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タイム
深谷忠記
目 次
序 章 一九七七年
第 一 章 幽 霊
第 二 章 醜 聞
第 三 章 暗 合
第 四 章 旧 友
第 五 章 刑 事
第 六 章 探 索
第 七 章 確 証
第 八 章 疑 惑
第 九 章 交 差
第 十 章 事 故
第十一章 手 記
第十二章 追 究
第十三章 時 間
終 章 二〇〇一年
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いや、時というのは、それぞれの人によってそれぞれの速さで歩むものなのだよ。
[#地付き](シェイクスピア『お気に召すまま』)
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序 章[#「序 章」はゴシック体] 一九七七年
ディーゼルカーのエンジンが空吹かしされるたびに、熱い空気が車体の下から昇ってくる。むわっとした石油臭い熱気に鼻孔を覆われると、一瞬息が詰まりそうになるが、列車の中にいる洋子はまだいい。風がなく、それでなくても暑いホームに立っている母の時子は、全身を熱気に包み込まれて、耐えがたいにちがいない。洋子はそう思い、「もういいから、行って」と何度も言う。
だが、時子は、「うん」と答えるものの、窓の前から動こうとしない。小柄な身体を水玉模様のワンピースに包み、時々ハンカチで額や首筋を叩《たた》くように拭《ふ》きながら、じっと娘の顔を見ている。
時子は、一人になって寂しいとか、もっと頻繁に帰って来いとか、洋子の気持ちを辛《つら》くさせるような言葉はけっして口にしない。今回にかぎらず、いつだってそうだ。とはいえ、駅のホームで娘を見送る顔には寂しげな翳《かげ》があった。
寂しいのは洋子だって同じである。去年の春、高校を卒業して東京へ出るまで、ずっと母と二人で暮らしてきたのだから。
洋子に父の記憶はない。写真で見て、父の顔を知っているだけである。両親は東京で結婚し、東京で暮らしていたが、洋子が生まれて間もなく離婚し、母の時子が乳飲み子の洋子を抱えて郷里の舞鶴《まいづる》へ帰ってきたのだという。離婚の理由はわからない。母に訊《き》いても、「そうね、わたしもあなたのお父さんも若すぎたということかしらね……」としか答えないからだ。去年の冬、東京渋谷にある専門学校「東京建築造形アカデミー」の室内デザイン科へ入学が決まったとき、洋子の脳裏を写真で見た父の顔がかすめた。離婚の原因、理由はどうあれ、一度も娘に会いに来ない父に反発と恨めしさを覚えながらも、東京へ行ったらもしかしたら会えるのではないかといった期待を含んだ、どこか懐しいような思いだった。母の時子には話さなかったので、彼女はそうした娘の気持ちがわからなかったのだろう、洋子の父親がどこに住んで何をしているかといった点については一言も触れなかった。もっとも、十数年前に別れた元夫の消息など、時子は知らなかったのかもしれないが……。
時子が、車両の前のほうへ視線をやってから、
「連結が終わったみたいだわ」
と、言った。
四人掛けの座席に一人で座っている洋子は、母の顔に向かってうんとうなずく。
敦賀《つるが》から小浜線を来た急行「わかさ1号」と、城崎《きのさき》始発・宮津線経由の急行「丹後4号」は、ここ西舞鶴駅で一本の列車になり、京都へ向かう。だから、先に来て待っていた「わかさ1号」の前部に、後から着いた「丹後4号」を連結させる作業が終了したということは、間もなく発車になる、という意味だった。
「寝冷えしないように気をつけるのよ」
時子が真剣な顔をして言う。
「お母さん、わたしのこと、いくつだと思っているの? もう小学生じゃないのよ」
と、洋子は笑いながら抗議した。
「いくつになったって、寝相が悪かったら寝冷えするでしょう」
「わたし、寝相なんか悪くないわ。わたしより、お母さんこそ身体に気をつけて」
「わたしは大丈夫。わたしは、洋子みたいにすぐに熱を出したりしないから」
「そうだけど……」
すぐに風邪を引いて喉《のど》をやられる洋子と違って、時子は確かに丈夫だった。祖母の話では、子供の頃は弱かったというから、商工会の事務をしながら女手一つで洋子を育て上げなければならなかった境遇が、彼女を強くしたのかもしれない。
といって、時子は頑張りを表に出すタイプではなかった。芯《しん》が強く、しっかりしているが、形振《なりふ》りかまわず……といったところはない。それが、娘の洋子には好もしかった。
二、三分して、発車を告げるベルが鳴り出した。
時子が窓から一メートルほど離れた。
ピーッという笛の音。
ドアが閉まったようだ。
「じゃ、今度はお正月に帰るから……」
洋子が手を振ると、時子もワンピースの胸の前に上げた右手を左右に動かした。
エンジンがひときわ大きく吹かされ、熱気が洋子の顔を包んだかと思うと、ホームの柱と時子の姿が動き出した。
ディーゼルカーが発車したのである。
洋子は窓から身を乗り出し、ホームに向かって手を振った。
母の姿はすぐに見えなくなった。
窓から顔と手を引っ込める。
目頭が熱くなり、涙がにじんできた。
俯《うつむ》いて唇を噛《か》み、座席に腰を落とした。
――だから、見送りになんか来なくてもいいって言ったのに……。
心の内で母を責める。と、いっそう母が恋しく、悲しくなり、次の駅で降りて引き返そうかといった思いが胸裏をかすめた。東京の学校なんかやめて、舞鶴へ帰ろうか。舞鶴で就職し、母と二人で暮らそうか……。
しかし、そんなことをしないのは、誰よりも洋子自身がわかっている。高校三年の秋、考えに考えて、どうしてもインテリアデザインの勉強がしたいと、東京の専門学校進学を決めたのだから。
洋子は、ふっと誰かに見られているような気配を感じた。
視線のほうへ目を上げる。
横のボックスにやはり一人で掛けた男が、洋子を見ていた。ひょろりとした学生風の男だ。
男は気が弱いのか、洋子と目が合うと、悪さを見つけられた子供のような戸惑いの色を浮かべ、顔を背けた。
洋子も顔を前へ戻した。見るともなく窓の外へ目をやり、
――そうだった、わたしはメソメソしてなんかいられなかったんだわ。
胸の内でつぶやく。隣りの学生風の男が、洋子にある男を思い出させたのである。
顔も体付きも似ていなかったが、洋子の脳裏に浮かんだ男も大学生だった。
東京へ帰ったら、洋子は真っ先にその男を訪ねるつもりでいた。何度追い返されようと、諦める気はない。男が警察へ行って、知っている事実を話すまでは。
今更何をしたところで俊は帰ってこない。生き返らない。といって、このままで済ますわけにはゆかなかった。俊は無実であり、男の証言さえあれば、それが明らかになるのだから。洋子としては、どんなことをしてでも男に事実を話させ、俊が自らの命をもって警察の不当な逮捕と取り調べに抗議したのだということを世間に知らせたかった。さもないと、俊は浮かばれない。
――シュン……。
と、洋子は死んだ恋人の名を唇にのせた。
すると、目にはにかんだような笑みを浮かべた俊の顔が窓の外に浮かんだ。
俊は代々木にある予備校の生徒だった。一九五七年(昭和三二)生まれの洋子と同年だが、誕生日が洋子より半年早い四月なので逮捕されたとき二十歳になっており、新聞に名前が出た。育ちが良く、いつもにこにこしていて、どことなく頼りなげに見えるが、自分が正しいと思うと誰が何と言おうと譲らない頑固な一面があった。洋子は俊のそうした一本気なところが嫌いではなかったが、それが自殺に結び付いたように思えてならない。
俊の実家は、埼玉県の川越で病院を経営していた。俊は長男だという。そのため、両親の強い希望で医大を受験していたが、本人はあまり医者になる気がなかったらしい。落ちても平気な様子で、本当は中学か高校の美術の教師になりたいので親が諦めるまで待っているのだ、と笑っていた。
洋子が俊と知り合ったのは、専門学校の同級生・宮川芙美子を介してである。
上京して間もない去年の五月、洋子は、芙美子に誘われ、俊と俊の友人の四人で所沢の西武園へ遊びに行った。芙美子は俊が好きだったが、断わられるのが怖くて、二人だけで会いたいと言い出せず、洋子と俊の友人を交えた四人で遊園地へ行く計画を立てたらしい。ところが、それが芙美子の意図に反し、洋子と俊を結び付ける結果を生んだのだった。
数日して、俊が会いたいと洋子に電話してきたとき、洋子は、芙美子に悪いからといって一度は断わった。だが、俊は諦めず、芙美子とは同窓生同士という以上の関係はない、ぼくが嫌いなら仕方がないが、そうでなかったら付き合ってほしい、と再度電話してきた。洋子は、俊の素直で飾らない人柄に好感を抱いていたから、学校の帰り、芙美子には用事があると嘘をついて代々木公園へ行き、池の畔《ほとり》に待っていた俊と会った。
その後、二人が親しくなるのに時間はかからなかった。俊が浪人中なのであまり頻繁には会わないようにしたものの、それでも月に二、三回は原宿や新宿の街を一緒に歩き、お茶を飲んだり食事をしたりした。俊は洋子が欲しい≠ニ言ったが、医大か美術大に入学してからにしようと洋子は話し、キスするだけで彼に我慢させた。
そうした交際をつづけながら、洋子は、俊との関係をいつか芙美子に話さなければ……と思ってきた。俊は芙美子に特別の感情を抱いていなかったというから、洋子は芙美子から俊を奪ったわけではない。とはいえ、洋子は、俊との関係を芙美子に隠していただけでなく、彼女に感づかれないように、自分には別の恋人がいるといった嘘までついた。だから、芙美子にはいつか事情をきちんと説明し、黙っていた点を詫《わ》びなければならない、と考えていた。
ところが、時が経てば経つほど本当のことを打ち明けにくくなり、洋子は芙美子に対する後ろめたさを感じながらぐずぐずと先延ばししてきた。そして、言い出せないでいるうちに俊は死んでしまったのだった。
――俊、どうして死んじゃったの?
と、洋子は、恋人の幻に向かって問いかけた。俊は何一つ悪いことをしてなかったんだから、死ぬ必要なんかなかったのに。不当に逮捕され、責められ、どんなに口惜しく、辛《つら》く、腹立たしかったかは、想像できるけど。それで、俊は、自分の命を懸けて警察に抗議しようとしたのかもしれないけど……。でも、そんなの、ないわ。わたしはどうなるのよ? 残されたわたしは、どうしたらいいのよ? それに、あのとき、俊がもうちょっと……もう一日、ほんとにもう一日、頑張ってくれたら、わたしはあの男に事実を証言させられたのに。
「俊の弱虫……」
洋子の唇から低く言葉が漏れた。自分でも意識しないうちに。
腿《もも》に置いた手の甲に、ぽつんぽつんと涙が二粒こぼれた。
洋子はバッグからハンカチを出し、汗を拭《ふ》くようなふりをして目に当てた。
俊が見せた様々な顔と姿が浮かんでくる。おどけている俊、目に悪戯《いたずら》っぽい笑みをにじませて洋子をからかっている俊、真面目なことを言って自分で照れている俊、洋子と喧嘩《けんか》して悲しげな顔をしている俊……。そのときどきの彼の話す声も耳朶《じだ》のあたりに響いてくるようだった。
が、洋子が俊の思い出に浸っていたのはいっときである。鼻を小さくぐすんと鳴らして、ハンカチを目から離すと、そうだわとつぶやいて、顔を窓の外へ向けた。
列車は、国道と伊佐津《いさづ》川が見え隠れする、濃い緑の谷間を走っていた。
――そう。
と、洋子は、自分の気持ちを励ますようにもう一度胸の中でつぶやいた。あの男に事実を証言させるまでは、わたしは思い出なんかに浸っていられないんだわ。俊の無実を証明し、俊の無念を晴らすまでは、メソメソなんかしていられないんだわ。
それに、と洋子は思う。俊の魂はわたしの胸の中でいつまでも生きているのだし……。
だから、洋子は、俊と一緒に二十一世紀を迎えるため≠ノ今回帰省したのだった。
この夏休み、洋子は舞鶴へ帰らないつもりでいた。洋子の帰郷を心待ちにしている母にはすまないと思ったし、洋子だって母や祖父母に会いたかったが……。クーラーもない東京の狭いアパートに残ったからといって、俊のためにどれだけのことができるか、わからない。あの男も実家へ帰ったり旅行に出かけたりして、アパートにいるときが少ないようだったし。それでも、洋子は、俊の疑いを晴らさないまま東京を離れる気にはなれなかったのだ。
そんな洋子の気持ちを変えたのは、去年の三月に卒業した舞鶴中央高校の同窓会の案内状である。八月の旧盆に合わせて、旧三年B組のクラス会をやりたい、というのだった。といって、それだけなら、洋子は「欠席」の葉書を出して終わりにしただろう。
ところが、その案内状には、
〈今年は一九七七年。二十世紀もすでに四分の三以上が経過し、二十三年後には二十一世紀を迎えます。ついては、旧三年B組の第一回クラス会を記念して、西暦二〇〇〇年に開くタイムカプセルを作りたいと思います。カプセルに納めるものは、手紙、日記、恋人からの贈り物、録音テープ、テストの答案、通知表、手形、写真等々、定形郵便の封筒に入る大きさで、水分が染み出たり腐ったりしないものなら何でも可。きみが、二十三年間、封をしておいて、二十一世紀になってから取り出して見てみたいと思うものをどうぞ〉
と、書かれていたのである。
実は、案内状の記述には間違いがあった。洋子は、クラス会を計画した幹事たちと同じ認識だったから、誤りに気づかなかったが、二〇〇〇年はまだ二十世紀で、二十一世紀は二〇〇一年から始まるのだという。担任教師の田野倉謙治に言われただけでなく、誤りを指摘した返信が何通かあったらしい。しかし、一昨日、市内のお好み焼店で開かれたクラス会では、「二〇〇一年なんて半端だから、二〇〇〇年でいいじゃないか」あるいは「今から考えれば、二〇〇〇年だって二〇〇一年だってたいして変わらないよ。どっちだって二十一世紀みたいなものさ」といった意見が大勢を占めた。そこで、タイムカプセルはきりのいい西暦二〇〇〇年に行なわれるクラス会――何月になるかは未定――で開ける、ということに決まった。
二十一世紀がいつからかの問題はともかく、このタイムカプセルの企画が、東京を離れる気になれずにいた洋子の気持ちを変えた。
案内状を読んだ洋子は、まず、
――そうだわ、記憶が鮮明なうちに、俊に関わることを書いておかなければ。
と、思った。それから、それを記した小型のノートを封筒に入れてタイムカプセルに納めておこう、と。
この世に生を受けて十九年と十ヵ月、物心ついてからだとまだ十数年しか生きていない洋子には、二十三年後、四十代になった自分など想像できない。どんな生活を送っているか……。ただ、洋子は、どのような考えを持って、どこで誰と何をして暮らしていても、俊のことだけは忘れないだろう、と思う。絶対に。
とはいえ、具体的な事柄は別である。どんどん忘れてゆくだろうし、間違って記憶してしまう場合も少なくない。それは、中学校や小学校の友達と、わずか六、七年前の出来事や当時の誰彼の言動について話しているときに思い知らされる。だから、記憶が鮮明なとき、俊のことを詳しく書いておく必要があるのだった。俊と知り合ってからの楽しい出来事はもとより、俊が不当な疑いをかけられてからのことも。いや、むしろ、俊が逮捕されてから自殺するまでの経緯と俊を自殺に追い込んだ事情こそ、より詳しく、具体的に。
そうすれば、二十三年後にタイムカプセルの封が解かれたとき、俊の死が、俊の悔しさ、無念さが、洋子の胸に強く蘇《よみがえ》るはずである。そして、洋子は俊と一緒に二十一世紀を迎えられるだろう。
洋子はそう考えて、クラス会に出席するために帰郷したのだった。
洋子の脳裏のスクリーンに、みんなでタイムカプセルを作ったときの光景が浮かんできた。
それは、一昨日の午後四時過ぎ、お好み焼店から五老岳の西の麓《ふもと》にある田野倉の家の庭へ移ってから行なわれた。初め、タイムカプセルは母校である中央高の庭に埋められるはずだったのだが、屋外だと盗まれる危険がないとはいえないため、田野倉家の土蔵に保管されることになったのだ。
田野倉の家は土地の旧家で、土蔵の建っている庭は広かった。ちょうど百日紅《さるすべり》が満開で、紫がかった紅《くれない》の花が西日に鮮やかに映えていた。
タイムカプセルに仕立てられたのは、蓋《ふた》の付いた中型の壺《つぼ》である。それと、壺を入れたとき、周りと上部に一・五センチほどの隙間ができるように作られた木の箱。壺に、二重のビニール袋に入れた三十九人分の品――卒業生四十四人中クラス会の出席者は三十三人だが、田野倉と幹事宛に郵送されてきた五人の欠席者の分があった――を納めて蓋をし、その壺をさらに木箱に納めた。
といっても、そのままでは、誰かが壺を開けようと思えば、簡単に開けられる。大きな地震が起きたような場合、壺が壊れるおそれもあった。そうなっては、二〇〇〇年までのタイムカプセルにならない。そこで、壺を木箱に納めてから、壺の周りの隙間と上部に、水で練ったセメントを流し込んだ。
最後の作業をしたのは幹事の一人、織田孝一である。物真似が巧く、クラスの人気者だった男で、地元の自動車販売会社に勤めていた。
織田孝一は、壺の蓋が隠れるように塗ったセメントの表面を素手でたいらにならし、ぴたぴたと軽く叩《たた》いた。顔を上げて、ちょっとおどけたような愛敬《あいきよう》のある笑みを浮かべ、作業の終了を知らせた。
それを見て、周りにいた洋子たちは一斉に拍手した。
木箱の外側には、
――――――――――――――――――――――――――――――――――
タイム[#「タイム」はゴシック体]
一九七七年(昭和五二)八月十五日から二〇〇〇年のクラス会の日まで
[#2字下げ]舞鶴中央高校昭和五一年卒3B会
――――――――――――――――――――――――――――――――――
と、すでに田野倉の文字で墨書されていた。
〈タイム〉というのはタイムカプセルの略ではなく、名称である。お好み焼店にいるとき、何か名前をつけようと誰かが言い出し、21C、世紀の絆《きずな》、時の翼、タイムストリームといった案が出されたが、結局、ずばり時、時間のタイムがぴったりする、ということになったのだ。
墨は乾いていたから、あとはセメントが固まるのを待つだけ。固まれば、地震が起きても壺は壊れる心配がないし、金槌《かなづち》かスパナのようなものでセメントと壺を割らないかぎり、中の物は取り出せない。
準完成品のタイムカプセル〈タイム〉は、幹事三人によって注意深く抱えられ、田野倉家の土蔵の一番奥へ移された。そして、二十三年後の西暦二〇〇〇年――年号が変わらなければ昭和七五年――のクラス会の日まで、長い眠りについたのだった。当然ながら、洋子の手記『俊とともに』も。
ディーゼルカーは、最初の急行停車駅である綾部《あやべ》に着いた。東舞鶴からここまでが舞鶴線で、ここからは山陰本線である。
洋子のいる車両からは降りる者がなく、数人の乗客が乗り込んできた。
そのうちの一人、こざっぱりした服装の五十歳前後の女性が洋子の前に座った。田舎の人の感じではないから、京都からでも来て、帰るところなのかもしれない。女性は、横の学生風の男がいるボックスと洋子のボックスをちょっと見比べ、小さく黙礼して、洋子の前に掛けたのだった。
列車は三、四分して発車した。スイッチバックして、これまでとは逆方向に。
このあと停車するのは、園部、亀岡、二条の三駅だけ。終点の京都には午後一時前には着く。
洋子は、京都で三十分ほど待って、上りの新幹線「ひかり」に乗る予定になっている。東京駅着は四時二十何分か。時刻表どおりにいけば、五時前後には下北沢のアパートに帰り着けるだろう。
洋子は、部屋に荷物を置いたら、今日のうちに男のアパートを訪ねるつもりだった。
男の顔を思い浮かべると、激しい嫌悪感を覚えると同時に緊張した。
しかし、やらなければならない。
――男がどこへも出かけていなければいいが。
と、洋子は思った。
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第一章[#「第一章」はゴシック体] 幽 霊
1
人は、たいがい、身の上話をするのが好きだ。自分は話すのが苦手だ、個人的なことを人前にさらけ出すなんて恥ずかしい、そんなふうに言って尻込《しりご》みした者も、ひとたび話し出すや、前言など忘れたように雄弁、多弁になることが珍しくない。そこでは誰だって自分が主人公だし、悲劇のヒロインにも英雄にもなれるからだろう。男であれ女であれ、これは変わらない。ただ、中でも、自分を一角《ひとかど》の人物だと思っている男、あるいは運悪く功成り名を遂げられなかったものの能力的にはけっして成功者に劣っているわけではないと思っている男――そのどちらでもない六十過ぎの男に出会うのは難しい――は、とりわけ自分と自分の過去を語るのが好きなようだ。
松尾の前のソファに掛けた、社長室というこの部屋の主、赤沢東六も例外ではない。来年の一月に古希を迎えるゴルフ焼けした小柄な男は、さっきから身振り手振りを交え、熱を帯びた調子で話しつづけている。栃木の田舎に貧乏な小作人の六男として生まれた男が、十四歳のとき東京へ出て、二十六歳のときに小さな町工場を起こし、それをいかにして栃木県下に五つの工場と七百人の従業員を抱えるプレス工業会社にまで発展させたか、という成功|譚《たん》を。赤沢は、様々な苦労や努力の体験を語っては、時々「しかし――」と語調を強めた。しかし、人並以上の努力などは当然であって、一番大事なのは先を読む目であり、頭だ≠ニ繰り返した。会社がバブル景気の崩壊にも不況にも負けずに生き残っているのは、経営者である自分がいつも他人《ひと》より数歩先を見、他社が考えもつかないような創意工夫を凝らしてきたからだ、という。
松尾は、赤沢の口の両端にたまった蟹《かに》の泡のような唾《つば》をちらりと見やり、この調子でいくとあと四、五十分は喋《しやべ》りつづけるかもしれないな、と思う。繰り返しが多くて退屈だが、仕方がない。一回に話す時間が増えて、訪問する回数が減るなら歓迎だが、これまで、初めに決めた予定の回数より増えた例はあっても、減ったためしはない。
松尾の仕事は、特別の場合を除いては経費が自分持ちなので、訪問回数が増えれば、それだけ出費がかさむ。関東地方から離れるときは交通費が出るが、残念ながら、今回の宇都宮は関東地方だった。だから、新幹線を使わずに、東北本線の快速「ラビット」か通勤快速で往復し、できれば三回以内の〈聞き取り〉で済ませたかった。必要なら、いつだって電話で問い合わせられるのだから。しかし、事は松尾の希望どおりには運ばず、忙しいから一回に一時間以上話すのは無理だと先方が言うので、それでは一時間ずつ五回に分けて……ということになった。その第一回目が今日なのである。
松尾は、赤沢の顔にじっと視線を当て、適当に笑ったりうなずいたりしているものの、話は半分ぐらいしか聞いていない。早く終わらないかと思っては何度も生《なま》欠伸《あくび》を噛《か》み殺し、来るときにバスの窓から見たラーメン屋の幟《のぼり》を頭に浮かべ、宇都宮で夕飯を食べて行くか、それとも東京へ帰ってから食べるか……などと考えていた。
松尾の仕事は、赤沢の「自叙伝」を書くことである。そのために、彼は、宇都宮市の郊外にある「イーストシックス」というプレス工業会社――十年ほど前に「赤沢プレス工業」から赤沢の名前、東六を英語読みした社名に変えたらしい――を訪ね、聞き取りをしているのだった。
仕事の性格上、松尾が聞く話の多くは成功譚である。立志伝中の人物≠自負している者たちの物語だ。ときには、思わず仕事を忘れて引き込まれるような面白い体験やユニークな発想に出会うこともないではないが、ほとんどは他人から見るとつまらない、似たりよったりの苦労話、自慢話だった。
赤沢の場合も例外ではない。となれば、テーブルの上ではテープレコーダーが回っているし、段ボール箱いっぱいの資料や写真がすでに会社宛に届いていたから、無理をして話を聞いている必要はなかった。ただ、放っておくと、話がどんな方向へどこまで逸《そ》れるかわからない。第一回目の今日は生い立ちを話してくれと言っておいたのに、すぐに高度経済成長期やバブル経済の頃の自慢話に飛んでしまうように。そのため、時々適当な言葉か質問を挟んで、軌道修正をはかる必要があった。
自叙伝という言葉を国語辞典で引くと、〈自分で書いた自分の伝記〉とある。が、実際は他人が著わした「自叙伝」も少なくない。個人の回想記や小説などの自費出版を主な業としている三恵出版社から出る自叙伝の場合、三冊に二冊は他人の筆になる「自叙伝」であり、そのほとんどは松尾の書いたものだ。松尾が書くのは「自叙伝」にかぎらない。注文さえあれば、タレントが自分の好みや癖などを秘密めかしてお喋りした、くだらないとしか言いようのない告白本≠竅A政治家が選挙の前に出版する、人間ここまで鉄面皮になれるものかと呆《あき》れる自薦本≠ネどの執筆も引き受ける。「自叙伝」はもとより、そうした本のどこを探しても、松尾の名は載っていない。つまり、松尾は影の執筆者……幽霊のように姿の見えないゴーストライターなのである。
松尾は、ひょんなことから知り合った三恵出版社社長の三津田恵一に誘われ、この道に入った。三津田と出会ったのは一九八七年(昭和六二)の秋だが、三恵出版社の仕事をするようになったのは、その後一年半ほどした八九年(平成一)の春から。今日は二〇〇〇年(平成一二)の五月二十三日だから、十一年前、松尾が三十二歳のときである。
松尾は三恵出版社の社員ではないし、三津田と専属契約を結んだわけでもない。フリーランスである。ただ、彼の場合、雨風を凌《しの》ぐ場所と食べる物さえ確保できればいいので、以来、他社の仕事は一切せず、
≪三恵出版社第一編集部嘱託 松尾辰之≫
の名刺一枚で生活している。
現在、三恵出版社には第一編集部長の肩書を持つ水谷勇吉の他には事務員の桑山由季がいるだけである。が、松尾が三津田の誘いに乗ってゴーストライターになった頃は正社員が五人もいて、第二編集部も存在した。好景気がつづき、自費出版以外の本も年に十冊以上出していたし、たいした営業活動をしなくても、歌集、句集、小説などの自費出版の依頼が次々とあった。一代記や自叙伝の出版に関する問い合わせもひっきりなしにきた。だから、松尾は、一九八九年と九〇年には、市議会議長、九死に一生を得た元軍人、大陸から引き揚げてきて魚の行商をしながら六人の子供を育てた女性、納豆製造業者、小唄《こうた》の師匠……といった人たちの「自叙伝」を年に七冊ずつも書いたし、バブルが崩壊した九一年にも六冊書いた。
三津田と決めた報酬は原稿料方式。発行部数に応じて支払われる印税方式でも、一作いくらの請け負い方式でもない。印税方式の場合、ゴーストライターの取り分は定価の三パーセント(名義上の著者七パーセント)が標準なので、部数が五百から千部ぐらいが圧倒的に多い自費出版本ではわずか数万円にしかならないし、請け負い方式の場合、本によって原稿の量が異なるので、一々報酬額を決めなければならないからだ。松尾の最初の原稿料は四百字詰め原稿用紙一枚千五百円と安かったが、それでも、ある程度|束《つか》のある見映えのする本に仕上げるには二百五十から三百枚の原稿が必要なため、年に三百万円近い収入になった。
ところが、一九九二年には五冊になり、九三年から去年九九年までの七年間は四冊の年が二年、三冊の年が四年、わずか二冊の仕事しかない年も一年あった。
原稿料が少しアップしていたとはいえ、年に二冊や三冊では、奥多摩に近い青梅《おうめ》の安アパートに住み、酒も飲まず煙草も吸わずの松尾でも、生活できない。だから、ここ数年は、バブルの頃に多少蓄えたものを取り崩し、三津田から回してもらった校正の仕事をして凌いだ。
三津田には、どこかに就職したらどうかと何度も勧められた。だが、再就職する意思はなかったし、たとえ松尾がその気になったとしても、泡がぶくぶくと音をたてていた頃ならいざ知らず、この不況の時代、これといった技能も資格もない四十過ぎの男に良い就職口などあろうはずがない。食費を切り詰められるだけ切り詰め、本はできるだけ買わず、新聞も図書館へ行って読むことにして、景気が上向くのを待っていた。
といって、松尾は、それほど深刻に感じていたわけではない。たとえ家賃が払えなくなってアパートを追い出され、ホームレスになったとしても、そのときはそのときだ、といった思いが心のどこかにあった。誰にも看取《みと》られずに路上で野垂れ死にするのも、自分にふさわしい最期ではないか……。
これは、悟りの境地に到った人間の持つ諦念《ていねん》といったような高尚なものではない。松尾の場合は、ただ、〈自分は人並な幸福を追求してはならない〉と考えているだけである。これまで、松尾は、二十三年前の夏に自分で決めたその戒めを幾度となく忘れ……といっても、頭から消えたわけではなく、都合よく解釈して、破ってきたのだが。
松尾は、二十一年前、大学四年のときに書いた小説が純文学の月刊誌「文芸界」の新人賞佳作に選ばれたことから、卒業しても定職に就かず、様々なアルバイトをしながら小説を書いてきた。だが、結局、世に出ることができず、小説家になるのを諦めた。大学を卒業して四年、二十七歳のときである。二十代の半ばという大事な時期に四年も頑張ったのだから、そう簡単に諦めずに、これからも仕事の合間にこつこつと書いていったらどうかと勧める者もいた。が、それが無駄なあがきになるだろうことは松尾自身が一番よくわかっていた。実は、二作目に取りかかったときから気づいていたのである。選考委員や編集者に一応の評価を受けた最初の小説が書けたのは、才能のせいなどではなく、自分にとって書かずにはいられない特別のテーマがあったからだ、ということに。それなのに、努力すれば、もしかしたら作家として世に出られるのではないかといった幻想を抱き、ずるずると四年も経ってしまった。ここでまた未練を残せば、けっして中身が手に入らない夢の袋を一生引きずってゆくことになるだろう。松尾はそう思い、きっぱりと小説と訣別《けつべつ》したのである。
松尾が小説を書くのをやめた理由は、それだけではない。自分の手前勝手な解釈に気づいたのだ。……いや、違う。それまでだって、松尾は頭のどこかで自分の身勝手さ、好《い》い加減さに気づいていたのだから。ただ、そのとき、たまたま才能がなく世に出られなかったがために、
――ああ、自分は人並な夢を追ったりしてはいけなかったのだ。
と、また勝手に思いなおしたのである。
小説を書くのをやめてからの松尾は、雑誌編集者、興信所員、住宅リフォーム会社営業マン、古美術品ブローカー、業界紙記者といった仕事を転々としてきた。そして十三年前の秋、三津田と知り合い、翌々年の春、失業したのを機に三津田の誘いに応じ、三恵出版社の「嘱託社員」になった。
松尾の仕事の内容を知る数少ない知人の中には、いくら書いても自分の名前が出ないのではつまらないだろうとか、一度は名のある文芸誌に作品が載ったのに黒子では虚《むな》しいだろうとか、言う者がいるが、そんなことはない。むしろ、ゴーストライターのような表に出ない影の存在は自分にぴったりだ、と松尾は思っていた。だからこそ、十年以上つづいたとも言える。
赤沢の話が終わった。時計を見て驚いたような顔をし、慌てて切り上げたのだ。一時間の予定を三十八分過ぎていた。
「いやぁ、すまんすまん、つい調子に乗ってしまって……」
彼は嬉《うれ》しそうに表情を崩し、言葉だけで謝った。
「いいえ、わたしも、興味深いお話に時間の経つのを忘れておりました」
松尾は応じた。もしかしたら二時間を超えるのではないかと思っていたので、ほっとしながら。
「そうか……」
と、赤沢の目が糸のように細くなり、顔が蕩《とろ》けそうになる。
松尾は、「はい」と答えて、テープレコーダーのスイッチを切った。
「読んでもらえるものができそうかね?」
「それは、もちろんです」
松尾は語調を強めた。
どれだけの数の者に読まれるかは、松尾の関知するところではない。ただ、赤沢から聞いた話を適当に脚色して、読者を引きつける山あり谷ありの物語に仕立てる自信だけはある。すでに四十作以上の「自叙伝」をものしているのだから。それに、学生時代と卒業後を合わせて五年近く、売れない小説を書きつづけたことも無駄にはなっていない。
「三津田社長の話では、宇都宮市内の書店に置いてもらうということだったが」
「たぶんそうなるでしょう」
「売れるかね?」
「社長の生き方の素晴らしさが口コミで伝われば、売れると思います」
「口コミか……。口コミだけでは弱いから、朝毎に読経の県内版と栃木タイムズに広告を出してもいいな。三津田社長に話しておいてくれないか」
「わかりました。帰りましたら、さっそく社長に伝えます」
自費出版の依頼者が自分の金で広告を出すのは自由である。表向きは出版社の広告として。ただ、それによって売れたという例はそれほど多くはないが。
次回の予定を決めると、
「今日は遅くまでご苦労だったね」
と言って、赤沢が腰を上げた。
「いいえ、社長さんこそ、長い間お疲れさまでした」
松尾は挨拶《あいさつ》を返し、ノートとテープレコーダーをショルダーバッグに収めた。
2
バスが宇都宮駅に着くと、十分待ちぐらいで上野行き通勤快速電車があった。そのため、松尾は夕飯を摂《と》らずに切符を買い、改札口を入った。
宇都宮から東京まで、新幹線なら五十二、三分、快速か通勤快速だと、上野までで倍近い一時間四十分前後かかる。
松尾は終点の上野まで行かず、赤羽で埼京線に乗り換えて新宿へ出た。
乗り換えがうまくいき、中野には、思ったより早く六時十五分に着いた。
松尾はこれから三恵出版社に寄り、赤沢から届いている資料を自宅へ持ち帰るつもりだった。
相手と契約して、「自叙伝」の代筆・出版を請け負ったのは三恵出版社であり、表向き、松尾はそこの嘱託社員ということになっている。だから、連絡等はすべて会社宛にくるのである。
段ボール箱に入っているなら、そのまま宅配便でアパートへ送ってくれればいいものを、三津田はいつも「資料が届いたので適当なときに取りに来てください」と電話してくるだけ。大事な品が会社《うち》に着いた後で万が一にも紛失したら大変なことになるから、と三津田は言うが、一番の理由は運送費を節約するためではないか、と松尾は勘繰っている。なぜなら、仕事が終わって松尾が三恵出版社名で相手に送り返すときは、宅配便の利用を了解しているのだから。
松尾は駅の南口広場へ出た。五月下旬の昼の長い季節なので、太陽はまだビルの陰に沈んだばかり。街には人と車が溢《あふ》れ、大型車やオートバイが信号で停まって発進するたびにひときわ大きな音を響かせていた。
ちょうど信号が青になったので、松尾は車道を丸井のほうへ渡った。
道幅の半分近くを駐められた自転車が塞《ふさ》いでいる狭い歩道を、前から来る人にぶつからないように何度も足を止めては南へ向かう。
三恵出版社は、この通りを少し行った西側の高台にあった。駅から歩いて六、七分。騒音溢れる駅前通りのすぐ上とは思えないほど静かな、住宅街の一角だ。社屋といっても、三津田の自宅に隣接した二階建ての小さな建物で、所有者は三津田。モルタル壁の外側に設けられた鉄板の階段を上ってドアを入ったところが事務所、閉め切りになった一階が倉庫である。
小さなぼろ家ではあっても、中野駅から五、六百メートルしか離れていない場所にこれだけの事務所を借りたら、三恵出版社はとうてい立ち行かないだろう。バブルの崩壊にも潰《つぶ》れず、社員を減らしただけで生き延びてこられたのは、家賃がかからないおかげであるのは明らかだった。
松尾は、自動車通りとY字状に岐《わか》れている右側の裏道へ入った。車が一台やっと通れるかどうかといった幅しかない狭い通りである。
その近道を百メートルばかり行くと、自動車通りから斜めに登ってくる道へ出た。
松尾は右に折れ、坂を登って行く。
そのとき、左にゆるくカーブした上から知った顔が現われた。水谷勇吉である。
水谷も松尾を認めた。唇に笑みを浮かべ、目尻《めじり》に皺《しわ》を寄せて近寄ってくる。松尾が三恵出版社の「嘱託」になる前から使っているらしい、革の表面が擦り切れた縦長のショルダーバッグを提げて。黒々とした髪をしているので、頭が禿《は》げて、灰白色の山羊鬚《やぎひげ》を生やしている社長の三津田よりだいぶ若く見えるが、六十代の半ばを過ぎているはずである。今年六十七か八になった三津田と一つしか違わない、という話だったから。身長は、松尾より十センチほど低い百六十三、四センチ。三津田も同じぐらいのはずだから、この年代の男としては平均だろうか。ただ、水谷は痩《や》せていて、いつも背筋をぴんと伸ばしているので、猫背の三津田より三、四センチは高い印象がある。
松尾は、水谷と滅多に会わないし、たまに顔を合わせても仕事の話をするだけなので、どういう人間かよくわからないが、物言いは穏やかだし、少なくともぎすぎすした性格ではない。ただ、芯《しん》に強いものを持っているらしく、相手が三津田でも松尾でも、間違っていると思うと、はっきりと指摘し、容易には妥協しない。子供は三人いるという話だが、上の二人は独立するか結婚するかして家を出たらしく、埼玉県の所沢に妻と一番下の息子――といってもすでに社会人のようだ――と三人で住んでいた。三恵出版社に入ったのは二十年ほど前。若い頃同じ出版社に勤めていた三津田に誘われて入社し、以来、彼の片腕として働くようになったようだ。三津田も水谷も口数の多いほうではないが、互いを信用し、信頼し合っているのは見ていてよくわかる。
松尾は、水谷に一メートルほどの距離まで近づいたところで足を止めた。
ほとんど同時に水谷も立ち止まる。
「いま、お帰りですか?」
松尾が先に言葉をかけると、
「ええ。今日は宇都宮へ行かれたとか……。ご苦労さまでした」
水谷が応じた。
上から自転車が二台つづき、下から乗用車が登ってきたので、松尾たちは片側の石垣《いしがき》に寄った。
「いますか?」
松尾は右手の親指を立てた。
ええ、と水谷がうなずいた。
「赤沢社長の資料が届いたという連絡があったので、帰りに寄ったんです」
「宅配便で送れば、松尾さんがわざわざ取りに来られなくても済むんですが、社長には社長の考えがあるらしくて……」
水谷が口元に苦笑をにじませ、松尾にすまなそうな顔をした。
「いえ、べつにたいした労力じゃありませんから」
「ただ――」
と、水谷が笑みを消し、「社長は、松尾さんと会って話すのを楽しみにしているんです。それもあって、できるだけ松尾さんが社に顔を見せる機会を作ろうとしているようなんです」三津田のために弁明した。
松尾には、その言葉がどこまで事実を言い当てているのか判断がつかなかったが、水谷が口から出任せを言っているのでないことだけはわかった。
「今日も、もしかしたら松尾さんが寄られるんじゃないかと待っているようです」
「信じられませんね。社長はぼくと会ったって、それほど話すわけでもないのに」
「ま、社長の性格としてはそうかもしれませんが、自分もかつて文学を志した者として、松尾さんに親近感を抱いているんです。松尾さんには迷惑かもしれませんが、松尾さんの才能を愛し、惜しんでいるのかもしれません」
「ぼくには才能などありません」
「社長はそうは思っていませんよ。松尾さんがいつかまた小説を書き、脚光を浴びるときがくる、と信じています」
「まさか!」
「本当ですよ」
水谷が真顔で語調を強めた。「社長は口には出しませんが、わたしにはわかるんです。なにしろ、二十年も一緒にやってきたんですから」
「とにかく、ぼくは二度と小説を書く気はありません」
「そうですか……。いや、余計なことを申し上げて、すみませんでした」
「いえ」
「それじゃ……」
ええと松尾は頭を下げ、水谷と別れた。
松尾には、水谷はもとより、三津田に対しても恨む気持ちはない。とはいえ、静かに落ちついていた胸の中を掻《か》き回されたようで、好い気分ではなかった。
知り合った当初、三津田は松尾にまた小説を書くようにと何度も勧めた。だが、その気はないと松尾が強く言ってからは、決心が固いと見てか、その件に触れることはなくなっていた。だから、それはもう三津田の頭からも消えたと思っていたのに……。
十メートルほど登り、左の道へ入った。
石塀やコンクリート塀をめぐらした大きな屋敷が両側につづく通りである。
急に街の喧騒《けんそう》が遠のき、静かになった。
水谷の話など忘れようと思ったとき、腹の虫が鳴き、松尾は空腹を意識した。昼にハンバーガーを一個食べた後、イーストシックスの社長室で紅茶を飲んだだけなので、腹が減って当たり前であった。これじゃ青梅まで保《も》たないから駅へ戻ったら何か食おう、松尾はそう思いながら歩いて行った。
道の幅は五メートルほど。歩道は付いていないが、そんなものが必要ないほど人の姿も車の影もない。
三恵出版社はもうすぐである。二、三十メートル先のゆるいカーブを道なりに曲がれば、前方左手に見えてくる。水谷の話では、三津田はまだ社に残っているというが、帰ったかどうかは事務所の窓を見ればわかる。この季節、人がいるときは窓を開けてあるからだ。もし二階の窓が閉まっていたら、階段を上らずに、手前の三津田の住まいを訪ねるだけである。
三津田は家族がなく、独り暮らしだった。食事と風呂《ふろ》と寝るときを除くと、ほとんど事務所で過ごしているらしい。といって、今はそれほど忙しい仕事があるわけではないから、適当にソファで茶を飲んだり、本を読んだり、テレビを見たりしているようだ。つまり、事務所を居間がわりに使っているのである。住まいのほうにはクーラーがないというから、夏なら話がわかるが、季節に関わりなく。
知り合って十年以上になるのに、松尾は、三津田の個人的な事情についてはほとんどと言ってもいいほど知らない。生まれが一九三三年(昭和八)で、二度結婚して二度とも離婚し、ここ二十年余りは独りで暮らしてきた、といった程度しか。初めの妻との間の子供なら、一番上の息子か娘は松尾と同年の四十二、三になっていてもおかしくないが、子供がいるのかどうかさえわからない。三津田は、松尾の過去や私生活について尋ねないかわり、自分のことも滅多に語らないからだ。
ただ、文学・小説に関してだけは別である。若い頃、文学青年で、同人誌に詩や小説を書いていたといった話は懐しそうに何度も繰り返した。最初の結婚をしてから書くのはやめたが、その後も文芸誌は毎月購読しており、「文芸界」に載った松尾の小説『傷』も読んだという。松尾が三津田と知り合ったのは偶然だが、実はそうした事情もあって、うちへ来ないか……社員になるのが嫌ならゴーストライターのアルバイトをしないか、と誘われたのである。
二階の事務所が見えた。太陽は沈んだものの、西側を向いた窓は外の光を反射して白く光っている。そのため、中に灯《あか》りが点《つ》いているかどうかはわからないが、片側が二十センチほど開いていた。
社屋の手前は、ところどころ青く苔《こけ》むした古い石の門がある三津田の自宅、反対隣りは四階建ての小さなマンション、道を挟んだ対面は高いモルタル塀をめぐらした大きな住宅である。
松尾は足を速めて社屋に近づくと、外側に付いた狭い階段をとんとんと上った。
事務所の中から、テレビのものらしい人の声が聞こえてきた。
雨と埃《ほこり》に汚れた磨《す》りガラスが嵌《は》まったアルミのドアをノックしながら、「松尾です」と声をかけ、返事を待たずにドアを引き開ける。
中へ入った。
天井には蛍光灯が点いていたが、まだ外のほうが明るかった。
事務所の中にはカーテンも衝立《ついたて》もないので、全体が一目で見渡せる。本や様々な書類などが雑然と積まれた幅広のスチール棚が壁を塞《ふさ》いでいるので、狭く見えるが、十坪(二十畳)ぐらいはあるだろう。
三津田は、半分が物置き台になっている六組の机の手前に置かれた応接セットのソファに掛け、背を丸めて、上目づかいに松尾のほうを見ていた。
テーブルには新聞が広げられている。テレビの画面は松尾の位置からは見えないが、首都圏ニュースのようだ。三津田は、適当にテレビに目をやりながら夕刊を読んでいたらしい。
「宇都宮のイーストシックスからの帰りなんですが、資料をいただいて行こうかと思いまして」
松尾が言うと、三津田が「そう」と応《こた》え、ゆっくりと新聞を畳み、テレビを消した。
その声と動作には、どこか殊更めいた感じがしないでもなかった。
水谷が言ったように、自分の来訪を待っていたとも思えないが、もしかしたら来るかもしれない、と予想ぐらいはしていたのかもしれない。
テレビを消した三津田が、腰を上げて、ソファとテーブルの間から出てこようとしたので、
「ああ、いいです、自分で取って行きますから」
松尾は制し、どれでしょう、と訊《き》いた。
「その箱……」
と、三津田が身体を回し、机の上に置かれた段ボール箱を目で示した。
ガムテープで封がされたままの縦四十・横三十・高さ二十センチほどの箱だ。
松尾は机のそばまで行き、箱を両手で持ってみた。大きさのわりにはずっしりしているが、持ち歩けない重さではない。
棚からビニール紐《ひも》と鋏《はさみ》を取り、紐を二重にして箱に十字に掛けた。
残った紐と鋏を棚に戻し、箱を片手で提げると、
「それでは、確かに資料を預からせていただきます」
作業を見ていた三津田に言った。ちょっと愛想のない感じはしたが、三津田に報告しなければならない件はなかったし、早く何か腹におさめたかったからだ。
三津田が意外そうな目をした。松尾が荷造りを終えてすぐに帰るとは思っていなかったのだろう。
「赤沢社長の話はどうだった?」
「予定より四十分近くオーバーしましたが、これまでの依頼者と似たりよったりです」
「そう……」
と三津田がうなずき、黙った。赤沢東六の「自叙伝」に関する打ち合わせは済んでいたので、三津田も、これといって松尾と話すことはないのである。
「どうも、お邪魔しました」
松尾は目礼し、歩きかけた。
と、三津田の口から意外な言葉が発せられた。「夕飯は済んだのかね?」という。
松尾は相手の顔を見返した。
「もしまだなら、たまには一緒にどうかと思ってね」
三津田がどことなく照れ臭そうな顔をしてつづけた。
彼に食事に誘われるなんて、珍しいことだった。知り合ったとき、助けた礼≠ニしてホテルのレストランに招待されてから、数えるほどしかない。二年ほど前、要求の細かい、面倒な相手の「自叙伝」を仕上げたとき、水谷と一緒に中華料理を御馳走《ごちそう》になって以来だ。三津田はけっして狡《ずる》い人間ではないが、ケチなのである。
「もし予定があるんなら、仕方がないが」
「予定はありません」
「じゃ、まだなの?」
「はい」
「この歳になると、あまり食欲もわかないんだが、腹に何も入れないわけにもゆかず、水谷君が帰った後……ああ、水谷君に会わなかったかね?」
「会いました、坂の途中で」
「彼は、今夜、奥さんと池袋で待ち合わせているそうなので、引き止めるわけにもゆかず、さて何を食べようかとテレビを見ながら思案していたところだったんだ。寿司《すし》か蕎麦《そば》でもと思っても、一人前では出前してくれないし、家へ帰って作るのも面倒だし……。松尾君は何がいいかね?」
「ぼくは何でも結構です」
「じゃ、寿司でも取ろう」
三津田は言うと、寿司屋に電話をかけ、上握りを二人前注文した。
それから、部屋の隅に付いた流し台の前へ行って、薬罐《やかん》に水を入れてガスレンジに掛ける。
「ちょっと、家《うち》からビールを取ってくるから」
いそいそとした様子で出て行った。
こうしたときの三津田は実に嬉《うれ》しそうで、背中を丸めた格好といい、山羊鬚《やぎひげ》といい、いかにも好々爺《こうこうや》といった感じである。
だが、これは三津田の一面にすぎない。小さいながらも一国一城の主《あるじ》としての彼は、なかなか厳しく、しぶとい面を持っている。そうしなかったら、たぶん城≠維持してゆくのは不可能だったのだろう。本が出来上がった後で、ああだこうだと難癖をつけて残金の支払いを渋ったり割り引かせようとする注文主にはけっして妥協しないし、容赦もしない。違約金と取り立て費用を上乗せして請求し、相手が音を上げて、契約どおりの金を全額支払うまで、自宅なり会社なりへ押し掛けつづける。
三津田が、冷えた缶ビール二本と、胡瓜《きゆうり》と味噌《みそ》の載った皿を持って戻ってきた。
ちょうど湯が沸いたので、松尾が茶を淹《い》れる。
寿司はまだ届いていなかったが、二人はソファに並んで掛け、乾杯した。
乾杯といっても、酒を飲まない松尾はお茶だ。
三津田はビールの五百ミリリットル缶を美味《うま》そうに傾け、松尾は両端を切り落としただけの長い胡瓜に味噌をつけ、ぽりぽり齧《かじ》りながら茶を飲んだ。
知り合った当初、三津田は、
――きみ、本当に全然飲めないの? きみの小説『傷』の主人公のように、飲めるのに飲まないんじゃないの?
と、松尾に訊いた。
それに対して、松尾が、
――そんなことありません。あれはあくまでもフィクションですし、小説の主人公とぼくは違います。ぼくの場合、体質的にアルコールを受け付けないんです。
そう答えてからは三津田は二度と同じ質問をしない。
だからといって、三津田は松尾の言葉を信じたわけではないようだった。松尾が三恵出版社の「嘱託社員」になり、三津田と一緒に「自叙伝」の出版パーティーに出たときなど、どこか探るような怪しむような視線を向けてきた。
しかし、それも初めの一、二回だけで、今ではもう松尾が酒を飲めようが飲めまいが、意に介している様子はない。
が、実を言うと、三津田の推測のとおりなのだった。
この二十二年と八ヵ月余り、松尾は一滴も酒を口にしていない。誰かに訊かれたら、三津田に答えたように、体質的にアルコールを受け付けない≠ニいうことにしているが、嘘である。
禁酒は、二十三年前に自分で自分に科した罰であり、戒めだった。そのとき松尾は同時にいくつかのことを己れに禁じたが、それらはみな一度は破った。だから、「酒を飲まない」というのは、唯一、彼が守りつづけている戒めと言える。
二十五年前、松尾は、神奈川県小田原市にある県立高校を卒業して一年間の浪人生活を送った後《のち》、東京神田にある私立・朋林大学文学部に入学した。そして、翌年の八月、あと一ヵ月足らずで二十一歳になろうというときまで、酒を飲んでいた。今だって、飲もうと思えば、ウイスキーをボトル半分ぐらいなら飲めるのではないか、と思う。大学二年の夏に起きたある出来事――松尾には己れの行為についての認識はなかったが重大な犯罪である――を境にして、酒を断ったのだ。
松尾は、小さい頃から読書が唯一の趣味と言ってもいいほど本が好きだった。初めはどんな本でも手当たり次第に読んだが、だんだん詩や小説の本が多くなり、中学二、三年頃には外国人作家の小説を好んで読んだ。高校に入学すると文芸部に入り、読むだけでなく、甘くロマンチックな詩や観念的な小説を書くようになった。といっても、後輩の沢郁美を除くと、松尾の作品を評価する文学仲間は皆無にひとしく、彼は、鑑賞眼のないあいつらには、おれの作品の良さがわからないのだ≠ニ反発しながらも、将来、自分が詩人や小説家になれるだろうとは思っていなかった。松尾は元々野心家ではなかったから、一流会社に入って出世してやろうといった考えもなく、できれば、市役所の万年係長である父親みたいに自分の時間がたっぷり取れる地方公務員にでもなれたら……と漠然と頭に描いていた。そして郁美と結婚し、好きな小説や詩を読んで暮らせたら、と。
一年浪人して大学へ入ってから、松尾は、もう小説の筆を取らなかった。たまに、講義用ノートの片隅に、頭に浮かんできた詩を書き留めるぐらいだった。そんな松尾が、来年は大学を卒業するという年の夏に小説を書こう≠ニ思ったのは、その二年前の体験があったからである。
初め、松尾は、フィクションではなく、体験とそのときの自分の気持ちをそのまま記そうとした。己れの中でそれらを風化させないために、記憶が鮮明なうちにきちんと記録しておこうと思ったのだ。たぶん誰にも見せることがないであろう、自分一人だけのノートに。己れの許されざる行為がよりいっそう重大な結果を引き起こした[#「よりいっそう重大な結果を引き起こした」に傍点]後も、口を噤《つぐ》みつづけてきた松尾……臆病《おくびよう》で卑劣な松尾には、そうやって、自分のしたことの意味を忘れないようにしておくぐらいしかできなかった。そして、生涯自分を罰しつづけることぐらいしか……。
ところが、そう考えて、思い出しながら書こうとしたのだが、心の内で無意識の抵抗が働くのか、手が震えて筆が進められない。無理して書こうとすると、指がいっそう激しく痙攣《けいれん》し、顔中に冷汗が噴き出た。挙句は、空気中の酸素が欠乏したかのように、吸っても吸っても息が苦しくなり、結局、松尾は事実の記録を断念せざるをえなかった。
といって、この学生時代最後の夏休みを逃したら、二度と正確な記録を残す機会は訪れないかもしれない。その場合、どうなるか、と思った。このまま、何もしないで実社会へ出てしまったら、どうなるか。
事実はどんどん風化してゆくにちがいない。犯した罪の重大さに怯《おび》えたことも、良心の呵責《かしやく》にさいなまれ、名乗り出るべきかどうか葛藤《かつとう》しつづけたことも、いずれは忘れてしまうだろう。いや、忘れはしないかもしれないが、無意識のうちに事実をねじ曲げ、自己正当化してゆく可能性が高い。大多数の人間――松尾の知っているのは、現実の世界の人間より虚構の世界の人間のほうが多い――が、そうであるように。
松尾は、そうした自分だけは許せなかった。自分は、名乗り出る勇気のない、臆病で卑怯《ひきよう》な人間だと思うが、それだけは許せない。せめて、罪の十字架だけは生涯背負って生きていこう、と思っていた。
――では、どうしたらいいか?
松尾は自問した。事実を風化させず、それを自分がねじ曲げないようにするにはどうしたらいいか……。
松尾はさんざん考えた末、小説化する方法を思いついた。
人間、忘れやすいのは、ある出来事があったとき、自分や他人がどう考えたり思ったりしたか、である。出来事そのものの記憶はそれほど薄れない。それなら、二年前、自分がいかに考え、苦悩し、葛藤したかを、虚構の世界に託して具体的に書いておけば、たとえそれを引き起こした出来事はありのままに書かなくても、その重大さを忘れることはないのではないか、と思ったのだ。
こうして、松尾は、二年前の体験を元にしつつ、体験とは異なった出来事を設定し、一編の小説を構想した。そして、その小説の主人公を通して、当時の自分の心の内を克明に描いたのである。
小説の題名は『傷』。四百字詰め原稿用紙で八十七枚になった。
通して読んでみると、思った以上にうまく書けていた。高校の文芸部時代に書いた作品とは比べものにならなかったし、時々読む月刊文芸誌に載っている短篇小説と比べても遜色《そんしよく》がない。いや、そうした作品のいくつかよりも上のようだった。
そう思ったとき、松尾の頭に、
――誰か、専門家に読んでもらったらどうか。
という考えが浮かんだ。作家や文芸評論家や編集者といったプロが読んだら、どういう感想、評価が返ってくるだろうか……。
作品はフィクションで、現実の出来事を想起させるような書き方をしていないので、誰の目に触れようと問題はない。
とはいえ、それまでは他人の目に晒《さら》す気など毛頭なかったので、松尾は自分の中に生まれた考えに戸惑った。
どうするか決めかねたまま、松尾は書店へ行き、文芸誌を立ち読みした。専門家の評価を知るには懸賞に応募するのが一番の近道だったからだ。
三冊の純文学の月刊誌を見ると、「文芸界」の新人賞の締め切りが十日ほど先の八月末に迫っていた。
文芸界新人賞といえば、受賞者の中から何人もの芥川賞や直木賞の作家が輩出している文壇への登竜門である。毎回、七、八百編の応募があると聞いていた。
それじゃ、最終予選に残るのだってとうてい無理だなと思ったものの、元々他人の評価を期待して書いたものではないのだから……と松尾は思い返し、決断した。一週間ほどかけて原稿に手を入れ、応募した。
結果は、受賞作なしの佳作。受賞こそ逸したものの、第一位であった。
編集者から結果を知らせる電話がかかってきたときは、松尾は文字どおり跳び上がって喜んだ。
翌月の文芸界に選考経過が発表され、選考委員の一人である著名作家の、
〈『傷』は受賞作にしてもおかしくない秀作である。わたしは強く推したのだが、他の委員の賛同が得られずに残念だった〉
との選評を読んだ。
同時に、作品が文芸界に掲載され、松尾は喜びと興奮を新たにした。
しかし、その喜びと興奮の潮が引いて、落ちつきを取り戻し始めると、松尾は難問に直面した。
――これからどうするか。
という問題である。
四人の選考委員のうち三人が次作をぜひ読んでみたい≠ニ選評に書いていたし、編集者からは、すぐに次の作品に取りかかり、今度は受賞を狙うように≠ニ、激励されていた。
そう言われても、松尾の念頭には次の作品などまるでなかった。
松尾にとって、『傷』は単なる小説ではない。特別の意味を持った、特別の条件のもとに書かれた小説だった。話の核になった出来事やストーリー、登場人物は架空のものだが、主人公の苦悩と葛藤は松尾自身の苦悩と葛藤である。『傷』を読んで、それを想像できる者がいるとしたら、館岡久一郎と須ノ崎昇の二人だけだが……。それはともかく、こうした事情があったので、『傷』は専門家の一応の評価を受ける作品に仕上がったのである。種≠ェ何も無しに、『傷』と同程度かあるいはそれ以上のレベルの小説を書けるとは思えない。
松尾にはそれがわかっていた。気づいていた。だから、誰に何と言われようと、次の作品など書かずに、内定していた中堅機械メーカーに就職してしまえばよかったのである。そうやって、黙って小説から遠ざかれば、何も問題はなかったのだ。
ところが……たぶん欲に幻惑されたのだろう、松尾は自分の胸の内で囁《ささや》くもしかしたら……≠ニいう声を聞いた。
――もしかしたら、おれには小説家としての才能が眠っていたのではないか。おれは、ずっとそれに気づかずにきたのではないか。もしそうなら、努力すれば、小説家になれるかもしれない。
二年前の出来事の後、松尾は死んだように生きようと決め、生涯〈酒を飲まない〉〈女の肌に触れない〉〈必要以上のものを求めない〉〈人並な希望や欲望を抱かない〉と自らに誓い、己れの生活を律してきた。それらの戒めを風化させないために、『傷』を書いたのである。
それなのに、このときの松尾の頭からは『傷』を書いたその目的、理由が薄れかけていた。忘れたわけではないが、意識の背後に退き、次のような勝手な理屈が前面に出てきていた。
――作家になりたいと思ったからといって、おれは、けっして名声や富を手に入れたいわけではない。だから、作家になろうとしても、またたとえ作家になったとしても、戒めには抵触しないはずだ。
こうして、松尾は、大学を卒業した後まる四年近く定職に就かず、学習塾の講師やら運送会社の助手やらのアルバイトをしながら小説を書きつづけた。
しかし、心の内で密《ひそ》かに狙っていた芥川賞どころか、文芸界新人賞さえ受賞できず、作品が二度と活字になることはなかったのだった。
3
二十分ほどして、窓の外に夕闇が迫り出した頃、寿司《すし》がきた。
三津田はゆっくり飲むのが好きらしく、まだ一缶目のビールが残っていた。
胡瓜《きゆうり》はとっくになくなっていたので、松尾は茶を淹《い》れなおし、先に寿司を食べ始めた。自分が食べ終わっても、三津田がビールを飲み終わり、食事を済ませるまでは付き合わなければならないだろうな、とちょっと重い気分になりながら。
三津田と二人だけでいるのは楽しいことではない。仕事の打ち合わせのような具体的な用件がないと、会話が一向に弾まないのだ。二人とも、中身のない世間話をへらへらやれるタイプではないので、一方が何か尋ねても、一方がそれに短く答えると、話は途切れてしまう。松尾は、三津田の過去や彼の生き方に興味がないわけではない。二度結婚して離婚したといっても、二十年以上なぜ独りで暮らしているのか、と思う。が、松尾がそれを尋ねれば、当然、三津田も松尾はなぜ結婚しないのかと訊《き》いてくるだろう。さらには、松尾の過去や私生活についていろいろ訊いてくるかもしれない。それは嫌だったし、避けたかった。だから、松尾は三津田の私生活に触れないのである。三津田のほうも松尾と同じように考えて、黙っているのかもしれなかったが……。
松尾は寿司を食べ終わり、御馳走《ごちそう》さまでしたと言って、茶を飲んだ。
すると、三津田が、松尾の胸の内を読んだように、
「ぼくはゆっくりやるから、きみは帰っていいよ」
と、言った。
松尾は、はいと答えたものの、渡りに舟とばかりに腰を上げるわけにはゆかない。
「お邪魔でなかったら、もうしばらく休ませてください」
「ぼくはかまわないが、飲まない人間に酒飲みの付き合いをさせたんじゃ、迷惑だろうと思ってね」
「そんなことありません」
「それじゃ、ちょうど七時だから、ニュースでも見ようか」
三津田が言うと、上体を屈《かが》めてテーブルの端に置いてあったリモコンスイッチを取り、テレビを点《つ》けた。
テレビは天気予報をやっていたが、それは一、二分で終わり、ニュースになった。
ニュースは、アメリカ大統領と中国の国家主席の会談を伝えてから、何やらの審議会がどうしたこうしたといった変わりばえのしない国内事情に移った。
松尾は半分は上の空で画面に目をやっていたが、無理して三津田と話をしなくてもいいので気が楽だった。
音楽とともに、深緑の箱根芦ノ湖畔の景色が画面いっぱいに広がった。一休みというわけだろう。
その後、強盗やら交通事故やらの社会ニュースに変わった。
と、突然、松尾のよく知っている氏名がニュースキャスターの口から発せられたかと思うと、その男の顔が映し出された。
松尾は驚いて、画面を凝視した。
三津田も、缶ビールを手にしたまま動きを止めた。
三津田も男を知っているのである。男の意思ではないものの、その男が松尾と三津田を結び付けたと言えないこともない。
眉《まゆ》が濃く、鼻の大きな彫りの深い顔。ぎょろりとした目。自信家だが、絶えず回りや相手の様子を窺《うかが》い、頭の中で計算をめぐらしているようで、その目が無心に澄み切ったように見えることはない。
松尾の高校時代の同級生、桐原政彦だ。
ソビエト連邦の崩壊を予言した気鋭の国際政治学者として、ここ十年ほどマスコミに引っ張りだこになっている男である。数ヵ月前は、東央大学法学部教授の椅子を捨てて、野党第一党の政友党常任幹事(国際局長)に転身し、かなり大きな話題を呼んだ。
といって、いまテレビで報じられていることはそうした事柄とは関係ない。桐原が東西テレビを名誉|毀損《きそん》で訴えた、というものだった。
家にテレビのない松尾は知らなかったが、四日前の十九日、東西テレビの午後のワイドショーは、
≪気鋭の国際政治学者にして政友党の新しきエース、幼女に悪戯《いたずら》か!≫
という題で、桐原が五歳の女の子を車に連れ込んで悪戯をしようとしたかのような報道をしたのだという。
問題の「事件」が起きたのは、今月十五日(月曜日)の夕方六時五十分頃。場所は東京北区西ヶ原にある飛鳥《あすか》公園脇の道路。飛鳥公園というのは、同じ北区内にある桜の名所として有名な飛鳥山公園とは別の、児童遊園に毛が生えたような小さな公園らしい。
桐原によれば――
彼が飛鳥公園脇へ行ったのは、ある人[#「ある人」に傍点]と七時に待ち合わせたからである。その人については、迷惑をかけるおそれがあるので、名前を言いたくない。約束の時刻より十五、六分早く着いたので、彼は車を停めて待っていたが、トイレに行きたくなり、公園の中へ入った。と、滑り台とつつじの植込みの間の薄暗がりで小さな女の子が泣いていた。近寄って話を聞くと、母親が買い物に行ったとか迎えに来るはずなのに来ないとか、要領を得ない。まだ七時まで十分ほどあったので、彼は女の子を交番へ連れて行こうと自分の車に乗せた。それを、女の子の母親――後で彼女が言うには、子供と一緒に買い物に来たが子供が公園で遊んでいるというので一人で近くのショッピングセンターまで行ってきたのだという――が見て、誤解し、半狂乱の態《てい》で駆け寄ってきた。そのため、女の子はびっくりしたらしく、「お母さん、お母さん」と泣き出した。母親の叫び声を聞いて、近所の人たちが集まってきた。誰かが110番通報したらしく、間もなくパトカーの警官も到着。だが、警官は桐原の話に納得し、事件にはならなかった。女の子の母親も、「わかりました」と彼の説明を了解した。それなのに、東西テレビは、Yちゃんのお母さんは納得できないと怒っていると報じ、「子供は、知らないおじちゃんに無理やり車に乗せられたと言っている。だから、もしわたしの行くのがあと二、三分遅れていたら、子供はどこかへ連れ去られ、酷《ひど》い目に遭っていたにちがいない。そう思うと、いま考えてもゾッとする」という彼女の談話なるものを流した。警察や桐原に対する取材もなく。これは、為《ため》にする非常に悪質なデマとしか考えられない――。
画面は別のニュースに移った。
松尾は、三津田と顔を見合わせた。
三津田の顔は、驚きのためか、少し強張《こわば》っていた。桐原を知っているとはいっても、三津田の場合、松尾のような個人的な関係は何もないはずなのに。
――それとも、何かあるのだろうか。
と、松尾はちょっと怪しんだ。
三津田と知り合った直後、松尾が桐原の友達だとわかると、三津田はなぜか桐原の大学時代のことを聞きたがった。じきにそんな様子は見せなくなったので、いままで忘れていたのだが……。
ただ、二人の間に何らかの関わりがあり、三津田が桐原を知っていたとしても、それは三津田の一方的なもので、桐原が三津田を知っていたとは思えない。
松尾が三恵出版社の「嘱託社員」になってしばらくした頃、東央大学に近い本郷三丁目で桐原に出会ったことがある。そのとき、いま何をしているのかと訊かれた松尾は、三恵出版社という小さな出版社でゴーストライターをやっている、と正直に話した。
――そこの社長とは、きみがソ連から帰ったときの講演を聴きに行って知り合ったんだ。ほら、きみが壇上に上がって話し出そうとしたとき、急に具合が悪くなって外へ運び出された人がいただろう。
しかし、桐原はそうした話にはまったく関心を示さず、ゴーストライターという仕事に、おまえもそこまで落ちたか≠ニでも言うように、どこか軽蔑《けいべつ》するような嫌悪するような目をしただけだった。
「いまの話、どう思うかね?」
と、三津田が訊いた。
顔の強張りは消えていたが、真剣な表情だった。
質問の意味がはっきりしなかったので、松尾が黙っていると、三津田がつづけた。
「ぼくは桐原さんがどんな人間かは知らないけど、彼のような立場にいる人が子供に悪戯をしようとしたとは、とても思えないが……」
「ぼくもそれはないと思います」
今度は松尾は少し強い調子で応じた。
そんなことは絶対にありえない。桐原が松尾の知っている桐原であるかぎりは。
ここ数年、松尾は桐原と会っていない。電話も、二年前、高校時代からの共通の友人である須ノ崎昇が失踪《しつそう》したときに話した後は、「須ノ崎から何か言ってきたか?」「こない」といった短いやり取りを二回ばかりしただけである。だから、松尾は現在の桐原をあまり知らないが、性格や人間性がそれほど大きく変わったとは思えない。
とすれば、幼女に悪戯するのが善いか悪いかではなく、桐原という男は、自分の描く人生設計図にとって為にならないことはしない人間であり、そのように自分を律し切れる強い性格の持ち主なのである。
桐原は、高校時代から、人並外れた努力家、頑張り屋だった。こうと決めたら、どんなことがあってもやり抜く意志の人≠ナもあった。自分で決めたことを何度も破っては自責と後悔を繰り返す、好《い》い加減で意志の弱い松尾とは、対極にあるように見えた。いったい、どうしてそれほど堅固な意志を持続できるのか、何のためにそれほど頑張れるのか、と松尾はいつも不思議だった。もっとも、スーパーマーケット経営者の長男で享楽主義者の須ノ崎にかかれば、「馬鹿じゃねえか」の一言で片付けられたし、皮肉屋の館岡久一郎に言わせると、「立身出世教の狂信者、まあ一種の偏執狂だな」ということになるようだが……。
桐原は成績も優秀だったが、ただ頭が切れるかどうかという点だけを見れば、桐原より上の生徒が何人もいた。たいした受験勉強もせずに東北にある国立大学の医学部へ進学し、現在は大病院の内科医長になっている館岡もそのうちの一人である。
松尾たちの通っていた県立高校は、進学校とはいえ、最難関の国立・東央大学へ入学するのは毎年四、五人程度。成績が良いといっても、十番前後だった桐原は、現役ではとうてい無理だろうと思われていた。にもかかわらず、彼は法学部に一発で合格。しかも、学部を卒業すると同時に助手に採用され――大学院へ進学しないで助手になれるのは特に優秀な者だけらしい――二十九歳の若さで助教授に、三十七歳で教授に昇進した。
これらは、すべて、彼自身の強固な意志と努力によって勝ち取ったものであった。
「では?」
と、三津田が松尾に話の先を促した。
「桐原も言っていたように、意図的な臭いがします」
松尾は答えた。
三津田が背を丸めてテーブルにビールを置き、テレビのリモコンを取って、
「それは、つまり……」
と言いながら、スイッチを切った。「テレビ局の人間が単純に視聴率を稼げる、と考えただけではない?」
「東西テレビとしては、視聴率を第一に考えたのかもしれませんが、裏に別の意図が働いていたような気がします。テレビ局もそれを承知していながら乗ったんだと思います」
「来年早々か、早ければこの秋にもあるんじゃないかと言われている衆院選か……」
桐原は、次の衆議院議員選挙に政友党公認で立候補が予定されていた。
「ええ」
「事実がどうあれ、ひとたび、幼女に悪戯をしようとしたなどと報道されたら、票に相当響くはずだからね」
「それは、桐原一人の問題じゃ済みません。政権獲りを目指そうという政友党にとっても大きな痛手です。次の選挙で、桐原はいわば政友党の看板ですから」
桐原が大学教授から政治家に転身したのは、政友党内でカリスマ的な力を誇っている党首の畑中幸太郎が口説きに口説いた結果だと言われていた。政権を獲得した暁には主要閣僚の椅子の一つを桐原のために用意している、と言って。
しかし、畑中が桐原にいかなる約束をしようと、政友党の政権獲りが絵に描いた餅《もち》では何にもならない。いずれは東央大学の法学部長になるだろうと言われていた桐原――学部長どころか、彼自身は学長の椅子を狙っていたのではないかと松尾は思う――が、あっさりと教授の椅子を捨てるわけがない。
その点、桐原が転身をはかった初めのうちこそ、与党の民自党ならともかく、野党の政友党になぜだ?∞人一倍先を見通す力を持っている男の目も曇ったか≠ネどとマスコミで騒がれたが、桐原は世論の動向を読んでいたらしい。今では、桐原が加わった効果もあってか、次の選挙は政友党に充分勝算あり≠ニ言われるようになっていた。
ところが、そこに起きたのが、政友党が先頭に立てて選挙を戦おうとした党の新しい顔=A桐原の事件だったのだ。
桐原と政友党関係者ならずとも、裏に誰かの意図が働いているのではないかと疑うのは自然であった。
「なるほど……」
と、三津田がうなずいた。
「ぼくは政友党の支持者ではないし、政友党が政権を獲得しようとしまいとどうでもいいんですが、これが誰かの策略だとしたら、怒りを感じます。卑劣ですから」
言いながら、松尾はふと、郁美はどうしているだろうかと思った。
桐原の妻になっている、元恋人の顔が浮かぶ。
といっても、松尾は現在の郁美を知らないから、二十年以上も前の彼女だ。
産毛がかすかに見える白いすべやかな肌、二重|瞼《まぶた》の澄んだ目、広い額、小さな鼻と小さな口……。美人というよりは、可愛い娘だった。高校の同窓だが、学年は松尾より一年下。郁美が松尾のいた文芸部に入ってきたときに知り合い、家が同じ方角だったので、何度か一緒の電車で帰るうちに親しくなった。父親が大企業のエリートサラリーマン、母親がピアノ教師、そして成績優秀な歳の離れた二人の兄という、少なくとも外から見るかぎり何の不足もない家庭で大事に育てられたようだ。そのせいか、あまり自己主張しない、静かでおっとりとした性格で、たいがい松尾が青臭い文学論を一人で喋《しやべ》り、彼女のほうは黒い綺麗《きれい》な瞳《ひとみ》を彼に向けて黙って聞いていた。松尾と親しくなると、文芸部内で松尾の詩や小説の唯一の擁護者になったが、「沢さんは松尾が好きなものだから松尾の書いたものは何でも良いと思うんじゃないの」と仲間に言われると、「そうじゃないわ」と一応小さな声で反論はするものの、それ以上の抗弁はしなかった……というより、できないようだった。
松尾が一年浪人して朋林大に入学した年、郁美はストレートで横浜にある女子大に入学。卒業してしばらくしたら結婚しようと約束した。
が、一年後の夏、松尾はあの出来事≠フ後、別れてほしい、と郁美に婚約の解消を申し出た。寝耳に水の言葉だったのだろう、郁美は目を丸くし、どういうことか事情を説明してほしい、と言った。松尾は、すまないが、事情は話せない、どうか何も聞かずに言うとおりにしてもらいたい、と頼んだ。郁美は目に戸惑いと悲しみの色を浮かべ、自分が嫌いになったか、別に好きな女《ひと》ができたのか、と訊いた。それだけは断じてない、と松尾は強調した。今だって自分が好きなのは郁美だけ、これだけは誓って言える、郁美に対する自分の気持ちはおそらく生涯変わらないだろう、ただある事情から自分は結婚できなくなったのだ、誰とも結婚しないことに決めたのだ、だから、どうかどうか、黙ってぼくの言うとおりにしてほしい――。
そう言われても、当然ながら、郁美には何がなんだかわけがわからないからだろう、困惑したような顔を悲しげに俯《うつむ》けて、黙り込んだ。
その日以来、松尾は郁美に会っていない。正直言うと、かなり永い間、松尾は心のどこかで郁美が何か言ってくるのを待っていた。だが、郁美は電話も手紙もよこさなかったのだ。残酷な通告を一方的にしておいて、虫のいい話だが、郁美がもし何があっても、わたしはあなたと別れられない、わたしはどこまでもあなたに付いて行く≠ニでも言ってきたら、松尾の決心はへなへなと崩れていたかもしれない。
郁美と別れた松尾が彼女に関する話を最初に耳にしたのはそれから二年ほどしたときである。須ノ崎が、
――おまえらが駄目になったのは薄々気づいていたが、彼女、桐原と付き合っているそうじゃないか。知っているか?
と、電話してきたのだ。
松尾は、頭をいきなりバットで殴られたような衝撃だった。郁美に恋人ができたというだけでもショックなのに、それが自分の友人だとは! なぜなのだ、と思わず叫びそうになった。郁美、どうしてなのだ? どうして、よりによって桐原なのだ? かつて、きみは桐原のようなタイプの男を嫌っていたはずなのに……。
しかし、どんなにショックであろうと意外であろうと、郁美を捨て≠ス松尾にとやかく言う資格はない。
彼は、須ノ崎に内心の動揺を気づかれないように注意して、ただ、知らなかったと答えた。
――そうか。桐原の奴、前から彼女が好きだったみたいだからな。それで、おまえと別れたと知って、早速アタックし、ものにしたというわけか……。
次に松尾のもとに届いた郁美の消息を伝えるものは、ニューヨークの教会で郁美と挙式したという桐原からの結婚通知であった。
三津田が、思い出したようにテーブルからビールを取って飲むと、
「それにしても、桐原さんとは妙な因縁を感じるな」
つぶやくように言った。「桐原さんと松尾君、二人との因縁と言ったほうが正確かもしれないが」
「因縁ですか……」
松尾は、いま一つよく呑《の》み込めずに三津田の言葉を繰り返した。
「そう、因縁だよ。桐原さんの講演会が縁で松尾君と知り合い、あれから十年以上……二人で並んでテレビの前に座ったことなど一度もなかったのに、今夜たまたま一緒にテレビを見ていたら、突然、桐原さんの顔が映ったんだから」
言われてみれば、確かにそんなふうに考えられなくもない。ただ、松尾から見れば、それは桐原と三津田との因縁≠セったが。
松尾がそう言うと、
「そうか、なるほど」
三津田が応じた。「ま、だからといって、何がどうだというわけじゃなく、偶然の符合にすぎないが……」
偶然の符合――。もちろん、そうにちがいない。
と思ったとき、松尾の胸に、いや、そうだろうか≠ニいうかすかな疑いが萌《きざ》した。
もし、三津田が、桐原が名誉毀損でテレビ局を訴えたというニュースを夕刊で読んでいたら……。
その場合、三津田は、その件が七時のニュースでも触れられるかもしれない、と予測できたことになる。
――馬鹿な!
松尾は自分の疑いを否定した。勘繰り過ぎだと思う。だいたい、そんなことをして、三津田にとって何になるのか。桐原について話したかったのなら、そうした策を弄《ろう》さずとも、これまでに松尾と話す機会はいくらでもあったのに。
しかし、疑い出すと、三津田の言動でいくつか気になる点が思い出された。たとえ今夜のことは意図的なものでなく、偶然だったとしても。
一つは、知り合った直後、三津田が桐原の学生時代の生活について訊《き》いてきたことだ。東央大学時代、ガールフレンドか恋人がいなかっただろうか、と。高校のときなら、須ノ崎も電話で言ったように、桐原が郁美に密《ひそ》かに思いを寄せていたのに気づいていたが、大学へ行ってからの桐原に好きな女性がいたかどうか、交際していた女性がいたかどうか、松尾は知らない。桐原が郁美と交際し始めたのは、大学を卒業する間際か卒業してからだったようだし。東央大学は本郷、朋林大学は神田と、比較的近い。とはいえ、松尾が桐原と会うのは、須ノ崎や上京した館岡を交えて年に一、二回だった。だから、三津田には、大学が違ったのでわからない≠サう答えたのだが……。
もう一つは、そもそも三津田がなぜ桐原の講演を聴きに行ったのか、という点だ。
十三年前の一九八七年秋、全国紙の一つである中央日報が、銀座の中央日報会館で≪隣国、ソ連を知ろう≫の題目のもとに一つの催しを行なった。そこでは映画の上映なども行なわれたが、最大の呼び物は、二年間のモスクワ留学から帰国したばかりの新進気鋭の国際政治学者・桐原政彦による『ソ連の今を語る』という講演だった。
当時は、数年後にソ連邦という大国がこの地球上から消えるとは、たぶん世界の誰も予想していなかった。講演会から半年ほどした頃、もしかしたらソ連の社会主義体制は崩壊するかもしれない≠ニ桐原が言い出したときも、大方の識者には、若僧が何を戯言《たわごと》いっているのだと冷笑をもって迎えられたのだから。それはともかく、ソ連という巨大な社会主義国家は今後どのような方向に進むのか、と多くの日本人は強い興味と関心を持っていた。ゴルバチョフ大統領のペレストロイカ(改革・再編)やグラスノスチ(情報公開)は、実際にどのように行なわれているのか、日本との関係はどうなるのか、北方四島は果たして返還されるのか――。
だから、三津田が桐原の話を聴きに行っても不思議ではないが、松尾と知り合ってからの三津田は、桐原については尋ねても、ソ連について語ることはほとんどなかった。三津田は、中央日報の催しに行ったのは、実際にソ連を見てきたばかりの桐原の話を聴いてみたかったからだ、と松尾に言っていた。それなのに、四年後、ゴルバチョフが軟禁されたクーデター未遂事件やソ連邦の崩壊といった、まさに世界を揺るがすような大事件が起きても、それほど強い関心があるようには見えなかった。朝毎新聞の臨時特派員としてモスクワに行っていた著名作家の帰国報告会が中野公会堂で開かれたとき、近くですし行ってみませんかと松尾が誘っても、ぼくはいいから、松尾君、聴いてきたら、そう答えたぐらいで。
考えてみると、そうした点が松尾には引っ掛からないでもないのだった。
松尾とて、特にソ連に関心があったわけではない。三津田と知り合うきっかけになった中央日報の催しには、桐原に誘われたので行ったのである。
モスクワから帰った桐原から、数年ぶりに電話がかかってきて、
――館岡や須ノ崎も来るから、ぜひ聴きに来てくれよ。
と誘われたとき、松尾は、忙しいので都合がついたら行く、と答えた。
当時、松尾は、自らに課した戒めをまた[#「また」に傍点]破り、滝川ケイと半同棲《はんどうせい》に近い生活を送っていた。仕事は、文房具業界で出している新聞の記者である。忙しくなんかなかった。夕方講演を聴きに行く時間ぐらい、作ろうと思えばいくらでも作れた。が、館岡や須ノ崎に会いたいとは思わなかったし、ほとんど行く気はなかった。
ところが、郁美も来るかもしれない、と思ったことから迷い出した。そしてそんなことで迷う自分を、
――今更、郁美と顔を合わせたからといって何になるのだ。自分から別れておきながら、まだ郁美を忘れられないのか。まだ郁美に未練があるのか。
そう叱りつつ、結局、のこのこと銀座七丁目にある中央日報会館へ出かけた。べつにおれは郁美に会いたいわけじゃない、ソ連の動きに興味があるから桐原の話を聴きに行くのだ、としらじらしい言い訳を胸の内でつぶやきながら。
しかし、期待に反し、郁美には会えなかった。また、会場を探しても、館岡と須ノ崎の姿もなかった(二人とも行かなかったと後で聞いた)。
といって、帰ってしまうのも気が差したので、松尾は後ろのほうの席につき、中央日報外報部員によるソ連問題の概説や映画の上映が終わるのを待った。
桐原は最後に登壇した。
六、七年会っていなかったが、桐原の外見はそれほど変わっていなかった。少し肥って貫禄《かんろく》が出ただけで、ぎょろりとした目と彫りの深い顔は以前のままである。
モスクワへ留学する直前に東央大学助教授にはなっていたものの、一般にはほとんど無名と言ってよい。それにもかかわらず、中央日報の前宣伝が効いたのか、ソ連の動向に関心を抱く日本人が多いのか、さっきまで空いていた座席は完全に埋まっていた。
外報部長による、誉め過ぎとも言える紹介が終わり、いよいよ桐原が中央の演台まで進んだ。
場内はもう一度大きな拍手に包まれた。
その拍手がやむのを待って、
――ただいまご紹介にあずかりました桐原です。
桐原がにこやかに口を開いた。
ふだんから、いかつい顔に似合わず物腰のやわらかい男である。内に強い自信と鋼《はがね》の意志を秘めながら、八方美人的なところがあり、元々学者より政治家に向いていたのかもしれない。
――わたしは、二年間のモスクワ大学留学を終えて、先月、日本へ……。
桐原が本題に入った。
そのとき、松尾の右隣りに座っていた男が不意に胸をおさえて、前屈《まえかが》みになった。
松尾と同様に、気がなさそうにかたちだけ拍手していた男である。山羊鬚《やぎひげ》を生やしているものの、顔つきや肌は老人には見えない。松尾は人の年齢がよくわからないが、五十代後半ぐらいか。
男の座席は一番端で、右側は通路だ。
松尾は驚き、
――ど、どうしましたか?
と、男に顔を近づけて訊いた。
――く、くる、しい……。
男が切れぎれに答える。
――待ってください。救急車を呼んでもらいますから。
松尾は言うと、男が床に前のめりに落ちないように、椅子から離れて支えた。
そのまま斜めに顔を上げる。
前後の席の者も気づき、どうしたのかと訊いてきた。
急病らしいので救急車を呼んでほしい、と松尾は頼んだ。
――わたしが行ってきます。
二十歳前後のきびきびした感じの女性が飛び出して行く。
発作を起こした男はなおも苦しそうに胸を掻《か》きむしるが、松尾には男を抱きかかえている以外に何もできない。
ドアの外へ出て行った女性が、二、三分して、腕章を巻いた中年男と一緒に戻ってきた。消防署には他の者が連絡を取ったので、すぐに救急車が来るだろうという。
司会者も会場内で異変が起きたことを知ったらしい、
――気分の悪くなられた方がおられるようですので、このまま、しばらくお待ちください。
というアナウンスが聞こえた。
場内がちょっとざわめき、次いで潮が引いたように静かになる。
壇上の桐原がどうしているかは、松尾からは見えない。
救急車のサイレンの音が近づいてきた。
近くで停まった。
担架を持った救急隊員が駆け込んでくる。
その頃には男の発作はおさまって、だいぶ楽になったらしく、
――ご迷惑をかけて、すみません。
と、口がきけるようになっていた。
それでも、念のために病院へ行って診てもらったほうがいいだろうというので、彼は担架に乗せられ、運び出された。
そのとき、
――お連れの方がいたら、一緒に来てくれませんか。
救急隊員の一人が言ったが、そんな人はいそうにない。
仕方なく、松尾は男と一緒に救急車に乗り込んだ。
男は狭心症の発作だったらしい。
これまで一度もそれらしい兆候がなく、医師にかかっていなかったとかで、発作が起きたときに舌下に入れるニトログリセリンを携帯していなかったのだった。
男は、医師の診断と簡単な検査を受けただけで解放された。詳しい検査を後日する、という条件付きで。
男は三津田恵一と名乗った。
行き掛かり上、松尾は彼を中野の自宅まで送って行った。もう何でもないからもったいないと言うので、タクシーではなく、地下鉄で。
途中の電車の中で、三津田は三恵出版社という小さな出版社をやっていると話し、松尾には中央日報の関係者かと訊いた。
松尾は、違う、桐原の高校時代の友達だ、と答えた。
――えっ、あ、そうなんですか!
三津田がちょっとびっくりしたような顔をし、
――高校時代というと、大学は違うわけですか?
――違います。桐原は東央大ですが、ぼくは朋林大ですので。
――学部は?
――法学部です。彼は高校時代から優秀で……。
――いや、桐原さんではなく、松尾さんです。
――ああ、ぼくですか。ぼくは朋林大の文学部です。
――朋林大学の文学部……。
三津田が視線を止めてつぶやき、
――松尾何さんと言われますか?
松尾のフルネームを尋ねた。
――松尾辰之です。タツは辰年の辰、ユキは竜之介の之です。
――松尾辰之……。もしかして、松尾さんは学生時代、小説を書いていませんか?
今度は松尾が驚き、相手の顔を凝視した。
――書いていた?
――ええ、まあ……。
――もし人違いだったら、ごめんなさい。文芸界新人賞を受賞した『傷』という小説は松尾さんの作品では?
――『傷』は確かにぼくの書いた小説ですが、受賞作ではなく、佳作でした。
――ああ、そうだったかもしれません。ですが、あれは並の受賞作以上だった。ぼくはそう思った。経歴を見ると、まだ朋林大の学生だと書いてあったし、この人はいずれ必ず出てくる、という予感がした。それで、いつ出てくるか、いつ出てくるか、と文芸雑誌が発売されるたびに気にしていたんです。
だから、『傷』という題名と松尾という名前を憶《おぼ》えていたのだ、と三津田は言った。
そう言われても、松尾は戸惑いしか感じなかった。応《こた》えるべき言葉がない。ありがとうと言うのも変だし、かといって、初対面の相手に、四年間あがきつづけたが駄目だったと明かす気にもなれない。結局、彼は、事情があって、卒業以来、小説は書いていない≠ニ嘘をついた。
――そうですか。そりゃ、残念です。
三津田が応じた。
そのときはそれきりだった。
が、数日して、三津田に食事に招待され、何となく交際が始まると――交際といっても時々電話で話す程度だったが――彼は、また小説を書いたらどうか≠ニ松尾に勧めるようになった。昔自分も文学青年で、同人誌をやっていたことがあるが、才能がなくて諦めた、そんな自分から見ると、松尾の場合、何とももったいない感じがする、そう言うのである。
他の個人的な事柄にはまったくと言ってもいいほど触れないのに、この件だけは少ししつこいぐらいであった。
松尾は迷惑だった。余計なことである。
だから、彼は、何度目かのとき、誰に何と言われても自分は二度と小説を書くつもりはない、と少し強い調子で答えた。
以来、三津田はその件に触れなくなった。
三津田と知り合って一年半ほどした頃、松尾は業界紙の記者を辞めた。前から気に入らなかった上司と喧嘩《けんか》したのである。
しばらくして、三津田から電話がかかってきたとき、次の仕事を探しているところだと話すと、それならうちへ来るか、うちでアルバイトをしないか、と誘われた。
松尾は、三津田の出版社に就職する気はなかった。が、当面のアルバイトならやってもいいと思ったので、仕事の内容を尋ねた。
すると、三津田は自分から言い出しておきながら、説明を渋った。
――いや、そのアルバイトのほうの話はなかったことにしてください。
そう言われると、松尾は気になり、仕事の内容に問題があるのか、と訊いた。
――べつに問題というわけではないんですが……。
三津田の返事は煮え切らない。
――では……?
――すみません。松尾さんに対して失礼だと思ったものですから。
――ぼくに失礼?
――文芸界に作品が載った方に頼むような仕事じゃないんです。
――それなら、ぼくはまったくこだわっていません。前に言ったように、二度と小説を書く気はないんですから。
三津田は、どうすべきか、ちょっと思案しているようだった。
――どんな仕事か、話すだけでも話してくれませんか。
――そうですね。じゃ、聞いて、嫌だったら、はっきりとそう言ってください。
もとよりそのつもりだった。
――どんな仕事でしょう?
――うちで出している自叙伝を、本人に代わって書いていただく仕事です。
つまり、ゴーストライターである。
姿の見えない幽霊――。
まさに松尾にふさわしい仕事ではないか。
それに、三津田の申し出は、ずるずるとつづいている滝川ケイとの関係をきちんとさせろ、と促しているようにも思えた。ケイを自分の人生の道連れにして不幸にしないためにも。
ぜひやらせてくれ、と松尾は二つ返事で引き受けた。
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第二章[#「第二章」はゴシック体] 醜 聞
1
郁美は入口の石段の前で足を止め、緊張をほぐすために深呼吸した。
石段といっても、たった二段である。それに、鉄の小さな門扉。門扉には掛け金が付いているだけで、鍵《かぎ》はない。入口から玄関までの距離はわずか一メートルほどだった。
ブロック塀に囲まれた、建売りらしい小さな家である。
郁美は耳を澄ました。
家の中はひっそりとしていて、人の声も物音もしない。代わりに、自分の胸の鼓動が聞こえた。
――まだ、実家から帰っていないのだろうか。
郁美はそう思ったものの、とにかく門扉の掛け金を外して中へ入り、玄関前まで行ってインターホンのボタンを押した。
ドアの向こうでチャイムの鳴っているのが聞こえる。
二度ボタンを押して待つが、応答はない。
今日は五月二十九日(月曜日)。
夫の桐原政彦が幼女を車に引き入れて悪戯《いたずら》をしようとした、と東西テレビのワイドショーで報じられてから、ちょうど十日経っていた。
郁美は、四日前にも、ここ「被害者」の家を訪れていた。どうしたらいいのかとさんざん考えた末、勇気を振り絞って。
ところが、来てみたら、不在。隣りの家で尋ねると、「被害者」のYちゃんこと武宮|百合香《ゆりか》の母親はマスコミの取材に悩まされ、百合香を連れて福島の実家へ帰っている、という話だった。
――夜は灯《あか》りが点《つ》いているから、ご主人は残っていると思うけど。
隣家の主婦はそう答えてから、
――あなたも週刊誌かテレビ局の人?
と、興味をそそられたような目を郁美に向けてきた。
――いいえ、わたしは違います。武宮さんの知り合いです。
郁美は慌てて答え、主婦に礼を述べて、逃げるように隣家を出た。
ここは東京都北区西ヶ原。文京区本駒込の郁美の家とは、間に山手線を挟んで三、四キロしか離れていない。郁美は車の運転免許がないので地下鉄で来たが、車なら十分とかからないだろう。
「被害者」の幼女の氏名や住所は、テレビでも週刊誌でも報じられていない。郁美は夫から聞いたのである。訪ねてみるつもりだとは告げずに。
郁美は、少し間をおいて、もう一度チャイムを鳴らした。
やはり、応答はない。
もう実家から帰っているのではないかと思って来たのだが、まだなのかもしれない。あるいは、買い物か何かの用事で出かけたということも考えられる。
いずれにせよ、ここに立っているわけにはいかないので、明日また来てみよう、と郁美は思った。仕切り直し≠ヘ辛《つら》いが、やむをえない。
今回は先週の木曜日ほどではなかったものの、それでも緊張した。昨日の夕方から何度も胸がどきどきして苦しくなり、さっき十時過ぎに家を出て歩き出してからも顔に冷や汗が噴き出し、膝《ひざ》ががくがくした。
それは、当然と言えば当然かもしれない。多少なりとも重要な問題で郁美が誰にも頼らずに自分だけの頭で判断し、自分だけの意思で行動したのは、初めて……きちんと考えたことがないので郁美自身にもはっきりしないが、たぶん初めて、だったのだから。
結婚する前の郁美は、たいがいの選択、判断は、両親任せ、二人の兄任せだった。ピアノ、水泳、クラシックバレエなどの習い事をするとき、学習塾や進学塾を選ぶとき、高校、大学、さらには女子大卒業後、腰掛け的に勤める会社を決めるとき、と。桐原との結婚にしても、郁美はどうしようかと迷っていた。桐原に交際を申し込まれて何度か会ううちに、以前、松尾と付き合っていた頃に感じていた、怖いような近寄りがたい印象は薄れ、意外によく喋《しやべ》る、優しい人だなとは思った。とはいえ、好きだという気持ちは起きなかった。一緒にいるのは結構楽しかったものの、かつて松尾を愛したようには愛せなかった。そんな郁美の背中を、「学歴といい、将来性といい、結婚相手として申し分ないじゃないか」と父と母が強く押し、それによって郁美は桐原との結婚に踏み切ったのである。
そして、結婚後は、それまでの両親と兄たちの役割を桐原が担うようになった。つまり、大事な事柄の判断はたいてい夫の桐原がしてくれていたのだった。
郁美はドアの前を離れ、歩き出した。
門扉に手をかけて開けようとしたとき、
「はい」
と、背後から女性の声がした。
インターホンのスピーカーから流れてきたのである。
どこか怪しみ、警戒するような低い声だった。チャイムに対して応答するかどうか、迷っていたのかもしれない。
郁美は振り向くと、慌てて足を戻し、
「すみません」
と、インターホンに顔を近づけた。
胸の鼓動が内側から肋骨《ろつこつ》を打ち上げるように響き始めていた。
「どなたですか?」
家の中の女性が硬い調子を崩さずに訊《き》く。
「桐原と申します」
「桐原さん……?」
ぴんとこなかったのか、怪訝《けげん》な調子だ。
「お嬢さんの百合香ちゃんに悪戯をしようとした、とテレビや週刊誌で報じられた桐原政彦の妻です」
インターホンの向こうから、息を呑《の》んだような気配が伝わってきた。
「その件で、お母さんにお話を伺えたら、と……」
郁美はつづけた。
「姉はいません」
相手がぴしゃりと言った。硬い声に、さらに冷たさと怒りが加わったようだ。
「姉……?」
「百合香の母親はわたしの姉です。わたしは、姉に頼まれて、ちょっと家の様子を見に来ただけです」
「お姉さんは、いつお帰りに……」
「知りません」
「じゃ、今どこにおられるんでしょう?」
「そんなこと、あなたに教える必要はありません。お帰りください」
昔の郁美なら、たぶんここで引き下がっただろう。
が、現在の郁美は、香織、政弘という二人の子供の親になり、少しは強くも図々しくもなっていた。大事な判断は夫任せでも、いつも夫がそばにいるわけではない。郁美一人の力で子供たちを護《まも》ってやらなければならないときが幾度かあった。その経験が郁美を鍛え、同時に子供たちのためなら何でもできる≠ニいう自信を生んだ。今度、郁美が行動を起こせたのも、たぶんその自信のおかげであり、外部の理不尽な攻撃から何としても子供たちを護ってやらなければならない、と思ったからだった。
「まだ、ご実家なんでしょうか?」
郁美は食い下がった。
「ど、どうして、それを……!」
百合香の叔母《おば》だという女性が、驚いたように訊き返した。
「先週、伺ったときもお留守だったので、近所の方にお聞きしました」
「あなたの目的は何ですか? あなたは、いったい何のためにそんなことをしているんですか?」
咎《とが》める調子だった。
「どうしてもお姉さんにお会いし、お話を伺いたいんです」
「あなたたちは、まだ姉と百合香を苦しめようというんですか。百合香にあれだけ酷《ひど》いことをしておきながら、まだ足らないんですか? それで居直って、奥さんのあなたまで押しかけてきたんですか?」
「そうじゃありません。わたしはただお姉さんにお尋ねしたいんです。本当のことが知りたいんです。百合香ちゃんがお母さんにどう話したのか、テレビや週刊誌で報じられた百合香ちゃんのお母さんの談話≠ニいうのが本当にお姉さんの話されたことなのかどうか……」
「姉の談話は、もちろん姉が話したことです」
百合香の叔母がはっきりと言った。
「実際にお姉さんが口にされた言葉でも、適当に選んで組み立てれば、まったく別の意味になることもあります」
「そんなふうにはなっていません。少しは変えてあるかもしれませんが、内容はわたしが姉から聞いている話と同じです」
「ですが、夫は、薄暗くなりかけた公園で百合香ちゃんが迎えに来るはずのお母さんが来ないといって泣いていたので、車に乗せて交番へ連れて行こうとした、と言っています。そして、駆けつけた警官も百合香ちゃんのお母さんもその説明に納得した、と」
「出鱈目《でたらめ》です。あなたのご主人は、五歳の百合香がきちんと筋道を立てて話せないのをいいことに、嘘をついたんです。でも、警察は騙《だま》せても、姉は騙されません。姉は納得なんかしていません。頭の良いご主人の一方的な説明に警官までころりと騙されてしまったため、その場は仕方なく引き下がったと言っていました」
本当だろうか。本当に、百合香の母親は妹にそんなふうに言ったのだろうか。
「だいたい、百合香が泣いていたなんて、作り話に決まっています」
女性がつづけた。「姉は近くまで買い物に行っただけですし、姉の戻ってくるのが少しぐらい遅いからといって、百合香はメソメソするような弱虫じゃありません」
「百合香ちゃんが弱虫じゃなくても、一人で遊んでいるうちに薄暗くなり、なかなかお母さんが戻ってこないので心細くなって泣き出した、ということは充分に考えられると思いますが」
「考えられるからといって、そうだったわけじゃありません」
郁美は、相手の断定的な言い方に反発を感じた。
「どうして、そんなことが言えるのでしょうか?」
「百合香が言っているからです」
「泣いてなんかいなかった、と?」
「そのことは聞いていませんが、あなたのご主人のことです。百合香ははっきりと、知らないおじちゃんに無理やり車に乗せられた≠ニ姉に話しているんです」
郁美は信じられなかった。が、百合香の叔母が嘘をついているとも思えない。としたら、それは、母親の誘導尋問の結果ではないのか……。
郁美はそう思ったが、口には出さなかった。もしここで誘導尋問|云々《うんぬん》などと言えば、相手を怒らせて話を打ち切られてしまうにちがいない。そう考え、
「百合香ちゃんは誤解しているんじゃないでしょうか」
と、婉曲《えんきよく》に言った。
だが、結果は同じだったようだ。
「誤解ですって!」
百合香の叔母が金切り声を上げた。「よくもまあ、そんなことが言えるわね。百合香は……百合香は、今でも夜中に魘《うな》され、恐ろしがって泣き出すというのに……」涙声に変わり、途切れた。
郁美は、五歳の女の子が今でも魘されるという話に衝撃を受けた。脳裏に香織と政弘の四、五歳頃の姿が浮かんだ。
ただ、話は事実でも、それは、けっして百合香の誤解≠フ可能性を否定するものではない。百合香の叔母は、幼女の心に恐怖を刻印したのは夫の桐原だと決めつけているが、そうとは言えない。いや、桐原が子供に悪戯をしようとするわけはないのだから、その原因は別にあったと見るべきだろう。
郁美は、この点だけははっきりさせておかなければならないと思った。さもないと、相手の主張を認めたことになってしまう。
「お話のとおりなら、百合香ちゃんは可哀そうだと思います。でも、それは夫のせいでしょうか? 百合香ちゃんのお母さんは、百合香ちゃんが車で連れ去られるのではないかと思ったわけですから、恐怖に顔を引き攣《つ》らせ、大声で叫んだはずです。わたしが百合香ちゃんのお母さんの立場でも同じだったと思いますが、物凄《ものすご》い形相をして、百合香ちゃんのほうへ走り寄ったはずです。そのときのお母さんの様子と、その後の混乱と騒動が、百合香ちゃんの心に恐怖の記憶を刻み込んだのではないでしょうか?」
「まあ!」
相手が驚き、呆《あき》れたような声を発したかと思うと、「あなたは居直るんですか!」と叫んだ。
「居直るなんてとんでもありません。わたしはただ、もう一度冷静に考えてみていただきたいだけです」
「わたしたちが冷静に考えていないと言うんですか」
「失礼ですが、そうじゃありませんか。もしそうでなかったら、わたしの夫の立場を少しは考えてくださるはずです。善意から、百合香ちゃんを交番へ連れて行ってあげようとした夫だって被害者なんですから」
「あなたのご主人が被害者!」
「ええ、そうです」
「か、帰ってください!」
百合香の叔母が怒鳴った。「帰ってください。帰ってください」
「わかりました。それでは、また百合香ちゃんのお母さんが帰られた頃に……」
「いえ、もう二度と来ないでください。あなただって、お子さんがいるんじゃありませんか。それなら、いまだに怯《おび》えている百合香を見ている姉の気持ちがわかるでしょう」
「それはわかりますが……」
「でしたら、来ないでください。姉の前に顔を見せないでください。そうじゃなくても、姉は相当参って、精神が不安定になっているんです。もし、いまみたいなことをあなたが姉に向かって言ったら、姉は何をするかわかりません」
百合香の叔母は言うだけ言うと、郁美が呼びかけてももう返事をしなかった。
郁美は仕方なく、「失礼します」と言って玄関の前を離れた。
2
郁美は門扉を閉め、歩道に降りた。
駅へ向かって歩き出しても、胸の高鳴りがつづいていた。
武宮家から七、八十メートル離れ、T字路の角を右に折れたところで足をゆるめ、さりげなく二度、三度と深呼吸した。興奮が鎮まり始めた頭で、自分がいま取った行動は夫の無実を明らかにするのに何か役に立っただろうか、と自問する。
答えは否《ノー》だった。夢中だったので、自分が百合香の叔母にどう言ったのか、正確には憶《おぼ》えていないが、相手がこちらの言い分を冷静に聞いてくれた可能性がゼロに近いことだけは、はっきりしていた。
百合香の叔母の話と彼女が示した対応から推して、母親が実家から帰るのを待って会いに行っても、たぶん無駄だろう。
としたら、どうしたらいいのか、と郁美は思った。
わからない。
もしこのまま夫の容疑が晴れなかったら……と考えると、郁美は暗澹《あんたん》たる気持ちになった。自分たちの家族と家庭はどうなるのか。東央大学教授の椅子を捨てて政治家に転身した夫の将来はどうなるのか。東西テレビのワイドショーで「幼女悪戯未遂事件」が取り上げられた翌々日から学校へ行かなくなった香織は、どうなるのか。
今日、武宮家を訪ねる前の郁美は、百合香の母親に会えさえすれば、と希望を持っていた。
夫の桐原によれば、駆けつけた警官だけでなく、百合香の母親も桐原の説明に納得したはずだ、という。警察が事件として問題にしていない事実から見ても、これは間違いないと思われた。
その場合、テレビや週刊誌は興味本位に、あるいは意図的に、大袈裟《おおげさ》な報道をした可能性が高い。レポーターや記者は百合香の母親の話を勝手に組み立てなおし、趣旨をねじ曲げた疑いが濃い。それなら、百合香の母親と会って話せば、
――わたしは、テレビや週刊誌で報じられたようなことは言っていません。テレビや週刊誌の報道は、わたしの言ったこととだいぶ違います。
という言葉が聞けるのではないか、と郁美は思ったのだ。
ところが、百合香の叔母によると、百合香は無理やり桐原に車の中へ連れ込まれた≠ニ母親に話したらしい。そう思い込んでいるらしい。そして、母親も五歳の娘の言うことが事実だと信じているらしい。
百合香は、いつから、どうしてそのように思い込んだのか――。
郁美は、母親の不信と疑惑が先にあって、百合香の思い込みは母親の誘導尋問と無意識の強制の結果だったのではないか、と考えている。
しかし、それを証明するのは難しい。ましてや、百合香と母親にそれを認めさせ、前言を撤回させるのは不可能に近いだろう。
となると、桐原が名誉|毀損《きそん》でテレビ局と週刊誌を訴えた裁判もこじれそうだった。
いや、たとえ裁判に勝っても、問題は終わらない。裁判官が郁美と同じように考え、判断したとしても、桐原の疑惑が百パーセント晴れることはない。彼に無理やり車に引きずり込まれたと思い込んでいる「被害者」がいるかぎりは。
では、桐原の疑惑を完全に晴らす方法はあるのか。百合香の言葉を借りずに、夫を灰色のインク壺《つぼ》から救い出し、純白であることを示す方法はあるのか。
もしかしたらあるのかもしれないが、郁美には思いつかなかった。
車が一方通行になっている道を入り、飛鳥公園の横まで来た。先週の木曜日に次いで二度目である。何回通ったところで新しい発見があるとは思えなかったし、事態が変わるわけでもなかったが、遠回りしたのだ。
公園は、高さ四、五十センチの低い石垣《いしがき》と、やはり低く刈り込まれた郁美の知らない照葉樹の生垣に囲まれていた。広さは三百坪ほどか。小さな公園である。それでも、園内にはプラタナス、つつじ、紫陽花《あじさい》などの樹木が植えられ、トイレ、鉄棒、ブランコ、滑り台などがあった。桐原が車を停めていたという公園脇の道は幅五メートル前後。公園の側には歩道がないが、反対側、住宅の塀や生垣がつづく側にはガードレールで仕切られた歩道が付いていた。
前から自転車に乗った人が来るし、宅配便の小型トラックも郁美を追い越して行った。が、通行量の多い道ではないようだ。反対側の家々もひっそりとしている。夕方の七時前という時刻なら、人や車の動きが今よりはあったと思われるのに、偶然途絶えたときだったのか、夫が百合香を車に乗せたときの目撃者はいないらしい。夫は気づかなかったと言っているし、少なくともこれまでのところ見た≠ニ名乗り出た者はいない。もしいれば、夫が幼女を車に引きずり込んでなんかいない、とわかったはずなのに。
郁美は足を止め、
――それにしても……。
と、思う。夫とここで会う約束だった人はどうして何も言ってくれないのだろうか。もしその男の人が名乗り出て、確かに桐原と七時に飛鳥公園脇で待ち合わせた≠ニ証言してくれれば、それは夫の無実を裏づける有力な材料になるはずなのに。なぜなら、人と待ち合わせた人間が待ち合わせた場所で約束の十分前に幼女に悪戯をしようとしたとは、常識的に見て考えられないから。
しかし、郁美がそう思っても、男は名乗り出ないだけでなく、夫の桐原にも連絡がないらしい。
桐原は、十五日の七時頃、男は飛鳥公園へ来たはずだ、という。来たものの、思わぬ騒動が起きているのを見て、関わり合いになるのを嫌い、黙って帰ってしまったのではないか、と。だから、その後、自分に連絡もよこさないのではないか――。
たぶんそのとおりだろう、と郁美も思う。他に男の態度が説明できそうにない。
桐原は、警察やマスコミには、相手に迷惑をかけたら悪いので、会う約束だった人の名は言えない≠ニ話していた。ところが、郁美には、実は、電話の声と話し方から五、六十代の男ではないかと思われるだけで、名前も素性もわからない。そんな名前も知らない相手と会う約束をしたなどと言えば、怪しまれそうだったので、駆けつけた警官に最初に訊《き》かれたとき、つい相手に迷惑をかけたら云々と答えてしまったのだ≠ニ言った。
この説明を聞いたとき、郁美は、もしかしたら夫は男の名前と素性を自分に知られたくないので嘘をついているのではないか、と疑った。が、もし男の素性がわかっているなら、夫はすぐにも相手と連絡を取って証言を頼むはずだろう、そう思い返し、自分の疑いを解いた。
桐原によれば、今月十二日の午後、男は千代田区にある政友党本部に電話してきて、どうしても会って話したいことがある、と言ったのだという。当然ながら、桐原は、相手の氏名と用件を尋ねた。それがわからないでは会うわけにいかない、と言って。しかし、男は、桐原に危害を加えることは絶対にない、桐原にとっても政友党にとっても非常に重要な用件なので来ないと後悔する、十五日の午後七時に北区西ヶ原の飛鳥公園脇へ必ず来るように――そう一方的に言って、電話を切った。
桐原は、初めは行くつもりがなかったが、次第に迷い出した。どんな話かと気になり出した。男の指定した飛鳥公園を区分|地図帖《ちずちよう》で調べてみたところ、自宅からそれほど離れていない。近くを通ったことがあったから、行けばすぐにわかりそうだ。午後七時なら、まだ薄暗くなりかけた頃なので、危険もないにちがいない。桐原はそう思い、十五日(月曜日)の朝には、夜の予定が入らなかったら行ってみようと決めた。そして夕方六時過ぎ、時間に余裕を持たせて、党本部地下の駐車場から通勤用に使っている白いジュピターを乗り出し、飛鳥公園へ向かった――。
一部のマスコミは、桐原の話した男など存在しないのではないか、彼が誰かと会うために飛鳥公園へ行ったというのは嘘ではないか、と疑っていた。もし彼の話のとおりなら、相手が名乗り出ないのはおかしい、というのである。
だが、郁美は桐原を信じているし、彼の話を信じている。誰かと待ち合わせでもしなかったら、桐原が飛鳥公園へなど行くわけがない。桐原を疑っている者たちは、ひとり遊びしている幼女を狙って行ったのだろうと言いたいらしいが、笑止の沙汰《さた》である。
桐原と結婚して十七年、郁美は夫が幼女に特別の興味を持っていると感じたことはただの一度もない。もしそうした異常性愛の傾向があれば、たとえ自分の娘でも、香織が幼かったときに何らかの兆候が見られてもおかしくないはずなのに。
また、桐原は非常に慎重で理性的な人間である。常に結果を予測したうえで行動する。一時の感情に流されたりしない。だから、仮に……絶対にそんなことはありえないが、仮に彼に幼女|嗜好《しこう》の傾向があったとしても、夕方の七時という時刻に、住宅の建ち並んでいるこんな場所で、将来を台無しにしてしまうかもしれない行動を取るわけがない。
郁美は首を振って、歩き出した。
しかし、不安が軽減したわけではない。自分が夫の無実を信じていても、このまま男が何も言ってこなかったらどうなるのか、そう考えるとむしろ不安はふくらむばかりだった。
東西テレビのワイドショーに取り上げられてから今日で十日。この間に別の二つのテレビ局と四つの週刊誌で報道され、桐原の「幼女|悪戯《いたずら》未遂事件」は濃い灰色に塗りこめられていた。
政友党は、〈警察が桐原の説明に納得して犯罪の疑いなしと判断したのに、彼が幼女を悪戯しようとしたかのように報道するのは許せない〉という声明を発表し、この件を取り上げたマスコミ各社に抗議した。同時に、こうした意図的とも思える好《い》い加減な報道をこれ以上つづけるなら、党として断固たる対抗手段を採らざるをえない、そう警告した。要するに、今のところ、桐原を庇《かば》う姿勢を見せている。
だが、今後どうなるかはわからない。桐原を政友党の顔として売り出すのは党のイメージダウンになり、得策ではない、とトップが判断すれば、切り捨てられ、衆議院議員選挙の立候補予定者から外されるだろう。そうなれば、何のために東央大学教授の地位を捨てたのか、わからなくなる。
郁美は、桐原が国会議員になんかならなくたってかまわない。桐原は、政友党が政権を獲得した暁には外務大臣の椅子を約束されているらしいが、大臣になんかならなくたっていい。東央大学へ戻るのが無理なら、地方の小さな大学に就職したっていい。家族四人、仲良く平和に暮らせるなら。
ただ、今後どうなろうと、桐原の潔白だけは証明しなければならない。さもないと、彼はこれから死ぬまで、幼女に悪戯をしようとした犯罪者、異常性欲者ではないかといった疑惑の目で見られる。それは、桐原自身はもとより郁美たち家族だって耐えられない。
家族の受難はすでに始まっている。長男の政弘はまだ小学校四年生なので、何も知らずに学校へ行っているが、私立の女子中学二年生の香織は、東西テレビのワイドショーで取り上げられた翌々日から学校へ行かなくなった。友達が自分のほうを見て、こそこそ噂し合っている、と言って。
――お父さんは、泣いていた女の子を交番へ連れて行ってあげようとしただけなのよ。何一つ悪いことなんかしてないのよ。あなたは、自分のお父さんを信じられないの?
郁美がそう言って励まし、何とか学校へ行かせようとしても、香織は、
――わたしは信じているわ。わたしは信じているけど、お友達はお父さんのこと知らないもの。
と、言うのだった。
郁美が都立駒込病院の近くの家へ帰ったとき、香織は二階の自分の部屋にいた。階段の下から「ただいま」と声をかけたのに、降りてこない。出かけるときと同じだ。
が、ラップをかけてダイニングテーブルに置いて行った手製のショートケーキが消えていたから、部屋に籠《こも》り切りだったわけではないらしい。
郁美はいくぶんほっとして、テーブルにショルダーバッグを置き、冷蔵庫からペットボトルを出して水を飲んだ。
居間へ戻ると、電話機の赤い光が点滅し、留守中に二件の電話があったことを教えていた。
電話台に寄り、留守録を聴いた。
一件は郁美の母からだった。
定年退職した父と二人で湯河原に住んでいる母は、桐原の件が報じられてから毎日のように電話してくる。
最初のときは、郁美は母の声を聞いただけで泣き出してしまい、何をどう言ったか憶えていない。が、二度目からは桐原に言われたとおり、一部のマスコミが意図的に流していることで、まともな人間は相手にしていないから心配しないように、そう答えていた。香織が登校拒否になったとき、郁美は両親に相談したかった。が、余計な心配をさせるだけだから明かさないほうがいいと桐原が言うので、話していない。
母の後にかけてきていたのは、女子大時代の同級生だった。同級生といっても、卒業後はほとんど交流がなく、電話で話したのも二、三回あるかないかという人だ。
相手は、「神山です。お久しぶりだけど、お元気かしら? またお電話します」と言っていた。たぶん、テレビか週刊誌を見て、郁美の様子を探るために電話をかけてきたのだろう。
桐原の「事件」がマスコミに取り上げられてから、桐原宛の電話はもとより、郁美の友人、知人たちからの電話も急に増えた。大半は明らかに好奇心に突き動かされて……といった電話だ。いかにも深刻げに、あるいは同情たっぷりな感じで相槌《あいづち》を打ち、「御主人のこと、わたしも信じているわ。頑張って」などと言っても、その声には隠しようのない喜びが溢《あふ》れていた。これまで、郁美は友人、知人たちの羨望《せんぼう》の的だった。なにしろ、夫は三十代で東央大学教授になり、ソ連が崩壊した後はマスコミに引っ張りだこの有名人だったのだから。多くの友人、知人たちの現在の反応は、その反動と言えるかもしれない。誰かが言ったように、〈他人の幸せは自分の不幸、他人の不幸は自分の幸せ〉だということが、郁美はつくづくわかった。もっとも、少数ながら、本気で心配してくれている者もあり、そうした友人や知人に出会うと、郁美は涙がにじんだ。
郁美は、香織を呼びに行く前に、自分の部屋へ行き、着替えをした。
ドレッサーの前に立ち、驚いた。
目に不安と怯えの翳《かげ》を宿した、強張《こわば》った表情の女がいた。皮膚に艶《つや》がなく、その下に半病人のような疲れが沈んでいる。他人に興味を持つ小説家でも見れば、
――この女に何があったのか、女の胸の奥には何があるのか?
と詮索《せんさく》したくなるかもしれない。
自分はこんな顔をして電車に乗り、街を歩いてきたのか、と郁美はショックだった。自分では、いつもと変わらない顔をしていると思っていたのに。
香織と政弘にはこんな顔は見せられない。絶対に。
郁美はそう思うと、頬を両手で擦《こす》り、鏡を見ながらできるかぎり明るい顔を作ってから、部屋を出た。
殊更に軽い調子でとんとんと階段を上り、途中で上に向かって言った。
「香織、降りてらっしゃい。一緒にお紅茶でも飲みましょう」
3
夫の桐原は、自分を飛鳥公園へ呼び出した男はいずれまた電話してくるにちがいない、そのときは会って証言を頼む、そう言っていたが、男からの連絡はないまま月が替わった。
香織は学校へ行こうとしないばかりでなく、食事にも降りてこなくなった。
郁美がどうしたらいいかわからず桐原に相談しても、彼は、いまに自分を陥れた者たちの意図を粉砕し、事実を明らかにして見せる、そうすれば香織はまた登校するようになるから、あまり心配しないでしばらくそっとしておくように、と言う。
しかし、郁美は、事はそう簡単には運ばないように思えた。桐原には話していないが、武宮百合香が彼に無理やり車に引き込まれたと思い込み、怯《おび》えている、という百合香の叔母《おば》の話を聞いていたから。桐原の言うとおり、彼を陥れようとした者たちがいたのは確かなように思える。といって、百合香の母親の談話は、彼らが捏造《ねつぞう》したものではなかった。彼女の談話には誤解があるものの、報道は事実に近い。テレビのレポーターや週刊誌の記者は、警察の判断を無視しただけで、百合香の母親の話をねじ曲げたわけではない。
政友党だって、そうした事実関係は真っ先に調べたはずである。としたら、桐原も知っているのではないか。
もし郁美の想像どおりなら、彼はすべて承知していながら、郁美の不安を和らげるために心配ない≠ニ言っているのかもしれない。
六月も二週目に入り、テレビや週刊誌の騒ぎがだいぶ収まった。といって、桐原の提訴や政友党の抗議が効いたからではなく、材料《ネタ》の新鮮さの薄れたことが最大の要因らしい。いずれ総選挙が近づけば、騒ぎが蒸し返されるのは火を見るより明らかだった。
香織の登校拒否は相変わらずつづいていたし、郁美は、桐原の潔白を証明する以外に完全な解決はない、との思いをいっそう強めた。
しかし、その方法については、考えに考えてきたにもかかわらず、妙案は浮かばなかった。
郁美は、誰かの力を借りることはできないだろうか、と思った。その場合、親身になって心配してくれている人がベストだが、知人、友人の中に適当な人がいなければ、信用の置ける私立探偵を雇ってもいい。どちらにしても金がかかるだろうが、郁美名義の蓄えが二百万円ほどあるので、何とかなる。
そう考えて、郁美が信用できそうな友人、知人たちの顔を思い浮かべているとき、事態がさらに悪化するようなことが起きた。
樹林書房という中堅出版社の出している週刊誌「週刊エポック」が、警視庁の元警官Qと称する男の談話として、次のような内容の記事を載せたのだ。
〈一九七七年(昭和五二)の春から夏にかけて、渋谷・新宿両区内で幼女に対する悪戯《いたずら》事件が頻発した。そのとき、自分は、当時東央大学法学部三年だった桐原政彦をマークし、彼の犯行の証拠をつかもうと内偵を進めていた。ところが、同年七月、二十歳の予備校生が容疑者として逮捕され、無実を叫びながら警察の留置場で自殺。抗議の自殺ではないかと言われたが、彼の逮捕・死とともに犯行が終息したため、桐原に対してはどうすることもできなかった。しかし、自分の中には今でも桐原がやったのではないかという疑いが残っている〉
この談話の意図は明らかだった。
それを読んだ者は、おそらく十人中九人までが、
〈桐原には、幼女|嗜好《しこう》の変態性欲と実際に幼女に悪戯をした前科≠ェあったらしい。それなら、今度だって悪戯をしようとして幼女を車に引きずり込んでもおかしくない。彼は嘘をついているにちがいない〉
そう思うだろうからだ。
一九七七年なら、二十三年前。春から夏にかけてといえば、郁美はまだ松尾と交際していた頃である。松尾を愛し、彼も自分を心から愛してくれていると信じ切っていた頃だ。それから間もなく、松尾は突然自分は生涯誰とも結婚しないことに決めたから≠ニ言い出し、彼女から去って行った。郁美にはいまだに何がなんだかわけがわからないのだが……。それはともかく、当時の郁美は、桐原に対して全然関心がなかった。高校時代、松尾や須ノ崎より三、四歳は上に見えた、良く言えば落ちついた、悪く言えばひねた顔は憶《おぼ》えていたが、彼が高校を卒業してから会ったこともない。こうと決めたら一直線の物凄《ものすご》い頑張り屋だ≠ニ松尾から聞いていた話と、傲慢《ごうまん》そうに見えるぎょろりとした大きな目から、近づきがたく、怖いような印象を抱いていただけである。だから、その頃の桐原がいかなる考えを持ってどのような生活を送っていたのか、郁美は知らない。彼に連続幼女悪戯事件との関わりを疑われるようなことがあったのかどうかもわからない。
だが、郁美は、桐原の妻として十七年間一緒に暮らしてきた。二十三年前の桐原については何も知らなくても、彼の性的好みなどはわかっている。その彼女から見て、彼に幼女に対する特別な嗜好があったとは思えない。
とすれば、Qの談話≠ヘ出鱈目《でたらめ》としか考えようがなかった。
――なんて卑劣なまねをするのだろう!
そう思い、郁美は激しい怒りに頭がくらくらした。Qの正体がわかれば、自宅でも職場でも怒鳴り込んで行きたかった。
桐原が学者から政治家へ転身を決めたとき、これからは何かときみや子供たちにも苦労と迷惑をかけることになるだろう、と郁美に言った。誹謗《ひぼう》、中傷され、嫌な思いをすることも少なくないかもしれないが、辛抱してほしい、と。だから、郁美は、ある程度は覚悟していた。少々のことでは動揺しないようにしよう、自分が香織と政弘の防波堤になろう、と心の準備をしていた。しかし、今度の件ではそうした心構えも無力だった。これほど卑劣な策を弄《ろう》してくる者がいようとは想像できなかったからだ。
当然ながら、桐原は、郁美にもマスコミの取材に対しても、Qなる人物の談話は事実無根である≠ニ断言した。同時に、樹林書房と週刊エポックの編集長に抗議文を送り、
――Qの談話なるものが虚偽であることを認め、謝罪せよ。Qなる元警視庁警官が実在するなら、氏名を明らかにせよ。
と、迫った。
しかし、彼の抗議に対して、週刊エポックの編集長は次のように述べ、逃げた。
――Q氏の談話は非常に具体的であり、われわれは事実であると信じている。もちろんQ氏は実在するが、公務上知り得た事実を明かしたということで罪に問われるおそれがあるので、氏名は公表できない。
週刊エポック以外のいくつかの週刊誌やテレビも、少なくとも、二十三年前にQ氏の言ったような事件が起きているのは事実である≠ニ報じた。
それらによると、
〈一九七七年の三月から七月にかけて、渋谷区内と新宿区内で四歳から七歳までの幼女が物陰に引き込まれて悪戯される、あるいは悪戯されそうになった、という事件が七件起きた。が、七月十三日に二十歳の予備校生Kが逮捕されると、事件の発生がピタリと止《や》んだ。そのため、警察はKに対する容疑をいっそう強めたが、同月二十九日、Kは容疑を否認したまま留置場で首を吊って自殺。捜査の責任者は不当な取り調べはしていないと弁明したものの、Kは警察に抗議して自殺したのではないかと当時の新聞やテレビで報じられた〉
二十三年前、Qの言ったような連続幼女悪戯事件が起きていたからといって、週刊エポックの記事が事実だと裏付けられたわけではない。事件は当時の新聞に大きく報じられているので、それらを元にQの談話≠捏造《ねつぞう》するのは容易である。
桐原は、マスコミの取材に対し、
――自分は二十三年前の連続幼女悪戯事件とは関係ないし、参考人として警察に事情を聞かれたこともない。週刊エポックの一方的な報道には強い憤りを感じる。本当にQなる元警官が存在するなら、ぜひとも会いたい。第三者の前で対決し、どちらの言っていることが正しいかをはっきりさせたい。
と、述べた。
しかし、週刊エポックは、会見の必要を認めないと返答してきた。理由は、Qは個人的に桐原をマークしていただけなので、上司も同僚もQの行動には気づいていなかった、だから、Qと桐原が会ったところで、水掛け論になるだけだ、というのである。
政友党は、桐原の抗議行動に並行して、Qなる元警官が実在するかどうか、Qの談話なるものが正しいかどうか、という二点に関して警視庁に調査を求めていた。
その回答は、〈二点ともはっきりしない〉というものだった。
回答が言うには、連続幼女悪戯事件の捜査線上に東央大生・桐原政彦なる人物が上ってきた形跡はない、だが、誰かが捜査本部と関係なく秘密裏に捜査していた場合、その警官の氏名や行動は突き止めようがない――。
要するに、週刊エポックあるいはQの奸計《かんけい》は、けっして尻尾《しつぽ》をつかまれないように、巧妙に仕組まれていたのだった。
郁美は、あらためて、桐原の疑惑を晴らすにはどうしたらいいのか、と考えた。
Qに対する桐原の会見申し入れを週刊エポックが拒否したことにより、Qなる人物の存在とその談話がかなり怪しいものだと多くの人々が感じたのは間違いない。といって、彼らの奸計によって一度灰色に染められた桐原から色が消えたわけではなかった。その灰色を完全に消さないことには、香織を登校拒否から立ち直らせ、元の平和な家庭を取り戻すのは難しい。
桐原は、政友党の顧問弁護士は非常に優秀だから任せておけばいい、疑惑は晴れる、いや、必ず晴らす、と言う。
しかし、彼には、解決の確実な見通しがあるわけでないことは、その表情を見れば明らかだった。郁美には見せまいとしているようだが、時々意思を裏切って、闇のように暗い翳《かげ》が目の中をよぎった。郁美が話しているときなど、意識が別のところへ飛んでいるのか、苦渋に満ちた顔つきで、放心したような視線を宙に向けているときもあった。
桐原はけっして弱音を吐かず、妻の郁美にさえ心の奥を覗《のぞ》かせないところがある。そのため、郁美はこれまで幾度となく、夫が何を考えているのか、どう思っているのか、はっきりしないもどかしさを感じてきた。だが、今度ばかりは少し違っていた。妻に弱さを見せまいとしている点は同じだが、それを隠し切る余裕が失われているように見えた。
人の何倍もの努力を重ねた結果とはいえ、これまでの桐原の人生は順調そのものだった。挫折《ざせつ》らしい挫折をせず、とんとん拍子にエリートの階段を駆け上ってきた。それだけに、今度の経験は、彼が自分で意識している以上に応《こた》えているのかもしれない。あまり眠れないらしく、先日は医師に催眠剤を処方してもらってきた。
郁美は不安だった。このまま夫の疑惑が晴れなかったらと思うと、居ても立ってもいられない焦燥を覚えた。もちろん桐原本人のことも心配だが、郁美は彼以上に香織と政弘が心配だった。二人の子供たちの問題により心を砕いた。香織が再び学校へ行ける日がくるだろうか。政弘が今のまま、何も知らずに登校がつづけられるだろうか。いや、学校の問題だけなら、いい。何とかなるだろう。問題は、二人の将来、長い一生だった。二人とも、これまで何一つ苦労らしい苦労を知らずにきた。自分の力で困難らしい困難を乗り越えたこともない。かつての郁美がそうだったように。そんな二人が、〈卑劣で破廉恥な幼女|悪戯《いたずら》犯人の子供〉というレッテルを貼られ、果たして生きてゆけるだろうか……。
郁美は、やはり、夫と夫の弁護士だけに任せておくわけにはゆかない、と思った。何もせず、ただ朗報を待っているのは耐えられない。
では、どうしたらいいのか。
前に考えた私立探偵に依頼するという方法が頭に浮かんだ。信用の置ける私立探偵を雇い、桐原を飛鳥公園脇へ呼び出した男を捜し出すのだ。
男を見つけ、七時に桐原と会う約束だった≠ニいう証言を引き出せたとしても、桐原の潔白を百パーセント証明したことにはならないだろう。が、「被害者」武宮百合香の思い込みを撤回させられれば別だが、それがほとんど不可能な現在、それ以上に有効な手段を郁美は思いつかない。
問題は、信用の置ける私立探偵をどうやって見つけるか、である。小説やテレビドラマには、秘密を打ち明けた依頼者を脅す悪質な私立探偵や興信所員がしばしば登場する。現実は小説やドラマとは違うだろうが、だからといって、電話帳で見ただけの相手に大事な問題を相談する気にはなれない。
桐原の弁護士なら、適当な探偵を知っているかもしれないが、桐原に話せば、結果はわかっている。探偵を雇うなんてやめろ、と言われるに決まっている。
郁美の脳裏に、ふっと松尾辰之の顔と姿が浮かんだ。
二十三年前の夏休みも間もなく終わろうというとき、突然、生涯、誰とも結婚しないつもりだから≠ニ別れを告げられて以来、郁美は松尾と一度も会っていない。だから、彼女の記憶にある松尾はまだ青年のままだ。目尻《めじり》が少し下がった優しい顔……。美男子とはいえないが、邪心のない清々しさがあった。
郁美は、胸のあたりがざわめき、呼吸が速まるのを感じた。
自分は、いったい何を考えているのだろう。二十年以上も会っていない松尾に相談できるわけがないのに……と、我ながらちょっと呆《あき》れた。
しかし、郁美はすぐに、でも……と胸の内でつぶやく。松尾なら、親身になって相談に乗ってくれるのではないか。自分の力になってくれるのではないか。必ず力になってくれるにちがいない。何年会っていなくても、自分にはわかる。松尾なら、信用の置ける私立探偵を探す件だけでなく、郁美と郁美の家族が直面している問題そのものについても郁美の話を聞き、一緒に考えてくれるだろう。
いや、やはり、松尾に相談するなんて、できない。できるわけがない。そんなこと、できるわけがないではないか。
そう思いながらも、郁美はなおも松尾のことを考えている。
もう数年前になるが、桐原は地下鉄の駅で松尾に偶然出会ったとかで、
――松尾は作家になりそこねて、ゴーストライターをやっているよ。
と、郁美に伝えた。
ゴーストライターと聞いても、郁美はいま一つぴんとこなかった。意味はわかったものの、どういう人の影の筆者≠務めているのかまでは想像がつかなかった。ただ、そう言ったときの桐原の口調に侮蔑《ぶべつ》的な響きがあったのだけは、今でも憶えている。
桐原と松尾は、それまでしばらく交遊が途絶えていたが、その出会いを機に再び電話のやり取りぐらいはするようになったらしい。そのため、いかなる理由、事情からかはわからないが、松尾が独身を通している、と郁美は知った。
これは、もうだいぶ前の話である。だから、松尾が現在も青梅に独りで住み、ゴーストライターをつづけているとはかぎらない。が、その後、松尾の住所や仕事が変わったと桐原は言わないから、元のままかもしれなかった。
郁美は、松尾に相談するかどうかは後でまた考えることにして、とにかく彼の電話番号を調べてみよう、と思った。
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第三章[#「第三章」はゴシック体] 暗 合
1
武田輝久が、エルナンデス党首と握手しながら、二人がともに二十一世紀元年である来年、年男であることを強調した。二十一世紀が自分たちの世紀だとでも言うかのように、下手な英語で。
桐原政彦は、エルナンデスの浅黒い精悍《せいかん》な顔ににこやかに笑いかけながら、自分の横に立った肥った男については、
――ろくに英語も喋《しやべ》れないくせに。
と、腹の中で馬鹿にしていた。
さっき応接室で、エルナンデスが来年四十八歳になるという話になったとき、武田はここぞとばかりに自分も同年であると言い出し、年男、十二支、巳年《みどし》といった言葉を説明しようとした。とはいえ、彼の英語力では十二支の説明は無理で、桐原が助け船を出してやったのだ。
エルナンデスは、次期大統領の椅子が有望視されている、フィリピンの野党第一党・改革民主党の党首である。日本の政・財界人とのパイプ作りのために、党幹部二人とともに先週来日し、今日、六月十九日(月曜日)の午後、政友党本部を訪れた。彼を迎えた政友党側のメンバーは、党代表の畑中幸太郎、副代表の芦田一郎、幹事長の早乙女慎悟ら。日本とフィリピン、さらにはアジアと世界の政治情勢、経済情勢について、一時間ほど意見を交わした。そしていま、会談が終わり、同席していた幹事長代理の武田と国際局長の桐原が、一行五人を見送るために、エレベーターで玄関まで降りてきたところだった。
エルナンデスが、武田から桐原のほうへ身体を向け、
「ジュウニシ・ストーリー、ベリーインタレスティング。サンキュー」
と言って、右手を差し出した。
桐原はそれを握り、来年が本当に貴党首の年になるように祈っています、と英語で言った。
エルナンデスが、ミスター・キリハラ、ぜひフィリピンへ来てくださいと言ってから、申し訳のように、ミスター・タケダも、と付け加えた。
彼らが握手を交わしている玄関ポーチの外には雨が降っていた。
午前中より勢いが弱くなったようだから、夕方頃には止むかもしれない。
エルナンデスが車のほうへ歩き出すと、桐原たちと一緒に見送りに出ていた政友党の事務職員が彼の頭上に傘を差し掛けた。車は、黒塗りのクラウンが二台、地下の駐車場から出て、待っていた。
エルナンデスと彼の秘書が前の車に、他の三人が後ろの車に乗り込んだ。
桐原と武田らが軽く頭を下げて目礼する前を、片手を上げたエルナンデスを乗せた車がゆっくりと発進した。
桐原たちは、後の車が日本テレビ通りに出て麹町《こうじまち》方面へ左折するのを待って、踵《きびす》を返した。
政友党本部は、ここ千代田区四番町にあった。JRと地下鉄の市ヶ谷駅から南へ歩いて六、七分、新坂を登って左へ入ったところである。現在の建物が狭くて老朽化したため、来年、十一階建てビルに建て替えられる予定になっていた。
桐原たちはガラスドアを押して玄関の中へ戻った。
右手が受付で、左手が守衛室だ。
特別な客を除いて、来訪者は受付で氏名と身分、用件を明らかにし、番号札をもらって胸に付けなければ中へ入れない。
桐原は、武田とともに自動ドアを抜けた。棕櫚《しゆろ》の鉢植えが一つ置かれただけの狭いロビーへ入り、エレベーターに乗った。
国際局の部屋は四階、幹事長代理の部屋は五階だが、二人とも途中でエレベーターを降りずに最上階の六階まで昇り、代表室の隣りにある貴賓用の応接室へ戻った。
エルナンデス一行との会談は、ここで行なわれたのである。
副代表の芦田は用事があって出かけたようだが、代表の畑中と幹事長の早乙女が待っていた。
「帰られました」
武田が言うと、革張りの大きな椅子に掛けて、パイプを掌《たなごころ》の中であそばせていた畑中が、
「ご苦労さん」
と、鷹揚《おうよう》に応《こた》えた。
畑中は七十四歳。明治の元勲の孫という血筋も手伝ってか、党内ではカリスマ的な存在で、長い間政友党の顔≠ナもあった。和食よりもバター臭い洋食が、魚よりも肉が好きという精力的な男で、艶々《つやつや》した赤ら顔はもう十年ぐらいは現役で頑張れるのではないか、と思わせた。
畑中の左側、腹の前で両手を組んで座っている早乙女は五十九歳。背の高い、痩《や》せた男である。畑中の後継は彼でほぼ決まりだと言われているが、体形に似て線が細く、また病弱でもあった。そのためだろう、畑中は、自分の目が黒いうちに早乙女の次≠固めておこうとしているらしかった。
早乙女が、桐原たちに目顔で掛けるように促した。組んでいた手を解き、両腕を肘掛《ひじか》けの上に移した。そうでなくても陰気な顔が、苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したようだ。
一方、畑中はというと、何事もないかのように悠然とパイプをくゆらせていた。
桐原と武田は、マホガニーの大きなテーブルを挟んで、彼らの前に腰を下ろした。さっきエルナンデスたちの座っていた位置だ。
早乙女の苦々しい顔を見る前から、桐原には何の話かわかっていた。エルナンデス一行を送った後、ここへ戻るようにと言われたときから。
桐原たちが腰を落ちつけるのを待ち、
「その後、秋庭さんから新しい報告が入ったかね?」
早乙女が桐原に向かって訊《き》いた。
予想したとおりだった。
「先週の金曜日、幹事長にお話ししてからはありません」
と、桐原は答えた。
秋庭佑介は、政友党の法律顧問をしている麹町第一法律事務所の弁護士である。東西テレビを名誉|毀損《きそん》で訴えた桐原の件を担当し、現在は、彼の代理人として、週刊エポックにQなる元警官の氏名を明らかにするように要求していた。
「じゃ、まだ、Qなる人物はわからないわけか」
桐原は、ええと答えながら、
――ひょっとしたら、それはおれの横にいる男ではないか。
と、肉饅《にくまん》に髭《ひげ》が生えたような武田の横顔をちらっと盗み見た。本気でそう考えたわけではないが、現在の状況を一番喜んでいるのは武田ではないか、と思っていたからだ。
武田は、現在、政友党内の若手ナンバーワンである。市民運動出身のため大衆性があり、党内の人気もまあまあ。早乙女の次≠ヘ彼ではないか、とずっと見られてきた。
しかし、畑中の胸の内は必ずしもそうではなかったらしい。武田はトップの器ではなく、彼では党の顔≠ニして弱い、と見ていたようだ。そのためだろう、畑中は桐原に白羽の矢を立て、
――テレビの座談会でご一緒してからおよそ一年、失礼ながら、わたしは桐原さんについて調べ、ずっと桐原さんを観察させていただいた。その結果、この人なら日本の将来を託せる、とわたしは確信した。政友党のため……いや、日本国の未来のためにぜひ力を貸していただきたい。
そう言って、彼に政治家への転身を強く誘いかけてきたのだった。
畑中は、自分の次の次として≠ネどとは言わなかった。
――政友党が政権を獲《と》ったら、これまでの研究と経験を生かして、まず外務大臣として腕をふるってもらいたい。
入党に際しての具体的な約束はこれだけである。
が、言葉には出さなくても、彼が桐原に何を望んでいるかは、よくわかった。桐原を高く買ってくれていることも。
そのため、桐原は、@政友党が政権を獲得できる可能性はどの程度か、A自分が常任幹事として政友党に加わった場合、トップに昇れる可能性はどれぐらいあるか、の二点を真剣に検討した。そして、〈現在はBともに五割程度の可能性しか望めないが、桐原自身の努力によっては七、八割まで高めることができる〉と考えたとき、決断した。将来、この手で日本を動かすという道に挑戦してみよう、と。
当然ながら、桐原を政友党へ招請するについてはいろいろな意見があったらしい。絶対的な力を持っている畑中の意思のため、大きな声にはならなかったようだが、武田は反対、早乙女や芦田もあまり乗り気ではなかったようだ。が、桐原が東央大学教授の椅子を捨てて政友党入りするや、党の支持率が急上昇したため、彼らも桐原の人気を認めざるをえなかった。
こうして、次の衆議院選挙では、桐原を比例代表区・南関東ブロック(千葉県、神奈川県、山梨県)の名簿登載順位第一位に決定。彼を党の新しい顔≠ニして大々的に宣伝する作戦が動き出していた。
そこに突如持ち上がったのが、桐原が幼女に悪戯《いたずら》をしようとした、という冤罪《えんざい》事件である。
今のところ、畑中だけでなく早乙女も、何としても桐原を護《まも》り抜こうという姿勢を見せている。桐原のイメージダウンを最小限に食い止めようと躍起になっている。とはいえ、彼らにとって大事なのは、桐原という人間ではない。政友党である。だから、今後の成り行きによってはどうなるかわからない。桐原を政治の世界に誘った畑中だって、党の痛手がさらに大きくならないうちに、桐原という患部を切り取って捨てる、といった挙に出ないともかぎらない。
もしそうなれば、横に座っている肥えた男は喜ぶだろうが、桐原は何のために東央大学を辞めたのかわからなくなる。
今度の事件のそもそもの発端は、一ヵ月余り前……ゴールデンウィークが終わって間もない五月十二日、一人の男から桐原に電話がかかってきたことである。
電話があったのは、桐原が、横浜で開かれた千葉・神奈川・山梨三県の党代表者会議で挨拶《あいさつ》して帰り、女子職員の淹《い》れてくれた新茶を飲んでいたときだった。
他の局と同様、国際局にも局長室はなく、桐原の机は他の職員たちの席から少し離れた窓際に置かれていた。電話は、内線電話を兼ねている交換台を通した電話と、デスク直通の電話と二台。が、デスク直通の電話はかぎられた相手にしか番号を教えてないので、それは交換台を通してかかってきた。
桐原が受話器を取って名乗ると、相手の男が、
――市橋です。
とだけ言った。
桐原は、市橋と聞いても、該当する人間が思い浮かばなかったので、
――失礼ですが、どこかでお目にかかっておりますでしょうか?
と、訊いた。
すると、男は、二十三年前に一度だけ会っていると答えてから、桐原の知っている女性の名[#「桐原の知っている女性の名」に傍点]を告げ、その父親だと言った。
桐原は、男の説明を全部聞く必要がなかった。男が「二十三年前……」と言い出すのと同時に思い出した。男より先に、その娘のことを。そして息を呑《の》んでいた。
――思い出していただけましたか?
相手の探るような問いかけに、
――ええ。
彼は驚きと戸惑いを押し隠して、答えた。
――そうですか。それなら、いいんですが……。
男は、どことなく皮肉な調子で言い、
――実は、新しい事実がわかったので、ぜひとも桐原さんにお会いして、話を伺いたいんです。
と、用件を述べた。
桐原にとって、市橋某――フルネームはわからないし、市橋という苗字《みようじ》にしたところで相手がそう名乗っただけである――は会いたい相手ではなかった。できれば、会わずに済ませたかった。が、話なら、いま電話で≠ニ桐原が求めても、市橋がどうしてもお目にかかって……≠ニ譲らないため、結局、会わざるをえなくなり、翌週の月曜日(五月十五日)の夕方、桐原は指定された飛鳥公園脇へ行った。
ところが、公園でしくしく泣いていた女の子を交番へ連れて行ってやろうとして、とんだ事件に巻き込まれてしまったのである。
桐原が幼女の母親や警官と話し合っているとき、市橋某が飛鳥公園へ来たのかどうか、はっきりしない。近くまで来て、野次馬に交じって騒ぎを見ていたのかもしれないが、桐原は相手の顔を知らないからだ。桐原は、市橋某に一度だけ会っている。とはいえ、それは二十三年も前の話だし、薄暗いところで二、三分立ち話をしただけ。だから、中肉中背の男だったな≠ニいった程度の印象しか残っておらず、顔についての記憶はまったくなかった。
十五日の夕方、市橋某が飛鳥公園へ来たにせよ来なかったにせよ、彼からはまたすぐに電話があるだろう、と桐原は思っていた。向こうから、会いたい、会って桐原の話を聞きたいと言ってきたのだから。そのため、桐原は、幼女に悪戯しようとしたという疑いをかけられても、市橋の名を出さなかった。名前を明らかにするのは彼と話し合ってからでも遅くはないだろう、と考えて。
桐原は、市橋某と会わないうちに、彼との関わりを他人に知られたくなかった。相手の意図がはっきりしなかったし、話し合いがこじれないともかぎらなかったからだ。
市橋某は、新しい事実がわかったので桐原の話を聞きたい≠ニ言ったが、二十三年も経った今、新事実が出てくるわけがない。たとえ何か新しく判明したとしても、たいした事実ではないだろう。桐原はそう思ったものの、万一ということがある。場合によっては、疑いを晴らすために証言してもらうどころではなくなる可能性だってゼロではない。そのため、桐原は、誰かと会う約束だったなんて嘘ではないかと疑われても、相手に迷惑をかけるおそれがあるので名前は言えない≠ニ警察やマスコミに答え、畑中や早乙女に対しては、向こうから名乗り出てくれないかぎり名前は明らかにできないが、後ろ暗いことは絶対にしていない≠ニ弁明した。また、妻の郁美には、名前を教えないで済ます口実がないので、実はどこの誰かわからないのだ≠ニ別の嘘をついた。
桐原の予想に反し、市橋某からの電話はなかった。一週間経ち、二週間経ち、三週間経っても。
どういうわけだろう、と桐原は怪訝《けげん》に感じた。解せなかった。会って話を聞きたい、とあれだけ強く求めたのに、何も言ってこないということが。その無言が不気味であり、不安でもあった。
桐原は、秋庭弁護士に相談し、市橋某を捜してもらおうか、と何度か考えた。だが、迷った末、いや、この件だけはやはり誰にも相談しないで自分一人の力で処理したほうがいい、と思いなおした。根拠のない濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》は、いずれは晴れるだろう。テレビや週刊誌が作意をもっていかに囃《はや》し立てようとも、少しでも物事を理性的、合理的に判断できる者なら、まだ暮れ切らない夕方、住宅街の路上で桐原が幼女を車に引っ張り込むわけがない≠ニいうことぐらい、自明の理なのだから。それなら、市橋某の件は誰にも明かさないほうがいい。
その後、週刊エポックに警視庁の元警官を自称するQの談話なるものが掲載され、桐原は、自分を陥れようとしている者たちの存在をはっきりと知った。彼らの形振《なりふ》りかまわない遣《や》り口に驚くと同時に、政治の世界の闇の深さといったものを感じた。学者から政治家に転身しても、これまでは漠然とやることが違うだけだと思っていたが、自分がまったく別の世界に入り込んだことを思い知らされた。
桐原は、Qと対決したいと記者会見の席で述べ、週刊エポックとQに対して反撃した。それによって、彼らの欺瞞《ぎまん》をかなりの程度までは暴けたのではないかと思う。とはいっても、まだ決定的ではない。
疑惑を晴らすには、市橋某に事実を証言させるか、Qを特定して対決するか、Qなる男が存在しないことを証明するか、いずれかしかない。
しかし、市橋某からの連絡はなく、いま早乙女に訊かれて答えたように、週刊エポック編集部と交渉を重ねている秋庭からも新しい報告は入らないのだった。
「飛鳥公園で会おうとしたという人ですけどね、どうしても名前を言えないの?」
武田が桐原のほうへ顔を向けて、訊いた。
目には怪しむような色があった。
「ええ。これまでも何度も申し上げたように事情があって」
桐原は答えた。どんなに不審を抱かれようと、他に答えようがない。今となってはなおさら前言を翻すわけにはゆかない。
「どういう事情か、説明してくれないと、わけがわからないな」
武田が首を振り振り言って、畑中と早乙女のほうへ顔を戻した。
二人の胸にある桐原に対する不信感を強めようとする彼の魂胆は見え見えだったが、桐原には反撃の手段がなかった。
「桐原君が困っているのは相手の人にもわかっているはずなのに、どうして証言してくれないのかね?」
早乙女もこれまでの疑問を繰り返した。
桐原は、その理由は説明できないということを示すために黙礼した。
「われわれにも事情を明かせない?」
「申し訳ありません」
「連絡は取ったんでしょう?」
「もちろん何度も電話して証言を頼んだんですが、悪いがそれはできない、と言うんです」
「そんなに隠すところを見ると、女性じゃないの?」
武田が冗談口調で言った。が、目元は笑っていても、桐原に向けられた探るような視線は鋭かった。
「何度も言っているように、男性です」
桐原はその目を睨《にら》むように見返した。
「しかし、それじゃ、どう考えても……」
「武田君、やめたまえ」
それまで黙っていた畑中がやんわりと武田を制した。
「桐原君は、相手は男性だが、事情があってその名前は明かせないと言っているんだ。彼を信じようじゃないか」
語調は穏やかだったが、彼の発言には反対意見を許さない威圧感があった。
「申し訳ありません」
と、武田が頭を下げた。
「桐原君が幼い女の子に悪戯《いたずら》をするような人間じゃないことははっきりしている。これは、テレビのワイドショーを見た人だって、もうほとんど疑っていないと思う。この点はどうかね?」
畑中がちらっと早乙女に目をやった。
「わたしもそう思います」
早乙女が答えた。
「元警官Qの談話と称するものだって、桐原君個人というより政友党をおとしめるために誰かが仕組んだ茶番劇だということが、ほぼ明らかになった……」
「ええ」
「それなら、我々としては、こうした卑劣な策謀を仕掛けた者がいるということを、またそれが誰かということを、暗に……しかしあらゆる機会、メディアをつかって強調し、プラスの材料にすることも可能なんじゃないかね」
もちろん、与党の民自党が仕組んだものだと暗に強調しようというわけである。
「そうか、そうですね」
と、早乙女が応じた。
「しかし、そうなると民自党も黙っていないと思います。また新たな策謀をめぐらすかもしれません」
武田が深刻げな表情をした。
「うむ。だが、そのときはそのときだよ。こちらもまた新しい手を考えて対抗すればいい」
畑中がソファの上で腰を動かした。
「わかりました。代表の言われるようにやりましょう。相手の武器を奪って逆にこちらの武器にする、マイナスをプラスに転じさせる。いわば弁証法ですね」
武田が身を乗り出し、畑中の意を迎えるように――少しとんちんかんなことを――言った。彼は内心、不満なはずだが、畑中に逆らうのは得策ではないと判断したのだろう。
早乙女も了解したため、それで話し合いは終わった。畑中と桐原に出かける予定があったので、具体的な作戦については後で検討することにして。
桐原の予定は、虎ノ門のホテルで開かれている財界人の懇談会へ行き、四十分ほど話すことだった。ロシアの政治、経済情勢についてレクチャーしてほしいと頼まれていたのだ。
持って行く資料があったので、桐原は一旦《いつたん》、国際局の自分の机に戻った。
椅子に掛けないうちに電話が鳴った。彼が受話器を取って、「桐原です」と名乗るや、
「市橋です」
男のくぐもった声が言った。
2
その日の午後十一時――。
桐原は道路脇に白いジュピターを駐《と》め、電話ボックスに入った。
場所は文京区小石川。政友党本部から本駒込の自宅へ帰る途中、白山通りからも春日通りからも逸《そ》れた住宅街だ。時々車のヘッドライトが電話ボックスのガラスを照らすだけで、人の往来はない。夕方、虎ノ門のホテルへ出かけた頃から降ったりやんだりになっていた雨は、ついいましがたまで降っていたのに、また上がったようだ。
桐原は、ポケットから手帳を取り出して開いた。それから受話器を取り、カードを入れて、メモしてあった番号をプッシュした。
四時過ぎに政友党本部へ電話してきた市橋某は、この電話では込み入った話ができないから夜十一時にかけなおすようにと一方的に言い、桐原に携帯電話の番号を書き取らせたのである。
呼び出しベルが鳴り出すと、「はい」とすぐに男の声が出た。
時間を指定したのだから、待っていたのだろう。
桐原は念のために、「市橋さんですか?」と確認した。
そうだ、と相手が答えた。夕方の電話と同様に、口に何か当てて話しているのか、聞き取りにくいくぐもった声だ。
先月十二日の最初の電話は、特に低くも高くもない緊張したような声だったという印象しかないが、少なくとも声を作っている感じはしなかった。
「桐原です」
「ああ」
「どういうご用件でしょう? いや、それより、先月十五日、あなたはどうして約束どおり飛鳥公園へ来なかったんですか?」
桐原は訊《き》いた。
すると、半ば想像していたとおり、自分は行ったと市橋某が答えた。
「ですが、パトカーが来て、何やら取り込んでいるようだったので、わたしが出て行っては迷惑かと思い、帰ったんです」
「あのとき、わたしがどういう誤解を受けていたか、テレビや週刊誌で騒がれたから、ご存じですね?」
「知っています」
「でしたら、もっと早く連絡をくださってもよかったでしょう」
「えっ、なぜですか?」
相手が、まるで理解できないといった調子で訊き返した。
「なぜって……あなたなら、わたしがあなたと会う約束だったと証言し、わたしの疑いを晴らしてくれることができたからです」
「ですから、わたしがどうしてあなたのためにそんなことをしなければならないのか、と訊いているんです」
予想外の対応だった。
桐原はつと緊張し、相手の意がどこにあるのか、素早く思いめぐらした。
「桐原さん、二十三年前、あなたは自分が何をしたのか、どうしたのか、忘れたんですか?」
男の声は相変わらずくぐもっていたが、語調に厳しさが加わった。「あなたが事実を証言してくれなかったために、一人の青年が無実を叫んで自殺したんですよ」
桐原は息を呑《の》んだ。新たに判明した事実とはそのことだったのか、と思った。同時に、強い疑問が湧いた。市橋某は、二十三年前には知らなかったその事実[#「二十三年前には知らなかったその事実」に傍点]を、どうして知ったのか――。
その想像がつかず、桐原が対応に戸惑っていると、
「二十三年前、あなたがしたことをわたしはすべて知っているんです」
男が言葉を継いだ。
――すべて……!
すべてとは、どこまでなのか。本当にすべて≠ネのか。そんなはずはない。二十三年前にあったことすべてを知っている人間などいるわけがないのだから。
「市橋さん、あなたは、どうやら誤解しているようですね」
桐原は言った。今は、相手がどこまで知っているのか、どうしてそれを知ったのか、を探る以外にない。どうするかはその後だった。
「誤解?」
男が咎《とが》めるように訊き返した。
「ええ」
「あなたが証言しなかったために一人の将来ある青年が無実を叫んで自殺した、という事実を誤解だと言うつもりですか? そんな言い逃れは通用しない」
男の声が怒りの調子を帯びた。
最初に名乗ったとおりの素性なら、男は六十歳は過ぎているはずだが、作られた声からは年齢の想像がつかない。
「言い逃れじゃ……」
「それは、今回、あなたの巻き込まれた事件が証明しているんですよ」
男が桐原の言葉を遮った。「今度の事件はまさに天の配剤としか考えられない。なにしろ、二十三年前、二十歳の青年が巻き込まれた冤罪《えんざい》事件も、幼女悪戯事件だったんですからね」
桐原は、ハッとした。
――もしかしたら、この男が仕組んだのか!
いや、そんなことはありえない。夕方、桐原を飛鳥公園へ行かせることはできても、彼と武宮百合香という五歳の少女との関わりまで仕組むのは不可能である。この男にかぎらず、誰であっても。だから、あのとき、桐原が二十三年前に間接的に関わった連続幼女悪戯事件に符合した事件に巻き込まれたのは偶然だったのだ。
ただ、事件が起きたのは偶然でも、市橋某が桐原の無実を承知していながら沈黙していたのは意図的だったようだ。≪政友党の新しきエース、元東央大学教授、幼女を車に引きずり込み、悪戯か!≫といった見出しでテレビや週刊誌に報じられるのを、たぶん、ざまァ見ろと思いながら見ていたのだろう。
ということは、彼が飛鳥公園で桐原と七時に会う約束をしていた≠ニ証言してくれる可能性はほとんどない、という意味であった。
「二十三年前、確かに、連続幼女悪戯事件の容疑者の青年が無実を叫んで自殺した。それは知っている。だが、言い訳でも何でもなく、わたしが証言しなかったために青年が死んだ、という論には誤解と飛躍がある」
桐原は言った。今や、何としても市橋某と会わなければならないと思っていた。だから、これは会うための方便である。
市橋某と会ってどうするかまでは、まだわからない。が、相手の顔を確かめ、身元をはっきりさせないことには始まらない。
「今度は誤解と飛躍ですか。それなら、きちんと説明してもらいましょう」
市橋某が応じた。
「もちろんです。ですから、会って話しましょう」
「この前は、わたしと会うのを渋っていたんじゃないんですか」
「渋ってなんかいない」
「そうですかね。ま、今更、どちらでもいいですが。とにかく、わたしはもう、あなたと会う必要がなくなったんです」
「会う必要がない?」
「そう」
「しかし、きちんと説明するためには会わなければ……」
「会わなくたって、話はできます。誤解と飛躍があるというんなら、今、ここで説明してください」
「電話では詳しい話は無理です」
「そんなことはない。時間はいくらでもあります。もしカードを使い切ってしまったら、買ってかけなおせばいい。さあ、何が誤解で、どこが飛躍なのか、説明してください」
桐原は返答に窮した。
「桐原さん、今度の事件が起きてからのあなたの対応の仕方を見ていて、わたしにはわかったんですよ」
男がつづけた。
「何がわかったというんです?」
「新しく判明した事実のとおりだった、ということです」
「わたしには意味がわかりませんね」
「じゃ、あなたは、どうしてわたしの名前を言わなかったんですか? もし、わたしのことをマスコミに話していれば、飛鳥公園でわたしと会う約束だったというあなたの話を多くの人が信じ、女の子を車に連れ込むはずがないと思ったはずなのに」
「あなたに迷惑をかけたら悪い、と思ったからです」
「そんなのは嘘ですね。あなたがわたしの名を明かしたからといって、わたしがどうして迷惑するんです? あなたは、わたしとの関わりを……自分の過去を、知られたくなかったんですよ」
そのとおりだった。しかし、桐原は、「そんなことはない」と語調を強めた。
「他に考えられません」
男が断定した。
「あなたの勝手な想像です」
「そうですかね。もしあなたがわたしの名前とわたしとの関わりを話していれば、マスコミは、わたしを見つけ出したはずです。あなた個人の力では無理でも、彼らなら、わたしがどこにどうやって暮らしている人間かを突き止めるぐらい造作なかったはずですから。あなたは、それを避けたかったんですよ。もし彼らがわたしを突き止め、取材すれば、二十三年前にあなたのしたことが白日の下に晒《さら》されますからね」
「わたしは、公表されて困るようなことは何一つしていない」
「まだそんな嘘を言い張るんですか。さっきも言ったように、二十三年前、あなたが何をしたか、わたしはすべて知っているんですよ」
男が繰り返した。
「ですから、そこには誤解があると言っているじゃないですか」
桐原も言い張った。
「だったら、どういう誤解なのか、いま説明してください」
「それは、お会いしたうえで話します。一度会ってください」
桐原は押した。どこへ向かうにせよ、前進するには相手と会う以外にない。
「また振り出しですか」
市橋某がうんざりしたような調子で言った。「それなら、わたしの返答も決まっています。さっきと同じです」
「あなたは、どうして、わたしと会えないんですか?」
「会えないんではなく、会う必要がないんです」
「しかし……」
「桐原さんは三十代で東央大学教授になった秀才だそうですが、秀才もこういうことには疎いんですかね」
男の声に揶揄《やゆ》の響きが交じった。
何を言いたいのか、と桐原は考えるが、想像がつかない。
「まだ、わからないんですか!」
今度は呆《あき》れたような声。
――わからない……?
桐原は男の言葉を頭の中で転がした。
と、その言葉が爆《は》ぜた。
彼は、思わず受話器を握っている左手に力を込め、
「もしかしたら、警視庁の元警官Qというのは……!」
「やっとわかったようですね」
市橋某が、桐原の想像したとおりであることを認めた。
桐原はすぐには言葉が出なかった。
元警官を名乗ったQと市橋某には、二十三年前の事件≠ニいう共通項がある。だから、言われてみれば、その可能性もあったか、と思わないでもない。とはいえ、桐原が「幼女|悪戯《いたずら》事件」に巻き込まれた後、何も言ってこない市橋某に不審を抱いても、彼がそんな策をめぐらすとは想像できなかった。一方、政治の世界では、敵に打撃を与えるのに有効となれば、どんな卑劣な手段もありうる。そのため、今日、畑中たちとも話したように、あれは桐原の冤罪事件に便乗した政敵の陰謀にちがいない、と思い込んでいたのだった。
「あなたは、どうしてあんな出鱈目《でたらめ》を言ったんですか?」
とにかく桐原は理由を質《ただ》した。
「どうして、ですって?」
市橋某が小馬鹿にしたような調子で問い返した。そして、桐原の狼狽《ろうばい》を楽しむかのように少し間《ま》を置いてから言葉を継いだ。
「そんなことは決まっているじゃないですか。もちろん、あなたをいっそう窮地に追い込むためですよ。これで、わたしがあなたに会う必要がないと言っている意味もわかったでしょう」
桐原は、頭に激しい一撃を受けたように目眩《めまい》を感じた。己れの甘さを思い知らされた。自分だけは違うと思っていたが、所詮《しよせん》は自分も世間知らずの学者馬鹿≠セったのだろうか……。
――いや、そんなことはない。
やむをえなかったのだ、と思う。自分には、市橋某に関して、そこまで想像するだけの材料がなかったのだから。
彼は、頭の中を素早く整理した。今後の方策を考えるために。
市橋某はおれを恨み、憎んでいる。そのため、元警官Qを詐称し、連続幼女悪戯事件の容疑者としておれを密《ひそ》かにマークしていたという作り話を週刊誌に売り込み、おれを陥れようとした――。これは、はっきりした。だから、おれに会いたくないのだ、ということも。
だが、市橋某は何を知ったために、おれをそこまで恨むようになったのか。
先月十二日に会いたいと電話してきたときの市橋某は、新しく知ったらしい事柄についておれに質そうとしていた。おれに会って、それが事実かどうか確かめようとしていた。ところが、「幼女悪戯事件」に巻き込まれたおれの対応を見て、その必要がないと判断した。たぶん、彼の内で、それは事実であると確信に変わったために。
そこまでは想像がつく。
が、市橋某が、二十三年前のおれについて〈何を、どこまで知ったのか〉〈二十年以上も経ってから、それをどうして知ったのか〉という肝腎《かんじん》の点がわからない。
しかし、今はその問題はいい、と桐原は思った。後で考えよう。
それより、自分は今、何をすべきか。どうするのが最善なのか……。
桐原が懸命に思考の歯車を回転させていると、市橋某がそんな彼の心の内を読んだように、
「どうしますか?」
と、訊いた。
桐原は答えられなかった。
「わたしの名前とわたしとの関わりについてマスコミに公表し、わたしが元警官Qを詐称した人間だと訴えますか?」
市橋某が挑戦するようにつづけた。
確かに、それは選択肢の一つである。
市橋某の言うようにすれば、今回桐原にかけられた「幼女悪戯事件」の容疑は、ほぼ完全に晴れるだろう。その代わり、二十三年前の件について、市橋某の知っている事実がすべて明らかにされると見なければならない。そうなっても、桐原は、今回の濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》事件ほどにはダメージを受けないで済むかもしれない。一、二度週刊誌などに取り上げられても、ネタが新鮮ではないので、すぐに問題にされなくなるかもしれない。が、それは希望的な観測であって、逆の場合もありうる。そして、最悪の場合は破滅するおそれもないではない。市橋某が何をどこまで握っているのか、わからないのだから。
と考えると、桐原にはそうした危険な賭に出る無謀さはなかった。
――では、どうしたらいいのか?
何としても市橋某と会って、彼の手の内を見極めるしかない。そのうえで、彼の意図、目的を探るしかなかった。
「やはり、一度会ってください」
と、桐原は言った。「会って、お互いの言い分を出し合いましょう。それから、わたしがどうするか、あなたがどうするか、決めればいいじゃないですか」
「何度も言うように、わたしにはもうあなたと会う必要がないんです」
市橋某が答えた。
「ですが……」
「あなたは、あなたの好きにしたらいいんです。わたしも、わたしの考えているようにしますから。それじゃ、これ以上は話し合っても無駄なようですから……」
「ま、待ってください」
「また話したい件ができたら、わたしのほうから電話します。この携帯電話は、これきりで通じませんから、念のため」
電話が切られた。
桐原は、受話器を握りしめたまま、しばし呆然《ぼうぜん》としていた。
市橋某の言った、「わたしも、わたしの考えているようにしますから」という最後の言葉が気になった。これ以上何をするつもりなのか。相手の手の内にあるものが見えないため、予測がつかない。
桐原は受話器をフックに戻し、カードを抜いて手帳と一緒にポケットに入れ、電話ボックスを出た。
雨がまた少し落ちてきていた。
車に乗り込んだ。
フロントガラスに線を描く光の粒を見るともなく見やりながら、どうすべきかと考えた。
桐原は市橋某の顔を知らない。どこに住んでいるかもわからない。市橋という姓だけは事実である可能性が高いが、それとて百パーセント正しいという保証はない。
つまり、こちらから攻勢をかけようにも敵の姿も存《あ》り処《か》もわからないのだ。
としたら、相手がまた何か言ってくるか、行動を起こすまで、じっと待っている以外にないのだろうか。
――待てよ……。
桐原の脳裏に一つの方法が浮かんだ。
もしかしたら市橋某に到達できるかもしれない、と思ったのだ。
うまくゆくかどうかはわからない。彼が頭に浮かべた事実[#「彼が頭に浮かべた事実」に傍点]がたとえ判明したとしても、市橋某に到達するための有効な手掛かりになるという保証はない。が、試みるだけの価値はある。座して待つよりはいい。
「よし、時間を見つけて図書館へ行き、二十三年前の新聞を調べてみよう」
桐原はつぶやくと、ジュピターのエンジンを掛け、発進させた。
3
鉛色の梅雨空は、ただ降らないというだけで、低く、重く垂れ籠《こ》めていた。
郁美は、降ってこないうちにと思っていつもより早く買い物を済ませ、三時半過ぎに家へ帰った。
昼食を摂《と》らなかった香織のために、彼女の好きなコーンポタージュを食卓に用意して行ったのだが、そのまま残っていた。
郁美は、スーパーマーケットのビニール袋を床に置くと、二階の香織の部屋へ行ってみた。
鍵《かぎ》の掛かったドアをノックし、苺《いちご》を買ってきたので食べないかと誘う。
中から、いらないと香織が答えた。
「ドアを開けて」
香織が、返事の代わりに音楽のボリュームを上げた。
「お母さんを入れて」
郁美が呼びかけても香織は答えず、鍵も開けない。
今日は六月二十二日(木曜日)。
週刊エポックに元警官Qを名乗る男の談話≠ェ載ってから十日余り経つ。
郁美は、週刊エポックはもとより、その広告が載った新聞も、香織と政弘の目に触れないようにした。だが、携帯電話で香織にその話をしたお節介で意地の悪い友達がいたらしい。香織は明らかに父親に対する不信を募らせていた。「幼女悪戯事件」が起きて学校へ行かなくなった後も、香織はずっと自分の父親を信じているようだった。ところが、今では、
――お父さんを陥れようとしている他人と、自分のお父さんと、香織はどちらを信用するの?
と郁美が言っても、わからない、と答えるようになった。そして、
――わからないって、あなたは、自分のお父さんが信じられないの!
郁美が声を荒らげて非難すると、
――だって、本当にわからないんだもの、仕方がないじゃない!
泣きながら抗議した。
自分の父親は、幼い女の子に悪戯をしようとした卑劣で破廉恥な男なのかもしれない。父親には、そうした異常性愛の傾向があるのかもしれない――。
そうした疑惑を振り切れなくなった十四歳の娘の苦悩は、郁美にも想像できた。それは、単に友達にこそこそと囁《ささや》かれていたときの苦しみとは質が違う。他人がたとえ何と言おうと、自分が父親を信じている間はまだ気持ちが楽だったはずだし、救いがあったはずだが、父親を疑い出した娘には救いがない。父親が週刊誌やテレビで言われているとおりの人間だったとしたらという疑惑と恐怖に絶えず脅かされ、しかも、父親を信じられなくなった自分自身を責めるだろうから。
香織も、〈もし……〉という疑惑に苦しめられ、父親を疑っている自分を責めているにちがいなかった。
しかし、そう思っても、郁美には、香織のためにどうしてやることもできない。
――あなたのお父さんは、絶対にあんなことをする人じゃないわ。お父さんを信じなさい。
と言うだけで、香織の胸の内にある疑惑の雲を完全に払ってやることはできないのだった。
郁美は、無力感にとらわれながら階下へ降りると、ビニール袋の肉や野菜を冷蔵庫に移し、水を飲んだ。
灯《あか》りも点《つ》けずに椅子に腰を下ろし、自分はどうしたらいいのか、と考える。
松尾の顔が浮かんできたが、郁美は首を振ってそれを頭から追い出した。
松尾なら、わたしの話を聞き、力になってくれるにちがいない。数日前、郁美はそう思い、一度は松尾に連絡を取ってみようかという気持ちに傾いた。
だが、NTTの番号案内で松尾の電話番号だけは調べたものの、やはりそれはできない、と思いなおしたのだった。妻が、夫の友人でもある昔の恋人に夫と家族の問題を相談した――。桐原がそれを知ったらどんな気持ちになるか、と考えた結果である。
松尾は理由も告げないまま郁美から去って行った男だが、郁美は松尾という人間[#「人間」に傍点]を信用している。別れた直後はともかく、いまだに結婚していないという話を聞き、彼は自分を裏切ったわけではないらしいと知って。といって、郁美の内に、今や松尾に対する特別の感情はない。彼と愛し合っていた頃を懐しく思い出すことはあっても、松尾と会ってどうにかなりたいといった気持ちは絶対にない。それなら、松尾に相談してもいいのではないか、と郁美は思った。初めからそうした筋道を立てて考えたわけではなく、夫の桐原が知ったらどう思うだろうかと頭に浮かんでから。しかし、その後、たとえ郁美は夫と子供たちのためにと思ってしたことでも、桐原はそうは取らないのではないか、と気づいたのである。桐原の場合、郁美の行為を知っても、たぶん責めないだろう。もしかしたら、何も言わないかもしれない。彼は、妻や子の前で感情をあまり表に出さない人間だから。が、口や顔色に出さないからといって、心の内が平静とはかぎらない。ショックを受け、怒りと疑惑を感じるかもしれない。と考えると、そうでなくてもいま誰よりも辛《つら》い立場にいる夫に、余計な苦しみを与えるわけにはゆかなかった。
しかし、松尾を除いてみると、郁美の話を親身になって聞き、力になってくれるような適当な友人、知人がいないのである。桐原を飛鳥公園脇へ呼び出した男を捜し出すのは私立探偵に頼むにしても、その前に、有能で信用できる探偵かどうかの判断をしなければならない。その相談をできる人がいないのだった。
――現在の自分は桐原を愛している。誰よりも、何よりも二人の子供たちを愛し、家庭を大事に思っている。それなら、結果が良ければいいのではないだろうか。
郁美がそう思い、再び松尾を念頭に浮かべたとき、インターホンのチャイムが鳴った。
居間の壁に掛かった時計を見やると、四時十五分だった。
政弘が学校から帰ってきたのなら、三、四回|忙《せわ》しなく鳴らすし、こんなに早く夫が帰ってくるわけはないから、訪問者のようだ。
といって、誰かが尋ねてくる予定はないので、何かのセールスかもしれない。
郁美はそう思いながら腰を上げ、インターホンの受話器を取って、「はい」と少し硬い声で応じた。
すると、男が、
「須ノ崎です」
と、思いもよらなかった名前を告げ、「ご主人の高校時代の友人の須ノ崎昇です」特徴ある甲高い声で説明を加えた。
郁美の脳裏に、三年前の十二月に会ったときの須ノ崎昇の顔と姿が浮かんだ。驚くと同時に、須ノ崎が何をしに?≠ニ警戒する気持ちが湧いた。
高校時代の郁美は、一年上の須ノ崎と学校で何度も顔を合わせていた。大学へ進んでからも、松尾と一緒のとき、桜木町駅のホームで一度会ったことがある。その後は二十年ぐらい会わなかった。桐原との結婚式はアメリカで挙げ、友人たちを招《よ》ばなかったので。それが、三年前の冬、年の瀬も押し詰まった小雪のちらつく晩、突然、桐原を尋ねてきたのだった。
須ノ崎は、桐原や松尾と、高校三年のときのクラスメートである。高校時代は、伊勢原の自宅を離れて、小田原市内にマンションを買ってもらって一人で住んでいた。そのため、彼の部屋は、館岡久一郎をボスとする遊び仲間がしょっちゅう集まって、酒を飲んだり麻雀《マージヤン》をしたりする溜《た》まり場になっていたらしい。そこに、中間試験や期末試験が終わったときなどは松尾や桐原も加わっていたのだという。
松尾は、須ノ崎のことを、物事を深く考えたり悩んだりすることのない、良く言えば明るい、悪く言えば調子のよい、遊び好きのボンボンだ≠ニ言っていた。ボンボンというのは、神奈川県内に十以上の店舗を持つスーパーマーケット「スーパー・マルサキ」の経営者の長男だったからだ。松尾はどちらかというと須ノ崎に好意的で、
――ちょっと軽薄なところがあるけど、友達には親切だし、おれは館岡や桐原よりは好きだな。
と、言ったこともある。
一方、家が貧乏で、アルバイトと奨学金で頑張ってきた桐原に言わせると、
――一応友達だから、悪く言いたくないけど、親に買ってもらった高級外車やスポーツカーを乗り回し、女の尻《しり》を追いかけ回すことしか能のない、どうしようもない奴だった。
ということになる。
松尾と交際していた頃の郁美は、彼の物の見方や考え方に大きな影響を受けていたが、ただ須ノ崎だけは好きになれなかった。須ノ崎は、小柄ながらなかなかの二枚目で、クラスの中には須ノ崎先輩、須ノ崎先輩≠ニ熱を上げている女生徒も少なくなかったが、郁美は不潔感しか覚えなかった。今思うと、いわゆる良家の子女として、小さい頃からこつこつと勉強する「良い子」をやってきた[#「やってきた」に傍点]郁美は、遊ぶことしか念頭にないような男はそれだけで軽蔑《けいべつ》していたのかもしれない。
それはさておき、三年前の師走《しわす》の夜十時過ぎ、今のように突然訪れた須ノ崎は、郁美の知っている須ノ崎とは別人に見えた。単に二十年の歳月の流れのせいではないと思う。印象がまるで違っていたのだ。
かつての須ノ崎は、とにかく明るく元気だった。肌が艶々《つやつや》として、異性と遊びに対する好奇心が溢《あふ》れたような目をしていた。それが、桐原家の玄関に立った彼は、飲まず食わずで何十キロも歩いてきた者のように疲れ果てた顔をしていた。皮膚がどす黒く乾き、目には怯《おび》えの色が濃く漂っていた。甲高い声こそ変わっていなかったものの、そこにまったく力が感じられなかった。
その十年ほど前、彼は、急死した父親の後を継いでスーパー・マルサキの経営者になっていた。バブル景気の崩壊が迫っているとも知らず、世の中の少なからぬ人々が泡まみれになって浮かれていた頃である。
桐原によると、そのとき須ノ崎は、役員たちの意見を聞かずに滅茶苦茶としか言いようのないやり方をし、祖父が創始して父が大きくしたスーパー・マルサキの土台を壊してしまったのだという。
そのため、バブル経済の崩壊とともにスーパー・マルサキは傾き出し、須ノ崎が桐原家を訪れたときは、店舗を最盛期の三分の一にまで減らしても立ち行かなくなっていたのだった。
桐原が研究室の忘年会から帰って風呂に入ったところだったので、郁美は須ノ崎を応接間に通し、茶を淹《い》れて運んだ。
すると、須ノ崎が、「夜分、申し訳ありません」と神妙な顔をして頭を下げた。
彼が郁美にそんな挨拶《あいさつ》をしたのは初めてである。かつては、松尾の恋人として、ひやかすような、あるいは誘いかけるような好色そうな目で見ていたのだ。
その晩、須ノ崎は桐原に借金を頼みに来たのだった。明日中に三百万円用意できないとスーパー・マルサキが危ない、一週間後にはまとまった金が入るので大《おお》晦日《みそか》までには一割の利子を付けて必ず返す、だから助けてくれないか、と。
桐原家だって、たいした蓄えがあるわけではないものの、三百万円なら何とかできない金額ではなかった。だが、桐原は、申し訳ないがうちにはそうした余裕がないと言って断わった。
須ノ崎の帰った後でその話を聞き、三百万円ぐらいなら融通できたのではないか、と郁美が言うと、
――とんでもない!
桐原が珍しく強い調子で答えたのを憶《おぼ》えている。
――貸したら絶対に返ってこないよ。それでも、きみは貸すかい?
――でも、一週間後にはまとまったお金が入るからって……。
――きみは、やっぱりお金に苦労したことのないお嬢さんだね。金を借りようとする人間は、口が裂けたって返せないなんて言いやしない。すぐに金が入る当てがあるから……というのは決まり文句だよ。それに、館岡の話では、スーパー・マルサキはもうどうやったって駄目らしい。
――館岡さん……?
郁美は、現在は医者になっている館岡の色白の顔を思い浮かべた。桐原が内心もっとも嫌っている友達だ。口に出して言ったわけではないが、郁美にはわかっていた。
――須ノ崎は四、五日前に館岡のところへ泣きついて行っている。それで、館岡は調べてみたらしい。昨日、電話があった。きみのところへは行ったか、って。
――館岡さんも断わったの?
――もちろんさ。館岡が貸すわけがない。
ちょっと口元を歪《ゆが》めて、桐原が答えた。
――館岡さん、須ノ崎さんと親しかったんでしょう。
――ま、親しかったと言えば、そうだな。高校時代だけでなく、大学が東北と東京に別れてからも、よく一緒に遊んでいるようだったから。
かつて、松尾も言っていた。夏休みや春休みになると、館岡は小田原の実家へ帰っているときより、須ノ崎の東京のマンションにいるときのほうが多いのではないか、と。
――ただ、親しいといっても、館岡にとっての須ノ崎はあくまでも遊び友達さ。金があって、自分の言うことを聞く、実に都合のいいね。
桐原がつづけた。その目には、軽蔑しているような色が見られた。
桐原の軽蔑の対象には須ノ崎だけでなく、館岡も入っているはずである。とはいえ、館岡に対する桐原の気持ちは軽蔑だけでは済まず、もっと複雑であった。郁美の想像にすぎないが、的外れではないと思う。
館岡は、高校、大学とかなり派手に遊んでいたらしいのに、現在、芝にある大病院の内科医長になっている。しかも、将来は、妻の父親が経営している病院の院長の椅子が約束されていた。昔、松尾も言っていたように、頭が良いだけでなく、非常に要領のいい人間らしい。そうした館岡の生き方は、努力、努力で自分の人生を切り開いてきた桐原の生き方とは対極にある。だから、桐原には認めがたいのだ。生き方だけでなく、そうした生き方をする人間も。それから、館岡を嫌う桐原の気持ちの中には、もしかしたら、さしたる努力もしないで伸《の》し上がった友人の幸運と能力に対する嫉妬《しつと》も交じっているかもしれない。
――須ノ崎さんが、館岡さんの言うことを聞く?
――ああ。館岡は色白で一見おとなしそうだが、非常に神経が太く……ズ太くと言ったほうがいいのかな、須ノ崎たち遊び仲間では親分的な存在だったんだ。ドスの利いた低い声で凄《すご》むと、表情の薄い白い顔がかえって怖かったし。一方、須ノ崎はちゃらちゃらしていて、腰巾着《こしぎんちやく》タイプだからね。いつも館岡のあとをくっついてあるいて、いいように利用されていたんだ。
――それにしたって、親しくしていた昔のお友達にはちがいないわ。
――まあ、そうだが。
――それに、公務員のうちなんかより、館岡さんのところはお金持ちなのに。
――館岡に言わせれば、ただの勤務医だから金なんかないそうだ。
――でも、いずれは奥様のご実家の世田谷の病院を継がれるわけでしょう。
――将来どうなるかは知らないが、今は奥さんの実家がどんなに金持ちでも、館岡には関係ない。
――でも……。
――きみは須ノ崎に同情しているのか?
桐原が遮った。声に、かすかな苛立《いらだ》ちが感じられた。
――そういうわけじゃないけど……。
――じゃ、この話はもういいじゃないか。よそう。
――ごめんなさい。
と、郁美は謝った。桐原は須ノ崎の件より館岡の話をしたくなかったのかもしれない、と思ったからだ。
この須ノ崎の来訪から一月ほどしてスーパー・マルサキは倒産した。そして、さらに半年ほどした二年前の夏、須ノ崎が離婚して行方をくらました、と郁美は桐原から聞いた。
こうした経緯があったので、郁美は須ノ崎と聞いて、驚くと同時に訝《いぶか》しんだのである。
郁美が黙っていると、
「ご主人は帰られましたか?」
須ノ崎が訊《き》いた。
「いいえ」
と、郁美は答えた。
こんな時刻に、桐原が帰っているわけがない。
ということは、それを承知で来たのか。
郁美はそう思い、ちょっとお待ちください、いまドアを開けますから≠ニ言おうとしていた言葉を呑《の》み込んだ。
「それじゃ、帰るまで待たせていただけませんか」
須ノ崎が言葉を継いだ。
「申し訳ございませんが、それは困ります。須ノ崎さんはご存じかどうか知りませんが、主人は東央大学を辞めて……」
「知ってますよ、政友党から国会に出られる予定だという話ぐらい。なにしろ、桐原君は有名人ですからね」
「そういうわけで、今は大学にいた頃より帰りが遅く、帰宅が夜の十一時、十二時になるときも少なくないんです」
「でも、今日は用事があるからと言ってもう帰った、という話でしたよ」
「えっ?」
「政友党本部に電話したんです」
「そうですか……」
「ご主人から、どんな用事か聞いていないんですか?」
「え、ええ……」
思わず答えて、郁美は自分にちょっと腹を立てた。桐原の予定を聞いていようといまいと、須ノ崎に答える義務はない。
「ま、そういうことですので、帰るまで待たせてくれませんか」
須ノ崎が当然の結論のように言った。
声にふてぶてしさが感じられた。
顔は見えないが、何とか借金できないかと縋《すが》りつくような目をしていた三年前とは明らかに違っていた。また、郁美はよくは知らないものの、何の苦労もなく遊び回っていた頃の彼とも違っているようだ。
夫の友達を玄関へも入れないでは失礼か、とそれまでの郁美は迷っていた。が、ここではっきりと態度を決め、
「あの、主人にどういったご用件でしょうか?」
そのままインターホンを通して訊いた。
「桐原君にとっての耳寄りな情報をつかんだんです。それで、知らせてやろうと思いましてね」
相手が答えた。
「耳寄りな情報……?」
「桐原君はいま困った立場にいるでしょう。それを打開する方法があるんです」
桐原の転身を知っていた須ノ崎なら当然かもしれないが、彼は今回の冤罪《えんざい》事件についても知っているらしい。
「あとは桐原君本人にしか話せません。ですから、待たせてください」
須ノ崎がつづけた。
桐原の困難な立場を打開する方法――。
その言葉に、藁《わら》にも縋りたい思いでいた郁美の胸はちょっと騒いだ。どうすべきか、と逡巡《しゆんじゆん》した。
が、それもほんの数秒のこと。郁美は、やはり夫の留守中に須ノ崎を家へ上げるわけにはいかないと結論し、言った。
「申し訳ありません。後で主人から連絡を差し上げますので、電話番号を教えていただけませんか」
「待たせてもらうわけにはいかない?」
「すみません、いま子供のことでちょっと取り込んでいるものですから」
「そう。じゃ、夜にまたこちらから伺いますよ」
須ノ崎があっさりと引き下がった。居場所を知られたくなかったのかもしれない。
郁美は、インターホンの受話器をフックに戻し、小さく息を吐いた。須ノ崎が帰ったようだったからだ。
が、ほっとしたのも束の間、郁美の脳裏を嫌な予感がかすめた。三年前の冬、桐原に借金の申し込みをして断わられた須ノ崎が、桐原のためを思って尋ねてくるわけがない、と思ったのだ。
となれば、桐原の困難な立場を打開する方法≠ネんて、嘘だろう。
では、須ノ崎は何をしに来たのか。
桐原が困っているらしいのを知って、わざわざ顔を見に来たわけでもあるまい。
他に考えられる目的は金≠セった。耳寄りな情報と言っていたから、何か金になりそうな事実を聞き込み、売りつけにきたのかもしれない……。
聞いた瞬間は、かすかに希望の灯が見えたように思ったのに、結局は気懸りの種が一つ増えただけらしい。
郁美は溜息《ためいき》をついた。
4
その日、桐原は、窓の外がまだ明るいうちに帰ってきた。用事があるといって政友党本部を早く出たという須ノ崎の話は本当だったらしい。
郁美が「お帰りなさい」と玄関まで出迎え、須ノ崎が尋ねてきた話をすると、桐原は居間へ向かいかけた足を止め、
「須ノ崎が!」
と、びっくりしたような顔を向けた。「須ノ崎がいったい何だって……?」
「あなたにとっての耳寄りな情報をつかんだので教えてやろうと思った、そんなふうに言ってらしたわ」
「ぼくにとっての耳寄りな情報?」
桐原の顔に怪しむような色が浮かんだ。
「週刊誌かテレビで今度のことを知ったみたい。あなたの困難な立場を打開する方法があるとも言ってらしたから」
「だからといって、行方知れずになっていた須ノ崎が、親切心からぼくを尋ねてきたとは考えられない」
「ええ」
「何らかの情報を売りつけに来たか……」
「わたしも何となくそんな感じがしたの。内容については何も言わなかったから、わからないんだけど」
「しかし、須ノ崎がぼくにどんな情報を売りつけようというのかな。彼にそんな情報が手に入ったとも思えないが」
桐原が考えるように首をかしげた。
「だから、かえって心配なの。三年前の暮にいらしたときとずいぶん変わったみたいだったし。どことなく崩れたような、図々しくなったような……そんな感じがして」
「家へ上げたのか?」
「ううん、インターホンを通して話しただけ。だから、顔を見たわけじゃないんだけど、言葉遣いからそんなふうに感じたの」
「ふーん」
「二年前の夏にいなくなってから、どこで何をしていたのかしら?」
「わからない。館岡や松尾のところにも電話一本かかってこないらしく、借金取りから逃げ回っているらしいという失踪《しつそう》直後の情報しかないから」
「そう……」
「で、須ノ崎はきみに連絡先を教えたのか?」
「教えなかったわ。あなたが帰るまで待たせてくれって言い出したから、帰ったらこちらから連絡するので電話番号を教えてくださいって頼んだんだけど」
「そうか」
「でも、夜また来るからって……」
桐原が「わかった」と応《こた》えて話を終わらせ、歩きかけた。教授時代から使っている、いつも厚くふくらんだ革鞄《かわかばん》をわずかに上げるように持ち直して。
「今日はずいぶん早かったのね」
郁美もちょっと身体を動かし、話を変えた。それほど気にしていたわけではないが、どうしたのかと思っていたから。
うん、と桐原がうなずいた。
「須ノ崎さんが党本部に電話したら、用事があるから帰ったって言われたそうだけど、どこかに寄ってきたの?」
「三鷹まで行って、人と会ってきた」
「そう」
桐原のほうから話せば別だが、郁美からはこれ以上|詮索《せんさく》しない。
「松尾だよ」
一呼吸おいて桐原が言った。
郁美は思わず夫の顔を凝視し……慌てて視線を逸《そ》らした。
「彼に仕事を頼むことにしたんだ」
桐原が言葉を継いだ。
「お仕事?」
「ぼくが自分の半生の記といった本を出版したいと思っていたことは、きみも知っているだろう」
ええ、と郁美はうなずいた。その話は何度か聞いている。桐原は、自分がなぜ東央大学教授の椅子を捨てて政友党に入ったのか、国際政治学者から政治の実践者である政治家になろうとしたのか、といったことを書いて本にし、広く世間の人に知ってもらいたい、と言っていた。もし適当な出版社が見つからなければ、自費出版してでも。
「ただ、半生の記といっても、よくあるような自己宣伝だけを目的としたものじゃない。激動する国際社会の中で日本が今後どうあるべきかといった点を、具体的に、しかも誰にも理解できるように易しく説いた本だ。そうしたぼくの半生の記を一日も早く出す必要がある、と思ったんだよ。総選挙が早まる可能性も出てきたしね」
そこまで聞けば、桐原が松尾に何を依頼しようとしているのか、郁美にも想像がついた。が、彼女はただ「そう」とだけ応えた。
「現在、ぼくにかけられている根も葉もない疑いを晴らし、卑劣きわまりない陰謀を打ち砕くためには、ぼくという人間を知ってもらうのが一番の早道だ」
桐原がつづけた。「というか、それしかないんじゃないか、と思う。ぼくがどういう人間で、これまでどういう生き方をしてきたのか、政治や日本の将来に対していかなるビジョンを持っているのか、そうしたことをできるだけ多くの人にきちんと知ってもらう以外にはね。ところが、ぼくにはそれを書いている時間がない。自分の選挙区の南関東ブロックだけでなく、全国を講演や応援演説をして回らなければならないし、国際会議の予定も詰まっているから。それで、松尾に頼むことにしたんだ」
桐原の話が元に戻った。
郁美の想像どおりだったらしい。
「あなたが自分で書く代わりに、松尾さんに書いてもらうわけね」
「自分で書きたいのはやまやまだが、いま言ったような事情で、どうにもならない。だから、仕方なくそう決めた」
桐原が言い訳した。「ただ、松尾なら、ぼくという人間をよく知っているし、ぼくも松尾のことがわかっている。その点は安心している」
桐原の表情や口振りからは、かつて松尾は作家になりそこねてゴーストライターをやっている≠ニ軽蔑するように言ったことに対するこだわりは感じられない。憶えていないのかもしれない。
「それで、松尾さんは引き受けてくれたの?」
「もちろん、喜んで引き受けてくれたよ。彼の仕事だからね。ただ、正式の契約は、松尾の勤めている三恵出版社の社長に会ってからになる」
桐原が社名の綴《つづ》りを説明した。
「松尾さんはフリーのライターじゃなかったの?」
「三恵出版社の嘱託社員ということになっているらしい。中野にある小さな出版社だそうだ。ぼくは、松尾に原稿の代筆だけ頼み、出版社は別のところに当たってみるつもりでいたんだが、これまでずっとそこから仕事をもらってやってきたので抜け駆けはできない、と松尾が言うんだ」
「じゃ、本は三恵出版社から出る」
「うん」
「自費出版?」
「まだはっきりしないが、松尾の話では、ぼくの本なら出版社で出してもいいと社長が言っているそうだ。ただ、その場合、何割かは買い取りになると思うけど」
「あなたの本には、松尾さんの名前も載るの?」
桐原が、驚くというよりは呆《あき》れたような顔をして、郁美を見返した。
「もちろん著者としてじゃなく、最後に小さく、協力者とでも……」
「どこにも、どういう名目でも松尾の名は載らないよ。ゴーストライターというのはそういう仕事なんだから」
桐原が、郁美の言葉を遮り、きっぱりと言った。その言い方には、自分の本に松尾の名前など載せてたまるものか、といった彼の思いのようなものが感じられた。もしかしたら、松尾が単にゴーストライターというだけでなく、妻の元恋人であるという事実が微妙に桐原の心に作用していたのかもしれない。
郁美はそんなふうに想像したが、もちろん口には出さなかった。そう、とうなずき、本はいつできるのかと訊《き》いた。
「松尾の話では、超特急で進めたとしても九月の末になるそうだ」
桐原が答えた。
「三ヵ月も先なのね……」
「執筆に最低限一ヵ月、編集と印刷・製本に一ヵ月は必要らしい」
「それなら、今日は六月二十二日だから、八月の下旬じゃないの?」
「松尾はいまプレス工業会社の社長の自叙伝を書いているので、それが終わってからじゃないと、ぼくの仕事に取りかかれないんだそうだ。その仕事の終わるのが来月二十日頃、それからすぐにぼくの仕事に取りかかったとして、原稿の上がるのが八月の下旬……だから、本ができるのは、どんなに早くても九月の下旬になってしまうらしい」
「そうか」
「これは、すべてが順調にいった場合の話だから、もしかしたら十月にずれ込む可能性もある。普通は、依頼を受けてから半年ぐらいかかるらしいから」
「本の題名は決まったの?」
「まだ決定じゃないが、ぼくが考えているのは『政道』……政治の道だ。ぼくの名前が政彦で、政治学者から政友党に入り、政治家への道を歩み出そうとしているわけだから。これには松尾も賛成してくれた。ただ彼は『政道』だけでは内容がわかりにくいので、〈わが半生の記〉といった副題を入れたらどうかという意見だ。きみはどう思う?」
「『政道―わが半生の記』か。とてもいい題だわ」
「ぼくがなぜこの『政道』という題にしたかについては、前書きで政道は正しい道の正道、誠の道の誠道に通じている。政治の道は常に正しい道であり、誠の道でなければならない、というのがぼくの信念だから≠ニ書くつもりでいる」
「何だか、とても素敵な、素晴らしい本ができそう」
「もちろんさ。松尾とも話したんだが、この本によって、ぼくは、ぼくという人間の生き方を多くの人に知ってもらい、今回の事件がどんなに卑劣なでっち上げであるかを証明して見せるつもりなんだ」
桐原が言い、強い決意のこもった視線を郁美に向けてきた。
「そうなるといいけど」
郁美は応えた。
「そうなると……じゃなくて、そうするんだよ。少なくとも、本を読んでくれた人には、ぼくという人間に対する疑いを百パーセント解いてもらえるようにね。松尾も全力を挙げて協力すると言ってくれたし」
本当にそんな本ができればいい、と郁美は心の底から思った。
そうすれば、少しでも夫を疑っていそうな相手には、
――これを読んでみなさい、読んでください。
と、突きつけられる。
まずは、娘の香織から。
香織は、その晩も「食べたくない」と言って、夕食の席に降りてこなかった。
郁美が迎えに行っても、桐原が上がって行っても、同じだった。
桐原が早く帰り、久しぶりに家族四人そろってテーブルを囲めるはずだった夕食は、香織が欠けただけではない。桐原も苦虫を噛《か》みつぶしたような顔をして、一言も口をきかなかった。
これまで、郁美は、香織が父親を信じられなくなったらしいということを桐原に話さずにきた。香織は桐原を信じているが、友達にいろいろ言われるのが嫌で登校しないのだ、と説明してきた。香織自身も、母親の郁美には心の内を晒《さら》しても、父親の桐原に自分の気持ちをぶつけることはしなかった。桐原が忙しく、娘と腹を割って話し合う時間を作りにくかったという事情もあるが、それだけではない。香織にしたら、面と向かって、自分は父親であるあなたが信じられないのだとは言いにくかったのだろう。
ところが、今夜、桐原はそうした娘の心の内を知ってしまったのである。
降りてこいと説得に行っても、食べたくないと答えるだけで、ドアを開けようとしない香織に業を煮やし、彼は、なぜみんなと一緒に食べないのだ、なぜそんな我儘《わがまま》を通すのだ、と叱った。家族の前でほとんど声を荒らげたことのない彼にしては珍しく、かなり強い調子で。
すると、部屋の中から、
――下にはお父さんがいるから行きたくないのだ、お父さんの顔を見たくないのだ。
という答えが返ってきた。
そこまで言われれば、娘が自分をどう思っているのか、わからないわけがない。桐原は大きなショックを受けたようだ。血の気を失った引き攣《つ》った顔をして階下へ降りてくると、これまでどうして本当のことを話さなかったのか、と郁美を責めた。
郁美は、そうじゃない、と桐原の想像を否定した。香織は携帯電話で友達にいろいろ言われたらしく、動揺しているのだ、と説明した。お父さんの顔を見たくないと言ったからといって、必ずしも父親を疑っているわけではない、と。
しかし、郁美がどう説明しようと、桐原の顔から強張《こわば》りは薄れなかった。珍しく、いつもの冷静さが失われていた。どんなに理性的な人間でも、娘に疑われた父親というのはこれほどショックを受けるのか、と郁美は驚いた。これまでは、何があっても滅多に動揺の色を見せず、息子の政弘の前でこうした顔をすることは絶対になかったのに。
父親の渋く厳しい顔、それに姉のいない食卓は、お喋《しやべ》りな政弘からも言葉を奪った。彼は黙々と御飯を掻《か》っ込み、早々にテレビの前へ戻って行ってしまった。
家族四人がそろったときの夕食は、剽軽《ひようきん》でお調子者の政弘がはしゃぐので、賑《にぎ》やかだった。
――あの、明るく和やかな食事の風景はどこへ行ってしまったのか。
と、郁美は思った。ついこのあいだまで食卓の周りに響いていた政弘のお喋りと、弟をたしなめる香織の声。そんな子供たちを、笑みを浮かべて静かに見まもる夫の桐原。あの風景はどこへ行ってしまったのか。そして、いつになったら戻るのだろうか。
――いつになったら……。
郁美の脳裏を暗い翳《かげ》のようなものがかすめた。あの風景は、果たして戻ることがあるのだろうか。
――いえ、戻るわ!
と、郁美は胸に浮かんだ不安を強く否定する。戻るに決まっているわ。戻らないわけがないわ。
それにしても……と、郁美は今更ながら強い怒りを感じた。幼女の誤解を利用して夫の桐原に無実の罪を着せ、自分たちの家庭から明るい笑いと平和な生活を奪った者たちに対して。
桐原の潔白を証明すること――。それがもっとも大事だし、先決である。その考えは変わっていない。しかし、郁美は、それだけでは気がすまない感じがした。桐原の潔白が証明できたとしても、自分たち一家に計り知れないほどの苦痛を与えた者が何の咎《とが》めも受けず、無傷でいるなんて。それでは不公平すぎる。
といって、郁美にはどうする術《すべ》もない。桐原を陥れた犯人を特定し、相応の償いをさせてやることなど、できるわけがない。桐原の無実を証明し、人々の頭から彼に対する疑いを完全に消し去ることだけでも非常に難しいというのに。
それがわかっているので、郁美は悔しく、卑劣な犯人にいっそう強い怒りを覚えるのだった。
自分で作ったにもかかわらず、何を食べたのかもわからない食事が終わり、茶を淹《い》れているとき、チャイムが鳴った。
誰だろうか、と思い……次の瞬間、郁美は息を呑《の》んで、ポットの湯を出していた手を止めた。
食事を始める前まで気にかけていたのに、いつの間にか頭から消えてしまっていた須ノ崎が浮かんだのだ。
桐原も、郁美のさっきの話を思い出したらしい目をして郁美を見た。
郁美は、ポットも急須もそのままに立って行き、壁に掛かったインターホンの受話器を取った。
訪問者はやはり須ノ崎だった。
郁美は桐原と一緒に玄関まで出て、須ノ崎を迎えた。
二年半ぶりに友人の家を尋ねてきた須ノ崎の手には何もなかった。郁美はべつに土産《みやげ》を期待していたわけではないが、それを見ただけで、彼の現在の生活と意識、訪問の狙いなどについて、おおよその想像がついた。
須ノ崎は、髪を肩まで伸ばして黒いサングラスをかけていた。服装は、黒っぽいズボンに合着らしいチェックのジャケット。ジャケットはずっと着たままなのか、薄汚れた感じがする。二年半前の冬、縋《すが》りつくような目をして借金を申し入れてきたときとも、昔、何の苦労もなしに遊び回っていた頃とも、雰囲気が全然違う。それは、髪型や服装のせいばかりではない。肌はどす黒く、不健康そのものといった感じだったし、全身に荒《すさ》んだ生活の澱《おり》のようなものがこびり付いていた。また、口元にはふてぶてしい薄ら笑いがにじみ、落ちるところまで落ちて、居直ってしまったような印象があった。サングラスを外し、「やあ」と桐原に笑いかけたときの顔には郁美も知っている高校時代の面影がないではなかったが、それはかえって二十数年の歳月の隔たりを思い知らせた。同じ人間がここまで変わるものか、と。
「ま、上がれよ」
桐原が言い、応接間へ招じ入れた。
その後、郁美が茶を運び、須ノ崎は桐原と一時間ほど話して帰って行った。
郁美はまた玄関まで出て、見送った。
ドアの錠を掛けてから、どんな話だったのかと桐原に訊くと、
「想像していたとおりだよ。ぼくの冤罪《えんざい》事件に関係して、どこからか聞き込んだ、べつにどうということのないネタを売りつけに来たらしい」
桐原が答えた。
「らしい……?」
「はっきり買えと言ったわけじゃなく、それとなく仄《ほの》めかしただけだからね。昔の須ノ崎は、ただ善悪の観念の薄い軽薄な男にすぎなかった。それが今や、かなりしたたかなワルといった感じになっていた。それでも、ぼくに向かって買え≠ニいう言葉は口にできなかったらしい」
「あなたはどうしたの?」
「相手にしなかったよ。思わせぶりに小出しにして、ぼくの興味をそそろうとしたが……。それで、諦めて帰った」
「須ノ崎さん、どこに住んでいるの?」
「ホテル住まいだと言ったが、どこのホテルかは教えなかった。ただ、借金取りからは逃げ隠れしなくてもよくなったらしい」
「何をして暮らしているのかしら?」
「フリーランスのジャーナリストだそうだ。応接間のテーブルにもらった名刺を置いてあるが、そこには〈フリージャーナリスト 水城丈《みずきじよう》〉と印刷されている。しかし、怪しいものだね。今夜の訪問から推しても、まともな仕事をしているとは思えない」
「また来ないかしら?」
「もう来ないよ。何度来たって、ぼくの態度は変わらないとわかったはずだから」
桐原は一度言葉を切ると、怖いような目で郁美を見つめ、ただと語調を強めた。「ただ、もしぼくがいないときに来たら、相手にならないこと。あれこれ、きみの気を引くようなことを言うかもしれないが、ぼくと話してくれと言って早々にインターホンを切ること。これだけはしっかり頭に入れておいてほしい」
わかった、と郁美は答えた。
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第四章[#「第四章」はゴシック体] 旧 友
1
七月一日(土曜日)。
松尾がいつものように九時過ぎに起き出すと、午前二時にベッドへ入ったときは安普請のトタン屋根をうるさいほどに叩《たた》いていた雨がやんでいた。
といっても、落ちていないというだけで、空は鉛色に曇っていた。梅雨の晴れ間とはいかないようだ。
松尾の住まいは、JR青梅線の青梅駅から歩いて十分ほどのところにあった。ゴーストライターになって間もなく、都心のアパートから移ってきた。大きな地震がくれば真っ先に倒壊しそうな、今やあまり見かけなくなった古い木造アパートの二階である。寝室兼仕事部屋の六畳と、三畳分の台所、それに狭い玄関とトイレしかないが、風呂《ふろ》の付いていない点を除けば、松尾に不満はない。第一に静かで、空気が良かった。しかも、南側は神社の杜《もり》と、借景が悪くない。今の季節は木々が緑の葉を鬱蒼《うつそう》と繁らせているが、秋になるとそれが赤や黄に色づき、冬の到来とともに葉が落ちて、枝の間から境内の石畳や灯籠《とうろう》が覗《のぞ》ける。
松尾が都心から離れた奥多摩の入口、青梅に住むようになったのには理由がある。勤めを辞めて通勤する必要がなくなったのもその一つだが、それだけなら、青梅である必要はない。都心から離れた家賃の安いところなら、どこでもいい。が、松尾には、青梅でなければならない、という理由があった。二十三年前の夏この地で犯した罪≠忘れないようにするために。
二十三年前、松尾には、自分の犯した罪を明らかにし、裁きを受けるだけの勇気と潔さがなかった。もしそれを明らかにすれば、自分のために館岡と須ノ崎の将来まで滅茶滅茶にしてしまう、という事情があったのも確かである。松尾が怯《おび》えながら名乗り出なければ……≠ニ口にすると、ふざけるな! おまえは、自分のやったことで、おれたちまで巻き添えにするつもりか。おまえに、そんな権利があるのか≠ニ二人に責められたことも、松尾の態度決定に大きな作用を及ぼした。とはいえ、やはりそれは、己れの卑劣さ、臆病《おくびよう》さを隠し、自分の選択を正当化するための言い訳にすぎなかった。
これは後になって自分の心の内を分析したことだが、〈酒を飲まない〉〈女の肌に触れない〉といったいくつかの戒めを己れに課したのも、そうした卑劣な選択の結果生じた重荷を少しでも軽くし、罪の意識あるいは良心の呵責《かしやく》といったものから逃れるためではなかったか、と松尾は思っている。
それはともかく、少なくとも二十三年前の松尾は、
――郁美との結婚を諦めよう。生涯、自分は人並な幸福を追求せず、死んだように生きよう。
と決意したのだった。自分の犯した罪の罰として。
ところが、生来、好《い》い加減で意志の弱い松尾は――他人の目には必ずしもそうは映っていないようだが――何度か自らに課した戒めを破った。己れの罪の直接の原因になった酒だけは二十三年間一滴も口にしていないものの、一時は小説家になるという人並以上の夢を追ったし、その後も人妻である峰亮子の肌に溺《おぼ》れたり、大手商社のキャリアウーマン、滝川ケイと交際したりした。
といって、そうした生活を送っているとき、松尾は苦しまなかったわけではない。都合のよい理屈をつけて、自己正当化をはかっていたものの、常に二重の罪の意識に苛《さいな》まれていた。二十三年前に犯した罪と、戒めを破った罪の。だから、いつも、こんな生活を抜け出そう、抜け出さなければ……と思い、あがいていた。戒めを守った生活に戻らなければ、と焦っていた。
ケイと同棲《どうせい》同様の生活を送りながら、そうした葛藤《かつとう》を繰り返していた十年前、松尾は失業し、ケイが自分との結婚を望んでいることを知った。生活はわたしが支えるから、あなたはまた小説を書けばいい――軽い調子ながら、ケイがそう言うのを聞いた。松尾がケイに心を許し、親しくなったのは、小説を書いていた彼の過去を知っても特別の関心やこだわりを示さなかったからである。ケイがよく言っていたように、過去や肩書きとは関係なく、松尾という裸の人間を、ありのままの松尾を好きになって≠ュれた、と思っていたからである。もしケイに質《ただ》せば、今だってそうだ≠ニ答えただろう。が、ケイは、心のどこかで松尾が小説家になることを望んでいたらしい。そうしたケイの本心を知り、松尾はショックを感じた。
そんなとき、彼の前に差し出されたのが、ゴーストライターをやらないかという三津田の誘いだった。
このまま何も気づかないふりをしてずるずるとケイとの生活をつづければ、自分が駄目になるだけでは済まない。ケイをも不幸にする。
松尾はそう考えて、ケイに長い手紙を書き、今度こそ二十三年前の罪を忘れずに生きようと、青梅の地に移り住んだのである。
しかし、十年の歳月が流れ、そのときの気持ちもだいぶ薄れつつあった。松尾が好い加減な人間のせいもあるが、時間と人間との関わりはたぶんそういうふうにできているのだろう。初め、松尾は多摩川を見るのが怖かった。街や丘陵のほうへは散歩に出かけても、川のほうへは向かえなかった。自分で決めて住んだにもかかわらず、何度も青梅から逃げ出そうとした。そのたびに、これは自分に科せられた罰なのだ、自分の犯した罪を考えれば、これぐらいの罰では軽過ぎる、と言い聞かせ、思いとどまった。ところが、今では、橋の上から多摩川の流れを見下ろしても、川原を眺めても、恐怖を感じない。心が騒ぐことも少なくなった。アパートから三キロほど上流のあの地≠ヨ行くことだけはなかったが、時々、罪を忘れて景色を楽しんでいる自分に気づき、驚く。
それでも、この地に住んでいる意味はある、と松尾は思っていた。青梅に住んでいるかぎりは、自分の中で己れの犯した罪が完全に風化することはないだろうから。
仕事でどこかへ出かけないときの松尾の日課は、土曜日であろうと日曜日であろうと変わらない。午前九時から十時の間に起きて、顔を洗い、コーヒーを淹《い》れる。
食事は一日二食なので、朝は食べない。
ゴーストライターとしての仕事が入っているときは、食事や買い物などの時間を除いて、起きてから寝るまで、ワープロに向かう。一方、仕事がないときの昼は、休館日を除いて、たいてい図書館へ行って新聞や本を読んで過ごす。夕方は散歩したり銭湯へ行ったりし、夜は自宅で本を読む。部屋にテレビはないが、時々、市民会館のロビーでニュースやスポーツ番組を見ることはある。
このところ、仕事の関係で二回つづけて会った旧友の桐原には、
――きみは、将来ということを考えないのか?
と不思議そうに言われたが、考えない。
べつに自棄的になっているわけでも、虚無的になっているわけでもない。もちろん、悟りといった境地からはほど遠い。ただ、将来などというものを考えてはいけないと思い、自分を制しているだけである。去年の冬、突然、三十九度五分の熱が出て意識|朦朧《もうろう》となり、動けなくなったときは、ああ、おれはこのまま誰にも知られずに死ぬのか……≠ニ一瞬、強い恐怖に襲われたが、すぐに、それならそれで仕方がない、と思った。自分の犯した罪を考えれば、むしろ、こうした死こそ自分にふさわしいのではないか、と。
松尾は顔を洗って身仕度をすると、水道の水をしばらく出しておいてから薬罐《やかん》に汲《く》み、火にかけた。冷蔵庫から「キリマンジャロ」と書いたシールを貼ったコーヒー缶を取り出し、計量スプーン山盛り一杯の豆をフライパンに移し、煎《い》った。
コーヒーを煎るほうの火は一番細く絞り、さらに遠火にするためにレンジとフライパンの間に五徳を置いてある。
コーヒーはブラジル、コロンビア、キリマンジャロ、モカなど六、七種類はそろえてあった。それらを適当にブレンドすることもあるが、今朝のようにストレートの場合のほうが多い。
コーヒーは、松尾にとって唯一の贅沢《ぜいたく》である。あるいは趣味と言ってもいいかもしれない。といって、豆を煎って挽《ひ》くという手間をかけるだけで、高い豆を買うわけではない。
長い竹の箸《はし》でからからと豆を転がしていると、やがて香ばしい匂いが鼻先に漂い始める。それでも、彼はしばらく豆を転がしつづけ、豆の微妙な色の変化を見て、火を止めた。その日の気分によって浅煎りにしたり深煎りにしたりするが、今朝は中煎りである。
火を止めても、そのままフライパンに入れたままにしておくと、余熱で焦げてしまうので、豆は一旦《いつたん》小鉢に移し、少し冷めてから手動のミルで挽いた。
淹れ方は、もっともポピュラーな紙フィルターを使ったドリップである。サイホンで淹れたり、合金製のフィルターを使ったりしたこともあるが、要は豆の煎り具合と挽き具合、湯の温度、湯の注ぎ方だとわかってからは、紙フィルター以外は使わない。
松尾は、こうして手間と時間をかけて淹れたコーヒーを、たいがいは砂糖もミルクも入れず、ゆっくりとブラックで飲む。
インスタントコーヒーをやめて、煎って挽いたコーヒーの粉を買ってきてドリップで淹れるようになった当初、松尾は、こんな贅沢がおれに許されるのか、と自問するときがないではなかった。だが、今は、そこまで突き詰めて考えないことにしている。もしかしたら、勝手に自分で都合のよいところに線を引いているのかもしれないが、死ねないで生きているかぎりはどこかに線を引かざるをえない。もしコーヒーを禁じたら、最大の楽しみである読書まで禁じなければならないだろう。読書なしでは松尾は生きられない。
松尾は、コーヒーを飲み終わると、ワープロの前に座り、仕事に取りかかった。
宇都宮のプレス工業会社「イーストシックス」の社長、赤沢東六の「自叙伝」執筆である。
すでに五回の聞き取りは終わり、二百枚ほど書いていた。残りは約百枚。予定どおり、今月二十日頃には脱稿できるだろう。
当然、多少の書き直しが必要になるだろうが、それは三津田と水谷、それに依頼人の赤沢が原稿を読んだ後のこと。だから、脱稿したら、松尾はすぐに次の仕事に移るつもりだった。
次の仕事は桐原政彦の半生の記である。題は『政道―わが半生の記』。
桐原から最初に相談の電話を受けたのは、先月の十二、三日頃。突然だったので、松尾は驚いた。一瞬、郁美の顔が脳裏をかすめたが、桐原の仕事をすることにこだわりはないし、断わる理由もない。桐原は、松尾に原稿の代筆だけ頼みたかったらしい。が、松尾が三恵出版社との関係――専属の契約を結んでいるわけではないものの、これまですべて三津田から仕事を回してもらってきた事情――を説明し、会社と出版契約を結んでほしいと言うと、了解した。その後、三津田に電話すると、赤沢の「自叙伝」の次の仕事が入っていなかったからだろう、彼は非常に喜んだ。そして、桐原の本なら、自費出版ではなく、社として出版し、一般の販売ルートに乗せてもいい、と言った。
それから十日ほどした先月二十二日、松尾は三鷹の喫茶店で桐原と会って詳しい話を聞き、四日後の二十六日(今週の月曜日)、桐原と三津田を新宿のホテルで引き合わせた。それにより、〈初版五千部、そのうち千部を桐原が買い取る〉という条件の付いた出版契約が両者の間に交わされた。
桐原からの聞き取りは今月の二十日前後に行なう予定になっているが、二回ぐらいで済むはずだった。
他の依頼者と違って、桐原の場合、言いたいこと、書きたいことがはっきりしている。自分で書こうとしていただけに、きちんと整理もされているようだ。それを彼がテープに吹き込んで二十日までに松尾に送ってよこすことになったので、忙しい時間を割いて何度も会う必要がないのである。
松尾が、十年以上使っているワープロを叩き出して一時間半ほどしたとき、ドアをノックする音がした。
どうしても応対しなければならない訪問者などないので、いつものように放っておく。ベルもチャイムもないため、訪問者によってはドアが壊れそうになるほど叩き、挙句の果てに蹴《け》とばして行く者もいるが、たいていは二回ほどノックしても出ないと、留守だと判断して、諦めて帰って行く。
二回目のノックがあり、「松尾さん」と呼ぶ男の声。
これで帰るだろうと思って無視していると、三度目のノックの後に、「松尾さん、警察の者ですが、いたら開けてくれませんか」という意外な言葉がつづいた。
警察と聞き、松尾はちょっと驚いた。机を離れ、台所の横に付いた玄関へ出て行き、
「警察の方がどんなご用ですか?」
ドアの外に向かって訊《き》いた。まさか偽警官ではないだろうと思うものの、警察官の訪問を受ける理由に心当たりはない。
「三恵出版社で松尾さんのお住まいを聞いて伺ったんですが、ちょっとお尋ねしたい件があるんです」
と、相手が答えた。
――三恵出版社でということは、三津田から……?
松尾はますますわけがわからなくなったが、警官であることだけは間違いなさそうだった。
「待ってください、すぐに開けますから」
彼は応《こた》えて、たたき[#「たたき」に傍点]に脱いであるサンダルに片足を下ろし、錠を解いた。
ドア・アイなどという覗《のぞ》き穴は付いていないから、相手の姿は確認できない。
ノブを押すより早く、外側からドアが引き開けられ、すぐ前に二人の男がぬっと立ち現われた。一人は額が顔の三分の一は優に占めている四十代半ばぐらいのずんぐりとした男、もう一人は髪をスポーツ刈りにした三十歳前後のすらりとした男だ。
刑事のような気がしていたが、やはり二人とも私服だった。歳上の男は上着を脱いで腕に掛けていたが、若い男はグレーにわずかに紺の混じったサマースーツをすっきりと着こなしている。
崖《がけ》のように出っ張った額の下に小さな目がちょこんとついた、一度見たらけっして忘れられない顔をした歳上のほうが、「松尾辰之さんですね」と確認。松尾がそうだと答えると、〈警視庁巡査部長 岸川進市〉と刷られた名刺を差し出し、
「わたしは警視庁の岸川、こちらは浦部と申します」
自分と横の男を紹介した。
「刑事さんがわたしに何か……?」
「ここでは話しにくいので、中へ入らせてもらえませんか」
松尾は黙って、サンダルに置いていた片足を上がり口に戻した。
二人の男たちが半畳分の広さもない狭いたたき[#「たたき」に傍点]に入り、ドアを閉めた。
「失礼ですが、昨夜、松尾さんはどこにおられましたか?」
いきなり岸川が訊いた。
事情も説明しないで何だ、と松尾は思ったが、昨夜ならずっとここ自宅にいた、と答えた。
「知り合いが尋ねてきたとか、近所の人と話したとか……どなたかと顔を合わせていますか?」
「誰も尋ねてこなかったし、近所の人とも会っていませんね」
「電話は?」
「ありません」
「すると、松尾さんが昨夜ずっとここにおられたことを証明するものはない?」
「そんなものはありませんよ。ですが、わたしは、昨日は朝から夜まで仕事をしていて、一度も外へ出ていません」
松尾はわずかに語調を高めた。
「どういうお仕事をしているんでしょう?」
「三恵出版社で聞いたんじゃないんですか」
「社の嘱託をしているライターだとは伺いましたが、具体的な仕事の内容までは……」
「頼まれたものなら何でも書きます。要するに雑文屋です」
三津田がゴーストライターとは言っていないらしいので、松尾はそう答えた。
「ということは、昨夜はこの部屋でずっと原稿を書いておられた?」
「ええ」
「そうですか……」
岸川が松尾から視線を外し、考えるような顔をしてうなずいた。松尾の言葉を完全に信じたわけではなさそうだが、多少は疑いを解き始めたようだ。それに、これ以上突っ込んでも何も出てこないと判断したのだろう。
「昨夜、何があったんですか?」
松尾は訊いた。
岸川が、おでこの崖の下からどんぐり眼《まなこ》を上げた。何やら思案している表情だ。
「いくら警察でも、一言の説明もなしに一方的に質問してくるなんて、失礼じゃないですか」
松尾が抗議すると、
「気を悪くされたら、謝ります」
岸川が意外に素直に頭を下げ、「実は、昨夜、男が殺されたんです」と言った。
――殺された……!
松尾は、全身に電気が走ったような緊張を覚えた。息を詰めて岸川を見つめ、彼の次の言葉を待った。誰かが殺されたという事実だけでもショッキングなのに、それは自分に関係のある人物らしい。
「身元はまだはっきりしないんですが、この人です。松尾さんの知っている方かどうか、見ていただけませんか」
岸川がシャツの胸ポケットから写真を取り出し、松尾のほうへ差し出した。四、五枚あるようだった。
松尾は受け取り、そのまま一番上の写真に目をやり、息を呑《の》んだ。やはり知った人間だったのである。
それでも、彼は四枚あった写真を全部見てみた。一人の男の胸から上を正面から二枚、左右から一枚ずつ撮った写真だ。男といっても、写っているのは、生きているときの顔ではなく、明らかに動かぬ物体と化してからのもの。首筋の黒っぽい痕《あと》の他には目立った損傷や汚れが見えないから、現場検証のときに撮られた写真ではなく、身元調査用にあらためて撮られたものかもしれない。
松尾が写真から目を上げるや、
「ご存じの方のようですね?」
待っていたように岸川が言った。松尾の反応を観察していたらしい。
「ええ」
と、松尾は答えた。声が少しかすれていた。
「どういう方ですか?」
「高校時代の友人です」
「名前は?」
「須ノ崎昇……スは横須賀の須、ノは片仮名のノ、サキは川崎の崎、ノボルはエレベーターなどで昇る場合の昇《しよう》と書きます」
松尾は説明した。
写真の顔は、なんと、六日前、数年ぶりで会った須ノ崎昇のものだったのだ。
「須ノ崎昇ですか。水城丈ではないんですね?」
「ああ、それはペンネームだと言っていました。〈フリージャーナリスト 水城丈〉の名刺をもらって持っています。刷られている携帯電話の番号は、もう一年も前に使用不能になっているそうですが」
「やはり……」
「やはり?」
「被害者が二月ほど前から泊まっていた『日之出荘』という簡易旅館の主《あるじ》も、〈水城丈〉と刷られた名刺をもらって水城さんと呼んでいたが、本名ではないようだ、と言ったんです。そのため、身元がわからなかったわけですが、これではっきりしました」
「『日之出荘』という旅館はどこにあるんですか?」
「山手線の鶯谷《うぐいすだに》駅から歩いて七、八分の台東区根岸です。そこに泊まっているとわかったのは、旅館のマッチが煙草と一緒にぐちゃぐちゃになって被害者のポケットに入っていたからです」
須ノ崎は、松尾には池袋のホテルに泊まっていると言ったのだった。
「ところで、一口にフリージャーナリストといっても、いろいろだと思うんですが、須ノ崎さんの場合、具体的にどんな仕事をしていたんでしょう?」
岸川が質問を進めてきた。
「わかりません。わたしも、六日前に数年ぶりに会っただけですので」
松尾は答えながら、須ノ崎は誰に、なぜ殺されたのだろうか、と考えていた。
当然ながら、想像がつかない。
六日前の日曜日の昼過ぎ、立川の駅ビルにある喫茶店で三、四年ぶりに会った須ノ崎の顔と姿が浮かんでくる。その前の日に突然電話があり――失踪《しつそう》する直前、ちょっとおまえの声が聞きたくなったと電話してきて以来だから二年ぶりか――話があるので会いたいと言ってきたのだった。
先に喫茶店へ来て待っていた須ノ崎は、顎《あご》の尖《とが》ったどす黒い顔をして、あまり洗っていないようなぱさぱさの髪を肩まで垂らしていた。薄汚れたジャケットを着て、黒いサングラスをかけ、かつての、しょっちゅう美容院へ行き、ブランド物で身を飾っていた頃の面影はなかった。フリージャーナリストを名乗ったが、松尾の見たところ、そうした仕事をしている感じはない。昔の須ノ崎は軽い調子のいい男だった。人は悪くないのだが、自分というものがなく、館岡のいいようにされていた。が、数年ぶりに会った須ノ崎は違った。話していると、時々調子のよさ≠ェ顔を覗かせたものの、少なくとも以前の調子がいいだけの男≠ナはなくなっていた。良く言えば賢くなり、悪く言えば狡《ずる》く、図太くなったように見えた。これから行くところがあるというので、四十分ほど一緒にいただけだが、その間におれはもう落ちるところまで落ちてしまった、だから、失うものは何もないし、怖いものもない≠ニいった意味のことを二、三回口にした。須ノ崎は、三日前に会ってきたという桐原に関わる話をするために、松尾を呼び出したのだった。
「須ノ崎さんの家族は?」
岸川が質問を継いだ。
「今はいないんじゃないかと思います。二年前に離婚して、当時小学生だった男の子は奥さんのほうへ引き取られましたし、会ったとき、再婚したといった話もしませんでしたから」
松尾は答えた。
「須ノ崎さんの実家はどこでしょう?」
「神奈川県の伊勢原市です。でも、両親は亡くなりましたし、家も人手に渡ってしまったようです」
「須ノ崎さんは、二年前に離婚するまで、どこに住んで何をしていたんですか?」
「すみません。そうしたことを話す前に、須ノ崎がどこでどのようにして殺されたのか、教えてくれませんか」
松尾は言った。先に聞いておかないと、刑事たちは用件が済んだらさっさと帰ってしまうかもしれなかったからだ。
岸川が、相談するように浦部と見交わしてから、「わかりました」と応じた。事情を話さないでは松尾からこれ以上の情報を引き出すのは難しい、と判断したのかもしれない。
2
「死体は、今朝六時十分頃、足立区内を流れる荒川の河川敷で発見されました。正確に言うと、荒川に架かった扇大橋の南詰から、二段になった土手を下って、水辺のほうへ四、五十メートル行ったあたりです」
岸川がそこまで話して一度言葉を切った。松尾の反応を窺《うかが》うような目をして、
「扇大橋をご存じですか?」
と、訊いた。
知っている、と松尾は答えた。
「ほう……」
岸川の目が光った。
「といっても、もう十年以上行ったことはありません。ただ、以前、荒川区の西尾久に住んでいたことがあるんです」
松尾が住んでいたのは、都電荒川線の宮ノ前駅の近くだった。そこから扇大橋までは歩いて二十分とかからない。
山手線の西日暮里駅前から、隅田川、荒川と渡り、さらに環七通りを突っ切って北へ真っ直ぐ伸びているのが西尾久通り。その道路の隅田川に架かった橋が尾久橋、荒川に架かった橋が扇大橋だった。
「そうですか」
と、岸川が言葉だけで応じ、死体が発見されたときの説明に移った。
「見つけたのは、近所に住んでいる四十七歳の主婦です。河川敷へは、雨が上がったので、犬の散歩に行ったんだそうです。主婦が言うには――」
土手の上に立って下の河川敷を眺めたときから、草地の中にある黒っぽい大きなものに気づいていた。土手に付いた階段を犬と一緒に降りて行くときも、何度かそれを見ていた。といって、粗大ゴミが捨てられていることなど珍しくないので、不心得者がまた何か捨てて行ったのかしら、とちょっと顔をしかめただけで、それ以上は気にとめなかった。ところが、下の舗装された道まで降りて犬の鎖を外してやったところ、犬がその物体のそばまで走って行き、吠《ほ》え始めた。土手下の道から水辺までの距離はおよそ百メートル。間はほとんど草地だが、川縁だけちょっとした藪《やぶ》になっている。黒っぽい物体は、道と水辺のほぼ中間、道から四、五十メートルのあたりにあった。彼女は、「どうしたの? こっちへ来なさい」と犬を呼んだ。それでも、犬は物体から離れようとしない。そこで、彼女は初めて少し気になり、近くまで行って……腰を抜かすほど驚いた。丈が二十センチほどの草に半ば埋まっていたのは人間だったからだ。
いつもの朝なら、散歩したりジョギングしたりしている者が結構いるのに、今朝にかぎって近くに人の姿がない。彼女は仕方なく家まで飛んで帰り、まだ寝ていた夫を起こして、警察に電話させた。
それにより、まず、近くにいたパトカーと所轄警察署の警官が現場へ急行した――。
「死因は窒息です。鈍器で頭を殴られ、脳震盪《のうしんとう》を起こして倒れたところで首を絞められたのではないか、と思われます。ただ、頭を殴った鈍器と首を絞めた紐《ひも》は見つかっていません」
岸川が説明をつづけた。
死亡時刻は、遺体の解剖が済まないとはっきりしないが、おおよそ昨夜八時から十二時ぐらいまでの間。東京は午前三時過ぎまでざんざん降りの雨だったが、死体もずぶ濡《ぬ》れの状態だった。といって、死体の見つかった荒川河川敷で殺されたのか、どこか別の場所で殺され、車で運ばれてきて棄てられたのかは、不明。土手の上に通じている一般道から河川敷へ下る道の入口には車止めが設けられており、特別の場合を除いて、車両は通行できない。が、被害者は比較的小柄なので、犯人が男なら、土手の上に停めた車から河川敷まで死体を担ぎ下ろすか引き摺《ず》り下ろすのは、それほど難しくなかったと思われる。もし雨が降らなかったら、土手や死体の棄てられていた草地に犯人の足跡なり死体を引き摺った跡なりが残っていたかもしれない。しかし、昨夜は豪雨に近い雨だったため、そうした痕跡《こんせき》を見つけるのは不可能である。被害者はズボンとシャツ、ジャケットを身に着け、靴を履いていたが、死体の近くに被害者の持ち物と思われるバッグ等はなかった。また、犯人が奪って行ったのか、財布や運転免許証、手帳の類《たぐ》いもなく、ジャケットのポケットに入っていたのは、濡れて潰《つぶ》れた煙草とマッチ、それに水を含んだティッシュペーパーだけであった。
「今のところ、判明しているのはこの程度です」
岸川が説明を終えた。
しかし、それでは、彼らがどうして松尾を尋ねてきたのかがわからなかった。
三恵出版社で聞いたと言ったから、松尾が須ノ崎にやった名刺を見たのは確実だと思われる。岸川たちは松尾のその名刺を手掛かりに三恵出版社を訪ねて三津田に会い、 松尾の住所と彼が嘱託のライターであることを聞いたのだろう。
ただ、そう考えても、須ノ崎の財布の中にあったはずの名刺[#「須ノ崎の財布の中にあったはずの名刺」に傍点]がどうして岸川たちの手に渡ったのか、が不可解なのだ。
「刑事さんたちがわたしの名前を知ったのは、わたしの名刺からですね?」
松尾は訊《き》いてみた。
そうだ、と岸川が答えた。
想像したとおりだった。
「それはどこにあったんですか?」
「須ノ崎さんが水城丈の名前で泊まっていた『日之出荘』の個室……三畳間に置いてあったボストンバッグの中です」
「バッグの中?」
「バッグのポケットですが、何かおかしいですか?」
「いえ、べつに。それならいいんです」
六日前に須ノ崎と会ったとき、松尾は、彼に乞《こ》われて名刺を交換した。青梅のアパートの電話番号がわかっているんなら、おれの商売用の名刺なんかいらないじゃないか、と言ったのだが、とにかくくれ、と言うので。
すると、須ノ崎は、ズボンの尻《しり》ポケットからふくらんだ財布を取り出し、
――大事なものは、みんなここに入れて持ち歩いているんだ。
ちょっと意味ありげな笑いを浮かべ、名刺をそこに収めたのだった。
といって、旅館へ帰った後で財布から名刺を取り出し、バッグに移したとしても不思議はない。
「それならいいとは?」
岸川が松尾の言い方にこだわった。
隠す必要もないので、松尾は、須ノ崎と名刺を交換したときのやり取りを話した。
「須ノ崎さんの財布はふくらんでいた。そして須ノ崎さんは、大事なものはみなここに入れて持ち歩いている、と言った……」
岸川が考える目をして、松尾の説明を繰り返した。
「そうです。要するに、須ノ崎にとって、わたしの名刺は持ち歩く必要のないものだった、というわけです」
「ということは、逆に持ち歩く必要のある名刺もあったという事実を意味しますね」
「当然そうでしょう」
「松尾さんの名刺を入れるとき財布がふくらんでいたということは、すでにそこに何枚かの名刺が入っていた……ま、名刺以外のものもあったかもしれませんが、名刺が入っていた可能性が高い、ということですね」
「たぶん」
「その中には犯人の名刺もあったかもしれない。そして犯人は、金が目的ではなく、自分の名刺を残さないために被害者の財布を奪ったのかもしれない……」
岸川の言葉に、松尾はハッとした。犯人が奪った財布の中には桐原政彦の名刺もあったのではないか、と思ったのだ。
須ノ崎は、先週の木曜日、桐原の自宅を訪ねている。そのとき、須ノ崎は当然、桐原の名刺をもらったはずである。桐原が東央大学教授から政友党国際局長に転身してから初めて会ったはずなのだから。
「何か?」
岸川が、松尾の顔に怪しむような視線を向けた。
べつに、と松尾は首を横に振った。
「何か気づかれたことがあったんじゃありませんか」
「何もありません」
松尾は、須ノ崎のバッグのポケットに桐原政彦の名刺もあったかと訊きたかったが、やめた。桐原の名を出せば彼に迷惑をかけるからというより、桐原と須ノ崎の関わりを警察に知られたくなかったから。
それに、岸川の答えはわかっている。もし有名人・桐原の名刺が松尾の名刺と一緒にあれば、彼は真っ先に須ノ崎と桐原の関係を質《ただ》していただろう。
ところが、岸川は桐原のキの字も口にしていない。ということは、桐原の名刺は須ノ崎にとって大事なものだった[#「桐原の名刺は須ノ崎にとって大事なものだった」に傍点]ので、犯人に奪われた財布の中に入っていた――。そう考えて、たぶん間違いない。
「それじゃ、失踪する前の須ノ崎さんについて話してくれませんか」
岸川が話を進めた。「どこで、何をしていた人なんでしょう?」
「刑事さんたちは、『スーパー・マルサキ』という名を聞いたことがありませんか? 神奈川県の南西部を中心に一時は十以上の店舗を持っていたスーパーマーケットですが」
松尾は訊き返した。
「知りませんね」
と岸川が答え、彼の横で手帳を広げている浦部も、聞いたことがないというように首をかしげた。
「須ノ崎は、そこのオーナー社長だったんです。祖父が創業し、父親が大きくした会社を、父親が亡くなった十二、三年前に彼が引き継いだんです」
松尾は説明した。「須ノ崎が社長になったときはバブル景気の真っ最中でしたから、順調というか、うまくゆきすぎたぐらいだったようです。ところが、間もなくバブルが弾《はじ》け、その頃から傾き出して、二年前の冬、一月か二月に倒産しました。彼の拡大策と放漫経営が祟《たた》ったようです。本社は厚木で、須ノ崎も失踪するまでは厚木市内に住んでいました。創業の地は伊勢原ですが、県西北部の相模原や津久井に店舗を出すため、彼が父祖の出身地である厚木に本社を移したんです」
「スーパーが倒産した後、奥さんと離婚した?」
「そうです。半年ほどしてからですが。そして、債権者から逃げるために行方をくらましたようです」
「須ノ崎さんに兄弟は?」
「弟と妹が一人ずついたはずですが、どこで何をしているのかは知りません」
「別れた奥さんと子供はどこに住んでいるんでしょう?」
「奥さんの実家のある埼玉県|蕨《わらび》市へ引っ越したと聞きましたが、住所まではわかりません。ただ、旧姓はわたしと一字違いの松沼、名前は愛子といったと思いますから、調べればわかるんじゃないでしょうか」
「松尾さんは、須ノ崎さんと六日前に数年ぶりで会ったと言われましたね」
「ええ」
「それは偶然ですか?」
「違います。前日、須ノ崎からここに電話があったんです。それで、立川の喫茶店で待ち合わせました」
「電話は、それまでもかかってきていたんですか?」
「いません。失踪する直前に話して以来ですから、約二年ぶりです」
「では、須ノ崎さんは松尾さんに用事があって電話してきた?」
「いや、これといった用事なんかなく、久しぶりにわたしと話したくなって電話してきたようです」
松尾は嘘をついた。
須ノ崎は、桐原に関して重大な話があるといって電話してきたのである。しかし、それを警察に明かすわけにはゆかなかった。
「松尾さんはいつから青梅にお住まいなんですか?」
「今年で十一年になります。須ノ崎は、二年前の電話番号では通じないかもしれないと思いながらも、一応かけてみたようです。そうしたら、わたしがすぐに出たため、なんだ、おまえ、まだそんなところにいたのか……≠ニちょっとびっくりしていました。それで、話しているうちに久しぶりに会わないかということになり、立川で会ったんです」
「名刺はそのとき渡された?」
「ええ。これは営業用の名刺だと言ったんですが、それでもいいから、くれ、と言うので……」
「数年ぶりに会って、どんな話をされたんですか」
「わたしの近況や、高校時代の共通の友人について、どこでどうしているらしいといった話をしました」
近況を話したといっても、ゴーストライターは影の存在なので、三日前に桐原に会って「半生の記」の代筆を頼まれた、という話はしなかった。
「須ノ崎さんについては?」
「彼は自分のことをあまり話したくないようでしたので、わたしも尋ねませんでした。ただ、失踪後、一年半ほど大阪と神戸に行っていたが、半年ほど前に東京へ戻った、という話でした」
これは事実である。
「その間、どうやって食べていたんですかね?」
「確かめたわけではありませんが、一、二年食いつなぐくらいの金は、債権者に隠して持っていたんじゃないでしょうか」
「なるほど」
「あるいは、おれもおまえの同業のようなものだと言っていましたから、〈フリージャーナリスト 水城丈〉の名をつかって、何か書いていたのかもしれません」
須ノ崎の名刺をもらったとき、松尾は総会屋に類した仕事を連想したが、当たっているかどうかはわからない。
「松尾さんは、須ノ崎さんの連絡先を訊かなかったんですか?」
「訊きました。そうしたら、今は池袋のホテルに泊まっているが、適当に都内のホテルを泊まり歩いているので近いうちにまた自分のほうから連絡する、と言ったんです」
これも本当である。
「ところで、松尾さんは車の運転免許をお持ちですか?」
不意に岸川が質問を変えた。
松尾は一瞬、質問の意図がわからなかったが、すぐに犯人は車を使った可能性がある≠ニいう岸川の話を思い出した。どうやら、刑事は松尾に対する疑いを完全に解いたわけではなかったらしい。
運転免許証も車も持っていない、と松尾は答えた。
「そうですか……」
岸川が、大きな瘤《こぶ》のようなおでこを上下させてうなずいた。
それから、彼は隣りの若い刑事と目と目で何やらやり取りした後、松尾のほうへ顔を戻し、
「お忙しいところ、ご協力ありがとうございました」
と、礼を述べた。
松尾が仕事に戻って三十分ほどした頃、机の左端に置いてある電話が鳴った。
コードレスの子機はもとより留守番機能も付いていない旧式の電話だ。必需品のファックスは後で買ったが、電話機のほうは十年ほど前に知人からもらったのをまだ使っている。
電話してきたのは三津田だった。
誰か尋ねて行ったかと訊くので、刑事が二人来たと松尾が答えると、
「そうか。それなら、もう話してもいいだろう」
三津田が言った。
松尾が想像したとおり、岸川たちは三恵出版社を訪ねて、土曜日でも事務所へ出ていた三津田から松尾の住所を聞いたのだった。
そのとき、岸川は、自分たちの来たことを松尾に知らせないでおいてほしい、と三津田に頼んだのだという。彼らは、もしかしたら犯人かもしれない松尾に心の準備をさせず、不意を衝《つ》こうとしたらしい。
「というわけで、きみに電話しなかったんだが……すまなかった」
と、三津田が謝った。「知らせるなと言われ、はいと答えたのに、約束を破るわけにいかなくてね」
「べつに気にしていません」
と、松尾は答えた。
「で、何があったのかね?」
三津田が訊いた。
松尾を心配する気持ち半分、興味半分、といった感じだ。刑事が帰った後、ずっと気になっていたのだろう。
「高校時代の友達が殺されました」
と、松尾は言った。
「友達が殺された!」
三津田が驚きの声を上げた。「高校のときの友達というと、じゃ、桐原さんとも……?」
「ええ。桐原やぼくと三年のとき同じクラスだった須ノ崎昇という男です。六日前に会ったんですが、そのとき、ぼくが三恵出版社の名刺を渡してあったので、警察はそちらへ行ったようです」
「なるほど」
三津田が、電話の向こうでうなずいたようだ。刑事が松尾を尋ねて会社へ来た事情を納得したらしい。
「それで、犯人の目星はついたのかね?」
質問を継いだ。殺されたのが桐原の元同級生と聞いたからか、前よりいっそう興味をそそられた感じだ。
「まだだと思います。今朝早く、荒川の河川敷で死体が見つかり、刑事たちがぼくのところへ来るまで、身元もはっきりしなかったようですから」
「そう」
「友達といっても、六日前に数年ぶりに会っただけで、ほとんど付き合いがなかったので、あまり関係ないんです」
松尾は牽制《けんせい》した。三津田にあれこれ質問されたくなかったからだ。
松尾の意を察したのか、それとも今の段階ではこれ以上聞ける事実はないと判断したのか、三津田がもう一度「そう」と応えて、仕事の進捗《しんちよく》状況はどうか、と話を変えた。
松尾は、予定どおりに進んでいると答えた。
三津田との電話を終え、流しで水を飲んでからワープロの前へ戻った。
しかし、ディスプレーに目をやってキーを叩《たた》き始めても、須ノ崎の件が気になって身が入らなかった。
須ノ崎はいったい誰になぜ殺されたのか、と思った。
といっても、松尾は一般的に〈誰に、なぜ?〉と気にしていたわけではない。六日前に須ノ崎の言ったことが意識に強く引っ掛かっていた。
これは、岸川と話しているときからそうだった。もしかしたら、六日前の須ノ崎の話が彼の殺された事件と関係があるのではないか≠ニいう疑念が、ずっと松尾の頭から去らないのである。
須ノ崎は、松尾に電話してきたとき、桐原に関わる重大な話があるので会いたい、と言った。そして、翌二十五日、立川の喫茶店で待ち合わせると、
――木曜日の晩、桐原の家へ行って彼と会ってきた。
と、話した。
木曜日といえば、松尾が桐原と三鷹で会い、桐原から「半生の記」の執筆を依頼された日だ。ということは、桐原が松尾と話して家へ帰った後、須ノ崎が桐原宅を訪ねたというわけらしい。
それはともかく、須ノ崎は予告どおり、松尾に驚くべき話をした。桐原に関わる重大な疑惑≠ノついて明かし、それを桐原に仄《ほの》めかしてきた、と。
その疑惑は松尾にも大きな関わりがあった。松尾だけでなく、須ノ崎と館岡にも。
須ノ崎が桐原に対して疑惑を抱いたのは、週刊エポックの記事を読んだからだという。二十三年前の春から夏にかけて渋谷・新宿両区内で発生した連続幼女|悪戯《いたずら》事件は、容疑者として逮捕された青年の自殺によって幕を閉じたが、自分は重要容疑者として桐原を密《ひそ》かにマークしていた――という元警官Qの談話である。
それを読んで、須ノ崎は二十三年前に見た週刊誌のある記事を思い出し、引っ掛かりを感じた。もしかしたら記憶違いかもしれないが、もし自分の記憶どおりだったとしたら、どういうことだろう、と。
彼は、世田谷区八幡山にある大宅壮一文庫へ行き、その記事の載っていた週刊誌を探し出し、読んでみた。
記憶に誤りはなかった。
須ノ崎は、あらためて、この符合[#「符合」に傍点]はどういうことかと考えた。Qの談話と、二十三年前の週刊誌に載っていた記事の内容が、無関係だとは思えなかった。
もし無関係でないとすると、桐原は、二十三年前に松尾が引き起こした事件とも何らかの関わりを持っていた可能性が高い。
といっても、須ノ崎の前にあるのは、両者の関連を想像させるいくつかの事実、つまり点にすぎない。点と点を結ぶ線は見えない。その線の存在を証明することは、今となっては、おそらく不可能だろう。
しかし、存在を証明できなくても、線が在るのは間違いないのではないか、と須ノ崎は考えた。
そこで、彼は桐原を訪ね、自分の抱いた疑惑を仄めかしたのだという。
しかし、須ノ崎自身も関係している松尾の事件について触れるわけにはゆかなかった。そのため、遠回しの言い方をせざるをえなかったらしい。
だからだろう、桐原は、
――いったい何を言っているのか、何を言いたいのか、ぼくには理解できない。
と、首をかしげたらしい。
が、彼には充分に意味が通じたはずだ、と須ノ崎は言った。
須ノ崎からその話を聞いたとき、松尾は驚いた。本当だろうか、と初めは半信半疑だった。というか、〈三分信・七分疑〉くらいだったかもしれない。が、考えてみると、確かに、須ノ崎の挙げた点≠ヌうしが無関係とは思えない。
松尾は、胸が騒ぐのを覚えながら、館岡には話したのか、と訊いてみた。
と、須ノ崎が、なぜか一瞬面食らったような、戸惑ったような表情をして、
――いや、まだ話してない。
と、答えた。
――話してないの?
――ああ。まずは松尾に話して、松尾の意見を聞いてみたかったんでね。
――じゃ、二年前に家を出てから、館岡と話したことは?
――ない。
――えっ、そうなのか! おれは、館岡にだけはたまに電話ぐらいしているのかと思っていた。
――してないよ。
――いつだったか、館岡と電話で話したとき、きみからの連絡はないと言っていたけど、口止めされているのかと思ってね。なにしろ、きみは館岡と仲が良かったから。
――フン、仲が良かったか。確かに、おれに金があるうちはな。館岡も桐原も冷たい奴らよ。三年前の暮、切羽詰まったおれが、恥を忍んで助けてくれと泣きついたとき、奴らは、おれに貸す金なんかないと断わりやがった。あのとき、もし二人のうちのどちらかが融通してくれていたら、スーパー・マルサキは潰《つぶ》れずに済んでいたかもしれないのに……。
初めて聞く話だった。
松尾は少しばかり驚き、
――へー、そんなことがあったのか。
と、相槌《あいづち》を打った。
といって、須ノ崎の言い分が正当だと認めたわけではない。須ノ崎のマンションやスポーツカーを自分のもの同様に使っていた館岡はともかく、桐原には、須ノ崎に金を貸さなければならない義理はないはずである。返ってこない危険性が高いのに。
――ただ、おれに対する態度がどうあれ、この件は館岡にも関係あることだから、いずれは連絡を取って話すつもりでいる。
須ノ崎が言い、「それより、おれの話、松尾はどう思う?」と訊いた。
――そうだな……須ノ崎の疑惑はもっともだと思うけど、ただそれを証明できない以上どうにもならないんじゃないか。
――おれが証明して見せる。
――きみが?
――ああ。おれが調べて疑惑の正しさを証明し、同時に松尾が引き起こした事件の裏に何があったのかも必ず突き止めてやるよ。
松尾は今、そのときの須ノ崎の話が、彼の言葉が、もっとも気になるのだった。
なぜなら、須ノ崎の殺された事件が彼の抱いていた疑惑に関係していた場合、桐原はもとより松尾自身にも関わってくる可能性があったからだ。
須ノ崎は、松尾に話した疑惑とは関係なく殺されたのかもしれない。たぶん、その可能性のほうが高いだろう。スーパー・マルサキが倒産して、行方をくらましてからの須ノ崎は、かつて日の当たる世界にいたときの彼からは想像できない、どこか汚れた臭いのする生活を送っていたようだから。
いずれの結果が出るにせよ、しばらく様子を見てみよう、と松尾は思った。
岸川たちの捜査によって、松尾や桐原と関係のない人間が容疑者として浮かび、逮捕されれば、冤罪《えんざい》の疑いがないかぎり、終わりである。そのときは、須ノ崎の話した桐原に関わる疑惑≠ヘ疑惑のまま残るものの、その件と須ノ崎が殺された事件とは無関係だった、ということになる。
問題は、岸川たち警察の捜査がなかなか進まなかったときだ。須ノ崎の失踪後の生活や交友関係の中から容疑者が浮かばず、捜査が膠着《こうちやく》状態におちいった場合である。そのときは、松尾の恐れている事態になる可能性が小さくない。
しかし、今、そうなった場合を仮定してあれこれ考えてもどうにもならない。仕事が手につかなくなるだけである。だから、しばらくはこの問題を頭から追い出しておこう、そう思ったのだ。
松尾は台所へ行って、もう一度水を飲んできてから、仕事に戻った。
3
四日後の七月五日(水曜日)、松尾は、厚木市郊外の須ノ崎家の菩提寺《ぼだいじ》で行なわれた須ノ崎昇の葬儀に参列した。桐原と館岡も一緒である。
松尾たち三人の他には、高校時代の友人は誰も姿を見せなかった。
三人がそろったのは偶然ではない。須ノ崎が死体になって発見された土曜日の夕方、館岡から松尾に電話があり、その後で松尾が桐原と連絡を取ったのだ。
その日、岸川、浦部両刑事の訪問を受けた松尾が、桐原と館岡に連絡を取るべきかどうか迷っていると、館岡から電話がかかってきた。
松尾が受話器を取って名乗るや、
――おい、夕刊を見たか?
いきなり館岡が言った。
いつもの、どこか威張ったような太い声に興奮の響きがあった。
夕刊の社会面に、須ノ崎の殺された事件が載ったのである。松尾が駅まで行って買ってきた全国紙の中央日報、朝毎新聞、読経新聞ともに内容にほとんど違いがなく、いずれもそれほど大きなあつかいではなかった。
――須ノ崎の事件なら、見た。
と、松尾は答えた。
――殺されたとは、びっくりしたな。あいつ、いったい何をやっていたんだろう?
――さあ……。
松尾は、何となく六日前に会ったばかりだということを言いそびれた。桐原に関わる疑惑を館岡にはまだ話していない≠ニいう須ノ崎の言葉が頭にあったからかもしれない。
須ノ崎と会った話をしなかったので、彼と名刺を交換した話も、そのとき松尾のやった名刺が手掛かりになって死者の身元が判明したという話もしなかった。
――ところで、葬式、どうする?
館岡が訊《き》いた。
――おれは行こうと思っている。
――あんたが行くんなら、おれも行くが……場所がわかるか?
――遺体は、たぶん弟さんが引き取るだろうから、調べればわかるだろう。
松尾が岸川にした話を元に、警察が須ノ崎の別れた妻の居所を突き止めれば、須ノ崎の弟か妹の住所がわかるはずである。あるいは、警察が別れた妻の居所を突き止める前に、弟か妹が新聞かテレビのニュースを見て、名乗り出るかもしれない。いずれにせよ、警察に問い合わせれば、誰が遺体を引き取り、いつどこで葬式が行なわれるかぐらいは教えてくれるだろう。
――わかったら、知らせてくれるか。
――ああ。
――桐原にはどうする?
――そうだな、この後で連絡を取ってみるよ。
――あいつ、妙な事件に巻き込まれて、大変なようだが……。
――だからといって、友達の葬式ぐらい顔を出せないことはないだろう。
松尾は、桐原に「半生の記」の代筆を依頼された件は話さなかった。須ノ崎にも明かさなかったように。
館岡との電話を終えると、松尾は一旦《いつたん》受話器を戻し、手帳を取って開いた。
そこには、桐原から聞いたばかりの、政友党本部の彼のデスク直通の電話番号が記されていた。
松尾は再び受話器を取って、その番号をプッシュしながら、何かあったらここに連絡してくれ。出張などで不在のときが少なくないが、伝言してくれればこちらから電話する≠ニいう桐原の言葉を思い浮かべた。彼は自宅に電話するなと言ったわけではないが、それを聞いて、おれに郁美と話をさせたくないのだな、と松尾は感じたのだった。
土曜日の七時過ぎなのに、桐原はまだ党本部にいた。
松尾だとわかると、依頼した原稿代筆の件だと思ったらしく、
――何だい、予定でも変わったのか?
と、言った。
松尾は、仕事は予定どおりだと答えてから、夕刊をまだ見ていないか、と訊いた。
――朝毎の夕刊なら、さっきざっと目を通したが……何か変わったニュースでもあったかな?
――須ノ崎が殺された。
松尾は言った。
すぐには言葉が返ってこなかった。
須ノ崎が……と松尾がもう一度言いかけると、
――ほん、とう、か?
桐原がかすれた声で訊いた。
――ああ、朝毎の夕刊にも出ている。
松尾は、六日前に須ノ崎に会った事実と死者の身元が判明した経緯は話さなかった。館岡にはいずれ話すかもしれないが、桐原には、彼を問い詰める必要が生じたときでもないかぎり、明かせない。
――どこで、いつ殺されたんだ?
――それは後で新聞を見てくれ。
――わかった。じゃ、犯人は?
――わからない。
――そうか……。
桐原も、先週須ノ崎が自宅へ尋ねてきたという話はしなかった。
松尾は、よほど、知らないふりをして最近、須ノ崎に会ったか?≠ニ訊いてみようかと思った。だが、それは会ったときでいいだろうと思いなおし、
――いま、館岡から、葬式をどうするかという電話があった。
と、話を進めた。
――行くんだろう?
――うん。それで、きみはどうするかと思ってね。
――どうしても動かせない予定がないかぎり、おれだって行くよ。いつだい?
――まだ、日にちも場所もわからない。でも、行くんなら、調べて知らせる。
――そうか。じゃ、頼む。
――わかった。
――それにしても、須ノ崎が殺されたとはな……。
桐原がつぶやいた。結局、須ノ崎の訪問については触れなかった。
翌々日の月曜日(一昨日)、松尾は、足立区の江北警察署に設けられたと新聞に出ていた須ノ崎事件の捜査本部に電話をかけた。そして、岸川刑事に葬儀の日時と場所を尋ね、館岡と桐原に知らせた。
祖父と父親が苦労して築き上げた会社を倒産させて行方をくらまし、挙句の果てに殺された男の葬儀は寂しいものだった。参列したのは死者の弟と妹、親戚《しんせき》とスーパー・マルサキの関係者合わせて十人余り、それに松尾ら旧友三人と二人の刑事だけ。別れた妻と子供は姿を見せなかった。
松尾と館岡と桐原は、行くときはばらばらだったが、帰りは一緒に小田急線の本厚木駅まで戻った。須ノ崎の遺体は解剖が終わった後で荼毘《だび》に付されていたので、焼香が済むとすぐ、桐原が電話でタクシーを呼び、それに松尾と館岡も同乗したのである。
桐原はこれから行くところがあり、館岡も勤務先の柏葉会中央病院へ帰らなければならないという。
それを、久しぶりに顔を合わせたのだからお茶ぐらいどうかと松尾が誘い、三人で駅前の喫茶店に入った。
桐原は、「半生の記」の代筆を松尾に依頼した件を他の誰よりも館岡に知られたくないと思っているはずである。松尾にはそれがわかったから、館岡の前では最近桐原と会った事実を隠し、数年ぶりで会ったかのように装っていた。
「まさか、こんなふうにして三人で会うとは想像もしなかったな」
と、館岡がおしぼりの袋を破りながら言った。
松尾がホットコーヒーを、館岡と桐原がアイスコーヒーを注文した後だ。
桐原が、神妙な顔つきの中にもいつもの用心深げな目をして、うんとうなずいた。
松尾も同感だったので、まったく……と応じた。
松尾たちは、須ノ崎を含めて四人、けっして気の合った友達とは言えないだろう。それにもかかわらず、高校を卒業して二十五年、何となく付き合いをつづけてきた。その因縁の始まりは、卒業式の晩、須ノ崎の部屋のコンパに集まったのがこの四人だけだった、ということかもしれない。大学受験に失敗した松尾は出たくなかったのだが、おまえが来なきゃ面白くないから絶対に来いよ≠ニ須ノ崎に強く誘われ、参加した。すると、十人ぐらいは来るという話だったのに、集まったのは常連の須ノ崎と館岡を除くと松尾と桐原の二人だけ。その晩は四人で勝手なことを言い合いながら浴びるほど酒を飲み、卒業してからも時々は集まろうぜ≠ニいう話になったのである。といっても、桐原と館岡は互いに相手を好いていないのが明らかだったし、二人と適当に付き合ってきた松尾にしたところで、卒業した後まで彼らと交遊をつづけたいとは思わなかった。だから、須ノ崎がいなかったらそれきりになったはずだが、誰とでも調子よくやる彼がまめに電話をかけてきてまとめたので、学生時代は年に一、二回、四人で集まった。卒業後は四人が顔をそろえたことはないが、それでも、電話のやり取りだけは切れぎれながらつづいていた。
「それにしても、殺されるなんて、須ノ崎の奴、何をやっていたのかな」
館岡が太い黒縁の眼鏡を外し、おしぼりで顔を拭《ふ》きながら、言った。
「わからない」
松尾が首を振ると、おしぼりで指を一本一本しごくように拭いていた桐原も手を止めて、首をかしげた。
須ノ崎が絞殺死体になって見つかってから、今朝でまる四日経っていた。が、犯人に迫る有力な手掛かりはまだ得られていないらしい。
解剖の結果、死亡推定時刻は六月三十日(金曜日)の午後八時から十時までの間と判明した。とはいえ、その時刻に、死体の見つかった荒川河川敷で殺されたとはかぎらない。警察は、むしろ別の場所で殺されて運ばれてきた可能性が高いのではないか、と見ているようだった。いずれにしても、その晩は午前三時過ぎまでひどい雨降りだったこともあってか、死体発見現場付近における不審な車や人物の目撃者が全然ないらしい。
警察は、須ノ崎が泊まっていた根岸の簡易旅館「日之出荘」の客から、須ノ崎が毎日のように浅草へパチンコをやりに行っていたと聞き込み、彼の通っていたパチンコ店を突き止めた。その結果、須ノ崎と話したことがあるという常連客が複数見つかった。彼らによると、須ノ崎は「フリージャーナリスト・水城丈」と名乗っていたものの、ジャーナリストらしい仕事をしていた様子はなく、パチンコの他に競輪、競馬、競艇などもやっていたようだ、という。
問題は、彼にそうした生活を可能ならしめていた金の出所である。「日之出荘」の主や宿泊者に訊いても、一日二千五百円の宿泊代はきちんと払われており、金に困っているふうには見えなかったというし。パチンコで稼いでいたのか、失踪するとき債権者に気づかれずに持って出た金がまだあったのか、それとも何かうまい金蔓《かねづる》でも握っていたのか……。それを解く手掛かりは、奪われた財布の中にあったと思われる。多額の現金を持ち歩いていたとは思えないから、キャッシュカードだ。警察は須ノ崎昇名義か水城丈名義の預金がないかと、銀行を片っ端から当たったらしい。が、少なくともそうした名義の預金は発見できなかった――。
こうした事実は、一部は事件の続報として新聞にも載っていたが、松尾は、昨日再びアパートを尋ねてきた岸川刑事から聞き出したのである。
「離婚して行方をくらました後、おれには一度も連絡がなかったが、あんたらのところにはどうだったんだ?」
館岡が、使ったおしぼりをテーブルに置くと、松尾と桐原の顔に交互に視線を向けてきた。
温かみの感じられないすべやかな白い肌、鋭利な刃ですっと切ったような一重|瞼《まぶた》の目、それに薄く紅でも掃いたような赤い唇と、眼鏡を外しているときの彼の顔はどこか陶器の仮面を思わせた。
松尾は、どう答えるべきかと考えながら、 桐原の反応を窺《うかが》った。館岡の問いは、松尾が桐原にしてみたかった質問と重なっていたからだ。
「おれのところにもない」
と、桐原が答えた。
ぎょろりとした大きな目の中で、周囲の状況を的確にとらえようとするセンサーのように光と影が微妙に交錯したが、動揺の色は感じられない。
須ノ崎がわざわざ松尾を呼び出して出鱈目《でたらめ》を言ったとは考えられないから、桐原は嘘をついたわけである。
嘘をついても、須ノ崎の死をもっけの幸いとばかりに彼の訪問の事実を隠し、彼の仄《ほの》めかした疑惑に感づかれないようにしただけなら、それほど問題はない。だが、須ノ崎の殺された事件に何らかの関わりを持っていたために彼に会った事実を隠したのだとしたら、事は重大だった。
「須ノ崎と懇意にしていた館岡に連絡がないんじゃ、おれや松尾にあるわけがない」
桐原がつづけた。
館岡がテーブルに置いてあった眼鏡を取ってかけ、
「そうか?」
と、松尾に問いかけた。
松尾は一瞬迷ったが、「ああ」と答えた。
桐原が嘘をついている以上、自分も須ノ崎と会った事実を伏せておいたほうがいいだろう、と判断したのだ。
ここで松尾が正直に答えれば、いつ会ったのかと訊かれるに決まっている。そうなれば、須ノ崎が桐原宅を訪問した後だとわかり、これといって内容のある話はしなかったと誤魔化しても、桐原は怪しみ、警戒するだろう。それはまずい。今後、岸川たち警察の捜査が思うように進展しなかった場合、松尾は、須ノ崎の殺された事件と桐原に関わる重大な疑惑≠ニの関連について調べてみる気になるかもしれない。そのとき、桐原に警戒されたら行動し難《にく》くなる。
館岡には、いずれ須ノ崎から聞いた話をして、共同歩調を取る必要が出てくるかもしれない。須ノ崎の言った疑惑≠ヘ館岡にも関係しているのだから。そのときまでは彼も騙《だま》すことになるが、やむをえない。
今日、警察から岸川か浦部が葬儀に来ていたら、二人の訪問を受けた経緯を桐原と館岡に説明せざるをえなかっただろう。が、葬儀に参列していた刑事は岸川たちではなかったのだ。
館岡には、桐原と松尾の答えを怪しんだ様子は見られなかった。
彼は、運ばれてきたアイスコーヒーにクリームとシロップをたっぷり入れて、一息に三分の二ほど飲んだ。
ポケットからマールボロを出して、一本振り出し、
「新聞には『無職』と出ていたが、須ノ崎の奴、何をして食っていたのかな」
と、火を点《つ》けずに首をひねった。
「朝毎には、パチプロだったんじゃないかって出ていたが」
桐原がアイスコーヒーにクリームを加えて、掻《か》きまぜた。
「パチプロか……。腕のいいパチプロになると、月に五、六十万は稼ぐというから、簡易旅館の個室に泊まって一人で食ってゆくだけなら困らんな」
館岡が煙草をくわえ、銀側のライターで火を点けた。
医師の喫煙率は低いと言われているが、館岡は平気で煙草を吸う。松尾もかつてはヘビースモーカーだったが、桐原は学生時代から吸わない。
「中央日報には、何か金蔓を握っていた可能性もあると書いてあった」
松尾は、ブラックで飲んでいたコーヒーを皿に戻して、言った。
「金蔓? どんな金蔓だ?」
館岡が煙を吐き出し、興味をそそられたような目を向けてきた。
「そこまではわからない。だいたい、金蔓|云々《うんぬん》というのが想像にすぎないわけだから」
ただ、岸川たちはそのセンがもっとも有力ではないかと見ているようだった。松尾の前ではっきり言ったわけではないが、須ノ崎がもしそうした金蔓を握っていたとすると、つまり誰かの弱味でも握って脅していたとすると、殺された動機がすっきりするかららしい。といって、そうした事実があったことを示すものは、まだ何も見つかっていないようだ。
「借金はどうなっていたんだろう?」
桐原が別の疑問を口にした。
「わからん」
と、館岡が首を振った。
「須ノ崎は、借金の取り立てから逃れるために姿を消したんだろう?」
「はっきりしたことはわからんが、おれもそうだと思っていた」
「だったら、その関わりから殺された可能性はないのかな」
「なるほど」
と、館岡がうなずいた。
彼も桐原も、須ノ崎の借金の申し入れを断わったことなどおくび[#「おくび」に傍点]にも出さない。
「暴力金融にでも居場所を突き止められたか……」
館岡がつづけた。
「いや、それはないと思う」
松尾は言った。
館岡と桐原が同時に問うような視線を向けてきた。
「どうしてだ?」
館岡が、咎《とが》めるような口調で訊いた。
実は、松尾はその答えを須ノ崎自身から聞いていた。借金の件は何とか片が付いたので、もう逃げ回る必要はないのだ、と。
しかし、須ノ崎に会った事実を隠しているのに、それは話せない。素早く考えて、一般的な見方を述べた。
「いくら暴力金融でも、相手を殺してしまったら、元も子もないじゃないか」
「それはそうだが、揉《も》めて……という可能性はある」
「確かにそれはあるかもしれないけど」
松尾はあっさりと引いた。
館岡が灰皿に煙草を押し潰《つぶ》し、
「いま、ふと思ったんだが……」
と言いながら顔を上げた。「須ノ崎が行方をくらましたのは、借金取りから逃げるためだけだったんだろうか」
「どういうことだ?」
松尾は、黒縁眼鏡が大きなアクセントになっている館岡の白い顔を見つめた。
「倒産して離婚し、持っていたものをすべて失ったとき、あいつはこれまでの関わりをすべて切り捨て、別の人生を生きたくなったんじゃないかと思ってね」
「別の人生か……」
松尾はつぶやいた。記憶の奥に、須ノ崎が失踪する直前にかけてきた電話が蘇《よみがえ》った。須ノ崎は、松尾の声が聞きたくなったから……と冗談めかした口調で電話してきて、最後に、
――明日からおれは別の人間になる。
真剣な調子で言い、松尾が理由を訊く前に切ってしまった。それから数日して松尾は須ノ崎の失踪を知り、ああ、あれは別れの電話だったのか≠ニ思ったものの、「別の人間になる」という言葉は、失踪して偽名で暮らすといった程度の意味にしか解していなかった。だが、いま館岡に言われてみると、もしかしたらあの言葉にはもっと深い意味が込められていたのかもしれない、と思ったのである。
「松尾には、何か思い当たることでもあるのか?」
桐原が訊いた。
「失踪する直前、須ノ崎がおれに電話してきたことは前に二人に話したと思うが……」
ああ、と桐原と館岡が答えた。
その電話のとき――と、松尾は須ノ崎とのやり取りをあらためて説明し、
「だから、もしかしたら館岡の想像したとおりだったのかもしれない、と思ったんだ」
「なるほど」
館岡がうなずいた。「とすると、須ノ崎は、望みどおり、兄弟ともおれたちとも縁を切って別の人間になり、この二年間、まさに別の人生を生きてきた、というわけだな」
「そして、おれたちの前に再び姿を見せたときは、その人生も終わっていたか……」
桐原が館岡の言葉につづけた。いかにも感慨深げな表情をして。
それを見て、松尾は、
――いや、須ノ崎は、少なくともきみとおれの前には人生が終わる前に姿を見せているじゃないか。
と言ってやりたい衝動に駆られた。そうぶつけたとき桐原がどんな顔をするか、見てみたい誘惑を感じた。そして、須ノ崎が桐原に仄めかした重大な疑惑≠ノついて、事実はどうなのか、と追及してみたい。
しかし、松尾はその誘惑を退けた。この件は、やはりもうしばらく様子を見てからのほうがいい、と思ったのである。何の準備もなしに持ち出し、そんなのは須ノ崎の妄想にすぎない≠ニ桐原に言われた場合、それ以上彼を追及する術《すべ》がない。
松尾が思いとどまった理由はもう一つある。もし真相が明らかになれば、松尾自身、桐原と同じぐらいかあるいはそれ以上の血を流す結果になるかもしれないからだ。いや、松尾一人だけの血なら、どんなに流れようと、すでに覚悟ができていないわけではない。自業自得なのだから。が、自分のために、館岡の現在と未来まで壊すわけにはゆかない。
「そろそろ行くか」
館岡が、残っていたアイスコーヒーを啜《すす》ると、腕時計を見て言った。
と、桐原も待っていたように時計に目をやり、「そうだな」と応じた。その顔には、心なしかほっとしたような色が感じられた。
「四時に、学生時代の恩師が病院へ尋ねてくることになっているんでね」
館岡が言う。
「おれはこれから千葉へ直行し、県連の会議に顔を出さなければならない」
「またいつか、ぜひ三人で会おう」
「ああ」
「今度はもっと落ちついたところでな。松尾もいいだろう?」
もちろんいい、と松尾は館岡の言葉に応えた。
松尾は本気だったが、館岡と桐原が自分と同じ気持ちでいるかどうかは疑問に思えた。いずれにせよ、須ノ崎の言った桐原に関わる重大な疑惑≠明らかにするときには三人で会わなければならない。三人で会って、とことん話し合う必要がある。
館岡が伝票をつかんで腰を上げたので、松尾と桐原もそれにつづいた。
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第五章[#「第五章」はゴシック体] 刑 事
1
三日ほど青空の覗《のぞ》く日がつづいたのに、今朝からまた雨になった。
郁美は軒下に洗濯物を干しながら、玄関から送り出したばかりの娘の香織の顔を思い浮かべて、
――これで、学校へ行くようになってくれればいいのだが……。
と、思った。
一ヵ月半も家に閉じ籠《こも》りきりだった香織が、今週から区立図書館へ行くようになったのだ。
今日は七月六日、木曜日。
月曜日は図書館が休みなので、香織が図書館へ行き出したのは四日の火曜日から。だから、今日でまだ三日目だが、雨になった今朝も行ってくる≠ニ二階から降りてきたので、郁美はほっとした。
香織の行動には予告も前兆もなかった。一昨日の午前九時半過ぎ、突然、肩紐《かたひも》にキティちゃん人形を付けたデイパックを背負って居間へ入ってくると、図書館へ行ってくる≠ニ言った。
それはあまりにも唐突で、郁美はどう応《こた》えたらいいのかわからず、ぽけっとした顔をして娘を見返していたのではないか、と思う。といっても、それはたぶんほんの二、三秒のことで、すぐに歓《よろこ》びが身体中に沸き起こってきて、
――あ、そう!
と、思わず高い声を出した。
恥ずかしいのか、香織は仏頂面をして黙っていた。
郁美は、昼食や帰り時間など、いくつか気になる点があったものの、ここであれこれ訊《き》いたり世話を焼いたりして香織の気持ちが変わってしまったら大変と思い、我慢した。余計なことを言わず、追い出すようにして玄関から送り出した。
その日、郁美は、香織のことが気にかかって何も手につかなかった。本当に図書館へ行ったのだろうか、図書館というのは口実で、新宿か渋谷へでも行って、盛り場をうろついているのではないだろうか、ひょっとしたらこのまま家出してしまうのではないだろうか……などと次々に浮かんでくる悪い想像に苦しめられて。時計を見やっては、遅い針の動きを恨めしく思った。区立図書館へ行ってそっと覗いてみようか、という誘惑に何度も駆られた。が、そのたびに、だめだと自分を叱り、玄関へ向かいかけた足を止めた。母親がそんな監視するようなまねをしたと香織が知ったらどうなるか。香織は怒るにちがいない。怒るだけならまだいいが、せっかく外出する気になったのに、また部屋に閉じ籠ってしまうかもしれない。そうなっては元の木阿弥だった。
郁美にとって、長い長い一日が過ぎ、香織は夕方六時近くに帰ってきた。
無事に帰ったことで、郁美は胸を撫《な》で下ろした。同時に、娘の顔に幾分明るさが戻ったように感じられ、これまで厚い雲に覆われていた郁美の胸にも晴れ間が覗いた。
香織は、昼食は近くのマクドナルドで済ませ、ずっと図書館で本を読んでいた、と郁美が訊かないうちに話した。嘘をついているようには見えなかった。香織は小さいときから本が好きだったから、本当だろう。そう思うと、郁美は、図書館へ様子を見に行かなくてよかった、と誘惑に負けそうになったことを反省した。
明日はどうするのかという質問が喉《のど》まで出かかったが、郁美はそれを呑《の》み込み、不安と期待のうちに翌朝を待った。
すると、昨日の朝も香織は九時半過ぎに二階から降りてきた。
そして、今朝だった。
夫の桐原を玄関まで送って出たとき、
――香織、今日も行くかしら?
郁美が言うと、
――そんなに心配しなくたって、大丈夫だよ。今日は雨だから休むかもしれないが、雨がやんだら、きっとまた行くよ。
桐原が笑いながら答えた。
郁美は気づかなかったが、不安と緊張で真っ青な顔をしていたらしい。
それを見て、桐原は、香織が二階から降りてこなかったときの郁美のショックを少しでも和らげようと、今日は雨だから……≠ニ言ったようだ。
が、そんな桐原の思いやりも不要だった。香織は雨の中を図書館へ出かけて行ったのである。
郁美は、政弘のTシャツを洗濯挟みで留めると、ふと手の動きを止めた。香織のことで一安心したら、別の気懸りが郁美の心をとらえたのだ。
その気懸りは、いま新たに生まれたものではない。郁美の胸にずっと存在していたが、これまではともすると香織の問題の陰になっていたのである。
郁美は手を下ろし、見るともなく、雨に打たれている、花の終わりかけたピンクの紫陽花《あじさい》に目をやった。
先週の金曜日(六月三十日)の夜、須ノ崎昇が殺された――。
といっても、これだけなら、自分も知っている夫の旧友が殺されて驚きはしても、それ以上のことではなかっただろう。
ところが、失踪《しつそう》して、二年間も音信のなかった須ノ崎は、殺されるわずか八日前、突然、桐原家を訪れた。かつての須ノ崎からは想像もつかないような崩れた雰囲気を漂わせ、どうということもない情報≠桐原に売りつけようと。そして、桐原は、須ノ崎のその用件だけでなく、彼の訪問の事実まで隠そうとしているのである。
須ノ崎が死体になって見つかった先週の土曜日、夜九時過ぎに帰宅した桐原は、新聞かテレビを見たかと郁美に尋ね、何のことかと郁美が訊き返すと、実は自分もさっき松尾に電話で知らされたのだが……と言ってから、須ノ崎が殺されたと話した。そして、事件について簡単に説明した後で、
――誰もきみにそんなことを訊く人はいないと思うが、もし誰かに尋ねられた場合、先日須ノ崎がうちへ来たことは黙っていたほうがいいね。
そう言ったのである。自分も、須ノ崎が二年前に行方をくらましてから一度も会っていないということにするから、と。
須ノ崎の殺された事件には、もちろん自分は何の関係もない。だが、これ以上、面倒なことに巻き込まれるのはご免だから≠ニいうのが理由だった。
桐原のその気持ち、理由は、郁美だってわからないではない。「幼女|悪戯《いたずら》事件」の疑いがまだ完全には解けずにいるとき、殺人事件にまで巻き込まれたのではたまらない、と思うのは当然だろう。
が、郁美は一方で、
――須ノ崎が我が家を尋ねてきたことを明かしたとしても、それが彼の殺された事件と何の関係もないのなら、桐原が事件に巻き込まれるおそれはないのではないか。そして、関係ないのなら、隠したりしないほうがいいのではないのか。
とも思うのである。
といって、郁美は、桐原が事件に関係していると考えているわけではない。夫を疑っているわけではない。夫を信じている。信じてはいるが、気にかかるのだ。
「この気懸りを追い出すには、どうしたらいいのかしら?」
郁美は、ブロック塀との間の狭い庭に焦点の定まらない目をやりながらつぶやいた。
桐原に話したところで、きみは心配性だな。なんだ、そんなことを気にしていたのか。心配することなど何一つないのに≠ニ笑われるだけだろう。
その言葉は、いっとき郁美の気持ちを軽くしてくれるかもしれない。が、郁美の気懸りを完全に解消してくれることはないだろう。
――松尾……。
郁美はふと松尾を思い浮かべた。
松尾と話せば安心できるかもしれない。
松尾と話すといっても、夫と家族の問題を相談しようとした前とは違う。彼から話を聞くだけである。それなら、桐原に黙って電話ぐらいしたってかまわないだろう。
昨日、桐原は須ノ崎の葬儀に行ってきた。松尾と館岡と一緒に。そのとき、桐原は、須ノ崎の共通の友人である二人にだけは須ノ崎が尋ねてきた話をしたのではないか。
郁美は松尾に電話して、そのことを確かめてみようと思ったのである。松尾と話した結果、郁美の想像したとおりだとわかれば、気懸りは消えるだろうから。
郁美は、残りの洗濯物を干して、居間へ戻った。
松尾の電話番号は前に調べ、電話帳の目につきにくい場所にメモしてあった。
郁美は電話の子機を取り、そのメモを見ながら番号を押し始めた。
しかし、彼女の指は途中で止まってしまった。二度、初めから押しなおしたが、同じだった。
郁美をためらわせたものは、松尾と話すことの抵抗感だけではない。それもあるにはあったが、それ以上に怖くなったのだ。もし自分の考えているのと異なる結果が出たら……と想像したとき。
郁美は大きく溜息《ためいき》をつくと、子機を充電器に戻し、買い物に出た。
四十分ほどして、郁美が不忍《しのばず》通りのスーパーマーケットで買い物を済ませて帰ってくると、家の前の道に二人の男が立っていた。郁美のほうから見て、黒い傘を差したずんぐりした男が桐原家の門扉の二十メートルほど手前、左側に、透明な白いビニール傘を差したすらりとした男が、門扉の三十メートルほど先、右側に。
道の幅は約四メートル。歩道はなく、両側はすぐに住宅の塀かフェンスになっている。車の通行が少ないので、雨が降っていなければ、子供を遊ばせている若い母親の姿などが見られるのだが、今日は二人の男の他には誰もいない。
――見慣れない感じの男たちだし、何をしているのだろうか。
郁美は、心持ち足をゆるめてそう思うが、わからない。ただ、二人とも郁美のほうをじろりと見てから、顔を別のほうへ向けたようなので、嫌な感じがした。
といって、昼日中、こんなところで悪さをされるおそれはないだろうと思い、郁美は黒い傘を差した男のほうへ近づいて行った。片手で傘を差し、もう一方の手にスーパーのビニール袋を提げて。
傘で上半身を隠すようにしながら男の横を通り過ぎるとき、ちらっと男の様子を窺《うかが》うと、こっちを見ていた相手と目が合った。
男はべつに慌てた様子もなく、今日は≠ニでも言うように目礼した。
椎《しい》の実のような小さな目と、その上の大きなたんこぶ[#「たんこぶ」に傍点]のような額――。瞬間、郁美は、いつかテレビで見た人の顔そっくりの魚を連想した。
顔かたちで人を判断してはいけないとわかっているが、郁美はいっそう薄気味悪くなった。
だが、ここで急に引き返したら、かえって何かされるのではないかという恐怖があり、そのまま進む。
門の前に着くと、傘を肩にあずけ、急いで門扉の掛け金を外した。一刻でも早く家の中へ入り、鍵《かぎ》を掛けてしまおうと。
しかし、郁美が門扉を開けて玄関へ向かうより早く、濡《ぬ》れた舗道を打つ足音がした。
振り返ると、道の右と左から男たちが真っ直ぐ郁美に向かって歩いてくる。
――自分を襲うつもりか。
と思うや、郁美は身体が竦《すく》んで動けなくなった。
助けて!≠ニ叫ぼうとしたとき、
「桐原さーん。桐原さんですね?」
人面魚そっくりの男が呼びかけた。「驚かせてしまったのなら、すみません。けっして怪しい者ではありません」
怪しい者ではないと言われても、まだ完全に警戒を解いたわけではない。が、襲われるおそれだけはないようだと思い、郁美はほっと小さく息を吐いた。
二人の男たちが門扉の外まで来た。人間の顔に似た魚≠ノ似た、背のずんぐりしたほうは、郁美より二、三歳上の四十代半ばの感じ。もう一人、背のすらりとしたほうは三十歳前後か。
「桐原政彦さんの奥さんでしょうか?」
歳上の背のずんぐりしたほうが訊《き》いた。
郁美は怪訝《けげん》に思いながらも、「はい」と答える。
答えてから、ハッとした。
刑事ではないか――。
郁美は、自分の顔からすーっと血の気が引いてゆくのがわかった。
――もしかしたら、須ノ崎の殺された事件で……。
郁美がそう考えるより早く、ずんぐりした男が黒い手帳を示し、
「わたしは警視庁の岸川、こちらは浦部と申します」
と、名乗った。少なくとも、刑事ではないかという郁美の想像は当たったのである。
郁美は、さっきの恐怖とは別の恐怖に襲われた。刑事たちが何をしに来たのか、と思う。いや、桐原について調べに来たのだけは確実なようだ。須ノ崎の殺された事件に関係して。しかし、彼らは、どこから桐原の名をつかんだのか。昨日、須ノ崎の葬儀に参列したから、と考えても、おかしい。須ノ崎の旧友としての桐原に訊きたいことがあったのなら、政友党本部に本人を訪ねただろうから。
郁美が混乱した頭で考えていると、
「参考までにお尋ねしたいことがあるので、中へ入れていただけませんか」
岸川が言った。
2
郁美は、二人の刑事を玄関脇の応接間へ通し、茶を淹《い》れた。刑事たちを家に上げたのは、考える時間をかせぐためである。
相手の「尋ねたいこと」の内容がわからないので、考えても、どう答えるかの方策は立たなかったが、それでも、台所にいる間にだいぶ冷静さを取り戻した。同時に、胸に覚悟のようなものが生まれるのを感じた。
――何を訊かれても余計なことは言うまい。
そう心を決めた。
郁美が二人に茶を勧め、テーブルを挟んで前に腰を下ろすのを待って、
「早速ですが、先週の金曜日……六月三十日の夜、ご主人の桐原政彦氏は何時頃お帰りになりましたか?」
岸川が訊いた。
先週の金曜日――。
須ノ崎が殺された晩だ。
いきなり、犯行時の所在に関わるような質問を受け、
――夫は疑われているのか!
と、郁美は戦慄《せんりつ》した。
これまでも郁美は、須ノ崎の桐原家訪問が彼の殺された事件と何らかの関わりを持っていたら……と不安だった。桐原が須ノ崎の訪問の事実を隠そうとしたことも、気にかかっていた。といって、桐原と須ノ崎の死を直接結び付けて考えたことはない。
郁美が答えられないでいると、
「東京では夕方から激しい雨になり、あちこちで雷も鳴った晩です」
岸川が催促するように言った。
言われなくても、郁美は憶《おぼ》えている。そのどしゃぶりの雨の中を桐原は十時半過ぎに帰宅した――。
十時半というのは、桐原のいつもの帰宅時刻と比べて、遅い時刻ではない。が、正直に答えた場合、そんな時刻まで何をしていたのか、と警察にいっそう怪しまれるおそれがあった。
郁美はどう答えるべきか迷った末、
「十時から十二時ぐらいの間に帰る日がほとんどなので、それより早いか遅いと、憶えているんですが……」
と、曖昧《あいまい》に答えた。
「では、三十日の晩もご主人が帰宅したのは十時から十二時までの間だった?」
岸川が確認した。
「そうだったと思います」
「政友党本部への通勤はお車ですね?」
「はい」
「わずか六日前の夜です。もっと正確な時刻がわかりませんか?」
「そうですね……もしかしたら、十時頃だったかもしれません」
「十時頃ですか。もう三、四十分遅かったんじゃありませんか?」
崖《がけ》のように張り出したおでこの下で、岸川の小さな目が光った。十時より三、四十分遅らせれば、まさに桐原の帰った時刻である。
警察はどこまでつかんでいるのか、と郁美はまた恐怖に胸を締めつけられた。
「いかがですか?」
岸川の視線は郁美にひたと当てられ、動かない。
「そうだったかもしれませんが、はっきりとは憶えていません」
と、郁美は答えた。
岸川がそれ以上の追及を諦めたのか、郁美から視線を外した。と思うと、一度まばたきをしてすぐにそれを郁美に戻し、訊いた。
「その晩、帰宅されたとき、ご主人は濡れていませんでしたか?」
「いいえ、いません」
郁美は首を横に振った。事実だったからだ。
「全然?」
郁美を見る、人の言葉を信じたことがないような目。
「肩や腕が少しは濡れていたかもしれませんが、それは車庫から玄関へ来るまでの間にかかったものだと思います」
「そうですか……」
岸川がわずかに上体を引き、考えるような目をして黙った。
「あの、主人は何か疑われているのでしょうか?」
今度は郁美が訊いた。
「先週の金曜日の夜、何があったか、ご存じですね?」
岸川が、郁美の問いには答えずに訊き返した。
「……はい」
と、郁美は肯定した。「高校時代、主人と同じクラスだった須ノ崎さんが殺されたことでしたら」
「わたしたちは、その事件について調べています」
「だからといって、主人が……」
「わたしたちも、特にご主人を疑っているわけじゃありません。多少なりとも被害者と関わりのあった方は、全員、調べさせていただいています」
嘘だ、と郁美は思った。単に、被害者の高校時代の友人というだけで、アリバイ調べのようなことまでするはずがない。
ということは、刑事たちには、そうするだけの理由があるのだ。彼らが桐原に関係した何かをつかんでいるのは疑いない。
しかし、そう考えても、刑事たちがいつ、どこで、何をつかんだのかは見当もつかない。
「ところで、奥さんも、ご主人や須ノ崎さんと同じ高校のご出身だとか?」
岸川が質問を変えた。桐原に疑いの目を向けたからといって、妻の出身校までは調べないだろうから、偶然、誰かに聞いたのだろう。
はい、と郁美は答えた。
「須ノ崎さんに会われたことは?」
「ございます」
「最近、会われましたか?」
「いいえ、会っていません」
岸川たちが手の内にどんな札を握っているのかわからないので不安だったが、郁美としてはそう答えるしかない。
「それでは、須ノ崎さんからここに電話がありましたね?」
「いえ、電話もございません」
「変だな……」
岸川がつぶやく。
いったい、彼は何を知っているのか。
「とすると、須ノ崎さんは、政友党本部に電話してご主人と連絡を取ったのかな」
岸川がつづけた。
それを聞いて、郁美は彼の手の内が読めた気がした。
「須ノ崎さんが主人と連絡を取ったのは確かなんでしょうか?」
自分の想像の当否を確かめるために質《ただ》した。
「いや、確かというわけではないんですが……」
岸川が逃げた。
郁美の読みは当たったようだ。つまり、岸川は、須ノ崎が桐原家を訪ねた事実をつかんでいたわけではなく、郁美に鎌を掛けたらしい。
その点、郁美は安堵《あんど》した。
だが、警察がなぜ桐原に疑いの目を向けるに至ったのかというもっとも気になる点はわからなかった。
二人の刑事は、郁美の胸の中に、これまでの気懸りとは次元の違う不安の芽を植えつけ、そこに水と肥料をたっぷりとかけて帰って行った。
その晩、桐原はいつもより早く、八時過ぎに帰ってきた。
郁美は玄関に出迎えるや、
「あなたのところにも行った?」
と、声をひそめて訊《き》いた。刑事たちのことである。昼、岸川たちが帰るとすぐ、郁美は政友党本部に電話をかけ、刑事が来たことを知らせたのだ。
「いや、来ない」
と、桐原が緊張した表情で答えた。
「そう」
郁美は、刑事たちが桐原本人を訪ねなかったという事実に、安堵よりもむしろ不安を感じた。郁美の話を聞いて、刑事たちが桐原に対する疑いを解いたというのならいい。が、引き上げたときの様子から判断するかぎり、それはほとんど期待できそうになかった。
「それより、刑事たちの様子や尋問の内容を具体的に話してくれないか」
刑事たちが桐原を訪ねた場合に備え、何を訊かれたか、郁美は簡単には知らせておいた。が、電話ではどこに誰の耳があるかわからないので詳しい話はしなかった。
郁美たちは居間へ移った。香織と政弘はすでに二階の自室へ引き上げていた。今夜は香織も下で一緒に夕食を摂《と》ったのである。
「香織、今日はどうした?」
と、桐原が訊いた。
「図書館なら行ったわ。それに、夕飯もわたしたちと食べたの」
郁美は我知らず声を弾ませた。
そうか、と答えた桐原の顔にも少しほっとしたような色が浮かんだ。
彼がソファに腰を下ろしたところで、
「お茶、淹《い》れる?」
郁美が訊くと、お茶より先に話を聞きたい、という硬い声が返ってきた。
「わかった……」
郁美は緊張して桐原の前に掛けた。昼前に買い物から帰ってくると二人の刑事が家の近くに待っていたことから話し出し、岸川の尋問の内容とそれに自分がどう答えたかを詳しく説明した。
桐原は、時々短く質問を挟むだけで、あとは黙って郁美の話を聞いていた。深刻げというよりは対処の方法を真剣に考えている、といった表情だった。
「だから、警察がどうしてあなたのことを調べているのかは最後までわからなかったの」
郁美は説明を締めくくった。
桐原は何も言わない。相変わらず何かを懸命に考えているような顔だ。
「あなたに何か思い当たることある?」
郁美は訊いた。
「あ、いや、ぼくにもない」
桐原が、現実に引き戻されたような目を郁美に向けて、首を横に振った。
「でも、いま話したように、先週の金曜日の夜、あなたがうちへ帰った時刻まで知っているみたいなの」
「そんなのは、あてずっぽう[#「あてずっぽう」に傍点]さ」
そうだろうか。本当に当て推量ならいいが、郁美は岸川たちが何かつかんでいるような気がした。
「とにかく、ぼくは須ノ崎の殺された事件とは何の関係もない」
桐原が語調を強めてつづけた。
ええ、と郁美は夫の目を見つめて大きくうなずいた。何がどうあろうと、それだけは信じている。夫が殺人事件に関係しているわけがない。
しかし、そう思っても、郁美は不安だった。刑事たちが何をつかんでいるのか、手の内が見えないので、なおさら。それに、無実だからといって安心できない。事は殺人である。重大さは、この前の「幼女|悪戯《いたずら》事件」の比ではない。容疑をかけられただけで致命的になるおそれがある。
郁美があれこれ思いめぐらしていると、桐原が彼女の不安を打ち消すように言った。
「何も心配はいらないよ。警察がぼくを疑っているんなら、いずれ本人のぼくに何か言ってくるはずだ。そのときは、彼らの考えに根拠がないことをきちんと説明してやる。そうすれば、疑いは必ず解ける」
そうかもしれない、と郁美も思う。自分は、余計なことを考えて、心配しすぎるのかもしれない。物事を悪いほうへ悪いほうへと考えすぎるのかもしれない。
「それより、香織……本当によかったじゃないか」
桐原が話題を変えた。明るい声で。
「これで、きっと学校へも行くようになるよ」
そうなってほしい。そして、わたしたち家族の頭上を覆っている黒雲が一日も早くどこかへ飛び去ってほしい。
郁美は強く願った。
3
テーブルの前で脚を組んでいる、目の細い白皙《はくせき》の男を見やりながら、
――この男も秀才のエリートらしいな。
と、岸川は胸の内でつぶやいた。
この男も……というのは、桐原政彦が東央大学出身の秀才にして超エリートだったからだ。
桐原の妻の郁美に事情を聞いた翌日の午後である。岸川は浦部とともに、港区芝公園にあるホテルの喫茶室で館岡久一郎と会っていた。
岸川たちが館岡を知ったのは、須ノ崎の葬儀に参列した刑事の報告から。松尾と桐原の他に館岡という男が顔を見せていた≠ニ言ったので、松尾に電話して、館岡も松尾、桐原と同様に須ノ崎の高校時代の同級生だと聞いたのだ。
岸川たちは、現在、桐原を容疑者の最右翼と見ている。偶然手に入れたある有力な状況証拠≠ノよって。そのため、彼らは、桐原の犯行を裏づける証拠を捜しながら、同時に動機の解明を進めていた。
たとえ直接的な証拠が手に入らなくても、犯行動機が判明すれば、事件解決への道筋が見えてくる。桐原を逮捕し、自白に追い込むことも可能になる。ところが、そう考えて、岸川たちが再度松尾を訪ねて事情を聞き、さらには桐原郁美に当たったにもかかわらず――郁美の話によって桐原にアリバイのないことは確実になったものの――彼の須ノ崎殺しの動機らしいものはまったく浮かんでこなかった。
そこで、岸川たちは、館岡が何か知っているかもしれないと考え、昨日、郁美に会った後で彼の勤務先である芝の柏葉会中央病院を訪ねた。しかし、館岡は出張で不在。夕方、彼のほうから電話があり、今日の午後なら会ってもいいと、病院から一キロほど離れたこのホテルの喫茶室を指定してきたのである。
館岡は、太い黒縁の眼鏡の奥から、半ば警戒し、半ば値踏みするような目で岸川たちを見ている。国立大学の医学部を出て、現在は大病院の内科医長。松尾によると、館岡の人生はこれまでまさに順風満帆で、将来も妻の父親が経営する病院の院長の椅子が約束されている、という。そのせいか、どこか人を見下しているような、傲慢《ごうまん》な感じがする。
岸川は、昔から秀才やエリートが苦手である。といって、相手が秀才だから、エリートだからという理由だけで嫌ったり、忌避したりはしない。数は少ないが、秀才でエリートの友達もいるし。ただ、挫折《ざせつ》を知らない、傲慢な秀才やエリートだけは、どんなに優れた点を持っていようと好きになれない。
それには理由《わけ》がある。岸川の趣味と関係した。
――あなたの趣味は何ですか?
と訊かれて、岸川が正直に作曲だ≠ニ答えると、質問した十人のうち十人が驚き戸惑ったような顔をする。その後で、失礼だと気づいて慌てて取りつくろうか、岸川が冗談を言ったと思って笑い出すか、どちらかである。これまで、一人の例外もなくこのどちらかだったと言って間違いない。
警視庁捜査一課殺人班の部長刑事という肩書と、作曲という、彼らが言うところの高等な趣味≠ェよほどしっくりこないのかとも思うが、どうやら人々の反応の原因はそれだけではないようだ。
岸川の職業、肩書に加えて、もう一つ、彼の容姿が大きな原因らしい。
岸川が、もし二枚目俳優のような顔と姿をしていたら、多少意外に思いながらも、案外すんなりと納得したかもしれない。
が、岸川は二枚目とはほど遠く、ずんぐりとした体付きのうえに、額が極端に大きく出っ張ったごつい[#「ごつい」に傍点]顔をしていた。その彼の容姿が作曲といった芸術的な趣味≠ニマッチしないらしい。
職業はもとより、容姿も、その人間の好みや趣味とは関係ない。とはいえ、多くの人は――岸川だって同じだが――職業や外形で何事も判断しがちである。
だから、岸川の場合、趣味はと訊かれて、碁《ご》か将棋《しようぎ》、あるいは庭いじりだとでも答えておけば、ああ、そうですか、ということになるのかもしれない。
しかし、岸川は、碁は多少打つが、植木いじりや盆栽いじりは大嫌いだった。たまには庭の草ぐらいむしったらと妻に言われても、やったことがない。庭といっても猫の額ほどの広さしかないが、そんなことをする時間があったら寝ていたほうがいい。
岸川の趣味が作曲だと聞いて意外だといった顔をした者も、まあ、そういうこともあるかと納得すると、次は必ずと言っていいほど、どんな曲を作っているのかと尋ねる。これも、彼の職業と顔から、どうやら演歌を想像して。
だから、岸川がクラシックです≠ニ答えると、相手はもう一度びっくりすることになる。
実際、岸川の作っているのは、古典派やロマン派に近いクラシック音楽だった。現代音楽も武満徹などは嫌いではなかったが、モーツァルトやシューベルトのほうが好きで、彼の作った曲もモーツァルトに似ていると言われた。知り合いの音楽家に演奏してもらって、CDも三枚出している。そのうちの一枚であるピアノソナタは、タウン紙で紹介されたり近所の歯科医院が待合室に低く流してくれたりしたおかげで千数百枚売れた。
岸川が警察官になったのは、四年つづけて音楽大学の入学試験に落ちたからである。音大なんかに行って何になると言う父親に逆らって三浪までしたが、入れなかったのだ。
そのときは、中学時代からの夢が単に挫折しただけでなく、自分のすべてが否定されたような感じがして、しばらくは何もする気が起きなかった。別の学部へ進学するための受験勉強をする気にもなれず、かといって、働こうにもいい就職口はない。結局、岸川は警察官だった叔父《おじ》に勧められるまま、警視庁の巡査試験を受けたのである。二度とピアノの鍵盤《けんばん》には触れないつもりで。ところが、警視庁に入って六、七年した頃から頭の中で時々曲が鳴り出し、明けや非番のときにまたピアノに向かうようになったのだった。
「ないと思いますね。少なくとも、桐原はそう言っていましたよ」
と、館岡久一郎が太い声で言った。
最近、須ノ崎と桐原が会った形跡はないか――という岸川の問いに答えたのである。
「言っていたというのは、一昨日の葬儀の会場でですね?」
岸川は確認した。
「会場でも言ったかもしれませんが、わたしがはっきり聞いたのは、帰りに松尾と三人で入った喫茶店です」
「そのとき、桐原さんはどのように言ったんでしょう?」
「正確な言葉は憶《おぼ》えていませんが、殺されるなんて、いったい何をやっていたんだろう、とわたしが首をかしげると、そう言ったんです。二年前に失踪してから、須ノ崎からは一度も連絡がない、と」
「須ノ崎さんから館岡さんに連絡は?」
「わたしにもありません」
「とすると、須ノ崎さんが電話して会っていたのは松尾さんだけですか……」
「須ノ崎と松尾が会った?」
館岡がびっくりしたような顔をし、組んでいた脚を外した。
「聞いていませんか?」
「ええ。いや、聞いていないというだけでなく、松尾も須ノ崎からは連絡がなかったと言っていたんです」
意外だった。当然、松尾は須ノ崎と会ったときの話を桐原と館岡の二人にしているものと思っていたから。
「松尾は、須ノ崎といつ会っていたんですか?」
館岡は気になるのか、岸川に真剣な目を向けてきた。
「事件の五日前です」
「五日前!」
「そのとき松尾さんが須ノ崎さんにやっていた名刺から、須ノ崎さんの身元が判明したんです」
「松尾の名刺はどこにあったんですか? 確か、新聞には、須ノ崎が持っていたと思われる財布などがなくなっていたと出ていたように記憶しているんですが」
「そのへんのことは、後で松尾さんに聞いてください」
と、岸川は言った。一々説明していたのでは、こちらの質問ができない。
――それにしても、なぜだろう。
と、岸川は思う。警察に隠したというのならわからないではないが、警察の知っている事実を、松尾はなぜ館岡と桐原に隠したのだろう。須ノ崎の共通の友人である二人に、彼はなぜ須ノ崎と会っていないと嘘をついたのだろう。
岸川は、松尾に対する疑いはほとんど解いていたが、引っ掛かった。
ただ、それは考えてもすぐに答えが出てくる問題ではないので、後で松尾本人に質《ただ》すことにして、
「失礼ですが、六月三十日の夜八時から十時頃までどこにおられたか、教えてくれませんか」
と、尋問を進めた。
「警察は、わたしが須ノ崎を殺したかもしれないと疑っているんですか?」
館岡がちょっと気色ばんだ。
「けっしてそういうわけじゃありません。被害者と関わりのあった方には全員に伺っていることですので、お願いします」
岸川は低姿勢に出た。被害者と関わりのあった方には云々《うんぬん》というのは常套句《じようとうく》だが、いまの場合は嘘ではない。岸川たちは館岡をそれほど疑っているわけではなかったから。ただ、桐原が本命といっても、動機さえはっきりしない段階なので、他の人間についても一応アリバイの有無を調べているのである。
「まあ、わたしは何も疚《やま》しい点がないのでかまわんですが……」
館岡が表情を和らげた。
「どこにおられたんでしょう?」
「自宅です。病院から七時半頃に帰宅し、それからは一度も外出していません」
「ご自宅は世田谷だとか?」
「砧《きぬた》です」
「通勤はお車ですか?」
「電車と車とだいたい半々ですが、先週の金曜日は車でした」
「夜、ご自宅には奥様と?」
「いや、妻は友達とヨーロッパへ行っていたので、いません。ただ、高校二年の長男が九時半ぐらいまでは近くにいました。一緒に食事をし、居間でテレビを見たり、交替で風呂に入ったりして」
「お子さんはお一人ですか?」
「そうです」
「九時半以後は?」
「長男は二階の自分の部屋へ引き上げ、わたしも書斎へ行って、本や論文を読んだりして……確か、十二時ぐらいにはベッドに入ったんじゃないかと思います」
言葉のとおりなら、館岡は犯人にはなりえない。
ただ、九時半まで自宅にいたのは事実でも、それだけではシロとは言えない。須ノ崎が殺されたのは八時から十時までの間だが、どこで殺されたのかはわからないからだ。自宅の近くで殺害し、死体を車のトランクに入れておいて、十二時過ぎに長男に気づかれないように自宅を抜け出し、荒川河川敷まで運んで棄ててくることは可能である。
が、当然ながら、犯行が可能だったからといって、館岡が怪しいというわけではない。犯行が可能なだけの関係者なら沢山いる。
「もし、これでもわたしを疑うんでしたら、長男に訊《き》いてみてください」
館岡がつづけた。
「いえ、結構です」
と、岸川は答えた。少なくとも、九時半頃まで長男と一緒にいたというのは事実にちがいない、と思ったからだ。今後、館岡に不審な点や須ノ崎殺しの動機らしいものが出てくれば別だが、今のところ、これ以上彼に関する調査は必要ないだろう。
「さっきも言いましたが、この二年余り、須ノ崎からは電話一本かかってこなかったんです。ですから、どこで何をしていたかも知らず、わたしには彼を殺さなければならない動機なんてありません」
だが、それはあんたの言葉でしかない、と岸川は思ったが、黙っていた。
「ああ、それから、これは桐原だって同じじゃないかと思いますがね」
館岡が調子に乗って言った。
「しかし、須ノ崎さんから桐原さんに連絡がなかったとどうしてわかるんですか?」
岸川は訊いた。
「桐原がそう言ったからです」
「でしたら、須ノ崎さんに会っている松尾さんも、館岡さんと桐原さんに同じように言っていますね」
館岡が返答に詰まったような顔をした。
「わたしたちは、須ノ崎さんは最近桐原さんと接触していた、と見ています」
岸川は明かした。館岡の口から桐原に伝わったとしても、問題はない。
「どうしてですか?」
館岡が、興味をそそられたような、それでいてどこか警戒するような目を岸川に当ててきた。
「そう考えないと、おかしな状況があるんです」
「どういう状況ですか?」
「まだ申し上げられません。それより、須ノ崎さんが桐原さんに接触した理由なり目的なりに心当たりはないでしょうか?」
「ありません」
「そうですか。ところで、須ノ崎さんの葬儀の前に、桐原さんと松尾さんに最後に会ったのはいつですか?」
「二人とも三、四年は会っていません」
と、館岡が答えた。「その間に電話で話したことも数えるほどしかないですね」
岸川たちは、煙草を一服してから帰るという館岡を残して先にホテルを出た。地下鉄の都営三田線、東武伊勢崎線直通の営団日比谷線と乗り継いで西新井まで行き、捜査本部の置かれている江北署へ帰るつもりだった。
今夜は七夕である。が、生憎《あいにく》、昨日からの雨が降りつづいていた。
ホテルの広い庭を通って日比谷通りへ出ると、公衆電話の所在を示す標識が見えた。御成門駅とは反対側だが、岸川たちはその標識に従って増上寺の横の通りへ入り、松尾のアパートに電話をかけた。
岸川は携帯電話を持っているが、話を聞かれるおそれがあるので、緊急の場合や近くに電話のないときを除き、できるだけ使わない。
部屋で仕事をしていたのか、松尾がすぐに出た。
岸川は、館岡に会ったことを話し、須ノ崎の葬儀のとき、桐原と館岡にどうして須ノ崎と会った話をしなかったのか、と質した。
すると、電話の向こうから一瞬戸惑ったような気配が伝わってきたが、すぐに、特に理由というほどのものはない、何となく話しそびれたのだ、という答えが返ってきた。
――松尾は嘘をついている。
岸川は直感した。理由もなしにそんなことを隠すわけがない。
本当のことを教えてほしい、と頼んだ。
しかし、松尾は、隠したわけではないと言い張り、岸川が言葉を替えて何とか聞き出そうとしても、本当に言いそびれただけだ、と繰り返した。
岸川は、松尾が犯人である可能性は薄いというより、ほとんどないのではないか、と思っている。が、彼が何か気づくか、知っているのではないか、という疑いを強めた。
松尾の知っていること――。それは、彼が須ノ崎に会った事実に関係している可能性が高い。彼は桐原に関わる何かを須ノ崎から聞いたのではないか。そのため、桐原と館岡に須ノ崎に会った事実を隠し、岸川の問いにも嘘の返答をしたのではないか。
岸川はそう考えたが、想像の域を出ない。
彼は電話ボックスを出ると、浦部と傘を並べて歩き出した。
昼過ぎから雨はだいぶ小降りになっていた。とはいえ、七夕の星は望めそうにはなかった。
再び日比谷通りへ出て、ホテルの前を北へ戻りながら、松尾とのやり取りを浦部に話した。
これまで本庁の部長刑事に遠慮していたのか、ほとんど自分の意見を述べなかった所轄署の若い刑事が、
「こうなったら、桐原にぶつかってみるしかないんじゃないでしょうか」
と、少し強い調子で言った。
「しかし、動機の見当さえつかないのに、追及しきれるかね」
岸川は傘をずらして、背の高い刑事の端整な顔を見上げた。
「これ以上周りから攻めても、動機を解明する糸口がつかめるとは思えません。部長の言われるように、松尾は何か知っているのかもしれませんが、青梅まで行って当たったとしても、話さないでしょう」
「たぶんな」
「としたら、本人にぶつかって、その糸口か手掛かりをつかむしかないと思います。もう、こちらの手の内を見せるのもやむをえないんじゃないでしょうか」
「それはいいとしても、相手は政友党のホープと言われている衆議院議員候補だからね。政治的な謀略だなどと騒がれたらまずい」
「あれだけ[#「あれだけ」に傍点]の状況証拠があるんですから、大丈夫でしょう」
「そうか、ま、そうだな」
岸川たちは傘をすぼめ、帰ったら荒井警部に相談してみようと話しながら地下鉄の駅に通じている階段を降りて行った。
4
翌八日午前七時――。
岸川は、浦部ら三人の刑事と二台の覆面パトカーに分乗し、桐原家へ向かった。
前日、岸川と浦部が帰署すると、桐原家の周辺を聞き込んでいた所轄署の武藤刑事たちが、六月三十日の桐原の帰宅時刻に関して新たな情報を得ていた。それもあって、桐原の事情聴取に踏み切ることが幹部たちにより決められたのである。
七時三十二分、パトカーが桐原家の前に到着し、岸川たちは降りた。浦部ともう一人の刑事は車に残ったので、武藤刑事と二人である。
桐原家は大きな家ではないが、屋敷は石塀に囲まれ、門扉には錠が付いていた。
岸川が門柱に嵌《は》め込まれたインターホンのボタンを押すと、郁美が出て、二、三分して桐原に代わった。声がしゃがれていたので、起きたばかりかもしれない。
岸川は、参考までに話を伺いたいので……≠ニ捜査本部への出頭を求めた。逮捕状はないので任意である。
「それでは、支度するまでちょっとお待ちください」
桐原が硬い声ながら落ちついた調子で応じ、門扉の電動錠を解いた。
昨日会った館岡には人を見下しているような傲慢な雰囲気があったが、桐原の応対からはそうしたものは感じられない。その印象に、岸川は、以前テレビの討論会で見たときの桐原が意外に如才ない感じだったのを思い出した。
岸川たちは門の中へ入った。玄関前で六、七分待っていると、ドアが開き、
「お待たせしました」
と、サマースーツにネクタイを付けた桐原本人が姿を見せた。
新聞やテレビでは何度か見ていたものの、実物に接するのは初めてだ。
大柄な身体、ぎょろりとした目、それに彫りの深い顔は、写真や映像のとおりだった。今、その顔は白く強張《こわば》り、目には硬い表情があった。といっても、不安や動揺の色はそれほど窺われず、岸川たちに向けられた視線からは、相手の心の内を読んで情勢を見極めようとする強い意思のようなものが感じられた。
一方、桐原の後ろに立った郁美は、血の気の失せた引き攣《つ》った顔をし、目に恐怖の色を湛《たた》えていた。明らかに怯《おび》えているのがわかった。
「じゃ、行ってくるから」
桐原が郁美を振り返って言い、玄関から出てきた。
――どうやら、この男、頭が良いだけじゃなく、非常に理性的な人間らしいな。
岸川はそう思った。同時に、これからの尋問の多難さを予感した。
桐原に対する尋問は、捜査一課刑事官の三枝警視正、岸川の直接の上司である同課強行犯捜査六係長の荒井警部、江北署刑事課長の赤松警部、それに岸川、武藤両部長刑事の五人で行なわれた。
最初の尋問であるし、表向きは参考までに話を聞くということなので、取調室ではなく、応接室が使われた。
相手は著名な国際政治学者であり、政友党の幹部でもある。岸川たち警察には犯罪捜査以外の意図、目的はないが、逮捕状もなしに不当な取調べをした、と問題にされたら後がやりにくくなるからだ。
席は、テーブルを挟んで桐原の正面に三枝と荒井と赤松、その右手の椅子に岸川、左手の椅子に武藤と書記役の刑事、という配置である。
荒井が、三枝、赤松とともに後から入ってくると、桐原の前に腰を下ろし、
「朝早くからご足労をわずらわし、申し訳ありません」
と、頭を下げた。
尋問は主に彼が行なうことになっていた。
荒井は色が黒く、口と鼻のあたりが尖《とが》っていて、どことなく土竜《もぐら》を思わせる顔をしている。年齢は四十五歳。実際の歳より老けて見られる岸川より四つ上だ。
荒井は、三枝刑事官、赤松課長、自分と桐原に紹介した後、
「早速ですが……桐原さんは、先週の金曜日、六月三十日の夜、須ノ崎昇氏が殺されたのはご存じですね?」
と、本題に入った。
知っている、と桐原が答えた。
先ほどと違って、その目にはかすかに怯えの色が含まれているように感じられるが、背筋をぴんと伸ばし、荒井から視線を逸《そ》らさない。
その様子は、敵と対峙《たいじ》したときの動物に似ている。といっても、自分の視覚、聴覚、嗅覚《きゆうかく》だけを頼りに次の行動を決める動物とも違う。この男のかすかに震えているような大きな目を見ていると、頭脳をフル回転させて敵の攻撃に備えている、そしてどんな攻撃にも即座に対応できるように集中力を高めている、そんな感じがする。
「ご関係は?」
「高校時代の友人です」
「経営していたスーパーマーケットが倒産し、二年前から行方をくらましていたとか?」
「そのとおりです」
「その後、会われたことは?」
「ありません」
「自宅か政友党本部に電話がかかってきたことはありますか?」
「それもありません」
「ということは、二年前に須ノ崎氏が行方をくらましてから、彼とは一度も連絡を取り合ったことがない?」
そうだ、と桐原が答えた。
今のところ、岸川たちには桐原の言葉を嘘だと断じる材料はない。政友党本部の電話交換手と国際局職員に当たったが、誰から誰に電話があったかなかったかというようなことは、たとえ党内の者に訊かれても話せない、と返答を拒否されたからだ。
ただ、ここまではいわば前置きのようなものである。
「失礼ですが、六月三十日の夜、桐原さんがどこで何をしていたか、教えていただけませんか」
と、荒井が肝腎《かんじん》な点に質問を進めた。
「話したくありません」
桐原が言った。
――話したくない?
ということは、三十日の晩、彼が何時に政友党本部を出て、何時に帰宅したか、警察がつかんでいるのを知っているからか。
岸川はそう思ったものの、頭から拒否してくるとは予想していなかったので、桐原の反応は意外だった。
荒井も同じだったのだろう、
「なぜでしょう?」
と理由を質した声には、不快そうな響きと同時に戸惑いが感じられた。
「個人的な事柄だからです」
桐原が姿勢を崩さず、荒井を正面から見つめて答える。
「もし事件に関係ないとわかれば、わたしたちは桐原さんに伺った話を他言することはありません」
「他言しようとしまいと、どうして、わたしがわたしの個人的な事柄をあなた方に話す必要があるんですか?」
「須ノ崎さんが殺された晩のことなので、参考までに伺いたいんです」
「わたしは、須ノ崎の殺された事件には無関係です。ですから、話す必要を認めません」
「伺わないと、事件に無関係だという証明ができませんが」
「わたしはそれを証明する必要も認めません」
どうやら、桐原は、余計な嘘をついて追及の足掛かりを与えるより、たとえ不自然でも何も言わないのが最善だ、という判断を下したらしい。
「しかし、そうなると、厄介なことになりかねませんが、いいんですか?」
荒井が不快げな顔をして、脅した。
「あなた方は、わたしに無実の罪を被せようというんですか?」
「そんなことはしません。わたしたちは、ただ、先月三十日、あなたが午後八時に政友党本部を出て、十時半に帰宅するまで、どこで何をしていたのかを明らかにしたいだけです。政友党本部を出た時刻、帰宅した時刻はこれで間違いありませんね?」
荒井が話を進めた。
こうなったら話を核心まで運んで行くだけだ、と考えたようだ。なにしろ、こちらには取っておきの手札[#「取っておきの手札」に傍点]があるのだから。
「答えたくありません」
と、桐原が返答を拒否した。
「あなたが政友党本部を出た時刻は守衛に確かめてあります。また帰宅時刻については、奥様は十時頃だったように思うと言われたんですが、十時半頃、あなたの家の車庫に誰かが車を入れているのを見た≠ニいう人が昨日見つかったんです。その人は、車を入れていたのがあなただと言ったわけではありませんが、あなたの家の車庫は乗用車が一台しか入りませんね。ですから、もし十時にあなたが車庫に車を入れていたら、その三十分後に別の人が車を入れることはできません」
目撃者は、桐原家から六、七十メートル離れた家の住人だった。金曜日の夜、単身赴任先から帰ってきて、目撃したのである。十時半頃というのは、東京駅に着いた新幹線の時刻、東京駅から駒込まで電車で来るのにかかる時刻、駒込から自宅まで歩いてかかる時刻から、十時半より前ということはありえない≠ニ判断されたのである。
「というわけで、三十日の夜、あなたが十時半頃に帰宅したこともはっきりしました。ここまではいいですか?」
「いいもわるいもありません。あなたがひとりで勝手に言っているだけでしょう」
桐原がうそぶいた。
「それでは、話を進めます」
荒井も、桐原の反応を無視した。「先月三十日の夜八時過ぎなら、千代田区四番町の政友党本部から本駒込のあなたの自宅まで、事故にでも遭わないかぎり、四十分とはかからなかったはずです。それにもかかわらず、あなたは、二時間三十分かかっている。差し引き一時間五十分、どこで何をしていたんでしょう?」
桐原は答えない。
「どうしても話していただけませんか?」
荒井がテーブルの上に身を乗り出した。
「話す気はありません」
「そのとき、あなたは、扇大橋に近い荒川の河川敷へ行っていたからですね?」
荒井がぶつけた。
「そ、そんなところへ行っていない!」
桐原が声を高めて否定した。明らかに狼狽《ろうばい》の色があった。
「では、どこにいたんです?」
すかさず荒井が突っ込んだ。
しかし、桐原はすでに動揺から立ちなおっていた。
彼は、心の内を思わず覗《のぞ》かせてしまったことを反省するかのように、
「ノーコメントです」
殊更にゆっくりとした調子で答えた。
「ノーコメント。いいでしょう。だが、あなたは、わたしが、何の根拠もなしに扇大橋と言ったと思っているんですか?」
荒井も、ゆっくりと一語ずつ言葉を押し出すように言った。
桐原の目に再び動揺の色が差した。
「あなたは頭の良い人だと聞いていたが、わたしたちがどうしてあなたについて調べているのか、わかっていないようですね」
荒井がつづけた。
と、桐原にも、警察の握っているものについてある程度想像がついたようだ。初めて、顔に不安げな翳《かげ》が広がった。
「わたしたちは、あなたが須ノ崎さんの高校時代の友達だからといって、先月三十日のあなたの行動について調べたわけではないんですよ」
桐原は無言。今度は応《こた》えないのではなく、応えられないようだ。
「六月三十日の夜十時頃、あなたの白い乗用車が扇大橋の南詰から土手の外側の道へ降りて行くのを目撃した人がいたんです」
遂に荒井が切り札を突きつけた。
「嘘だ」
と、桐原が一言、否定した。
「どうして嘘だというんですか?」
「わたしは、そんな場所へ行っていないからです」
「では、その晩、あなたは誰かに自分の車を貸しましたか?」
「貸していないが……ちょっと見ただけで、わたしの車かどうかわかるわけがない。似た乗用車など、いくらでもある」
「確かに、似た乗用車は沢山あります。ですが、その人はあなたのジュピターのナンバーを見て、憶《おぼ》えていたんです」
「ずいぶん妙な話ですね。道を通る車のナンバーを一々見て、憶えている人がいたとは。しかも、先月三十日は雨降りだったというのに」
「雨が降っていたから、そういう人がいたんですよ。その人……男ですが、彼はどしゃぶりの雨の中を歩いていて、通りがかった白い乗用車に胸まで泥水をはねかけられた、それで怒り、素早くナンバーを読み、記憶していた、というわけです」
桐原の顔は青ざめていた。大きな目の中で慌しく交錯する光と影……。懸命に反駁《はんばく》する材料を探しているらしいが、見つからないようだ。
「その人は近くの交番に電話して、車のナンバーを告げたんです。酷《ひど》すぎるから、運転していた人間を呼び出し、お灸《きゆう》を据えてくれ、と。須ノ崎さんの事件が公表される前に」
荒井が説明を継いだ。「しかし、交番の警官は、泥水をはねかけたぐらいで一々運転者を特定して呼び出していたらきりがないので、放っておいた――。その話を、事件の晩の目撃者捜しをしていた捜査員が聞き込み、車のナンバーから所有者を調べたんです。それが、桐原さん、あなただった、というわけです」
電話を受けた交番の警官によると、通報してきたのは中年過ぎと思われるしわがれた声の男≠セったという。名前を訊くと、佐藤健一と名乗ったが、旅行者だからと、住所は言わなかった。そのため、警官は、近くに住んでいるホームレスではないか、とぴんときた。ホームレスが、雨を避けるために橋の下へ急いでいたとき、土手の上から降りてきた乗用車に泥水をはねかけられたのではないか、と。そうでなければ、夜の十時という時刻、しかもどしゃぶりの雨の中を、昼でもあまり歩行者など通らない道路を人が歩いているなんて考えられない。電話してきた男は人に泥水をたっぷりと浴びせておいて、謝りもしないで走り去った≠ニ怒っていたが、激しい雨をついて車を走らせていた人間は、泥水をはねかけたことなど気づかなかったのかもしれない。とすれば、黙って走り去ったのも故意ではない。警官は、そう考えたこともあって――口には出さなかったが通報者がホームレスらしいとわかったことも影響していたと思われる――運転者を特定する気をなくしたらしい。
交番の警官からその話を聞いた後、捜査員たちは、荒川に架かっている扇大橋から隅田川に架かっている尾久橋にかけてのあたりに住んでいるホームレス、二十人余りに当たった。しかし、警官の想像が間違っていたのか、佐藤健一と名乗った男は見つからなかったし、それらしい男を知っているというホームレスにも出会わなかった。
「桐原さん、本当のことを話していただけますね」
荒井があらためて言った。
しかし、桐原は何も応えない。相変わらず、背筋を伸ばし、視線を荒井のほうへ真っ直ぐに向けたまま、考えているようだ。
「このように、先月三十日の夜十時頃、あなたが扇大橋南詰の近くにいたのは明らかなんです。そして、翌朝、下の河川敷で須ノ崎さんの死体が見つかり、しかもその死亡推定時刻は前夜の八時から十時までの間、と判明したんです。これでも、あなたは無関係だと言い張るんですか?」
「もちろんです」
桐原が、当然だというように答えた。「わたしは、須ノ崎の殺された事件とは一切関係ありません」
「では、ちょうど須ノ崎さんが殺された時刻に……」
「もし、わたしが須ノ崎を殺したと言うのなら、動機を説明してください」
桐原が荒井の言葉を遮った。「わたしがどうして須ノ崎を殺したのか。わたしには、そんな動機などありませんが」
「先月三十日の夜、ちょうど須ノ崎さんが殺された頃、どうして現場近くの荒川の土手へ行っていたのか、そちらを先に説明願いたいですね」
荒井も譲らない。桐原をこちらの土俵へ引っ張り上げて追及する以外に手がないからだろう。
「誰かの謀略です」
桐原が答えた。
と思うと、次の瞬間、ハッと小さく息を呑《の》み、顔色を変えた。しまった!≠ニいう表情だった。
「誰かの謀略? ということは、とにかく、先月三十日の夜、扇大橋の南詰へ行っていた事実は認めるんですね?」
荒井がすかさず迫った。
「ノーコメント」
桐原がぶっきらぼうに答えた。
「しかし、あなたはいま、誰かの謀略だと言ったじゃないですか。それは、少なくとも、あなたがあの晩……」
「ノーコメント」
桐原が繰り返した。
「桐原さん……」
「ノーコメント。何を訊かれても、わたしはもう答える気はありません」
怒りと悔しさのためだろう、荒井の尖《とが》った口元が歪《ゆが》み、顔が赤黒くなった。
岸川も悔しかった。姿勢を崩さずにノーコメントを連発する桐原を見ていると、「ふざけるな!」と怒鳴りつけてやりたかった。しかし、怒鳴りつけたところで、彼をこれ以上追い詰めるための駒を持っていない岸川たちにはどうにもならない。
岸川は歯噛《はが》みしたが、次第に気持ちが落ちつき始めると、いや、今日の尋問は無駄ではなかったはずだ≠ニ思った。
桐原は、須ノ崎が殺された頃、彼の死体が見つかった近くへ行っていた事実を否定できないと見るや、「誰かの謀略」という言葉を口走った。それによって言い逃れをしようとしたのだろう。ところが、それは現場へ行っていた事実を認めることだと気づき、荒井に追及されると、「ノーコメント」を連発した。もし本当に誰かの謀略の疑いがあるなら、それをきちんと説明して、潔白を証明する道があったはずなのに、それをせずに、黙秘を宣言した。
これで、先月三十日の夜、桐原が荒川の扇大橋南詰付近へ行っていたことは確実になったのである。もちろん自分の意思で。
また、その晩、須ノ崎と接触していたのもほぼ間違いない、と見ていいだろう。
〈荒川の土手か河川敷で須ノ崎と待ち合わせたのか〉
〈別の場所で須ノ崎と会い、車で一緒に荒川の土手まで行ったのか〉
〈別の場所で須ノ崎と会って殺害し、死体を荒川河川敷まで運んで棄てたのか〉
は、はっきりしないが。
いずれにせよ、これは、先月三十日以前に桐原と須ノ崎の間に何らかの接触があった、という事実を意味する。電話で話したのか会ったのかはわからないが、連絡を取り合わなければ、三十日に会えないのだから。つまり、二年前に須ノ崎が失踪《しつそう》して以来、彼からは一度も連絡がない≠ニいう桐原の言葉は嘘だった、というわけである。
これで、桐原の言葉が嘘であることを立証する、という次の捜査目標が決まった。
桐原が須ノ崎を殺害した直接の証拠をつかむのは難しいかもしれない。が、二人が事前に接触していた事実なら、突き止められないことはない。そして、もしそれが突き止められれば、桐原を崩せる可能性が充分にある。なぜなら、二年前に行方をくらましていた須ノ崎と桐原が密《ひそ》かに接触していたという事実の裏には、今度の犯行の動機も隠されているにちがいないから。
荒井が、もうどう追及しようと無駄だと判断したのだろう、
「それじゃ、今日のところはこれでお引き取りいただきますが、いつでもノーコメントで逃げられると思っていたら、大間違いですからな」
桐原を睨《ねめ》つけて言った。
5
一昨日、七夕の夜まで降っていた雨のために草の根元がまだ濡《ぬ》れていた。地面も軟らかく、滑りやすい。
松尾は、永山公園のグラウンドを通る遊歩道を登ればよかった、と少し後悔した。といって、今更、下の道まで引き返すのは面倒だった。彼は、靴が汚れ、ズボンの裾《すそ》が濡れるのもかまわず、そのまま夏草の茂った弓道場裏の斜面を登り、青梅丘陵のハイキングコースへ出た。
このところインスタント食品ばかり食べていたので外で食事をし、図書館で新聞を読みながら一休みした後である。松尾に曜日は関係ないが、今日は日曜日。久しぶりに覗《のぞ》いた青空に、真っ直ぐ狭いアパートへ帰ってワープロの前に座る気になれず、一時間ほど歩いてこようと思ったのだった。
織物、特にふとん地の産地として有名だったらしい青梅の旧市街地は、多摩川と青梅街道に沿って東西に延びている。その北側に背骨のように連なっている、杉と雑木の低い丘が青梅丘陵である。ハイキングコースは、その丘陵の尾根に設けられていた。適当な間隔を置いて、下の街や川、奥多摩の山々などを眺められる休憩所があり、松尾の気に入っている場所だ。木々の若芽が薄緑にけぶる春、斜面のそこここに甘い香りのする山百合《やまゆり》の花が咲き、涼風が木陰を渡る夏、落葉のかさこそとした音と優しい靴底の感触が快い秋、そして少し寒いがほとんど人に出会わない冬と、それぞれの季節にはそれぞれの味わいがある。もっとも、松尾がそうした季節の移ろいを感じたり景色を楽しめるようになったのは、ここ数年だが……。
春と秋のシーズンには、リュックを背負ったハイカーたちに大勢出会うが、梅雨どきの今は訪れる人があまりいないようだ。日曜日といっても、松尾と同じように近くに住んでいるらしい人が、ジョギングしたりのんびりと散歩したりしているだけだった。
山百合が咲くのはだいたい七月の下旬だから、まだ十日以上ある。今の季節は、咲き遅れた山つつじがちらほら小さな花を付けているものの、あとは木も草もただ濃い緑。今日は雨にさんざん洗われた後だからだろう、木漏れ日を受けた道端の緑が光沢を帯び、ひときわ綺麗《きれい》に見えた。
遊歩道は広くて歩き易いが、西へ向かってゆるやかな登りになっている。そのため、急ぐとすぐに息が荒くなった。松尾は急いでいる意識はないのだが、考えながら歩くときの癖で、つい足が速くなってしまうらしい。気がつくと、ハァハァやっていた。
彼は、一昨日の午後、岸川と館岡からかかってきた電話について考えていた。というより、二人の電話がずっと気になっていた。
初めの電話は岸川から。
岸川は、松尾が須ノ崎に会った事実を館岡と桐原に話していないと館岡から聞き、なぜ二人に話さなかったのか、と質《ただ》してきたのだった。
松尾は、特に理由はない、何となく話しそびれたのだ、と答えた。
もちろん嘘である。
岸川は信じられないらしく、理由もなく隠すわけがない、本当のことを教えてくれ、としつこく迫った。どうやら、警察は桐原を疑っているようだった。そう言ったわけではないが、岸川の口調からそう感じられた。
それは、館岡と話し、確実になった。
彼の電話は、岸川の電話の後、三十分ほどしてかかってきた。岸川とのやり取りが気になり、松尾がワープロを前に考えていたときだ。
松尾はびくっとし、組んでいた腕を解いて受話器に手を伸ばした。
はい……と応対するや、
――松尾か? おれだ。
館岡が言い、いま刑事に会って、須ノ崎の身元が判明した経緯について聞いたが、須ノ崎の葬儀の帰り、彼に会っていないと言ったのはどういうわけだ?≠ニ、少し怒った口調で訊《き》いた。
松尾は、桐原が須ノ崎に会っていないと言った後では話しにくかったのだと答え、須ノ崎が桐原を訪ねた事情と須ノ崎から聞いた話を伝えた。館岡にも関わりのある件だったし、彼に隠しておく理由はなかったからだ。
館岡はよほどびっくりしたのか、松尾の話が終わっても、しばし声がなかった。松尾がどう思うかと返事を促して、
――驚いたな!
と、やっと感想を漏らした。
――で、須ノ崎の抱いた疑惑は当たっていたのかね?
彼は訊いた。
――わからない。
と、松尾は答えた。
――とにかく、桐原は、須ノ崎と会った事実をおれたちに隠した。今日の刑事の話から判断すると、警察にも隠している。考えたくないが、須ノ崎は桐原に殺された可能性もあるな。
――まさか! いくらなんでも、桐原が須ノ崎を殺すわけがないだろう。
松尾は否定した。が、その可能性について考えるのをほとんど無意識的に避けてきたが、自分の中にも同じ疑いがあるのに気づいていた。
――だが、警察も桐原を疑っている。岸川という刑事は、自分たちは、須ノ崎と桐原が最近接触していたと見ている≠ニ、おれにはっきり言った。理由は言えないが、そう考えないとおかしな状況がある、と。彼らは何かをつかんでいるんだ。
――そうか……。
――それから、もし須ノ崎の想像したとおりなら、桐原は二十三年前にも奸計《かんけい》をめぐらしていた可能性が高いわけだろう。それを須ノ崎にばらされるかもしれないとなったら、彼を殺したっておかしくない。なにしろ、桐原は政友党のホープ……政友党が政権を獲《と》ったら外務大臣の椅子を約束されている、と言われているんだからな。いや、あいつが東央大学教授のポストを捨てて政治家になった裏には、もっと大きな野望があったんじゃないか、とおれは睨《にら》んでいる。
――もっと大きな野望?
――総理だよ。あいつは、いつの日か日本国のトップの座に就こうと密かに狙っているんじゃないかね。
桐原なら、確かにそれぐらいの野望を抱いても不思議はないかもしれない。
――あいつは飽くなき上昇志向型の人間だ。おそらく間違いないと思う。
うん、と松尾も認めた。
――だったら、須ノ崎に過去の秘密をばらされ、その野望が打ち砕かれるおそれが出てきた場合、どうすると思う? 人殺しぐらいしたっておかしくないだろう。
――そうだな……。
――そうだなじゃなく、そうなんだよ。
館岡が結論を押しつけた。
それには松尾は抵抗を感じた。松尾の中には、桐原を疑いながらも、彼を信じたい気持ちがある。いくらなんでも友達を殺すか、という思いがある。
――ま、それはいいとして、で、松尾、あんたはどうするつもりなんだ? まさか、須ノ崎から聞いた話を警察に話す気じゃないだろうな。
館岡が話を進めた。
――話さないよ。
松尾は答えた。
――それならいいが……。
館岡の声にほっとしたような響きが交じった。
もし松尾がそれを警察に話し、警察が須ノ崎の抱いていた疑惑を解明した場合、破滅するのは桐原だけでは済まないからだろう。
――あんたがどうなろうとおれの知ったことじゃないが、おれまで道連れにされるのは御免だからな。そうじゃなくたって、二十三年前、おれと須ノ崎があんたに大きな迷惑を蒙《こうむ》っていること、忘れないでくれよ。
――わかっている。
と、松尾は苦い唾《つば》を呑《の》んだ。
言われるまでもない。
――あんたとおれさえ口を噤《つぐ》んでいれば、たとえ桐原が須ノ崎殺しの容疑で捕まったって心配ない。桐原が須ノ崎の疑惑について自分から進んで言うことは絶対にないはずだから。
――ああ。
――それはそうと、桐原は、あんたが須ノ崎と会ったのを知らないのかね?
――さあ……。
――刑事から、あんたが須ノ崎の身元を確認したという話を聞いてないのかな。
――わからない。
――桐原からは?
――何も言ってこない。たとえ刑事から話を聞いて、おれが須ノ崎に会ったと知っても、同じだとは思うが。
――そうだな。逆にあんたにいろいろ訊かれ、藪蛇《やぶへび》になる危険性が高いからな。
――うん。
――ただ、その場合、桐原は気が気じゃないだろうな。
――そうかもしれない。おれが須ノ崎からどこまで聞いているのか、見当がつかないわけだから。
――これから、何らかの働きかけがあるかもしれんぞ。あんたの腹の内を探るために。そのときは用心したほうがいいな。
松尾はわかったと答えた。
じゃ、何か新しいことがわかったら教えてくれと館岡が言って、電話を切った。
松尾は三十分ほど歩き、南側がひらけた休憩所の前に着いた。他の休憩所が遊歩道より小山一つ高いところに設けられているのに、そこだけは道のすぐ右側、おとなの背丈ほどの高さのところに四阿《あずまや》とベンチが配されていた。それでも、反対側の斜面が急角度で落ち込んでいるため、眺めがいい。
ベンチに人がいたので、松尾は足を止めずに少し進み、道端の切り株に腰を下ろした。
木陰がないので頭が少し熱かったが、Tシャツが汗で張り付いた肌に、斜面の下から吹いてくる風が心地好い。
緑の樹林の下には、左手に向かって谷間の街がひろがり、街の中央を多摩川が大きく蛇行して流れていた。風景の中でひときわ目立つのは、水平な屋根の一方の端だけ斜めに切り取ったような簡易保険保養センターの建物だ。その左側に見える白い橋は、鮎美橋という歩行者専用の吊り橋。吊り橋を渡った南岸、保養センターの手前は郷土博物館などのある釜《かま》の淵《ふち》公園である。川岸段丘を利用して造られた雑木林の美しい公園で、北岸の市立美術館と合わせ、松尾の散歩コースの一つになっている。
松尾は一休みしたところで歩き出した。
ハイキングコースは、さらに西へ三、四キロつづいているが、彼の尾根歩きはたいていここまで。ここで下ると、青梅線の線路を越して十五分ほど駅のほうへ戻れば、アパートはすぐだったからだ。
街へ通じている道は、休憩所の前をわずかに逸《そ》れたところから斜めに下っていた。
松尾は、桜の若木の間にジグザグに付いたその小道を降り始めた。
と、また須ノ崎の事件と桐原の関わりが気になり出した。岸川のおでこ[#「おでこ」に傍点]が目に浮かび、館岡の太い声が耳朶《じだ》に蘇《よみがえ》った。
――須ノ崎と桐原は最近接触した状況がある。
岸川は館岡にそう言ったというが、警察は桐原の何を握っているのだろうか。桐原の容疑はどの程度のものなのだろうか。
松尾は、来週中にも桐原の「半生の記」に取りかかる予定でいる。
もし書き出してから桐原が逮捕などという事態になったら、この仕事はいったいどうなるのか、と思う。つづけられるのだろうか。本は出版されるのだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。
どうでもよくはないが、たいしたことではない。
もっと大きな問題がある。
もし桐原が須ノ崎を殺した犯人なら、その動機は、二十三年前、松尾自身が引き起こした事件とも関わっている可能性が高い。
館岡が言ったように、たとえ桐原が捕まっても、自分と館岡さえ口を噤んでいれば、それが外へ漏れるおそれはないかもしれない。だが、岸川たちの厳しい追及を受けたとき、最後まで口を噤み通せるだろうか。松尾にはその自信がない。
小道は、桜の若木が植えられた斜面から杉と檜《ひのき》の林の中へ移った。木陰に入り、松尾はほっと息を吐いた。
すぐ左に大きな樫《かし》の木が一本あり、根元に小さな祠《ほこら》が祭られていた。供えられているのは五円玉と赤飯。白い半紙の上に載った赤飯は今日上げられたものらしく、まだ軟らかく美味《うま》そうだった。
祠を過ぎると、道は木漏れ日の作る斑《まだら》模様の中につづいていた。片側に何やらの花の苗が植えられた、よく整備された小道だ。
松尾は、考えてもどうにもならないことは考えないようにしようと思いながら、電車の音のするほうへ下って行った。
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第六章[#「第六章」はゴシック体] 探 索
1
桐原は声を張り上げながら、今、おれの話を聴いている人は何人ぐらいいるだろうか、と思う。
そんなことが頭に浮かぶのは、かなり余裕が生まれた証拠と言えた。
七月十四日(金曜日)の夕刻――。
桐原は、JR大阪駅前に停められた街宣車の上に立って、マイクを握っていた。阪神梅田駅、地下鉄の東梅田駅も目と鼻の先にある東口広場だ。
東京の新宿駅前などで数回と、自分の選挙区である横浜、千葉、甲府でそれぞれ一回ずつ街頭演説をした経験はあるが、関東を離れての街宣車乗り込みは初めて。一昨日は京都、昨日は兵庫、そして今日は大阪と回り、いま大阪の玄関口とも言える梅田で最後の演説をしているのである。京都は雨にたたられて聴衆が少なかったうえに初日だったので、この先どうなることやらと、不安と緊張でこちこち。それが、昨日、神戸、芦屋、西宮と巡るうちに、声はつぶれたものの慣れてきて、今日は聴衆の顔色や反応まで見えるようになっていた。
桐原が巻き込まれた「幼女|悪戯《いたずら》事件」で、政友党が決めた方針は逆にそれを反撃の武器にする=Aつまり、誰がやったとは絶対に言わないが、暗に与党・民自党の策謀だと喧伝《けんでん》し、その卑劣さを浮き彫りにする、というものだった。
奇《く》しくも、畑中幸太郎によってその方針が打ち出された日の夜、桐原は市橋某と電話で話し、元警官Qの談話≠ヘ政敵の陰謀などではなく、市橋某の仕業だ、と知らされた。それは予想もしなかったことであり、桐原は大きな衝撃を受けた。
が、肝腎《かんじん》な点は、その事実を誰にも知られないようにすることである。
桐原はそう考えると、市橋某の件はおくびにも出さず、
――テレビのワイドショーやQの談話は、桐原自身を、さらには政友党を陥れるために仕組まれた政治的な陰謀である。
という畑中の誤解≠ノ乗って行動しようと決めたのだった。
畑中の判断は、事実誤認に基づくものではあったが、その結果に対する彼の読みは当たっていた。党の常任幹事会から全国の都道府県連・支部へとその方針が伝えられて三週間、今や、桐原の冤罪《えんざい》事件は、政友党にとって向かい風から追い風に変わりつつあった。
だから、桐原がいま街宣車の上から強調しているのも自分は卑劣な政治的な陰謀の被害者である、という点である。
演説会は、今から三十四、五分前の午後六時に、司会役の大阪府議会議員の挨拶《あいさつ》で始まった。その後、当地の比例区から立候補が予定されている病院長、小選挙区から立候補が決まっている現職の衆議院議員とマイクを握ったが、聴衆の集まりがいま一つ悪く、反応も弱かった。幹事長の早乙女が、隣りに立っている桐原のほうへちらっと心配そうな目を向け、ちょっと少ないな≠ニ苦い声でつぶやいたほどに。
だが、弁士が桐原に代わってからは、足を止める者がどんどん増えていった。車の屋根の上から見ていると、それがよくわかった。今や六、七百人……政友党のシンボルカラーであるオレンジの襷《たすき》を掛けた女性は、動員された党の婦人部員や党員の家族などだが、それらを除いても五百人以上はいるのではないか、と思われた。立ち止まってこちらに顔を向けていなくても、歩きながら、あるいは駅のホームやビルの中で話を聴いている者も相当いるだろうから、合わせれば千人は下らないかもしれない。聴衆の数が増えれば、反応も当然強くなるし、多くもなる。桐原の話に大きくうなずいたり、「異議なし!」という声を上げる者もいれば、彼の耳にははっきりとは届かなかったが、「おまえ、女の子に本当に悪戯しとらんのか?」とでも叫んだらしい男もいた。
畑中は武田らとともに長崎、熊本、福岡と遊説していたので、関西遊説の責任者は早乙女である。
桐原は、二十分ほど話して、最後の弁士である早乙女にバトンタッチした。
寄席なら、真打ち登場というわけで、一番大きな拍手が起きる場面である。が、街頭演説会の聴衆は気紛れで正直だった。早乙女が話し出すや、これまでじっと桐原のほうへ顔を向けていたかなりの人たちが動き出し、散り出した。
早乙女は内心面白くないにちがいないが、当然ながら意に介している様子は見せない。いつもどおり、右手を何度も斜め前に突き出す動作を繰り返しながら演説を進めた。
桐原は、早乙女の話をほとんど聞いていなかった。通りの向こうのデパートの人の出入りや、壁の垂れ幕などを見るともなく見やりながら、明日土曜日の予定について考えていた。
今夜、府連婦人部との会食に出れば、関西遊説の行事はすべて終了する。土、日と早乙女は自分の選挙区の鳥取へ行くというから、明朝、ホテルで別れる。
その後のことだ。
桐原は、国際局の職員で現在は彼の秘書を務めている三宅透を一人で東京へ帰し、舞鶴へ行くつもりだった。三宅には、宝塚に住んでいる学生時代の友人と会う約束になっていると話してあるし、郁美には、関西出張は土曜日までだと言ってきた。だから、桐原が舞鶴へ行こうとしていることは誰も知らない。
彼の舞鶴行きの目的は、市橋某のフルネームと住所を突き止めること――。
桐原が市橋某に関して「舞鶴」という手掛かりをつかんだのは先月の下旬である。深夜、市橋某の携帯電話に連絡を取って話してから一週間ほどした頃――須ノ崎が殺される二、三日前だ。桐原としては、できるだけ早く舞鶴へ行ってきたかったのだが、どうしても時間が作れないでいるうちに半月余りが経ってしまった。
二十三年前の九月、当時桐原が住んでいた代々木上原のアパートの下で彼を待ち受けていた市橋某は、ゴールデンウィークが過ぎて間もない五月十二日、聞きたいことができたので会いたい≠ニ突然電話してきた。そのとき、市橋某が本気で桐原に会うつもりだったのは間違いない。が、市橋某に指定された飛鳥公園へ行った桐原は、彼と会う前に「幼女悪戯事件」に巻き込まれてしまった。二十三年前、連続幼女悪戯事件の容疑者として逮捕され、自殺した医大受験浪人の栗本俊――その栗本俊と似た状況に桐原が置かれてしまったのである。
これは、市橋某の意図したことではない。偶然だった。が、それを見て、彼は考えを変えたらしい。元警官Q≠名乗って桐原の容疑が濃くなるように画策すると同時に、桐原の前に姿を見せないことに。桐原は、彼に指定された携帯電話に連絡を取ったとき、何とかして会おうといろいろ理由を並べてみたが、無駄だった。
相手が姿を見せず、正体≠隠しているなら、こちらでそれを突き止める以外にない。とはいえ、手掛かりは苗字《みようじ》が「市橋」らしいということと、年齢が六、七十代ではないかということぐらい。これではどうにもならないか、そう思っていたところ、
――市橋洋子の出身地がわかれば、洋子の父親である市橋某[#「洋子の父親である市橋某」に傍点]を捜す手掛かりになるのではないか。
という考えが浮かんだ。
桐原は、市橋洋子から出身地について聞いた憶《おぼ》えはない。二十三年前に彼女が死んだ[#「二十三年前に彼女が死んだ」に傍点]とき、新聞に載っていたのを見たという記憶もない。死亡時の状況から、警察がすぐに自殺と判断したからだろう、新聞の扱いは小さく、少なくとも朝毎、読経、中央日報には載っていなかったように思う。
だが、二十三年前、桐原が買ってきて読んだのはそれらの都内版だった。もしかしたら、多摩版なら載っていたかもしれない。なぜなら、洋子が死亡したのは東京都青梅市を流れる多摩川だったから。
桐原はそう考えると、都立図書館へ行き、マイクロフィルムに収録された一九七七年八月と九月の中央日報を調べてみた。
予想は的中した。八月二十八日(日)の朝刊多摩版には、東京の専門学校の学生だという洋子の身分だけでなく、京都府舞鶴市の出身だと載っていた。
「市橋洋子の父親」を名乗る男・市橋某を捜し出そうという桐原にとって、これは大きな手掛かりだった。たとえ洋子の出身地が判明しても、大阪とか名古屋といった大都会だったら、ほとんど意味がない。が、舞鶴は、少し古い資料だが、人口十万人足らずの市だった。
現在、市橋某が舞鶴に住んでいるかどうかはわからない。飛鳥公園という小さな公園を知っているところを見ると、東京か東京近辺に住んでいるのかもしれない。それでもかまわなかった。たとえ現在は舞鶴に住んでいなくても、「市橋洋子の父親」という言葉が事実なら、舞鶴へ行けば、彼を捜し出す手掛かりが得られる可能性は低くない。
桐原はそう思い、図書館にあった舞鶴市の電話帳を調べた。
電話帳に載っていた市橋姓の人間は、男女合わせて七人。多い数ではない。
桐原は、舞鶴へ行って、七人の近所に当たるつもりで、それらの氏名、住所、電話番号を書き写した。
――そこの[#「そこの」に傍点]市橋さん宅の娘さんか、そうでなかったら市橋さんの親戚《しんせき》の娘さんじゃないかと思うんですが、二十年ほど前、東京の専門学校へ行っていて自殺した、洋子さんという方をご存じないでしょうか?
近くの商店などで、まずそう尋ねる。そして、もし知っているという返事がかえってきたら、そのときは市橋洋子の家族、特に父親について、それとなく訊《き》くのである。
そんなことをしなくても、直接七人に電話をかけて、市橋洋子と関わりのある家かどうかを質《ただ》し、もしそうだ≠ニいう答えが返ってきたら、洋子の家族の消息を尋ねれば、彼女の父親の所在がわかるかもしれない。あるいは、興信所を利用すれば、必要な事柄を調べてくれるかもしれない。
だが、前者の方法を採れば、桐原の動きが洋子の父親・市橋某に知られるおそれが大きい。また、後者の方法を採れば、たとえ偽名で調査を依頼したとしても、〈最近、誰かが市橋洋子の父親について調べた〉という事実が残る。
それらは、どちらも桐原にとって不首尾なことだった。
というのは、市橋某の存在が今後桐原にとってさらに大きな脅威になるかもしれず[#「さらに大きな脅威になるかもしれず」に傍点]、そのときは非常手段に頼らざるをえなくなるかもしれなかったからだ。
以上は、桐原が市橋洋子の出身地が舞鶴だと突き止め、舞鶴市内に少なくとも七人の市橋姓の者が住んでいる、と知った段階での判断であった。
ところが、その後、市橋某の存在は、桐原にとって「さらに大きな脅威になるかもしれず……」では済まなくなった。というか、桐原の予測が的中したのだ。
それは、先週の土曜日、警察で事情を訊かれ、明らかになった。
市橋某は、元警官Q≠名乗って週刊エポックに出鱈目《でたらめ》な情報を流しただけでは足りなかったらしい。先月十九日の夜、桐原と電話で話したとき、最後にあなたはあなたの好きにしたらいいんです。わたしも、わたしの考えているようにしますから≠ニ言ったように、桐原を須ノ崎殺しの犯人に仕立て上げようとした[#「桐原を須ノ崎殺しの犯人に仕立て上げようとした」に傍点]のである。
須ノ崎殺しに関しては、Qのときのように自分がやったと市橋某が言ってきたわけではない。だから、彼の仕業だという証拠はない。また、市橋某が〈須ノ崎と洋子の関わり〉を知った事情、経緯も大きな謎である。二十三年前、警察さえ気づかなかった事実を、市橋某がどこから、どうやって知りえたのか、桐原にも想像がつかない。
それでも、桐原は、市橋某が須ノ崎を殺害し、その罪を自分に被《かぶ》せようとしたにちがいない≠ニ思っていた。
なぜなら、市橋某が洋子の父親なら、彼には、〈須ノ崎を殺してもおかしくない動機〉と〈その罪を桐原に被せてもおかしくない動機〉がともに存在するからだ。
これら二つの動機を併せ持つ人間は、桐原の知るかぎりでは市橋某しかいない。そして、市橋某には、桐原がどんなに強く警察に疑われようとも絶対に市橋某の名を明かせない、と考える事情が存在する。
須ノ崎を殺してくれた事実だけを取れば、桐原は市橋某に感謝してもいいと思っている。もし市橋某が殺していなければ、桐原は自分の手で須ノ崎の口を封じなければならなくなっていたかもしれないのだから。
といって、他人が犯した殺人の罪を代わりに引き受けるわけにはゆかなかった。
須ノ崎が殺された先月三十日の夜、桐原は須ノ崎に呼び出されて、荒川に架かる扇大橋まで行った。
――先日、あんたの家を訪ねたときに話した件でさらに重大な話がある。扇大橋南詰の車止めの前へ九時に来い。
その前々日、そう電話があったのだ。
須ノ崎が自宅を尋ねてきたとき、彼には党本部の桐原直通の電話番号を教えた。できれば須ノ崎との関係など絶ちたかったが、交換手のいる代表番号や自宅に連絡されるよりはいいだろうと考えて。だから、須ノ崎はそこにかけてきた。
扇大橋南詰の車止めは、河川敷への車の乗り入れを阻止するため、土手の入口に設けられている。須ノ崎は、その車止めの手前なら乗用車を三、四台駐められる空地《スペース》があるので通行の邪魔にならない、そこに車を停めて自分が行くまで待て、と言ったのだ。遅くとも九時四十分頃までには行くから、と。
須ノ崎がどう出るかわからないので、桐原は拒否できなかった。言われたとおり、九時四、五分前に扇大橋南詰まで行き、どしゃぶりの雨の中、鉄パイプの柵《さく》の前に車を停めて、待った。九時四十分を二十分過ぎる十時まで。それでも須ノ崎が現われなかったので帰宅すると、翌日、桐原のいた空地から百メートルと離れていない河川敷で須ノ崎の死体が見つかった、と松尾に電話で知らされたのである。
須ノ崎を脅したのか、巧く誘導したのかはわからないが、彼をつかって桐原を扇大橋まで呼び出したのは市橋某であろう。また、当夜、車止めの前から土手下へ下る道で乗用車に泥水をはねかけられたといって交番へ電話し、桐原のジュピターのナンバーを告げたのも。それは、桐原が引き上げた十時より少し前だったというから、市橋某は扇大橋の近くにいて桐原の帰るのを見ていたわけではないらしい。九時四十分を過ぎても十分や十五分は待っていると読んでのことだったにちがいない。
早乙女の演説が終わった。
府議会議員が、演説会の終了を告げ、長い間耳を傾けてくれた聴衆に感謝の言葉を述べた。
桐原は、壇上に並んだ早乙女たちとともに両手を上げて振った。
そんな彼の胸を、ふっと不安の翳《かげ》がかすめた。
市橋某の存在だった。
彼の出方によっては、桐原の現在は一瞬にして崩れ、輝かしい未来も消えてしまうかもしれないのである。
――何としても市橋某のフルネームと居所を突き止める必要がある。
と、桐原はあらためて強く思った。そして、できるだけ早く危険の芽を摘まなければならない。
2
桐原は真新しいビルを出て、西舞鶴駅前の広場に立った。
朝、大阪を出るときは青空が覗《のぞ》いていたのに、日本海側の舞鶴の空はどんよりと曇っていた。が、すぐに降ってきそうな気配はないから、夕方まではもつかもしれない。
十五日午後零時二、三分過ぎ――。
宝塚の友人に会う時間が早くなったからと早乙女と三宅に言い訳し、大阪を午前九時十二分に出る福知山線(JR宝塚線)の特急「北近畿3号」に乗り、福知山と綾部で山陰本線と舞鶴線の普通列車に乗り換えてきたのである。
舞鶴線は去年の秋に電化され、京都と東舞鶴を結ぶ直通列車が増えたらしい。とはいっても、一日五本の特急しかない。だから、帰りは、遅くとも東舞鶴十八時十八分発(西舞鶴十八時二十四分発)の京都行き最終列車「タンゴディスカバリー4号」に乗る予定でいるが、場合によっては一泊せざるをえないかもしれない。
白く光る、壁が総ガラス張りの立派な駅ビルと、広すぎるほどの広場。それでいて、人の姿は数えるほどしかなく、車も周りの歩道に沿って十台ほど駐まっているだけ。大都会の喧騒《けんそう》の中に暮らしている者には、何となく寂しい街といった印象だ。
桐原は歩道を回って、広場のつづきのような広い通りへ出た。
電話しておいたレンタカー会社まではそこから一、二分だった。
カウンターの奥にいたのは、三十を少し過ぎたかと思われる女性社員が一人。彼女は笑みを浮かべて立ってくると、桐原の運転免許証をコピーし、書類を作った。
これで、舞鶴へ来た証拠は残る。が、そこまで調べられる可能性は薄い……というよりないだろう、と桐原は考えていた。また、顔と名前を多少知られているとはいえ、いわゆるタレント教授、タレント学者ではなかったから、初対面の相手に素性を気づかれることもないにちがいない。実際、女子社員は彼に特別の関心や興味を抱いた様子はなかったし。
桐原は、非常手段≠採った後のことを考えているのである。
今や、須ノ崎が殺される前の、
――もしかしたら非常手段に頼らざるをえなくなるかもしれない。
といった状況ではない。桐原が非常手段に踏み切らなかった場合、破滅するおそれがかなり高くなっていた。
だから、彼は、市橋某のフルネームと住所を突き止めたら、すぐにも危険の芽を摘むための行動を起こすつもりだった。
桐原が料金を払って契約が成立すると、女子社員が彼を車まで案内した。
それは事務所の横に用意されていた。白い小型車だ。
桐原は運転席に乗り込み、機器の場所と操作を確認してからエンジンを掛け、女子社員に見送られて走り出した。
四、五百メートル北へ向かい、国道27号線へ出て右折。しばらくは道なりに東へ向かって走り、五老トンネルを抜けて右の道へ入る。
電話帳に載っていた市橋姓の男女七人のうち、三人が東舞鶴駅からさほど遠くない住所になっていた。だから、桐原は、東舞鶴駅まで行って位置を確認した後《のち》、その三人の家の周辺から当たろうと考えていた。
彼の予備知識によれば――
舞鶴は、太平洋戦争中の一九四三年(昭和一八)、舞鶴市と東舞鶴市が合併して一つの市になった。そのため、現在も五老岳を間にして西は西舞鶴、東は東舞鶴と、市は大きく二つの地域に分かれている。西舞鶴は、江戸時代から旧城下町として栄えた商業・貿易の町。一方、戦前・戦中と海軍の軍港として発展し、戦後は引揚船の着く港として有名になった東舞鶴は、現在も海上自衛隊の基地が置かれ、基地の町になっているらしい。
JR舞鶴線の終点であり、小浜線の始点でもある東舞鶴駅に着いたのは、十二時四十三分。西舞鶴のレンタカー会社を出てから二十分ほどだった。
東舞鶴駅が西舞鶴駅と違うのは、ホームが高架になっている点。広々とした駅前は、西舞鶴より客待ちのタクシーは多いものの、やはり閑散としていた。
桐原は、車を停めて地図を見てから、ガードの下を抜けて駅の南側へ回った。
海に近い北側は駅前から国道27号線へ向かって伸びる通りがアーケードのつづく商店街になっていたが、南側は広場の外に大きなスーパーマーケットがあるものの、小さな工場《こうば》やアパート、一般の住宅が多かった。
一キロほど走って川沿いの道へ出たところで車を停め、降りた。
町名の標示はないが、倉浜町のはずである。
あとは一軒一軒表札を見ながら最初に調べる予定の市橋姓の家を探して歩くしかない。
倉浜町に隣接した森永町にも市橋姓の家があるので、もしあまり離れていなければ、二軒の中間に商店を見つけ、両家について一緒に話を聞いてもいい、と考えていた。
正確な情報を得るには、目的の家の近くでできるだけ多くの人の話を聞いたほうがいいのは当然である。が、そうすれば、怪しまれて、こちらの動きが相手に伝わる危険性も増大する。だから、桐原は、できることなら、目的の家から可能なかぎり離れた場所における可能なかぎり少ない人に対する聞き込み≠ナ済ませたかった。
予想していた以上に町名標示が少なく、表札に住所を書いてない家も多かった。
それでも倉浜町の市橋征男の家は比較的簡単に見つかったものの、森永町まで足を延ばしても、二番目に調べる予定の市橋清三郎の家はなかなか見つからない。そのため、両方について一緒に聞き込みをするのは諦め、倉浜町へ戻って、先に市橋征男について調べた。
二軒の家で話を聞いた結果、市橋征男に関しては引っ掛かる事実なし――。
一旦《いつたん》車に戻って森永町へ移動し、人通りのない道路脇に車を駐め、市橋清三郎の家を探した。
このあたりは、住宅が建て込んでいた倉浜町と違ってまだ畑や空地があり、昔の農家らしい古い家も多少残っていた。
二十分ほどして見つけた市橋家はそうした旧家らしい一軒で、朽ちかけた板塀に囲まれ、檜皮葺《ひわだぶ》きの屋根の付いた門があった。
どこにも市橋清三郎の名はないが、かすれた墨の文字が「市橋」と読める木の表札が掛かっているから、彼の家に間違いないだろう。
桐原は、人の姿のない閑散とした門の前を離れると、今度は聞き込むのに適当な家はないかと探した。
十二、三分近くを歩き回り、バス通りへ出たところに「田中食堂」の暖簾《のれん》を見つけた。
話を聞くという目的がなければ入りたくなるような食堂ではないが、他に酒屋も煙草屋もないので、仕方がない。二時を回り、空腹でなくもなかったので、何か食べてから話を聞こうと、桐原は色の褪《あ》せた暖簾をくぐって、曇りガラスの引き戸を開けた。
広さは六、七坪ぐらいか。コンクリートのたたき[#「たたき」に傍点]にデコラ張りの安っぽいテーブルと丸椅子を置いただけの殺風景な食堂だ。隅の棚には分厚い漫画週刊誌がずらりと並び、壁中に品書の短冊がべたべたと貼ってあった。
奥のテーブルに座ってテレビを見ていた肥った女が、桐原のほうを振り向いた。中年というには歳取っている感じだが、まだ老人というほどではないから、六十ぐらいだろうか。「いらっしゃいませ」とも言わずに、重そうな腰をゆっくりと上げた。大きな木の瘤《こぶ》のような腰を包んだ水色のワンピースは皺《しわ》くちゃだった。
女は配膳台の上から水の入ったコップをひょいと取り、そのまま片手でそれを持って、サンダルの踵《かかと》を引き摺《ず》りながら桐原が掛けたテーブルの横まで来た。
客は、引き戸を入った左手のテーブルで丼物を食べている三十六、七の女と二人の男の子の三人だけ。
水を運んできた女は、愛想笑い一つ見せるでもなく、半ば投げ出すようにテーブルにコップを置き、
「何にしますか?」
と、訊《き》いた。
どこかでよく似た体験をしたな……と思ったら、かつて留学していたソ連邦時代のモスクワでのことだった。レストランでも商店でも、ビヤ樽《だる》のような体付きをした女店員がこのような応対をした。
桐原は、茶色に変色した壁の短冊を見やり、とにかく女の口を開かせるために、そこに書かれた品のいくつかについて説明を求めてから、
「それじゃ、親子丼……と、そうだ、山菜うどんもください」
と、言った。後で話を聞く必要があるので、できるだけ愛想の良い声で。どちらか一方で充分だったが、少しでも女の心証を良くするために二品注文したのだ。
女は何も応《こた》えずにゆっくりと身体を回し、来たときと同じ歩き方で去った。配膳口から顔を覗かせた、夫らしい眼鏡をかけた男に桐原の注文を取り次ぎ、自分はまた椅子に腰掛けて、テレビを見始めた。
――この女じゃ、何も聞けないかもしれないな。
桐原は、ワンピースを着た女の広い背中を見やりながら、そう思ったが、嬉《うれ》しいことにその予想は外れた。
七人のうちの二人目にして、大きな当たりがあったのである。
3
桐原が山菜うどんを半分ほど食べて、親子丼の蓋《ふた》を取ったとき、母子らしい三人連れが帰った。
桐原の後から来た客がいないからだろう、厨房《ちゆうぼう》にいた男も店に出てきた。前掛けを外して女の隣りに座り、煙草を吸いながらテレビを見始めた。歳は女より五つ六つ上だろうか。痩《や》せて背が高く、猫背だった。
桐原は今がチャンスだと思い、手をつけたばかりの親子丼をそのままに箸《はし》を置いた。
緊張に胸がざわめくのを感じながら、「ごちそうさま」と言って立ち上がり、テレビの前の二人のほうへ歩いて行った。
男が眼鏡の顔を振り向けて、「毎度……」と言い、女が黙って腰を上げた。
桐原は、女に二千円渡して釣りを受け取ると、
「ああ、そうだ、ちょっとお尋ねしたいんですが……」
食事したついでにといった風を装って切り出した。
女が何ですかと問うような目をし、男も桐原を見た。
「この先の角を東へ入って行くと、市橋さんという古い大きな家がありますね」
桐原が言うと、
「ああ、清三郎さんのとこね」
男が応えた。
「つかぬことを伺いますが、あのお宅の娘さんか、あるいは親戚《しんせき》の娘さんで、二十数年前、東京の学校へ行っていて自殺した方はいないでしょうか?」
二人の顔に明らかに反応があった。
女が男のほうへ目を向け、男が小さくうなずいた。
――ぶつかったらしい!
桐原はそう思うと、胸のあたりがきゅっと緊張した。
「おられるんですね?」
と、男に質問を向けた。
「ええ、いますが……おたくさんはどういう方ですか?」
男が煙草の火を灰皿に押し潰《つぶ》し、訊き返した。
「その娘さんの同級生です。もう二十四、五年前になるでしょうか、父親が自衛隊に勤めていたので、わたしもいちじ舞鶴に住んでいたことがあるんです。そのとき、高校で市橋さんと一緒だったんです。父の転勤で、わたしは卒業前に神奈川県の横須賀へ引っ越してしまい、舞鶴とはほとんど縁が切れてしまったんですが。ただ、学校を卒業して何年かした頃、かつての同級生と偶然出会い、市橋さんが自殺したと聞いたものですから」
桐原は用意していた話をした。
「それが、今、なぜ……?」
男が話の先を促した。
「昨日、十二、三年ぶりに仕事で舞鶴へ来たんですが、懐しくなって、今日は朝からあちこち車を乗り回していたんです。そうしたら、『市橋』という表札が目にとまったので、もしかしたら、わたしの知っている市橋さんの家では……≠ニ思ったわけなんです」
「そうですか」
と、男がうなずいた。
男も女も、桐原の説明を怪しんだ様子はない。
「確か、名前は洋子さんと言ったと思います。市橋洋子さんはあの家のお嬢さんだったんですか?」
新しい客が来たら困るので、桐原は急いで質問を進めた。
「いや、違います」
と、男が、それだけで生き物のように見える筋の目立つ長い首を横に振った。
「では、親戚の……?」
「わたしは亡くなった娘さんの名前までは知りませんが、清三郎さんの妹の子供です。妹は時子といって、わたしと小学校のときの同級生なんです」
「洋子さんが市橋姓を名乗っていたということは、お母さんの時子さんは養子をもらったわけですか?」
「そうじゃなく、時子は離婚して元の市橋姓に戻ったんです」
ということは、市橋洋子の父親の姓は市橋ではない。つまり、市橋某が本当に洋子の父親なら、その姓は市橋ではなく、彼は桐原に嘘をついた――。
予想していなかった事実に、桐原は少し面食らい、慌てた。
彼は、そうした心の内を相手に気づかれないように注意して、
「では、洋子さんの初めの姓は、市橋ではなかったわけですか……。何といったんですかね?」
さりげなさを装い、もっとも重要な点を質《ただ》した。それを聞かないことには、「市橋某」を突き止めようがない。
だが、男は、
「もう四十年も前の話ですから、憶《おぼ》えていませんね」
と首をかしげた。「あ、いや、憶えていないんじゃなく、元々聞いたことがなかったのかもしれません」
「四十年も前ということは、お母さんの時子さんは、洋子さんが生まれて間もなく離婚されたんですか?」
桐原は、とにかく聞けるだけのことは聞いておこうと思った。
「そう。東京で結婚して子供を生んだ後、確か一年もしないうちに離婚して舞鶴へ戻ってきたんです。その頃は清三郎さんたちの両親も健在でしたから。でも、時子は気が強くて負けず嫌いだったので、実家には一月といなかったな……。清三郎さんの奥さんとうまくいかなかったこともあるんですが、市内にアパートを借り、商工会の事務の仕事をしながら一人で娘を育てたんです。それだというのに、親の心、子知らず……娘は都会へ出て行って、挙句の果てに自殺してしまったんです。これ以上の親不孝はありませんよ」
男が少し怒ったように言ったが、桐原は気づかないふりをして質問を継いだ。
「時子さんは、現在も舞鶴市内に住んでおられるんでしょうか?」
「いや、十年ほど前に再婚し、今は京都にいるという話です」
男が答えた。
「再婚されたんですか……」
「一人娘が死んで六、七年した頃、両親も相次いで亡くなったので、どこに住んでも同じだという気になったんでしょう」
「現在の姓はわかりますか?」
「こっちは、実家へ帰ってきたときに聞いた憶えがあるけど、忘れたな」
男が長い首をひねってから、「おまえ、知らないか?」と妻に問いかけた。
と、桐原と男のやり取りを面白くなさそうな顔をして聞いていた女が、
「あたしは聞いた憶えもないよ」
つっけんどんな調子で答えた。夫が幼馴染《おさななじみ》を時子、時子と親しそうに呼んだせいかもしれない。
「もし時子の苗字《みようじ》や住所が知りたかったら、清三郎さんのところへ行って訊けば、教えてくれるんじゃないかな」
男が言った。彼は、妻の不機嫌な理由など全然気づいていないようだ。
「ええ、でも、いいんです。ついでに伺ってみただけですから」
桐原は応えた。市橋清三郎に直接話を聞けるぐらいなら、苦労しない。清三郎が洋子の伯父《おじ》と判明した今や、なおさらである。
桐原は、他に男から聞いておくことはないか、と考えた。聞くなら、今のうちである。が、男が、時子が最初に結婚した相手の姓を知らないのでは、何を訊いても市橋某を突き止める手掛かりにはなりそうにない。それなら、長居をしてこちらの印象を強めないほうがいい。
桐原がそう思って、挨拶《あいさつ》しようとしたとき、
「これから、どちらのほうへ?」
男が訊いた。
「引揚記念館か赤れんが博物館へでも行ってみようと思っています。それじゃ……どうもお邪魔しました」
桐原は二人に軽く頭を下げ、背を向けた。
桐原は、引揚記念館へも赤れんが博物館へも行かなかった。来たときの国道ではなく、線路と並行した府道を通って西舞鶴まで戻ると、予定より早く用事が済んだから……とレンタカーを返し、三時十二分発の福知山行きの普通列車に乗った。洋子の母親の幼友達から聞けるかぎりのことは聞いたので、これ以上舞鶴にいても何の益もないからだ。
電車に乗って腰を下ろすと、桐原は考え始めた。
乗り換え駅の綾部で降りて山陰本線の列車を待っているときも、十五、六分待って、城崎から来た京都行きの特急「きのさき8号」に乗ってからも、
――どうしたら、市橋洋子の父親の氏名と住所を突き止められるか?
と、彼は考えつづけた。
田中食堂の主《あるじ》によれば、洋子の母親・時子は東京で結婚し、洋子を生んだという。といって、洋子の父親が現在も東京に住んでいるとはかぎらない。今度の一連の行動から推して、東京か東京近辺にいる可能性が高いように思われるが、たとえそうだったとしても、雲をつかむような話である。
これまでは、姓だけは「市橋」に間違いないと思っていた。それなのに、今やその姓さえ不明になり、市橋某はただの某≠ノなってしまった。
それから、桐原の頭にずっと引っ掛かっていることがある。それは、市橋洋子の父親が〈洋子の身に起きたこと〉をかなり正確に知っているらしい点だ。二十三年前、洋子の父親が桐原をアパートの下に待ち受けたときは知らなかったはずだから、最近知ったらしい。いったい、彼はそれを、どこでどうして知ったのだろうか。
この謎は、洋子の父親の正体≠ノ関係しているのではないか、と桐原は考えている。つまり、洋子の父親がどこに住んでいる何という人間かがわかれば、彼がなぜ二十三年前のことを知ったのかという謎も解けるか、少なくともそれを解くヒントぐらいは得られるのではないか、と。
しかし、桐原のこの想像が当たっていたとしても、洋子の父親の正体≠突き止めないことにはどうにもならない。
現在、桐原が手にしている洋子の父親に関する情報は、〈電話で話したときの話し方と声〉、〈六、七十歳代ではないかと思われる年齢〉、それに〈二十三年前に薄暗がりで一度会ったときの印象〉だけである。最後の点については、印象といっても、特に大柄でも小柄でもない穏やかな感じの男だった、という記憶ぐらいしかなく、どんな顔をしていたのかはまったく憶えていない。
これでは、洋子の父親を突き止めるための手掛かりとしてはほとんど役に立ちそうになかった。
特急「きのさき8号」は、四時五十四分に京都に着いた。
桐原は、三宅の用意した大阪・東京間の乗車券と新幹線のグリーン専用回数券を持っていたので、「みどりの窓口」で座席の指定だけ受け、五時三十四分発の「ひかり122号」に乗った。禁煙席である。土曜日といっても、まだ梅雨明け前だからだろうか、彼の隣りも含めていくつか空席があった。
列車が発車して間もなく車内販売が来たので、彼はウーロン茶を買って飲み、なおも同じ問題を考えつづけた。
市橋清三郎に電話して訊けば、洋子の父親の氏名はたぶんわかるだろう。が、清三郎に電話するのは危険すぎた。また、危険を冒して、たとえ氏名は聞き出せたとしても、四十年も前に妹と離婚した相手の住所まで彼が知っているとは思えない。再婚して京都に住んでいるという時子の電話番号を清三郎から聞き出し、時子に問い合わせれば、あるいはわかるかもしれないが、時子だって、四十年も前に別れた男の住所を知っている可能性は、けっして高くない。
いずれにせよ、時子に電話して元夫のことを尋ねたりすれば、危険が何倍にもはね上がるのは間違いない。
と考えると、市橋清三郎と時子のセンから洋子の父親を突き止める、という方法は諦めざるをえなかった。
――では、他にいかなる方法があるのか?
桐原は自問を繰り返し、解答を探し求めていたのだった。
そんな桐原の頭に何か≠ェ引っ掛かってきたのは、列車が名古屋駅を発車してしばらくしたときである。
彼は、引っ掛かってきたものの実体を見極めようと、椅子の背もたれを少し起こし、さらに思考を凝らした。
引っ掛かりの出発点は、市橋洋子の父親の態度の変化だった。
市橋洋子の父親は、五月十二日に最初に桐原に電話してきたときは、会いたい、会ってくれ、と強く求めた。ところが、桐原が「幼女|悪戯《いたずら》事件」に巻き込まれるや、元警官Qを名乗って桐原を陥れようとし、六月十九日の夜、電話で話した時点では、桐原が会いたいと求めたにもかかわらず、それを拒否した。電話の声も、最初のときと違って、明らかに作りものらしく変わっていた。
この変化はどうして起きたのか?
桐原をさらに陥れるために、自分がどこの誰か、知られたくなかったからであろう。
これは間違いない。
が、もしそれだけの理由なら、桐原に会ったところで、それほど問題はなかったはずである。本名を名乗らずに市橋某で通し、尾行されないように注意すれば、身元を突き止められるおそれはなかったのだから。素顔を見られたくなかったのなら、マスクとサングラスをかければ済む。
では、洋子の父親は、どうして桐原に会うのを拒否するに至ったのか? なぜ電話の声まで作ったのか?
桐原はその答えとして、
〈洋子の父親は、六月十九日以前に桐原とどこかで会っているか、以後、会う可能性のあった人間ではないか〉
と、考えてみた。
会うといっても、もちろん洋子の父親としてではなく、別の素性の人間として。
そう考えると、声を作り、どうしても会おうとしなかったことの説明がつく。
すでに桐原と会っているか、これから会う可能性のある人間なら、マスクとサングラスで顔を隠したぐらいでは正体≠見破られる危険性が高い。電話の声も、まだ何も起きていない五月十二日一回だけなら桐原の内にはっきりした記憶をとどめなくても、もし録音されて何度も聴かれたら、誰のものかわかってしまうおそれが多分にある。
以上は桐原の想像である。事実かどうかはわからない。が、桐原は、自分の想像は正しいのではないか、という気がした。そして、もし正しければ、
――桐原は、六月十九日以前か以後か、洋子の父親とどこかで顔を合わせている可能性が高い。
桐原は、この仮定を出発点にして、市橋洋子の父親である可能性のある人間≠記憶の中に探ってみた。
年齢は六、七十代。身長は中背(二十三年前は中肉中背だったが、その後、痩《や》せたかもしれないし肥ったかもしれない)。会っていれば、たぶん声も聞いているだろう。
漠然としていて、初めはまるでわからなかったが、間もなく、一人の男の顔と姿が浮かんできた。
ごく最近会った男である。
年齢はたぶん七十歳ぐらい。小柄な部類に入る痩せた男だが、二十三年前に中肉中背に見えたとしてもおかしくない。
ただ、声と話し方が似ているかどうかは、はっきりしなかった。洋子の父親の電話の声は二度目からは作られていたし、その作られた声の印象が強すぎたせいか、初めのときの電話の声については特に低くも高くもなく、これといった訛《なま》りがなかった≠ニいった程度の記憶しかなかったから。
だが、桐原は、市橋洋子の父親はこの男[#「この男」に傍点]に間違いないのではないか、と思った。根拠とまでは言えないが、彼の判断を支える〈二つの事実〉があったからだ。
――自分のこの推理が正しいことを確かめるにはどうしたらいいか?
と、彼は考えを進めた。
桐原が男を怪しみ始めたことは、男はもとより周囲の者にも絶対に感づかれてはならない。桐原の意図と動きを誰にも気づかれないように、男が洋子の父親である証拠をつかむ必要がある。
すぐには巧い方法が浮かびそうにはなかった。が、調べる対象がはっきりしているので、必ず何らかの手が見つかるにちがいない、桐原はそう思った。
次の問題は、男が洋子の父親だと確認された場合、どうするか、である。
それは、桐原の内ですでに固まっていると言える。
自分の現在と未来を守るためなら、彼は何でもするつもりだった。二十三年前にもそうしたように[#「二十三年前にもそうしたように」に傍点]。
今や、桐原の現在と未来は桐原一人だけのものではない。そこには、妻と二人の子供の現在と未来もかかっている。
そう考えれば、なおさら、迷う余地はなかった。
おれは、高校、大学時代から努力に努力を重ねてここまできた、と彼は思う。須ノ崎のように親の金で遊び惚《ほう》けていた奴らとも、松尾のように詩や小説といった愚にもつかぬことにうつつを抜かしていた奴らとも、口から泡を飛ばして議論のための議論を戦わせ、時にはヘルメットを被《かぶ》ってマイクの前でがなり立てていた奴らとも、おれは違う。おれの家は貧乏だった。父親が病気がちだったので、長男のおれは高校時代から様々なアルバイトをして家計を助け、学資を稼いできた。馬鹿な連中が貴重な時間を無駄に費やしているとき、おれは汗まみれになって働き、死に物狂いで勉強してきた。奴らが酒を食らって正体をなくしているとき、あるいは女の尻《しり》を追い回しているとき、おれは頭から水を被り、画鋲《がびよう》で手を刺しては、机の前に座りつづけた。これまで、おれは他人に頼ったことはない。自分の意志と力だけで多くの障害を克服し、ここまで昇ってきた。おれがいま手にしているものは、すべて、おれ自身の努力によってつかんだものである。それを、奪われるわけにはゆかない。
だから、と桐原は、ドアの上の電光掲示板を流れるニュースに見るともなく目をやりながら、あらためて決意を固めた。
――今度の困難だって、これまでと同様に必ず乗り越えて見せる。
4
同じ十五日の夕刻――。
桐原が不在の彼の家を、岸川は浦部とともに訪れていた。
時刻は六時を回ったところ。曇っているので太陽の位置がはっきりしないが、晴れていれば、まだビルの壁やガラスが赤く染まっている頃である。
岸川たちのいるのは玄関である。上がり口には桐原郁美が青ざめ、引き攣《つ》った顔をして立っている。岸川たちが初めて桐原家を訪ねたときは、応接間へ通して茶を出した郁美だが、今はとてもそんなことに気を回す余裕はないようだ。岸川がいきなり投げつけた爆弾≠ノ衝撃を受け、どう対処したらいいのかを懸命に考えているのだろう。
桐原を江北警察署まで連れて行って事情を聴いてから、今日でまる一週間。この間、岸川たちは、桐原に対する疑いをいっそう強めたり、時には弱気になって、もしかしたら彼は犯人ではないのではないか≠ニ思ったりしながら、捜査をつづけてきた。
弱気に……の原因としては、須ノ崎が殺された六月三十日の夜、桐原が荒川に架かる扇大橋の近くへ行っていたのは確実でも、彼の犯行の証拠が得られなかったことがもっとも大きい。次に、彼が犯行前に須ノ崎と接触していた事実がつかめなかったことである。後者については、政友党本部の職員に当たって、何とか須ノ崎らしい男からの電話の有無を調べようとしたのだが、以前電話交換手や守衛に当たった後で正式に箝口令《かんこうれい》が敷かれたらしく、何も聞けなかったのだ。
それともう一つ、事件の夜、泥水をはねかけられたといって桐原のジュピターのナンバーを交番へ知らせてきた「佐藤健一」と名乗る男が見つからなかった、という事実がある。
扇大橋に近い荒川沿いと隅田川沿いだけでなく、足立区、荒川区、北区、台東区、墨田区などの公園や空地を住《す》み処《か》にしているホームレスにまで範囲を広げて聞き込みを行なったにもかかわらず、「佐藤健一」に関わる情報はどこからも得られなかった。
岸川たちは、荒井警部の追及に桐原が思わずといった感じで口にした誰かの謀略≠フセンも検討した。
〈須ノ崎の殺害を企《たくら》んだ人間が、桐原に罪を被せるために、何らかの口実を設けて彼を扇大橋の近くへ呼び出しておく。そして、須ノ崎を殺した後――殺害現場は荒川河川敷とはかぎらない――扇大橋のそばで車に泥水をはねかけられたといって、桐原のジュピターのナンバーを交番に知らせる〉
これは可能だからだ。
ただ、この謀略説≠成り立たせるためには、
一、その人間には、須ノ崎を殺す動機が存在した。
一、その人間は、桐原を自分の計画に都合よく動かせた。
一、その人間は、桐原が誰かの謀略だと思っても安全圏にいられる、つまり桐原には犯人が誰かわからないか、わかっても絶対に告発できない。
以上、三つの条件を具《そな》えた犯人が存在しなければならない。
その可能性はゼロとは言えないまでも、極めて低いだろう。
と考えると、岸川たちは結局また桐原犯人説≠ノ立ち戻らざるをえなかった。
しかし、新しい駒を持たずに桐原を攻めたところで、前と同様に撥《は》ね返されるのは目に見えていた。
そこで、この一週間、捜査本部の主力は桐原を攻めるための新しい駒を手に入れようと動いてきたのだった。
当面、狙っている駒は二つあった。
一つは、〈六月三十日の夜、桐原が須ノ崎の遺体発見現場近くへ行っていた事実を裏付ける「佐藤健一」か別の目撃者の証言〉、もう一つは、〈事件の前に桐原と須ノ崎が接触していたことを示す事実か証言〉である。
岸川と浦部は、他の三組六人の捜査員とともに、後者の駒捜しを担当した。
桐原は、須ノ崎と接触したそもそもの初めから殺人を意図していたとは思えない。とすれば、政友党本部の近くか自宅の近くで須ノ崎と会っていた可能性がある。
岸川たちはそう考え、須ノ崎の写真を持って、まず政友党本部の受付と守衛、党本部の近くにある喫茶店やレストラン、JR市ヶ谷駅と地下鉄の市ヶ谷駅・麹町駅、それらの駅構内にある売店などを尋ね歩いた。
が、須ノ崎らしい男を見たという反応はどこからも得られず、岸川たちは、聞き込みの地域を政友党本部周辺から桐原の自宅周辺へ移した。
しかし、こちらも、二日間聞き歩いたにもかかわらず成果がなく、岸川は悲観的になり始めた。
と、彼の中で謀略説≠ェまた頭をもたげた。可能性が薄いだろう、と一度は退けたものの、須ノ崎が殺される前、桐原が「幼女悪戯事件」の渦中にいた≠ニいう気になる事実があったからだ。
岸川は、幼女事件は桐原の言うとおり無実ではないかと考えていた。警察が事件として取り上げなかったからだけではない。時間と場所から考えて、被害者の女の子の母親が主張するようなことがあったとは到底思えない。
それなのに、テレビや週刊誌が〈政友党のホープ、元東央大学教授が幼女に悪戯か?〉と興味本位に報じたために、騒ぎが大きくなった。警視庁の元警官Qを名乗る人物まで登場し、二十三年前、連続幼女悪戯事件の容疑者として桐原を密《ひそ》かにマークしていた、と言い出した。その談話≠載せた週刊誌は、Qの身元は確かだと言っているが、眉唾《まゆつば》だろう。二十三年前、事件の捜査を担当した責任者が、容疑者として桐原政彦の名が挙がったことはないし、Qなる人物にも心当たりがない、と言っているのだから。
問題はそこだった。
もしQの経歴と談話が虚偽だとしたら、動機ははっきりしないが、桐原に悪意を抱き、彼を陥れようとしたQなる人物がいたわけであり、
――Qは、須ノ崎殺しに関しても桐原に無実の罪を被せようと謀ったかもしれない。
ということになる。
殺人と幼女に対する悪戯では、同じ犯罪でも、重大さにおいて天と地ほどの開きがある。それに、今のところ、二つの事件の関連を示すものは何もない。Qと須ノ崎の関わりを疑わせるような事実もない。
とはいえ、岸川は、二つの事件が時間的に近接して起きているという事実に、また、須ノ崎殺しが誰かの謀略だったとしたら、両事件の犯人の遣《や》り口が共通しているという点に、引っ掛かるのである。
本駒込の桐原家周辺の聞き込みを始めて三日目の今日も、昨日と変わらなかった。これといった成果を上げられないまま夕刻が近づき、岸川は気落ちしながら歩いていた。あと二十分ほどして六時になったら引き上げるつもりで。
そんなとき、幸運にぶつかった。
岸川たちにそれをもたらしたのは、桐原家から百メートルほど離れた一軒の家の前に小型のアルミバンを停めて、荷物を下ろしていた青年である。
アルミバンの横に「東京市民生協」と書かれているから、生協の配達員のようだ。
半袖《はんそで》のTシャツにジーパンといった格好の青年は、何段にも重ねた発泡スチロールと段ボールの箱を抱えて玄関前まで運び、代わりに、玄関前に置かれていたらしい発泡スチロールの空箱と畳まれた段ボールを取って、アルミバンへ戻ってきた。
それを待ち受けて、岸川が須ノ崎の写真を見せたところ、
――この人だと断言はできないけど、似た人なら見ました。長髪で黒いサングラスをかけた……。
という答えが返ってきたのだ。
岸川たちは、「日之出荘」の主や宿泊客から、須ノ崎がいつも黒いサングラスをかけていたと聞いたので、死体の顔にそれらしい眼鏡をかけさせた合成写真も持っていた。
ほとんど期待をせず、とにかく訊《き》くだけ訊いてみようという軽い気持ちだったので、岸川は驚いた。
緊張して、浦部と顔を見合わせ、いつ、どこで見たのか、と質問を継いだ。
小柄ながら、腕の筋肉がポパイのように盛り上がった青年が、バンに積み込んだ発泡スチロールの空箱をちょっと奥へ押しやってから、
――三、四週間ぐらい前かな。見たのは、あそこ、田畑さんの向こうの家……苗字《みようじ》は知りませんけど、あの家の前です。
桐原家を指して答えた。
岸川は口が渇き、胸の動悸《どうき》を感じた。
――体付きとだいたいの年齢はわかりますか?
念のために確認した。
――身長はぼくと同じ百六十四、五センチぐらいで、痩《や》せていたかな。ぼくは人の歳はよくわからないので、はっきりしませんけど、四十は過ぎていたと思います。
須ノ崎と符合している。見たときの状況がはっきりしないが、須ノ崎と考えてたぶん間違いないだろう。
――三、四週間前というと、六月二十日前後ですか?
――どうだったかな……。ただ、日にちは憶《おぼ》えていないけど、曜日ならはっきりしています。木曜日です。
――日にちがわからないのに、曜日がどうしてはっきりしているんですか?
――ぼくが田畑さんの家に注文の品を届けるのが木曜日だからです。
――おたくは、東京市民生協の……?
岸川はバンの腹を見ながら、言った。
――職員です。このあたりの配達を担当している山口と言います。共同購入の方には週に二回、個人で加入されている方には週に一回、注文された品を配達しています。田畑さんは個人会員で、配達が木曜日なんです。
――では、山口さんは、田畑さんの家に配達に来たとき、隣りの家の前にいるこの男を見た?
――ええ。
――そのときの状況を詳しく説明してくれませんか。
――詳しくといっても、ぼくが田畑さんの家の前に車をつける前から、その写真に似た男の人が隣りの家のインターホンで話していて、ぼくが品物を玄関前に届けて車のそばへ戻ってきたとき、帰るところだった、それだけです。帰るとき、ぼくのほうへ歩いてきて、すぐ近くで顔を合わせたので、憶えていたんです。
――雨は降ってましたか?
――傘を差していなかったし、降っていなかったんじゃないかと思います。……ああ、薄暗い、今にも降り出しそうなどんよりとした日でした。
――何時頃でしょう?
――特別のことがないかぎり、田畑さんのお宅へ品物を届けるのが午後三時から四時までの間ですから、その頃だったはずです。
――この男は、インターホンで話していただけで、門の中へは入らなかったわけですね?
――ええ。
――インターホンで話していた相手が男性か女性か、わかりませんか?
さあ……と青年が首をかしげ、「わかりません」と答えた。
――外で話している男の人の声はちょっと耳に入ったけど、中の人の声までは聞こえなかったから。
――男の声は聞こえた? 男は何て言っていたんでしょう?
――声は聞こえても、何て言ったかまでは……。
――断片でもいいです。耳に残っている言葉はありませんか?
青年は懸命に記憶を探っているようだったが、結局、わからないと答えた。
岸川たちは礼を言って、アルミバンのそばを離れた。
山口青年の話により、須ノ崎が桐原家を訪ねていた事実が明らかになった。
これで、事件の前に桐原と須ノ崎が接触していたのはほぼ確実になったのである。
山口青年が見たとき、須ノ崎は門の中へ入らずに帰ったというが、木曜日の午後三時から四時の間では桐原が家にいなかったからであろう。が、須ノ崎は、電話ではなく――電話もかけたかもしれないが――わざわざ桐原の自宅まで来ているのである。桐原が不在なら、もう一度尋ねてくるか、インターホンで応対した相手に伝言を頼んで外で会ったか、どちらかだったのは間違いない。つまり、二年前に須ノ崎が行方をくらましてから、会ったことはもとより電話で話したこともない≠ニいう桐原の言葉は嘘だった、という結論になるのだった。
――さて、これからどうするか。
と、岸川は浦部と話し合った。
今日は土曜日なので、桐原は今、家にいる可能性がある。
できれば、桐原本人に会う前に、山口青年が見たとき須ノ崎に応対した者――たぶん妻の郁美だろう――から話を聞いておきたかった。後で口裏を合わせられないように。
そのためには、桐原が在宅していたのではまずい。
岸川たちは一旦《いつたん》バス通りまで出て、公衆電話から桐原家に探りの電話をかけた。
郁美が出たので、
――ご主人はいらっしゃいますか?
と問うと、出張で関西へ出かけているという返事。
――そうですか。じゃ、奥さんでも結構です。これから伺いますので、ちょっと話を聞かせてください。
岸川は、待ってましたとばかりに言って、浦部とともに住宅街の道を引き返し、桐原家を訪ねた。
郁美は、近くで電話しているとは思っていなかったのだろう、すぐに現われた岸川たちを見て、びっくりした顔をした。
岸川は、玄関に入るや、
――ええと、六月の二十日前後だったと思いますが、午後三時から四時までの間に、須ノ崎さんがお宅に伺っていますね?
と、いきなり核心の質問をぶつけた。こちらはすでに証拠をつかんでいるが、一応確認する――といった調子で。
そのため、郁美は、どう答えるべきか懸命に考えているのだろう、いまにも倒れそうな真っ青な顔をして、岸川たちの前に立っているのだった。
5
郁美の様子から、山口青年が須ノ崎らしい男を見たとき家の中で応対していたのはやはり彼女だったらしい、と岸川は思った。
「奥さんは、わたしが前に尋ねたとき、須ノ崎さんとは最近会っていない、電話もかかってきていない、と言われた。しかし、あれは嘘だったわけですね?」
岸川は、郁美の顔を見据えて追及した。
「いいえ、嘘じゃありません」
郁美が岸川の視線から逃れるように目を逸《そ》らし、否定した。
「嘘じゃない? 須ノ崎さんがお宅の門の前に立って、インターホンで話しているのを見た者がいるんですよ」
郁美は答えない。
「これでも、あなたは……」
さらに岸川が言いかけると、
「確かに須ノ崎さんは来られました」
郁美が遮った。「でも、お目にかかってはいません。また、電話もございませんでした」
どうやら態度を決めたらしい。
「どういうことです?」
「インターホンでお話ししただけで、すぐに帰られたんです」
「インターホンで話しただけなら、会っていないというのか?」
「セールスの方にはいつもこうして応対し、お会いしていませんから」
「須ノ崎さんはセールスマンじゃないでしょう。だいたい、どういう方法であれ、須ノ崎さんと言葉を交わしていたんなら、この前、どうしてそう言わなかったんです?」
「刑事さんが、お訊きにならなかったので……」
郁美がなおも抗弁した。声は消え入らんばかりに細くなっていたが。
岸川は、ふざけるな!≠ニ怒鳴りつけたいのを我慢した。
「会わなかったか、電話がなかったかと訊かれた場合、たとえ顔は合わせなくても、インターホンで言葉を交わしていれば、そう話すのが当然でしょう」
郁美が目を伏せた。言い訳の言葉が尽きたようだ。
「違いますか?」
「そうかもしれませんが、あのときは何となく……」
「何となく? つまり、須ノ崎さんの訪問を何となく警察に話さないほうがいいと判断した、そういうわけですか?」
「けっして、そういうわけでは……」
「じゃ、どういうわけです? 何となくというのはどういう意味です? 説明してもらいましょう」
「説明なんて、できません」
郁美が目を上げ、おどおどした様子ながらも、はっきりと答えた。
「どうしてです?」
「わからないからです」
「わからない? あんた、そんなことが通ると思っているのか!」
岸川は遂に声を荒らげた。
郁美が、一瞬|怯《おび》えたような表情をして身体を引いた。
だが、彼女はすぐに岸川に視線を戻し、
「それでは、刑事さんは、過去の自分の行為や気持ちを、全部きちんと説明できるんですか?」
と、反論した。顔は紙のように白く変わり、引き攣《つ》っていたが、目には明らかに反発の光があった。
岸川は、郁美について、強い夫に依存する、あまり強くない世間知らずの女≠ニいった印象を持っていたが、訂正しなければならないかもしれない、と思った。世間知らずではあっても、芯《しん》は意外に強く、しぶといようだったからだ。
「確かに、できないことはある」
岸川は答えた。「だが、あんたのような場合なら、できる。できるはずだ」
「できるはずだと言われても、わたしはできないんです」
郁美は譲らない。
「わかった。なら、それはいい」
岸川は引いた。癪《しやく》だったが、いつまでもそこにこだわっていては肝腎《かんじん》の質問に移れない。
「では、須ノ崎さんがここを訪れたときのことを聞かせてください。須ノ崎さんはご主人……桐原さんを尋ねてきたわけですね?」
彼は質問を進めた。
郁美の目に警戒の色が浮かんだ。素早く思考をめぐらしているふうだったが、すぐに「はい」と答えた。
「そのとき、桐原さんは家におられたんですか?」
「おりません。それで、わたしがインターホンで応対すると、帰られたんです」
「それじゃ、当然、須ノ崎さんは後で出直してきた?」
「いいえ、いらしておりません」
「ということは、須ノ崎さんは政友党本部に電話して、外で桐原さんと会ったんですかね?」
「いいえ、主人には何の連絡もなかったそうです」
「しかし、須ノ崎さんは、用事があって数年ぶりに桐原さんを尋ねてきたわけでしょう。それなのに、それきり顔も見せなければ電話もよこさないなんて考えられますか?」
「須ノ崎さんがうちに見えたのは、これといった用事があってというわけではなかったようなんです」
「どうしてわかるんですか?」
「近くまで来たので、懐しくなって、ちょっと寄ってみた……そんなふうにおっしゃってましたから」
嘘だ、と岸川は思う。そんなはずはない。たとえそうだったとしても、それならそれで、後で桐原本人に電話もないなんて考えられない。
しかし、岸川がいくらそう思っても、相手の嘘を突き崩す武器がない以上、どうにもならない。
「須ノ崎さんがここを訪れた日、桐原さんが帰宅されてから、当然、あなたはそのことを話していますね?」
「はい」
「それに対して、桐原さんはどのように言われたんでしょう?」
「ちょっと懐しそうな顔をして、『ふーん、そうか』と……」
「それだけですか?」
「他にも何か言ったかもしれませんが、憶えていません」
郁美の顔には赤みが差し、だいぶ余裕を取り戻したような表情になっていた。岸川たちに、これ以上彼女を攻めるための駒がないのがわかったからだろう。
――畜生! この女を少し甘く見すぎたか……。
岸川はそう思って、内心|歯噛《はが》みしたが、どうにもならない。やっと、須ノ崎が桐原家を訪問していた事実を突き止め、これで桐原を切り崩すための糸口がつかめたと思っていたのに。
岸川は、何か言うことはないかと浦部に目顔で問いかけた。
浦部も目に悔しげな色を浮かべ、ちょっと顔をしかめて見せた。
岸川は郁美に向きなおり、これぐらいじゃ引き下がらないぞ、と睨《にら》みつけた。
「それじゃ、ご主人がいるとき、また伺いますので……」
言いかけたとき、郁美の視線が岸川たちを越して、背後のドアのほうへ動いた。
同時にドアが開き、郁美の顔にハッとしたような色が浮かぶ。
岸川たちも身体を回してそちらを見た。
一人のほっそりした少女が、開けたドアをおさえて、戸惑ったような表情をして立っていた。
目のあたりに神経質そうな翳《かげ》が漂っているものの、美少女だ。ミニスカートとTシャツを着けた身体は郁美よりだいぶ細いが、顔はよく似ていた。
ということは、中学二年生になるという長女だろう。
「お帰り」
と、郁美が少女に向かって表情を崩した。「お客様だけど、ご挨拶《あいさつ》して入りなさい」
「お邪魔しています」
岸川は言って、少女の前を空けた。
ピンクのデイパックを背にした少女が、ぺこりと頭を下げて入ってきた。
「お嬢さんですか?」
岸川は郁美に訊いた。
はい、と郁美が答える。
少女はスニーカーを脱いで上がると、母親の顔をちらっと見やった。
「お部屋へ行ってなさい」
郁美に言われ、少女が廊下の奥へ歩き出した。
そのとき、岸川は、娘の帰宅に対して示した郁美の反応を思い出し、
「ああ、ちょっとすみません。お嬢さんにお尋ねしてもいいですか?」
郁美にとも娘にともなく言った。
少女が足を止め、訝《いぶか》しげな顔を向けた。
「娘は……何も知りません」
郁美が岸川と少女の間に身体を割り込ませ、少女を半ば自分の背に隠すようにした。
「ですが……」
「娘は何の関係もありません」
郁美が甲高い声で岸川の言葉を遮った。
母親の様子に、少女は何かを感じ取ったのだろう、緊張した顔に不安そうな翳がひろがった。
「あなたは行きなさい」
郁美が娘に指示する。
少女がちらっと岸川たちのほうを見て、逡巡《しゆんじゆん》する様子を見せた。
「待ってください」
岸川は呼びかけた。
「中学生の娘にいったい何を訊こうというんですか。関係ないじゃありませんか」
郁美が怒りを露《あらわ》にした。その顔と姿は、雛《ひな》を守ろうとして自分より強い敵の前に敢然と立ちはだかる母鳥を連想させた。
「あなたは、何をそんなにカッカしているんです? わたしたちが娘さんに質問したら都合の悪いことでもあるんですか?」
岸川は、郁美を睨み返した。
「そんなものありません。あるわけがございません」
「だったら、お父さんとお母さんが留守中、須ノ崎さんから電話がなかったかどうかぐらい訊いたっていいでしょう」
郁美には、それでも駄目だと言う理由がないからだろう、唇を噛んで黙った。悔しげというよりは不安げだ。
岸川は、できるだけ表情を和らげて、少女のほうへ顔を向け、
「お嬢さんの名前を教えてくれますか?」
と、言った。
母親と岸川のやり取りを目のあたりにしたからか、少女は怯えたような目をして黙っている。岸川たちが刑事だとわかったのかもしれない。
「香織です」
代わりに、郁美が答えた。
「香織さんか。じゃ、香織さんに訊きたいんだけど……」
岸川は郁美を見ずに香織の顔にだけ視線を当てて、つづけた。「香織さんは、お父さんの高校時代の友達の須ノ崎さんという人を知っていますか?」
香織が、小さな声で「はい」と答えた。
「会ったことは?」
「あります」
「何回ぐらい?」
香織が首をかしげ、
「たぶん一回だと思います」
「それはいつだろう?」
「そんなこと、どうして娘に訊く必要があるんですか?」
郁美が抗議の声を上げた。「いま、わたしたちの留守中、須ノ崎さんから電話があったかどうかだけを訊きたいとおっしゃったじゃありませんか」
「だけとは言っていません。それに、お嬢さんが須ノ崎さんを知っているかどうかは、その質問とも関係しています」
岸川は、郁美の抗議を抑えると、
「香織さんは、須ノ崎さんといつ会ったのかな?」
香織に質問を戻した。
「小学生の頃です」
香織が答えた。
「何年ぐらい前だろう?」
香織が首をかしげた。
「じゃ、何年生ぐらいのときかな?」
「四年生か五年生の頃かな……。クリスマスの少し前です」
「香織さんは、いま中学何年生ですか?」
「二年生です」
「ということは、三年か四年前の十二月か。どこで会ったんだろう?」
「うちです」
「お父さんを尋ねてきた?」
「はい」
ということは、須ノ崎は行方をくらます半年前か一年半前にここを訪ねているらしい。
「その後、須ノ崎さんは一度も香織さんの家へ来たことがないんですね?」
岸川は念のために訊いた。はいという返事がかえってくるのを予想して。
ところが、香織は何も答えない。来たことがなければ、ないと言うはずなのに。
岸川は、少女の困惑したような顔を見て、
――須ノ崎は来ているのだ!
と、直感した。
が、彼がそれを質《ただ》すより先に、
「ありません。ないから、香織は三、四年前に一度お会いしただけだと言っているんじゃありませんか」
郁美が言った。
「ちょっと待ってください」
岸川は郁美に目を向けた。
「でも……」
「待ってください!」
岸川は声を荒くして郁美を制した。「わたしはお嬢さんに訊いているんです。お嬢さんだって、中学二年生なら、誰かが来たか来ないかぐらいわかるでしょう」
「でも……」
「香織さん」
岸川は郁美を無視し、香織の顔を見て呼びかけた。「香織さんは会っていなくても、須ノ崎さんはその後もここへ見えたことがあるんじゃないんですか?」
香織は答えない。
顔からは血の気が引き、目には困惑の色が濃い。
もう明らかだった。香織は、母親がどんな返答を望んでいるのかわかっていながら、嘘をつけないでいるのだ。
中学二年生の娘にそんな葛藤《かつとう》を強いるのは可哀そうだが、仕方がない。
岸川がそう思い、最後の質問をしようとしたとき、
「香織、さあ、あなたは行きなさい。奥へ行きなさい」
郁美が娘の身体を回して、背中を押した。
「駄目だ!」
岸川は一歩踏み出し、怒鳴った。
「どうしてですか? 刑事さんにそんなことを言う権限があるんですか?」
郁美が眦《まなじり》をつり上げて岸川に食ってかかった。
「香織さん、あなたは、このまま引っ込めば後悔する。後悔するだけじゃなく、ずっと苦しまなければならない」
岸川は、郁美の身体に半ば隠された香織に向かって言った。
「嘘よ、そんなこと。香織は後悔なんかしないわ。もちろん苦しむ必要もないわ」
「いや、後悔する」
「嘘よ、嘘よ」
「それなら、行けばいい。お母さんの言うとおりにすればいい」
「行きなさい」
「そのかわり――」
と、岸川は一段と声を高めた。「香織さん、あなたは、ずっとお父さんとお母さんを疑いつづけることになる」
「香織がお父さんとわたしを疑うわけがないじゃない」
「信じているんなら、香織さん、知っていることを話すんだ。わたしたちだって、特にお父さんを疑っているわけじゃない。ただ、事実がどうなのか調べているだけなんだ」
「もう沢山だわ。香織、行きなさい」
「ううん、わたし、話すわ」
香織が、郁美の背中から抜け出し、岸川たちの前に進み出た。
「香織ィ!」
郁美が悲鳴にも似た声を上げ、香織の腕を取って引いた。
香織が、母親の半分ぐらいしかない細い腕でその手を振り切った。叫びながら。
「お母さん、前に言ったじゃない! お父さんを信じなさいって」
郁美は茫然《ぼうぜん》とした様子で立ち尽くす。娘の反応に驚き戸惑い、言うべき言葉が見つからないのだろう。
「お父さんが、須ノ崎さんを殺すわけがないわ」
香織がさらに言う。「そうでしょう? ねえ、お母さん、そうでしょう?」
「もちろん、そうだけど……」
郁美が答える。
「だったら、本当のことを話したほうがいいじゃない」
郁美は何も言わなかった。
もう香織を抑えることはできないし、岸川たちに嘘をつき通すのは無理だと判断したのだろう。
「須ノ崎さんは、最近ここに来ているんだね?」
岸川は、香織に向かって訊いた。
「はい」
と、香織がうなずいた。
「それは、いつかな?」
「須ノ崎さんが殺される一週間か十日ぐらい前だったと思います」
「そのとき、お父さんも家にいた?」
「はい」
「お父さんや香織さんが家にいたということは、休みの日か夜ということかな?」
「夜です」
「香織さんは、会っていないのに、どうして須ノ崎さんだとわかったんだろう?」
「玄関でお父さんとお母さんと話す声が聞こえたんです」
「香織さんは、須ノ崎さんの声を憶えていたの?」
「はっきりとは憶えていませんけど、話し方とかお父さんとお母さんの言っていることとかからわかりました」
「香織さんの言っていることに間違いありませんか?」
岸川は、郁美に目をやって質した。
間違いない、と郁美が認め、娘に言った。
「香織、あなたはもういいわ。お母さんがきちんと話すから」
少女が問うような目で岸川を見た。
「ありがとう」
と、岸川は少女に礼を言った。「あとはお母さんに聞くから……」
少女は、岸川が言葉を継ぐのを待つようにちょっと彼の顔を見つめていたが、彼が何も言わないとわかると、ぴょこんと頭を下げて奥へ入って行った。
頭を下げる前、少女の顔をかすかに落胆の色がかすめたように見えた。
その少女の表情に、岸川は胸が痛んだ。
少女は、自分の話したことに対する岸川のコメントを聞きたかったのかもしれない。それもただのコメントではなく、
――お父さんのことは心配いらないよ。
といった言葉を。
できれば、岸川もそう言ってやりたかったが、気休めを言うわけにはいかない。
「須ノ崎さんが来たのはいつか、憶えていますか?」
少女の姿が消えるのを待って、岸川は郁美に質した。
「六月二十二日……午後、インターホンでわたしと話した夜です」
郁美が観念したように答えた。
「では、須ノ崎さんは、近くまで来たので懐しくなって寄ったわけではなかったんですね?」
「いえ、それはそうだと思います。須ノ崎さんがそう言われましたし。ただ、わたしが主人は留守だと申し上げると、夜また来るからと言って帰られたんです」
「で、夜また尋ねてきたということは、桐原さんに何らかの用事があったんじゃないんですか?」
「須ノ崎さんが帰られた後で主人に訊いても、これといった特別の用事はなかったと申しておりました」
「須ノ崎さんがここへ来たのは、それきりですか?」
「はい」
六月二十二日の夜、須ノ崎が用事もなしに出直してきたとは考えられないが、その後来ていないというのは、香織も何も言わなかったから事実だと思われた。
「電話がかかってきたことは?」
「電話もございません」
「じゃ、きっと、政友党本部にあったんですね?」
「いえ、なかったと思います」
郁美が即座に否定した。
「奥さんにどうしてわかるんです?」
「須ノ崎さんが殺された後で、主人がそう申しておりました」
もし郁美の言葉のとおりなら、それは桐原が彼女に嘘をついたにちがいない。
「それなら、桐原さんもあなたも、どうして須ノ崎さんが尋ねてきた事実を隠したんですか? なぜ、二年前に行方をくらましてから電話もなかったと嘘をついたんですか?」
岸川は追及した。
「事件に巻き込まれたくなかったからですわ」
郁美が答えた。「主人は今、幼い女の子に悪戯《いたずら》をしようとしたという疑いをかけられ、酷《ひど》い目に遭っています。週刊誌やテレビで根も葉もないことを言い触らされて。ご存じですか?」
知っている、と岸川は答えた。
「でしたら、わかっていただけるんじゃないでしょうか。こんなとき、主人が須ノ崎さんと友達だなどと知られたら、どうなるでしょう。あっという間に犯人あつかいされてしまいます。それで、須ノ崎さんがここに見えたことは誰にも話さないほうがいいと主人が申し、わたしもそのとおりだと思ったんです」
郁美は桐原からどこまで聞いて知っているのだろうか。須ノ崎の殺された晩の行動について、ありのままを聞いているとは思えないが……。
といって、その夜、桐原の車が須ノ崎の死体発見現場付近で目撃されていた事実を彼女にぶつけ、反応を見たところで、たいした益はないだろう。
岸川はそう考えると、郁美に礼を言って、玄関を出た。
彼の頭には、これから会わなければならない人間が浮かんでいた。
門の外へ出て、歩き出すと、
「やっと、桐原が須ノ崎と接触していた事実がつかめましたね」
浦部が興奮ぎみに話しかけてきた。
うん、と岸川は前を向いたままうなずいた。
「桐原は、この二年間須ノ崎とまったく会っていないと嘘をついていたわけですから、これで、言い逃れができないでしょう」
「そう願いたいが……」
確かに、一つの有力な駒は手に入った。しかし、これだけで落とせるかどうかはまだわからない。
「あ、部長、バス停は反対です」
岸川が丁字路を左へ曲がろうとすると、浦部が言った。
本駒込から江北署へ帰るには、田端駅、江北橋と通って行くバスが便利なのだ。
「わかっているよ」
「署へは帰らないんですか?」
「もちろん帰るさ。ただし、駒込から電車に乗って、青梅回りでね」
「えっ?」
浦部が岸川の顔に問うような目を向けたが、すぐにわかったらしく、「あ、そうか、松尾ですか」と言った。
「ああ」
「須ノ崎は、先月二十二日に桐原の家を訪ね、その二日後……二十四日に松尾に電話をかけ、翌二十五日の日曜日に松尾と会っている。だったら、当然、須ノ崎は桐原と会ったときの話を松尾にしているはずだ。そういうわけですね?」
「話しているはずだ……というより、須ノ崎はそれを話すために松尾に電話をかけ、立川まで出向いて行ったんじゃないかと思う」
「そうか……」
「ところが、松尾は、須ノ崎の葬儀のとき、桐原と館岡に、須ノ崎に会った話さえしなかった。そして、おれの問い合わせには、言いそびれたのだと明らかに嘘をついた」
「つまり、松尾は何か重大な事実を知っていながら隠している可能性が高い――」
「おれはそう思う」
岸川が応えたとき、さっき桐原家に探りの電話をかけた公衆電話のそばまで来た。
岸川は、桐原香織の話から須ノ崎が桐原家を訪ねていた事実が判明した旨、荒井警部に報告の電話を入れ、同時に青梅行きの許可をもらった。
青梅まで行っても、松尾が不在なら無駄足になるが、不意を襲ったほうがいいだろうと判断し、彼には電話しなかった。
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第七章[#「第七章」はゴシック体] 確 証
1
土曜、日曜は何とかもちこたえたのに、一昨日月曜日から雷をともなった激しい雨が断続的に降っていた。この雨が上がると、たぶん梅雨が明けるのだろう。
松尾がたまに電車に乗って出かけようとすると、雨が降る。いや、単にそう感じるだけで、降っていないときは天気のことなど忘れていて、降られたときだけ何だ、また雨か≠ニ思うのかもしれないが。
いずれにしても、雨の日に、しかも夕方、都内へなど出かけたくない。青梅線は雨に弱く、すぐにストップするし。
といって、よほどの豪雨か台風でもないかぎり、雨が降っているからという理由で仕事の約束を変更するわけにはゆかなかった。相手がたとえ友人であっても。
少し小降りになったか……と思っていたら、松尾が出かける直前になってまたアパートのトタン屋根が激しく鳴り出した。
しかし、ぐずぐずしていたら遅れるので、松尾は仕方なく部屋を出ると、腕やズボンが濡《ぬ》れるのもかまわずに青梅駅まで急ぎ、中央線直通の快速東京行きに乗った。
快速電車とは名ばかりで、青梅線内はもとより、立川で中央線に入ってからも、松尾の行き先である中野までは各駅停車。一時間十分前後かかる。今日は読みかけの『不思議な少年』をたっぷり読めるので文句はないが、面白い本がないときは退屈する。
『不思議な少年』はマーク・トウェーンの遺稿で、天使を自称するサタンという名の美少年が登場する。舞台は十六世紀末のオーストリア。全体がペシミズムとニヒリズムに彩られ、表紙の名前を見なければ、『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』と同じ作者が書いたものとは到底思えないだろう。ただ、暗いが、不思議な魅力のある小説だった。
百九十ページの文庫本の約四十ページを読み残したところで、電車は中野に着いた。残念だが、あとは帰りの楽しみにして、松尾は本を閉じ、腰を上げた。
改札口を出たところで時刻を確認すると、六時二十五分。桐原が三恵出版社へ来るのは七時の約束なので、ちょうどいい。
桐原が松尾に電話をかけてきたのは四日前、七月十五日(土曜日)の夜だった。関西遊説から帰ったところだという九時過ぎ。不意にアパートを尋ねてきて、松尾に対して執拗《しつよう》に尋問を繰り返した岸川、浦部両刑事が帰って三十分ほどした頃である。桐原は、『政道―わが半生の記』の体裁について新たに考えたことがあるので早急に三津田社長を交えた三人で相談したい、というのだった。
それなら、まだ原稿の執筆にもかかっていないのだから、脱稿の目処《めど》がたった頃でいいのではないか、と松尾は応《こた》えた。しかし、桐原はなぜかせっかちに、できるだけ早く松尾と三津田に自分の考えを話し、二人の意見を聞きたい、という。そこで、松尾が三津田に電話をかけ、今夜七時に三恵出版社で会うことになったのである。
駅舎を出ると、雨は小降りになっていた。が、道路の端にゴミの流れた跡があるから、こちらも相当降ったらしい。
すぼめた傘を手にしている者もいたが、松尾は傘を差して道路を渡り、いつ来ても自転車でいっぱいの歩道を歩き出した。
早急に会いたいと言ってきた桐原の様子が気になってくる。須ノ崎が、殺される五日前に松尾にした話と重なって。
須ノ崎の話は、桐原に関わっているとはいえ、電話とは何の関係もないはずである。桐原の電話は仕事の話だったのだから。もし桐原が仕事にかこつけて松尾と会い、松尾の様子や腹の内を探りたかったのなら、三津田も交えて≠ニは言わなかっただろうし。
そう思いながらも、両者は一緒になって松尾の意識に引っ掛かっているのである。
それは、四日前の夜、アパートを尋ねてきた岸川たちのせいだと思われる。警察が桐原を疑っていることは、先々週の金曜日に館岡から聞いていたが、疑いの程度がはっきりしなかった。それが、重要容疑者と見ているらしいとわかったのだ。
岸川たちは、須ノ崎が松尾に会う前に桐原宅を訪ねた事実をつかんだらしい。そのことで須ノ崎が松尾に何か話さなかったか……話したにちがいない、と松尾を追及してきたのだった。
松尾としては、須ノ崎の言った桐原に関わる重大な疑惑≠警察に明かすわけにはゆかないから、
――ちょっと桐原と会ってきたと言っていたが、それ以上の話は聞いていない。自分の場合と同じように、べつにこれといった用事もなく訪ねたのではないか。
と、答えた。
すると、岸川は疑わしげな目をして睨《にら》み、何も話していないとは考えられない、と言った。
刑事さんが考えられなくても、事実だからどうしようもない、松尾はそう答えた。
では、須ノ崎さんが桐原氏と会った事実を、あんたはなぜ我々に隠したのか? 隠したわけではない、事件に関係ないと思ったので話さなかっただけだ。いや、あんたは故意に隠した、須ノ崎さんは桐原氏と会ったときのことを話すためにあんたに会いたいと言ってきたのではないのか? 違う、そんなことはない。とにかく須ノ崎さんはあんたに何か話しているはずだ、須ノ崎さんが友達だったのなら捜査に協力してほしい。わたしは協力しているつもりだ。どうか本当のことを話してほしい。わたしは本当のことを話している。それなら、須ノ崎さんの葬儀で桐原氏、館岡氏と会ったとき、なぜ須ノ崎さんに会った話を彼らにしなかったのか、不自然ではないか。この前、電話で答えたように、何となく言いそびれたのだ。そんな話は信じられない、須ノ崎さんから何も聞いていなかったのなら、隠す必要はなかったはずだ。何度も言っているように、べつに隠したわけではない。どうか事実を話してほしい。わたしはさっきから事実を話している。………
岸川とはこんなやり取りの繰り返しがあり、彼らは苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔をし、目に怒りの色を浮かべて帰って行った。
その後、松尾はすぐには仕事に戻る気になれず、桐原に関わる重大な疑惑≠、さらには須ノ崎が別れ際に言った「おれが調べて証明して見せる」という言葉を、あらためて思い浮かべていた。そこへ、桐原から、できれば来週中にも会いたい、という電話がかかってきた。そのため、互いに関わりがないはずの桐原に関する二つの事柄が松尾の中で重なってしまったようなのである。
松尾は坂を登り、左の道へ入った。
大きな住宅に挟まれた閑静な通りを歩いて行った。
間もなく、左手前方に三恵出版社の倉庫のような建物が見えてきた。
松尾は傘を後ろに傾け、二階の窓を見やる。
片側が少し開いていた。晴れていれば中に灯《あか》りが点《つ》いているかどうかまだわからないが、今日は窓が外の光より明るかった。
事務員の桑山由季は定時の五時半になると帰ってしまうが、水谷はたいがい七時ぐらいまで仕事をしているようだし、忙しいときは十時、十一時まで残っていることも珍しくないらしい。だから、この時間なら、三津田だけでなく、水谷もいるだろう。
そう思いながら、松尾は三津田の自宅前を過ぎ、建物の外側に付いた階段を上った。
傘をすぼめて、外に置かれた傘立てに入れ、ドアを開ける。想像したとおり、三津田と水谷がそれぞれの机に向かっていた。
松尾が「今晩は」と声をかけて近寄って行くより早く、一番奥の机から三津田が灰白色の山羊鬚《やぎひげ》を生やした顔を上げ、その前の机に背筋をぴんと伸ばして座っていた水谷も椅子を回した。
「ご苦労さん」
と、三津田が言い、
「雨の中、わざわざ出てくるのは億劫《おつくう》だったんじゃないですか」
水谷が笑いかけた。
いつ見ても、息の合った二人という感じがする。
「奥多摩のほうは、雨、どう?」
三津田が訊《き》いた。
「いちじは雷が鳴り、バケツの底が抜けたみたいでしたが、ぼくが出てくる頃は、ざーっときたかと思うと小止《こや》みになったり……という感じです」
松尾は答えた。
「こっちも、雷こそ鳴らないが、ついさっきまでもの凄《すご》い降りだった。これじゃ、松尾君が駅から来る間にびしょ濡れになってしまうんじゃないかと水谷君と心配していたところなんだ。そうしたら、ちょうどうまい具合に小止みになってね」
「そうですか。駅を出たとき、ゴミを流した跡がありましたから、こっちもかなり降ったんだなとは思ったんですが……」
「桐原さんは今日も車かな?」
「そうだと思います」
この前、新宿のホテルで三人で会ったときも桐原は車で来たのだった。
「七時までまだ二十分ほどあるし、しばらく休んでいて」
三津田に言われ、松尾は応接セットのソファに腰を下ろし、テーブルに置いてあった夕刊を取った。
一面、社会面と見たが、これといったニュースはないようだ。文化面を開くと、「最近の縄文学」という見出しが目に映った。松尾は思わずなわ・ぶんがく≠ニ読んでから、なんだじょうもん・がく≠ゥ、と読みなおした。
彼が、名前だけは知っている考古学者のその一文を読んでいると、背後から、「じゃ、わたしは先に……」と水谷の言うのが聞こえた。
「なんだ、帰るの?」
三津田がどこか不満げな、意外そうな声を出した。
「もうじき七時だから」
「編集担当者のあんたも一緒にいてくれたほうがいいんだけどね。本の体裁の話だそうだし」
「桐原さんが社長と松尾さんと話したいと言っているのに、余計な人間が顔を出して、気を悪くされたらいけない」
「そんなことはない。桐原さんには、きみのことも言ってあるから」
桐原は、ゴーストライターに原稿の代筆を依頼した件を知られたくないと思っていた。マスコミ関係者はもとより政友党内の人間にも。そこで、三津田が、出版経緯を知る者として自分と松尾と他に水谷と桑山由季の名を挙げ、社外へは絶対に漏らさない、と約束したのだ。
「でも、雨も小止みになったところだし……」
「だったら、もうじき見えると思うから、会うだけ会って行けばいいじゃないか。顔ぐらい見てから帰ればいい」
「そりゃ、桐原さんは有名人だから、一度、ご尊顔を拝したいと思わないでもないが、とにかく今夜は遠慮しておくよ」
「そうか、きみがそう言うんなら、無理にとは言わないが……」
そんな友達同士のようなやり取りがあり、水谷が立ち上がって、ロッカーのほうへ歩いて行った。
松尾が考古学者の一文を読み終えたとき、帰り支度をした水谷がソファの横に来て立ち、
「それじゃ、松尾さん、お先に……」
にこにこと笑いかけた。
「お疲れさまでした」
松尾は新聞を畳みながら挨拶《あいさつ》を返した。
水谷は出社後はサンダルを履いているが、今はスニーカーだ。それに、永年愛用していた革の擦り切れたショルダーバッグから最近替えたらしい深緑色のデイパック。
ぴんと伸びた背中にデイパックを付けた水谷の姿がドアから消えると、
「水谷君は身体も気持ちも若いな」
三津田が羨望《せんぼう》の交じったような声で言った。
2
水谷が帰って三十分近く経った頃、桐原がやってきた。
七時を十七、八分過ぎていた。
松尾がファックスで送った地図がわかりにくかったのか、近くまで来てから車でぐるぐる回ってしまったのだという。
三津田が湯を沸かして茶を淹《い》れている間、松尾は、前に掛けた桐原と二人だけだったが、須ノ崎の事件については話らしい話をしなかった。
――その後、何か新しい話を耳にしていないか?
――おれは何も聞いていないが、松尾は?
――おれも聞いていない。
これで終わりだった。
もちろん松尾は聞いていたが、桐原に話すわけにはゆかない。桐原のほうからもっと探りを入れてくるのではないかと予想していたので、松尾はちょっと拍子抜けした。もしかしたら、桐原は三津田の耳を気にして、その話題を避けたのかもしれない。
それにしても、桐原はいつになく緊張しているように感じられた。松尾の思い過ごしかもしれないが、先月、二人で会って話したときとも、三津田に引き合わせたときとも、どことなく様子が違う。
三津田が松尾の横に来て、腰を下ろした。どうぞ、と桐原に茶を勧めてから、用件に入った。
「御著書の体裁に関して、何か考えられたことがあるとか……?」
桐原が、いつも持ち歩いているらしい厚くふくらんだ革鞄《かわかばん》から一冊の本を取り出した。それを、三津田と松尾の前に置いて、言った。
「できれば、この本と同じ判型にし、中の体裁も同じようなものにしてほしいんです」
何でもない動作であり、言葉である。が、そこにも、どこがどうとうまく説明できないが、緊張が感じられた。
なぜだろうと松尾が考えている間もなく、三津田が本を手に取った。松尾にも見やすいように持ち、表紙を眺め、それから本文を繰っていった。
それは、難病の筋ジストロフィーと闘いながら絵を描きつづけている十六歳の少女について書かれた本だった。題名は『あゆみの未来』。四六判でも菊判でもなく、四六判の横を少し長くした、正方形に近い変形判だった。全ページ厚い上質紙で、ページ数は百二十余り。中には、少女の描いた絵と、少女が家族や友達と一緒に撮った写真が沢山載っていた。絵はすべてカラーだが、写真はカラーとモノクロと二通りあった。
「先日、関西へ出張したとき、偶然書店で目にした本ですが、作りがとても気に入ったんです」
桐原が説明を加えた。「それで、帰りがけに購入し、新幹線の中で見ているうちに、『政道……』も写真をふんだんに入れ、ビジュアルにすれば、手に取って見てくれる人が増えるのでないか、と思ったんです。ぱらぱらとでも見てくれる人が増えれば、当然、文章だって読んでくれる人が増えるはずです。そう考えて、同じような体裁が可能かどうか、社長と松尾君に相談してみようと……。いかがでしょう?」
「確かに、文章中心の本よりは手に取ってもらえるでしょうし、良い案かと思われます。今の段階でしたら、どんな体裁でも可能ですし」
三津田が答えた。
が、彼はすぐに、「ただ、問題は製作費なんです」と付け加えた。小さな出版社としては製作費がふくらむのは困るのだ、といったニュアンスで。
「製作費が増えるわけですね?」
「ええ」
「では、その増加した分はわたしが負担する、ということでどうでしょう?」
「しかし、御著書は自費出版ではありませんので……」
「自費出版でなくても、わたしの案を通していただけるなら、かまいません」
「でしたら、わたしどもには何の異存もございません」
「じゃ、この体裁でお願いできる?」
「ええ」
「よかった……」
桐原が、いかにも嬉《うれ》しい、ほっとしたといった顔をした。初めの緊張は薄れていたが、何となく演技の臭いが感じられた。
「それじゃ、増加する分の費用を算定して、請求書を送ってください。代筆料などを精算するときに一緒に支払いますから」
「承知しました」
「それで、『政道……』に使用する写真ですが」
と、桐原が話を進めた。「これからアルバムを繰って選ぶつもりですが、いつまでに用意したらいいでしょう?」
「松尾君が原稿を書き上げるまでに揃えばいいですから、来月二十日頃までに用意していただければ結構です」
三津田が答えた。
「わかりました」
「ああ、お写真を選ばれるとき、〈どうしても載せたい写真〉〈できれば載せたい写真〉というように分けておいていただけると編集作業がやりやすいんですが」
「そうしておきます。あとのことは、この前伺ったお話と変わりませんか?」
「だいたい同じですが、写真を沢山入れるとなると、レイアウトを細かく考える必要があります。どの写真をどういう大きさ、形で、どこに配するか、カラーにするかモノクロにするか、といったことです。わたしと水谷君で原案を作った段階でもう一度桐原さんにお会いし、ご意見とご希望を伺いたいと思いますが、いかがでしょう?」
「結構です」
と、桐原が答え、これでいっそう素晴らしい本ができそうですと笑った。
今度も、どこか取って付けたような笑いだった。
「それじゃ、この本はお返ししておきます」
三津田が『あゆみの未来』を閉じ、差し出した。
「もう一冊、後で買いましたから、それはこちらに置いて行きます」
桐原が応《こた》えて、ちらっと腕時計を見た。もう用件は済んだというように。
先週の土曜日の夜、桐原はこれだけの話をするために、早急に三人で会って相談したいと言ってきたのか、と松尾は訝《いぶか》った。
確かに、話は、彼が言ったように新しく考えた本の体裁に関わる件だった。しかし、それほど急いで会う必要があったとは思えなかった。希望を松尾に電話で話し、製作費の増加分については自分が負担するから三津田と相談しておいてくれ、と言えば済む用件だった。それなのに、桐原は、三恵出版社まで出向いてもいいから来週中にも会いたい、と言ったのである。
どういうことだろう、と松尾は思う。桐原の狙いはやはり別にあったのだろうか。そのために緊張していたのだろうか。では、別の狙いとは何か? おれに会って、須ノ崎からどこまで話を聞いているかを探りたかったのか。その場合、二人で会おうと言えば目的を見破られるおそれがあるので、三津田と三人で、と言った……。いや、そう考えてもおかしい。さっき、おれと二人だけで話す機会があったのに、桐原は須ノ崎に関する話題をむしろ避けているふうだったのだから。
松尾が頭の中で自問自答していると、桐原がもう一度時計を見た。
「それじゃ、わたしはこれから行くところがありますので、失礼します」
「そうですか。わざわざおいでいただき、ありがとうございました」
三津田が頭を下げた。
桐原が立ち上がったので、三津田と松尾も一緒に腰を上げる。
「ここで結構です。じゃ、松尾、また……」
と、桐原が松尾に小さく手を上げた。
「うん、ご苦労さん」
松尾は答える。
が、このまま別れてしまったのでは何もわからないではないか、と咄嗟《とつさ》に思い返し、
「あ、そうだ、桐原」
と、呼びかけた。
桐原が問うような目を向けた。
「おれも帰るから、途中まで乗せて行ってくれないか」
桐原の顔に一瞬、戸惑ったような表情が浮かんだ。
だが、彼はそれを隠すように、
「ああ、いいよ」
と答えた。「ただ、寄るところがあるので、あまり遠くまでは行けないんだが……」
「中野駅まででいい」
松尾は言うと、それじゃ、ぼくも失礼します、と三津田に挨拶した。
雨はさっきよりさらに小降りになり、傘を差さなくても平気だった。
松尾は桐原の後から階段を降りた。
桐原の白いジュピターは、倉庫の前に駐められていた。
松尾は、桐原に促されて助手席に乗り込んだ。
「中野じゃ、すぐだから、荻窪《おぎくぼ》ぐらいまで行こうか?」
桐原がシートベルトを締めてから訊いた。
「時間、いいのか?」
松尾は桐原のほうへ顔を向けた。
「それぐらいなら、かまわない」
「でも、電車はどっちで乗ったってたいして違わないから、中野でいいよ」
「そうか」
「ただ、時間があるんなら、ちょっと話さないか」
「近くに適当な喫茶店かレストランでもあるか?」
「よくわからない。駐車場を探すのが面倒なら、車の中でもいい」
「じゃ、そうしよう。ただ、三津田さんに変に思われるといけないから、別の場所へ移動する」
桐原は言うと、車を発進させた。
賑《にぎ》やかな通りには出ないで、住宅街の道を選んでゆっくりと走らせる。
六、七分走ると、学校のフェンスの横に出た。小学校のようだ。
「ここなら、邪魔にならないな」
桐原が言いながら、門扉の閉じた正門前の空間へ車を入れ、停めた。
ヘッドライトを消す。クーラーが入っているので、エンジンは掛けたままだ。
「須ノ崎の件だが……警察はまだ犯人に結び付くような手掛かりをつかめないんだろうか」
松尾は早速、話を切り出した。
「さあ、わからない」
と、桐原が松尾のほうを見ずに首をかしげた。
鼻の大きな彫りの深い顔だ。街灯の明かりが窓から入ってきているものの、細かな表情までは読めない。
「館岡から刑事が来たと電話があったが、きみのところへは?」
松尾は訊《き》いた。
「来た」
「なんて……?」
「特に何ということはない。葬儀に顔を出したので、須ノ崎との関わりや彼の交友関係について訊きにきたらしい」
桐原は惚《とぼ》け通すつもりのようだ。
松尾がそう思って、黙っていると、
「きみと館岡のところへも、同じようなことを訊きに行ったわけだろう?」
桐原が今度は松尾のほうへ顔を向けた。
「館岡のところはそうらしいが、おれのところは違う」
松尾は答えた。須ノ崎に会った事実をぶつけてみよう、と心を決めた。そうしないかぎり、これ以上、桐原の腹の内を探る方法がなさそうだったからだ。
「きみのところは違う?」
桐原が大きな目をぎょろりと回し、訝るような声を出した。
――須ノ崎の身元が判明した経緯を本当に刑事に聞いていないのだろうか。
その可能性もないではないと思っていたが、自分に追及されるのをおそれて知らないふりをしている可能性のほうが高いだろう、と松尾は考えていたのだった。
「きみは、荒川河川敷で死体になって見つかった男の身元がどうして須ノ崎だと判明したのか、聞いていないのか?」
松尾が質《ただ》すと、いないと桐原が答えた。嘘をついている感じではない。
「そうか! もしかしたら、松尾、きみが……?」
桐原が思い至ったらしく、松尾のほうへ上体を乗り出した。
「ああ」
と、松尾は答えた。「おれが、刑事に死体の写真を見せられて確認した」
「刑事は、どうしてきみのところへ?」
声にかすかに狼狽《ろうばい》の響きがあった。
「須ノ崎がおれの名刺を持っていた」
「なぜ、須ノ崎がきみの名刺を持っていたんだ?」
「彼が殺される五日前に会ったからだ」
「五日前に会った? だが、きみは、須ノ崎からはずっと音沙汰《おとさた》がないと……」
「きみが嘘をついたので、おれも嘘をついた」
桐原が松尾から目を逸《そ》らした。
「須ノ崎に聞いたよ。彼がきみの家を訪ねたことを」
松尾はつづけた。
桐原は否定しても無駄だとわかったのだろう、顔を前に向けて、「そうか」と応じた。
そのとき、急に雨が屋根を叩き出した。流れ落ちる水がフロントガラスに膜を作り、街灯の光をにじませた。
「須ノ崎が抱いていた、きみに関する疑惑も聞いた」
雨の音に負けないように松尾は少し声を高めた。
桐原は何も応えなかった。
「須ノ崎の想像したことは当たっていたのか?」
「当たっているもいないも、おれには、須ノ崎が何を言っているのか、まったく理解できなかった」
桐原が松尾に目を戻した。
確かに、須ノ崎も松尾にそう言った。須ノ崎としては、桐原の前で松尾の事件について触れるわけにはゆかないので、遠回しに疑惑を口にすると、桐原がそう応じた、と。
「須ノ崎は何か思い違いをしていたんだと思う」
桐原がつづけた。
「ということは、きみには何も疚《やま》しい点はない?」
「もちろんさ」
「だったら、須ノ崎がきみの家を訪ねた事実を、なぜおれと館岡に隠した? どうして、おれたちに嘘をついた?」
「きみらに嘘をついたのは悪かったが、きちんと事情を説明するのが面倒だったんだ」
「警察にも話さなかっただろう?」
「ああ」
「なぜだ?」
「警察に話せば、痛くもない腹を探られて、それこそ面倒じゃないか」
「探られたって、何もなければ疑いはすぐに晴れる」
「きみは冤罪《えんざい》をかけられた経験がないから、そんな呑気《のんき》なことを言っていられるんだよ。でも、おれはさんざんな目に遭っているんだ。ごたごたに巻き込まれるのはもう沢山さ」
松尾は、桐原の言葉をそのまま信じるわけにはゆかなかった。なぜなら、須ノ崎はただ単に昔の友人を訪ねたわけではない。友人に関する重大な疑惑≠相手にぶつけていたのだから。そして、その疑惑の正しさを証明しようとしていたとき、殺されたのだから。
しかし、松尾がそう言って問い詰めたところで、桐原は適当な理由を口にして逃げるだけだろう。
「そろそろ行きたいんだが、いいか?」
松尾が有効な追及の方法はないかと考えていると、桐原が言った。
松尾としてはこのまま別れてしまうのは心残りだったが、どうにもならない。
桐原が松尾の返事を待たずにヘッドライトを点《つ》け、ワイパーを作動させた。
雨脚はまた少し弱まっていた。
桐原がギアを後退のポジションに入れ、サイドブレーキに手をやった。
「そうだ、最後に一つだけ教えてくれないか」
松尾は気になっていたことを訊いておこうと思い、言った。
「何だい?」
桐原がブレーキから手を離して、松尾のほうへ顔を向けた。
「きみは、今夜、何のためにおれと三津田社長に会おうとしたんだ?」
「な、何のためって……」
桐原が狼狽の色を見せた。明らかに。
ということは、彼にとって予想外の、しかも触れられたくない質問だったらしい。
だが、彼はそれを誤魔化すように、当然じゃないかといった口振りで答えた。
「もちろん、さっき、きみと三津田社長に言ったとおりさ」
「でも、あれだけなら急いで会う必要などなかった。おれがきみに聞いて社長に相談し、返事をすれば済む話だった。会うにしても、それからで充分だった」
「そうかもしれないが、おれは少しでも早くはっきりさせたかったんだ」
「いや、きみは何かを隠している」
松尾は断定してみた[#「みた」に傍点]。
「おれは何も隠してなんかいない! いくら友達でも、人をそんなふうに疑うのは失礼じゃないか」
桐原が怒った。
「気に障ったら、謝る。だが……」
「じゃ、行くぞ」
桐原は松尾の言葉を遮ると、ブレーキを解いた。一旦《いつたん》バックして道路へ出てから、勢いよく発進した。松尾の質問から逃げるかのように。
同じ話を蒸し返しても、益がなさそうだったので、松尾は黙っていた。
五分ほどで中野駅に着き、松尾は礼を言ってジュピターを降りた。
切符を買って自動改札口を入りながら、桐原は明らかに狼狽した、と思う。今夜、何のためにおれと三津田社長に会おうとしたのか?≠ニ松尾が問うたとき。
あのような反応を示したということは、桐原は、彼が答えたような目的で松尾と三津田に会おうとしたわけではない――。それは確実だと思われる。では、何のためだったのか? 前に考えたように、松尾の様子を探るためでもないようだし。
あとは、三津田に会いたかった≠ニいう答えしか残っていない。
しかし、そう考えてもわからなかった。桐原は、なぜ三津田と会いたかったのか。しかも急いで。
かつて、三津田は桐原に関心を持っていたことがある。松尾が三津田と知り合った頃だから、十年以上前だ。その後、三津田にそうした様子は見られないが、表に出さなくなっただけ、と考えられなくもない。
もしそうなら、三津田と桐原の間には何らかの関わりがあった可能性が出てくる。そして、今度の桐原の行動もそこに関係していた可能性が。
しかし、二人の間にいかなる関わりがあったというのか。そんなものがあったとは思えないが……。
松尾はわけがわからず、首をひねりながら階段を上って行った。
3
桐原が松尾と三津田に会った十九日以後も雨は断続的に降りつづいたが、二十三日の日曜日は一転して朝から青空が広がった。
気象庁は梅雨明けを宣言し、照りつける太陽によって気温はぐんぐん上昇……午前十一時には東京で三十度を越えた、とカーラジオのニュースが伝えた。
桐原は、女子大時代のクラス会に出席する郁美を赤坂のホテルまで送った後、目当てのビルの地下駐車場にジュピターを入れ、レストランで軽い昼食を摂《と》った。
香織は朝から図書館へ出かけていたし、政弘は弁当持参でサッカーの練習に行っていたから、家へ帰っても誰もいない。
といって、桐原はそれで寄り道をしたわけではない。ビルのロビーにある電話を使いたかったからだ。いや、自宅から離れた場所の電話を使いたかったので郁美を車で送った、と言ったほうが正確かもしれない。
郁美は、クラス会に出席の返事を出しておいたものの、ずっと迷っていたようだ。理由は、桐原が巻き込まれた幼女に悪戯《いたずら》をしようとしたという冤罪事件である。郁美がそう言ったわけではないが、桐原にはわかりすぎるほどわかっていた。
これまで、郁美は、クラス会に出るととても嬉しそうな顔をして帰ってきた。三十代で東央大学教授になった著名な国際政治学者の妻として、いわゆる大きな顔≠ェできたかららしい。ところが、今度はこれまで羨《うらや》まれた分、より辛《つら》い立場に立たざるをえなくなったのである。出席すれば――しなくても同じかもしれないが――友人たちの格好の餌食《えじき》にされるのは間違いない。口では何と言おうと、一様に疑いと好奇心と喜びを隠しきれないような顔をした……。たぶん、そうした光景が目に見えるように想像できたからだろう、郁美は出席をためらっていたのだった。
また、これはクラス会への出席を郁美に躊躇《ちゆうちよ》させた直接の理由ではないが、彼女をその気分にさせなかった事情がある。須ノ崎が桐原宅を訪れていた事実をつかんだ警察によって、二十日の朝、桐原は再度警察に呼ばれたのだ。
桐原は、天地神明にかけて自分は須ノ崎の事件とは関係ない、信じてくれ、と郁美に言った。それに対し、郁美は、もちろん信じていると答えた。その言葉に嘘はないと思う。それでいて、彼女の胸には、自分でもどうにもならない恐怖があるようだ。桐原に対する疑心というより、もし、夫が犯人だったら……≠ニいう不安、惧《おそ》れが。
そのため、とてもクラス会に行く気分にはなれなかったらしい。
桐原は、そうした郁美の心の内がわかったので、
――気分転換に行ってこい。
と、勧めた。ぼくは何一つ悪いことをしていない、だから、きみは堂々と出席し、これまでと同じように振舞ってきたらいいじゃないか、と。
この桐原の言葉によって、郁美は今朝、ようやく行く気になったのだった。
桐原が郁美に言ったことは嘘ではない。「幼女悪戯事件」は濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だし、彼は須ノ崎を殺してもいない。ただ、須ノ崎が尋ねてきた用件を隠しているだけである。
そのため、二十日の「海の日」の朝、再び警察に呼ばれて尋問された後も、彼は郁美ほどには恐れていなかった。
警察では、当然、須ノ崎の訪問の事実を隠した点を追及された。前回は応接室だったが、今度は窓に鉄格子の嵌《は》まった取調室で。
桐原は、そうでなくても疑われているのに、須ノ崎がうちへ来たなどと話せばいっそう疑われるから、それを避けるためについ嘘をついてしまった≠ニ、松尾に言ったのと同じ理由を述べた。余計なお手数をかけ、申し訳ありませんでした、と謝った。
荒井、岸川といった刑事たちは、信用できない、本当のことを話せ、と声を荒らげたが、桐原は今度こそ本当だと繰り返した。実際にそれは本当だったし。
荒井たちは、桐原を崩せないと見るや、彼が前に口にした誰かの謀略≠ニいう言葉を取り上げ、
――それは、六月三十日の夜、扇大橋のそばへ行ったという事実を認めるということですね?
と、追及してきた。
桐原は、前回はノーコメント≠ナ逃げたが、今回は認めない≠ニ答えた。警察には、その晩桐原のジュピターのナンバーを通報した人間を特定できないのが明らかだったから。
――認めない? それでは誰かの謀略というのはどういう意味ですか?
――わたしが行ってもいない場所で、わたしの車に泥水をはねかけられた、などと出鱈目《でたらめ》な通報をした人間がいたからです。
――だったら、誰がどういう理由であなたに罪を被せようと謀ったのか、詳しく説明してください。
自分が次の総選挙で政友党から立候補する予定なのを知って、イメージダウンを狙ったのだろうが、誰がやったのかはわからない、と桐原は答えた。当然ながら、市橋洋子の父親に関しては一切触れなかった。
警察に何度調べられようと、その点に触れないかぎり、桐原は安全と言えた。桐原に須ノ崎を殺害する動機があったことは、刑事たちには絶対に想像がつかないだろうから。また、動機はあっても、彼は須ノ崎を殺していない。だから、殺した証拠が出てくることはありえない。
というわけで、桐原は、マスコミが嗅《か》ぎつけてまた騒ぎ出したらと心配していたものの――警察もその点は充分に用心しているように見えた――警察の捜査そのものはそれほど恐れていなかったのだった。
桐原がもっとも恐れ、警戒しているのは、須ノ崎を殺した犯人と思われる市橋洋子の父親である。
彼が、今後どう出るか――
これだけは楽観できない。
出方によっては、桐原は破滅しかねない。
だから、彼は、相手に先制攻撃を仕掛けるために、その正体≠突き止めようと動いてきたのである。
八日前、彼は、関西遊説から舞鶴へ回った帰り、
――市橋洋子の父親は、三恵出版社社長の三津田恵一ではないか。
という推理に行きついた。
二人の年齢、容姿などの符合もあるが、洋子の父親の電話≠ェこの推理の一つの根拠になっていた。
桐原が「半生の記」の代筆について松尾に相談の電話をかけたのは六月十日頃。それから一週間余りして――この間に桐原の件は松尾から三津田に伝えられたはずである――市橋洋子の父親から桐原に二度目の電話がかかってきた。このとき、五月十二日の初めの電話と違い、口に何かを当てて話しているような声に変わっていた。これは、桐原と顔を合わせる可能性が生まれたので声を作った、と考えられた。
しかしながら、その疑いのもとに、四日前、松尾を交えた三人で会っても、三津田が洋子の父親だという証拠をつかむには至らなかった。三津田の声と話し方が電話で聞いた洋子の父親の声と話し方に似ていないかと、注意して聞いていたのだが、はっきりしなかったのだ。洋子の父親の声といっても、二度目の電話と桐原が相手の携帯電話にかけて話したときの声は作られていたから、手掛かりは五月の最初の電話のみ。そのときの桐原の記憶が曖昧《あいまい》だったのだから――個人差はあるが、概して聴覚的な記憶は視覚的な記憶に比べて弱く曖昧なものらしい――当然の結果かもしれないが。
ただ、四日前に三恵出版社で交わした会話は、革鞄に忍ばせておいたマイクロカセットレコーダーに録音されている。だから、今後、洋子の父親から電話がかかってくれば、その声を録音し、声紋鑑定ができる。二つの会話の他人に聞かれても怪しまれない部分を別のテープに再録し、知り合いの音声学研究者に依頼するのだ。たとえ一方が作られた声であっても、確度は落ちるが声紋鑑定は可能らしいから。
しかし、洋子の父親は、桐原に電話をかけてよこさずに新たな行動に出る可能性があった。先月十九日の夜自分の考えているようにする≠ニ言い、その後、何の予告もなしに須ノ崎を殺したように。
洋子の父親が須ノ崎を殺した犯人なら、松尾と館岡も須ノ崎と同罪であることを知っているにちがいない。とすれば、彼は二人も殺そうと狙っている可能性が高い。須ノ崎のときと同様に、桐原に罪を被せる工作をして。
二人のどちらかが殺された後では、桐原は警察の追及を振り切るのが難しくなる。いくら無実だと叫んでも、彼は犯人の奸計《かんけい》を明かすわけにはゆかないのだから。
洋子の父親による第二または第三の殺人が失敗しても、桐原にとっては同じようなものである。警察に捕えられた洋子の父親は、彼の知っている事実をすべて吐き出すだろうから。
洋子の父親が三津田の場合、危険はそれにとどまらない。明日にも松尾との間に何らかの闘い≠ェ起きる可能性がある。松尾が三津田の意図を察知するか、三津田が松尾に真相を暗示するか、して。その場合も、やはり、桐原の過去は白日のもとに晒《さら》される結果になるだろう。
つまり、どう転んでも、洋子の父親が生きているかぎり桐原の危険は消えないし、軽減もされないのである。
となれば、結論は一つ。先制攻撃をかけて、洋子の父親をこの世から消してしまう以外にない。
そう考えて、桐原はここ数日、こちらの動きを相手に察知されずに、しかも早急に洋子の父親が三津田だという証拠をつかむ方法はないか、と頭をひねってきた。そして、
――三津田恵一を名乗って舞鶴の市橋清三郎に電話したら、どうか。
と、思い至ったのだった。
市橋清三郎に電話をするといっても、かつて時子と結婚していた男の姓を尋ねるわけではない。こちらから「三津田ですが……」と名乗り、相手の反応を見るのである。
七十歳前後と思われる市橋清三郎が、四十年も前に妹が結婚していた相手の姓を憶《おぼ》えている確率は、それほど高くない。だから、この方法によって三津田が洋子の父親か否かを突き止められる可能性は五割ぐらいかもしれない。
また、この方法には、危険も付きまとっている。三津田が洋子の父親だった場合、清三郎が時子に、おまえの昔の亭主から電話があった≠ニ知らせるかもしれないからだ。清三郎が知らせても、時子が三津田の消息を知らなければそれまでだが、もし知っていれば、時子は三津田に連絡を取るかもしれない。そうなれば、清三郎に電話していない三津田は怪しみ、もしかしたら桐原の仕業ではないか≠ニ警戒するかもしれない。
ただ、この危険性はそれほど高くないと思われる。姉妹同士ならいざ知らず、男の清三郎は一々妹に電話などしないだろうから。たとえ電話して知らせたとしても、時子は四十年も前に離婚した男の住所などたぶん知らないだろうし、知っていたとしても、再婚している彼女はあ、そう≠ナ済ます可能性が高い。
桐原は、後者の可能性に賭けてみることにした。危険性ゼロの方法が見つかればそれに越したことはないが、彼はいま時間と競争しているのである。軽い危険をおそれて行動を先延ばしし、より重い危険を招いてしまったのでは何にもならない。そう考えて。
桐原はレストランを出ると、エレベーターで一階のロビーへ降りた。食事の前は多少迷いが残っていたが、コーヒーを飲みながら最後の決断をしていた。
ロビーには、待ち合わせらしい男女の姿がいくつかあった。が、電話の近くには誰もいない。ホテルだと自分を知っている人間に出会うかもしれないが、ここならそれはまずないだろう、そう考えて選んだのである。
桐原は電話に近寄り、手帳を取り出した。受話器を取ってカードを入れ、手帳を見ながら、市橋清三郎の電話番号をプッシュした。
呼び出し音が五、六回鳴り、「はい」と、どこか大儀そうな感じのする女性の声が出た。
いくつぐらいかはっきりしないが、少ししわがれた声は、五十代以下ということはなさそうだ。
「わたしは三津田という者ですが、市橋さんのお宅でしょうか?」
桐原は、七十歳前後の男の声に聞こえるように、あまり口を開かず、もそもそとした感じにゆっくり話した。
「はい」
女が訝《いぶか》るような声で答えた。
三津田という姓に対する反応はない。
「失礼ですが、もしかしたら清三郎さんの奥様ですか?」
「ええ、そうです」
答えたものの、女は不審げだ。声に警戒の色が交じる。
「東京の三津田です」
桐原は言ってみた。
「東京の三津田さん……?」
女がおうむ返しにつぶやく。忘れてしまったのか、それとも時子の夫の姓は三津田ではなかったのか、「三津田」という語は、少なくとも市橋清三郎の妻の内に何も喚起しなかったようだ。
「もう四十年も昔になりますから、憶えておられないのは当然ですが、清三郎さんの妹の時子さんの……」
「えっ! もしかしたら、時ちゃんの昔の旦那《だんな》さん?」
「ええ、そうです」
と、桐原は答えた。
胸が高鳴り出していた。
「思い出していただけましたか?」
「ええ、ええ、思い出しました」
「わたしの苗字《みようじ》も?」
「すみません、それははっきりとは……。あ、でも、もう二十年以上前になりますかしら、洋子ちゃんが亡くなったとき、確か見えましたよね?」
「はい」
桐原は、二十三年前、アパートの前の薄暗がりに待っていた洋子の父親をちらっと思い浮かべた。
あのときは、洋子の出身地も両親が離婚していることも知らなかった。いや、ついこの前まで知らなかった。だから、舞鶴へ行って田中食堂の主人から話を聞くまで、市橋洋子の父親だと名乗った相手の姓は「市橋」だと思い込んでいたのだった。
「すみません、ちょっとお待ちください。いま主人と代わりますから」
女が言い、受話器を置いて電話の前から離れる気配がした。
夫の清三郎は別の部屋にでもいるのだろうか、「お父さーん」と呼ぶ声が聞こえた。
桐原は、このまま電話を切ってしまいたい誘惑に駆られた。清三郎と話せば、危険が増大するからだ。だが、それでは、せっかく電話したのに何にもならない。恐怖と戦いながら、汗ばむ手で受話器を握り締め、耳に押しつけて待った。
清三郎が見つからないのか、渋っているのか、なかなか出ない。
三、四分たっぷり待たされた頃、人の近づく気配がして、受話器が取り上げられた。
当然、清三郎だろうと思ったら、「すみません」と出たのは前と同じ女だった。ただ、電話を離れる前とはまるで別人のような硬い声に変わっていた。
「すみません。主人が、どういう用件か訊《き》いて来いと……」
女が、すみませんと繰り返して言った。要するに、清三郎は電話に出たくないということらしい。
「用件というほどのものがあったわけではないのですが、たまたま舞鶴まで来る用事があったものですから」
桐原は用意していた口実を述べた。
「そうですか。すみません、主人が頑固で……。せっかく時ちゃんの昔の旦那さんが電話してくださったというのに」
女の言い方は、清三郎が「三津田」を時子の元夫の姓だと認めた事実を示していた。と同時に、彼が妹の元夫を恨むか憎むかしているらしいことも。
三津田に対して抱いている清三郎の感情はともかく、これで、洋子の父親が三津田だった可能性が一段と高くなった。
とはいえ、まだ確証とは言えない。四十年も前に別れた妹の元夫の姓など、清三郎の記憶から完全に抜け落ちていた可能性もあるからだ。
――では、洋子の父親が三津田である確証を得るにはどうしたらいいか。
桐原が素早く頭を回転させていると、「なんだ、まだ話しているのか?」という男の声が聞こえた。
清三郎が妻の近くへやってきたらしい。
「舞鶴へいらしているそうなのよ。だから、あんた、出て」
妻が言う。
「今更、そんな奴と話すことなんか何もない。早く切れ」
「だって……」
「そいつは、時子に子供を生ませて捨てた奴なんだぞ」
「もう四十年も昔の話じゃない」
「四十年経とうが、五十年経とうが、わしは忘れねえ。いや、名前なんかとっくに忘れていたが、いま、おまえから聞いて思い出した。そう、三津田って奴だった。神田の出版社に勤めているっていう……」
ここまで聞けばよかった。
桐原は「それじゃ、失礼します」と言い、女の返事を待たずに受話器を置いた。
もう間違いなかった。三津田が市橋洋子の父親に。
先月、桐原が松尾に「半生の記」の代筆について相談すると、松尾は個人で契約するわけにはゆかないと言い、三恵出版社の名を出した。そのとき、社の概要を説明し、社長の三津田恵一――桐原の講演会に行ったとき知り合ったと以前松尾から聞いたような気がしたが名前までは記憶になかった――は、かつて神田神保町にある清新社に勤めていた、と言ったのだ。
桐原はテレホンカードを抜き取った。
あたりを窺《うかが》い、誰もこちらに注意を向けている者がいないのを確認してから、電話の前を離れた。
胸が昂《たかぶ》り、息苦しいぐらいだった。
これで決まった、と思う。
三津田の口を塞《ふさ》ぐ。永久に開《ひら》けないように。他に方法はない。自分と家族の現在と未来を守るためには。
桐原は、急ぎすぎないように注意してエレベーターまで歩き、地下の駐車場へ降りた。
ジュピターに乗って、イグニッション・キーを差し込んだ。それを回そうとしたとき、不意にある想像が頭に浮かんだ。
――もしかしたら、松尾では……!
桐原は手を止めた。
洋子の父親が須ノ崎を殺した犯人なら、二十三年前の事件の真相をかなりの程度まで知っていなければならない。が、彼は、二十年以上も経ってから、それを、どこでどうやって知ったのか――。
これは、大きな疑問だった。ずっと桐原の頭に引っ掛かっていた。
須ノ崎を殺す動機と、その罪を桐原に被せる動機。この二つの動機を併せ持つ人間は、元警官Qを名乗って桐原を陥れようとした市橋洋子の父親を除いては考えられなかった。だから、桐原は、犯人は洋子の父親にちがいない、と思ってきた。しかし、そう思いながらも、洋子の父親がどうやって娘の自殺の裏にあった事実≠知ったのかがわからなかった。
その疑問に対する答えとして、いま不意に、
――もしかしたら松尾から聞き出したのではないか。
と、思ったのである。
もし、松尾が三津田に二十三年前のことを話したのだとすれば、これまでの疑問は氷解する。
が、桐原はすぐに、
――何をばかなことを!
と、首を振って否定した。
そんなことはありえない。
いや、一つの可能性としてはありうるが、その考えを採れば、松尾がなぜ自分たちの犯罪行為を三津田に明かしたのか≠ニいう新たな疑問が生じる。これまでの疑問に劣らないぐらい大きな疑問が。
それだけではない。もし松尾が三津田に告白したのだとすれば、松尾には、須ノ崎が誰にどうして殺されたのか、想像がついたはずである。少なくとも三津田を疑っているはずである。しかし、四日前に会った松尾からはそうした様子はまったく窺われなかった。松尾はいまだに二十三年前の傷≠ノこだわり、それを引きずって生きている男である。桐原は何も知らないふりをしているが、知っている。松尾は器用な人間ではない。むしろ呆《あき》れるほど不器用で小心な男である。だから、自分が秘密を明かしたために須ノ崎が三津田に殺されたのかもしれないと疑っていたとしたら、何の屈託もないような顔をして三津田と一緒に仕事をしていられるわけがない。
――しかし、それでは、洋子の父親、三津田は、どうやって二十三年前のことを知ったのか?
桐原は前の疑問に戻った。
不可解だった。
――もしかしたら、自分は思い違いをしているのだろうか。須ノ崎を殺したのは、洋子の父親ではないのだろうか。
須ノ崎の殺害という点だけ考えれば、犯人が洋子の父親ではない可能性も小さくない。須ノ崎を殺す動機を持った人間が他にいても不思議はないから。
だが、犯人は、須ノ崎を殺しただけではない。その罪を桐原に被せようと画策しているのである。
そうなると、やはり、元警官Qを名乗って桐原を陥れようとした洋子の父親……さらには正体≠気づかれないように声を作って電話をかけてきて、「自分の考えているようにするから」と予告めいたことを口にした洋子の父親、以外には考えられない。
桐原は、三津田の息の根を止める直前、できればその点を質してみたいと思いながらスターターを回した。
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第八章[#「第八章」はゴシック体] 疑 惑
1
松尾はガラスの二重扉を抜け、ホテルのロビーへ入って行った。汗で下着の張りついた腹や背中が、冷気にすうっと包まれる。が、松尾は緊張しきっており、その心地好さを味わう余裕がなかった。
彼は、扉を入る前から正面奥に並んだテーブルとソファに目をやっていた。ソファに掛けているのはわずか二人。新聞を広げている中年の男から三メートルほど離れた席に、水色のワンピースを着た郁美の姿があった。
郁美に会うのは二十三年ぶりだが、一目でわかった。
――約束の三時まで十五分以上あるが、もしかしたら来ているのではないか。
そう思った、松尾の予想が当たったのである。
郁美は、松尾が彼女に気づくのとほとんど同時に腰を上げていた。入口のほうを見ていた彼女にも、松尾がすぐにわかったらしい。強張《こわば》ったような表情で黙礼し、こちらへ歩いてくる。
松尾も彼女に近づきながら、緊張を解くように少し大きく息を吸い、吐いた。
松尾が郁美と待ち合わせたホテルは、立川駅の北口から七、八分歩いた、昭和記念公園の立川口ゲート近くに建っていた。いま一つ意味がよくわからない「都市型のリゾートホテル」を謳《うた》い文句に最近オープンしたホテルである。松尾のように多摩地区に住んでいる者は、立川にどうしてリゾートホテルが……と首をかしげたくなるが、旅館や民宿ではなく、ホテルに泊まって、翌朝早くから奥多摩の山に登ったりゴルフを楽しんだりしようとする者がいるらしい。
今日の昼過ぎ、これから青梅まで行くから会ってくれと郁美から電話がかかってきたとき、松尾は新聞に大きく載ったこのホテルの広告を思い浮かべ、それなら立川まで来てほしいと答えたのだった。
一メートルほどの距離まで近づいたとき、松尾と郁美はどちらからともなく足を止めた。
郁美は、縋《すが》りつくような目で松尾を見つめていた。電話の切迫した声から想像していたのよりは落ちついて見えたが、顔色は青白い。顔と身体は学生時代より丸みを帯びているものの、二重|瞼《まぶた》の目、広い額、小さな鼻と小さな口は昔のままだった。
今日は八月十日(木曜日)――。
郁美が、何の前触れもなく、突然松尾のアパートに電話をかけてきたのは午後一時過ぎだった。そして、松尾が名乗るや、
――松尾さん、助けて、わたしたちを助けて!
と、言ったのである。
それが、二十三年ぶりに松尾が聞いた郁美の最初の声であり、言葉であった。
松尾は驚き戸惑いながらも、どうしたのかと尋ねた。
このままでは、桐原は須ノ崎を殺した犯人として逮捕されてしまう。そうなったら、自分と二人の子供は生きていけない。どうか、話を聞いて助けてほしい。
――松尾さんにご迷惑なことはわかっています。でも、頭が痛くなるほどさんざん考えたけど、こんなことをお願いできる人は松尾さんしかいないと思ったんです。
かつての恋人の助けを求める声に、松尾の胸は激しく騒いだ。できることなら、すぐにでも飛んで行って助けてやりたかった。郁美の力になってやりたい。が、一方で、そんなことはできない、と思う。絶対に。郁美は友人の妻なのだから。
松尾は、混乱する頭でそう考えると、たとえ話を聞いても、自分など何の力にもなれないだろう≠ニ婉曲《えんきよく》に断わった。
しかし、郁美は、それでもいい、これから青梅まで行くので話だけでも聞いてほしい、と言う。
松尾の気持ちは揺らいだ。この二十三年間……ケイと半同棲《はんどうせい》の関係をつづけている間も、彼の中には常に郁美が存在しつづけた。郁美に対する特別な思いが彼の内から消えることはなかった。自分から別れを言い出しておきながら、おまえはなんて手前勝手で女々しい奴なんだ、と何度己れを叱ってみても。
といって、ただ単に郁美に会いたいという気持ちから松尾は彼女の頼みに応じたわけではない。郁美の話を聞いてみたかったのだ。殺される前に須ノ崎が桐原を訪ねていたとはいえ、それだけで警察が桐原を疑っているとは思えない。彼女の話を聞けば、その理由がわかるかもしれない……。
「突然、勝手なお願いをして、申し訳ありません」
と、郁美が白いハンドバッグを両手で前に下げ、身体を二つに折った。
いえ、と松尾は応《こた》えた。
「ご迷惑だったでしょう?」
郁美が恥ずかしそうに微笑んだ。
「そんなことありません」
松尾は首を横に振った。嘘ではない。戸惑いはあったが、迷惑ではなかった。むしろ嬉《うれ》しかった。
「でも、いきなり助けて!≠ネんて、びっくりされたでしょう?」
「ええ、まあ……」
「すみませんでした。あのときは、わたし、どうかしていたんです。でも、ずっと、ずっと迷いつづけてきて、やっと松尾さんにお電話したものですから。松尾さんの声を聞いたら、つい……。本当に申し訳ありませんでした」
「それは、もういいです。それより、電話でも言ったように、郁美さんの話を聞いても、たぶんぼくは何の力にもなれないんじゃないかと思うんですが……それでもかまいませんか?」
「はい。話を聞いていただくだけでも、感謝しています」
「それならいいですが……。ところで、郁美さんがぼくに会うということを桐原君は知っているんですか?」
松尾はわかっていたが、訊《き》いた。
「いいえ」
と答えて、郁美が目を逸《そ》らした。
「後で知ったら、気を悪くしませんか?」
「主人のことを心配して松尾さんに相談したんですから、そんなことはないと思います」
郁美が苦しい言い訳をし、でも……と松尾に目を戻した。「でも、今日のことは主人には黙っていてください」
言われなくとも、松尾は桐原に話す気はない。二重の後ろめたさを感じながら郁美と会うと決めたときから。
二重の……というのは、一つはかつての恋人である桐原の妻に会う後ろめたさであり、もう一つは彼を疑ってそれとなく真相を探り出そうとしている後ろめたさ、である。
松尾は、もちろんそうした自分の気持ちには触れず、郁美が黙っていたほうがいいと言うのなら話さないと答え、「立ち話もできませんから喫茶室へ行きましょうか」と彼女を促した。
夜はバーになるらしい喫茶室は最上階の八階にあった。
空《す》いていた。
松尾たちが窓際の丸テーブルに着くのとほとんど同時にウエートレスがメニューと水を持ってきた。
松尾がアイスコーヒーを、郁美がオレンジジュースを注文した。
窓の下には昭和記念公園の林と芝生の緑が広がり、そのかなたには多摩・秩父の山並が夏空の下に青く連なっていた。なかなかの景観である。だが、そうした景色も今の郁美には何の感興も引き起こさないようだった。ウエートレスが去っても何も言わず、松尾が口を開くのを待っているらしく、硬い表情をした顔を俯《うつむ》きかげんにしていた。
松尾は喉《のど》が渇いていたので、コップの水を半分ほど飲んでから、
「桐原君の自叙伝がうちの社から出版されるのは知っていますか?」
と、訊いた。
「はい」
と、郁美が目を上げた。「松尾さんには、その原稿のことでずいぶん無理なお願いをしているとか……」
「それも聞いているんですか」
「自分で書くつもりでいたが、どうしても時間が取れないのでお願いした、と」
もしかしたら、桐原はゴーストライターの自分に代筆を依頼したと郁美に話していないのではないか。松尾はそう思っていたのだが、その想像は外れたらしい。
「あ、でも、松尾さんなら、自分で書くより良いものができるんじゃないかって、主人は安心していました」
郁美が少し慌てたようにつづけた。やむをえず松尾に依頼した、といったニュアンスになったのを気にしたらしい。
「本人の筆に勝るものはありませんが、とにかくあと十日ほどで脱稿しますから、そうしたら桐原君に読んで直してもらいます」
「そんなお忙しいときに、わたしまで……申し訳ありませんでした」
郁美が頭を下げた。
「いえ、立川まで出てくるぐらい、たいしたことありません」
松尾は答えたが、もし相手が郁美でなかったら、いま忙しいので……と断わっていた可能性が大きい。
ゴーストライターは、世の中の行事や休みとは無関係である。仕事がなければ、いつでも正月や夏休みのようなものだが、急ぎの仕事が入ると、人々が夏休みを取って旅行しようと、海や山へ出かけようと、横目で見ている以外にない。
それは当然だが、今年の夏は松尾が数年ぶりに味わうきつい夏だった。桐原に超特急の仕事を依頼されていたからだ。
桐原と三恵出版社で会い、車の中で話したのが七月十九日。その翌々日にイーストシックス社長の「自叙伝」を脱稿して、すぐにいまの仕事にかかり、今日までまる三週間、松尾は一日も休みを取っていない。買い物と銭湯に行って、簡単な食事を作って食べる以外、パンツとランニングシャツ一枚で朝から深夜までワープロの前に座りつづけてきた。
アパートの部屋には、クーラーはもとより扇風機もない。夜は気温が下がるので、熱帯夜のつづく都心に比べたらはるかに過ごしやすいが、日中は連日三十度を越した。だから、隣りの神社の境内から吹いている風がぴたりと止まってしまったときなどは、身体だけでなく、頭の中まで熱い靄《もや》が詰まったようになり、機能停止の状態になる。それでも、桐原と三津田に約束した八月二十日の期限までに原稿を仕上げるには、ワープロのスイッチを切るわけにゆかず、締め切りに追われるという一点だけを取り上げれば、まさに売れっ子作家なみの生活だった。ただ、売れっ子作家が缶詰めになるのは軽井沢の別荘か冷房の効いた都心のホテルと相場が決まっているらしいから、間違ってもクーラーのないぼろアパートで仕事をする者はいないだろうが……。
オレンジジュースとアイスコーヒーが運ばれてきた。
ウエートレスが去り、郁美がストローに口をつけてジュースを少し飲んだところで、松尾は、桐原が警察に疑われる理由ははっきりしているのか、と本題に入った。
「松尾さんは、事件の一週間ほど前、須ノ崎さんがうちに見えていたことをご存じですか?」
郁美が訊き返した。
知っている、と松尾は答えた。
「それは、主人から……?」
「桐原君にも聞きましたが……須ノ崎がお宅を訪ねた後で、ぼくは須ノ崎に会っていたんです」
桐原に聞いたというのも嘘ではない。ただし、松尾が須ノ崎に会った事実をぶつけてからだが。
「えっ、そうだったんですか……!」
郁美がびっくりしたらしく目を丸くして、「それじゃ、松尾さんは、須ノ崎さんが主人を尋ねてきた用件も聞かれているんでしょうか?」
「いえ、それは聞いていません」
松尾は今度は嘘をついた。「会ったといっても、話らしい話をしないで別れてしまいましたから」
「そうですか……」
郁美ががっかりしたような、それでいてどこかほっとしたような顔をした。
「須ノ崎は、何をしに桐原君を訪ねたんでしょう?」
松尾は惚《とぼ》けて訊いた。
「わたしも聞いておりません」
表向きの目的はともかく、彼女が須ノ崎の本当の訪問目的を聞かされていることはありえないだろう。
「桐原君が警察に疑われているのは、須ノ崎がお宅を訪ねていたからですか?」
松尾は話を戻した。
「というか……そのことを隠していたからだと思います」
郁美の目に不安げな色が蘇《よみがえ》った。
「どうして隠したんでしょう?」
「松尾さんもご存じだと思いますが、幼い女の子に悪戯《いたずら》をしようとしたという無実の疑いをかけられ、酷《ひど》い目に遭ったからです。あの騒ぎで、主人はテレビや週刊誌の怖さを思い知らされ、須ノ崎さんには悪いが、今度巻き込まれたら前以上に厄介なことになる、と恐れていたんです。そのため、須ノ崎さんとはこの二年間一度も会ったことがないと刑事さんに話し、わたしにもそう答えるようにと申したんです」
「ところが、警察は、須ノ崎がお宅へ伺っていた事実をどこからかつかんだ?」
「はい」
「警察が桐原君を疑っている理由は、それだけですか?」
郁美は一瞬ためらっているような表情を見せたが、すぐに「いいえ」と答えた。
松尾は、やはりそうかと思いながら、訊いた。
「では、他にどういう理由から?」
「はっきりとはわからないんです」
郁美が困惑したように首をかしげた。「でも、その前から主人を疑っていたのは間違いありません」
「その前からというのは、いつですか?」
「それもよくわかりませんが、刑事さんが初めてうちに見えたのは須ノ崎さんのお葬式の翌日でした。昼、わたしが買い物から帰るのを待っていたんです」
「須ノ崎の葬儀の翌日というと、七月六日ですね。刑事の名前はわかりますか?」
「岸川さんと浦部さんとおっしゃったと思います」
「岸川というのは、ぼくらと同じ年齢ぐらいのコブダイに似た男ですね?」
「えっ?」
「佐渡近辺の海で見られるという、おでこの突き出た、人間の顔に似た魚です」
「ああ……」
郁美の目に、思わずといった感じで笑みが浮かんだが、彼女はすぐにそれをおさめて真剣な表情に戻り、「は、はい」と答えた。
「岸川刑事たちが、桐原君のいない昼を狙って来たということは、目的は郁美さんだったわけですか?」
「ええ」
「何を訊きに?」
「須ノ崎さんが殺された晩の主人の帰宅時刻とか、帰ってきたときの様子とか……」
「事件のあった六月三十日の夜、桐原君は何時頃帰ったんでしょう?」
「はっきりとは憶《おぼ》えていませんが、十時半頃だったんじゃないかと思います」
「政友党本部を出たのは何時ですか?」
「聞いていないので、わかりません」
岸川たちが、須ノ崎の葬儀に参列した桐原についてアリバイの有無を調べに郁美のところへ行っただけなら、べつに問題はない。松尾だって、事件の晩の所在を訊かれていたし、刑事たちは館岡のところへも行っているのだから。
問題はその後の彼らの行動だった。
「岸川刑事たちが、須ノ崎がお宅を訪問していた事実を突き止めたのはいつか、わかりますか?」
「七月十五日の土曜日です。夕方、やはり岸川刑事さんたちが見えて……。須ノ崎さんがうちの前に立ってインターホンに向かって話しているのを見た者がいたんだそうです。夜、主人が関西の出張から帰った日なので憶えています」
ということは、岸川たちはその晩、桐原の家から青梅の松尾のアパートへ直行したらしい。また、桐原は出張から帰って郁美に岸川たちの話を聞き、松尾に電話してきたことになる。三津田と三人で早急に会いたい≠ニ。二つの事柄の間につながりがあるかどうかはわからないが……。
「七月六日に初めて岸川刑事たちが来て、それから十五日までの間に、彼らが顔を見せたことは?」
「八日のやはり土曜日、主人がまだ寝《やす》んでいるときに見えました。警察へ呼び出すためです。主人はすぐに身仕度をして一緒に出て行き、帰ってきたのはお昼過ぎでした。主人は、自分は無関係だから心配ない、ぼくを信じてくれ、と言うだけで、詳しい話をしてくれませんでしたが、それから、もう心配で心配で……」
岸川たちが館岡に会い、その後、岸川と館岡が前後して松尾に電話してきたのは七夕の日だったから、八日は翌日である。任意とはいえ、その日、桐原は警察署まで連れて行かれて事情を聴かれた――。
ということは、その時点で桐原の容疑がかなり濃かったのは間違いない。
館岡は前日の電話で、岸川たちは桐原に対する疑いを口にしたと言ったが、警察が何をつかんでいたのか、そのときの松尾は皆目見当がつかなかった。だが、今は政友党本部を出てから自宅へ帰るまでの間の所在と行動に不審な点があったのではないか≠ニ思う。他に理由は思い浮かばない。
ただ、不審と一口に言っても、濃淡の差がある。任意同行して取り調べるほど岸川たちに桐原を疑わせたものは何だったのだろうか。
松尾はそれ≠ェ非常に気になったが、想像がつかない。
郁美に訊いても、桐原は彼女にも話していないらしく、わからないという。
松尾は質問を進めた。七月十五日以後の警察の動きはどうか、その後も桐原は警察に呼ばれたのか、と。
三回呼ばれた、と郁美が答えた。
それは、松尾が想像していた回数より多かった。
「そのたびに、わたしは、このまま主人は帰ってこないのではないかと思い、気が変になりそうでした。誰もいない家《うち》の中で髪を掻《か》きむしり、何度も叫び出しそうになりました。主人の顔を見るまでは生きた心地がしませんでした」
「帰ってきたときの桐原君の様子は?」
「七月二十日の二度目のときは、八日に呼ばれたときと同じようにわりあい元気な様子でしたが、次の三度目から不安の色が濃くなり、四度目のときは帰りが深夜になったせいもあってか、目の下に真っ黒い隈《くま》ができて、疲れ切った感じでした。それでも、わたしの不安を軽くするためか、唇に笑みを浮かべ、ぼくには須ノ崎を殺す動機なんてない。警察がどんなに調べたって、ないものは見つかるわけがない。だから、心配しなくてもいい。疑いは必ず晴れる≠サんなふうに申していました」
桐原には、須ノ崎を殺す動機はなかったわけではない。もし須ノ崎の推理が当たっていれば――。ただ、その動機は、桐原か松尾か館岡が口にしないかぎり、警察に突き止められるおそれはない。
「そうですか……」
と、松尾は曖昧《あいまい》に応《こた》えた。郁美の話を聞いたものの、彼にはどうしてやる術《すべ》もない。
郁美にもそれは初めからわかっていたのだろう、何も要求せず、
「今日はありがとうございました」
と、頭を下げた。
「何の役にも立てなくて……」
「いいえ、松尾さんにお話を聞いていただき、気持ちが少し楽になりました」
「それならいいんですが……。とにかく、早急に岸川刑事に会って、話を聞いてみます。肝腎《かんじん》なことは教えてくれないでしょうが、警察がどの程度桐原君を疑っているかぐらいは探り出せるかもしれません。何かわかったら、電話します」
「お忙しいのに、申し訳ありません」
郁美がもう一度頭を下げている間に松尾は伝票を取り、腰を上げた。
ホテルの外へ出ると、首筋や背中にすぐに汗がにじみ出てきた。
松尾は郁美と立川駅まで歩き、別れる前に、桐原から「三津田恵一」という名前を聞いたことはないか、と訊《き》いてみた。
「ミツタさん……?」
と、郁美がおうむ返しにつぶやいた。
「数字の三に津田沼の津田と書きます。恵一は恵む一です」
「憶えがありませんが、主人と何か?」
「うちの社長なんですが、もしかしたら桐原君と前からの知り合いかな、と思ったものですから」
「えっ、社長さん? そうなんですか……。でも、前からのお知り合いということはないと思います。三恵出版社から本が出ると決まってからも、そんな話は一度もしませんから。わたしが社長さんのお名前を伺ったのもいまが初めてのような気がします」
郁美の答えは、予想どおりといえば予想どおりだった。過去において、桐原と三津田の間に何らかの関わりがあったとしても、それを桐原が郁美に話している可能性は薄いだろう。ただ、もしかしたらと思い、訊いてみたのである。
松尾は、書店に寄るからと言って、駅ビルの下で郁美と別れた。
郁美が、「よろしくお願いします」と深々と頭を下げ、階段を上って行った。
その後ろ姿を見送っていても、松尾は、会う前に感じていた胸が痛くなるような思いも、心の騒ぎも、不思議なほど感じなかった。ただ、二十三年という時の流れに対する感慨だけがあった。
なぜだろう、と松尾は自問する。
この二十三年間、郁美に対して抱いてきた思い――。
それは、もしかしたら郁美に会わなかったために松尾の中に存在しつづけたものだったのかもしれない。松尾は、ずっと二十三年前の場所に立って、二十三年前の郁美を見つづけていたのかもしれない。もちろん、頭ではわかっていた。友人の妻になり、二人の子供のいる郁美にも、自分と同じだけの歳月が流れていることぐらい。それでいて、松尾の中に存在したのは二十三年前の郁美だったのかもしれない。
ところが、今日、郁美に会い、松尾の中で止まっていた時間が一気に流れた。その結果、過去の郁美ではなく、現在の郁美が……郁美のありのままが現われた。
そういうことではないだろうか。
といって、松尾は、現在の郁美に幻滅を感じたわけでもないし、現実を思い知らされてショックを受けたわけでもない。彼は今、夫のためというよりは、自分と子供のために松尾に助けを求めてきた、かつて愛した女の話を聞き、醒《さ》めた心で、自分のできることはしてやろう、と思っているだけである。ただし、その結果、彼女の夫・桐原の犯罪が明らかになったとしても、責めを負うつもりはない。
松尾は、郁美の姿が階段の上に消えるまで待たずに踵《きびす》を返した。郁美には書店に寄るからと言ったが、これから岸川に連絡を取り、彼の返事次第では自分も都心へ向かうつもりだった。青梅まで帰り、日をあらためて出直すのは時間の無駄だったから。
2
松尾はその日、都心へ行く必要がなかった。
立川から江北署の捜査本部に電話すると、荒井という岸川の上司らしい男が出て、岸川と浦部は青梅へ行っているはずなので、携帯電話を呼んでそちらへ連絡させるから≠ニ言う。松尾は南口の「シャガール」という喫茶店の名を告げ、シャガールへ行って待った。すると、五分ほどして、これから行くという電話があり、さらに十数分後、コブダイに似た顔をした刑事がハンサムな若い刑事を従えて現われたのである。
岸川は、自動ドアを入ったところでちょっと足を止め、松尾の姿を認めるや、魚が水の中をすいすいというにはほど遠いガニ股《また》歩きで近づいてきた。ポロシャツの襟をひろげた胸に、扇子でぱたぱた風を送りながら。
「いやぁ、暑い暑い、本当に暑いですな」
彼は松尾の前まで来ると、挨拶《あいさつ》代わりに言い、「でも、来た甲斐《かい》がありましたよ。松尾さんがやっと本当のことを話してくれる気になって……」押しつけがましい笑みを浮かべて腰を下ろした。
「わたしは、いつだって本当のことを話していますよ」
松尾はやんわりといなした。
「ですが、話があるから、わざわざ連絡をくれたんでしょう?」
岸川は、ウエイターの運んできた水を一息に飲み干し、「アイスコーヒー」と怒鳴るように言った。
「おれも同じ……」
と、浦部がつづける。
二人とも、松尾が肝腎の点を隠していると見て、怒っているのだ。
だが、松尾は気づかないふりをして、言った。
「さっき刑事さんが電話をくれたときに言ったじゃないですか。わたしのほうから刑事さんにお訊きしたいことがあるって」
「そんな話、聞きましたかね……」
岸川が惚《とぼ》け、「ま、じゃ、それは後の話にして」とつぶやき、笑みを消して真剣な視線を向けてきた。
「桐原氏が松尾さんの友達なら、須ノ崎さんだって同じでしょう。その友達が殺された事件なんですよ。須ノ崎さんが松尾さんに会ったときに話したことを教えてくれませんか。須ノ崎さんは桐原氏の弱味というか秘密というか……そんなものを握り、脅していたんじゃないか、と睨《にら》んでいるんですがね」
岸川の言うとおりだと松尾も思う。須ノ崎の目的が、桐原に関わる重大な疑惑≠フ解明にのみあったとは思えない。というより、もしかしたらそれは従で、主なる目的は、桐原に疑惑を仄《ほの》めかすことによって彼から金を引き出そうとしたのかもしれない。
しかし、松尾は、須ノ崎の抱いていた疑惑を明かすわけにはゆかない。
「何度も言っているように、わたしは何も聞いていませんよ。須ノ崎はただ桐原の家へ行ってきたと言っただけですから」
先月十五日の夜、岸川たちがアパートを尋ねてきたときから繰り返している答えを口にした。
「わたしたちを呼びつけておいて、それが返答ですか」
岸川が、おでこの下の小さな目に怒りの表情を浮かべた。「須ノ崎さんのほうから、松尾さんに会いたいと電話してきたわけでしょう。桐原氏を訪ねた直後とも言うべきときに。それなのに、何も話さなかったなんて、信じられますか」
「刑事さんが信じられなくても、事実ですからどうしようもありません。それより、刑事さんたちは、どうして桐原をそれほど疑っているんですか。桐原が、須ノ崎の来訪した事実を隠していたからですか?」
松尾は質問に転じた。
「桐原氏は隠していたんじゃなく、嘘をついていたんです」
岸川が嘘≠強調した。「だが、われわれが桐原氏を疑う理由はそれだけじゃない」
「それは――」
どういう理由か、と訊こうとした松尾の言葉を、
「聞きたいですか?」
岸川が遮った。
「ええ」
「でしたら、松尾さんもわたしたちの質問に答えてください」
「わたしはさっきから答えています」
「あんなのは答えにならん」
「じゃ、どう答えたらいいんです?」
岸川は黙って松尾を睨《ねめ》つけていたが、
「よしっ、あんたがどうしても惚けるつもりなら、話を変えよう」
と、わずかながら表情を和らげた。「あんたがわれわれに訊きたいことというのは何です? いまあんたの言った、われわれが桐原氏を疑っている理由かね」
「そうです。警察がどうしてそれほど桐原を疑っているのか、解せないんです」
松尾は答えた。
「それを教えたら、あんたも、須ノ崎さんから聞いたことを話してくれるかね。話してくれると約束するんなら、わたしのほうから先に話してもいいが」
「わたしのほうは、もう何度も言っているように……」
「それじゃ、話にならん」
岸川が声を高めて松尾の言葉を遮ったとき、彼らの注文したアイスコーヒーが運ばれてきた。
岸川は、やけになったようにミルクとシロップをたっぷり入れ、乱暴に掻《か》き混ぜた。それを、ずずっずずっと空気の音がするまで啜《すす》ると、タンブラーをばんとテーブルに置き、
「あんたがそういうつもりなら、こっちにも考えがある」
脅すように言った。
そして、一拍の間を置き、
「これだけ頼んでも話せないというからは、そこには、あんたにとっても知られたくない事情がある。そういうことだな」
断定し、探るような視線を松尾に当ててきた。
「そんなものはありませんよ」
松尾は思わず目を逸《そ》らしそうになったが、こらえた。
「いや、そうとしか考えられん。須ノ崎さんの話はあんたにも関係していた。あんたにとって不都合な事柄にね。だから、あんたはそれをわれわれに話せないんだ」
図星だった。
「ふむ、そうか。なるほどね……」
岸川が小さな目を宙にやってつぶやき、ひとりで合点したようにうなずいた。
と思うと、不意にまた松尾に視線を戻し、言った。
「わかったよ」
「何がわかったんですか?」
松尾は気になって、訊いた。
「桐原氏とあんたと須ノ崎さんは、高校時代からの友達だった。それなら、須ノ崎さんの握っていた桐原氏の秘密あるいは弱味が、松尾さん、あんたにも関係していたとしても、ちっとも不思議じゃない」
このおでこ刑事、なかなか鋭かった。
「ずいぶん強引な論理ですね」
「そうでもない。これは、捜査に対するあんたの非協力的な態度から導き出された結論だよ」
「でしたら、須ノ崎は桐原のどんな秘密か弱味を握っていたと言うんです?」
「それがわからんから、あんたに訊いておるんでしょうが」
岸川が苛々《いらいら》したように声を荒らげた。
苛立っているのは、高圧的に出てみたものの、松尾を屈服させられないとわかったからだろう。
あとは、話し合いを決裂させるか、元の戦法に戻るしかなかった。
彼は後者の道を選択したらしく、
「松尾さん、お互いに意地の張り合いはやめましょうや」
表情と言葉遣いを和らげた。
「わたしは意地なんか張っていません」
と、松尾は応じた。松尾にとっては、これは意地の問題なんかではない。
「そう言わず、ここは一つ、腹を割って話し合いませんか。せっかく、このくそ暑いのに出てきて、会ったんじゃないですか。聞きたかったことが何も聞けずに別れたら、松尾さんだってきっと後悔しますよ」
確かにそれは言える。
「わたしが先に、なぜ桐原氏を疑っているのかを話します。そしたら、松尾さんも、須ノ崎さんが松尾さんに話したことを教えてくれませんか」
松尾の気持ちが動いた。たった今まで、まったく話す気がなかったのに。
といって、岸川の戦法に乗せられたわけではない。このままだったら、桐原が須ノ崎を殺した犯人だった場合、どうなるのか、とふと思ったのだ。
もし自分が何も話さなかったら、岸川たちには、桐原の犯行動機を絶対に解明できないだろう。動機が不明でも、殺人の証拠があればいいが、いまだに桐原を逮捕できないでいるということは、そうした証拠はない可能性が高い。
それは、須ノ崎殺しの犯人は永久に挙がらないかもしれない、という意味である。
それは許されない。間接的ながら、松尾が須ノ崎を殺した犯人を見逃した、ということになる。自分の秘密を守るために。
――よし、岸川たちに話そう。
と、松尾は決断した。
話すといっても、知っていることすべて話すわけではない。まだ、自分の過去が須ノ崎の事件に関係していると確定したわけではないのだから。須ノ崎から聞いた話の一部だけを明かすのである。
その結果、これまで二十三年間隠しつづけてきた自分の過去が明らかになったとしても、そのときはやむをえない。松尾はそう覚悟した。
「どうですかね?」
岸川が返事を促した。
「わかりました」
と、松尾は答えた。
「話してくれますか!」
岸川の西瓜《すいか》の種のような目がぱっと輝いた。
「ただ、わたしは本当に須ノ崎からたいした話は聞いていないんです。ですから、わたしの話したことが刑事さんたちの役に立つかどうかはわかりません。それでもよければ、ですが」
「結構です。それじゃ、わたしのほうから話しましょう」
岸川が応《こた》え、松尾の気持ちが変わるのをおそれるかのようにすぐに話し出した。
それによると、岸川たちが桐原を疑っている最大の理由は、
〈須ノ崎が殺された六月三十日の夜、桐原が須ノ崎の死体が見つかった荒川河川敷の近くへ行っていた〉
という事実だった。
桐原は否定しているが、アリバイがなく、彼の車の目撃者がいるので、間違いない、という。目撃者は、事件の晩、扇大橋の近くで彼のジュピターに泥水をはねかけられたという男で、殺人事件が発覚する前に交番に通報していた。桐原は、そんな通報は誰かの謀略だ≠ニ言っているが、調べても、須ノ崎を殺し、桐原を犯人に仕立て上げる、といった二つの動機を持った者はどこからも浮かんでこない――。
「そのうえ」
と、岸川が説明を継いだ。「桐原氏は、事件のわずか八日前に須ノ崎さんと会っていながら、わたしたちが言い逃れのできない事実を突きつけるまで、この二年間、須ノ崎さんとは電話で話したこともない、と嘘をついてきたんです」
「なるほど」
と、松尾は相槌《あいづち》を打った。そういう事情があったのなら、岸川たちが桐原に強い疑いを抱くのは当然だった。
桐原は政友党のホープと囃《はや》され、政友党が政権を獲《と》ったら主要閣僚の椅子が約束されている、と言われている男である。偶然の機会を利用して、彼を幼女|悪戯《いたずら》事件の容疑者に仕立て、イメージダウンを狙った者ぐらいはいたとしても不思議はない。とはいえ、計画的に須ノ崎を殺し、その罪を桐原に被せようと謀った者がいたとは思えない。
岸川が、今度は松尾の番だと促すような目を向けてきた。
松尾は唾《つば》を呑《の》み込んだ。こうなったら、逃げるわけにゆかない。
今まで黙っていたのは、桐原が須ノ崎を殺したとは思えないので、冤罪《えんざい》で苦しめられたばかりの彼をまた同じような目に遭わせたくなかったからだ、とまず言い訳した。それから、週刊エポックに載った警視庁の元警官Q≠名乗る人間の談話を知っているか、と訊《き》いた。
岸川が知っていると答え、
「あの件が何か……?」
と、訊き返した。
「Qの身元はわかりましたか?」
「わかりません。というか、警視庁にはQに該当する人物は存在しなかったようです。また、二十三年前、連続幼女悪戯事件の容疑者として桐原氏の名前が挙がったこともなかったそうです。あれこそ、誰かが元警官を詐称し、桐原氏を陥れようとしたものじゃないですかね」
「わたしもそう思いますが……ただ、その場合、Qなる人物は、なぜ二十三年も前の特定の事件を持ち出したんでしょう? 桐原がその事件の容疑者として名前が挙がったこともないのに、どうして事件と桐原を結び付けたんでしょう?」
「そうか。妙……というか、Qの行動の裏には何か理由がありそうですね」
「ええ」
「もしかしたら、須ノ崎さんはその点に着目した?」
「そうなんです。そこに興味を持ち、桐原と二十三年前の事件の間には何らかの関わりがあったのではないかと考え、いろいろ調べてみたようです」
「で――?」
「その連続幼女悪戯事件では、容疑者として逮捕され、警察で取り調べられていた二十歳の予備校生が留置場で首を吊ったのはご存じですか?」
「そういうことがあったようですな」
岸川が警戒するような目をした。
「予備校生は容疑を頑強に否認しており、自殺は警察の不当な逮捕と取り調べに対する抗議ではないかと言われたようですが」
「さあ、そこまでは知りません」
岸川が首を横に振った。知らないはずはないから、惚《とぼ》けたにちがいない。
松尾はそう思ったが、その点には言及せずに話を進めた。
「予備校生は栗本俊という名だそうですが、その恋人の女性・Yさんも、彼の死のおよそ一ヵ月後、やはり自殺したんだそうです。二人の関係は、Yさんが亡くなってしばらくしてから出たある週刊誌に載っていたんだそうです」
松尾は、胸が痛み、口が渇くのを感じた。自殺したんだそうです≠ネどと間接的な言い方をしたが、松尾こそ、Yさんこと市橋洋子を死に追いやった張本人だったのだから。しかし、それは明かせない。
また、〈Qの談話に興味を持った須ノ崎が、二十三年前の連続幼女悪戯事件を調べていて、市橋洋子と栗本俊の関係に触れた二十三年前の週刊誌にゆきついた〉ように岸川に言ったのも嘘である。逆である。須ノ崎は、二十三年前にたまたまその週刊誌の記事――目立たない小さな記事だったらしい――を見ていたので、Qの談話を読んだとき、強い引っ掛かりを感じたのだ。記事の細かな内容は彼の記憶から消えていたが、そこには、栗本俊の友人の話としてともに自殺した俊と洋子は恋人同士だった≠ニ載っていたらしい。
市橋洋子は、松尾と須ノ崎と館岡とは重大な関わりを持っていたが、三人の共通の友人である桐原とは何の関係もないはずである。が、洋子が、自殺した栗本俊の恋人なら彼女は連続幼女悪戯事件と間接的に関わっていたことになる。そして、Qの談話から推すと、桐原もその連続幼女悪戯事件に何らかの関わり[#「何らかの関わり」に傍点]を持っていたらしい。
つまり、〈松尾・須ノ崎・館岡と洋子――洋子と連続幼女悪戯事件――連続幼女悪戯事件と桐原――桐原と松尾・須ノ崎・館岡〉といった連関が存在する。
これは偶然だろうか。
もし偶然なら、〈洋子〉と〈桐原〉という無関係な存在が、やはりまったく無関係な〈松尾・須ノ崎・館岡〉、〈連続幼女悪戯事件〉という二つのグループと、ともに関係があったことになる。
須ノ崎は、こうした偶然はおよそありえないと判断し、それなら、
――桐原と市橋洋子の間にも関わりがあったのではないか、あったはずだ。
と、考えたのである。
「Yさんの自殺が、桐原氏と何か関係があるんですか?」
当然ながら、岸川が訊いた。
「そのへんははっきりしませんが、須ノ崎は、Yさんと桐原の間に何らかの関わりがあったのではないかと睨《にら》み、さらに調べてやると言っていたんです」
松尾は肝腎《かんじん》の点をぼかして答えた。
「Yさんは、自殺した容疑者の恋人だった人にすぎませんね。それなのに、須ノ崎さんは、どうして桐原氏とYさんとの間に何らかの関わりがあると考えたんでしょう? 桐原氏と連続幼女悪戯事件の容疑者との間に……というのなら、まだ話がわかりますが」
岸川が、松尾のぼかした点を衝《つ》いてきた。
「わたしにもわかりません」
「どうしてか、理由を尋ねなかったんですか?」
「ええ」
「変ですな。その理由がわからないでは、須ノ崎さんの話は飛躍がありすぎて、繋《つな》がらないと思うんですが」
「言われてみればそうですが……あ、それは須ノ崎の勘だったのかもしれません」
「勘ですか……」
「思い出しました。やはり勘ですね」
松尾は、たったいま頭に浮かんだ勘≠ニいう虚構の道へ逃げた。「確か、須ノ崎はこんな言い方をしていましたから。その自殺した女性と桐原の間に何かあったんじゃないかな。どうも、おれは、そんな気がする。だから、これから、おれが調べて、事実を突き止めてやる……=v
松尾に向けられた岸川の探るような目。小さいが鋭い光を宿し、松尾の言葉を信じている色ではない。
当然だろう。須ノ崎がQの談話≠読み、二十三年前の女性週刊誌の記事を思い浮かべたとき、彼の頭の中で〈桐原〉と〈洋子〉を結び付けたものは、勘なんかではなく、両者に関係した〈松尾・須ノ崎・館岡〉というブリッジだったのだから。
が、松尾としては、今はまだそれを言うわけにはゆかない。
桐原が須ノ崎を殺した犯人だった場合は、二十三年前の松尾の犯罪も明るみに出ないでは済まないだろう。そのときは周り中から罵《ののし》りの言葉を浴びせられ、責められるだろうが、やむをえない。それを覚悟し……また館岡を巻き込むのもいたしかたなしと判断して、岸川に市橋洋子のことを話したのだから。だが、桐原が須ノ崎を殺した犯人と判明しないうちに、すべてを明かす気はない。
「そうですか」
と、岸川が引いた。松尾を疑っているような目は相変わらずだが、これ以上追及しても無駄だと判断したようだ。
「では、須ノ崎さんは、そうして調べた結果、桐原氏とYさんに関わる何か秘密のようなものをつかんだ、そして、それをネタに桐原氏を脅し始めた……と、そういうわけですね」
「須ノ崎が桐原の秘密をつかんだかどうかなんて、わたしにはわかりません。また、須ノ崎が桐原を脅したというのも刑事さんたちの考えで、わたしはそんなことは言っていません。わたしはただ、須ノ崎から聞いた話をしただけです」
「わかりました。それじゃ、最後に、その自殺した女性、Yさんの氏名、年齢、出身地などを教えてくれませんか」
「名前は市橋洋子――」
松尾は、自分の顔から血が引きそうになるのを意志の力で制しながら洋子の氏名を発音し、あとは、
「綴《つづ》りは市場の市にブリッジの橋、ヨウは太平洋の洋です。亡くなったときの年齢は十九歳、専門学校の学生で、出身地は京都府の舞鶴だそうです」
と一気につづけた。少しでも言葉を休めると、次が出てこないのではないかという恐怖に追い立てられるようにして。
言い終わると、背中に冷たい汗が噴き出た。考えてみると、市橋洋子の氏名をはっきりと口に出したのはこの二十三年間で初めてであった。
岸川が、横でメモを執っていた浦部の手が止まるのを待ち、
「何かまた思い出すか気づくかしたことがあったら、教えてください」
と言って、腰を上げた。
岸川と浦部は、松尾を残して先に帰って行った。松尾の分の代金も一緒に払おうとしたのを松尾が拒んだので、二人分の代金を伝票の上に置いて。
二人の姿が店の外に消えると、松尾はそばを通りかかったウエートレスにホットコーヒーの追加を頼んだ。
何とも落ちつかない気分だった。ああ、馬鹿なことをしてしまった、話さなければよかった≠ニいう後悔と、いや、これでよかったのだ≠ニいう思いが、胸の中でせめぎ合っていた。
己れの卑劣な犯罪行為が表に出るのは、松尾だって、耐えがたいほど辛《つら》い。だからこそ、この二十三年間……時効が成立した後《のち》も隠し通してきたのだから。館岡と須ノ崎を巻き添えにして破滅させてはならない≠ニいう理由を自分に対する言い訳にして。が、一方で、真相を知りたいという気持ちも強かった。自分の犯罪の裏にこれまで知らなかった秘密が隠されているなら、そして須ノ崎がそれを暴こうとしたために桐原に殺されたのなら、その秘密を知りたい。そう強烈に思った。
松尾は、運ばれてきたコーヒーをブラックでゆっくりと啜《すす》った。
彼の脳裏に、何の脈絡もなしに三津田の顔が浮かんできた。
いや、何の脈絡もなしに、というのは正確ではないかもしれない。その直前、松尾の頭には、須ノ崎が殺された晩、彼の死体が見つかった現場付近へ行っていたらしい桐原が、これは誰かの謀略だ≠ニ言ったという話が浮かんでいたのだから。それと、先月、三恵出版社で三津田と桐原と三人で会った帰り、何のために急いで三人で会おうとしたのかと松尾が問うたとき、一瞬桐原の顔に浮かんだ狼狽《ろうばい》の色が。
といって、桐原の言った謀略と三津田が、松尾の頭の中で論理的に結び付いたわけではない。
そういう意味では、脈絡なしにと言ったほうが適切なのかもしれないが……。
――桐原と三津田は、やはりどこかで関係しているのだろうか。
そう思うが、わからない。
しばらく岸川たちの捜査の成り行きを見てみよう、と松尾は思った。他に方法がなかったし。
3
松尾と別れて喫茶店を出るや、岸川はむっとする空気に全身を包まれた。彼は顔をしかめ、手にしていた扇子を思い出したようにばたばたとせわしなく動かしながら歩き出した。しかし、空気が湿っていて暑いのだから、そんなものは役に立たない。すぐに、首筋や背中に汗が噴き出してきた。
「本当に暑いですね。五時を過ぎたというのに、気温が全然下がっていないんじゃないですか」
立川駅へ向かって歩きながら、長身の浦部が少し身体を屈《かが》めるようにして言う。
が、若さのせいか、暑さに強いのか、その言葉には実感がともなっていないように岸川には感じられた。見たところ、顔にもそれほど汗をかいていなかった。
「まったく、毎日毎日暑くて参る。なんだか、年ごとに東京の夏は暑くなってゆくような気がするよ」
岸川は肩で息をして、答えた。
こちらは深刻な実感である。
大きなビルや電車や車の中をみんな冷蔵庫のように冷やすから、そのぶん外の空気の温度が上がるのだろうか。そんなふうにも思うが、理由はどうあれ、このままでは自分はいまに東京に住めなくなってしまうのではないか、と岸川は本気でおそれ始めていた。
「ですが、松尾に会いに出かけてきた甲斐《かい》はありましたね」
相変わらず、浦部の声からは疲れた様子が窺《うかが》えない。
「松尾はアパートにいたわけじゃないが、こっちへ来ていたので、すぐに会えた、ということはある」
岸川は応じた。
「ただ、松尾は、もっとも肝腎なことをまだ我々に隠しているような気がするんですが」
「もっとも肝腎なこと?」
岸川は想像がついたが、訊いた。
「部長が松尾に質《ただ》された、須ノ崎が、桐原と市橋洋子という女性の間に何らかの関わりがあるのではないかと考えた理由≠ナす」
浦部が、岸川の予想したとおりの答えを口にした。
「須ノ崎の勘≠ネんていうのは出鱈目《でたらめ》で、松尾はその理由を須ノ崎から聞いていたにもかかわらず、おれたちに隠したか」
「自分は、その可能性が高いように思います」
それは岸川も感じていたことだったので、うんとうなずき、
「しかし、松尾はなぜその理由を隠したんだろう?」
半ば自分に問いかけるように言った。
「そこに松尾自身も関係していた、ということは考えられませんか」
「須ノ崎が桐原と市橋洋子を結び付けた理由に松尾自身も関係していたか」
「ええ」
「どういう関係だろう?」
「そこまでは想像がつきませんが……」
「うむ」
「いかがでしょう?」
「確かにその可能性はあるが、ただその場合、松尾はなぜその部分だけぼかして……というか、嘘までついて、おれたちに話す気になったんだろう? 須ノ崎からは何も聞いていない、と最後まで突っ撥《ぱ》ねることだってできたはずなのに」
「松尾は、われわれがなぜ桐原を強く疑っているのか、桐原の何をつかんでいるのか、どうしても聞きたかった。それで、部長の交換条件を呑んだ。そういうことじゃないでしょうか」
「松尾は、どうしてそれほど、われわれがつかんでいる桐原に関する情報を知りたかったのかね。桐原も須ノ崎もともに高校の同級生だったから、というだけでは説明がつかないように思えるんだが」
「部長は、もしかしたら松尾も今度の事件に関係していると……?」
浦部が背を丸めて岸川の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「いや、松尾とはもう何度も会って話しているが、それはないような気がする」
「では……?」
「だから、わからない」
「そうですか」
「ただ、今日、松尾のほうから話を聞きたいと本部に電話してきたことと関係している気がしないでもない。それも、自宅からではなく、立川から」
「そうか。何をしに立川へ出てきていたのか聞きませんでしたが、松尾は今日、立川で誰かと会っていたのかもしれませんね」
「うん」
と岸川は答えたが、そう考えても、松尾が立川で誰と会い、どういう話をしたのかは見当もつかなかった。
話しているうちに、モノレールの駅とJRの駅を結んでいる連絡橋の下に着いた。
岸川は、また扇子をばたばたやりながら大勢の人々に交じって階段を上って行った。
岸川たちが、京都に住んでいる市橋洋子の母親・依田時子と連絡が取れたのは、三日後、多くの企業がお盆休みに入って東京の街ががらんとした十三日の日曜日である。
岸川と浦部が松尾の話を聞いて帰った夜の捜査会議では、彼らの報告を聞いても、あまり気乗りしない様子の刑事が多かった。二十三年も前に死んだ市橋洋子などといった女が今度の殺人事件に関係あるのか、といった雰囲気だった。が、調べるだけ調べてみようという方針が決まり、岸川たちはまず二十三年前、一九七七年(昭和五二)の新聞に当たった。
すると、松尾の話のとおり、市橋洋子は、連続幼女悪戯事件の容疑者・栗本俊が留置場で首を吊って死んだ七月二十九日のおよそ一ヵ月後、八月二十六日に入水自殺していた。松尾が現在青梅に住んでいることと関係があるとは思えないが、死んだ場所は青梅市を流れる多摩川である。
岸川たちの調べた多摩版を含めた複数の新聞の記事と、当時青梅の西多摩署に勤務していた警官の話によると、市橋洋子が自殺した場所と前後の状況は、次のようなものであった。
奥多摩湖を出て東へ流れ下ってきた多摩川は、蛇行しているため、青梅市の西の端に近い梅郷《ばいごう》、二俣尾《ふたまたお》、日向《ひなた》和田のあたりではほぼ北から南へ向かって流れている。川の両岸は樹木の茂った急斜面か崖《がけ》で、西岸の岩と小石の川原には、三、四百メートルの間隔を置いて三つのキャンプ場がある(上流からA、B、Cとしておく)。市橋洋子らしい長い髪をした女性が川へ入って行くのが目撃されたのは真ん中のBキャンプ場だった。目撃者は、川原にテントを張ってキャンプしていた若者たち。日時は八月二十六日金曜日の午後十一時頃。初めに女性に気づいたキャンパーの一人が「おーい、誰か川に入って行くぞ!」と叫んだので、ファイヤーを囲んでいたキャンパーたちが一斉に川のほうへ注意を向けた。何人かがすぐに川辺まで走り、「戻ってこい!」「やめろ!」と呼びかけ、止めに行こうとしたが、女性の姿はアッという間に暗い流れに没し、どうにもならなかったのだという。その後、キャンパーの一人が斜面を駆け登り、近くの民家で電話を借りて、警察に通報。駆けつけた警官によって、Bキャンプ場から下流の川筋が捜索された。だが、川に入った女性を発見できないまま捜索はひとまず打ち切られ、夜が明けるのを待って再開。その結果、二十七日午前五時十五分頃、Cキャンプ場の六百メートルほど下流、女性が入水したBキャンプ場からだと一キロほど下流で、岩に引っ掛かっている若い女性の死体が発見された。
女性が身に着けていたのは下着の他にはキュロットスカートとTシャツだけで、身元を示すようなものは所持していなかった。が、前夜、女性が入水したBキャンプ場の岩の上に小型のショルダーバッグが置かれ、その中に顔写真の付いた身分証明書が入っていた。それにより、身元は、東京渋谷にある専門学校「東京建築造形アカデミー」の二年生・市橋洋子(十九歳)と判明した。
市橋洋子の検死は、青梅市内で内科医院を開いている警察の嘱託医によって行なわれ、死因は溺死《できし》と判明。死亡推定時刻は前夜十時から十二時までの間だったので、Bキャンプ場から川に入って行くのが目撃された直後に死亡したのは間違いない、と判断された。遺体の腕や脚、顔には少なからぬ外傷があったが、それらは流されて行く間に岩や石にぶつかってできたと思われる傷であり、死亡原因とは関係ない。
目撃者の証言から見て、市橋洋子の死が自殺であるのは疑いなかったものの、バッグの中に遺書の類《たぐ》いはなく、動機ははっきりしなかった。が、洋子は、初めから自殺する目的で青梅まで来たわけではないらしい。というのは、入水する二、三時間前の八時から九時頃までの間に、少なくともAキャンプ場とBキャンプ場に姿を見せ、人を探していたようだったからだ。焚火《たきび》の周りに集まっているキャンパーたちやテントを訪ねては、「こちらにタミヤカズアキという人はいないでしょうか?」と訊いて回っていたのである。洋子のその行動と自殺がどう関係しているのか、彼女がタミヤカズアキなる人物を探し当てたのかどうか、は不明である。ただ、洋子の遺体が発見された二十七日の早朝、警察がA、Bキャンプ場にいたキャンパーたちに当たったかぎりでは、市橋洋子の知り合いもタミヤカズアキ――田宮和明とでも書くのだろうか――を知っている者もいなかった。
八月二十六日の夜、Aキャンプ場にテントを張っていた者は四組・二十人余り、Bキャンプ場にテントを張っていた者は七組・三十人余りである。Cキャンプ場は、狭いうえに斜面が登り降りしづらいため、A、Bキャンプ場に余裕があるときは利用する者があまりなく、その晩も警察が川べりの捜索を始めた十一時四十分頃、テントを張っているキャンパーはいなかった。だから、自殺する前、洋子がタミヤカズアキを探しにCキャンプ場へも行っていたのかどうかはわからない。
いずれにせよ、市橋洋子の死に少しでも犯罪の疑いがあれば、警察は遺体の解剖をし、さらに捜査をつづけただろう。が、自殺の動機は不明ながら、死因が溺死で、自らの意思で入水したのは明白だった。そのため、洋子の家族や友人、知人に訊いても、タミヤカズアキなる人物に心当たりがない、とわかった時点で、警察の調べは終了した。
岸川たちは、市橋洋子と桐原の間に何らかの関わりはなかったかと調べたが、二十三年も前のことであり、両者の接点は見つからなかった。当時、桐原は東央大学法学部の三年生で二十一歳。もし洋子と恋人同士だったというのなら話が早いが、洋子には一ヵ月前に自殺した栗本俊という恋人がいたというから、その可能性は薄いと思われた。
次いで、岸川たちは、市橋洋子の死亡時の年齢と舞鶴という出身地を手掛かりにして、彼女の家族を捜した。
死亡した一九七七年八月の時点で満十九歳なら、洋子はその年か前年の三月に舞鶴か舞鶴近辺の高校を卒業している可能性が高い。たとえ死亡していても、学校で作っている卒業生名簿か同窓会が発行している同窓会名簿なら、氏名が載っているはずである。洋子の氏名があれば、一緒に名簿に載っている友達に当たれるので、彼女の家族についての情報も得られるにちがいない。
岸川たちはそう考え、まず、京都府警に依頼して、舞鶴市内にある高校――府立高校三校と私立高校一校――の卒業生名簿か同窓会名簿を調べてもらった。
すると、狙いは的中。洋子は、京都府立舞鶴中央高校を一九七六年(昭和五一)三月に卒業していた。
岸川は、京都府警からファックスで送られてきた『舞鶴中央高等学校同窓会名簿(一九九五年作成)』を見た。名簿といっても、一九七六年三月に卒業した者の氏名が載っている部分の抜粋である。
そこには、男女の区別なくアイウエオ順に卒業者名が載っていた。だから、市橋洋子の名は最初のページにあった。氏名の右に一、二、三年のときのクラスが〈C・E・B〉と記され、その右欄、生きている者の場合は住所と勤務先が載っているところに、洋子の場合は「逝去」と記されていた。
岸川は、名簿の中から、三年のとき洋子と同じB組にいた女生徒をピックアップし、舞鶴市内の住所になっている者には◎を、東京か東京近県の住所になっている者には○を、付けていった。
◎は四人、○は二人いた。
岸川は、まず◎を付けた者から電話してみた。
最初にかけた相手は不在。
二番目にかけた相手は、憶えているのは、高校時代の洋子が市内のアパートに母親と二人で暮らしていたことぐらいで、洋子が死んだ後、母親がどこでどうしているかといったことは知らない、と答えた。
三番目にかけた布川多津の答えも、二番目にかけた相手とほとんど同じだったが、ただ彼女は最後に、
――クラス会の幹事なら、もしかしたら母親の現住所を知っているかもしれない。
と、言った。
死亡した人間にクラス会の案内を出すわけではないだろうに、どうしてか、と岸川は怪訝《けげん》に思い、理由を尋ねた。
すると、布川多津がちょっと興味ある話をした。
高校を卒業した翌年・一九七七年の八月十五日、旧三年B組は第一回のクラス会を開き、タイムカプセルを作った。西暦二〇〇〇年、つまり二十三年後のクラス会のときに開けることにして。
二十三年後の二〇〇〇年というのは今年である。そこで、今年の五月三日、多津たちは五年ぶりにクラス会を開き、〈タイム〉と名付けたタイムカプセルの封を解いた。そのとき、幹事は、二十三年前の行事に参加しながら、今回クラス会に出席できなかった者については、そこから出てきた封筒を郵送した。だから、二十三年前の〈タイム〉作りには洋子も加わっていたはずなので、本人が死亡しても、彼女の入れた封筒は母親宛に送られているのではないか。多津はそう言ったのだ。
岸川は、◎を付けたもう一人の女性に電話する前に、多津から聞いた幹事の一人、織田孝一――高校を卒業して舞鶴市内の自動車販売会社に勤めたが、三年ほどで辞め、現在は水道工事会社を経営しているという――に電話をかけた。
織田は会社にはいなかったものの、女子事務員に教えられた携帯電話にかけなおすと、すぐに本人が出た。
岸川はこちらの身分を告げて、布川多津から聞いた事情を説明し、市橋洋子の家族の連絡先がわかったら教えてほしい、と頼んだ。織田は、何につかうのかと訝《いぶか》ったが、岸川がある事件の参考までに調べているのだと言うと、夜、自宅へ帰ってから調べ、電話をくれた。
それが、洋子の母親・依田時子の京都市内の住所と電話番号だったのである。
岸川の電話の問いに、時子は、舞鶴中央高校のクラス会幹事から、確かに洋子が二十三年前にタイムカプセルに入れたという封筒を受け取った、と答えた。
封筒の中身は小型ノート一冊。といっても使用されていたのは三ページだけ。二十三年前には、まだインテリアコーディネーターの公認資格といったものはなかったが、洋子はインテリアデザイナーになりたいという強い希望を持って、東京渋谷にある建築デザインの専門学校へ行った。洋子のその将来の夢がノートには綴《つづ》られていたのだという。
岸川は、京都まで行くので、ノートを見せてもらえないだろうか、と頼んだ。
時子は、誰にも見せたくないし見せる気はない、と硬い声で拒否した。それを読むと悲しくなるだけなので、自分ももう見ないつもりで、洋子の遺品を入れてある箱に納めてしまった、と。
では、そこに桐原政彦という名は出てこないだろうか、と岸川は尋ねた。
「桐原……?」
時子が怪訝な声で訊《き》き返した。
「当時、東央大学の学生で、もしかしたら洋子さんと何らかの関わりがあったのではないかと思われるのですが」
「いえ、そのような名前はどこにも出てまいりません」
「洋子さんから、その名前を聞いたことはありませんか?」
「ありません……ないと思います」
「栗本俊の名は?」
「ございません」
「当時、洋子さんの恋人だった予備校生ですが」
「洋子が亡くなってから、誰かからそんな話を聞かされたような気もしますが、なにしろもう二十三年も前の話ですし……憶《おぼ》えておりません」
「タイムカプセルに入れてあった小型ノートには、当時の洋子さんの生活については何も書かれていないんでしょうか?」
「書かれておりません。ただ、将来、こうしたデザインをやりたい、二十一世紀までには自分の事務所を持ち、インテリアデザイナーとして独り立ちしていたい、そんなことが書かれているだけです」
洋子は、二十一世紀に向けてその夢を書いたわずか半月後、自殺してしまった。それだけに、母親としては、いっそう読むのが辛《つら》いのかもしれない。
「洋子さんはそうした大きな夢を持っていたのに、どうして自殺などしてしまったんでしょう。動機に関して、お母さんに何か心当たりはありませんか?」
「ございません。わたしも、何がなんだかまったくわかりませんでした」
「失礼ですが、洋子さんのお父さんとは死別なさったんでしょうか?」
岸川は質問を変えた。
と、返答をためらっているかのようにわずかに間があって、「いえ」と時子が答えた。
「では、現在も生きておられる?」
「さあ、どうでしょう。元気で暮らしているのか、すでに亡くなったのか、わたしは存じません。洋子が亡くなった二十三年前に会ったきり、手紙のやり取りもありませんし、その後、わたしは再婚して舞鶴を離れてしまいましたので」
「洋子さんが亡くなられた頃の住所と勤め先はわかりますか?」
「住所は大阪でした。わたしと離婚した後で東京から移ったようです。区までは憶えていませんし、勤め先もわかりません」
「依田さんと結婚された頃は、どんな仕事をされていたんですか?」
「わたしと結婚した四十数年前は東京神田にある出版社に勤めておりました」
「出版社の名は?」
「憶えておりません。ただ、新聞の広告でよく見かけるような、名前の知られた会社ではありませんでした」
「東京で結婚されたわけですね」
「はい」
「お名前と、生きていた場合の年齢、出身地を教えていただけませんか?」
「洋子が満一歳にもならないときにわたしたちは離婚し、わたしと洋子はわたしの郷里の舞鶴へ来たんです。それから死ぬまで、洋子は父親に一度も会っていません。それなのに、今更、洋子の父親を見つけて、どうしようというんですか?」
「べつに、どうこうしようといったことは考えておりません。ただ、念のためにお聞きしたいだけです。だいたい、お名前を伺ったところで、それだけでは見つけ出せるはずはありませんし」
わかりました、と時子が答え、男の氏名を告げた。そして、生年月日は憶えていないが七十歳近いはずだし、出身は神戸だ、と言った。
岸川が時子に答えた、どうこうしようといったことは考えていないという言葉は本当である。時子に教えられた氏名と年齢、出身地だけで、生死もはっきりしない男を見つけ出せるとは思えない。それに、洋子が顔も知らなかったと思われる父親を捜し出して、会ったところで、何にもならないだろう。洋子と桐原の関わりについては、洋子が東京へ出るまで一緒に暮らしていた母親の時子さえ知らないというのだから。
電話の向こうにいる、顔も知らない、たぶん六十代の後半ではないかと思われる女性には、堅い鎧《よろい》をまとっているような印象があった。警察と聞いて、緊張しているだけではない、どこか警戒しているような感じがした。だから、何かを隠しているか、嘘をついている可能性もないではない。といって、洋子と桐原の関係を知っていて、岸川たちに隠す必要があるとも思えなかった。
もし時子が知らないとしたら、洋子と桐原の関わりを、どうやったら突き止めることができるだろうか、と岸川は自問した。
まだ、それ[#「それ」に傍点]があったという証拠もない。須ノ崎が松尾にあったらしい≠ニ言っただけである。が、岸川は、それがあったのは確実だ、と今や思っていた。それをネタに須ノ崎は桐原を脅し、そのために桐原に殺されたにちがいない。
しかし、いくら彼がそう考えても、事実が出てこないことにはどうにもならなかった。
岸川は、時子と話した後で、織田孝一にもう一度電話をかけ、市橋洋子がタイムカプセルに入れたノートに書かれていた内容はわからないだろうか、と訊いてみた。
織田の返事は予想どおりだった。タイムカプセルに入っていた封筒は原則として本人しか開けられないことになっていたので、幹事も中は見ていない、と答えた。クラス会の欠席者については、本人か、洋子のように本人が死亡するか本人の現住所がわからない場合は、その家族宛に封を切らずに送ったのだ、という。
〈桐原と洋子の関わり〉についての調査はここで壁にぶつかった。市橋洋子という気になる女性についてはある程度わかったものの、彼女の母親や友人のセンからはこれ以上は前に進めそうになかった。
岸川は、もう一度松尾に会って質《ただ》し、それから館岡久一郎に会ってみようと思った。
4
八月二十一日(月曜日)の夜、桐原が八時過ぎに帰宅すると、松尾から『政道―わが半生の記』の原稿が届いていた。送ったという電話があったので、いつもより早く帰ったのである。
ワープロで打って印刷されたものだが、四百字詰め原稿用紙に換算すると三〇五枚あった。
桐原は、風呂に入って夕食を済ませると、書斎へ入って原稿を読み始め、最後の一行まで一気に読んだ。読み終わって、時計を見ると、午前一時五十二分。彼は椅子の背に身体をもたせかけ、まだ作品の余韻に浸りながら、ふーっと大きく息を吐いた。
口には出さないものの、ゴーストライターなんて……と桐原は内心松尾を見下していたし、松尾の力のほども見くびっていた。他の者に頼むよりはと思って松尾に相談し、彼に代筆を依頼したが、気に入らない原稿が上がってきたら……と危惧《きぐ》しないでもなかった。
しかし、時間の経過も気づかずに一気に読まされた今は、ゴーストライターとはいっても、さすがにプロだな、と松尾の筆力に脱帽し、我が「半生の記」ながら、感動していた。桐原の生い立ちや経歴を描いたところはもとより、彼の政治姿勢や日本の将来に対する展望などを述べた部分も、実に解り易くまとめられていた。少し癪《しやく》だったが、自分で書いてもこうはいかなかっただろう、と思った。これに桐原が手を入れて完成原稿にするのだが、大きく書き直したり書き加えたりしなければならない箇所はないようだった。
桐原が三恵出版社に送った三十数枚の写真をどのページにどう配置するかといったレイアウトに関しては、三津田と電話で話し、さらに水谷と何度かファックスでやり取りし、すでに決まっていた。表紙に使用する写真とデザインについても。だから、桐原がこの原稿に手を入れて三恵出版社に送れば、三津田と水谷がすぐに編集作業に取りかかる予定になっている。桐原の仕事は、|校正刷り《ゲラ》の段階でもう一度目を通せば終わり。あとは本が出来上がってくるのを待つだけとなる。
桐原は、三津田の口を永久に塞《ふさ》ぐのは『政道―わが半生の記』の編集作業が完全に終わってからにしよう、と決めていた。それまでは、相手が狸を決め込むなら、こちらは狐で通そうと。
一ヵ月前、舞鶴の市橋清三郎の家に電話して、市橋洋子の父親が三津田だと判明したときは、桐原はすぐにも三津田を消してしまおうと考えた。三津田がいつ次の行動を起こすか――桐原に疑いがかかるような工作をして松尾か館岡を殺すか、それとも二度の殺人は危険と考えて、まったく別の企みを実行に移すか――予測がつかなかったから。その方針を変更したのである。
この間、桐原は、東北・北海道への遊説の他に、ヨーロッパへの出張やら福岡で開かれた国際会議への出席やらと、東京を離れているときが少なくなく、行動を起こしようにもその機会を作るのが難しかった。にもかかわらず、松尾と館岡は無事だったし、洋子の父親に新しい動きは見られなかった。
それは、『政道―わが半生の記』が完成して、桐原から金を受け取るまで、三津田が行動を控えているのではないか、と思われた。零細出版社社長の三津田としては、原稿の代筆料、本の体裁を変えたためにかかった製作費の増加分、本の買い取り代金――桐原に支払われる印税を差し引いても百万円前後にはなる――を桐原から受け取れなくなったら、非常に困るはずである。それで、万一、桐原に正体を見破られたら……と警戒し、新しい行動に出るのを延ばしているのではないか。
それなら、桐原のほうも焦る必要はない。『政道―わが半生の記』が校了になり、三津田ら編集者の手を離れるまで行動を延期しても危険はない。
そう考えたのだ。
三津田がいなくなっても、即、三恵出版社が潰《つぶ》れるということはないだろう。会社には水谷の他に女子事務員もいるという話だし、最悪の場合でも、自費出版に変更すれば、『政道―わが半生の記』は出版に漕ぎ着けられるにちがいない。ただ、社長が突然いなくなれば、予定が大幅に遅れるおそれはある。桐原としては、それは何としても避けたかった。このことも、三津田を消すのは本の出版に支障を来たさないようになってからにしよう、と彼が考えた理由の一つである。
桐原は、もう一度、机の上の置き時計を見た。
二時を回ったところだった。
原稿は、多少気になる箇所に鉛筆で印を付けておいたので、明日の晩、もう一度読みながら赤字を入れればいい。
桐原が頭の上で手を組んで伸びをし、さて寝ようかと思ったとき、ドアを静かにノックする音がした。つづいて、「あなた、まだ寝《やす》まないの?」という郁美の声。
桐原は腕を下ろし、
「いや、いま寝るところだ」
と、顔だけドアのほうへ振り向けた。
ドアが開き、郁美が入ってきた。
桐原は椅子ごと身体を妻のほうへ回した。
大きな牡丹《ぼたん》の花がプリントされた絹のパジャマを着た郁美が、心配そうに桐原を見ていた。
「先に寝んでいるように言ったのに、きみこそ、まだ起きていたのか」
「一度寝んだんですけど、目が覚めたら、あなたの姿がまだなかったから……」
郁美は答えたが、ずっと起きていたにちがいない。
桐原が「幼女|悪戯《いたずら》事件」の騒動に巻き込まれてから、郁美は不眠症にかかっていた。香織が図書館へ行くようになって、これで少しは良くなるかと思ったのも束の間、須ノ崎の件で刑事が家へ来たり桐原が警察へ呼ばれて行ったりするようになり、彼女の症状はさらに悪化した。桐原も熟睡できずに夜中に何度も目を覚ましたが、そんなとき郁美は隣りのベッドでたいてい起きているようだった。時には汗をびっしょりかいて魘《うな》されていた。
桐原は、須ノ崎の殺された事件に自分は関与していないから心配ない、と何度も強調したのだが、郁美は明らかに恐れていた。怯《おび》えていた。桐原が何もしていなくても、「幼女悪戯事件」のときのように犯人にされてしまうかもしれない、と。いや、郁美が恐れているのは、それだけではないかもしれない。彼女は、もしかしたら桐原が須ノ崎を殺したのではないかと疑い、怯えているのかもしれなかった。
いずれにせよ、このままでは身体をこわしてしまうと思い、医師に診てもらうように桐原は勧めた。かなり強く。しかし、郁美は、自分は病気じゃないからと言うばかり。そのため、桐原はやむをえず、自分が病院でもらった催眠剤を時々郁美にも飲ませていたのだった。
桐原は、四十二の厄年を過ぎた現在まで病気らしい病気をしたことがない。とはいえ、頑健な肉体がなければ無理が利かないのを承知していたので、健康には人一倍注意を払ってきた。ここ十年ほど、年一回の人間ドック入りを欠かしたことがないし、少しでも調子の悪いところがあれば、すぐに病院へ行って診察を受け、回復に努めた。彼は、健康も意志力と努力の結果であり、健康でいたいという強い意志とそのための努力さえ惜しまなければ、それを獲得、維持するのが可能だ、と考えていた。だから、健康の源である睡眠にも気をつかい――といって長時間だらだらと眠るのではなく、できるだけ短い時間をできるかぎり深く眠ろうと考え――神経が昂《たかぶ》ってどうしても眠れないときのために催眠剤を処方してもらっていたのである。
「松尾さんの原稿、どうでしたの?」
郁美が訊いた。
「なかなか良いよ」
桐原は素直に答えた。
「それはよかったわね」
「きみにも読んでもらったっていいが、本になるまで待っていたほうが、楽しみがあっていいだろう」
「ええ」
「松尾の文才をあらためて見直したよ。我が半生の記ながら、読んでいて、何度か胸がじんと熱くなった」
「冷静なあなたが、そんなに感動したなんて……本のできてくるのが楽しみだわ」
郁美の顔が心持ち明るくなった。
「うん、大いに期待していい。これなら、読んでくれた人は、この前の幼女事件を冤罪《えんざい》だとはっきり理解してくれるだろうし、ぼくの生き方に共感してくれると思うね。そして、ぼくの支持者はさらに増えるよ」
桐原政彦著『政道―わが半生の記』がこの机の上に積まれ、同時に人々の目に触れる日――。
その日のことを想像すると、桐原は胸の昂りを感じた。
そのときには市橋洋子の父親・三津田恵一は口のきけない状態になっており、桐原の最大の憂いも消えているはずであった。
三津田がこの世から消えた場合、須ノ崎を殺した犯人は永久に挙がらないだろうから、岸川たち警察は自分に対する疑いを容易には解かないかもしれない。が、二十三年前の秘密を闇に葬ると同時に三津田殺しの容疑から逃れるためには、それぐらいはやむをえない。おれは、三津田は殺しても、須ノ崎は殺していない。だから、岸川たちがどんなにおれを疑っても、犯行の証拠を手に入れることはできないはずだし、いつかは容疑が晴れるだろう。それまで待つ以外にない……。
「見本はいつできるのかしら?」
郁美が訊いた。
「松尾が予定どおりに原稿を上げてくれたから、本も予定どおり、九月中にはできるんじゃないかな」
桐原は現実にかえって、答えた。
「まだ一ヵ月以上も先なのね」
「そりゃ、そうさ。これからゲラにして、校正したりするんだから。前にも話したと思うけど、これでも超特急なんだ」
桐原は言うと、本ができてくるのを楽しみにして今夜は寝よう、と腰を上げた。
四日後の二十五日(金曜日)――。
桐原が書留速達で送った『政道―わが半生の記』の原稿が三恵出版社に届くのを待っていたかのように、洋子の父親から手紙がきた。
封筒の裏に書かれた差し出し人の氏名は「市橋俊」。市橋洋子と栗本俊を合わせた名になっていた。
どこにでも売っている市販の白い定型封筒を裏返し、「市橋……」という差し出し人名を見た瞬間、桐原は自分の顔色が変わったのではないかと思う。が、桐原宛の郵便物は郁美が前もって書斎の机の上に置いておくので、彼の反応は誰にも見られずに済んだ。仕事柄、桐原には見たことも聞いたこともない団体や個人から届く手紙が少なくないので、郁美が「市橋俊」の手紙を不審に思ったり、心に留めたりした可能性も薄い。
桐原は、一緒に手に取った他の郵便物を机の上に戻し、その手紙の封を切った。
中身は便箋《びんせん》一枚。
開くと、中央に、ワープロかパソコンで打たれたらしい文字で二行、
≪まだ終わったわけではないからな
[#地付き]市橋洋子の父より≫
と、記されていた。
まだ終わったわけではない――。
それは予想していたことだったので、桐原は驚かなかった。が、その手紙を見て、自分の観測は甘かったかもしれない、と思った。
洋子の父親は、須ノ崎を殺した後、新しい行動を起こしていないし、桐原にも何も言ってこなかった。
だから、桐原は、『政道―わが半生の記』ができて、その買い取り分の代金などを自分から受け取るまでは、三津田は次の行動に出ないだろう、それなら、彼を消すのは編集作業が完了し、本作りの工程が印刷所と製本所へ移ってからでいい、と考えていた。
その読みの甘さに気づいたのである。
手紙をよこしたからといって、三津田がすぐに行動を起こす気でいるとはかぎらない。桐原のこれまでの想像どおりかもしれない。三津田は、桐原から受け取るべき金を手にした後で新たな行動に移るつもりでいながら、彼に不安と恐怖を与えようとしたのかもしれない。
しかし、別の可能性もあった。〈三津田が、間もなく起こすつもりでいる行動を予告してきた〉という。
この手紙だけではどちらとも判断つかない。確率は五分五分だろう。が、『政道―わが半生の記』が校了になってからなどと考えて待っていたら、取り返しのつかない結果になるかもしれない、ということだけははっきりしたのだった。
となれば、結論は一つ、
――相手が行動を起こす前にこちらが先に動き、相手が行動を起こせないようにする。
これしかない。
桐原は決意を固めた。
いずれはやらなければならないと考えていたことを早めただけなので、ためらいはなかった。この一週間のうちにも……と思って、少し緊張しただけである。
桐原は便箋を封筒に戻しながら、相手が電話ではなく、手紙をよこした理由について考えてみた。
それは、三津田が警戒した結果であるのは間違いないように思われた。
この前、洋子の父親と電話で話した後、桐原は三津田と二度会っていたし、電話でも何度かやり取りをしていた。だから、電話をつかえば、前のように声を作っても桐原に見破られるおそれがある――三津田はそう考えて手紙に替えたにちがいない。
警戒し始めたとはいえ、三津田は、おれが洋子の父親の正体≠突き止めたことまでは気づいていないようだ。もし気づいていれば、おれの送った原稿が会社に届くのを待っていたように、こんな手紙はよこさないだろうから。
そう思うと、桐原は、だいぶ気持ちが楽になった。
その晩、彼は夕食と風呂を済ませてから書斎へ戻り、すでに考えてあった三津田殺しの計画≠さらに細かく練った。
[#改ページ]
第九章[#「第九章」はゴシック体] 交 差
1
館岡久一郎が、岸川と浦部の待つ応接室へ、白衣の裾《すそ》をはためかせて入ってきた。
八月も明日までという三十日(水曜日)の午後三時十五分――。
岸川たちは、指定された三時より十二、三分前に柏葉会中央病院に着いたので、三十分近く待たされた。
やっと館岡に会え、岸川はほっとした。
半月ほど前、市橋洋子の母親・依田時子や洋子の高校時代の同窓生と電話で話した後、岸川はすぐにも館岡に会って話を聞きたかった。だが、館岡は夏休みやら研修やらとほとんど東京にいなかったらしく、つかまらなかったのだ。
「ちょうど部屋を出ようとしたら、看護婦から入院患者の様子がおかしいので診てほしいという連絡があったものですから」
館岡が、遅れた理由についてそう言いながら、岸川たちの前に腰を下ろした。
色白の顔が赤く日焼けしていた。岸川と浦部が前に病院を訪ねたとき、館岡は夏休みを取ってハワイへ行っているという事務員の話だったから、岸川たちが汗まみれになって東京を歩き回っている頃、彼はワイキキの浜辺で昼寝でもしていたのかもしれない。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
岸川は頭を下げた。
「いや……」
館岡が胸を反らし、白衣のポケットから煙草とライターを取り出した。遅れた理由は言っても、待たせてすまなかったという言葉はない。
この前も感じたことだが、目の前の仮面のような顔をした男は傲慢《ごうまん》な性格のようだ。元々そうだったのか、文字どおり他人の生殺与奪の権を握り、どこへ行っても「先生、先生」とちやほやされる医師になったために、自分を偉いと思い込むようになったのか……。
ただ、態度は尊大でも、岸川たちの目的がわからないからだろう、緊張し、警戒しているように感じられた。
「ところで、刑事さんがまたわたしに会いに来るということは、須ノ崎を殺した犯人はまだ挙がらないんですかね」
館岡が煙草に火を点《つ》けてから、さりげない口ぶりで訊《き》いた。
犯人が捕まっていないことぐらい新聞かテレビを見たらわかるじゃないか。岸川はそう思ったが、「残念ながら……」と応《こた》えた。
「事件の起きたのはいつでしたっけ?」
館岡が煙を吐き出した。
「六月三十日です」
「ということは、今日でちょうど二ヵ月ですか」
「ええ」
「で、犯人逮捕の目処《めど》はまだ立っていない?」
「逮捕するには至っていませんが、重要な容疑者は浮かんでいます」
「ほう……」
館岡の黒縁眼鏡の奥の細い目に、探るような光が浮かんだ。
「桐原政彦氏ですよ」
岸川は言った。それを隠したのでは先へ進めないからだ。
「なるほど」
「なるほどと言うからには、わたしたちが桐原氏を疑っているのに気づいていたわけですね」
「刑事さんのこの前の話を聞けば、子供だってわかりますよ。しかし、まさか重要容疑者になっているとは思わなかった」
「これで、わたしたちが館岡さんにお会いしようと何度も連絡していた事情はおわかりになったでしょう」
「いや、わからない。誰が重要容疑者になろうと、わたしの知っていることはこの前話したとおりですからね」
館岡の表情から初めの緊張が薄れていた。岸川たちの質問の内容まではわからなくても、来訪の目的は想像がついたからのようだ。
「ですが、この前は、わたしたちの情報不足からお尋ねできなかった点があるんです」
「どういうことです?」
「館岡さんは、市橋洋子という女性をご存じですか?」
岸川はぶつけた。
と、瞬間にして館岡の表情が凍り、目に驚愕《きようがく》の色が浮かんだ。まるで鋭敏な試薬を注がれたかのように。
しかし、彼はその反応を笑いで誤魔化した。
「いやァ、突然、女性の名前など言われたのでびっくりしましたが、市橋何ですって、もう一度言ってくれませんか?」
「市橋洋子です」
岸川は、相手の目をひたと見据えて繰り返した。
「市橋洋子? 知りませんね」
館岡がさりげない感じで視線を逸《そ》らし、灰皿に手を伸ばして、煙草の火を丁寧に消した。
彼は、どういう女性かと尋ねなかった。ヨウコといっても、容子、暢子、陽子、葉子……といろいろあるのに、その綴《つづ》りについても。そして何よりも、岸川が市橋洋子という名を告げたときに見せた反応――。館岡が市橋洋子を知っているのは明らかだった。それも、単に知っているだけではなさそうだ。何か重大な関わりがあるような……岸川はそんな気がした。そうでなければ、二十三年も前に自殺した女性の名を聞いて、あれほど驚きはしないだろう。
「知らない? 変ですな」
岸川はわざと思わせぶりに言った。
「何が変なんです?」
館岡が怒った口調で訊き返したが、目の奥には不安そうな翳《かげ》が揺れている。
――この男、傲慢だが、桐原より対し易いかもしれないな。
岸川はそう思いながら、
「館岡さんは、本当に、殺される前の須ノ崎さんに会っていないんですか?」
と、質《ただ》した。その点も嘘をついているような気がしたからだ。
ただ、館岡がいま見せた反応から判断すると、単に須ノ崎から市橋洋子の名を聞いた、つまり桐原と洋子の間に何らかの関わりがあったらしい≠ニ聞いただけではないようだ。その前から市橋洋子のことを知っていたようだ。
これは館岡だけではない。岸川たちは松尾についても同じ疑いを抱いている。
「会っていない。この前、そう言ったじゃないですか。二年前に失踪《しつそう》してから電話もない、と」
館岡が答えた。
「桐原氏もそう言っていたのに、須ノ崎さんは彼の家を訪ねていたんです」
「それは松尾から聞いたが、わたしとは何の関係もない」
「そうですかね。須ノ崎さんは桐原氏の自宅を訪ね、それから松尾氏にも会った。それなら、館岡さんにも会っていたんじゃないですかね」
言っているうちに、岸川は、自分の想像に間違いないのではないか、と思えてきた。須ノ崎は、桐原を訪ねた後で館岡にも会い、松尾にしたのと同じ話をしていたのではないか――。
「勝手な想像は迷惑です。それより、わたしが市橋洋子という女性を知らないと言ったのがどうして変なのか、刑事さんの説明を聞きたいですね」
館岡が話を戻した。
「それは、館岡さんが、市橋洋子とはどういう女性かとも、その女性が須ノ崎さんの事件にどう関係しているのかとも質問しないからですよ。もし館岡さんが市橋洋子を知らなければ、気になって、真っ先にそうしたことをわたしに尋ねるんじゃないですか。だから、わたしは、館岡さんは市橋洋子を知っていると思ったんです」
「わたしは訊こうとしていた。それなのに、刑事さんが須ノ崎に会っていたんじゃないかなどと言い出したから質問できなくなったんですよ」
「わたしが須ノ崎さんとのことを尋ねる前に質問する間《ま》がなかったとは思えませんがね」
「そりゃ、いきなり知らない女の名前を言われ、どういうことだろうと少しは考えていたから……。じゃ、いま、聞きたいですね。市橋洋子という女性は、いったいどういう女性なんです?」
館岡が話をすり替えて逃げた。
岸川は、これ以上追及しても無駄だろうと思い、しばらく相手に合わせてみることにした。
「桐原氏と何らかの関係があったのではないかと思われる女性です」
「ほう、桐原とね……」
「証拠はないんですが、須ノ崎さんがそう疑っていたらしいんです」
「須ノ崎が……!」
館岡の細い目が眼鏡の奥できらりと光った。「どうしてそんなことがわかったんです? 須ノ崎が誰かに話していたんですか?」
誰か……と言ったとき、館岡の念頭に松尾が浮かんだかどうかはわからない。いずれにせよ、岸川の口から松尾の名を明かすわけにはゆかなかった。
「それは捜査の秘密ですから、教えられません。館岡さんこそ、須ノ崎さんから何か聞いていたんじゃないんですか?」
「何度も言っているように、会ってもいないのに、聞いているわけがないでしょう」
館岡の声が尖《とが》った。
「そうですか」
「そもそも、市橋洋子という女性はどこに住んでいるどういう女性なんです? 桐原と関係があったらしいと須ノ崎が疑っていたからといって、彼の殺された事件にどう関係しているんです?」
館岡が市橋洋子を知っているなら、質問の前半は惚《とぼ》けたことになる。
それを承知で、岸川は訊いた。
「週刊エポックに載った元警官Qを名乗る男の談話は知っていますか?」
知っている、と館岡が答えた。
「桐原氏はそこで、二十三年前に起きた連続幼女|悪戯《いたずら》事件の容疑者だったように言われていますが、館岡さんはあれをどう思いますか?」
「たぶん出鱈目《でたらめ》ですね。桐原がそんなことをしたとはわたしには思えない」
「では、桐原氏が事件とまったく関係がなかった場合、Qはなぜそんな二十三年も前の事件を持ち出したんですかね」
「さあ」
「須ノ崎さんはそこに引っ掛かり、桐原氏と事件の間に何らかの関係があったにちがいないと睨《にら》み、調べたらしいんです。すると、容疑者として逮捕されていた予備校生が自殺し、それから一ヵ月もしないうちに彼の恋人も自殺していたんです。その予備校生の恋人というのが市橋洋子です」
「しかし、それだけでは、たとえ桐原と事件の間に何らかの関係があったとしても、桐原と市橋洋子という女性との関わりは出てきませんね」
「ええ」
「須ノ崎は、どうして二人の間に関係があったのではないかと思ったんでしょう?」
「館岡さんはどうしてだと思いますか?」
岸川は相手の目を見つめ、すかさず反問した。
館岡がぎくりとしたような顔をし、目を逸《そ》らした。
「いかがですか?」
「そんなこと、わたしにわかるわけがありませんよ」
館岡が苦笑いを浮かべて誤魔化した。
「ですが、須ノ崎さんをよく知っている友人として、須ノ崎さんならこんなふうに考えたのではないか、とか……」
「いくら友達でも、そこまでは想像しようがないでしょう。だいたい、もう二年以上会ってもいないのに」
「須ノ崎さんの勘≠ニいう可能性は考えられませんか?」
松尾の言った勘≠ニいう話を岸川は信じていなかったが、一応訊いてみた。立川で会った後、二度|質《ただ》していたにもかかわらず、松尾はそう繰り返していたからだ。
「勘? どういうことです?」
館岡が怪訝《けげん》な顔をして訊き返した。
「文字どおり、須ノ崎さんは勘で、桐原氏と市橋洋子の間に何かあるのではないかと思ったということです」
「勘か……。なるほど、勘ね。もしかしたらそうかもしれませんね」
館岡が応《こた》えたが、本気でそう思っているわけではなく、岸川の差し出した棹《さお》にもっけの幸いとばかりにすがって逃げた、といった感じだった。
これにより、岸川は、須ノ崎がなぜ桐原と市橋洋子の間に関わりがあると考えたのかという理由について館岡も松尾と同様に知っている、という感触をいっそう強めた。同時に、松尾同様、館岡もそれを岸川たちに話す可能性は極めて薄い、と判断せざるをえなかった。
「ところで、須ノ崎が桐原とその女性との関わりを疑っていたからといって、それが肝腎《かんじん》の須ノ崎の殺された事件とどう関係しているんですか?」
館岡が二本目の煙草に火を点け、話を進めた。彼にはすでに想像がついているはずである。
「わたしたちは、須ノ崎さんがそれをネタに桐原氏を脅したのではないか、と考えています」
岸川は明かした。もう隠しておく必要がない。
「須ノ崎が桐原を脅していた、それで桐原に殺された……?」
「その疑いを持っています」
「そうですか……」
「ですから、わたしたちは、須ノ崎さんの握っていたネタの中身を知りたいんです。それがわからないことには、桐原氏の動機がはっきりしませんから」
「桐原が須ノ崎を殺したなんて、わたしには信じられませんがね」
「もしかしたら、桐原氏に対するわたしたちの疑いは見当違いかもしれません。しかし、それならそれで、須ノ崎さんの考えていたことを知らなければなりません。彼の握っていた桐原氏と市橋洋子との関わりを知る必要があります」
館岡が警戒するような目をした。岸川が話をどこへ持って行こうとしているのかわかったのだろう。
「わたしたちは、須ノ崎さんを殺した犯人を一日も早く捕まえたいんです」
岸川は語調を強めた。「わたしたちの目的はそれだけです。この点は館岡さんも理解してくださると思いますが」
「そりゃ、わたしだって、須ノ崎を殺した犯人が早く捕まればいいと思っていますよ」
「でしたら、教えてほしいんです。須ノ崎さんの考えていたことを」
「また蒸し返しですか」
館岡が煙草を口から離し、いかにもうんざりしたといった顔をした。「須ノ崎とは会っていないし、知らない、と言っているでしょう」
「いや、館岡さんは須ノ崎さんに会っているはずです。そして聞いているはずです」
岸川は意図的に断定した。相手の反応を見るために。
「話にならんな」
「けっして館岡さんにご迷惑はかけません。お願いします」
「何度言われたって、知らないものは教えられない」
「館岡さんには、須ノ崎さんと会っていた事実を知られたら都合の悪い事情でもあるんですか?」
「そ、そんなものはない! あるわけがないだろう」
館岡が声を荒らげて否定した。
が、一瞬、目の中を狼狽《ろうばい》の色がかすめたように見えた。
「じゃ、なぜです? なぜ、それほど須ノ崎さんに会ったことを隠すんです?」
「隠してなんかいない!」
「いや……」
「もう帰ってくれ」
館岡が煙草の火を乱暴に押し潰《つぶ》し、腰を上げた。「こっちは貴重な時間を割いて捜査に協力しているのに、そんな言いがかりをつけるんなら、帰ってくれ」
岸川は「わかりました」と応えた。やむをえない。
ただ、館岡の反応により、彼が須ノ崎に会っているのは確実に思えた。そして、彼がそれをどうしても岸川たちに明かさない裏には市橋洋子に関する事情がからんでいるらしい、と想像がついた。
岸川は浦部を目顔で促し、腰を上げた。
岸川たちは、駐車場を縁取るように造られた歩道を通り、桜田通りへ出た。いま館岡に会ってきた九階建ての病院をちらっと見やると、地下鉄の三田駅へ向かって歩き出した。
陽はだいぶ西に傾き、街全体がうっすらと赤味を帯びていた。が、昼の蒸し暑さは相変わらず弱まる気配がない。
「明日で八月が終わりだというのに、まったくちっとも涼しくならない」
岸川は腕を焼く西日を呪うように言った。
浦部は応えなかった。何かを真剣に考えているような顔をしているが、もしかしたら、岸川のぼやきは聞こえないふりをするにかぎると決めたのかもしれない。
慶応大学の正門に近い三田二丁目の信号で桜田通りから逸れ、左の道へ入った。両側に小さな商店が並んだ狭い通りだ。
浦部が岸川のほうへ顔を向け、
「館岡も、松尾と同じですね」
と、前からのつづきのように話しかけてきた。
岸川は、浦部の言わんとしていることの想像はついたが、何が同じなのか、目顔で問うた。
「須ノ崎が桐原と市橋洋子の関わりを疑った理由を知っている、という点です」
浦部が言った。
「それなら間違いないとおれも思う」
岸川は前から歩いてきた人を避けながら答えた。
「そして、その理由というか理由の裏にある事実というか……そこに松尾と館岡も関係しているため、二人はわれわれに事実を明かせない――」
「たぶん」
「ということは、今後とも松尾か館岡からそれを聞き出せる可能性は非常に薄い、というわけですね。それで自分は、それを突き止めるにはどうしたらいいか、と考えていたんですが……」
「うまい方法でも浮かんだかね」
「残念ながら、浮かびません。市橋洋子の母親は知らないと言うし、父親は見つからないし……」
「うむ」
岸川たちは、市橋洋子の母親の依田時子と電話で話した後、洋子の父親を捜してみた。洋子が死んだ二十三年前に住んでいたという大阪と、出身地の神戸を中心に。捜し当てたところで、捜査の手掛かりになるような話を聞ける可能性は薄いと思われたが、念のためである。が、氏名とだいたいの年齢しかわからない、生死もはっきりしない男は、結局見つからなかったのだった。
「部長は、今後どうしたらいいと思われますか?」
浦部が岸川の意見を求めた。
「おれにも、これといったうまい方法は思い浮かばないが……ただ、京都へ行って市橋洋子の母親に当たってみたらどうか、とは考えている」
岸川は前から頭にあったことを答え、道なりに右へ斜めに折れた。
正面、四、五メートル先は第一京浜道路である。山手線の田町駅は通りを渡った向こうに、地下鉄都営浅草線と三田線の三田駅入口は、道路の手前を右か左へ少し行ったところに、あるはずだった。
「依田時子にですか……」
浦部が懐疑的な口振りで応じた。
「電話で話したときの時子には、どこか警戒しているような、堅い鎧《よろい》をまとっているような印象があった。だから、何かを知っていて隠していた疑いがないでもない」
「そうだったんですか」
「はっきりそうだと言えるだけの根拠がないので、きみには話さなかったが」
「じゃ、行ってみましょう」
俄然《がぜん》、浦部が積極的になった。
そうなると、岸川のほうがちょっと腰が引けた感じになり、
「せっかく行っても、無駄足に終わるかもしれないがね」
つい牽制《けんせい》するような言い方をした。
「それでもかまいません。少しでも可能性があるんでしたら、京都へ行き、時子に当たってみましょう。他に、二十三年前の洋子の事情を知っていそうな者はいないわけですし」
そうなのだ。最早、可能性の残っているのは時子だけなのだ。それなら、その可能性がどんなに小さくても追求してみない手はない。電話では時子に拒否されたが、訪ねれば、タイムカプセルから出てきた洋子の小型ノートだって見せてもらえないともかぎらない。
岸川はそう考えると、「わかった、帰ったらさっそく荒井警部に相談してみよう」と浦部に答えた。
2
桐原は、新宿の地下街のトイレに入り、それまで身に着けていたスーツ、ワイシャツ、ネクタイを、数日前に郊外のスーパーマーケットで買って車のトランクに入れておいた安物のサマースーツ、ワイシャツ、ネクタイに替えた。相手の血液や唾液《だえき》、毛髪などが身体に付かないように充分注意するつもりではいるが、万一ということがあるので用心したのである。
脱いだスーツやワイシャツをスーパーの紙袋に入れて近くのコインロッカーに預け、いつも持ち歩いている革鞄《かわかばん》だけ提げて、地上へ出た。
今日は九月一日(金曜日)――。
月は替わったものの、暑さは夏のままだ。いや、今夜は特に蒸し暑いようだ。日が沈んでも気温があまり下がらず、いつ来ても人、人、人でごったがえしている新宿の街は、蒸し風呂のようだった。
桐原は、ハンカチで顔の汗を拭《ふ》き拭き、新宿通りから靖国通りへ移った。タクシーを停め、乗り込む。西武池袋線の東長崎まで、と行き先を告げた。
東長崎で別のタクシーに乗り換え、JR中央線の中野まで行くつもりだった。
時刻はまだ八時六、七分なので、慌てる必要はない。
桐原は緊張していたし、不安がないわけではない。が、それほど恐れてはいなかった。これは手術のようなものだと、思う。それも、成功する確率の非常に高い……。今夜の手術さえ無事に乗り切れば、自分を破滅させようとしている悪性の腫瘍《しゆよう》を取り除ける。そして、何の心配もない、健康な身体がまた戻ってくるのだ。
腰の右側に置いた鞄の中には、スパナと縄跳び用のロープが入っている。それらが三津田を昏倒《こんとう》させ、呼吸を停止させる道具になるはずだった。
場所は、三津田が独りで住んでいるという三恵出版社に隣接した彼の自宅だ。決行予定時刻は九時から十時までの間。出入りを人に見られる危険を小さくするにはもっと遅い時刻のほうがいいのだが、どうしても原稿に訂正したい部分ができたので……≠ニ言って突然自宅を訪問しても、相手に怪しみ警戒されないように、十時前にしたのである。もちろん、差し替え用の新しい原稿は用意してある。
松尾の話だと、急ぎの仕事があってもなくても、三津田は十時頃まで会社に残っていることが少なくないらしい。だから、社の二階に灯《あか》りが点《つ》いていたら、彼が自宅へ帰るまで待つ必要があった。
決行場所を三恵出版社ではなく、三津田の自宅にしたのには理由がある。会社は、鉄板の階段が建物の外側に付いているので、出入りを見られる危険が大きいし、音がするのだ。それに、会社では三津田が一人でいるとはかぎらない。誰かが居残って仕事をしている可能性がある。
というわけで、三津田の家の前まで行っても、社の二階に灯りが点いていたら、桐原は足を止めずに通り過ぎ、少し経ってから戻ってくるつもりだった。三津田の自宅を訪ねるのが遅くなると、それだけ警戒され、やりにくくなるが、やむをえない。
ジュピターは、新宿御苑の近くの駐車場に入れてきた。そこは午前一時までなら出入りできるので、予定より遅くなっても、その点は心配なかった。
桐原は、東長崎駅の二百メートルほど手前でタクシーを降りると、目白通りまで戻った。用意してきた縁の太い眼鏡をかけ、別のタクシーを拾った。
中野駅に着いたのは八時四十三分。
北口で降り、構内を通って南口へ抜け、広場を出た。
前に車で来たときは同じところをぐるぐる回ってしまったが、一度来ているうえに今度は徒歩なので、道を間違うおそれはない。
桐原は、できるだけ顔を下に向けて歩きながら、これからの段取りをもう一度頭に浮かべた。
行動に移るのは、応接間か居間へ招じ入れられてから。相手が背を向けたときがチャンスである。スパナで頭を殴りつけ、倒れたところでロープを首に掛け、絞る。三津田は痩《や》せた老人なので、抵抗されてもたいしたことはない。三津田家に着いたら、チャイムを鳴らす前に鞄のファスナーを開けておき、スパナを簡単に取り出せるようにしておく。
事が済んだら、台所へ行って、スパナをよく洗い、ロープを入れたビニール袋とは別のビニール袋に収める。手袋をして引き出しなどを荒し、現金だけ奪う。ドアのノブなど、触れた可能性のある場所をハンカチでよく拭《ふ》き、外に人がいないのを確認して、玄関を出る。不自然に見えない程度の速足でできるかぎり早く現場から遠ざかり、駅前へ行ってタクシーに乗る。
来たときと同様に途中でタクシーを乗り継いで新宿へ戻り、ロッカーから紙袋を出して、元のスーツとワイシャツに着替える。
着替えたら、歩いて駐車場まで行き、ジュピターに乗ってから、犯行時に着ていたスーツとワイシャツをできるだけ細かく切り刻む。それらを三つに分けて、二重にしたゴミ袋に入れ、固く口を縛る。
あとは、下見をしておいた都市基盤整備公団の団地と都営団地を回り、塵芥《じんかい》置き場にスパナ、ロープ、刻んだ衣類の入った袋と、別々に捨て、帰宅する。
これで、終わりである。
強盗の犯行に見せるつもりだったし、市橋洋子の父親としての三津田と桐原の関係を知る者はいないから、玄関の出入りさえ見られなければ、安全なはずだった。
三津田は、桐原の原稿を受け取ってすぐ、桐原に挑戦的な手紙をよこした。その行動から推して、彼は、自分が洋子の父親だと桐原に見破られたとは思っていないはずである。
だから、夜、桐原の突然の訪問を受けても、まさか桐原が自分を殺しに来たとは思わないだろう。
とはいえ、万一ということがあるので、桐原はより安全な方法を求めて検討を重ねた。人通りのない路上で襲う方法とか、車で轢《ひ》き殺す方法とか……。だが、三津田は夜出歩くことが滅多にないらしいし、短期間のうちに、しかも怪しまれないように、彼の予定を探り出したうえで襲う機会を作り出すのは非常に難しかった。それで、自宅を訪ねて襲う以外にない、と結論したのである。
坂を登り、静かな住宅街の道へ入った。
街の喧騒《けんそう》から遠ざかると、暑さも少し退《ひ》いたように感じられた。
車が一台、擦れ違って去ると、あとは出会う人も車もなかった。
少し行って、ゆるいカーブを過ぎると、左手前方に三恵出版社の倉庫のような小さな建物が見えてきた。
その手前、汚れたブロック塀に囲まれた古い家が三津田の家である。社長の自宅は社屋の並びだと松尾から聞いていたので、この前来たとき、苔《こけ》むした石の門に付いた表札を見て確かめてあった。
三恵出版社の二階の窓が少し開き、灯りが漏れていた。
壁の外側に付いた階段に人の姿はないが、事務所の中には一人か複数か……誰かいるらしい。
時刻は八時五十二、三分。
桐原は、暗い三津田家の玄関を見やりながら、錆《さ》びて半ば腐食したような鉄の門扉の前を過ぎた。
そのとき、階段の上に物音がした。
できるだけ顔を上に向けないようにして見ると、事務所のドアが開き、一人の男が出てきた。
なんと松尾である。
ドアの上の外灯が点いているので、すぐにわかった。
松尾のほうは、下の薄暗い道を行く歩行者が桐原だとは気づかないだろう。
桐原はそう思いながらも、顔を伏せて足速に階段の上り口の前を通り過ぎた。
そのまま速度をゆるめずに歩きながら、背後に神経を集中させていた。
と、松尾が階段を降りてきて、いま桐原がやってきたほうへ去って行ったらしい気配がした。
桐原は、街灯の光から外れた塀際で足をゆるめ、振り返った。
松尾の後ろ姿は、薄闇の重層の奥にだんだん融け込んでゆく。
桐原は、首筋や背中に汗が噴き出しているのに気づいた。冷や汗である。
ほっとし、肩で大きく息を吐いた。
もし松尾がもう三十秒早く帰るか、桐原が三十秒遅れていたら、階段の下でばったり顔を合わせていたところだった。
桐原は、近くを三十分ほど歩き回り、九時二十四分に三津田家の前へ戻った。
三恵出版社の二階の灯りが消え、代わりに三津田家の玄関に外灯が点いていた。
松尾が帰るとき三津田以外の者がいたのかどうかはわからないが、とにかく現在は三津田が自宅へ引き上げ、社に残っている者はいない、ということだろう。
桐原は、歩みを止めずに、前後左右を見やった。
路上には歩行者も車もいなかった。道を挟んだ前の家や隣家のマンションにも、人の動きはない。
彼は足をゆるめた。
全身を太いゴムのバンドで巻かれて引き絞られたような緊張を覚えた。
――いよいよ……。
と思うと、やはり恐ろしかった。人を殺すのもだが、万一失敗した場合を考えると。
できれば、このまま素通りして、逃げ帰りたい。
だが、手術が怖いからといって、いま悪性の腫瘍を取り除かなければ、近い将来、必ず命取りになるだろう。
桐原は意を決し、足を止めた。
やるしかなかった。
――落ちつけ、落ちつくのだ。
と自分に言い聞かせ、深呼吸した。
もう一度、素早く段取りを頭に浮かべる。
鞄のファスナーを開き、中のスパナがすぐに取り出せることを確かめた。
鍵《かぎ》の付いていない錆びた門扉を開ける。指紋を付けないようにしたつもりだが、「帰りにハンカチで拭《ぬぐ》うこと」と胸の内でつぶやいて、中へ入った。
狭い玄関ポーチに立ち、インターホンのチャイムを押した。
肋骨《ろつこつ》を打ち上げてくる心臓の動悸《どうき》を意識しながら、少し待っていると、
「はい」
と、夜の訪問者を訝《いぶか》っているような緊張した男の声がした。
3
桐原が二度目に三津田家の前に立った時刻より三十分ほど前――。
松尾は、三恵出版社を出て、中野駅へ向かって歩いていた。
今日も昼は残暑がきびしかったが、この時間になると、歩いていても汗をかかない程度には涼しくなった。
街へ通じる坂を下り始めると、塀の内側から虫の音が聞こえた。まだ遠慮がちな小さな声だが、三、四匹が呼応するように鳴いていた。
松尾は、足をゆるめてその声に耳を澄ませたものの、すぐに意識はいま見かけた男≠ノ引き戻された。
いまといっても三、四分前である。
――それでは、お先に。
と、松尾が三津田と水谷に挨拶《あいさつ》して、三恵出版社の事務所を出たとき、一人の男が階段の上り口の前を通り過ぎた。その男が桐原に似ていたのだ。
三恵出版社に用事があって来たのでもないかぎり、桐原がこんなところを通るわけがない。それも歩いて。だから、人違いだろうとは思ったが、松尾は階段を降りたところで男の去ったほうを見やった。
後ろ姿がまだ見えた。鞄を片手に提げた男は、足を止めたり振り返ったりする様子もなく、歩いて行く。体形や歩き方が桐原に似ているような感じがしないでもないが、街灯があるとはいえ、輪郭が半ば闇に融けているので、はっきりとはわからない。
――もし桐原なら、ここまで来て、灯りの点いている三恵出版社に寄らないわけはないし、人違いだな。
松尾はそう思い、男に背を向けて歩き出した。
しかし、まだ何となく気になっていたのだった。
桐原の本の仕事をしていたせいかもしれない。
数日前、三津田から、水谷と『政道―わが半生の記』の最終的なページ割りをするので、もし時間があったら一緒に見てくれないか≠ニいう電話を受けた。
そのとき、三津田は、
――いや、凄《すご》いね。これまでの印象から、桐原さんという人は、相当自分で手を入れるんじゃないかと思っていたら、直しらしい直しはほとんどなかったよ。
と、感心したように言った。
桐原が松尾の書いた原稿を気に入ってくれたことは、礼の電話があったので知っていた。そこに加えての三津田の言葉である。松尾は気を好くし、おれの書いた原稿ならできるかぎり良い本を作ってやろう、そんなふうに思って、今日出てきたのだった。
ゴーストライターにも、ゴーストライターとしての誇りがある。誇りと呼べるほど大層なものではないかもしれないが、文章のブの字も知らないような依頼者に下手に直されると、面白くない。表向きの著者は依頼者なのだから、「著者」が何をどう書こうと、直そうと、勝手だったし、ゴーストライターがとやかく言う筋合はない。理屈ではそうわかっているが、せっかく考えて書いた表現を、陳腐で大袈裟《おおげさ》な表現に替えられたりしたときは、何だか自分の作品≠ェ汚されたような気分になる。
最近、松尾は、ゴーストライターは一種の職人だと思うようになった。職人の作った家具などは、ほとんどの場合、製作者の名が記されることはない。それでも、職人は自分の仕事に誇りを持っているし、作品に自信を持っている。それと同じように、松尾も仕事に手抜きをしないし、自分の書いたものに自信を持っている。だから、職人が、自分の作ったテーブルの角を注文主が勝手に削ったりすれば怒るように、松尾も、自分が考えて書いた文章を依頼者が稚拙な表現に替えたりすれば、怒りたくなる。もっとも、多くの職人と同様に、口に出すことはないが……。
それとは逆に、依頼者に気に入ってもらえたときは、嬉《うれ》しい。しかも、今度の依頼者は特別である。桐原は、三津田の言ったようにうるさい注文をつけてくるのではないかと思われた≠セけではない。松尾に「半生の記」の代筆を依頼しようと決めたとき、彼の中には松尾の力量を試してやろうといった気持ちがあったはずなのだ。そのため、松尾は、これまで以上の緊張を強いられたが、礼の言葉――桐原に礼を言われたのなど初めてだった――によって、彼の評価のほどを知らされた。それだけに、一仕事終えてほっとすると同時に喜びもひとしおなのだった。
松尾は坂を下ると狭い裏通りを抜け、大通りに出た。
自動車がひっきりなしに行き交い、そこには、虫の音が響いていた住宅街とは別世界の喧騒《けんそう》があった。直線にすれば百メートルと離れていないのに。
今夜は三津田が取ってくれた出前のチャーハンで夕食を済ませていたから、家へ帰るだけである。
青梅行きの直通電車が来ればいいが、幸運に当たる確率は高くない。
横断歩道を渡ってきたサラリーマンらしい中年の男が、松尾の前を歩き出した。
と、男がそれほど桐原に似ていたわけでもないのに、さっきの男の後ろ姿が松尾の脳裏に浮かんできた。
――桐原であるわけがない。
そう思うが、気になった。
それは、今夜桐原の『政道―わが半生の記』の仕事をしていたせいだけではないようだ。
ここ一ヵ月半ほど、松尾の意識にはずっと桐原≠ェ引っ掛かっていた。先月十日、立川で郁美に会った後、岸川刑事たちと話してからは特にそうである。
桐原が須ノ崎を殺した犯人だと思いたくはないが、岸川の話では容疑は相当濃いようだった。須ノ崎が殺された晩、桐原は、須ノ崎の死体が見つかった荒川河川敷の近くへ行っていたらしい。
それを桐原は誰かの謀略≠セと言ったらしいが、須ノ崎を殺害したうえに桐原にそんな罠《わな》を仕掛けた可能性のある人間など、どこにもいない、と岸川たちは言う。
岸川たちが先に喫茶店を出て行き、ひとり残った松尾が、彼らに市橋洋子のことを話してしまったことで、後悔とも、これでよかったのだという思いともつかない落ちつかない気分でいたとき、脳裏に三津田の山羊鬚《やぎひげ》が浮かんできた。
かつて桐原のことを知りたがっていた三津田。先々月の十五日、早急に三津田と三人で会いたいと言ってきた桐原……。彼らの態度や様子に、松尾が漠然とした疑惑を感じていたせいかもしれない。そのへんの意識の流れははっきりしないが、桐原の言う謀略≠仕掛けた誰かというのがもし実在したら……と思ったとき、ふと三津田の顔が浮かんだのである。
といっても、そのときはさほど気にとめたわけではない。岸川たちの捜査の推移を見まもっていれば、いずれはっきりするだろう、と思っただけだった。
ところが、岸川たちの捜査は目立った進展を見せず、松尾は、次第に三恵出版社社長としての三津田ではない三津田≠ェ気になり出した。
須ノ崎は、市橋洋子と桐原の間に何らかの関わりがあったらしいと睨《にら》み、さらに調べてやる、と言っていた。その後の話を聞く前に須ノ崎は殺されてしまったので、彼が何かをつかんだのか、あるいはまだつかむ前だったのか、松尾にはわからない。
ただ、松尾の話を聞いた岸川たちは、
〈須ノ崎が、桐原と市橋洋子に関わる秘密をつかみ、それをネタに桐原を脅した、そのために桐原に殺された〉
と考えたようだ。
が、もう一つ、別の見方もできる。
桐原にけっして表に出せない秘密≠ェあった場合、それは二十三年前の洋子の死に関係していた可能性が高い。そこには、松尾を介して須ノ崎も関わっていた。
それを、洋子の親しい身内が知ったとしたら、どうなるか。須ノ崎を殺し、その罪を桐原に被せる工作をしなかったとは言い切れない。
市橋洋子の親しい身内、父親――。
それが、もしかしたら三津田ではないか、と松尾は思ったのだ。つまり、次のように。
〈洋子の父親の三津田恵一が、須ノ崎を殺害し、桐原を罠にはめたのではないか〉
三津田は二度結婚しているらしいから、生きていれば四十二、三になる娘がいたとしてもおかしくない。
また、三津田が市橋洋子の父親だと考えると、松尾と知り合った頃の彼の態度も合点がゆく。三津田は洋子から「桐原」という名前だけは聞いていたものの、二人の関係までは聞いていなかった。そこで――当時の三津田には桐原に対して含むところなどなかったはずだから、単純な興味から洋子と桐原の関係を知りたくなり――大学時代の桐原にガールフレンドか恋人がいなかっただろうか、と松尾に訊《き》いたのではなかったか。
それから、この前の桐原の不自然な要請である。三津田と三人で早急に会いたい≠ニいう。あれも、桐原が、何らかの事情から三津田が洋子の父親らしいと知り、三津田に会ってそれとなく確かめたかったのだと考えれば、うまく説明がつく。
一方、この考えには大きな難点もある。
三津田は、〈洋子の死に桐原が関わりを持っていたといつどこでどうやって知ったのか〉〈そこに須ノ崎が関わっていたとどうして知ったのか〉が、わからない。
それにもかかわらず、松尾は、一度この考えが頭に浮かんでからは気になって仕方がないのだった。
今日、三津田と一緒に仕事をしていても、ふと気がつくと、三津田が自分の推理を裏づけるような言葉を漏らさないかと耳をそばだて、彼が桐原の写真を手にしたときは、顔に憎しみか嫌悪の表情が浮かんでいないかと探るように見ていた。また、この人が市橋洋子の父親なのだろうか、と何度も考えていた。この人が須ノ崎を殺した犯人なのだろうか、と。
時々鋭い目つきをすることはあっても、松尾の知るかぎり、三津田は温厚な、痩《や》せた老人である。ケチではあるが、とても殺人を犯せるような人間には見えない。
それに、もし三津田が二十三年前の須ノ崎と洋子との関わりを知って須ノ崎を殺したのなら、当然、松尾と洋子の関わり≠熬mっているはずである。三津田の知識の度合によるが、須ノ崎に対するのと同等か、それ以上の怒りと憎しみを松尾に抱いているはずである。松尾の命も狙っているはずである。ところが、今日にかぎらず、これまでの三津田の態度、言動からは、そうした怒りや憎しみ、殺意は感じられなかったし、巧みな演技によってそれらを隠しているとも思えなかった。
ということは、松尾の想像が間違っているのかもしれないが、ただ間違いにも二通りある。
〈三津田が洋子の父親である〉〈彼が須ノ崎を殺した〉という二つの想像が間違っている場合と、〈三津田が洋子の父親である〉という想像は正しいが、〈彼が須ノ崎を殺した〉という想像が間違っている場合だ。
いずれにしても、この結論を採れば、三津田は須ノ崎殺しの犯人ではなくなるわけだから、須ノ崎の事件とは無関係になる。
松尾はこの結論を望んでいるが、ただその場合、桐原が須ノ崎を殺した疑いが強まる。三津田ではない洋子の父親か、洋子とは無関係な人間――このどちらかが須ノ崎を殺し、桐原を陥れた可能性は残るが。
桐原が須ノ崎を殺した犯人だった場合、殺人者を夫に持った郁美と、殺人者を父に持った郁美の子供たちは哀れである。
が、それは、松尾にかぎらず、誰にもどうしてやることもできない。
松尾は、高尾行きの電車に乗ってからも吊り革の下に立って考えつづけた。須ノ崎を殺した犯人について、桐原について、三津田について、そして市橋洋子について……。また、岸川たち警察は犯人を逮捕し、真相を明らかにできるのだろうか、と。
須ノ崎の殺された事件に二十三年前の市橋洋子の死が関わっているなら、松尾の過去の行為も明らかにならざるをえないだろう。
そうなったとき、もし三津田が洋子の父親なら、当然ながら、松尾はこれまでの生活をつづけてゆくことは不可能になる。が、三津田が洋子の父親でないなら、松尾の生活はそれほど変わらないかもしれない。これまでどおり、三津田から仕事をもらい、ゴーストライターをつづけてゆくことになるかもしれない。なぜなら、松尾の罪は時効が成立していたし、彼の場合、週刊誌やテレビのネタにされて社会的に葬られるような地位や職業に就いているわけではないから。
ただし、それは、あくまでも表面上の生活である。心の内がどうなるかは、松尾にも想像がつかない。「松尾」という名は表に出なくても、卑劣な犯罪を行ない、しかもそれをずっと隠しつづけてきたのは紛れもなく松尾である。そのことについて、世間から激しく糾弾されるのは間違いない。それに耐えられるか――。いや、一番の問題は、そうした外からの非難、攻撃ではないかもしれない。二十三年という長い歳月をかけて誤魔化し、慣れてきた心の傷≠ノ、また正面から向き合わなければならないということかもしれない。そうなったとき、果たしてこれまでどおりの平静な暮らしがつづけられるかどうか。
どうなろうとも、自業自得である。だから、松尾はそれを潔く受け入れるつもりではいるが……。
松尾は、岸川たちに市橋洋子の名前を教えたことを後悔していない。それによって、二十三年前の自分の犯罪が明らかになったとしても。
しかし、そう思いながらも、もしかしたらどこかで悔んでいるのかもしれなかった。心のどこかに、教えなければよかったという気持ちがあるのかもしれなかった。そのへんのところは松尾自身にもはっきりしない。
わかっているのはただ一つ、もう教えてしまったのだから、その結果、岸川たちの捜査がどこまで進むか、見ている以外にない、ということだけだった。
三鷹で前の座席に掛けていた男が降りたので、松尾は座った。
軽く目を閉じる。
夏の間中、汗まみれになって仕上げた『政道―わが半生の記』のことを考えた。
桐原が原稿を読み、松尾の手で書き換えたり書き加えたりする点はないと判明した時点で松尾の役割は済んだはずなのに、三津田に頼まれ、今日、最終的なページ割り作業に加わった。が、今度こそ完全に松尾の手を離れた。あとは本になってくるのを待つだけである。
きっと、内容も装丁も立派な本ができるだろう。
ただ不安は、そのとき、もし桐原が須ノ崎を殺した容疑者として逮捕されていたらどうなるのか、という点だった。あるいは、本ができて桐原の友人・知人に配られてから桐原が殺人犯人だとわかったら、どうなるのか。松尾の書いたのは、〈これまで象牙《ぞうげ》の塔の中で研究してきた理想の政治を日本という国に実現させるため、東央大学教授の椅子を捨て、泥まみれになる覚悟で政治の世界へ飛び込もうとしている男〉の半生の記録である。その理想と使命感に燃える男≠ェ高校時代の友人を殺した犯人ということになったら、どうなるのか……。
『政道―わが半生の記』の内容は、あまりにも事実にそぐわなくなるだろう。
松尾は、桐原が須ノ崎を殺した犯人ではないことを願う。桐原のためにも、郁美のためにも、そして自分の書いた桐原の「半生の記」のためにも。
だが、そのときは、須ノ崎がつかんだかもしれない桐原と市橋洋子との関係、洋子の死の真相≠ヘ永久にわからないままになる可能性が高い。
それは、たぶん、二十三年前の松尾の犯罪も表に出ないままに終わる、ということなのだろう。
そうなれば、松尾はきっと安堵《あんど》するだろうが、一方、消化されない物がいつまでも腹の中に溜《たま》っているような、すっきりしない気分がつづくにちがいない。松尾は事実を知りたい。自分の行為と市橋洋子の死の裏に、須ノ崎の疑っていたような桐原の関わり≠ェあったのなら、それを知りたかった。だからこそ、この二十三年間、一度も口にしたことのなかった市橋洋子の名を岸川たちに教えたのである。
いずれにしても、岸川たちの捜査の進展と結果を待つ以外にない……と、松尾が前と同じ結論に行き着いたとき、いや、行き着きそうになったとき、
――市橋洋子の父親がもし三津田だったら、どうなるのか。
という、さっきさんざん考えた問題がまた意識に引っ掛かってきた。
それにつづいて、やはりさっき三恵出版社を出たときに見た桐原に似た男の後ろ姿が脳裏に浮かんでくる。桐原であるわけがない、と決着をつけたはずなのに、またその男が気になり出した。
――桐原だった可能性は絶対にないだろうか?
と、自問する。
胸がざわめき出し、
――もしかしたら、桐原だったのではないか……。
と、思い始めた。
――あれが桐原なら、あの時刻、彼はどうしてあんなところを歩いていたのか。
三恵出版社を尋ねてきたとしか考えられない。
だが、彼は階段を上ってこなかった。事務所の窓に灯りが点《つ》いていたにもかかわらず。それはなぜか?
――松尾に気づいたからだろう。
しかし、松尾に気づいたからといって、なぜ逃げるように階段の下を通り過ぎたのか。
松尾はハッとして目を開けた。
桐原は、三恵出版社を尋ねてきたわけではなく、三津田個人を尋ねてきたのではないだろうか。
もしこの想像が当たっていれば……と松尾は思う。あのとき自分が出て行かなくても桐原は階段を上ってこなかった可能性が高い。事務所の灯りが点いていれば、三津田の他に誰かいるかもしれないから。そして、桐原は、事務所が暗くなるのを待って、三津田の自宅を訪ねようとしていた……。
その場合、『政道―わが半生の記』に関わる用件ではないだろう。
では、いかなる用件か? 具体的には想像がつかないが、桐原は三恵出版社社長の三津田ではなく、市橋洋子の父親の三津田に会いに行った――。
松尾の胸はさらに大きく騒ぎ始めた。口が渇き、息苦しくなった。まさか、桐原が三津田に危害を加えはしないだろう。そう思うが、不安は去らない。もし何かあってからでは遅い。後で悔むことになる。
松尾は、首を回して窓の外を見た。
暗いので、電車がどこを走っているのか、はっきりしない。
そのとき、間もなく国分寺≠ニいう乗り換えを案内するアナウンスが流れた。
松尾は降りるために立ち上がった。
三津田の自宅と三恵出版社に電話をかけ、もし誰も出なかったら、中野へ引き返すつもりで。
4
九月九日(土曜日)――。
岸川は浦部と東京駅で落ち合い、午前七時四十五分発の「ひかり」に乗った。
京都に依田時子を訪ねる予定だった。
岸川たちとしては今週の初めにも行ってきたかったのだが、三枝や荒井の許可が下りなかったのだ。
京都に着いたのは十時二十九分。
南北自由通路を通って烏丸《からすま》口に降り、市バスの案内所で教えられた5番のバスに乗った。
四条河原町、平安神宮、南禅寺と通って約四十分、大きな十字路の手前でバスを降りた。停留所名は銀閣寺道。東へ五、六百メートル入ると銀閣寺だという。
東京を出るときは晴れていたのに、西へ進むにしたがって雲が多くなり、京都は小雨が落ちていた。
岸川たちは傘の用意をしてこなかったので、雑貨屋の店先にあった白いビニール傘を買い、横断歩道を渡って、いまバスに乗ってきた白川|通《どおり》を五、六分戻った。
地図で調べてきたので、依田時子が住んでいる「ハイツ銀閣」はすぐに見つかった。壁に茶色のレンガタイルを貼った、四階建てのこぢんまりしたマンションである。
玄関を入ると、片側に郵便受けが並び、反対側に階段が付いていた。エレベーターはないらしい。
岸川たちは、302号室の郵便受けに「依田」という名札が入っているのを確かめてから三階まで上り、インターホンのボタンを押した。
「はい」
と、女性の声が応答した。
「依田時子さんでしょうか?」
岸川は確認した。
相手が訝《いぶか》るような声でそうだと答えた。
「わたしは、この前お電話した東京警視庁の岸川という者ですが」
岸川が名乗ると、時子は驚いたらしく、息を呑《の》むような気配が伝わってきた。刑事が来訪するとは予想していなかったのだろう。
「今日は、先日の件でもう少しお話を伺えたらと思い、まいりました」
「お話しすることは何もありません」
時子がきっぱりと言った。硬く、冷たい調子だった。
「短い時間……」
「この前申し上げたとおりです」
時子が岸川の言葉を遮った。「わたしは桐原さんという方も栗本さんという方も存じ上げません。ですから、お話しすることがないのです」
「十分間だけで結構です。何とか会っていただけませんか」
「お会いしても無駄ですわ。せっかくいらしたのに申し訳ありませんが、どうぞお帰りください」
時子はドアを開けようとしない。
岸川は困ったが、時子の態度が引っ掛かった。なぜ、これほど頑《かたくな》に会おうとしないのか。娘の不幸に関わる件とはいえ、洋子が死んだのはもう二十三年も前である。単に触れられたくない話だから、というのでは納得できない。
それに、岸川が電話で一度言っただけの桐原、栗本という名を正確に記憶していたというのも、考えてみれば不自然だった。
岸川は、もしかしたら……≠ニ思ってきた予測が当たったのかもしれない、と思った。
となれば、何としても時子にドアを開けさせ、彼女の話を聞かなければならない。
――それにはどうしたらいいか?
岸川が方策を考えていると、
「誰なんだね?」
時子に問うたらしい男の声が小さく聞こえた。
たぶん、現在の夫であろう。
時子の答えた言葉は、彼女が送話口を塞《ふさ》いだらしく、聞こえない。
夫婦で何か話しているらしかったが、一、二分して不意に時子がインターホンの向こうに戻り、
「それじゃ、十分間だけお会いします」
相変わらず硬い声ながら言った。
岸川たちについて夫にどう話したのか、刑事だと言ったのかどうか、はわからない。が、木で鼻を括《くく》ったような彼女の応対を耳にした夫に、失礼じゃないかとでもたしなめられたのかもしれない。
そうした経緯はどうあれ、岸川たちにとって時子の返事は大歓迎である。岸川は思わず「そうですか!」と少し高い声を出した。
しかし、時子はそれには取り合わず、冷ややかな調子でつづけた。
「下の通りを渡って、北へ百メートルほど行ったところに『スーベニア』という喫茶店がございます。そこへ行って待っていてください。わたしも支度をしてすぐにまいりますから」
その声を聞いて、岸川は自分の想像を訂正した。時子が自分たちに会う気になったのは、夫にたしなめられたためというより、刑事とのやり取りをこれ以上夫に聞かれたくなかったからかもしれない……。
スーベニアは、入口の自動ドアが格子戸という和風喫茶だった。店の前には、小石を敷き詰めて布袋竹《ほていちく》を植えた小さな庭が造られ、店内には鉢植えの竹、障子風の壁、ぼんぼりなどが適当にあしらわれていた。
時子に言われたとおり、岸川たちが先に行って、レジの見える席に待っていると、六、七分して時子が現われた。客の出入りが結構あったが、グレーがかった紺地に茶の縞模様が入ったワンピースを着た女性が入ってくると、岸川たちはすぐに時子だとわかった。女性のほうも、入口に用意されたビニール袋に傘を入れると、顔を上げてちょっと店内を見やっただけで、真っ直ぐ二人のほうへ歩いてきた。真っ白い髪をした小柄な女性だった。
岸川たちは立ち上がって迎え、先に名乗ってから時子であることを確認した。
名刺を渡し、会ってくれた礼を述べる。
「どうぞお掛けください」
と促してから、自分たちもテーブルを挟んだ前の席に腰を下ろした。
髪は白かったが、時子は老人と呼ぶのがはばかられるような肌をしていた。七十歳近いはずなのに、皺《しわ》も染みも少なく、六十と言っても通りそうである。黒いメタルフレームの眼鏡をかけた顔は少しきつい感じがするものの、若い頃の美貌《びぼう》を思わせる二重|瞼《まぶた》の大きな目と、形の良い高い鼻をしていた。
岸川は、時子がレモンティーを注文するのを待って、早速本題に入った。
「この前お電話したとき、初めに申し上げたように、わたしたちは、六月の末に東京で起きた殺人事件について調べています。そうしたら、ある参考人の話に市橋洋子さんのお名前が出てきたんです。それで、お話を伺いに上がった次第です」
時子は何も応《こた》えなかった。視線を岸川からわずかに逸らすように下に向け、ハンカチを握りしめた手を腿《もも》の上に置いていた。
硬く強張《こわば》った表情をしているものの、さっき自宅で応対したときの冷ややかさとは違うようだ。どこか警戒しているような感じがする。相手の顔が見えないインターホンと違い、目の前にむくつけき刑事たちの顔があるせいかもしれない。
「お嬢さんのお名前が出てきたといっても、当然ながら、二十三年前に亡くなられた洋子さんが事件に直接関わっているわけではありません」
岸川は強調した。時子の口を開かせるためには彼女を安心させる必要がある、と思ったからだ。
「ここだけの話として聞いてください。この前言った桐原政彦というのは、実は容疑者の一人なんです」
岸川はつづけた。「桐原は、須ノ崎昇という被害者とは高校の同級生です。洋子さんが東京の専門学校に通っていた二十三年前、彼らも東京の大学に通う学生で、その頃、桐原と洋子さんの間に何らかの関わりがあったらしいんです」
時子は、それはどんな関わりかと尋ねなかった。もし知らなければ、気になるのが普通なのに。
もちろん、それだけで、桐原と洋子の関わりを時子が知っていると判断するのは早計だが、岸川はその疑いを持った。
「その関わりは、もしかしたら洋子さんが亡くなった事情にも関係しているのではないか、とわたしたちは考えています」
岸川は、浦部と話し合った一つの可能性を口にした。
瞬間、時子の頬がぴくりと痙攣《けいれん》したように見えた。
「依田さんは、桐原という男をご存じなんですね?」
岸川は押した。
「いいえ、存じません」
と、時子がちょっと目を上げて強く首を振った。全身が、がちがちに緊張している感じだった。本当に知らないことを知らないと答えるのなら、どうしてそれほど緊張する必要があるのか。
「殺された須ノ崎氏は、二人の関わりをつかんで、桐原を脅していたと思われるんです。つまり、もし桐原が犯人なら、その関わりは絶対に表に出せないもの……秘密だった、そう考えられます」
時子は何も言わない。
「洋子さんの名前は出しませんから、二人の関わりを教えてください」
「知らないものは教えられませんわ」
「でしたら、二十三年前の夏、洋子さんがタイムカプセルに入れ、この五月に出てきたという小型ノートを見せてくれませんか」
「ノートにはそうしたことは書かれておりません。この前、電話で申し上げたとおり、インテリアデザイナーになりたいという洋子の夢が綴《つづ》られていただけです」
「それでも結構です」
「お見せできません。この前、そう申し上げたはずです」
時子が拒否した。
だが、やっと会えたのである、岸川たちは、ここではい、そうですか≠ニ引き下がるわけにはゆかない。
「伺いました。ですが、洋子さんの亡くなる直前に書かれたものなら、捜査の参考になることが見つかるかもしれないんです」
「書かれていないのに、そんなものは見つかるわけがありません」
「洋子さんが意識して書いていないため、お母さんが読んでも気づかないといった場合があります。ですが、わたしたちの目で見れば、違います。何でもないような事柄が書かれているところに重要なヒントを見つけられるかもしれません」
時子は応えない。
「ですから、お願いします」
ノートを見せてください、と岸川は大きなおでこをテーブルに触れんばかりにして頼んだ。
すると、時子の目に戸惑ったような色が浮かび、
「わたしのところにはございません」
意外な答えが返ってきた。
「電話では、確か、もう見ないつもりで、洋子さんの遺品を入れてある箱に納めてしまった、と……」
「この前はそう申し上げましたが、そばにあると辛《つら》いので、ある人に預けてしまったんです」
「でしたら、その方を教えてくれませんか。これから訪ねますから」
「遠くに住んでいる方です」
「遠くても結構です。どこの、何という方でしょう?」
「教えられません」
「依田さんと……あるいは洋子さんと、どういう関係の方でしょうか?」
「それも申し上げられません」
「もしかしたら、洋子さんの父親では?」
「いいえ、違います。この前申し上げたように、洋子の父親は、生きているのか死んでいるのかもわからないんですから、預けたくても預けようがありません」
「では……」
「もうしばらくお待ちください」
時子が岸川の言葉を遮った。
「えっ!」
と、岸川は時子の顔を見つめた。
「もうしばらくお待ちください」
時子が表情を変えずに繰り返した。
「どういう意味でしょう。しばらくすれば見せてくれるということですか?」
「そう取ってくださっても結構です」
「そう取っても……? もしかしたら、ノートを預けてある先方の方が何かするという意味ですか?」
「さあ」
「例えば、週刊誌にでも持ち込み、載せるとか……」
「これ以上はお答えできません。初めは、刑事さんたちにこんなお話をするつもりはなかったのですから」
いったいどういうことか、と岸川は頭の中で自問した。
わからない。
ただ、洋子が二十三年前に書いた文章が何らかのかたちで表に出されるらしい、ということだけは想像がついた。
しかし、誰が、何のために――。
岸川の脳裏に、「元警官Q」の名が浮かんだ。
洋子の文章を表に出そうとしているのがQと同一人物かどうかはわからない。その目的もはっきりしない。ただ、それをしようとしている人間の心の内だけは、漠然とながら見えるような気がする。その行為の動機は、桐原に対する何らかの悪意≠ナあるのは間違いない。
ということは、小型ノートに書かれているのは、インテリアデザイナーになる洋子の夢なんかではなかった、と考えられる。そこには、公表されたら桐原が困難な立場に立たされる事柄が書かれていたにちがいない。
岸川はそう推論すると、訊《き》いた。
「タイムカプセルから出てきたノートには、やはり洋子さんと桐原との関わりが書かれていたんですね?」
時子は無言。そうだともそうじゃないとも答えない。ただ、さっきと違って目を下向けず、じっと岸川を見つめ返していた。
「インテリアデザイナーになる夢なんかではなかったんですね?」
「その文章は、『俊とともに』という題でした」
時子が、岸川の問いに答える代わりに言った。
「シュン? もしかしたら、自殺した洋子さんの恋人、栗本俊の俊ですか?」
はい、と時子が答えた。
「では、そこには、連続幼女|悪戯《いたずら》事件のことが書かれていた?」
「あとはご想像ください。そして、もうしばらくお待ちください」
時子が前と同じ言葉を繰り返した。
「一つだけ……もう一つだけ、教えてください」
「何でしょう?」
「洋子さんの自殺された事情に桐原は関係していたんでしょうか?」
「それは、洋子の手記からはわかりません。洋子が『俊とともに』を書いて、クラス会のタイムカプセルに納めたときには、わずか半月もしないうちに自分が自殺するとは想像もしていなかったはずですから。二十三年後の今年、二〇〇〇年まで生きて、自分でそれを読むつもりでいたんですから」
時子の顔が悲しげに歪《ゆが》み、目に涙がにじんだ。
「そうか、そうですね」
岸川は時子から目を逸らして、うなずいた。
時子が、眼鏡をかけたままハンカチで目尻《めじり》を押してから、目に怒りの色を浮かべ、
「ただ、わたしは、桐原という男が洋子を殺したようなものだと思っております」
強い調子で言った。
「それは……?」
「桐原という男のせいで栗本さんが亡くなったからです。もし栗本さんさえ生きていれば、どういう事情があっても、洋子は自殺なんかしなかったはずなんです」
「桐原のせいで栗本俊が死んだ? それはどういう意味でしょう?」
「詳しい事情は、本当にもうしばらくお待ちください」
時子が繰り返した。
「そうですか」
岸川は引いた。残念だが仕方がない。
いや、ここまで聞き出せたのだから、満足すべきだろう。京都まで来た甲斐《かい》があった、と思うべきだった。
彼は、わかりました、どうもありがとうございました、と礼を述べた。
時子が、運ばれてきたままになっていた紅茶にレモンを入れ、静かに啜《すす》った。
岸川たちは時子を残して先に喫茶店を出ると、横断歩道を渡って、銀閣寺道の停留所へ向かって歩き出した。
雨は本降りになっていた。
「二十三年間タイムカプセルの中で眠っていた市橋洋子の『俊とともに』という手記は、いったい誰の手に預けてあるんですかね」
岸川の横に並んだ浦部が、透明なビニール傘を反対側に傾けて話しかけてきた。
「どこの誰かはわからないが、おれは、どうも元警官を名乗ったQという男……いや、姿を見せていないので、男かどうかはっきりしないわけだが……そいつじゃないかという気がする」
岸川は答えた。
「そして、そいつがまた、週刊誌かテレビ局にでも手記を送りつけるつもりでいる?」
「たぶん」
「その場合、桐原が二十三年前の連続幼女悪戯事件の容疑者だったという出鱈目《でたらめ》なネタを週刊誌に流したのは、伏線のようなものだったわけですかね。いきなり、『俊とともに』という文章を送りつけても、唐突すぎて相手にされないかもしれませんが、ああして二十三年前の連続幼女悪戯事件のことを知らせておけば、週刊誌やテレビ局は飛びつきますから」
「そうかもしれない」
「Qの目的は何なんでしょう?」
「もしQが市橋洋子に関わりの深い人間だとしたら、桐原に対する復讐《ふくしゆう》だと思うが、そうでない場合はよくわからない。単に時子に頼まれて、彼女の娘の恨みを晴らしてやろうとしているのかもしれないし、時子に相談されるか、何かの事情から『俊とともに』という手記の存在を知り、それを利用して、次の総選挙に政友党から立候補が予定されている桐原を社会的に葬ろうとしているのかもしれない」
「Qと須ノ崎殺しとの関わりはどうなるんですかね」
「直接の関係はないように思うが……」
「ですが、もしQが桐原に深い恨みと憎しみを抱いている人間だとしたら、桐原を須ノ崎殺しの犯人に仕立てる工作をしてもおかしくありません」
「桐原の言った誰かの謀略の誰か≠ェQだった、というわけか?」
「ええ」
「だが、それだと、Qが須ノ崎を殺したことになってしまう。Qがどんなに桐原を憎んでいても、桐原に復讐するために……そのためだけに別の人間を殺すかね」
「そうか、そうですね」
浦部が苦笑いを浮かべた。
「ただし、Qに須ノ崎を殺す動機があれば話は別だが」
岸川は、ふと思いついて、言った。
「Qに須ノ崎殺しの動機ですか!」
浦部が心持ち声を高めた。「そんなものがあったとは思えませんが」
「少なくとも、これまでに判明している事実からは窺《うかが》えない。だが、Qの正体がわからない以上、断定はできないだろう」
「そうか……」
「もちろん、その可能性は低いとは思うがね。おれは、やはり桐原が犯人だと考えているし」
「自分も、桐原が犯人であるのは間違いないと思います」
浦部が背筋を伸ばして、語調を強めた。
うん、と岸川はうなずいた。
ちょうど歩道の右側の家並が切れ、狭い路地の奥に低い丘――低いが東山三十六峰の一部だろう――が雨にけぶっていた。
「ということは、われわれにとっての問題は、Qの正体やQの目的ではなく、市橋洋子の手記に桐原の何が書かれているか≠ニいうわけですね」
「そうなる」
「そこに書かれていることが、須ノ崎のつかんだ桐原と洋子の関わり≠ネんでしょうか?」
「そのものずばりではなくても、関係はしていると思う。とにかく、そうであることを願っているよ」
「そうですね。もし全然関係なかったら、市橋洋子の手記が公にされても、われわれの捜査には役に立たないかもしれないわけですから」
岸川たちはバスの停留所に着いた。
停留所には屋根が付いていたが、人がいたので、二人は少し離れたところで足を止めた。
「それにしても、須ノ崎は、どうやってそれをつかんだんでしょうね」
浦部が道端の銀杏《いちよう》の木に寄って、つづけた。
岸川は首をひねった。彼にも見当がつかない。
「市橋洋子の手記がタイムカプセルから取り出されたのが五月なら、それを読んだ可能性もゼロじゃありませんが」
「いや、時間的には可能でも、それはありえないと思う」
岸川は、傘を差さずにマウンテンバイクを走らせてきた少年を避けた。
「そもそも、須ノ崎がなぜ桐原と洋子の間に関わりがあると考えたのか、という問題がありましたね」
「うん」
「松尾は須ノ崎の勘≠セと言ったが、それは嘘で、松尾はその理由を知っていて隠している――」
「隠しているのは松尾だけじゃない。館岡もだ。館岡も須ノ崎が殺される前に会って聞いているのは間違いないとおれは思う」
「そうですね」
と浦部が相槌《あいづち》を打ったとき、岸川の頭に何かが引っ掛かってきた。
彼は意識を集中させ、引っ掛かってきたものを見極めようとした。
すると、やがてそれが見え始め、
――そうか、そういうことだったのか。
と、思った。
岸川は、先月の末、病院の応接室で会った館岡の顔を……岸川が市橋洋子の名を出したときに見せた彼の表情を、思い浮かべた。目に驚愕《きようがく》の色を宿した、凍りついたような表情である。
館岡は笑って誤魔化し、市橋洋子なんていう女性は知らないと言ったが、彼が洋子を知っていたのは間違いない。それも、須ノ崎から聞いて最近知ったという感じではなかった。館岡の示した反応は、洋子の生きていた二十三年以上前にかなり重大な関わりがあったらしいことを窺わせた。
また、松尾も市橋洋子を前から知っていたのは確実だと思われる。
これらの認識は、これまでも岸川の中に存在していた。ずっと、彼にこだわりを感じさせていた。そのこだわりが、いま、浦部との会話をきっかけにして、須ノ崎が桐原と市橋洋子を結び付けた理由≠彼に気づかせたと言えるかもしれない。
松尾は、須ノ崎から理由≠ヘ聞いていないと言ったが、それは事実だったのだ。証拠はないが、岸川はそう思う。松尾はその理由を知っていたので[#「その理由を知っていたので」に傍点]、須ノ崎から聞く必要がなかったのだ。
なぜなら、それは、
〈須ノ崎・松尾・館岡と、市橋洋子との関わり〉
だったから。
須ノ崎は、自分たち三人と関係のある市橋洋子が、関係のないはずの桐原[#「関係のないはずの桐原」に傍点]と連続幼女悪戯事件を介して結び付いているのに不審を抱いた。偶然にしては変なので、どうしてかと疑問に思い、松尾に話したように、調べてみた。そして、桐原の秘密=\―たぶん洋子の死に関係した桐原と彼女との関わり――をつかんだ。いや、まだ推理の段階だったのかもしれないが、桐原にとっては、つかまれたのと変わらないぐらい大きな脅威だった。そのため、桐原は、それをちらつかせて脅迫してきた須ノ崎を殺害した――。
須ノ崎と市橋洋子との間に関わりがあったと考えると、彼が桐原の秘密≠ノ気づいた事情も納得できるような気がする。
岸川が自分の推理を浦部に説明し始めたとき、バスが来た。
彼らは話を中断してバスに乗った。
京都駅に着いたのは十二時四十七、八分。
一時三十四分発の「ひかり」の指定席特急券を買ってから、駅ビルの地下にあるレストランに入った。
注文した品を待っている間に、岸川は説明のつづきをし、東京へ帰ったら松尾と館岡の大学時代の交友関係などを調べてみよう、と言った。
「なるほど。二人とも、叩《たた》けば埃《ほこり》が出るかもしれないというわけですか」
浦部が興味をそそられたような目をした。
「そうだが、我々の狙いはあくまでも桐原だ。松尾と館岡が過去に何をしていようと、直接の関係はない」
「松尾か館岡の口を割らせる材料を手に入れる、そういうわけですね?」
岸川がそうだと答えたとき、彼の注文したカレーライスと、浦部の注文したハンバーグ海老フライセットが運ばれてきた。
[#改ページ]
第十章[#「第十章」はゴシック体] 事 故
1
九月十三日(水曜日)――。
桐原は、江北署の捜査本部で朝から事情を聞かれ、夜九時過ぎに帰宅した。
いつものように郁美が玄関まで出迎えた。いまにも倒れるのではないかと思われるような血の気のない顔をして。桐原の姿を認めた瞬間、その顔にかすかに安堵《あんど》の色が差したように見えたのは、夫が無事に帰ったからだろうか。が、次いで桐原に向けられた、どうだったかと問うような、あるいは祈るような眼差し……。そこには、もう安堵の色など微塵《みじん》もなく、不安に怯《おび》える心を映した、かすかに震えているような暗い翳《かげ》しか感じられなかった。
桐原は、妻のその目を見返し、「心配ない」とだけ答え、靴を脱いだ。
先に立って居間へ行く。
居間に子供たちの姿はなかった。
「香織と政弘は?」
わかっていたが訊《き》いた。
「少し前に二階のお部屋へ行ったわ」
郁美が答えた。
「香織の様子は、どう?」
「もう大丈夫みたい。一週間以上経ったから。今夜なんか、政弘と喧嘩《けんか》しながらテレビを見ていたし」
「そうか」
桐原は少し心が軽くなった。
九月の新学期から、香織が再び登校するようになったのだ。始業式の日は郁美が学校まで送って行ったが、二日目からは一人で。その二日目だけ、玄関まで降りてきてまた二階へ戻ろうとしたようだが、郁美が励まして送り出すと、次の日からは登校拒否を始める前のように「行ってきます」と明るい声で言って出て行くようになったらしい。
香織の通っている私立の中学校は先週の月曜日、九月四日に新学期が始まった。
郁美が言ったように一週間以上経ったのだから、もう大丈夫だろう。
ところが、香織に関する心配事が消えたというのに、郁美の不眠症はますますひどくなり、顔には常に暗く不安気な翳が張り付いていた。最近は食欲も全然ないらしく、わずか半月余りの間に四、五キロ痩《や》せたのではないかと思われた。
桐原が病院へ行くように勧めても、夏負けしただけだから残暑が退いて涼しくなれば元に戻る、と言う。が、夏負けなんかでないことは、郁美自身、一番よくわかっているはずである。
原因は不安と恐怖である。それも、今や桐原がやってもいない殺人の犯人にされてしまうかもしれない、と恐れているのではない。桐原が須ノ崎を殺したかもしれないと疑い、怯えているのだ。
郁美は桐原を信じようとしているだろう。夫を疑っている自分を責めてもいるかもしれない。それでいて、
――もし、桐原が須ノ崎を殺した犯人だったら……。
という想像を捨て切れないでいる。その不安と恐怖が、彼女から眠りと食欲を奪っている。
これは桐原の推測である。
が、たぶん間違いないと思う。
郁美をそこまで追い込んだ直接の原因は警察にある。警察が、桐原にかけた殺人容疑を解くどころか、ますます疑いを強めていたからだ。
桐原は、須ノ崎を殺していない。須ノ崎を殺したのは市橋洋子の父、三津田恵一である。証拠はないが、桐原は自分の推理に自信を持っている。三津田が須ノ崎を殺し、その罪を桐原に被せたにちがいない。
しかし、そう思っても、桐原は三津田を告発できない。三津田の名を警察に告げることも、彼の動機を説明することもできない。そのため、岸川たちは、まさに三津田の狙いどおりに見込み捜査を進め、桐原に対する疑いをいっそう強めた。
初め、桐原は楽観していた。自分は須ノ崎を殺していないのだから、いずれは容疑が晴れるだろう、と。ところが、三津田の仕掛けた罠《わな》は思った以上に巧妙かつ強力で、いまだに桐原はそこから脱出できないでいた。というか、それはますます強く彼の腕や脚に絡み付き、彼を逃すまいとしていた。
そのため、彼が、
――ぼくは事件とは無関係だ。だから、必ず疑いは解ける。心配ない。ぼくを信じてくれ。
と、繰り返し言っているにもかかわらず、郁美の顔には日増しに不安と恐怖の色が濃くなり、突き出た頬骨と落ち窪《くぼ》んだ二重|瞼《まぶた》の大きな目だけが目立つようになっていたのだった。
「ね、どうだったの?」
と、郁美が尋問の様子について訊いた。桐原が何も言わないので、我慢しきれなくなったらしい。
「どうもこうもないよ。繰り返しさ」
桐原は、殊更に忿懣《ふんまん》やるかたなしといった口調で答えた。「でも、何度調べられたって、同じさ。ぼくは須ノ崎の殺された事件とは無関係なんだから、そう答える以外にないし、何も出てきやしない」
「そう」
郁美が相槌《あいづち》を打ち、「そうよね」と同調した。
しかし、それは言葉だけのことで、桐原の話を聞いて安心したといった顔つきではなかった。
桐原は今、そんな郁美から逃れ、一人になりたかった。一人になって、よく考えてみたかった。
というのは、今日の荒井警部や岸川刑事たちの尋問は、桐原が郁美に答えたようなこれまでの繰り返しではなかったからだ。
彼らは突然、「市橋洋子」の名を出してきたのである。須ノ崎はある人間に、自分は桐原と市橋洋子の関わりをつかんだ、それをネタに桐原を脅している、そう仄《ほの》めかしていた、と。
桐原は、自分は須ノ崎に脅されてなんかいなかったと否定し、市橋洋子は知っているが、彼女とは誰かに脅されるような関わりはなかった、と言った。須ノ崎がそんな出鱈目《でたらめ》を話した相手がいるなら、それは誰か、と問い返した。
荒井たちは、名前は言えない、と突っ撥《ぱ》ねた。
彼らの話の内容から、その人間が存在するのは間違いないようだった。
いったい誰だろう、と桐原は素早く思考の歯車を回転させた。気味が悪かったし、不安でもあった。須ノ崎が話すとしたら、松尾か館岡しかいないように思えるが、彼らが刑事に市橋洋子の名を明かすわけがない。それは絶対にありえない、と思う。しかし、そうなると、須ノ崎が誰に話したのか、想像がつかない。
荒井たちのその後の尋問内容から推し、警察はかなり前に市橋洋子の名前だけはつかんでいたようだ。が、桐原を追い詰めるだけの駒が得られなかったのだろう、彼にぶつける前にいろいろ調べていたらしい。
といって、今日の段階でも、彼らが決定的な駒を手にしていたとは思えない。市橋洋子が死ぬ直前に書いてタイムカプセルに入れておいた手記が出てきた≠ニ、さも意味ありげに言ったが、恐るるに足らないだろう。その内容が気にならないではないが、生きている洋子には桐原を破滅させるだけのものを書き残すのは絶対に不可能だった[#「生きている洋子には桐原を破滅させるだけのものを書き残すのは絶対に不可能だった」に傍点]のだから。
それよりも、桐原が肝を冷やしたのは、刑事たちが市橋洋子の母親に会ってきた、と言ったことだった。父親については一言も触れなかったので、母親に尋ねても、四十年も前に離婚した男の消息はつかめなかったのかもしれない。が、どこにどうして暮らしているかはわからなくても、氏名と年齢ぐらいは、聞いて、控えてきたはずである。
つまり、それは、
〈三津田恵一という七十歳前後の男が市橋洋子の父親だと警察はつかんでいる〉
という事実を示していた。
それとも知らずに自分が三津田を殺していたら、どうなったか、と桐原は思わずゾッとしたのである。
十日余り前、桐原は三津田恵一を殺そうとして失敗した。実は、それは、桐原にとってむしろ幸運だったのだが……。
九月一日午後九時二十四分――。
桐原は、近くを三十分ほど歩き回った後、三恵出版社の前に戻った。
さっき松尾が出てきた二階の事務所は暗くなっていた。
それを見て、桐原は、三津田が隣りの自宅へ引き上げたものと判断し、市橋洋子の父と判明した三津田を殺害するつもりで、彼の家を訪れた。
ところが、三津田が一人でいるものと思っていたのに、社員の水谷が一緒にいた。たまには酒でも飲もうという話になって寄ったとかで。
そのため、桐原の計画は挫折《ざせつ》。
せっかくの機会を逸して、
――畜生!
と、彼は胸の中で舌打ちした。
が、人間、何が幸いするかわからない。そのとき水谷が三津田と一緒にいてくれたおかげで、桐原は命拾いしたのだった。
というのは、松尾に見られていた≠ゥらだ。
居間に通された桐原が、用意して行った差し替え用の原稿を鞄から出して三津田と水谷に説明していると、松尾から電話がかかってきて、
――人違いかもしれないが、ちょっと桐原に似た男を見かけた。自分が帰った後、桐原が行かなかったか?
と、訊いた。
三津田は、桐原ならいまここに来ている、水谷と一緒に差し替え用の原稿を見ているところだ、と話した。
すると、松尾が、
――ああ、それなら、いいんです。何となくちょっと気になったものですから。
と言って、電話を切った。
このやり取りは、三津田が桐原と水谷に話したのである。わざわざ電話などしてきて、松尾君もおかしな人ですね≠ニ笑いながら。
だが、それを聞いて、桐原は顔が引き攣《つ》るのを感じた。さっき、事務所から出てきたとき、松尾は下を通ったおれに気づいていたのか、と思って。
松尾は、桐原だ≠ニはっきりと認識したわけではなかったらしい。が、もし桐原だったらと思い、気になって三津田に電話してきた――。
松尾には、桐原の狙いまでは読めないだろうが、それでも危ないところだった。
もし水谷がいなかったら、桐原は計画を実行に移していただろう。そのときは、〈事件の直前、三恵出版社の下を通り過ぎた桐原に似た男を松尾が見ていた〉という事実が、桐原に破滅をもたらしていたのは間違いない。
そう考えると、水谷がたまたま一緒に酒を飲むために三津田の家に寄ったという偶然が、桐原を救ったわけである。
ただ、偶然によって桐原は一応救われたものの、危険が去ったわけではなかった。洋子の父親・三津田の殺害を実行しないかぎり、破滅が待ち受けている可能性が高い≠ニいう状況に変わりはない。
そのため、桐原は再び三津田殺しを考え始めたが、三津田の自宅を訪ねて……という前と同じ方法は採れない。三津田に怪しまれ、用心されるだろうから。
それに、松尾がどこまで怪しんでいるかも気になり、桐原は焦りながらも、巧い方法が思いつかず、今日まできた。
そこに、警察が市橋洋子の父親の氏名を知っているらしい状況が判明し、
――もし三津田を殺していたら破滅していただろう。
と、冷や汗をかくと同時に、二度目の行動に移らないでいてまたもや幸運だったのだ、と思ったのである。
しかし、幸運といっても、一つの危機を免れただけで、事態が好転したわけではない。好転どころか、桐原にとって非常に厳しい状況になったのだ。
うっかり三津田に手を出すと、自らの墓穴を掘る結果になりかねない。といって、三津田をこのままにしておいても、いずれは破滅するおそれが高いのだった。
そのため、桐原は、どうしたら巧く三津田の件を処理し、この状況を打開できるだろうか、と考えながら帰ってきたのである。
「それで、刑事さんたちはあなたの答えに納得したの?」
郁美がさらに訊いた。
「まだ納得したとは言えないが、頭の固い刑事たちも、前よりはぼくの話を聞く気になったんじゃないかな」
桐原は、できるだけ軽く明るい調子で答えた。
自分が直面している問題は誰にも明かせないし、郁美を今以上に心配させても何にもならない。
「でも、真犯人はまだわからないんでしょう?」
「どうかな。刑事たちは何にも言わないけど、案外、本命の容疑者が浮かんできているのかもしれないよ」
「早く捕まればいいのに……」
「そりゃ、ぼくだってそう願いたいよ。いいかげん、うんざりしているんだから。須ノ崎の事件だと思うから、我慢して協力しているけど、もし他の事件だったら、とっくに拒否している」
「拒否なんてできるの?」
「もちろん、できるさ」
そう、と答えたものの、郁美は本当に拒否できるとは思っていないようだ。
が、今の桐原にはそんなことはどうでもよかった。それよりも、早く一人になって考えたい。
「話は後にして、食事にしてくれないか」
彼は話を打ち切るために言った。
「あ、はい」
「昼、警察で出されたカツ丼をほとんど食べなかったので、腹が空いているんだ」
「ごめんなさい」
郁美が答え、台所へ向かった。
そのとき、電話のベルが鳴り、郁美が振り返った。
「いいよ、ぼくが出る」
桐原は言って、コードレステレホンの子機が載っているサイドボードに寄った。
充電器から子機を外し、桐原ですと応《こた》えると、
「ああ、おれだ、松尾だ」
相手が言った。
いつもの松尾の話し方と違う。言い方が乱暴なうえに慌てているような感じだった。
桐原は、なぜともなく不安を覚え、
「どうしたんだい?」
と、訊いた。
だが、松尾はそれには答えず、
「桐原、今夜、きみはどこにいた?」
詰問するような調子で言葉を重ねた。
「どこにいたって、出かけていて、いま帰ったところだが……」
「八時頃だ。八時頃、どこにいた?」
「いきなり、なんでそんなことを訊く?」
桐原はむっとして言い返した。
「答えてくれないか」
「理由もわからず、きみにそんなことを答える義務はない」
「答えられないのか?」
「そういうわけじゃない」
「じゃ、答えてくれ」
「理由も説明せずに失礼だろう」
「今夜、三津田社長が交通事故に遭った。轢《ひ》き逃げだ」
「な、なんだ、それで、きみはおれを疑ったのか!」
「そういうわけじゃないが……」
急に松尾の声の調子が弱くなった。
「でも、おれの所在を訊いたということはそういうわけだろう」
「違う。そういうわけじゃない。失礼した。たった今、水谷さんから連絡を受けたばかりで、気が動転していたようだ。すまん」
松尾が謝った。
彼は言い訳したつもりだろうが、その言葉に桐原はいっそう強いショックを受けた。
三津田が轢き逃げに遭ったと聞き、松尾の頭には真っ先に桐原が浮かんだ――。
彼の言葉はそういう意味だったからだ。
桐原が三津田に敵意を抱いているのを松尾がどうして知ったのか、その経緯はわからない。が、今月一日の晩、桐原が三津田の自宅を訪れたとき、松尾が三津田に電話してきたのは、桐原に似た男を見かけたから、というだけでなかったようだ。桐原が三津田をどうかするかもしれないと疑っていたために、心配して電話をかけてきたらしい。
松尾はいったいどこまで知っているのか、と桐原は不安になった。なぜ、そこまで自分を疑うようになったのか。
しかし、いまはそれを考えているときではない。松尾に確かめておかなければならないことがある。
「今夜、三津田社長が轢き逃げに遭ったというのは本当なのか?」
「もちろん、本当だ」
松尾が少し怒っているように答えた。「ただ、おれもまだ社長に会ったわけじゃないが……」
「場所は?」
「川越だ。国道16号線から少し逸《そ》れたところだそうだ」
「それが八時頃だったわけか?」
「ああ」
「それなら、おれは江北警察署へ行っていた。須ノ崎の事件のことでちょっと訊きたいことがあると言われて。信用できなかったら、刑事に問い合わせてくれ」
「信用するよ。すまなかった。どうかしていたんだ」
「わかれば、いいよ」
そんな問題ではなかったが、桐原は話をおさめ、「それより三津田社長の容体は?」と肝腎《かんじん》な点を質《ただ》した。
「救急車で近くの川越昭和病院というところへ運ばれたらしいが、はっきりしない。これから、おれも行ってみるつもりだが」
「三津田社長は、どうして川越へなんか行っていたんだ?」
「さあ……。どこかに用事でもあったんだろうが、わからない」
「水谷さんと一緒だったのか?」
「いや、水谷さんには警察から連絡があったんだそうだ。三津田社長は所沢の水谷さんの家を緊急連絡先にし、その旨書いたカードのようなものを持っていたらしい。それで、水谷さんは病院へ駆けつけ、病院からおれに電話をかけてきた。三津田社長の身内がどこにいるか、聞いていないだろうか、と。おれは聞いていないから、そう答えたんだが」
「三津田社長と水谷さんは昔からの知り合いなんだろう。それなのに、水谷さんも知らないのか?」
「知らないようだ。三津田社長は、水谷さんにさえ個人的なことをほとんど話さなかったらしい」
「ふーん……」
「とにかく、おれはこれから川越の病院へ行ってみる」
「じゃ、詳しいことがわかったらおれにも教えてくれないか」
「わかった。……ああ、そうだ、今度の社長の事故は、きみの本には影響がないので、その点は安心してくれていい。来週初めには編集者の手を完全に離れる予定になっているらしいから」
それじゃ、また電話する――と言って、松尾が電話を切った。
松尾の電話は、翌十四日の朝、桐原が政友党本部へ出勤する前にかかってきた。
松尾は病院で夜を明かしたらしく、三津田の手術が二時間ばかり前に終わったばかりだ、と疲れた声で言った。
外傷はそれほどではないが、脳の損傷がひどく、意識不明の状態がつづいており、一命は取り留めても植物状態になる可能性が非常に高い、という。
植物状態という言葉に桐原は内心ほくそえみながら、訊いた。
「うちで取っている朝毎新聞には事故のことが載っていなかったが、轢き逃げの犯人は捕まったのか?」
「おれはまだ朝刊を見ていないが、捕まっていないようだ」
「そうか……」
「それから、これは水谷さんからの伝言だが……」
と、松尾がつづけた。「昨夜も言ったとおり、きみの『政道―わが半生の記』は、来週月曜日に校了になるので、予定どおり今月中には見本ができる、だから心配しないように、ということだ」
べつに心配していないと桐原は応え、「水谷さんによろしく」と言って電話を終えた。
三津田が交通事故に遭ったという話は郁美にもしてあったので、簡単に松尾の電話の内容を伝えた。
「でも、ぼくの本には影響がないそうだ」
「そう。社長さんはお気の毒だけど、それはよかったわね」
何も知らない郁美が応じた。
桐原は、いつもどおり彼女に送られて玄関を出ると、ガレージからジュピターを乗り出した。
それほど暑くはなかったが、窓を閉めてエアコンを弱く入れる。
モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」のCDを大きくかけた。指揮者はジェイムズ・レヴァイン。まずは、軽快でしかも力強い、誰かが陽気な笑いが転がるような≠ニ評した序曲から……。
桐原の顔の筋肉は、抑えても抑えてもひとりでにゆるんできた。
市橋洋子の父親・三津田をどうするか、という難問が、桐原が手を下さずにほぼ解決したのである。これまでの女神より格段に美しく素晴らしい幸運の女神が、またもや桐原に微笑んでくれたのだった。
序曲が終わって第一幕が開《あ》き、スピーカーからフィガロと許嫁《いいなずけ》のスザンナ、バスとソプラノの二重唱が流れてきた。
桐原は遂に笑い出していた。声を上げて。
2
岸川と浦部の前のテーブルに、近代書店が出している月刊文芸誌「文芸界」の一九八〇年(昭和五五)三月号が置かれた。
置いたのは、前に腰を下ろした南という文芸界副編集長である。
場所は千代田区富士見にある近代書店の一階。受付の女性は「あちらの応接室でお待ちください」と言ったが、複数の社員が同時にそれぞれの仕事の関係者と打ち合わせできるように、テーブルが五つほど配された、ロビーのような空間だ。
「この号に、新人賞に佳作入選した松尾辰之氏の作品が載っています。題名は漢字一字、『傷』です」
と、南が言った。
まだ三十代と思われる、口髭《くちひげ》を生やした小柄な男だった。彼は、岸川たちの求めに応じ、社内の資料室から松尾の書いた短篇小説が載った雑誌を探し出してきてくれたのである。
今日、九月十五日(金曜日)、岸川と浦部は茨城県のつくば市まで行き、無機材質研究所に勤務する関沢靖という研究者に会ってきた。
岸川たちは、先週の土曜日に京都から帰った後、松尾と館岡の大学時代について知っていそうな者、数人に当たった。が、松尾に関してはこれといって捜査の参考になりそうな話は聞けず、館岡についても彼と市橋洋子を結び付けるような情報は得られなかった。多少気になったのは、館岡がよく上京して須ノ崎のマンションに泊まり、須ノ崎と一緒に遊び回っていたという話、研究室や病院から薬物――具体的にはわからないが麻薬や幻覚剤の類《たぐ》いではなかったかという――を持ち出してきては時々秘密パーティーのようなものを開いていたらしいという話、ぐらいである。だから、岸川たちは、今朝、東京駅八重洲口からつくばセンター行きの高速バスに乗ってからも、どうせまたたいした話は聞けないだろう、とそれほど期待はしていなかった。昨日会った伊藤元夫という男が、高校時代、松尾と親しかった関沢なら何か知っているかもしれない≠ニ言ったので、つくば市ならさして遠くないし、無駄足になってもいいから訪ねてみよう、と思ったのだった。
半ば予想していたとおり、関沢からはこれといった話は聞けなかった。松尾と親しかったといっても浪人時代までで、大学が東京と北海道に離れてしまったこともあってだんだん疎遠になり、松尾がどういう大学生活を送っていたかは知らない、というのだった。市橋洋子という名も聞いたことがない、という。ただ、関沢は、そう話した後で、松尾が大学四年のとき小説を書いて、それが文芸界新人賞の佳作になった、と言った。彼が言うには、松尾は高校時代、文芸部に入っていたので、小説を書いても不思議はない。が、佳作とはいえ、文壇の登竜門と言われる文芸界の新人賞に入選したと聞き、驚いた。小説の題は忘れたが、主人公はどこか松尾を髣髴《ほうふつ》とさせる若い男――適当にミーハーで、人付き合いがよく、多少悪ぶったところがあるが、根はむしろ神経の細い真面目な大学生――だった。その男が酒に酔って心神喪失状態のとき、他人に大怪我をさせ、後で罪の意識に苦悩する、こんなストーリーだが、男の苦悩、葛藤《かつとう》する場面は真に迫っていて、松尾も腕を上げたなと舌を巻いた憶《おぼ》えがある――。
岸川は、その話に興味を覚えた。特に、主人公が松尾を髣髴とさせる大学生だという点と、迫真の描写に関沢が舌を巻いたという点に。もしかしたら、松尾は小説の主人公と似た体験をしているのではないか、と思ったのだ。といって、その体験が市橋洋子に関わっているかどうかはわからないが、とにかく小説を読んでみたい。岸川はそう思い、小説が文芸界に載ったのはいつかと関沢に訊《き》くと、大学を卒業して大学院へ進む間際に読んだ記憶があるから、一九八〇年の冬か春に発売された号ではないか、という。
それだけわかれば充分だった。国会図書館へ行って調べれば、松尾の小説が載っている文芸界を探し出すのは難しくない。
岸川たちは、関沢に礼を言って無機材質研究所を出ると、五分ほど待って、やってきた東京駅行きのバスに乗った。
その帰りのバスの中で、国会図書館へ行くより文芸界を出している出版社を訪ねたほうが早いのではないかと浦部と話し、予定を変更した。そして、終点の一つ手前の上野駅でバスを降り、飯田橋駅から歩いて五分ほどのところにある近代書店へ直行したのである。
「六十八ページです」
と、南が言った。
岸川は、雑誌をテーブルに置いたまま、右肩に〈第四十三回文芸界新人賞佳作〉と記された茶色に変色したページを開いた。
上段には、殴り合う男たちを描いた挿し絵が入っていた。絵の右に大きな文字で書かれた『傷』という題名。その下に松尾辰之の名があり、左、三行分ほどの間を置いて本文が始まっていた。
「三十ページ足らずですので、できればここで読んでいただきたいのですが」
南が言った。
わかりました、と岸川は答えた。
浦部と二人で目を通し、読み返す必要があると思ったら、頼んでコピーすればいいだろう。
読み終わったら連絡してくれと言い、南が出て行った。
応接室には、岸川たちの他に、二つのテーブルに五人の男女がいた。
が、自分たちの話に夢中で、他人に注意を向ける者はいない。
岸川は、開いた雑誌を片手に載せて持つ。それを浦部と右と左から覗《のぞ》き込むようにして読んでいった。
小説『傷』の主人公は、Sという二十一歳の大学生だった。関沢によれば、松尾を髣髴とさせるという話だから、かつての松尾は適当にミーハーで……悪ぶったところがあるが、根は……≠ニいった若者だったのだろう。
岸川と浦部は、一時間ほどかかって『傷』を読み終えた。鑑賞が目的ではないので、斜め読みに近いところもあったが、それでも筋はつかめた。
小説は、Sが一人の男の退院を知った場面から始まっていた。が、その描写はわずかで、すぐに五ヵ月前に遡《さかのぼ》っている。
五ヵ月前の秋晴れの日曜日、Sは、午前十時過ぎにアパートを尋ねてきたNとHに寝ているところを叩《たた》き起こされ、「おい、昨夜のことが新聞に出ているぞ」と告げられる。が、昨夜のことと言われても、Sにはわけがわからない。どういうことかと訊くと、二人の友人は、本当におまえ憶《おぼ》えていないのか、と怪しみ呆《あき》れたような顔で見つめ、「喧嘩《けんか》して逃げただろうが」と言う。二人が話すには、前夜午前零時近く、Sは彼らと酒を飲み、千鳥足で歩いていた。と、前からやはりふらふらしながら歩いてきたサラリーマン風の男とぶつかり、いきなり何やら喚《わめ》いて殴りつけた。慌ててNとHは止めに入ったが、Sは驚くほどの力で二人を振り払い、ほとんど無抵抗の相手を殴りつけ、蹴《け》りつけた。そのとき、近づいてくる人の姿が見えたので、NとHはSの腕を取り、引きずるようにして逃げた――。
二人の話を聞いてから、Sが彼らの持ってきた新聞を見ると、そこには、
〈昨夜、池袋の路上で会社員のA・T(四十歳)が酔った男たちに絡まれて喧嘩をし、重体である。通りがかった人がすぐに110番通報し、A・Tは救急車で近くの大学病院へ運ばれたが、縁石に頭を打ったらしく、意識不明の状態がつづいている。現在、警察は現場から逃げ去った三人の男たちを捜している〉
と出ていた。
しかし、友人たちの話を聞いても、新聞を見ても、Sには全然憶えがない。昨夜、NとHと池袋で飲んだのは憶えているが、喧嘩したのも、どうやって家へ帰ってきたのかも、記憶にない。NとHは、おまえのおかげでとんだ目に遭ったと責めるが、Sはいま一つ実感が湧かない。手を見ると軽い怪我をしていたし、ズボンが汚れているから、A・Tというサラリーマンと喧嘩したのは事実なのだろうが……。
Sには、酒を飲み過ぎると、こうした記憶の欠落が時々あった。記憶にないので、行為の最中、自分のしていることを意識していたのかどうか、つまり心神喪失状態だったのかどうかもはっきりしない。
ただ、これまでは、犯罪行為にまでは至らず、友達の顰蹙《ひんしゆく》を買う程度で済んでいた。が、今度の暴行は許されることではなかった。相手は重体だというのだから。Sは良心の呵責《かしやく》に苦しめられたが、かといって、警察に名乗り出る勇気もない。
それでも、名乗り出るべきではないか、とNとHに言ってみた。すると、案の定、二人は猛反対した。ふざけるなと声を荒らげ、おまえが名乗り出れば、三人で逃げるところを見られているのだし、おれたちも捕まってしまうじゃないか、と怒った。そうなったら、いくら止めようとしたのだとおれたちが言い張ったところで、じゃなぜ逃げたと追及され、おまえの共犯にされてしまうに決まっている、おまえを相手から引き離してここまで連れ帰るだけでも大変だったのに、まだおれたちに迷惑をかける気か――。
これは、Sが予測し、待っていた反応だった。Sにとって、自分だけならかまわないが二人の友人を巻き添えにするわけにはゆかない、という格好の理由ができたのだから。
それが、名乗り出ないことの言い訳であることは、S自身気づいていたが、そうした自分に対しては、
――しかし、どんなことがあっても、NとHを巻き添えにはできないではないか。
と、反論した。
それから五ヵ月ほどして、入院していたA・Tが脳内出血の後遺症として右半身|麻痺《まひ》という障害を負ったまま退院した、という記事が新聞の片隅に載った。
小説は、Sがその小さな記事を目にしたところから始まって過去に遡《さかのぼ》り、また現在に戻ってきたのだった。
『傷』の中心テーマはここから展開される。
A・Tがこれからずっと半身麻痺の障害を背負って生きてゆかなければならないと知ったSは、大きなショックを受ける。重傷を負ったといっても、いずれは治って元どおりになるのだろうと思っていたからだ。
事件の直後にSは酒を断とうと決意し、その後、一滴も飲んでいなかった。が、そんなことぐらいでは自分の犯した罪の償いにはならない。行為の認識がないとはいえ、自分はA・Tという一人の人間の一生を台無しにしてしまったのだから。それなのに、酒を断ったぐらいで、何事もなかったかのように、このまま暮しつづけていいのか。人並な幸福を追求していいのか。
それは許されない、とSは思った。
としたら、名乗り出るべきか。
事件の直後と違い、今は、自分だけならそうしてもいい、と本気で思う。暴行を働いたときに心神喪失状態だったことが証明されれば、傷害罪ではなく、刑罰のずっと軽い過失傷害の罪になるらしいが、そうした罰の軽重には拘わりなく。
しかし、自首すれば、自分だけでは済まない。自分がA・Tに喧嘩をしかけ、乱暴したために、たまたま一緒にいたNとH、二人の友人に大きな迷惑をかける。むしろ彼らのほうが重大な結果になるおそれがあった。なぜなら、共犯と判断された場合、彼らは傷害罪で裁かれるわけだから。
そう考えると、やはり名乗り出ることはできなかった。
――では、どうしたらいいのか?
Sはまた自問する。いったい、自分はどうしたらいいのか……。
出口のないSの苦悩と葛藤が始まり、小説は延々とその描写がつづく。
Sは、初めのうちは大学の講義にも出るが、次第にアパートに閉じ籠《こも》り、どこにも行かないようになってゆく。ろくに食事もせず、栄養失調になり、痩《や》せ衰えてゆく。
そうしたあるとき、Sは、足を踏み外してアパートの階段から転げ落ち、気がついたときには病院のベッドに寝ていた。ギプスで身動きできないようにされて。
数日後、医師が気の毒そうな顔をしてSに告げた。残念ながら、あなたの下半身は一生、動くことはないだろう、と。
それを聞いて、Sは当然強いショックを受けたものの、しばらくするとああ、これで自分も生きてゆける≠ニ逆に安息を得た。
これが、小説『傷』の粗筋である。
小説を読み終わったとき、岸川は、主人公Sが心神喪失状態で犯した罪と、そこに二人の友人NとHが関係しているという事実に、大いに興味を覚えた。
Sが松尾、NとHが館岡と須ノ崎、そしてSの犯した罪が市橋洋子の死に関係していたと考えれば、
〈須ノ崎が桐原と市橋洋子を結び付けた理由は、須ノ崎・松尾・館岡と洋子の関わりだったのではないか〉
とした岸川の推理に符合していたからだ。
といって、小説を何十遍読み返したところで、ここからは、〈須ノ崎・松尾・館岡と洋子の関わり〉を解明する手掛かりは出てきそうにない。おそらく、A・Tに対するSの暴行という部分は完全なフィクションだろうから。
それでも、岸川は、小説『傷』を読んで、自分たちが進んでいる方向はどうやら見当外れではないらしい、という感触を得ることができた。
彼は、そうした感想を浦部と低い声で述べ合い、何らかの機会をとらえて、この小説を松尾にぶつけてみよう、と言った。たぶん、松尾は、小説はすべて自分の想像の産物であり、現実とは何の関係もない、と言い張るだろうが、それでも何かつかめるかもしれない。
内線電話で南を呼び、文芸界を返して、近代書店の玄関を出た。建物の影が長く伸び、ようやく残暑も衰えを見せ始めたようだった。
飯田橋駅へ向かって坂を下りながら、岸川はふと思う。松尾は小説家になろうとして挫折《ざせつ》したのだろうか、と。自分が音楽家になろうとしてなれなかったように。
たとえそうだったとしても、松尾に対する岸川の姿勢はいささかも変わらない。変えるつもりはない。隠している事実を話すように、今までどおり追及しつづけるつもりでいる。それでいながら、岸川は、自分がこれまでと違った目で松尾を見、これまでより彼を近しい者のように感じているのに気づいた。
3
三津田が轢《ひ》き逃げに遭って一週間が過ぎた二十日(水曜日)の夜、松尾は渋谷の日本料理店で館岡と会った。
一昨日、松尾が柏葉会中央病院に電話をかけ、桐原の件で少し込み入った話があるので会えないかと言うと、館岡が東急デパートの近くにあるその店を予約したのだ。
六畳ほどの個室である。
松尾が約束の七時半すれすれに着くと、館岡は床の間を背にして座り、仲居の酌でビールを飲んでいた。
「今日は忙しくて、お茶を飲むひまもなかったので、喉《のど》が渇いてね」
と言い訳したが、一人で先にやっていてすまないという顔ではなかった。
「忙しいのに、悪かったな」
松尾は、テーブルを挟んで館岡の前に座った。
「いや、かまわんよ」
館岡が、吸っていた煙草の火を消した。灰皿の中にはすでに三、四本の吸殻が見えた。
松尾と入れ代わりに出て行った仲居が、盆におしぼりとコップを載せて戻ってきた。
四十歳前後のふっくらした女性だった。
畳に手をつき、「いらっしゃいませ」とあらためて松尾に挨拶《あいさつ》してから、彼の前にコップを置いた。
「ま、一杯、いこう」
館岡がビールの瓶を取り、松尾のほうへ向けた。
電話したとき、夏休みはハワイでゴルフをしてきたと言っていたが、すでに日焼けの跡は見られず、いつもの色白の顔がアルコールでほんのりと赤らんでいた。
「いや、おれはウーロン茶をもらう」
松尾は顔の前で手を振った。
「なんだ、まだ飲まないのか?」
館岡が意外そうな表情をした。
「ああ」
「驚いたな」
唇に笑みを浮かべていたが、黒縁眼鏡の奥の細い目は笑っていなかった。むしろ不快げだ。
「もうずいぶん、あんたと飲む機会がなかったから知らなかったが、適当にやっているのかと思っていたよ」
松尾はそれには応《こた》えず、ウーロン茶をくださいと仲居に頼んだ。
「こいつはね、昔、肝臓を悪くしたんですよ」
館岡が松尾の言葉につづけた。「それ以来、酒を一滴もやらないというクソ真面目な奴なんです」
仲居は曖昧《あいまい》に笑って引き下がり、松尾のウーロン茶を持ってきた。瓶ではなく、すでにタンブラーに注いで氷を浮かべてあった。
「ビールをもう二本と料理を……」
館岡が仲居に言った。松尾の希望も聞かずに料理をすでに注文してあったらしい。こういう自分本位なところも館岡らしかった。
仲居が去ると、
「じゃ、まあ、とにかく……」
館岡がビールのコップを取ったので、松尾もウーロン茶のタンブラーを取り、目の高さに上げて飲んだ。
「桐原の件で少し込み入った話って何だい?」
館岡がコップを置くや、松尾に真剣な目を向けてきた。気になっていたようだ。
「須ノ崎の事件のことだ」
と、松尾は答えた。
館岡がごくりと生唾《なまつば》を呑《の》み込んだ。
松尾は、自分の知っている事実と疑惑を館岡に話し、彼の意見を聞くつもりでいた。というか、桐原が須ノ崎を殺した犯人なら、自分たちは何をすべきか、どうしたらいいか、を彼と話し合うつもりだった。
単に、桐原と須ノ崎が共通の友人だからというわけではない。桐原が犯人だった場合、彼の動機には松尾と館岡も関係している可能性が高いからだ。また、桐原は三津田の轢き逃げにも関わっている可能性があり、三津田が市橋洋子の父親だとすれば、そこにも松尾と館岡は間接的に関係していた。
三津田が川越で轢き逃げに遭った頃、桐原は警察に呼ばれて事情を聴かれていたという。だから、彼の直接の犯行ではないだろう。が、轢き逃げ犯人はまだ捕まっていないので、桐原が誰かを雇ってやらせた可能性は否定しきれない。
松尾がそこまで桐原を疑うには、理由がある。轢き逃げ事件の起きる十日余り前、九月一日の夜、桐原の取った行動が、どうにも不自然だったからだ。
その晩、桐原が三津田を訪ねた目的は、原稿の差し替えなんかではなかった、と松尾は思う。もし原稿の差し替えが目的なら、三津田の自宅を訪れた点が不可解である。桐原は、松尾に見られたとは思っていなかったのだろう、階段を上ろうとしたら、事務所の窓が暗かったので……≠ニ三津田に言い訳したらしいが、それは嘘だ。三津田と水谷がまだ居残っているとき、彼は階段の下を通り過ぎたのだから。
あの晩、水谷がたまたま三津田の自宅に寄って一緒にいたので、事無きを得たが、もし三津田が一人だったら、何が起きていたかわからない。
松尾はそう思っている。つまり、桐原が三津田の自宅を訪れたのは、三津田をどうかするつもりだったのではないか、と。
そのため、松尾は、三津田が轢き逃げに遭ったと水谷から電話を受けたとき、
――さては、桐原が!
と、顔からさーっと血の気が引くのを感じた。考えてみる余裕もなく、桐原に電話をかけ、今晩、どこにいた?≠ニ詰問するように訊いてしまった。
桐原と話して、彼には三津田の轢き逃げは不可能だと知り、ああ、桐原ではなかったか……と気持ちが少し楽になった。しかし、それもいっときだった。川越の病院へ行くために、アパートを出て青梅駅へ向かって歩き出すと、自分で手を下さなくても轢き逃げは可能ではないか、と思い始めた。
その後、松尾の内で、桐原に対する疑いは強まるばかり。どうしたらいいのか、一人では判断がつかなくなった。そこで……館岡に自分の腹の中を見せるのはためらわないではなかったが、彼と話してみよう、と考えたのである。
三津田は依然として意識不明の状態がつづいている。いわゆる植物状態だ。見舞いに行ったところで、身内代わりである水谷か彼の妻が一緒でなければ集中治療室へは入れないというし、会っても何にもわからないのだから仕方がない、病状に少しでも変化があったら知らせる≠ニ水谷が言うので、手術の後、松尾は病院へ行っていない。が、今や意識が戻るのは絶望的らしい。三津田には姉が一人いることが判明したものの、警察が捜しても居所はわからない、という話でもあった。
こうした三津田の状態、状況も、松尾の気持ちを重く暗いものにし、一人で問題を抱えつづけるのを耐えがたくしていた。
「刑事が来たと言ってきみがおれに電話をかけてきたのは、須ノ崎が殺されて間もなくだったから、七月の初めだったかな」
松尾は言葉を継いだ。
館岡が岸川から松尾の名刺の件を聞き、どうして須ノ崎に会っていたのを隠したのかと電話してきたときのことを言ったのだ。
ああ、と館岡がうなずいた。
「あのとき、きみは、刑事は桐原を疑っているようだと言っただろう」
「ああ」
「おれはまさかと言ったが……ところが、その後も桐原に対する疑いは晴れず、むしろ今はいっそう濃くなっているらしいんだ」
「知っている」
「知っている?」
「先月の末、刑事たちがまた来たんだ。今度は病院へ」
「桐原のことを訊《き》きにか?」
「桐原のことというか、須ノ崎のことというか……」
「具体的には?」
「須ノ崎から聞いた話を教えてくれ、とさ。刑事たちは、桐原とあんたに前後しておれも須ノ崎に会っているんじゃないか、と疑っているらしかった」
「で……?」
「会っていないんだから教えようがない、と答えたよ」
「本当に会ってないのか?」
「会っていない」
館岡が少し怒ったように答えた。「あんたに嘘を言っても始まらんだろう」
確かに館岡が自分に隠す必要はないから事実なのだろう、と松尾は思った。
それは須ノ崎の話とも合致する。
須ノ崎は、桐原に関わる重大な疑惑≠松尾に話したとき、館岡にはまだ話していない、と言った。それから須ノ崎が殺されるまで五日あるので、その間に会った可能性もないではないが、彼の言い方はいずれ館岡にも連絡を取って……≠ニ、すぐに会って話すというニュアンスではなかった。
松尾は、ふと、そのときの須ノ崎の反応を思い出した。松尾が館岡には話したのかと訊くと、須ノ崎はなぜか一瞬面食らったような、戸惑ったような表情をした。あれは、どうしてだったのだろう。須ノ崎は嘘をついたのだろうか。もしそうなら、須ノ崎も館岡も嘘をついている≠ニいうことになるが……。
いや、やはりおかしい。もしあのとき須ノ崎が館岡に会っていたとしても、彼にはそれを松尾に隠さなければならない理由などなかったはずである。
松尾はいま一つすっきりしなかったが、こだわっていても仕方ないので、
「刑事には、他にどんなことを訊かれたんだ?」
と、話を進めた。
「いきなり、市橋洋子という女を知っているかと訊かれた。びっくりしたよ」
館岡が細い目を丸くし、そのときの驚きを思い出しているような表情をした。
「そうか」
と、松尾は曖昧に応じた。
「当然、あんたも同じことを訊かれたんじゃないのか?」
「うん、まあ……」
「うん、まあって……違うのか?」
館岡の視線に探るような光が加わった。
「いや、同じだ」
松尾は思わず嘘をついた。事実を話すつもりで来たのに。
「それにしても、刑事たちは、どうして市橋洋子の名前をつかんだのかな……」
館岡が首をかしげた。
「きみは、市橋洋子という女性を知っているかと訊かれて、何と答えたんだ?」
松尾は館岡の疑問を無視した。
「決まっているじゃないか。知らないって答えたよ。初めて耳にする名前だって。だが、岸川とかいうおでこ[#「おでこ」に傍点]刑事は、おれのびっくりした様子から疑っていたな」
「そうか……」
「おい、おれにばかり訊いているが、あんたはどう答えたんだ?」
館岡が言ったとき、「失礼します」とさっきの仲居の声がした。ビールと灰皿だけ載せた盆を持った彼女のあとから、二人の若い仲居が料理を運んできた。
館岡は煙草に火を点《つ》け、適当に仲居たちに冗談を言ったりしていたが、松尾は口を噤《つぐ》んで、彼女たちが綺麗《きれい》な小鉢や皿を並べるのを見ていた。
並べ終わると、さっきの仲居が一品一品について名前と素材などを説明し、
「もし御用がありましたら、そちらを押してください」
と、部屋の隅に置かれた呼び出しボタンを示して、出て行った。
「ま、食べながら、話そう」
館岡が、仲居の替えて行った新しい灰皿に煙草を押し潰《つぶ》した。
松尾はうなずいた。
「で、さっきの話だが、あんたは刑事に何て答えたんだ?」
すまん、と松尾は頭を下げた。
「すまん?」
「実は、市橋洋子の名前を刑事たちに話したのはおれだったんだ」
松尾は言った。それを明かさないことには、話を先へ進められない。
「何だって!」
館岡が声を高めた。
目を怒らせ、松尾を睨《にら》みつけた。
「つまり、あんたは、須ノ崎から聞いた桐原に関わる重大な疑惑≠刑事たちに教えたというのか?」
声を落として訊いた。
「肝腎な点はぼかしてだが……」
松尾は答えた。
「なんて馬鹿なことを!」
館岡が怒りを吐き出した。「肝腎な点をぼかしたといっても、市橋洋子の名前まで言ったわけだろうが。前に電話で話したとき、須ノ崎から聞いた話は警察にしないと約束したよな? それなのに……」
「すまん。あのときはそのつもりだった。だが、警察に須ノ崎殺しの真相を突き止めさせるには彼から聞いた話をするしかない、と思ったんだ」
「真相なんてわからなくたって、いいじゃないか。犯人さえ捕まれば。あんたが須ノ崎から聞いた話をしようとしまいと、桐原が犯人なら、いずれ捕まるよ」
「そうかもしれないが、おれは真相を知りたかった。須ノ崎が言ったように、桐原と市橋洋子の間に何らかの関わりがあったというのなら、それを知りたかった。それは、たぶん、おれが二十三年前に起こした事件にも関係しているはずだから」
「たとえ関係していたとしても、今更そんなこと知って、何になる?」
「何にもならないかもしれないが、おれは知りたい。おれのためにきみと須ノ崎には大きな迷惑をかけてしまったわけだし……おれのしでかしたことの裏にもし何かが隠されていたのなら、それをぜひ見てみたい」
「あんたの気持ちはわかった。だが、そのために迷惑を蒙《こうむ》る人間がいることを考えなかったのか? 前にもおれは言ったはずだ。あんたがどうしようとどうなろうと勝手だが、他人だけは巻き込まないでくれ、と」
「きみには、できるかぎり迷惑が及ばないようにするつもりでいる」
「できるかぎりじゃ困る。ここに来て、またあんたの道連れにされたんじゃたまらん」
「じゃ、どうしたらいいんだ?」
「はっきりおれと約束してくれ。絶対に[#「絶対に」に傍点]おれに迷惑をかけない、と」
「しかし、須ノ崎殺しの真相が明らかになれば……」
「いや、大丈夫。市橋洋子と須ノ崎が死んでしまった今や、二十三年前にあんたのしたことは、おれとあんたしか知らない。たとえ桐原が市橋洋子と何らかの関わりがあったとしても、彼にもそこまでわからないはずだし、警察だって突き止められない。だから、あんたさえ口を噤んでいればいいんだ。おれは誰にも言うつもりはないし。そうすれば、あんたは、おれに絶対に[#「絶対に」に傍点]迷惑をかけないことになる。だいたい、あんただって、もうとっくに時効が成立している自分の犯罪をわざわざ世間に公表することはないだろう」
確かに、松尾と館岡が口を噤んでいるかぎり、松尾の行為は表に出ないだろうし、館岡に迷惑をかけることもないだろう。
だが、自分を安全圏に置いて、真相を知ることなどできるだろうか。
松尾が考えていると、
「どうだ?」
館岡が彼の目を覗き込んだ。
うん……と松尾は曖昧にうなずき、答えを引き延ばした。
「うんて、どっちなんだ? おれに絶対に迷惑をかけないと約束するのか?」
「約束するよ」
と、松尾は答えた。結局、自分が真相を知りたいからといって館岡に迷惑をかけるわけにはゆかない、と思ったのである。
「そうか!」
館岡の細い目に安心したような、嬉《うれ》しそうな光が浮かんだ。彼はビールを取ると、
「じゃ、飲め」
松尾のほうへ瓶の口を突き出した。「ウーロン茶なんてやめて、飲め」
「いや、やめておく」
松尾は、顔の前で手を振った。
「二十年以上も前のことに、なんでそういつまでもこだわる?」
「二十年経とうが三十年経とうが、これぐらいは当然だ。おれは、酒を飲んで、一人の人間を殺してしまったんだから」
「市橋洋子が死んだのは、おまえのせいと決まったわけじゃないだろう。初めから自殺するつもりだったのかもしれん」
「それはありえない」
「そんなこと、わからんだろう」
館岡が、手にしていたビール瓶を音をたてて置いた。
「いや……」
「そうだ!」
と、館岡が声を高めて松尾の言葉を遮った。「市橋洋子と桐原の間に何らかの関わりがあったのなら、それが彼女の自殺の原因だったかもしれないじゃないか」
松尾は疑問だというように首をかしげた。
「違うというのか?」
「関係していたかもしれないが、直接の原因はやはりおれの行為だと思う」
「なんて奴だ、おまえは。そんなに自分を責めていたいんなら、勝手にしろ」
館岡がこの話を打ち切るように言うと、手酌でビールを注ぎ、呷《あお》った。
松尾は、小鉢の生湯葉の煮びたしをつまみ、ウーロン茶を飲んだ。
彼は、三津田に関わる自分の推理を館岡に話すつもりで来たのだが、話しても無駄なような気がした。
館岡の心の内は明らかだった。須ノ崎を殺したのが桐原で、その動機が桐原と洋子の関わりに関係していようと、どうでもいいのである。館岡が心配しているのはただ一点、我が身に影響が及ぶことだけ。二十三年前、松尾が市橋洋子にした行為が表に出て、そのとき松尾と一緒にいながら松尾を制止しなかった責任を問われ、己れの現在と未来が危うくなることだけを恐れているのである。
そんな館岡に、市橋洋子の父親が三津田らしいといった話をし、もしかしたら桐原が誰かを使って三津田の口を封じようとしたのではないかといった疑惑を話したところで、どうなるものでもなかった。
松尾は、自分の見込み違いだったことを悟った。重圧に耐えきれなくなり、館岡と話してみようなどと考えたことが間違いだったのだ。
そういえば、二十三年前もそうだった、と松尾は思い出した。市橋洋子が自殺したと知って、彼が罪の意識と良心の呵責《かしやく》に死ぬほど苦しんでいたとき、館岡と須ノ崎は己れの保身しか念頭にないようだった。直接の当事者ではないので、気が楽だったのかもしれないが、二人とも気に病んでいる様子は見られなかった。それでも須ノ崎のほうは少しは自分を責めていたのか、それにしても自殺するとはな……≠ニ神妙な顔をして言ったこともあったが、館岡は全然痛みを感じていないらしく、女が一人自殺したぐらいで何をそんなにがたがた騒いでいるんだ。早く忘れろ≠ニ松尾の苦悩ぶりを嘲《あざけ》った。また、松尾が名乗り出ようかと思う≠ニ二人に相談したときは、おまえのおかげでひどい目に遭ったというのに、これ以上おれたちに迷惑をかけるつもりか!≠ニ色を成した。そして、それでおまえは気がすむかもしれないが、巻き添えを食ったおれたちはどうなるんだ。おれと須ノ崎の一生はどうなるんだ。おまえ、補償してくれるか。おまえに、おれたちの一生が補償できるのか。もしそれができるんなら好きにしたらいい≠ニ半ば脅すように言ったのだった。
そのとき、松尾は、館岡のその反応を利用した。名乗り出ようかと思う≠ニ言ったのも、館岡と須ノ崎が猛反対するのがわかっていたからであり、彼らの反対によってやむをえず取り止めた≠ニいう自分に対する言い訳、免罪符を用意しようとしたのだった。いや、そこまで明確に計算し、意識していたわけではないが、そうした思惑が松尾の内にあったのは間違いない。と考えると、館岡よりも須ノ崎よりも狡《ずる》く卑劣なのは松尾自身だ、と言えなくもなかったが。
しかし、今回、館岡と話してみようと考えたときには松尾の中にそうした計算はなかった。二十三年前と同じように絶対に迷惑をかけない≠ニ館岡に約束させられたが、今度はそれを期待していたわけではない。
だから、今、
――約束はしたが、事と次第によっては約束を破ってもかまわないだろう、破るかもしれない。
と、松尾は考えていた。
ただ、そのときは、どのような結果になろうとも、すべての責めは自分が負うつもりでいる。
そう覚悟のようなものができると、松尾は気持ちが少し楽になり、食欲が出てきた。久しぶりの御馳走《ごちそう》を残してはもったいないので、全部きれいに平らげ、代金を割勘で支払って店を出た。
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第十一章[#「第十一章」はゴシック体] 手 記
1
九月二十五日(月曜日)午後五時――。
桐原は、第三京浜道路を北へ向かうハイヤーの中で軽く目を閉じていた。秘書の三宅は疲れたのだろう、横でかすかな寝息をたてている。桐原も疲れたが、眠くはない。市橋洋子の父親という最大の気懸りが消えたせいか、このところ彼は快い興奮の中にいた。
今日は、昼前に東京から甲府へ行き、市内のホテルで開かれた地元経済人との昼食会に出席した。その後、横浜へ直行。政友党の神奈川県連本部で開かれていた支部長会議に顔を出し、いま東京の党本部へ帰るところなのである。
桐原が横浜の官庁街に近いところにある県連本部に着いたときには、会議はすでに終わりに近かった。国内の政治情勢や選挙戦術についてはさんざん話し合った後のようだった。そこで、桐原は、海外の政治情勢に簡単に触れ、あとは『政道―わが半生の記』の話をした。内容を紹介し、畑中代表と早乙女幹事長の承認も得ているので、できるかぎり党の宣伝活動に利用してほしい、と要請した。
――予定どおりにいけば、見本は今週中にも各支部に届くはずです。支部長のみなさんにはぜひ目を通していただき、一人でも多くの方に勧めていただけたら……と思います。
次の選挙で政友党がどこまで躍進できるか、その鍵《かぎ》を握っているのは自分だ、と桐原は密《ひそ》かに思っていた。だから、『政道―わが半生の記』をどれだけ活用できるかは桐原個人の問題ではない。
今までと微妙に違う風の音に、桐原は目を開けた。
ハイヤーが多摩川を渡り始めたところだった。
この新多摩川大橋を渡れば、東京である。
桐原は、まだ夕日の当たっている窓外の景色に目をやりながら、今日あたり、見本のできる日が確定し、水谷が何か言ってきているかもしれないな、と思う。
それは本部へ帰って、パソコンを覗《のぞ》けばわかる。桐原に不在のときが多いので、水谷とのやり取りは電話ではなく、電子メールにしていたからだ。
桐原は今、『政道―わが半生の記』を手に取る日が楽しみだった。それが数日後に迫っていることも手伝って、このところ彼は快い高揚感を覚えているのかもしれなかった。
『政道―わが半生の記』が、水谷によって桐原のもとに届けられ、ほとんど時を置かずに多くの人々の目に触れるとき――。桐原は、そのときを境に、すべてが自分にとって良いほうへ向かって大きく動き出すような気がしていた。
市橋洋子の父親は消えても、桐原にはもう一つの厄介事が残っている。須ノ崎殺しの容疑だ。無実なのだから、いずれは疑いが晴れるだろうとは思うものの、警察はかなり執拗《しつよう》だった。が、警察の追及も、『政道―わが半生の記』が世に出て、桐原と政友党を支持する声が高まれば、自然に薄れ、消えてゆくのではないか……。
桐原は、三津田の代わりを務めている水谷を思い浮かべた。律儀そうな顔をした、痩《や》せた男である。三津田を殺害しようとした夜に初めて顔を合わせたときは疫病神のように感じたが、今は頼みの綱だった。
三津田が轢《ひ》き逃げに遭って植物状態になったと聞き、桐原は密かに高笑いするほど喜んだが、『政道―わが半生の記』に関してだけは少し心配だった。松尾は心配ない≠ニいう水谷の言葉を伝えてきたが、果たして予定どおりにできるのか、と。
ところが、水谷は万事、遺漏なく進めてくれていた。
桐原は、三津田を殺害しようとした今月一日の後、もう一度水谷に会っている。三津田が轢き逃げに遭って入院した五日後、今から一週間前の十八日だ。水谷が政友党本部まで尋ねてきたので、近くのホテルの喫茶店で話をした。
そのとき、水谷は、三津田社長の交通事故の話を聞いて不安を感じているかもしれないが、『政道―わが半生の記』の出版に支障を来たすことはないから、とあらためて桐原に言いに来たのだった。『政道……』は自分が責任をもって予定どおりに刊行するから心配しないように、と。
水谷の用件は、それともう一つ、本の贈呈方法の相談であった。
『政道―わが半生の記』の初版部数は五千部である。そのうち千部を桐原が買い取り、約半分の五百部弱は、刊行と同時に、政友党関係者と神奈川・千葉・山梨三県の支部など党組織、新聞社・雑誌社・テレビ局などのマスコミ各社、桐原の個人的な友人・知人、経済団体・宗教団体・労働組合などの各種団体等に贈呈される予定になっていた。
刊行と同時に……といっても、桐原としては、一冊一冊に署名《サイン》してから郵送するつもりだった。そして、それは三津田も了解していた。
だが、水谷の考えは違い、彼は次のように言ってきたのである。
〈『政道―わが半生の記』は、冒頭の著者の写真の横に、桐原の筆になる言葉と名前が入っている。もちろん印刷だが、桐原が毛筆で書いた文字を写真製版したものである。この署名≠ェあれば、大方の相手には自筆のサインは必要ないのではないか。逆に、特に大切な相手には、黙って本を送りつけるより、桐原がサイン本を持って参上したほうがよい。また、五百冊近い本に桐原が一冊一冊署名してから梱包《こんぽう》し、発送するとなると、急いでも、本が相手に届くのは一週間から十日後になる。一方、本ができる前に桐原から贈呈者名簿を預かっていれば、文字どおり刊行と同時に相手に届くように手配できる。どちらにするかは桐原の自由だが、たいていの著者は後のようにしているし、自分としても、一日でも早く多くの人の手に『政道―わが半生の記』が届き、読んでもらったほうがいいのではないかと思う〉
言われてみれば、もっともだった。
〔乞う 御高覧――著者〕と印刷された短冊《たんざく》を挟んでマスコミ各社や政党、団体に送る本に、一々本人の署名は必要ない。
それよりは、一日でも早く『政道―わが半生の記』を相手に届け、読んでもらったほうが有効だろう。
桐原はそう思ったので、水谷の意見を容《い》れた。そして、早急に贈呈者名簿を送るからと答え、翌々日、ほぼ作ってあった名簿に手を入れ、電子メールで水谷に送ったのだった。
第三京浜道路を出た後、環八通り、首都高速3号渋谷線と通って、桐原が政友党本部に帰り着いたのは、六時近くだった。
彼は、国際局の自分の机に鞄《かばん》を置いただけで上に行き、早乙女に甲府の昼食会と横浜の会議の様子を報告した。それから自分の席に戻り、女子職員が淹《い》れてくれた茶を飲みながらパソコンのスイッチを入れ、メールボックスを覗いてみた。
想像したとおり、水谷から次のような電子メールが届いていた。
〈予定どおり、二十八日の午後、御著書『政道―わが半生の記』ができてまいりますので、見本をお届けに上がります。桐原さんのご都合のよい時間と場所をご指定いただければ幸いです〉
水谷は、二十八日には見本ができる予定だが、場合によっては一日二日遅れるかもしれない、と言っていたのだった。
桐原は、早速、〈見本は二十八日の午後八時過ぎに本駒込の自宅へ届けてほしい〉という内容の返信を水谷のメールアドレスに送り、残っていた茶を飲んだ。
いよいよ三日後か……と桐原は思う。三日後の夜には、『政道―わが半生の記』をこの手に取って見られるのだった。
自筆ではないが、自分の「半生の記」であるのは間違いない。表紙、装丁、内容ともに出来映えの素晴らしさが予想できるので、心がまたひとりでに弾んできた。
桐原を興奮させ、彼の気持ちを弾ませているのは『政道―わが半生の記』ではないかもしれない。いや、さっきハイヤーの中で考えたように、『政道―わが半生の記』が間もなくできてくることも一つの理由にはちがいない。が、最大の理由は、彼の身体に取り付いていた悪性の腫瘍《しゆよう》≠ェほぼ消滅したからであろう。
悪性の腫瘍――市橋洋子の父親は、完全に消滅したわけではない。まだこの世に存在している。だが、先週の月曜日に会った水谷も、その後電話で話した松尾も、三津田が植物状態から回復する見込みはゼロに近い≠ニ言っていたのである。
2
二十八日(木曜日)――。
桐原は、テレビの政治討論会の録画撮りを終え、午後三時過ぎに党本部へ帰ってきた。
代表室で畑中、早乙女、武田らと茶を飲みながら一時間ほど雑談した後、国際局の部屋へ戻ってメールボックスを覗くと、水谷からの知らせが届いていた。
内容は、
〈急に、どうしても抜けられない用事ができてしまいました。まことに申し訳ありませんが、御著書『政道―わが半生の記』の見本(三冊)は、夕方までに御自宅に届くようバイク便で送らせていただきます。また、贈呈本につきましては、今日の昼過ぎ、名簿に載っていた四百七十八の宛先にすべてお送りいたしました〉
そのメールを読んだとき、桐原は少し腹が立った。社長と編集者の役割を一人でこなしているので、水谷は非常に忙しいらしいが、どんなに忙しくても見本ぐらい届けにきたらどうだ、と思って。
それに、伝言がないということは、彼の留守の間に電話もなかったらしい。いくらメールでやり取りしていたとはいえ、一方的な通告のようなやり方は面白くない。
といって、こちらから水谷に電話するのは癪《しやく》だった。電話をかけても、急用と言っているから、会社にいない可能性が高い。
桐原は、結局、
――水谷から直接受け取ろうとバイク便で届こうと、今日中に『政道―わが半生の記』を手に取って見られるなら、同じだから、いいか。
と、自分を納得させた。
ざらついた心を鎮めてから自宅に電話をかけ、バイク便が着いたら知らせるようにと郁美に言った。
郁美からの電話は、それから三十分もしないうちにかかってきた。本が着いた、というのである。
「あなたが帰るまで、包みを解かないでおくから、早く帰ってきて」
と、郁美も久しぶりに明るく嬉《うれ》しそうな声を出した。
3
同じ二十八日の午後五時半――。
青梅の松尾のもとにもバイク便が届いた。
クッション入りの書籍用封筒に入った『政道―わが半生の記』である。
三津田が轢《ひ》き逃げされて植物状態になってから、松尾は一度も三恵出版社へ行っていないが、水谷と桑山由季の二人で何とかやっていることは水谷から聞いていた。
その水谷の電話で、二十八日中には必ず見本を届けるからと言われていたので、松尾は朝から、
――いつ届くのだろうか。
と、落ちつかない気分で待っていたのである。
バイク便の配達員は、三十を二つ三つ過ぎた感じの女性だった。赤い革のライダーズスラックスに下半身をぴっちりと包み、髪を背中まで垂らしていた。
松尾は、女性の差し出した伝票に受領印を押し、
「ごくろうさま」
と言って玄関から送り出すと、ドアの鍵も掛けずに台所へ戻り、封筒のガムテープを剥《は》がした。
中から本を取り出す。
桐原の希望で、モスクワの写真をモンタージュした表紙のデザインも悪くなく、なかなかの出来映えだった。
桐原本人が書いた前書きと、水谷が付けた写真説明を除いて、中の文章はほぼ百パーセント松尾が書いたものだが、どこにも「松尾辰之」の名はない。
そんなことは百も承知のはずなのに、こうして出来上がってきた本を最初に手にしたときなど、ふっと虚《むな》しさが心をかすめることがないではなかった。
今回は、友人の「桐原政彦」の名が大きくあるので、なおさらなのかもしれない。
といって、松尾の中でそうした気持ちが尾を引くことはなかった。
――これが、おれの仕事なのだ。
と割り切っていたし、彼の場合、元々他人の生活や境遇を羨《うらや》む傾向はそれほど強くなかったから。
松尾は本を開いた。
扉、桐原の顔写真と署名、前書き、目次、そして本文を飛ばして最後の奥付と見て、本の腹に置いた右手の親指をわずかにずらしながら、ぱらぱらと目次まで戻った。
彼は、満ち足りた気分で顔を起こし、玄関の鍵を掛けてきた。本を持って六畳間の机へ移った。
椅子に腰を下ろし、今度は本文の記述と写真に適当に目を配りながら第一章から順にページを繰っていった。読むというよりは見るといった感じで。
松尾自身が綴《つづ》った文章なので、それだけで前後に書かれている内容が頭に浮かんできた。
そして、全体の三分の二ほど進んだ。
記述は、桐原の生い立ちや経歴から、日本と世界の政治・経済情勢、桐原の政治的な主張と将来に対するビジョンへと移っていた。
桐原から送られてきた録音テープを松尾が繰り返し聴き、解り易く噛《か》み砕いて書いたところだ。
≪………というように、わたしが崩壊の可能性を口にした三年後の一九九一年、超大国・ソビエト連邦は地球上から姿を消し、東西冷戦の時代は終わりました。しかし、代わりに、世界の三十ヵ所を越える地域で武力紛争が起き、現在は休戦状態のところもありますが、難民は千五百万人を越えています。それらの紛争と関連して、あるいは単なる貧困から、餓えで死亡する人も毎年膨大な数にのぼっています。これが、二十世紀から二十一世紀へ向かおうとしている世界の一方の現実です。現在、わたしたち日本人はそれらの災厄を免れたところに暮らしていますが、これはわたしたちの努力の結果というより、たまたまの幸運にすぎません。もし、平和な社会と豊富な食料が、何もしなくても、空気のようにいつまでも存在しつづけると考えていたら――今や空気だってそういうわけにはいかなくなっていますが――近い将来、大変な事態になります。こんなことを言えば、多くの人は、経済大国・日本は複雑な民族問題や宗教問題を抱えた国や貧しい発展途上国と違うのに、何をたわごと[#「たわごと」に傍点]言っているのだ、と鼻先で笑われるかもしれません。ですが、わたしは、けっして根拠のないことを言って不安を煽《あお》っているわけではありません。日本国の舵取《かじと》りをこれ以上無策な人たちに任せていたら手遅れになるため、申し上げているのです。では、これから、その危険性について具体的にお話ししたいと思います。
俊、見ている? もちろん、天国から私を見ていてくれるわよね? 私、今、俊と私のためにこれを書いているのよ。俊が私を置いて一人で天国へ………≫
「な、なんだ。これはなんだ!」
松尾は思わず声を上げていた。
突然、異物が……自分の書いたものとは違う文章が目に飛び込んできたからだ。
松尾は、もう一度同じ部分に視線を走らせた。
「違う、違う! これはおれの書いたものじゃない」
といって、明らかに桐原が書き直したり書き加えたものでもないようだ。
――どういうことか? なぜ、こんな文章が突然入ってきているのか?
松尾は頭が混乱した。理解できない。
いや、少なくとも誰がいつやったのか≠ニいう点についてだけは見当がついた。
その想像は、もう少し先まで読み、確信に変わった。同時に、それをした人間の意図もわかってきた。書かれている内容によって。
松尾の書いた文章は、すべて桐原を指す平仮名の「わたし」の視点になっている。しかし、差し替えられた文章では、それが漢字の「私」になっていた。明らかに、市橋洋子を指す[#「市橋洋子を指す」に傍点]。
松尾は初め、市橋洋子を詐称する人間の創作だろうと思ったが、読み進むにしたがってそうではないらしいと思い始めた。いや、内容は創作かもしれないが、市橋洋子を詐称する人間が書いたものではない。ということは、取りも直さず市橋洋子本人が書いたものだ、という意味である。彼女が死んだ二十三年前、それもどうやら死の二、三週間前に――。
このような文章が、二十三年間、どこにどうして眠っていたのかは想像がつかない。市橋洋子の遺族が内容を知っていて保管していたのか、それとも、彼女の遺品の中から最近発見されたのか。
また、原稿を差し替えた人間――新たな原稿を加えればページ数が増えて本の体裁が変わってしまうので、松尾の書いた原稿の一部を除き、代わりにこの原稿を入れたものと思われる――のおおよその意図は明らかになってきたものの、具体的な目的までははっきりしない。
それらも当然気になるが、松尾はいま、そうしたことよりも、書かれている内容に引き込まれていった。市橋洋子によって書かれたと見られる文章は、読み進めば進むほど、創作《フイクシヨン》とは思えなかったからだ。事実を記録した手記のように思えたからだ。
≪俊、見ている? もちろん、天国から私を見ていてくれるわよね? 私、今、俊と私のためにこれを書いているのよ。俊が私を置いて一人で天国へ行っちゃった一九七七年の夏、何があったのかを忘れないために。ううん、こんなものを書かなくたって、私は忘れないわ。俊のこと、俊とのことは、死ぬまで忘れっこないわ。でも、私、あんまり頭が良くないでしょう。細かなことは忘れてしまうかもしれない。だから、書いておこうと思ったの。今のうちに全部。そうすれば、俊と二人で二十一世紀を迎えられるでしょう。二十一世紀になったとき、私は四十過ぎのおばさんで、俊は二十歳のまま。何だか不公平な感じだけど、仕方がないわ。俊、おばさんなんか嫌だなんて言わないでね。私の心はいつまでも俊と一緒なんだから。
俊、憶《おぼ》えている? 私たちが知り合ったときのこと。私は舞鶴から東京へ出てきて、渋谷の専門学校に通い始め、俊は医大の受験に失敗して、初め川越のおうちから予備校に通っていたけど、通学に時間がかかるからってアパートに移って間もない頃だったわね。あれから、もう一年、この間にいろいろなことがあったけど、俊が死ぬなんて、私………………≫
というように、市橋洋子の手記と想像される文章は、恋人の栗本俊に対する洋子の思いから書き出されていた。この後、しばらくは俊との交際の記述がつづく。が、二人の恋路を邪魔する人間として桐原政彦が登場した頃から内容が少しずつ変わってゆく。そして、栗本俊が連続幼女|悪戯《いたずら》事件の容疑者として逮捕された前後からは、その事情が、さらには洋子と桐原との関わりが、手記の中心になる。
*
一九七七年の春――。
市橋洋子は、渋谷にある建築デザインの専門学校へ通う学生だった。一方、栗本俊は、美術大学へ行きたいと思っている予備校生。俊は、表向きは医大進学を目差しているものの、本当は病院経営者の父親が息子を医師にしたいという希望を断念するのを待っていた。
二人は、上京して間もない一年前の五月に知り合った。俊に思いを寄せる洋子の同級生、宮川芙美子を介して。その後、二人は芙美子に隠れて会い、互いに愛し合うようになっていた。
そこに登場するのが、洋子たちより一つ歳上の東央大学法学部の学生、桐原政彦。洋子と同じ小田急線沿いの代々木上原に住んでいる桐原は、電車の中で洋子を見初め、下北沢のアパートまで彼女を尾《つ》けてきて、交際を迫った。
当然、洋子はその気はないと断わる。
桐原は、東央大学法学部のエリートである自分を振るなんて信じられないとばかりに、好きな人がいるのか、と訊《き》く。
洋子は答えたくなかったが、それ以上関わりたくなかったので、いると答える。恋人がいるとわかれば諦めるだろうと思って。
だが、桐原は、洋子の予想に反し、相手はどこの誰かとしつこく問い、あなたには関係のないことだと洋子が怒った調子で言っても引かない。洋子のアパートを見張ったり、学校の入口で洋子の帰りを待ち受けていたりして付きまとい、洋子が俊と会っていると知ると、俊の住んでいる笹塚のアパートを突き止め、彼の行動まで見張り始める。
その頃、洋子や俊の住んでいる渋谷・新宿区内では、同じ犯人によるものと見られる、幼女に対する悪戯事件が連続発生。それは、春が過ぎて初夏になってもつづいていた。そして俊は、一度は、かつて事件の起きた自宅近くの公園を散歩していて、また一度は、事件の直後にたまたま現場近くを通りがかって、警察の不審尋問を受けた。
それらのときはすぐに解放されたものの、以来、警察は俊に目をつけていたらしい。季節がさらに移り、あと十日もすれば梅雨が明けて本格的な夏が始まろうという七月十二日、――代々木八幡の境内で未遂事件が発生した翌朝――俊は突然アパートに踏み込んできた警官に逮捕状もなしに連行された。
警察署では厳しい取り調べを受けたようだが、俊は否認した。やっていないのだから、当然である。
ところが、事件が起きたときの俊の所在が曖昧《あいまい》なうえに、犯人を目撃した二十八歳の女性の証言は、髪型や背格好、年齢が俊に似ている、というものだった。女性は、勤め帰りに代々木八幡の杜《もり》に沿って人気のない道を通りがかり、幼女の泣き叫ぶ声を聞いて駆けつけ、境内の植込みの陰から飛び出してきて、顔を背けるようにして擦れ違って行った男を見ていたのである。
この女性の証言が決め手になり、物証がないまま俊は逮捕。春からつづいていた連続幼女悪戯事件の容疑者が捕まったというので、大々的に報道された。
洋子は俊を信じていたが、彼女の力ではどうにもならない。
どうしたらいいのかと思案にくれていると、桐原がアパートを尋ねてきて、君がショックを受けているだろうと思ってね≠ニ親切ごかしに言った。洋子を慰め、励ましに来た、というわけらしい。
≪それは、私はショックは受けていた。でも、俊を犯人と決めてかかっている相手になぐさめてもらう気なんかない。「栗本君は、女の子にイタズラなんかしていません!」と強い調子で言い返した。
すると、桐原は「そう思いたい君の気持ちは分かるけど事実は事実として認めなければならないよ」と言った。ずっと年下の者に教えるみたいな話し方と、自分は何でも分かっているんだというような顔。私はそんな男も、ひねこびたような男の顔も大嫌いだった。
「栗本君は犯人じゃないわ! 栗本君は幼い女の子にイタズラできるような人じゃない。そのことは私が一番よく知っています」私は桐原をにらみつけた。
「君はだまされていたんだよ」
「だまされてなんかいません! あなたは、栗本君の何を知っているんですか? 何を……」私は言いながら、悔しくて涙が出そうになった。
「僕は何も知らないけど、目撃者の証言があるわけだし……」
「帰ってください。あなたは、私がショックを受けているのをいいきみだと笑いに来たんですか?」
「とんでもない」と桐原が顔の前で手をふった。「僕は、君を心配して様子を見に来たんです。そして、いたいけない子供にイタズラをするようなヒレツなやつにいつまでもかかわり合っていたら君のためにならない、そう思って、忠告に来たんです」
なんて偉そうな言い方なの! 私はがまんできなくなって、「よけいなお世話です!」とどなった。「聞きたくありません。帰ってください。そしてもう二度と来ないでください」
桐原の態度が変わったのはそのときだった。何となくずうずうしい感じになって、「そう。じゃ、二度と来ないが、それでいいんだね?」
「もちろんです!」
「分かった。君がそれをのぞむんならそうするけど、後で泣きついてきても知らないよ」
「そんなこと……」するわけがありません、と言いかけて、私はハッとした。桐原がこれまで何度か俊を見はっていたことを思い出したのだ。もしかしたら、俊が女の子にイタズラをしようとしたと言われているときも桐原は俊を見はっていたのではないだろうか。もしそうなら、桐原は、そのとき俊が代々木八幡の近くにいなかったことを知っている、俊が犯人でないことを知っている。そうか、そうにちがいない! 桐原は、女の子がイタズラされたころ、俊が別の場所にいたのを知っていながら、私に俊が犯人だと思わせようとしたのだ。私に俊がヒレツな人間だと思わせ、私の気持ちを俊から引きはなそうとしたのだ。でも、予想が外れた。私は俊のことを全然疑おうとしなかったし、俊に対する気持ちも変わらなかったから。それで、桐原は、かくしておくつもりだった事実をほのめかしたのではないだろうか。
私は自分の想像を言ってみた。すると、桐原はそうじゃないとは言わず、思わせぶりに「さあ……」と首をかしげた。
間違いない。そう思うと、私の手や足はひとりでにブルブルとふるえだし、頭も体も中で火が燃えだしたみたいに熱くなった。俊のことをヒレツだと言った桐原……こいつこそもっともヒレツなやつだったのだ。私と俊のあとをつけたり見はったりしていただけじゃない。俊が犯人じゃないと知りながら、俊が犯人だと私に思わせようとした。なんて、なんて汚ない……「あなたは、あなたは、それで平気なんですか!」私は叫んでいた。めまいがして倒れそうだった。
でも、桐原の方はぎょろりとした大きな目の奥に笑いのかげさえ浮かべていた。「平気も何も、勝手な思い込みで責められたって、僕にはどうしようもない」
「じゃ、違うんですか? 私の言ったことは間違っていたんですか?」
「さあ……」
「はっきりと答えてください」
「君も勝手だな。早く帰れ、もう二度と来るな、と言っておきながら」桐原がいなおるように口元をちょっとこわばらせた。
私は、血がにじんできそうなほど強く唇をかんだ。悔しかった。でも、我慢しなければならない。桐原は俊の無実を証明できる人間なのだから。私はごめんなさいと謝り、どうか本当のことを教えてくださいと頼んだ。
「じゃ、答えるけど、僕は何も知らない」と桐原が軽い調子で言った。
「嘘です。あなたは知っているはずです。代々木八幡で女の子がイタズラされそうになったころ、栗本君が別の場所にいたのを知っているはずです」
「知っているはずだと言われても、困るな。僕は本当に知らないんだから」ととぼけた顔。初めにほのめかしたときはどう考えていたのか分からないけど、今は事実をみとめないほうがいいと判断したのかもしれない。
「お願いします。本当のことを教えてください。そして警察へ行ってそれを話してください」私は何度も頭を下げて頼んだ。でも、桐原はそう言われても知らないものはどうにもならないとくりかえすだけ。私の顔にじっと観察するような視線を向けて。
彼は、「また来てもいいんならまた来ます」と言って帰って行った。私は黙って見送った。どうすることもできないで。
桐原が帰ってしばらくすると、なぜ桐原の体に抱きついてでも引き止め、彼がうんと言うまで頼まなかったのだろう、と私は後悔しだした。桐原さえ警察に行って話してくれれば、俊の疑いを晴らせるのに、俊を助けだせるのに。
そう思うと、私はじっとしていられなくなり、桐原の住んでいる代々木上原のアパートへ向かった。住所を教えられていたから、途中の本屋さんで区分|地図帖《ちずちよう》を立ち見したら、簡単に分かった。私がドアをノックして名前を言うと、桐原はすぐにドアを開けた。口では驚いたと言ったけど、それほど驚いているようには見えなかった。私が来るかもしれない、と予想していたのだろうか。
「君が来てくれるとはうれしいな」と笑った。
すすめられて私は上がった。桐原のうちも金持ちではないのだろう、部屋は六畳一間。四畳半に小さな台所が付いた私の部屋よりほんの少し広いだけだった。ただ、私のところは折り畳み式の食事テーブルが机の代わりだし、本も少ししかないけど、桐原の部屋には机と椅子があり、法律や政治の専門書、英語の題名の厚い本などがスチール本立てにぎっしりと並んでいた。
私は、桐原のいれたインスタントコーヒーにちょっと口をつけてから、警察へ行って知っていることを話してください、俊を助けてください、と何度も畳に額をつけて頼んだ。
でも、桐原は「君のために、できればそうしてやりたいが、本当に知らないのだからどうにもならない」と答えるだけ。そして、おさえてもおさえてもひとりでに笑いがにじみ出てくるような顔をして、「君にはすまないが今夜は楽しかった。また来てください。いつでも歓迎しますよ」と私を送り出した。
それから二週間近く、私は一日おきぐらいに桐原のアパートへ行った。もし俊を助けてくれたら自分のできることなら何でもするからと言ってお願いをくりかえした。桐原の答えは初めのときと変わらず、帰りにはいつも「また来てください」と人をからかっているような、うれしそうな顔をした。他人の不幸を楽しんでいる桐原に、私の中で何度も怒りがバクハツしそうになった。でも、そのたびに俊のことを頭に浮かべ、がまんした。
俊……。俊のことを思うと、私は焦りで時々いても立ってもいられなくなった。自分が今ここにこうしている間にも俊が刑事たちに責められ、痛めつけられているのかと想像すると、頭がおかしくなり、大声で叫びだしそうになった。俊が逮捕されたのをいいことに、犯人が次の事件をおこさないでいるらしく、それも俊に対する疑いを強めさせていた。何十年もしてやっと無罪になった元死刑囚だという人が新聞に書いていたのを前に読んだことがある。狭い取調室で朝から夜まで刑事たちにおまえがやったのだろう、やったのだろうと責められたら、やっていなくてもやりましたと嘘の自白をしてしまうことがあるのだ、と。俊だっていつ自白させられ、犯人にされてしまうか分からない。一度自白すれば、みんなに犯人だと思われ、あれは嘘だったと証明するのは気が遠くなるほど難しいらしいから。そう考えると、どうしても俊が自白する前に桐原に知っていることを話させる必要があるのだった。
ある晩、桐原のアパートからの帰り道、私は桐原の考えに気づいた。突然氷のかたまりを押しつけられたみたいに胸がきゅっとちぢみ、足がすくんで動けなくなった。もし私の想像が当たっていれば、私が桐原の思いどおりにならないかぎりは彼が私の願いを聞いてくれることはないだろう。
私は歩きだした。電車に乗らず、夜の道を歩きながら考えつづけた。どうしたらいいのか、呼吸が苦しくなるくらい考えた。私が桐原の思いどおりにならなくても……そこまでしなくても、今に真犯人が捕まるにちがいない、私はそう思おうとした。でも、その後ですぐに、犯人がこのまま新しい行動をおこさず、俊が自白させられてしまったら……とも思った。
私は決めた。俊を助ける方法が目の前にあるのに、それから逃げるわけにはいかない。
決めたら、少しでも早いほうがいいと思い、桐原のアパートへ引き返した。
このときは桐原が本当にびっくりした顔してむかえた。私は玄関に立ったまま、もし桐原が警察へ行って知っていることを話してくれたら、そして俊を助けてくれたら、自分は俊と別れて桐原と交際する、桐原の言うとおりにする、と言った。
いくらのぞんでいた通りでも、すぐに飛びついたのではコンタンが見え見えだからだろう、桐原は、「そんなことを言われても、知らないものは知らないのだから……」と初めは歯切れの悪い返事をしていた。でも、じきに私の熱意に負けたようなふりをして、「とにかく、どうしたら君の力になれるか、よく考えてみよう」ともったいぶって言った。
返事は翌日の夕方に分かった。桐原が私のアパートへ来て、昨夜君の言ったことは本気かと聞いたので私が本気だと答えると、「それなら、警察へ行き、僕の知っている事実を話すよ」と言ったのだ。
「代々木八幡で女の子がイタズラされそうになったころ、栗本君は別の場所にいたのね。やはり、桐原さんはそれを知っていたのね?」私は確かめた。
「今更、君に嘘をつくわけにゆかないから言うけど、ま、そういうこと」と桐原がわるびれた様子もなく答えた。自分のためだと思えば平気で嘘をつける人間、またそれを平気で引っくりかえせる人間、他人が無実の罪で警察に捕まり、ひどい目にあっていようと、何も感じない人間、桐原というのはそういう男らしかった。私は、目の前の男にツバを吐きかけてやりたかったし、こんな男の自由にならなければならないのかと思うと、トリハダが立った。でも、私がここで逃げ出したら、俊を助けられない。それに相手がどんなにひどいやつでも、約束は約束である。俊が助かったら、私は俊と別れ、桐原ののぞむとおりにするつもりだった。それしかなかった。
でも、その必要はなくなった。そう、俊、あなたが死んでしまったために。
桐原は、明日はどうしても休めないバイトがあるので明後日警察へ行って話す、と私に約束して帰って行った。この一日の遅れが俊の命を奪ってしまったのだ。桐原が私と約束して帰った翌日、七月二十九日の夜、俊、あなたが、留置場で自殺してしまったから。
警察は違法な取り調べはしていないと言ったけど、無実の人間を何日も留置場に閉じ込めて、おまえが犯人だろう犯人だろうって責め立てるのが、どうして違法じゃないの! 俊はそんな警察に怒り、抗議して自殺したにちがいないのに。ああ、俊。かわいそうな俊。どんなにつらかっただろう。どんなに悔しかっただろう。想像しただけで、私は胸がつぶれそうになるわ。ごめんなさい、俊。本当にごめんなさい。もう一日……私がもう一日早く桐原の考えていることに気づいていたら、あなたは死ななかったのに……。
そうじゃない! ううん、それもそうだけど、桐原が人間の心さえ持っていたら、俊は自殺しなかったのだ。自殺しなかっただけじゃない。俊は、やってもいないことで刑事たちに責められ、つらく、悔しい思いをしないですんだのだ。桐原は、警察へ行って自分の知っていることを話したからといって、何も損するわけじゃなかった。それなのに、俊から私を奪うために嘘をつきつづけたのだ。高校の国語の時間(だったと思うけど……)に聞いた話に出てくる男のように、目の前でおぼれている人間を見ながら、助けたらいくらくれるかと私と交渉しつづけたのだ。ううん、その話の男よりもっとひどい。その男は川へ飛び込めば濡《ぬ》れるしおぼれる危険だってあったけど、桐原は自分の知っていることを話したって何の危険もなかったのだから。
でも、もう遅い。今更、私がどんなに後悔したって、桐原を憎んだって、恨んだって、遅い。俊は生き返らないのだから。時間を逆戻りさせることはできないのだから。じゃ、私に何ができるの? それは決まっていた。俊が無実だとはっきりさせること、私にできるのはそれしかない。ほとんどの新聞や週刊誌は警察のやりかたを非難していたけど、それでも俊の疑いは完全に晴れたわけじゃない。犯人が捕まらないので、まだ灰色である。このままでは、俊は死んでも死にきれないだろう。天国へ行っても、安らかに眠れないだろう。だから、私が俊にかけられた疑いを晴らしてやるのだ。
それには、桐原を警察へ行かせ、知っていることを話させる必要がある。桐原が嘘をついていたために手遅れになって俊は自殺したのだから、桐原にはそうする責任がある。俊が生きていたときに私とした約束とは関係なく。
私は、そう考えて、川越のお寺で行なわれた俊のお葬式から帰ってくると――初めて顔を合わせた俊のお父さんとお母さんには俊の友達だと挨拶《あいさつ》しただけで桐原のことは話さなかった――桐原のアパートを訪ねた。
でも、そこに待っていたのは私が想像もしなかった桐原の言葉と態度だった。桐原は上がり口にふさがるみたいに立ち、「なに?」と迷惑そうに聞いた。そして、私が「なにって、栗本君が亡くなったときに電話でお話ししたように……」と話しだすと、「そんなこと、僕には関係ないね」ひとこと冷たく言った。
「関係ない!」
「ああ、ないね」
私は、信じられない思いで、物を見るみたいな目で私を見下ろしている男の顔を見つめた。
宮川さんから〈俊が昨夜自殺した〉と知らされた七月三十日の朝、私は、その日警察へ行って事実を話してくれることになっていた桐原に泣きながら電話した。俊が自殺したと聞いて、桐原もショックを受けたらしく、何も言えないでいた。もっと早くあなたが話してくれていたら、こんな結果にならなかったのに……と私が責めても、黙って聞いているだけで何も言い返さなかった。それなのに、一週間もしないうちにこの変わりようはどういうわけだろう。桐原の中で何があったのだろう。
私は想像がつかないまま、「だって、桐原さんは、栗本君の無実を証明するために警察へ行って知っていることを話してくれるって私と約束したじゃない」と言った。「その約束は、栗本君が亡くなったって変わらないはずでしょう」
「君が何を言っているのか、僕にはわけが分からない」と桐原が首をかしげた。「僕は、栗本君のことなど何も知らないし、君と何かを約束した覚えもない」
私は驚き、自分の目と耳を疑ったほどだった。でも、少し落ちつくと、ああ、そういうことだったのか、と分かった。
桐原は、いちじは私にのぼせあがり、俊から私を奪うために何でもした。私をつけ回し、俊の行動まで見はった。そして、俊が幼い女の子にイタズラしたという疑いで警察に捕まっても、無実だと知っていながら警察に知らせず、私を自分の思いどおりにするために利用しようとした。そのため、俊は警察でひどい目にあわされ、抗議して自殺した――。もし桐原が今警察へ行って知っていることを話した場合、こうした事情が明らかになり、実際の桐原がそうであるように、彼は〈好きになった女を自分の|もの《・・》にするために無実の予備校生を死に追いやったヒレツな男〉と言われるだろう。そうなれば、きっと将来の出世をねらっているにちがいない桐原にとって大きなマイナスになる。桐原は、俊が自殺したと私に知らされたときはショックで何も言えなかったが、後で冷静になってからそう考えたのだろう。それで私をあきらめ、黒を白と言い通すことに決めたにちがいない。
私の想像したとおりなら、桐原を警察へ行かせ、知っていることを話させるのはこれまで以上に難しそうだった。でも、私はあきらめる気はない。このまま引き下がるつもりはない。もし私があきらめて、犯人が捕まらなかったら、俊の容疑はいつまでも灰色のままに残ってしまうのだから。
私は毎日のように桐原のアパートを訪ね始めた。夏休みのため、桐原は部屋にいないときが少なくなかったが、そんなときは二時間でも三時間でもアパートの前で待ち、警察へ行って知っていることを話してほしい、とこれまでの訴えをくりかえした。私にはもう桐原との約束を守る気はなかったが、言うことを聞いてくれたらあなたののぞむとおりにするからと言い、どうか俊の疑いを晴らしてください、と頼んだ。
桐原は近所の人に見られるのかイヤだったからだろう、顔をしかめながらも私を玄関へ入れた。そして、君が何を言っているのかさっぱり分からない、ととぼけ通した。以前あれほどしつこく私を追い回していたくせに、君に押しかけられて僕は迷惑している、何度来たって知らないものは知らないのだからもう来ないでくれ、と怒った声を出した。
私は桐原が憎かった。できれば、ナイフで刺し殺してやりたいくらい。こんなヤツにどうしてこんな目にあわされなければならないのかと思うと、悔しくて涙がこぼれそうになった。でも、そんなときは俊の顔を思い浮かべ、歯を食いしばってがまんした。俊はもっともっと私の何倍も何十倍も悔しかったにちがいない、そう思って。これくらいで私が負けたら、俊はどうなるの? 俊にかけられた疑いはどうなるの? 私は負けないわ。絶対に負けない。負けるものですか。俊の疑いを晴らすまでは。でも……でも、もしかしたら負けそうになるときがあるかもしれない。くじけそうになるときがあるかもしれない。そんなときは、俊、私を支えて。私をはげまし、私に力を貸して……。
その後、私は考えて、どうしてもあなたが警察へ行って話してくれないなら、これまであったことを詳しく書いて週刊誌に送る、と桐原をおどしてみた。すると、桐原はちょっと顔色を変えた。でも、すぐに笑いながら「どうぞご自由に」と答えた。それから、その笑いを引っ込めて怖い顔になり、ただし、記者が僕のところへ取材に来たら僕は次のように答えるよ、それでも君が平気だっていうんなら好きにしたらいい、と逆に私をおどした。「この女は、恋人に自殺されたショックで頭がおかしくなっているらしいんです。連日のように僕のアパートへ押しかけてきて、あなたは恋人が無実である証拠をにぎっている、それを警察で話してくれ、とわめくんです。自分をあなたの好きなようにしていいから、とスカートまで脱ぎ始めるので、僕はほとほと迷惑していたんです。たぶん、それでも僕が相手にならなかったからでしょう、そんな根も葉もない話をでっち上げ、僕にイヤがらせをしたんだと思います」
これでは、聞いた人には、私と桐原のどちらが本当のことを言っているのか分からない。私の話を信じてくれる人もいれば、桐原の話が本当だと思う人もいるだろう。桐原は私より頭が良いし、口もうまい。平気な顔をして嘘をつける人間だし、私は〈頭の狂った女〉にされてしまうかもしれない。もしそうなったら、俊は無実だという私の言葉もそうした女のモウソウということになってしまい、俊の疑いを晴らすのが難しくなる。そう考えると、どんなに悔しくても、私は桐原とケンカをするわけにはいかなかった。頭を下げてお願いする以外になかった。私は声がふるえないように注意して、「おどかすようなことを言ってすみませんでした、どうぞ許してください」と謝った。
でも、そうして頭を下げながら、私は自分の中になにか覚悟みたいなものが生まれるのを感じた。桐原がどうにもならないほどヒレツな人間だとあらためて思い知らされたために。こうなったら、どこまででも追いかけて行ってやる、と思った。いつまででも付きまといつづけてやる。桐原がギブアップするまで。だから、俊、私を見ていて。天国から私を見守っていて。そして、私が俊の疑いを晴らすまで待っていて。≫
*
「私」という一人称視点で書かれた文章は、最後に、
≪一九七七年八月十日 市橋洋子≫
と記され、ここで終わっていた。
次いで、この市橋洋子の手記を松尾の書いた原稿と差し替えた者によると見られる、次のようなコメントが付いていた。
≪一六三ページ六行目から、一八一ページ九行目までの文章は、二十三年前の一九七七年八月二十六日に青梅市を流れる多摩川で自殺した市橋洋子(当時十九歳)の手記『俊とともに』の全文である。『俊とともに』は、洋子の死の直前、一九七七年八月十五日に行なわれた舞鶴中央高校旧三年B組クラス会のとき、洋子自身の手によってタイムカプセルに納められた。そして、今年二〇〇〇年の五月三日に行なわれたクラス会で、タイムカプセルの封を解いたクラス会幹事の手によって取り出され、洋子の母親のもとに送られたものである。≫
差し替えられた原稿はそれで終わりらしく、次の行からはまた松尾の書いた文章になっていた。
本の残りは四十ページ余り。
松尾は、市橋洋子の手記に書かれていた栗本俊の実家が川越の病院≠セという事実が気になっていたが、とにかく最後まで目を通してしまおうと思い、憶《おぼ》えのある文章に視線を走らせていった。
ところが、彼は十ページと進まないうちに手を止め、息を呑《の》んだ。
再び異物≠ノぶつかったのである。
4
松尾は、気持ちを落ちつかせるために一度本から目を上げ、軽く深呼吸してから読み進んだ。
間違いない。
一八七ページ一四行目からの文章は、桐原を指す「わたし」の一人称視点で書かれているものの、松尾の書いた原稿ではなかった。
桐原の書くはずがない内容なので、彼の原稿でもない。それこそ、創作にちがいなかった。タイムカプセルから出てきた市橋洋子の手記を桐原の本の中に無断で割り込ませた人間の手になる。
それは、市橋洋子の手記『俊とともに』のつづきともいうべき内容を持っていた。
『俊とともに』によれば、市橋洋子は桐原に対する怒りを抑えて、俊のために証言してもらおうと、桐原に詫《わ》びる。あくまでも下手に出る。こうなったら、桐原が知っている事実を警察に話し、俊の無実を証明するまでは、どこまでも桐原に付きまといつづけてやる、と心の内では思いながら。
これは、市橋洋子が手記を書いた一九七七年八月十日の状況である。
市橋洋子は、自殺した恋人、栗本俊のことを綴《つづ》ったその手記を持って郷里の舞鶴へ帰り、八月十五日に開かれた高校のクラス会に出席したらしい。そして、タイムカプセルに自らの手で手記を納めた。タイムカプセルが二〇〇〇年に開封されたときも、自分の手で手記を取り出すつもりで。ところが、洋子は――いつ上京したのかは不明だが――クラス会のわずか十一日後、八月二十六日に自殺した。
当然ながら、市橋洋子が『俊とともに』を書き終えた八月十日から彼女が自殺した二十六日まで、十六日間の洋子と桐原の関わりは、手記には記されていない。つまり、洋子の自殺する直前の状況は、彼女の手記を読んでもわからない。その空白を、洋子の手記『俊とともに』を桐原の『政道―わが半生の記』に割り込ませた人間は想像で埋めているのだった。桐原の手記のかたちで[#「桐原の手記のかたちで」に傍点]。
それは、洋子の手記ほどは長くなかった。
松尾は一気に読んだ。
内容を要約すると次のようになる。
わたし(桐原)は、このまま洋子にしつこく付きまとわれつづけたら、将来が滅茶滅茶になってしまうと思い、何とかしようと考え始める。
といって、自分で手を下すのは危険すぎるので、何か巧い方法はないかと頭をひねっていると、妙案を思いついた。
今なら、洋子はわたしの思いのままに動く。そこで、わたしは、きちんと話を聞くから二十六日の晩八時過ぎに青梅の多摩川キャンプ場まで来い、と洋子に言う。わたしはキャンプ場にはいないが、友達の「田宮和明」という男がわたしの知らない仲間とそこでキャンプしているはずなので、彼を訪ねて訊《き》けばわたしの泊まっている宿がわかるようにしておくから、と。
当然ながら、洋子はわたしの意図を訝《いぶか》しんだようだった。なぜ、今、東京で話を聞いてくれないのか、なぜ、キャンプ場に田宮和明という男を訪ね、わたしの居所を訊かなければならないのか、と。
だが、わたしはわざとむっとした顔をして、ぼくだってきみに話すには考える時間が必要なのだ、と答えた。また、田宮に訊けというのは、私が勉強と読書のために滞在する宿がまだ決まらないからだと誤魔化し、来る気がないんなら、無理にとは言わない、こちらは一向にかまわない、と突き放した。
冷静に考えれば、洋子はわたしを怪しみ、疑ったにちがいない。危険を感じて、夜、多摩川のキャンプ場へなど行かなかったにちがいない。が、そのときの洋子の頭には、何としても栗本俊の無実を証明したいということしかなかったようだ。
洋子は、青梅まで行けば本当に自分の話を聞いてくれるのかと念を押し、わたしが約束すると答えると、二十六日の夜、一人で青梅まで行った。
キャンプ場の外れにテントを張って洋子を待っていたのは、わたしが顔と名前を知られないようにして雇ったチンピラたちである。
チンピラたちは、田宮和明という人はいないかと尋ねてきた洋子をテントに引き摺《ず》り込み、襲いかかった。
その結果、身も心もずたずたにされた洋子は、もう俊もいないし、生きていても仕方がないと絶望し、半月前に自殺した俊のあとを追うように多摩川へ入って行った。まさにわたしが望み、予想したとおりに――。
この桐原の視点で書かれた偽の手記には、明らかに間違いがある。また、キャンプ場にタミヤカズアキなる男を訪ねさせた事情にも少し無理があるように思えた。
が、一方、事実をかすめている想像もあった。
それは、半月前に恋人を失ったとはいえ、市橋洋子がそれだけの理由で死ぬわけがないと考えたのだろう、自殺した直接の動機をキャンプをしていた男たちに暴行されたため≠ニ見ている点である。
確かに、市橋洋子は、その晩、多摩川の川原にテントを張っていた男に暴行されたために自殺した。市橋洋子の心の内は死んだ彼女にしかわからないが、そう考えられる。
ただ、洋子に襲いかかったのはチンピラでもなければ、桐原に金で雇われた人間でもない。それこそ、酔って正体をなくした松尾だった。松尾には記憶がないのだが、館岡と須ノ崎の話によると、焚火《たきび》の横で彼らと酒を飲んでいた松尾は、タミヤカズアキという人はいないだろうかと尋ねてきた若い女にいきなり襲いかかって押し倒し、暴行した。館岡たちはというと、当然止めようとしたが、二人ともすぐには立ち上がれないほど酔っていたうえに、松尾の馬鹿力≠ノ突き飛ばされ、どうにもならなかったのだという。
彼らがテントを張っていた川原は、三つあるキャンプ場のうち一番下流の小さなキャンプ場で、他のキャンパーはいなかった。とはいえ、被害者の女が通報すれば、警察が駆けつけ、松尾を止めなかった館岡と須ノ崎も罪を免れない。女が斜面の林の中へ消えた後、彼らはそう考えて恐ろしくなり、酔いも吹き飛ぶ思いだった。そこで、川に首を突っ込んで酔いを醒《さ》ますと、焚火を消し、テントを畳んだ。寝てしまった松尾を叩《たた》き起こし、上の道に駐《と》めてある須ノ崎の車まで行き、逃げた。
松尾は、車の中で館岡と須ノ崎から事情を聞かされ、ショックだった。まったく憶えはないが、そんなことは言い訳にならない。そして翌日、
――昨夜、青梅の多摩川キャンプ場でタミヤカズアキという男を捜していた市橋洋子が、キャンパーたちの見ている前で川の中へ入って行き、自殺した。
というさらに衝撃的な事実を夕刊の小さな記事で知ったのだった。
実は、こうした〈松尾・館岡・須ノ崎と市橋洋子の関わり〉があったために、須ノ崎は、松尾・館岡・須ノ崎の友人である桐原と洋子の関係を疑ったのである。二十三年前の連続幼女|悪戯《いたずら》事件にともに関係していた(と見られる)桐原と洋子。この二人の間に何らかの関わりがあったのではないかと疑い、それが松尾の引き起こした市橋洋子暴行事件にも関係していたのではないか、と推理したのである。
ただ、須ノ崎が疑った時点では、桐原と洋子の関係を示す証拠はなかったし、ましてや、その関わりの内容は不明だった。が、今や、洋子の手記『俊とともに』によって、桐原と洋子の関係が確かにあったと判明しただけではない。その内容も明らかになった。
そこであらためて考えてみると、須ノ崎の推理はかなり正確に的を射ていたのではないか、と思われた。
つまり、
〈二十三年前の八月二十六日の夜、市橋洋子が松尾と館岡と須ノ崎がテントを張っていた多摩川のキャンプ場へ来たのは偶然ではなかったのではないか〉
ということである。
桐原の偽の手記の筆者も、桐原が洋子を自殺に追い込む目的をもって彼女を青梅のキャンプ場へ行かせたと考えているが、これは事実だったのではないか――。
松尾の記憶では、二十三年前のあの晩、桐原も初めキャンプに一緒に来る予定だった。それが、急用ができたからといって参加を取りやめたような気がする。
松尾の記憶が正しければ、当然桐原はキャンプ地を知っていたはずだし、たとえ桐原がキャンプに参加する予定でなかったとしても、三人の誰かから聞いて知っていたとしても不思議はない。
ただ、そう考えても、どうしても解せない点が二つある。
一つは、〈洋子を青梅の多摩川キャンプ場へ行かせ、タミヤカズアキという男を尋ね回らせても、酔って正体を失った松尾が彼女に襲いかかるとは桐原にかぎらず誰にも予測できなかった〉という点。そしてもう一つは、〈暴行された洋子が自殺するかもしれないとある程度期待できたとしても、必ず自殺するとはかぎらない〉という点、である。
後者は、偽の手記のように、桐原がチンピラを金で雇って暴行させたとしても同じである。
しかし、洋子が自殺したのは間違いない。彼女が川の中へ入って行くところを複数のキャンパーたちが見ているのだから。
――いったい、これは、どういうことなのか。
と、松尾は自問した。
わからない。
だが、
〈桐原と洋子の間には、『俊とともに』に書かれているような大きな関わりがあった〉
〈その洋子が、桐原の友人である松尾たち三人がキャンプしていた多摩川へ行った〉
〈そして、松尾に襲われ、たぶん桐原の望んでいたように自殺した〉
これらの事実の間に何の関連もなかったとは考えられない。
ということは、松尾の判断か認識のどこかに誤りがあるはずなのだが、考えてもすぐには答えが見つかりそうにはなかった。
松尾は頭を切り換え、『政道―わが半生の記』に注意を戻した。
最後までざっと目を通した。
偽の手記の後には、差し替えられた原稿はなかった。
松尾は、本を置いて、三恵出版社に電話をかけた。
応答したのは留守番電話の声だった。
次いで、手帳を見て、所沢の水谷の自宅の番号をプッシュした。こちらは留守電の声も応答せず、呼び出し音が鳴りつづけただけ。一度切って繰り返したが、同じだった。
事務員の桑山由季については、板橋のほうに住んでいるというだけで住所も電話番号もわからないので連絡の取りようがないし、たとえ連絡が取れても何も知らないだろう。
松尾が、これから水谷の家を訪ね、水谷がいてもいなくても、三津田が入院している川越昭和病院へ行ってみようと思ったとき、電話が鳴った。
松尾が受話器を取り、名乗るより早く、
「松尾か? おれだ」
相手が言った。
桐原だった。
「どういうことだ。あれは?」
桐原が怒鳴った。彼も、『政道―わが半生の記』の差し替えられた部分に気づいたらしい。
おれにもわからない、と松尾は答えた。
「嘘をつくな!」
「嘘じゃない」
「じゃ、誰だ? 誰がやったんだ、あんなふざけたまねを……」
桐原が性急に問詰した。いつもはきちんと状況を見極めてからものを言う慎重な男も、さすがに冷静さを欠いているようだった。
「水谷さんだと思う。水谷さんの他にあんなことができたのは、印刷所の人間しかいないから」
松尾は答えた。
原稿の差し替えに気づいたとき、彼はすぐに、
――水谷だ、水谷にちがいない。
と、思ったのだった。
「直接やったのは水谷でも、やらせたのは三津田だろう?」
「わからない」
「シラを切るつもりか。松尾、あんたも三津田と水谷とグルになって、おれを騙|《だま》したんじゃないのか?」
「そんなことはない!」
松尾は語調を強めた。「おれは、たった今、送られてきた本を開いてみるまで、知らなかった」
「じゃ、三津田と水谷があんたまで騙し、二人でやったわけか。つまり、三津田が交通事故に遭ったときは、差し替え用の原稿はすでに三津田によって作られていた、だから、あとは三津田の意思を水谷が代行すればよかった、こういうことか?」
そうかもしれないが……松尾には正直、よくわからなかった。
「うむ、待てよ」
松尾が黙っていると、桐原が何かに気づいたように言葉を継いだ。「三津田が轢《ひ》き逃げに遭ったというのが嘘だった可能性もあるな。三津田はピンピンしながら、裏で水谷を操って……」
「いや、それはない」
松尾は桐原の言葉を遮った。「社長が交通事故で入院したのは事実だ。手術の後、集中治療室に運ばれた社長をおれは見ている」
「なら、轢き逃げに遭ったのは事実でも、植物状態というのが嘘かもしれない。とっくに回復していながら、水谷と一緒になってあんたを騙していたのかもしれない」
「それは考えられるが……」
松尾は、桐原の言った可能性を認めた。
見舞いに行っても、家族か家族の代理の者でないかぎり集中治療室へ入れないと水谷が言うので、手術の後、松尾は一度も病院へ行っていない。だから、植物状態がつづいている≠ニいうのは水谷から聞いた情報にすぎない。
「三津田が病院のベッドから水谷に指示を出して、思いどおりに動かしていた――。たぶん、こういうことだな」
桐原が結論した。「もちろん、三津田は本当に植物状態になってしまい、三津田から聞いていた彼の意思を水谷が代行した、といった場合も考えられないではないが。しかし、どうも、三津田が指示を出しつづけていたような気がする」
「きみは、差し替えは三津田社長の意思だと決めてかかっているが、それはどういうわけだ?」
松尾は質《ただ》した。
と、一瞬、電話の向こうから返答に詰まったような気配が伝わってきた。
「……べつに、決めてかかっているわけじゃない」
「だったら、水谷さんが自分の考えでやった可能性もあるだろう」
「確かに可能性としてはあるが、現実的じゃない」
「現実的じゃない? どこが?」
「もし、水谷一人の意思だったとしたら、三津田が交通事故に遭って入院しなかった場合、どうするつもりだったんだ。三津田に気づかれずに原稿の差し替えができたか?」
「不可能ではないが、非常に難しかっただろうな」
「だからといって、これは、三津田が交通事故に遭ってから急遽《きゆうきよ》考えて実行できるほど簡単じゃない」
ああ、と松尾も認めた。犯人が誰であれ、ずっと前から計画を練り、原稿を用意しておいたのは間違いない。
「としたら、三津田の意思だったとしか考えようがないじゃないか」
「そうだが……ただ、きみは、いま言った理由から三津田社長の意思だと考えたわけじゃないな」
「ど、どういう意味だ?」
桐原が戸惑ったような声を出した。
「理由は、後から……いま咄嗟《とつさ》に考えたものだろう」
「そんなことはない」
「いや、きみは、三津田社長が市橋洋子の身内……父親じゃないかと思うんだが、それを知っていた――。違うか?」
松尾は、ずっと自分の中にあった疑惑をぶつけた。
桐原は答えない。
「そうだな? だから、きみは、今度のことが起きたとき、すぐに三津田社長が頭に浮かんだ――」
桐原は、どう対処すべきかを懸命に考えているのだろう、口を開かない。
「きみには、聞きたいことが沢山ある。須ノ崎のことや、市橋洋子の手記に書かれていたことや……」
「手記? あんなのは出鱈目《でたらめ》だ」
桐原が言った。
「出鱈目?」
「そう、あれは創作だよ」
「いや、違うな。二十三年前に死んだ市橋洋子が、タイムカプセルに自分の作ったお話なんか入れておくわけがない」
「ないといったって……」
「きみは、市橋洋子が自殺した直接の原因に気づいているはずだ」
松尾は桐原の言葉を遮り、思い切って言った。「その原因がおれだと思っているか、おれと館岡と須ノ崎の三人だと思っているかはわからないが」
「何を言っているんだ、松尾? あんた、頭がおかしくなったんじゃないのか」
桐原の声には強い戸惑いの響きが感じられた。
「おれの頭はいたって正常だよ。二十三年前の夏、急用ができたからといって、きみが急に来られなくなった多摩川のキャンプ……おれと須ノ崎と館岡の三人で行っていたキャンプに、きみとあれだけ深い関わりを持っていた市橋洋子が、なぜ現われた? そして、なぜ、きみに都合よく死んだ? あれが偶然だというのか?」
「おれと市橋洋子という女性との間に深い関わりなんて、ない」
桐原は、急用|云々《うんぬん》は否定しなかった。ということは、松尾の記憶は正しかったらしい。
「関わりがあったのは認めるんだな」
松尾は突っ込んだ。
桐原は答えない。
「きみが、今でいうストーカーをやっていたとは驚きだが……」
「おれはストーカーなどやっていない!」
桐原が大声を出し、松尾の話を遮った。
「最後まで言わせてくれ」
松尾も負けじと声を高めた。「驚きではあるが、おれは、きみにもそんな一面……後先を考えずに一人の女性に夢中になるといった一面があったのか、と感心するというか、親しみを感じているというか……もちろんやったことは肯定できないが、そんな気持ちなんだよ。正直言って、これまで、おれは、きみという人間は常に自分の描いた設計図にとってプラスかマイナスかを冷静に判断し、プラスのことしかしない、と思っていた。おれのような意志薄弱な人間と違って、鉄のような意志と心を持った奴だ、と思っていた。それなのに……」
「勝手な御託はいいかげんにしてくれ。あれはフィクションだと言っているだろう。確かに、おれは、市橋洋子という女性に証言を頼まれたことはある。だが、その事情は、あの手記だか何だかわからない文章に書かれているようなものじゃない。市橋洋子とはバイト先で知り合い、二、三回会ってコーヒーを飲んだぐらいだし、依頼はある男といついつある場所に一緒にいたことにしてくれ=Aつまり、その男を助けるために偽証してくれ、というものだった。もしあの文章が本当に市橋洋子によって書かれたものだとしたら、そのときおれがきっぱりと断わったので、それを恨んで、あんな出鱈目を書いたとしか思えない」
「信じられないが……今は時間がないので、その問題は後にして、須ノ崎の事件について聞きたい」
「もう沢山だ、こんなときに! だいたい、おれが須ノ崎に何をしたというんだ?」
「何もしていないと言うのか?」
「当たり前だ」
「しかし……」
「よりによって、こんなとき、あんたはおれに因縁をつけようというのか」
「べつにそんなつもりはないが」
「だったら、やめて、肝腎《かんじん》な話をしてくれ。『政道―わが半生の記』の件をどうするつもりなのか。あんただって、三恵出版社の社員だろう」
「その件については、おれも放っておく気はない」
「じゃ、至急、水谷に連絡を取ってくれ。水谷をつかまえ、取り敢えず、書店への配本を止めさせ、おれの贈呈本を一冊残らず回収させてくれ」
「水谷さんにはさっきから連絡を取ろうとしているんだが会社にも自宅にもいないんだ。だから、これから所沢の家へ行ってみる。彼をつかまえ、事実を確かめる」
「何を悠長なことを言っているんだ? 水谷と連絡がつかないんなら、あんたがやってくれ。トーハンだか日販だか知らないが、取り次ぎ会社に連絡を入れ、書店への配本をやめさせてくれ。もし書店に配本された後だったら、店頭に並ぶ前に回収させてくれ。また、贈呈本は輸送の段階でストップさせるんだ。たとえ一冊でも読者の手に渡ってしまってからでは遅い」
「無理だな」
「いや、今ならできるはずだ」
「不可能だよ」
「何を他人事《ひとごと》みたいに! あんたらの責任だろうが。すぐにやってくれ。そして、どんなことをしてでも本が外に出るのを必ずストップさせろ。いいな」
「おれには、そこまでする義務もなければ責任もない。やりたきゃ、きみが勝手にやったらいい」
桐原の命令口調に、松尾はむかっとして言い返した。
「松尾! おまえ、やっぱりグルだったんだな」
「違う。おれはただ、何の資格も権限もないおれには取り次ぎ店の配本を止めるなんてできないと言っているだけだ。書店にまではまだ行っていないと思うが、どちらにしたって相手が取り合うわけがない。また、水谷さんが発送の手配をした本の回収もできない。これは、権限があったって同じだ。二、三十冊ならともかく、五百冊近くあるんだからな。水谷さんは、たぶん、きみかおれが見本を見てから動いたってどうにもならないように計算して、発送の手配をしているはずだ。つまり、五百冊はすでに一冊一冊になって全国に散り、明日にも配達される状態になっているということだよ。それなのに、おれは、発送を代行した業者さえ知らない……」
言いながら、松尾は、三津田の計画か水谷の意思かはわからないが凄《すご》いこと≠やってくれたものだ、と半ば感心し、興奮さえ覚え始めていた。市橋洋子の死の真相と須ノ崎事件の真相を明らかにするためには、二十三年前の自分の行為も公にせざるをえないが、それはやむをえない、と思った。すでに、そうなったときの覚悟はできていたし、今は何よりも事実を、真実を、知りたかった。二十三年前の夏、自分は館岡、須ノ崎と一緒に多摩川へキャンプに行った。酒に酔って正体をなくし、タミヤカズアキという人はいないかと尋ねてきた市橋洋子に襲いかかり、暴行した。その数時間後、市橋洋子はキャンパーたちの見ている前で川へ入って行き、自殺した。これらは事実にちがいない。が、そうした表に現われた事実の裏に隠された事実≠烽ったらしい。それを知りたかった。
松尾は、水谷と会えるか連絡が取れたら知らせると言って、桐原の返事を待たずに電話を切った。これからすぐにアパートを出て、所沢へ向かうつもりで。
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第十二章[#「第十二章」はゴシック体] 追 究
1
二十八日の午後七時四、五分前――。
岸川は、浦部とともに江北署の四階にある捜査本部の部屋へ帰ってきた。
下の署長室で会議中らしく、三枝警視正と荒井警部の姿はなかったが、正面の荒井の席に真新しい本が一冊置かれていた。
捜査本部のテーブルに本が置かれているなんて珍しいので、岸川は何の本だろうと思い、自分の席に腰を下ろす前にちょっと伸び上がって覗《のぞ》いた。
と、黒板を背にして掛けているデスクの角田警部補が顔を上げた。
「ああ、その本ね。三十分ほど前にバイク便で届いたんだ」
岸川はすでに、『政道―わが半生の記』という本の題名と桐原政彦という著者名を読んでいたから、
「桐原から?」
と、訊《き》いた。
「うん。著者贈呈本というやつらしい。係長がちょっとぱらぱらやっていたが、『こんなものを送ってきて、何のつもりだ』と放り投げて、行ってしまった」
角田が答えた。
「何のつもりだろう?」
岸川も荒井と同じ疑問を口にした。
「題から想像がつくように、選挙に立候補するために出した宣伝本だろうから、おれはこんなに立派な人間なんだぞ、とでも言いたかったんじゃないのか」
「だから、人殺しなんかやっていない、というわけか」
「たぶん」
「主任は中を見たの?」
「いや、見ていない。選挙目当ての宣伝本なんか見たって、何の役にも立たないだろうと思ってね」
「ま、そうだが……」
岸川は答えたものの、何が書かれているのか、気になった。いくら犯人は桐原にちがいないと思っても、彼を追い詰めるだけの駒が手に入らず、打つ手に窮していたときだったし。
岸川は、荒井の席まで行って、『政道―わが半生の記』を取ってきた。普通の単行本や雑誌より正方形に近い形をした、なかなか立派な装丁の本だった。発行所が三恵出版社になっているから、松尾が嘱託をしている出版社が出したらしい。
岸川は、浦部の汲《く》んできてくれた茶を啜《すす》りながら、桐原の生い立ちから始まっている本をぱらぱらと繰っていった。
三分の二ほど進んだとき、彼の意識を気にかかる名前がかすめた。
いや、そんな名前[#「そんな名前」に傍点]が桐原の自叙伝に書かれているわけがないから、似た文字を見間違えたか、錯覚だろう。
そう思ったものの、岸川は気になり、少し前まで戻って、今度は一ページずつゆっくりと繰ってみた。
――あった!
栗本俊という名である。
前後を読むと、桐原の自叙伝にしては、文章もおかしかった。
岸川は、そうした文章がどこからどこまでつづいているのか、ページを前後させて調べてみた。
すると、その文章の最後に、
≪一九七七年八月十日 市橋洋子≫
と記され、さらに、
≪一六三ページ六行目から、一八一ページ九行目までの文章は、二十三年前の一九七七年八月二十六日に青梅市を流れる多摩川で自殺した市橋洋子(当時十九歳)の手記『俊とともに』の全文である。『俊とともに』は、洋子の死の直前、一九七七年八月十五日に行なわれた舞鶴中央高校旧三年B組クラス会のとき、洋子自身の手によってタイムカプセルに納められた。そして、今年二〇〇〇年の五月三日に行なわれたクラス会で、タイムカプセルの封を解いたクラス会幹事の手によって取り出され、洋子の母親のもとに送られたものである。≫
というコメントが付いていた。
岸川は、目を上げた。
胸が激しく鳴り出していた。
今月九日に、岸川たちが市橋洋子の母親、依田時子を京都に訪ねたとき、時子は、タイムカプセルから出てきた洋子の手記はいずれ公表されるだろうと仄《ほの》めかした。岸川が手記の内容を質《ただ》したのに対し、『俊とともに』という題だと明かしたうえで、もうしばらく待ってくれ≠ニ繰り返した。
それを聞いて、岸川たちは、元警官Q≠介して週刊誌にでも送られるのではないかと推理し、いつ載るかいつ載るか……と待っていた。週刊エポックにかぎらず、どの週刊誌にも一向に載る様子がないので、焦り始めていた。もし月が替わっても載らなかったら、もう一度京都へ行って時子を問い詰めるしかない、と考えていたところだった。
そこに、突然、『俊とともに』が目の前に現われたのである。桐原の自叙伝の一部を占拠するといった、まったく予想もしなかった驚くべきすがた[#「すがた」に傍点]で。
隣りの席で日報を書いていた浦部が、岸川の興奮した様子に気づいたらしい、
「どうかしたんですか?」
と、顔を上げて訊いた。
岸川は開いたままの本を浦部のほうへやり、『俊とともに』を桐原の自叙伝に割り込ませた人間が書いたと見られるコメント部分を指で示した。
「ここを見てみろ」
浦部が本に顔を寄せて読むや、
「な、なんですか、これ!」
目を丸くして岸川を見た。
「書いてあるとおりだと思う」
と、岸川は答えた。
「じゃ、この桐原の本に、依田時子の言った洋子の手記『俊とともに』が……!」
「おれもまだ読んでいないが、全文、載っているようだ」
「しかし、よりによって桐原の自叙伝にどうして?」
「誰かが桐原に気づかれないように、原稿を差し替えたんだろう」
「三恵出版社といえば、松尾の?」
「ああ」
「じゃ、松尾がやった?」
「わからん。というか、松尾がそんなことをしたとは思えない。第一、松尾にどうやったら市橋洋子の手記が手に入るかね」
「そうか、そうですね。とすると、この出版社に時子が手記を預けた人間がいる? そして、この本を警察に送ってきたのは桐原ではなく、我々の動きを時子に聞いたその人間だった?」
「その可能性が高い」
「どうしますか?」
「とにかく、市橋洋子の手記を読ませてくれ。どうするかはそれからだ」
「わかりました。部長が読み終わったら、コピーして、みんなに配ります」
岸川はうんと答え、コメントの中に書かれている『俊とともに』の始まり、一六三ページの六行目から読み始めた。
市橋洋子の手記は、二十三年前の洋子と桐原の関わりを具体的に、詳細に伝えていた。
もしそこに書かれているような事実を何らかの方法で須ノ崎が知り、週刊誌にでも売ると脅した場合、桐原が須ノ崎を殺してもおかしくなかった。公表されても、刑事的な罪に問われることはないが、ストーカーのような行動と一人の若者を死に追いやった卑劣な人間性が明らかになれば、桐原の未来はないからだ。多くの人々の激しい非難、批判を浴び、政友党のホープ∞大臣候補≠ゥら転落し、社会的に葬られただろう。
岸川は読み終わって、
――これで、今まではっきりしなかった桐原の犯行の動機がつかめたな。
と、思った。
そして、興奮しながら、読むともなくコメントの先へページを繰ってゆくと、またまた驚くべき文章にぶつかった。
すぐには気づかなかったのだが、「市橋洋子」「栗本俊」といった単語に、おやっ!≠ニ思って読み返し、それも桐原の自叙伝に無断で割り込ませたらしい文章だ、とわかったのである。
筆者は、『俊とともに』を桐原の自叙伝に載せた張本人、つまりコメントを書いた人間らしい。内容は、洋子が『俊とともに』を書き上げてから自殺するまでの十六日間を、桐原を指す「わたし」の視点で記したもの。それは、死んだ洋子と桐原しか知らないはずだから、筆者の想像であろう。
想像の産物では、洋子の手記のように事実だと取るわけにはゆかない。といって、ただの作り話とも思えなかった。洋子の自殺は桐原の奸計《かんけい》の結果だ≠ニいう筆者の推理には、それなりの根拠があるはずである。
――もし、この筆者の推理が正しいとすれば。
と、岸川は思う。須ノ崎殺しの桐原の動機はいっそう強いものになる。
岸川は、読み終わると、浦部にコピーするように言いつけ、三恵出版社と松尾に電話をかけた。
三恵出版社は留守番電話が応対し、松尾は不在だった。
一刻も早く松尾と連絡を取りたかったが、行き先がわからないので、帰宅するまで待つ以外にない。
岸川は、松尾をつかまえて、『政道―わが半生の記』の編集に携わった者全員の名前を聞き出し、そこに市橋洋子か依田時子に関わりのある者がいないかどうか調べるつもりだった。時子は、洋子の父親がどこにいるかはもとより、生きているか死んでいるかもわからない≠ニ言った。が、それは嘘だった可能性がある。時子が『俊とともに』を預けた相手が洋子の父親だった可能性もある。というか、桐原の本に割り込まされた二つの文章とコメントを読み、岸川はその可能性が高いのではないか、という気がした。ここまでする人間は、母親の時子を除けば、父親以外にはいないのではないか――。
もしこの想像が当たっていれば、三恵出版社の社内か周辺に、時子から名前を聞いている洋子の父親がいる、ということであった。それなら、すぐにわかる。
桐原の本に洋子の手記を割り込ませたのが洋子の父親であれ、別の誰かであれ、その人間に会って話を聞けば、桐原と市橋洋子の関係や桐原の須ノ崎殺しの動機がいっそう明確になるのは疑いない。
――これで、やっと桐原を逮捕できそうだな。
と、岸川は逸《はや》る気持ちを抑えながら思った。
2
水谷の家は、西武新宿線の航空公園が最寄り駅だと聞いていたが、初めての場所だったし、夜なので、松尾は手前の所沢駅前からタクシーに乗った。運転手に所番地を告げ、このあたりだというところまで運んでもらったが、それでも探し当てるのに十分ほどかかった。建て売りらしい家が七、八軒入り組んで建っている場所で、水谷の家はそのうちの一軒だった。
門の前に立ったのは八時二十五分。
門灯だけは点《つ》いていたが、玄関も窓も暗かった。インターホンのチャイムを鳴らしても、応答がない。拝島、小平と電車を乗り換えるとき二度電話しても誰も出ないので、まだ帰っていないらしいとは思っていたが。
待っていてもいつ帰るかわからないので、松尾はまた後で来ることにし、駅のほうへ見当をつけて歩き出した。
航空公園駅で下りの電車に乗り、終点の本川越に着いたのは九時二十分近く。
駅から川越昭和病院までは歩いても十二、三分だが、松尾はタクシーを使った。
病院は、三津田が救急車で運ばれた晩に一度来ていたから、配置などはだいたいわかっていた。高さは三階しかないが、奥行きがあり、建坪はかなり広い。
玄関の鍵《かぎ》が掛かっていなかったので、松尾はガラス扉を押して中へ入り、さらに自動ドアを抜けて無人のロビーへ入った。
ロビーは薄暗かった。窓口にはすべて白いカーテンが掛かり、しんとしていた。
松尾はそうだ≠ニ思い出し、玄関へ戻って、壁に掛かったパネルを見た。
――もしかしたら……。
という想像が当たった。
三津田の手術の後、水谷と一緒に話を聞いた院長は安達雄大となっていたが、その上の名誉院長のところに「栗本勲夫」という氏名が記されていた。
それにより、この病院が市橋洋子の恋人だった栗本俊の実家であるのがほぼ確実になった。『俊とともに』によれば、俊は長男だというから、栗本勲夫は俊の父親ではないか。
松尾は再びロビーに入り、奥のエレベーターで集中治療室のある三階へ昇った。
廊下も、三津田の手術が終わるまで水谷と待っていた待合所も、照明の光度が落とされていたが、ナースセンターだけは煌々《こうこう》と灯《あか》りがともっていた。
松尾が近づくと、窓口の近くにいた看護婦が腰を上げ、咎《とが》めるような目を向けてきた。面会時間はおろか、病室の消灯時間も過ぎているからだろう。
松尾は、二十三、四歳と思われるその看護婦に「すみません」と頭を下げ、三津田恵一はすでに集中治療室から出て一般病棟へ移ったのだろうか、と訊いた。
「どなたですって?」
看護婦が訊き返した。
「三津田恵一です」
松尾は繰り返した。
奥の机で事務を執っていた四十年配の看護婦が松尾に探るような視線を向けてきた。
「三津田さん? そんな方は最近、集中治療室にはいませんでしたけど」
目の前の看護婦が答えた。
「えっ、そりゃ変だな。今月十三日、交通事故でこちらへ運び込まれ、手術を受けたんですがね」
にきびの吹き出た看護婦の顔に、ふっと困惑したような色が浮かんだ。
彼女は、「ちょっとお待ちください」と言って、奥へ引っ込んだ。上司らしい歳上の看護婦に相談に行ったようだ。
二人は、松尾のほうをちらちら見ながら、顔を寄せ、声を落として話していた。
歳上の看護婦がゆっくりと腰を上げ、若い看護婦と一緒に松尾の前まで来ると、言った。
「三津田さんという方は、この病院には入院しておりません」
「いない?」
松尾は驚いて訊き返した。
桐原と話していたので、植物状態がつづいているというのはもしかしたら嘘かもしれないと思っていた。が、入院していないとは意外だった。
はい、と看護婦が答えた。
「良くなって退院するか、別の病院へ移ったんでしょうか?」
「それは、院長から説明を受けていただきたいのですが」
「転院したのか退院したのかまで、院長から聞かなければならないんですか?」
「お願いいたします」
「十三日の夜、手術が行なわれたのだけは確かですよね? そのとき、わたしも朝までそこのベンチにいて、手術が終わって集中治療室へ移されたばかりの三津田さんに会っているんですから」
会ったといっても、三津田は意識がなかったので、言葉を交わしたわけではない。包帯と酸素吸入器の間から目だけ覗《のぞ》いている彼の顔を、水谷と一緒に見ただけだった。
「どうなんですか?」
「申し訳ございません」
と、看護婦が頭を下げた。
「手術が行なわれたかどうかも答えられない?」
「申し訳ありません」
看護婦が繰り返した。
「いったいどういうわけですか? 救急車で運び込まれた患者がどうなったのか、教えられないということは」
看護婦は困ったような顔をして、ただ黙っていた。
松尾の中に一つの想像がふくらんだ。
その想像は、院長から説明を受けてくれと看護婦に言われたときに生まれたのだが、いくらなんでも、まさか……!≠ニいう思いのほうが強かった。が、今はもうそれは間違いないように思われた。
「わかりました。じゃ、院長の自宅の場所と電話番号を教えてくれませんか」
松尾は、考えを切り換えた。
「すみませんが……明日、病院のほうへお越しいただけないでしょうか」
看護婦が応《こた》えた。
「明日じゃ遅いんですよ。緊急を要する件なんです」
看護婦の目に困惑の色が浮かんだ。
「お願いします」
それでは院長の意向を訊いてみるからと言って看護婦が引っ込み、松尾に背を向けて小声で電話をかけた。
電話は三、四十秒で済んだ。
看護婦は、松尾の前へ戻ってくると、「お会いするそうです」と言い、同じ川越市内の住所と電話番号をメモ用紙に書いてくれた。
松尾は、下のロビーの電話でタクシーを呼び、川越大師とも言うらしい喜多院のそばにある安達院長の自宅を訪ねた。
安達は自分で玄関まで出てきて、
「ご迷惑をかけて、申し訳ございません」
と頭を下げ、応接室へ招じ入れた。
大きな家はしんとしていて、他に誰も姿を見せなかった。
安達は三津田の手術の後で説明を受けた相手なので、松尾は顔を知っていた。年齢は五十歳前後。口髭《くちひげ》を生やした、恰幅《かつぷく》のいい男である。
応接室の革張りのソファに向かい合って腰を下ろすと、
「申し訳ございませんでした」
安達がもう一度|詫《わ》びた。
松尾はやはり……≠ニ思いながらも、
「どういうことでしょう?」
と、説明を促した。
「三津田さんの件は、手術を含めて、すべて芝居だったんです」
安達が、松尾の想像していたとおりの答えを口にした。
「では、三津田社長は交通事故にも遭っていない?」
「ええ」
「それは喜ぶべきことですが……病院があんな芝居をして許されるんですか?」
「芝居といっても、松尾さんお一人を騙《だま》しただけで、協力してもらった医師と看護婦を除くと、どこにも誰にも迷惑をかけておりません。実際に救急車の出動を要請したわけではありませんし。名誉院長である義父に、友人だという三津田さんと水谷さんを紹介され、三津田さんがある人間に命を狙われているので、安全のためにしばらくの間、植物状態になったことにしておきたい、一芝居打ちたいので協力してほしい≠ニ頼まれ、あとはすべて、わたしの一存でやったことです」
「名誉院長は、二十三年前に亡くなった栗本俊君の身内の方ですか?」
「俊君の父親ですが……松尾さんは俊君を知っているんですか!」
安達が、驚いたような目をして松尾を見返した。その顔は、俊と、市橋洋子の父親と思われる三津田あるいは水谷との関わりを知っていて、惚《とぼ》けているようには見えない。
ということは、俊の父親・栗本勲夫は安達には事情を明かしていないらしい。
松尾はそう思ったので、「ええ、昔ちょっと……」と誤魔化した。
「そうですか……」
「安達さんは、俊君のお姉さんか妹さんの……?」
「姉の夫です」
「名誉院長が、一芝居打ちたいので協力してほしいと安達さんに頼んだとき、それはわたしを騙すためだと言われたんですか?」
松尾は本題に戻した。
「ええ。ですが、その後ですぐに……三津田さんだったか水谷さんだったかは忘れましたが、松尾さんを騙すのは本意ではないが、松尾さんに事情を話して仲間に引き込むわけにはゆかないので、仕方がないのだ≠ニ説明されました。また、三津田さんの命を狙っている人間に怪しまれないようにするには、松尾さんに轢《ひ》き逃げ≠信じてもらうのが一番有効だから、とも……」
確かに、松尾が三津田の轢き逃げ≠ニ手術≠信じたために、その話を聞いた桐原も疑わなかった――。これは間違いない。少しでも怪しんで、複数の新聞の埼玉県版に当たれば、どこにも三津田が轢き逃げされたというニュースが載っていないので、変だと思ったはずである。だが、松尾の話を信じたために、桐原はそこまでしなかったのだった。
「名誉院長の友人は、三津田さんと水谷さんのどちらですか?」
「わたしは、義父に友人だと紹介されたとき、お二人ともだというように理解しましたが……。ただ、友人といっても、それほど親しい間柄ではないのか、お互い丁寧な言葉を遣っていました」
「名誉院長は、たぶん、二人のうちのどちらかと先に知り合っているはずなんですが、わかりませんか?」
「わかりません」
「名誉院長に、電話で訊いていただくわけには……」
「それはご容赦ください。義父はいま体調を崩していて、九時には寝《やす》んでしまいますので」
「十四日の朝、わたしを騙す芝居をした後、三津田社長はどこに身を隠しているんでしょう?」
「さあ……。あの朝、一度松尾さんと出て行った水谷さんが引き返してきて、三津田さんと一緒に帰りましたが、その後のことはわたしは何も聞いていません」
松尾は礼を述べて、安達家を辞去した。
三津田が無事だった――。
大いに喜ぶべきことではないかと思いながらも、胸の内は複雑だった。桐原を騙すためとはいえ、自分まで騙されていたというのは、愉快ではない。
安達院長の話により、三津田と水谷は、桐原が三津田を狙っていたのに気づいていた≠ニいうことが判明した。いかなる経緯からそれに気づいたのかは不明だが、それで危険を感じ、栗本俊の父親・勲夫に相談して、勲夫と安達の協力のもとに芝居を打ったらしい。
ただ、安達の話を聞いても、計画したのが三津田だったのか水谷だったのかは、はっきりしなかった。二人のうちのどちらが市橋洋子の身内の人間なのかはわからなかった。
松尾は本川越駅まで歩き、来たときと同じ西武線の電車で航空公園へ戻り、再び水谷の家の前に立った。
玄関も窓もまだ暗く、インターホンにも応答がなかった。
しばらく家の近くで待っていると、スーツにネクタイといった若い男が門扉を開けて入って行った。
時刻は十一時二十七分。
松尾は、インターホンで相手を呼び出した。水谷の部下だと名乗り、深夜申し訳ないが、至急水谷に相談したい件ができたので、何時頃帰宅する予定か行き先を教えてほしい、と頼んだ。
すると、初めはむすっとしていた男が、
「父は、母と一緒に今日から北海道へ旅行に行っちゃったんです」
と、警戒を解いたらしい声で答えた。
「北海道へ旅行!」
松尾は思わず驚きの声を漏らした。「それで、今晩はどこに?」
「函館のどこかに泊まっていると思うんですが、適当に向こうから電話するというので、ホテルは聞いていません」
松尾は、水谷から電話があったら自分に連絡するようにと伝言し、インターホンの前を離れた。
こんなかたちで旅行に出た水谷から連絡がくるとは期待できなかったが、他に方法がない。
松尾は青梅線の最終電車でアパートへ帰った。
時刻は午前一時を十七、八分回っていた。
ドアの鍵《かぎ》を開けて入ると、待っていたように電話が鳴った。
――もしかしたら水谷か。
と思い、急いで上がって受話器を取ると、桐原からだった。
彼は、松尾の留守の間に何度もかけていたらしい、
「ああ、やっとつかまったか」
苛立《いらだ》たしげに言うや、「本の配本と配達はストップできたのか?」と訊《き》いた。
「おれは、そんなことをするとは言っていない」
松尾はむっとして答えた。
「さっき、水谷の家へ行くと言ったじゃないか。水谷をつかまえて、取り次ぎ会社と運送会社に手配させたんじゃないのか」
「水谷さんは旅行に出てしまい、つかまらなかった」
「旅行!」
「ああ。泊まる宿を家族に言って行かなかったから、連絡も取れない」
「三津田は? 三津田の入院しているという病院へは行ってみたのか?」
「その時間はなかった」
松尾は嘘をついた。
桐原が肝腎《かんじん》の点を隠しているのに、こちらが明かす必要はない。
「時間がなかった! 所沢まで行って、川越へ行く時間がなかったとは、どういうことだ? もし、このまま何もしないで、おれの本が……」
松尾は受話器を置いた。
彼だって疲れていたし、苛立っていた。
台所へ行って、水を飲んだ。
また電話が鳴った。
黙って切ったので、桐原が怒ってかけなおしてきたのだろう。
そう思ったので、放っておいた。
が、なかなか諦めないので、受話器を取って耳に当て、何も応えずに、相手が何か言い出すのを待った。
「もしもし……」
少しして、相手の探るような声がした。
桐原ではない。
「岸川だが、松尾さんかね?」
おでこ[#「おでこ」に傍点]刑事の声だった。
「あ、ええ」
と、松尾は答えた。
「深夜、すまないが、一つだけ教えてもらいたくてね」
「何でしょう?」
「実は、夕方、『政道―わが半生の記』という桐原氏の自叙伝が捜査本部に送られてきたんですよ」
――本が警察にも送られた!
松尾は驚いたが、三津田か水谷が桐原の須ノ崎殺しの動機を警察に教えようとしたと考えれば、不思議はない。
「三恵出版から出た本ですから、松尾さんは当然知ってますよね?」
岸川がつづけた。
ええ、と松尾は答えた。
「で、松尾さんに訊きたいのは、あの本の製作に関わった人の名前なんです」
どうやら、刑事たちも差し替えられた原稿を読んだらしい。
「いや、それより、こう訊いたほうが早いかもしれませんな」
岸川が言葉を継いだ。「三恵出版社の社員か……社員でなくても、編集とか校正とか、あの本を作るのに関係した人の中に、水谷勇吉という男がいるかどうか」
松尾は息を呑《の》んだ。
岸川たちは、水谷の名をどこでつかんだのか。岸川が水谷の名を挙げたのには、いかなる意味があるのか。
「いかがでしょう?」
松尾が解せないでいると、岸川が返事を促した。
「水谷さんがどうかしたんでしょうか?」
松尾は返答の代わりに言った。
「いるんですな?」
岸川が語気鋭く確認した。
「ええ、三恵出版社の編集部長です」
「年齢は?」
「六十代の後半だと思います」
「そうですか。いや、これで、よくわかりました」
語調はおだやかなものに変わったが、声には強い緊張が感じられた。
「水谷さんが何か……?」
松尾は訊いた。今や、岸川の答えはほぼ想像がついたが。
「水谷勇吉は、あんたが教えてくれた市橋洋子の父親です」
岸川が、松尾の想像していた答えを口にした。
しかし、わからない。では、三津田の役回り≠ヘ何だったのか。桐原はどうして三津田が洋子の父親だと思い込んだのか。
「市橋洋子の父親は三津田社長じゃないんですか?」
松尾は三津田の名を挙げてみた。
「三津田社長……?」
「三恵出版の社長です」
「ああ、名前は憶《おぼ》えていませんが、わたしたちが松尾さんの名刺から三恵出版社を訪ねたときに会った、山羊鬚《やぎひげ》を生やした社長さんね。違いますよ。しかし、松尾さんは、なぜ三津田社長が市橋洋子の父親だと思ったんですか?」
岸川が怪しむように訊き返した。
「何となくそんな気がし始めていたんです」
「ふーん、何となくね……」
岸川は信じていない口ぶりだ。
「それより、刑事さんは、どうして水谷さんが市橋洋子の父親だと?」
「松尾さんに市橋洋子の名を聞いてから彼女の母親に会ったりして、調べたんです」
洋子の母親に会って聞いたのなら、間違いないだろう、と松尾は思った。
水谷が市橋洋子の父親だと判明しても、まだよくわからない点が残っている。が、これで、少なくとも三津田の轢き逃げ≠フ芝居や原稿の差し替えは水谷の主導あるいは意思だったことがはっきりした。
岸川が水谷の住所と電話番号を訊いた。
松尾は手帳を見て、それを教え、
「ですが、自宅を訪ねても、水谷さんはいませんよ」
と、付け加えた。
「いない?」
「奥さんと二人で旅行に出かけたんだそうです」
「どこへ行ったんですか?」
「北海道です。息子さんによれば、今晩は函館に泊まっているという話ですが、宿はわからないそうです」
「そうですか」
ありがとう、と岸川が礼を述べた。たぶん、これから北海道警に連絡を取り、水谷の泊まっている旅館かホテルを調べてもらうつもりなのだろう。
彼はそそくさと電話を切りそうになったが、急に思いだしたように言った。
「ああ、松尾さんの『傷』という小説、読ませてもらいましたよ」
松尾は何も応えずに受話器を置き、時計を見た。
あと十五分ほどで午前二時だった。
岸川が『傷』を読んだからといって何だというのだ。何の関係もありゃしない……。
それより、問題はこれからどうするかだ、と松尾は思った。
といっても、水谷の泊まっている宿も三津田の居所もわからないのでは、動きようがない。
とにかくカップラーメンでも食べてコーヒーを飲もうと台所へ行った。空腹は感じなかったが、夕方から水しか飲んでいなかったからだ。
湯を沸かすために、薬罐《やかん》をガスレンジにかけ、火を点《つ》けた。
ぼっと燃え上がった青い炎とともに、夕方、市橋洋子の手記を読んでから、ずっと松尾の胸の底にわだかまっていた、
――二十三年前、桐原は市橋洋子にいったい何をしたのか?
という疑問が浮かび上がってきた。
二十三年前の八月二十六日の夜、市橋洋子を青梅の多摩川キャンプ場へ行かせ、タミヤカズアキという男を尋ね回らせたのは桐原だったと見て間違いない。その晩、多摩川のキャンプ場に松尾、館岡、須ノ崎の三人がテントを張ってキャンプしているのを承知のうえで。
が、そうしたからといって、酔って正体をなくした松尾が洋子に襲いかかるとは、桐原にかぎらず、誰にも予測できなかったはずである。ましてや、松尾に暴行された洋子が自殺するとは。
では、そうなったのは偶然か。
それもありえない、と思う。桐原がそんな偶然の重なりを期待して、洋子を多摩川のキャンプ場へ行かせるわけがない。
とすると、桐原には、洋子の死を予測できる何かがあったとしか思えない。つまり、桐原は、洋子を確実に死に向かわせる何らかの工作をしているはずなのだ。
しかし、そう考えても、桐原が何をしたのかは見当さえつかないのだった。
湯が沸いたので、松尾は考えを中断し、カップラーメンを作り、コーヒーを淹《い》れた。
3
その頃、桐原も眠れずに書斎にいた。
やっと連絡の取れた松尾に一方的に電話を切られ、しばらくは怒りのやり場に困ったが、今は落ちついた。
松尾、伝手《つて》を頼ってコンタクトを取った本の取り次ぎ会社幹部、松尾がつかまえて善処させるはずだった水谷と、頼みにしていた他者のセンはすべて切れた。
そのため、桐原は、こうなったら自力で活路を切り開く以外にないと腹を括《くく》り、
――起死回生の手はないか、必ずあるはずだ。
と、考えていたのだった。
複数の取り次ぎ会社幹部には、自著本に問題のある箇所が見つかったので配本を取りやめてほしい、と要請した。が、たとえ著者の要望でも、契約相手である出版社の意思がはっきりしないではどうにもならない、と言葉は丁寧だったがはっきりと断わられた。
――これまで、おれは他人の何倍も、何十倍も努力してきた。
と、桐原は思う。高校、大学時代。学者・大学教授として。そして政治家への転身をはかってからも。常に。そう、常にその道の頂点を目差して。周りの馬鹿な連中が恋だ、映画だ、旅行だ、グルメだと遊びほうけている間、おれだけは休まなかった。働き、勉強してきた。脇目も振らず、眠る時間も惜しんで、ひたすら山の頂上に向かって歩みつづけてきた。それなのに、たった一度の過ちぐらいでそれらの努力が水泡に帰したのではたまらない。というより、絶対にそんな結果にはさせない。
――ただ、それにしても……。
と、桐原は髪を掻《か》きむしった。どんなに悔いても悔い足りないのは、その一度の過ちだった。
松尾に、きみという人間は鉄のような意志と心を持った奴だと思っていた、と言われた。自分の描いた設計図にとってプラスかマイナスかを常に冷静に判断し、プラスのことしかしない人間だと思っていた、とも。そして、そんなきみにも後先を考えずに一人の女性に夢中になるといった一面があったのか、と妙に感心されたが、それは桐原自身にも意外であり、驚きだった。というより、後で振り返って見ると、悪性の熱病ウイルスに脳を冒され、一時的に狂っていたとしか考えられない。自分が、市橋洋子などという、どこにでもいる取るに足らない女に夢中になり、今で言うストーカーまがいのことをしたなんて、信じられない思いだった。他人事《ひとごと》のように感じられた。
しかし、それが現実であったために、二十年以上経った今、桐原は窮地に追い詰められているのだった。二十三年前の夏、栗本俊が留置場で自殺したと聞いて、桐原は熱病から醒《さ》めた。憑物《つきもの》が落ちたように。その後は、冷静に対処し、禍根を残さないようにしたはずなのに……。
ドアの外でスリッパの底を擦るような音がした。
――郁美が来たのか。
桐原はそう思って、耳を澄ませたが、それきり物音は聞こえなかった。
どうやら空耳だったようだが、桐原の脳裏にベッドの中で大きく目を見開いている郁美の姿が浮かんだ。きっと郁美も眠れないでいるにちがいない。松尾との電話の後、先に寝《やす》んでいるようにと言っておいたが、そうでなくても日増しに不眠症が高じている郁美が、ベッドに入ったからといって眠れたとは思えない。
今から八時間半ほど前、『政道―わが半生の記』におかしな文章が混じっている、と言い出したのは郁美だった。
桐原は、『政道―わが半生の記』の見本が届いたという郁美の電話を受けていたので、弾む心で五時過ぎに帰宅し、バイク便で着いていた梱包《こんぽう》を解いた。
見本は三冊入っていた。
桐原はその一冊を郁美に渡した後、表紙を眺め、扉の写真と署名を確かめた。本文は全体をぱらぱらと見ただけで風呂に入った。後でゆっくり読もうと。
一方、郁美は、良いご本ねと嬉《うれ》しそうな顔をして表紙を撫《な》で回し、立ったまま読み始めた。読むといっても、ざっと全体を流す程度だったと思われるが。
それから二十分ほどして、桐原が風呂から上がってバスローブのまま居間へ戻ると、本を手にした郁美が困惑したような顔を向けてきて、
――あなた、なんだか変……。
と、言った。
――変て、どういうことだ?
桐原は、ちょっと咎《とが》める口調で訊《き》いた。
――ご本の中におかしな文章が交じっているの。
――おかしな文章?
――市橋洋子という人の手記だと書かれた文章が……。
妻の口から突然飛び出した市橋洋子の名に、桐原は激しい衝撃を覚えた。
――ど、どこだ?
彼は郁美の手から本を引ったくった。
――手記が載っているのはその前だけど、そう書かれているのは、わたしが開いていた百八十一ページの、そこ……。
と、郁美が指差して答えた。
桐原は、郁美に教えられたページに目をやった。
≪……の文章は、二十三年前の一九七七年八月二十六日に青梅市を流れる多摩川で自殺した市橋洋子(当時十九歳)の手記『俊とともに』の全文である。……≫
という記述に、彼は、顔からさーっと血の気が引くのを感じた。
――市橋さんて……。
――手記というのを先に読ませてくれ。
桐原は、何か訊こうとしたらしい郁美の言葉を遮った。
――ごめんなさい。あ、それから、この後のページにも変な文章が入っているの。
――この後にも?
――手記のつづきを、あなたが書いたみたいな……。
――わかった。とにかく、話は読んでからだ。
桐原は言うと、ソファに腰を下ろし、差し替えられた原稿の部分を読んだ。
資料を速読するのに慣れているので、十分とかからなかった。
顔を起こすと、郁美の不安げな、問うような視線にぶつかった。ずっと立ったまま、桐原が読み終わるのを待っていたらしい。
――ここに書かれていることは、すべて根も葉もない出鱈目《でたらめ》だ。ぼくを陥れるために、編集の最終段階で誰かがぼくの原稿と差し替えたらしい。
桐原は言った。
――市橋さんという方は……。
――彼女については後で説明する。だが、知っていたというだけで、ここに書かれているような関係はまったくない。
――そう。
――とにかく今は編集者の水谷か松尾に事情を訊き、書店への配本を止めさせ、発送した贈呈本を回収してもらうのが先決だ。
桐原は言って、腰を上げた。水谷あるいは松尾とのやり取りを郁美に聞かれたくなかったので、電話番号の書いてある手帳は鞄《かばん》の中だからと、子機を持って書斎へ行った。
まず三恵出版社に電話した。
が、誰もいないらしいので、松尾のアパートにかけた。
市橋洋子の手記を読んだからだろう、松尾の態度はこれまでと違った。桐原への疑いをはっきりと口に出し、配本を止めるのも贈呈本を回収するのも無理だ、と言い放った。
それでも、水谷の家へ行ってみるというので、彼からの連絡を待ちながら、何度もアパートに電話を入れた。
しかし、虚《むな》しく時間が過ぎ、午前一時を過ぎてからやっとつかまえると、水谷は旅行に出てしまって所在がわからない、という。
松尾からの連絡を待っている間に、桐原もできるかぎりのことはした。取り次ぎ会社の幹部に書店への配本を中止するように要請したり、書籍小包みの配達をやめさせる方法を郵政省にいる知人に問い合わせたり。だが、いずれも実を結ばなかった。
夕方、市橋洋子について郁美に訊かれそうになったとき、桐原は後で……≠ニ答えたが、その後、郁美には何の説明もしていない。郁美のほうも尋ねようとはしなかった。差し替えられた二つの文章の内容から様々に想像をめぐらし、恐ろしくて、何も言い出せないでいるのかもしれない。あるいは、『政道―わが半生の記』が書店に並び、テレビ局や新聞社に届いてしまったら……と思うと、市橋洋子について質《ただ》すどころではないのかもしれない。桐原は、松尾に突き放された事情を郁美には明かしていない。配本の阻止と贈呈本の回収のために松尾が全力を尽くしてくれている、と話しておいた。が、桐原の様子から、非常に深刻な状況にあることは彼女にもわかっただろう。
――必ず打開策はあるはずだ。
と、桐原は思う。考えれば、きっと起死回生の手があるにちがいない。
おれは須ノ崎を殺していない。だから、すべては、過去の……二十三年も前の出来事なのだ。こんな二十年以上も前の、たった一度の過ち、悪性の脳炎ウイルスによる病気のために、これまで営々として築き上げてきたものをすべて失ってはたまらない。理不尽すぎる。
それにしても、市橋洋子があんな手記を書き、タイムカプセルに納めておいたなんて、想像さえできなかった。洋子の死んだ夜、おれは彼女の部屋へ忍び込んで、日記帳や手帳の類《たぐ》いはすべて盗み出し、処分した。だから、何の心配もない、と思っていたのに……。
洋子は、親友の宮川芙美子にさえ栗本俊との関係を話していなかった。それだけではない。洋子は、俊との関係を芙美子に気づかれないように、一緒にいるところを一度だけ芙美子に見られた桐原のことを恋人であるかのように仄めかすか、芙美子がそう尋ねたのを否定しなかったらしい。そのため、洋子が死んだ後、芙美子から話を聞いた洋子の父親が、娘の自殺の動機について何か気づくか知っていることがあったら教えてほしい、と桐原を尋ねてきたのだった。
『俊とともに』を読んで、こうした事情はわかったものの、桐原にとっては何の役にも立たない。
洋子の手記の内容はさておき、それがタイムカプセルから出てきたことが、この五月以降に起きた一連の出来事の発端だったようだ。つまり、すべては、手記を読んだ洋子の父親、三津田恵一――松尾は原稿を差し替えたのは水谷自身の意思だったかもしれないと言うが、桐原はそれはないと思う――の仕組んだことだったらしい。
初め、三津田は、桐原に会って手記の内容について質そうとした。ところが、桐原が幼女|悪戯《いたずら》事件に巻き込まれたのを知り、二十三年前の出来事との偶然の符合に着目。三津田の言葉によればまさに天の配剤≠ニ見て、元警官Qを名乗って桐原を陥れようとし、さらには須ノ崎を殺してその罪を桐原に被せようと謀った。
三津田の行動は、それで終わりではなかった。手紙の予告どおり、彼は新たな行動を起こした。といっても、それは桐原が想像していたような松尾殺しでも館岡殺しでもない。『政道―わが半生の記』の中に、洋子の手記と自分の想像を事実であるかのように記した文章を割り込ませることだった。
……と、そこまで三津田の奸計《かんけい》を頭の中でなぞってきて、桐原はふと引っ掛かりを覚えた。
今まで見過ごしていたが、そう考えると、三津田が『政道―わが半生の記』の中に無断で侵入させた文章との間に矛盾が生じることに気づいたのだ。
これまで、桐原は、
〈洋子の父親は、須ノ崎が洋子を暴行した犯人の一人だと知って、殺した〉
と考えていた。洋子の父親がどうしてそこまで知ったのか、という大きな疑問はあったが。
だが、三津田の文章を読むと、彼は、娘が暴行されたのではないかと想像はしても、犯人まではわかっていない。桐原が金で雇ったチンピラ≠ェ犯人だと思っている。つまり、洋子の父親は、須ノ崎が洋子を襲った犯人だとは考えていなかった――。
となると、洋子の父親には須ノ崎を殺す動機がない。どんなに桐原を強く恨み、憎んでいたとしても、桐原に無実の罪を被せる目的だけで、関係のない人間≠殺すとは考えられないから。
――では、須ノ崎殺しの犯人は洋子の父親ではなかったのだろうか。
桐原は自問する。須ノ崎を殺し、その罪をおれに被せようとしたのは、洋子の父親ではなかったのだろうか。おれは思い違いをしていたのだろうか。
しかし、洋子の父親が犯人でなかったとすれば、須ノ崎を殺したのは誰か。他に誰が須ノ崎を殺し、その罪をおれに被せようとするだろうか……。
「アッ!」
と、桐原は小さな声を漏らしていた。
事と次第によっては須ノ崎を殺したかもしれない人間に思い当たったのである。また、その人間なら、自分の罪を桐原に被せようとしたとしてもおかしくない。
桐原は、須ノ崎がおよそ二年半ぶりに桐原家を訪れた、殺される八日前の夜を思い浮かべた。
そのとき須ノ崎は、桐原と市橋洋子との間に関係があり、桐原は彼女の死とも関わっていたのではないか≠ニ仄《ほの》めかした後、次のように言った。
――あんたは、元東央大学教授の有名な国際政治学者だ。また、これから国会議員になり、大臣の椅子も狙おうという人間だ。有形、無形のものを、持ちきれないほど持っている。だが、それは、何かあったとき、それだけ失うものが多いということだ。一方、おれには何もない。今のおれは、何がどうなろうと、失うものなど何一つない。
これは明らかに脅しである。つまり、須ノ崎の目的は金だと思われた。だから、桐原がいくらほしいのかと訊き、百万なり二百万なりの金を渡せば、済んだかもしれない。だが、金を渡した場合、相手の言ったことが正しいと認めた結果になり、逆に、さらに脅しの種を提供することにもなりかねない。
桐原はそう考えて、しばらく様子を見ようと、
――市橋洋子などという女性は知らないし、きみが何を言っているのか、さっぱりわけがわからない。
と、言い通した。
――惚《とぼ》けるんならかまわない。だが、おれはこれから調べてみるつもりだ。その結果、何が出てきても、おれは知らんからな。
須ノ崎は、捨て台詞《ぜりふ》を残して帰って行った。
彼から、先日、あんたの家を訪ねたときに話した件でさらに重大な話がある≠ニ政友党本部に電話があったのは、数日後である。
桐原は、どうせ前の話の蒸し返しだろうと思ったが、万一、事が起きてからでは遅い。仕方なく、須ノ崎の指示に従い、六月三十日の夜九時に扇大橋南詰にある車止めまで行き、十時まで待っていた。
だが、須ノ崎は現われず、その頃、彼は殺されていたのである。
桐原は、てっきり、これはQこと市橋洋子の父親の仕業だと思った。
市橋洋子の父親と電話で話したのは、事件のわずか十日ほど前の夜である。そのとき、洋子の父親は、正体≠見破られないように声を作っていた。会ってくれと桐原がしつこく迫っても、頑として拒否した。そして最後に、
――あなたは、あなたの好きにしたらいいんです。わたしも、わたしの考えているようにしますから。
と、言った。
そうした符合があったので、桐原は、市橋洋子の父親がどうして須ノ崎と洋子の関わりを知ったのかという大きな疑問を抱きながらも、須ノ崎を殺してその罪を桐原に被せようとしたのは洋子の父親以外にはいない、と思い込んだのだった。
しかし、いま、洋子の父親が書いた文章を読み、彼が須ノ崎を殺したと見るのはおかしいことに気づいた。そして考えていると、犯人になりうる条件を具《そな》えた男の存在に思い当たったのである。それは、桐原と同様に、〈須ノ崎が二十三年前の件を掘り返した場合、失うものを沢山持った人間〉であった。
桐原は、今度こそ間違いないのではないかと思った。その男が須ノ崎を殺した犯人と見て。
といって軽々には動けない。警察にその人間を告発した場合、同時に自分の墓穴を掘る結果にもなりかねないから。
――では、どうしたらいいのか。男を告発せずに、破滅から逃れる道があるか。
桐原は、窓が白み始めるまで考えつづけた。そして、男を告発しよう、と結論を出した。殺人容疑者の汚名から完全に解放されるにはそうする以外にない。
最早、現在の難局を無傷のまま乗り切る道はなさそうである。それなら、傷をできるかぎり軽く、小さく抑え、一日も早い回復を待つのが最善である。そして機を狙い、再生・復活を目差すのだ。今の時代、時間の流れはいよいよスピードを増している。世の中は慌ただしくなり、人々もますます忙しく、飽きっぽく、忘れやすくなっている。だから、今回の件もじきに人々の記憶から薄れ、二、三年もすれば、ほとんど消えてしまうにちがいない。そうなれば、元々、大汚職事件の疑惑の中心にいた人物が総理大臣になれるような土壌の国なのである、この程度の傷はほとんどマイナスにならないだろう。
当然ながら、『政道―わが半生の記』に無断侵入した洋子の手記も、洋子の父親が書いた文章も、根も葉もない出鱈目だ、と主張する。誰が何と言っても、そう主張し、譲らない。アルバイト先で知り合って、二、三回会っただけの洋子に、ある男を助けるために偽証してくれと頼まれ、自分がきっぱり断わったので、洋子が腹癒《はらい》せにあんな手記を書いたのだろう、と言いつづける。二十三年前の真相を知っているのは、死んだ洋子を除けば自分一人だけ。多少不自然でも、誰もこの主張を嘘だと証明することはできないはずである――。
桐原が結論を出し、覚悟を決めたとき、ドアにノックの音がした。
彼は椅子を回し、「どうぞ」と言った。
郁美が白い顔をして入ってきた。
やはり眠れなかったのだろう、濃い不安の色を漂わせた腫《は》れぼったい目をしていた。
4
岸川と電話で話した後、松尾は一睡もせずに夜を明かした。市橋洋子の父親と判明した水谷勇吉の所在を突き止めるのは岸川たち警察に任せるとして、自分は何をしたらいいのか、と考えつづけた。
三津田を捜し出して、彼と水谷の関わりも聞きたかったが、それよりも、桐原から市橋洋子の死の真相と須ノ崎殺しの真相を聞きたい、と思った。
桐原に会って、問い詰めたところで、彼が本当のことを話す可能性は高くない。といって、桐原以外に、それらの真相を知っている人間はいない。
と考えると、至急、桐原に会う必要があった。彼が逮捕されてしまったら、聞く機会がなくなる。
――よし、今日中に何とか会おう。会って糺《ただ》そう。できれば、当事者の一人である館岡も一緒に。
松尾はそう思い、顔を洗って、コーヒーをいつもより濃く淹《い》れて飲んだ。
七時半まで待って、桐原家に電話した。
出たのは郁美だった。
郁美は、相手が松尾だとわかるや、
「松尾さん!」
と、悲鳴のような声を上げた。
「どうしたんですか?」
「いま……たったいま、刑事さんが来て、主人が……」
「逮捕されたんですか?」
松尾は思わず訊《き》いた。
と、一瞬、沈黙があり、
「そ、そうじゃないけど……」
郁美が、心外だというような、どこか抗議するような調子で言った。
「じゃ……?」
「警察へ連れて行かれたんです。でも、これまでと違うみたいなんです」
「どう違うんですか?」
「主人が玄関を出ると、三人の刑事さんがすぐに前と後ろから挟んで……。まるで逃がすまいとするように」
「それは……」
郁美さんの思いすごしですよ、と言いかけ、松尾は言葉を呑《の》み込んだ。警察がすでに桐原の逮捕状を取っている可能性があったからだ。昨夜のうちに水谷の所在を突き止め、電話で事情を聞いて。そうなれば、刑事たちが桐原の逃亡を警戒しても不思議はない。
「主人は、いったい、どうなるんでしょうか?」
郁美が悲痛な声を出した。
それは、松尾にも予想がつかない。正直に、わからないと答えるしかなかった。
「何だか、もう帰ってこないような……」
「お子さんはどうしましたか?」
松尾は、郁美の想像には取り合わずに事実の確認をした。
「娘は家を出た後でしたし、下の子はいま学校へ行かせました」
「なら、よかった」
「でも、主人がこのまま……」
「郁美さん」
と、松尾は少し強い調子で制した。「いま言ったように、桐原君が今後どうなるか、ぼくにもわかりません。もしかしたら、あなたの想像しているようなことになるかもしれません。だからといって、あなたがおろおろしていて、どうするんですか?」
松尾の言い方に郁美が少しびっくりしたのか、黙った。
「はっきり言います」
松尾はつづけた。「桐原君に万一のことがあったら、二人のお子さんを護《まも》れるのはあなたしかいないんですよ。あなたが、自分の手で二人のお子さんを護ってやらなければならないんですよ」
「そうね……そうなんですね」
郁美がたったいま気づいたというように応《こた》えた。
ええ、と松尾は力を込めた。
「ごめんなさい」
「ぼくに謝る必要はありません」
「でも、勝手な泣き言を並べてしまって……本当にごめんなさい。あ、でも、松尾さんに叱られ、自分がどうしたらいいのか、少しわかったような気がします」
「ぼくは叱ったわけじゃないが、少しでも力になれたんなら、よかった」
「あの……話は違いますが、市橋洋子さんという方の手記に書かれていたことは事実なんでしょうか?」
郁美が語調をあらためて訊いた。
桐原から何も聞いていなければ当然だが、それは彼が警察に呼ばれた件と別の話だと思っているようだ。
「読んだんですね?」
「ええ」
「そうですか」
「主人は、本当に、市橋洋子さんと栗本俊さんという方にあんなひどいことをしたんでしょうか?」
松尾は、九分九厘、事実と見て間違いないだろうと思っている。が、それを確かめたわけではないので、桐原はどう言っているのか、と訊き返した。
「主人は、根も葉もない出鱈目だと……」
「じゃ、そうなのかもしれません。ぼくにもよくわかりません」
郁美が黙った。
松尾は、桐原が帰ったら連絡するようにと伝言して、電話を終えた。
もしこのまま桐原が警察から戻らなければ、彼を糺す機会が失われたわけだが、そのときは警察の調べと裁判を待つ以外にない。
松尾はコーヒーをもう一杯淹れ、館岡に電話するために机に戻った。桐原を糺すとき館岡を同席させるには、館岡の予定をおさえておかなければならないからだ。
松尾がコーヒーを飲みながら、どう館岡に切り出そうかと考えていると、目の前の電話が鳴った。
松尾はカップを置き、受話器を取った。
もしかしたら岸川ではないかと思いながら、「もしもし、松尾ですが」と応えると、受話器の奥から意外な声が響いてきた。
三津田だった。
「ど、どこにいるんですか!」
松尾は驚いて声を高めた。自然に非難する口調になっていた。
「轢《ひ》き逃げの件は知っているんだね?」
知っている、と松尾は答えた。
「松尾君にはすまなかった」
三津田が謝った。
「それより、どこにいるんですか? これから行きますから、詳しい事情を話してください」
「それはできないよ」
「なぜですか?」
「ぼくは、いま、中国に来ているんだ。西安《シーアン》……唐の都、長安だよ」
「中国……!」
「ずっと一度来たいと思っていたんだが、これまでなかなか時間が作れなかった。それで、この機会にぜひにと水谷君に勧められてね」
「そうですか」
他の国はさておき、中国へだけは一度行ってみたい、と三津田が言っていたのは、松尾も知っている。
「いま水谷君の家に電話したら、息子さんが出て、水谷君は夫婦で北海道へ行っているとか……」
「ええ」
「それで、朝早く悪いと思いながら松尾君に電話したんだが、水谷君が旅行に出かけたということは、『政道―わが半生の記』は予定どおり出たんだね?」
「昨日、見本ができました」
「そうか、それはよかった。桐原氏が何を考えていようと、仕事は仕事だからね」
どこか、話が変だ。三津田は、原稿が差し替えられた事実を知らないのだろうか。
「もしかしたら、社長は原稿の差し替えを知らないんですか?」
「原稿の差し替え? どういうことかね?」
三津田が訝《いぶか》しげに訊き返した。
「『政道―わが半生の記』の原稿が、一部、無断で差し替えられていたんです」
「なんだって!」
「水谷さんです。ぼくは、社長も知っているんだと思っていたんですが」
「ぼくは知らんよ。水谷君は、どんな原稿と差し替えたのかね?」
「市橋洋子さんの手記と、桐原を告発する水谷さん自身の文章です」
「そうか。そういうことだったのか……」
「そういうこと? では、市橋洋子さんの手記についてはご存じだったんですね?」
「うん」
「読まれたんですか?」
「いや、読んではいない。だが、内容は水谷君から聞いた。今月一日の夜、桐原氏が突然うちへ来て帰った後で」
「洋子さんの手記の存在はいつ……?」
「それも、そのとき初めて聞いた。タイムカプセルから出てきた、と。水谷君は、元の奥さんである洋子さんの母親……時子さんというそうだが……時子さんから連絡を受け、手記のことを知ったんだそうだ。水谷君と時子さんは住所だけはずっと知らせ合っていたらしい」
「そうですか」
「で、桐原氏はどうしているのかね?」
「もちろんカンカンに怒っています。水谷さんは原稿を差し替えただけじゃないんです。本が書店に並び、贈呈先に届くように、すべての手配を終えてから旅行に出てしまったんです。そして、連絡が取れないんです」
「そうか……!」
三津田が、あらためて驚いたような声を出した。
「社長は、水谷さんが洋子さんの父親だという話は前から聞いていたんですか?」
松尾は疑問に思っていたことを質《ただ》した。
「聞いていた。洋子さんと桐原氏とのことも。ただ、桐原氏は自殺した洋子さんの恋人だったんじゃないか、という話だったんだが……」
「ぼくが社長と知り合ったとき、桐原の講演会に見えたのは?」
「あれは、水谷君と一緒に行く予定だったんだが、水谷君に急用ができてしまって、ぼく一人で行った」
「あの後、桐原の大学時代のことについて……恋人かガールフレンドがいたかとか、ぼくに訊いたのは、水谷さんに頼まれたんですか?」
「頼まれたわけじゃない。水谷君が知りたそうだったので、ぼくの一存できみに訊いてみた。水谷君は、自殺した娘の洋子さんと桐原氏が恋人同士だったかもしれないといった話は、誰にも……松尾君にも明かさないでほしい、と言っていたんだ。本当かどうかもはっきりしないそんな昔の話を持ち出し、桐原氏に迷惑をかけたら悪いからと」
「そうですか」
「水谷君というのは、そういう男なんだ。だから、今度も、ぼくと松尾君を巻き添えにしないようにとあんな芝居を考え、原稿の差し替えや配本、贈呈本の発送などの手配を一人でやったんだと思う」
「水谷さんが社長にあの芝居を持ちかけたのはいつですか?」
「今月の四日か五日頃かな。その前……洋子さんの手記について話した晩、彼は、桐原氏がぼくを洋子さんの父親だと思い込んで殺そうとしているらしい、という話をしていたんだ」
「水谷さんは、桐原が社長を殺そうとしているのに気づいていた?」
「いや、ぼくを洋子さんの父親と誤認しているらしいとは思っても、桐原氏がそこまでするとは想像していなかったようだ。ただ、ぼくに万一のことがあったら大変だと心配し、できるだけぼくを一人にしないようにはしていたらしい。それで、あの晩もぼくの家に寄ったところ、桐原氏が突然訪れた。それで、水谷君は……彼の言葉によれば一瞬血が凍るほど驚き、これはぼくに話さなければならないと思ったんだそうだ」
「水谷さんは、そうして桐原の狙いを社長に打ち明けた後、何と……?」
「黙っていて申し訳なかったともう一度謝り、警察に届けてくれ、と言った。自分には考えていることがあるが、社長の身の安全には替えられないから、と」
「しかし、社長は届けなかった?」
「警察に届けるといったって、桐原氏がぼくを殺そうとしている証拠なんてないからね。それでぼくは、たとえ水谷君が想像しているとおりでも、つづけて二度は襲ってこないだろうからしばらく様子を見よう、と応えたんだ。そうしたら、水谷君が、それなら自分が社長の安全を確保する方法を考えるからと言って帰って行き、三、四日してあの轢き逃げの芝居の話を持ってきた」
「驚いたでしょう?」
「あまりにも突飛な話なので、そりゃ驚いたよ。でも、水谷君が、面倒をかけてすまないがどうか自分の言うとおりにしてもらいたいと真剣な顔をして頼むから、ぼくは了承した。桐原氏の『政道……』は自分が責任を持って予定どおりに刊行する、その後で洋子さんの手記を公表し、自分も名乗り出て桐原氏と対決する、だから、それまで待ってくれないか、と言うんでね」
「ところが、水谷さんは、『政道……』が出た後で洋子さんの手記を公表するのではなく、『政道……』の一部を乗っ取るかたちでそれを公にした――」
「きみの話によれば、そういうことらしい」
「水谷さんは社長を騙したわけですね」
「まあ、そうだ」
「騙されたのに、社長は怒っていないんですか?」
「水谷君から詳しい説明を聞きたいとは思うが、怒ってはいない」
「なぜですか?」
「なぜだろうね」
他人事《ひとごと》のように三津田が応じた。「ぼくや松尾君に迷惑がかかるのを承知のうえで水谷君がここまでやるからにはよほどの理由があったはずだ、と思うからかな」
「そうですか」
「ただ、水谷君も当然頭に入れていると思うが、うちの社が蒙《こうむ》った損害だけはきちんと弁償してもらうつもりでいるよ」
三津田らしい結論だった。
「ところで、水谷さんは、どうやって桐原の動きを察知したんでしょう?」
松尾は、三津田と話しながらずっと疑問に思っていたことを質した。
「ああ、それは洋子さんの母親の時子さんに聞いたらしい」
三津田が答え、くしゃみをした。
「大丈夫ですか?」
ちょっと鼻風邪をひいたらしいがたいしたことはないと三津田が言い、説明を継いだ。
「誰かが、時子さんの舞鶴の実家に、時子さんの元夫の『水谷』と名乗って電話していたんだそうだ。もちろん、水谷君は電話していないから、それは誰かが時子さんの元夫の名を騙《かた》ったのは間違いない。そして、そんなことをする可能性のあるのは、水谷君が市橋洋子の父親≠ニ名乗って電話していた相手、桐原氏しか考えられない。しかし、水谷君には、桐原氏がどうして自分の素性を知ったのかがわからない。水谷君は首をかしげながらも、ひそかに桐原氏の動静に目を光らせていた。と、桐原氏はまったく水谷君の存在に注意している様子がなく、なぜかぼくに非常に……自分の本を出す出版社社長として以上の関心があるように見えた。それで、水谷君は、はたと気づいたんだそうだ。桐原氏は、時子さんの実家に電話したとき、『水谷』と名乗ったのではなく、『三津田』と言ったのではないか、と。漢字で書くとまったく違うが、耳で聞けば、ミズタニとミツタは似ているからね」
「つまり、桐原は、何らかの理由から、市橋洋子さんの父親は三津田社長ではないかと考えた。しかし、確証がない。そこで、洋子さんの母親の実家を調べ、時子さんの元夫の三津田≠ニ名乗って相手の反応を見ようとした。その結果、洋子さんの父親は社長だと思い込んだ?」
「水谷君が時子さんに連絡を取って実家に訊《き》いてもらったら、そういうことだったようだ。詳しいやり取りはわからないが、電話に出た時子さんの兄嫁がわたしは憶《おぼ》えていないけど、『ミズタさん』とか『ミツタさん』とかいう時ちゃんの昔の旦那《だんな》さん……≠ニ言って夫に取り次いだところ、時子さんの兄は電話に出ることを拒否し、そんな奴の名前なんか、おれも忘れていたが、いま、おまえに言われて思い出した、そうだ、『水谷』という奴だった、神田の出版社に勤めているっていう≠サんなふうに相手に聞こえるような大声で言ったらしい」
「桐原はそれを聞いて、自分の考えに間違いなかったと確信したわけですか。時子さんの兄は『ミズタニ』と言ったのに、桐原の耳は『ミツタ』と聞いて……」
「そうらしい。そのときの桐原氏の頭には、水谷という名前などまったくなかったはずだし、かつて神田の出版社に勤めていたというぼくの経歴は、水谷君の経歴と同じだからね」
よくわかりました、と松尾は言った。三津田と水谷の発音の相似、桐原の誤解と思い込み……物事というのはこんなことから大きく狂うときがあるのか、と少し驚きながら。
「それにしても、水谷君が洋子さんの手記を桐原氏の本に割り込ませようとしていたとまでは、まったく想像できなかった」
三津田がもう一度自分の思いを口にした。
「ぼくはそうした手記があった事実さえ知りませんでしたから、読んだときは本当にびっくりしました」
「松尾君にはすまなかった」
「それはもういいんです。それより、社長はいつ日本へ帰るんですか?」
「明後日には帰る予定でいる」
松尾は、無事の帰国を待っていますと言って、電話を終えた。
彼は三津田と話しながら、
――もし三津田がすぐに取り次ぎ会社に電話をかけ、『政道―わが半生の記』の書店への配本を取りやめてくれと言えば、全部は無理でも一部は書店の棚に並ぶ前にストップできるのではないか。
そう思い、迷った。切り出そうかと。が、結局、口にしなかったのだった。
出版社の社長である三津田も、それぐらい気づいていた可能性がある。気づいていながら、彼は水谷の意を汲《く》み、敢えて触れなかったのかもしれない。
――郁美には気の毒だが、仕方がない。
と、松尾は思った。桐原自身が蒔《ま》いた種なのだから。
松尾は頭を振ると、館岡と連絡を取るために受話器に手を伸ばした。
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第十三章[#「第十三章」はゴシック体] 時 間
1
「館岡のやつ、来ないんじゃないのか」
桐原が時計を見て、言った。二度目だった。
松尾の右手に腰掛けた彼は、さっきから苛々《いらいら》した様子で脚を小刻みに揺すっていた。現在置かれている状況を考えれば当然かもしれないが、冷静な男にしては珍しかった。
九月二十九日(金曜日)夜――。
松尾は桐原と、半蔵門に近い麹町のホテルの一室で館岡が来るのを待っていた。
都内の書店には今日の午後から『政道―わが半生の記』が並び始めたらしい。が、まだ中に挿入された市橋洋子の手記に気づいた者がいないのか、いても少ないのだろう、特にこれといった反応はないようだ。
「来ると言ったんだから、来るよ」
松尾は前のときと少しだけ違った答え方をした。
「いくら重要な話だと言われても、松尾だけならおれは来なかった」
桐原の顔は不満を通り越し、不快げだ。
松尾が桐原に連絡が取れたのは、彼が警察から解放された午後六時過ぎ。郁美から伝言を聞いて電話してきたので、重要かつ重大な話があるので至急会って話したい≠ニ松尾は言ったのである。
ホテルの部屋は、朝、松尾が館岡と会う約束を取りつけた後で予約しておいた。もし桐原が逮捕されるか、どうしても会いたくないと断わった場合はキャンセルするつもりで。泊まる予定はなかったが、シングルでは狭いので、ツイン。それでも、三人で話すには椅子が一つ足りないので、松尾のぶんはドレッサーの前からスツールを持ってきた。
「きみが館岡も来ると言うから、何とか無理して時間を作ったのに……」
桐原がしつこく松尾を責める。
「来るさ。来られないんなら連絡があると思うから」
「だが、八時半という話だろう。もう二十分以上過ぎているじゃないか。もし九時までに来なければ、おれも帰るからな」
桐原に帰られたら困るが、松尾は黙っていた。館岡は必ず来る、と思っていたから。
館岡は、松尾が、須ノ崎の抱いていた疑惑について桐原と三人で腹を割って話し合いたいと電話すると、
――松尾、あんた、頭がおかしくなったんじゃないのか。今更、何を好きこのんで二十年以上も前のことをほじくり返そうとしているんだ!
と、一度は怒った。
が、松尾がタイムカプセルから出てきた市橋洋子の手記の話をし、もし桐原が須ノ崎を殺した犯人ならこのまま放っておくわけにはゆかないと言うと、そうか、わかった≠ニ了承した。
その後、松尾は、『政道―わが半生の記』から水谷が原稿を差し替えた部分のページを破り、ファックスで送ってやった。当然、館岡はそれを読んだのだろう、松尾が予約したホテルの部屋を知らせたときには、かなり深刻げな様子で、
――驚いたよ。あんたから予定変更の連絡がない場合は、今晩八時半にホテルへ行けばいいんだな。
と、言ったのだ。
松尾の予想どおり、館岡は間もなく……九時二、三分前に現われた。用件が用件だからだろう、心なしか白い顔が強張《こわば》っていた。
「病院を出ようとしたら、副院長につかまってしまって……すまん」
と、いつもは人を待たせても何とも思わない男が、神妙な顔をして謝った。
館岡が桐原と向かい合いに腰を下ろすのを待って、松尾はテーブルに置いてあったコップにウーロン茶を注いでやった。
「じゃ、松尾の重要かつ重大な話とやらを聞こうか」
桐原が松尾を見て促した。
館岡がウーロン茶を一口飲み、コップをテーブルに戻した。
「それじゃ、単刀直入に言うよ」
松尾はスツールの上で腰を動かし、座りなおした。
「話は大きく分けて二つある」
彼は、自分に向けられた桐原と館岡、二人の顔を交互に見やりながら話し出した。「一点は、二十三年前の八月二十六日の夜、市橋洋子がなぜおれたち……おれと館岡と須ノ崎がキャンプしていた青梅の多摩川の川原へ来たのか、その理由というか事情というか、それを桐原に聞きたい。二点目は、それと密接に関わっているので、一点目についての桐原の説明を聞いてから話す」
「そんなこと、おれにどうしてわかる?」
桐原が大きな目をぎょろりとさせて反問した。「松尾、あんたは市橋洋子の父親がおれの本に割り込ませた洋子の手記の内容が事実だという前提でものを言っている。それじゃ、話にならない。あんなのは出鱈目《でたらめ》なんだから」
「桐原、そんな嘘はもう通用しないよ」
松尾は、語調は穏やかに、しかしはっきりと言った。
「嘘じゃない!」
「きみは、市橋洋子がきみに偽証を頼んで断わられたので、腹癒《はらい》せにあの手記を書いたんだろうと言ったが、二十年以上も眠らせておくタイムカプセルに入れるのに、出鱈目を書く人間がどこにいる? 書いてすぐどこかに発表するつもりならともかく。それじゃ、腹癒せにも何にもならないじゃないか」
「そんなことは、おれは知らない。だが、どこにいるって、とにかくいたんだ」
「どうしても事実を認めないわけか」
「事実? あんたこそ、どうして手記の内容が事実だと主張するんだ。その証拠があるのか」
「証拠は、市橋洋子がおれたちのキャンプに現われたことだよ」
「そんなのは証拠にならん」
「じゃ、よりによって、彼女はなぜあの晩、おれたちがキャンプしていた多摩川の川原に来たんだ?」
松尾は元の質問に戻った。
「おれが知るわけがないだろう」
桐原も同じ答えを繰り返した。
二人のやり取りを用心深い豹《ひよう》のような目をして聞いていた館岡が、くわえていた煙草にライターを近づけ、火を点《つ》けた。
「だが、きみは市橋洋子と関係があった。一歩……いや、百歩ゆずって、きみが言うように、たとえ市橋洋子がきみに偽証を頼んだ相手だったとしても――。その市橋洋子が、きみの友達であるおれたちがキャンプしているところに現われたんだぞ。それが偶然と言えるか」
松尾は追及した。
桐原は答えない。懸命に反論の言葉を探しているようだが見つからないようだ。
「しかも、あのキャンプには、きみもおれたちと一緒に来るはずだった」
松尾は言葉を継いだ。「だが、急用ができたからと言って、君は直前に取りやめた。そのキャンプに、きみと関係があった市橋洋子は現われた。その理由をきちんと説明してもらいたいね。偶然だとか知らないじゃ、通らない」
「通ろうが通るまいが、知らないものは知らないとしか答えようがない」
桐原が考えるのをやめたらしい目をし、ふてぶてしい態度を見せた。どんなに不自然でも知らぬ存ぜぬで通すことに決めたらしい。
館岡が勢いよく煙草の煙を吐き出し、
「桐原、いいかげんに吐けよ」
と、口を開けた。
「吐け?」
桐原が怒りのこもった目を館岡のほうへ振り向けた。「どういう意味だ?」
「言葉どおりの意味だよ。本当のことを話せという。そうすれば、ここだけの話にしてやらないでもない」
館岡が言い終わるか終わらないうちに、堅い光を宿していた桐原の目の中をかすかな笑みがかすめた。小馬鹿にしたような。それは、
――フン、事実はおまえらだって表に出せないはずだろう。
と言っているように見えた。
桐原にそうした認識があるかぎりは、彼に事実を話させるのは無理にちがいない。
松尾はそう判断すると、言った。
「桐原、昨夜、おれは言っただろう。きみは、市橋洋子が自殺した直接の原因はおれたちにあることに気づいているはずだ、と」
館岡の目に驚愕《きようがく》の色が浮かび、白い顔にさっと朱が差した。松尾を無言で睨《にら》みつける。おまえ、どうしてそこまで明かすのか、と責めるように。
彼は煙草の火を乱暴に灰皿に押し潰《つぶ》すと、怒気を含んだ声で言った。
「松尾、それを言うんなら、正確に言えよ。おれたち[#「おれたち」に傍点]じゃないだろう」
「ああ、市橋洋子が自殺した直接の原因はおれ一人[#「おれ一人」に傍点]だ」
と、松尾は館岡の言葉を引き取った。「ただ、桐原にそこまでわかっていたかどうかはっきりしないので、おれたち[#「おれたち」に傍点]と言ったんだ」
「それならいいが……」
館岡が少し表情を和らげた。
「桐原、どうなんだ。きみは知っていたんだろう。というか、市橋洋子の自殺はきみが企《たくら》んだ結果だろう?」
松尾は桐原に目を戻した。
「何を言っているのか、おれにはさっぱりわからないね」
桐原がうそぶいた。「だいたい、どうやったら、おれに市橋洋子を自殺に追い込むことなんかできたんだ?」
それが最大の謎であった。
といって、市橋洋子が偶然、松尾たちのキャンプに来て、偶然、桐原の望んでいたように死んだとは思えない。
「それをきみに教えてほしいんだ」
松尾は仕方なく下手に出た。さんざん考えたのだが、わからなかったのだ。
「できれば教えてやりたいが、おれにもわからないので、教えられない」
桐原がぎょろ目の奥に揶揄《やゆ》するような薄ら笑いを覗《のぞ》かせた。
松尾の追及もそこまでだ、と読んだらしい。
松尾は唇を噛《か》んだ。悔しいがどうにもならない。
「一つ目の話が終わったんなら、早く二つ目の話に移ってくれないか」
桐原が余裕の表情でつづけた。「松尾の話が済んだら、おれのほうにも聞いてもらいたい件があるから」
松尾は、ここはひとまず退くしかないと判断し、わかったと答えた。市橋洋子の死の真相は、桐原が須ノ崎を殺した動機と密接に関係していた可能性が高い。それなら、須ノ崎殺しを追及する過程でもう一度話を戻せばいい。
2
松尾はウーロン茶で口を湿らせてから、二点目の話、須ノ崎の殺された件に移った。
予想していたのだろう、桐原に驚いた様子は見られなかった。演技かもしれないが、それで?≠ニ話の先を促すような目をした。
「須ノ崎が殺される五日前、おれが彼に会ったことは、きみたちに話したな」
松尾がつづけると、「聞いた」と桐原が答え、館岡もうなずいた。
「そのとき、須ノ崎はおれに、桐原の家を訪ねて重大な疑惑をぶつけた、と言った」
「何が重大なものか。須ノ崎は勝手な想像を並べただけだ」
桐原が異議を挟《さしはさ》んだ。
「そうかな、勝手な想像かな」
「勝手も勝手、何の根拠もない」
「須ノ崎は、きみと市橋洋子の間に何らかの関係があったのではないか、さらにはきみが彼女の死にも関わっていたのではないか、そう仄《ほの》めかした。そしてきみは両方とも否定した――」
「当然だろう」
「しかし、その想像の少なくとも一つは当たっていたわけだ。きみと市橋洋子は関係があったわけだから。となれば、当然、彼女の死との関わりもあった可能性が高くなる」
「可能性が高くなろうと低くなろうと、ないものはない。さっきそう言っただろう。また蒸し返すつもりか」
桐原の目に怒りの色が浮かんだ。
松尾は、その目を真っ直ぐに見返して追及した。
「それなら、きみは、なぜ須ノ崎の想像を頭から否定した? なぜ、市橋洋子なんていう女性は知らないと言った?」
「一々説明するのが面倒だったからだよ」
「そうじゃないだろう。まさか、自分との関わりを書いた市橋洋子の手記が出てくるなんて思いもしなかったからだろう」
「勝手に決めつけるな」
「もし疚《やま》しい点がないんなら、きちんと説明して完全に須ノ崎の疑惑を解いておいたほうが面倒がなかったはずだ」
「須ノ崎は昔の須ノ崎じゃなかった。彼は金を目当てにおれにいちゃもん[#「いちゃもん」に傍点]をつけてきたんだ。そんな奴に説明する必要なんかない」
「須ノ崎が金を目当てにきみを脅していたのは認めるんだな」
「ああ」
「それなら話が早い。きみには須ノ崎を殺す動機があったことになる。須ノ崎は、きみにぶつけた疑惑の正しさを証明しようとしているとき、殺されたんだから」
「松尾、あんたは、おれが須ノ崎を殺したと本気で思っているのか?」
桐原が松尾の目を見つめ、語調をあらためた。これは真剣な話だぞとでも言うかのように。
「思っている」
松尾はきっぱりと答えた。これまでだって彼は冗談を言っていたわけじゃない。
「そうか。それなら、おれもはっきり言おう。おれは殺していない」
桐原が断言した。「これ以外におれの答えはない」
しかし、松尾としては、言葉どおりに取るわけにはゆかない。
「きみは嘘ばかりついている。そんなきみが殺していないと言ったからといって、簡単には信じられない」
「信じられなかったら、信じなければいい。事実は事実だ」
桐原が突き放した。
「事実は、須ノ崎に二十三年前の市橋洋子との関わり、さらには彼女の死との関わりを公表されるのを恐れ、殺した――。そうじゃないのか?」
「違うね」
「きみは、須ノ崎が殺された夜、荒川河川敷の近くへ行っていた。警察がそれをつかんで追及すると、きみは誰かの謀略だ≠ニ口走った。しかし、須ノ崎を殺し、しかもきみをそんな罠《わな》にはめた可能性のある人間はどこにもいなかった――」
松尾は岸川から聞いた事実を突きつけた。
「ほう、松尾はひそかに刑事と通じていたわけか……」
桐原が唇に皮肉な笑みを浮かべた。
「通じていたわけじゃない」
松尾は少し語気を荒くした。
「じゃ、どうして、そんなことを知っている?」
「須ノ崎から聞いた話を教えるかわりに……といっても一部しか教えなかったが、聞き出したんだ」
「日本語では、それを通じていたと言うんだよ」
「話をはぐらかさないでくれ! きみが犯人じゃないというんなら、須ノ崎が殺された晩、何をしに荒川河川敷の近くへ行っていたのか、聞きたい」
「須ノ崎を殺したうえに、おれを罠にはめようとした奴がいたんだよ」
「そんな人間は、警察が調べても……」
「彼らが気づかないだけさ」
桐原が松尾の言葉を遮った。「おれは、日本の警察はもう少し優秀かと思っていたんだが」
「じゃ、どうしてそう言わない? どうして彼らに教えてやらない? きみは、今日も朝早くから警察に呼び出されて厳しい追及を受けたはずなのに」
「教えてやろうとしたんだが、おれ自身の目と耳で確かめてからでも遅くはない、と思い返した」
「どういう意味だ?」
「文字どおりの意味だよ。この目と耳で、そいつが犯人であることを確かめてからにしようと思ったんだ」
「そんな人間がいたとはとても思えない」
「いたんだよ」
「誰だ?」
「聞きたいか?」
「ああ」
「じゃ、教えてやろう」
桐原が応《こた》えるや、
「館岡、あんたは知っているだろう?」
二本目の煙草を吸っていた館岡のほうへ目をやった。
不意だったからか、館岡はぎくりとしたような表情をし、「い、いや、知らない」と慌てて首を横に振った。
「知らない? 変だな」
桐原がわざとらしく首をかしげる。
「何が変なんだ?」
館岡が声を荒らげた。白い顔が引き攣《つ》っていた。
「館岡、それはあんただからだよ」
桐原がいかにも軽い調子で言う。
「ふ、ふざけるな!」
館岡が怒鳴った。
松尾も、桐原が苦しまぎれに好《い》い加減なことを言っているのか、と思った。
しかし、桐原は真剣らしい。
「ふざけてなんかいない。おれは真剣そのものさ」
語調はこれまでどおりながら、緊張した顔で応えると、「というわけだ、松尾」と松尾のほうへ目を戻した。「須ノ崎を殺し、その罪をおれに被せようとした犯人は館岡だったんだ」
桐原の言うことが正しいのかどうか、松尾には判断がつかない。が、苦しまぎれに口にした言葉ではなかったようだ。
「馬鹿を言うな! おれが須ノ崎を殺すわけがない。二年以上会っていないのに、殺そうにも殺せない」
館岡が煙草の火をにじり消した。
「それは、館岡、あんたがそう言っているだけだろう。おれは、おれと松尾に会いにきた須ノ崎は当然あんたとも会っていると見ている」
その疑いは松尾の中にもあった。須ノ崎から桐原に関する疑惑を聞いたとき、館岡には話したのか?≠ニ松尾が訊《き》くと、須ノ崎が一瞬面食らったような、戸惑ったような表情を見せたからだ。ただ、これまでは、もし須ノ崎と館岡が会っていたのなら、二人にはそれを自分に隠す理由はないはずだとも思っていた。
「あんたがどう見ようと、会っとらんものは会っとらん」
館岡が喚《わめ》いた。
そんな館岡を、桐原は唇に皮肉な笑みをにじませ、冷然と見ていた。
「だいたい、おれには須ノ崎を殺す動機がない」
「そうかね?」
「そんなもの、あるわけがないだろう。自分が追い詰められたからといって、よりによっておれを犯人にしようなんて、桐原、貴様はなんて卑劣な奴なんだ」
「卑劣なのはどっちだ、館岡。あんたは自分の罪をおれに被せようとしたくせに」
「それこそ、貴様の妄想にすぎん。おれに須ノ崎を殺す動機があったと言うんなら、それを教えてくれ」
「須ノ崎に脅されていたからだよ」
「おれが、須ノ崎に?」
館岡が、いかにも呆《あき》れたというように笑った。「おれには、あんたのように、須ノ崎に脅されるネタなんて何もない」
「あんたのやったこと[#「やったこと」に傍点]を、ここで言っていいのか?」
桐原が、なぜか松尾をちらりと見た。
「そんなものがあるんならな」
「あるさ。だが、それを言う前に、須ノ崎があんたの前で口にしたと思われる言葉を松尾に教えておくよ。須ノ崎はこう言ったはずだ。館岡、あんたには失うものが沢山あるが、おれにはもう何もない。だから、何が明らかになろうと、おれはちっとも怖くない――=v
「それは、須ノ崎が貴様を脅迫するときに口にした言葉だろうが」
「そう、須ノ崎は、おれにいちゃもん[#「いちゃもん」に傍点]をつけるときもそう言った。だが、館岡、あんたにも言ったはずだ」
――おれには何も失うものはない。
須ノ崎は松尾の前でも同じ言葉を繰り返していた。
「おれは聞いていないね」
館岡が、煙草を一本ゆっくりと箱からつまみ出した。態勢を立て直すための時間を稼ごうとしているのかもしれない。
「須ノ崎は、他の誰よりも館岡、あんたのことを恨んでいた。おれに金があるときは寄ってきて、おれのマンションも車も自分のものみたいに使っていたくせに、スーパーが潰れたとたん、まるで手の裏を返したように冷たい態度を取った、と言って」
それは松尾も聞いた。須ノ崎が館岡に会っていないと言ったとき、きみは館岡と親しかったじゃないかと言うと、須ノ崎は、フン、親しかったか。確かにおれに金があるときはな≠ニ悔しげに口元を歪《ゆが》めたのだ。
館岡がライターを鳴らした。
口から煙を吐き出してから、言った。
「須ノ崎に恨まれていたのは、貴様だって同じだろう。彼が借金を申し入れに行ったとき断わったんだから」
「借金を断わったからといって、あんたとは違う」
桐原が反論した。「おれは、あんたほど須ノ崎と親しくなかった。あんたみたいに、須ノ崎を子分のように従え、彼の金で遊び回っていたわけでもない」
「だから、どうしたと言うんだ? そんなことと、おれが須ノ崎に脅されるようなことをしたかどうかと何の関係がある?」
館岡が声を高めた。
「直接の関係はないが、間接的には大いに関係している」
「もったいぶらずに早く言え」
桐原がちらっと松尾のほうを窺《うかが》ってから、
「あんたと須ノ崎は、二十年以上も松尾を騙《だま》しつづけてきたようじゃないか」
「館岡と須ノ崎がおれを騙していた?」
松尾は驚いて腰を浮かせた。
「そう、あんたは二人にずっと騙されていたんだよ」
桐原が松尾のほうへ殊更に哀れむような目を向けた。
松尾は強い戸惑いを覚えながら、
「お、おれは、何を……館岡たちに何を騙されていたんだ?」
「さっきは知らないふりをしたが、おれは、二十三年前あんたらが市橋洋子に何をしたのか、知っていたんだ」
「じゃ、やっぱり、きみが市橋洋子をおれたちのキャンプに……?」
「違う、違う。市橋洋子がなぜきみたちのキャンプへ行ったのかは、おれは知らん」
桐原が慌てた様子で顔の前で手を振った。
「嘘をつけ!」
館岡が怒鳴った。「そんな、手前にだけ都合のいい嘘が……」
「待てよ、館岡」
松尾は館岡を制した。「それは後でまた問題にすることにして、先に桐原の話を聞こうじゃないか」
館岡が赤らんだ顔を引き攣《つ》らせて黙った。まだ長い煙草を灰皿に乱暴に突っ込み、折った。
「桐原、きみが知っているということを話してくれ」
松尾は桐原を促した。
桐原が、ああと応えて話し出した。
「さっきも、松尾は、一人でやったみたいに館岡に言われていたが、二十三年前、市橋洋子を暴行したのは松尾だけじゃない。館岡と須ノ崎も共犯だったんだ」
それは、松尾がもしかしたら……と思い始めていた話だった。
「本当か、館岡?」
松尾は館岡を見据えて糺《ただ》した。
「本当のわけがないだろう」
館岡が否定した。
が、視線は微妙に松尾から逸《そ》らされていた。
「おれと須ノ崎は何もしていない。あんたが酔って正体をなくし、タミヤカズアキという人はいないかと尋ねてきた女、市橋洋子に一人で襲いかかったんだ」
「松尾、騙されるな。須ノ崎がおれにはっきりとそう言ったんだから間違いない」
桐原だ。
「出鱈目《でたらめ》、言うな! 須ノ崎がそんなことを言うわけがない」
松尾も、須ノ崎がわざわざ自分の不利益になるような話を桐原にしたとは思えなかった。とすれば、いま桐原の言ったことは彼の想像だろう。が、想像だからといって、根拠のない話とも思えない。
――では、どう判断すべきか。
「松尾、よく考えてみろ」
桐原が説得口調になった。「酔って正体をなくしたあんたが一人で市橋洋子に襲いかかったのだとしたら、どうして一緒にいた館岡と須ノ崎は止めなかったんだ。おかしいとは思わないか?」
「止めようとしたさ。止めようとしたが、おれたちは二人とも腰が立たないほど酔っていたから、止められなかったんだ。近寄ると、松尾は馬鹿力で突き飛ばすし」
松尾が答える前に館岡が弁明した。
「嘘だね。いくら酔っていたって、あんたらは二人で松尾は一人だ。止めようとして止められないわけがない」
「その場にいたのでもないのに、貴様にどうしてそんなことがわかる?」
館岡が色を成した。
「じゃ、あんたらは、その後どうしたんだ? テントを畳んで、車に乗って逃げたんじゃないのか。それだけしっかりしているのに、止められないわけがないだろう。そうは思わないか、松尾?」
「そう言われれば、そうだな」
松尾はうなずいた。
館岡と須ノ崎に事情を聞かされたときは、自分の犯した罪の重大さにただただ衝撃を受け、戦慄《せんりつ》し、止めようとしたが止められなかった≠ニいう二人の言葉に疑義を抱く余裕など松尾にはなかった。落ちついてからも、自分のために館岡と須ノ崎に多大な迷惑をかけてしまった、すまない、という気持ちが強く、彼らの言葉を疑わなかった。というのは、松尾には前科≠ェあったからだ。酔って、誰彼なく喧嘩《けんか》を売ったり、通りがかりの女性にしつこく絡んだり、友人の部屋の家具を滅茶滅茶に壊したりしながら、後で話を聞かされても、そうしたことをしたという記憶がまったくない、という。そして、こんなことを繰り返していたらいまに取り返しのつかない結果になるとおそれ、酒量を控えなければ、それができないなら完全に酒を断たなければ、と思っていた矢先だった。今度こそ飲み過ぎないようにしよう、適当なところでやめようと思いつつ、生来の意志の弱さから、ずるずると正体をなくすまで飲みつづけていたときの出来事だったのである。もしこうした事情がなかったら、館岡たちの話を簡単に信じることはなかっただろうが……。
それはさておき、いま桐原に指摘されてみると、館岡と須ノ崎が松尾一人の行為を止められなかったというのは、確かに不自然だった。川に首を突っ込んで酔いを醒《さ》ましたとはいえ、市橋洋子が消えてすぐ、テントを畳んで逃げ出せたというのに。
「だから、あんたは騙されていたんだよ」
と、桐原がつづけた。「つまり、館岡と須ノ崎も共犯だったんだ。誰が最初に市橋洋子に襲いかかったのかは知らないが、あんたに記憶がないのをいいことに、館岡と須ノ崎は口裏を合わせ、自分たちはあんたの巻き添えを食ったかのように言っていたんだ」
もし事実なら、酷《ひど》い話だった。館岡と須ノ崎は罪をすべて松尾一人に押しつけ、自分たちは松尾に迷惑をかけられた被害者のような面をしていたのだから。
ただ、それは松尾と館岡、須ノ崎との問題である。市橋洋子を暴行して死に追いやった事実に変わりはない。それが松尾一人の行為であろうと、三人の行為であろうと、松尾の罪は軽減されない。
松尾はそう思ったので、館岡に向かって言った。
「たとえ桐原の言うとおりだったとしても、おれは今、それを問題にするつもりはない。きみと須ノ崎を酷い奴らだとは思うが、いくら恨んでみても今更どうにもならないからな。ただ、おれは事実が知りたい。事実がどうだったのかだけは知っておきたい。だから、正直に答えてくれないか」
「事実は、これまで話していたとおりだ」
館岡がウーロン茶を一口飲んで答えた。「おれと須ノ崎はあんたを騙しちゃいない。おれたちも、あんたを止められなかった責めは負わなければならないが、市橋洋子には何もしていない」
「恥の上塗りならぬ、嘘の上塗りか」
桐原が軽蔑《けいべつ》したような調子で口を挟んだ。
「嘘じゃない!」
「館岡、あんたも往生際の悪い奴だな。潔く事実を認め、松尾に謝ったらどうだ。人のことは吐け≠ネんて言ったくせに。須ノ崎が認めたんだよ」
「やってもいないことを須ノ崎が認めるわけがない。死人に口無しだと思って……」
「死人に口無しだと思っているのは、あんたのほうだろう。須ノ崎に、昔一緒に犯した悪事をネタに脅され、あんたが須ノ崎の口を永久に封じたんだから。須ノ崎は、二十三年前の暴行の事実を明らかにしても、もう刑事的な罪に問われるわけじゃなし、失うものは何もなかった。一方、大病院の医長で、将来は奥さんの実家の病院の院長の椅子が約束されているあんたには、失うものがあり余るほどあった。……あ、いや、そうか!」
桐原がそこで急に声を高め、「わかったぞ! 松尾、わかったよ」と松尾のほうへ光る目を向けた。
当然ながら、松尾には何がなんだかわからない。桐原に目顔で問い返した。
「館岡は、須ノ崎と二年数ヵ月ぶりに会ったわけじゃなかったんだ。もっと前に会っていたんだよ」
桐原が意外なことを言い出した。
「何を言っているんだ、おまえ!」
館岡がドスの利いた声を出したが、そこにはかすかに狼狽《ろうばい》の響きが感じられた。
桐原が無視して、つづけた。
「間違いない。もしかしたら、二年前に失踪《しつそう》した直後から会っていたのかもしれない。少なくとも連絡は取り合っていたんだと思う」
「貴様、何の根拠があって、そんなことを言う?」
「須ノ崎が金に困っていなかったらしい事実だよ。彼は、フリージャーナリストを自称していても、仕事らしい仕事をしていた形跡がない。パチンコや競輪などをやって遊んで暮していたようじゃないか。これは、彼には金蔓《かねづる》があったという証拠だ」
「その金蔓が館岡だったというのか?」
松尾は確認した。
ああ、と桐原がうなずいた。
「確かに、須ノ崎にはそれほど金に困っている様子は見られなかったが、その金蔓が館岡だったという証拠もないだろう」
「そうだが、そう考えるとすっきりする。須ノ崎は、二年前、スーパーが倒産して奥さんや子供と別れた段階でもう失うものが何もなくなった。それで、自分に金があるときは寄ってきて、なくなるや、手の裏を返したように冷たくなった館岡を脅し始めたんだと思う。自分と一緒にやった悪事をばらすと言って。館岡としては、子分のように思っていた須ノ崎に脅され、びっくりすると同時に腹が立ったと思うが、どうにもならない。仕方なく、須ノ崎に金を与えつづけた。ところが、今度、須ノ崎は、週刊誌に載ったQの談話なるものを読んで、おれにいちゃもん[#「いちゃもん」に傍点]をつけようと考えた。それを、彼は館岡に話したんだ。館岡は、これは危険だと思った。須ノ崎がおれに何を言うかわからないからな。そこで、館岡は、おれに罪を被せる工作をしたうえで須ノ崎を殺した――。どうだ、松尾、こう考えたほうがすっきりするだろう?」
「人が黙って聞いてりゃ、勝手なことを並べやがって。そんなのは、貴様の……みんな貴様の想像じゃないか。人を殺人犯人だと決めつけるからには証拠を示せ。おれが須ノ崎を殺したと言うんなら、その証拠を見せてみろ」
館岡が、人差し指を桐原に突きつけ、それを上下に振った。
だが、桐原は怯《ひる》んだ様子もなく、平然と答えた。
「あんたなら、何らかの口実を設けて、須ノ崎におれを扇大橋の袂《たもと》へ呼び出させるのもそれほど難しくなかったはずだ。三人で話し合おうとでも言って」
「そんなのは証拠にならん!」
「じゃ、あとは警察が見つけてくれるよ。おれは明日にも、あんたを告発し、いまの話を刑事たちにするつもりだから」
「本気か、桐原?」
松尾は質《ただ》した。
「もちろん本気だよ」
「そんなことをしたら、貴様は自分の墓穴を掘る結果になるぞ」
館岡の顔は蒼白《そうはく》に変わり、目が冷たく据わっていた。
「ほう、逃げられないと見て、おれを脅すつもりか」
桐原が片頬で薄く笑った。
「脅してなんかいない。貴様が警察に出鱈目を言ったって、おれは怖くない。ただ、忠告してやっただけだ」
「忠告とは、ありがたいことだ。じゃ、ついでに、あんたを告発すれば、どうしておれが自分の墓穴を掘ることになるのか、教えてくれないか」
「貴様が市橋洋子をおれたちのキャンプに来させたことが明らかになる」
「市橋洋子の行動など、おれのまったく関知しないことだ」
「桐原、きみは、本気でそんな言い逃れが通ると思っているのか?」
松尾は言葉を挟んだ。
「言い逃れじゃない、事実だよ」
桐原が挑戦するような視線を松尾に向けてきた。
「きみと関係のあった市橋洋子が、きみが急に参加を取りやめたおれたちのキャンプに現われた。そして、おれたちに暴行され、きみが望んでいたように自殺した。そこにきみは関知していないと言うのか?」
「ああ、いない」
桐原が言い切った。
「そんな偶然がありうるか?」
「それはさっき話したはずだ。蒸し返すのはごめんだね」
「だが、きみの言い分が警察で……」
「松尾、あんたは勘違いしているんじゃないか」
桐原が松尾の言葉を遮った。
「勘違い?」
「須ノ崎を殺したのは館岡なんだぞ」
「おれは殺しちゃいない!」
館岡が吠《ほ》えるような声を出した。
「それは警察がはっきりさせてくれるよ」
桐原が軽くあしらった。
「貴様ァ、貴様こそ犯人のくせに……!」
「話を戻そう」
桐原が館岡に取り合わずに松尾に言った。
一度は真っ赤になった館岡の顔がまた紙のように白くなり、刃のような目が憤怒の光を湛《たた》えて桐原を睨《にら》んでいる。
が、桐原はそんな館岡を殊更に無視するように松尾だけを見て、言葉を継いだ。
「おれは須ノ崎を殺しちゃいない。これは事実だ。としたら、おれが、警察で調べられるような何をした? 何か犯罪になるようなことをしたか。市橋洋子が自殺したのだって、おまえらのせいじゃないか。とすれば、警察はおれのことなんか問題にしないし、たいして調べやしないんだよ」
「調べられないからといって、きみは、それで平気なのか?」
松尾は、怒りを抑えて言った。「市橋洋子を死に追いやっておいて、きみは平気なのか?」
「あんたは、何度おれに同じことを言わせたら気がすむんだ? おれは市橋洋子を死に追いやってなんかいない。だいたい、おれにどうしてそんなことができる? おれが市橋洋子をあんたらのキャンプに行かせたとしても……もちろん、おれはそんなことはしていないが、たとえそうしたとしても、あんたらが市橋洋子に襲いかかり、暴行するなんて、どうしてわかる? ましてや、その結果、自殺するなんて、どうして予測できる?」
「それは、きみが、そうなるように何か仕組んだはずなんだ」
「何をどう仕組んだら、そんなことができる? できるわけがないだろう」
「いや、できたはずだ」
「じゃ、教えてくれ。その方法をおれに教えてくれ」
「それは、きみが一番よく……」
「そんな言い方は卑怯《ひきよう》だぞ、松尾。おれはできないと言っているんだ。それなのに、あんたはできると言う。だったら、どうやったら可能なのか、あんたがおれに証明して見せろ」
松尾には桐原の採った方法が浮かばないし、証明する手立てはない。だが、松尾は、今や確信した。洋子の死の裏には桐原の意思と意図が働いていたにちがいない、と。
須ノ崎を殺したのは桐原ではなく、館岡だったらしい。その点、松尾は大きな思い違いをしていたようだ。が、須ノ崎が抱いた疑惑のように、松尾と館岡と須ノ崎がキャンプしていた場所に市橋洋子が現われたのは、桐原の意思としか考えようがない。とすれば、そのときの桐原には、洋子を確実に自殺に追い込む何らかの方策があったはずなのだ。
「そうだろう、松尾?」
ああ、と松尾は認めざるをえなかった。
「で、証明できるのか?」
「残念ながら、できない」
「だったら、何も言うな!」
と、桐原が高飛車に出た。
悔しいが、松尾には反撃の手段がない。
「だが、いずれ必ず証明して見せる」
「不可能はどんなに考えたって可能にはならんよ」
「不可能じゃない」
「じゃ、精々楽しみに待っていよう」
桐原の口元に揶揄《やゆ》するような薄ら笑いが浮かんだ。
それを見て、松尾の中で何かが切れた。熱く激しいものが溢《あふ》れ出し、全身に広がっていった。
松尾はこれまで桐原の生き方を必ずしも是としてきたわけではない。が、それはそれとして認めていたし、ずっと友達だと思ってきた。親しくはないが、気心の知れたかつての級友だと。その男に対し、松尾はいま、煮えたぎるような怒りと憎しみを感じた。
「桐原、きみには人間としての良心がないのか?」
彼は胸の激情を制して問いかけた。声が上擦り、震えた。
「人間としての良心がないかって? ずいぶん偉そうなことを言うじゃないか」
桐原の口元から、風で掃かれたようにすーっと薄ら笑いが消えた。
「べつに偉そうなことを言っているわけじゃない。本当に疑問を感じたから、訊《き》いているんだ」
「松尾、あんたはあるのか?」
桐原が挑むような目をして訊き返した。
「ある。あると思っている」
「あんたにあるんなら、おれにだってきっとあるよ」
「それなら、二十三年前、市橋洋子に何をしたのか、本当のことを話してくれ」
「馬鹿ばかしい」
「馬鹿ばかしい? 本気で言っているのか?」
「もちろん本気だよ」
「きみは……きみの心は、一人の女性を酷《ひど》い目に遭わせて死に追いやっても、何も感じないのか! 何の痛みも感じないのか!」
松尾は遂に叫んでいた。
だが、桐原は動じる色もなく、大きな目をぎょろりと剥《む》いた。
「おれは、あんたにそんなことを言われる筋合はない」
「しかし、きみは……」
「松尾、あんたは自分が何をしたのか全然わかっていないようだな。市橋洋子を暴行して自殺に追い込んだのは、あんたらなんだぞ。あんたと館岡と須ノ崎なんだぞ」
松尾は唾《つば》を呑《の》み込み、「わかっている」と認めた。
「じゃ、あんたは、自分がやったことは棚に上げて、他人がやりもしないことを、あれこれ言うわけか」
松尾は唇を噛《か》んだ。
「人に、良心があるのかとか、痛みを感じないのかとか、偉そうなことを……」
桐原が嵩《かさ》にかかってつづけたとき、
「桐原、おまえこそ、開き直るのはやめておけ!」
館岡が突然大きな声を出した。
松尾と桐原は同時に彼のほうへ顔を振り向けた。
松尾と桐原がやり合っている間、館岡は怒りを刻んだ彫像のような顔をずっと桐原に向けていたのだった。
「二十三年前、貴様がやったことは、おれにはわかっているんだよ」
館岡がつづけた。
「須ノ崎殺しを否定できなくなったものだから、また何か新しいお話でも考え出したか」
桐原が、口元に馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべた。
「新しく考えたわけでも、またただの話でもない。しばらく前から気づいていた事実[#「事実」に傍点]だ」
館岡が真剣な表情をし、事実≠ニいう語を強調した。
「しばらく前から?」
松尾は訊いた。
「ああ」
「それは、どういう……?」
「市橋洋子は自殺したんじゃない。桐原に死に追い込まれたわけでもない。彼女は桐原に殺されたんだ」
館岡が松尾に答えると、
「そうだな、桐原?」
桐原のほうへ射るような視線を向けた。
3
桐原はぎくりとした。
といっても、館岡と松尾にはたぶん内心の動揺を気づかれなかったと思う。
彼はすぐに気持ちを立て直し、「呆《あき》れたなァ」と笑いながら、館岡と松尾の顔を交互に見やった。
「しらばくれるつもりか」
銀色の光を帯びたような細く鋭い館岡の視線は、桐原の目から動かない。
「しらばくれる? 言うに事欠いて、あんたは、またおれを殺人犯人にしようというわけか」
桐原は、いかにもうんざりしたというように肩をすくめた。すでに余裕を取り戻していた。もしかしたら館岡は真相[#「真相」に傍点]に気づいたのかもしれないが、恐れる必要はない。
「市橋洋子は複数のキャンパーたちが見ている前で川へ入って行った、と新聞に出ていたんだぞ。それなのに、自殺以外の何が考えられる?」
桐原は探りのジャブを繰り出した。
「あんたの殺人が考えられる」
館岡が予想どおりの反撃を見せた。
「馬鹿ばかしい。おれにかぎらず、誰にも殺せるわけがないじゃないか」
「いや、あんたには殺せたんだよ。そして実際に殺したんだ。それが事実だ」
「さっきから事実、事実と馬鹿の一つ憶《おぼ》えのように繰り返しているが、あんたは事実≠ニいう言葉の意味を知っているのか?」
「ふざけるな!」
館岡が怒鳴った。
「おれはふざけちゃいない。戯言《たわごと》とはいえ、あんたに殺人犯人呼ばわりされているんだからな」
桐原は館岡を睨《にら》み返した。
「それなら、答えよう。二十三年前、あんたが実際にやったこと、それが事実≠フ意味だ」
「ほう、もうおれ自身さえ憶えていない二十三年も前のおれの行動を、あんたは知っている?」
「ああ」
「じゃ、あんたには、確かにおれがその行動を取ったと裏づけるものがあるんだな」
「ある」
そんなものが残っているわけがない。
「だったら、それを見せてくれ」
「見せろといっても、もの≠カゃない。論理だ」
案の定、館岡が言った。
桐原にはわかっていたことだ。論理と言えば聞こえがいいが、ただの想像にすぎないだろう。
ここまできたのだ。今更どんな想像≠ェ飛び出そうが、桐原は怖くない。無傷で切り抜けようとしていたときなら動揺したかもしれないが、今はすでにある程度の傷を負うのは覚悟している。腹が据わった。傷が軽ければ軽いほどいいのは言うまでもないが、かなりの傷でも必ず癒《い》える。それまで、じっと我慢して待つ。そして傷が完全に癒えたとき、復活をはかる。まだ、先日、四十四歳になったばかり。先は長い。二、三年が三、四年に延びようと、雌伏の期間だと思えばいい。
「なんだ、あんたの想像か」
桐原はわざと馬鹿にしたような声を出した。自分と館岡のやり取りを緊張した顔で見まもっている松尾の反応を窺《うかが》いながら。
「違う。論理だ」
館岡が怒ったように言い返した。
「同じじゃないか」
「同じじゃない。目に見えている事象を矛盾なく説明するには、あんたが市橋洋子を計画的に殺した、そう考える以外にないということだ。つまり、あんたが市橋洋子を殺したというのは論理的な帰結なんだ」
「そんなのは事実とは言わない。ただの理屈と言うんだ。あんたの勝手な理屈なんて、聞きたくないね」
「逃げるのか?」
「べつに逃げるわけじゃない」
「だったら、聞いてみようじゃないか」
松尾が言葉を挟んだ。
桐原は彼に目をやり、
「時間の無駄にしかならないよ」
「おれはそうは思わない」
松尾が冷たく桐原の言葉を撥《は》ねつけた。「館岡の結論を聞いて、おれはなるほど!≠ニ思ったよ。きみが市橋洋子を殺したと考えれば、これまでいくら考えてもわからなかった謎が解ける。どうして、きみに市橋洋子の死が予測できたのか≠ニいう疑問が氷解する」
「だから、何だと言うんだ。理屈さえ合っていれば、事実だと言えるのか?」
「一般的にはそうは言えない。だが、この件にかぎれば、館岡の推理的な帰結にたぶん間違いないな」
「二人して勝手なことを言うな!」
「勝手なことか?」
松尾が、彼には珍しく鋭い視線を向けてきた。
だが、桐原は、松尾ごときがどう思い、考えようと、怖くない。
「そうだろうが」
と、睨み返した。
「桐原、きみという男は骨の髄まで腐った奴だったんだな」
「それは違うだろう、松尾。卑劣で、骨の髄まで腐っているのは、おれの前にいる男じゃないのか」
桐原は、カッとなりかけた気持ちを抑え、冷静に訂正してやった。「あんた一人に罪を被せて、二十三年間もあんたを苦しめつづけてきた挙句、自分の仲間だった須ノ崎が口を割りそうになったら、平気で殺した男。しかも、殺しに際しては、おれに罪を被せる工作までした男。これほど卑劣で腐った奴はいないんじゃないのか」
「話をすり替えて、逃げる気か!」
館岡が怒鳴った。こいつは怒鳴ることしかできないらしい。
「逃げやしない。事実を言ったまでだ」
桐原は軽く言い返し、「そうだろう、松尾?」と松尾に目を戻した。
「確かに、館岡も許せない」
松尾が応じた。「だが、桐原、今はきみのことを問題にしているんだ」
「同じ問題だろう」
「桐原、きみはそれほど想像力が貧困な人間だったのか?」
桐原に向けられた松尾の目には怒りよりも哀れむような色があった。
その目に桐原は少し戸惑った。
「きみには、自分のことだけしか見えないらしいな」
松尾がつづけた。
「どういう意味だ?」
「きみは、自分さえ良ければ、他人はどうなってもいいのか。保身のためには、他人は生きようが死のうが、苦しもうが悲しもうが、何も感じないのか。己れの利益のためには、他人を虫けらのように殺しても平気なのか?」
「何を言っているんだ?」
「わからないわけがないだろう。市橋洋子に対してあれだけ酷《ひど》いことをした挙句、彼女を殺し、何の痛みも感じないのか、と訊《き》いているんだよ」
「松尾、あんたは、仮定でものを言っている。おれがいつ市橋洋子に酷いことした? いつ殺した?」
「どうやら、何を言っても無駄らしいな」
「ふん、また自分を棚に上げて。あんたは自分が市橋洋子にしたことを忘れたのか」
「桐原、きみという人間は実に可哀そうな奴だよ。きみは、そんなに自分が可愛いか。そんなに人の上に昇りたいか。それほど権力や名声や富が欲しいか?」
「ゴーストライター風情に何がわかる? 生意気な」
「本音が出たようだな」
「あんたが偉そうなことを言うからだ」
「もう、いい!」
館岡が苛々《いらいら》したように松尾と桐原のやり取りに割って入った。「二人とも、もう好《い》い加減にしておけ。それより、おれの話を聞く気があるのかないのか、どっちなんだ?」
「もちろん、聞きたい」
松尾が答えたので、「話したければ、話せばいい」と桐原も応じた。館岡がどう考えたのか、知っておいても損はない。
「じゃ、館岡、話してくれ」
松尾が館岡に説明を促した。「桐原も言ったように、市橋洋子は複数のキャンパーたちが見ている前で川へ入って行った。新聞にそう出ていた。それなのに、どうして桐原に彼女が殺せたんだ?」
「そのとき、川へ入って行ったのは、市橋洋子じゃなかったんだ。キャンパーたちは誰も顔を見たわけじゃない。長い髪をした女が川へ入って行き、止める間もなく暗い流れの中に消えた、と言っているだけだろう」
館岡が答えた。
それだけ聞けば、桐原には、館岡が自分の計画を見破ったらしいことがわかった。が、それは、市橋洋子は桐原に殺された≠ニ館岡が言ったときに半ば予想したことなので、驚かなかった。さほど不安も覚えなかった。計画を見破ったからといって、そのとおりに桐原が行動したと証明するのは、今となっては誰にも……警察にも不可能なはずである。
桐原の不安を軽くしている理由はもう一つある。それは、館岡にはけっして表に出せないある事実が存在する≠ニいう点だ。それを明らかにできないかぎり、彼の推理には疑問あるいは矛盾が残る――。
「松尾も知っているように、川原のキャンプ場には電灯がない。だから、明かりは、いくつかのキャンプファイヤーの火だけだったはずだ」
館岡がつづけた。「それなら、その明かりを避けて川へ入って行き、腰のあたりまで水に浸ってから、『おーい、誰か川に入って行くぞ!』と叫んで、川原にいるキャンパーたちの注意を引いたら、どうなる? キャンパーたちに男か女かわかるか? というか、その人間が長い髪のカツラをつけて女のように見せかけていれば、薄明かりの中で後ろ姿しか見ていないキャンパーたちは、女だと思うに決まっているだろう」
「つまり、そのカツラをつけた人間が桐原だった?」
松尾が確認した。
「ああ」
「それから桐原はどうしたんだ?」
「一度水に沈んで、溺《おぼ》れたように見せかけ、明かりの届かないところまで流れに身を任せて移動してから反対側の岸に這《は》い上がったんだと思う」
まさに館岡の想像したとおりだった。しかし、桐原はそれを認めるわけにはゆかない。
「おまえら、人がやりもしないことを、勝手にああだこうだと……」
「言いたいことがあったら、最後まで聞いてからにしろよ」
松尾が桐原の抗議をぴしゃりと抑えた。
桐原はむかっときたが、よし、それなら最後まで聞いてから矛盾を指摘してやろうじゃないかと思い、黙った。
松尾が館岡に話の先を促した。
「要するに、入水自殺した女などどこにもいない、というわけさ」
館岡が言った。「ところが、女が川へ入って行き、見えなくなった≠ニいう110番通報を受け、警察が駆けつけた。そして、女が川へ入って行ったという場所から下流にかけて捜索したら、翌早朝、長い髪をした若い女の溺死体《できしたい》が見つかった。そうなれば、誰ひとり、昨夜の女≠ニ別人だとは思いもしない」
「そうか」
松尾がうなずき、「しかし、タイミングよく『おーい、誰か川に入って行くぞ!』と叫んだのは誰だ?」
「録音テープだよ。タイムスイッチを組み込んだテープレコーダーを斜面の木の幹に黒いテープででも止めておけば、気づかれるおそれはない。もちろん、桐原は対岸に這い上がってから戻り、それを外した。警察が駆けつけ、野次馬も相当集まっていただろうから、そこに交じって川原まで降りたところで、誰も怪しまない。暗いから、顔を見られる危険もない」
「女が入水自殺したように見せかけたのはわかったが、市橋洋子はいつ、どこで殺されたんだ?」
「青梅の梅郷近くには、川原のキャンプ場が三、四百メートルおきに三つあっただろう。そのうち、女が川へ入って行ったように偽装したのは真ん中の一番大きなキャンプ場で、おれたちがテントを張っていたのはその下流の一番小さなキャンプ場……。そして市橋洋子の溺死体が見つかったのは、それよりさらに五、六百メートル下ったところだった。だから、殺害場所は、おれたちがキャンプしていたあたりと見て間違いない」
「時間は?」
「たぶん、おれたちがテントを畳んで立ち去った後、間もなくだ。あのキャンプ場は、昼のうちは人がいたが、夜、テントを張っているキャンパーはおれたちだけだった。桐原は、暗闇にひそんで、おれたちがいなくなるのを待っていたんだと思う。そして、まだぐったりしていた市橋洋子に襲いかかり、水の中に引き摺《ず》り込んで、溺死させた――」
「市橋洋子はまだぐったりしていた? テントを畳んで逃げたのは、彼女が斜面を登って行ってからじゃなかったのか?」
松尾が質《ただ》した。
「ああ、あれはちょっと違っていた」
館岡がしれっとして答えた。「正確に言うと、彼女がまだぐったりしているうちに、おれたちは逃げたんだ」
「じゃ、やっぱり、きみと須ノ崎も市橋洋子に……」
「違う。それとは関係ない。おれと須ノ崎は何もしていない」
「嘘をつけ! よくもまあいつまでもしらじらしい嘘をつきつづけられるな」
桐原は館岡の策の無さに呆れた。
「嘘じゃない」
「じゃ、なぜこれまで松尾に、市橋洋子が消えてから逃げたなどと言っていた? なぜそんな作り話をする必要があった? 今更、自分と須ノ崎は何もしなかったなどと否定したところで、語るに落ちたというものだ」
言ってから、桐原はそうか!≠ニ思わず声を漏らしそうになった。館岡と須ノ崎が松尾についてきた嘘――その嘘にはもう一つ奥があったのではないか……!
証拠はない。が、自分の知っている事実≠ゥら推し、そう考えたほうが自然だ、と桐原は思った。我が身を守るために……また松尾に勝手なことを言わせないためにも、それ[#「それ」に傍点]をここで言うわけにはいかないが。
「おれも館岡の言うことは信じられないが、その件は後にし、話を戻そう」
松尾が言った。「市橋洋子を溺死させた後の桐原だ。彼はそれから上流のキャンプ場へ行き、彼女の身分証明書などの入ったショルダーバッグを岩の上に置いたうえで入水自殺の偽装工作をした。後でもう一度そこへ戻り、テープレコーダーなどを持ち去った――。そういうことか?」
館岡が仏頂面をして、「ああ」とうなずいた。松尾に、おれも信じられないと言われたからだろう。
「だが、桐原の行動はそれで終わったわけじゃない」
館岡がつづけた。
「まだあるのか?」
松尾が意外そうな顔をした。
「路上に駐めておいた車で東京へ帰ってからのことがある。市橋洋子から奪ったアパートの鍵《かぎ》……洋子の死体から鍵が紛失していたとしても、警察は流される途中で川に落ちたとしか思わなかっただろうからな……その鍵を使って、桐原は彼女の部屋に侵入した。そして、自分との関わりを示すようなものを捜し出し、処分したはずだ」
館岡の推理は完璧《かんぺき》に近かった。彼の触れなかった一点を除いて――。
「なるほど。それで、誰ひとりとして、市橋洋子と桐原の関わりを知る者がいなかったわけか。ところが、彼女は、死の十日余り前、その詳細を書いた手記をタイムカプセルに納めていた……」
「もう、勝手な御託はいいか?」
桐原は言った。
「どうだ、ずばりだろう?」
館岡が怪しい光を帯びた目を向けてきた。自分を殺人犯人として告発すれば、おまえも一蓮托生《いちれんたくしよう》だぞ、その目はそう言っているようだった。
「松尾はどう思う?」
桐原は念のために松尾の感想を訊いてみた。
「細かな部分はともかく、大筋は館岡の言ったとおりじゃないのか?」
松尾が答えた。
「出鱈目《でたらめ》もいいところだよ」
「まだ、きみは……」
「じゃ、松尾に訊くが――」
桐原は声を高めて松尾を制した。「もしおれが市橋洋子を自殺に見せかけて殺したというんなら、彼女はどういうわけであんたらがキャンプしているところへ行ったんだ? あんたらの考えでは、おれが彼女を行かせたということだっただろう」
「ああ、タミヤカズアキという男がいるか、などと尋ねさせてな」
「だから、その理由を聞きたいんだよ」
桐原は館岡の推理の弱点を衝いた。「もしおれが行かせたのなら、なぜ、そんな面倒なことをする必要があったのか。館岡が言ったように、おれが市橋洋子を殺したのなら、彼女と一緒に多摩川へ行き、人気のない川原で殺害してから、入水自殺したように見せる偽装工作をすれば済んだはずだろう。それで、何一つ、不都合なことはないだろう。何も、タミヤカズアキという人がいないかなどと言ってキャンパーたちを尋ね回らせたり、あんたらのキャンプへ行かせる必要なんか、どこにもないじゃないか」
「それは、おれたちに市橋洋子を襲わせ、彼女が自殺してもおかしくない状況、つまり彼女の自殺の動機≠作ろうとしたんじゃないのか。自殺の動機がないということで警察が不審を覚え、捜査を開始しないように。ただ、死因がすぐに溺死とわかったからか、警察医は死体を精しく検《しら》べなかったらしく、彼女が暴行されていた事実は明らかにされなかったようだが」
「自殺の動機≠作ろうとした? あんたらが市橋洋子を襲うなんて、どうしておれにわかる? どうして、おれにそこまで予測できる?」
桐原は言い返した。
うむ……と松尾が返答に詰まり、
「その点はどう考えたんだ?」
と、館岡に質した。
「それは……」
と言ったきり、館岡は答えない。答えられないのだ。たぶん想像がついていながら。
「それが予測できなければ、館岡の考えは成り立たんだろう」
桐原は松尾に言った。
ま、そうだな、と松尾が認めた。
「要するに、館岡の言ったことはただの絵空事だったんだよ」
「そんなことはない!」
館岡が喚《わめ》いた。
「じゃ、あんたらが市橋洋子を襲うと予測できないのに、おれはどうしてそんな不必要で面倒なことをしなければならないんだ? おれが市橋洋子を殺したというんなら、その点をはっきりと説明してもらいたいな」
館岡が悔しげに口元を歪《ゆが》めた。怒りのこもった目を桐原に向けているが、言葉はない。
桐原には館岡たちの行動が予測できた。ほぼ百パーセントの確率で市橋洋子を襲うだろう、と。だから、松尾が言ったように、洋子の自殺の動機を作るため≠ノ、彼女を彼らがキャンプしているところへ行かせたのである。その方法は簡単だった。桐原は洋子にこう言ったのだ。至急連絡を取りたい田宮一昭という友人がいる。田宮は知り合いの家を泊まり歩いているらしく、現在どこにいるかわからないが、八月二十六日に青梅の多摩川でキャンプすることだけはわかっている。しかし、自分はどうしても外せないバイトがあるので会いに行けない。だから、自分の代わりにキャンプ場へ行って田宮を尋ね当て、「桐原に連絡するように」と伝えてほしい。ただし、田宮以外の人間の前では絶対にこの伝言を口にしないこと。もしこの頼みを聞いてくれたら、自分もそちらの頼みを聞き、栗本俊のために証言してもいい――。ところが、無能な警察と医師が検死したために、市橋洋子の身体に暴行された跡があることさえ明らかにされずに自殺と断定され、桐原の工作は結果として無用なものとなったのだった。
館岡は、桐原が洋子を多摩川へ行かせた方法を除いて、それらの事情を察知しているはずである。だが、気づいていても、絶対に明かせないだろう。
桐原は、勝ったと思った。
これで、館岡が須ノ崎殺しの容疑で逮捕されたとしても、自分は難局を乗り切れるだろう。いや、必ず乗り切って見せる。そして、しばらくの間、じっと身を低くして耐え、必ず復活して見せる――。
「話が済んだんなら、おれは帰る」
彼は言って、腰を上げた。
「桐原、ちょっと待ってくれ」
松尾が止めた。
「なんだ、まだ文句があるのか? もう話は終わったはずだろう」
桐原は松尾を睨んだ。
「まだ終わったわけじゃないが、その話はまたにしよう。それより、館岡のことだ。須ノ崎殺しの容疑で館岡を告発するのを明日の午後まで待てないか」
「どういう意味だ?」
「どうするか、館岡自身に判断させてやろうということさ」
「館岡に自首の機会を……」
「余計なお世話だ!」
館岡が怒鳴った。「おれは絶対に自首なんかしない。やってもいないのに」
「ああ言っているぞ」
桐原はちらっと館岡を見てから、皮肉な笑みを松尾に向けた。松尾の人の好さ……愚かさに呆《あき》れる思いで。
「しかし、一晩寝れば、考えが変わるかもしれない」
「考えなど変わらん!」
「どうだ、桐原、昼過ぎまで待ってやらないか」
松尾が館岡の言葉を無視して、桐原の目を見つめた。
桐原は、松尾に真相≠教えてやりたい誘惑に駆られたが、それを抑えて言った。
「しかし、松尾、館岡はあんた一人にずっと罪を被せてきた男なんだぞ。それなのに、どうしてそんなふうに考えるんだ。あんたは怒りも憎しみも感じないのか?」
「おれだって館岡が憎いし、怒りを感じるさ。だが、もしおれが酔って市橋洋子に襲いかからなかったら、館岡も須ノ崎も犯罪者にならなかったかもしれない、須ノ崎は館岡を脅迫せず、館岡は須ノ崎を殺さなかったかもしれない、そう考えると、館岡に自分で判断する機会ぐらい与えてやってもいいかと思うんだよ。もし一晩待っても考えが変わらないというんなら、そのときは知ったことじゃないが……」
――そこまで[#「そこまで」に傍点]お人好しなら、勝手にしろ!
桐原はそう思い、
「そうか、わかった。それなら、明日の午後一時まで待ってやろう」
と、答えた。館岡の逮捕が半日遅れたところで、たいした影響はないからだ。
「館岡、自首するのとしないのとでは量刑に大きな差が出ることをよく考えろよ」
松尾が館岡に言った。相手がなおも自分を騙しつづけているとも知らずに。
4
翌日、松尾は夕方五時まで待って、江北署の捜査本部に電話をかけた。もし館岡が自首しておらず、桐原も館岡を告発していなかったら、自分が昨夜の話を岸川にするつもりで。
すると、別の刑事と電話を代わった岸川が、いきなり言った。
「ああ、ちょうどよかった。あんたに電話して、またいろいろ聞こうと思っていたところだったんだ」
「何でしょう。新しいことがわかったんですか?」
松尾は尋ねた。自分に聞こうと思っていたというのは館岡の件だろうか、それとも別の件だろうか、と思いながら。
「あんた、テレビのニュースを見ていないの?」
岸川が意外そうに訊き返した。
ニュースと言うからには、自首したのか桐原が告発したのかはわからないが、とにかく館岡が捕まったらしい。
松尾は、自分が告発しなくて済んだので何となくほっとした気持ちで、答えた。
「うちはテレビがないんです」
「えっ、じゃ、本当に知らないの!」
岸川が、今度は意外さを通り越してびっくりしたような声を出した。
「館岡の件ですか?」
「館岡? 彼がどうかしたのかね?」
「違うんですか!」
「その館岡氏の件というのも何やら気になるが、それは後で聞くことにして……桐原氏が死んだんだよ」
「な、何ですって!」
まさに耳を疑うとはこのことだった。
――桐原が死んだ。
松尾は、本当に自分の耳がそう聞いたのかどうかを疑った。
「桐原政彦が死んだんだ」
岸川が繰り返した。
それによって、松尾の聞き違いでなかったことはわかったが、彼はまだ実感が湧かなかった。
「昨夜、自殺した。いや、たぶん自殺だと思われるが、まだそうだと断定されたわけではない」
岸川が言葉を継いだ。
桐原が死んだ。それだけでも驚きなのに、ただ死んだだけでなく、自殺した。
頭では理解したものの、松尾は信じられない思いだった。
「どういうことですか?」
と、彼は訊いた。
「どういうこともこういうこともない、そういうことだよ」
と、岸川が答えた。
「どこで……どこで、桐原は死んだんですか?」
「自宅だ。自宅の浴槽に沈んでいるのを奥さんが見つけ、救急車を呼んだが、救急隊員が駆けつけたときにはすでに息がなかった。医師に処方してもらっていた睡眠薬を多量に飲み、風呂に入ったらしい。それで眠り込み、たぶん苦しまずに死んだようだ」
岸川の話を聞きながら、松尾は、浴槽に沈んでいる夫を見つけたときの郁美を想像した。彼女の驚きと衝撃はいかばかりのものであったか。半狂乱になって泣き叫んでいる郁美の姿が目に浮かぶようだった。
と、そのとき、松尾の内に、
――桐原は本当に自殺したのだろうか。
という疑念が萌《きざ》した。彼は本当に自ら死を選んだのだろうか。
昨夜、勝ち誇ったような顔をして、ひとり先にホテルの部屋を出て行った桐原。あの男が、あれから間もなく自殺した。突然だからという理由だけではない。桐原という男を知っているだけに信じられない。
『政道―わが半生の記』に載せられた市橋洋子の手記『俊とともに』と、水谷の文章によって、桐原が窮地に立たされるのは間違いない。館岡が捕まって、二十三年前の真相が明らかになれば、さらに大きな打撃を受けるだろう。有名人であるだけに、世間の批判、非難の声は強く、桐原本人はもとより妻と子供も外を歩けないほどになるかもしれない。
とはいえ、桐原は須ノ崎を殺した犯人ではなかったのだから、刑事的な罪に問われることはない。二十三年前、市橋洋子を殺したというのも、今のところ館岡の推理にすぎない。証拠はない。たとえ立証されたところで、すでに時効が成立している。
としたら、桐原は己れの手で自らの生を絶つだろうか。普通の神経の人間なら、予想される苦難に耐えられずに、また家族の辛《つら》さを少しでも軽減するために、死を選んでも不思議はないが、桐原という男はもっと図太く、強いような気がする。そして、これまでの彼の生き方から判断すると、持ち前の不屈の闘志によって復活を目差し、再び死に物狂いの努力を始めるような気がする。
――だが。
と、松尾は思う。もし自殺でなかったとしたら、桐原はどうして死んだのか。
死ぬ気もなしに、多量の睡眠薬を飲んで風呂に入るわけがないから、事故のセンは考えられない。
――となると……。
松尾は唾《つば》を呑《の》み込んだ。
残る可能性は一つ。
――しかし、誰が、何のために?
その答えも一つしかなかった。
松尾は、口がからからに渇き、胸が苦しくなった。
――まさか!
と思う。いくらなんでもそんなことはありえない。が、二人の子供を護《まも》れるのはあなたしかいない、という松尾の言葉が暗示になって……。いや、そんなことはない。ありえない。あるわけがない。
松尾がそれ以上想像を進めるのに耐えられなくなったとき、
「もしもし、もしもし……」
という岸川の声が聞こえてきた。
「は、はい」
松尾は慌てて答えた。
「何度も呼んでいるのに、黙り込んでしまって……聞いているのかね?」
「え、ええ、聞いています」
「それならいいが。で、あんたの言いかけた館岡氏の件だけど……」
岸川が話を変えた。
が、松尾の頭はまだまったく別のところにあった。
彼は、自分の想像が外れていることを祈った。同時に、今後何があろうと、この疑惑だけ[#「この疑惑だけ」に傍点]は誰にも言うまい、と心に誓った。
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終 章[#「終 章」はゴシック体] 二〇〇一年
松尾は、東京高等裁判所と東京地方裁判所が入っている合同庁舎を出た。
足を止めて空を見上げ、二度、三度と深呼吸した。
かつて味わったことのない深い安堵《あんど》と解放感……。
――今、自分がここに立っているのは間違いのない現実である。
そう、彼は胸に刻みつけてから、JR有楽町駅へ向かってゆっくりと歩き出した。
雲間から薄日が射していたが、ビルの谷間を吹く風は冷たかった。
二十一世紀が明け、今日で十八日が経過した。といって、二十世紀と違った世界が現出したわけではない。便宜的に何世紀だ、何年だと区切っても、時間の流れは連続しているし、世の中はさして変わらない。
世の中を突然大きく変えるのは、天変地異や戦争であろうか。
天変地異や戦争は個人の運命も大きく狂わせるが、個人の生はそうした大事件が起きなくても転変する。それぞれの個人にとっては、自分と身内の生・老・病・死が最大の問題かもしれないし、金、仕事、異性、友人、名誉、権力……といったものによっても、突然、幸福になったり不幸になったりする。
松尾は今、これまでの時間の流れの中にいながら、意識、気持ちはその流れから切り離された場所にいた。足を置いて歩いているアスファルトの地面も、吸っている空気も、周りの景色も、みな、朝裁判所へ向かったときと同じはずなのに、彼には違った地面や空気のように感じられ、違った景色のように見えた。もしかしたら、これは一九七七年八月二十六日以前に足を置いていた大地の感覚であり、吸っていた空気のにおいであり、目にしていた景色の色なのかもしれないが、あまりにも長い時間が経ち過ぎているため、はっきりしたことは彼にもわからない。
今日、松尾は、東京地方裁判所第五二×号法廷で開かれた館岡久一郎の「殺人および死体遺棄事件」の第二回公判に検察側の証人として出廷した。
去年の九月三十日、松尾は、須ノ崎殺しについて自分の知っていることを岸川に話そうと電話したが、桐原が死んだと聞き、考えを変えた。松尾が初めに口にした館岡の件≠ニはどういうことかと岸川にしつこく追及されたが、それを何とか躱《かわ》し、再度、館岡に自首を勧めた。二十三年間も自分を騙《だま》し、自分一人に罪を被せてきた館岡には怒りを感じたが、もし自分の行為が彼を犯罪者にしたのだとしたら……というこだわりがあったからだ。松尾の説得の結果、翌日、館岡は警察へ出頭し、須ノ崎殺しを自供した。桐原が想像したように、館岡は、須ノ崎の失踪《しつそう》直後から、市橋洋子を暴行した件などの旧悪をタネに須ノ崎に脅され、相手の指定した口座に時々金を振り込んでいた。といって、それだけだったら殺す必要はなかったが、週刊誌に載ったQの談話を見た須ノ崎が、桐原からも金を脅し取ろうとし始めた。そのため、放置したら危険だと考え、桐原に容疑が向く工作をしたうえで殺害したのだという。
被告人が罪を認めているので、裁判の焦点は量刑の軽重に絞られた。となると、犯行の動機がもっとも大きな問題になり、それに密接に関係している二十三年前(今年から数えると二十四年前)の事件の真相も小さからぬ意味を持ってくる。
それについて、検事は、
〈被告人らが市橋洋子を暴行し、自殺に追い込んだ〉
と述べ、一方、弁護人は、
〈市橋洋子は桐原が計画的に殺害したのであって、被告人らが洋子を暴行したのも、桐原が彼女を被告人らのキャンプに行くように仕向け、彼女が自殺しても怪しまれないような動機を作ろうとした結果だ〉
と主張した。
市橋洋子だけでなく、桐原もすでに死亡しているため、いずれの論も立証は不可能である。だから、どちらの主張がより矛盾が少なく、ありえた可能性[#「ありえた可能性」に傍点]が高いか、を示す以外になかった。
その点、弁護人の主張は、松尾が桐原、館岡とホテルで話したときに館岡が述べた推理そのものであり、大きな疑問が存在した。桐原が市橋洋子を殺害したのだとしたら、彼はなぜ洋子を被告人たちのキャンプへ行かせる必要があったのか、もし被告人たちに市橋洋子を暴行させ、彼女の自殺の動機≠作ろうとしたのだとしたら、桐原にどうして被告人たちの行動を予測できたのか、という。
検事は今日、松尾を証人として呼び、彼に対する尋問を通してその疑問を浮き彫りにしようとはかった。そして、桐原には被告人たちの行動を予測するのは不可能だった≠ニほぼ明らかにするのに成功した。
それに対し、反対尋問に立った弁護人は、松尾から有効な反証を引き出すことができなかった。
今日の攻防はそれで終わったかに見えた。松尾だけでなく、たぶん誰の目にも。
ところが、その後、被告人自らが裁判長の許可を得て証人尋問に立ち、裁判は意外な展開を見せたのだった。
館岡は、松尾と目を合わせるや、
――松尾、これまで、永い間きみを騙し、苦しめてきてすまなかった。
と頭を下げ、市橋洋子を強姦《ごうかん》したのは自分と須ノ崎の二人だけで、松尾は関与していない、松尾は酒に酔って正体をなくしていたが、洋子の身体には指一本触れていない≠ニ述べたのである。
その後、館岡は、松尾に対する尋問のかたちを取り、松尾の口を借りて事実を確認しつつ話を進めた。これまで隠しつづけてきた事実を告白した。
それによると――
桐原には館岡らの行動が予測できた、つまり、市橋洋子を館岡らのキャンプに行かせれば、館岡と須ノ崎が非常に高い確率で洋子を襲うだろうことが予測できた、というのだった。というのは、桐原は、館岡と須ノ崎が女性を襲ってクロロホルムで眠らせ、強姦しようとしているのに気づいていたからだという。桐原が館岡たちの企みに気づいていたという証拠はないが、そう考えられる状況があった。須ノ崎は自分で言っておきながら忘れてしまっていたが、桐原をキャンプに誘うとき、来れば女とやれる≠ニ話していた。松尾に言えば止められるだろうが、桐原なら仲間に加わると考えて。そのとき、クロロホルムという具体的な名前までは口にしなかったものの、館岡の用意した薬があるから確実だし安全だ≠ニいった程度は仄《ほの》めかしたらしい。それだけ聞けば、頭の良い桐原が館岡らの企みを想像し、行動を予測するのは難しいことではなかったはずである。また、そう考える以外に、桐原と関わりのあった市橋洋子――彼女の手記によれば桐原にとって邪魔者以外ではなくなった市橋洋子――が、やはり桐原と関わりのあった館岡たちのキャンプに現われ、桐原の望むように死んだ、という事実の説明はできない。世の中には偶然の符合もあるが、これだけの偶然の重なりはおよそ起こりえない。
では、桐原が実際にどうしたかというと、彼は、たとえ自分の予測が外れたとしても危険はないと判断したうえで、市橋洋子を館岡たちのキャンプへ遣《や》った。その場合、市橋洋子が館岡たちの前で「桐原」の名を出したらまずいし、館岡たちのテントだけ訪ねるのも不自然である。そこで、彼は、洋子がタミヤカズアキという架空の人間を尋ね回ってから館岡たちのもとへ行くように仕向けた。どのような口実を設けて洋子を騙したのかまではわからないが、恋人の無実を明らかにしたい一心だった洋子は、桐原の罠《わな》に気づかなかったのだろう。
事態はまさに桐原の読みどおりに進んだ。市橋洋子は館岡たちにクロロホルムを嗅《か》がされて暴行され、半|覚醒《かくせい》の状態で川原に置き去りにされた。それを見て、桐原は、洋子を川に浸けて溺死《できし》させ、キュロットスカートなどをはかせて着衣を整えた後、再び川に運び入れ、流した。そして、一つ上流のキャンプ場へ行き、女が入水自殺したように見せる偽装工作を行なった。
もし、洋子の遺体が精細に検《しら》べられていれば、血液からクロロホルムが検出されたはずである。が、たとえそうなったとしても、強姦された洋子はクロロホルムの作用が切れてから入水自殺したと判断されただろうし、桐原に危険は及ばない。
館岡の告白は、証人尋問としては変則だったが、検事も異議を唱えなかった。
館岡は、話が済むと、もう一度松尾に深々と頭を下げてから、「尋問を終わります」と裁判長に向かって言った。
松尾は、日比谷公園の木立の中の小道を通り、噴水と花壇のある広場へ出た。
冬枯れの公園はどことなく寒々としていたが、昼休みのせいか、行き交う人々の他にも人の姿が結構あった。横にカップラーメンを置いたベンチでコンビニ弁当を開いているネクタイ、背広姿の三十男、賑《にぎ》やかにお喋《しやべ》りしながら、爪を長く伸ばした指でおにぎりやサンドイッチをつまんでいる若い女たち、音楽を聴いているのか、それとも英会話の勉強でもしているのか、イヤホーンを付けて食後の散歩をしているらしい中年男と……。
そうした人たちを見るともなく見やりながら、松尾は噴水池を過ぎ、小音楽堂の横を抜けて歩いて行った。
彼の頭の中には、この二十三年五ヵ月という歳月は何だったのか、という思いが繰り返し繰り返し浮かんできた。自分は好《い》い加減な男だが、それでも、一人の女性を強姦して死に追いやったという傷≠ゥら自由になることは片時もなかった。〈一生、女性の肌に触れない〉といった戒めは守れなかったものの、意識して人並な幸福から、日の当たる場所から遠ざかって生きてきた。どこにいても誰といても自然に俯《うつむ》きがちになり、胸を張って顔を上げることはなかったように思う。
そう考えると、館岡と須ノ崎をなんて酷《ひど》い奴らなんだ≠ニ恨みたくなる。自分たちのやったことを松尾に押しつけただけでなく、ずっと被害者面してきた彼らを。だが、一方は他方に殺され、殺したほうの館岡は捕えられ、拘置所に繋《つな》がれている。そして、この三ヵ月半の間にどのような葛藤《かつとう》、変化があったのか知らないが、彼は今日、自分に不利になるのもかまわずに真相を告白し、松尾に詫《わ》びた。深々と頭を下げたそのときの窶《やつ》れた館岡の姿を思い浮かべると、松尾はすべて許せそうな気がしないでもない。
ただ、自分は許せても、市橋洋子から見れば、絶対に許せない。館岡と須ノ崎を許すわけにはいかない。桐原と同様に。
それにしても、館岡の告白は驚きだった。彼が病院や研究室から時々麻薬の類《たぐ》いを盗み出し、須ノ崎の部屋で使用しているらしいのは気づいていた。が、クロロホルムを使ったああした企みをしていようとは思いもしなかった。同じ教室で机を並べていた館岡と須ノ崎が、あれほど凶悪な行為を働くとは……働けるとは、想像できなかった。特に、松尾といるときなどは人が好いとしか思えなかった須ノ崎が……。
松尾は心字池の畔《ほとり》を回り、公園の外へ出た。
日比谷通りの交差点で信号が変わるのを待ちながら、自分はこれからどうやって生きたらいいのだろうか、と考える。傷≠ゥら自由になった今、何でも好きなことをしていいのである。夢を追っても、人並な幸福を求めてもいいのだ。しかし、そう思っても、あまりにも突然のことで、何をしたらいいのか、何をやりたいのか、思い浮かばなかった。
といって、松尾は戸惑っているわけではない。館岡によって真実が明かされたときも、驚いたが、戸惑いはなかった。ああ、そういうことだったのか≠ニ、その事実は自分でも不思議に思えるほど自然にすとんと心に落ち、前からずっとそこにあったようにおさまった。
ただ、わからないのである。これからどのように生きたらいいのか。
信号が青に変わったので、松尾は十人ほどの男女に交じって広い通りを渡った。
べつに焦る必要はない、とも思う。ゆっくり考えればいい。時間はたっぷりあるのだから。
それなら、まず、どこかへ旅にでも出ようか。二十数年ぶりに。三津田に前借りして、思い切って外国へ行ってもいい……。
外国の連想から、松尾の脳裏に郁美の顔が浮かんだ。
去年の暮、郁美は二人の子供とともにイギリスへ行った。といっても、旅行ではない。子供たちをロンドンの学校に入れ、当分日本へ帰ってくるつもりはないらしい。
桐原の死んだ後、警察は自殺と他殺の両面から一応調べたようだ。が、他殺を疑わせるものは発見できず、桐原には自殺してもおかしくない動機がある≠ニの判断から、自殺と断定されたのだった。
松尾の中には、桐原という男が自分で死ぬだろうかという疑念がまだある。しかし、それは誰にも話していないし、これからも話すつもりはない。
ガードの手前で、横断歩道を左へ渡った。
有楽町駅が見えてきた。
――中野で降りて、三恵出版社に寄ってみようか。
という思いが松尾の内に生まれた。たった今まで、駅の近くで食事をしたら、真っ直ぐ青梅まで帰るつもりでいたのに。
『政道―わが半生の記』の原稿を差し替えた水谷は、三津田と松尾に迷惑をかけたことを詫びた後、会社に与えた損害を弁償するとともに責任を取って辞職した。そのため、三恵出版社は現在、三津田と桑山由季の二人だけ。正社員としてうちへ来ないか、と松尾は三津田に誘われていた。
松尾は生活を変えるつもりはなかった。嘱託のゴーストライターのままでいい、と考えていた。だから、返事は急がないから……と三津田に言われていたものの、いくら考えても答えは変わらない、と伝えてあった。
が、いま、専任の編集者になるのも悪くないかもしれないな、とふと思ったのである。
平均寿命まで生きるとしたら、まだ三十年以上ある。当然ながら、三十年は二十三年よりも長い。そして、これからは夢を追ってもいいのだ。
――そうだ。
と、松尾は思った。もし……もし書きたいものが出てきたら、そして自分に書く気が起きたら、また小説を書いてもいい。もう一度、自分の力を試してみてもいい。どれだけのものが書けるかはわからないが、たとえうまくゆかなかったとしても、自分に言い訳する必要だけはない。
彼は、顔を起こして歩いて行った。自分の足の下に確かに固い大地があるのを感じながら。
[#地付き]――完――
角川文庫『タイム』平成14年5月25日初版発行