『悪魔の皇子 アストロッド・サーガ』  深草 小夜子  角川ビーンズ文庫
目次
第1章 暗黒の覇道
第2章 空の誓約
登場人物
アストロッド・・・21歳。
シュロウ皇国の第2皇女であったマーライヤと、闇の神族との間に生まれた子供で、
『悪魔の皇子』と呼ばれる。
卑屈で品性下劣、自堕落な上に、闇の眷属としての能力もほぼ皆無であり、そのために周囲に
虐げられて育つ。
自分とは正反対の異母兄シェラバッハを憎んでいる。
シェラバッハ・・・26歳。
シュロウ皇国の第1皇女であったグィナと闇の神族との間に生まれ、『悪魔の皇子』と呼ばれる。
異母弟・アストロッドの他に3人の異父兄(父親は普通の人間)を持つが、兄を退け、祖父である
現王陛下から王位を簒奪する。
威厳と英知、優れた能力を持つ美青年。
ナシエラ・・・17歳。
ルーディルン国の王女。
シュロウによるルーディルンの侵攻を防ぐための人身御供のような形で、シェラバッハに嫁いできた。
身も心も清らかで美しく、芯の強さもあわせ持つ。
だがその清らかさが、清らかさとは正反対のアストロッドの苛立ちを誘ってしまう。
ヴィロッサ・・・22歳。
ルーディルンの騎士で、ナシエラとは、周囲も知るところの恋人同士だった。
ナシエラが嫁ぎ、離ればなれになってしまったが、今でもお互いに想いあっている。
ナシエラ同様、美しくてまっすぐな心の持ち主。
シュロウの侵攻からルーディルンを守ろうとするが・・・。
第1章 暗黒の覇道
(1)
陽気な楽の音《ね》に合わせて、肌も露わな3人の踊り子が優雅に回る。
巧みな足踏み、指先まで注意深く美しい曲線に反り返り、目にあやな薄絹を誘惑に満ちて操る。
踊りの名手に加えて、3人が3人とも美しい。
寝椅子に水鳥の羽毛のクッションを並べてくつろぐ部屋の主人は欠伸を噛み殺し、自堕落に水煙草の管を吸いながら、
己に捧げられる舞踏を観賞していた。
主人の脇には、2人の愛妾《あいしょう》が侍り、くすくすと笑いながら主人に何事か耳打ちする。
1人は豪華な金髪と豊富な肉体的美女、今1人は切れ長の漆黒の瞳をした妖艶なる美女である。
どちらうつくもたいそう美しく、艶やかだった。
2人の愛妾にしどけなく身を擦り寄せられている主人は、まだ十分に若い青年だ。
不摂生で濁った瞳は紅玉《ルビー》のごとく赤く、貴族の慣習である長髪を短く切り捨てた毛髪は艶のない白髪だった。
頬はこけ、目の下の隈濃い、生来より病弱な質《たち》を露わとした風貌をしている。
その青白い細面は整っていたが、魅力的とは言い難かった。
彼の卑屈で品性下劣な精神が薄い皮膚を通して表に滲みだしていたからだろう。
――彼があざとく保身に長けた腰抜けで、そのくせ他者への侮蔑に満ちた傲慢な男であることは、周囲の者たちが
口を極めて罵る通りである。
この白い青年は、シュロウ皇国の狂王バルザンの皇孫の1人、アストロッド皇子であった。
皇子は痩せた身体に豪奢な刺繍のほどこされた濃紅色の長衣を纏い、重たげな装飾品で飾り立てていたが、
それがかえって彼を貧相に見せる始末だった。
「皇子様、――あーん」
金髪の愛妾がアストロッド皇子に指で摘んだ砂糖菓子を与える。
皇子は陰気に含み笑って、唇を寄せてきた黒い瞳の愛妾の唇を望むままに吸った。
「きゃははは、皇子様・・・」
「ずるぅい。あたくしも可愛がってくださいませ、皇子様」
「そう焦るな。身が持たぬわ」
アストラッド皇子は己の美しい愛妾たちを双の腕に抱き寄せた。
「どれ、慰みに夜伽話でもしてやるゆえ、少しは大人しくしておれ」
「まぁ、それはあたくしたちの仕事ですわよ、皇子様」
「なんの。わたしもおまえたちに負けず劣らず、良い語り部よ」
アストロッドは興を得て嗤う。
愛妾たちは皇子の胸に頭を寄りかからせた。
「お聞かせくださいませ。お伽噺に、美しい恋の物語、遠い異国の戦いのお話、皇子様はどのようなお話を
してくださいますの?」
「さる北の国の狂った王と道化師が織りなす、滑稽な悲劇の話だ」
アストロッドは暗い声で言った。
愛妾たちはお互いの目を見交わす。
この皇子が酔うと始まる、繰り言のような、いつもの昔語りだった。
「まぁ、それは面白そう」
金髪の愛妾はそつなく相槌を打った。
黒い瞳の愛妾がすかさず皇子の杯に酒を注ぐ。
アストロッドは杯を手の中で回して玩《もてあそ》んだ。
「始まりは3つの昔、海と数多《あまた》の島から成るこの世の隅々まで【魔の国】の2つの名で呼ばれ、恐れられている一国があった。時は狂王の御世。皇子バルザンは人並み外れて高齢で、野心あり、猜疑心強く、人もこの世もすべてを
憎み尽くす老人よ」
アストロッドの手の中で回る杯が、彼の中指に嵌められた金の指輪に当たって、カチンと音を立てている。
「若くして即位したバルザンは、長年、皇国の老獪な古臣たちの格好の傀儡《かいらい》だったという。王座に
置物のように座して、すっかり年老いた皇王に、ある時、旅の呪い師ドゥランが取り入った。今でこそ王の1の側近として権勢を振るっているドゥラン殿だが、当時は名うてのいんちき占い師として評判な方であられてな。巧みな話術と
もっともらしい神秘術の類はお手の物、たちまち老王陛下を夢中にさせたという寸法よ。特に皇王が耽溺したのは、闇の
暗黒魔道、降魔術だ。彼は光の神々の神殿を唾棄して破壊し、闇の神々を称える神殿を増設しては数多の生贄を捧げると、古書を紐解いて降魔術の試行錯誤を繰り返した。・・・まったく、正気の沙汰ではないな」
「そのようなお話はお止めくださいまし。誰が耳をそばだてているとも限りませんわ」
「まぁ、黙って聞け。――考えてみれば、ドゥランのおどろおどろしい嘘八百の詐術は、皇王を血迷わせたのではなく、
彼がもともと秘めていた鬱積した欲望、野望にぴったり合致したに過ぎないというというのが正しいのだろうな。
バルザンは己を長年蔑《ないがし》ろにしてきた臣下や国自体を呪っていた。それは、その後の彼の常軌を逸した制裁の数々が指し示している。皇王の愚行を諫める臣下や、少しでもバルザンの非を唱えた者どもはことごとく処刑されるか、
もしくは神に捧げる生贄とされた。老人の妄執とは実に恐ろしいものではないか。不遇の半生に陰惨な復讐を果たし、
皇国全土を震え上がらせる恐怖政治を敷いてもなお、バルザンの野望は尽きることがなかったのだからな。・・・
老いぼれは多島諸国すべてを制圧下に治め、この世の支配者となることを望んだのだ」
アストロッドはとろりとした目で、ゆらゆらと揺れ動く杯の水面を見つめていた。
「皇子様、お休みあそばしてはいかがです?」
黒髪の愛妾が甘い声で勧めるのを耳にしなかったように、皇子は汗ばんだ手のひらの体温で温くなった酒を軽く啜る。
「狂王は闇の神族の召喚を試みた。――初めは偽りだったはずだ。元来光と闇の神々とその眷属は世界の果て
【氷の大陸】で永劫に争闘を繰り返す定めにあるという。人の呼び声に答えるはずもない。だが王の常軌を逸した憎悪か、あまりに数多の人血か・・・。王は自らの神と相見えた。召喚陣の中に黒い濃霧が立ち昇のを見たと言う。霧の中で
朧《おぼろ》に揺らめくいびつな巨体の影は、闇の神族の1人であると血も凍るような声で名のった」
アストロッドは惰性で話し続けているというように、退屈そうな欠伸をした。
愛妾たちはすっかり話しに飽きて、皇子の欠伸に釣られないようにぎゅっと紅唇を噛み締める。
「バルザンは顕れた神の力を手にするべく、月が一巡する毎に生贄を捧げる代価を払って、自らの2人の娘――世継ぎの
皇女グィナとその妹姫マーライヤを差し出したのだそうだ。グィナ皇女はすでにその夫との間に3人の皇子があったにも
かかわらず、闇の神に捧げられた。王は闇の神の御子を望んだのよ。人の血を継ぐがゆえに神々の世界を越えてこの世に
呼び込まれ、闇の神族の力を持って生まれてくるであろう、野望達成のための覇軍の御子をな。かくして、2人の皇女は
それぞれ闇の神の子を孕んだ。グィナ皇女は2年後、マーライヤ皇女は7年後、異常な出産の果てに2人の皇子をこの世に産み落とした。――狂王バルザンの悪業の中でも最も忌まれし産物、【悪魔の皇子】の誕生だ」
「皇子様ったら、ひどいお戯れ」
アストロッドが芝居がかって話を締めくくると、愛妾たちは乾いた艶笑を上げた。
「つまらない虚言ですわ。口かさがない者どもの陰口など捨て置かれませ」
「そうですとも。皇子様の人である証は、あたくしたたいがよぅく知っていますもの。・・・ね?」
愛妾たちは皇子を宥め、彼の口元に嘲笑に似た歪んだ笑みが浮かぶのを見届けて、ほっと息をついた。
アストロッドの手が金髪の愛妾の細腰をゆったりと撫で回す。
「おまえたちも皇太孫シェラバッハがルーディルンの皇女を娶るという話は聞いていたような。連日、皇宮は王女の
輿入れを迎える準備でおおわらわだ。祝いで国中が浮き立ち、内外の美しい品々が新しい女主人のために
集められているぞ。どうだ、羨ましかろう?」
「滅相もない」
「さもあろうよ。多島諸国の中でもとりわけ古い王国の高貴な王女とお前たちでは、泥と金ほども価値が
違おうからな。――だが、どちらが幸福かは考え物だぞ。あやつは紛れもなく、怪物か悪魔よ・・・。おまえたちも
わたし程度で我慢しているのが、賢い選択という者だ」
「あら、心にもないことをおっしゃいますこと」
「しかしわたしがおまえたち程度の女で我慢しているかどうかは、保証の限りではないぞ」
「あぁん、嫌な皇子様。もう知りません」
愛妾たちは媚びを含んだ流し目で彼を睨んだ。
アストロッドは声を上げて笑う。
女たちを痩せた腕に引き寄せ、淫らに睦み合い始めた。
甲高い嬌笑。
噎《む》せ返るような白粉と体臭に混じって鼻につく香の匂い。
その淫靡で下卑た宴の場に、入室の許可ももどかしく、主である皇子の好みそのままに仰々しい衣装を着た側仕えの者が
走り込んできた。
近習《きんじゅ》はただちに皇子の足下に跪く。
「殿下、一大事でございます」
楽しみを邪魔されて、苦々しく眉を顰めた若い皇子が近習を睨む。
「つまらん用であれば降格してくれる。・・・何だ?」
「恐れながら・・・」
近習は顔を上げる。
その顔は上気し、息は静まっていなかった。
「殿下の異母兄君《あに》であらせられる皇太孫殿下がご即位なさいました」
「なにっ!?」
アストロッド皇子は驚愕の叫びを上げた。
彼ははだけた衣服もそのままに、組み伏せた女の上から勢いよく身を起こす。
「げ、現王陛下はどうなされたっ!?即位の話など聞いたことも・・・」
「陛下はご乱心なさり、政《まつりごと》をなささるには支障がおありとか。皇太孫殿下は長老方に諮って、陛下の
ご即位をお決めになりました。陛下はご側近ドゥラン様と北の塔にご隠居なさいます」
アストロッドの青白い面から血の気が引く。
彼は土気色の額から大粒の脂汗を流し、痩せた裸の胸を掴み抑えて前屈みになった。
「な・・・なんということこだ・・・っ。遂にこの日が来たか。――シェラバッハめっ!」
歯軋りせんばかりに唸って、アストロッドは血走った目をさ迷わせる。
「いつだっ!?・・・奴が行動を起こしたしたのは、いつなのだっ!?」
「数刻ばかり前にございます。皇太孫殿下の身辺に潜り込ませた間者《もの》の報告によりますれば、即位の報はまだ
発表されてはおりませんが、すでに玉座の間にお入りになった、と」
アストロッドは近習の答えに更に顔色をなくした。
病的に震えてがちがちと歯列を鳴らす彼の顔には、隠しようもない恐怖が現れる。
「に、逃げねば。・・・早く、今すぐにっ」
彼は恐怖に萎えた足を叱咤して、立ち上がろうと苦心する。
2人の愛妾が皇子の腕に艶めかしく擦り寄った。
「どうなさいましたの、皇子様ぁ」
「おめでたいことじゃございませんか。それよりもっと楽しみましょうよ」
「えぇい、放せ!」
アストロッドは悲鳴じみて喚くと、女たちを払いのけた。
彼は彼女たちを蹴散らさんばかりにして立ち上がる。
「なにがめでたい!奴が王位に即《つ》けば、このわたしに先はないのだぞ!!――あぁ、早く逃げねば殺される!
何てことだ・・・、何でことだっ」
彼は地団太踏み、女たちを忌々しく睨み下ろした。
「奴が来たなら、何とかして留めよ。私の後を追わせるな。私は眠ったとでも言って、丁重にもてなして酔いつぶせ。
足止めするのだ!・・・よいなっ!?」
「皇子様?」
アストロッドはせかせかと命じると、脱兎のごとく逃げ出しにかかった。
靴音も荒く、振り向きもせず走り去る皇子を見送った愛妾たちは、鼻先で笑って肩を竦めた。
アストロッド皇子が逃げ出して本の半刻もたたぬ内に、兵士たちが傍若無人に皇子の居館に押し入ってきた。
灰色の鎧を纏った屈強な兵士たちは皇宮付きの正規兵である。
彼らはすでに剣を抜刀し、押し止めようとする館の者を退けて、皇子の楽しみの場であった宴の席に踏み込んだ。
無骨な闖入者に女の悲鳴が上がる。
兵たちは鋼の具足で調度品や杯を蹴散らし、広間の出口を塞いだ。
「な、何をなさるんです。ここはアストロッド皇子のお屋敷ですよ!」
アストロッドの金髪の愛妾が上擦る声で叫んだ。
兵たちは傲然と女を見返す。
「アストロッド皇子に謀反の嫌疑あり。我々は、皇子の身柄を拘束し、屋敷を調査する任を受けて参ったのだ!」
「む・・・謀反!?」
「まさか、そのような――」
「嘘ではない。皇太孫殿下・・・いや、今やご即位なされた現王陛下を、恐れ多くも他の皇子たちと手を組み、
亡き者としようとした嫌疑である。すでに3人の皇子にはご裁可が下された。残るはアストロッド皇子のみ!」
「ひいっ」
黒瞳《こくとう》の愛妾がその美貌を歪めて、呻いた。
彼女たちは沈みかかろうとする船に身を預けていたことを知った。
灰色の鎧の正規兵たちは部屋中の暗がりを猟犬のように嗅ぎ回った。
しかし、とうに皇子の姿はここにはない。
彼らは一足遅かったことに気づいて歯軋りした。
女たちは自らのこの後を憂いて上手く立ち回ることを考え、兵たちは手柄を立てようと焦りを覚える。
それぞれの思惑入り乱れる場に、男の声が深く、冷ややかに響いた。
「女、皇子はどこだ?」
その声はまさに凍てつくほどに無慈悲な氷雪の声。
淡々として、だが恐れに人を震え上がらせる剣呑さを秘めている。
「我が弟は?」
そこにあったのは、皇位に即位したばかりの皇太孫であった。
グィナ皇女の第4皇子でありながら闇の神を父に持つがゆえに生まれながらに皇位継承者たることを定められた最も
高貴な皇子――アストロッド皇子と父を同じくするただ1人の異母兄、シェラバッハ皇子その人だったのである。
しかしシュラバッハ皇子はアストロッド皇子に少しも似たところがなかった。
小物のアストロッド皇子に対して、シェラバッハ皇子は人の想像しうる限りの美徳を備えた魅力的な人物だった。
比類なく美々しい男性であり、王者の威厳と英知を生まれながらに持っていた。
――シェラバッハ皇子は称えて、冬空にかかる爪月のごとく、と吟遊詩人は歌う。
美貌で知られる皇太孫の姿にアストロッド皇子の愛妾たちは呆然と見惚れたが、はっと姿を正してひれ伏した。
「皇子様、おいでとは・・・。ご無礼お許しくださいませ」
愛妾たちは許しも得ぬ内に面を上げて、皇子をうっとりと媚びを含んで見つめた。
どうせ仕えるならば、先の見通しがよく、美男なシェラバッハ皇子の方がいいに決まっている。
愛妾たちは難破船を見捨て新しい船に乗り換える気安さで、シェラバッハ皇子に取り入ろうと擦り寄り、ことさら
自慢の美貌や肉体を見せつける。
だが皇子は眉1つ動かさず、侮蔑の眼差しで女たちを見下ろした。
「・・・アストロッドはどこだ。庇い立ては赦さぬ。答えよ」
少しの温かみもない声で彼は言った。
愛妾たちは互いの顔を見交わして、艶やかに微笑した。
「ほほ。殿下は御酒をお過ごしになられて、寝室にお下がりになられましたの」
「けれど、せっかくお越しいただいたのですもの。なにやら大事な御用がおありな様子。無教養なあたくしたちでは
わかりかねますけれど、殿下がお目覚めになるまでこのままお待ちくださいませ。・・・それまであたくしたちが
お相手をさせていただきますわ、皇子様・・・」
「主からいつも、お客人には礼儀正しく振る舞うように言い付けられております。――皇子様は何がお好き?果物?
御酒?・・・。それとも?」
愛妾たちは豊満な肉体を身悶えさせて、意味ありげな目配せをする。
シェラバッハが薄く笑った。
薄い唇を微かに歪ませるような、冷笑だった。
「ほう・・・」
シェラバッハは大股に愛妾たちに近付いて、足元に彼女らを見下ろした。
愛妾たちは自らの色香に満足して、皇子の脚に身を寄せる。
だがシェラバッハは女たちを抱き寄せる代わりに、剣帯に吊した刀剣の柄に手を掛けた。
彼は静かに剣を抜き払い、その冴え冴えと煌めく刀身の切っ先を女たちに向けた。
女たちはヒィッと声を上げて、皇子から飛び退いた。
「アストロッドはどこにいる?」
「で・・・ですから、アストロッド様は寝所にてお休みに・・・」
女が言い終わらぬ内に、シェラバッハの鋭い刃が一閃した。
ぎゃあああっと凄まじい絶叫を上げて、黒瞳の愛妾は耳を押さえて七転八倒した。
彼女が転げ回る後には夥しい血の跡が残された。
息子の足元に、豪華な耳飾りをつけたままの小さな耳が切り離されて落ちている。
「ひぃっ、ひぃっ!ひぃぃぃっ!!」
引き攣った声を上げて尻で後ずさる金髪の愛妾に、血塗れた剣が突き付けられる。
「今一度聞こう。――我が弟は、どこだ?」
陰惨な眼をした残虐な皇子が問うた。
金髪の愛妾は恐怖にぶるぶると震え、広間の入り口を指し示した。
「逃げたよ。もうとっくに逃げちまったよぉっ!・・・行き先は知らない。本当に知らない。信じとくれよぉぉっ」
女はあっけなく、主を裏切って叫んだ。
シェラバッハは冷徹な眼を笑みに細める。
「やはり逃げたか、鼻の利く奴よ」
彼はさも可笑しそうに喉を震わせた笑った。
その足元に額づき、アストロッド皇子の愛妾は身を捩ってこいねがう。
「本当のことを言ったんだから、助けておくれよ!あたしはあんな奴と何の関係もないんだ」
愛妾は悲鳴を上げ続けている同僚を横目で見て、上擦った声で言い募る。
「あの男はいつも、あんたの悪口ばかり言っているんだ。あんたの前じゃヘコヘコ媚びへつらっているくせして、
あんたの居ないところじゃ、そりゃあひどい口きいてんだよ。あんたが立派な人だからやっかんでさぁ。あいつ、
謀反人なんだろ。とっとと捕まえとくれよ」
女はシェラバッハの注意を自分から逸らそうと、かつての主を口汚く罵った。
シェラバッハはぞっとするような女を見つめている。
その薄い唇がふっと緩んで、蕩《とろ》けんばかりの優しげな笑みを刻んだ。
女はおずおずと、皇子に微笑み返す。
「――主が主ならば、その女も恥知らずの下司とみえる」
皇子は氷雪の声で言った。
女の微笑が凍りつく。
「似合いの主従だ。・・・反吐が出るほどな」
シェラバッハの剣が無造作に閃いた。
その一瞬後に音を立てて床に倒れた女の胴には、女の誇った美貌のついた首はなかった。
シェラバッハは剣を払ってその血糊の飛沫を飛ばし、踵を返して立ち去った。
屋敷を1人逃げ出したアストロッドは、自らの母であるマーライヤ皇女の住まう離宮に転がり込み、身をひそめていた。
盛夏只中、離宮の誇れる広大な庭園も百花繚乱し、美しい季節の訪れを告げている。
アストロッドはその庭園に立って、イライラと神経質に爪を噛んでいた。
脅えた小動物のように瞳を落ち着きなく動かし、治まらぬ心のままに庭園を徘徊する。
不意に、花の芳香漂う風に乗って、音程の狂った哄笑が届いた。
アストロッドは身竦んだが、思い当たって舌打ちする。
前方から女たちが一塊りになって走ってくるのが見えた。
女たちは疲労の滲む声で幾度となく、逃げる人を咎める言葉を口にする。
「姫様・・・、お姫様、なりません。そのような薄着で、・・・これ!」
離宮の女官たちは皆連れ立って、主である皇女を追っているのだった。
皇女は寝着と思しき白い薄衣のまま、裸足で無邪気に駆けていた。
ざんばらの亜麻色の髪は白髪交じり。
子どもの悪戯のように唇から大きくはみ出した紅を引き、涎を垂らしている。
瞳は焦点が合っていなかった。
皇女は時折、楽しげに笑い声を上げる。
女官たちの困った様子を追いかけごっことでも勘違いしているのかはしゃいで、女たちの手を擦り抜ける。
アストロッドは眉宇をひそめ、刺々しく女を睨んだ。
醜い中年女、これが彼の実の母であるマーライヤ皇女だ。
その昔、マーライヤ皇女はシュロウの秘姫と称えられた美貌の皇女であった。
性質穏やかでたおやかな姫は、今から約30年前、他ならぬ父王によって闇の神の供物に捧げられ、アストロッドを
身籠もった。
だが彼女は神と契った一夜の内に狂っていた。
マーライヤ皇女は狂ったまま、アストロッドを産み、そして今なお、その精神は正気を失っている。
アストロッドははっきりとこの母を蔑み、嫌っていた。
この時もすぐに皇女が目敏く彼を見付け、歓声を上げて走り寄ってきた。
アストロッドは青ざめた頬を引き攣らせて、突進してくる己の母を見た。
マーライヤ皇女はアストロッドを大層気に入っていた。
しかしながら、それは自らの息子としてではなく、同じ年頃の遊び相手としてであった。
――彼女は自らを、闇の神と契る前の無垢なる17の処女《おとめ》であると信じていたから。
マーライヤ皇女が醜く歪んだ笑顔でアストロッドに抱きつこうとすると、彼は汚らわしいのを払うように皇女を
撥ね除けた。
「寄るな!・・・汚らわしい!!」
病弱といっても成人した男性の力である。
哀れな女は地に転がって倒れ伏し、見る間に声を上げて泣きだした。
「ぎゃあぁぁっ、ぎゃああん!ひぃっ、ひぃっ」
「うるさいっ」
アストロッドは幼女のように泣きじゃくる皇女を怒鳴りつけ、背を向けた。
そして、凍りつく。
「ならぬな。――母に乱暴を働くなど」
冷笑を浮かべた唇が言い、ひんやりと冷えた髪の毛先が鋭い刃のようにアストロッドの喉元を掠める。
アストロッドは笑おうとして果たせず、歪んだ唇をひくつかせた。
「・・・シェラバッハ・・・、御兄君・・・」
果たして気配一つなくアストロッドの前に姿を顕したのは、彼の恐怖の具現、異母兄シェラバッハ皇子であった。
兄皇子は闇を凝ったがごとき豊かな黒髪を庭園を渡る風になびかせ、その堂々たる長身を彼の前に佇ませているのだった。
「い、いつ起こしに。事前にお知らせくだされば、歓待の宴を用意しましたものを・・・」
アストロッドは恐怖に頭を殴りつけられたような衝撃を受けていた。
たちまち目の前が暗くなり、視界が狭まる。
満足に物を考えられないまま、条件反射のように戦慄《おのの》く手で兄の手を取り、震えながら額に
押し当てようとした。
その時意識せず見止めたものに、アストロッドの視界の霧は速やかに晴れていく。
内心の動揺を示してきょときょと動いていた真紅の瞳の焦点が合い、彼は呆然と目を見開いた。
「――美しい姫であろう?」
シェラバッハは、目を奪われた放心したアストロッドの耳朶に秘密を語るように囁いた。
アストロッドの視線の先にはシェラバッハの腕に抱かれて眠る乙女の姿が在った。
アストロッドは束の間、兄への恐れを忘れた。
漆黒の皇子の腕の中、この庭園に咲き誇る花々よりも香しく、乙女は眠れる。
優美な仄白い顔に長い睫毛が儚い陰影を落としている。
月光を丁寧に編み上げたような黄金の髪は柔らかく甘やかに巻き毛をつくり、皇子の強靱な腕から蜜ように溢れた。
その乙女は美しかった。
・・・闇の者の心すらも蕩《とろ》かさずにはおれないほどに。
白い皇子は乙女からぎこちなく顔を背け、眩しげに目を伏せる。
「気に入ったか、我が弟よ?――麗しの花の姫は」
アストロッドは冷たい指に肩を掴まれ、激しく震えあがった。
彼は再び卑しい追従笑いを唇に浮かべて、おどおどと兄を振り返った。
「・・・花の姫、ですか?大層美しい女性ですが、兄君の想い人でありましょうか?」
アストロッドが用心深く言うと、シェラバッハは抱いた乙女を静かに見下ろした。
彼女は命なき人形のように昏々と眠り続けている。
「否。花の都在りし【万福の国】、古国ルーディルンの世継ぎの王女ナシエラ姫よ。恭順の証、国の贄として、私に
差し出された王女だ。自らの保身を願うためにたった1人の王女、万福の国《ルーディルン》の次代の女王を我が妻の
1人にと父王自ら捧げたのだ」
シェラバッハは淡々と言った。
「哀れな処女《おとめ》よ。悪魔の皇子と呼ばれし私に嫁するとはな」
シェラバッハは哀れむ言葉とは裏腹に嘲弄するように喉を鳴らす。
「だがいずれ多島諸国すべてを統べる王となる私には相応しき妃だ。私の傍らに立つ女は血族良く、賢く、美しく、
非の打ち所のない優れた乙女でなくてはならぬ。――ナシエラは理想の妻だとは思わぬか、弟よ?」
「は、然り・・・」
困惑して、アストロッドは曖昧に頭《こうべ》を垂れた。
シェラバッハが妖美な眼差しでアストロッドを見据える。
「私とナシエラ王女は、明後日の戴冠の儀と共に夫婦の契りを結ぶ。・・・私は麗しき妃と共に、北風の国《シユロウ》の玉座に座るだろう」
アストロッドは我に返ったようにはっと面を上げて、シェラバッハの顔を直視した。
その皮肉な唇。
永遠の闇を閉じこめた瞳の苛烈さにアストロッドは引き攣った呼気を呑んだ。
「あぁ、兄君!なんとういう慶事でしょうか!わたしは、これまで通り、私の誉れであり君主であらせられる御兄君の
お役に立てることを祈るばかりでございます!!」
仰々しい祝福の言葉を謳い上げる彼を、シェラバッハは穏やかに見据えている。
「ところが少しもめでたくないのだ、弟よ。――どうしたことか、私が即位するとそれを妬み、私を亡き者にせんと
謀略を働かせし者どもがいたのだよ」
「・・・それはそれは・・・、なんということでしょう・・・」
「悲しいかな、その者どもは私と血の近し兄弟たちであったのだ。我が異父兄たる3人の兄上と、彼らの従弟であり
私の最愛の異母弟であるそなたが結託して謀反を企むのを、その野望果たされる前に潰えさせた・・・」
シェラバッハは静かに言った。
アストロッドの蒼白になった額に冷や汗が噴き出す。
病弱な心臓が締め上げられる苦痛に呻いた。
「そ、そ、そのような・・・、まさか・・・。兄君・・・」
「私も信じたくない。何ゆえ、血を分けし兄弟と争わねばならないのか。なぜ、血を分けた兄弟を殺さねば
ならぬのか・・・」
「お、皇子たちを処刑なさったのか!?・・・おぉ!」
アストロッドは、不規則に乱れる鼓動を打つ胸を押さえ、悲鳴のように叫んだ。
シェラバッハが重々しく頷くのを、気を失わんばかりにして見る。
「そなたの従兄、皇胤たる皇子たちは反逆者として我が手で処刑した。残るはそなただけだ。アストロッド・・・、弟よ」
アストロッドはヒィッと声を上げ、腰の帯刀に手を掛けた兄の腕に目敏く跳び付く。
抜刀されようとする剣の柄頭を、その青白い痩せた手で懸命に押し止めた。
「お待ちを!お待ちを、兄君ぃぃっ!」
アストロッドは喘いだ。
「冤罪に、冤罪にございます!従兄殿がどのような謀反を企てたか存じ上げませんが、わたしに何ら一切係わりなきこと!わたしは潔白です!」
「冤罪か・・・」
シェラバッハは、必死の形相で縋り付くアストロッドを見下ろした。
「ああ、兄君!わたしが1度なりとも兄君に逆らったことがござますか?わたしは誓って玉座に野心など持ったことも、
ましてや兄君に仇なそうと考えたこともございません。私は兄君の信奉者であり、最も忠実なる臣にございます。・・・
どうか命ばかりは・・・。お慈悲をもって、わたしをお助け下さい!」
「ほう。・・・慈悲を持って、とな」
シェラバッハは長い手指で顎を捻った、
アストロッドは「どうか、どうか!」と必死に嘆願しながら、彼の冷たい手を握る。
シェラバッハはクッと肩を震わせた。
「アストロッド・・・。私はそなたが無実であることをよく知っている。今度の謀反が全くの冤罪であろうことも、だ」
「おぉ、兄君!」
アストロッドの声に安堵が混じり、シェラバッハの手を掴み押さえる彼の力が緩んだ。
隙を見逃さず、シェラバッハはその血塗られた剣を抜く。
アストロッドの従兄の皇子たちを、彼の愛妾を――逆らう者を無慈悲に切り捨て、数多の血を吸った血刀が、銀鱗の
魚のごとき鮮やかな殺戮の刃を露わとする。
「ギャッ」
アストロッドは悲鳴を上げて退き、恐怖のあまり足が萎えて不様に尻餅をついた。
「冤罪であろうとも。この私がお膳立てして、謂われない罪を被せたのだからな!そなたを亡き者とするために!!」
シェラバッハは剣の切っ先を弟に向ける。
アストロッドは恐怖に瞼を痙攣させていた。
シェラバッハは片腕に眠る花嫁を抱いたまま、残虐な唇を歪ませる。
「臆病な鼠のごときそなたが、私に逆らう度量があるなど、はなから思っておらぬわ!そなたにできることは皇子という
身分を盾に国庫を食い荒らし、自堕落なその日暮らしをすることぐらいよ」
「あ、あに・・・っ」
「・・・が、宜しい。そなたの忠誠心とやらを試すとしよう。慈悲をもってな」
シェラバッハは鋭利な刃の切っ先をアストロッドの喉の薄い皮膚に突き付けたまま、言った。
アストロッドは唾を嚥下することもできず、ぜいぜいと息を喘がせる。
「私は冤罪と知りながら、罪なき皇子たちを血祭りに上げた。・・・どうか?」
「お、王たるあなたには、無慈悲とは知りながらもなさねばならぬことがあるのだと、このアストロッド、いたく胸痛め、理解しておりまするぅぅ」
アストロッドは震えながら答えた。
シェラバッハは弟を冷徹に凝視する。
「ほぉう。・・・そういえば、そなたの愛妾どももここに来る途中、あまりに下卑た口をきくのでな。奴らに相応しき
引導を渡してくれた。すまぬな」
「は、はは・・・、兄君、あのような売女ども、いかようにでも。惜しむ命でもございますまい。お気に病まれますな」
シェラバッハは肩を震わせた。
「くっくっ、では弟よ。最後に尋ねよう。そなたの誠意の証にそなたの母の首を捧げよと申したならば?」
シェラバッハは、アストロッドの背後で意味の掴めぬことを喚きながら自由奔放に駆け回っているマーライヤ王女を
眺めていった。
アストロッドは兄の言葉に、その真意を計りかねて躊躇った。
やがて、彼は泣き笑いのような醜い微笑を青ざめた唇に浮かべ、共犯者のようにシェラバッハに目配せする。
「・・・御心のままに」
アストロッドは尻で這って、道を開いた。
シェラバッハの口唇から微笑が消える。
「クズめ・・・」
シェラバッハは吐き捨て、無造作に自らの大剣を振り上げた。
アストロッドは、彼の怒りから逃れようも無く、買ったのを知った。
振り下ろされる刃の軌跡を半ば呆然と見る。
シェラバッハの剣がアストロッドの脳天に振り下ろされ、アストロッドの頭蓋を割って瞬時に絶命させるかに
見えたが・・・。
シェラバッハはあわやのところでその兇刃を止めた。
「よかろう!生かしてやろうではないか。そなたの腐りきった性根に免じてな!」
シェラバッハは侮蔑の眼差しでアストロッドを見、唾を吐く。
アストロッドは面を上げてシェラバッハを見つめ、ぶるりと我が身を震わせた。
そして、のろのろと微笑った。
「・・・まことに?まことにお許しくださいますのか、兄君!」
アストロッドは歓喜の声を上げてひれ伏した。
「このような見下げ果てた下司が我が弟とはな・・・。だが、そなたは紛れもなく、我が血縁。卑賤なる人の世での
ただ1人の闇の眷属だ」
シェラバッハは深々と溜め息をつき、アストロッドに面を上げるように促した。
アストロッドが従順に頭を上げると、シェラバッハは腕の中の乙女を彼に向けて突き飛ばす。
アストロッドはその体を反射的に受け止め、姿勢を崩した。
王女は羽のように軽かったが、意識を失った人間を受け止めるのは存外難しく、彼は彼女ごと背後に引っ繰り返った。
シェラバッハは弟の無様な姿に失笑した。
アストロッドは頬を染めたが、それは羞恥のためだけではなかった。
アストロッドは王女に触れている指を躊躇わせ、おずおずと引っ込める。
「我が妻が気に入ったと見える」
アストロッドは、頭上から降る声に冷水を浴びせ掛けられたように、背筋を緊張させた。
「それは喜ばしいことだ。愛しい弟よ、そなたにナシエラをやろうか?彼女の体を我がものとしたくはないか・・・?」
シェラバッハは蠱惑的に囁いた。
アストロッドは苦笑する。
「お戯れになりますな。あなたの皇妃を臣たるわたしがなんでほしがりましょう?」
「いいや、戯言ではない。――弟よ。闇の神族の血と、力を受け継いだ我が弟よ!汝が力久しぶりに見せてもらおうぞ、
我が望みのままに!!」
アストロッドはしばし、兄の言葉の意味を掴みかねて奇妙な表情をした。
理解と共に、顔から血の気が引く。
「は・・・・、何を・・・おっしゃる・・・」
アウトロッドは紙のように白くなって呻いた。
「あ、兄君、あれだけはお許しを・・・!お許しをぉぉ!!い・・・厭です、ひぃっ!」
「そう脅えるではない。幼き日を思い出すが良い、アストロッド。――獣よりはよほど上等ではないか」
シェラバッハの残酷な言葉にアストロッドは耐えきれず悲鳴した。
美しい乙女の体の下から懸命に這い出ようとする。
シェラバッハは嗤った。
「ひぃっ、ひぃぃぃっっ!!」
「私が関心があるのはこの世におけるただ1人の闇の眷属たるそなたの力と、我が隣に立つに相応しい高貴な女の
体だけだ。反逆の芽である弟皇子の身の上も、姻戚となる万福の国《ルーディルン》のしがらみを背負った王女の意志も
無用の長物以外のなにものでもない。アストロッドよ、禍の種となり得るそなたを五体満足で生かしておくと思ったか?
命長らえるなら、体の1つや2つ惜しむものではあるまいが・・・。そもそも惜しむような身体にも見えぬがな。
短命で・・醜く脆い」
シェラバッハは穏やかに弟を諭した。
この言い尽くせぬ恐怖に心身惰弱なアストロッドは耐えきれなかった。
たちまち心臓が発作を起こして、激しい痙攣が彼を襲う。
彼は器官ひゅうひゅう鳴らし、胸を掻きむしった。
シェラバッハは優雅に身を屈め、アストロッドの痩せた手首を易々と捕らえた。
力ずくで捕らえた手を導き、眠る乙女の小さな手に触れさせる。
「い、厭です、兄君!・・・やめろぉぉぉぉっ!!」
シェラバッハはアストロッドの強張る指を抉じ開け、ナシエラ王女の細い指に1本1本丁寧に交差させ、絡ませる。
そして恋人同士のように組み合った2人の手を自由にならぬように地に押さえ付けた。
「ぎゃあああああっっ!!」
アストロッドは半狂乱で魂切る絶叫を上げた。
「まるで潰された豚だな・・・」
シェラバッハは狂わんばかりに恐怖するアストロッドを捩じ伏せ、嘲弄した。
そして情のない温もりのない声で冷淡に言う。
「死ね、アストロッド。病んだ身体《にく》などいらぬ。――今、そなたを死ぬ。死んで・・・、そして相応しき
優れたる身体に宿りて蘇れ」
「あ、・・・あぁ・・・」
シェラバッハの囁きにアストロッドは絶望の呻き声を上げた。
ゆっくりと、彼の四肢の抵抗から緩慢になっていく。
「そなたは今より、ナシエラぞ。――月光の髪、黄昏時の夕闇の眼をした万福の国《ルーンディルン》の美姫よ。
そなたは優しく美しく幸福で、人々に称えられ、光の下に生きる」
「わ・・・たし・・・は・・・?」
シェラバッハが覗き込むアストロッドの真紅の瞳に、もはや光はない。
その白い睫毛が戸惑うように揺れた。
シェラバッハはそっと、苦い囁きを彼の耳へ落とした。
「そして、なにより健康だ。病にも死にも脅える必要はない・・・」
「・・・わたしは、ナシエラ?――アストロッドは・・・死んだ?」
「そう・・・、そうだ」
シェラバッハは満悦の微笑を浮かべ、頷いた。
アストロッドの眼は閉じられる。
彼の体は力を失って、木偶のように横たわった。
「良い夢を、魔の国《シュロウ》の弟皇子よ」
静かに囁いたシェラバッハは弟から興味を失って目を逸らし、アストロッドに縺れ合うようにして眠るナシエラ王女に
視線を向けた。
彼は乙女の肢体を腕に抱いて立ち上がった。
彼女の身体を注意深く運び、花々の群れ咲く花壇に横たえた。
優しげな仕草で王女の手を胸元で組ませる。
シェラバッハは愛情深いと言ってもよい眼差しで乙女の眠りを見守った。
やがて――。
「・・・ん・・・」
ナシエラは王女は小さな呻きを漏らした。
シェラバッハは素早く立ち上がる。
微かに胸元で組まれた白い指が動き、重たげな睫毛が震える。
・・・王女の双眸が開いた。
それはシェラバッハ皇子が称えたように、宵闇の空の色をした紫の瞳だった。
奇跡のような瞳が戸惑うようにさ迷って、沈黙してこれを見守るシェラバッハの瞳と結び合う。
彼女の口唇が開いた。
「・・・シェラバッハ・・・」
彼女は小鳥のような可憐な声で呟き、ぎょっとして眼を見開いた。
ナシエラは素早く喉を押さえ、その喉を押さえた手を見て息を呑んだ。
「な・・・っ、これはっ!?」
彼女はぶるぶると震えながら、自らの白い手を凝視した。
そして、ドレスの裾から覗く足首を、華奢な腰を、まろやかな胸の線を、次々に視線で追って悲鳴を上げた。
「おぉっ、何ということだっ!」
彼女は悲痛に叫び、鋭く、頭上を振り仰ぐ。
「おのれ!!何ということを・・・何ということをぉっ!よくも、わたしをこんな姿に・・・!」
ナシエラは猛然と立ち上がり、その華奢な体で僅かに微笑する皇子に殴り掛かる。
王女は野獣のように唸って、渾身の力でシェラバッハに立ち向かった。
だが、鍛え抜かれた男の体を前にして、彼女はあまりに無力だった。
「おのれ、おのれ、おのれぇぇぇ・・・っ」
彼女は息を喘がせて、シェラバッハの腕を掴んだ。
「貴婦人《レディ》の為さる振る舞い、言葉ではありませんな、ナシエラ姫?」
シェラバッハは激情に美貌を歪ませる王女を優しく窘めた。
ナシエラは憎悪をこめた凄まじい目付きでシェラバッハを睨んだ。
不意にナシエラは息を呑んで、振り返る。
彼女は、背後にうち捨てられた玩具のように横たわる青年の姿を見つけた。
色艶のない白髪を大地に散らばらせ、痩せた手足を力なく投げ出して、若い男――アストロッド皇子が倒れていた。
ナシエラは声にならぬ呻きを放ち、アストロッドに駆け寄った。
美麗な衣装を汚すのも構わず地に膝をついて、皇子に手を伸ばす。
シェラバッハはその光景を嘲笑した。
無造作に横たわる弟皇子の体を蹴りつける。
アストロッドの弛緩した体は為すすべなく、ナシエラの目の前で、シェラバッハの靴の泥にまみれた。
「やめろ!」
ナシエラはシェラバッハの脚に狂ったように喚きながらしがみつく。
「よせっ、よせ、やめろぉっ!わたしの身体に傷を付けるなァッ!」
シェラバッハは戯れるのを止め、自らの脚にしがみつく乙女を見下ろす。
彼は乙女の振り乱した美しい金髪を鷲掴んで、引き上げた。
否応なく上向かされたナシエラの顔は痛みに引き攣っている。
「おかしなことを言う」
シェラバッハは低く囁く。
「そなたの身体はここにあるだろう、アストロッド?――毛ほどの価値もない病み衰えた体ではなく、美しい女の、な・・・」
ナシエラの顔が見る間に歪んだ。
「・・・返してくれ、あぁぁ・・・、頼む!兄君!!どうか返してください。わたしの体にわたしの魂をっ!!」
ナシエラ王女は、・・・いや、彼女の内側に閉じ込められたアストロッド皇子は悲痛に懇願した。
「兄君っ、お慈悲を・・・、お慈悲を!!」
アストロッドの嘆願にシェラバッハは取り合わない。
アストロッドは必死の形相で言い募る。
「あなたは他人の心に住まうことがどれほど苦痛かご存じない!わたしは兄君と同じく闇の生まれです。そして人は
光りでも闇でもなく、又、その双方を併せ持つ中庸の者。奴らの中には光が住まっている。――光は闇の者である
わたしを焼きます!わたしを滅ぼす!・・・あぁっ、この忌々しき女は何とその光の強きことか!」
アストロッドは躊躇うことなく、兄の前に平伏した。
「どうか、わたしの苦痛をご想像ください!わたしをここから出してください、お頼み申し上げます!どうぞ、・・・
我が君!」
シェラバッハは薄く瞳を細めた。
「これほど輝かしい光の美姫のうちにあっても変わらぬそなたに安堵するぞ、弟よ、卑劣でさもしい性根の
恥知らず、・・・それでこそ、我が親愛の弟よ」
「おなぶりになりますなっ、我が君」
アストロッドは、媚びを含んだ引き攣る微笑を浮かべた。
シェラバッハは晴れやかに哄笑する。
彼は笑って、笑って、そして言った。
「――ならぬ」
乙女の紫の双眸が動揺を刷いて、見開く。
シェラバッハは優しく乙女の頬に指を這わせた。
「そなたは我が妃となるのだ。わたしの野望に力を貸し、我が片腕となれ。そして生涯私の傍らに寄り添う伴侶となれ、
弟よ!【悪魔の皇子】なとど愚か者どもは我らの生まれを辱めるが、我らは正しく闇の神の御子、この世に在っては至高の者だ。神の前に賤小なる人間がいかに無力かを示してやらねばならぬ。すべての国を征服し、この世を掌握する。――
光りあるものをことごとく滅ぼし、世界を死と闇の統べるところとすることこそ、闇の眷属たる我らが使命だ!!」
アストロッドは1歩後ずさった。
シェラバッハは厳しい目で彼を見据えた。
「そなたはその女の身体から出ることはできぬぞ。私はそなたの魂の管を王女の身体に我が力でもって結び付けた。
そなたには我が魔道《ルーン》を破ること能うまい。・・・アストロッド、王女の魂を内で滅ぼすのだ。そなたがそこに
在れるということは王女の中にもいかに光が強かろうと闇があるのだ。その闇でもって光に打ち克ち、その身体を真に
自らのものと為せ!!」
「あなたは正気か!?なぜ皇子たるわたしが女の身体を自らと為さねばならないのだっ!」
「1つの身体に2つの魂は存在できぬ。いずれ時が厳粛な裁きを行おう。最後に残るのはそなたか、王女か・・・。その
肉体の内で魂の滅びを迎えるもまた、そなたの運命だろう。その時は、私に弟はいなかったものと考えることにしよう」
アストロッドは非常な兄の言葉に激しく動揺した。
シェラバッハは優美な腕を差し伸べる。
「来よ、・・・アストロッド」
彼は蕩けるような眼差しで甘く囁いた。
「そして我が勝利の乙女となれ」
立ち尽くす美しい王女の身体を抱こうとするシェラバッハの腕は虚しい風を捕らえた。
王女は花を蹴散らし、皇子の腕の届かぬ場所を求めて逃げていく。
それが、アストロッドの返答だった。
「アストロッド!!」
シェラバッハは僅かに失意の混じる声で弟を呼ぶ。
アストロッドは足を止めない。
「おのれ・・・おのれ、シェラバッハっ」
王女の花の唇から薄汚い罵りの言葉が溢れた。
「このアストロッドによりにもよって貴様が力を貸せだと!?――笑わせるな!これ以上貴様に何一つ奪われて
なるものか!わたしがこの半生をして耐え忍んできた末の憎悪を知らぬならば教えてやる!」
アストロッドは激情に吼える。
「呪われてあれ、シェラバッハ!貴様を殺してやる、必ず殺してやるぞ!貴様にわたしがくれてやるものは、この先、
死のみと知れ!!」
背後で遠い哄笑が上がる。
「実に楽しみだ・・・!では、私は待とう」
シェラバッハは追ってこなかった。
立ち尽くしたまま、総身を震わせて笑っていた。
「いずれ、そなたは自らの意志でここに戻ってくるだろう。――闇の乙女となって」
シェラバッハの予言を告げる声は夏の盛りの庭園に高らかに響き渡った。
(2)
すでに夕闇が迫ってきていた。
長い日が落ちて外気温が下がり、足元が暗い。
アストロッドは太陽の残光に追い立てられるように走っていた。
彼は人家の明かりから離れ、夜陰深まるばかりの山中に分け入った。
下生えの茂みを掻き分け、低い枝葉を腕で払いのけ、斜面をまろびながら駆け上がる。
鼓動が荒い。
喉も干上がらんばかりにひりつき、か細い息の音があがるのが耳障りだった。
気持ちばかりが焦るのに身体が付いてこない。
いくら叱咤しても脚はがくがくと萎えて、言うことをきかなかった。
その時、アストロッドは力強く右袖を引かれた。
勢いに布地が裂け、反動で彼は背中から倒れ込む。
「や・・・やめ・・・っ、やめてくれぇぇっ!!」
アストロッドは悲鳴を上げた。
必死に両腕を振り回し、膝で這って前へ進んだ。
そして恐怖に満ちた目で肩越しに振り返る。
背後の頭上で何か白い物が動いていた。
彼は引き攣った喉声を漏らしたが、それはよく見ると今しがた引き裂かれた衣服の右袖だった。
破れた白布が張り出した枝の尖った先端に引っ掛かって、夜風にはためいているのだった。
アストロッドの強張った喉から安堵の吐息が零れた。
ぐったりと全身から力が抜ける。
そうして樹木の幹に背を預けてへたり込むと、もう動けなかった。
しばらく己の荒い呼吸音に耳を傾ける。
息が整ってくると、アストロッドは座り込んだまま、両手で顔を覆った。
「・・・殺してやる、殺してやる、殺してやるっ!――貴様を殺してやる、シェラバッハ!!」
アストロッドは呪わしく嗚咽した。
「よくも・・・っ、よくも、わたしをこんな目に・・・っ!!」
アストロッドは憎悪に歯軋りして、拳を地に打ちつける。
鋭い痛みが走り、アストロッドは反射的に視線を向けた。
固く拳をその手は夜目にも甘く白い。
血の流れる管の青い筋が透ける。
白い白い、小さな手。
肌理細やかな柔肌を地を打ち据えた時に、尖った石か枯れ枝に傷つけられて血を流していた。
そればかりではない。
茂みを掻き分けた時か、走る内に枝葉に掻かれたのだろう。
露出した華奢な右腕も優しい曲線を描く白桃の頬にも、赤い蚯蚓腫れや掻き傷が走り、痛々しかった。
アストロッドはしばし、それを呆然と見た。
(・・・これは、誰だ?)
今や答えはわかっている。
だが、アストロッドはどうしても信じたくないのだ。
「・・・これが、わたし・・・、か?」
アストロッドは絞り出すような声で呟く。
夜陰迫る林の中、濃い影になった樹木の根元に、美しい娘が途方にくれて座り込んでいる。
身に纏う豪奢な白銀の婚礼衣装と青ざめた白い顔が亡霊のように闇に浮き上がった。
――否、亡霊というにはあまり可憐で美しい乙女であった。
そしてこの乙女こそが、今のアストロッドの姿であるのだ。
呪いだ。
これは恐ろしい呪いだ。
アストロッドは乙女の唇を苦しげに引き歪めた。
必死の逃走によって乱れた金髪を更に振り乱し、柳眉を逆立て、悲痛な呻きを上げる。
・・・その苦悶の表情がふと、和らいだ。
それは劇的な変化であった。
乙女の美貌も姿形も何一つ変わらないのに、確かになにかが一変した。
荒んだ内面を示して歪んでいた顔が優しく、穏やかなものに移り変わる。
食い縛られた薔薇色の唇が無邪気に解け、華奢な頤の輪郭に甘い蜜のような髪は香気を降り撒いて流れ落ちた。
宵闇の瞳が数度、瞬く。
睫毛に絡む水滴が頬に流れた。
もちろん、彼女はアストロッドではない。
深い眠りの淵から目覚めたナシエラ王女であった。
「・・・ここは・・・どこかしら?」
ナシエラは闇に沈んだ林を見回して、呟く。
王女は戸惑いを隠せない様子だったが、ゆっくりと立ち上がろうとした。
「シェラバッハ皇子は・・・、・・・っ?」
不安げな独白の半ばで、彼女は痛みを覚えて膝をつく。
痛みに促されて身体を見回し、あちこちが傷ついているのを知って眉宇をひそめた。
「どうなっているの?」
『――目が覚めたのか・・・』
ナシエラはすぐ近く、本当にすぐ近くで声を聞いた。
驚愕して肩を撥ね、周囲を見回す。
「・・・誰?」
自然、問う声は、囁くような調子になった。
山林は夜の中だ。
茂みや頭上の梢には、濃い闇がわだかまっていた。
僅かに物の形が影となって風景を切り抜いているから、ここが林の中であることはわかる。
闇が王女を取り囲んでいた。
聞こえるのは樹木の葉擦れ,小動物の立てる微かな物音、遠くで野犬が遠吠えしている。
ナシエラは耳を澄ませた。
微かな物音はあっても耳が痛いほどの山中の静けさに彼女は音をあげる。
空耳だったのだろう、と己に言い聞かせた時、返答があった。
『脅えるな。害は為さん。おまえと話がしたいのだ』
不思議な声は言った。
低く、どこか神経質な男性の声だと彼女は思った。
声はまたしても、彼女のすぐ近くで聞こえた。
たとえ密着してでも、ここまで近くで聞こえるものだろうか。
――声は彼女自身の内側から響いた。
そうとしか聞こえなかった。
脳裏に直接響く、その声音。
それはそもそも肉声ではなかった。
喉を震わせ、空気を振動させて放たれる声ではない。
彼女の内で彼女にだけ届く、音のない”こえ”なのだ。
ナシエラは驚き、恐れすらしたが、意を決して応えた。
「・・・脅えません。あなたはどなた?」
『誰でもいい。・・・おまえは万福の国《ルーディルン》の王女、ナシエラだな?』
「えぇ・・・。どうして、わたくしをご存じなの?」
『おまえの質問に答える気はない。私の問いだけに答えていればいいのだ』
声は一貫して、彼女を鬱陶しそうに突き放した。
ナシエラは困惑する。
声の主であるアストロッドにも彼女の戸惑いは感じられらが、あえて無視した。
非はあらずとも、アストロッドは自らの運命を憎むのと同じ心で彼女に苛立っていた。
『おまえも気づいたろうが、わたしは今、おまえの内にいる。それゆえ、勝手な行動は困ると言っておく。わたしの
指図に従って大人しくしていれば、悪いようにはせん』
「・・・」
『一時のことだ。わたしとて女の身体などに住まうのは願い下げだからな。間違っても騒ぎ立てるなよ。わたしは
女の金切り声を聞くのが嫌いだ』
アストロッドは居丈高に命じた。
ナシエラは黙ってそれを聞いていたが、溜め息をついて首を振った。
「どなたかは存じ上げませんが。ここがどこなのか、わたくしがなぜここに居るのかをご存じなら、教えてくださいませ」
彼女は静かに、だが一歩も引かぬ気概を見せて尋ねる。
「わたくしは北風の国《シュロウ》の皇太孫殿下、シェラバッハ様に嫁いで参りました。わたくしにはあなたの
おっしゃっていることがわかりかねますし、あなたはお答えくださらない。あなたにも抜き差しならぬ事情が
ございましょうが、私にも果たすべき役目がございます。・・・さぁ、せめて居場所だけでも教えてくださいませ」
気丈な王女にアストロッドはたじろいだ。
『場所を尋ねてどうすると言うのだ?』
「もちろん、シェラバッハ様の許へ参ります。それがわたくしの王女としての努めですから」
努めと言い切った乙女の心中をアストロッドは知らない。
彼は激しく動揺した。
『それはならぬ・・・!ならぬぞ!!』
アストロッドは泡を食って叫んだ。
心声《こえ》が掠れて震えを帯び、その必死の叫びにナシエラは眉をひそめた。
彼女はなぜとは尋ねなかった。
ただ、疲労した体を樹木に縋って起こす。
『なにをするっ、どこへ行くつもりだ!』
「人里を探して助けを求めますの。ここでこうしていても、時が虚しく過ぎるばかりですから」
『莫迦っ、愚か者め!奴は、シェラバッハは恐ろしい男だぞ!姿が多少見栄えしようともその心は野獣そのものよ!
奴に嫁して女の幸せなど得られるものかっ!!』
アストロッドはナシエラを静止しようと言い募る。
しかし、ナシエラは黙ったまま、闇の中を慎重に歩み出した。
手探りで木から木へと伝わっていく。
アストロッドは焦りを覚えた。
王女は分別があり、優しげに見えても芯があった。
彼女が果たすべき責務であると心を定めているなら、それを翻させることは難しい。
このままではナシエラは山を下り、シェラバッハの許に戻ってしまうだろう。
(いやだ・・・いやだ、絶対に厭だ!)
王女が戻ればシェラバッハは勝ち誇って彼女を迎え入れるに違いない。
そして乙女を自らのものとし、妃として花と絹で飾られた皇宮の一角に一生幽閉するのだ。
――そう、アストロッドごと。
戻れば二度と逃れられない。
その予感がアストロッドを追い詰める。
『待て、ナシエラ!今さら戻って許されると思うか?おまえは皇子に嫁ぐ身でありながら姿をくらませたのだ。おまえは
男の顔に泥を擦り付けたも同然なのだぞ!花嫁に逃げられたなどという醜聞にシェラバッハがどれほど怒り狂っているか
想像してみよ。どんな弁護にも聞く耳持つまい。わたしはおまえの身を案じているのだぞ。わからぬかっ!?』
アストロッドが恥知らずにも恩着せがましく叫ぶと、王女はふぅわりと微笑した。
「お気遣い感謝致しますわ。・・・ですが、わたくしは皇子の叱責を恐れて逃げ隠れしているわけには参りませんの。
このような事態はわたくしの知るところではございませんけれど、皇子のお怒りはごもっともですわ。どのような
御処分でもお受けして、謝罪申し上げるのは当然のことです」
『おまえはシェラバッハの恐ろしさを知らぬのだ!や、奴が自らの矜持をを不当に傷つける者にどれほど無慈悲か。
打たれるか、足蹴にされるか。・・・いや、一国の王女とはいえ、命はないやも知れぬ!』
「わたくし1人の咎で済むならば如何ようにでも。わたくしが恐れるのは、ただ祖国に咎が及ぶことのみです。
わたくしの愚行は、この身で償います」
ナシエラは淀みなく言った。
彼女は話の間にも、迷いなく山を下っていく。
アストロッドは激しく混乱しながらも、脳裏で目まぐるしく思考を巡らせた。
彼の極限にまで追い詰められた脳はそれゆえに冴えた。
アストロッドは心を静め、心声《こえ》から焦りを払う。
『・・・ナシエラ王女よ。おまえがその花の盛りに、いじらしくも故国のためにと、悪名高き男に嫁いできた心根は
なるほど立派だ、だが、おまえは無知ゆえに選択を誤った』
アストロッドは悲痛に、そして極力誠実に言と紡ぐ。
『おまえが嫁いだ男は悪魔の皇子と呼ばれるに相応しい、残酷非道な男だ。今や王に即位し、すべての実権を握った男が
治める魔の国《シュロウ》が軍備を増強し、兵を募っている。それが何を示すか、おまえの国もおまえ自身も理解
しているはずであろう?――ゆえに、最古の王国の家格を婚姻という形で魔の国《シュロウ》に献上し、おもねろうと
したのだ。戦わずして国土を一粒種の王女と共に明け渡し、浅ましくも悪魔の皇子に慈悲を乞おうというのであろう?
違うか?』
「・・・あっ・・・」
ナシエラは絶句した。
彼女は動揺のあまりよろめき、その歩みが鈍る。
アストロッドはそれに手応えを感じて畳み掛ける。
『シェラバッハは戦支度をしている。手始めに近隣の島々を、やがては多島諸国すべてをその支配下に置く心づもりだ。
奴は自らを多島諸国を統べる王に相応しいとうそぶいている。逆らう国々は戦火でもって踏み躙り、武力に任せて弱者を
黙らせる心づもりだ。――この不遜、傲慢にして非道な振る舞いを許しておいて良いのか!悪を正す気概はないのか!?」
「・・・あぁ・・・」
ナシエラは顔を覆って細い嘆きを漏らした。
足が縺れて、そのままへなへなと頽れた。
彼女の長い睫毛にいくつもの涙が絡み、潤んだ宵闇の瞳は水面のように揺れた。
アストロッドは容赦なく、彼女を弾劾する。
『事実、国のためを思うならば、悪に加担し、おもねるような卑屈で怯懦《きょうだ》な真似はすべきでない。おまえは
その愚行を諫めるべきであった。そして故国の先頭に立ち、同じ危惧を抱く国々と結託して、災厄に立ち向かうべきでは
なかったか!?」
「・・・万福の国《ルーディルン》は魔の国《シュロウ》に近すぎます。あの美しい土地が蹂躙され、心優しき人々が
戦によって血を流すのは忍びなかった。だからこそ、わたくしは・・・」
ナシエラは震える声を詰まらせた。
アストロッドは内心冷酷に唾を吐いたが、義憤を装って王女に止めを刺した。
『ほう・万福の国《ルーディルン》の騎士は腰抜けか?騎士が愛の誓いを捧げる乙女は誇りを失ったのか?自国の
保身にのみ心を砕くのだな?おまえたちが悪に牙を抜かれ怠惰を貪る間に、無慈悲に蹴散らされ、滅び行く他国の悲運に
目と耳を塞ぐのか!?』
「やめて・・・、やめてください!」
ナシエラは悲しみに身悶えて、啜り泣いた。
彼女はもう立ち上がろうとはせず、苦悶と後悔に打ちのめされて、長い間嗚咽していた。
アストロッドはしてやったりとほくそ笑む。
彼は偽りの優しさで声を和ませた。
『憐れな王女。どちらにせよ。おまえの国が考えている程、あ奴はこの婚姻を重んじてはおらぬぞ。これが侵略への
抑制力になると思っているなら、残念ながら甘いな』
「そんな・・・。ではわたくしの父がしたことは無意味なことだった、と・・・?』
『辛かろうが、そうだ』
確信に満ちたアストロッドの言葉に、ナシエラは泣き濡れた面を上げた。
彼女は頼りない眼差しをさ迷わせ、不安げにアストロッドに問う。
「あなたはどなたなのです?・・・どうしてこれほど魔の国《シュロウ》の内情に詳しいの?」
アストロッドは少し躊躇ったが、己が素性を明かすことにした。
娘を口説き落とすまであと1歩なのだ。
ここで躊躇って、不信がらせるのは得策ではない。
『わたしはシェラバッハの異母弟だ』
「皇子様でいらっしゃるの!?」
『そうだ。今でこそ。このような辱めに遭っているが、な。わたしは謀られたのだ。あいつに・・・、あの、悪辣で
尊大なシェラバッハめに!!』
アストロッドはぎりぎりと歯軋りをして叫んだ。
ナシエラは首を傾げた。
「謀られた、とは?」
『奴はわたしを恐れたのだ。皇位継承権を持つ血統正しきわたしを陥れ、卑劣なやり方で皇位から退けたのだ。――私の
体を奪い、女の身体に押し込んでわたしを愚弄した!』
アストロッドの心声《こえ》は煮え繰り返る怒りのために、いっそ掠れて小声になった。
ナシエラは息を呑み、痛ましそうにその眉宇をひそめる。
「・・・では、シェラバッハ様はその出生にまつわる暗い噂話が伝える通り、この世の者ならざる闇の者なのだわ。
恐ろしい闇の魔法を操るのがその証。肉体を奪い、人の心を割り開いて、2人分の魂を閉じ込める檻とするとは、
おぞましいこと・・・」
アストロッドは深刻に考え込んだナシエラの誤解に気づいたが、真実を告げなかった。
自らの目的のためなら事実をいくら歪曲しようと、偽りを言おうと、微塵も罪悪感を覚えないのが
アストロッドという男だ。
彼は、シェラバッハに奪われ、その監視下にある彼自身の事実の体をなんとしても取り戻さねばならないのだ。
そのために王女を欺き、利用しつくすことになんの躊躇いがあろう。
アストロッドは己自身の舌鋒の冴えに酔い痴れていた。
王女の煩悶に乗じて、高らかに謳い上げる。
『王女よ、おまえと私の敵は同じもの。シェラバッハを討て!さもなくば悪におもねった汚名の挙句に、おまえの
守りたかったものすべてが闇の蹂躙を受け、滅び去ることとなろう』
ナシエラは切ないため息を漏らした。
その苦悩に満ちた面を毅然と上げる。
「わたくしは国へ帰ります。父王にすべてを打ち明け、進言いたします。愛する故国を闇に与する傀儡としては
ならない、と」
『よく言うた。勇気ある姫よ・・・』
アストロッドは王女を称えた。
声なく、冷ややかに嘲笑しながら。
――悪魔の皇子と呼ばれるのは、シェラバッハ1人にあらず。
ナシエラを決意させ、おぞましいと震えさせた、他者の体の内側に入り込み魂の陰に寄生する闇の魔力。
その呪われた力はシェラバッハのそれではない。
それは、悪魔の皇子の片翼アストロッドが、父である闇の神から受け継いだ唯一の魔力であったのだ。
(3)
アウトロッドは人目を避け、追っ手を撒くために、あえて極力、山道を歩いた。
シュロウは近隣の小島に比べれば大国だが、島の西部は連なる山々に占められ、実際に耕地にできる面積は少なく、
土壌も痩せている。
シュロウは貧国であった。
おおむね、山地帯といっても標高は低い。
しかし険しく、冬になれば慣れた者にも恐れられる程、厳しい環境になる。
季節が幸い良かった。
盛夏のこと。
薬草や野生の果実が採れるし、野宿も可能だ。
海を隔てたルーディルンを目指すならば、当然まず海に出なければならない。
マーライヤの離宮の位置はシュロウの西部中央付近。
最も近い海岸線は山脈を越えた西部海岸だが、潮流の関係でひどく荒れた難海である。
したがってこれを避け、残るは東部海岸か南部海岸。
アストロッドはこのまま山地帯を南下して、南部海岸を目指すことにした。
時間は消費するが、人目に付きにくく、身をひそめやすい。
アストロッドは昼は山中に分け入って茂みで眠り、夜に山道を歩いた。
だが、この旅は思いも寄らぬ辛いものとなった。
アストロッドの仮初めの器である乙女の体は非常に脆かったのだ。
持久力がなく、一夜歩いただけで小さな両足にはひどい肉刺《まめ》ができた。
絹のような柔肌は傷付き易く、あまりに無力だった。
アストロッドの事実の肉体も病がちで、怠惰な生活に衰え貧弱ではあったが、この身体ほど弱くはなかった。
男性に生まれたがゆえの力の恩恵を知らず受けていたアストロッドは女の身体の無力さに辟易した。
足の痛みに1歩ごとに呻き、疲労のあまり食べる物を探しに行くこともできず、空腹に眩暈する。
一日中泥のように眠り込んでしまうこともあった。
アストロッドは苛立ち、呪った。
口汚く、女の体を罵らずにおれなかった。
そして彼を何より苛立たせたのは、1つの身体に共生する王女の精神そのものだった。
アストロッドはナシエラの行動の1つ1つに神経質な指図をした。
彼が昼眠り夜目覚める代わりに、彼女は昼目覚め夜眠った。
アストロッドは自分が眠っている間のことが気に障ってしょうがなく、ナシエラにはその場から動かず、
体を休めるように言い渡した。
彼女は素直に頷き、そのようにした。
だが、アストロッドは事あるごとにそれを責めた。
自分がどれほど苦労しているか、楽ばかりしている彼女がいかにお荷物であるかを口を極めて罵るのである。
心優しいナシエラはこの罵りにいたく心を痛めた。
理不尽な言い掛かりに彼女が萎れた花のように落ち込むのを見て、アストロッドは溜飲を下げるのだった。
苦境にあっても、ナシエラの心根の美しさが色褪せないこともアストロッドを苛立たせる原因の1つだった。
王女は思いやり深く、聡明で前向きだった。
アストロッドがどれほど彼女を蔑もうと彼女はひねることなく、彼を気遣い、励ました。
王女の心の美しい輝きは、闇の者であるアストロッドを恐ろしく苦しめた。
そのたびに、アストロッドはシェラバッハの言葉を思い出さずにおれない。
1つの身体に2つの精神は共存できない。
どちらかが滅びねばならないのだ・・・、と。
このままであれば、どちらが滅びるかは明白だった。
アストロッドはナシエラが眠りにつく時しか身体を支配することができない。
肉体の主人は正当な持ち主であるナシエラだった。
アストロッドは憎しみを覚えた。
己の身体を取り戻す前に滅びるのかと想像するだけで、恐ろしくて憎らしくてならないのだ。
その日も、夜明けまで険しい山道を進み、疲労困憊して眠りに就いたアストロッドが目覚めると、日が暮れ始めていた。
彼が慢性的な空腹と疲労を感じて呻くと、気遣わしげな優しい女の声が掛けられた。
「皇子様、お目覚めですか?ご気分は?」
『うるさい・・・。わたしは一晩中歩き詰めだったのだぞ。疲れておらぬはずがあるまい』
アストロッドは恨みがましく呟いた。
『・・・おい。何をしている?』
アストロッドの心声《こえ》が険しく、詰問する調子になった。
ナシエラは柔らかな下草の上に横座りして、ここ何日かで薄汚れた上等のドレスの裾に摘んできた何種類かの野草を乗せ、丁寧に選り分けていた。
「薬草ですわ。わたくし、少しだけ乳母に野草の扱いを習いましたの」
ナシエラは物柔らかに微笑んだ。
その微笑みも声も慈愛に満ちて美しく、人の心を和やかにさせる。
アストロッドはたじろいだが、そのささくれ立った心は容易に静まりはしなかった。
『ふん、いい気なものだな!わたしが追っ手を引き離そうと苦労しているというのに、おまえときたら、暢気に
草を摘んで遊んでいるのだからなっ』
「・・・皇子様・・・」
『おぉ、呪わしいこの体!女の体がこれほど弱く、不便だとは!女の足では逃げ切れるものも逃げ切れぬわっ!!』
ナシエラは無言で溜め息をついた。
悄然と俯いた拍子に、汚れて束になった髪が頬に落ちた。
それを何気なく掻き上げた乙女の白い指は血色悪く、痩せている。
空腹と疲労に蝕まれているのは何もアストロッドだけではない。
同じ体を共有するナシエラにも同じことであった。
「お役にたてなくて申し訳なく思っています。あの・・・この薬草は噛むと喉の渇きが癒されますの。こちらの薬草は
磨り潰して足に塗ると、腫れがひきま・・・」
『愚かな!勝手に動き回るなと言っただろう!誰ぞに見つかればどうするのだ!!」
ナシエラが言い終わらぬ内に、アストロッドは頭ごなしに怒鳴りつけた。
「いいえ。お言い付けは守っています。この薬草はすぐ近くに生えて・・・」
『えぇい、黙れ!』
アストロッドは喚いた。
『何が薬草だ!わたしを憐れんでいるつもりかっ!?』
「そんな・・・」
アストロッドは自負を傷付けられて、荒々しく叫ぶ。
『自らの体を兄に奪われ、こんな無力な体に閉じ込められて・・・。山中を脅えた兎のようにびくびく逃げ回っている
わたしがそんなに可笑しいか!――おのれ、馬鹿にするな!小娘ごときに憐れまれたとあっては名折れだ!』
「わたくしはただ、心を静めていただけたら、と・・・」
ナシエラはアストロッドの突然の激昂に驚き、悲しげにかぶりを振った。
アストロッドは彼女の言葉にますます荒れ狂う。
『おのれ・・・、おのれ、おのれ――っ! なぜ、わたしがこのような目に遭わねばならぬのだ。シェラバッハを
殺してやりたい!わたしにも奴のように力があれば、奴をひれ伏せさせ同じ目に遭わせてやるものを!』
ナシエラはアストロッドの喚きたてる声に沈黙した。
自らを憐れみ、憎悪と怒りに支配される彼を慰める言葉を彼女は持たなかった。
アストロッドは啜り泣く。
『おぉ・・・、なぜ、わたしはこうも無力なのか。同じ血を引きながら、なぜシェラバッハだけが恵まれているのだ?
シェラバッハの力が我が物であれば、わたしこそがすべてを統べる者であったろうに・・・っ』
嘆きに気が昂ぶり、憎しみが募っていく。
『あの力はわたしにこそ相応しいはずだ。わたしなら、もっと上手く操ってみせように。奴が盗んだのだ、わたしの体を奪ったように!そうに違いない!!あの盗人め、殺してやる・・・っ』
「やめて・・・、おやめなさい!」
アストロッドの尽きぬ呪詛をナシエラはたまりかねて制止した。
彼女の目は憐れみと遣る瀬無さに濡れていた。
「やめてください、皇子様。何という愚かなことをおっしゃるのです。・・・人を羨み、自らを見失って何とします」
『なにっ!?』
「無意味なことです。愚かなことですわ。・・・そして辛いことです、皇子様」
『賢しら口を!』
アストロッドは腸が煮えくり返る思いだった。
彼の怒声にも王女は引かなかった。
凛と響く、誠意溢れる声で彼を諭した。
「あなたは無い物ばかりを羨み、他人を妬み、それがあればとおっしゃるわ。けれど、あなたはその望みが叶っても
満たされず、新たな飢えに悩まされるに違いありません。――あなたが満たされないのは、心が貧しいからです」
アストロッドは突き上げてきた激情に目も眩んだ。
もしも今、ナシエラ王女と彼が別の体を持っていたならば、彼は彼女を骸に変えていただろう。
だが、乙女の魂は最も安全な場所にいた。
アストロッドは憎悪を抑えねばならず、無気味な心声《こえ》で言った。
『わたしの体が戻った暁には、おまえのその小賢しい口を二度と開けぬようにしてやるぞ・・・』
「お好きになさいませ。――あなたはまるで童話の中の愚かな犬のようですわ。その犬は大好物の肉を加えた自分の姿を
泉の水鏡に見、水の中の肉も取ろうと吠え立てて、最初の肉も泉に落として失ってしまうのです」
『言わせておけばっ!』
ナシエラは悲しく吐息を落とした。
「差し出口は承知しています。・・・あなたは可哀相なお方。自らで自らを不幸にするなんて・・・。皇子様、人は
誰しも己以上のものにはなれないのです。他人の良きところを羨んでいるばかりであれば、あなたはいつか自らの資質を
失うでしょう」
アストロッドはナシエラの労る声に狼狽した。
「あぁ、皇子様。目に付きやすい他人のものに心奪われてはなりません。あなたを本当に幸せにするのは、
自らの内にあるものだけなのだから」
アストロッドは不思議な苦痛に身悶えした。
今まで他の誰にもこのように感じたことなどなかった。
ひたむきで優しい善良な王女に、殺意に似た激情を叩き付けたくて矢も盾もたまらなくなる。
『おまえに何がわかる!わたしの味わった地獄を知っているとでも・・・っ』
「あ・・・」
怒りのあまりにアストロッドは満足に物を言うこともできなかった。
ナシエラは心痛ませて、アストロッドにおずおずと許しを乞う・
「ごめんなさい・・・、皇子様。口が過ぎました。どうぞお許しになって・・・」
アストロッドは応えなかった。
心優しい乙女は彼を深く傷付けたことを悟って、ひどく悲しげに口籠もった。
気まずい、息詰まるような沈黙が下りる。
夜の帳が辺りを蓋い始め、共存する体の中で諍う2つの魂ごと、金髪の乙女の姿を静かに闇に包み込んでいった。
アストロッドは夜の山道を無言で進んだ。
周囲は無音ではないにしろ染みいるように静かで足の痛みのために乱れる歩調ばかりが耳に付く。
宙《そら》には朧月。
ゆえに開けた山道は、道の両脇の林に比べれば格段に明るい。
起伏が多く、十分に均されていない山道は明かりのない夜には足元が覚束なく難儀するが、今宵のように月が出ていれば
歩き易かった。
月光の下、アストロッドは足元から伸びる影を踏んで黙々と歩いた。
影は縮んだり長くなったりしながら、彼の歩みにどこまでもついてくる。
深く俯かせた乙女の、眉間にはアストロッドの苦渋が見えた。
彼は柔らかい唇をきつく噛んだ。
(・・・何がわかるのだ・・・、小娘め。所詮、誰も私の懊悩《おうのう》を理解し得ないのだ)
アストロッドの胸は怒りに荒立ち、疼くようにいたんだ。
他人の苦悩に知ったかぶりで、小賢しく口を挟んできた傲慢な娘が許せなかった。
それでいて、アストロッドに許しを乞うた臆病な気遣いがより一層許せなかった。
(あの小娘は私を哀れんでいる。このわたしを!)
アストロッドの苛立ちは募った。
しかし何故もこうも腹を立てねばならないのか、彼は明確な答えを見出せなかった。
哀れまれようと蔑まれようと、それが今更なんだというのだ。
病弱で先が見えたアストロッドを、多くの者がはっきりと蔑ろにした。
母は狂い女《め》、後ろ盾もない。
彼はある意味で皇太孫であるシェラバッハを最も脅かす心配のない小物であった。
彼は小心で、野心を持って危険を負うよりも、怠惰なその日暮らしを選んだ。
目下には身分を嵩にかかって傲慢な態度で接し、異母兄を始めとする目上の者には卑しく媚びた。
多くの者が陰でも面と向かっても、アストロッドを卑怯な腰抜けだと罵った。
それを言い掛かりだとは思いはしない。
だが、それを恥じて悔恨することも又しない。
(そうでなくば、わたしは今まで生き長らえることはできなかった。名誉ある死か、不名誉な生か。選ぶまでも
ないことだ。短命であるからこそ余命ある限り生き延びたいのだ。・・・わかってたまるものか。安穏として幸福で
・・・健康なおまえなどに――)
アストロッドは健やかな乙女の体と精神に憤怒を覚える。
彼の人生は常に死と隣り合わせだった。
生まれついての短命さ、取り巻く状況の不安定さ、そして、何よりも彼自身の血。
彼が、シェラバッハと同じく闇の神族の血を引き継ぐゆえに授かった、人ならざる魔力――彼のただ1つの、
高貴なる血統の証。
それこそが、それこそが、アストロッドを何よりも苦しめた。
ふっくらとした上品な唇に昏《くら》い微笑が浮かぶ。
アストロッドは自虐的な回想を巡らせる。
アストロッドの魔力《ちから》に初めて気づいたのは、狂気の祖父バルザンでも彼の異常な出生を恐れる
周囲の大人たちでもなかった。
彼の能力は長い間、それと気付かれなかった。
早くから、己が身の卓越性を明らかにしていたシェラバッハとは、彼はその点で異なっていたのだ。
大人たちはおぞましい儀式の末に、闇の血を継いで生まれ落ちたはずのアストロッドの平凡さに安堵し、
あるいは落胆した。
そして、愚にもつかない存在として顧みなかった。
対して、美しき皇子シェラバッハは紛れもなく、闇の神族の眷属として君臨した。
彼は、赤子の頃から人語を解し、幼少時から誰に習ったでもない闇の魔道文字《逆ルーン》を操った。
こうした兄の陰に隠れて、アストロッドは翳んだ。
しかし彼の内を流れるのは闇の血であり、彼の祖父も狂気によって生み出された悪魔の皇子の1人に違いなかった・・・。
アストロッドの異常性にいち早く気づいたのは、無邪気にして残酷な子どもたちであった。
彼の記憶は深い憎悪と恐怖で鮮明に刻みつけられている。
あの日のことは今もなお、細部まで鮮やかに思い出せる。
アストロッドは9つになったばかりだった。
皇子の遊び相手として集められた貴族の子息たちの後を、当時の彼は必死でついて回った。
彼らはアストロッドより年長で、大人のいないところでは彼を邪険にした。
腕白盛りの彼らにしてみれば、お荷物のアストロッドが鬱陶しかったに違いない。
アストロッドは痩せて小柄な子どもだった。
彼らが好む遊び、馬術や円盤投げ、射的はまったく彼に向いてなかった。
体が弱いアストロッドは些細なことで体調を崩し、怪我をした。
そのたび、お目付役の彼らが叱られるはめになった面白くなかっただろう。
アストロッドはおおよそ、子どもたちの中で好かれるような性格ではなかった。
陰気な上に、のろまで頭の回転が鈍かった。
子ども流に言うなら、まったく使えないつまらない奴だったのである。
その頃、少年たちのお気に入りの遊びの1つに、アストロッドの屋敷の厨房脇で飼っている鶏を追い回す遊びがあった。
彼らは連れだって、鶏の飼育檻を覗き込んだ。
辺りに人がいないことを確かめると、いつものように柵を乗り越えた。
餌をくちばしで啄んでいた鶏が驚いてバサバサと飛べもしないのに羽ばたいた。
少年たちはそれを見て、ひとしきり笑った。
アストロッドは動物独特の臭いが嫌いだったし、鶏と乱闘するのも嫌いだった。
そこで、控え目に隅っこの方に立っていた。
だが、少年たちの中の年長者でまとめ役の少年――名をキィスと言った――が、アストロッドを振り向いた。
キィスの目は悪意に満ちた嗤いの形に細められていた。
「おい、アストロッド。――おまえ、あっちの大きい鶏捕まえて来いよ。あれ、一番強い雄鶏なんだぞ。捕まえてきたら、おまえを男と認めてやるよ」
「いやだよ・・・。怪我したくないもの」
アストロッドはもじもじと口籠もって答えた。
少年たちは彼の答えに揃って爆笑した。
キィスは肩を竦めた。
「本当におまえって情けない奴だな。おまえなんか勇猛果敢な北風の国《シュロウ》の騎士なんかなれっこない。
男のくせにてんで意気地がないんだからな」
アストロッドはむっとした。
騎士は少年の憧れである。
彼も例外でなく騎士に憧れていたが、「わたしだってなれる」と言うのは躊躇われた。
彼なりに惰弱な肉体を恥じていたからこそ、アストロッドは代わりに胸を張った。
「ふん。・・・わたしは皇子だもの。そういう野蛮なことはしちゃいけないんだ」
キィスはアストロッドの返答に目を険しくさせ、唾を吐いた。
「あぁ、そうだったな。おまえはいとも貴き皇子様であらせられるものな。・・・出来損ないの化け物のくせに、
いい気になるなよ」
いつの間にかアストロッドの後ろに回り込んでいた少年の1人が、彼の腕を掴んだ。
「おれたちはおまえの相手にはうんざりしてるんだ。弱っちくてのろまのくせに、何かあれば皇子だって威張ってさ」
キィスは悪意を込めて言った。
少年たちの間から賛同の声が上がった。
アストロッドは少年たちに詰め寄られて震え上がった。
キィスが乾いた笑いを漏らした。
「まぁいいや。・・・そりょり、雄鶏捕まえられないなら他のことしろよ。でなきゃ、遊んでやらないぞ」
「他のことって?」
「・・・あれ、さ」
キィスが意地悪そうに囁くと、アストロッドは蒼白になった。
激しくかぶりを振って、自分を押さえる手から逃れようと必死に身もがく。
「いやだ!やらない、絶対やらない!放してよ。おまえたち皆、侍従に叱ってもらうからなっ!」
キィスを始めとする少年たちの頬に怒りの強張りが走った。
彼らは無言で金切り声を上げて暴れるアストロッドを地面に引き倒して、押さえ付けた。
「厭だ!厭だったら!もう、遊ばない!帰る!帰るんだから、放せよ!!」
キィスはふふんと鼻を鳴らした。
彼は喚いているアストロッドを冷たく一瞥して、近くにいた小柄な雌鶏を捕まえるように仲間に指図した。
けたたましい鳴き声を上げる雌鶏が捕まえられ、アストロッドの眼前に突き付けられた。
彼は首を捻って、顔を背けた。
「あっち行ってよ!そんなの厭だって言っているだろっ!・・・やだぁぁぁぁっ!!」
アストロッドの生気のない白面を恐怖が彩る。
彼は恐慌をきたして泣き叫んだ。
それでも少年たちは許さなかった。
「ほら、皇子様。めんどりになぁーれ」
「やめろっ、やめろったら!わたしは人間だ!人間だ!そんなの嘘だ!違う!」
「可愛い、可愛いめんどりですよ」
「いやだ・・・。わたしはわたしは・・・、獣なんかじゃ・・・。違う・・・」
「美味しい卵を産んでくれよな」
少年たちは口々にアストロッドをからかった。
抵抗が緩慢なものになっていく。
違う、そんなはずがない、と必死に繰り返しながらも、それを信じきることができる確固たるものがアストロッドの
中にはない。
今この時に確かな強さを持っているものは、ただ少年たちの悪意ある言葉のみ。
彼にはそれに耳を傾けずにいることができなかった。
「違う・・・、でも・・・なにが?」
アストロッドは力なく呟いた。
彼は雌鶏の丸い目に吸い込まれたように見入っていた。
けたたましい雌鶏の鳴き声も彼の叫びもいつしか絶えている。
やがてアストロッドの全身は弛緩し、瞼が閉じられて首ががくりと垂れる。
キィスはげらげらと笑った。
手にした小柄な雌鶏を高々と頭上に持ち上げる。
「どうだ、アストロッド。参ったか」
アストロッドは、今や雌鶏に宿った少年の彼は「やめてよ」と喚いた。
『やめてよ。下ろして。わたしをもとに戻してよ』
彼はそう懇願したつもりだった。
だが雌鶏のくちばしからは可笑しな甲高い鳴き声が漏れただけだった。
『いやだ、やめて、早く戻して!』
彼は繰り返し叫ぶが、すべては人語にはならなかった。
アストロッドは人の言葉を失った己に狂わんばかりになった。
後にも先にも、あれほどの恐怖は味わえまい。
彼の呪われた魔力は、悪夢そのものだった。
少年たちが、雌鶏になったアストロッドを爪先で小突き、後を追いまわした。
彼は本能的に残酷な手から逃れ、他の鶏と一緒になって逃げ回った。
「なにが悪魔の皇子だよ。見ろよ。この情けのない有り様を」
キィスが嗤った。
「こんな化け物どもにペコペコするなんてぞっとするって、父上が言ってたぞ」
「本当、面白くないよな」
少年たちが口々に請け合った。
『いやだ、いやだ、助けて!・・・謝るから、気の済むまで謝るから!』
アストロッドは慈悲を乞うて泣き叫んだ。
だが彼の言葉は誰の耳にも届かないのだ。
誰かの手がアストロッドを捕まえた。
乱暴な子どもの手に両脇から力を込めて鷲掴まれ、彼は苦痛に呻いた。
その時である。
場が凍りついた。
少年たちは一様に息を呑み、身を硬直させた。
アストロッドを捕らえた少年の手から力が抜け、彼は落ちて強かに全身を打った。
羽毛を飛び散らせながら、痛みをこらえて、2,3歩飛び離れる。
コッ、コッ、と啜り泣きと呻きが鳥のくちばしからはそのように洩れた。
しかし今や、誰もアストロッドを笑わなかった。
彼らは1点を凝視したまま、唾を音をたてて嚥下した。
「皇太孫殿下・・・」
畏怖に震える誰かの声が言った。
鶏舎の柵に凭れ掛かったシェラバッハ皇子が薄い唇を吊り上げた。
アストロッドの兄皇子はこの時、齢《よわい》14。
しかし既に大人のように背が高く、身のこなしは堂々としていた。
豊かな黒髪を背の半ばで束ねており、冴え冴えとした容貌は怜悧に美しい。
闇色のマントを身に纏い、腰には漆黒の太刀を佩《は》いていた。
思わぬ人の出現に少年たちは動転した。
アストロッドの肉体は死んでいるように倒れたままだったし、この状況は言い繕えないほど最悪だった。
「あの・・・。おれ、いえ、わたくしたちは少しふざけていただけで・・・」
「いらっしゃるとは存じ上げなくて、ご、ご無礼を・・・」
キィスや他の少年たちがこぞって口々に弁解を始めると、シェラバッハは寛容にそのすべてに耳を傾け、冷笑した。
「そなたらは皇族に対する礼儀を知らぬと見えるな」
「いえ、あの・・・。お、お許しを」
キィスが許しを請うと、シェラバッハは漆黒の双眸を細めた。
「無様であろうと、出来損ないであろうと、アストロッドは我が弟皇子と肝に銘じておくが良い。弟への侮辱は
私の怒りだ。それ相応の処分を与えるところだが・・・」
シェラバッハは腰の帯剣の柄に手を掛ける。
少年たちは震えあがった。
だが、シェラバッハは無造作に顎をしゃくった。
「行け。――幼さゆえの愚かさは斬るに値せん」
少年たちは皇太孫の凍える声音にたじろぎ、お互いの顔を見交わした。
そして、先を争って鶏舎の柵の乗り越え、一目散に走り去った。
シェラバッハはそれを見送ると、鶏舎の柵をひらりと跳び越えた。
長いマントを肩の留め具で折り返して後ろに跳ね上げ、膝をつく。
彼は、身じろぎもせず倒れ伏した弟の小さな体を抱き起こした。
「アストロッド」
シェラバッハは囁いたが、その眼は膝の上に抱き上げた弟皇子を見ていなかった。
小柄な雌鶏を深い色の瞳で見据えていた。
「来るのだ、アストロッド」
シェラバッハは雌鶏の内にあるアストロッドを見誤ることなく、呼んだ。
だがアストロッドは躊躇した。
そもそも彼はこの異母兄が苦手だった。
もっとはっきり言えば、怖かった。
乱暴された覚えはなかったが、側に寄られると言いようのない恐怖に震えずにはおれなかった。
微笑んでいても優しいとは思えなかったし、心を許していい相手とは思えなかった。
アストロッドがぐずぐずしていると、シェラバッハは僅かに眉宇をひそめた。
「どうした?何故来ぬ?」
彼は目に見えて不機嫌になった。
見た目は優しげだった黒糖が見る見る険しく、残忍な光を帯び、アストロッドは震え上がった。
「・・・そなたはこの兄が怖いのか?」
アストロッドは脅え、これ以上兄の怒りをかわぬよう、恐る恐る彼に近付いた。
シェラバッハはこれにようやく、瞳を和ませた。
彼の手が伸びて、アストロッドは身構えたが、彼の指は意外な優しさで雌鶏の頭を撫でた。
シェラバッハは酷薄に微笑した。
「これがそなたの魔力か・・・。役に立つものかわからんな。我が弟しては不出来と言わざるを得ぬが、――まぁ、良い」
あの日のシェラバッハも冷酷に呟いた。
アストロッドは確かにこの時、彼に根深い怒りと憎しみを覚えたのだ。
艶めく闇色の髪と瞳、妬ましいほど凛々しい麗姿の異母兄、――シェラバッハ。
まるで犬でも従えるように気安く、アストロッドを隷属させる。
変わりはしない、昔も今もアストロッドを莫迦にしきった蔑みの冷笑も、アストロッドがひれ伏すことを疑ってもいない
傲慢も・・・、憎い!
「死ね、死んでしまえ、貴様など!!」
瞬間、アストロッドは我に返った。
回想から覚めれば、そこは寂しい夜の山道。
唾棄すべきかの兄に追われ、苦境に陥った己が身を顧みた。
アストロッドは何かに追い立てられるように足早になった。
「・・・うぐっ」
アストロッドは少年たちに押さえ付けられて噛んだ土の苦い味を、シェラバッハの嘲笑を鮮明に思い出す。
――そして人語を奪われ、獣の本性に支配された恐怖を。
「・・・ぐぅぅ、ぅああっ!」
アストロッドは紅唇を押さえ、更に前屈みになって足を速めた。
速度はどんどん加速し、彼は遂に走り出す。
何かをこらえるためにアストロッドは全力で走った。
心臓が破れそうに高鳴り、喉が干上がって絶息せんばかりになった時、彼は水音を聞いた。
アストロッドは堪えがたい喉の渇きを感じた。
それで水音を頼りに山道を離れて、茂みを掻き分けると、眼下に沢を見つけた。
涼しげな音を立てて川は流れ、澄んだ水は闇に染まって暗く月明かりを弾く。
アストロッドは沢に下りるための道を求めて瞳をさ迷わせたが、足を踏み外して斜面を転がり落ちた。
その際にひどく足首を捻った。
彼は足の痛みに呻きながら身を丸め、傷付いた子どものように啜り泣いた。
「・・・愚かなことを・・・」
ひとしきり泣いて落ち着いたアストロッドは涙を拭いながら苦笑した。
その場で身を返して、大の字になって寝転ぶ。
ぼんやりと夜空を眺めると、極上のビロードのような闇に幾筋もの灰色雲を従えた半月が浮かんでいる。
無数の塵のような星々も。
(美しい・・・)
虚ろに思ったアストロッドは、更に月光の柔らかな色に唇を和ませた。
(まるで、あの娘の輝かしい髪のような・・・)
そして彼は深い眠りに落ちていった。
(4)
ナシエラは背中に当たる石の不快な感触に目覚めた。
体を捻って寝返りを打つと、顔に眩い日光が降り注いで、堪えきれずに目をうっすらと開く。
睫毛をしばたたいて、ひどく気怠い体をようよう起こした。
全身の骨が軋み、疲労した筋肉のなんと重いことか。
空腹と喉の渇きに眩暈がした。
耳朶がさらさらと心地よい水音を捉える。
ナシエラは勢いよく顔を上げた。
彼女は斜面になった土手の草むらで眠っていた。
そのすぐ側を美しい清水の流れる川面が日光を浴びて宝石のように輝いている。
喜色を露わにして立ち上がり、その途端、右足首に鋭い痛みを覚えて蹲った。
視線を落として確認すると、足首が熱を持って腫れ上がっている。
ナシエラは足を引き摺るようにして川に近付いた。
微笑が零れる。
ごつごつとした岩が転がる川辺と枝葉が重く垂れた向こう岸の間を、歌うように踊るように、澄んだ水が流れていた。
水は透明で小魚が生き生きと泳ぐ様が見て取れた。
向こう岸近くの水底は深く、木々の緑を映して、深緑色の水を湛えた淵になっている。
ナシエラは川面の岩に上がって、掌に水を掬った。
口唇を付けて飲み干す。
「・・・冷たい」
彼女は嬉しげに呟いて、思う存分、乾いた喉を潤した。
人心地つくと、岩の上に座って靴を脱ぎ、両足を膝まで水に浸した。
流水と時折小魚が足の指の間を擦り抜けていくのがくすぐったい。
水面で屈折した陽光が水底やナシエラのふくらはぎに美しい模様を描く。
ナシエラはくすくすと笑って、飽かずそれを眺めていた。
どれくらい、そうしていただろう。
日が西に傾いて、少し気温が下がったようだ。
ナシエラはふと、頬の横の髪を指に絡めて鼻先に近付けた。
髪は汚れて固まり、嫌な匂いがした。
全身も同様で、清潔な状態とは言い難かった。
ナシエラは迷い、周囲を見回した。
辺りに人影が無いことを確認して、所々破れ、汚れにくすんだ白銀の婚礼衣装を脱いだ。
これを畳み、真珠の縫いつけられた布靴も岩の上に揃えて置く。
川の流れはそれほど急ではなかった。
水深は淵のところでも、ナシエラの腰上ほどしかない。
夏とはいえ、北国の川の流水は身を切るように冷たかったが、日が照っているので風邪はひかずに済むだろう。
何より、体を清潔にしたい欲望が勝った。
ナシエラはゆっくりと水に入って、全身に水を掛けた。たちまち、寒さで歯列が震えた。
腰まで水につかって全身を手の平で擦る。
縺れた髪を指で梳いて水を掛け、両手で揉むようにして汚れを洗い落とす。
気の済むまで水浴したナシエラが岸に上がろうと面を上げると、いつの間にか人影の無かったはずの川辺に
5人の男が立っていた。
ナシエラは驚愕し、とっさに両腕で胸を隠した。
その様子に男たちは顔を見合わせて、淫靡ににやにやと笑った。
どの男も粗末な獣の毛皮で作った服を着ている。
薄汚れ、ごわごわとした髭を蓄えた顔立ちは卑しく荒んだものだった。
真っ当な人間とは思えない、黄色く濁った目にナシエラは脅えた。
彼女は男たちから目を離すことができず、立ち尽くす。
男の1人が岩の上に置かれたナシエラの衣服に近付いた。
衣服を見下ろして短く口笛を吹く。
「汚れちゃいるが、こりゃあ上等の仕立てもんだぜ。――どこのお姫さんだ?」
「中身の方もお目にかかったことねぇような別嬪だぜ。女神さんみたいに綺麗で、品があらぁ」
男たちは目配せし合った。
ナシエラは不安に思って問いかける。
「・・・あの、あなた方はどなたですか?」
「どなたぁ、だとよ。こりゃあ、ますます、そこらの娘っ子と違わぁ」
「大方、どこかの貴族の箱入り娘だろ。道に迷ったか、家出かは知らねぇがな」
男たちは厭な笑いを漏らした。
それから猫なで声でナシエラを差し招く。
「お姫さん、寒いだろう。こっち来なよ」
「・・・あの・・・、服が・・・。わたくしの服がそちらに・・・」
ナシエラが小声で訴えると、男たちは肩を揺らした。
「俺たちは素っ裸でも構わねぇぜ」
男たちの目線がいやらしく、ナシエラの白い華奢な裸身を舐めるように伝う。
彼女は羞恥に真っ赤になって、肩まで水につかった。
水の冷たさに歯列が鳴り、手足の末端がかじかんで痛んだ。
助けを求めるように周囲を見渡すが、男たちの他に人影は見当たらない。
西の空が沈む太陽に茜色に染まりつつあるのを絶望的に眺めやった。
「お姫さん、お供はいねぇのかい?」
男の1人が問い掛けた。
ナシエラは質問に戸惑って答えられなかった。
連れはいると言えばいるが、それは一般的な連れと言えるのか、よくわからなかったので。
男たちが険しい目で周囲を見回す。
「おい、おまえら、連れがいるかもしれねぇぞ。辺りを見て来いや」
1人が指図すると、言われた2人が男が腰帯に差し込んだだんびらを抜いて土手を上がって行った。
ナシエラはそれで初めて、男たちが帯刀していることに気付いた。
手入れの悪い無骨な山刀であったが、ぎらぎら光る刃の輝きは禍々しかった。
刃面の曇りや帯に差した鞘に付着した黒い染みを見れば、男たちがそれを振るったことがあるのはナシエラにもわかる。
男たちはナシエラの脅えを嗅ぎ取って、口元を歪めた。
「まぁ、抵抗しなきゃ荒っぽいことをしねぇよ。――おい、誰か。お姫さんのために服をかっぱらって来な」
「素っ裸で構やしねぇじゃねぇか」
「阿呆。こんな別嬪をそんな格好で歩かせて見ろ。飢えた野獣どもが殺到してくらぁ」
男は肩を竦めて言うと、仲間を追い払った。
川辺には2人の男が残った。
彼らは互いに耳打ちしてナシエラを指しては、何事か話し合っている。
下卑た笑いが彼女の許まで届いた。
ナシエラは途方に暮れる。
人数が減ったとはいえ、屈強な男たちから彼女の挫いた足で逃げられるとは思えなかった。
『何をしている。何だ、あの男どもは』
逡巡するナシエラの脳裏に低い男の心声《こえ》が響いた。
彼女は思わず、安堵の叫びを上げる。
「――皇子様」
無意識の深い領域より目覚めたばかりのアストロッドは舌打ちした。
『声を上げるな!莫迦者』
「ご、ごめんなさい」
アストロッドが叱りつけると、ナシエラは悄然として謝罪した。
彼は天を仰ぎたい気持ちになった。
当然、川辺の2人の男は警戒心も露わに周囲を見回し、ナシエラを睨め付けている。
既に腰の山刀を抜いて、いつでも対応できるように身構えていた。
アストロッドは男たちの風体から、差し迫った事態を察した。
シュロウは狂王バルザンの恐怖政治に乱れていた。
ましてや、重税と労役に喘ぐ民の心は荒みきっている。
国から与えられた田畑を耕しても収穫は重税に消え、若者は戦の準備のために兵にとられ、更に残った近親を
狂気の儀式の生贄に攫われる。
民衆は貧困と日々の不安に苦しみ抜いている。
世が荒めば、悪人も増える。
生き延びるために盗人が増え、困窮に耐えかねた民が街道や山道で旅人を襲って盗賊まがいの悪事を働く。
この男たちも、そのような農奴くずれだろう。
アストロッドはこの事態を予測していなかったわけでなない。
ゆえに昼は身をひそめ、姿を隠しやすく見つかりにくい夜に歩くことで人目を避けてきたのだ。
彼らのような盗賊でなくとも、ナシエラの輝くような美しさややんごとなき様子を見れば、悪心うぃ抱く者は多いだろう。
アストロッドはナシエラに対して非常に腹を立てたが、今は彼女を責めている場合ではない。
どうにかして、この事態の打開策を考えねばならなかった。
男たちの態度はとても好意的とは言い難いから、逃げねば悲惨な目に遭うことはわかりきっている。
『武器は?』
「え?・・・あの、護身用の短剣でしたら、衣服の下に」
ナシエラは岩の上に置かれたままの衣服に目を向けて、小声で言った。
『この莫迦者っ!』
アストロッドは怒鳴った。
目算しても、水の中にいるナシエラが短剣を取るよりも男たちに捕らえられる方がはるかに早い。
そもそも、彼女に剣が使えるとは思えない。
アストロッドが苛立ちにじりじりしていると、男の1人に動きがあった。
川辺まで近付いて、汚れたぼろ布を広げて見せたのだ。
「お姫さん、唇真っ青じゃねぇか。上がって来な。これを着ろよ」
ナシエラが小声で「どうしましょう?」と問うてきたが、アストロッドは無視した。
どうしたらいいのか、こちらが聞きたい。
ナシエラは躊躇っている様子だったが、冷たい水に浸かっているのが限界だったのだろう。
水から上がって、布を手にした男の許へ歩き出した。
ナシエラの濡れそぼった白い裸身は優雅な曲線を描き、壊れ物を思わせて繊細に美しい。
蕩けた蜜のごとき髪が裸身を隠すように垂れる様は、幻想的な一幅の絵を見ているようだ。
男たちは魅せられて、感嘆の溜め息を漏らす。
布を手にした男は、裸身のまま、己の前に立った乙女の清らかな美しさに震えた。
彼女は寒さに青ざめ、長い睫毛の先から水滴を零しながら、男の顔を真っ直ぐに見上げる。
男は瞬間、彼女の足元にひれ伏したい衝動を覚え、必死で押し殺した。
「・・・お心遣い感謝致します」
優しい声音でナシエラは言った。
男の手から布を受け取り、震える全身に羽織る。
「お姫さん・・・冷え切っているんじゃないのかい?」
男はひどく掠れる声で呟いた。
先ほどの敬虔と言ってもいい気持ちではなく、堪え難い獣の欲望が彼を襲っていた。
ナシエラは本能的に男の欲望に狂った目に気づき、脅えた。
男の逞しい腕が彼女の華奢な腰を引き寄せ、半ば彼女の足は宙に浮いた。
「いや・・・っ」
ナシエラは男の意図を汲み取って、嫌悪の悲鳴を上げた。
「やめて!嫌です!触らないでっ!」
「おいおい。よしとけよ。勝手なことすると、皆に袋叩きに遭うぜぇ」
仲間の男が苦笑して窘める。
「うるせぇ!」
男は血走った目で仲間に怒声を叩きつけた。
ナシエラのほっそりとした首筋に口唇を押し付ける。
短い悲鳴を上げて、ナシエラは必死で抵抗し始めた。
彼女が無茶苦茶に振り回す拳で男の背や頬が打たれる。
大した痛みでないにしろ、男は苛立った。
「暴れるんじゃねぇ!」
「わたくしに触らないでっ!」
ナシエラは激しく拒絶した。
そして切実な想いのこもった声で助けを求めた。
「助けて!あぁ、ヴィロッサ!」
その瞬間、男の狂暴な怒りが爆発した。
ナシエラは男の厳つい手に両頬を続けざまに打たれ、小さく呻いて昏倒した。
野卑な男の暴力は彼女には手酷い衝撃だったのだ。
「おい、やり過ぎだろうが。娘っ子相手に!」
仲間の男が見かねて、興奮した男をぐったりした娘の体から引き離す。
気絶した娘の体は抵抗なく、頽《くずお》れた。
「何やってんだ。傷物にしちまったら、価値が下がるだろうが」
「うるせぇな。あんな別嬪、二度とお目にかかれねぇんだ。少しぐらい・・・」
「馬鹿言うな」
2人の男が揉み合い、口論する最中である。
意識を失って倒れていたはずの娘が俊敏に身を起こし、2人の背後を走り抜けた。
「おいっ」
男たちは互いの悪感情を脇において、娘を目で追いかけた。
彼女は驚くべき身のこなしで素早く目指す岩の上に飛び乗り、きちんと畳まれた着衣の下に手を入れて探った。
彼女は着衣の下にひそませてあった護身用の短剣を手にすると、慣れた手つきで鞘を抜いた。
娘はにやりと、その甘やかな唇を歪ませる。
「あの愚かな女を眠らせてくれたことだけは礼を言ってやろう、下郎」
夕闇の眼を細め、傲然と顎を上げて――、アストロッドは言った。
ナシエラが意識を失ったのは偶然であったが、まったく幸運であった。
アストロッドは激しい動きに辛うじて肩に引っ掛かっていたぼろ布を掴んで、無造作に放った。
眩い乙女の裸身が露わとなる。
乙女の顔に羞恥はない。
柳眉を逆立てて剣呑に眼を眇《すが》め、女神のごとく麗しい顔を無残に歪めている。
男たちはひどく戸惑った顔をして、アストロッドを見つめた。
美しい娘の変貌を信じかねているのが、表情に動揺となってありありと表れていた。
「馬鹿なことは止めねぇか。痛い目をみたかねぇだろ?」
男たちはようやく驚きから覚めて、忠告した。
アストロッドを宥めるように手を差し伸べて、慎重に近付いていく。
彼はそれを侮蔑の眼差しで見た。
「――卑賊の分際で騎士の真似事など片腹痛いわ。鍬や鎌と、剣が同じだとでも思っておるのか。愚か者が・・・」
男たちの顔が見る間に怒りに赤黒く染まった。
アストロッドはその様を高揚した気分で観察した。
奴らは数に任せて刃物を振り回すしか能のない、急ごしらえの盗賊どもだ。
体の弱いアストロッドにとっては楽しい鍛錬ではなかったが、貴族の嗜みとして、武術や馬術は一通り身に付けている。
剣の心得もない山出しの男ごときに負ける気はしない。
アストロッドは短剣を高々と持ち上げて宣告した。
「わたしへの侮辱、死をもって償え。我が剣で死することを幸運に思うがいい!」
「うおおぉぉっ!」
男の1人が怒りに吼えた。
先程、ナシエラに体を覆う布を与えた方の男であった。
むさくるしい髭に覆われた顔を、憤怒に染め、巨躯《きょく》を突進させてくる。
仲間の男が唖然と見送る。
「まずはおまえか・・・」
アストロッドは感慨を覚えずに、独白した。
男は厳つい手を伸ばして、アストロッドを捕らえようとする。
彼は腰を落とした体勢で待ち構え、男の手を上体を捻ってよけた。
そして1歩を深く踏み込む。
男の胸に自ら飛び込む形となって、覆い被さるような巨躯に全身で体当たりする。
ドンッ、と衝撃。
アストロッドは体重を掛けて、男の肉に短剣の刀身を柄まで深々とうずめた。
左胸の上部、肋骨の間に巧妙に刀身を滑り込ませた致命的な一撃。
男は不思議そうに、自らの胸と薄く笑う娘の顔を見比べた。
声にならない息の音が洩れ、男の顔にゆっくりと死の恐怖が忍び寄ってくる。
アストロッドは無造作に男の胸に埋めた短剣を捻った。
男の唇から大量の血液が吐き出される。
男は白目をむいて、ゴボゴボと血泡を溢れさせながら喉を不気味に鳴らし、前のめりに倒れた。
アストロッドは足でうつ伏せに倒れた男を引っ繰り返した。
男が腰に佩《は》いた山刀を抜き取り、首を嘆かわしげに振る。
「ふん・・・。下賤の身に相応しい刃物だな。まぁ、いい」
アストロッドは女の手にはいささか重すぎる山刀を握り、後方を振り返った。
仲間の死にざまに目を奪われていた男は、か細い呻きを漏らした。
男は慌てて腰の山刀を抜いたが、落ち着き払ったアストロッドを見る目には迫力がない。
血糊を浴びて、美しい顔や髪を汚した娘の姿は凄まじい。
悪意を帯びて吊り上がる瞳は険しく、ほとんど笑っているような唇を赤い舌が艶めかしく舐め上げる。
男は娘の変貌が薄気味悪かった。
幻想絵のように儚げだった娘の美しさは今や紛れもない魔性を露わにして、妖しい艶を刷いている。
麗しき悪の大華が男に向けて1歩踏み出した。
男は悲鳴を上げて娘に背を向ける。
彼はまろぶように逃げ、無我夢中で土手の斜面を駆け上がろうとした。
しかし足が滑って、堆積した柔らかい腐葉土ごと斜面を滑り落ちる。
男は両足に激痛を感じた。
猫のように密やかに男のあとを追ったアストロッドが、彼の両足を斬り払ったのである。
男は激痛に歯軋りしながら身を捩って振り向き、迫る凶刃に対抗しようと山刀を持った手を掲げた。
アストロッドは男の無軌道な攻撃を介さず、正確な一撃で彼の利き腕を深々と貫いた。
「ぐぎゃあぁあああっ!」
男は絶叫した。
彼は激痛のあまり霞む目を抉《こ》じ開けて、恐ろしい娘の姿を探した。
娘は悶絶する男を冷酷に見下ろしていた。
沈む夕日が辺りを禍々しい血色に染め、娘の右半分もその禍々しい色に染まっている。
それは彼女に相応しい化粧であった。
男は破邪の言葉を呟く。
「お、おまえは魔物か・・・っ」
アストロッドは堪えきれずに、くつくつと喉を鳴らした。
残虐な高揚感に瞳を昏く輝かせ、彼は寛容に男の問いに答えてやる。
「いいや、違うな・・・」
アストロッドは喉を仰け反らせて、空に噛み付くように哄笑した。
彼は手にした山刀を高々と振り上げる。
「死出の土産にくれてやる。持っていくが良い。さぞ素晴らしき煉獄がおまえを待つだろうよ!――わたしは
悪魔の皇子!」
男の恐怖に青ざめた唇が何か言いたげに開いたが、アストロッドは興味がなかった。
その時ちらりと、本当にちらりと、アストロッドは王女がこれを知らずにすむことを安堵した。
アストロッドは掲げた山刀を渾身の力で振り下ろした。
(5)
アストロッドとナシエラは逃亡の旅を続けた。
幾日も辺鄙な道を行く。
ただ、今までよりも格段に人間的な旅になった。
眠る場所は相変わらず草むらであったが、アストロッドは着衣や食料を何処からか調達してくるようになった。
野菜やパンや絞めた鶏――。
ナシエラは不審がったが、アストロッドは口を噤んだ。
アストロッドは手に入れた山刀を手に、夜半、人里に近付いては盗みを働いているのである。
人に見付かった時は刃物で強奪するのも辞さない。
アストロッドはそれをナシエラに話す気にはなれなかった。
彼女には購《あがな》った偽りを話した。
ナシエラもそれで納得したわけではなかろうが、アストロッドが明かさない限り、彼女の疑惑はただの推測でしかない。
だが、やがてナシエラの疑惑が疑惑以上のものに変わる日がやってきた。
アストロッドたちは窃盗と強奪の旅の末に、遂に朝日を浴びて輝く海面を見出した。
海岸は間近であったが、既に夜が明けている。
アストロッドは逸る心を静めて、その日は夜を待つことにした。
最後になって焦ることはない。
逃亡者である以上、用心に用心を重ねるに越したことはないのだ。
アストロッドは街道から離れ、十分距離を取って、身をひそめるに適した場所を探した。
程なく、褥《しとね》とするのに丁度良い茂みを見つけ、腰を落ち着ける。
少し腹ごしらえをしてから汚い布に体を包んで横になった時、彼は王女の目覚めを知った。
自らのものとしてなめらかに動いていた手足が動きを止め、体の支配権が鮮やかにナシエラに移り変わる。
「・・・海の匂いがしますわ・・・」
ナシエラは夢心地で呟いた。
アストロッドは鷹揚に頷く。
『海が近いからな。喜べ、今夜には海に出るぞ』
「海・・・?」
『万福の国《ルーディルン》に向けて船出するのだ。嬉しかろう?』
アストロッドは上機嫌で言った。
ナシエラは横になったまま、小さく頷いて嬉しそうに笑った。
「・・・あぁ・・・。わたくし、何てお礼を申し上げたらいいのか・・・。皇子様、すべてはあなたのおかげですわ」
『気の早い娘だな。まだ、万福の国《ルーディルン》には着いておらんぞ。かの国には潮流の影響もあろうが、
2日といったところだな。・・・途中で船が転覆すれば一生辿り着けんが』
「意地の悪い方」
アストロッドはくっくっと笑った。
ナシエラは少し怒ってみせたが、その柔らかな唇はすぐに解けて甘い微笑を浮かべた。
だが彼女は唐突に悲しい溜め息をついた。
「・・・わたくしったらいやな娘ですわ。国のために心を決めて嫁いで来て、今、義のために戻ろうと決意した
はずなのに、結局、自らのために喜んでいるのだわ」
『懐かしいか?』
アストロッドが問い掛けると、ナシエラは苦く唇を震わせる。
瞼を閉じて、深々と息を吐いた。
「懐かしい・・・。えぇ、とても。故国を思う時、わたくしの胸は切なく痛みます。わたくしの美しい国・・・。お父様、懐かしい人々、――そして、わたくしが永遠に失った・・・、わたくしの・・・騎士」
最後の彼女の言葉は絶えんばかりだった。
『騎士?』
「えぇ。高潔な若い騎士・・・。ヴィロッサ=マクリール卿。わたくしの愛する御方です」
アストロッドは何故か、ひどく刺々しい気分になった。
『ほう・・・。では、おまえはその美しい自己犠牲をもって真の愛を捨て、この世で最も危険な男に嫁ぎ、暗い運命を
背負ったというわけか。これは愉快!』
ナシエラは美貌を曇らせて目を伏せた。
彼女は悲しげにまばたいたが、涙は見せなかった。
「わたくしの幸せと愛は、故国を犠牲にすることでしか貫けないものでした。・・・だから忘れようとしたのに、
今もなお、彼の面影がわたくしを苦しめるのです」
ナシエラは唇を噛んだ。
「あの方の澄んだ瞳を思い出すだけで胸が詰まります。――わたくしは本当はもう一度あの方にお会いしたいだけなのかもしれません。・・・ごめんなさい」
彼女は喉にからむ声で言った。
アストロッドは沈黙した。
苦々しく溜め息をつく。
『わたしは女の慰め方など知らぬ』
「・・・はい」
ナシエラは恥じ入ったように俯いて、それから痛々しく微笑んだ。
「埒も無いことを申し上げてごめんなさい。皇子様、港からはどんな船に乗って万福の国《ルーディルン》に渡りますの?わたくしが参った時は迎えの船の航海で・・・」
『港?無知もここに極まれりだな。言っておくが、船らしい船を期待すると後悔するぞ』
「え?」
アストロッドは呆れて、軽蔑の溜め息をついた。
『港や大きな町の海岸なぞに近付いたら、追手に見付けてくれと言っているようなものだ。そもそも、旅券も乗船券も
ない身で、どうやって船に潜り込む?・・・いいか。四方を海に囲まれた島国から逃げる交通手段は船しかないんだ。
わかり切っている。船の積荷、乗客に対しては厳重な検閲が行われるものと決まっているんだ』
「では、どうやって海に出るのです?船なくしてどうやって外洋を渡るおつもりですか?」
アストロッドは皮肉っぽく嗤う。
『泳いで渡ると言ったら?』
「そんな・・・、無茶です!」
鵜呑みにして顔を青ざめさせるナシエラに、アストロッドは気分を害して舌打ちした。
『本気にする奴があるか!・・・船はある。おんぼろの貧乏船だがな。夜になったら海岸へ下って漁船を奪って
船出する。――わかったら、少しは黙ってわたしを眠らせろ』
ナシエラは息の呑む。
アストロッドは自らが口を滑らせたことに気が付かなかった。
ナシエラが目を閉じ、体を眠らせる努力をすると、アストロッドの意識はたちまち深い眠りに落ちていった。
彼女はまんじりともせず、彼が眠るのを待って、身を起こした。
傍らに置かれた荷物を探る。
掻き回した荷の中に布に巻かれた不吉な形の者を見出したナシエラは、震えながら布を解き、中身を取り出した。
それは幅広の無骨な山刀だった。
ナシエラは重い山刀の柄を右手で握って、左手で押さえた鞘から抜いてみる。
手入れの悪い、だが恐るべき狂気の刃面が露わになった。
ナシエラは刃面を見つめ、山刀を取り落とした。
ナシエラの疑惑は確信に変わった。
正午を過ぎた頃、漁業で細々と暮らしをたてる鄙びた漁村に不釣り合いな珍客が現れた。
珍客はみすぼらしい襤褸《ぼろ》を頭から被り、潮風に翻らぬよう胸元で掴み押さえている。
人目を忍ぶ出で立ちだったが、体つきの華奢さや立ち振る舞いから女であることは明白だった。
女は浜辺で立ち働いている漁師たちの様子を眺め、躊躇うように離れた場所を行ったり来たりしていた。
浜にいた漁師たちは、この奇妙な女に胡散臭そうに注目した。
漁師の1人、ワーグは漁に使う網を点検しているところだった。
彼はその手を止めず、無心を装いながらも不審な女を横目で窺う。
女は注視されていっそう困惑し、所在なげにうろうろと歩き回っている。
2人ばかりの若い漁師が女にちょっかいを出そうと近付いていく。
すると女は踵を返して男たちから逃げ、ワーグに真っ直ぐに歩み寄ってきた。
浜の濡れた黒い砂を歩き辛そうに踏む女の足運びは優雅だった。
女はワーグの横に立って、歩を止めた。
「・・・もし・・・」
女は囁くような声音でワーグに呼びかけた。
その声は高く澄んだ若い女のものだった。
ワーグは網を点検する手を休めず、顔だけ面倒くさそうに女に向けた。
「お邪魔してごめんなさい。・・・あの、お願いが」
聞き慣れない女の上品な言葉遣いに、ワーグは面食らう。
女への不信感は高まり、彼は女を睨み据えるようにして立ち上がった。
「儂に何か用か?」
長年荒海と戦う内に、深い無数の皺が刻み込まれた厳めしい海の男の顔を、女は真っ直ぐに見上げる。
「あなたの船をわたくしに譲っていただけませんか」
ワーグは思いも寄らぬ依頼に驚き、続いて獰猛な顔付きになった。
「おめぇは儂をなめとるのか。大切な船をなんで、おめぇに譲らにゃならねぇんだ!」
「ごめんなさい・・・。無理は承知しておりますが、どうしても必要なのですわ。――あの、今は持ち合わせが
無くて・・・。代わりにこれでお支払いしても宜しいでしょうか」
女は懐から布に包まれたものを取り出した。
彼女が無防備に布を解くと、黄金の輝きが目映くワーグの眼を射た。
ワーグは慌てて女の腕に飛び付き、黄金の光を放つ物を布で隠して、周囲を用心深く見渡した。
幸い、ワーグと女の遣り取りを興味津々で窺っている他の漁師たちは布の中身を見損ねたらしい。
彼らの様子に好奇心以外のものが見当たらず、ワーグはほっとした。
一瞬だったが、ワーグは黄金細工に色取りの宝石が埋め込まれた短剣を見たのである。
間違いなく、素晴らしい値打ち物だった。
それに周りの者たちが気づけば、どんな状況になるかは目に見えている。
殺し合いにまで発展しかねない奪い合いになるのは必定だ。
それほどに皆が貧しい。
ワーグは身震いした。
夢にまで見たお宝が、今、彼の手の中にある。
まさしく富の輝き・・・、飢えた貧困という悪魔から彼を助けてくれる唯一ものだ。
しかしワーグは内心の歓喜とは裏腹に、すぐに飛びつくことを自制した。
ワーグは気乗りしなさげに首を振ってみせる。
「娘さん。・・・いいかね、儂にとっては船は命にも代えがたいものだ。これで儂と妻は命を繋いでいるんだぞ」
女は悲しげに俯いた。
「我が儘を申し上げて申し訳なく思います。他にいくつか真珠もありすわ。・・・どうか、これでお譲りくださいませ」
それ見ろ、まだお宝を隠し持ってやがったぞ、とワーグは思った。
彼は笑いを堪えるのに一苦労した。
その時、海よりの風が俯いた女の被った布を吹き上げた。
女は短く声を上げて、翻った布を捉まえて深く引き下ろす。
ワーグの皺深い顔に動揺の色が走った。
女は被った布をきつく押さえている。
もう女の顔は被った布が覆い隠していたが、襤褸《ぼろ》の下から彼女の髪の一房零れた。
――この世のいかなる至宝の輝きにも勝る黄金巻毛。
ワーグの面に昏い歓喜が現れた。
彼は再び周囲を見渡して、この思いも寄らぬ幸運が自分だけのものであることを確認した。
「あの、それで・・・。どうでしょうか?お譲りいただけますか?」
不安げな声にワーグが視線を戻すと、女は困り果てた様子で彼を見つめている。
ワーグは厳しい目元を細め、豪快に笑った。
こうして顔中で笑うと、彼の顔は思わぬ親しみ易さで他人《ひと》の心を和ませる。
「うーん。参っちまったなぁ。だがまぁ、しょうがねぇ。娘さん困ってるみたいだしな。こういうご時世だからこそ、
助け合わなきゃなんねぇんだ。――娘さん、あんたに儂の船を譲ってやるよ」
ワーグは胡麻塩頭を掻いた。
浜辺に揚げたみすぼらしい舟のへりを手の平で叩き、好意的に笑いかける。
女はつられて微笑み、有り合わせのぼろ坂を打ちつけて造った小舟をいとおしそうに見つめた。
「よかったわ。あぁ、これで・・・。有り難うございます。ご好意に感謝します!」
女は感謝の声を上げて、ワーグの手を白魚のような手でそっと押し包んだ。
「そんなに感謝されるとくすぐってぇよ。――しっかし、舟で何をするんだね?まさか外洋に出るんじゃねぇだろうな?
海は娘さんには厳しすぎると思うんだがなぁ・・・」
「はい。ご忠告有り難うございます。何とかやってみますわ」
女は儚く微笑んだ。
「そうか。どんな事情があるのか知らんが、あんたみたいな娘さんが可哀相になぁ。苦労しているんだろう。全く、
何て世の中だ!・・・あぁ、娘さん。儂はあんたのことが気に入っちまったよ。どうだい、今夜一晩、儂の家で
休んでいかんかね?見たところ、ろくな生活していないようじゃねぇか」
「いいえ、お構いにならないで。申し訳ありませんわ」
女はワーグの勧めを辞退したが、彼は笑って女の背を叩いた。
「遠慮はなしだ、娘さん!こうやって話したのも何かの縁じゃねぇか。――儂と嬶《かかあ》だけの汚ねぇあばら屋だから気にすることねぇよ!腹に何か入れて、ちと休息してからでも、出発するのは遅かねぇだろ?な?」
女はワーグを見つめ、それから深々と頭を下げた。
「御恩は忘れません・・・。ありがどうございます」
細い肩が嗚咽に震えていた。
深夜のこと。
貧しい家屋に薄明かりが灯っていた。
木のテーブルの中央に動物性油脂の蝋燭を1本置き、その頼りない黄色い光を貪るように中年の男女が2人、
身を寄せ合っている。
厳しく老け込んだ浅黒い顔の男と、ぎすぎすと痩せて顔色の悪い女の夫婦である。
2人は2間続きの向こう部屋を窺いながら、ひそひそと言葉を交わしていた。
「・・・眠ったのか?」
「あぁ。さっきちゃんと確かめてきたよ。ぐっすりさ。朝まで起きやしないよ」
ワーグが問うと、妻が請け合った。
「だけど、驚いたねぇ・・・。お前さんがあの娘を連れてきた時にはさぁ・・・」
ワーグはにやりと片頬を歪めて自慢げに頷いた。
「儂はあの娘の顔をチラッと見た時に、ピンときたんだ。前に城の兵士どもが捜し回っとったお尋ね者の
娘だってな。・・・金髪、紫の瞳、ちょっとここらじゃみられねぇくらい別嬪だって、奴らが言っとったことも
ちゃんと憶えとった」
「ふん。税金の取り立てぐらいしか真面目にやらない威張りくさった役人どもが、ずいぶん血相変えて捜してたからね。
あの娘、ただの罪人じゃないよ」
妻はひそめた声で言った。
ワーグは無関心に首を振る。
「あの娘が何者かなんぞ、儂らには関係ないこった。――隠し持っとったお宝はあらかた巻き上げてやったし、
あとはあの子をどうするかだな」
「どうするって、そりゃあ・・・」
「役人に突き出すか?褒美は貰えるのかね?」
「馬鹿なことをお言いでないよ!」
妻は目を剥いて、語気鋭く吐き捨てた。
彼女は憎らしげに夫を睨んだ。
「役人に突き出すだって?そんなことして一体、何の得があるってんだい!?」
「しかし、おめぇ・・・」
「役人があたしらに何かいいことしてくれたのかい?あいつらは害虫だよ。威張りくさったケチの糞野郎ども!娘を
突き出したところでびた一文寄越しやしないよ。偉そうなお誉めの言葉をくれて、それでお終いさ。なんだって、無能の
おべっか使いどもにむざむざ手柄立てさせていい思いさせてやらなきゃならないんだい!」
身を震わせての厳しい罵りには、役人に対する根深い恨みが巣食っている。
国の威信を借り受ける小役人は、いつの時代も民衆に煙たがられ嫌われるものであるが、特に国が病み衰えると
民衆の感情は嫌悪を越えた憎悪にまで高まる。
諸悪の根元である狂王バルザンの時代から働く子飼いの官史《かんり》だ。
税を搾り取り、儀式の生贄にするために人攫いまがいのことまでするときては、民衆が蛇蝎《だかつ》のごとく役人を
忌み嫌うのも無理はなかった。
ワーグも例外ではなかったので、妻の罵倒に気圧されながら賛同した。
「そりゃあそうだが。あの娘をどうするんだ?役人に突き出さないとすると・・・」
妻はワーグを軽蔑の眼差しで見た。
「決まってるだろ。あんなに綺麗で若い娘なんだ。きっと、いい値が付くよ」
「売っ払うっていうのか?・・・そりゃいくらなんでも・・・」
ワーグは娘の気だての良さを思い出して、良心が痛んだ。
妻は苛々と爪を噛んで、渋るワーグを睨みつける。
「何を躊躇っているんだよ!構うもんか。あの娘みたいに無防備で世間知らずの小娘は遅かれ早かれ、痛い目に遭うのさ。それが今だってだけじゃないか。――あたしらには金が要るんだよ。こんな生き地獄から抜け出すための金が!」
妻の削げ立った頬に蝋燭の暗い陰影が踊る。
ワーグは鬼気迫る妻の形相に半ば恐れを抱いて、頷いた。
妻は勝ち誇って荒々しく言う。
「このご時世に人の親切なんて何処に転がってるってぇんだい。――そうとも、騙される方が馬鹿なのさ!」
カタと、背後で小さな物音が立った。
夫婦は身竦み、慌てて背後を振り向く。
隣室の建て付けの悪い扉が薄く開いていた。
扉の奥の闇の中から白い手が伸びる。
続いてぞっとするほど美しい女の顔が覗き、隙間からほっそりした肢体が滑り出た。
寝室で休んでいたはずの娘だった。
娘は扉に背を凭れ掛からせ、柔らかな笑みを含んだ瞳で凍り付いた夫婦を見た。
「娘さん・・・、あのね・・・」
妻がいち早く驚きから覚め、声音を動揺に引き攣らせながら優しく取り繕った。
娘は寝乱れ縺れた金髪を表情を隠すように右頬に垂らして、払いのけもしない。
彼女は紅唇を歪めた。
「ふっ・・・、ふふふ。くっ、くっ、くっ」
娘は含み笑う。
娘の押し殺した笑い声を聞いて、夫婦は直感的に彼女がすべてを聞いていたことを悟った。
妻の顔がみるみる醜く歪む。
妻は敵意に満ちて娘を睨み、ワーグに向けて叫ぶ。
「何やってんだい、お前さん!あの娘をとっ捕まえて、ふんじばっちまってよ!」
妻の金切り声に、ワーグの心にも悪意が忍び寄ってくる。
こんなにも荒みきった世の中で、無知で騙される痛みを知らずにいられること自体が許されざる罪ではないのか。
(儂らはこんなにも苦しんでいるのに!)
ワーグは肩をそびやかし、娘を威圧するように睨め付けて、ゆっくりと近付いた。
娘は引き攣るように嗤っていたが、やがて1つ弱々しい空咳を零して笑い止んだ。
彼女の唇から嘲笑は霧散した。
娘はワーグを静かに見やる。
ワーグは不安を感じた。
この娘はこんな顔をしていたか?
――こんな凄まじい荒んだ眼の色をしていたか?
娘は疲れたように溜め息をついた。
虚ろな目で、近付くワーグを見つめ続けている。
「・・・莫迦め・・・。愚かな女め・・・」
娘は細い、苦痛の滲む声で呟く。
「心の何処かでは気づいていたくせに・・・。騙されてやるのか。自らではなく、こんな下司も哀れんで・・・。
向けられた悪意に何度傷付いても、おまえは誰かを信じる・・・。いや、信じたいと願うか」
娘は僅かに俯いた。
「・・・なぜだろう。わたしはもうその心を愚かとは思えない」
「お前さん!早くその娘をやっちまってよぉっ!」
妻の恐怖に満ちた悲鳴が響いた。
娘が顔を上げる。
その顔――心の暗黒が薄い皮膚越しに染み出した、世にも醜く凄惨な顔。
これはあの娘じゃない、とワーグは悟った。
彼はなんてものに手を出してしまったのか。
娘の手に握られた山刀が鈍い光を反射するのを、ワーグは悪夢のように見た。
彼の喉から悲鳴が迸った。
――月さえない、闇の支配する夜、一艘の粗末な小舟が暗い水を湛えた大海に漕ぎ出した。
外海は、アストロッドの想像以上に手強かった。
荒波は高く、潮流は刻一刻と変化し、気を許すととんでもない方角へ流されてしまう。
襤褸布で作った帆で何とか進行方向は調整できたものの、海と戦って望む方角へ舟を向けるのは至難の業だった。
アストロッドは正座の位置や太陽の観測によってある程度の方角を測ることができたので、大海原を漂流するはめに
なることだけは避けられたが、昼夜ともに目覚めていなければならなかった。
彼は、ナシエラが目覚めている間は彼女に指図をし、夜間は1人で舟を操った。
水平線以外に何も見えない海の風景はひどく不安を誘う。
時間感覚や距離感覚が薄れ、孤独が募ってくる。
夜になれば一入《ひとしお》だ。
だがアストロッドは不平不満を口にしなかった。
アストロッドのナシエラに対する態度は、今までとはどこか違っていた。
ぶっきらぼうで尊大なところは変わらないが、時折、ひどく優しく振る舞う。
この時も、アストロッドは殆ど恭しいとさえ言える優しい心声《こえ》でナシエラの名を呼んだ。
『・・・ナシエラ。今日で2日目だ。早ければ今日中におまえの国に着くぞ。しかし、相当流されたからな。
今晩には無理かもしれん』
「はい」
『心配するな。食料は余分に積んである。・・・ろくな物がなかったが』
「あの、皇子様・・・」
『なんだ?』
ナシエラは舟に積み込まれた荷物の中から何かを探し出そうとするように視線をさまよわせる。
目が厳重に布で梱包された細長いものに溜まると、表情がそれと知らぬほど微かに曇った。
だが彼女は言いかけた言葉を半ばで呑み込んで、ただかぶりを振るに留めた。
「いえ・・・、何でもありません」
打ち寄せる荒波を始終頭から被っているので、ナシエラの全身はずぶ濡れだった。
波は小舟を激しく揺らし、波から波へと遊び渡す。
彼女は船に乗るのは2度目だった。
安全な大型船で海を渡るのとはわけが違う。
正直生きた心地もしないに違いなかったが、彼女は青ざめた唇を微笑ませた。
「――わたくしたちが食べるよりも多くのものを、波が攫《さら》って食べてしまいましたわね」
『はっ、自分が攫われずに済んだことを感謝するのだな。これでも波は穏やかな方だぞ。幸運だったな』
アストロッドは意地悪く言った。
『だが今のところ雲も無いようだ。このまま海も時化ることなく、万福の国《ルーディルン》に辿り着けるだろうよ。
――わたしを信頼しろ』
「はい。・・・あなたを信じます」
ナシエラは、その優しい声音がどれだけ甘く、アストロッドの胸を打つかを知らない。
それは痛みを伴うような切ない甘さで、いつからか、気がつけばもう長いこと、アストロッドは彼女の声に
見せられている自分自身に気付かされる。
ナシエラは無邪気に瞳を和ませる。
「なんだか・・・。皇子様、最近お優しいわ」
『ば、莫迦者!わ、わたしは・・・っ』
「うふふ」
焦るアストロッドにナシエラは忍び笑う。
『何が可笑しい!ふん、おまえはもう眠れ。楽しい故郷の夢でも見ていろ!』
「そんな・・・」
『おまえが起きていたところで何の役にも立たん。おまえのおかげでまた針路がずれている。――いいから、眠れ。わ、
わたしを信じていると言ったろう・・・』
アストロッドの心声《こえ》はごく小さく、そして思いやり深く響いた。
彼女は素直に頷く。
「はい、皇子様」
ナシエラは言われた通り、濡れた身体を船底で丸めて目を瞑った。
寒くてとても眠れたものではなかったが、彼女はじっとしていた。
『ナシエラ王女』
静かなアストロッドの囁きが彼女の耳に届く。
『万福の国《ルーンディルン》に着く前に話しておきたいことがある』
「はい」
『わたしはおまえに多くの嘘をついている。騙されているのだと知っておけ』
アストロッドの言葉に、ナシエラはそっと息をつく。
「嘘、ですか?」
『そうだ。そもそも、おまえに国に帰還するよう勧めたのは、おまえのためでも義のためでもない。わたしという
男のことが少しはわかっているだろう?わたしが動くのはわたしのためだけだ、常に』
アストロッドは苦々しく言う。
『わたしはおまえの心の隙に付け入って、おまえを丸め込んだ・・・。わたしはわたしの利のために万福の国
《ルーンディルン》に渡る必要があった』
「その理由をお聞かせくださいますか?」
『ああ。わたしはわたしの身体を取り戻したかったのだ。シェラバッハは恐ろしい男だし、北風の国《シュロウ》の
国主でもある。あれに対峙するなら、わたし1人では到底無理だ。――だからこそ、一軍を動かしたかった。そのために
万福の国《ルーディルン》に赴き、おまえを唆して、わたしの身体の奪回を手助けさせるつもりだった』
アストロッドは淡々と、己の思惑を明かした。
彼の暗い企みを耳にしながら、ナシエラは身動ぎもせずに横たわっていた。
その美しい顔には一片の怒りもなく、ただ微笑みがあった。
「そうですか・・・」
『わたしを謗《そし》らぬのか?わたしはおまえの愛国心を盾に取ったのだぞ。自らのためだけにおまえの愛するものを操って滅ぼそうとしたのだ』
「謗るなんて。あなたがあなたの身体を取り戻したいと願うのは当然のことではありませんか。あまり大きい消失、
過酷な運命です。あなたは偽りに目を瞑ることなく、こうして自らを裁かれたわ。ご立派だと思います。誰があなたを
責めましょう」
『・・・なぜだ?なぜ、罵らない?なぜ、わたしの卑劣さを赦す?なぜだ!』
アストロッドは堪えきれず、呻いた。
『なぜ、おまえはわたしの前に姿を現したのだ?・・・おまえにさえ出会わなければ、わたしは己の卑しさにいつまでも
顔を背けていられたのに!』
「皇子様・・・」
『わたしは・・・わたしは悪魔の皇子だ!あのシェラバッハと、闇の神から同じ血を受け継いだ化け物だ!!』
アストロッドは吼えるように叫んで、すべてを白日のもとにさらす。
『おまえがおぞましいと言った、魂に寄生する魔力は、わたしのものだ!』
アストロッドは啜り泣いた。
『いいや、これは力なんかじゃない。病だ・・・。わたしは惰弱な体のみならず、魂までが病みついて生まれたのだ!
わたしの魂は己の身体を判別することもできない。暗示を受ければ、他人の身体を己のものと誤認し、寄生してしまう。
それがわたしが授かった唯一の力なのだ。闇の皇子として君臨するシェラバッハとは比べるべくもない、惰弱な惨めな
魔力!――あぁ、ナシエラ!わたしは他人の身体に巣食う寄生虫だ!こそ泥だ!・・・でき損なったのだ・・・』
「皇子様!どうぞ、どうぞ、そんな風にお悲しみにならないで」
『・・わたしはおぞましい。おぉ・・・っ』
アストロッドは呻く。
彼がナシエラまでが頬を濡らしているのを知ったのは、悲嘆に酔った後だった。
ナシエラの嗚咽する弱々しい声にアストロッドは胸が潰されそうになった。
『わたしのために泣いているのか・・・?』
「あなたが悲しい人だからです、皇子様。そして、あなたの苦悩を少しも癒してさしあげられない自分が悔しいんです。だって、あなたはわたくしをずっと助けてくださったのに。わたくしは苦しんでいるあなたに何もしてあげられ
ないのだわ」
ナシエラははらはらと涙を零した。
「わたくしはなんて愚かで傲慢だったのでしょう。王女であるというだけで何もかも背負えるような気に
なっていたなんて・・・。こんな風に、わたくしはきっと知らない間に多くの人の嘆きを踏みにじり、聞き流して
いたのに違いないわ。これほど近しい人の心ですら守れないのだもの・・・っ」
『ナシエラ・・・』
アストロッドは溜め息を零すように、ナシエラの名を呼んだ。
「――皇子様、わたくしには何の力もありません。だから・・・お約束はできないのだけれど、わたくしのできうる限り、あなたの身体を取り戻すために手を尽くしましょう。それに、祖国に帰還し父王を諫める役割は、わたし自身が
決意したことです。誰に強要されたわけでもありませんから」
ナシエラは美しく微笑む。
「一緒に参りましょう。いくつかあなたの身体を取り戻す時まで、共にいらして?――あなたを信じています。
その時まであなたと共に生きましょう」
王女は穏やかに言った。
その無垢な心根の優しさは、この辛い旅の合間にも失われることのなかった彼女の天性のものであった。
アストロッドさえ、ナシエラの言葉に嘘偽りないことを理解できた。
アストロッドの固く凍り付いた心のどこかが温かく溶け出していき、癒されていくのを感じた。
ナシエラはそれ以上なにも言わず、アストロッドの沈黙を甘受していたが、やがて小さな欠伸をした。
ようやく眠気が襲ってきたのだろう。
彼女は眠たげに睫毛を瞬かせる。
「ごめんなさい・・・。眠く・・・」
『眠れ』
アストロッドがそっと囁くと、ナシエラは安堵したように目を閉じる。
「おやすみなさい、皇子様」
『アストロッドだ。わたしの名はアストロッド』
「・・・おやすみなさい。アストロッド皇子様・・・」
アストロッドは震えた。
深い歓喜が、ただ名を呼ばれたという、それだけで湧き起こってくる。
ナシエラは眠りに就いた。
快い寝息が甘い唇から洩れ、彼女に代わって、アストロッドが体を支配する刻《とき》がくる。
アストロッドは身を起こすと、すぐさま舟底に溜まった水を桶で掻き出した。
日はとうにとっぷりと暮れて、忍び寄る闇に辺りは暗い。
空には、糸のように細い月といくつかの星が出ている。
アストロッドは位置を確かめ、帆で方角を調整した。
それが済むと人心地ついて、濡れそぼった全身を震わせた。
殺した漁師の家から盗んできた火酒を手にし、栓を抜いて喉に酒を流し込む。
酒は食道を焼き、胃を焼いて、立ちどころに全身を暖めた。
アストロッドは口元を無造作に拭った。
孤独な夜も、この火酒とナシエラの言葉を思い出すだけで楽に乗り越えられるだろう。
「・・・ナシエラ」
アストロッドは飴玉を転がすように、甘い名を舌に転がした。
「美《うま》し国の王女よ。心優しく清らかな姫君・・・。君はわたしを滅ぼすぞ。意図せずして」
彼はそっと円やかな胸の膨らみを押さえた。
「君の内で滅びるのも悪くない・・・。君は泣いてくれるのだろう?浅ましいわたしは君の涙を道連れに逝くことを望む」
口元が優しい微笑みに綻ぶ。
「光の神々は君を愛し給わん。君は輝ける日の下を歩むのが似合っている。・・・だが、君はあまりに優しすぎる。
君にこの世は生き難かろう」
アストロッドは愛しげに眠る乙女に囁いた。
「だからこそ、わたしはここにいよう。君を守るために、君がその優しい微笑みを曇らせることのないように。――
わたしが君の闇となろう。すべての悪も災いも、彼女に仇なせはしない。わたしは君の傷つき易い心を守る棘となろう、
父祖の名に懸け、我が身に流れる血に懸けて。神々よ、この誓約《ゲッシュ》の立合いとなれかし」
アストロッドは真摯な想いで、おそらく最初で最後の誓約《ゲッシュ》となるであろう神聖な言葉を口にした。
己にも神々にも世界にも、すべてに懸けて、全身全霊をもって王女を守護することを誓約する――。
誓約《ゲッシュ》は、特権階級の男子だけに許された、神聖なものである。
あらゆる誓いの中でもっとも重く、その履行に最大級の強制力を課せられる。
誓約《ゲッシュ》を破るのは、己の名を擲《なげう》つも同じこと。
その瞬間に死を以て償いとするのが当然とされた。
名声よりも誉れ高く、誇りよりも厳しく、名よりも尊きもの。
それが男児にとっての誓約《ゲッシュ》であった。
そして異層の眷属であるアストロッドには、それ以上の意味が存在する。
闇の魂にとっては、誓いとは呪縛だ。
ましてや誓約《ゲッシュ》の言の葉は、魂に烙印を押す。
自分で自分の身に、解くことのできない鎖をかけるようなものなのだ。
だが誓約《ゲッシュ》の持つ強制力さえも、アストロッドには必要だった。
彼自身のものがそうであるように、ナシエラを取り巻く状況も決して容易いものではないだろう。
並大抵の意志では彼女を守り抜くことができるはずがない。
――力が及ばないならば、せめて心は鋼鉄のごとく強固であらねばならなかった。
そして彼はもう、彼自身ですら、ナシエラに仇なすものを許すつもりはなかった。
彼女の清らかな心すら守りきれぬ守護者など、誓約《ゲッシュ》の罰に締め上げられて息絶えてしまうがいいのだ。
アストロッドはこれまでのいかなる時よりも幸福だった。
もう、己のものであった肉体は要らない。
滅びるのも恐ろしいとは思わない。
安らぎに満ちた無力感と諦観がアストロッドの心を慰めていた。
――本当はずっとわかっていたのだ。
こうして何もかもから逃げ続けることが、所詮はアストロッドの意地としてしか収束しない、と。
アストロッドは己の呪われた魔力を厭うばかりで直面したことがなく、ゆえに使いこなす術も知らない。
知ろうとしたこともない。
だから苦難の果てに彼自身の肉体を取り戻したとしても、シェラバッハの封縛の魔力が彼の魂がナシエラの体から
出るのを阻害するだろう。
シェラバッハが易々と封縛を解くはずがないのだ。
――絶望的だ。
この困難な原状を打開するには、アストロッドはあまりに無力だった。
振り翳す力がないということへの脱力感。
だがその突き抜けた感情は心地よいといってもよかった。
異母兄に屈したくなかった。
滅びるのが恐ろしかった。
そのすべての苦しい感情が今、安らぎに変わろうとしている。
彼は初めて、滅びる運命を受け入れようと思えたのだ。
たとえそれが不条理でも、今ですら恐怖と切り離せずにいても、虚しい意地を張り通し、残された僅かな時間を
浪費するくらいなら――、諦めてもいい。
それが敗北なら、敗北を認めよう。
必ずしも目に見える形で勝利しなくてもいいはずだ。
愛する女《ひと》のために滅びよう・・・。
――いいや、彼女のために生きてみよう。
彼女と生きてみよう。
「ナシエラ。わたしの・・・光の姫君よ」
彼女はアストロッドに多くのものを与えた。
錆び付いた心を溶かし、欠けた心を癒した。
何の見返りも求めず、自覚もなく。
その無垢な魂にアストロッドは跪く。
けれど彼女には愛する男がいる。
それは確かに胸痛む事実だが、きっとその男は彼女に相応しい騎士だろう。
・・・ナシエラが選んだのだ。
間違いない。
アストロッドはほろ苦く空を仰いだ。
ゆらゆらと星空が揺らめいて、瞬く星明かりが茫洋と滲む。
目の縁から涙が後から後から溢れた。
唇から切ない思いが零れる。
彼女には言うまい。
だから、今だけは許してくれ。
「・・・君を、心から愛している・・・。ナシエラ」
第2章 空《から》の宣言
(1)
船出して3日目の早朝、小舟はルーディルン王国に漂着した。
ナシエラがその故国を離れてから、既に1ヶ月半以上が経過していた。
海上を朝靄が濃く覆っており、アストロッドは慎重に小舟を操った。
帆を下ろし、櫂を手にして前方を確かめながら波任せに進む。
靄は濃く、一寸先も定かではなかった。
そのため、アストロッドは海上にあらざる漆黒の小山を靄の彼方に見た時、自分の眼をまず疑った。
「・・・なんだ、あれは・・・」
アストロッドは目を凝らす。
波を掻いて接近すると、その漆黒の小山と見えたものは闇色に彩色されたガレージ船であるとわかった。
靄の奥から、前方を睥睨《へいげい》する隻眼の鷲の舟首飾りが不気味に現れる。
機動性と攻撃性に優れた船腹の浅い戦船の形は、まさしく密やかに爪を研いで敵を待ち受ける猛菌類を思い起こさせる。
アストロッドは不気味に静まり返った海上にいくつもの軍船が碇を下ろし、あるいは上陸しているのを見た。
アストロッドは悲鳴を押し殺す。
彼はこの艦隊が何であるかをはっきりと悟った。
シュロウの軍船だ。
旗は掲げられていないが、船首飾りの隻眼の鷲がその証拠。
あれは皇太孫であるシェラバッハが好んで使う意匠であるからだ。
櫓を漕ぐ手がわななき震えた。
遅かった。
すべては遅かったのだ!
シュロウの侵攻はすでに始まっていた。
ルーディルンはもはや、その毒牙のあぎとに掛かってしまったのだろうか。
アストロッドは絶望的な気分で漆黒の艦隊を見上げ、唇を噛み締めた。
だが、望みはまだ、絶たれたわけではない。
アストロッドは意を決し、静かに櫓を漕いだ。
波間を滑るように渡って、艦隊から十分離れた海岸に舟を着けた。
崖下の僅かな砂地に舟を押し上げ、舫を岩にくくり付ける。
それから身軽になって荷を纏《まと》めると、近くの浜辺に泳ぎ渡った。
浜に泳ぎついた後は、服の裾を簡単に絞っただけで歩き出す。
浜から街道に出て足を速めて歩き出した途端、背後から大地を蹴立てて疾駆する蹄の音が聞こえてきた。
アストロッドは舌打ちして、街道脇の茂みの中に身をひそめる。
頭上を軍馬を操る一団が走り抜けていく。
灰色の鎧兜に身を固め、略奪品を抱えたシュロウの正規兵たちだ。
彼らは大声で下卑た会話を交わしながら、遠ざかっていった。
アストロッドはそれを見送ると、悪態をついて立ち上がりかけた。
しかし、さらに駆けてくる馬蹄の音を耳にして身を低くする。
今度の騎馬は一頭であるらしかった。
先程嵐のように駆け去った一団にはぐれた者だろうか。
アストロッドはそっと街道を窺った。
然《さ》も有りなん。
小太りの若い兵士が小脇に見目良い娘を抱え、馬上に食料や酒をこれでもかというほど積んでいる。
過積載に馬の足は鈍りがちで兵士がいくら鞭をくれても無茶というものだ。
アストロッドは軽く唇を歪めた。
飛び出す機会を慎重に窺い、兵士が今まさに通り過ぎようとする瞬間、街道に飛び出した。
アストロッドは自らの脇を馬が走り抜ける一瞬に素早く手綱を掴み、半ば身体を引き擦られながら、兵士の前に
飛び乗った。
「おいっ」
兵士が上擦った声を上げる。
アストロッドが手綱を強く引くと、急制動に驚いた馬が竿立ちになった。
若い兵士は小脇に抱えた娘ごと落馬する。
頭から落ちた兵士は低く呻いて昏倒し、彼が攫ってきた娘は男の腕から逃れると、一目散に走り去った。
アストロッドは鼻先で嘲笑う。
「欲を掻くからだ。・・・おっと」
アストロッドは強奪した馬の手綱を持って鞍から降りた。
すっかり伸びている兵士に近付いて身を屈めると、彼の纏っていた厚手のマントを奪う。
濡れて体温の下がった身体に暖かいマントを被って、にやりと唇を歪めた。
「貴様らの皇子が使ってやるのだ。有り難く思え」
アストロッドは馬の鐙に足を掛けて鞍に飛び乗った。
興奮の静まらない栗毛の太い首を抱いて優しく宥める。
彼は栗毛に拍車をくれ、街道を急いだ。
街道を行くと、事態の絶望的な様相が明らかになっていった。
通り過ぎる町や村には略奪と陵辱をほしいままにするシュロウの雑兵が見られ、その数はルーディルンの
首都に近付けば近付くほど増えていくのである。
正規兵でさえ率先して略奪を行っているのだから、徴兵された雑兵どもの振る舞いは目を覆うような酷さである。
彼らは倒した敵の首を腰に下げ、大声で野蛮に笑った。
年寄りや子どもは血祭りにあげ、娘たちを手当たり次第に陵辱するのが彼らの楽しみだ。
民の僅かな蓄えを洗いざらい攫《さら》い、家々に火を点ける。
さながら地獄絵図である。
アストロッドでさえ眉をひそめるような凄惨な戦禍がそこには存在した。
若い娘に目がないシュロウの雑兵たちの魔手がナシエラのきらきらしい容姿に伸びずにすんだのは、
偶然のたまものだった。
先程若い兵士から奪ったマントはシュロウ皇軍の支給品であり、それをすっぽりと頭まで被ったアストロッドは
シュロウの一兵卒に見えたのである。
アストロッドは街道を更に急いだ。
そして辿り着いた街道の高地からルーディルンの王都を見下ろした。
アストロッドの唇から絶望の呻きが洩れる。
「遅かった。やはりもう、遅かった!」
――古国ルーディルン。
詩歌に詠われし花の王都。
古い美しい時代の残像のごとき麗しの都は、今まさに滅びゆこうとしていた。
都の到るところに火の手が上がっている。
国の礎《いしずえ》たる王城もまた燃えていた。
黒煙を上げ、城壁を無残に打ち壊され、陥落した古い王城の姿をアストロッドは呆然と見つめた。
すべては終わった。
ルーディルンはシュロウの猛攻の前に屈した。
棒を呑んだように立ち尽くしていたアストロッドは不意に身震いし、獰猛な獣の唸りを喉奥から絞り出した。
燃え盛る王城に馬首を向け、鎧を蹴って凄まじい勢いで街道を駆け下りていく。
無為な行動であるとわかっていた。
得体の知れない衝動に襲われて、アストロッドは馬を駆り立てた。
アストロッドは灰色のマントを被って、燃える城を当て所なくさ迷った。
ルーディルン王国の兵たちの死骸が山積みになって打ち捨てられ、残酷な遊技に興じるシュロウ兵が敗残兵を
数人掛かりで追い詰めている。
戦いは圧倒的なシュロウ皇軍の勝利でとうに終わっていた。
尖塔にはシュロウの国旗が翻り、美しい装飾は瓦礫となって打ち壊され、人気は無い。
すべて奪い尽くされ、破戒し尽くされた後であった。
それでもなお、アストロッドは何かを求めて、さ迷い歩かずにはいられなかった。
アストロッドはシュロウ国旗の翻る尖塔をぼんやりと見上げた。
それから覚束ない足取りで尖塔の螺旋階段を上がって行った。
螺旋階段を上る途中、まだ乾き切らぬ夥《おびただ》しい人血の中に倒れたいくつもの死骸を跨いだ。
尖塔の最上階は豪華な装飾の一室であった。
そこに略奪の手は伸ばされておらず、その見事な内装はそのまま残されていた。
豪華な壁掛け、瑠璃の水差し、黄金の燭台・・・。
アストロッドはその一室に足を踏み入れた。
辺りを見回したが、生ける者の気配は無い。
部屋には累々と、白銀の鎧を身に着けた騎士たちの骸が折り重なるようにして倒れていた。
部屋の中央に置かれた四柱の天蓋付きの寝台には、立派な衣装を着た壮年の男が倒れている。
男の体には首がなかった。
寝台を血の海に染めた骸を見下ろし、アストロッドは深く嘆息した。
「・・・め・・・」
風の音のような細い声がアストロッドの耳朶を打った。
アストロッドははっと振り返る。
「ひ・・・め、ご無事で・・・」
部屋の片隅で壁に背を凭せ掛け、微かに手を上げた騎士の姿があった。
騎士は瀕死だった。
騎士の背後の壁紙がひどく高い位置から夥しい血で濡れている。
力尽きて壁に体を預け、座り込んだ騎士の下にも血溜まりができていた。
白銀の装甲の隙間を塗って、腹部に深い傷が走っている。
騎士は左手で飛び出そうとする臓物を押し止めているのだった。
傷の深さは一瞥しただけで明らかだった。
彼が失った血の量も合わせて考えれば、手遅れであることは歴然としていた。
アストロッドは言葉を失って瞳を逸らした。
「姫・・・」
騎士は掠れた声で囁く。
アストロッドはその声の響きに切ないものを感じ、彼に視線を戻した。
苦しそうに見えたので、彼の面当てまで下ろした兜の留め具を弛めて外した。
騎士が吐息をつく。
兜を外し頭巾を下ろすと、その下から鳶色の巻き毛が零れた。
騎士は想像以上に若かった。
まだ少年と言ってもいいような幼げな顔立ちで、無邪気そうな唇をしていた。
薄茶の瞳は死に瀕した者とは思えぬ明るさできらきらと輝いている。
だが、そのふっくらとした頬の童顔には隠しきれない死相が表れていた。
騎士は優しい眼差しでアストロッドを見つめた。
「最後にあなたに会えるなんて・・・、思いも寄らぬ幸運だったな。――お帰りなさい、僕の姫。僕の夢にあなたは
毎日のようにいらしていたけど、本物のあなたはやっぱり綺麗だ・・・」
囁きは甘く、愛情深かった。
アストロッドは直感的にこの騎士が何者であるかを悟った。
「――ヴィロッサ?」
驚愕の面持ちで呟いた名に若い騎士は微笑で答えた。
アストロッドは動揺した。
戸惑いと恐怖によって、唇がわなないた。
(これがヴィロッサ。・・・ナシエラの愛する騎士)
恐ろしい嫉妬がアストロッドを苦しめた。
この騎士を見殺しにしてしまえと暗い囁きが生まれた。
だが、死に瀕しても取り乱すことなく、すべてを受け入れたヴィロッサの潔い目からアストロッドは目を
逸らすことができなかった。
彼は煩悶した。
躊躇《ためら》って躊躇って、そして叫ぶように呼んだ。
『ナシエラ、・・・ナシエラ!ナシエラ――っ!!』
3度目の呼び声に応えがあった。
アストロッドの精神は急速に沈み、深い忘我の眠りにあったナシエラの意識が浮上して行く。
ナシエラは強引に呼び覚まされて、戸惑っているようだった。
彼女はぼんやりと辺りを見渡し、そして一瞬、自失した。
悲痛な声を迸らせる。
「ヴィロッサ――っ!?なぜ?どうして、こんな・・・っ!?」
ナシエラは目の前に焦がれた男《ひと》を見た。
だが、再会の喜びよりも悲惨な運命が彼女に悲鳴を上げさせた。
彼女は騎士の体から流れる夥しい生命の色に恐慌をきたす。
「血が・・・血が・・・。こんな、嘘よ!ヴィロッサ、いやぁっ」
「姫・・・?おかしな人だな。突然叫び出したりして」
ヴィロッサはくすくすと笑った。
無骨な籠手の鋼の指を伸ばして、ナシエラの頬を宥めるように撫でる。
「僕の姫はこんなに泣き虫だったかい?あぁ、そうだった。花が枯れたと言っては泣き、鳥が死んだと言っては
泣き・・・」
「ばかっ!」
ナシエラは泣きながらヴィロッサを詰る。
その声の甘えた響きに、彼女の魂の奥にあるアストロッドの心は微かな痛みを覚えた。
「ひどい人!あなたったら、すぐそうやってわたしをからかって。それが高潔な騎士のなさることなの?」
「これは失礼。お許しを、僕の姫君《レディ》」
ヴィロッサはおどけて片目を瞑り、ナシエラの右手を捕まえて手の甲に接吻した。
「―― 一体なにがあったのです。ヴィロッサ。教えてください。なぜ、こんなひどい・・・っ」
ナシエラは気丈に騎士に問いかけたが、途中でその声は上擦り、同時に頬に幾筋もの涙が流れた。
彼女もまた、恋人の胸に灯る命の炎が尽きようとしていることを感じ取っていたのだ。
「姫・・・。あなたのお耳を汚す僕をお許し下さい。もしも・・・、あなたがすべてを忘れて、どこかで平穏に
生きていけるなら・・・」
ナシエラの手を握るヴィロッサの手に切ないような力が籠もった。
弱々しい声とは裏腹に、若い騎士の眼は真摯な意志に輝いていた。
ナシエラは悲しげな目をして彼を見つめ、そっと首を振った。
「できません・・・。それはわたくしに預けられた騎士たちの剣の名誉も汚すことですから」
「・・・愚かなことを申し上げました。あなたは祖国の希望のともし火、我らがご主君、――あぁ、僕の姫。あなたが
どういう人か、僕は知っていたのに」
「いいえ、いいえ、ヴィロッサ。わたくしは怖い、怖くてならないのです。本当は恐ろしいことなど知りたくない
臆病者です。でも・・・っ」
ナシエラの紫の双眸からはらはらと涙の雫がヴィロッサの上に降りかかる。
彼は優しい眼差しで王女を見つめ、ゆっくりと自由な右の腕を差し伸べた。
「抱きしめさせてください。我が姫。・・・お召し物が血で汚れてしまうかな?でもずっと、離れている間も
あなたに触れたかったから・・・」
騎士のはにかんだような囁きは、ナシエラの、彼女自身が幾重にも鎧った王女としての立場を解き放った。
彼女の面が無防備に歪む。
「ヴィロッサ・・・!ヴィロッサ!ヴィロッサ!あぁあああ!!」
泣きじゃくりながら恋人の胸に崩れ込むナシエラを、ヴィロッサの腕が包み込むように抱き止めた。
彼の手が彼女の蜜色の髪を優しく撫で梳く。
凄まじく苦い痛みがアストロッドを貫いた。
暗い炎に魂が焼き尽くされる錯覚を覚え、耐えきれずに意識を閉ざす。
これ以上の痛みを味わうことから逃れ、彼は魂の奥へ奥へと沈んでいった。
ヴィロッサは王女に事の顛末を語った。
一月前、ルーディルン近海の沖合にシュロウの艦隊が現れた。
シュロウはルーディルンを軍船で包囲すると王女の返還を要求したのである。
シュロウ皇国の新王シェラバッハの声明文はこうであった。
曰く、「王女を返却せよ。盗んだ花嫁を返さねば、我が国への赦し難き侮辱とみなし、戦も辞さない」と。
ルーディルン国側は寝耳に水の事態に騒然となった。
王女を人質同然にシュロウへと嫁がせたのも、すべて戦を回避し、自国の安全を図るためである。
当の王女も運命を受け入れて、進んで嫁いで行ったというのに、これはどうしたことか。
国中が混乱の渦に巻き込まれた。
これはシュロウの陰謀だと謗る者もあったし、誰か愚か者が先走って王女を攫ったのだと疑心暗鬼になる者もあった。
後者の場合、王女の周知の恋人であったヴィロッサが真っ先に疑われたが、王女が嫁ぐ際に最後まで反抗した
ヴィロッサは、不敬罪で既に謹慎させられていた。
戦となれば、ルーディルンの軍備ではシュロウ軍に敵うはずもない。
ルーディルン国側は何度も釈明文を送ったが、返答は無かった。
遂に2日後、宣戦布告が為されると共に、シュロウの猛攻は始まったのである。
ルーディルン国軍は最初、海岸線でシュロウ皇軍の上陸を必死で押し返そうとした。
敵の凄まじい進軍の前に総崩れとなり、上陸を許した。
敗走したルーディルン国軍は王城に立て籠もり、籠城策をとって応戦することとなった。
ルーディルンは近隣の国に救援を求めて密書を送ったが、最後まで援軍は現れなかった。
ルーディルン軍は一月間籠城し続け、今朝未明、シュロウ軍はとうとう城門を破り、城壁を越えた。
なだれを打ってシュロウ兵が城内を蹂躙し、弱ったルーディルン軍を打ちのめした。
その徹底的な破戒と殺戮によって、万福の国ルーディルンは滅ぼされたのである。
ヴィロッサは謹慎を解かれ、騎士団の仲間と共に最後まで抗戦した。
国王の寝所を守り、狭い塔の階段で後から後から現れるシュロウ兵と切り結び、行く手を妨げた、
仲間は1人また1人と、敵の刃に倒れ、彼は最後に悟った・・・。
ヴィロッサは階段を駆け上がり、寝所に飛び込んだ。
ルーディルン国王が首を振り向ける。
彼は塔の小窓から外を眺めやっていた王の足下に跪いた。
「もはや、これ以上は持ちこたえられません。――お覚悟を」
「そうか・・・」
王は塔の小窓から火の手を上げている王都をしみじみと眺め直した。
「奴らには古きもの、美しきものを敬う気持ちはないとみえる。まるで憎んでいるかのように破戒しおるものよ」
呟く王の気高い面に苦渋の色がある。
「我が国は滅びるか・・・。卿《けい》の言葉が正しかったな。余はこの美しい国を守りたかった。たとえ愛娘を
悪魔の贄とし、闇に膝を折ろうとも。だが、余のしたことは・・・」
王は深々と溜め息を落とし、ヴィロッサを振り返る。
「余が自害するまでの時を稼げようか?」
「はい、必ずや」
ヴィロッサは悲しみに胸詰まったが、節度を守って、ただ深く頭を垂れた。
王は頷いた。
「塔には火を点けよ。叶うことなら、余が首を敵に渡したくはない」
「御意」
ヴィロッサは最後の王命に服した。
「足掻くか、万福の国王《ルーディルン》」
深く豊かな声が朗々と室内に響き渡った。
王の最後を守ろうと、室内に立て籠もった騎士たちが驚愕する。
「何奴!?」
誰何にくつくつと凍てついた声音が嗤う。
寝台の帳の陰から背の高い男の影が伸びた。
「我が名を問うか?」
声の主はゆっくりとした優美な足取りで、身を隠す陰から歩み出る。
現れた男の均斉のとれた寸高い美身は武装を纏わず、漆黒のマントを翻すばかり。
「我が名はシェラバッハ。魔の国《シュロウ》の国主なり。そなたらには悪魔の皇子の呼称の方が通りが良いか?」
男は痛いほどに凍てついた厳冬の大気を思わせる声でていらく名乗った。
騎士たちの間に緊張が走る。
「悪魔の皇子だと!?・・・おのれ、何用で参ったのだ!」
騎士の1人が柄に手を掛けながら叫ぶと、シェラバッハは冷笑した。
「・・・知れたこと。万福の国《ルーディルン》王の首級《しるし》をあげるためよ!」
言いざま、シェラバッハは漆黒のマントを荒々しく背後に撥ね除ける。
翻ったマントの裏地は鮮血の赤。
シェラバッハは腰に佩いた闇の太刀に手を掛ける。
「手合わせ願おうか、騎士ら!」
シェラバッハは堂々と宣告し、金属の火花を散らして太刀を素早く抜き払う。
騎士たちは応えて動揺を拭いさり、闇の皇子に剣を向ける。
気合いを唇から迸らせて、若い騎士がシェラバッハに襲い掛かった。
シェラバッハは騎士の剣を片腕で受け止め、撥ね除けざま、その胴を無造作に切って捨てる。
騎士は声1つなく果て、己の血溜まりに倒れた。
騎士たちは持てる力の限りを尽くして死闘を繰り広げたが、シェラバッハの唸る殺戮の刃の敵ではなかった。
悪魔の皇子は凄まじき遣い手であった。
その剣技は禍々しいほど冴え渡り、その意志は強靱な鋼であった。
騎士たちは次々に悪魔の皇子の刃にかかった。
それは、まるで優美な死の舞踏を見ているような殺戮だった。
唸りを上げて剣風が巻き起こるたびに血の華が宙を舞い、黒き刃は一陣の旋風のごとく刃向かう者を薙ぎ倒す。
騎士の最後の1人が血煙の向こうに沈んだ時、ヴィロッサは王を背後に守って剣を抜いた。
シェラバッハはいささかの乱れもない美貌を冷ややかに向ける。
もはや室内にはヴィロッサと王だけしか残っていなかった。
勝てるとは到底思えなかった。
だが、ヴィロッサはしごく静かにシェラバッハを見返した。
「我が姫の名にかけて、お相手仕る!」
シェラバッハの唇に薄い微笑が陽炎のように立ち上がった。
最初に打って出たのはヴィロッサだった。
シェラバッハに向けて薙ぎ払った剣が激しい音を立てて受け止められる。
手指から肩まで衝撃で痺れた。
凄まじい剣戟《けんげき》が応酬され、ぶつかりあう刃面が紫の剣花を散らした。
何合めかの攻防の末に、ヴィロッサの手から剣が跳ね飛んだ。
(――ナシエラ!)
愛の誓いに、己が乙女の名を冠せる騎士の剣が空を舞う。
白銀の装甲の隙間を縫って、冷たい刃が深々と腹に食い込んだ。
シェラバッハは恐るべき膂力《りょりょく》で腹を貫く刃を高々と持ち上げ、壁にヴィロッサを叩きつけた。
「ぐはぁぁぁあああ・・・ッ」
ヴィロッサは血反吐を吐いた。
腹を抉り裂かれ、ヴィロッサは力尽きて、壁を背に崩れ落ちた。
シェラバッハはその様を鋭利な瞳で一瞥すると、踵を返した。
ヴィロッサは霞む目を抉じ開けてシェラバッハを呼び止めようとしたが、唇に溢れたのは大量の血痰だけだった。
シェラバッハは無慈悲に寝台へと歩み寄って行く。
ヴィロッサは顔を背けた。
王の断末魔の絶叫が響き渡った。
(2)
万福の国《ルーディルン》はこうして滅んだ。
今この時に、ナシエラを支えてきたすべての愛と思い出は脆く崩れ去ろうとしていた。
彼女の腕の中で、ヴィロッサの息が静かに絶えていく。
「許してください・・・、――我が友、王国のすべての人たちよ。僕は騎士として、守るべきものを守れなかった。姫、
あなたの愛したものも・・・、すべて僕の腕をすり抜けていってしまった・・・」
既に死者のように青黒く顔色の失せた若者はナシエラの膝の上に力なく頭を凭せ掛け、寂しげに呟いた。
「あなたがそぞろ歩いた春の庭、共に連れ立って弾唱詩人《ボルジェ》の引き語りを聞いた大広間、あなたの笑顔を
乗せて揺れる木陰の古い蔦のブランコ――、そのすべて・・・、そこにいたたくさんの人々ごと・・・、思い出を
みな守りたかった・・・」
「いいえ、ヴィロッサ。思い出はここに」
ナシエラは涙の雫を零しながらかぶりを振って、そっと手を己の白い胸に添えた。
「わたくしの騎士、永遠にこの胸に住まう人・・・、あなたはわたくしたちの思い出をお守りくださいましたわ。
あなたが在る限り、誰もがわたくしからそれを奪うことができないの」
ヴィロッサの唇にほんのりと、冬の陽だまりのような微笑が浮かんだ。
薄茶の瞳が温かい愛情で潤んでいく。
「・・・笑って、僕の姫《レディ》」
彼は、細い透き通るような声で囁いた。
「僕はあなたを1日中笑い転がせることができた。今でもその腕は鈍っていないと思うんだけどなぁ。――強情っぱりめ、擽っちゃおうかな」
悪戯っぽく明るい目を輝かせるヴィロッサに、ナシエラは精一杯の微笑で応じた。
涙に歪んだ笑みは決してできのいいものではなかったけれど、彼女の笑みは騎士にとってはこの世のいかなる至宝よりも
貴いものだった。
「きれいだ・・・」
ナシエラは、少年のように無邪気な賞賛を口にする愛しい騎士に身体を寄せる。
2人は間近で互いの瞳の色を映し、微笑み合った。
・・・彼女の、彼の、甘い唇の味を忘れ難く覚えている。
自然に引かれ合うように重なる影は幸福な恋の形そのものだった。
やがて合わさった2人の唇の間から、赤黒い血がどろりと力なくあふれ出した。
その滴りは、色を失ったヴィロッサ唇をそっと紅に染めて、彼のあご先へと流れていった。
ナシエラは息絶えた騎士の瞼を優しく指で撫で下ろす。
そうして瞳を閉じると、微笑んだままのヴィロッサの死に顔はまるで良夢にまどろんでいるように見えた。
ナシエラはヴィロッサの安らかな顔を微笑を含んで見つめ、その血塗れた唇にもう1度口付けた。
命ある者すべてが死に絶えた部屋で、ナシエラはヴィロッサの胸に顔を埋め、その骸を抱きしめ続ける。
愛する騎士の体が冷えていく残酷な事実を彼女は肌で知った。
――彼女の静かな絶望が魂の奥の奥まで細波となって打ち寄せてくる。
傷付いた心を抱えて最奥に潜んでいたアストロッドはその波に揺すぶりたてられ、自我を意識の表面に浮上させていった。
『ナシエラ・・・』
アストロッドは躊躇いながら、閉ざしていた口を開いた。
ナシエラは応えない。
アストロッドには彼女に騎士の最期を看取らせたのが正しいことだったのかわからなくなっていた。
ナシエラは1人で最愛の者との死別を迎えた。
その愛が強ければ強いほど、彼女の傷は深い・・・。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
彼女には酷だが、ヴィロッサの屍を残して、この場を離れねばならなかった。
この塔には火の手は迫っていないようだが、もう城は敵の手に落ちている。
いつ敵兵があがってくるとも知れなかった。
ここはもう、ナシエラにとって安全な場所ではないのだ。
『ナシエラ。・・・そろそろ行こう。ここは危険だ』
アストロッドが辛抱強く呼び掛けると、ナシエラは身動ぎした。
彼女は汚れた騎士の顔を自らの衣服の端で拭った。
「・・・どこにも行きません・・・。もう、いいの。わたくしが守りたかったもの、愛したものはすべて
滅びてしまった・・・」
ナシエラはひどく静かに呟き、ヴィロッサの強張った頬に手を添えた。
『莫迦を言うな!立て、ナシエラ!みすみす命を捨てる気か!?』
アストロッドは心声《こえ》を荒げた。
嫉妬の黒い炎が再び、彼の胸を焼いた。
ナシエラは虚ろな瞳を伏せる。
「・・・愛していたの・・・。もう万福の国《ルーディルン》は滅びてしまったのだから、この人とここに居させて。
わたくしはもう王女ではなく、ただの女なのだから、愛する人の側で思い出を抱いて眠らせて!」
ナシエラは悲痛な声で嘆願する。
『ナシエラ!』
「ごめんなさい、アストロッド皇子様・・・」
ナシエラはほろ苦く微笑んで、ヴィロッサの胸で深く嘆息した。
目を閉じる。
後はもう、宥めてもすかしてもナシエラはアストロッドの声に応えなかった。
時だけが虚しく過ぎて行き、アストロッドは己の無力に歯噛みする。
そして、遂に恐れていた音を聞く。
石造りの冷たい壁に反響する物音。
それは、塔の螺旋階段をごくゆっくりと上がってくる高らかな靴の音であった。
ゆっくりゆっくりと、不気味に反響が近付く。
何者かがこの部屋を目指してやって来る。
『ナシエラ!誰か来る!逃げよう・・・、いや、逃げ場がない。隠れるんだっ』
ナシエラは慌てふためくアストロッドに微笑し、宥めるように言う。
「無駄ですわ。・・・もう。宜しいのです」
『ナシエラ、お願いだ!立ってくれ!』
アストロッドは叫んだ。
ナシエラは首を振り、ヴィロッサの遺体を愛情を込めて抱きしめた。
絶望がアストロッドを覆う。
もう靴音の反響はすぐ近くに迫っている。
最期の一段を、足音が上がり切るのがはっきりとわかった。
重い樫造りの開き戸の蝶番が鳴り、軋みながら扉が開く。
略奪者か殺戮者か・・・。
いずれにしても危険に瀕していることだけは確かだった。
「待ちかねたぞ、我が妃よ」
その何者かが深い声音で甘く言った。
アストロッドは驚愕と恐怖に凍り付く。
――まさか!
ナシエラが虚ろな眼差しを誘われるように声のする方へと向ける。
彼女の視線の中に、階下から吹き上げる風に黒髪を高々と翻らせた、黒衣を纏いし、凄麗なる闇の皇王の姿が映る。
『シェラ・・・バッハ・・・っ』
アストロッドは呻いた。
その呻きにナシエラの呆けた瞳が反応を示した。
彼女の夕闇の瞳に光が甦り、その輝きは狂おしく高まった。
涙が彼女の瞳から零れると同時に、彼女は絶叫した。
「魔の国《シュロウ》の皇王シェラバッハ!あなたを許さない・・・っ!!」
ナシエラは憎悪に震えて立ち上がり、シェラバッハに真っ向から立ち向かった。
彼に向けて俊敏に走りだした彼女は、身を屈めて石床に転がった抜き身の剣の柄を掴んだ。
そのほっそりした刀身の中剣は彼女の指にしっくりと馴染んだ。
――それは計らずも、ヴィロッサの落とした剣であった。
ヴィロッサが王女に愛の忠節を捧げ、ナシエラが自らの祝福を与えた剣だった。
ナシエラは嗚咽する。
「ヴィロッサ・・・、ヴィロッサ!」
彼女は力一杯、手にした剣をシェラバッハに叩き付けた。
シェラバッハは眉を寄せる。
剣を抜くに及ばず、振り下ろされた刃の軌跡から身を躱《かわ》した。
ナシエラの剣は勢い余って背後の扉に突き刺さる。
ナシエラは扉に食い込んだ剣を抜こうと悪戦苦闘したが、無駄だった。
『莫迦者!敵うわけがないっ。剣など捨てて逃げろ!』
アストロッドは唸った。
「嫌です!」と、ナシエラは美貌を激情に上気させて拒否した。
シェラバッハはどこか面白がるように、ナシエラの苦闘を眺めていた。
彼は不意に手を伸ばして、彼女の細い手首を逆しまに捻り上げた。
「あうっ!」
ナシエラは苦鳴を上げて、あっけなく剣の柄から手を離した。
シェラバッハはナシエラの手首を吊り上げる。
華奢な乙女の身体は軽々と宙に浮き、ナシエラは喚きながら、脚をばたつかせる。
「ないをするの!放しなさい!汚らわしいっ!」
シェラバッハは罵詈雑言を気にもとめず、ナシエラを引き摺って大股に歩いた。
彼は粗末な荷物でも放り出すような気安さで、王女を寝台に放り出した。
王女は血を吸った高価な敷布の上に突っ伏したが、気丈にも面を上げた。
更に罵りの声を上げようとした彼女の眼が凍り付く。
彼女は自らのすぐ隣でこと切れた父王を見たのである。
貫禄のある男盛りの肉体と、頭部を失った生々しい首の断面とを。
「きゃあああああっ!!」
ナシエラは悲鳴を上げた。
「いやぁぁぁっ、お父王《とう》様――っ!!」
彼女は恐慌をきたして、父王の骸に縋りつこうとした。
だが、ナシエラの震える手が父王に触れる前に、無慈悲な男が凄惨な死骸を寝台から蹴落とした。
「いやっ、いや!やめて!」
ナシエラが悲鳴を上げて寝台から転げ落ちた死骸を追おうとすると、背後から男の強い腕が彼女を抱き竦めた。
「この、おぞましい悪魔!わたくしの騎士を殺した忌まわしい手で触れないでっ!」
ナシエラは言葉を極めて罵り、身をもがいた。
漆黒の皇王の腕は燃えるように熱く、彼女の抵抗に小揺るぎしない。
布地越しに感じる熱が忌々しく、彼女は喘いだ。
男の身体は逞しく、次第にナシエラは狂わんばかりの恐怖に震え出す。
「は、放して・・・っ。やめて、そっとしておいて。・・・あぁ、助けて!」
シェラバッハは長い優美な指で、震える乙女の項から蜜色の髪を払った。
冷たい指が露わになった白い首をやんわりと掴む。
ナシエラは身震いした。
彼女は今や打ち萎れて啜り泣き、憎い敵に哀願していた。
「やめて、お願いです。お願い、手を離して。・・・いやっ!」
シェラバッハは艶めいた声で笑った。
「どうした?もっと愛らしい声で私を罵ってみよ・・・」
「助けて・・・ッ!あぁ、誰か!アストロッド様、お父様、ヴィロッサ・・・、光の神々よ、お救いください・・・!」
「誰もそなたを救いはせぬ」
シェラバッハは冷徹に言った。
ナシエラはむせび泣きながら、救いを求めて弱々しくもがいた。
ふと拘束が緩む。
彼女は死にもの狂いで男の体の下から這い出た。
広い寝台の上で、男から逃れようとして、冷たい手指に足首を捕まえられる。
シェラバッハは哀れむ眼差しでナシエラを見つめた。
「逃れられはせぬ。我が妃よ」
「誰が、あなたの妃になどっ!わたくしの心は永遠にわたくしの騎士のもの!彼以外の誰の妻にもならないわ!」
「そなたの心など要らぬ。他の男を愛そうが私を憎もうが一向に構わん。だが、私から逃げるな。側にあれ・・・」
シェラバッハは眼差しに、名状し難い感情と痛みを秘めて囁く。
ナシエラの足首に食い込む彼の指は恐ろしく勁《つよ》く、引かれてナシエラは寝台の上を滑った。
血塗れの敷布に爪をたてて抗うが、ゆっくりと鋼の腕の中に誘い込まれていく。
「――お、おまえのものになど、なるものか!おまえのものになるくらいなら・・・」
彼女は悲壮な決意で呟いた。
憎むべき男の誘惑に満ちた腕に抱かれる前に、毅然として彼を睨め付けた。
シェラバッハが目を剥く。
彼は素早く上体を起こすと、ナシエラが意を決して舌を噛み切ろうとするより早く、彼女の頬を激しく打ち据えた。
彼女は敷布に叩き付けられ、ぐったりと倒れ伏した。
誇り高い王女の死も厭わぬ拒絶にシェラバッハは苦々しく舌打ちした。
ナシエラの肩を掴んで振り向かせると、彼女の薔薇色の唇がより鮮やかに真紅に染まっている。
打たれた衝撃で唇を噛み切ったと見えた。
シェラバッハは眉を顰め、傷の具合を確かめようと彼女を覗きこんで、夕闇の瞳がぽっかりと開いているのを見た。
渇いた瞳が恬淡《てんたん》とシェラバッハを見返す。
僅かな激情の揺れが一瞬瞳を横切ったが、すぐに消え去った。
諦観と不屈の強さの入り混じった瞳が底にあった。
気高い王女のものではない。
もっと強く冷酷な、シェラバッハの異母弟の瞳だった。
「・・・アストロッドか」
シェラバッハは微笑した。
彼は優しく、乙女の柔らかな白桃の頬を撫でた。
「ようやく我が許に戻って来たな。我が眷属よ。弟よ・・・」
シェラバッハは歓喜に瞳を煌《かがや》かせ、王女の細い顎を掴んだ。
固く結ばれた唇に凍った唇を這わせる。
待ち侘びた者の唇は血の味がした。
彼が荒々しく溺れるように乙女の唇を奪うと、アストロッドは互いの唇の合間で呪詛を吐き捨てた。
乙女の素直な唇は熱に溶け、悦楽に酔っているというのに、なんとつれないことだろうか。
シェラバッハは笑った。
唇を離し、体を抱き寄せると、アストロッドは大人しく彼の胸の下に滑り込む。
乙女の美しい巻き毛が血の褥《しとね》に広がった。
シェラバッハが柔らかな王女の肢体に覆い被さると、艶やかな黒髪が王女の上に滝のようになだれ落ちる。
「そなたは抗わんのか?」
シェラバッハは意地悪く問い掛けた。
アストロッドは覆い被さる兄から顔を背け、投げやりに首を振った。
「何のために?無力な女の身体でわたしにどうしろと言うのです、兄君?――これも運命と諦めますよ、今のところは」
「物分かりがいいな、アストロッド?」
アストロッドは軽蔑の眼差しでシェラバッハを睨め付けた。
「抗ってほしいのですか?悪趣味だな、兄君。――わたしはいつだって、こうして苦渋を耐え忍んできたのだ。
今度だって耐えられる。だが・・・、願わくば貴様に災いあれ!」
アストロッドの瞳が陰惨な憎悪に燃え上がる。
シェラバッハは苦く微笑んだ。
アストロッドは半眼を伏せ、次に瞼をきつく閉ざした。
ナシエラを死なせはしない。
どんな苦痛にも、必ずや耐えてみせる。
アストロッドは彼女の清らかな魂を守る影なのだから!
顔を背け目を閉ざしたアストロッドをシェラバッハは見下ろす。
頑なな顔を真摯に見つめる瞳に切ない愛憎が溢れた。
そして今しも遣る瀬無く燃え上がって、胸の中の乙女を焼き尽くさんばかりに見えた。
だが、彼の炎は誰にも誰にも届くことなく、やがて彼の内側だけに封ぜられた。
夕暮れ迫る空は燃え上がる茜色からナシエラの瞳のような紫、深い紺へと移り変わり、混じり合っていく。
その色彩の混合は荘厳で、幻想的だった。
室内にはいち早く、夜が忍び入っている。
淀んだ薄暗がりには、ことそも物音がない。
虚ろな静寂に、微かな衣擦れの音か響いた。
長身の男の影が脱ぎ捨てた衣服を無造作に引き寄せて立ち上がる。
羽織っただけの長衣の裾をひらめかせ、男は小窓に歩み寄ると気のない瞳で外の風景を一瞥した。
風景に見るべき物がないと知ると、彼は小窓から離れた。
男は部屋の中央に置かれた立派な寝台に戻って静かに腰を下ろす。
寝台の敷布は黒っぽく変色しており、血臭が鼻腔を突いた。
室内のあちこちに捨て置かれた骸の暗がりからは死臭が漂い始めていた。
シェラバッハは整った眉宇をひそめもしなかった。
無言で、寝台の上に眼差しを注いだ。
血の褥に横たわる華奢な乙女の白磁の肌が暗がりの中で目映く浮き上がっている。
乙女はシェラバッハに背を向け、彼のマントを裸身に巻きつけて身動ぎしない。
「アストロッド・・・」
シェラバッハは甘く優しく呼びかけた。
アストロッドは振り向かない。
彼が執拗にその肩に手を掛けると、初めて反応があった。
アストロッドは身竦んだ。
首を捻って振り向き、シェラバッハを激しく睨め付けた。
手負いの獣のように害意と敵意を露わにして、美しい顔を引き歪めている。
シェラバッハは瞳を細めた。
彼は縺れに縺れた金髪を丁寧に撫で梳いて、無防備な乙女の上に身を乗り出して屈み込む。
アストロッドは咄嗟に身を捩ったが、彼の指が肩を掴んで抵抗を捻じ伏せた。
暗い情欲の?《ほむら》がシェラバッハの瞳に宿っている。
薄い氷の唇は蠱惑の紅を刷いたよう。
乙女の頬を滑って薔薇色の唇を盗んだ。
アストロッドはもうもがかなかった。
息すら止めて体を硬くしている。
「・・・処女の苦しみを味わった気分はどうだ、アストロッド?」
やゆる言葉にもアストロッドは黙って耐え忍んでいた。
シェラバッハが抱き起こすと、従順に彼の胸に抱かれた。
身に巻きつけていたマントが裸身からずり落ちて、誘惑そのものの曲線がなまめかしい。
「これは定められていたことだ。そなたは寄り添うべき、私の伴侶として生まれたのだ」
シェラバッハはアストロッドの頤《おとがい》に指を掛けて上向かせ、その唇に耽溺する。
「この世でそなただけが、ただ1人の私の同胞《はらから》なのだから・・・」
シェラバッハは口付けの合間に優しい睦言を囁いたが、アストロッドは貝のように口を閉ざしている。
些か興を殺がれて、シェラバッハは顔を顰めた。
「なにか言え」
シェラバッハが言うと、アストロッドは微かに笑った。
穏便にシェラバッハの胸に手をついて、彼の身体を押しやる。
「・・・これがただ1人の弟に対する仕打ちですか?わたしはあなたの玩具ではない」
アストロッドは低く呟いた。
彼は寝台から降りると、床に落ちている衣服を拾った。
「アストロッド・・・。私はそなたをただ1人の闇の眷属として、大切にしてきたではないか。我らは人の血を
継ぐことでこの世に呪縛された異層の者、互いの他に同族はおらぬ」
「えぇ、そうでしょうとも。何の後ろ盾もないわたしが皇子として丁重に扱われてきたのは、あなたがわたしに目を
掛けてくださったからです。けれども、兄君。あなたはこのわたしがそれに感謝するとでも?・・・恩知らずはわたしの
十八番《おはこ》でございます」
アストロッドは気だるく衣服を纏いながら、皮肉っぽく肩を竦めた。
「アストロッド!」
シェラバッハは憤怒も露わに眦《まなじり》を決する。
「私は憎まれようと恐れられようと構わぬと言った。が、この上逃げようとするならば、容赦はせぬぞ!――私を
怒らせるな・・・」
シェラバッハは残虐な声で言った。
彼の言葉は威しではない。
シェラバッハがその気になればどこまでも残忍になれることを知らぬアストロッドではなかった。
だが、アストロッドはその無力で柔らかな身体を己で抱いて嗤った。
シェラバッハは冷酷な眼差しを剣呑に細めた。
拒絶に怒れる彼の双眸は静かであるからこそ凄まじい。
先程まで甘い愉悦を操っていた彼の指が冷ややかに伸びる。
アストロッドはそれをひたと見据えた。
「おっと、触れないでいただきましょう。――あなたは以前、別れ際におっしゃったはずだ。わたしを待つ、と。
わたしがこの身体を真に自らのものとし、自らの意志で戻るまで待つ、と!」
アストロッドは哄笑する。
「これは誓いであり、約定だ。あなたはわたしに誓ったのだ。・・・光と闇の眷属は決して、自らの為した誓言に
背くことはできない!」
アストロッドは勝ち誇って言い募る。
「この身はナシエラのもの!わたしは滅びゆく影に過ぎない!!――さぁ、退くいい、シェラバッハ!わたしは戻らぬ」
「うぬ・・・っ」
シェラバッハは戦慄した。
弟の強固な意志に歯噛みする。
彼はアストロッドの行く手を妨げることはできない。
一時は我がものとできても、縛ることはできないのだ。
シェラバッハの予言は言質を取られて、誓約《ゲッシュ》と化した。
予言成就のその時まで、アストロッドはシェラバッハの支配下から自由となった。
「アストロッド・・・。そうまで私を嫌うか。このままでは済まさぬぞ」
「負け惜しみは結構。お退きなさい」
アストロッドは傲然と言い放ち、寝台を降りた。
悠々と扉に向かう。
「おさらばです。兄君。2度とお会いしません。――わたしの身体はどうぞ処分なさってください。もう何の価値も
ありませんから」
「なんだと?」
シェラバッハは驚愕する。
アストロッドは扉に向かう途中、床に落ちたヴィロッサの形見の剣の鞘を拾った。
「いらないのです。・・・わたしは魂暗き闇の皇子だが、1つくらい情けがあってもいいだろう?わたしは影となる。
あの女《ひと》を幸福にする伴侶になれずとも、あの女《ひと》が幸福になる手助けならできる・・・。彼女の
闇となることこそが我が望み。ただ1つの情だ」
シェラバッハは愕然として呻いた。
「愚かしいことを!――そなた、王女を愛したな!」
アストロッドは微笑した。
扉に突き刺さった剣を体重を掛けて引き抜き、鞘に収める。
彼は扉を開いた。
螺旋階段を巡る風が吹き上げる。豪奢な金髪が誇り高くたなびいた。
アストロッドは振り向かず、扉をくぐった。
シェラバッハは寝台の上から腰を浮かしたが、追うことはできなかった。
忌まわしい誓いが彼の足を止めさせる。
「アストロッド――!」
アストロッドの軽い足音が螺旋階段をゆったりと下りていくのを耳にして、シェラバッハは悲痛に叫んだ。
「愚か者め、そなたの抱くものは幻想だ!わからぬのか!女の身体に宿って女の感情に取り憑かれたのか!神の
血を引く眷属たる誇りを忘れ果てたかっ!?」
シェラバッハは呪うような呼び声が立ち去るアストロッドの背を追った。
「・・・そなたは戻る・・・。私の許に必ずや帰ってくる。――必ず!」
シェラバッハは歯軋りして吐き捨て、固めた拳で寝台を打った。
寝台の頑丈な木材が悲鳴のように軋み、激しく撓み震え――・・・、いつしかその上に腰を下ろした闇の皇王の姿は
幻のように消え失せていた。
(3)
柔らかな金髪が、眼下の海から吹き上げる潮風に巻かれて靡く。
美しい面を無防備に晒した王女は、風に踊る髪を押さえようともせず、夢見るような眼差しで凪いだ海の水平線を
見据えていた。
この小さな島の岬からは、時折天気がよければルーディルンを望むことができた。
だが今日は、あの古く美しい島国の影は見当たらず、ただ海原が広がるばかり。
彼女はそれをさほど残念がる様子もなく、彼方を見つめ続ける。
『・・・おまえは海が好きだな、ナシエラ』
ナシエラの内側で、躊躇いがちな男の心声《こえ》が低く響いた。
『何が見えるのだ?よく飽きないな。・・・まるで何かを待っているようではないか』
アストロッドの精一杯の気遣う心声《こえ》は、彼女が見ているものを共有したいと望むがゆえに、焦れて乱れる。
「・・・なにも」
ナシエラはひっそりと微笑んで、目を伏せた。
光に青白く透き通る瞼に、靡《なび》いた髪の一筋が貼り付いた。
彼女はそれを気だるく払うと、ゆっくりと踵を返す。
水平線を背にして、海に張り出した岬を下り始めた。
「・・・干しておいた薬草を挽いて、粉にしてしまわねばなりませんわね」
呟く穏やかな声は、アストロッドに話しかけているのか独り言であるのか、どちらとも判断がつかない。
「そうだわ。帰る前にブラックベリーの実を摘んでいこうかしら。甘酸っぱくて美味しい木の実、わたくしもあれが好き」
『ナシエラ・・・』
岬から彼らが住まう庵へと続く通い慣れた道を、ナシエラは雲を踏んでいるようにふわふわと歩く。
道すがら通り過ぎる集落の住民たちが遠巻きに彼女に冷たい視線を投げかけている。
心ここにあらずのナシエラが近くを歩いても、挨拶1つするでもない。
――ここはルーディルン近海の離れ小島である。
2人はシュロウに侵略されたナシエラの祖国を逃れ、この島に身を潜めていた。
人的資源に飢えている未開の土地では、手に職を持っていることは大きな価値に通じる。
ナシエラの薬草を扱う知識が役に立ち、彼女は集落の医師兼呪い師の助手となって暮らしを立てることを認められていた。
だが島民たちはよそ者であるナシエラに警戒心を解くことをせず、応対は冷たい。
今も、女たちはナシエラから目を逸らしてそそくさと家に引っ込み、男たちはむっつりと腕を組んで威圧的な
雰囲気を見せるか妙な関心を示して彼女を観察している。
(忌々しい奴婢どもが・・・っ)
アストロッドは苛々とささくれ立つ気分を、ナシエラを慮ってなんとか押し殺した。
今の彼女はどこか危うい。
彼女が周囲の雰囲気に気が付いていないのなら、わざわざそれを指摘して、嫌な思いをさせたくなかった。
アストロッドは襤褸に垢じみた肌を包んだこの偏狭な島民たちを蔑み嫌悪していた。
――だが、どうやらナシエラは違う意見を持つようである。
「・・・あら、あなた、どうかなさったの?」
ふと、ナシエラの歩みが止まった。
1人のひょろりとした少年が、彼女の前に斜に構えた風に両足を開いて立ち塞がっている。
粗末な身なりの、ちょうど彼女と同じ年頃の島の少年だ。
ナシエラはちょうど夢から覚めたように瞬いて、軽く小首をかしげた。
「わたくしに何か御用?」
「・・・あんまり口を利くなって言われてんだ。あんた、よそ者だから」
「そう?」
美しい白い面が柔和に微笑む。
少年は周りの住民の目を気にして刺々しく彼女を睨み付けていたが、居心地悪そうに体を揺り動かした。
「あのよ・・・。薬、くれねぇ?親父が昨日から腹が痛いって苦しんでんだ」
「えぇ勿論よ。――でも薬を調合してあげたくても、症状がわからないことにはどうにもならないわ。1番いいのは、
わたくしにあなたのお父様を診させていただくことだと思うのだけれど」
「んなことできっかよ。勝手なことすんなって、親父に張り飛ばされちまう。薬だけくれって言ってんだろ」
少年は頑なに言うと、噛んでいた草を脇に吐き捨て、汚れた手の平をずいと突き出した。
ナシエラは困ったように俯く。
アストロッドは彼女の内側でこの光景を黙って見守っていたのだが、そろそろ怒りを抑えきれなくなっていた。
『なんというものの言い方だ・・・っ!こんな礼儀知らずの小僧を助けてやることはないぞ、ナシエラ!』
「では・・・、せめてあなたのお父様がどんな状態なのか聞かせてもらえるかしら?」
ナシエラは、アストロッドの忠告を無視して、少年に話しかける。
その優しい声に促されてか、堅く引き結ばれていた少年の唇が解け、彼女の問いに不承不承答え始めた。
「お腹のどのあたりが痛むって、お父様はおっしゃっているの?」
「わかんね・・・。でも、この辺を手で押さえてるみたいだった」
「痛みの周期は?ずっと痛いの?それとも断続的に?――どんな種類の痛みか、わかりますかしら?」
丁寧に少年から父親の症状を聞き出した後、ナシエラはベルトに下げた携帯用の小さな袋から、干した薬草を取り出した。
「とりあえず痛み止めを渡しておきます。これを煮詰めて飲ませて差し上げてね。お薬はこれから帰って庵で
調合しますから、後で取りにいらして」
はい、とナシエラは少年に薬草を差し出す。
少年は彼女の白くたおやかな手に視線を落とすと、慌てたように自分の汚れた手を引っ込めて衣服の腰の辺りで
ごしごしと擦り始めた。
少年の赤銅色に日焼けした耳たぶまで一気に血の色が上がってくる。
彼はまったくの動転状態に陥ったようだった。
いきなりナシエラの手から乱暴に薬草を引っ手繰るなり、物も言わずに背を向けて走り出す。
『あの小僧・・・っ!ナシエラ、大丈夫か!?』
アストロッドは歯軋りして罵った。
ナシエラは驚いたように掛け去る少年の後ろ姿を見つめていた。
目線を落として、彼が引っ掻いた手の蚯蚓腫れを指先で撫でる。
「驚きましたわ・・・」
『だから、あんな小僧を親切に助けてやることはないと言ったのだ。大体、君ときたら・・・、見返りも求めずに
気前よく薬をやってしまって。まったく、お人よしにもほどがあるぞ』
「でも薬が必要だから、わたくしのところにいらっしゃるのですもの。力になってさしあげたいわ」
ナシエラは傷をゆっくりと撫でながら、小さく呟いた。
彼女は再びゆったりと歩き始める。
アストロッドはやれやれとぼやいた。
『困った姫君だな。しかし、ナシエラ。冬が近付いているのだぞ。今のうちに、食糧を溜め込んでおかないと後々困る。
病気を診てやる代わりに、いくらかの物資を要求しても不当ではあるまいに。この島の住民はわたしたちがよそ者で
あるというだけで冷たく当たる。冬になって食料が乏しくなってからでは分けてもくれんぞ』
「そうだとしても・・・」
伏せた睫毛の陰で、黄昏れた空のような紫の双眸が翳りを帯びていく。
「構わないのです。――きっともう冬は来ないから」
「ナシエラ?」
アストロッドは体を共有する王女の不思議な声の響きに、訝しげに問いかける。
ナシエラは答えず、静かに傷口を撫で続けていた。
・・・まるで痛みを慈しむように、優しい目をして。
「・・・ナシエラ」
アストロッドは口ごもった。
不安が心を締め付ける。
だが彼は臆病な唇を閉ざし、ナシエラの耳にすら届かない儚い溜め息を落とした。
滅び行くルーディルンを夜陰に乗じて離れ、宵闇の中にかの島国を顧みたあの日。
目覚めたナシエラが放った悲鳴が忘れられない。
それは悲愴と絶望に縁取られた、あまりにも痛々しい叫びだった。
彼女は起こった事実を直視できずに滂沱の涙を流しながら、懐かしい人の名を救いを求めて呼んでいた。
ナシエラは喘ぎ、泣き崩れ、呪った。
祖国を滅ぼしたシュロウを憎み、彼女から愛する人々を奪った冷酷なシェラバッハを恨んだ。
そして、戦の原因となった彼女自身をも責めた。
もはやどうにもならない後悔に彼女は己を責めて責めて、のた打ち回った。
アストロッドは錯乱するナシエラに何1つしてやれなかった。
彼女は不器用な愛の言葉でナシエラを慰めようとしたが、悲しみに耳を塞いだ彼女に想いが届くことはなかった。
アストロッドは愛する女性の悲しみを、歯噛みしながら見守るしかなかった。
激しく嗚咽して苦悶するナシエラが、この上、アストロッドの許されぬ裏切りに気づいたのは不幸としか
言いようがなかった。
彼女は息を詰めて下腹を押さえた。
動作のたびに下肢からのぼる鈍痛が彼女を苛み、彼女に過酷な現実を突き付ける。
彼女は身体の変調に、起こったすべてを悟ってしまった。
ナシエラの泣き濡れた顔にひたひたと恐怖の色が押し寄せる。
白い美貌が一層血の気を失って歪み、全身ががくがくと震え出した。
彼女は己の体が穢れたことを知った。
彼女の知り得ぬ所で他人に肌を許したことを知った。
――それが憎み尽くすシェラバッハ皇子であることも。
ナシエラは船縁から暗い水面に身を乗り出して、激しく胃の中の物を吐瀉した。
女性にとって、それはどれほどの苦しみだっただろう。
愛する男を殺した男に陵辱され、恋人との愛の想いでさえ踏み躙られた。
ナシエラは心と身体の矛盾に引き裂かれ、悲鳴を迸らせた。
彼女はほどんど正気を失っていた。
嵐と化した激情が、あの優しい美貌を恐ろしく歪ませた。
ナシエラは己を許す術を失った。
もはや彼女が許しを乞うべき人はいないのだ。
愛しい騎士が彼女の罪を咎めることも罰することも、・・・彼女を許すことも決してない。
ナシエラは胃液を唇から吐きながら、胸を掻き毟る。
苦悶のあまり掻き毟る力は強く、皮膚は破れ、爪は剥がれた。
彼女は血塗れになって力尽き、船底に倒れた。
『許してくれ。君を守るためだったんだ。どうかわたしを許してくれ、ナシエラ・・・』
アストロッドは涙ながらに許しを乞うた。
ナシエラは激しく首を振る。
「許さないわ・・・、決して」
彼女は恨みを込めて低く言った。
「あなたはわたくしの心を滅ぼした・・・」
その言葉を最期に、彼女は気を失った。
ナシエラがアストロッドを責めたのは、この夜だけだった。
彼女は2度とアストロッドを罵らず、錯乱する様を見せることもなかった。
2人が身を寄せた小島の住民は貧しく、閉鎖された島の生活は楽ではないが穏やかだった。
日々はゆっくりと流れた。
ナシエラは無口になり、遠くを見るような眼差しで海を見ていることが多くなっていったが、アストロッドは、
彼女の心の傷を時が癒すのを待つつもりだった。
過ぎる時だけが、彼女を慰めるはずだから、と。
だが・・・、なぜかそれが怖い。
何かが少しずつ狂い始めている。
ナシエラは変わらないように見える。
アストロッドから見れば不愉快極まりない排他的な島民たちにも彼女らしい親切さで対応し、以前と変わらず
思い遣り深く聡明である。
アストロッドがそうであったように、村人たちも少しずつ彼女に対する態度を軟化させてきているようにさえ思える。
だが穏やかに見える乙女の中で、その美しい静かな微笑みの中で、何かが加速度を増して転がりだしている。
この不吉な予感がしばしば心を揺すぶりたてるにもかかわらず、彼はそれに目を瞑りたいと思う心が存在することにも
気づいていた。
――このままで何がいけない?
幸福なのだ。
切ないほどに幸福なのだ。
これほど幸福な時間を、これまでの半生――もしくは一生も含めて知ることはないに違いない。
たった2人だけで。
互いの他には頼る人も寄る辺もなく、日々の糧のためだけに生きる。
ただそれだけがあまりにも幸せで、胸に迫る。
いずれナシエラの中で塵芥のように朽ちる瞬間がきても、この時のために滅びることを恐れずにすむだろうと
思えるほどに。
彼女の儚い微笑みをたまらなく美しいと思う。
無為に生きた人生の果てに、彼女に出遭えた自分を幸福だ思う。
永遠にこの時が続けばいい。
――それが無理でももう少しだけ、側にありたい。
今この一時だけでも、彼女を独り占めしたい・・・。
アストロッドは祈った。
ナシエラと自らのために、この平穏な日々が続くことを願って。
だがそれは結局、アストロッド自身の欲望に過ぎなかったのだろう。
彼は欲に目を曇らせ、傲慢さと臆病さからくる独り善がりを自身に許した。
こうして運命は流転する。
その足元に永久に離れず存在する影法師や過去のように、人の運命もまた決して逃れ得ぬものだ。
その存在に気がついた時、人は初めて、もはや取り返しのつかぬ領域に自身が足を踏み入れていることを
思い知るのだろう。
――幸福な夢は一転、恐ろしい悪夢に変じようとしていた。
半月の後、アストロッドはつかの間の幻を背後に残し、島を追われることになる。
荒波の向こうに、黒々とした島影が見えた。
舟の側面にぶつかって跳ね上がってくる波を頭から被る。
アストロッドは帆を操りながら片手で顔を拭い、安堵の吐息をついた。
曇天の空を、強い風に吹き散らされて雲が飛ぶように流れていく。
空模様が荒れ始めたことを不安に思っていた矢先だったので、島影を見付けた時には胸を撫で下ろした。
この舟は荒れた海に乗り出すにはあまりに粗末だ。
波がこれ以上高くなれば転覆間違いない。
「ナシエラ!」
アストロッドは島影を指す。
「北風の国《シュロウ》だ!――もう大丈夫だ。もう心配いらないぞ」
知らず知らずの内に気遣う声は甲高く、不安と焦燥を露わとした。
一拍置いて、気だるそうな息が吐き出された。
『北風の国《シュロウ》・・・?』
無関心な心声《こえ》がアストロッドの脳裏に響く。
彼は僅かに安堵する。
答えがあったことが嬉しかった。
彼はこうして何度も声を掛けては、答えが返ることを確認せずにはおれなかった。
返事がどうであれ、沈黙が続くのは狂いそうなほど怖い。
「そ、そうだ。北風の国《シュロウ》だ。もうすぐだ、ナシエラ。もうすぐだからな・・・」
『・・・はい』
ナシエラの声は茫洋として、倦み疲れた気配を漂わせていた。
舟は波間を漂い、島へと近付く。
アストロッドは感慨を覚えた。
彼の生国であるシュロウを後にしたのは二月も前のことになる。
追っ手の目をかいくぐり、身一つで逃げ出したあの夜に、アストロッドはニ度とこの国の土を踏むまいと決意した。
未練はなかった。
実のない自堕落で贅沢な暮らしも、薄っぺらな臣下も、皇子としての身分も必要なかった。
肉親の情は元よりない。
彼を留める力はこの国はなかった。
しかし今、アストロッドは焦りと不安の中で、ひたすらかの地を目指している。
・・・今となってはこの世にただ1つ、悪魔の皇子たる彼を動かす理由である大切な女《ひと》のために。
亡国ルーディルンの王女、ナシエラ。
アストロッドに愛を教えた唯一無二の女《ひと》である。
得難き尊き女《ひと》だ。
「・・・失いたくない」
アストロッドは心から悲嘆を込めて呻いた。
彼は飢えた目で波間を睨む。
追い風に帆は膨らみ、舟は走った。
アストロッドの逸る気持ちに呼応したかのように。
舟は島の東部、湾内に入った。
ここはシュロウの主要な港である。
だが、港に商船や連絡船の姿は見当たらない。
波に揺れてひしめくように接岸しているのは漆黒の軍船ばかりである。
重々しい威圧的な光景であった。
この港は戦に備えて軍用港に変えられているのだ。
アストロッドは苦々しい顔になった。
埒もない噂話で、シュロウが多島諸国統一を各国に布告し、それが事実上の戦争勃発に繋がるだろうと聞いている。
この光景を見るだに、噂はあながち作り話でもないようだ。
少なくとも、シュロウには戦の構えがある。
アストロッドはそんなことを考えながら、巨大な軍船の間を抜けて港に入る。
「そこの漁船、待て!」
鋭い声が掛かったのは、舟が十分に岸に近付いてからだった。
埠頭には既に幾人もの兵士たちが並び、武器を手にこちらを睨み付けている。
「直ちにここに接岸しろ!勧告は一度だけである。早くしろ」
怒鳴り声にアストロッドは肩を竦めた。
これは予想済みの事態だ。
どこの海岸線も見張りのために建てられた看守塔に兵が詰め、日夜警戒態勢をとっている。
まだ日の高い内から堂々と軍港に入ったのだから、見つからない方がおかしい。
アストロッドは勧告に従って、指示された場所に舟を着けた。
船縁を蹴って身軽に陸に上がると、険悪な顔をした兵士たちが周りを取り囲む。
彼は全身に武器を突き付けられて、両手を挙げる。
「抵抗の意志はない」
アストロッドの声に、兵士たちの間で驚愕が走った。
「女?女か、こいつ」
「そういや体つきが細っこいな。なんだって、女が?」
兵士たちは不審げに顔を見合わせたが、侮りから緊張が解ける。
「馬鹿者!気を許すな。何のために港に詰めていると思っておるのだ」
兵士らの上官と思しき中年の男が進み出て、部下を叱り飛ばした。
男はアストロッドを居丈高に睨め付けた。
「女!まずは顔を見せろ!」
アストロッドは薄く笑って、全身を覆うロープのフードをゆっくりと下ろす。
フードの中から溢れ出した鮮やかな金髪が肩に流れ落ち、煌めいた。
彼は伏し目がちに面を上げた。
周囲がどよめいた。
下品な口笛が吹かれる。
「おったまげた。・・・どえらい美人じゃねぇかよ!」
感嘆の声が次々に上がる。
兵士たちは涎を零さんばかりに、襤褸の中から現れた、鄙には稀な美女を凝視する。
彼らの上官も娘の輝くばかりの美貌にたじろいだが、咳払いして気を取り直す。
「何用でここに参ったのか?今現在、港が封鎖されておることを知らぬとは言わせぬぞ!――どこの国の者だ?
間者か!?」
上官はアストロッドに矢継ぎ早に質問を浴びせ掛ける。
そのどれもが元より彼の答えに耳を貸すつもりがないと知れるものばかりだ。
アストロッドは首を振るに止めた。
「妖しい奴!引っ捕らえろ!」
上官が声高に命じると、武器を突き付けられたままのアストロッドに屈強な兵士が2人近付いた。
腕を掴まれて、彼は眉宇をひそめた。
「放せ。――わたしは万福の国《ルーディルン》の王女、ナシエラだ!無礼は許さん!」
上官ははっと息を呑んだ。
「シェラバッハに用がある。奴の許まで案内せよ!」
アストロッドが凛然と命じると、兵士たちは顔を見合わす。
彼らはこめかみで指を回して、肩を竦めた。
「ちょっと変なんじゃないか、この娘」
「王女だってよ。どこの王女様がこんなみすぼらしい格好でうろうろしてんだよ?」
莫迦にしきった嗤いが上がる。
アストロッドは剣呑に目を眇めた。
「何が可笑しい!」
「娘。陛下はお忙しいんだ。妙な女の相手をなさる時間はないとよ」
「オレたちなら時間を割いてやってもいいぜ。多少変わっていても、顔と身体がよけりゃ文句ねぇぜ」
兵士の1人に馴れ馴れしく肩を抱かれて、アストロッドは歯軋りする。
「時間がないのだ!わたしをシェラバッハの許へ連れて行け!」
アストロッドは吼えた。
ますます兵士たちが笑う。
彼の堪忍袋の緒が切れかけた時、兵士たちの上官が部下を留めて、両者の間に割って入った。
上官は難しい顔で、アストロッドをまじまじと見つめる。
怒りに上気した娘の顔はそれでもなお美しく、身なりが粗末であるにもかかわらず品があった。
その見事な金髪、煙る紫の瞳。
上官はにこやかに微笑んだ。
アストロッドに向けて、恭しく腰を折る。
「王女様。知らぬこととはいえ、部下がご無礼致しました。どうぞ、ご寛恕《かんじょ》のほどを」
アストロッドは怒りの納まりやらぬ眼を男に向ける。
「2度と言わせるな。急いでいるのだ、早くしろ!」
「はっ。ただ今、馬車を手配致します。少々、お待ちを」
上官は打って変わった丁重さで言うと、アストロッドの前を離れた。
兵士の1人が彼を追い、問い掛ける。
「どうしたんです?あんな女の言うことを真に受けるんですか?」
上官は早足で詰め所に急ぎながら、鼻を鳴らす。
「嘘か真か、儂は知らんがな。・・・実際、陛下は万福の国《ルーディルン》の王女を血眼になって捜させておいでだ。
万福の国《ルーディルン》との戦の切っ掛けも、その王女だって話だぞ。理由は儂もよく知らんが、なるほどあの娘、
男を狂わす美貌だと思わんか?」
「・・・はぁ」
「あの娘が王女だってんなら、儂にも運が向いてきたってことよ。陛下のご執心の娘を差し出せば、昇進栄達も
夢じゃない」
上官がうっとりと言うと、兵は妬ましそうな目をする。
そして首を傾げた。
「でも、偽者だったらどうするんです?」
「それは儂の知ったこっちゃない。王女を騙ったおかしな女のせいだからな」
彼はにやりと唇を歪めた。
「さて、儂は上に報告してくる。それから馬車の手配だ。――あの娘を見張っておけ。逃がすなよ」
上官は頷いた兵士と別れ、足を速めた。
馬車の窓から見る街道脇の景色が流れていく。
舗装された港町の通りを抜けて校外に出ると、道はきちんと均されていない。
馬車の車輪が道の窪みに引っ掛かるたび、騒々しい音を立て馬車が揺れる。
揺れる馬車の中、座り心地の良い長椅子にアストロッドは浅く腰掛けている。
馬車の内装の見事さに対し、それを1人で独占する彼の格好は全くそぐわなかった。
生乾きの色褪せた長ローブを纏ったままである。
馬車を用意されるとすぐさま飛び乗り、急き立てて街を後にした結果であった。
――それほど、アストロッドは切羽詰まっている。
「・・・ナシエラっ」
彼は何度目になるかわからない虚しい呼び掛けをする。
「ナシエラ!頼む、返答してくれ!!」
アストロッドの声は悲鳴じみていた。
『・・・は・・・い』
ようやく弱々しい心声《こえ》が内側から返った。
アストロッドは安堵のあまり、ナシエラを詰《なじ》る。
「驚かせるな!君が黙っている間、わたしがどれほど・・・っ」
『・・・ごめんなさい。アストロッド様の声がとても遠いの。それに、怠くて億劫で・・・」
ナシエラの心声《こえ》は途切れがちで、聞き取りづらい。
脳裏で響き渡るようだった明瞭な心声《こえ》が、今ではまるで遠い木霊のようだ。
アストロッドは震えた。
怖かった。
怖くて、怖くて、たまらない。
ナシエラの魂は衰弱は明かで、時と共にそれは悪化してゆくばかりだ。
それに気づいたのは一体いつ頃だったか。
シェラバッハから逃れ、ルーディルン近海の名もない孤島に身をひそめた半月ばかり。
おそらく最初の日から崩壊は始まっていたのだ。
アストロッドが憩った、平穏で幸福な島の暮らしは、ナシエラにとっては何の救いももたらさないものだったのだろう。
彼女は己の中の憎悪や悲哀、絶望を誰にも話さなかった。
癒し切れぬほど傷付けられた心を隠し、静かな狂気の淵に1人で転がり落ちていった。
アストロッドは、表に出さぬ後悔の毒が彼女を深く蝕み、確実に滅ぼしていくことに気づかなかった。
・・・だが、アストロッドはその崩壊の軋みを本当に耳にしていなかったのだろうか。
誰よりも彼女の側にいるのは彼であったのに。
次第に、ナシエラは眠りに就くことが多くなった。
眠りは深く、1日のほとんどを眠って過ごす。
その貪るような眠りから彼女が覚めたある日、アストロッドは絶対的現実に直面する。
ナシエラは目覚めていた。
それにもかかわらず、身体を支配しているのはアストロッドであったのである。
2人の立場は逆転していた。
今までは、身体の主は紛れもなくナシエラであった。
アストロッドは彼女に寄生する魂にしか過ぎず、ナシエラの意識が眠りに就いた後でしか体を自由にすることが
できなかった。
だが、今ではアストロッドは目覚めさえすれば、彼女の身体を己のもののように自由に動かせる。
ナシエラは目覚めていても、アストロッドの魂に追いやられる。
主であった彼女がアストロッドに従属する。
まるで、影のように・・・。
アストロッドは動転した。
おろおろとまごつき、一時のことだと愚かな期待を胸に事態を見守る内に、ナシエラは目に見えて弱りだした。
異常なほど眠っていることが多くなって、声が次第に遠のいていく。
彼女自身の身体《うつわ》が、2つの魂を受け入れきれずに異物を排除しようと働いているのだ。
排除される運命はアストロッドのものであったのに、ここに至って彼女の体が主と選んだのはアストロッドだった。
ナシエラは己自身に無慈悲に滅ぼされようとしていた。
ナシエラを救う手立ては、捨ててきた故郷、シュロウにしかなかった。
彼女の体に2つの魂がある限り、どちらかが滅びねばならない。
それが自分であったなら喜んで受け入れる。
だが、その滅びの魔手がナシエラに迫っている今、それをとめる方法はただ1つ・・・。
「わたしが自分の体に戻るんだ。そうすれば、君が滅ぼされる必要はない」
アストロッドは震えながら言った。
「もう少しだ。ナシエラ。わたしの身体さえ手に入れば、君は助かる!」
ストロッドは軋みながら揺れる馬車の中で、繰り返した。
それはナシエラにというより、彼自身に言い聞かせる呪文であった。
体を取り戻すのがどれほど困難なことか、取り戻したところで王女を救えるのか、それら一切を考えずに
済まそうとしていることを自覚はしている。
だが状況がどれほど絶望的でも、これだけは諦め切ることができないのだ。
アストロッドはすべてを捨てた。
それなのに、この上、ナシエラを失うのか?
そんなことは耐えられない。
あまりにもむごい――。
「君は助かる。助かる・・・。こんなことがあっていいはずがないんだっ!」
アストロッドは激しく膝を打ち据える。
落ち着かずに馬車の長椅子から腰を浮かせ、代わり映えしない田園風景に歯軋りする。
長閑な牧歌的風景も彼の心を慰め得ない。
がたがたと、ガラスを嵌め込まれた馬車の小窓が風に揺すぶられた。
一滴の水滴が横殴りの風に吹かれてガラスの向こう側に張り付く。
雨滴は見る間に増えて、滝のように窓の外側を流れだした。
とうとう降り出した雨はじきに豪雨となり、空を裂いて雷が走る。
馬車はぬかるむ街道を走った。
雨のせいで街道は悪路と化し、1度ならず、車輪がぬかるみに嵌って動かなくなった。
「こりゃあ駄目だ」
悪戦苦闘する御者がずぶ濡れになりながら、馬車の扉を開いた。
馬車の中に風雨が唸りながら吹き込んで来る。
「すみません。雨がひどくなってきましたので、今日はこの辺りの村に入って休みましょう。上等の部屋を
ご用意致します」
付き添ってきた役人が御者の隣で頭を下げた。
アストロッドは恐ろしい目つきで彼らを睨み、唸り声を上げた。
「休むだとっ!?莫迦を言うな。そんな暇があるものか!すぐに馬車を出せ!!」
気高い王女の顔が無残に歪み、役人らは息を呑む。
アストロッドは猛々しく馬車の床を踏み鳴らして、立ち上がる。
「早くしろ!時間がないッ!!」
アストロッドは役人に掴み掛かった。
役人は驚愕に引き攣り、首を振る。
「そうおっしゃられても、雨のせいで道がひどい有り様で・・・。天候も荒れておりますし、日も暮れて参りました。
これ以上は・・・」
「黙れ!知ったことか!馬車を出せ!」
アストロッドは恐怖と焦りに憑かれて、鬼気迫る表情で喚いた。
役人は聞き分けのない娘に眉を顰める。
「どんな事情があるのか知りませんがね。あなたの我が儘に付き合っていられな・・・」
役人は最後まで見えなかった。
アストロッドが彼の頬を力任せに殴ったからである。
役人はたたらを踏んだ。
ナシエラの華奢な拳に大した力はなく、彼は赤くなった頬を摩って、唇を嫌悪に歪めた。
アストロッドは心底追い詰められていた。
その精神は限界まで磨り減っている。
アストロッドは身に纏ったロープの前を荒々しい所作で払った。
ロープの合わせ目に差し入れた手で、素早く目当ての者を掴む。
全身をすっぽり包むロープの下に隠されていたのは、優美な中剣であった。
ナシエラの想い人、ヴィロッサの形見の剣である。
アストロッドは剣を抜き払う。
凄まじい形相で、彼は御者に剣の切っ先を突き付ける。
「馬車を出せ。これ以上言わせるな。・・・貴様らを殺して馬車を奪ってもいいのだぞ?」
御者も役人もアストロッドの形相に脅えていた。
突き付けられた刃物よりも危険な娘の狂気に彼らは震える。
「わかった。わかりやした・・・っ」
「馬車を出します。それで宜しいんでしょう!?」
2人は承諾した。
役人が悲鳴のように喚くと、アストロッドは肩で息をしながら頷いた。
彼が剣を下ろすと、役人が叩き付けるように扉を閉める。
「どうかしてらぁ・・・っ」
「あの女、狂ってるぞ!」
御者と役人が悪態をついて、御者台に戻って行った。
馬車が動き出し、アストロッドは詰めた息を吐き出した。
彼は崩れるように長椅子に座り込み、少し泣いた。
馬車は昼に夜をついで走った。
御者も役人もアストロッドの剣幕に恐れをなして、無理な行程をこなした。
アストロッドはまんじりともせず、馬車の長椅子に座っていた。
その頬は硬く強張り、泣き濡れた跡が明らかだった。
不意に、馬車がガタンと激しく揺れた。
ゆるゆると速度が落ち、停止する。
アストロッドは涙を拭って顔を上げた。
小窓から外を窺って、眉根を寄せる。
無言で立ち上がり、馬車の扉を蹴り破らんばかりにして開くと、外に躍り出た。
御者台から降りようとしている役人に走り寄り、彼の襟首を乱暴に掴んだ。
「これはどういうことだ!シェラバッハの許へ連れて行けと言ったであろうが!」
役人は目を白黒させ、おどおどと弁解する。
「ですから・・・、ここへ・・・」
アストロッドは役人の答えに目尻を吊り上げた。
「ふざけるな!!異国の女と思って侮っているのか!なぜ、皇都に連れて行かぬ!?」
瞋恚《しんい》に眼差しが燃える。
娘の握り締めた拳が神経質に震えているのを役人は呆然と見た。
彼はのろのろと顔を上げ、軽く首を振った。
「・・・ここで宜しいのです。陛下はご政務の合間を縫っては、この離宮においでになるのですから。――わたくしは、
こちらにあなたをご案内するするよう言い付かりました」
役人の言葉に、アストロッドは虚をつかれた。
ぽかんと役人の顔を見上げ、周囲を見渡した。
アストロッドにとっては見慣れた景色がそこにあった。
山地を背後にし、森に囲まれた鄙びた地。
その土地に風光明媚な皇家の離宮がある。
森の中にひっそりと建てられ藍色の屋根の屋敷は、くすんで寂しげに見える。
近くに住まう者はなく、訪れる者もない。
主と世話をする数人の侍女ばかりの、人々に忘れられた離宮。
アストロッドの母、マーライヤ皇女の宮であった。
「・・・ここにシェラバッハがいる、と?」
「はい。おそらく、中でお待ちです」
アストロッドは疑い深く尋ね、返る言葉に表情を和らげた。
まるで幼子のように無防備な顔をするアストロッドを役人は眼を見張って見つめる。
アストロッドは役人の胸倉を掴んだ手を離した。
彼は赤面し、衝動的に頭を下げた。
「すまなかった。・・・感謝する!」
アストロッドは言いざま、身を翻した。
「お、お待ちを!」
背後で役人が叫んだが、アストロッドは離宮に向けて振り向くことなく走り去った。
困惑してこれを見送った役人は、ちょっと照れたように頭を掻いた。
走り去った娘のひたむきな感謝の言葉を思い出すと、自然、彼の唇からは微笑が洩れた。
(4)
アストロッドは離宮の中を疾風のように駆けた。
「シェラバッハ!どこだ、シェラバッハ!出て来いっ!」
異母兄の名を繰り返し呼び、その姿を捜し求める。
「シェラバッハ――っ!!」
アストロッドはめぼしい部屋という部屋を覗き込み、回廊を駆け抜けた。
人払いがされているのだろうか。
離宮内はしんと静まり返り、人の気配がなかった。
アストロッドは屋敷の中を捜し尽くすと、渡り廊下から離宮の誇る庭園に走り出た。
数歩行かぬ内に、はっと息を呑み、足を止める。
離宮に寄り添うように立つ大樹の下に、幹に身を凭れさせた捜し人の姿があった。
大樹の陰の、鮮やかな姿が背を起こす。
細い糸のような雨の降りしきる灰色の風景の中、ぬかるむ大地をゆっくりと歩んで来る。
「――アストロッド」
シェラバッハは間近で足を止め、微笑した。
雨が、シェラバッハを、アストロッドを濡らす。
兄弟は言葉なく見つめ合った。
アストロッドは立ち尽くす。
シェラバッハが睫毛に絡む雨滴に瞬きし、ごく静かに腕を差し伸べた。
アストロッドはたちまち呪縛から解けて飛び退り、シェラバッハを険しく睨んだ。
「シェラバッハ!わたしの体はどこだ!?わたしを元の体に戻せ!!」
叩き付けられた荒々しい叫びにシェラバッハは肩を竦める。
彼は濡れそぼつ髪を掻き上げた。
「ほう?そなたは己が体が要らぬ申したのではなかったか?そのように、私に啖呵をきってみせたは誰だ?」
「黙れっ!」
アストロッドは憎悪を込めて怒鳴り、ロープの陰に隠した剣の柄を握った。
抜き払い、シェラバッハに剣の切っ先を向ける。
「黙れ・・・。わたしの体はどこだ。何とあっても返してもらうぞ!」
「何とあっても・・・、とな?」
シェラバッハは目を眇めた。
アストロッドは刃を振り翳す。
「剣が見えないのか!・・・言えっ、わたしの体をどこへやった!言わぬとあらば、貴様の体を切り刻むぞ!答えを
吐く口さえ残れば良いのだからな!!」
残虐な言葉を吐き捨てるアストロッドの眼に、言葉とは裏腹の恐怖が忍び寄って来る。
「言えぇぇぇっっ!!」
アウトロッドは甲高く叫んだ。
シェラバッハへの脅えを隠し切れず、顔色を失う。
「大言壮語を吐くものよ・・・」
シェラバッハは冷然と侮蔑した。
「剣を向けて何とする?私がそなたを恐れるとでも?――惰弱な弟よ。日々の怠惰に過ごしろくな鍛錬もせずにきた、
そなたの腕ごときで私が倒せると思うのか?」
「な、なにっ」
「諦めよ。剣を収めるが良い。私はそなたの身体を敢えて傷付けたいとは思いはせぬ」
「ふざけるなぁぁっ!!」
アストロッドは歯軋りして喚くと、空を薙ぎ払った。
威嚇の剣風にシェラバッハは暗く嘲笑した。
「愚かな奴だ・・・」
「だまれぇっ!!」
アストロッドはシェラバッハに切り掛かる。
恐怖と焦燥に我を忘れ、手加減無しの打ち込みで刃を振り下ろす。
中剣の優美な刀身が雨滴を弾いて煌めいた。
シェラバッハは1歩退き、腰に佩いた己が大剣の柄に手を掛ける。
僅かに鞘から刀身を抜き、その薄く開いた刀身でもってアストロッドの一撃を受ける。
「・・・くっ」
アストロッドは必殺の一撃を受け止められて呻いた。
シャア・・・ン!
シェラバッハは掬うように撥ね上げた。
アストロッドは体勢を崩し、唇を噛んだ。
あからさまな隙ができ、それに気づかぬシェラバッハではない。
彼は絶望したが、シェラバッハは意図的にその隙を見逃した。
彼が体勢を直すのを寛容に待つ。
くつくつとシェラバッハは嘲笑った。
「痛い目に遭わぬとわからぬとみえる。他でもないそなたゆえに命ばかりは取らずにおくが、二度と私に剣を
向けさせはせぬぞ」
シェラバッハは無造作に剣を握る。
その長身から、気迫が陽炎のように立ち上がる。
アストロッドの背筋に冷たい脂汗が伝い落ちていく。
柄を握る手が汗に滑り、唾を嚥下する喉がなった。
剣を手にしたシェラバッハは優れた腕を持つ者特有の鬼相を露わとした。
身に染み付いた死臭が冷ややかに流れ、シェラバッハは妖美な眼差しでアストロッドと招く。
「・・・来い。慈悲でもって相手をしてやろう」
「ぬかせっ。貴様の首を我が乙女に捧げてやる!」
アストロッドは唸り、剣を素早く振り上げ、打ち下ろす。
シェラバッハはそれを掲げた大剣で受け止めた。
アストロッドは渾身の力で剣を押したが、シェラバッハは揺らがない。
力比べを諦め、大きく退いて体勢を立て直した刹那、シェラバッハの剣が迫った。
「ひっ!」
受け止められたのは奇跡だった。
アストロッドはシェラバッハの剣の凄まじい重さに全身が痺れ、衝撃のあまり唇を噛み切った。
2合目で危うく剣を取り落とし掛けた。
アストロッドは既にシェラバッハの太刀筋を追うこともできなくなっていたから、シェラバッハは敢えてアストロッドの
剣に打ち掛かっているのだと知れた。
3合目で、アストロッドは払われた剣に引き摺られ体ごと転がった。
必死で顔を上げ、本能的に逃れようと身を転がすと、シェラバッハの長靴の爪先が腹部を抉る。
「ぐああぁっ!」
蹴り飛ばされて、アストロッドは腹を押さえて苦悶した。
彼が足掻くのをシェラバッハは冷ややかに見下ろす。
「どうした、これまでか?」
「うぐ・・・っ。殺してやる・・・!」
アストロッドはよろよろと身を起こす。
「貴様が憎い!ずっと、憎かった!」
アストロッドは泥まみれの顔を引き歪め、叫んだ。
再び剣で打ち掛かり、虚しく躱される。
何度となく切り掛かり、果てに撥ね飛ばされてぬかるみに転がった。
ナシエラの華奢な肢体は軽過ぎた。
そもそも屈強な男の力を受け止められるようなつくりをしていない。
加えて、シェラバッハは真の手練れである。
力、技ともに、アストロッドの敵う相手ではなかった。
シェラバッハは悠々と大剣を操った。
アストロッドはシェラバッハに翻弄され、木偶のように踊らされた。
跳ね飛ばされ払い除けられて、泥に頭から突っ込んで転がり、それでも剣を離さない。
次第に緩慢になりながらも、倒れるたび身を起こす。
不屈の精神も純粋な力の差の前には無力だ。
アストロッドの敗北は明らかだった。
ただ、兄の気紛れによって許されているだけのことだ。
アストロッドは涙ぐみ、打ち倒されるために身を起こす。
泥が目に入って瞳が満足に開かず、黒い長靴に無造作に蹴り転がされる。
悲鳴もなく倒れ、彼は啜り泣いた。
「ナシエラ・・・っ」
愛しい人の名を呼ぶ。
残された時間は僅かしかない。
彼女の命を背負って戦っているのに、ようやくここまで辿り着いたのに、アストロッドは手も足も出ないのか。
「わたしの身体を返せ・・・っ」
ぬかるみに頬を沈め、泥を鷲掴み、腕の力で体を起こす。
シェラバッハは無慈悲に、アストロッドの震えながら持ち上がる背骨を踏んだ。
アストロッドは再び泥の中に突っ伏した。
「剣を離すがいい・・・。そうすれば、これ以上はいたぶらぬ」
シェラバッハは惨めな有り様で泥にまみれた乙女を見下ろし、囁いた。
アストロッドの泣きじゃくる背が震える。
「返せ・・・、返せえぇぇぇっ!!」
アストロッドは口中に泥が入るのも構わず泣き叫んだ。
倒れたまま、掴んだ剣でシェラバッハの足を薙ぎ払う。
彼は飛び退いた。
アストロッドは最後の力を振り絞って立ち上がる。
「時間がないんだぁぁっ!!」
アストロッドはシェラバッハに向けて、構えた剣を振り上げて突っ込んだ。
「なぜ、わからぬ・・・?」
シェラバッハは悲しげに呟いた。
「逆らわねば、誰より大切にしてやるものを・・・」
シェラバッハは、アストロッドの自暴自棄な太刀筋を闇の太刀の刃面で僅かに逸らし、彼の死角に入り込むと
無防備な腹に拳を見舞った。
「ぐ・・・ほっ!」
軽い弱ったからだが宙に浮き、完全に体勢を崩す。
泥水を撥ね上げて、アストロッドは大地に叩き付けられた。
「・・・がはァ・・・ア!」
アストロッドは背中から大地に叩きつけられて、苦悶の声を上げた。
衝撃に白目を剥いてがっくりと首を垂れる。
完全にアストロッドは沈黙し、動かなくなった。
シェラバッハが倒れたアストロッドに近付こうと1歩踏み出した時、力なく投げ出された白い指が微かに動いた。
彼が用心深く足を止める先で、乱れた金髪が落ちかかる薔薇色の唇から細い息が洩れた・
「・・・ん。――っ、あ・・・」
意識が戻ったことを示すように、困惑の呻きが洩れる。
「・・・痛いわ・・・、どうして・・・」
半身を起こした乙女は無防備に呟いて、力ない指が握っていた重い剣を取り落とした。
剣は水溜まりに落ちて水音を立てて、彼女を驚かせた。
乙女は今まで自らがしっかりと握っていた剣に眉をひそめ、面を上げた。
シェラバッハはその儚げな宵闇の瞳に唇を歪める。
「・・・ナシエラ王女か・・・?」
乙女はシェラバッハの氷雪の声に身竦み、一杯に目を見開いた。
「シェラバッハ皇子!」
ナシエラは躊躇いを拭い、迸る憎悪と悲哀に叫んだ。
「わたくしの騎士《ヴィロッサ》の敵!」
シェラバッハは舌打ちした。
王女が1度は取り落とした剣を危なげな震える指で求めてさ迷わせるのを、皮肉げに見下ろす。
「あなたを許さない!わたくしの愛する騎士を殺し、あの人だけが触れるはずだったわたくしを陵辱した!許さないわ!
決してっ!」
ナシエラは剣を持ち上げ、鋼の剣の意外な重さに思わず取り落とし、再び拾おうと試みる。
「・・・死んだ男に殉じてどうする、その若さと美貌で」
シェラバッハは、ナシエラの頭上で残忍な言葉を吐き捨てた。
黒い長靴の拍車が鳴った。
彼は無造作に、彼女の取ろうとした剣を叩き下ろした長靴の踵で踏み躙った。
「きゃあ・・・っ」
「女の触れて良い玩具ではないわ。怪我するのが関の山よ」
シェラバッハは侮蔑して、自らの抜き身の大剣を腰の鞘に滑り込ませる。
鋭利な刀身が漆黒の鞘に吸い込まれてその輝きを消し、鞘の縁と収めた剣の鍔が金属音を立てて鳴った、その瞬間!
「ぅうぉおおおおっっ!!」
王女は誇り高い獣のように咆哮した。
黒い長靴の下にある抜き身の剣の柄を両手で握り締め、渾身の力を込めて引き抜く。
彼女を侮り、気を抜いたシェラバッハが体勢を崩すのを見逃さず、彼を足蹴にして地に膝をつかせた。
そして遂に、王女は自らの剣を奪い返す。
「・・・な、に!」
シェラバッハがいかに迅速に剣の柄を握ろうと、もはや遅い。
掌《たなごころ》の上で柄が周り、奪われた剣は逆手に持ち直される。
その不吉な音色がシェラバッハの耳元で鳴り、鋭い刃の影が彼の頭上に落ちかかった。
シェラバッハは二分ほど抜刀しかけた自らの手を凍り付かせた。
彼の背に冷たい戦慄が走った。
「・・・我が乙女の名を冠せし滅魔の刃に懸けて・・・」
甘い乙女の美声が朗々と謳い上げる。
シェラバッハの頭上。
彼を見下ろし、美しい女《ひと》は傲慢な女王のごとく仁王立つ。
その白い優雅な手には抜き身の剣。
右手で柄を握り、左の手の平を柄頭に添え、迷いなく切っ先を下に向けている。
乙女の表情には勝利の歓喜も憎悪もない。
ただ、冷酷無比に男を見下ろすのみ。
「闇に還れ、シェラバッハ!」
彼女は裂帛《れっぱく》の気合いを込めて、シェラバッハの頭蓋に向けて刃を振り下ろした。
「貴様・・・、アストロッドぉぉおっ!!」
シェラバッハは戦《おのの》き、そして叫んだ。
彼は振り下ろされる切っ先に思わず手を翳し、手の平に鋼鉄の刃が食い込む激痛を知る。
研ぎ澄まされた刃は肉を切り裂き、筋を音を立ててひきちぎる。
血がしぶいた。
乙女の全体重を乗せた凶刃はシェラバッハの手の平を貫き、容赦なく、更なる餌食を求めて突き進む。
会心の一撃がその命を絶たんと迫る緊迫の時に、シェラバッハは息を鋭く吐き出した。
不自由な体勢で携え、鞘から放ち切れずにいた腰の剣を稲妻の速さで居合い抜く。
アストロッドは本能的な恐怖に身を引く間すら与えられない。
か細い王女の体は、シェラバッハの大剣を放つ腕の膂力《りょりょく》に易々と払い除けられ、大きく後ろに
弾き飛ばされる。
アストロッドは背面から倒れ込んだ。
彼は大地に全身が叩き付けられる前に体を捻らせて手を突くと、たわませた肘をバネとしてしならせ、辛うじて体勢を
立て直す。
「仕損じたか・・・」
アストロッドは呻くように呟いた。
悠々と黒銀の弧空に描いて、シェラバッハの剣はすべての刀身を鞘から露わにさせていた。
アストロッドの表情に過ぎる憔悴の影は隠し切れない。
――失敗は許されなかった。
万に1つの好機は今、潰えた。
シェラバッハは右手に抜き身の剣を握り、傷付いた左手から真新しい鮮血を流して、憤怒の眼差しで彼を睨め付けた。
「迫真の演技であったな・・・。まんまと騙されたわっ」
シェラバッハは語気を強めて吐き捨てた。
アストロッドは首を振る。
「わたしは詰めが甘かったようです。一撃必殺のつもりでした。・・・今ここで、貴様の声を聞くつもりなど
無かったのだからな!」
シェラバッハは哄笑した。
「言うようになったではないか、アストロッド!・・・よもや、女の真似をして悲鳴まで上げてみせるとは芸達者な
ことだ。いつから私の弟は、賤しい真似をするようになったのか」
「何とでも言うがいい」
アストロッドはシェラバッハを憎悪を込めて睨み付けた。
「我が乙女が現れることはないのだ。彼女は身の内で滅びゆこうとしているのだから。わたしが・・・、わたしの
すべてである愛する女性をこの手で殺そうとしているこの時に、苦痛にも侮蔑にも断じて退かぬ!――道を開けよ、
シェラバッハ!そしてわたしの体を渡せっ!!」
シェラバッハは壮絶に、その氷の美貌を歪ませた。
「そうか。ナシエラは死ぬか。哀れな弟よ・・・。呪われしアストロッドよ。やはりそなたは実にいい・・・」
シェラバッハは禍々しい妖美な瞳でアストロッドを見つめた。
彼は道の脇へと己が身を退け、道を開いた。
深い傷から流れる鮮血に塗れた指で、後方の水煙に煙る庭園の一角を指し示す。
「そなたの身体《にく》はあの時のまま、そこにある。行くか、我が弟よ?」
逡巡している猶予は無かった。
アストロッドはシェラバッハに剣の切っ先を突き付けて牽制し、彼の横を1歩1歩、用心して通った。
シェラバッハは薄ら寒い笑みを浮かべたまま身動ぎせず、それを見守った。
アストロッドが側を通り過ぎる瞬間、シェラバッハは指を伸ばした。
濡れそぼつ蜜色の一房を素早く指に絡め、軽く口付ける。
「・・・今こそ、我が予言成就の時・・・」
剣風が鋭く唸った。
アストロッドは無造作に剣を揮い、男の指に捕らえられた乙女の髪の一房を断ち切った。
そしてシェラバッハに背を向け、走り出す。
――ただ、一路。
自らの愛を守り、血の縁から成る呪いを解くために。
アストロッドは走った。
そうして、彼は庭園の石を組み立てた四阿《あずまや》の長椅子の上に横たわる自らの身体を見出した。
嗚咽が零れた。
瀟洒《しょうしゃ》な四阿の内、白い青年は花々に囲まれて眠っていた。
冬に向かう季節に苑の花という花は枯れ果てたというのに、彼の周りだけは色取り取りの花々が集められ、彼の安らかな
眠りを守る褥となっている。
痩せた青年の病み衰えた姿は、アストロッドが呪いを込めて鏡の中に見つめてきたもの。
だが、青年の艶のない白髪は丁寧に梳かしつけられ、清潔に清められていた。
魅力に乏しかった彼の貌は、柔らかく瞼を閉ざして眠入っている。
その目鼻立ちは整っており、・・・やはり、シェラバッハにどこか似ていた。
そして彼よりもまだ若く、あどけなかった。
アストロッドは落涙し、瞳に映る自らの姿を滲ませた。
彼は心から、己の身体を愛しいと思った。
己の身体に還ることを切望する。
愛する女性のために・・・自分のために。
だが、アストロッドに追い縋る者はそれを許さなかった。
シェラバッハは悪意に満ちて宣告する。
「アストロッド!諦めよ。さもなくば、絶望を知ることとなろう。・・・これがそなたの身体の末路だ!」
シェラバッハの唇から不思議な韻律が流れ出す。
言葉に宿る力が空間に魔法の気配を色濃く構成し始める。
「焼き尽くすが良い、暗黒の炎よ!」
シェラバッハは魔力《ルーン》の宿る指で弟皇子の肉体を指し示した。
「やめろ!やめてくれ――っ!!」
アストロッドは悲鳴を上げた。
今いる場所からでは間に合わないことはもはやわかっていた。
虚しい心のままに手を伸ばし、彼は切れるほど眼を開いた。
その時、ザザ、と魂を失ったアストロッドの器が眠る、花の四阿の背後の茂みが揺れた。
茂みを掻き分けて灰色のドレスを着た女が現れる。
梳られてもいない栗色の髪はしとどに濡れ、出来の悪い道化じみた化粧は流れ落ちている。
歪んだ微笑を満面に湛えたマーライヤ皇女は、何はばかることなく四阿に近付いた。
彼女は腕一杯に雨粒に塗れたままの花を抱えていた。
あらゆる茂みを掻き分けて、庭園中の花々を集めた彼女の腕は傷だらけだった。
「来るな!来るなあぁぁ!」
アストロッドはマーライヤ皇女の姿を見出した瞬間、恐怖に叫んだ。
軽やかな足取りで四阿に歩み入った皇女は、彼の悲鳴に何気なく振り向く。
彼女は、制止の叫びを上げて走り寄って来る美しい乙女とその背後の闇の皇子を焦点の合わぬ狂った目で見た。
闇の皇子の人ならざる魔力を宿した指が、自らの側で安らかに眠るアストロッドに向けられているのを見た。
マーライヤの腕から摘まれた花々が落ちる。
音もなく、色鮮やかな花弁が風に乗って舞う。
「あっ・・・あぁぁっ」
アストロッドの唇から、意識せぬ喘ぎが洩れた。
マーライヤは足元の白い皇子に視線を落とし、そして微笑した。
とても幸福そうに。
優しく労るように。
この上なく愛しい者を見る目でマーライヤはアストロッドを見つめた。
清らかな涙が筋を引いて彼女の頬を流れ、光を弾いた。
皇女の瞳にはまさしく理知の輝きがあった。
彼女の甘く苦い微笑を刻んだ唇が静かに動く。
「は・・・母君っ」
マーライヤ皇女は優しく、眠る皇子の身に覆い被さった。
彼の首を抱き寄せ、柔らかくしなる身体を抱きしめる。
「母君!母君――!!」
アストロッドは喉も嗄れよと絶叫した。
すべては一瞬のことだった。
刹那、皇子の上に覆い被さったマーライヤ皇女の肢体ごと、青白い刃のごとき炎が天を突かんと燃え上がった。
凄まじい轟音を上げて、アストロッドの産毛がちりつくような圧倒的な火力で魔の炎が上がる。
「うわぁああああああ、母君ぃ――っ!!」
炎は皇子とその母を一瞬の内に焼き尽くした。
後には、灰1つ残らなかった。
アストロッドは間に合わなかった。
何1つ。
アストロッドは涙を噴き零しながら、地熱の冷めやらぬその場所にまろぶようにして駆け寄り、膝を突いた。
もはや何も痕跡を留めぬ場所で、何かを掴み取ろうとするように四阿の床を掻き毟る。
高温の地熱に乙女の白い指はひどい火傷を負ったが、アストロッドは無心に掻き集めた幻を胸に抱いた。
「母君っ、母君・・・っ、あぁぁぁっ!」
アストロッドは絶望に泣き叫び、胸に掻き抱いた幻ごと突っ伏した。
母は、マーライヤ皇女は最期の時に囁いた。
囁きは幽《かそ》けく、アストロッドの許に届くことはなかった。
だが、その唇の動きで彼は母の最期の言葉を知った。
なぜならば、彼女が最期に囁いた言葉は彼自身の名だったから。
『アストロッド・・・・。――吾子・・・』
母は逝った。
もはや、取り返せぬ愛を抱いて。
(5)
アストロッドは自失して、覚束ない足取りで四阿から歩み出た。
何か当てがあったわけではなく、彼は足を縺れさせて水溜まりにへたり込んだ。
ぱらぱらと冷たい雨が彼の濡れた髪を流れ、額を伝い落ちてくる。
顎先にまで伝わり流れていく雨粒に混じって、涙が幾筋も滂沱と流れた。
何の未練も愛情もないと信じていた母の死に深く打ちのめされていた。
ただ一度だけ、死の間際、彼の名を呼んだ母。
狂った夢想を追い、アストロッドを顧みることをしなかった幼女の心の母が秘めていた愛。
それだけですべてを許せた。
だが、わかり合うには遅すぎた・・・。
アストロッドは朦朧と、降り頻る雨に打たれた。
絶望が押し寄せてくる。
母は逝き、彼の肉体《うつわ》は失われた。
過酷な現実。
――遠からず、ナシエラは滅びる・・・。
もう、アストロッドには術はない。
ただ、その時を待つしかできない。
アストロッドの瞳に絶望が痛い涙となって溢れる。
彼は咽び泣いた。
悲しい声で、子どものように泣き崩れる彼の上を容赦なく時は流れ去る。
どれほど泣いていただろう。
『皇子様・・・、また泣いていらっしゃるの?』
微かな、本当に微かな愛する人の心声《こえ》が響いた。
アストロッドは顔を覆い、耐え切れずに首を振る。
「・・・わたしは、何もできない・・・。君を見殺しにするしかないのか?厭だ・・・っ」
言葉が堰を切ると、もう止まらなかった。
アストロッドは頑是無い子どものように懇願した。
「厭だ、厭だ!君は卑怯だ!こんなにも私の心を奪っておいて、今更わたしを置いていくと言う。ヴィロッサの
許へいってしまうんだな!?わたし1人を残して!」
『・・・ごめんなさい・・・』
ナシエラは切なく謝罪する。
アストロッドは息詰まった。
「いかないでくれ、お願いだ・・・。他には何も望まない。わたしを愛してくれなくてもいい。他の誰かと幸せに
なってもいい。けれど、わたしを置いていかないでくれ。――君を愛している。愛している、ナシエラ!』
アストロッドは悲鳴のように告白する。
「君に愛される価値がないことはわかっている。でも・・・どうしようもないんだ。こんなに、こんなにも君を
愛している・・・!わたしにとっては君だけが我が乙女だ。光の神々よ、汝が愛した子を救いたまえ・・・!!」
ナシエラの細い吐息が吐かれる。
『わたくしは光の神々の加護など受けられません。わたくしは酷い女だから、わたくしを軽蔑なさって・・・。
わたくしは全部知っていたの・・・』
「軽蔑など・・・っ」
『いいえ。本当はね。わたくしはあなたがわたくしを愛してくださっていることを知っていたの。知っていて
黙っていた。――あなたの気持ちには応えられなかったから、あなたの愛が心地よくて失いたくなかったから・・・』
死に瀕した乙女が、静かにすべての欺瞞を暴いた。
『卑怯でしょう?あなたの愛を玩んだの。わたくしは・・・許し難いほど卑劣な女だわ』
「いいんだ!いいんだ、ナシエラ!わたしも多くの者の心を玩んできたのだから!罰を受けた。ただ、それだけの
こと!!」
アストロッドはナシエラの言葉を懸命に否定した。
ナシエラは苦く心声《こえ》を戦慄《おのの》かせた。
『いいえ・・・、アストロッド様。人を罰する権利なんて、わたくしにはありません。わたくしはつも多くのことを
知っていて、黙っているの。わたくし、あなたが人を殺し、物を奪っているのを知っていたわ』
ナシエラの言葉にアストロッドは衝撃を受けた。
愕然と目を見開く。
『わたくしは止めなかった。それが生きていくために必要であることを知ってしまったから。・・・だから黙っていたわ。自分の手を汚さずにすむことに安堵して、汚い役割をあなたに押し付け、あなたを貶《おとし》めていた』
「ナ・・・」
『あなたといると、どんどん澄んでいける気がして心地よかった。あなたはわたくしの闇なのだと思ったわ。でも
違ったのね・・・』
ナシエラは深い溜め息をついた。
心声《こえ》は絶え入りそうに細くなっていた。
『闇はわたくしの中にこそあった。あなたに押し付けた気でいたものはわたくしの中で膨れ上がり、遂にはわたくしを
塗り潰す・・・。皇子様、これはわたくしの咎なの、邪悪なの。それだけは忘れないで・・・』
ナシエラは囁いた。
アストロッドはかぶりを振る。
「ナシエラ。わたしは君のための悪なんだ。君は間違ってはいない。・・・優しく美しい、わたしのナシエラ・・・」
ナシエラが微かに柔らかく笑む気配があった。
アストロッドの愛した、あの心痛むほど澄んだ、美しい笑みだ・・・。
『・・・優しい人・・・』
彼女は称えるように言う。
『あなたはわたくしの悪《やみ》などではないわ。優しい真心を持つ人・・・。わたくしはあなたの中に 尊い
美しい物《ひかり》を見ることができるの』
アストロッドは濡れた瞳を見開いた。
彼の心が悲しみとそして温かい喜びに切なく震える。
『あなたは美しいわ、アストロッド様。あなたの不器用で優しい心が、どれほどわたくしを慰めてくれたことか・・・』
ナシエラの気配は遠い。
指の合間から掬っても掬っても、彼女の命が止めようもなく零れ落ちていく。
『わたくしを許してね・・・。そしてどうぞ、ご自分をお責めにならないで・・・』
「許すよ。君はわたしに人を愛することを教えてくれた。誰にもできなかったことを君はしてくれた。
愛しているよ・・・」
『・・・はい』
ナシエラはあどけなく笑う。
『アストロッド様。あなたに遺していくわ、身体と共に未来を・・・。他に何も遺せないけれど』
「いいんだ・・・。愛だけでいいんだ。君を愛している・・・、これだけで十分だ」
アストロッドは真摯な愛を込めて答えた。
愛しい王女はアストロッドの内側で、誰にも知れずにひっそりと死に逝こうとしている。
『・・・あなたの見出したものをどうぞ信じて。きっとそれは・・・、あなたの中で、永遠に育つでしょう・・・。
――さよなら、アストロッド様』
ナシエラの心声《こえ》が途絶え、まるであぶくのように、彼女の魂は弾けて消えた。
彼女の魂が黄泉路を下る。
アストロッドは喘いだ。
信じたくないのに、まだ彼女の魂がどこかに残っているのだと信じたいのに、アストロッドとナシエラはあまりに
近過ぎた。
彼女の滅びをどんなに否定しても目を逸らすことはできない。
さまざまと、残酷な近さで愛する女《ひと》との死別を感じた。
喪失のあまりの痛手にアストロッドは地を掻き毟り、泥の中を這いずった。
心臓が凍り付くような悲しみがアストロッドを苦しめ、だが決して心臓を氷に変えて止めてはくれないのだ。
彼女を守ると魂に刻印した誓約《ゲッシュ》の毒すら、彼を罰しようとはしない。
なぜなら、ナシエラを滅ぼしたのは、いかなる『災い』でも『悪』でもなく、彼女自身に過ぎなかったから――。
この、死よりもむごい悲愴と絶望に彼は泣くことすらできない。
悪魔の皇子はのたうち回り、何かを求めるよう空に手を差し伸べた。
その手が捕らえることのできるものは何も残されてはいない。
絶望の毒矢が彼の胸を貫いた。
悲嘆に暮れ、伏したまま声1つ立てず動かないアストロッドにシェラバッハは歩み寄り、静かに彼を見下ろした。
その冷厳な瞳に憐れみの色が微かに宿った。
だが、シェラバッハは情を振り捨てて、アストロッドに声を投げ掛けた。
「・・・立つがいい」
アストロッドはのろのろと首を振る。
立てないと訴えるように、無防備に。
「ナシエラは自ら滅んだ。己で持ちかけた賭けにそなたは破れたのだ。――我が女よ」
シェラバッハは冷酷に言った。
アストロッドの背が跳ね、激しくその肩が震え出す。
「立て。我が妃として私の傍らに寄り添え。立たぬとあらば、力ずくでも立たせるぞ」
シェラバッハは返答を待ち、反応がないと知るや腰を屈めた。
力なく投げ出されたアストロッドの腕を乱暴に掴み引き摺り上げる。
「厭だ・・・っ」
アストロッドは嗄れた声で呻いた。
「厭だぁぁぁ!ああぁぁああ!!」
恐慌を起こしたアストロッドが絶叫する。
長い長い、耳を聾するばかりの悲鳴が続いた。
彼は死にも狂いで暴れ、己が悲鳴していることにも気づけずに耳を塞いだ。
シェラバッハはアストロッドが滅茶苦茶に蹴り殴り付けるのを意に介さず、拘束する。
アストロッドは彼の腕の中で、身も世もなく泣いた。
「予言は成就された。誓いは果たされた。――そなたは闇の乙女となって我が許に戻った!そなたは今こそ
私のものだ!!」
「放せ・・・、放してくれ・・・」
アストロッドが涙して頼むのを、シェラバッハは断固として許さなかった。
シェラバッハがアストロッドを力任せに引き上げると、萎えた足が力なく地を摺る。
アストロッドは涙と雨に濡れた顔を上げた。
細い指が、シェラバッハの濡れた着衣を掴む。
「お願いです、兄君・・・」
アストロッドは切なく嘆願した。
ひたすら慈悲を求めて涙を流す。
シェラバッハが気を殺がれて手を下ろすと、アストロッドは腕を掴まれたまま、泥の中にひれ伏した。
「どうぞ、お許しを。見逃してください」
「何を莫迦な・・・」
「どうか、どうか、今一度の猶予をください。わたしを見逃して・・・」
アストロッドは嗚咽しながら、繰り返す。
シェラバッハは呆然と、足元に跪くアストロッドを見下ろした。
「帰ってきます。必ず、あなたの許へ帰ってきます。――ですから、今一度・・・っ」
「そなた、狂ったか。そなたのたわ言を信じると思うか。・・・薄汚い奴め。この上、慈悲を乞うか」
シェラバッハは怒りを込めて吐き捨て、足下の泥にまみれた金髪を踏み躙った。
頭を地に擦り付けられても、アストロッドは抗わなかった。
「お願いです、兄君。裏切りません。お誓い申し上げます!ですから、もう一度だけ許してください・・・っ」
アストロッドは何度も何度も、シェラバッハの長靴のつま先に口付ける。
シェラバッハは震えた。
「逃がすと思うのか。そなたの実のない言葉を私が信じるとでも?そなたは私を嫌い抜き、逃げた。私を拒絶しておいて、いざとなればそのように付け上がったことをぬかすのか・・・っ」
「今、捕らわれるわけには参りません。希望が失われては、わたしは生きてゆけない。どうしても果たさねばならない
役割があるのです!」
アストロッドは必死にかき口説く。
シェラバッハの心に憎悪が鎌首をもたげる。
「戻って来るだと?何のために!果たさねばならぬ役割とは何だ!言ってみるがいい。詭弁とあらば、決して許さぬ!」
アストロッドはシェラバッハの声の暗さに震え、深々とひれ伏した。
額を長靴のつま先に擦り付ける。
彼らは躊躇い震えながら、悲痛な決意で口を開いた。
「戻って参ります、必ずや!――あなたを滅ぼすために!!あなたを滅ぼし得るだけの力をつけて、ここに戻って来る!」
シェラバッハは愕然として、アストロッドを見下ろした。
細い娘の肩が小刻みに震えている。
シェラバッハの唇に嘲笑的な苦々しさが刻まれた。
「愚かな・・・。よもやまさか、そのような言葉が通ると思っておるのではあるまいな」
アストロッドは覚悟を決めていたつもりだった。
だが許されずに冷酷なてがきつく肌に食い込んだ時、意外な失望の呻きがアストロッドの唇から零れた。
「あなたに兄弟の情が誠におありなら、一度なりとも、わたしを人として扱ってくださっても宜しいでしょうに!」
アストロッドは激しく詰った。
彼を見下ろすシェラバッハは束の間言葉を失い、雨に打たれて伏し拝む弟を見つめる。
静寂の内に、シェラバッハの秀麗な額を一筋の水滴が流れ、彼の黒炭のような瞳の中に伝わり落ちていった。
シェラバッハは瞠目する。
それは瞬きの間の、与えられた機会だった。
アストロッドは、己のものではないように重く脱力した腕を持ち上げ、その手の先に決して手放すことなく握っていた
鋼鉄の刃でシェラバッハの体を貫いた。
止まぬ雨に吸い取られ、音という音は息をひそめる。
アストロッドは萎える腕の力を振り絞り、柄頭に両の手を押し当てて、更に渾身の力で押した。
夥しく流れだす生ぬるい血潮が、仰向いたアストロッドの顔を泥と涙と混ざり合いながらまだらに染めていく。
「・・・お答えください。わたしは何ですか?この世であなたを除いてただ1人の闇の眷属、血の近しい兄弟?・・・
あなたの言葉はいつも虚しかった。薄っぺらなばかりで、私の胸にいつも風穴を開けた。闇の眷属であること、弟で
あること、それだけがあなたにとっての私の価値なのだ。あなたは幼い頃から、あなたの望む役割を果たさなければ、
わたしはどんな価値もないと言外に語り続けてきた。わたしはなぜ自分自身を蔑まねばならなかったんだ。なぜあなたの
期待に応えられない自分に絶望せねばならない?――あなたの言葉にわたしが何も感じぬと思っていたのか!実体のない
言葉だとしっていてもなお、惑わされ傷付かずにはおられない己の弱さが憎かった。そんな弱さは滅ぼさなけらばならないと思った。だからわたしはわたしを殺した!殺したと信じていた!こうしてすべてを失ってから、そうではなかったと
悟らされた。傷つかずにいられるものか、人を愛さずに生きていけるものか!できそこないであろうとなんであろうと、
わたしは人である部分も含めて、自分自身であることを諦めてはいけなかったのに!」
「愚かな・・・、ことを」
シェラバッハは静かな呟きを零し、彼の腹部を貫いていく剣の腹に指を添えた。
先程アストロッドが惨く傷付けたシェラバッハの手の平の裂傷は――既に塞がっていた。
血は雨で綺麗に流されており、生々しい肉色を晒しながら傷口は閉じている。
見る限り、その手はどんな不具合も残しているようには思えなかった。
だがシェラバッハは刃の進行を止めようとはしない。
彼の夜の海のような黒瞳は深い闇を孕み、どこまでも図り難かった。
「私は闇の眷属ぞ。汚らわしい人の血など、流れ切ってしまっても惜しいとは思わぬわ。――ゆえに貴様にくれてやろう」
ごりり、と背骨を削る手応えがあった。
白刃がシェラバッハの体を突き通し、水を吸って重く肢体に張り付いた闇色のマントを引き裂いて、背から切っ先が
飛び出す。
シェラバッハは微かな喘鳴を立てて、青白い唇から黒い血を吐き出した。
漆黒の長身がぐらりと傾ぐ。
アストロッドの目の前で、シェラバッハは仰向けに倒れ、泥水の飛沫を上げて水溜まりの中に横たわった。
「シェラバッハ・・・っ?」
アストロッドが膝でいざ寄り、逆さまにシェラバッハを見下ろすと、彼は青ざめた唇を歪ませた。
人ならば明らかに致命傷であるはずのその傷にも、彼の面には苦痛の色はあっても死の翳は見えなかった。
アストロッドは直感的に悟った。
――異層に属する闇の眷属たる者の滅びとは、この世における死の理と外れたところにあるのだ、と。
この世の生き物を殺すようには、シェラバッハを殺すことはできない・・・。
そして異母兄は甘んじてアストロッドの剣を受け止めた。
避けることもその守護の魔力《ル−ン》を行使することもできたはずなのに、彼はそうしなかった。
「――さすがに私もしばらくは動けぬ。この傷を癒すために、すべての魔力を総動員させねばなるまい。人の肉体とは
不便なものよ・・・」
シェラバッハは嘆息した。
どくどくと鼓動に合わせて流れ出る血液が次第に勢いを緩めていく。
黒っぽく凝固し、石榴のように割れた傷口では組織の再生が始まろうとしていた。
「これが、おまえに流させた我が血にひそむ、人の情とやらが与える時間ぞ。私はおまえを見逃すことはできぬ。
動けるようになれば、必ずおまえをこの腕に抱くだろう」
シェラバッハはごく静かに告げる。
それでも・・・これは確かに、彼の最大限の譲歩であり、慈悲だった。
「十分です」
アストロッドは歯を食い縛り、言った。
雨は容赦なく彼の体温を剥ぎ取り。泥のような疲労と失意はここで膝を屈して休息することを誘い掛けていた。
アストロッドは総身の力を振り絞る。
のろのろと体を起こし、シェラバッハに背を向けて歩き出した。
今は何も考えまい。
決して戻らぬ愛も、憎悪と二律背反の引力も、虚しい未来も、考えれば進めなくなる。
――行く手には、見通せぬ時間が立ち塞がっている。
雨がもっと激しく降ればいい。
その無慈悲さ、この身を打ち据え、凍えさせてくれればいい、ただ前進する厳しい強さだけを、今は見据えたいから。
――そして、彼は生かされるのではなく、生きるために旅立つのだ。