ」と手を打って、記憶を引っ張り出した。
「もちろん覚えてるよ。すぐそこの病院で亡くなったんだよ、その人。ね、あんた」
おばさんの視線を追うと、鉢巻《はちまき》をキリリと巻いた男性が、暖簾《のれん》のかかったカウンターから顔だけ突き出していた。何事か、と不審そうに康祐を見ている。とりあえず愛想《あいそ》笑いで返すと、顔は直《す》ぐに引っ込んだ。取材の許可を貰えたと勝手に判断する。
おばさんに向き直り改めてお願いすると、「聞いた話だからあまり詳しくないんだけどね」と前置きして、目の前の席に腰をかけた。促されるまま康祐も向かいへ座る。
「ぽっくり病で逝っちゃったらしいよ、その犯人」
「ぽっくりというと、七五三で女の子の履《は》く?」
「やあね、違いますよ! 夜中にぽっくり死んじゃうから、ぽっくり病。今の若い子は知らないのねぇ、昔からある病気なんだけど」
「そうなんですか?」
「そうよー。二、三十代の男だけがかかる珍しい病気でね。原因は不明で、健康な人が夜中突然叫び声を上げて、心臓が止まっちゃうんだって。お兄さんも気をつけてね」
「気いつけるったって、気のつけようがねぇだろう、あれは」
引き戸の開く音とともに乱入したポロシャツのオッサンが、会話に割り込む。常連客らしく「定食」と一言告げると、店の新聞を片手に隣のテーブルにどっかり座った。おばさんが「ライターさんだって、」と嬉しそうに教えると、わざわざ体の向きをこちらへ変えた。
「何、ぽっくり病調べてんの?」
「いえ、この町で亡くなった殺人犯のことを」
「ああ、広田健二。事件の翌々日に死んだんだよな。天罰だよ天罰」
「よく名前を覚えてますね」
「付き添いの男が何度も叫んでたからさ。健二、健二ー! って」
え? と目を丸くすると、おばさんが代わって説明した。
「この人、病院の事務やってんのよ」
「マジっスか!?」
思わず素《す》の喋りに戻る康祐。
どうやら本命が現れたらしい。ここは根こそぎ情報を貰いたいところだ。はやる気持ちを抑《おさ》えつつ、冷静にオッサンに応対する。
「それじゃ当時大変だったでしょうね、警察の対応とか」
「そうだなぁ。先生の方が大変だったようだよ。ほら死亡診断書書かなきゃいけないでしょ。病名どうしようかって」
「ぽっくり病じゃないんですか?」
オッサンは、そこなんだよと得意げに指を振りかざした。
「ぽっくり病ってのは俗称《ぞくしょう》でね。実際にはブルガダ症候群《しょうこうぐん》かもしれないし、狭心症《きょうしんしょう》や心筋梗塞《しんきんこうそく》かもしれないし。解剖《かいぼう》しなきゃハッキリしないんだと」
「解剖しなかったんですか?」
「うん、本人の書き置きに解剖だけはやめてくれってあったんで」
黙って頷いてしまったが、よく考えると変だ。有り得ない。
「あの、自殺……じゃないんですよね?」
「自分で心臓止めることができたら、それこそニュースになるよ」
「いやだって、解剖はやめてくれって、まるで遺書じゃないですか。死ぬの予想してたってことですか?」
オッサンのテーブルに定食が運ばれてきたため、一時中断。一口二口箸を進めてから、ようやく返事がもらえた。
「書いた時は自殺するつもりだったんじゃないかって、付き添いの人が言ってたよ」
「でも心臓|麻痺《まひ》ってある意味変死でしょう。解剖の義務はないんですか?」
「死亡時に医者が立ち会っていれば、ないよ。広田健二が死んだのは病院に運ばれたあとだったし」
妙に都合のいい話だ。
「外傷もないし毒物の徴候《ちょうこう》もない。それじゃあ死亡診断書出してもいいだろ、って。医者が事前に診察した上で判断したんだから、文句言う奴はいなかったよ」
オッサンの興味は食べる方に向いたようで、そこで話は終わった。昼休みに入ったのか店内も徐々に埋まりだし、康祐のテーブルも相席をお願いされる。そろそろ引き際《ぎわ》か。
メモをまとめながら康祐は考える。
どう考えても怪しい。死を予想したような書き置き、解剖拒否、都合の良すぎる状況。留美の父親の言う『死んだと見せかけて実は生きていた』可能性がぐんと上がった。しかしそうなると、医師の死亡診断書をどう考えるべきか。あるいは、そいつもグル?
医師の人となりをそれとなく聞いてみたが、地元に昔からある医院の三代目で、借金や女遊びの悪い噂《うわさ》はないようだった。強《し》いて言えば処方する薬の種類が多いくらいか。
『健二とのつながりの有無《うむ》を、鏡花に調べさせるか』
独り頷き、これで最後ともう一度オッサンに頼る。
「ところで、その付き添いの方の連絡先とか聞いてませんか? 取材に伺《うかが》いたいんです」
「あー、それなぁ……警察に聞けば分かるんじゃないの? 病院じゃ控えてないな」
警察ね、と軽くため息を吐く。偽名のまま訪ねていくのも可能だが、出来るだけ避けたい。
「もう一つお願いします。その時呼んだ葬儀社を教えてもらえませんか?」
この質問に対し、オッサンは更に不可解な回答をよこした。
「いや、オレも知らないんだわ」
「え? 病院指定の業者じゃないんですか?」
「ああ、葬儀屋は付き添いの人が手配したんだよ。こいつの葬儀は自分がやりますからって。見慣れない社名の車が遺体を迎えに来てたよ。確か、信じるとかなんとか……」
「そうですか……」
結局、話はそこへ行くようだ。横川春樹。コイツを当たる以外にないらしい。
よし、と膝《ひざ》を叩いて広げたメモ類を片づけた。地元警察に、行くだけ行ってみるか。
腰を上げかけた時、おばさんが一言。
「ところでお兄さん、注文は?」
ハッと気がつくと、オッサン以外の全員がじっとりした目で康祐を盗み見していた。食事もせずに席を占領している失礼な奴《やつ》と言わんばかりに。
もちろん、普段の康祐ならお礼を兼ねて何か注文するのだが、なにせ胃袋には白米大盛り四杯が残っている。だが。
「注文、何?」
営業スマイルを決めるおばさんの眼《め》は、気のせいか鋭く光っていた。康祐は思わず呟いた。
「て、定食を一つ……」
吐く。絶対吐く。
前屈みになってヨロヨロと店から脱出。バイクへたどり着くと、シートにもたれた。
「あーくそ……もう二度と箱根には来ねぇぞ」
迷った末、一応警察にも寄る。横川は本名だと判明したが、住所は教えてもらえなかった。ただ、葬儀社の正確な名称が分かった。『哀信《あいしん》セレモニー』という東京の会社だそうだ。
今までに得た情報をまとめて鏡花にメールで送る。今のところ返信はない。
「次はどうすっかな」
時刻は午後一時。鏡花のメールを印刷したものを、もう一度広げた。
旅館、病院。これらは既にチェック済み、残るは親戚めぐり。どうやら箱根とはお別れだ。
「ま、ついでに温泉も入れたしな」
ふと顔を上げると、目の前は土産物《みやげもの》屋だ。店頭の棚に、伝統工芸品の寄木細工《よせぎざいく》が並んでいる。木工品の一種だが、色違いの木肌の組み合わせで美しい幾何学模様が並ぶのだ。
お盆やティッシュケースと並んで『ひみつ箱』と書かれた小箱が積んであった。ちょっとした仕掛けがあって、決まった手順を踏まないと蓋《ふた》が開かないらしい。パズルのようなものか。
「子供ってこういうの好きだよな……」
なんとなく小さいのを一つ買い、バッグの底に丁寧《ていねい》に入れた。
「そういや留美ちゃん、シミ踏んでないだろうな」
できるだけ早めに帰ろうと、スピードを上げ高速道路の入り口を目指した。
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5 理論系呪術・実践系呪術
鏡花《きょうか》は大きく伸びをすると、新しいティーポットに茶葉を入れた。時刻は十七時。土、日のティーコジーは午前中から営業しているので、都合七時間以上こうして座っていたことになる。
店舗の奥は、トイレとミニキッチンになっている。湯沸かしポットに水を汲《く》み、沸騰《ふっとう》させたところで丁度バイクのエンジン音がした。ほどなく扉に人影が映る。
「鏡花、茶ー」
入るなり横柄に告げたのはもちろん康祐だ。退屈していた鏡花は喜んで、ローズティーを差し出した。
「はい、お疲れさま」
「たっくさん調べたぞ。メール見たか?」
席に着き捲《ま》くし立てる康祐を押し止め、鏡花はゆっくり答える。
「横川《よこかわ》春樹《はるき》と哀信《あいしん》セレモニーでしょう。もう一日くれれば資料は完璧《かんぺき》に揃《そろ》うけど」
「ああ、俺も明後日《あさって》からの方が動けるから、それでいい」
康祐は頷《うなず》くとまだ熱い紅茶を口に含んで一息ついた。
「東京《とうきょう》に戻る途中で、留美《るみ》ちゃんの叔母《おば》さんの家にも行ってきたよ。お父さんの同僚から捜索を依頼された探偵って触れ込みでさ」
「ふうん。何か情報は貰《もら》えた?」
「健二《けんじ》の葬式と骨の行方《ゆくえ》くらいかな。叔母さんに直接電話が来たんだそうだ、葬式に出てくれないかって。……結局断ったそうだけど、横川も予想してたみたいで、『お骨《こつ》はこちらで共同墓地に入れさせて頂きます』だとさ」
「まんまと骨壺《こつつぼ》を回収したって感じね。中身は空?」
「かもね」
康祐はカップを片手に、独《ひと》り言《ごと》のように切り出した。
「……広田《ひろた》家はさ、三兄弟なんだ。留美ちゃんのお父さんの慎一《しんいち》さん、妹の久美子《くみこ》さん、一番下が問題児・健二。末っ子ってことで、両親が相当甘やかしたらしいな。慎一さんや久美子さんが早々に家を出て、二年前両親が相次いで亡くなった時、家と財産は全部健二のものになったそうだ。二年で食いつぶしたらしいけど」
「それで、留美ちゃんの家へタカリに行ったの?」
「いや、呼んだのは慎一さんなんだ。職探しを手伝ってやるつもりだったらしい。その頃健二は、違法な仕事に関《かか》わったりしてたから、本気で心配したんだろうな」
「そして、恩を仇《あだ》で返したってわけね」
面白くなさそうに呟《つぶや》くと、鏡花は顔を顰《しか》めた。
泊めてもらった家で、兄が出勤した途端、兄嫁に金をせびり一喝《いっかつ》され逆上。酔いも手伝ってそこにあった包丁で衝動的に刺し殺してしまった。
新聞に書いてあった内容だ。留美が小学校に行っていて不在だったのが唯一《ゆいいつ》の救いと言える。
「慎一さんと留美ちゃんのお母さんは、高校時代からの恋人同士で、凄《すご》く仲のいい夫婦だったそうなんだ。慎一さん自殺してるんじゃないかって、久美子さん心配してたよ」
「その口調だと、復讐《ふくしゅう》が目的だとは知らないみたいね」
鏡花の指摘は当たっていた。久美子は、兄は妻の死にショックを受け、ふらりと姿を消したのだと思っていた。当然、健二が生きているなんて知りもしない。
「久美子さん、優しそうな人だったよ。旦那《だんな》さんも人が良さそうでさ……何で留美ちゃん、行くのを嫌がるんだろうな」
これには鏡花は無言だった。判断材料がなさ過ぎるのだろう。代わりに別方向へ話を振る。
「留美ちゃん、今一人なの?」
「ああ、留守番だ。これ飲んだら帰るよ。晩御飯くらい作ってやらねーと」
すると鏡花は目を丸く見開く。
「康ちゃん料理できたの!」
「そこまで驚くか? 一人暮らしの基本だろ。俺は家庭料理得意だぞ、焼きソバ、タコ焼き、お好み焼き」
「それはお祭り料理でしょう」
「なんとでも言え。ちなみに今夜は広島《ひろしま》風お好み焼きだ」
はいはい、と鏡花は投げやりに返事をする。
「じゃあ、留美ちゃんしっかり元気にしてやってね」
アイアイサー、と陽気に返事をして康祐は立ち上がった。
近所のスーパーで食材を買い、バイクをアパートの下に停《と》め階段を駆け上る。ドアを開けると同時に「お帰りなさい」と小さい声が返ってきた。
「遅くなってごめんな」
留守番をしていた留美は、康祐の帰宅にほっと息をついた。しかしぎこちない表情は昨日とあまり変わっていない。丸一日テレビを見ていたらしく、今も子供向けの番組が流れている。
「少し早いけど、後で出かけるんで晩御飯作るよ。お好み焼き好きか?」
お好み焼きと言った途端、留美の顔は輝きだした。
「わたし、混ぜるのやりたいです」
「……ごめん、広島風なんだわ」
留美が首を傾げたので、実際に作って見せることにした。
ダシ汁を入れた粉と、キャベツの千切り。他の具材も用意して、ホットプレートを引っ張り出す。緩《ゆる》めの生地できれいな丸を作り、一心不乱にキャベツを載せる。見る見る、黄緑のキャベツが山になる。高さ二十センチを超えたところで留美が不安そうに康祐を見上げた。
「あの、どのくらいで」
「ん、ボウルの中の全部だよ」
「全部!?」
留美は悲鳴を上げた。しかし康祐は別のボウルにも手を伸ばすと、キャベツ山の上にさらに具を載《の》せ続ける。全体の高さは三十センチにも達した。
「これじゃ引っくり返せません!」
「そう思うだろ? できるんだよこれが」
康祐はにやりと大胆不敵《だいたんふてき》に笑い、大ヘラを両手に構える! 留美が息を呑《の》んでいると。
「あ、忘れてた」
康祐は、おもむろに残っていた生地をまわしかけた。見るみるキャベツ山は沈没していく。
「まあこれかけると、たいてい嵩《かさ》が減るんだよな」
ため息のような声とともに留美の肩ががっくり落ちた。
「ひどいです。お兄ちゃんはわたしを騙《だま》したんですね」
「いや、別に騙したわけじゃ……それにこのままでも十分迫力あるし」
現在、山の高さは二十センチ強。
「そ、そうですね、やっぱりお兄ちゃんは凄《すご》いんですね!」
留美は再び目をきらきらと輝かせ始めた。
「お前、立ち直り早いなー」
康祐は二つのヘラを生地の下へ差し込んだ。
「見てろよ。そりゃっ!」
気合とともに、一瞬で上下を入れ替えた。くるりと回された山盛りのキャベツはきちんとプレート内に留まっている。留美は拍手|喝采《かっさい》だ。
焼きそばと卵を隣のスペースで焼き、お好み焼きをずれないようにきっちり乗せる。半熟のタイミングを見計らって、最後にもう一度お好み焼きを引っくり返し、完成。
「凄いです、お兄ちゃんは天才です!」
今や留美はスタンディングオベーションだ。コンサートのようなノリである。
「わたし、こんな迫力あるお好み焼きの作り方、初めて見ました!」
「俺もお好み焼きでここまで賞賛されたのは初めてだよ」
どうやらお世辞《せじ》ではないらしく、留美の頬は本当に赤く上気していた。お好み焼き一つでここまで打ち解けてくれるとは、案外食いしん坊なのかもしれない。
「それじゃ食べるぞー」
「はいです!」
小さい頭が嬉《うれ》しそうに上下する。ヘラで直接口に運ぶのが本格的だが、やけどを心配して皿に取り分けた。
「……おいしいです」
「だろ、東京じゃ広島風やってる店は少ないからな。食べたことない奴《やつ》、結構いるんだよ」
留美は熱心に箸《はし》を口へ運び、次第に無口になっていった。それに比例して、お好み焼きはどんどん減っていく。
康祐は自分の分を食べながらそんな留美を見守っていたが、彼女のペースが落ちてきた頃、何気《なにげ》ないふりを装って聞いてみた。
「今日な、叔母さんの家に行ってきたんだ。留美ちゃんが来ないこと、残念がってた。……明日やっぱり叔母さんの家に行かないか?」
ぴたりと箸が止まる。うつむいた頭はブルブル振られ、拒絶の態度を示した。
「俺、バイトでいないから、明日も閉じこもりっぱなしになるぞ」
「いいです…」
[#挿絵(img/Juliette_091.jpg)入る]
か細い声に、もしやと質問を変える。
「ひょっとして、叔母さんの家に行くと意地悪されるのか?」
ブルブルブル。最大級の否定。
「おばちゃんは、優しいです。おじちゃんも」
「じゃ、なんで」
「……迷惑をかけたくないから」
箸を置いた留美の背丈が縮む。最初に見つけた時と同じくらいかたくなな表情で、俯《うつむ》いてしまった。これ以上聞くべきではないようだ。
「うん、ま、留美ちゃんが平気ならいいや」
康祐は歌なんぞ口ずさみ、つとめて明るく空いた皿を片づけだした。流しに立ちつつ、チラチラ後ろを窺《うかが》うと、留美はまだ背中を丸めたままだ。
「俺な、この後少ししたらバイト行かなきゃならないんだ。帰るの明日の午後になるんだけど、一人で大丈夫か?」
こくん。首が下へ傾く。
「今夜がお通夜《つや》で、斎場の夜勤係なんだ。お通夜って分かるか?」
首の傾きとともに小さい声。
「お父さんと一緒にやった……お母さんの時に」
あ、と康祐は固まった。そうだ。この子は数カ月前に辛《つら》い思いをしたばかりだった。
「お父さんは、今、あのお姉ちゃんが調べてるし、俺もバイトが終わったらまた捜しにでるから。心配すんな、必ず見つけるから」
「……あの……」
「ん?」
聞き返すと、口をつぐんでしまった。放っておくのがいいかと軽く流していたら、今度は留美の方が堪《こら》えきれなくなったようだ。
「お父さんが見つかったら、おじさんを呪殺するんですよね……?」
「ああ、そのつもり。もちろん健二おじさんが生きてるって前提でね」
「呪殺で死ぬのって……苦しむんですか?」
その言葉で何となく、留美の言わんとすることを察した。バイトは遅刻覚悟で隣に腰を下ろし、小さな瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込む。
「留美ちゃん、君さ、本当は呪殺したくないんだろ?」
返事はないが固まったのは、的《まと》を射《い》たからだろう。康祐は一人続ける。
「いいんだ、抵抗があって当然だよ。鏡花に聞かされたと思うけど、要は殺人なんだから」
「お兄ちゃんは、抵抗ないんですか?」
「そうきたか……」
康祐はうーん、としばらく目を瞑《つぶ》っていたが、一つ頷くと留美に向かって人差し指を立てた。
「分かった。留美ちゃんにだけ特別に教えてあげよう。ただしその前に、鏡花の呪術を完璧《かんぺき》に理解しないといけないな」
真剣に耳を傾けだした留美に、康祐は大人を相手にするのと同じくらい真摯《しんし》に語った。
「呪術というものは、大雑把《おおざっぱ》に二種類に分けられる」
「西洋風と日本風ですか?」
「その分け方じゃ二種類どころじゃ収まらないぞ。ま、これは鏡花が作った理屈で一般的じゃないから、知らなくて当然なんだけど」
康祐は耳慣れない言葉を使った。
「実践系呪術と、理論系呪術。この二つだな」
「じっせん?……」
留美はそれきり黙ってしまった。慌《あわ》てて康祐は論法を変える。
「例えばだな。留美ちゃんは、呪殺ってどうやってやるんだと思う?」
「ええと……秘密の呪文《じゅもん》があって、唱《とな》えると相手が苦しみだして死んじゃう、とか」
「実践系の方だな、それは」
留美は説明して欲しそうな表情を浮かべる。もちろん、康祐は期待に応《こた》えた。
「呪文とか魔術書とか、そういった超自然の力で相手を倒すのが実践系。ただこれは、術者が超能力者であるか、もしくは不思議な力を持った道具が必要になる。お札《ふだ》とかね」
理解できた様子を確認し、次のステップへ進む。
「で、だ。理論系呪術ってのは、実は理解してしまえば誰にでもできるものなんだ。言霊《ことだま》って、知ってる?」
留美は首を左右に振る。
「言葉そのものに呪力があるって考え。良い言葉は相手に幸運をもたらし、悪い言葉は悪運をもたらす。『死ね!』とか『呪ってやる!』とかの言葉も、ある意味言霊にあたるよな」
「でも、『死ね』くらいはみんな使ってます」
康祐は大げさに肯《うなず》いてみせた。
「現在はね。でも、恨《うら》みを込めて『死ね!』って言えば、相手は本当に死ぬって信じてた時代もあるんだよ。その頃の人は、悪意ある言葉をぶつけられただけで思いつめて、結果、体を壊してほんとに死んじゃったりしてたんだ。――留美ちゃん、丑《うし》の刻参《こくまい》りは知ってる?」
「わら人形に五寸釘を打ちつける……」
「そう。あれはさ、術をかけてる姿を決して見られてはいけないと言われている一方で、わざと人目につくように行う場合もあるんだ。何故だか分かるか?」
「呪われてる本人に見せつけるためですか?」
「その通り。お前は呪われてるんだぞ、って知らしめることこそが、呪いをかけるって行為なんだよ。だって変だろ、超自然的な力で相手を殺せるなら、黙って殺っちゃえばいいんだから。つまりこれが、言葉や心理操作を使って相手を陥《おとしい》れる、理論的な呪術というわけ。……鏡花が使うのは、この類《たぐい》の呪術なんだ」
「え? じゃ、じゃあ、お姉ちゃんにはもしかして霊能力みたいなものは」
「うん、ない」
これ以上はないくらいまん丸の目をして、留美は蝋人形化《ろうにんぎょうか》した。瞬《まばた》きすらしないので康祐が不安になったくらいだ。
「あー、もしもし。大丈夫?」
「うっ嘘《うそ》です、だってお姉ちゃん、自分は古くから呪術を司《つかさど》る家系の出身だって、私に……」
絞りだした声に、康祐の容赦《ようしゃ》ない追い討ちが。
「あー、ほら、それが言霊の一種でさ。霊能力がある、奇跡を起こせるって聞かされれば、本当に願いがかなうような気になってくるでしょ? 現実はさておき」
「で、でも、」
うろたえる留美に、半ば愚痴《ぐち》のような康祐の独り言が続く。
「大体、本当に超能力みたいなもんがあったら、俺はここまで苦労してねーって。嘘の事故をでっちあげたり、本人の知らぬ間に部屋取り替えてみたりさ」
「え、でも、でも」
「依頼料も数百万と高額だろ。これさ、仕掛けに金がかかるってのもあるんだけど……一番の理由は、客側に『料金が高いんだから効くに違いない』っていう思い込みがあるからなんだよね。これもまた、理論系呪術の一種なわけ」
「あ、あの……」
康祐が我《われ》に返って顔をあげると、留美はますます青くなっていた。
「つまり、秘密工作をして相手を死に追い込むってことですよね?」
「え? やらないよ。んなことしたらマジ警察捕まるし。殺したフリするだけだよ」
留美は全身の力を失い、ばたりとテーブルにつっ伏した。おいおい、と康祐が能天気にその肩に手を添える。
「おー、大丈夫か。そこまでショック受けることないぞ」
「だ、だってそれじゃ結局」
抱き起こした留美の目にはうっすら涙が浮かんでいた。
「呪殺なんて全部嘘で、つまりサギだったって……ことですか?」
「違う」
ふざけた口調が消えた。珍しく真面目《まじめ》な表情で、康祐は留美を見つめる。
「相手を殺さないと言ったのは、ちょっと術が特殊なせいでね。鏡花の呪術はターゲットにかけるんじゃない。依頼人にかけるんだ。だから、留美ちゃんのお父さんを捜し出さない限り、術はかけられないんだ」
「でも……」
「法律上、俺たちのことを詐欺師と呼ぶしかないのは理解している。けど」
言い淀《よど》む留美の肩を支えて、康祐はハッキリ告げた。
「これだけは覚えていてくれ。俺たちは絶対に、留美ちゃんが望む結末を用意する」
留美は唇《くちびる》をきゅっと閉じる。こわばった表情でだが、確実に一つ、肯いた。ほっとして康祐も笑う。
「んじゃ、バイト行ってくるな。シャワーは使っていいけど、夜九時までに済ませてくれよ。下の家から苦情が来んだわ」
「はい……」
康祐は隣室で黒スーツに着替え、玄関まで行きかけて振り向いた。そこにはボンヤリとうつむく留美がいた。
ふと大事なものを忘れていたのに気づき、布団部屋に戻る。バックパックから小箱を取り出すと、留美の真横にしゃがんだ。
「ほれ、箱根《はこね》土産《みやげ》」
テーブルにぽんと、本日買い求めた工芸品と一枚の説明書を置いた。留美はそれを不思議そうに見詰める。
「ひみつ箱って言って、パズルみたいな仕掛けがあるんだ。この紙に開け方が書いてある」
「……これ……貰っていいんですか?」
「土産って言ったろ」
留美は箱を手に取り、再び俯いた。
「…………とう」
「ん?」
「ありが……とう」
面と向かって礼を言えないようだ。康祐は手を伸ばすと、留美の頬《ほお》をムニュっと摘《つ》まんだ。
「ひぇっ!?」
思わず見上げた留美に、いたずらっ子のような顔をする康祐。
「いってらっしゃいは?」
「あ、いってらっしゃ……い」
よろしい、と大きく肯くと、今度こそ康祐は玄関に立った。
「明日の午後帰るから、待ってろよ」
目を細めた留美の顔を見届けて、康祐はバイトへ向かった。
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6 康祐と留美の長い夜
通夜《つや》、翌日の告別式と予定通りにバイトを終え、康祐《こうすけ》は暗くなる前に葬儀社《そうぎしゃ》を後にした。帰宅途中でティーコジーに足を伸ばす。
「いらっしゃ……なんだ、康ちゃん」
鏡花《きょうか》の声は明らかに落胆している。どうやら今日も客足は振るわなかったらしい。康祐は努めて気づかないふりをして、椅子《いす》に座り紅茶を頼んだ。
鏡花は店員用のカップニつを満たすと、定位置である康祐の正面に座る。しかしおしゃべりに花を咲かせるわけでもなく、紅色の水面をじっと見つめるだけだ。
「なんだ? いよいよ経営がヤバイのか?」
「そんなのいつもじゃない。違うのよ、ネットでちょっと気になる噂《うわさ》、目にしたから」
気のせいか鏡花の声音《こわね》はいつもよりワントーン低い。
「康ちゃん、一尺八寸《かまつか》さん覚えてる?」
当然、と康祐は相槌《あいづち》を打つ。名前の珍しさもさることながら、愛車を破壊した張本人である。
「もう一カ月|経《た》つんだな。あのおばさん元気になったかな。で、それがどうした?」
「うん、あのね、実は……」
急に口調が変わった。抑揚《よくよう》のない語り口が、不吉なメッセージを予感させる。
「一尺八寸さんの家……ご主人の、幽霊《ゆうれい》が出るんだって」
ゴロロロロと腹に響く低音が外から響いた。雷《かみなり》ではなく上の高速道路を走るトレーラーの音なのだが、図ったようなタイミングは何かの陰謀《いんぼう》か。
「……マジで?」
「オカルトサイトの投稿掲示板に載《の》ってたの。それで雑誌記者を装って、投稿者にメールでインタビューしてみたんだけど……」
鏡花は固い表情でうつむいた。何となく、部屋の温度が下がった気がする。
「その人、お隣の住民なのよ。自分の部屋から見たんですって、入りたそうにしてる一尺八寸さんを。最初の夜は門の外、次の日は庭の木陰。徐々に家に近づいていくの。そして先週の晩はとうとう、家の居間に。恐らく今晩あたり、階段を登って、寝室の中へ…………」
ここで唐突《とうとつ》に、風に吹かれた蝋燭《ろうそく》の如《ごと》く照明器具がふぅっと暗くなった。
「わあぁあっ!」
康祐は席を立とうとして、よろけたあげく椅子と一緒に後ろへ倒れていった。
「あ、ごめんなさい。調光用のリモコン、肘《ひじ》で押したみたい」
「嘘《うそ》つけっ、わざとだろ絶対!」
椅子を盾《たて》に怒鳴ってみたが、間違いなく鏡花の目は笑いを堪《こら》えている。
「でも一尺八寸さんの話は本当よ。帰ってオカルトサイト覗《のぞ》いてみたら?」
「おー、言われんでも帰るぞ。留美《るみ》ちゃん待ってるしな」
鏡花がくすりと笑みを漏《も》らす。
「最初は嫌がってたくせに、すっかり仲良しじゃない」
「そりゃ、まあ。留美ちゃんは言いつけちゃんと守る、いい子だからな。感激しすぎるきらいがあるけど。……ところで横川《よこかわ》の情報は?」
そもそもこれを聞きに寄ったのだ。
「だいたい揃《そろ》ったわよ。後でメールでまとめて転送しようと思うんだけど」
「そうだな。明日なら比較的動けるから、朝までに頼むわ。今夜は出かけるから」
「バイト?」
「いいや。今日は留美ちゃん帰る日だぞ。千葉《ちば》の施設まで送ってくる」
康祐はひらひら手を振って、のどかな雰囲気《ふんいき》のまま立ち去るつもりだった。しかし、
「待って、康ちゃん」
康祐の背に引き止める声が。振り向くと、じっと見つめる鏡花と目が合った。
「ねぇ康ちゃん。どうして留美ちゃんって、あんなに叔母さんの家に行くのを拒んだの?」
呟きながら、カップに角砂糖を二つも落とす。いつもノーシュガーの鏡花らしからぬ行為だ。
「さあ……迷惑かけたくないからだって言ってたぞ」
「変じゃないの。父親が失踪《しっそう》してから数カ月、つまり今までにも何回か、留美ちゃんは叔母さんの家に行ってるのよ。どうして今回に限って迷惑だなんて言うの?」
「そりゃあ……」
答えられない。前回泊まった際、何かあったと考えるのが普通だが、昨日会って話した限りでは、久美子《くみこ》さんは本当に留美を可愛《かわい》がっている様子だった。理由は留美の側にあるのか?
「それに、金曜の晩、どうして留美ちゃんはあんなにずぶ濡れだったの? 朝から雨なんだから、施設も傘くらい持たせるでしょ」
「……そうだな」
言われてみれば、夜遅くにしか来れないと言っていたのも含め、ひっかかるものがある。何か事情があるのか? あるのなら、何故《なぜ》留美は自分達に黙っている?
「留美ちゃんをきちんと送り届けるまで、気を抜かないで。……何か起きそうな気がするの」
「脅《おど》かすなよ」
明るく返答するも、その声に力はない。当然鏡花も眉間《みけん》に皺《しわ》が寄ったままだ。
「分かった。注意するよ」
「うん。そうそう、留美ちゃんにお土産《みやげ》を渡したいんだけど」
鏡花は机の引き出しから十センチ四方の花柄のラッピングバッグを取り出した。大きさから推察するに、ティーバッグの詰め合わせか。
「留美ちゃんのリュックに入れておいてくれる?」
ああ、と返答し、今度こそ硝子《ガラス》扉の向こうへ出た。
歩きながら物思いにふける。鏡花の不安げな顔が妙に目に焼きついていた。しかし、漠然《ばくぜん》と何かあると言われても困るのだ。
「だいたい、鏡花の言うことは中途半端なんだよな。意味ありげに呟くくらいなら喋《しゃべ》るなっつーの」
ゆっくり駅へ向かいながら、文句を吐いた。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
布団部屋でテレビを見ていたらしく、留美はふすまの向こうからパタパタと走ってきた。
「少し早いけど、もう送っていくよ。夕飯、途中で食べよう」
「そ、外でですか?」
「ああ。どっちにしろ電車乗るのに、外に出るだろ」
「電車なのですか?」
先ほど笑顔で走り寄ったのに、もう表情が翳《かげ》っている。電車がそんなに嫌なのか。
「免許あるけど、車持ってないんだよ。バイクも今|訳《わけ》アリでないし」
「そうなんですか……」
「いやほら、旅だと思えばまた楽し、だよ」
うん、と頷《うなず》くも力がない。わがままを言うような子ではないのだ。この嫌がり方はおかしい。
「それじゃ、荷物まとめて出よう。あ、これ鏡花からの土産な」
留美はラッピングバッグを丁寧《ていねい》に受け取ると、来る時背負っていたリュックにそっと入れた。
黒服からサマーニットとジャケットに着替え、連れ立って家を出た。
アパートから留美の住んでいる千葉県|船橋《ふなばし》市までは、電車で一時間ほどかかる。乗り換えの新宿《しんじゅく》駅で一旦《いったん》出て、夕飯を食べるつもりだった。
ところが、新宿で改札に向かっていると、留美が外では食べたくないと言い出した。
「各駅停車に乗る予定だから、駅弁は無理だぞ。ちょっと出た方が」
「じゃあ駅の中で……」
仕方なく適当な蕎麦屋《そばや》で適当なメニューを頼む。食事中、留美は上の空だった。
ホームへ向かうとほどなく列車が滑り込んだ。ここから約一時間の旅だ。ドアが開いて真っ先に乗り込んで、端の席に並んで座る。乗客はまばらだ。留美はきょろきょろ落ち着きなく周囲を見渡していたが、列車が動き出すと小さく息を吐いておとなしくなった。
一体何に緊張してるんだ。いや、それは徐々に聞いていくことにしよう。
電車が動き出してから二十分ほど経《た》った頃、鏡花の言葉を伝えた。お父さんの行方《ゆくえ》は引き続き捜していく。見つかったらこちらから連絡を入れる。留美の方から言いたいことがあった場合は、ネットのメールフォームで。
「今、結構いい手がかりが集まってるから、どっしり構えて待っててくれ」
「はい」
「来月は叔母さんの家に泊まれよ。本当に心配してたから」
「はい……」
康祐は押し黙る。目的地に近づくにつれ、留美が元気を失っているのは明らかだ。
「どうした。帰りたくないのか? 来る前に、施設の方で何かあったとか……」
無言だったが、首が左右に振られた。
「まあ、いいけど」
康祐が突き放すと、留美は黙って膝《ひざ》に乗せているリュックの肩紐《かたひも》を握った。何かを隠しているのは間違いない。ただ問題なのは、それが留美個人の悩みごとか、依頼に関係したことなのかが分からないことだ。
「お兄ちゃん」
小さいがハッキリした声に顔を上げると、俯《うつむ》いていたはずの留美が康祐を見つめていた。
「帰る前にどうしても聞きたいことがあります。……今、駄目ですか?」
「え、いや? 何でも聞いてみろ、ほら」
「どうしてこのお仕事をしているんですか?」
……いきなり痛いところを突く。子供は遠慮を知らないから怖い。
「昨日お兄ちゃん、仕掛けで苦労すると言ってたから。辞《や》めたいのかな、って……」
「確かに大変だけど。ま、身も蓋《ふた》もない言い方をすれば『お金』だな。仕事がキツイ分、報酬が多いから」
「多いんですか?」
「数百万から一千万くらいまで請求するから。ただし頻繁《ひんぱん》にある仕事じゃないから、月額に均《なら》したらあまり多くな……それ以前に鏡花が仕掛けで金使いすぎるんだよな。こないだも」
考えれば考えるほど、あまり儲《もう》かっていない気がしてきた。
「……本当、何でやってるんでしょうね、俺」
「自分でも分からないんですか?」
留美は本気で不思議そうだった。普通は呆《あき》れるところだろうに。
「いや、当初の目的が金だったのは間違いないけど。今は、そうだなあ……それプラス」
うーんと首を捻《ひね》った後、独り言のようにぽつりと答えた。
「……鏡花のやろうとしてることに、多少なりとも賛同してるから、かな」
「やろうとしていること?」
「そう。それにほら、あいつ世間知らずのお嬢さまなんで。常識教えてやる奴が必要だろ?」
「つまりお姉ちゃんのためなんですね」
康祐は首だけ超高速回転させると留美を睨《にら》んだ。
「ちがーう。あいつに何かあったら、俺は金が貰えないんだよ!」
「はい……」
何だか誤解されたままな気がする。どことなく悔しい。
「ところで、金曜の晩どうしてずぶ濡れだったんだ?」
「………………」
かくんと首が下を向いてしまった。攻略失敗。難攻不落確定。
その後、留美は起きているのか分からないくらい静かになってしまい、追い討ちでアナウンスも次は終点だと告げる。
「もうすぐ降りるぞ」
初めて会った頃の固い雰囲気《ふんいき》が留美を包む。『何かが起きそう』との言葉を思い出し、康祐は一つ身震いした。
電車を降り、駅からバスで施設に近い所まで。共に乗り込んだ客たちも、先に進むにつれ一人二人と降りていき、とうとう乗客は留美と康祐の二人きりになる。
予定していたバス停に降り立つと、人気《ひとけ》のまるで感じられない住宅地が広がっていた。家はまばらで、申し訳程度にしかない街灯は、都会の夜に慣れた身としては、心もとない。
「施設ってここからどう行くんだ?」
きゅっと音を立てそうなくらいきつく、留美の手が康祐のを握る。引かれるままに歩き出す。
「バス停からも随分《ずいぶん》歩くんだな」
返事はない。留美はきょろきょろと周囲を見渡し、康祐の声は耳に入らない様子だ。
「なんだ。道、分からないのか?」
そうではない。むしろ歩調は速まっている。お化けが出そうで怖いから、急いで通り抜けている――子供の頃の、そんな記憶に今の留美が被る。
『何か起きそうな気がする』これは鏡花の言葉。その何かを、留美は知っている……?
「……留美ちゃん、待った」
手を引いて動きを封じると、怯《おび》えた目の留美が振り返った。
「どうしてそんなに周りを気にするんだ?」
「だ、だって、」
ぐいぐいと康祐を引く力が強まる。しかし康祐はわざとその場に留まった。留美の口からその理由を聞きたかったからだ。策略は功《こう》を奏《そう》して、留美はそれまで口にしなかった事情を、ぽつりと漏《も》らした。
「怖いおじさん達が来るから――」
「怖いおじさんってのは俺達のことかァ」
康祐は唖然《あぜん》とした。スーツを着た男が五人ほど、自分と留美のあとをつけていたのだ。ボスらしき男が一人、前に出る。体格の逞《たくま》しいサングラスのスキンヘッドだ。
小さな悲鳴を上げて留美は康祐にしがみついた。
「久しぶりだな、留美ちゃん。今までどこに行ってたんだ? おじさん捜したよ」
男達はだらだらと二手に分かれ、退路を塞いだ。留美のしがみつく力が強くなる。
「何か用ッスか、あんたら」
康祐の声に、ボスの男は「あん?」と顔を上げる。
「テメェに用はねえ。用があるのはその女の子だ」
「だから何の用があるんだ、この子に」
チンピラのボスは、康祐の詰問《きつもん》にのらりくらりと返答した。
「まあちょっとな。この子の父親が、オレらの大事な物を盗んだんだ。お嬢ちゃんを通じて返してもらおうってわけだ」
「知るか。父親に言えよ」
普通の口調を装ったが、今、康祐の心臓は二倍の速度で動いていた。怖いからではない、待ち望んでいた情報の片鱗《へんりん》を掴《つか》んだからだ。
こいつらは何者だ? 大事な物とはなんだ? そして、父親の居場所を知っているのか?
睨《にら》んでいてもそれらは全く伝わってこない。上手《うま》くいくかは分からないが、誘導尋問に持ち込んでみよう。
「ああ、そうか。お前ら父親の居場所が分からないんだな? だからこの子を使っておびき寄せようってわけか」
ボスの男はふ、と鼻で笑い飛ばした。
あれ? 違うのか。
「父親はもういい。今はお嬢ちゃんだ」
「もういい? 大事なもの持ち逃げしたんだろ、いいのか放っておいて」
「隠した場所は見当がついてる」
ボスの目が、康祐を、いや康祐の後ろに流れる。背中だ!
振り向きざま反射的に回し蹴《げ》りを繰り出した。間近に迫っていたチンピラが一人吹っ飛ぶ。
「やる気かオラァっ!」
お約束の台詞《せりふ》とともに別の拳《こぶし》が飛んでくる。一発目はかわしたが二発目を鼻にモロに食らった。顔の中心が熱い。ちょっとタンマと呟いたが、そんなのを待ってくれるわけがない。ほんの一秒止まっただけで顔面に集中攻撃を食らった。
「ぐっ……!」
「お兄ちゃん!」
留美の悲鳴に、そんな大声を出せたんだと思わず感心してしまった。いやそれどころじゃない、留美は無事なのか? 連続パンチをよこす正面の男が邪魔《じゃま》で前が見えない。
「おい、そのへんにしとけよ。行くぞ」
行く? 男達が離れ、視界が開ける。いつの間に来たのか、いかにもな黒塗りの車。ドアが開いて、ボスに肩を押され留美が中へ吸い込まれていく。
「留美ちゃん!」
追いすがろうにも殴《なぐ》られた影響か、足元がおぼつかない。目の前で無情にもドアが閉まる。テールランプがひときわ明るく周囲を照らし、急発進急加速であっという間に小さくなる。ランプが左へ曲がっていくのを見届けた瞬間、携帯電話が鳴った。この着メロは。
「鏡花?」
『康ちゃん、留美ちゃんに何かあったの?』
耳をつけた途端始まるお叱《しか》りの声。だが、なぜさらわれたことが分かるのか。
「そうか。GPS!」
鏡花がよこしたおみやげ! 中身は端末だったのか。
『携帯で探索画面開いて、すぐ追って! タクシー代気にしなくていいから』
「いや駄目だ!」
どの道を通るにしろ日曜のこの時刻、渋滞は想像に難くない。タクシーでは追いつけない。
「足は別に用意する。鏡花は車の割り出しを頼む! 黒のセルシオ、ナンバーは――」
通話を切るとすぐさま踵《きびす》を返し、反対方向へ走り出した。来る途中見かけたある物の場所へ急いで戻る。狭い路地の入り口に、バイクが停《と》めてあるのを見たのだ。チェーンロックがついていては駄目だが、もしかすると。
「あった」
数秒で全体をチェックする。二五〇cc[#「cc」は縦中横]のレーサーレプリカ。排気量は少ないが馬力のあるエンジンだ。そしてチェーンロックはされていない。
「OK、いいバイクだ」
ジャケットの懐《ふところ》からマイナスドライバーを取り出す。常に持ち歩いている仕掛け道具の一つだ。くるりと手の中でまわしてから、勢いをつけバイクの鍵穴に突き刺した。強引に捻《ひね》りキックをかけると、エンジンが始動する。GPS画面を開いたままの携帯電話を結束バンドでタコメーターの上に固定。音に気づいたのか、持ち主らしい若者が横の家の窓から叫んできた。
「ど、泥棒ー!」
その頃には既に走り出していた。
住宅街を抜け表通りへバイクを走らせる。住宅地から商店街へ。脇《わむ》に流れる景色が変化するにつれ交通量も増していく。車の群れをジグザグにすり抜け暴走する。
みるみるうちに表示位置との距離が縮んできた。嬉しいことに、連中と康祐の走っている道路は徐々に渋滞を形成しているようだ。止まっているに等しい車の間をすり抜けて、確実に連中へ迫っていく。車五台ほど先に、標的を捕捉《ほそく》した。
アクセルを目一杯開けて車体の右に滑り込む。後部座席の真ん中に、ぎゅっと挟まれて泣いている留美を目撃。
「開けろ! おら!」
ガラスを足で執拗《しつよう》に蹴りつける。映画ならパリンと割れて、文句を言いに出た運転手を華麗に蹴り上げるシーンなのだが、現実はそうもいかない。割れるどころかヒビすら入らない。
「強化ガラスか!」
そういえばいかにもな車だ。防弾対策もバッチリなんだろう。なんて考えていると、本当に後部座席のスキンヘッドが拳銃《けんじゅう》を手に構えた。スルスルと銃口の分だけ、窓ガラスが開く。
「こんな街中でマジかよ!!」
アクセル全開、ひとまず離れる。こういう時はバックできるといいのだが。
二、三百メートルほど引き離し、路肩に停車。弾のあたる距離からは逃れたが、連中の姿も全く見えない。GPS画面に目をやると、赤い点が予想外の位置へ移動している。
「脇道入りやがったか!」
歩道を横切って強引に交差点を左折した。クラクションを鳴らされるが気にしない。赤い点と平行する道路をひた走る。液晶上の赤い点は、時折移動するも相変わらず細い道の上だ。
康祐は思考を巡らす。連中も誘拐《ゆうかい》の実行中という認識くらいはあるだろう。人目につきやすい幹線道路を避け、裏道だけを使うつもりか。
どうする? 若干《じゃっかん》の迷いが生じる。連中が本当に銃を使う気があるのかは知らないが、ひと気《け》のない道路でたとえ自分が追いついたとしても、留美を取り返す算段は正直ない。こちらは丸腰、しかも一人だ。さっきのようにリンチにあうか、最悪バイクごと撥《は》ねられるか。
車を停めさせるのを諦《あきら》めて、後をつけることに専念するか? アジトの場所を突き止めて、改めて対策を練れば…………
泣いてる留美ちゃんを放って?
「怖いよな、あんな眉毛《まゆげ》ないようなオッサンに囲まれちゃ」
逃げ込まれた場所を特定できたとしても、だ。その後警察が踏み込むまでの間に、留美が無事である保証はどこにもない。
康祐はバイクを急停車させた。内ポケットからもう一つの携帯電話を取り出しハンズフリー用のヘッドセットをつける。
「鏡花、聞こえるか!」
『何、どうなったの?』
「まだ追跡中だ。ところで鏡花は店にいるんだな? ネットで至急調べて欲しいことがある」
鏡花との通話を繋《つな》いだまま、康祐は再びバイクを発進させた。ただし、その進む先は連中の車ではない。正反対の方向だ。
『そこから一番近い所なら、市川《いちかわ》市**交差点よ』
「公開? 非公開?」
『公開の方よ。でもどうして?』
「公開なら間違いなく白バイが来てるんだ、取り締まりは!」
一人では連中を止められない。ならば加勢を連れていけばいい。簡単なことだ。
警察が行う交通取り締まりには二種類ある。公開取り締まりと非公開のものと。前者は新聞や警察のHPで場所と日時が公《おおやけ》に報じられている。加えて、現在はネット時代である。非公開でも『どこそこで取り締まりがあった』などの情報は瞬時にネット上に配信され、誰にでも検索が可能だ。
鏡花に調べさせた情報をもとに味方≠フもとへ向かう。制限速度なぞとっくにぶっちぎっている。可能な限り赤信号も突っ切った。ついでにノーヘル。これで追いかけない白バイがいたら、そいつはヘタレだ。
教えられた道路をひた走る。さすがにこのスピードでは、目が開けられない。上半身を丸めてバイクの風防に顔を隠す。狭い視界の中に飛び込んだもの。――赤色灯《せきしょくとう》だ!
交差点を越えてすぐの空き地に、白い車体。ついでに四輪の白黒パンダも停まっている。直前に捕まったらしいスクーターが、持ち主と一緒に制服警官に説教を食らっている。ちらりと目線を飛ばして真横ギリギリにすり抜ける。見た、こちらを見ていた! 間違いない!
「……やった!」
赤色灯がバックミラーに飛び込んだ。もちろん、おなじみのサイレン付きだ。そこのノーヘル、停まりなさい! と嬉しいことまで言ってくれる。
「だーれが停まるか。ついてこい!!」
ご丁寧《ていねい》にウィンカーで後ろに合図してから、次の交差点を左折。探索画面を確認すると、赤い点はここから約七キロ先。追いつける、バイクなら!
ミラーを見ると、白い二輪の車体がぴったりくっついている。康祐も徐々にアクセルを開けていく。メーターの針がじりじりと右上から右下へ半円を描く。二台は距離を保ったまま公道を疾走する。
康祐のバイクは排気量二五〇cc[#「cc」は縦中横]の中型、白バイは通常七五〇cc[#「cc」は縦中横]以上の大型だが、こういった街中で威力を発揮するのはむしろ軽量な中型の方なのだ。両者は互角のバトルに興じていた。
順調に逃げる康祐だが、次の交差点は赤信号だった。止まればさすがに追いつかれる。しかしこのタイミングでの信号無視は、イコール死だ。
「……っそお!」
やむを得ず急激な減速をかます。スピードの落ちたところでさらにリアブレーキを目一杯踏み込んだ。後ろのタイヤを滑らせながら、盗塁を決めた野球選手のごとくスライディング進入! 手前車線の青いセダンが泡を食って急ブレーキをかけ、康祐の三センチ手前で停まった。
「すんません!」
セダンを足で蹴って勢いをつけ、同時にアクセルを開き方向転換。赤信号左折成功。
別車線に乗り換え再びジグザグ走行を開始する。いいぞ、赤色灯はちゃんとついてきている。
連中との距離はあと五キロばかり。順調に車線変更を繰り返し、太い道路をひた走る。周辺の光景が賑《にぎ》やかに、都会へ続く街道であることを誇示し始めた。このまま順調に……と思い始めた頃、前方にとんでもない物を見つけてしまった。
パトカー二台が道を塞《ふさ》いで停まっている。無線で駆けつけたお仲間か!
一車線だけを空け、警官が誘導して一台ずつ通しているらしい。ぶつかれば転倒は間違いなし。警官はもちろんのこと自分の命もないだろう。
ならば歩道を! と左に目をやって愕然《がくぜん》とする。歩道はガードレールががっちりバリケード。
こうなったら決死の覚悟だ!
警棒を振っていた警官が、大きく両手を挙げ康祐を威嚇《いかく》する。その姿を見届けて、康祐はわざとアクセルを開けた。殺されると思ったのか、警官が悲鳴を上げる。
「今だ!」
フルブレーキをかけ、十メートルほど滑り込む。バイクが警官の一メートル前に迫った所で軽く車体を傾け再度アクセルを開けた。呆然《ぼうぜん》とする警官の真横をすり抜け、検問突破。
「やった!」
一瞬でびっしょり汗をかいていた。
小さくなった赤色灯も、改めて康祐を追い始める。パトカーは三台。検索距離はあと一キロ!
長い橋の真ん中に、見覚えのある車を発見した。同じ車種の別の車か? それとも。
いや、連中の車だ! スロットルをきつく握り直す。とうとう追いついた!
「いいぞ、来てくれ! パトカー……」
走りながらミラーを覗くと、パトカーと白バイが、逆方向へ帰っていくところだった。
「なにぃ!?」
どういうことだ、と慌ててバイクを止める。その時、傍《かたわ》らの標識に目がとまる。
『ここより東京都』
「管轄《かんかつ》変わるからって諦《あきら》めんなよパトカーっっ!!」
道路の真ん中で、康祐は叫んだ。
* * * * * *
「付いてきてた? さっきの若いのが」
スキンヘッドの男が問い返す。運転手は前とバックミラーを交互に見ながら頷いた。
「だいぶ前の話ですけどね。県境で消えたようですけど、パトカーに捕まったかな?」
「さあ。しかし相手をするのも面倒だ。車を一旦停めろ。そろそろ高速に乗ろう」
運転手は細い路地道へとハンドルを切った。公園の隅に停止すると、助手席と後ろの手下に目配せする。二人は車外へ出るとトランクから部品を出し、それぞれ車の前と後ろに走った。
ナンバープレートを固定するボルトには、通常「封印」と呼ばれるアルミキャップが被せてある。犯罪防止が主な目的で、その取り付けは国に委託された業者しかできない。だが今、下っ端二人はいとも簡単に手でそのキャップを取り外すと、レンチを使ってプレートを外し出した。ものの一分ほどでプレートはすっかり入れ替わる。
「誰に作らせたんだ、アレ」
スキンヘッドが喉《のど》の奥で笑う。運転手もヤニで黄ばんだ歯を見せた。
「もちろん委託業者にですよ。ちゃんと国の決まり、守ってるでしょう」
下っ端が車中に戻ると運転手は律儀《りちぎ》にウィンカーを出し、車を発進させた。
車は加速し、路地裏から再び国道へ。あっという間に周辺が混雑する。交差点で対向車がハイビームで迫ってきた。
「まぶしいぞ、クソったれが」
アクセルを踏む足が一瞬|緩《ゆる》み、交差点への進入速度がわずかに落ちた。
そこに。
左横から、黒い塊《かたまり》が突っ込んだ。大きさから見て中型のオートバイ。ドアが凹《へこ》む音と衝撃に車体がガクガク揺れる。車は交差点を渡りきり、路肩に停車する。
「何すんじゃおらぁ!」
凹んだドア側に座っていた下っ端男が飛び出した。もちろん、信号無視で突っ込んできた大馬鹿なライダーを一喝《いっかつ》するのが目的だ。
「おぉい、示談で済ませろよ。急いでるんだからな」
呑気《のんき》に呟くスキンヘッド。衝突でバイクは転倒し、誰もライダーの顔を見ていなかった。
うおっ! と息を吐くような声がする。降りた男のものだ。
「どうした……」
次の瞬間。降りた男が後ろ向きに車内へ飛び込んできた。下敷きになるスキンヘッド。
「おいどけ! 何のつもりだテメェ!」
「すんませーん、よろけて思わず蹴り入れちまいましたー」
陽気な声に、全員一斉に顔を上げる。頬《ほお》の青痣《あおあざ》……自分達の拳《こぶし》の跡だ。
撒《ま》いたはずの男が、開いたドアを体で押さえ、ぶら下がるような姿勢で立っていた。その後ろにパトカー五台を引き連れて。
* * * * * *
制服の警官がわらわらと康祐に押し寄せる。腕力自慢に背後から腕を固められた。それでも康祐は車中のスキンヘッドに嫌味を続ける。
「いやあ、道すがら見かけた交番に片っ端から投石してったら、こんなことになっちゃって」
「おいノーヘル! いい加減にしろ、酔ってるのか!」
警官に耳元で怒鳴られてもなお、康祐は車内の連中を睨み続けた。
「お手数かけます、お車の持ち主の方いいですか? 事情聴取願います」
別の警官が連中に丁寧な声をかける。どうやら単なる接触事故の被害者と思っているようだ。
康祐の背中を汗が伝う。
警官立会いのもと、車さえ停めさせればなんとかなると思っていた。留美が一言「誘拐犯!」と叫んでくれればいいのだから。しかし、肝心の留美がいない[#「肝心の留美がいない」に傍点]。
車中の乗員は男が四人。少女の姿はどこにもなかった。
まさか、別の車に乗せかえたのか? 自分が引き離されていた間に。
どうする? 事故のふりをいい加減やめて、全てを説明するべきか。自分のいない所で救出される留美が、呪殺屋の件を話してしまうリスクを覚悟して。
必死に思考する康祐。が、ふと、ナンバーが変わっているのに気がついた。車は一度停まったのか。……ということは。
「あー! これ!」
奇声を上げて、自分を押さえ込んでいる警官の足の甲に、思い切り踵《かかと》を落とした。警官が怯《ひる》んだすきに腕を振り切り、膝を突いてプレートにかじりつく。スポンと封印のアルミキャップを抜いて、警官にぽんと放り投げた。
「何でこれ、簡単に外れんの?」
「うお!?」
驚いた警官は康祐よりもキャップに関心がいったらしい。何だ何だと、他の警官も背を屈める。――チャンスだ!
ポケットからすかさず愛用のピッキングツールを取り出した。立ち上がってトランクの鍵に取り付く。十秒で開けてみせる!
「何してるんだ!」
止めに入ろうとした警官の腹を思わず蹴飛ばしてしまった。これで何も出なかったら、公務執行妨害追加で免停どころの騒ぎじゃないな。再び腕を取られそうになった次の瞬間。
バカンと勢いよく、トランクが開いた。
中には、ガムテープで手足と口をふさがれた留美が横たわっていた。
「留美ちゃん!」
留美の目がこちらを向いた! 無事だ!
康祐は腕を伸ばし、一気に留美の身体を引き上げた。車体前方が騒がしい。誘拐現行犯を目《ま》の当たりにして警官達が色めきたったからだ。
留美を抱きとめるのとほぼ同時に、車はトランクを開けたまま凄《すご》い勢いで発進した。
「逃げたぞ、追いかけろ!」
「緊急配備だ、本部に」
怒声飛び交う中、パトカーと白バイがすぐさま後を追う。後には数名の警官だけが残った。
[#挿絵(img/Juliette_125.jpg)入る]
「留美ちゃん」
トランクから引っ張り出した勢いで尻餅《しりもち》をついた康祐は、膝に留美を乗せたそのままの姿勢で、手足と口の粘着テープを剥《は》ぎ取った。「痛い!」とかすれた声が上がる。
「ごめん、つい。怪我ないか?」
全身汗だくで赤い顔をした留美は、それでも頷いて、小さく笑った。軽い酸欠と脱水症状はあるかもしれないが、とにかく無事に救出できたのだ。
安心したら全身が痛み出した。そういえば殴られたり蹴られたり、酷《ひど》い目に遭《あ》ったっけ。
「君達、大丈夫かい? すぐ救急車を呼ぶからね」
打って変わって警官が優しくなった。
「……留美ちゃん、ちょっと」
こっそりと耳打ちする。
「今、苦しい? 急いで病院行かなきゃいけないほど」
ううん、と回復しつつある笑顔が首を振った。それならすることは一つだ。康祐は留美の手を引くと立ち上がった。
「あのー、バイクちゃんと起こしてきます。交通の邪魔《じゃま》なんで」
「いいよいいよ、こっちでやっとく」
人のよさそうな警官の目の前で、康祐はゆっくりバイクを起こすと、キーも挿《さ》さずにキックしてエンジンを始動させた。警官がその様子に目をむく。
「君、それはひょっとして盗難車……」
悠然《ゆうぜん》と跨《またが》って、留美を後ろに引っ張り上げる。
「留美ちゃん、しっかりつかまって」
アクセル全開で発進した。警官の待てーと怒鳴る声が瞬時に後ろへ吹っ飛ぶ。優しそうな警官で多少、良心が痛んだが。それでも自然笑みがこぼれた。
[#改ページ]
7 深夜の来客達
康祐《こうすけ》が救出劇を成功させ、鏡花《きょうか》に連絡を入れた後のこと。二人を待つ傍《かたわ》ら、鏡花はパソコンのモニターに向かった。『横川《よこかわ》春樹《はるき》調査報告』と題した長いテキスト、彼やその部下達の顔写真、公的資料のあれこれ。康祐から得たばかりの情報も追加する。
卓上の時計はあと数分で閉店時刻の十時を示す。
鏡花はポットを傾け本日四十杯目の紅茶を注ぐと、白い磁器《じき》のカップを持ち上げた。それから壁際《かべぎわ》に押しやられているプリンターの電源を入れる。普段は茶葉の種類や淹《い》れ方の解説書を印刷するのに使っているのだが、通電させるのはしばらくぶりだ。
「インクって腐ったりしないのかしら」
不安になりつつ引き出しから紙を出すと、扉の呼び鈴がチリリンと鳴った。涼しい空気が店内を浸す。
「おかえり、康――」
持っていた用紙が床に落ちた。鏡花の目の前に立っていたのは康祐でも留美《るみ》でもない。
死んだはずの、一尺八寸《かまつか》靖《やすし》だった。
背中を丸めた男は、目は落ち窪《くぼ》み、うっすらとクマが出来ていた。着ているのは、ヨレヨレのポロシャツに皺《しわ》だらけの綿ズボン。写真で見た姿勢のよいスーツ姿とは、似ても似つかない。
鏡花は身じろぎもせず立ち尽くしていた。幽霊《ゆうれい》が恐ろしいからではない。いらっしゃいませと呼びかけるべきかどうか、迷っていたからだ。
幽霊でも客は客。しかし、お金を持ってない者は客ではない、闖入者《ちんにゅうしゃ》だ。いやそもそも、彼の目的が紅茶とは限らない。ここは一つ、落ち着いて観察するべきだ。
そんなことを考えていたら、睨《にら》み合ったまま数十秒経過してしまった。
「……どうも埒《らち》が明かないわね」
紅茶を買う気がないなら出ていってもらおう。たしか幽霊は電気製品に弱いと聞く。
「式神《しきがみ》、笹蟹《ささがに》!」
さっと取り出したテーザー銃を、正面の陰気な男に向かって撃《う》つ。電極は二本とも刺さり同時に五万ボルトの電流が流れた。
「ふぎゃあっ!」
感電ショックによる奇妙な踊りを見せながら、幽霊・一尺八寸はバタンと昏倒《こんとう》した。
「あら?」
「ひ、酷《ひど》い……あんまりだ……一体私がなにを……」
それだけ呟《つぶや》くとガクリと意識を失った。鏡花は確信した。彼は生きている人間だ。
「大丈夫かしら……ま、仕方ないわよね」
テーザー銃のカートリッジを交換しながら、一尺八寸の意識が回復するのを待つ。
そして十数分後。
「すみません、当店は幽霊はお断りなので、つい。でもあなた、生きてらっしゃいますよね」
鏡花はとびきりの笑顔で、床の男に話しかけた。一尺八寸は弱々しく搾《しぼ》り出す。
「じゅ、呪殺屋《じゅさつや》さんにお願いがあるんです」
ぴくりと鏡花の小指が動く。
「失礼ですが、当店のことをどこで? ひょっとして」
「妻です、妻に全《すべ》て聞きました。……んむむ……」
寝たまま会話しようとする一尺八寸に、鏡花は駆け寄って腕を貸す。
「お話はお伺《うかが》いしますが、その前に椅子《いす》にかけません?」
電気ショックが抜けないのか、一尺八寸は座ったあともまだ大きく息をついていた。リラックス効果のあるハーブティーを選択して新しいポットに計り入れ、沸騰《ふっとう》させたお湯を注いだ。正面に座った一尺八寸にカップを勧《すす》め、鏡花は話を聞く体勢に入る。
「奥様から、とおっしゃいますと……お会いになったんですか? お亡くなりになった後に」
「ええ。死んだ後、妻がどうなったのか気になりましてね。こっそり見に行ったんです。そうしたら、信じられない光景を目にしまして」
「というと?」
鏡花が尋《たず》ねると、一尺八寸は放課後の女子高生のように生き生き語りだした。
「妻が、私の写真を前にしてさめざめと泣いていたんです!! いつも私を罵倒《ばとう》していた妻がですよ! もう私混乱しまして、以後毎日確認に通ったんです」
それを近所の方に目撃されたというわけね。鏡花はこっそり呟いた。
「なんだか可哀相《かわいそう》になってしまって……つい一時間ほど前のことです、意を決して妻に呼びかけました。妻は私を幽霊だと思ったようです。そして、妻は私に、私にっ」
一尺八寸はワナワナ震え出し、感極《かんきわ》まって鏡花の手をがっしり掴《つか》んだ。
「会いたかったと言って、抱きついてきたんです! 初めてですよ、こんなの!」
と言いながら滝のように涙と鼻水を流し出した。
「あの薫子《かおるこ》が、失って初めて分かった、あなたは大事な人だと……ああ、死んで良かった」
瞳《ひとみ》をキラキラ輝かせる一尺八寸に対し、鏡花はあくまで冷静だ。淡々と問いかける。
「でもあなたは、奥様以外にも恋人がいらっしゃるんでしょう?」
指摘されると露《つゆ》にも思わなかったのか、一尺八寸は泡を食って否定する。
「ち、違います、今は妻一筋です! 確かに、以前は若い女性にうつつを抜かしておりました。生まれ変わって彼女と二人、愛を育もうと思った日々もありましたが……」
「ありましたが?」
一尺八寸はばつが悪そうに、片手で頭を掻《か》いた。
「理恵子《りえこ》は酷《ひど》い女でした。彼女のために全《すべ》てを捨てたというのに、感激するどころか悲鳴をあげ、来ないでくれと私を追い返して。所詮《しょせん》、私の地位と金だけが狙《ねら》いだったのでしょう」
死んだはずの男がひょっこり現れたら、当然の反応だと思うのだけど……鏡花は黙っていた。
それにしても、と鏡花は首を捻《ひね》る。理恵子? もっと別の名前じゃなかったかしら?
「それで、傷心のあなたは奥様の変わりように心を打たれ、今度は奥様と愛を育みたくなった、と。意外にロマンチストなんですね」
「ええ、まあ」
「それで私どもになんの御用でしょう? 奥様を殺したいとかではなさそうですが」
一尺八寸はやっと鏡花から手を離し、今度はそれを顔の前でバタバタと振って見せた。
「い、いえ、その逆ですよ。私を生き返らせて欲しいんです!」
康祐ならば、えええ!? と叫んで鏡花に向こう脛《ずね》を蹴《け》られるところだ。しかしそこは店長の威厳、引きつるこめかみを指で押さえながら、にっこり微笑《ほほえ》んだ。
「確かに、弘法《こうぼう》大師《だいし》が行った反魂《はんごん》のように、死者|蘇生《そせい》の術は存在します。ですが一尺八寸さんはその必要はないのでは? だって、あなたは生きています」
「ええ、そうです。私は生きています。でも、死んでいるんです……戸籍上は」
鏡花は微《かす》かに眉根《まゆね》を寄せる。デジャ・ヴだろうか。なんだか最近、似たような言葉を聞いた。
「でしたら、戸籍復活の手続きをお取りになれば」
「駄目《だめ》です! 私の骨がお墓に入っているんです。役所に行ったら絶対に訊《き》かれるじゃないですか、あれは誰の骨ですか、と」
すっと鏡花の目が細くなる。ああ……そうなの。そういうこと。
「世間的には死んだまま、奥様にだけ、呪術で生き返ったことにして欲しいと?」
「そう、そうです!」
一尺八寸は手の甲で鼻を拭《ぬぐ》いながら破顔した。
「妻は、私が死んだのはあなた方が呪殺したからだと信じています。それだけの力を持っているなら、生き返らせることもできると思いますよね」
ふうん、と気の乗らない返答をこぼす鏡花。自分達が猿芝居《さるしばい》に協力すると決めつけているあたりが気に食わない。どうせ金さえ払えば何でもやるに違いないと、見下しているのだろう。
「そうですね、引き受けても構いませんが……条件があります」
鏡花は大きく息をつくと、きっぱり言い切った。
「あなたの代わりにお墓に入っているのがどなたなのか、教えてください」
「え、それは……」
一尺八寸は急に落ち着かなくなる。
「言えないのなら、ご協力はできかねます。奥様には本当のことをお話しして、納得してもらってください」
「ま、待ってください!」
一尺八寸の顔から余裕の笑みが消える。
「駄目なんです、話したりしたら妻の身にも危険が」
「そういうお約束なんですか?」
あ、と口を噤《つぐ》むが無駄だった。鏡花は既《すで》に追撃に入っている。
「あなたの裏を、少々調べさせて頂きました。死ぬ直前、複数の金融機関から多額の借金をしましたね。それらはどこに行ったのですか?」
「う、いや……」
「あなたはそのお金を使って、ご自分の存在を世間から消し去ることを誰かに依頼した。課された条件は、一切を誰にももらさないこと――そんなところですか。どなたが、このプランをあなたに提案したのですか?」
「なぜそんなことまで……」
「私も同じことを考えていましたから」
一尺八寸は口を噤む。額《ひたい》には、脂汗《あぶらあせ》がテラテラ光りだした。汗と涙で脱水症状になってしまいそうだ。俯《うつむ》いたまま黙りこんでしまったが、鏡花の瞳《ひとみ》はそんな彼を捉《とら》らえつづける。
無意味な時間が何分も経過する。冷めてしまったハーブティーに顔をしかめて、鏡花はカップを置いた。
「どうやら取引は不成立ですね。お帰りください」
「ま、待ってください! 絶対に内緒ですよ。……実は」
チリンチリン。冷たい空気とともに扉のベルが揺れる。康祐かと顔を上げた鏡花は、またも裏切られた。
淡い茶色のダブルのスーツを着た男が、開け放した扉にもたれ立っていた。見たところ三十代前半。黒々とした髪をオールバックにしている。銀縁《ぎんぶち》の丸眼鏡《まるめがね》がいかにも理知的だ。
見る見る一尺八寸の顔が青ざめる。
「あなたは……」
鏡花の一言が宙に消え、店内はしんと静まる。誰一人動かない。
「駄目ですよ、一尺八寸さん。約束したでしょう」
男が優しく微笑むと、一尺八寸は顔を引きつらせ、椅子ごと壁際へ後退した。鏡花は立ち上がるとその手にテーザー銃を構えた。
「どちら様ですか?」
照準を男へ合わせ、低く誰何《すいか》する。男は口の端で笑うと、ポケットに手を突っ込んだままゆっくり店内へ侵入した。
「おやおや、最近のお嬢さんは物騒な物をお持ちだね」
「近寄らないで下さい。撃ちます」
だが男は止まらない。胸を堂々と鏡花に向けて、撃つなら撃てと言わんばかりの態度だ。
「テーザーはチャンスが一回きりの不便な代物《しろもの》だ。相手が複数いたらどうするんですか?」
鏡花はちらりと目を走らせる。開け放たれた扉の向こうに、男達が二、三人待機している。
視線を戻すと、眼鏡の男はもう一尺八寸の椅子の前へ立っていた。
「す、すみませんすみません! でも何も話してないんです、本当です!」
拝《おが》むように手を合わせ、一尺八寸は懺悔《ざんげ》した。丸めた背中が頭に連動して上下する。
「一尺八寸さん。我々も言いたくはないんですが……あなた、もう一度死にたいんですか?」
ひっ! と動物のような声を上げ、一尺八寸は身を震わせた。額の天辺から汗が流れる。
「ど、どうかお許しを」
汗に濡れた手の平で一尺八寸は男の手を握る。男は露骨に顔を顰《しか》めたが、態度だけは紳士を貫《つらぬ》いた。やんわりと手を振り解くと、小男の肩を叩《たた》く。
「そうですね、あなたがおとなしく我々と戻るなら、今回のこれはなかったことにしてあげましょう。あなただって今の待遇に不満はないはずだ」
「は、はい」
「奥さんのことは諦《あきら》めなさい。寂《さび》しいなら新しい連れ合いでも作ればいい」
背を丸め、がっくりとうな垂《だ》れる一尺八寸を前に、男は眼鏡の奥で目を細めた。
なんていやらしい笑顔なの。鏡花は胸の内で、悪態をつく。せめてもの反抗をと、鏡花は精一杯の不機嫌《ふきげん》な顔で男を睨み続けた。が、彼は一尺八寸から視線を外すと、外へ向かって顎《あご》をしゃくった。
目つきの悪いならず者達が店内へ押し寄せる。三人がかりで一尺八寸を無理やり立たせると、脱力しきった彼を引《ひ》き摺《ず》るように、扉の向こうへ消えていった。その間、眼鏡の男は立ちふさがるように鏡花に迫る。
「どいてください」
再びテーザー銃を胸の前に構える。
「どいたら何をするんですか。まさか彼を連れ戻そうと?」
「目の前で人が攫《さら》われるのを、放っておけって言うの!?」
男は開いた口の隙間から、空気を吸い込むような、耳障りな笑い声を発する。
「お嬢さん、いいですか? 彼は死んでいるんです。幽霊を連れ去っても法的に罪にはならない。嘘だと思うなら警察に届けてみるといい」
「……それなら、あなたを不法侵入で通報するわ」
「なに、私は遅くまで開いている店があるから、ふらっと飛び込んだだけです。そう、それに」
男の手が鏡花の手元へさっと伸びた。上から握りこむようにテーザー銃を掴《つか》まれる。抗《あらが》う間もなく、黒光りする銃は男の懐《ふところ》へ吸い込まれた。
「警察を呼ぶなら、こんな国内違法の品は持っていては駄目ですね。私が預かります」
「ど、泥棒っ」
「不法侵入に泥棒ですか。ここにいるとどんどん罪状が増えそうだ。早々に退散しましょう」
男は呟くと、踵《きびす》を返し背を向ける。戸口の前でああそうだ、と顔だけこちらに向けた。
「彼から何を聞いたか知らないが、全部忘れることです。あんなふうに連れ去られたくないなら、ね」
「……ご忠告ありがとう」
不愉快をそのままにした言い様に、男は微笑んだ。
「ところでお嬢さんは彼とどういう関係? ひょっとして『パパ』だったのかな」
探りを入れるというよりは、下卑《げび》た好奇心から口にしたようだ。鏡花はぐっと男を睨む。
嫌味な微笑を残して、今度こそ男は扉の向こうへ消えた。開いたままの扉をじっと見つめる鏡花だったが、小さく囁《ささや》く。
「笹蟹」
ひゅっと空を切って、豆粒大の何かが外へ飛んでいった。
エンジンのかかる音と同時に外が一瞬明るく光る。テールランプの赤い光がぐるりと周囲を照らし、やがて消えた。
室温が下がりっぱなしだったことに気づき、鏡花は歩み寄るとゆっくり扉を閉めた。ふとテーブルを見やると、倒れたカップからだらしなく液体が広がっている。ため息を吐きながらキッチンから布巾《ふきん》を出し、一人片づけを始めた。
「全く……パパだなんて冗談じゃないわよ。全然似てないじゃないの」
何か誤解している鏡花であった。
鏡花がテーブルを元通りにし、新しい茶葉を入れ替えた直後。扉のチャイムが鳴った。
「あぁしんど……鏡花、茶ぁくれ〜」
クレームをつけに来た客のような横柄《おうへい》さで康祐が現れた。顔に痣《あざ》やら血やらがついている悲惨な状態だったが、口調の方は全くそれを感じさせない。無事に戻った、と言っても差し支えないだろう。
一方、続いて入ってきた留美《るみ》は全くの無傷。ただし、緊張一杯、表情は硬いままだ。
康祐は壁際の席に留美を招き、それから隣の席に重そうに体重を預けた。座ると同時にテーブルへ上半身を投げ出す。
「死ぬ、いや間違いなく三度くらい死んだ。香典くれ、鏡花」
「嫌よ。でもお茶ならあげる」
素早く用意した三つのカップに、先ほどとは別の紅茶を注ぐ。康祐と自分、それから留美の前にカップを置く。
「二人ともお疲れ様。特に留美ちゃん、災難だったわね」
留美は小さく頷《うなず》いた。
「ところで康ちゃん。今日のこと、詳しい説明が欲しいんだけど」
「OK、まずは施設近くの路上からだな」
康祐は連中が現れ、留美を連れ去った経緯《いきさつ》を語った。もちろん、真っ先に語ったのは彼らが残した重大なメッセージ、留美の父親についてだ。
「結局、最後は警察に頼ったのよね。それなら最初から事情を話せばよかったのに」
当然の感想である。
「それは考えたけど。こっちも盗難車だったから、逮捕される可能性あるし」
「やむを得ない状況だったんだもの、見逃してくれるでしょ?」
「持ち主が速攻で盗難届けを出していたら、どうなるか分からないだろ。君子《きみこ》危うきに近寄らずだ」
「それ……君子《くんし》?」
鏡花が慎重に聞き返すと、康祐は押し黙って固まった。冗談ではなく本気でそう思っていたらしい。
「と、ところで鏡花、ナンバー教えただろ。調べついたか?」
「一応は。でも多分関係ない会社だと思うの。盗難車だったんじゃないかと」
「そういえばあいつら、途中でナンバー付け替えてたな。多分、プレートを何枚も偽造《ぎぞう》して持ってるんだよ」
とすると、ナンバーから持ち主は割り出せない。
「結局身元は不明なままか。最後まで追いかけるべきだったか?」
「それは無茶よ。留美ちゃんがいたし、だいたい康ちゃんだって酷い顔よ」
鏡花が手鏡を出しテーブルに置く。康祐が手に取り覗き込むと、両の瞼《まぶた》が盛りあがった見知らぬ人がいた。
「おお、能面《のうめん》のようだ。これ、明日までに治んのか?」
「一応冷やしてみたら?」
鏡花がキッチンから、冷蔵庫に入れ冷やしておいた濡れタオルを持ってきた。
「さんきゅ」
気分よく受け取って顔に近づけ、茶色いシミにふと手を止める。
「……これ、布巾《ふきん》じゃねえの?」
「一度しか使ってないから大丈夫よ」
何をもってして大丈夫なのか分からないまま、康祐は布巾を顔に乗せる。まあいい、背に腹は代えられない。明日もこの顔じゃやりきれない。
「他にヒントはない?」
ポットを持ち上げ、カップを空けるよう無言の圧力で迫る鏡花。留美は慌《あわ》てて自分の分を飲み干した。
「そうは言ってもなぁ……名前も分かんないだろ」
不機嫌そうに片目をつぶり、鏡花はひとくさり文句をつける。
「大事なことを忘れているわよ。『久しぶりだな』って言ったんでしょ、彼らは」
「そうか、留美ちゃんに会うのは今日が初めてじゃない……」
不意に、あの日の映像がぽん、と脳の奥から飛び出した。
「あいつら……! 金曜の晩にこの辺をうろついていた連中だ!」
そうだ。どこかで見たような顔だと思ったら、牛丼を買いに出た雨の日にすれ違っていた。
留美を発見する直前のことだ。
「あいつら留美ちゃんを捜してたわけか。……いや、違う」
自問自答を繰り広げる康祐に、鏡花は不満の瞳を向ける。
「なあに、ちゃんと言ってよ」
「金曜の晩、あいつらが会話してるのが聞こえたんだ。捜していたのは、『ジュリエット』って名前の女性だったはずだ。ほら、アンデルセンの」
「シェイクスピア」
「似たようなもんだろ。てっきりホステスの源氏名《げんじな》かと思ってたけど――」
二人は身体《からだ》を斜めにずらし、なみなみ注がれた液体と格闘中の少女を見やる。
「……留美ちゃんが、ジュリエットなの?」
ここで初めて、自分が話題の中心になっていることに気づいたのだろう。留美は顔を上げ、びくっと身を竦《すく》ませた。カップの縁から琥珀《こはく》の液体が伝い落ちる。
「ジュリエットっていうのは、留美ちゃん、君のことなのか?」
いつになく真顔で繰り返す康祐に、留美は本気で怯《おび》える仕草をした。カップを置くと俯《うつむ》いて、決して目を合わせようとしない。
「留美ちゃん。大事な話なんだ、答えてくれ。君がジュリエットなのか?」
たった一度だけ。留美の首は左右に動いた。
「じゃ、ジュリエットって誰なのか知ってる?」
再び同じ動作を一度きり。
「最後にもう一つ。どうして金曜の晩に、追われてたことを言わなかった?」
「康ちゃん」
鏡花が眉をひそめ、たしなめた。留美が答えないせいか、康祐の最後の口調はまるで尋問だ。
「そんな言い方――」
「ちょっと黙ってろ鏡花。留美ちゃん!」
康祐は音を立ててテーブルを叩いた。いつまでも俯いているわけにもいかず、留美は康祐と目を合わせた。あんなに優しい表情をしていたお兄ちゃんが、今はにこりともしない。
「今日だって殺されてたかもしれないんだ。もう、言いたくないならそれでいいなんて状況じゃない。どうして黙ってた?」
「あ……あの」
微かに震えながら、留美は絞りだした。
「あの日だけじゃなかったから……」
「なんだって?」
「一週間くらい前からずっと、学校の行き帰りの途中、あのおじさん達がいたんです。見張られてるんだって思いました」
康祐は膝を叩いた。
「ひょっとして留美ちゃん、夜しか来られないって言ったの」
「夜になったら、おじさん達に見つからないように来られると思って……」
「逆だよ、逆! 都会じゃ昼間の雑踏に紛《まぎ》れるのが、一番安全なんだよ!」
留美は申し訳なさそうに頷いた。
「ま、今さら言っても始まらない。ところで、なぜ一週間前なんだ」
「その前の日に、お父さんから手紙が来ました。『健二《けんじ》おじさんを見つけた、これから会いに行く』そう書いてありました。……あのおじさん達が来たのは、その次の日からです」
「手紙だって!?」
康祐はいきり立つ。なぜそんな大ヒントを隠しているんだ。
「手紙の消印は? いや、現物を見たほうが早いな、出してくれ」
留美は精一杯大きく首を振る。
「手紙は、もらった日の夜に小さくちぎってトイレに流しました。そうしなさいって書いてあったから。消印はあったけど、どこからかは……」
康祐はがくっと肩を落とした。結局、ヒントはないに等しい。
「おじさんを見つけた……会いに行く……そして翌日からの、チンピラの出現」
つまり。康祐は額に手を当てて考えた。
「健二は、連中に匿《かくま》われていたのか? 健二に会いに行ったお父さんはそこですったもんだの末、何かを盗んで逃げた」
そして連中は何か≠取り返すために、留美を誘拐《ゆうかい》しようとした。
「なるほど……叔母さんの家に行くのを嫌がるわけだ。あんなのを引き連れていったら大変だものな。でもな留美ちゃん」
鏡花、そして留美がハッとしたように顔を上げる。次に続く言葉を予想して、留美は顔をこわばらせた。
「俺の家なら、あいつらが来てもいいと思ったのか?」
ワントーン低い声に、留美は慌てて首を振る。
「ごめん……なさい」
語尾は潰《つぶ》れて声にならなかった。粒《つぶ》の揃《そろ》った水滴がぽろぽろと頬《ほお》を伝う。留美は手の甲で何度も何度も拭《ぬぐ》うが、それが涙腺《るいせん》を刺激するのか、かえって量が増す。康祐はそんな留美を冷淡な目で見下ろしているだけだ。たまりかねて鏡花が立ち上がる。
「留美ちゃん、キッチンで顔を拭《ふ》いていらっしゃい」
そう言って康祐の顔からタオルを取り上げ、留美に渡した。鏡花の中で布巾という過去はなかったことになったらしい。留美は素直に元布巾を受け取ると、ドアの向こうへ消えた。
「…………康ちゃん」
細めた瞼《まぶた》の向こうから、光る眼がねめつける。康祐が怪我《けが》の勲章《くんしょう》を負っていなければ、今頃強烈なボディブローが飛んできたところだろう。
「あんな言い方ないでしょう?」
「俺が言いたいのは」
康祐はテーブルを叩いて、鏡花を睨み返す。
「なんでもっと早く相談しないんだってことだよ。知っていたら、夜中一人で置き去りになんて絶対しなかった」
それきり口を噤《つぐ》むと、そっぽを向いた。あ、そうかと鏡花は得心《とくしん》がいった。
「仕方ないわよ。本当のこと話したら追い出されるかもって思うじゃない」
小さく微笑み、鏡花は席に戻る。仏頂面《ぶっちょうづら》の康祐のために、別のポットを取り出すと新しい茶葉を入れた。
「お前、一日に何回茶葉替えるんだよ」
「だって古くなったものは消費しないと」
「売れない品種は仕入れなきゃいいんだよ、思い切って」
売るために仕入れた紅茶を、売れないからと店長が消費しているのは矛盾《むじゅん》と言うしかない。
「こういうお店は種類の豊富さで勝負するしかないのよ」
鏡花は立ち上がると、お得意の講釈《こうしゃく》を始めた。
「よくある品種が欲しいなら、みんなコンビニか近所のスーパーに行くわよ。ここにしかない珍しい品種があるから、わざわざ足を運ぶんじゃないの」
「それで品選びに悩んだ挙句《あげく》、ダージリンとかアールグレイしか買わないんだろ」
「……そういう人も、いるわね」
そういうのしか見たことないぞ、という言葉は飲み下した。
「……もう一つ気になることがある。連中に、父親をおびき寄せるために留美ちゃんを攫《さら》うのかと聞いたら、『父親はもういい』って言われたんだ」
鏡花は目を見開いた。一旦持ち上げかけたカップを戻して、背中を捻《ひね》る。ちょうどキッチンから留美が出てきたところだった。
「留美ちゃん。大事なことだから、よく思い出して。お父さんから送られた手紙、何か一緒に入っていなかった?」
何か&ヰeが奪った何か、か?
「……いいえ」
「そう……」
否定の言葉に軽く肩を落とすと、鏡花はくるりと姿勢を戻し、ため息を吐いた。康祐もテーブルへ頬杖《ほおづえ》を突きかけ、顔の痛みに仰《の》け反《ぞ》った。
「結局手がかりはゼロに近いな。明日からどうする、予定通り横川《よこかわ》を探るか?」
「あ、そういえば」
ぽん、と鏡花は両手を叩いた。
「康ちゃんが帰ったら言おうと思って忘れてたわ。実はね、ついさっきまで横川が来てたの」
「ふーん、横川」
気の乗らない返事をして片手でカップを持ち上げ、その途中で、
「えええっ!?」
響き渡る声と同時に立ち上がり、テーブルに紅茶を撒《ま》き散らした。
「康ちゃん」
鏡花が白い目でにらみつける。しかし康祐はそれすらも見えないようで、空になったカップを振り回した。
「よ、横川って……何で?」
鏡花は無言で、テーブルの隅に裏返していた数枚の紙を康祐に手渡した。一枚目はカラー印刷された人物写真。銀縁《ぎんぶち》丸眼鏡《まるめがね》にダブルのスーツを着たあの男が、斜め四五度のバストアップで写っていた。
「ちょうど横川の資料を見てた時だったから、びっくりしたわよ」
「俺はそんな重大事を今まで忘れてたお前にビックリだよ。で、横川は何しに来たんだ。俺らが調査してるのがバレた?」
「ううん。一尺八寸さんを迎えに。丁度来てたのよ、一尺八寸靖さん」
「ああ、幽霊の……ええええっ!?」
「康ちゃん、うるさい。留美ちゃんが怯《おび》えてるわよ」
見ると留美は壁にくっついてすっかり小さくなっていた。
「いや普通驚くだろ! 何で一尺八寸さん?」
「説明するから、座って」
鏡花は留美が置いたタオルを手に取り、今度は正しくテーブルを拭く用途に使って、康祐には新しい紅茶を淹れた。そして数十分前の状況を逐一《ちくいち》語る。
「……戸籍上は死んでるが、本当は生きている」
話の締めに、康祐は大きく頷いた。
「そう。本人が教えてくれたの。お墓に入っているのは他人の骨だともね」
「きな臭《くさ》いな、そりゃ」
康祐は改めて、打ち出された資料を眺めた。『横川春樹。株式会社|哀信《あいしん》セレモニーの筆頭株主』と書いてある。
「横川は表向きは青年実業家だけど、実は関東一陽会《かんとういちようかい》の幹部でもあるの」
「なるほど、道を極めた方ね。となると健二と親友ってのも怪しいな。チンピラ稼業で知り合ったんじゃないか?」
それにしても一尺八寸の出現は大ヒントだ。彼も健二も、恐らく横川を通じて同じ境遇にある。やはり横川を探るのが最短距離のようだ。
「ところで鏡花はここを知られたんだろ。しばらく臨時休業した方がいいんじゃないか?」
「一応私を脅《おど》したつもりのようだから、もう来ないと思うけど」
「そうか? ま、俺は明日から横川を張るよ。鏡花は身辺に気をつけて、サポートしてくれ」
「それも大事なんだけど……先に一尺八寸さんの家に行かない? もしかしたら、薫子《かおるこ》さんの所にも横川達が行ったかもしれないし」
「そうだな。俺も確認したいことがあるし」
ついでにバイクの修理代も請求しよう、と密《ひそ》かに呟いた。
「方針は決まったわね。それじゃあ夜も遅いし、お開きにしましょう」
鏡花が銀のお盆に茶器を載せ、キッチンへと運ぶ。時計の針は十二時近い。終電まで若干《じゃっかん》まだあるが、タクシーを呼んで念のため遠回りするのが賢明だろう。
「よし、じゃあ帰ろう、留美ちゃ……ああっ!」
そこで初めて、留美が施設に帰り損ねていることに気がついた。
「ヤバイって、これ絶対誘拐したと思われてるぞ!」
ポカンと座る留美を指差して康祐が悲鳴を上げる。
「多分、叔母《おば》さんの家に行ってなかったこともバレたぞ。最悪、捜索願いだ」
「あ、あの」
留美は恐る恐る、手を上げる。
「わたし、園長先生に電話します。家出してましたって」
「よし、その案採用だ。留美ちゃんはお父さんを捜したい一心で家出してたんだ。たまたま通りかかった親切なお姉さんが泊めてくれて――」
「なんで親切なお兄さんじゃないの?」と鏡花。
「世間は独身二十代男には容赦《ようしゃ》ないんだよ。泊めたのは鏡花ということにしてくれ。それで明日朝、必ず帰るからと」
康祐は懐《ふところ》を探るとアドレスのメモを取り出した。鏡花の携帯を借りて、それを隣へ差し出す。
「留美ちゃん、まず君から――」
受け取る予定の人物は、壁にもたれて一瞬で熟睡していた。
「……おーい……」
「疲れてるのよ。早く帰ってあげて。今タクシー呼ぶから」
「そうだな……当然か」
「施設には私が説明しておくわ。さっきの内容でね」
「分かった、頼むよ」
留美を背負った康祐は軽く返事をし、タクシーに乗り込んだ。
「明日……また送っていくわけか」
何事もなかったかのような留美の寝顔を見ながら、康祐は肩を落とした。
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8 康祐、ビジネス論を語る
部屋に戻った康祐《こうすけ》は、背負っていた留美《るみ》を布団《ふとん》に寝かせた。服を着たままだが仕方ない。
次に、自《みずか》らの寝る準備を、と洗面所へ向かう。トイレ、洗面所と風呂桶《ふろおけ》が一体となったユニットバスだ。樹脂《じゅし》材質のドアを開けると、洗面台のガラス棚に見覚えのある小箱が置いてあった。留美にあげたひみつ箱だ。
「なんだよ、忘れてったのか。せっかくあげたのに」
軽く文句をつけながら手に取って、居間のテーブルに移動させた。
口元が動くたび走る激痛に堪《こら》えながら歯を磨く。それからさっさと着替えると、ここ数日お世話になっているコタツ布団に身を投じる。
ほっと力を抜くと、全身が痛み出す。緊張で忘れていた殴《なぐ》られた箇所が、今頃になって疼《うず》きだしたようだ。
「くそ……痛てぇ」
なんだか顔も熱をもってきた。畳《たたみ》におしつけるたび、頬《ほお》や額《ひたい》がじりじり焼けるように痛い。
寝よう。寝てしまえば楽になる……。硬く目を瞑《つぶ》り、野生動物のように身体《からだ》を丸める。眠りの波に意識を呑《の》まれた頃、すうっと顔が涼しくなった。ああやっぱり、眠れば楽になるんだ。
やがて、意識は緩《ゆる》やかな水面を漂いだした。温かい液体に仰向《あおむ》けで身をあずけ、顔だけぽっかりと外に出す。時折吹く風は浮き出た部分を柔らかく撫《な》でてゆく。
いいな、ここは。いつまでいよう……。
息が詰まって目が覚めた。柔らかな物が、鼻と口を押さえつけている!
コタツ布団から出した両手を押し当てると、しっとりした薄いものが顔全体に被《かぶ》さっていた。剥《は》ぎ取り、目を開けてよく見ると。
「…………雑巾《ぞうきん》?」
洗濯機にかけておいた雑巾だった。
「何で雑巾……?」
まだ痛む身を起こした康祐の見たものは。隣の部屋のテーブルに、肘枕《ひじまくら》で眠る留美。その前にはお風呂場の洗面器が置いてある。
「ああ、これか……」
何回取り替えたんだ? 留美を再び布団に運びつつ呟《つぶや》いた。その後ユニットバスの鏡で確認すると、顔のむくみはすっかり取れていた。頬と目の周りに若干《じゃっかん》の青痣《あおあざ》があるものの、いつもの見慣れた顔だ。
「ありがとな」
眠っている留美の頭にぽんと手を置いた。
一時間後。まだ寝ている留美を揺すり起こし、施設へ送ると伝えた。パンの耳をフレンチトーストに変身させ、牛乳とともにテーブルに配置する。席についた留美は、お皿に交じって並ぶひみつ箱に目を留める。
「あ、それ洗面台にあったぞ」
留美は慌《あわ》てたように手を伸ばし、重さを確かめるように上下に振る。
「中に何か入れてたのか?」
「お金……」
「盗《と》らねーよ。今日は忘れるなよ?」
小さく頷《うなず》いて、留美はそれを膝に乗せた。
駅のホームで既視感《きしかん》を覚えた。なんのことはない、乗り込んだ車両と席が昨日と同じだった。早朝の下り列車ということもあり、空席の方が多い。寝足りないのかウトウトする留美に自分の上着をかけて、周囲への警戒を保ち続けた。
昨日の教訓を生かし駅からはタクシーに乗る。車中、打ち合わせを小声で行う。
「鏡花《きょうか》の家の住所を聞かれるかもしれないけど、連れていってもらったから知らないで通すんだ。……実は俺も知らないんだけどさ、あいつの家」
留美は何度も頷いた。前回男達に囲まれたあたりに近づく。
「あ、運転手さん、タクシー止めないで一回通り過ぎてください」
目的地まであと五十メートルというあたりで運転手に指示を出した。鏡花が泊めたという設定上、留美には一人で帰ってきたことにしてもらおう。
「お兄ちゃん、わたし……」
留美が何か言いかけたその時。
窓の外に、ただならぬ景色を見て康祐は思わず身を屈《かが》めた。
「運転手さん、やっぱり駅に戻ってくれ!」
突然の行き先変更に運転手はもちろん留美も目を丸くする。
「どうしたんですか」
「横川《よこかわ》がいる!」
一瞬しか見えなかったが間違いない。銀縁《ぎんぶち》丸眼鏡《まるめがね》に後ろへ撫《な》でつけた黒い髪。写真で見た横川その人が、施設の玄関前で園長らしき男性とにこやかに話していたのだ!
「横川さんって昨日お姉ちゃんが言ってた」
「ああ。多分、敵だよ。やっぱりあいつが昨日の連中の黒幕なのか?」
伏せていた背を起こすと、タクシーの運転手が慌《あわ》てて真正面を向いた。しかし耳をそばだてている。それも当然か、怪しいのはむしろ自分達だ。
以後口を噤《つぐ》んで、駅前でタクシーを降りた。施設前に引き返して何か言われるかも知れない。ピリピリと空気を振動させ、二人は駆け足で上りの電車に乗り込んだ。
トンボ帰りで康祐の自室へ。そのままじっとりと身を潜《ひそ》めていると、午後になってようやく鏡花から連絡が来た。
『メール見たけど……それで逃げ帰ってきちゃったの?』
電話越しに出された鏡花のキツイ一言。
「あの状況で顔出すわけにいかないだろ! 横川が怪しい奴だって、どう証明するんだよ」
『そうね、かつての親友の罪に心痛めた善良な市民だものね、今の彼は』
鏡花はどこか呑気《のんき》だ。警察に顔を見られた自分ほどでなくとも、もう少し緊張してほしい。
「とにかく困ってるんだ。お前、学校が終わったら俺ん家《ち》に来てくれないか」
『康ちゃんの家?』
露骨《ろこつ》に嫌そうな声だ。鏡花は以前、一度だけ康祐の家に行ったことがある。大層|不愉快《ふゆかい》になって帰り、以来一度も訪れたことはない。
「いいから、来い!」
待つこと六時間半。やっと玄関のチャイムが鳴る。玄関のスコープで覗《のぞ》くと間違いなく鏡花だ。
「こんにちは留美ちゃん、退屈してたでしょう」
鏡花がにっこり微笑《ほほえ》んだ。
濃紺《のうこん》のジャンパースカートに丈の短い一つボタンのボレロ。頭には同じ色のベレー帽。丸襟《まるえり》の白いブラウスは、縁《ふち》がレースになっている。襟の左側に、学年を示すローマ数字Uの大きな刺繍《ししゅう》。都内某お嬢様学校の制服だ。
革《かわ》の鞄《かばん》をそっと置いて、鏡花は室内へ足を踏み入れた。立ち止まると窓の下へ一瞥《いちべつ》をくれる。
「……まだあるの、あのシミ」
声だけでなく顔まで抗議一色になる。
「あれはこの部屋のトレードマークなんだよ。文句言うな」
それでも何か言いたいのか、口の中で言葉を捏《こ》ねくりながら、留美の隣に腰を下ろした。紅茶がないので手持ち無沙汰《ぶさた》なのか、意味もなく布巾をいじっている。
「私が警察へ一緒に?」
康祐の提案を聞き終えた鏡花は、意外そうに声を上げた。
[#挿絵(img/Juliette_159.jpg)入る]
「こうなったらもう、留美ちゃんは警察に預けた方がいい。いっそのこと素直に誘拐《ゆうかい》されかかったって告げるのも手かな。横川が親切ぶって寄ってくるだろうけど、警察の目があれば迂闊《うかつ》に手出しできないはずだ」
勢いにまかせ、康祐は一息にまくし立てた。
「その間に、俺達は横川とあの連中の関係を――ついでにお父さんの居場所をGETだ。俺は顔を見られてるから、鏡花が連れていく方がいい」
「そうね。ゆうべ施設に電話したのは私だから、妥当ね」
「お兄ちゃんのことを聞かれたら、何と答えればいいのですか?」
留美のしごくもっともな質問。これは誤魔化《ごまか》しようがないだろう。
「誘拐を目撃した通りすがりでいいよ。盗難バイクで追いかけたから、気まずくなって逃げたんだよ」
「逃げる途中で留美ちゃんを捨てちゃったの?」
「あー、それはだな……」
適切な言い訳を考えていると、留美が大きく息を吸い込んだ。
「お兄ちゃん、テレビ!」
隣の布団部屋で、棚上のTVがつけっぱなしにしてあった。児童番組が終わりニュースが始まっている。画面右下、キャスターの座るカウンターに被さるようにCG文字が。
『少女誘拐、公開捜査へ』割り込み画面にはただいま隣に座っている少女のアップ写真が。
「あら、留美ちゃんね」
いつもの調子で、お料理番組でも眺めるようにのどかな鏡花。多少は常識のある康祐は、ダッシュで隣室へ駆け込み、テレビに噛《かじ》りついた。ボリュームも苦情が出ない程度で最大にする。
『……で、警察は本日公開捜査に踏み切りました。広田《ひろた》留美ちゃんは三日前から行方《ゆくえ》不明になっており、昨夜、女性の声で誘拐を伝える電話がありましたが、身代金などの要求はありませんでした。――また昨夜九時ごろ江戸川《えどがわ》区の路上で、少女が車のトランクに押し込められていた事件が発生しており、警察では関連を……』
「おい鏡花!!」
満員電車で腹を下したサラリーマンの形相《ぎょうそう》で、康祐は振り返った。
「お前、施設にちゃんと説明したのか? 無事だから捜索願いは出さないようにって」
「もちろん伝えたわよ。『留美ちゃんは預かっています、警察には知らせないで』って」
「そりゃまんま誘拐犯のメッセージだろ!」
いきり立った康祐は、テーブルに戻ると縁をバンバン両手で叩いた。
「だから! お前の電話は端折《はしょ》りすぎだといつも言ってんだろーがぁっっ!!」
「康ちゃん、落ち着いて」
「落ち着けるかっ、どうすんだよあれ!」
膝立《ひざた》ちになってさらに喚《わめ》きたてると、「うるさいってば!」とテーブルを越えて鏡花の足が鳩尾《みずおち》にのめり込んだ。康祐は獣《けもの》のように呻《うめ》き腹を押さえて転げた。
「あ、あの……」
オロオロと手を伸ばしては下ろす留美。
「わたし、今から警察に電話します」
と言いながら卓上の電話へ手を伸ばす。丸まっていた康祐は瞬時飛び起きた。
「わーっ! 俺の携帯で電話すんなっ!!」
「ご、ごめんなさい!」
「怒鳴《どな》らないでよ。留美ちゃんが証言してくれるんだから、世間が誤解しても大丈夫よ。それにかえってベストな展開かもしれない」
鏡花はご機嫌《きげん》な様子で、指を立てる。
「留美ちゃんの誘拐は、失踪中のお父さんの耳にも入るでしょうね。ひょっとして警察に出頭してくれるかも」
ぱん、と思わず一丁締《いっちょうじ》めする康祐。
「それだ! でも問題あるんだよな。俺の顔、警察に見られてる」
「康ちゃんの顔って、あれのこと?」
鏡花の声に再びTVを見ると、画面には『少女をオートバイで連れ去った人物』なる人相書きが映っていた。
瞳は盛り上がった瞼《まぶた》の下に隠れ、漫画で表現するところの点目そのもの。鼻は通常の二倍の幅、頬が盛り上がったせいで全体的に四角い顔だ。手書きのそれは、どう控えめに見てもゴリラの化身だった。
「…………って誰?」
「康ちゃんでしょう」
「お兄ちゃんですね」
「いや俺、あそこまでブサイクじゃないし」
人相書きは全く似てないの法則を差し引いても、あの顔は酷《ひど》すぎる。しかし。
「ゆうべの康ちゃん、あんな顔だったわよ」
「そっくりさんですね」
女性陣の容赦《ようしゃ》ない攻撃に、康祐は打ちのめされた。
「いいじゃないの、これで康ちゃん、大手を振って歩けるわよ」
「そうなんだけどさ……」
泣きたくなるのは何故《なぜ》だろう……問いかけても答える者はいない。
同日、夕刻。
青い生地に赤色スプレーでうっすらと上書きしたような空を背後に、三人はタクシーを降りた。駅からここまでのわずかな距離を快く走ってくれた運転手に感謝。
住宅街は西日に浸され、そこかしこに大きく影ができる。歩く時は暗がりを探して、必ずそこに留美を隠した。
ちなみに現在の留美は、黒いスタジャンにジーンズ、髪の毛をアップさせ、うなじを出した上からキャップを被り、眼鏡は外している。どこから見ても立派な男の子だ。
「……なんで連れてくるんだよ」
「一人にするわけにいかないでしょ」
鏡花は飄々《ひょうひょう》と抗議をかわす。女の子二人は留守番をしているべきだと、出かける前から主張している康祐だった。それに対し、鏡花の弁は「自分がいかないと一尺八寸《かまつか》夫人が納得しないから」。
「康ちゃんがお留守番すればよかったんじゃない」
「大事な確認があるんだよ。俺じゃなきゃできない」
「じゃあ三人で来るしかないでしょ。ほら、行くわよ」
わざと離れた場所で降りたので数十メートルほど戻り、いつぞや訪れた『一尺八寸』の表札の前へ。鏡花の指がインターフォンを押す。
モニターで確認したのだろう、誰何《すいか》の声もなく玄関ドアがガバッと開いた。
「しゅ、主人は!? 一緒じゃないんですか?」
化粧すらしていない青い顔がそこにあった。
「そのことを説明しに参りました。家へあげて頂けますね?」
一尺八寸夫人は小刻みに何度も頷くと、康祐達三人を迎え入れた。
通された客間は、まるでベルサイユ宮殿だ。蝋燭《ろうそく》を模したシャンデリア、白地に金色で装飾されたロココ調の家具と、あふれるヴィクトリアン雑貨の数々。実は鏡花と夫人は気が合うんじゃないか、と康祐は思った。
白い革張《かわば》りソファに腰掛けると同時に、夫人が捲《ま》くし立てる。
「主人はどうなったんです? ゆうべ店舗へ伺《うかが》ったはずです、生き返らせてもらえたのですか!?」
喋《しゃべ》りたいだけ喋り尽くして夫人が静かになってから、鏡花はゆっくり口を開く。
「ご主人ですが、ゆうべ謎《なぞ》の男達に連れ去られました」
ひぃっ! と舞台女優並みの身振りで夫人は慄《おのの》いた。
「しゅ、しゅしゅ主人はどこへっ」
「分かりません。それを調べるためにここに来たのです」
「調べる?」
さらに説明を続けようとする鏡花を、康祐の手が押し留《とど》める。
「ここからは俺が話すよ。一尺八寸さん、横川春樹という男をご存じですか?」
「いいえ……あ、でも。以前、主人の持ち物チェックをした時に、横川という名が……」
「確かですか?」
康祐は思わず腰を浮かす。
「夫の鞄《かばん》にホテルの明細書があったんです。部屋を取ったのは、横川|春代《はるよ》という女でした」
「明細……では相手を見たわけではないんですね?」
薫子は顎《あご》が首にくっつくほど深く頷いた。
いいぞ。康祐は心でガッツポーズを作る。
「ちょっと俺の説明を聞いてくれませんか? ――ご主人の死の、からくりを」
康祐は夫人に向き直ると、もったいぶって語りだした。
まず康祐は、昨夜鏡花から聞いた横川と一尺八寸の会話、そして似たような事例、死んでいるが生きているらしい殺人犯・広田《ひろた》健二《けんじ》のことを噛《か》み砕いて話した。
「つまり、横川の裏の仕事は、『失踪《しっそう》したい人』と『死体を処理したい人』の間を取り持つ、コーディネーターなんです」
「失踪? 主人はあなた達が呪殺したんでしょう?」
「まだやってなかったんですよ。真実はこうです、ご主人はヒステリーな妻に嫌気をさし、若い女性と愛の逃避行を考えた。でも妻は死んでも離婚に応じそうにない。そこでコーディネーター横川に依頼したんです、自分を死んだことにして失踪させてほしいと」
「……ヒステリーな妻……」
「数カ月後、横川のもとへ死体処理の依頼も入ります。似たような体格の男性のね。そして計画にGOサインが出される。ご主人は病気のふりをして病院へ通っていました。多分医者もグルなんでしょう、死亡診断書を作成して、まんまと火葬許可書をGETします。これがないと、火葬場で拒否されますから」
「じゃあ、失踪はおまけで本当は『死体処理業』がメインなのね」
鏡花が相槌《あいづち》を打つ。康祐は同意を示しながらも、いや、と待ったをかける。
「失踪は失踪で需要があるけどね。例えば、多重債務者の借金清算」
「それなら自己破産すればいいんじゃない?」
康祐は大げさに首を振ってみせる。この言葉を待ってました、と。
「自己破産は一度やったら七年間はできない。多分連中は、自己破産者を狙《ねら》って話を持ちかけるんじゃないかな」
「でもそれで、横川たちにメリットはあるの?」
「大ありだよ。死ぬ前に、金融機関からめいっぱい金を借りさせるんだ。無審査で貸してくれる店舗は探せば意外とあるからな。ついでに生命保険にも入らせればいい。そのうちの何割かをコーディネート代金として徴収《ちょうしゅう》するだけで、大儲《おおもう》けだ」
「なるほど……」
「高額の借金は家族が相続拒否すればいいし――それとここが重要なんだけど、借金を相続拒否しても生命保険金は受け取れるんだ。法律でそうなっている」
その場にいる全員が一様に感嘆の声を上げた。
「康ちゃんって、法律詳しいのね」
まあね、と鼻高々な康祐。滅多にない独壇場に少し酔っているようだ。
「いやほら、通夜当番で斎場に詰めてるとね、聞こえてくることあんのよ。父親が死んで借金発覚、喪家《そうか》全員なすりあいで大乱闘――よくある話」
感動の波が行き渡ったところで、康祐は再び語《かた》り部《べ》に戻った。夫人の顔を正面から覗き込む。
「そこで、鍵《かぎ》になるのは葬儀会社です。一尺八寸さん、ご主人の葬儀を行った会社は?」
「……哀信《あいしん》セレモニーです。主人が生前契約していて」
息を呑《の》む鏡花に、得意げに目配せする康祐。
「通夜と葬儀中、棺《ひつぎ》に入っていたのは精密に作られた人形なんですよ。会葬者からは顔しか見えないし、死化粧の厚塗りでもしておけば、遺体に慣れてない人間は簡単に誤魔化《ごまか》せる。実際に火葬する前に別の死体と入れ替えるという寸法です」
うんうんと、自ら感慨《かんがい》深げに頷く康祐。自画自賛の快進撃はこのまま続くかと思われた――が。それまで黙って聞き入っていた夫人が、口を開いた。
「主人の遺体は間違いなく本人でしたよ?」
客間の時が凍った。
「え? いや、素人《しろうと》は遺体ってあまりよく見ないでしょ?」
恐る恐る確認する康祐。さっきまでの尊大さはどこへやら、だ。反比例作用で夫人は急に自信を取り戻し、きっぱりと言い返す。
「いいえ。棺に遺体を納める前に、私が湯灌《ゆかん》を行ったんです。あれは間違いなく主人でした」
「ユカンって?」
と鏡花。遺体を拭《ふ》いてきれいにすることだよ、と耳打ちする。
「あなたが湯灌を? 病院で亡くなったんなら、看護師がやるんじゃないですか?」
「そうですが、自宅へ戻ってから『奥様の手でお清めになるのが一番の供養《くよう》です』と言われまして。衣装を絹の上等なものに取り替えるついででしたし」
康祐は考え込む。確かに、自宅で死んだ場合は遺族がすることも多いが。何となく意図的な気もする。
「遺体にはほくろやシミまで揃《そろ》っていました。位置も全く同じです」
「じゃあそこまで精巧《せいこう》に作ったんですよ。本人が協力してるんだから、事前に調べておくことくらい……」
「前の晩に夫婦|喧嘩《げんか》でつけた歯型も、残ってたんですが」
「あー、歯型……」
康祐は力なく繰り返した。
「それに」
遅ればせながら鏡花も参戦する。
「箱根《はこね》の医者は横川とつながりはなさそうよ。あれはどう説明するの?」
「ああ、そう…………」
「遺体は間違いなく、本物でした」
駄目押しで夫人が繰り返す。康祐も、ああそう……を繰り返すしかなかった。
その後三人は一尺八寸家を退出し、アパートへ戻った。
康祐が、たこ焼きと、同じ型を使ってホットケーキミックスにジャムを落としたジャム焼きを作る。
「おいしいです!」
感激性激化の一途《いっと》を辿《たど》る留美は、涙しそうな勢いだ。中身はタコと思い込んでいたジャム焼きに、箸《はし》を握り締め全身で感動を表す。
「こんなの初めてです」
「んー、そうか? うちじゃ定番なんだけど。日曜日に親父が作ってくれるんだ」
「こういうのをオヤジの味って言うのかしら」
ティーバッグの紅茶に顔を顰《しか》めながらの、鏡花の独り言。
「お袋の味の対義語《たいぎご》か? すげぇ不味《まず》そうな響きだな」
「あの、タイギゴってなんですか?」
「反対の意味を持つ言葉だよ。反対語」
小学生らしい質問に心が和《なご》んだ。留美と出会って数日。騒動の連続でこうして寛《くつろ》げるのは久しぶりな気がする。もっとも、テレビでは引き続き『少女誘拐』を報じているし、横川の心配もあるしで、決して平穏ではないのだが。
それでも仮初《かりそ》めの一家団欒《いっかだんらん》に、誰もが心を休めていた。
夕食後。ユニットバスで留美がシャワーを使っている間、残る二人はテーブルを挟んで向かい合う。
「で、いつまでこの状態を続ける?」
康祐の問いに、鏡花は無言で頷きを挟む。もちろん彼女とて、先のことを考えているのだ。
「もう二日くらい引っ張りましょう。それでもお父さんが出てこないようなら、誘拐ごっこは終わり。留美ちゃんだって学校に行かなきゃ」
「それじゃ、明日の晩はお前ここに泊まれよ。俺は通夜《つや》で留守にするから」
「ここに?」
鏡花の不快指数は一気にマックスへ上り詰めた模様。眉間《みけん》の皺《しわ》がそれを語っている。
「お前の家が駄目なら、そうするしかないだろ」
「そりゃそうだけど、あのシミ……もう出なくなった?」
「出ないよ、踏まなきゃ。踏んだら出る」
「やっぱり出るんじゃないの!」
鏡花が抗議したところで、留美がユニットバスから顔を出した。着ている紺色のパジャマは変装衣服と同時に買ったものである。
「あの、シミって踏んだら床が抜けるシミですか? 出るって何が……」
顔を見合わせる康祐と鏡花。何で教えてないの、と鏡花の弁。
「怖がらせてどうすんだよ」
「うっかり踏んじゃったらどうするのよ! 一生|恨《うら》まれるわよ」
と、過去にうっかり踏んだ経験を持つ鏡花が語った。話の見えない留美はきょとんと二人を見上げる。
「あの?」
「あーいいの、何でもないから。踏むなって言われたのに、わざと踏んだりする悪い子は知らないけど」
「だって抜けそうな床って初めて見たんだもの……」
不貞腐《ふてくさ》れて鏡花が呟く。悪かったな貧乏家屋で、と康祐は吐き捨てた。
文句は言うものの、康祐の提案に従うしかないと悟り、鏡花は翌日泊まることを承諾した。
夜も更け、鏡花が帰り仕度を始めると、康祐はデスクに向かいパソコンを起ち上げた。
ブラウザを開き画面を鏡花に示す。
「なあに?」
「お父さんの出現を待つ間、やれることをね。一尺八寸夫人にはああ言われたけど確認したいんだ」
そう言って康祐が開いたのは、哀信セレモニーのホームページ。
「何しろ得意分野だしな。朗報《ろうほう》を待ってろ」
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9 潜入・哀信セレモニー
「大型二種免許と葬祭《そうさい》ディレクター二級?」
テーブル越しの男は書類から顔を上げると、その向かいでスマイルする康祐《こうすけ》に問いかけた。
「一級も近日受験する予定です。あ、こちらが免許証とディレクターのIDカード」
その二つをテーブルに並べると、男の顔は見る見る緩《ゆる》んだ。即決で採用を言い渡される。
「いやー、うち、ディレクター資格もってる人いないんだよね」
「え、一人もいないんですか?」
「うん、実は。期待してるよ、八巻《やまき》くん!」
立ち上がった男、面接担当社員に肩を叩《たた》かれる。大丈夫かこの会社。と声に出さずに呟《つぶや》いた。
哀信《あいしん》セレモニー。自社ホールを持つ新興の葬儀会社だ。昨夜ホームページを見た康祐は、社員募集の文字に目をつけた。朝を待って『八巻|大輔《だいすけ》』の名で面接希望の意思を伝え、黒スーツを着こんで参上すると、あっと言う間に社員として潜入に成功。
[#挿絵(img/Juliette_175.jpg)入る]
都合上、偽造《ぎぞう》の免許証とIDカードを使用したが、これらの資格を取得しているのは本当だ。どちらもバイト先の社長から「金出してやるから取れやー」と命令されて受験したものだが。
ちなみに本日の康祐は、黒ぶち眼鏡《めがね》をかけ、髪は七三分け。多少の変装はしているつもりだ。
面接官と別れた後、留美をみるため康祐の代わりに学校を休んだ鏡花《きょうか》へ、連絡を入れる。
『採用されたの? たった五分で?』
「この業界、もともと転職率が高いんだ。経験者は優遇されるよ。で、早速今日の葬儀から入れることになった」
電話の向こうはひとしきり感心の声を上げる。
『どう? 怪しいところあるの』
「まだなんとも。一日でどこまで調べきれるか分からないし。それより学校は大丈夫か?」
『寝込んでることにしたから、留美《るみ》ちゃんがいる間くらい休んでも問題ないわよ』
そうは言っても学生の本業は勉強だ。極力短期間で決着をつけることを約束し、電話を切る。
まずは情報収集と、行くように指示された事務室を探した。
事務室は四階にあった。一階二階は丸々全部がホール、三階は客用の控え室や催事場があり、四、五階が社員専用フロアというわけだ。エレベーターを降りてまっすぐ事務室へ入る。
「新入社員? じゃ、社員証とロッカーの鍵《かぎ》渡すから待ってね」
美人ではないが人当たりはよさそうなおばさんが席を立つ。パーマのかかった髪に黒の制服姿だ。現在室内には二人の事務職員。もう一人は男性で、高校生と間違えそうなほど若い。黒スーツもなんとなく浮いている。真っ茶色の短髪にピアスが気になった。
「よろしくお願いします」
と声をかけるも、ちらりと視線を走らせただけで応答なし。接客でもこうだとしたら問題だ。
「はい、これ。ロッカーの場所なんかは先輩社員に教えてもらって。社員の控え室は隣ね」
おばさんから諸々《もろもろ》の品を受け取っていると、ピアス事務員がギリギリに後ろをすり抜けて、ぶつかりながら事務室から出ていった。詫《わ》びの言葉はもちろんなしだ。
「随分《ずいぶん》若そうですけど、バイトさん?」
「違うのよ、社長の縁故《えんこ》採用の正社員。高校中退の元ヤンキー」
おばさんは顔を顰《しか》める。
「うちの会社、こんな社員ばっかりよ。オーナーが不良|更生《こうせい》とかホームレス無料葬儀とかお金にならないことばっかり力を入れててね。社内整備は二の次って感じ」
「ほんとにあんなのばっかりなんですか?」
「そうよ。なにせ幹部からして元|極道《ごくどう》だもの。あんたは染まらないでよ」
新入社員をビビらせてどうするんだ、とツッコみたかったが、そこは堪《こら》えた。一月《ひとつき》の施行数やこの会社ならではの慣習などをそれとなく訊《き》いてみる。
「やっぱり、無料葬儀に尽きるわね。珍しいもの。行政から補助金が出てるっていっても火葬代くらいでしょう、あとはオーナーの自腹らしいわ。ちゃんと祭壇《さいだん》作ってお坊さん呼ぶのよ」
「偉い人なんですね、オーナー。遺体が出たら役所から連絡が来るわけですか?」
「そうよ。オーナーと幹部の人がね、普段から公園とか溜《た》まり場に出かけて、チラシを配っているの。もし誰か亡くなったらここの名前を出してくれ、迎えにくるから、って」
「ふうん……」
おばさんに礼をしつつ、事務室を後にした。
「わざわざチラシ配りか……役所からの連絡で十分じゃないのかな」
さて、問題の隣室――社員控え室を訪ねる。部屋自体は、どこにでもある小さな事務室だった。スチール机が六つ、壁際に本棚や社員用のミニソファと、極めて普通のオフィス。
しかし中の人は普通とは言い難かった。五人ほどの男性がたむろしていたのだが、宣言されていた通り、どう見ても元ヤ……の人。さすがに柄シャツや白スーツはいなかったが、パンチパーマもどきの短髪やごつい指輪は、それだけで威圧的だ。全員、二十代から三十代くらい。
「どうも、新入社員の八巻大輔です」
下げていた頭を上げると、全員からいかつい顔でガンを飛ばされていた。
……怖い。逃走の衝動に駆られた。
男達は順々に己《おのれ》の名前を口にしたが、正直頭に入ってこない。そのうちの一人、一番|年嵩《としかさ》っぽい男が笑顔で近づく。
「八巻君か、歓迎するよ。ところで君、どこかで会ったことなかったかな?」
「自分もどこかで会ったような気がするんですが……」
頭の引き出しの中、見えてはいるが引っかかって出てこない。つい最近会った気がするのに。
「ま、君も転職組だそうだから、どこかの焼き場で会ったかもしれないな。それじゃ社長室に案内するよ。――うぉい、新入りの机ェ用意しとけよ!!」
親切そうな先輩は康祐から視線を外した途端、任侠《にんきょう》映画の人物と化した。再びこちらを向くと、やっぱり笑顔。
「じゃ、行こうか」
……余計に怖い。いっそガン飛ばしてくれ。康祐は小さくなりながら先輩の後に続いた。
社長室は一つ上の階だった。フロアの半分を潰《つぶ》して設《しつら》えた豪華な部屋だ。ここは老舗《しにせ》旅館ですかとツッコみたくなる、壺《つぼ》や掛け軸の数々。部屋自体は普通の洋間なのだが、トルコ絨毯《じゅうたん》と紫檀《したん》のデスク、頭上の扁額《へんがく》、と、いかにも任侠の世界だった。映画の見すぎかもしれないが。
「ようこそ、社長の石塚《いしづか》だ」
石塚社長はつるっ禿《ぱ》げの五十がらみのオッサンだった。紺色に白のストライプが入ったダブルのスーツを着て、にこやかに笑っている。筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》、はちきれそうなYシャツ。喧嘩《けんか》をしたら強そうだ。
「新入社員の八巻です、よろし――」
曲げた背中を斜め二十度の角度で保って、康祐は固まった。禿げで思い出したのだ。
このオヤジ、留美ちゃん誘拐団《ゆうかいだん》のボスじゃねぇか!
衝撃で引っ掛かっていたものが外れ、記憶の引き出しが全開になる。社員も全部あの時の連中じゃないか、そしてこいつらは殴られる前の自分を見ている!
心臓が早回しになる。ヤバイ、絶対ヤバイって!!
「おや八巻君……」
石塚が立ち上がり康祐の前へ。食いつかんばかりの位置に立ち、康祐の顔をじっと覗《のぞ》き込む。
「なっ、なんですか!?」
「痣《あざ》があるな……喧嘩でもしたのか。客前でこれはマズイなぁ」
と、痣をつけさせた張本人が呑気《のんき》に告げる。
「か、隠してきますっ!」
一礼して部屋を飛び出した。
バレたか? いや、どうなんだろう。飛び込んだトイレの個室で深呼吸。
「やべぇなぁ……」
幸い偽名《ぎめい》および偽《にせ》の履歴書で潜入したので、今逃げればどこの誰だか知られぬまま終わるのだが……。それでは手がかりが掴《つか》めない。
一応、事情を鏡花へメールしておいた。夜になっても帰らなかったら警察へよろしく、と。やはりコンクリで固められて東京湾《とうきょうわん》だろうか。
「やれるだけやってみるか」
連中だって客の前では何もできないはずなのだ。今日は一日、八巻大輔を演じよう。
康祐は個室から出ると洗面台の鏡に向かう。スーツの内ポケットからファンデーションを取り出すと、目の周りと頬《ほお》の青痣に塗りつけた。康祐の名誉のため付け加えると、別に女装癖があるわけでなく、ご遺体の死化粧用に持ち歩いているものだ。
「うっし!」
気合を入れると、背筋を伸ばしトイレの扉を押し開けた。
本日は午後からの葬儀が一組、夜に通夜が一組。新人なので手伝いに徹していたが、先輩社員の手際《てぎわ》の悪さにどうもイライラが募《つの》っていく。萎《しお》れた花は抜けよ、棺に被せる布はそれじゃないだろ!
「うちの葬儀社ってかなりマシな会社だったんだな……」
葬儀業界は最近変化しつつあるとはいえ、老舗が幅を利《き》かす世界だ。哀信セレモニーのような新規参入の会社は、費用にしろサービスにしろ、よほど頑張らないと生き残れないものだが。
「どうも社員教育する気ナッシングだよな、あの社長。それでつぶれないってことは、他で利潤を得ているのか?」
あちこちに疑わしい気配を感じるのだが、決定打ではない。やはり遺体取り替えの証拠を掴むしかないのか。
とりあえずは葬儀だと、頭を切り替えた。ご遺体は五十代働き盛りの男性。遺族に親戚に会社の同僚上司と、会葬者百人ほどの一般的な葬式だ。喪主《もしゅ》の挨拶《あいさつ》によると病死らしい。
つっかえっぱなしの司会に耐えながら一時間。読経《どきょう》も終わり、ようやく献花《けんか》、出棺とあいなった。
「あれ? 釘打《くぎう》ちしないんですか」
先輩を捕まえて問いかける。
「うちはやらないよ」
そっけなく返されそっぽを向かれる。する場合としない場合があると知っていたので、特に疑問には思わなかった――この時は。
近親者に棺を担いでもらい、社員の誘導で正面の玄関へ。待っていたのは御輿《みこし》の乗った宮型ではなく、大型バンを改造した寝台型の霊柩車《れいきゅうしゃ》だ。最近は近隣住民への配慮で宮型を使わない所が増えていると聞くが、それにしても随分《ずいぶん》とでかい車体だ。小型のバスくらいある。
「おい新入り、そっちじゃねぇぞ!」
いつもの癖でつい霊柩車の運転席を開けてしまい、怒鳴られる。
「お前は後ろのだよ」
指差された方を見ると、二十人乗りのマイクロバスが満席状態で待っていた。
「行き先はこっちについてくればいいから、大丈夫だな?」
「あ、やかもち斎場《さいじょう》っスね。知ってます」
頭を下げつつバスへ乗り込み、運転席へ。霊柩車には先輩二人が乗り込んだ。二台一列に並んで一路火葬場へ。
観光バスと違うのでビデオやカラオケを流すわけでもなく、車内はしーんと静まっている。
なぜか、後ろの席のおっさんがバスガイドよろしく運転席の横に立ち、進行方向を窺《うかが》っている。
「すいません、危ないので……」
「おい運転手、なんで回り道してんだ?」
おっさんの声は明らかに疑念に満ちていた。ははあ、と勘《かん》ぐってみる。悪徳業者の中にはわざと遠回りをし、料金を上乗せするところもあるのだ。
「あの、火葬場の順番の都合で、遠回りすることはよくあるんですよ。料金は増えません」
増額なしで安心したのだろう、オッサンは席へ戻った。
しかし。康祐も疑問に思う。出発前に、炉が空いているのを電話で確認したはずだ。なぜこんなにグルグル回ってるんだ?
走り続けること、三十分。ようやく火葬場へ到着。
「ご家族の皆さんは二階控え室へお上がりください。準備が整い次第お呼びします」
乗客が建物へ吸い込まれるのを確認してから、裏へ回る。ちょうど棺を中に運び込むところだった。ストレッチャーと併走《へいそう》していると先輩から指示が飛ぶ。
「棺用の控え室に運んでおくから、ここの職員に到着を伝えてこい」
立ち去りかけた康祐はふと、目を見張った。棺がおかしい。葬儀の時は釘打ちをしなかったのに、目の前の棺は数センチおきに釘が打たれていた。しかも、小窓にまで。
「どうした」
声をかけられ、我に返る。慌てて職員の待つ事務室へ走った。
なじみの斎場なので顔見知りの職員がいるかと心配したが、幸い見たことのない女性だった。
「すみません、哀信セレモニーですが」
「はい、三番炉ですね。すぐ入れますよ」
「いえ、実は霊柩車の調子が悪くなって、棺の到着が遅れてるんです。ご家族だけ先に着いちゃったんですけど」
適当に言い訳を取《と》り繕《つくろ》い、今度は社員と遺族の待つ二階へ。ドアの前に立ちふさがる先輩は暴力団事務所の見張り番のようだった。
「前のご家族がまだ終わってないんだそうです、こちらでお待ちくださいと」
そう伝えると一人は舌打ちし、控え室の中へ。残った社員へ、康祐はスマイルを送った。
「俺が下で様子見てますから、休んでていいですよ」
「さてと」
今日はついている。混雑する日は同業者でいっぱいになるこの第二控え室も、今日は康祐と棺だけだ。ポケットの小道具袋から小型釘抜きを取り出し、小窓を封印している釘四本を手早く引き抜く。
「えーと……どちらさん?」
中の人に思わず語りかけてしまった。棺に入っていたのは、葬儀の時とは似ても似つかない別人だったのだ。もちろん、冷たくなっている。
「……なるほどねぇ」
すり替えは車中で行われていたのだ。康祐は携帯電話を取り出すと、まずは電話をかける。
「鏡花、今からナイスな映像送るから、捜索願いで検索してみてくれないか? 多分該当する人物がいると思う」
一旦切って、動画録画に切り替える。壁に掛かっていた懐中電灯を棺に入れ、撮影開始。
「しつつれいしま〜す」
片手に携帯、片手は小窓から中に滑り込ませる。死装束をはだけさせると、胸のあたりにざっくりと大きな傷が。
「包丁でブッスリ。一発だな、玄人《くろうと》かも……」
変死体を引き取りに行くと、よく法医学の先生が解説してくれたものだ。お蔭で検死に詳しくなってしまった。動画をメール添付、鏡花に送信する。
「さて、元通りにしておくか」
小窓を閉め、きちんと釘を打ちつけると、何もかも元通りだ。
安堵《あんど》して全身の力を抜いたその時。何者かに、後ろから肩を掴まれた。
バレた!? 今の見られてたのか!
ざーっと、血液が足の方へ落ちていく。瞬間、脳裏《のうり》に錯綜《さくそう》する東京湾。
今度は自分が腐乱する番なのか。片づけてくれる人ありがとう、苦労はよく分かっているとも!
康祐は覚悟を決めると、錆《さ》びついたロボットのようにゆっくり首を後ろに回した。
「こ〜う〜す〜け〜」
金剛力士《こんごうりきし》像が、いやバイト先の社長が立っていた。憤怒《ふんぬ》で顔が真っ赤に茹《ゆ》で上がっている。
「しゃ、社長……今日、ここだったんですか」
思わず笑顔で対応すると、怪力自慢の社長に襟を掴まれて引っ張られた。勢いで伊達《だて》眼鏡が飛ぶ。身長差があるため折れるかと思うほど、上半身を曲げられた。
「ちょ、しゃちょ、ぎっくり腰になるっ!」
「貴様ァ! うちが支給したスーツ着て他社に就職か、いいご身分だな、おい!!」
そのままガクガク揺さぶられた。今度は脳震盪《のうしんとう》になりそうだ。
「おま、お前と娘の恵美《えみ》の挙式はなぁ、来年早々にするつもりで式場も見てきたんだぞ! よくも裏切ってくれたな!」
「ええっ!? 聞いてな……それ以前に付き合ってもいませんよ!!」
「オレが勝手に決めたんだぁっ!」
威張って答えるなよ……ツッコみたいのを我慢《がまん》していると、ボタンが飛びそうな勢いでスーツを引っ張られた。
「脱げっ! 俺がくれてやった服なんだ返せ!」
「ま、待った社長、これは潜入捜査なんだよ!」
その時|廊下《ろうか》の方で人のやってくる気配がした。康祐は半ば強引に社長を引っ張ると、斎場の外へ飛び出した。駐車場を小走りに突っ切って敷地の外、林の遊歩道まで連れていく。
「はー、久しぶりに走った」
肺の空気を何度も交換し、やっと鼓動が落ち着いた。付き合いで走らされた社長はもっと重体で、ベンチの上に寝転んでいる。
「あのー……説明しにくいんですが、ちょっと調べたいことがあって、哀信セレモニーに潜り込んだんです。だから他人のふりしてほしいんスよ」
「じゃ、おめぇうちを辞めたわけじゃ……」
「ないですよ。だいたい俺、今日の通夜にシフト入ってるでしょ?」
それもそうかと社長は簡単に納得した。特に追及する気はないようだ。懐《ふところ》の深さに感動していると、社長は感慨深げに頷いた。
「うちの業績向上のためにわざわざ企業スパイまでするとは、やっぱりお前は幹部候補だな!」
なんでそうなるんだよ!
「でもお前、あそこに関《かか》わるのはもうやめろ。せめて余所《よそ》にしろ」
その口調が本当に心配してるようだったので、社内の様子は承知で問い返した。
「……そんなに評判悪いんッスか。哀信セレモニー」
社長は寝転んだまま首を縦に振る。
「ユーザーの評判が最悪だ。社員の態度が悪いとか顔が怖いとか」
「あ、うちにも似たような苦情来てましたよ。社長の顔が怖いって」
跳ね起きた社長にすかさずゲンコツをお見舞いされた。
「あそこのオーナーってのがな、関東一陽会《かんとういちようかい》の幹部なんだよ。つまり暴力団が経営してんだ。いわゆるフロント企業ってやつだな」
実は知っていたが、驚いてみせた。
「やっぱりそうッスか。筋モンっぽい社員ばかりだったんで。でも、暴対法以来、あの辺の人達も真面目《まじめ》にビジネスしてるって聞きますよ」
失踪&遺体処理が真面目なビジネスとは思えないが、あえてそう表現しておこう。
「ならいいんだけどな……。一陽会はな、最近南米から新しいクスリを仕入れてるそうなんだ。そのうち若い連中に広がるんじゃないかって、山縣さん言ってたぞ。お前、変なクスリ貰ったりしなかっただろうな」
「まさか」
「紫色の、綺麗《きれい》な粉だそうだ」
紫? 事務のおばさんが食べてい紫芋《むらさきいも》の饅頭《まんじゅう》を思い浮かべたが、あれは違うだろう。
「それじゃ社長。俺、行きます」
走り出した康祐に向かって、何かが飛んできた。手のひらに受け取ると社長の車の鍵が。
「おまえそれ乗ってけ。俺は柩車《きゅうしゃ》の荷台で寝て帰るから。どうせ帰りは空だしな」
「いや、確かに空ですけど……」
もう一度頭を下げて、駐車場へ向け走り出した。ついでにと声を張り上げる。
「社長ー、やっぱ俺、しばらく休みますからー!」
なにぃ〜〜とこだまが響いたが、聞こえないふりをした。
駐車場ではスパイ並みに警戒してみたが、幸い連中に見咎《みとが》められることはなかった。
社長の車を葬儀社に停め、尾行を考慮しながら電車を乗り継いで自宅へ。
「康ちゃんお疲れ様」
「お兄ちゃんお帰りなさい」
鏡花と留美のお出迎え。二人ともちゃんと閉じこもっていたようだ。
布団部屋に直行し、スーツから適当な服に着替えていると、すぐに鏡花が顔を出した。
「康ちゃん、映像の男の人なんだけど」
「どうだった、遺体の身元」
鏡花を見やると、硬い表情が全てを語った。
「三週間前に行方不明になった不動産業者に似てると思う。今は単なる失踪扱いだけど」
「にしては傷《いた》んでなかったな。冷蔵庫で冷やしてたのか」
起ち上げてあったパソコンの画面へ向かう。ある失踪者情報呼びかけサイトにそれはあった。
「神奈川《かながわ》県|厚木《あつぎ》市の不動産業者……関東一円が商売エリアってところか。なるほどな……」
デスクに手を添え考え込む康祐に、鏡花は不思議そうに眼差《まなざ》しを向ける。
「どうしたの? 成果あったのに浮かない顔で」
「いや……ついでに連中が使ってる人形も奪ってくるつもりだったんだ。証拠になるからさ」
「駄目だったの?」
康祐は黙って首を横に振る。
「人間だった。本物の遺体だったよ、間違いない」
特殊メイクの専門家ではないので、それらの造形物に詳しくはないが、死体には一家言《いっかげん》ある。
「でも、彼らが別の遺体をこっそり処分してることは証明できたわ」
「まあな。……でもそれじゃ駄目なんだ」
モニターの電源だけ落とすと、康祐は背を伸ばした。
「さて、夕飯兼作戦会議といこうか」
康祐が作った焼きソバを食べながら、座談会が始まる。
「まず、鏡花。何か言いたいことはあるか?」
意見を求める康祐。あれこれ口は挟むものの、基本は店長である鏡花を立てているのだ。
「もうちょっと料理らしいものを食べたいんだけど……」
「メシの感想聞いてんじゃねーよ。今後の方針だよ」
ああ、と鏡花は歎息《たんそく》し、一旦|箸《はし》を置いた。
「私達の目的は、留美ちゃんのお父さんを見つけ出すことなのよね。横川達が法的にも人道的にも良くないビジネスを行っていることは分かったけど、これを公表したところでお父さんどころか健二を引っ張り出すのも難しいと思う」
「なんへ?」
口から焼きそばをぶら下げたまま質問すると、軽蔑《けいべつ》の眼差しを浴びた。
「彼らが葬儀の遣体を取り出して、別の人を焼いているのは立証可能よ。でも警察が探索するのは『取り出された遺体』であって、生きてる人間じゃないの。……見つからないわよ」
「そりゃ見つからないだろ、遺体が自立歩行で逃げてるなんて誰も思わない。いや、だから遺体同士を取り替えるんじゃビジネスにならないんだよ。結局、遺体の数は減らないんだから。そのへん強調してやれば」
「康ちゃん」
熱くなった論争を諫《いさ》めるのはいつも鏡花のこの声だ。そして大抵、それは正しい。
「私達は一尺八寸《かまつか》さんに会ってるし、健二のことを伝聞で知ってるけど、大抵の人は死体が生き返ったなんて信じないわよ。そういう捜査はしてくれない」
「そりゃ……そうだ」
せめて喋って動く一尺八寸の動画でもあれば別だが。店内に防犯カメラをつけておけばよかったと、今さらながら悔やまれる。
「それに、警察がありもしない死体を探索しているうちに、連中が一尺八寸さんや健二を始末することだって有り得るでしょう?」
「……つまり、これを警察へ知らせることは反対なんだな」
はい、といいえを混ぜたような曖昧《あいまい》な頷き。
「取引するべきだと思うの。これらの情報と、健二を交換よ。あ、一尺八寸さんも貰わないと。捜し出したら百万って夫人と契約してきたから」
「いつの間に……」
鏡花は含み笑いを漏らした。
「二人を取り戻した後に、警察へ通報よ」
「あのう」
端っこで焼きそばに専念していた留美が、小さく口を挟んだ。
「取引って、警察に知らせない代わりに、ってことですよね?」
「そんな口約束、守らなきゃならない道理はないわよ」
「いつも思うんだけど、お前ってホントに悪人指向だよな」
と茶々を入れると、顔面すれすれに拳が飛んできた。
「最後に健二を使ってお父さんをおびき寄せて、作戦終了。そして呪殺に取りかかるのよ」
にっこり笑って、鏡花は再び焼きそばへと身を投じた。
連中と取引。理に適《かな》ってはいるが、果たして上手《うま》くいくのだろうか。なにせ人を殺しても処理に困らない連中だ。
「大丈夫かぁ……?」
焼きそばとともに飲み下した言葉を、真横の留美だけが聞き咎《とが》めていた。
「康ちゃん、そろそろ出かけないの?」
九時のニュースを見ていると、鏡花がそわそわと尋ねてきた。そういえば、昨夜の話では康祐と入れ違いで泊まることになっていたのだ。
「あ、俺しばらく葬儀社行くのやめたんだ。今、留美ちゃんのそば離れるのは危険だろ」
何故か鏡花は突然怒り出した。
「そんな! 私、今日は泊まるつもりで来たのに」
「別に困らないだろ。俺は台所の方で寝るからさ」
「シャワーを使いたいの!」
ん? と顔を上げると、真っ赤な顔の鏡花がいた。
「何だよ俺が覗くとでも? 心配なら留美ちゃん見張りに立たせればいいじゃないか」
「ここのお風呂《ふろ》、着替える場所がないじゃない」
「そりゃ、便器の上とか便器の下とか」
殴られそうになったので口を噤《つぐ》んで逃げた。結局、鏡花のシャワー及び着替え中、康祐は布団部屋に軟禁ということで落ち着く。
「ここはー、俺の家なんだぞー」
手をメガホンにして呼びかけてみるも、虚《むな》しさが残るのみだった。
布団部屋でテレビを見ていると、襖《ふすま》を少しだけ開け留美が入ってきた。横に招くと康祐の隣にちょこんと正座する。ニュースはちょうど、留美誘拐の続報を流していた。捜査に進展はなし。父親が駆けつけた、という話はもちろん出ない。
「お兄ちゃん、あの……」
「うん?」
俯く留美はどこか痛々しい。
「あの、例のおじさん達との取引って、危険ですよね?」
「うーん、まあ。でも自衛策は考えるよ。よくある方法だけど、俺達を殺したら取引の品は手に入らないようにするとか」
「殺される……かもしれないの?」
留美の声は微《かす》かに震えている。康祐は迷いながら言葉を選んだ。
「もののたとえだよ、心配すんな。……でも、やるのは留美ちゃんが帰った後だ」
その会話の後、留美は口を閉じた。さほど大きくないテレビの音が鼓膜《こまく》を刺激する。賑《にぎ》やかなCMの次に映ったのは海外のテロのニュースだった。リアルタイムで、幾つもの命がこの世から消えている。
報道機開発達の大罪は、死の知らせがあまりに簡単に手に入ることだろう。明日死ぬかもしれないと聞かされても、テレビの中の他人事《ひとごと》と同程度にしか受け止められない。
バスルームのドアが傾ぐ音がした。立て付けが悪いので開閉のたびにそうなるのである。それから二分後。
「いいわよ、出ても」
パジャマに着替えた鏡花が襖を開けた。無地でクリーム色のパジャマに赤いカーディガン。
ちなみにパジャマはシルクである。
「それじゃ、留美ちゃん入ったら……」
「あ、あの」
膝に置いた手のひらをきつく握って、留美は顔を上げた。
「お話があるんです」
留美は立ち上がると、テレビの横に置いてある私物――康祐があげたひみつ箱を手に取った。康祐と、その横に立つ鏡花の前に再び正座して、箱を開け始めた。
「わたし……嘘をつきました」
二回、三回と箱の側面が行ったり来たりする。
「嘘って?」
膝をついて鏡花が問いかける。留美は下を向いて箱をいじったまま、先を続けた。
「お父さんから来た手紙のこと。手紙には、健二おじさんを見つけたことの他に、まだ続きがあったんです。――おじさんが、どうやって生き返ったのかを」
「本当!?」
鏡花と康祐は揃って声を上げる。留美が、知っていた?
「手紙に全部書いてありました。そしてもし自分が逮捕されてしまったら、これが必要になるから」
最後の手順を終えて、箱はかちりと口を開けた。
「健二おじさんが飲んだ薬。……その薬を送る、決して誰の目にも触れさせるな、と」
少女が指で摘み上げたそれは、小さなビニール袋に閉じられた、紫色の粉末。
「薬の名前は――ジュリエットです」
そうだったの、と鏡花が呟く。
「だからジュリエットなのね」
鏡花は深い紫のそれを、そっと受け取り手のひらに載せる。
「だからって、何が」
「つまりこれは、完璧《かんぺき》な仮死状態を作る薬なのよ」
「いや、仮死状態ったって……」
康祐は必死に反論を試みる。
「通夜と告別式で、最低でも二日はかかるんだぞ! 臓器や脳の損傷は? 医者の診断だって」
「死の三|徴候《ちょうこう》。呼吸停止、心拍停止、瞳孔《どうこう》散大の確認ね?」
「そうだよ」
鏡花は曲げた指を顎《あご》に添え、考えながら少しずつ言葉を繰り出す。
「聞いた話なんだけど……ごくまれに、死の三徴候が仮死状態でも出る場合があるの。死亡宣告を受けた数時間後に生き返って、家族や医者をびっくりさせたんだって」
「それ本当か、都市伝説じゃなく?」
「身体《からだ》は動かないのに、耳だけ聞こえてるケースが多いそうよ。周囲の会話を寸分違いなく再現してみせたそうだから、信憑性《しんぴょうせい》はあるわ。……私が思うに、そういう時は細胞が死なない程度に酸素供給がなされてるんじゃないかしら」
康祐はポーズで否定してみたが、結局、全面肯定に傾いた。何しろ生き返った男を知っているのだから。
「有利な材料が増えたな。どうする、鏡花。……鏡花?」
鏡花は俯《うつむ》いたまま敷き布団の一点を見つめていた。
「おーい?」
肩を叩いて、ようやく我に返った。
「あ、ごめんなさい。……そうね、さっき話した取引はなしね」
それから留美に向かい、小さく笑った。
「ありがとう留美ちゃん。お父さんの言いつけを破ってまで教えてくれて」
留美は表情を翳《かげ》らせ、俯いた。
「今日はもう寝ましょう。明日また、みんなで相談ね。いい?」
頷きを貰って、鏡花はほっとため息をついた。立ち上がるついでに康祐の腕を取る。
「子供はそろそろ寝る時間よ。私達は隣にいるから安心して。……おやすみなさい」
引《ひ》き摺《ず》られるようにして部屋を出かけた康祐の背中に、小さな呼びかけが。振り返ると留美が布団に正座してこちらを見つめていた。
「……お兄ちゃん。ごめんなさい」
「え? ああ、うん。じゃあおやすみ、留美ちゃん」
納得のいかないまま笑顔を作り、襖を閉めた。
板の間へ戻ると、浮かない顔の鏡花がテーブル前に座っている。テーブルの上には紅茶が二つ。面談しようということか。ご期待に添うべく、そこへ胡坐《あぐら》をかいて紅茶をすすった。
「ごめんなさいって謝られたんだけど、なんだろな。むしろこちらが礼を言う側なのに」
鏡花はわざわざ持ってきたのか、お気に入りのビスケットを並べると、康祐を一瞥《いちべつ》した。
「馬鹿ね、分からないの? 留美ちゃんはひみつ箱を、わざとこの家に置いていったのよ」
康祐は数秒考えて、ぽんと膝頭を叩いた。
「ああ! 連中に取られるとマズイから。賢いな、留美ちゃん」
「賢いわよ。だから、もしもの場合は康ちゃんに危険が及ぶってことも、当然理解していたでしょうね」
鏡花はつまらなさそうに呟くと、ティーカップに口をつけた。反対に康祐がカップを置く。鏡花から伝染した渋い顔とともに。
「……怒ってるの?」
カップの向こうで、観察するような目が窺《うかが》っていた。康祐は口元で笑うと片手を振る。
「いいや。それだけ信用されてるってことだろ。それより、ずっと一人で我慢してたんだな、と思うと……」
出がらしのティーバッグをカップに突っ込むと、無言で鏡花に新しい物と交換させられた。
「他人の飲み物なんてどうでもいいだろうが」
ブツブツ文句を言うが、いつもなら返ってくるはずの反論もしくは手刃がこない。不審感から顔を上げると、鏡花は暗く沈んだままだった。康祐はこっそり足を解くと、つま先で鏡花のわき腹をつつく。
「うりゃ」
「っ!」
声を出さずに笑うと、間髪《かんはつ》をいれずにお返しの蹴りが飛んできた。予想していたので辛《から》くも逃れたが。
「何するのよ!」
腰の砕けた鏡花が真っ赤になって小声で怒鳴る。
「腹に一物《いちもつ》あるみたいだから吐かせようかなーと。……何悩んでる?」
見る間に鏡花の顔は数秒前の状態に戻る。ただし今度は、目を逸《そ》らさなかった。了解の印に頷くと、隣の襖に目を遣《や》った。
「留美ちゃん、もう寝てる?」
康祐がそっと覗き込むと、布団に埋まった小さな頭が見えた。
「寝たみたいだ。聞かれるとマズイのか?」
鏡花の顎が微かに下がる。康祐は襖を戻すと、ひそひそ話の出来る距離まで席を詰めた。
「……康ちゃん、ティーコジーで私が留美ちゃんに質問したの、覚えてる? お父さんからの手紙に何か入っていなかったかって」
「そういえば。鏡花の予想は当たったんだな、おめでとう」
「何がめでたいのよ! いいこと、康ちゃん」
人差し指を突きつけて、責めるように鏡花は続けた。
「彼らは留美ちゃんを見て『ジュリエットだ』と叫んだんでしょう。つまり、薬の所持者が父親から娘に移ったことを知っていたのよ。どういう意味だか、分かる?」
康祐はやっと意図を汲み取った。だから鏡花はこんなにピリピリしているのだ。
「連中は父親の持ち物を検分済みだった……慎一さんは捕まってるのか!?」
「そして薬を郵送したことを、無理やり吐かされた。もう用無しよ。最悪、殺されてるかも」
二人は口を噤《つぐ》み、互いの目を逸らした。父親を必ず見つけると約束した。だが今、それは果たせないかもしれないのだ。
「だったらなおさら、明日なんて悠長なことは言ってられないだろ。今すぐ連中の行動を抑《おさ》えないと!」
康祐は手を伸ばし、自分の携帯電話を掴んだ。
「どこに電話するの?」
「山縣《やまがた》さんに連絡する。これまでの証拠を全部提出すれば間違いなく動いてくれるさ」
数字を三つくらい押し終えた時、伸びた鏡花の手がそれを制した。
「駄目よ! 警察が健二を逮捕したら、呪殺できなくなるのよ!」
その声に金縛《かなしば》りのように手が止まる。が、頭を振ると、康祐は鏡花に向き直った。
「健二は諦《あきら》めよう。もう通常の依頼の範囲を越えてるんだ。だいたい、慎一さんを助けられなかったら本末転倒だろ」
康祐は諭《さと》すように、静かに語った。しかし鏡花も負けない。
「もちろん慎一さんも助けるわよ。私と康ちゃんで乗り込むのよ。そうよ、今から行きましょう。横川の居場所なら押さえてるわ」
「無茶だ鏡花。連中はプロなんだ。こないだだって、街中で銃をちらつかせたんだぞ。俺は断固反対する」
自信一杯の鏡花にあえて苦言を呈した。彼女の世間知らずや暴走を諫《いさ》めるのは、自分の役目と自負している。しかし鏡花は余計にヒートアップし、声を荒らげた。
「じゃあ康ちゃんは待機してなさいよ! 私が一人で行ってくるから!」
「鏡花!!」
少し強い語調に、鏡花はびくりと身を硬くした。怒鳴りつけることはあっても康祐から怒鳴られたのは初めてだった。きつい言い方で康祐は続ける。
「いい加減にしろ! どんなに虚勢を張ったって、お前はか弱……いや、護身術の腕前は身をもって知ってるけど、一応はか弱いとされる十七の小娘なんだぞ!」
「小娘……」
「だから、こういう時は大人に頼れ。……あまり心配させるなよ」
鏡花は黙って頭を垂《た》れる。急に静かになった室内に、康祐は落ち着きなくそわそわと身を動かす。襖を少し開け、隣室を覗いたりしてみた。
「大きい声出すと留美ちゃんが起きるからな。続きは筆談にしよう」
戻ってきた康祐は、真顔で紙を取り出した。笑いながら鏡花が止める。
「……分かったわ、康ちゃん。警察の力を借りましょう」
康祐が大きく肩を下げた。
「それが一番だよ。よし、鏡花はパソコンに保存したものを全部印刷……いや、メール添付した方が早いな。山縣さんにメルアドを聞くよ。それからジュリエットは」
「ひみつ箱の中。私、開けられないわよ。留美ちゃん起こす?」
「仕方ないか……」
しぶしぶ腰を上げる。
――その時。玄関のチャイムが鳴った。
「誰だよこんな時間に」
ブツブツ呟きながらドアのレンズの前に立つと、OLらしきスーツの女性が立っていた。
「この家の前に鍵が落ちてたんですけど……」
鍵ならポケットにありますよと言いかけて、他に二人いることを思い出した。
「鏡花、お前鍵落としてないか?」
振り向きながら鍵のつまみを回し、カチリと音が響いた瞬間。勢いよくドアが開き、康祐は張り飛ばされた。ドカドカと複数の革靴がなだれ込む。
「康ちゃん!」
鏡花の悲鳴に何事かと身を起こすと、上げた額にちょうどくっつく物があった。
「やあ、新入社員の八巻君。無断早退は感心せんな」
見上げると、石塚が銃口を康祐に押し当て立っていた。
侵入者は石塚を入れて計五名。全員哀信セレモニー≠フ先輩諸氏だ。後頭部に銃を突きつけられ、両手を肩の高さに上げたまま正座するように言われる。左右に元先輩が配置された。
鏡花は拘束こそされなかったが、座ったままでいるよう指示され、男の一人が背後に張りついた。その足がしっかり窓の下のシミを踏んでいたので康祐は慌てて「そこ踏むな!」と叫ぶ。
「こんな人達に気をつかう必要ないわよ」
鏡花に睨まれた。ごもっとも。
「石塚さん、表札『八巻』じゃねぇですよ。波多野《はたの》です」
手下が一人、外から戻ると耳打ちする。
「そうか。ということはお姉ちゃん、ここはあんたの家か」
鏡花は音のしそうな勢いで顔を上げ、石塚を睨んだ。
「冗談じゃないわよ、どうして私がこんなボロアパートに」
「悪かったな俺の家だよ!」
「ということは、八巻君は波多野君なのか。お前の顔はどこかで見たような気がしてな。いろいろ面白いことをしてたようだが、ここを教えてくれたことで帳消しにしてやろう」
背中の石塚は余裕たっぷりに口上を述べる。鏡花は石塚にではなく、康祐へ怒りの目を向けた。翻訳《ほんやく》すると、後つけられるなんて康ちゃんのドジ! という意味になる。
「や、やだなぁ石塚社長。見た顔ってのはどこかの焼き場で会ったんですよー」
「オレぁ焼き場に行ったことは一度もねぇよ」
あっさり却下《きゃっか》された。ちくしょう、やっぱりバレてたのか。石塚は康祐の後ろ頭を銃口でコツコツ叩くと、余裕|綽々《しゃくしゃく》と続けた。
「単刀直入に聞こうか。娘はどこだ?」
「警察だよ。狙《ねら》われてることが分かったからそっちに任せたんだ」
「来る途中、車載TVで誘拐事件に進展なしと聞いたんだがな」
すぐバレた。さっきよりきつい目で鏡花に睨まれた。
「……安全な場所に預けた。危険を承知で連れ帰るほど、馬鹿じゃないんでね」
「なるほど。それじゃ預けた人について教えてもらおうか。別の場所でゆっくりとな」
駄目だ、どうしたって誤魔化《ごまか》しようがない。だがまだチャンスはある。どうやら移動するつもりらしいが、外に出された瞬間大声を出せばいい。問題はこいつらが家捜しに隣室へ踏み込むだろうということだ。それより先に外へ出れば――!
「お兄ちゃん……?」
震える幼い声に、弾《はじ》かれたように顔を上げる。開いた襖の後ろに、パジャマ姿の留美が呆然《ぼうぜん》と立っていた。最悪のタイミングだ。
石塚の銃口が自分から離れ、隣室に向けられた。康祐は同時に叫ぶ。
「逃げろ留美ちゃん!!」
テーブルを踏み越えて襖の方へ。男達二人と同時に詰めかけて、団子になって襖へ激突した。
「一人外へまわれ!」
石塚の怒声。外れた襖の向こうで、留美が窓を開けようと躍起《やっき》になっていた。片手にはひみつ箱――ダメだ、それは放っておけ!
叫ぼうとした瞬間、足払いを掛けられ布団の上に転がった。誰かが背中から馬乗りになる。男の一人が留美を羽交《はが》い絞《じ》めにした。
「ありがたい。探す手間が省《はぶ》けた」
鏡花の手をねじり上げながら、石塚が布団部屋へやってきた。首を捻ってダイニングを見ると、残りの男二人は伸びていた。どうやら鏡花の餌食《えじき》になったようだ。しかし、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》。
石塚は康祐の顔の横に片膝を突くと、髪を掴んでその顔を覗き込んだ。
「どうやら君は危険を承知で連れ帰るような馬鹿者だったらしいな」
「……悪かったな」
苦し紛れに呟くと、石塚は笑って立ち上がった。
「放しなさいよ!」
鏡花の間合いゼロからの上段蹴りが石塚の顎を掠《かす》めた。
「よせ鏡花、相手は銃持ってるんだぞ!」
康祐の指摘に鏡花はピタリと動きを止める。石塚が満足そうに頷いた。
「そうともお姉ちゃん。話し合い如何《いかん》によっては、無傷で帰してやれるんだ。こんな所で命を落としたら損だろう」
「話し合い? あなた達が?」
そうこうするうちに、男の一人が留美を担ぎ上げ、さっさと先に行ってしまった。人を呼んで自分達が逃げおおせても、留美だけ連れ去られてしまう。結局、行くしかないのか。
「……分かったわ。一緒に行きましょう」
康祐の代弁をするように、鏡花が凜《りん》と告げる。
「ただし」
こほんと小さく咳払《せきばら》い。
「パジャマから着替えさせて。それから、着替え中は絶対に覗かないでよ!」
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10 バナナ埠頭《ふとう》の決戦
赤のツーピースに着替えた鏡花《きょうか》と二人、前後をしっかり固められながら外階段を下りた。手ぶらの鏡花と対照的に、康祐《こうすけ》は後ろ手に手錠《てじょう》をかけられている。夜更かしの通行人でもいてくれればと思うのだが、残念ながらそんなものは存在しない。
先日とはまた違った車が二台|停《と》まっていた。前の車の後部座席に、偽《にせ》OLと留美《るみ》の姿が。石塚《いしづか》は鏡花を連れて前へ、康祐は残りの三人と一緒に後ろの車へまわされる。
康祐の乗った車中では、本人がいないのをいいことに上司の悪口に話が咲いていた。石塚はサドで無類のリンチ好きだと、隣の男がニヤつきながら康祐に教える。怖がらせようという腹なのか、嫌な奴《やつ》だ。
車は首都高速道路に入っていた。窓の外へ目をやると、背の低い柵の向こうに電飾のような夜景が広がる。向かっているのは横浜《よこはま》方面。まさか船で海外へ売り飛ばされるとか?
横羽《よこはね》線の路面に慣れた頃、二台の車は高速道路を降りた。交差点を通るたび、○○埠頭《ふとう》の看板が現れ消える。海外身売りがますます濃厚になってきた。
一般道に降りると、道は次第に細く暗くなっていく。対向車も後続車もなしだ。周囲は中途半端な高さのビルと、だだっ広い駐車場が続き始めた。人家は全くない。
この辺は港湾地区か? 康祐は首を回した。
横浜の港といえば、クイーンエリザベスU世号などの豪華客船が寄港することで有名だが、客船が接岸するのは港湾のほんの一角だ。大部分は輸入品や国内輸送品が荷揚げされる貨物船用の埠頭であり、その近辺は一般人が立ち入れないようになっている。
この車が走っているのは、まさにそんな地域だった。昼間は港湾関係者が行き来しているだろう道路や建物も、深夜となると完全に無人だ。人を連れ去り監禁するのに、これ以上適した場所はない。
大きめな枝道の一つを曲がったかと思うと、数秒で行き止まりになった。黄色に塗られた巨大な鉄柵が道を塞《ふさ》ぐ。
「ここで降りろ。この時間、ゲートは閉まってるんでね」
命令口調の運転手越しに正面を見ると、鉄柵には『ここより港湾内』と看板がかかっていた。
前の車から鏡花と留美が降り、男達に促され柵の方へと歩いていく。康祐も背中を押されながら後に続き、やっと鏡花達と合流できた。
初めて訪れる場所は、どこか異国のようだった。誰もいない道路。両脇《りょうわき》にずらりと並ぶ倉庫群。突き当たりで道路がスパッと切れている。その向こうは空より黒い闇《やみ》。……海だ。
夜間活動が想定されてないためか、付近の光源は圧倒的に乏しかった。数えるほどしかない街灯に照らされて、ぽつんと一台、取り残されたフォークリフトが闇に浮かぶ。野良猫が運転席に陣取って、こちらをじっと威嚇《いかく》していた。
道路の正面奥は岸壁で、その隣に鉄筋の大きな建物がそびえていた。三階建てのシルエットからクレーンの先端が覗《のぞ》いており、屋上の塔屋には「バナナ1号」と大きく書いてある。
「なんでバナナ?」
思わずもらすと、石塚が朗々《ろうろう》と説明する。
「あれは上屋《かみや》といって、港の荷揚げ品一時保管所だ。ここは特にバナナの荷揚げが集中するからな」
「そういえば……」
鏡花が康祐の横に立ち、冷静に囁《ささや》く。
「バナナの害虫駆除用の設備って、国内では数箇所にしかないんですって。だから自然と、各国から来るバナナがそこに集まるのよ」
「バナナね……南米産のもあるのかな。そういや、紫《むらさき》の粉の産地も南米だったかな」
康祐が呟《つぶや》くと、聞きつけた石塚が薄く笑った。
「さて、残念だがお姉ちゃんと波多野《はたの》君はここでお別れだ」
石塚が目で示すと、男の一人が康祐の腕を取り、鏡花達から引き離そうとした。
「康ちゃんをどうする気?」
鏡花が色めき立つ。しかし石塚はニヤリと笑うだけだ。
「話し合いはお姉ちゃんにしてもらうのさ。こいつは人質だ」
「私が横川《よこかわ》と?」
鏡花が訊《き》くと、石塚は口の端を持ち上げた。
「どうやらきちんと把握《はあく》してるようだな。それなら申し分ない。なに、帰りには一緒に送ってやるから安心しろ」
嘘《うそ》つけよ、と康祐は頭の中で毒づく。そもそも解放する必要が奴らにはないのだ。バラバラに殺すか一緒に殺すかの違いくらいだろう。
とはいえ、今の自分に出来ることは何もない。むしろ、相手が一人になった方がチャンスはある。この男を倒し、すぐに警察へ連絡。その後、鏡花達を助けに走る。それが今考えられる最良かつ唯一《ゆいいつ》の道だ。
石塚は男に、例の場所へ連れていけと言い渡した。康祐は促されるまま一団から離れ、男とともに倉庫の並ぶ方角へ向かった。
じっと康祐を見送る留美の横で、鏡花が石塚へ視線を流す。
「ティッシュを貰《もら》えないかしら?」
依頼の意図を分かりかね、石塚が戸惑っていると怒った口調で鏡花が繰り返した。
「バッグも持たせてくれなかったから、ティッシュを持ってないのよ。まさか洟《はな》を垂《た》らして歩けなんて言わないでしょうね」
鏡花の叱責《しっせき》に、睨《にら》まれた石塚が笑ってポケットを漁《あさ》る。
「気の強い姉ちゃんだな……ほらよ」
何日入れっぱなしになってるのか、よれたポケットティッシュを取り出すと、二枚ほど抜いて鏡花に差し出した。
「ありがとう」
鏡花は一枚で鼻を覆《おお》うと、もう一枚を見えないように口元へ運び、ふぅ、っと息を吹きかけた。下から見上げていた留美にだけ、その奇跡は見えた。ティッシュはくるくると不自然によじれ、こよりになる。さらによじれ、手足が胴体から生えた人形に。こより人形は地面にぽろりと落ちると、愛嬌《あいきょう》のある足取りで自分達の列から外れていく。そして康祐の消えた方角へ向かうと、闇に紛《まぎ》れて見えなくなった。
「おねえちゃ……」
振り返ると、鏡花の目が黙っていなさいと告げる。留美はふと、出会ったその日、鏡花が自分に告げた言葉を思い出した。
『私は、古くから呪術《じゅじゅつ》を司《つかさど》る家系の出身なの』
* * * * * *
所々欠損したアスファルト。大型トラックが出入りするのだろう、倉庫へ続く道路は幅だけは十分にあった。道の両脇には三角屋根の倉庫が並ぶ。
倉庫の外観は、例えるなら窓の少ない体育館だ。古いコンクリートの壁はシミでうっすら汚れている。どの倉庫も通りに面して巨大な鉄の扉がついており、隅の方に人の出入り専用の小さなドアがついていた。
男の足は奥から二番目、最も古びた倉庫の前で止まる。ドアの鍵《かぎ》を開け、康祐を先に入らせた。
柱の一切ないだだっぴろいスペースが広がる。天井《てんじょう》は高く鉄骨がむき出しで、屋根裏の形は外から見た三角形そのままだ。
コンクリートの床の上には、雑多に積まれたダンボールの小山がそこかしこに点在した。積んである箱にはバナナのイラストが描いてある。
箱の山をすり抜けながら奥へ奥へと押されて歩く。空調と水銀灯がジリジリいう空間に、二人の足音だけがこだまする。
倉庫の突き当たり手前で康祐は思わず足を止めた。奥の壁際に銀色の巨大な箱が――冷蔵庫だ。おそらくこれが、連中の死体安置所《モルグ》なのだ。ということは、やはり自分は……?
背中を汗が伝った。が、しかし。男は腹立たしげに康祐の襟首《えりくび》を掴《つか》むと、冷蔵庫と反対の方へ引きずり出す。どうやらもう少し命はあるらしい。
倉庫の左奥にプレハブ小屋が建っていた。
男はプレハブ小屋のドアを開ける。冷蔵庫やスチール棚、小型テレビが置いてある。倉庫番の部屋らしい。促され、一段高くなっている床へ足を踏み入れる。どうやら中には誰もいないようだ。
いや。
部屋の隅に、白木の棺桶《かんおけ》が一つ。
全身に回る血流が一瞬途絶えた。康祐が固まると男が背後で盛大に噴き出す。
「それはお前のじゃない。まあ、いずれ用意してやるけどな」
「俺のじゃない?」
瞬間、康祐は棺の前へ駆けた。棺の蓋は外れている。覗き込むと――思ったとおりに。
「留美ちゃんのお父さん!」
留美の父、慎一《しんいち》が固く瞳を閉じ横たわっていた。左前の白い着物。経帷子《きょうかたびら》。脚絆こそつけてないが、立派な死装束《しにしょうぞく》だ。
後ろに回された拳《こぶし》が震える。やっぱり間に合わなかったのか?
「お仲間だよ。よかったな寂《さび》しくなくて」
「仲間……?」
ぼんやり呟きながら、周囲に目を走らせる。壁にかかったホワイトボード。そこに書かれたのは聞き覚えのある単語だ。
『ジュリエット 〇・二g[#「g」は縦中横]注射
[#ここから1字下げ]
投薬三五時間後、心停止。回復六〇時間後。障害なし
同    〇・四g[#「g」は縦中横]注射
投薬二八時間後、心停止。回復〜    』
[#ここで字下げ終わり]
「ジュリエットの……実験か!」
そうか、顧客を誤って死なせるわけにはいかないから。つまり、まだ慎一さんは生きている!
力が抜け、棺の前に膝《ひざ》をついた。ここに来る前に考えた、最悪の事態だけは免れたのだ。
「良かった、慎一さん生きてたよ……はは」
一刻も早く病院に! そう思い立ち上がると、襟首を掴まれ引き倒された。そういえば男の存在を忘れていた。抗《あらが》う間もなく、横向きのまま馬乗りで押さえつけられる。
「それじゃ、お前は〇・六g[#「g」は縦中横]から始めてもらおうか。オレの勘《かん》じゃこの辺が致死量だな」
男は片手に注射器を構えていた。
「ちょ、ちょっとタンマ!」
「動くなよ。変なトコに打ったら、即死するらしいからな」
嘘か本当か知らないが、男の固め技が完璧《かんぺき》すぎて言われなくても動けない。針が康祐の首筋に迫る。動脈のあたりに冷たい痛みを感じた。いたずらにもがくも、手足の先がバタバタ床を叩くのが関の山。
駄目か? もう駄目なのか!?
――観念しかかったその時。
パタン。目の前に、テーブルから何かが落下した。デジタルタイプの目覚まし時計。床の上に、器用に立っている……あと一分で、深夜零時。
「あ、十二時!」
思わず声を上げる。男の視線は康祐と同じところへ落ちた。
「ああ、十二時だな。それがどうかしたのか?」
「……なんでもないよ」
「何でもねぇじゃねぇだろ! オレが言えっつってんだよ!」
眼球の真横で注射針を振り回される。
「わ、分かった! 話すよ!」
どうせ話し終わった途端「くだらねぇ話聞かせんじゃねぇ」と殴《なぐ》られるに決まっている。それでも仕方なく、時刻にこだわる理由を話しだした。
「……あんたさ、俺の家で窓の下のシミ、踏んでたろ?」
「ああ、向こうでもそんなこと言ったな。それが?」
「俺の家に来る奴には、床が腐ってるから踏むなって教えるんだけど……それ、嘘でさ。本当はあの部屋で独居死した老人の腐乱《ふらん》遺体《いたい》の跡なんだ。何人か踏んじまった奴がいるんだけど、あのシミを踏むと……」
「ふ、踏むと……?」
妙に真剣な男の声音に、あれ、と不思議な思いに駆られる。試しに全身の力を抜くと、小刻みな振動が伝わってくる。コイツ、震えてる?
そこからわざと声を低くし、怪談めいた口調に変えてみた。
「……出るんだよ。腐乱した爺《じい》さんが。夜中の十二時になった瞬間に、部屋の電気が消え」
と言ったら本当に明かりが消えた。
「うわあああっ!」
男が悲鳴を上げる。なんだか出来すぎな気がするが、効果は抜群だった。
「おい! 誰だ消しやがったのはぁっ!!」
男は何を血迷ったか康祐の襟を掴むと噛みつかんばかりに怒鳴った。
「お前か! 姑息《こそく》なことしやがって」
「えっ! 俺、手錠されてるのに?」
濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》にもほどがある。男は「そうか」と掴《つか》んでいた手を離すも、そわそわ落ち着かない。ブレーカーを探しにか、立ち上がった。
「あ、それでさ。明かりが消えて、どうしたんだろうと立ち上がると……後ろから肩を掴まれるんだってさ。で、振り向くと……」
ポム。暗闇に柔らかい音が響いた。たとえて言うならば、人が肩を叩いたような。
次の瞬間。
「ぎゃあああああああああああっっ!!」
鼓膜《こまく》が破れそうな声が小屋に充満する。図体のデカイ馬鹿男の雄たけびだった。
康祐は、ぽかんと胡坐をかいて座っていた。暗闇に目を凝らしても男一人のシルエットが辛うじて見えるだけだ。
「こいつ超ド級の臆病者だな。幽霊《ゆうれい》なんているわけないじゃないか」
友人達があまりに同じことを口にするので、面倒になってシミ踏み禁止のルールを作ったが、康祐はそんなもの露《つゆ》ほども信じていなかった。どうせみんな、変死体の噂《うわさ》に妄想《もうそう》を膨《ふく》らませたに決まっている。
「そういや鏡花も、おじいさんがいるとか騒いでたな……」
と、思い返していると。目の前で、男が後ろ向きのままバターンと床に倒れた。
同時に、天井の蛍光灯が復活する。ふと床に視線を落とすと、倒れた巨体の横に小さな鍵が。おそらく手錠の。
「……ええと、ラッキー?」
四苦八苦、後ろ手で手錠を外すと、それを使って寝ている男の手とスチール棚を繋《つな》いでおいた。ふと見ると、男の白いシャツの肩口に、血のような赤黒い点が四つ等間隔《とうかんかく》で並んでいる。
「指の跡みてーだな。こいつ怪我《けが》してたのか? ま、いっか」
康祐は慎一のもとへ急ぐ。棺から引っ張り上げなんとか背負う。
「あ、そうだ」
男のポケットを漁って携帯電話を手に入れる。画面を見ると圏外だが、外に出ればかけられるだろう。そう、それと。康祐は呟きながら、テーブルに載っていた粉末を袋ごと失敬した。
「お邪魔《じゃま》しましたー」
慎一を背負い、ドアから倉庫内へ飛び出した。出た直後またも中の明かりが落ちて、ぎやあああぁぁと悲鳴が上がっていた。
「肝の小さい野郎だな、停電くらいで」
全速力で駆け出る。道が開けたあたりでもう一度携帯電話を聞くと、アンテナが立っていた。
「もう一一〇番でいいよな」
指を1のボタンに押し当てて、連続二打。大きくずらして、0に……。
突然。ピシッという軽い音と同時に、携帯電話の液晶部分だけが吹っ飛んだ。
「え、自爆機能付き!?」
焦る康祐の耳に、入り口の方角から足音が。
「貴重な検体を逃すとは……あいつは降格だな」
石塚が拳銃を構え、立っていた。
* * * * * *
時は少し前に戻る。
康祐が去った後、鏡花と留美は、バナナ上屋を素通りしさらに奥へと連れていかれた。
廃ビルと呼んだ方が相応《ふさわ》しそうな、打ちっぱなしコンクリートの古いビルがあった。ビルは五階建て。一階はだだっ広い倉庫で、壁三面がシャッターになっている。階上へ行くには奥にあるエレベーターに乗るようだ。
一行は申しわけ程度に照明の灯《とも》るホールを進んで、エレベーターの前に立つ。呼び出しボタンを押すとすぐに頭上のライトが点灯した。一応ビルとして機能しているようである。押されたボタンは五階、最上階。エレベーターを降りると、廊下《ろうか》が横に長く伸びていた。
[#挿絵(img/Juliette_223.jpg)入る]
右に行くと、突き当たりの壁に木製のドアがあった。隙間から明かりが漏れている。石塚はノックをすると、扉を開き鏡花と留美、付き添いの男達を中に入れ、本人は廊下へ消えた。
康ちゃんの所へ行くのかしら。鏡花はドアから正面へ視線を転じた。
目に入ったのは、明るい蛍光灯。厚いカーテンのひかれた室内は統一感のないテーブルやパイプチェアが雑多に配置されている。その中で唯一豪華な、黒い革張りのソファ。そのソファに、膝を組んで背もたれに腕を回す横川の姿があった。
「いらっしゃい、広田《ひろた》留美ちゃん。おやそちらのお嬢さんは」
横川が大げさな身振りで立ち上がった。
「今晩は、横川さん。小泉《こいずみ》鏡花と申します」
「一尺八寸《かまつか》のお知り合いの……偶然ですかね」
横川が目で男達に合図し、二人を自分の正面へ座らせた。まだお客ということか。男達は空いているパイプチェアに好き勝手に座る。
「さて、お嬢さん方」
座りなおした横川は、鏡花、留美とじっくり顔を見回した。
「なぜ連れてこられたか、理由は分かっているね?」
「ジュリエットを、取り返すため……」と留美。
「私達がどこまで知っているのか、他の誰に知らせたのか。可能な限り告白させるため」
微笑を浮かべ横川は満足そうに頷《うなず》く。
「そうだ。ジュリエットはこれだね?」
横川が手を上げると、さっと男が傍《そば》による。そしてひみつ箱が手渡された。
「それ……!」
留美が絶句する。横川は箱を手の中で玩《もてあそ》び、綺麗《きれい》な文様を眺めていたが、顔をあげると留美に差し出した。
「からくり箱だね。君、開けてくれないか?」
「………………」
留美は唇《くちびる》を噛むと、拳《こぶし》をきつく握り締めた。抵抗しても無駄なことは分かっている。それでも父親との約束が頭にこびり付き、返事ができないのだ。
横川はそんな留美を眺めて鼻先で笑う。ひみつ箱を目の高さまで持ち上げると、ぱ、と指を開いた。落下し転がる音が響く。その直後。
「何をするの!」
鏡花の叫びよりも早く、横川の足がハンマーのように叩き下ろされた。
留美が手で口を塞ぐ。横川は足をずらすと、砕けた木片を面倒臭そうに靴の側面で払い、背を曲げて袋だけ摘《つま》み上げた。
「次からは金庫にでも隠すんだね」
ぽたぽたと留美の膝に涙が落ちた。それでも声を出さないよう、一生|懸命《けんめい》口を閉じている。
「最低ね。子供のものを壊すなんて」
侮蔑《ぶべつ》の視線とともに鏡花が吐き出した。横川は非難こそが我が賛辞とばかりに、ふんぞり返る。
「ならば素直に差し出すべきでしたね。そうしたら箱は壊れずに済んだ。……さて、次は大きいお嬢さんの番だ」
横川は悠然《ゆうぜん》と足を組むと、膝に腕を乗せ身を乗り出した。
「彼氏の部屋とパソコンの中身を、全部|浚《さら》わせてもらったよ。しかし彼は意外と食わせ者だね。偽造免許証に偽造カード、トバシの携帯電話……お嬢さん、知ってたのかな?」
頬《ほお》を膨らませて鏡花が抗議する。
「彼氏じゃないわよ。それから、お嬢さんというのはやめて。失礼よ」
「そうですか。では、質問です。あなたのお住まいはどちら? 彼から聞いたことを他のお友達に話したりは」
「その前に、私からも質問があるわ。広田健二をどこに匿《かくま》っているの? 行方を教えてくれるなら、私も質問に答えてあげるわ」
横川はあからさまに噴き出した。
「面白いことを言ってくれますね。広田健二? そんなものを聞いてどうするんですか」
「呪殺を執《と》り行います」
「呪……殺?」
「ええ」
鏡花は含むような笑顔で、横川を見つめた。
「私達、お金で呪殺を請け負う、呪殺屋なんです」
* * * * * *
「どうやって逃げたか知らんが、ここまでだ。実験室に戻ってもらおうか」
石塚は照準を定めたまま、徐々に距離を縮める。
「さっきの、あんたが撃ったのか?」
「ああ、そうとも。アメリカ留学時代は、射撃大会で何度も優勝を攫《さら》ったもんだ」
得意満面な石塚は頼みもしないのに朗々と説明する。
「さて、貴重な検体だ。怪我人を使ったデータなんて信用がおけないんでな。できれば素直に従ってほしい」
「何言ってんだ、致死量だと聞いて誰が戻るってんだ」
不機嫌《ふきげん》に告げると、石塚は大きく頷いた。
「確かにな。となると、力ずくで連れ帰るしかないか」
石塚は銃に安全装置をかけ、懐《ふところ》のホルスターに仕舞う。それから両手を合わせて指を鳴らす。
「親に殴られたことはあるか? 聞き分けのない子は――」
キュ、と踏み込む音が響いた次の瞬間。寸時に間合いを詰めた石塚の拳《こぶし》が、康祐の顔面と真ん中にヒットした。
「……っ!」
痛みを感じる間もなく背中の慎一ごと弾《はじ》き飛ばされた。
「こうするに限る」
……星が飛ぶってこんな感じか? 康祐は慎一もろとも背後のダンボール山まで吹っ飛んだ。崩れるピラミッド。頭上から緑のバナナが降り注ぐ。バナナ埋めだ。数秒遅れて、顔面が燃えるように熱くなる。
ダンボールに激突したのは幸いだった――いや、不運だったか。慎一を潰《つぶ》さずに済んだが、埋まって身動きが取れない。箱の隙間から覗くと、石塚は薄ら笑いを浮かべながら迫ってくる。
真上から大きな手のひらが降ってきて、次の瞬間、康祐はバナナの底なし沼から引き上げられた。しかし予想はしていたが、それは自分を助けるためではない。
無理やり立たされると顎《あご》に二、三発叩き込まれた。
「っつ……ふざけんな、このっ」
胸元を掴《つか》む腕に文句をつけるも、何の効果もない。口答えの分だけ殴り返された。
「痛《い》つっ……! てめぇ!」
ムキになって睨《にら》みつけると、嬉々《きき》とした石塚の顔がそこにあった。唇の端を持ち上げ、瞳は爛々《らんらん》と輝いてる。そうか、分かった。こいつは俺をおもちゃにしたいだけなんだ。
「遊ばれてたまるかよ!」
せめて反撃しようと、連打の合間に決死の覚悟で躍りかかった。左右の拳を必死になって繰り出す。予想だにしなかった康祐の行為に、石塚は数歩下がって身構えた。
「やるか? 小僧」
「ああ、お望み通りやってやる!」
全身全霊をかけて石塚に挑む。体重が劣《おと》るなら、スピードで打ち勝てばいい! 連打を繰り広げる拳の何発かが、重い手ごたえとともに石塚にヒットした。
じりじりと石塚が後退している。そうだ、一対一なら、そこそこの勝負くらいできるはずだ!
「この野郎おぉぉっ!!」
石塚は康祐の勢いに押され、両|肘《ひじ》を顔の前に出し、防御に徹する。
いけるかもしれない! 勢いを増して、残る力全てを振り絞った。
「倒れろ!!」
渾身《こんしん》の一撃を叩き込む! 石塚の体が微《かす》かに傾《かし》いだ。どうだ!
しかし康祐の想いは簡単に踏みにじられる。
「……子供のダンスだな。素人《しろうと》には効くかもしらんが」
完璧な防御体勢の石塚には、まるで効いちゃいなかった。
「そら、仕上げだ!」
その声と同時に石塚が瞬時に間合いを詰める。後退してたのは演技だったのか。思う間もなく、顎の下から脳天に衝撃が突き抜けた。
誇張でなく体が浮いた。再度バナナの海へ背面ダイブ。バナナに抱かれて寝転がっていると、頭上から声が降り注ぐ。
「実は留学前はボクシング部に所属していてな。新人戦では準優勝を」
石塚は自慢話をしながら康祐の横に立つ。まさか、と青ざめた刹那《せつな》、膝が落ちてきた!
「げぶっ!」
レスラーのような体重に加速が加わったニードロップを、胃の下あたりにモロに食らう。胃の中身どころか内臓を吐きそうだ。
「ふざけんな……ボクシングは膝蹴り禁止だろぉ……」
身体《からだ》を丸めて転がりながら、康祐は呻《うめ》く。粘着シートに搦《から》め取られたゴキブリの如《ごと》く、床にへばりついて動けない。石塚はこれは失敬と呟くと、嬉しそうに続けた。
「実は最近、プロレス同好会に入会してな。技の研究会では三位を」
石塚は、腕でガードするしかない康祐を容赦《ようしゃ》なく何度も蹴りあげた。歯茎《はぐき》をむき出しにして笑う顔は醜悪《しゅうあく》そのものだ。なるほど、こいつはサドだ。弱い者|虐《いじ》め専門の。
「て、めぇ、怪我人は困るんじゃなかったのかよ!」
咳《せ》き込みながら精一杯の声で怒鳴ると、おやそうだった、と本当に忘れていたような態度を取られた。
「さて、実験室へ戻ってもらおうか。立てないなら担いでやろう」
石塚の手が伸びる。康祐はせめてもの反抗と、身を起こすと尻で後退しながら手近のバナナを投げつけた。
「面白い。こんなもので勝つつもりか?」
うるさい、そんなのは百も承知だ。それでも移動しながらバナナの房を投げ続けた。
そんな康祐を大股《おおまた》で石塚が追いかける。それが延々続くかと思われた頃、背中が壁にぶつかった。……行き止まりだ。
「聞き分けの悪いガキだ、まだぶたれ足りないらしいな」
一歩、また一歩。ゆっくり迫る笑顔の男。
絶望に駆られそうになった瞬間。ハタ、と康祐は目を見張った。
自分が投げ続けたせいで、いまや床はバナナだらけだ。石塚はそのバナナロードを突っ切っているのだ。
いけるかもしれない! 期待と緊張が康祐を包んだ。奴はいたぶりの興奮から、康祐の目がどこを見ているのか全く気づいていない。万に一つのチャンスだが、今はそれに賭《か》ける!
康祐は短距離走選手のごとく、低い姿勢から猛然とダッシュした。度肝を抜かれた石塚だが、次にその顔に一層の笑みが浮かぶ。多少は抵抗された方が嬉しいというわけか。康祐は身を起こすと同時にある物を蹴飛ばした。行け!
「さあ来――いいっ!?」
石塚が踏み出した足の着地場所に、バナナの皮が滑り込む! 石塚は皮を踏み前にのめり、足は背中に付きそうな勢いで後ろへ空振りする。丁度良い高さに降りてきた顔面目掛け、康祐はゴールキックの体勢に入った。
「シュートォッ!」
つま先に鼻の骨の折れる感触が。サングラスとバナナの皮が空を飛ぶ。鼻から噴く血で弧《こ》を描きながら、石塚が後ろへと倒れていく。
ストライプのスーツが大の字に転がると、見計らうように落ちてきた緑の皮が、ヒトデの如《ごと》くその顔に張りついた。
激しく息を吐きながら、康祐は床にへたり込んだ。石塚はぴくりともしない。死んではいないだろうが、しばらく気絶したままだろう。
房に混じって皮がぽつんと落ちていたのは幸いだった。熟していなくても、内側はそれなりに滑るようだ。康祐は手に触れた房バナナを右手に掲げ、横たわる石塚へビシッと突きつける。
「バナナを笑う者はバナナに泣く!」
誰が皮を捨てたのか知らないが、お蔭で助かった。
* * * * * *
留美は何かを踏み、ぎょっとして足元を見た。皮の外された中身だけのバナナが一本、ころんと転がっている。よくよく見ると、バナナにはティッシュペーパーが張り付いていた。
「……留美ちゃん、康ちゃんは無事よ」
留美の耳に、鏡花が囁く。遠くでパトカーのサイレンが鳴り響く。通報したのは康祐だろうか?
「留美ちゃん、これから少しの間黙っててくれる? 康ちゃんがここを探し当てる前にケリをつけるわ」
留美はそう言われて思わず鏡花を見上げる。そこにあるのは横川より遥《はる》かに自信に満ちた笑顔。留美は泣くのをやめた。お姉ちゃんは、何をしようとしている? 鏡花は大きく息を吸うとゆっくり口を開いた。
「……横川さん。広田健二と一尺八寸《かまつか》さんの居場所を教えなさい。そうしたらこの場は下がってあげます」
鏡花の発言に、男達はみな目をむいた。一拍置いて、横川以外は爆笑する。
「お前、自分の状況分かってんのか?」
「笑い事じゃないはずよ。警察が来るんだもの」
「大丈夫ですよ。警察が踏み込む直前に、あなた達二人をどこかに隠せばいいのです。彼らが帰ったら証拠を全て消せばいい」
サイレンを聞いても動じないのは敵ながら天晴《あっぱ》れと言うべきか。鏡花はその瞳の奥を睨んで、静かに問いかけた。
「横川さん、本当にこれで最後にしましょう。……今のは、私を始末するという意味?」
「その通り。少し惜しい気もしますが――あなたには死んでもらいます」
「そう……よかった」
何故か鏡花は、嬉しそうに呟いた。
「その台詞《せりふ》が欲しかったの」
鏡花はすっと背筋を伸ばし立ち上がった。口の端には冷徹な微笑。異様な気配に脇の男達が釣られて立ち上がる。横川の顔から冷めた笑みが消える。
何だこの気配は。横川の本能が警告する。どこかで覚えのある、危険な気配だった。
そして少女はゆっくりと語りだす。
「私がここへ来た本当の理由を教えてあげる。一つはもちろん、広田慎一さんを捜すため。ついでに健二と一尺八寸さんの居場所も分かればなおいいわね。でもそれよりも重要なのは、あなたに会って、こちらの望む答えを出させることだったの。それと、笹蟹《ささがに》を返してもらうことよ」
「笹蟹?」
怪訝《けげん》そうに横川が目を細める。
「こないだ持っていったでしょう? 私のお店に来たときに」
「持っていった……テーザーのことか?」
「違うわ」
鏡花はきっぱりと首を振る。
「私があなたにつけておいたの。居場所を知るために。もっとも連れてきてもらえたから、その必要もなかったけど」
男達は顔を見合わせる。横川だけが、鏡花を見つめていた。
「本当は、この方法は使わないつもりだった。理論系呪術だけで十分だと思ってたし……。でもあなた達のような本物の愚か者には、話して聞かせるだけ無駄ね」
「大丈夫かいお嬢さん。頭がどうかしてしまったかな」
横川の揶揄《やゆ》する声。だがその目は決して笑っていない。気がつくと横川は、銃を出し照準を鏡花に合わせていた。サイレンがさらに近く、港湾地区の入り口まで迫っている。
「さ、さあ、こちらへ来てもらおうか。これに逆らえるわけないだろう? おい!」
脊髄《せきずい》反射で男達が鏡花の両腕を押さえつける。留美も男の一人に、脇の下に腕を入れられ拘束《こうそく》される。それに対し鏡花は。
「留美ちゃん、お願いがあるの」
自信に満ちた口上とは全く違う声音で。小さい囁きはほんの一瞬、いつものお姉ちゃん≠見せた。
「康ちゃんには内緒にして」
鏡花の瞳は真《ま》っ直《す》ぐ正面に向かう。双眸《そうぼう》の向かう先は横川――いいや、横川を突き抜け、その背中を。ぞくりと横川が震える。
「な、何を見ているんだ?」
鏡花は声を大にして叫んだ。横川ではない何かに。
「出なさい、笹蟹!!」
巨大なものが空気を振動させ、室内を横切った。瞬間、蛍光灯、そして窓ガラスの全てが砕け散る。海風がカーテンを巻き上げた。
[#挿絵(img/Juliette_237.jpg)入る]
「な……!」
男達は絶句する。外からの微かな光に目を凝《こ》らすと、何かが、横川の背中から生えていた。黒く、長くしなやかな多関節。先端の鉤爪《かぎづめ》は鉱石《こうせき》のように鈍《にぶ》く光っている。
「な、な、」
留美も男達も口を開け硬直する。一番悲惨なのは横川だ。一本、二本。ショベルカーのアームのような長く固いものが、彼の肩先から顔の前へと這《は》い出した。関節と関節の間隔はゆうに二メートルを越えている。全長は一体どれくらいなのか。
横川は悲鳴を上げる。アームに続いて胴体が、ゆっくりと顔を出した。
「な、何だこりゃあ!?」
腰を抜かした男が叫ぶ。鏡花は陰影のついた顔を男に向け、軽蔑の口調で語る。
「笹蟹を知らないの? 『源氏物語《げんじものがたり》』にも出てくるでしょう、『ささがにの ふるまひしるき夕暮に……』」
男は必死に首を横に振る。腰を抜かした男を置いて、残りは一斉にドアへ駆け出した。
「逃がさないで!」
鏡花の声に、横川の背中からそれが飛んだ。二人を薙《な》ぎ払い、壁に飛ばしたところで顔の横スレスレにアームの先端を突き刺した。コンクリートは塊《かたまり》のまま抉《えぐ》れ、中の鉄骨すら引き千切られる。鋭い爪《つめ》によって壁に縫《ぬ》い止められた男が、半笑いで涙を流した。
とうとうそれは、全身を曝《さら》け出す。
表面は深い漆黒《しっこく》。二つの楕円《だえん》で構成された胴体は、大きい方が腹で小さいのが頭だ。黄色い部分が二本の輪のように、ぐるりと腹を回っている。八つ並ぶ小粒の瞳は無機質に男達を見つめる。巨大な胴体を震わせて、入りきらないのか八本のうち二本の足を、窓から外へ突き出した。巨体は大見得《おおみえ》を切るようにゆっくりと、腰を抜かした横川を見下ろす。
「く……?」
横川は初めてそれの全身を視野に納めた。
「そうよ、笹蟹は」
鏡花の口が冷ややかに動き出す。留美もまた無意識に見たままの名を口走った。
「蜘蛛《くも》……?」
「――の、古名よ」
留美の言葉を引き継ぐように、鏡花が囁いた。
* * * * * *
やっとの思いで辿《たど》り着いたドアは、薄く開いていた。石塚から奪った拳銃を握ると、思いっきり蹴り広げた。
「横川! 手を頭の上に……あれ?」
拳銃を構えたまま、康祐はしばし固まる。
そこは廃墟《はいきょ》だった。蛍光灯は全て割れ、カーテンは破れ、レールごとぶら下っている。椅子やテーブルは隅に押しやられ、壁は穴だらけだ。そんな室内の真ん中に、透明な粘着テープらしきものでグルグル巻きにされた男達と横川の姿が。そして彼らの中心で。
「康ちゃん!」
喜びに両手を広げる鏡花と留美が立っていた。もちろん、無傷。
「えらいボロな隠れ家だな。で、どうなってんだ、これ」
芋虫《いもむし》達を見下ろして、一言。鏡花はいつものようににっこり笑う。
「笹蟹使ったの」
「テーザー銃を?……で、これか……」
どういう暴れ方をしたらこうなるのか。首を捻《ひね》る康祐だったが、重要なことを思い出した。
「そうだ、下に警察が来てるんだ。俺達はどうする?」
逃げるのか、と暗に仄《ほの》めかす。鏡花が思い出したように大声を出した。
「康ちゃん、横川が吐いたわ! 健二と一尺八寸さんの居場所は大阪《おおさか》堂島《どうじま》のマンションよ。ホームレスから買い取った戸籍で入居してるの!」
「でかした! 夜行列車で行けば間に合うな」
「それとこれね」
鏡花は自分の胸元に手を突っ込むと、スティックタイプのガムを思わせる四角い物を引っ張り出した。ボイスレコーダーだ。
康祐はぼんやり立っている留美に慌《あわ》てて声をかける。
「留美ちゃん、下に救急車が来てお父さんを運んでるんだ。すぐ行って!」
「お父さんが!?」
慌てて走り出した留美だが、二人がエレベーターとは逆の非常階段へ向かうのに気づき、立ち止まった。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんは……」
「ここからは別行動よ!」
「警察には犯人の一人が逃げたから追いかけてったと伝えてくれ。俺達のことはあれで説明してくれ、親切なお姉さんの話な!」
「留美ちゃん」
鏡花は指を立てると、康祐を指差し小さく口を動かした。
「内緒よ」
留美が大きく頷くと、鏡花は安心したように笑って、二人揃って非常口に消えた。
留美は閉められた扉を、長い間見つめていた。だがやがて踵《きびす》を返すと、エレベーターへ向かって走り出した。
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エピローグ
TV画面には、ピンボケ気味の映像が流れている。不鮮明さに加え、カメラは天井《てんじょう》らしき位置からの一点固定。登場人物達は頭の天辺しか映らない。
一人だけ例外がいた。彼は横になっているので、ちょうど全身が映るのだ。彼――広田《ひろた》健二《けんじ》は目を瞑《つぶ》り、棺《ひつぎ》の中に横たわっていた。当然微動だにしない。周囲の男達だけが、忙しそうに動いている。
やがて男達は棺桶に蓋《ふた》をした。男の一人が、小窓の部分に顔を寄せる。不鮮明な映像に不鮮明な声が被《かぶ》さる。
『広田健二――』
横川《よこかわ》の声だった。
『警察が踏み込む――しかし――証拠を全て消せばいい』
中の健二に聞かせているのか、返答を待たない喋《しゃべ》り方だ。
『あなたには死んでもらいます』
背筋を伸ばし、男は離れた。周囲に指で合図すると、別の男達が棺の載《の》った台車を押す。画面の端に、観音開《かんのんびら》きの重厚な扉が映る。棺桶は中へ送り込まれ、男達は厳重に扉を封印した。点火の音とガスの燃え盛る音が、徐々に映像へ被さる。
映像はそこで終わった。
「……どうですか?」
留美《るみ》の父、慎一《しんいち》は姿勢を正すと、声をかけた少女に視線を移した。黒服の青年がビデオデッキからテープを取り出す。自分の横で、娘の留美《るみ》が不安げに身を縮めた。
今日は、病院へ運ばれた慎一が二週間の入院を経《へ》て、晴れて自宅へ戻った日だった。留美の帰宅祝いに駆けつけた親切なお姉さん達≠ヘ、リビングへ通されると突然、信じられないことを語りだしたのだ。
自分達は留美に依頼された呪殺屋《じゅさつや》であり、彼女の依頼は果たされたと。
「これは……本当なんですか?」
真っ暗になった画面を前に、慎一は呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》く。赤いツーピースの少女は目を伏せて頷いた。
「ここは横川達が子飼いにしていた職員のいる斎場《さいじょう》なんです。別の目的で仕掛けたカメラに、偶然映りました」
「これが、あなた達が呪術をしかけた結果……?」
少女、そして青年は揃《そろ》って頷《うなず》いた。半信半疑で座っていると、青年が「土産《みやげ》です」と言いつつ、持参した風呂敷包《ふろしきづつ》みを解き始める。風呂敷の中は桐の箱で、入っていたのは骨壺《こつつぼ》だった。
「健二さんのお骨です。僅《わず》かですが、焼け残っている箇所があります。疑問に思われるなら民間のDNA鑑定会社にお願いしてみてはどうでしょう。あなたとよく似た塩基パターンが検出されると思いますが」
覗《のぞ》きこむと、壺の底にわずかな量の白い骨が入っていた。慎一は恐る恐る、壺ごと受け取る。
「えー、それでお支払いの方なんですが」
突然青年の口調が商人のそれに変わる。変わり身の早い男だ。
「奥様の保険金が一千万ほどあるということなので、ま、三百万くらいこちらに融通《ゆうずう》してくれればと思います。現金一括払いで」
「……断ったら、どうなるんですか?」
試しに訊《き》いてみる。今度はこちらが殺されるのか。青年はさらりと予想外の台詞《せりふ》を口にする。
「そりゃ、留美ちゃんが払うんでしょ。子供がお金を稼ぐ方法なら、いくらでもあるし」
慎一は咄嗟《とっさ》に愛娘《まなむすめ》を背中に庇《かば》う。青年を睨《にら》みつけるとキッパリ断言した。
「僕が払います。それと、先ほどお伺《うかが》いした『いつか訪れる不幸』というのも」
「あなたが身代わりになるんですね。お安い御用です」
青年はてきぱきと支払い日時や、お決まりの『警察には知らせるな』等の禁止事項を言い渡す。続いて少女に促され、不幸を振り代える儀式を受けることとなった。
青年が家を出たのを見届けて、慎一は留美に子供部屋へ行くように促した。自分は一階奥の部屋で少女と二人きりになり、家にあるもので即興《そっきょう》に設《しつら》えた祭壇《さいだん》前に座る。
「……余計なことをされたと、考えておいでですか?」
水盤の飛沫《しぶき》を浴びせながら、少女が問いかける。
「本当はご自分の手で殺したかったのでしょう?」
「否定はしません。もし弟が生きていれば、今でもそうしたいと思うでしょう。しかし……」
その一方で、自業自得《じごうじとく》とはいえ惨《みじ》めな死に方をした弟に、憐憫《れんびん》を感じ始めていた。そして自分が娘に負わせてしまった苦しみを考える。これ以上娘を傷つけたくない。その思いだけが今の自分にあった。
見透かしたように少女は頷き、優しく微笑《ほほえ》んだ。
「あなたの憎しみは、我々が引き取りました。……だからこれからは、娘さんと幸せになってください」
* * * * * *
高台に建つ広田慎一宅は、少し離れると見晴らしの良い道路に出る。ガードレールに腰を落ち着け、康祐は絶景を眺めていた。ほどなく小さな足音が迫る。……留美だ。
「どうした、浮かない顔で」
暗い目をして、留美は康祐の横へ佇《たたず》んだ。言いたいことがあった。訊きたいこともあった。しかしそのどれもが、もう二度と会えないという事実、その前では微々たるものでしかない。
依頼が一件終わるたび、|HP《ホームページ》のアドレスを変え携帯電話は使い捨てる。依頼人には二度と店に来ないように伝える。それが彼らの流儀なのだと。
「……お兄ちゃん」
「うん?」
「健二おじさん、本当に死んじゃったの?」
「いいや」
康祐は内緒だぞ、というように指を口に当てて、語りだした。
「あの骨、実は留美ちゃんのお祖父さんのものなんだ。お墓からちょっと失敬してきて。火葬場はセットなんだよ。出てる人は役者さんで、カメラを止めた後、俺が健二を出したんだ。セット、本物そっくりだったろ」
別口で百万円入ったからかなり凝《こ》ったんだよ、と康祐は自慢げに笑った。
「で、意識が戻った頃に、火葬場職員のふりをしてこんな芝居を打ったわけ。『良心が咎《とが》めて助けたけれど、生きていることが知れたら一陽会《いちようかい》に今度こそ消されるだろう。絶対に戻ってくるな』ってね」
「じゃあおじさんは、今……?」
「さあね」
康祐の視線は留美を離れ、遠くの町並みへ向けられた。まるでどこかにいるはずの健二を、見据《みす》えるように。
「新しい戸籍も何もかも捨てて、逃げたんだ。以前のようなチンピラ稼業ももうできないだろうし。まともな人生は送れないだろうな」
そのまま口を閉じると、さっきと同じ姿勢を取った。留美もまた黙ってガードレールに手を載せ、独り言のように呟《つぶや》いた。
「お兄ちゃんは、お姉ちゃんがこの仕事を始めた理由を、知ってるのかな……」
留美は、あの日彼女が自分だけに告げた言葉を思い出していた。
式神《しきがみ》・笹蟹《ささがに》を発動させ、チンピラ達を失神にまで追い込み、二度と自分たちに手を出さないと約束させた鏡花《きょうか》は、それまでまとっていた威圧感を完全に捨て去った。誇るでもなく威張るでもなく佇む彼女は、泣きそうな顔をしていたと思う。そして留美の問いかけに、静かな声で答えた。
『この国にはね、古来より呪術《じゅじゅつ》を使う一族がいくつか存在するの。その中には、世間には決して知らされることのない、隠された一族もあるのよ。国を裏から支える役割を与えられた、ね』
ではどうして、今までその術を使わなかったのかと尋ねた。康祐の苦労はなんなのか。そんな気持ちから詰問する口調になっていた。
『使いたくなかったの。……だってこれは、人殺しの力だから』
その力を、身内が、もしかすると自分自身が、本来の目的のために使うこともあったのだろうか。何も言わない留美に、鏡花は小さく付け加えた。
『だから私が証明するの。この力を使わなくても出来ることがあるって』
「ところで留美ちゃん。呪いの対義語って知ってる?」
ぼんやりしていると、突然クイズが始まった。理由が分からず首を捻っていると、康祐は番組の司会者の如《ごと》く、さり気なく告げる。
「祝《いわ》い、って言うんだ」
空を見上げるように、康祐は立ち上がる。留美に背を向け、小さく付け足した。
「…………呪術で、人を幸せにしたいんだとさ。あいつは」
先に歩く背中を追いかけ、留美は大きく息を吐いた。
「あの、呪いが嘘《うそ》なら、『いつか訪れる不幸』っていうのも……嘘なんですよね?」
自分が引き受けると宣言した時の、父親の表情を思い出す。確認したところでもちろん本人に話す訳にはいかないが、少し、安心したかったのだ。
「いや、あれは本当」
「え……」
不安に暮れる留美に、何故《なぜ》か康祐は笑いを堪《こら》える仕草をする。
「鏡花の受け売りなんだけどね。憎しみってのは、年月が経つにつれ薄まっていくものなんだ。かかる月日はそれぞれだけど、『憎しみ』と『罪悪感』が逆転する日がいつか必ず訪れる」
「それが、不幸の意味なんですね」
感じ入っていると、康祐はとぼけた顔で立ち止まった。
「ええ? 違うって。その日が来たら、俺と鏡花で本当のことを教えに来るんだよ。あなたは誰も殺していなかったんだ、って。それをもって、その依頼は完了とする」
留美は首を傾《かし》げる。アフターケアは万全ではないのか。むしろ良いことずくめだ。
「それじゃ不幸っていうのは」
「決まってんだろ」
意地悪司会者に戻って、康祐は得意げに答える。
「詐欺師《さぎし》に騙《だま》されてたんだって、気がつくことだよ」
そして二人は。互いに顔を見合わせて大いに笑った。
[#地付き]――おわり――
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あとがき
初めまして、神埜《しんの》明美《あけみ》です。
この本は、私の生まれて初めての著作物にあたります。その最初の第一歩をお手に取って下さったあなたに、まずは心の底からお礼を言わせて下さい。本当に有難うございました。
神埜明美という名前は、旧姓の本名を一文字だけ違う漢字に差し替えて作りました。平易な漢字の中に一文字だけ難しい字が交じっている、というのをやってみたかったのです。
そうしたら微妙に読み辛《づら》い名前になってしまいました。
姓の読み方は「しんの」です。「じんの」ではありません。「こうの」でもありません。それ以前に「埜」の字が振り仮名なしではまず読めません。
ごめんなさい、でも実は気に入っています。受賞した時、いつ「ペンネームを変えましょう」と言われるかと、ドキドキしていました。
埜は野の異体字なので、意味は一緒です。ワープロで「の」と打って変換すると、意外に最初の方の候補で出てくるのですが……あまり使わないですよね、この字。あの順番はどういう基準なんでしょうか。
さて次に本編の解説を。
このお話は、二〇〇六年度のロマン大賞で佳作をいただいた作品を、一部改稿したものです。
作中の設定は、コン・ゲーム(詐欺師《さぎし》)ものをやりたくて作りました。
コン・ゲーム作品と言えば、小説、映画、漫画やドラマと、いろんな方面で既《すで》に沢山《たくさん》の名作があります。そもそも最終目的がお金(か、それに代わるもの)である以上、似たり寄ったりな話になるのは否《いな》めません。
そこでふと、「ターゲットを騙《だま》す理由がお金じゃない詐欺師がいたら?」と考えました。
そんな事情で始めた割には、今回のストーリーには騙し要素が少ないのですが……。その点だけは心残りです。機会が頂けたら、ぜひ主人公達の、通常の仕事=ターゲットを騙すお話を書きたいと思っています。
主人公の二人組は、特にモデルはおりません。ただ漠然《ばくぜん》と、年齢と立場が逆転してるような関係がいいな、と考えました。擬似《ぎじ》従者《じゅうしゃ》とご主人様です。擬似、というのは、従者が言いたい事をバンバン喋《しゃべ》ってますので。その割には下僕《げぼく》精神が抜けな……いやいや。
次は、作家を目指すに至った経緯《いきさつ》です。
本を読むのは小学生の頃から好きでしたが、主に図書室の本が中心でコバルト文庫との出会いはもう少し後でした(昔の図書室はティーンズ系小説は置いてなかったんです、と年代のバレる一言)。
中学生になると、自分の生活圏に大型書店が入り込み、お小遣《こづか》いも少し増えます。
今思うと恵まれた環境だったのですが、私の周りの友達はみんな本好きでした。いろんなジャンルの小説本を買って、貸し借りしていました。
その中にもちろん、コバルト文庫がありました。出てくるキャラクター達は同世代で、まるで自分自身のように感じます。たくさんの不思議で素敵な体験をする自分。書くことでそれが本当になる世界。
「今度は自分で書いてみたい」そんな気持ちになったのも、当然のことでした。私だけでなく、複数の友達がノートに小説を書いて、見せ合っていました。
友達同士でリレー小説もやりました。あらすじも決めず進めたので、書く人が変わるとどんどん話が逸《そ》れて、終わらないんですが(笑)。これ、本当に面白いのでお勧めします。
さて月日は流れ、ウン年間趣味で小説を書き続けていると、今度は人に読んでもらいたいと思うようになります。自分のホームページに小説を載せるのも良いのですが、一般的に小説サイトは、漫画・イラストのそれよりも人が集まりにくいのが実情です。
沢山の人に読んでもらえる一番の方法は?
もちろん、出版されて全国の書店に並ぶことです。だったら、それを目指すしかない!
……と、長かったですが、プロになることを決意した瞬間でした。
沢山の人に読んでもらいたいのは、自分の作ったキャラクター達を、沢山の人に認知してもらいたいが故《ゆえ》です。
キャラクター達は、作者の頭の中にあるうちはまだ生まれてすらいません。作者以外の人に認知され、その人の頭の中で動き始めたその時、初めて生きた存在になります。沢山の人に認知されればされるほど、その存在は本物の人間に限りなく近くなります。
あなたが読んでくれたから、このお話のキャラクター達はこの世に生まれることができたのです。
さて、最後になりましたが、この作品を佳作に選んで下さった選考委員の先生方、そして編集部、関係者の皆様、本当に有難うございました。挿絵《さしえ》を描いて下さる日鵺《かぬえ》祭《さい》様、カッコかわいい主人公二人の姿に、一番|惚《ほ》れているのは私かもしれません。
どうかこれからも、よろしくお願い致します。[#地付き]二〇〇六年 七月末日
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底本:「ジュリエットと紅茶を ――ようこそ、呪殺屋本舗へ――」コバルト文庫、集英社
2006(平成18)年9月10日第1刷発行
入力:---
校正:---
2008年6月26日作成