深谷忠記
北津軽 逆アリバイの死角
「太宰治の旅」殺人事件
目 次
プロローグ
第一章 あけぼの1号「斜陽館」への旅
第二章 北斗星5号で着いた死者
第三章 太宰治ファンの女
第四章 平行線トリック
第五章 逆アリバイ25分間の死角
エピローグ
プロローグ
いまにも雨の落ちてきそうな梅雨空が広がった、うっとうしい天気だった。午後二時を回ったばかりだというのに、大きな銀杏《いちよう》、椎《しい》、欅《けやき》などに挟まれた参道は薄暗い。
だから、木之下《きのした》和夫の前にその二人の女性が現われたとき、彼は一瞬あたりの空気が明るくなったように感じた。
六月二十五日(日曜日)――。森鴎外と太宰治の墓がある、都下|三鷹《みたか》市の禅林寺でのことだった。
木之下が太宰の墓に詣《もう》で、帰ろうとして山門へ向かって歩いてきたとき、女性たちは不意に姿を見せたのである。
どうやら、山門の陰でガイドブックでも調べなおしていたようだ。
服装は、一方は白いパンツに黄色いブラウス。もう一方は大きな牡丹《ぼたん》の絵柄が入ったワンピース。パンツ・ルックのほうが切れ長の目をし、ワンピースのほうが二重瞼のくりくりした目をしている以外は、二人ともよく似ていた。
どちらも瓜実顔《うりざねがお》のなかなかの美人で、年齢は二十四、五歳。身長は百六十二、三センチ。体型はすらりとし、髪はその年齢の女性の多くがそうであるように、ともに肩の下まで垂れた長いワンレングス。
木之下は一瞬思わず足をゆるめたものの、左側に寄り、二人と入れ代わりに門を出ようとした。
すると、ガイドブックを手にしたパンツ・ルックの女性が、
「すみません」
と、頭を下げながら、呼びかけた。
「……?」
木之下は足を止め、相手の顔を見やった。
「太宰治のお墓は、ここから行けるんでしょうか?」
パンツ・ルックの女性が聞いた。
「ええ、行けますよ」
木之下は答えてから体を回し、それほど広くない庭の奥を指差して説明してやった。
「正面が社務所ですが、あの、左寄りのところに小さな案内板が立ち、建物の下をくぐって裏へ回る細い道が付いています。その道を行けば墓地です。太宰の墓は、墓地の一番奥まで進んで右へ回ると、本名の森林太郎と刻まれた鴎外の墓と、斜めに向かい合っています」
「そうですか。どうもありがとうございました」
パンツ・ルックの女性が礼を述べ、花束を手にしたワンピースの女性も、笑みを浮かべて一緒に頭を下げた。
「お参《まい》りですか?」
今度は木之下が聞くと、
「はい」
パンツ・ルックの女性が答えた。
「実は、私もいまお参りしてきたところなんです。桜桃忌《おうとうき》に、忙しくて来られなかったものですから」
「いつもは、桜桃忌にいらしていたんですか?」
今度はワンピースの女性が興味を引かれたらしい目を向けて、聞いた。
「ええ、だいたいは」
太宰治の命日――正確には玉川上水で自殺した彼の遺体の見つかった日――六月十九日は、彼の作品『桜桃』にちなんで「桜桃忌」と呼ばれ、太宰ファンたちが彼の墓前や津軽の生家「斜陽館」に集う。木之下も熱心なファンの一人として、都合がつくかぎり、その日に太宰の墓参りをしてきた。だが、今年は仕事が重なり、半日休暇さえ取れなかったのだった。
「太宰治のファンでいらっしゃるんですか?」
「ま、そうですね」
「私も……」
言いかけて、ワンピースの女性がハッとしたように一度言葉を切り、
「いえ、私はこの人の影響でファンになったんですけど、こちらは中学、高校時代からとても熱心な太宰ファンなんです」
パンツ・ルックの女性を示してつづけた。
「ほう、そうですか」
「いえ、熱心というほどじゃありません」
木之下が強い視線を向けたせいか、パンツ・ルックの女性が言い、目を逸《そ》らした。
「それにしても、嬉《うれ》しいですね。あなたがたのような、若くて美しい太宰ファンにお会いできて」
木之下の本心だった。
「あ、そうだ、もしお邪魔《じやま》でなかったら、お墓までご案内しましょうか?」
彼は言ってみた。
何となく浮き浮きした気分になり、できたら彼女たちともう少し話していたい、と思ったのだ。
「でも、申し訳ありませんから」
ワンピースの女性が言ってから、傍らのパンツ・ルックの女性を見やり、
「ねえ?」
と問いかけた。
「ええ」
パンツ・ルックの女性がうなずいた。
「僕のほうは構わないんですが……いや、ご迷惑でしたね」
「いえ、そうじゃありませんわ」
パンツ・ルックの女性がちょっと慌《あわ》てたように言った。「いまお参りしてらしたばかりなのに、申し訳ないと思ったものですから……」
「じゃ、図々《ずうずう》しくお供させていただいていいんですか?」
「お願いします」
二人の女性が声を揃《そろ》えて言い、一緒《いつしよ》に頭を下げた。
その様子に、木之下は、自分に声をかけたときから彼女たちはこうなるのを望んでいたのではないか――ふとそんなふうに思ったが、それはどうでもいいことだった。
木之下は三十六歳。妻子がいるが、若い綺麗《きれい》な女性と太宰について話すほど楽しいことはない。彼は、桜桃忌を外して来てよかったと思った。
彼女たちを促して、いま来た参道を戻《もど》り始めた。
「木之下と言います。北区|滝野川《たきのがわ》にある都立図書館に勤めています」
彼が先に名乗ると、二人の女性も、熱心な太宰ファンだというパンツ・ルックの女性が下村保津美《しもむらほつみ》、目の大きいワンピースの女性が江副千晴《えぞえちはる》――とそれぞれ自己紹介した。
第一章 あけぼの1号「斜陽館」への旅
1
八月二十日(月曜日)の夜――。
笹谷美緒《ささたにみお》は何度も腕時計を見ながら、上野駅構内の中央広場「翼の像」の前に立っていた。
人の動きは多いが、美緒の捜す顔だけは来ない。
次第に焦《あせ》りといらだちが募った。
すでに、約束の八時半を十分以上過ぎていた。
といって、普段のときなら、十分ぐらい、美緒は何とも思わない。相手が相手なので、三十分以内の遅刻は大目に見る。だが、今夜は、これから乗る寝台特急「あけぼの1号」の発車が迫っていたのだ。
〈あと五分待って、来なかったら、私一人で行っちゃうんだからね〉
美緒は、相棒《あいぼう》の顔を思い浮かべて、胸の中でつぶやく。
腹立ちは恨めしさになり、泣きたいような心細さに変わり始めた。
そのとき、大きなバッグを肩から提《さ》げた壮《そう》が美緒の背後からいきなり前に現われ、
「遅れてすみません。行きましょう、美緒さん」
と荒い息を吐きながら言い、美緒の提げていたボストンバッグを取った。
美緒はびっくりした。文句を言おうとしたが、その前に相手は歩き出していた。
仕方なく、美緒もつづく。
壮が改札口の前まで行ったところで足を止め、美緒を振り向いた。
「先に入ってください」
顔中に玉の汗を浮かべて、言う。
言われるまま、美緒は先に改札口を抜けた。
壮がつづき、二人は黙って左手の中央乗換え通路の階段を上り、更に七、八番線ホームへ出る階段を上って行った。
七番線ホームには、ブルーの長い車両が入線していた。
奥羽本線経由青森行きの寝台特急「あけぼの1号」である。
時計を見ると、八時四十五分。
発車まであと六分である。
美緒たちは、後ろから二番目、二段式B寝台の禁煙車両に乗り込んだ。
通路の左側に、二段式のベッドが二つずつ向き合って一つのボックスを作り、それが八つ半並んでいた。
半というのは、一番前寄りの十七番ベッド――この部分はベッドでなく、更衣室になっている車輌が多い――だけは、前が壁だからだ。
通路の中ほど、座席番号九と十の上段が美緒たちの寝台だった。
下段は途中の駅で乗って来るのか、誰もいない。
壮が自分のショルダーバッグと美緒のボストンバッグを下の寝台に置き、
「この上段ですね」
と言い、切符と照合して間違いのないのを確かめた。
美緒は、まだ使っていないハンカチをセカンドバッグから出し、
「はい」
と、渡した。
壮は意味が分からないのか、きょとんとした目で美緒を見返した。
「汗よ。汗の中に顔を浮かべているみたいじゃない」
美緒は言った。
もう怒る気は失せていた。
これぐらいのことで一々腹を立てていたら、この相棒と末永く一緒に暮らしてゆくのは無理だからだ。
美緒は神田神保町にある中堅出版社「清新社」の文芸部員。壮は彼女の恋人だった。
壮《そう》こと黒江壮《くろえつよし》。職業は、水道橋駅に近いところにある慶明大学の数学科教授をしている美緒の父、精一の助手である。
数学者の娘なのに、かつて算数、数学と聞いただけで蕁麻疹《じんましん》の出た美緒に言わせると、数学などという「陰気」な仕事とはマッチしない、現代的なマスクをした美男子だ。背もすらりとしている。
ただし、現代風なところは容姿だけ。暗いというのではないが、性格はおよそ今はやりの軽薄短小とは逆である。少し喋《しやべ》らないでいると、腹がふくれて苦しくなってしまう美緒とは対照的に無口で、真剣に考え始めると、誰がいようがどこにいようが、何も見えず聞こえずの「考える人」になってしまう、特技というか、奇癖というか、の持ち主。
年齢は、美緒より四つ上の二十八歳。双方の親も認めた婚約者だ。ところが、この宇宙人≠ニきたら、まるで世事にうとく、地球人の美緒たちにはチンプンカンプンの暗号≠ニ殺人事件の謎を解くとき以外はあまりにも不器用すぎて、いまだ二人の関係はキスの段階にとどまっている。
そのため、この恋人といると、美緒は時々いらいらする。たとえ腕を組んで夜道を歩いていても、彼の場合、
〈柔肌の熱き血潮に触れながら、寂しからずや暗号を解く君〉
だからだ。
が、一方、そんな壮に、美緒は持ちまえの母性本能、世話焼き的な性格をくすぐられないわけではない。それで、惚れてしまったのが百年目と諦《あきら》め、口の悪い友人たちからは金魚の何とかのようだなどとひやかされながらも、いつもくっついて歩いている。
というわけで、今回も、推理作家の山岸耕作に太宰治の生家である津軽|金木《かなぎ》の斜陽館の取材を頼まれると、出張旅費を半分返上し、壮との北津軽の旅≠ドッキングさせたのだった。
「あけぼの1号」は、壮がまだ立ったまま汗を拭《ふ》いているうちに動き出した。
定刻の八時五十一分だった。
列車は、機関車と電源車を除くと、最後尾の上野寄り一号車から先頭の九号車までの九両編成である。そのうち一号車だけが二段式A寝台車で、残り八両はすべて二段式B寝台車だ。個室車両や食堂車、ロビーカーは連結されていない。
美緒たちの二号車の場合、上野で乗ったのはベッドの数の半分ぐらいの乗客だろうか。だが、車内アナウンスによると、切符は全席売り切れているという。旧盆の民族大移動は終わったものの、まだ学校が夏休みなので、普段よりは混んでいるらしい。空席には、当然、途中で乗ってくるのだろう。
壮が前の寝台に掛けたところで、美緒は通路にちょっと首を出し、前後の席を見やった。
荷物の整理でもしているのか、通路へ出たり入ったりしている者もいれば、早速ベッドに入り、カーテンを閉めている者もいた。
もう九時なので、ベッドに横になって、本を読んだり音楽を聴いたりするのかもしれない。
美緒がそんなふうに思うともなく思いながら首を引っ込めようとしたとき、通路の端に一人の女性が立った。眠いのか大きな欠伸《あくび》をし、それから、車内の様子を見るように美緒たちのいる寝台のほうへ顔を向けた。
「あら!」
その顔を見て、美緒は思わず小さな声をもらした。
記憶があったからだ。
壮が、どうかしたのかと問うような目を美緒に向けた。
「ううん、上野駅でさっき見たばかりの人がいたから」
美緒が壮の目に答えている間に、女性は自分の席に引っ込んでしまった。
上段か下段かは分からないが、十七番寝台らしい。車両の一番前、壁と向き合った席である。
再び壮に目を戻すと、彼は美緒の言った意味が分からないという顔をしていた。
それはそうだ。「上野駅で見かけた人」が上野を発ってきたこの列車に乗っていたからといって、驚く理由はない。
「ごめんなさい。さっきといっても、この列車に乗る前じゃないの」
美緒は言い換えた。
「……?」
「あなたと待ち合わせる二時間前、同じ上野駅の中央広場で石兼先生にお会いするって話したでしょう。それで、私が先に来て石兼先生を待っているとき、いまの女の方を見かけたの」
美緒は説明した。
美緒の担当する仙台在住のユーモア小説作家・石兼裕太郎が、美緒の津軽行きが決まった後で、急に今夕上京すると言ってきた。そこで、美緒は六時半に上野駅で石兼を待ち受け、一時間ほど彼と喫茶店で話した。
おかげで、壮の研究室に迎えに寄れず、なかなか来ない彼にやきもきさせられたのである。
それはともかく、美緒は、六時二十九分着の「やまびこ48号」で来る予定の石兼裕太郎を待っていたとき、上野駅構内の中央広場でいまの女性を見たのだった。
その女性が現われる五、六分前、美緒の横に別の一人の女性が来て、大きな黒いスポーツバッグを下に置き、立った。
ジーパンに水色のTシャツ。長い髪を肩にさらりと流し、薄いブルーのサングラスをかけていた。身長は美緒より五、六センチ高く、すらりとしている。
美緒は横顔をちらりと見、綺麗《きれい》な人だなと思った。
と、女性のほうも美緒に顔を向け、目と目が合った。
瞬間、美緒はどこかで見たか会ったことがあるような気がした。そして、記憶を探り、すぐに、中学時代の二年先輩・江副千晴だと思い出した。
中学時代の二年の差というのは大きい。特に、幼さの抜けない入学したての一年生にとって、三年生はもう半分おとなの「お姉さま」だ。だから、美緒のほうは、テニス部の副部長として活躍する綺麗な千晴を憧れの目で眺め、覚えていた。が、それから三ヵ月ほどして他県へ転校してしまった千晴のほうは、下級生など覚えているはずがない。二度と美緒に関心を示すことはなかった。
その千晴のもとへ、やはり似たような大きなバッグを提げて、
――お待ちどおさま。
と、近寄ってきたのが、いま美緒たちと同じ車内に乗っている女性であった。
年齢と背丈は千晴と同じぐらい。やはり髪が長く、すらりとしている。服装は白いコットンパンツに黒いブラウス。サングラスの色は焦茶《こげちや》だったが、こちらも千晴に劣らず綺麗だった。
二人は、一緒に旅行に行くために待ち合わせたらしい。
場所と恰好《かつこう》から、美緒は当然そう思った。
実際、二人はすぐに美緒のそばを離れ、改札口へ歩いて行った。
ところが、である。二人は、改札口まで行って、別れたのだ。
千晴だけが改札口を入って行き、あとから来た女性は外に立って手を振り、千晴を見送っていた。
そして、その女性は、千晴が東北本線や上信越線などの出る十四、五番線ホームのほうへ消えると、バッグを持って戻って来て、広小路口から出て行ったのだった。
〈一緒に旅行に出かけるわけじゃなかったのか……〉
美緒はそう思い、見るともなくその女性を見送っていた。
と、
――何を見ているんだい?
いつの間にかそばに寄ってきた石兼裕太郎に肩を叩《たた》かれたのだった。
「そういうわけですか」
美緒の説明を聞くと、壮が納得《なつとく》したようにうなずいた。
「そう。だから、その女の人が私たちと同じ列車に乗っていたからって、別に不思議はないんだけど、江副千晴さんという憧れの先輩と一緒にいた人だったから、一瞬、アラッて思っちゃったの」
美緒は言った。
「その人も、上野駅で江副さんと別れてから、美緒さんと同じように、二時間ほど誰かと会っていたのかもしれませんね」
「うん。いま見たら、黒いブラウスに白いパンツと服装も同じだったから、家から出なおしてきたわけじゃなさそうだわ」
美緒が答えたとき、後ろの一号車のほうから、車掌が検札――正確には車内改札という――に入ってきた。
時刻は九時七、八分。
これで、いつベッドに入ってカーテンを閉じて眠っても、朝まで起こされる気遣《きづか》いはないのだった。
車掌は美緒たちのところが済むと、十一、十二番寝台へと進み、最後の十七番寝台の横で立ち止まった。
顔は見えないが、さっきの女性が何やら車掌に尋ね、車掌は答えているようだ。
といっても、三十秒ほどで、彼はドアを開けてデッキへ出て行った。
間もなく、列車は大宮だった。
下段の客が乗ってくるかもしれないので、美緒は、
「上へ行って、おにぎり食べよう?」
と、相棒を誘い、彼のあとから上段の自分のベッドへ移った。
駅弁を買うつもりだったのだが、万一の場合を考えて、おにぎりを作ってきたのは正解だったようだ。さもなければ、弁当を買う時間がなく、一晩、空腹で過ごさなければならなかっただろう。
美緒がおにぎりの包みの半分と麦茶を入れたポリ容器を壮に渡したとき、列車は大宮駅のホームにすべり込んだ。
大宮では、二号車だけで七、八人の客が乗ってきた。が、美緒たちの下段のベッドは空いたままだった。
列車は、時刻表どおり九時十八分に大宮駅を発車した。
次の停車駅は宇都宮《うつのみや》十時二十分。次いで、列車は、黒磯、郡山《こおりやま》と停車して行き、福島に午前零時三十二分に到着。九分間の停車の後、零時四十一分に福島駅を出て東北本線と岐《わか》れ、奥羽本線へ入る。
その後、米沢、山形、新庄などはノンストップで約四時間走り、午前四時四十九分に横手到着。つづいて、五時十分|大曲《おおまがり》、六時秋田……七時一分東能代……七時四十八分大館……八時三十二分|弘前《ひろさき》、そして九時七分、終点の青森に着く。
美緒たちは弘前で降り、五能線に乗り換えて五所川原まで行き、五所川原から津軽鉄道のディーゼルカーに乗って、斜陽館のある金木まで直行する予定だった。
金木と斜陽館の取材を終えれば、あとは私的な旅行なので、適当に十三《じゆうさん》湖、小泊《こどまり》、竜飛《たつぴ》、三厩《みんまや》と北津軽を巡り、青森へ出て東北本線、東北新幹線経由で帰ろうと考えている。
おにぎりを食べ終わると、美緒たちは交替で顔を洗ってきて、カーテンを半分引き、時々言葉を交わしながら、それぞれ持って来た本を開いた。
美緒は、学生時代に一度読んだ小説とも紀行文とも言える太宰治の『津軽』である。読んだといっても、まるでなじみの薄い地ばかりが登場するので、ほとんど覚えていない。記憶にあるのは、ラストで太宰が母とも慕う女中の越野たけと再会するところぐらいだった。だから、初めて読むのと変わらなかったし、今度は、これから訪ねようとしている地だけに興味をそそられた。
下段のベッドには、次の宇都宮で乗ってきた。
二十歳前後の女子大生らしい二人連れである。
感じの良い女性たちで、美緒と目が合うと、
「よろしくお願いします」
と、先に挨拶した。
十一時を過ぎ、列車が黒磯を出たところで、その二人がカーテンを閉じたので、美緒たちも寝《やす》むことにし、着替えをして横になった。
その後も、美緒は枕元の電灯を点《つ》けてしばらく本を読んでいたが、十一時五十三分、列車が郡山に到着する前に明かりを消し、いつの間にか眠りにおちた。
2
何度か夢うつつの状態を繰り返したが、美緒が完全に目を覚ましたのは、列車が横手に停車してからだった。
どこだろうと思い、明かりを点けて時計を見ると、四時五十分だったので、横手だと分かったのである。
カーテンを細く開けて、壮のベッドのほうへ首を出してみた。
すると、彼はまだ眠っているらしく、かすかに寝息が聞こえた。
動いてガサガサ音をたてては下の人に悪いので、美緒はまたそっとカーテンを閉め、昨夜の『津軽』のつづきを開いた。
太宰が、故郷に贈る言葉として〈汝を愛し、汝を憎む〉と書いた津軽――その故郷紀行である。この作品にはそのうちの〈汝を愛す〉のほうが強く出ているようだが、彼と故郷との関係は、愛しながらも憎まずにいられない、憎みながらも心の奥で愛しつづけている――そうしたもののようだ。
人間、誰でも分裂し、相反するものを一つの心の内に持っている。文学者などは、特にその傾向が強い。といって、太宰ほどその顕著《けんちよ》な作家はあまり例を見ない。評論家の奥野健男は、太宰の文学をいみじくも〈下降指向の文学〉だと言ったが、上昇指向との葛藤《かつとう》としての下降指向だったのだと思う。
また、太宰を、〈四十になっても、まだ不良少年で、不良青年にも、不良老年にもなれない男〉と言ったのは坂口安吾だが、その不良少年性とでもいうべきものこそ、分裂した心ではないか。そして、この不良少年性こそ、現在でも太宰が多くのファンを引きつけている一つの要因ではないか。
時々本を閉じては、そんなことを考えながら、美緒は一時間近く『津軽』を読み、もう十四、五分で六時になり、列車が秋田に着くというところで着替えをした。
下へ降りて、洗面所へ行った。
顔を洗っていると、
「おはようございます」
と、浴衣姿の髪の長い女性が挨拶しながら横の洗面台に並んだ。
「おはようございます」
美緒もそちらへ顔を向けて挨拶した。
昨日、上野駅で江副千晴と一緒にいた女性――十七番寝台の乗客だった。
髪が乱れ、ちょっとしどけない恰好だ。今朝はサングラスをかけていないので、くりくりとした大きな目が目立つ。
「よくお寝《やす》みになれました?」
女性が微笑みかけ、少し馴《な》れ馴れしい感じで聞いた。
「ええ」
と、美緒はうなずいた。
「寝台車に乗ると、私はいつもは眠れないんだけど、昨夜は早目に睡眠薬を飲んだから、もう大宮を出たか出ないかのうちにぐっすり眠ってしまって」
話好きなのか、聞かれもしないのに言った。
「…………」
「ご旅行かしら?」
「はい」
「私もそうなの。お天気みたいで、よかったわ」
女性は鏡に顔を近づけ、半ば自分に言ってから、また顔を美緒に向け、
「ご旅行は秋田? それとも津軽?」
「津軽です」
「私もよ」
上野駅の構内で顔を合わせたといっても、女性は美緒の顔など覚えていないのだろう、更《さら》に、
「どこからいらしたの?」
と、聞いた。
「東京です」
「では、上野から?」
「ええ」
「私もそう。じゃ、一緒に乗ったのね。気づかなかったけど」
美緒は、千晴の友達かどうかよほど聞いてみようかと思った。
だが、千晴の名を出せば、千晴との関係や自分の見たことなどを説明しなければならないし、面倒な気もした。
迷っていると、話し声がして、通路との境のドアが開き、六十年配の夫婦らしい男女が洗面所へ入ってきた。
もうじき六時なので、起き出す者が多いのだろう。としたら、いつまでも洗面台を占領していたら、悪い。
そこで、美緒は、
「失礼します」
と横の女性に頭を下げ、入ってきた男女と挨拶して場所を入れ代わった。
通路を歩いて自分の席へ戻ると、下段の寝台はまだしんとしていたが、壮は起きたらしく、カーテンを開け、
「眠れなかったんですか?」
と、小声で聞いた。
「ううん、適当に眠ったわ」
美緒は答え、梯子《はしご》を登って自分の寝台に上がった。
「あなたは?」
「五時間ぐらいは、何も分からずに眠れました」
美緒たちがぼそぼそと声をひそめて話し合っているうちに、六時になり、列車は秋田に到着した。
二号車からも降りた乗客が四、五人いて、夜の気怠《けだる》い空気は急速に薄れていった。
二号車に乗ってくる者はなかったが、秋田から青森までのB寝台は、立席特急券で乗車できる普通席になる。
壮が洗面所へ行ってくるのに前後し、下段の女性たちも起き出した。
彼女たちが洗面と化粧を済ませてきて、ベッドを座席に替えたところで、美緒たちは下へ降りた。
女性たちが窓際に向かい合って掛け、美緒と壮が通路側に同じように座った。
昨夜、美緒が想像したように、二人はやはり宇都宮にある女子大の学生たちで、これから一週間かけて津軽半島と下北半島を周《まわ》るのだという。
一人は髪をショートカットにした活発そうな女性で、もう一人は色白のおっとりした感じの女性だった。
壮は一言も口をきかなかったが、美緒はすぐに彼女たちと仲良くなり、自分たちの行き先や目的も話した。
すると、ショートカットのほうが、
「わァ、素敵! 清新社の編集者ですか。私も出版社に入りたいんです」
と、感嘆の声を上げ、美緒を尊敬と羨望《せんぼう》の眼《まなこ》で見つめた。
そのせいで、美緒はますます気を良くし――自分でも分かったが――尋ねられるまま、仕事の話などをした。
女子大生たちは二人ともなかなか礼儀正しく、きちんとしていた。
最近の若者は礼儀を知らん、とよく言われるが、それは嘘だ。美緒だってもちろん「最近の若者」の一人だが、美緒の目から見れば、中年のおじさんやおばさんのほうがずっと図々しく、礼儀知らずに見えるときが少なくない。つまり、どちらにしても十把一絡《じつぱひとから》げにするのは無理で、個人によるのだ。また、たとえ礼儀を知らない若者や子供が昔より多かったとしても、それは彼らの責任ではない。親たちが教えないからである。赤ん坊は初めから礼儀を身に付けて生まれてくるわけじゃない。だから、人間だって、学ぶ機会がなければ、ゴリラやチンパンジーとさして変わるところがなくて当然であろう。
それはともかく、美緒は好感のもてる二人の女子学生たちと話し、弘前までの二時間を楽しく過ごした。
弘前着、八時三十二分。
美緒たちは、女子学生たちと一緒に降り、弘前城へ行くという彼女たちとホームで別れた。
跨線橋《こせんきよう》を渡り、五能線のホームへ行くと、千晴の友人らしい十七番寝台の女性が来ていて、にっこり笑って頭を下げた。焦茶《こげちや》色のサングラスをかけているので、また大きな目は隠れ、見えない。白いコットンパンツは同じだが、上のブラウスはブルーのTシャツに替えていた。
降りるときは気がつかなかったから、美緒たちの反対の降車口を利用したのだろう。
美緒も挨拶を返し、怪訝《けげん》な顔をしている壮に、洗面所で会って言葉を交わした事情を話した。
五所川原方面へ行く五能線の列車は、九時十一分発。展望バルコニーの付いた特別車両「ノスタルジック・ビュー・トレイン」が連結されている列車だった。
入線するまで、まだ二十分近くあるという。
そこで、美緒たちは一度改札口を出て、JRの経営している喫茶店でコーヒーとトーストの朝食を済ませ、特別車の指定席券を買ってきた。
十七番寝台の女性は別の車両に乗ったらしく、今度は顔を合わせなかった。が、その後、美緒たちは彼女と三度会った。
一度目は、五所川原で津軽鉄道のディーゼルカーに乗り換えるとき。二度目は、金木で降りたとき。そして、三度目は――
3
五所川原と津軽中里を結ぶ津軽鉄道は、全長二十キロあまりのローカル線だった。
途中《とちゆう》に街らしい街がなく、ほとんど水田や畑や林の間を走る。もちろん電化されてなく、冬の間は車内にストーブの置かれたストーブ列車もあるらしい。
金木は、その津軽鉄道の真ん中より多少中里寄りのところに位置する町である。人口は一万三千人余り。太宰の『津軽』によると、
〈これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町〉
だという。現在は、太宰の生家「斜陽館」のあるところとして知る人ぞ知る町だが、歌手・吉幾三の出身地としてのほうが通りがいいという話も聞く。
たった一両だけの小さなディーゼルカーで、五所川原からとことこと二十五、六分。美緒たちは、駅舎より一段高くなったホームに降りた。
時刻は十時四十六、七分。
十七番寝台の女性も降り、美緒たちのほうをちらっと見やって、改札口のほうへ降りて行った。
陽射しは強いが、空気がからりとしているせいか、暑さを感じない。
ホームに立って、いま来たほうを眺めると、遮《さえぎ》るもののない緑の水田の間に、線路が真っ直ぐに伸び、右手かなたには岩木山がうっすらと青くかすんでいた。
この駅も取材の対象なので、美緒は、壮に何枚か写真を撮ってもらい、自分はその間に情景をメモした。
詳しい取材なら、ビデオカメラを回すところだが、山岸耕作は美緒の話を聞けばいいというので、置いてきたのである。
駅で道を聞き、あまり人のいない商店街を西に四、五分歩き、バス通りへ出たところで右へ折れた。
すると、少し行った右手に、赤いトタン葺《ぶき》屋根――トタンだと思ったのは、後で聞くと銅板だという――の大きな入母屋《いりもや》造りの家が建っていた。
それが太宰の生家で、現在は旅館と喫茶店になっている「斜陽館」であった。
二階建てらしいが、東京のビルの三階ぐらいの高さはある。
玄関の前を過ぎて、赤レンガの高い塀《へい》に沿って進んでみる。
塀の途中に鉄棒のはまった穴があり、中を覗《のぞ》くと、池、松、灯籠、石などの配された庭だった。
『思い出』や『津軽』を読めば、太宰の生家が大きな地主だったことは分かるが、やはり百聞は一見にしかずである。
現在でも、中央から遠く離れたという感じがするこの津軽の地。ここで太宰が生まれ、育ったのかと思うと、美緒は一種の感慨《かんがい》を覚えた。
ところで、美緒のかじった範囲では、太宰が大地主の六男として生まれた事実が彼の人生と文学を決定的にした、と見る者が多いようだ。それはたぶん当たっているだろう。が、美緒は、太宰の実家がもし東京に比較的近いところにあったら、どうだっただろうか、と思う。そんな仮定の話は誰にも分からないが、彼の人生と文学はだいぶ違っていたのではないだろうか。
太宰は弘前高校時代に左翼思想に接し、自分が大地主の子である事実に屈折した罪の意識を抱くようになる。そして、東京帝大の仏文科に進んでからは非合法活動に身を投じ、やがてそこから離脱する。
こうした経緯《けいい》が太宰の人生と文学に決定的な影響を与えたのは、間違いない事実のようだ。しかし、それでは、彼が大地主の六男として生まれたら、場所はどこでも同じだっただろうか。生《なま》の情報がもっと頻繁《ひんぱん》に、容易《たやす》く入ってくる東京という大都会の近くでも同じだっただろうか。
美緒は、昨夜から長い時間をかけてこの地に立ち、やはり太宰が太宰であったのはこの津軽の地で生まれ育った事実に決定的な影響を与えられたのではないか、と思ったのである。
太宰が幼少年期をおくった大正の頃、この津軽がどんなところだったのか、もちろん美緒は知らない。知らないが、今よりはるかに中央から遠く隔たった地であり、ここで暮らす人々の生活が苦しく惨めだっただろうことは、容易に想像がつく。そんな中で、太宰は物質的に何一つ不自由なく育った。太宰の家だけが、何でもある都会だった。彼の生活こそが頂点だった。この、周囲の人々との大きな差。そして、彼には、都会でもっと贅沢に暮らしている階層の人々は見えない。これこそが、太宰に決定的な影響を与えたものではなかっただろうか。
良い悪いの意味ではなく、太宰は要するに「田舎人間」だったような気がする。「都会人」は彼ほど不器用じゃない。もっと狡《ずる》くて冷めていて、スマートだ。
その、スマートに生きられなかった太宰という田舎人間を作ったのが、この地だったのではないだろうか……。
美緒が勝手な想像をしている間に、彼女の助手は様々な角度から斜陽館の写真を撮り終え、玄関の前に退屈そうに立っていた。
「ごめんなさい」
美緒は近づいて行って謝り、彼と一緒にドアの開け放された玄関へ入った。
郷土資料館の庭などによく移築、保存されている昔の小学校の昇降口のような玄関で、美緒たちは靴を脱いでスリッパに履《は》き替え、上に上がった。
正面が廊下を利用したようなジュータン敷きの喫茶室で、太宰の著作などを並べた土産品コーナー、テーブル席、それにカウンター席があった。建物の中を見学して歩いている者を入れると、十二、三人の客がいるようだ。
喫茶室の右側、ガラス戸の外は狭い庭。反対の左側は大きな畳敷きの広間である。美緒が塀の外から覗いた大きな庭は、その広間の前に位置していた。
冷房しているわけではなさそうなのに、空気がひんやりとして涼しい。
喫茶室の奥で左へ入ると、太宰の使用したものなどが展示されているらしいが、美緒たちは取り敢えず飲み物を注文するために、テーブルの一つについた。
そのとき、壮が、
「美緒さん」
と小声で言い、美緒の背後のテーブルを目顔で示した。
「なーに?」
美緒は言いながら振り返った。
すると、美緒のほうを見ながら何やら話していた二人の女性と目が合った。
「す、すみません」
美緒は慌《あわ》てて頭を下げた。
「本当によくお会いするわね」
そのうちの一人が微笑みながら言った。
美緒はきょろきょろしていて気づかなかったのだが、さっき金木駅で同じディーゼルカーから降りた、「あけぼの1号」十七番寝台の女性である。
そして、もう一人の女性は、なんと江副千晴であった。
千晴がどうしてここにいるのか、美緒は不思議に思いながら、
「気がつかないで……」
更に言いかけたとき、
「あら!」
千晴が小さな声をもらした。「あなた、昨日の夕方、上野駅の中央広場にいた方じゃないかしら?」
「はい」
「知っているの?」
十七番寝台の女性が聞いた。
「翼の像の前であなたを待っていたときよ。この方も、私のそばでどなたかを待ってらしたの。ねえ?」
「ええ」
「ふーん、そうだったの。そして、私とは、上野で『あけぼの1号』に乗ったときから、ここまでずっと同じ列車だった……。なんだか妙な偶然ね」
「私、西荻中学を九年前に卒業した笹谷と申します。先輩の江副千晴さんじゃありませんか」
美緒は思いきって、聞いた。
「えっ、そ、そうよ。九年前っていうと、私より二年下……?」
千晴が驚いたように言った。
昨日の薄いブルーのサングラスをかけたままだ。
「はい」
「それじゃ、あなたが入学して間もなく、私は愛知県の中学へ転校して行っちゃったけど」
「ええ」
「そうだったの。それで、上野駅で私のほうを見ていたの」
「すみません。人違いだといけないと思ったものですから、ご挨拶しないで」
「ますます妙な偶然ね」
十七番寝台の女性が言った。
そのとき、ウエイトレスが水を運んできたので、美緒は、
「失礼します」
と言って壮のほうへ向きなおり、アイスコーヒーを注文した。
それにしても不思議だった。千晴がなぜここにいるのか。「あけぼの1号」より前に上野を出て弘前まで来る奥羽本線の列車はないはずである。
千晴は何に乗り、どういうルートでここへ来たのだろうか、と美緒は思った。
4
これより十分ほど前の十時五十七分。
前日の晩十九時三分に上野駅を発った寝台特急「北斗星5号」は、約千二百二十キロメートル、十六時間の長い旅を終え、札幌駅五番線ホームへすべりこんで行った。
四号車の二人用A個室寝台「ツインデラックス」の下段ベッドに、一人の男の死体を乗せて。
第二章 北斗星5号で着いた死者
1
寝台特急「北斗星」は、青函連絡船の廃止と青函トンネルの開通とともに生まれた。上野と札幌を結ぶブルートレインである。東北本線、津軽海峡線、江刺線、函館本線、室蘭本線、千歳線経由で、日に往復六本運行されている。内訳は、上りが偶数番の2、4、6号で、下りが奇数番の1、3、5号だ。
東京と東北方面を結んでいる寝台特急は、東北本線を走る「はくつる」、常磐線経由の「ゆうづる」、福島で奥羽本線へ入る「あけぼの」などがあるが、それら旧来の列車に比べ、「北斗星」は格段にグレードアップされている。
1、2号と、3、4、5、6号では多少違うが、一人用A個室寝台ロイヤル(Aロ)、二人用A個室寝台ツインデラックス(A2)、一人用B個室寝台ソロ(B1)、二人用B個室寝台デュエット(B2)などの車両が連結され、他にも食堂車、ロビーカー、シャワールームなどの設備が整っている。
このうち、八月二十一日の午前十時五十七分に札幌駅に着いた「北斗星5号」は、機関車と電源車を除くと、上野寄り最後尾の一号車から札幌寄りの先頭十一号車まで、十一両編成だった。一、七、八、九、十、十一号車は、美緒たちの乗った「あけぼの」など旧来の寝台特急に多い二段式B寝台車、二号車がAロとB2、三号車がAロとB1、四号車がA2、五号車が食堂車、六号車がロビーカーと電話室である。
この列車は、前日の晩七時三分に上野駅十四番線ホームを定刻に発車。
その後、
七時二十八分 大宮
八時二十七分 宇都宮
九時五十四分 郡山
十時三十分 福島
十一時三十二分 仙台
と停車し、仙台で六分間の停車の後、十一時三十八分に発車してからは、翌朝六時三十八分に函館に着くまで――ジャスト七時間――業務上の運転停車を除くと、どこにも停車しなかった。
つまり、盛岡、青森など岩手県、青森県内の駅では一度もドアが開かず、乗客の乗り降りはできなかった。
函館では、仙台と同じ六分間の停車。
午前六時四十四分に函館駅を発車すると、あとは、長万部《おしやまんべ》八時十五分、洞爺八時四十八分、東室蘭九時十八分、登別九時三十二分、苫小牧十時二分、千歳空港十時二十二分と停車し、十時五十七分、終点の札幌に到着したのだった。
この列車の四号車二人用A個室寝台ツインデラックス(A2)の一号室に男の死体があるのを見つけたのは、列車が札幌に着いた後、乗客が全員下車したかどうかを点検にきた赤木という車掌である。
といっても、赤木車掌は初めから死んでいると判断したわけではない。
ドアが閉じていたので、ノックし、応答がないので開けると、正面の窓にはカーテンが引かれ、右側、上下二段になったベッドの下のほうに、男が毛布を頭までかぶって寝ていた。
頭まで毛布をかぶっていたのに、なぜ男と分かったかというと、黒い毛のはえた足が二本、毛布から出ていたからだ。
〈この二人用個室には、女の連れがいたはずだが……〉
と思いながら、赤木が「もしもし」と呼びかけても、返事がない。それで、もう一度声をかけながら毛布を剥《は》ぐと、男――生きていたときとだいぶ変わっていたが昨日見たこの部屋の乗客に間違いない――の心臓のあたりに、木製の柄の付いたナイフが突き立っていたのである。
心臓のあたりを刺されたにしては出血が少ないうえ、ナイフの柄で毛布がテントのようになっていたため、血が毛布の表面まで滲《にじ》み出ていなかったのだった。
ところで、A2には、二段ベッドの他に、椅子、テーブル、ロッカー、ビデオの見られるテレビなどの設備が揃っている。二人用個室なので、もちろん利用するのは二人の場合が多い。が、二人分の個室使用料を払えば一人で利用しても構わないし、二人で利用するはずだったのが急に連れが来なくなって一人で利用する場合もないではなかった。
しかし、この部屋の場合は、男が一人で利用したわけではない。昨日、列車が上野駅を発車して間もなく赤木が車内改札に行ったとき、女が一緒にいた。
着替えでもしていたのか、下段のベッドに載ってカーテンを引いていたので、赤木は女の顔は見なかった。が、ちょっと腕を出して男に切符のある場所を言い、男が女のバッグからそれを取って、自分のぶんと一緒に見せたので間違いない。
どんな声だったか、もう覚えていないものの、若い女性だったのは確実だった。
切符はいずれも札幌までで、赤木は、「それじゃ、ごゆっくり。もし何か御用がありましたら、ご遠慮なくお申しつけください」と言って、ドアを閉めたのを覚えている。
その後、札幌へ着くまでに、赤木は何度もこの部屋の前を通った。しかし、一度も男と顔を合わせていないし、女が部屋を出入りするのも見かけなかった。
男が死んでいる、それも殺されたらしい――と分かったとき、赤木は当然驚いた。
剥いだ毛布をまた死体の上に掛け、部屋を飛び出した。
同僚の車掌か駅員を探し、至急、鉄道警察隊に連絡してもらわなければならなかったからだ。
〈大変なことになった、大変なことになった……〉
彼は、口の中で、半ば無意識にくり返しつぶやいた。
つぶやきながら、頭の片隅では、あの部屋にいた女はどうしたのだろう、と考えていた。どこへ行ったのだろうか。どこで降りたのだろうか。
2
大通公園の南側にある札幌中央署から岩佐《いわさ》刑事たちが札幌駅へ駈けつけたのは、十一時二十二、三分である。
「北斗星5号」の二人用A個室寝台のベッドに男が死んでいた――。
車掌の一人からこの知らせを受けた札幌駅常駐の鉄道警察隊員が五番線ホームに停車中の列車へ行き、男の胸にナイフが突き立てられているのを確認し、道警本部へ連絡してきたのが十一時十分頃。
岩佐たちは、それを道警本部からの出動命令で知った。
だから、当然、道警本部からも捜査員や鑑識課員たちが札幌駅へ急行。岩佐が捜査係長の千葉とともに到着すると間もなく、列車から切り離されて引き込み線に移された問題の四号車周辺は、制服、私服、紺の作業衣を着た警官たちでいっぱいになった。
岩佐たちは、まず道警本部捜査一課から来た久保山警部に挨拶した。それから、久保山が死体の発見者である赤木という車掌に質《ただ》すのをそばに立って一緒に聞いた。
赤木によると、死者は上野から乗車し、上野・大宮間で彼が検札に行ったときは女が一緒にいた、という。
更に死体発見時の模様などを赤木から聞いているうちに、警察医が到着した。
久保山や道警本部の鑑識課員たちが医師につづいたので、岩佐と千葉も彼らのあとから車輌に乗り込んだ。
個室は狭いため、通路に立って、医師の検視(検死)を見まもった。
医師は、鑑識課員を手伝わせて毛布をめくり、全体の観察から始めた。
それから、ナイフ――長さ十四、五センチの細くて薄い刃のナイフだった――を抜いて浴衣を脱がせ、裸にした。
死者の全身を検べ、死後硬直、死斑の状態などを観察した後で、
「首を絞められた跡はないし、胸の刺し傷以外にはこれといった傷もないね」
と、言った。
「酒の臭いがするようですが」
久保山が聞いた。
「うん。アルコールと……それから薬物を一緒に飲んでいる可能性はある」
「それで、熟睡中に刺された?」
「そうかもしれん」
「出血が少ないのは、心《しん》タンポナーデでしょうかね」
「たぶん。血液が心嚢《しんのう》内にたまる心タンポナーデなら、体外への出血は少なくても死亡するので、死因はその可能性が高い」
医師は、つづいて死者の直腸内温度を計り、電気刺激による筋肉の収縮、結膜下に薬物を投与しての瞳孔反応などを見、おおよその死亡時刻を推定した。
それによると、今から十時間から十五時間前、つまり、昨日の午後八時半から今日の午前一時半ぐらいまでの間に死亡した可能性が高い、という。
医師の検視に並行して、死者の持ち物なども調べられ、バッグの中に入っていた自動車運転免許証から、死者の身元は、
船戸研一(三十二歳)
本籍 札幌市西区二十四軒三条×
現住所 東京都板橋区板橋四の××
東海ハイツ二◯三
と判明した。
また、衣紋掛《えもんか》けにかけられたサマースーツのポケットには、名刺も入っており、彼の勤務先、肩書が、
〈ホテル・ニューサクマ経理部管財課主任〉
である事実も分かった。
ホテル・ニューサクマといえば、日本で五指に入る規模とグレードを誇るホテルである。全国の大都市に七、八軒の系列ホテルを持ち、ここ札幌にもその一つがあるが、死者の勤めていたのは東京西新宿のいわば本店であった。
死者の身元が判明した段階で、岩佐は、久保山警部に、道警本部の谷部長刑事と一緒に死者の本籍地を当たるよう命じられた。
死者がなぜ札幌へ来たのかといった事情を聞くと同時に、家族に身元確認をしてもらうためである。
「もちろん、東京の住所、勤務先にはすぐに電話で問い合わせる。そうすれば、車掌が言っていた、上野で一緒に乗ったと思われる女についても何か分かるかもしれん」
久保山の言葉をあとに、岩佐は谷とともに車両から降りた。
谷は四十代半ば、岩佐より十四、五歳上といった感じだった。身長百八十センチ近い岩佐よりだいぶ低く、百六十五センチぐらい。警察官としては小柄なほうだ。髭《ひげ》が濃く、黒縁の眼鏡をかけていた。
なんとなくむすっとしていて取っ付きにくい印象である。駅から出て南口の広場に待っていたパトカーに乗るまで、一言も口をきかなかった。
「二十四軒三条×へ行き、船戸という家を捜してくれ」
運転の警官にも、そう言っただけである。
「急ぎますか?」
運転の警官が聞いた。
「急ぐが、サイレンは鳴らさなくていい」
「分かりました」
警官が答え、パトカーは広場から北五条通りに出、西へ向かって走り出した。
「岩佐君といったな」
谷が顔を向けて、聞いた。
「はい」
不意だったせいもあり、岩佐は緊張して答えた。
「そんなにしゃちほこばらんでもいい」
谷が髭の顔をほころばせた。
歯が煙草のヤニで茶色に染まり、女性には嫌われるかもしれないが、むっつりしていたときからは想像できない、意外に親しみやすい顔だった。
「きみは、ガイシャと一緒にいたという女をどう思うかね?」
「消えている事実から考えても、十中八九犯人じゃないかと思います」
「俺もそう思うが、となると、問題はその女の身元がすぐに割れるかどうか、だな」
「部長は、割れないのではないかと……?」
「どうもそんな気がする。列車の中にナイフを持ち込んで刺し殺し、しかも、車掌に顔を見せていない。これは、計画的な犯行としか考えられないのに、あっさり身元が割れたのでは、計画の意味がない」
「そうですね」
「ところで、さっき医師《せんせい》の言っただいたいの死亡時刻――昨夜八時半から午前一時半まで――の頃、『北斗星5号』がどのあたりを走っていたか、分かるかね?」
「いえ、分かりません」
「じゃ、教えてやろう。先生の説明中に村上君という刑事が車掌に聞いてきたんだが、宇都宮《うつのみや》駅を出たのが八時二十九分だ。そのあと、列車は郡山《こおりやま》、福島と停まって、仙台着が十一時三十二分。そして、仙台に六分間停車して十一時三十八分に出てからは、翌朝つまり今朝六時三十八分に函館に着くまで、運転停車を除いて、ノンストップだ。それで、午前一時半頃はどのあたりを走っていたかというと、花巻と盛岡の間だそうだ」
「では、殺人が行なわれたのは宇都宮と盛岡の間?」
「うん」
「ということは、犯人は昨夜のうちに郡山か福島か仙台で降りていなければ、津軽海峡を渡っている、というわけですか」
「そうなる。津軽海峡を渡っても、函館で降りたのか、札幌まで来ているのかは分からんが」
「いずれにしても、郡山、福島、仙台、そして函館以降の降車客を調べてみる価値はありますね」
「遺体の解剖が行なわれれば、もう少し死亡推定時間の幅が小さくなり、犯人の降りた可能性のある駅も減るかもしれん」
谷が言ったとき、パトカーがバス通りから住宅街の道へ入って停まった。
「三条×というと、このあたりですが、船戸という家があるかどうか聞いてきましょうか?」
運転の警官が振り向いて聞いた。
「いや、いい。ここで待っていてくれ。俺たちが探す」
谷が答え、ドアを開けた。
岩佐も反対側から降りた。
路上駐車された車が二台あるだけで、人の姿のない静かな通りだった。
正確な場所は分からないが、何度か通ったことのある、琴似《ことに》公園の近くらしい。
尋《たず》ねるまでもなく、石の門に船戸という表札の掛かった家は二、三分で見つかった。
それほど大きくないが、石塀に囲まれた、なかなか立派な家だ。
「ここのようだな」
谷が言い、鉄製の門扉《もんぴ》の間から植込みの庭を覗き込んでから、岩佐を振り返った。
車の中で見せた親しみやすい顔は、再びむっつりとしたものに変わっていた。
いや、むっつりというより、どこか苦しげな表情だった。
岩佐もそうだが、できれば誰かに代わってもらいたい役目だからだろう。
誰が出てくるか分からないが、お宅の息子さんと思われる方が殺されました、と知らせる役は辛い。
といって、ぐずぐずしているわけにゆかないので、谷がインターホンのチャイムを鳴らした。
「はい」
という弾《はず》むような女の声。
被害者の母親にしては若すぎるようだ。
谷が身分を告げた。
「警察……」
途端《とたん》に、女の声は低く、訝《いぶか》るようなものに変わり、「ちょっとお待ちください。いま、参りますから」
待つ間もなく玄関のドアが開き、三十四、五歳と思われる女性がサンダルをつっかけて出てきた。
顔に不安の色が張りついていた。
「こちらは、東京のホテル・ニューサクマにお勤めの船戸研一さんのご実家でしょうか?」
谷が確認した。
「はい……」
女が門扉を開けようとした手を止め、うなずいた。
「では、中へ入れていただけませんか」
「あの、弟が何か?」
「お姉さんですか。研一さんのお父さんかお母さんはおいでですか?」
「おります。母といっても、私や研一の本当の母は十年以上前に亡くなりましたので、義理の母ですが」
女が門扉を開け、
「あの、弟が何かしたんでしょうか?」
同じ問いを繰り返した。
「亡くなりました」
「弟が……弟が、死んだんですか!」
女がまだ完全には呑み込めないといった表情をして、谷の顔を見つめた。
「まことに辛いお知らせなんですが」
谷が小さく頭を下げた。
「で、でも、弟は、今日、結婚したいという女《ひと》を父や私に紹介するために札幌へ……あ、それじゃ、途中で交通事故にでも?」
「いえ」
「では、どうして……どうして、弟は死んだんですか? 私たち、待ってたんです。『北斗星5号』で着くというので、待ってたんです。私も今朝早く実家へ来て……」
女が途中から涙をぼろぼろ流し始めた。
そのとき、玄関のドアが開き、きちんとネクタイを締めた六十年配の男が顔を覗かせ、
「どうしたんだ、そんなところでいつまでも?」
と、聞いた。
「お父さん、研一が、研一が……」
女が振り向き、近づいてきた男の胸に抱きつき、泣き崩れた。
岩佐たちは玄関へ入り、研一の父親、姉、義母の三人に簡単に事情を説明し、身元を確認してもらうため、父親の弥一《やいち》と姉の多美江を札幌駅へ伴なった。
死者が確かに船戸研一に間違いないと判明した時点で、鉄道警察隊の部屋へ二人を連れて行き、あらためて話を聞いた。
パトカーの中でだいたいの事情は聞いていたが、詳しく質したのである。
二人によると、研一は、父親が四年前に再婚してから、ほとんど実家へ帰らなかった。それが、半月ほど前、結婚したい相手ができたので紹介したい、と突然弥一に電話してきた。
弥一はもとより、弥一からその話を聞いた多美江も喜んだ。彼女は結婚して恵庭《えにわ》に住んでいたが、研一はたった一人の兄弟だったからだ。
研一からは、一週間ほど前もう一度弥一に電話があり、札幌着十時五十七分の「北斗星5号」に乗るという。
そのため、弥一夫婦と多美江は、遅くとも十一時半には来るだろうと思い、首を長くして待っていた。そこへ谷がチャイムを鳴らしたため、多美江はてっきり研一たちだと思い、弾んだ声を出したのであった。
「研一君が連れてくると言った女性に関して、何か聞いていませんか?」
谷が肝腎《かんじん》の点を尋ねた。
「ええ」
と、弥一が答えた。
彼は、息子の遺体と対面しても、多美江のように取り乱したりはしなかったが、顔に血の色はなかった。
「全然?」
弥一がうなずいた。
「どこの何という人か、聞かなかったんですか?」
「聞きましたが、会ったとき話すからと言うだけで……。ただ、きちんとした勤めを持っている女性だから心配しないで、とだけは言っていましたが」
「お姉さんから研一君に電話するとか、研一君からお姉さんに電話がかかってくるといったことはなかったんですか?」
谷が多美江に聞いた。
「研一からかかってくるのは年に一、二回でしたが、私のほうからはもう少ししていました。父に聞いてからも二度ほどかけたんですが、留守だったんです」
「そうですか」
「もし母が生きていれば、研一ももっといろいろ話していたと思うんですけど……」
多美江が言い、ちらっと恨めしそうな視線を父親に向けた。
どうやら、谷の予想――女の身元は簡単には割れないのではないかという予想――は、今のところ当たっているようだった。
谷が最後に、研一と親しくしていた札幌在住の友人について質すと、多美江が道庁に勤める鎌田|敦夫《あつお》という男の名を上げた。
「今もお付き合いしているかどうか分かりませんが、高校時代にはよく遊びに見えていました」
3
岩佐が谷とともに札幌市内、小樽、余市と歩き回り、札幌中央署へ帰ったのは、午後六時近くだった。
すでに捜査本部が開設され、捜査の日常的な指揮をとる捜査主任官には久保山警部が任命されていた。
岩佐たちは、研一の父親と姉の話を聞いた後、まず道庁を訪ねて鎌田敦夫に会い、つづいて鎌田から聞いた、研一が比較的親しくしていた友人四人に会ってきたのである。
だが、鎌田を含めた誰も、研一が結婚しようとしていた女について聞いている者はいなかった。
こうなると、頼みは、被害者が生活していた東京の捜査である。
警視庁の捜査共助課が死者の勤め先や友人に当たってくれているはずなので、そこから研一が親しくしていた女――上野で彼と一緒に「北斗星5号」に乗ったと思われる女――の身元が割れていないか、と彼らは期待しながら帰ってきた。
しかし、ここでも彼らの耳にしたのは、東京からこれといった情報は入っていない、という話だった。
今、下の署長室では、道警本部から刑事部長、捜査一課長らも来て、久保山と打ち合わせをしているらしい。だから、はっきりした事情は七時から開かれる第一回捜査会議で報告されるはずだった。が、デスクを担当している宮田という警部補が言うのだから、間違いないだろう。
「それで、お偉方《えらがた》が困り、額を集めて策を練っているわけか」
谷が言った。
敬語は使わない。
階級は彼のほうが宮田より下だが、年齢は七、八歳上のようだし、親しい間柄だからだろう。
「うん。明日にも、こちらから捜査員を東京へ遣《おく》るつもりのようだ」
宮田が答えた。
「『北斗星5号』の停車駅の調査はどうなっているのかね?」
「そっちからも、まだこれといった報告は入っていない」
「そうか」
谷と宮田が話している間にも、捜査員たちが続々と帰ってきた。
そして、やがて七時になり、久保山の司会で会議が始まった。
第一回なので、捜査本部長である刑事部長と、副本部長である捜査一課長、札幌中央署署長の挨拶があり、それから鑑識課長らによる具体的な報告に移った。
すでに解剖結果が届き、死因は警察医の見立てどおり、ナイフで心臓部を刺された結果の心タンポナーデと判明していた。
死亡推定時間は多少幅がせばまり、〈昨夜十時から午前一時までの間〉。列車の運行でいうと、九時五十六分に郡山を出ているので、それから水沢あたりまでの間、だという。この間、列車は、十時三十分から一分間福島に、十一時三十二分から六分間仙台に停車するだけである。だから、犯人の降りた可能性のある駅は、昼、岩佐が谷と話したのより郡山が一つ減ったにすぎなかった。つまり、福島か仙台で降りていなければ、函館以後というわけであった。
もう一つ重要な点は、被害者の血液からアルコールと睡眠薬が検出された、という事実だった。
これにより、被害者は酒と一緒に睡眠薬を飲み、熟睡中に殺されたのはほぼ確実と見られ、いよいよ赤木車掌が上野・大宮間で検札に行ったとき被害者と一緒にいたという女に対する容疑が強まった。
その女なら、被害者に睡眠薬を飲ませるのは簡単だったはずだし、熟睡中の殺害も容易だっただろうからだ。
だが、宮田が言っていたように、その女に関しては、今日のところはまだ何も分からなかった。
女が持ち去ったのか、被害者のスーツのポケットやバッグに手帳、電話帳の類《たぐ》いは見つからなかったし、警視庁の刑事が簡単に捜したかぎりでは、彼のアパートの部屋にも、そうした物はなかったのである。
警視庁の刑事は、被害者の職場にも当たってくれた。しかし、彼には特に親しくしていた同僚がいなかったらしい。交際している女性がいるとは仄《ほの》めかしていたものの、名前や年齢、勤め先などは誰にも明かしていなかった。
報告が済むと、討論に移った。
その中で、道警本部からきた田嶋という刑事が、「北斗星5号」から消えた女にばかり目を向けていていいのだろうか、と一つの疑問を呈した。
「犯人はその女――と決めてしまっていいんでしょうか?」
彼は言った。
「女が車掌に姿を見せていない点、消えてしまっている点、それにガイシャに睡眠薬を飲ませているらしい点――などから考え、九分九厘間違いないと思うが、捕えてみないうちはもちろん確実なことは分からない。だから、決めているわけじゃない」
久保山が答えた。
彼は四十二、三歳。中肉中背で、浅黒い精悍《せいかん》な顔をした男だった。
「女が犯人じゃないとして、他に具体的な可能性が考えられるのかね」
本部長が田嶋に聞いた。
「いえ、そういうわけではありませんが、その女が犯人の場合、なぜ列車の中で殺したのか、列車の中で殺すことにそんなにメリットがあったのか、と考えたものですから」
「なるほど。ガイシャと親しい女なら、ガイシャのアパートの部屋でもどこでもその機会はあったはずだし、列車よりむしろ安全だった、というわけだな」
「はい」
「そうか……」
「これは、何らかのメリットがあったと考えるべきじゃないでしょうか。少なくとも別の犯人を想定するよりは、可能性が高いと思います」
谷が言った。
「私もそう思いますね」
久保山がつづけた。「女が犯人でないなら、女は事件と関係ない何らかの事情から途中下車し、その後、別の人間が被害者の個室を訪ねて睡眠薬を飲ませ、ナイフで殺害した。こうなります。
絶対にありえないことはないでしょうが、非常に可能性が薄いと思います」
「なるほど。では、谷チョウの言った列車で殺すメリットということで、何か思い浮かぶ点はあるかね?」
「もしかしたら犯人のアリバイに関係しているのではないかとも思いますが、分かりません」
「アリバイか……。いずれにしても、消えた女を突き止めないかぎり、何も分からんというわけだな」
本部長が言ったが、それが結論だった。
たとえ女が犯人でなかったとしても、重要な参考人である点は変わりがない。
とすれば、その女の特定、発見が捜査の最重要課題であるのだけは疑問の余地がなかった。
会議はそれから三十分ほどつづき、最後に明日の役割分担を決めて、終わった。
東京へは、谷と岩佐が派遣されることに決まった。
4
翌二十二日(水曜日)――。
前夜、小泊《こどまり》の旅館に泊まった美緒と壮は、朝食を終えるとタクシーを呼んでもらい、権現崎《ごんげんざき》の登り口である下前《したまえ》という集落へ向かった。
津軽の空は、今日もよく晴れていた。
いや、も、というのは、多少訂正が必要かもしれない。
昨夕、美緒たちは、小泊へ来る途中、天の底が抜けたようなどしゃぶりの夕立に出会ったのだから。
昨日、美緒たちは、金木の斜陽館の取材を終えると、同町内の県立芦野公園まで十五、六分歩き、太宰の遺品の机、原稿、衣類などを展示した歴史民俗資料館や、太宰の好きだったというフランスの詩人ヴェルレーヌの言葉、〈撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり〉が刻まれた太宰治文学碑を見学した。それから、桜の木のトンネルを戻って芦野公園駅で再び津軽鉄道のディーゼルカーに乗り、終点の津軽中里へ向かった。
芦野公園と津軽中里の間は十分ほど。ディーゼルカーを降りて、閑散とした駅前広場へ出たのは、四時半頃だったろうか。
タクシーが一台待っていたので、美緒たちは乗り込み、十三《じゆうさん》湖と日本海を隔てる十三湖大橋を通って小泊まで行ってくれるよう、頼んだ。
「小泊でしたら、十三湖の東側を通る国道339号線を行ったほうが近いですが、いいんですか?」
と、運転手が振り向いて聞いた。
「ええ、かつて栄えたという十三湊《とさみなと》を見たいですから」
と、美緒は答えた。
「何もありませんけどね」
運転手は、物好きな客だとでも言いたげにつぶやきながら顔を前に向け、車を発進させた。
タクシーはすぐに中里の町を抜け、国道339号線を越えて、農道のような道を西へ向かい始めた。
人家はなく、周りは水田だけ。十三湖に流れ込んでいる岩木川の最下流域に広がる穀倉地帯らしい。窓からは、左手(南の)かなたに岩木山がかすかに認められた。
そのとき、一天にわかにかき曇り……というのは大袈裟《おおげさ》だが、国道を越えるあたりでは前方に見えていた黒い雲が、見るみる頭上を覆《おお》い出したのだった。
雨雲は、湖からの上昇気流によって作られたのかもしれない。それが次第に広がったのか、それとも、雲の下へタクシーのほうが入って行ったのだろうか。いずれにせよ、フロントガラスをぽつぽつと大粒の雨滴が叩き始めたかと思うと、いきなりバケツの水を流したようなどしゃ降りに変わった。
タクシーはバス通りへ出て、北へ向かい始めた。
が、外の景色はほとんど見えない。ヘッドライトを点け、ワイパーを最高速で動かしても、フロントガラスを流れ落ちる水に、視界は一瞬にしてくもってしまう。
道路は川のようになり、聞こえるのは、車輪が水を左右に押し分けて走る音と、雨が屋根を叩く音だけ。
美緒は怖かった。自分の顔が強張《こわば》っているのが分かった。壮の右腕を両手でぎゅっと抱きしめ、雨が止むのを待ちつづけた。
雨は十二、三分で小降りになり、間もなく十三湖大橋に着いた。
小降りになったとはいっても、止んだわけではない。
美緒たちは橋の手前にタクシーを停めてもらい、バッグから折り畳みの傘を取り出し、降りた。
それを差し、橋の中央へ向かう。
右側が湖、左側二、三百メートル先は日本海だった。
十三湖は、冬には白鳥が飛来し、シジミの獲《と》れる湖として知られている。面積二十ヘクタール、周囲三十キロ余りと、かなり大きな湖である。だが、かつては、この数倍の広さがあったという。流れ込む川の堆積作用が盛んなため、水深も次第に浅くなり、現在は最も深いところでわずか二メートルたらずしかないらしい。太宰は『津軽』の中でこの湖を、
〈浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である………ひっそりとしていて………人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬというような感じだ〉
と書いているが、今は、その湖面だけでなく、反対側の海面も、空も、みな何も写らない灰色だった。
橋の手前に十三《じゆうさん》の集落があり、向こうにも人家が見える。湖側の漁港には小舟が何艘ももやってあったが、人影はない。
寂しい光景だ。
ここが、鎌倉・室町時代、安東《あんどう》氏の本拠地として栄えたという十三湊《とさみなと》なのだった。
「ここが十三湊か。今のすがたからは、『十三往来』に書かれているという『夷《い》船京船、群集し、湊は市を成す』という光景はとても想像できないわね」
美緒は壮に話しかけた。
さっき、斜陽館で買って読んだ、津軽の歴史と『東|日流外三郡誌《つがるそとさんぐんし》』に関する解説本から仕入れた、にわか知識である。
「ええ」
と、壮がうなずいた。
アイスコーヒーを飲みながら、美緒と交替で彼もその本に目を通してあったからだ。
ところで、『東日流外三郡誌』というのは、かつて津軽を支配した安倍《あべ》・安東《あんどう》一族の家史であると同時に、十三湖畔に築かれた津軽王国の興亡を描いた古文書だという。古事記、日本書紀が大和朝廷という勝者の側から書かれた歴史なら、こちらは敗者の側からの記録だという。
元は、江戸時代、磐城《いわき》の三春城主・秋田|倩季《よしすえ》が先祖の安倍・安東氏に関する記録の収集を行なったもので、その後、何度も書き写されたり、書き足されたりしてきた。
最初の取材が江戸時代であり、しかも原本が存在しないため、内容の信憑性に関しては疑問を投げかける者も少なくないらしい。が、古事記や書紀が歴史の一部の事実を映していると考えられるように、こちらも頭から否定しさることはできない、と美緒は思う。やはり、歴史の事実、真実の一部を映していると見るべきであろう。
それはともかく、十三湊がかつて日本の三津七湊の一つとして栄えたのだけは、確実らしい。室町時代の初め、大津波によって壊滅的な被害を蒙ったが、やがて復興され、日本海航路の北の拠点として繁栄を取り戻《もど》したのも事実らしい。ところが、江戸時代に入り、津軽藩によって鰺《あじ》ヶ|沢《さわ》港が整備されるにおよんで衰微していったようだ。
美緒たちは、湖と日本海をバックに二、三枚写真を撮り合い、橋の中頃に待っていたタクシーに乗った。
道路は途中で国道339号線に合流し、海岸線を北上していた。
小泊までは約十キロメートル、タクシーで十五分ほどの距離だ。
前方に、日本海に向かって四、五キロ小山のように突き出した半島を見ながら走る。半島は小泊半島、その先端が権現崎《ごんげんざき》(小泊岬)である。
半島は、初め雨でぼっとかすんでいた。が、次第に輪郭《りんかく》が鮮明になってゆく。そして、南傾地の下にかたまった家々の一軒一軒が見分けられるところまで近づいた頃、雨が止み、再び青空が覗き始めた。
美緒たちは、半島の反対側の付け根まで行って、タクシーを降りた。
そこが、北津軽郡小泊村字小泊。
人口五千人余りの村の中心であり、狭義の小泊である。
太宰が『津軽』のラストで、彼の育ての母とも言うべき女中の越野たけを訪ねてきた小泊港もここのことだ。
太宰は、このラストの出会いを、彼にしては照れずに、素直に感動的に描いている。彼はもう早くたけに会いたくて、他のことはみな上《うわ》の空《そら》。バスを降りるや、歩いている人をつかまえて聞き、家を訪ねる。と、運動会に行っていると言われ、国民学校まで行く。が、群集の中を尋ね回るが会えない。諦めてバス停まで戻り、念のために留守宅を覗き、たけの子供(少女)に出会う。そうしてもう一度運動会に戻り、ようやくたけに再会する。少女と入れ違いに、たけが掛け小屋から出てきたのだ。
〈……たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ」私は笑って帽子をとった。
「あらあ。」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも……〉
こうして、およそ三十年ぶりに出会っても、たけはほとんど喋らない。太宰をそばに座らせ、運動会を見つづける。
だが、太宰は、
〈……けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思う事がなかった。何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか〉
と、まったく手ばなしで充足しきっているのである。
太宰の「母をたずねて三千里」の物語は以上だ。そして、今、太宰とたけが並んで運動会を見ているブロンズ像が小さな丘に建てられ、小学校の庭を見おろしている。
それはともかく、小泊村の中心はこちらであり、旅館や民宿もほとんどこちらの海辺に集中している。美緒たちも、昨夜その一軒に泊まった。
ところが、この小泊集落から権現崎へ行く山道は距離が相当あるうえ、あまり整備されていないらしい。宿の女主人に聞いても、権現崎ならみな下前から登る、という。
そこで、美緒たちはタクシーを呼んでもらい、同じ小泊村の下前という集落へ向かったのだった。
下前は、昨日、十三湖から来る途中、半島の南傾地の下に見えていた漁村だった。
タクシーは半島の反対側へ出ると、ジグザグに海辺まで下った。
道は二本に岐《わか》れていたが、すぐに一緒になり、あとは一本道のようだ。狭い。右側には斜面にへばりつくように小さな家が並び、左側は漁港である。
運転手によると、車道は間もなく行き止まりになり、そこから権現崎の断崖へ登る遊歩道が付いているのだという。
美緒が、港にひしめき合う、大きな裸電球を沢山|吊《つ》り下げたイカ釣り船のほうを見ていると、
「美緒さん、あの人、江副さんじゃありませんか」
と、不意に壮が言った。
「えっ?」
美緒は顔を前に振り向け、彼が目顔で示す前方を見た。
大きなスポーツバッグを肩から下げ、右側の民宿らしい家の石段を降りてきたのは、確かに千晴だった。
サングラスを外し、どことなく浮かない、何かを考えているような顔である。
一人だ。
昨日、斜陽館に一緒にいた友達――「あけぼの1号」十七番寝台の女性――とは、また別れたのだろうか。
「運転手さん、すみません、停めてください」
美緒は慌《あわ》てて言った。
運転手が急ブレーキをかけ、タクシーは千晴の四、五メートル手前で停まった。
千晴は、ちょうど石段から道路に降り立ったところだった。
ブレーキの音にびっくりしたような顔が、今度は美緒たちに気づいたらしく、別の驚きの表情に変わった。
唇にかすかに笑みを浮かべ、タクシーに近づいてきた。
切れ長の目をした綺麗な顔だ。
右側に座っていた美緒は窓を開け、
「ここに泊まられたんですか?」
と、聞いた。
「そう」
と千晴が答え、壮のほうへ目をやって、頭を下げた。
「お一人で?」
美緒は更に聞いた。
すると、千晴が顔をくもらせ、黙って首を横に振った。
それを見て、美緒は、昨日の友達と喧嘩でもしたらしいと想像し、それ以上聞くのをはばかった。
「昨日、斜陽館にいたお友達――下村保津美っていう高校時代のお友達なんだけど――彼女と一緒に泊まったの。でも、彼女、いなくなっちゃったの」
十秒ほど間《ま》をおいて、千晴のほうから言った。
「いなくなった!」
美緒は驚いて聞き返した。
千晴がうなずいた。
「いつですか? ……あ、その前に、昨日、斜陽館から真っ直ぐここへ来られたんですか?」
「ええ。笹谷さんたちの後で間もなく私たちも斜陽館を出て、バスで小泊まで来たの。そして、民宿に荷物を置いて、権現崎に登ったの」
「それじゃ、下村さんという方がいなくなったのは、そのあと……夜ですか?」
千晴がまたうなずいた。
「どうして……?」
「分からないわ」
「力になれるかどうか分かりませんけど、もし差し支えなかったら、そのときのことを話していただけませんか」
「ありがとう」
千晴が礼を言って話しだした。
「夕食が済んでからだから、八時半頃だったかしら。ちょっと散歩してくるってひとりで出て行って、そのままなの。権現崎に登ったとき雨に降られて疲れていたので、私は行かなかったんだけど」
「捜されたんでしょうか?」
「ええ、もちろん。四、五十分|経《た》っても帰らないので、心配になり、港のあたりとか、権現崎の登り口とか、十時半過ぎまで捜したわ。それでも、どこにもいないので、民宿の人に相談して、一応警察に届けたの。交通事故に遭うとか、海にでも落ちていたら大変だと思って。でも、駐在所のお巡りさんがそれから更に二時間ほど近くを捜したり、聞き歩いたりしてくれたんだけど、そんな形跡はどこにもないからって……」
「そうですか。不思議ですわね」
「ええ。……あ、でも、下村さん、ちょっと身勝手なところがある人なので、車で通りかかった男の人にでも誘われ、どこか行ってへ泊まったのかもしれないわ。それで、何となく私に連絡しづらくて、ぐずぐずしているんじゃないかとも思うの。お巡りさんの話では、九時半頃、白い車が半島の付け根のほうへ出て行くのを漁港前で見た人がいたそうだし」
千晴が、気を変えるように、唇に笑みをにじませたとき、
「すみませんが、ここでいいですかね?」
人の良さそうな運転手が振り向き、遠慮がちに聞いた。
「あ、す、すみません」
美緒は慌てて謝った。「結構です」
「権現崎の登り口はすぐ先ですから」
「はい、申し訳ありませんでした」
美緒が答えると、壮が半端《はんぱ》をチップにして料金を払い、降りた。
美緒もつづく。
荷物は宿へ置いてきたので、持ち物は小さなショルダーバッグとカメラだけだ。
タクシーがバックし、方向を変えた。
走り出そうとしたとき、
「あの、すみません」
と、千晴が手を振り、走り寄った。
運転手が窓を開けた。
「私を、小泊の駐在所まで乗せて行ってくれませんか」
「はあ、どうぞ」
「それじゃ、失礼します」
千晴が、美緒と壮のほうへ体を回し、腰を折った。「もうしばらく近くをぶらぶらして、下村さんを待ってみようかと思っていたんですけど、下前にはタクシーの営業所がないそうですし、折角ですから、乗せて行ってもらうことにします」
「これから、どちらへ?」
美緒は聞いた。
「駐在所に寄って昨夜のお礼を言い、竜飛《たつぴ》へ行きます」
「じゃ、私たちと同じ。私たちはこれから権現崎へ登ってから、竜飛崎へ向かいます」
「それじゃ、またお会いできるかもしれないわね」
千晴は、美緒たちと話して少しすっきりしたのか、明るい声で言い、タクシーに乗り込んだ。
美緒たちは、彼女を見送ってから、反対方向へ歩き出した。
「なんだか、ちょっと妙ですね」
壮が首をひねって言った。
「妙って、下村さんという人の行動?」
美緒は相棒の顔を覗き込んだ。
「それもですが、江副さんもです」
「江副さんのどこが妙なの?」
「友人が一晩帰らないというのに、さっさと次の目的地へ行ってしまったという点です」
「でも、それは仕方ないわ。下村さんのほうが悪いんですもの。黙ってどっかへ行ってしまうなんて」
「それはそうですが……」
壮はまだ納得しきれない様子だった。
5
権現崎の登り口は、四、五分歩いたところだった。
駐車場が造られるとかで、登り口の斜面が一部、無残に削られていた。
車道はそこで行き止まりになっていて、岬の先端を回る海岸沿いの道はない。
そのかわり、右側に山へ登る細い遊歩道が付いているのだった。
山は尾崎山と言い、海抜二三〇メートル。その先端の断崖が権現崎である。
美緒たちは階段が付けられた道を早速登りにかかったが、かなり急な勾配だ。すぐに全身から汗が噴き出し、二人ともハーハーと荒い息を吐いた。
ほんの数分登っただけでひと休みした。
振り返ると、夏草と灌木の茂みの間に、よく整備されたコーヒーブラウンの小道とそれにつづく階段の小道が綺麗に下り、だいぶ下になった海面が、きらきらと朝日を反射している。
昨日通った十三湖のあたりの海岸線だろうか、かなたに、海面よりわずかに高いだけの陸地がシルエットになって伸びていた。
その後も何度か休み休み登ると、やがて遊歩道は林の中へ入り、振り返っても海が見えなくなった。
傾斜がゆるくなったので、美緒たちは多少スピードを上げた。そして、登り始めてから三、四十分、安東水軍が熊野権現を祭ったという尾崎神社に着いた。
鮮かな朱色の鳥居をくぐると、樹木に囲まれた狭い境内があり、正面が社殿だ。
美緒たちは、その社殿の右側から裏へ登った。
すると、視界が一気にひらけ、鉄柵でガードされた天然のバルコニーが張り出し、作りつけの木のベンチが置かれていた。
そこが権現崎であった。
鉄柵の外側は断崖が海に落ちこみ、百八十度以上の眺望がきく。
日本海を行く者には恰好《かつこう》の目印だったというが、前はどこを見ても空と海。
船が二隻、左の岩陰から現われ、白い航跡を描いて視界を横切ってゆく。
案内板の矢印の方向に、北海道松前沖の大島、小島は見えなかったが、右手かなたに竜飛崎は認められた。
「夕陽がとっても素敵だっていうけど、残念ながらそれまでは待てないわね」
美緒が言うと、
「ええ」
と、壮がうなずいた。
「それにしても、下を見ると怖いわ」
美緒は柵からちょっと身を乗り出し、断崖の下を覗きながら、言った。
柵の外側にも多少の余裕はあるが、足をすべらせたら終わりだった。
美緒たちは断崖の上に十分ほどいて、神社の横に造られた展望台に移った。
展望台を降り始めたとき、話し声がして、二十歳前後の二人の女性が神社の境内へ入ってきた。
美緒たちが階段を降りきり、参道のほうへ出て行くと、二人はびっくりしたような顔をして、足を止めた。たぶん、人がいるとは思わなかったのだろう。
互いに「こんにちは」と挨拶し合い、美緒たちは鳥居のほうへ向かい、女性たちは社殿の裏へ登って行った。
「遊歩道を登り始めてから、人に出会ったのは初めてだわ」
美緒は振り返り、鳥居をくぐりながら言った。
今まで意識しないできたが、東京近辺の観光地ではとても想像できない。
ここは、国定公園である。車で来れないとはいえ、わずか三、四十分汗を流せば、素晴らしい眺望を満喫《まんきつ》できる。それなのに、この静かさはどういうわけだろう。どこの観光地へ行っても、人、人、人……に慣れている身にとっては、ちょっと不思議に思えた。
「北津軽って、それだけ遠いっていうことかしら?」
「そうですね……確かに大都会から遠いという理由もあるかもしれませんが、単にそれだけじゃないと思います。遠いというだけなら、他にもいくらでも遠い観光地がありますし」
壮が応じた。
「じゃ、なーに?」
「やはり、近くに、核になる観光地がないからじゃないでしょうか。遠くて不便でも、中心になる観光地があれば、そこへ来た人たちがついでに足を延ばしますから」
「でも、素敵なところなのに」
「といっても、十三湖やこの権現崎、竜飛崎だけでは、大勢の観光客は呼びにくいと思います」
「そうか。もし、ここが十和田湖から車で一、二時間で来れるところだったら……というわけね」
「そうです。もっとも、僕個人の希望としては、日本中が人と車で溢れてしまうより、こういう場所があったほうがいいですが」
「観光に力を入れている地元の人の立場からすれば、それでは困るんでしょうけど、都会に住んでいる私たちの勝手な希望からしたら、そうね」
「ええ」
美緒たちの希望どおり、帰り道も誰にも出会わなかった。
二人は、うぐいすの声を聞きながら、途中からは、どんどん近づいてくる海へ向かって下って行った。
時間は登りの半分もかからずに、十五分ぐらいだったろうか。登り口の鳥居の下に立ったのは、十一時二、三分前。
これから、タクシーで小泊まで行って旅館から荷物を取り、そのまま竜飛崎へ行く予定だった。昼を少し過ぎるかもしれないが、昼食は竜飛で取ることになるだろう。
そんな話をしながら、美緒たちは人影のない道を歩き出した。
さっき乗ってきたタクシーの運転手によると、以前は下前にもタクシーの詰所があったが現在は営業していないという。だから、小泊から呼ばなければならないのだが、漁港前まで一キロほど行かないと電話がないのだった。
「下村さんという方、帰ってきたかしら」
江副千晴の出てきた民宿の手前まできたとき、美緒は気になって言った。
「どうでしょう」
壮が応えた。
「荷物を置いたままだっていうから、竜飛へ江副さんを追いかけるにしても、一度はここへ帰ってくるはずよね」
「と思いますが」
美緒たちは民宿の下まで来た。
石段の上を見ると、狭い庭で主婦らしい四十年配の女性が洗濯物を乾していた。
「聞いてみようかしら?」
美緒は足を止め、壮の顔を見やった。
壮が、どうかな……というように首をかしげた。
そのとき、主婦がシーツを広げていた手を止め、美緒たちのほうを振り向いた。
「こんにちは」
美緒は挨拶した。
「こんにちは」
主婦が応える。
タイミングだった。
「あの、私たち、昨夜ここに泊まられた江副千晴さんの知り合いの者なんですけど、下村さんはお帰りになられたでしょうか?」
美緒は尋ねた。
「いえ、まだなんです。そうですか、江副さんのお知り合いですか……」
主婦が心持ち表情をやわらげて二、三歩寄ってきた。
「はい」
「ほんとに、どこへ行かれたのか……」
目に不安そうな翳《かげ》が覗く。
「それじゃ、まだ荷物はそのままに?」
「ええ」
「電話もないんですか?」
「そうなんです。少し前、江副さんは竜飛から電話してみえたんですけど。もう十一時を過ぎるというのに……」
主婦の言葉には、下村保津美に対する非難の気持ちがにじみ始めた。
それは当然だろう。
下村保津美にどういう事情があろうと、一人前のおとなのすることではない。
美緒たちは、主婦に仕事を中断させた詫《わ》びを述べ、「失礼します」と頭を下げて石段の前を離れた。
「下村さんて、いったいどういう人なのかしら、変な人ね」
美緒は他人事ながらちょっと腹を立てて、壮に話しかけた。
「…………」
「江副さんのお話では、かなり勝手なところのある方だっていうことだったけど」
「それにしても、妙ですね」
壮が不意に言った。
「妙?」
「たとえ昨夜は誰かと泊まったとしても、いまごろになってもまだ何の連絡もないという点です」
「だから、変な人なのよ」
「変な人でも、電話ぐらいかけるんじゃないでしょうか」
「じゃ、あなたはどう考えるの? もしかしたら、電話できない状態になっているとでも思うわけ?」
「その可能性もあるんじゃないでしょうか」
「そうか……」
美緒は緊張してうなずいた。
そう言われれば、確かにその可能性は十分に考えられる。
「でも、電話できない状態っていったら、誰かに監禁されているとか、人知れず大|怪我《けが》をして動けないでいるとか、何かの事故か事件に巻き込まれ、すでに亡くなっているとか……だけど」
「ええ」
「あなたは、具体的にどういう可能性が一番高いと考えるの?」
「そこまでは分かりません」
「自分の撥ねた被害者を車に乗せ、山の中へ運んで放置した、といった悪質な轢《ひ》き逃げ犯がこの前いたわね」
「巻き込まれではなく、誰かに計画的に何かされた可能性もないではありません」
「誰かって、こんなところまで来て……あ、そうか、もしかしたら江副さん!」
「いえ、そういうわけじゃありません。一般的に言っただけです」
壮は言ったが、彼の中に千晴に対する疑いがあるのを、美緒は感じた。
客観的に見たら当然だろう。
もし、下村保津美が誰かの計画的な犯罪によって所在不明になっているとしたら、彼女と一緒にいた千晴が一番怪しいに決まっている。
美緒としては千晴を信じたい。とはいえ、中学の先輩・後輩といっても、その期間はわずか三ヵ月。美緒だって、千晴について何も知らない。彼女がどういう性格の女性なのか、どこに勤め、どういう生き方をしてきたのか、高校の同窓生だという下村保津美とは本当に仲の良い友達なのか……。
「もうやめましょう。想像でものを言っても始まりませんから」
壮がその話題を打ち切るように言った。
美緒も「ええ」とうなずいた。
漁港は、人の動きが少なかった。朝早く帰港した漁師たちが、ちょうど寝《やす》んでいる頃なのだろう。ただ、通りには、商店に出入りする人々や子守りをしている老婆、遊んでいる子供たちなどの姿が朝より増えていた。
電話ボックスは、港の反対側(左側)の道路より一段高くなったコンクリートの上にあった。
美緒は、壮を残してそこに入り、さっき運転手にもらった名刺に記された番号をプッシュした。
電話に出た女性は三十分ほど待っていてくれと言ったが、タクシーは十五、六分でやってきた。
朝の運転手ではない。
美緒たちは、一旦小泊の宿へ行ってもらい、荷物を取って、竜飛崎へ向かった。
小泊と竜飛の間は、海沿いの道から山の上へ登って走る竜泊《たつどまり》ラインという国道339号線が通っている。
眺めもよく、有料道路にしてもおかしくないぐらいの快適な道路だ。
運転手によると、かつては林道を、津軽海峡に面した三厩《みんまや》まで出て、海峡沿いの道を西北に向かって竜飛――竜飛も三厩村だが――まで行かなければならなかった。それが、この竜泊ラインの開通により、三角形の二辺を行くかわりに、一辺を行けば済むようになったのだという。当然、所要時間も大幅に短縮され、一時間半近くかかっていたのが、四十五分前後になった――。
ただし、この竜泊ラインを通れるのは夏だけ。毎年十一月の半ばごろから五月の連休前ころまでは、門が閉じられ、通行止めになる。もちろん積雪のためであり、坂が多いので、スリップ事故防止のためだという。
「それじゃ、冬の間は、小泊から竜飛へ行くには、以前と同じように三角形の二辺を回らなければならないんですか?」
美緒が聞くと、運転手は当然じゃないかというように、
「そんです」
と、言った。
タクシーはゆっくりと走った。
都会のタクシーのように、やたら飛ばさない。
四十分ほどで、眺瞰《ちようかん》台という、小さな公園のようになった見晴らし台に着いた。南の岩木山から十三湖、権現崎、そして竜飛、北海道まで眺められる場所だという。
美緒たちはタクシーを降りた。
岩木山はかすんで見えなかったが、小泊半島と権現崎はよく見えた。
「あれが竜飛崎です」
と運転手が指差して教えてくれるまでもなく、竜飛もすぐに分かった。
それは、北の眼下はるかに、緑の起伏をくりかえし、なだらかな高原のように海に向かって突き出していた。
先端が一段高くなり、白い灯台が建っている。
その向こうは津軽海峡であり、小舟でもあれば簡単に渡れそうなほど近くに、松前半島の山々が見えた。
灯台の手前の平地に、美緒たちが今夜泊まる予定になっている旅館や自衛隊宿舎、青函トンネル記念館などが建っているらしいが、ここからは陰になり、見えない。
最近は青函トンネルの工事や歌謡曲「津軽海峡冬景色」でかなり有名になったが、見るべきところはそれほどない、という。
「竜飛の集落は、灯台の手前の階段道……階段でも国道339号線ですが……それを東へ下ったところです」
運転手が説明した。
太宰が『津軽』の中で、
〈……路がいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小舎《とりごや》に頭を突っ込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかった。……落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛……なのである。兇暴な風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いに庇護《ひご》し合って立っているのである。……〉
と書いているところだろう。
更に、太宰は竜飛について、
〈ここは、本州の極地である。……過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。……〉
と、ここで道が尽《つ》きていることを繰り返し書いていた。
「行きますか?」
運転手が言ったので、美緒たちは彼につづき、タクシーに戻った。
そして、乗り込もうとしたときだった。
どこからか、パトカーのサイレンらしい音が響いてきた。
音は高くなったり、低くなったりしながらも、段々近づいてくるようだ。
「竜飛のほうからですね」
運転手が言った。
美緒たちは乗り込んだ。
「交通事故でもあったんでしょう」
運転手が言い、タクシーを発進させた。
大きな谷を回って行くと、サイレンの音はどんどん大きくなって登ってくる。音は一つなので、一台のようだ。
前方にパトカーの姿が見えた。
タクシーは左に寄り、スピードをゆるめた。
パトカーが、美緒たちの横を擦《す》れ違《ちが》って行く。
その瞬間、美緒はハッと息を呑んだ。
パトカーの後部座席に乗っていたのは、江副千晴のようだったからだ。
振り返ったが、二台の車は離れてゆくばかりのため、分からなかった。
「見た? 後ろに警察官と並んで乗っていた人……」
美緒は壮に聞いた。
「ええ」
と、壮がうなずいた。
美緒は自分の顔が強張《こわば》っているのが分かった。壮も緊張しているようだった。
「江副さんじゃないかしら?」
「顔まではよく分かりませんでしたが、サングラスをかけた若い女性のようでした」
「確かに髪の長い若い女でしたね」
運転手が言った。
「間違いないわ。下村さんに何かあったんじゃないかしら?」
「かもしれません」
「どうしよう?」
「行ってみましょう」
壮が決断した。
いつもは、たいてい美緒の言うとおりだが、こういうときの決断は早い。
「運転手さん、戻ってくれませんか。たぶん、小泊だと思いますが、いまのパトカーのあとを追いかけてほしいんです」
運転手に言った。
美緒たちがサイレンの音をたよりに着いたのは、出発点の下前だった。
それも、権現崎の登り口である。
美緒たちが鳥居の三十メートルほど手前で料金を払って降りると、運転手も降りてきた。
何かあったのは間違いない。
二台のパトカーとミニパトカーが一台、それにライトバンや乗用車が何台か停められた奥に、二十人前後の男女がかたまり、前方右側の登り口のほうを見ていた。
駐車場を造るために削られた道の入口にロープが張られ、制服警官が一人立って、人々を制止しているのだった。
そのすぐ先に、美緒たちがさっき権現崎で出会った二人の女性が、青ざめた顔をして身を寄せ合っていた。
「何があったんですか?」
美緒がロープのそばに立っていた男女に聞くと、女のほうが振り返った。
「あっ……」
小さな声を上げた。
千晴たちの泊まった民宿の主婦だった。
「先ほどは……」
美緒は小さく頭を下げた。
「下村さんが……」
主婦はそこで声をかすれさせて唾を呑み込み、「亡くなって、いたんです」
「遊歩道にですか?」
「遊歩道から三、四メートル逸《そ》れた藪の中です。あの人たちが……」
前の二人の女性を目顔で指し、「あの人たちが権現崎へ行って、降りてくるとき、見つけたんです」
「確かに下村さんだったんでしょうか?」
「いま、江副さんが竜飛から来ましたけど、主人が最初に警察の人に頼まれて見ましたから間違いないと思います」
「やはり昨夜亡くなったんですか?」
「そうみたいです」
「原因は?」
「さあ……。ただ、主人が警察の人に聞いた話では、頭に、岩か石で殴られたような傷があったそうです。ですから、誰かに……」
主婦の話を聞いていると、千晴が警官と一緒に降りてきた。
真昼の太陽をまともに浴びた顔が、紙のように白く、強張っていた。
それを見て、死者は下村保津美に間違いなかったらしい、と美緒は思った。
第三章 太宰治ファンの女
1
同じ二十二日――。
美緒と壮が小泊権現崎の登り口で、下村保津美の死について聞いている頃、岩佐は谷とともに東京の湯島に来ていた。
船戸研一の高校時代の同窓生・高梨昭一を、勤め先に訪ねたのである。
岩佐たちは、今朝、千歳空港を八時二十分に飛び立つ第一便、JAL500便に乗って東京へ来た。
羽田に着いたのは九時五十分。
まず警視庁に顔を出して捜査協力の礼を述べ、それから西新宿にある「ホテル・ニューサクマ」を訪ねた。
ホテルでは、管財課長を初めとする船戸研一の上司、同僚、部下たち数人に会い、話を聞いた。
だが、そこからは、警視庁から報告を受けていた以外の新しい情報は、ほとんど得られなかった。
船戸は、特に無口というわけではなかったようだが、親しく付き合っていた同僚はなく、個人的な話をすることは滅多になかったらしい。そのため、彼が勤務を終えてからどういう人間と交際していたか、誰も知らなかったのである。
ただ、そんななかで、彼と同期に入社した同僚の一人が口にした、
――太宰治が好きで、何かそうした関係の同好会のようなものに入っていたとか、入っているとか、一度だけ聞いたことがありますけど。
という話だけが、もしかしたら何か手掛かりになるかもしれない、と岩佐たちに思わせただけであった。
岩佐と谷は、今晩泊まる予定の上野駅前のビジネスホテルを教え、新たに判明したり気づいたりした点があったら知らせてくれるように頼んでホテルを出た。
中央線と地下鉄千代田線を乗り継いで湯島へ向かった。
札幌の鎌田敦夫に聞いてきた高梨昭一を訪ねたのである。
鎌田によると、東京へ出ている高校時代の同窓生はかなりいるが、船戸が付き合っていたのは高梨だけではないか、という話だったからだ。
高梨昭一は、春日通りを東大のほうへ三、四百メートル歩いたところにある中学校の教師をしていた。まだ夏休みだったが、昨夜アパートに電話すると、クラブ活動の指導に毎日登校しているので学校へ来てほしい、と言われたのだ。
校舎の陰になった運動場のほうから掛け声や笛の音が聞こえてくるが、玄関は閑散としていた。
それでも、岩佐が声をかけると、事務員らしい女性が出てきて、すぐに高梨を呼んでくれた。
高梨は、黄色いTシャツを着た、がっしりした体躯の男だった。顔が真っ黒に日焼けし、一見、体育の教師のようだ。
が、鎌田によると英語の教師だというし、昨夜の電話では演劇部の指導をしているという話であった。
友人が殺されたと聞いているからだろう、高梨は神妙《しんみよう》な顔をし、岩佐たちに上がるよう勧めてから、
「葬式には、僕も札幌へ帰るつもりでいるんですが、誰にどうして殺されたのか、まだ分からないんですか?」
と、聞いた。
「残念ながら分かりません。それで、何か手掛かりが得られないかと思い、高梨さんのところへ伺《うかが》ったわけです」
谷が応えた。
「そうですか。ま、とにかく、どうぞ」
彼は言うと、先に立って、二階の教室の一つへ岩佐たちを案内した。
生徒の椅子に適当に座るよう勧め、窓を全部開けてきた。
自分も椅子の一つを回して掛け、
「鎌田の電話では、『北斗星5号』の個室に船戸と一緒に乗っていた女がいたらしい、という話でしたが」
と、先に口を切った。
「ええ。船戸さんは、父親と姉に、婚約者を紹介すると電話してあったんです。高梨さんは、彼が親しく付き合っていた女性にお心あたりがないでしょうか? 東京近辺に住んでいる可能性が高いと思われるんですが」
谷も本題に入った。
「寝台車に一緒に乗った女かどうかは分かりませんが、付き合っている女性がいたのは知っていました。しかし、名前は聞いていませんし、会ったこともありません」
「高梨さんと船戸さんは、よくお会いになっていたんですか?」
「いや、同じ東京にいるといっても、滅多に会いません。そうですね……年に、電話で数回話し、会うのは一回あるかないかといった程度でしたか。お互い忙しいですし、共通の話題があったわけでもないですから」
「船戸さんに親しく交際している女性がいると知ったのは、どうしてでしょう?」
「電話の話の様子からです。半年ぐらい前からそんな気配があって、一月ほど前に話したときは、近いうちに紹介すると言っていたんです」
「どういう女性か、尋《たず》ねられなかったんですか?」
「聞きました。ですが、船戸は、いずれ話すからと言って言葉をにごしていたんです。たぶん照れくさかったんでしょう」
「どんな些細な点でも結構です。その女性について、船戸さんが何か言ったことはないでしょうか?」
「そうですね……」
高梨が、考えるように目を窓のほうへ向けた。
開け放った窓からは、様々な騒音と一緒に時々涼しい風が入ってきた。
「年齢、容姿、出身地、勤め先、知り合った場所など……まったく何も話さなかったんでしょうか?」
谷が返事を促した。
「ええ……」
高梨が目を谷に戻した。
「そんなに秘密にするのはおかしい、と思いませんでしたか? 単に照れくさかっただけとは思えませんが」
「そう言われてみると、そうかもしれませんが……ということは、女が口止めしていたという意味でしょうか?」
高梨が逆に聞いた。
「ええ」
「つまり、女はその頃から、船戸を殺そうと計画していた?」
「はっきり殺す計画を立てていたのかどうかはともかく、そうするかもしれないと考えていたのかもしれません」
岩佐もその可能性が高い、と思った。
そうでなければ、船戸の父親や姉、同僚、そして友人と当たりながら、その女について誰も何も聞いていない、というのは妙だからだ。
「女は初めから船戸と結婚する気などなく、別の何らかの目的のために近づいた、というわけですか……」
高梨が半ば自分の胸に向かってつぶやき、また考える目を宙にやった。
岩佐たちも、昨日からその可能性について考えていた。
だが、それでは、女が船戸と付き合っていた目的は何だったのかとなると、分からなかった。
船戸に何か恨みがあり、復讐しようとして接近した――。結婚をエサに、船戸から金を騙《だま》し取ろうとした――。
思い浮かぶのは、それぐらいである。
そのうち、殺されるほどの恨みを買っていた可能性については、鎌田も同僚たちも、船戸の善良でおとなしい性格から薄いのではないかという。
となると、金だったが、船戸の預金通帳が見つからず、どういう出し入れがあったのかつかめていない。女が通帳を奪ったという可能性もあるが、まだ何とも言えなかった。
谷が、高梨にも、前者の可能性について質《ただ》した。
「恨みですか。ちょっと想像できませんね。船戸は他人にひどいまねをできるような人間じゃないですから」
高梨が、これまで岩佐たちの聞いていたのと同じ答えをした。
その答えは予想されたものだったが、岩佐はちょっとがっかりした。
午後三時から、警視庁鑑識課の協力のもとに船戸のアパートの正式な捜索をする予定になっている。だから、そこで何か得られるのではないかという期待がないではない。が、もしそれも空振りだったら、東京まで来ながら何の手掛かりも得られずに帰らなければならないのだった。
高梨がズボンの尻ポケットからしわくちゃになった煙草の箱を取り出したとき、廊下に足音がして、二人の女生徒が姿を見せた。
遠慮しているのか恥ずかしいのか、開けたままの入口に顔を覗かせたり引っ込めたりしている。
「どうした?」
それを見て、高梨が聞いた。
「先生、お弁当食べていいですか?」
一人が言った。
「ああ、そうか、昼か。うん、いい」
高梨が腕時計に目をやり、答えた。
二人がばたばたと帰って行き、
「昼食どきに伺い、申し訳ありませんでした」
谷が詫《わ》びた。
「いえ、お役に立てなくて」
高梨が煙草を吸うのをやめたらしく、机の上で箱をいじりながら答えた。
「最後に、船戸さんが東京で親しくされていた人をご存じでしたら、教えていただけませんか」
「さあ、僕には分かりません」
「鎌田さんのお話では、他の同窓生の方とはお付き合いがなかったらしい、とか」
「それはなかったみたいですね」
「ホテルの同僚の一人は、船戸さんは太宰治のファンで、そうした関係のサークルのようなものに入っていたのではないか、と言っていたんですが、その点、何かご存じありませんか?」
「ああ、そうです、船戸は太宰のファンでした。確かに、太宰と太宰の作品について、重箱《じゆうばこ》の隅をつつくような研究をするサークルに入っていました」
「サークルの名前は?」
「何て言ったかな……。聞いたんですが、僕は太宰に関心がないので、気にとめなかったんです。ただ、そのサークルにしても、中心になっていた人が交通事故で亡くなったとかで、もう一年近く前に自然消滅したはずですけどね」
「一年近くも前に消滅ですか……」
谷が気抜けしたようにつぶやいたが、岩佐も一年も前に消えたサークルでは今度の事件には関係ないな、と思った。
「そうだ、でも、サークルのメンバーだったという人になら会ったことがありますよ」
高梨が思い出したように言った。「もっとも、船戸の殺された件とは関係ないと思いますけど」
「男ですか?」
「そうです。去年の十一月頃だったかな、船戸と御茶《おちや》ノ水《みず》駅前で待ち合わせたとき、会ったんです」
「どこの何という人か、ご存じですか?」
「ええ。三十分ほど、一緒にコーヒーを飲みましたから」
「教えていただけませんか。その人は事件に関係なくても、何か参考になる話が聞けるかもしれませんから」
「名前は、小栗沢《おぐりざわ》と言ったと思います。小さな栗に三沢の沢です。船戸よりずっと年上の五十ぐらいの方ですが、山手線の大塚駅前のビルに小栗沢クリニックという医院を開いている、という話でした」
岩佐たちは礼を言い、腰を上げた。
高梨が玄関まで送ってきた。
「何をしたって船戸は戻ってきませんが、早く犯人を捕まえてやってください」
かすかに目をうるませて言った。
2
岩佐たちは、湯島まで戻り、カレーライスの昼食を取った。それから地下鉄で西日暮里まで行き、山手線の電車に乗り換えた。
大塚で降り、駅前の交番で聞くと、小栗沢クリニックはすぐに分かった。
山手線の内側に二、三分歩いたところに建つペンシル・ビルの五階だった。
ガラスのドアに「二時まで休診」の札が下がり、鍵がかかっていた。
中には衝立《ついたて》がたてられ、見えない。
声をかけても聞こえそうにないので、岩佐はドアをがたがた揺らした。
すると、衝立の陰から、白衣のかわりだろう、薄いピンクのワンピースを着けた二十二、三歳の女性が、怒ったような顔を覗かせた。
ドアの鍵を開けずに、
「二時までお休みです」
と、口を大きく開けて言った。
岩佐は、自分たちは患者ではないというように手を振り、警察手帳を出して見せた。
それで、ようやく女性がドアを開け、
「何でしょう?」
と、聞いた。
岩佐が事情を説明し、小栗沢に会いたいと言うと、奥で聞いていたらしい、
「えっ、船戸君が殺されたって?」
と、毛むくじゃらな太い腕をポロシャツから覗かせた五十二、三歳の男が出てきた。
背は高くなかったが、肩幅が広い。太い飴色縁《あめいろぶち》の眼鏡をかけ、白いもののまじったもみあげを長く伸ばしていた。
「小栗沢先生でしょうか?」
谷が確認した。
「ええ」
男がうなずいた。
谷があらためて自分と岩佐を紹介し、高梨に聞いてきたのだと話した。
「そうですか。いま食事に行こうと思っていたんですが、どうぞ」
小栗沢が緊張した面持《おもも》ちで言い、岩佐たちを、テーブルとソファの置かれた狭い待合室へ通した。
看護婦だろうか、白いカーテンのそばに三十代半ばぐらいのもう一人の女性がいて、黙礼した。
「きみたち、先に行ってくれ」
小栗沢は二人の女性に言うと、受付のカウンターの奥から丸椅子を持ってきて、岩佐たちの前に掛けた。
「いったい、どうして船戸君は殺されたんでしょう?」
真剣な目を当ててきた。
「こちらの新聞にも載《の》ったはずですが、ご存じなかったんですか?」
谷が聞いた。
「知りませんでした。隅から隅まで新聞を読むわけじゃありませんから」
「そうですか」
谷が、船戸の殺された事情をかいつまんで説明した。
「寝台列車の個室でですか。真面目な好青年でしたのに……」
小栗沢が暗い表情をしてつぶやき、目を閉じた。
が、それをすぐに開き、
「で、その犯人と思われる女性については、何も分からないんですか?」
「そうなんです。もしかしたら、お心あたりでも?」
「ええ」
「ありますか!」
聞いておきながら、予想外だったらしく、谷が声を高めた。
岩佐も、つと緊張し、開いた手帳をそのままに小栗沢の顔を凝視《ぎようし》した。
「あ、いや、あるといっても、どこの何という名の女性かは知らないんです」
谷と岩佐の反応に、小栗沢がちょっと慌てたように付け加えた。
岩佐は、ふくらんだ期待が急速にしぼむのを感じた。
どこの誰か分からないでは、どうしようもないのではないか……。
「とにかく、ご存じの事柄をお話しいただけませんか」
谷が言った。
「ええ」
「その女性について、先生はどうして知られたんでしょう?」
「船戸君から聞きました。彼の様子がなんとなく浮き浮きしているようだったので、恋でもしているんじゃないかとひやかし半分に言うと、顔を赤らめて認めたんです」
「それはいつでしょうか?」
「この三月か四月頃でしたか」
「お会いになって?」
「そうです。近くまで来たからと、ここに寄ったので、一緒に食事をしました」
「そのとき、相手の女性について、何も話さなかったんですか?」
「いや、年齢が二十六でなかなか美人だという話ぐらいはしました。ああ、それに、我々と同好の士だということも」
「同好の士?」
「太宰治のファンだという意味です」
「どこで知り合ったのか、という点はいかがでしょう?」
「木之下和夫君という、やはり我々の仲間だった人に紹介されたと言っていました」
「では、その木之下さんに伺《うかが》えば、女性の名などは分かりますね?」
谷の声が弾《はず》んだ。
「それが、無理なんです」
小栗沢がすまなそうに言った。
「無理?」
「木之下君は、昨年の十月、交通事故で亡くなりましたから」
「では、先生や船戸さんの入られていたサークルの中心になっていたという方が、その木之下さん?」
「そうです」
「参考までに、どういうサークルなのか、お話しいただけませんか」
「太宰治の研究会というか……ま、一種のファンクラブみたいなものです。会の名称は『月見草の会』。ご存じだと思いますが、太宰の小説『富嶽《ふがく》百景』の中の有名な一句、〈富士には、月見草がよく似合う〉から取ったわけです。
実は、『桜桃』の中にある、お乳とお乳のあいだ――涙の谷をつかって、『涙の谷の会』という案もあったんですが……」
小栗沢が事件について忘れたように生き生きした口ぶりで話し出した。
「会ができたのは、五年前の六月十九日、桜桃忌のときでした。六月十九日は、太宰の命日であると同時に誕生日でもあるんです。もっとも、正確には、六月十九日は太宰の死体が見つかった日で、彼が死亡したのは、山崎|富栄《とみえ》とともに玉川上水に入水した昭和二十三年六月十三日か十四日のはずなんですが。
それはともかく、五年前の六月十九日、三鷹の禅林寺からの帰り、私や木之下君は井《い》の頭《かしら》公園を通って吉祥寺《きちじようじ》まで歩いたんです。そして、駅前でお茶を飲んでいるとき、なんとなく「勉強会」でも作ろうかという話になり、その場にいた五人で会の名称を決めたのが初めです。
その後、五人がそれぞれ知り合いの太宰ファンに呼びかけ、そうですね……多いときで十四、五人、少ないときで七、八人、三、四ヵ月に一回集まり、太宰と太宰の作品についてああだこうだと話し合っては楽しんできたわけです」
「現在はどうなっているんでしょう?」
「現在は一時休止中です」
小栗沢は、高梨のように自然消滅とは言わなかった。
「木之下さんが亡くなられたから?」
「そうです。会の存続には、なんといっても彼の力が大きかったんです。彼が年に四回ワープロで書いた機関誌を出し、我々会員への連絡、会場の確保など、すべてやってくれていましたから」
「船戸さんも、会には最初から参加されたんですか?」
「いや、彼は一年ぐらいしてからですね。木之下君が連れてきたんです」
「木之下さんが? ということは、二人はその前から知り合いだった?」
「ええ」
「それは……あ、その前に、木之下さんというのはいくつぐらいの、どういう仕事をされていた人なんでしょう?」
「船戸君より三つ四つ上でしたから、去年亡くなったとき、三十五か六です。都立滝野川図書館に勤めていました。滝野川は北区ですが、船戸君の住んでいた板橋に隣接しているんです。それで、太宰について時々調べに図書館へ来ていた船戸君に声をかけ、会へ連れてきたようです」
「三十五、六歳というと、結婚されていたわけですか?」
「していました。お子さんも二人いましたし」
「船戸さんの交際していた肝腎《かんじん》の女性に話を戻しますが、その女性と木之下さんの関係は分かりませんか?」
「ええ」
「その女性も太宰ファンだということは、やはり、その関係から知り合ったんでしょうか?」
「そういえば、船戸君がちょっとそんな話をしていたかもしれませんが……どこでどうして、といった具体的な話は聞いた覚えがありませんね」
小栗沢が記憶を探るように首をかしげながら言った。
「どんな話でも結構です、他に船戸さんがその女性について触れたことや先生の気づかれた点があったら教えてください」
「そうですね……船戸君がその女性を好きだったのは確かですが、不安に似た気持ちも抱いているようでした」
「それは、女性のほうも彼を好いているかどうかについて?」
「それが一番強かったかもしれませんが、それだけじゃなかったようです。私にもどう説明したらいいのか分からないんですが……。ああ、そうだ、これは不安とは違うかもしれませんが、彼はちょっと腑《ふ》に落ちない点があると言ってました」
「腑に落ちない点? それは、その女性についてですか?」
「そうです。話のつながりからみて、何か太宰の問題に関係していたようでした」
「太宰に関係して、その女性について腑に落ちない――。どういう意味でしょう?」
「私にもよく分かりませんが、その女性が太宰ファンだった点と関係あるのではないかと思います」
そう言われても、岩佐にはどう考えたらいいのか見当がつかなかった。
それは谷も同様なのだろう、しきりに首をひねっている。
「ただ、船戸君は結局その女性と結婚しようと決めているわけですから、その後、そうした点は解決されるか、結婚の障害になるほどの問題じゃなかったんでしょうが」
「ま、そうですね」
小栗沢の言葉に応じながらも、谷はまだこだわっている目をしていた。
太宰に関係して、女について腑に落ちない点――。
それは、船戸が殺された件とは直接の関係はないかもしれない。殺人の動機と直結しそうには思えないからだ。
しかし、そう考えても、岩佐も気になった。
小栗沢が、ちらっと腕時計に視線を走らせた。
それを見て、谷が目を上げ、
「あ、申し訳ありません。その女性について、船戸さんか木之下さんにもっと詳《くわ》しく聞いていそうな人に心あたりがありましたら、教えていただけませんか」
「…………」
小栗沢が考えるように首をひねった。
岩佐たちは、彼が口を開くのを待った。
小栗沢の話により、自分たちはいくつかの重要な事実をつかんだ、と岩佐は思う。
女が二十六歳らしい点、太宰治のファンだという点、都立滝野川図書館に勤めていた木之下和夫とどこかで知り合ったらしい点、そして、木之下に紹介されて女と交際し始めた船戸が、女を好きになりながらも不安を抱き、太宰に関係して女に腑に落ちない点があると言っていた点、などである。
つまり、ここへ来る前より、少なくとも何歩かは女に近づくことができた。
とはいえ、これだけから女に到達するには、飛躍が必要だった。
「ありませんね」
と、小栗沢が答えた。
「そうですか」
谷が上体を引き、
「お食事のお邪魔《じやま》をして、申し訳ございませんでした」
と、頭を下げた。
「いや、それぐらい何でもありません。もっと協力できるといいんですが」
谷が最後に木之下の自宅の住所と電話番号を聞き、小栗沢が手帳を取ってきて調べてくれた。
それは、江東《こうとう》区|亀戸《かめいど》の公団住宅だという。
「総武《そうぶ》線の亀戸駅から歩いても、そうかからないはずです」
岩佐がメモするのを待って、小栗沢が言った。
岩佐たちは礼を言い、腰を上げた。
彼らはこれから、船戸研一の住んでいた板橋のアパートへ行くつもりだった。彼の部屋を捜索するためである。その後で、たぶん木之下の妻を訪ねることになるだろう。
「私も出ますから、一緒に行きましょう」
小栗沢が言って、どうぞと岩佐たちを先に廊下へ出し、ガラス扉の鍵を掛けた。
岩佐がボタンを押すと、エレベーターはすぐに上がってきた。
一階に着き、岩佐たちはビルを出たところで小栗沢ともう一度挨拶し、右と左に別れた。
「太宰の問題に関係して、女について腑に落ちない点というのは、どういうことでしょうね」
大塚駅へ向かって歩き出しながら岩佐が話しかけると、
「分からん」
谷がむすっとした顔で応えた。
「それが、今度の事件に関わっていたとも思えないんですが」
いや、そうとも言い切れないだろう。そんなニュアンスで谷が、
「うむ……」
と、わずかに首をかしげたとき、岩佐は後ろから、
「刑事さん」
と呼ばれたような気がした。
岩佐と谷は同時に足を止め、振り返った。
すると、別れたばかりの小栗沢が、半ば駈けるようにして追いついてきた。
「刑事……さ、ん」
と、彼は息をはずませながら言った。「たった今、刑事さんたちと別れてから、思い出したんです。船戸君が付き合っていた女性の名前を聞いているかもしれない人を」
「女の名前を聞いているかもしれない? それは、どこの、何という人ですか?」
谷が急《せ》き込《こ》んで聞いた。
「六本木にある『さおり』という小さなクラブのママです。歳は四十二、三、名は藤島|沙緒里《さおり》、『月見草の会』のいわば特別会員といった人です。三年前に二、三度顔を出しただけで、その後は一度も会合には出ていないんですが、我々が二次会で時々クラブへ押しかけて行っていたんです」
「その人と、船戸さんは親しかった?」
「そうじゃありません」
「違う? じゃ……?」
「藤島さんは姓名判断をするんです。そして、それがなかなかよく当たるという客の評判なんです」
岩佐にも、小栗沢の言わんとする意味が分かってきた。
胸が高鳴り始めた。
「では、船戸さんは、藤島さんに、付き合っていた女性の名を言って、自分との相性を占ってもらったかもしれない?」
谷が言った。
「そうです。船戸君が、今度『さおり』へ行って、ママに相談してみようかな……そんなふうにつぶやいていたのを、思い出したんです」
小栗沢が答えた。
3
美緒と壮が、小泊湾の東端にある昨夜泊まった宿「白波荘」へ行ったのは、午後三時過ぎだった。
竜飛へ行くのを中止し、もう一晩世話になることにしたのである。
美緒たちは、下村保津美の殺された事件と直接の関係はない。
が、江副千晴が「美緒たちと保津美は上野からずっと同じ列車に乗り合わせて金木まで来た」と警察に話したらしく、美緒たちも刑事に事情を聞かれた。金木にある北津軽署から駈けつけた刑事たちである。一度目は、下前の権現崎の登り口で、美緒と壮二人一緒に。二度目は、パトカーに乗せられて小泊の駐在所へ来て、別々に。
そのうち、二度目のときは、昨夜外出しなかったかどうかといった点を中心に、かなりしつこく質された。二人とも一度も宿の外へ出ていないというのに、美緒は壮について、壮は美緒について。そこには、二人が口裏を合わせているのではないか、といった疑いがにじんでいた。刑事たちは、美緒と保津美、あるいは壮と保津美が偶然列車に乗り合わせただけでなく、前から何らかの関係があったのではないか、とも疑っているようだった。
それだけではない。彼らは、美緒たちが今朝権現崎へ行ったという行動にも不審を抱いていた。つまり、昨夜捨てた保津美の死体の様子を見に行ったのではないか、と疑っているらしい。
とはいえ、白波荘で聞いても、昨夜美緒たちが外出したという証言は得られなかったのだろう、「ご協力ありがとうございました」と言って放免《ほうめん》したのである。
いや、まだ本当の放免ではない。警察は、被害者と同じ東京から来た美緒たちを、依然《いぜん》として容疑者リストから外していない。
彼らは最後に、「できればもう一晩小泊に泊まっていただけるとありがたいのですが……」と言ったからだ。夜には県警本部の刑事たちが来るので、参考までにもう一度話を聞きたい、というのであった。
そこで、美緒たちは了解し、竜飛崎行きを中止した、という次第だった。
了解したといっても、疑われたままでいるのがそれほど嫌だったわけではない。警察の望むような協力をしようとしたわけでもなかった。
では、なぜ小泊にとどまったかというと、〈袖振り合うも多生の縁〉とでもいおうか。多少とも関わりを持った下村保津美が誰になぜ殺されたのか、できれば突き止めてやりたいと考えたことが一つ。そして、もう一つの理由は、千晴の存在。千晴を残して行ってしまうのが何となく薄情なように思えたのである。
千晴に対する警察の疑いは、美緒たちに対する疑いの比ではないようだった。保津美と二人で旅行し、二人で泊まっていたのだから、当然だろう。
それに、千晴には、昨夜保津美を殺せたという状況があった。保津美が外出して帰らないとき、千晴は捜しに行くと言って、一時間以上ひとりで民宿を出ているからだ。そのとき、保津美を殺し、死体を遊歩道脇の藪まで運び上げるのは可能だった。
権現崎への登り口はかなり急なので、女性の力で死体を運び上げられただろうか、という疑問がないではない。が、距離はわずか三、四十メートルにすぎない。だから、絶対にできなかったとは言えないし、逆に、女性の犯行と思わせないために、かなり無理して担《かつ》ぎ上げたのではないか、という見方もできるのだった。
ところで、竜飛の手前からタクシーで引き返して、権現崎の登り口に着いて以来、美緒たちはなんとか千晴に近づき、詳しい話を聞こうと思ってきた。保津美と千晴の関係、二人が上野で別れてから金木の斜陽館で再会するまでの事情、保津美が散歩に出る前の千晴との具体的なやり取りなど……。だが、下前の現場では、刑事が千晴に付きっきりだったし、駐在所へ移動してからは、彼女は別の部屋へ案内されたらしく、一度も顔を合わせることができなかった。
というわけで、美緒たちが千晴と話したのは、下前から小泊の駐在所へ移動する直前、ほんの四、五分だけである。そのとき、千晴は自分の疑われている事情を簡単に説明し、このままでは自分は殺人犯人にされてしまうかもしれない、と美緒と壮に助けを求めるように言ったのだった。
千晴と保津美の関係を知らないので、美緒たちにも、千晴が犯人でないとは言いきれない。壮の客観的な判断では、今のところ「可能性は半々」といったところのようだ。
今後、警察の調べで、もし行きずりの殺人らしいとなれば、千晴の容疑は薄れる。しかし、反対に、行きずりの殺人とは考えられない、となったら、千晴に対する疑いはいっそう強まらざるをえない。千晴以外に、保津美と関係のある人間が昨夜津軽の小泊へ来ていた≠ニいう可能性はかなり薄いからだ。
美緒が刑事に探りを入れたところでは、今朝千晴の話していた、「昨夜九時半頃、下前集落から出て行った白い乗用車」に、警察も注意を止めているらしい。下前にその該当者がいるかどうか、当たっているらしい。
だが、調査の結果は聞いていなかったし、たとえ車が特定できなくても、そこに乗っていた人間が事件に関係していたと断じることはできない。となると、千晴の犯行を否定するよほど強力なもの≠ェ出てこないかぎり、彼女が完全なシロと判断される確率は低いようだった。
白波荘は、二階の窓から小泊湾の全景が眺められる小さな和風旅館である。漁港から最も離れた、集落の外れだが、ここなら夕陽が権現崎の陰にならないと聞き、選んだ旅館だった。
美緒たちは、そこに千晴の部屋も確保しておいてやった。
千晴から落ちついて話を聞くのに好都合だと思い、下前で話したときそう言うと、彼女も望んだからだ。
美緒は自分の部屋に荷物を置くと、隣りの壮の部屋へ行き、千晴の来るのを待ちつづけた。
しかし、真っ赤な夕陽が次第に水平線に近づき、沈み始める頃になっても、千晴は現われなかった。
駐在所は歩いて十分ほどだし、宿が分からないわけはない。
ということは、まだ解放されないのであろう。
窓際の狭いベランダの椅子に掛け、美緒たちはしばらく黙って、夕陽の沈むのを眺めていた。
それは、文字どおり大きな火の玉だった。空と海をすべて炎の色に染め、刻一刻と沈んでゆき、最後に赤い空気のふくらみを残して消えた。
「素晴らしかったわ」
美緒は壮に顔を向けて言った。
「ええ」
と、壮がうなずいた。
小泊に行ったら見たいと思っていた、日本海に沈む夕陽。昨日は、夕方になって晴れたとはいっても、夕陽までは見られなかった。それを、皮肉にも殺人事件が発生したために見ることができたのだった。
「江副さん、遅いわね」
美緒は、夕陽から意識を肝腎の問題に戻した。
「そうですね」
壮が答えて、時計を見た。
「その後、江副さんに不利な事実でも分かったのかしら?」
「どうでしょう」
「そうでも考えないと、遅すぎるわ。昼からずっとなんだから、聞くべきことはもう聞いたはずでしょう」
「ですが、警察は、怪しいと睨《にら》んだら何度でも同じ点について聞いて、前の答えとの矛盾を引き出そうとするそうですから」
「シラを切りとおす犯人を追いつめるには一つの有効な方法かもしれないけど、もし犯人でないとしたら、人権侵害ね」
「勝部長さんも、そのへんは難しいところだと言っていました」
壮が、懇意にしている警視庁の勝部長刑事の名を出した。
そのとき、下の玄関に誰か来たらしく、女主人の応対する声がした。
「あ、誰かいらしたみたい。江副さんかしら、それとも新しいお客様かしら?」
美緒は耳をすまし、壮の顔を見た。
「江副さんなら、何か言ってくるでしょう」
「そうね」
美緒たちがそこで口をつぐみ、待っていると、階段を上ってくる足音がしてきて、部屋の前で止まった。
ノックの音がする。
美緒が「はい」と応えると、
「失礼します」
という女主人の声がして、部屋へ入ってきた。
「寺本という刑事さんがお目にかかりたいと言われて、下に見えているんですが」
ちょっと不安そうな顔をして言った。
「寺本刑事さん?」
美緒はつぶやき、知っているかと問うように壮の顔を見た。
壮も、分からないというように首をかしげた。
美緒は、今日会った何人かの刑事を思い浮かべた。
だが、そこに寺本という名の刑事はいなかったように思う。
「いくつぐらいの刑事さんですか?」
美緒は聞いた。
「そうですね……三十歳前後じゃないかと思いますけど」
女主人が答えた。
「とにかく行ってみましょう。県警本部の刑事さんが到着したのかもしれませんから」
壮が立ち上がり、美緒を促した。
美緒は、多少不安な思いを抱きながら、女主人と壮のあとから階段を降りて行った。
玄関には、すらりとした若い刑事が立っていた。彼は壮と美緒の顔を見ると、嬉《うれ》しそうに顔をほころばせ、
「青森県警の寺本です」
と、挨拶した。
「はあ」
壮が間の抜けたような返事をした。
「思い出していただけませんか、三年前、ご協力をいただいた……」
「ああ、あの青函連絡船の――!」
美緒は思わず高い声を出した。
思い出したのだ。
津軽海峡を挟んで、青森県の夏泊《なつどまり》半島と函館で起きた殺人事件――青函連絡船最後の事件とも言うべき事件――のとき、五十嵐という西洋人のように鼻の高い津軽弁の部長刑事と一緒にいた若い刑事だった。(作者注・この事件については拙著『津軽海峡+−の交叉』参照)。
美緒が小声で説明すると、壮もやっと思い出したらしく、
「ああ、どうも……」
と、恥ずかしそうに、意味不明の挨拶をした。
「あの節は、おかげで難事件が解決し、ありがとうございました」
寺本がいっそう嬉しそうな顔になり、頭を下げた。「ついさっき、そこの駐在所に着いて、黒江さんと笹谷さんのお名前をお聞きしたときは、本当にびっくりしました。それで、何はともあれご挨拶にと思い、伺ったわけです」
刑事の来訪に、緊張していたらしい女主人は、刑事のにこにこ顔を見て、ぽかんとしていた。
「なんだか、いっそう立派になられて……。それに、まさかここでお目にかかれるとは想像もしていなかったものですから、失礼しました」
美緒は忘れていたのを詫びた。
「いえ、当然です」
「確か、前におられたのは浅虫の青森東署だったと思いましたが」
「はい」
「それじゃ、栄転されて、県警本部の刑事さんに……」
「ただ転勤になっただけです」
「やはり栄転ですわ。おめでとうございます。……で、五十嵐部長刑事さんは?」
「青森東署におります。本当は部長が県警本部への転勤を打診されたんですが、代わりに私を推《お》してくれたんです。
それでは、これで……。どうも、おくつろぎのところ、失礼しました」
寺本が言い、美緒から壮のほうへ視線をうつし、目礼した。
「すみません」
美緒は慌てて呼びかけた。
「は、何でしょう?」
「私たちに対する疑いは解けたんでしょうか?」
「もちろんです。一緒に来た上司も、私の話を聞き、できたら明日の朝にでもご挨拶に伺いたいと申しておりました。北津軽署の者がお話を伺ったそうですが、もし失礼がありましたら、お許しください」
「いえ」
「それじゃ……」
「あの、もう一つ、教えてください」
「……?」
「江副千晴さんに対する疑いはどうなんでしょうか?」
寺本のこれまでのにこにこ顔が、千晴の名を聞くや、とたんに強張った。
それは、彼ら警察が千晴をどう見ているかを示していた。
「申しわけないんですが、その点は……」
寺本が、美緒たちの脇に立った女主人のほうをちらっと見て、返事をにごした。
壮と美緒だけならいいが、ここで言うわけにはいかない、という意味であろうか。
「そうですか」
美緒は引きさがった。
寺本を苦しめても仕方ないからだ。
彼のほうも美緒たちの意に副《そ》えない点を詫び、新しい事態になれば知らせるからと約束して帰って行った。
八時を過ぎたところで、千晴を待っていた美緒と壮は夕食を取った。
だが、彼らが食事を終え、九時を回り、十時近くなっても、千晴は白波荘へ姿を見せなかった。
代わりに、寺本が再びやってきた。
千晴に逮捕状が執行され、身柄は捜査本部の設置が決まった北津軽署へ移されることになった、と知らせに来たのである。
寺本たちも、これから北津軽署へ引き上げるところだ、という。
「逮捕されたということは、江副さんの容疑を決定的にするようなものが見つかるか、彼女が犯行を認めたんでしょうか?」
壮が聞いた。
「犯行を認めたんです」
寺本が答えた。
4
多少雲があったが、翌二十三日も北津軽の空は晴れていた。
美緒たちは、小泊を朝八時十分に出るバスに乗り、金木へ行った。
国道339号線沿いにある金木案内所というバスターミナルに着いたのは九時半。
案内所の窓口で聞いた北津軽署の前まで十四、五分歩き、外から寺本に電話した。
すると、寺本の声はどことなく迷惑そうだったが、十時半に斜陽館のコーヒールームで三十分だけ会ってくれる約束になった。
千晴が犯行を認めて、逮捕されたといっても、美緒たちにはその事情が分からない。
昨夜は寺本が急いでいたので、ほとんど話らしい話ができなかったからだ。
美緒たちに関係ないと言えば関係ないが、気がかりだった。詳しい事情を聞いて納得しないかぎり、このまま旅をつづける気にも、東京へ帰る気にもなれない。
美緒が今朝四時前に目を覚ましてそう考えていると、相棒も同様だったらしく、五時過ぎにノックがあり、北の竜飛へ向かうかわりに南の金木へ戻ることに決めたのだった。
美緒たちは駅へ行って、手に入るかぎりの新聞を買い、それを読みながら斜陽館で寺本を待った。
新聞には、千晴の逮捕を報じているのもないのもあったが、事件は一様にかなり大きく扱われていた。
その内容は、美緒たちがすでに知っている事柄が多かったものの、新しい情報もいくつかあった。
弘前医科大学に運ばれた下村保津美の遺体の解剖結果がまだ出ていなかったが、彼女の頭には大きな石のような物で殴られた傷があり、死因は頭蓋骨陥没による脳圧迫、脳損傷と見られる点、死亡時間は保津美が民宿から外出した一昨夜八時半から十二時頃までの間と見られる点、などがそれである。
また、千晴の逮捕を報じた新聞のうち、地元紙・T新報は、千晴が自供したという犯行時の模様についても、かなりの行数を使って伝えていた。
それによると、千晴の犯行は次のようなものだったらしい。
――一昨夜九時十分頃、千晴は、保津美がなかなか帰ってこないので捜しに行き、権現崎の登り口で彼女を見つけた。そして、どうしたのか、心配するじゃないかと言うと、保津美がそんなの勝手じゃないか、と言い返した。二人の間には、旅費の分担の問題でその前に小さな諍《いさか》いがあり、互いの胸にモヤモヤがあった。それでなんとなく口論になり、保津美が千晴の胸を思いきり突き飛ばし、千晴はコンクリートの堤防の手前に倒れた。そこは、舗装の切れたところで、子供の頭大の石がごろごろしていた。千晴は倒れたときの痛みからカッとなり、自分でもよく分からずに、手に触れたその石の一つを取って立ち上がり、保津美に殴りかかった。すると、今度は保津美が倒れた。起きてこない。千晴は我に返り、保津美の傍らに屈《かが》んで、大丈夫かと呼びかけたが、返事がない。慌てた。すぐに医者を呼ばなければ、と思った。が、一方で、これでもし保津美が死んだら、自分は殺人犯になってしまう、と思った。それは想像しただけでも恐ろしかった。保津美がかすかに呻いた。千晴は彼女をゆすり、名を呼んだ。しかし、意識がないらしく、反応がない。そのとき、保津美の首ががくんと折れた。千晴の胸を恐怖が領した。しばらく茫然《ぼうぜん》としていた。だが、やがて、殺人犯人にだけはなりたくないと思った。それにはどうしたらいいか? 千晴の頭に、保津美の死体を遊歩道の脇の藪まで担ぎ上げる策が浮かんだ。相当きついが、そうしておけば、警察は、犯人は男だと思うだろう。夜、散歩中に襲われ、殺されたと判断するだろう。そして、自分は民宿へ帰り、見つからなかったと言えばいい。自分には保津美を殺す動機はない。だから、誰も自分がやったとは思わないだろう。そう考えて、千晴はそのとおりにし、翌日も、保津美の死亡を自分が知っていると気づかれないよう、いまに帰ってくるわと言って、わざとひとりで竜飛へ向かった。――
「やっぱり、江副さんが犯人だったのか……」
美緒は、T新報の記事を読み終わると、溜息をつきながらつぶやいた。
昨夜、寺本から、千晴が犯行を認めて逮捕されたと聞いても、美緒はいま一つ信じられなかった。
それが、記者による間接的な描写ではあっても、犯行時の模様に触れ、間違いない、と感じたのである。
「結局、警察の読みどおりだったのね」
美緒は新聞から目を上げ、壮に話しかけた。
T新報は壮が先に読んでいたからだ。
壮が答えるかわりに、わずかに首をかしげた。
「なーに、この記事に、どこかおかしなところがあるの?」
美緒は聞いた。
「おかしいというほどではないんですが……いや、やっぱりおかしいのかな」
壮が、後半は自分の胸に言うようにつぶやいた。
「どこが?」
「まず動機です。こんな動機で、石をつかんで友人を殴りつけるかな、と思ったんです」
「突き飛ばされて倒れ、痛みからカッとなってよく分からずに……って書いてあるわ。そういう場合ってあるんじゃないかしら?」
「ま、そうですが……」
壮はまだ腑《ふ》に落ちない様子だった。
それを見て、美緒は、
「じゃ、これがおかしいとしたら、どうなるの?」
と、聞いた。「何か、別の動機があったっていうわけ?」
「ええ。江副さんは、本当の動機を隠しているんじゃないでしょうか」
「本当の動機か……。たとえば、どんな動機?」
「そこまでは分かりません。それから、もう一つの可能性もあります」
「もう一つ?」
「江副さんの話した殺人動機が嘘なら、もしかしたら彼女の自供のすべてが嘘という可能性です」
「全部が嘘? ということは、江副さんは犯人じゃない?」
「そうです。あくまでも一つの可能性ですが。寺本さんには悪いんですが、この自供の内容、何となく刑事の作文くさくありませんか」
「そういえばそうね。うまく辻褄《つじつま》が合っているような、それでいて、どこか真実味が薄いような……」
「ええ」
「ただ、その場合、やってもいない殺人を江副さんがどうして認めたのか、という別の疑問が出てくるけど」
「それは、昨夜ちょっと話し合ったように、取調べに問題があったからじゃないでしょうか。人間、長時間、自由を奪われて問いつめられたら、よほど強い精神力の持ち主でないかぎり、おかしくなると思います」
「そうか……。とすると、江副さんが犯行を自供したといっても、まだ百パーセント彼女が犯人と決まったわけじゃないのね」
美緒は、胸の内にかすかな光明が射すのを感じた。
数年ぶりに顔を合わせただけの中学の先輩にすぎないとはいえ、やはり千晴が殺人者でないほうがいい。
しかし、美緒の希望は、それから間もなく現われた寺本の話により、木端微塵《こつぱみじん》に打ち砕かれたのだった。
千晴の保津美殺しの動機に結び付くと思われる、一つの重大な事実が明らかになったのである。
5
舞台は変わって、東京――。
同じ二十三日、午前九時五十分頃だから、寺本が約束どおり美緒たちの待つ斜陽館に現われる四十分ほど前だ。
岩佐は、総武線の電車の中で、もう少しで大声をあげるところだった。
ところで、岩佐と谷は、昨日船戸のアパートの捜索を終えた後、六本木のクラブ「さおり」を訪ね、開店を待って、小栗沢から聞いた藤島沙緒里に会った。
事情を話すと、沙緒里は小栗沢の予想どおり、船戸に相談を受け、彼の交際していた女性の名を聞いていた。
その名は、≪江副千晴≫――。
しかし、江副千晴について沙緒里の知っていたのは、姓名以外には二十六歳という年齢だけだった。千晴がどこに住んでいるのか、どこに勤めているのかといった点については何も聞いていなかった。
また、「北斗星5号」の個室に残された船戸のバッグに手帳の類《たぐ》いがなかったように、船戸のアパートの部屋からも――たぶん犯人が事前に持ち去ったのだろう――手帳や電話帳が消えていた。
だから、江副千晴という名が判明しても、その女に行きつくのは難しかった。
東京、あるいはその近県に住んでいる可能性は高いものの、それだけではどうにもならない。公開すれば別だが、いまの段階で、江副千晴の名を新聞やテレビに流すわけにはゆかないだろう。
ただ、江副千晴が自分の名で電話を引いていれば、電話帳から突き止められる可能性があった。
そこで、岩佐たちはNTTに電話して、全国の電話帳を置いている図書館を聞き、麻布の都立図書館を訪ねた。
すでに閲覧時間は過ぎていたが、特別に見せてもらった。現在は狭い地域ごとに分冊になっているため、相当な数だ。
まず東京、千葉、埼玉、神奈川を調べ、更に茨城、群馬、山梨、静岡、栃木まで当たった。
しかし、江副千晴はそれらの都県に住んでいないのか、自分の名で電話を引いていないのか、引いていても事情があって電話帳に載《の》せていないのか、結局、彼女の名を見つけることはできなかった。
今朝、起きると、今度は、昨日メモしてきた都内の江副名の家に電話をかけ、千晴という女性がいるかどうか尋《たず》ねたが、それも無駄であった。
というわけで、岩佐たちは、ひとまず電話のセンを諦《あきら》めた。船戸に江副千晴を紹介した木之下和夫の妻に会えば、何か手掛かりになる話が聞けるかもしれないと思い、昨日時間がなくて訪ねそびれた彼女を訪ねることにしたのだった。
木之下の家は亀戸である。
岩佐たちは、秋葉原で総武線の電車に乗り換えた。
車内は、座っている人と立っている人と半々ぐらいだった。
岩佐たちは中央の吊《つ》り革《かわ》につかまり、窓の外へ目をやった。
まだ薄日が射しているが、雲が広がり、今朝の天気予報では、正午以降に雨の降る確率は七十パーセントだという。
次の浅草橋を過ぎたところで、谷が手帳を取り出し、何やらメモし始めた。
電車は、隅田川の鉄橋にかかる。
それを渡り終え、両国駅のホームにすべり込んだ。
岩佐は車内の吊り広告にちょっと視線を移し、それから、上野駅で買って社会面とスポーツ面をざっと見ただけで畳んでおいたB新聞を脇の下から抜き取った。
一面の見出しだけ拾い、社会面を開く。
前に社会面を開いたときは、自分たちの捜査している船戸の事件が載っていないかどうか確かめただけで、記事は読んでいなかったからだ。
ホームを出て、高架線を走る電車の窓がまた明るくなった。
社会面に、船戸の事件の続報は載っていなかったが、津軽の小泊で起きた事件が載っていた。
大きな記事ではないが、船戸の事件と同じように、被害者が東京の人間のため、こちらの版にも載《の》ったらしい。
そう思い、何気なくその本文を読み始めた岩佐は、息を呑んだ。
目は一つの名前に釘づけになる。
そして、彼は、自分がどこにいるのかも忘れ、もう少しで大声をあげるところだったのである。
岩佐がそうしなかったのは、ちょうど手帳から目を上げていた谷が、一瞬早く彼の普通でない様子に気づき、
「どうした?」
と、聞いたからだったかもしれない。
岩佐は我に返り、上司の顔に目を向けた。
「どうしたんだ? 何か重大な事件でも載っていたのか?」
谷が繰り返した。
「部長、こ、これを見てください」
岩佐は、新聞を上司の前へやった。
「ここです、この名前です」
一つの名を指した。
手がかすかに震えた。
「うん?」
谷が、岩佐の指差した部分に目を近づけたかと思うと、
「な、なんだ、これは!」
驚きの声をもらして、目を岩佐の顔へ戻した。
そこには、小泊で友人の女性を殺した容疑者として江副千晴(二十六歳)が逮捕された、と書かれていたのである。
岩佐は上司の目に視線を当てたまま、生唾を呑み込んだ。
「年齢も同じだな?」
谷が上ずった声で言った。
「はい」
「ところで、次はどこだ?」
谷が、不意に窓の外へきょろきょろと目を向けた。
「確か錦糸町《きんしちよう》です」
岩佐は答えた。
「よし、降りよう。降りて、青森県警へ電話するんだ」
谷が言った。
6
「――というわけで、江副千晴は、二十日の晩『北斗星5号』で起きた殺人事件の容疑者にもなっていたんです」
寺本が美緒と壮に、北海道警の谷という部長刑事から北津軽署に電話のあった事情を説明してから、言った。
斜陽館のコーヒールーム。
寺本が来て十四、五分過ぎた、十時四十五分頃である。
美緒はただ驚き、黙っていた。
傍らの相棒はと見ると、その表情はいつもと変わらなかった。当然、壮だって驚いているはずだが、半ば思考を追っているような目をして、寺本の顔に視線を向けているだけだった。
「これによって、江副千晴の下村保津美殺しの動機も、いっそうはっきりしてきたんです」
寺本が、テーブルの上のT新報にちらっと視線を走らせてからつづけた。
「二つの事件は関係していると……?」
美緒は問うというよりは、自分の胸につぶやいた。
「そうです。T新報を読まれたのならご存じのように、江副千晴の供述では、動機が多少|曖昧《あいまい》でした。というか、石をつかんで友達の頭を殴りつけたにしては、動機が弱い感じでした。あとでご説明しますが、昨日、警視庁に頼んで江副千晴と下村保津美の関係等を調べてもらい、二人は必ずしも仲の良い友達同士ではなかった事実が分かっています。しかし、それでも、殺す動機というほどのものは見つかっていません。
では、江副千晴が、もし船戸研一殺しを下村保津美に感づかれたとしたら、どうでしょう。千晴には、友人を殺す立派な動機が生まれるわけです」
「感づくといっても、札幌の事件を下村さんはどうして知ったんでしょうか?」
美緒は、寺本の話は強引すぎないかと思いながら、聞いた。
「それでしたら、一昨夜七時のNHKニュースで報道されたんです」
寺本が待っていたように答えた。「死体の見つかったのは札幌でも、殺されたのは列車が東北を走っていた頃ですし、被害者が東京の人間のため、全国ニュースで流されたようです。ですから、下村保津美がそれを見た可能性は大いにあるんです」
「でも、ニュースを見ただけで、江副さんがやったと思うでしょうか?」
「下村保津美が、江副千晴と船戸研一の交際を知っていたとしたら、どうですか」
「下村さんが、ニュースを見たら――。江副さんたち二人の交際を知っていたとしたら――。どちらも、仮定のお話ですわね」
「今のところ、ま、そうですが」
寺本が、一瞬むっとしたような顔をして答えた。
「江副さんが船戸さんを殺害した――というのも、そうですわ」
美緒はかまわずにつづけた。
内心、寺本たちの考えたとおりだろうと思ったものの、仮定で判断されたのでは千晴が可哀相《かわいそう》だからだ。
「いや、その点は、道警の谷部長の話から考えて、ほとんど間違いないでしょう。千晴も、二十日、上野を十九時三分に出た『北斗星5号』に乗って函館まで行った事実は認めているわけですし」
「えっ、本当ですか!」
美緒が思わず声を高めて、聞き返すと、
「ご存じなかったんですか?」
寺本が意外そうな声を出した。
「は、はい」
「そうだったんですか。私は、当然聞いておられると思っていましたが……。そうか、そうですね、考えてみたら、千晴がそんな話をするわけがありませんね」
寺本がひとりでうなずいているのをそのままに、美緒は壮と顔を見合わせた。
相棒の表情は今もほとんど変わっていないが、驚いているのは間違いない。
これまで美緒たちは、千晴がどうやって津軽へ来たのだろうと話し合いながらも、まさか札幌行きの寝台特急「北斗星」で来たとは想像しなかった。
下りの「北斗星」は1、3、5号と三本ある。が、美緒の記憶では、1号が八戸に停車する以外、3、5号は青森県内ノンストップだったからだ。
美緒は、二十日の夕方六時半頃、上野駅構内の中央広場で千晴と保津美を見かけたときのことを思い浮かべた。
あのとき、千晴だけが中央改札口を入って行き、保津美は千晴を見送った後、構内から出て行った。そして、美緒が作家の石兼裕太郎と喫茶店で話した後で壮と待ち合わせ、八時五十一分発の「あけぼの1号」に乗ると、同じ二号車に保津美が乗っていて、五能線、津軽鉄道と、金木に着くまでずっと同じ列車だったのだった。
千晴を再び見たのは、その後だ。
美緒たちが金木駅の取材をし、保津美に少し遅れて斜陽館へ行くと、千晴が保津美と談笑していたのである。
そのとき以来、千晴がどういうルートで金木まで来たのだろう、と美緒は何となく気になりながらも、尋ねる機会がなく、そのままになっていたのだった。
「江副さんは、『北斗星5号』を函館で降りてから、どうやって金木へ来た、と言っているんでしょうか?」
美緒はとにかく聞いてみた。
「『北斗星5号』が函館に着いたのは朝六時半頃だったので、それから一時間ほど待って、函館始発盛岡行きのL特急『はつかり10号』に乗り、青森まで戻った。青森に着いたのは九時半頃。青森からはタクシーに乗り、一時間ちょっとかかって金木まで来た。そう言っています」
寺本が答えた。「つまり、津軽海峡を越えて函館まで行き、またすぐ海峡を越えて津軽まで戻ったわけです」
「それで、『あけぼの1号』で津軽へ来る予定の下村さんと、十時五十分頃、金木の斜陽館で待ち合わせた……?」
「そのようです」
「江副さんは、いったいどうして、そんな不自然なルートをつかって津軽へ来たんでしょうか?」
「もちろん、『北斗星5号』の車内で船戸研一を殺すためでしょう」
「江副さんがそう言っているんですか? ……その前に、江副さんは、船戸さんという方を殺した事実を認めているんでしょうか?」
「いや、こちらは否認しています。自分は船戸研一などという人間は知らない、と言っています」
「知らない、と……ですか?」
意外な答えだった。
「もちろん、知らないはずはありません。船戸との交際の証拠をどこにも残していないと自信を持っているため、シラを切っているに決まっています。もしかしたら、二人の関係を知っていたのは、下村保津美だけだったのかもしれません。少なくとも、千晴はそう思っていたのかもしれません。それで、保津美を殺したと考えれば、さっきもお話ししたように、動機がすっきりします。
ところが、船戸研一は、姓名判断をしてもらうため、藤島沙緒里という六本木のクラブのママに千晴の名と年齢を明かしていたわけです」
「そのへん、私にはどう考えたらいいのか分かりませんけど……江副さんが船戸さん殺害の件を否認している以上は、なぜ『北斗星5号』に乗ったのか、なぜそんな妙なルートで津軽へ来たのか――彼女なりの理由を話しているんじゃないでしょうか」
「ええ、話しています」
「それは、どういう……?」
「下村保津美が、ここ斜陽館へどっちが早く着けるか競争しようと言い出したからだ、と言っています。一種のゲームだった、と。一度上野で会って別々の列車に乗り、翌日、津軽で再会する――。なんとなくしゃれていて、面白そうだったので、自分も賛成した。どちらが『北斗星5号』に乗り、どちらが『あけぼの1号』に乗るかは、クジで決めた。そう言っています。だから、自分が『北斗星5号』に乗ったのは偶然だった、と」
「下村さんから言い出したんですか」
「これは本当だったのか、嘘だったのか分かりません。もし本当なら、下村保津美の言い出した話を利用して、千晴は船戸の殺害計画を立てた。もし嘘なら、千晴は船戸の殺害計画を立てた後で下村保津美にこうした提案をし、クジなどではなく、自分が『北斗星』に乗るように話を持っていった。そういうことでしょう」
「そうですか……」
美緒はうなずいた。
しかし、どう考えたらいいのか、よく分からなかった。
寺本たちは、保津美だけでなく、船戸研一を殺した犯人も千晴だと決めつけている。が、もし千晴が二つの殺人事件の犯人なら、彼女はなぜ一方の犯行は認め、一方は否認しているのだろうか。寺本の言ったように、船戸と自分との関係を示す証拠が無い、と考えているからだろうか。それなら、彼女が保津美を殺したという証拠だって無いのではないだろうか。
美緒が考えていると、寺本が、警視庁に依頼して調べたという千晴と保津美について、また二人の関係について説明した。
それによると、二人は愛知県一宮市出身で、名古屋にある女子高校の同窓生だった。高校を出てともに上京、千晴は新宿のデパートR屋に就職し、保津美は短大に入学した。千晴は頭が良く、成績も優秀だったが、家庭の事情で進学できなかったため、働きながら服飾デザインの専門学校へ通う道を選んだようだ。現在、都下|府中《ふちゆう》市のアパートに住み、R屋で主に婦人服の仕入れにタッチしているが、密かにデザイナーになる夢を抱いているらしい。
一方の保津美は、中学、高校時代は文学少女で、特に太宰治のファンだったという。短大を卒業した後はM証券に就職し、現在、中野のマンションに住み、新橋支店に勤めている。
東京に出てきている高校時代の友人によると、二人はちょっと妙な関係だった。妙というのは、仲が良いのか悪いのか分からないからだ。いつも一緒に行動しながら、互いに悪口を言い合い、強いライバル意識を燃やし合っていたのだという。が、だからといって、何かよほどのことがないかぎり、千晴が保津美を殺したとは到底《とうてい》考えられない、というのが複数の友人たちの証言だった。
「――こんなところですね」
寺本が一度言葉を切り、それから、
「ああ、そうでした」
と、思い出したようにつづけた。「最初にご説明したように、北海道警の谷部長によると、船戸の付き合っていた女は太宰治のファンでした。ですから、それも、女が江副千晴だった一つの傍証《ぼうしよう》になるはずです。下村保津美ほどではなくても、千晴も保津美の影響をうけ、かなり太宰を読んでいたようですから」
太宰治ファンの若い女性など沢山いる、と美緒は思ったが、口には出さなかった。
代わりに、保津美の殺された夜、九時半頃、下前で目撃された白い乗用車に乗っていた人間が分かったかどうか、尋ねた。
「まだ分かりません」
と、寺本が答えた。
「ということは、時刻からみて、その車が下村さんの事件に関係していた可能性は残りますわね」
「江副千晴が犯人でなければ、そうかもしれません。が、千晴は保津美を殺した事実を認めているわけですから」
千晴を犯人と決めつけてしまうところにまだ疑問が残っているのだが、それを言えば話がまた元に戻ってしまうので、美緒は黙っていた。
すると、寺本が時計に目を走らせ、
「このへんでいかがでしょうか?」
と言った。
「はい。お忙しいところ、ありがとうございました」
美緒は寺本の立場に気づいて、礼を述べた。
前に壮が力を貸しているとはいえ、寺本が情報を流してくれたのは、彼のまったくの好意からだったからだ。
「それじゃ……」
寺本が伝票をつかんで立ち上がりかけた。
「それは、私たちが……」
美緒は慌てて腰を上げ、彼の手を押さえた。
そのとき、美緒と寺本の伝票の取り合いなどまるで気づかなげに、平然と座っていた無口な男が、
「あの……」
と、言った。
「はあ?」
美緒に手を押さえられた不自然な恰好のまま、寺本が顔だけ声の主に向けた。
「二点ほど疑問があるんですが、伺っていいでしょうか?」
壮がつづけた。
「ええ、はい」
美緒が寺本を押さえていた手を上げると、彼が元の椅子に腰を戻し、
「何でしょう?」
と、壮を見つめた。
何を言うかと思い、多少緊張しているようだった。
「まず、もし江副千晴さんが船戸さんという方を殺した犯人なら、彼女は、『北斗星5号』に乗って津軽へ来た事実をどうしてあっさりと話したんでしょうか? それが一つです」
壮が言った。
「…………」
「次に、江副さんと下村さんの二人が別々のルートで津軽へ来て斜陽館で再会するというゲームと、事件との関連です」
壮がつづけた。「そのゲームを江副さんが言い出したにせよ、下村さんが言い出したにせよ、それを利用して江副さんが『北斗星5号』に乗り込み、船戸さんを殺害したのだとしたら、その計画は、江副さんにとって、どんなメリットがあったんでしょう? お話を伺ったかぎりでは、僕には何のメリットも見出せないんですが。これが二つ目です」
「第二の点はおっしゃるとおりですね。それは、今のところ、私たちにも分かりません。しかし、きっと何らかのメリットがあったはずですから、今後の調べで明らかになると思っています」
寺本が答えた。
「そうですか。なら、その点の答えはもう少し待つことにしましょう」
壮があっさりと引き、「では、初めの点は?」
「それは……『北斗星5号』に乗った事実は、隠しておいてもいずれ分かってしまう、と思ったんじゃないでしょうか。それなら進んで話したほうがいい、と判断したんじゃないでしょうか」
寺本が苦しい答えをした。
「どうして分かるんでしょう? それを知っている下村さんの口を封じているわけですし、江副さんが犯人なら、あくまでも『北斗星5号』に乗っていた事実を否認し通すのが自然じゃないでしょうか」
「しかし、『北斗星5号』と『はつかり10号』の車掌、青森から乗ったタクシーの運転手などがいますから」
「目立った行動をすれば別ですが、列車の車掌さんが乗客を一々覚えているでしょうか。しかも、乗っていたのを隠そうとしたのなら、当然変装していたはずですし」
「タクシーの運転手でしたら、覚えていても不思議はないでしょう。青森から金木までタクシーに乗った若い女性がそう何人もいたとは思えませんから」
「そうですね」
「でしたら、そこから分かると思ったのかもしれません」
「ちょっと待ってください。それは二重の意味でおかしいと思います。
一つは、青森からタクシーに乗って金木まで来たとしても、それだけでは『北斗星5号』に乗って函館まで行ったという証拠にはならないという点です。前夜上野を発って青森に午前九時半前に着く列車は、東北本線、奥羽本線経由で何本かあるはずですから。そのうちの一つで来たと言い張ればいいわけです。
それからもう一つは、『はつかり10号』が青森に着く時刻に青森から金木までタクシーに乗っている――という事実そのものがおかしいんです。
もし江副さんが『北斗星5号』で殺人を犯したのなら、彼女は当然自分が『北斗星5号』に乗っていなかったように装うはずです。これは、どうせ分かるので進んで明かした、という寺本刑事さんたちの判断を採《と》ったとしても、つまり結果としてそうなったとしても、です。
この点、いかがでしょう?」
「そのとおりかもしれません」
「としたら、江副さんは、ここ金木の斜陽館へ来るのが多少遅れたとしても、『はつかり10号』の青森到着時刻とずらしてタクシーに乗ったんじゃないでしょうか。また、タクシーを何台か乗り継いだんじゃないでしょうか。あるいは、青森からタクシーで五所川原まで来て、五所川原からは津軽鉄道かバスを利用して金木へ来たんじゃないでしょうか」
「…………」
「ところが、江副さんはそうしなかった。『はつかり10号』が青森に着く時刻に、青森からタクシーに乗り、真っ直ぐここまで来た。しかも、ほとんど隠さずに、『北斗星5号』に乗って函館まで行った事実を明かした――。
そうした点が、彼女を犯人と考えた場合、僕には納得できないんです」
寺本が額に皺《しわ》を寄せ、困ったような苦しげな顔をして考えていた。
壮の言うのはもっともだと思うが、といって、それをあっさりとは認めたくない――といった様子だった。
「分かりました。黒江さんの言われた点、よく検討してみたいと思います」
彼が口を開いた。
たいがいの刑事なら、素人が何を言うかと居直るところだが、寺本は壮の頭脳を知っているので、素直に自分たちの判断の曖昧さを認めたのである。
「それで、一つ、お聞きしておきたいのですが」
寺本がつづけた。
「……?」
「黒江さんは、江副千晴は犯人ではない、とお考えなんでしょうか」
「そういうわけじゃありません。僕にも、どちらとも判断がつかない、というのが正直な感想です。もし、江副さんが、下村さん殺害を頑強《がんきよう》に否認しつづけているというのでしたら、一つの判断が下せたと思うんですが……。しかし、彼女はそれをあっさり認めているわけですから」
壮が答えた。
「ということは、もし江副千晴が下村保津美殺害も否認していたら、彼女は犯人じゃない、と判断された?」
「そう考えたはずです。ところが、江副さんは、下村さん殺しはあっさりと犯行を認め、船戸さん殺しは否認している。それが、分からないんです」
「二つの事件が関係ない可能性だってあるんじゃないかしら? そうしたら、片方の事件の犯人でも、もう一方の事件の犯人でない場合だって、当然あると思うけど」
美緒は言った。
「一般的にはあります。というより、つづいて起きた事件だからといって、同じ犯人でない場合のほうが多いでしょう」
壮が言った。
「だったら、一方を認めて一方を否認してもおかしくないわ」
「いえ、いまのは一般的には、という話です」
「……?」
「今度の二つの事件は、単につづいて起きただけでしょうか?
江副さんは、津軽へ来るのに『北斗星5号』というまったく妙なルートを利用しているんです。その『北斗星5号』で、彼女の乗った晩、殺人事件が起きているんです。しかも、殺された船戸さんの個室には車掌が検札に行ったとき女性が乗っていて、船戸さんは江副さんと親しく交際していた可能性が高いんです。
一方、『北斗星5号』利用のルートは、下村さんとのゲームだと江副さんは言っています。つまり、下村さんだけが、江副さんが『北斗星5号』に乗ったのを知っていたわけです。その下村さんが殺されたわけです。
これでも、二つの事件が無関係に、偶然つづいて起きただけだ、と考えられるでしょうか」
「そんな偶然は、ちょっとありえないわね」
美緒は認めた。
「そうでしょう。ところが、それでいながら、江副さんは、状況証拠の上から見たら下村さん殺しより不利な立場にいると思われる船戸さん殺しを否認し、一方の下村さん殺しをあっさり自供しているわけです。だから、わけが分からないんです」
「あ、でも」
と、美緒は一つの可能性に気づいて、言った。「事件は密接に関連していても、犯人は別という場合だってあると思うけど」
「それは、当然ありえますが……ただ、そうすると、この場合の二つの事件の関連はどうなるんでしょう? 江副さんは、かなり妙で不自然なかたちで『北斗星5号』に乗っているわけです。それでいながら船戸さんの殺害とは関係なかった、と見るわけですから、犯人は江副さんが『北斗星5号』に乗る予定なのを利用したか、彼女にそうするよう仕向けた、と考えられます。つまり、犯人は江副さんに罪を被《かぶ》せようとしたわけです。としたら、下村さん殺害に関しても、同じ人間が、同じように江副さんに疑いが向くように仕組んだ、ということにならないでしょうか。
ところが、江副さんは、後者の殺人は認めながら、前者に関しては否認しているわけです」
「下村さん殺害については、江副さんが供述したとおり、カッとして、手に触れた石をつかんで殴ってしまった――そうは考えられない?」
「そうすると、二つの事件はまったく無関係に起きた、という結論になりますけど」
「あ、そうか……」
「繰り返しますが、その確率はもちろんゼロじゃありません。ですが、かなりゼロに近いはずです」
「黒江さんのお考えは分かりました。ぜひ参考にさせていただき、本部へ帰って十分に検討してみたいと思います。どうもありがとうございました」
寺本が、話を打ち切るように言った。
「いえ、こちらこそ、お忙しいところ、長い間お引き止めして、申しわけございませんでした」
美緒は頭を下げた。
「これから、どちらへ?」
寺本が尋ねた。
「そうですわね……」
美緒は答えながら相棒の顔に目をやり、
「どうするの?」
と聞いた。
壮が、もう別の問題でも考えている目をして、わずかに首をかしげた。
それを見て、美緒は、相棒の習性≠ゥらとても謎をこのまま残して東京へ帰るわけにはゆかないな、と感じた。
そこで、寺本に目を戻して、言った。
「たぶん、今晩は金木に泊まるようになると思いますので、あとで宿をお知らせします。新しい事実が分かりましたら、また教えていただけませんか」
「はあ……」
寺本が目を逸《そ》らし、複雑な表情をした。
壮に恩があるとはいえ、これ以上は関わりたくない風だった。昨日は再会を喜んだものの、わずらわしくなったのであろう。
「たぶん、今日中に事件はほぼ解決すると思いますので、東京へ帰られていても、電話でお知らせしますが」
彼が言った。
「はあ」
今度は美緒が曖昧な返事をした。
「実は、午後二時過ぎの飛行機で、北海道警の谷部長さんたちが東京からこちらへ見える予定なんです」
寺本がつづけた。「そうなったら、江副千晴は、船戸研一殺しに関しても否認し通すのは難しくなるでしょう。つまり、二つの事件は同一犯人の犯行となり、黒江さんが最後に言われた疑問は消えるわけです。
また、千晴が自供すれば、もちろん前の二つの疑問――『北斗星5号』に乗っていた事実をなぜ簡単に明かしたのか、『北斗星5号』で船戸を殺したメリットは何か――についても、ご説明できるようになると思います」
その晩、美緒たちは金木ではなく五所川原に泊まり、もう一度寺本に会った。
しかし、事態は寺本の思惑どおりには進んでいなかった。
ただ、壮の言った最後の疑問――千晴は二つの事件のうちなぜ一方だけ犯行を自供したのかという疑問――についてだけは、寺本の予想したものとかたちは違っていたものの、一応解消していたのだった。
第四章 平行線トリック
1
岩佐と谷が、青森空港まで迎えに来てくれた青森県警のパトカーで金木の北津軽署に着いたのは、午後三時半近くだった。
朝、錦糸町駅から青森県警に電話をかけて話し、すぐにも飛んできたかったのだが、東京・青森間の飛行便は少なく、午後一時十分発のJAS215便までなかったのである。
ただ、そのおかげで、岩佐たちは一つの重要な事実をつかむことができた。
彼らは、木之下の妻を訪ねた後――彼女からはこれといった話を聞けないまま――船戸のアパートへ行き、家主に立ち会ってもらって、もう一度彼の部屋を捜した。すると、昨日は見つからなかったM銀行とS銀行の預金通帳が、ワープロの機械の中から出てきたのだ。
そのうち、M銀行の通帳については、すでに内容が分かっていた。毎月の給料を受け取り、電気料金やガス代金の自動支払いするための口座で、勤務先のホテル・ニューサクマから銀行名と口座番号を聞き、銀行に問い合わせてあったからだ。
だが、もう一方のS銀行の通帳は、船戸の収入からみて存在が予想されても、まったく不明だったものだった。
預金額は、前者が百万円未満で、これは多少の増減があっても、この一年間変わっていない。一方、後者は、去年の十二月に一千二百数十万円あったのが、今年に入ってからMMCや定期預金が解約され、三百万円、二百万円、二百万円と三度おろされていた。
これは何を意味するのか?
去年の十月、木之下和夫は交通事故で死亡した。船戸はその前に、彼から江副千晴を紹介されているはずである。
とすると、船戸の預金は、彼が千晴と交際を始めて数ヵ月してから急に減った――という事実を示していた。
減った七百万円は千晴に流れたにちがいない、と岩佐たちは考えた。そこにこそ船戸殺しの動機があったのではないか、と。
つまり、千晴は結婚をエサに船戸から金を引き出していた。が、彼に父親と姉に引き合わされそうになり、それ以上|騙《だま》しつづけるのが困難になった。そこで、一緒に札幌へ行くといつわって船戸と「北斗星5号」の個室に乗り、酒と睡眠薬を飲ませて眠らせ、殺害した――。
北津軽署は、金木の南の町はずれにあった。まだ建てられて間がないらしく、三階建てのコンクリートの白い壁には、ほとんど染《し》みがない。
岩佐たちは、一階の署長室の隣りに付いた応接室へ通され、署長や捜査主任官の水野警部らと会った。
署長は定年に近い人の良さそうな男で、水野はまだ三十代後半の長身の男だった。
「遠いところ、ご苦労さまです」
と、迎えてくれたが、表情は固い。というより、二人とも苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。
理由はすぐに判明した。
岩佐たちは水野と二度電話で話していたが、二度目の電話の後で、江副千晴が、下村保津美を殺したという自供をひるがえしていたのである。
昨夜は頭が混乱して何がなんだかわけが分からなくなり、ただ休みたい、取調べから解放されて独りになりたいという思いから、刑事に聞かれるままに犯行を認めた。が、自分は保津美を殺してなんかいない。
千晴はそう言い出したのだという。そして、その後は、ずっと無実を主張しつづけているのだという(つまり、これで、少なくとも壮が寺本に言った最後の疑問――千晴がなぜ一方の犯行は認め、一方は否認しているのかという疑問――は消えたのだった)。
「もちろん、船戸研一殺しについては、一貫して知らぬ存ぜぬ、です」
水野が、千晴の尋問の経過を簡単に説明してから、言った。
「そうですか」
谷が深刻気な顔をしてうなずいた。
「そちらさんは、電話の後で何か変わった点はないでしょうか?」
水野が聞いた。
谷が、船戸の預金の件を話した。
「ほう、七百万円ですか」
水野の表情がわずかにゆるんだ。「すると、江副千晴がそれをどこかに隠している可能性がありますね。半年ちょっとの間に、七百万はつかわないでしょうから」
「ええ」
「ただ、当然、偽名で預金し、通帳は自宅に置いていないでしょうな。となると、突き止めるのは難しいですか」
「難しくても、何とかして突き止めるつもりです。重要な状況証拠ですから」
谷が少し強い調子で答えたとき、千晴の両親の依頼を受けた弁護士が彼女への接見を求めてきた、と警官が知らせてきた。
「たった今、東京から飛行機で来た、と言っています」
どうやら、岩佐たちと同じ便に乗っていたらしい。
「どこから来ようと、今、弁護士に接見などさせるわけにはいかん」
水野が口元を歪め、怒ったように言った。
その表情と語調には、一旦犯行を認めておきながら今日になってそれをひるがえした千晴に対する怒りと同時に、厄介な事態になったという思いがにじんでいた。
「よし、じゃ、わしの部屋へ通しておいてくれ。何とかしよう」
署長が受けた。
弁護士の応対は署長に任せ、弁護士が隣りの署長室へ入るのを待って、岩佐たちは二階の取調室へ移った。
もちろん江副千晴を尋問するためである。
水野たち青森県警も、船戸殺しに関して、千晴から一通りの事情は聞いていた。とはいえ、船戸事件は道警の領分のため、遠慮して、突っ込んだ取調べは保留してあったのである。
岩佐たちが取調室へ入って三、四分待っていると、千晴は柴田という三十四、五歳の婦人警官に連れられて入ってきた。背は百六十二、三センチ。すらりとした体型で、長い髪を一つに束ねて背中へ垂らしていた。
テーブルを挟んで谷の前に立ち、黙礼してかける。目の下に青黒い隈《くま》ができ、怯《おび》えたような暗い表情をしていたが、切れ長の目をした綺麗な女だった。
尋問は主に谷が行なうことになっている。彼の横に水野警部が並び、岩佐はテーブルから少し離れた脇についた。他に柴田婦警が立ち会い、岩佐と同年ぐらいの寺本刑事が書記として加わった。
「江副千晴だね?」
谷がまず確認した。
「はい」
と、千晴が、低いがはっきりした声で答えた。
「二十日の夜、『北斗星5号』の車内で、ホテル・ニューサクマに勤めていた船戸研一が殺された。船戸を知っているな?」
谷が早速本題に入った。
「知りません」
千晴が首を横に振った。
「知らない? そんなはずはないだろう」
「こちらの刑事さんにも聞かれましたけど、そんな人は存じません」
「船戸研一は、江副千晴という女と結婚するつもりで付き合っている、とある人に言っていたんだよ」
「でしたら、船戸さんという方が嘘をついていたか、私と同姓同名の人と交際されていたんだと思います」
「船戸研一は太宰治のファンで、彼の交際していた江副千晴も太宰ファンだった。あんたも下村保津美の影響で太宰の小説をよく読んでいたようじゃないか」
「よくというほど読んでいません」
「しかし、斜陽館を訪ねたり……ファンだったわけだろう」
「斜陽館へ来たのは、下村さんが行こうと言ったからです」
「じゃ、あんたは太宰にまったく関心がないというのか」
「そういうわけではありませんけど」
「少なくとも、普通以上の関心を持っていたはずだ」
「そうかもしれません」
「なら、船戸研一がそれを太宰ファンだと言ったとしても不思議はない」
江副千晴が口をつぐんだ。
岩佐は、ふと、小栗沢から聞いた話を思い出した。〈太宰治に関連して、千晴と思われる女について腑に落ちない点がある〉――船戸がそう言ったという話だ。
あれはどういう意味だったのだろうか。
が、岩佐がそれについて考えようとするより早く、
「それとも、あんたは、あんたと同じ二十六歳で、しかも太宰に関心を持っているあんたと同姓同名の女が東京近辺にもう一人いた――そう言うのかね?」
谷が質問を継いだ。
「私には分かりません」
「ふざけるんじゃない!」
谷が突然、声を荒らげた。
千晴が一瞬ぴくりと上体を引いた。
だが、それだけだった。固い顔をし、唇を噛んで黙っていた。
「そんな嘘が通ると思っているのか」
谷がつづけた。
「嘘じゃありません。本当に、船戸さんという方なんて名前を聞いたこともないんです」
千晴が必死の態《てい》で言った。
「それじゃ、木之下和夫はどうだ?」
「木之下さん?」
千晴が記憶を探るような目をして、聞き返した。
「この男だよ」
谷が、木之下の妻から借りてきた写真をテーブルに置き、千晴の前に押した。
千晴が顔を近づけてそれを見た。
「都立滝野川図書館に勤めていたが、去年の十月、交通事故で死んだ。年齢は三十六歳。やはり太宰治のファンで、『月見草の会』というグループの中心者だった。知っているだろう?」
「いえ」
千晴が答え、それから首をかしげ、「……ただ、なんとなく見覚えのあるような気もしますから、もしかしたら一度くらい顔を合わせているのかもしれません」
「顔を合わせているのは当然だ。この男が、船戸研一にあんたを紹介したんだからな」
千晴はもう一度木之下の写真を見、記憶を探るような目をした。
「思い出しただろう」
「いえ、分かりません」
「早く事実をありのままに話して、楽になったらどうかね」
「本当に分からないんです。どこかでお会いしたような気はするんですけど」
「いつまでも、そんな嘘は通用せんのだぞ」
「嘘じゃありません」
「貴様、なめるのか! こっちがおとなしく出ていればいい気になって……」
谷が再び声を高めたが、無駄だった。
その後、谷に水野も加わって、船戸と木之下を知っているはずだと責めても、千晴は知らないの一点張りだった。
谷たちは、追及の言葉に窮《きゆう》した。
いかに状況証拠が揃っていても、千晴と船戸の結び付きを示す物的な証拠は、何一つ無い。千晴から見れば、その自信があるから、頑強に否認しているのであろう。
「それじゃ、その点はひとまず措《お》いて、二十日の夕方、『北斗星5号』に乗った事情を話してもらおうか。津軽へ来るのに、なぜ『北斗星5号』になんか乗ったかだ」
谷が苦々しげな顔をして、質問を変えた。
千晴が、すでに岩佐たちが水野から聞いていた説明を繰り返した。
下村保津美が、別々のルートで行って斜陽館で待ち合わせようと提案し、千晴も面白いと思って賛成したこと。上野から斜陽館までの交通費は、どちらがどちらのルートを取ろうと半々にしよう、と決めたこと。すぐに保津美がクジを作り、それを引いて、千晴が「北斗星5号」利用ルートに、保津美が「あけぼの1号」利用ルートに、決まったこと。これが、出発の二週間ほど前の八月六日頃で、保津美がすぐに切符の手配をしたこと。――などである。
「当日は、上野で下村保津美に会い、あんただけ『北斗星5号』に乗ったわけだな?」
谷が質問を継いだ。
「はい」
「号車番号と寝台の種類は?」
「八号車か九号車だったと思いますが、はっきりとは覚えていません。寝台の種類は二段式B寝台の下段です」
「あんたの上段と前の寝台には、どういう客が乗っていた?」
「上段の二つは大宮で乗ってきた大学生のような男女で、前の下段は、福島で乗ってきた中年のサラリーマン風の人でした」
「検札が来たのは?」
「上野を出て間もなくだったと思います」
ここで、千晴は一人二役を演じたにちがいない、と岩佐は思った。
もちろん席を外し、船戸のいる四号車の二人用個室へ行っていたのだ。
というか、上野で乗ってから検札がくるまでは、ずっと船戸と一緒に四号車の二人用個室にいたにちがいない。そして、個室の検札が済んでから、「ちょっとロビーカーのほうを見てくるわ」そんなふうにでも船戸に言い、急いで八号車か九号車へ移ったのであろう。
こうして、保津美が切符を用意したという八号車か九号車の二段式B寝台の席に着き、今度はこっちの検札を――車掌が最初に来たときいなければ、次に回ってきたときに――受けたのであろう。
四号車と、八号車か九号車では、担当している車掌が違うはずだし、たとえ同じだったとしても、個室の検札時に女は車掌に顔を見せていない。だから、同じ一人の女が二枚の切符で乗っていると見破られるおそれはなかったはずである。
また、その後、千晴は、船戸に酒と睡眠薬を飲ませて眠らせるまで、適当に二つの車両を行ったり来たりしていたと思われる。が、他人のそうした動きに注意している乗客などいないはずだし、二段式B寝台の同じボックスの客にしても、いつ彼女が席にいたか、いなかったかなど、一々覚えている可能性はほとんどないにちがいない。
ところで、船戸の死亡推定時間は、午後十時から翌午前一時までの間である。列車の位置でいうと、郡山を出てから水沢あたりまで。
その間に停車したのは、
福島(十時三十分〜三十一分)
仙台(十一時三十二分〜三十八分)
の二駅だけで、仙台を出てからは、翌朝六時三十八分に函館に着くまで、運転停車を除いて、七時間ノンストップだった。
だから、千晴は、まだ人の動きがあって目立たない十時〜十一時頃か、列車が仙台駅を出て、乗客が寝静まった午前零時過ぎかは分からないが、その死亡推定時間内に四号車の二人用個室へ行き、すでに眠らせておいた船戸を殺害したのであろう。その後、八号車か九号車へ戻り、カーテンを引いて目隠《めかく》ししておいた自分の寝台にもぐり込み、列車が函館に着くのを待ったのであろう。――
「朝、列車が函館に着いてから斜陽館へ来るまでの経路を説明してくれ」
この点も、岩佐たちはすでに水野から聞いていたが、谷が確認のために質した。
千晴が、函館で約一時間待って「はつかり10号」に乗り、青森まで来たこと、青森からタクシーを飛ばして金木の斜陽館まで来たこと、を話した。
「斜陽館に着いた時刻は?」
「十時五十分頃です。下村さんとほとんど同じ時間でした。私が靴を脱いで上がり、アイスコーヒーを注文していると、下村さんが見えたんです」
「『はつかり10号』で青森まで行かず、一つ手前の蟹田《かにた》で降りれば、もっと早く着けたんじゃないのかね?」
これも、水野たちに聞いた話だった。
午前七時三十六分に函館を発車した「はつかり10号」は、津軽海峡のトンネルを出た後、青森湾の北の端に当たる蟹田、青森の順に停車する。
蟹田着が九時十二分。
青森着が九時三十七分。
だから、青森より蟹田で下車してタクシーに乗ったほうが、金木へ早く着けるのだという。
「はい」
と、千晴が答えた。「こちらの刑事さんのお話では、蟹田・金木間、青森・金木間は、どちらもタクシーで一時間から一時間十分くらいだそうですので、蟹田で降りていれば、列車が蟹田から青森まで行くのにかかった時間――二、三十分は早く着けたようです」
「だったら、なぜ青森まで行った?」
「津軽の地理を知りませんし、そんなことは分からなかったからです。それに、青森まで行ったほうがなんとなく安心できるような気がしたんです」
蟹田のような小さな駅でタクシーに乗れば、目立つ。「はつかり10号」から降りた、とすぐに突き止められてしまう。一方、青森だったら分かりにくい。それが、千晴の青森まで行った理由ではないか――。
水野たちは、そう疑ってみたらしい。
だが、彼らはすぐにその疑いの成り立たない事実に気づいた。
なぜなら、千晴はその前に、「北斗星5号」に乗って函館まで行き、そこから「はつかり10号」で津軽へ来た事実を、ほとんど隠そうとせずに話していたからだ。
また、その後、千晴が青森駅前で乗ったタクシーが突き止められ、彼女が斜陽館へ直行している事実――どういう経路で来たか分からないようにするなら何度か乗り継ぐだろう――も確認されたのであった。
これらにより、水野たちは、千晴が蟹田で降りずに青森まで行った事実に深い意味はなかったらしい、と思った。彼女が説明したように、地理や所要時間がよく分からなかったからそうしたのであろう、と判断した。
この話を聞き、岩佐と谷も、水野たちの判断にうなずいた。他に理由があったとは考えられないからだ。
では、谷が千晴に質《ただ》したのはなぜかというと、彼は、一応彼女の説明を自分の耳で聞いてみたかったからであろう。
「青森のほうが安心か……。じゃ、それはそのとおりだったとして、二十一日の午前十一時近く、あんたと下村保津美はここ津軽の金木で再会した。それから、どこへ行ったのかね?」
谷が話を進めた。
「バスで小泊半島の南の付け根まで行き、そこから下前の民宿まで歩き、民宿に荷物を置いて、権現崎に登りました」
千晴が答えた。
「雨に降られたそうだが?」
「はい。権現崎から下りてこようとしたとき、急に空が暗くなり、大粒の雨が降り出したんです。二人とも全身ずぶ濡れになって帰ったんですが、お風呂に入って着替えをし、しばらくしていると雨は止みました」
「その後、あんたと下村保津美は夕食になるまで二階の部屋でテレビを見ていたんだな」
それまですらすらと答えていた千晴の言葉が止まった。瞳の中で小さな翳が揺れた。
しかし、彼女はすぐに、
「いえ」
と、答えた。
この答えも、岩佐たちは水野から聞いていた。
「見ていなかった?」
「はい」
「部屋にテレビがあったはずだが」
「ありましたけど、下村さんとお話ししていましたから」
「一度も点けなかったのかね」
「一度ちょっと点けましたけど、東京みたいにチャンネルが多くないし、面白くなかったので消したんです」
谷がちらっと傍らの水野を見た。
このあたりは、二つの事件が密接に関係していると思われる部分だからだろう。
水野たちは、このとき保津美がNHKニュースで船戸が殺された事件を知り、それが千晴の保津美殺しの動機と関係しているにちがいない、と考えていた。
しかし、民宿の主人夫婦や子供たちに聞いても、この時間、千晴と保津美が二階の部屋にいたとしか分かっていない。この晩は二人の他に客がなく、彼女たちがテレビを点けていた、それもNHKニュースを見ていた、と証言できる者はいなかった。
「一度点けたテレビを消したなんて、信じられんな」
水野が谷の質問を引き継いだ。
千晴が、動かしたか動かさないか分からない程度、首を彼のほうへ回した。
「話といっても、難しい議論をしていたわけじゃあるまい。としたら、見ても見なくても、一度点けたテレビは点けっぱなしにしておいたんじゃないのかね。そうしたら、七時になり、ニュースになった。下村保津美は、船戸研一の殺された事件を知り、あんたに何か言った。それは、船戸研一を殺したあんたにとっては、非常に危険な言葉だった。保津美がそれを認識していたかどうかは分からないが――。それで、あんたは彼女の殺害を決意し……」
「私は殺していません! 私は、船戸さんという人も下村さんも、殺してなんかいません!」
千晴が水野の言葉を遮《さえぎ》って叫んだ。
が、水野は無視してつづけた。
「殺害を決意したといっても、もちろん保津美に、殺意を気づかれないよう十分に注意した。注意して、夕食を済ませた。すると、食事の後、保津美が、散歩に行かないかと言い出した。これは、あんたにとって願ってもない状況だった。しかし、一緒に外出して殺したのでは怪しまれる。そこで、あんたは適当な口実をつけ、しばらくしたら自分も行くから外で待っているように、と言っておいた……」
「嘘です、嘘です。私はそんなこと言っていません。本当に私は雨に濡れて疲れていたから、散歩に行かなかったんです。下村さんと、些細な問題でちょっと言い合ったのも、気持ちに引っかかっていたのかもしれません。下村さんが、私のタクシー代が高すぎると文句を言ったので、それなら別々の方法で来ようなんて言い出さなければよかったのに、と私が言い返したんです。そのため、何となく二人の気持ちがぎくしゃくしていたんです。昨夜、手に触れた石を拾って下村さんの頭を殴ったと嘘をついたとき、刑事さんに、殴った理由がもっとあるだろうと何度も問いつめられ、その言い合いのことを思い浮かべて話しましたが、もちろん出鱈目《でたらめ》です。それは、下村さんと一緒に散歩に行きたくなかった理由の一つだったんです」
「なかなかうまく辻褄を合わせたな」
「辻褄を合わせたわけじゃありません。事実です、事実なんです」
「もういい!」
水野が相手の言葉を断ち切った。「事実は一つしかない。下村保津美を先に散歩に出したあんたは、しばらくすると、民宿の人の前で、彼女がなかなか帰ってこないので心配だ、といった演技をし始めた。時計を見、彼女を捜しに行くようなふりをして外へ出た。待ち合わせたのは、たぶん誰も来ない権現崎の登り口だろう。少し手前で手頃な石を拾い、近づくと、彼女の油断を見すまして頭を殴りつけ、殺害した。そして、女には無理なように見せるため、死体を担いで遊歩道を登り、藪に捨てた――。これが事実じゃないのかね?」
「違います。私は下村さんを殺していません。友達の彼女を殺すわけがありません」
「昨夜は、はっきりと殺したと言ったじゃないか」
「あれは、私、頭がおかしかったんです。何度も説明しているように、何がなんだかわけが分からなくなってしまったんです。自分が何を考え、何を言っているのか、分からなくなってしまったんです」
「嘘を言うな! 頭がおかしかった? 多少混乱したからといって、殺してもいないのに友達を殺したなんて、それこそどうして言える?」
「刑事さんたちが、半ば無理やり私にそう言わせたんじゃないですか!」
「無理やり言わせた? 冗談じゃない。事実の追及はしたが、そんなことはしとらん。だいたい、下村保津美の死体に暴行の跡はなかったし、彼女は金を奪われたわけでもない。流しの犯行なんて、考えられんのだよ。
としたら、彼女に関係のある人間の犯行、そう結論せざるをえないだろう。
ところが、あんたの他に、あの晩そんな人間が小泊へ来ていた、しかも、その人間は彼女がひとりで散歩に出る予定まで知っていた――そんなことが想像できるかね?
もっとも、あんたが、保津美を殺したいほど憎むか恨んでいたそうした人間に心あたりがあるというのなら、別だがね」
「そんな心あたりはありません。でも、あの晩九時半頃、下前から出て行ったという白い乗用車を見つけてください。もしかしたら、その車に乗っていたのが犯人かもしれません」
「保津美の知り合いが、東京から津軽まで彼女を殺しに追いかけてきた、とでも言うつもりなのか?」
「私は知りません。下村さんとは職場も違いますし、月に一度か二度会っていただけですから。ただ、私は殺していないんです。私は犯人じゃないんです。それでいて、行きずりの人の犯行でないとしたら、犯人は下村さんの生活の周りにいる、としか考えられないじゃないですか」
「犯人はあんた以外にはおらんよ」
「そんなこと、どうして……。私は、私は、本当に誰も殺してなんかいないんです」
千晴の声は涙声になり、次第に弱々しくなった。
「今更、そうした嘘は通用せんのだよ。だから、早く事実を認めて、楽になったほうがいい。
まず、船戸研一だ。彼を殺すには、あんたにも、それなりの事情があったわけだろう。それを話すんだ。我々だって、事情次第ではあんたの味方にならんわけでもない」
船戸の預金から消えていた七百万円については、どこへ流れたのかまだ分からないからだろう、水野は口にしなかった。
「見も知らない人のことを、何を話せというんですか」
柴田婦警に渡されたハンカチで目頭を押さえながら、千晴が抗議するように言った。「話せるわけなど、ないじゃないですか……」
彼女はしゃくりあげ始めた。
その姿を見ながら、岩佐はよく分からなくなった。
状況は、千晴が犯人であることを示している。別の犯人を想定するのは、かなり困難だった。
それなのに、彼女は、一度認めた保津美殺しの自供までひるがえし、頑強に否認している。
警察には自分の犯行を裏づける証拠がないと読んだからだろうか。それとも……。
それとも……何だ、というのか。彼女は本当に犯人じゃないというのか。
岩佐は、脳裏に浮かんだ迷いを振り払うように、小さく首を振った。
そんなはずはありえない。千晴が犯人でないなんてありえない。やはり、彼女は、警察が証拠をつかんでいないと読み、シラを切り通そうとしているのだ。
彼はそう思った。
2
千晴はハンカチを顔に押しつけて泣いていたが、やがてそれで涙を拭い、顔を上げた。
谷と水野に恨みのこもったような濡れた目を向け、
「刑事さん」
と、鼻のつまった声で言った。
二人は黙って彼女を見返した。
「私が船戸さんという方と下村さんを殺したというんでしたら、どうぞ早く裁判にしてください。そこで、証明してください」
「ほう……」
水野が口元に強がりの笑みをにじませ、「もちろんいずれ起訴、公判と進むだろうが、証拠を残していない自信がある、というわけか」
「いえ、そうじゃありません。私は殺人など犯していないということです。ですから、どこにもそんな証拠なんてあるわけがないんです」
「まあ、いいだろう。居直りも今のうちだけだからな」
谷が言った。「あんたは、船戸など見も知らぬ……と言った。だが、彼とあんたが一緒にいるところを見ている人間が、必ずどこかにいるはずだ。あんたは、彼から七百万円も引き出しているんだからな」
「七百万円……?」
「結婚をエサにあんたが船戸から騙し取った金だよ」
「どうして、私がそんなお金を……! もし嘘だと思うんでしたら、私の預金通帳でも何でも調べてみてください」
「もちろん調べるが、どうせそんなところには入れてないだろう。
それより、いま言ったようにあんたと船戸が一緒にいるところを見た人間だ。それを必ず見つけ出してやる。見も知らないと言った以上、そのときになって言い訳しても、遅いからな。
それから、木之下和夫だ。彼は死んだが、彼とあんたが太宰治に関係する何かを通じて知り合ったのは、十中八九間違いない。としたら、そこにも、あんたを見ているか、彼から話を聞いている者がいるはずだ」
谷の言葉に、千晴が顔をわずかに下向け、テーブルに置いたままになっていた木之下の写真に視線を向けた。
ちらっと見て、すぐに顔を起こす。
いや、起こしかけた瞬間、彼女の表情に変化が起きた。
意識に何かが引っかかったように、彼女は視線をまた写真に戻したのである。
彼女は、今度は四、五秒写真を見ていてから、手を伸ばし、それを取った。
谷や水野の存在など忘れたように、食い入るように見つめる。
見つめながら、何か真剣に考えるか、思い出そうとしているようだった。
谷も水野も、呆気《あつけ》に取られてか、千晴の様子に期待してか――おそらく両方だろう――何も言わない。じっと、彼女を見つめ、彼女が口を開くのを待っていた。
すると、千晴の顔がふっと明るく輝いたように見えた。
彼女はその顔を谷たちのほうへ向けた。
「木之下を思い出したかね?」
谷が聞いた。
千晴がうなずいた。
「じゃ、船戸との関係も認めるんだな」
千晴が意外そうな表情をし、
「いえ、違います」
と、強い調子で言った。
「違う?」
「木之下さんという方は思い出しましたけど、船戸さんという方とは会ったことがありません。だいたい、木之下さんという方にしても、たった一度お会いしただけなんです」
「そんな話は信じられんが、とにかく、いつどこで会ったのか、話してみろ」
「一年前の六月……日にちは忘れましたが、調べれば分かります。六月十九日のすぐ後の日曜日だからです」
「六月十九日というと、桜桃忌とかいう太宰治の命日……?」
「はい」
谷が聞いている間に、書記の寺本刑事が手帳を開いて去年のカレンダーを調べ、
「去年は十九日が月曜日でしたから、すぐ後の日曜日は二十五日です」
と、言った。
「そうですか」
谷が応えて、すぐに千晴に目を戻し、
「で、その二十五日の日曜日、木之下とどこで会ったのかね?」
「森鴎外と太宰治のお墓のある、東京三鷹の禅林寺です。私だけではなく、下村さんも一緒でした」
「下村保津美も一緒?」
「はい。下村さんが一緒というより、太宰ファンの下村さんに誘われて、私も一緒に太宰治のお墓参りに行ったんです」
「あんたたちは、前にもその禅林寺へ行ったことがあるのか?」
「いえ、初めてです。それで、下村さんは前から一度行ってみたいと言っていたんです」
「あんたたちが木之下に会ったとき、彼に連れは?」
「いません。一人でした。木之下さんは太宰治の熱心なファンらしく、毎年桜桃忌にいらしているというお話でした。でも、去年だけは、どうしても外せない用事があり、十九日に来られなかったんだそうです。そのため、遅れて二十五日にいらしたようでした」
「木之下とあんたたちが、そうした話をするようになったキッカケは?」
「木之下さんがお参りを済ませ、山門まで出てこられたとき、私たちがお墓の場所を尋ねたんです。そうしたら、親切に、もう一度戻って案内してくださったんです」
「その後は?」
「お墓参りをし、バス通りへ出たところで別れました。木之下さんは三鷹駅まで歩くというお話でしたし、私たちはバスに乗って行くところがありましたから」
「しかし、あんたたちと木之下は同じ太宰ファン同士だ、それっきりということはあるまい。その後、あんたはどこかで会って、船戸に紹介されたんじゃないのか」
「いえ、私が木之下さんにお会いしたのは、そのとき一度だけです。私と下村さんは名前しか言いませんでしたので、木之下さんは連絡をくださろうとしても、できなかったはずです。
木之下さんのほうはもしかしたらお勤め先を言われたかもしれませんが、覚えていません」
岩佐には、千晴の話をどこまで信用していいのか、分からなかった。
が、昨年の六月二十五日に千晴が木之下と会ったというのだけは少なくとも事実ではないか、と思った。
とすると、そのとき下村保津美が一緒にいたというのも、事実だろうか。
岩佐は、よく分からない引っかかりを覚えた。
もし千晴の言葉が事実なら、今度の被害者の保津美も木之下と会っていた、という点である。
そこに何か意味はないのだろうか。それとも、単なる偶然だろうか。
いや、そのとき下村保津美も一緒にいたという話そのものが、出鱈目なのだろうか。
出鱈目にしてはできすぎている。だいたい、そんな作り話をする必要があるだろうか。そんな話をして、千晴にメリットがあるだろうか。
岩佐が考えていると、
「木之下にあんたたちが電話番号も教えなかったなんて、信用できんな」
谷が言った。
次いで、それに千晴が応えようとしたときだった。
彼女は言いかけた言葉を呑み、
「あっ!」
と、小さな声を漏らした。
目を大きく見開き、顔に驚きの色がひろがっている。
「どうしたのかね?」
谷が聞いた。
千晴が谷の言葉など耳に入らないかのように、激しく首を振った。
「どうしたんだ?」
「あ、いえ……」
「何か思い出したのか?」
「は、はい」
「何だ?」
「でも、関係ないと思います」
「関係なくてもいい、話してみろ」
「いえ」
「話すんだ!」
「で、でも……。考えられません。そんなこと、考えられません」
「いったい何が考えられないんだね? とにかく、話してみるんだ」
谷がわずかに語調をやわらげた。
「実は、木之下さんにお会いしたとき、私たち――私と下村さん――入れ替わりのゲームをしていたんです」
「入れ替わりのゲーム? 何だそれは」
谷が聞いたが、岩佐はアッと思った。分かったのだ。
「私が下村さんになり、下村さんが私になっていたんです」
「なに!」
「その日、下村さんの提案で、禅林寺で誰かと話すようなときはそうしよう、と決めていたんです。面白いから、家族も勤め先も趣味も、全部、お互いの立場になってみよう、って。実は、木之下さんに話しかけたのも、お墓の場所を聞くというより、そのゲームのためだったんです。もう一年以上も前の話ですし、そんなこと、すっかり忘れていたんですけど、いま思い出したんです」
「ば、ばかな」
「本当です。ですから、木之下さんにとっての江副千晴は、私ではなくて、下村さんだったんです。木之下さんが熱心な太宰ファンだと知り、こちらは少し誇張し、私が熱烈な太宰ファンの下村保津美≠演じ、下村さんが私の影響を受けて太宰ファンになった江副千晴≠演じていたんです。
このゲームはもちろん相手の人を騙すわけですけど、二度と会うわけではありませんし、相手の人にとっては、どちらが下村保津美でどちらが江副千晴でも関係ありません。ですから、別に悪いことじゃない、と思ったんです」
「ところが、その後、下村保津美は江副千晴の名で木之下と会い、船戸に紹介されたというのか?」
「分かりません。私には信じられません。下村さんが私に黙ってそんなことをしていたなんて、信じられません」
「だが、あんたの話が事実だと仮定した場合は、そうとしか考えられんだろう」
「私の話は事実です」
「それこそ、そう簡単には信じられん。事実かどうか知っている人間は、木之下、船戸、下村保津美と、全員死んでいるんだからな。偶然にしては、妙だろう」
そのとおりだった。
岩佐も、妙というよりはできすぎている、と思った。
千晴と保津美が「入れ替わりゲーム」をしたというのは、それだけ考えれば、ありえない話ではないかもしれない。その場かぎりの遊びなら、誰に迷惑をかけるわけでなし、二人がニヤニヤし合いながらそうしたゲームを楽しんだとしても不思議はない。
が、それが殺人に関係しているとなれば、話は別である。しかも、この話によって千晴が事件の部外者になるとしたら、「ハイ、そうですか」と信じるわけにはゆかない。
そう考えて、岩佐は、
〈そうか〉
と、思った。
さっき、〈千晴が木之下と会ったとき保津美も一緒だったというのは、もしかしたら千晴の作り話ではないか〉という疑いが頭に浮かんだが、そんな作り話をしたところで千晴にメリットがあるとは考えられなかったため、保津美も一緒だったというのは本当かもしれない、と岩佐は判断した。ところが、今、「入れ替わりゲーム」という話が加わり、決定的ともいえるメリットが生じたのだ。
としたら、さっきの話は、この「ゲーム」を出すための伏線ではなかったか――と、岩佐は思ったのである。
「あんたの話が事実だと証明できるようなものはあるかね?」
更に岩佐が考えていると、水野が聞いた。
「…………」
千晴が黙って小首をかしげた。
目を宙にやり、必死になって、記憶の中にそれを捜しているようだ。
「どうかね?」
少し間をおいて、水野が返答を促した。
「思いつきません」
千晴が弱々しく首を横に振った。
「それがなければ、我々は信じるわけにゆかん」
「で、でも、本当なんです。信じてください。本当なんです」
千晴が水野に、それから谷に、縋《すが》りつくような目を向けて、言った。
「それじゃ聞くが、もしあんたの話が事実だとしたら、船戸と下村保津美は誰に、なぜ殺されたのかね?」
谷が言った。
「知りません。私には分かりません」
「船戸研一は、江副千晴という女と親しく交際していた。彼は、父親と姉に彼女を紹介するため、彼女を連れて『北斗星5号』の二人用個室に乗り、札幌へ向かっていた」
谷がつづけた。「ここで、船戸の付き合っていた江副千晴があんたじゃなく、下村保津美だとしたら、どうなるのかね。同じ晩、『あけぼの1号』に乗っていた下村保津美が、同時に『北斗星5号』にも乗っていたのかね。そして、船戸を殺したのかね。そんなことがありうるかね。更に、その保津美はいったい誰に殺されたのかね?
こうなると、もう滅茶苦茶《めちやくちや》だな。保津美の他にもう一人、江副千晴を名乗っていた女がいて、その女が船戸と保津美を殺した――そうとでも言う以外にない。
いや、妙なのはこれだけじゃない。
船戸の殺された『北斗星5号』には、本物の江副千晴さんまで乗っていて、しかも、その本物の先生は、保津美の殺された晩、彼女と一緒に泊まっていたんだからな。
さあ、先生、この滅茶苦茶の迷路の脱出口を教えてもらえませんか。どっちへ行ったら出られるんですか。それを知っているのは、先生しかいないんですよ」
「知りません。そんなこと、私に分かるわけがありません」
「じゃ、そろそろ事実を吐くんだな」
「私は、ずっと事実を話しているじゃありませんか」
「我々をなめるんじゃない!」
水野がいきなりテーブルをバンと叩き、声を荒らげた。「我々は、長い間、我慢《がまん》してあんたのお話に付き合ってきた。だが、もう、これ以上そんなお話を聞いているわけにゃいかんのだよ」
「…………」
「あんたのお話が、どんなに矛盾だらけか、分かっただろう」
「…………」
「江副!」
「…………」
「貴様……、何とか言え」
その後、水野と谷が交互に脅《おど》したりすかしたりした。
しかし、千晴は敵意のこもった暗い目を二人に向けていただけで、もう二度と口を開こうとはしなかった。
3
その晩十時過ぎ、美緒と壮は、五所川原駅の近くにあるホテルのロビーで、寺本から今日二度目の話を聞いた。
朝、斜陽館で寺本と話した後、金木にいても仕方がないので、大きな眼鏡をかけた宇宙人のような遮光器土偶《しやこうきどぐう》の出土した亀ヶ岡遺跡や縄文記念館、七里長浜を巡り、五所川原へ出てきていたのだ。
太宰は、『津軽』の中で、金木を、
〈人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊《みえぼう》の町という事になっているようである〉
と書き、つづいて、五所川原を、
〈……この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるようだ。………善く言えば、活気のある町であり、悪く言えば、さわがしい町である。農村の匂いは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらい小さな街にも既に幽《ひそ》かに忍びいっている模様である〉
と、書いている。
更に二つの町を対比させ、東京に例をとるなら、
〈金木は小石川であり、五所川原は浅草、といったようなところでもあろうか〉
と、まとめている。
太宰が昭和十九年の五月から六月にかけて半月ほど故郷へ取材旅行をし、『津軽』を書いたのは、その年の秋だという。太平洋戦争も敗色が濃くなってきたころだ。
それから四十数年。現在の金木の人口は一万三千人と二倍強になった程度だが、五所川原は町村合併して市になり、人口五万人以上にふくらんでいた。
この四十数年の間に、五所川原はもとより、人口の変化はそれほどでない金木も、当然大きく変わっただろう。とはいっても、東京の変化の度合が桁違《けたちが》いのため、もはや東京にたとえるのは不可能になっている。だが、その点を除くと、太宰の記した二つの地の特徴、印象は現在でも通用する。
駈け足で巡っただけだが、美緒はそう思った。
とすると、二つの地の特徴をわずか数行で表現した太宰の観察眼と筆はさすが、と言わざるをえなかった。
それはともかく、美緒たちが五所川原に泊まった理由は、もう一つあった。
それは、寺本の家がこの市内にあり、夜は帰るという話だったからだ。
寺本は小学校四年のとき父親を交通事故で亡くし、埼玉県の大宮から母親の故郷である五所川原へ引っ越してきた。高校を卒業した後、一時神奈川県の川崎で工員をしたり、青森県へ帰って警官になってからも青森市に住んだりしていた。が、現在はまた五所川原に住んでいるのだという。
そのため、美緒たちが夕方、五所川原から北津軽署の捜査本部に電話すると、寺本は、金木まで戻ってこなくても市内のSホテルに泊まっていれば自分のほうから訪ねて行く、と言ったのだった。
あまり広くないホテルのロビーは、森閑としていた。フロント係も事務室に引っ込み、誰もいない。
美緒たちはそのロビーで、寺本から、斜陽館で別れて以後の事情を聞いた。
美緒にとっては、千晴がいったん自供した保津美殺しについても再び否認し始めた、というのはやはり一番意外だった。
壮は朝、千晴がむしろ状況証拠の多い船戸殺しを否認しながら保津美殺しだけ認めている点が分からない、と言った。
その疑問は、この千晴の変化によって解消したとも言える。
だが、そうなると、千晴は両事件について無実なのだろうか。そう考えるべきなのだろうか。
壮によると、千晴を犯人と見た場合、彼女が、「北斗星5号」に乗っていた事実――函館・青森・金木といった妙なルートで斜陽館へ来た事実――をあっさりと明かした点がおかしい、という。また、千晴には、「北斗星5号」に乗って船戸を殺すメリットが考えられない、という。
一方、寺本の話を聞くと、千晴以外に犯人が存在すると仮定した場合、壮の言う疑問以上におかしな点、矛盾が出てくるのだった。木之下和夫と出会ったとき、千晴と保津美は「入れ替わり」のゲームをしていたと千晴は述べたらしいが、この話が事実なら、実に妙な具合になるのだった。
二十日の晩から翌朝にかけて、美緒たちと同じ「あけぼの1号」に乗っていた下村保津美が、江副千晴を名乗って「北斗星5号」にも乗り、船戸研一を殺した――。
さもなければ、
千晴でも保津美でもない第三の女が江副千晴を名乗って船戸と交際し、彼を殺した――。
このどちらかと考えざるをえない。
ところが、このどちらの場合も、〈では保津美が誰に、なぜ殺されたのか〉という事実が浮いてしまうのだった。
また、本物の千晴が「北斗星5号」に乗り合わせていたという事実、その後彼女が保津美と会って一緒に泊まったという事実――が、事件と関係なくなってしまうのである。
寺本は、壮の指摘したような疑問はあるものの、両事件ともに千晴の犯行と考えざるをえないし、そう考えて何とか証拠をつかみたい、と言って帰って行った。
寺本を玄関に送った後、美緒と壮は三階の部屋へ移った。
シングルを二つ隣り合わせに取ってあるのである。
すでにシャワーを浴びて、食事を済ませていたので、壮の部屋へ入り、ウィスキーの水割りを飲みながら寺本に聞いた話について意見を述べ合った。
いや、述べ合ったというのは、正確ではない。ほとんど美緒が話し、壮は考えながら聞いていただけだったから。
「やっぱり、警察の判断どおり、江副さんが犯人と考えざるをえないわね」
美緒が結論を言った。
だが、壮は、
「ええ……」
と応えたものの、まだ納得しきれない様子だった。
「違うの?」
「そうかもしれませんが……」
「だって、下村さんの他に江副千晴を名乗った女性がもう一人いたなんて荒唐無稽《こうとうむけい》すぎるし、下村さんが同じ晩、『北斗星5号』と『あけぼの1号』の両方に乗るなんて、絶対にできなかったはずでしょう?」
「僕も、江副千晴がもう一人いたとは思いませんが、下村さんの件はどうでしょう」
「一人の人間が二つの列車に同時に乗れたというの?」
「同時には乗れませんが、交互になら乗れますから」
「えっ! じゃ、あなた……」
美緒は驚いて、相棒の顔を見つめ、「下村保津美さんが船戸さんを殺した犯人かもしれない、と……?」
「もし、江副さんの言った『入れ替わりゲーム』が事実だとしたら、江副千晴を名乗って船戸さんと交際していた可能性の高いのは下村さんですから」
「そうだけど……でも、そうしたら、下村さんは誰に、なぜ殺されたわけ?」
「そうなんです。下村さんが船戸殺しの犯人だった場合、それが分からないんです」
「おかしいわ」
「ええ」
「だいたいその前に、交互になら乗れるっていうけど、『あけぼの1号』に乗っていた下村さんが、『北斗星5号』で船戸さんを殺害できたとは、私にはとても思えない」
美緒は言ってから、ふっと、断定してしまっていいのだろうか、と不安になった。
二十日の夕方、保津美は千晴が改札口を入るのを見送って、自分は上野駅の構内から出て行った。だが、あれからすぐに引き返せば、彼女も「北斗星5号」に乗れないことはない。
美緒が考えていると、
「美緒さんの言うとおりかもしれませんが、念のために調べてみませんか」
壮が言った。
美緒は「そうね」と素直にうなずき、壮のバッグから時刻表を出してきた。
「下村さんが船戸殺しの犯人だった場合、問題は、〈彼女はいつ『北斗星5号』に乗っていなければならなかったのか〉ですね」
壮がメモの用意をしながら、言った。「それと、少なくとも僕たちの覚えているかぎりで〈彼女はいつ『あけぼの1号』に乗っていたか〉――」
「もし、この、二つの列車における存在に矛盾がなければ、下村さんにも犯行が可能だったかもしれない、というわけね」
「そうです」
「じゃ、どこから調べたらいーい?」
「まず、『北斗星5号』と『あけぼの1号』の発車時刻を教えてください」
「うん」
美緒は応えて時刻表を開き、両列車の上野発の時刻を読み上げた。
「『北斗星5号』が十九時三分、『あけぼの1号』が二十時五十一分――」
「七時三分と八時五十一分」
壮がメモしながら言いなおし、「ということは、両列車の間には一時間四十八分、つまり二時間近い時間差があったわけか……」
「それから、二つの列車は福島まではともに東北本線だけど、『あけぼの1号』は福島で東北本線と岐《わか》れ、奥羽本線へ入る――」
「ええ」
「あとは、その都度、時刻表を調べることにしたらどうかしら?」
「そうですね」
「それじゃ、船戸さんを殺した犯人と思われる女性が『北斗星5号』に乗っていなければならなかった区間から言うと、車掌さんの検札があった〈上野・大宮〉間と、船戸さんの死亡した時刻の〈郡山・水沢〉間ね。ただし、水沢は停車しないわけだけど」
「ええ」
「一方、下村さんが『あけぼの1号』に乗っていた場所は、やはり検札の来た〈上野・大宮〉間と……あとは、朝までずっと見ていないような気がするけど、あなた、列車が大宮を出た後で彼女を見た覚えある?」
「ありません」
「だったら、次に見たのは、朝、五時過ぎに大曲《おおまがり》を出た後だわ。秋田に着く前、私が洗面所へ行っていると、彼女が来て挨拶し、ちょっと話したから。その後は、弘前、五所川原、金木とずっと同じ列車に乗っていたのは間違いないわね」
「ええ」
「とすると、どうなるのかしら?」
「問題を分けて考えましょう。それのほうが分かりやすい」
「どういうふうに?」
「(1) 上野から大宮まで『北斗星5号』に乗っていながら、また上野に戻って、『あけぼの1号』に乗れるかどうか。
(2) 『あけぼの1号』に上野から大宮まで乗っていて、約二時間前に大宮を通過して先を走っている『北斗星5号』に、郡山・水沢間で追いつけるかどうか。
(3) 郡山・水沢間で船戸氏を殺害後、翌朝大曲までに、再び『あけぼの1号』に戻れるかどうか。
――以上の三点です」
「そうか。これら三点のうち、どれか一点でも不可能なら、下村さんは犯人になれない、というわけね?」
「そうです」
三点について壮がメモしたところで、美緒たちは(1)から検討を始めた。
つまり、(1)の問題は、〈先発の「北斗星5号」を大宮で降りて上野へトンボ返りし、「あけぼの1号」の発車時刻に間に合うかどうか〉であった。
「『北斗星5号』の大宮着が十九時二十八分――七時二十八分だから、これは、悠々みたいね」
美緒は時刻表を見ながら、言った。「東北新幹線と上越新幹線もあるけど、京浜東北線の普通電車で大丈夫だわ。大宮・上野間は三十七、八分だから、大宮を七時四十分発の電車に乗ったとして、上野着は八時二十分前後。八時五十一分の『あけぼの1号』の発車時刻まで、三十分もあるわ」
「第一関門は通過ですか」
「軽く……。こんな乗り方をしたかもしれないなんて想像もしなかったけど、やろうと思えば簡単にできたのね」
美緒は驚いていた。
が、壮は当たり前のような顔をし、
「それじゃ、(2)の問題へいきましょう」
と、話を進めた。「『あけぼの1号』を大宮で降りたとして、先行している『北斗星5号』にどこで追いつけるか――。
『あけぼの1号』の大宮着は、何時ですか?」
「えーと、二十一時十八分」
「九時十八分ですか」
「九時じゃ飛行機はもうないし、たとえあったとしても利用できる飛行場がないから、今度こそ新幹線……それも東北新幹線しかないわね」
「ええ」
美緒は、時刻表の前のほうについた色ページを繰った。
すると、大宮を九時十八分に降りて乗れる一番早い下りの列車は、九時四十分の「やまびこ129号」仙台行きだった。
その前に九時二十分の「あおば253号」があるが、二分では乗り換えが無理だし、たとえ乗れたとしても、那須塩原までしか行かないので、「北斗星5号」に追いつくのは不可能であった。
美緒はそう言い、「やまびこ129号」の郡山、福島、仙台の到着時刻を、
「郡山 十時四十三分
福島 十時五十九分
仙台 十一時三十分」
と、順に読み上げた。
それから、ページを元に戻し、今度は、「北斗星5号」のそれらの駅の発車時刻を、
「郡山 九時五十六分
福島 十時三十一分
仙台 十一時三十八分」
と、つづけた。
その間、壮は、駅別に二つの列車の時刻を並べてメモした。
「どう?」
美緒はメモを覗き込みながら聞いた。
「郡山では四十七分、福島でもまだ二十八分、『やまびこ129号』の到着時刻より『北斗星5号』の発車時刻のほうが先ですから、追いつけませんね」
壮が答えた。「で、ようやく追いつくのは、『やまびこ129号』の終点、仙台です。仙台では、『やまびこ』のほうが『北斗星5号』の発車時刻より八分早く着いていますから、悠々乗れたと思います」
「第二の関門突破か」
「ええ」
「でも、第三の関門――〈大曲までに『あけぼの1号』へ戻る〉が、どうにもならないのは、もう明らかみたい」
「そうですね……」
壮が、何かないかと考えている顔をして言葉だけで応じた。
「仙台で『北斗星5号』に乗り、それから水沢までの間に船戸さんの殺害はできるわ。でも、『北斗星5号』は朝六時三十八分に函館に着くまで、どこにも停まらないんですもの。運転停車はあっても、岩手県内や青森県内では降りられないんですもの。どう考えたって無理だわ」
「…………」
「函館から上りの列車で一番早いのは、江副さんが青森まで来た『はつかり10号』でしょう。でも、これが青森へ着くのは、午前九時三十七分。『あけぼの1号』は、それより三十分も前の九時七分に、終点の青森に着いてしまっているわ。だから、下村さんが『北斗星5号』で船戸さんを殺したのだとしたら、大曲どころか、走行中の『あけぼの1号』には絶対に戻れなかった、っていうことだわ」
「だめでしたか……」
壮が残念そうに言った。
「たとえ仙台で『北斗星5号』から降りたとしても、『あけぼの1号』に戻れたかどうか分からないけど、仙台から先に行ったら絶対にだめ――とだけは言えるわ」
「ええ……」
うなずきながらも、壮は依然として可能性を考えている。
「といって、仙台までに船戸さんを殺害し、仙台で『北斗星5号』から降りるためには、〈郡山か福島で『北斗星5号』に追いついていなければならない〉という条件が必要なのに、それは不可能だったわけだし」
美緒がそこまで言ったときだった。
壮が、俯《うつむ》けていた顔をすっと起こした。まだ思考を追っているらしい目に、強い光があった。
「どうしたの、何か気づいたの?」
美緒は聞いた。
だが、壮はそれには答えず、
「『北斗星5号』は、仙台駅に何分停車していますか?」
と、逆に聞いてきた。
「えーと……十一時三十二分から三十八分までだから、六分間ね」
美緒は時刻表を見て答えた。
「一方、『やまびこ129号』が仙台に着くのは十一時三十分……」
壮がひとりごとのようにつぶやいた。「可能かもしれないな」
なーに? と聞きかけ、美緒にも彼の考えている内容が分かった。
「そうか! 『北斗星5号』が仙台駅に停車中に船戸さんをナイフで刺し、発車する前に降りるのね?」
美緒は言った。
「そうです」
「船戸さんは酒と睡眠薬を飲んでいた、という話だったわね。それは、犯人が大宮で『北斗星5号』から降りる前に、船戸さんに渡しておいたのかしら?」
「十分に考えられます。とすれば、船戸さんはそれを飲んで寝てしまい、犯人は仙台駅で『北斗星5号』に乗り込み、短時間で犯行が可能だった、ということになります」
「でも、まだ(3)の問題は解決というわけじゃないわ。その犯行の完了が十一時四十分として、〈十一時四十分に仙台駅にいた人が、『あけぼの1号』が大曲に着く前に、大曲まで行けるかどうか〉という点が残っているから」
「ええ」
「『あけぼの1号』の運行を調べると……」
美緒は時刻表を繰り、「午前零時四十一分に福島を出た後は、横手まで約四時間、どこにも停まらないわ。そして、横手が四時四十九分着で四時五十一分発、次の大曲が五時十分着で五時十一分発――」
「仙台からなら、大曲より横手のほうがだいぶ近いですから、車で横手に行ったとして考えてみましょう。すると、十一時四十分から午前四時五十分まで、五時間十分。ということは、〈深夜、車で仙台から横手まで五時間で行ければ、少なくとも美緒さんが下村さんを見た時刻までに彼女は『あけぼの1号』へ戻れた〉という結論になりますね」
「つまり、三つの問題がクリアされ、下村さんは船戸さん殺しの犯人になりうる?」
「ええ」
「でも、今は道路地図がないし、その点、分からないわ」
「残念ですが……」
美緒たちは、それは明日、地図を買って自分たちで調べるか、寺本に電話して調べてもらうことにした。
時刻は、午前零時を回っていた。
美緒はテーブルを片づけ、壮とお寝みのキスをして自分の部屋へ戻った。
4
美緒は、ベッドに入ってもなかなか眠れなかった。
地図がないので正確には分からないが、横手は、遠野や北上とほぼ同緯度だったと記憶している。としたら、仙台から北上のあたりまでは東北自動車道を利用できるので、五時間はかからないのではないか、と思った。
そうすると、下村保津美が犯人だった可能性が本当に出てくるのだが、美緒はどう判断したらいいのかよく分からなかった。
船戸を殺したのが保津美なら、彼女はいったい誰に、なぜ殺されたのか?
それが不可解になる。
保津美が船戸を殺し、保津美を千晴が殺したとはちょっと考えられない。
とすると、保津美がたとえ時間的には「北斗星5号」で船戸を殺し、「あけぼの1号」へ戻れたとしても、彼女が犯人である可能性は薄いのではないか――美緒はそう思った。
そのときだった。
保津美が自分と壮の想像したような行動を取っていれば、証拠が残っているはずではないか、と美緒は気づいた。
早朝、横手駅で「あけぼの1号」に乗っていれば、駅員が覚えている可能性が高い。
それだけではない。
仙台から横手まで移動するのに使った車があった。
保津美がレンタカーを利用したとすれば、横手駅で乗り捨てたはずであり、調べれば分かるだろう。
レンタカーは証拠になるので危険だと考え、自分の車か誰かに個人的に借りた車を使用したとすれば、結果として、保津美は更に大きな証拠を残したことになる。その日の夜、小泊で殺されてしまった彼女には、車を横手から移動できなかったはずなのだから。
「そうか……!」
美緒は自分の発見に興奮し、ひとりで声に出して言った。
これで、下村保津美が犯人か否か分かる――。
そう思うと、胸が弾み、息苦しささえ覚えた。
この発見を壮に知らせたいという欲求をやっと抑え、彼女は眠りについた。
翌朝七時、壮が何か言ってくるのを待ちきれずに電話すると、壮も起きていた。
美緒は早速、自分の考えを説明した。
だが、壮は、
「ええ」
と、別に驚いたふうもなく応えた。
「ええって、これで下村さんが私たちの推理したような行動を取ったのかどうか、判断がつくのよ」
美緒は強調した。
「僕もそう思います。ですから、寺本刑事さんに調べてもらうつもりでした」
「えっ、なーんだ、あなたも気づいていたのか……」
「すみません、昨夜言わなくて」
「いいけど……」
美緒は拍子抜《ひようしぬ》けし、受話器を握ったまま口をとがらせた。そして、考えてみれば当然かもしれない、と思った。自分の気づいた当たりまえの事柄を、壮が気づかないわけがなかった。
「で、寺本刑事さんには、どうやって連絡するの? 捜査本部へ出勤するまで待っているの?」
美緒は気持ちを変えて、聞いた。
「いえ、電話帳で当たれば五所川原の自宅が分かると思いますので、これから調べて電話し、寄ってもらいます」
壮が答えた。
その後、美緒たちはそれぞれの部屋で顔を洗って身仕度をし、七時四十分にロビーの横の喫茶室へ降りた。
ベーコンエッグと野菜サラダとパンの朝食をとり、コーヒーを飲んでいると、寺本がやってきた。
もちろん、壮が彼の自宅を調べ、電話してあったのである。
寺本の顔は強張っていた。壮が、もしかしたら保津美が船戸を殺した犯人ではないか、という自分たちの推理を簡単に話してあったからだろう。寺本の胸の内では、反発する気持ちと、もしそれが当たっていたらという気持ちが葛藤しているようだった。
彼はコーヒーを注文すると、事務的な口調で、
「ご依頼の件ですが――」
と話し出した。
「仙台駅から横手駅まで車で行く場合ですが、これにはいくつかのルートがあります。一番早いのは、仙台宮城インターチェンジで東北自動車道へ入って、北上|江釣子《えづりこ》インターチェンジまで北上し、そこからは国道107号線を西へ横手まで行くルートです。あとは、国道4号線、47号線、108号線、13号線を古川、鳴子、湯沢と通って行くルートなどです。所要時間は高速道利用なら三時間、国道利用なら四時間……どこかで多少もたもたしたとしても、それにプラス三十分すれば、何とかなるでしょう。とすれば、十一時四十分から四時五十分まで五時間以上あるわけですから、時間的には黒江さんたちの考えられた移動は十分に可能だった、という結論になります」
「そうですか、ありがとうございました」
壮が礼を述べた。
「ただ、時間的に可能だからといって、下村保津美がそうしたかどうかは別だと思いますが」
寺本が言った。
「もちろんです。だいたいその前に、下村さんが〈大宮から横手まで『あけぼの1号』に乗っていなかったのではないか〉というのも、僕たち二人の目撃から出した仮定にすぎませんから」
「もしかしたら、その間に、車掌あるいは乗客の誰かが下村保津美を見ているかもしれない、というわけですね」
「そうです。そうした目撃者が見つかれば、僕たちの推理はその時点で成り立たなくなります」
「でも、下村さんの席は一番端の壁と向き合った十七番寝台だったでしょう。それに、上段はずっと空いていたみたいだったわ。彼女がずっと乗っていたかどうか、知っている人がいるかしら?」
美緒は言った。
「いないかもしれませんが、いたら前提条件が崩れるという意味です」
壮が答えた。
「下村保津美の寝台は一番端で、上段には誰も来なかったんですか。ということは、計画的に端の寝台を選び、上段の席も買いしめたという可能性はありますね」
寺本が考える顔をして言った。
「私もそう思います。満席で、寝台券はすべて売り切れている、と車内放送がありましたから」
美緒は言い、それから、ふと保津美の話を思い出した。
保津美は洗面所で挨拶をした後、美緒が聞きもしないのに、自分は前もって睡眠薬を飲んでおいたので、大宮に着くか着かないうちに眠くなり、今までぐっすり眠っていた、と言ったのだった。
もしかしたら、あれは、その間、誰にも姿を見せていない事実を怪しまれないよう、つい口に出したのではなかっただろうか。
「そうですか」
美緒がその話をすると、寺本がうなずいた。「すると、その間、誰かが彼女を見ている可能性は薄いですね」
「ええ」
どうやら、寺本の胸の内でも保津美に対する疑いが増したようだった。
「分かりました。そのときの乗客についてはマスコミを通じて呼びかけないとどうしようもありませんが、とにかく、車掌には早急に当たってみます」
彼がきっぱりとした口調で言った。
「あと、お願いしたい調査は、二十一日の朝、横手駅と……念のために大曲駅の近くで、乗り捨てられたレンタカーがなかったかどうか、その頃から持ち主不明の車が両駅の近くに放置されたままになっていないかどうか、といった点ですが」
壮が言った。
「ええ」
「それから、駅の目撃者についても調べていただいたほうが……」
美緒は言った。
「もちろん、両駅の駅員には、それらしい女の乗客がいなかったかどうか、聞いてみます」
「仙台では、たぶん、駅から離れた場所に車を用意しておき、駅からそこまではタクシーで行った、と考えられます。ですから、そちらから車を特定するのは難しいと思いますが、いずれ、それも調べていただく必要があるかもしれません」
壮が言った。
「分かりました。とにかく、横手と大曲について調べたら、お知らせします」
寺本が答え、「で、黒江さんたちは、今日はどこにおられますか?」
美緒は問うように相棒の顔を見た。
こうなったら、どこへ行こうと、彼に任せるつもりだったからだ。
「もし、このホテルにいなかったら、東京の自宅か勤め先におります。ご面倒ですが、そちらへお願いします」
壮が答えた。
寺本が了解し、美緒と壮二人の自宅と勤め先の電話番号をメモして、腰を上げた。
その晩九時半過ぎ、美緒たちは、西荻窪の美緒の自宅で寺本の電話を受けた。
青森まで行き、L特急「はつかり」、東北新幹線と乗り継いで東京へ帰り、美緒は会社に、壮は大学に顔を出し、三十分ほど前に帰宅したところだった。
美緒の両親、精一と章子に旅行と事件の報告もあり、壮が美緒を送って一緒に来たのである。
電話は美緒が出て、すぐに壮に代わった。
壮はメモをとりながら十分ほど話して、美緒たち三人のいる居間へ戻ってきた。
彼の応対の様子から、結果は想像がついた。
美緒の胸は高鳴っていた。
「私たちの想像どおり、車が見つかったのね?」
美緒が顔を向けて聞くと、壮もさすがに少し強張った表情をして、
「ええ」
と、うなずいた。
昨夜、壮が「念のために……」と言い出し、美緒は半信半疑ながら、彼と一緒に時刻表を調べた。下村保津美による、≪北斗星5号(上野〜大宮)→京浜東北線(大宮〜上野)あけぼの1号(上野〜大宮)→やまびこ129号(大宮〜仙台)→北斗星5号(仙台駅)→車(仙台〜横手)→あけぼの1号(横手〜弘前)≫という列車移動の可能性について、検討した。福島・青森間は決して交差することなく走りつづける二列車を使った平行線トリック≠ノついて、考えた。
その結果、保津美には船戸殺しが可能だったかもしれない、と出た。
ところが今や、〈可能だったかもしれない〉は、〈殺した可能性が強い〉に変わったのだった。
壮が美緒の横に腰をおろした。
美緒は彼のほうへ体ごと向け、
「話して」
と、言った。
第五章 逆アリバイ25分間の死角
1
美緒が壮に、寺本の報告について説明するよう催促すると、精一と章子も緊張した顔を壮に向けた。
寺本の電話がかかってくる前、美緒たちは章子の淹れてくれたコーヒーを飲みながら、事件について話したところだったからだ。
「まず、『あけぼの1号』の車掌さんですが」
と、壮が口を開いた。
それは、二十日の晩美緒たちのところへ検札に来た車掌であろう。
「下村さんの乗っていた二号車十七番寝台の下段は、検札が済むとじきにカーテンが閉められ、朝までそのままだったような気がする、と言っているそうです」
壮がつづけた。「車掌さんは、乗客に関しては、若い女性だったというぐらいしか覚えていないものの、切符の売れている上段のベッドが最後まで空いたままだったため、多少記憶に残っていたんだそうです。
つまり、これで、〈大宮から横手までの間、下村さんは『あけぼの1号』に乗っていたかどうか分からない〉となったわけです」
「あとは、私たちと同じように二号車にいた乗客だけど、下村さんの席から考えて、誰かが彼女を見て覚えているといった可能性は、ほとんどないんじゃないかしら。下村さんが洗面所で私に言った睡眠薬云々の話は本当か嘘か分からないけど、その間、カーテンを閉めていたのは確実だと思うし」
美緒は言った。
「僕もそう思います。というより、彼女はその間、『あけぼの1号』に乗っていなかった可能性が極めて高くなったんです。要するに、僕たちには、彼女を見ようにも見られなかったのではないか、ということです」
「下村さんが仙台からの移動に使ったと思われる車が見つかったわけね?」
「そうです」
「レンタカー?」
「いえ、下村さん所有の小型乗用車、赤いルナーです」
「下村さんの車!」
美緒は、自分たちの推理があまりにも的《まと》の真ん中を射抜いていた事実に驚いた。
「彼女は、津軽旅行の帰りにどこかで江副さんと別れ、そのルナーを東京へ乗り帰るつもりだったのね、きっと。ところが、今度は自分が殺されてしまい、それができなくなった――」
「そうだと思います」
「ルナーはどこにあったの?」
「横手駅から五百メートルほど離れた道路脇です。付近の人は、二十日の夜から二十一日の朝にかけて駐められたのは間違いない、と言っているようです」
「ナンバーだけでなく、車種や色も分かったんなら、仙台周辺に駐められていたのも、突き止められるんじゃないかしら」
「すでに、宮城県警にその調査を依頼したそうです」
「ふーん。それにしても凄いわ……!」
美緒は、横手に保津美の車があった事実にあらためて驚き、同時に、保津美のトリックを見破った壮の推理に感心した。
「まだ、あります」
壮が言った。
「えっ? あ、そうか、駅の目撃ね」
「そうです。横手駅の駅員が、『あけぼの1号』が午前四時四十九分に入線する直前、下村さんらしい若い女性を改札口で目撃していました。焦茶のサングラスをかけて、帽子をかぶっていたので、顔はよく分からないそうですが、身長百六十二、三センチ、ブルーとピンクの水玉のワンピースを着たすらりとした女性だったそうです」
「服装は違うけど、サングラスの色は同じだし、下村さんに間違いないわ。午前五時前、年齢、容姿ともに下村さんぴったりの女性が、そんなところにいた偶然なんて考えられないから」
「ええ」
「『あけぼの1号』の場合、立席特急券で乗れるのは秋田からだったはずだけど、そんな早い時刻、彼女はどうやって改札口を入ったのかしら? まだ普通列車はないでしょう?」
「始発列車は五時半までありません。ですから、当然ながら、その女性は『あけぼの1号』の寝台券を持っていたそうです。ただ、駅員は、『あけぼの1号』から降りる孫を迎えにきた顔見知りの商店主ら数人が改札口を入ったのに気を取られ、寝台券に記されていた号車ナンバーなどはよく見ていないんです」
「でも、寝台券で乗ったんなら、車掌さんが検札していない?」
「もう朝ですし、乗車するところを見ていなかったらしく、していません」
「じゃ、彼女は一旦どこかの寝台へもぐり込み、そこから二号車の十七番寝台へ移動したのね」
「たぶんそうでしょう」
「あ、そうそう、彼女、当然、荷物は無しね」
「どうでしょう。駅員が覚えていなかったのか、刑事さんが尋ねなかったのか分かりませんが、寺本刑事さんは何も言っていませんでした」
「下村さんなら、大宮で降りるとき、『あけぼの1号』の寝台に置いて行ったはずだから、少なくとも大きな荷物は持っていなかったわよね」
「そう思います」
「もちろん、そんなことは、どうでもいい問題だけど……。
とにかくこれで、江副千晴の名をかたって船戸さんと交際し、船戸さんを殺害した犯人は、九分九厘下村さん――下村保津美、という結論になったわけね」
美緒は言いながら、今まで胸のあたりを塞いでいたものが取れたような感じがした。
千晴と交際があったわけではないが、ほんのいっときであっても憧れの先輩だった人が殺人犯人なんかでないほうがいい。
「それじゃ、美緒の先輩の江副さんという方は、これでやっと自由になれるのね」
章子も、どこかほっとしたような色を顔に浮かべて言った。
「当然、そうなるはずだわ。ね?」
美緒は壮に確認した。
「どうでしょう」
壮が首をかしげた。
「どうでしょう、って、寺本刑事さんたち、これでもまだ江副さんを疑っているの? もしそうだとしたら、許せないわ。人権侵害だわ」
「そうなんですが、まだ、下村さん殺しの謎が解けませんから」
「だからといって、江副さんには、下村保津美を殺す動機なんてどこにもないじゃない。これまでは、江副さんが船戸さんを殺したという疑いがあったから、それに気づいた下村保津美の口も封じた、という推理が成り立ったわけだけど」
「寺本さん個人の意見は、僕たちと同じようでした。ですが、江副さんと下村さんが必ずしも仲の良い友人同士ではなかったため、江副さんが初めに自供した、『下村さんとちょっとした諍《いさか》いがあり、それで彼女に突き倒され、手に触れた石で殴りかかった』というセンに戻ろうとしている上司がいるようです。そうでも考えないと、下村さんが誰に、なぜ殺されたのか、説明がつかないからなわけですが」
「説明がつかないからって、ひどいわ」
美緒は警察に強い憤りを感じた。
折角協力して大きな謎を解いてやった――解いたのはもちろん壮だが――というのに、これでは何にもならないではないか。
「警察だって、何の証拠もなしに、いつまでも留置しておくわけにはいかんから、いずれ釈放されるだろう」
精一が言った。
「お父さん、そんなの甘いわよ」
美緒は口をとがらせた。
「そうかね」
「そうよ。警察はまた江副さんを責めて責めて、嘘の自白をさせてしまうんだわ。そして、犯人に仕立て上げてしまうんだわ。お父さんだって、すんでのところで詐欺師にされそうになったことがあったじゃない。もう忘れたの?」
精一は前に入試詐欺の容疑で調べられ、勝に助けられたのである。
「忘れちゃおらんし、勝部長さんには感謝しているよ」
「だったら……」
「いや、私の場合とは違うだろう」
「似たようなものだわ」
「そうかね。私はそのへんの事情には疎《うと》いので、はっきりしたことは言えんが、警察もそういつまでも留置しておくとは思えんがね」
言葉どおり、精一は法律的な知識があって言ったわけではない。
だが、翌二十五日、彼のこの予想が当たっていたのが実証されたのだった。
刑事訴訟法には、司法警察員は、逮捕した被疑者を四十八時間以内に検察官に引き渡す手続きをしなければ、釈放しなければならない、と定められている。
また、司法警察員から被疑者の引き渡しを受けた検察官についても、二十四時間以内に公訴の提起(起訴)をするか、勾留を請求しなければならない、とある。
これらの定めを、
〈捜査機関は、逮捕した被疑者をぎりぎり七十二時間(四十八時間+二十四時間)は何の手続きも取らないで留置できる〉
と解釈する向きがないでもない。
つまり、警察や検察官は、その七十二時間をフルに活用し、何とか被疑者を自白に追い込もうとするのである。
これは、決して正しい法の解釈とはいえないが、千晴の場合もそうだった。
彼女の取調べに当たった捜査機関は、彼女に、初めの自供をもう一度認めるよう迫った。
が、逮捕からまる三日(七十二時間)が経《た》とうという二十五日の夕方になっても彼女の否認の姿勢は固く、かといって、勾留を請求するだけの理由も見つけ出せず、結局、検察官は釈放の手続きを取らざるをえなかったのだった。
この事実を美緒が知ったのは、その夜、十一時近くである。
弁護士とともに弘前のホテルに落ちついたところだという千晴から、お礼の電話があったのだ。
「笹谷さん、ほんとにありがとう。笹谷さんと黒江さんが助けてくださったというお話、寺本という刑事さんから聞きました。お二人がいてくれなかったら、今頃、どうなっていたかと思うと、もう、なんてお礼を言ったらいいか……。お二人は私の命の恩人。一生、忘れないわ。東京へ帰ったら、もちろんご挨拶に伺わせていただきます。でも、一言、早く私の感謝の気持ちを伝えたくて……。夜遅く、ごめんなさいね。黒江さんに、どうぞよろしく伝えてください」
千晴は時々喉をつまらせ、涙まじりの声で言った。
美緒はすぐに壮に電話をかけ、千晴の釈放された事実を伝えた。
すると、壮も、
「そうですか、それは良かったですね」
と喜んだ。
だが、美緒が千晴の言葉を詳しく伝えている間にも、彼はもう別の問題に注意を奪われているようだった。
残っている謎であろう。
そして、美緒の話が終わるや、
「それにしても、下村保津美は誰に、なぜ殺されたんでしょうね?」
と言った。「どうも分かりません。彼女自身の起こした事件と無関係に殺されたと考えるのは、やはり引っ掛かりますし……」
2
江副千晴を釈放した後、寺本も壮と同様の引っ掛かりを覚えていた。
二つの事件が無関係に起きたとする見方に、である。
千晴が下村保津美を殺したと考えても、当然、その引っ掛かりは残る。
千晴が船戸を殺したという前提条件があってこそ、千晴が保津美も殺したと考えて、二つの事件は結び付いたのだから。
捜査本部員の中には、千晴の最初の自供にこだわっている者もいた。そこに保津美殺しの真相を見ようとする者もいた。
が、寺本は、それはないだろうと考えていた。
といって、
〈保津美は、誰に、なぜ殺されたのだろうか?〉
〈保津美の殺された事件は、彼女自身が犯したと思われる船戸殺しと、どう結び付くのだろうか?〉
そう自問しても、答えは出てこない。まるで複雑極まりない迷路に入り込んでしまったように、出口が分からないのだった。
北津軽署の捜査本部の中で、保津美の殺された事件は、船戸事件とも、また千晴とも関係なかったのでないか、という意見が次第に大きくなりだした。
つまり、保津美は夜散歩に出て、偶然誰かに襲われ、殺されたのではないか、という考えだった。
これは、保津美の死体が発見されたとき、最初に出てきた見方である。まだ船戸事件の情報が入る前だから、同行者の千晴を疑いながらも、刑事たちはむしろこのセンのほうが強い、と見ていた。
ところが、その後、千晴が犯行を自供し、更に、「北斗星5号」で起きた船戸殺しと「江副千晴」の関わりが明らかになり、保津美殺害事件の様相も一変した。
いや、一変したかに見えたのだが、結局、保津美の殺された事件は、そのどこにも結び付かなかった。ただ、船戸を殺した犯人が保津美だったというだけで、彼女自身が殺された事件には結び付かなかった。少なくとも、二つの事件が結び付いていたようには見えないのである。
そのため、原点に帰れ、というわけではないが、
〈保津美は自分が船戸を殺した翌日、たまたま出会った何者かによって皮肉にも殺されてしまったのではないか〉
という見方が復活したのであった。
その場合、襲った犯人が男だっただろうとは容易に想像できる。目的は、金を奪おうとしたのかもしれないし、暴行しようとしたのかもしれない。いずれにせよ、保津美が激しく抵抗したため、近くにあった石を拾って殴りつけた――。
刑事たちは、そう考えた。
目的が金だった場合、保津美は金を持っていなかったので、犯人は無駄なことをしたわけである。一方、目的が暴行だった場合、犯人は相手が死んでしまったので驚き、怖くなって、目的を遂《と》げずに逃げたのであろう――。
しかし、この考えには、二つの難点があった。
一つは、保津美が襲われて抵抗したのなら当然大声をあげたはずであり、小さな集落の誰かが聞いていないのはおかしい、という点。もう一つは、犯人がなぜ死体を担ぎ上げて、遊歩道脇の藪に捨てたのか、そんなことをせずに逃げるのが自然の行動ではないか、という点である。
ただ、それらも、「行きずりの殺人」のセンを完全に否定するものではなかった。
保津美が声を上げても必ず誰かの耳に入ったという保証はないし、犯人は気が動転し、ともかく死体を隠そうとして担ぎ上げたのかもしれないからだ。
では、この偶然の殺人、行きずり殺人のセンを採《と》った場合、犯人は誰か?
ここで再びクローズアップしてきたのが、事件の起きた晩九時半頃、漁港前の主婦が目撃した、下前から出て行った白い乗用車≠ナある。
寺本たち県警本部の刑事たちが小泊の駐在所へ駈けつける前、北津軽署員たちは、下前集落に存在する白い乗用車の前夜の移動を調べてあった。
その結果、主婦の目撃した車に該当するものは無い、と判明していた。
とすれば、外部の車だが、下前は権現崎の登り口で行き止まりになっているため、集落を通り抜けるだけ、という車は通らない。何らかの用事で下前へ来た人間である可能性が高い。
千晴が保津美殺しを認めた後も、念のために、事件の晩に白い車で来た訪問者があったかどうか、一組の刑事たちが下前の集落を聞き歩いた。
が、結局、それも分からずじまいに終わっていた。
その白い乗用車≠ノ、捜査本部は再び注目したのである。北津軽郡周辺に住んでいて、素行に多少問題のある白い車の持ち主を洗い出し、その一人一人について事件当夜の所在などを調べることになったのだった。
寺本も、あまり気が乗らないまま、所轄署の駆け出し刑事・宮城とともにその捜査に加わった。
彼らの捜査はすぐに暗礁に乗り上げた。
ところが、江副千晴の釈放から四日経った翌週の水曜日(二十九日)、その白い車に結び付くかもしれない情報が、意外にも、北海道警の谷と岩佐から寄せられた。
北海道警と青森県警は、船戸殺しの犯人が下村保津美だったらしいと判明した時点から、それぞれの道を進んでいた。
船戸の殺された事件と保津美の殺された事件の関わりを示すものが見つからず、二つは独立した事件と判断せざるをえなかったからだ。
では、谷や岩佐が具体的に何をしていたかというと、被疑者死亡として書類を検察庁へ送り、捜査を終了させるため、船戸を殺した保津美の犯行を裏づける材料を捜していたのだった。
保津美が「北斗星5号」→「あけぼの1号」→「北斗星5号」と移動し、仙台駅で船戸を殺害、横手で再び「あけぼの1号」に戻ったのではないか、という壮の推理を裏づけるものは、いくつか見つかった。
横手駅近くに駐車されていた保津美の赤いルナー、二十一日早朝、「あけぼの1号」が横手駅に着く直前、改札口において彼女らしい女性を目撃した駅員の証言、などである。
更にその後、仙台市郊外でも、練馬ナンバーの彼女のルナーが事件の数日前から駐められていた事実が判明し、仙台から横手への彼女の移動は確定的になった。
とはいえ、それらは、保津美の犯行の有力な傍証ではあっても、彼女が船戸を殺害した事実を直接示すものではない。
また、別の刑事たちが調べていた、犯行に使用されたナイフの入手経路も不明であった。
そこで、谷たちはまず、二十日の夜仙台駅で保津美を見た者がいるのではないかと考え、その目撃者捜しから始めた。
仙台駅の目撃者が見つかったからといって、それも保津美の犯行を裏づける直接的な証拠にはならないが、いっそう有力な状況証拠になるのは間違いないからだ。
しかし、結果は成果なしに終わった。
事件のあった二十日の夜、保津美は大宮で「あけぼの1号」を降り、「やまびこ129号」に乗って「北斗星5号」を追いかけたと考えられる。
その「やまびこ129号」の仙台着は十一時三十分。
「北斗星5号」の仙台着は十一時三十二分。
その晩、どちらの列車も遅れはなかったというし、新幹線ホームから東北本線下りホームまで、急げば二分で行けないことはないので、保津美は「北斗星5号」の到着とほぼ同時に、ホームに着けたはずである。とすれば、「北斗星5号」は仙台駅に六分間停車していたので、上野で「北斗星5号」に乗ったとき、船戸に酒と睡眠薬を渡し、眠らせておけば、保津美には確かに犯行が可能であった。
だが、「北斗星5号」の車掌に聞いても、仙台駅の駅員に聞いても、その晩のその時間、保津美らしい女性を見たという証言は得られなかったのである。
次に、谷と岩佐が担当したのは、東京へ行き、船戸と保津美の結び付きの証拠をつかみ、彼女の犯行動機を解明する作業だった。
ところで、江副千晴は北津軽署で、自分と保津美の「入れ替わりゲーム」は木之下に会ったとき以前にもしており、それは二人の共通の友人・益田みち子が知っている、と述べていた。
二十四日、谷たちによる尋問が済んだ後である。思い出したのだという。
そのため、谷たちは東京へ行くと最初に益田みち子に会い、千晴の話の裏を取った。
益田みち子は、青森県警の依頼を受け、警視庁の刑事が前に千晴と保津美について事情を聞いた一人だった。
みち子は谷たちに、千晴の話は事実だと認めた。
これは、事件とは直接の関係はなかったものの、千晴の話の信憑性を高めるものであり、「江副千晴」の名で船戸と交際していたのが下村保津美だったらしい、という推理の一つの傍証になった。
谷たちは、益田みち子につづいて保津美の高校、短大時代の友人、M証券の同僚たちの何人かに会い、話を聞いた。
しかし、誰も、船戸と保津美の交際については知らなかった。
ただ、そんな中で、最後に会った短大時代の友人の一人、田中真理子という女性が、保津美には恋人がいた、と話した。
「でも、船戸という名前じゃなかったわ」
彼女は言った。「えーと、中という字がついたと思ったけど……あ、そうそう、中丸さんて言ったと思うわ。私は偶然、街で会ったんだけど、背がすごく高くて、恰好いいの。下村さん、後で、友達から奪ったんだ……なんて自慢していたわ」
船戸ではないといっても、保津美に恋人がいたという事実は、谷たちの注意を引いた。
保津美が中丸という恋人を持ちながら船戸とも交際していたとなれば、そこに殺人動機が絡《から》んでいる可能性もあるからだ。
谷たちは、中丸についてもっと知らないだろうか、と聞いた。
田中真理子は首をかしげた。
「では、下村保津美が中丸を奪ったという友達についてはいかがでしょう?」
「名前は聞いてないけど、確か高校時代から付き合っている友達だって言ってたわ」
高校時代からの友達なら、もしかしたら江副千晴ではないか――。
谷と岩佐は同時にそう思い、顔を見合わせた。
真理子に礼を述べて別れ、今度は千晴を呼び出し、新宿駅ビルにある喫茶店で会った。
昨日、二十八日のことである。
当然ながら、千晴は刑事たちに会うのを渋ったようだ。が、谷が、どうしても聞きたいことがあるからと電話で頼み、やっと承諾させたらしい。
やはり若さだろうか。釈放されてたった三日しか経っていないのに、千晴は顔からやつれの色が消え、北津軽署で会ったときとは別人のように元気になっていた。
谷が田中真理子に聞いた話をすると、驚いたらしく、
「えー、下村さん、そんなこと言ってたのォー!」
と、はすっぱな声をあげ、笑った。
「では、中丸さんという方と交際していたのはやはり江副さんだったんですね?」
谷は確認した。
「そうです。でも、下村さんに奪われたなんて、嘘だわ」
「では……?」
「中丸さんとは、私のほうから進んで別れたんです」
千晴によると――
中丸は三十三歳。名は将幸。吉祥寺でスナックを経営している、有名私立大学を卒業したインテリだが、一時は暴力団と関係を持っていたらしい。身長百九十二、三センチ。ちょっとニヒルな感じの、女好きのする顔をした男だという。千晴はこの中丸と、約一年半前まで、二年間近く親しく交際してきた。だが、すぐに暴力をふるう彼についてゆけず、苦労して、やっと手を切った。すると、二、三ヵ月して、彼と保津美――千晴が前に互いを紹介してあった――が、いつの間にか深い仲になっていたのだという。
「私は、あんな男と付き合っていてもロクなことにならないから早く別れたほうがいい、と下村さんに何度も忠告したんです。でも、下村さんは彼に夢中で、『千晴、もしかしたら焼いているんじゃない』と言って、耳を貸そうとしなかったんです」
「ロクなことに……というのは、暴力をふるわれたりするからですか?」
谷は聞いた。
「それもありますけど……」
千晴が、ちょっと返答を渋るように視線を外した。
「どういうことでしょう?」
谷は気になり、説明を促した。
千晴が意を決したように谷たちのほうへ目を戻し、
「私、中丸のために、それまで蓄めていた一千万円近い預金がゼロになったんです」
と、言った。
意外な話だった。
「一千万円ですか……!」
谷はその意味について考えながら、おうむ返しにつぶやいた。
「初めは、中丸の歓心《かんしん》を買うため、私のほうから彼の欲しがっている物を贈ったり、小遣いをあげたりしたこともありました。でも、だいたいは、すぐ返すからと泣きつかれ、三十万円、五十万円と貸したんです。貸すといったって、借用書はありませんし、返してもらえる当てなんかないんです。分かっていました。分かっていましたけど、お金を出さなければ暴力をふるわれますし、仕方なく預金をおろして渡したんです」
「なぜ、警察に相談しなかったんですか?」
「警察に相談なんかしたら、もっと酷い目にあわされますから、怖くてそんなことできません。それに……」
千晴が言葉を切ってちょっと恥ずかしそうに目を伏せ、「彼が好きだったんです。私の誕生日にお花を買ってきてくれたりして、暴力をふるわないときは優しいところもありましたから」
「だが、最後は決意して、別れた?」
「はい。なかなか決心がつかなかったんですけど、このままでは私の将来は滅茶滅茶になってしまうと思い、威《おど》されても殴られても我慢《がまん》し、泣いて頼んで別れたんです」
「そうしたら、中丸は、次の金蔓《かねづる》として下村保津美を選んだわけですか?」
「そうだと思います」
「しかし、保津美は中丸に夢中で、それが分からなかった?」
「中丸は下村さんに、私のことを自分のほうから捨てたと言っていたようですし、下村さんも、私の忠告を負け惜しみだと思っていたようでしたから」
谷と岩佐は、千晴の話に注目した。
保津美が中丸に夢中で、彼に要求されるままに金を渡していたとすれば、船戸の預金がここ八ヵ月の間に七百万円も引き出されていた事情が説明できるかもしれないからだ。金の流れがたどれるかもしれないからだ。
これまで――千晴を疑っていたときも、保津美を犯人と考えてからも――船戸の預金七百万円がどこへ消えたのか、分からなかった。「江副千晴」が騙し取ったのだろうという想像はついたものの、千晴にも保津美にも、この八ヵ月間にそんな大金を使った形跡もなければ、預金が増えている形跡もなかった。
だから、谷たちは、保津美には隠し預金があるにちがいないと思い、捜してきた。
だが、今や、そんな隠し預金などなくても、「江副千晴」を詐称《さしよう》して船戸と交際していた保津美が、彼から騙し取った金を中丸に吸い上げられていたと考えれば、すっきりと説明がつくのだった。
金の流れだけではない。
保津美の船戸殺しの動機と筋書きも、よりはっきりする。
つまり、それは、こうだ――
保津美は、千晴とのちょっとした遊び「入れ替わりゲーム」から、木之下に対して江副千晴を名乗った。その後、どこかで木之下と再会したとき、江副千晴として船戸研一に紹介され、間もなく木之下が交通事故で死亡した。そのため、彼女と船戸の交際を知る者がなくなった。
企《たくら》みはそこから始まった。
保津美は、独自の判断でか、中丸に示唆されてか、船戸から金を騙し取ろうと計画。相手を自分に夢中にならせ、求婚を承諾し、金を引き出すことに成功した。
そんなとき、船戸は、どうしても彼女を父親と姉に紹介したいと言い出した。これまでも彼はそれを望んだのかもしれないが、彼女は何とか口実をつけて避けてきたのかもしれない。いずれにせよ、もう引き延ばしはできない。船戸の預金はまだ残っているようだが、仕方がない。彼女は、札幌へ一緒に行くと言って船戸を安心させ、彼を殺害しようと決心した。
それまで、保津美は、どういう理由を設けてかは分からないが、自分との交際は当分秘密にしておいてほしいと船戸に言ってきた。
とはいえ、どこかで「江副千晴」の名が外に漏れているかもしれない。いや、漏れていると見たほうがいいだろう。としたら、危険だった。本物の千晴にアリバイがあった場合、彼女の話から、江副千晴を名乗った可能性のある女として、自分に疑いの目が向けられるのは必至だからだ。
そこで、保津美は、「江副千晴」の名が船戸の口から漏れていても安全なように、一計を案じた。千晴のアリバイを奪うだけでなく、彼女に船戸殺しの疑いがかかるように仕組んだのである。
それが、「あけぼの1号」と「北斗星5号」を利用して別々に津軽へ行き、金木の斜陽館で再会する、という「ゲーム」であった。
計画の詳細は、壮が推理したように、
何らかの方法で必ず千晴が「北斗星5号」ルートになるようにし、彼女を船戸と同じ「北斗星5号」に乗せる。一方、自分はずっと「あけぼの1号」に乗っていたように装い、仙台駅において、「北斗星5号」の個室で熟睡している船戸を殺害する。
こういうものだったのだろう。
谷と岩佐は以上のように考え、更に、保津美の船戸殺害計画に中丸が一枚噛んでいたのではないか、と疑った。
中丸と事件との関わりについては、次の四つの可能性が考えられる。
(1) 保津美の殺人計画はもとより、彼女が江副千晴を詐称して船戸から金を騙し取っていた事実についても知らなかった場合(まったく無関係)。
(2) 自分に入ってくる金の出どころ、つまり、保津美が船戸を騙していたのは知っていたが、彼女の殺人計画までは知らなかった場合(殺人には無関係)。
(3) 保津美が船戸を騙していた事実と、彼女の殺人計画の両方を知っていたが、その実行にはタッチしていない場合(殺人教唆の可能性)。
(4) どこかで、殺人計画の実行そのものに関わっていた場合(共犯)。
このうち、(4)については、保津美が苦労して「北斗星5号」と「あけぼの1号」の間を移動している事実からみて、可能性がゼロに近い。
もし共犯者がいれば、こんな苦労をする必要がないからだ。
そこで、谷たちは、(3)の可能性が高いのではないか、と疑ったのである。
それも、ただ保津美から計画を聞いて知っていたというだけでなく、それを立案し、保津美に実行を促したのが中丸だったのではないか、と。
谷たちの推理から導き出されるのは、
〈保津美が殺人犯人として捕まったら、中丸も共謀共同正犯に問われる〉
という可能性だった。
犯罪を共謀し、共謀者の一部がそれを実行に移した場合、実行行為に加わらなかった者についても共同正犯が成立する、という判例があるからだ。
つまり、この場合、中丸にとっては、保津美は絶対に殺人犯人として捕まってはならなかった≠フである。
としたら、その帰結は明らかであろう。
〈船戸を殺した保津美の口を封じたのは、中丸ではなかったか。もしかしたら、保津美の殺された夜、下前で目撃された白い乗用車に乗っていたのは彼ではなかったか――〉
もし、この結論が当たっていれば、「北斗星5号」で起きた事件と小泊で起きた事件は再び密接に結び付き、これまで謎だった保津美殺しも解決するのだった。
3
東京にいる谷から電話のあった晩、寺本は五所川原の自宅へ帰らず、北津軽署の仮眠室に泊まった。翌三十日の朝早く、宮城刑事とともにパトカーで青森駅まで送ってもらい、午前五時三十三分発のL特急「はつかり2号」に乗った。
上りの一番列車だ。
「はつかり2号」が終点の盛岡に着いたのは、七時五十分である。
八時発の新幹線「やまびこ10号」が、待っていた。
弁当と茶を買ってそれに乗り、上野に着いたのは、十時四十分。
三階の大連絡橋広場で谷と岩佐に落ち合い、山手線、中央線と乗り継いで吉祥寺へ向かった。
中丸将幸に会うためである。
昨夜の谷の電話によると、中丸が浮かんできた時点で、谷と岩佐はすぐにでも彼にぶつかってみたかったらしい。が、もし中丸が保津美殺しの犯人だった場合、青森県警の領分を侵す結果になりかねない。そう考え、側面から彼についての調査をつづけながら、寺本たちの上京するのを待っていてくれたのだった。
「中丸は独身で、杉並区|久我山《くがやま》のマンションにひとりで住んでいるため、事件時の所在、行動はよく分かりませんでした。ですが、昨夜、電話で水野警部にお話ししたように、少なくとも、船戸が殺された二十日の夜と保津美が殺された二十一日の夜は、自分のスナックに顔を見せていません」
谷が、電車の中で話した。
中丸が吉祥寺駅の南口で営《や》っているスナックへ行き、中丸がいなかったのを幸い、バーテンから聞いたのだという。
「ホステスによると、その前の週の金曜日、来週函館か札幌へ行ってこなければならないと話していたというんですが、中丸が店に顔を見せるのは週の半分ぐらいなので、そのとき行ったのかどうかは分からないそうです」
谷が更に二、三の点を説明し、寺本が自分たちのその後の捜査について話しているうちに電車は吉祥寺に着き、彼らは井の頭線の電車に乗り換えた。
寺本には久しぶりの東京だった。が、以前、川崎に住んでいたので、だいたいの地理は分かる。
東京の街は、なんとなく夏の終わりを感じさせるものの、まだ暑そうだった。
寺本は、見るともなく窓外の景色に目をやりながら、
〈黒江壮と出会った津軽海峡を挟んだ事件のとき、第二の殺人は吉祥寺に近い三鷹の東京天文台で起きたんだったな……〉
と、そのときのことを思い起こした。
あの事件で壮と出会い、警視庁の勝部長刑事と出会い、多くのものを教えられた。あのとき、もし壮の推理がなかったら、自分たちは事件の謎を解き明かせず、たぶん、県警本部の刑事という現在の自分はなかっただろう……。
中丸の住んでいるマンションは、町名は久我山だが、久我山の次の富士見ケ丘で降りて五分ほど歩いたところに建っていた。
壁がレンガ調タイルの、こぢんまりした七階建てマンションだった。特に高級という感じはしないが、分譲だというから、相当な値段だろう。
そう思うと、女を騙したり威したりして奪った金でこんなところに住んでいる中丸という男に対し、寺本は強い怒りを覚えた。
中丸がもし保津美を殺した犯人なら、どう言い逃れしようとも、許さない。必ず証拠をつかみ、追いつめてやる。
彼は、ひそかに自らの闘志をかきたてながら、谷たちと一緒にエレベーターで六階まで昇り、廊下を中丸の部屋の前まで歩いた。
中丸は、船戸殺しより保津美殺しに深く関係している可能性が高かったので、谷が、尋問の主導権を寺本にゆずった。
寺本と宮城がドアの近くに立ち、宮城がチャイムを鳴らした。
すると、意外にも、返ってきたのは、
「はい」
という若い女の声だった。
宮城が戸惑《とまど》ったような顔を振り向けた。
「中丸将幸さんはご在宅ですか?」
寺本は、インターホンのマイクに向かって言った。
女は、中丸の意を問うているのかもしれない、十秒ほど間をおいてから、
「どなたですか?」
と聞き返した。
寺本は身分と名を言い、ある事件の参考までに中丸から話を聞きたいのだ、と用件を伝えた。
今度は二十秒ほど、間があった。
「待ってください」
という男の声の応答があり、錠を解く音がして、ドアが開けられた。
前に立ったのは、バスローブ姿の大男だった。唇が白くて薄く、ニヒルというよりはどことなく酷薄な感じがする。
「中丸将幸さんですか?」
寺本が確認すると、
「そうです」
男が答え、廊下に立った刑事たちに観察するような視線を順に向けた。
目に警戒しているような固い光はあるものの、臆している様子はない。
「下村保津美が北津軽郡の小泊で殺された事件はご存じですね」
中丸がうなずいた。
「その件について、彼女と親しくされていたという中丸さんに、お話を伺いたいんですが」
「そんなに親しくなんかしていませんよ」
「そうですか。では、そうした点も含めて、お聞きしたいので、入らせていただけませんか」
寺本はドアに手をかけ、更に大きく開けようとした。
「待ってください」
それを抑えて、中丸が心持ち語調を荒くした。「私はいま起きたところですし、部屋が汚れていますから、駅前の『パリシェ』という喫茶店へ行っていてください。顔を洗ったら、すぐ行きます」
彼は寺本の前に立ちはだかった。刑事たちを部屋へ入らせたくないようだった。起きたばかりだからというより、たぶん女がいるからだろう。
寺本は谷に目顔で相談した。
谷が小さくうなずいた。
それを見て、寺本は、
「分かりました」
と、引いた。
中丸が寺本たちの待つ「パリシェ」へ来たのは、三十分近く経ってからだった。
白いカジュアルスラックスをはき、黒地に銀のラメが入ったシャツを素肌に着て、サングラスをかけていた。
谷は小柄だが、寺本と岩佐と宮城の身長は百八十センチ近くあるし、現在は身長百八十センチ前後の若者は少なくない。それでも、百九十センチ以上あるらしい中丸は、一際《ひときわ》大きく感じられた。
寺本たちの前に腰をおろすと、ウエイトレスにキリマンジャロを注文し、手にしていたキャビンの箱から一本抜き取って、ジッポーのライターで火を点けた。
大きく開いた胸元で、金鎖のネックレスが黒い胸毛とたわむれていた。
彼は吸い込んだ煙を大きく吐き出し、
「下村保津美について、私に聞きたいことって何ですか?」
言いながら、脚を組んで上体を後ろへ反らせた。
「まず、彼女との関係です」
寺本は言った。
「たいした関係じゃないですよ。時々会って寝ていた、それだけです」
「下村保津美にとっては、そうじゃないでしょう。彼女は、あんたに夢中だったんじゃないんですか?」
「さあ、相手の心の内は知りませんね」
「もちろん、あんただって、ただ下村保津美と寝ていただけじゃない。あんたの目的は金だった。彼女から金を貢がせるのが彼女と付き合っていた目的だった。違いますか?」
「ほう、そんな根も葉もない話を誰から吹き込まれてきたんですか?」
中丸が唇に薄ら笑いを浮かべ、背もたれから上体を離した。「ま、だいたいの想像はつきますがね」
「誰です?」
「江副千晴でしょう。あの女は、私に捨てられたのを根に持って、そういう出鱈目《でたらめ》を言いふらしているんですよ。あれは相当な性悪女ですから、刑事さんもあの女の話だけは信用しないほうがいい」
「じゃ、あんたは、江副千晴からも下村保津美からも金を巻き上げたことはない?」
「もちろんです。ちょっと借りたことはあったかもしれませんが」
「借りても返さなければ、巻き上げたことになる」
「借りれば返しましたよ。もっとも、相手がくれた場合は別ですが」
語るに落ちたというべきだったが、その点の追及が目的ではないので、寺本は話を進めることにし、船戸研一を知っているか、と質問を変えた。
「知りませんね、そんな男」
中丸が即座に答えた。
「そりゃ、妙ですね。あんただって、江副千晴、下村保津美と関係があったのなら、彼女たちが関係した事件のニュースぐらい読むなり見るなりしているでしょう」
下村保津美が犯人らしいと判明してから、彼女の名は何度か容疑者として報道されている。そこには、当然、被害者である船戸研一の名もあった。
「ああ、『北斗星5号』の個室で保津美に殺されたと言われている男ですか。それなら、新聞で見ましたよ。しかし、名前なんか覚えちゃいない」
「あんたは、その前から下村保津美に、その男について聞いていたんじゃないですか」
「聞いていない」
「じゃ、下村保津美が江副千晴を名乗って彼から金を騙し取っていたのを、知らない?」
「知りませんよ、そんなこと。知るわけないじゃないですか。新聞を読んで、驚いているんです」
中丸のコーヒーが運ばれてきた。
彼は煙草の火を消し、それをブラックでゆっくりと飲んだ。
四人の刑事を前にしながら、怯《おび》えているような色は微塵《みじん》もない。
本当に二つの事件に無関係だからか。それとも、保津美を殺していても絶対に証拠をつかまれるおそれはない、と自信を持っているからか。
彼のその様子を見て、こいつが犯人だったとしても、落とすのは相当難しそうだな、と寺本は思った。
「ところで、先週の月曜日と火曜日――二十日と二十一日、どこにいたか、教えていただけませんか」
中丸がカップを皿に戻すのを待って、寺本は最も肝腎な点を聞いた。
もちろん、二十日の夜は船戸の殺されたときであり、二十一日の晩は保津美の殺されたときである。
「私を疑っているんですか?」
中丸がこれまでと違った固い声で言い、顔を寺本に向けた。
サングラスで目の動きは分からないが、表情が多少強張っていた。
「念のために、関係者のどなたにも伺っている点ですので」
「そうですか」
寺本の言葉をそのままに取ったわけではないだろうが、中丸が緊張を解いたらしい顔に戻った。
「ま、私は無関係ですから、何を聞かれたって困りませんが」
彼はつづけた。「えーと、二十日は函館へ行ってました。昔、命を助けられた恩人の命日なので、毎年墓参りに行くんです。元町にある函館パークホテルに泊まり、友人の須藤という男と午前一時近くまで大門を飲み歩いていましたから、須藤に聞いて、行った店を調べてもらえば分かるはずです。ホテルの深夜フロント係も覚えているかもしれません。須藤の住所と電話番号は、後で私のマンションへ来るか電話してくれれば、教えます」
彼は更に二十一日について、
「昼近く、ホテルへ迎えにきた須藤の車で、前の晩知り合ったホステスを連れてドライブと食事に行ってから、午後二時近くの津軽海峡線の電車に乗りましたよ。青森に着いたのが四時半過ぎでした。もう遠くへ行くほどの時間はないので、駅前のユニバーサルホテルにチェックインし、三角ビルの観光物産館や合浦《がつぽ》公園などをぷらぷら歩いてきました。それだけです」
中丸は殊更何でもないように「それだけです」と言ったが、寺本は胸が高ぶるのを感じた。
保津美が小泊で殺された晩、中丸は青森に来ていた――。
偶然とは思えなかった。
彼が保津美を殺した犯人なら、なぜ青森行きを進んで口にしたのか、という疑問がないではない。が、それは、友人の須藤だけでなくホステスにも知られているため、隠すのは得策でない、と判断したのかもしれない。
「二十一日の夜はどこかへ出かけましたか?」
寺本は質問を継いだ。
「どこへも行ってません。前の晩、飲みすぎたので、ホテルのレストランでビールを二本ばかり飲んで食事をし、すぐ部屋へ上がりました」
「レストランで食事をしたのは、何時から何時頃までですか?」
「七時から八時ぐらいまでだったんじゃないかな」
「間違いありませんね?」
「時計を見たわけじゃないから、正確には分かりませんよ」
「同じ晩、江副千晴と下村保津美も津軽へ行っていたのを知ってましたか?」
「知りません。事件のニュースで知り、これも驚いていたんです」
中丸の答えにはよどみがない。
といって、これは、刑事の来訪によって当然予想される質問なので、別に不思議はなかった。
それにしても、中丸が実際に午後七時から八時まで青森のホテルにいたとしたら、犯人の可能性は薄かった。
青森からレンタカーを飛ばし、小泊まで一時間四十分から二時間。八時にホテルを出たとしても、下前集落に着くのは、早くて九時四十分頃。
一方、保津美は八時半頃民宿を出ており、千晴も約四十分後の九時十分頃には、彼女を捜しに出ている。としたら、保津美がたとえ中丸とどこかで落ち合う約束をしていたとしても、一時間以上も待っていたというのは不自然だったし、その間に、千晴に見つからなかったというのもおかしいからだ。
では、保津美は中丸と下前集落の外で会う約束をし、そこへ行っていた可能性はないか。
しかし、これも、ないと考えざるをえないのだった。
下前は小さな集落だし、集落から出る道は一本しかない。もし、若い女性が夜道を歩いていたら――近くに町もないのに歩いて集落から出たとは到底考えられないが――非常に目立つ。八時半や九時なら、車の往来のある時刻なので、誰かが彼女を見かけていないはずがない。ところが、彼女らしい女性を見かけたドライバーはいないし、もちろん彼女がタクシーを呼んだり、誰かの車に乗せてもらった形跡もないのだった。
寺本は、聞くべき点は聞いたので、谷に他にないかと目顔で尋ねた。
すると、谷が二、三の点を質問し、その後で宮城が中丸と一緒に彼のマンションへ行き、函館に住む須藤の住所と電話番号を聞いてきた。
4
北海道警と青森県警による、中丸の函館市と青森市の行動に関する調査結果が出るのを待ち、寺本たちが中丸に再びに会ったのは、その日の夕方四時過ぎだった。
場所は、吉祥寺駅の南口で彼の経営しているスナックである。
まだ開店前なので、ビルの地下にある店にいたのは、中丸と二十四、五歳の口髭《くちひげ》をはやしたバーテンだけ。
バーテンもホステスも、この一年間に入れ替わっているというので、昨日、谷たちが聞いたとき、中丸の函館墓参の習慣を知らなかったらしい。
それはともかく、バーテンに席を外してもらい、寺本たちはテーブルの一つに中丸と向かい合って座った。
昼のときと違い、中丸の顔は緊張し、サングラスを外した目には、警戒とも不安ともつかない色が浮かんでいた。
何も新しい駒を持たず、一日に二度も刑事たちが来るはずがないからであろう。
事実、寺本たちは、水野たちの調査によって非常に強力な駒を手にしていた。
道警の調査により、二十日の晩中丸が函館を離れていないのは事実らしいと判明したが、翌二十一日の夜の所在、行動については、大きな不審点が見つかったのだ。
「昼、会ったとき、あんたは重大な嘘をついたね?」
寺本は相手の目を睨《ね》めつけながら、言った。
「嘘? 嘘なんかついた覚えはないですがね」
中丸が惚《とぼ》けた。
「あんたは、下村保津美と江副千晴が二十一日に津軽へ行っているのを知らなかった、と言った。だが、その晩、保津美に会っているのに、そんなはずはないだろう」
「…………」
中丸は答えない。
寺本たちがどこまで知っているのか探るような目を向け、黙っていた。
寺本たちも、中丸が保津美に会ったという証拠はつかんでいない。だから、ここはストレートには攻められなかった。
「あんたは、青森のユニバーサルホテルのレストランで七時から八時頃まで夕食を取った、と言った。が、ボーイによると、もっとずっと早かったという話だ。あんたが食事を終えたのは、六時半頃……遅くとも六時四十分にはなっていなかった」
「そうでしたかね。しかし、嘘はついていない。私は、よく覚えていないと言ったはずだ」
中丸が応えた。
「二十分や三十分なら、間違えたって不思議はない。だが、実際は食事を終えてしまった時刻より後に食事に行ったと思い込むなんて、どう考えたっておかしいだろう。時計を見なくたって、窓の外を見れば分かる。ボーイが時刻まで覚えているとは思わず、あんたは故意に嘘をついたんだ」
「私は嘘をついた覚えはないが、勝手に決めつけたかったら決めつければいい」
「それから、あんたは、レストランでビールを二本注文したものの、一本はほとんど飲んでいなかった。大瓶ではなく、中瓶のビールだ。それはなぜか?」
「当然、飲みたくなかったからでしょう」
中丸が答えながら薄く笑った。
その顔は、余裕があるというほどではないが、追いつめられた者の深刻さはそれほど感じられなかった。
「そうじゃない。あんたには、その後で車に乗る予定があったからだ」
「ほう……」
「あんたは二十一日の午後一時五十八分、函館で快速『海峡12号』に乗り、四時三十七分に青森に着くと、すぐにユニバーサルホテルにチェックインした。ここまでは、あんたの話のとおりだったらしい。
だが、この後が違う。
あんたは、それから観光物産館や合浦《がつぽ》公園をぷらぷら歩いてきたと言ったが、あんたは、五時半に、ホテルから四百メートルほど離れたところにある『美山レンタ・リース』という会社で、白い乗用車ジュピター一八〇〇を借りている。契約は二十四時間。もちろん、翌日乗るつもりで前日の夕方に借りる人間はいない。ということは、あんたは、それからホテルに帰って夕食を取り、その車でどこかへ出かけた――」
「…………」
「六時三、四十分に食事を終えてホテルを出れば、下村保津美が民宿から散歩に行くと言って出た八時半前後には、小泊村の下前に着ける。レンタカー会社の事務員に、あんたは、津軽へは前に来たことがあるので道は知っている、と話しているからな。
そして、あの晩、あんたは下前漁港の近くか、道路の尽きる権現崎の登り口で、保津美と会った――」
ここで、昨夜、中丸について知らせてきた谷の電話は、北津軽署の捜査本部が追っていた白い乗用車≠ニはっきり結び付いたのだった。
それも、寺本たちが江副千晴を犯人と考えて取り調べていたとき、彼女の言った、
〈自分は犯人ではない。だから、もし行きずりの犯行でないとしたら、犯人は保津美と関係のある者としか考えられないではないか〉
という言葉が的中したかたちで。
「違うかね?」
寺本は返事を促した。
が、中丸は答えない。
どう答えるのが最善か、懸命に考えているようだった。
「もちろん、あんたは、そこで保津美を殺した」
寺本はつづけた。
と、それまで黙っていた中丸が、突然、
「殺しちゃいない!」
と、叫んだ。
「殺していないだと!」
「ああ、殺しちゃいない」
「じゃ、保津美と会った事実は認めるのか?」
「認める。確かに、俺は保津美と会う約束をしていたし、彼女と会った。権現崎の登り口、岬の行き止まりでだ。だが、俺たちは一時間ほど車の中で話しただけで別れた」
「保津美が死んでも平気でいるあんたが、たった一時間、彼女と車の中で話すために、レンタカーを借りて、青森から往復四時間近くかけて小泊まで行った? そんな話を、誰が信用できる?」
「信用できようとできまいと、事実だから仕方がない」
「ふざけるんじゃない!」
谷が我慢しきれなくなったらしく、怒りの声をあげた。
「俺はふざけちゃいない」
中丸が薄い唇にふっと不敵な笑いをにじませ、谷を見やった。
裏に凶暴な意志を秘めたような目だった。
刑事が大声を出したぐらいで、俺が怖がると思っているのか、その目はそう言っていた。
どうやら、威しで何とかなるような相手ではないらしい。
寺本はそう思い、
「それじゃ、保津美とどうしてそういう約束をしたのか、説明してくれ」
と、質問を進めた。
「二年前の夏、やはり函館の墓参の帰り、俺は江副千晴と青森で落ち合い、レンタカーを借りて、三日ほど蟹田、三厩《みんまや》、竜飛、小泊、金木、弘前と乗り回したことがあった」
中丸が寺本に目を戻して話し出した。
「それで、レンタカー会社の事務員に道を知っていると言ったんだが……それはともかく、保津美から千晴と一緒に津軽へ行くと聞いたとき、俺は保津美にこの話をした。すると、保津美はすでに千晴から聞いていて、俺の墓参の帰りに津軽で会おう、千晴に黙ってどうしても会いたい、と言い出した。
千晴と保津美というのは、妙な女たちだった。妙な関係と言ったらいいかもしれない。しょっちゅう一緒に行動しながら、互いに悪口を言い合っていた。内心、強いライバル意識を燃やし合っていた。だから、保津美は、俺が千晴と二人で津軽をドライブして回ったと聞き、嫉妬したらしい。悔しかったらしい。今度は千晴のいる目と鼻の先で俺とこっそり会い、後で千晴に話して、優越感を味わいたかったらしい。
俺としては、初め、そんなのに付き合うのは面倒だった。冗談はいい加減にしてくれ、と怒鳴った。だが、保津美は真剣で、しつこかった。それで、俺もだんだん、青森に一泊して夜ドライブし、翌日、同じレンタカーで八甲田あたりへ行ってみるのも悪くないか……と思い出し、オーケーした。
俺が、あの晩、小泊まで行ったのはそういうわけだ」
中丸が説明を終えた。
「だったら、なぜ、それを初めに言わなかった? レストランで夕食を取り、その後ホテルから出なかったなどと、なぜ嘘をついた?」
寺本は追及した。
「そりゃ、余計な疑いをかけられたら面倒だからだ」
中丸が答えた。
彼の話は一応、筋が通っていた。
とはいえ、それはいかにも作りものめいた筋だった。
到底、信用できない。
中丸は、自分が青森に一泊し、四時間近くかけて保津美に会いに行った理由として、保津美と千晴の関係――これは二人の友人たちも同様の話をしていたから事実に近いかもしれない――を持ち出し、説明しようとした。が、やはりそこには無理が感じられた。
中丸は保津美を殺しに小泊へ行った。そして、殺したにちがいない。彼は、船戸殺しで保津美の共同正犯に問われるのを恐れ、彼女の口を封じたのだ。だからこそ、レストランの食事時間に関して嘘をつき、レンタカーを借りた件を隠したのだ。
寺本はそう思った。
そうとしか考えられない。
中丸が殺していなければ、保津美の殺された事件はまた宙に浮き、迷い、収まりどころがなくなってしまう。犯人がいなくなってしまう。犯人がいないのに、殺された死体だけが残ってしまう。
そんなばかな話はない。
〈ただ――〉
と、寺本は思う。
中丸が保津美殺しの犯人であるのは間違いないにしても、問題は今やその先だった。
中丸は、事件の晩現場まで行った事実を認めた。保津美と会った事実を認めた。しかし、殺していないという。としたら、彼が確かに保津美を殺したという直接的な証拠――物証をつかまなければならなかった。
中丸と保津美の関係を更に調べ、傍証を固めれば、彼を逮捕できるだろう。検察官も起訴するだろう。
しかし、起訴したところで、彼が犯行を否認しつづけた場合、決め手になる物証がないと、有罪判決を勝ち取れるという保証はなかった。
「そろそろ開店の時間ですから、用事が済んだら帰ってもらえませんか」
中丸が、寺本たちの胸の内を見すかしたように、言った。
目の奥に、余裕の薄ら笑いがにじんでいた。
「それじゃ、最後にもう一つ――。あんたが下村保津美を殺していないとなると、いったい誰が殺したのかね? あんたの考えを聞かせてもらいたいものだな」
寺本は言った。
「一緒にいた江副千晴じゃないんですか。あの女なら、やりかねませんからね」
薄ら笑いを唇までひろげて、中丸が答えた。
「動機は?」
「さあ、そこまでは分かりませんよ」
言ってから、彼はふっと笑いを消し、
「あ、そうか」
と、つづけた。「保津美は俺と会った後で、その話をすぐに千晴にしたのかもしれないな。それで、千晴がカッとなって殺《や》ったのかもしれないな」
5
その晩、美緒と壮は、有楽町のTホテル一階にある中華レストランで、警視庁の勝部長刑事、それに青森県警の寺本、宮城の両刑事と会った。
夕方、警視庁へ挨拶に行った寺本たちが、この後で壮を訪ねる予定だと勝に話したことから、そうなったのである。どうせ会うなら一緒に食事でもどうかと勝が彼らを誘い、美緒と壮の都合を電話で聞いてきて、席を予約したのだった。
約束の七時より七、八分前に美緒と壮がレストランへ行くと、勝たちはすでに来て、隅の丸テーブルに待っていた。
美緒たちと宮城は初対面だったので、寺本が互いを紹介し、次いで、勝が希望を聞いて、料理とビールを注文した。
ボーイが去ると、
「私もいま、寺本さんから事件の詳しい話を伺ったところです」
と、勝が言った。
年齢は五十二、三歳。猫背で痩せていて、一見、冴えない風貌だが、警視庁捜査一課殺人班の優秀な部長刑事《でかちよう》である。
壮と美緒と美緒の家族は、今や親類のように彼と親しく付き合っていた。
「ここまで来られたのも、黒江さんと笹谷さんのご協力のおかげです」
寺本が言った。
美緒の名は付けたりだが、壮のおかげだというのは間違いない。
「中丸という人はどうなったんでしょうか?」
美緒は尋ねた。
午後、寺本から壮の研究室に電話があり、そのとき話したという簡単な事情を、美緒も間接的に聞いていたのだ。
「黒江さんとお話しした後で、夕方もう一度訪ねました。その件を含め、先週お電話した以後の事情をご説明します」
寺本が言い、千晴を釈放した後の自分たち青森県警、谷たち北海道警の捜査を簡単にまとめ、それから中丸に関する事情を詳しく説明した。
「――というわけで、二つの事件は、中丸将幸という男の登場によって、はっきりと結び付きました。中丸が下村保津美の船戸殺しにどこまで関わっていたのかは不明ですが、彼は保津美が捕まって、そこから自分の名が漏れ、共同正犯に問われるのを恐れた、そのため、保津美の口を封じた――それが、私たちと谷部長たちの見方です。そして、これは九分九厘間違いない、と思っています。
ところが、中丸は、事件の晩に下前で保津美と会う約束をし、会ったのは認めながら、犯行を否認しているわけです」
中丸のその否認を切り崩す物的証拠が自分たちには無いのだ、と寺本は最後に困ったように言った。
「そうですか……」
美緒はうなずいた。
そのとき、最初の料理が運ばれてきた。
そこで、ビールを注《つ》ぎ合い、食事を始めることにした。
「まだ打ち上げとはゆきませんが、寺本さん、宮城さんたちの事件が、一日も早く全面解決するように祈って……」
勝が言い、美緒たちはコップを目の高さに上げて、ビールを飲んだ。
料理は、つづいて二皿運ばれてきた。
牛肉と中国菜の味噌炒め、車|海老《えび》のチリソース煮、それに鮑《あわび》と筍《たけのこ》の旨煮だった。
五人が適当に料理を小皿に取って――といっても壮のぶんは「過保護」にも美緒が取ってやり――中央のテーブルを回転させ、しばらくは事件の話を離れて食べたり飲んだりした。
そして、美緒が、
「谷部長さんたちは、どうされているんですか?」
と聞き、寺本が、
「さっき、飛行機で札幌へ帰りました」
と答えたところから、話はまた自然に事件へ戻っていった。
「寺本刑事さんたちは、東京にいつまでおられるご予定なんですか?」
「分かりませんが、明日もう一度中丸にぶつかり、どうにもならなければ、一度金木へ帰ります」
「中丸という人の犯行を直接証明する物は、何かないんでしょうか」
「下村保津美の死体の捨てられていた遊歩道脇の藪に、中丸と結び付く物が何か落ちていないか、水野警部たちが、明日捜しなおす予定になっています。今のところ多少期待できるのは、それぐらいですね」
「犯人でなければそこまでは登っていない。だから、藪の中にそうした物が見つかれば、言い逃れできなくなる。そういうわけですわね?」
「そうです。中丸は車の中で保津美と話したと言っていますので」
「凶器として使われたと思われる石は、見つからなかったんですか?」
勝が聞いた。
「残念ながら……。犯人は海の中へ投げ捨ててしまったんだと思います。岸に近いところは捜したんですが、潮に洗われて痕跡が消えてしまったのか、特定できませんでした」
「潮に洗われてしまったのでは、たとえ見つかっても、犯人に結び付くものが付着している可能性は薄いですな」
「ええ」
美緒たちの話は、それからも時々事件から離れてはすぐにまた事件に戻った。
しかし、これといって、中丸を追いつめるうまい方策は誰からも出てこなかった。
会話は、九割がた美緒と勝と寺本三人の間で交わされ、たまに宮城が加わった。壮はいつものごとく、ほとんど口を開かなかった。勝はそうした壮の性格を呑み込んでいるからいいが、寺本たち――特に初対面の宮城――は知らない。そのため、美緒は気をつかい、時々壮に質問を向けたが、無駄だった。「ええ」か「いいえ」といった答えが返ってくるか、黙って首をかしげるだけだった。
それでも、美緒たちの話を聞いている間はいい。聞いていれば、彼はそれについて考えているからだ。何か疑問点が見つかれば、口を開く。
ところが、彼はだんだん上の空の表情になってきた。自分だけの思考に気を取られているような目になってきた。
美緒には分かるのである。
壮が何も見えず聞こえずの「考える人」になるのは、まったく前ぶれなく突然のときもあるし、こうして徐々に思考の深みへ入ってゆき、ある一線を越えてその世界にスリップするときもある。
美緒は危険を感じた。いくらなんでも、ここで「考える人」になられたのでは、まずい。勝や寺本たちに悪い。悪いというより、説明したところで、寺本と宮城には理解してもらえないだろう。だから、〈なんて無礼な奴だ〉と思われる。
美緒はそう思い、
「どうしたの、何を考えているの?」
と、彼の腕をつついた。
壮が現実に引き戻されたような顔になり、美緒を見た。
「話して」
勝が、美緒の取った行動の意味を理解したらしく、期待の眼差しを壮に向けた。
壮が小さく首を横に振った。
「でも、いま、あなた、真剣に考えていたでしょう?」
「ちょっと別の可能性を追ってみたんですが、やはり無理なようです」
壮がやっと言葉らしい言葉を口にした。
「別の可能性? どういう?」
「中丸という人は下村保津美さんを殺した犯人ではないのではないか――という可能性です」
「それはないでしょう」
寺本が即座に否定した。
「ええ」
壮が素直にうなずいた。
「しかし、その可能性を追われたということは、どういうふうに?」
勝が興味を覚えたらしく、聞いた。
「もし中丸という人が犯人でなければ、犯人は誰か?
行きずりの犯行という可能性は薄いし、中丸という人が言ったように、やはり、江副さん以外には考えられないのではないか。
では、江副さんが犯人なら、動機は?
単に江副さんと下村さんとの関係だけから説明するのは無理だろう。
なぜかというと、寺本刑事さんたちが何度も考えておられるように、それでは、前夜の船戸さん殺しにつづいて下村さんが殺されたのは、まったくの偶然ということになってしまうから。
そんなふうに考えていったんです」
「なるほど。それで?」
「しかし、そうすると、結論は、
〈江副さんが、船戸さんも下村さんも殺した〉
という以前の考えに戻らざるをえませんでした。江副さんが、船戸さん殺害との関連で下村さんも殺した、そういうふうにです」
「でも、そんなの、考えられないわ」
美緒は言った。「それじゃ、下村さんが『北斗星5号』と『あけぼの1号』の間を行ったり来たりした事実が宙に浮いてしまうもの。意味がなくなってしまうもの」
「そうなんです。ですから、やはりそのセンはないかと思ったんです。江副さんがどんなにうまい口実をつかっても、下村さんに、〈北斗星5号→あけぼの1号→北斗星5号→あけぼの1号〉と二度も列車移動させ、彼女に疑いが向くように画策するのは無理だったでしょうから」
「そうですか」
勝が二、三度小さくうなずいてから、しかし、と言った。「しかし、その前に、〈中丸が下村保津美殺しの犯人ではないかもしれない〉と考えられたのには、それなりの理由があったと思われますが」
「ええ」
「それは――?」
「寺本刑事さんが話されたように、中丸という人が犯人なら、二つの事件は矛盾なく結び付きます。しかも、事件の夜、彼は青森から往復四時間近くもかけて小泊まで行き、下村さんに会っている――。
彼を犯人と見て、もう間違いないようでした。
ですが、一方で、彼が犯人だった場合、いくつかの疑問も感じたんです」
勝と寺本と宮城は、酒も料理も忘れたように壮の顔を注視していた。
「どういう疑問?」
美緒は先を促した。
「一つは殺害方法です」
壮が答えた。「大きな力があり、しかも被害者と親しい中丸氏が犯人なら、なぜ石で頭を殴ったりしたんでしょうか。現場が権現崎への登り口なら、確かに手頃の石は沢山ありました。でも、石で殴れば、血が飛び散り、それが自分の衣服に付かないともかぎりません。これは危険です。それに、一撃で相手が死亡するとはかぎりませんから、何度も殴りつけなければならないかもしれません。としたら、石を拾って殴るより、紐《ひも》で首を絞めたほうがはるかに簡単で、安全だったんじゃないでしょうか」
「…………」
「二つ目は、なぜわざわざ下村さんの死体を担ぎ上げ、遊歩道脇の藪に捨てたのか、という点です」
壮がつづけた。「中丸氏が犯人なら、近くに車を停めてあったはずですし、いつ江副さんが下村さんを捜しに来ないともかぎらないわけですから、一刻も早く現場を離れる必要があったはずです。それが、危険を回避する一番の方法だったのは明らかです。それなのに、隠す必要があったとも思えない死体を、どうして山の中へ担ぎ上げたりしたんでしょう? もし青森のホテルへ逃げ帰るまで見つからないようにしたかったのなら、堤防の陰にでも置けばよかったわけですし」
壮が言葉を切っても、誰も口を開かなかった。
寺本は困惑《こんわく》したような顔をしていた。
壮の言った疑問は、ちょっと考えれば誰でも気づく点である。だが、中丸が容疑者として浮かんできて、これまで最大の疑問だった二つの事件の関連≠ェ解明されたため、寺本たちの注意は、中丸を犯人とした場合の個々の問題にまでは及ばなかったのであろう。
「それだけね?」
美緒は確認した。
「いえ、もう一つあります」
壮が答えた。「これが最大の疑問かもしれないのですが、中丸氏は、なぜ下村さんを殺したのか――たとえ下村さんの船戸さん殺害計画に、彼もタッチしていたとしても、下村さんを殺そうとするだろうか――という疑問です」
「それは、寺本刑事さんの言われたように、下村さんが捕まった場合、共犯とされるおそれがあったからじゃないの?」
「確かに、その危険はあるかもしれません。ですが、その危険と、下村さんの口を封じる行為によって生じる危険を秤《はかり》にかけたら、どっちが大きいでしょう? 船戸殺しに直接タッチしていたのならともかく、二十日の晩、中丸氏は函館にいてノータッチなのは間違いない、というお話でした。それなら、下村さんがどう言おうと、あくまでも知らぬ存ぜぬを通せばいいんです。共同正犯の立証は、かなり難しいと思います。つまり、自らの手で下村さんを殺害して逃げ道をなくすより、何もしないでいるほうがはるかに安全だったはずです。
しかも、いまのは、下村さんが捕まり、自供したら――という仮定の話です。ところが、船戸殺害計画は、絶対に彼女が捕まらないよう、万全の策を講じていたわけです。江副さんを「北斗星5号」に乗せ、下村さん自身は列車移動を二度も繰り返して。
そうすると、中丸氏の行動は矛盾します。彼が下村さんを殺した犯人だった場合、彼の行動はチグハグなものになります。なぜなら、〈自分がタッチしてこれだけ万全な計画を立て、下村さんに警察の疑いの目が向かないようにしておきながら、彼女の口を封じた〉ということになりますから」
「なるほど」
勝が感心したようにうなずき、
「そうですか……」
寺本が溜息まじりにつぶやいた。
宮城は何も言わなかったが、深刻気な表情をしているのは寺本と同じだった。
「それらは、確かに、中丸を犯人と考えた場合の大きな疑問点ですな」
勝が言った。
「言い訳めきますが、実は、我々もそうした点をまったく失念していたわけではなかったんです」
寺本が言った。「ただ、中丸の登場によって、これまで不明だった事件のスジが一気に見えてきたため、犯人はこいつしかいない、こいつを落とせばあとのことは自然に分かる、そう軽く考えてしまったんです。いや、ほとんど意識せず、そう思い込んでいたと言ったほうが正確かもしれませんが」
「分かります」
勝が二度、三度とうなずき、「大きな獲物が出てきたときは、つい、そっちにばかり注意を奪われがちですから。我々も似たような見落としをした経験はよくあります」
「警視庁さんでも?」
「もちろんです」
「それを伺って、少し安心しました」
寺本の頬の強張りがわずかにゆるんだ。
「それにしても、分からなくなりましたな……」
勝が考える目をして、話を戻した。
「中丸という人は犯人ではなかった、ということでしょうか?」
美緒は聞いた。
「いや、三つの疑問点を説明される前に黒江さんが言われたように、そう考えると、そこには更に大きな疑問点、不可解な点が出てきてしまうわけですね」
勝が答えた。
「それでは、いったい、どう考えたらいいのかしら……?」
美緒は、半分は自分の胸に向かってつぶやいた。
「……ああ、黒江さんが最も大きな疑問と言われた三点目の疑問だけは、中丸を犯人と見てもなんとか説明できそうです」
勝がその方法に気づいたらしく、言った。
壮が勝に目を向けた。
「江副千晴に罪をかぶせる万全の計画を立てながら、中丸はなぜ危険を冒して下村保津美を殺したのか、なぜ殺す必要があったのかというお話でしたが、これは、保津美殺しも千晴の仕業に見せ、警察の目が千晴一点に集中するようにしたんじゃないでしょうか。計画のより完全な仕上げをしたんじゃないでしょうか。もちろんそこには、保津美の口を塞ぎ、不安の元を取り除く、という目的もあったと思われますが」
勝が説明した。
「つまり、保津美を殺せば、疑いは否応なく江副千晴に向き、〈千晴は、船戸殺しを感づかれたために保津美の口をも封じた〉警察にそう判断される。となると、千晴はいよいよ逃れられなくなり、そのぶん中丸の安全性は増す。というわけですね」
寺本が言った。
「そうです。ただ、こう考えても、さっき黒江さんの言われた、どちらがより危険かという秤《はかり》の問題は残るわけですが」
「いえ、勝部長さんの言われた考えのほうが妥当なようです」
壮が言った。「僕は、中丸氏が江副さんに疑いを集中させる目的もあって下村さんを殺したのかもしれない、という点を完全に見落としていました。勝部長さんの言われたように、そのためなら、敢えて下村さん殺しの危険を冒しても不思議じゃないかもしれません」
「そうですか」
「それじゃ、これで、疑問点は二つに減ったわけですわね」
美緒は言った。
「しかし、あとの二つは難問です」
勝が応じた。
「そのうち、最初の殺害方法ですが、これは、たまたま近くにあった石で頭を殴ったとしても、ありえないことではないんじゃないでしょうか」
宮城が珍しく発言した。
「確かに可能性はゼロではないが、やはりおかしい」
寺本が応えた。「中丸が犯人なら、当然下村保津美を殺す計画をもって小泊まで行ったはずなのに、凶器を用意しなかったとは考えられない。その場合、相手と親しい、しかも力のある彼にとって、絞殺ほど簡単な方法はなかったはずだ。それなのに、黒江さんの言われた、血の飛び散る危険が大きい石を使ったというのは、どうみても不自然すぎる」
「そうか……」
宮城が残念そうに上体を引いた。
そのとき、美緒の脳裏に一つの可能性が閃いた。
「いえ、石で殴ったかもしれませんわ」
彼女は言った。
寺本、宮城、勝の目が彼女の顔に集まった。
「これも、江副さんに罪をかぶせようとした、という視点から見ればいいんです」
美緒は説明した。「寺本刑事さんの言われたように、犯人は紐のようなものを用意して行ったかもしれません。でも、たまたま近くに手ごろな石があったため、江副さんに疑いの目を向けさせるには石で殴ったほうがいい。そう咄嗟《とつさ》に判断したとは考えられませんか?」
「なるほど、そうですか、考えられますね」
寺本が瞳を輝かせ、「となると、もう一つも、同じ視点から見たら何とかならないでしょうか」
「もう一つも同じ視点から?」
美緒は首をかしげた。
「〈江副千晴が、犯人は女でないと警察に思わせるため、無理して死体を担ぎ上げた〉――そう警察に思わせて千晴に疑いの目を向けさせるため、本当の犯人中丸は、死体を遊歩道脇の藪まで運んで捨てた……。うーん、ちょっと苦しいですね」
「確かに、それは苦しい」
勝が言った。「そんなことをしていて、車を誰かに見られたら、それこそ致命的ですからな」
「ええ」
「でも、あと一つですわね。これも、考えれば何とかなるんじゃないでしょうか」
美緒は言った。
「そうかもしれません」
勝が応じた。
「そうなると、やはり、中丸犯人説は間違いないと考えてよい、というわけですね」
寺本がほっとしたようにつづけた。
そのときだった。
「すみません、ちょっと待ってください」
壮が不意に言った。
彼は、三つ目の疑問に対する勝の指摘を受け入れてから、また自分の思考の世界に入り込んでいたのだった。
四人は口をつぐみ、つづく彼の言葉を待った。
壮は目を宙に止め、更に二、三十秒間、自分の思考を追っているようだった。
が、やがて、それを勝たちに向け、
「中丸氏は犯人じゃないかもしれません。いや、犯人じゃないと思います」
と、言った。
6
美緒の胸は高鳴り始めていた。
壮がこれだけはっきり言うからには、今度こそ、中丸を犯人と見た場合の決定的な矛盾に気づいたにちがいないからだ。
「中丸氏が下村さんを殺したと見るには、彼も船戸さん殺害計画にタッチしていた≠ニいう前提条件が絶対に必要でしたね。それで、彼は江副さんに罪をかぶせるためと、自分が共同正犯に問われるのを逃れるため、下村さんの口を封じた、というのが動機なわけですから」
壮が言って、一度言葉を切った。
「…………」
「そうすると、今度こそ、どう考えても不可解な事実が一つ残るんです」
少し間をおいて、彼が再び話し出した。「それは、下村さんの赤い乗用車・ルナーが横手駅の近くに残されていた、という事実です」
美緒は、アッと思った。
驚きの色は、勝の顔にも、寺本と宮城の顔にも同時に浮かんだ。
美緒を含めて、みな壮の言わんとしていることが分かったのだ。
「下村さんのルナーこそ、彼女の船戸殺し計画を裏づける決定的とも言える証拠でした。直接的な証拠ではなくても、ルナーが見つかったことにより、彼女による船戸氏殺害は、ほぼ確定的になったわけですから。言葉を換えて言えば、このルナーの発見により、〈江副さんを『北斗星5号』に乗せ、彼女に船戸殺しの罪をかぶせる〉という下村さんの計画は破綻したわけです」
壮がつづけた。
「では、中丸氏が下村さんのこの計画に加担していたのなら、彼は青森からの帰り道、なぜ奥羽本線を回って横手で降り、ルナーを東京へ乗り帰らなかったんでしょう?
いえ、東京まで乗り帰らなくても、どこか別の場所へ移動しておけばいいのに、なぜそれをしなかったんでしょう?
彼には、車に指紋さえ残さなければ、それをしてもまったく危険はなかったはずです。時間も十分にあったはずです。
この中丸氏の行動は、彼が下村さん殺しの犯人であり、船戸さん殺害計画にタッチしていた≠ニ考えるかぎり、どうにも説明できません。決定的な矛盾です。
ということは、彼は下村さん殺しの犯人ではなかった、つまり下村さんのルナーが横手に残されているとは知らなかった、彼女の船戸氏殺害計画について知らなかった=\―こういう結論になるんじゃないでしょうか」
壮が説明を終えた。
誰一人、反論できなかった。
誰の目にも、料理や酒など、もうまったく映っていないかのようだった。
中丸の登場によって、少なくとも謎の半ば以上は解けたと思っていたのに、その本命が消えてしまったのだった。
「うーむ」
と、勝が唸り、腕を組んだ。
寺本と宮城の顔は強張り、心持ち青ざめて見えた。
「それじゃ、事件の構図はいったいどうなるの?」
美緒は壮に聞いた。
「僕にも分かりません」
壮が答えた。
「船戸さんを殺害したのは下村さんに間違いないわけだから、結局、下村さんはその事件とは関係なく殺されたのかしら? 二つの事件は偶然つづいて起きただけで、結局は無関係だったのかしら?」
「…………」
壮が首をひねった。
「そうですね、それ以外に考えようがありませんね。そして、下村保津美殺しの犯人は、最初の見込みどおり、江副千晴だったんじゃないでしょうか」
寺本が言い、壮の返答を求めるように彼の顔に視線を当てた。
だが、壮は何も言わず、また首をひねっただけだった。
それから十五分ほどして、美緒たちはTホテルを出た。
勝は警視庁へ戻るからと歩いて帰って行き、美緒と壮は、東京駅まで寺本たちと一緒に行って、別れた。
中央線の快速電車に乗り換え、西荻窪まで行った。
壮のアパートは高円寺だが、美緒を送ってくれたのである。
壮が突然「考える人」になったのは、あと二、三百メートルで美緒の家の木戸というところだった。
住宅街の静かな道である。
腕を組んで歩いていると、不意に美緒は後ろへ引っぱられたのだ。
相棒《あいぼう》が予告なしに足を止めたからだった。
どうしたの? と聞く前に、美緒には分かった。
Tホテルを出てから、壮はずっと上《うわ》の空《そら》の状態がつづいていた。そのため、美緒は、今夜は予感していたのである。
あまり多くはないが、「考える人」になるのを予感できるときは、たまにある。
ただ、いつ「考える人」から覚めるかだけは、まったく予想できなかった。五分後になるか、一時間後になるか。
しかし、美緒はたいてい覚めるまで辛抱強く待つ。通行人にジロジロ見られようと、寒くて凍《こご》えそうになろうと。
その点、今夜は暑くも(もちろん寒くも)ないし、通る車も人もほとんどないので、良い条件のほうだった。あと三分遅く、木戸をくぐって我が家の庭へ入ってからだったら……と思わないではないが、これだけはコントロールできないので、仕方がない。
美緒は何度も時計を見ながら、壮の覚めるのを待った。
時計を見たのは、別にいらいらしていたからではない。
壮が解いたにちがいない事件の構図を、一刻も早く聞きたかったのだ。
保津美はいったい、誰に、なぜ殺されたのだろうか。
彼女が船戸を殺した直後に殺されたのは、偶然だったのだろうか。
千晴が、保津美殺しの犯人だったのだろうか。
壮が覚めたのは、二十分ほどしてからだった。
「あ、美緒さん、どうしたんですか? 行きましょう」
美緒も自分なりにいろいろ考えていると、不意に呼ばれたのである。
待っていてやったのに、「どうしたんですか?」はないと思うが、この宇宙人、自分が「考える人」になっていた間のことは記憶にないらしいので、仕方がない。
美緒は胸の動機を感じながら、「ええ、ええ、行きましょう」と合わせ、
「謎が解けたんでしょう?」
と、相棒の目を覗き込んだ。
「解けました……というか、たぶん解けたと思います」
彼が答えた。
「事件は、どういう構図だったの? 下村さんを殺したのは誰だったの?」
「答えは、もう少し待ってください。僕の考えが正しいかどうか、明日、寺本刑事さんたちと一緒に津軽へ行き、確かめてきます。美緒さんも、それまでに考えてみてください」
この宇宙人の一番腹の立つところは、ここである。美緒の頭をためすようなまねをするのだ。
「…………」
美緒は口をとがらせた。
すると、壮が、
「ヒントをあげます。中丸氏と江副さんは、二年前、津軽を三日間ほどドライブして回った、という寺本刑事さんの話でしたね」
と、美緒のまるで予想もしなかった話を始めた。「つまり、江副さんは、津軽の地理についてかなりよく知っていただろう、というわけです。いえ、たとえ前に津軽を訪れていなくても、下村さんとあんな『再会ゲーム』をすることになり、自分が『北斗星5号』ルートに決まったら、どうしたら一番早く金木の斜陽館まで行けるか、当然調べたはずです。
ところが、江副さんは、函館で『北斗星5号』を降りると、『はつかり10号』に乗り、青森まで来ているわけです。いえ、そう言っているわけです。青森着の二十五分前に『はつかり10号』が停車する蟹田で降りれば、その分ぐらい早く斜陽館へ着けるのに、地理がよく分からなかったし不安だったから、と言って。
これは、なぜでしょう? 彼女はなぜ蟹田で降りなかったんでしょう? なぜ青森まで行ったんでしょう?」
「分からないわ」
美緒は首を振った。「だいたい、そんなお話、どうして事件に関係あるの? 江副さんが蟹田で『はつかり10号』を降りようと、青森で降りようと、関係ないじゃない」
「いえ、あるんです」
「……?」
「つまり、江副さんが本当に『はつかり10号』に乗って函館から来たのなら、当然、蟹田で降りたはずだった。ところが、彼女は降りなかった。ということは、彼女は、『はつかり10号』になど乗っていなかった。乗っていなければ、青森でだって降りるわけにゆかない。ところが、彼女は、『はつかり10号』が青森に着いた頃、青森駅前からタクシーに乗り、金木の斜陽館へ向かっている――。
いったい、彼女は何に乗って青森まで来たんでしょう?
これがヒントです」
「も、もしかしたら、あの朝、私たちが弘前で降りた『あけぼの1号』で……!」
「そうです。僕の考えが当たっていれば、そのはずです」
壮が答えた。
だが、美緒にはまだ、何がどうなっているのか、まるで見当がつかなかった。
7
九月四日(火曜日)の早朝――。
前夜青森から上京した寺本と宮城、札幌から上京した谷と岩佐、四人の刑事は、警視庁の協力を得て、桜田門から覆面パトカー二台に分乗し、都下府中市にある江副千晴のマンションへ向かった。
首都高速四号線、中央自動車道と通って、国立府中インターチェンジで高速道路から降り、府中刑務所の近くに建つマンションの前に着いたのは、だいたい予定どおり七時四、五分過ぎ。
新しくて小綺麗《こぎれい》だが、マンションとは名ばかりの三階建てアパートだ。
岩佐と宮城は車に残り、前の車からは谷が、後ろの車からは寺本だけが降り、階段を上って、二階の千晴の部屋を訪ねた。
出勤前の時刻を選んだので、当然いるだろう。
そう思いながら、寺本がインターホンのチャイムを鳴らすと、
「はい」
と、すぐに千晴の返事があった。
「北海道警の谷と、青森県警の寺本です」
寺本が言うや、ハッと息を呑んだような気配が伝わってきた。
短い沈黙。
ドアが開けられ、青ざめた千晴の顔が覗いた。
「江副千晴――、船戸研一ならびに下村保津美の殺害容疑で逮捕状が出ている。札幌中央署まで同行願う」
谷が逮捕状を示して、言った。
千晴の取調べは、北海道警と青森県警の合同で行なわれることになっていた。が、船戸殺しが先に起きたため、千晴の身柄をまず札幌へ移送する――というのが、両警察本部の了解事項だった。
「わ、私が、また、なんで……?」
千晴が言葉にならない、喘ぐような声で言った。
顔から血の気が引き、目が落ちつきなく動いていた。気が動転し、どう対応していいのか分からない感じだった。
計画が完全に成功したと思っていたところへ突然逮捕状を突きつけられたのだから、当然だろう。
目の前の千晴を見ていると、寺本は、前に北津軽署で泣いたり喚《わめ》いたりしたのは演技だったと分かるような気がした。
どこがどうと説明はできないが、いま思い起こすと、あのときの彼女の悲嘆、抗議、沈黙には、どこか計算された流れのようなものがあったからだ。
「言いたい件があったら、取調べのときに言ったらいい」
谷が冷たく突き放した。
今度こそ、眼前で怯えている女は計画的に二人の人間を殺害した凶悪犯に間違いない、という確信があるからだろう。
「でも、私は何もしていない。誰も殺してなんかいない。私は船戸なんていう人は知らなかった。あれは、下村さんが私の名をつかって……」
千晴がヒステリックに叫び始めた。
「もう、誤魔化《ごまか》せんのだよ」
谷がそれを遮《さえぎ》った。
「誤魔化してなんかいないわ! 下村さんが犯人よ。彼女が私に罪を着せようとして私を『北斗星5号』に乗せたのよ。あんなゲームなんか言い出して」
「ゲームはおまえが言い出した、と分かっている。切符を用意したのも、おまえだ。中丸から聞いた。中丸が下村保津美から聞いていたんだ」
谷が少しは相手をする気になったらしく、言った。
「そんなの出鱈目だわ! あの男が嘘をついているんだわ。警察は、あんなヤクザの話を信用するの? あのヤクザこそ保津美を殺した犯人よ!」
「なぜそう思うのかね?」
「だって、あのヤクザ、保津美の殺された晩に保津美と会って……」
千晴が途中でしまったという顔をし、言葉を呑んだ。
一方の谷の横顔には、かすかに笑みに似た色が浮かんだ。
「ほう、おまえは、どうしてそれを知っているのかね? おかしいじゃないか。それを知っているのは中丸と保津美の二人だけのはずなのに」
「…………」
「あの晩、保津美が中丸と別れてから、おまえは彼女と会ったというわけだな? つまり、そのときまで彼女は生きていた」
「違うわ。前に聞いたのよ。その前に、保津美が私に漏らしたのよ」
「なるほど、そうかもしれん。それで、このとき保津美を殺せば、疑いが中丸に向くと考えたか」
「私は殺していない。友達の保津美を殺すわけがないわ。動機がないわ」
「いくつかの動機があっただろうが、最大の動機は船戸殺しだ。保津美が生きているかぎり、彼女に船戸殺しの罪をかぶせるわけにはいかんからな」
「逆でしょう。私が保津美に罪をかぶせられたんでしょう。警察は、そんなことも分からないの! 保津美の車が横手駅の近くにあったというのが、その何よりの証拠じゃない。保津美が仙台駅に停車中の『北斗星5号』で船戸という人を殺し、『あけぼの1号』へ戻ったんでしょう。他に、保津美の車がそんなところにあった理由なんか説明できるの?」
「もちろん、できる」
「…………」
「先月二十日の晩、ルナーに乗ったのはおまえだ。保津美のルナーは、おまえが前もって彼女から借りて仙台へ持って行っておき、あの晩、船戸を殺した後――もちろん、おまえは『北斗星5号』が仙台駅に着く前に殺したわけだが――、仙台から横手へ乗って行ったんだ」
これらはすべて壮の推理であり、寺本は壮と一緒に函館、青森、横手と彼の推理の裏づけを取って歩いたのだった。
「私が? ばかばかしい」
言葉とは裏腹に、千晴の瞳の奥には怯えの色が濃く漂っていた。
「ばかばかしいかね?」
「ばかばかしいわ。私に、どうしてそんなことができるの? 函館まで『北斗星5号』に乗って行った私に、体が二つないかぎり、そんなことできるわけがないでしょう」
「函館まで『北斗星5号』に乗って行った、というのは、おまえがそう主張しているにすぎん」
「証拠があるわ。あの日、私は函館で『北斗星5号』を降り、『はつかり10号』で青森まで戻って、青森からタクシーで金木の斜陽館へ行ったのよ。『はつかり10号』の車掌さんや青森駅の構内タクシーを調べれば分かるわ」
「おまえを金木まで乗せた青森駅のタクシーは、確かに見つかった。だが、函館駅の駅員も、『はつかり10号』の車掌もおまえに記憶がなかった」
駅員や車掌に千晴の記憶がないからといって、〈千晴がそこにいなかった〉証拠にはならない。それも、十日も経ってからの調べでは、傍証としても弱い。が、谷はその点は触れなかった。
寺本や谷たちは、事件の直後に、千晴が津軽へ来たルートをきちんとたどるべきだったのである。彼女の言葉の裏を取るべきだったのだ。ところが、千晴が、まるで自分を疑えとばかりに、船戸の乗っていた「北斗星5号」で函館まで行ったと認めたため、青森駅のタクシー以外には当たらなかった。千晴が進んで自分に不利になる嘘をつくわけがない――そう判断したからだ。だが、その嘘こそ、保津美のルナーがいずれ横手で見つかることを計算した、巧妙な伏線だったのである。一見アリバイをなくしておいて、アリバイを作る、いわば〈逆アリバイ〉ともいうべき安全策だったのである。
それを見破ったのも、壮であった。
千晴が「はつかり10号」に乗っていながら、青森の一つ手前――青森より二十五分早い蟹田――で降りなかったのはおかしい。津軽の地理が分からなかったというが、それは言い訳くさい。としたら、彼女はなぜ蟹田で降りなかったのか、なぜ青森まで行ったのか?
壮はそう考えたようだ。
すると、千晴は降りなかったのではなく、降りられなかったのではないか、という一つの答えにゆきついた。
あとはトントン拍子だったらしい。
では、なぜ降りられなかったのか?
乗っていなかったからではないか。
しかし、千晴は、「はつかり10号」が青森に着いた九時三十七分頃、確かに青森駅前からタクシーに乗っている。これはなぜか?
もちろん、別の列車で青森へ来たにちがいない。
ここで、壮は「あけぼの1号」を思い浮かべ、後で時刻表を調べた。すると、
あけぼの1号 青森着 九時七分
はつかり10号 蟹田着 九時十二分
同 青森着 九時三十七分
と、載っていた。
「あけぼの1号」で九時七分に青森に着いた場合、「はつかり10号」が蟹田に着く九時十二分まで、五分しかない。わずか五分では、青森から蟹田へ行けない。が、「はつかり10号」が青森へやってくる九時三十七分までなら、三十分待っていればいい。
そのため、千晴は、蟹田で「はつかり10号」を降りてタクシーに乗ったように見せることはできず、青森からタクシーに乗らざるをえなかった。
壮は、そう結論したのだった。
つまり、蟹田と青森の差の二十五分間≠ノこそ、千晴の逆アリバイを見破るカギが隠されていたわけである。
「函館駅の駅員や『はつかり10号』の車掌が、私を覚えていないからといって、私がそこにいなかったという証拠にはならないわ」
当然のように、千晴は谷の論理の弱点を突いてきた。
「確かにそうだ」
谷は認めた。
「それだったら……」
「待て」
谷が遮った。「おまえは、自分の体は二つないと言ったな。だったら、おまえが『北斗星5号』に乗っていたと言っている時間、別の場所におまえがいたという証拠が出てきたらどうする?」
「私が別の場所になんかいるわけないわ。そんな証拠なんて、あるわけがないわ。私に似た人を見たなんていっても、証拠になんかならないわよ。人違いに決まっているんだから」
「二十一日の早朝、『あけぼの1号』が横手駅に着く直前、改札口でおまえを見た駅員は、写真を見せても、確かにおまえか保津美か分からない、と言った。おまえたちは背恰好が似ているうえ、おまえは保津美のサングラスに似たサングラスで素顔を隠し、できるだけ駅員に顔を見られないように注意していたようだからな。
だが、駅員の見た女は、布製の黒い大きなスポーツバッグを持っていた。
それが、女は保津美でなく、おまえだったという一つの証拠だ。おまえと保津美のバッグは色も大きさも似ていたようだが、保津美なら、『あけぼの1号』から『北斗星5号』へ行き、また『あけぼの1号』へ戻るのに、殺人に邪魔な荷物など持って歩くわけがないからだ。
一方、『北斗星5号』で殺人を犯し、そこからやってきただけのおまえは、多少目立っても、荷物を持って来ざるをえなかった――」
「そんなの、証拠にならないわ。私だという証拠になんかならないわ。私でも保津美でもなかったのかもしれないし」
「しかし、その女の持っていたバッグがおまえのバッグなら、どうだ?」
谷が切り札を出した。
「……!」
多少血の色が戻りつつあった千晴の顔が、再び白く変わった。
「思い出したかね?」
「…………」
「おまえは、あの朝、改札口を抜けて跨線橋を渡り、三番線ホームへ行ってから、まだ開いていない売店の陰に隠れるようにして、『あけぼの1号』の到着を待っていた。列車がホームに入ってくると、下に置いてあったバッグを無造作に取り上げた。そのとき、店が開いていれば積まれた荷物で隠れてしまう部分に五ミリほど出ていた釘にバッグを引っかけ、おまえは思わず『あっ!』と小さな声を漏《も》らしたはずだ。
それを、『あけぼの1号』で降りる孫を迎えに出ていた近くの商店主……六十年配の男が見ていただろう。その男の証言から、まだ釘に残っていたバッグの繊維を採取できたんだよ。
もちろん、これから、おまえのバッグを押収し、その傷や繊維と照合することになるわけだがね」
「…………」
「どうやら少し喋りすぎたようだ。それじゃ、そろそろ一緒に来てもらおうか」
谷の言葉を待って、寺本は一歩進み出た。
今や反論の言葉を失っている女に、手錠を掛けた。
エピローグ
金木や小泊は北津軽郡なのに、それより北にある竜飛はなぜか東津軽郡である。
東津軽郡|三厩《みんまや》村
村名は義経《ぎけい》伝説に由来する。
文治五年(一一八九年)、平泉・衣川《ころもがわ》の高館で破れた源義経《よしつね》は、そのとき自刃したわけでなくこの地に逃れ、蝦夷《えぞ》地(北海道)へ渡ろうとした。
しかし、津軽海峡は波荒く、渡れない。
そこで、義経は、岸辺にそびえる奇岩・厩石《まやいし》に端座し、三日三晩、観世音菩薩に祈った。
すると、夢に白髪の老人が現われ、三頭の竜馬を与えるからそれに乗って渡れ、と言って、消えた。
義経は感謝し、岩穴を覗《のぞ》いた。
老人の言葉どおりだった。
三つの岩穴に三頭の馬がおり、海面も鏡のように静かになっていた。
こうして、義経主従はその馬に乗って、無事に蝦夷地へ逃れた。
これは、数ある義経伝説の一つだが、この三頭の馬がいた岩屋から「三馬屋」になり、三厩になったというのが、伝えられている村名由来らしい。
そうした由来はともかく、九月十六日(日曜日)、美緒は壮とともに三厩へ来ていた。
寺本のぜひに……という誘いに乗り、この前は事件に巻き込まれて中断した「北津軽の旅」のつづきをしているのである。
一昨夜、上野で「あけぼの1号」に乗り、昨土曜日(敬老の日)の朝、弘前に着いた。すると、寺本の車が待っていて、彼の案内で五所川原、金木、十三湖、小泊ともう一度ざっと巡り、昨夜は竜飛へ来て泊まった。そして、今朝、竜飛からバスに乗り、三厩駅前の停留所に着いたところであった。
ところで、二つの殺人事件は、一週間ほど前に全面的な解決を見ていた。逮捕された後も、千晴はしばらく犯行を否認していたらしい。が、壮の推理と寺本、谷たちの裏づけ捜査に抗しきれず、遂に船戸と保津美の二人を殺害した事実を自供したのである。
それを、美緒たちは、寺本から電話で報告を受け、今度の旅をしながら更に詳しく聞いた。
彼の話によると、千晴による連続殺人事件の全貌は次のようなものであった。
事件のそもそもの因《もと》は、千晴と中丸将幸との関係に始まる。
千晴は、名古屋の高校を卒業して上京すると、デパートR屋に勤めるかたわら服飾デザインの専門学校へ通い、いつかフランスへ行ってデザインの勉強をしたいという夢を抱いていた。
それには金が必要だった。旅行に行くわけではない。二、三年、生活の心配をしないで勉強に打ち込めるようにするには、一千万円は必要である。一千万という数字にそれほど根拠があったわけではないが、彼女はそう考えた。
だが、安サラリーマンの父親に、そんな大金は出してもらえない。としたら、それは千晴が自分で準備しなければならなかった。
地道に働く大多数の人々にとって、ましてや高校を卒業したばかりの女性にとって、一千万円は大金である。易々《やすやす》と手にできる金ではない。最近の若いOLは金持ちだと言われているが、ふだん意外につましい生活をして蓄え、数十万円の金を外国旅行などにパッと使うからそう言われているだけで、一千万円が大金である点は変わりがない。
千晴は、その一千万円を五年間で蓄めようと計画を立てた。が、初めの二年間は夜、学校へ通うためにアルバイトはあまりできず、手取りの年収が二百万円前後にしかならない彼女にとって、それは想像以上に大変なことだった。北烏山《からすやま》のぼろアパートの狭い部屋に住み、遊びたいのを我慢し、買いたい衣服を買わず、食費をできるかぎり切りつめた。といって、若い女性の見栄があるから、表面はそう惨めったらしくできない。そうなると、睡眠時間をけずって、少しでも多く働く以外になかった。
専門学校の学費だけは父親が出してくれたし、学校を卒業するとアルバイト時間も増えたので、それでも、五年間|経《た》つと、かなり目標額に近づいた。計画を一年ちょっと延期すれば、何とかなりそうになった。
千晴が中丸将幸と出会ったのは、そんなときだった。
千晴がR屋に内緒でアルバイト・ホステスをしていた銀座のクラブへ、中丸が友人と一緒に来たのである。
中丸は長身の美男子で、しかも如才なかった。メルセデス・ベンツを乗り回す、独身の「青年実業家」であった。店で会った翌日、彼は千晴に電話してきて、千晴を一目見て好きになってしまったと言い、デートに誘った。
千晴は警戒した。ただの遊びだろう、と思ったのである。が、そう思いながらも、彼の魅力に勝てず、誘いを断わることができなかった。
中丸は、千晴を超一流のレストランへ案内し、彼女が初めて口にするようなフランス料理をご馳走《ちそう》してくれた。その後で、彼女のアルバイトをしている店とはまるで格が違う会員制の高級クラブへ連れて行き、帰りは千歳烏山《ちとせからすやま》駅までベンツで送ってくれた。中丸は家まで送ると言ったのだが、ぼろアパートを見られるのが嫌だったので、千晴が駅までにしてもらったのである。
彼女が降りようとすると、中丸が抱き寄せてキスをした。これは決して遊びじゃない、自分は本気できみが好きになってしまったのだ、と囁《ささや》いた。
それまでも誘惑は少なくなかった。が、千晴は、夢の実現のためには決してそれに乗ってはならない、と自分に言いきかせてきた。男は甘い蜜であり、一度味わうと、夢などどうでもよくなってしまう、と本能的に警戒していたのかもしれない。少なくとも自分はそうなるのではないか、と。
そして、実際、そうなったのだった。
男に対する千晴の免疫のなさ、中丸のプレーボーイとしての手腕。これらが最大の原因だろうか。千晴は三度目のデートで中丸と体の交わりを結ぶと、彼の存在は、この五年間苦労に苦労を重ねて実現を望んできた「夢」よりも上位になってしまったのだった。
夢を忘れたわけではない。夢は夢として持ちつづけていた。これまでどおり、千晴はそのために働き、預金した。が、中丸との関係のためには、夢の実現が一、二年延びても構わない、そう思い始めた。
まず、彼女は、ぼろアパートから府中の小綺麗なマンションへ移った。彼とのデートのために高い衣服、アクセサリー、化粧品などを買った。彼がマンションへ来たいと言ったとき、家具や食器を買い揃えた。
その頃から、中丸は、資金ぐりに困っていると言っては、憂鬱《ゆううつ》そうな顔をするようになった。サラ金から一時しのぎに借りた金がふくらみ、このままでは自分は姿を消さなければならないかもしれない、と言った。そうしたら、千晴とも会えなくなる、と。
千晴が、夢の実現を一、二年から二、三年、二、三年から三、四年と延期するのに、そう時間はかからなかった。預金をおろし、三十万、五十万と中丸に渡したのは言うまでもない。
そして、若い娘としての多くの欲求、欲望を殺して蓄めた預金が底を突いたとき、千晴は夢をなくしただけでなく、中丸にも捨てられた。
彼からの誘いはなくなり、彼女が電話しても、いつも留守番電話が応対するようになった。
中丸には、吸い取れるだけ吸い取ってしまった千晴など用はない。そのときは、半年ほど前に千晴が紹介した下村保津美に、すでに乗り換えてしまっていたのである。
この事実を保津美から聞かされたとき、千晴は初め冗談かと思った。そうじゃないと分かった瞬間、頭から血が引き、何も見えなくなった。中丸に対してよりも、勝ち誇ったように話す目の前の保津美に、激しい憎しみを感じた。もしナイフでも持っていたら、その場で刺し殺していたかもしれない。
その後、千晴は中丸のマンションへ押しかけた。泣き喚《わめ》いた。が、中丸は動じなかった。黙ってブランディーを注いでよこし、そのグラスを彼女が投げつけても、何も言わなかった。彼女が静かになるまで煙草を吸って待っていた。
千晴はだんだん冷静になり、自分と別れるなら金を返せ、と迫った。
しかし、中丸は、金など借りた覚えはないという。
(苦労して蓄めた一千万円は、みんな、あんたのために使ったんじゃないか)
(そんなことは知らない)
(直接渡した金だけでも返して)
(もらった金を、なぜ返さなければならないのか。この金を使って、と言われ、もらった金はある。が、自分は一度も借りた覚えはない。それでも、返せというのなら、いつ、いくら借りたのか証文を見せてくれ)
中丸の言うとおりだった。千晴は、いつか返してくれるだろうと勝手に期待していただけで、証文などあるわけがなかった。
千晴は血が出るほど唇を噛んだ。
悔しかった。
悔しかったが、どうする術《すべ》もない。
いまに必ず仕返しをしてやる。そう思いながら、彼の部屋を出た。
自分のマンションへ帰り、少し落ちつくと、今度は絶望感に襲われた。
夢に向かって再び五、六年努力し、辛抱を重ねる意欲、力は、もう残っていなかったからだ。
千晴はその晩、手首を切って自殺を図った。だが、傷が浅かったうえ、途中で怖くなって救急車を呼んだため、死ねなかった。
その後、千晴は保津美に、自分と中丸との経緯をすべて話し、あなたも騙されているのだから彼と手を切ったほうがよい、と忠告した。
忠告といっても、保津美のためを思ったわけではない。保津美も自分のように金を吸い取られて捨てられたらいいと思いながら、一方で中丸を許せなかったからだ。
しかし、保津美は――千晴が中丸に夢中だったとき他人に同じ忠告をされてもたぶん耳を貸さなかっただろうように――千晴の忠告になど、耳を貸さなかった。千晴が自分に捨てられた腹いせをしているのだ、と中丸に吹き込まれ、そっちを信じた。そして、いっそうこれ見よがしに、中丸とどうした、こうした、と千晴に話すようになった。
千晴と保津美は、高校時代から妙な関係だと周囲に見られていた。心を許し合った友達というのでは決してない。互いに張り合い、内心、相手の失敗や不幸を望んでさえいた。それでいながら、なぜか、たいてい一緒に行動してきた。これは、東京へ出てきてからも変わらない。千晴がもう付き合いたくないと思っていると保津美が連絡してきたし、しばらく保津美が何も言ってこないと、今度は何となく千晴のほうが会いたくなり、電話をかけた。
こうした関係は、千晴が中丸に捨てられた後も、表面上は変わらなかった。というより、保津美のほうは、まったくこれまでどおりだったのかもしれない。だが、千晴の心の内は決定的に変わったというべきだろう。千晴にとって、保津美はただのライバルではなくなっていたからだ。強い憎しみの対象になっていたからだ。以前は、保津美の失敗や不幸を望んだといっても、自分が彼女より優位に立ちたいがためだった。彼女の死まで望んだわけではない。それが、このときの千晴は、保津美の存在そのものを憎み、呪うようになっていた。特に、保津美が中丸との関係を自慢気に話すのを聞くときは、そうだった。表面は笑い、冗談を言いながらも、千晴は密かに保津美に対する殺意を醸成《じようせい》させていたのだった。
中丸に金を騙し取られて捨てられ、千晴が殺人者への第一歩を踏み出したとすれば、次の大きなステップは、去年の八月、彼女が船戸研一と出会ったことだった。
それより二月《ふたつき》前の六月、千晴は、太宰治ファンの保津美に誘われて禅林寺へ太宰の墓参りに行き、木之下和夫と知り合った。その木之下に八月初めの夕刻、池袋駅構内で偶然再会し、彼と一緒にいた船戸研一を紹介されたのである。
ところで、禅林寺で木之下と出会ったとき、保津美の提案で、千晴と保津美は「入れ替わりゲーム」をしていた。互いに入れ替わって相手を演じ、後でその出来ぐあいを批評し合い、楽しもうというゲームだ。千晴たちは前にも何度か同じゲームをしたことがあり、実はそのために、墓の場所を尋ねるふりをして木之下に話しかけたのである。
というわけで、木之下にとっての千晴は、「太宰治の熱烈なファンである証券レディー・下村保津美」だった。船戸にもそう紹介されたのだった。
千晴が訂正しなかったのは、どうせその場だけの出会いだろうと思ったし、ゲームの説明をし、木之下に嘘をついた言い訳をするのが面倒だったからである。
ただ、そのとき、船戸にどこに住んでいるのかと聞かれ、千晴は軽い気持ちで府中市だと答えた。もちろん、自分のマンションのあるところだ。禅林寺で木之下に会ったとき、自分と保津美の住所については触れていなかったので、どっちでもいいと思ったのである。
これが、船戸と再会するカギになった。一ヵ月ほどした夜九時過ぎ、千晴が京王線の府中駅で降りると、改札口の近くに船戸が立っていたのだ。彼は初め、近くまで来て帰るところだと言い、偶然の再会を装った。が、その後、スナックへ行って話すうちに、実は千晴に会いたくて何度も府中駅で待っていたのだ、と告白した。
そこで、千晴もゲームの説明をして謝り、本名を名乗った。
ただ、船戸は、千晴がゲームの話をしても、彼女が太宰ファンだという点だけはゲームでないと思い込んでいた。同じ太宰ファン同士≠喜び、酔ってくると、夢中で太宰と彼の作品について論じた。そのため、千晴は隠したというより、自分は保津美の影響でいくつかの作品を読んでいるにすぎないという事実を言いそびれた。
これを機に千晴と船戸の交際が始まったが、船戸が小栗沢医師に、千晴を「同好の士」と言い、一方で「太宰に関係して腑《ふ》に落ちない点がある」と言ったのは、こうした事情のためだったらしい。千晴はその後、船戸の話に合わせるために太宰に関連した本を数冊読んだものの、やはり俄《にわ》か勉強の付け焼刃、彼に不審を覚えさせたのであろう。
それはともかく、千晴の殺人者への第三のステップは、船戸と知り合って二ヵ月と経たないうちに起きた、木之下和夫の交通事故死によって用意された。
それでも、船戸を好きになっていたら、千晴の運命は違っていたはずである。彼と結婚し、平凡だが幸せな未来が待っていたかもしれない。だが、千晴は、船戸の求めるまま四度、五度と会っても、中丸に対して感じたような焦《こ》がれるような思いは覚えなかった。決して嫌いなタイプではなかったものの、相手が自分に夢中になっていると感じれば感じるほど、千晴の気持ちは逆に彼とこのまま付き合ってゆくのが苦痛になりだした。
フランスへ勉強に行き、ファッションデザイナーになる夢を、千晴は八分どおり諦《あきら》めていたが、まだ二分ほどは諦めきれずに残っていた。完全にはその夢を捨てる踏ん切りがつかずにいた。千晴にとって、船戸の存在は、その夢の残り≠フ上位になることもなかったわけである。というより、船戸という対象に不満を感じ始めるにしたがい、千晴の中で再び「夢」がふくらみ始めた。このまま諦め、平凡な生活に入ってしまうのが堪えられないような気がしてきた。もう一度やりなおすことができないだろうか。彼女はそう思った。といって、千晴はすでに二十五歳。これから五年かけてフランス行きの資金を準備するだけのエネルギーはなかったし、たとえあったとしても、それでは遅すぎた。
千晴は、一時は忘れていた焦《あせ》りを覚えた。同時に、自分の夢を打ち砕いた中丸に対して怒りを新たにした。苦労して預金した金を彼に奪われさえしなかったら……と何度も悔んでいるとき、悪魔が彼女の耳に一つの方法を囁いた。
――中丸に騙し取られた金を、おまえも船戸から騙し取ったらいいではないか。
木之下が交通事故で死んだと船戸に聞いたのは、そんなときであった。
千晴はしばらく迷った末、「夢」を取る決意を固め、船戸に、自分と交際していることを誰か知っているか、とそれとなく尋ねた。
すると、船戸は、死んだ木之下以外の者には話していないので誰も知らない、と答えた。
このときの千晴は、船戸の殺害まで決意していたわけではない。だから、たとえ自分の名を船戸が誰かに話してあったところで、それほど気にしなかっただろう。ただ、彼から金を騙し取ったとき、結婚詐欺として訴えられるかもしれないので、できれば彼との交際の証人がいないほうがいい、と思ったのだ。
いずれにしても、船戸の性格からみて、千晴が彼と一緒にいるとき知人にでも会えば別だが、そうでなければ、彼女の名まで明かして二人の交際を友人や同僚に話す気遣いはあまりなさそうだった。
この千晴の予測は当たった。
自分はある厄介な問題を一つ抱えている。それを解決してからでないと、あなたとの結婚に踏み切れない。それまでは、交際はお互いの家族にも知らせないで、二人だけのものにしておきたい。
千晴がそんなふうに言い、それとなく牽制したこともあり、船戸は千晴の名を、姓名判断をしている藤島沙緒里以外の者には明かさなかったのだった。
それはさておき、船戸は、千晴の抱えている厄介な問題とは何か、と非常に気にした。別の男との関係ではないか、と疑ったようだった。
千晴は、そうだともそうでもないとも答えず、彼の疑いのままにした。船戸はすでに彼女に夢中になっており、そうした男が千晴にいたとしても、彼女を諦めきれないだろうと読んでいたからだ。
千晴が話さないと、船戸はますます疑いをふくらませ、架空の男に嫉妬した。千晴がひとりで解決できないのなら、自分が男に会って談判してもいい、と言い出した。
千晴は、それぐらいで引っ込むような相手ではないのだ、と初めて船戸の疑いが事実であるような言い方をし、暗に金が必要だという意味を仄《ほの》めかした。
船戸はいくら必要なのか、と聞いた。
千晴は、あなたに迷惑はかけられないと言いながら、船戸はどれぐらい持っていて、いくらまでなら出すだろうか、と頭の中で計算した。
「もし二百万円ぐらいまでなら、僕が出してやってもいいよ」
船戸のほうから言った。
千晴は五百万円と言おうとしていたので、相手が意外に渋いのを感じた。
「ありがとう。でも、いいわ、あなたのその気持ちだけで。私が自分でなんとかする」
千晴は答えた。
「二百万円じゃ足りないの?」
「え、ええ……」
「じゃ、三百万、何とか都合するよ」
第一段階としては、手の打ちどころのようだった。
千晴は、とてもあなたからそんなお金は借りられないと口では言いながら、次の日、船戸から三百万円の小切手を受け取った。
中丸というお手本があるので、もちろん借用書の類いは書かなかったし、船戸も要求しなかった。
三百万円は偽名の預金口座に入れ、その四ヵ月後と六ヵ月後、千晴は更に二百万円ずつ船戸から引き出した。相手の男が約束を破り、なかなか手を切ってくれないのだと言って。
三回目のときは、さすがの船戸も不審に感じたようだった。男と会わせてくれというのを、千晴はこれで絶対に最後にさせるからと言って、やっと切り抜けた。
これが今年の七月初めだった。
千晴は、これまでだと思った。
目標の一千万円には満たないが、七百万円あれば、自分の預金も多少あるので何とかなる。すぐにフランスへ行くかどうかはともかく、勤めを辞めて引っ越し、船戸の前から消える潮時だった。
この夏にはどうしても一緒に札幌へ行って自分の父と姉に会って欲しい、と彼が言い出したことも彼女にそう思わせた。
ところが、ここに至って、自分の考えていたようにはゆかない、と彼女は思い知らされた。たとえ船戸が自分の居所を突き止め、裁判に訴えても、借用書がないかぎりどうにもならないだろうと考えていたのは、甘かったのである。
「もし、きみが僕を裏切ったら、僕はどんな方法を使ってでも、何年かかってでも復讐するからね。逃げたら、地球の裏側までだって追いかけて行って必ず捜し出し、きみを殺して僕も死ぬからね。これは嘘じゃないよ」
船戸が千晴の心の内を見抜いたように、そう言ったからだ。
「私があなたを裏切るわけないじゃない」
千晴は笑いながら応じたが、彼の冷たく刺すような目を見て、ぞっとした。
それは、彼の言葉が本気であるのを示していた。
「僕は、それぐらいきみを真剣に愛しているということなんだ。だから、きみに裏切られたら、生きてなんかいたくない。ただ、死ぬときはきみも一緒だ。僕は絶対にひとりじゃ死なない」
千晴の胸に殺意が生まれたのは、その夜だった。船戸が生きているかぎり、自分にはもう二つの選択の自由しかないのが分かったからだ。彼と結婚するか、さもなければ、自分を殺そうと追いかける彼から逃げ回るか。
しかし、彼と結婚する気にはとてもなれない。逃げ回るのも難しかった。一宮の実家の住所は知られている。所在をくらましとおすのは不可能に近い。フランスまでだって、彼は本当に追いかけてくるだろう。
としたら、あと、方法は一つ。
自分が殺される前に彼を殺す以外にない。これは一種の正当防衛だろう。
そう考えたとき、千晴は、自分と船戸の交際を知ってる者がいないのは幸運だ、と思った。
が、彼女はすぐに、〈いや〉と、そうではない事実に気づいた。
船戸が六本木のクラブのママに姓名判断してもらった、と話していたのを思い出したのだ。そのとき、彼は千晴の名も言ったという。
考えてみれば、船戸が他にも誰かに千晴の名を明かしている可能性は十分にあった。
千晴が船戸と一緒にいるとき、彼の知人に会ったことはない。彼は父親と姉にもまだ千晴の名を知らせていないというし、誰かに打ち明けたといった話も聞かない。とはいえ、彼が話していながら忘れていないともかぎらない。
そう考えると、船戸を殺した場合、「江副千晴」という名だけは浮かび上がると覚悟しておいたほうがよかった。悪戯電話に悩まされて電話帳には氏名を掲載していないが、「江副千晴」という名が明らかになれば、いずれ警察に突き止められると考えたほうがよい。それを前提にして、容疑を逃れる道を考えたほうが安全だった。
その前提のもとに具体的な殺人計画を練り始めた千晴の頭に浮かんだのは、船戸の交際相手として「江副千晴」の名は漏《も》れていても、自分の顔を知っている者は死んだ木之下和夫しかいない、という事実だった。
更に、木之下の連想から千晴の脳裏によみがえったのは、保津美との「入れ替わりゲーム」だった。
〈そうだ!〉
と、千晴は心のうちで声をあげた。
彼女と保津美の「入れ替わりゲーム」は前にもやっており、友人の益田みち子が知っている。木之下と会ったとき、自分と保津美が「入れ替わりゲーム」をしていたと言えば、益田みち子がその可能性を証言してくれるだろう。とすれば、木之下によって、保津美が「江副千晴」として船戸に紹介され、ずっとその名を詐称して船戸と交際しつづけていた――そのように見せられないか。
できそうだった。
船戸の預金が今年になってから七百万円減っている事実も、千晴より、保津美が騙し取ったとしたほうがうまく説明がつく。中丸に流していたように見せるのだ。
その結果、出てくる警察の判断は、
〈保津美が友人である千晴の名を使い、船戸を騙して金を引き出していたが、結婚を迫られ、どうしようもなくなって殺害した〉
そうなるはずである。
しかし、それで決着させるためには、まだ難問が一つ残っていた。
保津美を船戸殺しの犯人に仕立て上げるには、保津美に死んでもらわなければならない。その保津美の死をどうするか、だった。
保津美に対しては、時々殺してやりたいと思うときがあった。憎くて悔しくて、何度かは、近くに手頃な凶器があったら千晴はそうしていたかもしれない。いざ計画的に殺すとなると多少の抵抗はあるものの、だから、殺せないことはない。自分の安全を確保するためには仕方がない。ただ、問題は、彼女を殺した後だった。船戸殺しを逃れても、保津美を殺した罪で捕まってしまっては、元も子もなくなってしまう。その点をどうするか、だった。
船戸を殺して、逃げ切れないと観念し、自殺した――。そう見せかけられれば申し分ないが、難しいだろう。としたら、いかにして安全な逃げ道を確保したらいいか?
千晴の頭に妙案が閃いたのは、そのときだった。
今度は、中丸にその容疑をかぶせればいいではないか――。
保津美から金を吸い取っているにちがいない彼なら、
〈保津美を教唆して船戸を殺させ、そのあとで彼女の口を封じた〉
そうした筋書が成り立つ。
しかも、これが成功すれば、自分を騙して捨てた憎い中丸に対しても復讐することができるのだった。
千晴の計画の大筋は出来上がった。
残るは具体化である。
千晴は、経済的な事情から大学へ進学できなかったが、頭が良かった。
また、遊びを排して働いていた五年間、フランス語の勉強をしながら推理小説をよく読んだ。古本屋で一山いくらに近い文庫本を買ってきて読むのが、金のかからない彼女の唯一の趣味だったのだ。だから、内外の有名な推理小説のトリックは熟知していた。
それが、殺人計画の具体化に際して役立った。小説の中で使用されている方法を利用するわけにはゆかないが、考える参考にしたのである。
千晴の計画の出発点は、
〈船戸が、夏の帰省のときぜひ札幌へ一緒に行ってほしいと言っていたこと〉
〈前から、保津美と、この夏は津軽へ行こうと話していたこと〉
〈ヤクザな中丸が、八月二十日に函館へ墓参に行くのだけはなぜか毎年欠かさないこと〉
の三点だった。
これらの日程をうまく重ね、「北斗星5号」で船戸を殺してその罪を保津美に着せ、その保津美を中丸が殺したように見せる――これが計画の骨子である。
三つの日程を重ねるのは、さほど難しくなかった。千晴が、船戸と保津美に、中丸の函館行きに合わせた日程以外は都合が悪い、と主張すればよかったのだから。
そして、船戸が「北斗星5号」の二人用個室の切符を確保し、千晴が自分と保津美用に「北斗星5号」と「あけぼの1号」の切符を用意した段階で、千晴は保津美に、〈中丸と二年前津軽をドライブした〉と話したのである。
保津美に、中丸とのドライブについて話せば、彼女は必ず千晴に嫉妬するに決まっていた。嫉妬して、だいたい八、九割の確率で――こっちは必ずとは言えないので、予想が外れたら計画を練りなおす以外にないが――中丸の函館からの帰り、自分も津軽のどこかで会いたいと彼に強く求め、後で千晴に自慢するのが予想できたからだ。
この予想が当たったのは、保津美と細かい行動予定について打ち合わせたとき、判明した。斜陽館で再会してからどこかで別行動するときがあるか、と水を向けると、保津美が、
「そうね、今のところ、小泊の民宿に泊まる二十一日の晩、夕御飯の後で一時間ほどひとりで散歩に出たいだけね」
と、いかにも意味ありげに言ったのだ。
これで、保津美殺しの予定が決まった。
ところで、これより前、千晴は、「北斗星5号」と「あけぼの1号」の二つのルートを使ってどちらが早く斜陽館へ着くか、というゲームを保津美に持ちかけ(刑事に保津美が言い出したと言ったのは嘘である)、こういう遊びの好きな保津美が二つ返事で乗ってきていた。
千晴の初めの計画では、保津美を「北斗星5号」で函館まで行かせ、自分はずっと「あけぼの1号」に乗っていたように見せる方法≠採るつもりだった。
つまり、千晴は、
〈北斗星5号(上野〜大宮)→京浜東北線(大宮〜上野)→あけぼの1号(上野〜大宮)→やまびこ129号(大宮〜仙台)→北斗星5号(仙台駅)→保津美のルナー(仙台〜横手)→あけぼの1号(横手〜弘前)〉
と移動して、上野・大宮間の「北斗星5号」の中で酒と睡眠薬を与えておいた船戸を、「北斗星5号」が仙台駅に停車している六分間に殺害し、「北斗星5号」にずっと乗っている保津美に疑いが向くようにするつもりだった。
ところが、この方法は、話し合いによって保津美に「北斗星5号」ルートを選ばせようとしたところ、自分は「あけぼの1号」ルートでなければ絶対に嫌だ、と彼女が強く拒否したために、挫折した。
結果として、それがかえって幸いした。千晴は困り、どうすべきかと思案しているうちに、更にもう一ひねりした、壮の言う「逆アリバイ」のトリックを思いついたからだ。いかにも自分が「北斗星5号」に乗って函館まで行き、「はつかり10号」で青森まで戻ったかのように見せながら、その実、前もって保津美に借りて仙台へ運んでおいたルナーに乗り、横手まで移動する方法である。
つまり、
〈北斗星5号(上野〜仙台、この間に船戸殺害)→ルナー(仙台〜横手)→あけぼの1号(横手〜青森)→タクシー(青森〜金木)〉
と移動し、横手に、保津美を犯人とする決定的な証拠ルナー≠乗り捨てておく方法である。
このトリックの詳細は、ほとんど壮の推理したとおりであった。
「あけぼの1号」の一番端上下段の二つの寝台を確保し、寝台車に乗ると眠れないという保津美に睡眠薬を飲むように仕向けたのも、千晴である。端の寝台だし、保津美の存在に目を止め、覚えている乗客はいないだろうと思ったものの、念のため、「あけぼの1号」が大宮を出てから翌朝、横手に着くまで、できるかぎり彼女を人目に触れさせないようにしたのだ。
つまり、保津美が二十一日の朝洗面所で美緒にした話は本当だったのである。
小泊村の下前における保津美の殺害は、夕食後の八時半頃、保津美が一時間ほど出てくると言ったので、中丸が来るんだなと察し、千晴も四十分ほどしてから彼女を捜しに行くようなふりをして民宿を出た。腰が隠れるぐらい裾の長いシャツを着て、それをジーパンの外へ出して。
歩きながらあたりを捜すと、それらしい白い車は権現崎の登り口にすぐに見つかった。千晴は車が走り去るまで物陰に隠れて待ち、保津美が一人になったところで、手頃な石を拾い、両手を後ろに回して持ち、近づいて行った。
保津美はちょっと驚いたようだったが、千晴が「見ちゃった」と言うと、嬉しそうに自慢し出した。千晴がまさか自分の命を狙っているとは想像しないからだろう、まったく警戒する様子はない。そんな保津美に、千晴は話を合わせながらチャンスを窺い、保津美が先に立って歩き出そうとしたところで、持っていた石を彼女の頭めがけて思いきり打ちつけた。
うまい具合に、一撃で保津美はぐったりとなった。四、五分様子を見ていたが、動かない。胸に耳を当て、彼女が完全に死んだのを確かめてから、石をできるだけ遠くの海へ投げ捨て、死体を担いで三、四十メートル遊歩道を登り、横の藪に隠した。
藪まで死体を運び上げたのは、女の力では無理だと思わせるためと、少なくとも翌日昼近くまで死体が見つからないようにするためだった。
後者の理由は、殺人騒ぎになる前に一度小泊を離れる必要があったからだ。実際、千晴は翌朝竜飛の青函トンネル記念館まで行き、前の晩に切り刻んでおいた、多少血のついた犯行時に着ていたシャツ――長い裾でジーパンの腰を覆ったシャツ――を水洗トイレに流してきたのだった。
中丸の白い車については、もし目撃者が出なければ、千晴の口から言うつもりだったのだが、漁港前で主婦が見ていたため、警察の注意を何とかそちらへ向けさせようとするだけにとどめた。
いずれ、船戸殺しの捜査から「江副千晴」の名が浮かんでくるだろうし、横手で保津美のルナーが見つかるにちがいない。そのとき、「入れ替わりゲーム」の話をし、保津美が自分の名をかたって船戸と付き合っていたのではないかとそれとなく仄めかしてやれば、警察は十中八九、
〈保津美が千晴に罪をかぶせようとして、千晴を「北斗星5号」に乗せて函館まで行かせ、自分はずっと「あけぼの1号」に乗っていたように装い、仙台駅で船戸を殺した〉
と推理するだろう。
なにしろ、
横手における保津美のルナー
二十一日早朝の、横手駅における彼女らしい女の目撃
という決定的とも言える証拠があるのだから。
とすれば、警察は保津美が誰に殺されたのかと疑い、中丸が浮かんでくるにちがいない。そして、その晩小泊まで来ている中丸には、逃げ道がなくなるだろう。
一方、「北斗星5号」で函館まで行ったと不利な「事実」を進んで認め、青森からタクシーで金木まで来ている千晴が、実は「あけぼの1号」で青森まで行ったなどと疑う者は、間違っても出てこないだろう。
千晴はそう思った。
ところが、彼女の予想外のことが三つ起きた。
一つは、二十二日、保津美の死体が見つかってから、千晴に対する刑事たちの追及があまりにも厳しく、千晴は心身ともに疲労困憊し、保津美殺しを認めてしまった点である。理由の半分は、ただ取調べから解放されて休みたい、という思いからであった。あとの半分は、このままではかえって核心に触れる事実をうっかり口にしてしまうかもしれないとおそれ、ここはひとまず彼らの言うがままに犯行を認めておき、ゆっくり考えなおしたほうがよい、明日再び否認したほうがよい、と判断したためである。
こうした千晴の対応のため、その後、計画に多少狂いが生じたが、それはたいした問題ではない。
また、二つ目も、千晴にとって好都合でこそあれ、不利なものではなかった。
それは、たまたま壮と美緒が千晴と同じ津軽へ来ていたため、保津美のルナーが見つかる前に、千晴の望んだような「保津美犯人説」を推理してくれた点だったのだから。
この推理の結果として、ルナーが見つかり、まさに千晴の思い描いていたように、中丸に疑いが集中していったのである。
ところが、三つ目だけは違う。
今度は、壮のおかげで、千晴は破滅する結果になったのだった。
それは言うまでもない。彼が、千晴の逆アリバイの死角≠ノ隠されたトリックを見抜いた点であった。
☆
三厩駅前は閑散としていた。駅前といっても、家はまばらで、走っている車も見あたらない。動いているものといえば、いま美緒たちと一緒にバスから降りた観光客らしい男女が十人前後、美緒たちの前を、五、六十メートル離れた駅前広場へ向かって歩いているだけだった。
三厩は、JR津軽線の終点である。ここから一日に片道、蟹田まで三本、青森まで三本のディーゼルカーが通《かよ》っている。所要時間は、青森まで一時間四十分から五十分。
太宰は『津軽』の中で、青森と三厩の間はバスで四時間かかる、と書いている。三厩がバスの終点で、竜飛へ行くには、更に〈浪打際の心細い道を歩いて、三時間ほど北上〉しなければならない、と。
それから四十数年。現在は三厩と竜飛――竜飛も三厩村だが――の間には、バスが通じ、約四十五分で運んでくれる。かなり便利になっているはずである。とはいえ、バスの本数は日に片道六本にすぎず、列車との乗り換え時間を含めると、竜飛・青森間は三時間半から四時間みなければならない。新幹線の東京・大阪間、上野・盛岡間よりも時間がかかるのだった。
「海峡線が通じても、竜飛や三厩の人にはあまり関係ないのね」
美緒は歩きながら壮に話しかけた。
「そうみたいですね」
と、壮が応えた。
三厩や竜飛には海峡線の駅はない。だから、海峡線の快速電車を利用するためには、津軽今別(日に片道三本しか停車しない)か蟹田まで行かなければならないのである。
「津軽半島はまだまだ遠い、ということかしら」
「そうですね」
「その遠い津軽で起きた事件も、ようやく解決したわけか……」
「ええ」
「江副さんを狂わせた中丸という人が、何の罪にも問われないというのは、なんとなくすっきりしないけど」
「法律というのは、そうした欠点がありますけど、現代の社会で大岡裁きが行なわれたら収拾がつかなくなりますから、仕方ないのかもしれません」
「そうね」
美緒はうなずき、壮のあとから駅の待合室へ入って行った。
時刻表を見上げて、列車の時間を確認すると、バスの運転手がやたら飛ばしたので、まだ一時間以上あった。
先に来た人たちは、椅子に掛けて文庫本や雑誌を開いたり、缶コーヒーを買ってきて飲んだりしていた。
彼らも同じ列車に乗るのだろう。
ふと見ると、美緒のすぐ前の四十歳ぐらいの婦人が読んでいるのは、太宰の『津軽』だった。
どうやらラストのようだ。
〈……まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽したようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。〉
の部分である。
太宰の津軽の旅は、こうして終わっていた。場所は、越野たけに再会した小泊だ。
婦人が『津軽』を読み終えたらしく、顔を起こし、余韻《よいん》を味わうように目を宙に向けた。
美緒たちは婦人のそばを離れて切符を買うと、無人の改札口を通って狭い待合室を出た。
一段高くなったホームへ上がる。
陽射しは明るいが、暑くない。
空気が爽やかだった。
ホームには砂利が敷かれ、赤いベンチと黄色い花の植えられたプランターが置かれていた。藪のようになった浜薔薇《はまなす》の一群《ひとむれ》もある。ひっそりとしていた。そして、何も遮《さえぎ》るもののないレールのかなたには海が覗き、その上には澄んだブルーの空だけがあった。
青森では、待っている特急列車に乗り換えるだけである。だから、美緒たちの北津軽の旅はここ三厩で終わりだった。
美緒は、ちょっぴり残念な気はするものの、満たされた気分だった。なんだかとてもゆったりとした気持ちになっていた。時間の流れは、場所によって変わるのかもしれない。東京で何もしないで一時間待つなどということは、想像できない。だが、今は一時間でも二時間でも、何もしないでいられるような気がした。いや、いたかった。
「北津軽の旅のつづきをして、良かったわ……」
美緒は壮を振り向いて言った。
壮が黙って眩《まぶ》しそうに目を細めた。
どうやら、名探偵はまた退屈な恋人に戻ってしまったようであった。
(了)
作品中の列車、飛行機、バスのダイヤは一九九〇年六月号の時刻表に拠っています。太宰治の『津軽』からの引用文は、旧漢字は新字体に、歴史的かなづかいは現代かなづかいに改めてあります。
なお、この作品はフィクションであり、物語に登場する人物、団体、駅売店は、実在する個人、団体、駅売店とは関係ありません。
この作品は、一九九〇年七月に講談社より講談社ノベルスとして刊行されたものです。
本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九三年六月刊)を底本としました。ノベルス版・文庫版掲載の地図は割愛いたしました。