深田祐介
暗闇商人(下)
下巻 目 次
五 強制収容所U
六 黄色い渦へ
七 沸 騰 都 市
八 翻 訳 作 戦
九 暗 闇 戦 争
十 疑  惑
十一最 終 目 標
エピローグ
[#改ページ]
五 強制収容所U
11
三月中旬、佐久間賢一と安原龍彦は、大量の土産物を莫大なエクセス・チャージを払って新潟からハバロフスクまで運び、ハバロフスクで、北朝鮮国家保衛部の出先機関の出迎えを受けた。
国家保衛部の手配で、汽車に乗り、ウラジオストックに出て、そのままリベリア船籍の貨客船、サマンサ号に乗りこんだ。
ふたりは狭い相部屋に押しこまれ、翌朝船は興南《フンナム》に向け、出港した。
船中二泊の旅だったが、春先の日本海は時化《しけ》模様で、船は激しく揺れる。特に最初の一日は「木の葉のように」と形容したくなるほど揺れて、賢一は船酔いでベッドに横になったきり、ベッドの鉄棒にしがみついて、なにも考えられないような状態であった。
龍彦のほうは学生時代にヨットによく乗っていたのだそうで、ここでも弟の伸彦が持ち合わせていないタフさを見せた。一向に船酔いの気配も見せず、手すりに掴まって船中を動きまわり、中南米系の船員たちと談笑している。親切な男で、食事どきになると、食べやすいサンドイッチやスパゲッティを料理させ、コーラの瓶と一緒に部屋まで運んできてくれる。
賢一は食事どころの気分ではないが、龍彦は、ベッドの手すりに掴まりながら、「揺れているときは、ラッパ呑みに限りますよ」と、ビールをラッパ呑みしてみせたりする。
三日目になると、船が揺れなくなり、賢一も、やっと食事に手が出るようになった。
昼食後、龍彦が船室に入ってきて、相変らずごろごろしている賢一に向い、
「そろそろ興南に入ります」
と教えた。
外套《がいとう》を着て、甲板に出てみると、雪が曇天の高みから白い粉を撒《ま》き散らすように落ちている。粉雪は海一面に踊るように降り、船を包みこむように舞っていた。
海岸に迫った北朝鮮の低い山なみにも雪が白く積っていた。
山には「偉大なる首領様、|金 日成《キム・イルソン》主席の七十三歳のお誕生日を謹んでお祝い申しあげます」というハングル文字の横断幕が立っていて、風にはためいている。
白雪の山の切れた彼方に興南らしい港が見えた。興南港は清津《チヨンジン》に次ぐ、北朝鮮の東海岸第二の港で、防波堤の向うには、埠頭《ふとう》がいくつも並んでいる。船はタグ・ボートに導かれてゆっくり港に入り、奥の埠頭に向って行った。
「数えてみると埠頭は七つありますが、なんだか淋しい港ですね」
手すりにもたれた龍彦が呟《つぶや》いた。
雪の降る港には、埠頭が並んでいるものの、三、四隻の貨物船、それも古い赤さびた船体の船が停まっているきりで、なんともうらぶれた風情であった。鴎《かもめ》も飢えているのか、激しく鳴きながら、船の甲板すれすれに群がってくる。
埠頭が近づいてくるにつれ、埠頭の真ん中に例によって金日成の大肖像画が立てられているのが見えた。その前にベンツが一台とソ連製の乗用車が数台停まっている。
まわりに軍服、人民服に外套を着こんだ男たちが十数名、寒そうに肩をすくめ、ポケットに手を入れて接岸する船をじっと仰いで立っていた。どうやらふたりを出迎えにきている国家保衛部の連中らしい。
「私も北の共和国へは、三度目だが、今度はさすがに恐ろしいな。恐ろしくて海に飛びこみたいくらいだよ」
賢一は寒気といい知れぬ恐怖に胴震いしながらいった。
「昔、この国へ帰国するのを嫌がって海へ飛びこんだ中学生がいたよ。それがなんと朝鮮総聯の委員長、|韓 徳銖《ハン・ドクス》の息子でな、委員長がその中学生の息子を北送しようとしたんだが、息子は北へ帰るのを嫌がって、新潟港の帰国船の上から海のなかへ飛びこんだんだ。それを救いあげてさ、無理矢理、押しこんで、北送したんだよ」
おれの弟も、つまり浩美の義理の父親も決して大喜びで帰ったわけではなかった、と賢一はおもった。
「兄さん、おれは正直いって、希望が半分、不安が半分だ。手紙にさ、天気がいい≠ニ書いたら、万事理想的という意味だよ。花が楽しみ≠ニ書いたら、子どもの顔が見たい、こちらへ送ってくれ、そういうサインをきめておこうや」
そういって北に帰って行ったのだが、手紙の文句は「毎日、曇りです」から「毎日、不順な天候気候に苦しんでいます」に変り、「花を見る楽しみは今のところ期待できません」と断言するに至った。そして一年後、公開銃殺されてしまったのである。
「社長はいろいろご心配でしょうが」
髪の毛に粉雪を散らしながら、龍彦がいった。
「私が平壌で会った感じでは、商売最優先、なりふりかまわずゆこう、というのが先方のムードでしてね、私は楽観しておりますがね」
船が埠頭に接岸し、古めかしいタラップがつけられると、人民服の一隊が上ってきた。
「龍彦君、私は朝鮮語はできない、ということで通すからね」
賢一は囁《ささや》いた。
「佐久間先生と安原先生ですね。興南へよくいらっしゃいました。私たちは咸鏡南道《ハムギヨンナムド》の国家保衛部の者です」
人民服の、黒縁の眼鏡の男が比較的上手い日本語でいった。
通訳らしいが、眼鏡の縁の片方が取れたままになっていて、江戸時代の眼鏡のように糸で耳にひっかけている。
「こちらが咸鏡南道、国家保衛部長の張《チヤン》先生です」
やはり人民服を着た、中国の※[#「登+おおざと」]小平に似た小男が出てきて、にこやかに手を差しだした。
道の保衛部長が迎えにくるとはたいした話ではないか、と賢一はおもいながら、※[#「登+おおざと」]小平もどきの男の手を握った。※[#「登+おおざと」]小平もどきは、くしゃくしゃと小さい顔には不釣り合いなおおきな手をしている。
「この度は、われわれの生産する木材を買っていただけるそうで、大変光栄です」
軍服を着た男たちが次々と手を差しだし、賢一、龍彦と握手をする。
タラップを降りると、こわれた眼鏡の男が、
「どうぞ、偉大なる首領様の肖像にご挨拶ください」
という。
止むなく埠頭の真ん中に置かれた金日成の肖像画に向い、賢一は最敬礼をし、龍彦もそれにならった。
ふたりの荷物がおろされ、箇数を確認したのだが、ダンボール十箱の荷物に驚いて、皆、息を詰めるようにして眺めている。
埠頭のベンツに乗って走りだしたのだが、興南に接する街が咸興《ハムフン》市で、咸興市には興南港出入りの外国人船員用という大型のホテルもあり、中心部には中層のビルが並んでいる。咸興をはずれると、突然こわれ眼鏡の通訳が、
「外国人は通常、入れない地域ですから、カーテンを閉めます。暫くご辛抱ください」
そういって三方の窓、それに運転席との間に黒いカーテンを張りめぐらせた。狭い暗室に閉じこめられた感じである。
ずいぶんと長いことドライブをしてベンツはやっと止った。ばたばたと足音がして、鉄門を開くらしい重い金属音がした。
賢一と龍彦が降り立ったのは、割に新しい感じの街である。
四方を屏風《びようぶ》のような雪山に囲まれた、奥の深い盆地の入口にある街で、役所らしい建物、学校らしい建物がいくつかならんでおり、その一角の招待所にふたりは案内された。むろん浜松楽器の浜松の寮よりは水準が落ちるけれども、ちゃんと風呂場のついた部屋をひとつずつ与えられた。
夕食は役所の食堂のようなところで、※[#「登+おおざと」]小平もどきの国家保衛部の咸鏡南道部長、張の接待で、朝日《ちようにち》折衷の食事をご馳走になった。こちらはふたりだが、保衛部からは、十人以上もの連中が陪席をしていた。
※[#「登+おおざと」]小平もどきは、
「わが朝鮮民主主義人民共和国は日帝時代より、木材資源の豊かなことで有名であります。特にこの一帯は軍事機密上の観点から、原生林がそのまま保存せられており、良質の木材を沢山生産しております。おふたりの使節団が沢山買いつけをされて、わが共和国の国家財政におおいに貢献されることを、偉大なる首領様も、親愛なる指導者同志も深く期待されております」
そういって乾杯した。
賢一も簡単な答礼の挨拶をして、あとは乾杯の応酬になったが、奇妙だったのは、宴会なかばに※[#「登+おおざと」]小平もどきが、突然、
[#1字下げ]※[#歌記号]朝鮮と支那と境の あの鴨緑江 流す筏《いかだ》は アリャ よけれども
と歌いだし、傍の数人が「ヨイショ」と合の手を入れたことであった。
「社長、こりゃ何事ですか」
龍彦が訊く。
「鴨緑江節だろ。戦前の歌だが、あの部長の親父さんでも歌ってたんじゃないか」
[#1字下げ]※[#歌記号]雪や氷に ヤッコラ とざされてヨ 明日はマタ 安東県に着きかねる
※[#「登+おおざと」]小平もどきは歌い終え、賢一と龍彦は拍手をした。拍手を受けた「※[#「登+おおざと」]小平」は、得意満面、両目と鼻がくしゃくしゃと集まった顔をだらしなくくずして笑いが止まらない。
宿舎に戻ると、こわれ眼鏡の通訳がついてきて、
「その箱は片づけなくていいのですか」
賢一の部屋に積んだダンボールを指差した。
取り敢えず部長の張、その次にえらいというここの学校の校長の家にテレビ受像機を運ばせた。
「ここは保衛部の学校の街ですから、校長はえらいのです」
通訳はいうのであった。
夜半、賢一は立て続けの銃声を聞いて眼を覚ました。
盆地だから銃声は周囲の山に反響してすさまじい音を立てる。銃声に続いて、大きな喚声が聞える。なにを叫んでいるのかは、遠くて聞きとれない。
――公開銃殺が行なわれているのではないか。
賢一は慄然《りつぜん》とした。
ここは学校の街だというが、北朝鮮であることに変りはない。北朝鮮であれば公開銃殺は日常茶飯事といっていい。ここの銃殺刑では、処刑者に金日成親子や政府を罵倒させないために、口にボロ布を噛ませ、処刑者の両親をはじめ、肉親たち、友人、同僚は出席を強制され、処刑の瞬間に息子や兄弟の処刑の正しさを讃えて喚声をあげ、金日成・金正日万歳を叫ばせられる、と聞いている。
また銃声が谷間に反響し、一層の大喚声が起った。
弟夫婦もああして殺されたのか、とおもい、賢一はまんじりともせずに一夜を過ごした。
翌朝、午前五時半に鐘が鳴り、まもなくこわれ眼鏡がやってきて、起され、「これからすぐに材木を見てください」という。
賢一と龍彦は朝食も摂らずに表に出た。下には、前夜、食事に陪席した連中が待っていて、盆地の奥のほうに案内する。
この街は細長い盆地の入口にあるのだが、奥がよほど深いらしい。
盆地の奥は道がふたつにわかれ、軍服の連中は左手へ歩いてゆく。
山に囲まれた盆地の真ん中を川が流れている。木造の橋を渡ると、ふいに視野が開けた。河原が広場になっていて、中央に白樺に似た大木がある。その木陰に雪が一面に残っており、その雪が泥にまみれていたが、明らかに雪の上には、血の跡とおもわれる赤黒い、しみがいくつか見て取れた。
――昨夜、公開銃殺のあったのは、この広場ではないか。
賢一はいやな予感に捉《とら》われた。
広場の一隅に伐採してきた木材が雑然と数十本積んである。幹もまがっている木材が多く、枝を切っていないものもある。賢一が見ても明らかに商品価値が低い。
「これが保衛部の伐ってきた木材です。大変いいものだとおもいますが」
こわれ眼鏡の通訳がいった。
ひと目見て賢一は、「これは駄目だ」と落胆したのだが、龍彦のほうは木材の幹を仔細に眺め、しゃがみこんで、木材一本一本の切り口をのぞきこんでいる。木材は手作業で、それも斧《おの》かなにかで乱暴に伐り出されたらしく、切り口がぎざぎざで、年輪がよくわからない。
「ここにピアノ用の松材はないな。もう少し見本はありませんか」
龍彦がいい、こわれ眼鏡がそれを軍服姿の連中に通訳すると、軍服連中は困った顔になった。
「そりゃ駄目だ。奥に日本人《チヨツパリ》は連れてけんだろ。まさか囚人《チエースー》は見せるわけにゆかんよ」
昨日「校長」と紹介された、顔のひょろ長い、目のどろりと濁った男がいった。朝鮮語の分る賢一は素知らぬ顔を装いながら、しかし「囚人《チエースー》」という言葉にひっかかって、顔がひきつる感じになった。
「しかし平壌からは、今外貨が必要なんだ。なんとしてもあいつらに木材を買わせろ、それもできるだけ大量に商売しろ、といわれているんですよ」
ひとりが反論している。
「しかしなあ」
どろりと濁った目をこちらにちらりと向けて、「校長」は、
「そりゃまずいよ。木材をこっちに運んでこられんかな。それともあの日本人に目隠しでもさせるか」
そんなことをいっている。
皆、黙って下を向き、足もとの雪と泥の混ったぬかるみを軍靴で踏みならしたりしていた。
結局、伝令が※[#「登+おおざと」]小平もどきのところに走ったが、すぐに帰ってきて、濁り目に囁いた。
「部長の命令ときちゃ、仕様がないか。チョッパリを連れてゆこう」
濁り目の校長と軍服姿に従って、盆地の奥へ足を進めてゆくと、うす汚れた十数棟の建物が行く手に現れた。平屋で、無愛想な学校の校舎に似た建物だが、廃屋のように荒れ果てている。数少い窓に板ならまだしも、生木の枝が一面に張りつけてあった。
青い軍服に自動小銃をかかえた警備兵が建物の周囲を歩いていたが、その恰好が異様であった。防寒帽をかぶり、両目の部分だけが開いたマスクを着用している。武装が大袈裟で、腕にかかえたAK47の自動小銃のほかに、腰のベルトに手榴弾二個を吊し、短剣まで下げていた。
校舎めいた建物をひとつ越え、中庭のような場所に入ったとき、物凄い臭気が衝撃のように賢一の鼻孔を打った。腐った生ゴミの放つ臭いのようでもあり、豚小屋の悪臭のようでもある。
「臭いというのは凍らないんですね」
龍彦が賢一の緊張をゆるめるようにいった。
「この臭いに一番似ているのはなんですかね。何日も履き続けた靴下を百足、集めた臭いでしょうか」
龍彦のジョークに乗る余裕がなく、賢一は口もとをゆがめただけだった。
中庭に入った途端、悪臭の源が姿を現した。
どす黒く汚れた男の大群が、中庭の雪の上で、さかんに足踏みを繰り返し、躰《からだ》を揺すっている。男たちは躰を揺する度にばさばさと音を立てて、悪臭を撒き散らしているのであった。
男たちは、入所以来着ているのだろう、ボロボロの中山服《ちゆうざんふく》を着ている者もあり、半分くらいが中国襟に胸もとが二重になった、金日成自慢の化学繊維、ピナロン製の囚人服を着ている。どの服も垢《あか》で光り、肘や膝などつぎはぎだらけで、バンド代りに|つる草《ヽヽヽ》で、ズボンの腰を縛っていた。すさまじい寒気をしのげないらしく、皆、服の下によもぎだろうか、春菊に似た枯草を大量に押しこんでいる。西側諸国の浮浪者もおよばぬひどい恰好であった。
足もとを踏み、貧乏ゆすりを繰り返す度に服の下の枯草の葉がざわざわと音を立てるのであった。そして貧乏ゆすりと一緒に、猛烈な悪臭が凍るように冷たい空気を掻き立てるのである。
男たちの向うにやはり木材が積んであり、龍彦がそれをチェックし始めた。
賢一は動転して、龍彦のチェックを眺めるどころではなかった。それでも勇気を奮い起して、「囚人」の一群に向い合った。「囚人」たちは青黒く痩せて、髪は伸び、髭も伸び放題の者が多く、まさに今様「俊寛」の群である。
――ここは強制収容所《カンゼースーヨンソ》だ。
この盆地の村は明らかに北朝鮮に十二カ所あり、二十万人が収容されていると伝えられる、政治犯・思想犯の強制収容所のひとつであった。国家保衛部が販売したがっている木材とは服役中の囚人に強制労働をさせて伐り出す木材のことだったのだ。
そしてこの男たちのなかには、かつて帰国運動のオルグだった賢一の「美辞麗句」に踊らされ、北に戻った挙句、スパイ容疑で逮捕された、帰国同胞も何人か混っているに違いなかった。
――おれを罵《ののし》ってくれ。もしおれを恨んでいる人がいるのなら、おれは土下座して謝る。
賢一はおもいつめたが、しかし囚人たちは飢えと寒気のためだろう、無関心な光のない視線をこちらに泳がせるだけである。
「社長、弱りましたな」
龍彦が近寄ってきて囁いた。
「ここにもピアノ用の松材はありません。妥協点は家具用の材を買って帰ることですが、こんな曲ったり、枝が多過ぎたりする材木じゃ家具にも使えない」
龍彦はちょっと考えこんだが、
「私、連中と一緒に山に入ります。一緒にピアノ用のスプルース材を探してみます。ついでに木材の伐採のイロハを教えてきます」
といった。
12
平壌の中心、朝鮮労働党の建物が密集するなかに、二重の高い土塀をめぐらせた木蓮館「マグノリア・ハウス」がある。
平壌在住の外交官を招いての「音楽と舞踊の夕べ」はここで催された。
クラシック音楽のピアノ演奏とヴァイオリン演奏のあと、佐久間浩美とモレナがスペインからきた本場のダンサーと一緒にフラメンコを踊り、最後が日本から派遣されてきた在日同胞歌手による「金日成将軍の歌」で終る、という。古典も民謡も愛国歌謡も一緒くたの奇妙な一夜であったが、フラメンコは本場のダンサーに引っ張られて、うまく波に乗れた感じであった。
踊り終えて、舞台で頭を下げると、|金 正日《キム・ジヨンイル》が立ちあがって拍手している。その隣に梁善子《ヤン・よしこ》や東ドイツ大使館のカール・ワルターがやはり立ちあがって拍手しているのが眼に入った。
楽屋に引き揚げると、梁善子が拍手しながら入ってきた。その後ろにカール・ワルターもいて、これも拍手している。
「あなた、とっても舞踊のセンスがおありになるのね。親愛なる指導者同志もすっかり感心してらしたわよ」
善子はつるりとした顔で盛んに誉めた。
梁善子は北朝鮮の女性工作員で、浩美を北朝鮮に拉致《らち》した元凶に違いないのだから、今度梁の顔を見たら、恨みの|たけ《ヽヽ》をぶつけてやろう、と浩美は心にきめていた。ああもいってやろう、こうも罵ってやろう、とおもっていたのだが、善子の雛人形じみた、白壁のような顔を前にすると、もろくも気持がくじけてしまう。
「そろそろコンサートも終りよ。親愛なる指導者同志もお待ちかねですから、宴会場のほうへ参りましょう」
舞台からは在日同胞という、女性アルト歌手が歌う「金日成将軍の歌」が聞えてくる。
衝立《ついたて》の陰で、着替えを始めると、梁善子がそれとなく手伝ってくれる。善子の指が躰に触れると、女の妖怪に触れられるようで、電光のように震えが全身を走った。
宴会では、浩美はまた金正日の隣にすわらされた。
次々と内外の高官が挨拶にきて、その度に金正日は退屈そうな表情をかくしもせず、儀礼的な乾杯を繰り返すが、その隙を見ては、浩美の手を握ってくる。手を外したいのだが、外すのを許さないような強い力で握ってくる。
乾杯が一段落すると、梁善子が浩美の耳もとに、
「親愛なる指導者同志が、別室であなたとお話ししたいそうよ。私もカールも参りますしね、ご心配は要りませんわよ」
有無をいわさずに、浩美の腕をかかえ立ちあがらせた。カールとふたりで、かかえられるようにして宴会場を出た。
モレナが心配して、立ちあがり、だれかに制止されているのが、視野の端に入った。
迷路のような廊下を歩いて案内された小部屋でも、金正日はムーン・フェイスのような円顔を上機嫌にほころばせ、両手を振って喋りまくった。
「ヒロミさん、芸術と政治の類似点はなんだとおもいますか」
今度はカール・ワルターが英語で通訳を買って出た。
「|創る《クリエート》、ことでしょう。私がね、共和国の政治の上で何を創ったか、というと、偉大なる首領、金日成を中心とする政治体制を完成させた、ということじゃないか、とおもうんですよ」
そうではあるまい、恐怖国家という政治体制を作ったことだろう、と浩美はおもったが、頷《うなず》いていた。
ふと目をあげると、隣室のドアが開いており、真赤な掛ぶとんをかけたベッドがふたつ見えた。
「じゃ芸術と政治となにが違うか、といえば、芸術に命を賭けるというが、まあ、そんなにたいしたことじゃない。芸術家の場合はせいぜい、いい作品ができなくて自殺するだけの話で、殺されはしないんです。しかし、政治では殺される。トロツキーも殺されたし、毛沢東夫人の江青だって殺されたようなもんでしょう。当人もそうだが、ちょっと息を抜けば、家族も殺される。だから生きるか死ぬか、の人生を毎日、生きてゆかなくちゃならんのです」
これは恫喝《どうかつ》の言葉ではないか、と浩美はおもった。隣室のベッドの上に身を横たえねば殺されるぞ、と金正日はおどしているのではないか。
浩美は思わず目をつぶったのだが、突然、軍服の男がしゃちほこばって入ってきて、金正日にメモを手渡した。
金正日のムーン・フェイスにうっとうしそうな表情が横切り、両手を挙げて、朝鮮語で何ごとかわめいた。
「こんな話は聞いとらんぞ」といっているように、浩美には聞えた。
「ちょっと失礼します」
金が立ちあがって相変らずわめきながら、小部屋を出てゆく。いつの間にか梁善子も姿を消している。
そのまま、一時間近くが経った。
カール・ワルターが話しかけるが、隣室のベッドが気になってまったく耳に入らない。
ふいに菱形《ひしがた》の目をしたガードマンの孫《ソン》が、数人の男を連れて入ってきた。
「一緒にきてください」
朝鮮語でいい、浩美の腕を掴んでまたもや強引に立ちあがらせた。
「ワルターさん、助けてください」
カール・ワルターはすわったまま茫然と見守っている。
孫たちに囲まれて、浩美はマグノリア・ハウスの裏口から、ベンツに乗せられた。
いつも乗るのとは違う古い型のベンツである。
13
佐久間浩美を乗せたベンツは、五、六分も走って停まった。
ゲートがあり、護衛がいたが、その奥に日本でいえば、中流の上といった住宅がならんでいて、その奥の一軒に連れこまれた。ここも招待所らしく、女性の接待員がいたが、孫が接待員に何事かいいつけ、接待員は深緑色の軍服と軍帽を持ってきた。
「明日八時に、あんたは国家保衛部のオフィサーに任命される。七時半におれが迎えにくるから、それまでにこの軍服を着て、準備しておいて欲しい」
毎週、学習させられて、浩美の朝鮮語も日常の用は足せる程度にはなっていたが、浩美は聞き違いか、とおもった。しかしおなじ意味のことを孫は英語で繰り返した。
「それはどういう意味ですか」
浩美は驚いて訊《き》き返した。
「親愛なる指導者同志は、あんたのダンスの才能を評価された。そこであんたは国家保衛部附属のダンシング・チームのインストラクターに任命されることになった」
浩美の朝鮮語、孫の英語双方とも巧みでないから、はっきりしないが、要するに北朝鮮各地の国家保衛部を慰問、激励にまわる歌舞団のようなものがあり、浩美はそこの教官に任命されるらしい。
北朝鮮では、建設現場では、吹奏楽団がマーチを演奏し、その先頭で軍服姿の四、五人の女性が造花や赤旗を音楽に合わせて振りまわして踊ってみせる。北朝鮮型チア・リーダーというところだ。
「経済宣動隊」というらしいのだが、この宣動隊には、建設現場のほか、田植えや刈り入れの時期には、農村に出かけて、農道で激励の音楽やダンスを繰り広げる、という話も聞いたことがある。
「だけど国家保衛部には外国人は入隊《ジヨイン》できないのでしょう。日本からの帰国同胞でさえ、入れないと聞きました」
これは車《チヤー》から聞いた話である。
なにしろ国家保衛部はナチスのゲシュタポやソ連のKGBにあたる政治警察なのである。
「だから親愛なる指導者同志の特別な配慮だといったじゃないか」
孫は怒ったようにいい捨てて帰ってしまった。
国家保衛部の将校待遇のインストラクターにされてしまったら、もうこれは国外に出ることなどおもいも寄らず、一生、この国で暮らす、ということになるだろう。浩美はまたまた絶望の淵に沈むおもいを味わった。しかし保衛部の将校になれば、すぐ殺されたりすることはあるまい、ともおもう。
――いずれにしろもう浩一には会えまい。
そこへおもい至ったとき、浩美の眼に涙が滲《にじ》んだ。
その夜は、生まれたばかりの頃の浩一の夢を見た。赤ん坊の頃の浩一の髪の毛は赤茶色で、その赤茶色の毛が頭のつむじの辺で柔らかな輪型に渦を巻き、艶やかに光っていた。そのつむじの柔らかに渦巻く髪の毛を、浩美は日に何回も何回も愛撫したものだった。
夢のなかで、浩美は「泰西名画に出てくる天使の頭の輪は赤ん坊の髪の毛からおもいついたのね」と夫に喋っていた。夫は「それは新発見でありますな」と、安原伸彦の声で答えた。
翌朝、起きだした浩美は軍装一式を取りだし、まず白のワイシャツを着、深緑色の乗馬服のように腿の部分がふくらんだズボンをはいた。おなじ深緑色の、襟に階級章のついた詰め襟の上着を着て茶色のベルトを締めた。サイズはぴったりと合う。浩美がフラメンコの練習に出ている隙に、だれかが部屋にしのびこんで洋服のサイズを計ったに相違なかった。
これに黒のブーツを穿《は》くことになっているらしいが、取り敢えず赤い星のついた軍帽をかぶって鏡に向ってみた。まるで別人のような姿が鏡に映っている。
そんなに強目ではない化粧が軍服にはまだ濃過ぎて、芝居の舞台に出てくる軍人のようだ。「リリオム」だったか、なんだったか忘れたが、それこそ宝塚に出てくる軍人か船員みたいじゃないか、と浩美はおもった。カルメン役の女優が急に軍人役を演じているあんばいである。
――これが宝塚の世界の出来事だったら、どんなによかったろう。
化粧を落し気味にして待っていると、孫がやってきて、浩美の軍服姿を一瞥《いちべつ》し、にやりと笑った。しかし別になにもいわない。
やはり深緑色の外套を着て、ベンツに乗り、平壌の官庁街らしい場所へ向った。前日、音楽と舞踊の夕べが催されたマグノリア・ハウスの近くのようである。
その官庁街の一室で、任命式があり、軍服の老人が任命の文章を読みあげたが、難しい朝鮮語で浩美にはまるでわからない。
それが終ると、真ん中の旗の形のなかに金日成の名前を刻みこんだ、金製のオメガの時計、いわゆる「尊名時計《そんめいどけい》」の交付式があった。北朝鮮では国民たちが悲願のようにして欲しがる時計である。
そして老人の幹部が金日成バッジを自ら、浩美の軍服の胸ポケットの上につけてくれたが、老人の手の甲が不必要に強く浩美の左の乳房を押してくる気がした。
14
安原龍彦が雪中登山の仕度をして、強制収容所付近の山中に入り、スプルースと呼ばれるピアノ用の松材を探すことになった。
「私は、シベリアだのアラスカだので、しょっちゅう山のなかに入ってますからね、慣れてるんです。今度も、こんなことになるんじゃないか、とおもって一応の仕度をしてきたんです」
宿舎の招待所で身仕度をすませた龍彦は、佐久間賢一にいった。
「私も途中くらいまではついてゆきたいな。予備の登山靴というのか、雪靴というのか、君、持ってきてないのかね」
賢一は訊いた。
「予備に古いのを一足、持ってきてますから、私がそれを履きましょう。社長は新しいのをお履きになって下さい」
賢一は靴を貸して貰い、分厚くスウェーターを着こんで、ふたりは収容所のほうへ戻った。
ふたりは道案内の看守や通訳と、ソ連製らしい軍用四輪駆動に乗りこんだ。広い収容所の裏のゲートにはナチスの収容所の望楼《ぼうろう》のように高い銃座がふたつ向い合っていて、AK47をかかえ、手榴弾を腰に吊した警備隊員が警戒にあたっている。その銃座に挾まれたゲートをくぐり、雪の山中に入った。
揺れる車内からふりかえると、盆地のまわりの山々の稜線に高さ三、四メートルの鉄条網と七、八メートルもありそうな深い堀が雪のなかに見えかくれしている。鉄条網の約一キロごとに今、通ってきたゲートの望楼のような監視所がそびえ、銃座の後方に兵士の姿が見えた。盆地全体が強制収容所になっていて、まわりの山に鉄条網を張りめぐらし、監視塔を建てて盆地を囲んでいるのである。
四輪駆動が上へ登ってゆくと、収容所の全体図が俯瞰《ふかん》できた。
先刻、収容所へ入るとき、道がふたつに分れていて、ふたりは左のほうへ案内されたが、右のほうにも大きな谷間があり、数十棟の建物が雪のなかに散在していた。
軍用犬を連れた警備兵がパトロールしているのが見える。
「あっちは何ですかね」
龍彦が低声《こごえ》で訊く。
四輪駆動の座席は三列だが、身分に差があるのだろう、通訳は一番前に乗っており、その後ろに案内役の看守が乗っている。龍彦たちは一番後方で、会話は聴えそうにない。
「おれたちが出入りしているのは、多分革命化区域というやつで、あそこの囚人は十年先か二十年先か知らないが、いつかは出獄できる可能性があるんだろう。あの右手は完全統制区域で、一生、出られない連中が収容されているところじゃないか、とおもう。あそこには、重罪を犯したり、韓国に亡命したりした犯罪者のね、家族が入れられてるんじゃないか」
ここへくる前に、賢一はそんな文献を読んでいた。しかしまさか自分がその現場へくる、とは予想もしていなかったのである。
「重労働と飢餓でじわじわ死に追いつめてゆく場所だよ」
「当人はともかく、罪のない家族まで刑務所に入れられて殺されるんですか。罪刑法定主義に反するじゃないですか」
「罪刑は法律ではきまらないんだよ、北朝鮮では」
軍用四輪駆動は「俊寛」のような囚人たちの群を次々に追い越しては、ときどき停まり、
「ここにも松が沢山あります。ご覧になりますか」
通訳が声をかける。
その度にふたりは降り立って、付近を歩きまわるが、龍彦は、「家具にはいいが、ピアノにはどうもね」と首をひねった。
昼近く車を捨てて、収容所の北側の山中に入り、道のほとんどない林間を何キロか歩いたとき、「ここだ。ここの松林だ」と龍彦が叫んだ。
「この林の松は全部買うぞ」
たしかにここの松は幹がまっすぐで、なにより太い枝が少い。枝の跡の節目は、ピアノ用の木材としては致命的欠陥と賢一も聞いている。龍彦が昂奮に顔を赤くして、なだらかな斜面に密生する松の幹を叩いてまわっている。
「購入したい松が大量にみつかった、と部長や校長にお伝え下さい。私は残って伐り出しの指導をやってから帰ります」
龍彦が通訳に向って、伐り出す木を指示するから囚人を連れてきてくれ、と頼んでいた。
賢一は浩美のことを考え、この結果を早く部長に伝えたほうがいい、とおもい、龍彦を置いて、道案内兼監視役の看守と収容所に引き返した。
部長に報告したあと、招待所に帰った賢一は、ひとりで遅い昼食を摂り、龍彦を待ったが、日が暮れても、龍彦は帰ってこない。監視役の所員が朝鮮語で、
「まだ帰ってこないよ」
といったが、賢一は朝鮮語はわからないふりをして、何度も強制収容所のほうに足を運んだ。
午後八時過ぎ、賢一が数人の所員に付き添われて、河原の広場に立っていると、突然、上空に爆音が響いた。海側、つまり興南《フンナム》のほうから入ってきたヘリコプターらしく、強烈なライトを光らせつつ、河原の上空を旋回し始めた。
賢一は保衛部の連絡便だろう、とおもい、邪魔にならないように、広場の隅のほうにひっこんだ。周囲の囚人棟から、防寒帽をかぶり、自動小銃をかかえた看守たちが次々と飛びだしてきて、空を見上げている。
「今時分、だれがくるんだ」
そんな声も聞えるところを見ると、どうやら通常の定期便ではないらしい。
傍らの囚人棟からも、ばらばらと看守が飛び出してくる。
ふと気がつくと、囚人棟のドアが開け放しになっており、賢一は好奇心に駆られて、内部を覗きこんだ。
悪臭に満ちた室内をひと目見て、賢一は一瞬、軍用犬の飼育所か、とおもった。
小さな鉄の檻《おり》がずらりと室内に並んでいる。幅一メートル、高さ、奥行き一メートル五十程度のまさに動物の檻である。しかし檻のなかに入っているのは軍用犬ではなかった。頭髪や髭が伸び放題の囚人が、檻のなかに日本流に正座させられて、ずらりと並んでいた。
――ベネズエラ共産党員で、詩人のアリ・ラメダが北朝鮮で収容されて体重が二十二キロに減ってしまった、というのがこの檻なのだな。
ここでは一日十六時間、日本流の正座を強制される、という。「眠ると、犯した罪を反省できなくなるから」だそうであった。
眼の前の半白、長髪の老人がなにかぶつぶつと呟き始めた。「殺せ、おれたちを殺せ」そう日本語で呟いているように聞える。
建物の奥から駆けつけてくる足音が響き、看守が現れた。
「うるさいぞ」
看守は小銃を檻に突っこみ、老人を突き倒した。
横倒しになった老人の、運動靴を履いた足には、鉄の足枷《あしかせ》が黒い蛇のように巻きついている。
看守が老人を激しく小銃で突くのを正視できず、賢一はよろよろと広場に戻り、雪の上にしゃがみこんだ。
――おれが送り帰した仲間をこんな目に遭わせやがって。あんなに共和国に憧れていた連中を生殺しにしやがって。許さんぞ、おれはおまえたちを許さんぞ。
口惜し涙がこみあげ、無念の感情が胃のあたりをぎりぎりとしぼりあげてくる。
激しく風が吹き、雪片が賢一の顔に吹きつけてきた。
見上げると、雪を舞いあげながら、軍用ヘリコプターが広場に着陸するところであった。
背後で檻のならんだ囚人棟のドアがばたんと閉められる音がした。
その音に賢一は少し平静になり、涙を手の甲で拭い、立ちあがった。咳払いをして、囚人棟を離れた。広場の真ん中のほうへ移動して行った。
ヘリコプターが着地し、まず菱形の眼をした男が降り立った。続いて軍の外套を着、軍帽をかぶり、ブーツを穿いた人物が降り立った。
背の高い女で、髪が軍帽の後ろに垂れている。広場のライトを浴びて部長の※[#「登+おおざと」]小平もどきとこわれ眼鏡の通訳が女の将校に挨拶している。女の将校は軍帽を脱いで頭を下げ、途方に暮れたように落ち着かない眼をあたりに投げた。
「浩美」
かすれた声がおもわず賢一の口からほとばしった。
次に大声でもう一度、
「浩美」
と叫んだ。
女は敏感にその声を聞き取ったらしく、闇を透かすようにしてじっとこちらをみつめた。眼がおおきく見開かれ、雪の上をつまずきながらこちらに走ってきた。穿き慣れないのだろう、ブーツの足もとがもつれ、ころびそうになった。足もとをもつれさせたまま、賢一の腕にすがった。
「伯父さま、やっぱり助けにきてくだすったのね」
賢一の冷たい頬に浩美の、これはヘリコプターのなかで温められたらしい熱い頬が触れてきた。その頬が止めどもない涙で濡れる。
「おれがわるかった。一家の歴史をなにも話さなかったおれがわるかったんだ。勘弁してくれ」
浩美は黙ったまま、激しく首を横に振っている。
「私が間抜けだったんです。馬鹿だったんです」
ふと賢一は肩を叩かれたのに気づいた。
振り向くと、※[#「登+おおざと」]小平もどきの部長が立っていて、広場から裏門に通じる道のほうを指差している。
「丸太が着きましたよ」
囚人が、疲れきった足取りで、二列縦隊になって広場に入ってくる。二列にならんだ囚人は、ふたりひと組で天秤棒を肩に担ぎ、その天秤棒の下に逆三角形に縄を吊って、その縄に長い材木を吊して、十人がかりで運んでくる。
次々と丸太が到着し、広場に積まれてゆくが、いずれも幹がまっすぐで、直径が五、六十センチ、枝のあとも二、三カ所しかない。なにより幹の年輪の跡が夜目にもくっきりとあざやかで、たしかに良材であった。
数十本の丸太が山積みになったところで、登山服姿の安原龍彦が姿を現した。囚人たちと異なり、まったく疲れを見せない足取りである。
近づいてくる龍彦を見て、横に立っていた浩美が悲鳴を上げた。
悲鳴に龍彦は足を止めたが、すぐに気づいたらしく、
「浩美さんですね。申しわけありませんが、私、伸彦じゃないんですよ。伸彦の兄の龍彦です」
と自己紹介をした。
15
その晩は三人で、遅い食事をし、日本から持参したビールやウィスキーを飲んだ。当然盗聴されている、と考えねばならないから、話は筆談になった。
一番最初に浩美が賢一のノートに書いたのは、
「浩一は無事ですか」
という質問であった。
「無事だ。伸彦君が電話で浩一の声を聞いているし、キティゴンのバンコクの家にいたことも確かめてある」
浩美は軍服の胸を激しく上下させて、荒い息を吐き、目頭を拭いた。
次に浩美は、
「伸彦さんは?」
と書いた。
今度は龍彦がボールペンを取り出し、
「北京で、浩美さんを待っています」
と返事をした。
賢一は強制収容所という環境に衝撃を受けて、ともすれば気持が重苦しく淀み、充分に頭がまわらなかったが、北京には友人の金林忠清と安原伸彦が待機している筈であった。
浩美は次第に頬が上気してくるらしく、両手で頬をおさえている。それからペンを取り、
「伯父さま、ここを出国できる可能性は?」
と書いた。
「貴女も引き渡してくれたし、七〇パーセント可能性が見えてきたが、出てみるまではわからない」
そう書くと、浩美は苦しそうに眉をしかめた。もはや北朝鮮に止まるのは、生理的な苦痛を伴うらしい。賢一は励ましてやろうとして、
「貴女は以前より随分美人になった。感心している」
と書いた。事実、久かたぶりに会った浩美は、色が抜けるように白く、顔も躰《からだ》もきりりと引き締った感じであった。
浩美は、
「朝鮮人参のクリームを舐《な》めて、犬の肉を食べて、フラメンコを踊っていたおかげです」
と書き、初めて笑顔をみせた。
翌朝、八時から木材取り引きに関する仮契約式があり、※[#「登+おおざと」]小平そっくりの咸鏡南道国家保衛部の部長、校長と通訳が呼ぶ政治犯収容所長が先方を代表してサインし、こちらからはサプライヤーの平安堂を代表する賢一と納品先の浜松楽器を代表する龍彦がサインをした。
契約書には、購入する木材について、幹がまっすぐで六メートル以上の長さがあり、根元の直径六十センチ以上、先端で三十センチ以上、枝のあとは三カ所以内と厳しく指示されているが、とにかく今後、材木のある限り購入する、という話だから、先方は笑いが止まらない。
最初の木材分については、既に龍彦がチェック済みであるので、本船積みこみと同時に国家保衛部宛て、朝鮮銀行経由、代金を払いこむという約束である。
これで出国できる可能性は八〇パーセントに増したかな、と賢一はおもった。
そのあと、突然こわれ眼鏡の通訳が、
「ただいまから|高 賢一《コウ・ヒヨンイル》氏及び、|高 浩美《コウ・ホーミー》氏に対し、功労国旗勲章及び功労メダルの伝達式を行ないます」
といった。
通訳が佐久間賢一のことを高賢一と呼んだので、賢一はぎょっとした。さすがは北朝鮮のゲシュタポで、佐久間賢一の旧朝鮮名を熟知していたのである。
軍服姿の浩美が呼び出され、賢一とふたり※[#「登+おおざと」]小平もどきと濁り目の所長の前に並ばされた。
「高賢一は、木材貿易向上に貢献、朝鮮民主主義人民共和国における社会主義革命の達成に多大の功労があった。よってこれを表彰し、国旗勲章を授与する」
※[#「登+おおざと」]小平もどきはそういっておおきな勲章にリボンのついたのを賢一の胸につけた。まるで日本の警察官の制帽の徽章《きしよう》のような、おおきな勲章である。続いて、
「高浩美は朝鮮民主主義人民共和国の舞台芸術の向上に貢献し、社会主義革命の達成に多大の功労があった。よって、これを表彰し、功労メダルを授与する」
背の低い※[#「登+おおざと」]小平もどきは伸びあがるようにして、浩美の胸の金日成バッジの下に功労メダルをつけた。こちらはリボンの下に円型のメダルがぶら下っていて、円型の真ん中に、赤い星が浮かびあがっている。
そのあとふたりは金日成、金正日の写真に感謝の敬礼をさせられた。
※[#「登+おおざと」]小平もどきは微笑しながら、また紙を取りだした。
「国家保衛部は附属舞踊団教師、高浩美に中国出張を命じる」
そういう辞令を出した。
国家保衛部の軍人にしたうえで、海外出張を命じる。これでなんとか恰好はつくわけである。尊名時計や功労メダルをくれたのは、いわば口止め料と考えてよかろう。
これで虚構の物語はほぼ完成した。出国できる可能性は九〇パーセントに高まった、とコウ・ヒョンイルこと佐久間賢一は考えた。
16
表彰式と勲章授与式のあと、※[#「登+おおざと」]小平もどきはにこにこと微笑を浮かべたまま、
「今夜、商談の成功と叙勲の祝宴を催しますので、皆さんをご招待申しあげたい」
朝鮮語で佐久間賢一にいった。
「そのあと夜行の特別列車を用意したので、それで恵山《ヒエーサン》経由、中国へ出ていただきたい」
「ご配慮、ありがとうございます」
身もとが知れてはどうにもならず、賢一は朝鮮語で礼をいった。
「ついては、祝宴で、|高 浩美《コウ・ホーミー》中尉の舞踊を拝見致したいのですが」
そんなことをいいだした。
浩美はその朝鮮語がわかったらしいが、不機嫌に眉を寄せて返事をしない。
こわれ眼鏡の通訳が改めて通訳したが、浩美は、
「ギターの伴奏がなくては、フラメンコは踊れません」
とにべもない返事をする。
「では歌を歌っていただけないでしょうか」
※[#「登+おおざと」]小平もどきは相変らず微笑を絶やさない。
「私、歌は自信がないんです」
浩美の無愛想な返事に弱りきって、賢一は、
「風邪気味で声が出ないようですが、なんとか相談してみましょう」
その場を取りなした。
宿舎の招待所に帰ったが、浩美は功労メダルをつけた軍服のまま、ソファに背をもたせてひっくり返り、不貞腐《ふてくさ》れたような表情である。
「伯父さま、私、この国にはとてもついてゆけません」
人差し指の先に軍帽をひっかけて、いらだたしげに皿まわしの皿のようにくるくるとまわしている。
「人をなんだとおもってるんですか。薬呑ませて強制連行してきたかとおもえば、今度は急にちやほやして軍服着せて、勲章くれたり、まるで私、玩具にされてるみたいです」
大声で文句をいった。
「こんなご都合主義の国は国家じゃありません。暴力団とおなじです」
龍彦が唇に人差し指を当て、天井を指差して、盗聴に気をつけろ、というゼスチュアをしたが、浩美は知らぬ顔をして、相変らず軍帽を人差し指で、くるくるとまわしている。
「伯父さま、私にだってプライドがあります。今夜は踊るのも歌うのも嫌です。私、なにもかもいいなりのキップムジョじゃないんです」
賢一にはキップムジョという言葉がわからなかったが、
「君がそうおもうのはよくわかるよ。しかし、もう一晩だけ我慢してくれないかね」
眼くばせして、小声でなだめた。
まるでタイミングを計っていたように、ノックもせずにドアが開き、こわれ眼鏡が部屋に入ってきた。
「今夜、このひとたちが出席します」
こわれ眼鏡は出席者のリストを差しだした。
二十人近くが出席する祝宴である。リストを持ってきたのは、彼らに土産をやってくれ、という意味だろう、とおもった。咸鏡南道《ハムギヨンナムド》、国家保衛部部長は例の※[#「登+おおざと」]小平もどきだから当然として副部長、局長などの名前が並んでいる。ここの強制収容所は変らず「学校」ということになっているが、あの濁り目の校長のほかに、ここにも副校長や局長が名前を連ねている。
通訳が帰ったあと、賢一は龍彦に手伝って貰って、ダンボールの箱を開き、革製、布製のジャンパー、男性用、女性用のスウェーター、女性用ネッカチーフ、女性用化粧品セット、女性用靴下、雪靴、運動靴、セイコーの手巻き時計などを取りだして床に並べた。
一番の目玉は折り畳み式の自転車だったが、これは※[#「登+おおざと」]小平もどきに渡すことにし、あとは渡されたリストの地位に従って分けてゆくことにした。
浩美は呆気に取られた顔で床に並べられた土産物を眺めていたが、賢一と龍彦が仕分けの作業を始めると、起きあがってきて、
「伯父さまにずいぶんご迷惑おかけしたのね。それなのにわがままをいって、申しわけありません」
浩美は謝って、土産物の仕分けを手伝い始めた。
「お土産を選ぶのには、頭を使ったよ」
賢一は低い声でいった。
「ここではオレンジ色が反革命的な色ってことらしいね。それでオレンジの衣類が混じらないように気を使った」
「ここは本当に物がないんですよね」
浩美がセイコーの時計を取りだしながら、いった。
「ここもそうだけど招待所に接待員がいますよね。あの女の子たちも自分の時計は持っていないんです。招待所に、男物の腕時計が備えつけてあって、朝、出勤してくると、それをはめてるんです。帰りに外して置いてゆくんで、夜、台所へゆくと、きちんとならべてふたつ、置いてありますよ」
「これはなんですか」
龍彦が平たい板きれを取り出して、頓狂な声をあげた。
「君にはわからんだろうな。洗濯板だ。洗濯板と盥《たらい》を喜ぶと私の友人がいうんだが、盥は無理だから、洗濯板を持ってきた」
洗濯機は荷物としてかさむし、第一持ちこんだところで停電がおおくて使い物にならないのである。
これも日本から用意してきたショッピング・バッグにそれぞれの名前をマジック・インクで書いて、土産物を納めた。
こわれ眼鏡の通訳を呼び、彼の案内で、三人は挨拶かたがた土産物を配って歩いた。
※[#「登+おおざと」]小平もどきは不在だったが、あとの副部長たちはいずれも相好をくずし抱きつかんばかりにして喜んだ。表情を変えなかったのは濁り目の「校長」こと、強制収容所長だけである。
帰ってきて、招待所の接待員の女性を呼び、年老いたほうに白いスウェーター、若いほうにストッキングを贈った。
若い接待員はストッキングを抱きしめて、喜びのあまり泣きだした。
夕刻、濁り目の所長が孫や通訳と一緒にやってきて、「木材の伐採、搬入が進んでいるので、検分にきて欲しい」という。
「寒いし、浩美はここで待っていたらどうかね」
賢一はそう勧めたが、浩美は、
「ひとりでいるのは恐いんです。私も連れて行って下さい」
と心細そうな顔をする。
「勲章つけた軍人さんが情けない顔をしなさんな」
賢一はいったが、結局三人で雪を踏んで、収容所の広場に歩いて行った。
なるほど広場には、昨日運んできた木材の隣に新しい山がふたつ出来ている。
「こりゃ、質がいいですね」
龍彦は木材を見て満足顔である。
たしかに幹がふとく、まっすぐで、枝の少い材が積まれていて、昨日の木材より一段と質があがっている感じである。
そこへ囚人の一隊が昨日のように二列縦隊を作って入ってきた。横ならびのふたり一組が肩にかついだ天秤棒から逆三角に縄を張り、その三角の縄の底に丸太を通し、十人がかりで運んでくる。
山をいくつか越えて運んでくるのは容易なことではないらしく、全員夜目にも白く荒い息を吐き、足もとがよろけてまっすぐ歩けない。
「木に傷をつけるな、という注文だったのでね、地面に落したり、引きずったりしないように、やかましくいってるんだ」
濁り目がいったが、自動小銃を持った看守が丸太を運ぶ二列縦隊のまわりをぐるぐるまわりながら、激しく怒鳴り、足もとのふらつく囚人を小銃で小突いている。
二列縦隊の十人の囚人たちは疲れ切っていて、瞳孔が開いたように眼がすわり、顔は土気色であった。
二列縦隊が賢一のすぐ前まできたとき、列の真ん中で天秤棒を担いでいた囚人のひとりが、耐えかねたように雪の上に膝をついた。そのまま、前へくずおれた。
「この野郎」
看守が怒号したが、囚人たちの気力、体力は尽き果てていたようで、残りの九人も丸太を雪の上に投げだし、すわりこんでしまった。
看守が飛んできて、最初に膝をついてくずおれた囚人の腰のあたりを小銃の台尻で激しくなぐった。
突然激しい女の泣き声が午後の寒気を引き裂いた。
委細かまわず看守は、小銃の台尻で囚人を撲り、囚人はあお向けに雪の上に倒れた。
囚人は若い女であった。化粧っ気はないが、高い鼻が目立った。収監されて間もないらしく、ほかの囚人は垢《あか》にまみれて男女の別の見分けもつかないが、まだ白いきれいな肌をしている。閉じた目が切れ長で、いかにも知的な美人である。
汚い囚人服の下にやはり防寒用に春菊に似た枯葉を入れていて、それが白い首もとからはみ出ている。
「この野郎、なまけやがって。女のインテリなんてのは、糞の役にも立たねえ」
看守は長く伸びた女の胴のあたりを軍靴で二度、三度と蹴り、腹部を軍靴で踏みにじった。
女の足が空を足掻《あが》いた。運動靴のような靴からも草の葉が顔を出している。
北朝鮮では、国民を「核心階層」と「動揺階層」「敵対階層」の三階級に分けているが、金日成体制に盲目的に忠誠を誓う労働者階級が「核心階層」と呼ばれているのに対し、インテリは「動揺階層」と呼ばれ、信頼されていない。インテリ層に信頼を置かないことが、北朝鮮の工業化、近代化を著しく阻害し、あらゆる意味でこの国を後進的立場に置いているのだが、この女性もどこかで知的職業に従事していたのがそねまれ、密告されて、ここへ投獄されたのだろう。
「おまえ、外国で男といちゃついてばかりいて、労働の貴さを忘れちまったんだろ」
男は小銃の先端を女の柔らかいふくらみを見せる胸の下、胃のあたりにねじこんだ。
女は激しくむせ、いやいやをするように首を振り、泣き叫んだ。切れ長の眼は閉じたままである。
「おまえ、この材木はな、日本に買って貰う大事な商品なんだ。おまえたちが傷をつけりゃ、日本が文句をいって買ってくれなくなるんだぞ」
看守がしゃがみこみ、こちらに聞えよがしに女に毒づいている。看守は濁り目の手前、おおいに点を稼ごうとしているのだ。
日本|云々《うんぬん》の看守の言葉は、佐久間賢一にはこたえた。昔、北朝鮮に在日同胞を北送して、多くの同胞を傷つけ、死に追いやったが、今また、ピアノ用高級木材を買いつけて、結果的には多くの恐らくはまったくの無実の囚人を傷つけ、死に追いやろうとしているのだ。
罪の意識に頬が震え、涙がにじんでくる。賢一は手袋で顔をこすって、涙をごまかそうとした。
ふいに龍彦が動いた。女の傍にころがっていた天秤棒をかついだ。
「あと十メートルだ。頑張って下さい」
龍彦が両手をメガホンのようにして怒鳴る。通訳が朝鮮語に直して怒鳴った。
倒れた女を除く囚人たちがのそのそと立ちあがり、再び二列縦隊を組んだ。縦隊はゆっくりと材木置場に向って動きだした。
「伯父さま、大丈夫ですか。しっかりなさって」
気がつくと、浩美が賢一の顔を覗きこみ、腕をしっかり握っている。
「私、今夜歌います」
浩美はいった。
その夜の宴会で、浩美はこわれ眼鏡の通訳に発音を直して貰いながら、特訓をやって覚えた歌曲をいくつか歌った。「アリラン」を歌ったあと、「金日成将軍の歌」を歌ったが、軍服姿の浩美は歌いながら、涙を流し始めた。
連行されてからの苦労をおもい、あるいは先刻、同僚の囚人たちにかつがれるようにして運ばれていった女の囚人のことをおもっての涙だろう、と賢一は察したが、同席する※[#「登+おおざと」]小平もどきは浩美の涙に「ほう、ほう」と歓声を放ち、拍手は鳴り止まなかった。
こちらのモデル幼稚園では三歳の子どもでも「われらの願いは統一」と叫んで泣いて見せる。涙は忠誠度の証しとされているから、彼らは浩美の忠誠度に感心したのだろう。
宴会のあと、賢一、浩美、龍彦の三人は孫《ソン》やふたりの警備員に付き添われ、鉄のゲートをくぐって収容所を出た。咸興《ハムフン》経由で興南《フンナム》の駅に向った。今度は夜なので、ベンツの窓にカーテンをひかれることもなかったが、とにかく窓の外は真っ暗である。
咸興の街も、停電なのだろう、まったく灯火が点《つ》いていない。
暗く小さい興南の駅に着き、ホームの端に停まっている特別列車に乗った。機関車に寝台車、それに食堂車が付いている、まさに三人用の特別列車であった。
寝台車は欧米ふうに車体の片端が通路になり、その通路に沿って二段ベッドが四つついたコンパートメントがずらりとならんでいる。その部屋をひとつずつ割り当てられ、やっと汽車は出発した。
三人はひとつのコンパートメントに集まっていたが、龍彦が、
「まさか着いてみたら、別の収容所ってことじゃないでしょうね」
半分真顔でいう。
賢一は「あり得るね」といおうとして、浩美がびくりと肩を震わすのを見て、
「今夜、浩美が金日成将軍の歌を歌ってくれたから、大丈夫だろう」
といった。
浩美は、
「私、歌いながら、招待所の近所で射たれたお婆さんのことをおもいだして、泣いてしまったんです」
簡単に老婆との出会いについて語った。
まさか寝台車に盗聴器はついていまい、と考えるから、口は軽くなる。
「しかしね」
賢一はいった。
「私はその女性には心あたりがないな。私は君が人民大学習堂のエレベーターのなかで会った、金林という男とよく地方ヘオルグに行ったが、東北、北海道が中心でね、愛知県には行ったことがない。その後もこの年になるまで行ったことがないんだな。そりゃ、やっぱり茶番劇だったんだろう」
賢一の言葉に、浩美はいよいよ落ちこんだ様子で、溜め息を吐《つ》いた。
「それで、そのお婆さんはだれに射たれたのかね?」
浩美はためらいがちに車両の後方、孫のいる方を指差した。そして恐ろしそうに軍服の肩をすくめ、襟元を片手でおさえた。
「私へのおどしにやったんですね。きっと」
結局、その夜は浩美が上のベッドに上り、男ふたりは下のベッドで寝たが、三人ともそんなに簡単に眠れるものではない。北朝鮮の鉄道はすべて単線だから、この下り列車も、「上り列車」待ちの停車を繰り返す。その度に浅い眠りを破られながら、気がつくと明るくなっていた。
金日成、金正日の肖像画の飾ってある食堂で三人が朝食を摂った後、三時間ほどして、列車は朝鮮と中国の国境の街、恵山《ヒエーサン》に到着した。
これも興南と変らない、もはや日本では見つけるのが難しい田舎の駅だが、この駅周辺の風景が賢一を驚かした。
駅に停まっている列車の窓ガラスが割れたままになっている。強制収容所では、窓に生木の枝が貼りつけてあったが、列車の窓には枝も板もなく、零下数十度の寒気が侵入するままになっている。列車に乗っている人間の服装もひどかった。薄っぺらな人民服だけで、外套を着ていない者が多い。外套を着ているのは兵隊だけである。
駅の前ではうす黒く汚れたチマ・チョゴリの老婆が何人か、頭に小さな風呂敷包みを載せ、よろよろと歩いている。
ここでも国家保衛部のベンツが二台、待っていた。
ここで浩美は孫から北朝鮮の紺色の公務旅券を手渡された。旅券にはちゃんと浩美の写真が貼ってある。
「芸術祭の前、フラメンコの練習をしているときに撮った写真です」
と孫がいった。
付添いの孫のひとことで、一行は簡単に国境を出てしまった。
三人が人心地を取り返したのは、中国国内の駅に着き、中華人民共和国の遼寧省の首都、瀋陽《シエンヤン》ゆきの列車に乗ってからである。
乗車する前、ここまで持ってきたダンボールの最後のひと箱を孫にやった。
「浩美がえらいお世話になりました。これはほんのお礼のしるしです」
わざと英語でいって、手渡した。
うすい眉毛の下の菱形の眼がなごみ、孫は賢一の手を握り、龍彦の手を握り、そして浩美の手を握った。
「シー・ユー・アゲン」
浩美は孫に手を握られているのが辛いらしく、少し身をよじるようにして、小さい声で、
「シー・ユー」といった。
17
瀋陽市に遼寧《リヤオニン》賓館というホテルがある。
瀋陽が奉天と呼ばれていた戦前に建築され、「大和ホテル」という名前で、満州帝国時代は第一級のホテルとされた。当時の新京、旅順、大連、星ケ浦などにあった満鉄直営のチェーン・ホテルのひとつだった。左右両端に塔が建ち、正面は柱が何本も並んで、いかにも戦前の西洋建築の趣きをたたえている。
「香港のキャセイ・ホテルの瀋陽版ですな」
ホテルを見上げながら、日本赤衛軍の笹岡|規也《のりや》が水田清にいった。
「横浜か神戸に残ってそうな建物だな。里心がつくぜ」
水田は相槌を打ちながら、ホテルに入った。
ホテルの中には吹き抜けの、天井の高いホールがあり、二階にはホールに沿って回廊がついている。
ふたりはホールのコーヒー・ハウスに入って行った。
隅にサングラスをかけ、ブーツの足を組んですわっている女が手を挙げた。
「梁《ヤン》のおばさんと、うっとうしい交渉の始まりかよ」
水田はぶつぶつと文句をいった。
「こんなに遠くまで、強引にお呼び立てして、ご免遊ばせね。お疲れよねえ」
|梁 美善《ヤン・ミーソン》はいいながら、眼の前の椅子を勧めた。
「この一週間で、気温三十度のところから零下三十度のところへ移動ときちゃよ。躰がびっくりしちゃってるぜ」
水田は厭味をいった。
「梁さんみたいな美人に呼びだされなくちゃ、ここはお国を何百里、離れて遠き満州の&天までは、なかなかこらんねえよ」
「なにいってらっしゃるのよ。ベッカー高原なんか、お国から何千里も離れてるじゃありませんか」
梁は艶然と笑って相手にしない。
梁は最近、髪を白くしたり、皺を刻んだりして中年外交官夫人に見せるのを止めてしまい、三十代後半の素顔をさらすようになっている。
「とにかく日本赤衛軍はフィリピンで新しい作戦を展開なさるんでしょ」
水田はまだやっとマニラに住み始め、小さい貿易商社の代表という触れこみで、マニラ市内の自宅の一室をオフィス代りにして動き始めたところである。
今回も北京でベッカー高原からきた笹岡と合流し、この瀋陽にやってきたばかりで、日本企業の支店長を誘拐するという「翻訳作戦」も、具体的にはなにも煮詰まっていない。
「まだなにもきまっちゃいねえんだよな。とにかく拠点作りで精一杯ってとこよ」
「だから、これから北朝鮮と協力しながらおきめになればいいのよ。その際どういう形でもよろしいから、協力させていただきたいの」
「こら参ったな。梁さんに押され気味やないか。こらなんかお願いせなあ、あかんのとちゃうか」
笹岡が参ったというように顔を拳《こぶし》で撫でていった。
「そのご協力の話だけど、対外情報調査部としては、まずウイーンの|李 仲麟《リー・チユンリン》をマニラにまわします。それから佐間浩美とね、モレナっていうフィリピンの娘《こ》をお使いになったらどうかしら」
「浩美? 浩美はまだ生きているのか」
水田はおもわず訊ねた。
「もちろん生きていますよ。だい元気でね、今日の夕方、汽車でこの瀋陽に着きます。彼女をこの工作に提供いたしますけどね、ただし浩美の説得は水田さんにお願いしたいの」
梁はサングラスを外した。雛人形のような顔が、つるりと無表情に白い。
「なにしろ切り札を持っていらっしゃるのは水田さんでしょ。子どもを返して欲しかったら協力しろ、そう脅していただきたいわけ」
梁はいった。
「うるさい伯父さんがついてるらしいけど、子どもは女親を狂わせますからね。効き目がありますわよ、もし日本人の支店長を工作目標にするのなら」
そこで梁はちらりと流し目を笹岡にくれた。
「日本人の娘、それにフィリピンの娘は役に立ちますよ。工作組にお入れになったほうがお得よ」
18
暮れがたの雪原のなかを汽車は十数時間も走り続け、瀋陽に近づいてゆく。
日本のグリーン車にあたる軟車《なんしや》もついていない列車で、佐久間浩美、賢一、安原龍彦は固まって、すわっていたが、列車は次第に混んできた。若い中国人の母親が幼い男の子をふたり連れて乗ってきたのを見て、うたた寝していた龍彦が席を譲ってやり、自分は通路に立った。
北朝鮮を出国した、という解放感に暫く話がはずんだが、やがて疲労に襲われ、三人ともすっかり寝こんでいたのであった。
男の子ふたりは、窓側の席を取り合って口喧嘩しながら、雪原に夕陽の沈む窓外の風景を眺めている。浩美は大きいほうの男の子を眺め、「浩一より少し年下だな」とおもった。
「男の子は乗り物が好きなんだな。私もよく浩一を連れて、埼京線を見せに行ったもんだった」
やはり眼を覚ましていた賢一が呟いた。
おなじことを考えていた浩美は黙って頷《うなず》いた。
ロンドンへ行って、赤いミニを買ったとき、浩一は、
「ママ、この車、エンジンが横向きについてるんだね、恰好いいねえ」
そういってたいそう喜んだ。
あの赤いミニはサンルーフがついていたが、寒いのに、浩一はサンルーフを開け、そこから首を出したがったものだ。あのミニはどうなったろう。ロンドンのヒースロー空港のターミナルに置いたままになっているのだろうか。
「伯父さま、浩一を取り戻せるでしょうか」
浩美はおもわず賢一に訊ねた。
「取り戻せるかどうかじゃなくて、取り戻さなくちゃいかん」
賢一は強い口調でいい放ち、唇をへの字に結んだ。
「北朝鮮に強制連行されて、出国できた日本人はこれまで皆無だというのに、私はなんとかあんたをひっぱりだした。あんたがエレベーターのなかで会った金林という男のおかげだがね。今度はなんとしても浩一を救い出さにゃあならん」
たしかに今度は浩美のシグナルが伯父の賢一に通じ、賢一が迅速果敢に動いた。金林が仲介役を果し、伸彦の兄、龍彦がうまく木材の商売を絡ませてくれて、浩美はこうして中国へ逃れることができた。しかし幼い浩一には、シグナルを放つこともできない。伸彦の連絡によると、バンコク郊外に暫くいたらしいが、自分が今、どこにいるか、の判断もつくまい。
夕刻、列車は瀋陽駅に着いたが、浩一の姿が浩美の胸の底に重苦しく沈んだままで、浩美は気分が晴れない。
龍彦が浩美のサムソナイトをホームへ降ろしてくれる。このサムソナイトは、ヘリコプターに積まれ、浩美と一緒に強制収容所に運ばれてきたのである。
満州帝国、奉天駅の時代の駅舎がそのまま残っているらしい、古めかしい瀋陽駅のホームを歩き、改札口を出たのだが、ふいに龍彦が、
「あれはなんだ。ホテルの出迎えかな」
と叫んだ。
金ボタンのならんだ外套《がいとう》を着て、頭髪をきちんと分けた、身ぎれいな男が「佐久間浩美様」と墨で書いた紙を両手に高くかかげている。
三人が近づいてゆき、浩美が、
「佐久間浩美ですが」
と紙を指差して、声をかけると、金ボタンの若い男は、
「サクマさんね」
片ことの日本語でいった。
「私、遼寧《リヤオニン》ホテルのベル・ボーイです。遼寧ホテルの201号室に、電話下さい」
棒読みのような日本語である。
ボーイはポケットから紙片を取りだした。
「請電話、201号室、遼寧賓館、72916657」
紙片にはそう書いてある。
「だれが電話しろ、と頼んだんですか」
浩美が訊ねたが、男は、「私、わからない」と首を振る。日本語がわからないのか、頼んだ人間が判らないのか、はっきりしない。
「伸彦のやつが、ここまできたかな。あいつは匂いを嗅ぎつけるのが早いからな」
龍彦がいい、浩美は目の前がぱっと明るく開けるような気持を味わった。
中国人のベル・ボーイの後について、三人は構内の公衆電話のところにゆき、男が小銭を入れ、201号室を呼びだしてくれた。
浩美は受話器を受け取る手が震えるのをおさえられなかった。伸彦の声が響いてきたら、なんと答えようか、とおもった。
「浩美さんか」
しかし受話器から響いてきたのは、中年の男の声である。明らかに聞き覚えがある。
「ロンドンでいろいろ面倒見て貰った加藤よ、アンクルだよ」
声の主がだれかわかった途端、血の気がひくような気がした。浩美は言葉を失って声が出ない。
「驚かせちまってよ、申しわけねえ。おれも浩美さんには謝りてえこともあるし、新しい話もあるんだ。こちらのホテルにきてくれんもんかな」
アンクルという綽名《あだな》で、加藤と自称する日本のハンドバッグ輸入業者はキングストン語学学校で一緒だったが、彼こそ北朝鮮の拉致《らち》工作班の手先であり、最初に浩美に接触してきた男なのである。そして浩一をさらって行った男でもあるのだ。
「浩一はどこにいるんですか。浩一を返して下さい」
浩美は叫ぶようにいった。
異変を感じ取って、賢一と龍彦が顔を寄せてきた。賢一が「どうした、相手はだれだ」と浩美の肩を掴んで、訊ねる。
「まあ、落ち着いてくれや、浩美さん。浩一は元気だよ。いいかい、浩一は元気なんだ」
「浩一はそこにいるんですか」
浩美はせきこんで訊いた。
「まあ、浩一のことも話してえからよ、ともかくこのホテルにきてくれや。おれ、ロビーで待ってるよ」
アンクルこと水田は、そういって電話を切った。
浩美は賢一に肩を抱かれながら、電話の主がアンクルと呼ばれていた日本人で、遼寧ホテルで待っている旨を話した。
北朝鮮の軍服、軍帽姿の若い女が、白髪の男に肩を抱かれているのは物珍しい光景と映るに違いなく、駅に出入りする中国人たちが足を止めて眺めている。
「よし、私が浩美についてゆこう」
賢一がいった。
「龍彦君、きみ、荷物を持ってひと足先きに鳳凰飯店にチェック・インしてくれ」
鳳凰飯店は中国に入ってから、北京の金林と連絡して取って貰った宿である。
「チェック・インしたら、この遼寧賓館にきて、ロビーから連絡をくれないか。連絡がつかないときは、ホテルの男と一緒に部屋に乗りこんでくれ。ホテルの男をふたり連れてくるんだ。ふたりだよ」
賢一は浩美と一緒に、ベル・ボーイの案内でタクシーに乗り、遼寧賓館に向った。
――あいつら、いったん北朝鮮の国外へ出しておいて、もう一度捕らえようって腹だな。
賢一は裏切られたおもいに逆上し、防寒外套の上から浩美の二の腕を固く握っていた。強制収容所まで乗り込んで、やっと取り戻した大事な姪《めい》をだれが離すものか、とおもった。
北朝鮮国家保衛部は勲章や功労メダルを賢一と浩美に与える一方で、秘密工作班の「対外情報調査部」にふたりの行動を報告していたに相違ない。「国を出たら、こちらは知りませんよ。そちらの朝鮮労働党のほうで勝手にご処置ください」そう囁いたのではないか。
賢一は咸鏡南道《ハムギヨンナムド》の国家保衛部部長の、※[#「登+おおざと」]小平もどきの顔をおもいだし、胸がわるくなった。鴨緑江節なんか歌いやがって、とこみあげてくる嫌悪感に唇を噛んだ。
「このホテルは昔のヤマト・ホテルです」
ベル・ボーイの言葉も上の空で、ホテルに入った。先刻、龍彦が、
「いざとなったら、商売を武器に使ってください。ちょっとでも危なかったら、ピアノ材の商売をキャンセルしちまいましょう」
その言葉だけが頼りのような気がする。
天井が吹き抜けのロビーに入ってゆくと、真ん中に、中年の髪を短く刈った男が、丸首スウェーターに背広を引っかけて立っている。間の抜けた感じでぽかんとした表情で、こちらを眺めている。
浩美がすぐ傍に立っても、気がつかない様子だったが、浩美が鋭い声で、
「加藤さん」
呼びかけると、初めて浩美へ眼をあてた。
「へえ、浩美さんかね。そんな婦人警官みたいな恰好しちゃってよう、見違えちゃうじゃんか。どうしたっつうの」
どうしたっつうの、はないだろう、と賢一はむかっ腹を立てた。
しかしアンクルまたは加藤こと水田は、賢一に向い、
「浩美さんの伯父さんですよね。ロンドンじゃこのひとにえらいお世話になっちゃってね、わしら、クリスマスにはえらいうまい刺し身をご馳走になったりしまして大感謝です」
まるで浩美の拉致、強制連行事件など存在しなかったような気さくといえば気さくな態度で、頭を掻きながら頭を下げた。
賢一はむろん口をきく気にもなれない。水田は二階の端のスウィートらしい部屋に案内したが、賢一はベル・ボーイに部屋までついてこさせ、部屋番号を確認させた。
賢一はスウィート・ルームのなかには屈強の男たちが待ちかまえていて、取りおさえられるのではないか、と身構えて部屋に入ったのだが、天井が高い、広い部屋には女がひとりすわっているだけであった。
「奥さま、軍服がとってもお似合いよ、背はおありになるし、歌劇の男役がおできになりそうね。おお、宝塚ですことよ」
女は立ちあがり、両手をもむようにして浩美の軍服姿を誉めあげた。
これが梁《ヤン》の娘らしい、と賢一にも見当がついた。
しかし話に聞いていたところでは、中年の感じだったが、今回の印象では髪も黒く、三十代後半に見える。
「初めまして、あたくし、浩美さんのお友だちで、善子《よしこ》と申します」
梁の娘は両手を下げて、丁重に頭を下げた。埼京市のパチンコ屋の梁が娘を東京のマンションに住まわせ、「ハイソ」の娘に育てあげた、という噂はまさに事実のようであった。
部屋は満州時代そのままの、古い応接間で天井がえらく高い。四人が椅子にすわるなり、浩美は軍帽を脱ぎ、背を伸ばして、
「私はお陰様で、ずいぶん辛い目に会いましたけど、そんなこと、もうどうでもいいんです。伺いたいのは、いつ、どこで浩一を返していただけるか、ということです」
正面から水田を詰問した。
「いや、浩美さん、すまねえ。まあ、浩美さんには信じちゃ貰えねえだろうけどよ、おれは自分なりになんとか事件の流れを変えてえ、とおもったんだ。だけど力が足りなくて、ああいうことになっちまった。おれもよ、浩美さんが北で犬の肉、食わされて、ドラ息子の前で踊り踊らされてるらしいって聞いたときは、ほんとすまねえ、とおもったよ」
水田は頭を下げた。呆れたことに、梁の娘も、水田のお詫びにしたり顔で頷いて、
「ほんと、ご苦労なすったのねえ」
などと相槌を打っている。
「先刻もいったけどよ、浩一は元気だよ。必ず浩美さんの手に返すよ。これは約束する」
「ですからね、いつ、どこで返していただけるか、と伺っているんです」
浩美は追及した。
「じつはね、今日よ、おれがこの奉天までのこのこやってきて、浩美さんを待ってたのは、浩一をいつ返すかってことの条件に絡んでんだよ」
水田がしれっとした顔でいう。
賢一の怒りがそこで爆発しそうになった。
「あんた、浩一ってのはこの浩美の息子なんだよ。法律上の親権もはっきりこの浩美にあるんですよ。その他人様《ひとさま》の息子をさらっといて、すぐには返せません。返すには条件があります、はないだろう。盗っ人、猛々しい、というのはあんたみたいな手合いのことをいうんだ」
賢一は声を張りあげた。
「いや、伯父さん、まったく盗っ人、猛々しいといわれりゃ、その通りなんだよね」
水田は短く刈った頭をガリガリと掻いた。
「ただ現実には、おれが浩一を預かってんだけどよ、図式にしてみると、おれ個人じゃなくて、おれが属してる組織が浩一を預かってんだよね。これはどうしようもない実態でもあるわけだ」
梁はまるで自分は関係ないといいたげに、蓋つきの茶碗に、ジャーからお茶を注いで、一同に配った。
「じゃあ、どうすれば、浩一を返していただけるんですか」
浩美はなおも切り口上で詰問の姿勢をくずさない。
「そこなんだけどよ、東南アジアへ行ってな、こっち関連の女性に日本語とか日本のマナーとかを教えて欲しいんだよ」
「危ない、危ない」
賢一は大声でいった。
「今度はどんな工作を組織するんだ。この前はラングーンの墓地で、韓国の閣僚を何人も殺したが、今度はどこで何を企んでるんだ」
「そんな大袈裟なもんじゃねえってよ。日本の企業がさ、ほら、火力発電所なんか作って公害問題、起したりしてるだろ。ああいう問題の資料集める仕事やるんだよ。いってみりゃ、グリーンピースの真似事よ。グリーンピース・アジア版の女性に日本語、教えてくれねえかって、頼んでるわけですよ」
「いいかね、おれはもともと朝鮮総聯の前身の朝聯で専従やっていたことのある男でね。北朝鮮がなにをやってきて、今後なにをやるか、なんてことはようくわかってんだ。あのテロ国家のやることを信用しろったって無理だろう。しかもだ、私はやっとのおもいで、この浩美をそのテロ国家から救いだしてきたところなんだぞ」
「いやあ、それもわかっていってんだよなあ」
水田が眉をしかめ、首をぐるぐるまわした。
「伯父さんのご心配も、無理ねえとはおもうよ。だけどほんとのこといっちまうと、今度の仕事はグリーンピースみたいな組織がひっぱるんでよ、北には関係ねえんですよ。そのグリーンピース・アジア版のほうは、そういっちゃなんだが、昔はともかく今はラングーンみてえな、手荒なことはやらねえことになってんだよ」
賢一には、男がいい加減な出まかせをいっているとしか、おもえなかった。
梁は茶碗の蓋を開けて、お茶をすすっていたが、
「奥さまね、北朝鮮からもお出になれたんだし、今度、大事なのはお坊ちゃまをお手もとにお引き取りになることよねえ、あたくしもおよばずながら、お手伝いするから、一緒にやってみません?」
そう甘い声で囁くように浩美にいった。
賢一は埼京駅の駅向うで、絢爛《けんらん》と点滅するヤング・パチンコ・センターのネオンをおもいだし、激しい怒りに逆上した。この女の父親は北関東一円にパチンコ店を展開し、大儲けした金を脱税し、北朝鮮に送金しているのだ。
「あんた、梁《ヤン》さんとおっしゃるらしいが、あんたこそ、浩美誘拐の真犯人なんだろう。誘拐の真犯人が余計な口出しはせんで欲しいな」
賢一の怒りがいよいよ湧き立ってきて、我を忘れそうになった。
「あんたも世界のあちこちで人騒がせな事件を起していないで、いい加減に埼京市に帰ったらどうなんだ。おとなしく親父さんの店でも継いだら世の中、静かになるぞ」
いわでもがなの、罵倒に近い言葉が出た。
「まあ、こわあい伯父さま」
梁は白い顔をのけぞらせ、両腕で大袈裟に胸をかかえてみせた。
「なんか人違いなすって、怒っていらっしゃるみたい。そのサイなんとか市とおっしゃるのは、どこにございますの。京都の西京区のほうかしら」
しれっといい放った。
「それに共和国がテロル国家だなんて、とんでもないお話でございます。伯父さまも、南朝鮮の宣伝工作や自作自演の事件におどらされていらっしゃるんだわ。伯父さまも三十年前からようくご存じのとおり、共和国は昔も今も人民にとっては地上楽園≠ナございますよ」
故意にだろうが、梁は賢一にもっとも手痛い言葉で報いてきた。地上楽園≠フ言葉は、昭和三十年代、賢一が在日同胞を北朝鮮に帰還させるオルグのときに、しばしば用いた言葉であった。
賢一はじっと黙って梁の白い顔を睨んでいた。言葉を返したが最後、この白い顔に跳びかかり、絞め殺してしまいそうな気がした。
「そうそう」
沈黙を破って水田が呟き、背広の胸ポケットを探った。
怒りにかすむ眼の焦点がふと合って、ドル入れを取り出す水田の左手の異常に気づいた。
――指がないじゃないか、この男は。
指を二本欠損した手の動きに、賢一は眩暈《めまい》の起きそうな気分におちいった。
水田はドル入れから一枚の写真を抜きだして、浩美につきつけた。
賢一が覗きこんでみると、浩一の写真である。しゃがんだ東南アジア系の女に肩をかかえられて、浩一が立っている。顔は陽焼けしているが、いかにも元気そうで、少し欠けた歯を見せて笑っている。
「浩一」
浩美が鼻をすすって泣き始めた。
「ちょうど歯の抜けかわる時期でよ、歯が欠けちゃあいるけど、元気だよ」
水田は説明した。
「浩美さん、おれは信用できねえっていわれても、しょうがあんめいけどよ、あんた、キティゴンは信用できんだろ。キティゴンはそのうち必ず浩一を浩美に返すっていってるよ。キティゴンを信じてくれや」
キティゴンというのは、写真に写っている東南アジア系の女のことらしいが、水田の言葉はいかにも矛盾していた。先刻は浩一を預かってるのは自分個人でなく、組織といいながら、今度はキティゴンという、東南アジア系の女、恐らくは自分の愛人を信じろ、などといっている。
「浩美、ここは堪えなくちゃいかん」
賢一は言葉を励ました。
「おれとしても、折角取り戻したあんたを、こんな信用のできん連中に軽々と預けたりはできんよ」
水田に向って、
「今日の話し合いは中断だ。明日、またここへくる」
そういって立ちあがった。浩美の肩を抱くようにして立ちあがらせた。
「浩美さん、軍帽、忘れんなよ。それから、その写真はあげるからよ、持っていけよ」
水田が言う。
写真を抱いて泣きじゃくる浩美を、賢一はやっとのおもいで部屋から引っ張りだした。
部屋の前には、龍彦が立っていた。
19
金林忠清は、鳳凰飯店にツインをふたつ手配してくれており、そのひとつに浩美が泊り、残りに賢一と龍彦が泊ったのだが、翌朝七時過ぎに賢一は龍彦に叩き起された。
「浩美さんがいません。どうも連中にやられたみたいです」
龍彦が青い顔をしていう。手に手紙らしいものを握っている。
「私も気になっておりましたので、七時になるのを待って電話を入れたんです。遅くも八時にはホテルを出なくてはなりませんしね」
三人は九時二十分発の北京ゆきに乗ることになっており、前日、龍彦が予約の確認をしてあった。
応答がないので、龍彦は隣の部屋のドアをノックしたが、これも返事がない。食堂にでも電話してみようとおもって、部屋に戻ってきたところ、ドアの下に配達されていた人民日報の下に、浩美の置き手紙を発見した、という。
賢一がホテルの書簡箋を使った置き手紙を開いてみると、
[#ここから2字下げ]
「伯父さま
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
私をあの恐怖の国から救いだしてくださいまして、どんなに言葉を費やしても感謝しきれない、という気持でいっぱいでございます。
それを重々、判ったうえで、最後のわがままをお許しください。私、やはり浩一をなんとしても手もとに取り戻したいのです。
この気持は、伯父さまにしかご理解いただけないだろう、ともおもっております。
安原伸彦様にも、浩一と血の繋がる私の気持を伯父さまからご説明いただければ、ありがたく存じます。
私は、母親として今できることをしなければならないと考えております。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]深夜の瀋陽にて
[#地付き]浩美
佐久間賢一様
[#地付き]」
とあった。
龍彦がホテルのフロントにチェックしたところ、午前一時頃、浩美はホテルを出て、迎えの車でどこかへ去った、という話であった。
北京の金林忠清に相談したところ、「もう浩美さんはその辺りにはおらんよ。とにかく北京へきたほうがいい」というので、賢一と龍彦は予定どおり、九時二十分のフライトで北京へ行った。
これもよれよれに疲れた感じの、安原伸彦と金林忠清に迎えられて、賢一と龍彦は北京市内のホテルに向ったが、賢一はショックのあまりタクシーのシートに長く伸びて口もきけなかった。
「あまり心配せんほうがええじゃろ。わしは今日の午後、北京にいる、北の保衛部と会うことになっとる。今度の動きは梁が絡んでるし、対外情報調査部やろ。保衛部に頼んで、保衛部に対外情報調査部を監視させるんや。金ヅルをなくすと大変じゃけん、保衛部も頑張るんやないか」
金林がそういって慰めてくれる。
ソファに頭をのせた賢一の眼に、北京へ通じる並木道の銀杏《いちよう》の枯木が次々と後方へ流れ去ってゆく。深い藍《あい》色の空に貼りついたような銀杏の枯木の枝が、眼に突きささってくるようで、賢一は瞼を親指と人差し指でおさえた。
「伸彦さん、なかなかうまく話が納まらんなあ」
返事の代りに溜め息が聞えた。
[#改ページ]
六 黄色い渦へ
一九八六年二月十六日、佐久間浩美はモレナと一緒に、フィリピンのマニラ中心部、リサール公園の黄色い渦のなかにいた。
二月十五日フィリピン国会は、百四十五万票差で、マルコス当選と発表したが、集計に不正ありとして、民衆の不満が爆発、反マルコス・キャンペーンがフィリピン全土に拡まった。
このリサール公園はそのマルコス当選を不満とし、コラソン・アキノを支持する民衆の百万人集会の会場になっている。
浩美はモレナに引っ張りだされて、この会場にやってきたのだが、暑さは暑し、あたりの熱気をはらんだ空気に圧倒されて、気分がわるくなりそうであった。
アキノ支持派の民衆はコリーことコラソン支持のシンボル・カラー、黄色の帽子やTシャツをまとい、手には黄色の小旗を持っている。黄色の風船を空に浮かし、糸を握っている者も多くて、無数といっていい風船が民衆の頭上を漂うように浮いている。
公園の中央に大型トラック二台を使った特設ステージがあって、そこにコラソン・アキノが登場すると、「コリー、コリー」の大合唱が会場を揺るがせた。
眼鏡をかけた、大柄なコラソン・アキノは英語で、マルコスへの不服従運動を訴え始めた。
二月二十五日に予定されているマルコス大統領の就任式の翌日は、一切仕事をせずストライキに入る。大統領側近の経営する七銀行から預金を引き出し、取りつけ騒ぎを起す……。
やはり黄色い帽子をかぶり、黄色い小旗を持ったモレナは、コリーのひと声ごとに熱狂し、跳びあがって旗を振っている。
北朝鮮にいるあいだは、絶えず泣きべそをかいて、鼻をすすってばかりいたモレナも、すっかり元気になった、と浩美はおもった。
そういう浩美自身はどうだろうか。波瀾に満ちた北朝鮮の生活から脱け出して、ほとんど自らの意志で、この国へやってきた。現在、小康を得てはいるものの、生活の先ゆきが不透明で、足もとの定まらないような、心もとなさは相変らずつきまとって離れない。
アンクル一味による軟禁状態が続いていて、この会場でも一味に雇われた監視役の男たちがふたりの周辺を取り巻いていた。
昨年三月下旬の夜、浩美は浩一を取り戻すことを決心して、遼寧《リヤオニン》賓館に宿泊しているアンクルこと加藤に連絡した。
サムソナイトを持ち、足音を忍ばせて、伯父の佐久間賢一と安原龍彦の宿泊する部屋の前を通り、エレベーターで天井が吹き抜けの古風なロビーに降りた。
ホールに響きわたる自分の足音におびえつつ、玄関に出ると、すでに車のなかで水田が待っていた。浩美は賢一宛の手紙をベル・ボーイに託して、車に乗りこんだ。
瀋陽《シエンヤン》から北朝鮮の国境近くの街、丹東《タンドン》へゆき、丹東から中国民航で上海へ出た。北朝鮮の連中に監視されて、その上海に暫くいて、五月半ば、平壌から連れてこられたモレナと落ち合い、マニラにやってきたのである。
マニラに着くと日本の古い浴室に入ったときのような、じっとりと息苦しい暑気が浩美を包んだ。
フィリピン人の男が出迎えに出ていて、水田が、
「この男はよ、仲間のダビトってんだよ」
と紹介した。
ダビトは駐車してあった車を持ってくると、マニラ市とは反対の方向に走らせた。車は住宅街に入り、ふいに二階建ての白い建物の前に出た。
鉄の移動式の門扉《もんぴ》の向うに、そのコンクリートの建物はあって、建物の正面に花を象《かたど》ったらしいマークがついている。建物の前に三本のポールがあって、フィリピン、日本、そして浩美の知らない旗が午後の微風に翻っていた。
旗の前の庭にバスが五、六台停まっている。エンジン部分が乗用車のように前に突き出している旧式のオンボロバスだ。
「浩美さん、わるいけどよ、どんなことがあっても車から出ちゃあ困んだよな。そんときはよ、このダビトが力ずくでおさえるからよ」
アンクルはそういって車を降りて行った。
アンクルと入れ代りに、ダビトが運転席から後部座席に移ってきた。浩美はダビトとモレナに挟まれてすわっている形になった。ダビトにはツンと鼻を衝《つ》く体臭があって、浩美はどこかで接したことのある臭いのような気がしたが、おもいだせない。
ダビトとモレナはタガログ語で話し始め、モレナは、
「ナックー」
といい、少し顔を赤くして、浩美を見た。
アンクルは正門からバスのほうに向って、ゆっくり歩いてゆく。
正門の前には乗用車や極彩色のトライシクル、いわゆるサイド・カーで、モーター・バイクの隣に客用の座席をつけた簡易タクシーが停まっている。
「近くに住んでてバスのゆかないところの親は車やトライシクルで迎えにくるんだろ」
ダビトがいう。
アンクルは腕時計を見ながら、トライシクルの傍をすり抜け、正門のなかへ入って行った。
突然白い建物から子どもの群があふれ出してきた。まがうかたなく日本の子どもで、布製の手提げ鞄を下げていたり、ランドセルを背負ったりしている。
フィリピンの女性が出てきて、点呼を取るらしく、子どもたちを並ばせて名前を呼んでいる。
アンクルが玄関に向って、手を挙げた。男の子がひとり駆けだしてきて、アンクルに跳びついた。
陽焼けした顔に半袖シャツとソックスの白さがいかにも似合って身ぎれいな感じの少年だ。
「浩一じゃないの」
浩美は半信半疑で呟き、ダビトの顔を見た。ダビトは正面を向いて、素知らぬ顔をしている。
――浩一はロンドンにいるのではないのか。
アンクルは浩一については、なにも話してくれないので、浩美はなんとなく浩一がキティゴンと一緒にヨーロッパにいるもの、とおもいこんでいた。伯父の佐久間賢一も「どうも一時はバンコクのキティゴンの家にいたらしいが、キティゴンの母親の話じゃ、ロンドンに戻っているようだね」といっていたのである。
アンクルは少年を浩美によく見せるためか、子どもたちの群から連れだし、何事か話しかけながら、足もとのソックスを引っぱりあげたりしてやっている。
「浩一」
浩美は嗄《しわが》れ声で呼んだ。ほとんど同時に両側から手が出て、浩美の手をおさえた。モレナの手は友情をこめて、指を包むように握ってきたが、ダビトの手は飛びだすのを警戒するように手首をおさえている。
それぞれ方角の違うらしい、下校バスにフィリピン女性の指図で、子どもたちが次々と乗りこんでゆき、残っているのは、浩一たち数人の少年少女だけになった。
アンクルは浩一の手をひいて正門から出てきた。こちらへ浩一を連れてくるのか、と浩美は一瞬、心臓が破裂しそうな緊張感を味わった。
しかし正門の前に待っているトライシクルの青い幌の下から白い太い腕が出て、浩一を抱き取るように隣にすわらせた。幌の後ろには小窓しかなくて、内部が見えないが、白い腕の主はキティゴンではないか、と浩美はおもった。
赤と黒の縞の野球帽のような帽子をかぶった運転手がアンクルに手を挙げ、トライシクルは走りだした。幌の背面に描かれたEDDIEという赤い字、DASATAという緑色の字がどんどん遠ざかってゆく。
正門前の車も走りだし、行先表示のところに「MJS」、マニラ・ジャパニーズ・スクールの略字らしい文字を出したバスがその後を追うように次々と動きだした。
バスに追われるようにアンクルは車に戻ってきた。助手席にすわり、浩美を覗きこんだ。
「浩美さん、見てのとおりよ」
黙って涙を拭く浩美にいった。
「盗人にも、三分の理じゃねえが、おれもよ、浩一だけはなんとかしなくちゃいけねえ、とおもってよ、この日本人小学校の一年に、浩一を入れたんだよ。校長に浩一のパスポート見してよ、おれの甥《おい》っ子だけど、よろしくお願いしますってな」
アンクルは助手席から手を伸ばし、浩美の手を叩いた。
「浩一もキティゴンも初めはちいっと苦労してな、最初は母親がいねえから、靴下が色は白いけど左右揃ってねえ、とか、シャツをズボンの外にたらしてて、だらしがねえ、とか、うるせえ日本のママたちにいわれたもんだが、最近はPTAのママたちもよ、ちっとおとなしくなってきたみてえだよ」
そこで水田はダビトに向い、
「そろそろ、レッツゴーよ」
といった。
浩美の感情がおさまるのを見計らって、水田は、
「浩美さん、おれっちを信頼してくれ。おれはいつでも浩一をぽんとあんたに返せるようにしてあんだよ。だからよ、あと一年、時間、貸してくんねえかよ。このモレナのな、面倒見て欲しいんだよ」
アンクルの話によると、モレナはマニラ湾岸の漁師の娘だという。
日本のODAによる漁業振興プロジェクトは近代的底引き網漁業を奨励した。この底引き網漁業の発達は伝統的漁法に頼る、零細な漁師たちを追いつめた。モレナの父親もそのひとりで、父親は真剣に娘、モレナの身売りを考えた。その前に一度相談とおもい、地元の教会の神父に相談した。
神父はイタリアへの養女の件を紹介してくれ、モレナはイタリアへ行ったのだ、という。
「モレナはよ、貧乏な実家にも帰れねえし、喧嘩しちまったイタリアの養父のところへも帰れねえんだよ。だからなんとか食ってゆけるようにしてやりてえ、とおもってんだ。浩美さん、手伝ってくれや」
モレナは自分が話題になっているとわかるらしく、浩美の手を力を入れて握って放さない。
「モレナによ、日本語、教えて貰いてえのよ。北はな、将来、日本で働くのを条件にして、モレナを出国させたんだよ」
アンクルの言葉に浩美は不安になった。
「モレナにまさか、ラングーンの事件みたいな、危険な工作を組織させるんじゃないでしょうね」
「それはねえよ」
アンクルは首を振った。
「モレナはそんなタマじゃねえよ。日本のよ、横須賀あたりのバーで働かせてよ、なんか自衛隊の情報でも取らせんじゃねえか」
「それじゃ、スパイじゃないですか。やっぱり危険な行動でしょう」
「そうシリアスによ、考えることでもあんめえよ。たとえモレナがスパイの下っぱになるとしてもよ、モレナに日本語教えた浩美さんがひっくくられるわけはねえだろ。そんなこといいだしたら、家族はもちろん関係者ご一同、刑務所ゆきってことになって、いくつ刑務所があったって足りねえ話だよ」
いや、私の見てきた北朝鮮はそうなのだ。関係者ご一同、全員刑務所、という国なのだ、と浩美はおもったが、ここで反論しても仕方のない気がした。
マニラにやってきた大目的は、息子の浩一を取り返すことにある。そのためには時間稼ぎをしなくてはならない。浩一を取り返したら、警察か日本大使館に飛び込むのだ。ここは北の恐怖国家ではなく、法治国家であり、日本とも国交のある、開放された国なのだ。
結局、浩美はアンクルの依頼を引き受けて、モレナと一緒にユニオン・チャーチの傍にある、サルセド・ビレッジの安マンションに用意された、日本流にいえば2DKに住むことになった。
そして浩美はモレナに日本語を教え始めた。アンクルは日本人小学校から手に入れてきたらしい教科書や、マニラ市内パサイにある食料品店の一隅に置いてある日本の古雑誌、古本を買ってきて、教科書に使うように指示した。
マニラに来てから半年あまりが過ぎた。
浩美の身辺をめぐる警戒は相変らず厳重であった。サルセド・ビレッジのマンションには、ダビトとその配下らしい数人のフィリピン人が住んでいて、浩美とモレナの行動に絶えず眼を光らせている。モレナにいわせると、「このマンションに住んでいる連中は皆アンクルから小遣いを貰って、私たちを監視しているのよ」という。
たしかにマンションの管理人は、ふたりの出入りに眼を光らせ、ふたりの外出には二、三人の失業者のようなフィリピンの青年がべったり付き添ってくる。それでも浩美は半信半疑だったが、ある日、ダビトの体臭を真近に嗅いで、これはパトニーで目出し帽をかぶって自分を襲い、躰じゅうを探った男の体臭ではないか、とおもいあたった。
――これは暫く様子を見ざるを得ない。
浩美は観念した。
そんな中で浩美は午前中はモレナに日本語を教え、午後は監視役のゴム草履ばきのフィリピン青年たちと一緒に英語とタガログ語の勉強にユニオン・チャーチに通う。タガログ語を知らないと、買物など日常生活に差し支えるのだ。
アンクルは毎朝七時に電話をよこし、夕刻一度顔を出す。一カ月に一度はダビトの運転で、浩美は浩一を垣間見にゆくことを許されていた。生活費はアンクルが支給してくれる。
万事が小康を得て過ぎてゆくようにおもえた頃に、マルコスは大統領の繰り上げ選挙を決定した。
反マルコスのキャンペーンにモレナは熱中し、監視役ともども浩美を街頭デモや、リサール広場での集会に引っ張りだした。
フィリピンの政治情勢がおおきく変りそうなことは浩美にも理解できる。しかし黄色い小旗の波と潮騒のような歓声を聞いていると、それが浩美たちの人生にも再びおおきな変化をもたらすのではないか、という期待とも不安ともつかない感情が、浩美の胸に波立ってくるのである。
日本赤衛軍の、笹岡規也、水田清は、バンコクに赴き、北朝鮮側と打ち合わせ会議を開いた。
バンコクの下町の、朝鮮系中国人の家にゆくと、すでに|梁 美善《ヤン・ミーソン》、それからウイーンからやってきた|李 仲麟《リー・チユンリン》が待っていた。
「いやあ、皆さん、久しぷりたね」
お人好しの田舎のおっさん、というタイプの李は、真面目になつかしそうな顔をして、笹岡と水田に抱きついた。
水田は汗臭いシャツ姿の、やせた李の躰《からだ》をかかえて、田舎の親類に会ったような、なんだかなつかしくもあり、うっとうしくもあるような気分におちいったから妙なものであった。
「早速やけど、今日はお願いがあるんですわ」
席に着くやいなや、笹岡が切りだした。
「今度の翻訳作戦やけどな、どうもフィリピン国内の共産勢力とあんじょう共同作戦が組めまへんのや。もう日本の革新勢力と組んどるから、そちらへの義理からいっておたくとは組めまへん、いいよってな、よう話が転がらんのですわ。わが社としても弱っとりますのや」
日本赤衛軍はマルコス時代から、反政府共同戦線を敷こうと、笹岡を中心に、フィリピンの民《N》族|民主《D》戦|線《F》や、新人民《NPA》軍に接触してきた。しかし結果は無惨といってよく、「おたくのような過激なトロツキストと一緒に作戦を行うのは、われわれの主義に反する」と簡単に共闘を拒否され続けてきたのであった。
笹岡も閉口して、ついに北朝鮮の力を借りようと考えたのである。
「なんかいい知恵、具体的には人脈がありまへんやろかな」
梁美善が白檀《びやくだん》の扇子を使いながら、
「私には、ちゃんと|あて《ヽヽ》がありましてよ」
白々とした顔に汗も浮かべずにいった。
老け作りの必要がない、と考えたのか、今日は黒髪をワンレンに長く垂らし、白髪は一本も見えない。三十代そこそこの年に見えた。
「何年か前、ロンドンの私の家にね、フィリピンの新人民軍の将校がIRA(アイルランド共和国軍)の紹介で参りましてね、何日か泊ってゆきましたの。何でもIRAでゲリラ戦の訓練を受けた帰りだ、といっておりましたけど、ちゃんとした人物で、主人も大変信頼しておりますの。新人民軍も幹部はフィリピン大学を出たエリートが多いそうですけど、彼もフィリピンの東大出というタイプなんざんすよ」
「信頼できますかいな、その人物は」
「IRAの支援者の主人と、北朝鮮対外情報調査部の私が太鼓判を押しておりますのよ」
梁は自信に満ちた表情で、嘲るようにいった。
「新人民軍だって、ちゃんとした筋へあたれば、協力してくれますの。私、自信があります」
「新人民《NPA》軍と組めれば、そら、ありがたいわ」
窓を開け放った外は路地で、物売りの声が遠くで聞える。部屋の隅では、プロペラの羽根を赤く塗った扇風機が、ばたばた震えながら、まわっている。
扇風機が痰《たん》がつかえたみたいに、奇妙な音を立てて咳き込む度に、暑さが一層つのる感じだ。
「暗号名はミスタ・コロンブスと申します。早速、そちらへコンタクトさせますわ」
「お礼というわけやないけど、うちのほうからもひとつ明るいニュースがあるんやな」
笹岡は勿体《もつたい》ぶっていった。
「PFLPから貰《も》ろた情報なんやけどね、おたくの|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸ね、あのイランへ大砲運ぶ途中で捕まってしもうた船がありましたやろ。あの船をイラク側が使《つこ》とってね、近々、シンガポールへ高速ボートやら何かの受け取りにくるらしいんですわ」
李は口を開けて笹岡の顔を見ていたが、
「こら、たまけたね」
と呟いた。
「北朝鮮は、去年、ラファエル・サラザールの仲介で、イランにMIG19型戦闘機三機、T59型戦車を百台、売りましたやろ。それを北朝鮮最大のタンカー、二十三万トンの先鋒《ソウンポン》号でイランへ運んだ。帰りに油を運んで帰ってくるつもりが、去年の九月十九日にカーグ島でイラクの空襲に遭うて、先鋒号は沈められてしもうた、こういうことやったな」
ただでさえ、ろくに船腹のない北朝鮮は、妙香山丸を捕獲され、今度は先鋒号を失って大打撃を蒙った。油の補給にも大きな影響が出たし、イランに売った戦車も、まだ何十台か積み残しているらしい。
「ありかたい話たな。梁《ヤン》同志《トンチ》、ひとつ親愛なる指導者同志の許可をいたたいて、妙香山丸を取り返しましょう」
李は一心に梁に向っていった。
「だけど、どこでどうやって襲撃工作を組織するのかしらね」
梁は李のほうを見ずに呟いた。
「何やわからへんけど船長は韓国人なんやが、船員は中東のイスラム教徒ばっかりなんや。それで、来月のイスラムの祭日にはマレーシアのペナンに寄って、ペナンのモスクへお参りにゆくことになっとる、いうんやね。それがチャンスやろな」
「よろしいわ。この工作はあたくしが組織致しましょう。なんとしても妙香山丸は、取り戻して、親愛なる指導者同志をご安心させなくちゃね」
梁はまた自信ありげにいいきった。
「船はできれば、マニラに寄れんてすかな」
李がいいだした。
「マニラてね、ウィスキーや時計それに麻薬を積んで、共和国へ持って帰りたいんた」
「そら、水田同志、あんたが手配できるわな」
笹岡がいった。
「まあ、うちのキティゴンは顔が広いからよ、彼女の人脈を動員すれば、なんとかできっだろうけどね、戦車からウィスキーたあ、急に話のスケールが小さくなったね」
「いやね、われわれ、外におるものは、外貨集めに苦労しとるんたよ。ウィスキーや時計、麻薬を共和国に持ち帰って、ソ連へ運ぷ。ソ連にいる北の外交官や学生に闇て売らせてね、外貨稼くんた」
梁が顔を赤くして、
「李《リー》同志《トンチ》、そんな恥しい話は止して頂だい」
と怒鳴った。
梁は話題を逸《そ》らすように、
「話を戻しますけど、例の翻訳作戦のディテールはおきまりになりまして」
と訊ねた。
「まあ、日本企業もいろいろ出とりますからなあ」
笹岡が答えた。
「そのほかにも情報の取りかたとか人質を確保する場所とかな、問題はぎょうさんありましてな」
「情報工作については、こちらからお渡しした佐久間浩美とモレナをお使いになればよろしいじゃありませんの」
梁がいった。
「北朝鮮の人間はお国のため、といやあさ、動いてくれるんだろ。フィリピンの人間は金でよ、動いてくれるんかもしんねえな。だけど日本人てのは、国でも金でも駄目なんだよ。こう優しく説得してな、ほんとに共鳴してくれねえと、動いちゃくれねえんだ。そこが佐久間浩美のよ、難しいところよ」
水田はいった。
梁が水田のほうに向き直り、
「同志《トンチ》、佐久間浩美はまだ朝鮮民主主義人民共和国、国家保衛部の所属なんですのよ。国家保衛部の命令はきかなくちゃならない立場なのよ。私が協力の命令を出して貰います。保衛部の人間を派遣して貰います」
皆、黙りこんだ。
窓の外から歌詞をタイ語に替えた「骨まで愛して」の演歌が聞えてくる。
――浩美の奴は、北朝鮮に骨まで愛されちまうのかね。
水田は顔をしかめた。
船首にハングル文字で船名をかいたままの妙香山丸がペナン港を出港して二時間後、突然船倉から目出し帽で覆面した十数人の男が飛び出してきた。
拳銃と自動小銃で武装した一隊は、まず通信室に飛びこみ、居眠りしているアラブ人を拘束、すぐ北朝鮮の海軍の通信士が代りに通信手の席にすわった。ほぼ同時に船長ほか三人の韓国人高級船員が拘束され、船長室に押しこめられた。アラブ人の船員たちも次々にホールド・アップさせられ、船倉に収容された。
目出し帽をかぶった北朝鮮の対外情報調査部員らしい男が、
「ダビト、船員の連中は、ベトナム沖でボートに乗せて流しちまおうや。ボート・ピープルの仲間入りさせるんだよ」
英語で、手引き役を務めているダビトにいっている。
「ダビト、あんたはマニラで降りてくれ。韓国人の高級船員は北へのお土産に、連れて帰るよ」
妙香山丸はそのままマラッカ海峡を抜け、マニラに向った。
一九八六年二月二十五日夜、マルコスは二十年の独裁に終止符を打って、クラーク・フィールドの米軍基地からハワイへ亡命、ベニグノ・アキノの夫人、コラソン・アキノが新大統領に就任、フィリピン社会を揺るがした黄色の革命は一応の落着を見た。
数日後の夕刻、宮井物産マニラ支店長の湧谷昭生《わくたにあきお》は久しぶりに酒を飲みに街へ出た。着任して一年経ち、フィリピンの正装、バロン・タガログもすっかり板についている。湧谷の支店長車は人目に立つ黄色いベンツであった。
湧谷は運転手のノノイに向い、
「おれはミセス・アキノの大統領就任前から、コリー・カラーの車に乗ってるよ」
と自慢していたが、ロンドンで乗ったイラン石油公社の黄色いロールス・ロイスのイメージがどこかに残っていて、湧谷にこの車を選ばせたのかもしれなかった。
細君の和子は「少し派手過ぎないかしら」といったが、黄色いベンツに乗っているのはライバル会社の岩崎商事の支店長もおなじで、当時はごく当然のことだったのである。
例によって、湧谷は右手を黒いズボンのポケットに入れ、左手をひょいと上げて、行きつけのマカティのクラブ「花蓮《かれん》」に入っていった。
ソファにゆったりとすわって、右足を上にして組む。まずビールを一杯飲み、次にレミー・マルタンのVSOPを水割りで飲むのが湧谷の習慣で、店の連中はそれをよく知っているから、すぐにサン・ミゲールのビールを運んできた。
「グッドイブニング、ミスタ・ワクタニ」
湧谷がいつも指名しているリサが出てきて、隣にすわった。
湧谷の好みは「花蓮」でも、マビーニの「京《きよう》」でも、髪が長く背が高く、中国系色白の、品がよくてシャイな女性、と相場が決っている。
「ワクタニ」
隣席との間に置かれた観葉植物の向うから、大きな声が上った。
観葉植物の間から顔を出している男の、鼻下の口髭とぽってりと生々しく赤い唇に見覚えがあった。
湧谷は男の顔を指差したまま、一瞬絶句し、次の瞬間、
「キルス」
と叫んだ。
イラン石油公団のキルス・ファヒムであった。
キルスは観葉植物の鉢の間からこちらの席に入ってきて、おおきく手を拡げた。勢いに釣られて、湧谷も立ちあがり、キルスと抱き合った。
キルスのつけているアラミスの強烈な匂いを嗅ぎながら、湧谷は「おれはこの男にはめられそうになったんじゃないか」とおもった。
しかしキルスはなんの屈託も見せずに正面から湧谷をみつめた。
「元気そうじゃないか。テヘランよりマニラのほうが快適かね」
という。天井を仰いで、
「こういうクラブはテヘランにはないしな。おまけにこういう美人もいるし」
リサにちらりと眼をやっていう。
「テヘランから東京に帰るときは、ろくに挨拶もできなくて、失礼した」
大砲騒ぎはおくびにも出さず、湧谷はそういって、軽く頭を下げた。
「戦争してるんだから、仕方ないな」
キルスは肩をすくめてみせた。
「それに、日本の会社ってのは、辞令が出ると、その日のうちに任地へゆかなきゃいけないんだろ」
そこでキルスは再び湧谷の肩を抱き、耳もとに口を寄せてきた。
「おれはロンドンからテヘランに戻ってな、ここへ石油を売りにきてるんだが、話はむろんそれだけじゃない。どこか人目につかない場所で、明日話をしたいんだが、適当な場所はないかね」
また|きなくさい《ヽヽヽヽヽ》話を持ちこまれそうな予感がしたが、湧谷の肩を抱くキルスの手には力が入っていて、有無をいわせない感じである。
「そうだな、ロハス通りのフィリピン文化センターの前に、レガスピー・タワー300というコンドミニアムがある。そこで会おうか」
湧谷は卓上のコースターを拾い、そこに場所と部屋の番号を書いた。
レガスピー・タワー300という、豪華なコンドミニアムに、湧谷は部下の長田に内密に命じて部屋を借りさせてある。その部屋を密談の場所に指定したのである。
まもなく湧谷はマビーニの「京」に移ることにして、店を出たが、席を立つとき、キルスがまた近寄ってきた。
「今度はフィオーナも一緒にきてるよ。ワクタニ、ワクタニとしょっちゅうあんたのことを話題にしてるから、会ってやってくれよ」
と囁いた。
湧谷は午後十時過ぎ、ダスマリナス・ビレッジゲートを通り、サイプレス・ロードにある自宅に帰り着いた。
湧谷の借りている家は、フォルベスパークに住むタングレという大家の趣味なのだろうか、ダスマリナスという、高級住宅地にありながら、珍しく塀のない家である。車道から狭い芝生の斜面が上っていて、そこにいきなり家が建っている。
斜面を利用した車庫があり、その上が夫婦の寝室で、大きなガラス窓が道路に向けて、開いている。ゲートと塀に囲まれた高級住宅地の奥にあるとはいうものの、不用心といえばまことに不用心な家で、道路からボールでも投げこむように、ひょいと手榴弾を投げこめば、寝室は湧谷夫婦もろとも簡単に木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になってしまう。
さすがに会社の総務も心配して、ガードマンを雇って家の前に立たせていた。
黄色いベンツから降りた湧谷は、顔馴染みの、アーシーというガードマンに「よう」と手をあげ、石段を上って玄関に入った。白い制服を着た、肥ったメイドのティナが観音開きのドアを開けてくれる。
観音開きの玄関の向うは、大理石の玄関ホールになっており、三段ほどの階段があって、応接間になっている。
湧谷はソファに腰をおろし、出てきた細君の和子に、
「番茶をくれねえか」
といった。
和子は料理専門のメイドのティナに、
「日本茶、お願いね」
と日本語で命じてから、声をひそめた。
「もうひとりの若いメイドね、あの子、問題があるのよ」
そういって庭を指差した。この家は敷地三百坪ほどだが、庭に変形六角形のプールがあり、プールの底に照明が点《つ》いていて、明るい水面に庭の木々の影が映っている。
「あの娘《こ》ったら、庭を手入れにきてるガードナーにね、煙草をバラ売りしてるのよ。私、今日、初めて見つけちゃったんだけど」
「よっぽど金に困ってんだろう。給料、上げてやりゃあ、いいじゃないか」
湧谷はいった。
「お給料の問題じゃあないのよ。私、メイドはきちんとしていて欲しいの。家のなかで変テコな商売なんかされたら、たまらないわ。メイドがガードナーに煙草のバラ売りするなんて、みみっちい話じゃない」
「しかしマニラじゃ、煙草はバラ売りのほうが多いんじゃないか」
車が渋滞して停まる度に、少年少女が車に走り寄ってきて、バラ売りの煙草を買ってくれ、とせがむ。一本買うと、マッチを貸してくれて、火をつける仕組みだ。街のサリサリ・ストアと呼ばれる雑貨屋でも、煙草はバラ売り、シャンプーも一袋ずつのバラ売り、なんでもバラ売りなのである。
――変テコな商売か。
先刻、「花蓮」でキルスと出会ったことを湧谷はおもいだしていた。
マニラへ赴任してくる前、母校の両国高校の同級生と酒を飲んだが、その席上、湧谷は、
「おまえさんたち、いくら威張ったって、おれに敵《かな》わねえことがひとつあるぞ。会社に辞表を出したやつはこのなかにいないだろう」
そう妙な自慢をしたものだったが、キルスと商売の上で絡むと、また辞表を出さなくてはならぬことになりはしないか。
「ロンドンにいたO脚の、あの安原伸彦をマニラに呼ぼうかとおもうんだよ」
ティナの出してくれた番茶をすすりながら、湧谷はいった。
あいつは動きが早くて頼りになる、それにテヘランの一件を気にしているから、名誉回復のチャンスを与えてやらにゃあいかん、と湧谷はおもった。
ケソン市はマニラから車で三十分の距離にある。
ケソン市の地中海料理屋の個室で、水田は笹岡、ダビトと一緒にサン・ミゲールを飲みながら、北朝鮮の|李 仲麟《リー・チユンリン》を待っていた。
「ダビト、ユーは、新人民《NPA》軍とはつきあいがなかったか」
笹岡が訊いた。
「おれはミンダナオ島のモロ民族解放戦線にいたんだが、あれはイスラム教徒の独立運動の組織でね、NPAには縁がなかったよ」
ダビトは苦笑して答えた。
「やあやあ、とうも遅れたな、マニラの渋滞《ちゆうたい》はすこいな。道路か広くて、道の空《す》いている平壌かなつかしいよ」
大きな声を出しながら、個室へ李が男を伴って入ってきた。
「このひと、梁《ヤン》同志《トンチ》が紹介してくたさったミスタ・コロンプスよ」
李の背後から体格のいい男が現れ、よく響く声で、
「コロンブスです。皆さんとお目にかかれて光栄です」
と名乗った。
ミスタ・コロンブスは、フィリピン新人民軍、つまり共産ゲリラのマニラ・リカール地区幹部ということだが、まるで銀行家のようなタイプの人物であった。鼻が高く、口髭をたくわえ、黒縁の眼鏡をかけている。髪もきちんとオール・バックにしていて、アイロンのかかったバナナ繊維のバロン・タガログに、折り目のぴしっと入った黒いズボンを穿《は》いている。靴も光っていて、手にはアタッシェ・ケースを下げていた。
――新人民軍の幹部ともなると、こういうインテリが指揮してんだろうな。
水田はすっかり感じ入った。
「ミスタ・コロンプスはIRA(アイルランド共和国軍)で、ケリラのね、訓練を受けている。非常に優秀な成績たったそうたよ」
李が説明し、笹岡、水田、そしてダビトは次々とコロンブスと握手をした。
ダビトは、
「昔、ミンダナオのモロ民族解放戦線におりました。十年前からPFLP(パレスチナ解放人民戦線)で働いております」
緊張して自己紹介した。
「|モロ《M》民族《N》解放《L》戦線《F》か。あそこにも友人は多いよ」
コロンブスは好意的な態度でダビトの手を握った。
すぐに具体的な会議になった。
「日本赤衛軍としてはや、新人民《NPA》軍の力を借りて、ここで反日本帝国主義打倒の作戦を組織したいんや。ターゲットは日本企業の支店長やね。支店長を誘拐してうまいこと日本の本社を引きだしてな、身代金《ランサム》を獲得して、革命の資金に充《あ》てたいんや」
話は梁からすでに通じているらしく、コロンブスは、
「わが、フィリピン新人民軍は日本赤衛軍と共同作戦を組織する用意があります」
即座に上手な英語で答えた。
「われわれにとっての敵《ヽ》、すなわちフィリピン政府に味方するものはすべて敵であり、今後、フィリピン政府に味方する日本の進出企業や日本人がわれわれの攻撃を受けることになっても、その責任は日本政府にある、わがフィリピン新人民軍は去年、そういうステイトメントを発表しているんです」
フィリピン新人民軍は一九六九年三月、ルソン島中部のタルラック州の農村で創設された。
ゲリラの総司令官は本名ベルナベ・ブスカイノ、通称ダンテと呼ばれる人物で、イタリアの詩人ダンテの詩集を所有していて、逮捕されたところからその名がある。総勢力二千人から四千人という兵力で、マルコス政権下の各地で反政府のゲリラ戦を行なってきた。しかし実質上の指導者は国立のフィリピン大学を首席で卒業、文化大革命下の中国を訪れて、毛沢東思想の強い影響を受けたホセ・マリア・シソンといわれる。
フィリピン新人民軍は毛沢東主義を忠実に奉じて、農村部での武力闘争を中心に反政府闘争を行なってきた。「革命税」の徴収と称して、企業を脅しては革命資金を調達、地方に工場を持つ日本企業も、このNPAの「革命税」の支払いに応じている、という。また地方の要人を誘拐しては身代金を獲得しており、日本企業の支店長誘拐の「翻訳作戦」を目論む日本赤衛軍としては、コンビを組む恰好の相手であった。
「アキノ政権はNPAとの妥協を考えているようだが、彼女自身が広大な農園を所有し、戦車まである私兵の軍隊を持っている。アキノ政権との妥協は危険だ。われわれはマルコス時代同様、武力闘争を推し進めるつもりです」
コロンブスはぼそぼそとそんなことを語ってから、
「ターゲットはどこになりますか」
と訊ねた。
「いや、まだ決定しとらんのです」
笹岡は首を振った。
「われわれの側からいうと、丸商でしょうな。マルコスに徹底的に密着してきた。何年か前の丸商の支店長のワイフはイメルダに貰った靴を得意になって履いていたそうですしね、フィリピン政府や財閥にも大分、金を贈っているという噂も流れています」
「そういう反政府的問題も大事やけど、もうひとつは襲いやすい相手を選ぶ、いうことが大事やないかな。翻訳作戦の目的は革命税とおなじで、第一目的は資金獲得にあるんやからね」
笹岡がいった。
これは日本赤衛軍にとって資金を獲得して、それを革命に翻訳する作戦なのである。
「お互い資金獲得が第一の目標やからね、犯行予告も犯行声明も行なわない、よろしゅうおますな」
「結構だ」
コロンブスが頷《うなず》いた。
「われわれもNPAの犯行と疑われては困る。フィリピンは政治がわるく、治安のわるい国とおもわせれば、それでいいんですよ」
「日本の支店長はよ、全部、高級ビレッジに住んでんだよな。新人民軍が協力してくれるときまったんだから、早速、下検分とゆこうや。ガードマンにめっからねえようにな」
水田は口を挟んだ。
「ガードマンは、まあ、どうにでもなるけどな」
日本語が大分わかるダビトが註釈をつけた。
コロンブスは、眼鏡を押しあげて、
「全体のヘッド・クォーターはミスター・ササオカがやるとして、情報班、実行班、監禁班、交渉班などの組織をきめなくちゃならん」
といった。
レガスピー・タワー300は二十一階建て、全体をベージュ色に塗った巨大なコンドミニアムである。全体のデザインから受ける印象は、茶色に塗った、赤坂プリンスホテルと形容できるかもしれない。
コンドミニアム一階のロビーは、豪華な感じの吹き抜けになっていて、草月流のオブジェのような、丈の高い造形芸術が、植木鉢から巨大な花弁のように開いたガラスのなかに納まっている。
このロビーに入ると、ここはマニラでなく、アメリカ南部のどこか、アトランタあたりにでもいる気分になってくる。
湧谷昭生は午後三時少し前にレガスピー・タワーの、宮井物産の長田の名前で借りている部屋に入った。
お国柄で、政治、経済にまつわる密談、代父、代母としての就職、結婚の相談、そして情事もさかんに横行するから、こういう場所を買ったり、借りたりする必要性も多く、このコンドミニアムに住みついている住人は半分くらいのものであった。
湧谷は部屋に入ると、窓を開け放ち、プロペラを青く塗った扇風機をまわした。むろん冷房も完備しているが、このほうが気分がいい。グリーンの大理石を貼ったシステム・キッチンで、湧谷は自分で湯を沸かし、コーヒーの準備をした。
午後三時過ぎにチャイムが鳴り、念のためドアの覗き穴から眺めてみると、サングラスをかけた女が立っている。こちらの気配を察したのか、女はサングラスを外して、艶然と微笑した。金髪、白人の美女である。
「フィオーナ!」
湧谷は叫んで、ドアを開けた。
キルスの四番目の許婚《いいなずけ》、というフィオーナが飛びこんできて、湧谷に抱きついた。
「ワクタニ、なにもいわずにイランから帰ってしまって、ひどいじゃないの」
フィオーナは耳もとで、湧谷を非難する口調である。
「キルスが話したはずだとおもってたよ。なかなかしんどいことがあってさ、逃げださざるを得なかったんだ」
湧谷はフィオーナをかかえるようにして、広いレセプションに招じ入れた。
「それにしても、手紙くらいくれてもいいじゃないの」
驚いたことに、ペルシャ美人は空色の眼にうっすら涙を浮かべている。
――キム・ノヴァクのようだ。
と湧谷はおもった。
昔、キム・ノヴァクという、アメリカの女優がいて、「|夢 見る 瞳《フアーラウエイ・アイズ》」の持主といわれたものだったが、イランは中東のなかで、アラブ系ではないペルシャ系の民族だから、フィオーナのように色白で、「夢見る瞳」の持主が少くないのである。
白と黒の獣皮のような布を貼った応接セットにすわって、湧谷は、
「いや、失礼した。しかしね、キルスに聞いただろうが、おれは鉄のパイプをイギリスから輸入した。ところがこれがじつはパイプに見せかけた大砲でさ、しかも途中で船ごとイラクに横取りされちまったんです。イラクに横取りされちゃあ、責任上テヘランにいられないやね。おれはほとんどなにも持たずに逃げだしたってわけだよ」
「じゃあ、ワクタニは私とのつきあいも、ビジネスのうちだったの。仕事が駄目になったから、私とのおつきあいもお終い、手紙もくれない、こういうことだったの」
「そういうわけじゃねえけど、弱っちまうな」
湧谷は閉口して顎を掻いた。正直なところ、フィオーナについては、商売六分、私的な興味四分、という気持だったのだ。なによりフィオーナは商売相手の四番目の妻になる、という女なのである。
「マニラはテヘランと比べて暑いわね。ワック、シャワー浴びていいかしら」
「ああ、いいよ。ここのバスルームはちょいと豪勢なんだ」
湧谷は一瞬ひるんだが、まもなくキルスがやってくるもの、と信じていたから、むしろこの豪華なコンドミニアムの浴室を見せたくて、いそいそとフィオーナを浴室に案内した。
浴室はベージュに花模様をあしらった大理石造りで、大理石の階段を三段昇ったところにバスタブがあり、まるでビバリー・ヒルズの豪邸にでもありそうな成金趣味のデザインであった。
「ま、ちょいと趣味がわるいけど、新しいところが取り柄さ」
湧谷はフィオーナを案内したあと、台所へ行って、コーヒーを三人前入れて、応接間のテーブルに運んだ。
ふと遠くでかすかにドアの開く音がしたが、そのまま家のなかが急に静まり返った。レースのカーテンに扇風機の風があたってひらひらと翻っている。湧谷は家の中がいやに静かになったため落ち着かない気分になり、フィオーナのやつ、化粧が長いな、とおもった。
視野の端に白いものが映ったような気がして、そちらへ眼を向けると、フィオーナが白いタオルを躰に巻いただけの裸で立っている。
「そんなに暑いか、フィオーナ」
少し妙な気はしたが、湧谷はキルスが追い追いやってくるものとまだおもいこんでいたので、そういって、傍らの椅子を勧めた。
椅子にすわったフィオーナは床の一点をみつめ、
「今日、キルスはこないの。キルスが、おまえ、おれの代りにワクタニに話してくれ、そう頼んだのよ」
と呟くようにいった。
「へえ」と湧谷はおもい、むきだしのフィオーナの肩がまぶしくて、眼をしばたたいた。
「私がね、これからお話しすることをあなたは、またビジネスというかもしれないけど、これはビジネスではなくて、愛国心の問題なのよ。私はイランに対する愛情から引き受けたの」
フィオーナはそういいながら、足を組んだ。タオルの端がめくれ、白い膝頭がのぞいた。
「ワクタニも一年四カ月前までテヘランにいたからよく知っているけれど、イランはイラクに比べて空軍力が弱いでしょう」
イランは戦争の前のイラン革命の際、反革命分子として空軍将校、技術将校を大量に処刑してしまった。そのため、イラン・イラク戦争の開戦後、空軍力では終始イラクに押され気味であった。
昨年の一九八五年三月には、イラクはついにイラン領空全域を戦争空域に指定、それまで互いに自粛してきた首都爆撃を再開、テヘラン大空襲を実施した。テヘラン大空襲を契機に、イラン在留日本人二百六十人が国外に脱出したのは、いまだに湧谷の記憶に新しい。
「おれはトイレのなかが柱が多くて一番安全だってんで、空襲がありゃ、トイレに飛びこんでいたが、ほんの何カ月かの違いで、トイレで死なずにすんだのかもしれないよな」
湘南の自宅で湧谷は細君の和子にそういったりしたものであった。
イランは米国からひそかに武器の輸入を企図したが、人質事件を抱える米国はイランへの武器禁輸を提唱しており、直接輸入の交渉に応じるわけにゆかない。
しかし人質解放のために手を拱《こまね》いているわけにもいかず、米国は人質解放の代償のためにイランの要求に応じて、第三国を経由して内密にイラン向けの武器輸出を探った。この人質解放目的の苦肉の策の武器輸出が、のちに「イラン・ゲート」として|醜 聞《スキヤンダル》に発展するのである。
「それでね、マルコス大統領のときにね、まあ、直接の交渉相手はベール参謀総長だったんだけど、イランは、というよりキルスはフィリピン政府と話をつけたのよ。米国から新しい武器をいったんフィリピンに入れて、フィリピンからイランに持ちこむって手筈にした。その代りフィリピンには、それもベールになんだけれども、商売の出来高の五パーセントを払うって話だったの」
湧谷には、話のポイントがすぐにぴんときた。
「ところがマルコスもベールも国外に追放されちまった。おかげでフィリピン経由の武器の商談も宙に浮いちまったわけだ」
フィオーナは頷いた。
「それで、宮井に肩代りをしてくれってわけか。いったいどんな武器をイランは買おうとしてるんだ」
フィオーナは眼をつぶって天井へ顔を向けた。
「もう武器はフィリピンには入っているのよ。TOWというミサイルなの。Tはチューブ・ローンチド(筒発射)の略ね、Oはオプティカリー・トラックド(視力追跡)かな、Wはワイヤー・ガイデッド(有線誘導)の略なんだったとおもうわ。要するにね、ミサイルに電線つけてヘリコプターから射つのよ。射ってから、電線使ってパイロットが上空からミサイルを誘導するのよ。イラクの戦車なんか全滅らしいわ。これ使えば、犬使って兎を追うより簡単なんだって」
「ひもつきのミサイルか。鯨捕りの大砲みたいだな」
湧谷は呟いた。
フィオーナはじっと湧谷の顔をみつめている。ゆっくり立ちあがって、腋《わき》の下に挟んでいたタオルをぱっと外した。
ペルシャ人特有の透きとおるように白い細身の裸体が現れた。ピンク色の乳首が挑発するように、湧谷の眼の前で震えている。視野の底で、金茶色の、ひとふさの毛が扇風機の風にそよいでいた。
「フィオーナ、ちょっと祖国を愛し過ぎてるんじゃないかな」
湧谷はいった。
「この前はイランに大砲輸出しそうになって危うく馘《くび》さ。今度、ミサイルときちゃ、こりゃ確実に馘よ。おれだけじゃなくて、役員の首が全部飛ぶだろうよ」
湧谷は足もとのタオルを拾い、両手をおおきく広げて、すっぽりフィオーナの裸体にかぶせた。
「そんな危ねえ話は、丸商だろうが岩崎商事だろうが、どこの日本企業へ持ちこんでも無駄よ」
そういってタオルをおおったまま、フィオーナの頬にキスをした。
フィオーナは暫く躰を湧谷に預けていたが、もう一度湧谷に促されて、叱られた少女のように鼻の下を指でこすり、眼を伏せたまま、部屋を出て行った。
湧谷はフィオーナの白い背中と歩く度に揺れる白い尻を眺め、
「いくらおれの趣味といったって、ミサイルと引き換えは割に合わないよなあ」
と首を振った。
「イランは|けんのん《ヽヽヽヽ》だな。まあ、せいぜい頑張って『花蓮』のリサや『京』のジョアンナあたりで我慢しとくってこったろうよ」
去年辞表を出しているのだから、今年もう一度出すわけにはゆかない。
「毎年、辞表出してちゃ、そのうち、相手も受け取る気になっちまうかもしれねえものな」
湧谷は呟いた。
日本赤衛軍の水田は、日本人会や日本商工会議所にゆき、日本の雑誌ジャーナリストと称して、日本企業の支店長社宅の住所を調べだした。
どこにも気さくなフィリピン人の女性事務員がいて、簡単に住所を教えてくれた。まるで無警戒である。
土曜の午後、水田は笹岡と一緒にきちんとバロン・タガログを着こみ新しく雇ったフィリピン人の運転手に借り物の紺のベンツを運転させ、日本人の支店長の家を見てまわった。
脇には佐久間浩美の息子、浩一を乗せていた。浩一には、あとでフィリピンの名物、世界一おおきな蝶を採りにゆこう、と約束しており、浩一は虫捕り網と虫籠を大事そうにかかえている。
「小父さん、ちょっとこの先に、ご用があってよ、ぐるっとひとまわりしていくからよ、三十分だけ我慢しろよ」
そういって、まず高級住宅地、フォルベスパークにある岩崎商事の支店長宅を見に行った。
フォルベスパークは壁に囲まれた高級住宅地で、ゲートの入口で、出入りする車はガードマンにチェックされる。
このビレッジの住人は、フロント・グラスにビレッジの管理事務所から交付されたスティッカーを貼る規則になっており、貼っていない車は「どこの家を訪ねるか」などとゲートでチェックされる。さらにガードマンは、訪問先の家に電話を入れて約束の有無を確認したりする。タクシー運転手の場合は免許証をゲートに預けないと、中に入れない。
水田の車は高級車のベンツで、しかも運転手に都合させてきたフォルベスパークのスティッカーが貼ってあったので、なんのチェックも受けなかった。助手席に捕虫網をかかえてすわっている浩一の存在も効き目があったようであった。
岩崎の支店長宅は古い家で、比較的奥まったところに家が建っている。ガードマンが門の前にすわりこみ、帽子のつばを鼻の上までずらして、あくびをしていた。
次にフォルベスパークに比肩する高級住宅地ダスマリナスに行ったが、ここのゲートでも、ベンツと浩一が効果を発揮した。
ダスマリナスのサイプレス・ロードに宮井物産の支店長宅はあったが、この家は不用心なことに塀がない。
「えらい不用心な家だぜ、こいつは」
水田は驚いて呟いた。
「しかも入口が三つもありますわ」
笹岡がいった。
道路から数歩入ったところに、いきなり家が建っている。しかもざっと見たところで、正面に三カ所、出入口がある。正面の、石段を十段ほど昇ったところが玄関だが、その脇がガレージで、ガレージの奥にドアがある。さらに右手の敷地の端、勝手口らしい場所に細い階段がついている。
車を道路の反対側に停めて眺めたのだが、二台入るガレージのなかに、やはりガードマンらしい男がいて、こちらも木の腰かけにすわって、ぼんやりこちらを眺めている。
すぐに車を出したが、水田は、
「ここらはたしかによ、わしらの住んでるパラニャケあたりに比べれば、高級住宅地ってこったろうが、しかし案外、日帝《ヽヽ》もけちな家に住んどるよなあ」
そう感嘆したようにいった。
「わしは全然縁がねえけどよ、今日見た二軒とも東京の田園調布あたりに持ってっても、ちんけな家のほうにへえるんじゃねえか」
「あんたは関西を知らんから、田園調布なんて持ちだすのやろが、ま、関西の芦屋や御影《みかげ》に比べたら、この辺は話にならへんな。芦屋の辺やったら、こない貧相な家は探すのに苦労するわ」
笹岡はなんだか小馬鹿にしたようにいう。
「日帝、日帝といったって、あんまりてえしたことはねえな。なんだか、がっかりするぜ」
マニラの大部分があまりに貧しいために、この高級ビレッジがいかにも豪華に映るが、仔細に眺めると、そんなに豪華な家ばかりではない。日本の高級住宅地とそんなに変るわけではなく、そのなかでは、岩崎、宮井とも支店長社宅は、古くて、小さいほうであった。
「浩一、待たせたな」
水田はいい、運転手に向って、
「ジャパニーズ・スクール」
といった。
「小父さん、今日は頑張ってヨナクニサンを絶対一匹は捕るからね」
浩一はいった。
フィリピンには、ヨナクニサンという原産地が与那国島の世界最大の蝶が生息している。
羽根を広げた幅が二十五センチぐらいだというが、虫が嫌いな水田には、この蝶が低空をバサバサと音を立てて飛ぶと、まるで烏《からす》みたいに大きく感じられた。この蝶は日本人学校の校庭、それも砂場の近くにある「碁盤《ごばん》の足《あし》」という木の葉が好物で、この葉を食って育つのだ、という。日本人小学校の生徒の間ではこの蝶を捕まえるのが流行《はや》りのようになっていた。
フィリピンの夏、五月、六月の間に出現するので、今はちょうどこの蝶の乱舞する、最盛期に入っていた。
日本人学校の前で、浩一は車を降りると、玄関ホールを通り、中庭の砂場のほうへ駆け出して行った。
「新人民《NPA》軍のコロンブスは丸商にターゲットをしぼっとるわけやね。あれは丸商がマルコスと縁が深かったこともあるんやけど、丸商の支店長宅は単身赴任でその分、ソフトやともいうんや。家族がおると、いろいろハードで面倒やいうんや」
笹岡はいった。
ハード・ターゲット、ソフト・ターゲットとは一種の犯罪用語で、ハード・ターゲットは狙い難い目標を意味し、ソフト・ターゲットは狙い易い目標を意味する。
「コロンブスは押しこみを働く場合のことを考えてんだろうけどよ、マンションに押しこむのは、ビレッジに押しこむよりハードなんじゃねえか」
水田はいった。
「そのとおりや。それに、ターゲットがマンションに住んでたら情報取れへんがな。情報取りやすいか、取りにくいかという意味でいうたら、マンションよりビレッジ、ビレッジでも岩崎より宮井のほうが取りやすいんやないか」
「塀がなくてよ、入口が三つもありゃ、人が出入りしやすいよな」
「ターゲットの行動が三つの口から洩れてくるいうことやね。ガレージのなかで雑談かてできるし、勝手口でメイドに聞きこみしてもええ、万事、情報が取りやすいやろ」
日本人学校の正面の建物は音楽室で、砂場はこの建物の裏の中庭にある。その中庭で、蝶を追う浩一ともうひとりの少年が時々捕虫網を持って暗い玄関ホールの向うにちらちらと現れる。
捕虫網の先に極彩色の蝶の舞うのが見え、少年たちがそれを追う風景は、昔水田が絵本で見た昆虫採集の挿し絵そのものだった。
――浩一もいいおうちのお坊ちゃまだぜ。おれは子どもの頃、蝶々なんぞ、追っかけたこともねえや。
水田はそうおもい、苦い唾のような感情が胸のなかを拡がってゆくのを覚えた。
浩美を連れてきて、こっそりこの風景を見せてやるか、とおもった。
「タホ売りいうたかね、フィリピンの豆腐売りにダビトを化けさせて、宮井の家に接触させるかな」
笹岡は呟いた。
タホとはヨーグルトのような豆腐に黒の蜜をかけた菓子の一種で、タホ売りとは天秤棒に金桶を下げ、鈴をチリチリと鳴らして、学校の傍、住宅街をこの豆腐を売ってまわる物売りのことである。
「小父さん、ぼく、とうとうヨナクニサンを捕まえたよ」
まもなく浩一がばたばたと息せききって、車へ走ってきた。
捕虫網のなかには、ほんとうに大人の両の手のひらを広げたくらいもある、巨大な蝶がばたばたと暴れている。茶色の地にクリーム色の斑点が浮き出した羽根は、まるで漫画のバットマンのマントのように先端が気味わるくとがっていた。
「これは蝶々のお化けじゃねえか」
と水田は気持のわるさに肌が粟立つ気分になった。おろおろと手をだしかねて、
「小父さんはよ、虫とは相性がわるいんだよ。弱っちまったな、キティゴンの小母さん、連れてくりゃよかったよな」
と逃げ腰になった。
「小父さんに貸してみな」
笹岡が出てゆき、捕虫網を器用にたぐって、蝶を虫籠に追いこんだ。
「やっぱり京都大学中退はよ、蝶よ花よの優雅な少年時代送ったんだよな」
水田は屈折した表情でそう絡んだ。
「おじさん、この芋虫《いもむし》もとってきたよ」
浩一は半ズボンのポケットからひょいと葉巻のようにふとい芋虫を手掴みで取りだして、水田を飛びあがらせた。
「これ、理科の観察の宿題なんだ。この芋虫が卵みたいにでかい|さなぎ《ヽヽヽ》をつくってヨナクニサンになるんだよ」
空の一角で稲妻が走った。本格的な雨期が到来しつつあった。
安原伸彦に六月一日付で、宮井物産マニラ支店、鉄鋼担当の辞令が下りた。
ロンドン支店にいた森勇平が東京本店鉄鋼本部薄板営業部に帰ってきているので、森に付き添われて、鉄鋼本部長の屋敷正二の所に挨拶にいった。
「マニラはチャンスなんだ」
屋敷は重役室の回転椅子を揺らしながら、上機嫌であった。
「知ってのとおり、マニラは長年丸商の時代が続いてな、ほかの商社はあんまり商売させて貰えなかった。なにしろ丸商はオフィスまで、マルコス側近のベネディクトのビルに入ってたしな」
屋敷はいった。
「しかしマルコスが追放されて、アキノの時代になった。丸商も必死でしのごうとするだろうが、とにかくこっちにとってチャンスはチャンスよ。湧谷がこの際、ひとり増員してくれ、頑張りたい、というんでな、そこの森とも相談して、全員一致ご指名が君にかかったのさ」
「伺うところでは、岩崎商事も鉄鋼担当は三名なのに、うちは私が参りますと、五名になるそうで、おおいに頑張らなくちゃいけない、とおもっている次第であります」
「うちのマニラ支店は代々鉄鋼から支店長出している店だしな、ここらで、さすが鉄の店といわれるだけの実績が欲しいやな」
屋敷は椅子を揺らすのを止め、ちょっと真面目な顔になった。
「マルコスからアキノさんに替ったし、おまけに円高ときてる。おおいに頑張りどきだ。この前のイランとの商売なんぞは、向う傷だよ。向う傷は恐れるなってこった。羹《あつもの》に懲《こ》りて膾《なます》を吹くってのがいちばん困るぞ、そうだろ、馬平」
屋敷は森に同意を求めた。
「まあ、今度は鉄壁のコンビができるわけですから、心配は要らんですたい」
馬平こと森勇平は調子よく取りなしてくれる。
役員室を出ると、森が、
「本部長はああいわれるが、チャンスとピンチは紙一重《かみひとえ》ちゅうこつもあるけん、あんまりハッスルせんほうがよかたい」
と囁いた。
「たとえば例のODA絡みの火力発電所のカランサ|T《ワン》な、マルコス時代に重電機部が作ったんだが、あれは問題が多かとよ。マデーロいうブローカーが間に入っとってな、それにリベート払うことになっとった。ところがアキノ政権になって、汚職の追及が厳しくなりよって、うちとしてもようリベートは払えんですたい。そういうたって、相手はわかったとはいわんわな」
「困った話でありますな」
「まあ、アキノの時代になれば、すべて事情も変る。だから逆に神経使わんとあかんたい。ドライにゆき過ぎないのが肝心ですばい」
アキノの時代になり、チャンス到来とばかりあまり有頂天になると、足もとをすくわれるぞ、と森はいうのであった。
その数日後、佐久間賢一が、上京していた金林忠清と一緒に、濠端のホテルで、安原伸彦送別の昼食会を催してくれた。
久しぶりに顔を合わせた佐久間賢一は、北朝鮮の体験が骨身にこたえて、一時は体調をくずし、家に引きこもっていたというが、大分生気を取り戻した表情である。
「あなたがアジアで働くってことになると、どこかで浩美と顔を合わせるかもしれんな。浩美はアジアのどこかにいるんじゃないか、と私は見てるんだよ」
賢一はいった。
この一年余の間に、佐久間浩美から賢一宛には一回、上海から絵葉書がきたきりであった。その絵葉書を受け取ったとき、賢一は伸彦に電話をくれて、内容を読みあげてくれた。
内容は型どおりで、「自分が元気なこと、浩一もすぐ近くにいて元気なこと、そして機会があれば、伸彦にくれぐれもよろしく伝えてくれ」そんなことが書いてあり、絵葉書は中国製で消印も上海になっている、という話であった。
「ところがね、昨日、初めてこの手紙がきたんだよ」
賢一はそういって、エア・メイルの封筒を上着のポケットから取りだした。
世界共通のエア・メイルの封筒だが、薄茶いろで、えらく安っぽい。消印はバンコクである。
「拝見してよろしいでしょうか」
伸彦は賢一の許可を得てから、封筒のなかの便箋を取りだしたが、この便箋も薄茶いろでひどく安っぽかった。
「伯父さま、お元気でいらっしゃいますか。伯母さまは昔、膝の関節炎を気にしていらっしゃいましたが、近頃はいかがお過ごしでしょうか。
私は相変らず元気でおります。浩一もすぐ近くで、元気に飛びまわっております」
ここまでは第一回目の絵葉書の便りと変らなかったが、そのあとが少し違った。
[#1字下げ]「近頃、伯父さまのお友だちの金林さまのことをよく思いだします。もう一度お目にかかりたく思うこの頃です。伸彦さんには、嵐も吹けば雨も降る≠ッれども私の気持が変らなかったことを、改めてお伝え下さいませ
[#地付き]かしこ」
そう書いてある。
「浩美さんは金林さんにお目にかかったことがあるんですか」
伸彦は佐久間賢一と金林忠清の顔を半分ずつ見ながら、そう訊ねた。
「そこなんだよ。伸彦君」
賢一はいった。
「私はね、北朝鮮の国境を出て瀋陽に向う汽車に乗ってね、もう盗聴の心配がまったくなくなったところで、浩美救出が可能になった理由を細々《こまごま》と打ち明けたんだ。昔、朝聯の仕事をやっていたときの仲間に金林という男がおって、その男が、たまたま、平壌のエレベーターのなかで、浩美と出会って、その縁で今度いろいろ骨を折ってくれたんだと、そして伸彦君の兄さんの龍彦君と力を合わせて、ここまで漕ぎつけたんだと、そう話したんだよ」
つまり浩美がもう一度金林に会いたい、といっているのは、もう一度助けにきてくれ、そういう意味ではないか。
「つまり浩美はアジアのどこかで、まだ北朝鮮の連中に軟禁されているんじゃないかね。浩一を返して貰って、連中から逃げ出す、ってことがそんなに簡単じゃない、自分の見通しが甘かった、そのことに気づいたんじゃないのかね」
賢一は顔を紅潮させていった。SOSらしい手紙がきたことが、賢一の気持を昂揚させているようであった。
「金林、おまえ、もう一度浩美を助けてやってくれや」
賢一は金林忠清にいった。
「わしも乗りかかった船じゃけえ、なんとかしたいのは山々じゃがのう」
金林忠清は溜め息を吐いた。
こちらは耳に補聴器をつけてはいるものの、相変らず艶々と血色がいい。
「国家保衛部の北京駐在には、何回か電話を入れて、様子を聞いているんじゃが、どうもはっきりせんのだな」
「国家保衛部がかくしてるのか」
「よくわからんなあ。国家保衛部は材木がどんどん輸出できて大喜びみたいではあるんじゃ。おれが電話すると、金先生のお陰です、いうてな、電話の向うでぺこぺこしとる感じじゃよ。ところで|梁 美善《ヤン・ミーソン》と|高 浩美《コウ・ホーミー》はどこにおるんじゃね、そう聞くと、一生懸命調べとりますのやが、それがわかりませんけん、話が曖昧《あいまい》になってきよる」
「それはどういうことなのかな」
「なにせ金の息子はとてつもなく力がありよるけん、国家保衛部も恐ろしゅうなって、これ以上の協力はご免だちゅうことなんじゃろかね」
粗末な便箋に書かれた、嵐も吹けば雨も降る≠ッれども私の気持は変らなかった、という箇所を伸彦はもう一度読み返した。ボールペンで書かれた浩美の字体が妖しく躍るような気がする。
窓の外には皇居前広場の、燃えるような緑が広がっている。
「浩美は香港の近くにおるのかな。たとえばマカオとか」
「マカオってことはないじゃろう。とにかく、もう少しねばってみようや」
そうした会話を聞き流しながら、嵐も吹けば雨も降る≠ニいうのは『ここに幸あり』という、古い映画主題歌の歌詞だが、あれは東南アジアのどこかでえらく流行った歌だと聞いたことがある、と伸彦はおもった。しかし、アジアのどこで流行ったかは、はっきり記憶していない。
水田と笹岡は、ケソン市の地中海料理屋の裏庭に集まった。雨は上っているが、むし暑く、蚊取り線香の匂いが庭一面に立ちこめている。
まもなくダビトが顔を見せ、籐《とう》の丸い腰掛けにどしんと腰を下ろした。
「これはグッド・ニュースかもしれんな」
ダビトが呟いた。
「例の宮井物産のマネージャーはワクタニといったっけな。ワクタニの家で、若いメイドが出入りの植木屋《ガードナー》に煙草をバラ売りしたっていうんでな、湧谷のワイフが叱ったらしい。そうしたら、そのメイドが田舎へ帰るといって、家出してしまったそうだ。それで湧谷のワイフは新しいメイドを探している、という話だ。ガードマンのアーシーが、だれか当てがあれば推薦してやるよ、といってよこした」
水田と笹岡はキャンドルの灯ごしに、お互いの顔をみつめ合った。
「メイドをワクタニの家へもぐりこませりゃ、ワクタニの翌日の行動はかなりわかるだろう」
笹岡が言下に、
「そら、浩美やな。浩美のような日本人やないと、湧谷夫婦の日本語が正確に聞きとれへん。ま、浩美は背も高うて目立つやろけど、あの手の顔はマニラのホテルのゲスト・リレーションズや食堂のホステスいうんか、入口に立ってる案内係なんかに結構見かけるタイプやで。スペインと中国の血が四分の一かそこら混ってて、日本人と結婚してたとか、日本で外国人の家のメイドしてたとか、そんな経歴書《バイオデータ》作って送りこめばええんや」
そういいだした。
「浩美を送りこむのはよ、こっちとしちゃ都合がいいけどよ、浩美をどうやって説得するんだよ。あたしゃ、そんなスパイみたいな仕事はできません、最初の約束じゃ、モレナに日本語教えりゃ、浩一を返してくれる、そういうお話しじゃなかったんですか。浩美は目《め》ん玉《たま》、おおきくして開き直ってくるぜ」
水田は反論した。
笹岡がダビトに向い、
「ダビト、湧谷の家には、メイドが何人おるのや」
英語で訊ねた。
ダビトは湧谷の家のガードマン、アーシーに接触し、ほとんど何でも聞き出せる関係になっている。
「昔は三人いたらしいが、今は肥ったティナっていう料理専門のメイド、それにいなくなった若い掃除、洗濯専門のメイドのふたりだそうだ」
「ほなら、こういう段取りはどうや」
笹岡が水田に向っていった。
「まず若いメイドの代りにモレナを送りこむ。モレナが馴れたところで、肥ったティナとかいうおばはんに金やって、暫《しばら》く田舎へ帰って貰うんや。そこへな、モレナが苦労してるから、浩美、助けてやってくれ、そう浩美を口説いてな、浩美を送りこむのや」
「ま、そういう手続き、踏まなきゃよ、浩美は納得せんだろうな」
「モレナはもうこっちの手のうちやし、モレナを送りこんだら、それだけでもええくらいよ」
「それにな、梁のおばんに、コロンブス紹介して貰っておるしよ、ここんとこはあのふたりを使ったほうが北にも義理が立つんじゃねえか」
水田はいった。
そこへ話に出た新人民《NPA》軍のコロンブスが入ってきた。
今日も上等のバロン・タガログを着、折目の通った黒ズボンを穿き、黒ぶちの分厚い眼鏡をかけて、どう見ても高級官僚か、大企業のマネージャーという感じである。
「実行部隊と監視部隊の人選は終った」
コロンブスは低い声でいった。
「総指揮はミスタ・笹岡と私が共同で取ろう。情報と、相手との交渉はダビトにお願いする」
そこでコロンブスは耳もとの蚊を片手で掴んだ。手のひらで血を出している蚊を指爪ではじきながら、
「ターゲットについては、われわれとしては丸商を狙いたい。洗礼のときの父親役をコンパドレというんだが、私の父親がコンパドレやった女が丸商で働いている。そこから丸商支店長の行動についての情報はかなり取れるとおもうんだ」
水田と笹岡は弱った顔になった。
「ターゲットの特定いうことは、少し待って貰いたいのや。情報が一番正確に取れるところを確保してからの話やないかね。日本企業なら身代金《ランサム》はどこでも支払いよる。丸商にこだわる必要はない、おもうんや」
笹岡が答えた。
コロンブスは不服らしく、眉をしかめた。
「それと、どうもターゲットを隠しておく場所で迷っているんだ。山のなかは却って危険が多そうでな」
コロンブスは思案顔であった。
それから数日経った雨の上った午後、水田はケソン市内で、水産物の貿易商をやっている、日本人の取り引き相手とマニラ郊外のカンルーバンのゴルフ場へ出かけた。
この沖縄出身の貿易商とは、マニラのゆきつけのおでん屋、「カンパイ」で知り合ったのだが、水田は時々水産物の日本への輸出を仲介してやったりしていた。この仕事もタイにいる、華僑のキティゴンの父親に、マニラの漁業関係の華僑を紹介して貰って成立した話であった。
梁と李が取り返した妙香山丸に積んで酒類、時計類、麻薬類などを北朝鮮に送ったのだが、これらもすべてキティゴンの父親の紹介で、華僑系フィリピン人に集めて貰ったのであった。
キティゴンの父親はなかなかのやり手なのだが、若いタイ娘を後妻に迎えていて、キティゴンはこの継母とソリが合わず、それがバンコクに帰りたがらぬ理由のようであった。
水田は貿易商を偽装する必要上から、主として「カンパイ」の飲み仲間と一緒にゴルフを始めたのだが、始めてみると、すっかり夢中になり、雨期の晴れ間を狙っては、週に二、三回もコースに出るようになった。刑務所服役中に左手の指を欠損していて、本来なら左手の力が弱い筈なのに、そこのところは器用にカバーして、最近ではスコアも百から百十でまわるほど腕を上げてきている。
カンルーバン・ゴルフ・アンド・カントリー・クラブは、南《サウス》コースと北《ノース》コースに分れているが、サウスはコンペにあてられることが多く、水田は大抵ノースを回ることにしていた。
水産会社のふたりとノースの十八番をホール・アウトしたとき、連れの沖縄出身の男が、
「後ろの外人、えらい飛ばしよるなあ」
と呟いた。
なるほど十八番のグリーンの近くまで、白いボールが転がってきて、水溜りに入り、小さな水しぶきをあげながら、それでもグリーンに載った。
はるか後方をキャディを連れた大男が、ノッシノッシという感じで歩いてくる。白いポロシャツに半ズボンを穿き、白い長靴下を履いていて、どうやらひとりでまわってきて、ここで水田の組に追いついたらしい。
その大柄の躰と特に額の禿げあがりかたに見覚えがあり、水田は眼を凝らした。
「ありゃあ、ラファエルじゃねえか。ラファエル・サラザールって友だちだ」
水田はゴルフ仲間を先きにゆかせ、ラファエルがホール・アウトするのを待った。
ラファエルは簡単に二パットで上り、キャディに向ってパターを乱暴に投げた。
「ラファエルよ」
水田が近づいて声をかけると、ラファエルは別段、驚いた様子もなく、
「よう、アンクル、ハウ・アー・ユー?」
即座に応じてきて、水田の手を握った。
「ラファエル、ユーは、ここでなにしてんのかね」
「おれはスペイン人だがね、スペイン人はフィリピンに親類や知り合いが多いんだよ。その親類のところへきてるんだ」
ラファエルがスペイン系とは知っていたが、フィリピンに親類がいるとは意外であった。フィリピンのスペイン系財閥はスペインにも資産を蓄え、本国でも資産家で通っていると聞くが、ラファエルもその手のひとりなのかもしれない。
「ユーこそ、なにをしてるんだ」
「フィッシュをね、ここで仕入れて日本へ売ってんだよ」
ラファエルは頷いたものの、あまり信じていない顔をしている。
「ビールでも飲むか」という話になり、ふたりは椰子《やし》の林の間の道を通って、大きなクラブ・ハウスに戻った。
クラブ・ハウスの二階にあるテラスは、夕風が吹き抜けていて、雨期ともおもえぬさわやかさである。
籐の椅子が大小のテーブルを囲む形で、ずらりと大理石のテラスに並んでいるが、遠くに日本人とアメリカ人のグループがいるだけで、ほかに人気はない。水田の連れは地下の更衣室でシャワーを浴びているらしかった。
サン・ミゲールをあおったあとの泡を横撫でして、
「ユーは今もよ、こっちのビジネスしてんのかよ」
水田は小銃を射つ恰好をしてみせた。
水田はロンドンで北朝鮮の李をラファエルに紹介し、李一味はラファエルを通して、イランにMIG19やT59型戦車を売りこんでいる。
「ああ」
ラファエルは素直に頷いてみせ、
「アメリカの武器をフィリピン経由でイランに売りこもうとしたんだが、マルコスが追放されちまってさ、話が止っちまった。それでここへ話をつけにきてるんだよ」
そう説明した。
「ディス・タイムはよ、なに売ってんだよ。また大砲《キヤノン》かね」
「キャノンよりはもうちょっと進んだ武器だ」
ラファエルはにやりと笑っていい、残ったサン・ミゲールを一気に飲み干した。
「久しぶりにハロハロを食うか」
とラファエルはいい、達者なタガログ語でボーイにハロハロを頼んだ。ハロハロとはフィリピン特有の、色とりどりの寒天やあずきをまぜた日本の蜜豆に似た食物である。
水田は先日のコロンブスの話を想いだし、
「ラファエルよ、一緒にビジネスしたリレーションで訊くけどよ、だれかをシークレットによ、|かくなしとく《ヽヽヽヽヽヽ》、つまりキープしとくプレースってのはあるとおもうかね」
ラファエルはハロハロをすくうスプーンの手を止めて、じっと水田をみつめた。
「そりゃ、沢山あるだろうよ。地主が持ってる空き屋敷や空き地は多いからな」
と答えた。
「もし宮井物産のやつらの注意をな、逸《そ》らすような事件が起るとありがたいな」
ラファエルは、水田が肝を冷やすような発言をした。
「宮井の注意が逸れている間にな、宮井の名前使って、おれの爆弾をな、イランに輸出しちまうんだ」
囁くようにいう。
「人をかくす場所なんか、いくらでも紹介してやるよ。たとえば陸軍の刑務所なんてのはどうだ」
ラファエルはそういってけたたましく笑った。
そのあと、水田はゴルフ仲間と晩めしを食い、カラオケに行って「浪花節だよ人生は」を歌ったりして、深夜近くパラニャケの自宅へ帰った。
パラニャケは五十坪、百坪の中流住宅がひしめく住宅地で、笹岡にいわせれば、「大阪の伊丹空港の周辺部って感じやろか」というような一帯である。
水田が自分で玄関の鍵を開けて入ると、食堂でキティゴンがまだ起きていて、日本語の教科書を開いている。
「あんた、お酒ばっか飲んでないで、早ぐ帰ってぐるね。早ぐ帰ってきて、浩一に勉強教える、それ、約束だったじゃないか」
キティゴンは水田の顔を見るなり、文句をいった。
「今日、学校の先生にわだし、呼ばれたのよ。浩一、いづも宿題、忘れる。やってごない。これ、なんとかなりませんか、先生に怒られたよ。あんだのご主人、日本人でしょ、なぜ勉強見ないの、そういうんだよね。浩一君、将来、困りますよ、可哀相のごとよ、そう先生いうんだよ」
水田は閉口して頭を掻いた。
「おれはよ、国語と習字は得意なんだけどよ、どうも算数とか社会とかが苦手でな」
「それ、エクスキューズだよ。ふつうの頭してりゃ、だれだって、小学生の勉強くらいでぎるよ」
水田は冷蔵庫から冷やしたウーロン茶を出して飲んだ。
食堂の壁には、浩一が描いたヨナクニサンの画が貼ってある。
「わだしね、浩一は自分の子どもみだいに可愛いよ。可愛くて可愛くて、毎晩抱いて寝だいくらいだよ」
そこでキティゴンはうるんだ目になり、食卓に拡げた教科書を眺めた。
「だけど、もう浩一は浩美に返さなぐちゃいげない、とおもうんだよ。あんだはお酒ばかり飲んでて、帰ってごないし、わだしは日本語わからない。このままじゃ、きっと浩一はわだしを嫌いになるよ。わだしが、今のタイのお母さん、嫌いなのとおなじになる」
そこでキティゴンは水田を見あげた。
「あんだ、いつ浩一を浩美に返すの」
「もうちょっとだ、キティゴン、もうちょっとで返すよ」
「いつもおなじごとばかりいってさ」
キティゴンは水田を睨んだ。
「そうじゃねえ。うっかり返すと、親子もろとも北にやられちまう心配があんだよ。今度は親子揃って、北へ連れてかれっちまう可能性もあんだ、ほんとに」
それはあながちキティゴンをなだめるための水田の出まかせでもなかった。この工作が終ったら、ふたりとも北へ連れ戻される可能性は充分にあった。
10
水田が浩美とモレナのマンションにやってきて、モレナに向い、
「モレナよ、日本人の支店長の家でよ、暫くメイドとして働いてみねえかよ。日本人の生活に馴染むし、日本語もうまくなるし、日本にゆくためのいいトレーニングになるとおもうよ」
そんな話を持ちだした。
「浩美さん、モレナは一度、日本人のなかに放りこんだほうがいいとおもうんだよ。それが日本語を覚える、早道なんじゃねえかな」
そういわれると、浩美もそんな気がしてくる。とにかく浩美と生活していたのでは、モレナの日本人化教育はなかなか進まない。
お互い、北朝鮮でも一緒に暮らしていたので、顔色ひとつで体調や心理までわかってしまうようなところがある。朝、顔を合わせた途端に、生理が始まったな、とわかってしまったりするのだ。
「そうね、モレナは外国で生活してきて、きれい好きだから、日本人の奥さんには気に入られるかもしれないわね」
浩美は答えた。出入りの度に手を洗うし、一日に何度も石鹸《せつけん》を使ってシャワーを浴びる。モレナの暮らしていたイタリアの生活水準より、よほど潔癖だといえそうだ。
「それとモレナは人柄がいいよな。すこうしぼうっとしているとこもあんけどよ、日本人ってのは、ばりばり働くけど、性格のわるい人間よりもよ、ぼうっとしているけど、人柄のいい人間を好む傾向があるだろ」
モレナはちょっと考えたが、すぐに、
「あたし、やってみるよ」
といった。
「だけど、どこの会社の支店長の家で働くの」
浩美は訊ねた。
「それがおれもよくわかんねえんだな。ダスマリナス・ビレッジにある家だってえから、まあ、一流の会社の支店長の家なんだろうよ」
翌日、モレナを紹介してくれるという、ガードマンがきて、モレナをダスマリナスの家に連れて行った。
「頑張りなさいよ、モレナ」
浩美は励ましたが、モレナは、
「北朝鮮にゆくんじゃないから、どうってことないよ」
けろりとしていた。
モレナがガードマンと一緒に出て行った直後、突然、玄関のブザーが鳴った。
覗き穴から眺めてみると、梁善子《ヤン・よしこ》が立っている。何事かといぶかりながら、ドアを開くと、ドアの横手から、見憶えのある菱形の眼の男が現れた。
「あなたもね、モレナがいなくなって、心細くてらっしゃるでしょ。それでね、共和国からエスコートを呼んで差しあげましたの」
梁善子は、白く染めるのを止めた黒髪を掻きあげて、そういった。つるりとした顔は汗ばんでもいない。
白いワイシャツに喪服のように黒いネクタイを締めた孫《ソン》は、
「ハロー」
といって、握手の手を差しだした。
孫の手は汗にまみれていたが、その手に触れただけで、浩美の躰を戦慄が走り抜けた。
「ここのお隣の部屋が空いたのでね、そこに孫さんとそれから、こちらのおかたが住んでね、あなたを守って下さるの。皆さん、共和国の保衛部のエリートですからね、浩美さんもご安心ですわよ」
孫の背後から、見知らぬ、背の低い肥った男が顔を出した。
いったいこれはどういうことだろう、と浩美はおもった。
伯父の佐久間賢一とその友人、金林忠清は朝鮮民主主義人民共和国の国家保衛部に働きかけ、ピアノ材の輸入と引きかえに、浩美を国外に連れだしてくれたのだ。つまり国家保衛部は、梁の所属する朝鮮労働党対外情報調査部を説得したうえで、浩美の出国を許した。いや、命じたとおもっていたが、そうではなかったのだろうか。国家保衛部も対外情報調査部も、すべて最後のところで金正日に繋《つなが》っている。金正日は外貨欲しさに、いったんは国家保衛部に浩美の出国を指示したものの、少しほとぼりのさめるのを待って、再逮捕を命じた、ということなのだろうか。
とにかく隣に孫たちが起居し始め、いったんゆるんでいた、北朝鮮の組織による監視態勢が俄かに強化された。浩美がユニオン・チャーチにゆくときも、買物に出かけるときも、必ず趙《チヨウ》という、肥った小男がべったりついてくるようになった。
隣室のドアは四六時中開け放しになっていて、浩美の出入りはすべて彼らの眼に入ってしまうのである。
[#改ページ]
七 沸 騰 都 市
マニラに着任した安原伸彦は、出迎えにきてくれた鉄鋼部の長田と一緒に、マカティの単身者用のマンション、オリンピア・コンドミニアムに荷物を投げこんだ。
「若干、ロリコン趣味の部屋だが、会社に歩いてゆけるんだから、我慢せいや」
長田がいう。
ロリコン趣味というのは、カーテンがピンク色だったり、ベッドカバーが花模様だったり、金色の金具のついた白い箪笥《たんす》が置いてあったりしているのをいっているのだろう。
服も着替えずに、伸彦はそのまま宮井物産マニラ支店へ挨拶に行った。
マカティはいってみればマニラの丸の内だが、宮井物産はそのなかでも新しい、シティ・バンク・センター・ビルの十七階にある。
支店長の湧谷は来客中だ、というので、長田は大部屋の窓を背にした、伸彦のデスクに案内した。
「ああ、オオキニのおっさんが、あんたの着任を待ち受けているぞ」
長田が大部屋の窓を背にしたデスクを指差した。
窓を背にしたデスクに、中国系らしい痩せた男がすわりこみ、宮井の現地社員の女性と話をしている。男は伸彦を見ると、デスクから立ちあがり、握手の手を差し出した。
「私、あなた、待ってた」
洗いざらしのシャツを着た、四十がらみの男はまずい英語でいい、手をズボンの尻のポケットに突っこみ、ボロボロの名刺入れを取りだした。親指の先をぺろりと長い舌で舐《な》めて、名刺を一枚抜きだした。
俯《うつむ》いた男の額には水疱瘡《みずぼうそう》という、昔の病気のあとなのか、ぶつぶつと穴が開き、兎唇《としん》のあとが鼻の下に残っていて、そこに汗が光っていた。
「私、ストッキストやってる謝《シエ》といいます」
そう名乗って名刺を差しだした。
名刺には、A・GLACIASと書いてある。
「グラシアスはつまり謝、おれはちょっと関西ふうにひねって、オオキニさんと呼んでるんだ」
長田が紹介した。
「うちの湧谷支店長が、今度くるのは、小まわりのきく、優秀なやつです。もう謝さん専門に仕事させます。なんて、この間、いったもんだから、謝さんも気にしてね、今日はわざわざこうして待っててくれたわけよ」
「そうそう」
謝はいった。
「うちは小さなストッキストだからね、なかなか長田さんみたいな、えらいひとにきて貰えない。あなたみたいな若いひとなら、仕事の話させて貰えるか、とおもって、待っていたんだよ」
そんな意味のことをまずい英語でいった。
ストッキストというのは、いわゆる鋼材問屋で、鋼板やら建築資材の鋼材やらステンレスの板やら、そんなものをストックしていて、注文に応じて右から左に動かしている中小企業である。東南アジアのストッキストの大半は中国系と伸彦も聞いていた。
「私みたいな若造の着任を待ち受けていてくださるなんて、鉄屋|冥利《みようり》に尽きますな」
長田にそういいながら、安原も東京で用意してきた名刺を謝に差しだした。
突然支店長室のほうで、怒声が聞え、ドアが乱暴に開かれた。
色の浅黒い大男が乱暴に支店長室のドアを閉めて、大部屋に出てきた。色が浅黒く、険のある顔立ちで、眉根に深い縦皺が立ち、唇をヘの字に結んでいる。
男は仁王立ちになって、大部屋のなかを見まわし、長田をみとめると、つかつかと近寄ってきた。この男は謝と違い、バナナ繊維のバロン・タガログを着ている。
「いいか、政権がマルコスからアキノに替ったからといって、マルコス時代の約束をホゴにしたら、わしは許さんぞ。約束は約束だぞ。払うべき金を払わなけりゃ、泥棒とおなじじゃないか」
男はそこで伸彦の存在に気づき、今度は伸彦に向って、
「あんた、宮井の本社の人間か」
そう訊ねた。
「いや、今日着任したマニラ支店の社員です」
「ハロー、ニュー・カマー、おれはルイス・マデーロというんだ」
男は伸彦に顔をつけるようにして、声をひそめた。
この男がルイス・マデーロか、と伸彦はおもった。
「お前は知らんだろうが、カランサ|T《ワン》という火力発電所の仕事をな、おれはマルコスの政府の連中に口をきいて、宮井に世話してやったんだ。宮井の本社の連中は、おれに口きき料を払うと約束していたんだが、アキノに替ったら、知らぬ顔だ。こりゃフィリピンじゃ通らんぞ。いや、日本だって通らんだろ」
その話は着任前に本社の重電材輸出部から伸彦も聞いている。本社のいいぶんはアキノが大統領になってから、火力発電所の監督官庁、電力省のスタッフも替ってしまった。電力省をトンネルにしてルイス・マデーロにリベートを支払うことは難しくなった、という。
「政権が替ると、電力省のスタッフも替ってしまうし、万事、難しくなることはよくご存じでしょう」
長田が弁解した。
「|弁  解《エクスキユーズ》は知らんよ。支払うものはなんとしても支払う、という意志がおまえらにはないんだ」
ルイス・マデーロは、大部屋のなかを睨みまわし、ひとりひとりを指差した。
「いいか、湧谷やおまえたちの身になにが起ってもおれは知らんぞ」
足音高く部屋を出て行った。
ややあって、湧谷が支店長室から姿を現した。
「よう、ナガスネ、よくきたな」
先刻の騒ぎなどどこ吹く風の表情である。
「明日でもご参考までにカランサTにご案内するか」
ふと気がつくと、ストッキストの謝の姿はいつの間にか消えていた。
佐久間浩美はマニラに暮らしながら、北朝鮮に拉致されていたときとおなじような状況におちいっている。マンションの隣室に北朝鮮国家保衛部の孫とその部下が暮らしていて、絶えず浩美の動静を見張っているのである。
モレナが日本人駐在員の家庭で、メイドとして働くことになったので、浩美は午前中、モレナに日本語を教えることもなくなった。
そこで、午前中はユニオン・チャーチの英語の授業に出席し、午後はタガログ語の授業に出席することにしたが、孫の部下で、小柄の肥った趙《チヨウ》という男が、「エスコート、エスコート」と叫んで、朝から浩美にぴったりくっついて離れない。趙は授業中も汗だくのシャツを背中に貼りつけたまま、廊下をうろうろして、浩美の動静を窺っている。
夕方、買物に出かけるときも趙が汗をかきかきあとをついてくる。この間までのダビトやフィリピンの少年たちとは比較にならぬ、勤勉な監視ぶりであった。
浩美は知らぬ顔をして、いきなりジープニーに飛びのり、趙をまいて魚市場に行ったりした。
マニラの地理に明るくなり、タガログ語もできないと、ジープニーには乗れない。ジープニーには独特のマナーがあって、降りるときは天井を叩いて合図するのである。
買物をすませて帰ってくると、いつも開けっ放しになっているドアから、孫と趙が出てきた。
「ミス・コウホーミー、われわれはあなたを監視する義務がある。勝手に行動されては困るのだ」
安物のバロン・タガログを着た孫は、両手を腰にあて、高圧的な態度でいった。
「ここは北朝鮮ではないんですよ。私は北朝鮮から解放されたのですから、あなたがたから監視される理由はまったくありません」
孫の朝鮮語に対し、浩美は英語で答えた。
「いや、あなたは朝鮮民主主義人民共和国の国家保衛部専属舞踊インストラクターの辞令を貰っている筈だ。つまりまだ身分はわが共和国の国家保衛部中尉なのだ」
「そんなものは、あなたがたが勝手に作って、私によこしたものじゃありませんか。私は日本人なんです。なにをしようと自由なんです」
孫の顔に冷笑が浮かんだ。
「一度、共和国に入国したら共和国の人間だよ。現にあんたは自分が日本人であることを証明できるかね。日本の旅券は持っていない。しかし共和国の旅券は持っている、ということじゃないか」
「日本の旅券は持っていませんけど、日本大使館へゆけば、いつでも再発給を受けられますよ。私は旅券ナンバーも旅券の発行日も、全部記憶しているんです」
孫の顔に浮かんだ冷笑は消えなかった。
「あんたの旅券の再発給はないよ。われわれとしてはあんたの日本の旅券は充分、有効に使わせて貰った。だから、日本であなたの死亡届を出して、戸籍から抹消して貰ったよ」
浩美は茫然として、言葉も出ない。
「とにかくアンクルかキティゴンに会わせてください」
やっとのおもいで頼みこんだ。
アンクルは、モレナが働きに出て、孫が隣室に腰を据えてから、まったく顔を見せない。キティゴンに至っては、ロンドンで別れたきりである。月に一度、日本人小学校の前で、浩一の様子を一方的に窺うとき、トライシクルから伸びてきて、浩一をトライシクルに引っぱりあげる白い、ふとい腕を見かけて、「あの女はキティゴンだろうな」と察するだけである。
翌日は学校の帰りに買物をすませて帰ってきたのだが、シャワーを浴びて出てくると、玄関のブザーが鳴った。覗いてみると、肥った中国系の女が立っている。
浩美が玄関のドアを開けるのをためらっていると、女は大きな声で、
「キディゴンだよ」
濁った発音の日本語でいった。
ドアを開けて入ってきたキティゴンは、黙ったまま、浩美の両手を握り、それからごく自然に抱き合うかたちになった。
「キティゴン、浩一を育てて貰ってありがとう」
おもいがけなく、そんな言葉が浩美の口から出た。
ドアの外では、趙がやはり汗を胸までにじませ、腕組みをして、じっとふたりの様子をみつめている。
「キティゴン、教えて頂戴。私、どうなるの。浩一を返して貰えると思って、マニラにきたのに、いつまで経っても、あなたもアンクルも浩一を返してくれない。浩一を返してくれるどころか、また北朝鮮の捕虜みたいになって、毎日、生活をウォッチされて暮らしているのよ」
キティゴンは浩美の腕を握ったまま、まぶたの厚い眼を外らして、
「浩一は必ず返すよ。私、日本語教えられないし、近《ぢか》いうちきっと浩一、私が返す。キディゴン、約束するよ」
といった。
そこでキティゴンはいきなり足をあげ、玄関のドアを蹴ってがあんと閉めた。玄関の外で、趙が朝鮮語で、しきりになにかわめいている。
「だけど、今返すと、隣の北のひとたちに、浩一も捕まってしまう。返すタイミング、大事ね」
「この隣の連中はどうなるの」
キティゴンは厚い胸から深い溜め息を吐いた。
「平壌に、浩美のごとは諦《あきら》めろ、そういってやらなくちゃ駄目だね。|金 正日《キム・ジヨンイル》が浩美のこと、好きらしいけど、これ、無理よ、そうはっきりいわなくちゃ駄目。もうひとつはやっぱり伯父さんに助けにきて貰わなくちゃ駄目、キディゴンそうおもうね。伯父さんのアドレス、頂戴。私、手紙書いてあげるよ」
伯父に肩肘張って、手紙を書かなかったが、もはやそんな段階ではないらしい。蜘蛛《くも》の糸のように絡んでくる金正日の執念を絶ちきるのはそんなに簡単なことではないのだ。
浩美は震える手で、埼京市の佐久間賢一の住所を書いて、キティゴンに渡した。
安原伸彦は湧谷のお供をして、問題の火力発電所、カランサ|T《ワン》を視察にゆくことになった。
国家電力省の担当者の車に先導されて、マニラ南方八十キロの現地へ、約二時間の予定で出発したのだが途中、湧谷は、
「おまえさんよ、ロンドンにいた森の|うま平《ヽヽヽ》に聞いたんだが、おまえさんの恋人は相変らず音信不通か」
「彼女の伯父さんや私の兄貴が全力を挙げて、なんとか北朝鮮からは脱出できたのでありますが、彼女自身、子どもを返す、という甘言に釣られまして、北の連中について、どこかへ行ってしまいました」
答えながら、伸彦は事実、あれは甘言だろう、とおもった。北朝鮮国家保衛部は兄の龍彦が持ちこんだ松材の商売が一段落したら、また北朝鮮に拉致する心算ではないか、と伸彦は胸がうずいた。
「えらい惚れようだが、ひと口でいえばどんなタイプかね」
「顔はそれこそスペイン系みたいな顔をしておりますが、色が白くて、細身、身長一メートル六十七センチ、といったところであります。スリー・サイズは88、60、90という感じでありますか」
「えらく懇切且つご丁寧なご説明で恐れ入谷《いりや》の鬼子母神《きしもじん》だけどさ、スペイン系、色白、細身とくりゃ、おれの趣味だな。おまえさん、彼女がみつかってもあんまりおれの身辺に近寄らせないでくれや」
湧谷はいった。
佐久間浩美を北朝鮮から救出してくれたあと、北京で落ち合った兄の龍彦が、
「北朝鮮の強制収容所に彼女が連れてこられてさ、軍帽を脱いだとき、もちろん緊張していたからだろうけど、顔が引き締ってて、凜々《りり》しいんだよね。伯父さんの佐久間社長もおなじようなこといってたよ。伸ちゃんが心変りしたら、おれがいつでも引き受けるぜ。伸ちゃんが貰えば年上の女房だが、おれが貰えば年下の女房よ」
雨がぱらつく窓外を眺め、伸彦はそれにしても、浩美はどこにいるのだろう、と気持が重く沈むのを覚えた。
伯父の賢一にきた手紙には暑いアジアのどこかにいる様子だったというが、アジアはどこだって暑いのである。
「北朝鮮が絡んでいるとなると、ヴェトナムあたりにいるのかな」
湧谷がいった。
その後国家電力省の車に先導されて、椰子《やし》林の中の道を一時間余り走ったのだが、次第に行く手が白煙で霞み始めた。白煙は濃くなったり薄くなったりして、ときに先行する国家電力省の車の姿が白煙のなかに消えそうになったりする。
「なんだ、これは。山火事かね」
白煙は刺激的な臭気を含んでいて、車の中にもその臭気が侵入してくる。
ふいに「どおーん」と山鳴りのような音が響き、ベンツのガラスがびりびりと震えた。
「火山が爆発でもしたのでありましょうか」
山鳴りの音と一緒に、大勢の群衆が現れて、先導する電力省の車を取り囲んだ。
「とにかく降りてみましょう」
伸彦と湧谷がベンツを降りた途端、数人のフィリピン人男女に取り囲まれた。
若い口髭を生やした男がフィリピン訛《なま》りの英語で、
「あんたがたは日本人か」
と訊ねた。
取り巻いた男女には、あきらかな敵意が漂っていて、それを察知した湧谷は答えない。
「あの発電所を作った日本人だな」
若い男がヒステリックに叫んで、椰子林の彼方を指差した。
雨のぱらつく空に、まるで理髪店のポールのような、赤白、横縞模様の巨大な煙突が突き出しており、白煙はその方向から流れてくる。
「あんたら、宮井物産か。それとも西芝電気か」
湧谷は腕組みをして、
「われわれは宮井物産の社員だが、あんたがたは、なにかわれわれに苦情があるのかね」
英語で応じた。
伸彦は「会社の名前をこちらから名乗ることもあるまい」とおもい、少し気分が落ち着かなくなった。
「あの発電所について、どう考えてるんだ」
「われわれは、あの発電所を作ったことを誇りにおもってるな。あの発電所はルソン島に必要な電力の一〇パーセントを供給してるんだからな」
湧谷は冷静にいったが、男たちの間から腰のまがった老婆が飛び出してきた。
「えらそうにいうな。この辺の住民はあの発電所のおかげで、肺の病気になって何十人も死んでるんだぞ」
そう叫んだ。
たしかにこの刺激臭に満ち満ちた大気のなかで暮らせば、病気にならないほうが不思議な気がする。
「いや、われわれはフィリピン政府の要請を受けて、あの発電所を建てたんだよ」
「おれたちは頼みゃあしねえよ」
若者が叫んだ。
「おれたちはあの発電所のおかげでばたばた死にながら、しかも税金払って、あの発電所の建設費を日本に返さなきゃならねえんだぞ」
カランサTは、日本の政府《O》開発《D》援助《A》で建設され、フィリピンの経済振興の目玉とされているのだが、無償援助ではなく、有償の円借款で、低利とはいえ、フィリピン側は毎年返済を迫られる立場にある。
またどおーんと山鳴りのような音がして、白煙が流れてくる。
「たしかにこれが公害だとすると、問題はおおきいな」
湧谷は日本語で呟き、ふたりは黙って理髪店のポールのような、巨大な煙突を眺めた。
前に停まった電力省の車から、電力省の男がひとりの老人を伴って、こちらにやってきた。
「このバランガイ・キャプテンがいうんだが、今日は地元の暴力団みたいな連中が、発電所の前で大勢、われわれを待ち受けているそうだ」
バランガイ・キャプテンとは要するに村長のような立場の人間である。
「新人民《NPA》軍のスパイも大勢入りこんでいるみたいだし、今日のところはこのまま引き返そうや」
運転手のノノイが黄色いベンツをUターンさせ、ふたりは、群衆の敵意に満ちた視線に送られて、マニラへ引き返した。
「あの公害はたしかにひどいですな。ちょっといただけで、眼や喉が痛くなったくらいです。どうして公害防止装置をつけなかったのでありますか」
伸彦は訊ねた。
「おれもよく知らないけどさ、日本側は防止装置をつける、といったんだが、フィリピン・サイドは要らねえ、といったらしいんだ。フィリピン・サイドにしてみりゃ、建設費がかさめばかさむほど、借金が増えるわけだしな」
「それならどうして無償援助にしなかったんですかな」
「おれも同感ですよ。おまけにフィリピンは貧乏で外貨がないっていうんでさ、セミララ島でできる国内炭を使ってるんだよ。原料を自給できるって宣伝してるんだけどさ、この国内炭の質がわるくて、眼が痛くなるような煙出したり、途中で詰って、火山の噴火みてえな音、出すらしいんだな。少くとも炭《すみ》をな、オーストラリアあたりの輸入炭に替えて貰わなきゃな」
しかしマニラの電力省に帰り着くと、担当者のフィリピン人は、
「どうだ、たいしたことはないだろう」
平然といい放った。
「あいつらは金が欲しくて、大袈裟に騒いでるだけなんだよ。おまけに後ろには新人民軍がついてるしな」
伸彦は憮然《ぶぜん》として、「黒い雨」に汚れた、黄色い社用車のベンツを眺めた。
カランサTはルイス・マデーロに対するリベートと環境汚染という、ふたつの問題を引きずっていて、どちらも爆発寸前の印象を伸彦は受けた。
フィリピン国家電力省のパーティが催され、安原伸彦は湧谷、長田と一緒にホテルの大宴会場に行った。
コラソン・アキノ新大統領も出席していて、伸彦はコリーが写真の印象より、ずっと大柄なのには意外な気がした。イメルダ・マルコスも体格が良かったのは有名だが、コリーもイメルダに見劣りしないほど背が高く、堂々たる風格がある。写真でなんとなく小柄の印象を抱くのは多分、童顔のせいで、会場ではひときわ目立つ存在であった。
湧谷をはじめ、各日本企業の支店長たちが次々にコリーのもとに挨拶に出かけてゆく。
フィリピンの電力事情が悪化し、毎日のように停電があり、今やマッチと蝋燭は必需品と化している。コラソン・アキノ新内閣も日本の政府《O》開発《D》援助《A》を受けて、カランサTに引き続き、隣接地にカランサ|U《ツウ》の火力発電所設立を計画していた。
カランサTは宮井物産が受注したが、マルコスからアキノに政権が移譲され、どの企業が受注するか、予断を許さない。自然コリー・アキノの周囲には日本企業の支店長たちの輪ができる。
「ノブヒコ、ハウ・アー・ユー」
肩を叩かれ、振り向くと、額の抜けあがった、しかし顔は若い白人が笑顔で立っている。アイロンをかけたばかりのような麻のジャケットを着て、手にシェリー・グラスを持っている。
「ラファエルじゃないか」
白人の男がラファエル・サラザールと判ったとき、伸彦は自分でも頭に血が昇り、顔面が紅潮するのがわかった。ラファエルの顔を想い出す度に、「騙された」という、怨念《おんねん》が重なって、ひとりデスクをなぐり、床を蹴ったりしてきたものだが、それがまた噴き出そうになった。
「今度はおまえ、大砲の代りに、なにをイランに売りこんでるんだ」
ラファエルは笑顔で、軽く手を挙げて伸彦を制止するジェスチュアをした。
「もう、|なぐり合いの喧嘩《ハンド・ツー・ハンド・フアイト》はご免だぜ。あの大砲の一件はもうお終いだ。大砲はイラクの山で野ざらしになって使い物にならんみたいだし、|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸も北朝鮮が取り返したしな」
意外なことをいいだして、伸彦の感情の機先を制した。
「あのあと、イラクは大砲を発明したロベール・ガルーをイラクに誘拐して組み立てさせたが、どうもうまくゆかなくて、ガルーを殺してしまったらしい。妙香山丸はイラクが暫く使っていたが、マレーシアのペナンの沖で、北朝鮮の連中に乗っ取られた。イラク船籍のまま今は北朝鮮が使ってるさ」
つまり八方まるく納まったわけで、おまえと喧嘩する理由はないのだ、というわけである。
「おれの一族はな、ノブヒコ、もともとはこのフィリピンの地主でな、おれはスペインとフィリピンの間を往き来して育ったんだ。だからこの国は第二の故郷、ということだ」
ラファエルはじっと伸彦の顔をみつめていう。そういえばサラザールという名は、ソリアノだの、アヤラだの、アランフェスだのという、フィリピンのスペイン系財閥のリストに載っていた気がした。
「だから、おれは顔がきくんだ。いつでもなんでも、あんたを助けてやるよ」
そういわれて、伸彦はまた感情的になった。
「もう、おまえと商売する気はないぞ」
ラファエルは余裕を見せて、にやりと笑った。
「商売しよう、とはいってないよ。テニスをしよう、テニスを」
そのまま、手を振って宴会場の奥のほうに歩いてゆく。
宴会場の奥、コリー・アキノの一群と少し離れたところに、テレビでお馴染みになっている、国軍参謀総長のラコラス将軍が驚いたことにフィオーナと立っている。ラコラス将軍は長身|痩躯《そうく》、いつも眼鏡が冷たく光る、生真面目な軍人肌の男の印象が強い。青年将校たちの信望が厚く、次期大統領候補のひとりと目されている。
フィオーナはまるで恋人か愛人のようにラコラスに寄り添って立っており、近寄ってくるラファエルに手を振っていた。
次の週、伸彦がストッキストの謝《シエ》の店を訪ねると、知り合ったばかりの謝は店の奥で傷だらけの古机にすわり、長い箸で中華そばをすすっていたが、
「あんた、この間、国家電力省のパーティにきていたな」
といった。
「あのパーティにおいでになっていたのでありますか」
「まあ、おれもたまには発電所に鋼材や鉄板納めるからな、顔を出したんだよ」
謝は長い箸をデスクに置いて、
「ところで、この間、会社で会った、ルイス・マデーロな、あの男はあちこちで動きまわってるぞ」
という。
「昨日も陸軍の調達部で、見かけたよ」
伸彦はいやな胸騒ぎがした。
「なにをしているんでありますか、ルイス・マデーロは」
「なんだろうかね」
謝はこけた頬をぼりぼりと掻いた。
「軍の調達係は中国系でな、おれの友だちなんだよ。様子を今度、聞いてみよう」
といった。
ダスマリナスにある日本人駐在員の家にメイドとして働きに出たモレナから、佐久間浩美に電話があって、日曜に休暇で帰る、といってきた。日曜は朝から一日休暇で、夜八時頃までに帰ればいいのだ、という。
翌日早朝七時に、ブザーが鳴り、玄関の向うにモレナがまるで家出娘みたいな、打ちしおれた風情で立っている。
隣のアパートのドアから、趙が顔を出して、こちらを覗いているので、浩美は朝鮮語で、
「|私の《ネヽ》同志《トンチ》、モレナ」
そう怒鳴って、ドアを閉めた。
「どうしたのよ、モレナ。元気ないよ。仕事が辛いの」
まるで北朝鮮に捉えられていたときのように、顔色がわるく、寝不足の腫れぼったい顔をしているモレナの背中を叩き、部屋に招じ入れた。
浩美がコーヒーをいれてやっていると、またブザーが鳴り、十日ぶりにアンクルが顔を出した。
「|きんの《ヽヽヽ》、キティゴンがモレナに電話したらよ、なんか元気ないよってからね、おいらも心配《しんぺえ》しちゃって、やってきたんだよ」
浩美もコーヒーを出しながら、
「モレナ、あなた、日本人の家で働くのが辛いの」
質問をした。
「私、いったでしょ。日本人は皆、いいひとだって」
モレナは不貞腐《ふてくさ》れたようにいう。
「特にハズバンドのほうはベリィ・ナイスよ。ジェントルマンよ。ミセスも優しいし、子どももいい性格してるよ」
「するてえと」
アンクルが自分の頬をぴしゃりと叩いていった。
「フィリピンの仕事仲間とうまくゆかねえってわけだ。なんたっけ、あの肥ったおばはんが、モレナをいじめんのかよ」
モレナは頷いた。
「あのティナ、わるいひとよ」
モレナは早くも涙ぐみ、嗄《しわが》れ声になっている。
ティナというのは日本人駐在員の家に前からいたメイドで、肥ったティナは料理・買物が主な仕事、モレナは掃除・洗濯が主な仕事と、分担が一応決められたが、モレナは手が空いているときは料理や洗い物を手伝ったりした。働き始めた翌日、ティナは自家用車に乗って、買物に出てゆき、大荷物をかかえて帰ってきたが、暫くしていきなりモレナを怒鳴ったのだ、という。
「モレナ、この冷蔵庫の上に置いといたお金がないよ。あんた、触らなかった?」
折柄、和子という女主人と日本人学校から帰ってきた女の子が食堂にいて、こちらの台所のほうをじっと眺めていた。
「私、知らないよ」
「おかしいな。私はたしかに十ペソのお札を三枚と小銭いくらかをこの冷蔵庫の上に置いといたんだ」
タガログ語で喋ってくれればいいものをわざわざ英語で怒鳴るから、なにが起っているか、日本人の母娘には筒抜けになってしまう。ティナの詰問が激しいので、モレナは泣きだしてしまい、日本人の女主人の和子が間に入って、逆にティナをたしなめ、モレナを慰めたのだ、という。
洗濯物にアイロンをかけているときにも、おなじような問題が起った、とモレナが話した。
雨期に長雨が続くと、各家庭では洗濯物をめぐって、メイドの奮闘が始まる。フィリピンではあまり洗濯屋には頼まず、洗濯のほとんどはメイドの仕事で、卵の白身を使って仕上げるワイシャツやバロン・タガログのクリーニングは、先進国の洗濯屋も顔負けの出来だ。
ただ雨期は部屋のなかで、アイロンをあてて洗濯物を乾かすから、部屋には湿っぽい、嫌な臭いが漂う。
モレナが食堂で主人のゴルフ・ズボンにアイロンをあてていると、ティナがタイミングを計ったようにやってきて、いきなりモレナがアイロンをあてているズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「先刻、洗濯機から出したとき、ここに小銭が入ってたよ。あんた、知らない」
このときも英語で、しかも室内テニス・コートでテニスをやって帰ってきた女主人が、食堂に入ってきたところであった。
女主人の和子は足を停めて、こちらに聞き耳を立てていた。
「私、他人のお金を盗んだりしないよ。疑うんなら、私の身体調べてみてよ」
モレナはメイドのユニフォームの裾を持って叫んだ。
ティナは腕を組んでモレナを睨んでいたが、いきなりモレナのユニフォームのポケットに手を突っ込んだ。
ティナがモレナのポケットから手をひきだし、その手を開いてみせると、あら不思議、銅色の小銭が光っていた。
「アイロンあてる間、邪魔だから、ポケットに入れてたんだね」
ティナは声高に笑い、モレナの耳は女主人が足音をひそめて立ち去ってゆく気配を感じ取った。
「自分は私用電話、しょっちゅうかけてるくせに、昨日、私がこの家に電話かけたりすると、すぐやってきて、この家の前のメイドは、私用電話が多過ぎて首になったんだ、なんていうのよ」
実際のところは、その家は玄関ホールに電話機が三台もあって、パーティ電話という近所と親子式になっている電話機一台とあとから引いた直通電話機二台が置いてあるが、夫婦の寝室に繋がっているのは一本だけで、あとの二本を使えば、メイドが夜間の夫婦の睡眠中に何回私用電話をかけても、まったくわからないのだ、という。
「そのティナ自身はなにもわるいことしていないの」
浩美はモレナに訊ねた。
「朝、私がシャワー浴びてね、出てきたら、台所でティナがキッコーマンの瓶を、こう上にあげてウォッチして(眺めて)るのね。それでコップに半分スティールして(盗んで)さ、また上にあげてスティールしたの、わかるかどうか調べてた」
モレナの説明によると、ティナはキッコーマンやウィスキー、主人の好きなブランディなど、いずれも残りの量が瓶に貼ったラベルの辺にくるのを狙って盗むらしい、という。
「残っている量がラベルの貼ってあるところまで減ってくると、もうどのくらい残っているか、ラベルに隠れてはっきりしない。少しくらい盗んでもわからないね」
モレナは英語で説明をした。
メイド・ルームの部屋にティナの鍵つきの古い、大きな鞄が置いてあるが、そのなかの古瓶にティナは盗んだキッコーマンやブランディを溜めこんでいるらしい、という。
「そんじゃよ、モレナは奥さんに泥棒メイドと疑われてるわけだ」
アンクルが渋い顔で訊いた。
意外にもモレナは首を振った。
「今日ね、ミスタがゴルフへゆくんで、ミセス早く起きてたよ。それで、私、自分のハンドバッグ出して、チェックしてくれ、いった。ミセス、疑ってる、おもったからね。そしたら、ミセス、首振った。ノット・ネセサリー、ノー・プロブレムいってね。ハンドバッグをチェックしなかったよ」
モレナはそう答えた。
「私、嫌なのはティナだけよ。なんか品、わるいよ。歌、歌ってシャワー浴びて、裸のまま部屋に帰ってきて、ベッドにゴロンよ。それで大きな|おなら《ウインド》したりする」
そこでモレナは浩美を見た。
「私、やっぱり浩美と一緒に暮らしたいよ。浩美、品がいいし、やせてるし、シャワー浴びて歌、歌わないね」
「うわあ、殺し文句」
浩美はモレナの肩を抱いてやった。
「モレナよ、そう無理いっちゃいけねえよ。もうすこしな、辛抱してみなよ。英語学校の同級生よ、辛抱って、英語でなんてったっけな」
アンクルは浩美を見た。
「ペーシェント」
「そうだ、ボーイズじゃねえ、ガールズ・ビー・ペーシェントとゆこうや、モレナ」
アンクルもそういってモレナの肩を叩いた。
パラニャケの水田の家で、夕食後、水田は笹岡と情勢分析をした。
「相変らず新人民《NPA》軍のコロンブスは、態度、変えへんのや。ひとつ覚えみたいに、ターゲットは丸商支店長いうてる」
笹岡がコロンブスの頑固ぶりに手を焼いたようにいった。
「ここは肚《はら》きめて、コロンブスとやり合わにゃなりまへんで。この作戦に失敗すると、赤衛軍の日本回帰の線はなくなるよってにな。頑張らなあきまへんのや。失敗したら、またベッカー高原へ戻って、滋山同志のパレスチナ解放作戦に合流せんならん。あんさんも日本に帰りたいんやろ」
隣の部屋で、浩一に算数の宿題を日本語、英語チャンポンで、教えているキティゴンの声がする。
食堂の隅に置いたドレッサーのほうからサワサワと不気味な音がしていた。浩一が日本人学校の砂場の傍から採ってきた世界一巨大な蝶「ヨナクニサン」の幼虫、葉巻きのように太い芋虫が虫籠のなかで「碁盤の足」という木の葉を食う音である。ご丁寧にも浩一は「碁盤の足」を毎日、学校から採ってきて、この葉巻きに供給してやっている。毎日、何回も虫籠を覗きこんで、この葉巻きが卵のように大きい|まゆ《ヽヽ》を作りはじめるのを楽しみにしているのだ。
この「サワサワ」と葉を食う音を聞くと、水田は戦後、千葉や茨城の養蚕農家へ米の買い出しに行ったことをおもいだして、憂鬱になる。
母親が闇米を少しでも安く買おうと交渉している間、水田は家の一隅から聞える「サワサワ」という音に不審を抱き、覗きに行ったものだ。「サワサワ」という音は、竹の籠に入った無数といっていい数の蚕《かいこ》が桑の葉を食うときに立てる音であった。この音から連想されて浮かびあがるイメージは、決して愉快なものではない。
土間にしゃがんだまま、母親の顔を上眼づかいの三白眼で眺めながら、高い闇値を吹っかけては、「そんなに高え高え、とおっしゃるんならよ、隣り村へゆけよ。あそこはここより貧乏でよ、水呑みの連中が多いから、安く売ってくれっぞ」とけたたましく高笑いする坊主頭の親父の顔。闇米のかつぎ屋をやっていた母親は、その米をフェリーで木更津から横浜の料理屋に持ちこむのだが、今度は下ぶくれの顔をした料理屋のお内儀から、「あんたも女だてらにしっかりしてるよねえ。もう少し勉強しとくれよ」とぶつぶつと文句をいわれたものだ。
「あたしも子どもと自分の生活かかってっからねえ」という母親の媚びるような声が耳に戻ってきて、うっとうしさと、しかし胸の奥に刺しこんでくるような痛みを覚えながら、「日本回帰かよ」と水田は呟いた。
「たしかに滋山同志はパレスチナのアイドルになっちまってるからな。失敗すりゃ、ベッカーへ帰ってこい、とくるだろうさ」
「この『翻訳作戦』を理想的に始める、としたら、いくつも情報のウラが取れなあかん、わしはそうおもうわ。明日、支店長がどうする。その情報がメイドからも入る、ガードマンからも入る、ゴルフ場ならゴルフ場の従業員からも入る、そしてあんさんがゴルフやるふりして確認する。こういうプログラムが理想的やね」
「ポイントはメイドや」
水田と笹岡はじっとみつめあった。
夜、ベッドに横になった水田は、
「キティゴン、たまにはこっちへこいよ」
と誘った。
キティゴンはつぶっていた眼を開き、ヤモリの貼りついている天井を眺めていたが、のっそりと身を起した。そして水田のベッドに這いあがると、いきなり水田の腹の上にまたがった。キティゴンは最近肥って目方が重くなり、おもわず水田は「うっ」と唸った。
「わるいことするのが決ったら、キティゴンに教えるね、これ、約束」
キティゴンは水田の顔を上から覗きこみ、睨むようにしていった。
雨期の合間、薄陽の射す夕刻、アンクルこと水田がキティゴンと一緒に佐久間浩美を訪ねてきた。
アンクルはいつになく生真面目な表情で、
「突然だけどよ、浩美さん、モレナと一緒にさ、モレナが今、働いている日本人の家でメイドやってくんねえかな」
と切りだした。
緊張しているのか、両手で膝頭を握りしめるようにしてそういったあと、唇を舐《な》めた。
「私がモレナと一緒にメイドするの」
浩美は驚いて訊き返した。
「モレナはよ、知ってのとおり、日本人の家でメイドを始めて、ま、日本人の家族とはそこそこうまく行ってるんだけどよ、ティナとかいう、デブのメイドにいじめられて、毎日、泣きべそ掻いてたろ。そのティナがよ、母親が病気とかで、プロビンス、つまり田舎に帰《けえ》るらしいんだよな。そいで、モレナ自身、この間もいってたけどよ、ぜひ浩美さんと一緒に暮らしたい、助けにきてくれねえかって、改めて頼んできたんだよ」
「私もモレナと一緒に暮らしたいんだけど」
浩美は額に手を当てた。
モレナがいなくなってからの毎日は、友人のいない異国に暮らす淋しさに、どうにも気が滅入ってしまう。いなくなってみて初めて、モレナの存在の貴重さがわかった気がする。
「だけど、メイドの仕事なんて、私にできるかな」
「そりゃ、おれとキティゴンが保証するよ。なあ、キティゴン」
キティゴンは細い目で浩美をみつめ、黙って頷《うなず》いた。
「ティナってデブは、料理専門のメイドでよ、結構、日本料理も作ってたみたいだけどな、どう逆立ちしたって、料理の腕は浩美に敵《かね》いっこねえ。あのロンドンの刺し身だの、大根の煮つけはいまだにおれも恋しいくれえだしよ。浩美がモレナと一緒に日本人の家に住みこんでくれりゃ、これ以上の日本化教育はあんめえよ」
浩美の不安な気持は納まらない。なにしろメイドをやれ、という提案があまりに唐突であった。
「でもね、アンクル、私はどういうかたちで住みこむの」
アンクルはちょっと視線を外した。
「ティナが帰るってんで、モレナがな、日本人の奥さんに、私の親類に日本に住んでたことのあるガールがいる、日本料理もできるし、日本語も結構わかるし、そのガールを使ってくれないかって頼んだらしいんだよ。そんで、奥さんは一度、会ってみたいっていってるそうだ」
「モレナの親類ってことは、私、フィリピン人になるってことじゃないの。そんなこと、私、とてもできないわ」
浩美は胸をかかえ、首を振った。
「おれっちはそうはおもわねえな。浩美さん、綽名は宝塚のカルメンだっていってたじゃねえか。マニラへきてからもよ、スペイン系とよく間違われるってモレナもいってたぜ。それに結婚前はどこかの劇団で芝居やってたんだろ」
アンクルは自信ありげに説得にかかってきた。
「おまけによ、北朝鮮じゃフラメンコまで踊らされてたって、いうじゃないか」
「ううん、あたし、どうしよう」
浩美は両手で頬を挟んだ。
「浩美」
キティゴンがふいに呼びかけた。キティゴンは片手で隣室のほうを指差している。
「いい、|チャンス《オボチユニテイ》おもうよ。あいづらから離れるのに」
たしかにそれはそうであった。隣室に住む孫《ソン》一味に毎日監視されて、そのうっとうしさは日々、募るばかりである。
「あと二カ月で雨期があがる。雨期があがるまでの間、働いてくんねえか。二カ月すればティナも帰ってくるだろ」
「浩一もそのとき返すよ」
キティゴンがいった。
浩美は気持が動き始めた。
「もうひとつだけ訊くけど、その日本人はどこに勤めている、なんてひとなの」
「安原の秀才とおなじ会社よ。宮井物産の湧谷って、支店長の家だ」
「宮井物産?」
浩美は耳を疑った。
「宮井物産の支店長の家で働くの」
浩美は呟き、しかしその瞬間に決心がついた。宮井物産という名前の向うに光明を見いだした感じであった。
佐久間浩美は雨期の合間をぬって、アンクルに車を出して貰い、バタンガスに近い海浜ホテルへ数日通った。陽焼けして、一層フィリピン人らしく見せるためである。
マニラに暮らしていると、道を歩くだけでも陽焼けするから、浩美も顔は以前より浅黒くなっているが、今度はビキニ姿になって、プールサイドで全身を陽にさらした。
滑稽なことに、バタンガスに出かける度に、北朝鮮の趙《チヨウ》が別の車でくっついてくる。
浩美がプールサイドに寝そべり、日本の主婦が編纂した「マニラ生活案内」などを読んで日本料理の勉強をしていると、趙は遠くのパラソルの下で、暑そうに腰にぶら下げた真赤なタオルで、顔を拭き、シャツをはだけて腋《わき》の下を拭ったりしている。
ときどき居眠りしては夢にうなされるのか、歯ぎしりをしたりして、それからぱっと跳び起きる。居眠りをしている間に、浩美を見失うことを恐れているのだ。
昼に浩美がレストランに行って食事をすると、すぐ隣のテーブルにすわり、コーヒーを飲んでいる。肥満体質である点から察すると、腹の減るのは浩美以上とおもうのだが、北朝鮮の国家保衛部は金がなくて、恐らく昼食代にもこと欠いているのだろう。コーヒーを飲んでも生唾《なまつば》がおさまらないらしく、喉ぼとけがしきりに上下するのは、見ていて気分のいいものではない。
浩美は「趙の食費くらい、払ってやろう」とおもい、ウェイターにサンドイッチを届けさせたりしたが、趙は苦しそうにサンドイッチをみつめた挙げ句、手をつけようとしない。溜め息を吐いてから、浩美のほうを睨んだ。
浩美は立ちあがって、趙の傍にゆき、片言の朝鮮語で、
「私《ナム》、中尉《チユンイ》、|あ《ユ》ん|た《ー》、|違う《アンダ》。サンドイッチ、食《ツ》べ|な《シ》さ|い《オ》。これ命令《ミヨンリヨン》」
そういって、プールサイドに戻った。
八月末の午後三時、浩美はジープニーに乗り、ダスマリナス・ビレッジの入口近くまでゆき、それから歩いてサイプレス・ロードの湧谷家を訪ねた。
ガレージ・セールで買った安物のワンピースを着、髪は編んでひっつめに結っている。手にはマニキュアはせず、その代りサンダル・シューズから覗く足の指に派手なペディキュアをしてアンクレットを穿いた。日本女性はペディキュアやアンクレットを嫌う傾向があり、ペディキュアとアンクレットをしているだけで、異国的な感じになる。
手の爪にマニキュアをしないのは、食物を扱うメイドの心得と聞いたからだ。
教わった家に着き、向って右端の細い階段を昇り、貯水槽の脇を抜けると、勝手口のドアがある。ドアは開いたままになっていて、モレナが顔を出した。満面に笑みを浮かべている。
「マァムが待っているよ」
モレナは囁いて浩美を招じ入れた。キッチンの真ん中に調理台があるが、鍋や床もぴかぴかに磨いてあって、女主人の潔癖のほどが知れた。
調理台の右手にドアがあって、そこがダイニング・ルームで、八人ほどすわれる食卓が置いてある。
「マァム、マリリンが着きました」
モレナが大声で呼ぶと「はあい」と返事がして靴音が響いた。隣の応接間から身長一メートル五十七、八で、四十代半ばの日本人女性が食堂に入ってきた。眉が濃く、しっかり者といったタイプの女性である。
「これが私の従姉のマリリンです」
女主人の日本人は驚いたように浩美を見た。
女主人は、
「私、ワクタニカズコといいます。あなた、スパニッシュの|混 血《メステイーサ》ね」
かなりうまい英語でいう。
浩美は眼を伏せて、頷《うなず》いた。
ダイニングのテーブルの角を挟んですわり、浩美は用意してきたバイオデータを差し出した。バイオデータとはメイドが面接試験用に用意する履歴書である。
ベースは北朝鮮がよこした、フィリピンの偽造パスポートに準拠しているが、経歴はモレナの経歴にヒントを得て、マニラのビジネス・スクール卒業後、マニラの教会の神父の紹介で東京・大森の教会で働いていたこと、教会で知り合った日本人と結婚したが、二年後に死別、以後は日本在住の外国人家庭のメイドをしてきたこと、などとなっている。
「日本の教会で、どういうお仕事してたの」
女主人は日本語で訊ねた。
「フィリピンの子どもに里親を世話する仕事していました」
少したどたどしい日本語で答える。
「フィリピンの貧しい子どもに毎年、お金出して、学校に行くようにするシステムです」
「日本料理できる? うちのハズバンドは日本料理しか食べないのよ。朝、昼、晩、三食日本料理」
「お刺し身、焼き魚、煮魚、家庭料理ならできる、おもいます」
「それはそうよね。日本人と結婚してたんだものね。そのあと、外国人家庭のメイドしていたっていうのはどういうお家?」
「南麻布の、ご主人フランス人、奥さん日本人の家です。ここも日本料理が多かったです」
和子は浩美の手と足をみつめ、
「それでペディキュアはしてるけど、マニキュアはしていないんだ。そういう躾《しつけ》は受けたのね」
日本語で呟いて、庭を見た。
庭には変型六角形のプールがあって、水面に木々の影が映り、火焔樹《かえんじゆ》の花びらが数片、浮いていた。花びらは微風にゆらゆらと水面をたゆたっている。一瞬、日本の家庭に戻った、という安らぎが浩美の心を捉えた。
「だけどあなたみたいな経験のあるひとが、安い給料で、この家に長くいられるはずはないでしょう。せめてティナが帰ってくるまで、二、三カ月働いてくれるとありがたいんだけど」
「モレナも手伝って、といいますから、ここ暫くは働きたいです。暫くして、入国査証下りたら、また日本にゆくかもしれないけど」
「いいわ。あなた、明日からきて頂戴」
和子は決断したようにいった。
「とにかくすぐにもお料理、それも日本料理ができるひとが要るのよ。お給料も考えるわよ」
「すみません」
と浩美はいった。
「ゲートの出入りに身分証明書《IDカード》が要るけど、それは私がこの地域《ビレツジ》の管理事務所に行って話をしておきます。IDには写真が要るから、今日、撮ってきてください。メイドのユニフォームとサンダルは私が今日、買っておきます」
てきぱきと和子はいった。
「あなたのサイズは12くらい?」
浩美は頷いた。
翌日の昼過ぎから、働きにくることを約束して、浩美は家を辞した。
勝手口を出た貯水槽の脇で、モレナは、
「先刻、浩美がこの階段を上ってくる足音聞いておもったけど、フィリピン人にしてはユー、早く歩き過ぎるよ。日本人は急いでせかせか歩く。フィリピン人、ぱった、ぱったとゆっくり歩く」
英語と日本語、チャンポンでいう。
「それと、これからはできるだけタガログ語で話そうよ」
浩美はいった。
翌日の昼過ぎ、安物の衣類や化粧品をこれも台湾製の安物のボストンバッグに詰めこみ、浩美はまたジープニーに乗って、ダスマリナス・ビレッジに向った。
ゲートのガードマンには、話が通じてあって、そのまま通してくれ、湧谷家の裏口に着いた。
覚悟はしていたものの、台所の裏にあるメイドの部屋は狭かった。細いベッドふたつが置いてあり、その奥にシャワーとトイレのついたバスルームがある。
「夜、眠れるかな。暑そうね」
浩美はタガログ語で呟いた。
これまでのマンションにもがたがたのクーラーは入っていた。クーラーなしの生活は、学生時代以来のことになる。
「北朝鮮の夏よりは涼しいよ」
モレナがギンガムにストライプの入ったメイドのユニフォームとサンダル、それにビレッジの管理事務所が臨時に出してくれた身分証明書を手渡してくれる。
メイドのユニフォームを着て、台所に立つと、真ん中の調理台に、和子が書き残していったメモが置いてある。
「夕食は、ラプラプの刺し身、タンギンギの焼物、苦瓜《にがうり》のサラダ、サヨテの味噌汁にしたい、とおもいます。私はテニスに出かけますので、ショッピングの上、クックの準備をして下さい」
英語で書いてあった。ラプラプは「はた」の一種、タンギンギはさわら、サヨテは和名をたしか「はやと瓜」という野菜だ。
「マリリン、カム・ヒア」
メモを読んでいると、応接間から男の声が響いて、浩美はびくっとした。
「ミスタ・ワクタニ、ランチ食べに会社から帰ってきて、今|昼寝《シエスタ》してるんだよ」
モレナが英語で囁き、それから急いでタガログ語で繰り返した。
「マニラでは家が近いから、皆、お昼を食べに家に帰ってくるんだよ」
食堂の隣の応接間に入ってゆくと、正面のソファにバロン・タガログを着た男が背もたれに頭をのせ、寝そべるようにすわっている。顔に日本経済新聞が拡げたまま、のせてあった。
「メイ・アイ・ヘルプ・ユー、サー」
マリリンが声をかけると、男は日経を取って、両眼をこすった。
「おまえさんがマリリンか」
湧谷はいって、正面からマリリンを眺めた。
「なるほど。色は黒いがどこそこじゃ美人≠チて歌があったっけな」
ずけずけと湧谷はいった。
「高い鼻してるな。こりゃ、マニラ一だ」
浩美は閉口して、鼻のあたりへ手をやった。
「ところで買物の車だが、うちのママの車はこわれちまった。おれがこれからあんたを市場《マーケツト》まで送ってやるよ。|買 物《シヨツピング》すんだら、おれを会社におっことしてくれや」
浩美は気が重くなり、あわてて首を振った。
「わたし、大丈夫です。ジープニーで行って帰ってきます」
「ありゃ時間がかかる。今日はま、おれにつきあえや」
湧谷はそういって早々と立ちあがった。
浩美は緊張して、黄色いベンツのノノイという運転手の隣の助手席にすわったのだが、湧谷は、
「マリリン、おまえさんも物好きだな。いくらモレナに頼まれたからって、あんな家に安い給料で住みこんで、こき使われるこたあないぜ」
ひやりとするようなことをいう。
「マカティの高級クラブで働けばえらい稼げるぞ。もうちょっと色が白けりゃ、間違いなく夜のマカティのナンバー・ワンだろな」
「でも、クラブで働くひと、プロスティテュート、聞きました」
「そういわれちゃ、身もふたもねえけどな。あの穴ぐらみたいなメイドの部屋で、あんたがどのくらいもつか、こりゃ見物《みもの》だな」
浩美は閉口して、
「わたし、日本のお料理、忘れたくない。それできました」
そう弁解した。
それから運転手のノノイに言いつけて、クバオのファーマーズ・マーケットという、大きな市場へ行った。
ここはもう何回となくきているから、要領はわかっている。浩美は身が固くしまって、水揚げしてまもない魚を選び、野菜も買って買物をすませた。
車へ戻ると、湧谷は読みさしで昼寝してしまったらしい日経を読んで、車内で待っていた。
「うちの奥さんはきつそうに見えるけど、さっぱりした気性の女よ。まあ、頑張って働けや」
湧谷はマカティのロハス広場にある、高層ビルの前で降りた。どうやらシティ・バンク・センター・ビルという建物らしい。
家に帰ると、モレナにいって、水道の水を煮沸《しやふつ》させた。
「あら、私も赴任したての頃はいちいち、煮沸した水で、魚や野菜を洗っていたけど、最近は慣れてしまって、水道の水をそのまま使ってるの」
台所に顔を出した湧谷和子がいった。
「水のクオリティがわるくなると、新聞に出るんです。今朝の新聞に、今、水のクオリティ、わるい、注意しろと出てました」
「そうか。そういえば先刻、洗濯機に溜った水にもうすく色がついてたわね」
和子は感心したようにいった。
浩美は散々吟味して選んできたラプラプをひきだし、えらに包丁を入れ、はらわたを肛門までするりとひきだした。
「へえ、これは知らなかった。私はティナにはね、まず頭を切って、それからお腹のところに包丁を入れて、はらわたを抜くように、って教えてたんだけどねえ」
「これ、フィリピンのやりかた」
突然、モレナが英語で口をはさんだ。
「最初に頭切ると、水が入って魚が傷みやすい。私、そう教わりました」
モレナはいった。
じつはこれは浩美が日本海の島で育ったとき、祖母に教わった、魚の調理法なのだが、なぜかフィリピンでもおなじやりかたで魚を調理しているようなのであった。
安原伸彦のところに、ストッキストの謝《シエ》から電話がかかってきた。
「夕方ね、迎えにゆくから、今夜、私の家にこないか。晩めし、ご馳走するよ」
そう誘ってくれた。
六時にシティ・バンク・センター・ビルの玄関口に立っていると、タクシーが眼の前に停まり、謝が降りてきた。相変らず洗いざらしの半袖開襟シャツに、折り目などとうの昔に消え失せた、よれよれのズボンを穿《は》いている。
「あんた、トンドって、貧乏人の住んでる地区を知ってるか」
タクシーに乗ってから、謝は英語でそう訊いた。
「名前だけは知っていますよ。外国人がうっかり入りこんだら、身ぐるみはがされる、とかいう危険なところでありましょう?」
「そんなに危険じゃないよ。むしろ安全だ」
謝は上唇の少し変形した口を開き、白い歯を見せて笑った。歯のほうが黄ばんだシャツより白い感じがする。
「おれはトンドのすぐ隣の地域に住んでるんだよ。しかしおれはこんなに安全なところはない、とおもってるよ。ひとことでいえばな、トンドに住んでる強盗も隣の家は狙わないってこった」
タクシーはトタンや大小さまざまの板、わらなどで一坪ほどの土地を囲んだ、ボロ小屋が並ぶトンドの一角を走ってゆく。今夜も夕空から霧のような雨が落ちて、わらで囲んだボロ小屋の中で、石油ランプらしい灯が心細げに揺れている。
長い煉瓦塀の前に、石や瓦の瓦礫《がれき》の山があって、そこで謝はタクシーを返した。
瓦礫の山にはすすきの群落が繁っていて、白いすすきの穂が顔を出している。古鞄をぶら下げた謝のあとに従って、白い穂の間を抜けてゆくと、煉瓦塀にくぐり戸があり、くぐり戸の向うは空地になっている。この長い塀は昔の地主の屋敷の塀で、トンドとこの地域の境界線のようなものらしい。
空地では、雨のなかで、ゴム草履を履いた少年たちがびしゃびしゃと音を立てながら、バスケットボールに興じていた。
教会の前には、サリサリ・ストアがあり、新旧取り混ぜた、塀のない小家屋が並んでいる。
謝と伸彦は傘もなしに霧雨のなかを歩いて、路地を左に折れ、真新しい、しかし小さな一戸建ての家に着いた。
謝に従ってその家に入ると、中は小ぎれいに片づけてあって、台所からフィリピンの若い女性が顔を出した。
「ワイフだよ」
色は白いが、小肥りで鼻がちょっと上を向き、一見してフィリピン女性とわかる。謝が年齢不詳で老けて見えるから、女の若さが殊更目立ち、まるで親娘のように伸彦の眼に映った。
焦げ茶に塗った籐椅子《とういす》にすわると、フィリピン人の細君がふといガラス瓶に梨やマンゴーをまるのまま入れた果実酒を持ってきた。
「おれの手製だよ」
謝はいって、果実酒を勧めてくれる。
それから謝は家に持ち帰った、古い鞄の鍵を開け、一枚のコピーを取りだした。
「このミステリアス・ドキュメント(怪文書)見てごらんよ」
伸彦が手に取ってみると、
「国家電力省各位
皆さんご承知のごとく、日本のOECD借款による火力発電所はルソン島の電力の一〇パーセントを供給すると豪語しながら、稼動開始後、事故の頻発を重ねております。
当局の調査報告によれば、一九八四年は事故三十四回、稼動率二九パーセント、八五年は事故実に五十四回、稼動率五五パーセント、本八六年上半期もすでに事故八回を数えております。
また周辺住民に及ぼす環境公害もひどく、死者、病人が続出している現状であります。
これは一にかかって、工事受注先き宮井物産がひどいコーナー・カッティング(手抜き工事)を発電施設の各部分において行ったため、というのが関係者の一致した意見であります。
国家電力省はこの手抜き工事の辨償を宮井物産に要求すべきでありましょう。
現にカンルーバン地区の有力者、ルイス・マデーロ氏は、現在計画されているカランサU、第二発電所工事につき、宮井物産を排除するよう、コラソン・アキノ氏に直訴の予定であります。
皆さんも、ルイス・マデーロ氏をご支援下さい」
と書かれている。
「ううん」
伸彦は唸った。
「この怪文書は国家電力省じゅうにばらまかれているらしいよ。おれの中国系の老朋友《ラオポンユウ》が教えてくれた」
まずい英語に中国語を混ぜて謝はいった。
「マデーロのやつ、大統領に直訴する気か。こりゃ大ごとだな」
伸彦はショックを受け、浮き足立った。
「あんたの会社はマデーロに恨み、買ってるみたいだね。これはカランサUの受注に響くぞ」
謝は心得顔でいう。
「電話、お借りしていいですか」
伸彦は訊ねた。この時間、湧谷は、マカティの「花蓮」で飲んでいるに違いない。
「いいよ。ただし晩めしは家で食ってってくれよ。先刻のタクシーが九時には迎えにくるから、支店長に会うのは、そのあとにしろや」
謝は先手を打つようにいった。
伸彦の予想どおり、湧谷は「花蓮」で飲んでいた。「緊急の用事ができた」と説明し、九時半に湧谷の家を訪ねることにして、伸彦は電話を切った。
安物の、それでも国内産の大理石を敷いた食堂で、伸彦は謝夫婦、それにひとり息子の男の子と食事をした。
食事がすむと男の子はひざまずいて、父親に額を差し出し、謝は子どもの額に手の甲をあてた。フィリピン流の「お休み」の挨拶らしい。
「謝さん、えらい資料を頂戴して、大感謝であります」
伸彦は九時に謝の家を出て湧谷の家に向った。
その湧谷の家で、佐久間浩美が働いていることなど、むろん夢にも知らない。
九時過ぎに安原伸彦はダスマリナス・ビレッジのゲートに着いた。
タクシーなので、ガードマンにゲートで停められた。ガードマンが湧谷の家に電話を入れて、伸彦を通していいか、と問い合わせている。すぐにOKは出たが、タクシーの運転手はゲートに運転免許証を預けさせられた。
玄関のブザーを押すと、
「まあ、しばらく安原さん」
湧谷和子が顔を出した。
大理石の玄関ホールから低い段々を三段上ると、応接間《レセプシヨン》になっており、玄関から応接間は吹き通しでまる見えだ。
「よう、夜分、ご苦労様だな」
応接間のソファにすわっていた湧谷昭生が立ちあがった。バロン・タガログを着て、靴を履いたままである。「花蓮」から急いで引き揚げてきて、晩めしを掻きこみ、伸彦の到着を待っていた様子であった。
応接間には、ソファのほかに円卓を囲むセッティーがあったが、その円卓に伸彦は持ってきた、何者かによる怪文書を拡げて見せた。
「こりゃあブラック・メイルじゃねえか」
老眼鏡をかけて書類に眼を通すなり、湧谷はいった。
「うちのサイドに手抜きはないぜ。おまえさんも見てきたとおり、カランサ|T《ワン》は相当ひどい状態だが、あれは一にも二にも粗悪なセミララ島産の石炭、使ってるせいよ」
公害防止装置が充分でなく、惨状を呈しているのも事実だが、これもフィリピン側が防止装置の設置を経費高になる、といって強く固辞したからにほかならない。
「しかしルイス・マデーロからアキノ大統領に手抜き工事うんぬんの出まかせを直訴されると、宮井の信用は落ちるでありましょうな」
伸彦はいった。
「大統領や電力省のなかに、宮井はカランサ|U《ツウ》の入札からは外したほうが無事だ、という空気ができるんじゃないですか」
「お話し中だけど、伸彦さん、お茶になさる?」
和子が木製の衝立《ついたて》の向うから声をかけた。衝立の向うはダイニング・ルームになっているらしい。
「日本茶をいただきます」
伸彦は答えた。
和子は台所に通じているらしいドアを開き、
「マリリン、お茶」
と叫んでいる。
マリリンこと佐久間浩美は夕食の洗い物を終え、シャワーを浴びたところであった。
今夜は湧谷は遅くなる、という話だったので、六時に湧谷夫人の和子と日本人学校に行っているひとり娘の真理子に夕食を用意した。
湧谷一家の食事がすみ、浩美とモレナが自分たちの食事を台所で摂ろうとしているところへ、突然湧谷が帰ってきて、「食事はまだだぜ」という。
浩美は弱ったが、こういうこともあろうか、とおもって冷蔵庫に入れて取っておいたラプラプ(はたの一種)の頭をさっと酒蒸しにした。冷奴に|すだち《ヽヽヽ》に似たフィリピン名物のカリマンシーを添えて、食卓に出した。和子と娘の真理子用に作った|とうがん《ヽヽヽヽ》の味噌汁を温め直し、自分たち用に調理《ヽヽ》した湯葉と細切りにした豚肉の揚げ物も運んだ。
「へへえ、マリリンは料理が滅法うめえな。うちでこんなうまい酒蒸しを食えるとは、おもわなかった」
「お料理がおいしかったら、お昼だけでなく、夜も家で食事をしたらいかが」
和子が皮肉をいった。
「ま、努力はしておりますがね」
そんな会話を交しながらの食事のあと、浩美とモレナはやっと自分たちの食事を台所で摂り、食器の洗い物をした。浩美が残りの洗い物をモレナにまかせ、シャワーを浴びていると、表の道路に車が停まり、玄関にだれかお客のきた気配がした。
モレナと入れ代りにシャワー・ルームを出た浩美が、暑いのでメイドの部屋のドアを半開きにしたまま、躰《からだ》を拭いていると、軽くノックして、ドアが開かれた。
「マリリン、お客さまにお茶を出してくれる」
和子の声が背中に振りかかってきた。
ちょうど足を拭いていた浩美は背中や尻が台所の灯に照らされた感じになり、「しまった」とおもった。フィリピン人を装うために、日光浴した際の、ビキニの水着の跡が背中や尻に白く残っていて、それを和子の眼に曝《さら》してしまったことになる。
「あら、ご免なさい」
和子は少しドアから遠ざかった。浩美は、
「すぐお茶をおいれします。お客さまは何人ですか」
と訊ねた。
「お客さまはひとり、主人を入れてふたり分でいいわ」
浩美はもう一度メイドのユニフォームを着直して台所へ出た。
この台所には玄関ホールへ出るドアと食堂へ出るドアとがあって、今は両方が開いているが、その両方のドアから、なにやら深刻めいた湧谷の声が聞える。
今頃、どんなお客だろうと浩美はおもいながら、急須《きゆうす》を取り出し、客用の茶碗を盆に並べた。
メイド用のシャワー・ルームからモレナが浴びている湯の音が聞える。
「支店長、私は考えたんでありますが」
突然客が大きな声を出し、その声を聞いた瞬間、浩美は躰全体が凍りついたようになった。
「この際、弊社と致しましてはおもいきった対抗手段を取ったほうがいいとおもうのであります」
あのよくとおる声、そして照れくささを押しかくすための、「であります」を多用する変に丁寧な喋りかた、あんな喋りかたをする男がほかにいるだろうか。あれは安原伸彦の声ではないか。
むろん安原伸彦が宮井物産で働いていることは百も承知で、むしろそれを希望のようにおもってこの家へきた。しかし宮井物産は何千人もの社員をかかえている企業で、まさかこの湧谷の家で伸彦と出会うことになろう、とは夢にもおもわなかったのである。
「支店長はアキノ大統領をご存じのわけでありますから、マデーロの先手を打ってアキノ大統領に直訴されてはいかがでありましょうか。旧マルコス側近のある筋が、カランサTにつき、宮井を誹謗《ひぼう》する文書を撒き、またルイス・マデーロが大統領に直訴するという噂が出ているが、これは一切事実無根である、トラブルの原因は石炭とフィリピン側予算の問題にある、直接そう説明されるのが一番だ、とおもうんでありますよ」
北朝鮮の風の激しく吹く夜半、フィリピンの豪雨が窓を叩く明け方、浩美はこのよくとおる声を何十回夢枕に聞いたことだろう。そして浩美の発言にすぐに感情が揺れ動いて、たちまち赤く染まる顔を瞼の裏に何十回想いうかべたことだろう。その声の主がすぐそこにすわっているのだ。
ああ、どうしようと浩美はおもい、おもわず台所の床にしゃがみこんだ。「伸彦さん、私、こんなところで働いているの」。いっそ応接間に飛び出して行き、伸彦の膝にすがりついて、そう訴えてしまおうか、と浩美はおもいつめた。
日本人であることが湧谷夫婦、ひいては宮井物産に露見してしまうのはかまわない。しかしアンクルとの約束は破ることになる。そうなるとアンクルとキティゴンは浩一を返してくれないかもしれない。
鼓動が早鐘のように打ち、乳房が上下する胸をおさえ、しゃがみこんだまま、浩美は「だけど」とおもった。伸彦が味方についてくれれば、伸彦が一緒に行動をしてくれれば、この世に恐れることは何ひとつないではないか。
明日の朝、マニラ日本人学校へ伸彦とふたりして堂々と乗りこめばいいのだ。浩一をふたりで引き取って、日本大使館へ飛びこんでしまえばいいのだ。
事情を知れば、湧谷夫婦だって応援してくれるに相違ない。今、ここで「伸彦さん、ご無沙汰しています」といったら、伸彦はどんな顔をするだろうか。ふたりで抱き合って、泣きだすことになるのだろうか。
しゃがみこんでじっとみつめていた台所の床が急に暗くなった。
「あら、今夜も停電」
応接間で和子が叫ぶ声がした。
「まったくこの停電はかなわんな。国家電力省が日本人の家だけ消して、電力不足を宣伝してるんじゃねえかな」
湧谷が応じている。
和子は会話の邪魔にならないように、応接間の向うの端のソファにすわっていたらしく、そのまま立ちあがって戸外の薄明りを頼りに、玄関ホールへ降り、台所にやってくる気配である。
「浩美、どうしたの」
浩美のすぐ背後でシャワーを終えたモレナの声がした。
モレナは手早くマッチを擦って、常備してある蝋燭《ろうそく》に火をつけた。
「浩美、キモチ、わるいの」
「大丈夫よ。|ちょっとくたびれただけ《ジヤスタ・リトルビツト・タイヤード》」
モレナがもうひとつの蝋燭に火をつけて玄関ホールへ出てゆき、蝋燭を和子に手渡している。
はっきりしないが、抑制に似た気持が働いた。「あせるな、あせると、いま動くと浩一がまずいことになる」、自分にそういい聞かせた。
しかし伸彦になにかを語りかけたい、なにかを暗示したい気持は抑えられない。
浩美はメイド・ルームに入り、自分のキャビネットから、北朝鮮で貰った金正日の名前入りのオメガ、いわゆる「尊名時計」を取り出して腕にはめた。この尊名時計や功労メダルは北朝鮮人に対して、いわば江戸時代の「葵《あおい》の御紋」のような効果を発揮するので、護身用にこの家にも持ってきたのである。
昔、女優やってたんじゃないの、しっかりしなさいよ、自分を叱りつけながら、手の震えをおさえつつ、蝋燭の灯で、日本茶を入れた。
蝋燭を持つモレナの先導で、浩美は食堂を通り、応接間に入って行った。
幸い、安原伸彦はこちらにワイシャツの背を向けている。背中を見ると、浩美の気持はまた乱れ始めた。
「この間、会社で見かけましたが、ルイス・マデーロというのはどういう人物でありますか」
「おまえさんもそのうち連れてゆくがね、カンルーバンというゴルフ場がある。マカティから四、五十分だな。その辺の大地主だよ」
伸彦はなにやら深刻な話をしていて、そのあと、沈黙が訪れた。
蝋燭を灯した円卓の上に、浩美は尊名時計をはめた左手で、茶碗を置いた。茶碗をすっと伸彦の前に持ってゆくつもりが緊張のあまり、かたんと音をたてた。
「どうぞ」
伸彦は一瞬、浩美の腕時計に眼を落した。浩美は全身が胃のあたり、躰の芯に向って収縮してゆく気がした。しかし伸彦は、深刻な話題に気を取られているらしく、ちらりと浩美の二の腕あたりを一瞥《いちべつ》したが、こちらをはっきり見ようとはしない。
湧谷が、
「よし、明日早速、アキノさんに面会を申しこんで、アポを取ろう。明日、面会が可能なら、明日ゆくよ」
そういった。
浩美が台所に戻ったあとは暫く雑談が続く気配で、やがて玄関ホールが賑やかになった。伸彦が帰るらしい。
「車はあんのか」
湧谷が訊いている。
「タクシーを待たせていますから」
伸彦が答えるのが聞えた。
玄関ホールへ続く台所のドアをうすく開いて、伸彦の様子を窺った。
蝋燭の灯に照らしだされた伸彦はワイシャツにネクタイ姿で、陽に焼けて、以前より大人びた印象である。
「ナガスネさんがここで働くことになって、なんか心強いわ」
和子がそういっている。
「近々、家へご飯食べにいらしてよ」
「今度、マリリンって、いいメイドがきてな、これが日本料理がうまいんだ。ラプラプの薄作りを菊の花みたいに盛りつけたりしてな。おまけに煮物がうまい。大根の煮つけなんぞ、うちのワイフより、よっぽどうまい」
湧谷が浩美の料理を絶賛している。
いつの間にかモレナが傍らにきていて、浩美の背中をつっついた。
「おまけにべっぴんだぞ」
「それは楽しみでありますな。今度、伺うときはそのマリリンさんをよく拝見できますように電力省に事前に問い合わせて、停電のない日に伺います」
タクシーのドアが閉まる音を台所の壁にもたれた浩美は放心状態で聞いた。タクシーのエンジン音は永遠の彼方へ遠ざかってゆくようで、浩美は激しい孤独感に襲われた。
夜、さすがに浩美は寝つけなかった。ロンドンでの伸彦との日々が生々しく蘇ってくる。明け方に浩美の家にパジャマ姿で転げこんできた、寒さに唇の色をなくした伸彦の顔、バス・タブに長々と伸びた姿態をおもいだし、息が苦しくなった。
起き上って、台所の丸椅子にすわりこんでいると、モレナが起きてきた。
蝋燭をつけてくれる。
「眠り薬、失礼してくるよ」
モレナはいい、応接間にしのび足で行って、ブランディ・グラスにブランディを注いで持ってきてくれた。
「ラベルのところまで、減っているのを持ってきたから大丈夫だよ」
ウインクして見せる。
「だけど、今日きた男のひと、あれ、だあれ? まさか、昔の恋人じゃないよね」
蝋燭の灯がモレナの瞳のなかで疑惑めいて、ゆらめいている。
「最初、似ているな、とおもったけど、違ってた。向うも知らん顔してたでしょ。だけどあたし、昔の彼のこと、想い出しちゃって」
涙が自然に浩美の頬を伝い落ちた。
――もう安心だ。伸彦がマニラにきている。
そう、信じがたいことに伸彦がこのマニラにきて働き始めたのだ。浩美は自分がじつは嬉し涙を流していることに気づいた。
泣きながら笑う浩美を、モレナは不思議そうにみつめている。
翌々日、湧谷はマラカニアン宮殿にゆき、コラソン・アキノ大統領に会って帰ってきた。
「大統領はな、今はマルコス時代の人間の話をだれも真面目に受けとりはしない。私はルイス・マデーロという男を信用していないから心配するな、そういってくれたよ」
湧谷は上機嫌であった。
「カランサTも、早急に輸入炭に切りかえる、といっておられたよ」
「それは万事好都合に運んで、お目出とうございました」
伸彦も笑顔で応じた。
10
「わが軍の幹部と協議した結果を報告する」
コロンブスは勿体ぶった態度でメモを読んだ。
「一、本作戦は日本赤衛軍とフィリピン新人民軍による共同作戦である。作戦は両者の協議と同意のもとに遂行されるが、最終的意思の決定権は作戦提案者の日本赤衛軍にある」
ケソン市内の地中海料理屋の裏庭である。雨期も終りに近く、夕焼け空がのぞき、湿気の少いさわやかな微風が吹いている。
「二、獲得した革命資金の両者への分配は各五〇パーセントとする。三、作戦実行と人質監視は新人民軍の担当とし、革命資金獲得の交渉は日本赤衛軍が行なう。なお、実行部隊と監視部隊の人選は終了している」
そこでコロンブスはおもむろに顔をあげ、
「四、作戦のターゲットは宮井物産支店長、ワクタニ・アキオとする」
といった。新人民軍は丸商支店長から宮井物産支店長へ、誘拐のターゲットを変更することにやっと同意したのであった。
「われわれの提案は、早朝にダスマリナスの湧谷の自宅を襲い、湧谷をキドナップ(誘拐)する方法だ」
コロンブスはアタッシェ・ケースから湧谷の家の間取り図を取り出した。
湧谷が出勤し、和子がテニスのレッスンに出かけ、真理子が日本人学校にゆき、マリリンこと佐久間浩美が買物に出ている隙に、ダビトが入りこんで作りあげた精密な湧谷家の間取り図である。
「こんな無防備な家はダスマリナスでもほかにあるまいな」
コロンブスはいった。
「一切鍵なしで、表から夫婦の寝室に辿り着けるんだ」
湧谷の家は片仮名の「ト」の字の形をしている。「ト」の横棒の部分が応接間、食堂、台所、メイドの部屋やシャワー・ルームだ。「ト」の字の縦棒の部分に下の道路側から、夫婦寝室、書斎、真理子寝室、客用寝室がならぶ。
「一番簡単なのは」
コロンブスの太い指が勝手口の階段を指差した。
「ここから入って庭のプールの手前を横切る」
指は「ト」の字の縦棒の部分に突きあたった。
「ここはサンルームというか、木の廊下だが、ガラスはなくて夜、木のアコーディオン・ドアを閉めるだけなんだ。これを開けて、木の廊下にあがるとね、左の突きあたりが夫婦寝室だ。しかも日本人は、ま、フィリピン人もおなじだが、夜、鍵を閉めたりしないらしい。つまり鍵一本開けずに夫婦寝室に辿り着ける」
コロンブスは指で夫婦寝室を叩いた。
「そやけど、ビレッジのゲートが問題やろ」
笹岡がいった。
「ダスマリナスには空き家が何軒かある。昼間のうちに実行部隊を空き家にしのびこませておいて、明け方襲う。湧谷をキドナップしたら、寝室と書斎の間の階段を使って車庫に降りる。車庫にある湧谷の家の車二台でゲートを出る。車にはもちろんビレッジのスティッカーが貼ってあって、簡単にゲートを通過できる」
11
日本赤衛軍と新人民軍の打ち合わせは、連日続けられることになっていたが、二日目は激論になった。
笹岡が、
「ターゲットを宮井物産支店長の湧谷に決めてくれたのは感謝しておりますね。そやけど、湧谷の自宅を襲うのは、わしゃ、反対やなあ」
正面切ってコロンブスの計画に否定的な態度を取った。
「たしかに湧谷のダスマリナスの家は無防備そのものや。わしら、皆、呆れとるんやからな。そやけどミスタ・コロンブス、あんたはついこの間まで、丸商の単身赴任の支店長のほうが家族がおらんぶんやりやすい、そない、いうてはってたやろ。今度はその家族がおりますのやで。湧谷の細君が悲鳴あげるかもしれんし、娘がばたばた逃げ出すかもしれへん。両隣が近いしな、悲鳴ひとつで隣近所のメイドやガードマンが集まってきよるで。それで泡食った実行班のひとりがライフルやらピストルやら一発、撃ってまうかもしれん。途端に近所からガードマンは集まってくるし、ゲートへも連絡が行って、大騒ぎになる。もちろんゲートは完全閉鎖や」
おまけに浩美とモレナがいる、と水田は考えた。モレナには北朝鮮の手が入って、浩美の監視役をやらせたりしているが、実行計画を打ち明けるつもりはない。
「メイドが別口の強盗と間違えて、ポリスへ電話するかもしんねえなあ。あの家には電話が三本もあるだろ。八一七―一四九二と八一七―九五八一、それにもう一本、近所と親子のやつがあるよな」
「わがNPAの兵士はきわめて優秀だし、冷静沈着に行動する。大声を出したり、無闇に発砲したりはしないよ」
コロンブスは穏やかに反論した。
「ほなら、別の話から訊くけど、ラファエル・サラザールに頼んでた監禁場所は確定してんのかね」
笹岡が訊いた。
コロンブスは頷いた。
「北のアンヘレスのあたりになりそうだ。軍の演習地の近くだ」
アンヘレスはアメリカのロス・アンジェルスとおなじ綴《つづ》りの街で、近くに米軍基地がある。
「北で監禁するんやったら、南で湧谷をキドナップしたらどうや」
笹岡はいった。
「カンルーバンのゴルフ場の帰りにキドナップして、麻酔嗅がすんやな。それでマニラ市内から、ケソンと抜けてもええし、マニラを迂回してもええ、とにかく北へ持ってゆくんや。警察は南で事件起すと、南のラグナ湖のまわりとか、あのあたりばかり探しよるで。裏を掻くんや」
カンルーバンとアンヘレスはマニラ市を挟んで、まさに南と北の反対方向になる。
コロンブスの表情が動いた。黒縁の眼鏡を押しあげ、厚い、赤い唇をちろりと舐《な》めた。
「カンルーバンの大地主はルイス・マデーロというんやが、宮井とリベートの支払いをめぐってもめとるんやね。マデーロが宮井を恨んどるっちゅう話は、うちのほうで電力省あたりにちゃあんと流してあるんや。|目くらまし《フエイント》工作やね。もしカンルーバンで事件が起ったら、宮井や世間はてっきりマデーロがやったとおもうやろな」
「さすがに日本赤衛軍だな。やることに手抜かりがない」
コロンブスは納得し、同意する表情になった。
「いつ湧谷がカンルーバンでゴルフをやるか、その情報は取れるのかね」
水田がそこで胸を叩いてみせた。
「湧谷の周辺からも情報は取れるし、ゴルフ場からも情報は取れるんだよ。ただし明日、やっこがゴルフするから、すぐ準備しろ、みたいな急な話になるかもしれねえな」
水田はちょっとためらったが、
「コロンブス、余計な話だが、ラファエルのやっこはちゃんとヘルプしてくれるんだろうな」
そう訊いてみた。
「よく手伝ってくれている。監禁場所としてはベストだろうな」
コロンブスは頷いた。
打ち合わせは、要求金額から要求方法、マニラ市内に二カ所、湧谷の家族と交渉用の電話を確保することなど、細目にわたって行なわれた。
12
安原伸彦は神奈川のカトリック系イエズス会のミッション・スクール「栄光学園」の出身だが、高校時代に兄と一緒に洗礼を受けている。大学でもカトリック研究会に在籍したが、就職と同時に自然に教会から足が遠のいた。
ロンドン時代は周辺に英国国教の教会しかなく、カトリック教会がなかったこともあってやはり教会の門はくぐらなかった。
しかしマニラにはカトリック教会が多く、教会を見かける度になつかしさがつのってきて、ある神父の顔が浮かびあがってきた。高校時代に彼ら兄弟に「宗教」の授業を教え、洗礼を授けてくれた、スペイン系フィリピン人、フェルナンデス神父である。その後、故郷のフィリピンに帰ってきて、布教活動に従事している筈であった。
マカティのイエズス会の教会に電話をかけて訊いてみると、「日本にいたフェルナンデス神父はマニラ湾沿いのロハス・ブルバードの奥、パサイ区のバククラン教会にいる」という話であった。
土曜日、新しく雇った運転手に道を訊かせながら、パサイのカトリック教会を訪ねた。
いずこも同じでゴム草履を履いた子どもがはねまわり、若い男たちがボールの代りに、四角い駒を打ち合うビリヤードをやっている。
そのなかに周囲とはおよそ似合わない、クリーム色の美しく、おおきな教会が建っていた。
教会の裏庭にゆき、通りすがりの、白人の大柄なシスターを呼び止め、
「フェルナンデス神父にお会いしたい」
そういうと、教会の裏にある、二階建ての修道院に案内してくれた。
一階の応接間に通され待っていると、フェルナンデス神父がすぐに階段を降りてきた。スペイン系の神父は血色よく肥り、バロン・タガログを着て、足には日本式スリッパを履いている。
神父は階段の下で立ち止まり、伸彦に人差し指をつきつけた。
「タツヒコかな、ノブヒコだったかな」
日本語で訊く。
「ノブヒコです。弟のほうです」
「そうか。タツヒコが兄貴だったな。きみたちは兄弟で一緒に受洗したからな、よくおぼえているよ」
神父は「暫くだ、ノブヒコ」と手が痛くなるような固い握手をしてくれた。
伸彦が商社に入り、マニラに着任したと説明すると、
「商社に入って、しかもマニラにきたのなら、教会にこないと精神状態によくないぞ。商売のほうでも私生活のほうでも毎週、告解(神父への告白)することがいっぱい溜まって困るだろう」
豪快に腹を揺すって笑った。
伸彦の高校在学中はフォスさんという、やはり日本語の達者な神父が校長だったが、フェルナンデス神父もおなじように達者な日本語を喋る。
お茶をご馳走になり、できるだけ日曜に教会へくることを約束して辞したが、神父はスリッパのまま表まで、見送りに出てくれた。
雨期明けの近い、雲間に拡がる青空を見上げながら、
「十一月からルソン島は乾期に入るが、乾期に入ったら、金のある日本人は用心しないといかんぞ」
という。
「着いたばかりで、ノブヒコは知らんだろうな。マニラの乾期の名物はキドナップなんだ。誘拐なんだよ」
神父の説明では、四月から十月までの雨期は、誘拐しても、人質が暑さや蚊で参ってしまい、精神的におかしくなったりして、取り扱いに苦労する。しかし十一月から三月までの乾期は涼しくて、しのぎやすく、人質の状態も心配する必要がないのだそうであった。
「この教会にきてる、中国系の金持ちもね、二人、乾期に誘拐されたよ。幸い、二人とも金払って、無事に帰ってきたがね。私も家族の相談に乗ったりして大変だったよ」
神父はそこでウインクして、
「一番いい手は女装して歩くことだ。フィリピンじゃ、女は誘拐しない。汚い小屋に放りこんだりすると、女はトイレや風呂の問題でパニック状態になりやすい。過去にそんなケースがあったらしくて、フィリピンじゃ、女は安全みたいだよ」
ああいう恰好をして歩けば安心だと遠くのシスターを指差し、神父はまた腹を揺すって笑った。
その夜、伸彦は湧谷の家に夕食に招かれていた。
ダスマリナス・ビレッジのゲートを抜けながら、自分がメイドのマリリンに会えるのを楽しみにしていることに、伸彦は気がついた。
あの夜は深刻な相談を湧谷とやっていて、気持に余裕がなかったのだが、お茶が卓上にサービスされたとき、伸彦はふいにマリリンという娘が異常なほど緊張しているのを感じた。注意力というか関心というか、そんなものが一陣の強い風のように自分のほうに注いでくるような気がした。どこで買ったものか、漢字入りの時計をしていたことだけが印象に残っている。
若い日本人の男がこの家を訪問するチャンスが少いから緊張しているのだろう、と伸彦はおもったものだ。
しかし塀のない湧谷の家を訪ねてみると、玄関の観音開きのドアを開いたのは、マリリンではなく、もうひとりの、鼻がちょっと上を向いた、可愛い感じはするが、混血ではないフィリピン娘であった。
玄関の正面の応接間には、おなじダスマリナスに住む長田夫婦がきていて、湧谷夫婦と賑やかに談笑している。
「遅くなりまして」
伸彦が挨拶した途端に、湧谷が、
「昨夜遅くな、本社の屋敷常務と電話で話したんだがね、来週、アキノ大統領が訪日されるよな。それにおれも随行することにしたよ。本社のえらいさんを大統領に紹介してさ、カランサ|T《ワン》じゃ大変ご迷惑をおかけしましたが、カランサ|U《ツウ》のほうもよろしく、そうお願いするわけさ」
といった。
「それは大変なお役目ですね」
「各商社のマニラ支店長は、あらかたこの大統領訪日に合わせて、日本へゆくんじゃねえかな」
「それじゃ、歓送迎のゴルフは延期だな」
と長田がいった。
鉄鋼部門ではないが、マニラ支店で人事異動があり、その歓送迎ゴルフが行なわれることになっている。それを延ばそうというのであった。
「早く帰ってきたら、ゴルフはやろうや。カンルーバンなら、いつでも取れるだろう」
湧谷はいった。
「お食事の用意ができましてよ」
格子のような木製の衝立《ついたて》の向うから、和子が一同を誘った。
ダイニング・テーブルには、白身の魚の薄作りが菊の花のように大皿に盛りつけられている。
「マリリンは土曜が休みの日なんだけど、午前中、このタラキイト、|しまあじ《ヽヽヽヽ》なんですけど、このお刺し身や煮物を作ってから出かけてくれたのよ」
席につきながら、湧谷は、
「今日はマリリンをナガスネに紹介できなくて残念だな。あれはほんとに色は黒いが、どこそこ美人だぞ。メイドにしておくのは勿体《もつたい》ないな。マカティの秘書で充分、通る美形よ」
と褒めた。
「それがね」
やはり席につきながら、和子がいった。
「あの子、ほんとは色が白いんだ、とおもうの。いつだったか、あの子を夜、部屋に呼びにいったのね。そうしたらシャワーを浴びたところで、こちらへ背中向けて躰《からだ》、拭いていたんだけど、背中とお尻のね、ビキニの水着を着る部分が真白なのよ。あれは陽に焼けて黒いんで、ほんとうは色白なんだ、とおもう」
フィリピンの、ちょっと可愛いメイドが、これもマリリンが作っていったのだろう、いかやまぐろの刺し身を運んできた。
「モレナ、|正直いってさ《ツー・ビー・オネスト》」
湧谷は自分の胸の辺を横撫でしてみせた。
「もともとマリリンの肌は白いのかね、それとも黒いのかね」
モレナは困った顔になって、視線を宙に泳がせた。
「アイ・ドント・ノウ・ウェル」
と呟くようにいい、台所へ行ってしまった。
「モレナは妬《や》いてんのかな。親類だし、一緒に暮らしてるんだし、わかってるに違いないのにな」
「おまけにね」
と和子はいった。
「マリリンのお尻には、モンゴリアン・スポットっていうんだっけ、蒙古斑が残ってるのよ。マリリンはスペインの血が入ってるみたいだけど、混血でも、蒙古斑は出るのねえ」
「そりゃ出たり出なかったり、朝顔の花の色みたいなもんじゃないか」
湧谷がいった。
伸彦はある疑問に包まれて、テーブルの上のしまあじの薄作りを眺めていた。
佐久間浩美がマリリンと同一人物だ、というようなことがあり得るだろうか。
いくらなんでもとんでもない、と伸彦はおもった。日本人駐在員の家にいるメイドはほとんどがじつに巧みに日本料理を作るそうだし、蒙古斑もアジア人のフィリピン人には百パーセント、出て不思議はなかった。
バンコクで、滋山久子との打ち合わせを終えた笹岡規也が、光寺修二と連れ立ってマニラに戻ってきた。
「ここで実行する翻訳作戦について、説明してきたが、滋山同志はまあまあ同意してくれたわ。大賛成というムードではなかったけどな。まあ、六〇パーセントってところかな」
と笹岡が水田にいった。
13
佐久間浩美はなんとかして安原伸彦の住所か家の電話番号を知りたい、とおもった。さすがに宮井物産マニラ支店に電話する勇気は出ない。
和子や娘の真理子のいない留守に、浩美はうろうろと家のなかを歩き、どこかに伸彦の住所、電話番号がメモされていないか、と探すのだが、新着任の男の連絡先はどこにも記されていない。
家の電話帳にはもちろん、何の記載もない。書斎の窓ぎわには造りつけのデスクがあって、その引き出しに宮井物産マニラ支店住所録をみつけたときは、胸を躍らせたが、やはり新着任の伸彦の名前は記録されていない。
それでも浩美は、落ち着かず、家のなかをうろついていたのだが、モレナがやはり家のなかを歩きまわっているのに気がついた。浩美が応接間に入ってゆくと、すわりこんで湧谷一家のアルバムを眺めていたりする。
「日本人はリッチな生活ができていいねえ。私、早く日本へゆきたいよ」
溜め息をついて見せたりするのだが、それがわざとらしい。
ある日、メイド・ルームのキャビネットの上に白い封筒が置いてあり、写真がはみ出ているのが目に止った。写真を引き出してみると、ゴルフ場でくつろぐ湧谷の写真が数枚、入っていた。
封筒はいつの間にか消えていた。
十一月十四日、大統領コラソン・アキノに随行する形で日本に出張していた湧谷が帰ってきた。
夜遅く帰宅した湧谷は、
「日本政府はフィリピンに四百億の借款を約束したぞ」
上機嫌であった。
「明日は歓送迎ゴルフ・コンペだ。めし食って七時四十分にお出かけですぜ」
そう怒鳴っている。
「急に決まったんだ。カンルーバンだよ」
別に声を低めるでもない。
和子が台所にやってきて、
「マリリン、明日は土曜であなたはお休みだけど、朝ご飯、用意してくれる?」
少し浩美の機嫌を窺うように頼んだ。
「もちろんですよ。私は朝、早いのは平気ですから」
シャワーを浴びて、寝仕度にとりかかっていると、モレナが、
「明日、ミスターは早いんだって。ゴルフはカンルーバンかな」
と訊く。
「そう、カンルーバンらしいわね。七時四十分に出るっていってた」
浩美はたいして気にもせずそう応じた。
夜中、目を覚ますと、話し声が聞えるような気がした。浩美は不安になり、起き上ってドアを細目に開け、外をうかがった。モレナが玄関ホールの電話で、だれかと話している。
浩美はそのままベッドに戻ったが、きいいっとかすかな音を立ててドアが開き、モレナが足音をしのばせて隣のベッドに這い上った。
翌朝、玄関のブザーが鳴り、
「支店長、用意はよろしいですか」
運転手のノノイが湧谷家にくる前に拾ってきたのだろう、伸彦の声がした。
待ち受けていた湧谷はそのまま出て行ったのだが、八時過ぎ、電話が鳴った。出てみると、ゲートからで、タクシーの運転手がマリリンに会いたい、といっているが、通していいか、とガードマンが訊く。
運転手が出てきて、
「私、エディといいます。ミセス・キティにいわれて、迎えにきました。ミセスからの手紙持ってる。荷物全部もって、傍《そば》のマホガニー・ストリートにきてください」
タガログ語でいった。
和子のところに、休暇にゆくと申し出ると、
「あのねえ」
和子はいい難そうに口ごもった。
「ティナね、前にいたメイドだけど、お母さんの病気が治ったから来週からここへ戻ってきたいって、手紙よこしたの。主人はあなたにずっといて貰いたがっているんだけど、どうかしら」
「私、日本にゆきますので、それでは今日で失礼させていただきます」
浩美ははっきりいった。
「日本のほうがお給料高いしねえ、無理ないけど、主人が残念がるなあ」
あっさりした性格の和子は残念そうだったが、それきり引き止めない。
荷物をまとめ、浩美は裏口から表に出た。モレナは鼻歌を歌いながら、食堂の横の物干しに洗濯物を拡げている。
角をまがって、隣接するマホガニー・ストリートへゆくと、いつも浩一を日本人学校に送迎するのを遠目に眺めていた、トライシクルの運転手のエディという男が今日はタクシーに乗って、待っていた。
エディに手渡された手紙には、
「あなたの仕事は終りました。エディと一緒にグリーン・ストリートに行って下さい。そこに部屋を借りてありますから、暫くそこに住んでくれますか。キティ」
と英語で書いてある。
グリーン・ストリートへ行くのは、初めてだったが、要するに籐家具専門店がずらりとならぶ、籐の街である。将来、家具の仕事をする、といっていたのをおもいだして、キティゴンはこの町を選んだのだろうか。
籐家具専門店の一軒の前でおろされ、二階の部屋に案内された。古い、日本流にいえば、一DKの部屋である。むっと熱気がこもり、埃《ほこり》の臭いがして、ずっと空き部屋だったらしい。籐家具店の経営者らしい中年の女性が「ウェルカム」といいながら入ってきて、窓を開けてくれた。
なんのことか意味がわからず、浩美が荷物を置き部屋の真ん中に立ち尽くしていると、家の前で子どものあたりはばからぬ泣き声が響いた。
窓から顔を出すと、中国系の男の子がひとり、布の鞄や画板をかかえ、大きなボストンバッグを足もとに置いて手放しの大声で泣いている。
浩美の息子の浩一であった。
[#改ページ]
八 翻 訳 作 戦
その朝、水田はカンルーバンのゴルフ場に着くと、プロショップの横にある受付へ行った。受付の男に宮井物産の連中がきているか、と尋ねると、手元のプレイ受けつけカードをぱらぱらとめくって頷《うなず》いた。水田は、そのカードを覗きこんで湧谷がきている事実を確認した。
自分は、一行がプレイしていないノース・コースをハーフだけまわってそのまま上り、ゴルフ・クラブの周囲をぶらぶらしたりして、宮井の一行の出てくるのを待ち受けた。
湧谷の黄色いベンツの出発を待って、無線で実行部隊に連絡する手筈であった。
歓送迎ゴルフ・コンペ三組十二人がサウス・コースでプレイを終えたのは、午後二時前後である。
たった三組だから、相前後して階下の広い更衣室にゆき、シャワーを浴びて、着替えをした。
このクラブ・ハウスの二階のレストランには、回廊があってその先に能舞台のように野外に突き出ている露天の別室がある。
露天の別室には中華料理用のような丸い大テーブルが据えつけられていて、そのまわりに歓送迎コンペの参加者が次々と集まった。
全員が集まったところで湧谷が立って転出者の功績をねぎらい、転入社員の活躍を期待する短いスピーチをした。
日焼けして熱気の残る肌をさわやかな微風に吹かれながら、サン・ミゲールのビールで乾杯をした。
安原伸彦がゴルフを始めたのは、ロンドンから日本へ帰って後のことで、まだビギナーのうちである。それにしてはまずまずのスコアで、能舞台のような露天の別室で、涼風のゆるやかな流れに快く疲労した躰《からだ》をまかせ、冷たいビールをあおるのはなんとも気分がよかった。
とてつもなく背の高い椰子の大木の間を抜けてくる微風のさわやかな感覚は、ルソン島で乾期が始まったことの証しであった。フェルナンデス神父のいう、危険な乾期の到来である。
「今日はもちろん、みなアルタスを使ってプレイしたんだろうな」
湧谷がいい、円卓を囲んだ社員一同はどっと笑った。アルタスは宮井物産が代理店として販売しているゴルフ・ボールである。
「まさかボールが割れたなんてやつは、おらんよな」
湧谷が念を押すようにいう。
「|うち《ヽヽ》にはボールを割るほど、力のあるのはおらんですよ。だいたいボールが割れるには、力があって、しかもクラブが|芯を食わ《ヽヽヽヽ》なくちゃならんでしょう。私なんぞ、力もなけりゃ、芯食うあたりも少いんだから」
長田がまぜ返し、また笑い声が湧いた。
「いやね、大使館の松山参事官にな、アルタスをプレゼントしたら、ドライバーで打った途端にボールがさ、ポカーンとまっぷたつに割れちまった、というんだよ。おれも立場なくてな、今度東京へ行ったついでに、二ダースばかり、新しいのを工場から取り寄せて貰ってお詫びに持って帰ってきたよ」
「そりゃ深刻な話ですな。まさか参事官に向って、あなたは力があって、おまけに芯食い過ぎるからだともいえませんしね」
長田が応じている。
午後三時、歓送迎ゴルフ・コンペは散会し、伸彦は左ハンドルの湧谷の黄色いベンツの助手席に乗りこんだ。後部座席は運転手の後ろが長田、伸彦の後ろが湧谷である。
十二人が乗ってきた車五台に分乗、湧谷のベンツを先頭に一列縦隊になってカンルーバンのゴルフ場を出て、マニラに向った。通常キャディ・バッグを車のトランクに積みこむ時間にずれが生じたりして、こんなぐあいにコンペの一行が一列縦隊を組んで帰宅するケースはそんなにはない。
マニラに向うサウス・スーパー・ハイウェイに乗ってしまえば、宮井物産の社員たちが住んでいるマカティまで三、四十分だが、カンルーバンからスーパー・ハイウェイに乗るまでは砂糖きび畑の真ん中を抜ける田舎道を走らねばならない。アスファルトの舗装はしてあるものの、人家のまったく見当らない、ゴルフ場利用者だけが走る道である。
カンルーバンのゴルフ場を出るか出ないかのうちに、ゴルフをしてビールを飲んだときの常で、たちまち睡魔がねっとりと甘くまぶたにからんでくる。伸彦はうとうとしかけて、ふとイギリスのヒースの密生した広野をドライブしている錯覚におちいった。密生したヒースの広野と砂糖きび畑はルオーの描くメルヘンじみた絵画に似て、どこか共通する「原野」の感覚がある。
イギリスの広野の真ん中におもいがけなく一台のブルーのトヨタ・マークUが現れた。マークUはふわふわと泳ぐように、ヒースの広野を横ぎって、眼の前にながながと横たわった。
激しい衝撃を受けて、伸彦は夢うつつの状態から目を覚ました。
左側にいる運転手のノノイがブレーキを踏んだらしい。目をあげると、ブルーのマークUが車体を横にして、行く手をさえぎっている。トヨタのマークUは、フィリピンではクレシーダと呼ばれている車だ。
さらにノノイの向う側、車の横手に緑色の三菱ランサーがするすると出てきた。
行く手をふさがれて、支店長車のベンツ以下五台の社用車が数珠《じゆず》つなぎに停まった。
クレシーダのドアが開き、ふたりの男が飛び出してきた。ふたりとも洗いざらしたような緑色の迷彩服を着て、やはり緑色の戦闘帽をかぶり、自動小銃を持っている。
ひとりが短機関銃のような銃を肩にかまえ、片目をつぶってぴたりとベンツに向けて照準を当てている。よく陽焼けしているが、眼鏡をかけた中国系の顔だちの男である。
銃身が傾きかけた陽の光を受けて鈍く光り、その光りかたに一種、本物の量感があった。
クレシーダから降り立ったもうひとりの男はピストルをかまえて、こちらを睨んでいる。同時に後方の三菱ランサーから三人のやはり迷彩服の男が降り立ち、自動小銃をかまえ、素早い動きでベンツの後続車のほうに向った。
「おや、だれかえらいさんのお通りかな」
伸彦は目をこすって呟いた。
だれか、フィリピンの高官が通過するので軍隊が警戒に当っている、とおもったのである。
――それとも、どこかでまたクーデターが起って、軍隊が非常線を張ったのか。
クレシーダから降り立って、こちらを睨んでいた、中国系でない男のほうがピストル片手に近寄ってきた。男は左ハンドルの車の窓ガラスを叩いて、ノノイにドアを開けさせた。
男は運転手のノノイにタガログ語で何事かいい、片手を伸ばしてゆっくりと車のキイを引き抜いた。それから車内に向って、
「フー・イズ・ミスタ・ワクタニ?」
と叫んだ。
伸彦が返事をしなかったのは、突然相手が湧谷の名前を呼んだ驚きと戸惑いからである。なぜこのピストルを持った男は湧谷の名前を知っているのか。朝、ゴルフ場に向う途中、知らぬ間に交通違反でも犯していたのだろうか。
突然三菱ランサーから、もうひとり、迷彩服を着た男が降り立った。がっしりした厚味のある体格で、迷彩服がぴったりと身についている。汗の臭いと硝煙の残り香が身辺から漂ってくるような現役の軍人といったタイプの男だ。
男は自動小銃をかまえ、ゆっくりこちらに歩いてくるのだが、左肩に手榴弾を振り分けにしてぶら下げており、歩くにつれて手榴弾がぶらぶら重たげに揺れるのが不穏な感じである。この手榴弾の表面に浮き出た粒々《つぶつぶ》が午後の陽に光って、ふいに男たちのいる風景は恐怖にゆがみ始めた。
男たちの動きは機敏で、小銃のかまえかたも板についており、いずれも黒人と見まがうばかりに日焼けしている。その陽焼けした肌、機敏な動きが戦闘行動のプロと容易に察しがつく切迫した空気をまき散らしていた。
長田はもちろん、名前を呼ばれた湧谷もおなじように切迫感を感じとっているらしく、息をひそめているようで、無言であった。
ベンツ後方で別の兵士が「キイ」と叫ぶ声がし、車のキイを手渡す拍子に動転のあまり運転手がアスファルトの路上に落したらしい、カチャンという金属性の音が静まり返ったあたりに響いた。
三菱ランサーから降りた、手榴弾を振り分けにした男は音の消えた映画の画面を横切るようにゆっくりとフロント・グラスの前を横切って、ベンツの右わきにまわりこんだ。
「ドアを開けろ」という意味だろう、タガログ語で叫び、ノノイがロックを外すと同時に男は自分でドアを開け放ち、車内を見渡した。
伸彦の間近に迫った体格のいい男の鼻のわきにはイボのようなほくろがあった。
男は最後に、じっと後部座席の湧谷の顔をみつめた。
視線をじっと止めた後、いきなり湧谷の腕を掴《つか》んだ。
「|降りろ《ゲツト・ダウン》、ワクタニ」
湧谷は腕を掴まれたまま、ひきずりおろされ、クレシーダのほうに引き立てられてゆく。男は片手に持った自動小銃の銃口で湧谷の背を小突《こづ》いた。
湧谷は落ち着いていて、掴まれた腕を振り払い、手榴弾の男を睨みつけた。
伸彦は「しまった」とおもい、われを忘れてベンツから飛び出そうとしてドアを開いた。すかさずノノイの傍に立っていたピストルの男が駆け寄ってきた。
「ノオ」
と叫ぶなり、伸彦を蹴り飛ばした。伸彦は転がるはずみに、手にしていたクラッチ・バッグを落としたが、男は武器とおもったのか、バッグを素早く拾いあげ、銃をかまえた。
湧谷はふたりの男に囲まれて、クレシーダの後部座席に押しこまれた。体格のいい男が隣にすわって車のエンジンがかかった。
クレシーダは野牛に似た動物的な感じで、車体の尻を振って、乱暴に車の向きを直した。ナンバー・プレートがこちらを向き、黄色の地に黒の数字で「NVD480」と書いてあるのが読める。
後続の車を警戒していた残りの男たちも小銃で威嚇しつつ、三菱ランサーのなかに素早く飛びこんでゆく。まるでアメリカの戦争映画を見ているように無駄な動きがない。
二台の車はタイヤをきりきりときしませて、サウス・スーパー・ハイウェイの方向へ走り去った。
一瞬の静寂ののち、後方に繋がったまま、停まっていた四台の社用車から、社員たちがばらばらと駆け寄ってくる。
「誘拐《キドナツプ》だ。支店長がキドナップされたんだ」
だれかが叫んでいる。
――どうしよう。
あたりは一面の砂糖きび畑で、とうもろこしに似た砂糖きびの葉むらが夕風にざわざわと揺れている。
「ゴルフ場に戻って、警察に連絡しよう」
長田が叫んだ。
「しかしどの車もキイを奪《と》られちまって動けないんです」
だれかが叫び、その声は悲鳴のように砂糖きび畑の彼方の夕空に尾をひいて消えてゆく気がした。
「二台の車のイグニッションを繋いで、エンジンをかけるんだ」
また長田が叫んだ。
大騒ぎしている傍らを車が一台、猛スピードで走り抜けてゆく。
一瞬間だが、伸彦はサングラスにゴルフ帽をかぶった日本人らしい男の横顔を見た。
浩一がグリーン・ストリートの籐家具店の前の歩道で、鞄をかかえたまま、泣いている。
佐久間浩美は「浩一、待ってなさい」と叫ぶなり、部屋を走り出た。階段を転がるように走り降りて、籐家具店の横の出入口から歩道にとび出た。
浩一は相変らず大声をあげ、手放しで泣いている。フィリピンの子どもが数人、遠巻きにして、ぽかんと口を開けて浩一をみつめていた。
「浩一」
十メートル手前から、低い声で浩美は呼んだ。浩美は数歩歩いて、前より大きな声で、もう一度呼んだ。
もう浩一は母親のことを忘れてしまったのではないか、という不安が、浩一に近寄るにつれて、ふくれあがってくる。自分を認めた途端に、自分を嫌って走り去ってしまうのではないか。「いやだ、ママなんか嫌いだ」とまるでテレビ・ドラマの子役のように叫んで、一目散に駆け去ってしまうのではなかろうか。
「浩一」
三度目に呼んだとき、浩一が泣きながら、こちらを見た。こちらを見た瞬間、泣き声が止った。目を見開いて、まじまじとこちらをみつめている。
「ママ」
低い声で浩一が呟いた。小さな唇がおののいている。
浩一の声が浩美の抑えていた感情を解き放った。浩美は駆け寄って、浩一を抱き締めた。
「ママ、日本からきてくれたの。ぼくも一緒に日本に帰れるんだね」
浩一のかすれた声を聞き、震えるような息を頬に感じると、涙が止めどもなくあふれ、今度は浩美が声をあげて泣く番になった。
「|泣くのは止しなさい《ワカ・ナン・ウミヤツク》」
だれかが浩美の肩を揺すっている。籐家具店のおかみさん、アパートの大家が路上にしゃがみこんで浩美を覗きこんでいる。
「OK、アイム・オール・ライト」
浩美は嗄《しわが》れ声で答えて、昔のように浩一を抱きあげようとして、しかし重くて抱きあげられない。二年近くが経つうちに、浩一は背も伸び、幼年から少年の躰に成長していた。
籐家具店のおかみさんに助けて貰って、二階の部屋へ、浩一と荷物を運びこんだ。
「ママ、ずいぶん長い間、ママが迎えにきてくれるのを待っていたんだよ」
床の上にじかに向い合ってすわると、浩一はいった。
「浩一、ママだって、あなたを迎えにきたかったのよ。だけどママはわるいひとたちに遠いところへ連れてゆかれちゃってね、浩一を迎えにきたくてもどうにもならなかったの」
「わるいひとってだれ? ソ連のスパイ?」
浩一が鋭い声で突っこんできた。
「ソ連ではないんだけどね」
「じゃあ中国?」
浩美は涙を流しながら、苦笑した。
「違うの、きっと浩一は知らないわよ。北朝鮮ってところ」
「知ってるよ」
浩一はいった。
「同級生に韓国の子がいてね、その子からよく北朝鮮の話を聞くよ」
浩一は鹿爪《しかつめ》らしく膝をかかえた。
「じゃあ、ママも北朝鮮へ連れてゆかれて苦労したんだ」
といった。
「そうなのよ。ママもずいぶん苦労したの。マニラにきても、ずっとわるいひとたちに監視されて、浩一を迎えにこられなかったの」
素直にそう答えた。
「もしかして、あのアンクルのおじさんも、わるいひとの仲間なのかな」
浩一が呟き、浩美は胸を衝《つ》かれた。
「ここんところね、おじさんとおばさんがものすごい喧嘩するんだよ。昨日も大変だったんだ」
浩一はいった。
「今朝も喧嘩していたんだけど、おじさんがぷんぷん怒ってゴルフに行っちゃった。そうしたら、おばさんが引っ越しするから、勉強の道具も、大事な宝物《たからもの》もまとめて、出かけましょうっていうんだ。それでここへきてぼくを降ろしたら、浩一、しばらくさよならだよっていって、どこかへ行っちゃった。それでぼく、どうしたらいいかわかんなくて、めげちゃって泣いてたんだよ」
きっとアンクルは浩一を返す決断ができなかったのではないか、と浩美はおもった。キティゴンが強引に押しきって、決断したのだろう。
「浩一の宝物って、なあに」
浩一は大事そうに抱えていた、おおきなボール箱を開けた。信じられないほど大きな蝶の標本を取りだした。
「これはヨナクニサンという名前で、世界で一番大きな蝶なんだよ。こっちはぼくが採ったやつで、こっちはぼくが幼虫から育てたやつなんだ」
「幼虫から育てたの」
浩美はおもわず眉をひそめた。
「ママもおじさんとおなじで、虫が嫌いなの。キティのおばさんはすごいよ。ぼくがおおきな芋虫をおばさんの腕にのっけても、平気な顔をしてるんだ。浩一の好きなもの、おばさんも大好きだよ、っていうんだよ」
「浩一はおばさんに可愛がって貰ってたんだ」
「うん、ぼくもおばさんは好きだった。もちろんママとは違う意味だけどね」
浩一が生意気をいい、浩美は嬉しくてもう一度浩一を抱きしめた。
「だけど、ママ、どうして今日、いきなりここへきたの。どうしてぼくは今日、ママに返されたんだろう?」
どうして今日、突然自分は解放され、息子の浩一も解放されたのだろう。どうして今日なのだろう、と浩美もおもった。
安原伸彦は大騒ぎのまっただなかにいた。
カンルーバンのゴルフ場へ戻り、手分けして、湧谷家、警察、大使館と連絡を取ったが、肝心の宮井物産本社との連絡がつかない。土曜で本社は休みであり、東京近辺の役員、社員の自宅の電話番号はゴルフ場ではわからないのだ。
結局、また車を連ねて、マニラへ引き返し、二手に分れてマニラ支店と湧谷の家へ向った。
湧谷家の前、サイプレス・ロードには、車が数十台、既に群がっている。
伸彦が玄関を入ると、正面の応接間から玄関ホールには、日本大使館の松山参事官、タガログ語がうまいと評判の書記官、警察の制服を着たフィリピン人がすわったり立ったりしている。玄関ホール右手の三台の電話機には、フィリピンの警察官が取りついていて、甲高いタガログ語が響いていた。
集団の真ん中から、湧谷の細君、和子が立ちあがった。
「伸彦さん、うちの主人はどうなるの。生きて帰ってこられるの」
そう叫んだ。
けたたましいロック・ミュージックに頭を乱打されるようで、湧谷昭生は目を覚ました。
湧谷の目にまず映ったのは、打ちっ放しのコンクリートの天井でゆらめいている蝋燭《ろうそく》の火影《ほかげ》である。
自分が横たわっている場所が硬くて、背中が痛く、違和感がある。ここはサイプレス・ロードの自宅ではない、とおもったが、どこにいるのか、まるではっきりしない。
頭痛がして、湧谷は頭を振り、額に手をやろうとした。右手を動かすと同時に鎖の音がして、左手がひっぱられた。そこで初めて自分が手錠をはめられているのに気づいた。
両手にはめられた手錠の鎖を目の前にかかげて眺めると、自分を見舞った運命がたちまち蘇った。
カンルーバンのゴルフ場を出て、ものの五分も経つか経たぬかの頃、ゆるい坂を登ったあたりで、突然ブルーとグリーンの二台の車に行く手を阻まれ、五、六名の武装した兵士のようなグループに襲われた。
自分は肩に手榴弾を吊り下げた男に、自動小銃で小突かれて車に乗せられた。車に乗せられた途端に左手の男からいやというほど腹を撲られた。柔道の当て身とおなじで息が詰まった。息が詰まって、おおきく息を吸いこもうとしたところへ、エーテルのようなものを嗅がされ、意識を失った。
あれから何分、あるいは何時間経ったのか、見当もつかない。
「|目が 覚めたか《アールー・ユー・アウエク?》」
フィリピン訛りの強い英語が頭上から降ってきた。
頭のすぐ後ろに、自動小銃を持った男が立ちはだかっている。床に置いた蝋燭の灯を受けて、目や鼻に暗い隈取りができ、火炎を背負った不動明王像のように恐ろしげな顔に見える。
男がタガログ語で叫び、部屋を仕切った板張りのドアの向うから、五、六人の、いずれも自動小銃やピストルを持った男が現れて、湧谷を取りかこんだ。
湧谷は躰を起し、床の上にすわろうとして、右足にも足鎖を巻かれているのに気づいた。
右足首に巻かれた鎖には、錠がついており、鎖自身は六、七十センチの長さしかなく、その先端は板張りの床に開いた穴の下に消えている。
それでもどうにか床に起きあがり、湧谷はあぐらをかいた。
「おまえたちはおれをキドナップ(誘拐)したわけだ。それで誘拐の目的はなんだ」
英語でいって、男たちを見まわした。
男たちはゴルフの帰りに襲ってきた連中とは異なり、迷彩服のような軍服を着ていない。青や白のTシャツにジーンズ、スニーカーという恰好ばかりで、ただ腰に拳銃をぶら下げ、手に自動小銃をかまえている。
湧谷を小突いた隊長格のような男、最初に短機関銃をかまえた中国系の眼鏡をかけた男などは見当らず、このグループは襲撃犯とは別のグループのようにおもえた。
「おまえたち、おれを殺す気か。しかし殺されるいわれはねえぞ」
湧谷はいった。
海外駐在員が殺害されたケースはいくつもある。現にこのマニラでも、昭和四十六年の時期もたしかおなじ十一月、やはりゴルフ場帰りに、鴻田貿易の支店長が襲撃され、このときは自動小銃の乱射で即死している。しかしあれは日本の本社の指令で、輸入する木材の買値を叩いて、現地業者の恨みを買った、というのが通説になっている。
しかしそんな恨みは買っていない、という自信が湧谷にはあった。
男たちはなにも答えない。
ふいに背の高い髭面の男がしゃがみこんだ。湧谷の顔を覗きこんだ。
「あんた、腹、減っただろう。なにか食ったらいい」
穏やかな声でそういった。
頭のところに立っていた男を残して、男たちはぞろぞろと板張りの壁の向うへ引き揚げて行った。
不動明王のような大男は自動小銃を持ったまま、板壁の前に立った。
そもそもここはコンクリート造りの小屋かなにからしく、その小屋の一隅を板壁で仕切って、湧谷の留置場にしているのだ。
板壁の向う側、小屋の広いほうの部分には監視役の男たちが全部で十人近くもいる様子で、ラジオのヴォリュームをあげて、ロック・ミュージックを小屋いっぱいに響かせている。
――殺されるとすれば、明日の朝か。
湧谷は床にすわりこんだまま、考えた。
殺される理由が自分にあるとはおもえない。そんなことをいったら、誘拐される理由もあるとはおもえない。火力発電所カランサ|T《ワン》は公害を撒き散らし、周辺住民の怒りを買っているが、彼らの怒りが直接的に自分に向ってくるだろうか。なにしろ場所の選択をし、管理にあたっているのはフィリピン国家電力省なのである。
カランサTの受注について仲介したルイス・マデーロはどうだろう。宮井物産が約束したキックバックを払ってくれない、と不満で、怪文書を撒き散らしたり、大統領に直訴しようとしたりして、この男が一番怪しいといえば怪しい。しかしカンルーバン一帯は彼の所有地なのである。自分の土地のなかで、すぐに自分が疑われるような犯行におよんだりするものだろうか。あまりにも愚かな行為で、しかもマデーロは決して愚かな男ではないのだ。
マデーロが企んだ直訴は事前にコラソン・アキノに話をして、阻止できた自信もある。
だが、殺害された鴻田貿易の支店長もおなじように世間を甘く見ていて殺害されたのではないか、とふとおもい、湧谷は悪寒を覚えた。
昭和四十六年、一九七一年、つまり今から十五年前、プロの殺し屋を雇って、鴻田貿易支店長を殺害したのはクエトオという、やくざじみた木材業者だったといわれるが、そのクエトオは数年後、マカティのインターコンチネンタル・ホテルのロビーで、警官隊との撃ち合いをやって、射殺されてしまった。
クエトオのような異常者が、湧谷の周辺にいなかったとはいいきれないのである。
板壁のドアから若い男が現れ、湧谷の前に焼きソバを置いた。
「|食べろ《カイル》、ユー、|食べろ《カイル》」
湧谷は無理をして、縁の欠けた皿から、爪が一本よじれたフォークで、ふたくち、みくち、焼きソバを口に運んだが、恐怖と緊張のせいか、味覚がまったく働かない。「砂を噛むような味」という形容はこのようなことか、とおもった。
食事を出してくれる、というのは、まだ、生き残れる一縷《いちる》の希望がある、という意味ではないか。いや、死出の旅路に出る人間に食事をさせて、最後の供養をする、という発想もアジアにはある、と湧谷はおもった。食事が終ったら、先刻の連中の自動小銃の一斉射撃を受けて、銃殺ということも充分あり得るのだ。
おれの末期《まつご》の目に映るのは、このコンクリートの天井なのか、とおもい、湧谷は上を見上げた。打ちっ放しのコンクリートの天井に揺れる火影が、一瞬固定した感じになった。
鳴りっ放しだったロック・ミュージックが鳴り止んだ。隣室からどこかへ電話をしているらしい、タガログ語の低い声が洩れてくる。
――殺害の指示を仰いでいるのか。
電話が切れ、湧谷は身がまえた。
遠くで犬の吠える声が長く長く尾を引いて闇にこだまするようだ。壁の前の男は動かない。
足鎖の先端がもぐっている穴から、ゴキブリが一匹、這い出して意味ありげに長い髭をうごめかしている。
また音楽が鳴り始め、湧谷は息を吐いた。
ケソンの地中海料理屋の裏の借家に、笹岡、水田、光寺の日本赤衛軍、それに新人民《NPA》軍のコロンブスが集まっていた。
電話を取っていたコロンブスが、電話を切った。
「人質《ホステージ》は目を覚ましたそうだ。ヌードルを出してやったが、緊張していて、ほとんど食わないらしい」
そう報告した。
「それから襲撃犯の一行は、すべて原隊に復帰した」
「さすがにNPAの精鋭だけのことはありますな。じつに手際がよかったみたいやな」
笹岡が感心したようにいった。
「いや、アクシデントがなかったわけじゃない。作戦中に突然、少年がふたり、バイクに乗って現れてね、このふたりをおさえて、キイを取りあげて、砂糖きび畑の方を向かしておいたが、当然、なにが起ったのかは判っただろうな」
まもなくダビトが帰ってきた。
「マニラ市内の、例の二カ所のコンタクト・ポイントのひとつからな、サイプレス・ロードの家のパーティ電話をまわしてみた。最初はまあ、予告電話の意味で、なにもいわずに切った。八時四十分に電話したら、宮井の社員なんだろうな、若い日本人の男が出てきたから、ミセス・ワクタニと話したい≠ニいったんだが、雑音《ノイズ》がひどくて、こっちのいう意味が通じないんだ。八時五十分にもう一度電話してな、今度も雑音がひどかったが、WE GOT HIM、WHAT WE NEED IS MONEY(彼を取り押えている。われわれは金を要求する)≠サれだけいって、一方的に切った」
交渉役のダビトは報告した。
「雑音がひどいのは、警察が盗聴しているからやろうな」
笹岡がいった。
「ここは逆探知はやらん、という話やったな」
「フィリピン電話会社がOKしないんだ」
コロンブスが説明した。
「警察は盗聴のほうは得意で、電話交換機から線引いて、しょっちゅうやっている。しかし警察に逆探知を認めると、フィリピンの政界や軍部が困るんだろうな。クーデターの陰謀、政財界の汚職が露見する恐れがあるからな」
「そやけど用心するに越したことはありまへんで。今回に限っては、日本からの要請もあり、特に逆探知を行なうなんて事態もないとはいえへんで」
「だから、通話時間は念のため三分以内、とダビトにもいってあるよ」
ダビトは部屋の隅の中古冷蔵庫からサン・ミゲールを取りだし、ラッパ呑みした。
「とにかくミヤイは大混乱のようだ」
ビールが冷え過ぎていたのか、ダビトはぱたぱたと筋肉質の胸板を叩いていった。
「電話に出てくる男たちはハロォ、ハロォ≠ニ連呼するし、傍でガヤガヤ大声で相談してるんだな。ワクタニのワイフが出てくるまでえらい時間がかかる」
「本社が出てこねえと湧谷のハウスもよ、なんてえか、クワイエットにならねえんじゃないか」
水田は口を出した。
「おまけに今日は土曜日《サタデー》だでよ、日本のえらいさんもゴルフやってんだろ。土曜はゴルフ、日曜は家族《フアミリー》サービスってのがえらいさんのパターンだろうからよ。本社が本格的に乗り出してくんのも月曜からじゃねえかね」
「本社が出てきたら、簡単に金は出すわな」
笹岡が自信ありげにいう。
「そうかな。何度も繰り返すようだが、おれはどうもその辺がわからん」
コロンブスは首を振った。
「われわれも革命税、払わせるために、金持ちの中国人の誘拐を結構、やるんだが、これは個人だから簡単に金払うんでね。会社が相手となると、どうかな。再発を予防するために、犠牲者出しても金は払わんのじゃないか」
「そこがちゃいますねん」
笹岡は首を振り、水田の肩を叩いた。
「ここにええ証拠がおるわな。ハイジャックの乗客と引き換えに、日本政府は六百万ドル払うて、おまけに法律を無視して、この男を出国させたんやで。日本では、生命は地球より重いんや。ただ日本人の生命だけの話やけどな」
コロンブスは生真面目に首をかしげている。
「どうやれば会社が出てくるのかな」
「そら、湧谷の細君脅すしか仕様がありまへんやろ。細君に会社へ泣きつかせるんや」
コロンブスは頷《うなず》いて、ダビトに向い、
「ダビト、明日の日曜も何回か人質の細君に電話かけてくれ、ただしなにも喋らんようにしろ」
と命じた。
土曜の午後、佐久間浩美は階下の籐《とう》家具店のおかみと交渉をして、浩一の勉強机になるような古机や籐の応接セットを都合して貰い、部屋に運んで貰った。ベッドや食堂のテーブルは、ガタガタの古物ながら、一応備えつけてあるから、最低の生活態勢は整ったことになる。
そのアパートの部屋の窓から浩一が表を眺めながらいった。
「ママ、北朝鮮のスパイはもう襲ってこないんだろうね」
「もう大丈夫よ」
答えたものの、不安が浩美の胸にきざした。孫がマニラにきているのは、浩美を追いかけるためばかりではなく、情報の|蒐 集《しゆうしゆう》その他の目的がありそうな気がするが、趙はとにかく浩美の跡をつけまわすために派遣されてきているようにおもえる。
浩美は浩一を連れて、階下の家具店に降り、おかみさんに電話を借りることにした。|先方払い《コレクト・コール》で、迷惑はかけない、といって、埼京市の平安堂家具店を呼びだした。
電話に出てきたのは、古くからいる、女性の経理係である。いつか浩美が平壌《ピヨンヤン》から朝鮮高校生にメッセージを託したところ、平壌とミュンヘンとを取り違えてしまった女性だ。
「まあ、若奥様、お元気ですか」
さすがに事情を聞き知っていると見えて、彼女は浩美の声を聞いて驚愕した。
「やっと浩一を取りもどせたのよ」
浩美はいった。
「だけど社長は姉妹都市訪問の団長さんで、アメリカへ行っていらっしゃるんですよ」
来週末にならないと帰国しない、と経理担当の女性はいい、浩美は落胆した。
すぐにも佐久間賢一の声が聞けそうに期待していたのである。
「伯母様は? リュウマチがわるい、とお聞きしたんだけど」
「それで社長が留守中、不便だろう、というので、奥様は病院に入っていらっしゃいます」
時期がわるかったな、と浩美はおもい、不安が拡がるのを覚えた。
「いい、しっかり書き取って頂戴。私のいるところはね、マニラ市内のグリーン・ストリートなの」
浩美は住所と呼び出しの電話番号を書き取らせ、それを二度復唱させた。
「来週、伯父様がお帰りになったら、すぐお電話いただきたいって、お伝えしてください」
自分は明後日の月曜、宮井物産に電話を入れて、安原伸彦にきて貰おう、とおもった。
その夜は、大家である籐家具店のおかみさんが、家具店の裏にある自宅に招《よ》んでくれた。
大家族との食事というより、浩一との食事は楽しく、浩美は浩一の存在を確かめるようになにかと食事の世話を焼きながら、久しぶりの幸福感に浸った。
とにかく浩一は取り返したのだ。今度は何としても浩一を守り切らねばならない、と誓うように考えた。
日曜、十一月十六日の朝七時、浩美はドアをノックする音で、目を覚ました。
「ヒロミ、日本から電話よ」
下の籐家具店のおかみさんの声である。
浩美はあわてて、パジャマのズボンの上からジーンズを穿《は》いた。浩一が隣のベッドから薄目を開けて、こちらを眺めている。
上はパジャマ、下はジーンズにサンダルという珍妙な恰好で、浩美は階下へ降りた。
家具店の奥、いつもおかみさんがすわっているデスクの家具用の布地の見本が何冊も拡げられているうえに古い型の黒い受話器がごろんところがっている。
「もしもし、佐久間浩美さんじゃろか」
聞き慣れぬ中年の男の声が受話器に響いた。
「私、広島におる金林忠清といって、あなたの伯父さんの賢一君とは古い友人なんですわ。あなたとも一ぺんじゃけど、平壌で会《お》うたことがある。人民大学習堂のエレベーターのなかであんたに助けてくれんか、そう頼まれたが、わしは補聴器かけとらんで、えらいあんたをがっかりさせたらしいんじゃね」
「ああ、金林のおじさま、北朝鮮から出るときはほんとうにお世話になりました。ありがとうございました」
浩美は電話機の前で頭を下げた。
「あんたも浩一君も無事じゃ、と昨日、平安堂からの電話で聞いて喜んどるんじゃけど」
そこで金林はいいよどんだ。
「今朝、日本の新聞におおきく出てる事件にあんた、まさか絡んどらんのだろうな」
「私、日本の新聞は読んでいないんですけど、どんな事件でしょうか」
「宮井物産の湧谷ちゅうマニラ支店長がゴルフの帰りに誘拐されてな、行方不明なんだそうじゃよ。こっちの新聞じゃ、全部一面に載っとるわ」
「ええっ」
浩美は息を詰めた。
「私、昨日までその湧谷さんの家で、メイドをしていたんです」
浩美は事情を金林に説明しようとしたが、衝撃のあまり、言葉が出てこない。金林に励まされ、問いただされてどうにか経緯を説明した。
「あんた自身はどこへも湧谷さんがゴルフへゆく、と電話したり話したりしていないんやな」
「そうです。ええと、だけど北朝鮮から一緒の、あのモレナにはいいました」
そこで浩美は夜中にモレナがどこかへ電話をかけていたのをおもいだした。
あのモレナは、今度の襲撃犯に買収されていたのだ。やっと浩美は気がついた。今度の事件には、アンクルも絡んでいる、ということだろう。だからこそ浩一を昨日返してきたのではないか。
「日本大使館に明日行って、旅券の再発給を頼んで、すぐ日本に帰れんかね」
「それが北朝鮮の国家保衛部の孫の話では、日本で総聯系の医者に頼んで、私の死亡届を市役所に出してある、というんです。つまり私は死亡しているから、旅券の再発給はあり得ない、日本には戻れない、と脅すんです。嘘かもしれませんけど」
「連中ならやりかねんな」
金林は唸った。
「わしもいろいろ手を打つ。しかしとにかくやたらに動きまわってはいかんよ。北朝鮮はしつこいんや。それにフィリピンの警察もあんたを探すじゃろ。くれぐれも注意しないとあかんで」
低い声で叱りつけるような口調であった。
佐久間浩美は湧谷誘拐事件の衝撃から立ち直れなかった。
日曜の午後じゅう、グリーン・ストリートにある、籐家具店の二階の借家で籐椅子にすわったまま、おもいなやんでいた。考えてみれば、モレナはいつの間にか、北朝鮮側襲撃犯一味に買収されてしまい、浩美の監視役をつとめていたのである。
泣き虫の、お人好しのモレナというイメージがあるから、浩美もまったく気づかなかったのだが、モレナは北朝鮮出国のときにすでに北朝鮮側に買収されていたのではないか。
そういえばモレナが湧谷家のメイドに出てゆくと、入れ違いに北朝鮮の国家保衛部の孫《ソン》と趙《チヨウ》が隣のアパートに越してきて、浩美の行動を逐一監視するようになった。しかも浩美が湧谷家へモレナと一緒に住みこむと、監視の仕事は終ったかのように、孫も趙も姿を見せなくなった。あれはビレッジのゲートのチェックが厳しいこともあろうが、それよりモレナに浩美の監視をまかせたからではないのか。
その一方、モレナは湧谷昭生の写真を盗みだして襲撃犯一味に渡したり、湧谷の翌日の行動を襲撃犯一味、つまりアンクルに報告していたのである。
日本語のヒアリングに不安があると、一昨日の夜のように浩美に確かめて、電話していたのだ。
「ママ、明日、学校休みだって」
ばたばたと階段を駆け上り、アパートの外の廊下を走ってきて、浩一が叫んだ。
「なんか日本人学校の女の子のお父さんが|さらわれ《ヽヽヽヽ》ちゃったんで、特別に休みになるんだって。日本人は狙われているから、警戒しなきゃいけないらしいよ」
浩一が息せき切っていう。
日本人学校に通っている女の子というのは湧谷昭生の一人娘、真理子のことだろう。
「ふうん、だれにそれ、聞いたの」
「キティのおばさんがさ、下のお店にきて、ぼくに話してくれたよ」
「キティのおばさんはまだいるの」
「もう帰った。ママによろしくって。電話でもよかったんだけど、ぼくがママに会えたか心配だから寄ってみたって、いってた」
「へえ、日本人学校もお休みか」
まだキティはいるだろうか、とおもい、浩美は窓ぎわに行って、表の通りを眺めた。
下の歩道には、店に置き切れない、籐の家具類が歩道の半分以上を埋め尽くしているが、浩美が左から右へ視線を移したとき、恐れていたものを見つけて、はっと身をすくめた。
黄色い家具運搬用の小型トラックの向うに白い車が停まっており、そこから孫と趙が降り立ったところである。
彼らは恐らくキティの後をつけて、この店を突きとめたのだろう。家具店に向って歩いてくるが、趙は例によって汗をかいて、シャツが躰《からだ》に貼りついている。突きでた腹の上にもシャツが貼りついて、ベルトに差しこんでいるらしい黒いものがみえる。ピストルではないか、と浩美は慄然《りつぜん》とした。
「浩一、大変よ。北のわるいひとがふたり、ママを探しにきたよ」
浩一は駆け寄ってきて、カーテンの陰から下を覗いた。男ふたりがおかみに教えられて、こちらをあおいでいるのがちらりと見え、ふたりは窓の下に身を伏せた。
「駄目だわ。もう逃げられない」
この二階へ通じる入口は店の端に一カ所しかなく、そこから北朝鮮のふたりが上ってきたら逃れようがない。
「大丈夫だよ、ママ、頑張ろう」
浩一は敏速に動いて、ドアの鍵を閉めた。
「ママ、手伝って」
古くて重い食卓をふたりでドアに押しつけた。足音はたちまち階段を駆け上り、ドアに迫ってきた。ドアをどんどんと叩く音が響いた。
浩一は窓から身をのりだすと、
「パタイ・カン・バタ・カ(大変だ)」
とタガログ語で叫んだ。
「マグナナカウ(泥棒だよ)!」
しかし下の歩道では、数人の観光客がぼんやりこちらを眺めている。
後ろのドアを叩く音が止み、
「開けろ」
孫が英語で怒鳴っている。
「駄目だ、ママ、窓から飛び降りよう」
「ええ? そんなことできる筈がないじゃない」
しかし浩一は二階の窓から、「ORIENTAL RATAN」と書いてある店の看板の上に降り立った。看板の手前はテラス状の狭い縁になっている。看板はちょうど指先がかかる厚さで浩一は両手でぶら下った。
そして、反動をつけて看板の内側、店内にある柱に器用に両足を絡ませて、するすると地上に降り立った。
浩一は店先に置いてある籐製の家具の中から、幼児用の円形のベッドを窓の下に運んできた。傍《そば》の高級籐椅子のクッションを持ってきて、その底に敷いた。
「ママ、ぼくみたいに看板にぶら下って、飛び降りるんだ。エアロビクス、やってたんだから、なんでもないだろ」
浩美の背後のドアに、ふたりがどすんどすんと体当りを食わせている。
ドアのちゃちな鍵がこわれて開きかかり、重いテーブルががたがたと揺れ始めていた。
「ママ、早くして」
浩一が怒鳴る。
浩美は意を決して、窓の外へ出た。
テラス状の縁に立ったが、下の歩道は固いアスファルトで、衝撃で足が折れそうな気がする。
「看板に膝を当ててゆっくり足を伸ばすんだ」
浩一のいうとおり、恐る恐る広告看板に両手をかけてぶら下った。
暑いのでジーンズではなく、フレアのスカートをはいていたのを後悔した。生あたたかい風が素足の膝の裏をくすぐるように吹き過ぎ、足の指先が不安で縮かむようだ。
浩一が幼児用の円形のベッドを浩美のすぐ足の下に持ってきた。
浩一はベッドを動かないようにおさえ、
「ママ、鉄棒から降りるときみたいに両足を揃えるんだよ。そう、それから一、二の三で両手を放すんだ。一、二の三」
浩美は両手を放し、スカートがふわりと空中に拡がって足がまるだしになった。
それも束の間で、浩美は籐のベッドのなかへ尻餅をつき、まるで赤児のように背中からおさまった。
浩一はまたタガログ語で、店の奥に向い、
「パタイ・カン・バタ・カ、マグナナカウ」
と大声を出した。メイドや日本人学校の混血の同級生に教わったものだろうが、浩一のタガログ語は達者なものである。
店の裏の工場から、籐細工の職人たちがばらばらと飛び出してきた。
ちょうど二階の部屋を探しまわった孫と趙が窓から顔を出したところで、浩一が、
「あいつらだ」
と指差した。
職人が入口に入り、階段を駆け上ってゆく。
孫と趙は明らかに狼狽《ろうばい》したらしく、そのまま窓から顔を引っこめたが、まもなく職人たちが両手をホールドアップの形に上げて、階段を後ろ向きに降りてきた。
切羽詰まった趙がピストルをかまえ、職人たちを威嚇して降りてきたのである。
「こっちへおいで」
店のおかみに手をひかれて、浩美と浩一は店の奥の裏庭のほうへ逃げた。
暫くして、かちゃあんと音がしてだれかが転んだ気配がした。続いて車のエンジンの唸り声が響き、すぐに遠ざかった。
フィリピン人の職人たちがピストルを持って大笑いしながら、店内へ戻ってきた。
「肥ったチビがさ、こちらに気を取られて、籐の屑籠《くずかご》に足取られて転んじまってさ、そのはずみにこのピストルがこっちへ飛んできたよ。ふたりとも大あわてで逃げてった」
大型のピストルを眺め、だれかが、「これは米国製じゃない。ソ連製か中国製のトカレフだな」といった。
そのあと、大家のおかみは、職人から受けとったトカレフのピストルを、浩美に渡しながら、
「あなたがた、よっぽどお金があるのね。車に乗った強盗団に襲われるなんて」
皮肉とも取れる顔でいう。
じっと浩美をみつめ、
「フィリピンの警察に届ける? 届けても無駄な気がするけど」
と訊《き》いた。
「できるだけ早く、お宅から失礼するようにします。ご迷惑はかけません」
浩美はいった。
「今夜は私の家のほうに泊りなさい。工場の若い衆もいて、奥のほうが安全よ」
おかみは優しくそういってくれた。恐らくキティゴンが「少々訳ありだ」くらいのことは囁いて、多額の金を払ったのだろう。
――これはなんとかしなくてはいけない。
金林忠清はそこを動くな、といったが、このままここにいたのではまた襲撃されるに違いない。とにかく明朝、日本大使館領事部へゆき、自分と浩一の旅券の再発給を申請してみよう。自分の旅券が出なくとも、浩一の旅券は出るだろうから、佐久間賢一にきて貰って浩一だけでも日本に送り帰そう、とおもった。
当然ながら、土曜から日曜にかけて、安原伸彦は一睡もできなかった。
いくら重装備のグループに襲われたとはいえ、自分をマニラにひっぱってくれた上司が眼前で誘拐されたのに、抵抗らしい抵抗もできず、相手のなすがままだったのだ。悔恨と口惜しさに胸の底が焼けるようなおもいがする。そんな伸彦のおもいは濃淡の差こそあれ、現場に居合わせた宮井物産マニラ支店の社員全員の胸にわだかまっていて、湧谷の家に集まった面々の顔は重苦しく翳《かげ》っていた。
まさか商売の恨みを買ったのではあるまいな。暗くふさぐ伸彦の胸に、そういう疑念がさらに暗い影を落し、しつこく去来した。
そのうち、日本の報道関係から電話が殺到し始めた。
湧谷家が公表している電話は「八一七―一四九二」と「八一七―九五八一」なのだが、このふたつへ日本の新聞社、通信社、テレビ局、雑誌社が息つく間もなく、電話を入れてくる。
じつは湧谷家には、もう一本、近所と共同のパーティ電話、いってみれば親子電話があり、これを使ってなんとか本社へ連絡を入れたのだが、殺到する電話に詰めかけている社員一同、音《ね》をあげた。
次長の長田の指示どおり、返事は通りいっぺんで、
「その件についてはなにも申しあげられません」
「湧谷さんは誘拐されたんですか」
「それについても申しあげられません」
そう繰り返すだけなのだが、それにしてもあまりに本数が多い。
「これじゃ犯人が連絡よこそうとおもったってお話し中で、かからないじゃないか」
伸彦たちはそういい合って、不安にかられたものだった。
ところが犯人一味はちゃんと第三の電話の存在を知っていて、そこに電話をかけてきたのである。
和子が電話に出たが、雑音が多くて聞きとれない。
フィリピン警察がしかけた録音機で再生してみると、
「WE GOT HIM、WHAT WE NEED IS MONEY(彼を捉えた。われわれの要求は金だ)」
といっていることがわかった。
この電話で、湧谷が無事らしいと知れて、僅かながら安堵の空気が流れた。犯人も金が目当てだ、といっているので意外に解決は早いかもしれない。
居間と応接間《レセプシヨン》にいる宮井の社員、大使館の参事官、書記官、フィリピン警察に、メイドがお茶やコーヒーをサービスしてくれる。鼻のちょっと上向いた、「可愛子ちゃん」ふうのモレナと、日本語をかなり喋《しやべ》る、肥ったメイドである。
――なんだ。このメイドが日本料理のうまい、色は黒いが、ナントカじゃ美人か。ワクさんは面白がって、おれをかついだんだな。
と、気持に少し余裕の出た伸彦はおもったものである。
日曜の午後、伸彦は失敗をやらかした。
「隅谷《すみや》と申します。お見舞いに伺わせていただきました」
品のいい中年の婦人が玄関に現れたのだが、伸彦はだれとも知らず、
「今、取りこんでおりまして、奥さまはどなたともお会いになりません」
そういって無下《むげ》に追い返した。
事実、湧谷の細君、和子は玄関ホールに向って左手の寝室に、娘の真理子とふたり、引きこもったままである。しかし中年の婦人の声を聞きつけて、和子が走り出てきた。
「伸彦さん、隅谷大使の奥さまよ」
公用車に乗って帰ろうとしている中年の婦人の方へ玄関の階段を駆け下りて挨拶している。
婦人は和子の肩を抱くようにして、なにか見舞いの品を手渡している。
大使夫人を送りだして、
「お気のつく方ね。精神安定剤《トランキライザー》を持ってきてくださったわ」
といった。
そこで和子は伸彦に向って、
「いったいこの事件は、怨恨なの、それともお金目当てなの?」
詰問するようにいう。
「主人は仕事の上で、フィリピン人の恨みを買うようなことをしたの、あるいはしているの?」
「そんなことはなさっていない、と信じております。犯人のほうも金を要求する、といっておるんであります」
「そんなこと、あなた、いいきれるの。イランでも夜逃げ同然に出国しなくてはならなかったりしたじゃないの」
「あれはこちらが筋を通したのに、相手が通さなかったわけで、いわば例外的な話でありまして」
「今度だって、例外の話かもしれないじゃない」
伸彦は返事に窮した。
「いや、お傍にいながらお役に立てなくて申しわけありません。奥さまがお辛いのはよくわかります」
「私、主人がシャワーも取っていないだろう、とおもうとシャワーを浴びる気にもなれないのよ」
和子は涙ぐんだ。
伸彦は和子の背中を支えて、寝室に連れて行った。
日曜の夜、伸彦が最後に取った犯人の電話は凄味《すごみ》があった。
「金を用意しろ。金額は近いうちに連絡する。金を払わない場合は、亭主の命はない、と細君に伝えろ」
伸彦はそれを和子に伝えた。
「一億円とか十億円とかいってきたらどうするの」
和子は半狂乱になった。
「そんなお金、うちにありゃあしないわよ。それとも会社が払ってくれるの」
湧谷は子どもの頃、「西遊記」に出てくる妖怪に追われる夢をよく見たものだ。なんとか妖怪の手を逃れようと必死に走るのだが、足がどうしても動かない。足は必死に地面を掻くのだが、前へ進まないのだ。
今朝、湧谷は久かたぶりに幼年時代に見たような、足の動かない夢を見た。妖怪ではなく、迷彩服を着た軍人に追いかけられるのだが、右足が重い鉛の玉でも引っぱっているように動かない。
目を覚ますと、右の足が伸びていて、その足首に足鎖が食いこんでいる。
蝋燭がちりちりと燃え、板壁のドアの下には、初めて見る、痩せた小柄な番人が立膝をしてすわりこんでいる。自動小銃を両手に持ったまま、ぼんやりと空をみつめている。
――まだ生きていたか。
湧谷はおもい、目をつぶって深い息を吐いた。
夜が明けると、殺されるのではないか、とおもい、再び恐怖が襲ってきた。もはや細君の和子や娘の真理子に会うこともないのか。サイプレス・ロードの家、いや湘南、藤沢の家を見ることもないのか。
「死」とはなんだろう。思考とあらゆる感覚の停止、としか湧谷にはおもえない。フランスの哲学者は「我思う、故に我あり」といったが、それなら死とは「我、思わず、故に我なし」ということだ。
「無」に帰してしまう、という発想に、湧谷はどうしても耐えられない。自分が「無」に帰してしまうとおもうと、脂汗が額に滲み、全身が震え戦《おのの》くような恐怖に襲われる。蝋燭一本の暗闇が圧倒的な量感を持ってのしかかってきて、湧谷は全身に脂汗を滲ませ、身動きできなかった。
ふと気がつくと、眠っている間も聞えていたロック・ミュージックは消されている。あちこちで鶏がときを作る声が響き始めた。
ふいに表に車の着く音がした。
板壁の向うで、あわただしく監視の男たちが整列するらしい靴音が入り乱れた。なにか報告するらしいタガログ語の甲高い声が聞える。
板壁の下にすわっていた番人の男も立ちあがった。
――やはり殺されるのか。
湧谷は立ちあがる気力もなく、板張りの床に横たわっていた。
突然、板壁のドアがぎいっと開いて、黒い、目出し帽の覆面をした男が現れた。男は白い、よく糊のきいたバロン・タガログを着て、筋目の通った黒ズボンをはいている。
番人の男が挙手の敬礼をした。
目の前にぴかぴかに磨いた靴がやってきて、男は湧谷の頭の傍にしゃがみこんだ。
「ハウ・アー・ユー・サー」
男はフィリピン訛りの少い上手な英語で、そういった。
「こういった状況で、あなたにお会いしなくてはならないのは、まことに遺憾におもいます」
柔らかな品のいい声である。
「われわれはある資金を必要としており、そのために、あなたを誘拐せざるを得ませんでした。その点をご理解いただきたい」
まるで「英語ビジネスレターの書き方」の模範文例みたいな喋りかたをしやがる、と湧谷は頭のどこかで考えた。
「あなたのご家族がこちらの要求する金額を支払うまで、あなたには、ここにご滞在いただくことになります。多少、窮屈なのはご容赦ください」
「私の家族に金なんか都合できる筈がない。私の家族が金を払えない、といったら、どうなるんだ」
「われわれは結論は急ぎません。しかし金額の支払いのない場合、あなたにとって最悪のケースが、あり得ないとは申せません」
男はいって、立ちあがった。
「ご健康にお気をつけください」
ぴかぴかに磨いた靴は遠ざかった。
湧谷昭生誘拐後、湧谷家で二晩、完全徹夜の電話番をした安原伸彦は、月曜はマンションの自宅へ帰って泥沼にひきこまれるように眠った。
月曜の夕刻、宮井物産本社常務取締役、鉄鋼本部長の屋敷正二がアジア室長と、そして業務部次長の森勇平を引き連れてマニラに到着した。屋敷は湧谷昭生事件対策本部長を命じられている。
森はマニラ空港に着くなり、
「明日、アンジェリカがここへくるたい。万事は彼らと相談して、決めるけん」
伸彦に囁《ささや》いた。
「アンジェリカ・ウーファでありますか」
伸彦は耳を疑った。
「あんたは忘れとるかもしれんが、アンジェリカはローリーズ保険の子会社のセキュリティ・コントロールっちゅう、危機管理会社におるでしょうが。彼らの助けを借りることにしたばい」
「うちは誘拐保険に入っているのでありますか」
「それはいくらあんたとの仲でもいえんけん、想像にまかせる、というやつよ」
森は首を振った。
「湧谷さんも、この件は知らんわけでありますな。すると会社に迷惑をかけるとおもって監禁されながら気にされているでしょうな」
伸彦は眉をひそめた。
森も顔をしかめて頷いた。
「会社に金銭上の迷惑をかける、と湧さんも気にされるだろうが、これは止むを得んわ。しかし、あのひとはだいたいおのれがあっての会社じゃけん、会社がおれの面倒見るのは当然たい、くらいの、まあ、気位の高いところがあるから、それがこの際頼りですたい」
翌日、セキュリティ・コントロール社のアンジェリカ・ウーファと彼女のボスで、極端に唇のうすい逆三角形の顔をした、アンドリュー・キンレッドという男がロンドンから到着し、早速、宮井物産の名前で湧谷が借りているレガスピー・タワー300の部屋で会議が開かれた。
会議は冒頭から荒れ気味になった。
まず対策本部長の屋敷が、
「われわれ日本の会社は社員の生命を最優先して考えるのが経営の基本哲学である。従って犯人側の要求が金銭であれば、たとえいかに巨額な金額であっても、これは支払う用意があります。なにより湧谷君を無事に取り戻すことを第一且つ絶対の目的として、セキュリティ・コントロールのご協力をお願いしたい」
そう挨拶した。
それに対して、逆三角形の顔をして、生まれつきの白髪らしいアンドリュー・キンレッドがすぐに反発をした。
「むろんミスタ・ワクタニを生存のまま、無事に取り戻すことが、われわれ全員の行動の目的です。しかし金を無制限に支払うなんてことは、非常識だ。社会的犯罪でさえある」
強烈な言葉がうすい唇から切りだされた。
「宮井物産が高額の身代金を支払えば、その事実は犯罪者の世界でたちまち広まってしまう。身代金が高額であれば、あるほど、次の犯罪を誘発することになります」
「はっきり申しあげて、われわれには次の犯罪の誘発まで考える余裕はないんだ。たとえ高額の身代金を払おうとも、社員の生命を守る、という会社の哲学は絶対に譲れない、いや譲りたくない」
屋敷も強い語調で反論した。
「だいたいこの熱帯地域で長期にわたって不潔な場所に幽閉されていたらどうなるか。拷問《ごうもん》の怪我から破傷風になるかもしれない。蚊に刺されてマラリアになる恐れもある。監禁のストレスから胃潰瘍や癌にかかるかもしれんのです」
「金額については、犯人側から提示のあった時点で再検討してはいかがですか」
アンジェリカ・ウーファが補足した。
アンジェリカは髪を短くまとめ、白いドレスをきちんと着て、学生時代とは別人の趣きがあった。
「しかし、こちらの社員の生命を最優先する、という意向は是非ご理解願いたい」
屋敷はあくまで自分の発言にこだわった。
「もうひとつ、是非ご相談したいことがある。目下、フィリピン警察が捜査に当ってくれているが、われわれとしては直接、犯人側と接触したいのです」
屋敷がそういって、セキュリティ・コントロールのふたりの顔を眺めた。
「われわれは必ずしも、フィリピン警察を信頼していないわけではありません。科学的、組織的捜査能力において日本など先進諸国の警察と比べると能力が落ちるのは確かだろうが、この土地柄、人脈などの知識は抜群だろう、とおもいます。しかしそれより日本や外国のマスメディアがフィリピンに殺到していて、これはフィリピン警察の手には負えまい。わるくすればフィリピン側からなにもかも情報が洩れてしまう恐れがある。そうなると犯人側が感情的になって、湧谷君に危害を与えたりするのを心配しているんです」
アンジェリカがキンレッドに、「発言していいですか」と訊《き》き、キンレッドが頷いた。
「こちらからフィリピンの現地新聞に広告を出してみたら、どうですか。たとえば運転手募集の広告を架空の電話番号をつけて、ただし宮井の名前で、二日か三日続けて出してみるのです。相手は知的集団のようですから、このコール・サインに乗ってくるんじゃないでしょうか」
襲撃犯のトヨタ・クレシーダには黄色地に黒の数字で「NVD480」のナンバー・プレートがついていたが、これはジープニーのナンバー・プレートで、しかも交通法規違反で没収されていたジープニーのナンバー・プレートだ、という。
このカラクリや襲撃時の無駄のない動きを見ても、相手は計画的、知的犯罪集団であるように、伸彦にもおもえた。
「その場合は、受け皿をしっかり用意しなくちゃ駄目だ」
キンレッドがいった。
「宮井物産、ミスタ・ワクタニの家、それに大使館の三カ所に電話の受け手を用意する。言葉ができて、粘り強くて、相手の信頼感を獲得できる人間だな」
「こっちの事情はどうだ」
屋敷が次長の長田を顧《かえり》みた。
「最重点は支店でしょうが、支店の電話には、顧問弁護士のロドルフォ・バウサとあそこのスタッフを張りつけましょう。湧谷家のほうはわれわれでカバーします。大使館にはタガログ語の上手い三島さんがおられますから、彼にお願いしてみます」
「それとね、情報が殺到してきますからね」
アンジェリカが口を挟んだ。
「相手が本物の誘拐犯かどうか、確認する質問を用意しておくことです。ミスタ・ワクタニのお祖母さんの名前とか、東京で最後に食事した店の名前とか、学校のスクール・カラーとかね」
早速、新聞広告の文案が作られた。
「WANTED
"DRIVER"
FOR THE COMPANY
CALL MIYAI
EL 815-3305」
宮井物産の正式社名は MIYAI CO., LTD.で、MIYAI ではない。電話番号も架空である。
この広告はマニラで三十万部の最大の発行部数を持つ日刊英字紙「マニラ・ブレティン」の広告欄に十一月二十一、二十二日の両日、掲載されることになった。
10
月曜日の朝、佐久間浩美は、
「浩一、日本に帰る旅券の申請にゆこう」
と浩一にいった。
「申請って、申しこむことでしょう」
「そうよ。ママとふたりの旅券を申しこみにゆくの」
「おれ、旅券なら持ってるよ。キティのおばさんが宝物《たからもの》の箱に入れてくれた」
浩一は自分が宝物の箱と称している、ボール箱を開けると、ヨナクニサンの蝶の標本や絵の下から、旅券を抜きだして、ひょいと手渡した。
旅券を捲《めく》ってみると、まだ期間内で有効である。
「ああ、よかった」
浩美はほっとして、しかし浩一をひとり家に置いてゆく気になれず、浩一を連れてマカティの日本大使館のビルに出かけることにした。
籐家具店のおかみが心配をして、店のトラックに若い職人ふたりをつけてくれた。
「ママ、昨日のピストル、持ったね」
と浩一がいう。
「持ってたって、使えないわ」
「でも気持が落ち着くよ」
浩一は生意気をいう。
大使館領事部は日本へ出稼ぎにゆくフィリピン人が入国審査を待って長蛇の列を作り、大混雑である。その多くが湧谷誘拐を報じる新聞を読んでいる。
混雑を掻き分け、旅券の再発給申請書に前の旅券番号を書きこみ、申請理由を盗難として提出すると、簡単に受理された。あまり簡単に受理されたので、浩美は旅券が簡単に発給されそうな気がしてきた。
浩美の期待はしかし翌日、粉々に打ち砕かれた。
午前中に裏の家に職人が呼びにきて、店に電話がかかっている、と知らせてくれた。
「ああ、若奥様ですか。通じたんですね。私、今日初めて外国に電話しました」
埼京市の平安堂家具店に働く、経理係の中年女性である。|初めて《ヽヽヽ》の国際電話に緊張したのか、息をはずませている。
「じつは昨日、金林様にいわれまして、市役所に行って参りました。息のとまるほど驚いたんですが、若奥様は亡くなったことになっているんです。だれかが偽の医師の死亡診断書を添えて、死亡届を出してるんですよ。それで除籍というんですか、籍がなくなってるんです」
「やっぱりねえ」
死亡者の旅券など、再発給されるわけがなかった。
「この死亡届はインチキだ。若奥様はフィリピンにいて、私は電話で話してる、と係のひとにいったんですが、戸籍の訂正は本人か家族、それと弁護士が家庭裁判所ですか、あそこに申し入れて、訂正許可の判断が出ないと駄目なんだそうです」
経理の女性は市役所で取ってきたメモを読んでいるらしい。
「そんなことをいったって、私はフィリピンにいるのよ。どうやって、生きてることを証明するのよ」
浩美は悲鳴をあげた。
「ゆうべ、金林様にご相談したら、偽の死亡診断書を書いた医者はどうせ朝鮮総聯系だろうが、医師法違反で起訴してやる、有罪の判決が出れば、自然、戸籍も復活できる、とおっしゃってました」
浩美は溜め息を吐《つ》いた。
「それじゃあ、どんなに早くても三カ月、もしかしたら半年はかかりそうね。伯父さまがお帰りになったら、なんとか助けてくれってお伝えして下さい」
浩美は電話を切ると、傍にきた浩一に向い、
「ママは日本じゃ、だれかが死亡届を出してしまっていてね、死んだことになっているの。当分、日本に帰れそうにないから、浩一だけ先に日本に帰ることにしようよ」
といった。
「そりゃ駄目だよ。北の連中に狙われてるママをひとり置いて、日本に帰るわけにはゆかないよ」
浩一は言下に反対した。
「ママはフィリピンの旅券を持ってるんだろう」
「偽物のね。だけどフィリピン人が日本の査証を取るのは大変なのよ」
日本大使館にすべてを打ち明けてしまおうか。しかし北朝鮮誘拐に始まる自分の話をだれが信じてくれるだろう。湧谷誘拐|幇助《ほうじよ》罪の疑いをかけられて、フィリピン警察に引き渡されるのがオチではないのか。
安原伸彦は火曜の夕刻、シティ・バンク・センター・ビルの宮井物産マニラ支店に顔を出した。
湧谷が誘拐されて以来、湧谷家に詰めっきりで、今日はレガスピー・タワー300での、セキュリティ・コントロールとの打ち合わせ会議に出席していて、会社に顔を出すどころではなかった。
会社の玄関にはボディガードが十数名、詰めかけて、出入りを厳重にチェックしている。
伸彦は身分証明書を示しながら、「なにを今更」とおもった。
十七階の自分の机を眺めると、メッセージだの、ファックスがいくつも重ねて置いてある。
浜松楽器がインドネシアに作ったピアノ工場に出張しているらしい兄の龍彦が心配して、連絡してきたらしく、電話があった旨のメッセージが置いてあった。そのなかの一通、日本語で書かれたファックスが伸彦の眼を引いた。
「お探しの人物がマニラ市の籐家具の街、グリーン・ストリートの『オリエンタル・ラタン』という家具店におります。
時節柄ご多忙とは重々承知しておりますが、本人が心配な状態にありますので、大至急お訪ね下さい。
広島市、金林忠清」
伸彦はその紙を掴んだまま会社を飛び出した。運転手にグリーン・ストリートと命じた。伸彦専用の屈強なガードマンが助手席に乗りこんでくる。
事件後、全社員にガードマンがついているのであった。
伸彦は初めてグリーン・ストリートという街に行ったのだが、小ぎれいな籐家具の店がずらりとならび、南国の独特の雰囲気をたたえた街であった。だれが選んだのか、家具に興味を持つ浩美に、いかにもふさわしい街である。
「オリエンタル・ラタン」という店はすぐに見つかった。この街でもおおきな店で、所狭しとならぶ籐の椅子やソファの間を抜けて奥へ入ってゆくと、古い机に若い娘がすわっている。机には白黒の小型テレビと電話機が置いてあり、娘はテレビをつけ放しにして、請求書の整理をしていた。
「グッド・アフタヌーン」
伸彦が日本女性に会いたいというと、娘はじっと伸彦を探るようにみつめ、伸彦の背後のガードマンとタガログ語で話した。
「たしかに日本の女性が男の子と一緒にこの家の二階に住んでいたが、今日の午後、引っ越したそうです」
ガードマンが通訳した。
浩一のことだろうか、と伸彦はおもった。
「どこに引っ越したんでしょうか」
伸彦は娘に直接、英語で訊ねた。
「ここのオーナーがね、自分でふたりをどこかへ連れて行ったの。私、知らない」
先日、その日本人母子が強盗団に襲われる、という事故があり、心配した女主人がふたりをどこかへかくまった、ということらしい。
「その女性は、サクマとかヒロミとか、いいませんでしたか」
女は首を振った。
「マリリンって、皆、呼んでいたみたいね」
湧谷の家にいたメイドがマリリンと称していたことを、伸彦はおもいだした。やはりマリリンは浩美だったのだろうか、と伸彦はおもった。
店の娘は親切で、机から立ちあがり、マリリンが住んでいた、という店の奥に案内してくれた。
店の奥は庭になっており、そのまた奥が住まいや工場になっているらしい。庭の一隅に火焔樹というのか、レイン・ツリーというのか、葉が傘型にひろがった大木があって、その下に、例のエマニュエル夫人の映画で有名になった、背中がおおきな食パンのような形をした籐椅子が置いてある。
「マリリンはあの椅子によくすわって、新聞を読んだり、考えごとをしたりしていたわ」
椅子の上では青い木洩《こも》れ陽が空しく躍っていた。
「なにかマリリンについて、覚えていることはおありにならんですか」
伸彦はなおも食いさがった。
「この店にも日本人のツーリストがくるけれど、マリリンは混血みたいなタイプで、日本人には見えなかったわね」
娘はそういってから、
「そうそう、変った時計をしていたわ。オメガなんだけど、チャイニーズ・キャラクターでなにか書いてあるの。チャイニーズ・キャラクターがスリー・ピーシズ刻んであるの」
「チャイニーズ・キャラクター」とは「漢字」のことだろう。漢字が三つ、刻んである時計をしていた、といっているのだ。伸彦は湧谷家を訪れたとき、マリリンがお茶を出してくれたこと、その腕にやはり漢字の入った時計をはめていたことにおもいあたった。
改めて考えてみると、暗い蝋燭《ろうそく》の灯でよく読めなかったが、最初の字は「金」だったような気がする。するとあれは、兄の龍彦や佐久間賢一から聞いていた「金正日」ご下賜の「尊名時計」という代物ではなかったのか。
もはやマリリンが佐久間浩美であるのは間違いなかった。
夕刻、会社から女主人に電話を入れたが、女主人は「私は知らない」の一点張りである。
翌日電話すると、「マリリン」といっただけで電話を切られてしまった。
11
湧谷昭生誘拐事件発生を知るや、コラソン・アキノ大統領は、政府、国軍、警察首脳をマラカニアン宮殿に召集、事件解決に全力を挙げるように指示した。アキノ大統領とフィリピン政府は、この事件に「アキノ大統領訪日成功のイメージつぶしを目的にして、社会不安を煽《あお》る謀略」という疑惑を抱いたのである。
フィリピン警察軍はマニラ首都圏に厳戒態勢をしき、約百人の捜査員を投入した。
日本人社会の動揺ぶりも甚だしく、各企業支店長は俄《にわか》にガードマンを何人も雇い始めた。
カンルーバン・ゴルフ場は閑古鳥が鳴く空きようで、ほかのゴルフ場でプレイする日本人もガードマンを何人も連れて歩き、パットをするときなど、ガードマンとキャディがプロの試合のギャラリーのようにグリーンを取り囲む始末であった。
犯人側に対する、宮井物産からの呼びかけの「運転手募集広告」は二十一日と二十二日のマニラ・ブレティンに掲載されたが、その反響はすさまじいものがあった。
「私が犯人側との間を取り持ってやる。その代り、まず百万ペソ(八百万円)出せ」という類いの電話が殺到してきた。
もう少し手のこんでいるものになると、
「自分はワクタニの居場所を知っている。しかし私自身も犯人側に多分、顔を見られている。家族の安全を守るために、一月分の家賃と引っ越し料を五千ペソ(四万円)ほど出してくれないか」
などと持ちかけてくる。
安原伸彦も会社に訪ねてきた貧相なフィリピン人に会ったが、小柄なやせた男は、
「自分は監禁場所を知っているんだ」
長い人差し指を立てて、こちらを睨みつけるようにしていう。
「いつでも証拠写真は撮れる。しかしカメラは持っているんだがね」
Tシャツの貧しい身なりに似合わない、日本製の高級カメラをまっくろに汚れたビニールのバッグから取り出してみせた。
「カメラはこのとおりあるんだが、望遠レンズを買う金がないんだよ。その金を出してくれんかね」
「望遠レンズの代金はいくらかね」
伸彦は苦い顔で訊き返した。
「まあ、おれも命が惜しいから、できるだけ遠くから撮りたい。一万ペソくらいはするのが買いたいな」
ワラにでもすがりたい気持があるから、伸彦はポケットマネーから、千ペソを差しだした。
「望遠レンズを買うほどの金はやれんが、これで望遠レンズを借りてきたらどうだ。ミスタ・ワクタニの写真をほんとうに撮ってきたら、そのときは改めて相談に乗ろうや」
男は二度と現れなかった。
ある夜、夜間専門に電話を取っていた、宮井の弁護士のロドルフォ・バウサが、
「このところ、立て続けに妙な電話が入るんだ。スペイン統治時代に流行した童唄《わらべうた》なんだが、そいつを必ず流してくる。サラペンのペンペン≠ニいう歌でな。歌詞はカニさんのはさみ はさんで揺する 金と銀 どんどん増える海のそば≠ニいうんだ」
「はさみと金銀とくると、なんとなく脅しをかけているような歌とも解釈できるな」
セキュリティ・コントロールのキンレッドがいった。
「ほかになにもいわないのか」
「今のところ、テープを流してきてそのあと黙りこんでいる」
「テープが終って黙ったら、こっちから、湧谷に連絡を取りたい、ついては質問に返事しろ、というんだ」
キンレッドはいった。
「絶対に湧谷しか答えられないような質問を用意して、訊いてみるんだ。それがうまく行ったら、ミスタ・ワクタニが生存している証拠写真をよこせ、というんだよ」
12
佐久間浩美はパサイの教会に付属している修道院に移っていた。
籐家具店の女主人が自分の通っている教会に聞き、日本に長年暮らして日本語ができて、親日派という評判のフェルナンデスという神父をみつけだした。強引に頼みこんで、あっという間に浩美親子を、フェルナンデス神父のもとに送りこんでしまった。
しかも店の黄色いトラックに、浩一用の机や中古ではあるが、ひと通りの籐家具のセットまで積みこんで運んでくれたのである。
修道院に着くと、躰のおおきい修道女《シスター》が待っていて、親子を修道院の離れといった感じの別棟の一室に案内してくれた。
二階の部屋で、階下は掃除人や庭番の部屋になっているらしい。大理石造りのおおきな部屋で、風通しがよく、バス・トイレつきで籐家具店の二階よりはよほど住み心地が快適そうであった。
「ここは男子修道院ですから、本当は女性は泊れないのですが、神父様が別棟のゲスト・ハウスならよかろう、と特別にお許しになったのです」
大柄なシスターはいった。
「私はエミリーといいまして、この近くのドミニコ女子修道院に暮らしております。神父様があなたのお話を聞いて、ドミニコ女子修道院に引きとるのが一番いいが、男手のいないところは心配だし、うちには幸い、このゲスト・ルームがある、といって、この部屋におきめになったのです」
シスター・エミリーは説明した。
「もっともここの男たちよりは、私のほうが頼りになるとおもいますよ」
豪快に笑った。
イメルダ・マルコスがいい例で、フィリピンにはごくたまに、縦も横もすこぶる大きい女性が存在するが、この「エミリー」というシスターも、そのひとりのようであった。顔も浅黒く、混血とは見えないけれども、遠い家系のどこかで欧米の血が混じっているのかもしれない。
「修道院で、フェルナンデス神父がお待ちですよ」
シスター・エミリーに促され、浩美と浩一は階下に降り、いったん表に出て修道院の一階の応接間に行った。
「いろいろ難しい事情があるらしいな」
バロン・タガログを着た、恰幅のいいフェルナンデス神父はいきなり、癖のない日本語でそういった。
「ひとことでいえばどういうことかね」
「ひとことでいえば、イギリスに留学していたとき、北朝鮮に拉致されてしまった、ということなんです」
「北朝鮮か。これは想像を絶する≠ニいうやつだな」
神父は天井を仰ぎ、腕を組んだ。
「一度はうまく北朝鮮から逃げだしたんですけど、この子を人質に取られてしまいまして、マニラで一、二年働けば、この子を返すといわれてここへきたんです」
「子どもは取り返したものの、北朝鮮はあなたを諦めてないわけだ。どうして諦めないのかな。まあ、わかるような気もするがね。美人のあんたをだれかえらいさんへのクリスマス・プレゼントにするとか、そういうことか」
神父は笑いながらいったが、眼は笑っていない。
神父は浩一を見て、
「おい、坊主。ここから日本人学校へ通いなさい。勉強はわしが見てやる。日本で中学生や高校生を教えてたからな、かねがね小学生も教えてみたい、とおもっとったんだ。外地にいると、どうしても国語の力が落ちるからな、わしがしっかり教えてやる」
浩一は閉口したように苦笑いして、頭を掻いている。
「浩美さん、あんたがたの護衛にはシスター・エミリーをつけます。近くの修道院にいて足場がいいし、なによりあのひとは男まさりでね。柔道や合気道の心得もある。北朝鮮の男のふたりや三人、投げ飛ばすよ」
シスター・エミリーは神父の秘書役をしていて、女子修道院から毎日通ってくるのだそうであった。
それから真顔になった。
「わしのほうはいつまでいて貰っても一向にかまわん。しかし日本の親類に頼んでな、日本の警察に全部事情を話して、助けて貰いなさい。あなたは日本人なんだ。フィリピンの警察に頼む前に、日本に動いて貰うのが正解だろう」
といった。
まもなく日本人学校が再開されたが、生徒の送迎にも湧谷誘拐事件が呼び起した日本人社会の動揺が極端なかたちで反映していた。
各高級住宅街からスクール・バスが日本人学校に向けて出発するのだが、毎朝ガードマンを乗せた車で、スクール・バスまで両親が送ってくる。スクール・バスにもガードマンが乗っているのだが、親たちはそれでも不安らしく、バスのあとを一列縦隊に車を連ねて学校まで子どもを送ってゆくのである。
浩一の場合、エミリーがシスター姿で車を運転し、近くのビレッジまで送ってくれるのだが、ガードマンだらけのスクール・バスの周辺を眺め、浩一までが、「ちょっとオーバーじゃないの」といいだす始末である。
ある朝、浩一を送った帰り、浩美は、
「ねえ、エミリー、ファーマーズ・マーケットに連れてってくれない? 私、フェルナンデス神父に日本料理を作ってあげたいの」
そう頼んだ。
教会に移ってから、浩美は修道院の台所や食堂を手伝っていたが、フェルナンデス神父は湧谷とおなじように浩美の日本料理を喜んだ。しかし日本料理といっても、神父の場合は湧谷とはおおいに好みが異なった。
「浩美、わしはカツドンが好きでな、あのちょっと甘いところがな、わしの舌に合うんだよ。そのうちご馳走してくれよ」
そんなことをいう。
信者でもないのに、無償で世話になっているという負い目があるから、なんとしてもフェルナンデス神父の注文に応えたかった。
浩美の経験では、ファーマーズ・マーケットが魚といい、肉といい、種類と鮮度では断然頭抜けていて、よくモレナと監視人つきで出かけたものだ。
エミリーはちょっと考えて、
「あそこなら人も多いし、安全でしょう」
とOKした。
ファーマーズ・マーケットは、ロンドンで伸彦が連れて行ってくれたフラワー・マーケットによく似ていて、大きな倉庫のような建物のなかに数百軒の八百屋、食料品店、魚屋、肉屋が軒を列《つら》ねている。マーケットに入った浩美は夢中になって、刺し身用の魚を買い、それから一段下った肉屋のほうに向った。
「私、ここに残っているわ」
エミリーは肉屋のほうを見てためらい、足を止めた。
すぐ正面の肉屋の店先の厚い板の上には、まるい鼻孔を空に向け、耳を立てた大きな豚の生首が置いてあった。その隣の店はもっと凄くて、これは子豚の、皮を剥いだ赤身の首が横向きに数十箇並べてあった。
浩美はカツドン用の豚肉を買い、豚の腸詰めを買った。
さらに兎のような動物が裏のほうの店の店頭に吊るされているのを見て、なんの動物だろうと好奇心を起し、そちらの店先にまわりこんだ。
もしかして犬ではないか、北朝鮮であんなに貴重品のように扱われていた犬の肉ではないか、と覗きこんだ。フィリピンの田舎でも犬は食用にされると聞いている。
その途端にジーンズの腰骨のところに固い物が押しつけられた。
「|口をきくな《マル・コルジマ》。|黙って歩くんだ《アムマル・オプシ・コロラ》」
久しぶりに聞く朝鮮語である。
振り向くと、北朝鮮国家保衛部の趙《チヨウ》が立っている。うすい布製のショルダーバッグを右肩に吊るし、そのなかに入れた右手にピストルを握ってつきつけているらしい。例のごとく小肥りの白い顔に汗を噴き出させ、Tシャツの胸から腋《わき》にかけて水をかぶったように濡らしている。
趙は浩美が以前によくファーマーズ・マーケットにきたのを覚えていて、毎日張りこんでいたに相違なかった。
浩美は「しまった」とおもい、エミリーのほうを眺めた。エミリーは階段の上の魚売り場で、魚を覗きこみながら、売り子と雑談している。
趙に小突かれ、止むなく浩美は入ってきた入口とは違う真横の位置に当たる出口に向って通路を歩きだした。
歩きながら、タガログ語で「助けて」と叫ぼうか、と迷った。叫んだ途端に、趙は発砲するのではないか。しかし彼らの目的は浩美を金正日のもとに連れ戻すことにあるのだろう。それなら簡単に撃ちはすまい。
通路の向うから肥った中国系の中年女が腰にエプロンを下げ、首にタオルを巻いて歩いてくる。手に青いバケツを下げており、それが重いのか、足もとがよろよろとおぼつかない。
いきなり浩美は駆けだして、その中年の女の後ろに跳びこもうとした。趙は左手を、辛うじて浩美の肩にひっかけ、逃がすまい、とする。
おもいがけないことがそこで起った。おもわず趙が取りだしたピストルを見て事情に感づいたらしい中年の女がバケツの水をいきなり趙の顔に下から浴びせたのである。
バケツをそのまま趙の顔に押しつけ、バケツで顔面を続けざまに叩いた。趙が市場の濡れた床に倒れるのを見て、浩美はまっすぐ出口へ向って走った。
出口へ出て、教会の車の置いてある方向へ駆けだそうとした鼻先に、こんどは孫《ソン》が顔を現した。
「こっちの車に乗るんだ」
孫は朝鮮語でいい、浩美の二の腕を掴んだ。激しくもみあったが、顔を力いっぱい張られた。ひるんだ隙に両脇をかかえこまれずるずると引きずられた。待たせてあった車の運転手も降りてきて、ふたりがかりで危うく車に乗せられそうになった。
そこへ灰色の修道服が横合いから飛んできて、孫に掴みかかった。エミリーは孫の腕とベルトを掴んだと見る間に、空中へ投げ飛ばした。孫は運搬用のトラックに頭を打ち、白目を見せて、口をぱくぱくと開閉させている。
続いて運転手の胸ぐらを掴み、きれいな腰車で投げ飛ばした。運転手は地面に倒れたまま動かない。
エミリーは修道服のスカートをまくって、スリップをはいた腰を丸出しにし、倒れている孫のわき腹を二度、三度と蹴った。孫が動かないのを見て、今度は罪悪感に捉われたのか、十字を切った。
「私が不注意だったわ、ご免なさい」
浩美の手をひいて、教会の車のほうへ向った。
13
湧谷昭生は相変らず足鎖をつけられ、手錠をはめられたまま、木の床の上にすわっていた。
大小便用にバケツが置いてあるが、最初は番人に尻を向けても、緊張のあまり小便がおもうように出なかった。
三日目の朝になって、腹痛がしてバケツに大便をして、それでも番人が差しだしてくれたトイレット・ペーパーで、尻の始末をしたが、今度はいつまでもそのバケツを番人が片づけようとしない。
「これじゃ汲み取り便所の真ん中に寝てるようなもんだ」
湧谷は自分の排泄物《はいせつぶつ》の臭気に閉口した。細君の和子が極度の潔癖家で、手洗いや台所を絶えず磨きあげていたなかで生活してきた湧谷としては、考えられないような環境の変化であった。
「|捨ててこい《スロー・アウエイ》」
不動明王に似た大柄の番人に怒鳴るのだが、聞えぬふりをしている。
臭気のなかで二日間暮らした翌朝、また戸外に車の停まる音がして、監禁部屋の外、板壁の向う側が騒がしくなった。
「ビッグ・ボスがきた」
だれかが怒鳴り、表でごろごろしていた番人連中が泡を食って立ちあがり、整列する気配である。
表で、タガログ語のやりとりがあり、この前とおなじ目出し帽をすっぽりかぶった男が入ってきた。これもこの前とおなじくバナナ繊維の上等のバロン・タガログを着て、折り目のまっすぐ入った黒ズボンを穿《は》き、光った靴を履いている。
――これがビッグ・ボスと呼ばれている、誘拐犯のボスなのだな。
湧谷はおもった。
男はタガログ語で、番人を怒鳴り、湧谷の汚物の入ったバケツを片づけさせた。それから湧谷に向い合うようにして、床にすわりこんだ。ビッグ・ボスの両脇には、自動小銃をかまえたTシャツ、短パンの男がふたり立っている。
「ミスタ・ワクタニ、先方と連絡の必要が生じている。私の質問に答えて貰いたい」
ビッグ・ボスは手もとのメモを見ながら、
「あんたは東京のハイスクールを卒業したそうだな。その制服のボタンはいくつあったかね」
奇怪な質問をする。
「おれはたしかに東京の両国高校というハイスクールを卒業したがね、ボタンはなかった」
ビッグ・ボスは意味がわからない、という顔になった。
「上着を着なかったのかね。フィリピンの学校のように、シャツが制服だったのか」
「そうじゃない。制服はあった。しかし両国高校の制服は日本海軍の将校の制服とおなじで、ボタンはない。洋服の裏にホックがあって、それをはめるんだ」
湧谷は一生懸命手ぶりをまじえ、英語で説明したが、どうもコロンブスには理解できないらしい。
「とにかくボタンはないんだな」
そういってメモに書きこんでいる。
「あんたのミセスの結婚前の姓はなんというんだ。それからマッチ・メーカーはだれだったかね」
マッチ・メーカーとは媒酌人のことだろう。
「ワイフの結婚前の名前は飯塚だ。マッチ・メーカーは水谷さんだ」
水谷は湧谷の結婚当時は常務、のちに社長、会長に昇進した人物である。
湧谷はふたりの名前のローマ字のスペルをいった。
「ミス・イイヅカとミスタ・ミズタニだな」
紙を見て、ビッグ・ボスは確認をもとめた。
「それから最後の質問だが、東京にこの間、出張したそうだが、その東京滞在の最後の晩に食事をした店の名前はおぼえているかね」
そこで湧谷は、こうした一連の質問には、本社鉄鋼本部長の屋敷以下の知恵が入っている、と突然、気がついた。そうか、本社の屋敷以下がマニラにやってきて、湧谷の救援活動を始めたのだな、とおもった。一気に力が湧いてくる気分になった。
「東京で最後に食事をした店は千代田≠セ」
湧谷は答えて、紙にCHIYODAとスペルをローマ字でいった。
「OK、これが嘘だったら、あなたの指が一本なくなるぞ」
ビッグ・ボスはそういって出て行った。
その夜の食事は、蛙のから揚げであった。蛙が四本の足を踏んばったままの形で、皿に山積みにされて異様な臭気を放っている。さすがに湧谷もたじろいだが、どうやら本社が救援活動に出てきたらしい、という一事が彼の気分を昂揚させていた。
「なあに、ニューヨークでもテヘランでも、おれはフランス料理屋でよく蛙を食ったもんじゃねえか」
むろんこんな生々しい形ではなく、蛙の原形をとどめないように調理され、味も鶏肉に似ていたのだが、
「ひとつ、蛙の姿揚げをご馳走になるか」
湧谷は蛙の足を掴み、むしゃぶりついた。
14
一九八六年十一月下旬、宮井物産マニラ支店長、湧谷昭生誘拐犯一味から、支店へ最初の脅迫状が届いた。
「ペン・ペン・デ・サラペン(サラペンの男)」という古い童唄《わらべうた》を必ず流して電話してくる相手は、「湧谷の高校時代の制服のボタンはいくつか、湧谷和子の結婚前の姓はなんというか、結婚の媒酌人はだれだったか、東京で最後に食事した料理屋はどこか」という質問に、フィリピン訛りの強い英語で正確に答えてきた。
電話を受けた顧問弁護士のロドルフォ・バウサは、
「それではミスタ・ワクタニ生存の証拠写真を送ってくれないか。一番新しいマニラ・ブレティンを持った写真だ。同時にそちらの身代金を提示して貰いたい」
と要求した。
ほとんど間を置かず、マニラ・ブレティンを両手に持った湧谷の写真と英語のメモ、それに犯人側からの手紙がマニラ支店に送付されてきたのである。
すぐにレガスピー・タワーで、宮井側から対策本部の屋敷、森、長田、安原伸彦、弁護士のロドルフォ・バウサ、セキュリティ・コントロールのアンドリュー・キンレッド、アンジェリカ・ウーファ等が顔を揃え、検討に入った。
アンジェリカが、
「ミスタ・ワクタニの手紙には、健康も弱っている。一日も早い救出を望む≠ニありますが、これはむろん犯人一味にいわれて、口述筆記したものでしょう。写真を見る限り、ミスタ・ワクタニはきわめて健康状態がいいようにおもわれます」
と説明した。
湧谷は、いつも身ぎれいで、夕刻の外出前、もう一度電気|剃刀《かみそり》で髭を剃り直す癖があったが、写真の中の湧谷は不精髭をだらしなく伸ばし、それだけでも惨めな印象である。しかし、たしかに顔かたちにおおきな変化はなく、肌にも張りがあるように見えた。
「これで湧谷の生存ははっきりした。なによりの朗報だ」
屋敷がふとい眉をあげ、大きな声を出した。事実、暗く閉ざされていた表情が生気を取り戻している。
「問題は身代金です」
弁護士のロドルフォがいった。
「米国ドルで五百万ドルを一週間以内に用意しろ、といっている」
ドルの交換レートは一九八六年十一月時点のレートで、約百六十二円だから、五百万ドルは八億一千万円に当る。
「USドルで五百万ドルというのは、とんでもない金額だ。五百万ペソというのならわかりますがね」
ロドルフォが呆れたように首を振った。一ペソは約八円だから、五百万ペソなら、四千万円ということになる。米ドルに換算して二十五万ドルに過ぎない。
レガスピー・タワーのレセプションには、おおきな円卓が運びこまれ、一同、そのまわりにすわっていたが、屋敷がたたんだ老眼鏡の縁でテーブルを叩きながら、
「私は全然そうはおもわんな。反対に金額の安いのには驚いた。マニラ支店長の生命と引きかえなら、一千万ドル、二千万ドル要求されて当然だろう。五百万ドルなんて安過ぎるんじゃないのか」
|流 暢《りゆうちよう》な英語で、そういった。
屋敷は二十年近い、在外勤務体験があり、役員のなかでは随一の英語遣いといっていい。
「むろん本社の最高幹部の了解を取らなくちゃならんが、担当役員としては、この金額をそのまま承諾《アクセプト》したい。たかが八億の金も払わんようじゃ、人の宮井≠ニいわれてきたプライドが傷つくわな。今、東京都内で八億といったら、三百三十平米(百坪)の土地が買えるか買えんか、その程度の金額だろ」
沈黙が流れた。
おもむろに白髪のキンレッドが剃刀《かみそり》の刃のように細い唇を開いた。
「あなたはことあるごとに、人の生命は大事だ、人の生命を金で交換などできぬ、とおっしゃるが、ここで相手の申し出を受けて、申し出どおりの金額を支払うなら、結果的には逆になる。人の生命を大事にしないことになってしまう」
きらりと光る視線を屋敷にあてた。
「簡単に大金を払えば、世の中の犯罪者は宮井物産、与《くみ》しやすしと踏んでこぞって意図的に宮井を、日本企業の支店長を狙いますよ。宮井物産の世界中の支店長が次々と標的にされるでしょうな。いったい宮井はそんな場合、世界中の支店長の身代金《ランサム》を払いきれるんですかな。それに、誘拐される支店長のなかには、殺される人もでてきますぞ」
「おれはそういう将来の可能性を前提にして話したくないんだ。今、ひとりの社員の命を救うかどうか、そういう話をしているんだ」
屋敷は簡単に引き下ろうとしなかった。
「ミスタ・キンレッド、あんたはアングロサクソンだが、アングロサクソン、つまりイギリスやアメリカの連中とわれわれじゃ、社員に対する考えかたが正反対なのだ。アメリカの会社じゃ、株主の意向が一番大事だ。社員のことなど二の次だ。だから社員の首を切れば切るほど、やり手ということになって、社長は出世する。日本はアメリカと正反対に社員第一主義なのだ。日本じゃ社員の首切るのなら、社長はその前にまず自分の首を切るんだよ」
そこで屋敷はアンジェリカへ眼をやった。
「あんたはドイツ人だそうだから、このへんの考え方の相違はわかるだろう。私の経験じゃ、ドイツも社員を大事にする点で、日本に似たところがある。ドイツでも社員の勤続二十五周年の表彰やったりしてるしな」
アンジェリカ・ウーファは動揺したらしく、眉を寄せ左手の長い人差し指でブラウンの髪を掻きあげた。
「ドイツの会社もたしかに終身雇用制ですし、社員を大事にしますけど」
そこで気持を取り直したように面《おもて》を上げた。
「ミスタ・ヤシキのおっしゃるとおり、アングロサクソンより日本とドイツの会社のほうが、共通点は多いとおもいます。しかしこういう事件の場合、相手のいい値に従わない、相手につけあがらせない、というのが世界共通の原則だと私はおもうんです。これはアングロサクソン、日本、ドイツの会社組織の差に関係ないんじゃないですか」
アンジェリカは学生時代に戻ったように真剣な顔で、額にはうっすらと脂汗が滲んでいる。
「とにかく身代金には次の犯罪を誘発しない上限の額、また世間からそんなケチな金しか出さなかったから殺されたんだ、などといわれない下限の額がある、とおもいます。そういった上限下限のなかで、ぎりぎりの金額があるとおもうんですよ」
「その額はいくらなんだ」
屋敷は眼鏡の縁をぱたぱたと折りたたみながら、訊いた。
「この土地の身代金の水準もあるし、私にはわかりません」
アンジェリカはそう答えて、キンレッドの顔へ眼をやった。
「ここの物価の水準からいえば、下限五万ドル、上限五十万ドルだろうな。これ以上払ったら、次の犯罪を誘発しますよ。私としては、五万ドルに近い線から交渉を始めたいですな」
キンレッドは冷やかにいった。
「五万ドル? 相手のいい値は五百万ドルだぞ。それじゃ湧谷を殺せ、という意味の答えじゃないか。そんな金額はアドヴァイスにならん。責任ある危機管理会社としては、もう少し責任ある返事を要求する。セキュリティ・コントロールの本社と相談して返事をくれ」
屋敷は憮然《ぶぜん》たる面持ちでいった。
激怒しているらしく、ゴルフ焼けした顔がどす黒く染まっている。
その夜、屋敷はマニラ支店支店長室に、弁護士のロドルフォ・バウサと森、長田、安原など、宮井の社員を招集した。
「おれは会社のトップとも相談した。セキュリティ・コントロールがなんといおうと、この際、おれは相手のいい値どおり、身代金を支払いたいんだ。ロドルフォ、電話がかかってきたら、そう回答してくれ」
ロドルフォ・バウサは困惑したように腕を組み、天井を見上げた。
「あなたがミスタ・ワクタニのことを心配するのはよくわかりますよ。しかし五百万ドル、というのはこのフィリピンではとほうもない金額なんです。このフィリピンじゃ、国民の七割から八割が年収、百ドルから百五十ドルで生きているんですよ。五百万ドルといったら、五万人のフィリピン人が一年間生活できる金額なんです。それをたったひとりの男のために払うわけですか」
日本人とフィリピン人とでは、命の値段がそんなに違うのか、といいたげであった。
「日本人の命の値段が違うとはおもわん。ワールド・エンタープライズ、宮井物産の支店長、というポジションが莫大な付加価値を生むんだろ」
屋敷は平然としていい放った。
「身代金については、基本的に承諾する、と答えて欲しい。ただし湧谷の同時釈放を条件とする、とな。支払い方法は指示に従う、といってくれ」
屋敷はセキュリティ・コントロールの仲介を敢えて無視するかたちでいった。
「それから馬平」
と森勇平を顧《かえり》みた。
「東京正金銀行に身代金の準備を依頼しろ。東京正金のニューヨーク支店は身代金専門の警備専門会社と契約している筈だ。いってみりゃ、身代金専門の銀行だ。そこから日本経由で五百万ドルの金を運ばせる。日本へ入れて、いったん雑損処理の勘定に入れた形にしてから、ここへ運ぶんだ」
「早速、連絡しますばい」
森は少々苦しげな表情で答えた。
セキュリティ・コントロールとの交渉窓口の森は、上司の命令で、セキュリティ・コントロールのアドヴァイスを無視する恰好になり、立場が苦しくなったのだ。
15
安原伸彦は苦悩していた。
三日に一日は昼当番か夜当番で、湧谷家に詰めて、犯人グループからかかってくる電話を取るのだが、これがなんとも辛い仕事であった。なにより辛いのは、犯人グループからの電話を和子に繋がなくてはならないことだ。
一応、セキュリティ・コントロールや弁護士のバウサとも相談して、犯人グループの電話にはできるだけ誠実に応対して、犯人グループとは一種の信頼関係を醸成《じようせい》してゆこう、という方針になっている。
犯人グループの連絡係のフィリピン人は、どうやらひとりに決っているらしく、その男が会社と湧谷和子へ交互に電話をしてくる様子だが、会社の電話へは事務的冷静な態度で交渉してくる一方、和子への電話は凄味をきかせ、怒声を混ぜたりして、恐喝そのものになる。
「よく聞け、カズコ。お前の亭主は縛られて暗い穴のなかに放りこまれていてな、もう何日も食事も与えられてないし、このままなら、死ぬだろうな」
録音テープを再生してみると、交渉係の男はわかりやすいように、ゆっくりした英語で繰り返し、そういう脅しをかける。
それに対して、和子は、
「アイ・ウィッシュ・ユー、プリーズ・ヘルプ・ヒム、プリーズ・リリース・ヒム」
泣きながら繰り返すだけである。
「おまえの亭主はな、今日、ちょっと反抗したので、山の中の密林でな、一日中木の幹に縛られていたよ。縄を解いたら、ゲロを吐いて気絶しやがった」
そんなこともいう。
明らかに湧谷和子を脅し、からめ手から宮井にプレッシャーをかけようという計算なのだが、和子にはそんな計算を見抜く分別は失われてしまっている。当番で詰めかけている宮井の社員、和子にこれも当番で付き添っている宮井の社員夫人たちに、和子は絶望感や悲嘆、果ては怒りをぶつけてくる。
「伸彦さん、主人は穴にほうりこまれたり、木に縛りつけられたりしてるのよ。きっともうすぐ死んでしまうわ」
「奥さん、脅しでありますよ。犯人サイドにしてみれば、支店長にもしものことがあったら、元も子もないんです。大事な金づるを失ってしまうんです。穴のなかにほうりこまれたり木に縛りつけられたり、粗末に扱われるわけがありませんよ」
伸彦はセキュリティ・コントロールの説明を繰り返すが、もとより自信がない。
「どうしてそんなこといいきれるの。相手は罪のない人間を誘拐する連中なのよ。そんな理屈なんか通用しない異常な連中かもしれないのよ。あなたも相手を見て、恐ろしかった、といっていたじゃないの」
マニラ・ブレティンを持った湧谷の生存を証明する写真が支店に送りつけられてきて、和子の感情は一時、収まったが、今度は、
「宮井はどうしてすぐお金を払うって返事しないの。主人の命とお金とどちらが大事なの」
そう泣き叫ぶ。
「いや、屋敷対策本部長はすぐにも払う、とおっしゃっているんです。相手からの連絡を待っているだけです」
なだめながら、伸彦も屋敷のいうように、身代金を相手の要求どおりただちに払ってしまえばいい、とおもった。
森勇平は言を左右にして明らかにしないが、宮井物産はローリーズの誘拐保険に入っていて、身代金はその保険からカバーされる筈であった。
和子を寝室に帰し、居間に戻った伸彦は頭を振って食堂を通り台所へ通じるドアを開いた。
「水をくれませんか」
呆けたように台所の丸い椅子にすわっているモレナにいった。
「水ね」
冷蔵庫から水差しに入れた水を取りだし、コップに注いでくれる。
水をひと口飲んで、伸彦は、
「モレナ、マリリンはどこにいるんですか」
日本語で訊いた。
モレナはびくりと細い肩を震わせた。
「マリリン、急にいなくなったよ。私、知らないよ」
「だって、マリリンはモレナの親類で、モレナが連れてきたって、ミセスもいっていたよ。あなた、ほんとうは知ってるんでしょう」
伸彦はしつこく追及した。事件の苛立ちが伸彦の気持をふだんより意地わるくさせていた。
「ほんとうに私、知らないよ。田舎《プロビンス》へ帰った、おもうね」
「田舎ってどこですか、ノース・コリアかね」
ノース・コリアと聞いて、モレナはゆがんだような、泣きべそをかいたような顔になった。
「あなた、どうしてそんなこというの。私、警察にもいろいろ訊かれてね、警察も私の田舎調べて、間違いない、モレナ、わるいことしてない、そういったんだよ」
むきになって抗議した。
居間にいる宮井の社員が耳をそばだてている気配もあり、伸彦はコップを流しに置いて、台所を出た。
食堂の窓から、六角形のプールを眺めた。水が汚れ、緑いろに変色している。
――どうして北朝鮮という言葉にモレナは過敏に反応するのだろうか。
いずれにしろ、モレナがマリリンの居所を知らないのは事実のようにおもえた。
16
夜、伸彦が湧谷家から帰宅し、メイドの手作りの料理を食べていると、電話が鳴った。
玄関のガードマンからで、「宮井の森さんというひとが訪ねてこられています」という。すぐに、
「夜、すまんがちょっと話があるけん、時間くれんかね」
森勇平の声が響いた。
まもなく玄関のブザーが鳴り、長身の森が入ってきた。驚いたのは、その背後からアンジェリカ・ウーファが姿を現したことである。擬装用なのか、黒い眼鏡をかけ、白いシャツにスカートの、学生時代に戻ったような恰好をしている。
レセプション兼食堂の部屋のソファに案内すると、アンジェリカはいきなり頭をかかえこんだ。
「私のボスのね、アンドリュー・キンレッドが、もうこの仕事は断って、国に帰りたい、というの」
正面から切りだした。
「宮井物産はセキュリティ・コントロールの意見をまったく尊重しようとしない。それだけでなく、犯人グループのいいなりになって、大金を支払おうとしている。こんな会社に協力すれば、同種の犯罪が激増して、この国は間違いなく誘拐犯の天国になる。つまり宮井に協力することは、フィリピンの犯罪激増に加担することだ。そういって猛烈に怒ってるのよ」
「おれもな、屋敷さんとセキュリティ・コントロールの間に入って弱っとりますがな」
森は腕を組んでいった。
本社から出張してきている森勇平は、ロンドンで、アンジェリカと出会い、以来セキュリティ・コントロールとの窓口にもなっている。
「身代金の輸送のほうはどうなってるんでありますか」
「そら、一応屋敷さん指示の線に従って、東京正金のニューヨークに頼んで調達してある。二十五日頃、ニューヨークから、うちの社員がふたりがかりで五百万ドルを成田経由で運んできますたい」
アンジェリカは擬装用の眼鏡を外して充血した眼をこすった。
「このままでゆくのなら、アンドリューと私は手をひいて、イギリスに帰るから、宮井は勝手におやりなさい、ということよ」
アンジェリカは窮余の一策、ロンドン以来の級友の伸彦に相談にきたものらしかった。
「取り敢えずは身代金を払うことだけを相手に伝えたらどうでありますかね。その間、善後策を講じる、つまりもう少し宮井とセキュリティ・コントロールで話し合うとかね」
「相手が待ってくれるかねえ」
森も苦渋の色を眉間に滲ませた。
「わしは基本的には、餅は餅屋のたとえもあるけん、セキュリティ・コントロールの指示に従いたい、とおもうんだが」
三人とも黙りこんだ。
暑い、重苦しい夜気が部屋のなかまで入りこんでくる気配である。
17
宮井物産マニラ支店長誘拐後、二週間を経て、「翻訳作戦」司令部の空気は初めていらだち始めた。
交渉係のダビトがマニラ市内二カ所の電話から、相手と交渉しているのだが、ダビトと宮井側代理人らしいフィリピン人との交渉がおもったようにはかどらない。
ダビトが「翻訳作戦」司令部に持ち帰った交渉電話のテープを再生して聞きながら、まず日本赤衛軍の光寺修二が怒り始めた。
再生されたテープは、呼び出し音のあと、「ペン・ペン・デ・サラペン(サラペンの男)」という、古いフィリピンの童唄《わらべうた》をコール・サインのように鳴らす。それに続いて、
「ワクタニの写真と手紙を受け取ったかね」
フィリピン訛《なま》りを強めたダビトの英語の声が入る。
「確かに受け取った。われわれはミスタ・ワクタニの元気な写真を見て、非常に喜んでいる。今後も彼の健康維持に最大限の注意を払って欲しい」
宮井側代理人のフィリピン人が、これも英語で答える。
「ところでわれわれは手紙入手後、一週間以内に五百万ドルを用意するように要求した。宮井側の回答を聞きたい」
ダビトが本題に入った。
「宮井は身代金を払うことには同意する」
宮井側のフィリピン人はいった。
「しかし身代金の額はあまりに巨額だ。マニラ支店では用意できない。今、全力を挙げて本社と交渉中だ。もう少し待ってくれ」
「われわれは一週間以内に用意しろと要求した筈だぞ」
「金を支払うことは約束する。しかし金額についての確約はもう少し待って欲しい。とにかく金を支払うのだから、ミスタ・ワクタニの健康には注意を払って欲しい。彼が指一本、失っても、われわれは交渉を中止するぞ」
「シャラップ(黙れ)」
とダビトは怒鳴った。
「宮井物産がこちらの指定した金額、五百万ドルを支払わなかったら、ワクタニの生命がどうなったって、おれたちは知らんぞ」
ダビトの怒声とともに電話は切られた。
「日帝のやつら、なんだ、えらそうなエリート面しやがって」
光寺が額に青筋を立てて、怒った。
「宮井がその気になりゃ、五百万ドルなんて、すぐ都合できるんだよ。香港の宮井の資金を調達して運んでくるだけの話だ」
「湧谷がこれから定年までに取る給料は知れてるだろうからな。それとのバランスを考えているのかもしれんな」
コロンブスが冷静にいった。
「そらありまへんな」
笹岡が答えた。
「宮井は冷たい会社や、ろくに金も払わんで、社員を見殺しにした、そないな評判が立つことをいちばん恐れるさかい、生涯賃金とのバランスみたいな理屈を考える余裕はないやろね。本社がもたついてるだけのことやろな」
「この際、おどしかけたろ」
光寺が叫んだ。
「一週間、遅れる度に、湧谷の指一本切って、宮井物産に送りつけるんだよ。手の指十本っていやあ、十週間だ。五本も切りゃ、向うも金を払うだろ」
「取り敢えず一本、送りつけるのは効果があるかもしれん。家族がヒステリックになるのは間違いないしな」
コロンブスがいった。
――このサイケ野郎め、バラバラ事件をやらかそうってのかよ。
それまで黙っていた水田は、不快になって、光寺を睨んだ。光寺の凶暴さは日本赤衛軍のなかでも持てあまし気味であった。しかしすでに賽《さい》は投げられ、翻訳作戦は進行している。水田は視線を落し、自分の指をちらりと眺めた。
このところ、指サックをはめて目立たぬようにしているが、水田も刑務所の労働作業中、工作機械で左手の中指と薬指を失っている。
「指を落されるのは痛いもんだぜ」
水田はいい、自分の指サックを外し、短い指先をひらひらさせた。
「苦痛で湧谷はパニック状態になるかもしれんぞ」
湧谷昭生は相変らず足鎖をつけられ、手錠をはめられて、狭い小屋の床にすわっていたが、新聞をもって写真を撮られたりするうちに、誇りと自信を取り戻しつつあった。
監視人の眼を盗んで、板壁に蝋燭《ろうそく》をしたたらせて、日付を刻み、日にちの観念を忘れないようにした。また足腰が弱らないように足鎖をつけたまま、ジョギングの真似事のような足踏みを繰り返した。
朝、この足踏みを始めると、鎖がじゃらじゃらと音を立てる。
「うるさい、止めろ」
怒鳴る監視人もいたが、湧谷は素知らぬ顔をして足踏みをしていた。
その朝もこの足踏みジョギングをやっていたのだが、また監禁部屋の表が騒々しくなった。また整列する足音が聞え、「アテンション」と号令をかける声が響いた。ビッグ・ボスがきたらしい。
別の監視人が銃を持って入ってきて、湧谷の足鎖の錠を外した。自動小銃をつきつけて、監禁場所の表へ連れだした。
監禁場所はコンクリートの小屋の一角に木の床を張り、壁で仕切っただけの場所だから、表へ出たといっても、小屋の中であることに変りはない。明り取りの窓があるだけで、本来は米や農作物を収納しておく小屋のような感じであった。
部屋の中央にデスクがあり、湧谷を昼夜、ロックの騒音でなやますトランジスタ・ラジオが置いてある。そのデスクの向うにビッグ・ボスが目出し帽をかぶってすわり、その脇にもうひとり目出し帽が立っている。
――ははあ、今日も写真を撮るんだな。
湧谷はおもった。
この前も写真を撮るときは、例のビッグ・ボスのほかにひとり目出し帽がきて、インスタント・カメラで写真を撮ったのだ。
「今日も写真を撮るので、ご協力をお願いする」
ビッグ・ボスが教科書ふうの英語でいった。
もうひとりの「目出し帽」が鞄のなかから注射器と、ステンレスの包丁を取りだした。
ステンレスの包丁が高窓からの光を受けて鋭く光り、湧谷は鳥肌が立った。「こいつら、おれを切り刻む気か」とおもった。
18
佐久間浩美は外出もままならなくなった。
「敵もなかなかやるじゃないか。相手になってやろうぜ」
日本でカトリック系中学、高校の教師をしていた、というフェルナンデス神父はすっかり張り切ってしまった。
「わしも腕には覚えがある。わしとシスター・エミリーが組めば、フィリピン最強のプロレス・タッグチームができるよ。ひとつお揃いのマントとマスクでも作るか」
達者な日本語で、意気さかんである。
浩一の送迎、浩美の買物、神父とシスターのふたり組が絶えず付き添ってくれる。立て襟のローマン・カラーにグレイのフロック・コートの神父と、やはりグレイの頭巾とロングスカートの修道尼が付き添っていれば、カトリック教徒が九〇パーセントのフィリピンでは安全この上ないが、逆に浩美は動きが不自由になった。
なんとか安原伸彦に電話だけでも入れて話をしたい、とおもったが、数回の電話がことごとく不在である。
電話をする度に、殺気立っている宮井の社員は、
「あなた、どなたですか」
語気鋭く問い返してくる。とても伝言など頼める雰囲気ではなかった。恐らく湧谷支店長誘拐対策本部というようなものが設置されて、出向しているのだろうと想像したが、そんなところにまで電話する勇気はなかった。
浩美は以前に伸彦が「敵の敵は味方」と呪文のように繰り返していたのをおもいだし、北朝鮮の敵は韓国だ、とおもいあたった。
韓国大使館の住所を調べだし、タガログ語で、北朝鮮の国家保衛部のふたりが、マニラ市、某々のマンションに不法滞在している、という手紙を書きだしたが、下書きのできたところで、やっとという感じで埼京市の佐久間賢一から修道院に電話がかかってきた。住所の移動は埼京市の平安堂家具店にだけは連絡しておいたのである。
「アメリカに行っていて、わるいことをしたね。しかし私もまさか、あんたの死亡届が出されている、とはおもわなかった。あいつら、許せんな」
佐久間賢一が歯がみをする感じで口惜しそうにいった。
「とにかく今日家裁に行って話をしてきた。結局、あんたの死亡診断書を書いた総聯系の医師を医師法違反で告訴する以外、手はないみたいだ。ちょっと時間がかかるぞ」
賢一は溜め息を吐いた。
「伯父さま、ここの神父さまもおっしゃっているんですけど、こうなったら、日本の警察にもお話しに行っていただけませんか。私が北朝鮮に誘拐された事情を説明していただきたいんです」
「それが早道かもしれんな、八方、手を尽くしてみるよ。もとはといえば、おれの身から出た錆《さび》だしな」
「そんなにご自分をお責めにならないで。単純に私が間抜けだったので北朝鮮に連行されただけなんです」
十一月末、宮井物産マニラ支店は大騒ぎになった。
犯人グループから、手紙と湧谷の新しい写真が送られてきたのだ。
写真は刺激的であった。湧谷は苦痛に眼を閉じ、顔をゆがませており、机に置かれた右手中指にステンレス製らしい包丁の刃が指の第二関節に食いこんでいる。まさに指を切断される瞬間の写真で、机の上にはおびただしい血が流れていた。
手紙には、
「貴下からの返事の遅延がどういう結果を招くか、この写真が貴下の理解の一助となろう」
と書かれていた。
「だから早く五百万ドル、払ってしまえ、といったんだ」
本部長の屋敷は声を張りあげた。
宮井物産とセキュリティ・コントロールが、正確には屋敷とキンレッドが対立し、結論の出ないままに、この写真を受け取る結果になってしまったのであった。
19
湧谷昭生が右手中指を切られている写真をめぐって早速、対策本部で会議が開かれた。
「身代金の支払いが遅れたために、こういう事態を招いてしまったのは、きわめて遺憾におもう」
写真を前にして対策本部長の屋敷が沈痛な顔をして声を落した。
写真のなかでは、机に置かれた湧谷の右手中指の第二関節によく光る包丁の刃が食いこみ、指は切断直前のように見える。血が指にからむように幾筋も伝い、こちらを向いた湧谷は髭面をのけぞらせて、苦痛に顔をしかめている。見ているだけで震えがきそうな写真だ。
しかしそこで、キンレッドが爆弾発言をした。
「私たちの経験からいわせて貰うと、これはトリック写真だ、とおもう」
キンレッドは例のごとく冷静な表情である。
「しかし包丁が指に食いこんでいて、血が流れているじゃないですか。湧谷さんも苦しそうな顔をしている」
長田が反論をした。
「いや、こんな写真を撮るのは簡単ですよ。まず包丁の刃を指のかたちにくり抜くだけの話です。くり抜いた部分に指を入れて、いかにも包丁が指に食いこんでいるように見せているだけの話ですよ。この血だって、血だかどうだかわかりゃあしない。赤インキかもしれないし、動物の血かもしれない」
しかしそれにしては湧谷の顔は眉をしかめ、苦痛にあえいでいるように見えた。
「きっとミスタ・ワクタニは何回も練習させられたのよ。もっと苦しそうな顔をしろ、もっともっとってね」
アンジェリカが口を添えた。
「私はこの手のトリック写真は何回も見てきた。こんな写真におどかされて、莫大な身代金を払ったら、相手はつけあがるばかりですよ。それこそ宮井物産を集中的に狙う理由になる」
キンレッドのうすい唇はいかにも職業的な感じで、声のトーンも職業的であった。
「包丁を持っている犯人側の手を見てごらんなさい。ゴムの外科用手袋を嵌《は》めているじゃないですか。そこまで頭を使っている連中なんだ」
そこで少し身を乗り出して、
「頭のいい彼らにとって、大事な人質の指を切断する必然性はなにもないんです。傷口が化膿して破傷風《テタナス》にでもなって、人質が死んだら、元も子もなくしてしまう。頭のいい犯人グループがそんなリスクを冒す筈がない。こんな脅しに屈してはいかん」
伸彦はいかにもプロフェッショナルなキンレッドの解釈に感心していた。
もともと芝居好きで、茶目っ気もある湧谷のことだから、練習をやらされているうちに表情がだんだん真に迫ってきたであろうことは、想像できないことではない。
「心配なのはおなじ写真をミセス・ワクタニに送ってくることです。きっと電話でもハズバンドの指を切った、というでしょう。これは脅しだ、となだめることもできます。しかし写真は効果がおおきいですからね。奥さんの眼に触れないようにしたほうがいいとおもいます。奥さんを攻めるのが、敵の戦法のようですからね」
アンジェリカが念を押した。
「なるほど。専門家の意見は傾聴に値するな」
屋敷は英語でいった。キンレッドの発言に衝撃を受けたのか、屋敷の態度が柔らかになっている。
「これまでの経過と身代金の回答額について本社のトップによく説明して、結論を出したほうがいいかもしれんな」
屋敷は呟いた。
「ところでミスタ・キンレッド、相手はどんな連中だ、とおもうね」
「わかりません。想像では、国際的犯罪に慣れているということと、動きが軍隊のように組織的で、業務分担がはっきりしているようですな。私は衝動的で、統一のとれていない相手よりはずっと対応しやすい相手だとおもいますよ」
結局、屋敷が脅迫状や写真を持ち、キンレッドを帯同して、日本の本社へ相談にゆくことになった。
20
佐久間浩美は日中、シスター・エミリーと一緒にフェルナンデス神父の秘書役のような仕事をするようになった。
神父は枢機卿の信頼も篤《あつ》く、教区関係の会議に出ることも多い。また日本との関係が深いので、日本人と結婚したフィリピン娘の相談にのってやるケースも少くない。そうした日程の整理、会議の準備は熊のようにおおきいシスター・エミリーの仕事だったが、浩美と浩一をガードし、生活の面倒を見てくれる御礼に、浩美は率先してエミリーを手伝うことにしたのである。
朝夕は修道院一階にある台所で食事の用意も手伝った。フィリピンには、地理的関係からオーストラリア出身の神父、伝道師が多いらしく、この男子修道院の食事も洋風、フィリピン風のチョイスになる。
浩美はフェルナンデス神父やほかのやはり日本にいたオーストラリア人の神父、それから自分たち親子のために、何度か日本食を用意したが、これが他の連中の好奇心を誘って、週に一度は日本食もチョイスに加えることになった。
ある昼前、日本人との結婚の相談にきたフィリピン娘が帰ってゆくのと入れ違いに、人妻らしい、三十がらみの女が入ってきた。十人並みの小鼻のふくらんだ顔つきだが、色が白く、胸や腰にむっちりと肉がついている。
「ミセス・アリガトです」
女はにやっと笑っていった。
フェルナンデス神父の部屋に通すと、神父は、「はーい、ミセス・サラマッポ」といった。
「このひとはミスタ・グラシアス、中国名|謝《シエ》さんというひとの奥さんだからな。つまりアリガト夫人だ」
と浩美に紹介した。
タガログ語の「サラマッポ」は、ありがとうの意味である。
女は時計を見ながら、
「今日、これからです」
といった。
「えらい急な話だな」
神父は少し考える顔になったが、
「浩美、ちょっと早いが、昼めしを食いに出かけるか。エミリーにも声をかけよう」
と誘った。
結局エミリーが運転し、女がその隣に乗り、神父と浩美が後部座席に乗って出かけたのだが、車中で、神父が意外なことをいいだした。
「じつはな、この間、学校から帰ってきた浩一がおれのところにきて、こういいおるんだ。ママがこんなに北朝鮮から襲われるのを見ていると、自分としては心配でたまりません、とな。そういうから、なにをいっとるんだ。おれやシスター・エミリーが守っている限り、心配しなくともいいぞ、坊主は一生懸命、勉強に集中しておればいいんだ、そう慰めてやった」
浩一も心配してくれているんだ、とおもい、浩美は早くも涙ぐみそうになった。
「そうしたら、坊主のやつ、なんとな、かげでは、おれのことをカツドン神父とか、日本大好きオヤジとか呼んどるくせに、そのときばかりは神父様、と神妙な声を出しよったんだよ。なんだ、おまえ、これから毎日曜、教会にくる決心でもしたのか、と、おれが脅しをかけたが、笑いもしないんだ。それで、マニラで毎年暴風雨シーズンになると、水があふれるのは、どうしてだとおもいますか、なんて禅問答みたいなことをいい出しよった。そりゃ、排水や下水道がきちんとできていないからだろ、おれは真面目に答えたんだよ。そしたらな、坊主がな、ママと北朝鮮の関係もおなじだとおもいます。もとのところを直さないと、いつまで経っても暴風雨がやってきます。生意気をいいおって、おれに日本語の手紙の下書きを見せた」
フェルナンデス神父が読んでみると、マニラの韓国大使館宛てに、北朝鮮国家保衛部の孫《ソン》と趙《チヨウ》の住所を密告する手紙の下書き、と見当がついた。
「お母さんはこの手紙、出したのか、と訊いたら、うちのママは臆病で、籐家具店の二階から飛び降りるのにも苦労したくらいですから、出していないとおもいます。その証拠に、この下書きがずっと机に出しっ放しにしてあるんです、というんだよ。ついてはこの手紙を出していただけませんか神父様、ときたね。そこでだ、おれも坊主、おまえがお母さんを心配する気持は尊いぞ、感心なものだ。しかしだ、ここのところはおれにまかせなさい、洪水の原因は、不肖、このカツドン神父がなんとかしてやるとな、胸を叩いて請け合ったんだな」
フェルナンデス神父によると、神父は教会に通ってくる女性信者のことをおもいだした。
この女性の信者は子連れの若い未亡人で、教会の常連だったが、暫く前に中国系フィリピン人と結婚した。
「亭主連れて時々教会にくるんでな、わしも会ってるが、朴訥《ぼくとつ》ないい男だよ」
彼は正確には福建省出身の中国人で、フィリピンへ移民、商才を発揮して小金を儲けたのだそうであった。
神父はこの謝に北朝鮮の不法滞在者の話をしたところ、自分がなんとかしようと約束したのだ、という。
車はマカティ警察署の前に着いた。
暫く待つうちにパトカーが二台、赤いライトを回転させながら警察署に戻ってきた。
「神父様が教えてくださった部屋に住んでいた北朝鮮グループですよ。捕って運ばれてきたんです」
女が後ろを振り向いて、神父にいう。
パトカーの後方から見ていると、まず小肥りの男が手錠をはめられ、フィリピン警官に両脇を挟まれて現れた。浩美は趙かとおもったが、小肥りのところが似てはいるものの別人である。男は抗議したり、抵抗もしたらしく、丸顔の額に黒い長髪が垂れている。なぐられたらしく、眼の縁が黒ずんでいた。
続いて浩美の見知らぬ男が警官に両脇をかかえられて連れ出されてきた。こちらは派手な撲《なぐ》り合いをやったと見え、鼻のあたりに真赤に血が滲《にじ》み、満足に歩けない状態であった。これも両脇をかかえられ、警察署のなかに連れこまれてゆく。
「浩美の知ってる男はいるかね」
浩美は首を振った。
「おかしいですね。孫も趙もいません。国家保衛部のメンバーが交代になったのかしら」
「ここの警察は荒っぽいからな、違う部屋の男を捕まえたのかもしれんな」
ミセス・サラマッポが日本語の会話の内容を察したのか、
「部屋の番号、違ってなければ、あの男たちです。間違いはありませんよ」
という。
「まだ油断はできんな。なにしろ相手はデーモン北朝鮮だからな」
神父は日本語で呟いた。
21
米国から帰国した、浩美の伯父、佐久間賢一は、精力的に動き始めた。
十二月初め、埼京市の警察署長に紹介して貰って、埼玉県浦和市にある、埼玉県警の警備部長を訪ねた。あらかじめ埼京市警から連絡が行っていて、警備部長と外事課長が賢一を待っていてくれた。
「簡単に申しあげますと、私の姪にあたります佐久間浩美の戸籍につきまして、虚偽の申告がなされている、ということなのです。死亡診断書が提出され、戸籍上死亡したことになっているが、これは故意による虚偽の申告でありますので、犯罪になるか、とおもいます。この戸籍を復活したい、と本人も私も強く希望しております」
「どうしてそういうことになったのですかね」
外事課長が訊ねた。
「まず、これをお聞きになってください」
賢一は二、三日前、電話で浩美自身に命じて、留学先から北朝鮮に誘拐され、北朝鮮側によりフィリピン人工作員養成のため、マニラに送りこまれた経緯を語らせた。それをこちらの電話機につけたテープに録音しておいた。そのテープを取りだし、ふたりの警察官に聞いて貰った。
ただし湧谷家で、メイドをしていた部分は意図的に外してあった。時機を見て、話すことにしようときめたのである。
テープに吹きこんだ浩美の話が進むうちに、ふたりの警察官の顔が段々深刻になり、全神経を集中し始めるのがわかった。
テープが終ると、
「まあ、警察というのは、どんな異常な事件が起っても驚かないところと相場がきまっていますが、これは相当に驚くべき話ですな」
年配の警備部長がいった。
「私の聞いている範囲では、日本海側や九州の海岸から北朝鮮に強制連行された日本人は最低二十人はいる筈です。しかしそのひとりとして、北朝鮮からの出国に成功した例はない」
「いや、それどころか、戦後、朝鮮出身者が北朝鮮へ帰国したとき、配偶者や配偶者の母親などの日本人が六千人以上、一緒に入国したんです。その連中で、日本に帰国できた人間もひとりもおりません」
賢一は説明した。
「私の姪の問題には、ふたつの犯罪の要素が絡んでいる。ひとつは朝鮮民主主義人民共和国への強制連行事件ですが、これは日本国と北朝鮮の間に国交がないのですから、警察としても、事件として取りあげるわけにもゆきませんでしょう。もうひとつのほうは、戸籍に関する虚偽の申告で、これは家裁に伺ったところでも事件になり得る、とおもいます。日本在住の医師がニセの死亡診断書を書いたわけですからね」
そこで外事課長が、
「しかしニセだということが証明できますかね。逆にいえば、今フィリピンにいる女性が戸籍にある佐久間浩美さん本人である、という証拠ですね」
そう訊き返した。
「私も弱りまして、ひとつは声紋、ひとつは指紋、もうひとつは証人ということを考えました」
佐久間賢一は別のテープを取りだした。
「これは一昨年、ロンドンから浩美と浩一が電話をしてきたときのテープです。先刻のテープと声紋が一致する筈です」
それから古いビニールのケースを取りだした。
「浩美は隠岐の島後《どうご》という島の西郷村で育ったんですが、田舎ではハイカラというか、モダンというか、音楽好きの家庭で、少女の頃、ピアノを習っていたんですね。これがそのピアノの教則本のケースで、この教則本には、かなり指紋が残っているんじゃないか、と彼女の母親がいうのです」
隠岐に雪が降ると、雪を固めて浩美が二階からこの教則本のケースにお尻をのせ、滑り降りたという話の残っているケースである。
「なにしろロンドンの下宿の家財道具も全部北側に運びだされてしまったものですから、指紋の残っているものをみつけるのに苦労しました」
賢一はわざわざ飛行機で隠岐を訪ね、浩美の母親と話し合って、この教則本のケースが一番残っているだろう、という話になったのである。
賢一が念のため、手拭いを手に巻いて教則本をめくってみると、ジャムパンかクリームパンを食べた手で教則本をめくったらしく、指紋のあとがいくつかおたまじゃくしの上に乗っていたのであった。
「なるほど。外事課長、マニラには警察出向の外交官はいたかね」
警備部長が外事課長に訊ねた。
「おりますよ。たしか松山さんといわれましたかな。私の九州の高校の先輩ですよ」
「それなら向うで改めて指紋を取って貰って照合する、という手はあるな。それから佐久間さん、証人もおられるんでしょう」
「それは何人もおります。ロンドン時代からつきあいのある人間がマニラにもおります」
「希望はありそうにおもえますな」
警備部長はいった。
「それから北朝鮮による強制連行は犯罪にならない、とおっしゃいましたが、たとえ犯罪にできなくとも、被害者がいる以上、われわれはおおいに関心があるんです。警察庁には報告しておきます」
帰路、賢一はこの辺の進捗《しんちよく》状況を安原伸彦に話してやりたい、とおもった。
しかし、フィリピンで起きて、日本のマスコミが大騒ぎを繰り広げているあの事件に浩美も絡んでいるのだ。むろん浩美がなにも事件に手を貸さなかったと賢一は信頼しているけれども、まかり間違えば今度は伸彦が犯人側に通じていたと疑われて、面倒なことになりかねないのである。
おなじ十二月初め、宮井物産の誘拐事件対策本部長の屋敷とセキュリティ・コントロールのキンレッドが宮井のトップたちとの打ち合わせを終えてマニラに帰ってきた。
「おれとしては不満だったが、この際、全宮井社員、ひいては日本企業駐在員の安全を第一に考えよう、という話になった。つまり専門家のセキュリティ・コントロールのアドヴァイスを入れて、できるだけ低い身代金で、事件を解決する。そして同種の事件の頻発というか、誘発を予防しようという結論だ。つまり相手が呑んで、しかも低過ぎて湧谷の身に危害のおよばない数字を提案することになる」
屋敷が報告をした。
「その数字はいくらとかね」
森がキンレッドに訊いた。
「ぎりぎり上限の数字だ。五十万ドルだな」
キンレッドは逆三角形の顔の眉ひとつ動かさずに答えた。
「やっぱり五十万ドルかね。それじゃ湧さん、生き延びられんとでしょうが」
森が唸るようにいい、伸彦を見た。
「五十万ドルだと」
翻訳作戦司令部で、日本赤衛軍の光寺が満面を朱に染めて怒鳴った。
「だから妙なトリック使わずに、湧谷の指を一本一本切ってゆけ、とおれは主張したんだ。今度こそ、あいつの指どころか、両耳切って送りつけてやれ」
要求額を決めたとき、水田は五百万ドルの要求は吹っかけ過ぎのような気がしていたものだ。フィリピンの新聞に話が洩れたが、フィリピンの新聞は間違えて五百万ペソと報じたくらいだったのである。
五百万ペソなら四千万円、五十万ドルでも八千万円、フィリピンでは巨大な数字だ。しかし十分の一に値切ってきた、という事実が水田をも激怒させた。「日帝のエリートのやつら、わしらを舐《な》めやがって」と唇を噛んだ。
「笹岡同志、日本赤衛軍の翻訳作戦の目的はなんですか。革命資金を獲得して、次の大作戦を起そう、というのが目的でしょう。あなたはもっとはっきりね、革命資金を獲得して、北朝鮮と一緒に八八年ソウル・オリンピックを粉砕しようといってるじゃないですか。こんなハシタ金で、なにができますか」
光寺が噛みついた。
コロンブスはじっと黙っている。
[#改ページ]
九 暗 闇 戦 争
宮井物産側が身代金五十万ドルを主張し続け、湧谷昭生誘拐犯人側が五百万ドルを要求して怒鳴り散らす応酬が続いて、十二月下旬を迎えた。
セキュリティ・コントロールのアンドリュー・キンレッドは、その応酬のさなか、「ミセス・ワクタニとお嬢さんを日本に帰してはいかがでしょうか」と宮井側に提案した。
「誘拐犯グループは、ミセス・ワクタニを脅して、彼女をパニック状態におとし入れようとしているんです。彼女がパニック状態におちいって、苦しさのあまり、自殺でも図れば、会社はあわてて身代金を払うだろうという狙いをつけて、彼女を脅迫してくるんだ。もしミセス・ワクタニが日本に帰れば、彼らはターゲットのひとつを失う結果になる。会社が彼女と娘のマリコをどこかに隠してしまえば、脅迫電話はかけられない。いくら国際電話の時代だといったって、日本みたいな、巨大な電話国家では、電話番号は簡単に割りだせないでしょう」
「ワイフを帰しても、あまり事態の根本的解決になるともおもえんがな」
屋敷は、キンレッドの提案に疑問を投げかけた。
「問題はふたつある。第一に、監禁されている湧谷がもし妻子が日本に帰ったと知れば、どう受け取るか。会社は身代金の要求を呑んでくれず、自分に対して冷たい態度だが、このうえ妻子にまで見捨てられたか、と悲観するだろう。第二に、湧谷の細君にしてみれば、髭も剃れずに、草深い山の中かどこかに監禁されている亭主をだ、放りだして自分だけ日本に帰るわけにはゆかん。そういい張って、OKせんだろうな」
「ミスタ・ワクタニは妻子が日本に帰ったと知って、悲観するより安心するんじゃないですか。重装備の誘拐団に襲われたものだから、彼は妻子もおなじように襲われはすまいか、と不安になっているとおもう。そりゃ少しはがっかりするだろうが、これで妻子の身辺は安全になった、と気楽になる可能性もありますよ」
キンレッドは反論した。
「ミセス・ワクタニには、よく説明して説得するんです。これは犯罪経験豊富な武装グループとの戦争なんだ、それも心理戦争なんだとはっきりいうんです。戦争に負けないためには、相手に肩すかしを食わせる必要がある、そのためには一時、東京に引き揚げてくれ、別に宮井物産が手をひくわけじゃなく、ちゃんとロドルフォ以下が控えていて、相手との交渉は続ける、あくまで戦略的な引き揚げだ。あなたが引き揚げたからといって、ミスタ・ワクタニの身になにか起る筈もない、そう説得するんですよ」
「なるほど、戦争か」
屋敷は唸って考えこむ顔になり、ふとい眉毛の下の眼をしばたたいた。
「湧谷和子が精神的に相当参っているのは事実だな」
「その点は宮井の方々は皆さん、よくおわかりだとおもうんです」
アンジェリカが口を添え、安原伸彦も、
「しっかりした方でありますが、なにしろもう事件が起って一カ月以上になりますからね」
同調する態度になった。
「今まで宮井と湧谷和子という二つのターゲットを交互に脅して、うまくゆすろうとしていたのが、そうはゆかなくなる。ペースが狂うとおもいますよ」
キンレッドが結論を出すようにいった。
結局十二月二十八日、湧谷和子と娘の真理子は会社側に説得されて、東京へ引き揚げた。その引き揚げについては、意図的にマスコミにリークされ、朝日新聞その他に報じられた。
このロック・ミュージックは完全に拷問だ、と湧谷は手錠をはめられた両手を耳にあてておもった。
明け方のいっときを除いて、監禁の番人どもは四六時中ラジオやテープでロック・ミュージックを鳴らし続ける。
湧谷はむろん世代的にもまったくロック・ミュージックに共感はない。最初のうちは、「泥くさいド演歌流されて、気が滅入るよりは賑やかなほうがいいか」などと考えることもあったが、四六時中けたたましく叩きつけるような音楽が鳴り響いては、苦痛というほかはない。音楽の鞭《むち》で躰《からだ》じゅうをひっぱたかれるようで、耳をおさえ、床をのたうちまわって音楽から逃れようともがき続けたりした。
湧谷はついに一計を案じ、
「風邪を引いて、喉が痛いんだ。なにかカプセルの風邪薬をくれないか」
不動明王のような、体格のいい番人に頼んでみた。男はちょっとうろんげな顔をしたが、板壁のドアを開いて、タガログ語でなにか叫び、説明をしている。
夕刻、別の番人がカプセルを十数錠、ぽんと放ってよこした。湧谷は番人の隙を見てそのカプセルを両耳に押しこんで、ほっと息を吐いた。
カプセルのおかげでロック・ミュージックが遠のくと、「いったいこいつらはなぜこんなに音楽を鳴らしているんだろうか」と考えた。
湧谷が大声を出して助けを呼ぶのを防ぐためだろうか。それとも外部の音が湧谷に聞えてはぐあいがわるいと考えているのだろうか。とすれば、ここはなにか湧谷に聞えると、ぐあいのわるい音がする場所なのだろうか。
山中ではないことは確かであった。音楽の合間に、トラックらしい車輛が列をなして通過する音を聞くことがある。なにか大勢の人間が移動してゆく足音を聞くこともある。それもゴルフシューズか登山靴を履《は》いているように硬い足音だ。
――フィリピンのゲリラ、新人民《NPA》軍の基地なのか。
供与された白のポロシャツに紺の半ズボンを穿《は》いて、湧谷は床にすわったまま、ぼんやりとそう考えた。
だれかに背後から肩を叩かれ、湧谷はぎくりとして振り向いた。眼の前に風船のようなグレイの目出し帽が迫っている。ビッグ・ボスと呼ばれる男が湧谷の背後にしゃがみこんでいた。耳にカプセルを入れていたので、ビッグ・ボスが入ってきたのに気がつかなかったのである。
湧谷は眉をしかめて、耳からカプセルを抜いた。
「うるさくて、気が狂いそうだ。あんた、音楽のヴォリュームを下げるようにいってくれませんかね」
目だけ出したビッグ・ボスがにやりと笑ったような気がした。
「静かになったからといって、私は大声で助けを呼んだりはせんよ。それとも静かになっちゃ、そちらに都合のわるいような理由があるのかね」
「いや、それは失礼した。日本人はフィリピン人と違って、音楽がお嫌いのようですな」
覆面の下で、こもったような声で答えた。
「私は静かな音楽を好む、といってるんです。なにも音楽が嫌いだといってるわけじゃない」
「しかしこんな場所には、モーツァルトは似合わんでしょう。かえってご不快になるか、とおもって、あの手の音楽を鳴らしているわけです」
ビッグ・ボスは番人にいいつけて、ヴォリュームを下げさせた。
「ところで、お願いしたいことがあるんですが」
ビッグ・ボスは目出し帽の眼を湧谷にあてていった。
「また写真かね」
今度はどんな写真を撮らされるのか、と湧谷はうんざりした声を出した。
三日前に正座させられた写真を撮られ、「ミヤイの皆さん、今日は十二月二十六日です。早く私を助けて下さい」というカセット・テープの録音をしたばかりである。できるだけみじめなポーズを取るように、哀れっぽい声を出すようにと何回も練習させられ、一カ月余監禁されて体力のない湧谷はへとへとになった。
「今日伺ったのは全然別件です。ミセス・ワクタニの母上、つまりあなたの義理の母上の日本の住所を教えていただけませんか」
湧谷は呆気に取られた。
「女房の母親など、このトラブルになんの関係もないぞ」
「マイ・マザー・イン・ロウ・ハズ・ナッシング・ツウ・ドウ・ウィズ・ディス・トラブル」と湧谷はジャパニーズ・イングリッシュで二度繰り返した。
「女房も金がない。会社も金を出さない。それで今度は女房の母親を脅そうという魂胆だな」
湧谷は強気にいい返した。
「だけど残念ながら、女房の実家も未亡人のひとり暮しでな。金はないぞ」
目出し帽は一瞬、眼をそらした。その視線を返してきて、
「ミスタ・ワクタニは以前にミセスとの離婚や別居をお考えになったことがおありですか」
そんな質問をする。
「いや、真面目に考えたことはないな」
ビッグ・ボスはグレイの覆面の上から、鼻の辺をこすり、鼻をふんふんと鳴らした。お洒落な男で、この男の服装はいつもぱりっとしたバロン・タガログに折り目の入った黒ズボンと決っているが、覆面のほうは帽子でも取り替えるように黒だったり、グレイだったりする。
「それはミスタ・ワクタニだけのお考えかもしれませんな。ミセス・ワクタニはちょっと違うお考えなのかもしれませんよ」
「なぜ、そんなことをいうんだね。女房がどうかしたのか」
ビッグ・ボスは覆面を少し引っ張るようにして、
「昨日、つまり十二月二十八日のことですが、ミセス・ワクタニはお嬢さんと一緒に日本に帰ってしまわれた。あなたを置きざりにしてね」
上目づかいに湧谷の反応を窺う顔である。
湧谷は衝撃を受けて、「へええ」と答え、暫くぼんやりした。和子のやつ、なんで日本に帰っちまったんだろう、とおもった。
「おまえたちがあんまり脅すもんだから、病気になっちまったんだな。この野郎」
湧谷は激情にかられ、手錠をはめられた手でビッグ・ボスの襟元を掴んだ。途端に横に付き添っていた番人の手がのびて、自動小銃の銃身で、両腕をしたたかになぐられた。銃身の重みが骨まで響き、腕がしびれて、湧谷は床にひっくり返った。
「われわれは交渉相手をなくして、困っているのですよ。ミスタ・ワクタニ」
長く伸びた湧谷に向って、ビッグ・ボスはいった。
「交渉相手がいなくちゃ、あなたも永遠にここにいなきゃならんのです。奥さんの実家の住所を教えていただけませんか」
暫く睨み合いの状態が続いたが、湧谷は小銃の銃身で、また脇腹をなぐられ、一瞬息が止った。観念せざるを得なくなった。
「OK」
と答えたのだが、さて女房の実家の住所など記憶にもない。
「どうもおもいだせない」
そう答えると、また銃身で脇腹を小突かれた。
「母親の住所はおもいだせないが、木山というワイフの妹の住所ならおもいだせるよ」
湧谷はいった。
おもいだせるもへちまもなく、湧谷の日本の家は藤沢の義妹夫婦とおなじ敷地内に建っているのである。木山家の地所を湧谷一家は譲って貰い、そこに住んでいるのであった。
クリスマスから暮にかけて、佐久間浩美は浩一とともに平穏な日々を過ごした。
クリスマスの前に、日本大使館の松山参事官という、警察庁から出向しているスタッフから電話があり、シスター・エミリーに伴われてマカティの大使館に行った。
「埼京市であなたの死亡届を出した、怪しからん人間がおるようですな」
松山はいって、浩美の指紋を取った。
それから日本から送られてきた書類と浩美の顔を見比べた。
「昔の旅券申請のときと全然お変りになりませんな。お若いもんですな」
そういって好意的な笑顔を見せた。
「旅券の再発給については安心なさっていいとおもいますよ。見こみがついたら、こちらから、ご連絡します」
そういってくれた。
暮にフェルナンデス神父が、「雑煮が食いたいぞ」というので、日本食料品店にこのときもシスター・エミリーと出かけ、餅を買ってきて、鶏肉入りの雑煮を作った。
日本式の雑煮はオーストラリア人の神父にまで、おおいに受け、浩美も気をよくしたものであった。
一月二日、浩美は教会の表に出て、ボーイ・スカウトの青年が、浩一をモーター・バイクの後ろに乗せて走りまわっているのを見ていた。
ひっくり返って怪我でもしはしないか、とはらはらしながら、しかし浩一がひどく喜んでいるので、「いい加減にお止しなさい」という言葉を出しかねていた。
「彼、楽しそうね」
英語でいわれ振り向くと、去年、北朝鮮の国家保衛部検挙の仲介をしてくれた、ミセス・サラマッポが立っている。ジーンズの短パンを穿き、グリーンのペディキュアをした足首にグリーンのアンクレットをはめている。女が傍へくると、フィリピンの美容院でトリートメントに使っているココナッツ・オイルの匂いがした。
結局、孫《ソン》と趙《チヨウ》の姿はなかったが、女は全員捕ったと自信ありげにいい張っていた。それ以来、この女性は教会にしばしばやってきては、浩美を訪ねてくる。フィリピンの餅菓子を持ってきてくれることもあるし、中国のお茶を買ってきてくれたりする。
「あなた、息子さんが怪我しやしないか、と心配なんでしょ」
女は面白そうに笑った。
ボーイ・スカウトの少年は浩一をバイクの後ろに乗せて、教会の前で、円を描くように走っていたが、次第にその円周をおおきくし始めた。
それからふいに教会の前から走り去った。
「街へ行っては駄目、帰っていらっしゃい」
浩美は金切り声をあげた。
横に立っていたミセス・サラマッポが教会のわきに置いてあったモーター・バイクにまたがり、エンジンをかけた。彼女は自分もバイクで教会にきているらしい。あざやかなハンドルさばきで、ボーイ・スカウトの若者と浩一のバイクを追いかけてゆく。
浩美は不安になって、道路に出たが、まもなく女の乗るバイクに追いたてられるようにして、ボーイ・スカウトと浩一が教会に戻ってきた。
ボーイ・スカウトの少年も浩一もまったくわるびれた様子はない。
「街へひとりで出ちゃ駄目だ、といってるでしょ」
浩美は浩一を叱った。
「教会のまわりをぐるっとまわっただけだよ、それもいけないの。自由がなくておれも辛いよな」
浩一はふくれっ面をしている。
「それじゃ、日本へひとりでお帰りなさい」
湧谷和子、真理子親子が日本へ帰った、というフィリピンの新聞記事をおもいだして、そういった。
「すぐその奥の手を使うんだからな。ずるいよ、ママは」
浩一を連れ返ってくれたミセス・サラマッポは、折から出てきたシスター・エミリーと立ち話をしていたが、派手に浩美に手を振ってみせてバイクで帰って行った。
「あのひと、何年前からこの教会にきているの」
浩美はシスター・エミリーに訊ねた。
「つい最近よ」
エミリーは意外なことをいう。
「でもフェルナンデス神父様は、娘時代から出入りしていたって、おっしゃってたわよ」
「嘘よ、神父様はああいう派手なタイプのね、ちょっとセクシーな女性の信者さんに甘いのよ。別にどうってことないんだけど、気に入ると、昔からの信者だみたいなことをおっしゃるのよ」
そこでエミリーは考える顔になった。
「そうねえ、あなたがここへくるのと前後して、教会にくるようになったのよ。私もいいひとだとはおもってるんだけどね、新しい信者なのはほんとうよ」
日本赤衛軍の笹岡、水田、光寺の三人の間にはフィリピン新人民軍のコロンブスに対し、少々面白くない空気が漂い始めていた。
コロンブスは「革命税獲得」の目的遂行のために、誘拐事件を数多くこなしてきた、と称するだけに、誘拐の手練手管をいやに心得ている。指の形にくり抜いた包丁で、いかにも指を切ったようなトリック写真を撮ったり、意図的に湧谷の細君にゆさぶりをかけたり、作戦の主導権をコロンブスが握って進行している形だ。
「湧谷のワイフが日本に帰りよったのは、ひとつのチャンスやで」
と笹岡はいった。
「コロンブスは湧谷の細君の実家を脅すこと、考えとるけどな、おれは日本のマスコミを攻めるべきや、とおもうんや。日本のマスコミは今でも大騒ぎしよっとるけど、じかに新聞社に脅迫状送りつけたら、これは効き目あるで。これをやって、コロンブスの鼻を明かさなあかんわ」
「たしかによ、ここんとこ、コロンブスが親玉みたいな顔しやがって、おいらもちょいと頭にきてんだ。最終決断は日本赤衛軍が出すってのがよ、最初の約束だったじゃねえか」
水田が応じた。
「日本のマスコミを脅すとよ、宮井は社員の生命より金を大事にする、そう世論が騒ぎ立てるぞ」
日本赤衛軍は「翻訳作戦」司令部にそれを提案した。
「日本のマスコミが騒げば騒ぐほど、日本とフィリピンの関係は悪化する。あんたがたのいう、日本帝国主義の企業は恐がってフィリピンには出てこない。アキノ政権に対する信頼もいよいよ落ちる」
コロンブスも受けて立つ姿勢であった。
「おやおや、あんたら新人民《NPA》軍じゃねえか。新人民《NPA》軍はコラソン・アキノの味方《サイド》じゃねえのか」
水田がまぜ返した。
「アキノもな、要するにコファンコ財閥の娘で、大地主の利益代表に過ぎんよ」
コロンブスは吐き捨てるようにいった。
「とにかく、このあいだ写した湧谷の写真と彼の吹きこんだテープを四本、用意してくれはりませんか。香港から、朝日、読売、宮井本社、湧谷の義妹《いもうと》に送りますねん」
そういってから、笹岡はちょっと考えこんだ。
「五本やな。共同通信を入れまひょか」
笹岡はそこで自分のアイデアに手を打った。
「朝日、読売は報道規制して、脅迫状送っても紙面に出しよらんかもしれん。そやけど共同はたれ流しや。入ってきたニュースは全部、地方紙に流しよるで。こりゃ盲点やな」
一月八日、笹岡はフィリピン人「ベンジャミン・アルカンタラ」名義のパスポートで香港へ出国した。
一月十三日早朝、香港から日本向けに脅迫状を投函、一月十五日、マニラに戻ってきた。
一月十六日午後、東京の朝日新聞社、読売新聞社、宮井物産本社、神奈川県藤沢在住の湧谷夫人の妹夫婦のもとに、MR.WAKUTANIのサインのある、肉声テープが配達された。エア・メイルで、香港、一月十三日午前七時の消印が、香港の切手三枚の上に押してあった。
翌一月十七日、東京・虎ノ門の共同通信におなじテープと湧谷の写真が届いた。
写真はインスタント・カメラで撮影された写真で、湧谷は肩に茶のラインの入った、白いポロシャツを着、ブルーの短パンを穿《は》いて、日本式に正座するような恰好ですわっている。手錠をはめられ、足は鎖で繋がれて、右手中指は切断されているように見える。
写真は共同通信に送られてきた一枚だけだったが、英語の肉声テープは全部共通である。
「ナガタさん、ミヤイの皆さん、今日は十二月二十六日です。私の読むことのできる新聞にはヤップがブレティンの二十五周年を祝う≠ニいう記事が出ている」
ヤップというのはマニラ・ブレティン新聞社の会長の名である。
「私は自分の健康に自信が持てないし、病気もひどくなっており、動けない。どうか本当に早く私を助けて下さい」
いかにも頼りなげで、消え入りそうな声が続く。
「私はすぐに解放されると思っていた。が突然別の問題が持ち上った」
これは最初すぐにも五百万ドルの身代金を支払いそうな応対だったのに、宮井側の態度が変り、五十万ドルに値切ってきたことをいっているのだろう。
「カズコ、元気かい。マリコはどうですか。私はまだ生きている。しかし私は本当に疲れている。あなた方はヤシキ氏とか他のひとたちに特別の援助を頼んだか」
この肉声のテープと写真は日本のマスコミに大反響をもたらした。特に共同通信の配信によって、写真は日本の地方紙六紙に掲載されたから、日本の、いわば全国的話題になった。
「犯人グループは国際組織か」などという大見出しが新聞の一面に躍った。
宮井物産マニラ支店には、写真、テープのほかに、血のベトベトにしたたったティッシュが送られてきた。
しかし、セキュリティ・コントロールのキンレッドはこの一連の脅迫騒ぎをまったく問題にしなかった。
「まさに心理戦争だな。こっちが湧谷の妻子を日本に帰したものだから、脅す相手が減ってしまった。それで日本のマスコミを脅しに利用してるんですよ」
「日本のマスコミも女性的で、大袈裟《おおげさ》に騒ぎ過ぎる体質があるからな。イギリスの大衆新聞とおなじだよ」
屋敷が応じた。
「とにかくこの写真はこの前の写真よりもっと単純なトリックですよ。角度や撮りかたから見て、指を折り曲げさせているだけの話です。ティッシュについている血のほうは動物の血か、たとえ本人の血だとしても注射器で抜き採ったもんでしょう」
そこでにやりと笑った。
「私はイギリスの特別空軍部隊、SASという情報機関の出身だが、SASの教科書にはこの種のトリックの例が山ほど出ている。相手もこのおなじ教科書で勉強したのかもしれませんな」
キンレッドは身代金の額を上げるなどと譲歩する態度は見せない。
犯人グループからの連絡が途絶え、事態は膠着《こうちやく》状態となった。
対策本部長の屋敷は、湧谷とおなじダスマリナス・ビレッジにある長田の家に、宮井の対策本部の人間を集めた。それもごく限られた人間で、森勇平や長田それに安原伸彦も入っていた。東京からきた宮井本社のアジア室長も加わった。
「たしかにセキュリティ・コントロールは頼りになる。しかし湧谷の体調が心配だ。長びけば長びくほど、彼の精神力、体力とも参ってしまうのは当然だろう」
全員、頷いた。
「そこでだ、セキュリティ・コントロールはそのまま置いておくとして、こっちはこっちで、政治的な手を打ちたい、とおもう」
そこで東京からやってきたアジア室長を見た。
「フィリピンの政治家はカトリックのコンパドレ制(洗礼を受けるときの代父制)のせいもあって、地もとに強大な影響力も持っているんだろう。だれに頼めば、湧谷の身柄を救出してくれるかね。あるいは情報をくれるかね」
「サルバドル・ラウレル副大統領でしょう」
アジア室長は言下にいった。
「まず戦前からラウレル家は大の親日家で、戦時中は先代がフィリピン初代大統領を務めています。第二に、ラウレルさんの選挙地はバタンガス、誘拐地域の隣接地一帯です。つまり湧谷支店長の監禁場所である疑いがもっとも強い地帯に、大きい影響力を持っているんですね」
「それとラウレルさんは本来はコラソン・アキノじゃなくて、自分が大統領になるべきだったと今でも考えているわけでしょう。少くとも次期大統領を狙っているんでしょうから、ここで名前を上げたい、という気持があるでしょうね」
長田が補足した。
アジア室長はラウレル副大統領と面識がある、というので、屋敷は一緒にラウレルを訪問、ひそかに湧谷の身柄の救出や情報の提供を依頼することになった。
ラウレル副大統領は、自分の甥、バタンガス州知事のラウレル四世を紹介してきた。
息子の浩一が母親の浩美の身を心配し、フェルナンデス神父に、北朝鮮国家保衛部の連中を国外へ追放してくれるように頼んだ、という事実は、浩美の気持を振るいたたすような効果があった。
年端のゆかぬ浩一さえ、積極的に動こうとしているのに、自分が終始、受け身にまわり、世間の眼を逃れて生きようとしているようにおもわれ、それでいいのか、と悩み始めた。
浩美の気持の底には、湧谷昭生誘拐に対する贖罪《しよくざい》のおもいがある。自分はなんら直接、関与しなかったにしろ、モレナが「明日ミスターはカンルーバンでゴルフだね」と確認を求めたとき、はっきり「カンルーバンだ」とみとめたのだ。
夜中、モレナはどこかへ電話を入れていたけれども、あれはどこへ電話を入れたのだろう。浩一を預かっていたアンクルの家だろうか。
浩美は浩美の体験をよく承知しているシスター・エミリーに話し、日本人学校の帰りに浩一を水先案内人にして、まず日本人学校に近いパラニャケのアンクルの家へ行ってみた。
パラニャケの家はマニラの数少い中産階級の上くらいの連中が住む地帯で、アンクルの家は鉄格子の塀に囲まれた平屋であった。
家にはメイドがいて、浩一と抱き合って再会を喜んだが、アンクルとキティゴンは去年、「ほかの島へゆく」といって旅仕度をして出て行ったまま連絡がない、という。恐らく誘拐事件発生直後に行方をくらましたものらしかった。
パラニャケを出ると、浩美はシスター・エミリーに、
「私、湧谷さんの家で一緒にメイドをしていたモレナに会ってみよう、とおもうの」
といった。
「神父様に黙ってそんなことしていいかしらね」
エミリーはいい、迷う顔になったが、
「ではゲートまでいって、ゲートまで出てきて貰うことにしましょう」
やっとそういった。
ダスマリナスのゲートに着くと、エミリーがガードマンと交渉し、浩美は湧谷家に電話をかけた。
「モレナ、|私よ。わ か る《ネアインテイリ・ハム・アコ》?」
出てきたモレナにそういった。
湧谷家の電話には、盗聴装置や録音装置がついているだろうから、名前はいわないにこしたことはない。
やや間があって、モレナは、
「|わかる《オーホ》よ」
といった。
「ちょっと話したいの。ゲートまで出てこられる?」
「大丈夫だよ。なにもすることないから、すぐゆくよ」
意外に簡単にそういった。
湧谷家の夫人の和子、娘の真理子が日本に引き揚げてしまい、警備陣も警戒態勢をゆるめて、メイドのモレナもすることがないらしかった。
ブルーの縦縞のメイド用のユニフォームを着たモレナは、ゲートのはるか彼方から派手に両手を頭の上で振り振り、満面に笑みをたたえてやってきた。
「マリリン、元気だった? 私、あれから警察に訊かれたりして、大変だったのよ」
モレナは全然屈託がない。自分は義務を果して、北朝鮮から解放され、自由になったと信じているのだ。
「人目に立つから、車のなかで話して頂戴」
シスター・エミリーがいった。
モレナは驚いたように、修道尼姿のエミリーを見たが、おとなしくゲートの前に停めた車に乗った。
車の傍を、豆腐に蜜をかけた菓子、タホを売る男がチリチリと鈴を鳴らして通り過ぎてゆく。それを見つけた浩一が食べたい、というので、ちょうどいいチャンスとおもい、小銭を渡して、車の外に出した。
浩美は態度を改め、言葉をタガログ語から英語に切りかえた。
「モレナ、私は北朝鮮に拉致《らち》されたときからずっと一緒だったから、あなたとは親友だとおもっているの。だから私の質問に正直に答えてね」
車の後部座席に隣り合わせにすわったモレナの顔から、笑いが消え、頬の辺が引きつる感じになった。
「あなた、北朝鮮を出るときは、出国させてやる代りに、浩美を監視《ウオツチ》しろ、そういわれたのよね」
モレナは視線を窓外に泳がせ、それからかすかに頷いた。
「湧谷の家へ入れ、といわれてからは、ミスターの翌日の行動をアンクルに教えていたんでしょう」
モレナは今度は頷かずに黙っている。
「モレナ、いったいミスタ・ワクタニは今、どこにいるの」
モレナは頭を座席の背に落し、片手で鼻のあたりを覆った。たちまち泣きべそのモレナに戻ったあんばいである。
「私、そんなスパイみたいなことしないよ。アンクルから、ミスタ・ワクタニがゴルフにゆくことがわかったときは教えろ、といわれた。それもアンクルじゃなくて、ホセのところに電話しろ、そういわれたんだよ。ほかのこと、なにもしらない。だからミスタ・ワクタニがキドナップされたときは驚いたよ。最初、私の電話とは関係ない、とおもってた。全然、別のこととおもってた」
ホセというのは、昔、浩美がモレナと一緒に軟禁されていた頃、ダビトの従弟と称してよく訪ねてきた男である。
「最近はあなたの報告と関係がある、とおもってるわけなの?」
モレナは頷いた。
「あれからアンクルもホセもなにもいってこない。ホセに電話してもいつもいないしね。少しおかしいような気がしてきたよ」
モレナはそれから浩美の膝に顔を伏せた。
「ヒロミ、ゴメンネ。私、北朝鮮で、浩美をウォッチしろ、そしたら外へ出してやる、いわれた。ノー、いったら、メチャメチャぶたれたの」
日本語でいった。
浩美はモレナの背中を撫でた。
このモレナの痩せた背中を北朝鮮で何度撫でたことだろう、と浩美はおもった。痩せて骨の一本一本が数えられるような背中だが、その一本一本がモレナの人生の苦難を語りかけてくるようにおもえた。
「OK、仕様がなかったのよ」
モレナは起きあがり、
「私の知っていること、ひとつだけある。前から浩美になにか起ったら、リポートしろ、とホセにいわれていたから、浩美が家を出ていった日をホセの家へリポートしに行った。あの日の昼過ぎ、買い物に行ったときよ。土曜日で電話しにくかったしね。だからホセの家はどこにあるか知ってるよ」
ホセの家の場所を聞いて、シスター・エミリーはまた、ためらったが、浩美は強引に説得をして、タホを食べている浩一を呼び、車をそちらに向けて貰った。
ホセの家というのはマニラ市の貧民街トンドの外れにあり、トンドを他の地区と隔てる長い塀をくぐったところにあった。
いざというときには逃げ帰る覚悟で、塀の入口でシスター・エミリーにエンジンをかけたまま、浩一と一緒に待っていて貰い、浩美とモレナは恐る恐る塀の奥のホセの家へ向った。
塀の奥、右手に空地があり、空地の庭ではゴム草履を履いた少年たちがバスケットボールに興じていた。小さなサリサリ・ストアがあり、その角を曲がって、モレナは路地の奥を指差した。
ホセの家は白ペンキを塗った小ぎれいな二階建てで、路地に向けて開け放った窓から、応接間の天井に近い部分が見え、飾り棚にマンゴーなどの果実を瓶に仕込んだ果実酒がならび、七福神のような猿の人形が三つ置いてあるのが見える。写真立てには、遠目ではっきりしないが、両親らしい老人夫婦の写真が飾ってあった。
どう見ても、なんの危険もない、中流階級の家庭のように見える。
モレナが胸の前で十字を切ってから、ブザーを押した。玄関のドアが開き、浩一より大分年下の少年がストローをくわえたまま、顔を出した。鼻があぐらをかいた少年で、角の雑貨店で買ったらしい、ビニール袋に入れたコーラをストローで飲んでいたところであった。
マニラではコーラを買うと、中身を古いビニール袋に流しこんで貰って、瓶はその場で返してしまう。貧しいから、瓶代を節約するのである。
「ホセさん、いる?」
モレナは訊ねた。
「だれもいないよ」
少年はストローから口を離していい、じっとこちらをみつめ、それからくるりと背中を向けて、ビニール袋のコーラを吸い始めた。
結局、そのままモレナをダスマリナスまで送りとどけ、危険を感じたら、浩美のもとに逃げてくるようにいい含めて別れたのだが、その帰り道、意外なことを浩一がいいだした。
「ママが探してるの、もしかしてタマ≠チていうひとじゃないの」
「タマ≠チてなによ」
「ぼくね、パラニャケのおじさん、おばさんの家にいたときね、夜、オシッコに行ったんだよ。そしたらアンクルのおじさんがよく遊びにくる日本人のおじさんと話してるのが聞えたんだよ。タマはラファエルに預けるんだな≠ニかラファエルのところなら安心や≠ニか話してたよ。タマって猫みたいな、変な名前だな、ぼく、そうおもって覚えてるんだ。それにラファエルってひとにもぼく、ママと一緒にロンドンで会ったことあるよね」
話を聞いているうちに、浩美は頭のなかでなにかがフラッシュするような気がした。
「タマって人の名前じゃなくて、大事なものって意味でしょう。おじさんたちは、大事なものを、ラファエル、ラファエル・サラザールに預ける、そういう意味でいったのよ、ほんとうにラファエルっていったのね」
親子の日本語の会話を聞きとがめて、そこでシスター・エミリーがハンドルを握ったまま、口を挟んだ。
「ラファエル・サラザールなら、うちの神父さまがよくご存じよ。神父さまもスペイン系の名門の出身だけど、サラザール家もおなじスペイン系の名門ですからね」
二日後、安原伸彦はケソン市の大邸宅の居間で、ラファエル・サラザールと向い合っていた。
昨日、フェルナンデス神父が会社に電話をよこした。
「おまえ、ラファエル・サラザールという男を知っているか」
「はあ、友人でもあり、商売相手でもあります」
「この話のニュース・ソースはいえんのだ、ま、日本の新聞ふうにいえば、教会筋とか教会関係者と考えてくれ。ある教会関係者によれば、今回の事件に彼が関与しとるかもしれん、というのだ。駄目でもともとだから、あたってみてはどうかね」
そういってケソンのラファエルの連絡先の電話番号を教えてくれた。ラファエルには簡単に連絡がとれ、このケソンの家で会うことになったのである。
「今度のおれのボスが誘拐された事件について、あんたはなにか知っているのかね」
伸彦は正面からそう訊ねた。
ラファエルは両腕を組んだまま、眼を伏せてなにも答えない。ややあって、
「最初にいっておくが、おれは犯人でもなく、事件にもまったく関係がない。しかしだ、情報は入るかもしれん。あんたはこのキドナップをひとつの商売として受け止める気はあるのかね」
逆に質問してきた。
「むろんダーク・サイド(暗闇)の商売になるがね」
「そのつもりだ。現にこちらはすでに身代金を用意しているよ」
「そちらにだれか有名な政界人で、代理人になってくれる人間がいるか」
伸彦はちょっと考え、
「副大統領のラウレルさんの紹介だが、バタンガス州知事のラウレル四世なら、代理人になってくれるだろう」
そこで初めてラファエルの視線がこちらを向いた。
「結果は知らんよ。とにかく情報を集めて、おまえのボスという商品が、ラウレル四世の手もとに届くように努力はしてみる。ただし条件がある」
「そりゃそうだろうな」
「今、ペンディングになっているイラン向けミサイルの輸出を黙認してくれ。宮井の書類を使って、宮井の現地合弁会社、ミヤイ・フィリピンズという架空の会社からイランに輸出する。それを見て見ぬふりをするんだ」
伸彦は話を対策本部長の屋敷正二のもとに持ち帰った。
「こちらがイラン向け武器輸出に眼をつぶると、どうなるんだ、湧谷は」
屋敷が訊ねた。
「多分、ラファエルには誘拐犯の見当はついているんじゃないでしょうか。ラファエルはその誘拐犯を説得して、ラウレル四世に湧谷支店長を売りつけるんだ、とおもいます。こちらはラウレル一族に身代金を払ったうえに、相当の政治献金をすることになるんでありましょう。ラファエルにもコミッションがゆくことになる、とおもいます」
「問題は武器輸出に眼をつぶるかどうかだな」
屋敷はそれが癖の老眼鏡の縁をぱたぱたと折りたたみ始めた。
「そもそもこの武器輸出はアメリカがアメリカの人質を救うための手段なんだよな」
屋敷は呟き、遠くを見る眼つきになった。
「アメリカは人質を救うために危検な橋をわたろう、としている。こちらが要求されているのは、橋を渡れなんて話じゃなく、眼をつぶれ、というだけのことだ」
屋敷は伸彦に視線を戻した。
「眼をつぶろうや」
湧谷昭生が、誘拐、監禁されて二カ月が経過した。
なにより辛いのは、やはり風呂に入れない、シャワーを浴びられない、ということであった。朝起きて、足の鎖をジャラジャラ鳴らしながら、一カ所で足踏みを繰り返すジョギングをやっていると、小銃を持った監視人とは別人の監視人が洗面器に一杯の水を持ってくる。その水で顔を洗い、向うが透けて見えそうな、ざらざらと織り目の荒い、粗末なタオルで冷水摩擦をやる。
不動明王に似た身体のごつい番人は、第一印象と違ってわりに親切で、
「もう一杯、水をくれないか」
と頼むと、気軽に持ってきてくれるが、石鹸はついていない。
しかし他の番人、特に小柄な痩せた男は底意地がわるく、洗面器の水も底に僅かに溜まっている程度しか持ってきてくれない。これでは顔を洗うのがやっとであった。
不潔な生活のせいか、顔をはじめ身体のあちこちに湿疹《しつしん》ができて、かゆくて仕方がない。ところが手錠をはめられているから、顔はともかく、背中などはかくことができない。背中を床板にこすりつけ、ごろごろと転がってしのぐしかなかった。
二日に一回くらい、下着の交換の日があり、パンツの交換のときは足鎖を外してくれ、シャツを替えるときは手錠を外してくれる。どちらのときも、下着を持ってくる番人の傍らで、別の番人が自動小銃をかまえているのだが、そのときだけ背中をかくことができた。
精神的には、年末に細君の和子と娘の真理子が日本に帰されてから、逆に楽になった。
それまでは事態の変化が皆目わからず、番人の一挙手一投足、戸外の物音ひとつひとつに脅えていたが、誘拐犯一味が作戦を変更し、宮井物産や日本のマスコミに、湧谷の写真や肉声のテープを送りつけ始めてから、事情が違ってきた。
まず一方的であるにしろ、宮井の社員や妻子に向けて、救援を呼びかけることのできるのは湧谷にとって精神的に救いであった。
第二に事態の推移がなんとなく想像できる。どうも犯人側が途方もない身代金を吹っかけ、宮井がそれに応じていないらしく、犯人側がいらだっていることもわかる。
第三に犯人側が意外に組織立っていて、高度に脅迫のテクニックに通じている知能犯であることもわかった。
指を切らずに、指を切ったと見せかけるトリックを使ったり、ベトベトに血のついたティッシュを宮井に送りつけるときは、ご丁寧にも注射器で湧谷の血を抜いたのだ。
このときは「ビッグ・ボス」でなく、見知らぬフィリピン人が注射器を持ってやってきて、湧谷の腕に注射器を刺そうとするのだが、男は血液採取の経験がないらしく、注射針の先がぶるぶる震えて、湧谷の静脈に刺さらない。
「手錠を外せ。おれが自分でやる」
湧谷はいって、自分で静脈から血液を採取し、監視室の机の上のティッシュに自分の血をたらしてやって、真赤に染めてやったものだ。
このあたりからいくぶん湧谷は余裕が出てきた。
――こいつらは、えらく組織的な連中だ。上からの命令がない限り、乱暴もしないし、殺しもしないに違いない。
だから写真撮影やテープの吹きこみには、積極的に協力し、しつこいやり直しの要求にも素直に応じた。
一月十九日には、一月十八日付けの「マラヤ」という新聞を見せられた。「マラヤ」には「宮井物産は湧谷を見捨てた」という記事が載っている。
その記事を見せた上で、「新聞の『マラヤ』にはミヤイが私を見捨てたと書かれていて、私は非常に悲しんでいる」という内容のメッセージをテープに吹きこまされた。
「私は病人同様で、寝こんでいます。特に犯人から切られた指のところがひどく痛みます。どうか犯人の要求をできるだけ早く受けいれて、できるだけ早く救出してください」
と続くのだが、現に指は切られておらず、従って気楽に芝居を演じればいいのであった。
一月二十二日には、左手中指を折りまげて、あたかも切り取られたような写真を写された。
――身代金を手にするまで、犯人は自分を無傷のまま生かしておくのではないか。
そう考えて、精神的に少し余裕ができると、今度は時間が重い物体のようにのしかかってきた。気が遠くなりそうに、時間の経つのが遅い。
隣室で絶えまなく鳴るロック・ミュージックに対抗して、薬のカプセルの耳栓を詰めて、ポップスや演歌、小学唱歌に軍歌と、知っている限りのメロディにでたらめな歌詞をつけて歌いまくった。
大小便の用は相変らず部屋に置いたバケツで足すのだが、湧谷は胃腸が強い方で、誘拐以来一度も腹をこわしていない。
自分の便の臭気には閉口したが、蛙を食わされようと、汚いコップの水を飲まされようと腹をこわさない、ということで、体力には逆に自信を深めた。
大便の臭気のなかで、女の裸を細密画よろしく想像してみる。クラブ「京」のジョアンナの、そしてレガスピー・タワーでタオルをはらりと落したフィオーナの裸をおもいうかべようとする。
シャワーを浴びたあとのフィオーナの裸はなんとみずみずしく、白かったことか。濡れたピンクの乳首がぴりぴりと震えながら光っていたのが、蘇ってくる。そして金茶色の体毛。あの女たちは文字通り異性であり、それも生態系がまったく異なるような、別の生き物だ、もう一度あの別の生き物に会いたい、とおもい、湧谷は昂奮した。
そんなある日、ロックの合間に、番人たちの会話が耳に入った。
番人たちのタガログ語の会話には、日本人という単語が頻繁に混じる。さらに「ミスタ・ヒラノ」とか「ミスタ・カトウ」という固有名詞が混じるのである。
不動明王に似た番人が立番にきた夜、湧谷は、
「ヒラノとかカトウというのは日本人だろう。おまえたちの仲間か」
と訊ねた。
「仲間じゃない」
床にすわった不動明王はにやりと笑っていった。
「ボスだよ」
「ボスはビッグ・ボスだろう」
「ビッグ・ボスよりミスタ・ヒラノのほうがポジションは上なんだよ」
「いったい、ミスタ・ヒラノとは誰なんだ」
湧谷はもう一度訊ねた。
「えらい連中のことはよく知らねえなあ」
不動明王はほんとうに知らないらしく、首を振った。
これより数日前の夕刻、水田はコロンブス、笹岡と一緒に高い塀に囲まれたケソンの豪邸の裏に車を停めた。
豪邸の裏に鉄柵の裏門があり、ガードマンが立っている。
コロンブスがなにか囁《ささや》くと、ガードマンが鉄柵の門の片側を開いてくれた。
門のなかは椰子《やし》や棕櫚《しゆろ》の林で、林のなかの道をガードマンに先導されて歩いてゆくと、広い芝生の庭に出た。庭の彼方に白い二階建てのおおきな家が建っている。スペイン風に壁にタイルを貼り、二階をテラスでぐるりと取り巻く豪邸だ。
家の手前に池があり、池の向うが大理石を敷いた広いテラスで、そこの白い円卓を囲む白い椅子にラファエル・サラザールがすわっていた。
ラファエルは「ハウ・アー・ユー」と水田、笹岡と握手し、最後にコロンブスと「ハアイ」と軽い握手をした。
一同、テラスの円卓を囲んですわったが、水田は家の大きさにすっかり感じ入った。
「ラファエルよ、これ、ユーの家か」
おもわず訊ねた。
「おれの家は今はここにはないよ。フィリピンには土地を持っているだけだ。ここは伯父の家だよ」
ラファエルはいった。
ピンクの洒落《しやれ》た制服を着たメイドがライムのジュースを運んできて、配った。ライムの甘い匂いがあたり一面に拡がった。
「人質《ホステージ》は元気かね」
ラファエルがコロンブスの顔を見ていった。
「非常に元気で、協力的だよ」
コロンブスが答えた。
「テープや写真をとるときも、喜んで協力してくれるよ」
ラファエルは一同の顔を見回すと、
「あの人質を売る気はないか」
意表を衝《つ》く質問をした。
客の側の三人は驚いて、誰も返事をしない。
「あんたがたの誘拐作戦の目的は日本、フィリピンの経済関係をぶちこわすことと、革命のための運動資金を獲得することにあったわけだ。最初の目的はすでに達成していて、今や日本とフィリピンの友好ムードは冷えきっている。今、日本の企業でフィリピンに進出しようと考えている会社など、一社もないよな。残る問題は金の問題だが、これはどこが払おうと金にさえなりゃ、あんたがたは気にせんのだろう」
また沈黙があって、コロンブスが、
「いったい、どこの誰が人質を買いたい、といってるんだ」
と訊ねた。
「あんたがただからいうが、ラウレルの一族だよ。もっとはっきりいえば、バタンガスの県知事をしているラウレル四世だな」
ラウレル家の現在の出世頭はラウレル副大統領だが、コラソン・アキノとの権力闘争の渦中にある。なんとか実力者の位置におさまり、次の大統領選に出馬して、当選したいと意欲満々である。従って、うまく人質を救出して、話題になり、人気を上げたいのだ、とラファエルは説明した。
「いったい、ラウレル側はいくら払うのかね。われわれは五百万ドル、ミヤイに要求しているんだぜ」
コロンブスが訊ねた。
「ミヤイはそんな大金、払やせんよ。今の回答だって、おれの想像だが、よくて四十万ドルか五十万ドル、その辺だろ」
ラファエルはライム・ジュースを飲みながら、さらりといった。
「おれは、ミヤイにはロンドンあたりの危機管理会社がついて、ミヤイをコーチしてる、とおもうよ。この間、おれの知ってるロンドンの危機管理会社の社員がサングラスをかけて、マカティを歩いていたぜ」
このラファエルの発言にはショックを受けて、水田は笹岡と顔を見合わせた。
「今が人質の売りどきじゃないのか」
そこで笹岡が身を乗りだした。
「たしかに値段次第ではあるんやけど、早いとこ人質を手もとから放したほうがええのかもしれませんな」
「どうしてかね」
コロンブスが口を挟んだ。
「交渉が長引くとなにかのきっかけで足がついて、アジトの場所もばれてしもうてな、全部失敗に終って、元も子もなくなるかもしれへん。それが恐いところや」
笹岡が雄弁になった。
「湧谷というのは、日本人としては例外的にタフな男や。私もこの前、顔をかくして覗きに行ったんやけど、なにしろ手錠をはめられて、足鎖つけられて動きが取れへんのに、結構元気でな、ガードマンを怒鳴ったりしとる。大声で軍歌を歌ったりしとったけど、じつはあれがくせものかもしれん、ともおもうんや。ある日躁状態が突然急降下しよって、いっぺんに頭の歯車が狂いそうな気もするで」
昭和ひとけたのあの世代は精神的に脆《もろ》いんや。自殺率が一番高い世代でな、と笹岡はいった。
「NPAとわれわれ赤衛軍の約束でもよ、これは資金稼ぎの誘拐、そう決めとったんだし、金になりゃそんでいいじゃねえか」
水田も人質身売り案に賛成した。
「どうかな、それは」
コロンブスだけが反対した。
「デスク・プランとしてはえらい簡単なようだが、ラウレル側がいくら払うのか、どうやって払うのか、人質はどうやってラウレル側に引き渡すのか、技術的には問題が多すぎるぞ。おれは反対だな」
「話は簡単だよ。人質の価格は七十万ドル、ただしおれが一〇パーセントの手数料を貰う。金の引き渡しは、海上や外国を含めて、いろいろな手がある。人質は軍用に偽装したトラックで、バタンガスの山中に運ぶんだよ」
ラファエルが青写真をひいてみせた。
「こんな話はすぐに洩《も》れる」
コロンブスが反論した。
「バタンガスにはSIS(国家警察軍)が集中的に入ってきて、草の根分けて、捜査し始めるぞ。そんななかに運びこめんだろう」
「ミスタ・コロンブス。あんたは白昼、湧谷を誘拐しておきながら、馬鹿に自信がなさそうだな。なんかほかに理由でもあるのか」
ラファエルは揶揄《やゆ》する口調である。
「この作戦の最終決断は日本赤衛軍が下すことになってますのや。ラファエル、これは乗り≠竄ナ」
笹岡がけろりといった。
深夜、安原伸彦のもとに、ラファエルから電話が入った。
「誘拐犯グループとな、間接的だが、連絡はとれたよ」
明るい、自信たっぷりな声で、ラファエルはいう。
「ラウレル副大統領の側近にはおれが明日、会いにゆく。ラウレルのほうはえらい焦っててな、一刻も早く会いたがってる。あのぶんなら、事件は早急に解決に向うかもしれんな」
「身代金はどうなるんだ」
「せいぜい七十万ドルくらいしか出さんだろうが、ラウレルがむろん準備する。ミヤイはあとで、ラウレルに政治献金のかたちで三十万ドルプラスして百万ドル渡すことになるんだろうな」
伸彦はそのまま、ラファエルの中間報告をホテル住まいの屋敷に報告した。
翌日、早くもフィリピンの新聞各紙は、「事件解決のため、ラウレル副大統領の甥《おい》、仲介に乗り出す」とか、ラウレル副大統領自身の仲介を匂わす記事まで現れ、ラファエル・サラザールの報告を裏づけた。
隅谷日本大使までが、「事件は解決に近づいている」と発言する始末であった。
いわゆるイラン・ゲート、米国製の電線で誘導するミサイルのイランへの輸出の話はどうなったのだろう、と安原伸彦はおもった。
あの武器輸出の話を屋敷の決断で黙認することにしたから、誘拐事件の交渉が動き始めたのだろうことは間違いがなかった。伸彦は対策本部の森勇平に断って、昼めしのあと、ストッキストの謝《シエ》を訪ねてみることにした。
謝なら、税関に顔がきいて、この一件について荷動きの事情を知っているかもしれない、とおもったのである。
京都の店のように、入口が狭く、奥が深い謝の店に入ってゆくと、店先には謝の姿はなかった。謝の代りに、何度か顔を合わせたことのある大男のフィリピン人が椅子にだらしなくすわって、長い楊枝《ようじ》を使っている。伸彦を見て、にやりと笑い、黙って片手で背後を指差した。謝は奥の部屋にいる、という意味なのだろう。
「商売はどうかね」
デスクの前にすわった伸彦に向って大男がいう。
「最近は商売に集中できないよ。ほかのことで忙しくてね」
男は黙ってデスクの引き出しを開け、おおきな薬びんをデスクの書類の上にどんと置いた。
いったいにフィリピンで売っている錠剤はものすごい原色のものが多く、ドロップの一種と錯覚するくらいだ。男は薬びんからじゃらじゃらと真赤な錠剤を浅黒い手に落し、それをぱっと口に放りこんだ。そして「ユーも疲れた顔してるぞ。これを飲んだほうがいいよ、よくきくビタミン剤だよ」と勧める。
やむなく伸彦もデスクの薬びんを取って、真紅の錠剤を数錠口に入れたが、びんの蓋を閉め、デスクに返そうとして奇怪なものを見た。
デスクに置かれているのは、「MIYAI PHILIPPINES」と印刷された社用|箋《せん》の束《ヽ》である。未使用の分がまだ分厚く残っている。
――いったいどういうことだ。なぜ「MIYAI PHILIPPINES」の書類がこの店にあるんだ。
と伸彦はおもった。「MIYAI PHILIPPINES」は、ラファエル・サラザールが武器輸出のため、宮井の名をかたって使用しているペーパー・カンパニーの筈《はず》であった。
伸彦の不審に気づいたのか、大男は足をあげて、書類の上にサンダル履きの足をのせ、会社名をかくしてしまった。
そこへ奥から、謝が電話で話す声が聞えてきた。
「たからね、ヤン・トンチ、ぽく、いうたてしょう。イランからね、例の船があぷら積んてさ、マニラに入ってくるんてすよ。あの船はイラク籍のままたから、マニラに入れるんた。これを利用すれぱいいんてすよ」
驚いたことに、謝が日本語を喋っている。
謝とはいい加減な英語でしか話したことはなく、彼は一度も日本語ができるような素振りは見せなかった。しかも、その日本語は明らかに朝鮮半島の訛りを残していて、濁音が皆、半濁音になってしまう。
「船は来月早々に入りますよ。またキティのおぱちゃんに頼んて、いろいろ物資を集めなくちゃならないんてすよ。ついてにね、ぽく、おもうんたが、例の親愛なる指導者同志への贈り物も一緒に積んたらとうてすか。ぽくがうまく手品《てちな》やって、船に運んてね、乗せてみせますよ」
大男は日本語がわからないらしく、ビタミン剤のびんを所在なげに振っている。
伸彦は奇怪な空気にいたたまれなくなり、店を出た。
会社へ帰って、長田に向って、
「長田さん、あの謝っていう社長は何者ですかね」
と訊ねた。
「あれは社長じゃないよ。去年かな、入ってきた雇われマネージャーよ。オーナーはホセっていう、色の黒い大男だよ」
「おかしいな、長田さんは彼を社長って紹介しませんでしたか」
「いや、あの男が大阪に行ったことがあるんだろう、ひとつ覚えの日本語で、『私の名前、オオキニです』というから、ミスタ・オオキニと呼んでただけさ」
ラファエル・サラザールの屋敷に、再び赤衛軍の笹岡、水田、新人民軍のコロンブスが呼ばれ、この前とおなじケソンの広壮な屋敷のテラスに集まった。
「ラウレル四世、つまりバタンガス州知事の意向は、人質と身代金の同時交換だ」
水田の語学力を配慮してか、ラファエルはゆっくりした英語で、噛んで含めるようにいって、三人の顔を眺めまわした。若禿げの広い額に夕陽が当って、つやつやと光っている。
「同時交換は危ない話やで。人質渡して、金受け取った途端に御用≠ノなるんやないか」
笹岡がすぐに疑問を口にした。
「そりゃ、おなじ場所で金と人質を交換する場合だろ。金の受け取り場所と人質を渡す場所がまるっきり違えば、心配あるまい」
ラファエルが間を取って話をきめたのだろうが、金の受け取り場所はマニラ市内、「翻訳作戦」司令部の車が高速道路を走っている間に、陸軍の古い無線機で、場所を指示する。人質の湧谷を乗せた車はマニラ市内に待機、身代金の受領次第、バタンガス州のタガイタイの民家に赴き、人質をラウレル四世側に引き渡す、というのである。
「だから厳密にいえば、同時交換じゃないんだ。金を受け取った直後に引き渡す、ということだよ」
ラファエルは説明した。
「人質の引き渡しもマニラ市内、というわけにはゆかんのやろか。バタンガスに入っていったら、こら、ラウレル一味の地元で、まるっきり敵の真ん中に入ることになるんやおまへんか」
笹岡がまた反論した。
「バタンガスあたりじゃ、強盗《ロバリー》するのにもよ、知事の許可が要るっていうじゃねえか。あの辺のバランガイ長(村長)はみんなよ、ラウレルの手下だろ。そんなところへのこのこ入りこんで、大丈夫かね」
水田も笹岡同様、不安を口にした。
だいたいなぜカンルーバンゴルフ場の近くで、湧谷誘拐事件を起したか、といえば、あの近くは一種の権力の空白地帯だからであった。
ラウレル一族の力が浸透しているバタンガスでは話が違うのである。
「バタンガスで引き渡しってのは向うの絶対条件だ。バタンガスで自分たちが湧谷をみつけだしたという恰好にしたいんだよ。州知事としては地元での人気を最優先したいんだ」
ラファエルは西陽に顔をしかめ、片手を額にかざしてコロンブスを眺めた。
「極端なことをいえば、湧谷をへリコプターに乗せてタガイタイまで行って、空中から縄で吊るしておろしゃいいんだよ。そのあとロケット砲で撃たれるとしたって、危険手当てを大盤振舞いすりゃ、大喜びで飛んでゆくやつは、ゴマンといるだろうよ」
そこでラファエルは一座を見まわした。
「実行日は一月二十二日、夜十時に現金引き渡し、十一時に人質引き渡しだ。それ以上のディテールはそっちで決めてくれ」
その夜、ラウレル四世側への湧谷譲渡作戦の細部が「翻訳作戦」司令部で討議された。
「金の受け取りはダビトにやって貰おう」
コロンブスはそういってダビトを見た。
「人質を渡すほうは陽動作戦を取る。一台、空《から》の車をタガイタイに出す。これはおとり役だよ。その一方、湧谷のほうは軍用トラックに乗せて、マニラ市内に待機させておくんだ。ダビトから金を受け取ったという知らせを受けたら、全然別方向のラグナ州に向わせて、適当なところで湧谷を置き去りにする。こういう作戦でどうだ」
コロンブスが提案した。
金の受領はダビトの指揮で、襲撃実行犯のふたりを護衛につける。タガイタイへのおとり車は湧谷誘拐の実行班長ファギルドが運転する。彼は捕ったとしても、警察に人脈があるから、すぐ釈放になるだろう。実際の人質解放はやはり実行犯の中国系を班長に二名が担当して、ラグナ州へ連れていって解放する、という話になった。
10
安原伸彦ら、宮井物産の対策本部は、ラウレルの仲介に強い期待を抱いていた。
なにしろ十九日には、国営テレビ放送までが、「犯人グループと捜査当局との間で解放交渉が進行中である」とか「交渉は先週末終る筈だったが、最終的折り合いがつかず、依然交渉継続中」などと報じ始めているのだ。
しかもラコラス国軍参謀総長のような国軍最上級幹部もはっきり「現在犯人グループとの交渉が進んでいる」と言明するし、アキノ大統領は「湧谷氏が解放された場合、直ちにマラカニアン宮殿に招くように指示した」りして明らかに政府首脳が湧谷解放を確信しているような言動を示し始めているのである。
マニラ支店の対策本部は大手町の宮井物産本店二十二階にある本店対策本部にこうした動静を逐一報告、本店側もラウレルの仲介におおきな期待感を抱き始めた。
さらにマニラのNHK取材班から連絡が入り、CIS(警察軍国家犯罪捜査局)が「今夜湧谷氏が救出される」と洩らしたと報告してきた。夜になると、事実救出チームがバタンガス方面に向け、マニラから出発した、といってきた。
「これはうまくゆくかも知れんたい」
森がいい、屋敷も自信ありげに頷いた。
まったく関心を示さないのはセキュリティ・コントロールのキンレッドで、早々と宿舎のレガスピー・タワー300に引き揚げてしまった。
アンジェリカは対策本部に残っているが、不快感が露《あらわ》であった。宮井物産側が裏で動いていること、特に安原がラファエルを仲介役にして、なにか交渉しているらしいことを嗅ぎつけている様子であった。
おなじ夜、身代金受け取り係に指名されたダビトは、いらいらしながら、マニラ市内を貫流するパシグ河にかかった橋の下に立っていた。
コロンブスがバタンガス側、ラウレル四世側と無線で連絡を取り、その無線の指示をさらにダビトの車に流してくるのだが、ダビトはその度にあちこちと車を移動させねばならなかった。
マニラ空港の近くまでゆくように指示され、さらに旧市内に戻らされ、二時間近くもマニラ首都圏をうろうろと走りまわされた挙句、パシグ河にかかるキリノ橋《ブリツジ》の下で待つように指示してきた。そこへボートで、金を運んでくる、というのである。
パシグ河は乾期というのに、汚濁し、岸辺近くに猫の死体が腐臭を発していて、いかにも居心地がわるかった。
「ボートでそちらに向う」といったが、いったい、こんな浅い河岸にボートが接岸できるものだろうか。それとも自分は橋の場所を間違えているのだろうか。いやいやフィリピン育ちの自分が聞き間違えるともおもえない。
時折粗末な木造船が河を上ってきたり、下って行ったりするが、こちらに接近しようという素振りも見せない。船上の裸電球をわびしげに揺らして、遠ざかってゆく船ばかりだ。
一時間近くも待つ間、ダビトは自信を失って、ひどく心細い気分になった。
その夜、湧谷は深川の富岡八幡の本祭りで神輿《みこし》を担いでいる夢を見ていた。
いつも妖怪に追いかけられて、足が動かずに苦しむような悪夢になやまされるのに「これは楽しい夢だ」と湧谷自身、夢を見ながら意識のどこかでそう考えていた。
神輿の重さが浴衣の肩に食いこんでくる感じ、その重さを下半身に落しこんで、右へ左へ酔っぱらったようによろめいてゆく心地よさ、あちらこちらからバケツの水が降ってきて、降りかかる水滴の彼方で、日本の夏空がこよなく美しく輝いている。
「そこへ入れて、湧《わく》ちゃん」
知り合いの芸者がすぐ前に割りこんできた。
「前の神輿を担いでいたら、うしろの男に胸やお尻をもう、触られて、触られて私、逃げだしてきたの」
ハッピ姿の芸者はこぼした。
「そりゃおれだって、わからんぞ」
湧谷は応じたが、そこへまたバケツの水が降ってきた。
「わあ、いい気持」
芸者が濡れた横顔を見せていう。その横顔がいつの間にかフィオーナに変っている。
「これは性的な夢だな」と湧谷がおもった途端、横腹を蹴られたのに気づいた。
自動小銃をかまえた番人が立っており、
「立て」
と怒鳴っている。
立ちあがると、いきなりサングラスをかけさせられ、その上からガムテープで目隠しをされた。足の鎖を外され、肩を掴《つか》まれて、「歩け」といわれる。手錠はそのままである。
よく写真を撮られる監視人の部屋を通り、湧谷はふいに外気の流れが露《む》き出しの腕や足の肌に触れてくるのを感じた。
監視されていた小屋の前で、トラックらしい車がエンジンをかけたまま、停まっている気配である。夢のなかで祭の歓声と聞えたのは、このトラックのエンジン音だったらしい。
三、四人がかりで、トラックの後部にかつぎあげられた。幌つきらしく、急に蒸し暑くなった。
さらに「ここに入れ」と怒鳴られ、足を上げさせられ大きな箱のなかに入れられた。湧谷が床にすわって足を伸ばせるようなおおきな箱で、揮発性の油の臭いが鼻孔を刺した。武器か弾薬を入れる箱なのだろう。
頭上の蓋を二、三回開閉してみたのち、換気の必要を感じたのだろう、蓋を開けたままトラックは走りだした。
暫くトラックは揺れの激しい田舎道を走り、湧谷は頭や肩を箱の内壁にぶつけ、ずいぶん痛いおもいをした。
まもなく揺れがおさまり、トラックはスピードをあげて走りだした。どこかのハイウェイに出たのである。
――いったいどこに連れてゆかれるのか。
湧谷の監禁場所がつきとめられそうになって、逃げだしたのだろうか。自分はもっと彼らにとって安全な奥地へ連れてゆかれるのだろうか。まさか解放される筈はあるまい。もし解放されるのであれば、事前になにかそういう気配がある筈ではないのか。
途中、検問にあうらしく、トラックが停まる度に、箱の蓋が閉められる。しかしまったく質問される気配もなく、トラックはいくつもの検問を簡単にパスしてゆく。どうしてチェックされないのかが不思議であった。
突然周囲を走る車の数が増え、ジープニーの鳴らす派手な警笛が聞え始めた。
どうやらマニラに戻ってきたらしい、と湧谷はおもった。
これは吉と出るのか凶と出るのか、とおもい、湧谷は胸騒ぎを覚えた。先刻の夢見は決してわるくなかった、と湧谷は大真面目でそう考えようとした。
二十二日午後十一時十一分NHKの「今日の焦点」の番組放送中、解説委員が解説を中断、「現地からNHKが得た情報によると、宮井物産マニラ支店長湧谷昭生氏が救出された模様であります」と放送した。
この放送に東京の宮井の対策本部室当番社員たちは歓声と拍手に沸き、直ちにマニラ支店に連絡してきた。
マニラの対策本部でも歓声が沸きかけたが、
「これは誤報よ」
アンジェリカが叫んだ。
「あれだけ頭のいい犯人グループが簡単に人質を手放す筈はないわよ」
屋敷も頷いて、
「喜んではしゃぐのはいつでもできる。まず確認を取れ」
と叫んだ。
スタッフ総出で、政府、警察筋とあたったが、どこからも確認はとれない。
やがてタガイタイの民家を襲ったが、もぬけの空だった、というニュースが伝わり、午前一時、フィリピン政府は救出報道を正式に否定した。ただし現場付近で許可証なしに四十五口径コルト短銃を不法所持していたフィリピン人をひとり逮捕したが、黙秘している、という。
箱の中に詰めこまれ、汗まみれになった湧谷は車から降ろされた。ガムテープとサングラスを外され、そこがもとの監禁場所と知ったときは眼の眩《くら》むような失望感を味わって、おもわずよろめいた。自分は心の底でどれほど救出を期待していたのかを、今更ながらおもい知った。
隅のバケツのなかへ長時間溜まった小便を放出したが、小便もちょろちょろと細い線を描いて真下に落ち、まるで勢いがなかった。
11
「どうして、こんな単純なミスをやったんだ」
ラファエル・サラザールは声を荒らげてコロンブスに怒鳴った。夕陽も照っていない曇り空だが、ラファエルは、昔ロンドンの語学学校時代「悪餓鬼」と呼ばれていた短気な性格をまる出しにし、顔を真赤にして怒っている。
このケソンの屋敷は二千坪はありそうで、大声を出しても近所に聞える心配はない。
「金受け渡しの場所を間違えるなんて、よっぽど頭のわるいフィリピン人を使っているんだな」
「ダビトのやつが、無線を聞き間違えたんだ。おれがロハス・ブリッジの下といったのに、やつはキリノ・ブリッジの下で待っていたんだよ。肝心の橋の名前を聞き間違えるなんて、あいつもどうかしてるよ」
コロンブスのほうは、眼鏡の奥の表情が穏やかで、いつに変らぬ冷静な態度である。
同席していた水田と笹岡は、閉口して黙っていた。ダビトはフィリピンのモロ民族解放戦線出身ながら、長くPFLPに出向しており、いってみれば水田と笹岡が連れてきた男である。その男が重大なミスを犯したとなると、ふたりまでが肩身の狭いおもいに捉われる。
「あの男にしたら珍しいミスや。まあ、堪忍してやってや」
笹岡が取りなしている。
――しかしあのダビトがどうしてこんな単純なミスするのかよ。
水田は疑問を感じて黙っていた。
ダビトとはウイーンで出会って以来、行動を共にしてきたが、一を聞いて十を知るくらい頭の回転が速い。
現に今度の湧谷誘拐では、宮井物産側との交渉役を請け負っているが、電話のやりとりのテープを聞いても、居丈高に湧谷和子を脅したかとおもうと、じつに冷静に宮井物産と応接したりして、変幻自在、みごとに役割をこなしているのだ。
そんな男がしかもフィリピン出身の男がマニラの橋の名を間違えるような単純ミスを犯すものだろうか。
「だけんどよ、ラファエル、ラウレル四世のほうもよ、フィリピンの警察に頼んで湧谷と一緒に、こっちの連中を捉えるつもりだったんだろ」
向うがこっちをだまくらかそうとしたんじゃねえのか、といおうとしたが、英語では無理であった。
「こら、一回目の交渉や。コミュニケーションがうまいこといかんでも仕様がないわ。ラファエル、もう一回、仲介してみよう、そう考え直してくれまへんやろか」
笹岡の申し出にラファエルはちょっと眉をひそめた。
「もう一度やるとすれば外国で金の取り引きをやるんだな。香港かマカオあたりでやるんだ。そのあと湧谷をラウレルの屋敷の前あたりに置き去りにするんだな」
霞が関の中央合同庁舎二号館、警察庁四階にある外事課の応接間に佐久間賢一と金林忠晴がすわっていた。外事課長は、
「佐久間浩美さんの死亡診断書を偽造した医師は、事務的ミスと主張しておりますが、まず医師法違反で、免許停止になるでしょう。従って近日中に家裁に勧告を出して、戸籍を復活することになります。自動的に旅券も再発給されましょう」
「どうもお世話になりました」
「ところで北朝鮮誘拐の経緯についてお話を伺いたくて、今日はおふたりにおいで願ったのです」
そこで賢一と金林は自分たちの出身、北朝鮮帰国も含め、ロンドン留学以来の浩美の苦難、金林との平壌での出会い、ピアノ材ビジネスと交換に出国を認められたものの、今日も執拗に北の情報機関に追われていることなどあらかたは埼玉県警に喋ったことばかりだが、もう一度説明した。
説明が一段落したとき、金林忠晴が唐突に、
「あの湧谷さんを誘拐した連中は何者じゃろうかなあ、私ら不思議におもうとりますが、どうお考えですかな」
と外事課長に訊ねた。
この一件には浩美が関与している疑いもあり、賢一はひやりとしたが、金林は顔を艶々と輝かせて、何食わぬ顔をしている。
「いや、この件は主として外務省の管轄ですが、もうひとつすっきりしませんなあ」
課長は首を振った。
「いやね、この間、広島の地方紙の編集局長と飲み屋で会《お》うて、話をしよりましたが、この誘拐グループには困っちょるけん、そういって深刻な顔しとりましてな」
「どうして地方紙の編集局長が困るんですか」
「彼にいわしたらあいつら、日本のマスコミの盲点、ついてきよるけん、困っちょるいうんですな。なぜか脅迫状や写真を共同通信に送ってきよる。共同通信は各地方紙との配信契約に従って、脅迫状、写真を地方紙に自動的というか、機械的に送ってくる。受け取った地方紙は湧谷さんが指切られた写真を出すのか出さんのか、こら人権侵害やないか、プライバシーの問題もあるぞなんちゅう大議論をして、隣の県紙と打ち合わせしたりしとる。地方紙のおっさんはそのうち共同を通じて湧谷さんが逆さ吊りにされたりしてる写真、送りつけてこられたら、どないするか、大問題や、いうとりましたな」
「ふうん」
と外事課長は唸った。
「しかしどうしてこんなに日本のメディアの事をよう知っとるんでしょうな。共同通信に送れば、自主規制なしに全国の地方紙に掲載されるっちゅうことをね」
金林はいった。
「そういえば昨日の二十七日にもマニラの共同通信に脅迫状がきたようですな」
外事課長はちょっと考えて、部屋を出て行った。暫くして長身の背広姿の男を伴って戻ってきた。
「日本赤衛軍調査官の盛山です」
男は挨拶して、手にかかえたファイルから十数葉の写真を取りだして机にならべた。
すぐに賢一は一枚の禿げあがった男の写真を指差した。
「これがアンクルと呼ばれていて、浩美をウイーンに連れていった男です。たしか加藤と名乗っていました。浩一という、浩美の息子はずっとこの男に拘束されていたんですよ」
12
ラウレル四世側はラファエル・サラザールを通じ、一月二十九日に香港、アンバッサダー・ホテルの客室で、ドル紙幣で八十万ドルを支払う、といってよこした。
「翻訳作戦」司令部側は笹岡とダビトを香港に派遣することに決め、一月二十七日、光寺に命じ、一月二十二日に撮影してあった湧谷の写真と脅迫状をマニラ市エルミタにある、共同通信マニラ支局宛に投函させた。いわば捜査陣の眼をマニラ地域にひきつけておくためである。
一月二十八日、笹岡とダビトは、香港に赴き、アンバッサダー・ホテルに隣接するエンペラー・ホテルに投宿した。
アンバッサダー・ホテルもエンペラー・ホテルも昔は一流ホテルだったが、今はすっかり古ぼけて、二流のビジネス・ホテルになり下っている。ネイザン・ロードに並ぶ、ペニンスラーやシェラトンの真裏の小路の奥にあり、人目につかない。
今度の行動は極秘だから、ふたりはマカオや香港に展開している北朝鮮側レポともいっさい接触せず、夜はネイザン・ロードを上っていった一角、モンコックと呼ばれるインド人、アラブ人の住む一角で、小さな中華料理屋に入り、こそこそと二、三品食って店を出た。
香港の一月はマニラに比べて格段に涼しく、ふたりとも冬服を着ていたが、ネイザン・ロードを往来する旅行者のなかには、コートを着ている連中もいた。
「ダビト、あんた、この前、ラウレル側との連絡がうまいこといかんで、金を受け取るのを失敗したやろ。あれはほんまのところ、どういうこっちゃ」
ネイザン・ロードを下りながら、笹岡はダビトに訊ねた。
「あれは相手が間違えたんだ。おれはコロンブスからはキリノ・ブリッジの下で待て、モーター・ボートが接岸してきて、金を渡す、たしかにそう聞いたんだ」
ダビトはいつにない、強い口調で答えた。
「コロンブスはダビトが間違えた、おれがロハス・ブリッジの下と伝えとったのに、ダビトはキリノ・ブリッジへ行ってしまった。あれはダビトのミスや、いうてるけど、あんたはそうやない、と信じとるんやな」
ダビトは立ち止った。
「だれが間違えたのかは知らん。しかしおれはたしかにコロンブスがキリノ・ブリッジというのを聞いたんだ。いいか、笹岡、おれはこれまでのコマンド生活で、ミスは犯したことのない人間なんだよ。一度もだ」
笹岡を睨みつけていう。
「そら、ようわかってるがな。ラウレル・サイドがこういう事件に不慣れやから、起った話や、わしもそう信じとるわ」
笹岡はダビトの肩を叩いて、なだめながら、明日もそういう手違いが起らねばいいが、と不安になった。
「翻訳作戦」司令部とラウレル側では、当然ながら、話の詰め方の差というか、組織的行動力の差というか、そのあたりが天と地ほども違って、行き違いが起りやすいのである。
翌朝、笹岡は洗面所で歯を磨こうとして不安になった。
洗面所には昔、修学旅行の旅館で出てきたような、歯磨き粉が初めから毛先にまぶしてある安物の歯ブラシが置いてあるが、水は特に用意はない。水道の水を使うのは恐ろしく、冷蔵庫からコーラを持ってきて、コーラで歯を磨いた。
――人質の湧谷は誘拐後、一度も腹をこわさんというのに、誘拐したほうが腹ぐあい、気にして歯も磨けんというのは、喜劇やな。
一度歯をこすると、毛先がぼわっとふくれあがる歯ブラシを使いながら、笹岡は苦笑したものであった。
十時十分前、背広にネクタイを締め、アタッシェ・ケースをぶら下げて、ビジネスマン然とした恰好の笹岡とダビトはエンペラー・ホテルを出て、隣接するアンバッサダー・ホテルに向った。
正面がガラス張りになっているアンバッサダー・ホテルのロビーに入り、フロントに行って、ラウレル側との打ち合わせどおり、
「ドミンゴ・オナーテ氏の部屋は何号室やろか」
と訊ねた。
フロントの中国人は調べようともせずに首を振った。
「ミスタ・オナーテ氏は急病で、エリザベス・ホスピタルに収容されました」
何事もない表情でいう。
笹岡とダビトは驚いて顔を見合わせた。
「いったい何の病気ですか」
ダビトが訊ねる。
「よくわかりません。下痢をして発熱して、今朝早く、病院に運ばれたんです。病院側からミスタ・オナーテはコレラの疑いがある、というので、今、香港政庁の衛生局がきて、部屋を消毒しています」
容易ならぬ話である。
とにかく部屋は十二階だ、というので、部屋まで行ってみることにした。
十二階の部屋は開け放たれ、白服、白マスク、ゴム手袋の男が消毒薬らしい薬液をスプレーで、家具や床に撒いている。
「ヘイ、ユー」
突然、とっつきのバス・ルームから、白衣、白マスクの男が顔を出して声をかけてきた。白マスクの上に露出した鼻が高く、イギリス人の衛生局員らしい。
「イエス」
笹岡が答えると、イギリス人の衛生局員はおおきなマスクを顎のほうにずらし、
「ユーじゃない。そっちのジェントルマンだ」
とダビトを指差した。
「あんた、タガログ語はわかるか」
ダビトが頷くと、衛生局員はゴム手袋をはめた手で、一枚の紙をダビトの鼻先につきつけた。
「この紙に触るなよ。触らずに、ここになにが書いてあるか英語に訳してくれ」
命令するようにいう。
咄嗟のことで、ダビトもうろたえながら、少し腰をかがめ、紙に目を近づけた。
「こう書いてあります。当地では水に用心されたし。副大統領よりの連絡もあり、飲料水を用意した。飲料、歯磨き等に使用されたし。在香港フィリピン領事館」
そう英語に翻訳した。
「ふうん」
衛生局員は唸り、
「この手紙と一緒にワトソン・ウォーターの瓶が半ダース、昨日この部屋に届けられた。そのワトソン・ウォーターにコレラ菌が入っていたんだな」
手洗いの蛇口の傍に置いてある六本の瓶を指差した。
笹岡も香港によく出入りするので、多少の知識はあるが、ワトソン・ウォーターというのは、そこの洗面所に置いてある瓶がいい例で、飲料用の蒸留水である。瓶には獅子だかユニコーンだかの動物が二匹、立ちあがって両方から、WATSON’Sという英語名もしくは屈臣氏という中国名を囲んだラベルが貼ってある。
いわゆるミネラル・ウォーターではなく、中国大陸から運んできた水を煮沸した蒸留水なのだが、香港人には広く飲用され、香港に住む日本人、外国人もこの会社と契約を結び、定期的に大瓶を家に運びこませている、と聞いていた。
「このワトソン・ウォーターはときどき問題を起してな、この前も大腸菌が発見されて、大騒ぎになったことがある」
白マスクを顎にひっかけたイギリス人の衛生局員は笹岡とダビトをオナーテの友人と信じきっているらしく、そんな説明をしてくれる。
「フィリピン領事館も、ちゃんとしたミネラル・ウォーターでも送ればいいものを、予算をセーブし過ぎたみたいだな」
にやりと笑ってウインクする。
「われわれはミスタ・オナーテとビジネスをしている者なんやけど、ミスタ・オナーテの病状はどないなってますのや」
笹岡は訊ねた。
「だいたい香港も衛生状態が良くなってるから、コレラに罹《かか》る人間は珍しくなってきてるんだよ。まあ、彼は隔離されて、二、三週間は病院から出られんだろ。もちろん面会も禁止だな」
「コレラ菌はワトソン・ウォーターの一本からみつかったのですか。それとも六本全部に入っていたのですか」
ダビトが踏みこんだ質問をした。
「私は蓋の開いているのを調べただけだ」
洗面台に置いた、小型の顕微鏡を顎でしゃくり、衛生局員はいった。
「もし六本全部から発見されたら、ワトソンの会社へ警告を発しなくちゃならんだろうな」
笹岡とダビトは未練がましく、部屋のなかを見まわした。
部屋の一隅にサムソナイトのアタッシェ・ケースとクローズ・バッグが置いてある。あのアタッシェ・ケースのなかに、八十万ドル入っているのだろう、と笹岡はおもった。
「彼の荷物はどうなるんですか」
ダビトが訊ねた。
「なんとかこちらで預れまへんやろか」
笹岡も食い下った。
「駄目だな」
イギリス人は首を振った。
「患者と一緒に病院に隔離だな。患者も熱にうなされながら、マイ・サムソナイトと連呼しとるらしい。よっぽど大事な商売の書類でも入ってるんだろう。あなたがたもお気の毒だったな」
一瞬、力ずくでサムソナイトを奪ってしまおうか、と笹岡は考え、ダビトと顔を見合わせた。
足を一歩踏み出そうとしたとき、廊下の彼方でエレベーターの扉が開き、香港人の衛生局員らしい数名の白衣の男が声高に喋りながら、こちらにやってきた。イギリス人の衛生局員はそれをきっかけに、ふたりを追い払おうという気になったらしく、
「サンキュー、ジェントルマン。ご協力を感謝する」
衛生局員は大声でいった。
失意のふたりは口もきけず、エレベーターに乗り、ホテルを出た。
「香港まで無駄足とはやれやれや」
笹岡は溜め息を吐いた。
「なんや知らんけど、ラウレル側に人質が渡るのを喜ばん連中がおるのかいな。あれも敵の多い一族やからな」
まったく嫌な気分であった。
「今度もこちらにはなんのミスもなかったぞ」
ダビトが強調した。この前も自分にミスはなかった、といいたいらしい。
「それにしても雑やなあ。ラウレルのサイドは。だいたいひとりの人間に大金持たしてよこすなんて、どういう神経や。こういう場合、ふたり一組で動くのが常識やろう。ひとりやったら、持ち逃げするかも知れんのやで」
笹岡のぼやきは止らなかった。
日本では外務大臣が駐日フィリピン大使を招いて湧谷事件の早期解決を求め、また自民党広報委員長が自民党特使としてマニラを訪問、おなじく事件の早期解決をアキノ大統領に要請したりして、この誘拐事件の周辺は相変らず騒然としていた。
この日本側の要請に応えるジェスチュアのように、フィリピン国家警察軍は「七十二時間作戦」と称して、ラグナ州タガイタイ山岳地帯の大規模な山狩りを実施したが、何の収穫もなかった。
この渦中にラウレル側から正規ルートで宮井物産側に連絡があり、「ラウレル一族側としては、事件の仲介が不可能、との結論に達した」旨、いってよこした。
安原が昼めしどきに家に帰り、家からラファエルに連絡を取ってみると、
「おまえだからいうが、おれはフィクサーとして二度動いたんだ。二度とも九〇パーセント成功するとおもったんだが、最後の最後の時点でつまらんミスが起ってうまくゆかん。どうもラウレルサイドの連中には、ちょっと難し過ぎる仕事だってことなのかもしれんな」
ラファエルは伸彦が初めて耳にするような弱音を吐いた。
「イランの一件でおまえには借りが残っちまうが、とにかくこの件からはいったん、おれは手をひくよ」
宮井物産対策本部長の屋敷はラウレル側およびラファエル・サラザール側からの仲介辞退を受けて、方針を変更せざるを得なくなった。もう一度宮井物産が前面に出て、誘拐犯側と交渉することを決断した。
早速、宮井物産は現地新聞の広告欄に、「湧谷昭生君」という呼びかけの広告を出した。
「会社は君を救出することだけを考えている。誘拐者と話し合うことができれば一刻も早くそうしたい。そのチャンスが欲しい」
一月三十一日掲載の広告では、この点が二度にわたって強調された。
13
その男が湧谷昭生の前に現れたのは、湧谷の日付の計算によれば、一月末のことである。
四六時中ロックになやまされるから、といって一日耳にカプセルを詰めているのもわずらわしく、湧谷が手錠をはめられた手で耳のカプセルを取りだしたとき、目出し帽をかぶった小柄で、短足の男が、番人の脇にしゃがみこみ、じっと湧谷をみつめているのに気がついた。
男はそれから口もきかずに近寄ってきて、いきなりすわっている湧谷の頬をなぐった。耳栓用のカプセルが手から吹っ飛んだ。
これまでまったく手荒に扱われた経験のなかった湧谷は呆気に取られて、男を眺めた。
男は手を出したことに自分で昂奮したらしく、さらに二度、三度と湧谷の頬を張った。頬を張られる度に、男の腋臭《わきが》の混った汗の臭いが漂った。
「おまえ、|馬 鹿《スチユーピツド》じゃねえのか」
湧谷は英語で怒鳴った。
「おれをなぐったところで一文の得にもならんぞ。おれが怪我すりゃ、おれの値段が下るだけの話だぞ」
湧谷がいったが、それでも男はなぐるのをやめない。
隣の監視人の部屋のロックが止み、番人たちが二、三人入ってきて、驚いてこちらを見ている。
十数発もなぐったあと、男はぷいと部屋を出て行った。すぐに車の出てゆく音がした。
男は翌日もやってきて、また無言のまま、湧谷を見つめていた挙句、いきなりなぐった。
その晩、湧谷はこの男の出現がどういう意味を持っているのか、考えた。
湧谷を襲った誘拐犯グループは手慣れた、よく訓練されたギャング組織のようにおもわれるが、もしかしてこのグループのなかで内紛が起っているのではなかろうか。これまでの穏健派が権力闘争に敗れて、昨日今日現れるような凶暴な男が権力を握ったとしたら、これは大変だ、とおもった。
ここのところ「自分は殺される筈はない」という確信に満ちて湧谷は生きていたのだが、その自信が俄かに揺らぎ始めた。湧谷はまた食欲を失い、激しい不安にさいなまれ始めた。再び死の恐怖にさらされ、暗闇が重くのしかかってくるようで、不眠の夜が続いた。
一日置いてまた男は現れ、今度はひどいことになった。
湧谷は足鎖を外され、汚いタオルで目隠しをされて数百メートル歩かされた。まわりを声に聞き覚えのある監視人たちがタガログ語でわめきながら歩いてゆく。
突然目隠しを外されて、視野が開けた。
目の前におおきく枝を張った、樫かマホガニーの大木がある。その枝に縄がひっかけてある。
番人の男がふたり張り出した枝に飛びつき、ぶら下って枝の強度を調べている。
――誘拐グループに内紛が起って、おれがお荷物になったのではないか。それでおれはあの縄で始末されてしまうのではないか。
さすがに血の気がひいて、失神しそうな気分に襲われ、泥道を踏む足もとが心もとなくなった。
「おまえたち、おれを殺したら、なにもかもなくすことになるんだぞ。わかってるのか」
湧谷はよろめきながら怒鳴った。
目出し帽の男が近寄ってきて、またものもいわずになぐった。
湧谷は絞首刑にされる、とばかりおもいこんでいたが、男たちは湧谷の足を枝にかけた縄にしばって、注意深く湧谷の躰《からだ》を持ちあげた。ちょうど逆立ちするような姿勢まで持ってゆき、手錠をはめたままの湧谷の手が土に触れた。
男たちはなおも湧谷を持ち上げてゆき、湧谷は大木の枝に逆さ吊りにされる恰好になった。
躰中の血が頭に向って下ってきて、首の血管が重く膨張し、激しく脈打っている。
監視人のひとりがインスタント・カメラを持ってきて、逆さ吊りにされた湧谷の写真を撮り始めた。
「なんだ、また脅迫写真の撮影のためのパフォーマンスか」
下ってくる血流で顔を赤くしたまま、湧谷は呟くと同時に気持が一気に楽になった。
「おい、おれは心臓病なんだ。長時間こんな恰好させられると、ハート・アタックで死んじまうぞ」
湧谷は悪態を吐《つ》いた。
短足の目出し帽が近寄ってきて、逆さに吊るされた湧谷の顔を蹴った。革靴がまともに鼻にあたり、鼻から血が噴き出た。
男がもう一度、湧谷を蹴り、今度は空振りに終ったが、その拍子に男の胸からボールペンが飛び出した。
湧谷は手錠をはめられた手でボールペンを拾いあげ、男に差しだした。
「ペンテル・ジャパンと書いてあるな。あんた日本人か」
日本語でいった。
男はボールペンを湧谷の手からひったくると、
「ツデイ・フィニッシュ」
と叫んだ。
それも日本人の発音する英語のように聞えた。
「身代金《ランサム》の金額を吊り上げるためには、このくらいインパクトのある写真をぶつけなくちゃ駄目なんだ」
「翻訳作戦」司令部の机の上に、光寺が湧谷の逆さ吊りの写真をばら撒いた。
「ミスタ・ミツデラ、あんたはどうやってこの写真を撮ったんだ」
コロンブスが鋭い声を出した。いつも冷静な顔の頬のあたりがひきつっている。
「そこの連中に案内させたのさ」
光寺は司令部の外にいるフィリピン人の運転手や警備の連中のほうを顎でしゃくってみせた。
「フィリピン人スタッフに対する指揮権は私が持つ。あんたはそういう約束を忘れたわけではあるまいな。勝手な真似をして、統制を乱しては困るんだ」
「いいかね、コロンブス。われわれは革命を起そうとしてるんだぜ。ところがあんたがたは、ゲームでもやっている気分だ。そんなことじゃ、フィリピンの革命、共産化など、夢に過ぎんぞ」
光寺はいきりたった。
「あんたらにまかしていたら、いつまで経っても、金は取れんよ。おれとしては、腕の一本くらい切り落したかったんだが、これでも我慢したんだ」
「光寺同志、そないいわはるけどな」
笹岡が間に入った。
「冷静にな、ゲームでもやる気分で、作戦を実行してゆかんと、あんじょうゆくもんもあんじょうゆかへんのとちゃうか」
「光寺さんよ」
水田も口をだした。
「あんた、一度、ベッカーへ帰って頭冷やしてきたほうがいいんじゃねえか」
「チョウホウキがなにいうか」
チョウホウキとは水田の超法規出国した過去を指して、いっているのだ。
「なんだ、てめえ、爆弾マニアのくせしやがって、喧嘩売る気かよ」
水田が開き直り、座は一気に殺気立った。
「まあ、静かにしてえな」
こういう場合の笹岡のやわらかな関西弁は妙に効果があった。
「そない昂奮したらあかんがな。われわれもフィリピンの組織を乱すようなことしたらあかん。これはおおいに心せんとな」
そこで笹岡はひといき入れた。
「今まで宮井との交渉はダビトの役やったが、これからはコロンブスに頼みまひょか。この事件もそろそろ詰めに入らんとあかんのやが、話を詰めるのはダビトよりコロンブスはんのほうが冷静でええやろ」
コロンブスをたてるようにいった。
会議のあと、笹岡は水田に向い、
「おれはどうもコロンブスに大役振って、あいつが逃げられへんようにしといたほうがええような気がするんや」
と囁いた。
「あいつは信用できん、というのかね」
「いや、プロとしたらたいしたものよ。逆にプロとしてたいしたもんや、ちゅうところがやな、少しだけ気になるんだわ」
「フィリピンの田舎でよ、野菜盗んでゲリラしてるやつにしちゃよ、ちいっとスマート過ぎるってことはあるわな」
水田は呟いた。
14
二月に入って、宮井物産に連絡してくる誘拐グループの男がかわった。
これまではすぐに「シャラップ」などと怒鳴って、感情的に脅す一方の男だったが、今度はえらく物静かで、知的な感じのする人物になった。冷静な、フィリピン訛りの少い英語で、身代金の増額を要求してくる。
「ここでおもいきって、身代金の金額を増額したらどうかね」
屋敷はセキュリティ・コントロールのキンレッドに提案した。
キンレッドは少し考え、「インセンティブ(ご褒美《ほうび》)を出すか」といい、
「五十万ドルから五十二万ドルにあげよう」
ほんの僅かな値上げを提案した。
呆気にとられる宮井物産の社員に向い、
「何回もいうが、これは心理戦争なんだ。脅しても脅しても、あんまり金を出さない、そういう態度が必要なんです」
キンレッドは、そう説明した。
長期戦に安原伸彦も疲れきり、佐久間浩美に会いたい、という気持が爆発しそうになる。浩美の白い胸にすがり、|尾※[#「骨」+「低のつくり」]骨《びていこつ》の蒼い蒙古斑を愛撫できたら、と夜半寝もやらず苦しみ、ブランデーを呷《あお》ったりした。
堪えきれず埼京市の佐久間賢一に電話して、浩美について訊いてみると、
「浩美は無事だよ。しかしそっちの事件の目途《めど》がつくまでは、会うのを、我慢してやってくれないか。私も浩美の戸籍が復活したらすぐ謄本を持って、マニラに駆けつけるつもりだ」
そういわれては、やはり我慢する以外に手はなかった。
二月中旬、佐久間浩美はフェルナンデス神父に謝《シエ》夫婦の家での夕食に誘われた。
「謝はね、夫婦ともよく教会にくるし、特に細君はいろいろ慈善活動にも熱心だ。この前、北朝鮮のスパイどもを捕まえてもらった義理もあるし、招《よ》ばれてやろうや」
フェルナンデス神父はそういう。
「神父というのは、招ばれてご馳走になってやるのがね、いわばお勤めなんだよ。信者はご馳走したがってるんだから、つまり仏教のお布施を貰ってやるようなものだ」
この前の北朝鮮のスパイ逮捕騒動は、逮捕者のなかに肝心の孫《ソン》も趙《チヨウ》も入っていなかったし、ほんとうにスパイを逮捕したのかどうか、甚だ怪しかった。彼らがマカティ警察で目撃したのは北朝鮮とは無関係の連中だったのではないか、という気がする。たまたま手配中の犯人を逮捕する、というニュースを聞きつけ、その場へ連れて行っただけの話ではないのか。
しかしあの一件以来、浩美の身辺が静かになったのも事実であった。
当日は両肩のはねあがったフィリピンの晴れ着を着て、謝の細君が車で教会へ迎えにきた。
修道院の入口には、シスター・エミリーと浩一が見送っている。シスター・エミリーは謝の細君があまり好きでないらしく、硬い表情をしている。ふたりを送る手のあげかたも中途半端であった。
細君の運転する車がトンドの外れ、長い古い煉瓦塀の前に止ったとき、浩美は「この長い塀は見覚えがある」とおもった。
「こちらです。ちょっとの間、歩いて下さい」
英語で先に立って案内する細君のあとについて、塀についた門をくぐると、空地があり、その空地で子どもたちがバスケットをやっている。
――ははあ、ダビトの従弟と称していたホセの家の近くだ。
浩美はおもいあたったのだが、サリサリ・ストア(雑貨店)の角をまがった路地の奥の家は、しかしホセの家の近くではなく、ホセの家そのものであった。
「小さい家だけど、なかはクリーンなんですよ」
晴れ着を着た細君は自慢げにいいながら、鍵を開け家のなかへ案内した。
「ハズバンドはすぐ帰ってくる筈です。これ、私の息子よ。私のひとり息子」
身ぎれいな男の子が出てきて挨拶したが、浩美は妙な気がした。
細君はひとり息子というが、この前モレナとこの家を訪ねたとき、ドアを開けた男の子は、すすけたような顔の、鼻のつぶれた子で、ビニールのショッピング・バッグに入れたコーラを飲んでいた。今夜出てきた子どもは色白で、品がよく、全然別人である。
これはホセの家とは違うのではないか、と日本式にスリッパを勧められた浩美は靴を脱ぎながら、部屋の中を見まわした。狭いが、たしかに小ぎれいな応接間には、背の高い飾り棚があって、そこに果実酒の瓶がならび、一番上に「見ざる、いわざる、聞かざる」の恰好をした猿の人形の置物が置いてある。いずれもこの前、この家の窓の外から眺めた置物であった。
するとここはホセの家であり、この肉感的な細君の夫はホセということになるのか。しかしフェルナンデス神父は、この女の夫は謝といって、中国系だ、といってはいなかったか。
すぐに玄関のチャイムが鳴り、
「マイ・ハズバンドが帰ってきた」
と細君がいった。入ってきた男は神父や細君の陰になってよく見えないが、大柄のフィリピン人ではなく、小柄で貧相な中国系の男である。
「神父さま、いつもお世話になっております」
男はぺこぺこと頭を下げ日本語で挨拶しながら、神父と握手をしている。聞き覚えのある声であった。
「いや、お世話になっているのはこちらのほうだ。あんたに紹介しなくちゃならんな。あんたの奥さんも美人だが、このひともなかなかのもんだろう。佐久間浩美さんだ」
神父の後ろから、小柄な「マイ・ハズバンド」がひょいと顔を出した。
「やあ、奥さん、ごぷさたしてます。わたしウイーンでお目にかかった|李 仲麟《リー・チユンリン》てすよ」
浩美は悲鳴をあげそうになり、おもわず神父のほうに躰《からだ》を寄せた。
李仲麟の特色は兎唇のあとが鼻下にはっきり残っていることだったが、今日はその傷あとに汗が溜り、ひときわ目立って、浩美の神経を脅かした。
「奥さん、共和国てちょっと辛い目に会ったから、ぽくのこと、恐いおもっとるんたろうが、私ね、もう共和国から亡命《ぽうめい》してしまった。神父さまにもお話ししたが、共和国の外交官やるのはなかなかきぴしいからね、とうとう共和国を逃けたしてしまったのよ」
李仲麟はにこにこしながらいうのだが、あの北朝鮮の人間のいうことをだれが信じるだろうか。
「ほれ、神父さま、見てくたさいよ。ちゃんとフィリピン政府発行の免許証もあれば、パスポートもあるよ」
李仲麟は洗いざらしのバロン・タガログをたぐり、ズボンのポケットから旅券だの、書類だのを取りだして神父にみせている。
北朝鮮は旅券偽造を得意とする国であり、現在浩美が持たされているフィリピンの旅券も偽造なのだから、こんなものはなんの証明にもならない。
「すると、あんたがベルリンの空港で、浩美に睡眠薬入りの酒を飲ませて、北朝鮮に運んだ張本人なのかね」
「いやいや、神父さま、それ|こかい《ヽヽヽ》よ。浩美さん、風邪ひいて風邪薬、呑んてた。そこへ人参酒、飲んたものたから、気分わるくなってね、間違って共和国ゆきの飛行機に乗ってしまったんてすよ」
「違います」
浩美は叫んだ。
「神父様にご説明したとおり、私は梁《ヤン》さんの脱税をリポートした佐久間賢一の姪ということで狙われて、北へ拉致《らち》されたんです。私の間違いなんかじゃない。このひとたちの計画的な犯行なんです」
「困るなあ、浩美さん、嘘ぱかりいうなあ。とうしたら、信用してくれるかなあ」
この家はホセからの借り物で、細君もどこかの水商売の女を金で雇ってきたのだろう。子どもも、金を出して、わりに顔だちがよく、品もいいのを借りだしてきたのだ。これこそ演劇国家・北朝鮮%セ意の手ではないか。
「あなたの|こいぴと《ヽヽヽヽ》のさ、安原のぷひこさんもよくこの家へくるのよ。この前も家へきて、ご飯食ぺて、帰って行ったよ。ぽくはここへきて、鉄の商売はちめたもんたから、あのひととも知り合いになったんたけと、とても信用してくれてね、商売もうまく行ってるのよ」
お坊ちゃんの伸彦を騙すのなど、簡単なことだろう、とおもいつつ、急に李が伸彦の名前を出したので、浩美は一瞬黙りこんだ。
しかしそこで李仲麟はさらに浩美を驚かすようなことをいった。
「浩美さん、隠岐《おき》の出身たよね。ぽく、子ともの頃、父さんの船に乗ってて、嵐で流されてね、隠岐に流れ着いたことあるのよ。そこてぽく、一カ月くらい暮らしてた。可愛い女の子のいる家てね。ぽく、太陽で映すカラメとかそういうもの貰って、とても大事にしていたよ」
すると昔、浩美の父親が「役場から頼まれた」といって、家の漁師小屋に住まわせていたのはこの李一家なのか。あのとき、一緒に遊んだ体格の貧弱な少年が、この李なのか。
そんな筈はない、これもどこからか手に入れた情報に基づいて、演技してみせているに過ぎない、とおもいつつ、浩美は立ちすくんだようになって、李の顔をみつめていた。
あの話を北朝鮮でだれかにしたことがあるのか、咄嗟《とつさ》にはおもいうかばない。だれかに話したような気もするが、はっきりしない。
「ぽくはね、昔、隠岐でお世話になったお礼したいのよ」
李は水疱瘡のあとのある額を寄せてきて囁いた。
「話がこみ入ってきたが、浩美、今夜のところは隠岐の取り持つ縁で、晩めしをつきあってやんなさい。エミリーが九時に迎えにくるんだろう。それまでの辛抱だ」
フェルナンデス神父は台所で立ち働いている、謝の細君の立場も立ててやりたいらしく、そう取りなした。
小さな応接間の隣の小さな食堂の四人がけのテーブルにすわって食事したが、李は「神父様に|とく《ヽヽ》もって、ぽくも|ちこく《ヽヽヽ》に落ちたくないからねえ」といって、安全だといわんばかりに、ワインやミネラル・ウォーターをテーブルの上で抜いてみせて、ふたりに勧める。
「隠岐の海岸にはさ、白い烏賊《いか》がいっぱい旗みたいに干してあってきれいたったねえ。ぽく、子ともこころによくおぽえてるよ」
などと李はしきりに隠岐の話をする。浩美も「今夜は神父もいるし何事も起るまい」と少し心をゆるし始めた。
――なにしろここは北朝鮮ではない。フィリピンのマニラなのだ。そうおもい、ほんの少しだけ食事に手をつけた。
食事が終ると、李がシガーを持ってきて、神父に勧めた。
酒飲みでヘビー・スモーカーの神父はシガーをうまそうにくゆらし始めた。
「浩美さん、ちょっと見ていただきたいものがあるの」
美しく描いた眉を寄せ、細君が浩美の肩を抱いて懇願する。
「この隣の部屋なのよ」
小さい食堂の奥にこれまた小さな主婦室があって、
「これを見ていただきたかったの」
と細君はいった。
主婦室の一隅に鏡台があり、鏡台の上に各国の香水が並べられている。
「私、香水が好きで、集めているのよ」
フィリピンの女性が強い香料を使うのは、ごくありふれた習慣である。
「最近、スペインのエンジェルという香水がフィリピンで流行ってるでしょう」
細君は天使の姿を書いた、オーデコロンの瓶を指差した。
「これは私も使ってるわ」
浩美は答えた。
「だけどこのスペイン産の香水が一番流行っているのよ」
細君は紫色の三角形の瓶を取りあげ、ゆっくり浩美の鼻先につきつけた。
――薬品のような匂いだ。
おもうまもなく、ぐらりと眼の前が揺らいで浩美は膝をついた。
細君は、浩美の後頭部を掴み、三角のびんをもう一度、浩美の鼻孔に押しこまんばかりにつきつけた。浩美は意識がうすれかけ、その場にくずおれた。
女が何事か叫び、どかどかと足音を響かせて、男たちが階段を降りてきた。
うすれかかる意識のなかで、国家保衛部の趙《チヨウ》らしい小肥りの男が自分の足をずるずると引っ張ってゆくのを他人事《ひとごと》のように感じていた。
それでも「神父様、助けて」と叫ぼうとしたが、声が出ない。しかも驚いたことに神父も椅子の背にぐったりともたれて動けなくなっている。煙草に麻薬が入っていたのだろう。
浩美が最後に聞いた言葉は、
「船は明け方に出る」
孫《ソン》が叫んでいるらしい朝鮮語であった。
15
佐久間浩美は躰が揺れている気配に眼を覚ました。
白い天井が眼に入ったが、その天井が揺れている気がした。
頭痛がして、その頭痛が途方もなく嫌な、吐き気のこみあげてくるような記憶と結びついている気がする。
白い天井から眼を下に移すと、壁に掲げられているふたりの男の肖像画が眼に入った。ひとりは金日成であり、ひとりは息子の金正日だ。ふたりとも髪黒く、眉太く、まるで田舎芝居の野暮な二枚目ふうに描かれていて、たとえようのない嫌悪感を催させる。
浩美は半身を起し、頭を振った。
――ああ、また北朝鮮に捕まってしまった。
絶望に眼がくらむ気がする。
気がついてみると、浩美は李の家でクロロホルムを嗅がされたあと、着替えさせられたらしく、北朝鮮を出国したときの、陸軍士官の軍服を着せられている。
浩美はおおきな船に乗せられており、ゆったりしたうねりがベッドの下からせりあがってくるのを感じる。船はまだ動きだしてはいないようだ。
枕もとに水の入ったコップが置いてあり、浩美は手を伸ばしかけて、危険を感じ、おもい止った。
この船はどこへゆくのだろう、とおもい、ごく自然に南浦《ナムポ》とか元山《ウオンサン》といった北朝鮮の港の名が頭にあがってきて、浩美は絶望のあまり、がっくりと首をおとした。
「ああら、お目覚めになりましたこと?」
華やかな声とともに、あの|梁 美善《ヤン・ミーソン》がドアを開いて姿を現した。
「親愛なる指導者同志、金正日様が是非にもあなたともう一度お会いになりたい、とおっしゃってますの。あなたの人生も今まではなかなか大変だったけど、もう大丈夫でしてよ。一生、親愛なる指導者同志の傍でおしあわせな人生を送れましてよ」
白いパンタロンを穿いて、なにやらクルージングのムードで、梁美善はいう。
「神父様はどうなさってるんですか」
ベッドの上に起き直って、浩美は訊ねた。
「もちろん、ご一緒に共和国へ行っていただくわよ。共和国でもね、最近はカトリックへの関心が生まれておりましてね、神父様にそちらの布教のほうのお手伝いをお願いしよう、とおもっておりますの」
「私、神父様にお目にかかりたいんです」
浩美はいった。
自分のお陰で、神父までが北朝鮮の陰謀にまきこまれ、辛い人生を過ごすことになったのを詫びたい、と浩美はおもったのである。
梁が部屋を出てゆき、まもなく梁と船員に支えられて、フェルナンデス神父が少しよろめきながら、部屋に入ってきた。
「神父様、なんと申しあげてよいか、言葉もございません」
浩美はごく自然に床に跪《ひざまず》いていった。
「なんの、なんの。謝らなくてはいかんのは私のほうだろう。軽率に夕食にあんたを誘ったばかりに、また生き地獄の国に舞い戻りさせられるとはな」
フェルナンデスは、跪いている浩美の肩をおさえていった。
「まあ、神父様、生き地獄だなんて、北朝鮮はこの世の理想の国、地上楽園ざんすわよ」
梁美善はほがらかに笑って、フェルナンデスの肩を叩いた。
「まあ、パチンコ屋の娘のあんたには天国かもしれんが、カトリックの神父にとっちゃこれは生き地獄だろう。おかげで私も新時代のフランシスコ・ザビエルになれる、という栄光を考えれば、この世の生き地獄など、なにほどの意味も持たんがね」
フェルナンデスは呟いた。
「安原伸彦にひと目、会わせてやりたかったがな。伸彦がこの前告解にきて、浩美のことをいうから、わしは浩美がすぐ隣の修道院にいるなどとは一言もいわずに聖書のルカ伝のな、『もとめよ、さらば与えられん、叩けよ、さらば開かれん』を引用して、神頼みに徹すれば必ず報いられるだろう、とおもわせぶりなことをいったんだ。今から考えれば、可哀想なことをしたよ」
「神父様」
浩美は跪いたままいった。
「私は北朝鮮の経験を考えると、信仰なしに生きてゆく自信がありません。そこでお願いがございます」
浩美の眼が涙にうるんだ。
「死の直前に、洗礼を受ける、ということがカトリックでは可能でございましょう。私に洗礼を授けてくださいませ」
神父は一瞬黙り、数歩、歩いてベッドの傍のコップを取った。
「インアルティクロ・モルティッシュ、緊急洗礼を授ける。私は父と子と聖霊の御名により、佐久間浩美に洗礼を授けます」
神父はコップの水を数滴、浩美の額にふりかけた。
「もう一度いおう、もとめるものは与えられる。叩けば門も開かれる。神に祈りなさい」
明け方近く、|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸はマニラ港を出港した。
その夜、安原伸彦はケソンのラファエル・サラザールの屋敷でテニスをしていた。
夜間照明のついたテニス・コートが二面あり、そこでじつに久かたぶりにラファエルとテニスをしたのである。
ラリーを打ち合ったあと、ユニフォームを着たメイドが、氷のキューブを山積みにした水差しとグラスを持ってきた。そのメイドが何事か囁くと、ラファエルは、「ちょっと失礼」といって、伯父の豪邸のほうに戻って行った。
ラファエルはなかなか戻ってこず、伸彦は誘蛾灯に群がる虫の大群を眺めていた。しのぎやすかった乾期もそろそろ終りに近づきつつあり、虫が出始めている。いやでも伸彦の気持は、監禁されている湧谷のほうに向ってゆかざるを得ない。
やっといつになく渋面をうかべたラファエルがテニス・コートに戻ってきた。
伸彦の隣にどんとすわり、ガットを強く張ったラケットの面を指ではじいた。
「|おまえ《ユー》、まだヒロミに惚れてるのか」
「なんだ、急に」
伸彦は笑ったが、ラファエルは笑わずにラケットをはじいている。
「もちろん惚れてるさ。ほんとうに惚れてる」
英語だからいえるのだろう、とおもいながら、そう答えた。
「浩美がな、また北朝鮮に捕まったらしい」
「そんなことはないだろう。このまえ、フェルナンデス神父と話をしたら、浩美はちゃんと安全なところにいる、心配するな、そういっていたぞ」
「それがだ、今夜か明日、北朝鮮の船に乗せられて、マニラを出るらしい」
「馬鹿な」
と伸彦は叫んだ。
「どうしてそんなことがわかったんだ」
「謝《シエ》という男がいたろう。あれは北のスパイなんだが、電話をよこして北に帰る、といってきた」
伸彦は先日謝の店で耳にした電話の会話をおもいだした。あのとき、「親愛なる指導者同志への贈り物を船に乗せる」と謝はいっていたが、贈り物とは浩美のことだったのだ。
「船は妙香山丸か」
ラファエルは頷いた。
「あと何分後か何時間後か知らないが、マニラを出港して、北朝鮮へ向うらしい」
「ううん」
伸彦は頭を掻きむしった。
「乗船後に謝の手下が電話してきたんだ。おまえに借りがあるし、なんとかしたいが、もう間に合わんな」
16
テニス・コートの夜間照明の光のなかで、安原伸彦は焦った。
「ラファエル、|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸がマニラ港を出るのをなんとか阻止できんかね。フィリピンの警察や出入国管理に頼んでみるとか、手段はないんだろうか」
伸彦の表情がよほど深刻だったのだろう。ラファエルはじっと伸彦をみつめた。
「日本人がひとり乗っているらしい、そんな程度の曖昧な話で他国の船を臨検できるわけはないやな。妙香山丸はイラク籍かイラン籍になっているから、マニラに入港できたんだろう。おまけに、浩美は日本の旅券など持っちゃいないんじゃないか。だとしたら、フィリピンの警察も、出入国管理かなにか知らんが、官庁もなんの動きもできんよ」
「そりゃそうだ。日本で、北朝鮮の連中が、彼女の死亡通知を出しやがったんだ。近日中に再発給は可能になる、彼女の伯父貴はいってるがね」
絶望感が汗になって、伸彦の額を水でもかぶったように濡らした。
「おまえ、新人民《NPA》軍に顔がきくんだろう。彼らになんとかならんのか。彼らから北朝鮮、妙香山丸の連中に頼めんのか」
絶望のあまり、伸彦は感情的になって、そんなことを口走った。
ラファエルは椅子の上で、こちらに向き直った。
「妙香山丸に連絡して北朝鮮に、ミスタ・ワクタニはあんたがたに譲り渡す、ひきかえに浩美を返せ、とでもいうのか。少し頭を冷やせ、ノブヒコ」
ラファエルは大声を出した。ラケットでアンツーカのコートを叩きながら、
「月並みなことになるが、世の中に女は山のようにいる。最近男の数が女を上まわっている、といっても、まだ世の中の半分近くが女だ。スペインへこい。おれが浩美そっくりで、もっと若い娘を紹介してやるから」
伸彦は頭を掻きむしった。
「しかし浩美との間には、長い長いドラマがあるんだよ。簡単におもいきれ、というほうが無理だろう」
その発言にはラファエルも暗黙裡に同意するらしく、再び沈黙が戻った。
母屋のほうから足音がふたつ、駆けるようにして、こちらにやってくるのがふたりの耳に入った。
テニス・コートの夜間照明のなかに、ユニフォームのメイドに先導されて、修道服を着た大柄なシスターが現れた。
「シスター・エミリー、お元気ですか」
ラファエルの挨拶にも答えず、シスター・エミリーはメイドを追い抜き、大股の急ぎ足でこちらに歩み寄ってくる。
「ミスタ・サラザール、フェルナンデス神父が北朝鮮にさらわれて、浩美と一緒に船に乗せられてしまいました」
息をはずませて、シスター・エミリーはいった。
九時に神父と浩美を迎えにゆくことになっていたシスター・エミリーは、信者の老女に臨終が迫ったという連絡を受け、八時過ぎに謝《シエ》の家に電話を入れたが、だれも出ない。止むなく、この前訪ねたことのある謝の家へ早めに出かけた。
小さいサリサリ・ストアの角をまがったところで、家から出てきた謝の派手な細君に出会ったのだが、細君はエミリーの顔を見るなり、走って逃げようとした。
体力に自信のあるエミリーはたちまち細君を捕まえ、「神父さまはどこにいるの」と詰問した。
「私、知らない。男のひと、呼びにきてどこかへ行ったよ」
謝の細君は白を切ったが、そこが人口過密の下町の恐ろしいところで、たちまち近所の女子どもが集まってきた。
「二時間くらい前かな、神父と中国系の女性が担架で運ばれて行ったよ。急病だって、だれかがいっていた」
子どものひとりがいう。
「どこの病院に運んだの」
「わからんなあ、なにしろあそこの塀の外に車が三台待ってて、それで運んでったから」
そこにサリサリ・ストアの女主人がしゃしゃり出てきた。
「だいたいね、この女はあの家になんにも関係ないんだよ」
とんでもないことをいい出した。
「ふだんあそこの家には年寄りの夫婦が住んでるんだけど、ホセっていう、女房に逃げられた不良息子がいてね、時々年寄りの両親と息子をどこかへ運んじまうんだ。そうすると、小さい中国人とこの女、それにどこかの子どもがやってきて、何時間かあの家を使うんだ。お客をするためなんだけど、あの中国人とこの女、夫婦でもなんでもないよ。ニセモノだよ」
タガログ語でまくしたてた。
「今夜は特に人相のわるい男が二、三人きてた。何語かね、聞いたことのない言葉を喋《しやべ》っていたね」
シスター・エミリーはそこで女の首を掴んで、サリサリ・ストアの家の板壁に押しつけた。
「あんた、神父さまと浩美はどこにいるの」
それから後ろを振り向いて、
「小母さん、警察を呼んでちょうだい」
と叫んだ。
ばたばたとだれかが駆け去ってゆく。
「私、ホセに頼まれて、お金で雇われただけよ」
女は泣きそうな顔になって呻《うめ》いた。
「ほんとになんにも知らないんだよ」
エミリーは女の首が折れるくらいの勢いで、塀に頭を叩きつけた。
「私、あのひとたち、北朝鮮のひとだとおもう。神父さまと日本の女のひとを北朝鮮に運ぶんだとおもう。マニラの港に行ったんじゃないの」
エミリーが驚いて手をゆるめた隙に、女は素早く逃げだした。
「警察がきたら、フェルナンデス神父が北朝鮮に誘拐された、マニラ港へ行ってくれ、、といってください」
エミリーは叫んで、塀を越え、修道院の車に乗った。自分で、マニラ港に乗りこもうかとおもったが、あまりに危険で自信がない。それで車を飛ばしてここにやってきたのだ、という。
サラザール一族はフェルナンデス神父と親しく、この家にはエミリーもバザーの打ち合わせなどできたことがあった。
「これでフィリピンの海軍や沿岸警備隊が出動する理由ができた」
ラファエルはそういって立ちあがった。
「フィリピンの神父が強制連行されたらしいとすれば、沿岸警備隊も臨検できるし、妙香山丸をマニラに戻すこともできる」
そこでラファエルは伸彦を顧みた。
「おれはシスターと一緒に教会や警察、沿岸警備隊を駆けまわる。あんた、大至急そこの家の電話でな、日本に連絡して、浩美が日本人であることを立証する書類を明日中に運んできてくれ、と頼むんだ」
17
動きだした妙香山丸の船内で佐久間浩美は、相変らずの絶望の淵にいた。
そこは高級船員の部屋らしいが、狭い部屋で、ベッドにはうす黒く汚れたタオルケットが置かれ、古い机の上に数字だけ並べた十二カ月一枚刷のカレンダーが貼ってある。机の上方に棚があり、刷毛が置いてあるが、これは壁に飾られた金日成、金正日の額を朝晩礼拝する前にごみをはらうための特別の刷毛、とすぐに見当がついた。
部屋の隅を見やり、浩美はいよいよ絶望感に捉われた。
部屋の隅には、モレナと暮していたアパートに置いてある筈の、あのグリーンのサムソナイトがころがってあった。ウイーンから浩美が北朝鮮に連行されるとき、一緒に運ばれ、その後も彼女についてまわったサムソナイトだ。
隣の部屋から若い女の泣き声が聞える。
――モレナではないか。
北朝鮮に連行されるソ連製旅客機イリューシン62型のなかで、やはり拉致《らち》連行されたモレナはしきりに泣いていたが、今もまた全くおなじ状況が生じていた。今度はふたりともイリューシンではなく、妙香山丸という北朝鮮籍の船に乗っているだけの話であった。
ただおおきく違うのは、あのとき浩美は、朝鮮民主主義人民共和国という国名も、そして首都平壌の名もおぼろげにしか知らず、ましてやあの「恐怖国家」の実態など、なにひとつ知らなかったが、今はなにもかもわかっている、ということだ。
多分、浩美とモレナは金正日に献上され、またフラメンコでも踊らされ、キップムジョ≠フ一員に加えられて、野球拳のような「服脱ぎゲーム」などを毎晩やらされた挙げ句、金正日の後宮の一員にされてしまうのだろう。
そして歳をとれば、招待所の傍らに住んでいた老婆のように辛酸の生活のなかで、撃ち殺され、路傍に遺棄されてしまうのだ。そうでなければ、二十万人が収容されているという強制収容所に収容され、十年間も風呂に入れず、垢《あか》にまみれたまま、雪のなかで行き倒れになって死んでしまうのだ。
しかし心配なのは、フェルナンデス神父を待ち受ける運命であった。金日成、金正日という偶像を崇拝するあの国で、スペイン系フィリピン人の神父がどんな運命に遇うかは想像さえつかない。
なにしろある日突然、密告だけでなんの証拠もない人間が裁判もなく収容され、強制収容所長の機嫌ひとつで、毎日ばたばたと公開銃殺されてゆく国柄なのだ。
神父がなぶり殺しにあっても不思議はなかった。
――自分も神父と一緒に殉教しよう。
「緊急洗礼」を受けたばかりの浩美は覚悟をきめた。自分を救ってくれ、今また自分が傍杖《そばづえ》を食わすようなかたちで、拉致事件に巻きこんでしまった、そのことの責任を浩美はつよく感じていた。
モレナの泣き声は、ゆっくりした船のうねりに合わせるように、高く低く尾をひいて、止ることがなかった。
ふと浩美は隠岐に漂着した北朝鮮漁民の話を、モレナにしたのをおもいだした。
軍服を着たまま、机にもたれてうたた寝していた浩美は、突然砲声に似た音を聞いて、眼を覚ました。
時計を見ると、午前七時である。明け方船が動きだした、と覚えているから、まだそんなに時間が経っていない。
ベッドの上の船窓から外を眺めると、朝の海上を妙香山丸と平行して巡視艇のような船が走っており、発光信号というのだろうか、マストの上のライトをしきりに点滅させている。と見る間に、船首の小さな大砲がきらりと閃光《せんこう》を発し、また爆音が轟いた。
――停船を命じているらしい。
浩美はそうおもったが、巡視艇らしい船の威嚇射撃にもかかわらず、妙香山丸は停船の素振りを見せない。女の浩美にも妙香山丸がえらく低速の船と見当がつくが、スピードをゆるめる気配もない。
巡視艇らしい船の向うに、もっと大型の船が現れ、これも恐ろしいスピードで傍らの巡視艇を追い抜き、妙香山丸の行く手の方向へ進んでゆく。
巡視艇はいよいよ接近してきて、今度は後甲板から空中に向って、機銃を撃ちあげた。まだ藍の色の濃い朝空に、数条の赤い曳光弾が長い尾を引いて消えてゆく。
ようやく妙香山丸のエンジン音が止り、スピードが落ちた。船は停まり、波間をたゆたい始めた。巡視艇があっという間に接近してきた。船上には、自動小銃を持ち、ヘルメットをかぶった兵士が十数人、身構えている。
があんと巡視艇の船腹が乱暴に妙香山丸の船腹にあたるらしい音がした。浩美のいる船室は船橋《せんきよう》部分にあるのだが、前甲板に梯子《はしご》の一種がかけられたらしく、武装した兵士が次々と甲板に上ってきて、自動小銃を構える。兵士たちは明らかにフィリピン人である。
戦闘が始まるのか、と浩美は身をすくめてベッドの上にすわりこんだ。船内では朝鮮語の怒声が飛び交っていたが、それにタガログ語、英語が混じり始めた。
「浩美、浩美」
フェルナンデス神父が近寄ってきて、ドアが開き、武装した兵士と一緒に神父が姿を現した。
「大司教が沿岸警備隊を派遣してくだすった。北の連中も、フィリピンの教会の力を見くびっちゃいかん、ということだ」
フェルナンデス神父に促され、部屋を出ようとすると、フィリピンの兵士のひとりが、「あんたの鞄か」とサムソナイトを持ちだしてくれる。
廊下の外にはモレナもいて、三人は兵士たちに囲まれ、前方の甲板に出た。
「船員を甲板に集めろ。武器を持っているかもしれんし、船を爆破するかもしれんぞ」
巡視艇に乗ってきたのは、沿岸警備隊の隊長らしかったが、その隊長がタガログ語で怒鳴っている。
前甲板に集められた北朝鮮人のなかには、|李 仲麟《リー・チユンリン》の姿もあり、そのわきに|梁 美善《ヤン・ミーソン》も立っていた。
李が真赤な顔をして、
「この船はイラク船籍だぞ。勝手に停船を命じたり、臨検したりはできん筈だ」
甲高い、ブロークンな英語で、抗議した。
「お気の毒だが、ここはフィリピン領海なんだ。国際法上もな、誘拐や密輸の疑いのある船はすべて臨検できるんだ」
隊長がいい返した。
「神父、自分は神父とフィリピン女性一名、日本人女性一名を保護せよ、といわれております。フィリピン女性のほうはそこのお嬢さんとわかりますが、日本人女性はどのひとでありますか」
隊長は疑わしげにちらちらと浩美を見て訊いた。
浩美はモレナと一緒に暮らしていたマンションに身のまわり品を置いてきたのだが、北朝鮮側はそのなかから、国家保衛部女性士官の軍服、軍帽、それに長靴まで探してきて、浩美は眠っているあいだにその軍服を着せられてしまった。したがって、海兵隊の指揮官には、浩美が日本人とはおもえないのである。
「いや、このひとが日本人だよ」
神父が浩美を指差していったとき、突然梁美善が進み出た。
「神父さま、ご冗談をおっしゃっては困りますわ。日本人は私ですわよ」
梁はそういって赤い日本の旅券を取り出し、指揮官に差し出した。梁《ヤンヽ》善子《よしこ》名義の旅券は正真正銘の日本旅券だし、服装も例のごとく茶と白の華やかなもので、梁のほうがはるかに日本人らしく見えてしまう。
「この軍服を着ているひとは北朝鮮の士官なんです。イラクで訓練を受けてきた帰りなんです。あそこにいる国家保衛部の李仲麟同志の部下なんですよ」
すかさず李仲麟がやってきて、佐久間浩美の北朝鮮籍の旅券を高くかざした。指揮官は困ったようにふたつの旅券を見比べている。
――私だけ残されて、北朝鮮に拉致されるのではないか。
浩美は恐怖のため身が震え始めた。
「神父さま、私、どうしましょう」
「君をこの船に置いていったら、おれも男じゃないな。おれも一人前のマッチョだってところを見せなきゃいかん」
フェルナンデス神父はいい、指揮官にタガログ語で、
「基地に電報打って、日本女性の名前を問い合わせてくれ」
と頼むと、すぐに隊員のひとりが舷側を滑り降りて巡視艇に向った。
エンジンを停めた妙香山丸は、浩美の不安をのせて波間をゆらりゆらりと漂っている。海鳥が鋭い鳴き声を発して、上空を飛んでゆく。
兵隊が戻ってきて、紙を隊長に差し出した。
それを受け取った隊長は、
「日本女性の名前は佐久間浩美だそうだ」
といった。
「しかしね、この女性が佐久間浩美だってことはだれが証明するのか」
李が怒鳴った。
「それはわしだな」
フェルナンデス神父がいった。
「梁《ヤン》の奥さん、あなたは日本の旅券、英国の永住許可証、北朝鮮の永住許可証、なにもかもお持ちだ。保護してもらう必要もないでしょう。それにあなたは残念ながら、シンパではあるが、信者ではない。私、神父として信者である浩美の身元を保証しますよ」
フェルナンデス神父を先頭に、巡視艇のほうに三人が歩きだした途端、浩美は軍服の背中に冷たい固いものを感じた。直観的にそれがなんだかわかって振り向くと、国家保衛部の孫《ソン》が間近に立っている。
「皆、船から降りろ。さもないと、この女性を殺す」
孫の声が響いた途端、高い女の悲鳴があがった。悲鳴をあげながら、モレナが孫の足にしがみついた。ピストルの発射音が響き、モレナが孫の足もとに倒れこんだ。モレナの背中に、血が渦を巻くように滲み出した。
フィリピン娘を射ったことが兵士たちを刺激したのだろう、銃声がいっせいに轟き、孫の顔に赤い花のつぼみのような穴がいくつも開いた。と見るまに顔そのものが吹き飛んだ。
「モレナ、モレナ」
浩美がモレナを抱き起したが、モレナの眼は虚ろに開き、笛のような音を立てて空気を吸っている。もはや死相が稚なさを残した顔に現れていた。
今度は船橋の上から立て続けに銃弾が飛んできた。すぐに海兵隊の兵士が応戦した。
船橋の男は球のように身をすくめて、海に落ちた。球のような躰《からだ》はどうやら趙《チヨウ》のようであった。
「死んだようだ」
死体が浮かび上ったらしく、兵士のひとりが海上を見て呟いた。
隊長は、
「これはフィリピン領海上で起った事件だ。この船はマニラ港に同航する」
といった。
モレナの背に渦巻き型に滲み出た血はおおきな輪に拡がってゆき、浩美は泣きながら、細い背中を撫でた。神父がモレナに向って祈るラテン語の言葉が、浩美のすすり泣く声の合い間を縫うように、海上に響いた。
[#改ページ]
十 疑  惑
夕刻、安原伸彦は浩美の息子、浩一とシスター・エミリーと連れ立って、マニラ港に浩美を迎えに出ていた。
マニラ港西地区の、八本の埠頭《ふとう》の端にフィリピン沿岸警備隊の巡視艇が接岸しており、その傍らで、伸彦は浩美が下船してくるのを待っていた。
船内には東京から復活した戸籍の謄本を持って駆けつけてきた佐久間賢一が、日本大使館の松山参事官やフィリピン外務省の担当官と一緒に乗船していて、フィリピンの沿岸警備隊やマニラ港の出入国管理官に、浩美の身元の証明をしている筈であった。
港内の少し離れた沖合に、|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸が停泊し、二隻の巡視艇に監視されている。
この港は西の方角に正対しているから、真正面の水平線に巨大な日輪が沈むところで、港と船を真紅に染めあげていた。
日没直前の不思議に静謐《せいひつ》な時間が港の一帯を支配していて、こうして浩美と会う瞬間が刻一刻、近づいているかとおもうと、伸彦はさすがに心臓の鼓動があたりに高鳴るような気分であった。遠くを走るタグ・ボートのエンジン音が静謐な時間の底を一筋に切り裂いてゆき、伸彦はそわそわと落ち着かず、何度も巡視艇のほうを眺めた。
「安原のおじさん」
隣に立った浩一が伸彦を見上げていった。
安原のおじさんか、ずいぶん久しぶりに聞く言葉だ、と伸彦はおもった。
「ママが船から下りてきたら、おじさん、ママにキスしてくれるよね」
真剣な顔をして、浩一は伸彦を見上げている。
「ママにキスするのか」
答えながら、伸彦はどぎまぎし、夕陽に赤く染まった顔をいっそう赤くした。
「おじさんがママにキスしたら、ママはとっても喜ぶ、とおもうんだ。ママは二回も北朝鮮にさらわれたんだよ。ぼくと一緒に暮らすようになってからも、あいつらに襲われて、窓から飛び降りて逃げたりしたんだよ」
浩一のひたむきな様子にたじろぐおもいで、
「そりゃ、よくわかっているよ」
と小声で応じた。
やがて巡視艇の司令塔の扉が開き、フェルナンデス神父が姿を現した。
フィリピン海兵隊の兵士が六名、白布でおおった担架を支えて、後に続いた。
――だれか死んだのか。
一瞬浩美が遺体になって出てきたのか、とおもい、伸彦は血の気が下った。
神父は甲板の低い巡視艇から、短いタラップを踏んで埠頭に降りてきた。シスター・エミリーが跪《ひざまず》いて、神父の手に接吻している。
遺体を運ぶ一隊は、フェルナンデス神父に付き添われて、|粛 々《しゆくしゆく》と埠頭を歩いてゆく。
続いて大使館の松山参事官がフィリピンの外務省や出入国管理の係官と一緒に、恐ろしく生真面目な表情で下船してきた。
そして最後に佐久間賢一に付き添われて、佐久間浩美が姿を現した。
驚いたことに、佐久間浩美は北朝鮮士官のものらしい軍服を着て、長靴を履いている。軍帽を小脇にかかえ、さすがに疲れたらしく、顔色が青白い。
「ママ、ママはいつもちゃんと帰ってくるんだ」
浩一が大声を出して、タラップを降りてきた浩美に飛びついた。
浩美は浩一の頭をしっかりと抱いたまま、じっと伸彦をみつめて、まじろぎもしない。それから助けをもとめるように、背後の佐久間賢一を眺めた。
「伯父様、私、足が動かないの」
賢一が白髪を掻きあげ、浩美の背中をかかえ、伸彦のほうに押しだすようにした。
歩きだした途端に夕陽に染まった浩美の頬を大粒の涙が一筋ゆっくり滑り落ちた。一歩足を踏み出す度に、左右の眼から一筋また一筋と涙が滑り落ちる。
伸彦も足を進め、
「ご苦労様でありました」
ぎこちなくいった。
「伸彦さん、モレナが死んでしまったの、モレナが」
浩美は呟くようにいい、顔を伸彦の肩に埋めた。
伸彦は柔らかく、そして次第に固く浩美とそして浩美にすがりついている浩一を抱き締めた。
「おじさん、ママにキスしてあげて」
浩一がふたりの躰《からだ》の間で、また真剣な声を出した。
伸彦の唇が浩美の唇に触れた瞬間、電撃に打たれたように浩美の体は震え始めた。悪性の流感に罹ったように震えが止らない。
賢一とシスター・エミリーが支えて、一同は埠頭を税関のほうへ歩き始めた。
伸彦は深い感慨とともに沖止めになっている妙香山丸を振り返った。妙香山丸の彼方で、巨大な日輪が半分海に没している。人生の哀歓をすべて吸い取ってしまうような、鮮烈なマニラ港の夕陽であった。
その夜は、警察官の護衛つきで、佐久間一家はマニラ・ホテルのスウィート・ルームに宿泊することになった。
マニラ・ホテルは米国植民地時代にマッカーサー将軍が暮らし、日本軍占領中は方面軍司令官が暮らした、もっとも歴史が古く、格調の高いホテルである。スウィート・ルームもドアを開いた奥にさらにふたつのドアが並び、それぞれのドアの奥に応接間、食堂、ベッド・ルームがついていて、ふた家族が住める仕組みになっている。
浩美はそのひとつに浩一と一緒に入り、なによりもまず軍服を脱いで、シャワーを浴びた。
運びこまれたサムソナイトを開き、平服に着かえると、どうにか人心地がついた。
その夜はもう一方の、佐久間賢一のほうのスウィートで、伸彦やフェルナンデス神父、シスター・エミリー、それに日本大使館の松山参事官を招いて、夕食を摂った。
「モレナは神に召され、浩美はこうして帰ってきた。今夜はなかなか辛い夜になったな」
フェルナンデス神父が短い祈祷の言葉を述べ、一同、頭を垂れた。
「わしも、もうちょっとで聖人になれるところだったが、教会と沿岸警備隊がえらく早目に動いたものだから、チャンスを失ったよ」
フェルナンデス神父は座の固い空気を解きほぐすようにいう。
「北朝鮮は外国人だろうとなんだろうと、容赦せんのだろう。アムネスティ・インターナショナルの報告じゃ、ヴェネズエラの共産党員が北朝鮮で捕まって、二十年の強制労働を命ぜられたそうじゃないか。凍傷で指の爪を皆なくして、体重が二十キロに減った、というな。まあ、わしも北朝鮮にゆけば、スリムになれて、聖人にもなれるところだったんだろう」
フェルナンデス神父は彼一流のやりかたで、浩美を慰めているのだが、そこでふいに話題を変えて、
「わしもずるいからな。あのどさくさまぎれにカトリックの信者をひとり増やしたよ」
一座の反応を見届ける顔になった。
「非常事態だから、といってな、浩美に緊急洗礼というのかな、インアルティクロ・モルティッシュを授けたよ。彼女、カトリックの信者になったんだ。洗礼には水がないと、どうにもならんのだが、幸い浩美の枕もとにコップの水があってな」
浩美をみつめる伸彦の顔がぱっと赤らんだ。おなじカトリックの信者になった、ということが、伸彦の感情を動かしたらしい。
浩美は佐久間賢一がどう反応するか、と気になって、隣席の賢一をみつめたが、賢一は、
「それはよかった」
あっさりといった。
「私もクリスチャンの多い朝鮮半島の出身ですから、カトリックには関心が強いです。ただしずるいですから、まあ、天国泥棒というか、死んだあとで、死後洗礼を授けていただきたい、とおもっておりましてね」
韓国はキリスト教徒が多く、人口の二〇パーセント以上を占めるといわれる。
「それは私がちゃんと約束しますよ。この二日でふたり信者を増やしたわけだ。効率がいいだろう、伸彦」
フェルナンデス神父もやっと事件の昂奮から脱け出したらしく、そういった。
「ところで、松山さん。今後、浩美の身柄はどうしたもんでしょうな。私としては、この浩美と浩一を一日も早く日本へ連れて帰りたい、とおもっとるんですが」
賢一が大使館の松山参事官に訊ねた。
「まことに申しわけありませんが、明日、警察庁の盛山という人間がこちらに出張して参ります。この男が一日、二日、浩美さんのお話を伺いたい、と申しておりますので、このホテルにもう一日二日ご滞在願えれば、とおもっておるんですよ」
「ああ、あの盛山さんですな」
賢一には、出張してくる警察庁の人間に心当りがあるらしかった。
「そのあとは、できればフェルナンデス神父のところにもうしばらくご滞在いただきたいとおもっとるんですがね」
浩美は、湧谷の家に住みこんだことや、ゴルフの日程をモレナに確認したことが問題になるのだろうか、と不安になった。
浩美の動揺を見てとったらしく、
「いや、ご心配にはおよびません」
松山は手を振った。
「私もだいたいの経緯は伺いましたが、浩美さんは被害者であって、なにも問題になることはありません。しかし今後の、なんというかな、参考にね、お話を伺っておきたいらしいんですよ。すっかりお話しされたら、気持もすっきりされるんじゃないですか」
同情に満ちた表情で、松山はいった。
二日後の午前十一時、安原伸彦は会社で、佐久間浩美からの電話を受け取った。
「警察の事情聴取というのかしら、あれは今朝で全部終ったの」
声をひそめる感じでいった。
「これから神父様の修道院へ帰るんだけど、その前にできればお会いしたいとおもって」
おもいきったようにいった。
「お昼をご一緒できるわけでありますな。しかし護衛はついてるんでありますか」
「フィリピンの警官がふたりついてくれてるの。だからどこでも大丈夫だとおもうわ」
しかしどこでもいい、というわけにもゆくまい、と伸彦はおもった。
「伸彦さんはいつもお昼はどうしていらっしゃるの」
「対策本部に詰めているときは別ですが、原則的には、家に帰ってメイドの作った昼めしを食っています」
「そういえば、あのかたもお昼はおうちで食べてらしたわ」
あのかたとは湧谷のことである。
「私、お宅へ伺っていいかしら。それが安全だとおもうの」
「それが一番いい。一番安全でありますよ」
伸彦は大あわてで自宅に電話し、日本人のお客とフィリピン人の警官がふたり来宅する旨をメイドに話し、簡単な昼食を用意するように頼んだ。
伸彦はその足で会社を出て、警官に出すサン・ミゲールのビールや、日本食品の豆腐、果物のマンゴーなどを買い歩き、急いで帰宅した。
しかしドアを鍵で開けると、
「お帰りなさい」
浩美が笑顔を浮かべて立っていた。
サイレンを鳴らすパトカーに乗ってきたので、あっという間についてしまったのだ、という。
ふたりの制服の警官は台所へ入りこんで、食事の仕度をするメイドと賑やかに話している。こちらを見て、ひょいと片手を挙げて挨拶した。
通いのメイドが焼きそばを作る傍らで、浩美が手早く豆腐の味噌汁やら、中華風の牛肉と野菜炒めを作るのを眺めながら、伸彦は警官たちと当り障りのない談笑をして、サン・ミゲールを飲んだ。
食卓は応接間の一隅にあるのだが、警官たちは上司から何かいわれているのか、遠慮して出てこない。
結局、浩美と向い合って食事をとったのだが、浩美の表情は疲労のせいか、今ひとつ冴えない。眉の辺に憂いに似た陰が残っている。
「全部話したんでしょう。それでも気持がすっきりしないの」
浩美は頷いた。
「日本からきた盛山さんという警察の方に二日間かけて全部お話ししたの。盛山さんも、それは誘拐|幇助《ほうじよ》にはならないって、おっしゃってくれたのね」
「それじゃ、何がすっきりしないの」
伸彦は浩美の顔を覗きこんで突っこんだ。
「ひとつはね、むろんモレナが私を助けようとして死んでしまったこと。もう昼も夜もモレナの顔が浮かんで、苦しくてしようがないの。毎日、教会に行ってお祈りしてるけど駄目なのよ」
浩美は涙ぐんだ。
「モレナのことだけじゃなくてほかにもあるのよ。警察のほうではね、暫く修道院に住んでいてくれ、なにかきっかけが掴《つか》めるかもしれない、というのね。つまりまた北がやってくる、それを捕まえるなり追いかけるなりすれば手がかりが掴める、ということみたいなのよ」
「もう恐ろしい目に遭うのは嫌だろうな。それは痛いほどわかるよ」
浩美は額に手をやり、
「そうじゃないのよ。今度は警察も修道院に泊りこむみたいで、安全だとおもうんだけど、もう北はこないんじゃないかしら。梁《ヤン》だけは国籍が日本だからすぐに釈放されたらしいけど、孫《ソン》も趙《チヨウ》も死んでしまったのよ。ほかの連中は妙香山丸と一緒にマニラ港に繋留されているし、私が残って、だれも襲ってこなかったら、日本とフィリピンの警察に申しわけないわ」
首を振った。
「だれに対して、申しわけがないんだろう」
「警察の期待に応えられなかったら、私、困るの。なにより湧谷さんや湧谷さんのご家族に対して申しわけない気がするの」
「あなたは真面目なひとだな」
伸彦は感動していった。
浩美は食事にもほとんど手をつけず、食後のマンゴーだけを食べた。
ふたりの警官が顔を出し、
「私が表の廊下を見張り、もうひとりが玄関を見張る。あなたがたはゆっくりしてくれ」
そういって玄関を出て行った。
浩美と伸彦はソファに移ってコーヒーを飲んだ。
メイドの洗い物の音が消え、メイドがメイド部屋にひっこんでしまうと、室内はしんと静まり返った。
「いずれにしろ、私、湧谷さんの問題が片づくまではマニラに残るわ」
浩美は自分に言い聞かせるように呟いた。それからふいに正面から伸彦をみつめ、
「伸彦さん、私のこと、まだ愛している?」
と訊ねた。
伸彦は不意を衝かれ、
「その、ぼくは筋を通す性質でありますから」
どぎまぎして答えた。
「筋だの義理だのって、会社の仕事の話じゃないの。いろいろなことがあって、長いこと別々だったけど、私にまだ愛情がおありですか」
伸彦は度胸を据えた感じになった。
「確かなことは、私が結婚したいとおもった女性はこれまで浩美さんしかいなかったし、今もいない、ということであります」
堅苦しく答えたのだが、それを聞くと同時に浩美の躰が伸彦の胸に倒れこんできた。
激しい接吻を繰り返したあと、伸彦は感情が昂って、
「ベッド・ルームにゆこう」
と囁いた。
浩美は決心したように頷き、
「シャワーを浴びさせて」
といった。
バスローブを巻いてシャワーから戻った浩美は、ベッドに横たわると、
「私、二年前より容色、衰えてしまったんじゃないかなあ」
両手で眼をおおっていった。
「そんなことはない。佐久間社長も、あれは苦労するときれいになる、不思議な女だよ、といっておられた、私も同感です」
伸彦がバスローブの帯を解き、前を開くと、陽焼けのあとが残る裸身が現れた。以前より痩せたのと、陽焼けしているのとで、ウエストがきりりと締って精悍《せいかん》というか、そんな感じが生まれている。
陽焼けした裸身のなかで、胸と腰のビキニの水着のあとが青白く残っていた。青白いふたつの乳房はなだらかな稜線を保って盛りあがり、赤い乳首が宙に突き立っている。
「これがミセス・ワクタニに見られてしまった水着の跡でありますな」
伸彦は白い胸に柔らかに唇を触れ、下腹部の白い部分を愛撫した。
「こうなると、例のご紋章にご対面しないといけませんな」
伸彦は両手を浩美の腰にあて、浩美を俯《うつぶ》せにした。陽に焼けた尻の上、T字型の白い水着のあとに、蒙古斑がほの暗い寝室に青い燐光を放つように浮かびあがっていた。
「先輩のこれを何度、夢に見たかわからないんでありまして」
伸彦は昂奮に声が嗄《しわが》れるのを感じ、唇が引きつけられるように燐光に絡んだ。両手で浩美の腰をおさえ、伸彦の唇はそのまま白い部分を伝って、陽に焼けた尻の割れ目へ落ちてゆく。
「ノブヒコ、きて」
浩美はあお向けになり、細い指が伸彦にまといついた。ふたりは二年ぶりの愛の行為に入った。
二年ぶりの飢餓感からの解放はほとんど精神的な行為といってよく、低く長い悲鳴のような絶叫のうちに力果てると、ふたりとも感情が一気に昂った。浩美は激しく泣き、伸彦も涙を流しながら、お互いに抱きしめ合った。
雨期の近づくに連れて、湧谷昭生は心身ともにへばり始めた。
木の枝に逆さ吊りにされて以来、写真を撮られる機会もなくなった。テレビ、新聞、雑誌にも接しないので、思考力が弱まってゆくような気がする。足に鎖をつけたまま、足踏みをするジョギングも気力がなくなって止めてしまった。
食事を残すと、その分、次の食事を減らしてくるので、食べようと努力するのだが、食欲がない。
なにより閉口したのは、雨期が近づくとともに蚊が出始めたことだ。手錠をはめられているから、蚊が腕に止ったりすると、手の自由がきかず、叩くこともできない。フィリピンのおおきな蚊は腕を振ったくらいでは離れようとせず、しつこく血を吸いあげてゆく。
銀蠅が顔にたかってくるし、部屋の四隅をゴキブリが走り始めた。
湧谷は床板の上にすわりこみ、
「虫をなんとかしろ」
大声で怒鳴った。
その見幕に逆に恐れをなして、番人がゴキブリの印のついたスプレー式の噴霧器を持ってきて、昔の自転車の空気入れを押すみたいに、ポンプを押して殺虫剤を撒き散らす。その霧が排泄物のバケツの臭いと混って、異様な臭気が湧谷を包むのであった。
「翻訳作戦」司令部から、ケソンの安ホテルへ帰る道すがら、笹岡が、
「コロンブスのおっさん、どうもキナクサイおもうんやけど、あんさん、どないおもいます?」
水田に訊いた。
「おっとっと、そいつぁ、タブーか剣舞か知らねえが、ご法度《はつと》のご質問じゃねえか」
水田は石に蹴つまずくようなジェスチュアをして、笹岡の問いかけをいなそうとした。
「いやな、もうタブーやご法度やいうてられへん段階やで」
笹岡は夕闇のなかで、深刻な顔をしている。
「人質《ホステージ》のおっさんをラウレル一味に売りつけようとして、二度失敗したやろ。一度はダビトがコロンブスの命令で、橋の下で金の着くのを待ってたんやが、船が着かへんで、話がぱあになってしもうた。コロンブスはダビトが橋を間違《まちご》うた、ロハス・ブリッジの下で待て、いうたのに、キリノ・ブリッジの下に行ってしもた、そう説明しとるんやけど、これは眉唾《まゆつば》や。ダビトは阿呆《あほ》いえ、コロンブスは最初からキリノへ行け、いうたんで、ロハスのロの字も口にせえへんかった、そういうて怒っとる」
「おれもな、ダビトは堅《かて》え野郎で万にひとつもミスはしねえから、変だとはおもったよ」
水田は頷いた。
「それでこの間の香港の一件や。ラウレルの遣《つか》いから金、受け取ろう、おもうてアンバッサダー・ホテルに行ったら、相手の男はコレラの疑いとかで入院してしもてたやろ。それもフィリピン領事館から副大統領の名前で差し入れられたワトソン・ウォーターを飲んでやられたんや。これも怪しいで。わしはコロンブスのおっさんが裏で糸引いててな、領事館の名前|使《つこ》うて、コレラ菌入れた水を差し入れたんやないか、おもうとるんや。あとでダビトがとぼけて、領事館へ問い合わせたんやけど、全然話が通じへんかったしな」
「だけどよ、おれはわからねえんだよなあ」
水田は自分の頬っぺたをばちんと叩いた。
「コロンブスのやっこはよ、なにしろちゃんと湧谷をさらってきたんだぜ。それで今も湧谷の親父をアンヘレスの田舎によ、見張りつけておさえこんでんだよ。最近はダビトの代りに、宮井側とも交渉やってんだしよ、そんなやっこがなんで、肝心の金の受け取りを邪魔すんのかね。そこがわかんねえな」
「わしもや、そこがわからへんから、あんさんに訊いとんのや」
「大学中退のあんたにわからんことが、夜間高校中退のおれにわかるかよ。ぜえんぜんわかりましぇんってやつよ。だいいち、考えてみろよ、コロンブスは北のよ、|梁 美善《ヤン・ミーソン》の紹介でやってきたんだぜ」
日本赤衛軍はフィリピンの左翼と連帯したくて、いろいろの団体に働きかけたが、皆、日本赤衛軍はトロツキストだ、トロツキストとは組みたくない。そういわれて断られた。最後に、梁の紹介で新人民軍のコロンブスが現れ、赤衛軍としては渡りに船と共同作戦を敷くことにしたのであった。
「梁のおばはんはな、ロンドンでIRAの男にコロンブスを紹介して貰うたんや、いうとる」
「北朝鮮は新人民軍の兵士の訓練を引き受けたりして、関係は深いんだよな。一応筋は通る話じゃあるんだがな」
ふたりは黙りこんで、歩いた。
水田はキティゴンと安ホテルの一室に住み、笹岡、光寺、ダビトも近くのおなじような安ホテルに部屋を借りているのだが、ふたりは帰宅する前にダビトの部屋を覗いてみた。
ダビトはベッドに片肘をついて横になり、テレビを見ていた。
「訊きたいことがあるんや」
笹岡がいうと、ダビトはベッドから起きあがり、テレビを消した。笹岡と水田はベッドに腰をかけた。
「ダビト、ほかならぬコロンブスのことなんやがね。あんた、コロンブスのこと、どう考えてんのや。信用でける、そうおもうとるかね」
ダビトは天井へ眼を外して頷いた。
「信用できる男だろう。とにかくこれだけ実績をあげてるんだからな」
「そらそうや。ついでにもうひとつ訊くがな、コロンブスは新人民軍の男やとおもうか。あんたはモロ人民解放戦線出身やけど、もとを糺《ただ》せばおなじゲリラの出身なんやろ」
「まあ、おれは田舎のゲリラにいたんだし、それも新人民軍とは全然別の組織にいたんだからな」
ダビトはぼそぼそと呟き、頭を掻いた。
「おれの知ってるフィリピンのゲリラは、PFLPのコマンドとおなじようなインプレッションよ。いってみればどいつもこいつも農民あがりのあんちゃんとおっさんだよ。しかしコロンブスは違う。コロンブスの部下も違うな」
「じゃ、連中は何者なんだよ」
水田がダビトをみつめて訊いた。
「ありゃ、皆、フィリピン陸軍のれっきとした軍人だろう。新人民軍はあんなにきちんとした恰好して、あんなアメリカ式のきちんとした敬礼はできないんじゃないか」
ダビトは「アイアイ・サー」と挙手の礼をしてみせた。
「そら、コロンブスもいうてるがな。昔、軍人やった連中を掻き集めてきたんやそうや」
笹岡が同意した。
「昔軍人だった連中もいるだろうが、現役の軍人が中心じゃないか」
「なんで軍人がラウレルとの商売の邪魔するんや」
「コラソン・アキノが共産党に甘いのが許せん。ラウレルも評価せん。アキノとラウレルを叩いて、ふたりが次の大統領になれる芽をつぶしたい。そういう軍人グループもいるさ」
水田と笹岡は顔を見合わせた。
「アキノとラウレルが倒れてやね、次の大統領の芽が出てくるとしたら、今の参謀総長のラコラスやないか。コロンブスはラコラスの子分いうことか」
たしかに新聞の記者会見などで登場するラコラス参謀総長は早い時点から「湧谷は無事だ」などと自信ありげに発表して情報に通じている態度を見せている。
「そりゃわからんな。まあ、現状に不満な青年将校の一味なんだろうな」
ダビトは予想もしないことをいいだした。
「とにかくやつらはきちんと仕事する、とおもうよ。この作戦はやり遂げるだろう。なにしろ本物の軍人なんだからな。しかし最後の瞬間に、正体を現してひと騒動あるかもしれん」
ダビトは髭をこすった。
修道院に戻り、浩一と暮らし始めた佐久間浩美にとって、一番の喜びは週に何回か安原伸彦に会いにゆくことであった。そして電話で一日に一度は伸彦の声を聞くことであった。
修道院に戻って暫くして、フェルナンデス神父が何気ない顔をして、
「伸彦も日本の情報に飢えてるだろう。新聞、雑誌を届けてやるといい。一緒に食事して励ましてやんなさい」
そういって前日の日付の日本の新聞や週刊誌を浩美に手渡した。
なんでも教会の信者にフィリピン航空の空港勤務の社員がいて、日本からの定期便に積んできた新聞、雑誌をその日のうちに届けてくれるのだそうであった。
新聞、雑誌が何日間か溜まるのをじっと我慢して待って、それを大袈裟にかかえ、昼めしどきに伸彦の自宅に向うのである。
ほんとうは毎日、新聞が着くのだから、毎日伸彦を訪ねてもいいのだが、神父も新聞に一応眼を通すし、なにより常駐しているフィリピンの警察官が二人、護衛についてくるので、浩美は気を使って我慢せざるを得なかった。
伸彦に会うと、ふたりともそのあとの愛情の交歓へ想いが先走って、ほとんど食欲が出なかった。
すぐに感情が顔に透けて見えて、神経質に見える伸彦だったが、性の行為には日頃の伸彦のイメージを変えてしまうような、力強い律動感があって、浩美は圧倒されてしまう。伸彦の愛情の律動が激しく波打って頭のなかまで響きわたるようで、行為のあと、いつも浩美はぐったりと横たわったままであった。
浩美の冷たい腹に頬をつけて、伸彦は、
「その後、北は接触してこないよね。危険はないんだろうな」
白い太腿を愛撫しながらいった。
「埼京市の伯父さまも心配して、しょっちゅう電話下さるけど、なんの兆候もないの。私、なんだか日本の警察やフィリピンの警察に申しわけなくて」
浩美は眉をひそめた。
ある夕刻、修道院の浩美のもとに女性の来客があった。浩美は修道院の一階にある、神父の執務室の手前の小部屋で、シスター・エミリーと秘書の仕事をしていたのだが、ふと目をあげると、この前、数日間世話になり、またこの修道院を紹介してくれた、籐家具店の女主人が立っている。
女主人はタガログ語で挨拶して、ちらりとシスター・エミリーを眺め、
「庭で話をしない?」
と浩美を誘った。
教会の裏、修道院の前の庭では、日本人学校から帰ってきた浩一が、ふたりのフィリピン人青年を相手にキャッチ・ボールをやっている。野球の道具は日本から寄附された、この教会備えつけのグローブやミットだ。男のひとりは腰にメジャーやハンマーを差しこみ、もうひとりはスーパーのユニフォームを着ていて、ふたりは教会出入りの、大工かスーパーの店員に見えるが、ふたりともマカティ警察の刑事であった。
「じつはね、門の前の車にね、あなたの息子の浩一に会いたいってひとがいるの。浩一にね、ほんの二、三分会わせてやってくれない?」
籐家具店の女経営者は終始一貫、浩美と浩一を庇護《ひご》してくれた人物で、何の心配もいるまい。しかしだれを連れてきたのだろう、それが問題だ、とおもったとき、
「コウイジ」
という女の声が庭に響きわたった。
キティゴンが門の傍らから現れ、キャッチ・ボールをしている浩一のほうに歩いてゆく。
「キティのおばさん」
浩一は投球フォームを中止し、一目散にキティゴンに向って駆けてゆき、グローブをはめた手で抱きついた。キティゴンはじっと浩一を抱き締めていたが、ふいに大きな手提《てさ》げ袋を探った。
「浩一、蝶々のエドモンド、欲しがってただよね。おばさん、やっと捕まえただから、持ってきたんだよ」
手提げから虫籠を取り出した。虫籠のなかには、浩一自慢のヨナクニサンの次に大きく、色はヨナクニサンより美しいといわれる蝶が一匹、入っていて、ばたばたと籠のなかではばたいた。
「おばさん、これ捕えてくれたの。ぼくのために」
浩一はグローブとボールを放りだし、歓喜に満ちた顔で、籠のなかを覗いている。
「浩一、嬉しいか?」
「嬉しいなんてもんじゃないよ。おばさんのことは一生、忘れないよ」
浩美は呆気に取られて、この光景を眺めていたのだが、浩一とキャッチ・ボールをしていた警官がふたりとも姿を消しているのに気がついた。門の外で、かすかに車のエンジンをかける音がした。
庭で草むしりをしていた老人も、すっと立ちあがって門を出てゆく。あれも刑事なのだろうか。
「こういじ、ちゃんと学校に行ってるね」
「行ってるよ。おばさんは元気?」
浩一はそう訊いているが、すっかりエドモンドに心を奪われ、キティとの会話も上の空だ。
「元気だよ。肥って困ってるよ」
「おじさんも元気?」
キティゴンはそれには答えず、頷いてみせた。
それからキティゴンは前から気がついていたのだろう、浩美のほうに向き、視線は合わせずに手をひらひらと振ってみせて、そのまま門へ向った。籐家具店の黄色いトラックに乗りこみ、トラックが走り去り、そのあと間を置いてフィリピン警察のものらしい車とバイクが追ってゆく。
その夜、浩一はキティゴンに貰ったエドモンドの蝶を枕もとに置いて寝る始末である。
夜、籠のなかで羽ばたく蝶の羽音を聞いていると、鱗粉《りんぷん》が部屋に飛び散り、部屋に満ち満ちてくるようで、うなされるような気分であった。眠れないなかで、浩美は「警察の待っていた変化とはキティゴンの出現だったのか」とおもいあたった。
キティゴンを手繰ってゆけば、必然的に水田やその仲間たちに辿り着く筈である。キティゴンもそんなことは百も承知だろう。百も承知で、しかしどうしてもエドモンドを浩一に届けてやりたい気持に負けてしまったのだろうか。それとも警察などはうまく撒いてしまう自信があって、やってきたのだろうか。
浩美はなかなか寝つけなかった。
三月初め、タイの、ラオス国境に近い高床式の一軒家で、日本赤衛軍幹部と北朝鮮側との方針会議が開かれた。
日本赤衛軍からは最高幹部の滋山久子、笹岡規也、それに水田清の三人が出席した。
水田は本来出席できる立場ではなく、一コマンドに過ぎないが、キティゴンの父親に頼み、ラオス国境近くに会合の場所を設定して貰った関係で出席したのである。
「翻訳作戦」司令部の留守部隊はおおむねコロンブスが牛耳り、日本赤衛軍側からは光寺、ダビトが残っている。
北朝鮮側からは、対外文化交流協会部長、じつは対外情報調査部の|車 明吉《チヤー・ミヨンギル》、フィリピンから脱出してきた|梁 美善《ヤン・ミーソン》が出席していた。
「滋山同志には、ご多用中にもかかわらず、中東の遠隔の地から遠路、はるばるお越しいただき恐縮です」
肥った躰を籐椅子に落した車《チヤー》は、流暢な日本語で挨拶した。
――このデブが梁の兄貴か。まるで結婚式の媒酌みたいな挨拶しやがる。
水田はおもった。
しかもこのキティゴンの父親の用意した会見場所ときたら、結婚式場にはまるで縁のないど田舎の農家、といった感じの家なのだ。部屋に漂う、猛烈な臭気は粗末な板張りの床下に、豚を飼っているためらしく、絶えず豚の鳴き声が響いてくる。
「われわれは親愛なる指導者同志、|金 正日《キム・ジヨンイル》書記に命じられて、滋山同志に特段のお願いがあって参上したわけです」
対外情報調査部も、数ある北朝鮮の情報機関のひとつだが、他の情報機関同様、朝鮮労働党書記の金正日に直結している。
「結構です。お話を伺いましょう」
滋山久子はにこにこと愛想よく答えた。
滋山久子はアラブのアイドルといわれてすでに長い年月が経つが、年齢の割に若く、表情、態度には会った相手をからめ取ってしまうような、一種の魅力を相変らず備えている。
「滋山同志もご案内のとおり、わが北朝鮮民主主義人民共和国の情報機関、いいかえれば私と梁の所属する機関は、今回の翻訳作戦に関し、日本赤衛軍に多大の協力をさせていただいてきた」
車は正面から滋山を見て、おもわせぶりに切り出した。
「第一に皆さんが作戦を組む相手が見つからず、困っておられたときに、新人民軍のコロンブスをご紹介申しあげた。われわれはコロンブスの能力にはおおいに自信を持っておったが、果たせるかな、みごとなリーダーシップを発揮して、湧谷なる人物を保護、現在も某所に安全裡に監禁しております。われわれの紹介なくして、本作戦の組織はおぼつかなかったでありましょう」
車の口調は次第に演説口調になり始めている。
――調子がいいぜ。コロンブスの正体をあんたら、ほんとに知らねえのか。
水田は俯《うつむ》いたまま、上眼づかいに車と梁を眺めた。梁美善は素知らぬ顔で象牙のながい煙管《きせる》を使い、煙草を吹かしている。
「第二に、われわれはふたりの女性スパイを湧谷の家に送りこみ、湧谷のゴルフゆきの日程を掌握し、作戦司令部に通報しております。あの通報なしには、有能なコロンブスといえども、誘拐の作戦行動を起し得なかったでありましょう」
なにいってやがる、と水田はまた腹を立てた。水田はカンルーバンのゴルフ・クラブに一年以上出入りし、予約の受付係とも馴染みになっていて、ちゃんと前日の夕刻、湧谷のカンルーバンゆきについて報告を受けていたのだ。
むろん前夜、モレナからもホセ経由で連絡を受けたが、それは補助的情報に過ぎなかったのである。
「またこの誘拐事件のあおりを食って、共和国の国家保衛部に二名の犠牲者も出ている」
それも浩美関連の話で、赤衛軍には関係ないんじゃないか、と水田はおもった。
「その辺についてはちゃんと報告を受けております。日本赤衛軍は共和国に深く感謝しております」
滋山は如才なく相槌を打った。
「そこでお願いなのでありますが、翻訳作戦に勝利した場合、いや、間違いなく勝利されるのでありますが、日本赤衛軍は莫大な資金を手にされます。その場合、その資金をどうか、明年一九八八年に迫っておりますソウル・オリンピック粉砕の資金として、是非ご活用願いたいのです。これは親愛なる指導者同志、金正日書記よりのじきじきのお願いであります」
車はいった。
ここで、今まで協力的だった北朝鮮側の真意がはっきり浮かびあがってきた。目標はパルパル(八八年)・オリンピック粉砕にあったのである。
「もし八八年オリンピックが韓国の単独主催で強行されれば、わが共和国は国際的に孤立を深めてしまう。わが共和国のみならず、世界の革命勢力にとっても大打撃です」
車は熱弁を振るった。
車が黙ると、床下の豚の一匹が物凄い鳴き声をあげた。
「結構なBGMですこと」
梁美善がいったが、だれも笑わない。
「翻訳作戦で獲得した資金をそのまま、共和国に提供するわけにはゆかないでしょうね」
滋山久子は相変らずおだやかな口調でいった。
「この作戦には、笹岡同志、水田同志、光寺同志、それにダビト同志がずいぶん頑張ったわけでしょう。まあ、北朝鮮のおかげもおおいにあるけれども、これは北朝鮮と日本赤衛軍の共同作戦だった、とわれわれは捉えてるんです。それに新人民軍が手足となって加わったわけよね。共同作戦で獲得した資金をひょいとあなたがた、北朝鮮の同志に提供したら、このひとたちのモラールが落ちてしまうわ」
滋山ははっきりいい切った。
「私は基本的には、日本赤衛軍の戦略目的はパレスチナ解放にあるのであって、テロによる革命達成には必ずしも積極的ではありません。しかし私もね、アジアのひとたちが連帯して獲得した資金をアラブで使おうとはおもっていない。だからこうしましょう。この資金はあくまで日本赤衛軍の活動資金として活用する。しかしこの資金は今後、日本赤衛軍が北と新しい共同作戦を組織するためのファンドとする。つまり八八年ソウル・オリンピック粉砕のための資金です」
床下の豚の鳴き声がまたうるさくなった。
会議のあと、車と梁の兄妹がバンコクへ引き揚げてゆくと、笹岡は、
「滋山同志、私は翻訳作戦はそろそろ切りあげたほうがええのとちゃうか、おもいますねん」
と提案した。
「警察の動きが迫ってきた、とか、人質の体力が弱ってきたとか、そういう事態が起っているの」
「そうやない。フィリピンの警察は体質が古うて、駆けこみ情報ばっかり追っかけとって、どうも基本のところができてへんから、恐くないんやな」
「銭形平次の世界だな。親分てえへんだ≠チて駆けこんでくるのが頼りなんですよ、あそこの警察は」
水田も口を添えた。
「この前、湧谷の血を注射器で取らして、ティッシュになすりつけて脅迫状と一緒に送ったでしょうが。あれをさ、フィリピン警察は動物の血だっていったり、それから人間の血だが、湧谷とは血液型が違うなんていったんですぜ」
「湧谷の体力もまだ持ちます。あれはほんまにええ玉や、体力と精神力があるわ。そら参ってはおるけど、パニックにはおちいりまへんな。岡本公三も少し見習うたらええんや」
「岡本のことは話が違うよ」
滋山はぴしゃりとさえぎった。
「じゃなにが問題なの」
「わしは翻訳作戦司令部のなかでの内紛が心配ですねん」
笹岡はすっかり薄くなった頭髪を掻きあげた。
二月下旬、交渉相手にジョーと名乗るインテリの男が電話してくるようになって以来、誘拐犯人側と宮井物産対策本部の間でようやく、コミュニケーションが成立し始めた。
三月に入って、犯人側の度重なる要求に、対策本部はセキュリティ・コントロールの指示に従い、身代金五十二万ドルの回答に三万ドルの上積みをして、回答した。
すると相手のジョーは、
「ほほう、労働組合の賃上げに対するご回答のような数字ですな。これではわれわれもパンを止めて、タロ芋でも食わなくてはなりませんな」
といった。
その電話のやりとりのテープを聞いて、キンレッドはにやりと笑い、
「この男はもしかしたら、イギリスにいたことがあるのかもしれんな。今までのやり口から見ると、私とおなじ情報学校の卒業生かもしれん」
と呟いた。それからキンレッドはおもむろに、
「そろそろ雨期が近づいてきて、ミスタ・ワクタニの健康も心配な状態だ。ルソン島の雨期には伝染病が流行るし、洪水も起る。ここで最終回答を出すことにしましょうか」
と、対策本部長の屋敷を見た。
「六十万ドル、これが最終回答でしょう。これ以上はびた一文出さん、ということです。金と人質は、同時交換、社会的に信頼できる人間のところで行ないたい。その日時、名前を知らせろ、といってやりましょう」
屋敷は、
「よかろう」
と頷いた。
「弁護士のロドルフォに明日の電話で、そう答えさせてくれ」
犯人側との約束ができて、電話は毎朝八時に対策本部にかかってくるのであった。
電話はどうやら二カ所の連絡場所から交互にかけてくるらしく、ひとつは農家で、鶏の鳴き声や子どもの声が聞え、もうひとつは電車の線路ぎわの家にあるらしく、電車の音が受話器に響いてくる。
「翻訳作戦」司令部側のなかで日本赤衛軍側とコロンブスは議論をしたが、結局、身代金六十万ドルで呑むことには同意せざるを得なかった。
湧谷は気丈で、番人を怒鳴り散らしたりしているが、このところ食欲がなく、体重がめっきり減って、顔には栄養失調が原因らしい、発疹が一層ひどくなって顔一面に吹き出ている。いつ病に倒れ、精神的にパニック状態におちいってもおかしくない状態であった。
日本赤衛軍内部での問題は、身代金と人質の同時交換にあった。
「人質解放して身代金受け取った途端に、コロンブスがピストル出してよ、おれたち、全員ホールドアップ、身代金はコロンブスの懐ろにころげこむって話になりゃあしねえか」
水田が当然の疑問を口にした。
「出だしは革命運動の同志的信頼ってやつでよ、万事ころがってきたわけだけんど、話が違ってきちまって、相手が革命の同志じゃねえかもしれねえって、疑いが出てきちまった。するてえと、残ってるのは口約束と、義理と人情ってえか、コロンブスの人柄だけっていう、まあ、心細い話になってきたんだわ」
笹岡も顔をしかめた。
「取り敢えず、身代金の受け渡しと人質の解放は切り離すよう、交渉させようや」
「人質を監禁しているのは、ラファエルが陸軍に貸している土地の一角だろ。陸軍は演習場にラファエルの土地を使っていて、そのひと隅の掘立て小屋に監禁してる、そういう話だろ」
「おれも作戦の前に下見はしたが、そのとおりやね」
「人質を簡単に手離させるな、そうラファエルに頼んだらどうや」
「その手はあるんやが、ラファエルは一味と深い関係持ちたがらんのや。今度の件も、勝手にわしたちが小屋を使うてる、そういうかたちにしたいのや」
笹岡と水田、光寺は、コロンブスに対し、人質だけ逃げられて、身代金が手に入らなかったら、元も子もないぞ。まず身代金の支払いが第一条件だ、その後五日以内に人質を釈放する、そう持ちかけてみたら、どうだ、そう強く主張した。
「よし、湧谷のワイフか娘に身代金を持ってこい、と要求してやろう」
コロンブスはいって、マニラ市内の線路際の家に出かけて行った。
連絡を終えて帰ってきて、
「同時交換は駄目だ、まず身代金を湧谷和子か真理子に持たせて、こちらの指示する場所に届けさせろ、といったら、猛烈に反対された。金を持たせてやったら、女まで誘拐される危険がある、なんていうんだな。すぐ精神的にパニックにおちいりやすい女を誘拐する気はないよ、といったら今度は双方同時に金と人質をカトリックのシン枢機卿のところに届ける、という方法はどうだ、といいやがった。おれはロドルフォ、あんたもフィリピン人ならわかるだろうが、フィリピン人で、シン枢機卿を信頼している人間がおるのかね、といったら、あいつも笑いだした。まあ、こっちのいいぶんを真剣に考えておけ、そういって電話を切ったよ」
翌日、誘拐グループとの電話のテープを聞いたあと、セキュリティ・コントロールのキンレッドは、
「私は相手に金を渡してしまっていい、とおもう。電話のやりとりを聞いての感じだが、信頼していい、とおもいますな」
と意見を述べた。
「今日の電話で、だれもミスタ・ワクタニの生命を奪うことは望んでいない≠ニいっていたけど、彼らは最初から金が目当てだ、といっているんだから、たしかに殺す理由はないでしょうね。警察に追いつめられているわけでもないんだしね」
アンジェリカもそう主張した。
「そりゃ、欧米流の意見だな。人間は常に理性的にすっきりした理由があって動く、そういう常識から出てくる意見だろう。しかしここはアジアだぜ。切り裂きジャックみたいなのが、うろうろしてるんだ」
屋敷は反論した。
「これまでの誘拐の手口、トリック写真の使いかた、巧妙な脅迫状の送り先などから考えて、相手が切り裂きジャックとはおもえんな」
キンレッドはいった。
「金は渡す。しかし金を受け取ってから何日以内にミスタ・ワクタニを解放するのか、解放の際には身なりを小ぎれいにさせて、タクシー代くらいの金を持たせろ、とかそういう細かい条件をつけて、話を進めよう、というのが、私のアドバイスだ」
「こりゃ、一歩間違えば、湧谷が死体で帰ってくる場合も覚悟せんといかんな」
屋敷はながいこと、老眼鏡の縁をぱたぱたいわせて折り畳んだり、拡げたりしていたが、
「東京の社長に連絡するが、私の意見はゴーだ。止むを得まいな」
そう決断した。
「問題は金を運ぶ人間だろう」
そこで弁護士のロドルフォ・バウサが口を挟んだ。
「私の感触では、やはり聖職者だ、とおもう。枢機卿は駄目だというが、司教クラスの神父なら相手は呑むとおもうね」
「神父か」
アンジェリカが伸彦を見た。
「あんた、カトリックの信者でしょう」
伸彦は頷いた。
「安原、ここはひとつ、フェルナンデス神父にお願いしてくれんかな」
屋敷がいった。
三月八日、宮井物産社長が極秘裏にマニラに飛来、コラソン・アキノ大統領に面会した。
「お国の政府と相容れないかたちで、事件が解決されるかもしれませんが、ご了承下さい」
社長が理解を求めると、アキノは、
「フィリピン当局で解決できることに限界もありましょう。宮井物産が独自で解決をはかられても、止むを得ないでしょうね」
そう答えた。
フェルナンデス神父に会うのも、神経を使う必要があった。
シスター・エミリーの世話で、ドミニコ女子修道院で、屋敷は伸彦、アンジェリカとともにフェルナンデス神父に会い、協力を要請した。
「やっと聖職者に出番がまわってきたか」
フェルナンデスは会心の微笑を浮かべた。
「今どきの神父は、人の命を救うケースに何度も出会えるものじゃない。神に感謝しよう」
そこで、伸彦は栄光学園時代の癖が出て、「先生」とフェルナンデスに呼びかけた。
「先生、相手は神父がひとりで車を運転してやってこい、といってるんです。先生、車の運転は大丈夫ですか」
「馬鹿をいっちゃいかん」
フェルナンデスは稚気を見せて、胸を張った。
「わしはあの車成金の日本で車を運転していたんだぞ。フィリピンの田舎を走るのなんぞ、屁《へ》みたいなものだ」
三月二十四日、犯人側から最後の連絡があり、金銭の授受と湧谷釈放につき、最終的な打ち合わせが行なわれた。
三月二十五日昼過ぎ、フェルナンデス神父はニューヨークで調達した米ドルの中古紙幣を三十万ドルずつ入れたふたつの布の袋を車に載せ、犯人側の指示どおり、マニラ北方パンパンガ州ダオへ出発した。
伸彦は不安で、平服のシスター・エミリー、目立たぬ恰好にサングラスをかけたキンレッド、アンジェリカと一緒に、距離を置いて、フェルナンデスの車を追って行った。
フェルナンデス神父は、指定された午後二時にダオの記念墓地に入った。ダオの記念墓地には大きなキリスト像を描いた看板が立っているので、遠くから目に立つ。
フェルナンデスは犯人側が送ってよこした指図書と地図を頼りに大きな個人廟の裏側に車を止めた。
フィリピンの墓地、特に有産階級の墓地は貧民街のトンドの住民あたりがさぞや羨《うらや》み、憎悪するに違いないほど、豪華なものである。日本の建売り住宅のような真四角な廟堂がならんでいる一角もあれば、小さな教会堂のように、屋根に十字架をつけた二階建ての立派な廟もある。青と赤の屋根瓦を葺《ふ》き、その上に、青い龍が身をくねらせている廟は、中国系住民の墓である。
フェルナンデスは犯人の指示どおり、車のドアを全部開け放し、自分以外、だれも乗っていないことをはっきりさせた。
それからこれも指示どおり、ふたつの袋をぶら下げて目の前のおおきな廟堂に入った。
廟の正面に何者のものとも知れぬ、古い棺が安置してあり、棺の上に空のサン・ミゲールの瓶が置いてあった。
フェルナンデスは十字を切ってから、瓶を取りあげ、これも指示どおり瓶を床に叩きつけて割った。
瓶のなかに新しい指示書が入っていて、床の上でひらひらしている。
読んでみると、「徒歩で北へ一キロ歩き、レストランに入って清涼飲料水を飲め、四十五分後にレストランの前でトライシクルを掴まえ、六キロ離れた隣り町、アンヘレス市内にある聖マリア記念墓地へゆけ」と書いてある。
フェルナンデス神父は、すぐにもこの場で、金の受け渡しができるもの、とおもいこんでいたから、手続きの煩《わずらわ》しさに「やれやれ」と気落ちした。
「これは生きては帰れんかもしれんな」とおもった。こんなに複雑な手続きを要求するのは、警察の尾行を恐れてのことだろうが、しかしそれは同時にフェルナンデス神父が殺害されても、だれにも気づかれぬ、という意味でもある。
フェルナンデス神父はふたつの袋をぶら下げ、立ちならぶ廟の間を歩きだした。気のせいか、廟ひとつひとつの裏に犯人一味がひそんでいて、じっと自分の動きを四方から監視している気配を感じる。
緊張して歩く一キロの道程は馬鹿に遠かった。
ローマン・カラーの襟もとに汗が溜るが、それが冷や汗のようにもおもえる。
――こんな臆病者では、北朝鮮に連れてゆかれても殉教はできぬわ。
自分の臆病さにフェルナンデスは腹を立ててわざと道の真ん中に金の袋を置いて、上着を脱いだ。
上着をかかえて歩きだすと、行く手にみすぼらしい木造のカフェが見えた。
フィリピンの田舎町によくある、日本の昔の氷屋みたいな、戸のない店で、そこで神父はセブン・アップを飲んだ。店は何の変哲もなく、店の奥の丸椅子に老婆が両足を拡げ、だらしなくすわっている。
「神父様、今日はお独りで、お知り合いのお墓にお参りかね」
「まあな、死んだ友だちの好物を持って、遠路はるばるやってきたのさ」
タガログ語で話しながら、テーブルの上に置いたふたつの袋を眺めた。
時計を眺めながら、セブン・アップを飲んでいるうちに、持ち前の度胸が据《すわ》ってきた。
「お婆さん、神父が墓地で死んだ例はあるかね」
老婆は眼をしょぼしょぼさせて、両手でこすった。
「暑さで倒れなすった方は知っとりますが、その方が死になすったかどうかは知らんなあ」
「土より出でし者は土に帰るんだからな。土の上で死ぬのがあるべき姿かもしれん」
フェルナンデスは店の前にいつの間にかバイクに座席をつけたトライシクルが停まっているのに気づいた。ちょうど四十五分が経っていた。
店を出て、トライシクルの運転手を眺めたとき、フェルナンデスは、「これは兵隊だな」と感じた。
躰《からだ》がフィリピン人の平均に比べて分厚く、面がまえにどこか不敵なところがある。フィリピンの民衆は一般に神父に対して、こんな態度は取らず、お世辞笑いのひとつもするのが普通である。
「アンヘレスまでは何分かかるかね」
男は何も答えない。
トライシクルは猛烈に飛ばして、アンヘレス市内に入り、聖マリア記念墓地に入った。
ここも家のような、おおきな廟が並んでいる。ここには以前フェルナンデスは何度もきたことがあり、親近感があるから、気持がいっそう落ち着いた。
――こんなところで神父を殺したら、まわりの墓の死者が怒って飛びだしてくるぞ。
トライシクルは一軒の廟の前で停まった。
膝の上にかかえていた、ふたつの袋を持って、フェルナンデスが降り立つと、廟の後ろから、目出し帽の覆面をかぶった男がふたり現れた。
「ウェルカム・ツー・サンタ・マリア、ファーザー」
ひとりがいやに愛想よくいう。
「これが預ってきた身代金だ」
フェルナンデスが袋を差しだすと、ふたりの男がひとつずつ、受け取った。
見受けるところ、ふたりともフィリピン人である。
ふたりとも袋の中身を改めたが、金額は数えようとしない。
「三十万ドルずつ、合計六十万ドルと聞いているが、金を勘定しなくていいのかね」
逆にフェルナンデスが訊ねた。
「いや、神父様を疑うと、罰があたります」
愛想のいいひとりがいい、目出し帽の下で笑った。
「|五 日 後《イン・フアイブ・デイズ》に、人質は解放されます」
男はいった。
フェルナンデス神父はアンヘレス市内で営業用のトライシクルを捉え、車の置いてあるダオへ戻ってきた。
伸彦たちは待ちくたびれて、墓地の入口のところまで車を進めて待っていたのだが、責任を果した解放感からか、フェルナンデス神父はえらく快活であった。
「伸彦、お前も神父になるべきだったぞ。神父というのは、世のなかで一番、安全な職業だってことが、今日、よくわかったな」
「湧谷支店長の解放については、なにかいっておりましたか」
「イン・ファイブ・デイズに解放する、といっておったよ」
「向うからの手紙にも、イン・ファイブ・デイズと書いてあるのでありますが、イン・ファイブ・デイズというのは、五日以内ということでありましょうか。それとも五日後ということでしょうか」
これは対策本部でも大議論になって、ウェブスターの字引を引いたりしたのだが、ウェブスターでは、五日経って、となっていた。
「英語じゃ、五日経って、という意味だろう。正確には何日後かわからん。十日後かもわからんよ」
とフェルナンデス神父はいった。
対策本部は緊張し、全社員が湧谷解放を待機する態勢を取った。
ある夜、疲れきって伸彦が自宅へ戻ると、電話が鳴った。
佐久間浩美からか、と現金にはずむ気持をおさえながら、受話器を取ると、
「金は渡したらしいな」
ラファエルの声であった。
「そういうことだよ」
「このまま、なにも起らなければ、湧谷は解放されるだろう。そのときはできるだけ早く日本に帰してしまえ。飛行機はチャーターしてあるんだろう」
「三月初めにチャーター契約はしてある。しかしなんでそんなに急いで帰国させなきゃならんのかね。第二次誘拐でも起る、というのかね」
「誘拐犯の背景がうるさい感じだな。警察がつっつきまわしたりすると、フィリピン国内で政治問題化する恐れがあるんだよ。警察やマスコミに手をつけさせずに、日本に帰してしまったほうがいい」
浩美との寝物語に、誘拐事件に北朝鮮とそして日本の左翼グループが絡んでいるのを感じ取っていたが、それにフィリピンの政治勢力までが絡んでいる、とは意外であった。
「それはそうと、この間、マニラのホテルでめし食ってたら、アンジェリカが男と一緒に入ってきたよ。あら、ラファエル、こんなところで、なにしてるの、そういうから、おまえこそ、サングラスかけて、髪を黒く染めてなにしてんだって、訊いてやった」
するとアンジェリカは、「私はこの友だちに会いにきただけだけど、あんたは今度は女の子の代りに男をトイレに監禁してるんじゃないの」といった、という。
昔、語学学校の学生時代、アンジェリカはラファエルのいたずらで学校のトイレに閉じこめられたことがあり、その意趣ばらしにそんな皮肉をいったらしい。
「アンジェリカの連れの男というのが、それがさ、おまえ、そっくりなんだ。アンジェリカのやつ、このひとタツヒコというの、そう紹介してたが、姓はいわねえんだ。あれはおまえの兄弟かなにかか」
へえ、インドネシアにいる龍彦のやつ、おれには内緒でアンジェリカに会いにきているのか、と伸彦はおもった。
湧谷昭生は三月後半に入って、体力、精神力ともに限界がきたようにおもった。
「もう一週間、もう一週間」と自分にいい聞かせて、まずい魚のフライを食おうとするのだが、まるで食欲が出ない。おまけに手錠をはめられた部分がすっかりかぶれてしまって、かゆくてたまらない。
それでもなんとか気力を保てたのは、三人の監視人、木の壁の向うにある監視事務所というか、その部屋にいる十人近い連中の態度が目に見えて、変ってきたからである。
いらだつ湧谷が、
「いくら宮井物産を脅しても、おれのために金なぞ出さんぞ」
毎日、日課のようにわめいても、以前のように無視したりしなくなった。
湧谷が「お不動さん」と呼んでいる、レスラーのような男などは、にやりと笑って、
「宮井はおまえのことを考えてるよ。そんなに買いかぶっちゃいないが、少しは考えてるよ」
手を大きく拡げて「これほどじゃないが」といい、今度は十センチくらいの距離に両手の間隔を縮めてきて、「このくらいはな」といった。
――宮井との交渉が大詰めにきているのかな。
湧谷は想像したが、蚊だらけのこの部屋にいると、そんな考えかたは希望的観測としかおもえなかった。
三月末のある夜、突然湧谷のもとへ目出し帽をかぶったビッグ・ジョーがやってきた。そして監視人に湧谷の手錠と足鎖を外させた。
「ミスタ・ワクタニ、あなたに長いこと、辛い時間を過ごしていただきましたが、この事件は終了《オーバー》しました。あなたは明日、身なり、服装を整えていただいたうえで、明後日、解放される予定です」
湧谷は床にあぐらをかいたまま、ビッグ・ジョーを睨んだ。
「解放する、というのはどういう意味だ。人生から解放する、つまり殺す、という意味か」
ビッグ・ジョーは両手を拡げ、天を仰ぐジェスチュアをしてみせた。
「長期間、拘禁されていたあなたが、お疑いになるのも無理はありませんが、われわれは必要のないことはやらんのです。あなたを殺す必要はなにもありません」
相変らずイギリス訛りの英語で冷静に答える。
「あなたはここがどこか知らないし、われわれの名前も知らない。警察だって、あなたの話を聞いてもなにも判断する材料がない。あなたを自由にしたところで、われわれにはなんの損害もありませんよ」
湧谷は手錠と足鎖を外され、隣の監視人室に連れてゆかれた。
事務机にタイ産のウィスキー「メコン」が置かれ、ガラスの厚いコップがふたつ置いてあった。
机を挟んで、湧谷はビッグ・ジョーと向い合ってすわった。
「あなたの忍耐力に心から敬意を表します」
ビッグ・ジョーは勿体ぶっていい、「乾杯《チアーズ》」とウィスキーのコップをあげてみせた。
湧谷は誘拐犯に評価されて、妙な気分だったし、突然解放される、といわれても、まるで実感が伴わない。
「とにかく私は今日まで生き延びることができた。多分、あなたのリーダーシップがしっかりしていたからでしょう。あなたのリーダーシップに敬意を表します」
そう答礼のコップをあげた。
四カ月ぶりに飲むウィスキーは喉をひりひりと焼きながら、熱湯のように胃に浸みいってくる。
ビッグ・ジョーは目出し帽の口もとをまくりあげて、酒を飲んでいる。
「私が解放されるというのは、あなたがたは目的を達したということか」
湧谷は訊ねた。要するに会社は金を払ったのか、と聞きたかったのである。
「われわれとしては充分に目的を達しました」
ビッグ・ジョーは自信ありげにいった。
もしかして何百万ドルという大金を宮井物産はおれのために支払ったのか、とおもい、湧谷は肩を落した。
ビッグ・ジョーはじっと湧谷の様子を眺め、
「金額面では甚だ不満足です。しかし別の意味で目的を達しました」
意味不明のことをいう。
「あの程度の金額の支払いなら、宮井物産社員としてのあなたの将来にも影響は出ないでしょう」
湧谷は会社復帰後の自分の人生が、初めて現実感を伴って迫ってくるのを感じた。
「あなたは役員寸前の位置にいるんでしょう。酒やマージャンも好きだが、仕事も抜群にできる、と聞いていますよ。帰って重役ということになる。これだけ拘禁生活に耐える力があったんだから、私が宮井物産の社長なら、あなたを副社長に推しますよ」
ビッグ・ジョーは生真面目な口調でいった。
事実、湧谷は同期トップの成績で、八級職という重役直前の地位にいる。
「いや、もう絶望的だな」
湧谷は首を振った。
「日本ではとにかく騒ぎを起した人間、目立ち過ぎた人間は出世できないんだ」
そういってウィスキーを呷《あお》った。
「会社にはえらい損害をかけた。身代金も損害をかけたうちだが、間接費がおおきいだろうな。東京とマニラの間を人が大勢往来したろうし、商売は中止同然だったろうしな」
会社に復帰できたら、それだけでも幸運なのだから、あとはどうでもよかろう、と湧谷はおもった。富岡八幡の本祭りでも楽しみにして、余生を送るか、と静かな気持になって考えた。馴染みの芸者たちの顔がちらほらと浮かんでは消える。
「ところであなたがたは新人民《NPA》軍か」
湧谷は周囲で自動小銃をかまえている連中を見まわして訊いた。
「NPAにしては、いやに|統 制《コントロール》が取れているような気がする。だいいちNPAの指揮官がイギリス訛りの英語を話すなんて、不似合いじゃないか」
「これは、これは、こちらが訊問されているようですな」
ビッグ・ジョーはいい、
「これきりお目にかかれないか、とおもいますが、まあ、奥さまとマージャンでもやって、お元気にお過ごしください」
湧谷夫婦がマージャン好きなのを熟知している口ぶりである。
「ビッグ・プロモーションがあって、あなたが副社長になられる日の近いことを期待しております」
握手の手を差しだした。
翌日、湧谷はよく切れない剃刀《かみそり》で、伸びっ放しの髭を剃られ、髪を刈られた。さらに白髪の混った髪を黒く染めさせられた。白い半袖のワイシャツにカーキ色の長ズボンを与えられ、靴は誘拐時の茶色の靴を返してくれた。
翌日の夕刻、サングラスをかけさせられ、二百ペソと小銭少々を与えられた。サングラスの上からまたガムテープを貼って目かくしされ、車に乗せられ、約二時間ほど走った。
粘着テープが剥がされ、
「ここで待っていろ。そのうちひとがくるだろう」
誘拐の時にもいた、中国系の男にいわれ、湧谷は車を降りた。車はすぐに走り去り、湧谷は茫然として、周囲を見まわした。
眼の前にフィリピン名物の教会があり、その前をジョギングしている男がいる。ジョギングしている男がいる光景に、湧谷は新鮮な感動を覚えた。これは間違いなく、「日常的な世界」なのだ、とおもった。
突然ジープニーがやってきた。
湧谷はジープニーなどに乗った経験はなかったが、運転手に向って、
「ここはどこだ」
と怒鳴った。
「ケソンだよ」
うさんくさそうに運転手がいう。
「マカティにゆきたいんだがね」
「途中まではゆくよ。途中で別のジープニーに乗りかえろ」
湧谷は途中で降ろされ、そこで通りかかったタクシーに乗りかえた。自分が役員を兼務しているマニラ・ガーデンホテルに乗りつけた。
支配人はマニラ日本人社会の有名人だったが、湧谷がカウンターから呼び出すと、幽霊を見たような顔になった。
「支配人、今日は何日ですか」
「三月三十一日ですよ」
「誘拐されたのが去年の十一月十五日だから、今日で何日目になるのかな」
「それにしても、湧谷さん、あなた、お元気ですな」
支配人は驚いた表情である。
足鎖をひきずったまま、ジョギングをしていた効果が現れているのか、多少ふらつくものの、足腰はそんなに弱っておらず、足取りもおもいがけず軽かった。
「電話を貸していただけませんか。会社や松山参事官に連絡しないといかん。松山参事官にはゴルフ・ボールをあげる約束になっていたのに、渡さないままに誘拐されてしまいましたからな」
10
対策本部は「イン・ファイブ・デイズ」を五日経って後と解釈していたが、息をひそめるようにして待った五日目の当日にはなんの音沙汰もなく、湧谷が突然解放されて、おなじダスマリナス・ビレッジの長田の家に落ち着いたのは六日後のことであった。
安原伸彦経由ラファエルや顧問弁護士のロドルフォ・バウサの忠告もあり、その後の宮井の行動は迅速を極めた。
解放された深夜、湧谷は大使館が手配したクラーク米軍基地の病院に入り、翌四月一日、午後四時にはマラカニアン宮殿にゆき、コラソン・アキノ大統領と会見した。
このときも湧谷はしれっと落ち着いたもので、両手を拡げて、手の指の無事なところを見せ、「指は十一本あります」などとジョークをいう余裕を見せた。
翌二日には、夫人の和子と娘の真理子が午前十一時半にマニラ到着、同日午後五時二十分には、あらかじめ契約してあったチャーター機で家族揃って日本帰国という素早さであった。
こうしたやりかたが「フィリピン側を無視した」と非難される種になったが、フィリピンに一日でも長く滞在すれば、複雑な現地の政争に巻きこまれる危険をなんとなく当事者たちは予感していたのである。
パサイの教会の執務室で、フェルナンデス神父は、佐久間浩美に向い、
「今頃、東京は湧谷昭生解放をめぐって、大騒ぎだろう」
といった。
「神父さまの周辺も少し騒がしくなるかもしれませんよ。身代金を運んだのは神父さまらしい、ということもなんとなく知れて、日本の通信社が取材を申しこんできていますわ」
浩美は答えた。
「私は答えられることは堂々と答えるつもりだ。なにも喋らないと強盗団は安心して、また日本の企業を狙うよ」
神父はいって、
「浩美、あんたはどうするつもりかね」
と訊いた。
「日本の学校はちょうど四月の新学期が始まるところなので、浩一を取り敢えず埼京市の小学校に入れてこようか、とおもっています。佐久間の伯父から電話があって、伯父が二、三日じゅうに迎えにくる、といっております」
そこで浩美は改めて頭を下げた。
「神父さま、ほんとうにお世話になりました」
開け放した執務室へ浩一が入ってきた。
「ママ、下の庭にキティのおばさんがきててさ、ママに会いたいって、いってるよ」
「キティゴンが?」
浩美はフェルナンデス神父と顔を見合わせた。
日本の警察庁は日本赤衛軍の動向を掴もうとして、フィリピンの警察に依頼し、この教会にフィリピンの刑事を数名、送り込んでいる。いわば浩美は囮《おと》り役としてここに残されているので、刑事たちの目的はキティゴンの訪問を待ち受け尾行することにある。この前、籐家具店の女主人と現れたときは、キティゴンは籐家具店の裏から、隣家を伝ってたくみに姿をくらましてしまった。
神父と一緒に下の庭を覗いてみると、教会堂の横の石段に、キティゴンが肩を落してすわっている。
「ぼく、キティのおばさんにこんなところにくると危険だよ、すぐ帰ったほうがいい、っていったんだけど、おばさんは、わたし、なにもわるいことしてないよ、平気なんだよ、っていってるんだ」
「浩美、行ってやりなさい」
神父がいった。
浩美は階段を降り、庭へ出て、石段にすわるキティゴンに歩み寄った。キティゴンは顔をあげ、照れたように微笑を浮かべて、すわったまま、
「ごんにちは」
例の少し濁る日本語で挨拶した。
「わだし、タイへ帰るよ。それで浩一とヒロミにさよならいいにきだ」
「へえ、タイに帰ってしまうの」
浩美はキティゴンとならんで石段に腰をおろした。
「それでひとりで帰るの」
キティゴンは黙り、それから首を振った。
「あのひとはね、ダッカのハイジャック事件のとき世話になった日本の男と離れられないの。あの男のおかげでプリズンから出られた、いうてね、恩義いうのか、タガログ語のウタンナ・ローブがある、いうわけよ」
キティゴンは浩美がすべての事情を知っているかのごとく語る。
「だけどこのままじゃ、あのひとどんどん危ないほうへ連れていかれてしまうよ。だから、わだし、一生懸命、話した。そして一緒にタイにゆくごとにしだ」
「それはよかった」
そう相槌を打ちつつ、あの「アンクル」と称し、「加藤」の偽名を名乗る男が、そんなに簡単に組織を離れ、タイなどへ逃げだせるものだろうか、とおもった。
ふいにキティゴンは、
「ヒロミ、わだしのこと、怒ってるか」
そういって浩美の横顔に目をあてた。
「わるい連中と一緒になって、ヒロミをだまして、北朝鮮へ送りこんだ。可愛い浩一をさらって、自分の子どもみだいにしてた。ヒロミ、これ、怒ってあだりまえだね」
「そんなことないわ。浩一をちゃんと育ててくれて、日本人学校にも通わせてくれて、ほんとうに感謝してるわ」
少くともキティゴンには感謝している、と浩美はおもった。もし親子ふたりともあの北朝鮮に拉致され、別々に引き離されていたらどうなっただろう。考えただけでも肌に粟粒が生じてくる。
「わだし、浩一、ほんとうに可愛がっだよ。最初の一年くらいはママ、ママいって泣いてたけど、小学校に入る前だったかな、おばさん、ママはもう生きてないんだよね、そういうてね、ママの顔描いた絵を持ってきた。ぼく、ママをおがむから、おばさん、一緒におがんでくれ、いった」
キティゴンの意外な打ち明け話に、浩美は眼の前が霞む気分になった。
霞む視野のなかに、庭の門からボーイ・スカウトの一隊が二列になって入ってくるのが見えた。五、六人の制服の一隊をやはり制服の大人が引率しているが、大人のほうは明らかにフィリピン警察の刑事である。
むろんキティゴンの動きを監視するためだろう。覆面パトカーが教会の周辺に集まり始めているに相違なかった。
「ヒロミにちっとも似ていない絵だったけど、わだし、一緒におがんだ。そしたら、ぼぐにはもうおばさんしかいないいうてね、抱きついてきた。わだし、可愛くてさ、その夜は浩一を抱いて寝たよ。夜中にあのひとが帰ってきて、わだしのふとん、はいでさ、いくら可愛くても股に挟んで寝ちゃいかん、いうて怒ったんだよ」
キティゴンはまた照れたように笑った。
ボーイ・スカウトの一団はゆっくりと庭を行進して、浩美とキティゴンの前を通り過ぎてゆく。
「だから浩一もキティのおばさんは漫画見てご飯食べても怒らなかったとかね、すぐにキティゴンを引き合いに出して私に刃向うのよ」
「嘘だよ。浩一もいい加減だよ。わだしだって、漫画読みながら、ご飯食べたら、怒ったよ」
そういいながら、キティゴンはじつに嬉しそうに笑った。
「それはそうと、あなた、安全にこの国を出られるの」
キティゴンは頷いた。
「あのひとの顔を整形で変えてしまうよ」
そんな冗談ともつかぬ顔でいう。
浩一が早足で、庭を横切ってきた。
「おばさん、もう帰ったほうがいいよ。帰るときは家具屋のおばさんの家に寄ったほうが安全だよ」
片足を石段にかけ、キティゴンの耳もとで囁いている。
あの籘家具店を利用しても、今度は裏口にも徹底的に見張りがついているだろうに、と浩美はおもった。
「浩一、またタイで会おうね」
キティゴンは浩一を横抱きにして背中を叩いた。
「おれ、あのおばさんの田舎の家、大好きだよ。またゆきたいよ」
そういいながら、浩一はまっさおな顔をして、ボーイ・スカウトのリーダーのほうを見ていた。
数日後の夜、マニラ市エルミタ地区のアパート、「カサブランカ」のダビトの部屋に水田、笹岡、光寺が顔を揃えていた。
「この前、滋山同志と決めたとおり、次の目標は八八年ソウル・オリンピック粉砕や」
笹岡がいった。
「まあ、オリンピック施設破壊して、ソウルは危険や、オリンピックは中止や、そういうことになれば、大成功やね」
そこで笹岡は胸のポケットからフィリピンの旅券を取りだして、他の二人に見せた。顔写真は笹岡だが、名前はフィリピン人、ベンジャミン・アルカンタラ、三十歳、となっている。
「これを使って、日本へしのびこんで様子、探ってくる。ソウルとなると、日本をベースにせにゃならんやろからな」
そこで光寺を指差した。
「あんた、爆弾博士やろ、猛烈な爆発力があってな、みつかりにくいプラスチック爆弾を何十箇か都合せいや。梁《ヤン》のおばさんのブラジャーのなかにでもかくせるようなやつをな、考えてくれや」
テレビを見ていたダビトが、
「おい、見ろよ」
と、ふいに大声を出した。
テレビには、軍服を着た将校が何かしきりに喋っている。
「あれはコロンブスやないか」
コロンブスとは「翻訳作戦」司令部解散とともに円満に別れたのだが、そのコロンブスらしき男がこともあろうにフィリピン国軍の軍服を着て喋っている。
眼鏡はかけていないが、眼鏡を取って顔をこする場面を何回か見かけているから、皆コロンブスの素顔は知っているのだ。
「なんだよ、この番組は」
水田はダビトに訊ねた。
「国軍改革運動のリーダー、グレゴリオ・プラガナン少佐だよ。当局に追われて、地下に潜っていたんだが、ラコラス参謀総長の特赦で軍に復帰した、というんだ」
コロンブスことグレゴリオ・プラガナン少佐はコラソン・アキノの容共政策をしきりに攻撃している。
「ま、人生とはこんなものよ」
水田がうんざりしたような声を出した。
「アキノに恥かかせて、ラウレルにも身のほどをおもい知らせて、次期大統領はラコラスという線に持って行ったんだから、大功労者だな、コロンブスのやっこは」
「しかしこら危険なことになってきよったで」
笹岡が冷静にいった。
「コロンブスには裏の事情を知っている日本赤衛軍の存在が邪魔になってきよりますわ。つぶしにかかってくる前に、こちらも行方くらまさんとあかんわ」
[#改ページ]
十一 最 終 目 標
日本赤衛軍の水田清とおもわれる男が、日本の関西地区にしきりに出没していた。
フィリピン警察から日本の警察庁に、キティゴンの夫とおもわれる男の写真が送られてきて、当人は「ベンジャミン・アルカンタラ」というフィリピン名を使い、八月十八日に成田空港に入国の予定、という連絡がきた。
警察の尾行が始まったが、水田とおもわれる男はどういう用件があるのか、関西の日本赤衛軍シンパの男女の家にしきりに出入りし、寝泊りしている。
ある日、男は阪急デパートの紳士物の洋服売り場に立ち寄った。女子店員たちと相談し、あれこれと吟味した挙句、グレイの夏の既製服を買った。
男が立ち去り、別の刑事が尾行するのを見届けたうえで、刑事は紳士服売り場の女子店員に近づき、警察手帳を示した。
「今の男は左手の指が二本、欠損していなかったかね」
水田は刑務所服役中、工作機械で左手の指二本を欠損しており、それが本人特定のきめ手になる筈であった。
「そんなことあらへんわ。ねえ、今のお客さん、指は五本ともちゃんとしてはったよねえ」
ひとりがいうと、他の年輩の店員が確信ありげに、
「指はちゃんとされてましたよ。少し袖を縮めるか縮めんかで、私、あのお客さんの手を、目《めえ》の先で見ましたけど、ごくふつうの手でしたよ。時計はなんか知らん、外国のを嵌《は》めてはったけどね、指は別に変りあらへんでしたわ」
刑事は唸った。
「きみたちは日本語で、あのお客と話したのか」
「あたしら、英語はよう喋らへんわ、そやけどあのお客さん、日本人は日本人でも関西の人や、おもいますねん。初めから終りまで、関西弁やったわ」
警察庁外事課、赤衛軍調査官の盛山は、部下と一緒に埼京市の平安堂家具店を訪ねた。あらかじめ佐久間賢一に連絡を取り、彼の家に戻っている浩美と浩一にもきて貰っていた。
「どうも日本赤衛軍の連中が頻繁に日本に出入りし始めている兆候が窺えるんですがね、この男はいったいだれだとおもわれますか」
フィリピン警察から送ってきた、頭髪の禿げあがった男の写真、関西尾行中に撮影したおなじ男の写真を数枚、社長室の机にならべた。
「私は知らんなあ」
そこでソファにならんですわっている佐久間浩美と浩一に向い、
「きみたちは知っているか」
と訊いた。
浩美はじっと写真をみつめ、
「私は知りません」
といった。
「水田じゃありませんか」
「ロンドンでも学校で毎日顔を合わせていたし、マニラで監視されていたときも水田っていうんですか、加藤には毎日のように会っていたんですけど、この写真のひとはその加藤ではありません」
浩美もいいきった。
しかし浩一はひと目見るなり、
「ときどき、パラニャケの家にきていた、おじさんの友だちだよ」
即座にいった。
「名前は知らないけどさ、夜遅くにきたりして、おじさんとひそひそ話をしていたよ。タマをどうするなんて話をしていたのは、このひとだよ」
「ということはだ」
盛山は書類鞄から別の写真を取りだした。
「この男かね」
若い左翼活動家らしい男の写真である。
「よく似ているけど、ずいぶん、毛があるなあ」
と浩一は感心し、髪の毛の部分を片手でかくした。
「こうやってみると、あのおじさんだ。この写真はずいぶん若いときのでしょう。あれから、このおじさん、禿げあがっちゃったんだよ」
「そうなんだ。人間は年を取るものなんだ」
盛山は苦笑した。
「その男は何者ですか」
賢一が訊ねた。
「日本赤衛軍の笹岡規也のようですな。私たちはフィリピン側からの連絡で、水田とばかりおもいこんでいました。今や年月が経って、笹岡も水田同様に禿げあがったわけで、そこに気づかなかったのは、迂闊というべきですね」
さらに盛山は数枚の写真を示し、
「これはロンドンのスコットランド・ヤードが送ってきたのですが、IRA関係でマークしているアイルランド系英国人がいて、その老人とロンドンで結婚している日本女性だというんですがね」
「これは|梁 美善《ヤン・ミーソン》ですよ」
即座に佐久間賢一がいい、浩美も頷いた。
「駅の向う側で、ヤング・ゲーム・センターというパチンコ屋チェーンをやっている北朝鮮系の男の娘です。巨額の脱税が露見して今は店を閉めておりますがね」
「彼女にはほんとうに苦しめられました。むろん金日成、金正日も憎いけれど、一番、憎いのはこのひとだわ」
佐久間浩美は両手で胸を抱き締め、両眼をつぶって、沸き立ってくる感情を抑える表情になった。
「彼女は日本国籍も持っていて、梁《ヤンヽ》善子《よしこ》と名乗っておりますが、兄が北へ帰って、|車 明吉《チヤー・ミヨンギル》という名で、情報機関のいいところにいるんですよ。梁美善はパチンコ屋の実家は金があるし、嫁ぎ先も金持ちの老人だから、金に飽かせて世界じゅう動きまわって、日本人の美女を拉致《らち》してくる。それを兄貴の車《チヤー》が金正日に捧げて、兄貴はここまで出世してきた。いや、生き延びてきたということのようですな」
「ママも美女だったから、さらわれたんだよね」
浩一がいい、浩美は赤くなった。
「そうじゃないのよ。ママは間抜けだったから、さらわれてしまったの」
急いで弁解している。
「ところで、安原さんとのご祝言がおきまりになったそうですね」
盛山は話題を変えた。
「はあ、十月に四谷の聖イグナチオ教会で、挙式の運びになりました」
喜色を浮かべて、賢一がいった。
「安原君も九月に転勤で、こちらに帰ってくるようですから、早速十月ということにしました」
宮井物産は湧谷事件のときのマニラ支店在勤者を次々と転勤させ始めている。社員やその家族に苦労させたということもあるだろうし、事件のなにかの余波に巻きこまれるのを恐れていることもあるのだろう。
「披露は三田の宮井クラブですが、盛山さんもご出席いただけませんか。浩美の救出ではお世話になりましたし、それに安原側に比べて、こちらの出席者が少いのですよ。この埼京市の田舎のえらいさんでは、新郎側のえらいさんと釣り合いが取れない。なにしろ天下の宮井ですからね」
賢一が頼んだ。
「用心棒代りに出させていただきますか」
盛山は笑った。
|梁 美善《ヤン・ミーソン》も日本赤衛軍の爆弾屋、光寺修二も東京にきていた。
梁の赤坂のマンションで、光寺は手製の時限爆弾を作っていた。
もともと光寺が例によって他人の旅券で日本にきたのは、韓国に潜入し、八八年ソウル・オリンピック施設の破壊工作に従事するためである。北朝鮮からひそかに運びこまれるプラスチック爆弾を日本人を装って韓国に運びこみ、それに時限装置をセットするのが光寺の役割であった。
しかしその行動に移る前に、梁美善は光寺に三十万円を与え、
「私としては、どうしても、佐久間浩美に死んで貰わないと、立場がないのよねえ」
といった。梁の兄は北朝鮮情報機関の大物だ、と聞いているが、その兄が「浩美殺害」を命じてきたのだ、という。
「兄は浩美を|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸に乗せて、帰国させます、なんて見得を切ったのに、うまくゆかなかったので、親愛なる指導者同志のおん覚えがよくないらしいのよ。ここのところはきちんと始末をつけて、兄の立場を救ってやらないとね」
光寺は「兄の立場を救いたい」という梁の言葉は口実に過ぎず、梁の浩美に対する私的感情が動機になっているようにおもえたが、三十万円という、小遣い銭に眼が眩んで簡単な時限爆弾の製造を引き受けた。
「結婚式の日にドカンと爆発して、佐久間一家がこの世から消えてしまったら、さぞかし清々《すがすが》しいでしょうねえ」
梁美善はほとんど夢見る顔になった。
安原伸彦と佐久間浩美の結婚式に出席するため、広島の金林忠清は細君を連れて上京、結婚式場の聖イグナチオ教会に近い、ホテルニューオータニに宿泊した。
結婚式前夜、やはり埼京市から上京してきた佐久間賢一と酒場で軽く飲んだが、その際、金林は、
「もう浩美さんは絶対、安全なんじゃろうね」
と懸念を口にした。
「たしかに湧谷誘拐事件は解決したんじゃろ。そやけんど、浩美さんのケースは未解決やないかね。梁《ヤン》や李《リー》といったかね、拉致事件の中心人物はまだぴんぴんしとるけん、わしは心配じゃよ」
そういったが、賢一は翌日の結婚式にすっかり心を奪われているふうで、
「梁の店はつぶれて、一族は行方不明だ。第一、ここは日本だぜ。明日は警察のえらいさんも出席するし、念のため刑事も二、三人、出してくれるらしい。日本赤衛軍にしても梁にしても、手も足も出せんよ」
そういいながら、しょっちゅう席を立っては、おなじホテルに泊っている浩美に電話して、翌日の細かい打ち合わせをやっていた。
翌日、上智大学の教会堂で、フィリピンからきてくれたフェルナンデス神父の司式《ししき》で、結婚式が行なわれた。伸彦も、そして今では浩美もカトリック信者だから、正式のミサが行なわれ、一時間以上もかかる式になった。
金林はこのミサにも出席し、そのあと両家の親類たちと一緒に、披露宴の会場の、三田綱町にある宮井クラブに移動した。
広い庭に古い西洋建築のクラブが建っていて、宮井の旧財閥各社が利用する宴会場である。
披露の前の諸行事、写真の撮影が終って、金林は一階の、古めかしいトイレに入った。
金林も男の中高年の常で、前立腺が肥大しており、小便が円滑に出ない。
旧式の便器の前にじっと立って、膀胱や尿道の気配を窺い、尿の出るのを待っていたのだが、ふとすぐ近くで奇妙な音の響くのに気づいた。
金林は使い馴れた補聴器をつけていたが、この補聴器は古いせいか、金属性の音に対して、敏感過ぎる傾向がある。奇妙な音はカチ、カチと規則的で、時計の音のようだ。
音は金林の立っている便器の傍らの、個室から聞えてくるようであった。
時計のような音はまもなく消え、なにかごそごそと包む音が続いた。
突然すぐ傍らのトイレのドアが開き、若い小男が出てきた。この会館のボーイなのか、白い上着に蝶ネクタイを締め、手に紙のショッピング・バッグを提げている。
金林の小便の音がなかなか聞えないので、男はトイレにだれもいなくなったとおもいこんでいたらしく、驚いて立ちすくんでいる。それから鏡の前で、蝶ネクタイのぐあいをチェックし始めたが、その頃になってやっと金林の小便が出始めた。
小便の音を聞きながら、金林の胸に疑惑が拡がり始めた。
――この男、なにか企んどるのとちゃうか。
若い男はウェイターらしからぬ荒っぽい態度で、大きな音を立ててドアを閉め、トイレを出て行った。
金林はトイレを終えると、細君に向って、
「今、新郎新婦はどこにおるんじゃ」
と訊いた。
「親族紹介が始まるところのようじゃね」
細君はいう。
金林は二階の親族の控えている部屋に上って行った。
なんと先刻のボーイ姿の小男が親族控室の前でうろうろしている。
短足の小男は金林に向って、
「新婦の佐久間浩美さまにお祝いの品物が届いておりますが、新婦はこちらの部屋においででしょうか」
少し急《せ》きこんだ調子でいう。
「わしが渡してやろう」
「いえ、フィリピンの方が見えて、直接お渡しするようにいわれておりますので」
男は逆らうように、手に提げたショッピング・バッグを金林から遠ざけて、背中のうしろにまわした。
先刻の時計の音は時限爆弾の音のようにもおもえたが、渡した瞬間に爆発するんじゃろか、と金林はおもった。それとも単純に目覚まし時計のお祝いが届いただけの話なのか。
「じゃ一緒に入ろうか」
部屋の真ん中に媒酌の屋敷夫婦が立ち、その前に新郎新婦がすわっている。部屋の両側に安原家、佐久間家、そして隠岐からきた浩美の親類がならんでいる。
ちょうど親族の紹介が始まるところだったが、金林は花嫁姿の浩美に向い、
「なにかフィリピンのひとからお祝いが届いたそうじゃよ」
といった。
「フィリピンのキティさまからのお祝いだそうです」
短足の小男はまた急きこんでいい、浩美にショッピング・バッグを差し出した。
「まあ、キティゴンから」
浩美は呟き、小男は、ショッピング・バッグを浩美の椅子の横に置いた。
短足の小男が急ぎ足で出てゆくのを見るや、金林は、
「浩美さん、このお祝いはわしが受付に預けておこう」
そういって、浩美が椅子の横に置いたショッピング・バッグを取り上げた。ショッピング・バッグは袋を三重に重ねてあって、そのなかにリボンをつけた箱が納まっている。ひどく重くてその重さが金林の危機感をあおった。
――あと何分、もつのか。
「それでは安原家のほうより、親族を紹介させていただきます」
安原伸彦の父親の声を聞きながら、部屋を出た。
控室の前で、金林は細君に、
「広島からお祝い包んできた、紫の縮緬《ちりめん》の風呂敷あったじゃろ。あれ、貸してくれや」
宝石箱のような、重い箱を取り出し、紫の風呂敷に包んだ。
風呂敷をぶら下げ、階段を降りてゆくと、私服刑事に見とがめられたらしく、小男のウェイターが大柄の男ふたりと押し問答をしている。突然小男は広い庭の方へ走って逃げ出した。刑事たちが追いかけてゆく。
――逃走の時間に五分は見ているじゃろう。
たとえ、この風呂敷包みが時限爆弾だったとしても、あと五分やそこらは爆発しない、ということだ。
金林は会館の表に出た。
ぐるりと見まわすと、道路の向うの端にジャガーが一台、停っている。
ジャガーの運転席には黒の私服を着た女がすわっている。
それまで金林はどこか安全な、人気のない場所に風呂敷包みを捨てる気だったのだが、ジャガーを見て立ちすくんだ。
――あの運転席にすわっている女は|梁 美善《ヤン・ミーソン》じゃなかろうか。
憎悪というか、敵意というか、そんな感情がゆっくりと金林の胸にひろがって行った。
それは佐久間浩美の襲撃犯人が憎い、というのとは別種の感情であった。自分たちが「北送」した九万人の在日同胞の大半が殺されるか、それに近い目に遭っているその陰に、こういう女がぬくぬくと生きていて、勝手に気ままに振舞い、今は日本の女を拉致しては兄の車《チヤー》を通して、金正日の後宮《ハーレム》に送りこんでいる。
金林忠清は佐久間賢一が弟を北送したのを見て、実妹一家を送り返したが、この一家もまたあっという間に「病死」してしまった。
憎悪に押し出されるようにして、金林はジャガーのほうへ歩きだした。風呂敷に包まれて聞こえない筈の、時計の音が補聴器にはっきり響いてくる気がした。
――おれはどうなろうとかまわんけん、あの車に辿りつくまで、爆発するのを辛抱して貰えんかな。
女がこちらを振り向いた瞬間、金林は「この女が梁美善じゃな」と確信した。今日は機密を保つためか、運転手を雇わずに、梁美善は自分で運転してきたらしい。
「キティさんのお使いの方じゃな」
ドアを開けて、金林は訊ねた。
「ええ」
梁は曖昧に頷いた。
「これ、佐久間浩美からキティさんにお礼に渡してくれ、頼まれたんですわ」
金林は紫の風呂敷包みをジャガーの助手席に置いた。
「くれぐれもよろしく伝えて欲しい、そういうとりました」
梁美善は戸惑った顔で、風呂敷包みと金林を交互にみつめていたが、金林は委細構わず、
「じゃ失礼させて貰います」
とドアを閉めた。
そのあとは気持を落ち着かせるために、ことさら歩調をゆるめた。
梁は金林の出現に不安を抱いたのだろう、急に車を発進させた。
車が角をまがって五、六分経った頃、遠くで爆発音らしい音が響いてきた。
宮川クラブに戻った金林は細君に向い、
「なんか妙な音がしよったな。パンクじゃろか」
そう呟いたものであった。
宮井クラブでの結婚式は、一階ホール中央の木製の大階段を、新郎新婦が腕を組み、降りてくる華やかさが一番の目玉といっていい。
「転ぶのだけは勘弁してくれよ。一生、出席者に冷やかされるぞ」
兄の龍彦にいわれて、伸彦の緊張は頂点に達していた。
むしろ浩美のほうが開き直ったように、落ち着いた態度である。
白のウェディング・ドレスがまことに華やかで、エキゾチックな美貌が匂い立つばかりだ。
「伸彦さん、待ちに待った日なのよ。もう少し嬉しそうな顔をして」
造美にそういわれても、伸彦は頬の辺がひきつる気がするばかりで、笑いにならない。
「私は緊張性でありまして、おまけに劇団にいて、舞台に出た経験もありませんし、心臓が喉から飛び出そうであります」
やがてウェディング・マーチが鳴り響き、伸彦は浩美に腕を強く支えられながら、赤いカーペットを敷いた大階段を降り始めた。
階段の半ばまでは足もとばかりが気になったが、真ん中の踊り場に降り立ったとき、
「ナガスネ、日本一、マリリン、世界一」
大声が響き、激しい拍手が起った。
階段の真下、フェルナンデス神父の横に湧谷昭生、和子夫婦が立っており、湧谷が口でメガフォンを作り、そう叫んでいるのであった。
無事に階段の下に降り立つと、湧谷が両手を大きく拡げて近寄ってきた。
「お目出とう」
その向うに佐久間賢一夫妻とならんで、金林忠清夫妻も微笑を浮かべ、しきりに拍手していた。
笹岡規也はあまり冴《さ》えない気分で、十一月二十一日十九時五十分、日航64便でマニラから香港経由成田空港に到着した。
五月には「ベンジャミン・アルカンタラ」のフィリピン人名義の旅券で入国したが、今回は沖縄出身の調理師、伊良波某の数次旅券を、使用していた。
マニラ在住の沖縄の貿易商を通じ、「金になる仕事」と伊良波に持ちかけ、旅券申請に必要な書類を十万円で買い取り、自分の写真を添えて大阪で申請、前回来日時に正式に受領したのであった。
前回日本を出てから、笹岡は精力的に動きまわった。
北京で車《チヤー》や李《リー》と会い、プラスチック爆弾の調達を打ち合わせた。プラスチック爆弾の一部は漁船の船底に隠されて、すでに日本に持ちこまれている筈だった。
この冬には、|梁 美善《ヤン・ミーソン》が日本のOLの間に韓国スキー旅行が流行しているのに眼をつけ、シンパの女性数人をこのOLスキー一行に参加させる予定になっている。腰にうすく引き伸ばしたプラスチック爆弾の帯を巻きこませ、彼女らに韓国まで運ばせよう、という腹づもりだ。
その傍ら、笹岡は日本赤衛軍の機関誌に「ソウル・オリンピック単独開催は日米韓帝国主義勢力が打ちあげる反革命の狼煙《のろし》だ。民主を求める韓国人民とともにソウル・オリンピックを粉砕しよう」などと、相変らず観念的で激越な、アジ演説ふうの文章を綴っていた。
しかしそのあとギリシャからベッカー高原に入り、滋山久子と打ち合わせを行なったのだが、滋山が、北朝鮮側との共同作戦にはっきり消極的な態度を見せたのは心外であった。
「この作戦は笹岡同志、光寺同志、水田同志の三人でおやりなさい。われわれはパレスチナ解放に専念します。今度の作戦ではダビトは役に立たないだろうからPFLPに返します。いいわね」
滋山はまるで絶縁するような口調で、そういいわたしたのである。
「それはないでしょう、同志。われわれのルーツは天皇制打倒。日帝のアジア進出粉粋にあったんやないですか」
「とにかく日本赤衛軍の組織をあげて北朝鮮に協力することは不可能よ」
笹岡はしきりに主張を繰り返したが、パレスチナ解放を活動の第一目的に置く滋山と、「アジアの革命勢力の結集」を幻想する笹岡との間の亀裂は拡がるばかりであった。
「ありゃ、正式の三行《みくだ》り半かいな」
さすがに重苦しい気分で、笹岡は成田に降り立ったのである。
日本旅券を提示してなんなく出入国管理を通り抜け、鞄二個をぶら下げて、リムジンのバスに乗った。バスに乗るとき、東京の夜気が馬鹿に肌寒く感じられ、「ソウルはもっと寒いやろな。外套、買《こ》うてゆこかいな」と笹岡はおもった。
このあと、笹岡は伊良波名義の旅券でソウルに入り、現地の北朝鮮側情報網と連絡を取ることにしており、ふところにはすでにソウルゆきの航空券が入っている。
がらんと空いた箱崎のターミナルビルに着いた笹岡は、公衆電話に歩み寄り、赤坂の梁の家を呼びだした。しかし信号音が鳴るばかりで、だれも出てこない。
――あのおばはん、もう女の子たち連れて、ソウルへスキーに行ってしもたんやろか。
しかしまだ十一月でスキーには早いし、今日あたり笹岡が成田に着くことは梁も知っている筈である。笹岡は軽い不安に捉われた。
ほかのシンパの家を呼びだそうと、手帳を繰ったとき、笹岡は背後に人の気配を感じた。
「あなた、旅券を見せていただけませんか」
声がした。
男が三人立っている。
笹岡はすぐに刑事と気づいたが、平静を装って、伊良波名義の旅券を示した。
目の前の男は旅券を繰って、
「これは他人の旅券ですな」
といった。
笹岡は足もとの鞄を掴むなり、逃げ出そうとしたが、ほかのふたりにたちまち取りおさえられた。
笹岡は旅券法違反で逮捕されたが、所持品が警察庁の盛山のところに運びこまれてきた。
偽装のためだろう、沖縄関係の書物やフィリピンの輸入自由化に関する公刊資料などが入っている。金は日本円二百万円、それに米ドルを主として、ドイツマルク、フィリピンのペソなどの外国紙幣が二百六十万円ほどあった。
外事課員のひとりが数字のリストを持ってきて、手袋をはめた手で米ドル紙幣のナンバーをチェックし始めた。
三十分ほどかかって、
「ぴったりですな。笹岡所持の米ドル紙幣は全部、このリストに載っています」
といった。
「つまり、湧谷昭生の身代金として宮井物産が支払った米ドルを笹岡が所持していたんだな」
「そうです。笹岡が湧谷誘拐事件の主犯かあるいは犯人グループの一員、ということになります」
湧谷昭生の身柄解放のための身代金は、ニューヨークの東京正金銀行経由アメリカの警備会社系列の金融機関に頼んで用意したのだが、身代金専門のこの種のアメリカの金融機関は中古紙幣を何百万ドルと用意していて、即座に都合してくれる。
しかもその中古紙幣のナンバーは全部控えてあって、そのリストを添えてよこすのである。
「それにしても、どうして日本赤衛軍は身代金《ランサム》を香港あたりで洗濯しなかったんでしょうな」
外事課員が首を傾《かし》げた。
「あの連中は身代金《ランサム》を使うのに慣れていないんだろう」
盛山はいった。
「ダッカ・ハイジャック事件のときも、身代金は全部、シリア政府に差しだしちまったようだしな」
ダッカの事件から大分経ったのち、シリアの外交筋から、
「われわれはダッカの事件の際のシックス・オレンジスを保管している。日本政府への返還も配慮しているが、いかなる形による返還が適当とおもわれるか」
という打診があった。
この話は結局立ち消えになったが、シックス・オレンジスがダッカの事件の際の乗客の身代金、六百万ドルを差すことは明白であった。
「彼らがシリア占領下のベッカー高原に本拠をかまえていられるのも、あのときの敷金、いや礼金のお陰ですな」
外事課員が呟いた。
「梁《ヤン》は交通事故で半身不随だし、笹岡と光寺は逮捕した。残ったのは水田だけだな」
盛山は呟いた。
「問題なのは笹岡がソウルゆきの航空券を持っていることだ。すぐNSP(韓国の国家安全企画部)に連絡したほうがいい」
マニラにひとり残った水田清は、笹岡が逮捕されたと聞いて、最初はコロンブスを疑った。
コロンブスはあちこちで誘拐事件の真犯人は新人民《NPA》軍だという密告を開始しており、NPAのスケープ・ゴートが何人か検挙され、いい加減な自白調書が作られ、世界に流され始めている。その真犯人追及の余波が日本赤衛軍に及んできて、笹岡が逮捕されたとしても不思議はなかった。
しかしどうもコロンブスの筋ではないらしい、と水田はおもい始めた。だいたい「翻訳作戦」終了後、水田も笹岡もケソンを引き払い、マニラの下町を転々として所在を変えている。簡単に見つけだされるとはおもえない。
「どこからバレやがったのかな」
最近はもっぱらガード役として雇っている、ダビトの従弟という触れこみのホセに水田は訊いてみた。
「キティじゃないかね」
ホセはいった。
「私の想像だけど、キティは浩一に会いに行ったんじゃないか。そのあとを警察に尾行されてね、キティのところに出入りする男の写真、片っ端から撮られて、尾行もされて、身もと割りだされたんじゃないかね」
「この前の作戦じゃ、皆、寄ってたかってフィリピンの警察を虚仮《こけ》にしちまったからな。意地になっておれたちをつけまわしてんのかもしんねえな」
水田は日本語で呟いた。
「いずれにしても、ミスタとキティは別に動いたほうがいいね。危ないよ」
ホセの忠告に従い、水田はキティと別行動を取ることにし、ときどき夜闇に乗じてこっそり目立たぬホテルで会うことにした。
水田が最後にキティゴンに会ったのは、マニラ市内、ヒワンド地区の中級ホテル、ニュー・フォーチュンの一室であった。
水田は出国に際して、人相を変えるため、マカティ・メディカル・センターで、植毛、整形手術を受けていた。禿《は》げあがっている前額部に後頭部の毛髪を皮膚ごと移植する手術で、移植は終っていたが、額に移植の縫い目の跡が赤い糸目のように残っている。まるでかつらをかぶったあんばいである。
「あんさん、ほんと若くなっだよ」
キティゴンが水田の顔を眺めて面白そうにいった。
「その傷治ったら、キティとおない年に見えるよ。それならうまくフィリピン、出られる、おもう」
ふたりは明日の病院での最終チェックが終ったら、船で島伝いにタイへ逃げこむ算段をしていた。
「明日、万事OKってことになるとはおもうけどよ、万一ってこともあるから、キティゴン、この通帳を渡しとくわ。おまえの名義で金が入ってるよ。おれがけえってこねえときはよ、この金でバンコクにサリサリ・ストアかなんか、買ってよ、ひとりで生活してゆけや」
水田はキティゴン名義のPCI銀行の通帳を手渡した。
「これは今度の作戦で貰った、まっとうな手当てよ。心配する種類の金じゃねえよ」
水田はそういってから、
「これじゃ、まるで新派大悲劇ってやつじゃねえか」
と照れ笑いをした。
「おれもよ、おまえに会ったおかげで、ほんと、いいおもいをさして貰った。羽田を出るときはこんなフィリピンくんだりまで流れてきて、何年かにしろよ、おまえみたいな若い女と一緒に暮らせるなんて考えもしなかった」
水田は日本赤衛軍から超法規出国のメンバーのひとりに、突然指名され、羽田空港で飛行機に乗りこんだ朝のことをおもいだした。
やっと東の空が白みだしたなかに、特別機のDC‐8が停まっており、大勢の新聞記者やカメラマンが囲むなか、フラッシュの閃光を浴びつつ、水田は足取りもおぼつかない気分でタラップを上ったのであった。
日本赤衛軍には、きわめて凶悪なグループという漠然としたイメージがあり、自分は殺されるかもしれない、と水田はおびえていた。しかし乗客の身代りになって死ぬのも自分の運命かもしれない、ともおもっていた。「一寸の虫にも五分の魂よ、テキヤにも義侠心はあるんだ」、そうおもいながらも、待ち受ける未知の運命に恐怖心がつのった。それが、タラップを昇る水田の足取りを酔ったようにもつれさせたのであった。
待ち受けていたのは兵火にさらされる中東でのコマンド生活と、そしてダッカ・ハイジャック事件以来、なにくれとなく面倒を見てくれ、気質も合う「笹やん」との生活であった。
ハイジャックされた乗客を救うという意味もあったのだし、コマンド生活はあれでよかったのだろう。しかし北朝鮮との共同作戦の実施、つまりは佐久間浩美の北朝鮮への拉致《らち》と宮井物産マニラ支店長、湧谷の誘拐、これはおれの人生にとってどういう意味があったのか。単純に日本赤衛軍へのお礼奉公というには、問題が大き過ぎたのではないか。
「キティゴン、わかってくれや。ダッカでハイジャックされたお客だってよ、ちゃんと生きて日本に帰れたんで、おれは感謝されていいんだよ。ただよ、おれは佐久間浩美に対しちゃ、それから湧谷昭生に対してもよ、ちっとやり過ぎたかもしれんとおもうよ。しかしはっきりいえるのは、その代り、笹やんや日本赤衛軍に対する義理は返した、そういっていいんじゃねえかね」
「そんなごと、わがってるよ」
キティゴンはPCI銀行の通帳を握りしめて、泣いていた。
「わだしはね、あんさんの、そういう弱いどころが好きなんだよ。日本の刑務所のながでもそうだったらしいけど、いつもよそのひとに利用されでさ、日本語でなんていうの、使い捨でね、使い捨でにされて、それでもあんさんは使い捨でされでることもわがらない。ありがだい、ありがだい、って繰り返しで結局、一生刑務所で暮らすのさ」
水田は一瞬胸を衝《つ》かれた。返す言葉が暫く出てこない。
「キティゴンは優しい女よ。おれの剥《む》く果物でも食ってくれ」
ホセが差し入れてくれたマンゴーの果物を籠からだし、部屋に備えつけのナイフで、水田は器用に皮を剥いていった。
――母親に果物なんぞ剥いて貰ったことのないおれが、なんで女に果物剥いてやってるんだ。
水田はそうおもった。
キティゴンという、アジアの女の持つ度量というか、果てしのない寛容さのようなものが、自然に自分を衝き動かし、果物の皮を剥かせているのだ、とおもった。
「あんだ、もうあだしと会えない、そうおもっでるんだね」
「いや、いつかは必ず会うさ。しかしおれの人生ってのはさ、うまくゆきそうになるときに、必ずなにか起ってわるい方向に流されるのよ」
獄中で起したトラブルがそうだった。水田は模範囚で、もう一年もすれば出獄できたのに、同房の病気に悩む囚人に対する、刑務所側の冷酷な態度に同情し、悲憤|慷慨《こうがい》の挙句《あげく》、看守襲撃の挙に出て、模範囚の経歴も一年後の出所予定もすべて棒に振ってしまったのである。
泣きながら、マンゴーを握っているキティゴンを置いて、水田はホテルを出た。
翌日、六月七日十一時、マカティ・メディカル・センターを出たところで、水田はフィリピン警察に逮捕された。
ただちに日本に移送されることになり、公海に出るのを見計らって、機上で逮捕状を執行され、手錠をかけられた。
[#改ページ]
エピローグ
その年一九八七年の十月末、北朝鮮|平壌《ピヨンヤン》の東北里の招待所、二階の応接室で、|李 仲麟《リー・チユンリン》はふたりの男女と向かい合っていた。
ひとりは七十歳を越えた病弱そうな老人だが、もうひとりは二十二、三歳に見えるうら若い娘だ。娘は鼻が高く切れ長の眼が美しく、知的な印象を漂わせている。
「接待員に聞かれないために、日本語で話しよう」
李は親娘ほども年の開いたふたりにいった。
「すくにね、車《チヤー》部長がこられて、あんたかたに新しい工作の指令をたすかね。これは大変大事な命令たよ」
李はイラン側に手をまわして貰ってフィリピン沿岸警備隊から|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸とともに解放され、北朝鮮に帰国した。妙香山丸を利用して麻薬やらウィスキーやらを運び、その際ピンハネをして儲けた金を金正日に献金して、朝鮮労働党対外情報調査部の課長に就任することができたのであった。
親娘のようなふたりは対外情報調査部の第一課に所属する工作員であった。
まもなく対外情報調査部長の|車 明吉《チヤー・ミヨンギル》も現れ、若い娘に向かいこれも日本語で、
「やあ、同志《トンム》、またきれいになったな」
そういって豪放に笑った。
生真面目そうな娘は緊張の度が強いらしく、返事もできず、硬《こわ》ばった笑いを浮かべた。
「金《キム》同志《トンム》、胃の手術をされたそうで大変でしたな。しかし日本語をこれほど話せて、日本の事情に精通しておられて、日本人に偽装できるのは、同志しかおらんのですよ」
車《チヤー》は病弱そうな老人に向かって言葉をかけた。それから顔を引き締めて、
「ご存じのとおり、八八年ソウル・オリンピック阻止がわれわれの現在直面しているおおきな課題です。われわれも、なんとか外国の革命組識と組んで阻止を図ろう、としてきたが、それも難しくなってきた。このうえは自力で阻止を図らなくちゃならん」
親娘のようなふたりの工作員は押し黙って、車の顔をみつめている。
「そこで親愛なる指導者同志、|金 正日《キム・ジヨンイル》書記から親筆命令≠ェ出た」
「親筆命令」というのは、金正日自身が自分で立案し、メモして指示を与えた特別命令ということなのだろう。
「ふたりで南朝鮮の旅客機を爆破して貰いたい、そう親愛なる指導者同志はいっておられるのです」
ふたりは呆気に取られた顔をしている。
李は「このふたり、たまけてるな」とおもい、優越感に似た感情を味わった。
「南朝鮮は海外に労働者を送って、外貨を稼がせている。この連中はいわぱ産業戦士、つまり兵隊とおなちなんたよ。この兵隊たちの乗っている飛行機を爆破すれぱ、オリンピックに参加する連中も、恐くてソウルにゆけなくなって、パルパルオリンピックも中止になるよ」
李は口を添えた。
「どこでいつ爆破するんですか」
老人の工作員が訊ねた。
「まあ、バクダッドあたりで、ソウル行きの大韓航空機に爆弾を仕かけることになるんだろうな」
車がいった。
車は妹の美善《ミーソン》が半身不随となり、世界から女性を拉致し金正日に献上するのが不可能になってきたので、自分の地位防衛に必死という気持が露わであった。
「それで、ふたりは蜂谷真一と蜂谷真由美という日本人名義のパスポートで工作に出かけることになるが、もし蜂谷真一同志が病気で倒れるようなことがあったら、真由美同志ひとりででも、必ず任務を遂行しなくてはならん」
蜂谷真由美と呼ばれた娘の白い頬が紅潮し、一瞬視線がひるむように流れたが、すぐに両眼がなみなみならぬ決意をたたえて光り始めた。凜々《りり》しいと形容したくなる表情である。
――世界の歴史のなかで二十歳そこそこの娘に百人以上乗っている旅客機を爆破しろ、と命ずる国があるだろうか。そこがわが国の革命性の高いゆえんであり、金正日書記の偉大なところだ。
と李は大真面目に考えた。自由主義国家の国民は民族としての高い理念を欠いているから、若い娘にそんな苛酷な命令は決して出せないだろう、と。
「十一月の十二日にな、平壌、ベルリン間の定期便が開設されて初フライトが出る。これに乗って出発するんだな」
車はいった。
一九八七年十一月二十八日、アブダビ発のソウル行き大韓航空858便はバンコク到着直前に爆発、墜落した。
[#地付き]〈完〉
〈底 本〉文春文庫 平成七年十二月十日刊
初出誌 『週刊文春』一九九二年七月九日号〜九四年一月二十七日号
単行本 一九九四年四月 文藝春秋刊