深田祐介
炎熱商人(上)
上巻 目 次
貿易風、ルソンに吹く
赤き、生命の樹
怨念の土地へ
マニラB級支店
[#改ページ]
貿易風、ルソンに吹く
1
冬の曇り空の下に巨大な水面が、にぶい光沢を放ちながら、茫漠たる感じで拡がっている。水面の真中には樹皮の黒ずんだ、おびただしい数の材木が浮いていて、橋桁《はしげた》のようなコンクリートの柵に囲まれていた。
材木を囲むコンクリートの柵は遠ざかるにつれて、次第にかすんでゆき、それは、アメリカ西部の大平原の果てに、電柱の行列が消えてゆく光景を連想させた。
東京湾の東の一角に、前年完成した十四号地埋立地というのがあって、ここはそのなかの、総面積十数万坪におよぶ、新木場《しんきば》木材団地なのであった。
その十四号地貯木場の真中の水面を、ひとりの大男が身軽に動きまわっていた。
男はワイヤーでおおざっぱに繋《つな》いであるだけの、積木を乱雑に散らかしたような材木のうえを、ひょいひょいと渡り歩いては、腕を組んで丸太の様子を眺め、丸太の端へ行って木口《こぐち》を覗《のぞ》きこみ、指で樹皮の具合を調べたりして、手に持ったふといクレヨンで、丸太にまる印を、ときには|バッテン《ヽヽヽヽ》印をつけてゆく。
身長一メートル八〇を越す大男なのだが、作業ぶりは物慣れていて、動きも敏捷であった。年格好二十七、八のこの男は、縮れた頭髪を海風になびかせ、寒空に外套も着ない、紺の背広姿であった。
男は、荒川ベニヤ株式会社の社員、石山高広で、フィリッピンはミンダナオ島から運ばれてきて、荒川ベニヤに納品されるラワン材の検品作業をやっているのであった。
この丸太は、東京港、芝浦沖の第三台場の辺で外航船から積み下され、仮筏《かりいかだ》に組まれ、埋立地の間を曲折する運河を抜けて、この十四号地貯木場まで運ばれてくる。つまり見はるかす彼方まで水面を埋め尽しているほかの丸太も、ことごとく海外からの輸入材なのであった。
──いい丸太だな。木口がまるで輪切りにしたバナナみたいじゃないか。
石山は、検品しながら、惚れぼれした表情で、丸太の木口を撫でたりした。
ほとんど四季がなくて気温の変化に会わぬ南洋材は、国産材に見られる弓の的のような、年輪の縞目《しまめ》が木口に浮きでていない。しらじらと丸い木口は、輪切りにしたバナナの切り口のようで、いかにも柔らかそうな感じを与える。この丸太は、木口の白いところから、通称白ラワンと呼ばれていて、良質の丸太として定評のある、フィリッピン、ミンダナオ産のラワン材であった。
半分ほど検品作業をすませたとき、丸太の長い筏をひっぱったタグ・ボートが間近の水上を通り過ぎてゆき、そのあおりが、石山の乗っているラワン材をおおきく揺らした。
石山は舌打ちをして、タグ・ボートを見送り、あおりのまだ静まりきらぬうちに、七、八十センチ離れた丸太に乗り移ろうとした。右足を新しい丸太にのせたとたんに、皮靴の底が滑って躰《からだ》がよろけた。冬のことで、海上に半分顔をだしたラワン材の表面はすっかり乾燥して、滑りやすくなっている。
しまった、とおもい、もとの丸太にもどろうとしたが、左足の下の丸太は、波のあおりに揺れていて、力が入らない。あっという間に、石山は、材木の間の海中に落ちた。
咄嗟《とつさ》に片手で丸太に掴まったものの、首から下はすっぽり水の中である。
くたびれて古いビニールの包み紙みたいになった、季節外れのミズクラゲが石山の眼の前をただよい流れてゆき、淀んだ水の匂いが鼻にきた。
ズボンの裾がまつわりつく両足を揃え、両手に力を入れて、石山は水から這いあがった。水滴を紺の背広からしたたらせながら、胴ぶるいをひとつ、した。
巨大な天蓋のように開けた空のあちこちで、鴎や白鷺の群が舞っていて、鋭い鳴き声を放つのが、まるでぶざまな自分の姿を嘲笑しているように聞える。
──通船《つうせん》に乗ってこなくてよかった。
そうおもいながら、石山は柵の向うに舫《もや》っている、釣り舟のような、船外エンジン付きの和船に向って、歩きだした。
「通船」と呼ぶ、バスのような乗り合い船が、一日に三度、貯木場と埠頭《ふとう》との間を往復しているが、もしこの乗り合い船を利用してここにきていたら、あと一時間やそこら寒空の下で、震えながら次の便の到着を待たなくてはならない。その日の石山は、幸い筏回送業者の徳組に頼んで小さな舟を仕立てて貰ってあった。
今度は用心深く丸太の群を伝い歩いて、徳組の船に近づくと、
「とうとうやったね、イシさん」
和船を運転してきた、徳組の作業員が、おもしろそうにいう。
「親父さん、出直すわ。木材用《ランバー》クレヨンも書類も失くしちまって、仕事にならんのよ」
石山は濡れた手で頭を掻いた。
「うちの事務所にだるまストーブがあるからよ。すぐに乾かしたほうがいいや。この寒空じゃ、いくら頑丈なあんたでも風邪をひくよ」
徳組の事務所は、東雲《しののめ》のゴルフ場の裏手、有明の埋立地にある。十四号地貯木場を離れた船は北に迂回して、有明に帰るらしく曙《あけぼの》運河に入った。
──とうとう落ちたか。
曙水門を抜けてゆく和船の腰掛で石山は濡れた服、とくにズボンが躰にへばり着くのが不快でたまらず、眉をしかめ、唇を噛んだ。
石山はもう五年、検品作業をやっていて、おなじ検品作業の同僚が年に何回も海や川に落ちたりするのに、まだ一度も落ちたことがなく、それをずいぶん自慢にしていたのである。
石山は、墨田区の既製服の卸問屋の息子なのだが、慶応志木高校在学中には、野球部の正選手をしていたくらいで、運動神経には自信があった。
大学に進んでからは、家業を手伝わねばならなくて、野球部には入部しなかったが、クラブを作って野球を続け、現在でも従業員千二百名の荒川ベニヤのチームで、サードを守り、四番を打っている。
曙運河を出外れ、砂町運河に入ると、とっつきの潮見の三角州から銃声が響いてきた。白バイの警官なのか、白いヘルメットをかぶった警官たちが、片手をあげて盛んに拳銃を射っているのが見える。
潮見の三角州には、警視庁の射撃練習場が設けられているのである。
石山は拳銃をかまえる警官たちの、力と自信に満ちた姿勢を少し妬《ねた》ましい気持で眺めた。
川風が吹き過ぎて、石山は何度目かの胴震いをし、靴を脱いで、溜った海水をボートの外に捨てた。
昭和四十五年正月のことである。
東京電力の火力発電所や東京ガスのガスタンクの並ぶ、豊洲埠頭の対岸が有明の埋立地だが、桟橋《さんばし》をあがったところに、筏回送作業員の溜り場の小屋がある。
石山は、その小屋で、作業員たちの笑声の混った冷やかしを浴びながら、濡れた衣服を脱いで、だるまストーブの傍のボロ椅子にひろげて乾かした。
道路に面している徳組の事務所から、話を聞きつけた女子事務員が毛布とスリッパを持ってきてくれたので、パンツ一枚になって毛布をひっかぶり、水びたしの靴も乾かして、スリッパを履《は》いた。
石山は、背の高い好男子だから、徳組の女子事務員たちには、人気があって、親切にして貰えるのである。
ストーブにあたりながら、作業員たちと「貯木場が足りなくて困る」などという雑談をしていると、
「お池にはまって、さあ大変、かね」
背後で、声がして振りむくと、小屋の入口に、だぶだぶの外套を着こんだ小男が、ポケットに両手を突っこんだまま、嬉しそうな笑顔をうかべて立っている。
「ぼっちゃん、一緒に遊びましょう、とゆきますか」
下着一枚の石山の様子を面白そうにじろじろ眺めながら、そんなことをいう。
「おや、社長、きておられたんですか」
この五十四、五歳にみえる、面長の顔におおきな鼻の目立つ人物は、石山の勤める荒川ベニヤの社長の与田順一である。
荒川ベニヤは、与田の父親の代に創立されたので、与田は二代目の社長ということになるが、「一週間に一度は、東京湾の蓄膿症になりそうな臭いを嗅がねえと、めしが満足に喉《のど》をとおらねえよ」といって、新木場や、広さが十六万坪あって、通称「十六万」と呼ばれているこの有明沿いの貯木場に顔をだす。たたきあげの父親にきたえられて、木材の商売の基本は、丸太の仕入れ、つまり検品にある、と、信じているのである。
与田は、外套を着たまま、作業員の勧めてくれた椅子にすわり、石山とならんで、ストーブにあたりながら、
「これでおまえも男になったんだ。丸太で商売やるやつは、一回は必ずどんぶりことゆかなきゃいけねえんだよ。わざとでも、一回は落ちてみせるこった。私ゃ、運動神経があって、水に落ちたこたあ、金輪際《こんりんざい》ありませんよなんて気取ってちゃ、おまえ、愛嬌がなくて、人に好かれねえやな」
社長の与田は、そそっかしくて、昔、筏を繋ぐワイヤーに両足をとられ、それこそラワン材が倒れるように、「直立不動の姿勢」のまま筏のうえに倒れて、前歯を三本折ったことがあるくらいで、何回も水の洗礼を受けている。
口のわるい社員は、与田のことを「直立不動」と呼んでおり、それを知っている石山はにやにや笑いながら、与田の言葉を聞き流していた。
「しかし落ちるんなら、なんたって新木場だよな。一番ひどいのは、汚水処理場のある天王州だろう。あすこは肥えたごにおっこちるのとおんなじだが、昨今は隅田川だって、公害のおかげで、天王州といい勝負だっていうぜ。うっかり漬かっちまった日には、あとで躰じゅうジンマシンができたみたいに真赤に腫れあがってな、男の大事な箇所なんぞ象皮病みたいになっちまうそうだ」
運動神経のある石山の落ちたのが、よほど嬉しいのか、東京の下町|訛《なま》りで、そんなことをぽんぽんいって、与田は上機嫌であった。
与田の上機嫌はなかなか醒めず、小屋の作業員たちが、「仕事、仕事」とでてゆくと、それを待っていたように、
「イシな、おれは、えらいアイデアをおもいついたんだ」
顔を寄せてきて、ひそひそとそう囁《ささや》いた。
小屋にはだれもいないのだが、すぐ秘密めかして声をひそめたがるのが、下町の人間の癖である。
「うちの会社が、今度、宮古に製材工場を建ててるだろう。あすこでコンパネ作ってやろうとおもってんだが、おれはおもいきってルソン材使ってな、コンパネ作ってやろうか、そういうアイデア、持ってんだ」
三年前の昭和四十二年頃から、各合板会社や製材会社は、東北開発公社からの工場誘致の融資を利用して、東北地方に工場を建てるのが流行のようになっている。荒川ベニヤも、岩手県の宮古に工場を建設中であった。
その宮古の工場でビル建築用のコンクリート・パネルを作る予定、という話は、石山もむろん、承知している。
昭和三十五年の高度成長とともに始まった建築ラッシュは、住宅建設に留まらず、ビル建築のラッシュを招いていた。
ビル建築の場合、まず木製の型枠、通称コンクリート・パネルを作り、その内側に生コンクリートを流しこんで固めて、基礎工事を行うが、このコンクリート・パネルの需要が急増しており、その需要を当てこんでの工場新設であった。
「コンパネ製造には、いままで国産の松材を使ってきたんでしたね。それを輸入材に切りかえるわけですか。しかしルソンのラワンは評判がわるいでしょう。木口の赤いラワンが多くて、あれはミンダナオ材と違って、背は低いし、材質は固いっていうじゃないですか」
おなじフィリッピン産のラワン材でも、南のミンダナオ島で産出する白い材と、北のルソン島産出の赤い材とでは、品質に雲泥の差がある、というのが、日本の南洋材関係者の常識であった。
「たしかに評判がわるくて、日本の企業は見向きもしねえやな。これがおれの目のつけどころよ。だれも見向きもしやがらねえから、値段はべら棒に安いときてる。だがな、舶来上等の家具作るわけじゃあるめえし、コンパネに品質は関係ねえんだ。値段だけが問題なんだ」
「なるほど。こりゃ儲かるかもしれませんね」
パンツ一枚の石山は、おもわず唸《うな》った。
「しかしルソン材を輸入するとして、どこの商社に頼むんです」
与田は、顎《あご》を撫でた。
「大手は、ミンダナオの白ラワンに眼がくらんでるから、どこもあんな猿のおけつみたいに赤い材は、相手にしねえだろうな。どこか、木材で出遅れてるところを探さなくちゃいけねえな」
そこでふたりとも黙った。石山は、もしかしたら、与田もおなじことを考えているのかもしれない、とおもった。
ふいに与田は、
「おまえ、やっぱり臭うな」
といって、石山の腕のあたりに顔をもってきて、鼻をふんふん鳴らした。
それからだぶだぶの外套を脱いで、
「臭いがつくのは我慢するから、これ着てろや。うちみたいな小さい会社は、社員にひとり倒れられると、高くついていけねえ」
石山に手渡した。
「ただし新調なんだからな、水の上には持ってゆくなよ」
そういって立ちあがった。小屋の入口で振り返り、
「新木場に石山跳びこむ水の音、ってなもんだな」
と全然おもしろくないジョークをいい、両手をこすりながら、風の冷たい戸外へでて行った。
2
鴻田《こうだ》貿易株式会社マニラ事務所は、マニラの新しいビジネス街、マカティ地区にある。
マカティ地区は、正確には、都下武蔵野市のような市組織になっているのだが、単純に比較すれば、時をおなじくして、日本でも建設の始まった新宿駅西口の新ビジネスセンターにたとえられるかもしれない。
マカティ地区の大通り、アヤラ通りがヘレラ通りと交差する角に保険会社があるが、鴻田貿易は、そのビルの八階を借りている。
昭和四十五年一月のある月曜日の朝、鴻田貿易マニラ事務所の現地雇用社員、フランク・佐藤・ベンジャミンは朝の日課で、宛先き別に一通一通仕分けして事務机においてある、主に本社発のテレックスの束に眼を通していた。
フランクは、フィリッピンに対する機械輸出を担当しているのだが、折柄、高度成長下の日本では、土曜、日曜お構いなしに大勢の社員が働いているとみえ、月曜の朝は、いつも大量のテレックスがフランクの出社を待ちかまえている。
入口から入って右手の窓際には、本社派遣の日本人マネージャーが、四、五名窓を背にして机を置いているが、九時半近くになると、半袖シャツ姿の彼らは次々と立ちあがって、入口の受付けの脇にある会議室のなかに消えてゆく。
月曜は、鉄鋼と非鉄、肥料、機械、電気、物資、それに経理担当の日本人派遣員七人が、事務所長の通達を受け、また各担当について報告を行う、定例会議の日なのである。
フランクが、会議室へ消えてゆく各マネージャーの足音を耳で追いながら、テレックスの白い束を繰っていると、機械部に仕分けされたテレックスのなかに、事務所長宛てのものが一通まぎれこんでいるのを見つけた。
本社木材部発信のローマ字文のテレックスで、「木材に関する緊急の商談が生じたので、本社木材部外材課課長補佐のG・ツルイを木曜にマニラに派遣し、事務所長と打ち合わせを致させたい。木曜、金曜の事務所長のご都合、知らされたし」と書いてある。
細長い大部屋の奥、格子をめぐらせた会計係の一画の向うに、マニラ事務所長、小寺和男の個室があるが、テレックスをとどけようかとフランクが立ちあがったときに、小寺自身がドアを開いて出てきた。いつものようにきちんと背広を着た小寺は、やはり月曜会議に出席するところで、書類とノートを小脇にかかえている。
大部屋を横切ってこちらに歩いてくる小寺に、フランクは歩み寄った。
小寺は、おおきく手を挙げて、
「お早う、フランク君」
さわやか、と形容していい微笑をたたえていう。
「所長、東京の木材からテレックスが入っていましてね。課長補佐がこちらに出張してくるそうです」
といって、フランクはテレックスを差しだした。
小寺は、その場に立ち止り、差しだされたテレックスを読み下した。
小寺は本社の物資部、食品担当の次長から、数カ月前、マニラ事務所長に着任した四十二歳の人物である。
人あたりが柔らかいうえに、率直な性格で、しょっちゅう現地社員に気さくに声をかけ、昼めしに誘いだしたりするので、彼らの受けもわるくない。
フランクもこの事務所長には、ひそかな好意を抱いていたが、しかし一方では「なに、初めのうちだけだ、一年も続けばお慰みだね」とおもっていた。現地事情がわからぬうちは「フランクさん」と低姿勢を続け、慣れるとともに「おい、フランク」などと威張りだすのが、日本人派遣員によくみられる傾向であった。
「フランク君、きみは日本語を読めるのか」
小寺は興味を持ったらしく、そう訊ねた。
「ローマ字も日本語のうちに入るんですか」
フランクは笑って訊き返した。
日本人派遣員、現地雇用社員を問わず、会社のだれかれから、「フランク」と呼ばれている、この男は、小柄ながら、ニスで|つやだし《ヽヽヽヽ》をしたみたいに、あさぐろい顔の色つやがよく、濃い眉毛のあたりが男っぽくて、日本人にしては、ずいぶんバタ臭く、いなせな印象さえ与える。それも道理で、フランクは、フィリッピン人の父親ルイス・ベンジャミンと日本人の母親佐藤|とき《ヽヽ》の間に生れた混血児である。
読み書きは大分おぼつかなくなっているが、会話のほうは完璧な日本語、それも最近では商社弁とでもいうべき、若干の関西弁を交えた日本語を達者に話す。加えてフィリッピン訛りのまったくない、アメリカ流の英語を話し、タガログ語は母国語だから、これまた不自由はない。
この語学力と頭の回転の早さがものをいって、戦後賠償使節団や日本大使館の仕事を経て、フランクはこの会社にひき抜かれ、すでに十五年近くが経っている。
「いや、ローマ字の日本文は、漢字と仮名まじりの日本文よりは、ずっと読み難《にく》いよ」
ぼくは、英語より苦手だ、と小寺は笑った。
「フランク君のような能力のあるひとには、もっと大事な仕事をやって貰わなけりゃいかんな。宝を持ちぐされにしておいては、会社の損失だよ」
小寺はそういって、手のテレックスをひらひら振りながら、会議室のほうに歩み去った。
席に帰ると、真向いにすわっている、スペイン系の血がいくぶん混っている現地雇用社員が、
「ボスがおまえと何か話していたから、おまえも今日から、|月 曜 会 議《マンデー・ミーテイング》の仲間入りさせて貰えるのかとおもったよ」
と英語で皮肉をいう。
「おまえ、日本人でさ、しかも十五年も勤めてんだろう。そのおまえがなぜ会議に参加させて貰えんのだ。はっきり文句をいったことがあるのか」
からむようないい方をする。
「おれはフィリッピン国籍の人間だしな、日本人の血が混っているといっても、半分だし、会議にでられなくても仕方ないさ」
少くとも、肝心の日本人派遣員たちは、彼をフィリッピン人としかみなしていないのである。
フランクはそれ以上取り合わずに、工作機械の仕様と建値に関する、長文のテレックスを読み始めた。
なにがおかしいのか、会議室でどっと笑声が湧きあがる。フランクは気持が暗く沈んでくるのを抑えようがなかった。
定例会議のある月曜には、現地社員たちから、この種の皮肉をいわれ、からまれたりするので、フランクは月曜日が嫌いであった。
フランクは、月曜会議のまだ終らぬうちに、会社をでて、おなじマカティ地区のマカティ・ショッピング・センターのなかにある中華料理屋「ウイロウ・コート」にでかけた。
幼馴染みの友人、華僑のホベンチーノ・チャンと昼食の約束をしている。
月曜会議が終って、本社派遣員たちが、談笑しながら会議室をでてくるのをみると、毎週の恒例行事にしろ、現地雇用社員の疎外感が俄《にわ》かに募り、屈折した気持になることが多い。それが嫌さに約束時刻よりずいぶん早目に会社をでてしまい、フランクは、料理屋の小さなラウンジでホベンチーノの到着を待たねばならなかった。
ラウンジには、フィリッピン特産の籐《ラタン》の家具が置かれ、その間でおなじ特産物の|貝がら《カービス》細工の傘をつけたスタンドが、真珠いろに光っている。
黒く塗った籐椅子にすわってホベンチーノを待っていると、表のドアが開いて、十数人の日本人の団体が入ってきた。
一月のマニラは、乾期でしのぎやすいとはいえ、この団体の男たちは、開襟シャツのうえに上着を着け、女も黒っぽい地味な格好をしていて、観光団の派手やかな空気とは無縁であった。ほとんどが四十代、五十代の男女である。
昭和四十五年のこの時点、マルコス大統領による、武器の所持を取締る|戒 厳 令《マーシヤル・ロウ》は発令されておらず、治安に不安があるので、後年、悪名を轟《とどろ》かせることになる日本の観光団体は、まだほとんど姿をみせていない。
フランクは、第二次大戦中、比島戦線で戦死した兵士たちの慰霊団だろう、と察しをつけた。
料理屋では、予約を受けた個室の準備を整えていなかったらしく、団体の男女は、個室の隅やラウンジの籐椅子に三々五々、腰をおろしてお喋りを始めた。
フランクの脇に貝がら細工のスタンドがあり、その向うに四十前後の、サングラスをかけた肥った女性がすわって、隣りの女性と喋り始めた。
籐椅子に腰を下すまえに、女は、サングラス越しにちらりとフランクを眺めたが、どうやらこの日本人離れした、いなせな感じの男は、フィリッピン人と頭から信じこんでいる様子である。どこの戦線で戦死した兵士たちの慰霊団だろうとフランクは、好奇心をそそられた。
「今朝、あんた、自由時間貰って、昔の学校に行ったんでしょ。昔の学校は、残ってたの」
隣りの連れに訊かれて、肥った、サングラスの女は、
「そのまま、残っとったわ。だけど商業大学いうんかねえ、そのような学校になっとって、土地の若い男の子や女の子が大勢、出入りしとったよ。昔は学校の正門を入った両わきにおおきなアカシヤの木が二本植わっとって、いたずらな子どもが、しょっちゅう木登りしよったけど、そのアカシヤも伐《き》られて、なくなってしもうとったわ」
落胆したように肩を落していう。女の言葉には、強い西日本の訛りがあった。
フランクは、胸騒ぎがして、喋っている女の側の、躰半分が総毛立つような気がした。
「あんた、学校のなかへ入れたの」
「それが入口のガードが意地悪でねえ、昔、覚えたタガログ語で、私はこの学校の卒業生だ、内部をひと目見させてくれ、いうたんだけど、学校の事務局の許可がないと入れん、いうんよね」
「ガードにお金やれば、入れてくれたんじゃない」
連れの女が、もっともな質問をした。
「そうなんかねえ。まあ表からじゃが、とにかく二十五年ぶりに学校の建物みたし、学校の裏の先生の寮もみたし、それだけでもきた甲斐はあったわ」
女は額の汗をハンカチでおさえながら、自分を慰めるようにいう。
「先生といっても昔の先生は、友だちみたいでね、夕方、寮の下に行って、シノダセンセエって、皆で呼ぶんよ。そうすると髪を真中から分けた担任の先生が、顔だして、あがってこいいうて、マンゴーやら、お菓子やら、ご馳走になった」
フランクは、躰を戦慄が走り抜けてゆくおもいがして、おもわず立ちあがった。
「失礼ですが、あなた、マニラ日本人小学校を卒業されたかたですか」
肥った、サングラスをかけた女は、驚いたようにフランクを見あげた。
「自分もマニラ日本人小学校で、篠田清治先生の生徒だったんです。佐藤浩といいます」
肥った女は、ハンカチを握ったまま、口を開けてフランクを眺めた。日本人にしては、肌がサン・オイルを塗ったように、滑らか過ぎるフランクの顔であった。
白く、まるい女の顔が、ふいに紅潮した。
「あなた、白坂洋服店の息子の隆くんと一緒に|悪さ《ヽヽ》ばかりやっていた子でしょう」
フランクは、少年時代の級友の名前が飛びだしたのに、また衝撃を受け、咄嗟には返事ができない。
「私、高等科一年のとき、学校の購買部、手伝うとったんよ。そのとき、白坂くんとあなたが混んどるときを狙うてやってきちゃあ、鉛筆だの消しゴムを|あっためて《ヽヽヽヽヽ》いくんよ。あとで勘定が合わんで、ほんまに泣かされた」
そういえば、そんなことがあった気もする。当時は、少年言葉で盗むのを|あっためる《ヽヽヽヽヽ》、といっていたのである。フランクのほうも、やはり色白で、まるく肥っていた二級上の少女の顔をはっきりおもいだした。
「そんなことがありましたかね。それはどうも申しわけありませんでした」
フランクは、少し余裕がでてきて頭を掻いた。
「先刻、ちょっと耳にはさんだんですが、先輩は折角、二十五年ぶりに訪ねたのに、学校のなかに入れなかったんでしょう。自分が、明日、もう一度ご案内してみましょうか。よく話せばね、ガードだってなかへ入れてくれますよ」
そう申しでた。
「それがね、私はこの慰霊団と一緒に、今日、これから山へいくんです。山で、父や兄を亡くしとるもんですからね」
ルソン東北部の山中二カ所で慰霊祭を催し、水曜の夜遅く、帰ってくる予定、という。
では木曜の昼休みに案内しようと話をきめ、フランクは「今、こんな名前になっています」と改めて「フランク・サトウ・ベンジャミン」と英語で刷った名刺を渡した。
戦前のマニラ日本人小学校で二級先輩だった女性は、安藤俊子という、広島市内で軽食堂をやっている女性で、木曜の昼にペイ・ビュウ・プラザ・ホテルのロビーで待っている、といった。
個室のテーブルの用意ができて、彼女らがラウンジから去ってまもなく、ホベンチーノが顔をみせた。
ホベンチーノは、禿げあがった、おおきな顔といい、ふとい眉のしたの大目玉といい、全体に喜劇的な感じを与える人物である。
ホベンチーノは入ってくるなり、キャッシャーの中国娘を、「今日はうまいものを食わしてくれるんだろうな」といってからかった。この店はホベンチーノの友人が経営しているのである。
それからホベンチーノは、フランクに軽く手を挙げてそれが特色の大目玉を大仰にむいてみせ「|えらく 久しぶりだな《マタガル・ナ・タヨン・ヒンデ・ナグキキータ》」とタガログ語でいった。
「あんた、相変らず鴻田にいるのか。いい加減に辞めて、自分で商売を始めたら、どうなんだ」
ラウンジの真中に突っ立ち、フランクの肩に手をかけていう。
「あんたの|商 売《ハナツプブハイ》は、どうなんだ。順調かね」
「砂糖《アスーカル》の商売が、あんまり順調じゃないんでね、最近はいろいろいじってみてるんだよ」
チャンは、禿げあがった額を、ふとい親指でこすった。
「それにしても、フランク、しばらくぶりに会うせいか、いつもと感じが違うな。今日は、あんた、日本人みたいな顔してるぞ」
チャンは、じろじろとフランクの顔や服装を眺めまわした。
3
フランクが、俊子を旧日本人小学校に案内する、と約束した木曜の昼過ぎ、小寺は、マニラ空港に本社木材部外材課課長補佐の鶴井郷治を迎えに行った。
失業者とおぼしい青壮年の男たちが、朝から大勢群れ集まっているのが、開発途上国の空港に共通する風景だが、戒厳令施行前のマニラ空港は、特にその傾向が激しかった。
暑さのしのぎやすい一月とはいえ、小寺はきちんと背広を着て、ネクタイを締めているので、ポーターや白タクの運転手などが右往左往する、空港ビルの雑踏のなかに立っていると、たちまち汗がにじんでくる。
鶴井は、腕に外套をかかえ、手提げ鞄をひとつぶら下げて、税関からでてきた。黒縁の眼鏡をかけた、三十五、六歳、中肉中背の人物である。
「小寺所長、ご無沙汰しております」
鶴井は、そういって頭を下げた。鶴井の言葉には、東北か北関東の訛りが、かなり強く残っている。
「今、会社は昼休みだからね、とにかくホテルに入ってくれや」
小寺はいって、群がってくるもぐりのポーターや、タクシー、白タクの運転手たちに手を振って彼らの誘いを断りながら、空港ビルの外へでた。
空港ビルの向う側で待機していた会社の運転手が高く手を挙げ、駐車場の社用車のほうへ駆けて行った。
「大阪万博の人気はどうかね」
「えらい人気のようですな。ここの大統領夫人も、視察にこられるんでしょう」
マルコス大統領夫人のイメルダも、大阪千里丘陵で催されるエキスポ'70をこの六月に視察にでかけることになっている。
シルバー・グレイの社用車が駐車場からまわされてきて、ふたりのまえに止ると、鶴井は、
「所長はベンツに乗っておられるんですか」
と呆れたような声をだした。
「本社じゃ、社長も国産車ですよ。マニラ事務所の所長としちゃ、行き過ぎじゃないかな」
鶴井は、地方の国立大学の農学部林学科を卒業しており、有能な男という評価が高いのだが、本社勤務が長いこともあって、現場の事情を深く考慮せずに、ずけずけとものをいい過ぎる傾向がある。それが、ときに傲慢の印象を与えるのであった。
「ベンツといっても、これはフィリッピン製のベンツなんだよ。マニラの下町でノック・ダウンしているんだ。今のところ、残念ながら、こちらでおなじようにノック・ダウンしている、日本製の六気筒に比べて割安だし、故障も少いんだね」
小寺は、おだやかに説明しながら、運転手がドアを開いたシルバー・グレイのベンツへ乗るように鶴井に勧めた。
「それに日本とは価値観が違うらしい。東南アジアで、うっかり安い車に乗ろうものなら、あれは、金持ちの日本人のくせに、けちだ、あんな男と商売したりすると、やたらに値切られたりして、ろくなことはない、そんなふうに警戒されて、商売がやり難くなるらしいんだね」
小寺はそう話して聞かせたが、鶴井は、
「ほう、そんなものですかね」
と口先きで調子を合わせるだけで、あまり小寺の説明を信じているふうではなかった。
本社の人事などについて雑談を交わすうちに、車は、マニラ湾沿いのロハス通りに入り、まもなく、マニラ湾に面したホテル・フィリッピナスに着いた。
ホテル・フィリッピナスは、中級ホテルで、宿泊代が鴻田貿易の出張旅費に釣合うため、出張者の常宿になっている。
車を降りると、鶴井は意気ごんだように、
「所長、一刻も早くお話ししたいんです。外套を部屋に放りこんで、すぐ降りてきますので、一階で待っていていただけませんか」
という。
「ゆっくりシャワーでも浴びてきなさい。私は、一階のグリルで、昼めしでも食いながら待っているよ」
小寺はいって、運転手に五ペソやり、
「昼めしが遅くなってわるかったな。そこらでなにか食べて、ここへ戻ってきてくれないか」
そういった。
運転手を捉えて、昼めしが遅くなってわるかったなどと謝る主人は、当地では稀だし、昼めし代も当時は二ペソ、当時の円価に換算して百二十円もやれば充分な時代だったから、所長付きの運転手は満面に笑みをうかべて、しきりに礼をいった。
小寺は、ホテル・フィリッピナス一階の、マニラ湾が見渡せるグリルに入り、サン・ミゲルのビールとサンドイッチを注文した。しかしサンドイッチがでてくるまえに、早々と鶴井が、書類のファイルを小脇にかかえて、グリルに姿を現わした。
こんなに早く現われたところをみると、シャワーを浴びて汗を流すことはおろか、顔も満足に洗わなかったに違いない。要するに外套を部屋に放りこみ、上着を脱いできただけの話で、ネクタイ、ワイシャツもそのままなら、ズボンも、着いたときとおなじ厚ぼったい冬物を穿《は》いている。荷物の様子からして夏物の着替えは持ってこなかったのかもしれない。
鶴井は、ウェイターにコーヒーを注文するなり、テーブルのうえに、躰をのりだした。
「所長、早速ですが、まだ木材の商売のことを覚えておられますか」
相変らず地方訛りを強く響かせていう。
この男は、たしか北関東のどこかの出身だったな、と小寺はおもった。
「さあ、危ないもんじゃないかな。シアトルにいた頃は、米材《べいざい》の商売を盛んにやって、木材部のきみのところとも、ずいぶん交際《つきあ》って貰ったが、あれから四年以上経つしな」
「しかし所長がお忘れになっても、木材部のほうは、所長の輝かしき実績をよおく覚えていますよ。木材部の外材課が今日あるのは、小寺所長のおかげですからね」
鶴井は、しきりに持ちあげる。
「所長がシアトルから本社の物資に帰られたときは、われわれ若手は、酒を飲んじゃあ、おおいに憤慨したもんですよ。丸太の世界で後発だったうちの地位を一挙に押しあげたのは、小寺さんじゃないか。ああいうひとは、三顧の礼を尽してでも、木材部に迎えるべきだ、しきりにそう話しあいましてね」
もともと小寺は、食品関係の出身である。
海軍兵学校からもどって、昭和二十七年に東京商大を卒業、友人の父親の伝手《つて》で、京浜食品という、鴻田系の中小企業に就職したのだが、この会社はまもなく鴻田貿易に吸収され、鴻田の物資部として新発足した。
鴻田系列各社は、戦前は、三井、三菱、住友に匹敵する財閥系コンツェルンを形成していたが、戦後、財閥解体を経たあと、再統合に遅れをとった。貿易部門も出足の遅れを取り返そうとして、京浜食品などの吸収合併を次々に行って充実を計ったのだが、結局、旧財閥系御三家にはおおきく水を開けられた形になっている。
昭和三十七年、物資部一筋に働いてきた小寺は、海産物の輸入促進を主目的として、シアトル事務所長を命ぜられた。
このシアトル事務所長時代に、小寺は、木材の輸入業務にも積極的に手を染めておおきな成功を収め、木材部にも、シアトルに小寺あり、と名を知られるようになったのである。小寺は、しかし「出身地」の本社物資部に次長として帰任、昨年マニラ事務所長に抜擢されたのであった。
「しかし、アラスカの山んなかへ入って、米材の取引きをやった記憶は、まだ強烈に残っているな。なにしろ教育をまったく受けていなくて、読み書きも満足にできない木こり連中と、商売やったんだからね」
小寺は、トーストしたサンドイッチをかじりながら、笑った。
「アラスカの印象がまだ強烈に残っているところで、ご相談なんですがね」
鶴井は、黒眼鏡の縁を押しあげて切りだした。
「所長、ルソンのラワン材について、ご存知ですか」
「まあ、ラワンはおなじフィリッピン産でも、南のミンダナオ産の品質がよくて、北のルソン産の品質がわるい、私の知識はそんなところかね。太平洋で発生した台風は往々ルソン島を直撃するが、ミンダナオ島には、まず上陸しない。台風に見舞われるルソンのラワンは、台風のおかげで、幹がねじれたり、材質が固くなったりするが、台風に縁のないミンダナオのラワンは、幹がまっすぐだし、材質も柔らかい。こういうことだったな」
フィリッピンを見舞う台風は、南のミンダナオの東方洋上で発生し、北のルソンとミンダナオの中間点、カタンドアネス島付近で、針路を東西二方向のどちらかに変える。西に方向を変えた台風はマニラ市のあるルソン島を直撃するのである。
「さすがによくご存知ですな。ところが、その品質が劣って、各商社とも鼻もひっかけないルソン材を買いつけたい、という合板メーカーが現われたんです」
「物好きなメーカーがでてきたもんだな。どこだ、それは」
「荒川ベニヤ、という会社です。ミンダナオあたりの業者は大手商社と関係が深くて、後発のうちなんぞ、相手にしてくれんでしょう。本社木材部としてはひとつこの鼻もひっかけて貰えないルソン材で勝負にでたいんですがね」
現に鴻田貿易のマニラ事務所には、木材担当の駐在員すら置いてない。
肥料担当の現地社員が、兼務していることになっているが、年間の扱い量は微々たるものであった。
4
その日、さすがにフランク・佐藤は、昂奮を抑えられなかった。
はしなくも、旧マニラ日本人小学校卒業生の安藤俊子に出会い、昔の小学校の建物に案内することになったのだが、なにしろフランクは、敗戦とともに日本に引き揚げていった日本人小学校の卒業生に戦後、ひとりも会っておらず、だれの消息も知らないのである。
在マニラの一部日本企業に、おなじ日比混血の現地社員が何人か勤めているけれども、いずれも若くて、彼らの口から卒業生の消息を聞くこともなかった。
フランクは、アメリカ大使館の真向いにあって、ホテル・フィリッピナスと隣接して建っているベイ・ビュウ・プラザ・ホテルに、俊子を迎えにいって、「とにかくどこかで昼食をすませましょう」と誘った。
しかし俊子は、「夕方の飛行機で帰国してしまうのだし、お昼なんぞ、どうでもいい。まず学校へ連れて行ってくれ」という。
マニラの旧市内に向う車のなかで、俊子は、
「佐藤浩君は、昭和何年に入学して、何年に卒業したんね」
と訊ねた。
じつにひさかたぶりに「佐藤浩君」と呼ばれたので、フランクは、虚をつかれ、言葉がでてくるのにちょっと時間がかかった。
「日本人小学校は一月から新学期が始まったでしょう。昭和十三年の一月に入学して、昭和十八年の十二月に卒業したんですよ。そのあと十九年の正月に高等科に進んだけど、高等科のときは日本陸軍の貨物廠《かもつしよう》の軍属やらされて、学校にゆかなかったんですわ」
フランクの父親、ルイスは、昭和初年、フィリッピン陸軍の飛行練習生として、日本にゆき、逓信省の訓練所その他で、飛行訓練を受けた。
ルイスは、在日中、買物に何度か通ったのが縁で、日本橋の百貨店に勤める埼玉県川越市出身の女性、佐藤|とき《ヽヽ》と知り合い、日本で結婚する。
現在から考えると、閉鎖性の強かった戦前の日本で、日本女性とフィリッピン人男性との結婚がよく容認されたものと不思議におもえるが、大正から昭和にかけての日本社会には、フィリッピンに対する、一種の親愛感が底流していた。
マニラ麻に象徴される輸出入の貿易量の多さ、フィリッピンへの移民人口の多かったことに加えて、通称「極東オリンピック」、極東選手権競技大会が、大正二年から昭和九年まで、マニラや東京で都合十回にわたって催され、選手の交流があって、少くとも日本の都会地に暮す日本女性にとっては、フィリッピン人は、意外に身近な存在であった。
事実、ルイスが|とき《ヽヽ》と結婚した前後には、松竹少女歌劇出身の映画女優水久保澄子が、極東オリンピックに参加したフィリッピン水泳選手と結婚、マニラに渡ったりして、新聞の社会面を賑わせた。
ベンジャミン夫婦は、フランクこと浩の誕生後にマニラに帰り、まもなくルイスは軍籍を離れ、ジャズ・ミュージシャンとして、ホテルやナイト・クラブで働くようになった。
趣味に楽器をいじっていた彼は、専門のジャズ演奏家として働くほうが、飛行兵の給料をはるかに上まわる収入を手にできると知ったからである。
終生、大の親日家であったルイスは、フランク以下、三人の男の子にフィリッピン名のほかに、日本名をつけ、全員、マニラの日本人小学校に入学させたのであった。
戦前のマニラ日本人小学校は、大正七年に創立されて、当時すでに三十年近い歴史を誇り、生徒数六百三十名、日本人教員も二十名前後在勤していて、内地の学校と遜色がなかったのである。
「この通りはなつかしいでしょう。ここには戦前日本人の店が沢山ならんでたからね」
「ああ、昔のアベニーダ・リサールね」
繁華な大通りを走る車の窓ガラスに、顔をつけるようにして、俊子が感に堪えないような声をだした。
「昔、この通りには、一等と二等を仕切った市電が走っとったんよね」
「安藤さんが覚えていた白坂と一緒にね、自分は、よくサン・ミゲルのビールびんの王冠というのか、口金というのか、あれを持って、この通りへきたもんですわ。王冠を市電のレールにのせて、電車にひかせてぺちゃんこにする。平らになったのに、きりで穴ふたつ開けて、糸を通してね。振りまわして相手の糸を切るんですよ」
「ああ、覚えとる、覚えとる。サン・ミゲルの蓋《タキ》よね。男の子にあれ振りまわされると、恐《こ》おうてねえ」
俊子は、楽しげな声をだした。
「考えてみると、男の子たちは、妙な遊びやっとったね。タガログ語でサラグーバンいうとったかね、黄金虫をお互いに持ってきて、チューインガムで、背中合わせにひっつけてね。地面に横に寝かせて、相手の虫をよいしょと持ちあげて起きあがったほうが勝ちだ、いうような遊びやっとったじゃないの」
「よく覚えているねえ。サラグーバンは、マンゴーに似た、サンパロックって木に沢山いるんだけどね、ぼくと白坂は、その木のある場所を秘密にしてね、ほかの同級生に教えなかったんですよ」
車が旧日本人小学校のある地区に近づくにつれ、彼らの少年少女時代が、激しいスピードで前方から迫ってくるようであった。
俊子が中華料理店で語っていたように、サンパロック区レバント街九四九番地にある旧マニラ日本人小学校は、現在、外壁を白く塗り変えられ、ポリテクニック・ユニバーシティ・オブ・ザ・フィリッピンズ(フィリッピン総合技術大学)のリサール分校になっている。
近くに車を止めて、フランクと俊子は、白塗りの校舎に向って歩いて行った。
俊子の生家は、この近くにあって、レストランとモンゴ屋、日本人がこの国に持ちこんで定着させた、という氷あずき屋を営んでいたのだそうで、周囲をなつかしそうに見まわしていた。
昔、閑静な住宅地だった学校の周辺は、雑踏する学生街に変っており、色とりどりのシャツを着た若い男女が、肩から鞄を下げ、ノート類をかかえて、盛んに往来している。
路傍には、学生目あてに、乾したモンキー・バナナやビビンカと呼ぶ餅菓子を売る屋台が何台かでている。
学校の門を入って、横手にある警備係の所へフランクが近づいて、タガログ語で、自分たちはこの学校が日本人小学校《エスクエラ・ナン・ハボン》だった頃の卒業生であることを説明すると、禿頭のガードが簡単に校内立ち入りを許してくれた。こういう際に、フランクの人なつこい笑顔はずいぶん効果を発揮するのである。
学校の正面には、幅の広い階段があり、その階段を昇ると、広間《ホール》があって、昔、ここはさまざまな式典や、柔剣道の稽古場に使われていた。
「学校のなかは昔のままじゃないの。皆で、足を使うてこの床を掃除しとったじゃないの。椰子《やし》のからを輪切りにして作った、|たわし《ブノツト》に足をのせて、各学年が競争で、ぴかぴかに床を磨いたんよねえ」
俊子が昂奮に顔を赤くしている。
当時は土足で校舎のなかに入るので、床の木目に土が入り、それを取り除くために、たわしを足にはめて掃除したものであった。
「ほんとうに昔と変らないな」
自分も、異様な昂奮の渦中にひきこまれ、眩暈《めまい》のしそうな感覚に捉われてフランクは呟いた。
この学校の高等科を中退してから二十五年、表を何度か通りかかったことはあっても、校舎に入るのは、中退後初めてであった。フィリッピン国籍の自分とは無縁の学校だとおもいこもうとしていたし、今日のように校舎を覗いてみるきっかけもなかったのである。
フランクは、この講堂で宮腰という名の、鼻下に髭をたくわえた校長が、うやうやしく「御真影」に一礼し、「御真影」の前から高々と勅語を捧げて、演台に運んでくる姿、勅語奉読の厳かなお経のような声、勅語を読み終えて「休め」の号令がかかるといっせいに起る鼻をすする音や咳ばらいなど、面白半分にわざとやるざわめきをおもいだした。
あれは小学校五年当時のことだった。なんの式日の朝だったのだろうか、フランク・佐藤ならぬ佐藤浩少年は、あろうことか、校長の勅語奉読の最中に、タガログ語でホーレンと呼ぶビー玉をこの講堂の床に落してしまったことがある。ズボンのポケットの奥に突っこんだつもりのビー玉が、ポケットの入口にひっかかっていて、身動きした拍子に床に落ちたのである。
なにしろ各クラスの生徒が放課後に、足を使って競争で磨きあげ、いつか参観にきた練習艦隊の海軍士官が滑ってみごとな尻もちをついたくらいの床だったから、ビー玉は、不気味な、しかし滑稽でもある唸り声をあげながら、勅語を読む、低くおごそかな声の真中をにぶく引き裂いて、どこまでも転がってゆく。
隣りの同級の女生徒の列を抜け、一級下の男生徒の靴の間をすり抜けて、そのまた隣りの一級下の女生徒の列のほうに向ってゆき、ビー玉の通り道の生徒たちがくすくす笑った。
しかし一級下の女生徒のだれかがふいに靴の下にビー玉を踏んでおさえるのがみえた。
小柄な浩は、前から二、三番目にならんでいたから、担任の篠田先生にみつからない筈はなく、さすがの悪童も恐怖に震えたものであった。
「佐藤君、職員室も昔のままよ」
俊子が大声で叫んでいる。
俊子の呼び声に誘われて、授業のない昼休みのこととて、二十《はたち》前後の男女学生の往来するなかを、フランクは校舎の中央部にある、もと職員室のほうへ足を向けた。
職員室の手前に、二階に向う階段があり、そこでフランクは、ふたたび異様な昂奮に捉われた。
その式典が終ったあと、長身で頭髪をいつも真中からきれいに分けている篠田先生は、つかつかと寄ってきて、
「佐藤、教室での話が終ったら職員室へこい」
といったのである。
教室で、今度は担任の篠田先生による訓話が行われているあいだじゅう、彼は、恐怖より自責の念に打ち震えた。
浩の自宅が学校の真裏、ちょうど教師たちの寮の真向いだったこともあって、しょっちゅう篠田先生の家に遊びにゆき、ずいぶん可愛がって貰っていた。その可愛がってくれる先生に、勅語奉読という、最重要の行事の場で、恥をかかせてしまった、というおもいに責められて、浩は人心地がつかなかった。
担任の訓話が終ると、浩は、あとさきも考えずに、この木製階段の下の物置きに隠れてしまったのである。
物置きのなかには、こわれた跳馬の台や、掃除のモップが放りこんであり、浩はそんながらくたを利用して、物置きの戸が開かないように細工をした。篠田先生に合わせる顔がないとおもったのだ。
だれかが告げ口をしたのだろう、暫くして聞き覚えのある篠田先生の靴音が聞えてきた。
先生はしばらくためらうように、物置きの前に立っている気配だったが、
「浩、でてこいよ」
えらくおだやかな声でいった。物置きの戸の外に篠田先生はしゃがんでいるらしく、浩の顔の高さから声がでてくる。
「人間、だれにも失敗はある。しかし失敗をしたら、わるびれずに謝らなくちゃいけない。日本人はな、浩、失敗は素直にみとめる、まっすぐな心を持たなくちゃいけないんだ。まっすぐな、きれいな心を持っているのが日本人のいいところなんだ」
篠田先生の声を聞くと躰の力が抜け、涙があふれた。二、三分後に、浩は泣きながら、この物置きをでた。
篠田先生は、なにもいわずに浩の背中を押して、校門まで連れて行ってくれた。
「白坂、佐藤と一緒にルネタ公園にでも行って遊んでこい」
正門のわきに、親友の白坂が立っていて、恐ろしい物を眺めるように、浩をみつめ、しかしぎこちない笑いをうかべて近寄ってきた。
篠田先生は、浩の涙を謝罪のしるし、まっすぐな心の証しと受け取ってくれて、深くはとがめなかったのである。
──あの頃、おれは間違いなく日本人だったんだな。
フランクは、物置きを開けてみたい誘惑と闘いながら、そうおもった。
「私のあと、佐藤君の担任になった篠田先生は、ほんとうは海軍の情報将校だった、いう話ね」
いつの間にか横にきていた俊子がいう。
「さあ、昔の本願寺あとでもみて、帰りましょうか」
フランクは気をとり直してそういった。
学校の近くにあった本願寺は、しかしまったく昔日の面影を留めていなかった。本堂は跡かたもなく消え失せて、昔の境内にはこれも学校ふうの建物が数棟ならんでいる。
「安藤さん、境内にあったアカシヤは残っているよ。あれがそうですよ」
案内役のフランクのほうが昂奮して一本の木に近寄った。
かつて、これも豊かに葉むらを繁らせていた本願寺境内のアカシヤは、空襲か市街戦の砲撃で焼けたのだろう、ほとんど枯れてしまって、幹だけが棒くいのように、青空に向って立っている。
本願寺を出ながら、俊子は、
「佐藤君、下級生の消息も、ぼつぼつわかり始めとるけえね、佐藤君の同級生のことも調べて、手紙を書くよ」
という。
「それをお願いできるのならね、安藤さん、一級下の、岸本美千代って子の消息を調べて、もしわかったら教えて欲しいんですわ。リサールにあった岸本写真館の娘なんですよ」
フランクは、照れくさそうに頼み、俊子は、「おやおや、お安うないんじゃね」とひやかした。
5
午後二時近く、小寺は、マニラ事務所に顔をだしたいという鶴井を伴って、ホテル・フィリッピナスをでた。
社用車のベンツに乗りこもうとして、ふと気がつくと、ちょうど隣りのベイ・ビュウ・プラザ・ホテルのまえから、日本人の団体の乗りこんだ貸切りバスが出発するところであった。
「おや、あそこに立っているのは、マニラ事務所の古い現地社員《ローカル》じゃないですか」
鶴井が指差していう。
小寺が、鶴井の指の方向を眺めると、バスの傍らに、おなじマニラ事務所のフランク・佐藤が立っている。動きだしたバスに向って、フランクは片手を振っていた。
バスの窓から、肥った中年の女が顔をだし、
「浩君、岸本写真館の消息は、必ず聞きだしてあげるわよ」
小寺には意味不明の言葉を怒鳴っている。
「なんだ、あの男は。アルバイトにガイドでもやっているんですか」
鶴井はずけずけとそんなことをいった。
夕刻、大部屋の奥の所長室に日本人派遣員が集まり、鶴井を囲んでウィスキーを飲んだ。会社には、備えつけの冷蔵庫があり、ミネラル・ウォーターも冷蔵してあれば、ミネラル・ウォーターで作った氷も用意されている。
「|現地 社員《ローカル・スタッフ》でまだ残っているひとがいたら、ここにきてジョインするようにいってくれ」
シアトル仕こみの、気さくな肌合いの小寺は、そう秘書のフェイ・スワコにいったが、結局、フランクだけが顔をみせた。
「日本の建築ブームはえらい勢いですよ。昭和三十五年には四十二万戸の住宅が建ったんですが、これが僅か五年後の昭和四十年には、倍の八十四万戸に増えた。ところが、そのまた五年後の今年は、またまた四十年の二倍、百六十万戸はゆくだろう、といわれているんですわ。五年ごとにバイバイ・ゲームですよ」
鶴井は、飽きもせずに仕事関連の話を続けている。会社の仕事が、おもしろくてたまらない様子であった。
「南洋材の輸入もおなじで、今年は、四十年の倍はゆく、といわれているんです」
フィリッピンの木材資源は枯渇し始めていて、日本の木材業界は、インドネシア、マレーシアに眼を移し始めているが、しかしまだ十年やそこらは、相当量の輸入がこの国に期待できる筈である。現に去年は、フィリッピンからの輸入が南洋材中一位を占めていたし、今年もこの地位はゆるがないだろう。
「にもかかわらずですよ。わがマニラ事務所の木材扱い量はきわめて低いんです」
鶴井は、きめつけるようにいって、事務所の社員たちを見まわした。
「やれやれ、ご本社のハッパは、なかなかきついねえ。とにかく、早いところそのかちかちに固いルソン材を切りだして、東京湾の芝浦沖までお届け申しあげりゃあ、いいんだろう」
小寺は、苦笑いしていい、話題を外らすように、
「フランク君、きみは昼過ぎに、ベイ・ビュウ・プラザの前で、日本人の団体と一緒だったが、だれを見送っていたんだね」
隅で、黙ってウィスキーを飲んでいるフランクに訊ねた。
「あれは学校の先輩ですよ」
「学校の先輩といったって、日本人だったじゃないか」
会社にファイルされているフランクの学歴は、マニラ市内の六年制公立小学校、四年制中学校卒業となっている。
「私はマニラの日本人小学校を卒業して、高等科を中退したんですよ。それで戦後、フィリッピンの小学校の六年に入り直したんですね。先刻の小母さんは、日本人小学校の二級先輩のひとですよ」
フランクが日本人小学校を卒業した事実は皆、知らなかったから、座がちょっと白けた感じになった。フランクがたくみに日本語を操るのは、母親が家庭で日本語を教えたためだと、皆、漠然とそうおもっていたのである。
この浅黒い滑らかな肌をして、よく若いフィリッピン娘を連れ歩いたりしている、現地採用の男が、自分たちとおなじ種類の教育を受けた、とはだれも考えたくなかったのであった。
「あなた、失礼だけど混血でしょう」
ふいに鶴井が訊ねた。
「混血のあなたをよく日本人小学校が入れてくれたね」
「私の頃は、混血が沢山いましたよ」
フランクは、愛想のいい微笑を絶やさずにいった。
「当時の日本人小学校は、混血はもちろん、親日家フィリッピン人の子弟まで入学を許可してくれたんです。そしていったん入学すればね、混血でも現地の子でも皆、おなじに、平等に扱ってくれたんですよ」
6
荒川ベニヤ株式会社の本社と第一工場は、荒川区町屋の隅田川の河畔にある。
石山高広は、河畔に立って、先日、東京湾十四号地貯木場で検品した白ラワンが、工場に搬入されるのを見守っていた。
十四号地貯木場で検品をすませ、納品をきめた丸太は、あのとき世話になった株式会社徳組や東京港筏会社といった筏輸送の専門会社によって、丸太に打ったU字|鐶《かん》に、ワイヤーを通してぴったり繋ぎ、本格的な筏に組まれる。
タグ・ボートが、この長い筏の帯をひきずって、東京湾から辰巳運河、豊洲運河を抜けて、隅田川に入り、川を遡行《そこう》して、尾竹橋の手前の荒川ベニヤまで運んでくるのであった。
河畔に据えつけられた、みどりいろの大型クレーンが、河面で解体された丸太を、一本一本巻きあげては、工場内に積み降している。
これらの丸太は、工場で厚さ二・五ミリから三ミリのうすいベニヤ板に削られ、貼り合わされて、住宅の壁や天井やドアなどの建築資材用合板として、建設会社に納品されたり、椅子、テーブル、ベッドなど家具製造の材料になったりする。
「おれをくさい海へ落しやがったのは、どの材だ」
石山は、大型クレーンの傍らから、河面を埋めた丸太を覗きこみ、木に白ペンキで書きつけた番号を眺めた。
このあたりは隅田川が湾曲して、淵に似た場所を作っていて、上流から流れて来る塵芥もたまりやすく、臭気もいっそうひどくて、河面を覗きこむと、胸がわるくなりそうであった。
「おまえも、ああいう長い筏の下敷になっちまわなくて、運が強い男だな」
傍らで声が聞え、ふりむくと、社長の与田が隣りに立っている。荒川ベニヤと胸にブルーの糸で刺繍した、灰いろの作業服を着ていた。
筏|曳航《えいこう》会社の老作業員が、筏を曳いて、辰巳運河だか、豊洲運河だかを遡ってゆく際、満潮で潮位があがっているのを失念してしまい、橋の下縁に頭をぶつけて、水中に転落、行方不明になったことがある。
水上警察が捜索を続ける一方、筏はそのまま曳航されて、納品先きに着き、解体作業が開始されたが、丸太の長い帯の下から、老人の死体が現われた。転落したなり、筏の下敷になり、進行する船の水脈に押され、帯状の筏の下を後ろへ後ろへと流されて、水死したのであった。
これは業界に広く流布されている伝説めいた話である。
「ところでな、イシ、おまえ、|フイリッピン《ヽヽヽヽヽヽ》にゆかねえか」
石山とならんで、河面の筏解体作業を見守りながら、社長の与田は、そう切りだした。
与田は、フィリッピンのフとイを完全に切り離して発音する。
「いいですねえ。海外出張はまだインドネシアにゆかせて貰ったきりで、フィリッピンはお初です。景気よく大長期出張とゆきましょう」
石山は、かん高い声をだしていった。
「どうも下町育ちには、お調子者が多くていけねえね」
与田は、少し嗄《しわが》れた、これも下町育ちに特有のかんだかい声でいう。
「長期出張といったって、おれは月の単位じゃなくて、年の単位で喋ってるんだぜ。少くとも一年や二年は、行って貰うことになるんじゃねえか」
これには、さすがの石山も驚いて、与田の顔を眺めた。
与田は、生真面目な顔をして、隅田川の汚れた水面を眺めている。
「例のルソン材でコンパネを作るてえ話を、おれが鴻田貿易に持ちこんだのは、おまえも知ってるわな。鴻田は、たちまち大乗気になってはしゃいじまってな、課長補佐をマニラに出張させて、現地と早々と話をつけてきやがったんだよ」
昨日、与田が呼ばれて、神田美土代町にある鴻田貿易の本社木材部に行ってみると、木材部長がでてきて、「マニラ事務所も全力をあげるといっているんで、ぜひ当社に扱わせてください。ただ、お宅の社から社員をひとり、うちのマニラ事務所に出向さしていただいて、現地で検品をお願いしたい」そういったという。
買い手の荒川ベニヤが、現地で検品してくれれば、木材の質についてあとでもめることもなく、好都合だというのであった。
「なぜ鴻田は、自分のところからひとをださないんです」
「彼らのいいぶんを信じりゃあね、なにせ南洋材についちゃ、鴻田は、インドネシア、マレーシアが主で、フイリッピンには、このところご縁がなくなっちまっている。実績がないから、人事の連中も増員についちゃあ、いい顔をしねえ、とこうなんだね。おまけにマニラ事務所は創立以来、儲けに関係のねえ、赤字店ときてやがんだね」
この数年、現地検品が盛んになって、各合板メーカーが、一、二名の社員を南洋材の産地にある商社の支店にそれぞれ送りこんでいる、という話は、石山も耳にしていた。
「うちの会社から、だれか人間をだすとなると、そりゃおまえが最適任だよ。十四号地で海に落ちたとき、たっぷり拝まして貰ったが、おまえ、いい躰してるよ。あれなら、フイリッピンの山んなかに入っても、ちょっとやそっとで、くたばりそうにねえや。こういう躰してちゃあ、マラリヤだのコレラだの、ああいう病気も、向うで嫌気がさしちまって、寄ってこねえんじゃねえか。おれたちが、おまえ、象や河馬の肉を食いたくねえようなもんでな、マラリヤ持ってる蚊だって食欲失っちまうよ」
「社長も、いいたい放題、ならべるねえ」
石山は、笑いながら、しかし「フィリッピンか」と真面目な顔になって、対岸を眺めた。
五、六年前まで、この対岸には、大正、昭和にかけて名物だった四本のお化け煙突が立っていたが、今はなにもない。
「社長、私は長男だしね、入院中のおふくろをかかえてんですよ。外地へ一、二年行ってこい、へい、そうですかとでられる身分じゃないです」
「戦争にゆくわけじゃあるめえし、格好つけちゃあ、いけねえよ。おふくろが入院してますったって、ありゃ、乗ってたタクシーが追突されて、鞭打ち症になっただけの話じゃねえか。それに年中検品してるわけじゃなし、検品のないときは、適当に鴻田の仕事を手伝って、タガログの姉ちゃんと酒飲んでりゃいいんだよ」
「やれやれ、おれも薄情な社長の経営する会社に勤めちまったもんだよなあ」
一メートル八〇の大男は、そういって溜息をついてみせた。
そもそも与田は、出入り先きの建設会社や商社に頼んで、入社試験の最終選考にもれた大学卒、高校卒の学生の名前を教えて貰い、彼らを掻き口説いて、自分のところに採用してしまう名人であった。
合板メーカーとしては、堅実な経営ぶりが評判で、業界三位の地位をこの十数年維持してきているから、学生のほうも、口説かれると、入社の決心をする者が少くない。
石山も大手の建設会社の試験を落ち、荒川ベニヤに入社してきたひとりだが、彼の場合、おなじ下町育ちという親近感を社長の与田に抱いたのが入社の動機になった。
「だいたいうちの会社にも、大学でたのが結構いるが、商売は別にして、英語で十以上の数をかずえられるのは、おまえくらいのものじゃねえか。英語で、数をかずえられなきゃ、外地で検品はできねえからな」
与田は、またまた極端なことをいった。
「しかし、おまえも学生時代は野球しかやってなかったみたいだしな、大丈夫かね。数をかずえるのは、せいぜいナインまでで、あとはむっつり右門をきめこむんじゃないかね」
小寺の社宅は、アヤラ通りの事務所から十分もかからない、ベル・エア|地 区《ヴイレツジ》のアステロイド街にある。
中流の上、といった住宅地で、アヤラ通り一帯のビジネス街に近いこともあって、この辺一帯には、日本企業の駐在員が、数多く住んでいる。
ベル・エアの住宅地は、強盗、空巣の侵入を防ぐために、茶色のビール壜の破片を上端に埋めこんだ、高い塀に四方を囲まれていて、塀の三カ所にゲートが設けられている。ゲートには四六時中、ガードマンが立っていて、住宅地への出入者をチェックしている。
家の近い社員は、帰宅して昼食をとる習慣だから、小寺が、ある昼過ぎ、食事をしに家に帰ってくると、私用の運転手のノーエがプライベート・カーの赤いオペルのボンネットを開け、内部を覗きこんでいた。
この近辺に住むフィリッピンの中流の上といったクラスは、いずれも私用の車を一台持ち、その私用車の運転手一名とメイドふたり乃至《ないし》三人を雇っている。
私用の車はともかく、運転手一名と女中二名を個人で雇っていることが、日本内地には無用の贅沢と聞えたりするが、当時の運転手の給与は、月額二百ペソから三百ペソ、邦貨にして一万二千円から一万八千円、メイドに至っては、百ペソ、約六千円という低賃金で、雇えたのである。
日本の有名企業も、一般フィリッピン人にとっては無名に等しいから、公私双方で顔を合わせるフィリッピン人は、住んでいる地区、車の種類、そして使用人の数を基準にして、会社や個人の信用度を推しはかってくる。
「使用人は、何人お使いになっているの」というのが、フィリッピン中・上流階級の挨拶といわれており、ある程度の生活を維持するのは、商売上の必要手段であった。
しかし乾かした洗濯物がまっくろになるような尼ケ崎の狭い公団住宅で新婚生活を送り、その後セルフ・サービスで万事が運ぶアメリカで暮した小寺としては、なかなかこの国の生活感覚に慣れることができなかった。何人もの使用人を雇って暮す生活に、一種うしろめたさを感ぜずにはいられないのである。
「おれの生活は間違っている」と心優しい、この人物は、使用人に接する度に考え、「いや、これはこれでフィリッピンの雇用件数をふやすのに貢献しているのだ」とおもい返すのであった。
「ノーエ、どうした。車の調子がわるいかね」
小寺は、自宅の玄関に入るのを止めて、会社の社員である、社用車の運転手と一緒に車庫の方へ近づいて行った。
「今日は、マダムがゴルフの練習に行ってみたい、とおっしゃるんで、リサール・ドライビング・レンジまでご案内したんですが、なんと帰りにエンジンがかからなくなっちまいましてね」
ノーエは、一大事が起ったような、深刻な顔をして、ひどいフィリッピン訛りの英語でいう。
渋紙いろの顔に半白の髪がのっていて、初老の印象を与える男である。
「レンジのボール・ボーイに何回も何回も車押させて、やっとエンジンがかかって、ここまで運んできたんですが、どうもバッテリイの調子が悪いようです」
外の騒ぎに気づいたのか、玄関のドアが開いて、細君の百合子が顔をだした。
「あら、お帰りやったの。今日は車の調子がわるいし、散々やったわ」
京阪電車の沿線で育った百合子は、東京育ちの小寺と結婚して十三年になるというのに、いまだにたえず関西弁が顔をだす。
「今朝、リサールの打ちっ放しに行ってみたんやけど、帰りにゴルフ靴を間違えられてしもうたんよ」
百合子は、シアトルに駐在していたとき、何回かクラブを握った経験があるが、当時はふたりの子どもも小さく、メイドもいなくて、ゴルフの練習どころではなかった。
マニラにきてからは、レッスン・プロに習いにゆく余裕もでき、最近は、午前中の空いている時間を狙って、ドライビング・レンジに打ちにゆく。
しかしマニラのゴルフ練習場は、これまた貧富の差の激しいフィリッピンの社会をそのまま反映しているようなところがあって、百合子には、なかなか馴染み難かった。
たとえば、リサール・ドライビング・レンジは、マニラから八キロ離れた首都、ケソン市《シテイー》に向う、ハイウェイ54の途中にあるのだが、この練習場に入ってゆくと、ゴム草履を履《は》いた、身なりの貧しいボール・ボーイの少年たちが数人群がってきて、
「マーム、ボールの籠、いくついりますか」とか「マーム、バッグ・プリーズ」と叫ぶ。
そのうちのひとりにゴルフ・バッグを渡すと、練習中、ずっと付き添って、一打、打つごとに、ひと籠一ペソの籠からボールを取りだし、ゴム製のティーのうえにいちいちのせてくれる。
──こんな子どもに、小さい手で、打つたんびにボール一コ一コのせてもろたら、あたらへんゴルフがもっとあたらんようになってしまうわ。
どうも自分の子どもの安穏な生活とひき較べて、百合子は気持が動揺してしまうのであった。
練習が終ると、ボール・ボーイは使ったクラブとゴルフ・シューズを裏手に持ってゆき、泥を落してきれいに拭いてくれるのである。
その朝、練習を終え、レンジの後方の木の腰かけにすわり、ボーイが泥をおとしてきてくれたゴルフ靴を靴入れに納めようとして、その靴がデザインはそっくりだけれども、ずっと立派な高価なもので、かなり細身であるのに気がついた。
靴底をひっくり返してみると、フット・ジョイというアメリカの高級銘柄であった。
──ボール・ボーイが間違えよったね。
なにしろ、百合子の靴は、ケソン市の近くにあるマリキナ町の靴専門店でフット・ジョイに似せて作らせた、安いフィリッピン製品である。
マリキナというのは、六百あまりの製靴工場や靴店があって、年間六百万足の靴を製造していることで有名な町であった。
だれか、やはり間違いに気づいたひとはいないか、と周囲を見まわすと、数列後方で、やはりゴルフ靴をぶら下げて、こちらのほうを眺めている、フィリッピンの中年婦人がいた。
草いろのパンタロンを穿《は》いた、長い足の目立つ女性である。
「そのひと、顔が小そうて、鼻筋通ってて、品がいいんよ。メイドによくある、顔がべったあっとおおきくて、団子鼻いうのとは、全然違うねん」
彼女らは、にこやかに笑って、ゴルフ・シューズを交換したのだが、さて百合子が、ボール・ボーイにゴルフ・バッグをかつがせて、表に出て、オペル・レコードに乗ってみると、エンジンがかからない。この国には、車検という制度がないから、この種のトラブルはしょっちゅう起る。
ノーエは、渋紙いろの顔を青くして、何回もアクセルを吹かしたが、うまくゆかない。百合子に降りるように頼んで、フィリッピンでよく見かける風景、周囲のボール・ボーイを集め、駆け足で、車を「|それゆけ《シゲ・アバンテ》」と押させてエンジンをかける手を使ったが、これも効きめがなかった。
すると、先刻、靴を間違えそうになった婦人が、横にきて、
「あなた、日本人でしょう。よかったら、車がなおるまで、お茶を一緒に飲みません?」
そう誘ってくれた。
リサール・ドライビング・レンジは、入口の向って左側がレストラン、右が受付けとプロショップになっているが、そのレストランに入って、ふたりは、コーヒーを飲んだ。
レストランのなかは、例によって籐《ラタン》の椅子が置かれ、チェックのテーブルクロスを食卓にかけた、小ぎれいな民芸調だが、コーヒーはまずく、おまけにコーヒー茶碗が「場末のスーパーで買《こ》うてくる|はんぺん《ヽヽヽヽ》」みたいにぶ厚い。日本人の小さい口には「はんぺん」がおさまりきらず、「気いつけて飲まんと」コーヒーが顎にしたたり落ちそうになる。
そのはんぺんふうコーヒー茶碗を口に運びながら、
「私、去年の春に、主人と日本に行ったのよ」
と、その品のよい、フィリッピン婦人は、流暢な英語でいった。
「材木の輸出について、主人が日本政府と交渉によくでかけるので、ときどきついてゆくの」
この夫人のご亭主はどうやらPLPA(フィリッピン木材生産者協会)の役員をしているらしかった。
社用車の運転手とノーエが、赤いオペル・レコードのボンネットのなかを覗きこんでいるのを眺めながら、百合子の話を聞いていた小寺は「へええ」とおもった。
一九六五年、昨六九年とフィリッピン共和国の歴史上、初めて再選された第六代大統領、フェルディナンド・E・マルコスは、大統領に初当選した際、「はじめて健全な森林政策を携えて登場した大統領」と評されたそうだが、その後も、フィリッピンの森林資源保護を唱え、最大の木材輸出先きである日本に協力をもとめている。
しかし保護の必要な一方、木材は、フィリッピンの外貨獲得に欠かすことのできぬ武器であり、輸出せずには、フィリッピン経済は成りたたなかった。このジレンマについてはマルコス閣内でもなかなか結論がでない。
最近は丸太輸出に対する税を新設して、解決策としようとする動きもでてきており、この辺の事情をめぐって、代表団が何回か訪日している。
「いつものことやけど、日本のどこ知ってる、ここ知ってる、いう話がでてね、そのあと、うちの主人も今は政治家になっているけど、ずいぶん材木の商売を手がけてきたんよ、あれは、危険も多いけど、それだけに男の商売や、おもう、なんてゆうてはったわ」
駐車場で車の後押しをする少年たちの掛け声を聞きながら、はんぺん茶碗のコーヒーを飲んで、話がはずみ、近日中の再会を約して別れた、という。
──男の商売か。
百合子の話を聞いて、アラスカの雪上を、フロートをつけた水上機で飛び、米材の買いつけに走りまわった往年の昂奮が、ふたたび小寺に帰ってきた。
本社の、いくぶん青くさい鶴井の持ちこんできた話に、初めて本気で挑んでやろう、という気持が小寺に湧いてきた。
「車の故障のせいで、ええ友だちができたんやから、わるいことばかりでもないねえ」
百合子はおもい返すふうにいった。
7
フランクも自宅で軽い昼食をとり、三、四十分、午睡を取って、会社に戻るのが、ふだんの習慣なのだが、自宅宛てにきていた、安藤俊子からの手紙のせいで、いつものように簡単に寝つくことができなかった。
日本人小学校の二年先輩の俊子は、気を遣って、全部旧仮名遣いの手紙を書いてよこした。新仮名遣いの手紙では、戦後、日本の学校教育を受けていないフランク・佐藤ならぬ佐藤浩には、読み下せまい、と考えたらしい。
「先日は、浩君の御心遣ひをいただき、おかげさまにて、昔なつかしい母校のすみずみまで見學でき、なつかしい思ひ、ひとしほでござゐました」
という調子である。
俊子の手紙は、
「残念だつたのは、本願寺が、昔の面影をまつたく留めてゐないことでした。本願寺の本堂の下の廣間では、日本舞踊や和裁のレッスンがあり、私も毎週通つたものです」
と続き、フランクの想いを再び少年時代へと誘いこむ。
あれは、小学校五年、勅語奉読の最中に|ビー玉《ホーレン》を落して、暫く経った日の放課後であった。日本軍がマニラに「入城」してまもない頃である。
その日も、フランクは仲のいい白坂と近所を遊び歩いていて、たまたま本願寺に通じる路地の前を通りかかった。
本願寺は、左手に天野産院、右手にマニラ日日新聞などの小さな家が数軒ならんだ路地の奥にある。
「おい、佐藤、みろよ。木に女が登っているぞ」
白坂が、突然立ち止って、本願寺の境内に植えられた、アカシヤの大木を指差した。
なるほど、スカートを穿いた女の子がふたり、彼方のアカシヤの大木のそれもずいぶん高い枝のうえに登っていて、何事か話し合っているのがみえた。
路地に入りこみ、アカシヤの豊かな葉むらを透かしてみながら、白坂は、
「ありゃあ、一年下の生徒だぜ。温和《おとな》しそうなほうは、どこの子か知らねえけど、もうひとりのお転婆みたいなのは、岸本写真館の娘だよ。美千代っていうんだ」
といった。
岸本写真館は、当時アベニーダ・リサールとスペイン語読みしていた、リサール・アベニューに建っていた。おなじ日本人経営の来栖自転車店、マヨン・バザールと呼ばれた雑貨店に挟まれ、写場がふたつあるおおきな写真館で、戦争が激化するまで、内地に帰国する日本人は、たいてい白坂の父親がキアポ教会の傍で経営する白坂洋服店で洋服を作り、その洋服を着て、岸本写真館で記念写真を写して出発して行ったものであった。
そんな関係で、白坂は、娘の顔を見知っていたのである。
「だけどあいつら、なんで木に登ってるんだ」
「あいつら、踊りの稽古をさぼって、木のうえにかくれてるんじゃないか」
耳ざとい浩は、本堂の方角から流れてくる三味線の音を聞きつけていた。
当時、広大な敷地を占めていた本願寺だが、ちょうど本堂の下の半地下室が広間になっていて、俊子の手紙にあるように、そこで和裁、洋裁、日本舞踊などの稽古ごとの教室が開かれていた。
三味線の音から判断するに、今日は日本舞踊の教室が開かれていて、木に登っている少女たちは、多分、この日本舞踊を習いにきている連中なのだろう。
ようし、おどかしてやろう、とふたりの腕白少年は、境内に歩み入って、アカシヤの大木の下に行った。
「こらあ、なんで木のうえにかくれているんだ。踊りの稽古がそんなに嫌いかあ」
白坂が大声で少女たちに向って怒鳴った。ふたりの少女は、びくっと躰を震わせ、気の弱そうなほうの少女は、アカシヤの幹にすがりついた。
もうひとりの岸本写真館の娘のほうは、幹の反対側のふとい枝に腰をかけて、足をぶらぶらさせていたが、足の動きを止めて、こちらをじっと睨《にら》んでいる。
濃い眉のしたにおおきな眼が光り、唇をきつく結んでいて、いかにもきかぬ気らしい少女である。
「すぐに降りてこい。降りてこないと、踊りの先生にいいつけてやるぞ」
浩も負けずにそういい、ふたりでアカシヤの幹をゆすって、少女をおどそうとしたが、ふとい幹を揺らすのは、所詮無理であまり効果がない。
「よし、佐藤、足をひっぱって降ろしちまおう」
白坂がいい、まず浩が、アカシヤの幹に取りついた。
当時のふたりは、アボカドのような枝の少い木は別にして、マンゴーやアカシヤなど、枝の多い木には、毎日のように登っており、木登りは得意中の得意であった。なにしろどこかの友だちの家に、おおきな木があると聞くと、わざわざその木に登るために、市電に乗ってでかけたりするのである。
「ああのね、お嬢さん、木から落ちても、わしゃ知らんよ」
日本軍のマニラ占領後名を変えた大東亜劇場で見た、喜劇映画の主役、高勢実乗《たかせみのる》の口真似をしながら、浩が木を登り始めると、美千代は、一本下のふとい枝のうえに仁王立ちになった。
「スカートのなかがみえるぞう」
浩がそう叫んで、少女の足首を掴もうとしたとき、突然、少女が、
「あんた、なにすんのよ。このあいだ、校長先生が勅語を読んでいるときに、|ビー玉《ホーレン》をおとしたくせに」
といった。
相変らずおおきな光る眼でこちらを睨んでいる。
「あのとき、転がってきたホーレンを踏んづけて、止めてあげたのは、あたしなんですからね」
浩は、あっとおもい、少女の足首に伸ばした手を止めた。気持がひるんだ瞬間、少女の運動靴が突然ひらめいて、顎をしたたか蹴とばされ、浩は木から手を放してしまって、地面に落ちた。その巻き添えを食って、すぐ下の幹にとりついていた白坂も落ちて、地面にひっくり返った。
ふたりが地面に落ちて、尻餅をついている隙に、ふたりの少女は素早く木から降り、ばたばたと走って、正面の石段を昇り、本堂の裏手の方に消えてしまった。
「わしゃかなわんよ、ほんとに」
白坂は尻餅をついたまま、大笑いした。
浩は、勅語奉読のときの失敗を持ちだされ、相槌を打つ元気もなくして、地面にすわりこみ、「げっそりしたなあ」と呟いた。
「げっそりする」は「ああのね、おっさん、わしゃかなわんよ」と同様、当時の少年たちの流行《はや》り言葉で、この土地の少年たちもなにかといえば、乱発していたのである。
浩の顎を蹴った、岸本美千代という少女は、餓鬼大将の白坂に、おもしろい女の子、という印象を残したらしく、
「今後、戦争≠やるときは、岸本を従軍看護婦として加えてやろう」といいだした。
戦争≠ニいうのは、要するに兵隊ごっこのことで、今、おもいだしてみると、フランクも、じつに奇妙な気がするのだが、日本人小学校に入っている子どもは、混血だろうと両親が揃ってフィリッピン人の子どもだろうと、全員日本軍の役を演じる。現実に、昭和十八年当時、混血の児童は二百人以上、両親ともフィリッピン人、という子どもも十人ほど日本人小学校に在学していたのである。
兵隊ごっこをやるのには、敵がいなければならず、その敵の役は、現地の小学校に行っている華僑やフィリッピン人の子どもが演じてくれることになっていた。
その敵軍役を集めてくれる総元締めが、今でも親友|交際《づきあ》いをしている、華僑の食糧品店の息子、ホベンチーノ・チャンであった。ホベンチーノは当時、中国人を指す蔑称、チャンコロに因んで、「コロちゃん」と仇名されていたが、演技力満点で、勇敢な八路軍やアメリカ軍のコレヒドール島守備隊長として最後まで抵抗してみせた挙句に、ギョロ目をむいて、派手に胸をおさえて倒れてくれる。
ホベンチーノは、これは遊びと割り切っているのか、毎回倒れかたに工夫をこらして、日本軍の子どもたちを笑わせ、喜ばせてくれて、この戦争≠ノは欠かせない重要人物であった。
この敵軍に対して、古い玩具の小銃や木のパチンコなど雑多な武器を持って、突撃をかけるさい、浩は、よく撃たれて倒れる真似をした。
すると一緒にアカシヤの木に登っていた井上信子とふたりして看護婦役をつとめている美千代がすぐに駆け寄ってくる。
気の強い筈の美千代なのだが、こういうときの態度は馬鹿に優しくて、
「伍長殿、傷は浅いです。しっかりしてください」
と抱き起してくれる。
浩がおもいきり顔をしかめて、
「無念だ。足をやられた」
とうめくと、家から持ちだしたらしい赤チンと絆創膏を幼稚園の子どもが持つバスケットからとりだす。
赤チンのガラスの棒が膝頭の辺の皮膚に触れて、まるい円を描くのが、まるで針で突っつかれてでもいるように鋭敏に感じられて、浩は、本当に足に怪我をしているような気分になり、「なに、これしきの傷」と立ちあがったあとも、ずいぶんながいこと足をひきずって歩いたりしたものであった。
味をしめた浩は、その後、美千代に看護して貰いたくてやたらに倒れてみせて、いつも隊長役をやる白坂に文句をいわれた。「おまえ、早く倒れ過ぎるよ。それじゃ、大阪の兵隊だよ。今日も負けたか、八聯隊だぞ」と白坂はいうのであった。
しかし開戦後の、ほんの束の間続いた、こんなのどかな時代は、あっという間に過ぎ去って、彼らは全員、真物《ほんもの》の戦争にまきこまれることになる──。
俊子の手紙を持ったまま、横になっていたフランクは、居間で泣いている赤ん坊の泣き声に気づいて、
「|赤ん坊をおとなしくさせてくれよ《フワツグ・モン・パイヤキン・アン・バタ》」
と怒鳴った。
泣いているのは、実家へ遊びにきている長女の子ども、つまりフランクの孫である。フランクは二十歳前に結婚したため、まだ四十前だというのに孫がいるのであった。
「|あんた、泣くんじゃないのよ《フワツグ・カ・ナン・ウミイヤツク》。|お祖父さんは、赤ん坊の泣き声がとてもとても嫌いなんだからね《アン・ロロ・モ・ヒンデイ・グスト・マリニツグ・イヤキン・ナン・マリイツト・ナ・バータ》」
細君のパシータが、そういって、孫をあやしているのが聞えた。フランクが赤ん坊の泣き声が嫌いなのには、それなりの理由がある。
フランクは、とうとうその日の昼寝は諦めて、起きあがり、表へでて、道路に停めっ放しのいすゞ・ベレットの中古車に乗って、マカティ地区の会社へ向った。
まだ、昼食から社員の戻っていない、鴻田貿易の事務所で、机に向っていると、背後のドアが開いて、小寺が戻ってきた。
「フランク君、早いな。昼寝はしないのか」
小寺はそういいながら、突きあたりの事務所長室には向わずに、フランクの机に近寄ってきた。
隣りの椅子をさかさまにして、またがるようにすわり、長めの顔の、これまた長めの顎を椅子の背にのせた。
「フランク君、きみもだいぶながいこと機械の仕事をやっているようだし、ここらで仕事を替えてみたらどうかね」
そういいだした。
唐突な話にフランクは、驚いて小寺の顔をみた。だいたい歴代の所長は、部下、特に現地社員の部下と話すときは、所長室に呼びつけるのがふつうで、こんなぐあいに自分からのこのこやってきて、部下の傍にすわりこんだりはしない。それも椅子の背に顎をのせるような気楽な態度は決して取りはしない。
「ここらで気分を一新して、木材の仕事をね、丸太の買付けの仕事をやってみないか」
小寺は口もとに笑いをたたえているが、眼は笑っていなかった。
小寺は、先日、本社木材部の鶴井が、マニラに出張してきた理由を改めてフランクに説明して聞かせた。
荒川ベニヤがルソン材を買付けて、ビル建築用のコンパネを作るアイデアを思いついて本社木材部に持ちこんできたこと、木材では出遅れている鴻田貿易も、競争の少いルソン材なら、なんとか商売にできるのではないか、と本社木材部は考えていることなどである。
「鶴井君がきてから、私もあちこちに訊いてみたんだが、木材の商売は、なかなか難しいようだね」
フィリッピンの木材業者《シツパー》、つまりコンセッションと呼ばれる伐採権を持った業者は、その八〇パーセント以上が、代理店《エージエント》を通して商売をしている。つまりルソン材の買付けを行おうとすれば、このシッパーズ・エージェントを通して、伐採権を持っている業者を探すことになるのである。
フィリッピンには、戦前からの長い歴史を誇る日系の代理店、アメリカの大手建設会社系の代理店など、信頼のおけるエージェントがあるが、これらの会社は、すでに三井、三菱、住友など旧財閥系三社を初めとする、日本の各商社と密接な関係を持っていて、なかなか後発の鴻田貿易には入り難い世界を作りあげているようにおもわれる。
「こういう新規開発の仕事になると、フランク君のように、語学堪能でこちらに知人、友人の多いひとに頼らざるを得ないんだよ。ぜひ力を貸してくれないかな」
「いや、所長にそんなに信頼していただけるのは、ありがたいですが、さてそこにすわっている機械のボスがなんといいますかね」
フランクは、まだ戻っていない、機械担当の日本人マネージャーの席を指差してみせた。
「彼のほうはね、先刻、電話をかけて、昼寝しているところを叩き起してね、強引に話をつけてしまった。ずいぶん抵抗したけど、例の強姦《レープ》スタイルというやつですよ。これは所長の特権だからね」
寝こみを襲ったのが成功だったな、と小寺はおかしそうに笑った。
「私も米材の商売の経験があるからね、会社の組織を少し変えて、木材部長は私が兼務する。その下にフランク君と、もうひとり荒川ベニヤから出向してくる石山君という若いひとにきて貰う。これに秘書のアデールをつけるよ。当分はこのメンバーで頑張ろうや」
小寺はいった。
「参ったな。自分もレープされるより仕方がないみたいですな」
フランクは、頭を掻いて、そういった。
小寺はフランクの肩を叩いて、奥の所長室のほうに歩いて行ったが、ふいに途中から引っ返してきた。
「フランク君、きみもこれからは実質上の責任者なんだから、月曜のミーティングには出席してくれよ」
フランクは、意外な所長の発言に呆気《あつけ》に取られて、おもわず椅子から立ちあがった。
8
石山が勿体《もつたい》ぶって説明したように、石山のフィリッピン行きの話が始まったとき、母親の咲子は、交通事故に会って、向島、白鬚橋の病院に入院中であった。タクシーに乗っていて、追突事故に会い、腰を捻って痛めたうえに、鞭打ち症になったのである。
白鬚橋の病院に見舞いに行った折に、石山が、
「どうやら、一、二年フィリッピンにゆくことになりそうだよ」
そう報告すると、首にギプスをはめた咲子は、天井を向いたまま、眼玉だけ動かして、
「|シリッピン《ヽヽヽヽヽ》にゆくなんて、こりゃ、えらいこっちゃないか」
といった。
フィリッピン共和国の国名「フィリッピン」は、スペイン政府が一五三四年に、当時のスペイン王、フェリペ二世に因んで命名したのを英語表記に改めたものだが、これを母親の咲子流の下町表記に読みかえると、シリッピンになってしまうのである。
「シリッピンてのは、おまえ、ずっと海を|まっつぐ下《ヽヽヽヽくだ》ってったほうだろう。じゃがだらとかバタビアとかいう、お春さんてひとの暮してたほうじゃなかったかい」
「ずっとまっつぐ海を下ってったほうじゃないよ。すぐ隣りの国だよ、シリッピンは」
咲子の下町表記に自分も釣りこまれて、石山は答えた。
咲子の知識は、東京の下町一帯からせいぜい小田原あたりに限定されており、関東以外の地域となると、えらくあやふやなことになる。海外の国ともなれば、「箱根山の向うは化け物が住む」どころの話ではないので、戦前、戦後に見聞した地名、固有名詞がごっちゃに入り混って、およそ雑然たることになる。
「じゃあ、ワンワイタヤコン殿下のお国の近所かい」
と咲子は、石山の知識にない妙な名前を持ちだし、
「とにかくシリッピンてのは方角のわるそうな名前だね。おまえ、うちの先生に会ってね、旅行するにはいつごろ方角がいいのか、ようく訊いといで」
うちの先生、というのは、咲子が長年出入りしている気学の先生で、咲子自身は旅行する場合、いつもこの先生に時期と方角を決めて貰うのである。
方違《かたたが》えと称して、方角がわるいとなると、小田原へゆくのに、いったん鎌倉に行って、知人の家に一泊してから、小田原に入ったりする。
「冗談じゃないよ。おれは会社員なんだよ、お母さん。時期がわるかろうが、方角がわるかろうが、会社がゆけといったら、ゆかなきゃならないんだよ。フィリッピンは方角がわるいから、ゆけません、なんていったら、首になっちまうよ」
石山は、顔を赤くして、ぴしゃりといいかえした。
そのあと石山は、
──おふくろが入院中にこの話が起ったのは、ラッキーだったな。
しみじみおもったものであった。
根っからの下町育ちで、家つき娘の母親には、気学を初めとする、下町特有の生活哲学がいろいろ染《し》みついているから、外国へ赴任するなどということになると、恐ろしく面倒な雑事にまきこまれる可能性が強かった。
そのうち、病院に見舞いにゆく度に、母親は小遣いをくれるようになった。
相変らず、天井を向いたまま、
「|あっちがし《ヽヽヽヽヽ》のベッドの|しと《ヽヽ》のこれがね」
親指を立ててみせ、
「戦時中に|シリッピン《ヽヽヽヽヽ》の山んなかにおこもりしてたらしいけど、そりゃあ、しどかったそうだよ。とんぼなんかとらまえりゃ、たいへんな|おごっつお《ヽヽヽヽヽ》でね、それこそとんぼみたいに眼まわして、がつがついただいたんだってさ」
そんなことをいう。
「いまだに|マリラヤ《ヽヽヽヽ》って病気が躰に残っててね、夜中に震えがきちまって、皆でおさえつけるんだってよ」
「お母さん、戦時中とは話が違うんだよ。あれから二十五年も経って、果物なんか食べたい放題売ってるんだよ」
石山はそういい聞かせるのだが、あまり効果はなかった。
「丸太伐りだすとなりゃ、おまえも山んなかに入るんだろう。山ん中で、ひもじくなったからって、とんぼとらまえて食べたりするんじゃないよ。とにかく今のうちにたんと滋養をつけておおき」
そういって天井を向いたまま、ベッドの下からがま口を探りだし、石山が会社の帰りに寄るたびに、小遣いをくれる。
しかし咲子もなかなか抜け目がないから、金を手渡しながら、
「それから渋谷の乗泉寺と高幡不動にお参りにいっとくれ」
と交換条件のように切りだす。乗泉寺は、咲子が朝夕お経を唱えて信心している|仏立 宗《ぶつりゆうしゆう》の本山で、京王線の高幡不動は交通安全祈願の不動である。
「方違《かたたが》えするわけじゃなし、お祖師《そつ》さまやお不動さん拝むのはこっちの勝手だろう。会社が文句いったら、社長に怒鳴りこんでやるよ」
咲子のくれる小遣いのおかげで石山はそれまで昼めしの出前に「カツラーメン」といって、カツドンとラーメンを食っていたのが「カツカレー」になって、どんぶりめしを二杯食うようになってしまった。
「おまえ、いやに肥ってきたな。外地で暮すってえのに、緊張感がちっとばかり足りねえんじゃないか」
社長の与田が、会社の作業服のボタンがはじけそうな石山の腹をみていう。
「いや、人間、緊張すると肥るんです。消化器官も緊張して働きが活発になりますからね」
石山は、屁理屈をいった。
鴻田貿易との間に、「出向に関する覚え書」が交換され、合意をみたところで、石山は与田に連れられ、神田美土代町にある、鴻田貿易本社の木材部へ挨拶に行った。
商社から木材を購入する仕事をしてきた石山だが、これまでは別の繊維系商社を担当していたので、鴻田を訪れるのは初めてである。
木材部の窓ぎわの席に案内され、部長の河野、担当課長補佐の鶴井と向い合ったのだが、鶴井は、開口一番、
「与田さん、おたく、つぶれそうで、なかなかつぶれないじゃないの」
無礼ないいかたをした。
「つぶれるんなら、このルソン材の仕事が終ってからにしてくださいよ」
「鶴井さんの冗談は、相変らずきついねえ」
与田は、にやにや笑っていい、相手にならない。
「メーカーさんのほうで社員をだしてくれると助かるんですよ。うちの社員を東南アジアにだして、うっかりビールス性肝炎にでもかかったら、一生使い物にならないからね。メーカーさんの、こういう躰の丈夫そうなひとに行って貰ったほうがいい」
鶴井は北関東訛りを響かせて、そんなこともいう。
石山は、こんな性格の男のいる会社に出向するのか、とおもい、うんざりした気分になった。
電話がかかって、鶴井が席を外すと、金縁眼鏡をかけた部長の河野が、
「鶴井という男はジョークが好きでしてね、しょっちゅう、あんなぐあいにジョークを飛ばしているんですよ」
鶴井をかばうようにいう。
「とにかく石山さん、よろしくお願い致します」
と河野は慇懃《いんぎん》無礼な感じで、禿げあがった頭を形式的に下げてみせた。こちらは冷たい、よそよそしさが透けてみえて、胸にひっかかる相手であった。
冬の陽のあたる表にでた与田は、
「どうだ、少し緊張してきたろう」
といった。
「鶴井って男は、鴻田でも珍しいタイプだよ。大多数は、おっとりした紳士だから、心配するこたあないさ」
「こうなったら、いよいよ食いまくって、体力つけとかないといかんな。あんな連中が相手じゃ、なにやらされるかわからんですよ」
ひとつ、母親に妥協して、乗泉寺あたりには、仁義を切って、現地ではよろしくとお願いしておくか。
石山は、寒風に頬を撫でられながら呟いたものであった。
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赤き、生命の樹
1
二月初めの日曜の夜、小寺和男は、家族連れで、家からほど遠からぬ日本料理屋の「キンプラ」へ鉄板焼きを食べに行った。
キンプラはマカティの有名な百貨店「ルスタン」の隣りにあり、入口のうえに鳥居を形取ったネオン・サインがついていて、そのわきに漢字ふうにくずした書体で「KIMPURA」という看板を掲げている。
「金麩羅は、そば粉を衣にした上等の天麩羅のことやね。そらわかるけど、キンプラなんてMの字使った看板かけてるし、ネオンのあの鳥居は柱が裾ひろがりで|がに股《ヽヽヽ》の感じやし、お料理もインチキ日本料理やないの」
赴任早々の頃、細君の百合子は、そういったものだが、このキンプラはマニラの日本料理店としては草分け的存在で味もわるくない。経営者がフィリッピン人、板前は日本人という組み合わせで人気を呼び、マカティからケソンにかけて住む、フィリッピン中・上流階級も盛んに出入りして、社交の場所にもなっている。
くつろいだ格好の小寺夫婦とふたりの息子は、大部屋の右手にある鉄板焼きのテーブルにすわったが、
「アメリカもいいけど、こないして、家族みんなでご飯食べにこれるんやから、東南アジアもええやないの。アメリカやったら、マナーがうるさいから、こうはいかへんねえ」
百合子はそんなことをいって、今ではすっかりキンプラびいきであった。
すると長男の竜男が、
「とにかく外国にくると、牛肉が食べられるからいいよ。日本じゃ、鳥かせいぜい豚くらいしか食べられないでしょう。ステーキ食べたくても、眼のとびでるほど高いから、パパやママに気を遣って、いいだしにくいんだよね」
生意気をいって、小寺夫婦を苦笑させた。
「それじゃ、今夜は奮発して、アメリカ産のステーキを頼むことにするか」
小寺はいって、日本の安物の着物を着たフィリッピン人の仲居に、フィリッピン産の時価十ペソ(約六百円)のステーキではなく、ニューヨーク・カットと名付けられた、三十五ペソ(約二千百円)する柔らかい、アメリカからの輸入物を注文した。
「竜男君、どうした。学校には慣れたかい」
気持の優しい小寺は、自分の息子たちに対するときも、会社のだれかれを呼ぶように「君」づけにして呼ぶ習慣であった。
「先生がアメリカ人でしょう。シアトルの小学校に通っていたときとおなじで、どうってことないよ」
竜男は、けろりとした顔をしている。
ふたりの息子は、いずれもマカティ通りの「ラス・コンチャス」という、地中海料理屋の裏手にある、インターナショナル・スクールに通っている。
昭和四十五年の時点では、全日制の日本人小学校はまだ開かれていない。三年前の昭和四十二年六月、やっと市内マラテ区タフト通りの日本大使館附属広報センター内に新日本人学校が開校されたが、これは週に二回だけ、インターナショナル・スクールの放課後に通う日本語補習学校に過ぎない。
「しかし、ここにもそろそろ日本人小学校、中学校ができてもいい頃だな。海外依存度は戦後のほうがずっと高くなっているのに、海外在留邦人の面倒見は、戦前の政府のほうが桁違いによかったようだな」
小寺は、戦時中、旧マニラ日本人小学校を卒業した、という、フランクの、色艶のいい顔をおもいだしながら、いった。
──フランクは木材の仕事をうまくこなしてくれるだろうか。
シアトルで何人か米国人を使ってきた経験を持つ小寺は、現地雇用社員の扱いについては、ひとつの哲学を持っている。
「勤務意欲の向上は、基本的には人情哲学、実務的には権限の委譲によって生れる」という発想である。
アメリカの生産性や品質管理に問題があるとすれば、それは上役が威張りくさって、あれこれと細かい指示を与え、さながら奴隷のごとく部下を酷使する点にあるのではないか。そこは日本的な人情論の機微を生かして、権限を降し、おもいきって仕事をまかしてしまえば、国籍の如何を問わず、人間は生き甲斐を見いだして、猛烈に働くものなのだ。
シアトル在勤当時、小寺は米材の対日輸出の仕事が忙しくなって、止むを得ず水産食品関係の仕事をアメリカ人の現地雇用社員に任《まか》せっ放しにしたことがある。
このやりかたが怪我の功名で、その男は、それ以来猛烈に働き始め、深夜まで残業を重ね、呆れたことに土曜日曜の休日に出勤してきたりして、たまたまテレックスを読みに事務所に立ち寄った小寺を驚かしたりしたものであった。
しかしすぐに水産食品関係の業績向上に気をよくした本社が、日本人派遣員を送りこんできた。男は自分の仕事を派遣員に奪われたかたちになり、それがわかると、たちまちもとのだらけた社員に戻ってしまい、やがて会社を辞めて行ってしまった。
マニラに着任することになったとき、小寺はこのシアトルでの体験をなんとか活用したいと考えていた。いわばその第一号がフランクで、木材の商売をできるだけまかせ、業績改善のキイ・パーソンとして活躍してくれれば、と小寺は考えている。
しかし権限委譲を行ったくらいで、フランクは、発奮して、マニラ事務所の業績向上の中心的役割を果してくれるだろうか。
あの男の人なつっこい笑顔の裏には、複雑に屈折するおもいが暗く澱《よど》んでいるようにおもわれ、人|交際《づきあ》いのいい小寺も、もうひとつ踏みこんでゆけない気がする。
フィリッピン人のコックが登場して、テーブルの鉄板のうえでニューヨーク・カットの調理が始まって間もなく、
「ユリコサン、コンバンハ」
奇妙なアクセントの日本語が家族のすぐうしろで響いた。振りむくと、中年のフィリッピン人の女性が立っていた。
女は、顔が小さく、背が高く、黄いろの裂地《きれじ》にはなやかな蘭の花模様をあしらったロング・ドレスを着ており、いかにも品がよい。
「あら、テレサやないの」
百合子がそういって立ちあがり、小寺は、すぐにこの女性が、ゴルフのドライビング・レンジで知り合った、百合子の友人と気づいた。
リサール・ドライビング・レンジでゴルフ・シューズが間違って届けられて以来、百合子は、このテレサ・ミランダとは電話をかけ合って一緒に練習にでかける仲になり、この間は初めて一緒にケソン市のキャピトル・ヒルズ・ゴルフコースをまわったりしている。なんでもフィリッピンの与党、ナショナリスタ党の上院議員の細君だ、という話であった。
「これ、うちの主人なんよ」
百合子が小寺を紹介すると、テレサは後方を向いて、
「アマデオ」
と呼んだ。
先刻から微笑をたたえて、こちらを眺めていた、小寺とほぼおなじ年格好の男が、ゆっくり歩み寄ってきた。黒ぶちの眼鏡をかけた学者ふうの人物で、これがテレサの亭主の上院議員なのだろう。
男は、もう一、二メートル手前から握手の手を差し伸べてきて、いきなり、
「あなた、シアトルにおられたんだそうですな」
アメリカ訛《なま》りの英語で、意外なことをいった。
「じつは、私は若い頃、短期間だけれどもシアトルにあるワシントン大学に留学しておりましてね。家内からお話を聞いて、一度あなたにお目にかかりたい、とおもっていました」
「これは信じられんな。すると、シアトルは、われわれにとってゴッド・ファーザーみたいなものになりますか」
小寺は、アマデオ・ミランダの手を固く握った。
2
翌日は月曜日で事務所恒例の|月 曜 会 議《マンデー・ミーテイング》の日である。
「フランク君、どうだ。今朝の会議あたりでそろそろ丸太の商売について、きみの調査結果と意見を聞かせて貰おうか」
小寺はフランクと連れ立って、受付けの傍の会議室に向いながら、そういった。
前回、初めて出席したマンデー・ミーティングでは、フランクはいつもの愛想のいい微笑をうかべているだけで、ほとんど口をきかなかったのである。
「自分にできるかなあ」
フランクは頬を撫でていう。フランクには、なぜか「私」の代りに「自分」という表現を使う癖がある。
「実質上の責任者は、きみということになったんだから、おおいに頑張ってくれなくちゃ困るよ」
小寺は、フランクの肩に手をかけていった。
「とにかくお耳汚しに喋ってみましょうか」とフランクは「お耳汚し」という、少しおかしな言葉を使って、自信なげな顔をしてみせたが、会議の席上ではなかなか堂々たる態度で、ルソン材の商売について意見を述べた。
「去年、つまり一九六九年、フィリッピンは日本に対して、総額四億六千八百万ドルの輸出をしたんですけれど、このうち木材の輸出額は、全体の六〇パーセントを占めておるんです。金額にして二億八千万ドル見当なんです。しかしこのほとんどがミンダナオ島のダバオとブツアンから積みだされる白《ホワイト》ラワンなんですよ。ルソン島の赤《レツド》ラワンは、全然手がつけられておらん状況なんですわ」
冒頭にだれもが知っている知識を、フランクがなぞってみせたので、出席者のなかには、天井を仰ぎ薄笑いをうかべて聞いている者もいた。
「じゃあ、どういうふうにルソン材に手をつければいいんだろうか、という問題になるとおもうんですけど、だいたいフィリッピンの山林は、ほとんどが国有地なんですね。その国有地に生えているラワンについて、いろんなひとがコンセッションという、木を伐る権利を持っとるんですね。つまり、自分たちとしては、このコンセッション・オーナー、日本語でなんといいますか、伐採権の所有者といいますんでしょうか、そういう権利の所有者のひとを探しださなくちゃいけない。ルソン島の赤ラワンの生えている土地のコンセッション・オーナーを探さなくちゃいかんのです」
「それは代理店《エージエント》に頼めばすぐにみつかるだろう」
小寺が口を挟んだ。
「ここの丸太の商売は、八割くらいまでが、代理店を通して、行われているそうだから話は簡単なんじゃないの」
「所長にお言葉を返すようですが、話はそう簡単じゃないんです」
ニスで艶だししたような、日本人離れした肌の男が、突然「お言葉を返すようですが」という、日本の本社スタッフが常用するようなビジネス慣用句を使ったのがおかしくて、同席していた一同はどっと笑った。
「おそらく赤ラワンを売りたい、というコンセッション・オーナーは沢山おるでしょうし、エージェントもすぐにそういう人間を探しだしてきてくれるでしょう。しかしその場合、|融 資《フアイナンス》をつけてくれ、といってくる連中が多い、とおもうんですよ」
山中に生えているラワン材を伐りだして、日本向けの貨物船に積みこむまでには、いろいろな道具が要る。
チェーンソーという、ラワンを伐り倒すモーター付き鋸から始まって、空中ケーブルの要領で、高い樹木から樹木へと張りめぐらしたワイヤーを使って、木材を一カ所に集める集材用の機械、それに海岸まで木材を運搬するブルドーザーや大型トラックが必要になる。
こうした道具を用意したとして次にラワン材の生えている土地から海岸まで、トラックやブルドーザーの通れる道を作らねばならない。それも雨期には猛烈なぬかるみ状態になる、フィリッピン特有のラテライト層と呼ばれる赤土のうえに、道を作らねばならないのだ。
「いったい、いくらくらいかかるのかね」
小寺が再び訊ねた。
「この土地で売っている小松製作所のブルドーザーが一台二万三千ドル、これを五台買うとして、十一万五千ドル、大型トラックがいくらしますか、関税が高いですから、一台二万ドルかかる可能性がある。仮りに一台二万ドルとして十台は要るらしい。これだけでもう三十万ドルを越えてしまうんです。運搬器具関係だけでも三十万ドル、約一億円の資金のね、融資を要求される恐れがあるんですわ」
会議の席は、しんと静かになった。
本社の木材部が三十万ドルもの融資を簡単に承認する筈がない、と皆がおもっていた。いずれ、ニューヨークか香港の邦銀、外銀から資金をひっぱってくるとしても、実績がないだけに本社財務部の承認を取りつけ、仲介と保証の労を取って貰うのは容易なことではなかろう。
「これはえらいこったな。鶴井君はどこまでこの|融 資《フアイナンス》の件を考えていたのかな。まさか財務に根まわしはしてないだろう」
小寺は、困った顔になって、手もとのボールペンで会議机を叩いた。
しかしフランクは、相変らずにこにこ愛想よく笑いながら、
「いや、手はあるんですよ」
と柔らかな口調でいう。
「ルソンの赤ラワンを嫌うのは日本だけでしてね。イギリスやイタリイあたりは、何十年も前から家具を製造するためにルソンの赤ラワンを買いつけているんですよ。今まで長いことヨーロッパへ輸出している業者を探しだせば、|融 資《フアイナンス》はつけなくて済む。伐採や運搬に必要な道具は皆揃ってるでしょうからね」
フランクによれば、コンセッション・オーナーと呼ばれる赤ラワンの伐採権の所有者を採しだすのには、心当りの代理店にあたるか、あるいは、フィリッピン木材業界を統轄するPLPAの事務局を正面切って訪ね、業者のリストを貰ってきて、飛びこみで乗りこんでゆくか、その辺になるだろう、という。
「フランク君、実際の商売はきみに全部お願いするつもりだが、最初のうちは、一緒に歩かせて貰えないか。ぼくもいろいろ勉強したいんでね」
小寺はフランクにいった。
小寺の持論である現地雇用社員への権限委譲も人情論に発しているし、一緒に汗水流して歩きまわるのも、苦楽を分ち合おうという人情論の変形なのだが、この人情論的発想は、小寺の場合、ごく自然に生理と化していた。
取り敢えず、小寺とフランクは、戦前から、あるいは敗戦直後からフィリッピンに進出している、日本系の木材代理店を訪ねてみた。
しかし新建商事とか南星商事とかの、そうした日本系代理店では、「調べてみましょう」という類いの返事が返ってくるばかりで、即答は得られなかった。
下町のある代理店を訪ねた午後、フランクが、
「所長、暑くて喉《のど》が乾いたでしょう。自分の家に寄って、冷たい物でも飲んでゆかれませんか」
相変らずの笑顔で誘った。
「そうか、ありがたいな」
フィリッピンの盛夏は、三月から五月までの三カ月で、この間は学校も夏休みになるが、二月も半ばに入って、そろそろ猛暑が到来し始めている。
フランクの家は、中流住宅地にある二階家で、むろん小寺の住むベル・エア界隈の住宅とは比ぶべくもないが、それでも日本の新興住宅地に持ってゆけば、おおきな家の部類に入りそうであった。
応接間《サラ・ルーム》に通された小寺が、フィリッピン家具を整えた部屋のなかを見まわして「きれいな家じゃないか」と賞めると、フランクは、「日本の会社に勤めていると、ここの地元の銀行が信用してくれて、ローンを借りやすいのですよ」と嬉しそうな顔をした。
応接間《サラ・ルーム》の一方に、紫檀の一種|花梨《ナーラ》材で作った、低く細長い|飾り箪笥《キヤビネツト》が置いてある。茶いろに塗り、そこに水牛《カラバオ》の白い骨を細かな唐草模様に埋めこんだフィリッピン特産品だが、そのうえに家族、友人と撮った写真が沢山飾ってある。
「これはフランク君の結婚式の写真かな」
小寺は、中央にある写真を取りあげた。若かりしフランクが、この国の盛装、バロン・タガログと呼ばれる、刺繍の入った、バナナ繊維製の長袖シャツに黒ズボンの正装をして、両肩の袖つけの部分が蝶の羽根のようにはねあがった民族衣裳の花嫁、パシータとならんで立っている。
若いフランクは、バロン・タガログを上手に着こなし、首にサンパギータの花輪をかけていて、なかなかの美男子にうつっている。
「フランク君は結婚して何年になるの」
「たしか昭和二十五年ですよ。写真の裏に書いてあるでしょう」
フランクは額を取りあげ、裏の金具を外したが、驚いたことに額のなかからもう一枚、別の写真が、床にこぼれ落ちた。結婚式の写真の裏に別の写真が隠されていたのである。
フランク自身、そのことを忘れていたのか、知らなかったのか、ちょっと驚いた顔をして「おやおや」という。
「これは珍しい写真じゃないか」
足もとに落ちた写真を拾いあげてやろうとして、小寺は興味をそそられ、写真を手にとってじっと眺めた。
それはきいろく古びた写真で、旧日本陸軍の若い将校が写真館の備えつけの椅子にすわり、その傍らにフランクと覚しき少年が、戦闘帽をかぶり、カーキいろらしい長袖のシャツと半ズボンを穿いて、まるで小型の軍人のような格好をして立っていた。
少年は、腰かけた将校のものらしい軍刀を踏ん張った両足の間に立てて、肩をいからしてこちらを睨んでいる。少年に軍刀を貸して、丸腰の将校は、片手を親しげに少年の肩に置いて、やはり生真面目にカメラをみつめていた。
写真の裏を返すと、ひどい右上りの稚拙な少年の字で「昭和十九年夏、馬場康人大尉と岸本写真館でうつす。佐藤浩」と書いてある。
「この結婚式の写真にはなにも書いていないけれど、自分の結婚は一九五〇年、昭和二十五年に間違いないとおもいますね」
フランクは、そういって、小寺の注意を新しい写真のほうにひきもどそうとした。
しかし小寺の関心が異常に強いのを知ると、気持が変ったのか、これも|飾り箪笥《キヤビネツト》に飾ってある、マニラの高校卒業の記念らしい横長の写真を取りあげて裏返しにして、金具を外した。その額の裏からは、日本人の男女の小学生がずらりとならんだ写真が現われた。
「戦時中のマニラ日本人小学校の卒業写真です。この丸坊主が自分で、この髪を真中からわけているのが、担任の篠田先生です」
持前の微笑を消した、生真面目な顔で、フランクは説明した。
「昭和十八年十二月に日本人小学校を卒業して、高等科に進んですぐにね、自分は陸軍の軍属に徴用されたんですよ」
フランクは、それから自失したような顔になって、
「むろん戦時中だったせいもあるけれど、こういう自分の好きだった日本人は、なぜか皆、申し合わせたように早死にしてしまうんだなあ」
低い声でいった。
そこに細君のパシータが氷を入れたコーラを持って現われた。フランクは仮面をするりと脱ぎ棄てるように、戦闘帽の少年の顔から、微笑をたたえた、バロン・タガログを着たほうの写真の顔にもどった。
「所長、コーラを冷やしていないんで、氷を入れておだししますけど、心配無用ですよ。所長は違うとおもいますけど、日本の社員のなかにはね、コーラに氷を入れておだししますとね、汚い水道の水を凍らした氷だろうとおもって、恐がって手をつけないひとがいましてね」
そういった。
──つまりこの将校が自分の軍刀を佐藤浩に無雑作に貸したように、丸太の仕事をフランクにまかせてやらなくちゃいかんのだな。
小寺はフランクの屈折する心理の秘密を垣間みたおもいがした。
3
翌週、荒川ベニヤから鴻田貿易への出向社員として、石山はマニラに着任したが、赴任の出足は甚だもって芳しからざるものになった。
石山は、香港系の航空会社の定期便に羽田から搭乗したのだが、携帯荷物が重過ぎて、カウンターでやり合った末に、たっぷり超過手荷物料金を取られる破目になった。
石山は舌打ちをして、超過料金を払いながら、見送りにきている母親の咲子のほうを睨んだものであった。
石山の荷物がえらい重いものになってしまったのは、八割方、咲子のせいなのである。
鞭打ち症治療のギプスを首にはめて、墨田区吾嬬町の自宅に退院してきた咲子は、
「あたしゃ、病院の汚い天井眺めていろいろ考えたんだが、おまえの南洋ゆきにあたっちゃね、ぜしとも持ってかなくちゃいけないものがふたつあるね」
といった。
「薬とお土産だよ。いいかい、おまえはね、自分の勤めてる荒川ベニヤを離れて、|こうだ《ヽヽヽ》とか|ああだ《ヽヽヽ》とかいう会社にお世話になるんだ。いくら衛生のわるい南洋だからってね、シリッピンに着いて、ろくに働かないうちに躰に故障が出ちまって、寝こんじまったりした日《し》には、こんな|やわ《ヽヽ》な人間を奉公によこす、荒川ベニヤの了見が気に食わないって批判されますよ。与田の社長の顔に泥塗ることになるんだよ。お土産の話もおんなじだ。ちゃんとしたお土産を持って、きちんとあっちの社員のかたがたにご挨拶しないと、人《しと》の道に外れるよ。非《し》常識だって笑われるよ」
貿易の仕事で外国に渡る、というのに、まるで息子を寿司屋に小僧奉公に出すような口ぶりである。
そう宣言した咲子は、父親の経営する既製服の卸し問屋の社員を使ったり、自分自身も出向いたりして、まず漢方の薬を整えた。
石山が幼少年時代から親しんできた胃腸薬の「熊の胆《い》」や「孫太郎虫」、風邪薬の「改源」に、咲子の大好きな小田原産「ういろう」の薬などである。
母親にいわせれば、「熊の胆」は昔、薬売りが客寄せ用に熊を一匹、大八車に乗せて売りにくると、飛ぶように売れた、効能のほどが天下に遍《あまね》く知れわたっている良薬だし、菓子の名として知られる「ういろう」は本来は薬の名で、「良薬、口に苦し」の譬《たと》えのとおり、えらく苦くて呑みにくい分だけ、よく効いた薬であった。そこで口直しに小田原の薬屋が菓子を作り、それを名古屋の菓子屋が真似て作ったのが、今日名の通っている「ういろう」の菓子だという。
これにやはり小田原産の整腸薬、梅肉エキスを用意して、ワンセットができあがる。
薬のほうはともかく、現地への土産については、石山も神経質になった。
機会を捉えて、石山は、社長の与田に、
「鴻田のマニラ事務所へは、どんな土産を用意すればいいんですかね」
そう訊いてみた。
「おまえがふだん食ってるものを土産に持ってゆくってこった。これが肝心だよな」
与田はしたり顔でいった。
「おれも気がきかねえくちだから、昔は、外国の駐在員への土産てえと、かならず佃煮かお茶、海苔の缶なんぞ持ってったもんだ。ところがな、あるときある会社の支店へ挨拶に行ったら、ちょうど鴻田の鶴井みたいな、態度のおおきいのがいやがってね、ひとさまの土産をどうもどうもって白けた顔して受けとるなり、うしろの観音開きのキャビネット開いて放りこみやがった。みたら、なかは、佃煮とお茶の缶が山積みよ」
与田は、おもしろいことをいいだした。
「おれもそいつをみたときは、かっとくるし、ショックも受けたがね、しかし考えてみりゃ、佃煮なんてものは、今日び、日本にいたって、たまにしか口にしねえやな。朝めしも近ごろはパン一枚になって、生卵に鮭の焼いたのなんて家は少ねえし、海苔ときた日にゃ、ありゃ、子どもの弁当に使うくらいよ。だいたい外地へ行ったからって、日頃、口にしない物を急に好きになったり、恋しがったりするわけがねえやね」
と与田はいい、「お茶にしたって、ところによっちゃ水のせいで味や色が変って飲めたもんじゃなし、要するにおまえが日頃食ってるものを、たとえば菓子でも持ってゆきゃあ、それが一番喜ばれるのよ」と忠告してくれたのであった。
それをそのまま、母親に伝えたところ、向島長命寺の桜餅の大箱と、長年、使いつけている、小田原名産「ちん里う」本店の、一コ千三百グラムの重さがある、|かめ《ヽヽ》入り、三年漬けの梅干しを十人分、それに生のわさびをやはり十本ほど勝手に用意してしまった。
つまり母親がふだん口にしている好物を揃えてしまったのである。
「いくらなんでも極端じゃないの。マニラの事務所には、日本人は七、八人しかいないんだよ。所長含めて、せいぜい二、三人分持ってきゃ充分だろう。こんなに用意したって無駄だよ」
石山は、土産の山に驚いて文句をいったが、
「大使とか公使とか、そういう八字ひげの|しと《ヽヽ》にもご挨拶しなきゃならないんだろう。おなじ困るなら、足りなくて困るより、あまって困ったほうがいいやね」
たかが出向社員の赴任だというのに、母親はそういってきかない。
出発の朝、仏間で仏壇に向って両手にかまえた黒檀の拍子木をカチカチと打ち合わせながら、咲子は習慣になっている朝の勤行《ごんぎよう》をやった。
朝夕、拍子木を鳴らしながらお経を読むのが仏立宗の特色で、生れついてこのかた、拍子木の音は、まるで子守唄のように石山の耳に馴染んでいるのだが、息子の旅の平安を祈るのか、その朝の勤行にはとりわけ熱が入って、時間も長かった。
拍子木を打つ音が聞えているうちに、石山は土産物専用の鞄から、梅干しの|かめ《ヽヽ》を半分だけ取りだして、家に置いて行ってしまおうとした。なにしろ、このほかに漢方薬の大袋があるうえに、石山はスポーツマンときているから、野球道具やテニスの道具まで持ってゆかねばならず、ただでさえ荷物が多いのである。
ところが鞄を開けた途端、母親が拍子木を鳴らす手は止めずに、ギプスをはめた首を上半身ごとこちらにまわして、
「お土産は、全部持っておゆきよ」といった。
結局、この全部で十三キロもある梅干しの|かめ《ヽヽ》がたたって、航空会社のカウンターで計量してみると、手荷物の制限重量をはるかに越してしまったのであった。
そんなとき、父親がばっと金を払ってくれれば、頼もしいのだが、父親は養子ときているから、
「お母さんも金使いが荒いね。落語の芝浜のおかみでも見習うといいね」
などというだけで、なにも助けてくれない。
つぎについていなかったのは、この航空会社の定期便が、途中立ち寄った香港で、エンジン・トラブルを起し、四時間も立往生してしまったことであった。
おおきな倉庫のような香港のターミナル・ビルで、うろうろと歩きまわって時間をやっとつぶし、マニラに着いてみると、もともとは夕刻到着の筈なのに、すでに時計の針は午後九時をまわっていた。
それでもフィリッピン人のグランド・ホステスが「石山さんですか」と通関に立ち合ってくれ、税関の外で、かねて噂を聞いていたフランク・佐藤に引き合わせてくれた。
石山が、慶応志木高校野球部員の昔に返ったような、直立不動の姿勢で、挨拶すると、フランクは、
「石山さんは、ずいぶんおおきいねえ。相撲取りみたいだね」
身長百八十センチの石山をみあげていう。
「それにしても、荷物が多いなあ。まさか、あなた、ここに永住する気じゃないだろうね」
「いや、骨を埋める覚悟でやってきたんです」
石山は緊張して答え、フランクは大笑いした。
小寺はその日、飛行機が延着しなければ、夕刻、事務所で石山を迎え、酒のいっぱいくらいは交際《つきあ》うつもりだった。
すでに事務所には、石山の机を入れて、受け入れ態勢は整えてある。
事務所の右手の窓に沿って、各部門の日本人マネージャーが机を置いているが、その一番奥に新しく机をひとつ置いて木材マネージャー用とした。これは小寺自身が兼務しているポジションだから、じっさいは空席同然で、そのまえにおなじおおきさの机を置いて、ここにフランクをすわらせた。
フランクのまえに少し小さ目の机をふたつ向い合わせに配置して、そのひとつが石山の席になる。残りの席には、フランクとおなじ機械部から移ってきた秘書のアデールがすわることになった。
飛行機が延着とわかったので、石山に会うのは諦めて、小寺は、ケソン市の小さいホテルへでかけた。
フィリッピンの首都、ケソン市は、マニラから車で三、四十分、官庁や国営テレビ局が集中していて、東京の霞が関を独立させたような官庁都市だが、この小都市のホテルで、細君の百合子の友人、テレサ・ミランダが、幹事役になって「慈善の夕べ」を催している。
「テレサは、キリスト様にどっぷり、のめりこんでて、えらい積極的に活動してはるのよ。私もミッションでてるんやけど、ようあそこまでやらんわ」
京都の同志社を卒業した百合子は、テレサの熱心な布教活動に驚いていたが、自分も満更縁がなかったわけではないので、結構楽しげに「慈善の夕べ」の入場券を、社内外の駐在員夫人たちに売りさばいたりしていた。
「慈善の夕べ」は「女性クリスチャン協会」の主催なので、出席者はどうしても女性中心になるが、今夜はテレサが幹事役を勤めていることから、亭主の上院議員アマデオ・ミランダも顔をみせる、という。
一九七〇年現在のフィリッピン議会は上院二十四名、下院百一名から構成されているが、上院の権限がきわめて強く、従って上院議員は政財界に対して圧倒的な影響力を持っている。
小寺はそれを知っているから、石山の挨拶を受けたあと、この「慈善の夕べ」に出席する予定にしていたのである。
「講演と音楽の集い」という、バナーを掲げた、ホテルの二階の会場の入口には、肥った中年女性がふたり、テーブルにすわって、入場券を売っている。
入場券を買って、会場に入ると、講演が行われていて、盛んに笑声があがっていた。
会場の半分は、白人系や混血のフィリッピン人で埋められ、残りの半分は、テレサのように顔が小さく、鼻の高いフィリッピン女性であった。
日本では、あまり知られていないが、アヤラ、ロハス、エリサルデ、ソリアノなどの財閥をはじめとして、フィリッピン上流社会には、いまに至るもスペイン統治以来の白人の血を頑なに守り通している、「白いフィリッピン人」の一団が存在するのである。
会場の隅にすわっている、ミランダ夫婦、それに百合子をみつけ、小寺はそちらへ歩いて行った。
ミランダ夫婦と小声で挨拶をし、百合子の隣りの椅子にすわったのだが、その間もしきりに笑声があがる。
「なんの話かね」
「訛りがひどくてようわからんのやけど、要するに夫の気持を掴む法≠ンたいなことやないかな。夫が怒鳴っても、そのときは怒鳴り返さずに我慢しろ、なんていうてはるわ。ここの女性は、そんなとき、怒鳴り返すんやろうかねえ」
笑声と拍手のうちに講演が終り、テレサが講演の礼を述べ、入場者に向って、会場の一隅に立食形式の食事が用意されている旨、案内した。
出席者がざわざわと立ちあがり、簡単な舞台では、会員の子弟による、ラテン系の音楽演奏の用意が始まった。
「ミスタ・ミランダ、こんな場所で商売の話を持ちだすと、神様に叱られそうな気もするんですけどね、ちょっとお話ししてもかまいませんか」
小寺は、アマデオの隣りに席を移して、そう話しかけた。
「かまわんでしょう。なにしろ、われわれは、シアトルという共通のゴッド・ファーザーを持った、親類みたいな仲なんだから」
黒縁の眼鏡をかけた、学者ふうの容貌の上院議員は気さくにそういってくれた。
「ルソン島で産出する、赤ラワン材の話なんですがね」
そういって、小寺は、自分が赤ラワン材の|伐採権の所有者《コンセツシヨン・オーナー》を探していること、それもできれば、開発経費を負担できるような、しっかりしたオーナーを探していることを説明し、だれか適当な人物を紹介してくれないか、と頼んだ。
ミランダは小寺の口もとに耳を差しだして、注意深く聞いていたが、
「ラワンは、フィリッピン第一の産業だから、関係者は大勢いますよ。ここの会場にきている連中のご亭主連だって、大半のひとが、コンセッションを持っているとか、製材所を経営しているとか、いろんな形で材木の商売に関係しているんじゃないですかね」
現に、この私もルソン島じゃないが、ほかの島にコンセッションを持っている、とミランダはいった。
「しかし、あなたにはちゃんとした人間を紹介しなくちゃならんですな。私もPLPAの代表として日本に行ったりしていますしね。少し考える時間をください」
これでこの会に出席した目的はすんでしまったようなものだったが、さりとて簡単に引き揚げるわけにもゆかず、テレサが次々と紹介する、白い、大抵は肥満したご夫人連と握手したり、親日家という、カトリックの神父に掴まって長話を交際《つきあ》わされたりした。
帰りぎわにミランダ夫婦に挨拶すると、アマデオは小寺の肩に手をかけて、
「あんた、この前の戦争には出征したんですか」
と訊く。
「いや、海軍の学校に行っただけで、実戦には参加していませんよ」と答えると、「そうか、そんなら問題はないでしょう」といって手を挙げて離れて行った。
鴻田貿易は、マカティ地区の外れにあるマガリアネス・ヴィレッジに「独身寮」と称する、独身者用、および単身赴任者用の住宅を借りていて、石山は、そのエンカルナチョン通り一八番地の家に落ち着くことになった。
フランクの中古のいすゞ・ベレットに乗って、玄関にポーチのついた、白塗りのおおきな二階家に着くと、ハウス・ボーイひとりとメイドふたりが走りでてきて、石山の荷物を家のなかへ運びこんだ。
「あなたの荷物のなかには、いったいなにが入ってんの」
梅干しの|かめ《ヽヽ》の入った、石山の鞄を手に、よろよろと歩いてゆくハウス・ボーイを眺めながら、フランクが訊ねた。
「野球やテニスの道具を入れてきたんで荷物が多くなったんですけど、あの重い鞄の中身はそんなものじゃなくて、皆さんへのお土産なんですよ」
フランクはにやにや笑いながら、
「まさか、あなた、アラブの王様みたいに、お土産に金塊運んできたんじゃないだろうね」
と石山をひやかした。
「佃煮やお茶の缶の底が二重になっていて、そこに金の薄板や延べ棒が隠してあったりするのかな」
「いやあ、おふくろが、梅干しとか桜餅とか、つまらんものをお土産に持ってゆけ、といって、きかないもんですからね。荷物が重くなってしまったんですよ。こんなものは、佐藤さんのお口には合わないとおもいましてね、佐藤さんには、別のものを用意してきました」
石山はそういって、手にぶら下げた免税品の袋を振ってみせた。
彼は、鴻田貿易本社木材部の鶴井から、「日比混血の現地社員と一緒に働いて貰うことになる」と聞かされていたので、羽田の免税品売場で、わざわざフランクへの土産に高級ウィスキーを用意したのであった。
「梅干しか」
フランクは呟いて、一瞬放心したような表情をみせた。
「梅干しとは珍しいな。これは金塊より価値があるよ。たしかに」
フランクは、うつ向いたまま、そういった。
石山は、ハウス・ボーイと一緒に、ビリヤードの台の置いてある、一階の居間を抜けて、二階の一室に荷物を運びこんだ。フランクへの手土産のウィスキーをぶら下げて、階段を降りてくると、フランクは、背の低い、少女のような現地人のメイドのひとりとタガログ語で話していた。
「石山さん、あなたを案内して外へ食事にでるつもりだったんだけどね、時間も遅いし、彼女らが簡単な食事は、すぐ用意できる、といってるしね、今夜は、ここで軽くいっぱいやって、めしを食うことにしないか」
フランクがいう。
この寮にはマニラ事務所の経理を担当している藤田という若い社員も住まっているのだが、今夜はシンガポールにある東南アジア地区統轄室に出張して留守なのだそうであった。
「私も飛行機のうえで食事しましたからね、簡単なもので結構ですよ」
東京で大食漢ぶりを発揮してきた石山は、そういったものの、相当に腹が減っていて、メイドがどの程度の食事を用意してくれるのか、と不安になった。
「佐藤さん、これ、つまらんものですが」
石山が差しだしたウィスキーを、フランクはじっと眺めていたが、いいにくそうに、
「石山さん、わがままをいって申しわけないんですけどね。もし余っているようだったら、梅干しのほうを自分にいただけませんかね」
意外なことをいいだした。
石山は呆気《あつけ》に取られたが、すぐに階段を昇って自室へもどり、「ちん里う」の梅干しの|かめ《ヽヽ》ふたつに桜餅、わさびを添えて、免税品の袋のウィスキーと入れかえた。
吾嬬町の自宅で、母親が、黒檀の拍子木をたたきながら、「ほうらごらん、いわないこっちゃない。あたしだって、だてに年取ってきたんじゃないからね」と得意顔でいう嗄《しわが》れ声が聞えるような気がした。
梅干しの|かめ《ヽヽ》と桜餅の土産を貰ったフランクは、じつに嬉しそうな顔をみせた。
天井で旧式の大扇風機がゆったりと回転している、白いフィリッピン産の大理石を床に張った居間のソファにすわりこみ、メイドにウィスキーを持ってこさせると、フランクは呆れたことに、その場で|かめ《ヽヽ》を開けて、梅干しを肴に飲み始めた。
「今のマニラ事務所の所長さんは、小寺さんというんだが、このひとは、親分肌の人格者ですよ」
フランクは、そう喋りながら、梅干しをまるで飴でもしゃぶるように次々と口に放りこむので、たちまち梅干しの種がテーブルのうえの小皿に五つ六つとならび始めた。
なぜか、梅干し飢餓症とでもいったものが、この日比混血の四十近い男を捉えているのであった。
まもなくメイドが呼びにきて、ふたりは続き部屋になっている食堂へ移ったが、フランクは、梅干しの|かめ《ヽヽ》をさも大事そうにかかえて立ちあがった。
フランクは食事を一瞥して「ああ、これだけ揃えば、ご馳走だ」といい、メイドを「サラマット、ご苦労さま」とねぎらった。
「フィリッピン料理のレッスン・ナンバー・ワンだよ、今夜の料理は」
食卓についたフランクは、相変らず飴玉を口のなかでころがすように梅干しをしゃぶりながら、卓上の料理を指差した。
「これが、シニガン・スープ、酸っぱいお吸物ってところだね、こっちが、アドボ、九州料理の豚の角煮とおなじです。それが、揚げたサライ・サライ、つまりあじを、中華ふうに酢漬けにしたのよ」
そこでフランクは、石山の少々突きでてきた腹のあたりをちらりと眺め、
「料理に使う油が日本と違うけど、あなたのその躰なら大丈夫だろう」
といった。
そのときの石山は、食事の量がおもったより多いのに単純に安心していたのである。
深夜近く、小寺夫婦がベル・エアの自宅に戻ると、今、フランクが立寄ったところだ、といって、メイドがフランクのメッセージと石山の土産を差しだした。
メッセージには、石山を独身寮にとどけ、独身寮のGOCHISOを一緒に食べた旨が英語で書いてある。
「梅干しに桜餅にわさびやね。これは、うちの社員よりよほど気のつくひとやね」
土産物を袋から取りだして、百合子が嬉しそうな歎声をあげた。
4
小寺の家に石山の土産物を置いたフランクは、いすゞ・ベレットを自宅に向って走らせていた。
──梅干しの土産には泣かされたな。
フランクは、苦笑いしながら、助手席に置いてある、梅干しの重い|かめ《ヽヽ》がふたつ入った免税品の袋を眺めた。
帰りぎわに、石山が、「佐藤さん、新しい|かめ《ヽヽ》をふたつ持ってってください。封を切ったのは、この独身寮の自家用に使って貰いましょう」といって、また二階から新しい|かめ《ヽヽ》を持ってきてくれたのである。
「いったい、あなたはいくつ梅干しの|かめ《ヽヽ》を持ってきたの。丸太を買いにきたんじゃなくて、梅干しを売りにマニラにきたのかね」
とまぜ返しながら、フランクは、躰の震えだしそうな昂奮をおさえきれなかった。
この塩漬けという、古典的な保存法を施した、赤い、酸っぱい果実には、フランク・佐藤、いや、佐藤浩の少年時代がそれこそ、塩漬けにされている。それは篠田先生の、馬場少尉の、そして岸本美千代の思い出に、自然にどこかで繋ってゆくのである。
フランクにとって、ひいては佐藤一家にとって、太平洋戦争は、梅干しとともに始まった、といってもいい。
フランクこと佐藤浩は、昭和十六年十二月二十九日の午前、ルソン島中央平原の小村、ギンバで、初めて日本陸軍の兵士たちに出会った。
これより先きの十二月八日、日本人小学校に登校直後に、浩は、太平洋戦争の勃発を知る。
その朝、浩はちょうど庭当番で、箒《ほうき》で校庭を掃いていた。空のどこかで米軍機の爆音が低く唸っていた。
校庭の向う、先生たちの宿舎の裏手に、植木鉢がならべられ、女生徒がその植木に水をやっており、その傍に悪戯《いたずら》仲間の白坂がしゃがみこんで、なにか女生徒に話しかけている。
──白坂のやつ、またなにか悪戯を企んでいるな。
浩はそうおもい、箒を放りだして、そちらに行ってみたい誘惑に駆られたのだが、ふいに正面に建っている校舎の左手、職員室に通じる石段を、小使いのおじさんが駆け降りてきて、あわただしく校舎の裏手に向うのがみえた。
この小使いのおじさんは、この石段の手前に吊り下っている、クリスマスの絵にでてくるような鐘の芯棒をつかんでからんからんと鳴らし、始業、終業を告げるのを主な仕事にしているのだが、いつもとぼとぼという感じでゆっくり歩いていて、こんなぐあいに駆けているのはみたことがない。
なにか起ったのかな、とおもった途端に、校長以下、数人の先生がおなじ石段から急ぎ足で校庭にでてきた。
校長は手招きをして、
「皆、ここに集まりなさい」
とおおきな声をだした。
「今、日本軍がハワイを爆撃しているそうです。ここもすぐに戦争になるかもしれません。学校は臨時休校にきまりましたから、皆、いそいで家へお帰りなさい」
集まってきた生徒たちに向っていい、浩は駆け足で白坂と一緒に教室に戻ったのであった。
式日には、日章旗と一緒に必ず星条旗が講堂に掲げられ、また七月四日の米国独立記念日には、祝賀の行事が催されたりして、フィリッピンが米国統治領という認識は子どもたちの頭にも染みついているから、皆、ひどく緊張した顔をしていた。
いったん開閉式の勉強机のなかにおさめた教科書やノートを取りだして、ランドセルに入れ、玄関をでようとすると、長身の篠田先生が階段の下に立っていた。
翌年一月から始まる、五年の新学期からは、この篠田先生が担任ときまっていたし、学校の裏に住んでいる浩は、昔から顔馴染みだったので、「篠田先生、さようなら」と挨拶をした。
「佐藤は、避難場所の|あて《ヽヽ》はあるのか」
緊張に少し顔を青くした篠田先生は、訊ねた。
「祖父の田舎にゆくことになりそうです」
日頃の両親の会話をおもいだして、浩は答えた。
「田舎から帰ってこれるようになったら、先生の宿舎に知らせにこいよ。なに、すぐにまた、皆で一緒に勉強できるよ」
篠田先生は、最後の部分は自分にいい聞かせる口調でいった。
浩の一家は、その日の午後に父親の運転するオンボロ・フォードに揺られて、祖父の住むギンバに疎開したのであった。
浩の祖父は、現在の国道五号線に面したギンバの村で精米所を営んでいたが、疎開してまもなくルソン島の台湾寄りの北海岸、アパリとゴンサーガに日本軍が上陸し、国道をまっすぐに南下してくる、という噂が拡まった。
そこで国道に面したギンバの村に留まっていては危ない、ということになり、一家は親類を頼って、一キロほど東に入った田舎に再疎開したのであった。
十二月二十九日の朝、その再疎開した村から、浩は、父親と一緒にギンバの村までやってきた。食糧探しのためだったが、ギンバは無人の地と化して、人影もない。
祖父の家の斜向いにあるドドン食糧雑貨店の閉めきった板戸を繰り返し叩いたが、応答がない。しかし敏捷な浩が板戸をちょっと細工すると、すぐ開いてしまった。
店のなかは米国製の缶詰の山である。
「ドドン、|缶詰を五コ持ってゆく。料金は君に顔を合わせたときに支払うつもりだ。悪くおもわないでくれ《タダルヒン・コ・アン・リマン・デラータ・パウタギン・モ・ナ・ラン・アコ・パセンシヤ・カ・ナ》」
父親のルイスは、そうタガログ語で書いたメモを残し、缶詰を五つ持ちだして、持参の袋に入れた。フランクは、チューインガムを数コ、「あっため」ようとして、父親にみつかり、棚に返させられた。
親子は、間道を通って帰るつもりで、村外れの鉄橋を渡ったとき、一直線に伸びた街道の行手にうすい土煙りのあがるのがみえた。うすい土煙りのあちこちで、なにか金属製のものが、陽を受けてきらりきらりと光る。土煙りはゆらゆらとゆらめきながらこちらに向ってくる。
父親は鉄橋までもどって、鉄の欄干に足をかけ、伸びあがった。
「|日本の兵隊じゃないか。あれは自転車に乗った日本の兵隊たちだぞ《ヒンジ・バ・スンダーロ・ナン・ハポン・ヨンイヤン・ナン・スンダーロ・ナン・ハポン・ナガ・ピビシクレータ》」
小手をかざした父親が叫んだ。
それを聞くと、浩はあとさきも考えずに、まっすぐ伸びている街道を土煙りに向って、一目散に駆けだした。
日本の「兵隊さん」がとうとうフィリッピンまでやってきたのだ。これまで、軍歌や戦時歌謡、少年雑誌の口絵などでしか知らなかった、「兵隊さん」を、今こそ、眼のあたり、眺めることができるのだ。
走ってゆくにつれ、子どもの背たけではみえなかった日本陸軍の自転車部隊が、うすい土煙りのなかから現われた。
戦闘帽の後ろにつけた、防暑用の帽垂れを風になびかせ、真新しい自転車の車輪を南国の陽にきらめかせながら、小銃を背にした自転車部隊は道いっぱいに拡がって、こちらに進んでくる。
「兵隊さあん、日本の兵隊さあん」
浩は走りながら、夢中で声の限り叫んだ。
小隊長らしい、前列中央の男がなにか号令し、数十台の自転車がフランクを取り囲むようにして止った。汗と皮革の濃密な軍隊の匂いが、土煙りと一緒に、あたりにたゆたってフランクの鼻孔を刺した。
「おまえは、日本の子どもか」
小隊長らしい男が訊ねた。
「はい、マニラ日本人小学校四年生、佐藤浩です」
浩は、学校で教わったとおりに爪先きを正確に六十度開いた、日本式の「気をつけ」の姿勢を取って、精いっぱい声を張りあげ叫ぶようにいった。
汗と皮革の群が揺れ動き、どよめきがあがった。
「初めて日本人に会ったな」
「日本人小学校の生徒、といったぞ」
そんな私語がいくつも耳にとびこんでくる。
「お父さん、お母さんはご無事か」
「はい。お母さんは、少し離れた田舎にいますが、お父さんはあそこにいます」
後方を振り返ると、父親は道の真中を悠然たる足どりで、こちらに歩いてくる。
父親が近づいてくるのを待ち、小隊長は自転車を降りて敬礼した。
「陸軍の第四十八師団、台湾歩兵第一聯隊の者です。二十二日にリンガエン湾に上陸して、ここまでやって参りました」
日本の「兵隊さん」が父親に敬礼している、と浩は激しい昂奮に酔ったようになっておもった。
父親は、日本式にお辞儀をして、
「ご苦労さまです」
と日本語でいった。
「お父さんはフィリッピンのひとですが、日本に長く住んでいたし、お母さんが日本人だから、日本語がうまいんです」
浩が声を張りあげて説明すると、ふたたびどよめきが自転車部隊のなかを走った。
鴻田貿易の「独身寮」に落ち着いた石山は、フランクの帰って行ったあと、飛行機の遅延した旅の疲れがでて、シャワーを浴びるのもそこそこに、ベッドに入った。寝室には冷房がついているが、寝るときは消すようにフランクにいわれている。
ベッドに入り、気恥かしいような、ピンクの無地のタオルケットをかけてすぐに、胃の表皮がつっ張ったような、胸苦しさを感じ、腸がごろごろと不気味に鳴って、石山はいやな予感を覚えた。
胸苦しさは、すぐに息苦しい感じに変り、鈍痛が胃を襲い始めた。
石山は起きあがって、鞄を開き、母親がよこした、ひとかかえもある漢方薬のなかから、「熊の胆」や「改源」を取りだしたが、独身寮のこととて、飲料水がない。部屋続きのバス・ルームの水を飲むのは、さすがにはばかられる。苦い漢方薬は、水なしに呑めたものではない。
仕方なしに、「梅肉エキス」を取りだして、ふたくちほど舐めた。
フランクの喜んだ梅干しに加えて、また母親に借りのできた感じだったが、少し我慢していれば、じきにおさまるだろうと考え、ベッドにもどった。慶応志木高校の野球部以来、躰はきたえてあるから、胃腸を患ったことなど、ほとんどない。おまけに日本を発つまえに、体力をつけると称して、食べまくってきたから、現在は、一メートル八〇余りの身長に対して、体重が百キロ近くもあった。
しかし胸苦しさはおさまるどころか、いよいよ激しくなった。胃を巨大な手で鷲づかみにされている感じになり、鈍痛はしぼるような痛みになった。
──これはいかん。うるさいことになってきたぞ。
石山は、胸をおさえて立ちあがり、バス・ルームに行って、便器のなかにもどした。便器から躰を起すと、天井と壁の境い目に|やもり《ヽヽヽ》が一匹、張りついているのが眼に入った。
もどせばおさまるか、とおもったのだが、胸苦しさと苦痛はおさまらず、胃が|やもり《ヽヽヽ》ならぬおおきな爬虫類かなにかに化けて、胸のなかを盛大にのたうちまわっている感じになってきた。
もう一度、漢方薬を取りだして、肩で息をつきながら、階下の食堂に行って、ジャーから、煮沸して、冷やしてあると聞いている水をコップに注ぎ、嚥下《えんか》した。
階段を登って部屋に帰ろうとしながら、苦しくなって、階段の途中にすわりこんだ。激痛が胃のあたりを刺し貫いて、眼がくらみ、階段のうえに海老のように躰をまげて、倒れこんだ。呻《うめ》き声がおもわず、口を衝いてでた。
「|助けてくれ《ヘルプ・ミー》」
英語で叫びながら、頭のどこかで、どうもこのせりふは芝居じみていて、照れくさいなと考えていた。
しかしすぐにそんな感じを払いのけるように激痛が戻ってきて、もう一度「ヘルプ・ミー」と叫んだ。今度は、悲鳴に近い声になった。
台所に明りがつき、洗いざらしの木綿のワンピースのような寝巻きを着た、ふたりのメイドが現われた。
意外なことに、「|あら《アイ》」といったもののふたりのメイドは、さして驚いた顔をみせない。背の低い、年かさのほうのメイドが階段のうえで躰を折りまげている石山の肩に手をおいて、
「|病気ですか《ユー・アル・イル》」
ひどいフィリッピン訛りの英語でいう。
若いほうが、しきりに「ティヤン?」「ティヤン?」と訊くが、腹が痛いか、とでも聞いているらしい。
「すみませんが、医者にくるように頼んでくれませんか」
呻き声の合間を縫って、石山は頼んだ。
「ノー・ドクター」
と年かさのメイドは首を振る。往診にきてくれるドクターはいない、という意味のようである。
「それじゃ、ミスタ・佐藤に電話してください」
「アイ・ドント・ノー・テレフォーノ」
とメイドは首を振る。
どうやらフランクの自宅の電話番号を知らない様子である。
年かさのメイドは、髪のながい若いメイドとタガログ語で盛んに喋り始めた。
「ミスタ・オデラに電話をします」
年かさのメイドがいい、石山は階段のうえで、おもわず「ノオ、ノオ」とおおきな声をだした。
事務所長の小寺には、まだ初対面の挨拶もすませていないのである。みっともない、それだけは勘弁してくれ、とおもった。
家にもどったフランクは、寝室に入るまえに、応接間《サラ・ルーム》に立ち寄り、キャビネットのうえに飾った、結婚式の写真をみつめた。結婚式の写真の下から、馬場大尉と岸本写真館で撮った写真をことさら取りださなくとも、彼の眼には、はっきり見てとれるのである。
昭和十六年の暮、浩が父親と一緒にギンバで出会った日本陸軍の自転車部隊は、正確には左右二縦隊に分れて、マニラを目指す四十八師団、土橋兵団の右縦隊のほうであった。「右縦隊は二十九日〇七〇〇ロザレス出発ロザレス─グインバ(ギンバ)─バロック─カバナツアン道をカバナツアンに向い前進すべし」の兵団命令を受けてロザレスから南下してきたのである。
自転車部隊と出会って以来、現在の国道五号線に面した、木造二階建てのフランクの祖父の家は、マニラに向って進攻する、第四十八師団右縦隊の連絡所のようになった。隊長たちが次々と訪れて、日本語に堪能《たんのう》な父親からマニラまでの道路状況、地理状況、更には米比軍の配備状況まで訊きにきたからである。
その最後に当時の少尉だった馬場康人が現われたのであった。
馬場少尉と会うまえに、台湾歩兵第一聯隊司令部は、車をだしてくれて、浩は、母親と弟ふたり、それに祖父を乗せてギンバの家に戻った。
四十八師団は、貨物自動車七百台、歩兵用自転車四千台を中心とする、当時の日本陸軍にあって、もっとも機械化された兵団であった。分解した重機関銃をかついで、その重みのために尻の皮が擦りきれ、ズボンを血で真赤にした自転車部隊の兵士が通るかとおもえば、十五サンチ榴弾砲大隊、十サンチ加農《カノン》砲大隊が次々とギンバの家のまえを轟音とともに通過してゆき、佐藤兄弟を昂奮の渦に巻きこんだ。各通過部隊が小休止をとると、佐藤兄弟は、兵士らのちょっとしたペットになった。
「日本人小学校の四年と二年か。実は、おじさんも台湾のね、つまり外地の小学校をでたんだよ」
しゃがみこんで、そう話しかけてくる兵士がいた。さらに、
「おじさんの組にも十人ばかり混血や台湾本島人の子どもがいて、仲よくしていたよ。たとえばあそこにいる兵隊さんはね、お母さんが台湾のひとなんだよ」
そんなことを親しげに語る兵士もいる。
浩は、先日「父親はフィリッピン人」と説明したときの兵士たちのどよめきをおもいだした。
第四十八師団は、昭和十五年十一月、台北歩兵第一聯隊と台南歩兵第二聯隊を基幹に大分第四十七聯隊を加えて編成された。総じて九州出身者が多いが、台北歩兵第一聯隊と台南歩兵第二聯隊のなかには台湾という「外地」に育ち、佐藤兄弟とおなじように外地の日本居留民対象の小学校を卒業した者が少からず混っていたのである。さらに日本国籍ながら、佐藤兄弟とおなじように片親が本省人、つまり中国系台湾人という兵士も少数加わっていた。
そういう兵隊たちに、自転車部隊の隊長が、
「今、ここのベンジャミンさんから注意を受けたが、日向《ひなた》に自転車を置いておくと、暑熱で自然にタイヤがパンクしてしまうのだそうだ。ここは台湾より大分南なんだからな、おまえたちも充分注意しろ」
そう訓示をして、兵士の笑いを誘ったりしていた。
昭和十六年|大《おお》晦日《みそか》の夕刻、フォードの乗用車とトラックなど十数台の車輛が、ギンバの家のまえに停った。
ギンバの祖父の家は、フィリッピンの家によくみられる例で、柱に支えられて、二階のバルコニーが道路に張りだしているが、そのバルコニーから、浩が眺めていると、フォードの車からは、白地に赤抜きの「憲兵」の腕章を防暑|襦袢《じゆばん》の袖につけた兵士がまず降り立って、後ろの座席のドアを開けた。後方からは、腕章のない将校が数人降り立ち、この家を眺めてなにごとか話している。
そのなかの背の高い、体格のいい将校が、浩をみつけ、白い歯をだして笑い、手を振った。
兵士たちの着用している憲兵の腕章と躰のおおきな将校の人なつっこい態度に誘われて、浩は階下に降りて行ったのだが、まもなく将校たちが兵士を伴って、精米所に入ってきた。
将校は、いずれも若い少尉中尉で、あとは軍刀を吊り、長靴を履いているものの、腕に「憲兵」の腕章を巻いた下士官憲兵と一般兵士である。
彼らは、土間の椅子にすわっていたフランクの両親、ルイス・ベンジャミンと佐藤|とき《ヽヽ》に向って挙手の敬礼をした。
「われわれは、第三次上陸をいたしました後方部隊の者であります。われわれは第一野戦憲兵隊の分遣隊でありまして、こちらは、軍の糧食などの確保を任務とする野戦|貨物廠《かもつしよう》、一〇六八二部隊の先遣隊です。フィリッピンおよびマニラの気候風土、住民の性質等々につきまして、お話を承れれば幸いであります」
先程、彼に手を振ってみせた、背の高い、がっしりした体格の将校がいった。
そして兵士に合図をして、おおきなみかん箱に入れた切餅《きりもち》に、梅干しと墨で表書きしてある四斗樽を両親のまえに置かせた。
「開戦以来、ご苦労を重ねておられる、と考えまして、一〇六八二部隊に些少の手土産を用意して貰いました。どうぞお納めください」
この四斗樽の梅干しを携えて現われた将校たちは、精米所の奥の食堂で、メモを取りながら、両親の話を聞き、あり合わせの母親の手料理を食べて帰って行ったのだが、終始積極的に質問し、会議をリードした、馬場という少尉は、佐藤少年に強烈な印象を残した。
戦闘帽を脱ぐと、絶壁型の後頭部と狭い額の目立つ、まだ二十代そこそこの将校だったが、戦時少年にとって、憲兵は英雄の代名詞であったから、浩は馬場少尉が襟《えり》の階級章のわきにつけている、憲兵を示す金色六光章のバッジや特に腰に下げている拳銃を飽かず眺めた。
馬場少尉は、すぐに浩の視線に気づいて、「ああ、これがみたいのか」といった。拳銃入れから無雑作に黒びかりのする拳銃をひきだして、彼に差しだした。
母親の|とき《ヽヽ》が驚いて、
「あのう、弾丸《たま》は入っていないんでしょうか」
と訊くと、
「大丈夫ですよ。危険なものはお貸ししませんよ」
と笑い、それでも一応拳銃を逆手にとり、銃把から弾倉を抜いてなかを改めたうえで、佐藤少年の手にずっしりと重い、凶器をのせた。
「この拳銃はおれが苦労して選んだブローニングの逸品でな。憲兵の魂なんだ。おまえも責任を持って、憲兵の魂を預ってくれ」
周囲の眼を意識するのか、いくぶん気負ってそういった。
浩は有頂天になったあまり、食事も忘れて、二階の寝室に拳銃を持ちこみ、弟たちにかまえてみせたりして、時の経つのを忘れたものであった。
帰りぎわに両親が「今夜、この家に泊って行ったら」としきりに勧めたが、
「いや、ご好意はありがたいのですが、上陸以来、いっさい民家に泊ってはならん、という命令がでておりますので、そうはゆかんのです」
と少尉は断った。
開戦直後の日本軍の軍律は厳正で、無人の部落でも、いっさい民家にあがりこんだり、就寝したりすることを許さなかった、といわれる。
一月四日、馬場少尉がまた現われて、
「一昨日マニラが陥落して、戦況も落ち着いたようですから、マニラにお帰りになりませんか。私が車でお送りしますよ」
と誘ってくれた。
野戦貨物廠、一〇六八二部隊の先遣隊は、すでに陥落の日にマニラ入りしている、という。
結局、尉官の搭乗を示す青い小旗を一本、ボンネットに立てたフォードや、大阪の工場で組み立てられた国産外車《ヽヽヽヽ》のシボレーに分乗して、ベンジャミン一家は、マニラに向った。途中、フィリッピン兵らしい死体を犬が食っているのに出会い、母親が気を失いかけたが、それ以外には、なんの事故もなく、車はまだあちこちで黒煙ののぼっているマニラ市内に入った。
日本人小学校の裏にある家に帰り着くと、浩はすぐに、真向いの篠田先生の宿舎に飛んでいった。
篠田先生の宿舎の下で、「篠田せんせえ」と叫ぶと、すぐに手拭いの干してある二階のバルコニーから篠田先生が顔をだし、
「佐藤、ずいぶん早く帰ってきたな。ちょっとあがってゆかないか」
といってくれた。
昭和十七年二月二日に、日本人小学校の授業が再開され、篠田先生は、その最初の授業で、
「これからは、毎月八日が大詔奉戴日ということになる。大詔奉戴日には、皆、なるべく梅干しひとつの日の丸弁当を食べることにしよう」
といった。
浩は、陸軍の車のトランクに入れて、ギンバから運んできた四斗樽の梅干しのことをおもいだし、ちょっと得意なような気持を味わったものであった。
オープン・シティ(無防備都市)宣言をしたマニラはほとんど無傷であった。浩にとっては、白坂と組んで岸本美千代の足をひっぱったり、戦争ごっこをやったりする平和な悪戯《いたずら》の日々が、再び始まったのである。
──今の日本人がフィリッピン人と結婚している日本女性に会ったとしても、果して、戦時中の馬場少尉が美しい挙手の礼と四斗樽の梅干しで示したような、礼儀に厚い態度を示したりするだろうか。その混血の子に無雑作にピストルを貸してくれるような、信頼感に満ちた態度を見せてくれるだろうか。
サラ・ルームに突ったったまま、フランクはそう考え、それからゆっくり首を振って、寝室に向った。
5
短くしゃくりあげるような、アメリカ式の電話のベルの音が夢のなかに響いてきて、小寺は寝室のベッドのうえにはね起きた。
寝室を出て、電話のある書斎のほうに急ぎながら、小寺は、まだ頭がはっきりしなくて、東京の本社からの国際電話ではないかと考えた。
シアトル在勤中、東京の本社から国際電話の入ることがあったが、シアトルと東京との時差は七時間で、東京時間の午後五時以降にかけてくる電話は、シアトル時間の午前零時以降、つまり深夜に、自宅にかかってくることになってしまうのである。
しかし受話器に響いてきたのは、「ご本社」の連中の日本語ではなくて、フィリッピン女性の、たどたどしい英語であった。
「ミスタ・イシヤマ、病気です。私、どうしましょう」
小寺の寝入りばなの頭には、イシヤマという名前がいかにも唐突で、すぐにはイメージを結ばない。一拍間をおいて、ミスタ・イシヤマが、今夜到着した、荒川ベニヤからの出向社員、石山高広を指し、電話してきた女性が、マガリアネスにある、会社の独身寮のメイド、それも年かさのほうの女性と気がついた。
「病気って、なんの病気なの?」
「|石山さん、痛いんです《ミスタ・イシヤマ・ハズ・ペイン》」
そこでメイドは、痛い場所を示す英語の単語がうかばないらしく、困った声になった。
「ティヤン、ティヤン」といい、次に「ガモット、ガモット」と繰り返した。
「石山君と話したいな」
「ノー、彼はカシリヤスにいます」
カシリヤスがタガログ語で、便所を意味するくらいの知識は、小寺にもあり、これでだいたい病気の種類の察しがついた。ティヤンとかガモットとかいう、タガログ語は「お腹」とか「胃腸」を意味するのだろう。
「よし、すぐそちらにゆくよ」
小寺はいって、電話を切った。
「夕べ着いた石山君が、病気らしい。例の下痢じゃないか、とおもうが、ちょっと様子をみてくるよ。アミーバ赤痢ならたいしたことないが、万一チフスだったりしたらおおごとだからな」
小寺は書斎の入口に立って、聞き耳をたてていた細君の百合子に説明し、寝室に戻って、すぐに身仕度を始めた。
小寺が例の下痢といったのは、フィリッピンに赴任してくる日本人が、着任後よくかかる下痢症のことで、この国に住む外人たちは「歓迎下痢症《ウエルカム・ボウエル》」と呼んでいる。
大抵は、浄水処理のわるい水道の水か、ココ椰子の油が原因で起るのである。アミーバ赤痢による場合もあるが、ここではアミーバ赤痢とて大病のうちに入れて貰えない。
「そんなら、私もゆくわ」
百合子も、そういって、着替えを始めた。
「着いた晩に病気にかかりはったら、心細いやろねえ。うちにきて貰うたら、どうかしら」
自家用車の運転手のノーエは、朝九時から夜六時まで働く、通いの雇い人だから、当然不在で、小寺は、自分で赤いオペル・レコードを車庫からひきだし、隣りに百合子を乗せて、深夜の道をマガリアネス・ヴィレッジに急いだ。
独身寮のメイドに案内され、二階の寝室に駆けあがってみると、派手なタオルケットが床に落ちていて、おおきなダブル・ベッドのなかは空であった。続き部屋の便所のほうで、吐いているらしい気配がし、ひくい呻《うめ》き声が聞えた。
それがおさまったところで、小寺は、
「石山さん、鴻田の事務所長の小寺です。大丈夫かな」
と声をかけた。
ドアの向うは、一瞬しんとし、それから、石山は、
「真夜中に所長にまで、ご心配かけて申しわけありません」
嗄《しわが》れたような声をだした。
しかし返事はあったものの、便所からでてくる気配はなく、今度はバケツの水を便器にぶちこむような、激しい吐瀉の音が響いた。その合間にまた呻き声とも、溜息ともつかぬ声が混る。
──おもいきって救急車を呼んでしまうか。
小寺は迷って、石山の部屋のなかを眺めた。
衣類をまだ詰めたままの旅行鞄が、半開きで床に放りだしてあり、信じられないほど多量の漢方薬の薬袋が、散乱している。隅におかれたライティング・デスクのうえには、小寺も貰った梅干しの|かめ《ヽヽ》が、所狭しとならべられていた。石山は、どうやら下町の金持ちの息子らしい、と小寺にも見当がついた。
階下から、細君の百合子が、メイドとなにごとか話し合っているらしい、おおきな声が聞えてくる。
「所長、申しわけありません。なにしろ上下とも止らなくなって、洗面器かかえて、便器にすわりこんでいる状態でして」
便所から、石山の情なさそうな声がした。
「ちょっとの間、辛抱しなさい。車を呼んで病院に連れてゆくから」
小寺は決心がついて、磨きあげられた花梨《ナーラ》材の床に落ちているピンクのタオルケットをベッドに拾いあげてやり、階下へ降りて行った。
「やっぱり油が原因やないか、おもうな。夕べ、バギオ・オイル使うて、お魚揚げたからやないかな。それがいかんかったんやねえ」
食堂で寝巻き姿のメイドと話し合っていた百合子が、卓上に置いた、ジュースの缶詰のような、直径十センチくらいのまるい油の缶を指していった。
「うちあたりは、植物性のコーン・オイル使うとるんやけど、ここのメイドのひとらは、かかりを安うあげよう、そないおもうてバギオでできる、ココナツ・オイル買うのよ。なんせ値段が三分の一やしねえ」
小寺は、なるほどと頷き、手帳を取りだし、
「救急車を頼むのは、八八〇〇五八番だったね」
とメイドに念を押して、食堂の奥にある電話の受話器を取った。
八八〇〇五八番は、救急車を備えている、マカティの消防署の電話番号である。
十分ほどして、派手な音を立てながら、横腹にAMBULANCEと赤字で書いた、白い救急車がやってきて、詰襟の白服を着た男がふたり、家に入ってきた。
「石山さん、車がきたんだが、でてこられるかね」
小寺が石山の部屋にあがり、便所のドアをノックして、そう訊ねると、
「少し落ち着きました」
そういう返事があって、便器の水を流す音がした。
小寺は、便所からでてきた石山が、顔いろこそわるいが、中高のなかなか立派な顔をした、長身で体格もいい大男なのに驚いた。嗄れた声から、なんとなく痩せた、神経質そうな小男を想像していたのである。
パジャマ姿の石山は、苦痛をおさえるように唇を噛み、片手で、腹をおさえたまま、
「荒川ベニヤから出向して参りました石山です。どうぞよろしくご指導ください」
そうしかつめらしく挨拶をして、お辞儀をした拍子におおきくよろけた。
「このさい、きみ、挨拶なんかどうでもいいよ。とにかく、今夜は手始めに病院のほうを指導するよ」
石山は、パジャマ姿、裸足に黒靴をひっかけた滑稽な姿で救急車のなかに乗りこんだが、乗りこむまえにも、
「社長の与田が、所長にくれぐれもよろしくと申しておりました」
腹をごろごろ鳴らしながら、そんなことをいって、小寺を苦笑させた。この男は、愛嬌があって、なかなかいいじゃないか、と小寺はおもった。
救急車は、アヤラ通りに面して建っている、大ホテルのような高級病院、マカティ・メディカル・センターに向ったが、深夜は裏口しか開けていないらしく、車は裏のデラローサ通りから病院に入った。
小寺夫婦は、オペル・レコードで救急車のあとをついていった。MMCと通称されるマカティ・メディカル・センターの建物は有楽町の日劇のような円筒形のビルに東京丸の内の長方形の丸ビルを継ぎたしたような建物である。
デラローサ通りから「日劇のビル」ふうの建物に折れこみ、二十メートルほどの緩い坂を上って「日劇」の一階に入ると、そこが救急病棟らしく、左手の受付けから看護婦がとびだしてきた。
一階右手の救急診察室で、やはり白い詰襟姿の英語のきわめて流暢な、宿直の医者が診察してくれたが、この医者はすぐに看護婦に命じて、白い錠剤を持ってこさせた。錠剤を嚥《の》むと、石山の胃痛と胸苦しさはふいに嘘のようにおさまった。
石山が、どうにか人心地ついた感じで、診察台に横になっていると、
「痛みはおさまっても、下痢《ボウエル》は暫く続くでしょうから、二、三日入院して貰ったら、どうですか」
白い詰襟の若い医者は、そう勧め、小寺が、
「そうさせていただきましょう」
と答えているのが石山の耳に入ってきた。
結局、石山は、日劇に似た、円筒形のほうのビルに入院することになった。
ミニスカートの看護婦が、石山の脇を支えてくれてエレベーターに乗ったが、だいたいがおそろしく清潔な病院で、床などは顔が映りそうに光っていて、塵ひとつ落ちていない。石山は、母親が入院していた白鬚橋の病院の、がらくたじみたボール箱が積んであったりする、薄暗い廊下をおもいだして、これが開発途上国の病院か、と不思議な気がした。
七階の病室がまたおおきくて、ホテルの大型のツインの部屋にベッドをひとつ、ぽんと放りこんだ感じであった。便所もついている、という。
「これはひろいし、明るくていいや。私が代りに入院したいくらいだ」
小寺は、部屋を見まわしていった。
壁紙がいかにもフィリッピンふうで、うすい黄いろの地に、ピンクやうすいオレンジいろの大輪のダリヤの花がいくつも描きだしてある。
「だけどえろう冷房がきいてるねえ。石山さん、お腹がようなったら、次は風邪にやられるのと違う? そんなことにならへんように気いつけてね」
百合子はいって、冷房がきき過ぎるためだろう、白いスウェーターを着ている看護婦に石山の毛布をもう一枚増やすように頼んでいる。
「お医者も、油か水にあたった歓迎下痢症《ウエルカム・ボウエル》だろう、といっていたよ。ここにやってくる外人の七割前後がやられる、入国《ビ》査証《ザ》みたいなもんでね。どうせ査証とらなくちゃならないなら、早いほうがいいですよ。まあ、気を遣わずにゆっくり休んでください」
また明日くるから、と小寺はいって、夫婦は、帰って行った。
──おれとしたことが、情ない。着いた夜に腹こわして、顔も知らない所長の世話になるなんて、鴻田の駐在員たちに顔向けできない。
広い病室の真中で、石山は屈辱感にまみれて、溜息をついた。
白いスウェーターを着た看護婦が、「寒い、寒い」といいながら部屋に入ってきて、割烹着《かつぽうぎ》のお化けのような筒袖の入院服に着かえさせてくれ、毛布も一枚増やしてくれた。
それからも数度、部屋についている便所に通い、やっと枕もとのスタンドをつけたまま、うとうとすると、壁紙に描いた大輪のダリヤが他人の顔のように、あるいはおおきな果実のようにうす闇にいくつも浮きあがって迫ってくる。ときにそれが黒檀の拍子木を叩く母親の顔になったり、フランク・佐藤が立て続けに口に放りこんだ梅干しになったりした。
──梅干しは腹にいいそうだが、やはり佐藤さんのように沢山食っとく手だったかな。少くとも、食事の直後におふくろがよくやるように梅肉エキスを舐《な》めとけばよかった。
夢うつつの状態で、石山はそんなことをおもった。
翌朝、小寺が出勤の途中で、七階の病室に立ち寄ってみると、石山は、フィリッピン人の看護婦に躰をアルコールで拭いて貰っていた。
「ゆうべは、たいへんご迷惑をおかけしました」
石山は、無理して躰を起そうとして、看護婦に「ノオ、ノオ」と制されて、仕かたなくまた横になった。
「下痢のほうは、明けがたにはおさまったんですが、熱が八度ばかりでたようなんです」
石山は火照《ほて》った顔をして説明した。
「こちらでは、こんなやりかたで熱を下げるんですね。いやあ、万事初体験で驚いています」
なかなか美人の看護婦は、「RUBBING・ALCOHOL、FAMILY BRAND」と書いた、洗剤かシャンプーの容器のような、みどりいろの小型のポリパックから、アルコールを手に振りかけ、それを入院服の下の石山の躰に塗ってゆく。冷房が強いので、裸にしないのだろう。
上半身を塗り終ると、乾いたタオルでアルコールを拭き取った。アルコールが気化する際の気化熱を利用して、体温を下げる、解熱療法の一種らしい。
「なんだかお楽しみの邪魔をしているような感じがしないでもないな」
看護婦が入院服の腿のあたりに手を入れてアルコールを塗り始めたところで、小寺は笑いながらいった。
「いやあ、今朝方から二度目ですが、照れくさくていけません」
石山が赤い顔をしているのは、熱のせいばかりではないらしかった。
「夕方、またきますよ。ゆっくり休んでください」
アヤラ通りにある事務所に着くと、小寺は、書類を読んでいるフランクの傍にゆき、石山のために用意したデスクの椅子をひっぱってきて、すわりこんだ。
「フランク君、ゆうべはちょっとした騒ぎだったよ」
そういって、手短に石山をマカティ・メディカル・センターに入院させた経過を説明した。
「いやあ、参ったなあ」
フランクは大袈裟に顔をしかめて、頭のてっぺんを掌で叩いた。
「あの躰ですからね、ココ椰子の料理食べたってなんてことないとおもったんですよ。自分の不注意でえらいご迷惑をおかけしました。申しわけありません」
フランクは真顔になり、椅子から立ち上って頭を下げた。
「自分もあとで様子をみにゆきますが、いや、失敗しました」
──この男の率直さは、日本人そのものじゃないか。
小寺は、そうおもいながら、「まあ、すわれよ」と立ったままのフランクに椅子を指差して、
「フランク君、あんまり気にすることはないよ。当人にもいったんだが、要するにあの病気は入国《ビ》査証《ザ》みたいなもんで、査証は早く取っちまったほうがいいんだ。この私なんか、ここへきたてにアミーバ赤痢やって、一週間休んだんだからね」
そう取りなした。
6
小寺が所長室に入ろうとすると、入口にすわっている秘書のフェイ・スワコが、
「上院議員のアマデオ・ミランダというかたの秘書から電話がありました。折り返しお電話をいただきたいそうです」
という。 早速、フェイに電話を入れて貰うと、すぐに「ハッロオ」という、アマデオのおおきな声が聞えてきた。
先日、依頼のあったルソン材の伐採権《コンセツシヨン》のオーナーがひとりみつかった、紹介したいので、都合がよければ、今日の午後にでも議員会館のほうにきてくれないか、先方は午後二時過ぎが都合がいいそうだ、という。ありがたい話だから、小寺は昂奮気味で、即座に承諾した。
午後二時、小寺は、フランクと一緒に所長車のベンツに乗り、マニラの中心部にあるスペイン統治時代の古い城塞町、イントラムーロスの外側、ブルゴス通りに面して建てられている国会議事堂を訪れた。
マカティ地区に建ちならぶビルディングが、ほかの東南アジアの都市のビルディングと一味違う外観を誇示しているごとく、フィリッピン人は、垢抜けたデザイン感覚を持っていて、随所に美しい建築物が見られるが、この国会議事堂も例外ではない。ふとい柱の建ちならぶ正面玄関から左右に両翼を張りだした白亜の建物は、なかなかの威圧感を与える。
しかし車を降りて、正面の石段を二、三十段昇ってゆくあたりには、さまざまなシャツ姿の、議員の私設秘書が大勢たむろしていて、突然、雑然たる、アジア的な感じになった。
制服を着たガードが電話で問い合わせて許可をくれ、小寺とフランクは一階の廊下右手にあるミランダ議員の個室に向った。
どうやらこの建物は、国会議事堂と議員会館を兼ねていて、一階にならんでいる議員の個室の奥が、議事堂になっているらしい。きれいな外観に反して、議事堂のなかはかなり荒れていて、壁には雨もりのしみや、ひび割れが目立った。
ミランダ議員の個室のドアをノックすると、混血度の高い秘書がドアを開いてふたりを招じ入れた。
個室の内部は、二階造りになっていて、左手に階段がある。ミランダは、一階の衝立《ついた》ての奥を来客用の応接室にあて、二階は、本棚が顔をのぞかせているところをみると、書斎にでも使っているらしかった。
一階の応接室の壁には、選挙用なのだろう、横長のポスターが貼ってある。全上院議員の小さい顔写真を真中に、右にマルコス大統領、左にミランダ議員のおおきな写真が刷りこんであった。その横にはマルコス大統領とならんで写っているミランダ議員の写真が額に入れて飾ってある。
すぐに階段をぎしぎしいわせて、二階の書斎から、ふとい黒縁の眼鏡をかけた、学者ふうな容貌のアマデオが姿を現わした。ここでは略式とされる半袖のバロン・タガログを着ている。
「ミスタ・オデラ」
アマデオは小寺の手を強く握り、小寺はフランクを紹介した。
「これからやってきます男はね、ルソン島の東海岸にかなりの伐採権《コンセツシヨン》を持っている男でしてね。これまではもっぱらアメリカやヨーロッパの業者と取引きをしてきた人物です。まだ手つかずの土地をいくつか持っているようですが、道路も海岸からかなりのところまで通じているし、トラックやブルドーザーも手持ちがあるようです。まあ、道をつけたり、車輛を用意したりする資金は要らない、とおもうんですがね」
アマデオは、ときどきふとい縁の眼鏡を押しあげながら、説明した。
「これはありがたいお話ですな」
「それにしてもね」
アマデオは、言葉を切って、ふとい指で鼻を撫でた。
「小寺さん、ラワンはフィリッピンの国そのもののような木だとおもわれませんか。生命力がさほど強くないから、ある時点まで灌木の庇護を受けないと、ひとり立ちできないんですよ」
ラワンは、フィリッピンの宿命を、象徴するような樹木だ、とアマデオはいうのである。
ラワンというのは、植林が不可能で、自然成育を待つより方法がない樹木であった。ある樹齢に達するまでは、深い灌木や茂みに庇護されないと生育しない。
この灌木に庇護されたのち、灌木を突き破るかたちで、ラワンの木は天に向って伸びてゆく。こういう特殊な樹木であるために、何回も試みられた植林も、成功例は皆無であった。
「たしかにラワンは植林がきかないから、いったん伐ってしまうと、あと二百年、三百年待たないと成木にならないようですね。おまけにラワンを伐りだせば、山も荒れるでしょうし」
巨木のラワン一本を伐りだすために、周辺の灌木も伐り払わねばならないから、どうしても山は荒れてしまい、場合によっては禿山ができてしまう。
「まあ、上院議員としての立場からいえば、おなじ商売は商売でもラワンの木を買っていただくより、橋や道路を作っていただくほうがありがたいんですがね。つまりなにかこの国に残るようなかたちでの商売ですよ」
アマデオは、躰を乗りだしていった。
「お客さまがお見えです」
秘書が口をはさみ、小寺とフランクが入口をみると、五十代のフィリッピン人が立っていた。
首を左へ曲げて立っていて、その曲げかたが、人形の首がまがったような、妙に不自然な印象を与える男である。
首の曲った男は、親しげにアマデオと握手をしてから、ソファから立ちあがった小寺とフランクのほうに向きなおった。
左の方に十度か十五度くらい傾《かし》いだ首は、そのまま固定されてしまったぐあいで、動かすこともできないらしく、躰と一緒に向きを変える感じである。
──昨夜、首を寝違えたのかな。
フランクは、最初そう考えた。
しかし首を寝違えたのであれば、アマデオが「首をどうした」と訊ねる筈であり、あるいは、男のほうから「首を寝違えてね」という類いの説明がある筈であった。
「このひとが、ルソンの東海岸に伐採権《コンセツシヨン》を持っているミスタ・オノフレ・マーパです」
アマデオは、英語でいって、フランクと小寺を首のまがっている男にひきあわせた。
「お目にかかれて嬉しいです」
オノフレ・マーパは、詩人や画家がよくやるように半白の頭髪を両耳や首筋が隠れるほど長く伸ばしている。眉毛も濃いというよりは、いわゆるげじげじ眉毛で、長い毛が繁っている、という感じであった。
眼もおおきく、鷲型の鼻も高い。
初めて日本人との商談にのぞむためだろう、口もとにうかべた微笑がいくぶんぎこちなく、緊張に表情が強張《こわば》っている感じであった。
一同、アマデオに勧められて、応接セットにすわったが、アマデオは、
「オノフレの親父さんは、もともと金山を経営していたんだが、彼自身は親父さんの遺産を活用して、フィリッピン、おもにルソンのあちこちに伐採権を買い占めましてね、専ら木材の輸出の仕事をヨーロッパ相手にやっているんですよ。ヨーロッパも主にイギリスを取引相手にしているようです」
と説明した。
イギリスが、赤ラワンを好むのは、外材輸入がアフリカ産原木から始まったため、といわれる。アフリカ産原木の輸入は、木口の赤いマホガニー材を中心として行われ、以来、木口の赤い材の輸入志向が定着したのだという。
「ヨーロッパ向けは、恐らく家具用の木材が中心ということになりましょうが、私どもの場合は、建築材料のコンクリート・パネル用の木材を買い付けたいわけでしてね。材質も自ずと違うでしょうし、伐りだす寸法もイギリス流のフィートに対して、日本独特の尺貫法で、これもかなり違うとおもうんです。しかし、私たちとしては、日本の業者が今まで手を着けなかったルソンの赤ラワンの商売をなんとか軌道に乗せたい、とおもってるんですよ」
小寺は穏やかな微笑をたたえながら、赤ラワン材の取引きに対する熱意を強調した。
オノフレは、首をまげたまま、じっと小寺の顔をみつめていたが、膝にのせていた皮の鞄から、右手だけを使って数葉の書類を取りだした。
左手が自由に動かない感じで、フランクは、おや、と思った。
「私があなたがたにおすすめしたいのは、ルソンの東海岸、ディビラカンの先きにある、ディビラヌエバのコンセッションです」
女のように細い、優しい声でいった。
「これがケソンの|林 野 庁《フオレスト・ビユーロー》の発行した、伐採権《コンセツシヨン》の認可証《ライセンス》のコピーです」
月曜会議でフランクが説明したように、フィリッピンの森林は、原則的に国有地とされ、山林の伐採権の取得のみが許されるが、設定された伐採権については、フィリッピンの林野庁が、いちいち測量をして、認可証を与えるのである。
オノフレが差しだした認可証には、「上記、権利者所有の伐採権対象地は、東経百二十二度十六分より二十三分、北緯十七度三十九分より五十一分に至る間の三万ヘクタール。東はディビラヌエバのルソン島東海岸、西はシェラマードレ山脈の支脈、クスコ山中、ブランコ川を境界線とする」というぐあいに、伐採権の所在地が詳細に述べられている。
三万ヘクタールのうち、|森 林 部 分《フオレステツド・エーリア》は二万五千ヘクタールと記されているところをみると、森林部分が相当に多い、と考えてよさそうであった。あとの五千ヘクタールは砂浜や川、あるいは焼畑のあと地などであろう。
「これが、コンセッションの土地に生えている、木材の種類です」
もう一枚の書類には、赤ラワンを筆頭に、マヤピス、アルモン、バクチカンといった製材用の材木の種類が書きだされ、赤ラワンの蓄積量は、おおよそ二百五十万立方メートルと記されている。
「二万五千ヘクタールの土地に二百五十万立方メートルの赤ラワンが生えている、というのは、一ヘクタールあたり、百立方ということだね」
小寺がフランクに日本語で確かめた。
フランクは、空中で算盤《そろばん》をはじく手つきをやってみせて、
「そうですね。条件のいいミンダナオ島の場合、ラワンのヴォリュームは一ヘクタールあたり百二十立方、といわれておりますからね、百立方というのは、ミンダナオよりは、材が少い、ということでしょうが、当然、多少は吹っかけているだろうから、まあ、八十から百の間といったところじゃないですか」
と答えた。
一ヘクタールは一町二十五歩、一万平方メートル、約三千三十坪に相当する。一方、一本のラワンから取れる木材の量は、平均十立方メートル前後だから、この土地には、三千三十坪あたりおよそ十本のラワンが生えている勘定になる。
二万五千ヘクタールといえば、約七千五、六百万坪、そこに約二十五万本のラワンが生えている、という計算になりそうであった。
「|伐りだし作業《オペレーシヨン》も、ミスタ・マーパがおやりになるんですか」
フランクは、戦争直後、父親の働くクラーク・フィールド米軍基地で覚えた、きれいなアメリカ訛りの英語で訊ねた。
コンセッション・オーナーが、材を売ることに同意しても、今度はこの材を伐りだし、海岸まで運んで、船に積む業者が必要になる。フィリッピンの業界では、この伐採権の所有者と伐採兼運搬業者とは別の人間であることが多かった。
オノフレは頷いて、別の書類をみせた。そこには、オノフレの所有している、ブルドーザーやトラックなどの数量が記してある。
「フォードのコマーシャル・トラックと書いてあるが、これは何年製の車ですか」
「それは、古い。GIトラックというやつだが、まだまだ充分動きますよ」
首の曲った男は、相変らず細い、女のように優しい声で答える。
「|伐りだし作業《オペレーシヨン》には、少し問題がありそうですな。GIトラックというのは、米軍の古トラックで、あのオンボロ車じゃ、故障が続出しますわね。それに小松製作所のブルを使っている点も、ちょっと恐いですね」
フランクは、日本語で、小寺に囁いた。
この時点では、小松製作所は米国のキャタピラ社あたりに比較すると、まだフィリッピン全島にネットワークを張るに至っておらず、部品供給に難があった。
「まあ、一度、東海岸に飛んで、|現地 調査《グラウンド・サーベイ》をやってみられたほうがいいでしょうな」
アマデオが口をはさんだ。
「そのうえで話を詰めたほうがいいんじゃないかな。オノフレ、一度、鴻田貿易の皆さんをお招きしなくちゃいかんよ」
そこで再会を約して、小寺とフランクは立ちあがったのだが、ふたりが立ちあがって、ドアを開けたとき、背後でオノフレが、
「|この連中は、ちゃんと金を持っているんだろうな《シラ・カヤ・アイ・メイロオン・バ・アン・バヤツド》」
オノフレが早口のタガログ語で、アマデオに訊ねているのが聞えた。名刺も渡さず、一度もタガログ語を使わなかったので、ふたりともフランクを日本生れの日本人と信じているふうであった。
「|ちゃんとした大企業に働いているひとたちだよ《シラ・アイ・ナダタラバーホ・サ・マラキン・コンパニア》。|役所に問い合わせて、日本での信用度を調べてある《ナグパチエチエツク・サ・ジヤパン・クン・メイ・カテイワラアン》」
アマデオが答えている。
「|それと《バグカタポス》」
上体をまわして、こちらを睨むように眼を光らせて、
「この連中は、|戦争中 の 日本人《ハポン・ノン・バナホン・ナン・ゲーラ》とは違う種類の日本人なんだろうな」
そう訊ねていた。
「|戦 争 中 の 日 本 人《マガ・ハポン・ノオン・バナホン・ナン・ゲーラ》なんか、どこを探してもいやしないよ、オノフレ。戦争は人間を変えるんだ」
この会話自体は、日本人と初めて商売をするフィリッピン人がよく交わしそうなやりとりで、格別珍しくはない。
──戦争中の日本人なんか、どこを探してもいやしない、ときたか。
この言葉に妙に胸を打たれて、フランクは部屋をでた。
「いかん。名刺を貰っていなかったな」
国会議事堂兼議員会館の廊下で、小寺は改めてオノフレに名刺を差しだした。首がまがって動かないオノフレは、いかにも窮屈そうな姿勢で、左手の肘《ひじ》のあたりにかかえこんだ鞄を右手で探って、名刺をとりだした。
どうやら、オノフレの左手、とくに左手の指は首同様に自由がきかないようで、ちょうど鷲の爪が岩を掴んでいる感じで、先端がそろって内側にまがっている。まがった指はむなしく空をつかんで、寒空に張りだした枯れ枝のように震えていた。
フランクは、その手の状態に圧迫感を覚えながら、名刺はとりださず、
「佐藤といいます」
英語でそう名乗るに止めた。
なんとなく、フィリッピン名の入った名刺を、この首の曲った、手の不自由な男に渡すのがはばかられたのである。男のこちらをじっとみつめるうるんだような眼や、容貌と裏腹な細い優しい声が、フランクの胸のなかで警鐘を鳴らし始めていた。
所長車の、白いベンツに乗ると、
「フランク君、この話は買い≠フ感触のような気がするが、きみはどうおもうかね」
助手席に乗った小寺は、後ろに向き直るようにすわって、フランクにいった。
「この土地のラワンは伐り尽したと信じこんで、日本のバイヤーがマレーシアやインドネシアに転進し始めているときに、二十五万本のコンセッションを売ってくれる、というんだぜ。二十五万本といえばね、船を配船したって、相当なことになる。六千トンの船でも、千本くらいしか積めないからね。つまり、約二百五十パイ、配船して貰わなくちゃならないことになるんだ」
米材買付けの経験を積んでいる小寺は、そう喋りながら、昂奮に顔を赤くしていた。
「本社木材部というより、石山君のところの社長のアイデアがよかったんだよ。ルソンの赤ラワンに眼をつけたのが成功だったんだ」
小寺の一途な昂奮ぶりには、他人を共感にひきずりこまずにはおかないようなところがあった。
「フランク君、あのミランダという上院議員も、感じのいい、信頼できそうな男だろう」
細君同士の交際がきっかけになったとはいえ、所長の自分が走りまわって、この話をひっぱりだしてきたことに、小寺は得意そうで、その得意顔をそのまま、飾らずにさらけだしてしまうところに、小寺の魅力があった。
「自分の父親なんかは、日本に長く暮していたせいか、貧乏なくせに律義でね、例外的な人でしたけど、この国では、一般的にいって、残念ながらお金があればあるほど、地位が高ければ高くなるほど信頼できる人が多くなる、といえるんじゃないでしょうかね」
フランクは、言葉を選び選び、そういった。
「この商品の問題は、|伐りだし作業《オペレーシヨン》でしょうね。コンセッションの土地が海に接していて、|運 搬 距 離《ハウリング・デイスタンス》は短いようですが、オンボロGIトラックを使われたんじゃ話になりませんよ」
「これも私の耳学問だが、こういう場合には大抵、エージェントを、それも華僑のエージェントを絡《から》ますんだろう。華僑をエージェントに指定して、それにオペレーションをまかせるのが、ふつうのようじゃないか」
華僑との相剋を抜きにしては東南アジア諸国の歴史を語れないほど、華僑の存在は、東南アジア各国の頭痛の種になってきたが、これはむろん華僑の商才の有能ぶりを示す反証に過ぎない。
華僑には、すさまじいまでの商魂があり、ときに放埓《ほうらつ》に流れる現地の業者を監督して、納期、納品の約束を着実に履行させる。焦げつき債権にしても仮借なく取りたてるから、現地業者も、華僑との商談に対しては自ずと忠実になる。日本の進出企業にとっても、華僑はまことに頼り甲斐のあるエージェントで保険会社的役割りをしばしば演じてきたのであった。
「華僑を代理店として絡ませて、オペレーションを頼むか、オペレーションは、コンセッション・オーナーにまかせて、車輛を華僑に売りこませて、現地まで運ばせるか、この辺は考えどころかもしれませんね」
そう答えながら、フランクは、幼な友達のホベンチーノの顔をおもいうかべていた。
翌朝、ひと仕事終えたフランクが、昼近く、マカティ・メディカル・センターの七階に石山を見舞うと、病室から小寺と石山当人が看護婦と一緒にでてくるところであった。
「佐藤さん、ご心配をおかけしました」
石山は、ぴかぴかに磨いた床のうえで、例の運動部員が先輩に接するときのような、しゃちほこばった態度で、挨拶をした。
小寺が持ってきたのだろう、割烹着《かつぽうぎ》ふうの入院服のうえに派手なアメリカ製らしいグリーンのタオル地のガウンを着こみ、入院したときとおなじように、素足に短靴をひっかけている。
「どうした。もう直ったの、石山さん」
フランクが訊ねると、
「いや、熱が下ったというので、昨夜からもうフィリッピンのパサパサめしがでているらしいんだが、やっぱり梅干しにおかゆ、の日本式病人食が恋しかろう、とおもってね、ワイフと相談して、私の家にひきとることにしたんだ」
小寺が、石山に代って、そう説明した。
腸チフス、コレラの類いではないので、病院側も同意してくれて、退院することになったのだ、という。
「そりゃあ、よかったですね」
フランクは、笑いながら、
「きみを病気にした責任は自分にもあるんだけど、しかし、きみも病気用の梅干しをあらかじめ用意して、マニラにやってきたりして、手まわしがよかったね」
といった。
石山は、青白い顔を赤くして、縮れた髪の頭を掻いた。
「それにしても所長は面倒見のいいかたですな」
フランクは心底感心してそういった。
出向社員の石山の面倒をみたところで、「親切な男」という評判を社内で獲ち得る種にはならないし、将来一緒に働くこともないから、恩情の先行投資にもならない。その男を朝夕見舞った挙句に自宅に引きとるというのである。
入院したときは、裏口の救急病棟だったが、今日は、ホテルのように車寄せが三階の玄関に向って、せりあがっている正門の方にでた。玄関には、ベンツやマーキュリー、フォードLTDといった、高級車がアヤラ通りから入ってきたり、出ていったりしている。
フランクは、
「ところで所長、心あたりの華僑の知り合いがいるんですがね、車輛のことをあたってみて、かまいませんか」
小寺に訊ねた。
「昨日、今日と、例の丸太の商売について考えてみたんですが、華僑を連れてきて、オペレーションやらせたりすると、オノフレは顔をつぶされた、そう受けとるんじゃないかとおもうんですよ。この際、オペレーションはまかせてしまって、車だけ、ちゃんとしたのをこちらから持ちこんで買わせたらどうですかね。相手にまかせっ放しにすると、ちゃんとした車を買わない恐れがあるから、しっかりした業者に現地まで運んで、納品して貰うんです」
「なるほど」
と小寺は、熱い陽差しの下で腕を組んだ。現地社員が「知り合いの業者」に話を繋《つな》ぐ、などといいだせば、歴代の所長は戸惑った顔、疑い深い顔をみせるのがふつうであった。
つまり現地社員が知り合いの業者に商売を与えて、ひそかに口銭《こうせん》を取るのではないか、と疑うのである。
しかし小寺は、そんな表情を露ほどもみせずに、
「そうだな。この国じゃ、顔を立てることが大事なんだよな。フランク君のいう線で話を進めてくれよ」
明るくいって、彼方に停っているベンツのほうに、いかにもアメリカ生活体験者らしく、自由の女神のように高く手を挙げて合図した。
すぐに所長車がすべりこんできて、運転手がドアを開けた。小寺は、石山を抱きかかえるようにして車にのせると、こちらを振り返って、人なつっこく、手をひらひらと振ってみせた。
フランクはいすゞ・ベレットを裏のデラローサ通りに停めてきたので、病院の玄関に入り直しながら、
──馬場少尉もあんなふうに手を挙げたっけな。
ふとおもった。あれは昭和十八年の春、浩が日本人小学校六年に進級したばかりの頃のことではなかったか。
当時、マニラの銀座通りと呼ばれていたエスコルタ通りを、親友の白坂と歩いていたとき、道路の向う側の歩道で、
「おおい、ひろし」
軍刀を吊った軍服姿の馬場少尉が、佐藤少年を大声で呼び、先刻の小寺のように手をおおきく挙げて、「おいで、おいで」をしてみせた。
「馬場さんじゃないか。馬場少尉じゃないか」
浩は驚いて叫んだものだ。
馬場少尉は、マニラ入城後、一週間に二度も三度も、浩の家に遊びにきた。玄関に入ってくるときの彼のせりふはいつもきまっていた。
「お母さん、また|日本の《ハポン》風呂をお願いしますよ」
必ずそういって、入ってくる。
当時、マニラの日本人経営のバザールでは、日本から輸入した木の風呂桶を売っていて、日本人の家庭は皆、それを使っていた。浩の家も例外ではなかったのである。
しかし馬場少尉は、昭和十七年早々に、東京、中野の憲兵学校の教官を命じられた、といって、内地に帰って行ったのであった。
その馬場少尉が、一年経った今、エスコルタ通りの向う側に立って、浩を手招きしているのであった。
少尉はひどくなつかしいらしく、道路を横断して、こちらにやってこようとする。浩は白坂を放りだして駆けだし、エスコルタ通りの真中で、馬場少尉と再会した。
「元気か、浩」
馬場少尉は、少年のように顔を昂奮に赤くして、浩の肩を叩いた。
「おれはな、昨夜遅く内地から着いたんだよ」
「いつまで、マニラにいるんですか」
「ずっといるよ。おれはマニラに帰りたくてな、あっちこっち頭下げて、やっと帰して貰ったんだよ」
相手が子どもなので気を許しているのか、そんなことをいう。
「お母さん、お元気か。お母さんにも、浩にもどっさり土産を持ってきたからな。明日、遊びにゆくぞ」
といい、ふたりをエスコルタ通りの下士官以上しか出入りできない、軍直営の食堂「日の丸陣屋」に連れて行ってくれた。
汁粉を食いながら、浩は、
「馬場さん、星が増えたじゃないの。中尉になったんだね」
大声でいって、馬場を照れさせたものであった。
フランクは、早速、ホベンチーノ・チャンに電話を入れて、翌日、午前十一時のアポイントメントを取った。
ホベンチーノは、フィリッピン・ディベロップメントという商社をやっており、パデレス・ストリートの古いビルの五階に事務所をかまえている。
正十一時に、フランクは、フィリッピン・ディベロップメントの事務所のドアを押した。
一般のフィリッピン人と違って、分の単位で時間を正確に守るのが、日本人の血を分けたフランクのいわば誇りになっている。
中国系の社員二、三名、フィリッピン系の社員六、七名が働いている大部屋を抜けて、隣接する社長室に近づくと、部屋の手前にデスクを置いた中国系の秘書がすぐに立ちあがって、フランクを社長室に招じ入れた。
朝の仕事が一段落したところらしく、夏の青空のような鮮やかないろに塗りあげた壁の前で、ホベンチーノは、マニラで発行されている中国語の日刊紙「華僑商報」を拡げていた。
「あんたが|中国語の 新聞《ジヤリオ・ナン・インチツク》を読めるとは知らなかったな。|漢字の 数《アータ・アン・レドラ》をかぞえているだけじゃないの」
フランクは、タガログ語でそういって、新聞の向う側のホベンチーノをからかった。
ホベンチーノは、フランク同様、マニラ育ちで、トンドの現地小学校、中学校を卒業しており、中国語の正規教育を受けていない。
フランクが日本人小学校高等科まで進み、歯切れのいい東京ふうの日本語を喋り、読み書きについても、ある程度の能力を維持しているのに比較すると、ホベンチーノの中国語は、かなり危なっかしく、中国語の新聞をちゃんと読みこなせるのかどうか、怪しいものであった。
ホベンチーノは、眼の前にかかげた新聞をおろし、フランクの顔をみとめて、
「中国語の新聞くらい、おれだって読めるよ」
むっとしたような、赤い顔をして、低い声でいった。
「どうした、ヒロシ。女《ババーエ》との仲がこじれて、おれに間《あいだ》をとりもってくれ、とでもいう話か」
部屋の真中に置いた応接セットに向い合ってすわりながら、からかわれた腹いせか、ホベンチーノは、そう訊ねた。
「そんな、のんびりした話《ウサバン》じゃないんだな。じつは、今度、木材担当に替ってな、ルソンのラワン材を買いつけることになったんだ」
すぐにまじめな顔に戻ったホベンチーノに向って、フランクは、上院議員、アマデオ・ミランダの紹介で、オノフレ・マーパという男から、ルソン島、東海岸ディビラヌエバの伐採権《コンセツシヨン》につき、オッファーを受けていること、これが|林 野 庁《フオレスト・ビユーロー》の書類によると、かなり優良なコンセッションらしいこと、ただしブルドーザーやトラックなど、コンセッション・オーナー所有の運搬機器が老朽化し、この機器を使ったのでは、丸太のスムーズな搬出が期待できそうにないことなどを話した。
「ホベンチーノ、ものは相談だが、あんたのところで、トラックやブルを買って、このコンセッション・オーナーに貸しつけて貰えないものかな。あんたのところは、今じゃ|なんでも屋《サリサリ・ストア》≠ネんだろう」
父親が中国食糧品店を経営していたホベンチーノは、自分の代になると、小売り店は止め、食糧品中心の商社、問屋業を営むようになったが、昨今では、機械や車輛、化学製品など、ほとんどの品物を扱って、小型「総合商社」の趣きを呈している。
「トラックやブルを買って貸しつけるなんて話は、手間がかかって、面倒だわな。上限三十万ドルまで、おれがそのコンセッション・オーナーに貸しつけるから、その金でトラックやブルを買わせたら、どうだ。担保はトラックやブル、一年間に四回、クォータリイ・ベースの支払いで、三年間延べ払い、利子は九パーセントというところだろうな。ただし、絶対条件は」
ホベンチーノは、おおきな目玉を剥き、人差し指をフランクの胸につきつけた。
「あんたの会社、つまり鴻田貿易が、貸付け金について連帯保証してくれることだ」
「なるほど」
フランクは、微笑をうかべて呟いた。
「しかし金を貸すと、相手が、ほかの用途にその金を使っちまって、トラックやブルを買わないんじゃないのかな。こっちとしてはそれが恐いんだよ」
この国の商人のなかには、ひどい見栄っぱりの、しかも底抜けに楽天家の連中が少くなくて、ひとたび金を手にすると、明日のめしの心配など、どこ吹く風で、その金で家を建てたり、海外旅行に出かけたりしてしまうのがいる。
日本商社が金を融資すると、途端に家を新築し、おまけにその家が、ドアのノブまで金張りの輸入物を使った豪華絢爛をきわめたもので、庭にゴルフのショート・アプローチの練習コースがあったりする。しかも平然としてその家に、融資した商社の所長を招待する、という噂も耳に入っていた。
もっとも、あの首のまがった、柔らかな、優しい声で話しかける男オノフレは、こうした見栄っぱりの、楽天家とは、およそ違うタイプの人間のようではあった。
「そういう連中の扱いは、慣れているがね」
ホベンチーノはにやりと笑った。
「その点は歯どめをかけるとしよう。納品の確認を条件に金を貸すとかな。念のための話だが、そのコンセッションは、海に近いんだろうな。山の奥じゃ差しおさえにゆかれんからね。まあ、日本の会社が連帯保証してくれるんなら、おれのほうはあとのことは、どうでもいいんだがね」
ホベンチーノは、両手を拡げていい、上機嫌に笑った。それから、真顔になって、
「しかしヒロシ、水臭いじゃないか。丸太の商売始めたんなら、おれにひとこと囁《ささや》いてくれてもよかったんじゃないか。おれは、この頃、丸太も手がけているんだよ」
ギョロ目をむいて、そんなことをいった。
「丸太まで手がけているとは知らなかったな。まさに|なんでも屋《サリサリ・ストア》≠カゃないか」
フランクは、さすがに呆れた顔になった。
「日本の商社の真似して、なんでも手がけなきゃ食って行けんよ」
ホベンチーノは、おおきな顔をわざとらしくしかめ、頭を掻いてみせた。
「しかし、あんたとの交際《つきあ》いも、餓鬼の頃から始まって、三十年にもなるが、|商 売《ハナツプブハイ》の話を持ちこまれたのは、これが初めてじゃないか」
考えてみれば、ホベンチーノとの交際《つきあ》いは、戦前、戦時中、戦後とすでに三十年の歳月を閲《けみ》している。
7
佐藤浩が、中尉に進級してマニラに戻ってきた馬場に会いに、旧マニラ城塞町、イントラムーロスの「比島憲兵隊司令部」に赴いたのは、昭和十八年の中頃、日本人小学校六年、二学期のことだったと記憶している。
エスコルタ通りで、馬場中尉に呼び止められ、親友の白坂とふたりして、「日の丸陣屋」で汁粉をご馳走になった、その直後のことであったような気がする。
浩は、その日、学校の真裏にある家で、馬場中尉が「弟から取りあげてきた」といって、内地から十冊ほど運んできてくれた「少年倶楽部」を読んでいた。戦時の少年たちが「少倶」と愛称した「少年倶楽部」が久かたぶりに手に入って、浩は嬉しさのあまり、毎晩ベッドの枕もとに置いて寝たものだった。その日も、早く「少倶」を読みたくて、日頃の悪戯仲間たちを見向きもせず、一目散に帰宅したのであった。
比島憲兵隊司令部勤務となった馬場中尉は、浩に「少年倶楽部」、一家には出身地岡崎の八丁味噌と日本酒を携えて浩の家に挨拶にきて、その後はまたマニラ入城当時とおなじように頻繁に出入りし始めた。
ただ、以前は「お母さん、日本《ハポン》のお風呂、お風呂」といって玄関を入ってきたものだったが、最近では、
「お母さん、今夜もハポンくさいものを食わせてくださいよ」
そういって入ってくるようになった。
そのあとに続く中尉のせりふは、二十七年後の今日、鴻田貿易の独身寮に暮す連中のいうこととまるで変らない。
「憲兵隊司令部の二階に食堂があるんですが、毎日毎日、玉ねぎだの、かぼちゃだの、野菜の天ぷらばかりだしよるんですよ。しかもそれが、ココナツ・オイルで揚げたやつで、臭いがもう鼻についてね、夢のなかにまで臭ってきましてね」
憲兵隊のなかまで食糧難が兆し始めていた。
浩の父親ルイスは、ギンバで、馬場中尉と一緒に訪ねてきた、比島野戦貨物廠の一〇六八二部隊に請われて、軍属となり、比島派遣軍の食糧、日用雑貨、医薬品などの調達と確保にあたっていたから、自然、食糧も手に入りやすく、油も高級品の植物油を使っていた。
「中尉殿、今夜の食事の材料調達については、オメコボシ願いますよ」
父親は、ふざけて、妙なアクセントの日本語でいい、馬場中尉は、伸ばしかけの頭を掻いていた。陸軍でも、憲兵は、情報収集などにあたる職務の必要上から、頭髪を伸ばすことが許されていたのである。
学校から帰った浩は、二階の子どもたちの部屋で、昭和十六年から十七年にかけて、「少年倶楽部」に連載され、小中学生に人気のあった、海野十三原作、樺島勝一挿画の科学冒険小説、「怪鳥艇」をもう一度読み返していた。
この小説は、夜のマニラ港から、物語が始まることもあって、何度読んでも飽きないのだが、ふいに階下で「さとおくん」と呼ぶ声がした。聞き慣れた悪童仲間の白坂の声であった。
気乗りせずに階下に降りたが、白坂は、ふだんと違って、浮かぬ顔で玄関口に立っており、浩の顔を正面から見ようとしない。
「ちょっとそこの比島神社まできてくれよ」
落ち着かなげに、視線を地面にさまよわせて、いう。
比島神社は、当時、レパント・サンパロックの通りを本願寺からもうひとつ学校寄りに折れこんだ路地の左手にあった。歯科大学の向い側で、玉砂利を敷き詰めた一画にお稲荷さんのような小さな鳥居と社殿がある。
「どうしたんだい、おまえ、篠田先生に叱られたのか」
「そうじゃないんだよ」
白坂は、口ごもってはっきりいわない。
比島神社の周辺は、日本人学校の生徒が勤労奉仕で毎日掃き浄めるので、玉砂利には、ごみひとつ落ちていない。神社の前を通るときは、礼をするのが戦時中の習慣だったから、浩は会話を打ち切って頭を下げた。
白坂はやはり玉砂利を敷き詰めた、社殿の後ろへまわりこみながら、浩の耳もとへ口を寄せてきて、
「あのなあ、コロちゃんのお父さんが、憲兵隊に捕まっちゃったんだ」
早口に囁き、恐ろしそうに、あたりを見まわした。
社殿の後ろには、「コロちゃん」ことホベンチーノが、おおきな眼に涙をため、虚脱した顔つきで立っていて、その傍らの木に、おなじ遊び仲間の岸本美千代が背をもたせかけて、ホベンチーノの様子をじっとみつめていた。
「いったい、いつの話なんだ」
「おとといの朝、憲兵が三、四人、コロちゃんのうちにきてさ、おまえ、ゲリラに食糧、横流ししてるだろうっていうんだってさ。コロちゃんのお父さんが、違います、フィリッピンの貧乏なひとに少し分けてあげただけです、って説明したんだけど、嘘をつけってビンタ張られてね、そのまま、車に乗せられて、ひっぱられてったんだって」
白坂は、相変らず、周囲を気にするような、ひそひそ声でいう。
今日の放課後、アベニーダ・リサールの家の横で泣いているホベンチーノを、向い側の岸本写真館の娘の美千代がみつけて、泣いている理由を問い質し、白坂洋服店まで連れてきたのだ、という。
憲兵は本来的には、軍隊組織内における警察官なのであって、憲兵服務規定に記された「軍紀風紀の粛正維持」を職務とするが、野戦憲兵ともなると、これに作戦要務令に記載の「軍機の保護、間諜の検索、敵意を有する住民の抑圧」というような任務が加わって、いわゆる秘密警察のイメージがきわめて濃くなってくる。この辺が戦時少年の冒険心を駆りたてると同時に恐怖心を誘いだすゆえんであった。
昭和十八年一月のガダルカナル撤退以来、米軍の反攻が本格化し、同時にフィリッピンのゲリラやスパイ活動も激化した。比島憲兵隊の動きも激しくなって、ひとたびイントラムーロスの憲兵隊の門を入って、生きて帰った者はいない、などという噂も流れ始めている。それを知っていればこそ、ホベンチーノは、自分が大目玉から涙をこぼしているのも気づかぬほどの、虚脱状態におちいっているのである。
「佐藤、おまえ、憲兵隊の馬場中尉をよく知っているじゃないか。馬場中尉に頼んで、コロちゃんのお父さんを返して貰ってくれよ」
白坂は、真剣な眼つきをして、いった。
白坂の頭には、このあいだ、エスコルタ通りで馬場中尉に会い、「日の丸陣屋」で、汁粉をご馳走になったときの印象が、はっきり焼きついて、忘れられないらしかった。
あのとき、一年ぶりにマニラに帰ってきた馬場中尉は、昂奮気味で、内地の情勢や、ひそかに尊敬しているらしい石原莞爾という退役中将のことなどを、まるで大人を相手にしているように浩に喋った。その挙句、「おれの実家がおまえを引き受けてやるから、内地の中学に進学して、幼年学校か士官学校を受験しろ」とあおった。そうした馬場中尉との関係を目にしているものだから、白坂は浩を呼びだしたのだろう。
「佐藤君だって、戦争ごっこになると、コロちゃんを何度も斬ったり、突いたりしてきたんじゃないの。今度は、コロちゃんを助ける番よ」
美千代も、近寄ってきて、女のくせに一緒になって、生意気な口をきく。
「コロちゃん、この次に、馬場中尉がうちに遊びにきたら、おれ、頼んでやるよ」
浩は、コロちゃんの顔をなるべく見ないようにして、どぎまぎしながら、タガログ語で、そう答えた。
「この次に馬場中尉がくるときじゃ、遅過ぎるんじゃないか」
白坂が相変らず低い声でいう。
「そうよ。それまでにコロちゃんのお父さん、殺されちゃうかもしれないわよ」
こちらは高い声で、美千代がいいつのった。
「今日、これから、イントラムーロスの憲兵隊にゆきましょうよ」
「おれが憲兵隊にゆくのか」
浩は、反問しながら、すっかり度を失った。
いくら馬場中尉に可愛がられている、といっても、憲兵隊へゆく、と考えただけで、空恐ろしく、悪寒が運動靴を履いた足もとからざわざわと這いあがってくるような気がする。馬場中尉の顔が、馴染みのない、あかの他人の顔のようにおもいだされ、動悸が俄かに激しくなった。
比島神社の右隣りは高等科の生徒が通う剣道場になっていたが、だれかが「切り返し」の練習をやっているらしく、「いち、にい」「いち、にい」という、少年の間延びのした、甲高い掛け声と竹刀を規則的に打ち合う音が、間近に響いてくる。
浩は、凝然と立ちすくみながら、コロちゃんの頬をゆっくり伝い落ちる涙を眺めていた。「コロちゃん」は眼玉もおおきいが、涙も大粒だな、と頭のどこかでおもった。
多分、この涙のためだろう、次に美千代が、級長か担任の教師のようなおおきな声で、
「さあ、佐藤君、皆でイントラムーロスにゆきましょう」
といったとき、浩は黙って頷《うなず》いて、歩きだしてしまったのであった。
昭和十八年当時の比島憲兵隊司令部は、正確には、スペイン統治時代に三百年を費して、建設されたといわれる、古い城塞町、イントラムーロスの一隅、サンチャゴ要塞のなかにあった。
イントラムーロスのなかに入り、古い教会の前を行き過ぎて、鉄格子つきの石塀をめぐらしたサンチャゴ要塞の表門近くまでくると、浩の重い足はいよいよ重く、鉛をぶら下げているようなぐあいになり、動悸が胸いっぱいに、まるでシンバルを打ち鳴らすように響きわたり始めた。
教会の前の、石塀に穿《うが》たれた門には、縦に「比島憲兵隊司令部」の表札が掲げられ、銃を持った兵士が立哨している。
兵士の姿に気圧されたように、白坂も黙りこんだが、美千代が、いかにも恐い物知らずの少女らしく、
「佐藤君、日本男子でしょう。早く行ってらっしゃいよ」
浩の背中を押すようにした。
上陸当時の日本兵士は、軍袴《ぐんこ》にゲートルを巻いていて、「ビール壜をさかさにしたような格好だ」とフィリッピン人から笑われたりしたものだったが、現在では半ズボンに白い靴下の軽装に変っている。
浩は立哨している兵士に近づいて、
「佐藤浩といいますが、馬場中尉に面会したいんです」
そういった。
応召兵らしい、中年の兵士は、
「あんた、日本の子どもかね」
と訊ねた。
剥きだしのすねを蟻が這っていて、そのあたりを片手で掻いている。
「そうです。日本人小学校六年生です」
「ふうん」
中年の兵士は浩とおなじ年頃の男の子を日本に残してきたのか、まぶしいような顔になった。すねの蟻を払うと、城門を入ったところにある衛兵詰所に行った。
衛兵詰所には年を取った将校ひとりと数人の兵士がいて、そのひとりがこれも物珍しげに身を乗りだして浩をみつめたあと、電話で連絡を取ってくれた。
兵士たちは、「憲兵」の腕章も金色六光章のバッジもつけておらず、比島駐屯の第十四軍から派遣された警備隊らしかった。
まもなく中年の兵士が城門に戻ってきて、
「いいかね、この奥にゆくと、左手に木造二階建ての建物がある。それが比島憲兵隊司令部だ。そこの二階に庶務課の受付けがあるから、そこで警務課の馬場中尉殿に面会したい、といえばいい」
と教えてくれた。
「間違えて庭の奥のほうに入ってゆくんじゃないよ。奥は憲兵隊司令部のマニラ南分隊の建物だからな」
中年の兵士は念を押した。
──皆、親切にしてくれるじゃないか。なにも恐いことなんか、ありゃあしないじゃないか。
浩は、そう自分にいいきかせながら、サンチャゴ要塞のなかへ歩み入った。
サンチャゴ要塞の前庭は、石畳の広場に細い棕櫚《しゆろ》や落葉樹が何本か植えられて公園のようになっていたが、ほとんど人影もなく、不気味に静まり返っている。
遠くを、憲兵隊の将校らしい男がひとり、長靴の音をこちらまで響かせてゆっくりと歩いていた。
浩は深呼吸をすると、左手の憲兵隊司令部の建物に向って歩いて行った。
手前の、銃眼のような小窓のあいた城壁の下に、戸もなにもない石の部屋がならんでいて、憲兵将校たちの車なのだろう、赤い小旗や、青い旗を立てた米国製乗用車が数台、駐車している。
木造二階建ての、兵舎のような大きな建物の前で、浩はもう一度深呼吸をした。
建物に入ってみると、内部は外観と違ってなかなか立派で、ラワン材の床や壁が美しく輝いている。
中年の兵士に教わったとおり、階段を二階へあがってゆくと、正面におおきなホールがあって、十数人の下士官が、向い合わせに机を置いて、事務を執っている。ここが教えられた庶務課らしく、入口に受付けの机があって、坊主頭の兵長と通訳らしい背広の日本人がすわっていた。
ここで働いている兵士は全員憲兵で、防暑襦袢の袖に大きな「憲兵」の二字と、小さな「MP」の字とを併記した腕章を巻いている。
「警務課の馬場中尉に面会したいんです」
浩がそう告げると、若い兵士は、
「ああ、連絡のあった日本人小学校の生徒だな」
といい、電話をとった。
「CFですか、馬場中尉殿に佐藤浩という少年が面会にきております」
受話器を置いた兵長は、「ここで待っとりなさい」という。
ほっと息を抜いて、あたりを見まわすと、庶務課のまえが、馬場中尉が家に遊びにくる度に、まずい、まずいとこぼす食堂になっているのが目に入った。
右手に伸びている廊下の奥のドアが開き、馬場中尉が姿を現わした。
「やあ、浩、珍しいな」
おおきな声でそういいながら、歩いてきた。半ズボンに白いソックス、短靴の軽装である。
「奥の庭へ行って話をしよう」
馬場中尉はそういって、浩と一緒に階段を降りた。
「その顔じゃ、どうやら遊びにきたわけじゃないようだが、浩、急に司令部にきたりして、どうしたんだ」
階段を降りながら、馬場中尉は、浩の肩に手をかけて、訊ねた。
「まさか、お父さんやお母さんになにかあったんじゃなかろうな」
「違います」
と浩はあわてて首を振り、もし憲兵隊司令部にきていることが両親に知れたら、両親はどうおもうだろう、目から火がでるほど怒られるに違いないとおもい、いよいよすくんだ気持になった。
ふたりは、憲兵隊司令部をでて、裏手の掘割りにかかった橋を渡り、本丸のような感じで、もうひとつ城壁をめぐらしたサンチャゴ要塞の中心部に入った。そこは、マンゴーの巨木が欝蒼と繁った中庭になっている。
奥のマンゴーの木陰の石段に、ふたりはならんですわった。
「どうしたんだ、いってみろ」
「あの」
と浩は口ごもり、生つばを呑んだが、おもいきって、
「私の友だちのチャンという子のお父さんが、憲兵隊に捕まったらしいんです」
そういった。
最初のひとことをいってしまうと、気が楽になり、ホベンチーノの父親が、一昨日、ゲリラに食糧を横流しした容疑で憲兵隊に捕まったこと、ホベンチーノは、古くから、日本の子どもたちの幼な馴染みで、仲よくしていること、ホベンチーノの家に遊びに行っては、よく支那そばや饅頭をご馳走になったことなどを話した。
「それで、その友だちの父親を助けてくれと、浩はおれに頼みにきたのか」
馬場中尉は、難しい顔になった。
「しかしその子の父親は、じっさいにゲリラだかスパイだかに食糧品の横流しをやったんだろう。そんなゲリラを助けるようなやつらを野放しにしておいたら、日本のためにならんよ。おまえたち在留邦人の首を締めることにもなるんだぞ」
「違いますよ。チャンのお父さんはフィリッピンの貧乏なひとに食べ物をわけてあげただけなんです」
浩は必死になって抗弁した。
フィリッピンは、農耕技術が充分に発達しておらず、戦前から主食の米でさえ、輸入に頼っていたくらいだったが、そこへ四十万の日本兵をかかえこみ、その食糧を購《あがな》わねばならぬことになって、食糧事情は極度に逼迫した。
生活苦が人心を次第に荒廃させ、密告がしきりに行われるようになった。ホベンチーノの父親の一件にしても、父親が、知人のフィリッピン人に食糧を安く分けてやったことを羨《うらや》んで、だれかが密告したものに相違なかった。
「うちのお母さんはチャンさんのことをシンゼンプクさんと呼んでいるんですけど、シンさんはいいひとだといって、よくお店に買物にゆくんです」
「お母さんも買物にゆくのか」と馬場中尉は、弱った顔になって黙った。
それから気を取り直したように、
「浩、へんな唸《うな》り声が聞えるだろう」
と呟くようにいった。
サンチャゴ要塞の中庭を微風がゆるやかに渡ってゆき、マンゴーやアカシヤの巨木の枝を揺らしていたが、その風の音の底に、犬の鳴き声に似た、唸り声が混っている。
「それと、いやな臭いもするだろう」
そういえば、中庭をわたってゆく風には、ギンバの田舎の家畜小屋を連想させる悪臭が混っていた。
「その向うに牢獄があってな、日本の船を爆破したスパイや親日家を殺したゲリラや、軍の物資を盗もうとしたフィリッピン人が、何百人も入れられてるんだ。マニラ南分隊の憲兵に拷問されて、毎日、何人も死んでゆくよ」
獣じみた呻《うめ》き声も、家畜小屋を連想させる臭いも、すべてその牢獄から流れてくるようであった。
そこには、スペイン統治時代に作られた水牢があり、潮が満ちてくると、囚人は溺死してしまう仕組みになっている、と伝えられている。憲兵隊は、この水牢を使って、フィリッピン人を虐殺している、という噂をおもいだして、浩は、背筋が寒くなった。
「浩、戦争ってやつは、子どもの遊びじゃないんだ。食うか食われるかの世界でね、ちょっと気を抜いて油断すると、こっちが殺されてしまうんだよ。いつも精神を緊張させていなくちゃならんのだ」
だれもがいうような言葉を大声でいう。
「おれたちも、ここへ遊びにきているわけじゃないんだ。そりゃ、浩、おれだって内地にいて、三度三度八丁味噌の味噌汁食ってるほうが、どれだけ楽かわからんよ」
「だけど、馬場さんは、家でお酒飲みながら、憲兵隊は七度フィリッピン人を捕えたら、七度とも釈放するんだ、そういってたじゃないですか」
事実、前年の昭和十七年九月に着任した憲兵司令官、長浜彰大佐は諸葛孔明の故事に習って、「七擒七縦《しちきんしちじゆう》」、現地人を七度捕えることがあっても、七度とも釈放せよ、と唱えていたのである。
馬場中尉は、弱った顔になり、伸ばし始めて針鼠のように突っ立った頭髪を、指で掴みながら、
「まあな、なかなか理屈通りにはいかんのだよ」
呟くようにいって黙りこんだ。
浩は、自分の言葉が意外な影響力を持つのに力を得た。
「それから、馬場さんは、よくいうじゃないですか。アジア人同士は、お互いに王道の精神で交際《つきあ》わなくちゃいけない。徳の力で、交際わなくちゃいけない、暴力はいかんと。石原莞爾とかいうひとが、そういってるんでしょう」
馬場はびくっと躰をひいた。
事実、馬場中尉は、昭和十六年の三月、東條英機と衝突して、退役した、もと陸軍中将、石原莞爾の大変な心酔者であった。
家に遊びにくると、「お父さん、石原さんは、開戦の翌日に演説しましてね、フィリッピンは占領するな、日本はフィリッピンの完全独立を声明して、不可侵条約を結べといったんですよ」と浩の父親、ルイスにいい、母親には「石原さんの本は、発禁になってるんですが、その本を検閲した憲兵たちがすっかり石原さんに共鳴して会いに行ったりしてるんです。私も、そういう連中の影響を受けたんですが、おかげで睨まれましてね」などと、青年の気負いをまるだしにして得意気に喋っていた。
そして中尉はふたこと目には「日本とアジア諸国は東亜連盟を結成して、お互いに対等の立場で交際わなくてはいかん、覇道は、暴力はいかん」と意味もわからずに聞いている母親や浩兄弟に説くのである。
弱味を衝《つ》かれて黙った中尉の顔のうえに、マンゴーの木洩れ陽が、ちらちらと落ち、熱でもあるように顔が赤くみえた。
充血したような顔のまま、中尉は立ちあがると、
「おい、あのマンゴーの実をおとしてみないか」
妙に明るい声をだし、足もとの小石を拾って、頭上の枝に生《な》っているまだ若い、みどりいろのアップル・マンゴーの実を狙って投げた。
浩は、中尉のとってつけたような行動についてゆけず、黙って小石を投げる中尉を眺めていた。
中尉は突然石を投げるのを止め、突ったったまま、
「浩、この一件はこらえてくれや」
といい、片手で、顔をごしごしと乱暴にこすった。
それから疲労したような顔になって、肩をおとし「もう家に帰りなさい」と浩の背中をたたいて、司令部の方へ歩きだした。
司令部の階段のまえで、馬場中尉は、
「おまえは、友だちに頼まれて、男としてあとに退けなくなって、ここにやってきたんだな。なかなかえらかったぞ」
という。
「その友だちの親父さんは、アベニーダ・リサールで、食糧品店をやっている、といってたな。名前はなんといったっけな」
と訊ねた。
「チャンさんです。お母さんは、シンさん、シンゼンプクさんと呼んだりしています」
「いいな、この件はあきらめろ。それから、お母さんに土曜日に、またお邪魔します、よろしくと伝えといてくれ」
衛兵詰所のまえでお辞儀をし、立哨している兵士に挨拶をして、城門をでた浩は、通りの向う側、第十四軍|兵站《へいたん》司令部の塀の前で、眼を光らせて待っていた仲間に向って、首を振った。
「だめだよ、この件はあきらめろ、といわれちゃったよ」
と投げやりにいったのであった。
美千代が視線をじっとこちらに当てているのに気づいて、一度に気持が萎《な》え、膝の力が抜けてゆくようであった。
しかし数日後、学校から帰った浩に、母親が、
「今日、シンゼンプクさんの奥さんがおそばを沢山持ってみえてね、息子さんのおかげで、主人が助かった、どうもありがとう、ありがとうって散々頭下げてったよ。お互いにタガログ語があまりできないから、よくわからないんだけど、おまえ、なにかしてあげたのかい」
といった。
戦争が終って、浩は、トンドの祖父の家に移り、佐藤浩ならぬ、フランク・ベンジャミンとして、土地の小学校の六年に編入されたが、疎開していたせいで、一年遅れたホベンチーノと、この学校で一緒になった。今日、貧民窟として名高いトンドは、当時は中流階級の住宅地だったのである。
いくらフィリッピン姓に変えても、日本人との混血という素性はすぐに露見してしまい、フランクは学校の帰路には、度々フィリッピン人の級友に襲われ、袋叩きに会った。
あるときは、後ろから捧きれで足を払われ、起きあがろうとするところを石で眉間《みけん》をなぐられた。あるときは、ふたりの子どもに両側からおさえつけられ、三人目に靴でビンタを張られた。
いまだにその襲撃の傷あとが、フランクの眉間や頬に残っているのだが、そんなとき、襲撃が終ると、きまってホベンチーノが現われて、フランクを助け起し、遠くに投げ棄てられた鞄を拾ってきてくれる。
「おまえ、どうせ助けてくれるんなら、おれがやられるまえにでてきてくれ。こっちがふたりそろえば、年上だし、戦争やってきたんだし、あんな餓鬼どもに、絶対負けやしないんだ」
鼻血を横撫でし、口惜し涙をこらえて、フランクは文句をいったが、ホベンチーノは、ギョロ目を伏せ、弱ったような顔をして、なにもいわなかった。
しかし、もはや篠田先生も、馬場中尉も、白坂や美千代もいなくなった戦後の時代、ホベンチーノはフランクにとって、実に貴重な存在だったのである。
公立中学入学後も、現地の生徒たちの襲撃が続き、襲撃が終ると、相変らずホベンチーノが現われて、家まで送ってくれるのであった。
8
歓迎下痢症《ウエルカム・ボウエル》が一段落したせいもあるが、小寺の家にひきとられた石山は、じつによく眠った。
小寺の社宅は平家で、玄関を入ると、池を掘った二十畳ほどのホールがあり、その右手がゲスト用の部屋になっている。
このゲスト・ルームのベッドに横になると、自然に手足もながながと伸び、頭も枕のなかにふかぶかと沈みこんでゆく感じで、移ってきた日の午後から、翌朝遅くまで、石山はほとんど眠り続けに眠った。
朝、会社への出がけに、小寺が部屋を覗いて行った様子だったが、どうにもまぶたが重く、眼が覚めなかった。
やっと眼を覚し、サイド・テーブルの時計をみると、昼近かった。
──日本人の家に寝かせて貰うと、こうも落ち着いて寝られるものか。
石山は、マカティ・メディカル・センターで、緊張に躰を固くして、美人看護婦に全身をアルコールで拭いて貰ったときのことを考え、少々情ないような気持になった。
まもなく石畳を注意して踏む忍び足の足音が近づいてきて、内部の気配を窺《うかが》うように、遠慮がちにドアが開かれ、小寺の細君の百合子が顔を覗かせた。
「ずいぶん眠らはったようやし、だいぶぐあいがようなったんと違う? 石山さん」
「すっかりお世話になっちまって、恐縮しております」
石山はベッドのうえに正座して、頭を下げた。
「なにいうてはるの。世話するのは、これからやないの。まだ、なんにもしてへんもの」
百合子は、大袈裟に首を振り、手を振ってみせた。
「石山さん、少し食べたほうがいいんやないの。今、おかゆ煮てあげるから、それに卵おとして、おもたせの梅干しで、ごはん食べはったら、どう」
石山は、一メートル八〇の躰を縮めるようにして、
「どうぞ、おかまいにならないでください。こんなにお世話になったんじゃ、荒川ベニヤの社長やおふくろに怒られちまう」
やたらに恐縮したが、百合子は、
「飛びきり上等のおかゆを作ったげるわ」
気軽にいって部屋を出て行った。
三十分ほどして、フィリッピン人のメイドが、おぼんに、おかゆの鍋、茶碗に塗りの箸、それに「ちん里う」の|かめ《ヽヽ》と小皿をのせて、部屋に入ってきた。
メイドに続いて、百合子が日本茶の土びんを持ってきてくれたが、
「このおかゆのお米はね、マカティの市場の、カルチマールで三十ペソで売ってるカリフォルニア米なんよ。カリフォルニア米いうたって、二世のひとが日本の陸稲《おかぼ》をあっちで栽培してはる、いうことでね。私、おもうにこれは世界一おいしいお米やないかな。シアトルで散々お世話になった、このカルローズってお米をカルチマールでみつけたときは、おもわず万歳したわ」
と説明した。
じっさい、ベッドにおぼんを置いて食べる、カリフォルニア米のおかゆは、石山にも世界一美味の米のように感じられた。
「いやあ、涙がこぼれそうにうまいな」
「涙こぼすのは、ちょっと早いんと違うの。石山さん、二日前に着いたばかりやないの」
百合子はずけずけという。
「そういえばそうですが、日本を発ってから、もう二、三年経ったような気がするんですよ」
石山は、おかゆを三ばい四はいと、お代りをして、鍋を空にしてしまい、着いた晩、フランクがやったように、梅干しの種を四つ、五つ小皿にころがした。
ひといき吐《つ》いて、日本茶をすすりながら、
「しかし、小寺さんのような方が、マニラの所長をしておられるとは夢にもおもわなかったですね。社員でもない私に、こんなに親切にしてくだすって、侠気《おとこぎ》があるというのかな、参ったな。メロメロですよ」
石山は、つくづく感じ入った声を出した。
「うちの主人はね、アメリカ式の合理主義と日本式|侠気《おとこぎ》のカヤクゴハンよ」
百合子は、おもしろい形容をした。
「おもしろかったのは、シアトルにおるときに、本社の企画部長が家にこられてね、小寺君の『所長意見』は、いつも熱烈支持だからね、と笑うてはったことやね。これには小寺も頭掻いて、完黙《かんもく》やったね」
商社の海外支店、事務所が、現地企業に対して融資を行うことを、一般に「与信行為」と呼び、本社企画部宛てに、認可申請を行うのだが、この場合、認可申請には、融資に対する支店長、所長意見が添付される。
ふつう現地の所長は、自分の専門分野、出身部以外の商売については、責任をとりたがらず、所長意見の欄にも参考意見程度しか書かないが、小寺の場合は、自分の部下の提出する申請となると、どんな商売だろうと常に詳細をきわめ、しかもきまって「熱烈支持」なのだ、というのである。本社企画部では、また小寺さんの「熱烈支持」がきた、とよく話題になった、という話であった。
百合子は、「なんや|のろけ《ヽヽヽ》みたいな話になってしもうたわ」とちらりと舌をだした。
週末、小寺家で躰をやすめた石山は、翌週月曜、すっかり健康を回復して、小寺と一緒に初出勤した。もともと体力があるから、峠を越してしまうと、回復のスピードは早かった。
月曜会議の始まるまえに、小寺が、石山の着任を正式に披露し、石山は簡単な挨拶をした。昼過ぎに経理の藤田と一緒に「独身寮」に帰り、「これ、大丈夫、大丈夫」とメイドたちが熱心に説明する中華風のそばを食べ、日本から持ってきた土産を会社に持ち帰った。
向島長命寺の桜餅は、固くなってしまったので、秘書のアデールに捨てて貰い、残りの梅干しとわさびを会社の社用の大封筒に押しこみ、藤田があらかじめ用意してくれてあった、英文名刺を添えて、日本人派遣員の目ぼしいところに配った。
午後には、小寺、フランク、石山の三人が所長室に集まって、木材関係の初会議を開いた。
石山は、少し遅れて、頭を振りながら所長室に入ってきた。
「所変れば、習慣も変るんですね。先刻、前にすわっている秘書のアデールが、机の抽出《ひきだ》しから、トイレット・ペーパーの巻き紙だして、少し切りとってね、私、トイレへゆくから、電話がかかってきたら、相手の名前を聞いておいてください、なんていうんですよ」
感に堪《た》えたような声をだした。
「そりゃアデールだけじゃないよ。どの秘書も、皆、平気で抽出し開けて、トイレット・ペーパーを必要分だけ切りとって、それをハンカチみたいにひらひら振りながら便所にゆくんだよ」
小寺はいって、フランクと顔を見合わせて笑った。
「石山さんは、ここのところ、トイレット・ペーパーと縁が深かったから、すぐ気がついたんだな」
フランクが少し真面目な顔になって、
「石山さん、所変れば、習慣だけじゃない、社会のルールも変るから、気をつけなくちゃだめだよ」
といった。
「たとえば、フィリッピンで金や物を貸してくれ、というのは、金や物をくれ、という意味なんだ。貧乏人だろうが金持ちだろうが、いったん物を貸したら、まず返ってこない、とおもったほうがいい」
フランクは、所長のデスクのうえの置時計を指差して、
「時計にしたってね、フィリッピン人が三時に会おう、といえば、三時台に会おう、つまり三時から三時五十九分の間に会おう、という意味なんだよ、どちらの例もね、フィリッピン人がルーズという意味じゃない。社会のルールが日本とは違うんだ」
石山は、感心して、「ははあ」と唸っていた。
「ところでフランク君、早い時点で、オノフレ・マーパのコンセッションに調査《サーベイ》をかけたほうがいい、とおもうんだ」
小寺が要件に入った。
「私の聞きかじりの知識じゃ、調査《サーベイ》は空中《エア》と地上《グラウンド》の両方をやったほうがいいらしいね」
「電話で、オノフレと打ち合わせたんですが、カワヤンまでは、フィリッピンの国内線で行って欲しい、それから向う、ディビラヌエバまでは、一機ないし二機、セスナをチャーターしておく、といっています。このセスナで、空中からコンセッションの状態を見て貰い、そのあと、略式のグラウンド・サーベイをやって貰いたい、二、三日、森のなかへじっさいに入って貰いたい、こういってるんですね」
そこで、小寺は、それが癖の、ボールペンでテーブルをたたきながら、
「この話は、まとまる確率が、かなり高いとおもうんだ。どうかな、この調査《サーベイ》に本社木材部の鶴井君、それにバイヤーの荒川ベニヤの社長に加わって貰ってもいいんじゃないかな。そのほうが実情もわかって貰えるし、今後もなにかと話が進めやすいんじゃないか」
小寺は、フランクと石山の顔を見比べながら、いった。
フランクは頷いて、
「いいお考えですね、すぐにテレックスを入れましょう」
といった。
「フランク君の友人のチャンさんだったか、あっちの融資の話は、どう進んでいるんだね」
「やつはいつでもOKだといっていますよ」
赤い、生命の樹にかかわる商売はどうにか、軌道にのり始めていた。
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怨念の土地へ
1
入国査証の歓迎下痢症《ウエルカム・ボウエル》もどうやら完治したようで、石山は、独身寮に放りこんだ荷物を整理し、住所を知らせる意味もあって、墨田区吾嬬町の母親宛てに簡単な第一信を書いた。
折り返し咲子から達筆だが、旧漢字や旧仮名遣いの混った読みにくい返書がきた。
「ちん里うの梅干しが御役に立つたさうで何よりです。|シ《ヽ》リッピンの土人の人たちとは、上手に交際《つきあ》つて居ますか。
|マリラヤ《ヽヽヽヽ》にはまだ罹《かか》って居ないでせうね。白鬚橋の先生の御話では、御地にはビタミン性肝炎とか、アリナミン性肝炎とかいふ病気があつて、これはマリラヤより恐ろしい病気ださうです。呉々も御注意下さい。
又、シリッピンでは生れて初めて自動車を運転する土人の人が多いので、面白がつて突つ走り、交通事故が大変多いと仰言つて居りました。私の實例もある事ゆえ、道路を横断する時は、左右をよく見て、車の来ないのを十分確めてから、手を高く挙げて、歩き出して下さい」
下町訛りの発音どおりに、シリッピンと綴ったり、マラリヤがマリラヤになり、ビールス性肝炎をビタミン性肝炎とかアリナミン性肝炎などと間違えているのも、いつものご愛嬌である。
それにしても手を高くあげて道路を渡れ、などとどうして、こういつまでも息子を餓鬼扱いしたいのかな、と石山は、うんざりした気分になったが、逆に手紙の文句に刺激されて、「車をひとつ買ってやろうか」と考えた。
衣食住のうち、衣はともかく、食はようやくココナツ・オイルにも慣れたようで、機会あるごとに、挑戦的に油っぽい料理を注文するのだけれども、その後下痢はもちろん、胃が重くなることさえない。住は、何年間だろうとマニラに在住する限り、マガリアネスの独身寮に住んでいいことになっているので、問題はない。
そうなると、あとは行動の自由が欲しかった。現在、独身寮用に運転手つきの車が一台用意してあって、会社との往復その他、自由に使ってよいことになっているが、夜間や休日などの私用には、使うのがはばかられて、行動が著しく制約される。
幸い、大学時代から家業を手伝って、家のライトバンを乗りまわして、得意先きまわりをしていたから、車の運転には自信があった。
午後に会社にでて、フランクに相談すると、
「自家用は中古で充分だよ。そこのベル・エアの入口にノーザーン・モータースという中古車専門店があるから、そこで買うといいよ。夕方、一緒に行ってあげますよ」
そういってくれた。
ノーザーン・モータースは、展示場もない、ただガレージがあるきりの店だったが、ちょうど二年使っただけの、ヒルマン・ハンパーのいい出物があった。
ヒルマン・ハンパーは、戦後日本で一時期、組立て生産されていたヒルマン・ミンクスよりひとまわりおおきい型の車である。
商談の相手をしてくれたのは、口髭を生やし、青い作業服を着た、肥満体のフィリッピン人だったが、
「ベーリイ・ナイス・ビジネス・フォー・ユー」
お得な買物というようなことをいって、しきりにすすめる。
日本では全然見かけたことのない車種である点や、車体がこれも日本ではついぞ見かけない派手なグリーンに塗られている点が石山の気に入った。
「前輪のタイヤがだいぶいかれて、坊主になっているからね。前の二本は替えといたほうがいい。石山さん、生命は大事にしたほうがいいよ」
フランクにいわれ、タイヤを替えて貰うことにして、翌々日の昼過ぎに車を引きとりにゆくことにきめた。
代金については、これもフランクと藤田が相談してくれて、鴻田貿易マニラ事務所が、ヒルマン購入料金の全額を石山に貸しつけてくれ、石山は毎月、月給から天引きでその金を二年間にわたり、返済してゆくことになった。
翌々日の昼、会社の車でベル・エアのノーザーン・モータースまで行ってみると、ヒルマン・ハンパーは、ガレージの中央に置かれて、いかにも引渡しを待つばかり、といった様子に見えた。近寄ってみたが、前輪のタイヤも新しいのに替えてあり、掃除をしたのか、車体も艶々と光って、新車のようであった。
先日の口髭を生やした、肥満体のフィリッピン人が、車のキイを顔のまえで振ってみせながら、歩み寄ってきて、
「ベーリイ・ナイス・カー、ベーリイ・ナイス・グリーン・カラー」
芝居じみたゼスチュアで、ヒルマン・ハンパーを指し示しては、おおきく両手を拡げて感心してみせる。
石山も満更でない気分で、男からキイを受けとると、会社の車には、帰るように合図をして、左ハンドルの運転席にすわった。窓から手を入れてきたノーザーン・モータースの男と握手をして、エンジンをかけた。
──日本とは逆の、右側通行に注意しなきゃいかんな。
緊張して車を運転し、ベル・エアからハイウェイ54に向って走りながら、ふと、初運転のついでに、高級住宅地フォルベス・パークにあるユナイテッド・スーパー・マーケットに寄ってやろう、と考えた。
かねがね、調理相当のメイドのノーラから、このマーケットで売っている中華そばは美味いと聞かされていたからである。
ユナイテッド・スーパー・マーケットは、美しいサン・アントニオ教会の前にあり、ハイウェイ54からマッキンレイ・ロードを左折し、三、四百メートル走らねばならない。
人気《ひとけ》のないマッキンレイ・ロードを百メートルばかり走ったとき、突然車体がおおきく左右に揺れ始めて、コントロールがきかなくなった。道は平坦な舗装道路で、ハンドルを取られる筈もなく、石山は、長年の経験から、タイヤがパンクしたかと咄嗟《とつさ》に考えた。しかしタイヤは、新品に取り替えたばかりなのである。
次の瞬間、石山は信じ難い光景をみた。
なんと車と平行するような形で、タイヤがひとつ、車体のすぐ左側を走っているのである。初め、石山はこの車の前方をタイヤを積んだトラックが走っていて、タイヤを落して行ったのか、と思った。しかし前方を走っている車など影も形もない。
とすれば、このタイヤは、まごうかたなく彼の運転するヒルマン・ハンパーのもので、タイヤが外れたために異常な振動が起っているとしか考えられない。
自分の車のタイヤと並んで走るなどという光景はあとから考えれば、ひと昔前の喜劇映画のシーンにでもありそうでなんとも滑稽におもえるが、そのときの石山はまっさおになって、大急ぎでブレーキを踏んだ。左のタイヤが外れれば、ハンドルを左にとられる、という頭があるから、おもいきってハンドルを右に切った。
それと同時に車と平行して走っていたタイヤがひとつ、おおきくバウンドして左側の対向車線に倒れこんで行った。
ブレーキはきかなかったが、車体は右にずるずる滑りながら、右手の歩道の縁にぶつかり、辛うじて止った。
ハンドルをかかえこんだまま、石山はおおきく息をついた。汗が、恐怖に逆立った頭髪の間から流れだし、顔のあちこちを伝い始めた。
ドアを開き、表にでてみると、車は左足を折った獣のように、前のめりに跪《ひざまず》いた格好で道路にへたりこんでいる。
車体の下を覗いてみたが、左のタイヤが飛んで、レコード型のブレーキ・ディスクが、僅かに車体を支えていた。幅三センチほどの、ブレーキ・ディスクのこすった跡が、グレイのアスファルトの路面にながい白い線をあざやかに刻みこんでいる。白い線は、彼方の路面では、車の振動を示して、子どもがやる白墨のいたずら書きのような錯綜した曲線を描いていた。
石山は、母親の手紙の、「シリッピンでは交通事故が大変多いと仰言つて居ました」という一節をおもいだし、やれやれ、とおもった。
それにしても、替えたばかりのタイヤが、こうも簡単に外れてしまうとは、なんとも腑に落ちかねる、情ない話であった。
このあたりは、日本には比較の対象がない、森や林に囲まれた、広壮な住宅のならぶ、世界でも有数の高級住宅地だから、森閑と静まり返って、事故を目撃した者はだれもいそうにない。
しゃがみこんだ石山が、もう一度、車の下を覗きこんだとき、背中を一台の車が疾風のように通過していった。
石山はそのスピードに驚いて、立ちあがって見送ったのだが、車はピンクいろのムスタングであった。
ほかの国ではちょっとみられないような派手な色のムスタングは、五十メートルほど行き過ぎて急停車し、それから呆れたことにそのまま、猛烈なスピードでバックしてきた。
ムスタングの左側のハンドルを握っているのは、ガードマン風の、つぶれたような鼻をした、色の黒いフィリッピン人で、右側の助手席には、おおきなサングラスをかけた主人とおぼしい、若い女がすわっている。
女は、うっすら陽に焼け、髪のいろも黒いが、彫りの深い白人の顔立ちをしていた。頬の線が分別ありげにはっきりしていて、この高級住宅地に住むアメリカ人の若妻が、ガードマンに車を運転させて、買物にでかけた帰り道、という感じである。
「どうしたんですか」
女は、右の席から顔を出して前のめりに跪いた格好のヒルマン・ハンパーと石山を交互に眺めながら、はっきりした発音の英語で訊ねてきた。
「そのう」
と石山は吃《ども》ってから、
「タイヤをおっことしちまったんですよ」
やはり英話で答えた。それから「恥かしい」という単語をおもいだして、
「お恥かしい話です」
とつけ加えた。
女は、それを聞いて、ちょっとおもしろそうな顔になった。
「あなた、どこの国からいらしたの」
石山は、慶応志木高校で野球ばかりやっていたといっても、そこは若い世代の得なところで、この程度の英語の会話には不自由しない。
「日本から、十日前に着いたばかりです」
「へえ、日本からきたの」
サングラスからはみでている女の額は、いくぶん汗ばんでつややかに輝いている。ずいぶん肌がきれいな女だな、と石山はおもった。
「正直いいまして、三十分ほど前に、この車をベル・エアの店で買ったんですがね、このフォルベス・パークの地域に入ってすぐに、左側のタイヤが外れてしまったんですよ」
人妻ふうの女は、人差し指で唇を二、三度はじいて、ちょっと考える顔をした。あらためて、グリーンのヒルマン・ハンパーをじっと眺めて、
「これ、新しい車ですか」
と訊ねた。
「いや、二年使った中古だそうです。ただ、問題のタイヤだけは、新しく替えて貰ったんですけどね」
「ははあ、わかった」
女は、手を打って笑いながら、運転席のガードマンに、早口のタガログ語で何事か囁いた。長くマニラに住んでいるのか、アメリカ人にしては、馬鹿にタガログ語が流暢であった。
渋紙いろの肌をしたガードマンは、これもにやりと笑って、ムスタングのエンジンを止め、車から降りて、後方へ歩いていった。
女もピンクのムスタングを降りてきて、タイヤが外れて、ブレーキ・ディスクが剥きだしになっている部分を中腰になって、覗きこんだ。
中腰になった女は、白いブラウスにフレアー・スカートという、学生のような格好をしていて、躰つきがいかにも若々しく、石山は「おや」とおもった。
「はっ、はあん」と後方で、ガードマンの叫ぶ声が聞え、まもなくはずれたタイヤを転がしながら、獅子鼻の男がもどってきた。
「あなた、わかる。タイヤを替えるときは、まずジャッキで車体を持ちあげるでしょう」
膝に両手をあてた中腰の姿勢のまま、女は石山のほうに首を捻《ひね》っていった。
「古いタイヤを外して、新しいタイヤをはめこむ。新しいタイヤをはめこんだら、タイヤの真中の五つの金具《ボルト》に六角形のナットを五つ、蓋《ふた》みたいにかぶせて捩《ね》じこむでしょう。このナットをきつく締めつけなけりゃ、タイヤは車に固定しないわけよね。わかる」
「よくわかりますよ」
「ところが、車をジャッキで空中にあげたままじゃ、ナットを締めつけようにも、締める度にタイヤがくるくる回転してしまって、うまくゆかないのよね。だから、金具《ボルト》にナットをはめたら、地上に降して、車の重味でタイヤが動かないようにしておいて、ナットを締めつけなくちゃ、だめなのよね、そうでしょう」
「パンクしたタイヤを替えるときは、私もそうやりますね」
「だけど、フィリッピンの人間は、ジャッキ外して、地上に車を降すと、そこでもう、万事終った気分になってね、ときどき、ナットを締めるのを忘れちゃうのよ。だから走りだして暫くすると、ナットが落っこちて、タイヤが外れる、というわけね」
「へえ、驚いたな、ナットを締めるのを忘れますかね」
女はおもしろそうに声をあげて笑い、
「ベル・エアの自動車会社って、ノーザーン・モータースでしょう」
と確かめ、石山が頷くと、女は中腰の躰を伸ばして、「ドミンゴ」とガードマンを呼び、
「ノーザーン・モータースへ行って、事情を話して、だれか連れてきて頂だい。ナットも一緒にね」
と命じた。
ガードマンは、表情を硬くして、タガログ語で、なにか文句をいった。
「いえ、このひと、日本人だから安心なのよ。日本人だから危険だというのは、昔の話でしょう」
女は、はっきりした英語でいい返している。
獅子鼻のガードマンが不承不承ピンクのムスタングをUターンさせて走り去ると女は微笑をうかべて、おおきなサングラスを外した。
どうみても人妻ではない、二十歳《はたち》そこそこの若い娘の顔が、サングラスの下から現われた。
頬の線のきついのが、分別ありげな若妻の印象を与えたのだが、おおきなサングラスを外すと、眉から眼のあたりに、少女のようなういういしい感じが色濃く残っている。黒い眉はおっとりと下ってゆく感じで、灰青色の眼は、周囲の緑をそのまま映しているように澄んでいた。
小さな顔に対して、背は高く、ハイ・ヒールを履《は》いているせいか、百八十センチあまりの石山にひけをとらない。
「レオノール・アランフェスといいます。フィリッピン大学の学生です」
娘は、自己紹介をした。
「アメリカから、いらしたんですか」
レオノールは、敏感に反応し、首を激しく振った。
「いえ、いえ、生粋《きつすい》のフィリッピン人です」
生粋のところに力を入れて、いった。
フィリッピンには、スペイン統治時代以来、白人系の血筋を保ってきた、白いフィリッピン人の一団が存在する、と石山も聞いてはいたが、初めてそのひとりに出会ったわけであった。
「ただね、父がアメリカの西海岸の病院で働いていましてね、私も母と一緒にときどき父のところへゆくから、アメリカの影響は受けているかもしれないのね。アメリカの往き帰りには、よく日本に寄って買物しますよ」
レオノールは、親しげにそういった。
「父は、もともとは、ここのMMCの医者なんだけど、今、こちらは休職にして、二年間、向うの病院で働く契約をしたのね。最新の医学を勉強したいらしいわ。あなた、MMCって知ってる?」
「マカティ・メディカル・センターでしょう。よく知ってますよ。着いた晩に救急車で運びこまれて、二日間いましたからね」
石山がそう答えたものだから、娘は、
「ほんとう?」
と下り気味の眉毛をあげて、驚いた顔をした。
「なんの病気にかかったの」
石山は、憮然とした表情で、
「歓迎下痢症《ウエルカム・ボウエル》です」
不愛想にいった。
レオノールは、空をあおぎ、手を打って笑い、握手の手を突きつけるように差しだして、
「ウエルカム・トウ・フィリッピン」
といった。
「それにしても、短い間に、ずいぶん、いろんな経験なすったのね」
腕を組んで車をみやり、また石山が憮然とするようなことをいった。
まもなく、ドミンゴと呼ばれたガードマンが、例の口髭を生やした、肥満体の男を連れて戻ってきた。
肥満体の男は、一向にわるびれた態度もみせず、
「グッド・モーニング、ワンス・アゲン、ミスタ・イシヤマ」
と陽気な大声をだして、平然と石山の手を握った。
男は、ガードマンに手伝って貰って、ジャッキで車を吊りあげ、外れたタイヤをはめこむと、今度は慎重に車を降し、これみよがしに顔を赤くして、力を入れてみせて、両方の車輪のナットを締めつけた。
「エブリシング・OK・ナウ」
と男はいい、油のついた手をボロ切れで拭きながら、
「ベーリイ・ナイス・カー、ベーリイ・ナイス・グリーン・カラー」
観客がふえたので、張り切ったのか、おおきく手を拡げて、もう一度繰り返した。
たしかに右側のタイヤが歩道の縁をこすっただけで、ヒルマン・ハンパーの車体に異常は全然ないのであった。
午後、会社に帰って、事故の一件をフランクに説明したが、フランクは、タイヤが外れるのなぞ、あたりまえという顔で、笑いもしなかった。
「その娘は、フィリッピン大学の学生、といったのか。フィリッピン大学というのは、マルコス大統領も卒業しておられる、日本でいえば東大、といったところだね。その子は、いってみれば、東大の女子学生だよ」
マニラには数々の大学があるが、UPと称される、フィリッピン大学の格が一番高く、それに次いで、財界に多くの卒業生を送りだしている、いわば慶応に似た立場のアテネオ・デ・マニラ、東洋で最古の大学といわれるサン・トーマス、やや大衆的なファー・イースタン、旧七年制高校ふうの雰囲気のサン・ベーダなどがある。
「ふつう、白いフィリッピンの連中は、娘をアサンプションだの、メリノールだのといった女子大学にやるんだよ。アサンプションなんかは、白人系がほとんどで、キャンパスのなかにはそれこそキャディラックやベンツがずらりとならんでますよ。日本でいえば、聖心か学習院かな。しかしフォルベス・パークの娘で東大へゆくというのは、珍しいな」
とフランクはいって、
「その娘の住所とか、電話番号を訊いておいた?」
「いや、うっかりしました」
「駄目じゃないの。ここじゃ、田舎にゆけば男はいまだにギター持って、女の家の窓の下でセレナードを弾かなきゃならないんだ。だから皆、ギターがうまいんでね。あんたも積極的にでなきゃ」
とフランクは真面目とも冗談ともつかぬ口調でいった。
2
フィリッピンの夏は、三月から五月までの三カ月間で、学校も夏期休暇に入る。
四月、五月は、特に暑く、日中は十二月、一月に比較すると、四、五度も高い、摂氏三十四、五度に達する。この間は、暑気のため、昼寝もできず、夜もいわゆる熱帯夜が続く。
三月の初め、東京から鴻田貿易木材部の課長補佐の鶴井と、荒川ベニヤの社長の与田が連れ立ってマニラに出張してきた。
翌日の金曜日、小寺は、鴻田貿易の会議室に、ルソンのコンセッション・オーナー、オノフレ・マーパと、華僑のホベンチーノ・チャンを招いて、打ち合わせの会議を開いた。
オノフレは、正確には、フィリッピン諸島木材株式会社、略称PITICOという名前の会社の社長だが、十五分ほど遅れて、オノフレが、フィリッピン人の部下をひとり連れて、会議室に現われると、待ち受けていた日本人関係者のあいだに、一瞬息を詰めるような空気が流れた。
オノフレが、首や左手の不自由な男だということを、小寺は、本社の鶴井、荒川ベニヤの与田、そして石山にも特に説明しておかなかったからである。
オノフレが、小寺やフランクに挨拶をし、部下の金壷眼《かなつぼまなこ》のフィリッピン人を東海岸の現場主任シソン・エンカルシアだといって紹介したが、背後で、鶴井が、
「このオーナーは、インディアンの酋長ジェロニモというところですな、西部劇に出てくるでしょう」
げじげじ眉毛の下で光る両目や鉤《かぎ》型の鼻から連想したのだろう、与田にそう囁いているのが、小寺の耳に入った。
相互の紹介が終ると、いきなり鶴井が、いかにも気負った調子で、
「伐採権《コンセツシヨン》地の三万ヘクタールのうち、二万五千ヘクタールが森林部分だというのは、事実ですか」
北関東|訛《なま》りの英語で切りだした。だいたい英語は、確実に出身地の訛りを反映し、大阪人は大阪訛りの英語を喋るのである。
鶴井の手もとには先日、オノフレが手渡した、|林 野 庁《フオレスト・ビユーロー》の認可証、その他の書類、それにあらかじめ用意したメモなどが置いてあり、それを眺めながらの質問であった。
首を左にまげたオノフレは、光る眼を鶴井にあてて、
「林野庁が調査したんですよ。そんなにおおきな間違いを犯すとは、私はおもいませんね」
とそっけなく答えた。
「それから、一ヘクタールあたり、百|立方メートル《キユービツク・メーター》のラワンの蓄積量がある、というのも、事実ですかね。ミンダナオでは、だいたい一ヘクタールあたり百二十立方、ルソンでは八十立方程度が、平均的蓄積量ということになっていますね」
鶴井は、フィリッピンの木材業界の実情について、一応の勉強をしてきたらしく、おっかぶせるように、そういう。
「いや、私のコンセッションは、百立方くらいの蓄積量はありますよ。もしかしたら、ミンダナオなみの百二十立方くらいあるかもしれない」
オノフレは、容貌に似合わぬ、女のように優しい、細い声で答える。
鶴井は、いかにも信用できないというふうに首を振り、うす笑いをうかべて、日本側の出席者の顔をみまわした。
「このひとの話は、これもんじゃないのかな」
日本語でいいながら、眉に唾をつける真似をしてみせた。
「鶴井君、真面目にゆこう、真面目に」
隣りの小寺が、鶴井の脱線を制するようにいって、オノフレのほうに躰をのりだした。
「マーパさん、おたくのコンセッションの平均樹高と平均直径は、おおよそ、どれくらいとお考えになりますか」
丁寧な口調で訊ねた。
すると、また鶴井が、小寺の言葉なぞ、一向に意に介するふうもなく、しゃしゃりでてきて、
「平均樹高というのは、ご存知のとおり、クラウンの下のアンダー・ブランチまでの高さです。平均直径は、地面から約一・二メートルの高さで、幹を切った場合の直径ですね」
教えさとす口調でいう。
ラワンの上端部、葉むらの繁った、カリフラワーのような形の部分を英語でクラウンと呼ぶが、その王冠《クラウン》の部分の一番下のふとい枝をアンダー・ブランチと呼ぶ。日本語では力枝である。
平均直径とは、日本では胸高直径といい、日本人の胸の高さにあたる、地上から約一・二メートルの高さの樹木の幹の直径を指す。
「平均樹高は、十三、四メートル、平均直径は一メートルくらいかな」
ミンダナオの白ラワンの平均樹高が十四メートル前後、白ラワン材の場合の購入基準が胸高直径六十センチ以上、となっているから、オノフレの言葉が確かなら、赤ラワンとしては大変に優良な材の揃ったコンセッション、ということになる。
「それじゃ、ミンダナオの丸太と変らんじゃないですか」
鶴井は、英語でそういってから、隣りにならぶ小寺に向って、日本語で、
「所長、このジェロニモのおとうさん、調子がよすぎますよ。マニラ事務所は、えらい法螺吹《ほらふ》きにひっかかったんじゃないでしょうなあ」
と本社の、小才の利く若者にありがちな臆面もない調子で、いった。
商売ずれした、日本人がよくやる手で、英語では相応の応対をしながら、日本語でひともなげな悪口をたたくのである。
「鶴井さん、この話は、小寺所長が、本社の意向を受けてひっぱってきた話だわね。頭から法螺だなんてきめつけていいんですかね」
与田が小寺の肩ごしに不快そうな口調でたしなめた。
「しかし、いい加減な嘘っぱちを真に受けて、ほいほいと商売に乗るわけにもゆかんでしょう」
鶴井が嘘っぱちという日本語を発した途端、オノフレの顔が血の気を失って、青ぐろい感じになった。日本語のニュアンスがわかったのか、まがった首を躰ごと横に向けて、ホベンチーノに向い、何事かタガログ語で叫んだ。この態度の激変は、会議室の空気を、一度に硬くした。
オノフレと一緒についてきた金壷眼の男も、じっと鶴井を睨んだ視線を動かさない。
ホベンチーノは弱ったような、赤い顔をして、眼をしばたたいている。
身動きすると、ひびの入りそうに張りつめた空気のなかで、オノフレは、それまで膝にのせていた両手をゆっくりとあげて、会議用の大テーブルのうえに置いた。右手だけを使って、うすい書類鞄の止め金を外し、書類を取りだし始めたが、机に置かれた左手のほうは、微動だにしない。五本の指が、死んであおむけにされた甲殻類のように不気味に空を掴んでいる。
小寺の目にも、そして恐らく、出席者のだれの目にも、オノフレの左手に障害のあることが、はっきりわかった。
オノフレは、右手だけを使って、鞄からとりだした書類を鶴井でなく小寺に向って差しだした。
「今、話題になっているコンセッションの隣りに、私は別のコンセッションを持っている。これは、その隣りのコンセッションの赤ラワンをイギリスに輸出したとき、税関に提出した数量証明《タリイ・シート》です。これを読んでください」
首が左に十度乃至十五度まがったまま、固定したように動かないので、どうしても横目でこちらをみる感じになり、白目の部分がおおきく浮きだすぐあいになる。
「サンキュー」
白けた会議の空気を変えるように、小寺がことさらにおおきな声でいって、受け取ってみると、このイギリスの会社あての数量証明には、コンセッション一万ヘクタール、赤ラワン蓄積量、なんと百二十万立方メートルと明記されてあった。
「なるほど」
小寺は頷《うなず》き、書類を鶴井にまわして、ふたたび躰をオノフレのほうに乗りだした。積極的に会議をリードしないことには、商談が決裂してしまう懸念があった。
「マーパさん、月にどのくらいの材が、伐りだせますかね」
微笑をうかべて訊ねた。
「年間四万立方程度は、ゆけるんじゃないですか」
たちまち冷静な顔に返って、オノフレは答えた。
「それはすごいじゃないか」
小寺の右にすわっている与田が、小寺に調子を合わせるように、大声をだして感歎してみせた。
「所長さん、それは乾期だけの話で、雨期は含んでいないのか、聞いちゃ貰えませんかね」
与田が小寺に頼んだ。
ルソン島の雨期は、六月から九月までの約四カ月だが、この間は熱帯特有の赤土、ラテライト層がひどくぬかって、車がこのぬかるんだ道路にめりこみ、材の運搬がほとんど不可能になる。専門家の与田は、ちゃんとその事実を聞きつけ、知っていた。
「雨期も含めての話です」
小寺の質問に、オノフレは答えた。
「このコンセッションの境界線を川が流れている。雨期は川の水量が増すんで、この川を使って、材を流しますよ。乾期は、すでに、半分ほど道ができているから、ミスタ・チャンに手配して貰った車を使ってこの道から、材をだします」
欧州と長年商売してきた経験があるせいか、オノフレの答えは、明快であった。
今週からマラリヤ予防剤を呑みだして、来週現地のサーベイに出発することに話がまとまって、会議は終った。
マラリヤ予防剤は旅行の一週間前から呑み始め、そのあとは毎週ひと粒ずつ呑んでゆくのである。
オノフレ一行をエレベーターで送りだすと、与田は突然、鶴井のほうに向き直った。
「あんた、鴻田のなにさまか知らねえが、はなから、あんな検事みたいな調子で、口きいたんじゃ、できる商売もこわれちまうぜ。商売は魚心あれば水心、穏やかに話しあってお互い儲《もう》けさせて貰いましょう。こういかなくちゃ、相手も乗ってきやしねえやな」
顔を赤くしていい放った。
「社長社長」と石山が与田の袖をひっぱっているが、与田は「うるさいな」と石山の手を振りはらっている。
小寺は、
「まあまあ、与田さん、お手柔らかに願います」
と間に入り、与田の肩をかかえるようにして、事務所の大部屋に入った。
「佐藤さん。マーパさんは先刻、だいぶ怒ってたっけが、あのときタガログ語でなんていったんですかね」
与田がわきを歩くフランクに訊ねた。
フランクは、黙って答えない。暫く間をおいて、
「フィリッピン人は嘘をつくといいたいんだろうが、戦争中の日本人は嘘しかつかなかったじゃないか、といったんです」
下を向いたまま、そういった。
3
その日の午後、ホテルにもどる車のなかで石山は、
「社長も短気だねえ。戦前の下町育ちはこれだから困るよ」
社長の与田に文句をいった。
「そりゃ、鶴井さんのおかげで、この商売がこわれちまうのも、困るけど、社長みたいにうちと鴻田の仲に水を差すようなこといったんじゃ、もっと困ることになるじゃないですか」
「馬鹿いえ。あんな若造ひとりたしなめられないような弱気の商売をうちはしてねえよ。あの手の餓鬼は、ちっとばかり、きつくたしなめとかねえと、鴻田のためにならねえや。おれは鴻田のためをおもって、敢えて叱ってやったんだ」
与田は、けろりとした顔でいう。
つるりと平手で顔を撫でて、
「まあ、おまえの立場がわるくなっちゃあ、いけねえとおもったが、あの小寺という所長は、わりにもののわかった、世間の見えるひとのようだしな、おれはちゃんと計算ずくで一発噛ましたのよ。おまえが考えてるより、おれはよっぽど、懐《ふとこ》ろがふけえんだぞ」
与田はいった。
「そうかな。そうともおもえないけどなあ。ただ小寺さんはほんとに親切な、ちゃんとしたひとですよ」
石山は、それまで黙っていた「歓迎下痢症《ウエルカム・ボウエル》」の一件と、その際、小寺夫婦がじつに親身に面倒をみてくれた件を、下町特有の微に入り細をうがつ語法で、話して聞かせた。
「ふうん」と与田はうなり、
「だから、いったじゃねえか。鴻田の社員は、鶴井みたいな例外を除いて、皆おっとり品がいいんだってな」
「それにしても」
と与田は腕を組んだ。
「ジェロニモだかじゃがいもだか知らねえけど、あのシッパーには驚いたな。ちっと偏屈じゃねえかな」
と与田はいった。
週末の日曜は、小寺が与田のゴルフの相手をし、フランクと石山が鶴井のテニスの相手をすることになった。
フランクは、なにか用事があって、朝のうちにケソンにゆかねばならない、というので、日曜日の午後は、石山が、ヒルマン・ハンパーを運転して、ホテル・フィリッピナスにゆき、鶴井を拾った。マカティの高級百貨店ルスタンで、鶴井の着るテニスの服装一式を買い整え、フォルベス・パークのマニラ・ポロ・クラブへ赴いた。
マニラ・ポロ・クラブは、本来はポロ競技のグラウンドに附属したクラブだったのだろうが、現在は、ポロ競技の広大なグラウンドのほかに、テニス・コート、ボウリング場、五十メートル・プールなどの運動施設を備え、さらにレストランや美容室まで設けた、それこそカントリー・クラブになっている。
メンバーになるのには、六人の推薦者を必要とするなど、厳しいメンバー・システムを取っており、フォルベス・パーク、ダスマリナス・ヴィレッジなど高級住宅地に住むひとびとの社交の場になっている。
「じつは、この間、ここで車のタイヤが外れちまいましてね」
石山は、鶴井に向って、いわずもがなの説明をしながら、ちらりと人妻と間違えた、白いフィリッピン娘のことを考えた。
車は、マッキンレイ・ロードをまっすぐに進んで、おおきな青屋根の豪華なマニラのポロ・クラブに着いた。
入口の階段を上り、広いロビーに入ってゆくと、窓側の椅子に、フランクと小寺百合子がすわって、談笑している。
鴻田では、代々、事務所長夫婦だけがこのクラブのメンバーになっているので、今日は一応百合子にきて貰い、彼女のビジターということで、三人はプレイすることになっていた。
一階に降りて、右手のプール・サイドの脇を抜け、ボウリング場の手前の受付けにゆき、そこで百合子が番号入りのメンバー・カードを見せて、テニス・コートの使用申しこみの書類にサインをした。
「一応、ボール拾ってくれるボール・ボーイを四人つけて貰うたんやけど、三人でプレイするのやったら、人数が半端やね、相手してくれる子どももいるからね、必要なら雇うといいわ」
百合子はそういった。
「スナックのほうにも、話しとくから、自由に飲んだり、食べたりしといてね。私、ここの美容院へ寄って、そのまま帰らして貰うからね」
ほなら、まあ、ごゆっくりと百合子はいって、帰っていった。
三人は更衣室で着替えをして、コートへでたが、コートは、露天のクレイ・コートが四面、屋内のコートが四面ある。
「なんだ、これじゃまるでウインブルドンで試合するみたいじゃないか」
露天のコートへでた石山は、大声をあげて叫んだものであった。
白いTシャツ、紺の半ズボンに白い運動靴の制服を着た、ボール・ボーイの少年が四人でてきて、二面のコートにそれぞれふたりずつ立ったからである。
「フランクさん、打ちましょうや」
鶴井は、フランクとコートに向い合うや、いきなり遠慮会釈のない強いサーブをフランクに向って打ちこんだ。
フランクがどうにか打ち返すと、鶴井は続けざまに強打を放って、ネットについた。
地方で軟式を長いことやってから硬式に転向したテニスらしく、手首をやたらに使う、変則的な打法である。
──テニスというのは、性格が出るものだな。
そうおもって、石山は苦笑した。
フランクのテニスが、これまた長い間、下積みの苦労に耐えてきた、現地雇用社員の性格を物語るような、徹底的にボールを拾いまくるテニスなのであった。
午後の熱い陽差しのなかで、十分も打ち合ったとき、困ったことが起った。
「クソ暑いな、この熱帯は」
鶴井が突然、そう叫ぶと、白のポロシャツを脱いで、審判の高い椅子にひっかけ、上半身、裸になってしまった。
この高級クラブで裸でプレイしていいのか、と石山が懸念して、フランクの方を眺めると、じっと鶴井の様子をみつめていたフランクは、呆《あき》れたように、両手を拡げてみせ、しかし、なにもいわない。
だが、鶴井が裸になってまもなく、クラブ・ハウスのなかから、中年のバロン・タガログを着たマネージャーらしい男がでてきた。
フランクが気がついて、傍に寄ってゆくと、鶴井のほうを指差して、明らかに苦情をいっている。
フランクは、弱ったように、平然とプレイを続けている鶴井に向って、
「鶴井さん、シャツを着てくださいよ。ここで裸になっちゃ困るって、マネージャーが文句をいっていますよ」
鶴井は「ちぇっ」と舌打ちをした。
「熱帯の汚ねえクラブの癖に、生意気いってやがる」
中年のマネージャーのほうをひと睨《にら》みしてから、しぶしぶポロシャツを着こんだ。
しかし、学生時代から野球と一緒にテニスもやってきた石山の知る限り、こんな豪華で趣味のいいクラブは、日本のどこにもありはしないのであった。
そろそろ苦しそうな表情のフランクと交替しようか、と石山が準備体操を始めたとき、ふいに声がした。
「今日はタイヤをおっことさなかった?」
振り向くと、胸の開いた派手なテニス服姿の娘が微笑をうかべて立っている。
相変らず大型のサングラスをかけていたが、むきだしの四肢から若さが匂い立って、今日は人妻と取り違えようがない。たしかレオノール・アランフェスという名の、フォルベス・パークに住むフィリッピン大学の学生であった。
その夜は、ゴルフ組、テニス組打ち揃って、スペイン料理のマドリードで、食事を取ることになった。
スペインの統治が長かったこともあって、フィリッピンには、美味い地中海料理の店が沢山ある。ラス・コンチャス、ニュー・アルバ、ディロなどの店は、本場の地中海料理にひけをとらない、美味な料理をだす。
マドリードは、これらのうまいもの屋とはちょっと違って、四百人も収容できる、おおきなシアター・レストランで、金箔を塗った籐椅子のならぶ彼方の舞台では、混血歌手の歌やダンスを楽しめる仕組みになっている。
テニス組は、レストランに先きに着いて、ゴルフ組を待ったのだが、ゴルフ組の小寺は、ウェイターに案内されて、ラウンジに入ってくるなり、
「石山君、今日は、おたくの与田社長がえらいことされてね」
明るい顔で報告した。
ふたりとも、小寺の家でひと風呂浴びてきたのだろう、陽焼けした顔を艶々と輝かせている。
「へえ、ゴルフ始めて十五年経って、初めて百を切りましたか」
これも陽焼けした、石山が訊ねた。
なにしろ与田ときたら、運動神経がにぶく、ゴルフを始めて十五年、いまだに百の大台が切れない。
「いや、スコアのほうはまあまあだったんだがね、与田さんがキャピトル・ヒルズの十四番でね、ホール・イン・ワンをだされてね」
小寺は、わがことのように喜んでいるらしく、顔を輝かせて、語っていた。
「あそこの十四番は打ちあげで、グリーンの後ろが二、三メートルの土手になっているだろう。与田さんのボールは、あの土手にぶつかってホール・インしたんだな」
与田のほうは、照れたように下を向き、おおきな鼻の目立つ、長い顔を平手でつるりつるりと撫でている。
鶴井は、おおきな声で、ウェイターを呼び、「シャンペン、シャンペン」と叫んだ。
「与田社長。ひとつ盛大に乾杯、とゆきましょう」
そういって派手に騒ぎだした。
鶴井は、オノフレ・マーパとの会議で、しゃしゃりでて、与田の不興を買ったのを彼なりに気にしている様子で、しきりに与田の機嫌を窺《うかが》っている。
長年、与田のゴルフと交際ってきた石山は心底驚いていたから、
「恐れいりました。社長の運動神経を見直しました」
と素直にシャンパン・グラスをあげた。
ホール・イン・ワンをだした、肝心の与田は、えらく照れくさそうで、眼をしばたたいている。
乾杯が終ると、与田はいきなり立ちあがって、ぺこりとお辞儀をした。
「今日は、待望のホール・イン・ワンを皆さんのおかげでやらせていただいたわけで、ふかく感謝しとります」
「皆さんのおかげ」という箇所にいやに力を入れていう。
「そんなことないですよ。これは与田さんの実力ですよ」
すかさず小寺が口を入れたが、与田は突っ立ったまま、激しく手を振って否定した。
「支店長さんのお指図かどうかは知りませんがね、今日のホール・イン・ワンはね、私に花を持たせるよう、皆さんがご奔走してくだすって、うまくアレンジしてくだすったおかげなんだね。私ゃ、以前に台湾でもホール・イン・ワンをアレンジして貰った経験があるんで、ようくわかっとります。いってみりゃあ、ホール・イン・ワンのサービス慣れしちゃってんだな」
「今日は、どうもご手配ありがとうござんした」ともう一度頭を下げて、与田はすわったが、座は白けた感じになった。
与田の話によると、キャピトル・ヒルズの十四番は、下から旗の先端がちらちら見える程度の打ちあげで、距離百五十ヤードのショート・ホールである。距離の出ない与田は、木の三番を使ったのだが、おおきく右にスライスした。
これは、グリーンに乗せるのが、大変だと息せききって駆けあがったところ、ボールが見えない。うろうろしていると、キャディの少年が「ユー、ホール・イン・ワンよ」と旗の下を指差したのだ、という。
「穴んなかのボールを見た途端に、私ゃ、皆さんのお心づかいに対する感謝の気持でいっぱいになったな」
小寺は、狐につままれたような、弱った顔になり、「ふうん」と唸って、フランクを顧みた。
「フランク君、きみが仕掛けたのか」
フランクは、困った顔になって、天井をみあげ、顎《あご》を撫でてなにもいわない。
そういえば、今朝、フランクが、ケソンに用件がある、といっていたのを、石山はおもいだした。キャピトル・ヒルズ・ゴルフ・クラブは、ケソン・シティにあるから、フランクが、与田、小寺組よりひと足先きにクラブを訪ね、キャディか、アシスタント・プロかに金を握らせ、ホール・イン・ワンの「手配」をしてきた可能性は充分にあった。
「所長、あなたは無実みたいだけど、これは、佐藤さんの一存じゃないとおもうね」
与田が、微笑しながら、いった。
「鶴井さん、あんたが、佐藤さんに頼んで、ホール・イン・ワンをアレンジしてくれたんじゃないの。私ゃ、先刻、あんたが、お祝い、お祝いと騒ぎだしたときにぴんときたんだ。だいたい、このシャンペンの出かたも早過ぎるわね。私がちいっとばかり、あんたに辛くあたったもんだから、一生懸命、いろいろ考えてくれたんじゃないの」
与田の、かん高い下町弁は、愛嬌があって、むしろこの「手配」をありがたがっている節があった。そのせいか、鶴井は、
「どうも社長の炯眼《けいがん》には、恐れ入りました」
率直に頭を下げた。
「昨日、社長のご機嫌を損じてしまったんで、どうしても失点を取り返したい、とおもいましてね。なんか手はないか、そうフランク君に訊いたんですよ。そうしたら、以前、うるさい筋のお客さんにやった手がある、というんでね、彼の手を借りたわけです」
フランクも、頭を掻いて、
「グリーンの近所に子どもをふたりばかり手配しましてね。ひとりがボールをキャッチするなり、グリーンのそばのに投げまして、みごと、ホール・イン・ワン成功というわけです」
そう白状した。
「ほうら、私の眼に狂いはなかった」
と与田は、いった。
「きみたち、そりゃ、やり過ぎだぞ。これは失礼しました、社長」
小寺が鶴井とフランクをたしなめて、与田に頭を下げたが、与田は、
「しかしゴルフ場に忍者がしのんでいるとは、お釈迦様でも気がつくめえってやつでね。東京のゴルフ仲間にゃ、わかりゃあしねえから、連中をたぶらかして、またお祝いでもさせてやりましょう」
とおかしそうに笑った。
与田の上機嫌なのに安心して、一同も笑声をあげた。
食堂に移って、ガーリック・スープのソパ・デ・アホを流しこんでいると、
「ゴルフの話はともかく、テニスのほうはどうだったのかね」
小寺が、テニス組のフランク、石山、鶴井の顔を眺めて、訊ねた。
「テニスのほうはね、これは石山さんの天下ですよ」
フランクがいった。
「えらい美人のUPの女子学生が現われましてね。われわれも、一緒にやらせて貰ったけれども、鶴井さんや私は刺身のつまですよ。石山さん、着いたときはだいぶお腹がでてたのが、いいタイミングで歓迎下痢症《ウエルカム・ボウエル》をやったものだから、すっかりスマートになっちゃったしね」
マニラ・ポロ・クラブで、石山は、白いフィリッピン娘のレオノール・アランフェスの一行と一緒にプレイをすることになった。
レオノールは、フィリッピン大学の仲間のアメリカ人留学生や、混血度の高いフィリッピン人など三人の男女とテニスをしにやってきたのであった。
「しかし石山君も現金なもんですよ」
鶴井が、酒の酔いに顔を赤くして、説明した。
「そのレオノールとかいう可愛い子ちゃんと打つときは、ボールを撫でるようなサーブをするんですよ、ボールを打ち返すときも、力抜いて、バレエでも踊るような打ちかたをするもんだから、まるで、ボールが打てますか、打てますかって可愛い子ちゃんにお伺いを立ててる感じでね、へなへなと羽根でも生えたぐあいに、ボールが申しわけなさそうにうなだれてね、打っていただきに飛んでゆくんです」
「それが試合になると、凄いんだからね」
フランクも合いの手を入れた。
「そうなんだよな。途中で、そのレオノールって子と石山君が組んで、アメリカ人の男の子とフィリッピンの女の子のペアと試合したんですね。ところが今度は石山君、大奮闘でね、もの凄いサーブ入れるわ、猛烈なポーチをやってボールを拾いまくるわ、ハッスルしましてね、その可愛い子ちゃんがまたそつなくて、石山君がきめるたんびにナイス・パッシング、ナイス・スマッシュなんて賞めそやすもんだから、いよいよ調子に乗って、あっという間に米比連合軍を負かしてしまった。まあ、ありゃ、大日本帝国万歳で痛快だったけどな」
鶴井は、最後に穏《おだ》やかでないことをいった。
「私も、根がスポーツ好きですから、大学の頃はテニスもずいぶんやったんですけどね、今日、あの子に会ったら、派手なぴらぴらしたテニス服着てましてね」
頭をかきかき、石山は説明した。
レオノールは、痩せた細身の娘と石山はおもっていたのだが、外人娘によくある例で、テニス服のような格好になると、女らしい躰の線が目立った。特にその日は意外な胸の豊かさが目を惹く、襟の切れこみが深い服を着ていた。
それでも乱打をしているうちはよかったが、試合をしようということになって、サーブを打つべく身がまえると、どうにもぐあいのわるいことになった。レオノールは恐ろしく真剣な表情で、ラケットを両手で持ち、躰を小刻みに左右に揺すって、石山の打球を待っているのだが、前かがみになるものだから、乳房がこぼれだしそうな、あわやという感じになる。
レオノールの白い腕、腿《もも》、胸もと、すべてがネットの向うで光り輝く感じになって、ごく自然に力が抜けてしまう。鶴井のいうように、羽根の生えたような、へなへなボールしか飛んでゆかないのである。
石山の話を聞いて、皆大笑いした。
「そうか、一緒にペアを組めば、こりゃあ、並ぶわけだから、お嬢さんの胸の辺は眼に入らないわな」
小寺もおもしろそうにいう。
「今度は、相手の連中が眼のやり場に困るわけだ。石山君の組が勝ったのは、きみの技術のせいではなくて、そのお嬢さんの服装のせいじゃないのかね」
石山は、格好の酒の肴になった。
「彼、純情でね、あれだけの美人に会いながら、住所も訊きださないんですよ。そこで自分が、あんた、彼女を帰りに送ってあげなさい、といってね。ほかの仲間を上手にまいて、送らせたんですわ」
フランクが一同に説明した。
テニスが終ったところで、皆でプール・サイドのスナックにゆき、サン・ミゲルを飲んだが、石山たち鴻田貿易組が、夕食の約束があるので失礼するというと、レオノールも、今夜は、母と一緒に親類の家にゆくので帰る、と席を立った。
すかさずアメリカ人の留学生が「送ってゆこう」と席を立ちかけたが、フランクがうまくいなして、石山のヒルマン・ハンパーで送るよう、アレンジしてしまったのであった。
「この車は、整備仕たての今が一番安全よね」
レオノールは、そういって、車に乗ってきたのだが、おなじフォルベス・パークのヴィレッジのなかだから、ろくに口もきかないうちに、車はレオノールの家、というより屋敷に着いてしまった。
戦前はともかく、戦後の日本ではとんとみかけないような大邸宅で、門から玄関まで二、三百メートルの馬車道がついている。その向うに平家の建物がどこまで軒を拡げているかわからない感じで建っている。家のおおきさに気おくれしかけたが、
「あの、お宅にお電話入れてもいいですか」
石山は車のドアを開いてやりながら、おもいきって、そういったものであった。
レオノールは、艶を含んだ眼でじっと石山を眺め、
「なぜ、いけないの」
といい、
「紙と、なにか書くもの持ってる?」
と訊ねた。
そこがまた、石山の不器用なところで、テニスをやるというので、手帳もボールペンもなにも持ってきていない。
「弱ったな、紙は名刺しかないし、ボールペンも家に置いてきてしまったんですよ」
財布から名刺を取りだすと、レオノールは、スポーツ用のボストンバッグを掻きまわして、化粧袋から口紅を取りだし、「ちょっとはしたないかな」という意味の英語を呟きながら、石山の名刺に自宅の電話番号を書いてくれた。
レオノールは、
「ちょっと家のプールをみてゆかない。よかったら、今度、泳ぎにきてよ」
という。
馬車道を抜け、例のピンクのムスタングや、キャディラック、ベンツなどが納まったガレージの前を通って、四、五百坪ありそうな前庭にでると、マニラ・ポロ・クラブの五十メートル・プールも顔負けの、おおきな、池のような、変型プールが、満々と水をたたえていた。
そのまえで、レオノールは、興味ありげに石山をみつめ、
「あなた、躰も日本人離れしておおきいけれど、性質も日本人みたいじゃないのね」
などといった。
「東京のホテルに泊って、エレベーターに乗ったりしても、日本の男のひとはどんどん先きに降りちゃうし、足を踏んだりしても、全然謝らないでしょう。あなたは、とっても優しくて、テニスをしても、打ちやすいボールを返してくれるし、車に乗るときも、ちゃんとドアを開けたり閉めたりしてくれる」
「いや、日本人は照れ屋が多いんですよ。皆、女のひとに親切にしてあげたいんだけど、恥かしくてできない。ただ、われわれ若い者になると、大分、日本人も、違うんですけどね」
打ちやすいボールを打ったのは、あなたの、そのテニス服の胸もとに眼が眩《くら》んだからだ、というわけにはゆかない。今も彼女の胸もとになるべく目をやらないようにしているのである。
車の乗り降りにドアを開けてやるのも、下町育ちのうるさい母親にいちいち文句をいわれるからで、それが癖になっただけの話であった。母親は「あたしが降りるときは、うしろからくる車や自転車をちゃんと止めたうえで、ドアを開けとくれ」などと命令するのである。
「それじゃあ、またね」とレオノールは、握手の手を差しだしたが、その手におもいのほか力が入っていて、石山を昂奮させた。
「あれは、私のような、既製服問屋の息子が交際《つきあ》うような相手じゃありませんよ。車庫には超高級車が三、四台入っているしね」
石山が柔らかい手の感触をおもいだしながらいった。
「なあに、結婚するわけでもあるまいし、自信持ってゆけや」
それまで、にやにや笑って聞いていた与田が口をだした。
「おまえはときどき、まごまごして、不器用なところをみせたりするが、女にゃ、そこそこもてるんじゃねえかね。気が優しくて力持ち、ってイメージがあるよ。まあ、タイヤの代りに女の子をおっことしたりしなけりゃ、なんとかゆけますよ」
与田の冷やかしに、また笑声が湧いた。
4
翌日の月曜日、一同は、グラウンド・サーベイのため、ディビラヌエバに向うべく、マニラ空港の国内線の建物に集まった。国内線のターミナルは、国際線の建物より千五百メートルばかり、マニラ市寄りに建っている。
国内線カウンターの前で、車を降りてこちらに向ってくるオノフレ・マーパと現場主任のシソンを眺めながら、与田が、ふいに小寺とフランクに話しかけた。
「あの連中が今まで、日本人と商売しなかったのには、やはり理由があるんですかね。彼らは赤ラワンを中心の材を商売してきたんだが、日本人は、白ラワンしか買わない。だから、ああいう、いいコンセッション持ってる業者がまだ手つかずで残ってた、そういわれりゃ、もっともな話と納得しちまうが、ほんとにそれだけの理由で、あの連中、日本人と商売しなかったのかねえ。だって、ルソンばかりじゃなく、あちこちに、コンセッション持ってんでしょう。それで、なぜ日本と商売しなかったのかねえ」
「うちのような後発企業というのはね、商売相手を探しだすのに無理をせざるを得ませんからね。なんか得体の知れない相手と商売しなくちゃならない場合も、あるんじゃないですか」
小寺が、老成したような声で答えたが、フランクは、気持がいやな予感に揺れ動くのを感じた。
昭和四十五年当時、国内線専門会社のフィリッピナス・オリエント・エアウェイズが、マニラ、カワヤン間の定期便に使用していたのは、フランス製のノール二六二A型という、客席数二十九席の双発プロペラ旅客機である。
オノフレと小寺、与田と石山、鶴井とフランクとならんですわり、シソンだけが、ひとり離れて席を取った。フランクは、窓外の風景がよく見えるように、窓側の席を鶴井に譲ってやった。
鶴井は、
「なんだ、この飛行機のなかは、日本語だらけじゃないか」
とフランクにいった。
なるほど、機内には「ベルト着用」とか「禁煙」「非常口」といった、日本語のサインが、あちこちに散見される。
「この飛行機は、たしか去年かおととしまで、日本の航空会社が使っていたものなんですよ。日本の国内を飛んでいたときの日本語のサインが、そのまま残っているんですな」
とフランクが説明した。
双発の小型旅客機は、ほんの短い距離を滑走して、ふわりと浮かびあがり、三千メートルの高度を取って、一路カワヤンに向って北上した。
フレンドシップに似た、高翼単葉の飛行機だから、視界がよくきいて、眼下には、国道五号線に沿った、美しい水田が、碁盤の目のように拡がっているのが見える。
飛行機が巡航状態に入ってまもなく、フランクは、左手に見える川筋と、その手前の街を指差し、
「あそこに見える川がパンパンガ河といいましてね、その手前にみえるのが、カバナツアン市です」
窓のほうに躰をのりだして、鶴井にそう説明してやった。
「この飛行機の降りるのがカワヤンで、あそこにみえる街がカバナツアンか。どうもフィリッピンの地名は、ややこしくて、覚え難いな」
鶴井がいった。
「自分はね、昭和十九年の夏から、昭和二十年の初めまで、あのカバナツアンにいたんですよ。陸軍貨物廠に動員されて、通訳をしていたんです。しかしじっさいには、憲兵隊の仕事のほうが多かったな」
「へえ、憲兵隊にいたの。しかしどうして、あんな田舎にいたんです」
鶴井は、今更ながら、フランクが自分よりよほど年長者であるらしいことに気づいて、少し言葉遣いが丁寧になった。
「自分の父は、カバナツアンの少し奥のギンバという村の出身でしてね。ギンバにゆけば、祖父や親類の家も多くて安心ですし、それと、私を可愛がってくれた、馬場という憲兵将校がカバナツアン憲兵分隊の隊長をやっていましたからね。おふくろが頼んでくれて、特別にこの地区の貨物廠の軍属にして貰ったんですよ」
佐藤浩が陸軍軍属として、動員されたのは、マニラ日本国民学校と改称した、日本人小学校の高等科一年に進学した昭和十九年の、日本でいえば春のことである。
昭和十九年の正月に、高等科一年に進学した浩たち男子生徒は、それまでの白ワイシャツ、ブルーの半ズボンの小学生姿に代って、カーキいろの長袖シャツ、半ズボンに戦闘帽という、少年兵のような服装で登校していたのだが、戦闘激化に伴い、高等科生徒は、マニラ市および周辺の陸海軍各部隊に動員されることになった。
浩は、学校側の配慮で、父親のルイスが軍属として働いている、陸軍第十四軍野戦貨物廠に動員されて、貨物廠本部のサン・ベーダ大学に通うことになった。
悪戯仲間の白坂は、ケソン市にある海軍部隊に動員され、もしかしたら、ケソン市の部隊宿舎に寝泊りすることになるかもしれない、という話だった。
あの動員先きの決った日の感情の昂揚を、フランクは、昨日のことのように鮮烈におもい起すことができる。
校庭に整列した、満十二歳から十三歳の少年たちは、「佐藤浩、第十四軍野戦貨物廠」というぐあいに、名前を呼ばれて、動員先きを告げられる度に、「はいっ」と頬を真赤にして、精いっぱい声を張りあげた。あの空気は、特攻隊員が指名されるときと、そんなに違わなかったのではないか、と後年、フランクはおもったものだ。
動員先きがきまったあと、担任の篠田先生が、一同の前に進みでた。篠田先生は浩たちが高等科に進んだのちも担任を続けている。
篠田先生は、
「皆は、一生懸命勉強してきたおかげで、国語がちゃんとできるうえにタガログ語が話せる。英語も少しはわかる。言葉が達者だから、動員先きで大事な仕事をまかせられることになるとおもう。全力をつくしてお国のために頑張りなさい」
おおきな声で生徒たちを励ました。
「失敗を恐れずに自分から進んで、どんどん仕事をするんだ。しかし不慣れな仕事に従事するのだから、失敗することもあるだろう。失敗したときは上のひとの所に行って素直に謝ることだ。こういう態度が一番大事だぞ」
考えてみれば、先生は「全力を尽せ、そして失敗したときは素直に詫びろ」と繰り返し生徒にいっていたような気がする。
最後に篠田先生は、
「皆、ご両親から受け継いだ躰を大事にしなさい、たとえ第一線で戦うことになっても、無茶をしてはいけないぞ。もし無駄死でもすれば、ご両親に対して申しわけないことになるんだ」
といった。
気持の優しい篠田先生は、可愛がってきた自分の教え子たちが、恐らくは生死もただならぬ前線に散ってゆくことを予感し、子どもたちの死の予感に耐えかねていたに違いない。
前年の昭和十八年十一月には、マキン、タラワ日本車守備隊が玉砕し、サイパンにも米軍が上陸して、同島守備隊の苦戦も伝えられている。戦争の行手には、ようやく暗雲が立ちこめ始めていた。
しかし少年たちは死の予感を嗅ぎとるどころの話ではなかった。
「校歌斉唱」と篠田先生がいい、戦闘帽の少年たちは校歌を歌ったが、校歌はまるで軍歌でも歌っているような、威勢のいいものになった。
黒潮南にさわげども 日本|つ《ヽ》国ゆるぎなく
君のみいつを仰ぐとき 国民永久に力あり
灼熱荒野を焦せども 図南の翼たわみなく
真紅の御旗かかぐとき 我等の意気のいや高し
校歌斉唱が終ると、級長が「校長先生に敬礼、頭《かしら》あ、なか」と号令をかけた。その甲高い声と一緒に、血管のなかを、激しい感情が逆流してくるのを、浩は覚えた。
校長の脇で、篠田先生は、相変らず青い顔をしたまま、軽く長髪の頭を下げた。
下校するとき、校門のまえで、かつて兵隊ごっこをやった悪童連中を集めて、餓鬼大将の白坂は、
「米軍が上陸してきたら、ひとり残らず大平洋にたたきおとしてやろう」
と格好よくいったものだ。
「今日から、おれたちは征《い》ってきます、といっちゃいけないんだ。くる、というのは、帰ってくることだろう。おれたちは、征きますといわなくちゃいけない」
少年たちは、口をそろえて「征きます」といい、挙手の敬礼を交わし合った。陸軍に動員された者は、肘《ひじ》を張った陸軍式の敬礼をし、白坂のように海軍に動員された者は、肘を張らない海軍式の敬礼をした。
挙手の礼に、陸軍式と海軍式の別があることなど、戦時下の少年たちにとっては、常識だったのである。
その次に山中で会ったとき、白坂は声がでないくらいに、衰弱していたから、彼の元気な声を聞いたのは、このときが最後だった、ということになる。
──明日からおれは無茶苦茶にやってやるぞ。でてこい、ニミッツ、マッカーサーだ。地獄の底へ逆落しだぞ。
浩は、昂奮し、スキップを踏みながら、学校の裏の家に帰った。
じっさい、マラカニアン宮殿に近いサン・ベーダ大学に本拠を置いた、第十四軍野戦貨物廠での生活は、浩の期待を裏切らなかった。
第十四軍野戦貨物廠は、兵器廠の扱う武器類と自動車廠の扱う車輛類を除いた軍需物資全般、衣類、食糧、医薬品、事務用品などの調達にあたる部隊で、正式名称を一〇六八二部隊という。
野戦貨物廠のもっとも重要な仕事は、|NAR《ナリツ》|IC《ク》という、現地の食糧公団を通じての米の確保にあったが、そのほか、マニラ東南方八十キロのタール湖付近に大農場を作って、大根や白菜、人参などの日本の野菜の栽培にあたったり、内地の銚子醤油という会社から技術者を呼んで、椰子《やし》のしぼり滓《かす》を原料として味噌を作ったり、魚からアミノ酸醤油を製造したりしていた。
比島憲兵隊の馬場中尉が、日本内地の八丁味噌を恋しがっていたのは、この椰子の油の臭いのする味噌汁を毎日飲まされていたためである。
浩の仕事は、レクト通りの刑務所の前にあった、NARICの本部に行って、米の調達交渉の通訳をやったり、パシグ河をはさんで、イントラムーロスの真向いにある、河口倉庫にでかけて食糧の搬入、積出しを指揮する兵隊の通訳をやったり、漁業組合を訪ねて魚類購入の交渉の通訳をやる、という、十二歳の少年にしては、ずいぶん重要な仕事をやらされた。
ときにはエルボという、軍靴を作っている会社にゆくこともあった。またサン・ミゲルのビール工場にでかけ、大日本ビール会社から派遣された技師の通訳をやることもあった。
第一線の実戦部隊で働けないのが不満といえば不満だったが、自分が重用されている、という意識があるから、浩は、毎朝、サン・ベーダ大学一階の貨物廠調達部に通うのが楽しくて仕方がなかった。
父親のルイスは、日本軍部と比島人の双方から深い信頼を受けていて、自然、その息子の浩も可愛がられることになる。しかも貨物廠所属の将校は、一般大学から陸軍経理学校に進んだ者ばかりだし、兵士は教練より一般事務に能力のある連中が中心だから、温厚な人柄の人物が多く、皆、親切にしてくれた。帰りがけには、よく呼び止められて、
「佐藤、これをお母さんに持ってゆけ」
とバギオの農園でとれた日本|葱《ねぎ》を貰って帰ったりしたものであった。
この平和が壊れるのは、貨物廠を警備する第十四軍からの派遣中隊が交代してからである。
食糧、医薬品、あらゆる物資が不足し、盗難の横行し始めたこの国で、野戦貨物廠のサン・ベーダ大学を初め、市内四カ所の倉庫を警備するのは次第に重要な仕事になりつつあったが、警備担当の中隊が突然、これまでの、リンガエン湾上陸以来、この地に駐屯している部隊から新着の部隊に変った。
ある日、衛兵がそれまでの、髭をきれいに剃り、ときに派手な柄物のシャツを着たりして、すっかりこの土地に馴染んでいた兵隊から、見慣れない鍾馗《しようき》のように髭を生やし、くたびれた、長袖の軍服姿の兵士に替って、浩は驚いたが、この部隊は北支や中支を転戦の末、フィリッピンに転属されてきた、いわゆる「精強部隊」だったのである。
サン・ベーダ大学の正面には、パリのノートル・ダム寺院をおもわせる、角形の美しい塔がふたつ、立っていて、当時はその一階が食堂になっていた。
暑い午後、その食堂で、例の椰子のしぼり滓の味噌汁と骨っぽい魚の昼食を終えたとき、貨物廠総務部の若い下士官が浩のところにやってきて、弱ったように、いが栗頭を掻き、
「勤務中隊が、今朝、捕えたこそ泥の取調べをやるんで、通訳をよこせ、といっとるんだが、今日は皆出払って、だれもおらんのだ。佐藤、ちょっと行ってきてくれんか」
まるい眼鏡の向うの眼を伏せていう。
「部長は、盗難の取調べに少年軍属をだしてはいかん、といわれてるんだが、おまえのほかにひとがおらんのだよ。勤務中隊は頭ごなしに怒鳴りよるし、おまえ、部長に内緒で、ちょっと行ってきてくれんかね」
こそ泥は、大学構内のプールの向うで、取調べを受ける、という。浩は部屋に戻って戦闘帽をかぶり、大学構内の左手にあたるプールの方角に歩いて行った。
プールの向うにアカシヤの林があり、そのアカシヤの並木に、少年のように若いふたりのフィリッピン人が、後ろ手に縛りつけられている。鍾馗のように髭を生やして、いずれもおなじ顔立ちにみえる新着の勤務中隊の兵士たちが、ふとい木の棒を持って、ふたりを取りまいていた。
ふたりの青年は、兄弟らしく顔立ちがどこか似ていたが、捕えられるときに小銃の床尾で激しく殴打されたとみえ、躰のあちこちから血を流している。特に弟とおぼしい男は、乱打されたボクサーのように顔が腫れあがって、眼がよくみえないらしく、しきりにしばたたいている。
サン・ベーダ大学の体育館は、物資の集積所になっており、勤務中隊も重点的に警戒していたから、この兄弟は飛んで火に入る夏の虫だったのである。
「佐藤軍属、総務部の命令あって通訳に参りました」
浩は、伍長の襟章をつけた下士官に敬礼して、そう申告した。
「少年兵の通訳か」
髭をぼうぼうと生やした下士官は、浩を一|瞥《べつ》すると、
「このふたりはな、今朝がた、ここの体育館の窓をこわして、盗みを働こうとしよってな、うちの隊の不寝番に捕まりよったんだ。私たちは、たしかに泥棒に入りました、わるうございました、こいつらにそう自白させてくれんかな」
と平静な、乾いた声でいう。
言葉のはしばしに、どこか、浩のわからない北国の訛りがあった。
浩が、自分より三つ、四つ年長にみえる、兄のほうのフィリッピン人に近づき、
「|あんた、なにか盗もうとしたんだろう《イニイシツプ・モ・アータン・マグナナカオ》」
タガログ語で訊ねた。
眉の濃く、いろの黒い若者は、浩の顔を睨んでなにもいわない。
「いったい、体育館から、なにを盗もうとしたんだ」
もう一度訊ねたが、若者は黙ったままである。
貨物廠の兵隊や、軍属が遠巻きにしているなかで、浩は質問を繰り返したが、男は黙ったきりである。
「よおし」
と髭面の下士官はいい、頭上に繁ったアカシヤのふとい枝を見あげた。
「このあんちゃんにな、逆さにぶら下って貰って、おまえたち、すこうしいたぶってやれや」
この髭面の男たちは、おなじような真似を北支、中支で反復してきたものに相違なく、じつに手慣れたもので、あっという間に若者を枝に逆さに吊してしまった。逆さに吊したうえで、左右から木の棒でおもいきり殴った。
頑固につぐんでいた青年の口から呻き声がもれ始めたところで、髭面が、「もう一度、訊いてみろ」という。
浩が、逆さにされてどす黒く充血した顔に近づき、タガログ語で質問を繰り返すと、フィリッピン人の青年は、初めて口を開いた。
「盗みに入ろうとした、といえば、許してくれるのか」
この場合の自白は、カトリック教における告解とおなじであった。カトリック教徒である青年にしてみれば、告白をすれば罪は許される、という頭があったに相違ない。
浩は、長浜比島憲兵隊司令官の「七擒七縦《しちきんしちじゆう》」をおもいだし、さらにコロちゃんの父親が実際に釈放されたことをおもいだした。
「私たちは、たしかに泥棒をしようと考えました、わるい考えを起しました、許してください、そういえば、日本軍は許してくれるよ」
と答えた。
逆さに吊された青年は、苦しそうに息を吐きながら、
「妹とおふくろがマラリヤで倒れてな。薬《ガモツト》が欲しくて、弟と一緒に体育館にある薬を盗もうとしたんだ。たしかにわるいことをした」
と自白した。
浩は、この自白を丁寧な日本語に直して、髭面に報告したのだが、髭面は顔いろも変えずに、「簡単に自白しおって、わりに根性のないやっちゃな。自白を聞いた以上、死んで貰わにゃしょうがない。だれか銃剣術のうまいやつにいって、楽に死なせてやろう」
告白すれば当然許される、というフィリッピン青年の期待、そして浩の「七擒七縦」への期待も裏切った、まるで次元の違う発想をしたのである。
若い兵士が三八式歩兵銃に着剣するのをみて、若いフィリッピンの青年は、事態を察したとみえ、
「|裏切り者《マカビーリ》、この悪魔野郎《デイモーニヨ・カ》」
と浩に向って怒鳴った。
「|きさま、許さんぞ《ヒンデイ・キタ・パタタワリン》」
髭面伍長は落ち着きはらったもので、着剣した兵士に向って、
「ぶら下っているやつを突くにゃあ、高等技術が要るぞ。だれかに後ろから、この捕虜をブランコして貰ってな、こっちへ振れてきたときに突けや」
と指示を与えている。
わめき散らしながら、「ブランコ」してきた捕虜の胸を、やはり髭面の兵士は、銃剣術の模範演技のように確実に突き刺し、鮮血が、指で口を締めたホースの水のように吹きだし、逆さに吊された若者の顎から顔を染めあげてゆく。
浩は、恐怖のあまり、躰を震わせて、傍らのアカシヤの幹に凭《よ》りかかったが、鍾馗の群は平然たるもので、死体を取りおろしながら、
「おれたちの小便みたいに血《つ》が出るなあ。チャンコロと比べて、土人のほうが血の出がいいんでねえか」
「おふくろが、マラリヤといってたべ。土人でもマラリヤにかかるんかなあ」
などと話している。
社会体験、軍隊体験が豊富らしい下士官と違って、兵士たちの会話は東北弁まるだしであった。
髭面の下士官は、
「弟のほうが根性があるみたいだな。弟をプールに漬けて、もうちっとしぼってみろや。それでも自白しなかったら、根性買って逃してやったらええよ」
とまた不思議な発想をして、好意的な微笑を浩に向けた。
「坊主や。おまえも、上陸に備えて、教練を勉強しといたほうがいいぞ。勤務中隊のほうに遊びにこい」
そういって、兵士たちが浩と年の違わないこそ泥の弟のほうの頭を、プールの水に突っこんでいる傍を平然と通り過ぎて行った。
プールの青い水のなかでは、少年の黒い長い髪が、夢のなかの出来ごとのように揺れ動いており、浩はアカシヤの幹の根もとにくずおれたまま、長いこと身動きできなかった。
「こら、漬け過ぎたな。死んじまったんでねえか」
しばらくして兵隊がのんびりした声でそういうのが、これも夢の中の声のように聞えた。
その夜、帰宅した浩は、青い顔をして食堂にすわりこんだまま、なにも喉《のど》を通らなかった。
父親は出張して、家にいない。弟たちが二階の寝室に引き揚げてゆくと、
「どうしたの、おまえ、なにがあったの」
と母親が訊く。
問われるままに、浩が話しだすと、母親の|とき《ヽヽ》は、両手で顔をおおい、声を殺して泣き始めた。
馬場中尉が部屋に入ってきたのは、そのときである。
馬場中尉は、最近では、案内も請わずに家族の一員のようにごく自然に一階の居間兼食堂に入ってくる。ありあわせのお菜で食事をしたり、日本式の風呂に入ったり浩の家に入り浸りといっていい状態で、同僚や当番兵を連れてくることも多かった。
「ちょっとご報告しなくちゃならんことがありましてね」
大声をあげて部屋に入ってきた馬場中尉は、両手を顔にあてている母親を眼にして、居間の入口で棒立ちになった。
「馬場さん、日本の兵隊はひどいじゃないの。親孝行のフィリッピン人の子どもを殺して。それに」
と母親は泣きじゃくった。
「それに、そんな拷問の通訳を浩みたいな子どもにさせて、その眼のまえで、人殺しをするなんて、鬼じゃないの。可哀相に、この子はショックを受けてご飯が喉を通らないのよ」
馬場中尉には、すぐに察しがついたようであった。
「おまえ、勤務中隊の通訳、やらされたんだな」
かすれた声でいった。
「馬場さん、日本人はいつから鬼になったの。ねえ、いつからあの優しい日本人が鬼になったのよ」
母親は半狂乱になって叫び、その声が浩を我にかえらせた。浩は立ちあがって、いっかな泣き止まぬ母親の肩に手をおいて、
「お母さん、あの連中は日本人じゃないんだよ。日本人があんなに髭を生やしたりしないよね。あれは、日本人じゃなくて、きっとクマソの血をひいたひとたちなんだよ」
そう慰めた。その瞬間、浩の視界の端で馬場中尉の顔がゆがむのがみえた。
馬場中尉は目のあたりを横撫でして、椅子に腰をおろし、
「お母さん、こらえてください。日本人にもいろいろな人間がいるんです。ながいこと戦争をやって気が狂ってしまった連中も大勢おるんですよ。いや、大部分がそうなんです」
といった。
それから声の調子を変えて、
「お母さん、馬場は、今度、大尉に昇進して、カバナツアンにゆくことになりました」
努めて明るい声でいう。
「カバナツアンの憲兵分隊長をやることになったんです。あそこはギンバにも近いし、貨物廠の分隊もあるから、浩が、カバナツアンで働けるよう、運動しましょう」
明るい声音とは無関係に馬場中尉の目からは、相変らず、涙が流れ続けている。
当時の馬場中尉は、憲兵隊の現実と「王道政治」の理想との間で板ばさみになっていて、懊悩していたに違いなく、その懊悩が涙になって吹きでたのだろう。
「あそこなら、私が浩に変な通訳など、絶対やらせませんよ」
涙を流しながら、中尉はそればかりを繰り返した。
5
カバナツアンへの出発が近づいたある日、浩は、馬場大尉と一緒に、アベニーダ・リサール七四九番地の岸本写真館へ記念写真を撮りに行った。
ちょうど土曜日の午後で、岸本写真館は、入口まで記念写真を撮りにきた、日本の兵士たちであふれていた。
入口に自動車を入れる|たたき《ヽヽヽ》があり、そのたたきの奥に、二階に昇る階段があって、二階に待合室や、写場と呼ばれる記念写真の撮影場があるのだが、撮影の順番を待つ兵士が待合室にも入りきれず、階段に立って煙草を吸っていた。
兵士たちが馬場大尉の姿をみて、いっせいに直立不動の姿勢を取って敬礼するなかを、二階の受付けまで上ったのだが、受付けの中国人の男が、
「将校さんを待たせることできない。すぐ写します」
と巧みな日本語でいう。
「それはいかん。順番は順番だ」
と馬場大尉は、憲兵の金色六光章をみて、直立不動の姿勢をくずさない、待合室の兵士たちを見まわしながら、いった。
「浩、この写真館の入口に切り紙細工をやる爺さんがいたな。切り紙細工をやって貰って順番を待とう」
順番がきたら、知らせてくれ、と中国人の受付けに頼んで、ふたりは、再び階段を降りた。撮影場の入口には、フィリッピン人の老人が、まるい木の椅子にすわり、机に肘を置いて、所在なげに街路を眺めている。
「お爺さん、ぼくたちの顔を切り紙細工で切ってくれませんか」
浩はタガログ語で、老人に頼んだ。
老人は頷《うなず》いて「どうぞ、どうぞ」と椅子を勧めて、まず浩をすわらせ、袋から写真の焼きつけのときに残る、黒い紙片を取りだした。小さい鋏を使って、あっという間に戦闘帽をかぶった浩の横顔を黒い紙に切りだした。
次に馬場大尉がすわって、横顔を老人に向けて、切り紙細工にして貰っていると、よく糊のきいた、花模様のワンピースを着た美千代が、二階の階段を駆け降りてきた。
美千代のあとから、誠と充のふたりの弟も降りてくる。ふたりとも日本人小学校の生徒で、浩とは顔見知りである。
美千代は、弟ふたりを後ろに従える感じで背中をまっすぐ伸ばして近づいてきた。
「馬場中尉殿、今日は」
と挨拶してから、すかさず襟の階級章に目をやった。
「おめでとうございます。大尉に昇進されたんですね」
いかにもおしゃまな感じでいった。
「浩から、私のことを聞いていたのか。それにしても頭のよさそうな子だな」
馬場大尉は、驚いた顔をした。
「この岸本写真館の子で、日本人小学校の一年下級生です」
浩はちょっと威張って、「一年下級生」などという言葉を使って、美千代を紹介した。美千代は落ち着いたもので、
「チャンさんのお父さんを助けていただいて、ありがとうございました」
とまたまた生意気な口をきいた。
「チャンさんのお母さんが泣いて喜んでいました」
馬場大尉は、少女の意外な礼の言葉に一瞬躰を固くした。それから顔がみるみる赤くなった。
「浩の一年下級生というと、小学六年生か。ずいぶんしっかりした六年生だな。戦地の大和《やまと》撫子《なでしこ》は、こうでなくちゃいかん」
浩は、嬉しくなって、
「この子のお母さんは、大東亜戦争が始まってすぐに病気で亡くなったんですよ。それでこの子が、女中や|洗濯おんな《ラバンデーラ》にいろいろ命令して、お父さんや弟ふたりの面倒をみてるんです」
と説明した。
「ほう、えらいな」
と馬場大尉は感心して、
「そういえば、浩が憲兵隊本部にきたとき、表で待っていたのは、この子だったか」
といった。
馬場大尉は、ひそかに浩がだれと一緒に憲兵隊にやってきたのか、観察していたようであった。
まもなく受付けの中国人が駆け降りてきて、撮影の順番がきたことを知らせた。
撮影は、美千代の父親がやってくれたが、
「どうもお待たせしましてご迷惑をおかけしました。土曜、日曜は、陸軍さん、海軍さんのお陰で食事をする閑もないくらいでして」
と丁重に謝った。
「奥さんを亡くされたそうですが、お嬢さんがしっかりしておられて結構ですな」
馬場大尉は美千代のことを父親にも賞めた。
浩は、岸本親子の眼を意識して、
「馬場さん、日本刀を持たせてください」
そうはしゃいだものである。
踏ん張った両足の間に、馬場大尉の軍刀を立てて、威張った態度で撮ったのが、今もフランク・ベンジャミン家のサラ・ルームの額ぶちのなかにひそかに納められている馬場大尉との記念写真である。
馬場大尉は、カバナツアン転任への置き土産に、野戦貨物廠の勤務中隊にお灸をすえて行ったとみえ、その後、窃盗の懲罰は、サン・ベーダ大学の構内では行われなくなった。
しかしフィリッピン一般民衆の生活の窮迫はつのる一方で、それに比例して、野戦貨物廠の四カ所の倉庫、サン・ベーダ大学構内の物資集積所に対する窃盗はうなぎ上りに増えて行った。
窃盗未遂の兄弟を虐殺した、髭の伍長は、その後、西野という名前と知ったが、この典型的下士官は、なぜか、浩を可愛がってくれて、本部の玄関前で会ったりすると、
「坊主、中隊へきて、茶でも飲んでゆけ」
と声をかけてくる。
そして気の進まない浩に有無をいわさず、サン・ベーダ大学の正面にある、ハイ・スクールのなかに駐屯している勤務中隊へ連れて行ったりする。
ハイ・スクールの構内には、浩が、フォート・サンチャゴの憲兵隊マニラ南分隊で嗅いだような匂いが、いつも漂っていた。
構内の立木や柱には、窃盗犯のフィリッピン人が縛りつけられて、血と糞尿を垂れ流していた。いずれも拷問のために、顔が腫れあがり、ふた目とみられぬ人相に変っている。浩は、人間の傷が臭う、ということを初めて知った。
この悪臭の漂うなかで、そろって髭面の兵士たちは平然と談笑し、浩に向って、
「おまえの小学一年の教科書は、どんな文句から始まったんかね。ハナ、ハト、マメ、マスか、それともサイタ、サイタ、サクラガサイタかね」
などとのどかな声で訊ねるのであった。
浩の両親、特に母親の|とき《ヽヽ》は、息子が拷問の通訳をやらされはしないか、ひどく心配し、「駄目な日本人になってしまう」と繰り返していたが、ひとりで総務部長を訪ねて、野戦貨物廠カバナツアン分隊に転属してくれるよう、頼みこんだ。
馬場大尉もカバナツアンで運動してくれていたらしく、すぐに話がまとまり、昭和十九年夏、浩は大尉より数カ月遅れて、野戦貨物廠カバナツアン分隊に転属になった。
カバナツアンはマニラから北に百十六キロ、国道五号線上にある町だが、カバナツアンの手前に、サンタ・ローザという小さな町があり、そこに食糧公団《ナリツク》のおおきな倉庫があって、ルソン中部平原で生産された米は、すべてここに集積される。このサンタ・ローザの倉庫への米の搬入、搬出の監督が、野戦貨物廠カバナツアン分隊の仕事であった。
カバナツアンの思い出は、市場の床に緑の敷物を敷いたように散らばった、フィリッピン産のレモン、カラマンシーの実とともに始まる。
このカラマンシーはうすく切って紅茶に入れたりもするが、浩の母親はカラマンシーを水に溶き、髪を洗うと、最後にこの水ですすいでいた。今の時代のリンスのような髪を柔らかくする効き目があったらしい。
ゲリラの襲撃に備えて、運転台の屋根に機銃を据えつけたトラックに乗って、カバナツアンに入った浩は、すぐにカバナツアン憲兵分隊の詰所に馬場大尉を訪ねた。
カバナツアン憲兵分隊は、市の中央市場の前、現在は歯科医院になっている場所にあったが、浩が詰所の前に差しかかると、往来に面した大部屋の事務所から馬場大尉が飛びだしてきた。
「やあ、きたな、浩」と大尉は相好をくずしていい、詰所のなかのだれかが、「大尉殿の恋人《ラバ》さん、やっとお着きですな」とひやかして、事務所の憲兵たちがどっと笑った。どうやら大尉は、事務所をうろうろと歩きまわって、浩の到着を待ちかねていたらしかった。
「浩、夜は憲兵隊宿舎のおれの部屋に泊れ。おまえがくると聞いて、部屋にもうひとつベッドを入れさせたからな」
とにかく街を案内してやる、と馬場大尉はいって、浩を伴って表にでた。
「ここの市場は、マニラの市場も顔負けなくらい、おおきいぞ」
馬場大尉は、自分のことのように自慢して、おおきな倉庫のなかに、小さな店がびっしり軒をならべている、スペインふうの市場に入った。
「ここは田舎だから、マニラと違ってまだまだ、物があるんだよ。インフレで物価はあがっているがね」
馬場大尉のいうとおり、魚屋、鶏肉屋、八百屋、いずれの店先きにも、品物があふれている。
店の親父やお内儀が「コンニチハ」と馬場大尉に声をかけ、大尉は丁寧にいちいち挙手の礼を返していた。
鶏肉屋の店先きには、竹で編んだ、四角の犬小屋のような籠が置いてあって、そのなかに生きた鶏が数十羽入れられている。
日本のと違って、ここの鶏は空を飛ぶから、頑丈な籠に入れておかないと、どこかへ飛び去ってしまうのである。
浩は、母親の見様見真似で、その籠に手を突っこみ、鶏の腿を握って肥りぐあいを調べてみたりしたが、ふと気がつくと馬場大尉は、十数メートル先きの、斜め向い側の店先きをじっとみつめている。
斜め向いに八百屋があって、その店先きにふたりの日本の兵士がいる。兵士たちはそれぞれ、おおきなパパイヤを両腕にかかえこむところであった。
ここのパパイヤは、ピーマンをおおきくしたような吊り鐘型をしていて、おおきさが西瓜やかぼちゃほどもあるのが特徴である。
「今日は、|お代をお支払いいただけんでしょうか《マパヤーラン・ニニニヨ・バ・ガヨン》」
白髪の親父が、眉を寄せ、タガログ語で懇願している。
ふたりの兵士は、まったく耳に入らぬふうを装って見向きだにしない。軍袴のポケットがふくらんでおり、そこにも果物を詰めこんでいるらしかった。
店の親父は、ふたりの正面にまわってなおも懇願したが、兵士は耳を貸さない。兵士のひとりが親父を押しのける拍子に、おおきなパパイヤが地面に落ちて、割れ目が入った。兵士はそのパパイヤを蹴とばし、代りに平台に積んである、ほかの新しいのを取りあげた。市場のあちこちから、ため息に似た声がもれる。
「ぎゃあぎゃあわめきよって、うるさいな、このじじい」
「払わんとはいっとらんのよ。九十九年貸せ、いっとるんだ」
ふたりの兵士は、小馬鹿にした薄笑いをうかべ、親父を押しのけて、倉庫のような市場の入口へ歩きだしたが、その行手に馬場大尉が立ちはだかった。
「おまえら、金を払ってこい」
馬場大尉の襟章をみて、ふたりの顔におびえのいろが走ったが、兵士のひとりが、
「自分たちは、金は払っております」
狡猾に笑っていう。襟に上等兵の階級章をつけており、いかにも内務班ずれした古兵、といった印象である。
「なめた口をきくな。先刻からおれはおまえたちのやりとりをちゃんと見とったんだぞ。金を払ってこい」
「いやね、大尉殿」
急にぞんざいな馴れ馴れしい口調になって、上等兵は、馬場大尉の顔をみあげた。
「大尉殿は着任されたばかりで、ご存知ないとおもいますが、軍票で払ったって、こいつら、軍票はだめだと抜かしておって受け取りゃせんのです。止むを得ず、われわれは徴発しとるんですよ」
その言葉をさえぎって、
「気をつけい」
と馬場大尉は叫んだ。
「軍人は信義を重んずべし、という勅諭の精神をおまえたちは忘れたか。相手が軍票を受けとらんのなら、物を買うな。そのパパイヤを返してこい」
ふたりは、ふてくされた顔をして、なかなか動こうとしない。
「おまえら、返す気がおきんのなら、こちらにも覚悟はあるぞ」
馬場大尉は、突然腰の拳銃に手をかけた。ふたりの兵士は、さすがに青くなってあとずさりをした。
あとずさりをする兵士の尻が、平台に山積みにされた果物の山に触れ、カラマンシーがこぼれ落ち、通路いっぱいに散らばった。そのあおりを受けて、隣りのきいろいカラバオ・マンゴーの山も通路にくずれ落ち、店の親父が悲鳴をあげた。
マンゴーは果皮と果肉が柔らかく傷つきやすいのである。
「おまえたち、こぼれた果物を拾え」
馬場大尉は、相変らず腰の拳銃に右手をかけていう。
ふたりの兵士は、パパイヤを平台に返し、地面を這いまわって、落ちたカラマンシーとマンゴーを拾った。拾いおわると、眼を伏せたまま、ならんで立った。
「よし、隊に帰れ。今度見つけたら、憲兵隊にきて貰うからな」
悄然と立ち去る兵士をみおくった馬場大尉は、浩を手招きしながら、ポケットから金をとりだした。
「浩、これは傷ものになったマンゴーの代金だ、といってくれ」
浩が通訳したが、親父は恐ろしそうな顔をして手をださない。
すると、「|お父さん《タータイ》、|お金はいただきましょうよ《タンガツピン・ナーテイン・アン・ペラ》」という声がして、果物の山のかげから、きいろい派手な衣裳を着た、若い女が顔をだして金を受けとった。
店主の娘なのだろうか、目鼻立ちのはっきりした顔に赤い口紅がいかにもはなやかな感じを与える娘であった。
──アメリカ的な女だな。
戦時少年の浩はおもった。
6
ディビラヌエバの伐採権《コンセツシヨン》地を視察にゆく一行が乗ったフィリッピナス・オリエント・エアウェイズの定期便は、マニラを出発後、三十分ほどで、カワヤンの飛行場に着陸した。
カワヤンの飛行場からタクシーに乗って、街外れの、畑の真中にある、小型機用の狭い飛行場に行った。
小さな格納庫のまえで、石山が、「こんなところから、飛行機が上れるのかね」と周囲を眺めていると、格納庫のなかで打ち合わせをしていたフランクが社長の与田とならんで一緒に戻ってきて、
「石山さん、手製の飛行機に乗ってくれるかね」
いくぶんいいにくそうな口調で頼んだ。
「手製の飛行機って、つまりハンド・メイドってことですか」
石山は驚いて訊ねた。
「まあ、そういうことだな。実はシッパー側が、ここの小さな会社に頼んで、セスナを二機用意するよう手配したらしいんだよ。ところが、セスナ二機のうち一機が故障して使えないっていうんだね。代りにこの会社の用意してくれたのが、手製の飛行機なんだよ」
セスナには、売り手のオノフレ、買い手の与田、仲介者の小寺、鶴井、それにフランクが乗る。
手製の飛行機のほうには、シソンと石山が乗ることになった、という。
「自分が一緒に乗ればいいんだけど、地形をよくみたり、エア・サーベイにも参加して欲しい、と社長がいうんですね」
少し気の毒そうにいう。
──なんだ、おれは買い手の会社から出向してきてるんだぞ。需要家≠ニいうやつなんだぞ。ハンド・メイドの飛行機には、売り手サイドの鶴井が乗ればいいじゃないか。
石山は、そうおもったが、石山の腹を見透かしたように、与田が、
「おれが皆さんにお願いしてな、おまえに手製の飛行機に乗って貰うことにしたんだ。そりゃ、おまえ、公平に見て、飛行機の落ちた場合、いちばん壊れにくいのは、おまえだもんな。こういっちゃあ、なんだが、佐藤さんじゃ、ちょっと躰の|でき《ヽヽ》が心配だわな」
そう口を挟んだ。
やがて格納庫から引きだされてきた、手製の飛行機というのは、やはりなんとなく心細くなる代物だった。
低翼、単葉、固定脚で、翼は金属製だが、胴体は木製で、ほかの自家用機から転用してきた翼のうえに、手作りの合板製の胴を乗っけた感じであった。
石山は念のために航空局の許可を取ってあるのか、と訊ねたが、操縦士の頷きかたはすこぶる曖昧で、眼をすぐに外らしたのも気に食わなかった。
石山の不安に気づいたのか、小寺がやってきて、石山の背中を強く叩いた。
「石山君、この飛行機は見かけは悪いが、今まで事故を起したことはないそうだよ。パイロットも、フィリッピンの航空隊にいた男だというし、気楽にゆこう、気楽に」
真顔でいう。
「所長、真面目な顔でそんなことをいわれると、ほんとに人生、これでお終いなのか、なんておもっちまいますよ」
石山が応じて、一同、大笑いをした。
「おまえも合板屋で働いてんだからね、こういう合板で作った飛行機には率先して乗ってみなくちゃいけねえよ」
悪ふざけの好きな与田が、そういって胸のポケットから、お守りをだした。
「おまえ、どうせおふくろさんのくれたお守りなんぞ、どこかへやっちまったんだろう。俺の成田不動のお守りを貸してやるわ。おまえ、割と事件の多い男だからな、万一ってことがないとは限らねえよ。用心するに越したこたあないよ」
そういって、石山の胸のポケットにお守りを突っこんだ。
結局、セスナ搭乗組に見守られて、石山とフィリッピン人の現場主任の乗ったハンド・メイド組が、先発することになった。
「石山さん、別に特攻隊を志願したわけじゃないんだからさ、安心して」
フランクまでが、そんなことをいう。
「しかし、皆に見送られちゃって、なんかこのムードは特攻隊の出発そっくりだね。帽子だけは振らないでくださいよ」
石山は、特攻隊をテーマにした、映画やテレビ番組をおもいだしていった。
ハンド・メイドの飛行機は、まるで日本の襖《ふすま》のような引戸式のドアが胴体についていて、まことに冴えない。
「どうも零戦に乗るのと違って格好わるいね、この入口は。駕籠に乗るみたいだな」
入口のまえで、石山はそういって皆をもう一度笑わせた。
座席は、戦時中の艦上攻撃機のように、座席が三つ、縦にならんでついているが、胴の幅がせまいから、大男の石山には窮屈なことおびただしい。シート・ベルトときたら、これが子どものおぶいひものような、汚い布きれなのであった。
おまけに前にすわった操縦士が足もとを指差して、「踏むな」という。
足もとの合板の床をみると、両足の外側に前方から後方へとマニラ麻の綱が張ってある。おどろいたことに、これが尾翼の方向舵などを操る操縦索なのである。
「今、スチールのワイヤーをマニラの会社に頼んでいるんだが、まだ着かなくてね」
嘘かほんとか、弁解がましく、パイロットはそういった。
それでもよたよたと飛び立った「ハンド・メイド」は、ちゃんと高度を取り、意外に揺れもせず、東海岸を目指して飛んでゆく。
問題は、東海岸に沿って連なる、標高千六百メートルから千八百メートルのシェラマードレ山脈を飛び越すことなのだが、山脈すれすれに飛んでゆくと、雨が降りだし、呆れたことにエンジンの後ろあたりで、雨もりがするらしく、足もとの厚さ五・五ミリとおぼしい床の上を、前方から後方へ水が流れ始めた。
──雨もりがする飛行機に乗せられるとは、おれも、冴えない人生を送ってるよなあ。
石山は、おおきな躰を縮め、靴の爪先きを立てて、雨もりの水が靴に滲《し》みこまないようにしていた。といって、足をみだりに動かせば、麻の操縦索に触れて、飛行機の進路が外れ、シェラマードレの山脈に激突することにもなりかねないのである。
どうにかシェラマードレを飛び越すと、雲が切れて、急に視界がおおきく開けた。陽の光が差してきて、「ハンド・メイド」は徐々に下降し始めた。
「みろよ、あれがうちのコンセッションだよ」
後ろの金壷眼の現場主任が、肩を叩いて教えてくれる。
「旋回して、もう少し、ゆっくりみられませんかね」
石山は、手で旋回する真似をして、そう現場主任に頼んでみた。
「この飛行機じゃ、無理だろうな。なにしろ麻を使っているからな。旋回したりすると、麻が切れちまうんじゃないかね」
現場主任は、足もとの操縦索を指差して、首を振った。
「あそこへ降りるよ」
短い芝生の生えている、海岸を示して、今度はパイロットがいった。
なんだか、がさがさと音を立てる感じで、「ハンド・メイド」は着陸し、石山はほっとして表にでたのだが、驚いたことに、短い芝生とみえたのは、丈が一メートル以上もある、すすきの原なのであった。
おなじ頃、すぐ上空を飛ぶセスナの機上は昂奮に包まれていた。
「この下一帯が、私の会社、PITICOのコンセッションです」
オノフレは、皆にそういって、機体の下を指差した。
海岸に沿ったシェラマードレの支脈のうえをセスナは飛んでおり、直下には、広大な森林地帯が拡がっている。
「あのカリフラワーみたいな木がラワンですよ」
オノフレの指先きを追って、最初に素っ頓狂な声をあげたのは、与田である。
「おや、あそこにもカリフラワーがある。すぐそこにもあるな。こりゃカリフラワーだらけだね。こいつはいけるぜ」
「すごいな」
と小寺も唸り、
「フランク君、写真を撮ってくれよ」
と頼んだ。
フランクは、さかんにシャッターを切ったが、彼自身、カリフラワー状のラワン材の意外な数量に、次第に昂奮し始めた。
機上から写した写真を、現代の発達した特殊なレンズで眺めれば、そのコンセッションに生えている材の数量はもちろん形状、高さ、さらには材質まで相当程度、判断することができるようになっている。
いずれにしろ、量の点では、注目すべきコンセッションであることは間違いなかった。
セスナは何回も旋回したあと、コンセッションから海へ出て、さらにコンセッションのなかを流れるブランコ川に沿って飛んだりしたが、その度に機上では、新しい歓声があがった。
鴻田調査団一行は、海岸に建てられているPITICOの宿舎で、簡単な昼食を取ってから、二手に分れた。
所長の小寺は与田に付き添って、再びセスナに乗り、カワヤンに帰って一泊したのち、翌日のマニラ行の便を捉えることになった。与田としては、エア・サーベイ(空中調査)を丹念にやり、コンセッションの全容をほぼ掴んだので、あとは石山にまかせることにしたのであった。
簡単ながらグラウンド・サーベイ(地上調査)をやるとなると、夜間に冷えこむ山中に野宿せねばならず、体力のある若手でないと、なかなか無理で、小寺が、この際、若手にまかせるよう、与田を説得したのである。
「すばらしいコンセッションを見せていただいてありがとう」
小寺はオノフレに礼をいい、与田と一緒に飛びたっていった。現地に残ったフランク、石山、鶴井の三人は、オノフレと金壷眼の現場主任、シソンに案内され、四台のジープを連ねて、コンセッションに向った。
食糧、飲物を携えたフィリッピン人の現場作業員、十名を伴った大部隊である。
しばらく海岸に沿って進んだのち、海岸に迫ってそびえるシェラマードレの山塊に向って、西に折れこんだ。
山道に折れこんだ途端、道路ぎわの藪のなかから、背の低い、裸の原住民の女が、子どもの手を引いて現われ、石山や鶴井を驚かせた。女はチョコレートいろの輝くような肌を露わにしていて、極彩色の布を腰に巻いていた。
「ネグリート族の親子だよ」
フランクは、ふたりに教えてやった。
「足の指をみてごらん。裸足で育った連中はああいうぐあいに、足の指が開いてしまうんだ。八つ手の葉みたいだろう」
「なるほど、手と区別がつかないような足ですね」
石山が大袈裟に感心した。
「フィリッピン人の階級は、足をみればわかるんだ。小さいときから靴を履いて育った人間と裸足で育った人間とでは、足の形が違うんだよ」
山道を半分近く登ったとき、先頭のジープが停り、オノフレとシソンが降りてきて、フランクたちの乗る二台目のジープに近寄ってきた。
「道は、山のうえまでついているがね、このあたりから歩いて、サーベイして貰いたいんだ。海岸からこっちは全部、うちのコンセッションなんでね」
金壷眼のシソンがおおきな身ぶりでいう。
かなり詳細な資料がオノフレから提出されているので、グラウンド・サーベイといっても、提出された資料を確認するのが目的の調査である。白紙から資料を作りあげる調査とは違うし、エア・サーベイも行っているので、その点は気楽であった。
フランク、石山、鶴井とも長ズボンに長袖のジャンパーを着て、厚手のズックの靴を履いて、山歩きの格好を整えていた。一同はジープを降り、リュックサックを背負って、山にわけ入った。
オノフレと石山がそれぞれ持参のコンパスで西の方向を測定し、オノフレが先頭に立って、真西に向った。道などない山林なので、作業員に山刀で下草や枝を払わせ、道を拓かせて山頂目指して登ってゆくのである。真西に方向を取ったものの、腰まである下草がびっしり繁り、藤蔓のたれた密林が深くて、ときどき迂回しては、西に方向を取り直すことになった。
密林の深い箇所では、陽の光も充分にとどかず、海底を歩いている感じになる。
約百メートルおきに石山は立ち止り、その間眼にした樹種、樹相などをまとめてノートに記録していった。
「この辺は、やっぱり台風の影響を受けているんだな。ラワンの形がよくないね」
大学で、林学を専攻した鶴井が呟いた。
この東海岸に面した山肌には、一ヘクタールあたり、五、六本のラワンが生えていたが、カリフラワーをおおきくしたような、ラワン独特の美しい形を保っている木は、まったく見当らなかった。
いずれも台風の影響をまともに受けて、幹がまがったり、カリフラワーの傘の部分にあたる、クラウンの形がわるかったりした。クラウンの下の力枝が折れている木もあった。
「力枝ね、あの、アンダー・ブランチが折れている木は上のほうから腐れが入っている場合が多いんじゃないですか」
石山が訊ね、鶴井が頷いた。
日本語の会話の内容を察したのか、シソンが近寄ってきて、
「山を越えれば、ラワンの質はよくなる。台風の影響がなくなるからね」
しきりにそう説明する。
頂上に近づくに従い、密林は疎林に変り、ずっと歩きやすくなった。
やがて七、八百メートルの山の尾根に出た。振り向くと、風がさわさわと密林を揺すって這いあがってきて、木の間がくれにみえる太平洋の青が目にしみるようである。
今度は台風があたらないはずの西斜面を降ることになったが、しかし西斜面に生えたラワンも、シソンのいうほど美しいかたちを保っていなかった。
やっとかなりかたちのいいラワンがみつかると、シソンの発案で、フィリッピン人の現場作業員が発動機のついた|電気鋸 《でんきのこぎり》チェーンソーで、試しに伐《き》ってくれることになった。
木が倒れたとたんに、ごおんと鐘でもついたような、いやな反響がして、臭い匂いが鼻にきた。近寄ってみると、内部が腐っていて、水が、腐った赤い木口からあふれだしている。
オノフレは、げじげじ眉を寄せて腐った木口を眺めたが、相変わらず押し黙っていて、別段、弁解するでもない。すぐにコンパスを睨《にら》み、先頭に立って歩き出した。
西斜面を降り始めて暫くして、石山が、
「あっ、変なものが食いついてる」
と悲鳴のような声を上げた。
フランクが近寄ってみると、石山がジャンパーとシャツをめくって、腹のあたりを剥きだしにしている。肉づきのいい、石山の腹に糸状の、茶褐色の虫が数匹ぶら下っていた。血を吸っているらしく、糸状の虫がたちまち毛虫ほどにふくれあがってゆく。
「ああ、山ヒルだよ」
フランクは見慣れているような口調でいった。
山ヒルは、繊維を通して、衣服のなかに入りこんでくるのである。
フランクは、周囲の木を見まわし、
「この松林がくせものだな。松があると、ヒルが多いんだ。皆、少し離れよう」
そういったので、一行はそのまま十数メートル山裾のほうに降りた。立ち止った石山が指先きで、血を吸った山ヒルを抜こうとすると、
「いかん、手で抜いたりしちゃいかん」
フランクが大声で制した。
「手で抜くと、ヒルの頭が肉と一緒に抜けてきて、血が止らなくなるんだ」
フランクはいって、煙草に火をつけ、煙草の火で山ヒルを一匹ずつ尾のほうから焼き殺した。
「ここからずっと南の方角にね、北アンチポロというところがあって、そこにはすごいヒルの谷があるんだね。戦争中、自分は顔から足からヒルをつららみたいにぶら下げて逃げたことがあるよ」
再び歩きだすと、オノフレがフランクの傍に寄ってきた。「ミスタ・サトウ、あんたは、ヒルの殺しかたをよく知ってるな」
と足もとに眼をおとしたまま、囁くようにいう。
「山歩きしたことのある者なら、だれでも知ってることでしょう」
「しかし、あんたは、今度初めて丸太の仕事に手をつけるようになったんだろう。今まで機械の仕事やってたのに、こんなこと、よく知ってたな」
執拗に話しかけてくる。
「趣味として、私は山歩きをするのが好きなんでね」
オノフレの前では、常に日本人として振舞ってきたフランクは、なんとか、その場をつくろった。
暫くすると、オノフレは、
「先刻、アンチポロとかいっていたが、あんた、あっちのほうにいたことがあるのかね」
また訊ねた。
フランクは、行手を眺めたまま、黙って首を振った。
「あれは日本軍が逃げこんだところだったよな」
オノフレは呟いた。
西斜面を降りてゆく一行は、まもなく見晴し台のような場所にでて、おもわず歓声をあげた。
林におおわれた、なだらかな台地が、眼下いっぱいに拡がり、そのあちこちに、ラワンがひときわたかく、天に向って、みどりの傘を拡げている。エア・サーベイのとき、
「あそこにも、ここにもカリフラワーがあるぞ」と一行が大騒ぎして眺めたのは、この台地だったのである。
「どの木も、クラウンがコンパクトにまとまっているようだな」
鶴井が冷静な声でいった。
クラウンがおおきいと、風の影響を受けやすくて、丸太の芯に割れが入ったりする場合が少くないのである。
一行は台地を真西に横切ってゆき、フランクも鶴井もはずんだ声で、ラワンを中心に、視認した樹種を石山に報告し、石山も「はいな、はいな」と威勢のいい返事をしてノートに記録していった。
台地には、あちこちに繁みがあり、そこからラワンが天を目指して伸びていたが、地面は滑らかで歩きやすく、足どりもひとりでにはずんでゆく気がする。
夕刻、ブランコ川、という幅十数メートルの川のほとりにでて、その夜はその河畔に泊ることになった。
十人のフィリッピン人の現地作業員は、すでに河畔に先着していて、今夜泊る仮小屋を作ったり、焚火をして湯を沸かしたりしていた。
頑丈な木で四本の柱を立て、地面より一段高く、細い木をならべて床を張り、椰子や、日本の朴《ほお》の木の葉に似たおおきな葉を使って、簡単な屋根を葺《ふ》いたりして、なかなか器用な手順で小屋を三つばかり、作ってゆく。床には粗朶《そだ》を敷き詰め、これが畳かベッドの役をするらしい。
寝所、ときめられた小屋のまえで、フランクは、リュックサックから、新聞紙や油紙のような厚い紙を取りだして、鶴井と石山に手渡した。
「夜は露が降りて冷えるからね、セーターやジャンパーを着て寝るんだが、そのときに、この新聞紙を躰のなかにまきこむといい。新聞紙一枚で、ずいぶん違うよ」
「へえ、新聞紙、着るのか。こりゃ、戦中派の発想だねえ」
新聞紙を受けとりながら、鶴井がいった。
「佐藤さんは、いやに山の生活に詳しいですね」
石山が感心してみせた。
「子どもの頃の話だが、もうちょっと南の山んなかで、おれは八カ月ばかり暮したことがあるからな。毎日人が死んで、ひどい生活だったが、山暮しのノウ・ハウは、まだ覚えてるんだよ」
フランクは、そういいながら、背後に視線を感じて、振り向いた。
オノフレがじっとこちらを眺めていたが、すぐに作業員を指揮して、サン・ミゲルの壜《びん》を川に漬けさせ始めた。
ルソンの雨期の到来には、まだ間があるが、川にはすでに相当量の水が、かなりの速さで流れている。
フランクは、オノフレが去るのを待って、河畔に歩み寄り、
「ここから海まで、川の長さは、どのくらいあるかね」
仮小屋を作るのに使った木の枝を片づけている、フィリッピン人の現場作業員に向って、タガログ語で訊いた。
「そうさな、だいぶ途中でまがってるからな、五、六マイルはあるんじゃねえかね」
そのあと、雨期には、水量がどのくらい増すか、などという話をした。
食事は、子豚《レ》|の炭《チヨ》|焼き《ン》が用意してあって、野外の食事にしては、なかなか豪華なものであった。
「ミスタ・オデラとミスタ・ヨダが、先きに帰ってしまって、残念ですね」
オノフレは、サン・ミゲルを飲みながら、相変らず無表情な顔でいう。
「これから、いくらでも会食のチャンスはあるでしょう。とにかくふたりともエア・サーベイの結果には、えらく満足してましたよ」
フランクがレチョンを突っつく手を休めて、そう応じた。石山も鶴井もサーベイの結果にすっかり満足しており、おかげで酒が美味いらしく、しきりにグラスを乾している。
貧しくて、ふだん酒を飲む余裕のない現場作業員たちは、ビールを数杯飲んだだけで、たちまち酔ってしまい、河畔に、もうひとつ焚火を燃やして、そのまわりでギターを弾き、歌を唄い始めた。
シソンがおもいがけない質問をしたのは、レチョンの食事を終えて、フランクが飲み物をブランディに切りかえた頃であった。
「ミスタ・サトウ、先刻、小耳にはさんだんだが、あんた、馬鹿にタガログ語がうまいね。あんたは、ほんとうに日本人なのかね」
フランクは、しまった、とおもった。フランクはオノフレの所在にばかり気を取られていたが、このシソンがすぐ近くにいて、フランクと現場作業員の会話を立ち聞きしていたらしい。
「父親はフィリッピン人だったが、母親は、日本人だよ」
いずれはわかってしまうことと考え、度胸をきめて、フランクはさらりと答えた。
障害のある左手をだらりと膝のうえに置いて、ビールの紙コップを口に運んでいたオノフレが、ぴたりと動きを止めるのが視野の端に映った。
「このひとはね、語学の達人ですよ」
鶴井がシソンに向って口を開いた。
「日本語は完璧だし、英語もアメリカ訛りのすごい発音ですしね。タガログ語も完璧じゃないんですか」
シソンがオノフレのほうをちらりと見て、
「へえ、そうかね」
なにか含むところのある感じで頷いてみせた。
酔いもまわったのだろう、鶴井は図に乗った感じになった。
「なにしろ、子どもの時分から、日本語とタガログ語の通訳をやってたそうですからね。それも|憲 兵 隊《ミリタリー・ポリス》の通訳、やっていた、というんだから、驚きますよ」
薪が火のなかで爆《は》ぜる音が、不吉な前兆めいて闇夜におおきく響いた。石山がじっと眼を凝らして、フランクの表情を窺っている。
「ミリタリー・ポリス? ケンペイのことか」
さきほどから口を閉ざし、話に耳を傾けていたオノフレがゆっくり顔をあげ、いやに低い声で訊ねた。
その低い声を聞いた途端に、フランクはすべてを悟った気持になった。オノフレに初めて会って以来、漠然と感じていた不安、打ち消し、打ち消ししてきた不安は、まごうかたない事実だったという気がした。
「いや、自分は|憲 兵 隊《ミリタリー・ポリス》の通訳じゃなかったですよ。自分は野戦貨物廠《サプライ・オフイス》の通訳をしていたのでね」
フランクは、微笑しながら、穏やかにそう弁解した。
「だけど、飛行機のなかで、あんたは憲兵隊の仕事をしていた、そういってたじゃないですか」
鶴井は、オノフレがどうして機嫌をわるくしたのか、わからないらしく、すっかりうろたえて、しどろもどろの英語で、フランクに対してそういいつのった。
「そりゃ、正確じゃない。正確にはね、自分は、憲兵隊の将校をよく知っていた、それでときどき非公式に仕事を手伝った、そういうことなんです」
フランクが、英語で鶴井にそう説明し始めたとき、突然、闇夜に白く泡を撒《ま》き散らしながら、ビール壜がまっすぐにフランクに向って飛んできた。
フランクが首をすくめて辛うじて避けると、壜は、後方の木にぶつかり、激しい音を立てて割れた。
「きさま、裏切り者め」
オノフレが、左手をだらりとたらしたまま、よろよろと立ちあがった。左に傾けた首といい、焚火の火を映して赤く光る、げじげじ眉毛の下の眼といい、不気味な姿であった。
オノフレは、焚火の裾の炭を踏みしだきながら、ゆっくりフランクに近づいてきた。
「日本軍の犬め。おれは、きさまのようなやつが、一番憎いんだ」
叫ぶなり、いきなりフランクに飛びかかった。フランクが仰向けに倒れたところへ、のしかかり、達者な方の右手で喉《のど》を締めつけてくる。フランクは、両手でオノフレの躰をはね返そうと懸命にもがいた。不自由な左手の指が、不気味な虫の触手のようにフランクの頬を冷たく撫であげ、フランクはあやうく悲鳴をあげそうになった。
シソンと石山が、オノフレに飛びついた。ふたりはオノフレを羽交い締めにするようにして、強引にフランクから引き離すと、焚火から数メートル離れた地点に連れて行ってすわらせた。
「きさま、フィリッピン人を何人殺した。いや、何人殺す手助けをした」
すわりこんだオノフレは肩で息をしながら、フランクに向って右手の人差し指を突きつけてわめいた。
「馬鹿ないいがかりは止してくれ。あなたが戦争でひどい目に会ったのには同情するがね、おれは、フィリッピン人を殺すような真似は、いっさいしとらんよ。いや、フィリッピン人を助けようと全力を挙げて努力したんだ」
フランクも肩で息を吐きながら怒鳴り返し、オノフレを睨んだ。
シソンと石山は、いずれも中腰になって、オノフレの傍らに立っていて、オノフレの動きを警戒している。
やがてオノフレは視線を外らし、
「少し、向うで休んでくる」
そういいおいて、河畔のほうにふらふらと歩いて行った。
現場作業員が酔っぱらって、ごろごろ寝ころがっているあたりにゆき、あたりに棄ててあったサン・ミゲルの空き壜を取りあげて、川原の石に、猛烈な勢いでたたきつけた。寝ころがっている作業員のひとりが驚いたように起きあがって、オノフレをみつめた。
しかしオノフレは、委細かまわず、あたりに散らばっている空き壜を次々と拾いあげては、何事か叫びながら、川原の石にたたきつける。
「うちの社長はな、南ルソンのダエトにあった金山の持主の息子だったんだよ」
シソンが、焚火の向うから、中腰のまま、低い声で説明した。
「おれもおなじ金山の技術者の息子だったから、よく覚えているが、戦争が始まって、レガスピーに日本軍が上陸してな、あっという間にダエトにやってきた。そして裏山に金塊を隠していたのがみつかっちまった。ただ金塊を隠匿《いんとく》していたというだけの理由で、金山の社長夫婦、つまりミスタ・マーパの両親と兄さんはな、日本刀で首を斬られて殺された」
川原ではオノフレがサン・ミゲルの空き壜を手にふらふらと石をもとめてさ迷い歩いている。手頃の石を探しあてると、長髪を振り乱し、奇声を発して壜を叩きつけた。壜の割れる音は南国の闇のなかに、ばかにおおきく反響した。
「あのひとも、首を斬られかけたんだが、まだ子どもだったんで、日本刀を振るう兵隊の手もとが狂ったんだな。首の筋肉と神経を斬っただけで、なぜか止めてしまった。それて不具になりはしたが、命は助かったんだ」
焚火の焔のいろを反射しているシソンの顔が、一瞬引きつった。
「おれの親父も共犯者と疑われて、首を斬られた。まあ、一家殺されたミスタ・マーパに比べれば、いい方だよ。親父ひとり殺されて、おれと母親は助かったんだから」
そういって、ゆっくり立ち上った。
シソンは、父子二代続けて、マーパ家の世話になっているようであった。
「下手人はわかっているんだ。日本帝国陸軍、第十六師団、歩兵第三十三聯隊の兵隊だ」
いい捨てて、シソンは、相変らず、河原をさまよい歩いては空き壜を石に叩きつけているオノフレのほうに歩いていった。オノフレの背後にしゃがみこみ、首のまがった背中に向って何事か話しかけている。
やはり、オノフレがこれまで日本人と商売しなかったのには、相応の理由があったのである。
「おい、フランク、あんたがうちにいることが商売にプラスになるのか、マイナスになるのか、よくわからんねえ。こんな感情問題引き起すんなら、マニラに残ってて貰ったほうがプラスじゃなかったかな」
さいぜんまで、終始すくんだようにすわり込んでいた鶴井が、いきなり、いらだたし気に口をきった。
「おれたちだけでやりゃあできる商売も、あんたがいるおかげでこわれちまうよ」
「それはいい過ぎでしょう。鶴井さん。この程度のコンセッションはいくらでもみつかりますよ。相手のでようによってはこんな話、こっちから蹴とばしてやりましょう」
見かねたように石山がとりなした。
夜中に、フランクは、隣りに寝ていた石山に起された。
「なんだ、背中が痛くて眠れないのか」
フランクは、いった。
丸太をならべたうえに、粗朶を敷き、そのうえにありったけの衣類を着て寝ているのだが、躰を動かす度に粗朶が音を立てるし、粗朶を通して、固い丸太が背中にあたったりして、寝苦しいことおびただしい。
「違いますよ。とにかく起きて見てください」
フランクは、素肌に巻きつけている新聞紙をごそごそいわせ、毛布を横にはらって、起きあがった。
石山は、大袈裟にスキーのヤッケを着こみ、頭巾をすっぽりかぶって、忍者のような格好をしている。
やはり素肌に新聞紙を巻きこんでいるので、躰を動かす度に、おおきな音がする。
「あそこに赤い火が、ふたつならんでいるでしょう。先刻、小便に起きてから、どうも気になりましてね」
頭巾のなかから、眼を光らせていう。
ほかのふたつの小屋のうち、遠い小屋の傍に、赤い火がふたつ、宙に浮いている。ときどき、それは上方に浮かびあがって、強く光る。
「あれは煙草の火だよ。オノフレとシソンが、小屋の外で煙草を吸ってるんじゃないか」
ふたりの男の、ひそやかなタガログ語の会話が、聞えてくる気がする。
闇のどこかで、南国の鳥が奇怪な叫び声を立てていて、フランクの背筋を、寒気に似たものが走り抜けた。
「なんだ、煙草の火ですか。それにしても気味がわるいな。こっちを襲ってきたりしないでしょうな」
「やつら、感情的だからな。しかしそれほど連中も馬鹿じゃあるまい」
フランクは自分にいい聞かせるように呟いた。
──自分のせいで、折角、グラウンド・サーベイにまでこぎつけた、この商売もこわれてしまうかもしれない。
オノフレとシソンの密談は、商売キャンセルの密談ではないのか。商売がこわれるようなことになれば、鶴井がいうように、フランクの責任、ということになるに違いない。
フランクは、首を振って、再び粗朶のうえに横になった。
──それにしても煙草の火か。まるでカバナツアンのゲリラじゃないか。
フランクのカバナツアンの思い出には、いつも、この煙草の火がまつわりついている。それは篠田先生が教えてくれた、八代海の不知火《しらぬい》を想像させる、不気味な火のいろであった。
7
じっさい、カバナツアンに駐屯していた馬場大尉の背後には、いつも怪しい火が点々と九州、八代海の不知火のように乱れ動いていた。
馬場大尉は、相変らず正義派ぶりを発揮して、食糧難から、軍規乱れ、次第に窃盗、強奪が常習化しつつある比島派遣軍の兵士に対し、強硬な態度で臨んでいた。
三十人の分隊員を督励して、カバナツアン周辺をたえず巡回させ、窃盗じみた行為をみつけると、容赦なく摘発し、悪質者は留置した。
戦時中、マニラにあった日本大使、村田省蔵は、「時|恰《あたか》も軍票の価値極度に低下し、物価の奔騰僻遠の地に及び、軍としては到底其価格を以て物資の購入を為すを得ず、遂に強制買入の方法を採るの止むを得ざるに至る」「為に大部隊の通過により一夜にして沿道部落を空虚ならしめたる例少なからず」と戦後に記している。
馬場大尉は、この通過部隊による略奪をもっとも警戒し、部隊の通過の際は、自ら車を駆って警戒にあたり、また野戦貨物廠の分遣隊にやってきて、通過部隊に食糧を調達してくれるよう、頼んだりした。
通過部隊の重なるときは、市場の有力者と話をつけて、市場を閉鎖してしまうことさえあった。
ある午後、貨物廠の仕事が閑で、市場の前の憲兵分隊の詰所に入りびたっていた浩を伴って、馬場大尉は、オンボロフォードで、巡察にでた。
浩が聞いたところでは、この巡察にしても、憲兵分隊長自身がでかける例は少いらしいのだが、血気盛んな馬場大尉は毎日のように、率先巡察にでかけたものだった。
カバナツアンから国道を外れ、タルラックにでる舗装していない田舎道を走っていると、陸軍の兵隊が数人、フィリッピン人ともみ合っている。
兵士たちは、フィリッピン人の若夫婦と、おおきな白豚をのせたリヤカーを真中にして激しく争っている。争いに夢中になって、大尉の車の近づくのにも気づかず、兵士たちは、強引にリヤカーをひっぱって、持ち去ろうとする様子であった。
みすぼらしい身なりのフィリッピン人の若夫婦は、悲鳴をあげ、特に細君のほうは、激しく泣き叫びながら、豚の乗ったリヤカーの後ろに取りすがっていた。夫婦の、裸の足が地面に引きずられて、盛んに土ぼこりをあげている。
「車を停めてくれ」
運転している伍長にいって、車を彼らの傍に停めさせ、馬場大尉がドアを開いて降りたつと、兵士たちは、泡を食って、握っていた梶棒を放し、その反動で、若夫婦がよろけ、リヤカーのなかの、まるまると肥えた白い豚が後足を折って尻もちをついた。
「浩、その夫婦にな、事情を訊いてみろ」
浩がタガログ語で、訳を訊いたのだが、若夫婦は、種つけ豚を借りてきて、自分たちの働いている農場まで運んでゆく途中だ、という。なるべく人目につかないように、間道を選んで歩いてきて、最後にこの道路にでたところ、待ち受けていたように、日本兵が現われ、豚を奪おうとしたのだ、という。
「これは、ほんとうに種つけ豚かね」
「そうですね。私は、ギンバの親類で何度もみたことがありますけど、あそこがおおきいですからね」
浩は豚の股を指差していった。
種つけ豚の股間には、おおきな、赤い睾丸がぶら下っており、開戦直後ギンバの田舎にいた頃、浩は親類の子どもたちと一緒に、おもしろがってこの睾丸を眺めに行ったものであった。
「おまえたち、自分の家族が、おなじ目に会ったらどうする。この比島人の夫婦が、おまえたちの兄さんや姉さん、いや、おまえたち自身だったらどうする。そこへアメリカ兵が現われて、大事な種つけ豚を強奪しようとしたら、どうする」
馬場大尉は顔を赤くして、兵士たちを詰問した。
「おまえたちは、比島人の身になり代って、ものを考えることができないんだ。今夜自分の腹だけいっぱいになりゃあいい、それしか考えていないんだ」
兵士たちは、格好だけは直立不動の姿勢を取っていたが、ふてくされた気持が、はっきり顔にうかびあがっていた。
マニラの憲兵隊司令部で、意のままにならぬ仕事をやってきた反動か、馬場大尉は、カバナツアン赴任後、とかく書生くさい言動が目立ったが、むろんこういう書生論は現実的な考えかたしかしない兵士には通用しない。
他人の身になり代っていたら、敵は殺せず、戦争はできないのである。問題は中部ルソンに進駐している彼らが食糧難で飢えている、という現実なのである。その現実の解決が火急のことであり、他人の身になり代る、などという、つまらぬ仮定の問題を考えている閑はない。
浩は、馬場大尉がまた拳銃に手をかけはしないか、とおもったが、馬場大尉は、「おまえらは第十六師団の中岡大隊だろうが、何中隊だ」と所属部隊名を確かめ、「わかったら、ゆけ」と追い返したに止まった。
結局、その日は馬鹿みたような話で、憲兵分隊の下士官、それに浩、馬場大尉までが、リヤカーを一緒に押してやって、カバナツアンの街外れの農園まで、睾丸のおおきな種つけ豚を若夫婦と一緒に運んでやった。彼らの後方を、憲兵隊の自動車が、いらだたしそうにスピードをおとして、ついてきた。
翌日の昼休み、憲兵分隊の奥にある分隊長室で、浩が馬場大尉と将棋を指していると、受付けの下士官がやってきて、
「エンリケ・ユーソンという現地人が、分隊長殿に面会したいというちょります」という。
馬場大尉と浩が表に出てみると、顎の張った、肥満したフィリッピン人が路上に立っている。
顎の張った男は、
「キャプテン・ババですか。私はエンリケ・ユーソンといいます。昨日は、うちの小作人夫婦が、いろいろ助けていただいたそうで、ありがとうございました」
と礼を述べた。
ユーソンは、日頃、市場の店を守って貰って恐縮している、そのほうのお礼もしたい、と申しでて、馬場大尉を自宅に招待した。
ユーソンは、カバナツアン周辺の大地主のようで、市場の店の権利もほとんど握っているのだ、と自分で説明した。
馬場大尉は、例のごとく「この子を連れて行っていいですか」といい、浩と当番兵を連れてユーソンの自宅に出かけたのであった。
カバナツアンの街外れにある、赤い屋根の広壮なユーソンの家には、意外なお相伴客がいた。
カバナツアンの市場で、八百屋兼果物屋を開いている一家で、浩がカバナツアンに着任した日、日本兵の商品強奪から馬場大尉が救ってやったディアスと看板娘のロージィである。
「ロージィは歌がうまいのでね、今日は歌手としてきて貰いました。親父さんは伴奏役でね」
ユーソンはいう。
ディアス一家も、ユーソンから店の権利を借り、野菜、果物類を供給して貰っているらしい。
馬場大尉は、開戦前、憲兵学校で厳しい英語の訓練を受けたことをかねがね自慢していた。「おれはだいたい人目に立つのは嫌いだから、陸士の成績は苦労して中位におさえていたが、憲兵学校じゃ勉強したぞ。消燈後も便所や廊下に行って、英語ばかり勉強したんだ」そう冗談混りに吹聴していただけに、英会話はなかなかうまく、その日もユーソンやロージィ相手に結構|喋《しやべ》った。
ユーソンは、馬場大尉の行動を逐一心得ているようで、大尉の市場庇護に感謝してフィリッピン産のウィスキーで乾杯を繰り返した。
はっきり覚えているのは、ユーソンが、にこにこ笑いながら、
「日本には裁判制度がないんですか、キャプテン」
と訊ねたことである。
馬場大尉は一度では意味がわからず訊き返し、ユーソンはおなじ質問をタガログ語で繰り返し、浩がしどろもどろの通訳をすることになったから、よく覚えているのである。
「スペインにもアメリカにも、裁判の制度があって、弁護人がでてきて、被告のための弁論を行うことができるが、日本の場合はそうではないようだ。憲兵は好き勝手に人間を捕えて、裁判もなしに、好き勝手にひとを殺してしまうが、あれは近代裁判制度というものが日本には存在しないためではないのか」
多分、そんな意味の質問をした。
馬場大尉は閉口したように狭い額をこすり、
「日本の軍隊にもちゃんと裁判制度はあります。しかし戦時になって、どうしても例外のケースが出てきてしまうんです」
苦しそうに答えていた。
ディアスの親父は、大地主の前で恐縮し、部屋の隅で、緊張してギターを弾いていたが、ロージィは平然と地主夫婦、馬場大尉と当番兵、それに浩のすわる食卓にやってきて、酒を飲みつつ話しかけてくる。
馬場大尉は、浩の親友、白坂の父親が経営している白坂洋服店で作った、白麻の背広を長身にまとい、髪も憲兵の特権で長く伸ばしていたから、ロージィに親近感を与えたらしく、ロージィは馬場大尉の一言一句に敏感に反応して、おおきなゼスチュアで感心してみせたり、はなやかな笑い声をあげたりした。
馬場大尉が英語に詰って、赤くなると、
「シャイなケンペイさん、それでスパイやゲリラが捕えられるの」
などと聞きようによっては、険のある言葉でひやかして、けたたましく笑う。馬場大尉もひやかされるのが、満更でないような、嬉しそうな顔をして照れていた。
宴のなかばに、浩が小用に立つと、便所の窓から火がふたつみっつ、闇に止り、ときに乱れ動くのが眼に入った。
──不知火《しらぬい》ではないのか。
咄嗟に浩は、そうおもった。
九州出身の篠田先生は、八代海の不知火現象をこと細かに教室で説明してくれたものである。
九州、八代海には、景行天皇の時代から、異常な怪火現象がみられ、夜半、火の玉が一線に連なったり、明滅離合したりして話題になっていた。
昭和十年、宮内通可博士が科学的に解明、これは光の異常屈折現象で、遠くの漁《いさ》り火が温度差のおおきい空気中を通過する際に起るもの、と説明した、という。
浩が眼を凝らすと、火の周辺には、人間の輪郭がぼんやり浮きだしている。これは明らかに、人の吸う煙草の火であった。
気をつけて眺めると、広い庭のそこかしこに火は点《とも》っていて、明らかに相当数の人間がこの家を取りまいているのである。
マホガニーの床を張った、広いサラ・ルームに戻ってみると、父親のギターの伴奏で、ロージィが、フィリッピンの民謡「サンパギータ」を唄っていた。
歌いながら濃い眉を寄せ、大袈裟なほど情感をこめるロージィの表情は、むしろ苦しげにみえる。
目をつぶり、髪を振りながら、歌いあげると、首から白いラウンジ・ウェアをまとった胸の辺に官能的な表情が漂った。
「あの娘もずいぶん元気になったな。戦争が始まって、亭主がいなくなっちまったときは、すっかり沈んでいたっけが」
ユーソンが、肥った細君にそうタガログ語で話しかけている。
話の様子では、ロージィは結婚していて、夫はフィリッピン陸軍の将校だったのが、開戦直後に行方不明になったものらしい。
ロージィが切なげに、というより苦しげに閉じた眼を開くと、おおきな両眼の白眼の部分が青味を帯びている感じで、浩は不気味なような印象を受けた。
酔いに顔を赤くし、しきりにロージィに拍手を送っている馬場大尉に向い、浩は、
「ゲリラが、この家を包囲しているみたいですよ」
と囁いた。
馬場大尉は、一瞬、表情を硬くしたが、すぐに、
「そりゃあ、おまえ、ユーソンを護衛しているんだよ。おれたちを襲うためじゃないよ」
こともなげにいった。
それから、答礼が必要と考えたのか、
「|笑わんでください《プリーズ・ドント・ラウフ》」
といって、立ちあがり、馬場大尉は腰に両手をあてて、詩吟をやった。
「鞭声粛々、夜、河を渡る」という漢詩の意味は、浩にもおぼろげにわかり、ゲリラかもしれぬ連中に包囲されているなかで、変な歌を唄うな、と浩はおもった。
その夜、馬場大尉と浩は、憲兵隊の車で、ディアス親娘をカバナツアン市内、アデュアスの小学校の入口にある、木造の家まで送って行った。
この頃の馬場大尉は、自分はフィリッピン人に好かれ、信頼されているとおもいこみ、すっかり自信をつけていた。
カバナツアン市内、アデュアスの小学校には、第十六師団の中岡大隊の一部が駐屯していたが、ある日、馬場大尉が用事がある、というので、一緒にこの小学校を訪れたことがある。
すでに昭和十九年の雨期に入っており、ちょうどスコールのゆき過ぎた直後だったから、広い土の運動場のあちこちに、おおきな水溜りができていて、曇った空を映していた。
校舎近くの地面に、中年のフィリッピン人が手足を縛られ、横倒しになって転がっているのが、助手席にすわっていた浩の目に入った。顔を半分、水溜りに突っこみ、禿げあがった頭から顔まで泥まみれで、例によって撲られたらしく、口から血を流している。車の気配にも、うす目を開くきりであった。
「馬場さん、サイコだよ、サイコがなにかやって、しばられたみたいですよ」
窓から、顔をひっこめ、浩は、そう馬場大尉に報告した。
「サイコ? ああ、ピー屋の客引きか」
その頃、カバナツアンの市場の裏通りに、二階建ての売春宿があり、そこに雇われているフィリッピン人の猫背の小男が、駐屯部隊や貨物廠の派遣分隊に出入りし、兵士たちを店に誘っていた。
さすがに憲兵隊には出入りしないが、馬場大尉も浩も、各部隊で行き合うから、自然に顔見知りになっている。
この小男の客引きには「サイコ」という仇名がついている。滑稽なことに、日本の兵隊は「サイコ」は女遊びを意味するタガログ語と考え、客引きの男のほうは、「サイコ」はおなじ意味の日本語と受けとっていた。
じっさいは、日本の兵士たちが外出する際に発する「さあ、ゆこう」という言葉に由来しており、客引きがそれを女遊びを意味する日本語と勝手に考え、各部隊に出入りする度に、「サイコ、しにこないか、サービスするよ」というぐあいに誘い始めたから、今度は日本兵が、これはタガログ語と誤解してしまったのであった。当時の浩には、ピー屋だの、客引きだのという言葉の意味がおぼろげにわかっているだけだったが、水溜りに転がされたサイコに同情し、「可哀相ですよ。助けてやりましょうよ」と馬場大尉にいった。
「この男は、なにをやったんだ。泥棒でも働いたのか」
車を降りた馬場大尉は、校舎の入口に立っているふたりの兵士に訊いたが、ふたりは顔を見合わせて返事をしない。
「どうした。返事をしろ」
馬場大尉が怒鳴ると、校舎から上等兵がでてきて、
「大尉殿、面目ありません」
という。
みると、数カ月前、ディアスの店で食糧を強奪し、馬場大尉に叱責され、地面に散らばったカラマンシーを拾わされた上等兵である。
上等兵が、照れ笑いをうかべながら、説明したところによると、この男の誘いに応じて、兵士の何人かが、市場裏のピー屋、つまり売春宿にでかけた。しかしそのうちのひとりが性病に罹《かか》って、手痛い目に会ったので、仲介をした、「サイコ」をしぼりあげたのだ、という。
「しかし、もとはといえば、おまえたちが、女を買いにでかけるから起った話だろう。女買いにゆく連中に客引きをしぼりあげる資格なんぞあるのかね。目くそが鼻くそを笑えるか」
正義派の馬場大尉は声を荒げて、いいつのった。
「だいたい野菜を泥棒する兵隊に、ピー屋の客引きをしめあげるなんて真似が、よくできるな」
馬場大尉の言葉の激しさに、上等兵は不服げに頬をふくらませ、仏頂面になった。
結局、サイコの釈放が命ぜられ、兵士が縄を解いた。サイコは、数日間放置されていたとみえ、自由になったものの、足腰が立たなくなってしまって、満足に歩けない。猫背の小男は、広い運動場の土のうえをよろめき歩いたり、這ったりしながら、入口のほうに近づいて行った。まるで濡れそぼった野犬のようにみじめな姿である。
馬場大尉が、用談のある隊長室のほうに消えてゆくと、「ゲリラも捕えねえで、おれたちばかり目の敵にしやがって、なんだ、あの憲兵は」
「てめえは、そこの角の、土人の後家くずれにホの字の癖してな」
兵士の二、三人が悪態をつくのが、運動場で待つ浩の耳に入った。
馬場大尉が、この小学校をでてきた角にある、ディアスの家に、かなりの頻度で通っていたのは、事実であった。
最初のうちは、浩を一緒に連れて行ったが、そのうち、夕食後、「散歩してくる」と称しては、ディアスの家に、週何回かひそかに通い始めた。
ある夜、当番兵が、浩の同居している憲兵分隊宿舎の馬場大尉の部屋に入ってきて、
「浩、例の土人のお色気ねえちゃんのうちへ連れてって貰えんかね。大尉殿の帰りが遅いんで、心配なんだよな」
そういってきたこともあった。
そのときはベッドに寝ころがっていた浩も心配になって当番兵と一緒にディアスの家に向った。
ディアスの家の二階の|貝がら《カービス》の窓に明りがついていて、ロージィがギターを爪弾きして唄うらしい、低い歌声が聞えてくる。
現在でも、フィリッピンの田舎には、|貝がら《カービス》をガラス代りに窓に嵌《は》めこんだ家々が眼につくが、当時はカービスの窓が、ふつうだったのである。
「大尉殿もおやすくないやね」
当番兵が窓をみあげていう。
浩は、しかし家の背後に、不知火に似た火の玉が、ふたつ、みっつ、闇のなかに止っているのをみて、ぞっとした。火の高さからみて、何人かが家の後方にすわりこんで、煙草を吸っているものらしかった。
声をかけると、ロージィの声が響き、暫くして馬場大尉が、軍刀を下げて、でてきた。
「馬場さん、馬場さんはゲリラに狙われているんじゃないの。この家の後ろのほうで煙草の火がちらちらしているよ」
浩はいった。
しかし馬場大尉は、不敵ににやりと笑い、
「おれがゲリラに狙われるわけがないよ。あれはロージィに横恋慕している男たちだろう」
自信満々の態度でいった。
上機嫌に、わざわざ戸口からもれている光のなかに、全身をさらしてみせた。
「みろよ、浩。だれも射ってこないだろう」
会話の内容をどう解釈したのか、二階の窓からランプをかざしてこちらを見下ろしていたロージィが、けたたましい笑い声をあげた。
フィリッピン情勢が、俄《にわ》かに風雲急を告げるのは、昭和十九年九月のことである。
九月二十一、二十二の両日、ミッチャー中将|麾下《きか》の米軍機動部隊は、マニラを奇襲爆撃、十月二十日にはレイテ島に上陸、二十二日には日本軍の捷一号作戦が発動される。
貨物廠カバナツアン分隊長、中岡大隊と交替してカバナツアン付近の広域警備にあたっている百三師団、滝上大隊の副官、それにカバナツアン憲兵分隊長の馬場大尉が、九月のマニラ空襲のあと、マニラのサン・ベーダ大学に赴き「尚武」の一〇六八二部隊と隊名を変えた野戦貨物廠で会議を開いた。
この時点で、日本陸軍はレイテ決戦を全く考慮していない。従来大本営の作戦計画においては、レイテ、ミンダナオなど南部フィリッピンに米軍来攻の場合は、海軍だけで戦い、陸軍は参加しないことになっていた。ルソン島来攻の場合に限り、陸軍は決戦することに決めていた。
フィリッピンに配備されている陸軍兵力が小さく、全|島嶼《とうしよ》の防衛は困難、という前提に立っていたのである。
このため、ルソン島決戦に備え、食糧等、軍需物資の集積を強化することになり、十四方面軍野戦貨物廠は、カバナツアンを基地として、大規模な物資調達を開始することになったのであった。この物資調達については、馬場大尉は、すこぶる不満であった。
サン・ベーダ大学一階の野戦貨物廠の会議室で、馬場大尉は、猛烈な勢いで貨物廠側とやり合い、喧嘩別れ同然の結末になった。
「現地自活、現地調達、糧は敵に拠《よ》ると廠長はいわれるが、現地調達というのは、軍票で物資を購入することです。しかし軍票の通貨価値は下落しているから、住民は嫌がって購入に応じない。そうすると強制買いあげ、ということになる。強制買いあげをやれば、民心は離反する。民心離反したところに米軍が上陸してくれば、どうなるか。全比島住民を敵として戦うことになります。こんな危険な話はない。治安維持にあたる憲兵分隊としては賛成できません」
馬場大尉の声が廊下にまでびんびん響き、廊下で小耳を澄ませている浩をはらはらさせた。
馬場大尉に連れられて、浩もマニラに出張していたのである。
「今、憲兵隊にできることは、住民をいかにゲリラにしないか、それしかないんだ。ゲリラの討伐など、もはや夢です」
馬場大尉はいう。
「少くとも物々交換をやるべきだ。貨物廠が作っている、煙草でもビールでも、靴でもいいじゃないですか。そういう物資を用意すべきなんだ。こういう手当てをしておかないと、わが軍は腹背に敵を迎えて、動きがとれなくなりますぞ」
馬場大尉の大声の非難に対し、事務屋の貨物廠のスタッフが、ぼそぼそと冴えない声で弁解していた。
結局馬場大尉の意見具申も、のれんに腕押しという感じで、一向にらちがあかなかった。
長時間の激論の末、馬場大尉は、ひとりで廠長室をとびだしてくると、
「お母さんに頼んで、風呂に入れて貰うよ。風呂にでもとびこんで、気分変えなきゃ、どうにもならん」
そう浩にいった。
浩は、そのあと、日本人国民学校の教師寮に篠田先生を訪ねた。
「高等科一年、佐藤浩、用事あって参りました。入ってよくありますか」
先生の六畳の部屋の前で、そう怒鳴ると、
「おう、浩か」
声がして、篠田先生がドアを開けてくれた。
「浩も、すっかり陸さんになりきったな」
篠田先生は、そういい、ちょっと照れくさそうな顔をして、浩の陽焼けした顔を眺めた。
先生はひとつしかない木の椅子を浩にすすめ、自分はベッドに腰をおろした。
「先生、船を沈められて、ひと晩泳いだんですってね」
「心配かけたな。マニラにはまだ、浩のような生徒が沢山残っているからな、なんとか帰ってきたいとおもって、一生懸命泳いだよ」
篠田先生は額にかぶさる髪を払いあげていう。
篠田先生は、この春、高等科生徒の動員直後に、マニラ日本人国民学校の生徒約百名を、ほかのふたりの先生と一緒に引率して民間人の便乗を許された最後の輸送船に乗船、日本に帰国させたのである。広島の宇品港に着いたのち、戦時下の日本全国を苦労して旅して、生徒をひとりひとり、肉親や親戚に引き渡してまわったのであった。
その後、マニラに帰るべく輸送船に乗船したが、マニラ行きの船舶の八割が撃沈される時代である。バシー海峡で、米潜水艦の雷撃に会い、一昼夜泳いで、救われたという。
他のふたりの先生は、そのまま行方不明になった。
篠田先生は、若い頃、海軍士官だったために、水泳が巧みで助かったのだ、という噂であった。
「浩、この間白坂が遊びにきたから、あいつにもいっておいたんだが、戦争になったらお父さんやお母さんを守れ。戦争は兵隊にまかせて、おまえたちは非戦闘員のひとたちを守るんだ」
と篠田先生はいったが、この言葉には、自分も軍隊の一員のつもりの浩はひどく不満であった。
先生に別れの挨拶をして、寮を出ると、海軍の彗星《すいせい》艦爆が、脚を引っこめながら、轟音をあげて頭上を飛び立ってゆく。
戦後にロハス・ブールバードと名を変えることになる海岸沿いの「平和」通りも最近、海軍の滑走路に変り、零戦やこの彗星、古い九九式艦爆が、たえず離発着を繰り返している。
──内地に帰りたいやつは帰れ。ここに残った者は、最後のひとりまで、徹底的に戦うからな。
浩は次々と舞いあがり、脚を翼に抱きこんでゆく彗星の機影を見送りながら、唇を噛んだ。
8
フランクとオノフレが激しくやり合った翌朝、鴻田貿易の一行は、衣服の下に巻きこんだ新聞紙をごそごそいわせて起きあがった。
丸太をわたした床に寝たおかげで、あちこちの節々が痛む躰を叩いて、三人は晴れ渡った空の下で、屈伸運動をした。
彼方の小屋からでてきた金壷眼の現場主任のシソンは、
「いい天気だな。今日も暑そうだぞ」
昨夜の騒ぎなどけろりと忘れた顔で、挨拶した。
朝食は、細菌に対する自衛策なのだろう、フライみたいに揚げた目玉焼と牛肉の味噌漬け、それにパラパラの飯を皿に盛ったもので、山中の朝食としては、かなりの豪華版である。一行はこの朝食を現場作業員と一緒に取ったが、オノフレの姿が見えない。
「ミスタ・マーパは、どうしたんです」
石山は、ココナツ・オイルの匂いの強い目玉焼を、いくぶんこわごわの様子で食べながら、シソンに訊いた。
「ミスタ・マーパは、ディビラヌエバの貯木場《ログ・ポンド》に用事があってね、今朝早く、山を降りたよ」
シソンは、こともなげにいう。
朝食後、一行は、今度は、真南に向って歩き始めた。相変らず、疎林地帯が続き、地面も乾いていて、歩くのはそんなに難儀ではない。
昨日と同様、台地のあちこちに形の美しいラワンの木が、眼につく。林学の専門家の鶴井が大声で樹種と樹相、本数を告げ、石山がノートに記録を取っていった。
自分の存在が商売の障害になりつつある、という意識に、睡眠不足の疲労も加わって、フランクの足どりは、どうしても重くなる。気のせいか、鶴井の声がいかにもぶっきら棒に聞え、石山の声も、沈み勝ちのようであった。
午前中、歩き通して、ようやく東海岸に出る道路にでた。ちょうど南側に隣接しているイギリス向けのコンセッションから、赤ラワンを積みだすために作った道路で、前日徒歩で越えてきた山を貫いて、海岸まで通じている、という。
折しも長大なラワン材を積載した巨大なトラックが、土煙りをあげて、彼らを追い抜いていった。ふといラワンを五、六本積んだ荷台の下には、一カ所四輪、都合十六輪のふといタイヤがついていて、まるで機関車が通過してゆく感じであった。
トラックのあとをピン・ワームスという、ラワンにつく虫が群がって、蚊柱のような柱をいくつも作って、追いかけてゆく。ラワン材の樹液を食糧としているので、食糧を追いかけて移動してゆくのである。
この道路と雨期に運搬路になるブランコ川の両方が海岸まで通じているために、運搬道路《ログ・ロード》を新たに作る必要がないわけで、当然、おおきな融資も不要なのである。
「馬鹿みたいな話だわな。こんな条件のいいコンセッション・オーナーとやり合っちまって、商売をパアにしちまうんだからな」
運搬道路を歩きながら、鶴井が、後ろを歩くフランクに聞えよがしに呟く。
「マーパは、頭にきて帰っちまうし、いったい、どの面下げて、木材部長に報告すりゃあ、いいんだ」
隣りを歩いていた石山が、
「そりゃあ、ないでしょう、鶴井さん。だいたい、佐藤さんが陸軍の軍属してた、なんて、余計なことを喋ったのは、鶴井さんじゃないの」
耐えかねたように、赤い顔をして反論した。
「おれは事実を喋っただけだぜ」
鶴井はひっこまない。
「じゃあ、事実なら相手かまわずなにを喋ってもかまわんのですか。それじゃ、私が仮りに今鴻田とこういう丸太の商売してますよ、とほかの商社の連中に喋りまくっても一向かまわん、そういうことですか」
石山が食ってかかり、フランクが、
「石山さん、いいんだよ、止してくれ」
と石山のジャンパーの袖を引っぱった。
「見当違いの比較しちゃいかんよ。それとこれとは問題が違うだろう」
鶴井は鼻で笑って、ずんずん先きに歩いて行った。
雨期を控えた酷暑期の陽の光が、両側からかぶさる木々の間を縫い、おびただしい光の帯になって降り注いでくるのだが、フランクにはその光の帯がうっとうしかった。
まもなく現場作業員の宿舎らしい小屋が見え、そのまえに昨日、東海岸から山中まで彼らをのせてきた、ウィリス社のジープの停っているのが見えた。
小屋で昼食を取り、ジープに分乗して、ラテライト層の赤土の道を、東海岸に向うことになったが、
「ここまできた以上、とにかく貯木場《ログ・ポンド》もみて帰ろうじゃないですか」
石山が提案し、シソンに頼んでみた。
「もちろん、貯木場はみて貰う予定だよ」
シソンは愛想よく応じて、こちらは、商売は商売、戦争の遺恨は遺恨と割り切っているような表情であった。
ジープは、クスコ山の山間《やまあい》の道を越えて海岸にでた。海岸とシェラマードレ山系の間の狭い平地を三、四十分ほど北上してゆくと、前夜、上流の河畔に仮眠した、ブランコ川の河口にぶつかった。
河口の一帯は、かなり広い平地になっており、椰子の疎林のなかに、日本の藁葺《わらぶき》屋根の農家に似た、原住民の家が十数軒建っている。その向うにプレハブ建築のような、事務所らしい建物や、広いベランダのついた、山小屋ふうの宿舎らしい建物が数軒建っていた。
前をゆくジープが徐行し、シソンが振り向いて、
「あれが、ミスタ・マーパの宿舎だよ」
とりわけ小ぎれいな、白壁の平家を指差して、教えた。
河口の向う岸一帯が、おおきく削りとられて、囲ってあり、貯木場になっている。イギリス向けの丸太なのだろう、大量の丸太が貯木場に辛うじて浮いていた。赤ラワンは、白ラワンに比較して、比重が高いので、どうしても沈み勝ちになるのだ。
「貯木場にゆくのには、この渡し舟を使って川を渡るんだよ」
シソンは、川岸に繋いである、底のあさい舟を指差した。東京の外濠あたりにある、アベック愛用のボートによく似た舟である。
「針金を手繰って川を渡りゃあ、いいんだ、簡単だよ」
雨期が間近に迫り、川幅三、四十メートルのブランコ川は水量を増していた。その川の両岸の木を結んで、ふとい針金が川のうえを渡してある。
「ちょっとおっかないけど、渡ってみるとしますか」
石山がいい、三人はリュックサックをジープに置いたまま、ボートに乗りこんだ。
シソンは、メキシコ人のかぶるような、麦藁のとんがり帽子を頭にのせた現場作業員に命じて、三人を向う岸に渡すようにいった。
流れはかなり早いのだが、現場作業員の男は両足をボートの底に踏ん張り、器用に川面に張った針金を手繰ってボートを対岸に向って進ませ始めた。
「イギリスの貨物船は、いつ入ってくるのかね」
「多分二週間先きでしょう。あんまり海に浮かしとくと、虫がついちまいますからね」
フランクは、とんがり帽子の男とそんな話をタガログ語で交わしていたのだが、突然、男の口が半開きになり、驚愕した表情に変わった。
対岸に向っていたボートの舳先《へさ》きがずるずると河口に向ってゆく。とんがり帽子はたたらを踏んであお向けに倒れこんできて、底の浅いボートは、あっという間に転覆した。水しぶきをあげて三人とも水中に投げだされた。
不意を食らって、フランクはしたたかに水を飲んだが、とにかく浮きあがって、数メートル先きを海へ向って流されてゆくボートを追いかけた。
すぐわきに石山が浮きあがり、着衣のままというのに、これは鮮やかなクロールでボートを追いかけてゆく。
ふたりが前後してボートに泳ぎ着き、ほぼ同時に現場作業員が泳ぎ寄ってきた。とんがり帽子をなくし、黒い髪の毛が額に貼りついている。
「いったいどうしたんだ」
フランクが腹をだしたボートに掴まって息をきらしながら、訊ねた。
フィリッピン人の現場作業員は濡れた顔を掌でこすり、これもあえぎあえぎ、
「申しわけないです。川に張った針金が外れちまったんですよ」
という。
ワイヤーが外れたらしい、とフランクが石山に説明すると、石山は、
「戦争中の意趣返しに、仕かけやがったな。川の真中でワイヤー外しやがって、人をおぼれ死にさせようってんでしょう」
ボートの腹にすがったまま、いきり立った。
その間にも、ボートは川の流れに乗せられて、海へとずんずん流されてゆく。
「石山さん、鶴井さんは、どうした」
「わかりませんね。あのひとは、泳げるのかな」
岸へ眼をやると、シソンが流れるボートを追って、血相変えて川原を走っている。
──あの男は、ほんとうにあわてているのか。それとも、企《たくら》みをごま化すためのゼスチュアか。
フランクは考えた。
「三人で岸へ向って、ボートを押してみよう」
フランクは提案し、三人は、ボートの片側に掴まって、岸に向って泳ぎ始めた。しかし着衣のままということもあって、ほとんど効果がない。
「佐藤さん、この川には、鰐《わに》だのピラニアだのはいないんでしょうね」
石山が心配そうな声を出した。
「大学でたくせに妙なことをいいなさんな。ここはルソンだよ。ルソンには鰐はいないよ。ピラニアってのは、南米にしかいない魚だろう」
フランクと石山は、大真面目でそんな会話を交わした。
河口が海に交わるあたりで、ボートはぐるぐると二、三回転した挙句、沖に向って漂い始めた。
──見殺しにされるのではないか。
そうおもいかけたとき、オールを四本つけた、カヌーをおおきくしたような赤いバンカが一隻、海岸の小さな桟橋《さんばし》をでて、こちらにやってきた。
甲板には、シソンが乗っていて、大声で謝りながら、フランクと石山、それに作業員を海中から救いあげようとする。ところが、バンカはカヌーのように船体が細いから、赤い舟自身がひっくり返りそうで、這いあがるのも容易ではない。反対側の海中に現場作業員の男がまわって船に体重をかけたりして、やっとのことで三人が這いあがると、
「なんとも申しわけない。木にひっかけておいた針金が、外れちまったんだよ」
シソンは、青い顔をして、しきりに謝った。
「ミスタ・ツルイはどうした」
とフランクがシソンに訊ねると、
「途中でうまく岸に泳ぎつきました。無事ですよ」という。
赤い舟の帰ってゆく、小さい桟橋の向うには、木造の小屋があって、屋根に白い木製の十字架が立っており、この小さな集落の教会らしかった。
その教会のまえの砂浜に前夜別れたきりのオノフレが首を曲げて立っている。腕を組み、仁王立ちになって、首が曲っているせいで白眼の目立つ眼でこちらを睨んでいた。
──このインディアンの酋長め、はかりやがったな。
初めて、憤怒の感情が、フランクのずぶ濡れの躰のなかをせりあがってきた。
そもそもオノフレが白い十字架のついた教会の前に、立っていることも気に食わない。十字架をかざして、おれを戦争犯罪人として糾弾するつもりか、芝居がかった真似をしやがって、とフランクは、塩の味のする唇を噛んだ。
日本軍に一家惨殺されたオノフレの悲惨な人生に同情するが、その怨恨とこのおれと、なんの関係があるのか。おれに連帯責任があるとしたら、おまえも、戦後、ほしいままに日本の軍人を虐殺したフィリッピン・ゲリラの、あるいは報復の色彩の濃い戦争裁判の責任をとるがいい。
フランクは、カバナツアンでの馬場大尉と過した日々のことを、フィリッピン人を庇護しようと、ふたりで全力を尽した日々のことをおもい起し、ほとんど眼のくらむような怒りに駆られた。
「きさま、ぶちのめしてやる」
フランクは、日本語で低く呟き、舟が桟橋に着き次第、あいつを叩きのめしてやろう、と考えた。オノフレの左に曲げた顔を睨みつけ、舟が着くなり、とびかかろうと身がまえた。
「佐藤さん、ここは一丁、私に任せてください。あのジェロニモ野郎は私がたたんじまいますよ。座ぶとんみたいにふたつ折りにしちまって、そのうえにすわってやらあ」
一見のんびりした性格に見える石山だが、短気な江戸っ子の血が騒ぎだしたのか、濡れた顔を赤くしてぶっそうな台詞《せりふ》を吐いた。
一種殺気を帯びて舟は桟橋に近づき、フランクと石山は、桟橋に跳び移ろうと身がまえた。
その瞬間、気配を感じとったのか、オノフレは身を翻《ひるがえ》して、歩み去り、オノフレの宿舎だという、小ぎれいな白壁の小屋に入ってしまった。
桟橋に跳び移ったふたりが、オノフレを追って駆けだすと、ふいに粗末な教会の横から、鶴井が現われた。
「おれ、川に落ちたとき、眼鏡なくしちゃったんだよ。ふたりで探してくんないかな」
おなじように濡れそぼった鶴井は、眼鏡をかけていない間延びのした顔をしかめて、ぼそぼそという。
「これじゃ仕事どころじゃないよ。道も歩けやしないよ」
シソンが追っかけてきて、
「とにかくそこのゲスト・ハウスに入ってください」
という。
フランクと石山の殺気に似た昂奮ぶりは、シソンにもわかったとみえ、青い顔をして懇願する口ぶりであった。
シソンの案内で、広いベランダの付いたゲスト・ハウスに入り、次々とシャワーを浴びて着がえをした。
幸い野宿するというので、フランクも石山もシャツ、ズボンの着替えはひと通り用意してきている。
本社からの出張者の鶴井だけが、背広を入れた鞄をマニラの事務所に置いてきていて、着替えがない。シソンの長いズボンを借りて、裾を折り返して穿くことになった。
ふだんヨーロッパからくるバイヤー用に使っているらしい、小ぎれいなゲスト・ハウスの居間に落ち着くと、シソンが三人のまえに跪いた。両手を腹のあたりに組み、まるで教会で礼拝する格好である。
「まことに申しわけありません。あれは、私のほうの不手際で、決して故意ではないんですよ。ミスタ・マーパも私もまったく与《あずか》り知らない、事故なんです。充分点検してから、お乗せすべきだったんですが、うっかりしてしまった」
そんな意味のことを英語で繰り返す。
さすがにフランクも昂奮が醒め、冷静な態度を取り戻して、
「いいんですよ。シソンさん、昨夜も今朝もシャワーを取らなかったんで、ちょうどタイミングがよかったですよ」
穏《おだ》やかに笑ってそうとりなした。
石山のほうを向いて、
「マッキンレイ・ロードであんたの車のタイヤが外れたのとおんなじケースだよ。のんびりしたフィリッピンによくあるケースと考えようや」
といった。
「それは別として、私の眼鏡を探して貰えませんかね」
鶴井が細い眼をしょぼしょぼさせて、また頼みこんだ。
シソンが現場作業員に命じて、数人が川に跳びこみ、眼鏡を探してみたが、結局みつからなかった。流れがかなり早いから、海へ運ばれてしまったのだろう、という。
夕刻、三人にシソンを加えた一行は、セスナに乗ってカワヤンに戻った。
オノフレは、姿を消してゲスト・ハウスにも、私設飛行場にもついに姿をみせなかった。
「おれたちはバイヤーだぜ。マーパはなんで、挨拶にこないんだ」
鶴井が機上で文句をいった。
オノフレのやつ、おれと石山の態度に恐れをなして姿を消したのかもしれない、とフランクはおもった。
カワヤンの小さなホテルにチェック・インしたのち、シソンの接待で、フィリッピン料理と中華料理をだす、レストランというより食堂で夕食を取った。
座を取りもとうと懸命に努めるシソンの冗談で笑声がときたま起るが、そのあとすぐ落し穴に落ちこんだような沈黙が襲ってくる。
「シソンさん、マーパ社長は、昨夜のトラブルで、この商売に嫌気がさしちまったんですかね」
ふいに訊きにくいことを鶴井が口にした。
「この商売は成約の確率低し、ということですか」
商売のやりくちとしては、率直過ぎる質問であった。この時点で、相手方を問い詰めて黒白をつけてしまうのは、得策ではない。
シソンは、手もとのフィリッピン製のマーボロウをもてあそび、伏目になって、なにも答えない。
暫くして、
「かなり難しくなったかもしれんですね。あのひとも頑固なひとだからね」
と呟いた。
鶴井は、フランクに向い、
「フランクさん、あんたが原因で、この商売もめちまったんだからさ、マーパに土下座でもなんでもして、丁寧に私がわるうございましたって謝ってよ。あれだけの商売をまとめるためなら、土下座くらい、なんでもないじゃないか」
例によって無神経な発言をする。
「戦争中、あんたがたがわるいことをやったのは、事実なんだしさ」
眼鏡をかけていない鶴井の顔は、いやにすべすべと色が白く、酷薄な性格が剥きだしになった感じを与える。
「本社の方針をわかって欲しいんですよ。本社木材部としては、この商売を是が非でもまとめて貰いたいんだ」
フランクの横で石山がいらだたしそうに食卓をたたき、鶴井のすべすべとした白い顔を睨んでいた。
9
ホテルの部屋に入ったフランクは、服を着たまま、ベッドにひっくり返った。田舎の安ホテルなので、なんとなく汗臭い匂いが漂い、うすい壁板の向うから、隣室のフィリッピン人夫婦の会話が聞えてくる。
──本社の方針をわかって欲しい、か。
おなじようなせりふを戦時中以来、何度聞いたことだろう、とフランクは、壁板に止った守宮《やもり》を眺めた。
ルソン決戦に備えて、第十四方面軍野戦貨物廠、カバナツアン分隊が、積極的に食糧の調達にとりかかると、調達の先々で、騒擾《そうじよう》が頻発し始めた。
ゲリラの出現にそなえ、運転台のうえに機銃を据えたトラックに、貨物廠の兵隊ふたりと警備隊の兵隊数名、それに通訳として浩が乗ってゆくのだが、農民たちは軍票と交換では食糧を売りたがらないので、どうしても強制徴発の形になる。
渋る農民を銃剣でおどし、ビンタを張って買いあげるのだから、恨みを買わないほうがおかしかった。
昭和十九年十月、カバナツアン北方のタラベラの近郊に食糧買いだしに行った佐藤浩は、田舎道で突然、ゲリラの襲撃を受けた。
カバナツアン周辺のタルラック州、パンパンガ州は元来、共産系ゲリラの本拠で、「フクバラハップ(抗日人民軍)」を組織し、盛んな活動を展開しており、日本の敗勢とともに、その動きはいよいよ活発化している。
最初の銃撃で、トラックを運転していた兵士が即死、警備隊の兵士ふたりとも重傷を負って戦闘能力はゼロになった。
浩は、持前の敏捷な行動力にものをいわせて、空気を切る小銃弾の音を聞きながら、トラックを跳びおり、路上から畑に走りこんだ。とうもろこし畑を横に伝って逃げた。道から離れた藪のなかに跳びこみ、あえぎながら、後方の様子をうかがった。
おなじようにトラックを跳び降り、こちらに走ろうとした貨物廠の兵士が、浩より目標がおおきいせいだろう、相次いで撃ち倒された。
米軍供与のトムソン短機関銃をぶら下げた七、八人のゲリラが路上に姿をみせて、うめき声をあげている重傷の兵士たちに連射を浴びせ、次々と撃ちころした。雨期の重い空気のなかにトムソン短機関銃の乾いた銃声が反響し、浩は身を震わせた。ゲリラは、どこからかリヤカーを二、三台持ってきて、先刻調達したばかりのトラックの食糧を積みかえると、トラックに火を放った。
明らかに強制調達の報復である。
ゲリラの去ったあとも、浩は用心して藪からでなかった。ゲリラがかくれて、待ち伏せしている心配があった。
藪には、ニクニクという、眼にみえないほど小さい虫がいて、半ズボンを穿いていた浩の脛《すね》や腿《もも》を散々に刺してくる。兵隊のゲートルの間からも侵入してくる虫で刺されたあとが痛がゆく、浩は足や脛をぼりぼり掻きながら、しかし、じっと我慢して藪から出なかった。夕方近くなって、数少い親日住民が報告したのだろう、トラックに乗った日本兵の一隊が救援にやってきた。
見覚えのある憲兵隊のオンボロフォードが、トラックの後方からついてきて、馬場大尉が現われた。
「浩、浩おらんか」
馬場大尉が、狂気のように撃ち殺された兵士の顔をのぞきこんで叫んでいる。
「ここです。ここにいます」
浩は藪を出て、大声で返事をした。
その声を聞いたときの馬場大尉の、喜色あふれる顔を、浩は一生忘れないだろう。
しかし、翌日、問題が起った。
カバナツアン付近の広域警備には、百三師団の歩兵三五六聯隊、滝上大隊があたっていたが、この警備隊の一部が付近を掃討した結果、ふたりの農民を捕えてきた。ゲリラと判断する根拠は甚だ曖昧で、要するに体格がよいのが怪しい、というのである。
馬場大尉は憲兵分隊の詰所で、浩に首実検をさせたが、頭から信用していない様子で、
「この顔はゲリラの顔じゃない。浩、違うだろう」
などという。
「違うようです。皆、もっとやせていました」
と浩が答え、馬場大尉も、
「明日の朝、釈放してやろう」
といい、食事や水を与えるように、詰所の部下に命じた。
しかし翌朝、わるいことにルソン決戦に備えて中部ルソンを視察のため、サンホセから南下してきた第十四方面軍や師団の参謀など将校団の連中が、この噂を聞きつけて、憲兵分隊詰所にやってきた。
「今朝、話を聞いたが、この俘虜を今後の見せしめのために処刑しろ」
少佐の階級章をつけた男が、憲兵分隊の分隊長室に入ってくるなり、馬場大尉にいった。
「捷一号作戦発動の今日、全力を挙げて、ゲリラの蠢動《しゆんどう》を抑えておかねばならん。なるべく人眼につくところで俘虜を処刑しろ」
「お言葉ではありますが、ゲリラと確認できない者をむやみに処刑したら、住民をすべて敵にまわすことになって、危険きわまりない、と考えます」
相手の少佐は、腰に両手をあて、
「陸士の先輩としていわして貰うが、貴公の考えかたは甘いぞ。もはや、この島の住民は全部敵と考えるべきなんだ。住民を宣撫《せんぶ》して軟化させるなんて真似は、開戦直後の夢物語に過ぎん。昭南(シンガポール)でやったように威嚇《いかく》、強圧する以外に手はないんだ」
馬場大尉は、不服げに眉をひそめ、暫く沈黙したのち、
「わかりました」
と答えた。
将校たちが車で去るのを見送ると、馬場大尉は道路に面した受付けの椅子に乱暴にすわった。
馬場大尉は、呆《ほう》けたような顔になって、ぼんやり遠くを見ていたが、ふいに、
「浩、おまえにはまだわかるまいが、美しい日本人として生きる、というのは難しいことだな」
といった。
「美しい」とか「きれい」とかいう言葉は女の使う言葉で、男が、ましてや軍人が使ってはならないもの、と浩はおもっていたから、驚いて、大尉の顔をみた。
「美しい日本人って立派な日本人ってことですか」
浩は訊き返した。
馬場大尉は、ことあるごとに「われわれは王道の精神を持って、暴力ではなく、徳の力をもってアジアの民族に接しなくてはならぬ」というのだが、美しい日本人というのは、そういう態度の日本人のことを指すのだろう、と浩はおもった。
馬場大尉はちょっと黙っていたが、
「立派な日本人というと二宮尊徳みたいになって、嫌味だけどな」
といった。
正面の路上に市場の八百屋の娘、ロージィが姿を現わした。あでやかな微笑をたたえ、手を派手に振って、憲兵分隊の詰所の前を通り過ぎてゆく。大輪のダリヤが通過してゆく感じであった。ロージィは馬場大尉が道路に面した事務室に出てくると、たちまち気がついて、何回も詰所の前を往来し、デモンストレーションを行うのである。
──美しいなどという言葉を口にしたりして馬場さんはたるんでしまったのではないか。馬場さんがたるんでしまったのは、あの女のおかげではないのか。
あの女がいかんのだ、と浩はおもい、険しい眼で、長い、きいろのスカートの腰をゆらゆら振りながら遠ざかるロージィを眺めた。
ロージィに馬場大尉を奪われそうだ、という嫉妬に似た感情を浩は抱いていたのである。
馬場大尉は、ぼんやりロージィの後ろ姿を見送りながら、鮮やかな彩りのイゴロット織りの煙草入れを取り出し、現地製の日本煙草、「八紘《はつこう》」を一本くわえた。
この赤、茶、白の縦縞模様の煙草入れ、胸のポケットに入っているバナナの繊維のハンカチ、いずれもBABAと大尉の名前が入っていて、ロージィの贈物なのである。
大尉は、黙りこんで、吹きあげた煙草の煙の行方をみつめ、腰かけた椅子の前脚を空にうかせて、躰をゆすっていた。
占領当時の米軍の置き土産ウエストポイントの裂地で作った軍服の背に、汗がにじみだして奇怪な模様を描きだしている。暑気のせいで、模様はたちまち背中全体に拡がって行くようであった。
馬場大尉はいったん釈放を決意した農民を釈放できなくなった。釈放すれば、間接的なかたちながら抗命罪ということになり、憲兵分隊長として職責を問われることになる。
マニラに帰った将校団の口から、ルソン憲兵隊本部にも話がもれたらしく、すぐ憲兵隊本部からも電話が入った。
「野戦貨物廠の強制調達といい、地域住民の反発を蒙《こうむ》ることばかりやってきたわけですしね。この際、徒《いたず》らに反発を倍加させるような真似をわざわざやらかすこともないでしょう」
馬場大尉の主張はいつもおなじであり、「強圧警備を行え」というマニラの将校たちの注文も、きまり文句のようであった。
「先日もこの地元の有力者から、日本には裁判制度が存在しないのか、なぜなら、日本の軍隊はろくに取調べもせず、弁護人をつけるどころか、法廷に出る機会さえ与えずに容疑者を処刑してしまうではないか、と文句をいわれましたが、こんなやりかたを続けていたら、ルソン決戦の際には、住民いっせい蜂起という事態が起りかねんですよ」
昭和十九年のこの時期、マニラのルソン憲兵隊本部は、第十四方面軍参謀長の指示により、利敵者、通敵者とおもわれる比島人を大量検挙し、威嚇、強圧の方針で臨んでいたから、馬場大尉の反論など通用しなかったのだろう。
長電話のすえに、馬場大尉は説得されたようで、
「わかりました。その方向で処置します」
と答えて、電話を切った。
その日の午後、馬場大尉は、
「浩、ちょっと話がある。外にゆこう」
相変らず憲兵分隊に入り浸っていた浩を誘って、表にでた。
馬場大尉は、市場の角をまがりながら、
「男には、一生、自分の肉親にもいえず墓まで抱いてゆくようなことがいくつかある。今日、おれはそのひとつをおまえに頼もう、というわけだ」
意外なことをいいだし、路傍のブーゲンビリヤの木の下に、足を止めた。
「浩、よく聞いてくれよ。これから、そこのピー屋に行って、客引きのサイコを呼びだすんだ。サイコのやつにだな、今夜の夜中、裏庭から憲兵分隊詰所にしのびこんで、ふたりの比島人を脱走させてやれ、そう頼むんだ」
マニラの司令部から、処刑を指示された馬場大尉は、どうやら苦肉の策を取るつもりらしかった。
「おれはむろん口外などできやせんがね、浩も一生、他言するなよ」
浩は、大尉から重大な仕事を与えられたのに昂奮し、
「わかりました。やってみます」
ただちに引き受けた。
サイコが働いているピー屋は、市場の裏の路地にある。
路地の入口で、大尉から、軍票でない現地通貨の紙幣で、かなり多額の金を受け取り、浩は、重要任務を授けられた緊張に、肩をいからせて、二階建てのピー屋に向った。あんまりりきんで歩きだしたものだから、
「おい、そんな観兵式で行進するような歩きかたをするな。怪しまれるぞ」
と大尉にたしなめられた。
昼さがりのピー屋は、客の姿もなく、一階のサロンふうの部屋では、年増の女が遅い昼めしを食っていた。
女はスカートの足を自堕落にひろげ、木のテーブルに両肘をついて、白い汁をかけたパラパラめしを器用に指ですくって食べている。椰子の実からしぼった白い汁に、トマトや干し魚を入れて煮たシチューのような土俗料理である。
フィリッピン人は、パラパラの米に、この手の、椰子のしぼり汁をベースにした汁物をかけて食べるのを好み、そのために、浩は、味噌汁をご飯茶碗のめしにかけて掻きこむと必ず、母親から、
「そんな土人の真似をするんじゃありませんよ」
そう怒られたものであった。
浩の母親にとって、フィリッピン人とは夫のような、インテリ乃至上・中流階級の「立派な」現地人を指し、土人とは下層乃至「わるい」現地人を意味するのであった。
「|おや、珍しいね。子どものヘイタイさんだね《ホイ・ナリト・パラ・アン・スンダーロン・パタ》」
と女は、パラパラめしをすくう指を、ゆっくり厚い唇のあいだから抜きとりながら、いった。
「|サイコさんに会いたいんです《ナイス・コン・マキータ・シ・サイコ》。サイコさんいますか」
浩は、日本軍出入りの客引きのサイコという仇名しか知らないので、止むなく、そう訊いた。
「あんた、タガログ語うまいね。ああ、そうか、貨物部隊の通訳の子どもってのは、あんたのことだったんだね」
女は、ながい人差し指の爪で、黒い顔のなかでひときわ白く見える歯を、こつこつ叩き、おもしろそうに浩を眺めた。
それから、おおきな声で、奥に向って、
「サイコ、お客さんだよ」
と呼んだ。
サイコは、日本軍だけでなく、ここでも仇名として使われているようであった。
間延びした返事がして、正面の安物のカーテンを開けて、小柄なサイコが、昼寝していたらしく、眼をしばたたきながら、現われた。
サイコはまだ若いのに、すっかり禿げあがった前額に、そこだけ妙に長く黒い髪の毛がへばりついていて、痩せた躰を猫背にして前かがみに歩く癖がある。全体の印象は、なんだか絵本の駝鳥《だちよう》をおもわせる男である。
「なんの用かね」
サイコは、警戒するように浩を眺めた。
「日本軍からお願いしたいことがあるんです。ちょっと表にきてくれませんか」
サイコはちょっと考える顔になったが、黒い、少い髪を掻きあげて、頷いた。
表にでる浩に向って、年増の女が、
「子どものヘイタイさん、今度、お使いなんかじゃなくて、ひとりで遊びにおいでよ。あたしが大人のすることをたっぷり教えてあげるからさ」
スカートをまくって、褐色の、頑丈そうな太腿をぱたぱたと叩いてみせ、蓮っ葉な笑い声をあげた。
「サイコさん、頼みがあるんです」
路地の入口近くで、あたりに人気のないのを確かめたうえで、浩はそう切りだして、用件を話した。
「こりゃあ、おまえ、おれを捕える口実《ダヒラシ》を作ろうって話だろう。おれに罪を犯させといて、有無をいわさず、ふんじばっちまおうって腹だろう」
サイコは浩の顔と差しだした金を交互に眺め、疑心に満ちた声でいった。
「サイコさんはスパイでもゲリラでもないんでしょう。サイコさんを捕えたって、日本のためには、なんにもなりゃあしないよ」
浩は、必死になって説得した。
心配なのだろう、路地の入口を馬場大尉が素知らぬ顔で往復している。
「憲兵隊としてはね、ふたりの男を殺して、住民の恨みを買いたくない。しかし、殺せという命令がでている以上、このままにしておけば、命令に従ってふたりを殺さなくてはならない。困って、サイコさんに頼んでるんです」
浩の口調は、憲兵隊の一員のようであった。
サイコは、浩の手にある紙幣の束がいやでも眼について、それが辛いらしく、しきりに瞬きをした。紙幣から眼を外らし浩の視線を追うようにして、軍刀を吊し、路地の入口を往復する、馬場大尉を眺める。
馬場大尉は体格がよく、髪を伸ばしているので、カバナツアンの住民にはよく知られているし、また人気があって、好意的な評判はこの辺一帯に拡がっている。
「よし、やってみるか。このまえ、あのひとやあんたのおかげで命拾いしたんだしな」
サイコはそういって承知した。
「憲兵分隊の詰所の裏に鶏小屋があるんですがね、今夜、ふたりの男はそこに入れておきます。簡単に入れるように、裏庭の木戸も開けときますよ」
浩は、馬場大尉にいわれたとおり、説明した。
留置場は、詰所のなかの武器庫の隣りにあり、ここにしのびこませるのは危険なのであった。
詰所に帰った馬場大尉は、何食わぬ顔で、
「あのふたりを留置場からだして裏の鶏小屋に移しとけ。鶏小屋のほうが涼しくて、眠るのに楽だろう。それから今夜は見張りは要らんぞ。なに、逃げる気力など、ありゃあせんよ」
と分隊の部下にいった。
明け方、浩は、窓の下を通過する轟音を聞いて、眼を覚した。
「第二師団の戦車がでてゆくな。タラベラあたりのゲリラ討伐にでかけるんだろう」
馬場大尉が隣りのベッドで呟いた。
九月から十月にかけて、在満の戦車第二師団が比島に転属になり、司令部をカバナツアンに置いた。同師団の戦車第六、第七聯隊およびトラックを常備して移動する機動歩兵の一部が、この地に駐屯しているのである。
しかし事態はおもいがけぬ方向に進行した。
翌朝、浩が貨物廠カバナツアン分隊に出勤してまもなく、僅かな黒髪を駝鳥のように額にたらしたサイコが、戸口から覗き、浩に声をかけた。
表にでて話を訊いてみると、サイコはピー屋にきた兵隊の世話に追われて、というより大胆な行動にでる勇気がでなかったのだろう、結局、夜明け近くになって憲兵分隊の詰所にしのびこんだ。
鶏小屋に放りこまれていたふたりの男の縄を切り、首尾よく脱走させたのだが、このふたりの男が街中へでた途端に、ゲリラ討伐にでかける、戦車第二師団の戦車数輛と、機動歩兵の一隊に遭遇、戦車隊と機動歩兵は逃げるふたりを怪しんで、追いかけてきた。
追いかけられたふたりは、苦しまぎれにユーソンの屋敷に逃げこんだ。ふたりの男のうちひとりの父親が、ユーソンの土地の小作人をやっていたことがあり、ユーソンはゴッド・ファーザー、いわゆる名付け親だったのである。
ユーソンの家が家宅捜索され、ふたりの男はすぐにみつかった。機動歩兵の兵士が、ふたりの男が憲兵隊の俘虜と知っており、男たちはそのまま、ユーソンと一緒に居間に軟禁されている、という。
浩は、そのまま、憲兵分隊の詰所に駆けつけた。
10
「夜中に、憲兵分隊の詰所にしのびこみ、俘虜を脱走させてくれ」
自分は、たしかに「夜明け」でなく「夜中」とサイコにいったのだ。浩はその点を一刻も早く馬場大尉に弁解したかった。
憲兵分隊の詰所に駆けつけてみると、馬場大尉は、小雨の降るなかを、部下の憲兵数名と車に乗りこむところであった。
「昨夜、俘虜が逃げてな。その俘虜がユーソンさんの家に逃げこんで、警備隊の連中に捕まっているらしい」
危うくサイコとの交渉について、弁解しそうになった浩の機先を制するように、馬場大尉は大声で、そういった。
余計なことを喋るな、という意味のようで、浩は口まで出かかった弁解をやっと呑みこんだ。
「通訳の必要があるかもしれん。浩も一緒にきてくれ」
浩は、長靴を履いた憲兵たちと一緒に車に乗りこみ、ユーソンの家を訪れたが、ユーソンの屋敷の前のおおきな椰子の木陰には、九七式改造型戦車が一輛停り、着剣した立哨が立っているものものしさである。立哨している兵士の銃は、機動歩兵特有の銃身の短い九九式歩兵銃であった。
ユーソンの家は、白壁、赤い屋根のスペインふうの造りなのだが、玄関先きにも、庭先きの回廊ふうのベランダにも、九九式歩兵銃に着剣した兵士があふれている。剣先きがあちこちできらりきらりと不穏なひかりかたをした。
ゲリラ討伐に出発した第二師団は、この脱走騒ぎに部隊の一部を置いて行ったらしかった。
車を降りるどさくさに紛《まぎ》れて、浩は、
「自分は、夜中にやれ、とサイコにいったんですよ。絶対、たしかです」
馬場大尉に弁解した。
「心配するな。おまえはよくやったよ。フィリッピン人の時間の観念からいやあ、夜中も明けがたもおんなじ夜のうちなんだよ」
馬場大尉は、浩の肩をたたいて、慰めた。
いつかの夜、食事に招ばれ、ロージィの歌を聞いたサラ・ルームに入ろうとすると、激しい平手打ちの響きがして、なにかが床で壊れる音が、それに続いた。
サラ・ルームの中央に、再び捕えられて後ろ手に縛られた農民ふたりが床にじかにすわっており、二脚の椅子にユーソン夫婦がすわらされ、ユーソンの前に若い将校が仁王立ちになっている。部屋には、十数名の着剣、武装した兵士がいて、皮革と汗の匂いが部屋に満ち満ちている。
将校がユーソンに平手打ちを食わしたらしく、老眼鏡らしい眼鏡が大理石の床に落ちて割れていた。
襟に少尉の階級章をつけた若い将校は、逆上していて、憲兵分隊の一行が部屋に入ってきたのにも、気づかないらしく、続けざまに往復ビンタをユーソンに見舞った。
ユーソンの顎の張った顔がビンタの度に左右にはねあがる。撲られたあと、たるんだ頬の肉がいつまでも揺れている感じであった。
「おまえ、なにをするか」
馬場大尉は、顔を真赤にして、若い将校を怒鳴りつけた。
「この土地の人間にビンタは禁物だ、ということを、知らんのか」
若い将校は、不服そうに頬をふくらませて、馬場大尉を睨んだ。背の丈が、馬場大尉の肩までしかないような小男だが、いかにも向う気が強そうであった。
「この土地の人間はプライドがたかいからな、殺されるよりビンタを食うほうを恥と心得る人間が多いんだぞ。地方で部落の長老をビンタしたために、皆殺しに会った分遣隊がいくつもあるんだぞ。馬鹿な真似をするな」
そこでひと息吐いて、馬場大尉は、床のうえのこわれた老眼鏡を拾いあげ、ユーソンに手渡した。
「どうも、まことに申しわけありません」
英語で謝っている。
「ありがとう。予備の眼鏡がいくつかあるから、大丈夫ですよ」
ユーソンはこわれた眼鏡をシャツの胸ポケットにしまったが、悠然と落ち着きはらった態度であった。細君のほうも、血の気のない顔いろをしているが、そんなに取り乱していない。
総じて戦時下のフィリッピン人は、日本軍に阿諛追従《あゆついしよう》すること少く、多年、中国戦線で低姿勢の中国人と接触してきた日本兵を戸惑わせたといわれる。交戦相手国である中国人と、意思に反して日米戦争に庭先きを提供させられているフィリッピン人の立場の差だが、日本の兵士はこの立場の差を理解せず、ともすればフィリッピン人を恭順の意の足りぬ、不遜の態度の民族と受け取った。
馬場大尉は改めて、若い将校のほうに向き直り、
「おまえ、どういう理由でユーソンさんをなぐった。ユーソンさんが、どんなひとかわかっているんだろうな」
と詰問した。
サラ・ルームの一隅には、フィリッピン人の男女の使用人たちが、着剣した兵士数名に囲まれ、身を寄せ合って立っている。
女たちはビンタの度に目を閉じて身を震わせていたが、男たちは一様に冷たい、敵意を眼にたたえたまま、表情を動かさない。
「この男が土地の有力者であるかないか、そんなことは自分は関知致しません。なぜ、ゲリラを蔵匿《ぞうとく》したのか、訊問したのであります」
少尉は、いかにも気負った様子で答える。
「ゲリラを蔵匿した? そこのふたりが勝手にこの家に逃げこんだだけの話だろう」
「このユーソンなる男がゲリラの指揮官だから、ゲリラが逃げこんだのではないか、その可能性があると考えましたので、訊問致しました。しかし強情に黙っておりますので、止むなく|打 擲《ちようちやく》したのであります」
馬場大尉の顔を嘲りのいろが走った。
「おまえ、訊問は何語でやった」
「おもに日本語で致しました」
「おまえの日本語で通じたか」
馬場大尉は、今度ははっきりと嘲りのいろをうかべた。
「通じません。被占領国の国民は、満州国国民のごとく、日本語習得に努力致すべきであると思料致します」
少尉は、満州から転属してきた戦車第二師団の将校らしかった。そういえば左手に戦車隊員の用いる、飛行眼鏡のような、防塵眼鏡をぶら下げている。
「断っておくが、フィリッピンは被占領国ではなくて、立派な独立国だぞ。おまえ、フィリッピンが独立国かどうかも知らずにここにおるのか。フィリッピンにきた以上、そのくらいの知識は勉強せい」
フィリッピンは、一年前の昭和十八年十月十四日に独立し、初代大統領にホセ・パシアノ・ラウレルが就任している。
馬場大尉は、ユーソンの傍に近寄り、耳もとにしゃがみこんで、
「ミスタ・ユーソン、あなたはこのふたりの農民と、どういう関係をお持ちですか」
と英語で訊ねた。
「あの怪我をしている男はね、私の農場で代々働いている小作人でね、私がニノン、つまり|名付け親《ゴツド・フアーザー》だ」
後ろ手に縛られ、床に血を流している、がっしりした体格の男を指差していった。
「もうひとりは、家でメイドをしておった娘の子どもでね、そのメイド、この男の母親のほうは、私の父親の|名付け子《イナアナツク》だった」
馬場大尉は、戦車師団の少尉に近寄って、
「関東軍ぼけした男はまだ知らんだろうが、いいか、おぼえておけ。この国には、ニノンと呼ぶ、|名付け親《ゴツド・フアーザー》の習慣があってな、名付け親は、名付けた子どもの面倒を徹底的に見るし、子どものほうも実の親のように名付け親を頼りにするんだ。このふたりの男も、おまえたちに追いまわされた挙句、この名付け親のユーソンさんを頼りにして、ここに逃げこんだんだよ」
サラ・ルームはしんと静まり返った。
馬場大尉は、両手を背中にまわして、
「おまえは、ふたつの点で間違っている。第一にこのふたりの農民が、ゲリラかどうかも確認していない。たとえ、このふたりがゲリラだとしても、ゲリラは常にゲリラの親分のところに逃げこむもの、と決めてかかっている。これが第二の点だ。疑わしきは罰せず、という言葉を知っているか」
といった。馬場大尉のこの言葉が、少尉を激昂させた。
「お言葉を返すようでありますが、疑わしきは罰せず、などというのは、平時の地方で用いられる言葉でありましょう。ここは戦時の戦地であります。疑わしきは殺害すべし、といいかえられるべきやに考えます」
少尉は、早口でいい返した。
「そもそも、ソ満国境守備隊に比較し、この比島派遣軍の軍紀弛緩はなんでありますか。つい先日まで、十四方面軍司令部は、毎日昼寝しに宿舎に帰っとったというし、将校は華美な服装で、毎夜浮かれ歩いて、地もと有力者といわれるゲリラもどきの連中と交際《つきあ》っておる」
少尉は、馬場大尉の服装に対する、あてこすりをいっているらしく、大尉の将校用略帽からはみでた長髪や、ウエストポイント地の軍服をじろじろ眺めた。
「米軍、比島に来攻確実とされる今日、このゲリラ二名、およびゲリラ蔵匿の夫婦に対しては厳罰をもって臨み、弛緩せる士気一新の一助とすべきであります」
馬場大尉は、両手を腰にあて、長靴の先きで、床を軽く蹴るようにして、
「おまえ、この戦争の目的は、なんだと考える」
と訊ねた。
突然の質問に意表を衝かれたのか、若い少尉は、馬場大尉の顔を睨んでなにもいわない。
ややあってから、
「聖戦の目的はかかってわが国体の発現、国威宣揚、および南方資源確保による国力充実にある、と考えます」
少尉は答えた。
「特に重要なのは、国力の充実であります。石油を初め、戦略資源を欠くわが国としては、なんとしても南方資源を確保せねばなりません。開戦前のように、短期間、経済断交を食ったくらいでたちまち油資源が枯渇するようでは、近代装備の軍事力の維持など不可能であります」
いかにも、戦車師団の将校らしい、いいかたをした。
「国力の充実のためには、なにをしてもかまわんのか。無辜《むこ》の民衆をぶんなぐって、虐殺してもかまわんのか」
馬場大尉は、激しくさえぎった。
「おまえも満州にいたのなら、耳にはさんでいるだろうが、満州国建国の精神は、日本、シナ、満州、蒙古、朝鮮の諸民族が、互恵平等の原則で理想郷を作ろうという点にあったんだぞ。この民族協和の理想をアジア全域で実現しようというのが、この戦争の目的なんだ」
満州の建国の理想のくだりは、浩にも耳にたこができるほど、いろいろな機会に大尉から聞かされている。
もっともこの理想の提唱者、石原莞爾は、東條英機と対立、退任に追いこまれた上、東京憲兵隊の手で、著書を二度にわたって発禁処分にされているという話であった。
「いいか、大東亜共栄圏の建設というのはな、共に栄える地域を作ろう、ということだぞ。この戦争の目的はここにあるんだ。そうでなかったら、われわれが比島にきている、なんの意味があるか」
馬場大尉は、小男の少尉を睨み据えていう。
沈黙が落ち、兵士たちの剣鞘が銃にあたって、からからと音をたてた。
「国威宣揚とくに国力の充実が聖戦の第一義であって、大東亜共栄圏の確立は、国力に余力ができた後の話であります。第二、第三の問題であります」
向う気の強い少尉は、なかなかひっこまない。
「とにかく、ゲリラの取調べは憲兵の職務だ。ここはおれたちにまかせて、おまえは、ゲリラの討伐隊を追及しろ」
馬場大尉は命令口調でそういった。
その後、馬場大尉は、警備隊と話し合ったが、話し合いがつかず、結局、暫定的にユーソン夫婦は屋敷に軟禁され、農民ふたりは、ユーソン邸のサーバント・クォーター、つまり使用人宿舎の一室に監禁されることになった。
二、三日経ったある日、浩が貨物廠の事務所で閑を持てあましていると、馬場大尉が当番兵と一緒に自転車に乗って、貨物廠のある、しもたやの、小さな庭先きに入ってきた。
開け放した窓から、こちらをのぞいて、
「浩、ユーソンのところへ、一緒にきて欲しいんだ」
という。
馬場大尉は貨物廠の分隊長室に行って、正式に許可を貰い、背の低い浩も無理をして、貨物廠にあった大人用の二十六インチの自転車に乗り、大尉たちと一緒にユーソンの屋敷に向った。
「じつは容疑者のひとりが、夕べから熱をだしちまってな。だいぶ容態がわるいらしいんだよ」
という。
ユーソンの屋敷に着いた三人は、四方に第二師団の兵士が見張りに立つ、庭先きを迂回し、裏手のサーバント・クォーターに行った。
その一室がふたりの農民の留置場にあてられているのだが、なるほどゲリラ容疑者のひとりが籐の寝台のうえで、苦しんでいた。
家代々、ユーソンの土地の小作人をやってきて、ユーソンが名付け親になったという青年のほうで、唇から頬にかけて、顔面を激しく痙攣《けいれん》させ、しきりに眼の前で片手を振りまわし、虫を追うような動作をする。
馬場大尉のいいつけで、浩は病人の枕もとにしゃがみこみ、タガログ語で症状を訊ねたが、うつろな眼を開いているものの、なにも答えず、虫を追うような動作を止めない。
蛙の卵のような、大粒の汗の玉を額一面にうかばせているところをみると、高熱を発していて、他人の言葉など耳に入らない状態らしかった。
「これはいかんな。ユーソンさんと相談しよう」
馬場大尉は、呟いて、第二師団の兵士に、
「ユーソンさんをお連れしてこい」
と命令した。
兵士に護衛されて、サーバント・クォーターにやってきたユーソンは、患者の容態をみるなり、「これはTETANUSだな」
といった。
「みてごらんなさい。足の怪我した箇所がこんなに腫れている。ここから細菌が入ったんですよ」
容疑者の半ズボンから剥きだしになった腿には、拘留の際に受けた外傷があり、ユーソン家の使用人の心遣いで白い繃帯《ほうたい》が巻かれているが、その繃帯を巻いたあたりの肉がおそろしく腫れあがっている。
「私は使用人がこの病気にかかるのを何回か見てきたが、顔や手足にひどい痙攣のくるのが特徴なんです」
「TETANUSって、なんの病気だ」
馬場大尉に訊かれても、浩は答えられない。
大尉は、ポケットから小型の英和辞典を取りだし、手早く繰って、
「ああ、破傷風か」
といった。
「いいですか、キャプテン・ババ」
ユーソンは、頬の肉のたるんだ、顎の張った顔を馬場大尉に近づけてきた。
「この病人を即時釈放してくれませんか。釈放して、この病人を日本軍の病院に入れてやってください。破傷風は大病院でないと、なおらないんだ」
詰問するようにいう。
馬場大尉は、弱ったように略帽を脱ぎ、頭髪を掻きあげた。
この軟禁自体が、即刻処刑という、強硬策を主張する第二師団との妥協の産物である。
病院のほうは、第百三十九|兵站《へいたん》病院がカバナツアン市内に設けられているが、マラリヤ、デング熱などの熱帯病に罹る日本軍兵士の収容に追われて、フィリッピン人を入院させる余裕などまったくない。
仮りに余裕があったところで、ゲリラ容疑者を入院させたりすれば、馬場大尉は、その「非常識」を追及されることになろう。
「ユーソンさん、取り敢えずこの病人をフィリッピン人の医者に診せてください。まあ、軍の病院は難しいかもしれませんが、なんとか薬は手配します」
馬場大尉は、そういう解決策をだした。
ふたたび、浩は大尉、それに当番兵と一緒に自転車に乗って、熱い陽差しのなかを走りだしたのだが、馬場大尉は、自転車を漕ぎながら、
「死なんでくれ、死なんでくれ」
と祈るようにいう。
浩は、漫画にでてくる死神が、灼熱の街道の彼方に、叢雲《むらくも》のごとく立ち現われ、次第に自分たちを包みこもうとしているような幻覚をおぼえた。
──あの男が、ユーソンの小作人が死んだら、馬場さんはショックを受けるだろうな。
浩は子どもながら、馬場大尉が戦時下の人生を賭けてきた、大事なものが、今壊れようとしている、そんな気配を感じ取っていたのである。
「浩、おまえも一緒におまじないをとなえてくれ」
馬場大尉は、おもいつめたようにいう。
「死なんでくれ、死なんでくれ」
やがて当番兵も声を合わせ、三人はそう繰り返しながら、自転車を漕いで行った。
11
馬場大尉は、カバナツアン市内の小学校にある、第百三十九兵站病院にでかけ、地元の要人の治療に必要だと強引に押しきって、破傷風の血清を、どうにか確保した。ユーソンのかかりつけのフィリッピン人医師にこの血清を与え、ゲリラ容疑者の治療にあたらせた。
ゲリラ容疑者の病状は一進一退で、その間さまざまな圧力が馬場大尉にかかった。
マニラのルソン憲兵隊本部と連絡を取る度にも、かならず「ゲリラの処置はどうしたか」という質問を受けていたようであった。
馬場大尉は、
「こちらの治安状況をみたうえで、適切な措置をとります」
その都度、逃げを打っていたが、ルソン憲兵隊本部の態度は、硬化するばかりで、電話に応答する大尉の表情は日を追ってけわしくなった。
憲兵分隊の兵士たちは、憲兵分隊の裏手、道路ひとつ隔てた宿舎で、全員そろって、現地人の賄《まかな》い婦の調理した食事をとるのだが、そんなとき、馬場大尉は浩や部下の手前もはばからず、
「あの男、死なんで欲しいな」
溜息をつきながら、いう。
「容疑もはっきりさせぬままに、死ななけりゃならん、あの男も気の毒だが、おれたちもかなわんぞ。あの男が死んだら、憲兵が拷問して殺した、といわれるんだよ。おれは、それが口惜しいんだ」
カバナツアン憲兵分隊の兵士は、例外なく馬場の人柄に心酔、といっていい敬愛の情を抱いていたから、全員本気にゲリラ容疑者の容態を心配していたのである。
幸い、馬場大尉の確保した血清が効を奏して、破傷風患者の容態は、まもなく峠を越え、快方に向い始めた。
米軍が、防衛態勢のまったく整っていないフィリッピンに突如来攻、レイテ島に上陸を開始したのは、この頃である。
米軍の上陸開始直後のある日、浩は例によって、憲兵分隊詰所で時間をつぶしていた。ゲリラの|跳 梁《ちようりよう》がひどく、最近では、食糧調達の買いだしもままならず、野戦貨物廠にいても、仕事がない。
憲兵分隊の詰所の前を、演習帰りの第二戦車師団の戦車が、土煙りをあげて通過してゆき、一式中戦車の長い四七ミリ対戦車砲、九七式改造型戦車のふとく短い五七ミリ砲の砲身が頼もしげに光るのを、浩は飽かず眺めていた。
ふいにその一台が、詰所の前に停り、砲塔から上半身をのぞかせていた将校が車体から跳び降りて、こちらにやってきた。後続の戦車も停り、次々と将校が跳び降りて、駆け寄ってくる。
先頭の将校が飛行眼鏡のような防塵眼鏡を額にはねあげると、先日|白亜《はくあ》の屋敷で、ユーソンに平手打ちを食わしていた若い少尉の顔が現われた。後ろの将校たちは、少尉の同僚らしかった。
「大尉殿、先日捕えました俘虜は、まだご処置いただいていないのでありますか」
戦車師団の少尉は、敬礼もそこそこにいう。
「目下、取調べている最中だ。まだ結論はでておらん」
馬場大尉はにべもなく、はねつけた。
少尉は顔を紅潮させて一歩踏みこんできた。
「仄聞《そくぶん》するところでは、ルソン憲兵隊本部より、俘虜を殺害すべし、との命令がでている由であります。可及的速やかに命令の実施方をお願い致したくあります」
少尉の言葉に後ろの将校たちが同意して、いっせいに頷いてみせる。
「そんな命令なんぞ、受けておらん」
正式の命令は受けていないという意味なのだろう、大尉はそういった。
戦車師団の将校と馬場大尉は対峙するかたちになった。
「方面軍参謀も強硬意見を申されたと聞きますが、早速に方面軍とルソン憲兵隊本部の意を体した措置を取っていただきたい。この際、断乎たる措置を取られたく、格段のご配慮あるよう、意見具申致します」
「おまえのいうことはわかった。断乎たる措置を取る」
馬場大尉は語調を柔らげていい、戦車師団の将校たちは、敬礼をして帰って行った。
破傷風の患者の病状がほぼ平癒したところで、馬場大尉はたしかに断乎たる措置を取った。大尉は突然ユーソン夫婦とゲリラ容疑者に車を手配し、彼らが疎開先きとして希望する東海岸に逃してしまったのである。おまけにカバナツアンを出外れるまで、憲兵隊の護衛をつけたのであった。
その夜、憲兵分隊の宿舎の部屋で、馬場大尉が日記をつけ、浩がどこからか、宿舎にまぎれこんできた古い「アサヒグラフ」を持ちだして、よれよれのページをめくっていると、だれかがばたばたと階段を駆けあがってくる足音がした。
ノックもせずに、ドアが開き、ロージィが姿をみせた。
ロージィは、目ばたきもせずに大尉を睨み、万年筆をおいて立ちあがった馬場大尉に無言で近寄ってきた。
「あんた、ミスタ・ユーソンを罠《わな》にかけたのね」
ロージィは、嗄《しわが》れた声でいった。
「ユーソンさんたちは、山のなかに差しかかった途端に、日本兵に襲われて、皆殺しにされてしまった、というじゃないの。あんた、東海岸に逃してやるなんて、調子のいいことをいって、警備隊に襲わせたんでしょう」
ロージィは、われとわが言葉に昂奮して、いきりたち、涙をうかべた。
馬場大尉と浩は呆然として、ロージィを眺めていた。
「あんたも所詮は憲兵よ。あんたみたいな裏切り者の顔なんか、金輪際、みたくない。ユーソンさんご夫婦が可哀相だわ」
泣きながら、ロージィは部屋のドアを乱暴に閉めて走り出て行った。
ロージィが走ってゆく廊下のあちこちから、憲兵分隊の隊員たちが、顔をだした。
「ユーソン夫婦と容疑者が殺されたらしい。どこかの隊が襲ったらしいんだ」
馬場大尉が呻くようにいった。
全員驚愕に躰を固くして、身じろぎもしない。
戸外を走り去ってゆくロージィの足音が、沈黙をミシン針のように縫い取って遠ざかってゆく。
「ユーソンの屋敷を警備していた兵隊が感づいて、報告しやがったかな」
だれかが呟いた。
戦車第二師団所属の機動歩兵は、移動用にトラックを持っているから、追跡も容易な筈ではあった。
ただしカバナツアンには、滝上大隊もいるし、東海岸には島田支隊もいて、簡単に「犯人」は割りだせない。とにかく結果として、司令部の間接的命令は実行され、馬場大尉はフィリッピン人に対する裏切り者となった。
「それにしても、ロージィのやつ、いやに早く襲撃の知らせを聞きつけたもんだな」
青ざめた顔のまま、馬場大尉がいう。
「浩、もう不知火は光らんかもしれんな。これからは闇夜からいきなり弾丸が飛んでくるよ」
力なげな言葉が大尉の口から洩れ、大尉は長髪の頭をゆっくり振った。
──方面軍とルソン憲兵隊本部の意を体した措置をとれ、か。
フランクは、汗の臭いがただよう、カワヤンの安ホテルで、天井を眺めながら、口中で繰り返した。
あの時の方面軍、司令部の意向といい、そして鶴井が口にする本社の命令といい、現場の状況を無視した、非人間的な強圧としか、フランクにはおもえない。
12
グラウンド・サーベイの連中より一足先きにマニラに帰ってきた小寺が、与田と昼食を交際《つきあ》い、アヤラ通りの事務所に帰ってくると、事務所の奥、カウンター代りに幅の狭い飾り棚をならべたあたりで、中年の女性が、達者なタガログ語で、フランクの秘書、アデールとやり合っている。
一見日本女性のように見えるが、中国人かな、と小寺は、おもった。
しかし、女はアデールとの会話の合間に、
「今日は会社にこんの。明日、でなおすか、電話したほうがええかね」
強い西日本の訛りで、独り言をいった。
「うちの佐藤にご用ですか」
気さくな性質の小寺は、女にそう話しかけた。
「私、ここの所長をしとります小寺です」
女はあわてたように、
「ああ、所長さんですか。私は、ここの日本人小学校で、佐藤君より二年上級じゃった、安藤俊子と申します」
と名乗って、ふかぶかとお辞儀をした。
そういえば、いつぞやフランクがベイ・ビュウ・プラザ・ホテルの前で見送っていたのは、この女だった、と小寺はおもいあたった。
「佐藤君は、今日の夕方の飛行機で、北ルソンから帰ってきますのでね、明日は確実に出社してきますよ」
小寺はそう説明したあと、とにかく冷たい飲物でも飲んでゆかれませんか、と勧め、所長室に案内した。
「今度は、どういうご旅行ですか」
所長室で、小寺は、愛想よく俊子に訊ねた。
「戦跡訪問旅行団に加わりましてね、レガスピーやらナガやらをまわってきたんです」
俊子は、額の汗をハンカチでせわしなく拭き取りながらいう。
「ほう、南ルソンの方をまわられたわけですか」
「父が戦前、ダエトの傍のね、マンブラオの金山で技師をしとりましたんでね、なつかしゅうて、無理をして参加しましてね」
当初の予定では、旅行団はダエトに寄るだけで、マンブラオは訪問予定地に入っていなかったが、幸い、時間に余裕ができて、俊子は、現在廃山になってさびれている、この金山の町を訪ねることができたのだそうであった。
「そこで昔のお知り合いに、会えたんですか」
「ええ、近所に住んでいた方々には、三十年ぶりで会えて、とても嬉しかったんですが、肝心のひとの消息がわかりませんでね」
俊子は、浮かぬ顔になっていった。
「父の勤めとった金山の社長は、フィリッピンの方じゃったんですがね、この息子さんと私は、少からぬ因縁がありましてね、この息子さんの消息をぜひ知りたかったんですよ。だけど、だれも知らんのんでね、残念でした」
俊子はそういって、遠くを見る眼つきになった。
昭和十六年十二月、俊子は、学校近くの本願寺に寄宿をして、マニラ日本人小学校の六年に通っていた。当時、本願寺は児童用の寄宿舎を設け、日本人小学校の設けられていない、フィリッピン諸島各地の日本人家庭の児童を預っていたのである。
十二月初旬、俊子はマンブラオの金山にいる父親のもとに帰っていた。俊子が十二月いっぱいで小学校を卒業することもあって、父親は、俊子を母親と一緒に内地に帰す決心をした。ついては、義理固い父親は、勤め先きの金山の社長、役員などに挨拶をさせるために、娘ふたりをマンブラオに呼びもどしたのであった。
挨拶をすませて、母親と今日にもマニラに出立しようとしている最中に、十二月八日がきた。
親切なフィリッピン人の社長はすぐに十二月分の給与を支払ってくれ、安藤一家は他の在留邦人二百名と一緒に男女別々に収容所に収容された。男は刑務所、女は裁判所に収容されたのであった。
十二月十二日、第十六師団歩兵三十三聯隊はルソン島南端レガスピーに上陸、十二月十四日には早々とナガを占領、息つく暇もなく、十八日にはダエトとマンブラオにやってきた。
歩兵三十三聯隊は、日中戦争で南京攻略戦に参加、マニラ占領後はバターン半島攻略戦に従軍、最後はレイテ島で聯隊長以下全員戦死を遂げる、いわば非業《ひごう》の部隊であるが、南京虐殺事件渦中の部隊だっただけに気性が荒かった。
ダエト市およびマンブラオの金山を占領するや、すぐに米軍協力者、内通者に対する処罰を行った。
そして俊子の父親の上司、マンブラオ金山の社長も、金塊隠匿の廉《かど》により処罰の対象となったのである。
むろん裁判などいっさいの法手続きを無視した一方的断罪であった。
「日本軍がきて、私ら一家も収容所からでることができましてね、私は街で現地の子どもと遊んどったんですよ。そうしたら、社長夫婦と社長の子どもさんふたりがこれから広場で殺されるいうて、街のひとたちが騒ぎだしましてね、街外れの河の傍の広場のほうに皆、われ先きに駆けていくんですよ。父親が金山の社長に可愛がられとりましたからね、私も夏休み、冬休み、マンブラオに帰ってくると、この社長の家に行っちゃあ、息子さんたちとね、特に下の息子さんと遊んどったんです。じゃけえ、びっくりして、皆と一緒に広場に走って行ったんですよ」
マンブラオの街外れの広場には、すでにフィリッピン人市民たちの人垣ができていた。
日本兵に引き立てられてきた社長夫婦と二十歳になる長男がまず斬られたのだが、その場面は空恐ろしくて、人垣の後ろにかくれて、俊子は見なかった。ただ数十人の市民が貧血を起して、しゃがみこんだり、倒れたりした。
俊子の前の人垣でも、数人のフィリッピン人が貧血を起して倒れ、おかげで俊子は否応なしに社長の下の息子、幼な友達の男の子の処刑を目撃せざるを得ないことになった。
見なれた社長の息子が広場にひきだされたとき、おおきなざわめきが人垣のなかで起った。いたいけな、まだ小学生の子どもを殺すのか、という非難のどよめきである。
眼前に掘られた穴に少年が首を差し伸べ、日本刀が少年の頭上に振りかざされて、激しくきらめいた瞬間、俊子は、おもわず絶叫した。悲鳴は南国の陽光を切り裂いて響きわたり、広場の上空を長い帯のように、尾をひいて貫いていった。
この悲鳴のおかげで日本刀を振りかざした兵士の手もとは狂い、少年の首をかすめたに止った。
「声をだした者は前にでろ」
兵隊がやってきて、そういったとき、動転した俊子は、そのまま進みでた。
同時に「処刑はこれまでとする」と隊長の怒鳴るのが聞えた。おそらく一瞬のうちに、彼は状況を読みとったのである。
おかげで少年は命を取り留め、俊子もとがめられることがなかった。
「この息子さんはその後、傷がなおってね、首がまがって手が不自由になったけど、親類に預けられて、学校に通うとる、とは聞いたんですがね、今、どうしとるんでしょうね」
先刻から、俊子の話を聞きながら、ある疑問が小寺に宿っていた。
小寺は何気ない口調で、
「その少年の名前は、なんというんです」
と訊ねた。
「たしかオノフレといいました。オノフレ・マーパです」
「安藤さん、多分、その金山の息子さんの消息は私が知っていますよ」
自分が、俊子とオノフレの運命的な出会いの鍵を握っていることに昂奮して、小寺はいった。
翌日、グラウンド・サーベイのため残っていた三人が帰ってきて、フランクとオノフレの確執に関する報告を受けると、
「解決の方法は、これひとつしかないよ」
と小寺はいって、電話機を取りあげた。
「マーパさん、たいへん個人的なことなんですがね、お引き合わせしたいひとがいるんですよ。明日の昼にベイ・ビュウ・プラザ・ホテルにおいで願えませんか」
その翌日の昼、ベイ・ビュウ・プラザ・ホテルに現われたオノフレは、小寺の脇にフランクの顔をみとめて、一瞬、白けた顔になった。しかし覚悟をきめたように、ロビーの椅子にすわっている小寺たちのほうにぎくしゃくした足どりで近づいてきた。突然、俊子が立ちあがり、「オノフレさん」と叫んで駆け寄った。
「オノフレさん、トシコです」
オノフレは、ぎょっとしたように足を止めた。
「マンブラオの金山におって、ようあなたと遊んだトシコよ。ト、シ、コ……。あなたのお父さんの会社で働いとった技師の娘のトシコです」
俊子は、夢中でそんな意味のタガログ語を喋っていた。
オノフレの、血の気のない顔に急に赤味がさしてきた。首をまげたまま、食い入るように俊子の顔をみつめている。
それから、オノフレは言葉にならない叫び声をあげ、両手を開いて、俊子をかき抱いた。少し落ち着くと、オノフレは、
「あのとき、あなたが悲鳴をあげてくれなかったら……」
といいかけて絶句し、唇を噛んだ。
「そうよ、あなたを斬ろうとしたのも日本人なら、悲鳴をあげて、あなたを助けたのも、日本人なんですよ。首や手が不自由になって、申しわけないとおもうとりますが、日本人にもいろんな人間がおることは、わかって頂だい」
俊子は、タガログ語でしきりにそう繰り返している。
オノフレがくるまえに、小寺がオノフレの怨念や、フランクとのいさかいについて、大筋を俊子に話しておいたのである。
オノフレと俊子は、タガログ語で話しこみ、話がはずんで、そのままホテルの食堂で一緒に昼食をとることになった。
二人を置いて、ホテルをでながら、
「これでこの赤い材木の商売も、やっと軌道に乗るんじゃないかな」
小寺は、フランクにいった。
フランクは、激しい感情の渦にまきこまれているらしく、黙って頷いた。
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マニラB級支店
1
ルソン島の雨期は、酷暑期の終る六月から始まり、おおむね九月まで続く。
この土地の雨期は正確にはふたつの時期に分れ、六、七、八月の、いわば前期は、一日に二度ばかり、大抵は昼過ぎと夕刻、どしゃぶりのシャワーが小一時間降って、あとはからりと晴れ渡ってしまう。
後期の九、十月は、三日も四日も大雨が降り続き、これに台風が混る。マニラ市といえども、排水設備が充分に整っていないから、路上に深さ三、四十センチにおよぶ水溜りができたり、あちこちで出水騒ぎが起って、貧民地区が水に浸ったりする。
雨期の前期に入ってまもなく、鴻田貿易は、オノフレ・マーパのフィリッピン諸島木材株式会社、略称PITICOと最終的に合意に達し、輸出許可の下り次第、伐採に入ることになった。
マニラ事務所恒例の|月 曜 会 議《マンデー・ミーテイング》の席上、所長の小寺は、自らこの話題を持ちだした。
「佐藤君、石山君の努力で、かねて鋭意交渉中だった日本向け赤ラワンの話がまとまった。この商売がまとまった結果、当事務所の年商額は一挙に数倍に達することになった」
小寺は、珍しく胸を張るようにして、そう述べた。ひといきついて、
「じつは、佐藤君には」といいかけて、「いや、フランク・ベンジャミン君には」といい直した。
「この件ではえらい苦労をかけた。残念ながら、グラウンド・サーベイまで私は交際《つきあ》わなかったが、もし一緒に交際っていたら、私自身の意思でこの商売を打ち切って、帰ってきてしまったろう、とおもいます」
入口のわきの会議室に所員一同集まっているのだが、フランクは会議机の端で、俯いたまま、眼を鋭く光らせ、両手でしきりに煙草の箱をもてあそんでいる。
「少々もっともらしい、迷うほうの迷論卓説をぶつことになるんだけれども、この際、ひとこといっておきますとね、アダム・スミスは、例の『国富論』のなかで、商業というのは、個人のあいだでも、国のあいだでも、協同と友情の紐帯《ちゆうたい》、つまり|きずな《ヽヽヽ》であるべきだ、と書いているんだね。個人のあいだでも、利益だけにすがりついた、文化文明に関係のない商売はすべきでない。ましてや、国家の間では、お互いの信義と友情を高めないような商売はすべきでない、というんだ」
突然登場したアダム・スミスの名前に、月曜会議の出席者は一様に戸惑ったような表情をうかべている。
──おれはいつまで経っても、商大の学生気分から脱けだせないな。
小寺は、いくぶんの自嘲をこめてそうおもうのだが、喋り始めると、自分でもブレーキがきかなくなった。
「このアダム・スミスの啓蒙思想をアジアで実現したのが、例のシンガポールの建設者、ラッフルズだが、ラッフルズは、この信義と友情を重んじてね、どんな極貧のマレー人が訪ねてきても、誠心誠意、相手をしてやって友人になった、というんだね」
全生活を挙げて、スミスの啓蒙主義をアジアにおいて実現しようとした英国東インド会社社員、トーマス・スタンフォード・ラッフルズは、ジャワの土地改革、シンガポールにおけるマレー語の普及に全力を尽したすえに、四十五歳の若さで英国帰国早々に死亡した理想主義者肌の人物である。
「イギリスの名をしてアジア諸国民のあいだに荒廃を招く嵐として記憶せしむるな」「圧迫の冬枯れどきから、生命を蘇らせる春の微風《そよかぜ》として記憶せしめよ」という意味の、ラッフルズの言葉は、いまだに小寺の胸中に生きている。
ラッフルズは、熱帯の疫病のために、愛妻、愛児四人のことごとくを失って、ただ名前のみを英国と、そしてなによりもシンガポールの歴史に留めて世を去ったのであった。
「フランク君は、今度の丸太の商売では、アダム・スミス流の、いやラッフルズも顔負けの商売をやったわけだ。赤ラワンの商売は、マーパ社長の積年の恨みつらみをひきだして、一時はお互いの関係を最悪にするようなかたちになった。しかしフランク君は、よく我慢して、結果的には、お互いの恨みつらみもみごとに解消させた。お互いの信義と友情を高めるような商売をした。それもかつてないおおきな商売を実らせたんだね。これはマニラ事務所としてはおおいに自慢していいことだ」
会議の席上なので、さすがに拍手する者はいなかったが、小寺の言葉のおかげで、フランクに対する好意的な空気が、席上にみなぎった。
「自分はなにもしなかったですよ」
フランクは、頭を掻いていった。
「臆病なので、ぐずぐずしているうちに、ふいに仕事の流れが変っただけの話です。日本人小学校の先輩に助けられる、という幸運もありましたしね」
「しかし、きみは、マーパ社長におさえこまれたり、ボートがひっくり返ったり、だいぶ危ない目に会ったじゃないか」
「あれは、全部、石山さんに助けられたんですよ。あのひと、力と運動神経はあるからねえ」
だれかが「力と運動神経|も《ヽ》あるんじゃなくて、力と運動神経|は《ヽ》あるのかい、フランクさん」とまぜ返し、大笑いになった。
この月曜会議は、マネージャー以上が出席の会議だから、石山は出席していない。
その夜、小寺は、石山を連れてベル・エアの自宅に帰ってきた。独身寮に一緒に住んでいる、経理の藤田が東京に出張したので、その夜石山はひとりで寮のめしを食うことになったのだが、それも味気なかろうと小寺が自宅に誘ったのである。
「ご無沙汰してます」
石山が、小寺に続いてベル・エア地区、アステロイド街の家に入ってゆくと、
「いらっしゃい。石山さん、あんたをひとりにしとくと、なにを食べてはるのやら、また妙なもんにでもあたらへんかと心配でね。そのおおきな躰にひもつけても、強引に連れてこな、あかんよ、そう主人に頼んだんよ」
細君の百合子が、大声の関西弁でいった。
「それはありがたい話ですな。どちらかというと、私は得な性分なのかな」
石山は頭をかいていった。なにしろ、歓迎下痢症《ウエルカム・ボウエル》に罹って、一週間近く居候していた家だから、石山の口のききようも遠慮がない。
「病気になられると、会社も困るから、まあ、うちのまずいご飯、我慢して食べなさい」
百合子は楽しそうにずけずけといった。
小寺と石山は、順番にシャワーを浴びてから、食堂で、メイドが用意したウィスキーの水割りを飲み始めた。
「今朝、会議のあとで、所長のアダム・スミスには参ったな、皆、そういってましたが、一席ぶたれたらしいですね」
石山が訊ねた。
「いやあ、恥かしいこったね」小寺は、シャワーを浴びて、艶々と光る顔を撫でて照れた。
「きみは慶応の経済をでたそうだから、アダム・スミスはお手のものだろう」
「それが検木やって、丸太のうえを走りまわったりしているうちに、きれいに忘れちまいましてね。辛うじて覚えているのは、ピン製造の分業の話くらいですよ」
石山は、頭の後ろを手のひらで叩いていう。
「ピンの話か。なつかしいな」
小寺がアダム・スミスに熱中したのは、東京商大在学中だが、じつはそのまえの、東京府立十中の中学生時代の早熟な読書が、アダム・スミスに至る準備期間になっていた。
頭でっかちの子どもだった小寺は、桃井第二小学校から府立十中に入学した頃こそ、躰のおおきいほうだったが、その後背丈が伸びず、自分より背の低かった同級生に次々と追い抜かれていった。
それにもかかわらず、クラスのだれかに親父と呼ばれて、一種敬愛されていたのは、早熟な読書家で、ひとかどの論客だったからである。
やはり東京商大を卒業し、海軍経理少将だった父親も、相当の読書家で、書斎には経理の専門書のほかに文学書や哲学書がならんでおり、小寺は父親の留守にそうした本を抜きだしては、乱読したものであった。
ルソーの『人間不平等起源論』もおもしろかったが、激越な調子で、宗教的偏見を痛罵するヴォルテールの詩や著作がとりわけ小寺を惹きつけた。ヴォルテールの時代の宗教的偏見が、日本軍国主義の衣を着て、府立十中生、小寺和男の日常の周辺に生きているようにみえたからである。
小寺は、全校生徒靴を履いて登校せよ、と命ぜられると、わざと下駄を履いて登校してみせたり、駅で二列縦隊の隊伍を組んで、学校まで行進して登校せよ、と命ぜられると、わざと裏道を通ってひとりで学校に歩いて行ったりした。
千葉県習志野に教練の野営にでかけたときは、帰校後の感想文に無記名で「配属教官の深更におよぶ酒宴などに、人生の裏を見た。遺憾に堪えず」と書いて提出、大物議を醸した。
戦時中の府立十中生は、日本無線の工場に動員され、ガラスを吹いて真空管を作らされた。不器用な友人が、十個吹いても二十個吹いても、満足な真空管がひとつもできず、職長にしぼられているのをみると、小寺は、三十個吹いてひとつもできない、というような真似をわざわざやって、この不器用な友人をかばったりした。
いずれも宗教的ならぬ軍国主義的偏向教育に対する反発であった。
軍国主義的偏見を嫌い、ヴォルテールの啓蒙主義を信ずる気持が、終戦後、父親の母校、東京商大に入学した小寺を、アダム・スミスへ誘った。さらにこれも父親の書架に眠っていた、戦時中の発禁本、日本評論社発行、信夫清三郎著の『ラッフルズ』へと向わせたのである。
アメリカ駐在以来、贔屓《ひいき》になっているテネシー産ウィスキーを飲みながら、小寺は、
「他の国の産業に対する不当な圧迫は、私をしていわしめるならば、その圧迫者の頭上に返り打ちするのであって、他国の産業よりも多く自国の産業を圧し潰すのである」
というスミスの代表的な文章のひとつをおもいだし、少し眉をひそめた。
──丸太の商売は、他国の、つまりこのフィリッピンの木材産業に対する不当な圧迫になっていないであろうか。
それが気にかかってきて、ウィスキーの味をもうひとつ冴えないものにしてしまうようであった。
夕食後、石山は、小寺の子どもたちと一緒に、芝生を張った庭にでてみた。
「おおきな蛙がごろごろいるなあ」
石山が歎声をあげた。
雨期なので、日本の雨蛙を十数倍のおおきさにしたような蛙が、あまり広くない庭のあちこちで、飛び跳ねていた。
「このなかには毒蛙がいてね、この辺じゃ、犬を庭に放すな、といわれているんですよ。犬が蛙をからかっておもちゃにしてね、うっかり蛙を噛んだりすると、逆に犬が死んじゃうんだそうです。毒にあたって死ぬらしいんですよ」
小寺の長男の竜男が、そう説明をした。
「おもしろい国ですよ、ここは。蛇の大好物は蛙のわけでしょう。ところが蛙を食べた蛇もね、食あたりして死んでしまうらしいんですよ」
──この国を甘くみると、返り打ちにあう、という意味か。
石山は、一瞬、そんなことを考えた。
そこへ、「石山さん、石山さん」とあたりはばからぬ大声をだして、百合子がやってきた。
「おお、こわ、気色わるいわあ」
芝生のあちこちにうずくまる蛙をみて、百合子は躰をすくめた。
「前のガードナーが辞めてしもたから、代りがみつかるまで、庭を放っといたんよ。そしたら、たちまち蛙だらけやわあ」
百合子は愚痴をいってから、
「今度ね、国会議員のミランダさんのお招《よ》ばれでね、コレヒドールまで船旅にでかけるのよ、今日、電話で奥さんのテレサと打ち合わせしたら、突然、あんたの名前が飛びだして、ぜひ連れてこい、いうてはるのよ」
オノフレを紹介してくれた国会議員、アマデオ・ミランダは、この商売成立の機会に、ピクニックのような船旅をやろうと提案してきた。
強い縁故があるので、マルコス大統領の持船を借りて、コレヒドール島まで行ってみよう、という。ちょうどよい機会だから、細君のテレサが所属している「女性クリスチャン協会」の会員たちと、その亭主、家族などを三、四十人招待して、小寺さんご夫婦に紹介したい、そんな話であった。
すると「女性クリスチャン協会」の会員のひとりが、「コウダ・トレーディング・カンパニイ」の社長一家を招ぶのなら、ぜひイシヤマという青年も招んでくれ、といいだしたらしい。
「石山さん、そんな女性クリスチャンに心あたり、あるの」
石山は、久しぶりに日本の家庭料理をたらふく食って、少しせりだした腹をゆっくり撫でたりして、ちょっとおもわせぶりに黙ってから、
「ないこともありません」
といった。
「石山さん、やるじゃない」
竜男が、すかさずひやかした。
2
コレヒドールへの船旅にでかける日曜日、マガリアネス・ヴィレッジの独身寮をでた石山は、ベル・エアの小寺の家に寄り、長男の竜男を横にのせ、小寺の運転する、赤いオペル・レコードのあとを追って、マニラ港に向った。
ふだんは自家用運転手のノーエが、この赤いオペル・レコードを運転して、細君の百合子の買物や交遊のおともをしているのだが、なにもかも自分で切り盛りする癖のついている小寺は、日曜は自分で車を運転したがった。
日曜日はノーエをゆっくり休ませてやりたい、という優しい気持もあり、週末には明日の日曜は家族サービスをしなさい、と「余計な」小遣いをやったりする、と百合子がいっていた。ノーエは、ひたすら恐縮して「明日も働かせてください」と執拗に頼みこむのだが、小寺は笑って、首を縦に振らないのだそうであった。
マニラ港内の海軍基地の、指定された埠頭《ふとう》に着いてみると、百トンか二百トンか、素人の石山にはよく見当がつかないけれども、とにかく、ちゃんと汽船の格好をした船が横付けになっていて、周囲には白人系、あるいは混血度の強いフィリッピン人や、色の黒い、しかし顔や手足の小さい上流のフィリッピン人が家族連れ、友人連れで群がっている。
パーティとかピクニックとかいう機会があると、招待者の意向に関係なく親類、友人を連れてくるのがフィリッピン人の習慣だから、いつも予定より大人数になり、雰囲気も肩のこらないものになるのである。
「これならフランク君も誘ってやればよかったな」
小寺はあたりを見まわしていった。
「ミランダさんからは電話があってね、まあ、日本人なら、だれでも多少は興味があるとおもったので、コレヒドールを目的地に選んだが、むろん深い意味はない。むしろ往き帰りの船中で、食事やダンスを楽しむのが主たる目的だから、だれでも誘って、連れてきてくれ、といわれたんだがね、フランク君を誘うのはやはりためらってしまったんだよ。コレヒドールにゆけば、どうしても戦中戦後のことをいろいろおもいだすことになるだろう、と考えたんだ。しかしこの雰囲気なら、その心配はなかったな」
「ユリコ」
たかい声がして船上を仰ぐと、ミランダ夫婦が、甲板から手を振っていた。
小寺と石山は、オペルとヒルマンを駐車係に引き渡し、マルコス大統領の持船だという、白い、洒落《しやれ》た船に乗りこんだ。
百合子や子どもたちはすでに船に乗りこんで、ミランダ夫婦や友人たちとにぎやかに話している。
小寺が石山をミランダ夫婦に紹介すると、
「これが有名なイシヤマさん?」
とテレサが、好奇心をまるだしにして、しげしげと石山を眺めた。
「東洋人にしては、ずいぶんおおきな、格好のいいかたね」
テレサはお世辞をいった。
──この東洋人のなかには、フィリッピン人もはいっているのかな。
一瞬、石山は考えたものであった。
次々と「女性クリスチャン協会」の会員夫婦を紹介され、石山は挨拶を繰り返しながら、きょろきょろと心あたりの人物の姿を探しもとめた。しかし出発時刻の十時をとうに過ぎているというのに、心あたりの人物の姿はない。おれは勘違いしたかな、心あたりの人物がいる、などと大言を吐いて、恥をかくことになったかな、と気持が動揺し始めた。
ほとんど招待客は乗船をすませてしまったようで、埠頭にも人の姿がみえない。
フィリッピン人にとって、十時集合というのは、十時台、つまり十時零分から十時五十九分までに集合という意味だと常々フランクもいっているし、あわてることはない、と石山は強いてのんびりかまえていたが、十一時近くなっても目指す人物の姿はみえず、さすがに焦り始めた。
石山は諦めきれず、甲板の下の船室にでもいるのかもしれない、とおもい、下の船室に降りる階段のほうへ向った。
すると、だれかが「やっと最後のお客がきたぞ」と叫ぶのが聞えた。
甲板の手すりにもどり、下を覗くと、おおきなキャディラックが停り、待望の人物、レオノール・アランフェスが前の助手席から降りたったところであった。
みごとに伸びた、長い足に真紅のパンタロンをはいたレオノールは、映画女優もどきの落ち着きはらった態度である。
後方の座席から降りてきた黒髪、中背の女性がどうやら彼女の母親らしく、当然ながら、これも白いフィリッピン人であった。
母親に続いて、メイドらしい、若いフィリッピン女性が、おおきなバスケットをかかえて降りてきた。
「あれが、私の心あたりの人物じゃないか、とおもうんですがね」
石山は百合子に説明した。
「これはすごいわ。ほんまに美人やね。いくら石山さんでも、ちょっとできすぎと違うの」
百合子はいった。
「たしかに美人ではありますけど、ずいぶん遅いおでましですね。なんだか見せ場をばっちり作っておいて、しゃなりしゃなりと登場、という感じがするな」
石山は、レオノールを眺めながら、いった。
「私は、小さい頃、よく母親に連れられて、歌舞伎をみにゆかされましたが、なんだか、歌舞伎の役者をおもいだしますね。助六や白浪五人男じゃ、場内がこう、静まったところで、タイミングを計って登場したり、見得を切ってみせたりするでしょう。あれみたいですね」
埠頭の親娘は、打ち揃ったところで、船上の知人、友人に向って手を振って挨拶をした。
「ほうら、見得を切ってみせた」
石山は解説者の口調である。
「音羽屋とか、大播磨《おおはりま》とか、築地明石町なんて、声をかけたくなるでしょう」
「おもしろいこといいはるね、石山さんは」
百合子は笑った。
「そやけど、私には、歌舞伎というより宮様のご一行のおなりみたいにみえるわ」
宮様ご一行は、おつきの女官を従えてしずしずと大統領の持船のタラップを昇ってきた。
マルコス大統領の所有だという船は、アランフェス親娘が乗りこむとまもなく、埠頭を離れ、コレヒドール島に向けて船出した。
「マニラ近辺の海が汚いのは、下水口が完備していなくて、下水が海岸からじかに海へ流れでるせいや、テレサはそういうてはるけど、たしかにちょっと濁ってるみたいやね」
マニラ港内の水面を眺めて、百合子がいう。
雨期の定期便になっている午後のシャワーまではまだ時間があり、陽がにぶく海面に反射していたが、なるほど海は土いろに濁っている。港内には、砲艦や魚雷艇のような、小艦艇が十数隻、もやっていて、軍港らしい雰囲気を僅かに留めていた。
「それをまじめに考えると、近海物の魚は、下水に浸ってる感じで、よう食べられへんけどね」
「その日その日の海流のぐあいによるんじゃないかな」
小寺の長男、竜男が傍らで分別くさくいう。
じっさい海はすぐにきれいになり、舷側に散る波の飛沫が、強い南国の潮の香を鼻孔に運んでくる。
石山が、船の左舷に拡がるマニラ市とそのうえに湧きあがった雲を眺めていると、
「タカ」
と呼ぶ声がした。
振りむくと、レオノールが立っていた。
真紅のパンタロンに長袖の白いブラウス、というアメリカ的な服装をしていて、それがまたよくうつるのだが、後方には、それこそ、宮様のおつきの女官みたいな感じで、色の黒い、おでこのメイドが付き添っている。
石山は、グラウンド・サーベイから帰ってきた直後、レオノールに電話を入れていた。石山は「どこかで食事でもしないか」と誘ったのだが、レオノールは「ちょうど学期が始まったばかりで忙しい。外では会えないけれど、夜、電話でゆっくり話したい」という。
石山はその後二回ほど、電話をかけて一時間近く話しこんだが、人目につくデートはせずに、電話で長時間話しこむ、というのが、フィリッピンの若い男女の習慣のようであった。
グラウンド・サーベイに手製の飛行機で出かけた話や、渡し舟がひっくり返って、川の真中に投げだされ、ピラニアがいはしないかと心配した話などを、石山はとにかく英語で語ってみせ、レオノールを爆笑させたものであった。
この二回の電話で、レオノールは石山の名前を訊きだし、高広を略して「タカ、タカ」と呼び始めたのであった。
石山が、レオノールを百合子、竜男に紹介し、挨拶が終ると、レオノールは、
「今度は、私が紹介する番よ」
といい、先きに立って、後部の甲板のほうへ歩いていった。
歩きだして、ふと背後に人の気配を感じて振り向くと、色の黒い、おでこのメイドがぴったりふたりにくっついてくる。
メイドは、粗末な手提げ袋のほかに、レオノールのものらしい、ヨーロッパの銘柄物の豪華なハンドバッグをかかえていた。
茶いろのパンタロンを穿いたレオノールの母親は、ずいぶん前のイタリアの名女優、アンナ・マニヤーニに似た、なかなか性格のきつそうな顔の女性であった。
母親は、顔の小さいフィリッピン人の友人としきりに話しこんでいたが、
「こちら石山さん。石山さんは日本の方よ」
レオノールがそう紹介すると、
「日本のひとにしては、おおきな方ね」
「今日は」の挨拶も抜きに、テレサとおなじことをいい、すぐにまた、友人との話に戻った。
──これは相当にきつそうだぞ。吾嬬町のおふくろといい勝負じゃないか。
石山は、やれやれとおもい、ちょっとうっとうしい気持になった。
黒縁の眼鏡をかけた、学者ふうの風貌のアマデオが、
「少し早いが、皆、下のホールに行って、食前酒をいっぱいやろう」
珍しくはしゃいだ様子でそう甲板のうえを触れてまわった。
甲板のそこかしこにかたまっていたひとびとがぞろぞろと動きだして、甲板の下へと階段を降り始めた。
石山も、アランフェス親娘をエスコートする格好で階段を降り、階下のホールに入った。
階下のホールは、二、三百人収容できそうなおおきさで、四方の板壁に沿って椅子が置いてあり、中央ではダンスができるようになっていて、床がきれいに磨いてある。
例のごとく、コンボのバンドが入っていて、にぎやかに演奏をしており、その傍らに酒場が店開きしていた。酒場のカウンターの端には、昼食の弁当なのだろう、白いボール紙の菓子箱のような箱が山積みにされている。
一同がホールの椅子にすわったところで、アマデオが立って、今日の船旅行は、日本の友人、小寺和男を、|正 客《メイン・ゲスト》として催されたこと、マルコス大統領の厚意で、この船の借用が許されたこと、などを述べ、小寺を紹介した。
滞米生活の経験のある小寺は、このことあるを期していたようで、お仲間入りできて嬉しいという意味の挨拶を、簡単だが、なかなか堂々たる態度でやってみせた。
酒と食事になったが、石山はレオノールの母親や友人たちの注文を取って、酒場から酒を運んできたり、白いボール紙の箱に入った、弁当を配ったり、骨惜しみせずに働いた。
だいたいご婦人たちに対するサービスは、母親やその長唄仲間たちと芝居だの、花見だのに出かけた折に、こき使われて、身についているのである。
「最近の若い日本人は、ずいぶん親切だねえ」
レオノールの母親は、またそういって感心した。
食事が終ると、三組のプロのダンサーがホールの真中で踊り始めた。
彼らはアマデオの雇ったプロのダンサーで、率先踊ってみせて、いわば景気をつけて、招待客の踊りやすい空気を作るのが仕事である。いかに踊りの好きなフィリッピン人でも、こういう衆人注視の場所で一番最初にステップを踏むのは勇気がいるらしく、誘い水の役割りを勤めるプロを雇う必要があるようであった。
「タカ、踊りましょう」
レオノールがいって、
「あんた、ちょっとこれ持っててよ」
とハンドバッグを、おでこのメイドに預けた。
フィリッピンの社交ダンスの特色は、欧州生れのクイック・テンポだろうが、ワルツだろうが、いずれも爪先きでひょいひょいと鳥のように身軽に跳びはねる、南米ふうの踊りに変えてしまう点だろう。
小寺の細君の百合子は、テレサに紹介されて、このフィリッピンふう社交ダンスを習うグループに加わっていたし、石山は、下町のナイト・クラブやバーで何回か練習して、たちまち覚えてしまっていた。石山の場合、運動神経とリズム感は人一倍優れているから、この類いのことは習得が早いのである。
石山とレオノールはフィリッピンふうのゴーゴーやワルツをなかなか巧みに踊ってみせて、やんやの喝采を博した。
「タカはフィリッピンふうのダンスがうまいのね。グラウンド・サーベイにシェラマードレに行っていたってのは、ほんとうかな。インターコンチネンタルのホエヤエルスのサーベイにでも行っていたんじゃないの。怪しいぞ」
冷房がきいているのに、汗を額ににじませて席に帰りながら、レオノールはそういって、石山を軽く睨んだ。
マカティにある、米国系のインターコンチネンタル・ホテルの地下には、ホエヤエルスという、ディスコ・クラブがあって、近隣のヴィレッジの金持ちの息子、娘がしきりに出入りしている。
「ちょっと手を洗ってくるから、ハンドバッグ、返して頂だい」
レオノールがメイドにいうと、色の黒い、おでこの娘は、あわてて立ちあがり、
「私、おともします」
と訛りの強い英語でいった。
レオノールは石山の顔を一瞥して、照れたように顔を赤くし、
「いいのよ、私、ひとりで行ってくるから」
まるで奪い返すように、ハンドバッグを取り戻して、レオノールは部屋を出て行ったが、レオノールの制止にもかかわらず、おでこの娘はぴったりレオノールのあとをついて行った。
ホールでは、小寺がテレサと、百合子がアマデオとそれぞれゴーゴーを踊っていて、踊りながら、それぞれ石山に合図してみせた。
手洗いから戻ってきたレオノールは、弁解するように、
「あのシャペロン、母がどこからか探してきたんだけど、どこへでもついてきて、うるさくてかなわないわ」
とこぼした。
レオノールの話によると、フォルベス・パークやダスマリナス・ヴィレッジに住んでいるフィリッピンの上流家庭では、娘に「シャペロン」と呼ぶ、娘専用のメイドを雇う習慣が一般的なのだそうであった。
とにかく父親が米国との間をしばしば往来するおかげで、中学の何年かをアメリカで過し、現在も休暇はアメリカで過すレオノールとしては、欧米ではとっくに途絶え、僅かにこの国に残っている、こんな習慣を受け入れる気持にはとてもなれない。
長いこと運転手兼ガードに送り迎えをして貰うだけで、シャペロンには縁がなかったのだけれども、母親が勝手にシャペロンの体験のある娘を探しだしてきて、レオノールに押しつけたのだ、という。レオノールの母親の考えかたは旧態依然で、アメリカにゆくのにもメイドを連れてゆくのだそうであった。
「あのシャペロンは、リタって名前なんだけど、彼女が以前についていた女の子は、お嬢さん学校のアサンプション大学あたりに通っていたのね。これがひどくて、教科書もリタに教室まで持ってこさせたらしいし、トイレに行っても、ご使用後のフラッシュを押させて、事後処理をさせていたらしいのね」
レオノールは、心底嫌そうな顔をして説明した。
「へえ、トイレに一緒に行って、フラッシュを押させるんですか」
「おひいさま」のお下《しも》の事後処理をさせられた、という江戸時代の、大名家の奥女中のような話だな、と石山は、さすがに驚き、少しばかり猥褻《わいせつ》な空想をして顔を赤くした。
リタという、おでこの小娘が少し気の毒になって、どこにいるのかと探すと、背後のホールの壁にもたれて、真中で踊る老若の男女の群に見入っている。まだ若い、踊りの好きなフィリッピン娘であり、自分も一緒に踊りたいに違いなかった。
二、二度、爪先きではねるようなゴーゴーを踊ったあと、レオノールは、
「甲板にでてみない」
と石山を誘った。
ホールの壁にもたれて、ダンスに見入っているリタに近寄り、
「すぐ帰ってくるからね。あなた、私についてこなくていいのよ。いい、ここに残っているのよ」
いいつけを守れという意味だろう、人差し指をシャペロンの顔のまえに立てて、左右に振り、そう繰り返した。
リタは、笑いを含んで頷いている。
「タカ、私はね、フィリッピン大学で医学を勉強しているのよ。今の時代に医学生がシャペロン引き連れて歩いているなんて、みっともないじゃない。恥だわ」
甲板へ通ずる階段を上りながら、レオノールは、おもい詰めた顔でいう。レオノールがフィリッピン大学で医学コースの上級に在学していることは、石山も電話の長話で聞き知っている。
「そうかな、国によって事情は違うでしょう。アメリカの医学生はシャペロンを連れて歩きたくたって、不可能なんだから」
国情の違いがあるのだから、あまり|むき《ヽヽ》になることはない、と石山はとりなしたのだが、レオノールは、自分が乳母に付き添われた幼児のように石山の眼に映りはしないかと心配しているらしく、えらく気にしていた。
甲板にでると船はマニラ湾の湾口に向って走っており、バターン半島の緑が眼にしみるようである。
「レオノール」
とファースト・ネームを呼び捨てにして、石山は俄かに照れくさくなり、咳払いをした。
「あなた、|フ《U》ィリッピン大|学《P》を卒業したら、アメリカにゆくんですか」
「そのつもりなのよ。私、おもいきり勉強したいのよね」
レオノールは右手をまっすぐ伸ばし、マニラ湾の湾口に向って、ピストルをかまえるような姿勢をした。留学を希望している太平洋の彼方の国に狙いをつけるように眼を細めた。
「タカも、私と一緒にアメリカにゆかない」
ふいにそんなことをいう。
「私は、仕事がありますからね」
「会社に申しでて、アメリカの駐在員にして貰えばいいじゃないの」
レオノールはこともなげにいう。石山が苦笑していると、レオノールは、
「ねえ、一緒にアメリカにゆきましょうよ」
といい、ふいに躰を石山に寄せてきた。
自然にレオノールの肩を腕のなかに抱きこむ格好になり、鼻を刺す鋭い香料の匂いとともに、毛筋の細い髪が海風に舞いながら、石山の顔にかぶさってきた。
おもわず石山は腕に力を入れて、レオノールを抱き締めた。頬に唇を捺《お》し、レオノールの指が強く二の腕を掴んでくるのに力を得て、唇を吸おうとして、ふと視線の端に黒い影をみとめた。
船橋のまえ、通風孔のかげに、おでこの小娘が立って、頬ぺたに掌をあてて、こちらを眺めている。
「いけねえ、シャペロンがみているぞ」
石山はレオノールの耳もとに囁き、レオノールが腕のなかで躰を固くするのがわかった。
リタは、石山と眼が合うと、にやりと笑ってウィンクをしてみせ、石山を狼狽させた。
「母が私たちを監視するようにいいつけたのよ、きっと」
レオノールは囁き返した。
「腕をゆるめないでよ。リタなんか平気じゃない。キスしてよ」
少しむきになった口調でレオノールはいう。
興味津々といった感じの、リタの視線に射すくめられて、石山はおっかなびっくり、唇を合わせた。
唇を離すと、
「リタは、タカと私の仲を監視するために雇われたのかもしれないわね。なにしろ日本人のお友だちができた、と母に喋ったとたんに現われたんだもの」
レオノールは不気味なことをいった。
コレヒドール島は、表面は草が繁った、なにもない島である。
「これは文字どおり、夏草や、兵《つわもの》どもが夢のあと、というやつだな」
舷側に迫ってきたコレヒドール島を眺めながら、小寺は、百合子にいった。
埠頭からだらだら坂が爪先きあがりに続いていて、頂上に小屋がけのレスト・ハウスの立っているのがみえたが、一同は、埠頭に用意された、冷房つきのバスに乗って、島の周遊に出かけた。
小寺夫婦は、ミランダ夫婦と一緒に食事をしたり、ダンスをしたり、終始行動をともにしていたが、バスでも後部の座席に一緒にすわった。
小寺の長男、次男は、ミランダの息子たちと仲がよくなり、子どもは子ども同士一緒に行動している。
冷房バスが走りだしたところで、小寺は、朝から胸にあった言葉を口にした。
「ミランダさん、なにかフィリッピンの基礎産業建設に関係するような仕事をお世話いただけませんか」
アマデオは突然の話に、けげんそうな顔をして、小寺の顔をみた。
「私はね、できればこの国の将来にプラスになるような仕事をしたいんですね。つまり工場なり機械なりをフィリッピンに残してゆく、というかたちの商売をしたいんですね。ラワンを伐って、持ってゆく仕事ばかりじゃ、気がひけましてね」
「なるほどこの国の政界にいる者としては、ありがたいご提案ですな」
アマデオは眼鏡の縁を押しあげた。
「小寺さん、東南アジア各地で、なぜ中国人が憎まれるか、ご存知でしょう。結婚の相手といえばおなじ中国人、儲けた金は、一切合財《いつさいがつさい》スイスの銀行に預け、なにか起れば家族と一緒に金を持ってさっさと逃げだしてしまう。狭い社会に閉じこもって、現地に同化しようとしないし、何も残してゆこうとしない。私は日本の方々に中国人とおなじやりかたをして貰いたくないんですよ。小寺さんのおっしゃるようにね、なにかこの社会に残るような仕事をして貰いたいんです」
アマデオは熱っぽくいってから、ふとおもいついたように躰をのりだした。
「ミンダナオのイリガンというところを、政府は工業団地として開発中ですが、そのイリガンに、例のオノフレ・マーパが土地を持っていましてね。セメント工場を建てたい、といってるんですよ。もう一度、オノフレと仕事をやってみますか」
アマデオはそういって、小寺の顔をうかがった。
「それはぜひ、お取りなしいただきたいですな」
小寺は熱心に頼んだ。
アマデオは、帰ったら、早速、打診してみると約束してくれた。
トンネルのなかの要塞を見学したのちバスは、米軍の旧兵舎あとに着いた。営庭には、日本軍の高射砲が置いてあり、錆《さ》びた砲身がのどかに澄んだ青空をうかがっていた。
──ひとつ、マーチャントの原点のような仕事をやってやるか。
小寺は、そうおもいながら、むなしく青空をにらむ砲身を見あげた。
スペインは、数々の教会とカトリック教、そして南欧ふうの社会制度をこの国に残した。そのあとにやってきたアメリカは、道路と英語の初等教育、上、下水道を残した。三年有余の日本軍政が残したのは、せいぜい、この錆びた高射砲と、そして──憎悪の感情だけだろう。
日本の経済進出は、植民地政策や軍政とは当然異質のものだが、敗残の日本兵をいみじくもフィリッピン人が「泥棒」呼ばわりしたように、軍政であれ、経済進出であれ、いまだに「奪う日本人」のイメージは消えていないのではないか。今こそなにかを残すべきときではないのか。
青空の彼方からそろそろ午後一番のシャワーがやってくる頃合いであった。
3
コレヒドール旅行の翌朝、小寺は、秘書のフェイに電話を入れさせ、昨日のセメント工場の件に就き、もう少し話を詳しく訊きたい旨、アマデオに申し入れた。
手間を省くだけの意味なら、ルソン材の取引きがすでに始まっているオノフレに直談判におよべばいいのだが、アマデオを通じて話が持ちあがってきた以上、アマデオの顔を立てねばならない。
あるいは単純にアマデオの顔を立てるだけでなく、政府の許認可や融資の問題が背後に絡んでいて、上院議員アマデオの仲介なしには話が実現しない、という事情が伏在しているかもしれないのだ。
アマデオからは折返し電話があって、翌日の午前十時に、議員会館にきて欲しい、オノフレもその時刻にやってくる、といってよこした。
セメント機械は、機械貿易の担当だが、担当課長が出張中のこともあって、小寺は約束の時刻に、ひとりでブルゴス街の議員会館にあるアマデオの個室を訪れた。
秘書に招じ入れられて、部屋に入ってみると、すでにオノフレがきていて、アマデオと雑談をしている。
首を左に曲げたオノフレは、相変らずインディアンの酋長のように不愛想である。言葉少なに小寺とあまり力の入らない握手を交わした。
アマデオの方は上機嫌で、
「ルソンのことはちょっと忘れて、今日はまずミンダナオについてのABCから話を始めましょう」
そういった。
「ミンダナオという島は、日本にたとえれば北海道ですよ」
小寺の驚いた顔をおもしろそうに眺めながら、
「まずミンダナオと北海道は、島のかたちが、似ているでしょう。ダバオにあたるのが室蘭ですよ」
アマデオは意外な比較をする。
なるほど一九七〇年当時、七百八十二万の人口を有し、ルソンに次ぐおおきさのこの島は、形状がいくらか北海道に似ていないこともない。
「それから政府の政策が似ていますよ。日本旅行をして北海道に行ったとき、現地のひとたちの説明を聞いたんだが、あのとき、明治時代の北海道に対する政策と、大戦後のミンダナオに対する政策とはおなじだな、とおもいましたな」
フィリッピンの大島嶼中、ミンダナオはもっとも開発が遅れ、戦後、政府は他の島々から、多数の入植者を募ってここに送りこんだ。
この点も往年の北海道と似ているが、モロ族という、回教を信奉する土着の住民が住んでいるのも、アイヌのいる北海道によく似ている。
もっともモロ族は、ほとんど絶滅に瀕しているアイヌと異り、ミンダナオの西半分に強大な影響力をおよぼし、一部地域では政府軍と激戦を交えていて、フィリッピンのおおきな内政問題と化している。
アマデオは笑ってそう説明しながら立ちあがり、一方の壁に貼ってあるフィリッピンの地図に歩み寄った。
「北海道にたとえますと、ちょうど小樽の位置にね、問題のイリガンの町があるんです」
アマデオは、地図を指でたたいた。
「なぜ、イリガンを工業地帯として発展させる政策がとられたか。それはラナオ湖というミンダナオ最大の湖が、イリガンの南にあるからです。このラナオ湖は、北海道にたとえると、どうなるのかな」
アマデオは頭を掻いて、
「高地にあって、要するに日光の中禅寺湖ですよ」
と話を北海道から日光に飛躍させ、小寺と顔を見合わせて、笑った。
「中禅寺湖の下に華厳滝があるように、このラナオ湖の下には、マリア・クリスチーナという滝がある」
このラナオ湖からマリア・クリスチーナを経て、イリガン湾に注ぐ川がアグス川で、この落差のおおきい川を利用して、マリア・クリスチーナ発電計画、アグス流域発電計画というふたつのプロジェクトが進行し、四次にわたる、マリア・クリスチーナ発電計画のほうは既に完成した。次はいよいよ七次にわたるアグス発電計画に着手するところだ、という。
この辺の事情は、職業柄、小寺も承知していた。
「ミンダナオ電化計画というやつでしょう。この電力を基礎に、イリガン一帯に工業地帯を造成しようというご計画なわけですな」
小寺は、愛想よく相槌を打った。
そこでそれまで黙っていたオノフレが、ふいにひと膝乗りだしてきた。
「アマデオは、大袈裟な話をするが、私のセメント工場の計画というのは、あまりこの電力の問題に関係ないんですよ」
アマデオの話に水をさすようなことを、例の感情を殺した顔でいう。
「要は、イリガンの裏山一帯は、|石灰 岩《ライム・ストーン》の産地だということです。この石灰岩を海岸の工場で粘土と混ぜて熱処理をしてセメントを作る。石灰岩はえらく重いんだが、イリガンの山は海岸に迫っていて、運搬の距離はないも同然だし、海からは船で運びだせばいい。この点が大事なんでね、電力の問題とはあまり関係がない。アルミや製鉄原料のフェロシリコンと違って、セメントはそんなに電気を必要としないんですよ」
アマデオは、ちょっと戸惑ったような顔をして、話に水をさすオノフレを眺めた。
アマデオにとっても、オノフレは気難しい、なかなか扱い難い人物のようであった。
「オノフレはこういうことをいいますがね、なに、電燈も点《つ》かないミンダナオの山中にセメント工場を作れるか、というと、作れやしないんですよ。電気でモーターまわして、石灰岩を細かく砕かなきゃ、セメントの原料は作れんのです」
アマデオは小寺に向ってそういって、笑った。
オノフレは、唇の端にかすかに微笑をうかべたが、アマデオのほうは一顧もせずに、
「私が持っているイリガンのライム・ストーンの鉱山はね、戦前に親父が人に勧められて買ったものです。私は私で、いつか、この親父の鉱山から石灰岩を切りだして、セメントを作ってやろうとおもって、イリガンに工場用の土地を買っておいた。イリガン工場化の計画が進んでいて、ちょうどいい機会だから、この土地を買い足して、本格的にセメント工場を建てようと考えているわけです」
オノフレは、そこで自由なほうの手の人差し指を小寺に突きつけた。
「セメント工場というのは、インフラストラクチュアなんだ。地場の発展には欠かせない基礎産業です。ミスタ・オデラ、ちゃんとした、優秀な機械を世話してください」
命令する口調であった。それからまっ白な、胃弱のような舌をだして、下唇を舐めた。
「御社の担当には、ミスタ・フランク・ベンジャミンを指名してください」
議員会館をでると、シャワーのあとの水たまりが、小寺の昂り、いろめく心を映すように、あちこちで陽を受けて乱反射している。
事務所に帰った小寺は、所長室に入りぎわに、フランクに声をかけ部屋にきて貰った。
「六〇年代の初めから、イリガン周辺にはイリガン・セメント、ミンダナオ・ポートランド・セメントなどという、セメント工場が建設されたが、これはいずれも日産五百トン程度の中小工場なんだそうだね。そこでオノフレは最新設備の日産二千トン程度の本格的なセメント工場を作ろう、というんだよ」
「これはすごいな。マニラじゃ弱小のうちが、かつて手がけたことのない大プロジェクトですな。しかし金のほうはどうなります。どこからか、|融資 《フアイナンス》先きをひっぱってきてやらにゃあ、いかんわけでしょう」
開発途上国における工場建設は、常に融資の問題が絡む。この融資が焦げつく場合が多く、融資を保証したり、仲介したりする商社は、きまっておおきなリスクを背負いこむことになるのであった。
「それがオノフレの不思議なところなんだな。融資は要らん、というのだね。機器類の納品プラス機器のスーパーバイズをやってくれれば、それで充分だ、というんだなあ」
ディビラヌエバのラワン材のときもそうだったが、オノフレは、その屈折した生いたちのせいか、意固地なところがあり、小寺が資金の問題を持ちだすと、にべもなく、「それはあなたに関係がない」というような、いいかたをする。資金難になやむ、開発途上国の経営者としては異色の人物であった。
資金力が豊かで政治献金を相当にやっているに違いなく、その辺の事情が、アマデオに対して強い態度を取る理由かもしれなかった。
「それで、フランク君、きみも長年、機械貿易を手がけてきたんだし、オノフレのご指名でもあるんだから、ここ暫く、このセメント工場の件を手伝って貰えないかな」
小寺は、少しいい難そうに、そうフランクに頼んだ。なにしろ事務所の編成替えをして、フランクを木材担当に決めたのは小寺だから、少々いい難い話ではあった。
「ルソンのラワンも順調に伐りだされてますし、機械貿易をヘルプする余裕はありますがね、しかし」
とフランクは、割りきれない顔をしていいよどんだ。
「オノフレは、なんでまた自分を担当に指名してきたんですかね。また無理難題を吹っかけて、意趣返しをしようとでもいうんですかね」
「私はね、ごく素直にこれはオノフレの謝罪のしるしというか、感謝のしるしというか、そんなふうに受け取ってるんだよ。フランク君にも迷惑かけたし、その迷惑をかけたフランク君が安藤俊子さんをみつけてくれた。あの男一流のやりかたでフランク君とそれから鴻田貿易に好意を示したい、と考えているんじゃないかな」
小寺の見かたは善意に傾き過ぎているのかもしれない。
だが小寺は、オノフレの態度のどこかに、以前よりは自分に心を開いている様子、くつろいだ態度を感じとっていたのである。握手は相変らず形式的で強く握ってこないが、すわりかたひとつにしても、以前より楽々と背を伸ばしている気がするし、ときどき微笑に似たものが唇の端をかすめて過ぎる。
「オノフレ式のウタン・ナ・ロオブかな。フィリッピンの社会には、ウタン・ナ・ロオブという、恩返しのルールがありましてね、恩返しをきちんとしない男は相手にされんのです」
フランクは説明した。
フィリッピン社会に特有の約束ごと、ウタン・ナ・ロオブについて、アテネオ・デ・マニラ大学の教授、メアリー・ラセリス・ホルンスタイナーは、この言葉は本来的には「負債」の意味であり、自分から頼もうと頼むまいと他人から好意を受けたときに生ずる負い目で、「受けただけの恩恵に利子をつけて返し、感謝のしるしをきちんと示さねばならないとされている」と述べている。
彼女によれば、「フィリッピン人ならだれでもが、ウタン・ナ・ロオブをわきまえている」のであり、「恩恵を受けている人々の恩義に感じ、できるだけのことをして、その恩義に報いなければならない」のである。
「とにかく本社にすぐテレックスを入れます」
フランクは席を立って、大部屋に戻りながら、
──ユーソンの葬儀があんなに盛大だったのは、ウタン・ナ・ロオブの表われだったな。
今更ながら、そうおもい返したものだ。
ユーソン夫婦が日本軍に襲われ、殺害された次の日曜日、カバナツアンの目抜き通りにあるカトリック教会の前は、白いベールのフィリッピン人たちでいっぱいになった。
現在のカバナツアンの教会堂は、白亜のカテドラルに、十字架のついた赤|煉瓦《れんが》の塔という組み合わせの、立派な建物だが、当時の教会堂も石造の堂々たるもので、現在とおなじにおおきな前庭がついていた。その前庭から道路に、大勢のひとびとが群がっている。
「あのひとの群はなんだろう。浩、だれかに聞いてこい」
憲兵分隊詰所の前に立った馬場大尉がいい、浩は教会に飛んで行った。
青果商のディアス一家をみつけ、話しかけようとしたが、胸に黒い喪章をつけているディアスの親父も、白いベールをかぶった娘のロージィもぷいと横を向いて、相手になってくれない。
それでもお内儀さんが、
「今日、司祭さまがね、ユーソンさんのためにミサをあげてくださるのよ」
と教えてくれた。
教会に急ぐフィリッピン人の群を眺めている馬場大尉のもとに引っ返し、報告すると、
「それでわかった。顔見知りの市場のひとたちに挨拶しても、皆、えらく素っ気ないんだ。いくらなんでもひど過ぎる態度だとおもってたが、ユーソンさんのお葬式があるのか」
馬場大尉は頷いた。
「それにしても、ユーソンさんは、えらく尊敬されていたんだな。戦時のさなかに、これだけのひとが集まるんだから」
フィリッピンの小作人たちは、自分たちに対して、さながら父親のように振舞う地主を好むといわれるが、ユーソンは、まさに地域の父親のように振舞っていたらしい。
実際に何十人もの小作人の名《ニ》|付け親《ノン》だったし、小作人の面倒を丹念にみた。自宅のラジオにメガホン状の拡声器をつけて、夕方から夜にかけて庭に集まってくる隣近所のだれもが、ラジオを楽しめるようにした。火事にあって、焼けだされた家族はとりあえず自宅に居候させ、その間に簡単な家を建ててやったりした。
金を貸し、医療費を立て替えてやるのはしょっちゅうであった。戦後はこうした大地主に対する恩返しは、選挙の一票となって現われるのだが、戦時中のユーソンの場合は、殺害した日本軍に対する面あてのような、葬儀への出席となって現われたのである。
「よし、葬儀にカバナツアン憲兵分隊も出席しよう」
馬場大尉は、おもいがけぬことをいいだした。
定員三十名のカバナツアン憲兵分隊に招集がかけられ、要務中の十名を除き、二十名の分隊員が、詰所の前に正装をし、整列した。浩も一番端にならんだ。
軍刀を下げ、憲兵《MP》の腕章を巻いた分隊員に向って、馬場大尉は「これからユーソンさんの葬儀に出席をする」と低い声でいった。
「タガログ語で、一番ひどい罵倒の文句は、ワラン・ヒヤ、恥知らずという言葉だそうだ。フィリッピン人も恥を知る民族だが、日本人はフィリッピン人とおなじくらい、場合によってはそれ以上に恥を知る民族だ。恥を知る民族なら、謝るべきは謝らなくてはならん。これからユーソンさんのみ霊《たま》に謝りにゆく」
号令がかけられ、正装の憲兵二十名は隊伍を組んで教会に向った。
二列縦隊の憲兵隊が、教会の前庭に入ってくるのをみて、教会堂の外にあふれていた群衆のあいだに恐怖の囁きが走った。
馬場大尉を初めとして、カバナツアン憲兵分隊は、強盗と化した日本兵に対する守護神として周辺住民から敬愛されていたが、なにしろ場合が場合である。ユーソンの葬儀開催をとがめにきたのではないか、場合によっては、司祭や主催者が検束されるのではないか、と考えたのである。
浩は馬場大尉とならんで、憲兵の二列縦隊の最前列に立っていたが、教会の入口で馬場大尉が略帽を脱ぎ、全員がそれにならった。
教会の内部にはひとがあふれ、ならんだ長椅子に空席はまったく見あたらず、後方には数十人の参列者が立っていた。
兵士の群を見て、後方に立っている参列者の群が自然に割れ、二十人の憲兵たちは、土間にひとかたまりになった。
ミサはとっくに始まっていて、フィリッピン人の浅ぐろい顔に白髪の目立つ司祭が説教をしている。
司祭は、異教徒の参会者に気づかず、老眼鏡を光らして、英語の聖書を読んでいた。
「エレミヤ書のなかで、主《しゆ》は仰せられます。見よ。わたしはあなたがたを攻めにひとつの国民を連れて来る。それは古くからある国、昔からある国、そのことばをあなたは知らず、何を話しているのか聞き取れない国。彼らはあなたの刈り入れたものとあなたのパンを食らい、あなたの息子、娘を食らい、あなたの羊の群と牛の群を食らい、あなたのぶどうといちじくを食らい、あなたの拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る≠ワさにこのエレミヤの預言がこの国では、事実となり、数々の犠牲者を生みました。ユーソン氏もそのひとりであります」
ミサの場合、聖書の指定の箇所を読むことになっているから、これは異例の説教、とあとで浩は知った。
おなじ言葉をタガログ語で繰り返しながら、司祭は眼を挙げ、異教徒の侵入者に気づいた。むろん馬場大尉は司祭とは知り合いで、親交があったが、説教の内容が内容だけに、司祭は絶句し渋紙いろの顔が、紅潮する感じになった。
司祭の異様な表情から、出席者たちは、憲兵の出現に気づき、場内は静まり返った。
司祭は、異様に硬い沈黙を押しのけるようにして、
「しかし主《しゆ》は仰せられる。イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしがあなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。見よ、主の暴風と憤りを。吹きつける暴風が起り、悪者の頭上にうずを巻く。主の燃える怒りは、御心の思うところを行って、成し遂げるまで去ることはない≠れらは、この御言葉の意味を今こそ深く考えねばなりません」
タガログ語の説教からおぼろげに意味を掴んだ浩は、馬場大尉の顔を見あげたが、これも意味をおぼろげながら掴んでいる筈の大尉は、うつむいて、眼をつぶっていた。
祈祷が始まると、馬場大尉は突然、兵士たちに、
「正座しろ」
と低い声で命じて、自ら土間の土のうえに膝をついた。
大尉は将校用の長靴を履いており、ほかの兵士も憲兵用の長靴を履いているから、完全な正座はできない。爪先きを立てた、変則的な正座をして、仏教式に合掌した。
このカバナツアン憲兵隊員の正座と合掌は、異様な反響を教会堂内に呼んだ。囁きが堂内に満ち、婦人たちがかぶっている頭の白いベールが白波のように揺れ動いた。跪き台の板に膝を乗せた、参列者の大部分が振り向き、半立ちになって、大尉の一行を眺めている。
浩の父親はフィリッピン人ながら、ほとんど教会にゆかなかったから、浩自身は母親と本願寺や比島神社にでかける機会が多く、従って正座と合掌は祈りのかたちとしてずっと自然であった。
今にしておもえば、あの正座と合掌は、カバナツアン憲兵隊が身をなげうって行った謝罪であると同時に、無実の宣言だったのである。
二十人の憲兵隊員が軍袴《ぐんこ》の両膝を泥で汚して教会をでてくると、ひとびとの態度は打って変っており、次々に隊員に笑顔をみせて挨拶をした。
ディアスの親父は、満面に微笑をたたえて馬場大尉に近寄り、膝の泥を自分で払ってやっていた。
ディアス夫婦は、
「これから、うちで早目のノベーナをやるから、馬場さん、浩と一緒にきてください」
と誘った。
ノベーナは、本来は日本の仏事の四十九日、神事の五十日祭にあたる、フィリッピンの祭祀である。
ディアスの家に向う途中、ロージィは馬場大尉に、おおきな、旧式の鍵をみせて、
「司祭さまも、疎開されるのよ。そのあと、司祭館はおまえが番をしてくれ、って鍵をお預けになったの。今度一緒に司祭館へゆきましょうよ」
と大尉に囁いているのが、浩の耳に入った。
4
ミンダナオ島イリガン市に建設予定のセメント工場に納品する機器一式について、鴻田貿易本社機械輸出部は、敏感に反応した。
小寺と機械輸出部の間で電話のやりとりがあり、機械輸出部の次長他数名が、マニラに出張してきた。
小寺は、フランク、機械輸出課長の紙屋と一緒に、マニラ空港に一団を出迎えたのだが、ロビーでお互いに自己紹介をしてみると、一行のなかには、産業プラント部の次長や鴻田興産の採鉱技術の専門家が混っている。
機械を納品する仕事に産業プラント部や採鉱技術の専門家は関係ない筈で、小寺が怪訝《けげん》な顔をすると、産業プラント部の次長が、
「所長にゆっくりご説明する暇がなかったんですが、本社としては、この工場をまるごと、つまりプラント輸出のかたちで請け負わせていただきたいんですよ。ミンダナオへのプラント輸出に先鞭をつける絶好のチャンスですし、|融 資《フアイナンス》をつけなくていい、などといういい条件の仕事も、東南アジアじゃ、先ず考えられない。そこでお呼びでない産業プラント部の私が、この興産さんの専門家を案内して、図々しく押しかけてきたわけなんです」
セメント製造機器のメーカーとしては、川崎重工、神戸製鋼、三菱重工、日立造船などが一流で、特に川重はフィリッピンにセメント工場を建てた実績を持っていたが、鴻田貿易としては、実績はさておきおなじ系列の鴻田興産の機器を最優先して扱わねばならない。
小寺は顎を撫でて、
「相手は日本といろいろ経緯のあったひとでね、こっちの要求があっさり通るかどうか、ちょっと難しいところもあるんだよな」
といった。
「ともかくあたって砕けてみよう」
オノフレ・マーパの事務所は、海岸沿いの大通り、ロハス・ブールバードをまっすぐに空港と反対方向にゆき、ボニファシオ・ドライブを左にまがったサウス・ポート・ディストリクト、つまり小寺夫婦や石山がコレヒドール行の船に乗った港湾地区のビルの四階にある。
ホテル・フィリッピナスにチェック・インしたのち、小寺は、団体のリーダーみたいに一同を引きつれ、PITICOとMAPA & SON COMPANYのふたつの社名が記されたドアを押して、オノフレを訪ねた。
オノフレに子どもはいないと聞いており、このMAPA & SON COMPANYのほうは父親や祖父の代から引き継いだ会社なのかもしれない、と小寺はおもった。
社長室に通された小寺が一同を紹介し、それから、おもいきってこのセメント工場への機械納品をプラント輸出、工場建設という形に切りかえて、検討させてくれないか、原則的な同意が得られれば、石灰岩採掘現場と工場用地への調査を許して欲しい、と頼んでみた。
「工場の問題はともかくとしてね、私は先ず技術の問題を訊きたいんだ」
オノフレは、高飛車に小寺の依頼を遮っていった。
「私としちゃあ、最新式の機械をこのセメント工場に据えつけたいんですな。これまでのミンダナオのセメント工場の機械は全部ウェット・システムというやつになっている。私はこれをドライ・システムに切りかえたいんです。鴻田興産の技術で、このドライ・システムの機械の製造は可能ですか」
首を傾けたまま、高い声で訊いてきた。
ウェット・システムというのは、簡単にいえば|石灰 岩《ライム・ストーン》と粘土の砕いたものを水で混ぜ合わせてから、熱処理をしてセメントを作る方法だが、ドライ・システムのほうは、水を混ぜずに、いきなり熱処理をしてしまう方法である。
ドライ・システムは、水分を蒸発させる必要がないため、燃費効率がよく、この時点の三年後に起ったオイル・ショック以来、世界のセメント製法の主流をなすに至った。
本社の機械輸出部の次長は、
「東南アジアでは、まだ実績がありませんが、技術的には絶対の自信を持っております」
勢いこんで強調した。
「ミスタ・マーパ、うちの技術を信頼してくださいよ」
小寺も口を添えた。
「日本人の人格はともかく技術力はむろん信頼していますよ」
オノフレは唇に微笑をうかべていう。
「だから機械の納品をお願いしている。しかし工場建設をお願いするとなると、これは人間的な信頼関係が絡んできますのでね」
気まずい沈黙が漂った。
「いや、ミスタ・マーパ、マリア・クリスチーナ発電計画を調べてください。米国、ドイツに伍して、毫もひけをとらぬ発電所を日本も作っとりますよ。技術だけじゃなくて、日本人を信頼して、プラント建設をまかせてください」
小寺は微笑を消さずにいった。
「日本人の人格についてはそう簡単に結論はだせないでしょうな。とにかく調査をして貰って、おたくの提案を聞かせてください。ただし調査費用はおたくで持っていただきたい」
オノフレは相変らず硬い表情のまま、それでも妥協してきた。
「それから成約の際は、アマデオに対する応分のお礼をお考えいただきたいですな」
そう付け加えた。
部屋を辞そうとして、小寺はオノフレのデスクの後ろにかけられた、古い黄ばんだ写真に気がついた。
安藤俊子によれば、当時の金山は、強盗に襲われるのを恐れて、陸路をつけず、往来にケーブル・カーを使い、金塊もケーブル・カーで運んでいたそうだが、そのケーブル・カーの前に、ふたりの若いフィリッピン人の男女が一九三〇年代の盛装に身を正して立っている写真である。
多分、日本軍に斬首されたという、オノフレの両親なのだろう。
小寺とならんで写真を眺めているフランクに向い、オノフレは、
「ベンジャミンさん、イリガンのアグス川にはちゃんと立派な橋がかかっていますよ、心配は無用です」
怒ったような顔で唐突にそういった。
早速、イリガンの調査に出かけた小寺は意気揚々、と形容したくなるような、生き生きした表情でマニラに帰ってきた。
イリガンの裏山の石灰岩の産地が、ほとんど露天掘りに近い状態で、採掘に手間のかからないこと、イリガン工場地帯がセメント製造に必要な、豊かな水に恵まれていることなどが判り、同伴した本社産業プラント部の次長や鴻田興産のスタッフが、オノフレのプロジェクトに太鼓判を押したためであった。
その夜は、マビニ通りの日本料理屋、レストラン・東京で出張者を囲んで食事したのだが、小寺はミンダナオの風俗、マリア・クリスチーナの滝、イリガンの工業地帯について、倦《う》まず語り続けた。
「ミランダさんが、ラナオ湖は中禅寺湖、マリア・クリスチーナ・フォールは華厳滝だといったときは、そんなものか、とおもったが、少くともマリア・クリスチーナは確かに華厳滝そっくりだね」
小寺は昂奮の醒めやらぬ面持でいう。
「華厳滝は、自殺者が跳びこむんで有名なんでしょう。その点がこの国と違いますね。跳びこんだとしても水浴のためでしょうね」
フランクがまぜ返して、皆、笑った。
もっともそんなことをいうフランク自身は、社内講習に出席するために、二度ほど日本に出張したことがあるだけで、華厳滝など見たこともない。
「この仕事がまとまるといいな。日比双方にプラスになる仕事だからね」
小寺が呟くようにいう。
「私は食品の出身だろう。それで何年か前、南インドの海岸に海老の養殖場を作る仕事を手がけたことがあるんだよ。これはインドのためになるとおもって、猛烈に張り切って仕事したんだが、結果はあんまり芳しくなかったんだな。湾の一角を仕切って海老を養殖するとね、海老も外洋に流れださない代りに、餌のプランクトンも外洋から流れこんでこないんだ。餌不足で、体長が天然の海老の半分くらいにしか成長しないんだ。こいつには参ったな。今度は、あのときの轍《てつ》は踏まないぞ」
小寺は力んでみせて、また笑声が湧いた。その夜は、上機嫌な小寺の独演会のような空気になった。
出張者の接待を終えたフランクは、その足で|国 際 連 合《ユナイテツド・ネーシヨン》通りにあるヒルトン・ホテルにゆき、二階のメザニン・バーに上った。
幼な友達のホベンチーノと、夕食後に会う約束をしていたのである。
イリガン出張から帰った彼に、安藤俊子から会社気付けで手紙が着いていて、フランクはどうしてもだれかにその手紙の内容について話したかった。しかしこの手紙の内容について語りあえるのは、現在のところホベンチーノ以外にはいないのである。
かなり待たされた挙句、ホベンチーノがおおきな顔を酒の酔いに赤くして、酒場に入ってきた。
「日本人相手のめしは早く終っていいな。こっちはフィリッピノが相手だから、時間がかかっていけないよ」
ホベンチーノはおおきな手で酔いに火照るらしい頬をこすって、いった。
「ディビラヌエバの丸太の商売も順調に進んでるようで、結構な話じゃないか」
「雨期の真最中だが、川を利用できるんで、搬出も順調なんだ。そろそろ船の手当てをして貰うよう、本社に頼んだよ」
フィリッピンの赤土、ラテライト層は雨期にはひどくぬかるむのだが、いちばんぬかるみのひどいのは、ミンダナオのラテライト層であった。ミンダナオのラテライト層はいくら砂利を入れても、その砂利がどこまでも沈んで行って泥を支えてくれず、底無し沼のようなぬかるみになりかねなかった。
その点、ルソンの赤土はまだ状態がよかった。砂利を入れ、粗朶を敷くPITICOの現場の処理がよかったこともあって、木材の搬出は陸路、水路とも順調で、まもなく石山が現地へ検木にでかけることになっている。
「今夜もミンダナオの連中と晩めしを食っていたんだが、このあとの仕事に、あんた、ミンダナオの丸太を手がけてみないかね」
ホベンチーノがそんな提案をした。
「ミンダナオは、日本の商社が食い尽しただろう。ブツアンあたりには、一時は十社近く入っていたんじゃないか」
フランクは疑わしそうな声をだした。
「いやあ、まだまだ日本商社に荒されていないところはありますよ。東部ミンダナオのリアンガ近辺は、ほとんど荒されていないよ」
フランクは、眉を寄せて、
「リアンガ近辺の丸太業者は、やくざみたいな連中だ、という噂を聞いたことがあるな」
と呟いた。
「だいたい丸太の商売ってのは、投機だろう。相場張るのと変りがねえからね、どうしたって、やくざっぽい連中が多くなるんだよ。こういう連中と交際《つきあ》うのを恐れてたら、丸太の商売はできませんよ」
ホベンチーノは、大目玉をむいて、熱っぽくいった。
仕事の調子が上向きになると、きまってホベンチーノの態度がおおきくなるので、彼を知る者にとっては、これもご愛嬌のひとつであった。
「それはそうと、あんたの家の向い側に住んでいた岸本美千代のことをおぼえているだろう。写真館の娘だよ」
フランクは、サン・ミゲルを置いたカウンターを照れかくしに指でたたきながら、訊いた。
「よくおぼえているさ。最後に会ったのは一九四四年の秋だ。おれが田舎に逃げる前の日だったな」
ホベンチーノは、ふいに少年時代の話がでてきたので、気勢をそがれて間のわるそうな顔になった。ふとい親指で眼をぐりぐりとこすった。
「あの娘は山のなかで死んだって、おまえ、いってたじゃないか」
フランクの日本人小学校の先輩、安藤俊子は、奇しき因縁の幼な友達、オノフレ・マーパに会えたことで、すっかり感激して日本に帰った。
小寺が、帰国前夜の彼女を、自宅に招待してくれたのだが、俊子は、マンブラオ金山のおもいで、マーパ少年と親切だったマーパの両親のこと、マニラ日本人小学校のことを、訛りの強い広島弁で飽かずに語り続け、フランクは小寺が退屈しはせぬか、と気を遣ったほどであった。
イリガンから帰って開いた俊子の礼状も、この再会の昂奮醒めやらぬ筆致で書かれていたが、終りのほうにおもいがけない一節があって、フランクを驚かせた。
「先日、元比島在留邦人マニラ会の例会に出席しましたところ、佐藤君おたづねの岸本美千代さん生存の噂を耳にしました。出席会員の友人が、横浜の駅で見掛けたといふ話で、いつてみれば又聞きですから、もうひとつはつきりしませんが、ぜひ確かめてくれるやうよく頼んで置きました。私も事実であつてくれれば良いと思つてゐますが、ご存知のやうに山中で、また山を降りた後も犠牲者が沢山出た事ゆゑ、あまり期待なさりませぬやうに」
例によって、旧仮名遣いで書かれた、この一節がフランクを昂奮させ、この土地に残っている唯一の関係者であるホベンチーノをヒルトン・ホテルの酒場までひっぱりだすことになったのであった。
フランクは、一九四四年、昭和十九年十一月末、岸本写真館に美千代を訪ね、そのとき、このホベンチーノにも会ったことを、はっきりと思いだした。
昭和十九年十月二十日、米第六軍のレイテ上陸後、約一月余のうちに、戦局は奈落に向って、急傾斜し始めた。捷一号作戦は失敗、連合艦隊は再起不能の損害を蒙《こうむ》り、レイテ防衛の陸軍第三十五軍は、十二月七日の米軍オルモック上陸によって壊滅状態におちいった。四箇兵団、約八万名を失い、その四箇兵団のうち、三兵団の兵団長の最後もわからぬ、という徹底的敗北である。
十一月末のある午後、馬場大尉は、「ちょっとおれと一緒にこい」といって浩をカバナツアン教会の横手の司祭の住居へ連れて行った。
胸ポケットから古くさい、大型の鍵を取りだして、扉を開け、先に立って司祭の書斎だったらしい粗末な部屋に入って行った。
部屋に入った途端に、浩は鼻孔を刺すような、フィリッピンの女の体臭を嗅いだ。日常の食事に使う椰子油の匂いがフィリッピン土着の人々の躰には染みついてしまっているが、若い女は、特にこの匂いが強い。
次いで壁にかかった、派手な色のリボンのついた麦わらの帽子と、ギターが眼に入った。
明らかに大尉とロージィは、この司祭の住居を密会の場所に使っているのである。神を畏《おそ》れぬ、不敬な話ともいえるが、戦時下のフィリッピンでは、またとない、絶好の密会の場所ではあった。
司祭の机を中にはさんで馬場大尉と向い合ってすわると、
「浩、おまえ、ディアス一家と一緒に東海岸に疎開《そかい》しないか」
いきなりそんな提案をした。
東海岸が安全、というのは、馬場大尉のかねがねの持論で、ディアス一家にしきりに東海岸への疎開を勧めていた。
大尉は、ディアスの親父さんに向って、
「私は一番安全なのは、東海岸だとおもいますな。装備のいい、機械化部隊が主力の米軍は、幹線道路の出発点、日本軍が上陸したとおなじ、リンガエン湾に必ず上陸してくるでしょうな。山が多く、道路が発達していない東海岸にはまずやってこないでしょう。ディアスご一家も早目に東海岸に伝手を見つけて、疎開されたらいい」
しきりに勧めていたのである。
「ディアス一家と疎開するって、自分ひとりで、逃げるんですか」
浩は青い顔をして、大尉に訊き返した。
「逃げるんじゃない。おまえは、まだ若いんだし、いったん待避をして、他日を期すんだ。野戦貨物廠のほうには、おれがうまく話してやる」
「自分は嫌です」
浩は、目がくらむような怒りに駆られて、大尉を睨んだ。
「自分は土人なんかと一緒に逃げません」
「土人なんて言葉を使うな。ディアスさんは土人なんかじゃないぞ」
大尉は眼をしばたたきながら、たしなめた。
「いいか、浩。おれがおまえの立場なら、おれはディアス一家と一緒に疎開するぞ。あれは親切で性格のいいひとたちばかりだよ」
「馬場さんは、ロージィが好きだからそんなことをいうんです。自分はあんな派手な、アメリカ的な女は嫌いです」
当時の少年たちにとって、「アメリカ的」というのは、最大の侮蔑的形容句である。
大尉は弱った顔になって、頭を掻いた。
「実戦になるとな、憲兵隊と一緒にいたって、いやな仕事ばかりになるぞ。住民を訊問したり、それこそスパイを取り調べたり、そんな仕事の通訳ばかりになるぞ。野戦貨物廠も人殺し覚悟で物資の調達だ。おれはおまえにそんな仕事をやらせたくないんだ」
自分は捨てられるんだ、と浩はおもった。
日本人の兵隊の仲間から放りだされるんだとおもった。
「自分は陸軍に動員されて軍属になったんです。軍属になった以上、陸軍と一緒に死ぬ覚悟です。このままおめおめと疎開することなんかできません」
浩は叫ぶようにいった。
「馬場さん、ひどいじゃないか。馬場さんはおれをおいてけぼりにして、自分だけ戦争にゆくつもりなんだろう。自分ひとりだけ、死のうとおもってるんだろう」
死への甘美なおもいを秘めた、この言葉の切迫した響きは、戦後の現在では、ほとんど理解不可能になっている。
「おれを土人と一緒にするなんて、あんまりだよ」
浩は、衝撃のあまり十三歳の少年に戻ってしまい、激しい声をあげて泣きだした。
土人と一緒にするなんて、というひとことに、混血少年の屈折した万感のおもいがこもっていた。
「坊や、なに泣いてるのよ」
ふいにタガログ語の女の声がして、隣室のドアが開かれ、ロージィが姿を現わした。
司祭の寝室だったらしい隣室に、ロージィはずっとひそんでいた、と見える。
「いや、きみの家族と疎開するのはいやだ、といってるんだよ。浩は、えらく真面目な子どもだからな」
馬場大尉が、かなりうまくなった英語でそんな意味の説明をしている。
「あんたが、ひとりでゆけ、なんていうから、いけないのよ。あたし、前からおもっていたんだけど、あんたが、軍人|止《よ》して私たちと一緒に逃げれば、この子だってついてくるのよ」
ロージィは英語でいい、次いで浩にわからせようとでもするように、タガログ語で繰り返した。「軍人を止せ」というのは、タブーというより、戦時中の日本人の想像を絶した言葉である。
浩は驚いて泣き止み、馬場大尉は口を開き、朱を注いだように顔面を紅潮させた。
「それは不可能だ。おれはここを動けんよ」
と呟いた。
それから当惑したように部屋のなかを歩きまわっていたが、
「浩、ともかくな、マニラに一度帰って、ここに残っていいかどうか、ご両親の許可を貰ってこい」
といった。
結局馬場大尉が野戦貨物廠にも話をしてくれ、マニラから北部ルソン奥地のサンホセに物資を運び、再びマニラに帰る一〇六八二部隊のトラックに便乗を許された。
「いいか、いざとなったら、東海岸へお逃げなさい、とご両親によく話すんだぞ」
出発する浩に、大尉は捕獲武器のコルト32を与えながらいった。コルト32は、日本の南部式拳銃や米軍の制式採用拳銃コルト45と違って、小型で少年にもなんとか使いこなせそうな拳銃である。
そして、
「あの木の風呂に入ってくるのか、いいなあ」
と心底羨しそうな顔をした。が、浩は拳銃を与えられたことに夢中になっていて、風呂のことなど満足に耳に入らなかった。
しかし数カ月ぶりに帰ったマニラ市は、戦時色をいよいよ強め、明るい、南国の色彩をすっかり失い、暗い、険悪な表情の街に変っていた。
サン・ベーダの貨物廠でトラックから降ろされ、総務部長に挨拶をしてから、歩いて帰宅する途中、母校の日本人国民学校に立寄ってみたのだが、校庭はくたびれた軍服、軍靴の日本の兵隊たちであふれていた。かつて浩がビー玉をおとし、篠田先生に叱られた講堂にも、兵士が大勢すわって、下士官の訓示を受けている。
いつも始業終業の鐘を鳴らす小使いさんが軍服の間を疲れた顔をして歩いていた。
「学校はどうなったんですか」
浩が訊ねると、
「ああ、篠田先生の組の子だね。学校は休校だ。篠田先生も現地召集されて、陸戦隊に行っちゃったよ」
と教えてくれた。
息子の突然の帰宅に母親は大喜びしたが、
「今朝、チャンさんの奥さんに会ったら、チャンさんのお宅は明日か明後日、街をでて田舎に疎開する、といってたよ。ちょっと行ってみたら」
といった。
そこで浩はまた家をでて、ホベンチーノの家のあるリサール街に足を向けた。
比島神社にまがる路地で、浩は神社に向い最敬礼をしたのだが、路地にもまた、陸軍の軍服があふれていた。路地いっぱいにならんだ兵士の行列の彼方では、見覚えのある比島神社の神主が、甲高い声で武運長久を祈って、榊に見立てた、マンゴーの木の枝かなにかを兵士たちの頭上で振っていた。
リサール街に出て、岸本写真館の方角に歩いてゆくと、写真館のまえに、ぴかぴか光る金属の箱に、自転車の車輪をつけたフィリッピン人のアイスクリーム屋が止ってチリンチリンと鐘を鳴らしている。
爆音と軍服の交錯するなかで、アイスクリーム売りがのどかに鐘を鳴らす、南国の不思議な戦時風景であった。
岸本写真館の軒先きには、切り紙細工の老人がよくすわっていたが、あの老人はさすがに姿を消している。代りに美千代の末弟の充が、物欲しそうにアイスクリーム売りを眺めていた。
「充、アイスクリーム買ってやるぞ」
浩は得意になって、ウビのアイスクリームをふたつ買って、「誠にも持っていってやれ」と充に手渡した。
むろん美千代の弟に菓子を買ってやるのは初めてで、充はびっくりしたような顔をしている。きいろいコーンにいれたアイスクリームを両手に持ったまま、唐突に「ありがとう」といい、「お姉さあん」と呼びながら写真館の階段を駆けあがっていった。
「浩君、すっかり兵隊さんね」
すぐにそういう声がして、美千代が降りてきた。
美千代自身も長ズボン姿で、いやに大人びてみえた。以前に比べて、顔いろがよく、なぜか生き生きしているように見える。
「ああ、コロちゃんがくるわ」
早くも道路の向う側で、浩をみつけたらしいホベンチーノが、嬉しそうに手を挙げ、走って道路を渡ってきた。こちらに気を取られて左右をろくに見ないものだから、市電が警笛を鳴らし、ホベンチーノは危うく轢かれそうになった。
「おれが、皆にウビをおごってやるよ。おれはこれでも陸軍からたっぷり給与を貰ってるからな」
浩は得意そうにいい、これみよがしに軍票でない、フィリッピン通貨を取りだし、アイスクリームをさらに三つ買った。三人は岸本写真館の階段にすわって、きいろいコーンのカップに盛ったアイスクリームをなめた。
ウビというのは巨大な紫いろの山芋のことで、これを摺りつぶして凍らしたアイスクリームは、戦前からフィリッピンの名物なのだが、昨今は砂糖の代りにサッカリンを使っている、という噂であった。しかし、久しぶりに口にする浩には滅法うまく、お代りをして、五つ買い足したくらいであった。
地方にいた浩は知らなかったが、二階の写場は九月の空襲以来、貨物廠の下請け工場になっているのだそうであった。フィリッピン人の女たちが軍の衣類を縫っているという話で、ミシンの音が階段下まで聞えてくる。
「敵はな、道路がなくちゃ、戦車を進められないから、まずリンガエン湾に上陸してくる。あと上陸の可能性のあるのはバターンだな」
浩は、えらそうに馬場大尉からの受け売りを喋り、肩から吊った雑嚢にしまってあるコルト32を取りだした。帰途学校に立寄ったのも、母親にいわれると、早速ホベンチーノを訪れたのも、なによりこの拳銃を友人たちにみせたかったからであった。
コルト32を握って、
「おれたちは、リンガエンとマニラの間で決戦をやる。そうやすやすとやつらをマニラにはこさせないぞ」
といった。
「だから、コロちゃん、疎開するなら、安全な東海岸にゆけよ。あっちには絶対、敵は上陸してこないからな」
ホベンチーノは情ない顔をして、物欲しげに浩のコルトを横目で睨み、ほかのふたりがぺろぺろとふたつ片づけてしまったアイスクリームのひとつめをゆっくり舐めていた。
浩は、図にのってしまい、美千代に対して、
「美っちゃんは疎開しないのか。女は疎開したほうがいいぞ」
とやってしまった。
「疎開なんかしないわよ」
気の強い美千代は、ぴしゃりとやり返してきた。
「昨日まで私、陸軍第十二病院で看護婦やっていたのよ。空襲で怪我して、お母さあん、お母さあんって泣く兵隊の肩をおさえつけてさ、手術の手伝いやっていたのよ。血がいっぱい出て、浩君なんて、あの血をみたら、卒倒するとおもうわ」
美千代は「兵隊」などと呼び捨てにして浩を驚かせた。
「その合間には、うじ虫のついた繃帯洗ったり、乾したりしてるんだから」
昔の兵隊ごっこで、美千代はよく看護婦役をやらされたものだったが、今や本物の看護婦に近い仕事をやらされているらしかった。
「夜はイントラムーロスの看護婦宿舎に泊って、盛りきりのご飯食べて頑張ってたんだからね」
美千代が急に大人びてみえるのは、こうした体験のせいのようであった。
明日からは、マニラの陸軍防衛司令部に動員されて、ケソン市にゆくのだ、という。
少々鼻白んだ浩は、
「とにかく、お互いに頑張ろう。撃ちてし止まん、だ」
気を取り直していった。
その夜、両親に馬場大尉とのやりとりについて報告すると、父親のルイスは、
「馬場さんのいうとおり、お父さんも東海岸がいちばん安全な気がする。米軍が上陸してきたら、なんとかそちらへ逃げることにしよう。おまえのことは馬場さんにおまかせするが、もし戦争で馬場さんとはぐれたら、ギンバの田舎の親類の家にゆきなさい。お父さんもお母さんも必ずあそこにゆくからな」
といった。
「万一、美千代が生きていて、再会できたら、おれは泣くだろうな」
ホベンチーノは、早くも大目玉をうるませて呟いた。
「あの娘は常識じゃ、まず生きてはいないな。知り合いの兵隊が死体を見たっていってたからな」
フランクはいった。
5
ディビラヌエバのコンセッションからの木材伐りだしは、順調に進んだ。雨期の前期が終り、そろそろ台風がやってこようという頃には、一千本近い丸太がブランコ川下流に揃って、日本からの船の到着を待つばかりになった。
石山は、PITICOから要請されて、今度はひとりで定期便とセスナを乗り継ぎ、赤ラワンの検木にでかけた。
草の生い繁った、ディビラヌエバの海岸に着陸すると、ひさしぶりに顔を合わせる金壷眼の現場主任のシソンが、迎えにきていた。
シソンは、石山の顔を見るや否や、
「ミスタ・イシヤマ、まず、お詫びしなくちゃならないことがあるんだ」
と懇願する口調でいった。
シソンといえば、オノフレの乱暴をフランクや石山に謝ったときの印象が強く、なんだかお詫びばかりしてる男だな、と石山はおもった。
「隣りのコンセッションで、イギリス向けの丸太を伐りだしてるんだが、船の到着が遅れちまってね、イギリスの会社の連中がまだゲスト・ハウスに泊っているんだよ。申しわけないけど、今回だけ、税関や、うちの会社の連中が泊る小屋に泊ってくれるとありがたいんだ」
シソンはおもいつめたような顔で頼んだ。
「いいですよ。グラウンド・サーベイのときの野宿を考えりゃ、どこに泊ったって、天国みたいなものじゃないの」
石山は気楽に答えたものであった。
前回のグラウンド・サーベイのときと同様、ジープで海岸に沿った道路を走り、ブランコ川の下流にある小集落に着いた。
宿舎に当てられたのは、PITICOの事務所がある、木造の建物の二階の小ぎれいな一室で、ベッドのうえには、例のごとく、派手なタオルケットが畳んで置いてある。ただしトイレと浴室はついていない。階下にある食堂もきれいで、
──これなら、志木高校の合宿所より、よっぽど上出来じゃないか。
と石山は考えた。
石山は早速、作業服に着替え、太目のランバー・クレヨンを手に持って検木にでかけた。東京湾で検木中に海に落ち、またこの前は、ブランコ川を渡河中に針金が外れて川に落ちたりして災難が続き、のんびりやの石山もさすがに用心深くなった。ふだん着での検木を止め、着替えをしたのであった。
沖合いに碇泊しているイギリス向けの船を眺めながら、この前落ちたブランコ川をシソンと一緒に渡った。
小舟をだすまえに、シソンは、くどいほど両岸を繋ぐ針金を押したり引いたりして、落度はないか、調べた。食物を毒見するのとおなじような、おもいいれからか、まず自分で向岸に渡ってみせた。
石山もちょっと緊張して、新しいとんがり帽子をかぶった男の操る小舟で渡ったのだが、むろん今回は落ちる筈もない。
貯木場には、ひと目見て赤ラワンと知れるルソン材が数百本、浮いていた。比重が重く、水面から僅かに顔をだしているだけだが、その僅かに覗いた木口の赤いいろが、まことに鮮やかであった。
一日平均十本強の感じで、ラワンは伐りだされており、貯木場に浮く材木の数が、一千本を越す五、六日後に、日本の貨物船が入ってきて、赤い丸太を積んでゆく手筈である。
しかし検木を始めてみると、かなりの不良材が混っていて、石山を驚かせた。海沿いの山脈の陰で育ったラワンばかりでなくて、山の頂上付近で育ち、雨期の台風をまともに受けて、幹の捩《ねじ》れた材、割れ目の入った材がかなり混っている。
石山は午後いっぱい、丸太から丸太へ跳び移って、二百本ほどの検木をすませ、
「このバッテンのしるしの入った丸太は船に積まんでくださいよ」
とシソンに注文をつけた。
シソンは深刻な顔をして、「わかっている」といい、木口に入った割れ目を覗きこんでいる。
夕刻、事務所のある建物に戻って、石山はシャワーを浴びた。シャワーを浴びたあと、隣りの便所を使おうとして、便所が異様なほど汚れているのに気がついた。
便器は小便でみごとな飴いろに染まり、便壺には紙がいっぱい詰っている。床には小便が数センチ溜っているうえに、汚い紙屑が散乱していて、足の踏み場もない感じであった。石山は、まだ公衆便所の汚かった時代の、日本の公園の便所をおもいだした。
この有様では小便もできなければ、もっと大事な毎日のお勤めが果せそうにない。
──これは参ったぞ。
石山は、タオルを首にまいたまま、深刻な顔をして、飴いろに染めあげられた便器を眺めた。
仕方がない、船が着くまでの五、六日間、おもいきって耐久レースでゆくかと考え、世のなかが暗くなるような気がした。
問題は、ウェルカム・ボウェルを患ったりした彼の下半身が、耐久レースにどこまでついてゆけるか、であった。
季節はそろそろ台風シーズン、つまり雨期の後半に入ろうとしていたが、小寺は、本社の産業プラント部、木材部と打ち合わせのため、機械貿易の課長を伴って東京に出張した。
到着した翌日の午後、神田美土代町の本社社屋で、鴻田興産の部長やスタッフを混え、イリガンのセメント工場建設について、今後の進行予定などを協議していると、産業プラント部の女子社員がメモを小寺に手渡した。
メモには、「浦戸海外人事部長から、会議の済み次第、海外人事部にこられたい旨、連絡がありました」とある。
浦戸は、鴻田貿易がマニラに事務所を開設した当時の所長で、切れ者と評判の高い人物である。本社帰任後も順調に出世して、現在では役員と海外人事部長を兼務している。
小寺もマニラ事務所長赴任のまえ、挨拶かたがた彼の話を聞きに行ったものだ。
四時過ぎ、やっと会議が終り、小寺は急いで、海外人事部の大部屋に駆けつけた。部長といえども個室はなく、浦戸は大部屋の一隅にデスクを置いている。
窓ぎわの応接セットにすわると、浦戸は開口一番、
「フランクは元気かね」
フランク・佐藤の消息を訊ねた。
浦戸は、マニラ事務所開設当時、日本大使館に勤めていたフランクを引き抜き、採用した男であった。
「いや、大変元気です。最近は、本社派遣員《ホーム・スタツフ》だけでやってきた、例の|月 曜 会 議《マンデー・ミーテイング》にも出て貰っていますよ」
「きみはなかなかやるねえ。フランクは能力があるし、なんとか目をかけてやりたいとおもったんだが、ほかの現地職員《ローカル》の手前もあって、私はようやれなかったな」
浦戸は小寺に一目置くような表情をみせた。
「早速、仕事の話だが、本社の意向としては、商売も順調に動いているようだし、この際、マニラ事務所を支店に格上げしたいんだな」
浦戸は突然そういいだして、小寺を驚かせた。
事務所と支店の差は、事務所が本社経費で賄われる、負い目のある立場なのに対し、支店は一人前と胸の張れる独立採算制で、支店経費はすべて支店自身で稼ぎださねばならない点にある。
「木材のほうも、大口の商売がまとまったようだし、プラント輸出もほぼ確定してるんだろう。この際、強気に行ってみたらどうかな。最初の二、三年の赤字は、大目にみますよ」
温厚な微笑を絶やさずに、浦戸はずばりといった。
「まあ、たまたまフロックで商売がふたつ続けざまにまとまった、ということでしてね、今後は、だいぶ苦しいことになりそうですからね、ちょっと考えさせていただきましょうか」
小寺は、一応態度を保留した。
「考えるというのは、日本じゃふた通り意味があるが、断るためにワン・クッションおく考える≠カゃなくて、前向きに検討するほうの考える≠ナ行って貰いたいですな」
たしかに今年、一九七〇年に入って、日比関係はおおきく動きだしており、その意味では事務所から支店昇格への時期が到来しているのかもしれなかった。
一九七〇年一月には日比航空協定が調印され、三月には日比通商航海条約がフィリッピンの上院に提出されている。時をおなじくして観光目的の旅行者もフィリッピン入国に際してビザを取得する必要がなくなった。
六月にはイメルダ大統領夫人が来日、七〇年万博のフィリッピン・デーに出席したし、七月早々にはマニラのポロ・クラブで日比ビジネス・シンポジウムが催されるなど、たしかに日比間の経済環境をめぐる動きは俄かにあわただしくなった。
「いや、前向きの方の考える≠ナ考えますよ」
小寺がそう答えて笑ったとき、
「そろそろタイミングはよろしいですかな」
そんな声がして、小寺が見あげると、禿頭と金縁眼鏡を光らせて、本社木材部長の河野が傍らに立っていた。
「いや、小寺さん、支店昇格と同時に支店の木材部を独立させ、マネージャーを本社から送りこみたい、というのが、木材部の希望でしてね。まあ、支店昇格の理由のひとつが、木材の商売の発展にあるんだから、これは当然でしょう」
浦戸は、河野が海外人事部にやってきて、打ち合わせに加わる理由を説明した。
「木材部はもう独立しているし、マネージャーもちゃんとおりますよ」
小寺が微笑しながらいい、浦戸と河野は、驚いた顔になった。
「木材部は独立して、現在、浦戸部長がご採用になったフランク・佐藤君に、マネージャーをやって貰っておりますよ」
それを聞いて、浦戸は「まさか」と両手を額にあてた。文字どおり頭をかかえこむ、という格好になった。
「フランクをマネージャーにしたのか。私はただ|月 曜 会 議《マンデー・ミーテイング》に出席させているだけかとおもったよ」
浦戸は首を二、三度振って「それはやり過ぎじゃないかな」と呟いた。
「しかしフランクなにがしというのは、ローカルでしょう。彼を外して、本社スタッフを置いて貰えばいいんでね」
河野の金縁眼鏡が光って、まるで道路の石でも取り除くような、酷薄な言葉が出た。
「そうはゆかんですよ。本社にどう伝わっているか知りませんが、今度のルソン材の商売だって、フランク君が相手のやりかたに耐えた結果、まとまったんですからね」
小寺は、おだやかに微笑しながら、開き直った。
「最近の実績が示すとおり、本社から|派遣 員《ホーム・スタツフ》を頂戴しなくても、ちゃんと木材の商売を軌道にのせてみせますよ。だいいち、本社からスタッフを貰えば、それだけ人件費がかかって、独立採算制の支店の収支が苦しくなる。これはお断りせざるを得ませんな」
「所長、まあ、お手柔らかに」
河野は、まずいと看て取ったらしく下手に出てきた。
「このホーム・スタッフの給与は本社持ちにしてもいいんですよ。ひとつご再考願えませんか」
各地の支店に、給与が支店負担の社員と本社負担の社員、ふたとおりの性質の人間が存在するのは事実であった。
「いや、本社で持っていただいたとしても、スタッフの意欲《モラール》や社員相互の和の問題が絡んできますのでね、これは否定的ですな」
そこで、頭をかかえていた浦戸が顔をあげて提案をした。
「小寺さん、こうはゆきませんかな。これまでの仕事はフランクを中心に従前どおりやって貰う。新しいホーム・スタッフの方は、支店長直属の次長として、木材を中心に新規市場の開拓をやって貰う。これなら問題ないでしょう」
さすがに浦戸は、ああいえばこう答えて、ひと筋縄ではゆかない応対をする。
小寺は、ポイントを外そうとして、
「派遣スタッフの候補は、具体的に決っているんですか」
と訊いてみた。
「今のところ、鶴井君に行って貰おう、とおもっているんです。彼は大学で林学を専攻したし、ここのところ、お宅の商売を扱わせて貰って、フィリッピンの事情もわかってきてますからね」
「鶴井君か」
小寺は唸った。
「たしかに木材の知識は深いし、有能ではありますがね」
小寺は言葉を濁した。
オノフレとの打ち合わせ会議の際の鶴井の粗暴な態度、石山から聞いた山中での言動を小寺はおもい返した。これはいかん、あの男は駄目だとおもった。
河野は、じっと小寺の表情の動きを眺めていたが、
「あの男は、きわめて有能です。まあ、誤解を招く放言、失言をときにやらかしますがね、これも下手にすれていないからでね、ご愛嬌ですよ」
そうとりなした。
「ひとつこれも考えさせてください」
と小寺は逃げを打った。このほうは明らかにワン・クッションを置いて断るための「考える」であった。
河野が去って雑談に移ると、浦戸は、
「マニラに暮してるなんて話聞くと、嫉妬に駆られるな。私は、欧米でも生活したことがあるが、余生を暮すなら、絶対にマニラだとおもっていますな」
小寺の機嫌をとり結ぶようにそんなことをいった。
「ぼつぼつマニラも台風のシーズンだが、台風になると、毎年きまって洪水騒ぎが起る。毎年、洪水になって道路不通、停電、会社は休みとくる。こういうところがすばらしいね。日本だったらすぐに役所はなにをしとる、と投書や電話が殺到して、役所もすぐ直しちまったりするんだね。この世智辛さに比べたら、あそこは天国ですな」
本社の管理社会に生きる部長の本音なのか、浦戸の言葉には実感がこもった。
引きあげようと立ちあがった小寺に、
「二件とも、前向きに考えてくださいよ」
浦戸は念を押した。
「それからフランク・佐藤にくれぐれもよろしく。浦戸があんたを採用したんだ、決して悪いようにはせんからね、そういっていたと伝えてください」
6
石山の耐久レースは、なかなか辛いことになった。
──製造量をみこんだうえで、仕入れをやらなくちゃいけないぞ。
石山は深刻に事態を受けとめて、毎朝、眼を覚す度にそう考えるのだが、フィリッピンめしに慣れてきた昨今は、食欲が旺盛で、とかく製造量を考えずに、仕入れてしまう結果になる。
フィリッピンの米には、石が混っているから、フィリッピン人は器用に右手のフォークで石をひょいひょいと取りのけながら、左手のスプーンでめしをすくってゆくのだが、このパラパラめしが実にうまい。
このめしにかける汁物がまたうまくて、ついつい食欲が出てしまうことになる。これはまずいぞ、とおもうのだが、手のほうは器用に石を取りのけ、汁かけめしをすくっていて、動きを止めようとしないのである。
おかげで三日目になると、腹が張ってきて、下半身が重いような気分になってきた。
──この分でゆくと、検木中に海に落ちても、躰が重くて、ルソン材みたいに海中に沈んじまうんじゃないかな。
石山は大真面目に馬鹿なことを考えたくらいであった。
おもいあまって、シソンと材木の搬出、検木の打ち合わせをしたさいに、
「便所を掃除してくれませんかね。私はずっと使えないで、苦労してるんですよ」
そう相談してみた。
シソンはそっけなく、
「あの便所は掃除しても、きれいにならんよ。掃除するだけ無駄ですよ」
などという。
石山が弱って、顔をしかめるのをみて、
「あのイギリス人の使ってるゲスト・ハウスの便所を借りたらどうかね。あんた、英語をしゃべれるんだから、夜でも出かけたらどうだ」
とシソンはすすめた。
しかしゲスト・ハウスに泊っているイギリス人たちは、なかなかうるさい性格のようで、食事もゲスト・ハウスで、彼らだけで取っており、事務所の食堂には顔をみせない。従って、石山はほとんど面識がなかった。
「あのひとたちは、そういうことにうるさいひとたちなんじゃないですかね。便所借りに行って、断られたりしたら、こっちも惨めなことになるし、あんたも文句いわれたりするんじゃないですか」
シソンはおもいあたるらしく、弱った顔になった。
「ミスタ・シソン、あんたは、どうやって毎日、済ましているんですか」
「おれは、毎日、朝早く、海へ行ってな、あんたが検木している材木の先きで用を足しているよ」
シソンはけろりとした顔で、石山が愕然とするような発言をした。
「なあに、材木を汚したりはしないよ。これがほんとの水洗便所でね、じつに気分がいいぞ」
石山は、この間は、つまりシソンが便所にしている海に落ちて、泳いだのか、とおもいあたり、うんざりした気分になった。
「そうじゃなきゃ、この野原を活用しろよ、露天も海とおなじくらい気分がいいぞ」
とシソンはいった。
四日目に、オノフレがマニラからやってきて、オノフレの洒落た、白壁の家に夕食に招待され、「これは便所を借りる絶好の機会」とばかり、石山は、フィリッピンの正装、バロン・タガログなどを着こんで、いそいそと出かけた。
オノフレは、今までになく上機嫌で、
「これをお待ちかねだったんじゃないか、ミスタ・イシヤマ」
といって、レオノールの手紙を差しだしてくれた。
PITICOの本社気付けになっており、獅子鼻のガードマン、ドミンゴにでも届けさせたのだろう。
オノフレは、石山をイギリスの木材会社の男たちに紹介するときも、
「ミスタ・イシヤマには、美人のフィリッピン人の恋人がいてね」
コレヒドールに一緒に行ったミランダ夫婦から聞きおよんでいるのだろう、そんなことをいう。
食事中に、日本の木材業界、建築業界について、ふたりのイギリス人から質問を浴せかけられ、石山は英語で答えるのに、大汗をかいたが、ふとおもいついて、
「もう材を運ぶ船が着いているようですが、あなたがたは、いつお発ちですか」
と訊いてみた。
明日、帰る、という返事を期待しての質問だったが、ふたりのイギリス人は即答せずに悠々とフォークを使っている。髭をはやした方が、
「船が発つまで、あと四、五日はかかりますかな」
と答えて、石山を落胆させた。
どうやら彼らは石山の到着前日あたりにやってきたらしく、これでゲスト・ハウスが空いて、そこで用を足せることになるという石山の夢は、簡単に潰《つい》えたのであった。
食後に機会を狙って、オノフレの家の便所に入ってみた。西欧式の清潔な便所だが、突然の機会到来に腹のほうがすっかりびっくりしてしまって、一向に便意を催さない。
そのうち、便所にながいこと入って席を外しているのは、日本人のゲストとして国辱的行為を犯しているようにおもえてきて、あわてて出てしまった。
中途半端な気分のまま、石山はゲスト・ハウスを辞して、事務所の二階の自室に戻り、レオノールの手紙の封を切った。
フィリッピン大学の夏の休暇はとうに終り、学内では反米運動が盛んになってきたこと、その一方ベトナム帰りの米国人留学生が学内を暴れまわっており、医学部構内でも、彼らは女を乗せてオートバイを乗りまわし、反米感情に油を注いでいること、などが学生の報告《リポート》のようにきちんとした字で細かく書いてある。
私生活の方では、父親が国際電話をかけてきて、今年は夏の休暇をメキシコのアカプルコで過したいといいだし、レオノールが勉強を理由に断ったので、母親だけがアメリカに旅立ってゆき、従ってハッピー・アワーのうちに帰宅しなくてもよくなった、とあった。
コレヒドールへの船旅行のあと、石山は二回ほどレオノールに会ったが、いつも五時から七時までの、フィリッピン人のいう、ハッピー・アワーのうちに帰宅せねばならず、レオノールはそわそわと落ち着かなかった。船上で抱き合った仲ではないかと石山は、ずいぶん水臭いような気分を味わわされていたのである。
ブルーの無地の書簡箋の終りには「フィリッピンの田舎で、また歓迎《ウエルカム》されないよう、ご注意なさい!」と強調符つきで書いてあった。石山のウェルカム・ボウェルにひっかけた洒落であった。
──ここでウェルカム・ボウェルにやられたら、あの便所にゆかなければならない。
そう考えて、石山はぞっとして、俄《にわ》かに腹が痛くなるような錯覚をおぼえた。
石山がやっとのおもいで、大願を成就したのは、五日目、鴻田貿易本社木材部が配船した、貨物船が着いてのことである。
配船されてきたのは、業界で|二九 九《にいきゆうきゆう》と呼ばれるラワン材運搬専用船である。積載時のトン数は五千五、六百トンあるが、船の総トン数が三千トンに一トン欠ける、二千九百九十九トンに押えてある。
これは三千トン以上は外航船、それ以下は内航船という規格を守るためで、内航船運航の免許しか持たない船員を活用しようという、船舶業界の苦肉の策であった。
投錨した|二九 九《にいきゆうきゆう》にあがるや否や、石山は、
「とにかく便所を拝借できませんか」
と船員に訊ねたものであった。
「よくあるケースですな」
船員は、石山の状況を察したらしく、にやりと笑って、先きに立って案内してくれた。
「ご存知でしょうが、船の便所は暑いですよ。冷房はついていないし、鉄の桶のなかにすわりこむようなもんですからね」
まったくサウナ風呂のような感じの便所で、なかに入っただけで、躰中の毛穴からいっせいに汗が吹きでてくるようで、一瞬|眩暈《めまい》のしそうな気がした。
おまけに供給過多で、在庫満パイの古い製品を始末するのは容易な作業ではない。古い製品を始末しようとして、石山は生れて初めて、出血をした。
「レオノール、助けてくれ」
鉄の桶のなかでおもわず石山は叫んでしまい、こんなときに名前を口走ったりするのだから、おれはあの娘を愛しているのかな、とおもった。
さっぱりして甲板上にあがると、船の起重機が、すでに検木の終ったラワンを吊りあげ始めている。
驚いたことに、起重機が吊りあげているのは、石山がバッテンをつけて、はねたラワンであった。
あわてて船員に材木を下ろさせ、海上に降りて、小舟に乗っているシソンに文句をいうと、
「そりゃすまない。全然気がつかなかった」
とまた謝った。
──ひとが便所に入っている隙に不良材を積みこませるなんて、泥棒のやるこっちゃないか。
石山は怒った。
それ以後も、ちょっと眼を離すと、不良材が積みこまれ、その度にシソンが謝る、という、繰り返しになった。
新井薬師の古い家に泊った小寺は、明け方に眼を覚した。父親はとうに亡くなったが、母親が戦前からある、この古い家に住んでおり、出張中、小寺はここに寝泊りしていた。
前日、海外人事部長の浦戸から提案のあったマニラ事務所の支店昇格の件と派遣員増員の件が、頭にひっかかっており、小寺の眠りを浅くしていた。とりわけ本社木材部の課長補佐、鶴井のマニラ派遣の件が、安眠の障りになった。
マニラ事務所の支店昇格は、ありがたい話で、小寺の地位も事務所長から支店長に格があがることになる。しかし鶴井のマニラ派遣は、鶴井の個性的な性格から吉とでるよりは凶とでる公算が強く、一歩間違えば、支店員の士気、ことに現地《ロー》雇|用《カ》社|員《ル》のやる気を沮喪《そそう》させ、店内に混乱を招くことになりそうな気がした。
──鶴井がマニラにくると聞いたら、フランクはおれに裏切られた、とおもうのではないか。
小寺は、中学生の頃から見慣れた、ラワンならぬ杉板張りの天井に、日本人にしては、眉毛のあたりが男っぽくて、いなせであり過ぎるフランクの顔をおもいうかべて、考えた。だいたい上院議員のアマデオに頼んで、オノフレとの商売をひきだしたのは小寺であり、この商売をフランクに担当させたのも小寺なのである。
この商売の始まった当時、本社から出張してきた鶴井は、無遠慮に「あんた、混血でしょう。混血のあんたをよく日本人小学校が入れてくれたね」とフランクに訊いたものであった。フランクは、あのとき「私の頃は、混血が沢山いましたよ」といい、「当時の日本人学校は、いったん入学すれば、混血でも現地の子でも、皆、おなじ日本人として扱ってくれたんです」といった。
小寺はあの言葉を、いかにも現地《ロー》雇|用《カ》社|員《ル》と本社派遣員《ホーム・スタツフ》を差別する、戦後の日本企業に対するあてこすりのように聞いたのであった。
いくらイリガンのセメント工場建設の商売が軌道に乗りつつあるから、といって、フランクを木材の仕事から離したりすれば、フランクの身分は、以前の機械輸出の一スタッフに逆もどりしてしまう。そして自分は苦労だけさせられ、苦労の結果である美味な果実のほうは、突然やってきた、空威張りの好きな本社の若造に奪われてしまうと、フランクはひがんで、考えるに違いなかった。
ここは筋を通して、鶴井の人事を断るのが正解なのだが、困るのは、支店昇格の条件として、鶴井をマニラに引取れ、というようなニュアンスが存在することであった。日本社会独特の腹芸の取引きである。
遠くを走る、これもなつかしい私鉄の轍《わだち》の音を聞きながら、小寺がそんなことを寝床のなかで考えていると、早朝だというのに、玄関のベルの鳴る音がし、「ごめんください」と呼ぶ声がした。
母親が起きだしてゆく気配がしたが、暫くして、彼の部屋に顔をのぞかせ、
「マニラの石山さんのお母さん、とおっしゃる方が見えたよ。ご出勤前にひとことご挨拶したいんだって」という。
「石山君のお母さん? 石山君が知らせて挨拶にこさせたんだな。すぐゆきます。とにかく客間に通してください」
「それが朝早くに伺ったからっておっしゃってね、いくらおすすめしてもあがってくださらないんだよ」
小寺はあわてて着替えをして、玄関にでた。
玄関には、朝だというのに、きれいに化粧をした、和服姿の五十過ぎの女が神妙な顔つきをして立っていた。小寺は、石山が自分は下町生れの下町育ちで、家は既製服の問屋をしている、と話していたのをおもいだした。化粧にしろ、絽《ろ》の着物の柄にしろ、下町好みに派手で、素人と水商売の中間くらいの感じである。
「支《ひ》店長さんでらっしゃいますか。石山咲子でございます。朝っぱらからいけずうずうしくしゃしゃりでまして、申しわけございません」
咲子はこれも下町特有の、男のように嗄れた、おおきな声で挨拶をした。
小寺も、ぜひあがってくれるように勧めたのだが、咲子は朝早く伺ったから、といって頑として玄関の|たたき《ヽヽヽ》を動こうとしない。
やむなく玄関に座ぶとんを持ってきて、すわって貰い、お茶をだした。
「うちの高広が着いて早々に腸《ヽ》を患ったりして、支《ひ》店長さんのお宅にすっかりお世話になっちまいましたそうで」
咲子は嗄れ声でいい、うやうやしく頭を下げた。
「いや、こちらこそ石山君にはお世話になっていますよ。よく働くし、それに明朗快活な性格で、事務所の空気がおかげさまで明るくなりましたよ」
「あの|でこすけ《ヽヽヽヽ》は、とんでもない抜け作でございましてね、馬鹿をしましたら、どうぞぽかんとアッパーカットを食らわすなりして、きつうくしぼってやってくださいまし」
咲子は、大真面目な顔をしていった。
「母親と致しましてはね、|シ《ヽ》リッピンにご奉公にだして、身柄をお預けしました以上は、煮て食おうと焼いて食おうと、これはいっさい支《ひ》店長さんにおまかせでございますから」
咲子がしたり顔で、ひどく大時代なせりふを述べたてるので、小寺は閉口した。
「私生活のほうじゃ、おもしろおかしくやっているようですが、会社の仕事では大真面目でね、今もラワンの検木に田舎に行って貰っているんですけど、私としては大助かりです。ご令息のような性格のひとばかりがマニラにきてくれると、私も気楽なんですがね」
小寺は、ついつい日頃おもっている本音を吐露してしまったのだが、咲子は「そうですか」と冷たくいって、一向に取り合わない。
「|シ《ヽ》リッピンの材木は重くて、沈みやすいんだそうですね。あの|でこすけ《ヽヽヽヽ》は、材木と一緒に毎日ぼちゃんぼちゃんとにぎやかに海に落っこってるんじゃないですか。あんなおおきいのが落っこちて、高潮でも起らなきゃいいけどねえ」
咲子の言葉に小寺は、おもわず笑ったが、咲子自身はにこりともしない。
「支《ひ》店長さん、その私生活なんですけど」
家の奥を大袈裟に伺ってみせてから、
「あの|でこすけ《ヽヽヽヽ》はまさか土人のこれを作ったりはしてませんでしょうね」
咲子は、小指を立ててみせ、声をひそめて、そう訊ねた。
「彼は、私たちと違って、背の高い、なかなかの好男子ですから、そりゃ、ずいぶんもてるでしょうね。友だちのような女性はいる、とおもいますけど、ご心配にはおよびませんよ」
「近頃は、その友だちってのが、おそろしいからねえ。友だちってのが、急にいちゃついて、夫婦約束しちゃったりしますでしょう。友だちと色恋沙汰のけじめがありゃあしませんからね」
咲子は疑わしそうにいう。
「お母さん、大丈夫ですよ。石山君は、小さな、ご愛嬌のポカはときにやらかすけれども、決して大事件は起さないんじゃないですか」
小寺は、そう取りなした。
「そうなら、いいんですけどね」
母親はひと安心したらしく、「失礼します」とハンドバッグから煙草を取りだして、くわえた。小寺は火をつけてやり、眼の前に灰皿を持ってきてやった。
「荒川ベニヤの社長《ひやちよう》さんがね、あんたの息子は南洋じゃ、もてるからな、|酋 長《ひゆうちよう》の娘かなんか、そのうち貰っちまって、黄いろと黒の|だんだらじま《ヽヽヽヽヽヽ》の子どもを二、三人連れて帰ってくることになるかも知れねえな、おれが社長《ひやちよう》だってってもそこまでは責任持てねえから、よおく鴻田の所長に頼んでおきなさいよ、なんておどしにかかってくるもんですからね」
小寺へのお礼と挨拶もさることながら、咲子の訪問の目的のひとつは、この辺にあるらしかった。
「あの社長も、妙なことをいって、困るな。与田さんってひとは、他人を揶揄《からか》ったりするのが好きなんですよ。お母さんの心配の種になりそうなことが起ったら、必ずご連絡しますよ。いや、そのまえに止めに入りますよ」
「私もこの年になって、|酋 長《ひゆうちよう》の娘を嫁に迎えることになっちゃあ、気苦労で適いませんからね。|酋 長《ひゆうちよう》の娘となりゃ、日本にきたって、威張るだろうし」
馬鹿馬鹿しくおおきなリングをはめた、白い、華奢な指の股に煙草を支え、玄関に差しこむ陽光の帯のなかに紫煙を吐きだして、咲子はいった。
「だって山んなかに入って、丸太の検査するんでしょう。山んなかにゃ、土人もいて、|酋 長《ひゆうちよう》もいるんだろうからね。だけど、どうしてもってなら、平《しら》の土人じゃなくて、せめて|酋 長《ひゆうちよう》の娘にして貰いたいね」
少し現地の話などを訊ねて、咲子は「長居を致しまして」と立ちあがったが、立ちあがるなり、ガラス格子の玄関の表に向って、「ちょいと、ご挨拶を持っといで」と怒鳴った。
すると、いかにも既製服問屋の社員らしい、リーゼント・スタイルの頭髪を油で光らした若者が、大小ふたつの包みを重そうに両手にかかえ、小腰をかがめて入ってきた。
「支《ひ》店長さんに日本を忘れないでいただきたいとおもいましてね、この着物をお召しになって、せいぜい日本を偲《しの》んでやってください」
咲子は包みの小さいほうを玄関の畳に置きながらいった。
「それから皆さんで召しあがっていただきたい、とおもいましてね、更科のおそばを、少々用意致しましてね」
こちらの包みは、途方もなくおおきく、いったい何人前のそばが入っているのだろう、と小寺は考えた。
「事務所には、五十人近くのかたがたがいらっしゃると伺いましたのでね」
どうやら、咲子は、マニラ事務所の社員は全員、日本人とおもいこんでいて、五十人分のそばを用意したらしかった。「平《しら》の土人の娘」が一緒に働いているなどとは、おもいも寄らないらしい。
呆気に取られ、次いで恐縮する小寺を尻目に、咲子は門先きに停めてあった、「赤札屋洋服株式会社」と社名の入ったステーション・ワゴンの後ろの席に、若者に助けて貰って、「どっこいしょ」と乗りこみ、早朝の街を帰って行った。
生粋の下町女といった、石山咲子の訪問で、小寺は、愉快な気分になり、会社に出勤する車中で、こんどの件はやっぱりおれのおもうとおりにやらせてもらおう、と考えた。
美土代町の会社に着くと、その足で海外人事部にゆき、
「支店昇格の件はひとつよろしくお願い致します。ただ鶴井君の件は、ひとつご容赦願えませんか」
と微笑をうかべていった。
浦戸は額を拳でとんとんとたたきながら、
「引き受けて貰えんのかねえ、弱ったな。フランクと鶴井君の仲を心配していうんだったら、マニラに帰って、ひとつフランクの意見も訊いて貰えんかな」
といった。
「フランクにしてみれば、弱い立場にいるし、うんといわざるを得んでしょう。とにかく今の事務所の空気は、じつによくまとまっておりましてね、フランクの昇格もほかのローカル・スタッフにいい影響を与えているんですよ。私としてはこれを大事にしたいんです」
小寺はいった。
「きみの能力と人柄からいえば、すこし精力のあまっている若造がひとりふたり下にきたところで、ちゃんと取りまとめてゆけますよ。朝めし前の話だろう。ぜひ考え直してくれんかな」
浦戸はなかなか執拗であった。
7
石山は結局、ディビラヌエバに二週間ほど滞在し、伐りだされたラワンの検木と本船積みこみの監督をやった。
おなじ赤ラワンでも比重が高くて、水中に沈んでしまう材があるので、その種の材はSINKERを略したSの印をつける。比重が軽く、海面に浮く材にはFLOATINGの略のF印をつけて、F印の材だけで筏を組み、そのうえにS印の材を積んで船まで運んでゆく。
材木には一本一本木口に白ペンキで番号が入っており、書類と照合しながら積みこんでゆくのだが、相変らず、ちょっと油断すると不良品としてはねた材木が、良質の材にまぎれこんで、いつの間にか船に積みこまれていたりする。
船が入ってからは、石山は船内に泊りこんでいたが、朝起きて、甲板に出てみると、夜中のうちに、不良品としてはねた、海苔巻みたいに真中に穴の開いている材木がこっそり数十本積みこまれていることもあった。
シソンを面詰すると、シソンは例のごとくひたすら謝るばかりで、手応えがなかった。シソンは、謝り謝り、裏で計画的にごま化している気配があり、なかなか気が抜けなかった。
千二百本の赤ラワンを積みこんで、|二九 九《にいきゆうきゆう》のラワン材専用船が出航する前夜には、船長以下の日本人乗組員を事務所の食堂に招いて、小さな宴会をやり、石山は現場作業員のギターを借りて、つれづれに覚えたフィリッピン民謡を歌い、喝采を博した。
マニラに帰ってきた夜、石山は早速、レオノールに電話して、PITICO気付けでくれた手紙の礼をいった。
翌日の夜、食事にでてこないか、と誘うと、
「いいわよ。今度はシンデレラをやらなくてすむものね」
笑いを含んで、レオノールは誘いに応じたが、
「ただし台風が問題だわね。なにしろ大型の台風がきてるんでしょう」
翌日は、一九七〇年の九月十日で、東北からその年一番の大型の台風がマニラに迫りつつあった。
「もし台風がひどかったら、外にはでないで家にこない。家で一緒にご飯食べましょうよ」
レオノールは、大変な悪だくみの相談をしているような、緊張した声で囁いた。
ところが翌日、事態はおもいがけぬ方向に展開した。
台風の到来が早くなり、午後早々からマニラの街は、猛烈な吹き降りに見舞われ始めたのである。
所長の小寺が東京出張中なので、各課のマネージャーが寄り集まって、全社員の早退を決めた。
「ミスタ・イシヤマ、早く帰らないと、今度は街のなかで溺れますよ」
フランクあたりから、ディビラヌエバで小舟が引っくり返り、溺れかけた話を伝え聞いているらしく、アデールがそんな冷やかしをいって、所長秘書のフェイと一緒にばたばたと会社を跳びだして行った。
現地社員が帰り急ぐなかで、石山の直属上司のフランクは悠然と構えていて、机にイリガンのセメント工場関係のものらしい書類をひろげ、しきりに計算機を使って、計算に熱中していた。
石山が窓ぎわに行って、黒く濁った空を猛烈なスピードで流れてゆく雨雲を見あげ、土砂降りのアヤラ通りのおおきな水溜りを眺めたりしていると、
「石山さん、好きな女の子とデートするには、絶好の天気だよ。なにしろこの天気じゃ、帰りたくても家に帰れなくなるからね」
フランクが、計算機を動かす手を止めずにいった。
「こんな日に、私が相手の家に遊びにゆくとどうなりますかね」
石山はそう訊いてみた。
「男が台風を恐がって帰らないのかい。そいつは、あんまりさまにならないな」
フランクは、にやにや笑って答えた。
雨足はいよいよひどくなり、さすがのフランクも、
「そろそろ帰ったほうが無事かな」
そういいだした時分に、ふいにガードマンの格好の男が、表のドアから入ってきた。雨のなかを走ったらしく、遠目にも制服の肩の濡れているのがわかる。
ガードマンふうの男は、「ミスタ・イシヤマ」と呼びかけながら、近寄ってきた。
「台風がひどくなってきたからね、迎えにきてあげたんですよ。下の車で、ミス・レオノールも待ってます」
小鼻が左右に張った男は、レオノール専属のガードマンのドミンゴであった。
石山は、万事察したように、にやにや笑っているフランクに挨拶し、おなじ独身寮にいる経理の藤田にひと足先きに帰る旨、断って、ドミンゴと一緒に会社を出て、エレベーターに乗った。
「あなたの車は、会社に置いてゆかれたほうがいいですよ。帰りは私が責任を持ちますよ」
ドミンゴはしたり顔にいった。
吹き降りのなかを走って、道路に停めてあるピンクいろのムスタングに跳びこんだのだが、後部座席にすわったレオノールは、「暫くね」といって、ごく自然に片頬を差しだした。レオノールの態度があんまり自然だったので、石山はつい乗せられて、レオノールの頬に見様見真似のキスをしてしまった。
「フィリッピンの台風は恐ろしいのよ。愚図愚図していると、水が出て動けなくなるのよ。イメルダ大統領夫人がいろいろ努力しているらしいけど、いつまで経っても道路の排水施設が整備されないのよね」
とレオノールはいう。
レオノールは、大学の医学部で授業を受けてきた帰りなのだそうであった。フィリッピン大学の本校は、マニラから八キロ離れた首府のケソン・シティにあるが、医学部は、マニラ市の中央部、マビニ街裏手の、アテネオ大学法学部やフィリッピン国立病院の立ちならぶ一画にある。
「今日はリタはどうしたの」
ふと色の黒い、おでこのシャペロンの姿が見えないのに気づいて質問すると、
「あの子は、実家が水の出る区域にあるのね。今日は帰って家の荷物の整理を手伝いたい、というので、帰してやったのよ。雨がひどくて、水が出そうになると、皆、衣類やなにかを包んで長い棒の先きに結びつけて、その棒を地面に突き刺しとくのよ。そうすれば水が出ても、衣類は汚れないし、流されないでしょう」
レオノールは、そう説明した。
アヤラ通りの、マカティ寄りのあたりに早くも水が出ているらしい、とドミンゴはいい、ブエンディア通りからタフト通りへ出て、ハイウェイ54に乗る、迂回路を行ってみよう、と提案した。
しかし雨水の氾濫は意外に早く、貨物駅のパコを過ぎて、まだタフト通りに出ないうちに水の出がひどくて、車は進めなくなった。
「しまった、フォルクスワーゲンに乗ってくるんだった」
ドミンゴは、道路の前方に拡がる、おおきな水たまりを眺めて、これみよがしにいい、舌打ちをした。
日本の車も車高が高いから、洪水には強いのだけれども、なんといっても水に強いのはフォルクスワーゲンで、そのために、マニラではフォルクスワーゲンの価格が、他国より高いのだそうであった。
特にアランフェス家には、床に鉄板を張った特注の洪水用フォルクスワーゲンがある、という。
レオノールは、困ったように笑い、石山の二の腕を強く握って、
「ドミンゴ、怒ってるわ。朝、フォルクスワーゲンで出かけましょうっていうから、あんな格好のわるい車には乗りたくない、立ち往生してもいいから、ムスタングでゆくって、私が駄々こねたのよ」
と囁いた。
ブエンディア通りのこのあたりは、駐在員たちが中古の冷蔵庫を買いにくる場所で、道の左側には、色を塗りかえて、|見てくれ《ヽヽヽヽ》をよくした、米国製の冷蔵庫をいっぱいならべた店が何軒かかたまっているのだが、長靴を履いた男や半裸の子どもたちが、高い机や台を持ちだし、そのうえに冷蔵庫をあげる作業をしている。
マニラで新品の冷蔵庫を買えるのは、支店長クラスで、ふつうは、この辺の中古品を買って間に合わせるのである。安物を買うと、冷蔵庫を開けた拍子に、ドアが外れて、落っこちてしまう、などという噂もあったが、緑いろや黄いろの冷蔵庫は、雨に洗われて、新品同様の感じでならんでいた。
右側は、菓子や麺類などおやつ類を売る店や自転車屋で、こちら側も、自転車を、冷蔵庫と同様、台のうえに載せている最中であった。
──彼らのほうが、われわれよりはるかに準備がいいな。と石山はおもった。
「その辺にいる子どもたちに助けて貰いなさいよ」
レオノールはいって、ハンドバッグから小銭を何枚か取りだし、ドミンゴに手渡した。
ドミンゴが、窓から顔をだし、自転車を台のうえにあげている連中に何ごとか怒鳴ると、彼らは、仕事を中断して、こちらにやってきた。
彼らに押されて、ムスタングはおおきな水たまりを猛烈な水しぶきをあげて、どうにか渡ることができた。
ブエンディアからタフト通りにでて、ハイウェイ54を目指したのだが、タフトの行手はこれまた水が道路を浸し、湖水のようになっていて、動きがとれない。
「これはひどい。学校の動物実験をもう少し早く切りあげればよかったな」
レオノールは、夕闇の迫ってきた周囲を見まわして呟いた。
「仕様がない。この車をどこか高い、安全なところへ駐車して頂だい」
レオノールは、ドミンゴに命じた。
「それから、あんたは、家に戻ってフォルクスワーゲンを持ってきてよ」
ドミンゴはさすがに返事をしなかった。
「すまないな」
石山が気をきかせて、チップを握らせると、獅子鼻のドミンゴは、やっと「イエス、ミス・レオノール」といった。
ドミンゴは、チップを胸のポケットにおさめると、俄かに愛想がよくなって、
「ミスタ・イシヤマ、あなた連転がうまいんですから、この車を運転して、ハリソン・ブールバードに行ってください」
と車の後方を指差した。
「ハリソン・ブールバードを左にまがると、右手にライシューム大学がありますからね。あの大学の門の辺で待っていてください。ここらじゃ、あそこがいちばん安全でしょう」
といった。
ドミンゴは車を出て、ムスタングのトランクから取りだした合羽と雨用の帽子をかぶり、吹き降りのなかを跳びして行った。
「彼、大丈夫かな」
ガードマンの後ろを見送りながら、石山は呟いた。
「この国じゃ、お金さえあれば、台風だって止められるのよ。タカがあんなにチップあげるんだもの。あのひと、必ずフォルクスワーゲン転がして戻ってくるわよ」
石山とレオノールは、いったん吹き降りの車外に出て、たちまち躰を濡らす強い雨に驚きながら、前部の席に移った。
「ライシューム大学か。そういえばあそこは、少し土地が高くなっているから安全かもしれないわね」
レオノールが濡れた髪を掻きあげていう。
フィリッピン大学が東大にあたるとすれば、ライシューム大学は一橋にあたるような、国立商科大学である。
ムスタングのハンドルを握った石山は、Uターンをして、タフト通りを逆行し、ハリソン・ロータリーに出た。資生堂の看板を立てた美容院を横目に見ながら、レオノールの指示するとおりに走り、日本語補習学校の横手にある、ライシューム大学の高い塀の前にでた。
塀の中ほどの路地をまがり、繁った木立の間の、坂になった道を上ってゆくと、鉄の門にぶつかった。大学の校門で校庭の向うは、教職員も学生も下校してしまったらしく、明りひとつ見えず、校舎が闇のなかにくろぐろと沈んでいる。
鉄の門の前に車を停めると、突然ふたりだけで密室に放りこまれた感じで、ちょっと間のわるい空気になったが、すぐにレオノールが手を差し伸べ、躰をすり寄せてきた。
「タカ、会いたかったわ」
レオノールは、熱に浮かされたようにいう。
二週間ディビラヌエバにいて、電話もできなかったことが、レオノールの気持を一段と昂進させることになったらしい。
「タカ、どうして手紙の返事をくれなかったの」
「書きたかったんだけれども、田舎だしね、日にちがかかるんじゃないかとおもってね」
まさか英作文に自信がないからともいえず、石山はそう弁解した。
「飛行機で運んで貰えば簡単じゃないの。あなた、あの会社から材木を沢山買ってるんでしょ。そのくらいのサービスして貰ってもいいのに」
事実、現場を視察にきたオノフレが「今日の午後、マニラに帰るよ。おれが持ってきた手紙の返事を運んでやろうか」といってくれたのだが、そんなに簡単に英語の手紙を書けはしない。むざむざとチャンスを逃してしまったのである。
「タカの気持が変ったのか、とおもったわ」
意外なことにレオノールは恨みごとめいたことをいう。
まさか、やっとのおもいで跳びこんだ|二九 九《にいきゆうきゆう》の便所で、暑さと出血のために失神しそうになり、「レオノール、助けてくれ」とおもわず口走ったことなど、打ち明けるわけにはゆかない。
石山は、単に「そんなことないよ」というにとどめ、軽くキスをしてごま化した。
すっかり暗くなった周囲では、相変らず横なぐりの雨が降っていたが、この頃はまだ、ドミンゴがフォルクスワーゲンを運転してすぐにも迎えにきてくれるような気がしていたので、長いキスと抱擁を繰り返しては、ふたりは窓の外を窺った。フォルクスワーゲンのヘッドライトが後方の闇にうかびあがり、路地に入ってきて、彼らをフォルベス・パークの豪華な食卓へ直行させてくれるものと、少くとも石山は信じこんでいたのである。
しかしいっかな、フォルクスワーゲンは姿を現わさない。
キスと雑談を交わしながら、二時間も待ったところで、石山はしびれを切らし、様子を見がてらなにか飲物を買いにゆこう、とレオノールに提案した。
車をバックさせて、表の通りに出てみると、驚いたことに歩道に何台もの車が乗りあげて、駐車している。車内に黒く人影がみえ、いずれの車も水を避けている気配であった。
「この分じゃ、ドミンゴは今夜じゅうに戻ってこないかも知れないなあ。あの車のひとたちは皆、家へ帰れなくて、ここで夜明かしするつもりなのよ。あなたがはずんだチップも役に立たないんじゃないかな。私たちも、ひとつ覚悟をきめますか」
レオノールは断定的にいった。
水が市内のあちこちに出ているとしたら、たしかにあのガードマンが早々に戻ってくることなど、期待できそうにない。
石山が呆れて夜明かし覚悟の十数台の車を眺めていると、横の窓ガラスをこつこつ叩く者がいる。窓の外には、中年の女が立っていて、
「だんなさん、バルート要らんかね」
という。
バルートというのは、孵化《ふか》直前のあひるの卵を茹《ゆ》でたもので、卵を割ると、あひるの胎児が眼をつぶり、翼で胸をかかえるようにして現われる。
東南アジア一円で、酒の肴やおやつ代りに供されていて、フィリッピンのゴルフ場でも夕刻、女たちが籠に入れて売りにくる、なかなかうまい食べ物なのだが、あひるの胎児をつるりとスプーンで飲みこむのは、初めての者にはなかなか勇気がいり、バルートを食べられれば、一人前のフィリッピノなどといわれるのである。
徹夜覚悟の車をあてこんで、バルート売りをはじめ、物売りが付近に出没しているのであった。
「台風で金を儲けるひともいるんだね」
石山は感心して呟いた。
さすがに飲食店はしまっているので、ふたりはほかの物売りからサン・ミゲルや餅菓子、モンキー・バナナなどを買って、ふたたび商科大学の校門に通じる路地に引き返した。
大枝が張りだした木陰に車を寄せ、座席を後方にずらし、トランクからひっぱりだしたタオルケットを敷いて、徹夜の準備を整えると、石山の動悸は俄かに高くなった。
雨が屋根をたたく音のなかで、ふたりはふたたび抱擁を繰り返したが、今度の抱擁は濃厚で、先刻までのそれとは明らかに性質が違っていた。ここで徹夜せねばならないことが、ふたりにある覚悟を促したのである。
それでもレオノールは左側の運転席から愛撫の手を伸ばす石山に向い、「タカは左きき?」などとふざけていたが、次第に口をきかなくなった。
口をきかないままにふたりは運転席と助手席を後方に倒すことにしたのだが、「これならキャディラックを持ってくればよかったわね」とレオノールは口をきくのがやっとという感じでいう。言葉が聞きとりにくいほど声が震えている。レオノールの昂奮はすぐに石山に伝染《うつ》って、「フォルクスワーゲンよりもいいさ」という石山の声も喉にひっかかった。
石山が横になったレオノールの躰にかぶさってゆくと、お互いの歯がぶつかり合って音を立てた。胸に手を差しこむと、レオノールは赤ん坊みたいに、馬鹿にかん高い悲鳴をもらし、怪我でもしたようなぐあいに、身をもんであえいだ。
夕方の早い時刻にシャペロンとガードマンの監視のもとに会ってきた、日頃の欲求不満が一挙に爆発したかたちであった。
この国では「台風一過、さわやかな秋晴れ」というぐあいにはゆかず、台風の前後、何日も雨が降り続く。
翌朝、雨が少し小降りになったので、石山は車の外に出て、校門の前で屈伸運動をやった。
スポーツしたわけでもあるまいに、情事のあとで、体操をするのは、ちょっと滑稽《こつけい》な気もしたが、小雨のなかで、ひとりで掛声をかけて、屈伸運動をやっていると、泥水をはねあげて、フォルクスワーゲンが路地に入ってきた。
車から降りてきたドミンゴは、呆れたことに、小ざっぱりした新品のシャツ姿で、どうみても自宅に帰って充分休息をとり、着替えをしてきた、としかおもえない。
ドミンゴは、ムスタングの車内を覗きこみ、座席の背を倒し、タオルケットを抱きかかえて眠っているレオノールを眼にすると、おどけて眼配せをしてみせ、大袈裟なしのび足で近寄ってきた。
「ずいぶん遅いじゃないか。おれたちはひと晩じゅう、あんたを待っていたんだぞ」
石山は、痛む躰の節ぶしを片手で揉んでみせながら、おもわずなじる口調になったが、ドミンゴは、いかにも意外だ、という顔をする。
「ミスタ・イシヤマ、あなたが、あんなにチップをくれたのは、つまり今夜は迎えにくるな、そういう意味じゃなかったんですか」
獅子鼻の顔を突きだしていい、石山は呆気に取られた。
「いや、そういうつもりじゃなかったんだなあ。単純に、雨のなかを歩いて帰るのは大変だろうと考えただけだよ」
ドミンゴは「なんだ」という顔になり、肩をすくめた。
レオノールを起して、防水加工のしてあるフォルクスワーゲンに移り、ムスタングを置き去りにして出発したのだが、迂回に次ぐ迂回で結局、フォルベス・パークまで三時間近くかかる始末であった。
フォルベス・パークでレオノールと別れたが、車から降りぎわに、レオノールは、これまでみせたことのない、柔らかな、優しげな笑顔をみせ、別れのキスのために、片頬を差しだした。
「|きみが好きだ《マハル・キタ》よ」
ディビラヌエバで覚えたフィリッピンの恋歌の歌詞を使って、石山は囁いた。
別れたあと、石山はマガリアネスの独身寮までドミンゴに送って貰った。独身寮の傍でも水が出ていて、子どもたちが板を道路に敷き、通行人が横断するたびに渡し賃を取っている。
別れぎわにドミンゴに向って、
「これからもときどきチップをはずむよ」
石山がいうと、獅子鼻のガードマンはにやりと笑って、片手を挙げてみせた。
独身寮では、藤田が居間にすわって、所在なさそうにレコードを聞いていた。
会社は、台風のおかげで、休みだ、という。
「こっちはひと晩じゅう、車のなかでひどい目に会ったよ。なにしろ四人でせまい車のなかに押しこめられていたんだからねえ」
石山は嘘をいった。
「もう躰じゅうの関節が痛くて痛くて」
藤田は疑わしそうな顔で石山の躰を見まわして、
「事件男が、また事件を起しているのか、とおもったよ」
といった。
これも事件といえば、事件かもしれないとおもい、石山はちょっと顔を赤くした。
8
小寺がマニラに帰ってきた翌日、今度はシンガポールのアジア地区|統轄《とうかつ》支配人から国際電話がかかってきた。
鴻田貿易は、米州、欧州中近東、アジアと世界を三地区に分けて、各地の支店、事務所を統轄しており、アジア地区の統轄支配人はシンガポールに常駐している。
「ほかでもないんだがね、今朝、本社と電話で人事の話をしたら、木材の鶴井君をなんとかマニラで引き取ってくれんか、というんだな」
統轄支配人は突然そう切りだした。
「きみは、東京じゃ、この人事は受けられんとはねつけたらしいね」
「ははあ、早くもそちらへ話がゆきましたか」
小寺は受話器を耳にあてながら、苦笑いをした。
「おれとしちゃあ、きみが反対するのはわからないじゃないんだよ。鶴井君は、やり手で、仕事もできるが、その反面自信過剰で、いくぶん鼻持ちならないところがあるからな」
統轄支配人も、笑いを含んだ声でいった。
「あの男、なにしろ入社試験のとき、面接の役員に向って私を採用しなかったら、この会社が損をすると見得を切ったんだろう。この鼻息に社長がやられちまった、という話だからね」
鶴井の自信に満ち満ちた態度に役員を含む試験官は驚き呆れ、採用の可否をめぐって大激論になった。当時の社長がその話を伝え聞いて、「面白いじゃないか。自信を持てるのも能力のうちだ」と断を下して採用に決った、という話であった。
かつて府立十中の「自由主義的中学生」であった小寺としては、この種のエピソードは、あまり気に入らない。「男子志を立てて郷関を出《い》ず」式の肩肘《かたひじ》張った、立身出世主義が透けて見えるようで、不愉快なのであった。
「しかし、とにかく鶴井君は、幹部候補生で木材のホープなんだよ。木材としては、現場で苦労させて、バランスの取れた人材に育てたいらしいんだな。それで、私から小寺君を説得してくれとわざわざ木材担当常務が電話してきたんだ」
「しかし、支配人」
相変らず笑いを含んだ声で、小寺は、
「私は帝王学の教育係としては不適当ですよ。それにこちらの事務所の事情もありましてね」
おだやかに、フランクを昇格させたこと、もし鶴井が着任すれば、フランクの処遇に困り、現地雇用社員の支持も失うだろうことなど、支配人周知の事実を改めて説明した。
「おれもその辺はよくわかっている。だから新規企画、新規市場の開発専任の次長ということにすればいい。給料は本社持ち、なにか問題を起したら、直ちに本社に引き取って貰う、こんな条件で鶴井君の人事を呑んでくれんかね」
小寺は、統轄支配人の声を聞きながら、「支配人は、本社に対してもうOKしてしまってるな」と感じた。
木材担当役員に話があがって、それがやはり役員の統轄支配人に持ちこまれてきた以上、そんなにこだわるわけにはゆかなかった。
「一課長補佐の人事に、あまり電話代をかけてもいかんでしょう。支配人がいわれる条件で、鶴井君を預ることにしましょう」
小寺は、ついにそう答えざるを得なくなった。
問題はいつ、どうやってフランクにこの人事を話し、納得させるか、であった。
電話を切った小寺は、人差し指で回転椅子の肘掛けをたたいていたが、秘書のフェイにいいつけて、経理の藤田を呼ばせた。
「石山君のお母さんから、おそばを沢山貰ったのでね、今度の日曜の昼あたりに、私の家へ食べにきて貰いたいんだ。ゴルフやテニスの予定のない連中ってことになるだろうが、皆、極力、家族連れできて貰いたいな。天麩羅を大量にワイフに用意させるからね」
小寺はいった。
「それからメンバーには、フランク君を必ずいれておいてくれ」
そばのパーティが催される日の朝、フランクが、庭で芝を刈っていると、細君のパシータが窓から顔をだして、
「ミスタ・オデラがみえたわよ」
といった。
「小寺さんがみえた?」
フランクは驚いた。
だいたい日本企業の所長が、現地雇用社員の家を訪ねてくるなど異例中の異例である。おまけに今日の昼には、所長社宅に招待されていて、夫婦して出かけることになっている。
「今日、お昼に招ばれているのに、なんでこられたのかな。とにかく応接間《サラ・ルーム》にお通ししてくれ」
そういって、あわてて手を洗いに行った。
「所長、これはまたどうされたんですか」
フランクは、大声をあげて、小寺のすわっている応接間に入って行った。
「まさか、フィリッピン人の彼女ができて、お腹がおおきくなっちゃったから面倒をみろとか、そんな話じゃないでしょうね」
パシータが、日本語を理解できないのをいいことに、そういった。
この異例の訪問は所長自身の身辺に、現地雇用社員の助けを借りなければならぬ、なにかが起ったためだとごく自然にフランクは考えたのであった。
ポロシャツ姿の小寺は、手を振って、フランクの質問を否定した。
コーラを持ってきたパシータを混え、世間話をしてから、小寺は、
「フランク君、じつはきみの了解を貰わなくちゃいけないんだがね」
改まった口調でいって、鶴井の人事について細かく経緯を説明した。
「きみが鶴井君にだいぶ、いたぶられているのを知っていたから、私は極力反対し続けてきたのだが、どうもうまくゆかなくてね。ただし、きみが木材のマネージャーであることに変りはないし、月曜の会議にも今までどおり出席して貰う。それから木材の仕事、特にこれまでの仕事についちゃ、鶴井君に口だしはさせないよ」
フランクは、すっかり驚いて、熱心に語る小寺の顔をみつめていた。
通常、東京の本社にばかり眼を向けていて、現地雇用社員など便利屋と考え、一顧だにしないのが、日本企業の支店長、事務所長の態度であろう。本社からマネージャーを派遣してくると聞いたら、「ご本社のご意向」専一に、現地雇用社員などあっさり首にしたり、配置転換をしたりするのが、日本企業の長であろう。
しかし小寺は、休みの日に、わざわざ自分で車を運転して、一現地雇用社員の了解をもとめに自宅までやってきたのである。本社筋の気持を害することよりも、むしろ現地雇用社員の気持を損うことのほうを恐れているのである。
「役員がふたりもくちばしを入れてきちゃ、私も呑まざるを得なくてね。フランク君にはどうも申しわけないことになった」
小寺は両膝に手を置いて、軽く頭を下げた。
「所長、なにをおっしゃるんですか。所長にそんなに頭を下げられちゃ、自分としては立場がないですよ」
フランクはすっかり感動していった。
「自分はこの会社に長いですしね、いろいろなタイプの本社のひとと交際《つきあ》ってきたから、だれがきたってうまく合わせてゆける自信はあるんですよ。鶴井さんも|個性的なひと《キヤラクター》だけれども、自分が一緒にやってゆけないなんてことはないんです。ましてや、自分の立場が変らない、ということになればなおさらですよ」
「そういってくれると、ありがたいな」
小寺は心から安心したように肩の力を抜いた。
「少し早いけど、よかったら、私の家へご家族と一緒にこないか」
小寺に誘われ、フランクはパシータと三歳になる孫娘を連れて、一緒に所長宅に向った。
そばが石山の母親の贈り物だということもあって、昼のパーティの人気は石山に集まった。
「お父さん、石山さんは今度はウェルカム・ボウェルやのうて、逆にお腹の商品滞貨が一週間近く続いて、商品一掃のためにえらい苦労をしたんやって」
数人の駐在員夫人が石山を囲んでいたが、百合子がにぎやかに笑いながら、報告する。
「お腹の商品滞貨? なるほど。しかし食事しながら、そっちはえらい話やってるな」
小寺は、天ざる仕立てのそばをすすって、そう応じた。
「いやあ、三日四日と経って、やっと船が着く前日には、どうにもならなくなりましてね。一大決断を下して決戦に出ることにしたんです。昼休みに着替えをして、山側の野原のほうへ出かけたんですよ」
「なんで着替えしはるの」
百合子が訊いている。
「運動する時は、着替えをする癖がついていましてね」
石山はけろりとした顔をして答え、一座の者を笑わせた。
「水牛《カラバオ》がうろうろしている野原なんですがね、その野原のなかを歩きだした途端に、向うずねに怪我しちまったんですよ。野っ原のなかに二、三十センチの高さで水牛の逃亡防止用の鉄条網が張ってあって、それが草で見えないでしょう、足を切っちまったんですね」
付近でまた笑声が湧いた。
「しかしいったん決心した以上、簡単にギブ・アップしたんじゃ、これは男じゃない。男ならやってみろ、というんで、足から血をだしたまま、野原のなかを突き進んだんですね」
「マニラ到着早々、お腹をこわしたり、足から血を出したり、忙しいひとだね」
だれかがまぜ返した。
「それでやっと適当な場所をみつけまして、体勢を整えて、しゃがんだら、今度は足がちくちくするんですよ。見たら、足が赤く染っている。びっくり仰天して顔を近づけてみたら、これが赤い蟻なんです。赤い小さな蟻がびっしり足の甲にたかって、すねのほうに這いあがってくるんですよ」
夫人たちが「うわあっ」と悲鳴に似た声をあげ、百合子が「気色わるいなあ」と呟いた。
「さすがの私も跳びあがって、逃げ帰ってシャワーを浴びたんですよ。翌日、船が入って、船上でやっとゴール・インです。船に着くまでは、おおきく息をすると危険ですから、なるべく呼吸を小さくして、躰を動かさないようにしましてね、タラップもゆっくりあがったもんですよ」
食事が終ると、石山はギターを持ちだしてきた。
「ディビラヌエバのお土産です」といって、ギターを爪びきながら、フィリッピンの民謡や流行歌をいくつか唄ってみせた。
有名な「ダヒル・サヨ」とか、|きみが好きだ《マハル・キタ》で始まる「カパンタイ・アイ・ラギット」とか、甘い恋歌が中心である。
「フィリッピンの歌はロマンチックだね。こういう歌を聞いていると、フィリッピンに、独特の優れた文化のあることがよくわかるな」
小寺がいった。
低音の、柔らかな民謡を耳にしていると、フランクの気分は俄かに暗く沈み始めた。
──あの鶴井という男は、戦時中の参謀みたいなタイプだな。
やはり頭のどこかに小寺の話がひっかかっていたとみえ、フランクは関連もなくそう考えた。
あるいは、戦時中、俘虜の処刑を馬場大尉に迫った戦車第二師団の若手将校に似ていはしないか。エリートとしての強い自覚が、あたかも自分が組織そのものであるような、権威をかさに着た口をきかせるのである。
──本社が給与を負担するということになると、鶴井の態度はいよいよおおきくなるのではないか。
突然、石山が、古い民謡の「サンパギータ」を唄い始めた。
フランクは、昭和十九年暮にきいた、「サンパギータ」の泣くような歌声を鮮やかにおもいだした。
9
昭和十九年十二月から昭和二十年一月にかけて、カバナツアン市の広場や、国道五号線は、北上する日本軍の兵士と車輛で埋った。比島第十四方面軍は、レイテ失陥とミンドロ島戦の情勢から、「米軍のルソン来攻は十二月下旬から一月上旬」と判断していた。
第十四方面軍司令官、山下奉文は、彼我の兵力の甚だしい懸隔から、マニラ市および中部平原における決戦は不可能と結論し、主力の尚武集団十五万をルソン島北部の山岳地帯に送りこみ、峻険な山中に立てこもって、持久戦に持ちこむ、という作戦を立案、十二月十五日、これを裁可した。
さらに副次的拠点として、中西部山岳地に第二の防御集団たる建武集団を置いて、クラーク周辺の飛行場群を防衛、さらに第三の集団、振武集団によってマニラ市東方の山岳地にある水源地を抑え、いずれも持久戦に持ちこむ考えであった。
十二月十五日付で、マニラに集積されている軍需品および糧秣《りようまつ》の北部ルソンへの輸送が命ぜられ、方面軍所属、自動車十三個中隊二百六十台、鉄道一日二列車が動員されることになった。
尚武集団に所属した野戦貨物廠は、この方面軍命令を受けて、カバナツアン北方のサンホセおよびさらに北方のバンバンを補給基地と定め、輸送を開始した。
物資の購入がままならず、あまり仕事のなかった佐藤少年もこうしたルソン戦局の緊迫から、俄かに忙しくなった。
現在は撤去されてしまったマニラからの鉄道がカバナツアンまできていて、そのカバナツアン駅の傍に野戦貨物廠のカバナツアン出張所があったのだが、そこでの現地人鉄道員や荷役人夫との交渉、もはや煙草や石鹸などとの物々交換が中心となった米の買出し、食糧公団《ナリツク》のサンタ・ローザの倉庫から、サンホセ、バンバンへの物資移動の添乗など、毎日、仕事に追いまくられた。
クリスマスの翌日の十二月二十六日、浩は、サンタ・ローザの倉庫から北の補給基地のサンホセまで、米をトラックに満載して届けに行った。
帰路、空になったトラックの荷台に兵隊たちと一緒にすわりこみ、付近の農家で買った果物を積んで、カバナツアンに向ったのだが、マニラ方面からは、兵站物資を満載したトラックが、目白押しに砂塵をまきあげて走ってくる。
トラックとトラックの間には、小銃を担ぎ、軍服の背に汗を地図のように滲ませた兵士が疲れた表情で行軍してくる。
タラベラの近くで、トラックを避ける拍子に落ちたのだろう、速射砲が道路から車輪を落し、交通止めになっていた。
浩は、兵士たちと一緒にトラックを降り、砲兵隊らしい連中が、縄をつけて速射砲を引きあげているところを見に行った。
速射砲を引きあげているのを眺めていると、野戦貨物廠の兵士が、
「おや、向うのトラックに、日本の女が乗っているじゃないか」
という。
速射砲の引きあげ作業で交通止めになっでいる向うには、トラックが何台も数珠繋ぎになっており、一番手前のトラックには、在留邦人らしい一行が乗っていた。
浩が速射砲を引きあげているわきを抜けて、トラックの下に行ってみると、
「佐藤君じゃない。こんなところにいるの」
ひとりの少女が荷台のうえから叫んだ。
昔、戦争ごっこで看護婦役をやっていた、日本人小学校で一級下の井上信子であった。
信子は、「佐藤君がいるわよ」と背後を振向いていい、おもいがけなく岸本美千代が顔をだした。その横から、弟の誠と充も顔を見せた。
美千代はズボンをはき、ふたりの弟は戦闘帽に、カーキいろの長袖シャツ、半ズボンという、浩とおなじ服装をしていたが、五、六時間トラックに揺られ続けてきたために、三人とも汗と埃でまっくろな顔をしていた。
「どこへゆくんだ」
美千代は、黒い顔のなかから白い歯をみせて、
「在留邦人は、皆、北に疎開することになったのよ。私たちはサンホセにゆくのよ」
トラックのうえから大声でいった。
なんだ、「あたしは疎開なんかしないわよ」などと、美千代は、ついこの間威張ったばかりじゃないか。その舌の根も乾かないうちに、こうやって逃げてゆくのか、と浩はおもった。
浩の表情からその辺の感じを見抜いたらしく、
「サンホセに着いて落ち着いたら、また病院かどこかで働くわよ」
と美千代がいった。
「学校も閉鎖になって、トラックや汽車で皆疎開し始めたわ。白坂君も海軍から帰されてきて、トンドから汽車で疎開するんだといってたわ」
少年軍属のなかには、おなじように語学力に恵まれながら、配属先きが必ずしもその語学力を必要とせず、在留邦人の疎開命令とともに帰宅を命ぜられ、そのまま家族と北部山岳への逃避行を共にした者が少くなかった。どうやら餓鬼大将たった白坂も、そのひとりらしかった。
「校長先生がね、あとから卒業証書を持ってサンホセまできてくださるっていってたわ。山のなかでね、私たち卒業式、挙げるの」
美千代は、まるで遠足にでも出かけるようにはしゃいでいる。
気候の関係から、毎年一月に新学期が始まるフィリッピンの日本人国民学校は、四月、五月が夏休みで、十二月に三学期が終る。平時であれば、六年生の美千代は、今頃、卒業式を終えて、卒業証書を手にしている筈であった。
「美っちゃん、お父さんは一緒じゃないのか」
と怒鳴った。
「お父さんは軍属になって、マニラの水源地のほうに行ったわ。昨日、四人で記念写真、撮ってね、店ももう閉めて、お店のひとも皆、田舎に帰ったわよ」
「じゃあ、お母さんと一緒か」
いつの間にか貨物廠の兵士たちが浩のまわりにきていたが、空のトラックを運転してきた兵士が訊ねた。
「あの子は、お母さんがいないんです。大東亜戦争が始まってすぐに、肺病で亡くなったんですよ」
浩は、兵士にそう説明した。
「ふうん、じゃあ、子どもだけで逃げるのか」
兵士は、いくぶん心配そうな顔になり、「土産をやろう」と呟いて、トラックの運転台に引っ返して行った。運転台から皮の赤いムラド・バナナと西瓜ほどもあるパパイヤを持ってきた。サンホセ郊外の農家で、浩が交渉して手に入れた果物の一部であった。
「躰に気をつけろや」
そういって、トラックに向って差しだした。すると、突然三人の子どもを掻き分けて、このトラックに不似合いな、厚化粧の、顔のおおきな女がしゃしゃりでてきて、
「まあまあ、ご親切に」
と果物を受け取ってしまった。
女の出現がいかにも唐突で、果物を差しだした兵士も浩も、鼻白んだが、美千代は、女を信じきっている態度で、
「マニラでお隣りに住んでいた大野さんです。お父さんがお願いして、私たち姉弟の面倒を見てくださるんです」
と紹介した。
「浩君のお母さんや弟さんはどうするの。もう疎開したの」
「わからない。この前、帰ったときは、疎開するようなこといってたけどな」
「きっと何台か後ろのトラックに乗ってるわよ」
美千代は慰めるようにいった。
トラックには沢山の在留邦人が鈴なりになって、こちらを見おろしている。そのなかには下級生が何人かいたし、女たちの多くはマニラ日本人国民学校に子どもを送っている母親たちで顔見知りのひとたちばかりだった。
「浩ちゃん、まだ年もいかんのに、こんな田舎でよう頑張ってるんじゃねえ」
「躰に気をつけんといけんよ」
広島県出身者が多いから、広島訛りの言葉が次々とかかる。
やがてトラックが動きだし、美千代が高い声で、
「浩君、勝利の日まで頑張ろうね」
と怒鳴った。
いっせいに手を振って「元気でね」と叫ぶ母親たちや後輩を、浩は、挙手の礼をして、見送ったが、果物を分けてやった兵士が、車に戻りながら、
「あの写真館の子どもと一緒にいた女は、芸者だぜ。おれはマニラで隊長の車運転して、毎日のように日本料理屋へ送り迎えしたもんだが、よく玄関まで、あの女が送りに出てきたよ」
そんなことをいった。
「芸者っていっても、えげつなくて、宴席にきちゃあ、酒や煙草や、ときにはご祝儀までねだる女だ、と隊長がよく怒っていたな。あんな女と一緒で、あの姉弟は大丈夫かな」
「岸本写真館の子はしっかりしてますからね。大丈夫ですよ」
浩は、浮き浮きした気分でいった。
よく知っている在留邦人たちが続々とこちらにやってくるし、彼らの前で、腰にコルト32を下げた「勇姿」を見せることもできて、浩はまるで祭りの日のように快く昂奮していたのである。
それから五日経った、昭和十九年の大晦日、カバナツアン憲兵隊は、馬場大尉の発案で野戦貨物廠の協力を得て、憲兵隊詰所の横手の庭を使い、餅つきパーティをやった。
昭和十九年十二月三十一日はちょうど日曜日だったが、フィリッピンの風習では、三十一日はブエナ・ノーチェと呼んで、クリスマス・イブとおなじに教会で徹夜をする日である。夜の十一時頃から、新年のミサに参加し、明け方に帰ってきて、家族、親類、知人らと家でパーティをやる。
しかし戦時下であり、神父もカバナツアンを去ってしまい、教会でミサをあげるどころの話ではない。
馬場大尉は頭をひねって、三十一日の夕刻、市長や警察署長、それに市場に店をだしているディアスを初め近隣のフィリッピン人を招き、餅つき大会をやり、そのあとつきたての餅を食べたりするパーティを催すことになった。
そこでフィリッピン人二、三十人、憲兵分隊、野戦貨物廠の兵士四、五十人が憲兵分隊詰所の横手の庭に集まって、希望者が代わるがわる餅をついた。
フィリッピンの農家には、日本の杵《きね》と臼《うす》そっくりの道具がある。これは籾殻《もみがら》を取り去るための道具なのだが、この精米用の道具をディアスの伝手でいくつか借りだしてきて、拭き清め、餅つきの杵と臼に代用することにした。
糯米《もちごめ》は、フィリッピン産の極上のものがあるし、あずきはモンゴと呼ばれる日本産より小粒のものがある。ただ、きな粉は黒い大豆しかないので、きいろい、まんまるの、あん蜜に入れるような豆を碾《ひ》いて作った。
その他、豚や鳥の料理は、フィリッピン人たちが持ち寄ってくれた。
フィリッピン人たちは、好奇心に眼を光らして、兵士たちの餅つきを眺めていたが、特に餅つきの杵の合間に、水をつけて餅をこねる捏取《こねど》りがいたく彼らの興味をそそったようであった。
馬場大尉がご愛嬌に杵を握って、餅をつき始めると、ロージィが兵隊に頼んで捏取りをやらせろ、といい始めた。
「大尉殿、餅の代りにロージィさんの可愛いお手々をついちまったりしないでくださいよ」
だれかがいい、兵士たちがどっと笑った。
略帽を脱ぎ、腕まくりをした馬場大尉は、ふだん見せたことのない、緊張した顔で杵を振りあげたが、ロージィの手を気遣って、なかなか振りおろさない。杵を頭上に止めたまま、ロージィの手もとをじっとみつめ、捏取りが完全に終ったのを見届けてから、やっと振りおろした。
「大尉殿、いくらロージィさんのお手々が大事だといっても、そんなに長く、杵を空中に止めてたら、振りおろすまえに餅が固くなっちまいますよ」
また、だれかが冷やかし、爆笑が湧いた。
日本語がわからなくとも、和やかな雰囲気はわかるから、市長を初め、フィリッピン人たちも楽しそうに笑っていた。
しかしロージィの手さばきはなかなか器用で、すぐに捏取りのこつを覚えてしまい、馬場大尉が杵を振りおろす速度は次第に早くなった。真赤な顔をして餅をつく馬場大尉と長い指で手早く捏ねるロージィを取り巻いて、「よいさ、よいさ」という景気のいい掛け声が起り、もし兵士たちが軍服さえ着ていなければ、これは、まさに村祭りの風景であった。
近隣の女たちが、つきあがった餅に餡《あん》やきな粉、それに野戦貨物廠がギンバの先き、ムニョスにある軍の農場から特に運んできた大根のおろしをまぶして、日本人、フィリッピン人に供したが、フィリッピン人にしても、だいたいがおなじ米食民族であり、糯米はふだんから口にしているから、皆、喜んで食べていた。
餅つきのあとは、フィリッピン人たちの持ち寄った料理、野戦貨物廠が用意した料理を中心に、早目のブエナ・ノーチェ兼お別れパーティになった。
翌日の一月元旦、ディアスの女房、娘のロージィを初め、女たちは馬場大尉の進言で荷馬車を連ね、東海岸へ疎開することになっていたのである。
これも野戦貨物廠が持ちこんだラム酒で酔いがまわると、市の助役が、
「キャプテン・ババ、日本の餅つきでは、振りあげた杵は、いったん空中で止めなくちゃいかんのですか」
と質問をして、空中で杵を静止させる真似をやってみせ、これがまた爆笑を呼ぶ種になった。
憲兵隊詰所の建物には、床の高いベランダがついていたが、ロージィがこのベランダに上り、父親の伴奏で「|いつからか《ブーハツト》」という民謡を歌った。
「|いつからか《ブーハツト》」は、ひと目惚れした相手に寄せて切々たる恋心を歌った古い民謡で「いつの日からか、知らず知らずに愛していた、だれも知らない私の心」という歌詞には、馬場大尉に対するロージィの激しい想いが託されているらしい、と浩にも想像がついた。
極めつきは「サンパギータ」だったが、この夜のロージィの「サンパギータ」には、かつてない激しい情感がこもった。
「サンパギータ、|またとなき、優しき花よ、おまえの香りのなんたるかぐわしさ《ワラン・カシンタミス・アン・バゴ・モイ・カアアキツト・アキツト》」の歌詞で始まるこの曲は、ずっと後年、世界的に流行した「国境の南」に似た旋律の名曲で、娘がサンパギータの花を贈ってくれた恋人を偲んで歌う、という発想で作られている。
思い出の花よ、あの頃の私たちはなんとなんと幸せだったろう
おまえはあのひとがネックレスに編んで贈ってくれた花だった
今、私の心のネックレスはこわれ、ビーズは涙のしずくに変ろうとしている
ロージィが肩に垂らした長い髪を振り、高く歌いあげながら切なげにつぶった眼をひらくと、その眼は、吸いついたように馬場大尉をみつめて離れない。
瞳からは、情念の焔が燃えさかって、大尉のおおきな躰を包みこむようであった。
ロージィの豊かな胸のうえではじっさいにサンパギータのレイが夕闇のなかで震えるように揺れている。
明らかにロージィは、明日に迫った別離の悲しさを万感こめて歌いあげているのである。
「大尉殿は果報者やな。異国の女をあんなに狂わしよるんだから」
浩のまわりの憲兵隊の下士官が低い声で呟いていた。
「大尉殿のやりかたは、宣撫工作とはいえんもんな。内心嫌いな土人と我慢しいしい交際《つきあ》ってな、腹の底じゃあ馬鹿にして舌出しながら、表面《うわべ》だけ土人の機嫌取るのが宣撫工作だわな。そこにゆくと、大尉殿はえらい真面目でな、本心から土人と交際《つきあ》いたい、友だちになりたい、そうおもうとるんだろ。それが土人にもわかるんだね」
別の下士官がそう応じている。
「これが平時なら、大尉殿はロージィ姉さんを嫁に取って、カバナツアンに住みついたかもしれんわ」
歌の終りでロージィは感情が昂って、声がでなくなり、やがてしゃくりあげて泣きだし、家のなかに駆けこんでしまった。
周囲が静まったところで、浩は、だれかが袖をひっぱるのに気づいた。
振り返ると、頭のてっぺんにだけ、黒い毛の残った、駝鳥のような顔のサイコが立っている。ピー屋の客引きの男である。
「あんた、キャプテン・ババに訊いてくれんかね。家の女たちをいつ頃逃したらいいか、うちの店の親父も頭かかえてるんだよ」
浩は、前方に助役とならんで椅子にすわっている馬場大尉のところに行った。
「馬場さん、サイコがピー屋の女をいつ逃したらいいかって、訊いていますよ」
馬場大尉は、立ちあがり、サイコに歩み寄った。
「浩、ほかの女たちと一緒に、明日、店の女を疎開させろ、といえ。これからすぐ仕度させて、朝の暗いうちに出発させるんだ」
浩が通訳をすると、サイコは、
「カバナツアンは、皆、安全だといっているよ。それに日本の兵隊がいる間は、女たちも、残っていたい、といってるんだよ」
という。
「いかん。まもなくルソンの町という町は徹底的にやられるよ。なんとしても、明日、疎開させろ」
馬場大尉は強硬であった。
翌日の朝まだき、近隣の女たちは、荷馬車を連ねて東海岸のバレルへ向った。途中まで憲兵が護衛してゆくことになっている。
荷馬車には、ロージィが髪も梳《と》かさず化粧もせずに、悄然たる様子で腰かけていた。傍らには愛用のギターが置いてある。
見送る馬場大尉に強張《こわば》った微笑をうかべて手を振ったが、浩は子ども心にも、浅黒いロージィの顔を白いサンパギータの花のようにはかなく感じたものである。
馬場大尉は、荷馬車の行列が消えてゆくと、
「さて、髪の毛をきれいさっぱり剃り落して、おれも三途の川|渡河作戦《とかさくせん》の旅仕度をするか」
といった。
翌一月二日、日本海軍機はミンダナオ島のダバオ南方に約百隻の米軍大船団が西北方に進んでいるのを発見する。同時にすでに敵手に落ちたレイテ湾内にも、約百隻の船団の碇泊が認められた。
三日朝、台湾に対する空襲が始まり、ミンダナオ海に五十隻の米機動部隊西進中と報じられた。
山下第十四方面軍司令官は、米軍のルソン攻略戦開始の前兆と判断、直ちに軍司令部をルソンのバギオに移転すべく、出発する。
この日、軍司令官はカバナツアンを通過、周辺の広域警備にあたる滝上大隊他の諸隊をパンパンガ川河畔に集め、激励する。
一月四日、米空軍はリンガエン、マニラ間の橋梁に対し、集中的に爆撃を加えてきた。リンガエン地区に対する補給路遮断の意図が明瞭で、この爆撃により、米軍のリンガエン湾来攻は確実視されるに至った。
一月五日以降、熾烈《しれつ》な艦砲射撃を反復したのち、一月九日米軍はリンガエン湾中央部に上陸を開始する。
一月十日の朝、浩は、貨物廠のトラックに乗ってカバナツアン北方の滝上大隊の本部に糧秣を運送に行ったのだが、米類の積み下しを終えて、滝上大隊の兵隊の飼っている犬をからかっていると、突然地鳴りに似た音が、大地の下から湧きあがるのを聞いた。
地鳴りの音は大きな滑車が頭上を転がってゆく感じになり、いくつかの大鳥に似た影が立て続けに陽をさえぎった。
浩はやっと超低空で侵入してきた米軍艦載機の編隊と気づいた。
間近なために、滑車が転がってゆくように感じられる爆音は、いつ果てるともなく続き、浩は鼻を大地に突っこみ、顔をあげることができない。あまりに超低空で飛来してくるので、艦載機の尾輪に頭をこすられそうな恐怖感を覚える。腕のなかの犬が異常を感じとるのか、ひくひくと躰を震わせていた。
爆発音が響き、伏せている大地が揺れ始め、抱き締めた犬と一緒に躰が、ぶわっと浮きあがる感じに捉われた。
「カバナツアンがやられているな」
傍に伏せた兵士がこちらを見て叫んだ。
急降下爆撃が始まったらしく、金属音が彼方の空を引き裂き始めた。
抱きかかえた犬が、急降下する爆音におびえるのか、尾をながくひく、悲鳴のような鳴き声を腕のなかであげ始めた。
空襲らしい空襲を体験していなかったから、初めて味わう恐怖感が犬の鳴き声とともに浩の躰の芯を悪寒のようにせりあがってきた。
昼過ぎ空襲の途絶えたところで、滝上大隊長が軍医、衛生兵を中心に救援隊を組織、自ら指揮して、カバナツアンに向った。浩と貨物廠の兵士も、救援隊の一部をのせて、フルスピードでカバナツアンを目指した。
カバナツアンに向う路上には、国道五号線北上中に爆撃に会った兵士が助けをもとめて、のたうちまわっており、あちこちに死体が散乱している。
カバナツアンには、現在は廃駅になっている鉄道の駅があり、その傍に貨物廠の出張所があったのだが、駅も出張所も完全に破壊され、あちこちに爆撃の跡のすり鉢型の穴が口を開けている。
貨物廠に残っていた筈の兵士たちは、影もかたちも見えない。カバナツアンの街もみるも無残な惨状を呈していた。
道路わきの溝には、避難して被害に会った住民が、折り重なってうめいている。
カバナツアン市では、憲兵隊の努力もあり、軍と住民の関係がうまく行っていたので、少からぬ数の住民が、まだ市内に止っており、爆撃の被害に会ったのである。
負傷者が横たわり、瓦礫《がれき》の散乱するなかを、浩は憲兵分隊の詰所に走った。
──馬場大尉は大丈夫か。生きているのか。
市場の一部にも爆弾が落ち、一部から火が出て、白煙をあげており、見通しがきかない。
白煙が風にあおられてうすらぐと、憲兵分隊詰所の前に数人の長靴姿の兵士が見えた。
鉄帽をかぶった兵士たちのなかには、ひときわ背の高い馬場大尉の後ろ姿もあり、浩はほっとしたが、憲兵たちはいずれも上空の一点をみつめている。
「馬場さん、無事でよかったですね」
大尉は、強張った顔に笑いをうかべ、
「浩は、田舎へ行っていて、よかったよ。おれたちは、ディアスの親父さんにいわれて、教会の地下室に逃げこんでなんとか助かったが、いや、手荒い空襲だった」
そういってから、また空をみあげ、
「サイコのやつは、可哀相なことをしちまった。あんなに疎開しろといったのに、おれの話を聞かないんだものなあ」
心ここにない様子で、大尉はいう。
浩は、眼を凝らして、憲兵たちが見あげている空中を眺めた。
僅かな黒い髪の毛が電線にからみ、その下で前半分をすっぽり切りとられた男の顔の部分が、まるでお面をぶら下げたように揺れていた。注意深く眺めると、それはこの間、会ったばかりのサイコの顔であった。
「よし、すぐに救援活動を開始しよう。ここの住民はわれわれを信頼して被害に会ったんだ。兵隊も住民も差別せずに救助しろ」
馬場大尉は、血走った眼でそう命じた。
10
リンガエン湾に上陸してきた米第六軍の正面には、盟兵団が対峙しており、果敢な抵抗を試みるが、制空権を奪われ、火力、機動力が絶対的に劣る条件のもとでは、顕著な効果を挙げ得ず、たちまち突破されて、米第六軍は、ルソン島内陸部に向けて進攻を開始する。
前述のごとく第十四方面軍司令官、山下奉文の「ルソン決戦」構想は、食糧豊富なカガヤン渓谷を背後に持つ北部山岳地帯、クラーク周辺の中西部山岳地帯、マニラ東方山岳地帯の「三大拠点」を要塞化して、持久戦を行い、米軍に消耗を強いることにあったから、中部平原地帯に於ては、組織的な会戦を発動しない。
これが大本営のみならず、東條首相の後任、小磯首相までも激怒させることになる。
この三大拠点構想、特に北部山岳地帯に軍主力を配置して持久戦を行うことになって、北部山岳地帯の登山口にあたる、サンホセの存在が俄かにクローズ・アップされてきた。サンホセはカバナツアンの北方四十キロ、国道五号線の沿線に位置する街である。
もし米軍がこの登山口のサンホセを制圧、五号線に沿って北部山中に迅速《じんそく》に進攻してくれば、北部山中に拠る持久戦計画は、交戦準備の整わないうちに崩壊してしまうことになる。
おまけに北部山岳地帯での持久戦に備えて、登山口サンホセには、マニラから北送されてきた軍需品、兵站物資が集積されており、これら軍需品や糧秣を山中に搬送するまで、なんとしてもサンホセを専守防衛する必要があった。
また北部山岳地帯持久戦に加わるべく、勤兵団が北上中で、もしサンホセを占領されれば、勤兵団は目的地を失うことになってしまう。
このサンホセ防衛戦のため、カバナツアン周辺に駐屯する諸部隊が動員されて出動、サンホセ、リンガエン間のムニョス、ウミンガンを中心として、激戦を展開する。
俘虜の制裁をめぐって、馬場大尉に食ってかかった若手将校たちの所属する撃兵団の戦車第二師団も、サンマヌエルにおいて、米第二十五師団と玉砕を賭して、対決した。
第二師団、第七聯隊の中戦車、軽戦車三十三輛は、これに先立つピナロナンの対戦で、日本製戦車の性能の劣悪ぶりをおもい知らされたので、サンマヌエルの町のなかに作られた、七十五カ所の石の堡塁に戦車を入れ、トーチカとして戦車を活用する作戦を取らざるを得なくなった。
米軍のM4型シャーマン戦車の装甲は七十五ミリの厚さを持ち、第七聯隊の一式戦車および九七式改造型戦車の四七ミリ砲、五七ミリ砲では、七十メートルの至近距離に到達しないと、貫通できないのに対し、日本陸軍の戦車の装甲は最厚部で五十ミリ、M4型の七五ミリ砲弾はおろか、米軍歩兵の自動小銃弾を防ぐのがせいぜいであった。
一月十七日以降、戦車第七聯隊は連日奮戦を続けるが、優勢な米戦車群と、急降下爆撃により戦力を消耗、一月二十八日午前一時、砲塔にまたがって指揮をとる重見少将とともに残存戦車十三輛をもって、出撃、壊滅する。
これより先き、一月十日のカバナツアン大空襲前の一月七日、マニラ残留の諸部隊、比島憲兵隊司令部、およびルソン憲兵隊本部や野戦貨物廠一〇六八二部隊は、いっせいにマニラを離れ、北部山岳地帯に向った。
大空襲翌日の十一日夜、野戦貨物廠は、暗闇のなかをカバナツアン郊外に到達したが、「敵戦車隊、サンホセに迫る」の情報を受けたため、カバナツアン分隊とは接触せず、そのまま北上してしまう。
一方、カバナツアン憲兵分隊の所属するルソン憲兵隊本部のほうは、米軍ルソン島上陸とともに憲兵部隊から戦闘部隊に編成替えを行い、「警戦第三大隊」として、乗用車二台、トラック五台を連ねて出発、大空襲翌日、山間部を迂回して、空襲で破壊されたカバナツアン市内に入った。
夜間のため、カバナツアン北方の河畔に野宿、翌朝、兵をだして、カバナツアン憲兵分隊と接触、馬場大尉を招いて、北部転進の命令を伝えた。
「カバナツアン憲兵分隊は、本日付けをもって解隊、警戦第三大隊第三中隊に編成替えを行う。馬場大尉は第三中隊長として、指揮にあたり、同隊は爾後戦闘部隊として行動すべし」
馬場大尉は、この命令を受けて、詰所に帰ってきて、全員に伝えた。
「戦闘部隊になれば尚さらのことだが、この国道五号線、マニラからサンホセに至る道路を警護するのは、極めて重要な任務になる。小官としては、当座の間地理に明るいカバナツアン周辺と、国道五号線の治安維持にあたり、勤兵団全部隊の北上通過を見とどけたのち、本隊を追及致したい、そう具申をしておいた。憲兵隊司令部、いや警戦隊司令部からも、裁可いただいたので、この方針でゆきたい。よろしく頼む」
大尉はそういった。
──これで、おれは馬場大尉といっしょに死ねる。
隊列の一番端に整列しながら、浩は嬉しさをおさえきれなかった。
野戦貨物廠カバナツアン分隊は、先日の大空襲で壊滅、浩は生き残りの兵士数名と一緒に憲兵分隊に身柄を引き取って貰っていた。
しかし連日の空襲のなかで、浩は、さすがに神経が昂って、父親、母親、ふたりの弟の顔を夢に見るようになった。
カバナツアン周辺の諸部隊、戦車第二師団、滝上大隊等は奮戦し、戦車百八十輛、戦死者二千数百名を代償として兵站道路たる五号国道の確保に成功した。そのおかげで、南ルソン、ラグナ湖地区から北上してきた勤兵団五個大隊は、十八日から二十五日にかけて、カバナツアンを通過していった。
空襲とともにゲリラの|跳 梁《ちようりよう》が激しく、カバナツアン市内でも銃撃戦が起る始末であった。不知火のように煙草の火を光らせて、夜陰にひそんでいた彼らは、今や白昼平然と出現し、正面から日本軍に挑んでくる。
勤兵団の先発隊、二宮大隊は十八日、市内で激しい戦闘を演じ、浩は、警戦第三中隊と名を変えたカバナツアン憲兵分隊の兵士とともに、終夜|塹壕《ざんごう》にひそむ始末であった。
一月三十日の深夜、浩が辛うじて空襲から残った憲兵隊宿舎で、衣類を着たまま寝ていると、突然階下が騒がしくなった。
馬場大尉がすぐにはね起きて、蝋燭を手に階下へ跳び降りて行った。浩もあとを追って降りていくと、青果商の親父のディアスなど、五、六人のフィリッピン人が、|しょいこ《ヽヽヽヽ》に荷物を担いで宿舎に入ってきて、荷物を降しているところであった。
「食べ物を少し持ってきたよ。ロージィがゆけゆけって、うるさくてね」
ディアスは額から汗を流している。
大空襲の直後、カバナツアンの市民は、大半が疎開し、ディアスも妻子のあとを追って東海岸のバレルに去ったのだが、食糧に不自由しているだろうとわざわざ、野菜や豚肉を担いでやってきてくれたのであった。
「ありがとう、ありがとう」と憲兵隊一同お礼を繰り返し、ディアスの持ちこんだバシ酒を中に時ならぬ深夜の酒宴になった。
浩も眠気を忘れて、ロージィ心尽しの餅菓子、バナナの葉に包んだ白いういろうに似た菓子などをむさぼり食ったものであった。
「キャプテン・ババ、どうしてこんな危ないところにいつまでもいるんだ。アメリカ軍は、もう二、三日でここに攻めてくるよ。私ゃ、知り合いから、あんたがまだここにいると聞いてね、こりゃ、疎開を勧めなきゃいかん、とおもって、無理してやってきたんだよ」
「いや、おれもね、あと二、三日でここを出て北の山のなかへ入るよ」
と馬場大尉は弁解するようにいった。
その夜は、北上する勤兵団の|殿 《しんがり》を勤める落合工兵聯隊が兵站輸送部隊としてカバナツアンに仮泊しており、翌々日の二月一日には、大藪大隊がこのカバナツアン防衛のために到着する筈であった。大藪大隊は勤兵団に所属、既にサンホセまで北上していたが、大打撃を蒙った滝上大隊の後任のかたちで、サンホセ警備を命じられ、反転してカバナツアンに引き返しつつあった。
しかし日本軍はもちろん、情報通の筈のディアスまでが、事態を楽観し過ぎていたのであった。
翌一月三十一日早朝、浩は、中隊長になった馬場大尉に命ぜられ、警戦第三中隊所属になった憲兵たちと、カバナツアン郊外へ斥候《せつこう》に出た。
カバナツアン東側の、パンパンガ川河畔の土手に登ろうとして、一行は、時ならぬ轟音を聞いて息を呑んだ。
土手の木陰から窺《うかが》ってみると、信じ難いことにパンパンガ川にかかっている、空襲を免れた鉄橋のうえを、数十台の米軍戦車がこちらへ進んでくるところであった。
戦車は、撃兵団の戦車第六、第七聯隊を完全に粉砕したM4型シャーマン戦車の大群で、日本陸軍の一式戦車や九七式改造型戦車を見慣れた眼には、その車体は恐ろしく巨大に見えた。特にその長大な七五ミリ砲が、浩を畏怖させた。
この戦車群は、マッジ少将を師団長とする、米第六軍、第一騎兵師団の戦車軍で、前日、浩の父親の故郷であるギンバに集結、一月三十日付の第六軍の「マニラ突進命令」を受けて、進撃を開始したものであった。第一騎兵師団という古典的名称はもちろん、今日では戦車群を中心とする機甲師団を意味する。
斥候はただちに市内に駆け戻って馬場大尉に米軍のカバナツアン進入を報告した。
馬場大尉は、
「へえ、お早いご到着じゃないか」
平静を装った口をきいたが、顔面が、緊張にたちまち青ざめて行った。
二月一日現在、カバナツアンには、落合工兵聯隊と、これを掩護《えんご》する歩兵一個中隊が残留しているだけで、カバナツアン地区防衛を肩代りする大藪大隊は、まだ到着していない。
第一騎兵師団の強大な戦車群に対抗するとして、警戦第三中隊を加えても、実質的には二箇中隊の歩兵しか手もとにない。兵站物資の輸送にあたってきた勤兵団最後尾の落合工兵聯隊は、橋梁爆破、戦車攻撃用の多量の爆薬を積載したトラックを保有しているものの、工兵隊だから、火器はほとんど保有していない。工兵聯隊本部に残っている兵力もごく僅かであった。
おまけに困ったことに、この町にはまだ多数の、男子を中心とするフィリッピン人が残留している。むろん前夜、食糧を運んできてくれたディアスも、そのなかに含まれるので、市街戦となれば、この住民たちも当然、まきこまれて、流血の大惨事となる。
この土地に長い馬場大尉は、落合聯隊長、および警備の中隊長と協議し、市東側の、広場に面した小学校内に布陣、フィリッピン人は教会周辺、特に地下室に避難させることにした。
「親父さん、米《べい》さんがきたら、あんた、教会の鐘をつきまくれ。米さんも、教会にフィリッピン人がいると知ったら、砲撃はせんだろうよ」
馬場大尉は、ディアスを呼んでそういった。
「どうかねえ、そううまく運ぶかねえ」
ディアスは首をかしげた。
「とにかく夜になるのを待って、脱出しよう」
と大尉はいった。
しかし広場に面した小学校に兵を移した途端に国道五号線北側、サンホセの方向ですさまじい砲撃音が聞えた。一同大地に伏せたが、不思議に弾丸は飛んでこない。
まもなくディアスのところから伝令のフィリッピン人がやってきて、
「教会の鐘楼から眺めると国道五号線のあたりで、米軍と日本軍が撃ち合いをやっているそうですよ」
と知らせた。
「大藪大隊がきたんだ。こりゃ助かったな」
馬場大尉は、やや安堵のいろを見せた。
彼方でシャーマンの七五ミリ砲の砲声が、内臓を震わせる感じで響き渡り、大藪大隊と米軍の激戦が続いたが、こちらの小学校には、米軍艦載機グラマンF6Fや、占領したレイテ島から発進した陸上戦闘機P38、P51が次々と飛来、浩たちに向って激しい機銃掃射を浴びせてくる。機銃掃射音の交差するなかで、ディアスの乱打する教会の鐘の音が響き、カバナツアン市は騒然たることになった。
空襲が小休止したとき、今度は南側マニラ寄りの国道五号線上で、砲撃戦が始まった。これはあっという間に終りを告げ、トラックなど車輛の炎上する黒煙が数条立ちのぼり、風に流されて、浩たちの頭上にかぶさってきた。
あとでわかったことだが、これはすでに壊滅した撃兵団の第二戦車師団の輜重隊《しちようたい》で、本隊である戦車師団の全滅も、カバナツアンへの米軍の侵入も知らずに進んできて、集中砲火を浴び、文字どおり粉砕されたのであった。
「いかんぞ、北にも南にも戦車がいる、ということは、この街は完全に包囲されてしまったということだな」
馬場大尉は鉄帽の下で、唇を噛んだ。
市北側の大藪大隊と米軍の交戦は一日夜半まで続き、砲声、銃声が響いたが、それも次第に散発的になり、一日早朝には、すっかり止んだ。
まもなく、市のあちこちで、M4型シャーマン戦車のからからというキャタピラの音が明るい陽光のなかに、響き始めた。明らかに装備弱体の大藪大隊は、敗退したのである。
事実、この戦闘で大藪大隊は壊滅的打撃を受け、特に岩城中隊は、ほとんど全滅の憂き目に会った。
午前十時、以前、兵站病院に当てられていた学校の裏庭に、馬場大尉は将校を集めた。
「今朝、斥候をだしたところでは、カバナツアン市は完全に米軍の包囲下にあります。私としては、長年月奉職致しました当地におきまして、徹底抗戦し、玉砕するのもまた本望と考えますが、現在、ここにいる部隊は当地守備の命令は受けておりません。北部山岳地帯への撤退、本隊追及を命じられております。なによりも当地死守の場合、当地に残留する無辜の現地住民を巻き添えにすることになります。長年月、当地に駐屯し、住民に世話になった私としては、これは情において、しのび得ません」
将校のなかには、落合工兵聯隊長のような上官、警備中隊長のような同輩もいるので、馬場大尉の言葉遣いは丁寧であった。
「そこで私に一計があります。我が方は、火器類まことに貧弱、皆無に近い状態でありますが、工兵聯隊保有のトラックには多量の黄色薬および迫撃砲弾、大隊砲弾等々の弾薬類が満載されております。いや、重砲弾まである。もしこのトラックが爆発すれば、大閃光、大爆発音を発すること、必至であります」
皆、なにをいいだすのか、と馬場大尉の口もとをみつめた。
「本日夜半を期しまして、警戦第三中隊は私以下、このトラック三台を操縦して、北側の戦車群に突入致します。その隙に落合工兵聯隊は比島人を誘導して、比較的手うすな東側のボンガボンからリサール方面に脱出していただきたい」
馬場大尉の口調には、有無をいわせぬ強引なところがあった。
しんと静まると、相変らず、市内の遠くで、キャタピラの響く音が聞えた。
「馬場大尉、それは無謀ではないか。いち早く敵に発見されて、トラックは目的を達する前に爆発するぞ」
落合聯隊長が反駁《はんばく》した。
「いや、この土地の地理は、よくわかっておりますよ。広場の北側を迂回して、敵の眼前に出ます。あとはほぼ直線道路ですから、車を敵陣に向けて、アクセルをいっぱいに踏んで突っこませる。私らはトラックから跳び降りて、隊長殿のあとを追及致します。トラックはエンジン・ブレーキがきくまで走るから、うまくゆけば、戦車の一台や二台は道連れにできましょう」
馬場大尉は、落ち着いたものであった。
結局、トラック三台のうち、一台が故障で動かず、二台のみが馬場大尉立案の陽動作戦に使用されることになった。先頭のトラックに馬場大尉と運転手一名、後方の車には副官格の憲兵准尉と運転手が一名乗り込むことになった。
一方、大勢のフィリッピン人住民がカバナツアンを脱出すべく、学校に集まってきた。
午後十時、馬場大尉は、警戦第三大隊第三中隊と名前を変えた、もとカバナツアン憲兵分隊の全員、三十名を召集した。
「ディアスの親父さんは、一身の危険を顧みずに食糧をわれわれに運んでくれた。おまえたちは、親父さんの一行、それからカバナツアン住民をできるだけ安全な地点まで、誘導してくれ。誘導終了後は、独自に北部山中アリタオに向けて、行軍する。警戦第三大隊の本部はアリタオに置かれている筈だ。おれが追及後は、また指揮を取るが、それまでは落合工兵聯隊の指揮下に入れ」
警戦隊の兵士たちは次々に「自分もお伴させてください」と叫び、浩も泣きながら「ゆかせてください」と叫び続けた。
馬場大尉は取り合わず、
「皆、長年月、誠心誠意働いてくれて、深く感謝している。それからな、万が一、おれが追及できないときは、浩の面倒をみてやってくれ。おれと浩は、第一野戦憲兵隊がリンガエンに上陸して以来の仲なんだ」
浩は、涙が流れて止らなかった。
解散になったところで、浩は馬場大尉のもとにゆき、カバナツアン動員以来、肌身離さずつけていた、汗くさい、紫の袋入りのお守りを大尉に差しだした。カバナツアンに動員されて出発する際、母親がマニラの本願寺から貰ってきたお守りであった。
「浩、めそめそするな。おれは犬死はせんよ。北部山中に立てこもって、百年戦争をやろう。百年戦争をやって、勝って日本に帰ったら、おれの田舎の岡崎にゆこう。岡崎は緑の小山が、町のあちこちにあって、すばらしいところだぞ。百年経ったら『少年倶楽部』も読み切れないほどたまっているよ」
ディアスの親父さんは口がきけず、馬場大尉に抱きついて、文字どおり号泣した。
馬場大尉は照れ笑いをし、ディアスの背中を叩き、しがみついて離れない親父さんの腕をやっとのことで振りほどき、トラックに乗りこんだ。
馬場大尉のトラックが出発して十分と経たず、北側からトラック目がけて、猛烈な砲撃、銃撃が始まった。
数分置いて、夜空が、白熱して、砕け散るような閃光がカバナツアンの街を走った。同時に恐ろしい爆風が街を吹き抜けた。
「今だ、走れ」
兵隊を先頭にディアスを初めフィリッピン人の大集団は、闇のなかを走りだした。兵隊、フィリッピン人住民、入り乱れた一団は、街の十字路を東に抜け、小川に跳びこんで、ボンガボンの方向に走った。
閃光とともに米軍の銃声、砲声はぴたりと止んでいる。そこへ二台目のトラックの爆発音が、空を再び白く染めあげた。
「馬場さあん、馬場さあん」
浩は、泣きながら、小川の川床をよろめき歩いた。
いったい、あんな量の爆薬を積んだ車から、うまく跳び降りて、安全な地点まで逃げおおせるものだろうか。たとえトラックからうまく跳び降りたとしても、網の目のような米軍の十字砲火を逃れられるとはおもえなかった。
「浩、声をだすな。敵に悟られるぞ」
隣りの兵士が、やはり涙声でそういった。
まもなく鴻田貿易マニラ事務所の支店昇格が正式に決定した。支店といっても、いわゆるB級支店というやつで、アメリカ法人、ヨーロッパ法人、オーストラリア法人などAランクに位置される支店群より格の低い、駐在員事務所に毛のはえたような支店である。
ほぼときをおなじくして、本社木材部課長補佐の鶴井のビザがおり、支店次長としてマニラに着任した。
着任した鶴井は、マガリアネスの独身寮に落ち着いたが、寮に入るなり、居間に置いてあるビリヤードに眼をつけて、
「なんだ、これは。ビリヤードなんぞやってる閑があったら、商売探しに田舎にでも出かけたらどうなんだ」
と早速憎まれ口を叩いた。
鶴井は、一階のマスター・ベッド・ルームを占領し、ほかの部屋をいろいろ点検するように見てまわった。
冷蔵庫を開けて、なかが整理されていないとポシンに文句をいい、台所に蝿がとんでいる、と叱った。
着任後初の月曜会議では、いきなり、
「私の立場は、いってみれば押しかけ女房であります。しかし押しかけ女房には押しかけ女房の意地もあるわけで、今後は、少々キナ臭い商売にも率先、手をだして、職務である、新規シッパーの開拓に努力したい、とおもっております」
と気負った挨拶をした。
[#地付き](下巻につづく)
〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年二月二十五日刊