横浜・修善寺0の交差 ――「修禅寺物語」殺人事件
深谷忠記 著
目 次
プロローグ
第一章 美緒の嫉妬
第二章 密室の死
第三章 同情されない死者
第四章 ねじれた符合
第五章 修禅寺物語
第六章 裏切りの構図
第七章 修善寺へ
第八章 |0《ゼロ》の交差
エピローグ
プロローグ
九月三日(土曜日)の午後、市倉周三《いちくらしゆうぞう》の家に二人の客があった。
一人は、慶明大学・東洋研究センター所長の服部啓吾《はつとりけいご》。もう一人は、控え目な物腰ながら、ブラウスのボタンが弾け飛びそうなほど胸の大きい、二十三、四歳の肉感的な女性だった。
服部は、周三が半年余りかけて描いてやった彼の肖像画を取りにきたのである。一方の女性は、周三の初めて見る顔だった。服部の紹介によると、女性の名は相馬聡子《そうまさとこ》。この三月に慶明大学文学部東洋史学科を卒業して、四月から彼の秘書になったのだという。
周三の住まいとアトリエは、静岡県|田方《たがた》郡修善寺町にあった。狩野《かの》川の支流・桂《かつら》川に沿って東西に伸びる修善寺温泉の奥――北側の斜面を道路から五、六十メートル登った畑と竹林の中である。
周三は一般的には無名といってもいいが、美術評論家や画商の間では多少名の知られている画家だ。偏屈で、人付き合いが悪いため、画壇のいかなるグループにも属していないが、これまでに大小の公募展で十数回、大賞や優秀賞などを取っていた。年齢は六十七歳。中学の教師をして家計を支えてきた妻が九年前に死ぬと、東京板橋の家を売って、ここ修善寺に引っ込んだ。
東京と名古屋に住んでいる息子と娘が時々訪ねてくるものの、あとは、週に二回掃除と洗濯を頼んでいる近所の主婦以外にはほとんど来訪者はない。そのため、人嫌いで画狂人≠ノ近い周三とて、時々誰かと話したくならないではなかった。といって、自分から進んで人と交じわろうとは思わなかったし、交じわりもしなかったが。
そうした彼が、桂川の対岸にある和風旅館「月の湯別荘」を仕事場にしている服部啓吾と知り合い、彼の肖像画を描くようになったのは、東京の出版社に勤めている息子の正典《まさのり》が、服部の教え子だったからである。この冬――二月半ば過ぎの週末、正典が修善寺へ来る途中、特急「踊り子号」の中で偶然服部と乗り合わせ、翌日、家へ連れてきた。そのとき、服部が周三の絵を見ていたく気に入り、ぜひ自分の肖像画を描いてもらえまいか、と言い出したのだ。
服部は、正典が卒業論文の指導を受けた教授だという。が、正典は彼を好いていないようだった。服部について語るときの正典の様子や口振りには、何かしら屈託が感じられた。大学を卒業した後も中国関係の教養書の執筆を依頼した相手のため、周三の描いた絵を見せてほしいと言われて断わりきれず、仕方なく連れてきたらしい。だからか、正典は、親父が断わっても一向に構わない、と言った。
息子にそう言われなくても、気に入らない素材なら、周三は断わっただろう。彼は、金や義理のために無理に絵筆を握ることはないし、描く意欲が湧かなければ、どうにもならない。
ところが、日本における中国近代史研究の第一人者≠セという服部の顔は、絵の素材として悪くなかった。黒縁の眼鏡をかけた、額の後退した丸い顔は、一見、平凡な学者の顔だが、両翼の張った大きな鼻、厚い唇、時々光る丸い小さな目が、内に秘めた強い意志と自信、闘争心、傲岸《ごうがん》さといったものを感じさせた。あまり付き合いたいと思う相手ではなかったし、正典の屈託も服部のこうした性格あるいは人間性に起因しているのかもしれなかったが、描く対象としてなら、それなりの魅力がないではない。名刺の裏に、文部省学術審議会専門委員、日中研究者交流協会会長、アジア・アフリカ賢人会議副議長……といった肩書をずらりと並べた男に、興味をそそられた。そのために、周三は、引き受けたのだった。
それから先々月・七月の半ば近くまで、服部は修善寺に来たとき、五、六回、周三のアトリエを訪れた。その都度、一時間ほど椅子に掛けて、モデルを務めていった。周三は、その絵――二十号の油絵――を夏いっぱいかけてようやく完成し、今日、服部が取りに来たのである。
いや、完成という言い方は正確ではない。周三は、自分の描いた絵に満足していなかったのだから。というより、彼は、自分の描いた服部の顔に死の影を見てしまい、渡すのをためらっていた。初め、服部には八月の初旬に渡す約束をしていたのだが、出来上がった絵には不吉な影があらわれていた。そのため、取り敢えず、一週間ほど延ばしてもらった。しかし、その後いくらなおしても、服部の顔には同じような死相があらわれてしまうのだった。
服部は、自分がモデルを務めた七月半ばには絵がほぼ出来上がっていたのを知っている。それがなかなか完成しないため、不審を覚えたようだった。いったいどうなっているのか、と正典の勤め先にも問い合わせの電話がいったらしく、正典が心配して修善寺まで様子を見にきた。
周三は息子に事情を話し、絵を見せた。
すると、正典は、
――なんだ、よく出来ているじゃないか。死の影なんて、どこにも出ていないよ。いくら、ここが修善寺だからって、夜叉王《やしやおう》じゃあるまいし……。
と笑い、早く渡してしまったほうがよい、と勧めた。
夜叉王というのは、岡本綺堂の戯曲『修禅寺物語』に出てくる面作《おもてつく》り師《し》の名である。時は鎌倉時代。夜叉王は、修禅寺に幽閉されていた二代将軍・源|頼家《よりいえ》に似顔の面の製作を依頼されるが、何度打ちなおしても、面に死相があらわれてしまう。そのため、夜叉王は、面を取りにきた頼家に、面はまだ出来ていないという。ところが、彼の娘・桂が頼家に面を見せると、頼家はよく出来ているではないかと満足し、面と一緒に桂も側女《そばめ》として連れ帰る。その晩、頼家は北条氏の刺客に襲われ、命を落とす。そこで、夜叉王は、いくら打ちなおしても面に死相があらわれたのは、己れの腕の拙《つたな》さのためではなく、頼家の運命を暗示していたのか、と納得。自分は天下一の面作り師だ、と快げに笑う。それだけではない。彼は、頼家を守るために戦い、瀕死《ひんし》の重傷を負って逃げてきた娘の桂を前にして、若い女の断末魔の顔の手本に≠ニ筆を取って写し出す……。
正典に笑われ、周三は自分の描いた絵を見なおした。
服部の顔に死相があらわれているのではなく、自分の主観がありもしないそれを見ているのではないか、と思ったのだ。
正典は、「夜叉王じゃあるまいし」と言ったが、周三にとって、夜叉王は芸術家の理想像だった。彼の内には、夜叉王の名人《めいじん》気質《かたぎ》、狂人性に対する強い憧《あこが》れがあった。若い頃から、夜叉王の境地に少しでも近づけたら、とずっと思ってきた。誰にも――息子と娘にも――言わなかったが、そのため、妻が死んだ九年前、彼は、修善寺へ行って暮らそうと決めたのである。
周三の内にある、こうした夜叉王に対する同一化≠ヨの希求。もしかしたら、それが彼に、服部の肖像画の顔に死の影を見させたのかもしれない。
いや、違う、服部の肖像画には確かに死相があらわれている、とも周三は思う。
しかし、何度、絵を見なおしたところで、どちらともはっきりしなかった。
分かっているのは、このまま絵を渡さないでいるわけにはゆかない、ということだけである。
というわけで、周三は、数日前に服部に電話をかけ、今日修善寺に来るという彼に絵を引き渡す約束をしたのだった。
服部は、絵を見て、非常に喜んだ。どこまで分かっているのか知らないが、ゴッホの自画像にも劣らない、と絶賛した。相馬聡子というグラマラスな秘書も、服部に言われ、とても素晴らしい絵だと誉めた。
周三は、いま一つすっきりしない気持ちのまま、絵を梱包《こんぽう》して渡し、今夜は「月の湯別荘」に泊まる予定だという二人を玄関から送り出した。
翌四日(日曜日)の昼近く、桂川が狩野川に流れ込んでいる修善寺駅の近くで、入水自殺と見られる若い女の遺体が見つかった。
それは、服部と一緒に周三のアトリエまで絵を取りにきた相馬聡子であった。
夜、テレビのニュースで聡子の名と顔を見たとき、周三は、驚いた。死者は、周三が死の影を見た服部啓吾ではなかったものの、『修禅寺物語』と奇妙な符合≠示していたからだ。
だが、驚きが去ると、周三は、服部を描いた肖像画に、昨日まで一度も会ったことのなかった相馬聡子の死の影があらわれるわけがない、と思い返した。そして、自分の見た(と感じた)死相は、やはり夜叉王への同一化の希求から生まれた錯覚だったのかと思い、夜叉王の面打《めんう》ちの技量とは大いな違いだな……と、ひとり自嘲《じしよう》の苦笑いを浮かべた。
第一章 美緒の嫉妬
1
笹谷美緒《ささたにみお》は、水道橋駅の手前で白山《はくさん》通りから東へ逸《そ》れ、百二、三十メートル戻るように歩いてから、慶明大学の正門を入って行った。
ビルの陰に沈んでいた夕陽が、そこだけ細長く光の帯を伸ばし、帯の中に入った美緒の影を、立ち上がった蜥蜴《とかげ》のような格好に前方に投げた。
明日は敬老の日という九月十四日(水曜日)の夕刻。ここ二、三日、半袖シャツでは肌寒いぐらいだったのに、今日はまた残暑がぶり返し、夕陽の帯に入っただけで首筋に汗がにじんできた。
美緒は、ショルダーバッグからハンカチを出し、額と首の汗を拭いた。夕陽の帯から逸れ、丸い小さな池とつつじの植込みのあるロータリーを右に回った。
ロータリーの奥には、欅《けやき》並木がつづき、道の両側に大小の建物が並んでいる。法学部、経済学部、文学部……とつづき、四、五棟かたまった工学部のビルに隠れるようにして、父の精一《せいいち》と恋人の壮《そう》がいる理学部の六階建ての建物があった。
美緒は、欅の枝と葉でトンネルのようになった道を歩いて行く。学生の姿はもう少なかったが、勤めを終えて帰るところらしい男女の職員が擦れ違う。
美緒は、神田神保町にある中堅出版社「清新社」の文芸編集部員。久し振りに定時の五時半に退社し、新宿・紀伊国屋ホールで劇を観るために壮を迎えにきたのである。
壮《そう》こと黒江壮《くろえつよし》。
職業は、ここ慶明大学の数学科教授をしている精一の助手である。
数学者の娘なのに、かつて算数、数学と聞いただけで蕁麻疹《じんましん》の出た美緒に言わせると、数学などという「陰気な」仕事とはマッチしない、現代的なマスクをした美男子だ。背もすらりとしている。ただし、現代風なところは容姿だけ。暗いというのではないが、少し喋《しやべ》らないでいると腹がふくれて苦しくなってしまう美緒とは対照的に、極端に無口である。しかも、真剣に考え始めると、誰がいようがどこにいようが、何も見えず聞こえずの「考える人」になってしまう、特技というか、奇癖というか……の持ち主。
年齢は、美緒より四つ上の二十九歳。もうじき三十路《みそじ》にかかろうというのに、この宇宙人≠ニきたら、まるで世事にうとい。そして、地球人の美緒たちにはチンプンカンプンの数学という暗号≠ニ殺人事件の謎を解くとき以外はあまりにも不器用で、いまだに二人の関係はキスの段階にとどまっている。
そのため、この恋人といると、美緒は時々いらいらする。たとえ腕を組んで夜道を歩いていても、彼の場合、
〈柔肌の熱き血潮に触れながら、寂しからずや暗号を解く君〉
だからだ。
が、一方、そんな壮に、美緒は、持ちまえの母性本能、世話焼き的な性格をくすぐられないわけではない。それで、惚《ほ》れてしまったのが百年目と諦《あきら》め、口の悪い友人たちからは金魚の何とかのようだなどとひやかされながらも、いつもくっついて歩いている。
というわけで、今日の昼、担当している作家から水上勉作の「はなれ瞽女《ごぜ》おりん」の切符を二枚もらうと、すぐに壮に電話をかけ、一緒に行く約束を取りつけたのだった。
美緒が右側に建った真新しい文学部本館の前まできたとき、建物の陰から三人の男たちが出てきた。
美緒の四十メートルほど前方だ。
本館の横壁に沿って道が岐《わか》れていて、裏に、古い博物館のような赤レンガの建物――四階建ての東洋研究センターがあるのである。
三人の男たちのうち、美緒は右側の二人を知っていた。といっても、明るい茶の革鞄を提げて大股に歩いてくる中央の大柄な男――精一より二つ三つ上の五十代半ばと思われる男――は、新聞やテレビでよく顔と名前を見るだけで、面識はない。東洋研究センター所長の服部啓吾だ。父の精一などは、同じ慶明大学教授でも、一般の人にはほとんど無名だが、こちらは様々な肩書を持つ有名教授、「超売れっ子教授」である。てらてらと光っている広い額。厚い唇と大きな鼻。そこに、トレードマークとも言うべき太い黒縁眼鏡をかけた顔は、いかにもアクが強そうに見えた。
美緒の知っているもう一人は、服部の左側(美緒から見て右側)に並んでいる、アタッシェケースを提げた背の高い痩《や》せぎみの男だ。どことなく陰気な顔をした、この長髪の男は、顔を知っているだけではなく、一度言葉を交わしていた。半年ほど前、壮と一緒に神保町を歩いていたときに出会い、紹介されたのだ。名刺をもらったので、名も覚えている。佐久田宗行《さくたむねゆき》。年齢は壮より二つ三つ上の三十一、二歳。服部研究室の助手だという。
服部の右側を、他の二人より多少せかせかした足取りで歩いてくる、縦長のメンズバッグを肩から提げた中肉中背の男――――秀才少年がそのままおとなになったような、フレームレスの眼鏡をかけた色白の男――だけは、美緒が初めて見る顔だった。腹が少し出かかっているが、歳はまだ四十前か。たぶん、同じ服部研究室の人間だろう。
三人を見て、美緒は、先々週の土曜日に伊豆で自殺した、相馬聡子という服部の秘書のことを思い浮かべた。
まだ六時前である。三人そろって帰宅というのは早すぎる。もしかしたら、その件に関係して出かけるのではないか……ふとそんなふうに思ったのである。
相馬聡子は、今月四日(日曜日)の昼前、修善寺温泉から二・五キロほど離れた狩野川の岩場に引っ掛かって死亡しているのが見つかった。死因は溺死《できし》。死体に目立った外傷がなく、血液中から薬物も検出されなかったので、他殺の疑いはすぐに消え、事故のセンも薄いことから、自殺と断定された。
そのため、聡子の死は新聞には小さく報じられただけだったものの、大学内では、いろいろ取り沙汰されたようだ。服部は、翌日仕事を手伝ってもらうために聡子を修善寺まで伴っただけで、別々の部屋に寝たために彼女が夜抜け出したのに気づかなかったと言っているらしいが、彼との間に聡子が自殺する原因になるようなことがあったのではないか、といった想像、推測だ。これは、当然と言えば当然の推測だった。が、精一にしても壮にしても、数学バカで、そういう他人の噂話《うわさばなし》を好まない。だから、美緒が知っているのは、その後いくつかの週刊誌から仕入れた、やはり半ばは推測で書かれた情報だけだった。
美緒が三人のほうを見て足をゆるめると、佐久田も美緒に気づいた。口元にかすかに笑みを浮かべて目顔で挨拶した。
服部と色白の秀才中年≠焉Aそれぞれの眼鏡の奥から美緒を見た。
服部が佐久田に、誰かと問うたらしく、佐久田が何やら答えた。
ここの大学の教授の娘だとでも教えたのだろうか。
服部が美緒に目を戻したので、美緒は黙礼した。
服部もかすかにうなずき返す。
三人は、美緒の前方二十メートルほどの角にあるひときわ大きな欅の木を回るようにして構内のメインストリートに出てきた。美緒のほうへ向かって歩いてくる。
不意に、佐久田が息を呑んだような表情をして足を止めた。
つづいて、服部ともう一人のフレームレスの眼鏡をかけた男も棒立ちになった。
三人の顔には一様に驚いたような色が浮かび、視線は美緒の後ろに向けられている。
どうしたのかと美緒が振り向こうとしたとき、誰かが駆けてくる足音がして、風を巻いて美緒の横を擦り抜けて行った。
ジーパンに黒いTシャツという若い男だ。ここの学生だろうか。身体は、相撲の新弟子検査をパスするぐらいはある。
男は右手に何か握っていた。
二、三十センチの細長いものだ。
短刀では……と美緒が思ったとき、男が左手で外した鞘《さや》を横に投げ捨てた。
右手の先に白い刃が見えた。
やはり短刀だった。
「殺してやる」
男は怒鳴ると、服部に向かって身体ごとぶつかるようにそれを突き出していった。
茫然《ぼうぜん》として立っていた服部が、はっとしたような表情をして辛うじて左に躱《かわ》した。
「畜生!」
肥った男が体勢を立てなおし、更に服部に突きかかった。
今度は刃が右腕を傷つけたようだ。服部が「うっ」というような声を上げ、提げていた鞄を落とし、左手で右腕を押さえた。
突然の出来事になす術もなく茫然と立っていた佐久田ともう一人の男が、アタッシェケースとメンズバッグを下に置き、
「先生……」
「大丈夫ですか?」
と、両側から服部に寄った。
「どけっ!」
肥った男が短刀を右に払って、二人に怒鳴った。
「相馬君、よすんだ」
佐久田が男のほうへ顔を上げて言った。
「うるさい、どけっ! 貴様が姉を売ったんだろう。どかないと貴様も一緒に殺すぞ」
相馬君。姉。
これらの言葉から、肥った男は相馬聡子の弟らしい、と美緒にも見当がついた。
男が本気で佐久田に突きかかった。
佐久田が、服部のそばから舗道の上に転がった。
敵が佐久田を襲っている間に、フレームレスの眼鏡をかけた男に手を取られた服部が欅の木の陰に逃れた。
「待て!」
男が追った。敏捷《びんしよう》とは言えないが、肥っているわりにはよく動く。
そちこちで見ていたらしい人たちが七、八人、男と服部たちのほうへ駆け寄った。
だが、美緒は金縛りに遇ったように動けない。
「相馬君、きみは誤解している」
欅の木を楯にして逃げながら、服部が言った。「話し合おう。そうすれば、分かってくれるはずだ」
「おまえの話なんか聞きたくない。貴様が姉を殺したんだ」
相馬聡子の弟と思われる男は、横から短刀を突き出すが、幹が太いので、服部に届かない。
「やめろ、やめるんだ」
駆け寄った男たちが口々に言い、そのうちの一人――短い髪をしたラグビーでもやっているようながっしりとした体躯《たいく》の男――が、聡子の弟を背後からはがい締めにした。
と、別の一人が、持っていた週刊誌を丸めて彼の手から短刀を叩き落とした。
「誰か、警察を……」
犯人をはがい締めにした短髪の男が、顔を回して言いかけると、
「警察は呼ばないでください」
服部が欅の木の陰から出てきて、慌てて止めた。
短髪の男が服部を見やった。
「お騒がせしましたが、ぼくの怪我はたいしたことがないし、この人も、もう二度とこんなまねはしないと思いますから」
服部が言った。
「貴様は、姉を殺しているから、警察を呼べないんだ」
聡子の弟が怒鳴った。
「ぼくは、きみのお姉さんを殺してなんかいない。警察もそう判断したじゃないか」
「ふん、直接、手をかけなくても、貴様が殺したも同然なんだ。だから、俺は、貴様をぶっ殺すまでは諦めない」
聡子の弟が、はがい締めから逃れようと暴れながら喚《わめ》いた。
「先生、こう言っていますし、警察に通報しておいたほうがいいんじゃないですか」
短髪の男が、もう一度服部の意思を確かめた。
「いや、大丈夫です。放してやってください」
服部が答えた。
「いいんですか……」
短髪の男が不満そうにつぶやき、短刀を叩き落とした男がそれを拾い上げるのを待って、聡子の弟を解放した。
聡子の弟は服部をにらみつけてから、身体を回した。
歩き出そうとして、そばにきていた佐久田と目が合ったようだ。
「姉を売ってまでこの卑劣な教授野郎のご機嫌を取ったおまえにも、いつかきっと、相応の礼をしてやるからな」
彼はそう言うと、佐久田の顔にぺっと唾《つば》を吐きかけ、美緒のいるほうへ歩いてきた。
近くで見ると、鼻の両側にそばかすの散った丸い顔は、まだ少年の面影が濃い。二十歳になっていないのかもしれない。ふだんの顔としては穏かな紅顔を想像させるが、今はふっくらした頬《ほお》が青ざめ、引き攣《つ》っている。目を怒らせ、美緒の存在など気づかないかのように、大股に横を擦り抜けて行った。
2
服部たち三人は、聡子の弟を取り押さえた男たちに対する礼の言葉もそこそこに、逃げるように正門のほうへ立ち去った。
美緒の横を通るとき、佐久田がきまり悪そうな顔をして美緒を一瞥《いちべつ》したが、言葉は口にしなかった。
後から集まってきた人たちが、どうしたのかと訊《き》き、前からいた者たちが事情を説明し始める。それを耳に挟みながら、美緒は現場をあとにし、奥へ向かった。
理学部の建物に入って、エレベーターで五階の笹谷研究室へ行くと、珍しく、壮は仕事を切り上げて待っていた。教授室の隣りに付いた、ソファとテーブルが置かれただけの応接室兼研究員たちの休憩室だ。遅刻常習犯の彼にも、劇の開演時刻が待ってくれないのは分かっているからだろう。
ソファから立ち上がった壮に、美緒は、いま見てきたばかりの出来事を興奮した口調で話しかけた。
と、娘の声を聞きつけたのか、境のドアを開けて精一が入ってきた。
「何かあったのか?」
と、訊いた。
美緒は立ったまま、目撃した一部始終を二人に説明した。
壮は何も言わなかったし、精一にしても、「そうか」と心持ち深刻げな顔をしてうなずいただけで、感想は述べなかった。
「お父さんたちは、週刊誌に載った以上の事情を何か知っているんじゃないの?」
今度は美緒が質問した。
「何も知らん」
精一が答えた。
「あなたなら――」
と、美緒は壮に視線を当て、「佐久田さんから、いろいろお話を聞いているんじゃない?」
「いえ」
壮が首を横に振った。
「それにしても、佐久田さんが服部先生のご機嫌を取るために相馬聡子さんを売ったというのは、どういうことかしら?」
「さあ」
壮が首をかしげ、微妙に美緒から目を外した。
それを見て、壮は事情を知っているにちがいない、と美緒は直感した。他人の悪口あるいは噂話の類《たぐ》いなので、美緒に話したくないのだろう。
「おい、それより、時間は大丈夫なのか」
精一が語調を変え、話題を逸らした。
「そうね、もう行かなくちゃ」
美緒は時計を見て応じた。これから四、五時間は壮と一緒なのだから、話は後でだって聞ける。
「有馬稲子なら、私も観たかったよ」
精一が笑いながらつづけた。
「あら、お父さん、有馬稲子のファンだったの?」
美緒も調子を合わせて、ひやかすと、
「ああ、母さんと一緒によく映画を観たものだ」
精一が答えた。
「本当かな」
「本当さ」
「お母さんがこの場にいれば、よくなんて呆《あき》れるわって言いそうだわ。遠い遠い昔、一度ぐらいはそんなことがあったかもしれないけど、って」
美緒は、章子《あきこ》がそう言うときの表情まで目に浮かんでくるようだった。昔の女学生がそのままおとなになったような章子は、おっとりとした楽天家だ。だから、学者バカの夫に仕え、不平一つ漏らさずにうまくやっている。とはいえ、そうした章子でも――もしかしたら彼女自身気づかないうちに――ストレスのたまることがあるのだろう。時々夫を誘ってディスコに行ったりして、一人娘の美緒を驚かせる。
「一度じゃない。少なくとも、三、四度はある」
精一が真面目な顔付きで言った。
よく≠ェ、瞬く間に三、四度まで譲歩されたのだ。もう一押しすれば、二、三度になるかもしれない。
これじゃ、絶対に悪いことなんてできそうにないな、と美緒は呆れながらも感心してしまう。学者は、日々、政治家やお偉いさんの手本を見て学んでいる現在《いま》の小学生より素直だ。いや、今や、学者先生も世間知らずは少なく、計算が得意な者が多いと聞く。政治家顔負けの厚顔無恥も少なくないらしい。だから、美緒の父は特別なのかもしれない。いまに、前世紀の遺物として、天然記念物に指定されるぐらい。
「とにかく、そんなに有馬稲子が好きなら、切符を買っておくから、後でお母さんと一緒に観たら」
美緒は言った。
すると、案の定、天然記念物は、
「いや、切符はいい。考えておく」
と慌てて誤魔化し、逃げた。
美緒は、傍らで、置き物のようにじっと黙っていたもう一つの天然記念物を誘って部屋を出た。
廊下をエレベーター乗り場へ向かって歩きながら、さっきの件――相馬聡子と服部、佐久田の関係――について質《ただ》すと、壮が、
「その話はもうやめましょう」
と、珍しく少し強い調子で言った。「確かに、相馬さんの自殺に関係して、服部先生や佐久田さんはいろいろ言われています。でも、一方的な情報ばかりなんです。噂どおり、彼らが相馬さんを自殺に追い込んだのかもしれませんが、もしかしたら、そうじゃないかもしれません。その場合、僕が、聞いている話を美緒さんにすれば、服部先生や佐久田さんに対する根拠のない悪口を言うことになってしまいますから」
少なくとも、彼は、何も知らないと言った前言は取り消したのだった。
「でも、相馬さんの弟は、服部先生を刺そうとしたのよ。根拠もなしにそこまでするかしら?」
エレベーターに乗り込んでから、美緒は更に言った。
「一方的な情報でも、それを事実だと信じ込めば、刺そうとしたっておかしくありません」
「そうだけど……やっぱり、相馬さんと二人だけで修善寺の旅館に泊まっていた服部先生が、相馬さんの自殺に無関係だなんて考えられないわ」
「僕だって、その可能性が高いと思っています。ですが、相馬さんは殺されたわけじゃありません。自殺したのは、疑問の余地がないようなんです。としたら、他人のプライバシーを突つくのは気が進みません」
「直接手を下さなくたって、殺人に等しい行為はあるわ」
「とにかく、やめましょう。それを僕らが云々《うんぬん》しても、仕方ありません。いずれ、事実が分かったら、美緒さんにも話しますから」
美緒たちはエレベーターを降り、理学部の建物から出た。
欅並木の下には薄闇が忍び寄り、人の姿はさっきより少なくなっていた。
美緒たちは水道橋から電車で新宿へ行き、夕食を摂《と》ってから、「はなれ瞽女《ごぜ》おりん」を観た。
苛酷《かこく》な運命を背負った女、おりんを演じる有馬稲子の明るいとも言える演技は素晴らしかったが、美緒はいま一つ劇の世界に浸りきれなかった。時々、ふっ、ふっと慶明大学の構内で見た光景が浮かんできた。
相馬聡子は、美緒が一度も会ったことのない女性である。服部も佐久田も、美緒とは関係ない。それなのになぜだろう、と思う。殺人事件ならともかく、聡子は自殺したのだ。その自殺の裏にいかなる事情があろうとも、それを突つけば、壮が言うように、他人のプライバシーに踏み込むことになる。理屈では分かっているのだが、短刀を持って服部に襲いかかった聡子の弟の姿が、逃げる服部の姿が、また聡子の弟に唾を吐きかけられるままにしていた佐久田の顔が、頭から離れないのだった。
最後の幕が下りて、ホールの外へ出たとき、
「黒江さん」
と、女性の声に後ろから呼ばれた。
美緒たちは、足を止めて身体を回した。
美緒と同年ぐらいの二人の女性が立っていた。
そのうち、小柄なほうは、「それじゃ、私、ちょっと急ぐから」ともう一人に言って立ち去ったので、声をかけたのは、残った背のすらりとした女性らしい。
薄くブルーの入ったファッショングラスをかけ、ライトブルーのワンピースの上に白のカーディガンを羽織っている。髪は長からず、短からず。全体にレイヤーカットし、後ろの髪は肩の前へ持ってきて内巻きにブローしている。口が大きく、鼻筋の通った、彫《ほり》の深い顔だ。美緒はどこかで見たような気がしたが、思い出せない。
女性は、美緒と壮を交互に見ていた。壮に対しては親しみのこもったような笑みを、美緒に対しては探るような、敵意を含んだような視線を向けて。
「こ、こんばんは」
壮が、ちょっとどぎまぎしたように挨拶した。
「黒江さんも、演劇など観られるのね」
女性がからかうような口調で言う。もう美緒の顔は見ようとしない。意識的に無視しているようだ。
「ええ、まあ……」
「じゃ、今度は、私にも付き合ってくださらないかしら」
壮が困ったように、黙っている。
美緒は腹が立ってきた。恋人と一緒にいる男を誘うとは、なんて図々しい女性なんだろう。
「あら、私とじゃ、だめ?」
「い、いえ」
壮が答えた。
何がいえよ、と美緒は今度は壮の態度にカチンときた。こんな失礼な女に、なぜ、はっきりと断わらないのか。
美緒の心の動きは顔に出たのだろう。女性が美緒をちらっと盗み見ると、更に挑発するように、
「そう、付き合ってくださるのね。嬉しいわ。今度、面白そうな演物《だしもの》があったら切符を買っておくわね」
「あ、でも、やっぱり……」
壮が慌てて言いかけるのを無視して、
「それじゃ、また」
女性は、壮にだけ手を振り、人々の流れの中へ紛れて行った。
「だーれ、あの失礼な人?」
美緒は怒りを抑えて訊いた。きっと口元が醜くひんまがっていたにちがいない。
「服部教授のお嬢さんの真紀《まき》さんです」
壮が、敵の襲撃から逃れるために首を引っ込めかけた亀のような表情をして答えた。
「服部教授って、あの……」
「ええ、服部啓吾先生です。真紀さんは、卒業したのは別の大学ですが、今年の四月から植物学科の研究生としてうちの大学へ来ているんです」
意外だったが、相手が誰であれ、美緒は腹の虫がおさまらない。美緒を無視して壮を誘った服部真紀に対してはもちろんのこと、彼女の誘いをきっぱりと断わらなかった壮に対しても。
「そう。じゃ、あなたは、今度はあのお嬢さんと一緒に劇を観に行ったらいいわ」
美緒は言った。
壮は甲羅の下から美緒を窺《うかが》い、困ったようにもじもじしている。
「同じ理学部にいるんだし、そうするんでしょう?」
美緒は更に追及する。
「いえ」
「いえって、いま、あの人にそう約束したじゃない」
「約束なんかしていません。断わろうとしたら、帰ってしまったんです」
「追いかけて行って、断わったらよかったのに」
「…………」
美緒の腹の虫が、おさまるべきところにおさまってきたらしい。もういいじゃないか、と囁《ささや》き始めた。他人ごとみたいに。すると、美緒は、自分のほうが気の良い恋人をいじめる意地悪女に思えてきた。頭に角が二本生えた、嫉妬深い。
美緒は、苦い空気が胸に広がったような気分になり、
「もう、いいわ。行こう?」
と言った。
先に立って歩き出した。
壮が甲羅の下から首を出し、慌てて追いかけてきた。
そのとき、美緒は、〈そうか〉と思った。さっき、真紀をどこかで見たことがあるような気がした理由が分かったのだ。真紀の顔はけっして父親似とは言えないが、それでもどことなく服部に似ているところがあったらしい。
美緒は、因縁めいたものを感じた。夕方、服部啓吾が襲われる現場を目撃し、今度はその娘に会ったからだ。
下に降りて、ビルを出た。
休日前の夜の街は、まだ行き交う人々でごったがえしていた。
美緒は壮の腕を取り、両腕で抱えた。
不器用な恋人のほっとしたような気配が伝わってきた。
駅へ向かいながら、彼が言った。
「実は、服部真紀さんは、佐久田さんのフィアンセなんです。ですから、あんなふうに言っても僕を誘ったりはしませんし、たとえ誘われても、僕は行きません」
もっと早くそう言えば、私の頭に角が生えなくて済んだのに――と美緒は思ったが、黙っていた。
3
一旦引っ込んだ美緒の角がまた生えて、前よりいっそう鋭く、長く伸びたのは、それから一週間余り経《た》ったときだった。
二十二日(木曜日)。秋分の日、土曜日、日曜日とつづく三連休の前日である。
午後三時過ぎ、美緒は、退社後に壮と一緒に食事でもして帰ろうと、彼の研究室に電話をかけた。すると、壮は、今夜は九時過ぎまで研究室に残って仕事をしてゆかなければならないのでこの次にしてくれないか、と申し訳なさそうに言った。
美緒は、壮の研究の邪魔をしたくない。両親の姿を見て育ったので、数学者という種族は、雑事や家族のしがらみから解放し、少なくとも精神的には幼児のように自由にしておいてやらなければ良い仕事はできないらしい、と分かっている。だから、世話好きの美緒としては、(相手が相手なので)過保護は仕方がないとしても、壮に対して過干渉だけはしまい、と心がけている。だいたい、精一にしても壮にしても、章子や美緒が何を言おうと、どうしようと、いつでも外界の雑音をシャットアウトし、頭の中では自分だけの自由の世界に遊べる人間であり、そうでなければ、数学者などやっていられないのかもしれないが……。
ともあれ、美緒は、
――そう。じゃ、頑張ってね。
と言って、電話を切った。
ところが、である。
その日の夕方六時過ぎ、美緒は、横浜の桜木町駅から四、五百メートル北東に行った路上で壮を見たのである。それも、壮一人ではない。紀伊国屋ホールで会った服部真紀と腕が触れ合わんばかりに並んで、夕闇の下り始めた紅葉坂を急ぎ足に登って行くのを。
美緒は、壮が仕事なら、自分も連休明けに送るつもりだった仕事を片付けてしまおうと思い直し、四時過ぎに横浜へ行った。担当している推理作家・大隈淳一《おおくまじゆんいち》に依頼されていた野毛山公園から掃部《かもん》山《やま》公園、紅葉坂あたりの取材である。
美緒は、一時間ほどかけて桜木町駅の西側一帯を歩き回り、大隈の希望どおり夕方の公園≠写真にも収めて、紅葉坂の中途にある青少年センターの前庭で一休みしていた。これから、磯子《いそご》に住んでいる女子大時代の友人・薬師寺知世《やくしじともよ》を訪ね、久しぶりに思う存分お喋りを楽しむつもりで。そのとき、ベンチに掛けて、十四、五メートル離れたセンター横の道路のほうへ目を向けていると、石畳の歩道を壮が真紀と一緒に登って行ったのだった。
美緒は、自分の目を疑った。人違いかと思って、目を凝《こ》らした。が、いくら薄暗くなり始めていたとはいえ、恋人を見誤るわけがない。しかも、恋人の横にはもう一人、知った顔があったのだ。
一瞬混乱した美緒の頭が、秩序を取り戻し始めた。二人の動きに合わせて身体を回したので、彼らの姿はまだ視野の端にある。美緒は、あとを尾《つ》けてみようと腰を上げかけたが、すぐに思いなおした。自分の行動を想像すると、卑劣な感じがして嫌になったのだ。
壮と真紀の姿が、隣りの青少年センターの植込みの陰に消えた。
美緒の胸はまだ早鐘のように鳴りつづいている。
落ちついて考えようとするのだが、考えられない。頭の中がまた混乱し始めたようだ。壮が自分を裏切るわけがない。美緒は信じている。それだけは。だが、壮は自分に嘘をついた。居残って仕事をすると言っておきながら、真紀と二人で横浜を歩いていた。どういうことだろう。見当がつかない。
横浜のどこかは知らないが、服部啓吾は横浜市に住んでいると聞いたような気がする。ということは、壮は真紀の家に行こうとしていたのだろうか。しかし、そう考えても、美緒に嘘をついてまで、そうしなければならない理由が分からない。
美緒は、あとを尾けてみればよかった、と後悔した。卑劣でも何でも、そうして壮の行き先を突き止めておいたほうがすっきりしたかもしれない。
といっても、もう遅い。いまから追いかけて行ったところで、坂を登りきって下ると大きな五叉路《ごさろ》になっている。どの方向へ進んだのか、見当がつかない。
美緒は仕方なく桜木町駅まで歩き、電車に乗った。磯子方面へ行く下りではなく、上りだ。「待っているわ」と言ってくれた知世には悪いが、今夜は知世と顔を合わせたくない。後で電話して謝ればいいだろう。
美緒は横浜駅で、空いた座席に掛けた。彼女の中で、壮の不可解な行動に対する戸惑いは、嫉妬に取って代わられ、電車が川崎、蒲田、品川と進むにしたがって、それは強まっていった。
これまで、壮は、美緒のためを思って嘘をついたり、事実を隠したりすることはあっても、彼自身のためにそうすることはなかった。少なくとも美緒はそう信じていた。それなのに、今度は、明らかに美緒を騙《だま》したのである。そうとしか考えられない。
並んで坂を登って行った壮と真紀の姿を想像するたびに、美緒は、身もだえしそうになった。嫉妬の炎が胸を焦がすと小説などでは読んだことがあるものの、実際の体験は初めてである。嫉妬がこれほどまでに苦しいものだとは想像したことがなかったし、想像できなかった。美緒とて、軽い嫉妬は日常茶飯事だが、それでも、嫉妬なんて対岸の火事だと思ってきた。嫉妬は理性的じゃない人間がするものだ、と嫉妬深い同性を心の内で馬鹿にしてきた。だが、今は、壮にかぎって、私を裏切るわけがない≠ニ自分の胸にいくら言いきかせても、胸を焼く炎は一向に衰えないのだった。
美緒は、東京駅で中央線に乗り換えた電車を途中の高円寺で降りた。
高円寺は、壮のアパートのあるところである。
改札口を出て、知世に電話をかけた。急用ができたので行かれなくなったと謝ると、
「そう、急用じゃ、仕方ないわね。でも、兄貴はきっと私以上にがっかりすると思うわ。さっき電話したら、飛んで帰ってくるっていう感じだったから」
と、知世が言った。
知世は幼稚園の先生、彼女と同居している兄の薫《かおる》は、神奈川県警刑事部捜査一課の警部補である。知世の言葉を借りると、薫は美緒の大ファン≠セとかで、初め壮に敵愾心《てきがいしん》を燃やしていた。だが、港の見える丘公園で起きた殺人事件や、元町公園で起きた殺人事件のとき、壮の頭脳を借りて解決してから、壮を尊敬するようになっていた。
美緒は、「ごめんなさい」ともう一度謝った。
「美緒、いつもと違うみたい。何だか変よ」
知世が美緒の様子に気づいたらしく、真剣な語調に変えた。「どうしたの? 何があったの?」
「ううん、別に」
と答えたものの、知世の言葉にひとりでに涙が出てきた。
「でも……」
「ちょっと疲れただけ」
美緒は、それじゃまた電話するからと言って、受話器を掛けた。
目尻ににじんだ涙を手の甲で拭き、電話ボックスを出た。
氷川神社の前を通って壮のアパートまで五分ほど歩き、預かっているキーでドアを開けた。
夕食を摂っていなかったが、食欲を全然感じなかった。
水だけ飲んで、ダイニングテーブルの椅子に掛け、待ちつづけた。何度か、知世の家に行ったほうが気が紛れたかな……と後悔しながら。
壮は十時近くになって帰ってきた。玄関の灯りが点いていて、美緒がいたので、びっくりしている。
迎えに出た美緒を、三和土《たたき》に立って見上げ、
「どうしたんですか?」
と、不審げに訊いた。
目の前の壮の顔がかすんだ。美緒の目に涙が膜を作ったのだ。胸がいっぱいになった。美緒は、壮の問いに答える代わりに三和土に降り、彼の胸を両拳で叩き、腕の中に身体を投げかけていった。
壮は抱きとめてくれたものの、明らかに戸惑っているようだった。
美緒は、しばらく壮の胸で泣きつづけた。それから、ワイシャツの胸で涙を拭き、彼の顔を恨《うら》めしげに見上げた。
「何かあったんですか?」
壮がまた訊いた。
「何かって、あなたが悪いんじゃない」
美緒は口を尖《とが》らせた。
「僕が?」
壮には意味が分からないようだ。
「夕方、横浜の紅葉坂で、偶然見たのよ」
「えっ!」
壮が目を丸くした。驚いているが、戸惑っているわけではないらしい。
「じゃ、服部真紀さんと紅葉坂を登って行ったときか降りて来たときに……?」
「登って行くところだったわ」
「へー、あのとき、美緒さんは坂の近くにいたんですか……」
美緒の昂《たかぶ》りの理由が分かって、むしろほっとした様子だ。
「そうよ、野毛山公園のあたりを取材に行って、青少年センターの庭で休んでいたの。あのときは、びっくりしたわ。私には、研究で忙しいなんて嘘をついて……」
美緒も、誤解があったらしいと想像がついたので、落ちついてきた。
「僕は嘘なんかついていませんよ。あれは、緊急の用事で仕方がなかったんです」
壮が答えた。
「服部先生のお嬢さんと一緒にあんなところを歩いている緊急の用事って、何?」
「佐久田さんが桜木町駅でホームから線路に落ち、紅葉坂の反対側に下ったところにある病院に救急車で運ばれたんです」
壮が、美緒の想像もしなかった事情を明かした。
美緒は、〈やはりこの人は私を裏切ったりしなかったのだ……〉と思いながら、恋人の目を見つめていた。胸を塞いでいた大きな石が取れた感じだった。
と、ついさっきまで嫉妬で胸を焦がしつづけていたことや、壮の胸で泣いたことが、馬鹿みたいに思えてきた。恥ずかしくなってきた。ちょっと落ちついて考えれば、この不器用な宇宙人≠ェ自分を裏切って別の女の人とどこかへ行くなんてできるわけがないのは自明なのに……。
「で、佐久田さんはどうなったの?」
美緒は、やっと他人の身が考えられるようになって、訊いた。言われてみると、野毛山公園の中を歩いているとき、救急車のサイレンを聞いたような気がしてきた。
「幸い、たいした怪我じゃなく、四、五日で退院できるようです。ただ、落ちた瞬間、頭を打って気を失ったらしく、ホームにいた学生がすぐに飛び降りて、線路の外へ引《ひ》き摺《ず》り出してくれなければ、確実に電車に轢《ひ》かれていただろうという話でした」
壮が答えた。
「そう」
と、美緒は大きくうなずき、「じゃ、危機一髪だったのね」
「そうだったみたいです」
美緒は壮から身体を離した。ごめんなさいと謝って上がり、壮が靴を脱いで上がるのを待った。
食事はと訊くと、まだだという。
美緒も急に空腹を覚えた。
相棒を栄養失調にしないよう、週に一度は野菜をたっぷりつかった食事を作ってやっているので、何がどこにあるかはよく分かっている。が、冷蔵庫は空だった。今夜は食事の準備どころではなかったので、美緒は何も買ってきていない。仕方がないので、買い置きのインスタントラーメンで我慢することにして、
「ラーメンでも作るわね」
と、棚から鍋を取り、水を入れて火に掛けた。
その間に、壮がうがいをして手を洗ってきた。
「佐久田さん、どうして線路になんか落ちたのかしら。夕方じゃ、お酒を飲んでいたわけじゃないでしょうし……ひょっとしたら、誰かに突き飛ばされたの?」
美緒は話を戻した。
心配事がなくなれば、いつもの好奇心旺盛な美緒である。
「ホームはかなり込んでいたようですが、佐久田さんはそんなことはなかった、と言っています」
壮が椅子に腰を下ろしながら答えた。
「上りホーム? 下りホーム?」
「上りです。ぼんやりと考えごとをしながらホームの端を歩いていて、うっかり足を踏み外したんだそうです」
「そう」
と、美緒は応《こた》えたが、半信半疑だった。頭には、先週、慶明大学の構内で目撃した光景が浮かんでいた。それと、そのとき相馬聡子の弟が佐久田に投げつけた、
――姉を売ったおまえにも、いつか相応の礼をしてやるからな。
といった言葉が。
美緒は、前に壮にも話してあるその言葉を口にしてみた。
壮が首をかしげた。
「ですが、もし誰かに突き飛ばされたのなら、警察に事情を訊かれたとき、佐久田さんはそう言ったと思うんです。なにしろ、命に関わる重大事ですからね」
「佐久田さんを助けた大学生や、近くにいた人たちはどう言っているのかしら?」
「少なくとも、彼を突き飛ばした人間を見た者はいないようです」
「そうか……」
美緒はうなずき、振り向いて鍋の様子を見てから、質問を継いだ。
「佐久田さん、桜木町には用事があって行かれたの?」
「三時過ぎに研究室を出て、仕事で九州から横浜へ来ていた友人と、ランドマークタワーで会ったんだそうです。友人は用事があるというので、五時頃その場で別れ、一人で保土ケ谷のマンションへ帰るところだったと言っています」
「保土ケ谷というと、同じ横浜市よね」
「そうです。東海道線で横浜の一つ先です。ですから、根岸線の桜木町から横浜まで一駅戻ろうとしていたんだと思います」
「確か、服部先生のお住まいも横浜だって聞いたような気がするけど」
「先生は、横浜といっても川崎に近い日吉ですから、保土ケ谷とは、慶明大学と西荻の美緒さんの家ぐらい離れているはずです」
「そう……」
と応えて、美緒は、肝腎な点を質《ただ》すのを忘れていたことに気づいた。もう壮を疑っているわけではないが、壮はどうして真紀と一緒に佐久田の運び込まれた病院へ駆けつけたのか――。
壮によれば、佐久田とは、二年前、大学本部に対して助手の待遇改善を要求するために集まったときに知り合った、という。同じ助手同士といっても、学部は違うし、それほど親しい間柄ではない。そういう話だった。
湯が沸いたので、美緒はラーメンの袋を破って中身を鍋に入れてから、その点について質した。
「服部さんが、今年の四月からうちの大学の植物学科に研究生として来ている、という話はしましたね」
壮が言った。
「聞いたわ、この前」
「五時過ぎ、彼女の研究室に服部先生から電話があり、佐久田さんがホームから落ちて頭に怪我をしたからすぐに病院へ行くように、と言われたんだそうです」
壮が、美緒の反応を窺うような目をして説明した。「もちろん、まだ脳の断層写真を撮る前でした。それで、彼女はびっくりしてしまい、一人では心細いので一緒に行ってくれないか、と僕のところへ来たんです」
美緒は、真紀が壮に一緒に行ってくれと頼みにきたという点にこだわりが残ったものの、事情は分かった。
「服部先生のところには、病院から知らせがあったわけね?」
「そうです。佐久田さんは実家が九州なので、連絡先として研究室の電話番号を言ったようです」
「そう」
と、美緒はうなずいた。
本当は、真紀がなぜ壮に一緒に行ってくれと言ってきたのかを聞きたかった。なぜ、彼女は同じ研究室の誰かではなく、壮を頼ったのか。それが一番気にかかっていた。
だが、それは真紀の側の問題である。壮に責任はないし、訊いても、彼は分からないと答えるだろう。
美緒は、自分のこだわりを胸の底に呑み込んだ。
煮すぎたラーメンを、慌てて火から下ろした。
それを二つの丼に分け、壮と啜《すす》った。
食事の後、いつものように壮が美緒を送ってきた。
西荻窪で降り、住宅街の静かな道を腕を組んで十五分ほど歩く。
今夜は遅いので寄らずに帰るというので、木戸の前でキスを求めると、壮がいつもより長いキスをして、残っていた美緒のこだわりを三分の二ほど吸い取ってくれた。
4
翌二十三日(秋分の日)、遅い朝食の後、美緒がゆったりとした気分で両親とコーヒーを飲んでいると、知世から電話がかかってきた。
昨夜は元気がなかったみたいだが、どうしたのか、と訊いてきたのだった。
美緒が、もう大丈夫と答えると、
「そんな感じね。今朝はいつものお美緒の声だから」
と、知世もほっとしたように言った。
美緒は心配してくれた礼を言い、昨夜の勝手を詫《わ》びた。
「ううん、そんなことはいいの。ただ、昨夜《ゆうべ》はどうしちゃったのかと思って……。心配したけど、元気になったんなら、いいわ。何も訊かない」
「ありがとう」
「それで、今日はお美緒、何か予定があるの?」
知世が話題を変えた。
「特にないけど」
「黒江さんはどうかしら?」
「午後、うちに来ることになっているから、たぶんないと思うわ」
「なら、よかったら、久しぶりに二人で横浜へ遊びに来ない?」
「そうね……」
美緒は、どうしようかと考えながら応じた。
「昨夜の代わりというわけじゃないけど、うちの兄貴も今日は珍しく一日休みだし、来てくれたら、喜ぶわ」
美緒は、それじゃ、壮の都合を訊いて返事をするからと言って、電話を終えた。
つづいて壮の番号をプッシュしたが、話し中だった。
一度、居間に戻り、十分ほどしてからかけなおすと、今度は呼び出し音が鳴り出し、すぐに受話器が取られた。
美緒が名乗るや、
「あ、いま、美緒さんにかけようとしていたところなんです」
と、壮が言った。
「何か用事?」
美緒は訊いた。
「今日の午後、空いてますか?」
「ええ」
「じゃ、一緒に横浜まで行ってくれませんか?」
えっ、と美緒は驚いて、声を呑んだ。
「無理ですか……」
壮が勘違いして、声を沈めた。
「ううん、そうじゃないの」
美緒はすぐに言った。「私も、横浜へ行かないかってあなたを誘おうとしていたところだったの。だから、びっくりして」
「美緒さんも横浜へ?」
今度が壮が驚く番だった。
「いま、知世から、あなたと一緒に遊びに来ないかって誘われたの。知世のお兄さんもあなたに会いたいって言っているからって」
「そうですか」
「あなたのほうはどうして横浜に?」
「やはり、いま、佐久田さんから電話があったんです。できれば、相談に乗ってほしいといって」
「昨夜病院へ行ったばかりなのに……」
「昨夜は服部さんもいたし……一晩考えて、僕に話そうと決めたようです」
「佐久田さんは、何をあなたに話そうと決めたの?」
「美緒さんの勘のとおりだったんです。彼はホームから落ちたのではなく、誰かに突き落とされたんです」
やはりそうだったのか、と美緒は思った。考えごとをしていてホームから落ちたなんておかしい、と思っていたのである。
「それで、佐久田さんは、どうしたらいいか……僕に相談に乗ってほしい、というんです」
壮がつづけた。
「そう」
と、美緒はうなずき、「でも、それで、どうして私まで横浜へ行かないかって誘ったの?」
「僕が病院で佐久田さんの話を聞いている間、美緒さんが近くの掃部《かもん》山《やま》公園で待っていてくれれば、港でも見て、帰りに中華料理でも食べてこようかな、と思ったんです」
壮のほうからそんなことを言い出すのは、夏に雪が降るぐらい珍しかった。これまで、食事でも映画でも観劇でも、いつだって美緒が誘ったのである。雪はともかく、雷でも鳴らなければいいが……と思うが、どうやら、昨夜美緒が見せた涙の効果≠フようだ。としたら、嫉妬の炎に苦しめられただけのことはあったと言えそうである。
「それじゃ、決まりね」
美緒は言った。「ただし、中華料理の代わりに、知世の家に寄るということで」
壮も了解した。
佐久田の入院している光療会・紅葉坂総合病院は、紅葉坂上から反対側に下ったところにある五叉路から更に北へ二百メートルほど下ったところに建っていた。五階建ての中規模の病院である。
午後一時過ぎ、美緒は、桜木町駅前で買ったコスモスの花を持って、壮と一緒にその病院を訪ねた。
壮がアパートを出る前に佐久田からもう一度電話がかかり、壮が事情を話すと、美緒さえよければ同席しても構わない、と言ったからである。
佐久田の病室は、三階・外科病棟の四人部屋だった。入口の左、手前のベッドである。壮の来るのを待っていたのだろう、ベッドに掛けていた彼は、壮と美緒の姿を見るとすぐに腰を上げ、せっかくの休みにすみません、と詫びた。
美緒はコスモスを差し出し、見舞いの言葉を述べた。
佐久田が礼を言い、花をベッドサイドのテーブルに置いた。
入院したのは昨日なのに、先週慶明大学の構内で見たときより顔が白っぽく見えた。危うく殺されそうになった、というショックのせいかもしれない。頭と右の手首に包帯を巻いていたが、傷はたいしたことがないようだ。頭蓋や脳に損傷がないと分かったので連休明けには退院できるだろう、と唇に作ったような笑みを浮かべて話した。
佐久田は身長百八十二、三センチの、ひょろりとした男だ。身体に比して大きくない顔が、長髪のためにいっそう小さく見える。濃い眉、二重|瞼《まぶた》のぱっちりした目、尖り気味の高い鼻と、一つずつ見ると、結構整った顔立ちのはずなのに、美男子という印象はない。目を笑わせていても、どことなく陰気な雰囲気を宿した顔だった。
佐久田が笑みを消し、すみません、それじゃ、ちょっと外へ……と促した。同室者の耳があるからであろう。
休憩室へ行くと、テレビを観たり雑誌を読んだりしている人たちがいたので、美緒たちは、誰もいない廊下の隅に置かれたベンチに移動した。
中に白い砂利を敷いた灰皿を前にして、佐久田、壮、美緒と並んで腰を下ろす。
痩せた背の高い人によく見られるように、佐久田は肩の下を少し丸めた猫背だ。煙草を吸ってもいいですかと壮と美緒にことわり、パジャマの胸ポケットからパートナーという煙草の箱とライターを取り出した。
彼はそこから一本抜き取ってくわえ、火を点けた。
前を向いて煙を吐き出してから、身体を回して、壮に目を戻し、
「相談に乗っていただきたかったのは、午前中、電話で話したとおりなんです」
と、言った。
「なぜ、僕に……?」
壮が訊いた。
いつもなら、美緒が代理人としていろいろ質問し、壮はよほど大きな疑問が出てこないかぎり、美緒に促されるまで口を開かない。だが、今日の美緒はオブザーバーなので、壮が自分で質したのであろう。
「失礼な言い方ですが、黒江さんでしたら信用が置ける、と思ったんです。また、黒江さんなら、昨日真紀さんと一緒に来てくださったので、事情もご存じですし。それで、ご迷惑を重々承知しながら、あつかましいお願いをしたわけなんです」
佐久田が答えた。
「では、昨日、ホームで突き飛ばされたときの状況を詳しく説明してくれませんか。事実関係がはっきりしないと、どうしたらいいかと訊かれても、答えられませんから」
壮が言った。
まず昨日の状況を聞こう、と美緒と話し合ってきたのだ。
実は、佐久田の相談に対する壮と美緒の結論は、すでに決まっていた。もちろん、誰かに突き飛ばされた≠ニいう佐久田の話が事実だと仮定してだが。
今更、佐久田が嘘を言うわけがないし、彼が電話で壮に言った話は事実と見て間違いないだろう。だから、佐久田の詳しい説明を聞いたところで、結論は変わらないにちがいない。それでも、壮と美緒は、責任ある意見を述べるためには、具体的な事実関係をつかんでおきたかったのである。
佐久田が、分かりましたと応じて、長い煙草を灰皿に押し潰《つぶ》し、
「昨日の話と重複しますが、いいでしょうか?」
と壮に訊いた。
結構です、と壮がうなずいた。
「確か、時刻は五時を少し過ぎていたんじゃないかと思います」
佐久田が言いながら、そのときのことを思い浮かべるような目を、壮と美緒から廊下の反対側の壁のほうへ移動させた。
「まだ夕方の通勤ラッシュの始まる前でしたが、ランドマークタワーのある『みなとみらい21地区』で催しものがあったらしく、上りホームは非常に込んでいました」
そのため、佐久田は階段を上り、ホームの端を歩いていたのだ、と言った。
と、斜め後ろから、不意に誰かが勢いよくぶつかってきた。ぶつかった瞬間、肩か腕でぐいと突き飛ばすようにしたので、過失ではないはずだ。佐久田は、「あっ!」という声を上げるひまもなく線路に転落した。そのとき、敷石かレールに頭をぶつけたらしく、意識を失い、気がついたときは、誰かに両腕を持って引き摺られ、目の前を電車の車輪が通過していた――。
「突き飛ばした人間は見ていないわけですね?」
壮が確認した。
「ええ、とても振り返る余裕などありませんでしたから」
佐久田が壮を見返して答えた。「それに、線路に落ちて気を失い、気がついたときには前に電車の壁ができていたんです」
「男か女かぐらいは分かりませんか?」
「何となく男だったような感じがしますが、はっきりとは……」
「そのとき、ホームにいた人の中にも、佐久田さんが突き飛ばされる瞬間を見た者はいない、という話でしたね」
「僕も後で聞いたんですが、そのようです」
「電車が入ってきて意識を取り戻した直後、佐久田さんは、どうして誰かに突き飛ばされたと言わなかったんですか? もし、その時点で助けてくれた学生に事実を話していれば、犯人を突き止める何らかの手掛かりが得られたのではないかと思うんですが」
「そうですね」
と、佐久田が壮の考えを肯定してから、「でも」とつづけた。「そのときは、意識を取り戻したといっても、まだ自分がどうなったのかはっきり分からず、目の前の電車の車輪を見て、恐怖にすくんでいたんです。そのため、電車が出て行き、駅員が駆けつけてきて、どうして落ちたのかと質問されるまで、そっちには頭が回らなかったんです」
「では、駅員に質問されたとき、なぜ、事実を話さず、自分の不注意で落ちた、と嘘をつかれたんでしょう?」
佐久田が壮から視線を外した。
そのとき、一瞬、彼の目の中を恨めしげな表情がよぎったように見えた。
これほど細かく質問されるとは予想していなかったらしい。
だが、自分の都合のいいようにだけ壮を利用しようとしても無理だ。それは虫がよすぎる。〈昨日の話は嘘で、実はこうだったのだが、どうしたらいいか?〉と相談された以上、なぜ嘘をついたのかと質すのは当然であろう。
「自分が殺されかけたなどと知られたくなかったんです」
佐久田が、壮と美緒に横顔を見せたまま答えた。
「失礼ですが、なぜですか?」
壮が質問を継いだ。
彼はむやみに他人のプライバシーに踏み込むのは嫌いだが、論理的な疑問や謎が出てきたときだけは別だ。それを解き明かそうとするのは、彼の習性のようなものである。
「今月初め、服部先生の秘書の相馬聡子さんが自殺したのはご存じですね」
佐久田が壮と美緒に顔を向けた。
苦しげだった。目のまわりに暗い翳《かげ》が張りついていた。
壮が、知っていると答えた。
「でしたら、黒江さんは、服部先生や僕についての無責任な噂も聞いておられると思いますが」
「ええ」
「更に、先週、笹谷さんが慶明大学の構内で目にされたような出来事も起きています」
佐久田がつづけた。「そこに、今度、僕がホームから突き落とされ、殺されそうになったという事実が知られたら、やっと収まりかけた噂の火に油を注ぐような結果になる、と思ったんです。そうなったら、先生に大きな迷惑をかけてしまいます」
「駅員にどうしてホームから落ちたのかと訊かれ、佐久田さんは咄嗟《とつさ》にそこまで考えたんですか?」
「いえ、初め、誰かに後ろから突き飛ばされたようだと答えかけたんです。ですが、ふっと、これが殺人未遂として大きく報道されたらまずいな、と気づいたんです。それで、慌てて、ぼんやりと考えごとをしながらホームの端を歩いていて、足を踏み外した≠ニ言ったんです」
「駅員は信じたわけですね」
「ええ」
「そうですか」
分かりました、と壮が答えて、右側に掛けた美緒に顔を向けた。
その目は、他に疑問はないか、と美緒に問うていた。
美緒は、服部啓吾と佐久田に関する噂の中身を聞いていないが、今はそれを言うわけにはゆかない。「ない」と答えるように小さくうなずいた。
佐久田がほっとしたような表情を見せた。箱から煙草を一本振り出してくわえ、火を点けた。
壮が、それでは本題ですが……と話を進めた。
「佐久田さんは、いま話されたような理由から、昨日は、自分の不注意でホームから足を踏み外したと言ったわけですね。それなのに、なぜ今日になって事実を話すべきかどうか迷われたんですか?」
「電話でもお話ししたように、怖くなったんです。昨日は、事実を知られたくない、知られたら先生も僕もまた嫌な目に遇う、とそればかり考えていたんですが、夜になって、しんとした病室のベッドに横になっていたら、突然心臓を鷲づかみにされたような恐怖に襲われたんです。僕を突き飛ばした相手は、僕を殺すつもりだったのが明らかですから」
佐久田が、左手の人差し指と中指に挟んだ煙草を肩の前まで離し、壮に目を当てて答えた。
その目の奥には、昨夜の恐怖の記憶が映し出されているように見えた。
「それで、警察に事実を話して、犯人を捕えてもらったほうがよい、と……?」
「恐怖に襲われたときは、そうでした。今回は幸い助かったものの、次は犯人がどんな手段を取ってくるか分からないと考えると、居ても立ってもいられなくなり、明日の朝は一番に警察に電話して、事実を話そう、と思いました。ところが、自分が警察に事実を話したらどうなるかと想像し、また迷い出したんです。そんなわけで、昨夜は一睡もできなかったんですが……明け方、誰か信用のおける人に相談してみるのがいいかもしれないと思いつき、黒江さんを思い浮かべたんです。これまでに黒江さんと笹谷さんは警察に協力していくつもの難事件を解決されている、という話も伺っていましたし、黒江さんならきっとよい知恵を貸してくれるにちがいない、と思ったんです」
佐久田が言葉を切り、壮と美緒に期待の眼差しを交互に向けた。
しかし、壮は、
「よい知恵なんて、僕にもありませんよ」
と、困惑したように言った。
「そうですか」
佐久田が、ちょっと思惑が外れたように目をしばたたかせ、「詳しい事情は、いまお話ししたとおりなんですが……」
「ええ」
「どうしたらいいと思いますか?」
「やはり、警察に事実を話すべきだと思いますね。この前、美緒さんが見たという慶明大学構内における出来事も含めて――。服部先生に迷惑をかけるといっても、根も葉もない噂なら、いずれ消えますから。一方、このまま放っておいて、万一のことがあってからでは取り返しがつきません」
壮が美緒と相談してきた結論を口にした。佐久田から詳しい話を聞いても、変わらなかったのだろう。
それは美緒も同様だった。
事はただの嫌がらせや悪戯《いたずら》ではない。人の命に関わる重大事である。昨日の佐久田の場合、運良く、近くにいた学生が線路に飛び降りて助けてくれたからよかったものの、そうでなかったら、車輪の下でミンチになっていただろう。いかなる事情があろうとも、警察に事実を話すべきであった。相馬聡子の弟が犯人かどうかは分からないが、聡子の自殺の件も、先週の出来事も隠さずに警察に話し、佐久田を殺そうとした人間を捕らえてもらうべきであった。美緒たちは、病院へ来るまでに、そう話し合っていたのである。
しかし、佐久田は、壮の言った答えに不満らしい。フィルターまで焦げそうになった煙草を灰皿にぽいと投げ捨て、前を向いて黙り込んだ。
「少なくとも僕には、いま言った選択しか考えられません」
壮が同じ結論を繰り返した。
「失礼ですが、こういう方法は考えられませんか?」
佐久田が美緒たちのほうへ顔を振り向け、思い切ったように言った。
真剣な表情だった。
「警察には知らせず、黒江さんと笹谷さんに、僕を突き落とした犯人を突き止めていただくという方法ですが」
佐久田が説明した。彼がいつその方法に思い至ったのかは分からない。が、朝、相談に乗ってほしいと壮に最初に電話してきたときには、そこまで考えていたわけではないようだ。としたら、二度目の電話で、壮が美緒と一緒に行くと聞いてから、思いついたのかもしれない。
それにしても、美緒は呆れた。壮も同じだったのだろう、美緒を見て、困ったように小さく首をすくめてみせた。
「もちろん、それなりのお礼はさせていただきます」
佐久田がつづけた。彼は、自分がどんなに失礼で虫のいいことを言っているのか、気づいていないようだ。
美緒は、私たちは探偵会社を経営しているわけではないと言おうとしたが、それより先に壮が口を開いた。
「佐久田さんの考えは分かりましたが、そんなことは無理です。できません」
「なぜでしょう?」
と、佐久田が首をかしげ、「名探偵のお二人なら、警察などに頼らなくとも、犯人を捜し出してくれるんじゃないかと思ったんですが」
まるで分かっていない。
美緒の我慢が臨界点に達した。
彼女は、怒りが言葉になって噴き出さないように注意して言った。
「できないというのは、犯人が突き止められないという意味ではなく、私たちには、佐久田さんのご都合のためにそんなことをしている時間がない、という意味なんです。ですから、どうしても警察に事実を知らせるのが嫌でしたら、探偵社にでも依頼してください」
佐久田が驚いたように、美緒を見つめた。自分本位にしかものごとを考えられないよほど鈍い男なのか、図々しい男なのか、恥じ入るような様子はない。
「ですが、お二人は、いつも警察に協力して……」
「あれは、この人の趣味というか、習性でやっていることで、依頼されてやっているわけじゃありません」
美緒は、相手の言葉を途中で断ち切り、ぴしりと言った。「ですから、これまでに、この人は、目の前に一千万円積まれても動かなかったことがあるんです」
大きく出た。
「一千万円……!」
佐久田が目を丸くした。
「そうです」
美緒は語調を強めた。実際に一千万円積まれたことはないが、金さえあれば何でもできると思っている傲慢な男が、札束で壮を動かそうとしても無駄だったことはある。
「佐久田さんは、もしこの人が犯人を突き止めたら、二千万円出しますか? その気がおありでしたら、私が何としてでもこの人を説得しますけど」
美緒はつづけた。こういう鈍い男には、これぐらい言わなければ、通じないようだったからだ。
二千万円におそれをなしたのか、美緒の言葉の裏の意味が通じたのかは分からないが、佐久田が黙った。
「用事は済んだようだから、帰りましょう?」
美緒は壮に言った。
どちらからともなく腰を上げ、
「それじゃ、お大事に」
と、佐久田に言葉をかけた。
「あ、どうも」
ぽけっとしていた佐久田が慌てて立ち上がり、少しは美緒に言われたことが胸に響いたのか、「失礼なことを言って、すみませんでした」と神妙な顔をして頭を下げた。
「いいえ」
美緒は応じた。
分かればいいのである。
「下までお送りします」
佐久田が言い、一緒にエレベーター乗り場まで歩いてきて、ボタンを押した。
エレベーターはすぐに一階に着いた。
休日のロビーは人の姿がなく、森閑としていた。
玄関で、佐久田があらためて詫《わ》びと礼を述べた。
「僕らのことは気にしなくてもいいんです。それより……強制はできませんが、佐久田さんの安全のために、一刻も早く警察に事実を話すようにしてください」
壮が言った。
「警視庁にも神奈川県警にも知り合いがいますから、連絡をくだされば、できるかぎり服部先生や佐久田さんが嫌な思いをしないように捜査を進めてもらうこともできると思いますわ」
美緒は付け加えた。
「ありがとうございます。黒江さんと笹谷さんのご意見を参考にして、どうするか、もう一度よく考えてみます」
佐久田が猫背の背を曲げて応えた。
5
その日、美緒たちは薬師寺薫、知世兄妹と楽しいときを過ごし、夜八時半過ぎに中華街に近い石川町駅で別れた。
留守番電話に佐久田の伝言が入っているかもしれないと思い、一度高円寺の壮のアパートに寄ってから、美緒は彼に送られて西荻窪の家へ帰った。
美緒の家は、今や東京では珍しくなった平屋だった。広くはないが、庭も付いている。
木戸を入り、玄関のチャイムを鳴らすと、章子がいつものようにドアを開けて迎えた。娘の顔は一瞥しただけで、お気に入りの未来の婿殿に笑みを向けて、「お帰りなさい」と言う。頭がよくて、余計なことを言わず、そして何よりも美男子の壮は、章子の覚えがめでたいのだ。
美緒は、電話がなかったかと訊いた。
佐久田と名刺の交換はしても、自宅の電話番号までは教えていないが、もしかしたら、壮が留守と知って、調べてかけてきた可能性があった。
だが、章子は、なかったと答えた。
美緒と壮が居間に上がると、精一も書斎から出てきた。四人でコーヒーを飲みながら十一時過ぎまで話した。
当然、佐久田の話題が出たし、話している間中、美緒は電話が気になっていた。
しかし、壮が帰るまで、ベルは鳴らなかった。
翌日も翌々日も、佐久田からの連絡は壮のアパートにもなかった。連休の明けた二十六日(月曜日)になって初めて、面倒をかけたが退院した≠ニいう報告が研究室に出ていた壮に届いた。金曜日の午後、壮と美緒が帰った後よく考えたが、結局、警察には事実を話さないことにしたから、あのときの話は忘れてほしい≠ニいう、またまた勝手な言葉とともに。
午後、美緒は、壮からの電話でその話を聞いたとき、〈勝手にしたらいいわ〉と腹を立てながらも、ふっと不安の翳が胸をよぎるのを覚えた。このままでは済まないような気がしたのである。
といって――壮とも話したが――佐久田に無断で警察に届けるわけにはゆかない。
様子を見る以外にないわね――という結論になり、二人とも、この件に関しては何もしないことにした。
佐久田の事件と直接の関係があるかどうかは分からないが、翌二十七日(火曜日)、服部啓吾の元秘書の一人が、東京弁護士会人権擁護委員会に、服部啓吾に強姦されたとして、人権侵害の救済申し立てを行なった。
その申し立て書によると、
≪大学四年の秋、卒業論文の指導を受けていた服部教授に残るように言われ、深夜、誰もいなくなった研究室で、言うことをきかなければ卒業できなくしてやるぞ、それでもいいのかと脅され、「許してください、助けてください」と懇願したが、顔を二、三度殴られたうえで強姦された。更にその後も性的な関係を強要され、翌年四月に採用された秘書を辞める七月まで、約九ヵ月間にわたって、それはつづいた≫
というものだった。
この申し立てが明らかになるや、服部啓吾は記者会見を行ない、
≪申し立て書の内容は事実無根であり、私を陥《おとしい》れるためにした悪意ある中傷としか考えられない≫
という声明を発表。
更に、彼は記者の質問に答えて、
「相手が誰であっても、強姦、性的関係強要の事実は一切ない」
と、一部の週刊誌等で報じられたセクハラ疑惑についても全面的に否定した。
第二章 密室の死
1
十月一日(土曜日)の夜である。
いや、すでに午前零時を七、八分回ったので、正確には二日の日曜日だった。
修善寺にある温泉旅館「月の湯館」の女性経営者|浦部《うらべ》トミは、フロントの奥にある事務室で、ここ一週間の宿泊状況を表にした資料を閉じた。
資料は、若い従業員がパソコンからプリントアウトしたものである。
「結構よ。ご苦労さま」
と、前に掛けた西畑征次《にしはたせいじ》に言うと、トミの父親の代から勤めている六十四歳の実直な支配人がほっとしたような顔をした。
ふだんなら、トミは十時半から十一時の間には西畑や宿直の従業員にあとを任せて私邸へ引き上げるのだが、今夜は土曜日のせいもあって遅くなったのだ。
しばらく前まではうるさいぐらいにすだいていた虫の声もおさまり、今は岩を洗う桂川の流れの音だけが響いていた。
トミは、右手で自分の左肩をトントンと叩き、
「寝《やす》みましょう」
と、西畑に言った。
月の湯館は、桂川とは道一本隔てた川の南岸に、山を背負って建っている。緩《ゆる》い北斜面の敷地は、修善寺温泉という谷間の町にしてはかなり広く、約千二百坪。ここ三階建て二十室の「本館」の他に、「月の湯別荘」と呼んでいる八戸の離れ家があり、本館の西の並び、敷地の北西の角には生垣で囲まれたトミの私邸も建っていた。
トミは五十八歳。四年前に養子だった夫と死別してから、彼女はその古い家で一人で寝起きしている。子供は娘が二人。長女はイギリス人と結婚してロンドンに住んでいたし、東京でマンション暮らしをしている独身の次女は、トミには理解できない前衛劇とやらをやっていて、金がなくなったときにだけ帰ってきた。
二人の娘ともトミに優しくないわけではないし、西畑は「きっと小《ちい》お嬢様が継《つ》いでくださいますよ」と言うが、長女はもとより次女も旅館を継ぐ気はないらしい。そのため、トミは将来のことを考えると時々|虚《むな》しくなるが、かといって廃業するわけにもゆかず、毎日毎日、時計の針のように繰り返される、忙しい生活をつづけている。
「女将《おかみ》さん、どうぞお先に」
西畑が言った。「田島君が戻ったら、私も帰らせていただきますから」
田島というのは、今夜の宿直の従業員である。客の一人が腹が痛いと言ってきたので、薬を持って行かせたのだ。
「そうお? じゃ、あとお願いね」
トミは言って、腰を上げた。
事務室を出て、玄関とは反対側――建物の西の端にある通用口へ向かって廊下を歩きかけたとき、誰かが駆けてくるような足音がした。
トミは足を止め、耳を澄ました。
身体を回し、フロントの角から玄関へ出て行った。
背の高いひょろりとした体付きの男が、長い髪を振り乱して玄関に走り込んできた。
それとほとんど同時に西畑も事務室から出てきて、〈何事か?〉といった顔をしてトミの横に並んだ。
駆け込んできた男は、玄関の上がりはなに片手をつき、青い顔をしてハーハーと荒い息を吐きながら、トミたちを見上げ、
「お、おかしいん、です。何か……何か、浴室で、あった、ようなんです」
と、切れぎれに言った。
それは、今から四時間三、四十分前――七時半頃――夕食を済ませて、横浜へ帰ったはずの佐久田という男だった。月の湯別荘の一つ「紅葉の家」を常宿にしている慶明大学東洋研究センター教授・服部啓吾の助手である。これまでに、服部と一緒に何度も来ていたので、トミは顔も名前も知っていた。今日も、夕方四時過ぎ、服部と服部の娘・真紀とともに車で来たのだった。
「浴室で何かって、先生のお嬢さんですか?」
トミは、和服の裾《すそ》を折ってその場に両膝をつき、訊《き》いた。
急用ができたと言って、服部も佐久田と一緒に帰り、今夜、「紅葉の家」には服部の娘・真紀しかいないはずだったからだ。
トミの脳裏を、先月初め、服部の秘書が深夜宿を抜け出して狩野川へ身を投げた事件がかすめた。
「え、ええ」
と、佐久田が大きくうなずいた。
「佐久田さんはどうして……」
ここにいるのか、とトミは訊きかけて、「いえ、それより先に離れへ行ってみましょう」と立ち上がった。
佐久田の細長い身体も、糸で操られた人形のようにぎくしゃくと起き上がり、
「玄関の鍵をお願いします」
と、言った。
「えっ、玄関の鍵が掛かっているんですか?」
トミは思わず訊き返した。
「ええ」
と、佐久田が答えた。
トミは、家の中へ入れないのに、どうして浴室で異常が起きたらしいと分かったのか≠ニ思ったのだが、佐久田は気が動転しているのか、その疑問に気づかないようだった。
「紅葉の家」の合鍵を取りに事務室へ行った西畑が戻ってきた。
トミは客用の雪駄《せつた》を履いた。
和服の裾を片手でつまみ、佐久田と並んで玄関を出ながら、いまの疑問を口にした。
「あ、ああ……」
と、トミより三十四、五センチは高いと思われる佐久田が、背を丸めて答えた。「いくら玄関のチャイムを鳴らしても応答がないので、建物の裏へ回ってみたんです。そしたら、浴室に灯りが点いていて、やはり呼んでも返事がなく、中に人が倒れているみたいだったんです」
それなら、話が分かる。
裏山に面した浴室には、かなり大きなガラス窓が付いていたからだ。ガラスは透明ではないが、それを透して、大きな物の輪郭ぐらいはぼんやりと確認できる。
トミはもう何も訊かなかった。佐久田にわずかに遅れて、本館の前の敷石の道を西へ向かって半ば駆けるように歩いた。
すぐ後ろに西畑がつづいてきた。
月の湯館は、桂川の南岸を通っている幅五、六メートルの道路に沿って石垣が築かれている。御影石の大きな門はその東端に近いところにあり、門を入った右斜め前が本館の玄関である。三階建ての本館は、川を見下ろすように北を向いて建っており、八戸の「別荘」は、本館の裏、山側の林の中に配置されていた。だから、門や本館玄関から「別荘」へ行くには、本館の前から西側――本館とトミの私邸を囲っている生垣との間――を回って行かなければならない(因《ちな》みに、トミの私邸へ行く場合は、生垣の間に小さな木の扉が付いているし、外の道路に面しても、木戸のはまった門があった)。
狩野川の支流である桂川に沿って旅館街のつづく修善寺温泉は、北と南から山に挟まれているため広い敷地を取りにくい。
そうした中で、雑木林の中に八棟の離れ家が配された「月の湯別荘」は、ひときわ贅沢《ぜいたく》な宿だった。
離れ家は、すべて二間以上の間取りになっていて、それぞれに檜《ひのき》の風呂が付いていた。
大正、昭和の初めから文人、墨客《ぼつかく》が大勢訪れ、長い者は二ヵ月、三ヵ月と滞在することもあったらしい。
いや、現在でも、この宿を愛し、半ば個人の別荘のように利用している作家や学者が数人いる。
料金は高くても、年に精々三、四十日しか利用しない別荘を維持する費用を考えれば、安くつくし、それこそ管理は万全だからだろう。
そのうちの一人が、慶明大学・東洋研究センター所長の服部啓吾だった。
トミたちは、本館とトミの私邸に挟まれた植込みの間の小道を通り、生垣の切れ目を入った。
本館の宿泊客も「別荘」の庭を散策できないわけではないが、一応、両者の境に生垣を築いてある。
「別荘」だけの敷地は、約八百五十坪。自然の雑木林を生かして造った庭園の中に、幅三メートルの遊歩道を設け、屋根を瓦で葺《ふ》いた和風の家を配している。
トミたちは、右手前方に伸びている、低い竹垣に挟まれた遊歩道を選んだ。
ところどころに人の背丈ほどの園灯が立っているから歩くのに不便はないが、光量を抑えてあるので、林の奥は暗かった。
遊歩道の右側、ちょうどトミの私邸の裏(南)側に当たる一画に離れ家が一戸建っているが、午前零時を回った今は、しんとして物音一つしない。
その家の前を過ぎ、四、五十メートル進んだ突き当たりが、「紅葉の家」だった。
敷地の東南の角に近い、本館からは一番遠く離れた家だ。西側は高い石塀で、塀の外は竹林と段々畑。南側は楓《かえで》林になっていて、林の奥は灌木《かんぼく》の茂った山の斜面である。
間取りは、八畳の和室にツインベッドの置かれた洋室、それにソファとテーブルの置かれた十畳ほどの居間。檜の浴槽が据えられ、二十四時間温泉が出ている浴室と洗面所が付いているのは言うまでもない。
経営者としては、これだけの建物を一人や二人分の料金で利用されたのでは割に合わない。といって、フルシーズン、いつも満室になるわけではない。その点をプラス、マイナスして、服部ら数人の常連客には、シーツの使用料や食事代は別にして、一棟当たりの利用料、月額××万円≠ニいった料金システムを採っていた。
遊歩道から、半分ほどの幅の石畳の道を五、六メートル入ると、「紅葉の家」の玄関である。
佐久田が言ったとおり、インターホンのチャイムを鳴らしても応答がないし、ドアには鍵が掛かっている。
西畑が合鍵を差し込み、錠を解いて、ドアを開けた。
トミは佐久田につづいて中へ入り、上がった。
玄関も廊下も灯りが点いていた。
三メートルばかりの廊下の左右に洋室と和室があり、奥が居間と浴室だ。
温泉宿なので、浴室を居間の隣りの一番良い場所――楓林に面していて、しかも窓を開けても外から覗《のぞ》かれない山側――に設けてあるのだ。
トミたちは居間に入った。
そこも明るく、これといって変わった様子はない。テーブルの上にキータッグの付いた玄関の鍵と週刊誌が二冊置かれ、ソファの背に、脱いだ下着や浴衣がだらしなく掛けられていた。
誰もいなかったので、居間で裸になったのだろう。
洗面所と浴室のドアを前にして、佐久田が足を止めて振り向いた。トミと西畑に縋《すが》るような目を向けた。乱れて額や頬《ほお》にふりかかっている髪を掻《か》き上げるでもなく、いまにも泣き出すのではないかと思われるように口元を歪《ゆが》めている。自分の手におえなくなって母親の助けを求めている子供のような顔だ。
頭は良いのだろうが、学者などという種族は、こうした現実にぶつかると何もできない者が少なくないのかもしれない。
「服部さん」
トミは、ドアに向かって呼んでみた。
返事はない。
「お風呂に入られているのは、間違いないようですね」
トミが下着に目をやって言うと、佐久田がええとうなずいた。
確認するのが怖いのだろうか、ノブに手をやらない。
西畑が、開けましょうかと言うようにトミを見たので、
「いいわ、私が開けてみるわ」
トミは応えた。
佐久田は浴室に倒れているようだと言ったが、どうなっているのか分からないし、中にいるのは裸の女性だからだ。
ドアを引き開けると、洗面所だけでなく右手の浴室にも灯りが点いていた。
浴室の入口は、凹凸のついた不透明ガラスがはまったアルミサッシのドア。中の広さは、たたみ三畳分ほどだ。ドアを押して入れば、手前にタイルの洗い場があり、奥に、宿泊客がいるときは二十四時間温泉が溢《あふ》れている檜の浴槽が据えられている。
外の林と山に向かって開いた、縦九十センチ、横一メートル八十センチの不透明ガラスの窓は、その浴槽の上、立ち上がったおとなの胸から上のあたりにあった。
トミは、洗面所の中へ入り、浴室のドアに向かって、
「服部さん」
と、もう一度呼んでみた。
何の反応もないし、ドアのガラスに影の動きも映らない。聞こえるのは、浴槽から零《こぼ》れるこぽこぽという湯の音だけ。
代わりに、外側の窓を透して佐久田が見たと言ったように、ドアの先のタイルの上に、白っぽい大きな塊りが認められた。
気を失なって倒れているか、(最悪の場合)死んでいるか、だろう。
トミはそう判断すると、佐久田と西畑の二人に、もう少し退るように促し、浴室のドアノブに手を掛けた。
できれば、若い女性の裸の姿を男たちの目にさらしたくなかったからだ。
浴室とトイレのドア錠は、鍵がない代わり、たとえ内側からノブのポッチを押して施錠されていても、外側からノブごと簡単に取り外せるようになっている。つまり、錠の目的が玄関などと違って不特定の人間の侵入防止ではないので、万一の場合を考えて、ドアの外側からネジで取り付けられている。とはいえ、そのネジを外すのに二、三分はかかる。だから、もし施錠されていたら、トミはそばに掛かっているタオルを手に巻き、ガラスを壊すつもりだった。
だが、その必要はなかった。真紀は一人だったからだろう、ノブのポッチを押していなかった。
トミがノブを回すと、抵抗なく回った。
トミは一瞬息を詰め、ドアを押した。
彼女の目に飛び込んできたのは、想像していたとおり、タイルの上に俯《うつぶ》せになった全裸の若い女性の白い身体だった。
2
大仁《おおひと》南警察署刑事課捜査係の志村勇二《しむらゆうじ》が、鑑識係の島本《しまもと》巡査に叩き起こされたのは、午前零時三十五分である。
署の仮眠室のベッドに入り、くーっと深い眠りに吸い込まれて間もなくだ。
管轄内の修善寺町で変死体が見つかったのである。修善寺温泉・月の湯館の離れ家「紅葉の家」の浴室で、女性の泊まり客が変死していたのだ。
入浴中の病死あるいは事故死の可能性が高いということだったが、殺人の疑いもまったくないわけではないらしい。要するに不審死である。そのため、検視が必要になり、旅館からの連絡を受けて駆けつけた近くの医師が警察に通報してきたのだという。
志村は二十四歳。大仁南署の捜査係に配属されて半年という駆け出し刑事《デカ》だ。実家は富士市で、父親は小さな会社のサラリーマン。貧乏ではないが、裕福というわけでもない。それなのに、小柄で脚の短い肥満体形のせいか、色白で下ぶくれの、一見育ちの良さそうなぼーっとした顔をしているせいか、課内では、揶揄《やゆ》の意味を込めて「ボン」と呼ばれている。
といっても、志村は、動作が鈍いわけでも、見かけほど、ぼーっとしているわけでもない。高校を卒業して静岡県警に入り、警察学校を修了した後で配属された沼津東署の外勤時代、機転と粘りで指名手配中の窃盗犯を捕まえ、その後も連続強姦犯人逮捕のキッカケをつかんだりした。そうした功から事件捜査に向いていると評価され、刑事に取り立てられたのである。
志村はベッドの中で上着をつけて、中庭まで階段を駆け降りた。
防犯課の宮島《みやじま》部長刑事と島本が、すでにパトカーに乗り込んでいた。
もし殺人なら、防犯課の担当ではないが、宮島は今夜の宿直主任なのだ。
志村は宮島に「すみません」と挨拶して、助手席に乗り込んだ。
それを待って、運転席の交通係の巡査がすぐにパトカーを発進させた。
「そちらの課長には連絡した。もしかしたら、我々より先に現場に着いているかもしれん」
と、宮島が言った。
刑事課長の石渡《いしわたり》は、修善寺町に住んでいるのだ。
パトカーは、建物の間の細い通路を通って道路へ走り出た。サイレンを鳴らし始め、二十メートルほど行って、国道136号線に出て左折した。
国道136号線は、三島から韮山《にらやま》、長岡、大仁、修善寺と通って天城《あまぎ》湯ケ島町まで伊豆半島の中央部を南下し、湯ケ島温泉の手前で西海岸の土肥《とい》に向かい、西伊豆町、松崎町、南伊豆町と通って、下田まで通じている。
大仁町の中心から修善寺町の中心までの距離は、約五キロ。修善寺温泉は、そこから西海岸の戸田《へだ》のほうへ向かって二キロほど行ったところだ。
大仁から修善寺温泉へ行くには、去年開通した修善寺有料道路を利用すればもっと早いが、今は深夜だし、五分と違わないからだろう、パトカーは136号線を進んだ。
パトカーの中で宮島から聞いたところによると、死亡していたのは、服部真紀という二十六歳の女性。慶明大学東洋研究センター所長・服部啓吾の長女で、真紀自身も同じ大学の理学部植物学科の研究生だという。
「では、先月のあの事件の……!」
斜め後ろを向いて話を聞いていた志村が、上体を更にひねって驚きの言葉を漏《も》らすと、宮島が「そうだ」と答えた。
服部啓吾と聞き、志村は真っ先に、先月初めに起きた狩野川の入水事件を連想した。自殺した相馬聡子という服部の秘書の検視に立ち会ったし、泊まっていた「月の湯別荘」から現場へ駆けつけてきた服部自身の顔も見ていたからだ。服部に事情を訊いたのは、刑事課長と捜査係長だったが、そのときの、服部の青ざめ引き攣《つ》った顔を、はっきりと覚えている。
服部啓吾というのは中国近代史が専門の有名な学者だという。マスコミにもよく登場しているらしい。とはいうものの、そうした方面にあまり関心のない志村は、秘書の入水事件があるまではその名を知らなかった。
が、事件を機に服部啓吾の名は志村の記憶に刻まれた。服部は、秘書には仕事を手伝ってもらうために一緒に修善寺へ来ただけで、彼女の自殺の原因になるようなまねは何もしていないと言い張ったらしいが、若い秘書と二人で温泉旅館に泊まって、何もしなかったはないだろう、と怒りを覚えたのだ。
志村のその想像を裏づけるかのように、先週、元秘書に対する服部のセクハラ疑惑が新聞やテレビで大きく報じられた。
と、今度、その服部の娘が変死した。それも、わずか一ヵ月前に秘書が自殺したこの修善寺で――。そう聞いて、志村はいっそう驚いたのである。
志村たちの乗ったパトカーが月の湯館に着いたのは、午前零時五十一、二分。大仁南署を出てから、わずか十分ちょっとしか経《た》っていなかった。
月の湯館の駐車場は、門の外、石塀で囲まれた敷地の東側にあったが、志村たちは門の前でパトカーを降りた。
門を入り、玄関へは向かわずに、右の植込みの間の道を進み、本館の西側を回った。
「別荘」の入り口になっているらしい生垣の切れ目に、修善寺温泉駐在所の警官が旅館の従業員と一緒に張り番をしていた。
時間が時間だからか、野次馬は、泊まり客らしい数人の男女だけ。
警官によると、石渡課長はまだ見えていないという。
志村たちは、警官を残し、従業員の一人の案内で生垣の切れ目を入り、雑木林の中の遊歩道を進んだ。
現場の「紅葉の家」は、裏に暗い山を背負った一番右手奥の家だった。
玄関前に立っていた警官が、「ご苦労さまです」と挙手の礼で迎えた。
志村たちは玄関を入り、上がった。
奥の居間へ入って行くと、そこには四人の男と一人の女がいた。修善寺駅前派出所から駆けつけた大木《おおき》という巡査部長、温泉街で医院を開業しているという医師、月の湯館の経営者だという五十代後半ぐらいの小肥りの女性、彼女より五、六歳上と思われる、旅館の支配人だという痩《や》せた男、それに、支配人よりも更に痩せて背の高い三十歳前後の男である。
一番顔色の悪い、そのひょろりとした男の名は、佐久田宗行。死亡した服部真紀の婚約者であり、変事の第一発見者だという。
志村たちは、向井《むかい》と名乗った六十歳近い医師と大木の説明を受けながら、洗面所へ入った。浴室の入口から、中を観察した。
女性は、タイルの上に、頭を入口のほうへ向けて俯せの格好に倒れていた。背中から腰、腿にかけては数枚のバスタオルで覆われている。ドアを開けて最初に浴室に入った経営者・浦部トミが掛けてやったものだという。
その後で佐久田がそばへ行って、顔を確認したというから、死者は服部真紀に間違いないだろう。
向井医師によると、真紀の死亡時刻はおよそ三、四時間前。額と肘に倒れたときに打ったと見られる打撲傷が認められたが、他にはこれといった目立った傷がなく、喉や心臓のあたりを自分の爪で掻いた跡もなかった、という。
しかも、浴室の窓はもとより、「紅葉の家」の玄関、雨戸、窓のすべてが鍵の掛かった状態になっており、現場はいわゆる密室状態≠セった。
佐久田の通報を受けて、経営者の浦部トミと支配人の西畑征次が駆けつけたとき、玄関のドアは施錠されており、「紅葉の家」と刻まれたアクリル樹脂製のキータッグの付いた鍵は、居間のテーブルの上に置かれていた。その後、トミが浴室のドアを開けて真紀の死を確認してから、西畑が浴室の窓はもとより、この家の雨戸と窓をすべて調べたというから、間違いない。
となれば、真紀は一人で入浴していて、何かの拍子に突然心臓が停止してしまった、としか考えられない(浴室内は、浴槽から溢れた湯がタイルの上を薄い膜のように覆っており、湯気が充満していた。そのため、真紀の身体の表面は湿っていて、浴槽に浸る前に死亡したのか、浸った後で死亡したのか、はっきりしない。が、彼女の皮膚からまったく石鹸の香いがしなかったので、少なくとも身体を洗う前に死亡したのは間違いない)――。
これが、向井の判断だった。
大木と向井の話を聞き、志村はたぶんそのとおりだろう、と思った。
つまり、足を滑らせて転んだショックで心臓が止まったのなら事故であり、そうした外因がなく、ただ心臓が停止したのなら病気である。
しかし、向井は現場は密室だった≠ニ言ったが、その点は違う。現場はとても密室とは呼べない。
なぜなら、浴室のドアの錠は掛かっていなかったのだし(たとえ掛かっていても、ネジ回しさえあれば外から簡単に外せる)、玄関の鍵が居間のテーブルの上に置かれていたのは事実でも、合鍵さえ持っていれば、犯人は犯行後、家の外に出て施錠することは可能だったからである。
志村がそう言うと、大木が、〈若僧が生意気な……〉といった目をして、
「誰だって、それぐらい考えているよ」
と言い、つづいて西畑支配人が説明を加えた。
「紅葉の家」の玄関の鍵はまだ二ヵ月前に替えたばかりであり、それからずっと服部しか利用していないので、誰かが合鍵を作ることなどできるわけがないのだ、と。
たぶん、大木や向井、西畑の考えのほうが正しいだろう。誰もこの家の合鍵など持っていなかった。だから、たとえ真紀が生きているとき、彼女にドアを開けさせて中へ入ることはできても、鍵を居間に置いたまま施錠して外へ出ることはできなかった――。
志村はそう考えながらも、一方で、たとえどんなに小さくても殺人の可能性があるかぎり、それを無視するわけにはゆかない、とも思った。同じ宿の同じ家に泊まった相馬聡子が死んで、まだ一ヵ月も経っていない。しかも、死者と聡子の間には、間接的ながら関わりがあるのだから。
傍らで黙って聞いていた宮島も、志村と同様に考えたのだろう、向井や大木の言うとおりかもしれないが、慎重を期するに如《し》くはない、刑事課長や鑑識係員たちが到着するまで現場を荒さないように浴室に足を踏み入れないほうがいいだろう、と言った。
3
志村たちが居間のソファに腰を下ろし、佐久田や浦部トミから事情を聞いていると、間もなく刑事課長の石渡が駆けつけ、つづいて捜査係長の結城《ゆうき》や他の捜査係員、鑑識係員たちが続々と到着した。
石渡によると、県警本部の刑事部長や捜査一課長も、服部啓吾の娘という死者の身元と「殺人の疑いあり」という報告を重視、大仁南署からの一報を受けた後すぐに電話で協議し、宮島や志村と同様の判断を下した、という。その結果、現在、静岡市の県警本部から、検視官と刑事、鑑識課員たちがこちらへ向かっているらしい。
石渡は五十四歳。いつも脂ぎった顔をしている、エネルギッシュな男である。
彼は、十五分ほど現場検証に立ち会うと、あとは捜査係長と鑑識係長に任せ、佐久田から変事の発見に至るまでの詳しい事情を訊くため、彼と一緒に居間を出て行った。
「ボン、一緒に来い」
と命じられたので、志村も彼の肥った身体のあとにつづいた。
筆記係である。
三人が移ったのは、石渡がトミにことわって借りた玄関脇の和室だ。広さは八畳。他に押し入れと、萩の花が生けられた床の間が付いていて、部屋の中央に、重そうな桜の木の坐卓が置かれていた。
石渡と佐久田がテーブルを挟んで向かい合いに座り、志村は石渡の左側のサイドに置かれた座布団を占め、手帳を出した。
石渡と志村はあぐらをかいたが、佐久田は正座である。
そのため、背の高い佐久田の目の位置は、志村や石渡より頭一つ以上高いところにあった。志村がここへ来て最初に見たときからそうだが、顔に血の色がなく、目には不安と恐怖の翳が宿っていた。背を丸めているため、視線は自然に下を向く。それを時々、探るように石渡のほうへ上げ、神経質そうに何度も手で髪を掻き上げた。
石渡が、佐久田の緊張をほぐすように、
「とんだことになりましたが、佐久田さんも疲れたでしょう」
と、おだやかな声で、ねぎらうように言った。
「いえ」
と、佐久田が小声で答えた。
「もし、煙草を吸われるんでしたらどうぞ。私は医者に止められて、二年前にやめましたが」
石渡がテーブルの灰皿を押しやった。
佐久田が小さく頭を下げた。
彼は吸うのかもしれない。
志村は高校時代に何度か吸ったが、うまくなかったので、卒業と同時にやめた。
「実は、狭心症でしてね。煙草が一番悪いと言われたんです」
石渡がつづけた。
「…………」
佐久田が彼を見ている。
その佐久田の表情を、志村はじっと観察していた。
もし服部真紀の死が殺人なら、その発見者であり、彼女の婚約者でもある佐久田こそ、第一の容疑者だからだ。
さっき、現場検証が始まってから、志村は、居間の隅にいた支配人の西畑に、「紅葉の家」の合鍵は誰にも作れないと言った件を小声で質《ただ》した。すると、西畑が顔をしかめながらも、前言を訂正した。西畑たち従業員はもとより、この二ヵ月の間に何度も「紅葉の家」に泊まった服部啓吾と真紀と佐久田なら、作ろうと思えば作れたかもしれない、と。
「ところで、服部真紀さんはいかがでしたか。心臓の持病でもあったんでしょうか?」
石渡がさりげなく本題に入った。
「私は聞いておりません」
佐久田が答えた。
「そのような様子は?」
「少なくとも、私にはそんなふうには見えませんでした。元気でしたし、薬を飲むところを見たこともありませんし……」
と言ってから、佐久田が、何か気づくか思い出したように、目を宙に止めた。
「何か?」
石渡が訊いた。
「あ、いえ……」
と、佐久田が石渡に視線を戻し、「明るく活動的に見えましたが、もしかしたら、身体を激しく動かすことを避けていたかもしれません。スポーツは嫌いだと言って、テニスもスキーもやりませんでしたから」
「佐久田さんは、服部さんと婚約されていたという話でしたね」
佐久田が、ええとうなずいた。
「婚約されたのは、いつですか?」
「今年の五月……末です」
「というと、まる四ヵ月ですか……。婚約されるとき、互いの持病の話などはされなかったんですか?」
「あらためてそうした話はしていません」
「真紀さんに心臓の持病があったかどうかは、非常に重要な点ですが、服部教授ご夫妻が来られれば分かることですから、話を先へ進めます」
石渡が言った。
横浜市の日吉に住んでいるという服部啓吾には、真紀の死を確認して西畑が医師の向井に電話をかけた後、佐久田が知らせたのだという。
修善寺温泉から東名高速道路の東京インターチェンジまで、約二時間。だから、佐久田の電話の後、服部夫妻がすぐに自家用車かタクシーで家を出て、東京インターの一つ手前の東名川崎インターチェンジで高速道路に乗った場合、あと一時間二、三十分すれば、着くはずだった。
佐久田が、ジャケットのポケットから煙草とライターを取り出し、テーブルの上に置いた。すぐに吸うつもりはないようだった。
「さっき浦部さんから伺ったところでは、佐久田さんは夕食を済ませた後、七時半頃、服部先生と一緒に帰られた、という話でしたが。それが、なぜまた修善寺へ引っ返してこられたのか――そのへんの事情を話していただけませんか」
石渡が説明を促した。
「私は帰ったわけじゃないんです。先生を送って行っただけなんです。ただ、レストランで女将《おかみ》さんと顔を合わせたときは私も一緒に帰るつもりでしたので、先生がそう話されたんです。三人で泊まるつもりだったが、急用ができてしまったので、夕食が済んだら二人は帰るから、と」
佐久田が、右手でライターに触れながら答えた。
離れ家の宿泊客は、食事は本館のレストランで摂《と》ることになっているのだという。
「急用というのは?」
「レストランへ行こうとしていた直前、奥様から先生に電話がかかってきたんですが、詳しい内容は伺っていません。どうしても今晩中に人に会わなければならない用事ができてしまった、という先生のお話でした。それなら、僕も、先生をお送りして横浜のアパートへ帰ろうと思ったんです」
「それが変更になったのは、どうしてですか?」
「食事をして離れへ帰った後、真紀さんが、こんなところに一人で泊まるのは寂しいと言い出したため、先生が、三島まで送ってくれればいい、きみは真紀と泊まりたまえ、と言われたからです。ですが、横浜まで行っても、急げば十二時頃には帰れそうでしたので、私がそう申し上げると、それなら家まで送ってもらったほうが面倒がなくていいかと先生が言われたので、日吉のご自宅までお送りしたんです」
「この旅館を出られた時刻、日吉の服部先生の家に着かれた時刻、ここへ帰ってこられた時刻は?」
「門の外……本館の東側にある駐車場から車を乗り出したのが七時三十四、五分で、先生のお宅に着いたのが九時五十五分頃。帰りは車を飛ばしたので、駐車場に車を駐めて門を入ったのが、午前零時を二、三分回った頃でした」
佐久田の話に嘘はないだろう、と志村は思った。彼の行動には、服部啓吾という証人がいるし、修善寺・日吉間の片道二時間十分〜二十分というのは妥当な時間だからだ。
とすれば、もし真紀の死亡時刻が向井医師の言ったように九時〜十時なら、佐久田に前もって「紅葉の家」の合鍵を作る機会があろうとなかろうと、彼には真紀を殺すのは不可能だった、ということになる。
「この離れ家へ帰られたとき、玄関のチャイムを鳴らしても応答がなかった、という話でしたね」
石渡が質問を進めた。
「そうです」
「ドアの鍵は?」
「掛かっていました」
「それで……?」
「もしかしたら風呂にでも入っていてチャイムの音が聞こえないのかもしれないと思い、裏へ回ってみたんです。すると、浴室の窓が明るかったので、ああ、やはり……と思いました。ところが――」
と、佐久田が一度言葉を切り、顔を歪めてつづけた。「何度呼んでも、返事がなかったんです。初めは、窓から四、五メートル横に離れた場所から声をかけ、真紀さんの名を呼びながら、だんだん窓に近寄って行ったんです。それでも、何の応答もないため、ガラスに顔を近づけてみると、洗い場のタイルの上あたりに白い大きなものがうずくまっているように見えたんです」
「それが真紀さんの身体ではないか、と思われた?」
「はい」
「それから、どうされたんですか?」
「窓は鍵が掛かっていましたから、叩いたり揺らしたりしながら、前より大きな声で呼びかけました」
「しかし、反応はなかった?」
ええ、と佐久田が弱々しくうなずき、視線を下向けた。
「で?」
「とにかく、旅館の人に来てもらい、玄関を開けてもらおうと、本館へ走りました」
「本館へ行く前に、どうして、窓ガラスを割って、浴室の中の様子を確かめなかったんですか?」
佐久田が、困惑したような目をして石渡を見返してから、
「よく分かりません」
と、首を横に振った。「もしかしたら、場所が浴室だったために、そうすることに抵抗を感じたのかもしれませんが、意識した記憶はありません。そのときは、ただ、もう、真紀さんがどうかなってしまったのではないかと思い、早く玄関を開けてもらって、助け出さなければ……と、そればかり考えていたような気がします」
佐久田が本館へ行き、浦部トミと西畑を連れて「紅葉の家」へ引き返してからの経緯は、彼らから話を聞いた志村たちが石渡に簡単に報告してあった。
だから、石渡は、その点については二、三の点を確認しただけで、真紀に対する殺害動機を持っていそうな人物に心当たりはないか、と質問を変えた。
「殺害って、真紀さんは殺された疑いがあるんですか!」
石渡に向けられた佐久田の目に、驚きの色が浮かんだ。
「これから調べないとはっきりしませんが、ないとは言えません」
石渡が答えた。
「ですが、どうやって……?」
「それはまだ分かりません」
「しかし、誰もこの家に入れなかったというのに、そんなことが可能でしょうか」
「現に、西畑さんが鍵を開けて、佐久田さんたちが入ったじゃないですか。難しいといっても、二つも鍵があったんですから、合鍵を作れなかったとは言いきれません。それに、最近、服部先生をめぐっていろいろな問題も起きているようですし」
「そんなこと、関係ありません」
佐久田が声を高めた。
「どうしてそう言いきれるんでしょう?」
「先生の問題と真紀さんは何の関わりもないからです」
「そうですか。ですが、引っ掛かる点は他にもあります。わずか一ヵ月前にここに服部先生と一緒に泊まった方……相馬聡子さんについては、佐久田さんもご存じですね」
佐久田が、仕方なくといった感じにうなずいた。
それを見て、石渡がつづけた。
「その相馬さんも、不審な亡くなり方をしているわけです」
「不審て、相馬さんは自殺したんじゃないんですか?」
「自殺したのは間違いないと思いますが、問題はその動機です」
「それが、どうして、真紀さんの死と……?」
佐久田が訊いた。彼にだって、石渡が言わんとしている意味は分かっているはずである。それは、石渡の顔から微妙に逸《そ》らされた彼の視線が物語っている。
「まあ、それは、もし関係あればいずれ分かるはずですし、いいでしょう。それより、質問を戻します。佐久田さんは、真紀さんを殺害する動機を持っていそうな人に心当たりはないんですか?」
「ありません」
佐久田が強い調子で答え、落ちつきのない指の動きで煙草を一本抜き取った。
口にくわえ、ライターの石を擦った。
何度か煙を小さく吸って吐いた。
何か隠しているようだった。
石渡は最後に、服部啓吾に強姦されたと言って、彼の元秘書が人権侵害の救済を申し立てた件についてどう思うか、と訊いた。
「先生にかぎって、あんなこと、あるはずがありません。事実無根です」
佐久田が前より更に語調を強めて答え、煙草の火をぎりぎりと灰皿に押しつけた。
予想どおりの答えだが、相馬聡子の自殺事件を知っている志村には、到底信じられなかった。
石渡が、また後で聞きたいと言って、ひとまず佐久田を解放した。
その後、志村は、石渡とともに現場検証の様子を見に行った。
それから、浦部トミと西畑を伴って和室へ戻り、石渡が二人に質問しているとき、県警本部からの第一団が到着し、つづいて検視官も着いた。
検視官はさっそく真紀の遺体を検《しら》べたが、彼の判断も向井医師とほとんど同じだった。真紀を死に至らしめたような外傷は認められず、病死あるいは事故死の可能性が高い、というのである。
ただ、彼は、真紀に心臓の欠陥があった場合、彼女に対して強いショックを与える方法があれば、殺人の可能性――未必の故意による殺人の可能性――も否定できない、と述べた。
検視官の検べが済んで十分ほどしたとき、今度は服部啓吾・悦子《えつこ》夫妻が到着した。
真紀には千代美《ちよみ》という妹が一人いるが、彼女は北海道へ旅行に出かけているのだという。
服部夫妻が死んだ娘に対面した後、志村はまた筆記係として、石渡が二人から事情を訊く席に立ち会った。
それにより、真紀の死が殺人である可能性が少し強まったのを感じた。
真紀は、心臓が悪いと言われるのが嫌で隠していたようだが、中学二年のときリウマチ熱に罹《かか》ったのが因《もと》で軽い心臓弁膜症になり、以来、医師から激しい運動を禁じられ、早く手術をしたほうがよいと勧められていた事実が判明した。
といって、その事実そのものは、殺人の可能性を強めたわけではない。
真紀の心臓が何らかのショックによって停止したのだとしても、ショックが誰かによって故意に加えられたとは必ずしも言えない。つまり、検視官の言ったように、誰かによってそれが故意に加えられた可能性がある一方、真紀が自分で足を滑らせて転びそうになり、そのショックで心臓が停止した、といった場合もあるからだ。
では、志村は、服部夫妻の事情聴取に立ち会って、なぜ、殺人の可能性が強まったと感じたのか。
それは、今夜、服部が自宅へ帰った裏に正体不明の人間の意思≠ェ働いていた事実が判明し、真紀が旅館・月の湯館の離れ家に一人になったのは偶然ではなかった可能性が高くなったからである。
服部が急に家へ帰ると言い出せば、佐久田が少なくとも新幹線の停車する三島駅まで送って行くだろうことは予測できる。ということは、服部を自宅へ帰らせるという意思は、今夜、真紀を短くとも一時間は「紅葉の家」に一人にさせる≠ニいう意思にほかならない。
悦子によると、夕方六時十五分頃、男のものと思われるがらがら声で電話がかかってきて、大貫《おおぬき》という者だが、ご主人はいるか、と言った。悦子が出かけていると答えると、至急会って話し合わなければならない用件があるのだが、今日帰るのかと訊く。
悦子は、大貫などという名は聞いたことがなかったし、何か機械を通したような声だったので、気持ちが悪くなり、帰ることは帰るが時間は分からないので用件を承っておきたい、と応じた。
泊りがけで出かけたと言わなかったのは、夜、家に夫がいないと思われたくなかったからだという。
すると、大貫と名乗った男は、下の娘・千代美に関係した件で話し合いたいのだが、服部に直接会ったうえでなければ詳しい話はできない、と言った。横浜駅前のホテルにいるので、夜十一時に電話する。もしそのとき服部が帰っていなければ、一時間後の十二時にもう一度電話する。それでも連絡が取れず、今夜中に会えない場合は、由々しい事態になるかもしれない――。
悦子は三、四秒迷った末、大貫から服部本人に連絡を取らせようと思い、月の湯館の電話番号を教えようとした。と、大貫はそれを遮《さえぎ》り、所在が分かっているなら、そちらから連絡を取り、十一時までに自宅に帰っているように伝えておけと言って、電話を切ってしまった。
当然、悦子は、夫の服部に電話をかけ、事情を知らせた。そのため、服部は、佐久田と真紀には心配をかけないよう、ただ急用ができたとだけ言って、夕食後、横浜へ帰ることにした。
その後、悦子が旅行中の千代美に連絡を取り、それとなく大貫という男が臭わせた件について尋ねても、千代美は心当たりがないようだった。
服部は、夕食を済ませて「紅葉の家」へ戻り、悦子からの二度目の電話でその話も聞いた。
だが、万一問題が起きてからでは遅い。
そこで、彼は、とにかく大貫と名乗った男の話を聞き、それからどうするか考えようと思い、自宅へ帰ったのだという。
ところが、十一時に電話は鳴らず、一時間経った十二時にも、大貫と名乗る男からの電話はかからなかった。
代わりのように、それから三十分ほどしたとき、服部を日吉の自宅まで送ってきた佐久田から電話があり、月の湯館へ帰ると、「紅葉の家」の浴室で真紀が死んでいた、と知らせてきた――。
志村は、服部啓吾と悦子のこうした話を聞き、大貫と名乗った男が真紀を殺したのではないか、と考えたのであった。
第三章 同情されない死者
1
十月三日(月曜日)、志村は、朝の打ち合わせが終わると、県警本部から来た間宮《まみや》部長刑事とともに東京へ向かった。
服部真紀の交友関係や、父親・服部啓吾が娘の死に関わりがないかどうかといった点について調べるのが目的である。
真紀の遺体は、犯罪の可能性がある不審死として三島医科大学で司法解剖に付され、その結果、死亡時刻がかなり狭い時間内に限定された。彼女が父親と佐久田とともに夕食を摂《と》った時間がはっきりしていたため、胃と十二指腸内における食物の消化状態から、
≪一日午後十時から十一時までの間≫
と推定されたのである。
一方、彼女の死を引き起こしたのが何だったのかは、解剖によっても突き止められなかった。どこにも死因を推定させるような形態学的な異常は認められず、少なくとも身体を洗う前に、何らかの原因によって突然心臓が停止した≠ニしか判断がつかなかったのだ。
つまり、ただの病死か、本人の不注意等によって受けたショックによる死・事故死か、誰かに故意なく驚かされたことによるショック死・過失致死か、誰かに故意に加えられたショックによる死・未必の故意による殺人か、犯行の跡をとどめないように用心深く遂行された計画的な殺人か、はっきりしなかった。
が、解剖の結果からは、その判断がつかなくても、一日の夜、服部啓吾を横浜の自宅へ呼び戻した大貫と名乗る男が、その後何も言ってこない≠ニいう事実があった。
署長や石渡、それに県警本部からきた幹部たちは、この事実から、真紀の死は七、八割方の確率で殺人――未必の故意による殺人か、計画的な殺人――ではないか、という判断を下した。
大貫と名乗る男の電話は、その晩、月の湯館の離れ家「紅葉の家」に真紀を一人にするための目的を持っていたとしか考えられなかったからである。
そのため、正式に捜査本部が設置されたわけではないが、実質は捜査本部が設けられたのとほとんど同じ捜査体制が組まれた。部屋の入口に貼り紙こそ出さなかったものの、警察内部では「本部」と呼ばれ、県警本部と所轄署の合同捜査体制が発足。捜査本部長に当たる捜査責任者には県警本部刑事部長が、副責任者には捜査一課長と大仁南署の署長が、捜査の日常的な指揮を取る捜査主任官に当たる現場指揮官には、県警本部捜査一課殺人班の滝田《たきた》警部が任命されたのである(これで、真紀の死を殺人と断定する根拠が出てくれば、同じ組織がそのまま正式の捜査本部となり、もし彼女の死が事故あるいは病死だったと分かった場合は、当然ながら、組織はただちに解散される)。
しかし、殺人の可能性が高いといっても、死体からだけでなく、どこからも、それを示すものは得られていない。
服部悦子によると、真紀はいつも自宅で(家に母親の悦子しかいないときでも)浴室のドアノブのポッチを押して入浴していた、という。が、昨夜は離れ家に一人でいたため、居間で下着まで脱ぎ、浴室の鍵を掛けなかったと思われる。たとえ、真紀が習慣どおりに鍵を掛けたとしても、それは外から簡単に取り外せるので、玄関の鍵さえあれば、犯人の計画に支障はない。だから、問題は、玄関の鍵である。しかし、その合鍵については、月の湯館の従業員と服部啓吾、真紀、佐久田なら作製が可能だったというものの、実際に作られたかどうかは不明だった。
現場についても、同様である。
浴室内はもとより、ドアの外、窓の外からも不審なものは一切発見されず、真紀を死に至らしめるだけのショックを与える方法か、痕跡《こんせき》を残さずに真紀を殺害する方法があったのかどうかさえ分からなかった。
もし、浴室の窓の外に立って脅したら、たまたまうまく真紀がショック死したというのなら、「紅葉の家」の玄関の鍵は関係なかったことになる。密室云々……≠ヘ意味がなかったことになる。だが、それならそれで、警察としては、誰かが窓の外から実際にそうしたと断定するに足る証拠をつかまなければならない。
言葉で言うのは簡単だが、それらが非常に難しいだろうことは、駆け出し刑事の志村にも分かった。
一日の深夜、叩き起こされて変死の一報を聞いてから、三十数時間が経ち、志村は捜査幹部同様に、あるいはそれ以上に強く、真紀は殺されたにちがいないと考えている。
だが、何をどこまでつかんだら、その証拠と言えるのか、見当がつかなかった。
大仁から駿豆《すんず》線で三島に出て、三島で新幹線の「こだま号」に乗ってから、志村は、ずっと頭にあったその疑問を間宮にぶつけてみた。
すると、駅で買った弁当の包みを解き始めていた間宮が、
「そんなことは俺たちが判断しなくてもいい。俺たちは、死者に関してできるだけ多くの情報を集めて帰ればいいんだ」
と、怒ったように一蹴《いつしゆう》した。
といって、彼は、若い相棒の質問に怒ったわけではない。昨日からコンビを組み始めて、志村は分かってきたが、間宮という男はいつもそういうぶっきらぼうな言い方をするらしい。
間宮は年齢四十歳前後。警察官としては小柄で、小鼻のふくらんだ、悪戯《いたずら》坊主がそのままおとなになったような利かん気そうな顔をしていた。動きは敏捷《びんしよう》というよりは、せかせかとした感じで、顔の作りも動きも、何かの動物を連想させる。一昨夜、初めて会ったときから、志村は何だろうと考えているが、よく分からない。ネズミでもないし、リスでもないし、イタチでもないが……とにかく、そうしたすばしっこく動く小動物である。
間宮が弁当をぱくつき出したので、志村も包みを開いた。
九時を回っていたので、空腹だった。
間宮は、志村が半分も食べないうちに食べ終わり、茶で口をすすいだ後、腕を組んで目を閉じた。
すぐに鼾《いびき》をかき出した。
彼が優秀な刑事なのかどうかはまだ分からなかったが、こうでなければ県警本部捜査一課の刑事という激務は勤まらないのかもしれない、と志村は感心した。
三島から東京まで「こだま」で一時間。
志村が弁当を食べ終わり、ゆっくりと茶を飲みながら、今日の聞き込みについていろいろ考えていると、列車は新横浜駅に着いた。
新横浜を出て、多摩川の鉄橋にかかるや、その音が目覚し時計ででもあるかのように間宮がぱちりと目を開け、トイレに立った。
彼が席に戻ってきたのは九時三十六分。
二分後に列車は東京駅に着いた。
志村たちは、まず警視庁の捜査共助課を訪ねて、挨拶した。
今日は、これといって警視庁に協力を頼まなければならない件はないが、今後、いつ世話にならないともかぎらないからだ。
捜査共助課では、課長が岩崎《いわさき》という部下を紹介し、彼に連絡をくれればできるかぎりの協力をする、と言ってくれた。
岩崎が、志村たちと一緒にエレベーターで下へ降り、玄関まで送ってきた。四十歳前後の穏かな顔付きの男だった。彼は、慶明大学には捜査上の助言を受ける知り合いがいるので、これまでに何度か訪ねたことがある、と話した。
「捜査上の助言……?」
間宮が怪訝《けげん》な顔をして尋ねると、
「黒江壮という、理学部数学科の助手をしている人です」
と、答えた。「かなり変わっていますが、非常に優秀な人物です。ご希望でしたら、紹介しますが」
「それは、どうも……。ですが、今のところ、その必要がなさそうですので」
間宮がやんわりと断わった。
「そうですか」
岩崎も無理強いせずに引き下がり、それじゃ、もしその気になったらいつでも連絡してください、と言った。
志村たちは、岩崎に礼を述べ、別れた。
教えられたとおり、地下鉄の日比谷駅まで歩き、都営三田線の電車に乗って慶明大学のある水道橋まで行った。
時刻は十時三十四、五分過ぎ。
十時前に行っても研究者たちは出てきていないだろうと思い、この時刻に着くように大仁南署を出てきたのである。
JR水道橋駅前のガードをくぐったあたりから、学生らしい若者たちの姿が多くなり、白山通りから左(東)へ入ると、それは更にふくらんだ。
志村たちは、彼らに交じって正門を入り、掲示板の地図を見てから欅《けやき》並木を進んだ。
理学部はだいぶ奥まったところにあり、文学部の前を過ぎたあたりから学生の姿はぐんと少なくなった。
志村が、あまり大きくない六、七階建ての建物を見やりながら、
「さっき岩崎刑事の言われた黒江とかいう男は、数学科の助手だという話でしたから、やはりここにいるんですかね」
と言うと、間宮が、そんな男がどこにいようと俺たちには関係ない、とぶっきらぼうに答えた。
志村は、その強すぎる反応にちょっと驚き、
「ええ、ま、そうですが」
と答えながら横に並んだ顔を見やった。
何やらの小動物のような顔は、口元を不快げに歪《ゆが》め、怒っているようだった。
それを見て、志村は、さっき岩崎の申し出を(表面)やんわりと断わったときの間宮の心の内を覗《のぞ》き見たような気がした。
と、間宮は、志村のそんな観察するような視線を感じたのか、表情をやわらげ、
「警視庁の刑事が、いきなり……それも平気で、素人の助言を受けているなんて言い出すから、俺は呆《あき》れたよ」
と、言った。
「そうですね」
「ま、警視庁さんがどうやって捜査を進めようと勝手だが、俺たちには関係ない」
間宮が繰り返した。
志村も「ええ」とうなずいた。
彼の内には、初対面の警視庁の刑事が口にした黒江壮という男に多少興味がないではなかった。
が、だからといって、間宮の言うように、自分たちには関係ない。
志村はその件を頭から振り払い、コンクリートの階段を三、四段上って、玄関を入った。
2
右手の事務室の窓口で訊《き》くと、服部真紀が研究生をしていたという植物学科は三階だという。
エレベーターに乗るまでもなかったので、志村たちは階段を上った。
正門付近にいた大勢の学生の姿が嘘《うそ》だったように、ひっそりとしている。
志村は前に国立大学の古い研究所を訪ねたことがあるが、そのときのような黴《かび》くさい臭いはしない。照明も明るい。
リノリウムの廊下を歩いて行くと、「植物学科」という札の掛かった部屋の一つから白衣を着た三十歳前後の女性が出てきた。
間宮が、「すみません」と呼び止め、一昨夜亡くなった服部真紀さんについて話を聞きたいのだが……と言うと、女性が困惑したような表情をして、自分は付き合いがなかったので何も知らない、と答えた。
「教授の部屋はどこでしょう?」
間宮が訊いた。
女性が、「あそこですけど……」と二部屋ほど先の右側を指で示してから、
「でも、今日は京都へ出張ですので、夕方でないと来られないはずです」
「他に、服部さんをよくご存じの方はいませんか?」
「助教授の梅津《うめづ》先生なら、ご存じだと思います。服部さんは、梅津先生の指導を受けていましたから」
「梅津さんという方は……?」
「梅津先生でしたら、ちょっと前に見かけましたから、出て来ているはずです。もしかしたら、講義に行かれたかもしれませんが……」
「探していただけませんか」
女性が分かりましたと応《こた》えて、左右に並んだ部屋を順に探し、三番目に入って行った左側の部屋にいる、と教えてくれた。
梅津は、志村たちがドアの前に行くより早く、女性につづいて部屋から出てきて、
「私が梅津ですが」
と、緊張した面持ちで言った。
腕まくりしたノーネクタイのワイシャツ姿で、白衣は着ていない。年齢は間宮より多少上の四十二、三歳か。硬そうな髪をきっちりと七、三に分けた、眼鏡をかけた中肉中背の男だった。
間宮が名刺を差し出し、自分と志村を紹介してから、真紀について話を聞きたいのだが……と用件を告げた。
「それじゃ、誰もいませんから、こちらへ入ってください」
梅津が言って、ノブに手をかけた。
彼を探してくれた女性が横に退《ひ》いたので、志村たちは礼を述べ、梅津につづいて部屋へ入った。
コードがあちこちに伸びた何やらの機械や道具がテーブルと棚に雑然と置かれた物置きのような部屋だったが、パソコンの載った窓際の三組の机の上だけは、すっきりと整頓されていた。
梅津はその中央の椅子を回して腰を落とし、両側の椅子を引いて適当に掛けるように志村たちに勧めた。
志村と間宮は言われたとおり、左右の椅子を引いて梅津の前に腰を下ろし、肩から下げていた布製のアコーディオンバッグと革のメンズバッグをそれぞれ膝の上に置いた。
それを待って、梅津が、手にした間宮の名刺から目を上げた。自分の名刺は別の部屋に置いてあるので……とことわって、助教授の梅津|進《すすむ》です、とあらためて自己紹介した。
志村は上着から手帳を出し、筆記の用意をした。
「早速ですが、梅津先生は、服部さんが亡くなったことはご存じですね?」
間宮が本題に入った。
もちろん知っている、と梅津が答えた。
「いま先生を探してくれた方に、先生は服部真紀さんの指導をしておられた、と伺ったんですが」
「そのとおりです」
「では、親しくされていた?」
「親しくとは言えませんが、研究室の中では、一番口をきく機会が多かったかもしれません」
「先生から見て、服部さんというのはどういう方だったんでしょう?」
「どういうと言われても、亡くなった人を悪く言うのは嫌ですからね」
梅津がちょっと渋い顔をしてから、
「それより、刑事さんが来られたということは、彼女は殺されたんですか?」
と、逆に訊いた。
「まだはっきりしません。それで、いろいろ調べているわけです」
間宮が答えた。
「しかし、その可能性はあるわけですね?」
「可能性ならあります」
「そうですか……」
梅津が、何やら考えるように視線を宙に止めた。
「殺人なら、彼女を殺しそうな人間にでも心当たりがおありですか?」
「いえ、そういうわけじゃありませんが」
梅津が、ちょっと慌てたように間宮に目を戻した。
「いま、先生は、故人を悪く言うのは嫌だと言われましたが、服部さんには問題があったんでしょうか?」
間宮が話を進めた。
「ええ、まあ」
「殺されたのでなければ、服部さんがどういう人でも関係ありませんし、たとえ殺されたのだとしても、事件に関係のない事柄は外には漏らしません。ですから、彼女に関して先生の感じておられたこと、思っておられたことを率直に話していただけませんか」
梅津が時間をかせぐためか、もそもそと腰を動かした。
「お願いします」
間宮が、腕白坊主が母親にものをねだるときのような真剣な調子で言った。
その横顔は、どこかで見た動物をまた志村に連想させたが、何という動物かは依然として思い出せなかった。
「一言で言えば、彼女に関わるのは、私にとっては時間の無駄以外の何ものでもなかった、ということです」
梅津が態度を決めたらしく、言った。
「研究に対する意欲がなかった、という意味でしょうか?」
間宮がすかさず質問を被《かぶ》せた。
「なかったなんていうものではなく、ただうちに籍を置いて、気が向いたときに遊びに来ていたようなものです」
梅津が口元を歪めて答えた。
脚を組み、つづけた。
「弘洋女子大の生物学科を卒業した後、修士課程《マスターコース》まで修了したというので、もう少しはましかと思っていたら、高校か……精々大学の教養課程レベルなんです。それでも、真剣にやるんならまだいいんですが、結婚するまでのただの腰掛けとしか考えていないんですね。ですから、研究室では、誰も相手にしませんでした。そのため、ますます来づらくなったのか、最近では、週に二、三回しか顔を見せませんでした」
「そうした人を、どうして研究生として受け入れたんでしょう?」
「それは、教授の娘さんだからです。彼女の父親、慶明大学・東洋研究センター所長の服部啓吾教授をご存じですか?」
知っている、と間宮が答えた。
「でしたら、もう想像がつかれたでしょう。服部教授に、うちの主任教授が頼まれたんです。二人は一緒に評議員をしたりして親しかったために、頼まれたとき、嫌とは言えなかったんだそうです。私も同じです。教授に呼ばれて、こういう事情だからしばらく面倒を見てやってくれないかと言われたら、引き受けざるをえません」
口を切ったら、抵抗がなくなったようだ。梅津は、真紀が研究生になった事情を明かした。みな真剣に、必死に研究に取り組んでいる場に、遊び半分に紛れ込んできた彼女の姿勢は、内心、腹に据《す》えかねていたのかもしれない。
「彼女は時々研究室に顔を見せて、威張っていたんですか?」
「私などに対してはむしろ媚《こび》を売る感じでしたが、自分の言いなりになりそうなおとなしい相手や、年下の大学院生などの前では、結構威張っていたようですね。とにかく、いつも有名教授の娘≠ニいう看板を鼻の先にぶらさげていました」
梅津一人だけの話で軽々しく判断するのは危険だが、死者はかなり鼻持ちならない女だったらしい、と志村は思った。当然ながら、だからといって殺されたとは言えないが。
「またさきほどの質問ですが、服部さんを殺したいと考えるほど恨んでいた、あるいは憎んでいたと思われる人に心当たりはありませんか?」
間宮が単刀直入に訊いた。
「ありませんね。少なくとも、うちの研究室にはそんな人はいないと思います」
梅津が答え、組んでいた脚を外した。
「では、先生は、彼女の婚約者の佐久田宗行氏をご存じでしょうか?」
間宮が話を変えた。
「知っています。……いえ、知っているといっても、言葉を交わしたことはありませんが」
「最近の服部さんと佐久田さんの……」
「ああ、それは駄目です」
梅津が、間宮の質問を途中で遮《さえぎ》って、顔の前でひらひらと手を振った。「私は何も知りません。間接的に話を聞いていただけですから」
「最近、服部教授のセクハラ疑惑がマスコミの話題になっていますね」
「それもノーコメントです。私も、報道された内容と噂以上のことは知りませんので」
「もしかしたら、真紀さんの亡くなった件は服部教授の騒動に関係があるかもしれないんですが、その問題については、どなたに訊いたら、教えてもらえるでしょうか?」
「当然、東洋研究センター内部の人がいいと思いますよ」
「どなたかご紹介いただけませんか」
「そうですね……じゃ、神山英則《かみやまひでのり》という友人を紹介しましょう。歳は私と一つしか違わないのに、身分はまだ助手です。東洋研究センターは、服部所長派と鬼塚智彦《おにづかともひこ》教授を旗頭とする鬼塚派が長い間争っているんですが、神山君はそのどちらの誘いにも乗らずに一匹狼を通しているため、なかなか講師や助教授になれないでいるんです。ですが、インドネシアの民俗研究では大きな業績を上げている、非常に優秀な男です。彼なら、中立ですから、服部教授のセクハラ騒動についても客観的な意見が聞けるはずです」
梅津は言うと、電話で神山の都合を訊いてくるからと席を立った。
彼は部屋を出て行き、五分ほどして、神山が承諾したという返事を持って戻ってきた。ただ、神山は、研究室には他人の耳を気にしないで話せる場所がないので、神保町の交差点手前にある「四万十川《しまんとがわ》」という喫茶店に三十分後に行くからと言った、という。
「彼の研究室は教授が服部派なので、研究室内で服部教授や真紀さんの話はできないんです」
と、梅津が説明を加えた。
志村たちは、梅津に礼を言って、立ち上がった。
3
「四万十川」は、白山通りを神保町のほうへ六、七分歩いて行った、通りの反対側にあった。
清流・四万十川のイメージと違い、半透明の自動ドアも店内も、どことなくくすんだような、あまりぱっとしない喫茶店である。
志村たちが、熱帯魚の水槽の陰になった隅の席に掛け、コーヒーを注文して五分ほど待っていると、神山らしい男が現われた。
梅津が「小柄で頭の大きい男です」と言ったとおり、身長が百五十七、八センチ、ぼさぼさ髪をした頭の大きい男だったから、間違いないだろう。
相手も、入口で店内を見渡し、志村たちと目が合うと、刑事と分かったらしい、真っ直ぐに近づいてきた。黄色っぽい派手な柄のネクタイを締めていたが、ガス会社の検針員のような紺《こん》のジャンパーを着ていた。
志村たちは腰を上げて迎えた。
間宮が、「神山先生ですか?」と問い、そうだという返事を聞いて、自分と志村を紹介した。
「わざわざ来ていただいて、申し訳ありません」
向かい合って腰を下ろしてから、間宮が話の糸口を作るように言った。
神山が「いや……」と答え、ジャンパーからラークと使い捨てライターを取り出した。むすっとした、取っつきにくい印象だったが、若いウエイトレスが水を運んでくると、髭《ひげ》の剃り跡の濃い仏頂面をゆるめ、「タマキちゃん、今日は早番?」と愛想のよい声を出した。
彼がアメリカンコーヒーを注文し、ウエイトレスが去ったところで、早速ですが、と間宮が用件に入った。
「佐久田君について、聞きたいということでしたね?」
神山が話を引き取った。
「それと、できれば、服部教授のセクハラ疑惑についても」
間宮が付け加えた。
「じゃ、そちらから話しましょう」
神山が言って、煙草をくわえ火を点けた。「服部さんが秘書に手を出しているなんていうのは、もう数年前から、東洋研究センター内では誰でも知っている常識≠フようなものです」
煙を吐き出し、つづけた。
「では、元秘書の申し立ては事実なわけですか?」
「たぶん、間違いないでしょう。といっても、誰もその現場を見たわけじゃありませんから、証拠はありませんが……。
こういう問題は、学内や学界内の権力闘争、政治闘争が絡んでいることが少なくないため、事実かどうかを見極めるのは非常に難しいんです。ライバルを陥《おとしい》れるために、被害者、証人と称する女性をでっち上げる場合までありますから。また、逆に、犯行の立証が難しく、被害者が顔や名を表に出しにくいことをいいことに、平気で居直る唾棄《だき》すべき卑劣漢もいます。
関西の国立大学で、ある有名教授が去年セクハラ問題で辞表を出し、その後、裁判になっているのをご存じでしょうか。また、もう十数年前になりますが、東京の私立大学で、一人の有力教授が教え子の女子学生を暴行したといって有罪判決が下されたのをご存じでしょうか?」
前の関西の件だけ知っている、と間宮が答えた。志村も同様だった。
「実は、あとの件では、教授は最後まで無実を叫びながら、亡くなりました。密室内の出来事なので、確かなことは言えませんが、被害者はたった一人しかなく、この場合は謀略の臭いが濃い、と言う者が少なくありません」
神山が説明した。
「前の件は、確か、元秘書の一人が人権救済の申し立てを行なっていましたね。被害を受けたという者も多数で、服部教授の場合と似ていますが」
間宮が言った。
「似ているというより、その先例と相馬聡子さんの自殺があったので、今度、服部教授の被害者たちが同じような行動に立ち上がったんだと思います」
「では、その関西の国立大学の例も事実の可能性が高いわけですか?」
「さあ……。僕は、マスコミで報道されている以上の事情を知りませんので、何とも言えません。ただ、服部さんの場合は、永年、彼を近くから見てきた者として、彼が居直っているのは九分九厘間違いない、と考えています」
「梅津先生によると、東洋研究センター内には、服部派と反服部派の強い対立・抗争があるとか……」
「そのとおりですが、服部さんが秘書や女子学生にすぐに手を出すという話は、彼の近くにいる人間……いわば服部派の者が言っているんです」
神山が答え、煙草を吸った。
彼はよく話した。どうやら、志村の第一印象は間違っていたらしい。
「そうですか。では、いまの服部教授のセクハラ問題に関係して、彼の娘さんを殺してもおかしくない、といった人に心当たりはありませんか」
間宮が話を進めた。
「そこまでは分かりませんよ」
神山が口から煙草を離し、煙を吐きながら苦笑いを浮かべた。
「セクハラの問題を離れては、いかがでしょう?」
神山が首をかしげた。
「服部教授を強く恨んでいるか憎んでいる人はいませんか」
「それなら、沢山いますよ。僕もその一人ですし。なにしろ、服部さんという人は陰険ですから」
「具体的にはどのように……?」
「こちらの力になるというようなことを言っておきながら、裏で、平気で逆のことをやれる人なんです。初めの頃は分からないので、僕も信用していたんですが、何度か酷《ひど》い目に遇ううちに分かったんです。それでも、僕は服部さんの研究室じゃないから、まだいいんです」
神山が酷い目に遇ったというのは、たぶん人事について言っているのであろう。
「ということは、服部教授の研究室にいる者はもっと酷い目に遇っている?」
間宮が確認した。
「ええ」
「佐久田さんもその一人ですか?」
「いや、佐久田君だけは例外です。彼は、教授に絶対服従の腰巾着《こしぎんちやく》ですから。学生時代から教授のスパイだったという噂もあります。卒論を書くために教授の下についてから、研究室員たちの言動を探って、教授に報告していた、というんです。このスパイ云々は確かなところは分かりませんが、彼がマスターコースを修了するや、先輩たちを出し抜いて助手に採用された、というのだけは事実です」
「佐久田さんが亡くなった服部真紀さんと婚約していたのはご存じですか」
「知っています」
「二人の仲はいかがでしょう、うまくいっていたようですか?」
間宮が言ったとき、さっきのウエイトレスがテーブルに近づいてきた。
そのためか、神山が曖昧に「どうですかね」と言いながら、煙草の火を消した。
ウエイトレスがアメリカンコーヒーを神山の前に置いて微笑みかけ、タイトスカートに包まれた痩《や》せた腰を回した。
「何らかの理由から、佐久田さんが真紀さんを恨んでいた、といった可能性はありませんか?」
彼女が去るのを待って、間宮が質問を継いだ。
神山が、砂糖もミルクも加えずに、大きなカップを取った。
「そりゃ、男と女の間は、外からでは窺《うかが》いしれませんから、何とも言えませんが」
と言って、コーヒーを啜《すす》った。
彼はカップを口から離し、つづけた。
「見たところ、佐久田君は真紀さんの言いなりのようでしたし、内心、腹の立つこともあったでしょう。ですが、少なくとも、彼が真紀さんの命を奪ったという可能性だけはないと思いますね」
「それは、どういうわけで……?」
間宮だって分かっているにちがいないが、訊いた。
「せっかくつかんだ出世につながる蔓《つる》を自ら切り捨てるぐらいなら、苦労して、そんなものをつかみませんよ」
神山が、志村の予想していたとおりの理由を答えた。
「佐久田さんは、苦労して真紀さんと婚約したんですか?」
「恋人を服部さんに差し出し、代わりに真紀さんを手に入れた、と言われています」
「恋人……?」
「先月自殺した相馬聡子さんですよ」
志村は、思わずメモを取っていた手を止めた。顔を上げた。
間宮が本当かと問うように志村を見た。
志村とて初耳である。小さく首を振り、知らなかったと目顔で告げた。
「相馬さんは、佐久田さんの恋人だったんですか……?」
間宮が、コーヒーを飲んでいた神山に目を戻した。
「知らなかったんですか?」
神山がカップを置いて、意外そうな顔をした。
「私は、同僚と一緒に相馬さんの遺体を川から引き揚げた者ですが、彼女の死は自殺だとはっきりしたため、そうした点までは調べなかったんです」
間宮の代わりに志村が答えた。
「そうですか」
「というわけですので、佐久田さんが恋人の相馬さんを服部教授に差し出し、代わりに真紀さんを手に入れた、という事情について詳しく話してくれませんか?」
間宮が言った。
「私も詳しい事情は知りません。ただ、学生だった相馬さんに、服部さんが、卒業したら自分の秘書にならないかと誘ったところ、彼女は一度は断わったんだそうです。それを、相馬さんの恋人だった佐久田君が説得し、結局、彼女は彼の言うとおりになったようです。服部教授が佐久田君にそうさせたのか、佐久田君が自分から進んで相馬さんを説得し、教授に取り入ろうとしたのか、どちらだったのかは分かりませんが、いずれにせよ、相馬さんが服部教授の秘書になればどうなるかは佐久田君は当然知っていたはずです。ですから、彼は、自分の恋人を人身御供《ひとみごくう》として服部さんに差し出した、と言われているんです。しかも、相馬さんが服部教授の秘書になるや、一ヵ月もしないうちに、彼は相馬さんを捨て、教授の娘の真紀さんと婚約してしまったんですから」
「なるほど」
間宮がうなずいた。苦虫を噛みつぶしたような顔だ。
もしかしたら、志村も同じような顔をしていたのかもしれない。
佐久田に対する疑いは、真紀が死亡した一昨夜の十時〜十一時に絶対に修善寺に立てなかったと判明した時点で、ほぼ晴れていた。とはいえ、彼は真紀の婚約者であると同時に変事の第一発見者であり、「紅葉の家」の合鍵を作れたかもしれない人間である。そのため、真紀を殺す動機がなかったかどうか、志村たちは調べていた。が、いまの神山の話によって疑いは完全に消えたと見てよい。
しかし、佐久田の容疑を解いたその話は、聞いていて胸糞が悪くなるような内容であった。
志村は、一昨夜、月の湯館の離れ家へ駆けつけたとき、真っ青な顔をして震えていた痩せた男の顔を思い浮かべた。一瞬、その男が前に座っているような錯覚に襲われ、顔に唾《つば》を吐きかけてやりたい衝動を覚えた。
「そういうわけで、相馬さんが自殺したのは、服部教授に性的関係を強要されただけでなく、佐久田君に捨てられたショックも尾をひいていたためではないか、と言われているんです」
神山が言って、あ、そうそう、と思い出したようにつづけた。「服部教授が相馬さんの弟に襲われたのは、知っていますか?」
「いえ、知りません」
と、間宮が驚いたように答え、「それは、いつですか?」と緊張した顔をして訊き返した。
「半月ほど前です。短刀を持った相馬さんの弟が、夕方、大学構内で服部教授に襲いかかり、教授は腕に軽い怪我をしたという話です。僕は聞いただけですが、見た人がかなりいたようですから、間違いありません」
相馬聡子の弟には、志村も一度会っていた。聡子の死体が川から引き揚げられ、身元がはっきりすると、郷里の両親より一足先に修善寺へ駆けつけたのである。名は確か圭一郎《けいいちろう》と聞いたような気がする。慶明大学ではないが、東京の大学の三年生だという話だった。身体は肥っていて大きいが、まだ高校生といっても通りそうな丸い童顔をしていた。姉の遺体と対面し、そばかすの散った目の下に、汗とも涙ともつかない水の玉を浮かべていたのを志村は覚えている。
「警察には届けたんでしょうか?」
間宮が訊いた。
「その弟さんを取り押さえた人たちが届けようとしたところ、服部さんが止めたため、届けなかったようです」
神山が答えた。
「相馬さんの弟が服部教授を襲った動機は、当然、姉の件ですね」
「そうです。姉を殺した貴様を殺してやると喚《わめ》いていたそうですから。また、彼は、止めに入った佐久田君にも切りかかり、邪魔をすると、姉を売ったおまえも殺すぞと言っていたという話です」
「佐久田さんも一緒にいたんですか?」
「教授と佐久田君、それに服部研究室の桐生利明《きりゆうとしあき》という助教授の三人で帰るところだったようです。桐生君は、僕より一つ下の三十八歳ですが、五年ほど前に助教授になっています。非常に優秀な男で、服部さん以上じゃないかと言われています。佐久田君ほどの腰巾着じゃないんですが、やはり服部さんの側近です」
「相馬聡子の弟か……」
間宮が緊張した表情をして、考えるようにつぶやいた。
まだ真紀の死が殺人かどうかさえはっきりしないのだから、容疑者とは言えない。が、少なくとも、服部真紀を殺しても不思議ではない男が一人、浮かんできたのである。緊張して当然であろう。
「あ、それから、十日ほど前、佐久田君は駅のホームから落ちて、電車に轢《ひ》かれそうになったようです」
志村が、相馬圭一郎に早急に当たる必要があるなと考えていると、神山がまた意外な話をした。
間宮が、どういうことかと問うように神山に視線を戻した。
「これは、足を踏み外して自分で落ちたようですから、真紀さんの件とは何の関係もないとは思いますが」
「しかし、偶然にしては、時期が接近していますね。相馬聡子さんの自殺、彼女の弟の服部教授襲撃、佐久田さんのホームからの転落、そして真紀さんの死と……」
「そう言われれば、そうですね」
「その転落事故について、詳しい事情を知っている方はいませんか?」
「事故があったのは横浜の桜木町駅だという話ですから、駅に尋ねれば分かるんじゃないですか」
「そうですか。ところで、さっきちょっと触れたように、東洋研究センターでは服部教授と反服部派の鬼塚教授の対立がずっとつづいている、と伺いましたが」
「ええ」
「その対立が高じて、真紀さんの死が引き起こされた、といった可能性はいかがでしょう?」
「それはないと思いますね。亡くなったのが服部教授本人ならともかく、娘さんをどうかするなんて……。そんなことをしても、服部さんが健在でいるかぎり、何にもならないんですから」
「ということは、たとえ服部教授に関係して今回の真紀さんの死が引き起こされたものだったとしても、その動機はもっと個人的な事情だった?」
「僕はそう思います」
「さきほど、教授に対して恨みを持っている人は沢山いると言われましたが、その中で、特に強く教授を恨むか憎むかしていると思われる人を教えていただけませんか」
「僕にも、誰が特に強く服部さんを恨んでいるかなんて分かりませんよ」
「ですが、そう考えたとき、神山さんの頭に浮かんだ人がいるんじゃないですか? その氏名で結構です」
「そんなの、言えませんね」
神山が、間宮の想像を間接的に認めた。
「ご迷惑はかけません」
「そう言われても……」
「お願いします」
間宮が押した。
神山は、不快そうに口元を歪めていたが、間宮がもう一度頭を下げると、
「それじゃ、古森芳樹《こもりよしき》という人を訪ねてみてください。この人は、真紀さんとも関わりがありますから」
と、一人の男の名を挙げた。
「やはり、東洋研究センターにいる人ですか?」
「五年前まで服部研究室にいたんですが、現在は神奈川県平塚市にある欅《けやき》が丘《おか》学園という私立高校で社会科の教師をしているはずです」
「その人と真紀さんとの関わりというのは……?」
「真紀さんの恋人だった男です。年齢は佐久田君より二、三歳上ですから、現在、三十二、三歳でしょうか。なかなか優秀な男で、服部教授も目をかけていたんですが、当時、大学生だった真紀さんと肉体関係を結び、それを服部さんに知られて、研究室から追い出されたんです。真紀さんは、彼女のほうから美男子の古森君に熱を上げ、誘惑しておきながら、父親に知られるや、古森君に関係を強要された、と言ったようです。服部さんは娘の言葉を信じ……あるいは信じたふりをして……、古森君の話を聞かずに怒って叩き出した、というわけです。この件には、また佐久田君も絡んでいて、古森君と真紀さんの関係を服部さんに密告したのが佐久田君ではないか、と言われています。この密告云々の真偽は分かりませんが、古森君が研究室から追い出されたために、結果として、佐久田君が服部研究室の助手になれたのは間違いありません。いくら、服部さんでも、年齢はともかく、実力が佐久田君とは格段に違う古森君を差し置いて、佐久田君を助手に採用するわけにはゆかなかったはずですから」
「とすると、その古森という人は、服部教授だけでなく、真紀さんと佐久田さんのことも恨んでいる可能性が高い?」
「さあ、どうでしょう。あとは刑事さんたちが調べてください」
神山が言うと、腕時計に目をやり、冷えたコーヒーを一息に飲み干した。これで僕は失礼します、と腰を上げた。
4
志村たちは、神山につづいて「四万十川」を出ると、大仁南署の滝田警部に報告の電話を入れ、相馬聡子の実家の電話番号を調べてもらった。
聡子の実家は山形市である。県庁に勤める父親と、(その父親の言によると)少しばかりの畑を耕している母親が、父親の両親と一緒に暮らしていた。
間宮は、滝田との話が済むと、つづいて聡子の実家の番号をプッシュした。電話に出た母親から、聡子の弟の住んでいるアパートを聞き出した。
弟の名は、志村の記憶していたとおり、圭一郎。青林大学経済学部の三年生。大学のあるのは目白だが、アパートは練馬区の上石神井《かみしやくじい》だという。
母親には、聡子の件でちょっと尋ねたいことがあると話したものの、心配して圭一郎に連絡を取ってしまう可能性があった。そこで、間宮がまだ母親と話している間に、志村が間宮から渡されたメモを見て圭一郎のアパートに電話した。が、圭一郎は不在らしく、呼び出しベルが鳴っているにもかかわらず、誰も出なかった。
十一時十四、五分という時刻では、大学へ出たのだろう。
志村たちはそう判断して、相馬圭一郎に会うのは後回しにし、地下鉄を乗り継いで、東京駅へ向かった。
先に、桜木町駅と平塚の欅が丘学園を訪ねようと思ったのである。
志村たちは、慶明大学を訪ねて梅津の話を聞き、また梅津の紹介で神山と会い、かなりよい出だしを切った。
服部真紀という死者がどういう女性かというだけでなく、父親の服部啓吾と婚約者の佐久田宗行についてもいくつかの情報を得た。それによれば、真紀本人(と佐久田)に対する恨みから、あるいは服部啓吾に対する恨みから、真紀が殺されても不思議ではない、という状況が窺えた。
それだけではない。
容疑者になる可能性のある人物まで、浮かんできた。
一人は、姉・聡子の仇《かたき》だといって短刀で服部啓吾を襲った、相馬圭一郎という大学生であり、もう一人は、聡子に裏切られただけでなく、服部啓吾に研究室まで追い出された古森芳樹という高校教師である。
更に、相馬圭一郎が服部啓吾を襲って怪我をさせてから真紀が不審死を遂げるまでの間に、佐久田が駅のホームから転落するといった「事故」まで起きていた。
佐久田は、五年前、古森と真紀の仲を服部啓吾に密告し、古森を研究室から追い出すのに大きな役割を果たしたと思われる男である。古森が服部研究室からいなくなった結果、助手になれた男である。しかも、今度は、恋人の聡子を服部啓吾に人身御供として差し出し、代わりに娘の真紀と婚約した、と言われているのだった。
聡子が半ば服部啓吾に殺されるようにして自殺して、一ヵ月――。
そのわずか一ヵ月の間に、相馬圭一郎による服部啓吾の襲撃、佐久田のホームからの転落、服部の元秘書による人権侵害の救済申し立て(暴行告発)、真紀の死――と、つづいているのであった。
真紀の死を単なる病死、あるいは事故死と見るには、あまりにも偶然が重なり過ぎているように思えた。
では、彼女の死が偶然ではなかった≠ニすれば、何だったのか。
もちろん答えは一つ、殺人である。
聡子が自殺したのを服部のせいだと考えた圭一郎が服部を襲った、という事実から考えると、圭一郎が容疑者の最右翼であろう。
≪姉を売った佐久田を駅のホームから突き落として殺そうとし、それが失敗するや、今度は大貫と名乗って服部と佐久田を真紀から引き離し、離れ家に一人きりになった真紀を襲った≫
という構図だ。圭一郎には、真紀に対する直接の恨みはないが、服部と佐久田に復讐するために――。
しかし、この構図には大きな難点、あるいは疑問点がいくつかある。
圭一郎が、十月一日の晩服部と真紀と佐久田の三人が修善寺・月の湯館の離れ家「紅葉の家」へ行くのをどうして知ったのか。
月の湯館の周りには石塀が築かれているといっても、乗り越えようと思えば難しくない。また、本館の門からでも浦部トミの私邸の門からでも、山側の藪《やぶ》からでも、敷地内へ入り込むことができる。だから、圭一郎が、姉・聡子の泊まった「紅葉の家」を前もって下見しておくのは可能だっただろうし、犯行当夜も敷地内に入り込んで家の外までは行けただろう。だが、彼には玄関の鍵は手に入れようがなかったはずである。また、真紀が心臓が悪いといった事実は、婚約者である佐久田さえ聞いていなかったというのだから(佐久田の容疑が晴れた現在、その言葉は事実だったと見ていいだろう)、圭一郎がそれを知っていたわけがない。それなのに、彼は、「紅葉の家」の外まで行ってから、どうやって真紀を殺そうと考えていたのか。実際に、どうやって真紀を殺害したのか。
もっとも、最後の点については、何とか説明できないわけではない。
それは、圭一郎が、何らかの方法で真紀を殺害するつもりで「紅葉の家」の外まで行ったところ、偶然、真紀が風呂に入っていた、そこで窓の外に立って中の様子を窺おうとすると、窓に映った彼の影に驚いた真紀がショック死してしまった――という場合である(警察学校で刑法の講義を受けただけの志村には、こういう微妙な例はよく分からない。だが、たぶん、殺人罪は成り立たず、殺人予備罪と、前に想定した〜のうちの、過失致死罪になるのではないかと思う)。
一方、真紀のかつての恋人・古森芳樹の場合は、真紀が心臓の弱いのを知っていた可能性がある。彼についても、どうやって服部たち三人の予定を知ったのかという圭一郎の場合と同じ疑問が存在するが、その点が圭一郎と違う。夜、離れ家に真紀を一人にすることができれば、家の中へ入らなくても彼女をショック死させられるかもしれない、と考えた可能性はある。
ただ、古森の場合は、服部啓吾や真紀、佐久田に対して、最近恨みが生じたわけではない。だから、彼が犯人なら、聡子の死と服部啓吾に対する元秘書の申し立てを知り、服部と真紀に対して復讐を果たす絶好の機会だと考えた、ということであろう。
相馬圭一郎であれ、古森芳樹であれ、問題は一昨夜十時から十一時までの間どこにいたか、という点である。もし、その時刻に修善寺から離れた地にいた事実が証明されれば、その人間は犯人ではありえない。
だから、志村たちは、二人に会ったら、その点を最重点にして質《ただ》すつもりでいたのだった。
桜木町駅では、
〈九月二十二日(木曜日)の夕方五時過ぎ、佐久田宗行がホームから落ちて頭を打ち、救急車で病院へ運ばれた〉
という事故が確かに起きていた。
近くにいた二人の大学生がすぐに線路に飛び降り、佐久田の身体をレールから引《ひ》き摺《ず》り出さなければ、彼は確実に電車に轢かれて死んでいただろう、という。
しかし、それは佐久田の不注意による事故で、誰かに突き落とされたといった事件ではない、という話であった。
志村たちは、駅員の話を聞いた後、佐久田や学生たちから事情を聞いたという派出所の警官も訪ねたが、同じだった。佐久田が自分の過失だと言っていたし、そばにいた学生たちも彼を突き飛ばしたと思われるような人間は見ていない、というのである。
佐久田が嘘をついている疑いもゼロではないが、もし殺人未遂なら、また狙《ねら》われる危険がある。それなのに、嘘をついてまで事実を隠しているというのは解せなかった。
とすると、聡子と真紀の死の間に起きた佐久田の転落は偶然だったのか……と志村たちは話し合いながら、桜木町駅前で昼食を摂り、平塚へ向かった。
欅が丘学園は、平塚駅からバスで十五分ほど行った、小さな丘の上にあった。
志村たちが玄関で案内を請うと、若い女子事務員が引っ込み、五十四、五歳の額の禿《は》げ上がった男に代わった。
事務長だという。
彼は、警察と聞いて、てっきり生徒が問題でも起こしたと思ったらしい、緊張した顔をして出てきた。が、慶明大学・東洋研究センターに関して、かつてそこに勤めていた古森芳樹の話を聞きたいのだ、と間宮が説明すると、ほっとした表情になった。
当然ながら、間宮は、古森を疑っているような素振りをおくびにも出さなかった。
志村たちは応接室に通された。
古森は授業中だとかで、休憩時間になるまで二十分ほど茶を飲みながら待たされた。
チャイムが鳴り、事務長に案内されて入ってきたのは、薄いブルーのワイシャツにネクタイだけ締めた、三十二、三歳のすらりとした男である。神山が言ったように、鼻が高く、眉がきりりとしていて、俳優にしてもおかしくないような顔立ちをしていた。
ただ、警察と聞いたからだろう、目に不安げな翳《かげ》が漂い、表情も強張っているように見えた。
志村たちが腰を上げると、事務長が、「古森先生です」と男を紹介したので、間宮も自分と志村を相手に紹介した。
「慶明大学・東洋研究センターに関して、僕の話を聞きたいということですが、具体的にはどういう……?」
事務長が出て行き、テーブルを挟んで腰を下ろすと、相手のほうから切り出した。
「古森さんは、服部真紀さんが亡くなったのはご存じですね?」
間宮が訊いた。
「えっ!」
と、古森が目を丸くして間宮を見つめ返し、「し、知りません、いつですか」と訊き返した。
本当に知らなかったのか、知っていて惚《とぼ》けたのか、は判断がつかない。
「一昨夜です」
間宮が答えた。
「で、刑事さんが僕のところまで来られたということは、病気や事故ではない?」
「そうじゃない可能性もある、という程度です。それより、本当にご存じなかったんですか?」
間宮が探るように相手を見つめた。
「ええ、知りません。どこで亡くなったんですか?」
古森が首を振って否定し、わずかに力を抜いたような表情になった。
「修善寺温泉の旅館です。昨日は夕刊がなかったので、今朝の新聞に出ています」
「そうですか。気がつかなかった……」
古森がつぶやいて上体を引いた。
気がつかなくても、不思議ではない。不審死ということで報道されたものの、扱いはどの新聞も小さかったからだ。
もし古森が真紀の死に関わっていたとすれば、そうしたマスコミの扱いとは関係なく、当然知っていたわけだが……。
「古森さんは、真紀さんが佐久田さんと婚約していたのはご存じですか?」
間宮が話を進めた。
「それなら、二、三ヵ月前、東洋研究センターにいる友人に電話で聞きました」
古森が、下に向けていた視線を上げて、答えた。
「順調にいっていれば、佐久田さんではなく、古森さんが服部研究室の助手になっていたはずだ、と伺ったんですが」
「そうかもしれません」
「それが、真紀さんとの交際が因《もと》で、服部教授に研究室から追い出されたとか」
「僕は、あんな汚ならしいところにいたくなくて自分から出たつもりですが、人の目にはそう映ったかもしれません」
汚ならしいと言うとき、古森の唇が憎々しげに歪んだ。
「しかし、研究生活を捨てるには、決断が必要だったんじゃないですか」
「迷わなかったと言えば嘘になりますが、研究は高校の教師をしていたってできます」
「汚ならしいというのは、服部教授や佐久田さんのやり方ですか?」
「そうです。聞いてこられたのなら、ご存じのことと思いますが、あんな卑劣な奴らの顔をもう一日でも見ているのが耐えられなくなったんです」
「では、現在でも、彼らを憎んでいる?」
「ええ、憎んでいますよ」
「真紀さんも?」
「……いや、彼女なんか、もうどうとも思っていません」
古森が答えるまでに一瞬の間があった。どう答えるべきか、考えたのかもしれない。
「古森さんは、真紀さんに心臓の持病があったのをご存じですか?」
間宮が唐突に訊いた。
古森の目に警戒するような色が浮かんだ。急に質問の内容が変わり、間宮の真意が読めなかったからかもしれないし、逆にそれが読めたからかもしれない。
「知りませんね」
古森が首を振った。
「かつて親しくされていたとき、聞かれなかったんですか」
「聞いていません。その持病が、彼女の死因に関係しているんですか?」
逆に訊いた。
「真紀さんは、離れ家の浴室でひとりで死亡していたんです」
「そういうことですか」
「失礼ですが、古森さんは、一昨夜どこかへ出かけられましたか?」
「どうやら、僕を疑っているようですが、まったくの見当違いですね」
古森が唇に、馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「差し支えなかったら、教えていただけませんか」
間宮が古森の言葉と笑いを無視して、つづけた。
「どこへも出かけていません。ここ平塚市内にあるマンションの部屋で、本を読んだり調べものをしたりしていましたよ」
古森が笑いを引っ込めた。
「お一人ですか?」
「ええ、独身ですから」
「そのとき、どこかへ電話されるか、どなたかから電話がかかってくるか、しませんでしたか?」
「一昨夜は、珍しく誰とも話さなかったですね」
「車はお持ちですか?」
「持っています。通勤用に」
「駐車場は?」
「マンションの裏にあります」
「では、土曜日の夜、古森さんの車はずっとそこにあった?」
「ええ。区画は十九番、車種は白のコロナ、ナンバーは〈相模54・ち・32××〉です。お疑いなら、どうぞマンションヘ行って調べてください」
古森が、「平塚第一コーポラス」というマンション名と所在地を告げた。
マンションから東名高速道路の厚木インターチェンジか秦野《はだの》中井インターチェンジまでの距離にもよるが、平塚・修善寺温泉間は車で一時間四、五十分。だから、犯行に三十分を要したとしても、四時間半あれば、真紀を殺害し、悠々戻ってこられる。
古森が犯人であるとの印象を強めるものは特になかったが、彼にはアリバイがないという点ははっきりした。
それは、一昨夜、マンションの駐車場にずっと古森のコロナが駐められていたとしても、変わらない。自分の車が調べられるのを見越して、どこかでレンタカーを借りた可能性があるからだ。
「しかし、そんなことをしても、時間の無駄ですけどね」
古森がつづけた。「なにしろ、僕は犯人じゃないんですから」
「ご忠告は感謝しますが、ただ、自分から犯人だと言う者はおりませんからね」
間宮が返した。
「確かに。じゃ、お好きなようにしてください。僕は逃げも隠れもしませんから。ただし、その間に、犯人が証拠を隠したり逃げたりしないように気をつけるんですね」
「そうした人間に心当たりがありますか?」
「最近の服部教授や真紀さんを知りませんから、はっきりしたことは言えませんが、少なくとも、もっと二人のそばにいる人間を調べたほうがいいんじゃないですか」
「例えば?」
「そうですね……助教授の桐生利明さんとかです」
「桐生さんというのは、佐久田さんと同じように服部教授の腹心じゃないんですか?」
「表面はそうですが、本当のところはどうでしょうね」
「どういうことでしょう?」
「僕の口からは言いにくいですよ。調べてみたらいかがですか?」
古森が目の中に笑いの翳を浮かべ、思わせぶりな言い方をした。
桐生利明に、真紀を殺すような動機があるのかどうかは分からない。が、口から出まかせとも思えなかった。志村たちが桐生について調べ、何も出てこなかったら、疑いがいっそう強くなって古森に返ってゆくのが分かっているのだから。
「ヒントだけでも教えてくれませんか?」
間宮がねばった。
「ヒントですか……。それじゃ、一つだけ教えましょう。僕が東洋研究センターを辞めた後、真紀さんが誰と付き合っていたのかをまず調べ、それから、服部教授と桐生さんとの関係を突っ込んでみたらいかがですか?」
「真紀さんは、佐久田さんと婚約する前、桐生氏と付き合っていた――?」
「もう三年ほど前になりますが、真紀さんが桐生さんを袖にしたという話を聞いたことがあります。それも、多くの人の前で笑い者にして」
「桐生氏も独身ですか?」
「そうです」
と、古森が楽しんでいるような目をして答えた。「もしかしたら、彼は僕と違って、まだ真紀さんを忘れられないでいるのかもしれませんよ」
5
志村たちは、快速電車「アクティー」で東京へ戻り、水道橋まで行って、もう一度神山を呼び出した。
神山は渋ったが、十五分だけならと言って応じ、今度は後楽園前のフルーツパーラーで会った。
神山は、真紀が桐生利明を袖にしたという話は知らなかったが、桐生が助教授になれたのは、相当数の研究論文を服部啓吾に提供したからだと言われている、と教えてくれた。しかし、それで桐生が服部を恨んでいるかどうかは分からない、という話だった。
ただ、最近、服部が、できれば後継教授は公募で選んだほうがよいといった考えを口にし始めているため、その点は警戒すると同時に恨みに思っているかもしれない、と付け加えた。
――なにしろ、これまでは、服部さんが定年退職すれば、半ば自動的に教授になれると思っていたのに、それが狂うかもしれないわけですからね。
もし、服部啓吾が本気で後継教授の公募を考えているとしたら、桐生の中に服部に対する強い憎しみが生まれた可能性が高い。自分の研究成果を提供し、長い間、言いなりになって仕えてきたのに、ここで袖にされたのでは元も子もない。桐生としては到底許せないだろう。その怒りと、ずっと胸の内に秘めていたと思われる真紀に対する憎しみ――古森の言ったように、もし桐生がまだ真紀を忘れられないでいたとしたら、自分を恥ずかしめて振っただけでなく、佐久田と婚約した彼女をいっそう許せなかっただろう――が重なれば、真紀を殺そうと考え、殺したとしても不思議はない。
神山が先に帰った後、志村と間宮は水をお代わりし、相馬圭一郎と古森芳樹に、真紀を殺す動機のある人間がもう一人加わったことを確認した。
いや、桐生利明は、単に容疑者の仲間入りをしただけではない。彼には、圭一郎と古森以上に濃い容疑が感じられた。
なぜなら、桐生の場合、一昨夜服部と佐久田と真紀の三人が修善寺へ行く予定になっているのを容易に知りえただろうし、真紀の持病についても彼女から聞いていた可能性があるからだ(古森も真紀の持病については知っていたかもしれないが、彼には服部たち三人の予定を知るのは難しかっただろう)。
それにしても……と、志村は、間宮と話しながら内心呆れていた。
服部啓吾と真紀を恨んだり憎んだりしている者が、彼らの身近にこれほどいようとは今朝まで想像していなかった。予想できなかった。それなのに、真紀を殺してもおかしくない人間が、すでに三人も浮かんできたのである。
服部啓吾のセクハラ疑惑がマスコミで取り上げられ、有名大学の有名教授の裏の顔が明るみに出始めていたとはいえ、その娘は別だと思っていた。ところが、真紀という女たるや、親の権威を笠に着て、し放題のことをしてきた傲慢《ごうまん》で淫乱な女だったらしい。
志村は、これで殺人のセン(圭一郎が犯人だった場合は殺人予備と過失致死か?)がいっそう強くなった、と思った。
犯人は、すでに名の挙がった三人の中にいるのではないか――。
相馬圭一郎が帰っているかどうかを探るために、志村が店内の電話を使って彼のアパートに電話をかけた。
もし、圭一郎が応対すれば、間違い電話を装って切ってしまうつもりだったが、彼は出なかった。
志村が席に戻って報告すると、間宮が腰を上げた。
朝行った慶明大学を訪ね、桐生利明に会うためである。
桐生が今日研究室へ出てきているかどうかは分からない、という神山の話だったが、桐生に会えなければ、佐久田から話を聞いてもよい。
支払いを済ませてフルーツパーラーを出ると、白山通りへ出た。
駅に近い歩道は、学生風の若者たちで夕方の混雑が始まっていた。
朝と似た光景だが、それでいて、その賑いからは朝にはなかった解放感が漂っているように感じられた。
通りを渡り、神保町のほうへ二百メートルほど歩いて左の道へ入った。
「桐生利明は独身だというから、土曜日の夜、住まいと修善寺の間を往復しても、誰にも気づかれなかった可能性が高いな」
何か考えていたらしい間宮が、半ば独り言のように言った。
今度は右に折れた。
百二、三十メートル前方の左側が慶明大学の正門である。
道に広がってぶらぶらやってくる七、八人の学生らしい男女を追い越して、黒っぽいスーツを着た二人の男がさっ、さっとした足取りで歩いてきた。
向かって左側の男はアタッシェケースを、右側の男は黒革の鞄を提げている。
志村と間宮は、どちらからともなく足をゆるめ、顔を見合わせた。
アタッシェケースを提げた背のひょろりとした長髪の男は、佐久田宗行だったからだ。
「佐久田です」
志村が小声で言うと、間宮が「うん」とやはり小さくうなずいた。
佐久田も志村たちに気づいたらしい、顔に驚いたような表情が浮かんだ。
彼の横に並んでいるのは、やはり三十歳前後の男である。百八十二、三センチあると思われる佐久田より五、六センチ低いが、すらりとした、均斉の取れた体付きをしている。鼻筋も通り、なかなかの美男子だ。ただ、同じ美男子でも、眉がきりりとしていて、筋肉質の感じだった古森芳樹が時代劇の主人公にぴったりだとすると、こちらはあまり力がありそうには見えず、甘い恋愛劇にでも似合いそうな感じだ。
佐久田が、その隣りの男に顔を向けて何やら言った。顔つきから判断し、志村たちについて教えたようだ。
その間にも、志村たちと男たちとの距離は縮まった。
思わぬところで刑事と出会ったからか、一昨夜ほどではないが、佐久田は緊張しているようだった。
一方、もう一人の男には、これといった変化はない。刑事と聞けば、たいていの者は、自分には無関係でも多少緊張するものだが、その男にはそうした様子がない。視線に、かすかに志村たちを観察するような色が加わっただけである。
間が六、七メートルになったところで、志村たちは佐久田と目礼し合い、互いに近寄った。
「一昨夜はどうも」
間宮が言うと、
「いえ、こちらこそ、いろいろお世話になりました」
と、佐久田が頭を下げた。
「お帰りですか?」
「今夜は真紀さんのお通夜なので、これから日吉のお宅へ伺うところなんです」
「そうですか。一足違いで、行き違いになるところでした」
「私に、何か……?」
「佐久田さんに、ということで参ったわけではないんですが、ついでに佐久田さんにも確認したい件があったんです」
「……?」
佐久田の目に、不安というよりは警戒するような色が浮かんだ。
間宮が目顔で佐久田を促し、通行人を避けて、左のフェンスの際に移動した。
志村たちも一緒に左へ寄る。
「どういうことでしょう?」
佐久田が背を丸めて間宮を見た。
「先月二十二日の夕方、佐久田さんは桜木町駅で誰かにホームから突き落とされた、と伺ったんですが」
間宮が平気で嘘をついた。
「えっ? だ、誰がそんなことを……!」
佐久田が丸めた背を伸ばし、横に並んだ男に探るような視線を走らせた。
と、男の目に、困惑したような色が浮かんだ。
佐久田が、間宮の言った話の出どころを傍らの男ではないかと疑った。が、男は覚えがないので、困惑した。そんな感じだった。
「いったい、誰ですか、そんないい加減な話をしたのは?」
佐久田が間宮に向き直って、質した。
「それは言えません。ただ、耳に挟んだものですから、気になりまして」
「出鱈目《でたらめ》です。その日、僕がホームから落ちたのは事実ですが、突き落とされたわけじゃありません。考えごとをしていて、足を踏み外したんです」
今度は、佐久田の横の男が、佐久田の顔をちらっと見やった。佐久田の心の内を推し量っているような視線だった。
この男は誰だろう、と志村は思った。同じ研究室の人間だろうか。
「それならいいんですが。何しろ、今度のようなことの起きる直前ですからね」
間宮が言った。まだ佐久田の話を完全には信じていないようだ。
志村も、佐久田が嘘をついているような感じがしないでもないが、かといって、佐久田が嘘をつかなければならない理由は思いつかない。
「僕の件は関係ありませんよ。それより、真紀さんは誰かに殺された、とはっきりしたんですか?」
「いや、まだですが、その可能性が多少強まった感じはします」
「そうですか……」
佐久田が深刻げにうなずき、
「で、刑事さんたちがうちの大学へ聞き込みに?」
と、語調を変えた。
「そうです」
「誰に会いに来られたんですか?」
「どなたに、というわけじゃないんですが、服部教授や真紀さんをよく知っている方に話を伺いたいと思いましてね」
間宮は桐生の名を出さなかった。
「しかし、せっかくですが、うちの研究室は空ですよ。僕はどうしても大学に顔を出さなければならない用事があって、二時間ほど前に来たんですが、もうみんな先生のお宅へ行きましたから」
佐久田が言ってから、彼の左に並んだ男のほうへ顔を向け、
「植物学科のほうはどうでしょうかね?」
と、尋ねた。
男が、分からないというように首をかしげた。
「真紀さんの所属されていた植物学科の方ですか?」
間宮が、男と佐久田に交互に問う視線を向けた。
「植物学科ではないんですが、同じ理学部の方です」
佐久田が答えた。「生前、真紀さんがいろいろお世話になった、数学科の助手の黒江さんと言います」
志村は、アッと小さく声を漏らしそうになった。数学科、黒江――となれば、朝、警視庁の岩崎が言った黒江壮という男に十中八九間違いないだろう、と思ったのだ。
間宮もちょっと驚いたようだった。何も言わない。ただ、無遠慮な視線を、整った顔立ちの男に当てているだけ。
佐久田が、志村たちのそうした反応に気づいたのか、
「黒江さんをご存じですか?」
と、訊いた。
「い、いえ」
間宮が慌てたように視線を黒江という男から佐久田に移し、ひらひらと手を振った。
「黒江さんは、警視庁に協力して、これまでにいくつもの難事件を解決に導いてこられた名探偵なので、名前だけでも聞いておられたのかと思いました」
佐久田が言うと、黒江という男は恥ずかしそうに顔を赤らめた。志村と間宮の視線から逃れるように、目を斜め下に向けた。
志村は遠慮がちに男を観察したが、間宮は違う。横に立っている志村から見ても分かる、射るような、挑戦するような視線を相手に注いでいた。
「そういえば、黒江さんは、下田と天城峠を結んで起きた事件の解決にも関わっていたはずです。ですから、静岡県警にも、黒江さんを知っている方がおられるんじゃないでしょうか」
佐久田が更に言うと、
「佐久田さん、僕は先に……」
黒江という男が言うや、志村と間宮に黙礼して、逃げ出すように歩き出した。
「いや、僕も一緒に行きますよ」
佐久田が追いかけるように言い、「そういうわけですので、刑事さん、失礼します」と細長い身体を志村たちに折って、あとを追った。
志村たちは身体を回し、二人を見送った。
その姿は、すぐに志村たちの来た角を曲がって隠れた。
フン、と間宮が鼻を鳴らし、
「何が名探偵だ。我々は探偵ごっこをして遊んでいるんじゃないんだ」
と、言葉を吐き出した。
「ですが、下田と天城峠の事件と言いましたね」
志村は言った。
「馬鹿ばかしい。出鱈目に決まっとる」
志村は出鱈目とは思えなかったが、反論しても怒鳴られるだけなので、黙った。
だいたい、間宮だって、出鱈目だと思っているわけではない。素人が名探偵だなどと言われるのが癪《しやく》なのだ。警察が素人の力を借りたなどと聞きたくないし、認めたくないのだ。間宮のその心の内は、志村には分かる。彼だって同じ気持ちなのだから。
ただ、癪だと思いながらも、駆け出し刑事《デカ》の気楽さからか、志村は一方で、黒江という男に興味を覚え始めていた。黒江が過去の事件をどのように解決したのか知りたい、と思った。それに、佐久田がホームから転落した件について話しているときに見せた視線もちょっと気になっていた。
「行くぞ」
間宮が歩き出した。
「桐生は研究室にいないという話でしたが、いいんですか?」
志村は、間宮のあとにつづきながら、訊いた。
「誰が、慶明大学へ行くと言った?」
間宮が言い返し、くるりと身体を回した。「行くのは、相馬圭一郎のアパートだよ。そんなのは、当たり前だろう」
負けず嫌いな悪戯坊主のような顔に、照れ隠しの苦笑いが浮かんだ。
そのとき志村は、間宮が似ていたのは、そうだ、獺《かわうそ》だ、と思った。
第四章 ねじれた符合
1
相馬圭一郎の住んでいるアパート「山城ハイツ」は、西武新宿線の上石神井《かみしやくじい》駅から歩いて七、八分のところにあった。
一階に五室、二階に五室並んだ、まだ真新しいアパートで、圭一郎の部屋は二階の中央二○三号室だった。
志村たちが慶明大学の前で佐久田と黒江壮と別れて水道橋へ引き返し、JR中央線、西武新宿線と乗り継いでアパートに着いたのは、五時三十二、三分。まだ圭一郎は帰っていないようなので、並びの四つの部屋に当たり、アパートを管理している近くの不動産屋を訪ねた。
だが、在室した二人の住人は圭一郎と全然付き合いがないという話だったし、不動産屋の社員からも、圭一郎が車を持っていないという事実以外には、「真面目な感じの学生さんですけどね」といった程度の話しか聞けなかった。
志村たちは、圭一郎が帰るまで待つつもりで、少し早いが夕食を摂《と》った。
アパートの下の路上で張っていると、圭一郎は七時過ぎに帰ってきた。
鍵を開けて部屋へ入るのを見届けてから、志村たちが訪ねると、ドアの内側で息を呑むような気配がした。
警察と聞いたからだろうか。
二、三秒の間を置いて、黙ってドアが開けられた。
目には怯《おび》えているような色が漂い、ふっくらとした丸顔が強張っていた。
「入らせてもらいますよ」
間宮が言って、三和土《たたき》に足を踏み入れたので、志村もつづいた。
おとな二人がやっと並んで立てるだけしかない、狭い玄関である。
前の上がり口は、ジーパンをはいた大きな身体が塞いでいる。
志村の顔を見ても、何の反応も示さないところを見ると、記憶がないのかもしれない。もっとも、姉が死んで気が動転しているときに現場で会った警官の顔など、覚えていなくて当然だったが。
「相馬圭一郎君だね」
間宮が確認した。
ええ、と圭一郎が答え、三、四十センチ後ろへ下がった。
間宮が、自分と志村を紹介した。
圭一郎は緊張しきった表情をしている。
「ある事件の参考までに、一昨夜……土曜日の晩、どこにいたかを教えてもらいたいんですがね」
古森のときと違って、間宮がいきなり核心の質問に入った。
圭一郎が息を呑んだようだった。
間宮から目を逸らした。
その反応から、〈この男は、少なくとも一昨夜真紀が死んだのは知っているな〉と志村は思った。
「いかがですか?」
間宮が返答を促した。
「ぼ、僕は、この部屋にいましたよ」
圭一郎が、びくびくしたような視線の定まらない目を間宮に戻して、答えた。
「ずっと?」
「ずっとです。夕方の六時頃に帰って、昨日……日曜日の昼近くまで」
「その間、一度も外出していない?」
「してません」
「それを証明してくれる方はいますか?」
「そんな人はいません。誰も来なかったし、電話もなかったから」
「車の免許証は?」
「車はないけど、免許は持っています。……ああ、僕がずっと部屋にいたことは、隣りの人にでも訊《き》いてもらえば分かるかもしれません。午前一時過ぎまで、灯りとテレビを点けていましたから」
たとえ、そうした証言が得られたとしても、部屋にいた証拠にはならない。中にいるように見せるため、点けっぱなしにして外出すればいいのだから。
間宮は、服部啓吾を襲った件については触れなかった。すでに分かっていることだし、触れても、そこから新しい事実が出てくる可能性はないからだろう。
が、佐久田がホームから落ちた件に関係していないかどうかを探るためだろう、最近、桜木町へ行ったことはないか、と質《ただ》した。
「桜木町……?」
圭一郎が、怪訝《けげん》そうな顔をしておうむ返しにつぶやき、「ありません」と首を横に振った。
もしかしたら、惚《とぼ》けているのかもしれないが、本当に間宮の質問の意味が分からなかったようにも見えた。
「前には?」
間宮が質問を継いだ。
「一年ほど前、姉と一緒に行ったことがあります。姉の恋人だった佐久田宗行と動く歩道の下で待ち合わせ、ランドマークタワーや横浜美術館へ行ったんです」
佐久田の名を口にしたせいか、圭一郎が厳しい顔つきになった。
「佐久田については、どう思っている?」
待っていたように間宮が訊いた。
「どうって、別に……」
警戒したのか、圭一郎が目を逸らして曖昧に答えた。
「恨《うら》んでいるんじゃないのかね」
「恨んではいますが、仕方ありません。佐久田が姉を殺したわけじゃないですから」
「じゃ、服部教授は?」
「あいつは許せません!」
圭一郎が激した言葉を吐いた。
間宮と志村が思わずたじろいだほど早く、強い反応だった。
怒りの籠った目を間宮に当て、指が白くなるほど両手をぎりぎりと握りしめていた。
といっても、時間にすれば、それはほんの数秒にすぎない。彼は、前にいるのが刑事だと思い至ったらしく、戸惑ったような目をして、ゆっくりと拳を開き、
「……でも、僕には、どうすることもできませんけど」
と、言い訳した。
「きみだって、服部教授に復讐ができたんじゃないのかね」
「ぼ、僕は何もしていません」
「ほう、短刀で襲っておきながら、何も、ね……」
圭一郎が、どぎまぎした表情を誤魔化すためか、大きな身体と足を動かした。
「ま、それはともかく、一昨夜、服部教授の娘さんが亡くなったんでね」
間宮が、服部を襲った件は追及せず、話を本題に戻した。
「…………」
圭一郎の顔にほっとしたような色が浮かんだかと思うと、すぐにそれは警戒の鎧《よろい》に取って代わられた。
「場所は、お姉さんが亡くなった晩に服部教授と一緒に泊まった修善寺温泉・月の湯館の離れ家『紅葉の家』だ。知っているね?」
「今朝の新聞で見ました」
「小さな記事だったのに、よく気がついたじゃないか」
「修善寺……とあったので、何となく目がいったんです」
「きみも、『月の湯別荘』へは行ったことがある?」
「いいえ、行ったことはありません」
圭一郎が強く頭《かぶり》を振った。
強すぎるぐらいの否定だった。
彼は急いで付け加えた。
「姉が死んで、修善寺まで行ったとき、名前を聞いただけです」
言いながら、目の中で翳《かげ》が揺れた。
その圭一郎の様子を見て、志村は、何かありそうだ≠ニ思った。圭一郎が犯人かどうかまでは分からない。が、「月の湯別荘」で起きた真紀の死に関係して、彼は何かを知っていて隠しているのではないか――。
しかし、それはただの推量にすぎない。具体的な根拠はない。追及したところで、彼は否定するだけだろう。
間宮もそう判断したらしい、尋問をひとまずそこで打ち切った。
志村たちは、圭一郎の部屋を出ると、さっき不在だった彼の並びの部屋と階下の住人に当たった。
それほど大きな期待をしていたわけではないが、もしかしたら圭一郎を再尋問する材料が手に入るかもしれないと思ったからだ。
その「もしかしたら……」が、圭一郎の真下の部屋を訪ねたときに起きた。
二、三歳の女の子と一緒に玄関へ出てきた三十歳前後の妊婦が、土曜日の晩七時頃、圭一郎はバイクに乗ってどこかへ出かけたのではないか≠ニ言ったのである。
彼女によると、圭一郎――彼の名前までは知らないという――のところには、大きなオートバイに乗った友達らしい若い男がよく来ていた。だから、一昨日の夕方六時頃、子供と一緒に玄関の外へ出て夫の帰りを待っていたとき、オートバイの音がアパートの入口に停まったので、その男が来たのかと思った。ところが、オートバイを降りて、ヘルメットを片手に階段を上って行ったのは、上の部屋に住んでいる、肥満児がそのまま若者になったような学生だった。いつも来ている彼の友達らしい男はずっと小柄だし、見間違えたということはない。それから一時間ほどして、夫と子供と三人で夕食を摂っているとき、誰かが鉄板の階段を駆け降りてきたかと思うと、オートバイのエンジンを掛け、乗り出す音がした――。
この証言の弱さは、夕方六時頃オートバイに乗って帰ってきたのは圭一郎らしいと分かっても、七時頃それを乗り出したのが彼だったのかどうか、はっきりしない点だった。
とはいえ、主婦の想像どおりだった可能性は低くない。むしろ高いと言える。圭一郎が友達を連れて帰宅したのなら、一時間ほどして友達だけがオートバイに乗って帰った、と見るのが自然であろう。が、六時頃、オートバイをアパートの入口に停めて階段を上って行ったのは圭一郎一人だけだった、という話だからだ。
七時にこのアパートを出てオートバイを飛ばせば、十時前後には修善寺に着くのが可能だっただろう。
志村たちは、主婦に礼を言って玄関を出ると、再び階段を上った。
一昨夜七時頃、オートバイで出かけたそうじゃないか≠ニぶつけたとき、圭一郎がどのような反応を示すか――。
それを見るためである。
間宮がチャイムを鳴らして、名を告げると、圭一郎は、警戒するような固い光を目に宿しながらも、なんですか二度も……と言いたげな不貞腐れた顔でドアを開けた。
しかし、そんな顔も、志村たちが狭い玄関へ入ってドアを閉めるまでだった。
間宮が下から睨《ね》め上げ、
「さっきの話で訂正することはないか?」
と言うや、薄ピンクの丸い顔がすっと青ざめた。
「どうなんだ?」
間宮が返答を促した。
「べ、べつに……」
圭一郎の視線が間宮から外され、揺れる。
「ないというのか?」
「ありません」
「そうか。じゃ、土曜日の晩七時頃、オートバイで出かけなかったというんだな?」
「…………」
圭一郎は答えない。答えられないのだ。
彼には、階下の主婦の証言内容は分からない。だから、誰かが、オートバイを乗り出す彼を見た≠ニ言っているかもしれないからだろう。
それはつまり、主婦の想像どおり、オートバイに乗って出かけたのは圭一郎だった、という事実を意味していた。
間宮もそう判断したのだろう、
「見た者がいるんだよ」
と、押した。
「で、出かけたけど、すぐに帰りました」
圭一郎がおどおどした目をして答えた。
「すぐに帰った!」
間宮が声を荒らげた。
「え、ええ、三十分ぐらいで……。コンビニへ、食い物を買いに行ってきたんです」
「ほう……。だったら、どうして、さっきそう言わなかった?」
「…………」
「いや、いま、俺が訂正することはないかと言ったのに、どうして訂正しなかった?」
「…………」
「えェ?」
「……な、何となくです」
「ふざけるんじゃない!」
間宮が怒鳴った。
圭一郎の身体がびくっと震えた。
大きな身体が一回り縮んでしまったように見える。視線をけっして志村たちと合わせない。
「帰らなかったから、出かけたと言わなかったし、訂正しなかったんだな」
間宮が語調を元に戻した。
「ち、違います」
圭一郎が間宮を見た。
「まだ嘘をつくのか」
「嘘じゃありません」
「おまえがコンビニから帰ったという七時半頃、誰もオートバイの音なんか聞いていないんだよ」
「それは、近くの空地に駐めてきたからです。アパートの前には駐めるところがないので、友達にオートバイを借りてきたときは、いつもそうしているんです」
「一昨夜、空地にそんなオートバイなどなかったと分かったら、どうする? おまえがこの部屋にいたと言っている時間に別の場所でおまえを見たという者が現われたら、どうする?」
「そ、そんなことはありえません」
「そうか。いまの言葉を忘れるなよ」
間宮が睨《にら》みつけた。
これ以上攻める手駒がないので、少し悔しそうだった。
「そのときでは、もう訂正が利かんからな」
圭一郎が唾を呑み込んだ。
目には強い怯《おび》えの色があったが、何も言わなかった。
志村たちは玄関を出て、ドアを閉めた。
並んで階段を降りた。
アパートを離れて、薄暗い道を駅へ向かって歩き出してから、
「一昨夜七時頃、圭一郎が友達から借りたオートバイでどこかへ出かけ、すぐには戻らなかったのは確実ですね」
志村が話しかけると、間宮が顔を前に向けたまま、「うん」とうなずいた。
「修善寺へ行ったんでしょうか?」
「そこまでは分からんが、奴の様子から判断して、何かありそうだな」
「何かというのは、事件……服部真紀の死に関係して?」
「どうも、俺はそんな気がする」
それは、志村も同様だった。
もしかしたら、圭一郎は、真紀の死とは関係ない、別のことを隠そうとしていたのかもしれない。彼が一日の夜真紀を殺害する目的で修善寺へ行ったと見るには、前に考えたように、服部たち三人の予定をどうやってつかんだのかといった疑問もある。
それでも、志村は、今夜の圭一郎の様子を観察していて、間宮と同じような感触を得たのだった。
「ただ、いくら気がする≠ニいっても、証拠がないんではどうにもならんが……」
間宮がつづけた。
「やっぱり、修善寺へ行っているんじゃないでしょうか」
「事件に関係しているとしたら、他に考えられんか」
「ええ」
「とにかく滝田係長らと相談し、修善寺温泉かその近辺で、一昨夜圭一郎らしい男を見た者がいないかどうか、調べてみよう」
と、間宮が言った。
2
同じ十月三日(月曜日)の晩、美緒は帝国ホテルで催されている「ホームズ賞」の授賞パーティーに出席していた。
ホームズ賞は、日本ミステリー協会が主催し、明啓出版が後援している、長編推理小説を対象にした新人賞である。
賞には伝統があり、権威もあるため、パーティーはなかなかの盛況であった。
六時半の開会後、三十分ほどして、選考委員の選評やら受賞者の挨拶やらのセレモニーが済むと、会場は自由な歓談と飲食の場になった。
美緒も知り合いの作家やら編集者やらに挨拶しながら、適当に飲んだり食べたりしていると、
「笹谷さん、お元気ですか?」
と、後ろから声をかけられた。
美緒が振り向くと、ウイスキーの水割りを手にした市倉正典が笑みを浮かべて立っていた。
「あ、市倉さん、お久しぶりです」
美緒は慌てて料理の皿をテーブルに置き、身体を折った。
市倉は銀座にある大手出版社・渓林書店の編集者である。年齢は三十七、八歳。現在は文庫出版部の副部長だが、美緒が清新社に入社した頃は文芸出版部にいた。十年近く、教養・学術書の編集をしていたが、その二年前に畑違いの文芸部に移ってきたのだという。美緒は二ヵ月間の研修が終わって、作家・大河内有一《おおこうちゆういち》を担当するようになると、やはり大河内を担当していた市倉とよく顔を合わせた。大河内は、作品は軽妙でユーモアに溢《あふ》れているのに、非常に気むずかしく、新人の美緒はどう対処していいのか分からず、よく困らされた。そんなとき、市倉は何かと親切に教えてくれたのである。
「そういえば、この前お会いしたのは、もう一年ぐらい前になりますか」
市倉が言った。
「はい」
「僕の耳には、笹谷さんのご活躍の話がよく聞こえてきますよ」
「まさか」
「いえ、本当です。ただし、残念ながら、本業のほうじゃないんですが」
市倉が、フレームレスの眼鏡の奥の目に、ひやかすような笑みを浮かべた。
美緒は自分の誤解に、頬《ほお》がちょっと熱くなった。
「僕の優秀な後輩と組んだ活躍譚です」
市倉がつづけた。
後輩とは壮のことだ。
市倉の専攻は東洋史だが、壮と同じ慶明大学の出身なのである。
「僕は黒江さんには一度しかお目にかかったことがないが、優秀な後輩を持つと鼻が高い。おまけに、そのフィアンセとも知り合いなんだから」
「もうやめてください」
「いえ、本当ですよ。全然、自慢にならない話なのに、若い編集者をつかまえては自慢しているんです」
市倉が、目に笑みを含んだ真顔≠作った。
美男子というのではないが、中肉中背の、嫌味のない顔をした男である。まだ独身らしい。以前、一緒にバーへ行ったとき、他社の編集者がどうして市倉さんは結婚しないのかと失礼な質問をすると、「なかなか笹谷さんのような人が現われないだけです」と冗談めかして答えたことがある。もしかしたら、その後結婚している可能性もあるが、少なくとも美緒は聞いていない。
美緒の横で笑いながら話を聞いていた別の社のベテラン女性編集者が、「それじゃ、私……」と美緒に挨拶した。
「あ、すみません」
市倉が謝った。
「いいえ」
女性編集者は笑みで返すと、別のテーブルへ移って行った。
市倉は、その後ろ姿をちらっと見やってから、今度は本物の真顔を美緒に向け、
「笹谷さんも、一昨夜の件は、当然聞いているでしょう?」
と、声を低めた。
美緒は、彼の言っている意味がすぐに分かったので、表情を引き締め、「はい」とうなずいた。
いつだったか、美緒は、市倉が学生時代、服部啓吾のゼミにいた、と聞いていた。卒業して渓林書店に入社した後も、服部に中国近代史の入門書や教養書を書かせるため、しょっちゅう東洋研究センターへ足を運んでいた、と。だから、一昨夜の件といったら、服部真紀の死以外にない。
「笹谷さんは、笹谷先生か黒江さんからでも聞かれて……?」
市倉が言いながら、窺《うかが》うように左右に目を配った。
パーティー会場にふさわしい話題ではないが、人に聞かれて困る話でもないのに、妙だった。だいたい、みなそれぞれの話に夢中なので、他人の遣り取りに聞き耳を立てている者などいない。
「いえ、今朝の新聞を見て知ったんです。それまで父も彼も知りませんでしたから」
美緒は答えた。
「そうか。昨日は日曜日でしたからね」
「はい」
美緒は、今朝、居間で朝刊を見たときの驚きを思い起こした。壮に馴《な》れ馴《な》れしくした服部真紀に腹を立てていたものの、変死したという記事を見たときは、ショックだった。真紀を恨み、軽い気持ちながら彼女を呪っていた自分が、何だか悪いことをしたようで、嫌な気分だった。
壮に電話すると、彼はまだ起きたばかりだったらしく、「それじゃ、これから新聞を見てみます」と応《こた》えただけだったが、当然ながらびっくりしているようだった。
「テレビは、日曜日の朝のニュースで流したようですけど、市倉さんはどうして知られたんですか?」
今度は美緒が訊いた。
「僕は、昨日の朝、親父の電話で知ったんです。話してなかったですかね。親父は画家の端くれで……なんていうと、孤高の芸術家たらんと思っている親父に怒られますが……修善寺に住んで絵を描いているんです」
市倉が意外な話をした。
「初めて伺うお話ですわ」
「そうでしたか。親父も、亡くなったのが服部先生のお嬢さんだと知ったのは昨日の朝のテレビを見てからだそうですが、誰かが死んだというのは午前一時頃に聞いた、と言っていました。親父の家は、温泉街の奥……桂川の北側の斜面に建っているんですが、深夜、パトカーのサイレンが鳴り響くので、起き出して下の道まで降りてみると、集まっていた人たちが、対岸にある和風旅館『月の湯館』の離れ家で誰かが死亡したらしい、と話していたんだそうです。
そうした経緯はともかく、朝になって、親父は、亡くなったのが服部先生のお嬢さんだと知り、驚いて僕に知らせてきた、というわけです」
「そうですか……」
と美緒は応えたものの、いま一つ腑《ふ》に落ちなかった。市倉の父親が、なぜ慌てたように真紀の死を息子に知らせてきたのか。死んだのが服部本人なら分かるが、娘では市倉に関係ないはずである。
美緒が解せないといった顔をしていたのかもしれない、
「というのも、親父と服部教授との間にはちょっとした関わりがあったんです」
と、市倉が説明を継いだ。
「市倉さんではなく、市倉さんのお父様と服部先生との関わりですか?」
美緒は思わず訊き返した。
「そうです。先月の四日、服部教授の秘書の相馬聡子さんという人が、修善寺で自殺したのはご存じですか?」
美緒は、知っていると答えた。
「その、相馬さんの自殺する前日、親父は服部先生と相馬さんに会っているんです。親父が、僕の紹介で知り合った服部先生の肖像画を描き、ちょうどその日、先生は相馬さんと一緒に親父のアトリエを訪ね、絵を受け取ったんです」
美緒には、市倉の言わんとしていることがまだよく分からない。
美緒が小首をかしげていると、市倉が、岡本綺堂の戯曲、『修禅寺物語』を知っているかと問うた。
はい、と美緒はうなずいた。
「それなら話が早い。実は、その肖像画にはですね……」
と、市倉が一段と声を低めて意外な話を始めた。
彼は、初めからその話をするために美緒に声をかけ、あたりを窺うような目をしていたようにも思えた。
彼によると、父・市倉周三の描いた服部啓吾の肖像画に、周三が何度なおしても、死相が出てしまったのだという。そのため、周三は、約束の期限を過ぎても、服部に絵を渡そうとはしなかった。そんな事情を知らない服部は、市倉に、どうしたのか父親に訊いてみてくれ、と電話してきた。市倉は困り、とにかく修善寺へ行って、周三の描いた絵を見せてもらった。市倉の見るかぎり、死相なんてどこにも出ていないし、絵はよくできていた。彼は自分の感じたとおりの感想を述べ、早く服部に渡したほうがよい、と勧めた。その結果、周三は服部に連絡を取り、服部は、九月三日、相馬聡子と一緒に修善寺温泉へ行った折に周三のアトリエを訪ね、喜んで絵を受け取った。
その翌日、周三は、服部と一緒に絵を取りにきた聡子が死んだのを知った。
周三は、妙な符合に驚きながらも、死んだのが服部ではなく、聡子だったことに、『修禅寺物語』の面作り師・夜叉王とは大きな違いだな≠ニひとり自嘲《じちよう》した。
それだけなら、周三も偶然の符合だったのだろうと思い、こだわりは自然に薄れていったにちがいない。
ところが、それから一月もしないうちに、今度は服部啓吾の娘・真紀が同じ修善寺で変死した。
周三は、驚くと同時に気味が悪くなり、日曜日の朝、テレビを見るや、息子に電話してきたのだった――。
「もちろん、真紀さんの亡くなった件と、親父の描いた絵とは何の関係もありません。関係ありようがないんですから。ですが、僕も薄気味悪くなり、気になっていたんです。そうしたら、笹谷さんの姿が見えたので、話してみようと思ったわけです」
市倉が話を締めくくった。
美緒に話せば、それは当然壮に伝わる、と予測しているにちがいない。
しかし、こんな話は、壮にだってどうにもならないだろう、と美緒は思った。
市倉も言ったように、どう考えても、周三の描いた服部の肖像画と、聡子と真紀の死が関係しているはずはないのだから。
いや、関係あるかもしれないが、それは合理の世界≠フ話ではない。非合理の世界≠フ話である。『修禅寺物語』の中で、面作り師・夜叉王の技量が源頼家の死を予見したように、画家・周三の技量も服部を描いた絵を通して、服部の近くにいる二人の女性の死を予見した――。
そう解釈できないことはない。
だが、そうした非合理の世界≠フ話は、理性と論理の人間である壮の推理にはなじまない。
それにしても、不思議だった。
夜叉王の物語は岡本綺堂の想像力の産物だが、いまの話は市倉が嘘をついていないかぎり――それはないだろう――フィクションではない。としたら、市倉の父親の周三には、周三自身にも気づいていない予知能力があるとしか考えようがなかった。
美緒は、父親や壮とは違う。彼らのようなごりごりの合理主義者ではない。だから、世の中には科学や論理では解明できない事柄が沢山ある、と考えている(父や壮は、現在は不思議に見える現象でも、インチキでないかぎり、いずれ必ず科学的に解明できる、と言うのだが)。それでも、それらしい例に実際に出会うと、美緒とて、何かからくりがあるのではないか、と疑いたくなる。
美緒が考えていると、
「いかがですか?」
と、市倉が訊いた。
「私にはどう考えたらいいのか、まるで分かりません」
美緒は正直に答えた。
「それじゃ、真紀さんの死をどう思いますか? 鍵の掛かった離れ家の浴室で変死していたとしか発表されていませんが」
「さあ……」
美緒は首をかしげた。
「実は、服部研究室に、学生時代同期だった桐生利明という助教授がいるんです。昼、その桐生に電話して訊いたところ、警察は殺人の疑いが濃い≠ニ見ているらしい、というんですがね」
「殺人ですか」
「離れ家のキーは居間にあって、ごく限られた者を除いて合鍵を作るのは難しかったという話ですから、もし殺人なら、密室殺人ということになるようです」
「不思議なことばかりですわね」
「いや、これは親父の絵の問題とは違います。一見、不可能に見えても、必ず合理的な解答があるはずです。それがなければ、殺人は起こりません。真紀さんは心臓が弱かったそうですから、もしかしたら、その点を利用した方法があったのかもしれません」
市倉が言ったとき、美緒も知っている田久保《たくぼ》という作家が、「やあ、市倉さん」と笑みを浮かべて近づいてきた。
それをしおに、市倉が、
「僕の優秀な後輩に、ぜひ考えてくれるように言ってくれませんか」
と、挨拶代わりに言葉を継ぎ、「じゃ、失礼」と片手を上げた。
が、彼は離れて行きかけ、ふっと表情を引き締めた。これまでより美緒に顔を近づけて、囁《ささや》くように言った。
「いまの、服部教授の肖像画に死相云々の話は桐生にも話していませんので、その点、頭に入れておいてください。先生の耳に入ったら、気を悪くされるでしょうから、僕の後輩に話すときも、よろしく……」
3
翌四日の午後、志村は、間宮と他の二人の刑事とともに、日吉の茂林寺という寺で行なわれた服部真紀の葬儀に参列した。
三日の晩は、東京発九時三十一分の新幹線に乗って三島まで行き、迎えにきていたパトカーで大仁南署へ帰った。待っていた滝田たちと四十分ほど話し合った後、仮眠室になっている柔・剣道場で朝まで寝《やす》み、今朝は地取り班に交じって修善寺の温泉街を聞き込み、「オートバイに乗った相馬圭一郎らしい男」の目撃者捜しをした。
前夜、志村と間宮は、圭一郎のアパートで二度彼を尋問し、一日の夜七時頃、圭一郎は友人から借りたオートバイでどこかへ出かけ、すぐには帰らなかった≠ニいう見方で一致した。コンビニへ行って三十分ほどで帰ったというのは嘘にちがいない、と。
といって、志村と間宮のそうした感触だけでは、圭一郎が否認するかぎり、追及する手立てはない。
そのために、志村たちはアパートを引き上げざるをえなかったのだが、もし圭一郎が真紀の死に関わっているとしたら、真紀の死亡推定時刻――一日の夜十時〜十一時頃――オートバイに乗って修善寺に現われている可能性が高い。
彼らはそう話し合い、本部に帰って報告すると、それは滝田らによって支持された。
当然ながら、一日の夜、修善寺温泉かその近辺で圭一郎を見たという者が見つかれば、非常に大きな意味を持つ。真紀の死が殺人(か過失致死)だった可能性がこれまでよりいっそう高くなり、そこに圭一郎が関わっていたことがほぼ確実になる。
しかし、事はそう簡単には運ばなかった。
圭一郎らしい男の目撃者を見つけ出せないまま、志村たちは昼前に修善寺を離れたのだった。
葬儀会場では、志村たち四人は参列者たちの間に散り、服部啓吾と真紀に関する情報を収集した。
その結果、これといった決定的な事実は聞けなかったものの、服部も真紀も周囲の人間に良く思われていなかったことだけは、いっそうはっきりした。
受付や連絡等の雑用は、服部研究室の研究員と事務員が担当しているらしい。忙しげに会場をあちこち行ったり来たりしている男の中に、佐久田と桐生利明がいた。
どの男が桐生かは佐久田に聞いたのだ。
桐生は、薄茶の入った眼鏡をかけた、頭の良さそうな色白の男だった。細い、釣り上がりぎみの目をしている。昨日、神山に聞いたところによると、年齢は三十八歳。独身。中肉中背と言いたいところだが、腹が少し出かかっている。
志村たちが、それとなく桐生の様子を観察していると、向こうも――佐久田に志村たちが刑事だと聞いたのかもしれない――探るような視線を時々ちらちらと彼らのほうへ向けた。
志村は、昨日会った黒江壮という男が来ていないか、と目で探してみた。だが、彼の姿はないようだった。同じ理学部といっても、真紀とそれほど親しい関係ではなかったのかもしれない。
出棺が済んで、手伝いの人たちの仕事が一段落ついたところで、志村と間宮は他の二人の刑事と別れた。他の者に気づかれないように、桐生利明を神奈川県警に用意してもらった覆面パトカーに誘った。
服部啓吾と真紀に関して事情を聞かせてほしい、と言ったのである。
桐生は、境内の隅に駐められた車に、志村たちより四、五分遅れてやってきた。
車は白のセドリックである。
運転の警官は三十分ほど帰ってこない。
桐生と間宮がリアシートに並んで座り、志村は助手席に掛けて上体を回し、桐生と斜めに向き合った。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
間宮が言うと、桐生が唾を呑み込んでから、「いえ」と答えた。
緊張し、居心地が悪そうだった。
彼の様子を観察しているのだろう、間宮はすぐには質問を始めなかった。その間に、桐生が何度も唾を呑み込むのが分かった。膝の上に置いた手を握ったり開いたりし、鈍い光を宿した細い目で、時々上目づかいに間宮と志村を窺った。
「桐生先生は、以前、服部真紀さんと交際されていたと伺ったんですが――」
間宮が切り出すと、桐生の喉仏がまたごくりと動いた。
「本当でしょうか?」
と、間宮がつづけた。
「昔の話です」
桐生が肯定した。
ただし、古森によると、それは三年前だというから、昔ではない。
「そのとき、真紀さんにひどい仕打ちを受けられ、別れられた、とか?」
間宮が、「捨てられた」という言葉は使わずに婉曲に言った。
「もう忘れました。そんなこともあったかもしれませんが」
「ですが、先生はその後もずっと真紀さんを思っておられたんじゃないかと……」
「やめてください」
桐生が、声を高めて間宮の言葉を遮《さえぎ》った。口元が不快げに歪んでいた。
彼はつづけた。
「誰がそんな話をしたのか分かりませんが、どうして、私の個人的な事情を刑事さんにとやかく言われなければならないんですか? 過去に私と真紀さんとの間に何があろうと、私が彼女をどう思っていようと、あなたたちに関係ないじゃないですか」
「私たちには関係ありません。ただ、もしかしたら真紀さんの死に関係があるかもしれないわけです」
「じゃ、私が真紀さんを殺したとでも……!」
桐生が甲高い声を出した。
目には怒りの色があったが、本ものかどうかは分からない。
「私たちは、そこまで先生を疑っているわけじゃありません。失礼があったら、お詫びします。ただ、先生にかぎらず、誰かが真紀さんと親しくしていたと聞けば、調べないわけにはゆかないんです」
「ということは、真紀さんは殺されたとはっきりしたわけですね?」
桐生が興奮を鎮めた。
「そういうわけじゃありませんが」
「あ、まだなんですか?」
桐生が、なーんだといった顔をした。
それだからだろう、間宮がむっとしたような表情をして、
「でも、その可能性が強まりました」
と、明かす必要のないことを口にした。
「そうですか」
桐生の目が、一瞬きらりと光ったように感じられた。
「ですから……」
「それなら、どうぞお好きなように」
桐生が間宮の言葉を遮り、シートに背をもたせかけた。
真紀の死に無関係だからか、それとも志村たち警察の手の内が見えたからか、最初に見せていた、緊張した居心地の悪そうな様子は消えていた。
「先生は最近、服部教授とうまくいっていなかったと伺ったんですが」
間宮が質問を進めた。
桐生がシートから背を離し、さも呆《あき》れたというような顔を間宮に向けて言った。
「本当に誰ですか、刑事さんにそんな出鱈目《でたらめ》を吹き込んだのは?」
それから目を笑わせ、「私は、教授とは極めてうまくいっていますよ」
「すると、服部先生が後継教授を公募で決めるという話は嘘ですか?」
間宮が、神山に聞いた話をぶつけた。
桐生の目が一瞬刃のように光り、顔がふっと強張った。
だが、彼は、すぐにそれをなごませ、
「ああ、その話ね」
と、いかにも軽い調子で応じた。「確かにそうした噂はあります。しかし、先生はまだ決められたわけじゃありません」
「ですが、そうなったら、永年、服部教授の下で教授に尽くされてきた先生はどうなるんですか?」
「私も応募しますから、私が次期教授の第一候補になるはずです」
「その結果、別の人が選ばれたら?」
「そのときは仕方ありません。実力のある人が教授になるのは当然ですから」
唇に笑みを浮かべて答えた。
理屈はそのとおりにちがいない。が、桐生は、将来教授になれると考えたからこそ、服部に自分の研究論文を提供し、長い間、彼に尽くしてきたのだろう。それなのに、最後に裏切られ、仕方ない≠ナいられるか。もし、いられるとしたら、よほどの大人物だが、桐生がそのような人間には思えなかった。
といって、その点を突いても何も出てこないと間宮は判断したのだろう、「分かりました」と引き、
「それでは、失礼ですが、一日――土曜日の晩、どこにおられたか、教えていただけませんか」
と、核心の質問に移った。
「構いませんよ。それで、私に対する疑いが晴れるのでしたら」
桐生が待っていたように受けた。
志村は、メモが取りやすいようにちょっと身体を動かし、桐生が再び口を開くのを待った。
「一日の晩は、六時半に市倉正典という友人と六本木で待ち合わせ、十一時頃まで飲んでいました」
桐生が話し出した。「それから、友人は電車で自由が丘の自宅へ帰り、私はタクシーで本郷のマンションへ帰ったんです。マンションに帰り着いたのは、確か十一時半近くでした。その後、シャワーを浴び、テレビの深夜映画を観ながら、二時頃までウイスキーをちびちびやっていましたが、生憎、私は独り暮らしですので、それを証明してくれる者はいません」
「市倉さんという友達とは、六時半から十一時までずっと一緒におられたんですか?」
間宮が確認した。
「そうです。彼も私も、トイレぐらいは別々に行ったかもしれませんがね」
桐生が目に余裕の笑みをにじませた。
もし桐生の言うとおりなら、彼には真紀を殺せない。六時半には、真紀はまだ生きて服部、佐久田と一緒にいたのだし、桐生が市倉正典と六本木で別れた十一時には、六本木から車を飛ばしても二時間以上かかる修善寺温泉の宿で、真紀はすでに死んでいた可能性が高いのだから。
となると、桐生がもし犯人だとしたら、市倉正典という男と一緒にいたという話が嘘でなければならない。
間宮も、志村と同じように考えたのだろう、市倉正典というのはどういう男か、と訊いた。
「大学時代の友人です。同じ、服部教授のゼミにいたんです。ただ、現在は大学や研究室とは関係なく、渓林書店のエディターをしています」
桐生が答えた。
志村も、大手出版社である渓林書店の名は知っている。
「卒業後もずっと親しくされているんですか?」
「いや、卒業した後、しばらく付き合いがなかったんですが、十年ぐらい前、彼が服部先生の著作を出版したいと言って研究室に出入りするようになってから、また時々会うようになったんです。今は、彼の部署が替わって、研究室には来ませんが、それでも年に一、二回は一緒に飲みますか……。彼も僕も独身で、気楽な身分ですから」
「念のために、お二人で行かれた六本木の店の名を教えていただけませんか」
桐生が、地中海料理のレストラン名と時々行くというクラブの名を挙げ、食事をしてからクラブへ移ったのだと説明した。
それを聞いて、志村は、桐生の話にたぶん嘘はないな、と思った。これから市倉正典という男に当たり、六本木のレストランとクラブを訪ねることになるだろうが、結果は見えているような気がした。桐生が、調べられてすぐにばれるような嘘をつくとは思えなかったからだ。
それはつまり、桐生利明は容疑者のリストから外れる≠ニいう意味であった。
間宮が志村の顔を見た。何か落とした質問はないか、と目顔で訊いてきたのだ。
志村は、ないと言うように小さく首を横に振った。
そのとき、「あ、そうそう」と、桐生が思い出したように言った。
「真紀さんの件とは関係ありませんが、市倉の親父さんは市倉周三という多少は名の知られた画家で、修善寺に住んでいるんです。そうした縁から、服部先生の肖像画を描いた、と言っていました。今年の冬、偶然、市倉が『踊り子号』の中で先生に会い、紹介したんだそうです」
「ほう」
間宮が桐生に目を戻した。興味を覚えた様子だった。
桐生の言うように、確かに、真紀の件とは関係ないだろう。が、〈修善寺〉という符合に志村もちょっと興味を引かれた。
と、桐生が、もう一つの符合≠ノついて話した。
「その肖像画が八月の終わりに出来上がり、先生は九月三日に相馬聡子さんと一緒に市倉さんのアトリエへ絵を取りに行かれたんだそうです」
「では、相馬さんは、その晩、服部教授と泊まっていた旅館の離れ家を抜け出し、亡くなった――?」
間宮が、今度は少し驚いたような声を出した。
「ええ」
眼鏡の奥の桐生の目が、意味ありげに鈍く光った。
それが、彼のいかなる心の内を映したものか、志村には見当がつかない。が、桐生が服部を信頼し、彼のためを思っていたら、相馬聡子の話は持ち出さなかったのではないか、と思った。
市倉正典の父親の話、服部啓吾の肖像画の話はそこまでだった。
多少引っ掛かる話ではあっても、修善寺という場所も、聡子が服部と一緒に絵を取りに行った翌日に死んだという事実も、偶然の符合としか考えられなかったからだ。
間宮が桐生に、時間を取らせた詫《わ》びを述べた。それから、急に思い出したように言った。
「ああ、念のためにお尋ねしたいんですが、佐久田さんと真紀さんの仲は、先生の目にはどのように見えましたか?」
「どのように、とは……?」
桐生が訊き返した。
「たとえ婚約していても、いろいろありますからね。本当は、この男と、あるいはこの女と結婚したくないのに、と思っているとか……」
「少なくとも、佐久田君にとっては、服部先生と縁戚関係を結ぶことは大きなプラスになったはずです」
桐生が間接的な答え方をした。
「ということは、佐久田さんはそうした計算から真紀さんを選んだのであって、真紀さんを愛してはいなかった?」
「私には、他人の心の内は分かりません」
「亡くなった相馬聡子さんは、佐久田さんの恋人だったとか」
「ええ」
「どうして二人は別れたんでしょう?」
桐生が、質問の真意を探るような目で間宮を見た。
「佐久田さんが打算から相馬さんを捨てたのではないか、と聞いたのですが」
間宮がつづけた。
「あるいは、そうだったかもしれません」
桐生が慎重に答えた。
「佐久田さんに対する真紀さんのほうの気持ちはいかがでしたか?」
「さあ……」
「彼に夢中といった感じでしたか? それなら外から分かったんじゃないですか」
「夢中ではなかったですね。亡くなった人の悪口を言いたくありませんが、真紀さんは我儘《わがまま》で気紛れな女王様ですから、人のものを奪うまでは熱心でも、自分のものにしてしまうと、熱が冷めてしまうんです」
桐生が、自分に対する真紀の仕打ちを思い出したのか、悔しげとも憎々しげとも見える複雑な表情をした。
「佐久田さんの場合も、相馬さんから奪って婚約したので、もう熱が冷めてしまっていた?」
「私にはそのように見えました。ですから、生きていたら、いずれ佐久田君も振って、また別の男に乗り換えていたかもしれません。事実、最近は理学部数学科の黒江壮という助手に色目をつかっている、という噂でした。もっとも、黒江という人には、主任教授の娘さんという婚約者がいるので、いくら色目をつかっても、振り向いてもらえなかったようですが」
黒江壮の名が出てきたからか、間宮が心なしか口元を歪めた。
間宮は最後に、相馬圭一郎が服部に襲いかかったときの様子について桐生に質し、彼を解放した。
4
志村たちは、その後、東急東横線と地下鉄を乗り継いで銀座まで行き、渓林書店に市倉正典を訪ねた。
取り次ぎの内線電話を入れてくれた受付の女性に言われ、丸テーブルとソファの置かれたホテルのロビーのような応接室で四、五分待っていると、市倉が降りてきた。
桐生利明と大学の同期だというから、三十七、八歳か。背は桐生と同じか、彼より一、二センチ高い百七十センチ前後。美男子というのではないが、どことなく爽やかな印象を与える、歳より若々しい感じの男だった。お洒落なのか、臙脂《えんじ》に金色の斜めのストライプが入ったネクタイ、茶のスラックス、それに白っぽいベージュのジャケットという服装が決まっていた。
彼は、志村たちと名刺を交換すると、隅のカウンターの中にいる女性が淹《い》れてくれたコーヒーを三つ、盆に載せて運んできた。
その一つずつを間宮と志村の前に置いて勧め、自分はブラックで啜《すす》った。
「少し前、桐生から電話がありました。警察は自分を疑っているようだから、一日の晩のアリバイを訊きに行くだろうって」
笑いながら、先に言った。
桐生に頼まれて口裏を合わせておきながら、疑われないようにわざとそうした言い方をした場合も考えられたが、それはないようだとじきに分かった。
市倉は、桐生と一緒に行ったクラブには作家の接待などで何度も行っているのでママもホステスも顔見知りだし、一日の晩は他社の編集者もいた、と言ったからだ。
桐生が友人の市倉に口裏合わせを頼んだというだけなら、ありうる。が、初対面の複数の人間に偽証を頼むなんて、危険すぎる。そうした危険を冒すぐらいなら、自宅に一人でいたと言い張ったほうがはるかに安全なのは自明だろう。
間宮は、市倉の話を聞き、「そうですか……」とうなずくと、
「しかし、桐生さんは、真紀さんと服部教授に対して、複雑な感情を抱いておられたようですが」
と、水を向けた。
市倉が、そのとおりだと認めた。
「服部教授との件はだいたい聞きましたが、真紀さんとの間には具体的にどういうことがあったんですか?」
間宮が質問を進めた。
桐生はほぼシロと決まったのに、今更桐生と真紀との関わりを聞いたところで何にもならないのではないか。志村はそう思ったが、念のためであろう。
「婚約寸前までいきながら、桐生は振られたんです」
市倉が答えた。
「婚約していたわけじゃないんですか」
「婚約はしていません」
「どうして振られたんでしょう?」
「いや、振られたという言い方も、正確じゃないかもしれません。桐生は真剣でしたが、真紀さんのほうは初めから桐生なんか眼中になかったんですから。つまり、桐生は、真紀さんがある男の気を引くために利用した、いわば当て馬だったんです。ですから、真紀さんは、どうやってもその男の顔を自分のほうへ向けられないと分かったとき、当て馬も必要なくなり、捨てたわけです」
「そりゃ、ひどい!」
間宮が、ただの相槌ではない本気の声を出した。
「ところが、それだけじゃないんです」
市倉がつづけた。「話を聞いたときは、他人ごとながら腹が立ち、彼女の横っ面を張り飛ばしてやりたい、と思ったぐらいです」
穏かな顔に似合わず、熱血漢なのか、口元に興奮の色を浮かべた。
「何をしたんでしょう?」
間宮が先を促した。
志村も、いつの間にか市倉の話に引き込まれていた。
「当時、桐生は今よりもっと腹が出て肥っていたんですが、真紀さんは、その容姿を、研究生や大学院生の前で笑いの種、嘲《あざけ》りの対象にしたんです。本気にするなんて、バッカみたい。いくらなんだって、私があんなでぶで短足のオジサンと結婚するわけがないじゃない≠サんなふうに言って」
でぶで短足≠ニいう言葉に、志村は思わず市倉から目を逸らした。高校時代、彼も陰でそう言われていたからだ。
間宮も市倉も、志村のそんな反応には気づかずにつづける。
「しかし、桐生さんは、そうした侮辱もじっと我慢した?」
「我慢するしかないでしょう。なにしろ、相手は、彼を生かすも殺すも自由にできる教授の娘なんですから。もし、そこで堪忍袋の緒を切ってしまったら、研究室を出て行く以外にありません」
「なるほど。しかし、そうやって、桐生さんが長い間耐えてきたとすると、ここで服部教授が彼を裏切って捨てるかもしれないと知ったら、それこそ堪忍袋の緒が切れますね。そして、その怒りは、教授の大切な娘さん――かつて自分を恥ずかしめ、侮辱した真紀さん――に向けられたとしても、不思議はありませんね」
「なるほど」
と、今度は市倉がうなずき、「確かに、刑事さんのおっしゃるとおりかもしれません。ですが、桐生が真紀さんの死に関係ないのは、この僕が一番よく知っています。繰り返しますが、真紀さんが修善寺温泉の宿で亡くなった頃、彼は僕と一緒に東京にいたんですから。さっきも言ったように、お疑いなら、どうぞ裏を取ってください」
「分かりました」
と間宮が応えて、口を噤《つぐ》んだ。
桐生の内に、服部と真紀に対するいかに強い恨みがあったとしても、真紀が死んだとき現場に立てないのでは、どうにもならないからだろう。
間宮は、頭の中を整理するかのように、四、五秒視線を下に向けていたが、再びそれを上げて市倉に当て、
「市倉さんのお父上は修善寺に住んで、絵を描いておられるとか?」
と、言った。
市倉が、ええとうなずいた。
「服部教授に頼まれて肖像画を描いてやり、相馬聡子さんの亡くなる前日、絵を取りにきた先生と相馬さんに会われている、という話を桐生さんに伺いましたが」
「そうなんです。それで、親父もちょっとショックを受けているんです」
「ショック?」
間宮が訊き返した。「ということは、先生と相馬さんがお父上のアトリエを訪ねたとき、何かあったんですか?」
「あ、いえ……そういうわけじゃなく、ただ、その晩に相馬さんが亡くなったということで……」
市倉が、どぎまぎしたように目を落ちつきなく動かした。
妙だった。「ショック」という言葉が少し強すぎる表現だったので、間宮は訊き返したのだろうが、初めて訪ねてきた女性が、それから半日と経《た》たないうちに自殺したと知れば、市倉の父親が複雑な思いにとらわれても不思議はない。それを「ショック」と表現しても、それほどおかしくない。それなのに、市倉は、間宮に「アトリエで何かあったのか?」と問われ、なぜどぎまぎしたのか。なぜ落ちつきを失ったのか。
市倉周三のアトリエで、相馬聡子の自殺に結び付くような出来事が、何かあった。そのために、周三は、文字どおりショックを受けている。しかし、市倉は、それを志村たち警察に明かしたくないのではないだろうか。
間宮も、市倉の反応に志村と同様の不審を抱いたらしい。
「市倉さんは、何かご存じのようですね」
と、言った。
「何かって、何をですか?」
市倉が問い返した。すでに落ちつきを取り戻したらしい。惚《とぼ》けているようにも、本当に何も知らないようにも見えた。
「その日、アトリエで、次の日に相馬さんが自殺したと聞いたとき、お父上がショックを受けられるようなことがあったんじゃありませんか? それを、市倉さんはお父上から聞いているんじゃありませんか?」
「そんな話は聞いていませんね。だいたい、服部先生の肖像画を取りに見えただけのアトリエで、そんなこと、あるわけがないじゃないですか」
「そうですか」
間宮は引いたが、まだ半信半疑の様子だ。市倉が聞いていないと言う以上、どうにもならないが、志村もいま一つすっきりしなかった。市倉の言うとおりなら、「アトリエで何かあったのか?」と間宮が最初に訊いたとき、市倉はなぜ慌てたのか、と思った。
「そんなことより、刑事さんがこれだけ熱心に調べておられるからには、真紀さんの死は病気や事故ではなく、殺人に間違いない、ということなんですね?」
市倉が、桐生と同じ質問をした。
「そういうわけじゃありません。多少なりともその疑いがあるかぎり、私たちとしては調べないわけにはゆかないんです」
間宮も同じように答えた。
「では、もし殺人だった場合、犯人は真紀さんをどうやって殺した、と考えておられるんですか?」
「まだ結論は出ていません」
間宮は、分からないとは言わなかった。
「偶然の結果ではなく、確実に真紀さんを殺害するのはかなり難しかったはずだ≠ニ聞いていますが、一つ、良い知恵をお貸ししましょうか」
市倉が笑いながら言った。
「良い知恵? 市倉さんにはその方法の見当がついているんですか?」
半信半疑の表情ながら、間宮の語調には期待がにじんでいた。
「僕にはつきません。ですが、その解決に力になりそうな人間を知っているんです」
志村は、もしかしたら……と思った。
「誰ですか?」
間宮がぶっきらぼうに訊いた。
「慶明大学数学科の助手をしている黒江壮という人です。ご希望なら、黒江さんのフィアンセをご紹介しますから、力を貸してもらったらいかがですか」
市倉が、志村の想像していた名を挙げた。
そして、それを聞くや、やはり志村の予想どおり、間宮が苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
志村と間宮は渓林書店を辞した後、一日の夜市倉と桐生が六本木のクラブで一緒になったという編集者に会い、更にそのクラブを訪ねた。
その結果、桐生が一日の夜少なくとも八時半から十一時まで六本木にいたのは確実だ、と判明した。
これで、昨日と今日の捜査で名の挙がった相馬圭一郎、古森芳樹、桐生利明という三人の容疑者候補≠フ中から、志村たちはまず桐生の名を消した。
桐生利明は、三人の中で一番容疑が濃いのではないか、と志村たちが考えていた人物だった。
三人のうち、圭一郎には、わずか一ヵ月前姉の聡子が(たぶん服部に肉体関係を強要されて)自殺した、という強い動機が存在する。それを恨んで、短刀を持って服部を襲ったという「前科」がある。また、彼には一日の晩のアリバイがなく、友人のオートバイで修善寺へ行った可能性がある。とはいえ、彼が真紀の殺害を準備し、「月の湯別荘」の敷地に忍び込んだと見るには難点も存在した。彼には、服部たちの予定をつかむのが難しかったはずだし、昨夜会ったときの印象と「前科」から推して、彼ならもっと直線的な行動――真紀ではなく服部本人に対する何らかの行動――を取ったのではないか、と想像されるからだ(それに、六本木へ来る前、間宮が滝田に電話すると、今日の聞き込みでは圭一郎らしい男の目撃者は見つからなかった、という話であった)。
では、もう一人の古森芳樹はどうか。彼の場合、服部だけでなく真紀に対しても相当強い恨みを抱いていたと思われる。だが、それは五年も前の出来事が原因であり、その後は彼らと関係のない世界で生活していた。それが今になって真紀を殺したと見るには、かなりの無理があった。
そうした古森と比べると、桐生の恨みは現在形である。真紀の侮辱を受けたのは三年前でも、今まさに服部の大きな裏切りに遇おうとしていた。しかも、彼なら、服部たちの予定をつかみ、真紀を旅館の離れ家に一人にさせるのも難しくなかっただろう。
ところが、その桐生は、一日の晩修善寺に立てなかったのである。真紀が修善寺温泉の旅館の離れ家で死亡した頃、東京の六本木にいた事実が判明したのだった。
これでは、一度は本命ではないかと疑った男でも、「容疑者候補」からその名を消さざるをえなかった。
志村たちは、明日からは服部啓吾のセクハラ疑惑に関係している女性たちについて調べてみよう、と話し合いながら伊豆へ帰った。
5
それからまる五日が経過――。
十日(体育の日)、志村と間宮は、午前十時四十五分に東京駅を出る総武本線・銚子行きのL特急「しおさい3号」に乗って、千葉の九十九里浜へ向かった。
志村たちは座れたが、自由席はすぐに一杯になり、次の錦糸町では通路にも乗客がほぼ切れ目なしに並んだ。
座れないといって子供が騒ぎ出した家族連れを見て、隣りの間宮が、
「ふん、座りたかったら、早く来て並びゃいいじゃないか」
とつぶやくのが志村の耳に入った。
世間は、土曜日、日曜日、体育の日とつづいた連休に浮かれているのに、自分たちは無縁のため、面白くないのだった。
真紀の死は、いまだに殺人(または殺人を意図して忍び込んだ結果としての過失致死)とは断定されていない。
容疑者候補として浮かんだ三人のうち、桐生利明にはアリバイが成立。つづいて、古森芳樹も来月結婚すると分かり、五年も前の恨みからこんなとき殺人を犯すとは考えられないと判断され、ほぼ容疑圏外へ去った。残りは相馬圭一郎一人だが、彼についても、一日夜の修善寺近辺における目撃者捜しを続けているにもかかわらず、まだ彼らしい男を見たという者は見つかっていない。
一方、一日の晩、大貫と名乗って服部の家に電話をかけてきて彼を自宅へ帰らせた男の正体も、意図も不明だった。いや、その意図は、真紀を旅館の離れ家に一人にしようとした≠ニしか考えられない。その判断がある以上、真紀の死を病死か事故死と断定して、捜査を打ち切るわけにはゆかないのである。
それに、桐生と古森は容疑圏外へ去っても、志村たちが調べれば調べるほど、真紀には、(本人あるいは父親の服部への恨みと憎しみから)殺されても不思議ではない状況が明らかになっていたのだった。
この間、志村たちは、服部啓吾に「殴られ、強姦された」と言って人権侵害の救済申し立てを行なった元秘書を初めとする、服部に性的な関係を強要された疑いのある元秘書や元研究生、元学生ら十一人(なんと十一人である!)の名を調べ出した。そして、他の刑事たちと手分けして、できるだけ本人に、本人に面会できない場合は家族か代理人(弁護士)に、会おうとしてきた。
このうち、六人が、多少言い方は違っても、「幸い、当方は大事に至らないうちに逃れたが……」といった前置き付きで、服部に性的な関係を迫られた事実を証言した。更に、その中の何人かは、「こうして話せるのは被害が軽かったからで、黙っている人の中にこそ服部に酷い目に遇わされ、深い傷を負っている者がいるはずだ」と言った。
志村たちは、これら六人と、証言を拒否するか本人にも家族にも会えなかった者五人、それに、もしかしたら服部の被害を受けているかもしれない者≠ニしてその後新たに名前が出た三人について、現在の生活状況、家族関係、交友関係、十月一日夜の所在等について調べた。
その結果、所在のはっきりしない者四人を除き、服部本人に対する直接の復讐行為ならともかく、計画的に娘の真紀を修善寺の宿に一人にし、何らかの方法で死に至らしめた女性はいない、という結論を得た。
志村たち警察がリストアップした合計十四人の女性(この数から見て、「性的関係を強要したといった話は、誰かがために流しているもので事実無根である」という服部の言い分が嘘であるのは明白だった)の他にも、服部の被害者がいる可能性はないではない。
そのため、それらについては引きつづき関係者からの聞き込みをつづけることにして、当面、多少なりとも疑惑の残っている四人に関して更に調べを進めることになった。
そのうち、志村と間宮の担当したのは、肥沼千香《ひぬまちか》という女性に関してだった。
肥沼千香は、佐久田と同期だったというから、現在三十歳。八年前の秋――卒業を数ヵ月後に控えた大学四年の秋――アパートの自室で大量の睡眠薬を飲んで自殺を図り、一命は取り留めたが、そのまま大学を退学し、千葉県の実家へ帰った。自殺を図った原因、動機については本人が一切語らなかったらしく、不明のまま。夏休み前から、卒業論文の指導教官である服部に可愛がられていたため、服部との間に何かがあったのではないか、と囁かれた。佐久田はそんなことはありえないと服部を弁護したが、桐生はその可能性を否定しなかった。また、当時、佐久田や千香と一緒に服部に卒論の指導を受けていた栗原奈美《くりはらなみ》という女性は、千香は二十二歳にしては珍しいぐらい純情だったため、言葉を代えて言えば奥手で世間知らずだったため、教授の服部がまさか自分に手を出すなどとは想像していなかったようだが、服部は奈美にも何度かちょっかいを出したし、千香を奈美以上に気に入っていたので、夜、研究室に二人きりになったときにでも襲いかかったにちがいない≠ニ明言した。
佐久田や桐生によると、千香には恋人がいた様子はないという。一方、奈美は、密かに交際していたのか片想いだったのかは分からないが、千香には好きな人がいたようだった、と言った。ただ、奈美は、だからといって千香の自殺の原因が失恋だったとは考えられない、もし失恋したとしても、千香のような女性はそっと悲しみを胸の奥にしまって、表面はそれまでと変わらない顔を装いつづけただろう、という。
肥沼千香が自殺を図った原因が何であれ、志村たちとしては、一度彼女に会って直接話を聞きたい、と思った。八年前の自殺未遂事件が、今度の真紀の死に関係しているとは思えなかったが、念のためである。佐久田や桐生だけでなく、奈美も、千香が現在どこで何をしているのか知らない、という話だったからだ。八年前、救急病院で命を取り留めるや、上京した父親に実家へ連れ帰られ、以後、大学へは一度も顔を出さなかったらしい。また、奈美は何度か電話をかけたが、いつも父親か母親が出て、千香は親戚の家へ行っていると言い、手紙を出しても梨《なし》の礫《つぶて》だったのだという。
志村と間宮が成東《なるとう》駅に降り立ったのは、十一時五十分。
ホームに、この町の出身だという、『野菊の墓』で有名な伊藤左千夫の歌碑が立っていた。近くに生家もあるらしい。
改札口を抜けて、広場へ出た。
大きな駅ではないが、広場には客待ちのタクシーが十台ほど停まっていたし、観光案内所もあった。
多少雲があり、日射しはあまり強くなかったが、それでも暑いぐらいだった。先入観のせいかもしれないが、何となく空が明るく、海の近いことを感じさせた。
奈美に学生時代の名簿で調べてもらったところによると、肥沼千香の実家は、駅から五、六キロ行った海岸寄りのようだった。
志村たちは観光案内所でその集落への行き方を尋ね、しばらく待って、循環バスに乗った。
案内所で聞いた停留所までは、二十分足らずで着いた。
もらった絵地図によると、海岸線とほぼ平行に走っている県道だ。といっても、砂浜からはまだ四、五百メートルは離れているらしい。道の両側には生垣のめぐらされた家が並んでいるが、人の姿はほとんどなかった。
千香の実家は、その県道と海岸線に平行している、もう一本海岸寄りの道路の近くらしかった。
志村たちはバスの進行方向へ少し歩き、左の道へ入った。
家は一、二軒しかない。
両側は、松林と、藪の茂った雑木林だ。
この道を真っ直ぐに進むと、海に出るらしい。盛り上がった砂丘のために、海面は見えないが、白っぽい空に向かって道が伸びていた。
休日だからだろうか、車が多い。砂丘の手前には、乗用車やワゴン車が何台も駐まり、カラフルなパンツとシャツで歩いている若い男女や親子連れの姿もあった。
だが、志村たちは海へは向かわず、二百メートルほど行った十字路で左へ折れた。
6
十軒ほどの家がかたまって建っていた集落の一軒で訊くと、肥沼千香の実家はすぐに分かった。
三、四十メートル先の道路の反対側――海側の家だった。
屋敷の東から南にかけては、砂浜までつづいているらしい松林である。このあたりでは広いほうではないのかもしれないが、敷地は二百坪程度。南に広く芝生の庭を取った、新築したばかりらしい二階家だ。
周囲にはイヌマキの生垣がめぐらされ、幅一間半ほどの門扉は三分の二ほど開かれていた。
門を入ると、芝生の間に、コンクリートの幅広の帯が左にカーブしながら玄関までつづいている。その帯の上で乗用車を磨いていた男が手を止め、振り向いた。
歳は三十五、六。赤いTシャツを着た背のすらりとした男である。
「こちら、肥沼千香さんのご実家でしょうか?」
男に近寄って行きながら、間宮が訊いた。
「ええ、そうですが」
男が、ワックスの付いているらしいスポンジを握ったまま、怪訝そうな顔をして答えた。
整ってはいるが、どこか線の細さを感じさせる顔だった。
「実は、私たちはこういう者ですが……」
と、間宮が名刺を差し出すと、男が車のボンネットにスポンジを置き、親指と人差し指でつまむようにして受け取った。
間宮は、ある事件の参考までに千香の話を聞きたいのだ、と用件をつづけた。
男が名刺から目を上げた。その目には、驚きの色とも警戒の色ともつかない、複雑な表情が浮かんでいた。
「千香さんは、現在どこにおられるんでしょうか?」
間宮がつづけた。
「妹はここにおります」
男が答えた。
妹と言うからには、千香の兄なのだろう。
「では……」
間宮が言いかけるや、
「でも、話を聞くのは無理です」
男は、彼の言葉を断ち切った。
「どうしてでしょう?」
「どうしてでも」
男の言葉の裏に、かすかな苛立《いらだ》ちが感じられた。
「ご病気とか……?」
「そういうことです」
もし男の言うとおりなら、肥沼千香は真紀の死に関係ないと見ていいかもしれない。
だが、男が嘘をついていないとは言いきれなかった。男は何かを知っているか気づいていて、刑事たちを妹に会わせまいとしているのかもしれない。
その場合は、千香が真紀の死に関係している可能性がある。
間宮も、志村と同じように判断したのだろう、質問を継いだ。
「ですが、入院しているわけではないんですね」
「…………」
男は答えない。
暗い目をして、にらむように間宮を見ている。
「どういう病気でしょうか?」
「そんなことは、あんたたちに話す必要はないでしょう」
男が突然、声を荒らげた。「帰ってくれませんか」
「もちろん帰りますが、それじゃ、妹さんが診てもらっている病院か医院を教えてくれませんか」
「あ、あんたたちは、妹の、何を……!」
男が顔を真っ赤にして唇を震わせ始めたとき、玄関のガラス戸が開き、六十年配の男女が怪しむような顔をして出てきた。
男の声を聞きつけたにちがいない。
志村と間宮がそちらを向いて頭を下げると、前に立った男も途中で言葉を切って身体を開き、二人のほうを見た。
二人が近寄ってきた。小柄な女性は大柄な男の影に隠れるようにして。年恰好から見て、千香の両親だろうか。
「どなたですか?」
男が、志村たちと千香の兄を半々に見て、尋ねた。髪は薄く、真っ白だったが、整った顔立ちは目の前の男に似ていた。
「警察だってよ」
千香の兄が、間宮が答える前に言った。
「警察?」
白髪の男の目に緊張が走り、背後の女性の顔に不安そうな色が浮かんだ。
「何だか知らない事件に関係して、千香から話を聞きたいって……」
千香の兄が、男に間宮の名刺を渡しながら腹立たしげな調子で説明を加えた。
男は名刺に目をやってから、それを志村たちのほうへ起こし、
「私たちは千香の親で、これは千香の兄ですが……」
と、自分と後ろの女性、それに目の前の男を紹介し、
「静岡の警察の方が、千香から何を聞きたいんでしょう?」
と、訊いた。
「ある件の参考までに、今月一日……土曜日ですが……その日の夜、千香さんがどこにおられたかを伺えたら、と」
間宮が言った。
「でしたら、千香はここに……この家にいましたよ」
父親が答えた。
「ご病気だとか?」
「そうです」
「どのようなご病気なんでしょうか?」
「そんなことは関係ないでしょう」
父親がわずかに声を高め、息子と同じように答えた。「刑事さんの言われた今月一日……いや、今月一日にかぎらず、千香はここ数年、病院以外にはどこへも行っていないんですから」
「病院はどこの……?」
「県内です。ここから車で四、五十分行ったところです」
「病院名を教えていただけませんか」
「その必要は認めませんね」
「そう言われても、私たちとしてはあなたの話が事実だと確認できないことには……」
「千香を疑っているんですか!」
父親の目に怒りの色が浮かんだ。「いったい、今月一日に何があったんです? あんたたちは、千香の名前をどこから調べてきたんです?」
「それをお話しすれば、こちらの質問にも答えていただけますか」
「場合によっては……」
「千香さんは、八年前、東京で自殺未遂を起こされ、大学を退学されたとか?」
間宮が切り出すと、千香の両親と兄、三人の表情が一様に苦しげに歪んだ。
「……ええ」
と、少し間を置いて、父親が答えた。
「その原因はお分かりですか?」
「分かりません」
父親が弱々しく首を振った。「遺書はなかったし、病院で意識を取り戻してからも、千香はその理由や原因については一言も話しませんでしたから。ですが、たぶん、千香の穏やかでのんびりした心は、激しく渦巻く濁流のような都会の水に馴染めなかったんだと思います。何とか馴染もうと努力しても馴染めず、疲れ果ててしまったんだと思います。千香は人を疑うことを知らない、純真な娘で、私は都会に出すのが不安だったんですが、その不安が的中してしまったんです」
話している父親の顔も、彼の背後で俯《うつむ》いてそれを聞いている母親の顔も、悲しげに曇った。急に十歳ぐらい年取ってしまったように志村には感じられた。
「千香さんが自殺しようとした原因として、主任教授の服部先生と何かあったのではないかといった噂についてはご存じですか?」
間宮が質問を継いだ。
「千香の友達から聞きました」
「友達の名は?」
「名前はもう忘れましたが、千香と同期だという女子学生です」
栗原奈美だろうか。
「その話を聞いて、お父さんはどのように……?」
「千香に質すと、そんなのは出鱈目だと激しく首を振って否定しましたし、私も、世間に名の通った偉い大学教授が教え子にそんなことをするわけがないと思いましたので、それきりです」
「最近、服部教授のセクハラ疑惑が新聞に載り、問題になっているのはご存じだと思いますが……」
父親だけでなく、母親と兄の顔にも反応が認められた。
みな知っているらしい。
父親が、間宮の真意を探るかのように鋭い視線で彼を見返し、
「ええ、まあ……」
と、答えた。
「でしたら、もしかしたら八年前の千香さんの件も噂のとおりだったのでは……と考えませんでしたか?」
食い入るように間宮を見つめる母親と兄の目。その表情は微妙に違うが、どちらも胸の奥に激しい怒りを押し込めているように感じられた。
「そうかもしれませんが、たとえ……たとえそうだったとしても、今更いったい何になるんです?」
父親の言葉は、尻上がりに強い調子になった。
それでも、彼は身体の両側に垂らした両手を固く握りしめ、迸《ほとばし》り出そうになる激情を懸命に抑えているようだった。
「刑事さん」
と、兄が代わって呼びかけた。「今月一日の夜、どこで、何があったんですか? もう遠回しな言い方はやめて、はっきりと言ってください」
「服部教授の娘……服部真紀さんが伊豆の修善寺で亡くなったんです」
間宮が答えた。
「それで、刑事さんたちが調べているということは、殺人……?」
「その疑いが濃い、という段階ですが」
兄が父親と母親のほうを見やった。
どうしたらいいか、と目顔で相談したようだった。
志村は、彼らがなぜこうまで自分たちを千香に会わせまいとするのか、分からなかった。千香がもし本当に病気でどこへも出かけられない状態なら、病院名ぐらい明かしたっていいはずなのに。それができないということは、一日の晩、千香はどこかへ出かけているのだろうか。
志村が考えていると、
「分かりました」
と、父親が深い溜め息とともに言った。「それじゃ、千香に会わせますから、刑事さんたちが自分の目で、千香に伊豆へ出かけられたかどうか、確かめてください」
彼は妻のほうへ身体を回し、顎《あご》をしゃくった。千香を呼んでくるように命じたらしい。
だが、妻は動かず、咎《とが》めるような目で夫を見返している。
「刑事さんたちも仕事なんだ」
父親がいらいらしたように言った。
「…………」
「俺が呼んでくるよ」
母親がためらっているのを見て、兄が言った。大股に歩き出した。
しかし、彼も玄関まで行く必要がなかった。
彼が二、三歩あるき出すや、ガラス戸が開き、黄色いひまわりのような色のワンピースを着た女性が出てきたのだ。
背中に長い髪を垂らした、顔も身体もほっそりとした女性である。表情がとぼしいが、志村が一瞬息を呑んだほど綺麗な顔立ちをしていた。
女性は足を止め、兄と両親、それに志村たちに視線を向けた。
が、それはほんの一瞬である。しかも、彼女は、初対面の志村と間宮を見ても、いつも庭にある石や木でも見たかのように、何の反応も示さなかった。
彼女は、両親や兄だけでなく、志村たちの存在さえ認識していないかのようだった。サンダルを脱いで素足で芝生に入り、まるで蝶が舞うように、腕を大きく振ってゆっくりと歩き回り出した。
志村と間宮が、茫然とそれを見やっていると、
「あれが千香です」
と、父親が言った。
淡々とした言い方だったが、どこか明るい真昼の庭に似合わない声だった。
志村は、千香の両親と兄が自分たちの訪問に対して示した態度と彼らの言葉を、いま理解した。同時に、新築の家をバックに、黄色い大きな蝶が舞う芝生の庭が、急に翳《かげ》ったように感じられた。
「失礼ですが、いつから……?」
間宮が訊いた。
「八年前、ここへ帰ってきて、半年ほどした頃から、徐々に……」
父親が答えた。
「自殺未遂の動機と関係があるんでしょうか?」
「分かりません。もしかしたら、私が無理やり大学を退学させ、家へ連れ帰ったのがいけなかったのかもしれません」
「知らなかったこととはいえ、無理を言って、申し訳ありませんでした」
間宮が謝った。
「いえ、こちらも初めから説明すればよかったんですから」
千香は、父親と刑事がどのような会話を交わしているかも知らずに、芝生の上で舞いつづけている。
「これで、千香が今月一日に伊豆へなど行っていないことは分かっていただけたと思いますが、病院も教えておきましょう」
父親が言い、千香が一時入院していて、現在も通っているという病院名と所在地を告げた。
「失礼ですが、千香さんに恋人はいませんでしたか?」
間宮が確認した。
三人の目に小さな反応があった。どことなく戸惑ったような感じだった。
父親が、間宮の質問の意図を考えるように少し間を置き、
「恋人……ですか?」
と、訊き返した。
「千香さんの友達に、そんなふうに言う者がいたものですから」
「そうですか」
父親がうなずき、「千香とどの程度の付き合いがあったのかは分かりませんが、私が千香をこの家へ連れ帰った直後、千香の友達だと称する男が二度ほど尋ねてきたことはあります。ですが、千香が会いたくないと言うので、帰ってもらいました」
「その後、その人は?」
「もちろん、それきりですよ。たとえ来たって、それから間もなく千香があんなふうになってしまったんですから、どうにもならんでしょう」
父親が腹立たしげに言った。
それきり尋ねてこなかった男に怒っているというより、娘の不幸な運命に、またそうした質問をした間宮に、苛立っているように見えた。
「男の名を覚えていますか?」
「聞いたかもしれませんが、覚えていませんね。なにしろ、八年も前の話ですから」
「お母さんかお兄さんは……?」
母親が「いいえ」と首を振り、兄は、自分は会っていないので初めからそんな男など知らない、と答えた。
「学生のようでしたか?」
父親が間宮をじろりとにらみ、
「千香よりはだいぶ年上だったから、学生じゃない」
「では、服部研究室の助手とか、研究員とか……」
「そんなの、分からんですよ! いい加減にしてくれませんか」
父親が再び苛立ったように声を高めた。
「では、もう一点だけ教えてください。千香さんのご兄弟はこちらのお兄さんだけでしょうか?」
間宮が千香の兄を目顔で指し、早口で言った。
「もう一人、結婚して福岡に住んでいる姉がいます」
父親がむすっとした顔で答えた。
「そうですか」
間宮が、次の質問をどうつづけるか考えるためだろう、意味のない相槌を打った。
と、父親が、目に皮肉な笑みをにじませて唇の端を釣り上げ、
「なるほど」
と、合点したようにうなずいた。「千香がこんなふうだと分かったので、今度は千香の親しくしていたかもしれない人や身内を疑え、というわけですか。わしらのアリバイとやらを調べようというわけですか」
「そういうわけではないんですが……」
間宮は言い訳したが、渡りに船だったはずである。
「いいでしょう。気が済むまで、調べてください」
父親がつづけると、自分は土曜日も五時まで勤めがあるので、帰宅したのはいつもどおり夕方の六時頃だった、と述べた。
「それから家内と千香と三人で食事をして、十時過ぎまで公民館で行なわれた寄り合いに出ていたが……あの晩、おまえは会社の旅行じゃなかったか?」
最後に息子に問いかけた。
「ああ。一日なら、俺は慰安旅行で水上温泉に行っていたよ」
息子が答えた。
志村は、もう彼らは真紀の死に関係ないと思ったが、父親が明かした二人の勤め先と、一日の晩の寄り合いに出ていたという複数の者の氏名をメモした。
それを待って、間宮が、突然訪ねてきた詫びと協力の礼を述べた。
「いや」
と、父親が答えてから、無心に舞いつづける娘のほうに暗い目を向け、つぶやくように言った。
「もし……もし八年前、娘が自殺しようとした原因が服部教授だとはっきりしていたら、私は教授を許さなかったかもしれません。教授にも私と同じ思いを味わわせるため、娘さんをどうかしていたかもしれません。ですが、今更、何をしても遅いんです。遅すぎるんです……」
7
志村たちは、千香の父親と一緒に寄り合いに出ていた近所の人と、兄の勤めている千葉市内の会社の同僚から裏を取り、千葉駅で電車に乗る前に滝田に報告の電話を入れた。
すると、疑惑の残っていた千香以外の三人の女性に関しても調べが終わり、報告が上がっていた。
千香と同様、いずれもシロと考えてよい、という報告であった。
一人は四年前からオーストラリアヘ行っていて、今年の正月以来一度も日本へ帰っていない事実が判明。他の二人にもアリバイが存在し、彼女たちの現在の状況から見て、その意を受けた別の人間が真紀を殺害したとは考えられない、というのである。
時刻は四時半。
志村たちは、昼は缶コーヒーを飲みながら菓子パンを食べただけだったので、構内の立ち食いソバを胃におさめてから、横須賀線直通・久里浜行きの快速電車に乗った。
途中、大船で東海道線に乗り換えるつもりだった。
連休最後の日の夕方だからだろう、電車は込んだ。それでも始発のため、ボックス席の通路際に向かい合って座れた。
電車が走り出すと、間宮は例によって、腕組みをして鼾《いびき》をかき始めた。
志村もならって、目を閉じた。
しかし、彼の場合、間宮のようには眠りの精が引き込んでくれなかった。
真紀の死を殺人と断定する証拠も、犯人に結び付きそうな新しい手掛かりも得られず、今後捜査はどうなるのだろう……という不安もあったが、志村が眠れないのはそのためばかりではない。
志村の脳裏には、芝生の上を裸足で駆けまわっていた千香の姿が焼き付いていて、離れなかった。
無心に、黄色い蝶のように舞う千香――。
その姿が、あまりにも美しすぎたからかもしれない。あまりにも悲しすぎたからかもしれない。
今日の捜査によって、千香だけでなく、千香の両親・兄ともに真紀の死とは関係なかった、と判明した。少なくとも、八年前の千香の件は今度の事件に直接の関係はなかったらしい、と。だが、志村は、事件を離れて、千香をあのようにした因が服部の行為だったとしたら(たぶん間違いないだろう)、服部を絶対に許せない、と思っていた。真紀を殺した犯人――もちろん存在するとして――に対する以上に、服部に対して強い憤《いきどお》りを覚えていた。
志村が眠れないのは、半ばはそのせいであった。
電車はあまり停車しないので、速い。
市川駅を出て、江戸川を渡り、小岩駅のあたりを黙殺≠オているとき、間宮のポケットベルが鳴った。
滝田が呼んでいるらしい。
志村が揺り起こす前に、間宮が目を開け、腕組みを解いた。ポケットの中で鳴っているベルの音を消し、
「どこだ?」
と、訊いた。
「市川と新小岩の間です」
志村は答えた。
「なんだ、まだ新小岩か……」
「千葉で電話したばかりなのに、何か新しい事実でも分かったんですかね」
「さあな。とにかく、東京駅まで行ってからかければいいだろう」
間宮は応え、また腕を組んで目を閉じてしまった。
それから十二、三分後、志村たちは東京駅の地下五階のホームに降りた。階段を一度上った広場で、間宮が大仁南署に電話を入れた。
別の刑事から代わったらしい滝田が話し出すや、間宮は緊張した顔つきになった。送話口を手で押さえて、
「相馬圭一郎と思われる男の目撃者が見つかった」
と、横にいた志村に早口で告げた。
間宮はそれから一、二分、時々言葉を挟みながら滝田の話を聞いていたが、
「それじゃ、これからすぐに奴のアパートへ行ってみます」
と言って、受話器を置いた。
志村は、間宮と並んでエスカレーターへ向かって歩き出しながら、
「一日の晩、圭一郎はやっぱり修善寺へ行っていたんですか?」
と、急き込んで訊いた。
胸が強い動悸を打ち始めていた。
志村たちは、ここ数日、服部の相馬聡子以外のセクハラ疑惑を追っていた。だが、そのセンは真紀の死と直接の関係はなかったらしい≠ニいう結果が出て、捜査方針を見直さなければならないところにきていた。そこに、本命とも言うべき圭一郎に関しての新しい情報が飛び込んできたのだった。
「いや、まだ、圭一郎だったと断定はできないんだが……」
と、間宮が答えた。
「目撃者はどういう人ですか?」
「『香林閣』という旅館に勤めている室田加世という四十七歳の仲居だ。一日の夜十時十二、三分頃、桂川の上流の小学校手前にある従業員寮へ帰ろうとして、『月の湯館』の前を通りかかったとき、オートバイを押した男と擦れ違ったんだそうだ」
志村と間宮は、三階ぐらい上まで真っ直ぐに伸びているエスカレーターに乗った。
「その男が圭一郎と似ていたわけですね」
志村は質問を継いだ。
「大柄な若い男だったような気がする――という点はな。時間と場所、それにオートバイという符合から考えて、圭一郎だった可能性はかなり高いと思うが」
志村もそう思った。
ということは、圭一郎が真紀の死に関わっていた可能性が非常に高くなった、という意味であった。
「ただ、その証言だけでは弱い」
間宮がつづけた。
「室田という仲居は、男の顔はみていないんですか?」
「ああ。街灯があるとはいっても、薄暗いし、一緒にいた二人の同僚とお喋《しやべ》りに夢中だったらしく……」
「仲居には連れがいたんですか!」
志村は、なんだというように右に並んだ間宮の顔を見やった。
「そうなんだが……二人ともフィリピン人の女性で、三日前に辞めて、どこかへ行ってしまったんだそうだ」
そういうことか。
「もちろん、係長は、必ず二人の行き先を突き止めると言っているがね。できれば、その前に、奴を落としたいんだよ」
志村たちはエスカレーターを降りて、また階段を上った。
中央線、山手線、西武新宿線と乗り継いで上石神井へ向かった。
上石神井の圭一郎のアパートに着いたのは六時半近く。
休日の夕方六時半では、部屋にいないかもしれないが、その場合は帰るまで何時間でも待つ。
今日は、圭一郎が修善寺へ行った事実を否認しても、任意で大仁南署まで同行を求めるつもりだった。
二階に上がり、ドアの前に立つと、中から話し声がした。
間宮がチャイムを鳴らすと、明らかに圭一郎とは別の男の声で「はい」という返事。インターホンを通して、賑やかな話し声が聞こえる。酒でも飲んでいるようだ。
間宮が、圭一郎はいるか、と問うた。
「いませんが、誰ですか?」
男が問い返した。
「知り合いの者です。あんたは?」
「相馬の大学の友達です」
「本当に相馬さんはいないんですか?」
「いませんよ」
つっけんどんな調子。
「本人がいないのに、あんたたちはどうして彼の部屋にいるんです?」
「入って飲んでいていいって言われ、鍵を借りてあったからですよ」
「相馬さんはどこへ行ったんですか?」
「新宿じゃないかな」
「何時頃、帰りますかね?」
「もうじき帰ると思うけど……それより、相馬にどんな用事ですか?」
「ちょっと訊きたいことがあったんだけど、また後で来ます」
「どなたですか? 相馬に伝えておきますから」
「いや、後で来るから、いいです。それじゃ、どうも……」
間宮が言い、志村を目顔で促した。
二人は階段に向かって歩き出した。
そのとき、背後でドアの開く音がした。
振り向くと、赤い顔をした学生風の男が首を覗《のぞ》かせた。
どんな訪問者か、見にきたらしい。
「相馬に名前を言っとかなくて、いいんですか?」
男が志村たちに声を投げた。
「結構です。じゃ……」
志村たちは男に背を向けた。
廊下の端まで歩き、階段を降りるとき振り向くと、男はまだドアを閉じずに、怪しむように見ていた。
その晩、圭一郎は九時を回り、十時になっても帰らなかった。
それまで、気づかれないようにアパートの入口を見張っていた志村たちは、もう一度二階へ行き、夕方インターホンで応接した男に、圭一郎から連絡はなかったかと尋ねた。
なかった、と男が答えた。
「何も言ってこないんで、俺たちも帰ろうと思っているんですよ」
怪しかった。
男は夕方、圭一郎はもうじき帰る≠ニ志村たちに言ったのである。それなのに、四時間近くも何の連絡もないというのは不自然だった。
圭一郎から電話があったのだ、と志村は確信した。
その電話のとき、男から訪問者の特徴を聞けば、圭一郎なら、すぐに間宮と志村だと分かっただろう。そのため、圭一郎は警戒して、アパートへ帰らないにちがいない。この前は証拠がないために引き下がった志村たちがまた訪ねてきたということは、圭一郎を追いつめるための新たな武器――一日の夜彼が修善寺へ行った証拠――をつかんだからではないか、そう想像して。
志村のこの推理が当たっていたらしいことは、翌日になっていっそうはっきりした。
午後になっても圭一郎がアパートへ帰らなかっただけではない。青林大学へ行って、前日インターホンで応対した男を捜し出して訊くと、志村たちの最初の訪問から三十分もしないうちに圭一郎から部屋に電話があり、彼に志村たちの訪問について話した、と認めたからである。男によると、そのとき圭一郎は、もしかしたら今夜は帰れないかもしれないので適当に戸締まりして帰ってくれ、と言ったという。
その後も志村たちは、滝田が遣《おく》ってきた応援の刑事たちと交替で、圭一郎のアパートを監視しつづけた。
同時に、圭一郎が立ち回りそうな場所を当たり、山形の実家に電話をかけて、応対した母親に、彼から電話がなかったかどうか、それとなく探りを入れた。
しかし、圭一郎はどこにも現われなかったし、母親も、圭一郎がどこへ行ったのか見当がつかないし彼からの電話もない、と困惑したように言った。
ただ、圭一郎が所在をくらまして三日目の十三日(木曜日)、一日の夜室田加世と一緒にオートバイの男を目撃したフィリピン人の女性二人が、伊東温泉の旅館に働いていることが判明。志村たちとは別の刑事が伊東へ行って二人の話を聞くと、一人は何も覚えていなかったが、一人は、男はヘルメットを手に嵌《は》めてオートバイを押していたので顔を見たと言い、刑事の示した五人の若者の写真から即座に圭一郎の写真を選び出した。
これで、修善寺温泉「月の湯館」の離れ家で真紀が死んだ頃、圭一郎がその近くにいたのは確実になり、真紀の死が殺人(か過失致死)だった可能性もいっそう高くなった。
その場合、犯人はもちろん圭一郎しかいない。
といって、圭一郎が真紀を死に至らしめたと断定する証拠はまだなかった。
そのため、静岡県警が圭一郎の公開手配に踏み切れないでいたとき、横浜で真紀の死に関係していると思われる殺人事件が発生した――。
第五章 修禅寺物語
1
新横浜駅前公園と聞いても、横浜に住んでいる人さえほとんど知らないのではないか。
横浜市内には山下公園、元町公園、港の見える丘公園、野毛山公園……とよく名の知られた公園が少なくない。そうした公園に比べると、無名と言ってもいい。
公園のある場所は、名前のとおり、東海道新幹線と横浜線が交わっているJR新横浜駅の近く。近くといっても、「駅前」からはかなり離れていて、北側の広場を出て、ビル街を突き抜け、五百メートルほど行ったところだ。
鳥山川という小さな川に沿って造られた、樹木や草の茂る細長い公園である。周辺には、空室の目立つビルや建てかけのビル、駐車場などがあるものの、民家はほとんどない。だいたい、新横浜駅の北側は何もなかったところが開発されて、雨後の筍のようにビルが建てられた地域なので、昼はビジネスマンやビジネスウーマン、専門学校の学生などで賑わっても、夜、人々の活動が終わった後は、ゴーストタウンのようにひっそりとしてしまう。
新横浜駅前公園の林の中で、一人の男の死体が見つかったのは、十月十六日(日曜日)の早朝、六時十四、五分だった。
良い天気に誘われ、二キロほど離れた団地から散歩の足を延ばし、公園内を歩いていた中年夫婦が見つけたのである。
初め、丈の低い常緑樹の茂みの陰に大きな物≠ェあるのに気づいたのは、妻だった。彼女に言われ、夫が近寄ってみると、ライトグレーのズボンに茶系統のジャケットを着た大柄な男が俯《うつぶ》せに横たわっていた。外れた眼鏡のそばから覗《のぞ》いている横顔の感じと、白いものがだいぶ交じった髪から判断して、五、六十代の男らしい。
病気なら大変だと思い、夫が声をかけたが、反応がない。そこで、彼は、もしかしたら死んでいるのでは……と妻と話し、駅前の派出所まで走って行って知らせた。その結果、派出所の警官が夫婦と一緒に公園へ急行し、男が死亡しているだけでなく、首に青黒い索溝《さつこう》があるのを確認したのである。
索溝があるからには、殺人の疑いが濃厚であった。
警官は、トランシーバーを使って、所属する横浜北警察署に、自分の観察した事実を知らせた。
こうして、二キロと離れていない菊名にある横浜北警察署から、多少遅れて海岸通にある神奈川県警本部から、サイレンの音を響かせて続々と刑事や鑑識課員たちが駆けつけ、七時を過ぎる頃になると、ひっそりとしていた日曜日の朝の公園周辺は人と車で溢《あふ》れた。
集まってきたのは、警察だけではない。サイレンを聞いた周辺の住民たちはもとより、報道関係者も、寝呆け眼をしたまま、あるいは寝乱れた髪のまま、カメラやビデオカメラを手に飛んできた。
薬師寺薫は、それらより少し遅れて現場に到着した。
幼稚園の先生をしている妹の知世と一緒に住んでいる賃貸マンションが、県警本部やマスコミ各社が集まる市の中心部より南へ行った磯子だからだ。
薬師寺は三十四歳。県警本部刑事部捜査一課殺人班の警部補。浅黒い、精悍な顔立ちをした男だ。身長は百七十一センチと、警察官として大きなほうではないが、中学、高校とバドミントンで鍛えた身体は引き締まっている。マンションのベッドでまだ白河夜船を漕いでいるとき、電話で叩き起こされ、顔をちょんちょんと水で濡らして身仕度をし、根岸線、横浜線と乗り継いで来たのである。
薬師寺は、マスコミ関係者や野次馬を制止している警官に身分を告げ、ロープをくぐって公園へ入った。
一応、入口はあるが、歩道と公園を区切っている柵が低いので、入ろうと思えばどこからでも入れる。
彼の姿を見つけて、「主任……」と寄ってきた部下の田淵《たぶち》刑事に案内され、高圧線の鉄塔のほうへ急いだ。
現場は、川の土手の四、五メートル手前、椿やら桜やらツツジやらの茂った一画のようだ。
地面や草の上を這《は》い回っている鑑識課員たちの向こうに、七、八人の男たちに交じって上司の松沢《まつざわ》警部の姿が見えた。
薬師寺が、「遅れて申し訳ありません」と言いながら近づくと、
「いや、俺も少し前に来たところだ」
と、松沢が愛敬のある顔を振り向けた。
年齢は(いつまで経《た》っても)自称三十八歳。が、電話で友人らしい相手に、「お互い今年は本厄《ほんやく》だな」と言っていたから、実際は、満か数えで四十二か。薬師寺より十センチ近く低い、ずんぐりとした体形の丸眼鏡をかけた男である。
薬師寺は、検視官の柴沼《しばぬま》警部や所轄署の刑事課長・絹田《きぬた》警部にも挨拶し、検視中の遺体を覗き込んだ。
死体は押し出しの良さそうな、大柄な男だった。傍らのシートの上に茶と赤とブルーの交じったチェックのジャケット、しぼりのネクタイ、黒縁の眼鏡などが置かれているから、それらを着けていたらしい。年齢は六十歳前後か。電話で聞いたとおり、首に索溝が認められるので、紐状のもので絞められたのは間違いないだろう。
「見てのように、絞殺だ」
柴沼が顔を上げずに、言った。「はっきりしたことは分からんが、死後、八時間から十二時間というところかね」
すると、今、七時四十分だから、昨夜八時から十二時頃までの間に死亡した、というわけか。
薬師寺は頭の中でそう計算しながら、
「身元は分かったんですか?」
と、松沢のほうを振り向いて、訊《き》いた。
「いや、まだだ。ジャケットにはネームが入っていないし、ポケットには、財布だけでなく、名刺、通勤定期、手帳の類《たぐ》いが何もなかった」
松沢が答えた。「といっても、犯人の目的が物盗りだったとは言えないが」
「持ち物は?」
「服装から見て、鞄か何か持っていたようだが、見つかっていない」
「被害者の身元が割れて住まいや勤め先が分かれば、そのへんもはっきりするんじゃないかと思うが、別の場所で殺され、車で運ばれた可能性が低くない。特別の用事がないかぎり、土曜日の夜遅く、こんなところへ来る人間はいないからね」
所轄署の絹田刑事課長が説明を加えた。
歳は柴沼と同じ五十二、三。薬師寺とも顔見知りの男だった。
「そうですか」
と、薬師寺は応じ、あたりを見回した。
確かに絹田の言うとおりのようだった。
川の反対側には横浜共済病院の大きな建物が見えるし、駅も近いが、道を挟んで建っているのは、みな人気《ひとけ》のないオフィスビルのようだったからだ。
「身元と言えば、どうも、どこかで見たような顔なんだがね」
松沢が首をひねりながら言った。
「うん、俺もそんな感じがするんだが、思い出せんのだよ」
柴沼が今度は顔を起こして、松沢に同調した。
「見たことのある顔ですか……」
薬師寺は応《こた》えながら、もう一度よく死者の顔を覗き込んだ。
鼻が大きく唇の厚い、かなり個性的な顔である。
そんな顔を確かにどこかで目にしたような気がしないでもなかったが、彼にも分からなかった。
「有名人でしょうか」
田淵が言った。
「そうかもしれんな」
松沢が考える目をして答えた。
「いずれにせよ、住所不定といった人間じゃなさそうだから、テレビのニュースで事件が報じられれば、じきに家族か知り合いから問い合わせがあるだろう」
柴沼が言ったが、被害者の身元は事件が報道される前――それからわずか十四、五分後に判明した。
野次馬が公園に入り込まないように警備していた所轄署の警官が、死者は自分の知っている人ではないかと言っている男がいる、と知らせてきたのである。
松沢は、すぐにその男を連れて来るように命じた。
薬師寺たちの前に現われた男は、痩《や》せて背の高い、長髪の男だった。歳は薬師寺より二つ三つ下の感じか。
男は、青ざめ、緊張した顔で、慶明大学・東洋研究センター助手の佐久田宗行と名乗った。
慶明大学・東洋研究センターと聞いた時点で、薬師寺は、〈あ、そうか〉と思った。
死者が誰に似ていたのか、思い出したのである。
が、そんなことを言っているより、佐久田という男に見てもらったほうが早い。松沢の目顔の指示を受けて、男を死者のそばへ連れて行った。
「せ、先生……!」
男は、膝を折って死者の顔を覗き込むや、そう言って、絶句した。
「先生というのは?」
薬師寺にはすでに分かっていたが、確認した。
佐久田宗行が、恐ろしげに顔を歪《ゆが》めて薬師寺を見ると、
「慶明大学・東洋研究センター所長の服部啓吾教授です」
と、答えた。
2
佐久田が立ち上がった。
服部の妻に電話しなければ……と、夢遊病者のようにふらふらと歩き出した。
松沢がそれを呼び止めた。服部教授の自宅への連絡は警察からするので残ってほしい、と言った。
当然ながら、松沢は、佐久田がなぜこの時刻、ここ新横浜駅前公園へ来たのか≠ニ彼の行動を訝《いぶか》っていたからだろう。それに、被害者の服部啓吾についていろいろ尋ねたかったからにちがいない。
松沢が佐久田に、服部の住所と電話番号を訊いた。
佐久田が空《そら》で答えた。
薬師寺の予想したとおり、松沢は、部下の一人を服部啓吾の自宅へ電話をかけに遣《や》ると、どうして佐久田がここへ来たのか、という点から質《ただ》した。
今朝六時半頃、まだ眠っていたときに妙な電話があったのだ、と佐久田が言った。
「どういう電話ですか?」
松沢が説明を促した。
「聞き慣れない男の声で、服部先生が新横浜駅の近くにある新横浜駅前公園にいるから行ってみろ、と……」
佐久田が、怯《おび》えとも悲しみともつかない色を目に湛《たた》えて、答えた。
「佐久田さんは、この近くにお住まいなんですか?」
「違います。保土ケ谷です」
「同じ横浜市内といっても、保土ケ谷ではかなり離れていますね。それなのに、そんな電話でわざわざここまで来られたんですか」
「そうじゃありません。そんな電話だけなら、ただの悪戯だろうと聞き流したんですが、昨夜十二時頃、服部先生の奥様から、先生の居所を知らないかとお電話をいただいていたんです。昨夜は先生と一緒ではなかったので分からないと答えると、奥様は、『そう、じゃ、別の方とお酒でも飲んでいるのね、きっと。夜分遅くご免なさい』と言われて、電話を切られたんですが……」
「それで、服部先生がどこへ行ったのか、気にされていた?」
「というわけでもありません。先生は子供ではありませんから。ただ、朝、妙な電話があってから……ご存じかもしれませんが、半月ほど前、お嬢さんが多少不審に思われる亡くなり方をしておりましたので……ちょっと気になり……」
「不審に思われる亡くなり方?」
松沢が訊き返したが、薬師寺はその出来事を知っていた。
新聞に出ていた記事は小さかったが、死んだ娘も父親の服部啓吾も、笹谷美緒の父親や黒江壮のいる慶明大学に関係していたので、何となく気になっていたのである。
「半月前の土曜日の夜、伊豆・修善寺温泉の宿で一人で風呂に入っているとき、亡くなったんです」
「そうですか」
松沢は驚いたような顔をしていた。
「そのお嬢さんの件がありましたので、休日の朝七時前に失礼かと思いながらも、僕は日吉の先生のお宅に電話したんです。すると、奥様が出られて、先生はまだ帰っていないと言われたんです。僕はよほど妙な電話についてお話ししようかと思ったんですが、奥様に余計な心配をかけさせてはいけないと思いなおし、先生の行き先に心当たりがないでもないので当たってみるからと言い、新横浜まで来てみたわけです。そうしたら……」
佐久田が、この公園に着いたときの驚きと恐怖がよみがえったような目をして、言葉を切った。
「そうしたら、公園前に大勢の人が集まっていて、男の人が殺されたらしいという話を聞かれた――というわけですか」
松沢が、佐久田の話の先を代弁した。
「ええ」
と、佐久田がうなずき、「それで、もしかしたら、それが先生ではないかと――」
彼は目を伏せ、猫背ぎみの背を更に丸くした。
「服部先生のお嬢さんの死について、警察はどのような判断を下したんですか?」
薬師寺は気になっていた点を尋ねた。
「はっきりしたことは分かりませんが、殺人の可能性もあると疑って、まだ調べているようです」
佐久田が薬師寺のほうへ目を上げた。
「佐久田さんは、昨日は服部先生と会っておられないんですか?」
薬師寺は質問を継いだ。
「いえ、夕方まで研究室に一緒におりました。土曜日ですが、桐生利明という助教授と、岩村《いわむら》、柿沢《かきざわ》という二人の大学院生も出てきていました。ただ、先生が一人でやっておきたいことがあると言われたので、六時頃、僕たち四人は先に失礼したんです」
「それから、服部先生がどうされたのか、どこへ行かれたのか、は分からない?」
「ええ」
「先生が一人で何をされようとしていたのか、という点は?」
「見当がつきません」
「桐生助教授と二人の大学院生も、佐久田さんと同じですかね」
「と思いますが……。ただ、昨夜十二時頃、奥様が念のために桐生さんにも電話して、先生の行き先を聞いていないかどうか尋ねようとしたところ、桐生さんはまだ帰っていなかったようです」
「桐生助教授の家族の方がそう言ったわけですね」
「桐生さんは一人暮らしですから、誰も電話に出なかったんです」
「服部教授が何時頃、研究室を出て帰られたのか、知っていそうな方はいますか?」
松沢が訊いた。
「東洋研究センターには、うち以外に七つの研究室がありますが、昨日は土曜日ですからね。出てきていた人は多くなかったし、たとえ出てきていても、僕らのように、夕方にはたいてい帰ってしまったはずです。ですから、誰かが服部先生の帰るのを見ていた可能性はあまり高くないと思います」
「東洋研究センター以外の方では?」
「そうですね……偶然、どこかで先生と会われた方でもいれば別ですが、そうじゃなければ、あとは守衛さんぐらいですか」
佐久田が、考えるような目をして答えてから、「先生が歩いて門を出ていれば、守衛さんが先生の姿を目にしているかもしれません」と繰り返した。
そのとき、日吉の服部啓吾の自宅に電話をかけに行った刑事が戻ってきた。
すぐに奥さんが駆けつけるそうです、と伝えた。
それから六、七分して、服部の妻が来る前に県警本部から刑事部長と捜査一課長が到着。
松沢がこれまでに分かった事情を彼らに説明し、静岡県警に服部真紀の死に関して問い合わせたい、と申し出た。
3
志村と間宮が、服部啓吾が殺されたと聞いたのは、その日(十六日)の朝、八時四十分だった。
八時半に、相馬圭一郎のアパートの張り込みを別の二人の刑事と交替。食事をして一休みするために駅前の喫茶店へ向かっているとき、間宮の持っているポケットベルが鳴り、本部の滝田に電話すると、事件発生を告げられたのだ。
――今度は正真正銘の殺人だ。
滝田は、そんな言い方をして、神奈川県警から真紀の変死事件に関する照会があったと間宮に話し、相手から聞いたかぎりの事情を説明したらしい。
それによると、服部の死体が見つかったのは、新横浜駅前公園。殺害場所、正確な死因、死亡時刻はまだはっきりしないが、≪昨夜八時から十二時頃までの間に絞殺された可能性が高い≫という。
これで、真紀の死も殺人(または殺人を意図した人間の過失致死)だったと断定していいだろう。
服部の殺害が、真紀の殺されたことを裏づける証拠にはなりえないが、滝田との電話を終えた後、志村たちはそう話し合った。
わずか二週間しか間を置かずに起きた、娘の不審死と父親の殺害――それらは同じ犯人によって引き起こされた、と考えるのが自然だからだ。
では、二人を死に至らしめた犯人とは誰か?
真紀を殺す直接の動機はないが、服部に対して強い恨みを抱いていた相馬圭一郎――真紀が死んだ晩に修善寺温泉へ行っていたことがほぼ確実になり、警察がそれをつかんだと見るや行方をくらましている圭一郎――である可能性が最も高い。
圭一郎が犯人の場合、一日の夜の服部たちの予定をどうやってつかんだのか、真紀の死は殺人だったのか、それとも過失致死だったのか、昨夜服部にどのようにして接近したのか、といった点は今後の捜査を待たなければならない。
だが、昨夜にかぎって言えば、慶明大学の近くか日吉の服部宅の近くで服部啓吾を待ち受け、車に誘い込んで絞殺するのは不可能ではなかっただろう。
志村と間宮は、食事を後回しにして、圭一郎のアパートへ戻った。
張り込み中の刑事たちに服部啓吾が殺されたと知らせ、それからモーニングサービスの茹で卵付きトーストとコーヒーを摂り、慶明大学へ向かった。
間宮は、服部が殺されたと聞いたとき、新横浜駅前公園へ行きたい、と滝田に申し出た。だが、滝田は、現場検証がすでに終わりに近く、間もなく遺体もY市立大学医学部の法医学教室に運ばれる予定だと聞いていたらしく、その必要を認めなかった。代わりに、十時までに慶明大学の正門前へ行き、神奈川県警の刑事たちに会うように、と命じたのである。
志村たちが慶明大学前に着いたのは、十時十二、三分前。
休日の朝の大学はひっそりとしていた。
正門の大扉は閉じていたが、脇の通用口が開いていたので、そこを入ろうと近づくと、内側左手の守衛詰め所の前に二人の男が立っていた。
一人は、浅黒い顔をした三十三、四歳の精悍な顔の男、もう一人は志村と似た体形のずんぐりむっくりした二十五、六歳の男である。
志村たちが二人を一目見て同業者だと分かったように、向こうも同様だったらしく、足を運んできた。
「静岡県警の方ですか?」
浅黒い顔の男が訊き、間宮がそうだと答えると、
「私は神奈川県警の薬師寺、こちらは森《もり》と申します」
と、自分と傍らの男を紹介した。
「どうも。間宮と志村です」
間宮が応じ、志村たちは相手の二人と名刺を交換した。
それを見ると、薬師寺と名乗ったほうは県警捜査一課の警部補であった。
もう分かっているので、服部が殺されたといった話をあらためてはしない。
「昨夜、服部教授が何時頃に帰ったのか、いま守衛さんに話を聞いたところです」
薬師寺の言葉に、志村が詰め所のほうへ目をやると、制帽を被った初老の男が薄暗い中からこちらを見ていた。
「その点を含めて、これまでに分かった点をご説明し、そちらのお話も詳しく伺いたいんですが」
「私たちも、上司の指示を受け、そのつもりで参りました」
間宮が応えた。
「十時半にうちの鑑識が来て、桐生という助教授に立ち会ってもらい、服部教授の部屋や教授の持ち物を調べる予定になっています。それまでまだ四十分ほどありますから、近くの喫茶店ででも……」
「桐生助教授は見えているんですか」
「十時半までに来てくれることになっています」
間宮がそうですかと応じ、志村たち四人は白山通りへ出て、開いていた喫茶店を見つけて入った。
全員がコーヒーを注文した後、薬師寺の説明から聞いた。
といっても、まだ判明している事柄が多くないからだろう、服部の死体発見時の模様、おおよその死亡時刻と死因、佐久田から聞いた話など、間宮が滝田から聞いた事実を多少詳しくした程度だった。
ただ、いま守衛から聞き込んだ話だけは違った。
昨夜、守衛は服部啓吾が大学から帰るのを見ていたのである。そして、八時半頃一人で歩いて門を出て行った≠ニ言ったのだという。
八時半頃というのは、佐久田、桐生、岩村、柿沢の四人が帰って、二時間半後。つまり、服部啓吾は、佐久田たちにちょっとやることがあるからと言って一人で研究室に残り、二時間半してから帰ったことになる。
しかし、服部啓吾が昨夜大学を出た時刻が判明しても、それだけでは、あまり捜査に役立ちそうにはなかった。一人で帰ったのでは、彼がそれからどこへ行ったのか、誰と会ったのか、はっきりしないからだ。
薬師寺の説明が済むと、今度は間宮が、相馬聡子の自殺から始めて、相馬圭一郎が慶明大学構内で服部たちを襲って短刀で服部に軽い怪我を負わせた件、真紀の死んだときの状況と彼女の死が病死から計画的な殺人まで五つの可能性が考えられる点、佐久田、圭一郎、古森芳樹、桐生利明の四人を真紀を殺した(死に至らしめた)容疑者として調べた経緯、その結果、佐久田、桐生、古森の順に容疑がほぼ消えていったこと、服部のセクハラ疑惑とその関係者について調べた事情、一日の夜真紀の死んだ頃、圭一郎と思われる男が修善寺温泉の現場近くで目撃された件、現在、圭一郎が行方をくらましている事実……などについて説明した。
「すると、相馬圭一郎が服部真紀を殺した……というか死に致らしめた容疑者の最右翼、というわけですか」
間宮が言葉を切ると、薬師寺が考えるような目をして、つぶやいた。
「そうです。というか、今や彼が犯人に間違いないのではないか、と考えています」
間宮が答えた。「僭越《せんえつ》ですが、昨夜、服部教授を殺害したのも……」
「確かに、その可能性は小さくないかもしれませんが……逃げているとき、新たな殺人を犯すか、という疑問もあります」
「ですが、相馬圭一郎が犯人なら、服部教授こそ本命のはずですから」
薬師寺が首をかしげた。
「おかしいですか?」
間宮の声に不満げな色が加わった。
「服部教授を殺すつもりだったのなら、その前に娘さんを殺そうとするでしょうか。教授の身代わりに娘さんを……というのなら、話は分かりますが」
「初めは、娘の真紀を殺せば教授は殺さなくてもいい、と考えていたのかもしれません。ですが、逃げているうちに自棄《やけ》になって、どうせ捕まるなら、その前に本命の服部を殺してやろう、と思ったのかもしれません」
「なるほど……」
と薬師寺はうなずいたが、必ずしも間宮の推理に納得している顔ではない。ここで互いの想像を述べ合ったところで何も生まれないと考え、反論を控えたように見えた。
服部啓吾が殺されたと聞いてから、志村も間宮と同様に、犯人は圭一郎にちがいないと考えていた。だが、いまの薬師寺の意見を聞き、そう簡単に断定するわけにはゆかないようだ、と思いなおした。
薬師寺が真紀の死に話を戻し、犯人が圭一郎であれ別の誰かであれ、犯人には、真紀を殺害する意図がなかった可能性もあるのではないか、と述べた。つまり、犯人が、真紀の殺害ではなく、たとえば暴行を目的にして離れ家に行ったところ、窓の外に映った彼の影に真紀が驚き、ショック死してしまった――といった場合だという。
志村たちは、〈真紀の死〉という結果から考えていたために、それを招来した犯人は真紀の殺害を目的にして彼女を「紅葉の家」に一人にしたもの、と思い込んでいた。だが、言われてみればそのとおりであった。
この可能性は、犯人の条件を多少ゆるめたものの、捜査にはそれほど影響はない。ただ、犯人が捕まってそう主張した場合、服部の妻を電話で脅した脅迫の罪、月の湯館の敷地に無断で忍び込んだ住居侵入の罪、真紀を死なせた過失致死罪は成立しても、殺人予備罪は成り立たない。そのため、公判になったときに厄介な問題になるかもしれない、と薬師寺は言った。
三十分ほどして、話し合うことがなくなったとき、薬師寺が時計を見て、「まだ多少時間がありますね……」とつぶやいてから、訊いた。
「桐生助教授が見えていたら先に話を聞こうと思うんですが、間宮さんたちはどうされますか?」
「もちろん立ち会わせてください」
と、間宮が応えた。
4
志村たちは慶明大学へ戻り、守衛に挨拶して、東洋研究センターへ向かった。
志村と間宮も、東洋研究センターの中に入るのは初めてである。
それは四階建ての古い建物で、服部研究室は二階にあった。
捜索といっても、研究室は殺人と直接の関係はない。昨夜八時半頃、服部が大学を出て行ったと分かり、それはいっそうはっきりした。そのため、主に服部の持ち物を調べるらしい。
教授室を探し当てて、薬師寺がノックすると、中から返事があり、桐生がドアを開けた。まるで血の色が感じられない、彫像のような顔をしていた。
間宮が、桐生に薬師寺たちを紹介するまでもなかった。薬師寺が、「桐生さんですか」と確認してから、自分と森を紹介し、部屋の捜索に関しては服部の妻と総長の了解を得ている、と説明した。
志村と間宮は、薬師寺に促されて先に部屋へ入った。
かなり広い部屋のようだ。三十畳分ぐらいはあるかもしれない。教授用らしい黒檀の大きな机と、秘書のものらしいスチール机が置かれた窓際以外は、本立てが迷路を仕切る壁のように立ち並び、その一隅に、本や書類が山積みされたテーブルとソファが置かれていた。
志村たちは、桐生によってそのソファに導かれた。
腰を下ろすより早く、ノックの音が響き、鑑識課員たちが到着した。
課員は五人。
薬師寺は尋問を後回しにして、教授の机の上、引き出し、ロッカー……と桐生立ち会いのもとに捜索を始めた。
邪魔をしては悪いので、志村と間宮はソファに残った。
十五分ほどして、薬師寺が、捜索を鑑識課員たちに任せ、桐生と一緒にソファに戻ってきた。
服部の昨夜の行動を知る手掛かりになりそうなもの――予定を書き込んだノートかメモ、昨夜彼が電話をかけるか受けたかしたときに書いたメモなど――は見つからない、という。
薬師寺は、桐生を志村たちの正面に掛けさせ、自分は彼の右斜め前に腰を下ろした。
「桐生さんは、昨夕六時頃、佐久田、岩村、柿沢さんの三人と一緒にここを出て、帰られたそうですね」
と、すぐに本題に入った。
ええ、と桐生がうなずいた。
「そのとき、服部教授だけ、することがあるからと一人で残られたとか?」
「そうです」
「服部教授が何をするつもりだったのか、心当たりはありませんか?」
「さあ……」
「助教授の桐生さんにも、何も話していない?」
「ええ」
「教授が一人で残られるといったことは、これまでにもよくあったんですか?」
「よく、というほどじゃないかもしれませんが、ありました」
「守衛さんの話から、服部教授が八時半頃一人で帰られたのは、はっきりしているんですが……」
と薬師寺が言いかけたとき、桐生の視線がどこか戸惑ったように彼から逸《そ》らされた。
「誰かに会うといった予定は聞いていませんか?」
薬師寺がつづけた。
桐生は、自分の見せた反応を誤魔化すように、口に手を当てて軽く咳払いしてから、
「聞いていません」
と答えた。
服部が八時半頃に帰ったと守衛に聞いた≠ニいう薬師寺の話に、桐生がなぜいまのような反応を示したのか、志村には見当がつかなかった。
「ところで、佐久田さんによると、桐生さんは水道橋駅前で佐久田さんたちと別れられたそうですが、それからどこへ行かれたんですか?」
薬師寺が桐生の行動に質問を移した。
真紀と服部を死に至らしめた犯人が同一人なら、真紀の件に関してアリバイのある桐生は犯人にはなりえない。
が、薬師寺は、必ずしも二件は同じ犯人だとは考えていないからだろう。
「私、ですか?」
桐生が細い目を丸め、ちょっと慌てたように訊き返した。
不意だったからか、それとも昨夜の行動を訊かれては都合が悪いのか。
「一応、お聞きしておきたいんです」
「私は本郷のマンションに住んでいるんですが、歩いてそこへ帰りました」
桐生が答えた。
「その後はどこにも行かれていない?」
「……いや、食事をした後、地下鉄で池袋へ飲みに出ました」
桐生が答えるまで、わずかに間があった。
「一人でですか?」
「そうです。実は、ちょっとむしゃくしゃしたことがあったので、部屋にいるのが嫌だったんです」
「それは何時頃でしょう?」
「部屋を出たのが八時頃でしたか」
「帰られたのは?」
「午前一時頃です」
服部の妻が夫の行き先を尋ねるために十二時頃桐生のマンションに電話したとき、桐生は電話に出なかった、という。いまの話が事実なら、そのとき彼は酒を飲みに外に出ていたことになる。
「それまで、ずっと池袋におられたんですか?」
「時々行く東口のクラブに十一時頃までいて、タクシーで巣鴨へ移りました。それから、またバーを二軒はしごしたかな……」
桐生が、最後は泥酔状態だったので、よく覚えていない、と言った。
「帰られたのはタクシーですか?」
「そうです」
「桐生さんは車の運転は?」
「免許は持っていますが、車を持っていません」
薬師寺が、昨夜行ったという三軒の店の名と場所を尋ね、桐生が答えた。
薬師寺が、服部の交友関係や服部が抱えていた問題などを聞きたいのでこのまま待ってほしいと桐生に言って、腰を上げた。
彼は鑑識課員たちのほうへ寄って行き、課員の一人が声をひそめて話すのを聞いていたが、二、三分で戻ってきた。
顔を見れば、結果は分かった。
案の定、彼は、昨夜の服部の行動を知る手掛かりになりそうなものは依然見つからない、と志村たちに伝えた。
薬師寺が席を外している間に、志村と間宮は目顔で帰ろうと確認し合っていたので、
「それじゃ、私たちはひとまず失礼します」
と、間宮が言った。
「そうですか」
薬師寺が応えて、志村たちと一緒に、下ろしたばかりの腰を上げた。
彼は、廊下まで志村たちを送ってきた。
桐生の耳を避けたらしい。
薬師寺は、桐生の話を聞いた後、岩村、柿沢という二人の大学院生に当たってみるつもりだと言い、間宮は、これから平塚へ行って、念のために古森芳樹の昨夜の所在を調べてみるつもりだと伝えた。
新しい事実が判明したら、互いの捜査本部を通して連絡を取り合うことを確認し、志村たちは薬師寺と別れた。
志村と間宮が二つの注目すべき事実を聞いたのは、昨夜古森芳樹は婚約者とずっと一緒にいたと確認した後だった。
古森のマンションから平塚駅まで戻り、大仁南署の本部へ帰るか、東京へ引き返すか、滝田の指示を仰ごうと電話すると、少し前に前後して入った情報だといって滝田が話したのである。
一つは、先月二十二日に佐久田がJR桜木町駅でホームから落ちたのは、彼が言っていたような不注意からの事故ではなく、誰かに突き落とされたものだと判明した≠ニいう話である。今日の午後零時三十分頃、桜木町駅に男の声で電話がかかり、顔も名前も知らない人間(男)に金で頼まれて佐久田を突き落としたと話したため、駅から連絡を受けた警察(神奈川県警)が、日吉の服部宅にいた佐久田を訪ねて確認したところ、そのとおりだと認めたのだという。
もう一つは、やはり今日の午後零時四十分頃、相馬圭一郎が山形の実家に電話をかけてきた≠ニいう事実であった。
志村たちは、これらの話を聞いた後、圭一郎のアパートへ引き返すようにという滝田の指示を受け、上りの電車に乗った。
5
美緒が服部啓吾が殺されたと知ったのは、その日の午前十一時近くだった。
殺人か否かに関係なく、教授が死亡したというので、大学の事務局から精一に電話連絡があったのである。
詳しい事情を尋ねようとした精一に、事務局員は知らないと答えたらしい。ただ、今朝、新横浜駅前公園で絞殺体となって発見された、という事実だけを教えたのだという。
そのとき、美緒の家には壮が来ていた。精一と章子を交じえた四人でコーヒーを飲みながら、二週間ほど前、美緒がパーティー会場で市倉正典から聞いた話をしていた。市倉の父・周三の描いた服部の肖像画に死相|云々《うんぬん》といった話である。美緒は、壮にだけは前にその話をしてあったが、章子が聞きたがったので、説明していたのだ。それだけに、服部の死の知らせは、二重の驚きであった。
電話を終えて居間に戻ってきた精一の話を聞いても、すぐには誰も口を開かない。精一自身、まだ半信半疑の態に見えた。
「本当に、『修禅寺物語』と同じようになってしまったのね」
章子が、強張った顔をして、最初に感想を述べた。
本当に……というのは、もちろん、周三が死相が出ていると言った肖像画の当人、服部が死んだからである。
市倉正典によると、これまでは、周三が死相云々と言った服部本人ではなく、服部と一緒にその絵を取りに行った秘書の相馬聡子、それに娘の真紀が死んだため、周三は不思議がり、気味悪がっていた、という話だった。
「といっても、市倉周三という画家の描いた絵とは何の関係もないと思うが……」
精一が言った。
「そりゃそうよ」
美緒は応じた。「服部先生の肖像画に死相が出ているなんて、その絵を描いた市倉さんのお父さん……市倉周三さんだけが言っていたことなんだから。それに、この話は、周三さんと市倉さん、それに私たちだけしか知らないんだし」
「それにしても何だか気味が悪いわね。市倉周三さんという画家は、『修禅寺物語』の夜叉王のように名人なのかしら」
章子が恐ろしげな表情をした。
「それは分からないけど、とにかくこれで、真紀さんも殺されたのは確実ね」
美緒は、横に座って黙っている相棒の顔に問いかけた。
「確実かどうかは分かりませんが、今までよりその可能性が高くなったのは間違いないと思います」
壮が答えた。
「その場合、真紀さんと服部先生を殺した犯人は同じ人間ね」
「たぶん」
「ただ、そうすると、現場の離れ家が密室≠セったという点が大きな問題になってくるんだけど。犯人は、真紀さんをどうやって殺害したのかしら?」
「さあ……」
「あなたにも分からない?」
「分かりません」
「市倉さんは、優秀な後輩≠ノ考えてもらってくれって言ったのよ」
壮が困ったような顔をした。
「殺人というが、服部さんの娘さんは、浴室の外を動き回る影を見て驚き、ショック死したということもあるわけだろう?」
精一が言った。
「そうだけど……服部先生が殺されたんだから、真紀さんも殺されたと考えるのが自然だわ」
「確かに、犯人に殺意はあったかもしれん。だが、殺したとはかぎらんだろう。犯人は家に押し入って真紀さんを殺害するつもりで行ったのに、そうする前に真紀さんが死んでしまった、といった場合もありうる」
「あ、そうか。それで偶然、現場が密室≠ノなってしまったわけか」
「そう」
なるほどそうかもしれない、と美緒は思った。真紀を殺して、現場を計画的に密室≠ノしたと考えるよりは、そのほうが自然だからだ。それに、これなら、二つの事件の犯人は同じ、という見方と矛盾しない。
「それにしても、お嬢さんと服部先生お二人の命を奪ったと思われる犯人は、どういう人なのかしら。先生のセクハラ疑惑に関係があるのかしら?」
章子が言った。
「分からん」
と、精一が首を振った。「なにしろ、服部さんは敵の少なくない人だったから」
「セクハラに関係している場合も同じだけど、犯人の動機が先生との関わりにあったのなら、お嬢さんまで……という点が分からないわ」
章子が言ったとき、美緒は、犯人の殺害対象は真紀と服部だけではなかったのではないか、という点に思い当たった。
もう一人――佐久田だ。
佐久田を桜木町駅のホームから突き落としたのが服部父娘を殺した犯人である、という証拠はない。だが、真紀の死につづいて服部が殺され、それなら、二つの事件の前に起きた佐久田の殺人未遂事件も同じ人間の仕業だったのではないか、と思ったのだ。
美緒は、自分の考えを壮に言ってみた。
「そうですね」
壮が考える目をして応じた。
「どういうことかね?」
精一が訊いたので、美緒は壮が佐久田に相談を受けた一件を話した。
「でも、結局、佐久田さんという方は警察に届けなかったわけね」
章子が訊いた。
「そうだったみたい」
美緒が答えて、「ね?」と壮に確認すると、ええと彼がうなずいた。
「だったら、放っておいたら、佐久田君が危ないんじゃないのかね。犯人はもう一度、彼を狙《ねら》うかもしれないだろう」
精一が言った。
「私もそう思うわ」
と、美緒はつづけた。「佐久田さんに連絡して、今からでも警察に届けるように、もう一度勧めたほうがいいんじゃないかしら。当然、服部先生が亡くなったのを知っているはずだから、今度は佐久田さんもきっとあなたの言うとおりにすると思うわ」
「そうですね」
壮も同調した。
「だったら、少しでも早いほうがいい」
精一が急かせた。「警察の捜査にとっても、その事実は大きな手掛かりになるはずだから」
「分かりました。それじゃ、すぐに連絡を取ってみます」
壮が応えて、腰を上げた。佐久田に電話するために廊下へ出て行った。
が、彼はすぐに戻ってきた。
佐久田は不在だったのだという。
服部家に電話すればつかまったのかもしれないが、取り込んでいるところに電話して呼び出すのは気がひけたらしい。
「今夜中には何とか連絡を取ります」
と、壮は言ったが、しばらくして、その必要はなくなった。
午後一時半過ぎ、服部事件の捜査を担当しているという薬師寺から問い合わせの電話がかかってきたのである。
先月二十二日に佐久田をホームから突き落としたと称する男から桜木町駅に電話がかかってきたので、佐久田から事情を聞いたところだが、彼の話は本当か――と。
6
夕方五時――。
美緒と壮は、井の頭線で渋谷まで行き、センター街の喫茶店で薬師寺と会った。
薬師寺は美緒の家を訪ねてもいいと言ったのだが、美緒たちと話した後で日吉の服部啓吾宅へ行くというので、美緒たちが渋谷まで出たのだ。
薬師寺は、美緒たちに佐久田の件を確認するだけでなく、服部の事件について壮に話し、壮の意見を聞きたかったらしい。
薬師寺は、美緒たちより五分ほど遅れて喫茶店に現われた。彼より若い森というずんぐりした刑事も一緒だった。
薬師寺は、美緒たちに森を紹介してコーヒーを注文すると、まず佐久田の件から説明した。
それは、電話で壮に話した内容を詳しくしたものであった。
発端は、今日の午後零時三十分頃、佐久田をホームから突き落としたと称する男が桜木町駅に電話をかけてきたこと。
男は、電話に出た駅員に、昼のニュースで服部という慶明大学教授が殺されたのを知ったと言い、次のように話したのだという。
≪自分は先月二十二日、慶明大学・東洋研究センターの佐久田という助手を桜木町駅のホームから突き落とした。だが、それは五十五万円の礼をもらう約束で頼まれただけで、今度の事件には無関係である。自分に佐久田という助手――頼まれたときは名前も職業も知らなかった――を突き落とすように頼んだ人間は中肉中背の男だった。黒いサングラスと大きなマスクをかけており、氏名はもとより年齢もはっきりしない。ただ、それほど年取った感じではなかったし、かといって、二十代前半というほどには若くなかったと思う。その男は、先月十日頃、自分がある公園のベンチに寝ているところへ近づいてきて、うまい仕事があるがやらないかともちかけた。話を聞いた後、承諾すると、前金に五万円、成功したら更に五十万円出すと言った。それなのに、前金の五万円をくれただけで、佐久田を突き落とした後、現われなかった。腹が立ち、よほど警察に電話してやろうかと思ったが、調べられたら自分もヤバいので、やめた。だが、今日、街を歩いているとき、偶然、電気屋の店先で服部という男が殺されたというニュースを見て、もしかしたら自分に佐久田を突き落とすように頼んだ男が今度の事件にも関係しているかもしれないと思い、電話した。万一、今度の殺しの罪まで被せられたらヤバかったし、ずっと、自分を騙《だま》した男に仕返ししてやれないかと考えていたからだ。
突き落とすように言われた対象がどうして佐久田という慶明大学の助手だと分かったかというと、突き落とした翌日、どうなったかと何種類かの新聞を買って見たところ、その中に、氏名だけでなく勤め先も書いてあるのがあったからである(佐久田が自分で足を踏み外したと言っているのには、びっくりした)。また、佐久田と服部が関係あるらしいと知ったのは、二人とも勤め先が同じであるうえに、テレビで見た服部の顔が佐久田と一緒に歩いていた男にそっくりだったからである。
自分は、先月半ばの夜九時頃、依頼者の男と一緒に水道橋駅近くの路上で佐久田の帰りを待っていて、「突き落とすのはあの背のひょろりとした男だ。男はいつも横浜の保土ケ谷から水道橋まで通っているから、適当にあとをつけて、混雑している時間にうまく突き飛ばして逃げろ」と教えられた。そのとき、ひょろりとした男の横に六十年配の大柄な男がいた。それが今日テレビに映っていた服部という教授だったのである≫
部下の話を聞いた桜木町駅長は、すぐに、当時佐久田に事情を聞いた派出所の警官に連絡。警官は、佐久田のボスの服部教授が今朝殺された事件を知っていたので、もしかしたら関係があるかもしれないと考え、横浜北署の捜査本部に通報した。そこで、壮と美緒も知っている捜査主任官の松沢が服部家に行っていた佐久田を訪ね、事情を聞いた。
すると、佐久田は、突き落とされた事実を認めただけでなく、事件の翌日、壮と美緒にだけは本当のことを話し、どうしたらいいか相談した、と明かしたのだという。
因《ちな》みに、桜木町駅に電話してきた男と駅員の会話は、最後の部分十五秒ほどが録音されていた。話が終わりに近づいてから、駅員が録音しておいたほうがよいと気づき、慌てて電話機の録音ボタンを押したのだという。そのため――男の声はくぐもっているうえに掠《かす》れていて、年齢等ははっきりしないが――容疑者が具体的に浮かんでくれば、声紋の鑑定は可能らしい。
「つまり、これで、先月二十二日の殺人未遂事件、今月一日の変死事件、そして昨日十五日の殺人事件と、わずか三週間余りの間に三つの事件が発生した、と明らかになったわけです。真紀さんの場合は殺されたのかどうかはっきりしませんが、一応被害者として数えておきますと、三人の被害者の間に密接な関係のある――」
薬師寺がここまで話して一度言葉を切り、運ばれてきていたコーヒーに砂糖とミルクを加えた。
佐久田氏の話が事実かどうかの確認は、さっき電話で壮にしているからだろう、繰り返さなかった。
薬師寺はコーヒーを啜《すす》ると、今度は服部の殺された事件について説明し、
「できれば、黒江さんと笹谷さんの意見を伺いたいと思いまして……」
と、たぶん今日の一番の目的を述べた。
ただし、美緒は付けたりであろう。
「服部真紀さんの件の調べは、どうなっているんでしょうか?」
壮は例のごとく何やら考えているらしいので、美緒が代わりに質問した。
すると、薬師寺が、
「佐久田さんの殺人未遂事件が発生する二十日前……正確には先月の三日、服部先生と佐久田氏に深い関わりのあった一人の女性が自殺しているのはご存じですか?」
と、訊き返した。
「ええ、相馬聡子さんですね」
と、美緒は答えた。「それから十日ほどして、相馬さんの弟さんが短刀で服部先生に襲いかかったのも知っています。そのとき、私は、偶然慶明大学の構内を歩いていて、見たんです」
そうなんですか……と、薬師寺が驚いたような顔をして応じ、
「それなら話が分かり易い」
とつづけた。「実は、真紀さんが修善寺温泉の離れ家で亡くなった晩、相馬さんの弟・圭一郎が修善寺へ行っていたことがほぼ確実になったんです」
壮が、下向けていた目を上げた。
さすがに気になる事実だったらしい。
「では、相馬さんの弟さんが、真紀さんを……?」
美緒は訊いた。
「まだそこまでは言えませんが、最も疑わしい人物であることは確かなようです。静岡県警が行方を追っているんですが、六日前からアパートに帰っていませんし」
薬師寺がそこで、ああ……と言いながら腕時計に目をやり、「もしかしたら、静岡県警の刑事もここへ来るかもしれません。時間の調整がつけば、という話でしたが……。今日の午後、圭一郎から実家に電話があったんだそうですが、詳しい事情とその後どうなったのかという話は、私たちもまだ聞いていないんです」
美緒の脳裏には、短刀を持って自分の横を走り抜け、服部に襲いかかって行った男の姿が浮かんでいた。まだ少年のような顔をした肥った若者だった。圭一郎というあの若者が真紀の命を奪い、今度は服部を殺したのだろうか……。
「ところで、服部先生が殺された件ですが、黒江さんは、事件に関係していそうな事柄を何かご存じないでしょうか?」
薬師寺が話を戻し、壮に訊いた。
壮が首をかしげた。
「例のセクハラ疑惑に関連した話でも、東洋研究センター内の権力争いに関係した件でもいいんですが」
「知りません。同じ大学といっても、学部が違うと、そうした情報はあまり入ってこないんです」
それは学部が違うせいではなく、その種の情報に対する壮のアンテナが低いからだと思ったが、美緒は黙っていた。
「では、佐久田さんの殺されそうになった事件、真紀さんの変死事件、そして服部教授が殺された事件と、一ヵ月もしない間につづいて起きた三つの事件の関係を、どうお考えでしょうか?」
「たぶん、薬師寺さんの考えておられるのと同じだと思います。時間的に接近しているというだけでなく、薬師寺さんがさっき言われたように、被害者の間に密接なつながりがあるという点からみて、無関係とは考えられません」
「今日桜木町駅に電話してきたホームレス風の男に佐久田氏を突き飛ばさせた男を含めて、犯人は同一人だと……?」
「そこまでは断定できません。というか、相馬圭一郎君が真紀さんの命を奪った犯人の最右翼だと伺ってから、その点、疑問を感じているんです。もし圭一郎君が犯人なら、佐久田さんを突き飛ばさせた男の体形と合わないようですから」
美緒は、三つの事件の犯人は同じ人間ではないか、と漠然と思っていた。だが、壮の言うように、真紀を死に至らしめた犯人が圭一郎なら、それは違うと考えざるをえなかった。
薬師寺が、更に二、三の点について壮の意見を求めた。だが、今の段階では、壮にも犯人を突き止めるヒントになるような考えを示すのは無理のようだった。考え、判断するための材料が少なすぎるのである。薬師寺は期待していたのだろうが、壮は根拠の薄いことは口にしないので、仕方がない。
壮が黙り込んだので、美緒はよほど、市倉正典に聞いた服部の肖像画に表われた死相云々の話をしようか、と思った。が、不思議ではあっても、事件に関係あるはずがないし、周三に迷惑をかけるだけなので、やめた。
「どうやら、静岡県警の刑事たちは都合がつかなかったようです」
薬師寺が時計を見て、言った。
来ないなら帰ろう、というのだろう。
「お役に立てなくて、すみません」
美緒は謝った。
「いえ、こちらこそ、お休みのところを出てきていただいて申し訳ありませんでした」
薬師寺が恐縮した顔で頭を下げた。
「それじゃ……」
帰りますか、と美緒は目顔で問うた。
「ええ」
と、薬師寺が応え、さっとレシートを取った。
美緒が壮を促して、腰を浮かしかけたとき、二人の男が勢いよく店に入ってくるのが目に映った。
やはり腰を上げかけた森が「薬師寺さん」と呼びかけ、目顔で入口のほうを示した。
薬師寺がそちらを見やると、すぐに美緒たちに目を戻し、
「来ました」
と、笑みを見せて言った。
四人が再び腰を落ちつかせる間もなく、二人の男がテーブルのそばに来た。
四十歳前後の気の強そうな男と、二十六、七のおとなしそうな男だ。
「どうも、遅くなりまして」
と、年上のほうが言った。
「いえ」
薬師寺が応じて腰を上げた。
彼は、「ご紹介します」と、二人の男たちと壮と美緒を互いに紹介した。
小柄な利かん気そうな目をした男が間宮、おとなしそうなほうが志村という姓だった。ともに真紀の事件の捜査を担当している静岡県警の刑事だという。
間宮がかすかに唇を歪めるのが美緒には分かった。壮を見る目に敵意が籠っているように感じられた。
六人掛けのテーブルだったので、薬師寺が間宮たちにも掛けるように勧めた。
「いや、結構です」
間宮が断わった。「私たちは、薬師寺さんたちにお話ししようと思って参ったんです」
「相馬圭一郎の件でしょうか?」
薬師寺も立ったまま訊き返した。
「え、ええ……」
と、間宮が戸惑ったようにうなずき、美緒と壮に視線を流した。
「黒江さんと笹谷さんでしたら、何を話しても大丈夫です。外部に漏《も》れる心配はありません」
薬師寺が言った。
「しかし……」
「私たちは失礼します」
美緒は言った。
間宮の態度は当たり前である。腹は立たない。もう慣れていた。懇意にしている警視庁捜査一課の勝や真木田、それに捜査共助課の岩崎などが他府県の刑事に壮と美緒を紹介すると、必ずといっていいほど、いまのような反応が返ってくるのである。
「待ってください」
美緒と壮が腰を上げかけるや、薬師寺が美緒たちに請う目を向けた。
次いで、彼は、
「間宮さんたちも座ってくれませんか」
穏やかだが、有無を言わせない調子で間宮に言い、先に腰を落とした。
そばにウエイトレスが待っていたからか、間宮が渋々薬師寺の隣りに座り、志村が美緒と壮の並びに掛けた。
間宮が怒ったようにコーヒーを注文し、志村が、「僕はアイスコーヒーをください」と言った。
「間宮さん、ここで、相馬圭一郎の件がどうなったのか教えてください。もしそれで問題が起きたら、責任は私が取ります」
薬師寺がきっぱりと言った。
「…………」
間宮は口を開かない。
不機嫌そのものといった顔だ。
「やはり、私たちは失礼しますわ」
美緒は言った。
薬師寺がそれを目顔で抑えて、
「間宮さん」
と、もう一度促した。
「結局、何も分からなかったんです」
間宮が壮と美緒から顔をそむけ、といって横に並んだ薬師寺の顔も見ずに、ぶすりと答えた。
「圭一郎が実家に電話してきたのは午後零時四十分頃だという話でしたね。そのとき、電話には誰が出たんでしょう?」
「母親です」
「で、圭一郎はどこにいると……?」
間宮が黙って首を横に振った。
「言わなかったんですか?」
「母親が訊いても、それは言えないと答えるばかりだったようです」
「どうして六日もアパートを留守にしているのか、といった話は?」
「服部真紀殺しに関して警察に疑われているからだ、と言ったそうです。自分は何もしていないし、関係ないのに、と……」
「修善寺で服部真紀が変死した晩、現場近くに行っていた点については触れなかったんでしょうか?」
「触れません。ご存じのように、こういう連中は、けっして自分の都合の悪い事実は口にしませんからね。それで、ただ、自分はやっていない、無関係だ、と喚《わめ》くんです」
「何のために、実家に電話をかけてきたんでしょう?」
「昨夜、服部啓吾を殺《や》ったからだと思いますね。カムフラージュですな」
「カムフラージュ?」
「ええ。さっき、テレビで服部啓吾が殺されたと知り、このままでは両方とも自分がやったことにされてしまうにちがいない、自分は殺人犯人にされてしまうにちがいない、と泣きながら母親に訴えたという話ですから。
母親は、その演技にころりと騙され、なぜ無実の息子を疑い、追い詰めるのか、このままでは自殺してしまうかもしれないじゃないか、と捜査本部に抗議の電話をかけてきたんです」
「それじゃ、間宮さんは、朝言われたように、相馬圭一郎が服部真紀を死に至らせただけでなく、服部教授も殺した、と?」
「わずか二週間しか間を置かずに起きた娘と父親の死が、別々の事件だなんて考えられんでしょう。としたら、犯人は奴……圭一郎しかおりません。真紀が死んだ晩に修善寺へ行っていた事実を隠し、一週間近くも逃げ回っているんですから。
朝、薬師寺さんは、逃げ回っているときに新たな殺人を犯すか、服部教授を殺すつもりだったのなら娘を殺そうとするか、と疑問を呈されましたね。ですが、真紀を襲ったときは服部教授を殺すつもりがなくても、どうせ逃げ切れないのなら本命の教授を……と考えたって、不思議はないでしょう」
壮が間宮の話を聞きながら小さく首をかしげるのが、美緒には分かった。
薬師寺もそれに気づいたらしく、間宮の話が終わるのを待って、
「黒江さんはいかがですか。間宮さんの見方をどう思われますか?」
と、壮に顔を向けた。
間宮が首を回し、射るような視線を壮に当ててきた。
「別に……」
と、壮が答えた。遠慮したらしい。
間宮の目に薄ら笑いがにじんだ。その表情は、素人に何が分かるか、と言っているようだった。
「ですが、小首をかしげておられるようでしたが。何か疑問を感じられたんじゃないんですか」
薬師寺がなおも訊いた。
「相馬圭一郎君が服部先生を殺した犯人なら、どうして短刀で刺さなかったのかな、と思っただけです」
「そんな理由なら簡単じゃないか」
壮が答えるや、間宮が馬鹿にしたような調子で言った。「どこかに待ち受けていて短刀で襲えば、騒がれ、逃げられる危険が大きい。としたら、車の中へ誘い込むのが一番いい。だが、車の中で短刀で刺せば、血が出る。汚れて、証拠が残る。それに対し、紐で首を絞めた場合、そうした証拠が残らない」
「ですが、相手の隙《すき》を見て紐で首を絞めるのは、短刀で刺すよりずっと難しいと思いますが」
壮が反論した。
「難しくたって、証拠を残さないようにするには、それしかなかったんだよ」
「車の中の犯行だったらそうかもしれませんが、短刀で刺すのは、先生を車から降ろしてからだってできます」
「いま言っただろう。外で襲えば、騒がれ、助けを呼ばれる」
「車を人気のない場所まで走らせてからなら、いかがですか?」
「そんなことは簡単にできん。相馬圭一郎は、服部教授を一度短刀で刺そうとしているんだ。教授は当然、警戒する」
「僕も、先生は警戒されていたと思います。車を停めて待ち受けていた相馬君に話があると言われ、誘いに応じて、彼の車に乗ったとしても」
「そう。だから、人気のない場所へなんか行けなかったんだよ」
「それは変です」
「変? 何が変なんだ!」
間宮が声を荒らげた。
しかし、壮はそれを無視して、
「首を絞められた服部先生には、争ったような跡、あるいは必死で抵抗したような跡はあったんですか?」
と、薬師寺に質問を向けた。
壮の考えていることが美緒にも分かった。
「そうした跡は見られませんでした。ですから、犯人は先生の油断を見すまして、背後から不意に襲ったものと思われます」
薬師寺が答えた。
「それは変だと思いませんか?」
壮が間宮に目を戻した。「先生は、一度刺されそうになった相手に、どうして首を絞められるような隙を見せたんでしょう?」
間宮が返答に詰まった。
「先生が相馬君の車に乗ったかどうかがまず問題ですが、もし乗ったとすれば、相馬君がその車を人気のない場所まで走らせるのはそれほど困難ではなかった、と僕は考えています」
壮がつづけた。「ですが、先生の隙を狙って首に紐《ひも》を掛け、抵抗する間《ま》を与えずに一気に絞め殺すのは、相当難しかったんじゃないでしょうか。相馬君が運転席にいたのなら、先生が乗ったのは助手席か後部シートです。車を走らせたままでは、絶対に不可能です。車を停めても、助手席と運転席に離れていたのでは無理です。そこで、先生は後部シートにいたとして、話し合いをするために、相馬君も先生の横に乗り移ったとしてみましょう。それだけで、先生の警戒心はいっそう強まったはずです。すぐ隣りに自分を刺そうとした人間が来たんですから。相馬君は身体が大きくて肥っているそうですが、先生だって大柄なほうです。抵抗らしい抵抗をしないで絞め殺されたとは考えられません」
間宮は口をへの字に曲げていた。悔しそうだった。反論したいのだが、壮の言うとおりだからだろう。
薬師寺はというと、小さくうなずきながら考えているようだったが、
「では、黒江さんは、少なくとも服部先生を殺したのは相馬圭一郎ではない、と考えられるわけですね」
と、壮に確認した。
「断言はできませんが……」
壮が肯定した。
「ということは、娘の真紀さんを死に至らしめた犯人と服部教授を殺した犯人は別人、という結論になるんでしょうか?」
ずっと黙っていた森が質問した。
「そうと決まったわけじゃありません。ホームレス風の男を使って、佐久田さんを駅のホームから突き飛ばして殺そうとした犯人も含めて、まだ三つの事件が同じ犯人だった可能性はあります」
壮が答えた。
「佐久田氏の件は聞きましたか?」
薬師寺が間宮と志村に確認すると、間宮が気のない様子で聞いたと答えてから、
「あんたの言うのはおかしい」
と、壮に噛みついた。「あんたの言うように、三つの事件の犯人が同じだった場合、相馬圭一郎が服部教授殺しの犯人でなかったら、彼は真紀の死にも関係していない、という結論になってしまう」
間宮は壮の論理の矛盾を突いたつもりらしかったが、壮は涼しい顔をして、
「ええ」
と、うなずいた。
「圭一郎は真紀が死んだ晩、修善寺へ行っているのは確実なんだ。それを我々や母親に隠し、逃げ回っているんだぞ。この事実をどう説明するのかね?」
「僕にも説明できません」
「説明できない!」
「僕はただ、相馬君ではない一人の人間が、佐久田さんを殺そうとして失敗した後、真紀さんを死に至らしめ、服部先生を殺害した――この可能性もある、と言っているだけですから」
「じゃ、三つの事件、あるいは二つの事件の犯人は別人の場合もありうる――というわけだな」
「そうです」
「つまりは、あんたは、何も言っとらんのと同じか」
間宮が小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべたが、壮は言い返さなかった。
言っても何もならないからだろう。
それにしても……と美緒は思う。三つの事件の関係はどうなっているのだろうか。壮は、犯人が別々の場合もありうると言ったが、美緒はやはり、三つの事件は一人の犯人によるものではないか≠ニいう気がしていた。
ただ、その場合――圭一郎が服部を殺していないという壮の考えが正しければ――、圭一郎は犯人ではない、という結論になる。
としたら、圭一郎は、真紀が死んだ晩、どうして修善寺へ行っていたのだろうか。
圭一郎の行動も疑問だが、彼が犯人でないなら、いったい誰が犯人なのだろうか。誰が、佐久田と真紀と服部を殺そうとしたのだろうか。薬師寺によると、これまで、圭一郎の他に、佐久田、服部研究室の助教授・桐生利明、元研究員・古森芳樹、それに服部のセクハラ疑惑に関係した人たちが真紀殺しの動機を持っている可能性のある者として、調べられたらしい。しかし、佐久田は犯行不可能と判明。桐生は、真紀が死んだ晩、市倉正典と一緒に東京で酒を飲んでいたというアリバイが成立。古森とセクハラ疑惑の関係者たちも、それぞれの理由により全員がシロ=Aという判断が下されたのだという。
その後、服部が殺され、佐久田の殺されそうになった件が明らかになったのだから、条件が変わった。だから、これまでにシロと判断された者についても、もう一度調べなおす必要があるかもしれない。が、少なくとも、服部のセクハラ疑惑関係者の場合、佐久田まで殺そうとした理由はないように思える。
美緒は、また、真紀の死んだ翌々日、市倉正典に聞いた話を思い出した。市倉周三の描いた服部の肖像画に死相が出ていた、という話だ。それは事件とは関係ありえないが、やはり気になった。絵を持ち帰った晩に相馬聡子が自殺し、それから一ヵ月して真紀が変死を遂げ、更に二週間して服部が殺されたのである。美緒はこういう考え方は好きではないが、絵に呪いがかかっている≠ニでも考えるしか説明のしようがなかった。
薬師寺が時計を見たので、美緒は先に帰ろうと壮に囁《ささや》き、
「用事があるので、私たちはそろそろ失礼します」
と、薬師寺に伝えた。
薬師寺も今度は引き止めず、「そうですか」と応じた。間宮たちと打ち合わせがあるのかもしれない。
志村が立って空けてくれたので、壮、美緒と順にテーブルの横へ出た。
「どうもありがとうございました」
薬師寺が礼を述べると、森と志村は一緒に頭を下げたが、間宮だけは顔をそむけた。
第六章 裏切りの構図
1
服部の絞殺死体が見つかってまる三日|経《た》った十九日(水曜日)の朝、薬師寺は森とともに慶明大学を訪ねた。
十六日(日曜日)の服部教授室の捜索のときと翌月曜日にも来ているので、三度目だ。
服部啓吾に関しては、佐久田、桐生、岩村、柿沢といった服部研究室のメンバーたちの話から、また東洋研究センターの他の研究室員にも当たった間宮たちの話から、少なからぬ情報を得ている。おそらく、すでにそれらの情報の中に事件の謎を解く鍵が隠されているのではないか、と薬師寺は思う。しかし、どれがその鍵なのかが分からないのだった。
そこで、まだ当たっていない東洋研究センターの教授や研究員に会えば、たとえ新しい事実は聞けなくても、その鍵を見極めるヒントぐらいは得られるかもしれない、と考えたのである。
この間、薬師寺たちは、十五日の夜八時半に服部が一人で大学を出てからの足取りを中心に調べてきた。
遺体の解剖の結果、服部は大学を出た午後八時半から十時半ぐらいまでの間に殺害されたことが明らかになった。胃は空だったし、アルコールや睡眠薬その他の薬物を摂取した形跡もなかった。また、靴の底に新横浜駅前公園の土や草が全然付着していなかったことから、どこか別の場所で殺され、車で公園まで運ばれて遺棄されたのが確実になった(鞄、財布などは公園近くの鳥山川に捨てられていた)。
となれば、服部は、いつもの帰宅経路で犯人と接触した可能性が高い。犯人にどこかへ呼び出されたと見るより、服部の帰り道に犯人が待ち受けていた、という場合だ。
服部は、特別の事情がないかぎり、水道橋で地下鉄・都営三田線に乗って日比谷まで行き、日比谷で東横線直通の営団・日比谷線に乗り換え、日吉まで帰っていた、という。十五日もそのコースを採った可能性が高い。
薬師寺たちはそう考え、服部が大学の正門を出て水道橋駅へ行くまでの経路(六、七分間)、日吉駅で降りて徒歩で自宅へ帰るまでの経路(十二、三分間)、地下鉄と東横線の駅……などで彼の目撃者捜しをつづけてきた。
しかし、正門を出た直後と思われる八時半頃、白山通りへ出る手前を服部と思われる男が一人で歩いて行くのを見たという大学関係者がいた以外、彼の目撃者は見つかっていない。地下鉄の水道橋駅、東横線の日吉駅、それに両駅の周辺は重点的に聞き込んだのだが、それらしい人を見たような気がするという者はいても、目撃の日時などが曖昧で、服部だったと特定するには根拠が弱いのだった。
もし、犯人が白山通りで待ち受けていて、服部を車に乗せてしまったとすれば、その後の目撃者がいないのは当然である。目撃者が見つからないということは、その可能性が高いのかもしれない。
といって、大学関係者が服部と思われる男を見た場所から水道橋までの間で、八時三十分〜四十分頃、服部に似た男が車に乗り込むのを見た≠ニいう者が現われないかぎり、薬師寺たちとしては軽々にそう断定するわけにはゆかない。
いや、たとえ運よく、服部と犯人の接触した現場の目撃者が見つかっても、その証言が即、犯人の特定に結び付くとはかぎらない。むしろ、その可能性は薄いだろう。重要な手掛かりには違いないが、犯人の動機、事件の構図を明らかにし、更に犯行の証拠をつかまなければならない。
そのため、薬師寺たちは、服部と様々なかたちで関わっていた者たちに目を向け、事件の謎を解く鍵がどこにあるのか、探っているのだった。
ところで、服部の死はマスコミを賑わせ、巷《ちまた》に大きな話題を提供していた。セクハラ事件で「時の人」とも言うべき存在になっていた有名教授が、密室≠ナ娘が変死し、その謎も解明されないうちに殺されたのだから、当然と言えば当然かもしれない。
薬師寺たちは、二つの事件の前に起きた、真紀の婚約者で服部の腰巾着《こしぎんちやく》(何人かの者がそう表現した)の佐久田宗行がホームから突き落とされ、殺されそうになった件については公表していない。これを公表したら、更に大きな騒ぎになっていただろうし、生きている佐久田に多大な迷惑が及ぶおそれがあったからだ。
マスコミの多くは、真紀も何者かに殺され、その同じ人間に服部啓吾も殺されたのではないか、と書いたり言ったりしていた。そして、犯人は服部に恨みを持つ大学関係者か、セクハラ事件の関係者ではないかと警察は見ている模様だ、と伝えている。
薬師寺たち神奈川県警も間宮たち静岡県警も、犯人の具体像についてのコメントは出していない。真紀の死が病死や事故死ではない可能性が高くなったと認め、二つの事件は関係している可能性が高い、と述べただけである。
だが、両県警の見方は、実際はマスコミの報道に近かった。昨日、両県警の幹部たちが集まって協議したが、佐久田の殺人未遂事件を含めた三つの事件の犯人(真紀の死が殺人ではなく過失致死だった場合はその犯人)は、同一人である可能性が極めて高く、服部と何らかの関係のあった者であろう、という見方で一致した。
ところが、具体的な容疑者となると、絞れないのだった。
今のところ、真紀の死んだ晩に修善寺へ行っていて(確証はないが確実と見られる)、現在行方をくらましている相馬圭一郎が容疑者の最右翼だが、彼を服部殺しの犯人と見るには――薬師寺が考えたように、あるいは壮が指摘したように――かなりの無理があった。それだけではない。桜木町駅に電話してきたホームレス風の男の話が事実なら、彼に佐久田を突き落とすように依頼した男は中肉中背だというから、大柄な圭一郎と一致しない。
次の容疑者は桐生利明である。
桐生の場合、服部殺しに関しては不可能ではない。
彼は、十五日の夜九時から十一時頃まで池袋のクラブにいた事実が確認されたが、池袋へ行く前に、服部が大学を出てくるのを白山通りで待ち受けるのは可能だった。それから車に乗せて人気《ひとけ》のないところまで行き、すぐに殺害。死体をトランクに隠しておいて、池袋のクラブから巣鴨のバーに移り、バーを出た後、車を運転して新横浜駅前公園まで行き、死体を棄ててくることは難しくない(その晩、桐生は泥酔していたというが、酔ったふりをして、あまり飲まずにいたのかもしれない)。
このように、桐生の場合、服部殺しは可能である。
しかし、桐生には自分の手で真紀をどうこうするのは不可能だった。真紀が修善寺温泉で死亡した晩、彼は東京で市倉正典と酒を飲んでいた事実がはっきりしており、誰かの手を借りないかぎり、真紀を死に至らしめることはできない。
では、佐久田を突き落としたときと同じように、誰かを利用したのだろうか。
この可能性を考慮する必要はあるものの、かなり無理がある。真紀を殺すように仕向けること(結果は過失致死だったとしても)は、混雑しているホームで佐久田の背中を突き飛ばさせるようには簡単ではない。少なくとも、街で拾った人間に、自分の正体を知られずにこのような殺人を依頼するのは不可能だった、と考えてよい。
相馬圭一郎と桐生利明が消えれば、あとは古森芳樹か、服部に性的な暴行を受けたと考えられる女性の関係者(男)である。
だが、古森には服部殺しに関してのアリバイがあったし、セクハラ疑惑の関係者には、佐久田がいかに服部の腰巾着でも、彼を殺す動機があったとは思えなかった。
このように、これまでに浮かんできた容疑者には、いずれも難点があった。
とすれば、あとは、まだ捜査線上に浮かんできていない人間が犯人か、真紀を死に至らしめた人間と服部を殺した人間は別人だった、としか考えようがない。
二つの事件の犯人がもし別人なら、犯行不可能の壁は消える。
真紀を死に至らしめた犯人は彼女の死亡時に修善寺へ行っていた圭一郎のセンが有力になり、服部殺しの犯人は桐生だった可能性が高くなる。
この場合、ホームレスらしい男を利用した佐久田の殺人未遂は、体形から見て圭一郎ではありえないので、桐生か別の第三者だった、ということになろう。
ところが、この考えにも難点がある。
まず、桐生が佐久田と服部を殺そうとした犯人だった場合である。
服部が自分の後継教授を公募で決めようとしていたのが事実なら、桐生には服部殺しの動機が存在する。服部の裏切りに対して強い憤《いきどお》りを覚えていただろうし、服部が外部から後継者を迎え入れた場合、桐生はその下で助教授をつづけるか、外に出て行かざるをえなくなる。一方、ここで服部がいなくなれば、桐生が教授に昇進する確率は非常に高い。とすれば、桐生が、服部に対する恨みを晴らすと同時に実質的な大きな利益を得るために、彼を殺害する道を選択したとしても、不思議はない。
しかし、桐生には、佐久田を殺す動機があったとは思えない。服部の腰巾着の佐久田に腹立たしい思いはしたかもしれないが、だからといって、破滅するかもしれない危険を冒して殺害しようとするだけの動機は見当たらない。なぜなら、桐生にとって、服部さえ亡き者にすれば、佐久田の首など思いのままにできるのだから。
とすると、佐久田を殺そうとしたのは、桐生ではなかった可能性が非常に高くなる。体形からいって、圭一郎でもない。
つまり、それは第三の人間ということになり、佐久田殺し(未遂)、真紀殺し(過失致死?)、服部殺しはすべて別々の犯人による犯行だった、という結論になる。
そうした場合もありえないわけではない。
とはいえ、三人の被害者の間には〈婚約者同士、親子、親密な子弟〉という密接な関わりがあり、犯行もわずか三週間余りの間に集中している。佐久田の殺人未遂は九月二十二日、真紀の死は十月一日、服部殺しは十月十五日――というように(因みに相馬聡子が自殺したのは九月三日、圭一郎が服部を短刀で襲ったのは九月十四日である)。
それにもかかわらず、これら三つの事件を、三人の人間がそれぞれの動機から起こした別個の事件だった、と考えられるか。
神奈川県警も静岡県警も、否≠ニ見た。
そして、両者の合同会議では、その可能性も完全には否定できないが……という含みを残しながらも、
≪犯人および犯行方法は、はっきりしないが、三つの事件は、同一の犯人による一連の犯行の可能性が高い≫
という結論を出したのである。
薬師寺の個人的な見解も、これと同じだった。
事件は一連のものであり、犯人はやはり一人の人間ではないか、と考えていた。
ところが、その見方に立ったところで、目の前には迷路しかなく、出口は一向に見えてこないのである。圭一郎を犯人と見ても、桐生ではないかと疑っても、あるいは、まだ捜査線上に浮かんできていない第三、第四の人物がいるのかもしれないと考えても、二、三歩進むと壁にぶつかり、また前と同じ道をぐるぐると歩き回っている、という状況なのだった。
薬師寺と森が慶明大学の正門前に着いたのは、十時四、五分前。
門を入り、薬師寺が左側の守衛詰め所に目をやると、三日前の日曜日、「服部が前夜の八時半頃、門を出て行った」と話してくれた五十年配の守衛が立っていた。翌日(一昨日)来たときは別の守衛だったのだ。
薬師寺たちが頭を下げると、守衛も目顔で挨拶を返してきた。
次の瞬間、彼の顔に何かを思い出したような色が萌《きざ》した。
薬師寺は気になった。
足を止めて、
「先日はどうもありがとうございました」
と、あらためて挨拶した。
「いえ……」
守衛の表情には何か屈託が感じられる。
薬師寺は近寄って行き、
「その後、何か気づかれるか思い出されたことはありませんか?」
と、訊《き》いた。
「別に……」
守衛が答えた。目の焦点が微妙に薬師寺から逸らされている。
「では、土曜日の晩、服部先生がここを出られた八時半頃、門の近くに立っている人か停まっている車はありませんでしたか?」
犯人は門の前で服部を待ち受け、服部が白山通りへ出るまでついて行ってから声をかけた可能性もある。
守衛が、分からないというように首をかしげた。
「重要な手掛かりになるかもしれませんので、よく思い出してくれませんか」
薬師寺はつづけた。
守衛の表情から屈託は消えている。
彼はしばし考えているふうだったが、
「人も車もいなかったと思います」
と、答えた。
「そのとき、服部先生は確かに一人だったんですね?」
薬師寺は念のためにもう一度確認した。
と、守衛は「ええ」とうなずいたものの、その視線はまた揺れ、薬師寺から逸らされた。
どういうことだろう、と薬師寺は訝《いぶか》った。服部が一人だったというのは、嘘なのだろうか。
「何かご存じのようですね」
薬師寺は相手の表情を窺《うかが》った。
「いえ、私は、何も……」
守衛が慌てて首を振った。
「もしかしたら、服部先生は一人ではなく、誰かと一緒だったんじゃありませんか」
「そ、そんなことありません。服部先生はお一人でした」
守衛が強い調子で否定した。
が、彼はその後で、「ただ……」と呟《つぶや》くように言った。
「ただ――?」
薬師寺はその言葉をとらえて、質《ただ》した。
「服部先生の殺された事件とは、何の関係もないと思いますが……」
「それでも結構です。教えてください」
「実は、服部先生が帰られる五分ほど前、いつも先生とご一緒のことが多い桐生先生が、一人で出て行かれたんです」
守衛が意外な事実を明かした。
「桐生さんが、服部先生の五分ほど前に一人でここを……。桐生助教授に間違いありませんか?」
薬師寺は確認した。
桐生は六時頃、佐久田らと一緒に帰ったはずだからだ。
「それは間違いありません」
と、守衛が疑われて心外だといった顔付きで断定した。それから言い訳するようにつづけた。
「先日は、服部先生を見なかったかというご質問でしたので、お話ししなかったんです。もちろん、今でも、桐生先生が服部先生と前後して出て行かれたからといって、事件に関係があるとは考えておりませんが」
彼は、事件に関係あるとは考えていないと言いながら、日曜日の薬師寺の質問の後、ずっと気にしていたにちがいない。だから、さっき薬師寺を見て、すぐにその件を思い出したのだろう。といって、話せば桐生に迷惑をかけるかもしれないと思い、話すべきかどうか迷っていたのだと思われる。
それにしても、妙だった。というより、桐生の言動は怪しかった。桐生は、六時頃佐久田らと一緒にここを出た後、水道橋駅前で彼らと別れて真っ直ぐ本郷のマンションへ帰った、そして八時頃池袋へ酒を飲みに出かけるまで、ずっと部屋にいた、と言っていたのである。だが、少なくとも、それは嘘だったことになる。
「守衛さんは、その二時間半ほど前、桐生さんが助手の佐久田さんらと一緒にここを出て行ったのも、目にしておられましたね」
薬師寺は質問を進めた。
この点は、三日前、服部について訊いたとき、ついでに確認していたのだ。
「ええ」
と、守衛が答えた。
「それなのに、桐生さんがまた帰るのを見て、変だとは思いませんでしたか」
「別に……。外で食事でもしてまた研究室へ戻られたんだな、と思っただけです。そういう方は少なくありませんから」
「外から戻るところは?」
「それは見ていません。私も、電話を受けたりトイレに行ったりすることがありますし、適当に休憩も取りますので」
「桐生さんの服装と持ち物は、いかがでしょう、最初に見たときと二度目とでは違っていましたか?」
「さあ……同じスーツだったような気がしますが、持ち物までは覚えておりません。先生方は似たような手提げ鞄かショルダーバッグを持っておられる方が多いですから」
「服部先生の五分ほど前に出て行った桐生さんは、どんな様子でしたか? 考えごとをしているように見えたとか、慌てているように見えたとか……」
「考えごとをしているというのとは違うかもしれませんが、何かに気を取られている感じでした。また、不機嫌そうな、怖いような顔つきをしていました」
「桐生さんは、門の手前か外で誰かを待っているような感じはなかったですか?」
「全然ありませんでした。真っ直ぐに出て行かれました」
薬師寺は守衛に礼を述べ、森と一緒に詰め所の前から離れた。
2
ロータリーを回り、欅《けやき》並木を奥へ向かって歩き出すと、
「桐生は嘘をついていたわけですね」
と、森が話しかけてきた。
眼鏡をかけた童顔に、興奮したような色が認められた。
薬師寺はうなずいた。
「桐生は、白山通りへ出て、服部を待っていたんでしょうか」
「分からん」
薬師寺は首を振った。
桐生は、佐久田たちには家へ帰るように思わせて研究室へ引き返したか、一度本郷のマンションへ帰ってから出直してきたか、どちらかだったのは間違いない。いずれにせよ、彼は研究室に残っていた服部と会い、服部と何らかの話をした。その結果が、おそらく守衛の見た「不機嫌そうな怖いような顔」だったのだろう。
桐生の行動は大いに気になる。が、だからといって、それは犯行には直接結び付かない。なぜなら、服部は、桐生の後で元気に大学の門を出て行っているのだから。
ただ、それでは、桐生はなぜ嘘をついたのか、と薬師寺は思う。もし服部の殺された事件に関係がないのなら、大学へ戻った事実を明かしたところで問題ないはずである。服部は学外で殺されたのだから。それなのに、桐生は、佐久田たちと別れてマンションへ帰り、八時頃までずっと部屋にいた、と嘘をついた。ということは、その虚偽の二時間こそ、服部殺しに関係しているのではないか。
桐生には、佐久田たちと一緒に大学を出て研究室へ戻るまでの間に、(成り行きによっては服部を殺そうと考えて)大学の近くの駐車場に車を用意しておくことが可能だった。八時半近く、服部より一足先に大学を出たのも、その車を取ってくるためだったと考えれば、辻褄《つじつま》が合う。この場合、桐生は、「車を取ってきて自宅までお送りします」と服部に言っておき、車の往来が多くて目立たない白山通りに車を停めて待ち、彼を乗せればよい。
東洋研究センターの建物に入ると、薬師寺たちは、まず二階の服部教授室を訪ねた。
ノックをしてからドアを開けると、主《あるじ》のいなくなった部屋に、佐久田と二十六、七歳と思われる男女がいた。
男は、土曜日の夕方佐久田らと一緒に帰った岩村という大学院生である。
立ち話をしていたようだが、薬師寺たちのほうへ向けられた三つの顔は、彼らの話の内容を映すかのように深刻げだった。
それじゃ、僕たちは……と言って、岩村とやはり大学院生らしい女性が、本棚の陰に付いているドアから出て行った。
それを待って、佐久田の長身が、
「ご苦労さまです」
と言いながら、薬師寺たちの前まで寄ってきた。
あまり寝ていないのか、目の下に大きな隈ができていた。黄色味を帯びた皮膚には脂が浮かび、その下には重い疲労が沈んでいるように見えた。
「いろいろと大変のようですね」
薬師寺は言った。
「ええ、まあ……」
と佐久田が曖昧に応じ、「その後、犯人の手掛かりは?」と訊いた。
「残念ながら、まだこれといった手掛かりは得られていません」
薬師寺は答えた。
「そうですか」
佐久田が溜め息をついた。
「ところで、桐生さんは?」
「まだ見えていません」
佐久田の目が一瞬強い光を帯び、怒りにも似た表情がかすめた。
薬師寺たちは今日、それほど期待を持って慶明大学を訪れたわけではない。ところが、門を入るや、守衛から注目すべき事実を聞き込んだ。そこで、まずは桐生に嘘をついた理由を質し、十五日の夜の行動に関して彼を追及しようと思っていたのである。
しかし、桐生はまだ来ていないという。
それなら、佐久田に先に話を聞こう、と薬師寺は方針を変えた。
桐生にぶつかる前に、佐久田の口から、桐生に関する情報を得ておくのも悪くない。
これまで、薬師寺たちは、佐久田から二度事情を聞いている。その中で、当然、桐生と服部の関係も質した。とはいえ、桐生に的を絞った訊き方はしていない。
「今後、この研究室は桐生さんが中心になるわけですね」
薬師寺は、さりげなく話題を桐生利明≠ノもっていった。
すると、佐久田が、
「いえ、それは分かりません」
と、薬師寺の思ってもみなかった強い調子で否定した。言葉の裏には、そうはさせないといった意思が感じられた。
薬師寺は、服部の葬儀が行なわれた昨日一日置いただけで、佐久田の反応がずいぶん違ったことに驚きながらも、これは桐生について突っ込んで訊くにはもっけの幸いとばかりに、
「しかし、助教授は桐生さん一人では?」
と、つづけた。
「そうですが、桐生さんが教授になるとはかぎりませんから」
「ということは、服部先生が亡くなられても、後継教授の選考には、一昨日伺った公募という方法が採られる?」
「少なくとも、僕らはそう要求するつもりです」
「佐久田さんは、桐生さんが教授になるのに反対なわけですか?」
「別にそういうわけではなく、先生のご遺志を尊重したいんです」
佐久田は答えたが、その表情や口振りから、彼が桐生の教授昇格に反対しているのは明らかだった。
薬師寺は質問を進めた。
「佐久田さんたちの希望どおりになりそうですか?」
佐久田が恨めしげに薬師寺を見返し、唇を噛んだ。
「難しいんですね?」
「ええ」
佐久田が認めた。
「実は、今日は、服部先生と桐生さんの間がうまくいっていたのかどうか、正直なところをお聞きしたいんです」
薬師寺は核心に入った。
佐久田の目に、警戒するような、逡巡するような色が浮かんだ。
「ここで話しづらかったら、どこか大学の外でお待ちしますが」
「いえ、構いません」
意を決めたらしく、佐久田が言った。「この時間になっても、桐生さんが見えないということは、たぶん今日は午後まで出てきませんから」
どうぞ……と、ソファのほうへ来るように促した。
薬師寺と森は佐久田につづいた。三日前、桐生から話を聞いたソファに、テーブルを挟んで佐久田と向かい合って腰を下ろした。
「今日は、桐生さんが午後まで出てこられないというのは……?」
何か特別の理由でもあるのか、と薬師寺は尋ねた。
「僕の想像ですが、外である人と会っているんじゃないかと思うんです」
佐久田が、長い両腕の置き場所に困ったように、膝の上に肘を突いた。
「ある人?」
「東洋研究センターの次期所長候補の鬼塚智彦教授です」
佐久田が唇をひん曲げて答えた。
「服部教授のライバルだったという?」
「そうです。午後二時から、うちの教室会議があるので、たぶん、そのための相談をしているんです」
「どういうことでしょう、差し支えなかったら話していただけませんか」
「桐生さんは、先生を裏切っていたんです。先生の腹心のような顔をしながら、ずっと裏で鬼塚教授と通じ、情報を流しつづけていたんです」
佐久田が意外な事実を口にした。
「それも佐久田さんの想像でしょうか?」
「これは違います。服部先生に伺った話です。ルートまでは聞いていませんが、先生のつかまれた情報ですから確実だと思います」
「先生にその話を聞かれたのはいつでしょう?」
「先週の水曜日頃です。先生はカンカンでしたが、もうしばらく気づかないふりをして様子を見るつもりだから、僕にもそのつもりでいるように、と」
薬師寺は胸が高鳴り始めるのを感じた。
桐生が、もし、彼の裏切りを服部が気づいたと知ったら……と思ったのだ。桐生には、これまで考えられていた以上に強い服部殺しの動機が加わったことになる。
「桐生さんが服部先生を裏切って、鬼塚教授と通じるようになったのは、服部先生が後継教授を公募で選ぶと言い出されたからですかね?」
「僕は、その前から桐生さんは先生に面従腹背していたんじゃないかと思いますが、はっきりしたことは分かりません。いずれにせよ、桐生さんは、先生がこういうかたちで亡くなられたのを絶好の機会とばかりに、鬼塚教授の援護を受けて一気に教授の椅子に座ろうとしているんです。これだけは、間違いありません」
「佐久田さんたちは、それを阻止しようとしている?」
「ええ」
と、佐久田が認めてから、突いていた肘を外して肩を落とし、つづけた。
「ですが、おそらく、阻止するのは無理でしょう。今日の教室会議で、できれば、先生の遺志を尊重するようにという意見をまとめ、センターの教授会に要求するつもりではいますが、それが受け入れられる可能性は非常に低いと思います。大学院生を含めた研究員全員で構成される教室会議に人事についての権限はありませんし、服部先生が亡くなられた今、正面から鬼塚さんに異を唱えられる教授、助教授はごく少数しかいませんから」
「それなら、桐生さんは、午後の教室会議に向けて、鬼塚教授と対策を協議する必要はないように思いますが」
「そうでもありません。教室会議に人事についての権限はないといっても、やはりそこでどういう結論が出たかという事実は大きいですからね。桐生さんは、桐生さんに対する僕らの事実上の不信任決議が出ないようにするにはどうしたらいいか、鬼塚教授と相談しているんです」
「話は変わりますが、もし服部先生が亡くなられなかったら、桐生さんはどうなったと思われますか?」
薬師寺は、話を本筋に戻した。
「どうなったか、というのは……?」
質問の意味が分からなかったのか、佐久田が首をかしげた。
「服部先生が後継者を公募した場合です」
「それでしたら、九十九パーセント教授になれなかったでしょうね。それだけじゃなく、新しい教授が外からくれば、助教授も辞めざるをえなかったと思います」
「ということは、桐生さんには、服部先生を排除する大きな動機があった、というわけですね」
「…………」
佐久田が目を見開き、緊張した顔で薬師寺を見返した。今度は、薬師寺の考えていることが明らかだったからだろう。いくら桐生を恨んでいても、軽々しいことは言えない、と用心したのかもしれない。
「十五日は、夕方六時頃、佐久田さんや桐生さんは、服部先生より先に帰られたという話でしたね?」
薬師寺は話の角度を変えた。
「ええ」
と、佐久田がうなずいた。
「先生は、一人で片づけたい仕事があるからと言われて、残られた?」
「そうです」
「そのとき……といっても、もちろん佐久田さんたちが研究室を出られる前ですが、先生は一人で残って何をするつもりなのか、佐久田さんにだけそっと囁《ささや》きませんでしたか?」
「いいえ」
「今夜、桐生さんと話し合うつもりだと話されなかった?」
「桐生さんとですか? しかし、桐生さんは僕らと一緒に……」
「一度、学外へ出てから、引き返してくるのは簡単です」
「えっ、では、桐生さんはあの晩、ここへ引き返してきたんですか!」
佐久田が、丸めていた背をバネのように伸ばし、薬師寺を見つめた。
「いえ、ただ、その可能性もあるということです」
薬師寺は誤魔化した。
「本当ですか? 刑事さんたちは、何かつかんだんじゃないんですか? もしかしたら、先生を殺したのが桐生さんだったという証拠か何か……」
「まさか。そんな証拠をつかんでいたら、ここにじっと座ってなどいません」
薬師寺は笑った。
礼を述べて、
「何か参考になりそうなことを気づかれたら、教えてください」
と言って腰を上げた。
3
その後、薬師寺たちは、東洋研究センター内で聞き込みをつづけ、十二時半過ぎに出てきた桐生を教授室の前の廊下でつかまえた。
桐生は、話を聞きたいという薬師寺たちに対し、忙しいと言って、あからさまに嫌な顔をした。佐久田の言っていた教室会議があるからかもしれなかったが、そればかりではないように思えた。警戒するような、探るような目で薬師寺を窺いながらも、言葉の端や態度の奥から、先日は感じられなかった横柄さが覗《のぞ》いた。服部がいなくなったうえに、鬼塚を味方にし、ほぼ研究室のトップになることが確定しているからだろうか。
「桐生さんが正直に事実を話してくれれば、時間は取らせません」
薬師寺は言った。
「どういうことです、私が嘘をついたとでもいうんですか?」
桐生が気色ばんだ。
「そうです」
薬師寺は相手の細い目を見据え、語調を強めた。
桐生が薬師寺から視線を外した。
「お願いします」
薬師寺は下手に出た。
桐生が黙って身体を回した。教授室のドアを開け、先に入った。何も言わなかったが、来いということだろう。
薬師寺、森とつづいた。
桐生が肩に掛けていたメンズバッグを応接セットのテーブルに置き、薬師寺たちのほうへ身体を向けた。立ったまま話をするつもりらしい。
それならそれでいい。
「十五日の夕方六時に佐久田さんたちと一緒にこの研究室を出てからの行動、所在をもう一度教えてくれませんか」
薬師寺は切り出した。
桐生は視線をわずかに薬師寺から外し、口を開かない。薬師寺たちがどこまでつかんでいるのか、推し量っているようだ。
「桐生さんはあの晩、一度帰ってから、服部先生が一人で残っていたこの研究室へまた来ていますね?」
「ああ」
と、桐生が認めた。
「大学の近くに車を用意したうえで――」
薬師寺は思い切って、ジャブを繰り出した。
「く、車なんて用意していない!」
桐生が甲高い声を上げた。
「じゃ、いつ、どのようにしてここへ来たんですか?」
「水道橋駅の近くで佐久田君たちと別れてすぐだ。そのまま歩いて戻ったんだ」
「それなら、どうして本郷のマンションへ帰ったなどと嘘をついたんですか?」
「…………」
「服部先生の死と関係していたから……」
「違う!」
桐生が薬師寺の言葉を遮った。「先生の死とは関係ない。私は、先生より先にここを出て帰った」
「ですが、近くで待っていることはできます。あの晩、あなたは、自宅まで車で送るからと先生に言って、先生と一緒に帰るところを見られないように一足先にここを出た。そして、用意しておいた車を白山通りに停めて、先生を待っていた。違いますか?」
「私には車なんかなかったし、先生を待ってもいない。私は、それからタクシーで池袋へ行ったんだ」
「それじゃ、もう一度お訊きします。なぜ嘘をついたんです?」
「疑われたら嫌だったからだ」
「ということは、先生との間に、先生を殺してもおかしくないような出来事があったわけですね」
「そ、そんなものはない。ないが、いろいろ勘繰る奴はいるだろう」
「具体的に何があったんですか? あなたは一度、佐久田さんたちと一緒に帰りながら、どうしてまたここへ来たんですか?」
「先生が来いと言われたからだ」
「佐久田さんたちには帰ったように見せておいて?」
「そう」
「ということは、先生はあなたに、よほど重大な話があった?」
「私もそうかもしれないと思って慌てて戻ったら、たいした話じゃなかった」
桐生が、薬師寺の視線から逃れるように目を斜め下に向けた。
「どういう話です?」
薬師寺は追及した。
「今後の研究室運営などに関して……」
「桐生さん」
薬師寺は遮った。
怒りを抑えてつづけた。
「これ以上、嘘を重ねられると、厄介な事態になりますよ。そんなことで、先生が、佐久田さんたちに内緒であなたと話し合おうとするわけがないでしょう」
「…………」
「先生は、あなたが裏で鬼塚教授と通じているという話を聞き込み、事実かどうか糺《ただ》したんじゃないんですか? ……というか、あなたを罵倒し、詰《なじ》ったんじゃないんですか?」
桐生の目の中を怯《おび》えの色がよぎった。
それを見て、薬師寺は自分の想像が正しかったのを確信した。
その場合、服部がなぜ、自分と一緒に桐生だけ研究室に残るようにと言わなかったのか、という疑問がないではない。が、それも、桐生だけ残せば、彼に関する疑惑を話してある佐久田に、自分の意図を感づかれてしまうと思ったからではないか――と考えれば、説明がつく。
服部は、佐久田にはしばらく桐生の様子を見ようと言ったものの、一刻も早く情報の真偽を確かめないではいられなくなった。自分の手足のように考えていた部下が腹の中で舌を出し、嘲笑っているのかもしれないと思うと、我慢できなくなった。といって、そうした葛藤《かつとう》、自分の小心さを、佐久田には知られたくない。桐生に糺《ただ》した結果は、いずれ話すにしても。そのため、服部は、佐久田たちにはマンションへ帰るように見せかけてここへ引き返して来い、と桐生に命じたのではないか――。
「そうですね?」
薬師寺はダメを押した。
桐生が視線を落とした。
「あなたは、服部先生に詰られ、罵倒されたため……いや、そうじゃない。あなたには、佐久田さんたちと別れた後で研究室へ引き返して来いと先生に言われたときから、その話だと予測できたため、予《あらかじ》め、車を用意して……」
「ち、違う!」
桐生が目を上げた。「勝手な想像をしないでくれ。私は、服部先生に隠れて鬼塚先生と通じてなどいない。だから、そんな話が出るわけがない」
「それじゃ、もう一度訊きます。十五日の晩、先生は佐久田さんたちに気づかれないようにしてあなたをここへ呼び、どういう話をしたんです?」
桐生は、身体の両側で左右の手を握りしめている。顔は苦しげに歪んでいた。
「言えないわけですね」
薬師寺は攻めた。
「そ、そうじゃない」
桐生が意を決したように口を開いた。「言えないんじゃない。言う必要を認めないだけだ。私には、あんたらに、そんなことを話す義務はない」
「義務はありませんが、もし事件に無関係なら、話して疑いを解いたほうがいいんじゃないんですか」
「疑いなんて、あんたらが勝手にかけているだけだ。私は関係ない」
「それじゃ、勝手に考えますよ」
「どうぞ、ご自由に。ただし、これ以上私に付きまとうんなら、具体的な事実を示してもらいたい。十五日の晩、私がどこで車を用意し、どこに置いておいたのか。白山通りのどこで先生を乗せたのか。もちろん、私は車など用意していないんですから、そんな捜査は時間の無駄にしかなりませんがね」
桐生が開きなおった。
顔に余裕の色が差していた。
逆に、薬師寺たちには攻めるための手駒がない。唇を噛んだが、どうにもならなかった。いまのところ、十五日の晩、佐久田たちと帰ったはずの桐生がここへ戻って服部と会った、という以上の事実はつかんでいないのだから。
「もういいですかね」
桐生が時計を見て身体を動かした。
今日のところは仕方がない。
薬師寺たちは教授室を出た。
東洋研究センターの建物をあとにして、欅並木のつづく構内のメインストリートに出ると、正門へ向かった。
薬師寺の中では、桐生への疑いが、さっきここを奥へ向かったとき以上にふくらんでいた。
ただ、桐生が犯人なら、真紀を死に至らしめた共犯者がいなければならない。
それは誰か――。
〈そうか!〉
と、薬師寺は思った。
いままで想像しなかった、事件の新しい構図が浮かんできたのだ。
真紀が変死した晩、服部と佐久田と真紀の三人が修善寺温泉へ行くという予定は、彼らの周辺にいた人間でなければつかむのが難しかったはずである。
ところが、圭一郎はその晩修善寺へ行き、「月の湯館」の前をうろついている。彼は、どうして彼らの予定を知りえたのか。
この点は、圭一郎と真紀の死との関係を強く疑いながらも、疑問だった。間宮たち静岡県警は、いずれ圭一郎を捕えて吐かせれば分かるだろうと漠然と考えていたらしく、疑問のまま放置してあった。
だが、その答えが分かったのだ。
服部たちの近くにいた人間が教えたと考えれば、疑問は消える。
実に簡単な答えではないか。
真紀が死んだ一日の夜、圭一郎が修善寺温泉へ行っていたのは、服部たちの近くにいた人間が、圭一郎をそこへ行かせ、真紀を襲わせようとしたのである(結果は、圭一郎が襲う前に、真紀が浴室の外に立った彼の影を見て、ショック死してしまったのかもしれないが)――。
服部たちの近くにいた人間こそ、桐生利明である。そして、圭一郎は彼の共犯者だったのだ。
いや、共犯者というより、桐生が圭一郎を利用した≠ニ言ったほうが適切かもしれない。 なぜなら、圭一郎は桐生の正体を知らないはずだから。
つまり、事件の構図はこうだ。
桐生はまず、ホームレス風の男を使って佐久田を襲わせ、殺そうとした。
次いで、彼は、それと似た方法で――自分の名は明かさずに圭一郎に電話で服部、佐久田、真紀の予定を教えて――、圭一郎が真紀を襲うように仕向けた。当日は、大貫を名乗って服部の自宅に電話をかけ、服部と佐久田が修善寺を離れて、離れ家に真紀が一人だけになるように工作して。
最後に彼は本命の服部を殺害した。
しかし、そう考えても、まだ少なからぬ疑問が残っている。
桐生はなぜ、服部を殺す前に、佐久田と真紀を殺そうとしたのか。
圭一郎は、正体不明の男(桐生)から真紀殺しの計画を電話でもちかけられたとき、なぜ乗ったのか。姉・聡子を死に追いやった服部本人を殺そうという計画なら分かるが、真紀は聡子の死に関係ない。それなのに、圭一郎はなぜ真紀を襲うのに同意したのか。
また、桐生は、どうしてそう都合よく圭一郎を操れたのか。その具体的な方法はどのようなものだったのか。
桐生利明犯人説を立証するには、これらの疑問を解明し、更に、十五日の晩、少なくとも彼が服部を車に乗せた証拠をつかまなければならない。
それらはけっして容易ではないだろう。
が、真紀の死んだ晩、圭一郎が修善寺へ行っていながら、服部を殺したのは圭一郎ではない≠ニいう事実(正確には事実に近い推理)をうまく説明するには、いま考えた桐生犯人説しかない、と薬師寺は思った。
その推理を生む貴重な手掛かりをくれた守衛に礼を述べ、薬師寺たちは正門を出た。
横浜北署の薬師寺のもとに、たった今、相馬圭一郎を捕捉した≠ニ間宮から電話があったのは、その晩八時近くだった。
本部の部屋で捜査会議が開かれ、薬師寺の推理が検討されていたときである。
圭一郎は、逃げ切れないと観念して、アパートへ帰ってきたらしい。
彼は、一日の夜、修善寺温泉へ行った事実は認めた。それでいて、自分は「月の湯館」の敷地内には入っていないし、真紀の死とは関係ない、と言い張っているという。
第七章 修善寺へ
1
二十二日(土曜日)――。
美緒は、壮とともに東京駅を午前九時に出る「踊り子101号」に乗り、修善寺へ向かった。
東京駅で買った弁当を食べ、コーヒーを飲んでいるうちに、列車は熱海に着き、伊豆急下田行きと切り離された。
美緒たちの乗っている後部の五車両は、そのまま東海道本線を三島まで行って駿豆線に入り、三島からちょうど三十分――終点の修善寺駅に着いた。
時刻は十一時七分。
駅舎を出ると、頭の上には秋晴れの空が広がっていた。
修善寺駅は、周囲がガラス張りの明るい小綺麗な駅である。広場もそれほどごみごみしていない。前に数軒の店があり、左手がバスの発着所だ。
美緒には、この駅に思い出がある。下田と修善寺を結んで起きた事件のとき、美緒が一人で東京からここまで来ると、下田から車で来た壮が待っていたのだった。
美緒がその話をして、覚えているかと訊《き》くと、
「覚えています」
と、壮が答えた。
今日の美緒たちはこれからバスに乗るのだが、行き先はそのときと同じ修善寺温泉である。
ただ、事情はだいぶ違う。
そのときは、壮は下田南署の刑事たちと一緒だったし、すでに下田で事件の謎を解いていた。それを刑事たちに説明するために、約束どおり美緒を東京から呼び、事件に関係した場所を訪れたのである。
ところが、今回は、事件の謎はまだ解けていない。だから、その謎について考えるために、美緒たちは、真紀の死んだ現場、「月の湯別荘」の離れ家を見にきたのだった。
一昨日、美緒たちは薬師寺に会い、彼ら神奈川県警と間宮たち静岡県警の捜査状況を聞いた。
それによると、三つの事件の犯人(主犯)は桐生利明である可能性が高いらしい。
桐生が、ホームレスと思われる男を利用して佐久田を桜木町駅の線路に突き落とし、つづいて相馬圭一郎または別の誰か(仮にAとしておく)を使って真紀を死に至らしめ、最後に自らの手で服部を殺した――というのである。
とはいえ、アパートに帰ってきたところを間宮たちに捕まった圭一郎が真紀の死との関わりを否認しているため、事件の構図がはっきりしないのだった。
圭一郎が言うには――
九月二十七、八日頃、聞いたことのない男の声で、服部啓吾(真紀ではない)を襲うのならいいことを教えてやろう、という電話がかかってきた。十月一日(土曜日)、服部啓吾は一人で修善寺温泉・月の湯館の離れ家「紅葉の家」に行って泊まり、夜十時頃散歩に出る、というのだった。そこで、圭一郎は半信半疑ながら、一日の晩、友達に借りたオートバイで修善寺温泉まで行き、月の湯館の駐車場脇にある藪の陰に隠れたり、門の前を行ったり来たりして服部の出てくるのを待っていた。が、十時四十分まで待っても、服部は出てこない。これは、電話の男に担《かつ》がれたか服部が散歩を取りやめたか……と思い、諦《あきら》めて帰ってきた。だから、自分は、月の湯館の敷地内には一歩も入っていないし、「紅葉の家」に服部の娘の真紀が泊まっていることさえ知らなかった。
ところが、翌々日(月曜日)、土曜日の夜、月の湯館の離れ家で真紀が変死した≠ニ新聞で見てびっくりしていると、二人の刑事が訪ねてきた。土曜日の夜、オートバイでどこへ行ったのか、と訊く。明らかに、圭一郎が修善寺へ行ったと疑っている。それでも、証拠がないために諦めたらしく、しばらく彼らは姿を見せなかった。ほっとしていると、一週間ほど経った体育の日の夕方、また同じ刑事たちが訪ねてきた。圭一郎は、外出先からアパートに電話して、部屋で酒を飲んでいた友人に聞いたのである。友人は刑事とは知らなかったが、圭一郎にはすぐに分かった。と同時に、刑事たちは自分が一日の夜修善寺温泉へ行っていた証拠をつかんだにちがいない、と直感した。
真紀が死んだ頃、自分は月の湯館のそばに行っていたのである。刑事でなくても、真紀の死に関係していると考えるにちがいない。誰だか分からない男の電話に騙《だま》されて塀の外まで行っただけだと説明しても、誰も信じないだろう。服部を短刀で襲ったという「前科」もあり、自分は殺人犯人に仕立て上げられてしまうかもしれない。いや、そうなるのは確実だと思われる。
そうなったら、自由を奪われて、暗い留置場に繋《つな》がれるだけではない。自分の顔と名前は、殺人容疑者として全国に報道される……。
と想像したとき、圭一郎は、逃げようと思った。しばらくアパートに帰らないでいれば、そのうちに事の真相が明らかになる。真紀が誰かに殺されたのだとしても、犯人が自分ではないと分かるにちがいない。
圭一郎はそう考え、山梨、信州とペンションや民宿を泊まり歩いていた。
ところが、圭一郎の予想に反し、事態は更に悪くなった。自分が「殺してやる」と言って刺した服部啓吾が殺されたのだ。
それをテレビのニュースで知ったとき、圭一郎はいよいよ怖くなった。どうしたらいいのか一人では判断がつかなくなり、実家に電話した。しかし、父親は留守。電話に出た母親に訴えても、母親は一緒に泣くだけでどうにもならない。
圭一郎は、それから三日間、民宿にも泊まらずに神社の軒下などで夜を明かした。自分の手配写真が回っているようで恐ろしかったのだ。
そして三日前(十九日)、遂に助けを求めて、もう一度実家に電話した。
すると、今度は父親が出て、逃げ回っていたらますます不利になる、何もしていないのなら刑事に事実を話せ、これから自分たちもすぐに上京して弁護士に相談してやる≠ニ説得され、アパートへ帰ってきた――。
圭一郎に電話してきたという男の存在は確実だと思われる。
なぜなら、男の電話がなければ、圭一郎には服部たちが十月一日に修善寺温泉へ行くという予定を知るのが難しいし、男の手口は、ホームレス風の男を利用して佐久田を線路に突き落とさせた方法に通じているからだ。
男の存在が事実だとすると、それは、服部や佐久田の周辺にいた人間である可能性が高く、薬師寺の推理どおり、桐生利明と見てたぶん間違いないだろう。
そこまではいいとして、「一日の夜、自分は修善寺温泉には行ったが、月の湯館の敷地には一歩も入らなかった」という圭一郎の話を事実と見るか否かによって、事件の構図は二通りに分かれる。
、圭一郎の話が嘘だった場合。
圭一郎は、桐生と思われる男の電話に操られ、月の湯館の敷地に忍び込んで、「紅葉の家」まで服部を殺しに行った(圭一郎には真紀を殺す動機は薄いから、電話の男が服部が一人で泊まっている≠ニ言ったというのは事実だろう)。ところが、「紅葉の家」にいたのは真紀で、圭一郎が中へ侵入するために適当な個所を探して建物の周りを回っているとき、偶然、風呂に入っていた彼女がその影を見て驚き、ショック死した(この場合、圭一郎を動かした犯人は、真紀に心臓の持病があるのを知っていた。だから、服部が一人でいると信じている圭一郎が、短刀を持って家の中へ押し入れば、十中八九、真紀は驚いてショック死するだろう、と読んでいた。ところが、真紀は、圭一郎が家の中へ侵入する前に死んでしまった、というわけである)。
、圭一郎の話が事実だった場合。
圭一郎を動かした犯人にとって、圭一郎は警察の目を引きつける囮《おとり》にすぎない。つまり、桐生は、圭一郎に真紀殺しの疑いをかけるために彼を修善寺温泉へ行かせたのである(この場合、真紀を死に至らしめた実行犯は、別にいたことになる)。
薬師寺によれば、これらのうち、の構図――圭一郎が嘘をついていると考えた場合――のほうが無理がない、という。
なぜなら、もしだったとすると、真紀を死に至らしめた実行犯(A)は誰なのか、そのAを桐生はどうして思いどおりに動かせたのか、という新たな疑問が出てくるからである。
ところが、圭一郎は、自分の話はすべて本当であり、もう隠している事実はない≠ニ言い張っているのだという。
そのため、薬師寺たちは、ではないかと考えながらも、、どちらが正しいのか、見極められずにいるのだった。
また、、どちらだったとしても、まだ疑問が残っている。
桐生の犯行の動機である。
桐生が服部を殺したのは、論文を提供しただけでなく、言いなりになって仕えてきたのに、服部が後任の教授を公募で選ぼうとしたからであり、裏で鬼塚と通じているのを気づかれ、責められたからである可能性が高い。そう考えると、納得できる。
だが、佐久田と真紀を殺そうとした動機が判然としない。
佐久田を殺そうとしたのは、佐久田が服部にくっついて、助教授である桐生をないがしろにし、彼に屈辱的な思いを強いたからではないか。真紀の殺害を計ったのは、かつて侮辱された恨みをずっと抱きつづけていたからではないか。薬師寺はそう考えたものの、殺人の動機としては弱かった。
というわけで、薬師寺は困り、壮に相談してきたのだった。
薬師寺の話を聞いた壮は、桐生が犯人(主犯)であるという推理の妥当性を認めたうえで、真紀の件に関してはのほうが正しいのではないか、という感想を述べた。つまり、〈圭一郎は事実を話しており、十月一日の夜、彼は月の湯館の敷地内には入っていないのではないか、彼は真紀の死とは関係ないのではないか――〉
しかし、そう言う壮にも、では真紀を死に至らしめた実行犯(A)は誰なのか、真紀の死が殺人なのか過失致死なのか、密室≠ェ犯人の工作によるものだったのか偶然の産物だったのか、また、桐生が佐久田と真紀まで殺そうとした意図、動機は何なのか――といった点は、当然ながら想像がつかなかった。
そこで、彼は、一度修善寺へ行き、真紀の変死した現場をこの目で見てみよう、と考えたのだった。
現場を見たからといって、真相が分かるという保証はない。
とはいえ、検証を行なった刑事や鑑識課員が重要ではないと判断して報告に入れていなかった事柄が、必ずいくつかは存在する。一見取るに足らない事柄のように見えても、そこに問題を解くヒントが隠されている場合がある。それは、現場を自分の目で見なければ、気がつかない。だから、壮は、これまでも、考えに行き詰まるとしばしば現場に立ち、先入観にとらわれない目で見て、考えてきたのだった。
美緒たちの乗ったバスは、駅前広場を出るとすぐに右に折れて狩野川に架かった橋を渡り、国道136号線に出た。
国道136号線は、北上すれば、大仁《おおじん》、韮山《にらやま》、三島方面へ、西へ少し行って南下すれば湯ケ島温泉の手前で西に方向を変え、西海岸の土肥《とい》方面へ向かう。
バスは左に回り、西に進路を取った。
一キロほど走ると、道は立体交差になっていた。国道136号線はそこで大仁からきた有料の修善寺道路と合流し、左(南)へ別れる。
バスは修善寺道路の下を抜け、桂川の北岸をそのまま西へ四、五分走り、終点の修善寺温泉駅に着いた。
修善寺温泉は、北と南から山に挟まれている。桂川の流れに沿って東西に延びた谷間の街だ。
美緒たちは、バスターミナルになっている小さな広場を出て、旅館や土産物店が軒を並べる狭い道をバスの進んできた方向へ向かって歩いた。
以前来たときは、車で素通りしただけの道なので、ほとんど覚えがない。
右手の一段高いところに日枝神社の鳥居があり、鳥居の下を過ぎると、左側の家並が切れて、桂川の畔《ほとり》に出た。
川幅は三十メートルほどしかないが、岩を洗う綺麗な流れだ。
手前に渡月橋、先に虎渓橋と、二つの朱塗りの橋が百メートルと間を置かずに架かり、虎渓橋の右手、少し引っ込んだところが、修善寺の名のもとになったという修禅寺の石段である。
このあたりが修善寺温泉の中心らしく、虎渓橋の欄干に寄り掛かって写真を撮り合っているカップルや、その三、四十メートル上流の河原に湧いている修善寺温泉発祥の湯、「独鈷《とつこ》の湯」に手を浸けて騒いでいる中年女性のグループなどがいる。といっても、たいした数ではない。今や、観光は、夕方大型バスでホテルに着き、温泉に入って宴会。宴会の後は夜の街へ繰り出してカラオケのマイクを握り、朝にはさっと別の地へ移動して行く。――そんなふうになったのかもしれない。
美緒たちは、修禅寺の参拝や宝物館の見学などは後にして、虎渓橋を渡って桂川の南岸に移った。
橋の袂《たもと》、右側が独鈷の湯公園だ。
公園の入口を過ぎて狭い道を四、五十メートル進み、桂川の南岸を川とほぼ平行につづいている道に出た。
その道から山側に入り、石畳の坂を登って行くと、北条氏によって修禅寺に幽閉、暗殺された鎌倉幕府の二代将軍・源頼家の墓、彼の冥福を祈るために母・北条政子が建てたという指月殿、自然林の中に遊歩道の設けられた鹿山公園などがあるらしいが、それらの見学、散策も時間があったら……ということにして、美緒たちは川の上流へ向かった。
「月の湯館」へ行くためである。
美緒たちは今日、真紀の死んだ離れ家「紅葉の家」を、午後二時より前なら≠ニいう条件付きで一時間ほど見せてもらえることになっていた。
薬師寺から間宮に話がゆくと、間宮が(たぶん渋々)了承し、月の湯館の経営者に話をつけてくれたのだ。
月の湯館の前には十二、三分で着いた。
石塀で囲まれたかなり大きな宿だ。
門を入った正面に建っている三階建ての本館の裏側が「別荘」、つまり離れ家になっているらしい。
美緒たちは門を入る前に、まず全体を眺めた。
敷地の裏(南)側一帯は、まだ紅葉するには早い山。門の左手、塀の外の空地が駐車場らしい。道を挟んだ反対側は、すぐに桂川である。
美緒たちは目顔でうなずき合い、門を入って、植込みの間を玄関まで歩いた。
玄関のガラス戸は開いている。三和土《たたき》には水が打たれ、上がり口にスリッパが綺麗に揃えられていた。
美緒が、右手のフロントのほうに向かって「ごめんください」と声をかけると、和服を着た六十歳前後の小肥りの女性が、フロントの奥の部屋から出てきた。
「黒江と申しますが……」
美緒が壮の姓を告げ、用件を説明しようとすると、
「はい、承っております」
と女性が応じ、「ここの主《あるじ》の浦部と申します」と名乗った。
「お忙しいところ、申し訳ございません」
美緒は頭を下げた。
「いえ」
と応《こた》えた女主人の目の中を、〈警察ではないこの二人がなぜ……〉と訝るような色がよぎった。
だが、彼女はその疑問を口には出さず、六十四、五歳の痩せぎみの男を呼び、案内するように言いつけた。
2
男は、支配人の西畑と名乗った。
彼は、女主人のようには、疑問を腹におさめてはおかなかった。美緒たちと一緒に玄関を出て、本館前の敷石の道を左へ歩き出すと、二人は警察とどのような関係があるのか、と訊いてきた。
美緒は、警察とは関係ないが、真紀の変死につづいて今度父親の服部教授も殺されたので、彼らの個人的な知り合いとして事件を調べているのだ、と話した。
西畑は美緒の説明を聞いても、まだ腑《ふ》に落ちなそうに見えた。いくら服部父娘の知り合いでも、素人が調べて何になるのか、と思っているのかもしれない。
ただ、それは口に出さなかったので、美緒もそれ以上何も言わなかった。
美緒たちは、本館の西側を回り、西畑につづいて生垣の切れた間を入った。
そこから裏山にかけてが「別荘」の敷地だった。広さは約八百五十坪。自然の雑木林を生かして造った庭園の中に、幅三メートルの遊歩道を設け、和風の家を八戸配しているのだという。
西畑は、右手前方に伸びている遊歩道を選んだ。美緒たちもつづく。
右側に一軒建っているが、まだ客がいないのか、ひっそりとしている。
その前を過ぎ、四、五十メートル進んだ突き当たり、敷地の東南の角に近いところに建っているのが「紅葉の家」だった。
建物の西側は高い石塀。家の裏に当たる南側は、楓の林が少しあって、その奥は灌木の茂った山の斜面だという。
美緒たちは、遊歩道から石畳の道を五、六メートル入り、玄関前に立った。
西畑が、持ってきた鍵で錠を解いた。
真紀が死んだ晩も、このように玄関の錠が掛かっていて、鍵は家の中の居間にあったのだという。
薬師寺によると、服部、真紀、佐久田、それに月の湯館の従業員なら、合鍵を作ろうと思えば作れたらしい。だが、服部と佐久田は、たとえ合鍵を持っていたとしても、真紀が死亡した午後十時〜十一時頃、修善寺から遠く離れた場所にいたのがはっきりしており、真紀の死に関係するのは不可能だった。また、従業員については、間宮たち静岡県警が、一人ずつ動機、アリバイなどを徹底的に調べた結果、全員シロという判断を下したのだという。
美緒たちは、西畑のあとから玄関に入り、家に上がった。
廊下の右側が和室、左側がツインのベッドルーム、そして突き当たりがソファとテーブルの置かれた居間。居間の左奥が洗面所と浴室だった。
西畑が、佐久田の通報を受けて、女主人と一緒にここへ駆けつけたときの状況を説明しながら洗面所へ入った。
美緒たちは、彼が不透明ガラスのはまったアルミ製の浴室ドアを押し開けるのを待って、中を見やった。真紀が倒れていたというタイルの洗い場、宿泊客がいるときは二十四時間温泉が溢《あふ》れているという檜の浴槽、その浴槽の上に付いているやはり不透明な窓、と。
「いいですか?」
西畑が顔を振り向けたとき、それまで一度も口を開かなかった壮が、
「浴室のドアの鍵は、掛けられていなかったそうですね」
と、訊いた。
「ええ。このように、内側からノブのポッチを押せば、施錠されるんですが、押されていなかったんです」
と、西畑がドアを開いたまま実演して見せた。
「ただ、このドアノブは、たとえ内側からポッチが押されてあったとしても、外側から簡単に外せるとか……?」
壮が腰を屈め、ノブに目を近づけた。
「そのとおりです。ご覧のように、外側から二本のネジで取り付けられているだけですから。中でお年寄りが倒れてしまったようなとき、すぐに助けられるようになっているんです。ご家庭の場合などは、もっと簡単な、十円硬貨一枚で開けられるような鍵を取り付けてあることが多いようです」
「そうですか」
「この鍵が何か……?」
「いいえ、別に。服部さんの死とは関係ないことをちょっと考えたものですから」
真紀の死とは関係ないといっても、壮が何を考えたのか、美緒は少し気になった。だが、「じゃ、いいですか?」と西畑が言ったので、「はい、どうもありがとうございました」と礼を述べて、居間に戻った。
一日の夜、女主人と西畑が居間へ入ったとき、玄関の鍵が確かにテーブルの上にあったという点を確認し、建物から出た。
裏に回り、浴室の外まで行ってみた。
「紅葉の家」と名づけられているだけあって、裏の林は楓が多く、もう一ヵ月もしたら綺麗に色づくだろうなと想像させた。
浴室の窓は、縦が九十センチ、横が百八十センチあるというが、かなり大きなガラス窓である。
薬師寺たちも間宮たちも、犯人(真紀を死に至らしめた実行犯)が、桐生に操られた圭一郎であれ、Aであれ、桐生とは関係ない第三者であれ、その人間がこの窓の外にいるとき、真紀が中でショック死した、それが密室≠フ出来上がった理由であろう――という見方では、ほぼ一致していた。
美緒もおそらくそうだと思うし、壮も異議を唱えていない。
玄関の合鍵を作れた可能性のある者が全員シロと判断されたからには、他に考えようがないからだ。
ところで、一日の晩、大貫と名乗る男が服部宅に電話して、この離れ家に真紀を一人にしている事実から見て、犯人がただの覗《のぞ》きが目的で窓の外をうろついていた可能性はないと考えてよい。犯人に殺意まであったかどうかは分からないが、少なくとも、真紀を襲おうとしていたか、犯人が圭一郎なら中に服部がいると信じて服部を襲おうとしていたか、であろう。
また、密室≠フ構成された理由は同じでも、犯人が真紀の心臓病について知っていて、彼女をショック死させてやろうと考えていた場合と、そんなことは知らずに窓に近づいたところ、真紀がショック死してしまった場合とでは違う。前者は殺人、後者は過失致死になるのだという。
間宮たち静岡県警としては、真紀を死に至らしめた犯人が誰かという点だけでなく、その違い――殺人か過失致死か――もはっきりさせなければならないのだった。
美緒たちは「紅葉の家」を一周りしてから、西畑と一緒に、来たときの遊歩道を戻った。
本館に寄って女主人に礼を述べ、門を出た。
このあたりは温泉街の中心から外れているので、人の姿が全然ない。車も滅多に通らず、聞こえるのは岩を洗う水の音だけ。
川沿いの道を並んで下りながら、
「どうお、謎を解くヒントがつかめた?」
と、美緒が訊くと、壮が「いえ」と小さく首を振った。
少し行って橋を渡り、赤蛙公園という、川辺の小さな公園に入って、ひと休みした。
梅林の中に四阿《あずまや》があるが、ここにも人はいない。
案内板の説明によると、太平洋戦争も終わりに近い頃、修善寺に療養に来ていた島木健作が、ここで川を渡ろうとして渦に呑み込まれた一匹の赤蛙を見て、短篇小説『赤蛙』を書いたのだという。
市倉正典に、周三の住まい兼アトリエはこの近くだと聞いていたが、美緒たちは訪ねる気はなかった。
二十日ほど前、真紀が死んだ直後のパーティーで市倉と顔を合わせたとき、僕の優秀な後輩にぜひ事件の謎を考えるように伝えてください≠サんなふうに言われた。美緒はそれを思い出し、昨日の午後ちょっと時間が空いたとき、市倉に電話して、明日壮と修善寺へ行く、と話した。
すると、市倉は、美緒が彼の冗談を真に受けたのが意外だったらしく、「あ、そう!」と驚いたような声を出してから、
――いや、失礼。本当に動き出されるとは思わなかったんでね。そうですか……。でしたら、父に連絡しておきますから、時間があったら寄ってください。人嫌いの、偏屈|爺《じじ》ィですが。
と、笑いながら言ったのである。
時間があったら……という言葉は外交辞令にすぎない。転居通知などに〈近くまで来た折にはぜひお立ち寄りください〉と書くのと同じである。市倉が修善寺へ帰っているならともかく、周三だけでは美緒たちと一面識もないのだから、当然であろう。それは、市倉が、周三の家は赤蛙公園の近くだと言っただけで、正確な場所も電話番号も教えなかったことからも明らかであった。
だから、美緒も、
――それじゃ、時間の都合がつきましたら寄らせていただくかもしれません。
と答えたものの、寄るつもりは全然なかった。
それでも、美緒は、近くと聞いていたので何となく気になり、
「市倉さんのお父さんが住んでらっしゃるところ、このへんね」
と、言ってみた。
「ええ」
と、ベンチの並びに掛けた相棒が、気のない返事をした。顔は前の木立のほうへ向けたままだ。彼は、月の湯館を出たときから、ずっと考えつづけているようだ。もちろん、真紀の変死の謎についてであろう。
「図々しく、探してお訪ねしても、事件には関係ないし……」
美緒がつぶやくと、
「えっ?」
と、壮が美緒のほうへ問う目を向けた。
「聞いていたの?」
「ええ、まあ……」
「じゃ、これからどうする?」
「そうですね」
「軽く食事をして、指月殿や修禅寺を見て帰るしかないのかしら?」
「それしかなさそうです」
壮があっさりと答えた。
「せっかく、ここまで来たのに……」
美緒は恨めしげに彼を見た。
「でも、真紀さんの亡くなった『紅葉の家』を見せてもらうのが目的でしたし、その目的は果たせましたから」
「そうだけど……じゃ、あなたは何か分かったの?」
「謎を解くヒントがつかめたかという意味なら、まだですが、考えるための材料は揃ったような感じがします」
「あとは考えれば解答が出てくる、というわけ?」
「真紀さんの件にかぎれば……。これまでは薬師寺さんたちの話だけでしたので、現場の状況がぼんやりしていたんですが、今度はそれがはっきりしましたから」
「そう」
美緒はうなずいた。
壮が考える材料が揃ったというからには、いずれ、必ず解答が出てくるにちがいない。彼は、これまで美緒の期待を裏切ったことがないのだから。
それなら、しばらく適当に観光して、東京へ帰ってもいい。
美緒はそう思うと、
「行く?」
と、訊いた。
ええ、と壮が答えた。
美緒は腰を動かして身体を回し、あたりを見やった。
さっき、公園に入って、この四阿のベンチに掛けたときには、人の姿がなかったのに、いつの間にか後ろの川べりに一人の長身の男が立っていた。
美緒たちに背と右側面を見せて、小さなスケッチブックのようなものを開き、手を動かしている。
女性のように頭の両側に垂らした長めの髪は半分以上白かったが、老人というにはまだ若々しい感じなので、六十代の半ばぐらいだろうか。
「ねえ、あの人……」
と、美緒が囁《ささや》く前に、壮も上体をよじって男のほうを見ていた。
「ひょっとしたら、市倉さんのお父さんじゃないかしら?」
美緒はつづけた。
壮が首をひねった。
「だって、お家がこの近くなんだし、何となく横顔が市倉さんに似ているような感じがしないでもないわ」
美緒は、尋ねてみると言って、腰を上げた。
壮が、かすかに顔をしかめたが、止めはしなかった。
美緒は、壮を残して男に寄って行った。
すると、男がノートより一回り小さいスケッチブックを閉じ、身体を回した。
「あの、失礼ですが……」
美緒が言いかけるや、
「笹谷さんですかな?」
男が表情をくずした。
市倉周三にちがいない。
正典は、「人嫌いな、偏屈爺ィ」と言ったが、とてもそうは見えない。目つきが鋭く、目の奥にじっと美緒を観察しているような光が感じられるが、少なくとも人嫌いではなさそうだ。
「はい」
と、美緒は答えた。
「市倉正典の父親の周三です」
案の定、男がつづけた。「正典に、今日修善寺に見えると聞いておったので、そうじゃないかと思っとったんですが」
「いつも正典さんにお世話になっている笹谷美緒です。そして、あちらが……」
と、美緒が手で壮のほうを示すと、壮が腰を上げて近寄ってきた。
美緒が壮を紹介すると、周三が市倉ですと名乗り、正典から、もしかしたら美緒たちが寄るかもしれないという電話を受けていたのだ、と言った。
「いやァ、黒江さんたちはお忙しいので、たぶんそんな時間はないだろうという正典の話だったんですが、そこの橋を通りかかると、それらしいお二人連れが目についたので、確かめようかどうか迷っていたんです。なにしろ、ここは、月の湯館さんからの帰り道ですからね」
3
市倉周三の家は、赤蛙公園から歩いて五、六分の北側斜面にあった。
すぐ近くに源|範頼《のりより》の墓があるという、畑と竹林に囲まれた一画である。
範頼は鎌倉幕府を開いた頼朝の弟で、義経とともに平家打倒に武勲を挙げながら、やはり義経同様に頼朝の手の者に攻められ自刃した不運の武将だ、という。
美緒たちは、何の手土産も用意していないので気がひけたが、周三にぜひ寄ってくれと誘われ、そうした範頼の話を聞きながら坂を登って行った。
正典が美緒に電話で言った「時間があったら寄ってくれ」という言葉は社交辞令だったし、彼は、美緒たちが実際に周三の家を訪問することになろうとは予想していなかったと思われる。
ところが、周三のほうは、正典の電話を受けてから、美緒たちの訪問を心待ちにしていたような節が窺《うかが》えた。このような場所に一人で暮らしているということは、正典の言ったように確かに人嫌いといった面があるからだろう。それでいて、たまの訪問者は嬉しいのかもしれない。彼は、美緒たちをアトリエのつづきの居間に通すと、五分もしないうちに紅茶を淹《い》れ、ケーキを載せた皿を運んできた(ケーキまで用意していたということは、たまたま赤蛙公園のそばを通ったら美緒たちがいたというのは嘘で、美緒たちが月の湯館から帰ってくるのを待っていたのかもしれない)。
周三の家は、あまり大きくないトタン葺《ふ》き屋根の平屋だった。アトリエ中心に改造したらしく、アトリエと居間と台所の他には寝室と洗面所と浴室があるだけのようだ。
周三は長身で、痩せていた。時には鷹のように光る切れ長の目と尖った鼻をしていて、偏屈な画家だと言われればそのように見えるし、他人と妥協するのが嫌いな詩人か作家だと言われれば、そのようにも見えた。
正典によれば、周三は、彼の描いた服部啓吾の肖像画に死相があらわれている≠ニ言ったという。
と、服部と一緒にその絵を取りにきた相馬聡子がその晩自殺し、それからわずか一ヵ月後に服部の娘・真紀が変死し、更に半月後に服部本人が殺されたのだった。
『修禅寺物語』の中で、面作り師の夜叉王が源頼家の面を彫ると、何度彫りなおしても死相が出てしまう。それを、夜叉王が訝っていたところ、頼家は、面を持ち帰った晩、北条氏の追手に討たれて死ぬ。それを聞いて、夜叉王は、娘の桂が重傷を負って死にそうになっているのも構わず、
「幾たび打ち直してもこの面《おもて》に、死相のありありと見えたるは、われつたなきにあらず、にぶきにあらず、源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸|神《しん》に入るとはこのことよ。伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう」
と言って、快げに笑う。
周三は、服部が殺されたと聞いて笑ったかどうか分からない。
が、面と肖像画という違いはあっても、周三の場合も、まさにこの夜叉王と似たようなことが現実に起きたのだった。
正典によれば、服部たちが肖像画を持ち帰った晩に相馬聡子が死んだとき、周三は驚くと同時に、己れの夜叉王への思い入れが生んだねじれた符合≠ノ、自嘲していたらしい。次に真紀が変死したときは、彼は自嘲よりも気味悪がっていたようだ。
それは当然だろう。肖像画に死相があらわれていると自分の感じた服部の身近にいた人間が二人もつづいて死んだのだから。
そして、最後に、本人・服部啓吾が殺されたのである。
その服部の死を聞いて、周三がどう感じ、どう思ったか――。美緒は小さからぬ興味があった。昨日、電話したときの正典は、同僚の耳を気にしてか、そうした話をしたくなさそうだったので美緒は触れなかったが、いつか訊いてみたいと思っていた。それが、正典に尋ねなくとも、周三本人から聞ける機会が訪れたのだった。
周三が、美味そうにケーキを食べ、服部父娘が殺された事件について調べにきたそうだが、と話を向けてきた。
美緒は、月の湯館の離れ家「紅葉の家」を見てきた事情を説明し、最後に、考えていた質問をした。
「服部先生の事件を聞いてですか……。何と言ったらいいでしょうな」
周三がフォークを置き、考えるように目を宙にやった。
「夜叉王の打った面のように、市倉さんの描かれた絵が、服部先生の運命を予見していた、ということになるわけですが……」
美緒は言葉を加えた。
「ええ」
と、周三が感慨深げなというか深刻げなというか、そんな目を美緒たちに戻し、
「しかし、それを知ったときの私は、夜叉王とは大きな違いでしてね」
と、答えた。「とても、夜叉王のように『あっぱれ自分は……』といった気持ちにはなれませんでした」
「服部先生があのような不幸な亡くなり方をされたんですから、それは当然だと思いますわ」
美緒は同調した。
「ま、私も、服部先生が殺されたと聞いたときは、〈ああ……〉と思いました。一瞬、誇らしく思ったのです。ですが、そんな思いはすぐに消え、気味が悪いというか、罪悪感に苦しめられるというか……複雑でした」
「罪悪感……?」
「もし自分が服部先生の肖像画を描かなければ、先生だけでなく、相馬さんと先生のお嬢さんも亡くならなかったのではないか……そんな気がしたんです」
「でも、絵と事件とはまったく関係ないと思いますけど」
「そりゃそうです。それは、私だって分かっています」
「『修禅寺物語』にあるように、やはり、技芸、神に入った≠ニいうことじゃないんでしょうか。神ならでは知らない人間の運命が、市倉さんの芸術の才を通して絵にあらわれたんじゃないでしょうか」
「そう言っていただくと、画家の端くれとしては非常に嬉しい。服部先生の前に、相馬さん、先生のお嬢さんと亡くなり、気味悪く思いながらも、相当、落ち込んでおりましたからね」
「落ち込まれていた……んですか?」
美緒は意外に感じて、訊き返した。
周三は自嘲し、気味悪がっていた≠ニしか聞いていなかったからだ。
が、美緒はすぐに、自分が正典から聞いた話は、周三が真紀の死を知った直後――テレビニュースを見て驚いて正典に電話してきたとき――の状況だった、と思い当たった。それなら、周三がその後、落ち込んだとしてもおかしくない。
「ええ」
と、周三が目に笑みをにじませた。「今だから、こうして笑って話せますが、一時は絵が描けなくなってしまったんです。自分の絵の技量とは何の関係もない、似て非なる出来事が二度までもあったんですからね。こんなところに一人で住んで、夜叉王のような孤高の職人、芸術家を気取っても、所詮は真似事……上っ面だけのサル真似にすぎなかったのか、と思いましてね。それで、この家を売り払い、東京へ戻ろうと考えていたんです」
「そこに、肖像画のご本人である服部先生が亡くなるという事件が起きた……」
「そうです。私の驚きは、前のお二人の比ではありませんでした。もしかしたら、私の絵も本当に服部先生の運命を予見していたのでは……と思いましたからね。それで、再び、この地にとどまって絵を描きつづけてみようという力が湧いてきたんです。ところが……」
と、周三が視線を下に向けて、表情を翳《かげ》らせた。「そうした気持ちの一方で、他人の……服部先生のご不幸によって活力を得た自分に、罪の意識も感じ始めたんです」
「でも、市倉さんと服部先生の事件とは何の関係もないんですから……私などが生意気なことを申し上げますけど……市倉さんは、ただ芸術家として自信をお持ちになればいいんじゃないでしょうか」
「ありがとう」
周三が、顔の両側の長い髪をばさりと垂らして頭を下げた。
「それにしても、本当に不思議ですわ」
美緒は紅茶で唇を湿らせてから、話を継いだ。「物語のようなことが、実際にあるなんて」
「私自身、狐につままれたような気分です」
周三が応じた。
「やっぱり、市倉さんは天才なんですわ」
「いやぁ……」
と、周三が満更でもない顔をして頭を掻き、「笹谷さんは、年寄りを喜ばすのがお上手ですな」
「いえ、お世辞なんかじゃありません。だって、そうとしか考えられませんもの」
美緒は本気で言い、「ねえ」と壮に同意を求めた。
ええ、と壮がうなずいた。
「ありがとう」
周三が、今度は頭をあまり動かさずに、真剣な目を美緒たちに当てて礼を言い、「お二人のおかげでとても気が楽になりました。私も、精々そう思うことにします」
「そうしてください。そして、これからも素晴らしい絵を沢山描いてください」
「分かりました。何だか力が湧いてきたような感じです」
周三が微笑んだ。目から鋭さの影が消え、晴ればれとした顔付きになっていた。
美緒たちは残っていたケーキをご馳走になり、紅茶を飲んで腰を上げた。
周三が玄関の外まで送ってきた。
「私の絵とは関係ないといっても、服部先生とお嬢さんを殺した犯人が早く捕まるといいんですが」
彼が言った。
「ええ。ただ――」
それには、さっき話したような謎が残っているのだ、と美緒は応えた。
「では、正典が天才だと言っていた黒江さんに、ぜひその謎を解いていただいて……」
周三に視線を向けられると、壮が恥ずかしそうに目を逸らし、もじもじした。
美緒たちは礼を述べ、周三に見送られて畑の中の小道へ出た。
「市倉さんが喜んでくださって、よかったわね」
並んで坂を下りながら美緒が言うと、壮がええとうなずいた。
「それにしても、ほんとに不思議だわ」
美緒は、これまでに何度も繰り返している感想を口にした。「あなたや父の影響で、私も占いや予言といったオカルト的なことはあまり信じないほうだけど、今度だけは信じないわけにゆかないわ」
壮は応えなかった。
「あなただって、そうでしょう?」
と、相棒の横顔を見上げた。
壮が美緒のようには簡単には信じられないのか、首をかしげた。
「市倉さんのお話に何か疑問があるの?」
「話に疑問はないんですが……」
「じゃ、なーに?」
「いえ、何というわけでは……。もしかしたら、美緒さんの言うとおりなのかもしれませんが、ただ、よく分からなくなりました」
壮が珍しく困惑したような顔を向けたので、美緒は黙った。
二人は、修善寺と戸田《へだ》を結んでいる川の北岸の道路へ下ると、左へ折れ、虎渓橋の袂まで戻った。
河原の中に四阿の設けられた独鈷の湯まで降りてみて、それから修禅寺に参拝し、宝物館を見た。
宝物館には、岡本綺堂が『修禅寺物語』を書くヒントになったという、かなり大きな木彫りの古面があった。
一説によると、それは北条方の奸計によって漆《うるし》にかぶれて死んだ頼家のデスマスクだという。
その不気味な面を見ているときも、また、修禅寺の石段を降りて虎渓橋を渡り、指月殿や頼家の墓へ行く坂道を登っているときも、美緒の脳裏に、時々周三と交わした会話がよみがえってきた。
4
その日、美緒たちは、修善寺を午後四時四十一分に出る「踊り子174号」に乗って帰路に着いた。新宿行きだが、横浜で降りて薬師寺と会うことになっていた。
横浜着は六時二十七分。
美緒たちが西口の改札口を出ると、薬師寺は来て待っていた。
森刑事はおらず、一人である。
駅前のレストランに入り、ビールを頼んでから、まず美緒たちのほうから報告した。
薬師寺は壮に期待していたのだろう、美緒が、考える材料は揃ったと言っているが、まだ結果は出ていない≠ニ言うと、「そうですか」と少しがっかりした顔をした。
だが、彼はすぐに気を取りなおしたように、どうもご苦労さまでしたと美緒たちをねぎらい、午後、本郷三丁目にある桐生のマンションを訪ねたときのことを話した。
薬師寺たちは、十五日の晩に桐生が使用したと思われる車を突き止められないまま、何かつかめないかと、桐生に対する数度目の尋問を行なったのだという。
「その結果……新しい手掛かりと言えるかどうかは分かりませんが……これまでと違った話を引き出したんです」
と、薬師寺がつづけた。
「桐生さんは、新しいアリバイの主張でも始めたんでしょうか?」
美緒は訊いた。
「いえ。彼が前言をひるがえしたのは、十五日の夜、佐久田さんたちと別れた後研究室へ戻ってこいと服部先生に呼ばれた理由についてです。先生とどういう遣り取りがあったのか、という点についてです」
薬師寺が答えた。
「その点、薬師寺さんたちは、裏で鬼塚教授と通じているのではないかと服部先生に追及され、詰《なじ》られたのではないか≠ニ考えておられたのに、桐生さんは、今後の研究室運営について先生から相談を受けただけだと言っていた、というお話でしたわね」
「そうです。明らかに嘘をついていると思っていたわけですが」
「それを、桐生さんが認めた?」
「いいえ、違います。彼は、先生に呼ばれた別の理由を言い出したんです。服部先生の用件は佐久田さんに関するものだった、だから、先生は佐久田さんに内緒で自分を呼んだのだ≠ニ」
「桐生さんは、なぜ前言をひるがえして、そんなことを言い出したのかしら?」
「私もその点を訝り、あんたはこの前、今後の研究室運営に関する話だと言ったじゃないか、と突っ込んだんです」
すると、桐生は、いや、それも嘘じゃない、ただ、もう一点あったのだ≠ニ答えたのだという。
――じゃ、どうして、初めからそう言わなかったんです?
薬師寺は追及した。
――言ってから思い出したんですが、何だか佐久田君を陥《おとしい》れるようで嫌だったので、黙っていたんです。
桐生が答えた。
――ほう、佐久田さんのために、ね。
――嘘じゃない。先生は真紀さんの件で佐久田君を疑っておられた。それで、私に相談されたんだ。真紀さんと佐久田君の間に何かあったんじゃないか、知らないか、と私に尋ねられたんだ。
そんなことがあったかもしれないが、それは十五日の夜ではなく、もっと前……真紀の死のすぐ後ではないか。桐生はそれを思い出し、自分に向けられた疑いを逸らす材料になると判断し、いま持ち出したのではないか。
薬師寺はそう思ったが、
――で、あなたは何と答えたんです?
と、相手に話を合わせてみた。
――私は、何も知らない、と答えた。本当は、佐久田君が真紀さんとの結婚を迷っているのを知っていたんだが……。
――佐久田さんが結婚を迷っていた? 彼は、教授のお嬢さんとの結婚を望んでいたと聞きましたがね。あなたも、そう言ったんじゃなかったですか。
――他人の悪口は言いたくなかったですからね。それに、初めはそのとおりだった。佐久田君は、出世のために相馬さんを振って真紀さんと婚約したんだから。でも、佐久田君は、あまりにも我儘《わがまま》で奔放すぎる真紀さんに、だんだん嫌気がさしてきていた……。
――よくご存じですね。佐久田さんに聞いたんですか?
――彼はそうした直接的な言い方をしたわけではないが、私には、彼の様子や話しぶりから分かった。
――なぜ、分かるんです?
――私も、かつてそうだったからだ。それで、真紀さんと別れたからだ。
――初耳ですね。失礼ですが、桐生さんは真紀さんに侮辱され、捨てられた、と聞きましたが。
――だ、誰だ、そんなことを言ったのは?
桐生が顔を赤くして怒鳴った。
――ある方です。
――そうか、佐久田だな。
――佐久田さんじゃありません。
――確かに、表からはそう見えたかもしれない。だが、あんな女との結婚は、こっちから願い下げにするところだったんだ。ただ、先生との関係がまずくなるのをおそれて迷っていた。そんなとき、向こうからご破算にしてくれたので、助かったんだ。
眉唾ものだったが、その真相を知っている真紀はもういない。
――佐久田さんもあなたと同じだった、というわけですか。
――そう。しかし、彼の場合、もう若くはない真紀さんのほうから婚約解消を言い出す可能性は薄かった。
――だから、佐久田さんが真紀さんを殺した、と言いたいわけですか。
――そこまでは私には分からない。ただ、先生が彼を疑っていたのは事実だ。
――しかし、佐久田さんには、真紀さんを殺せなかった。
――その点なら、私のほうが彼の数倍も明白だ。あの晩、私が市倉正典という友人と一緒に東京にいた事実は、静岡県警の刑事さんが確認している。それなのに、あんたらは、私が相馬君を利用して真紀さんを殺した、と疑っているらしい。だったら、佐久田君だって同じだ。
佐久田は、真紀の事件の前に、圭一郎を電話で動かしたと思われる人物が差し向けた男に線路に突き落とされ、九死に一生を得ている。それが、桐生との決定的な違いだった。が、その事実はまだ公表していないので、薬師寺は口にしなかった。
すると、彼が反論できないと見たのか、桐生が言葉を継いだ。
――また、あんたらは、私が先生を殺したと疑って、しつこく調べている。だが、佐久田君だって、あの晩は岩村君、柿沢君と途中で別れて真っ直ぐ家へ帰ったと言っているだけで、所在がはっきりしないというじゃないか。
佐久田に服部事件に関するアリバイがないという点は、そのとおりだった。しかし、佐久田が真紀の死と関係ない以上、彼には服部を殺す動機がない。彼の場合、自分の将来を委ねていた服部が死んで、大きなダメージこそ受け、プラスになるものなど何もない。
――私たちは、アリバイがないというだけで、あなたを疑っているわけじゃない。
薬師寺は言った。
――あなたは、少なくとも二度は嘘をついた。最初は、佐久田さんたちと一緒に大学を出て真っ直ぐに家へ帰ったと言い、大学へ引き返したのがばれると、服部先生に呼ばれて教室運営に関する相談を受けた、と言って。そして今度は、実は先生が佐久田さんを疑っていて、あなたに相談され……。
――今度は本当だ。
桐生が薬師寺の言葉を遮《さえぎ》った。
――信じられませんね。それに、あなたには先生を殺す強い動機がある。
――先生を殺す動機?
桐生がいかにも驚いたというような目をして、薬師寺を見返し、
――いったい、私に、先生を殺さなければならないどんな動機があるっていうんです?
――それは、あなたが一番よく知っているでしょう。
――分かりませんね。私には、先生を殺す動機なんてなかったんだから。
――服部先生がいなくなって、あなたには教授になる道が大きく拓《ひら》けた。だが、もし先生が生きていたら、あなたは教授になれなかっただけじゃない。外に放り出された可能性が高い、というじゃないですか。
――また佐久田だな。
――さあ。
――分かりました。それじゃ、この際、はっきりと申し上げましょう。
桐生が意を決めたように言った。
――私は、遅かれ早かれ教授になれたんです。つまり、佐久田が刑事さんに吹き込んだようなおそれはゼロに近かったんです。
――なぜです?
――理由は簡単です。服部先生は、私を放り出すより前に教授を辞めざるをえなかったからです。刑事さんもよく知っている先生のセクハラ疑惑……あれは、先生が思っていたほど甘くはなかったんです。被害者たちの訴えは九十九パーセント事実ですから、言い逃れは難しかったんです。証人は大勢います。先生は、自分では気づいていなかったが、すでに四面楚歌だったんです。自業自得といったら酷ですが、丸裸だったんです。そんな先生を、私がどうして殺害する必要なんかありますか? そんな危険を冒さなくたって、告発者側の証人として立って一言証言すれば、済むことじゃないですか。なにしろ、私は、先生のそばで、ずっと先生のやることを見てきたんですから。
桐生が、服部に面従腹背していたことを暗に認めた。
ということは、服部を裏切って裏で鬼塚と通じていた、という佐久田の話も事実だったのだろう。
しかし、いまの桐生の話が事実なら、同時に、彼には服部を殺す動機も消えてしまうのだった。
――服部先生はすでに丸裸だったと言われたが、服部研究室では、まだあなたより先生の支持者が多いんじゃないですか。
薬師寺は言ってみた。
三日前の教室会議が桐生の思いどおりにはならなかった、と聞いていたからだ。もっとも、佐久田の狙《ねら》っていた、桐生に対する事実上の不信任とも言うべき「後継教授の公募を求める決議」も出せなかったらしいが。
――そんなことはないですよ。この前の教室会議では、亡くなったばかりの先生に対する遠慮があって、はっきりものを言う人が少なかったが、来週の火曜日に開かれる次の会議では、もっと自分の意見を率直に述べる人が増えるはずですから。
桐生が余裕の笑みを浮かべて応じた。
――率直な意見があなたを支持するとはかぎらないでしょう。
――そりゃそうですが、先生が裸になっていたのに気づいていなかったのは、佐久田君の他に精々二、三人です。他の者は、多かれ少なかれ、先生の卑劣なやり方にうんざりし、義憤を覚えていたんです。その思いは、相馬さんの自殺によって、頂点に達していたんです。とはいえ、先生は、私たちなど一噛みで殺せるぐらい大きくて凶暴な猫でしたからね。例の告発があるまでは、誰もその首に鈴を付けられずにいたんです。
桐生の話が事実なのかどうか――。
薬師寺は判断に迷った。
5
薬師寺が言葉を休め、ビールを飲んだ。
ジョッキを口元から離して、テーブルに置き、
「こんなところですね」
と、壮と美緒を交互に見ながら言った。
薬師寺は、壮の感想を期待しているにちがいない。
美緒は、発言を促すように壮の横顔に目をやった。
だが、相棒は、いつものごとく、聞いたばかりの話を頭の中で反芻《はんすう》しているのか、すぐには口を開かなかった。
テーブルには、仔牛のミニステーキと隠元の盛り合わせが運ばれてきていたが、誰もフォークを付けていない。
黙っていては薬師寺に悪いので、美緒は代わりに言った。
「桐生さんの、自分には服部先生を殺す動機がないというお話は、どこまで信用できるのかしら?」
「問題はそこなんですが……」
と、薬師寺が応えて、ちらっと壮の顔を窺った。
「来週の火曜日に教室会議の結論が出れば、その点、ある程度まで想像がつくと思いますけど」
美緒はつづけた。
「教室会議の結論なら、今は、桐生氏の予測が正しいのではないかと考えています。一昨日お話しした、桐生氏に対する不信任云々といった佐久田氏の話と比べてみてください。佐久田氏には何も見えていなかったのに、今日の桐生氏はすべてを見通したうえで言っているようなんです」
薬師寺が美緒に応えて言うと、壮のうなずくのが分かった。
「あなたもそう思うの?」
美緒は、顔を横向けて訊いた。
「少なくとも、服部先生がすでに丸裸になっていたというのは事実のような気がします」
壮が答えた。
「でも、その点、桐生さんの話が正しいとなると、桐生さんには、破滅するかもしれない危険を冒して服部先生を排除する必要がなくなる……」
「そうですね」
「そうなったら、元々、桐生さんには佐久田さんと真紀さんを殺す動機が弱いわけですし、桐生さんを疑う根拠がほとんどなくなってしまいますわね」
美緒が薬師寺に目を戻して問いかけると、彼が、ええ……と困ったような顔をして応じた。
「もし桐生さんが犯人でないとしたら、いったい誰が犯人なのかしら?」
美緒は言ってから、いま聞いたばかりの服部が真紀の死に関して佐久田を疑っていた≠ニいう桐生の話を思い浮かべた。
しかも、服部の腰巾着だった佐久田は、服部がすでに四面楚歌に囲まれ教授の椅子を放棄せざるをえなくなっているのを知らなかった、という。
この話が事実だとしたら、どうなるか。
佐久田は、服部の怒りを恐れるあまり、彼の主《あるじ》とも言うべき服部を殺さなかったとは言いきれないのではないか。
佐久田には、服部の殺された晩のアリバイがないという話だったし、翌朝、正体不明の男に「服部が新横浜駅前公園にいるから行ってみろ」と電話で言われたというのも、疑えば疑える。彼がそうした電話を受けたという証拠はないし、自分で服部を殺して死体を遺棄しておきながら、朝、気になって様子を見に行った、という可能性もある。
しかし、この推理には、大きなネックがあるのだった。
「もしかしたら、桐生さんの疑っていた佐久田さんこそ犯人では……と思ったけど、やっぱり無理ですわね」
美緒は言った。
「ええ」
と、薬師寺がうなずいた。「さっきも申し上げたように、佐久田氏が服部先生を殺したと見るためには、その前に彼が真紀さんを殺したという事実がなければなりません。ところが、彼には、自分の手で真紀さんを殺すのは不可能でしたし……だいたい、真紀さんの事件のわずか九日前に、彼自身が殺されそうになっているわけです。もし佐久田氏が犯人なら、誰かがホームレス風の男を利用して彼を殺そうとし、そのすぐ後に、今度は彼が同じ手口で真紀さんの殺害を計った――こんな構図になってしまいます。絶対にありえないとは言えませんが、かなり不自然です」
そのとおりだった。
といって、佐久田が桜木町駅のホームから突き落とされたのがヤラセや狂言だった可能性はない、と見ていい。なぜなら、咄嗟《とつさ》に線路に飛び降りて、彼をレールの外へ引き摺り出した学生がいなかったら、彼の命はほとんど百パーセントの確率で消えていたのだから。
とすれば、これで、佐久田が犯人というセンは完全に消えたと見ていいだろう。
では、犯人は誰なのか――と、美緒はあらためて自問した。
やはり桐生利明なのだろうか。桐生が、ホームレスと思われる男を利用して佐久田を線路に突き落とし、圭一郎かAを使って真紀の殺害を狙い、自らの手で服部を殺したのだろうか。
それとも、桐生でも佐久田でもない、美緒たちの想像外の人物が、死角に隠れているのだろうか。
美緒だけでなく、薬師寺も壮が口を開くのを待っているようだったが、壮は何も言わなかった。
彼とて、具体的な名を挙げようがないからであろう。
「お食事にしましょうか?」
と、美緒は薬師寺の意向を訊いた。
「そうですね」
と薬師寺が応えるのを待って、美緒は、食べようと壮を促した。
そのとき、ボーイが、
「薬師寺様はいらっしゃいませんか」
と呼びかけながら、テーブルの間を歩いてきた。
薬師寺が、手にしたばかりのフォークを置き、「私です」と腰を上げた。
ボーイが、ああというような顔を向け、電話がかかっていると告げた。
店に入ったとき、薬師寺が捜査本部に居所を知らせておいたのである。
彼は、美緒と壮に「ちょっと失礼します」と言い置いてボーイについて行き、三、四分して戻ってきた。
表情が心持ち明るくなっていた。
「相馬圭一郎が落ちました」
と、彼は美緒たちの前に腰を下ろすや、報告した。
「落ちた……?」
美緒は訊き返した。
「十月一日の夜十時頃、服部教授を襲う目的で『月の湯館』の敷地内に入り込んだ事実を認めたんです。たった今、静岡県警からうちの本部に連絡が入りました。九月末に聞きなれない男の声で電話があり、一日の晩服部教授が一人で月の湯館の離れ家『紅葉の家』に泊まると聞いた、というのは前から言っていたとおりのようです。ただ、教授が十時頃散歩に出ると聞いたというのだけは作り話だったらしく、『紅葉の家』に侵入するつもりで、浴室の窓の外から様子を窺っていたんだそうです。すると、女の人が浴室に入ってきて突然倒れ、動かなくなったので慌てて逃げ出した。そう自供したようです」
「相馬さんが、嘘をついていたんですか……!」
美緒はつぶやいた。圭一郎は無実≠フ判断に傾いていただけに、驚いていた。
「この前、黒江さんの感想を伺い、私も圭一郎は事実を言っているのではないかと思っていただけに、ちょっと意外でした」
薬師寺が言った。
「でも、これで、相馬さんを動かした人物による未必の故意の殺人≠ニいう可能性が強くなったわけですわね」
「いえ、たとえその男を特定できたとしても、殺人罪に問うのは非常に難しいんです。男は、圭一郎に電話して、一日の夜、服部教授が月の湯館の『紅葉の家』に一人でいる≠ニいう嘘の情報を流しただけですから」
「そうか……」
美緒は唇を噛んだ。
「相馬君に電話してきた男は、一日の夜何時頃、服部教授が『紅葉の家』に一人でいる≠ニ言ったんですか?」
不意に壮が訊いた。
「そこまでは聞いていませんが、その晩一人で泊まると言っただけで、時間までは言わなかったんじゃないでしょうか」
薬師寺が答えた。
「確認していただけませんか」
「確認というと、静岡県警に直接訊くしかありませんが……」
薬師寺が戸惑ったような目をしてつぶやいた。
美緒も同様だったが、彼には、壮がなぜ時刻にこだわるのか理解できないらしい。
「ご面倒でしょうが、お願いします」
珍しく、壮は譲らなかった。
薬師寺が「分かりました」と応えて腰を上げた。レジのほうへ歩いて行き、五分ほどして戻ってきた。
「相馬圭一郎に電話してきた男は、やはり、一日の晩服部教授が月の湯館の離れ家『紅葉の家』に一人で泊まる≠ニしか言わなかったようです」
薬師寺が報告した。「男は、教授が散歩に出ると言ったわけではないので、時間までは言う必要がなかったんでしょう」
「そうですか。どうもありがとうございました」
壮が頭を下げた。
「いえ。この点が何か……?」
薬師寺が怪訝《けげん》そうな目を壮に当てた。
「その前にもう一つ教えてください」
壮が答える代わりに言った。
「何でしょう?」
「相馬君の新しい供述が事実なら、彼はどういう罪に問われますか?」
「他人の敷地内に無断で入ったということで住居侵入の罪、浴室を覗いたということで軽犯罪法違反、彼が浴室の外にいたために真紀さんが死亡したと認定されれば、そこに過失致死罪が加わるかもしれません」
薬師寺がすらすらと答えた。
「過失致死罪というのは、刑罰が重いんですか?」
「いえ、確か、最高で何十万円かの罰金にすぎません。覗きも最高で二十九日間の拘留です」
「そうですか……」
壮がうなずいた。
目を宙にやり、もう一度頭の中を整理しているようだ。
圭一郎の供述について、薬師寺に静岡県警まで電話させて確認させた点から考え、何か重要な点に気づいたのは間違いない。
今では、薬師寺にもそう想像できるからだろう、何も言わず、期待の眼差しを壮に向けていた。
壮が薬師寺に視線を戻した。
美緒は緊張して壮の横顔を見つめ、口が動き出すのを待った。
「僕の想像ですが、相馬君は嘘をついているんじゃないかと思います」
壮が言った。
「今度の供述が、ですか?」
薬師寺が確認した。
「そうです」
「ということは、『月の湯館』の敷地内へ入っていないという、これまでの供述のほうが事実だった?」
壮が「ええ」とうなずき、つづけた。
「警察官の薬師寺さんには申し訳ありませんが、相馬君は静岡県警の刑事さんたちに繰り返し責められ、彼らの描いた筋書に沿った供述をしたんじゃないでしょうか。敷地内へ入ったと認めても、殺人罪に問われるおそれはなく、非常に軽い刑罰しか受けないから、と言われて」
「うーん……」
と、薬師寺が口をへの字に結び、眉根を寄せた。
壮の言う可能性が充分に考えられるからだろう。
といって、同業の刑事としては、間宮たち静岡県警の刑事たちが、圭一郎を責めて自分たちの推理に合った供述を引き出した、とは簡単には認めがたい。
美緒は、ここは自分が二人の間に立ってやろうと思い、
「あなたがそう考えたのは、さっき薬師寺さんに確認していただいた時間の件と関係しているのね?」
と、壮に訊いた。
壮が美緒のほうへ顔を向けて、「ええ」とうなずいた。
「相馬圭一郎の新たな供述は刑事の書いた作文だ、と考えられたわけですか」
薬師寺が話に加わった。
かすかに自嘲の響きが感じられた。
「失礼ですが、そうです」
壮がはっきりと肯定した。
「どうして?」
と、美緒は訊いた。
「結果から考えているからです」
壮の答えに、薬師寺が唾を呑み込んだようだった。
「結果から……?」
「男が、相馬君に対する電話で時間≠言っていなかったとしたら、一日の晩、相馬君が月の湯館の門前に十時頃いたのは偶然だった、ということになります。また、真紀さんの異常を知って逃げ出した後、現場の近くをうろうろしているわけがありませんから、彼はそれから敷地内へ忍び込み、『紅葉の家』の浴室を覗いたことになります。この時刻も偶然です。
つまり、相馬君は、一日の晩服部教授が一人で月の湯館の『紅葉の家』に泊まる≠ニしか聞いていないはずなのに、非常にうまい具合に、服部先生も佐久田さんもいない時間――真紀さんしかいない時間――に、月の湯館へ行っているわけです。
これは……いま、偶然と言いましたが……いくつかの事実を元にして組み立てた虚構にちがいない、と僕は思ったんです」
「でも、それぐらいの偶然はあってもおかしくないんじゃないかしら?」
美緒は首をかしげた。
「そうでしょうか? 相馬君の供述が事実なら、結果として偶然そうなったということになるわけですが、犯人はそんな偶然に賭けるでしょうか。適当な口実を設けて、真紀さんが『紅葉の家』に一人でいる時間に相馬君をそこへ行かせるのは、さほど難しくなかったはずなのに――です」
壮が答えた。「相馬君に電話した犯人と思われる男は、服部先生のお宅にも電話して、その晩、先生を修善寺から自宅へ帰らせました。先生と佐久田さんの関係を知っている男なら、そのとき佐久田さんが、修善寺駅ではなく、十中八九、三島駅まで先生を送って行くだろう、と予想できたかもしれません。ですが、佐久田さんが横浜の自宅まで先生を送り届けるとは予測できなかったんじゃないでしょうか。あるいは……とは思っても、その可能性に賭けるわけにはゆかなかったはずです。
となると、佐久田さんが『紅葉の家』を留守にする時間は、精々一時間から一時間半ぐらいしか期待できません。先生と佐久田さんが月の湯館を出発する予想時刻に幅がありますから、真紀さんが確実に『紅葉の家』に一人でいると考えられる時間は、更に短い時間に限定されたはずです。
それなのに、犯人の男が、一日の夜ならいつでも服部教授が離れ家に一人でいる、といった言い方をするでしょうか。時刻を言わなければ、相馬君は、他の客や従業員が寝静まった午前零時過ぎにそこへ行った可能性のほうが高かったはずです」
「じゃ、犯人は相馬さんにどう言ったの?」
「相馬君がこれまで供述していたとおりです。時刻≠言ったんです。犯人の男は、十時頃、服部先生が散歩に出るからと言って、その頃相馬君が月の湯館の近くに行っているように仕向けたんです」
「敷地内へ入らせずに、何のために近くへ行かせたの?」
「当然、相馬君に疑いを掛けさせるためです」
「犯人はその頃、相馬圭一郎ではない別の人間Aを使って真紀さんを殺害させた、ということでしょうか?」
薬師寺が訊いた。
「いえ、違います」
「違うの!」
美緒は思わず驚きの声を漏らし、慌てて口を押さえた。
「ええ」
「でも、あなただって、相馬君が真紀さんの死に無関係の場合は、犯人は別の人間Aを使ったのだろう、って……」
「確かに、ついさっきまではそう考えてきましたが、おかしいと気づいたんです」
「どうしてでしょう?」
薬師寺が美緒の疑問を引き継いだ。
美緒だけでなく、壮と薬師寺の念頭にも食事などないようだった。
「犯人本人は安全圏にいて、誰かを巧みに操作して人を殺すなら、同時に二人の人間を使う必要がないからです。犯人にとって、相馬君を利用するつもりならAは必要ないし、Aを使って真紀さんを殺害するつもりだったのなら、わざわざ相馬君に電話して、彼を修善寺温泉まで行かせる必要がなかった、ということです」
「ということは、真紀さんを死に至らしめたのは犯人本人だった?」
「そうです」
「真紀さんの死んでいた密室≠ヘどうなるんでしょう?」
「現場に行ったのが犯人本人なら、それは偶然の産物ではなかった可能性が高い、と思います。つまり、あの密室≠ヘ、〈真紀さんの死が病死か事故死でないとしたら、誰も屋内に入れなかったのだから、真紀さんは浴室の窓に映った影を見てショック死したにちがいない〉そう思わせるために構築されたものだ、と思います」
「では、犯人は、建物の中へ入って、真紀さんを殺害した?」
「僕の考えている犯人には、それはできなかったはずなんですが」
「えっ、あなたには、犯人が分かっているの!」
美緒はまた思わず声を高め、「ご免なさい」と壮と薬師寺に謝ってから、
「あ、でも、それができないのに、犯人て、どういうこと?」
「仕掛けを使ったんだと思います」
「建物の中へ入って真紀さんを殺害できないというのは、アリバイがあるからという意味でしょうか、それとも建物の中へ入る手段がなかったから、という意味でしょうか?」
薬師寺が訊いた。
「アリバイがあるからです」
「アリバイがあるということは、やっぱり犯人は桐生さんだったの?」
「いいえ、違います。桐生さんには、仕掛けをセットしたり外したりすることも不可能だったはずですから」
「それが可能で、『紅葉の家』に出入りできた可能性のあるのは、佐久田……!」
薬師寺がつぶやいた。
「佐久田さんが犯人……!」
美緒は確認するように壮の顔を見た。
「そうです」
と、壮がうなずいた。
第八章 |0《ゼロ》の交差
1
その日(二十二日)の夜、横浜北署で開かれた捜査会議で、薬師寺は、壮の推理「佐久田犯人説」を発表した。
壮の推理といっても、薬師寺が素人に捜査の内情を明かして相談したとなれば問題なので、事情を知っているのは、松沢警部の他には森ら数人である。薬師寺は、壮の了解を得て(というより彼の勧めで)、会議では自分の考えとして述べた。
土曜日の夜八時半過ぎ――どの班からもこれといった成果が報告されず、疲労感と無力感に満ちていた捜査本部は、彼の発言により一瞬にして緊張した雰囲気に変わった。
賛否は半々だった。
松沢は壮の優秀さを知っているだけに、彼の推理を採りたいようだった。だが、横浜北署の署長は、真紀の死亡時に修善寺にいなかったのが明白な佐久田に、彼女を確実にショック死させるような仕掛けが可能か、と疑問を呈した。
署長が反対する理由がそれだけではないのは明白だった。静岡県警との問題があるからである。
もし、「佐久田犯人説」を神奈川県警の見解とした場合、静岡県警の反発は免れない。いかに言葉を選んで説明しようと、彼らが相馬圭一郎から引き出した供述は虚偽ではないか、つまり、それは圭一郎を脅し、刑事たちの書いた作文に沿うように彼を誘導した結果ではないか、というのだから、当然である。
捜査副本部長である署長としては、その厄介な問題を回避したいのだった。
といっても、事実は一つしかない。静岡県警とどんなに気まずい関係になろうとも、事実は曲げられない。ここで誤った道を選べば、大きなエネルギーの浪費になるばかりでなく、真相へ到達できなくなる。
薬師寺はそう考え、壮の挙げた圭一郎の供述を事実と考えた場合の矛盾≠、再度強調した。
署長が、「一歩……いや、百歩譲って、相馬圭一郎の供述が虚偽だったとしても」と反論した。そこから佐久田が犯人と結論するのは短絡にすぎないか――。
そのため、薬師寺は、やはり壮が薬師寺と美緒に示し、その後三人で話し合った、佐久田犯人説の次のような根拠≠ノついて、もう一度詳しく説明した。
一、佐久田には、桐生の言ったような、真紀から逃れるためという真紀殺しの動機があった可能性がある。また、服部に真紀殺しを疑われていたとすれば、服部を殺したとしても不思議はない。
二、佐久田には十月十五日夜のアリバイがなく、服部殺しが可能だった。
三、真紀の死に圭一郎が無関係だった場合、犯人が圭一郎以外の人間Aを使って真紀を殺害させようとした、と考えるのは不自然である(なぜなら、その場合、圭一郎を修善寺まで行かせる必要がないから)。としたら、真紀殺しは、犯人自らの手で行なったと考えざるをえない。しかし、真紀が殺された晩、東京にいた桐生には、自分の手で真紀を殺害することはできない。
四、ところが、佐久田の場合、真紀の死の前後に修善寺温泉・月の湯館の「紅葉の家」にいたのであり、死体の第一発見者でもあった。だから、桐生と違い、たとえアリバイがあっても、真紀の殺害が絶対に不可能だったとは言えない。
五、佐久田は、服部と真紀と自分の予定を誰よりもよく知っていた。圭一郎を電話で動かした男、大貫を名乗って服部の自宅に電話した男が彼だったとしても矛盾しない。
六、佐久田なら、一日の夜、彼自身が服部を送って行くのだから、「紅葉の家」に真紀が一人でいる時間を正確に予測できた。つまり、その時間に圭一郎が月の湯館の周辺をうろつくように仕向けるのは簡単だし、同じ頃、何らかの機械的な仕掛けを使って真紀を殺害するのも不可能ではなかった、と思われる。また、彼なら、午前零時近くに「紅葉の家」に帰り、予《あらかじ》め作っておいた合鍵で中へ入り、仕掛けを外すのは簡単である(もちろん、その後で、浴室に真紀が倒れているようだが、鍵がないので家の中へ入れない≠ニ言って、本館へ駆け込んだのであろう)。
七、佐久田が桜木町駅のホームから線路に落ちて列車に轢かれそうになったのは、誰かに突き落とされたのではなく、彼自身の不注意による事故だった可能性がある。つまり、ヤラセではないが、彼は九死に一生を得た≠ニいう事実、結果を利用したのだ。
この場合、助けられた直後、駅員や警察に事情を訊かれたとき、考えごとをしながら歩いていて足を踏み外した≠ニ述べたのは事実だったわけである。ところが、彼は、病院のベッドで一晩過ごすうちに、死にそうになったこの結果を利用すれば疑われずに真紀を殺害できると考え、壮に電話をかけて呼び出した。何者かに突き落とされたのだが、警察に事実を話せば、服部に迷惑をかけるのでどうしたらいいか分からない≠ニ、相談を装って伏線を敷いた。真紀を殺した後、壮の口からこの話が警察に伝わり、自分も彼女と同様に狙われたのだから犯人ではありえない、と思わせるために。
しかし、真紀が死んでも、壮がなかなか警察に話さなかったので、佐久田は、服部を殺した後で、自分で警察に知らせざるをえなかった。それが、実行犯――実際には存在しないホームレス風の男――を装って桜木町駅にかけた電話だったのであろう(この電話の話の中で、ホームレス風の男を操った犯人の年齢、体付きを圭一郎に相似させなかったのは、圭一郎の背後にも同じ人物がいると思わせたほうが得策だ、と判断したからであろう)。
佐久田がホームから転落した時期は、彼が出世のために捨てた恋人・相馬聡子の自殺、短刀を持った圭一郎の服部襲撃、婚約者・真紀の変死、そして服部の殺害とつづいた一連の出来事の真ん中に挟まっていた。しかも、佐久田には真紀の死に関して絶対とも言うべきアリバイがあり、誰に聞いても、彼は服部の腹心、腰巾着であり、服部・真紀側の人間であった。ホームから落ちたとき、近くにいた学生が咄嗟《とつさ》に飛び降りて助けてくれるという幸運がなかったら、死んでいたのも間違いない。そのため、金で頼まれて佐久田を突き落とした≠ニ称する男が桜木町駅に電話してきたとき――転落の翌日、佐久田が突き落とされた≠ニ壮に話していた事実も手伝い――、それらが彼の芝居だとは誰も疑わなかったのである(壮でさえ、真紀の死亡時に現場に立てなくても佐久田には彼女の殺害が可能だったのではないか≠サう考えた時点で、初めて、ホームからの転落は事故だったのではないか、と思い至ったのだった)。
この「佐久田犯人説」が正しいと証明するには、いくつかの問題があった。
まず、佐久田には、本当に桐生の言ったような真紀殺し、服部殺しの動機が存在したのかどうかを明確にする必要がある――
次は、真紀殺しの具体的な犯行方法を突き止めなければならない――
そして最後に、真紀を殺した証拠、服部を殺した証拠をつかむ必要があった――
だが、このうち、の真紀殺しの方法については壮が考えてくれることになっていた。壮によれば、これまでは佐久田を疑わなかったので、犯行が可能かどうか考えてみなかったが、彼が犯人という仮定に立って考えれば、この問題はそれほど難しくないはずだ、という。
薬師寺は、壮の言葉を信じていた。壮の頭脳に絶対の信頼を寄せていた。壮が言うように、佐久田が犯人であるのは間違いない、謎は必ず解けるにちがいない、と思っていた。
だから、彼は、たとえ静岡県警との関係がしばらくぎくしゃくしようとも、佐久田犯人説に立った捜査を進めさせてほしい≠ニ強く主張した。
この薬師寺の主張を、捜査主任官である松沢が援護し、最後には署長も妥協した。刑事部長や捜査一課長らと相談して……という条件が付いたが、桐生犯人説、佐久田犯人説の両方の可能性を想定して捜査を進めることに決まった。
2
翌朝、薬師寺が森とともに最初に行なったのは、保土ケ谷にある佐久田のアパート訪問だった。
目的は、適当に尋問しながら彼の声を録音すること。
録音テープを科学捜査研究所へ回し、彼の声紋と桜木町駅に電話してきた男の声紋を比較してもらうのである。
鑑定の結果、もしそれらが同一人のものと判定されれば、壮の推理は事実へ向かって大きく前進するし、もし別人のものだとなれば、彼の推理はほとんど崩れる。
それだけに、この声の採取は大きな意味を持っていたが、佐久田は不在だった。
日曜日なので、どこかへ遊びに出かけたのかもしれないが、研究室へ出た可能性もないではない。
薬師寺たちは、佐久田に会えても会えなくても、東洋研究センターへ行くつもりだったので、慶明大学へ向かった。
服部研究室の研究員に当たり、桐生が佐久田に関して話した事柄が事実かどうか、確かめるためである。
それが事実なら、佐久田には、真紀殺し、服部殺しの動機が存在したことになるが、虚偽だとしたら、彼の犯行動機を突き止めなければならない。
慶明大学へ行くと、日曜日でも、東洋研究センターの窓はいくつか開いていた。
二階の服部研究室に出てきていたのは、男二人、女一人。佐久田だけでなく、桐生もおらず、三人とも大学院生。そのうちの一人は、十五日の夕方六時頃、桐生や佐久田と一緒に研究室を出た柿沢|憲一《けんいち》という男だった。
薬師寺と森は、彼らを一人ずつ別々につかまえ、話を聞いた。
柿沢には、十五日の夕方教授室を出る前と出てからの行動、服部の様子などを尋ねていたし、あとの二人――川合佑司《かわいゆうじ》と坂巻英美《さかまきひでみ》――にも簡単に事情を聞いていたが、佐久田と真紀、佐久田と服部の関係に的を絞った質問をするのは初めてである。
彼らは初め、答えるのを渋ったものの、本当は誰かに話したくてうずうずしていたのかもしれない。薬師寺がここで聞いた話は口外しないと約束すると、ぽつぽつと話し出し、やがて堰を切ったように服部や真紀、佐久田に対する悪口を並べ立てた。
話の内容と話しぶりから考えて、彼らは必ずしも桐生の側に立っているわけではないらしい。ただ、服部の理不尽なワンマンぶり、研究室とは何の関係もない人間である真紀の傍若無人な振る舞い、その父娘に召使いのように付き従い、スパイ行為もしていたと思われる佐久田の卑劣さ――に、もう我慢が限界に達していたらしい。
それだけに、彼らは、佐久田は服部・真紀と同じ穴の貉《むじな》だと思っていたのだろう、彼が真紀との結婚を迷っていたのではないかと薬師寺が質問すると、初め首をかしげた。佐久田は、相馬聡子を捨ててまで真紀と婚約し、服部との縁戚関係を利用して次の助教授になろうとしていたのだから、そんなことはないはずだ、と。
一度は真紀との結婚を選択したものの、婚約してより深く彼女を知り、嫌になることだってあるのではないか――と薬師寺は言葉を継いだ。
すると、柿沢と川合は、確かにそうかもしれない、真紀という女ではたいがいの男なら嫌になるだろう≠ニ認め、更に柿沢は、たとえ計算どおりに助教授の椅子に座れたとしても、これから一生、真紀みたいな女に奴僕《ぬぼく》のような生活を強いられると想像したら、耐えられないと考えたかもしれない≠ニ言った。
――僕なら、すべてを捨てても逃げ出しますね。
柿沢が笑った。
薬師寺は、佐久田が真紀と結婚しなければ助教授になる道はなかったのだろうか、と三人に訊いた。
そんなことはない、佐久田が真紀と結婚しなくとも、服部の腹心である事実に変わりはないのだから、というのが三人の見方だった。
――それでは、どうして婚約したんでしょう?
――恋人の相馬さんを先生に差し出して、真紀さんと婚約すれば、先生との結び付きは盤石のものになりますからね。それは今後の出世に大きな力になる、と読んだんじゃないんですか。
これは柿沢の言葉だが、他の二人も似たような答えを口にした。
ただし、一旦婚約した以上は、佐久田のほうからそれを破棄すれば、もう終わりだっただろう、というのも三人の一致した見解であった。
――終わりというのは、助教授への道が閉ざされるという意味ですか?
――それで済めばいいですが、服部研究室に居られなくなったんじゃないですか。
――もしかしたら、研究者生命を絶たれたかもしれません。
柿沢と川合の答えだ。
――研究者生命を絶たれた?
――別の大学へ行こうとしても、服部先生が手を伸ばして邪魔したでしょうからね。
彼らの話を聞き、薬師寺は、佐久田には真紀を殺す動機が存在した、と判断した。この点は、桐生の言ったとおりだったらしい。
佐久田にとって、服部の怒りを買わずに真紀から逃れる道は、自分以外の人間の仕業に見せて真紀を殺す以外にない。彼が漠然とそうした考えを頭に浮かべていたとき起きたのが、ホームから足を踏み外して九死に一生を得る、という事故だったのではないか。
佐久田と真紀は婚約者同士である。服部の腹心と服部の娘である。佐久田が、アリバイを用意して真紀を殺害した後、自分も何者かに襲われ、殺されそうになったのだ≠ニ言えば、警察は、二人は同じ犯人に命を狙われたと考えるだろう。佐久田に疑いの目を向けるおそれはほとんどない。
壮が推理したように、佐久田がそう考えた可能性は非常に高い。
となると、残る問題は、服部殺しの動機だった。
桐生が言ったように、真紀殺しに関して服部が佐久田を疑い始めていたとすれば、服部殺しの動機も存在する。娘を殺したと疑われたのでは、出世も何もないからだ。
しかし、服部が佐久田を疑っていたというのは桐生の言葉でしかない。
薬師寺は、柿沢、川合、坂巻英美の三人にそれとなく訊いてみた。
が、彼らは、何も気づいていないようだった。いや、三人とも、服部が佐久田に疑惑の目を向けていたなどということはないのではないか、と言った。もし服部の内にそうした疑いが芽生えていたら、佐久田に対する目付きや態度、言葉遣いなどにそれらしい印《しるし》が窺《うかが》えたはずだ、というのである。
服部の殺された十五日の夕方まで、桐生や佐久田と一緒に服部のもとにいた柿沢には、その日服部が桐生と佐久田に対して示した態度について、詳しく質《ただ》した。
すると、柿沢は(彼は服部がその晩桐生をひそかに呼び戻していた事実を知らない)、あの日の午後は、服部の言葉からいつになく桐生に対する敵意、棘《とげ》が感じられた、と述べた。
――ですが、佐久田さんには、それまでとまったく変わらない態度でしたけどね。「佐久田君、佐久田君」と気安げで、どこか馴《な》れ合いのにおいがするような……。
――服部教授は、自分の後継教授を公募で決めようとしていたそうですが、それに対して、桐生さんがどういう対抗手段を取ろうとしていたか、ご存じですか?
――先生が亡くなってから、佐久田さんに聞いたんですが、鬼塚教授と裏で手を結んでいたとか……。
柿沢が眉をひそめ、声を落とした。
――服部先生が殺されなかったら、後継教授はどうなったと思いますか?
――はっきりしたことは言えませんが、後継教授を決める前に、服部先生は辞めざるをえなかったんじゃないですかね。あまりにも出鱈目《でたらめ》で酷いことをやりすぎましたから。もう先生についてゆくのは、佐久田さんぐらいだったでしょう。
――服部先生が落ち目でも、佐久田さんはついていった?
――そりゃ、僕らの言動をスパイまでして先生に報告していたんですから、佐久田さんには他に道はありませんよ。
――そうすると、佐久田さんにとっては、服部先生の力がどんなに弱くなろうとも、先生だけが最後の最後まで頼みの綱だったというわけですか。
――そうです。佐久田さんは服部先生の船に乗り込み、引き返しや乗り換えの利かないところまで進んで行ってしまったんです。現在、佐久田さんは、桐生さんが裏で鬼塚教授と通じていたと言って懸命に多数派工作をしていますが、無駄なあがきです。これまで、船につかまろうとした者を蹴落としてきたのに、今更、沈みそうになった船に乗るように誘ったって、乗る者などいるわけがありません。
柿沢の話は、〈自分には服部を殺す必要などなかった〉という桐生の言葉を裏づけるものだった。
これで、桐生は百パーセント、シロと見てよさそうだ、と薬師寺は思った。
しかし、柿沢の話は、同時に、佐久田を服部殺しの犯人とする見方にも疑問を投げかけた。
十五日の晩、服部が桐生をひそかに研究室へ呼び戻した理由に関しては、桐生が嘘を言っている可能性が高くなったからだ。
真紀の死に関して服部は佐久田を疑っていたために、ひそかに桐生を呼んで、佐久田と真紀の間に何かあったのではないか、知らないかと質した――これが桐生の言である。
だが、柿沢の話したその日服部が桐生と佐久田に対して示した態度≠ゥら推すと、服部は佐久田を疑っていなかった可能性が高い。
その点は、佐久田の話を聞いて薬師寺が推理したように、服部は、桐生が鬼塚と通じていることに気づき、怒って桐生を呼んで問い詰めた≠サう考えるのが妥当である。
となると、佐久田には、服部を殺す動機がなくなる。動機がないどころか、佐久田は、自分の頼みの綱である服部を殺し、自らの運命を委ねた船を沈没させるようなまねをするわけがない。
佐久田には、服部の娘である真紀を殺す動機は考えられた。まだ証拠はないが、その動機から彼が真紀を殺した――そう見て間違いないのではないか、と薬師寺は思う。
しかし、娘を殺したからといって、父親は別である。服部まで消してしまったら、元も子もなくなってしまう。それまで服部の言いなりになってきた努力は無駄になり、危険を冒して真紀を殺したことも何にもならなくなってしまう。それぐらいなら、真紀の横っ面をひっぱたいて婚約を解消し、服部とおさらばしたほうが、ずっと簡単で、すっきりとしただろう。
こう考えると、たとえ壮の推理でも、服部を殺した犯人は佐久田ではなかった、と薬師寺は結論せざるをえなかった。
彼の頭はこんがらかり始めた。
桐生でも佐久田でもないとしたら、服部を殺したのは、誰なのか。
真紀を殺した犯人が佐久田なら、二件の殺人は別の犯人によるものだったのか。一人の犯人による連続事件のように見えて、ばらばらの事件だったのか。
それとも、真紀を殺したのも、佐久田ではなく、服部を殺したのと同一の人間なのだろうか。その場合、佐久田がホームから落ちたのも事故ではなく、その人間がホームレス風の男を使って起こした殺人未遂事件だったのだろうか。
薬師寺たちは、慶明大学を出ると、本郷三丁目の桐生のマンションを訪ねた。
桐生は出かけるところだったらしく、秋らしいオレンジ色の織りが交じったジャケットを着て、玄関で靴を履いていた。
薬師寺たちを見ると、あからさまに顔をしかめて舌打ちしたが、薬師寺が、桐生に対する疑いはすでに晴れたので今日は事実を話してほしいと言うと、目に警戒するような色を残しながらも、わずかに表情をやわらげた。
薬師寺は、単刀直入に、十五日の夜服部に研究室へ呼び戻された理由を質した。
桐生は、初めは昨日言ったとおりだと答えたが、薬師寺が再度尋ねると、不貞腐れたような顔をして、彼らの想像したとおりだ、と認めた。
佐久田に対する疑いは桐生自身のもので、彼はやはり鬼塚との関係を服部に糺《ただ》され、詰《なじ》られていたのである。
桐生の言葉により、薬師寺たちは、佐久田には服部殺しの動機はなかった≠ニ判断した。
3
三日後(二十六日)の水曜日の夜八時過ぎ、美緒は東京駅の新幹線ホームまで壮を迎えに出た。
今日の午後、美緒が一時半近くに社へ戻ってくると、壮から電話があり、これから休暇を取って修善寺へ行ってくる、と言ったのである。
美緒は前夜にも壮と会っていたのに、彼はそんなことは一言も言っていなかった。美緒がちょっと責めるようにそう言うと、いま思い付いたのだ、と彼は答えた。
――修善寺のどこへ行くの?
美緒は訊いた。
――月の湯館です。
と、壮が答えた。
――何か分かったのね?
――たぶん、これで真紀さんを殺害した方法の見当はつくと思います。
――犯人はやはり佐久田さん?
――昨夜も言ったように、他に考えられません。
壮はきっぱりと言うと、夕方また連絡すると言って、電話を切った。
美緒はそれから夕方まで、仕事に身が入らなかった。著者から返ってきた校正刷りを読んでいるつもりなのに、気がつくと活字から目を上げて考えていた。
佐久田の声と桜木町駅に電話してきた男の声の比較は、現在、神奈川県警科学捜査研究所でつづけられている。もし、その声紋が同一人のものだと判定されれば、壮の推理の正しさを裏づける有力な証拠となるのだが、録音されていた声がわずかしかなく、男が声を作っていたらしく、まだ結論を出すには至っていないらしい。
だが、〈相馬圭一郎は取り調べの刑事たちの作文に沿った嘘の供述をしたのではないか〉という壮の考えは、ほぼそのとおりだったと裏づけられた。薬師寺たち神奈川県警と静岡県警との間にだいぶ悶着があったらしいが、神奈川県警からの指摘を受けて、間宮たちが圭一郎に問いなおしたところ、圭一郎が、月の湯館の敷地へは入っていないという前の供述のほうが事実である、今度こそ嘘はない≠ニ答えたのである。
圭一郎の無罪放免が決まった昨日(火曜日)、服部研究室の教室会議が開かれ、その結果も、桐生が薬師寺たちに言った自分には今更服部を殺す必要がなかった≠ニいう言の正しさを証明するものだった。死んだ服部の遺志を継いで次期教授は公募で選ぶべきだと主張する佐久田に付いた者はたった一人。態度保留が二人。残る九人は、積極的、消極的かの別はあっても、みな桐生の側に付き、教授は公募せずに、いずれ桐生が昇格することを暗黙のうちに認める案に賛成したのだ。
これにより、桐生が圭一郎を動かして真紀を殺し、自らの手で服部を殺したという推理は九分九厘崩れ、桐生は無実であることがほぼ確定した。
となると、いよいよ壮の言った「佐久田犯人説」で決まりか……という次第になるはずだったのだが、圭一郎放免と服部研究室の教室会議より前に、薬師寺たちは壮の推理を危うくする証言を得ていた。
≪佐久田には、真紀殺しの動機があった可能性はあるものの、服部殺しの動機があったとは考えられない≫
というのである。
それは、壮が美緒の家に来ていた日曜日の午後、薬師寺から電話で知らされた。
美緒から電話を代わった壮は、十分ほど薬師寺の話を聞いていたが、難しい顔付きをして居間へ戻ってきた。
父の精一と母の章子は親戚の法事に出かけていたので、居間に待っていたのは美緒だけである。
壮は、薬師寺から聞いた事情を美緒に説明し、自分の推理は間違っていたらしい、と認めた。
――じゃ、真紀さんと服部先生を殺した犯人は、佐久田さんじゃなかったの? 二人を殺害したのは、桐生さんでも佐久田さんでもない第三の人物だったの?
と、美緒は訊いた。
――もしかしたらそうかもしれませんが、僕は今でも、真紀さんを殺害して密室≠作ったのは佐久田さんしかありえない、と考えています。理由は、前に美緒さんと薬師寺さんに説明したとおりです。特に、相馬君を月の湯館の前へ行かせるのに、真紀さんが確実に「紅葉の家」に一人でいる十時という時刻を指定できた人間は、佐久田さん以外にはいなかったはずだからです。
壮が答えた。
――じゃ、あなたはまだ、相馬さんが月の湯館の敷地内へ入ったと供述したのは嘘だった、と考えている……?
――ええ。それは、佐久田さんに服部先生を殺す動機がなかったからといって、崩れません。
――そうすると、真紀さんを殺した犯人と服部先生を殺した犯人は別なわけだから、事件は一連のものではなかった、という結論になるのかしら?
――いえ、事件は一連のものだった可能性が高い、と僕は考えています。二つの事件には密接な関連があった、だが、犯人だけは別で、佐久田さんともう一人の人間・Xだった。そういうことじゃないでしょうか。
三日前の日曜日の午後、美緒たちはこうした遣り取りをしたのだが、このときは、圭一郎の供述が刑事たちの作文に沿った虚偽だという壮の推理は、まだ裏づけられていなかった。
それだけに、真紀殺しの犯人は佐久田以外には考えられないといっても、それは仮定の上に成り立っていた。
だが、昨日、薬師寺から、圭一郎が前言をひるがえして、元の供述こそ事実であると明言した、という連絡が入り、
真紀殺しの犯人――佐久田
服部殺しの犯人――X
という事件の構図が、ほぼ確実になったのである。
このうち、Xは誰かという問題は当面薬師寺たちに任せ、壮は、佐久田による真紀殺しの方法を解明しようとしていた。
その方法を解明する糸口が、今日の午後、突然壮の頭に閃《ひらめ》いたらしい。彼は美緒に電話したのち、修善寺へ向かった。
そして夕方――
壮は、修善寺駅から再び会社にいた美緒に電話をよこし、謎を解いたので東京駅着八時十七分の「こだま442号」で帰る、と知らせてきたのである。
壮の乗ると言った「こだま442号」は、定刻に東京駅に着いた。
美緒は、聞いてあった車両の停車位置で、壮が降りてくるのを待った。
しかし、降車口に人の姿がなくなっても、壮は降りてこなかった。
美緒は、乗る車両を替えたのかもしれないと思い、ホームの左右を見やったが、どこにも壮の姿はない。
もしいまの列車から降りたのなら、壮のほうが探すだろうと、美緒は五、六分その場所から動かずにいた。
だが、壮は近づいてこなかったし、それから美緒がホームの端から端まで歩いても、あの、はにかんだような笑顔は見当たらなかった。
壮は「こだま442号」に乗っていなかったとしか考えようがない。
といって、八時十七分という東京駅着の時刻が正確だったのだから、美緒が列車名を聞き間違えた可能性は薄い。壮が途中下車するはずもないだろう。ということは、彼は何らかの事情から、三島で予定の列車に乗れなかったか、乗らなかった、のだ。
修善寺から三島へ出る駿豆線に事故でもあったのだろうか。そのために電車が遅れ、三島駅で「こだま442号」に乗れなかったのだろうか。
美緒は心配になってきた。
しかし、どうしようもない。
時刻表で調べると、「こだま442号」の後、三島に停車する列車は、「こだま446号」までない。その東京着は約三十分違いの八時四十五分。
それまで、あと十二、三分待っていてもいいが、美緒はその前に自宅に電話してみようと思いついた。
壮が美緒の家に予定の変更を知らせている可能性があったからだ。
美緒の読みは的中した。
呼び出しベルが二回鳴るや、章子が出て、壮から伝言が入っていると言った。
「何でもなかったのね……」
美緒はほっと緊張を吐き出した。
「ええ」
と、章子が答えた。
「それで、カレ、何だって?」
「『こだま442号』で帰れなくなったからって……」
「その電話があったの、何時頃?」
「七時六、七分頃だったかしら。三島駅からだったわ。あなたの会社に電話したら、もう帰った後だったので、もしあなたから電話があったら知らせてほしいって」
「どうして、『こだま442号』に乗れなかったのかしら?」
「乗れなかったんじゃなくて、乗らなかったみたいよ。三島まで来たが、また修善寺へ引き返すって言ってらしたから」
「えっ、また修善寺へ引き返したの!」
美緒は思わず声を高め、「理由は? 理由は、何て……」
「新しく気づいたことがあるって言ってらしたけど、詳しいお話は何も……。電車が出るところだったみたいだし」
「それじゃ、何時の新幹線に乗るかも分からないのね」
「帰れる時刻がはっきりしたら、また電話するからとおっしゃってたけど、まだ連絡がないわ」
「分かった。じゃ、またしばらくしたら、電話するわ」
美緒は言うと、受話器を置き、出てきたカードを取った。
壮がどうかしたのではないかという不安は去ったが、代わりに、大きな疑問が生まれていた。
夕方、壮は、修善寺駅から美緒に電話してきたとき、佐久田の真紀殺しの方法は解明できた、と言ったのである。
それなのに、三島まで帰ってきながら、また修善寺へ戻って行った――。
章子には、新しく気づいたことがあると言ったというが、いったい何に気づいたのだろう。真紀殺しの方法に疑義が出てきたのだろうか。謎が解けたと思ったのは、思い違いだったのだろうか。それとも、真紀殺しの問題とは違う事柄について、何か気づいたのだろうか。
美緒は、何となく後者だったような気がするが、それから先は見当がつかない。
修善寺へ引き返したというからには、修善寺に関係ある事柄にはちがいない。修善寺温泉のどこかへ行けば、あるいは修善寺近辺で誰かに会えば、それがより明確になるのだろうか。それとも、それが正しいかどうか、確かめられるのだろうか。
美緒は、八時四十分、九時、九時二十分と、三度自宅に電話した。
すると、三度目にして、ようやく壮の伝言が聞けた。
九時四、五分過ぎに修善寺駅から電話があり、これから三島へ出て、三島発九時五十七分の「こだま456号」で東京へ帰ると言った、というのである。
「こだま456号」の東京着は、十時五十七分。
まだ一時間半あったが、美緒は胸を撫でおろした。とにかく、これで、今夜中には帰ってくることがはっきりしたからだ。
安心すると、急に空腹を覚えた。
地下街へ行って、何か食べようかと思ったが、やめた。
〈あの宇宙人のことだから、夕飯を食べずに帰ってくるにちがいないわ〉
そう思い、我慢して、待つことにしたのである。
「こだま456号」は、定刻より三分遅れて、十一時に着いた。
壮が「442号」に乗るはずだったときに告げた号車の停車位置に美緒が待っていると、四、五人目に壮が降りてきた。
大学の研究室から急に行ったからだろう、いつもの鞄一つだ。
美緒を見つけ、驚いたような目をして足を止めた。
美緒がいるとは思っていなかったらしい。
顔に、いつになく濃い疲労の色が感じられた。
「遅くまでご苦労さま」
美緒は寄って行った。
「美緒さんこそ、待っていてくれたんですか……!」
「母にそう言っておいたでしょう」
「でも、こんなに遅くまでは……」
「私は、あなたが帰るまでなら何時までだって待っているわよ」
「すみません」
「それより、新しく気づいたって、どういうこと?」
「ええ……」
と、壮が曖昧に応《こた》え、美緒から視線を逸らした。眉のあたりに苦悩の色が漂っているように見えた。
「話したくなかったら、いいけど……」
「そういうわけではないんですが」
壮が美緒に視線を戻した。
その目の奥にも、暗い深刻げな表情が翳《かげ》になって浮かんでいた。
「真紀さんの殺害方法とは関係ないことだったのね」
「ええ」
「修善寺のどこへ行ってきたの?」
「市倉周三さんの家です」
「市倉さんのお家へ! 何をしに……?」
「もう一度、話を聞きに行ったんです」
「どうして?」
「市倉さんの描いた服部先生の肖像画に死相が出ていたことと、先生が殺された事件の間に、本当に何の関係もないのだろうか、と思ったからです」
「そ、そんなこと、ありうるの!」
「ありえなくはない、と気づいたんです」
「どんなふうに?」
美緒は言葉を押し出すと、息を詰めて壮を見つめた。
ホームに立っていることも忘れていた。
「市倉さんは、夜叉王の境地に憧《あこが》れていたという話でしたね」
美緒は「ええ」とうなずいた。
「としたら――」
と、壮がつづけた。「市倉さんは、服部先生の肖像画を完成させたとき、その顔にありもしない死相、浮かんでもいない死相を見てしまったという可能性があります。芸術家として、夜叉王の域に達することができたらと強く望んでいたために、面と共通する個人の肖像画を描いたとき、そんなふうに感じてしまったんです。憧れている人間との一体化の願望は、誰にでもありますから、それは不思議ではありません」
「でも、その場合、市倉さんの思い込みに符合するように……初めの二件は正確には符合とは言えないかもしれないけど……服部先生と一緒にその絵を持ち帰った相馬さんが自殺し、先生の娘さんの真紀さんが変死し、更に先生ご自身まで殺されるなんていう偶然があるかしら?」
「僕も、そこまでの偶然はありえない、と思います」
「だったら、死相は市倉さんの思い込みではなく、本当に服部先生の肖像画にあらわれていたもので、神が市倉さんの技芸を通して未来を見せたもの、ということにならない?」
「僕には、その神が……≠ニいうのは信じられないんです」
「偶然もない、神の力もないとしたら、どうなるの?」
「いえ、偶然はありました。市倉さんの思い込みの後、それに多少符合しているような出来事が二件起きた、ということです。これは、市倉さんにとっては大きな驚きでしたし、その話を聞いた僕らも、夜叉王の話と重ねて、不思議だなと思いました。ですが、符合といっても、それらはかなりゆるい意味での符合にすぎません。『修禅寺物語』を頭から追い出して考えてみると、この程度の符合、偶然はままあります。それほど不思議なことじゃないんです。しかし、服部先生の殺された件だけは別です。これは、前の二つとは次元が違います。先生の死は、市倉さんの思い込みとの寸分の狂いもない符合……まさに文字どおりの符合、だからです。それが偶然だったとは、ちょっと考えられません」
「それで、先生が殺されたのは、市倉さんの描かれた絵と関係がある、と?」
「そうです」
「どのように……」
「すみません、しばらく待ってください」
珍しく、壮が遮《さえぎ》った。
「…………」
「もう少しはっきりしたら、きちんと説明します」
「そう」
分かったわ、と美緒は引いた。
壮が説明を延ばした話だけでなく、いつになく彼が暗い顔をしていることも気になったが、仕方がない。
「それじゃ、そのお話はいいとして、真紀さんの殺害方法の謎は解けたのね」
美緒は話を移した。
「解けました」
壮がほっとしたように答えてから、「まだ証拠はありませんが、たぶん解けたと思います」と言い換えた。
「やはり物理的なトリックだったわけ?」
「そうです」
「それは、どんな……」
と、美緒は訊きかけ、「あ、ごめんなさい、こんなところで」
「いえ」
「食事、まだよね?」
「ええ」
「お腹、空いたでしょう?」
「そうでもありません」
「とにかく、先に何か食べよう? お話はそれからゆっくり聞くわ」
「美緒さんも、まだだったんですか!」
壮が意外そうな声を出した。
「私は、会社を出る前にお菓子をつまんだから、お腹空かなかったのよ」
美緒は言うと、身体を回し、「行こう」と壮の腕に自分の腕を絡ませた。
4
翌二十七日の朝、薬師寺を通して壮の推理――佐久田による真紀殺しの方法――が静岡県警の捜査本部に伝えられたとき、志村たちの気持ちは複雑だった。
いや、志村のような下っ端はいいが、滝田警部や、相馬圭一郎の尋問を中心になって進めた間宮は、内心、できれば薬師寺の話を蹴飛ばしたかったにちがいない。
圭一郎の尋問には志村もだいたい立ち会ったが、間宮は暴力は振るわなかった。多少脅すような言辞は吐いたが、容疑者を尋問するとき、それぐらいは大抵の刑事がしていることである。むしろ、気の弱い圭一郎のほうが途中から間宮に迎合し、進んで嘘の供述をしたのだった。とはいえ、そんな言い訳は通用しない。間宮が自分の描いた筋書を繰り返し口にし、圭一郎をそれに沿った供述に誘導したのは間違いないのだから。
その点を――婉曲な表現ながら――他県の警察から指摘され、滝田や間宮の面目は丸潰れになっていた。そこに更に、佐久田の犯行方法の謎が解けたと知らされたのである(薬師寺は電話で、先日の推理も今度の推理も実はあの黒江壮の考えたものだと明かしたようだが、仕掛け人が誰であれ、メンツを潰されたことには変わりがない)。
しかし、内心いかに面白くなくても、傾聴に価する内容なら聞かなければならない。もし無視して、それが誤った判断だったとなれば、それこそ取り返しがつかなくなる。
いや、滝田や間宮の気持ちを複雑にさせたのは、もしかしたら、そうした思いより、薬師寺の話そのものにあったのではないか、と志村は勘繰った。
薬師寺の知らせてきた壮の推理が雑なものだったら、滝田たちの気持ちはまだ楽だっただろう。だが、壮の推理は具体的で、もし話のとおりなら、佐久田のアリバイの壁は完全に崩れ、同時に密室≠ェ構築された謎も解明されていたからだ。
胸の内はともかく、滝田は薬師寺との話を終えるとすぐに決断を下した。
志村は、間宮とともに覆面パトカーに乗って東京へ行き、慶明大学・東洋研究センターに出勤していた佐久田を大仁南署へ任意同行した。
その間に、別の刑事たちが神奈川県警本部へ行き、佐久田をホームから突き落としたと桜木町駅に電話してきた男の声を録音したテープ(コピー)を借り、それを県警本部へ届けた。
佐久田の声と、電話の男の声の声紋鑑定は神奈川県警で行なわれ、同一人の可能性が高いという中間報告が出ていたのだが、佐久田を取り調べるときに彼の声を録音し、独自に鑑定するためである。
神奈川県警は当然ながら良い顔をしなかったようだが、それでも、テープは貸してくれた。
佐久田に対する取り調べは、午後一時から始まった。
捜査員の大半は、壮の推理の裏付け捜査をするために、月の湯館の「紅葉の家」へ行った後だ。
尋問は滝田自らが当たり、佐久田を任意同行してきた志村と間宮が立ち会った。
壮によれば、佐久田が真紀を殺した方法は電気ショックによるもの≠ナあったのは間違いないだろう、という。
初め、壮は、浴室の水道の蛇口に弱い電流を流しておき、心臓の弱い真紀が触れたらショック死するようにしておいたのではないか、と考えたらしい。が、その方法では、配線が表に出てしまうために無理だ、と判断した。
次に彼が考えたのは、浴室のドアのノブを利用する方法だった。外からノブを握ったときは電流は流れないが、浴室に入って、内側から施錠用のポッチを押せば、その瞬間スイッチが入って電流が流れるようにしておいたのではないか、というのである。
犯人の工作した跡(証拠)を消さないように、壮は、ノブを外して調べたわけではない。が、そうしたスイッチを工夫するのはさほど難しくないはずだし、アルミ製のドアはガラスが嵌《は》まっている部分を除いて中空になっているため、外から見えないように配線するのは簡単だ、という。
では、佐久田は、そのような工作をいつやったのか?
当然、十月一日より前、口実を設けて服部か真紀より一足先に宿へ来たときに行ない、ドアの中を通したコード(単線コードでよい)は、ドアの蝶番《ちようつがい》側一番上の目につきにくい場所に空いている画鋲《がびよう》の頭大の穴まで伸ばしておいた、と考えられる。そして一日の夕方、三人でレストランへ行った後、忘れ物でもしたようなふりをして戻り、そのコードの先端に別のコード(複線コードの片方)を結び、天井の隅を通してコンセントまで導いた。これで、真紀が入浴しようと思って浴室に入り、ノブのポッチを押せば、指に電流が流れるし、実際に流れたのではないか――。
ということは、一日の深夜、佐久田が宿へ帰ってきて、合鍵で玄関を開けて家の中へ入ったとき、浴室のドアも施錠されていたはずである。つまり、現場は二重の密室≠ノなっていたはずである。しかし、佐久田にとっては、そのままにしておくわけにはゆかない。配線の工作の跡を消すと同時に、ノブとポッチに警察の注意を向けさせないようにする必要がある(ノブを外して調べられたら、最近取り外された形跡があると気づかれるおそれがある)。そのためには、浴室のドアの錠は使用されなかったように見せかけるのがよい。そこで、彼は――コンセントを抜いて電気を切ってから――ネジをゆるめてノブを外し、中の工作の跡を消したのち再びそれをドアに取り付け、ポッチが押されていない状態にしておいたのであろう。
一般に、電気が身体に流れて死亡した死体には、目立った形態的な変化がないと言われている。端子に触れた皮膚の部分に電流斑という火傷の跡ができる程度である。その電流斑も、電流が比較的弱く作用時間が短い場合は出現しない。
佐久田は、電気のこの性質と真紀が心臓の持病がある事実を利用したのだと考えられる(それには、もちろん彼は真紀の病気について知っていたはずである)。つまり、佐久田は、健康な人の心臓を停止させるほどの強い電流を流さず、電流斑が生じない程度の弱い電流を使って真紀を死亡させたのである。浴槽から溢《あふ》れた湯で浴室のタイルは濡れていただろうし、ポッチも湯気で湿っていたと思われる。しかも、真紀は、ポッチに電気が流れるとは夢想だにしていない。とすれば、かなり弱い電気でも、相当強いショックを与えることができ、真紀の心臓を確実に止められる、と計算したのであろう。
すべての工作は、手袋をはめてやったのは言うまでもないし、使用したネジ回し、コード、テープなどは、玄関を出て合鍵で施錠したのち、裏山の木の根本にでも埋めて一時的に隠したのではないかと思われる(合鍵も同様に隠して、ほとぼりが冷めた頃、掘り出して処分したのではないか)。
それから、佐久田は、浴室内で変事が起きているようだが、鍵がないので家の中へ入れない≠サう言って、髪を振り乱し、息を切らせて、本館へ走ったのであろう。
真紀の入浴時刻は、食事後、何時間ぐらいしたら入るか聞いておけば、二時間程度の幅を持たせて絞るのは容易である。それが分かったから、佐久田は、確実なアリバイが作れたのだろうし、その時刻の前後に相馬圭一郎を月の湯館の近くまで行かせることができたのにちがいない。
――以上が、佐久田の真紀殺しの方法に関する壮の推理である。
が、まだそれを裏づける証拠はない。
今のところ、この推理が正しければ、真紀は風呂に入るとき、ドアの錠を掛ける習慣があったはずだ≠ニいう壮の想像が的中していただけである。
真紀の死んだ直後、夫の服部と一緒に修善寺へ駆けつけた母・悦子が、真紀は自宅で風呂に入るときも必ず錠を掛ける、と言っていた。そのとき、悦子の話を聞いても、志村たちは、浴室のノブのポッチが押されていなかった点に不審を覚えなかった。一日の夜、「紅葉の家」には真紀一人しかいなかったので、彼女は施錠しなかったのだろう、と単純に考えて。
が、今や、その話が重要な意味を持っていた可能性が生まれた。真紀には、無断でドアを開けられるおそれのない自宅にいるときでさえ、入浴時に施錠する習慣があった。それなら、〈家に人がいるいないにかかわらず、真紀は浴室に入ったら無意識のうちにポッチを押すのではないか、押すにちがいない〉佐久田がそう読んで、殺人計画を立てた可能性が生まれた。
といっても、これだけでは、まだ壮の推理の裏付けにはならない。
壮の推理が正しいかどうかを判断するには、「紅葉の家」の浴室のドアノブに、最近取り外して何らかの工作を加えた跡があるかどうか、を調べる必要があった。
その調査のために、また、もし工作の跡があれば佐久田がその工作をしたという証拠を見つけ出すために、滝田は、捜査員の大半を月の湯館へ遣ったのだった。
滝田の追及に対し、佐久田は容疑事実を全面的に否認した。滝田の説明した真紀殺しの方法を、根も葉もない想像にすぎないと言って鼻先で笑い、自分は真紀を愛していたのにどうして殺すだろうか、と反問した。
志村たちの手に、彼の犯行を証明するものがないのを知っているからにちがいない。
佐久田の態度は、「紅葉の家」の浴室ドアノブに、最近取り外されて内側の埃や汚れが拭われた形跡がある、と判明してからも変わらなかった。
それによって、志村たちは、壮の推理が正しかったとほぼ確信したものの、佐久田の工作の証拠にはなりえなかったからだ。
夜八時を過ぎても、佐久田は犯行を否認しつづけ、彼の真紀殺しを裏づけるような証拠は発見できなかった。
そのため、滝田は佐久田を解放せざるをえなくなり、志村、間宮ら四人の刑事が覆面パトカー二台に分乗し、彼を横浜の自宅まで送った。
5
志村たちは、佐久田が逃亡しないように一晩アパートの外で監視をつづけ、翌二十八日の朝、彼が出勤する前に再び大仁南署へ同行した。
佐久田は、前日の尋問の蒸し返しに、不貞腐れたような顔をしていたが、実は、一晩の間に条件が大きく変わっていた。
昨日の今日なので、静岡県警の科学捜査研究所からはまだ鑑定結果が届いていなかったものの、神奈川県警が、静岡県警に後れをとってはならじと急いだのか、
〈桜木町駅に電話してきた男の声紋は、九十パーセント以上の確率で佐久田の声紋と同一と考えられる〉
という鑑定結果を出していたのだ。
滝田は、しばらく昨日と同じ尋問を繰り返してから、突然その鑑定結果を佐久田に突き付けた。
と、佐久田の顔から血の気が引き、紙のように白くなった。
背骨に太い針金を突き通されたように全身が硬直するのが分かった。
まさか、駅員が電話の声を録音していたとは想像しなかったのだろう。
「佐久田さんは、この事実をどう説明しますか?」
滝田が攻めた。
「……知らない。そんなこと、僕の知ったことじゃない。偶然だ」
佐久田が掠《かす》れた声で答えた。
目には恐怖の色が浮かび、瞳が落ちつきなく揺れていた。
「あなただって、確率的に見て、そうした偶然がほとんど起こりえないのは知っているでしょう」
「そ、それなら、鑑定結果が間違っていたんだ。そうとしか考えられない」
「いいでしょう。あなたはあくまでもそう主張したらいい。ただ、問題は、裁判官がどう判断するかということだ。裁判官が、その電話の声をあなたの声だと判断したら、どうなるか……」
「関係ない。た、たとえ、それが僕の声だったとしても、何なんだ? 真紀さんの殺された事件とは何の関係もないじゃないか」
「いや、大いに関係ありますよ」
滝田が待っていたように応じた。
表情に、わずかだが、昨日は感じられなかった余裕が窺えた。
二つの声の声紋の一致は、佐久田の真紀殺しを直接裏づけるものではない。が、壮の推理の正しさを間接的に証明するものだった。佐久田の主張するように、彼が何者かによってホームから突き落とされたのなら、佐久田を突き落としたと称する男の声と、佐久田の声が一致するわけがない。それが一致したということは、ホームから落ちたのは佐久田自身の不注意からであり、誰かに突き落とされたというのは虚偽だった、と結論せざるをえない。
では、佐久田は、なぜそんな嘘をついたのか。
壮が考えたように、自分は真紀と同列の被害者なのだから、加害者ではありえない≠ニ思い込ませるためであろう。
滝田が、その論理で押した。
「そんなのは一方的な理屈ですね。たとえ……たとえ、桜木町駅に電話したのが僕だったとしても、そこから、どうして僕が真紀さんを殺したという結論が出てくるのか、僕には分からない。論理が飛躍しすぎている」
佐久田が反論した。
少し落ちつきを取り戻したようだった。
「桜木町駅に電話したのは、認めるわけですな」
「認めてなんかいない。たとえ、と言っているじゃないですか」
「じゃ、論理が飛躍しすぎているとは、どういう意味です?」
「言葉どおりの意味ですよ」
「具体的に説明してくれませんか」
「たとえ、僕があんたたちに疑われるのが嫌で、それを回避するために自分も狙われたように思わせようとしたのだとしても、僕が真紀さんを殺したという結論は出てこない、ということです。もし、そこからそうした結論が出てくるなら、僕は、服部先生も殺していなければならないじゃないですか。しかし、刑事さんたちも、僕には先生を殺す動機がなかった点だけは分かってくださっているんじゃないんですか」
服部殺しに関して佐久田を疑っていないことは、昨日の尋問で滝田が臭わせていた。
滝田は難しい顔をして唇を結び、応えなかった。
佐久田の理屈は、一応もっともだったからかもしれない。
「もし真紀さんが殺されたのなら、真紀さんを殺した犯人と先生を殺した犯人が別人だなんて、ありえないんじゃないですか? 同じ犯人に決まっていますよ」
佐久田が調子に乗った。
「どうして、そう言えるんです?」
滝田がぶすっとした調子で言った。
「そんなの決まっているじゃないですか」
「どうして決まっているんですか?」
「どうしてって……同じ一人の犯人が僕を殺そうとし、何らかのかたちで真紀さんを死に至らしめ、最後に先生を殺した――そう考えるのが一番自然じゃないですか」
「じゃ、話を戻しますが、その場合、桜木町駅に電話してきた男の声があなたの声と一致していた事実は、どうなるんですか?」
佐久田の目が揺れた。
「明らかにあなたの説と矛盾していますが、どう説明するんですか?」
「だから、そんなのは偶然の……」
「あんたがあくまでも偶然だと言うんなら、警察とは関係ない複数の専門家に鑑定してもらいましょう。そして、そうした偶然がどれぐらいの確率で起こりうるか、報告してもらいましょう」
「…………」
「いいですね。そのときになって、前言をひるがえしても、遅いですよ」
「……分かりました」
と、佐久田が態度を決めたらしい緊張した顔をして言った。「認めます。あの電話は僕です。僕がかけたんです。真紀さんだけでなく、先生まで殺され、もしかしたら警察に疑われるのではないかと思い、怖かったんです。それで、僕も狙われたように見せれば疑われずに済む、と思ったんです。ですから、あの電話は事件とは関係ありません」
「ほう……」
滝田の目に笑みがにじんだ。
彼の仕掛けた網に、佐久田が引っ掛かったからだろう。
「なるほど」
と、滝田がゆっくりとうなずいた。
佐久田の目の中を不安そうな翳がよぎった。
と思うと、ハッとしたように目の動きが止まった。
顔は一瞬にして蒼白《そうはく》に変わっていた。
気がついたらしい。
「どうやら、いまの話の矛盾に気づいたようですな」
滝田が、部屋の隅にネズミを追いつめた猫のような目を相手に当てて、言った。満足しきったような、意地の悪そうな……。
佐久田は無言。
「あんたは、ホームから落ちた翌日、病院へ黒江壮氏を呼び、警察に知らせるべきか否かを相談するようなふりをして、何者かに突き落とされた、と言っておるんですよ。つまり、あんたが自分は殺されそうになった≠ニ言い出したのは、まだ真紀さんの殺される前だったんです。これは、あんたは、真紀さんが殺される前から、真紀さんが殺されたら自分が疑われるかもしれないと思い、準備していた――ということになる。真紀さんには、殺されるような気配はまったくなかったにもかかわらず、です」
佐久田の額には脂汗が滲《にじ》み出していた。
「この結論は明らかでしょう」
滝田がつづけた。「そうした準備をできたのは、真紀さんを殺そうと計画していた人間以外にはいない、ということです」
「何と言おうと、僕は真紀さんを殺してなどいない。だいたい、それなら、僕は、先生の事件の起きる前……真紀さんの亡くなった直後に桜木町駅に電話しているはずじゃないか」
佐久田がようやく口を開いた。
「電話しようとしたかもしれないが、様子を見ていたと考えれば、別におかしくない。二つの殺人事件の隔たりは二週間しかないし、まさかつづいて服部教授が殺されるとは予想しなかっただろうからな。
いや、あんたは、警察とコンタクトのある黒江氏の口から自然に刑事の耳に入るのを待っていたのかもしれん。そのために、黒江氏に嘘を吹き込んでおいたんだろうから。
ところが、黒江氏が警察に話す前に、服部教授が殺された。あんたは、さぞかし狼狽《ろうばい》しただろう。そこで、これは一刻も早く警察の疑いの目を自分から逸らしておかなければ危険だと考え、慌てて駅に電話した――。
これが真相だよ」
「…………」
「もう逃れられん。観念して、正直に話すんだな」
「僕じゃない。先生を殺した犯人が、真紀さんも殺したんだ」
佐久田は言ったが、その言葉からはもう強い否認の意志は感じられなかった。
志村は、もう一息で落ちると感じた。
しかし、佐久田はしぶとかった。
三十分間だけ昼食時間を取って、すぐに取り調べが再開されたが、夕方になっても、彼は真紀を殺した事実を認めなかった。
結局、彼が落ちたのは六時を回ってからであった。
志村たちはすぐに佐久田に対する逮捕状を取り、その晩のうちにそれを執行した。
6
佐久田が真紀殺しの犯行を自供したと聞いた翌日、二十九日(土曜日)、美緒は壮と一緒に、東京駅を午前十時に出るL特急「わかしお7号」に乗った。
列車は京葉線経由のため、千葉駅を通らずに京葉線の発着駅・蘇我《そが》まで行き、そのまま外房線に入った。
東京から五十分。美緒たちは、今や東京への通勤圏になっているらしい大網《おおあみ》という駅で降りた。
天気は下り坂に向かっているらしい。空は朝より暗くなり、いまにも雨が落ちてきそうな気配だった。
美緒は、あと三時間ぐらいは天気が持ってほしいと願いながら、壮と一緒にタクシーに乗り込み、「九十九里センター」という行き先を告げた。
ガイドブックによると、九十九里センターは全国一の規模を誇る国民宿舎だという。
が、美緒がその名を口にすると、運転手が振り向き、「センターは今はないですけど、いいんですか?」と訊き返した。
「ない……?」
「去年、取り壊されて、新しい建物を造っているところなんです」
それなら、構わない。美緒たちは泊まるわけではなく、九十九里センターは目標物にすぎないのだから。
美緒は、では建造中のセンターの前までお願いします、と言いなおした。
タクシーは、ほとんど真っ直ぐ東へ向かって走り、海岸線に平行した県道に出ると左に折れ、二、三キロ北へ向かった。
緑色の鉄板塀で囲まれた九十九里センターの工事現場は、その県道の右側だった。
大網駅から約二十分。県道に面して、バスの折り返し用の広場が造られていたので、美緒たちはそこでタクシーを降りた。
タクシーの運転手によると、海は目と鼻の先だという。鉄板塀に沿って東へ少し入った正面が、「波のり道路」と呼ばれている九十九里有料道路。その土手の下をくぐった向こう側が九十九里浜らしい。
「まだ四十分以上あるわね」
タクシーを降りると、美緒は時計を見て、言った。
ここ九十九里センター前で、十二時に薬師寺たちと待ち合わせているのである。
ええ、と壮がうなずいた。
「どうする? 海へ出てみる、それとも、高村光太郎詩碑がこの近くに立っているとガイドには書いてあるけど、そっちへ行ってみる?」
「どちらでも……」
「じゃ、両方、行ってみよう? それぐらいの時間はありそうだから」
美緒は決めた。
旅行に来たのなら、ここで壮の腕を取って抱えるところだが、今日はそうした浮き浮きした気分にはなれない。
先に海を見ようと言って、美緒は壮を促して広場を出た。タクシーの運転手に教えられたとおり、鉄板塀に沿った道に立つと、前方に枯草に覆われた土手が見えた。
二百メートルほど歩いて、コンクリートのガードの下をくぐった。
反対側は低い砂丘。
その砂丘に登ると、眼前に砂浜と海が広がっていた。
かつて、智恵子が千鳥たちと遊んだ砂浜らしい。
美緒たちは砂丘を下り、波打ち際へ向かって砂を踏みしめて歩いた。
砂浜は長く左右に延びているが、前方には灰色がかった海と、どんよりとした空しかない。海は太平洋なので、波が高かった。
左手、七、八百メートル離れた場所には海の家らしい建物が建ち、車が何台も駐まっていた。はっきりとは見えないが、人もかなり出ているようだ。タクシーの運転手の話では、この季節でも、週末になるとサーファーたちが押しかけるらしい。だが、美緒たちの近くには、人の姿は数えるほどしかなかった。波と追いかけっこをしている若いカップルや、貝を拾っているらしい親子連れなど、十四、五人か。土曜日とはいえ、この空模様では砂浜へ遊びに来る気にはなれないのかもしれない。
ところで、美緒は、今日の行動について、ここへ来る列車の中で初めて詳しい説明を受けた。
昨夜、突然、明日九十九里へ行かないか≠ニ壮に電話で言われ、その目的を簡単に聞いただけだったのだ。
今日の午後、ここから十キロほど北へ行った砂浜に、服部啓吾を殺した犯人が姿を見せるかもしれないのである。百パーセント現われるとはかぎらないが、壮の読みでは、七、八十パーセントの確率で来るだろう、という。その近くに住んでいるかつての恋人に会うために――。
美緒は、壮からその話を聞いてから、高村光太郎の詩集『智恵子抄』に載っている一篇、「千鳥と遊ぶ智恵子」が頭から離れなかった。薬師寺たちと落ち合う場所――恋人の家の付近では犯人と顔を合わすおそれがあったので、九十九里センターにしたらしい――が、その詩の刻まれた光太郎詩碑の近くだと聞いたせいもあるが、それだけではない。正気の世界から離脱してしまった男の恋人は智恵子であり、その恋人と会うために時々通ってくる男・犯人は、まさに光太郎だったのだ。光太郎と智恵子にオーバーラップした二人の姿を想像すると、美緒は何度も胸がつまり、涙がこみ上げてきた。
今、美緒たちは、光太郎の詩の舞台に立っていた。六十年も前の光太郎・智恵子の時代とは、周りの景色は比ぶべくもないだろうが、海は同じである。空と波は同じである。寄せては引いてゆく波に洗われたこの綺麗な砂浜が、千鳥たちの小さな足跡の刻まれた場所であった。「千鳥と遊ぶ智恵子」は、智恵子がこの砂浜で無心に千鳥たちと遊んでいる姿を写した詩であった。
〈ちい、ちい、ちい、ちい……。砂に無数の小さな足跡をつけた千鳥たちが、そう智恵子を呼ぶと、智恵子も、ちい、ちい、ちい……と呼び返す。「人間商売をさらりとやめて、天然の向こうへ行ってしまった」智恵子。その智恵子が千鳥たちと遊んでいる後ろ姿を、防風林の中に立った光太郎は、松の花粉を浴びながらいつまでも見つづける。〉
正確な言葉、表現は忘れたが、確かこんな詩だった。
光太郎は、この後で智恵子のそばに寄って行き、一緒に智恵子の療養していた家へ向かったと思われる。
だが、服部を殺した犯人は、恋人の家へ行くことはないらしい。時々、恋人の住んでいる海辺の町へやって来ては、近くの砂浜で遊ぶ恋人を眺め、帰って行くらしい。
三日前、壮は、佐久田による真紀殺しの方法を解明して修善寺から帰る途中、市倉周三の描いた服部の肖像画と服部の殺された事件は関係しているのではないか、と思い当たった。そこで、三島から修善寺へ引き返し、周三を訪ねた。
周三の話を聞き、壮は、自分の想像が当たっているにちがいないという確信を強めた。
といっても、そのときの壮には、犯人が誰かということと動機の一部しか分からなかった。その犯人に服部殺害に踏み切らせるには、更に強い動機があったはずだと考えたものの、それがいかなるものだったのかは想像がつかなかった。
そのため、彼は、東京駅に待っていた美緒に、詳しい説明はもうしばらく待ってくれと言ったらしい。
翌朝、壮は薬師寺に電話をかけた。佐久田の真紀殺しの方法を説明するとともに、服部殺しの容疑者として一人の男の名を告げ、その男の動機を突き止めてほしい、と伝えた。
薬師寺は、静岡県警に、壮の解明した真紀殺しの方法を知らせ、佐久田の取り調べを要請。一方、自分たちは、一昨日、昨日と、服部を殺したと考えられる男の動機の調査を進めた。
その結果、服部のために正気の世界から離脱してしまったと思われる一人の女性と、壮が名を告げた男との関係≠つかんだのである。
ところが、昨日、薬師寺たちが任意出頭を求めようとその男の勤め先を訪ねると、男は無断欠勤していた。
自宅マンションにも不在で、昼過ぎに修善寺の市倉周三を訪ねた事実は分かったものの、夜になっても帰らなかった。
薬師寺たちは逃亡したのではないかとおそれたが、彼から電話で報告を受けた壮の見方は違った。壮は、男はたぶん逃げないだろう≠ニ薬師寺に言った。そうした恋人がいたのなら、男が身を隠したのは、捕まる前に恋人に別れを告げようとしているのではないか。恋人と別れを告げたら、警察に出頭するつもりでいるのではないか――。
男の出頭に関しては、薬師寺は危惧の念を示したが、逃げるにしても出頭するにしても、その前に男が恋人に会いに行くだろう≠ニいう見方では壮と一致した。
薬師寺はさっそく上司の松沢と相談し、男のマンションには見張りだけを残して、九十九里浜へ移動することを決めた。
こうして、彼らは、昨夜のうちに男の恋人の家の監視を開始したのだった。
高村光太郎詩碑は、九十九里有料道路の反対側に戻ったすぐ右手にあった。
何もない、空地のような公園の一画である。
同じ公園の端に造られたゲートボール場脇で枯草を燃やしていた老人がいたからよかったものの、彼に尋ねなかったら、見当外れの場所を探し回るところだった。
詩碑は、古墳そっくりの小さな丘の上に立っていた。大きな猪がうずくまっているような形をした石の表側に、「千鳥と遊ぶ智恵子」の詩が刻まれ、裏にこの地と光太郎・智恵子の関わりが記されている。
詩碑の立てられた丘の上からは、有料道路越しに辛うじて海が見えた。
美緒たちは、小さく声に出して詩を読んでから丘を下り、さっきタクシーを降りたバスの折り返し点へ戻った。
約束の十二時までまだ五、六分あったが、薬師寺と森が、覆面パトカー・白のローレルを停めて、待っていた。
美緒たちが近寄って行くと、二人は車から降り、
「遠くまで来てくださって、ありがとうございます」
と、頭を下げて迎えた。
「いえ、僕らのほうが、無理に来させていただいたんですから」
壮が恐縮したように言った。
「来てみたら、国民宿舎がないのでびっくりしましたが……」
薬師寺が、ちょっとあたりに目をやって笑った。
ええ、と美緒はうなずいて応じた。
「で、いかがですか?」
壮が訊いた。
「今のところ、別段変わった様子はありません。肥沼千香は家の中にいるようですし」
薬師寺が表情を引き締めた。
肥沼千香というのは、犯人の恋人の名である。年齢は三十歳。慶明大学文学部中退。佐久田の同期生で、在学中は美人の誉れが高く、壮も顔だけは知っているという。
「肥沼さんが近くの砂浜に散歩に出るのは、だいたい午後一時から二時頃だという話でしたね」
「そうです。ですから、犯人はすでに肥沼家の近くまで来ているかもしれません」
ここ九十九里町の隣り、成東《なるとう》町は肥沼千香の郷里である。九十九里の砂浜は、子供の頃、彼女がいつも遊んだ自分の家の庭のようなものだったらしい。「人間商売をやめた」彼女は、その庭≠ノ、たいてい一日に一回は散歩に出るのだという。両親に外出を禁じられている夏の間を除き、よほど空や海が荒れていないかぎりは。そして、一人で一時間ほど波と戯れ、波の洗った砂の上に文字のような、あるいは絵のようなものを描いて帰るのだという。
薬師寺が、少し早いですが肥沼家の近くまで行っていましょうと言い、車のドアを開けて美緒と壮に乗るように促した。
美緒たちが後部シートに腰を落ちつけるのを待って、薬師寺が助手席に乗り、運転席に乗り込んだ森がエンジンを掛けた。
ローレルは、海岸線に平行した県道へ出ると、北へ向かった。
十四、五分して右に折れ、雑木林や空地の間の道を二百メートルほど入ると、十字路があった。
肥沼千香の家はその十字路から左へ行ったところだというが、ローレルは曲がらずに、雑木林と松林の間を更に百五十メートルほど真っ直ぐに進み、波打ち際に向かってゆるやかに下っている砂丘の端に出た。
右手四、五百メートルのところには建物が建っていたが、左手には何もない。
ローレルは松林に沿った砂丘の縁《へり》を二百メートルほど左へ走り、停まった。
そこから波打ち際まで、百四、五十メートル。砂浜には、二十人ぐらいの人が散っていた。その中に刑事が三人いるというが、どれがそうなのかは分からない。
砂丘の縁に、乗用車やワゴン車、ランドクルーザーなどが適当に駐められているため、ローレルがここにしばらく停まっていても、犯人に怪しまれるおそれはなさそうだ。
ただ、美緒と壮は犯人に顔を知られているので、注意する必要があった。車から降りられないだけでなく、できるだけシートに身体を沈めていなければならない。
犯人が二人のどちらかに気づけば、近くに刑事も来ていると考えるだろう。その場合、千香が砂浜へ出て来る前に逃げ出してしまうおそれがあった。
時刻は、十二時十七、八分。
あと三十分ぐらいは肥沼千香が浜辺に姿を見せる可能性は薄かった。となれば、怪しまれるおそれは少ないといっても、人の乗った車が長く一ヵ所に停まっていないほうがよい。
薬師寺は、首を回して、半ば相談するように壮と美緒にそう言うと、しばらく近くを周ってくるようにと森に言いつけた。
7
美緒たちの乗ったローレルは、十二時四十五分に海辺へ戻った。砂丘の縁を前にいた場所より三十メートルほど進んだところに、海のほうへ頭を向けて停止した。
まだ、前方に散っている刑事から、肥沼千香が砂浜へ来たという知らせはない。
空が一段と暗くなり、灰色の波もさっきよりうねりが高くなったように感じられた。
そのせいか、人の姿も減ったようだ。
少々の雨なら、千香は浜辺へ出て来るというが、美緒は心配になってきた。
千香が来なければ、犯人も姿を見せないだろうし、人があまり少なくなれば、砂浜に散っている男たちが刑事だと犯人に見破られるおそれがあるからだ。
殺人を犯したといっても、犯人はけっして凶悪な人間ではない。悲しいほど共感できる人間だった。むしろ、被害者の服部のほうが許せない、と美緒は思う。たとえ死者でも、激しい怒りを感じる。
とはいえ、殺人は殺人だった。たとえ動機に理があろうとも、許されない。いかに多くの人が同情しようと、刑事的な訴追を免れるわけにはゆかない。
それなら……と美緒は思うのだ。逃げ回らないでほしい、できるかぎり早く警察に出頭してほしい。
「来るかしら?」
美緒は、壮に囁《ささや》きかけた。
「肥沼さんですか?」
壮が訊き返した。
「肥沼さんもだけど……」
美緒は犯人の名を言った。
「僕は、来ると考えています。他に、彼が行方をくらましている理由はないと思いますから。もし今日現われなければ、明日……明日来なければ、明後日は来るでしょう」
壮がいつになく、はっきりと答えた。
二人の会話に耳を傾けていたらしい薬師寺が、斜め後ろに向けていた顔を黙って前に戻した。
その後、誰も口を開かないまま、時刻は午後一時になり、更に五分、十分と過ぎていった。
美緒は、息苦しさに耐えられなくなり、窓を細く開けた。
それだけで、波の音が急に近くなったように感じられた。
ダッシュボードに嵌め込まれたデジタル時計の数字が、一時十五分、二十分、二十五分……と変わってゆく。
一時二十七分。
ローレルの左手四十メートルほどのところに、一人の女性が姿を現わした。松林の陰の少し低くなった細い道から、砂浜へ登ってきたのだった。
美緒がハッと息を呑むのと同時に、薬師寺が「来た……」と低い声を漏らした。
女性はオレンジ色のワンピースを着て、後ろで束ねた長い髪を背中に垂らしていた。下は、素足にビーチサンダルか。
身長は百六十センチ前後。わずかに背を丸めた、手足の長いほっそりとした容姿は、まるで法隆寺の百済《くだら》観音のようだ。
「見覚えある?」
美緒は、彼女のほうに身体を傾けて左の窓の外を見ている壮に訊いた。
「顔はよく見えませんが、体付きから見て、たぶんそうだと思います」
壮が緊張した顔付きで答えた。
「写真で確認してありますので、肥沼千香に間違いありません」
前から薬師寺が言った。
美緒たちがそうした会話を交わしている間にも、千香は砂丘を下り、波打ち際へ向かって歩いて行く。両腕を蝶の羽のようにゆるやかに上下に動かし、舞うように軽々と身体を運んで行く。まるで、波に「おいで、おいで」と呼ばれ、喜んでそこに向かっているかのようだ。
美緒はひとりでに涙が溢れてきた。
悲しいというより、感動していた。
暗い空の下を、灰色の波に向かって舞う千香の姿は、無垢な童女そのものだった。智恵子が、人間商売さらりとやめて、天然の向こうへ行ってしまったように、千香も美緒たちのいる世界とは別の世界で舞っていた。智恵子が見えないものを見、聞こえないものを聞いたように、千香も美緒たちにはけっして見ることのできないものを見、聞くことのできない声や音を聞いているにちがいなかった。智恵子が行けないところへ行き、出来ないことをしたように、千香も美緒たちの行けないところへ行き、出来ないことをしているにちがいなかった。
薬師寺のトランシーバーが鳴り、美緒は現実に引き戻された。
刑事の一人から、千香が来たが、犯人が現われたらどうしたらいいか、と訊いてきたのだった。
薬師寺が、気づかれないように背後に回るように、と指示した。
その通話が終わるのを待って、
「先に僕たちに接触させてくれませんか」
と、壮が言った。
「……?」
薬師寺が顔を振り向け、理由を問うように壮を見た。
「進んで出頭した、というようにしたいんです。刑法の規定の自首には当たらないかもしれませんが」
そうして、少しでも刑を軽くできないかと壮は考えているにちがいない。
「ここまで来られたのは、すべて黒江さんのおかげですから、それは構わないのですが、ただ万一のことが……」
薬師寺が渋った。
「前にも言ったように、逃亡のおそれは絶対にないと思います」
「いえ、その点は、私たちが気をつけていれば阻止できると思いますが、もし黒江さんか笹谷さんに危険があっては、と」
「その気遣いも必要ありません。彼には、無関係な者を傷つけようなどといった意思は毛頭ないと思いますから」
ええ、と美緒も、壮の言葉を支持するように横で大きくうなずいた。
それを見て、薬師寺が、
「そうですか、分かりました。お二人がそう言われるのでしたら……」
と、壮の申し出を了承した。
彼は前を向き、トランシーバーを取った。犯人が現われ、壮と美緒が犯人に近づいて行っても何もするな、と部下に命じた。
了解しました、と部下の応える声が聞こえた。
千香はすでに波打ち際に着いていた。いつの間にか、一メートルぐらいある細い棒を拾い、それで何やら砂に描き始めていた。身体を踊らせるようにして。
「犯人はすでに、どこかから、あの姿を見ているんでしょうかね」
無口な森が言った。
その声には、犯人逮捕の時を狙っている刑事の緊張感よりは、どこか哀しげな響きが感じられた。
「たぶん……」
と応えた薬師寺の声も沈んでいた。
フロントガラスにぽつり、またぽつりと雨滴が当たり始めた。
遂に降り出したのだった。
美緒は、千香が帰ってしまわなければいいが……と思ったが、今のところその心配はなさそうだった。
千香は雨が降ってきたのに気づいていないのか、気づいてもそんなことはどうでもいいのか、オレンジ色のワンピースの裾をひるがえして、無心に何かを描きつづけていた。
美緒の視界の端で黒いものが動いた。
千香がさっき出てきた場所から更に五十メートルほど離れた松林の中から、ダークグレーのスーツを着た一人の男が姿を見せたのだった。
「来たようですね」
薬師寺が、頭を動かさずに緊張した声で言った。
「ええ」
と、壮がうなずいた。
男――市倉正典は、窺うようにちょっと左右を見やり、砂丘の端に立った。
砂丘を下り、千香のいる波打ち際へ向かってゆっくりと歩き出した。
正典の足は少しずつ速くなってゆく。真っ直ぐ千香へ向かって行く。目にはもう千香の姿しか映っていないようだ。あたりに注意を向けることもない。
フロントガラスに当たる雨滴の数が次第に多くなった。
が、正典も千香も気にかける様子はない。
正典は、千香の十メートルほど手前まで行って、立ち止まった。千香を驚かせないようにという配慮かもしれない。
千香が動きを止めた。
正典のほうに身体を向けた。
正典を見る。
表情は分からないが、じっと正典の顔を見つめているようだ。
しかし、それは、時間にすればほんの三、四秒間にすぎなかった。
千香は正典に背を向けた。
何事もなかったように、砂の上で身体と棒を動かし始めた。
一方の正典は動かない。
千香の作業を見守りつづけている。
フロントガラスを流れ落ちる雨滴に、前方の景色がにじみ始めた。
薬師寺が身体を回し、壮を見た。
催促というより、どうしますかと壮の意向を尋ねている目だった。
「行きましょう」
と、壮が美緒を誘った。
美緒は、ええとうなずいた。
緊張はしていたが、怖いという気持ちはまったくなかった。
美緒たちは同時に左右のドアを開け、車から降りた。
まだ本降りではないが、黒い雨雲が空を覆っている。
壮が車の前を回ってくるのを待って、表面が黒く変わり始めた砂を踏んで歩き出した。
砂浜の中ほどを過ぎたとき、正典が首を右に回し、美緒たちを見た。
その顔に、一瞬驚いたような表情が浮かんだかに見えたが、それだけだった。
彼は、立っている場所から一歩も動こうとはしなかった。何事もなかったかのように、恋人のほうへ顔と目を戻した。
美緒たちも何も言わなかった。
これまでと同じように、正典に向かって真っ直ぐ歩いて行った。
海が眼前に迫ってきた。雨とともに風も出てきたのか、波のうねりが一段と高くなったようだ。巨大な野獣の咆哮《ほうこう》のような音が耳を打ち始めた。
都会育ちの美緒は、こうした自然を前にすると思わず足が竦《すく》みそうになる。
だが、前方の千香は違うようだ。この地で生まれ育った彼女にとっては、波たちは楽しい遊び相手であり、その音は子守歌だったのかもしれない。雨も風も波の音も、彼女の遊びを邪魔している様子はなかった。
美緒たちは、正典の三、四メートル手前まで行って、足を止めた。
正典が、今度はゆっくりと身体を回し、美緒たちを見た。
彼は、いっとき美緒たちを見つめていてから、
「もしかしたら来られるんじゃないか、と思っていました。なにしろ、あなたは僕の優秀な後輩ですからね」
と、言った。
目には、かすかな笑みがあった。
哀しく、寂しげな……。
その彼の笑みの向こうで、千香が、消しゴムを使う必要のない砂のキャンバスに、尽きることのない絵具で、純粋な童女の心を持った者にしか解らない絵を描きつづけていた。
オレンジ色の羽を、華麗に舞わせながら。
エピローグ
美緒と壮は、市倉周三の家を出ると、畑の中の小道を自動車通りまで下った。
修善寺温泉の中心、修禅寺やバスターミナルのあるほうへ向かって歩いて行った。
十一月二十三日、勤労感謝の日の午後二時過ぎである。
からりとした良い天気で、歩いているとブルゾンを着た身体は汗ばむぐらいだ。
美緒は、ほっとしていた。ずっと肩に載っていた大きな重荷をおろしたように、身体が軽くなったような気分だ。
それは、壮も同じにちがいない。
周三の家の庭を出たとき、美緒が「よかったわね」と話しかけたのに対し、彼は「ええ」とうなずいただけだが、表情が来たときより明るくなっていた。
市倉正典が殺人容疑者として逮捕されたショックで寝込んでしまったと聞いていた周三が、再び絵筆を握る気力を取り戻したようだったからだ。
美緒たちが今日、前に来たときに御馳走になったケーキを持って周三を訪ねると、彼は喜んで二人を迎え、
――私のことを考えて殺人まで犯した正典のためにも、私は元気を出して絵を描かなければならない、と思ったんです。
と、言った。
正典が服部啓吾を殺した最大の動機は、服部が恋人の肥沼千香から正気を奪ってしまったことにあったのは間違いない。が、彼が殺人に踏み切ったのには、父親のため≠ニいうもう一つの動機も存在した。周三はそのことを言ったのだった。
九十九里の浜辺で、正典が薬師寺たちの前に「服部を殺した」と名乗り出て逮捕されてから、一ヵ月近くが経《た》っていた。
この間に、服部真紀を殺した容疑で正典より先に逮捕されていた佐久田が起訴され、つづいて正典も起訴された。
そして、来月、静岡地方裁判所と横浜地方裁判所において、佐久田、正典それぞれを裁くための裁判(第一回公判)が前後して開かれる予定になっていた。
裁判が終了しなければ、事件が完全に終わったとは言えない。とはいえ、今度の事件の場合、佐久田も正典も犯行を自供している。二人とも、公判が始まってからそれをひるがえす可能性は薄い。そのため、事件の全貌はほとんど明らかになっている。
美緒たちが薬師寺から聞いたところによると、その「連続殺人事件」の構図は、次のようなものであった。
連続殺人事件といっても、一人の犯人がつづけて起こした事件ではない。その意味では、一部のマスコミが使ったリレー殺人≠るいはドミノ殺人≠ニいった呼び方のほうが適切かもしれない。
今度の場合、事件は三つあった。
一つは、正確に言うと事件ではなく、佐久田が危うく死にかけたという出来事(A)である。
自分が売った相馬聡子の自殺、聡子の弟・圭一郎の服部啓吾襲撃、出世のために婚約した真紀に対する嫌気と憎しみの増進――これらの事情が重なって悩んでいた佐久田は、考えごとをしていて、桜木町駅のホームから足を踏み外したのだという。
あとの二つは、真紀殺し(B)と、服部殺し(C)だ。
これらが、AからBへ、BからCへリレーのバトンがタッチされるようにして起きたのが――あるいはAからBへ、BからCへ殺意が将棋倒しの駒のように伝播して起きたのが――今度の事件だ、というのだ。
佐久田は、偶然、Aという出来事に遭遇したために、それを誰かに狙われたように見せかけて真紀を殺そうと考え、Bの事件を起こした。市倉正典は、Bの事件を知って、今なら服部を殺しても警察はBの事件と同一犯人によるものと見るだろうと考え、二つの動機からCの事件を起こした。だから、Aの出来事がなかったらBは起きなかっただろうし、Bの事件がなかったらCは起きなかっただろう、というのである。
このうち、佐久田の関係したAとBについては、ほとんど、壮が推理し、薬師寺や間宮たちが突き止めたとおりだった。
佐久田は、相馬聡子を捨ててまで真紀と婚約したものの、真紀の自分勝手で我儘《わがまま》な性格、行状に我慢できなくなっていた。とはいっても、服部にしがみ付いて出世するためには、自分のほうから婚約を解消することはできない。それで困っていたとき、ホームから転落して死にそうになり、その事故の利用を思い付いた。相談を装って、「事故ではなく、実は突き落とされたのだ」と壮に言っておけば、真紀を殺した後で壮の口から警察に伝わり、より真実みが増すだろう、と考えたのである。
万一の場合、短刀で服部を刺そうとした相馬圭一郎に疑いが掛かるように(浴室の窓の外に立った彼の影を見て、真紀がショック死したと警察が判断するように)――と考え、犯行時に圭一郎が修善寺温泉へ行っているように仕向けたのも、壮の考えたとおりである。圭一郎の初めの供述どおり、佐久田は圭一郎に電話をかけ、十月一日の晩服部が月の湯館の離れ家に一人で泊まり、十時頃散歩に出る、と言ったのだ。
犯行の当日は、夕方、服部たちと一緒にいた「紅葉の家」を短時間、抜け出した。大貫と名乗って(もちろん声を作って)服部の妻に電話をかけ、服部を修善寺から自宅へ呼び戻す工作をした。その後、服部を横浜まで車で送るからといってアリバイを確保した。
真紀には心臓の持病があり、興奮したり強いショックを受けたりすると危険だと医師に言われているのを知っていた。また、満腹時や空腹時に入浴するのもよくないと言われていたため、七時過ぎに夕食を終えて、自分と服部が七時半に月の湯館を出れば、真紀が入浴するのは早くても九時半過ぎ――たぶん十時か十一時頃だろう――と予測できた。そこで、十時頃圭一郎が月の湯館の周辺をうろつくように仕向け、自分は十二時近くまで「紅葉の家」へ戻らないように(戻れないように)しておいたのである。
犯行に電気を利用し、浴室のドアノブに工作を施して、真紀がポッチを押すとスイッチが入って電気が流れるようにしておいた、というのもほぼ壮の考えたとおりだった。
法医学の本を読みあさり、あまり強くない電流が短時間、身体の中を流れても痕跡《こんせき》が残らず、死因を特定するのは不可能である、と知ったのだ。と同時に、真紀から、自分は入浴時にはどこにいても必ずドアを施錠する、鍵を掛けないでは落ちついて入っていられない≠ニ聞いていたので、彼女は必ずポッチを押すだろう、と読んだのである(ただし、ポッチを押したとき、電流はポッチだけでなく、ノブを含むドアのアルミ部分全体に流れるようにした。これだと、ポッチの動きを利用して、被膜を剥いだコードの先端がアルミ部分に触れるようにしておけば済み、工作が簡単だったからである)。
人間は無意識のうちに習慣どおりにするものだが、もし真紀がポッチを押さずに、計画が不発に終われば、気づかれないように工作の跡を消しておけばよい、と考えた。
次は、市倉正典が犯人である服部殺し(C)に関してである。
Cの駒を倒した直接の力は、Bの駒が後ろから押したことだが、それまでにCの駒は倒れ易いように並べられていた。
その並び方を決めた一つが、市倉周三の描いた服部の肖像画だった。
肖像画の服部の顔には、死相があらわれていた。少なくとも、『修禅寺物語』の夜叉王を芸術家の理想像と見る周三の目には、そう映った。
だが、肖像画を服部に渡した後で起きたのは、服部と一緒に絵を取りに来た秘書の聡子が自殺し、服部の娘・真紀が変死する、というねじれた符合≠セった。
それも、聡子の自殺だけで終われば、周三は己れの夜叉王への思い入れを軽く自嘲《じちよう》して忘れられただろう。が、それから約一ヵ月後、修善寺で真紀まで変死した。ねじれた符合が一度ならず、二度までも起きた。
真紀の死の翌日、周三はテレビのニュースを見て、正典に電話した。そのときは、ただ驚き、気味が悪いと思って。
ところが、落ちつくにしたがい、周三は、受けたパンチの大きさを感じ始めた。パンチは内出血を引き起こし、その傷がじわじわと胸に広がり、週末に正典が訪ねてきたときには絵が描けなくなっていた。正典の前ではいつもと変わらないように振る舞い、薄気味が悪くて妙な気分だ≠サんなふうに言っただけだが、本当は完全に自信を喪失し、絵筆を捨てて修善寺を引き払い、東京へ戻ろう、と考えていたのだった。
なぜなら、自分の描いた服部の顔に死相を見たと思ったのは、夜叉王への思い入れが生んだ錯覚、ただの思い込みにすぎなかった、とはっきりしたからだ。否応なく、名人・夜叉王との違いを見せつけられ、自分の非才を思い知らされたからだ。
いや、そうではない。六十を過ぎて、己れの才能の有無に気づかない者などいようか。周三だってとっくに気づいていながら――十代や二十代の若者ならいざしらず――自分を夜叉王になぞらえ、上っ面のかたちだけ、夜叉王の頑固な名人気質の生き方を真似ようとしていたのだ。服部の肖像画の死相云々をきっかけに、周三は、そうした己れの心の内を見せつけられ、恥ずかしさに耐えられなくなっていたのである。
しかし、それでいて、周三は思い切れずにいた。絵を捨てようと思いながらも、捨てられずにいた。絵は彼の存在そのものと言ってもいいようなものだったからだ。
周三のこの葛藤《かつとう》、苦悩を見抜いたのが正典であり、のちには壮だった。
正典とて、真紀の死の翌日、周三と電話で話したときには、父親がこうした状態に陥ろうとは想像もできなかった。ましてや、そのために自分が殺人を犯すことになろうとは。だからこそ、翌晩のパーティーで美緒と会ったとき、彼は軽い気持ちで、周三の描いた服部の肖像画に死相云々といった話をしたのである(もし正典がそのときその話をしていなければ、服部殺しの真相は壮にもつかめなかったかもしれない)。
それはともかく、土曜日、日曜日、体育の日とつづく連休に修善寺へ帰った正典は、父親の姿を見て、驚いた。頬の肉がそげて目が落ち窪み、元々|痩《や》せている身体が一段とやつれていたからだ。
そして正典は、息子の前では何とか明るく元気に振る舞おうとする周三と話すうちに、彼の絶望に気づいたのだった。「東京へ帰ろうかと思う」といった冗談めかした言葉の裏に隠された苦悩と葛藤を知ったのだった。
正典には、このときの父親には百万言の言葉も何の力にもなりえないのが分かった。
正典は、父親をこのような状態に追い込んだのは自分が服部を紹介したせいだと思うと、悔んだ。服部など、どうして自宅へ呼んだのか、と。
彼は、服部を「先生」と呼びながらも、尊敬の念を感じたことはない。尊敬どころか、ずっと、強い疑惑と憎しみを抱きつづけてきた。
正典はかつて、服部の著わした教養書の編集を担当した関係で東洋研究センターに出入りしていた。そのとき、学生だった肥沼千香と知り合い、深く愛し合うようになった。が、千香が卒業するまでは、二人の関係を周囲の者に知られないほうがよいと判断し、学内で顔を合わせたときは、互いにそうした素振りを見せなかった。
千香は初《うぶ》で純真な娘だった。ほっそりとした美人で、言い寄る者も少なくなかったようだが、正典以外の男には関心を示さなかった。
ただ、千香は、指導教授である服部に気に入られていたらしく、彼女の話に、先生がどうしたこうしたといった話題はよく出た。それは、服部をあくまでも「先生」として見ているからであって、服部の中に男の牙≠ェ隠されているとは夢にも思っていない証拠であった。正典は、服部は女に手が早いという噂を耳にしていたので、千香にそれとなく注意を促した。が、千香は、〈まさか先生が……〉と信じられないようだった。
そんな千香が、正典と知り合って八ヵ月ほどした四年の秋、自分のアパートで睡眠薬自殺を図った。そして、薬の後遺症か、それとも彼女を自殺に追い込んだ原因そのもののせいか、彼女は次第に狂気の世界へと旅立って行ってしまったのである。
千香が自殺を図ったとき、正典は福岡へ出張していた。そのため、たまたま千香のアパートを訪ねた友人の通報で彼女が病院へ運ばれたのを知らなかった。正典が千香の自殺未遂を知ったのは、千香の両親が上京して、彼女を成東町の実家へ連れ帰ってからであった。
正典はすぐに九十九里へ向かった。
両親は、千香に会わせてくれなかった。千香が誰にも会いたくないと言っている、というのだった。
正典は、自分の名を伝えてくれれば、千香は必ず会ってくれるはずだ≠ニ言って、ねばった。
父親は、正典が千香の自殺の原因ではないかと疑っているような、怒った顔をして追い出そうとしたが、母親が取り次いでくれた。
しかし、千香の返答は、意外にも、「どうか帰ってほしい。そして、自分を忘れてほしい」というものだった。
母親は涙を流しながら、「千香が泣いているので……」と、正典に引き取るように求めた。
正典は、仕方なく彼女の言葉に従った。千香の気持ちが落ちついた頃に、また来るつもりで。
一週間ほどして、大学に退学届けが出されたのを知って、正典は再び九十九里の千香の実家を訪ねた。
だが、今度も千香に会わせてもらえず、応対した母親は、千香との縁はこれきりにしてほしい、と泣いて懇願した。
それでは、千香が自殺を図った原因だけでも教えてほしい、と正典は頼んだ。
その点については千香が何も言わないので自分たちにも見当がつかないのだ、と母親は本当に困惑したような顔をして答えた。
正典は、「また参ります」と言って、東京へ帰った。
それから、友人の桐生利明に頼み、大学で千香に何があったのか、それとなく調べてもらった。千香と親しい関係にあった事実は明かさずに、ちょっと気になる娘《こ》だったので……と口実を設けて。
十日ほどして桐生を飲み屋に誘うと、彼のほうから話し出した。
千香が自殺を図った理由は誰にも分からないし確かめる術もないが、服部教授のせいではないかという噂がある、というのだ。服部が、お気に入りの千香を暴力的に犯そうとしたか犯したのが原因ではないか、というのだった。
――そうか。もし本当なら、先生もひどいな。あんな純情そうな娘《こ》を。
正典は口では軽くそう応じたが、怒りで身体が震え出すのを必死の思いで制した。
桐生の言ったとおりにちがいない、と確信した。服部にはそれまでにも秘書や研究員の女性に対して同じようなことをしたという噂があったし、そうした事情なら、自分に会いたくないと言っている千香の心の内が理解できるような気がしたからだ。
しかし、いくら服部が千香に襲いかかったのではないかと考えても、千香が話さないかぎり、事実かどうか確かめようがない。そして、千香に対しては、彼女の傷口をえぐるような質問をできるわけがなかった。
いや、このときの正典は想像もしていなかったが、新しい年が明けて春になり、東京で会って以来、約四ヵ月ぶりに千香に再会したときには、たとえ千香に質問しても、最早、千香の口からは事実を確かめることができなくなっていたのである。
その日、正典が千香の実家に七、八度目の訪問をすると、父親が、じっと悲しみに耐えているような顔をして、
――分かりました。それじゃ、千香に会わせましょう。うちの裏に松林へ入る小道がありますから、そこを通って先に砂浜へ行き、待っていてください。ただし、今日、千香に会い、事情を了解されたら、もう二度と来ないでください。
と、根負けしたように言った。
正典は、父親の言い方に引っ掛かったものの、それでも千香に会える、千香の顔を見られると思うと、胸をふるわせて砂浜へ行って待っていた。
ところが、そこに現われたのは、千香であって、千香ではなかった。正典が「千香ちゃん」と呼んでも、まるで不思議なものを見るような目をちらっと彼に向けただけで、何の関心も示さずに波打ち際へ向かって歩いて行ってしまった、千香の顔と身体を持っただけの女性であった。
それから七年余り、正典は、月に一度は九十九里浜へ行き、砂浜で無心に舞う千香の姿を離れた場所から眺めるという生活がつづいていたのだった。
ところで、間宮と志村が千香の実家を訪ねたとき、千香に恋人はいなかったか?≠ニ訊《き》くと、千香の両親と兄は一様に戸惑ったような顔をしたらしい。そして父親が、千香の友達だと称する男が二度ほど訪ねてきたが、千香が会いたくないと言うので帰ってもらい、それきりだ≠ニ答えたらしい。
しかし、それは嘘だったのである。彼らは、正典がその後もずっと九十九里まで通ってきているのを知っていながら――顔を合わせたことはなかったらしいが――、正典に迷惑をかけまいと、男の名など覚えていない、と言ったのだった。
壮から服部殺しの容疑者として「市倉正典」の名を告げられた薬師寺たちが、桐生の話などから正典と千香との関係を疑って千香の実家を訪ねたときも、彼女の両親は、そんな男は知らないと突っ撥ねたようだ。だが、薬師寺は、そのとき見せた彼らの反応から、知っている≠ニ確信。追及して、遂に二人の関係を聞き出したらしい。
千香に会うために九十九里通いをしていたこの七年の間に、正典は何度、服部に事実を糺《ただ》そうとしたことか。尋常な手段では本当のことを言うわけがないので、誘拐、監禁し、胸にナイフを突き付けて。
だが、正典の社会的な地位が、それを躊躇《ちゆうちよ》させてきた。何度か計画は練ったものの、計画と実行との間にある、細いが深い溝を彼は飛び越えることができずにきた。
そこに、服部の肖像画を描いて死相云々と言っていた父・周三が、絵を描けなくなる、という事態が生じたのである。
正典には、絵筆を捨てた周三には何も残らないのを誰よりもよく知っていた。もし絵をやめれば、周三が廃人同様になるのは時間の問題だった。
そうならないようにするためにはどうしたらいいか。周三に絵を描きつづけさせるにはどうしたらいいか。
言葉は無力である。周三に自信を取り戻させる以外にない。
では、周三に自信を取り戻させるには……と自問を進めたとき、正典の頭に、父の絵の予言どおりに服部が死ねばいいのだ≠ニいう考えが閃《ひらめ》いた。
そうすれば、周三は、画家としての自分の技芸は名人・夜叉王に並ぶものであったか、と自信を取り戻すだろう。
と考えたとき、今度は、正典の脳裏に、周三に自信を喪失させた原因である服部真紀の変死事件が浮かんだ。
警察は、真紀が殺されたとは発表していないが、その可能性が高いらしい(少なくとも彼女を死に至らしめた人間がいるらしい)。としたら、今ここで自分が服部を殺しても、警察は十中八九連続事件と見て、真紀を死に至らしめた犯人が服部も殺した≠ニ考えるにちがいない。警察が、八年も前に起きた肥沼千香の自殺未遂事件に目を向けるおそれはほとんどない、と見ていい。たとえ、服部に関する調査から、当時、服部が千香に暴行を加えたのではないかという噂があった≠ニ耳にしたとしても、八年も経った今、千香の関係者が真紀と服部の二人を殺したとは思わないだろう。
正典はそう考え、これは服部に復讐する絶好の機会だ、と思った。服部が千香に暴行したという証拠はないが、相馬聡子の例や服部に暴行されたという元秘書の訴えから、その疑いはいっそう強まったと見ていい。それなら、千香の肉体だけでなく精神も蹂躙《じゆうりん》し、彼女を狂気の世界へ追いやっておきながら、露ほどの反省もなしに同じことを繰り返してきた男を許すわけにはゆかない。
こう決意を固めて、正典は、真紀を殺した犯人から目に見えないバトンを受け取り、服部を殺害したのである。
具体的な方法は、先月十五日の夜、日吉にある服部の自宅近くに車を停めて彼を待ち受け、どうしても先生に見ていただきたい重要なものがあると誘って車に乗せた。人気のないところまで行って車を停め、リアシートに積んでおいた段ボール箱からそれを取り出すようなふりをして、助手席の彼の背後に回った。箱の陰に隠しておいた紐を取り、首に掛けて一気に絞った。
――な、なぜだ!
服部は紐に手をやり、何とか締められまいとしながら、呻くように言った。
――肥沼千香の仇だ。
正典は紐を緩めず、といってそれ以上には力を加えずに言った。
――ひ、ひぬ、ま……。
――そうだ。忘れたか。八年前、貴様に襲われて自殺を図った学生だ。
――し、しらん。い、いや、自殺しようとした学生がいたのは思い出したが、ぼくには関係ない。
――関係ない?
正典は、怒りから、紐を引く腕に力を込めた。
――た、たすけて、くれ……。
――じゃ、本当のことを言うんだ。
――…………。
――貴様が千香に暴行を……。
――ち、ちがう。ぼ、ぼくは、ちょっと、身体に、触れただけだ。そ、それ以上のことは、何も、していない。
それだけ聞けば、正典には充分だった。千香が自殺を図ったのは、やはりこいつのせいだったのだ、と思った。こいつのせいで、千香の、そして自分の未来が失われたのだ、と思った。
渾身の力を込めて紐を絞った。
服部の手が紐から離れ、身体がぐったりとするまで、三分とかからなかった。
それでも、正典は蘇生をおそれ、更に同じ時間ぐらい力を緩めずにいた。
首から紐を外し、助手席のシートを百五、六十度まで倒した。
服部はシートベルトを締めていたので、これで動かなかった。
鼻の下に眼鏡を近づけ、息をしていないのを確認してから、運転席へ戻った。
前に一度行ったことのある新横浜駅前公園に死体を棄てるため、車を発進させた。
新横浜駅前公園なら、死体を車から担ぎ出しても、人に見られるおそれがなかったからだ。
正典は、暗い前方を凝視しながら、無性に悲しかった。涙が頬を伝って流れた。千香の仇を討ったというのに、満足感はない。むしろ、何ものによっても埋めることのできない寂しさ、虚しさを感じていた。
翌朝、佐久田に電話して公園へ行かせたのは、彼が真紀を殺したのでは……と疑っていたからではない(そんなことがどうして想像できようか)。真紀の死の発見者である佐久田に服部の死体も発見させ、二人の死が、佐久田も関わった連続事件であるような印象を与えようとしただけである。
*
虎渓橋の袂《たもと》まで来ると、人の姿が多くなった。
左手の石段を上ると修禅寺である。
美緒は薬師寺から聞いた正典の供述を思い起こし、あらためて服部啓吾という男に対して激しい怒りを覚えていた。殺人犯人の正典にではなく、被害者に。
日本人には、死者を鞭打たないという寛容さがある。それは必ずしも悪いとは言わないが、たとえ死んでも、許せない人間は少なくない。服部啓吾はそんな一人だと思った。
羊を襲う狼を免罪するわけではないが、狼が狼の姿をしていれば、羊たちは警戒する。飢えた狼が目をぎらぎらさせ、涎《よだれ》を垂らしていれば、羊たちはけっして近寄らない。だが、その狼が羊の皮を被っていたら、どうか。しかも、群のリーダーに似た皮を被っていたとしたら。
最近、権威が落ちているとはいえ、服部は大学教授である。多くの公共団体などの委員をしている、社会的に認められた学者である。その男に、己れの一時の欲望の処理が相手の女性にどれほど大きな傷を与えるか、分からないわけがない。
いや、不思議なことに、彼には分からなかったのだ。美緒はそう思う。分からなかったからこそ、罪の意識を感じないで、平気で同じ行為を繰り返してこられたのだ。しかも、被害者たちに告発されるや、平気で居直られたのだ。
美緒は、正典にこうした人間を殺して欲しくなかった。「立派な業績を残した、惜しい人間」といった評で飾ったまま、永遠の安息を与えてほしくなかった。彼の被っている羊の仮面を剥ぎ取り、その下の狼の素顔を白日に晒《さら》すような方法で戦ってほしかった。勇気を持って彼を告発した被害者たちと手をたずさえて。
正典に同情しながらも、そうした意味で、美緒は正典の行為を免罪できなかった。周三が立ち直り、再び絵筆を取る気になったのでホッとしたが、彼を殺人者の父親≠ノした正典の短絡的な行動を責めたかった。
とはいえ、すべては起きてしまったのである。フィルムを逆回りさせるようには、時間を戻すことはできない。
美緒たちにできるのは、獄中の正典に代わって、時々周三の様子を見に来るぐらいである。時々修善寺に来て、周三のアトリエを訪ね、彼と一緒に紅茶を飲み、ケーキを食べるぐらいであった。
ね? というように美緒が壮に顔を向けると、壮が優しい目で見返した。
相棒のその目に、美緒は、
「市倉さんのアトリエに、また来るでしょう?」
と、言った。
「ええ」
と、壮がうなずいた。
二人は、来たときにバスを降りた手前のバスターミナルに着いた。
バス会社によって、ターミナルが二つに分かれているのだ。
時刻はまだ二時半前。
修善寺駅行きのバスに乗るつもりで来たのだが、美緒はこのまま帰ってしまうのが少し惜しくなってきた。
ここから二、三十分歩けば、北側の山の上に「修善寺虹の郷」というレジャーランドが造られていて、中の自然公園には二千本の楓の木があるのだという。
今、楓林はたぶん深紅に染まっているだろう。
だが、暮にもう一度周三を見舞いに来ても、そのときは紅葉は終わってしまっているにちがいない。
「ちょうど、紅葉の季節ね」
美緒は言ってみた。
しかし、相棒は美緒の意図に気づかなかったらしく、ええと気のない返事をして、バスの時刻表を見に行った。
美緒は諦《あきら》めた。今日は観光に来たのではないのだから。
修善寺駅から来た折り返しのバスが広場に入ってきた。
壮が戻ってきた。
「あれね」
美緒が目でバスを指して言うと、
「いえ、違います。行きましょう」
と、壮が言った。
「行くって、どこへ?」
「美緒さんは、紅葉が見たいんじゃないんですか」
壮が笑った。
美緒は相棒に身体をぶつけてゆき、彼の左腕を取って抱いた。
〈岡本綺堂著『修禅寺物語』(旺文社)、伊藤信吉編『高村光太郎詩集』(新潮社)を参考にさせていただきました。なお、この作品はフィクションであり、登場人物や団体は実在のいかなる個人、団体とも関係ありません〉
この作品は、一九九四年に講談社ノベルスとして刊行、一九九七年八月、講談社文庫に収録されたものです。