深田祐介
暗闇商人(上)
上巻 目 次
プロローグ
一 発   端
二 ロンドン戦争
三 平壌フライト
四 恐 怖 国 家
五 強制収容所T
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プロローグ
天井から顔に冷たいものが落ちてきて、佐久間|浩美《ひろみ》は眼を覚ました。
飛行機の天井の空調機から水滴が浩美の顔にしたたり落ちている。顔の半面が泣いたように濡れていた。
飛行機はもはや揺れていなかった。
時計を見ると、針は四時を指している。ベルリン、コペンハーゲン間の飛行時間は一時間足らずの筈だから、とっくにコペンハーゲンに到着している筈の時刻であった。
佐久間浩美は自分が眠りこけて、コペンハーゲンで降り損ない、とんでもないところへ連れてゆかれようとしているのではないか、とおもい恐怖に駆られた。
それにしても、コペンハーゲンに着いたら、引率者格のアンクルこと加藤洋造や息子の浩一が起しにきてくれてもよさそうなものではないか。アンクルや浩一はどこにいるのだろう。浩一は昨夜から風邪を引いていて、ベルリンでは食欲もなかったが、風邪のぐあいはその後どうだろう。
「浩一を探そう」とおもい、浩美はベルトを外して立ちあがった。この飛行機は変っていて、座席に水色の座ぶとんが敷いてあり、それがお尻にくっついていて、ぱたりと落ちた。
先刻、傍の席にいた、日本人女性の梁善子《ヤン・よしこ》がくれた薬が効いたらしく、頭痛はほとんど消えているが、頭の芯がまだぼんやり霞み、足もとがふらついた。
立ちあがってみると、浩美がいるのは、通路を挟んで、左右に二席ずつ座席の並んだ客室である。二席ずつ並んだ座席は幅が広くて、ファースト・クラスのようであった。
異様なのは、お客の姿がなくて、座席の背がまるで倒木のように前倒しにしてあることであった。先刻、薬をくれた梁という女性の姿も見当らない。梁のすわっていた左手の席には、やはり水色の座ぶとんの上に彼女自身の私物らしい、高価そうな膝かけが置いてあるだけだ。
後部のエコノミー・クラスに向って、浩美はおぼつかない足取りで歩きだしたが、通路には、浩美がかかえていたのと同じ赤いバケツが置いてある。雨漏りのように天井の空調機から水滴が落ちていて、赤いバケツはその水を受けるための容器らしい。
左側の席で、女の泣き声が聞える。立ち止って眺めると、アジア系の、少女のように若い娘がうすっぺらな毛布で首もとまで躰《からだ》を包みこみ、眼をつぶったまましきりにしゃくりあげている。フィリピン人のように見えたが、泣きかたが激しく、ときどき絶叫に似た声が混じる。とても声をかけられたものではない。
調理室の隣に下へ降りる階段があった。これも異様で、二階建ての飛行機など、浩美はそれまで見たことがない。
トイレの前を過ぎ、エコノミーの境のカーテンを開くと、一番前列にすわっていた軍服を着たアジア人の男が、バネ仕掛けの人形ように立ちあがった。横合いから、先刻、バケツや水を持ってきてくれたのとは違うアジア人のスチュワーデスが現れ、浩美をカーテンの外に押し戻した。
ちらりと見ただけだったが、エコノミーにもあまり客はなく、軍服姿の男が十数人、いただけのようであった。
エコノミーには、アジアの軍事顧問団のグループが乗っているような空気である。
やはり胸に中年の男の顔のバッジをつけたスチュワーデスは無言のまま、カーテン手前のトイレのドアを開き、浩美の背を押した。
トイレに入ると、床に土足の跡があり、便器のなかが黄色く泡立っている。浩美は便座に敷く紙を探したが、そんなものはまるで見当らない。トイレット・ペーパーもなくて、麦藁《むぎわら》の透けて見える藁半紙のような落し紙が洗面台のわきに積んである。
浩美は落し紙を便座に敷いて用を足したが、驚くほど多量の尿が出た。こんなに多量の尿が出るのは、ずいぶんながいこと用を足していないということであり、つまり長時間眠っていたということになりはしないか。
一時にベルリンを出て、四時過ぎにまだ飛行機が飛び続けている、とはどういうことなのだろう。
浩美は不安に胸が重苦しく閉ざされてきて、便座から立ちあがった。
習慣的に手を洗おうとしたが、石鹸が見当らない。手拭きの紙もなくて、ピンクのよれよれのタオルがぶら下っていた。
ふと手洗いの周辺に、雌雄の別を示す、生物学の記号のような文字が記してあるのが浩美の目についた。ドアのロックの部分にも、おなじ文字が書いてある。そういえば先刻、赤いバケツのなかに敷いてあった新聞紙にも、おなじ文字が並んでいた。
――ハングル文字だ。私はSAS(スカンジナビア航空)機に乗るつもりが、大韓航空機に乗ってしまったのではないか。
浩美は眼が眩《くら》んだようになって、トイレのドアを開いた。
調理室の隣の階段の下から、梁善子が肥ったアジア人と外国語で話しながら上ってきた。男はすぐにエコノミーのカーテンのなかに消えた。
「ご気分よろしい?」
梁は相変らずにこやかで親身な表情である。
「あたくし、ちょっと飛行機を見学してたの。この飛行機の台所は地下室にあるもんですからね」
「私、大変なことをしてしまったらしいんです」
浩美はいった。
「私、ベルリンからコペンハーゲンにゆくつもりだったんですが、酔ってしまって、乗る飛行機を間違えてしまったらしいんです」
「あら、大変じゃないの」
善子が頬に手をあてて、心配そうに眉を寄せた。
「あたくしもね、あなたが飛行機に乗ってくるなりお寝《やす》みになってしまったので、どうなすったのかなって、心配してましたのよ。だけど、まさか乗り間違えたとはおもわなかったわ」
「出入国管理を出るまでは、割にしっかりしていたんですけど、そのあとひどく酔ってしまって、航空会社のひとに助けられてやっとこの飛行機に乗ったんです」
「それはお困りねえ。どうしたらよろしいかしら」
梁善子も困りきった表情になり、うつむいて腕を組んだ。
「しかたありません。この飛行機、ソウルに着くんでしょう。ソウルからヨーロッパに引き返します。とんだ寄り道をしてしまった」
苦い後悔が浩美の胸いっぱいにあふれ、胃を締めつけてくる。
「この飛行機、ソウルにはゆかないのよ」
善子は浩美の顔をちらりと一瞥《いちべつ》していった。
「この飛行機はまもなく平壌《ピヨンヤン》に着くの」
「ピョンヤン? ってどこでしたっけ」
それから冷水を浴びたような、戦《おのの》きが浩美の躰を走り抜けた。
「平壌って北朝鮮ですか」
女は黙って頷いた。
「それは困るわ。それじゃこの飛行機で、このままヨーロッパに帰して下さい」
「難しいんじゃないかしら」
善子が気の毒そうに呟《つぶや》いた。
「困ったわねえ。この朝鮮民航の飛行機はね、ふつうの旅客機じゃないのよ。来年から平壌―ベルリン間に定期便が開設されるので、そのためのサーベイ・フライトなの。慣らし運転の飛行機なのよ」
おもいがけないことをいう。
「私は特別にこの飛行機に乗せて貰ったんだけど、私のほかは朝鮮民航の技術者やお役人ばかりなのね。平壌へ着いても、次のサーベイ・フライトがいつベルリンに飛ぶかはわからないのよ」
絶望のあまり、浩美は顔を両手でおおい、通路にしゃがみこんだ。
間違えて北朝鮮行きの飛行機に乗ってしまった? ほんとうだろうか。ほんとうだとしたら、私はなんとついていない女なのだろう。
飛行機は早くも平壌の空港らしい、だだっ広い飛行場に向けて、降下し始めている。
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一 発  端
一九八四年の十月、ウイーンのビル街にある日本料理屋のテーブルに、ふたりの日本人の男が向い合ってすわっていた。
当時のウイーンには、まだ本格的な日本料理屋がなく、この店も寿司から焼き鳥など、いずれも大味の料理を出す、いってみれば田舎料理屋然とした日本料理屋である。調理人も中国人で、ふたりのテーブルに置かれた焼き鳥にしても、串も太ければ、串に刺した切り身も不恰好におおきい。
遠くのカウンターで、痩《や》せた東洋人の男が頬のこけた横顔を見せて、酒を飲んでいるのが目立つくらいで、客のほとんどはオーストリー人で占められている。
ふたりの日本人の片方は四十代半ばの、額の禿げあがった、痩せた小男、もうひとりは四十前後の中背の男で、こちらは肥満気味だが、やはり頭髪は大分後退している。
ふたりとも生地の厚い格子縞《こうしじま》のシャツに、ノー・ネクタイ、職業不詳だが、美術館めぐりにヨーロッパにやってきた日本の画家かデザイナーのようにも見える。
肥満気味の男のほうが防腐剤のたっぷり入った日本酒の盃を舐《な》めながら、
「あんたもそろそろ尻のほうを気にせんかて、一杯やったらどうや」
柔らかな関西弁で小男に訊《き》いた。血色がよく、音程の高い声にも張りがあって、旅疲れの様子がない。柔らかな関西弁と釣り合うように表情も穏やかである。
話しかけられた小男のほうは首を振って、日本の焙《ほう》じ茶をすすった。
「ま、用心しとこうや。日本の刑務所からずっとひっぱってきた痔をよ、やっとフランスで|けり《ヽヽ》つけて貰ったんだ。暫《しばら》くの辛抱よ」
小男は、そう答えて、禿げあがった額を左手で撫《な》であげた。その左手は薬指と中指が欠損していて短いのが異様に見えるが、それを気にする様子もない。もともとは日焼けしていたらしい肌が青黒くくすみ、頬の肉も落ちていて、ひと目で病みあがりと分かる。
病みあがりの小男は水田清という。七年前刑事犯で北海道・旭川刑務所に収監されていた折、ダッカ・ハイジャック事件が起り、日本赤衛軍《にほんせきえいぐん》側に指名されて、いわゆる「超法規出国」をした。指の欠損は刑務所で使役中に誤って工作機械に切り落されて失ったものだ。
出国後は、ベイルートのPLO(パレスチナ解放機構)とパレスチナ解放闘争で共闘する日本赤衛軍に加わった。しかし二年前の一九八二年、イスラエルがベイルートに侵攻してきて日本赤衛軍はPLOとともにシリア占領下のレバノン北部にあるベッカー高原に逃げこまざるを得なくなった。
このベッカー高原に逃げる途中、水田はズボンの尻が真赤に染まるほど痔を悪化させた。それでも二年ほど薬でだましだまし、日本赤衛軍のコマンド(闘士)としてPLOの一派、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)とともに働いてきたのだが、戦乱の少し落ち着いたところで、水田は、目の前にいる肥ったほうの男、笹岡|規也《のりや》に付き添われてパリの病院に入り、痔の手術を受けたのであった。
「あんただからいうけどよ、またあのベッカー高原の山ん中に戻るのか、とおもうと、うんざりだぜ」
水田は湯呑み茶碗を両掌にかかえて、首を振った。
「おれは、あんたみたく秀才でなくてよ、千葉の海で、おふくろと海苔《のり》拾って育ったろくでなしなんだぜ。今までも役立たずだったが、これからも革命とやらのためにはお役に立ちそうもねえよ」
「なんもあんた、あわててベッカーへ戻る必要なんかあらへん。滋山《しげやま》女史かてヨーロッパで暫く養生してこい、そういうてくれてんのや」
笹岡が笑顔でそう慰めた。
笹岡は、十年前、東京・丸の内の重工業メーカー爆破事件を起した過激派「東アジア反帝武闘隊」のメンバーで、七年前に日本赤衛軍に合流した。だから赤衛軍のなかでは、ふたりとも外様組で、生え抜きではない。ダッカ・ハイジャック事件のとき、指揮をとった笹岡が超法規出国をして合流してきた水田を好意的に受け入れ、きめ細《こま》かく面倒見たこともあって、ふたりは気の合う仲になったのであった。
「しかし痔ケツを治して貰って、おまけに静養ってのは、気がひけてよう。ただでさえ借りがあるのに、これじゃ借金がいよいよふくれあがっちまうぜ」
水田はぼやいた。
水田は日本国内で殺人事件に巻きこまれ、無実を主張しながらも、殺人|幇助罪《ほうじよざい》で無期懲役の判決を受け、服役していた。服役中おなじ獄中で病気に罹った友人に同情して待遇改善闘争を起したが、それが日本赤衛軍にみとめられ、超法規出国の指名に繋《つなが》った。しかし赤衛軍に救出され、世話になっていることが水田の気持の負担になっている。ベイルートでもベッカー高原移動後もそれ相応の働きをして、PFLP内でもコマンドとして結構名を売ったが、それでも刑務所から出所させて貰ったという、大きな借りを返しきれたとは到底おもえないのだ。
「ほなら、養生やとおもわんでもええやろ。これは情報収集の旅行や。この店かて、シンパの集まる場所やて聞いとったから、寄ってみたちゅうこっちゃ」
「これがシンパの集まる店かよ。健全なアベックと野暮な田舎のとっつぁん、母ちゃんばっかじゃねえか」
水田はそう応じたが、ふいに痩せぎすの東洋人がこちらへ歩いてくるのが、眼に入った。先程からカウンターにすわってこちらに横顔を見せ、酒を飲んでいた男である。
男はふたりのテーブルに両手をかけ、
「ちょっとお邪魔《ちやま》します」
外国人としては上手な日本語で話しかけてきた。しかしどうやら濁音の発音が苦手のようである。
「皆さんのことは、|よと《ヽヽ》号で来鮮された方々から、いつも聞いています。私、朝鮮民主主義人民共和国大使館の|李 仲麟《リー・チユンリン》と申します」
そう名乗って、いきなり握手の手を差し出した。
気おされたぐあいで、水田と笹岡は腰を浮かせて李仲麟という男の手を握った。
イギリスの語学学校は大抵、古めかしい煉瓦《れんが》造りの建物に三角形のトタン屋根を葺《ふ》いた、まるで公立図書館のような外見である。ロンドンの南の郊外、テームズ河のほとりにあるパトニー市の語学学校も例外ではない。
十月初旬のその日、佐久間浩美は午後二時三十分にこの建物を出た。
浩美は初級にあたる一般英語コースのディスカッション・クラスというのを取っているのだが、九十分の午後の授業が終ったところであった。
浩美は学校の裏手の路上に駐車してある赤いオースチン・ミニのほうに歩いて行った。
昼休みに駐車料金の追加の小銭を入れておいたのだが、パーキング・メーターの針は時間切れの赤を指しており、ミニのフロント・グラスには、罰金徴収の請求書がワイパーに挟《はさ》んである。イギリスの|交通 警察官《トラフイツク・ウオーデン》はじつに几帳面《きちようめん》に不法駐車を取り締っていて、日本の警察とは比較にならぬくらい厳しい。浩美は、ちらりと舌を出して、ワイパーに挟んである紙を抜き取った。駐車違反の請求書を黒い革のハーフ・コートのポケットに突っ込んだ。
佐久間浩美は三十一歳、百六十七センチほどの背丈があり、あざやかな二重の眼や高い鼻、特に細面の頬の線の美しさが日本人離れした印象を与える女性である。
写真のモデルにも何度かなったことのあるエキゾチックな容姿の持主だが、伸びやかな眉やおっとりと厚目の唇のあたりに、なんとはない気品があった。
島根の隠岐島《おきのしま》出身で、東京の桐朋学園大学演劇科を卒業、某劇団に身を置いたこともあるが、この「気品」が女優志望には邪魔になった。
「きみは宝塚にゆくとよかったんだろうな。宝塚に行ったら、カルメン役くらい振って貰えたろうよ」
劇団の幹部にそういわれて以来、浩美の綽名《あだな》は「宝塚のカルメン」になった。要するに世間に通用しない「お嬢さん女優」といわれたわけで、この一言で浩美はあっさり女優志望を諦めた。
演劇同好会で知り合って、憎からずおもっていた他校の学生に求婚されると、すぐに結婚して家庭に入った。夫は埼玉出身で、そもそもは演出家を志望していたが、むろんそんなことは夢物語で、平凡なサラリーマンになった。
この夫が浩美と男の子ひとりを残して白血病で死んだのが、二年前のことである。一時は浩美も、前途を考えて途方に暮れたが、夫の伯父が救いの手を差し延べてくれた。東京のベッドタウン化しつつある、埼玉県内の小都市、埼京市駅前で家具店を経営する夫の伯父は、輸入家具を扱い始めていた。
「うちの店で、輸入家具の仕事を手伝ってくれないか。その前に旅行でもして気分を切りかえたらいい。イギリスあたりで少し英語を勉強してきたらどうだ」
そう親身にいってくれて、かなりまとまった金を出してくれた。夫は両親を早くに亡くしていて、この伯父が、親代りの保護者役を引き受けてくれていたのである。白髪、大柄のこの伯父、佐久間賢一の好意には、浩美も本当に感謝したものだ。
浩美は十カ月の予定で、このパトニー市へやってきた。まだ六歳の息子の浩一は隠岐島の実家に預けようか、とおもったが、こちらも老母ひとりで、どうも心許ない。結局浩一を連れ、「子連れ留学」をすることにした。伯父の佐久間賢一は「男よけのお守りになるかもしれんな」といって、「子連れ留学」に賛成し、留学資金を増額してくれた。
こうして浩美は伯父が調べて、推薦してくれたキングストン語学学校へ入学したのである。
語学学校の一般英語コースには発音のクラスや手紙の作文のクラス、ヴォキャブラリイのクラスなどがあったが、会話の上達を目指す浩美は一番効果の上りそうなディスカッションのクラスを選んだ。
浩美は入学手続きをすませると、子連れでは学校推薦の下宿屋に入るわけにもいかないから、地元の不動産屋へ行った。タウン・ハウスという、英国式というのか、横長に三、四十軒ほども連なった長屋の一軒を借りることにきめた。不動産屋の向いの中古車販売店にゆき、中古のミニをこれも先方の言い値で、即座に買うことにした。こうして十カ月の留学のスタートを切ったのである。
ミニの運転席にすわった浩美はエンジンのキイをまわしたが、ミニのエンジンはイギリス人の勿体ぶった咳《せき》ばらいのような音を立てて、なかなかかからない。やっとエンジンがかかると、踏みこみの甘い、浮きあがっている感じのアクセルを踏んだ。
遊びのおおきいハンドルを手もとに手繰《たぐ》りこむようにまわして、五分ほどの距離にあるチャイルド・マインダーの家に向った。
チャイルド・マインダーというのは、語学学校の事務局に教えて貰ったのだが、個人が自宅の応接間や裏庭を提供して、子どもを預かってくれる私立の保育所である。
イギリスの学校教育は五歳児からだから、六歳の浩一は、小学二年に編入して貰えるのだが、取り敢えず今年いっぱいはこの保育所で土地の空気に慣れさせることにしたのである。
チャイルド・マインダーの家の前にミニを停めると、浩一が応接間《レセプシヨン》の窓に顔をつけて、こちらを眺めていた。浩一ははっきりした眼鼻立ちが浩美にそっくりで、ひと目で「宝塚のカルメン」の息子とわかるのだが、性格のほうは父親似で、おとなしく小心であった。
今にも泣きだしそうな、情けない顔が母親の姿を見るや、眉が伸びあがり、安堵《あんど》の明るい表情になった。
スーパーの「テコス」で簡単な買物をすませ、テームズ河のほとりにあるタウン・ハウスに向うと、早々と陽は落ちて、陰鬱な薄闇の中、対向車線の車は皆、ヘッド・ライトを点《つ》けて走ってくる。
薄闇のなかに長々と連なる、古ぼけた煉瓦造りの長屋の一軒が浩美の借家だが、長屋にガレージはついておらず、行政区《バラ》の特別許可で、自宅の前の路上駐車が許されている。路上に駐車し、浩一を促して玄関に向うと、さすがに初めて異国で暮らす疲労感に、足もとが重くもつれる気がした。
「あのひと、日本人?」
玄関の鍵をまわす浩美に、浩一が訊いた。
振り返ると、上背のある若い男が、ミニの後方、街灯の明かりのなかに自転車を止め、片足を歩道にかけてこちらを見ている。鼻の下に口髭を生やし、ダウン・コートを着ている。自転車のハンドルの前の籠にスーパーの袋が見えてやはり買物の帰りらしい。
アジア人にしては足が長いな、とおもったが、なにより警戒感が先に立った。浩美は、
「さ、おうちに入ろう」
と浩一の背を押した。
男はぺこりとお辞儀をし、自転車をきしませて走り去った。
どうやら足の長い男は日本人らしかった。
ウイーン・プラーター公園の並木道である。
遠くにウイーン紹介のテレビなどに必ず現れる大観覧車が、晴れた空を背にゆっくりまわっている。
並木道のベンチに小肥りの笹岡規也、背の低い水田清、それに知り合ったばかりで、今日で会うのは二度目の北朝鮮大使館書記官の|李 仲麟《リー・チユンリン》がすわっていた。
痩せぎすの李は、安物の背広を着ており、洗いざらしのワイシャツの袖口がすり切れ、それを糸でぶざまに縫い合わせてあった。とても一国の大使館員とはおもえない、いでたちである。
「あんたらは、今、ふたりとも、偽名《きめい》てヨーロッパの旅行しとるんたよね。笹岡さんは平野貞一の旅券、使っとるんたろ」
笹岡は苦笑いして、顎を撫でた。
李は次に笹岡とならんだ水田のほうを覗きこんだ。
「あんたは加藤洋造の名前の旅券、使っとるんたよな」
こちらを覗きこむ李の額には水疱瘡の跡らしい穴がいくつか開いていて、鼻下にはひどい兎唇《としん》を縫合した跡が残っている。昨今の日本では両方ともとんと見かけなくなった傷あとだ。
「よくご存ちとおもうけれと、あんたらふたりの旅券はふたつとも、朝鮮民主主義人民共和国のほうて用意した。新潟と富山の海岸てね、日本人をふたり生け捕《と》りにして、うちの国へ連れてきた。日本にいる仲間がさ、生け捕りにしたあと、そのふたりの旅券を申請してさ、手にいれたのが、あんたらの旅券たよね」
李は北朝鮮がいかに日本赤衛軍に恩を売っているか、を強調したいらしい。
日本赤衛軍と北朝鮮の関係は「よど号」事件の昔から縁が深い。特に今年一九八四年の春、リビアのカダフィ大佐の主催でトリポリで開かれた国際テロリスト大会に、日本赤衛軍のリーダー、滋山久子も出席し、北朝鮮代表とも会談を重ねて以来、いっそう親密になっている。
ふたりが現在使用している旅券も、北朝鮮に調達して貰ったものとは知っていたが、まさか新潟、富山で拉致した男たちの名義のものとは知らなかったから、水田は憮然として空を仰いだ。
ウイーンの十月は早くも冬の気配が濃く、仰ぎ見る空は冷たく澄み渡っている。名物の大観覧車が空中に静止しているように、その冷たい青空に貼りついていた。
「そこてね、お願いなんたけと、今度はわれわれのためにね、旅券をひとつ、調達して欲しいんたよ。今度はお返しをしてくれ、率直にいってこういうことよ」
水田は笹岡と顔を見合わせた。
笹岡がふいににこにこと愛想のいい顔になると、李仲麟の機嫌を取るように、
「そやけど、日本人いうたかて、ぎょうさんヨーロッパにきてるわなあ。どこの誰の旅券でもかまわん、いわはりますのんか」
と訊ねた。
「いや、|すち《ヽヽ》のいい旅券てないと駄目《ため》ね。もちろん前科《ちえんか》もなくて、再発給もしていない、すちのいい旅券よ」
先進国の旅券は運転免許とおなじで、番号を見れば前科や思想傾向などすべてわかってしまうからだ、と李はいいそえた。
「ちゃんと心当りはあるんたよ。イキリスのロントンね、そのロントンの郊外にパトニーというところがある。そこにキンクストンという英語の学校がある。そこの学校にさ、留学してきたぱかりの佐久間浩美いう女性《ちよせい》がおるのよ。その女の旅券が手に入るといいんたよ」
李ははっきり固有名詞をあげた。
「平壌からこの佐久間浩美の旅券を盗め、そういうてきとるんたよ。てきれば、彼女を生け捕りにして、平壌へ連れてこい、いうとる。本人をそのままにしとくと、旅券の再発給を申請する。そうすると、折角盗んた旅券も使えなくなってしまう」
李は平然としていった。新潟や富山の海岸で日本人を「生け捕り」にする背景には、李の指摘するこうした事情も絡んでいるらしかった。
――こりゃ、ケツによくない話だぜ。
と水田はおもった。
それにしてもなぜ「佐久間浩美」という女でないといけないのか。水田にはもうひとつ李と北朝鮮側の真意が掴めない。
目の前の銀杏《いちよう》並木の彼方に、ミニ鉄道の線路があって、小型蒸気機関車が灰色の煙を青空に噴きあげて走っていった。
佐久間浩美が通っているイギリス、パトニー市のキングストン語学学校は、重厚な煉瓦建てにトタン屋根を葺《ふ》いた、図書館みたいな建物だった。地階には、イギリスの学生用語でキャンティーンと呼ぶ、三十坪ほどの簡易食堂がある。生徒はそこでサンドイッチにコーヒーかスープの昼食を摂る。
その日、浩美が地階に降りてゆくと、地階の廊下の奥にあるトイレのなかで女の悲鳴があがった。急いで浩美がトイレにとび込むと、
「だれかいないの、助けてよ」
端の個室のなかで、だれかが英語で叫びながら、古い木製のぶ厚いドアをどんどん叩いている。
「|どうしたの《ホワツト・ハツプン》」
浩美が声をかけると、なかから、
「ドアが開かないのよ」
甲高《かんだか》い声が、個室のなかから返ってきた。
浩美が表のノブを、がたがたと押したりひいたりしてみたが、樫《かし》の頑丈なドアは全然動かない。
「オッズジョブマン(雑役係)を呼んできて、ドアを開けさせてよ」
個室の女性はドイツ訛りのある英語で叫んだ。
浩美が、一階にある事務所に雑役係を呼びにゆこうと、踵《きびす》を返すと、トイレの入口に若い東洋人の男が立っていた。黒縁の眼鏡をかけ、紺のブレザーに青いワイシャツを着て、きちんとネクタイを締めているのに、なぜかジーパンにスニーカーを履いている。それがファッションなのか、上半身は会社員、下半身は学生といった感じの妙な恰好をしていて、片手にアタッシェ・ケースをぶら下げていた。
若いアジア系の男は浩美のやりとりを聞いていたらしく、のこのことトイレのなかに入ってきて、ドアの閉まった個室に向い、
「オッズジョブマンはおれが呼んでくるよ。だけど、あんたはだれなんだ」
かなり巧い英語で訊いた。
「あんた、ノブヒコね。私、アンジェリカよ。私、アンジェリカ・ウーファ」
中の女はほっとした感じの声を出した。
トイレの入口付近にはたちまち人だかりができていて、そのなかから一階の事務所受付で働いている、ちょっと|はすっぱ《ヽヽヽヽ》な感じの金髪娘のヘレンが出てきた。
ヘレンはトイレの前に立って、腕を組み、
「アンジェリカ、なんでこのトイレに入ったの。私がトイレのドアにINOPERATIVE(故障)と紙に書いて、貼っといたじゃないの」
「そんなもの、貼ってなかったわよ。私のクラス・メイトが女性トイレの端の個室の壁に、去年の試験問題が落書きしてあるっていうから、見に入ったら、出られなくなっちゃったのよ」
「そのクラス・メイトってだれよ」
ヘレンが追及した。
個室のなかの女性は答えない。
今度はヘレンとノブヒコがふたりがかりでドアのノブを押したりひいたりしたが、やはり厚いドアは動かない。
ヘレンは舌打ちをして、「この間もひとり出られなくなったから、貼り紙しといたのに」と機嫌がわるい。
「とにかくオッズジョブマンは、今日はロンドンの姉妹校のほうに行っていて、帰ってこないのよ」
「それじゃ、私はどうなるのよ」
個室の女性は泣き声を出した。
ノブヒコと呼ばれたアジア系の男は、浩美に向い、おもむろに咳払いした。
「便器というのは、英語で何というのでありますか」
日本語で訊ねた。
「便器なんて英語、私、知りません」
浩美はあわてて答えた。
「トイレットとかルーとかいえば通じるんだろうな」
男はぶつぶつと呟いた。ルーというのは便所の俗称である。
男はアタッシェ・ケースを床に置き、
「アンジェリカ、ルーの上に立ってくれ。おれがカミカゼ方式でドアにぶつかるからな」
そう叫んだ。
「OK」
個室の女性が便器の上に立つ気配がした。
ノブヒコと呼ばれた日本人の男は勢いをつけて、ドアに体当りした。ドアはがたがたときしんだが、やはり閉じたままである。
「わ|だ《ヽ》し、助ける」
妙な日本語の声がして、浩美の背後から、色白、小肥りの女性が現れた。これは一般英語にいる、浩美の同級生で、キティゴンと呼ばれる中国系タイ人の女子学生である。以前、バンコクの日本の土産物屋で働いていた体験があって、多少の日本語を喋る。
こんどはノブヒコとキティゴンが、一緒になってドアに体当りした。
つづいて、これも浩美の同級の、イタリア人の学生たちが次々と体当りに加わった。
ドアがばあんと音を立てて開き、痩せた色の浅黒いドイツ系の娘が両腕で胸をかかえ、まるで仏像のように眼を閉じて便器の上に立っているのが浩美の眼に入った。
それから一同は便器を降りたアンジェリカを囲むようにして、地下のキャンティーンへ入った。
隅のサンドイッチとスープの売り場で、昼食を買い、セルフサービスで食卓に運んだが、浩美はトイレ騒ぎがきっかけで、ノブヒコやアンジェリカとおなじテーブルについた。アンジェリカは騒ぎに衝撃を受けているらしく、ジュースしか取っていない。
ノブヒコは、また咳払いをして、床に置いたアタッシェ・ケースから名刺を取りだした。
「ご挨拶が遅れましたが、私、安原伸彦《やすはらのぶひこ》と申しまして、お宅のすぐ隣の集合住宅に住んでおります」
帽子を取って挨拶するぐあいに、黒ぶちの眼鏡を外した。眼鏡の下から三角形の血色のよい童顔が現れ、浩美はすぐに昨夜、家の前で見かけた、自転車の男と気がついた。
鼻の下の口髭は童顔をごま化すための細工だろうが、顔を引き締める効果は挙げている。名刺には日本語で、宮井物産、修業生、安原伸彦と刷ってある。日本で用意してきたのだろうが、住所は、宮井物産、ロンドン支店鉄鋼担当となっており、手書きで自宅の電語番号が書いてある。
浩美は口髭の童顔と名刺を見比べ、年齢は私より一、二歳年下だろうか、とおもった。
「私の英語力がひどいものですから、会社が呆れまして、お前、イギリスで修業してこい、ということになりましてね、文字どおり修業生として、この学校で修業させられているわけです」
男は眼をしばたたきながら、そう説明した。
この語学学校には、浩美の通っている初級の一般英語コースのほかにビジネス・コースがあり、ビジネス・コースでは安原伸彦や黙々とジュースを飲んでいるアンジェリカ・ウーファのような各国の企業から派遣されてきたビジネスマンやキャリア・ガールが勉強している。こちらは入学試験も厳しく、授業内容も高く、いわゆるエリート扱いで、一般英語コースとは別世界を形成している。
「私、佐久間浩美と申します。伯父が埼京市で家具屋をやっていて、その輸入のほうの仕事を手伝うことになったんです。そのために英会話の勉強にきているの。子連れ留学っていうのかしらね」
「子連れ留学ですか。女性はエネルギッシュですな」
安原伸彦がいったとき、額の禿げ上った、大男が笑いを含みながら、こちらへ近づいてきた。
「アンジェリカ、ご機嫌はどうかね」
男が英語でいった途端、アンジェリカはゆっくり立ちあがり、いきなり禿げ上った男の頬に、ぴしゃんと派手な音を立てて平手打ちを食わせた。
立ちあがる拍子にテーブルのジュースがひっくり返り、安原伸彦のジーンズのズボンがびしょ濡れになった。
アンジェリカはそのまま食堂を出てゆき、若禿げの男はにやにや笑いながら、むしろ得意気に手の跡が赤く残る頬を撫《な》でてみせ、アンジェリカのすわっていた椅子にすわりこんだ。
伸彦はジュースで濡れたズボンをハンカチで拭いながら、
「ラファエル、おまえだな。アンジェリカを騙《チート》してトイレに入らせたのは」
といった。
「トーテム・ポールのやつ、みごとにひっかかりやがった」
若禿げの男はしてやったり、という表情だ。
「去年試験に失敗した女の子が、口惜《くや》しまぎれに論文の問題をトイレの端の個室の壁になぐり書きして、それがそのまま残っているって噂があるぞ、参考のため、見てきてくれよ、ってアンジェリカに囁いたのさ。そんなジョークにひっかかって、トイレに入るほうが馬鹿なんだよ」
いかにも愉快そうに笑う。
「この男はラファエル・サラザールというんですが、アンジェリカのことをトーテム・ポールって呼ぶんですよ」
伸彦は相変らず神経質にズボンを拭いながら、日本語で浩美に説明した。
「いやね、アンジェリカは棒みたいな体格をしていて、トーテム・ポールそっくりだというんです」
ラファエルは浩美に「ハロォ」と手を挙げてみせ、
「あの娘はね、裸になっても、前《フロント》なのか背中《バツク》なのか、全然区別がつかないんじゃないかな。つまりトーテム・ポールなんですよ」
そこでふと好色な視線になり、浩美の胸のあたりをじっと眺めた。
「それはわからないわよ。女の躰って、意外性に富んでいるものなんだから。肥って見える女性がそうでもなかったり、痩《や》せている女性が意外にグラマーだったりするものでしょう」
浩美が日本語でいうのを、伸彦が顔を赤くしてぼそぼそと英語でラファエルに説明している。
「彼女の場合、事実を見たことはないけれど自信があるよ」
ラファエルはまた笑った。
伸彦はこの話題から離れたいらしく、赤い顔のまま、濡れたズボンの膝を撫で、
「果物のジュースってやつは、すぐ水洗いしないと、あとが残るんですよね。私はこのリーバイス五〇一XXのジーパンを大変愛用してるんだけど、家へ洗いに帰る時間はないな。ラファエルのおかげでズボン一本、駄目にしたのかな」
そんな愚痴を浩美にこぼした。
安原伸彦という、この日本人は大変な照れ屋らしい、と浩美は好意に似た感情を抱いた。
PFLPのウイーンのデポ(連絡員)は、通称ダビトという、東南アジア出身の男である。
水田と笹岡はダビトを通じて、ベッカー高原にいる日本赤衛軍本部の滋山久子に連絡して貰った。〈北朝鮮大使館より作戦協力の依頼あり。いかがすべきか、ご指示乞う〉という趣旨の問い合わせである。
考えられないスピードで、ベッカー高原から、滋山久子の指令が戻ってきた。〈ただちに全力を挙げて、北朝鮮情報機関に協力せよ〉という指令であった。
指令を伝えてきたダビトは、
「おれもあとからロンドンに行って手伝うがね、北朝鮮との仕事はしんどいぞ。連中は|押しつけがましく《プツシイ》て、いったん噛みついたら、離してくれんからな」
といって、口髭を撫でた。
北朝鮮大使館の李仲麟に協力を伝え、ダビトから資金を貰った水田と笹岡はロンドンへ飛んだ。
空港のバス・ターミナルに近い、アールズ・コートの安宿に一泊した翌朝、ふたりは地下鉄のディストリクト・ラインに乗り、テームズ河畔《かはん》のパトニー・ブリッジの駅で降りた。キオスクの老婆に訊《き》くと、すぐにキングストン語学学校の建物を指差して教えてくれた。
「ふうん、なかなか立派な学校じゃねえか」
水田は両手をレインコートのポケットに突っこみ、日本の県立か市立の図書館のような建物を仰いで、嘆声を発した。
煉瓦造り、三階建ての建物に入ってゆくと、昔はやはり公共の建物だったのか、大理石の円柱がならび、床にはカーペットが敷いてある。正面には、これは日本の学校と変らずさまざまな掲示の紙を貼り散らした壁があり、その向うが事務所らしかった。
事務所のなかには古めかしいカウンターにREGISTRATIONの札が置いてあり、その向うで、二十歳《はたち》前後の金髪の娘があくびの出かかった口をこぶしで叩きながら、学生の問い合せの相手をしている。学生が立ち去ると、娘は眠そうな眼をしばたたいて、指のマニキュアのぐあいを眺め始めた。
笹岡は、
「すんません。私の友人のことでお訊ねしますけど、佐久間浩美いう女性がおたくで勉強してますねん。どこのクラスか教えてくらはりますか」
関西訛りの強い英語で、訊ねた。
ちょっと|はすっぱ《ヽヽヽヽ》な感じの娘は、
「ああ、浩美ね」
鸚鵡《おうむ》返しに応じ、デスクに置いてあった学籍簿らしい大判のノートを繰った。近眼と見え、顔を紙面すれすれに近寄せ、舐《な》めるように生徒の名前を眺めた。
「ミセス・佐久間は一般英語コースのディスカッション・クラスにいます」
「ほな、その授業は何時に始まりますのや」
娘は腕時計をおもいきり目の近くに持っていった。
「あと十五分後に始まるわ」
「おおきに」
笹岡はブロンド娘に礼をいってから、愛想笑いの残る顔を水田に向けた。
「こら、あんたがそのディスカッション・クラスいうのに入学せなあかん、いうこっちゃな」
とんでもない提案をし、カウンターから入学案内を取ってきて、ぺらぺらめくり始めた。
「おれが学校に入るのか」
水田は呆れて訊き返した。
「おんなじクラスに入って、浩美というおばはんと知り合いになるのがいっとう早道や。こころやすうなって、おばはん、ちょっと旅券見せて、とかなんとかいうてやね、旅券持って駆けだしたらええやんか」
水田はいつになく狼狽《ろうばい》した。
「おれはよ、笹やん。千葉の新制中学しか出とらん男だぜ。それも貧乏なおふくろの仕事の手伝いして、ろくに出席しとりゃせんのよ。学校とはおよそ縁のねえ男に、いきなり英語の学校ゆけってのは、無茶な話だろう」
水田が低声で文句をいうと、
「学校にあんまり縁のなかった男やから、話が通るんや」
笹岡は笑顔をくずさずに反論した。
「いいとうないけど、京都大学中退のおれが英語の初級コースに入るいうたら、こら、不自然や。まあ、この入学案内に書いてあるビジネス・コース、つまり上のクラス取らな京大中退としては恰好つかへんやろ。人間、あんまり不自然なことしたら、ボロが出るんや。中小企業のご大層な社長みたいなタイプのあんたの出番やないか、ここは」
水田は笹岡に肩を叩かれ、おもわず鼻の下を指の腹でこすった。
「学校だけは勘弁してくれや」
水田は金髪娘のほうを気にしながら、拝むように両手を合わせた。
「あんたもだらしないなあ。国際テロリストが英語の勉強いやがっとったら、どないもならんわ。これは革命のためやで。気ばって貰わなあかんで」
笹岡は金髪娘のところにゆき、
「私の友人をそのディスカッション・クラスいうのに入れて貰いたいんやけどな」
金髪娘は少しうろんげに水田を眺め、事務所の隅の机にすわっているイギリス人の若い男の方へ相談に行った。男はよれよれのベージュのスウェーターを着て、汚いジーパンを穿《は》いている。笹岡は図々しくカウンターの中へ入ってゆき、その男と話していたが、すぐにこちらを振り向いた。
「初級のコースならノー・プロブレム、いつでも入れてやるいうてはる」
そういって、金を取りだし、どうやら勝手に入学手続きを進めている気配である。
笹岡は教材の教科書一式をかかえて帰ってくると、それを水田の手に押しつけ、先に立って立派な鉄製の手すりのついた階段を上った。
折から、授業が終って、大勢の若い男女が広い階段を下りてくる。
「こっちの若いやつらは風呂に入らへんから臭いやつばっかしやな。そやけど臭いくらい、我慢せな、大目的は達成でけへんで」
OA機器が置いてあるらしい二階を通り過ぎ、さらに三階へと上ったとっつきの教室のなかに、水田を押し込んだ。
「ここがディスカッションのクラスや。テキ屋やってたあんたにはおあつらえ向きのクラスやで。発音のクラスたら手紙の作文のクラスたらに入ってしもたら、どうしようもあらへんやろけど、ここやったら、でーんと腹すえて喋っとったらええだけのクラスや。それからあんたの名前は旅券どおり加藤洋造や。雑貨の輸入業ちゅうことにしとこ。ええな」
水田は教材を握りしめ、おずおずと天井の高い教室のなかに入った。
教室のなかには、教師のすわるらしい椅子を囲んで片仮名の「コ」の字型に長机がならべてあった。「コ」の字型の机には、二十数名の若者がすわっていて、ここもむっとするほどの腋臭《わきが》くさい体臭に満ち満ちている。
水田はなるべく目立たないように、「コ」の字の角の席にすわった。斜め横には黒い髪を長く垂らして、フラメンコでも踊りそうな風情《ふぜい》のスペイン系らしい女性がすわっていて、水田の隣の席の娘と話している。隣の娘は中国系のようで、小肥りの愛くるしい顔立ちである。
その中国系の娘にじろりと睨まれて、水田はあわててレインコートを脱いだ。
水田の動悸《どうき》はなかなかおさまらず、日本人がいるかどうか、伸びあがって見まわす勇気が出ない。
先刻、一階の事務所で水田の入学を許可した、汚いジーパン姿の男が教室に入ってきて、「コ」の字の真ん中の椅子にすわった。
このうす汚れたイギリス青年が教師らしく、教室は途端に静かになった。
――まるで失業者みたいな教師だぜ。
水田は驚いて呟いた。
これならおなじスウェーター姿ながら、上着を着ている分、水田のほうがきちんとしているといえそうであった。失業者ふうの教師は、ボロ切れのような鼠色のハンカチで鼻をかんでから、出欠を取り始めた。
ラテン系やアジアの複雑怪奇な名前が続くうち、ふいに教師が、
「ミセス・ヒロオミ・サクーマ」
と呼び、水田はやっと自分がこの語学校に入学した目的をおもいだした。
間髪を入れずに、斜め横にすわっていたスペイン系の女性が、
「ヒアー」
と答え、右手の人差し指を立て、教師に向って振ってみせた。
色白で彫りが深く、スタイルもよさそうで、水田がスペイン系とおもいこんでいた女性が、目当ての佐久間浩美らしい。「佐久間浩美はプスておぱあさんかもしれないね」と北朝鮮の李はいっていたものだが、これは「プス」どころではなかった。
――まさか「代返」というやつじゃあるまいな。
水田は目を疑った。
――江波杏子みたいないい女じゃねえか。
昔、見た任侠映画のスターを水田は連想した。
新入学の水田ならぬ「加藤」の偽名は一番最後に呼ばれ、水田は消え入るような声で「イエス」と答えた。
佐久間浩美の美人ぶりに驚きが覚めない間に、恐ろしい授業が始まった。
みすぼらしい身なりの教師は、突然「コ」の字の真ん中に立って、
「今日は皆の人生計画についてディスカッションして貰おう。皆、詳しく自分の人生プランを説明してみなさい」
ゆっくり英語でいう。
超法規出国して七年、英語を聞く勘はそれなりに発達しているから、水田は青くなった。
教師の正面にすわったイタリア系らしい男が「サー」と手を挙げ、
「私はホテル・マンを志望しています。そこでここに英語を習いにきました」
ひどいイタリア訛りで答える。
「ホテルに勤めようというプランを持っているひとはほかにいるかね」
この学校にはホテルへの就職希望者が多いのだろう、心得顔に教師が訊ねる。
水田の隣席の中国系の娘が手を挙げた。
「私はタイの出身ですが、将来はバンコクのホテルで働こうとおもっています」
そこで教師は視線を移し、「ヒロオミ」と呼びかけた。
「ヒロオミは人生設計についてどう考えていますか」
教師の二度目の呼びかけで、「江波杏子」が「佐久間浩美」と同一人物であることがはっきりしてきた。
「私の伯父が埼玉県にショップを持っていて、家具の販売をやっています。日本に帰ったら、私はこの店でヨーロッパの家具やインテリアの輸入の仕事をやります」
途中でいい直したりしたが、とにかくそういう意味の返事をした。
教師は「私も日本にゆくからその店に雇ってくれ」とありきたりのジョークをいってから、意地のわるい微笑を浮かべて次の質問相手を物色し始めた。
水田の心臓は早鐘を打ち始めた。もし質問の矢が降りかかってきたら、どうしよう、とおもう。
まさか「私のライフ・プランはテロリズムから足を洗うことです」などといえはすまい。
水田は「コ」の字の隅で身を縮め、顔を伏せたのだが、教師は弱虫の餌食をみつけた餓鬼大将のように嬉しそうな顔になってこちらに歩み寄り、水田のほうを覗きこんだ。
すぐそこにいるくせに教材を望遠鏡のようにまるめて、水田を眺めた。
「そこの新しく入学したジェントルマン。犬みたいに縮こまっているけど、そんなに寒いんですか」
教室中がどっと笑った。
「あなたの人生計画を聞かしていただけませんか」
望遠鏡から眼をはずさずに馬鹿丁寧な英語でいう。
「アイ、インポート……」
水田はどもった。
「あんた、なにをインポートするの、車ですか」
「だれもイギリスの車は輸入しないよ」
だれかが叫び、また爆笑が起り、教師は苦笑した。
「なにインポートしますか、なに」
隣の小肥りの娘が、驚いたことに片言の日本語で囁いて救けてくれる。
ふいに水田の頭にアイデアが閃《ひらめ》いた。テキ屋仲間にときどきやってみせた芸をやればいいのだ。
水田は起《た》ちあがった。
斜め横の浩美の机にはショルダー・バッグが置いてある。
「すいません。ちょっと貸して貰えますかね」
返事を待たずに浩美のショルダー・バッグを肩にかけた。マリリン・モンローのあのモンロー・ウォークを真似て、両手を柳の枝のようになびかせ、両肩を交互にそびやかし、腰をぐにゃりぐにゃりとくねらせて歩く。嘆声と拍手の湧くなかを教室を一周し、最後に教師に派手な流し目をくれ、拍手が激しく湧くとみるや、生徒たちに向って投げキッスをしてみせた。
「アイ・インポート・ディス」
浩美のショルダー・バッグを頭上にかかげてみせる。
また叫び声と拍手が起り、
「ファッション・グッズの輸入ね。OK、ウェルダン」
教師も誉めてくれる。
席へもどってくると、浩美も笑みをたたえて拍手してくれる。
「ありがとさん。中身には手をつけてないからね、安心してよ」
浩美にショルダー・バッグを返し、「コ」の字型の隅にすわると、隣のタイ娘が腕を握ってくれる。
質問が反対側に移るのを眺め、
――おれは意外に学校に向いているのかもしれない。
と水田は胸を撫でおろした。
この時刻、安原伸彦は、同じキングストン語学学校の二階、ビジネス・コースのクラスにいた。
「コ」の字型に机のならぶ初級コースと違い、ビジネス・コースでは生徒は日本の教室ふうに黒板に向って並んで坐っている。ただし椅子はスチールの折り畳み式で、右の肘の部分にこれも折り畳み式の小机がついている。
ビジネス・コースともなると初級とはまったく教室の空気が違う。教師はきちんとネクタイを締め、背広を着ているし、生徒のほうも半分くらいは上着をひっかけ、なかにはネクタイを締めている者もいる。
生徒の数も十数人で、いずれもドイツやベルギー、北イタリアなどの企業からの派遣社員で占められており、要するに安原と似たような年輩、身分の連中である。むろん授業料も、初級よりはぐんと高く、筆記と面接、双方の入学試験を受けてパスしなければ入れない。
授業の終り頃、受付の金髪の女の子、ヘレンが教室をノックして入ってきて、教師に向い、
「ミスタ・ヤスハラに国際電話が入っています。緊急《アージエント》だそうです」
そう告げた。
教師もすぐ許可してくれて、安原はヘレンの後について、早足でカーペットを敷いた階段を降りた。国際電話でしかも緊急とくれば、嫌でも気になる。安原の実家は横浜にあり、横浜に残してきた両親になにか異変が起ったのか、と気になった。
ヘレンの机の上の受話器を取ると、女性の声がして、
「ミスタ・ワクタニがお話しになりたいそうです」
という。
「ワクタニ?」と首をかしげるひまもなく、
「ナガスネヒコだな、おまえさん」
聞き覚えのある声が受話器に響いた。
ナガスネヒコは安原が宮井物産の本社にいた時分の綽名である。足の長いことと古事記に出てくる大和の土豪、長髄彦《ながすねひこ》をひっかけたらしいが、皇民教育と無縁な伸彦本人にはぴんとこない。
「おまえさん、ちゃんと息してるかね」
宮井物産、テヘラン支店長の湧谷《わくたに》昭生《あきお》の声であった。安原は入社後から留学までの五年間、鉄鋼本部鋼管輸出部に在籍したのだが、このときの鋼管輸出部次長が湧谷であった。湧谷はつまり伸彦の直属の上司だったのだが、二年前にテヘラン支店長に転出している。
「支店長でありましたか。相変らず要領がわるいので、息もたえだえにやっております」
「たえだえでも息ができれば、いうことないだろう。こっちは戦争続きで、いつ息が止まるかわからねえんだ」
湧谷は豪放に笑った。
その後に起きた湾岸戦争のおかげですっかり印象がうすくなったが、一九八〇年に始まったイラン・イラク戦争はこの一九八四年の時点でまだ続いており、相変らず朝夕の新聞紙面を賑わせている。
「ところでな、休暇が取れたんだ。どこへゆこうかとあれこれ考えてな、おまえさんのことをおもいだした。ワイフ連れて、来週の月曜にロンドンへころげこむからな、午後一時にヒースロー空港まで迎えにきてくれ」
へえ、と安原は驚いた。
「昔のよしみでおまえさんにアテンドを頼むんだ。来週、一週間、つき合ってくれるよな」
「はあ、喜んでご案内します」
実家の異常を告げる電話でなかったので、安原はほっと安堵《あんど》した。それから久しぶりに湧谷に会えることになって、気分が浮き立つのを感じた。休暇でくる湧谷が、昔の部下とはいえ一介《いつかい》の修業生の名前をおもいだしてくれたのはわるい話ではない。
教室に戻ると、すぐに昼休みになり、安原はベルギーの企業から派遣されているラファエル・サラザールと一緒に階段を降りた。
「安原さん」
と呼びとめられた。
階段の下のホールに、佐久間浩美が、この間安原と一緒にトイレのドアに体当りした中国系のタイ娘と一緒に立っている。
気持が浮き立っていた安原は、
「明日、土曜日ですよね。よかったら、おたくのお台所、お手伝いに伺いましょうか。私はこう見えて料理が結構得意なんですよ。ご主人はこちらにおいででありますか」
浩美はちょっと視線を外《そ》らし、
「私、子連れ留学って申しあげたの、お忘れになった? 子どもとふたりでここにきてるんです。夫とは生き別れじゃないほう、つまり死に別れ」
といった。
安原は言葉に窮し、口髭を撫でた。夫に先立たれたので、埼京市にいる伯父の家具店を手伝うことになったのか、と合点がいった。
「もう三回忌もすませてきたんです。今はメリー・ウイドウよ」
「とにかく佐久間さんは独身なんですね。これは元気の出る話だな」
安原の気分はまた浮き立ってきた。
「これだけの美人が独身だということは、信じ難い事実でありますよ」
安原伸彦は勢いづいていった。
「ユー・サウンド・ベリィ・スムース(調子のいいかたみたいね)」
浩美が英語でいい、微笑を洩らした。
廊下の暗がりで真白な歯がきらりと閃光を放つように光り、伸彦は一瞬眼の眩《くら》む気分を味わった。
「ラファエルとアンジェリカが派手に喧嘩やっちまったでしょう。その喧嘩の手打ちのパーティを拙宅でやることになったんでありますが」
語学学校のキャンティーンで、安原伸彦が佐久間浩美に話しかけた。伸彦は例によって上半身はダブルのブレザーにネクタイ、下半身はジーンズにスニーカーといった妙ないでたちをしている。
「ついては先輩も閉じこめられたアンジェリカの第一発見者ということもあり、拙宅においでいただけないでありましょうか」
「先輩は勘弁してよ」
浩美はいった。
「しかし結婚経験あり、出産経験あり、育児経験あり、人生経験の先輩であることは事実でありましょう。とにかく学生パーティに花を添えていただきたいんであります」
「私、伺ってみたいけれど、子連れだからなあ」
浩美はためらった。ベビー・シッターに預けるには、浩一は少し大きくなり過ぎている。
「息子さんをご一緒にお連れになってはいかがですか。息子さんが眠くなったら帰る、ということでいかがでありますか」
結局、浩美は夜、子連れで出かけることになった。
安原の家は浩美の家から百メートルと離れていないが、一階の車庫に車はなく、安原が通学に使っている自転車が置いてあって、すぐにそれとわかった。白い化粧煉瓦作りの三階建てのメゾネットで、浩美の住む西洋長屋の一角とは二段階くらい住み心地も家賃も違いそうだ。息子の浩一までが、「ママ、おしゃれな家だね」と感心したくらいであった。
付近には語学学校の学生たちのものらしい、中古の車が何台も駐車している。
玄関を開けてくれたのはラファエル・サラザールであった。客間にはキティゴンの他安原の同級生五、六名がきていて、次々と浩美に握手を求めてきたが、肝心のアンジェリカと安原の姿が見当らなかった。
「今、ノブヒコ、アンジェリカを迎えに行ってるよ」
浩美と同級のキティゴンが少し濁る日本語でいった。
「この子、可愛いね」
キティゴンは安原の用意したレゴの玩具を取ってきて、早速浩一の相手を始めた。
机の上にならぶ、学生たちが持ち寄ったらしいクスクスやメキシコのタコス、焼き鳥などをつまみ、安ワインを飲むうちに、ようやく安原がアンジェリカを伴って戻ってきた。
「アンジェリカ、あれはほんとうに冗談だったんだよ、謝るよ」
アンジェリカのほうへ進み出て、若禿げのラファエルがいった。
「スペインの男というのはあんな真面目な顔で冗談をいうのね」
アンジェリカは天井を見上げて聞えよがしにいい、皆笑った。アンジェリカは相変らず不機嫌で、安原伸彦はどうやら引っ張ってくるのに骨を折った様子であった。
「さ、握手しよう」
ラファエルが手を差し出すと、安原に背中を押されて前へ出たものの、アンジェリカは横を向いている。そして、暫く気をもたせておいてから、ラファエルの人差し指の先をひょいと汚いものでもつまむように二本指でつまんで、握手した。
一同爆笑と拍手のうちに、どうやら和解が成立した空気になった。
安原伸彦は台所から手製らしいムール貝のスープやら、中華ふうの鴨のローストにマントウやらを運んできて、浩美や浩一に勧める。
「安原さんのお料理、たいしたものね」
浩美はお世辞でなく誉めた。
ふとドレッサーの上にならべた写真に眼が止まった。写真立てには、ローマンカラーの神父を真ん中に、制服姿のふたりの中学生が写っているのだが、中学生ふたりは双生児のように似ている。
「これ、どちらが安原さん?」
と訊ねた。
「この色の黒いほうが兄の龍彦で、こちらの生っ白いのが私であります」
安原龍彦、伸彦の兄弟は、神奈川県のカトリック系ミッション・スクール、栄光学園に通っていた折、写真の真ん中に立っているフェルナンデスという、スペイン系フィリピン人の神父に、兄弟同時に洗礼を授けて貰った。これはそのときの記念写真だ、と伸彦は説明した。
「へえ、カトリックの信者なの。毎日曜、教会に行って、懺悔してるんだ」
色白の伸彦の顔がぱあっと赤くなった。感情がそのまま顔に出てしまう性格らしい。
「それがここは英国国教が中心なので、まだカトリックの教会が見つからなくて、というより見つけようとしなくて、行っていないのであります」
そのあと、伸彦は家のなかを案内してくれた。安原はえらく潔癖な男らしく、三階の主寝室も客室用寝室もきちんと掃除がゆき届いていて、塵《ちり》ひとつ落ちていない感じであった。
「あなた、潔癖な性格なのね。きっと女のひとをおもいつめたりしたら、迫力あるんだろうな」
ついそんな言葉が出た。
また伸彦は顔を赤くして、しかし、
「情緒的に未発達というか、未成熟なのは間違いないでしょうな」
他人事《ひとごと》のようにいった。
階下に降りてくると、ラファエルが、「ちょっと失礼」といって、伸彦を台所に連れこみ、何事かひそひそと話しこんでいる。
アンジェリカ・ウーファがやってきて、
「ノブヒコとラファエルは同業みたいなものなのよ。それでパーティの最中に商談やってるの」
冷たい視線を台所に送りながらいった。
「ノブヒコは油を送るパイプを売りこむ、ブローカーのような会社で働いているわけでしょう」
アンジェリカは宮井物産をブローカー扱いした。
「ラファエルはベルギーのね、やはりパイプのブローカーの会社から、留学してきてるのよ。ラファエルにとっては、学校は商売相手をみつける場所なんじゃない」
唇をすぼめてみせた。
「いいか。爆撃されても、絶対に壊れない送油管があるんだ。これを今度ロンドンにくるイランの支店長に話してみてくれ」
ラファエルのおおきな声が客間まで聞えてきた。
その夜、伸彦に送られて、浩美、浩一親子は家に帰ったのだが、浩一が、
「このおうち、なんだか臭いね」
という。
「それは今夜お招ばれしたお家と比べたら、古い古いおうちだからね、かびくさかったりするのよ」
たいして気にもせずにそう言い聞かせ、浩一を寝かせると、自分も酔いに火照《ほて》る躰にシャワーを浴び、そのままベッドに倒れこむように寝てしまった。
翌朝、起きだして階下へ降りたとき浩美はたしかに室内に異臭が淀んでいるのを感じた。
前夜、浩一が「このおうち、なんだか臭いね」といっていたのをおもいだした。子どもも感じたくらいの、腋臭《わきが》に似た、強い体臭が家のあちこちに臭気の淀みを作っている気がする。
表の牛乳を取りにゆこうと台所の勝手口にゆき、勝手口のドアのガラスが一部、壊されているのを発見した。勝手口のドアは上半分が格子状のガラス窓になっているのだが、そのノブの真上のガラスが一枚、割られている。明らかに誰かが外からガラスを割って、ノブの下の鍵をまわして、侵入したのである。
浩美はあわてて、家中を一応チェックしてまわったが、格別なにか盗まれたともおもえない。
そこは女のたしなみで、さっと化粧をしてから、浩美は伸彦に電話をして、登校前に立ち寄って貰った。
例のごとく自転車でやってきた伸彦は、
「学校のオッズジョブマン、雑役夫にアルバイトを頼みましょう」
いとも簡単にそういった。
「不動産屋には知らん顔して、このお勝手のガラスを直させ、上と下に閂《かんぬき》の鍵をつけさせちまいましょう。玄関にはチェーンをつけたほうがいいな」
学校で伸彦がオッズジョブマンの男に話をつけてくれ、浩美は男に家の鍵を渡した。
「なにしろ浩美がパーティかなにかに出かけるのを見とどけてな、ダビトが裏口のドアをこわして、家に入ったんや、一時間かけて、カーテンの裏から冷蔵庫の佃煮《つくだに》の下までよう見た、いうとる。それで旅券はない、いうんやから、やっぱりないんやろな」
パトニーのイタリア料理屋で、日本赤衛軍の笹岡は前夜とおなじ説明を改めて繰り返した。
ダビトはむっつりと不機嫌に黙りこんでいる。
「ハンドバッグも五つ、六つ持ってるし、靴も十足くらいあったいうてんのやが、それもいろいろ見て、靴のなかまで手を突っ込んだんやけど、旅券はなかったそうや」
「浩美はよ、大事なものは自分で持ち歩いてんじゃねえか」
水田はいった。
「この間、授業中におれの商売を|センコウ《ヽヽヽヽ》に訊かれてよ、浩美のハンドバッグ借りて、これIMPORTしてんだって説明したけどよ、なんか重かったぜ、浩美のバッグは。旅券も財布も生理のナニも全部、あのバッグに放りこんで持ち歩いてる、とおいらは見るな」
水田はいった。
「なんとかあのハンドバッグを頂戴するより仕方あるまいて」
ふいに料理屋の入口で「ハアーイ」と声がした。
「おや、可愛いおれの同級生がきよったぜ」
水田は呟いた。
「キティゴン、ジョイン・アス」
水田が手招きすると、キティゴンは一緒にいたタイ娘とこちらへやってきて、空いている椅子にすわった。
「この子は可愛い、とおもわねえか、笹やん」
水田はキティゴンの肩へ手をかけていった。
「この娘《こ》と一緒にいると、おれはリラックスちゅうのかね、落ち着くんだよ」
男を落ち着かせてくれる女が一番だ。男をイライラさせる女は、手前《てめえ》のおふくろで懲《こ》りてるからな、と水田はおもった。
翌週、伸彦はパトニーのレンタカー屋にゆき、ボルボ746Lを取り敢えず金曜までの予定で借り出した。ナンバー・プレートはBで始まっており、Bは今年、つまり一九八四年製造の意味だから、おろしたての車ということになる。
テヘラン支店長の湧谷昭生が乗っているBA102便は十二時四十五分到着の予定なので、伸彦は午前の最後の授業を途中で抜け出した。席を立つおり、隣にすわっているラファエル・サラザールが、
「この間、おれが話した送油管の売りこみも忘れないでくれよ」
低声《こごえ》でいい、左手に持ったボールペンで伸彦のジーンズの尻をつっ突いた。
伸彦はボルボを運転してヒースロー空港に辿り着き、駐車場に入れ、迷路のような通路をエレベーターでターミナル4に向った。到着便の掲示板を見ると、折りからのイラン・イラク戦争の影響なのか、BA102便は一時間延着とある。
伸彦はターミナル3の二階のレストランにゆき、セルフ・サービスでまずいコーヒーとまずいサンドイッチを食べた。ターミナル4の到着出口に戻って待っていると、午後二時半、湧谷昭生・和子の夫婦がおおきな旅行鞄を三つ積んだカートを押しながら、姿を現した。
「支店長、ご苦労様でございます」
中肉中背の湧谷は「いよう」と奇声を発し、伸彦の手を握りしめた。
「久しぶりじゃねえか、ナガスネヒコ」
もう一方の手で伸彦の肩をぽんと叩いた。
東京育ちの湧谷は、好んで|べらんめえ《ヽヽヽヽヽ》を使いたがる。
「ああ、自由と平和の空気をたっぷり吸わして貰おうじゃねえか」
他人目《ひとめ》も構わず、ターミナルの真ん中で両手をいっぱいに拡げて、深呼吸をした。
湧谷は機内でかなり酒を飲んで上機嫌の様子である。いかにも芝居じみてはいるのだが、傍らに立った湧谷の細君の顔も紅潮して、眼がうるんでいる。戦火の地から抜けだしてきた、という実感があるらしかった。
湧谷は気がついて、
「これ、おれの奥さんやってる、奇特なひと。和子さんとおっしゃるんだ」
人を食った紹介をした。
「こっちの男は東京でおれと一緒に働いていた、これも奇特なひとよ。安原ナガスネヒコってんだ。足のコンパスはおれよりちっとばかしなげえが、形はおれとおなじ日本的O脚よ」
伸彦は先に立ってカートを押したのだが、鞄を三つ載せたカートは恐ろしく軽い。
「鞄は空っぽなのよ。こちらで衣類と日本食を買い溜めして帰るつもりなの」
おっとり育った感じの、人のよさそうな細君の和子がそう弁解した。
ボルボに湧谷夫婦と荷物を載せて、出発したのだが、湧谷夫婦の宿泊先はハイド・パークの傍らのホテル、「イン・オン・ザ・パーク」で週末にテヘランに帰る、という。
後部の席にすわった細君の和子が、
「ああ、チャドルを着なくていいっていうのは、こんなに解放感があるものかしらねえ」
ぱたぱたと頬ぺたを叩くらしい音を立てた。
ホメイニが強大な権力を振う、一九八四年現在のイランでは、外国人の女性といえども、外出の際は黒を主とした布で頭から全身をすっぽりと覆わねばならない。髪、肌、腰の線といった、男の眼を惹《ひ》く部分は隠さなくてはいけないのである。
「あれは夏は暑くてたまらんでしょうね」
伸彦が水を向けると、
「チャドルは日本製のポリエステルが多いんだけど、風を通さないからねえ。だから私のお友だちのなかには、チャドルの下は裸ってひともいるんですよ」
和子が意外な発言をする。
「おかげでな、おれもイランに行ってから想像力が発達したよ。チャドルの上からな、ぱっと女のスリー・サイズが透視できるようになってな」
助手席にすわった湧谷はそういってから、ふいに窓の外を指差した。
「和子、あそこを見ろ、お犬さまが歩いておられるよ」
「あ、ほんと、犬がいる」
和子も大声をあげた。コーランで豚が不浄の動物とされているのは有名だが、犬の唾液も不浄とされており、従ってイスラム教国には犬は少ないのだそうであった。
到着した「イン・オン・ザ・パーク」は、洗練されたインテリアと、食事の美味なことで有名な、一流ホテルである。
女性マネージャーに迎えられ、チェック・インしたのち、ちょうどお茶の時間が始まったので、三人はロビーの一隅でハイ・ティーを飲んだ。観葉植物の鉢を沢山配したロビーは、紅茶と一緒にサンドイッチやスコーン(菓子パン)をつまむ中高年の男女であふれている。
「戦争のほうはいかがですか」
「ペルシャ湾はすごいぞ」
湧谷は紅茶をひと口飲んでから、下町ふうに舌をたんと鳴らした。
湾岸戦争の記憶が強烈で、印象が薄まってしまったが、その前のイラン・イラク戦争は世界のどの国も戦争終結を望まなかった珍しいケースの戦争であった。世界はイラン・イラク両産油国が戦力の潰し合いをして、両国とも疲弊し、油の叩き売りに走るのをじっと待ち望んでいた、という状況であった。
「毎日タンカーがボカスカ沈められてるよ。特にイランのカーグ島の周辺がすごい。イラクは、フォークランドで使ったフランスのエグゾセ・ミサイルを使いやがってさ、カーグ島に出入りするタンカーを沈めてやがんだよ」
カーグ島というのは、イラン本土東岸二十九キロの沖合いにある、イラン唯一にして最大の石油輸出基地である。ペルシャ湾の奥、イラン南西部のほとんどすべての油田基地からパイプ・ラインがカーグ島に集中、ここから輸出用のタンカーに積みこまれる。
「カーグ島自体が空爆にやられるのも、時間の問題だぜ」
湧谷は目を細め、丹念にスコーンにバターを塗りながらいった。
伸彦はラファエル・サラザールの言葉をおもいだして、
「私の同級生にベルギーの会社からきている男がいるんですが、爆撃に強い送油管を売りたい、というんですよ。カーグ島じゃ、そのうち必要になるかもしれませんね」
ちょっと湧谷の気をひいてみた。
一瞬湧谷は黙ったが、
「どんなパイプだって、エグゾセにやられちゃ、ひとたまりもなかろうさ」
にべもなくいった。
その夜、伸彦は夢を見た。
辻褄《つじつま》の合わないのが夢の常だが、伸彦は横浜の山下公園で、佐久間浩美と英語で話していた。なぜか、浩美は、イスラムの黒いチャドルをまとい、白い顔の口もとまで覆っている。
チャドルをまとった浩美の背後には、子どもの絵本の挿し絵のように晴れ渡った空がひろがり、コッペパンのような千切れ雲が浮かんでいる。浩美がその青空を仰いで、
「BEAT THE IRAQ(イラクを倒せ)」
と叫び、突然黒いチャドルを空に投げあげた。浩美は純白に輝く裸体で山下公園に立っていた。チャドルの下には何もまとっていなかったのである。まるでプレイメイトのようにこちらに向って乳房が尖った切っ先のように鋭く突き出て、腰は満月のごとく誇張した円を描いて左右に張りだしている。
――意外と漫画的なヌードではありますな。
そう呟いたところで、船の出るらしいベルの音が響いた。浩美の裸身が風に吹かれる旗のように波打ち、まくれあがり始めた。
伸彦がツーツーと二拍子ずつ鳴る、英国の電話のベルが鳴っていると気づくまで、かなり時間がかかった。眼の前で揺れているのが浩美の躰《からだ》でなく、スタンドのシェードだ、とやっと気がつき、ベッド・サイドの受話器を取った。
「おまえ、はしたない夢見て、鼻から提灯《ちようちん》出してたんじゃねえか」
「はあ」
「まだ寝呆け声だな。おまえさん、東京大学、出てんだろ。東大出が寝呆けちゃいけませんよ。東大出は真夜中でも、さわやかな声出さなくちゃいけないんだ」
「はあ」
やっと意識が少しはっきりしてきた。
「判ってんのかな、おれ、ついさっき、おまえさんと一緒に晩めし食った湧谷だ」
「この際、あまり学歴は関係ないとおもいますが、どうも失礼しました」
電話機の脇の時計を見ると、午前二時である。湧谷夫婦には、日本食を逆にご馳走になって、三、四時間前に別れたばかりである。
「ひと寝入りして考えてみると、おまえさんのいってた、爆撃に強いパイプの話ってのはおもしろい話だ。明日、その友だちを紹介しろや」
湧谷はそういい、さらに、
「おまえ、寝呆けてるから、信用できねえな。おれのいってることをメモしろや」
メモをとって復唱させられ、それが終ると、
「じゃ、もう一度おねんねとゆこうぜ」
電話は一方的に切れた。
伸彦は眼をこすって頭を振った。夢の名残りで、躰は昂奮したままである。
なぜ夢に山下公園が出てきたか、といえば、伸彦は横浜の出身で、よく山下公園に行ったからである。佐久間浩美がチャドルを着ているシーンや、そのチャドルを脱ぐと裸、というシーンは明らかに湧谷夫婦の話に発していた。
伸彦は起きあがり、トイレに向いながら、
「浩美さん、学歴に恥じるような、はしたない夢を見まして失礼しました」
頭を掻きつつ、浩美の家の方向に頭を下げた。
小便をしてから、トイレの窓を少し開き、浩美の住む方向を窺った。
眼の前のテームズ河に沿った道路を古ぼけたフォード・コルチナがゆっくり走ってくる。
――こんな時間にパトカーかな。
イギリス特有の、濃霧用の、まっきいろな街灯の下にコルチナが差しかかり、口ひげをたくわえた男の顔が一瞬、伸彦の眼に入った。
伸彦は夜気の寒さに首をすくめてベッドに戻った。
翌朝、起きるなり、安原伸彦は毎朝、習慣になっている、鉄亜鈴の筋力トレーニングもせずに、語学学校のビジネス・コースの同級生、ラファエル・サラザールに電話を入れた。
「ハロォ」
ラファエルの眠そうな声が受話器に響いた。
「あんたから話つないでくれって頼まれたイランのカーグ島向けの送油管《パイプ》の商売だけどさ、テヘランの支店長は大変関心があるので、あんたに会いたいといってるよ」
「よし、いつでもゆくぞ」
ラファエルの声からたちまち眠たげな調子が消えた。
折り返し「イン・オン・ザ・パーク」に泊っている、テヘラン支店長の湧谷を呼びだした。
交換が部屋に繋ぎ、最初の呼び出し音が鳴ると、間髪を入れない感じで、湧谷が出てきた。
「お起ししてしまったようでありますが、ナガスネヒコの安原です」
「おれはおまえさんより早起きだよ。朝めしなんかとっくに食っちまってさ、今新聞読みながらウンコしてんだ」
湧谷がすぐ電話に出てきたのは、便器の横にある受話器を取ったからなのだろう。
「はあ、ご用便中でしたか」
「ご用便っていうほど、高級なもんじゃない。ウンコです」
伸彦は「調子が狂うな」とおもいつつ、咳払いして、「支店長だから、やはりご用便でしょう。そのご用便中のところをお邪魔して、大変恐縮でありますが」と用件を切りだした。
「例のベルギーの会社からきている友人がいつでもお目にかかりたい、といっております」
「ちょっと待て」
と湧谷はしゃがれた声でいい、唸り声を出した。
「今、エグゾセクラスのやつをな、投下したところだ」
ワクさんは太っ腹という評判だが、腸もだいぶ太いらしいな、と伸彦はおもった。
「ええと、おまえさんの話のほうだが、そのベルギー人て男をさ、十時にここに連れてこれるか」
「大丈夫でありましょう。しかし折角の息抜き休暇をつぶすことになって、気が咎《とが》めております」
「|ゆんべ《ヽヽヽ》、おまえさんの話聞いた途端に休みは返上よ。所詮おれたちゃ砂漠の男だ、テヘラン勤務≠ニ、こうくるわけだ」
「はあ」
「おまえさんたちの世代にゃ、通じる話じゃないが、月月火水木金金≠諱v
湧谷はまた唸っているらしく、月月火水木金金≠フ金あたりが、つぶれた声になってきたので、伸彦はあわてた。
「どうもご便通のお邪魔をして失礼しました」
と電話を切った。
「ご用便」はともかく「ご便通」はおかしかったかな、どうもおれの日本語も怪しくなってきたのかもしれないぞ、と伸彦は苦笑し、ラファエル・サラザールと、時間と待ち合わせ場所の打ち合わせをした。
九時にレンタカーのボルボ746Lを運転してラファエル・サラザールが借りている、セミ・ディタッチド・ハウス(二軒続きの家)にゆくと、ラファエルは家の前に出て待っていた。
今朝のラファエルはいつものシャツ姿でなく、きちんとネクタイを締め、ラテンふうというか、ベージュのラグラン袖のたっぷりしたベルトつきオーバーを着ており、顔つきも引き締っている。手にはアタッシェ・ケースを下げていた。
ボルボは十時前に「イン・オン・ザ・パーク」に着いたが、地下の駐車場からロビーに上ってみると、湧谷はこれもきちんとした背広姿で彼らを待ち受けていた。
ロビーの一隅で、ラファエル・サラザールは湧谷と名刺交換したのち、爆撃に強いという送油管の図面を拡げて見せた。
この送油管の特色はパイプ自身がきわめて肉厚で、特殊鋼で作ってあるため、爆破されにくい点にあるらしい。なによりパイプ同士を繋ぐ接合部分《ジヨイント》が異様におおきくて、外れにくくできている、という。
湧谷は図面を繰りながら、
「これ、いくらで売ろうっての」
上眼づかいにラファエルを見た。
「特殊鋼を使ってますからね。トンあたり四千ドルになります」
語学学校の教室でなにかといえばアンジェリカを目の敵にし、意地悪をする「悪餓鬼《わるがき》」のイメージはどこへやら、ラファエルは愛想笑いさえ浮かべている。
「たけえな。今のプライスはトンあたり八百ドルだから、まあ、五倍じゃないか。こんな値段出しゃあ、イランさんは、|アッラーの名のもとに《イン・ザ・ネーム・オブ・アツラー》≠ヲれえ勢いで買い叩いてくるぜ」
湧谷はそういってから腕時計を見た。
「ロンドンにな、|イラン石油公社《NIOC》、NATIONAL IRANIAN OIL COMPANYってんだが、その支店があんだろ。おれのポン友がな、そこのKALAな、購買部の支配人になって、こっちへきてんだよ。これからいこうや」
あわただしい話になった。
湧谷が取りだした、ホテルのメモ用紙には「NIOC HOUSE LONDON NO4 VICTORIA ST・ウエストミンスター寺院の向い側」と書きつけてある。先方に駐車場があるかどうかわからないので、三人はタクシーで出かけることにした。
ホテルのドア・ボーイが片手を高く挙げてタクシーを呼び、運転手に行先を取り次いでくれる。
三人はオースチン製のタクシー専用車に乗りこんだが、馬車型の車だから、三人並んではすわれない。伸彦は運転手の背後の折り畳み式のシートを降ろし、湧谷と向い合ってすわった。ラファエルと伸彦が向い合ったのでは、お互いに長い足が邪魔になってしまう。
「イラン国民会議議長で、ラフサンジャニという人物がおるんだ。ホメイニ師と違って、西欧的知性派で、弁も立ってな、将来のイランを背負う男といわれてんだよ。この従弟《いとこ》ってのが、まあ、自称従弟だけどさ、キルス・ファヒムっていう、おれのポン友でな、これから会いにゆくのが、このキルスよ」
湧谷は日本語でいい、おなじ内容をラファエルに英語で繰り返した。
湧谷は宮井物産のニューヨーク支店にもいたことがあり、英語を話すが、こちらはべらんめえとはゆかない。ひとことひとこと念を押すように相手の理解を確かめながらしゃべる商社英語である。
「そりゃすごい人脈ですな」
ラファエルはすかさず感心してみせた。
タクシーはハイド・パーク・コーナーのおおきなロータリーを横切り、バッキンガム宮殿の裏手を抜けて、古い巨大な石造の建築物、ヴィクトリア・ステーションに突きあたった。その駅の正面を右に折れ、ヴィクトリア・ストリートに入って、テームズ河に向い、タクシーはウエストミンスター寺院の前で止った。
「ヒヤ・サー」
老人の運転手が目の前の建物を指差した。
目の前に一風変った白塗りのオフィス・ビルが建っていた。ビルの正面に白い柱が何本も並び、中東の空気を醸しだしている。これが|イラン石油公社《NIOC》のビルらしい。
運転席と後部客席との境のガラス戸を開いて、ラファエルが手早く勘定を払ってくれて、三人は降り立ったが、降り立った伸彦の目にすぐそこにそびえる国会議事堂のビッグベンが飛びこんできた。
一階に受付があり、受付の背後の壁に、おおきなホメイニの肖像が飾ってある。受付には話が通じていて、三人はエレベーターに乗り、四階の購買部にゆくように指示された。
四階には秘書が待ち受けており、三人を巨大な客間に案内した。客間にも、ホメイニ師を始め、イラン政府要人のおおきな写真が飾ってある。
「このひとがラフサンジャニ議長だ」
湧谷が眼鏡をかけた、西欧的風貌の男の写真を指差した。
ドアが開き、やせた小男が姿を現した。濃いブラウンの髪の男で、鼻下にイスラム革命の象徴とされる口髭をたくわえている。色白の顔にぽってりと厚い唇が生々しく赤かった。
「ワクタニ」
「キルス」
湧谷はキルスと抱き合い、お互いの頬にたっぷりキスし合っている。
キルスの生々しく赤い唇が湧谷の頬に押しつけられると、印肉をつけ過ぎて、濡れたハンコが頬に捺印される感じで、神経質な伸彦は身震いをした。
湧谷の抱擁ぶりには余裕の風格さえあって、
――ワクさんてのは、何者なんだ。
伸彦は呆れて眺めていた。
湧谷は伸彦が途中で目を逸らしたくらい長い抱擁を解くと、ようやく伸彦とラファエルをキルスに引き合わせた。
あれほどキングストン語学学校への入学を尻込みした水田清だったが、われながら呆れたことに、この学校がすっかり気に入っていた。
入学した日の教室で、モンロー・ウォークのパフォーマンスを演じたわけだが、翌日から登校する水田に、だれかれとなく声がかかるようになった。「おう、おう」と応じながら、「これじゃテキ屋だの地まわりの三下《さんした》やってたときと変らんじゃないか」とおもったくらい、語学学校が気楽な世界に変っていた。
英語にしても文法などからきし知らないが、刑期中の日本を超法規出国して以来、中東、欧州と放浪してきたおかげで、ヒアリングの勘は恐ろしく発達していて、学校の癖のない英語など、苦もなく理解してしまう。だいたいイエス、ノーさえ確信に満ちて答えられれば、教師の信頼はほとんど百パーセント近く獲得できるものなのだ。
それにタイ娘のキティゴンと知り合えたのが最高であった。
キティゴンは両親とも中国系タイ人の娘だそうで、父親はタイの小さなバナナ林のオーナーだという。バナナといっても果実を売っているわけではなくて、バナナの木の葉を売っているので、タイではその葉を菓子皿の代りに使ったり、おおきな葉を上手に折りこんで菓子箱にしたりするらしい。つまり包装業者である。
色白、小肥り、小柄のキティゴンには、最初から相通じるものがあったが、水田が食事をおごってやる度に目に見えて心を許す感じになった。一度パトニーのスーパーで、服を買ってやると、「あんさん、親切なひどね」といい、瞬《まばた》きをしない、うるんだような眼でじっと見ていた。水田は自分の優しさを初めて理解してくれる女に出会ったような気がしたものであった。
水田が入学してきた当時、キティゴンは浩美とよく行動をともにしていたが、近頃は昼食、夕食、夜の酒といつも水田と一緒に動いている。以前、バンコクの土産物店でアルバイトをした経験があり、日本にも何度か行っていて、片言の日本語を話す点も便利であった。
それでいて水田は、キティゴンとキスひとつ交わしていない。
日本赤衛軍の仲間の笹岡は、佐久間浩美にはじかに接触しないよう慎重に注意を払っていたが、キティゴンに対しては無警戒で好意的であった。
「あんたも、中東のギスギス骨張った女ばっかし見とったんやから、ああいうマルポチャが出てきよるとイチコロやろな」
笹岡はからかった。
「裸になると、可愛いやろな。ポチャポチャッとしとって、全身これ羽二重餅いうおもむきやろなあ」
嗾《けしか》ける口調だ。
「おまえ、日本赤衛軍という組織に入っとりながら、なに太平楽ならべてんだ」
水田はたしなめた。
「だいたいおいらはあんたらと違って塀の|あっちがし《ヽヽヽヽヽ》でよ、我慢の生活が長かったからよ。女に対しちゃあストイックな性格になっちまったんだ」
とうそぶいた。
水曜の夜、|イラン石油公社《NIOC》、購買部《KALA》のロンドン支配人、キルス・ファヒムは、湧谷夫婦を晩餐に招待した。お相伴で安原伸彦とラファエル・サラザールも同席することになった。
伸彦とラファエルは八時少し前に、ホテル「イン・オン・ザ・パーク」のロビーで湧谷夫婦と落ち合ったのだが、湧谷は伸彦の顔を見るなり、
「おまえさん、毎日ご苦労だな」
胸の内ポケットからドル入れを取りだし、十ポンド紙幣を数枚抜きだした。
「ほんの煙草銭だが、小遣いにしてくれ」
湧谷は紙幣を伸彦の手に押しつけた。
「おまえさんは今、学生みたいなもんだし、小遣い貰ってさ、当然だろう」
「ははあ、小生が支店長からお小遣いをいただくのでありますか」
入社以来、上司に小遣いを貰った経験など皆無だから、伸彦も度肝を抜かれた。
――参ったな、これは。
受け取った数枚の紙幣を両手で拡げたまま、伸彦は唸った。
食事に案内しても勘定は湧谷が払ってくれるし、レンタカーの代金も商売がからんできたので、ロンドン支店に請求するつもりである。伸彦の出費などまるでない。
「おれに恥かかさずに、すっきりおさめてくれや」
湧谷は伸彦の肩をぽんと叩いた。何事かと好奇の眼を光らせているラファエルに向い、「|いこうか《シヤル・ウイ・ゴー》」と促した。
「レ・ザンバッサドゥール・クラブはちょうどこのホテルの正面にあるんですよ。昔はロスチャイルドの屋敷だったが、今はアラブの金持ちの溜り場になっているようです」
ホテルの前の道路を横切りながら、ラファエルは説明した。ラファエルもベルギーの企業から出向してきている実習生だから、商売がらみでこのクラブにきたことがあるのだろう。レ・ザンバッサドゥールとはフランス語で「大使」の意味の複数形だが、槍型の鉄格子の塀の奥にある玄関は、一般の住宅と変らず、木の扉が無愛想に閉っている。
「このドアが重いんですよ」
ラファエルはぶつぶつぼやきながら、ドアを押した。
ドアを開くと、外観からは想像もつかない、豪華な世界が拡がった。シャンデリアの輝く向うに、水盤と噴水があり、夏のイギリスの緑濃い森と草原を描いた壁画がシャンデリアの灯を受けて輝いている。
ドア・マンに案内され、|受 付《レセプシヨン》にゆき、ラファエルが「ミスタ・キルス・アブドラと待ち合わせだ」と話すと、すぐに左手のウエイティング・ルームに招じ入れてくれた。
ウエイティング・ルームはロスチャイルド家の書斎だったそうで、ワイン・カラーの革張りの家具が数セット置かれ、四方の壁は美しい木彫りの飾り棚になっている。
「まあ、すてき」
飾り棚にならぶ、アンティークの皿と革表紙の書籍を見まわして、湧谷の細君の和子が歓声をあげた。
四人が中央のワイン・カラーの椅子にすわってドライ・サックのシェリィに口をつけるまもなく、黒のサテン地の夜会服をまとった、はなやかな女性が入ってきた。その背後からダーク・スーツを着たキルスが姿を現した。女の肩ほどしかない、キルス・ファヒムの背の低さが目立つ取り合わせである。
「ハウ・アー・ユー、ワクタニ」
一昨日会ったばかりだというのに、湧谷とキルスはまたもはなばなしく抱き合った。
キルスは背の高い女性を、
「このレディは、私の婚約者でね、フィオーナというんです」
一同に紹介した。
藍《あい》色に透き通った眼の美しい女性で、白い肌が眼の美しさをいっそう引き立てている感じがする。
これが典型的なペルシャ美人かと伸彦は感じ入ったが、ペルシャ美人はプリンセス然として、湧谷に向って、手の甲を差しだした。
湧谷は慣れたもので、芝居もどきに女の手の甲にキスをした。ラファエルも、慣れた調子でキスをする。伸彦は当然ながらこれは初体験でうろたえてしまい、顔に血が上った。
すかさず湧谷が、
「だれもほんとにゃあ舐《な》めてねえからさ、安心して舐めろや」
といった。
血管の浮きたつ手の甲によだれをこぼす恐怖感にかられつつ、伸彦もキスの真似事をした。
革の椅子に着席したキルスは、
「ミセス湧谷、フィオーナ、五分だけ時間をください。仕事の話をしたいもので」
とふたりの女性に紳士風に謝った。
それから湧谷のほうに身をのりだして、
「イラン石油公社の本社は、昨日の話に大変関心を示しています。例の島がまもなく使えなくなる恐れがあるからね」
例の島とはイラン唯一の石油輸出基地、カーグ島のことであり、「使えなくなる恐れ」とは、圧倒的に優勢なイラク空軍の爆撃がいよいよ激しくなる、という意味だろう。
「それで、別のところに石油輸出のベースを移す計画が進んでいるんだよ」
キルスは勿体ぶった感じで、客のだれもいない書斎の中を見渡した。
盗聴マイクのあるはずもないのに、キルスは上着のサイド・ポケットからメモ用紙を取りだし、ボールペンで、走り書きをし、皆に見せた。
「バンダル・カナベ」
大きな字でそう書きなぐってある。
「カーグ島から四十キロ離れた、イランの海岸だ。この新基地に、例の送油管を使いたい。テヘランから専門家を派遣する、といっているよ」
キルスはそこで足を組み、長い指先で顎を撫でながら、「ところで湧谷、ロンドンではだれを窓口にすればいいのかね」と訊いた。
湧谷は突然手をあげて、伸彦を指さした。
「ナガスネヒコ、おまえさんに宮井物産テヘラン支店ロンドン代表を命ずる」
「そうおっしゃられても、私は一介の修業生でありまして、そんなビッグ・ビジネスはとても手に負えません」
伸彦が抗議するのを、湧谷は派手なジェスチュアで制して、
「おまえさんはごちゃごちゃいっちゃいかん。商いのほうは、このキルスの|おい《ヽヽ》さんとおれがぜえんぶ、うまくまわしてやるっての。おまえさんは、この|おい《ヽヽ》さんとラファエルの間にぼうっと突っ立ってりゃ、そいでいいの」
といった。
「ぼうっと突っ立ってるのは得意ではありますが、ほんとうにそれでいいんでありましょうか」
「おまえさんにそれ以上のことができるわけがねえじゃねえか」
宮井物産ロンドン支店には、鉄鋼担当の森勇平という男がいるが、目下出張中である。
「まあ、森さんが出張から帰ってこられたら、ふたりでやります」
「そうだな、森とふたりでやれや」
湧谷は頷いた。
やがて奥の、天井がガラス張りになったレストランに移ってテーブルを囲んだのだが、暫くしてソムリエが困ったような、赤い顔をしてシャンパンを持ってきた。
シャンパンに添えられたカードを読んで、キルス・ファヒムは苦笑し、湧谷に渡し、老眼の湧谷は腕をいっぱいに伸ばしてカードを読んだ。
「商談の成功を祈る、イラク石油公社=v
五、六テーブル離れた席に、軍服に白や黒の男物の頭巾をかぶっている連中がいて、シャンパンの贈り主はこの連中らしく、薄笑いを浮かべてこちらを注視している。
イスラムのキルス・ファヒムとフィオーナは酒を飲まないから、ソムリエは残りの四人にシャンパンを注いでまわった。
「おい、ナガスネヒコ、和子、それにラファエル、挨拶しろ」
湧谷の命令で四人は立ちあがり、イラクのテーブルに向って杯をあげて見せた。
イラクの連中がいっせいに手を挙げる。軍服に口髭の男が立ちあがり、これも水かペリエなのだろうが、グラスをあげて挨拶した。同席する連中が拍手をする。
「あんたがたはイラクと戦ってるわけじゃないんだからな、乾杯したって、おれは文句はいわないよ」
キルスは嫌味をいった。
「自分たちが戦争して血を流すのは御免だが、他国が戦争して血を流すのは大歓迎、その機会に金を儲けろ、というのが日本の国策だろ」
「きびしいことをいう」
湧谷は笑って、嫌味を聞き流した。
食事が終り、コーヒーになって、伸彦がトイレに立ち、用を足していると、先刻立ちあがってこちらの挨拶に応じたイラクの軍人が入ってきた。
「先刻はありがとう」
伸彦が礼をいうと、
「受け取っていただいて光栄です」
舞台俳優のように両手をあげて挨拶し、それから用を足し始めた。
トイレの老人が溜めてくれたお湯で伸彦が手を洗っていると、用を足したイラクの軍人が近寄ってきて、隣でやはり手を洗い始めた。
「なんか商売の話があったら、連絡をください」
老人の差しだすタオルで手を拭きながら、眼くばせをした。胸のポケットから名刺を差しだした。名刺にはイラク大使館陸軍武官ハッサン・アーメッド≠ニあった。住所はハイド・パークに近い、クィーンズ・ゲートのイラク大使館になっている。
食後、キルスは切符を二枚、湧谷に差しだした。
「金曜のコベント・ガーデンの席を取っておいた。テヘランにはオぺラはないから、せいぜい楽しんでいってくれ。往復にはおれのロールスロイスを使ってくれよ」
ロールスロイスに殊更アクセントを置いていった。
その黄色いロールスロイスで、キルス・ファヒムと婚約者が帰ってゆき、四人はまた歩いて「イン・オン・ザ・パーク」に戻った。
湧谷夫婦は金曜にオペラを見て、土曜日にテヘランに帰ることになった。
「おまえさん、ホテルにくる必要はないよ。おれはキルスの|うんこ《ヽヽヽ》色のロールスロイスに乗ってゆくからな」
と湧谷はいった。
「ただな、空港にはきてくれねえか。間違って敵国《イラン》のイラクゆきの飛行機に乗っちまうと、都合がわるいやな」
伸彦は金曜の朝、レンタカー屋にゆき、もう一日レンタル期間を延ばしてくれ、と頼んだが、土曜からは週末なので、先約が入っている、という。それならラファエルの車を借りるか、と考えた。
パトニーの語学学校からちょっと離れた駐車場にボルボを入れようとしていると、赤いオースチン・ミニが駐車して、佐久間浩美が車から降り立ったところである。
伸彦は手を振りながら、自分の車をすぐ隣に駐車させた。
窓から顔を出して、
「浩美先輩、明日の午後、そのミニを二、三時間貸していただけんですか」
そう頼んだ。
「いい加減に先輩呼ばわりは止してよ」
浩美は怒った顔をしてみせて、しかし、
「いいわよ。土曜は学校もないし、チャイルド・マインダーに浩一も預けないから、自由に使ってよ」
浩美は簡単に話に応じてくれた。
「それよりね、私、そこのアップホルスタリーっていう、家具の修繕学校に行ってみたの。すごく気に入ったから、入学、きめてきちゃった」
浩美ははずんだ声を出した。
翌日の午後早々に伸彦は自転車に乗ってオースチン・ミニを借りに浩美のタウン・ハウスにやってきた。
「自転車置いてゆきますから、先輩も少し運動なすったらいかがですか」
浩美の躰の線を見まわす顔である。
「まあ、今のところお躰の線はくずれていないようですが、ある日突然、焼けたお餅みたいにぶわあっとふくれあがるかもしれない」
伸彦がおびやかすように両手をまるく拡げてみせる。
「こっちへきてからエアロビクスもしてないからねえ」
浩美は少し心配になって呟いた。
「ただし、当地では車道を走ってください。日本と違って英国の場合、自転車は歩道を走れないんです」
伸彦がミニで出かけてから、浩美は家具修繕学校のことばかり考えていた。
英国では成人学級に家具修繕学級、アップホルスタリーというのがある。浩美は日本に帰国後伯父の家具店を手伝うことを考えて、通い始めたのだが、これは古い家具を買ってきて、自分で家具を裸にしてほとんど作り直してしまう授業であった。そこは英国のお国柄で、この家具修繕の学級はなかなか人気があり、大勢の老若男女が通ってきてさまざまの古い家具、特に椅子の修繕に取り組んでいた。
来週ジャンク・ショップ(中古品のガラクタ屋)に行って、教材に使う古い椅子を買ってこよう、と考えているうちに、今日にもジャンク・ショップへ下見にゆきたいという気持が昂じてきて、浩美は矢も楯もたまらなくなった。
午後三時過ぎ、浩美は我慢できなくなり、腰を上げ、「すぐ帰ってくるからね、だれかきてもドアを開けちゃ駄目よ」と浩一にいいおき、皮のハーフ・コートを羽織って、家を出た。
伸彦が置いていった自転車に乗り、パトニーの街のジャンク・ショップへ行った。
英国は、煉瓦造りの家が多く、戦災の被害が限られていたこともあって、信じられないほどボロボロの古い家具がいくつも並べられ、積んである。浩美が手始めにとおもっていた、しゃもじ型の安楽椅子《ウイングチエアー》もいくつかあって値段も手頃であった。
下見の結果に満足し、浩美は口笛を吹きたい気分で、店の傍に置いておいた自転車に乗り、自宅へ向った。
テームズ河右岸に沿った道は、日暮れて寒く、濃霧用の黄色い街灯が点っている。行手の路上に黄色い光を受け、フォード・コルチナが一台、寒々とした感じで停っていた。
――安楽椅子《ウイングチエアー》をどうやって運ぼうか。
店が運送まで請負ってくれるかどうか、聞き洩らしたな、とおもいながら、浩美は駐車しているフォード・コルチナの傍に近づいた。
伸彦の忠告どおり車道を走って、車の横に差しかかった瞬間、コルチナ後部座席から覆面した男が躍り出た。スキー用の目だし帽に似た覆面をしたその男は浩美の前に仁王立ちに立ちはだかった。浩美はおもわずブレーキをかけた。男は片手で自転車のハンドルを握り、片手で浩美の二の腕を掴んだ。骨が折れそうに強い力である。
「|降りろ《ゲツト・ダウン》」
自転車は横に倒され、浩美はコルチナの車体に躰を押しつけられた。男は浩美の向うずねを蹴り、浩美が痛さに力を抜いた隙に、背中にまわしていたショルダー・バッグを奪い取った。コルチナの運転席からもうひとりの男の手袋をはめた手が伸びて、ショルダー・バッグを受け取った。
運転席の男はバッグの中を掻きまわす気配だったが、押し殺した声で、
「ノー、何も入っていない」
というのが浩美の耳に入った。
いつの間にか、覆面の男は浩美の両手を片手で掴み、頭の上に上げさせている。片足を足かせのように横にして、浩美の腿《もも》をおさえこんでいた。向うずねを強く蹴られた痛みもあり、浩美は身動きが取れない。日本人のものではない体臭が浩美の鼻孔を刺激した。
男は空いている左手で、手早く浩美のハーフ・コートのポケットを探った。なにもはいっていないと知ると舌打ちをして、男の手は容赦なく浩美のスウェーターの胸もとへ入ってきた。浩美が抵抗すると、男は手を抜きだして、浩美の頬に平手打ちを食わせた。
再び荒々しく手が侵入してきて、スウェーターの下の両の乳房を探り、腹を探り、さらにスカートをまくって、ガードルをはいている股間を探った。一瞬暴行されるのかと、恐怖に総毛立つおもいであった。
「このアマ、なにも持ってやしねえ」
男は叫ぶと、浩美は路上へ突き飛ばされた。街灯の鉄柱に頭を打って、浩美は意識がぼうっとかすんだ。靄《もや》のかかったような頭のどこかで、男がコルチナに跳び乗るらしいドアの開閉の音が響き、車があわただしく走り去る音がした。
浩美は街灯に上半身をもたせかけ、眼を閉じて荒い息をついた。額が妙に冷たい。冷えた車道にへたりこんでいると、何分経ったかわからないが、聞き覚えのある音が遠のいた意識の彼方から響いてきた。
とんぼの眼のようなライトがふたつ見え、オースチン・ミニが路面を這うように低く走ってきて、眼の前で停った。
「なんだ、浩美先輩じゃないの。なにしてるんですか」
脚の長い、しかしO脚の安原伸彦がすぐ前に立って浩美を見下ろしている。
「ははあ、先輩はじつは自転車に乗れなかったのでありますな。それで運動がてら練習してみたら、無惨にひっくり返っちゃった、こういうわけなんだ」
伸彦は路上の自転車と浩美を見比べていった。
「伸彦さん、私、襲われちゃったの」
「えっ、襲われた?」
伸彦はしゃがみこみ、ようやく浩美の異状に気づいた。額に貼りついた濡れ落葉を剥《は》がし、肩を抱きかかえて立ちあがらせた。
「なにか盗られたのでありますか」
伸彦の声のほうが震えている。
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二 ロンドン戦争
暴漢に襲われた浩美を、安原伸彦は抱き起し、オースチン・ミニの助手席にかかえいれてくれた。
それから路上にくしゃくしゃになってころがっている自転車を調べに行った。
伸彦が日頃通学に愛用していた自転車は、暴漢の自動車がはねて行ったらしく、車輪のスポークが折れて、ひしゃげた傘のような形になっている。ハンドルもまがっている自転車を伸彦は、黄色い街灯の柱に立てかけた。もう使い物にならないと判断したらしい。
伸彦がミニの運転席にすわると、
「自転車、こわしてしまってご免なさい」
椅子の背に頭を落し、浩美は額に手をあてたまま、謝った。
「盗られたのはショルダー・バッグだけ。だけどなかにはお化粧品しか入っていないわ」
伸彦は慰めるように、
「日本人が狙われるって話はよく聞きますけどね、これは人気のない道を探して、襲ってきた|ゆきずり《ヽヽヽヽ》の犯行でしょう」
「慰めていただいて、ありがたいけど、ショックはショックだな」
浩美は自分の声が嗄《しわが》れているのを感じた。
「伸彦さん、手を貸して」
浩美は両手で伸彦の手を暫《しばら》く握っていた。伸彦の手は童顔に似合わず、おおきくて厚味があり、車のなかにいたせいか暖かかった。
「もう大丈夫、警察へゆきましょう」
決然と頭を起し、髪を整えて、浩美はいった。被害はショルダー・バッグひとつだが、強盗は強盗である。英国の警察は驚くほど紳士的で、浩美が革のハーフ・コートを脱ぐのを手伝ってくれる。
届けを受理した警官は愛想よく今後はあの辺も重点的にパトロールしよう、といってくれ、帰りには今度はハーフ・コートを着せてくれた。
留守中に、息子の浩一の身になにか起っていはしないか、そういう不安に浩美は捉われていたのだが、玄関のドアを開くと、居間のほうから、テレビの音と一緒に「お帰りなさい」という浩一の声が聞えた。
ほっと安堵すると、浩美は「秘密」を安原伸彦に打ち明けたい気持になった。
コートを脱ぎながら、
「伸彦さん、どうして私が大事な物を盗られなかったか、わかる?」
浩美は訊いた。
「この家のどこかに隠してある、ということでありますかね」
浩美はくるりと伸彦に背を向け、いきなりスカートをたくしあげた。
「西洋人のお尻はサッカー・ボール型だけど、日本人のお尻はこういうふうにラグビー・ボール型でしょう」
浩美はガードルの上から自分のお尻を撫でてみせ、ちょうど着物の帯枕のようにお尻の上にあてがっていた袋を外した。向き直って帯枕のような袋を伸彦に差しだした。
「だから私はヒップ・パッドを入れているわけ。このヒップ・パッドにポケット作って、ここに旅券やクレジット・カードを入れてるの」
浩美はヒップ・パッドのファスナーを引いて、旅券やカード類を取りだした。呆然と突っ立っている伸彦に旅券を差しだした。
「これは、お釈迦《しやか》様でも気がつきませんな」
伸彦は感心して、旅券をぱらぱらとめくった。
「一月三日生まれですか、先輩は」
伸彦は嘆声を発した。
その夜はありあわせの冷凍食品と焼飯で夕食を摂ったのだが、食事しながら、浩美は、
「自転車がないと、明日から通学に困るわよね。明日からお詫びのしるしに、私が送り迎えしましょうか」
改めてそう申し出た。
「いや、浩一君の送り迎えもあるし、私のほうはご心配いただかなくて大丈夫ですよ。私も今度、テヘラン支店長をアテンドしまして、車を買わなくちゃいかんぞ、という方向に傾斜していたところでありましてね。先輩のお陰で踏ん切りがつきました」
伸彦は如才がなかった。
「伸彦さん、とにかく一度ちゃんとお礼をさせて。食事にでも招待させてよ」
伸彦は眼をぱちぱちとしばたたいた。
「先ほど玄関で先輩ご所有の大変結構なラグビー・ボールを拝見させていただきまして、充分お礼は頂戴したような気も致しますが」
口髭を生やした童顔がうす赤くなっている。
「ぼく、ご飯よりバタシー・パークに行きたい。ママのフレンドのおじさんが連れて行ってくれるっていってたよ」
突然、浩一が口を挟んだ。
「ああ、ハンドバッグ屋のおじさんがそういってたわね。あのひと、子ども好きなんだ」
浩美は先日、家具修繕教室の前で、日本からきているハンドバッグなどの雑貨輸入商と称している加藤から、バタシー・パークに誘われた話をした。
「じゃ皆でバタシー・パークへ行って、そのあと、ご飯を食べればいい。暴漢に襲われた浩美先輩を励ます会をやりましょう」
食後、あと片づけを伸彦に手伝って貰いながら、浩美は俄《にわ》かに心細いおもいが募ってくるのを感じた。伸彦が帰ってしまったあと、恐ろしさに寝つけないのではないか、と不安がせりあがってくる。
不安な気持は伸彦にも察しがつくらしく、
「先輩、もしご不安があるなら、私、今夜、ここに泊りましょうか。そこの居間のソファで、ごろ寝しても一向にかまいませんが」
そういってくれる。
しかし労《いたわ》られると、不思議なもので逆に強気な気持が一気に頭をもたげてきた。
夫の死後、浩一をかかえて、一時は途方に暮れたものだったが、幸い夫の保護者格の伯父、佐久間賢一が声をかけてくれて、伯父の家具店の仕入れを手伝うことになった。
その伯父の好意にすがって、パトニーに英語の勉強にきたわけだが、子連れで留学してくる以上、なみなみならぬ決意が必要であった。
「この一年、突っ張った気持で勉強に集中しよう」そういう決意を固くして、パトニーへやってきたのである。そもそも女ひとり子どもを連れて留学してくれば、事件事故が起るだろうことは覚悟のうえではなかったか。
「ご心配いただいてありがとう。だけど私は大丈夫なの。見かけによらず芯は意外と強いのよ」
浩美は伸彦の申し出を断った。
浩美は安原伸彦に好意を持っており、その好意がふくらみつつあるのも事実だったが、襲撃事件が浩美の気持を引き締めさせていた。それに「突っ張った気持」のなかには「男には惹かれたりしない」ということも入っていた筈であった。
「旅券は銀行の貸金庫に預けることにしようかな」
浩美は硬い表情でいった。
「その必要はないでしょう。現在の秘密の金庫には捨て難い魅力がありますよ」
そういう伸彦を送って、玄関のドアを開けると、前の道路に光が差した。地元警察のパトロール・カーが徐行してこちらを窺いつつ、通り過ぎてゆく。
「これなら安心でしょう」
伸彦は手を振って帰って行った。
授業のあと、宮井物産の修業生、安原伸彦は、ロンドン支店の森勇平の呼び出しを受けて、買ったばかりのニッサン・パトロールの中古車に乗り、支店のあるシティへ出かけた。
語学学校の傍らの駐車場から車を出そうとしていると、やはり授業が終って、息子の浩一をチャイルド・マインダーへ迎えにゆくらしい浩美がやってきた。
伸彦が車を停めて、窓から顔を出し、
「自転車が量感ある先輩のお尻によってつぶされましたので、このオンボロ四輪駆動を買った次第であります」
そう報告すると、浩美は、
「あら」
口に手を当てて、深刻な顔になった。
「ご免なさい。私が馬鹿な真似をして、自転車をこわしたりするから、とんだ物いりね」
のびやかな眉をひそめ、眼を伏せて、ほんとうに申しわけなさそうな顔になった。
「伸彦さんの自転車通学はとっても恰好よかったのに見られなくなって残念だな。ほんとうにご免なさい。私、気がとがめてしまう」
気がとがめたのは伸彦のほうであった。冗談がきつ過ぎたとあわてた。
「いや、自動車は自転車より進歩した乗り物である、少くとも風邪をひく確率は低いと実感致しました」
自分のきつ過ぎた冗談を気にしつつ、伸彦はロンドンの金融街、シティにある宮井物産の森勇平のオフィスへ行った。
デスクの向うから森が、
「元気にしちょるね」
九州弁で声をかけてきた。
森は顔も声も躰もおおきく、自分で「馬面《うまづら》の馬平《うまへい》ですたい」と名乗ったりして愛嬌のある人柄である。九州の大学を出て宮井物産に入社、鉄鋼を担当して、鉄鋼会社のある北九州、福山など国内支店勤務を重ねてきたから、本店勤務の経験がない。その九州、西日本に偏った自分の社歴を逆手に取るつもりか、森は九州弁を多用して九州出身の気さくな男というイメージを作り出そうとしているようなところがあった。
「おれが出張ばしとる隙に、湧谷さんが鞍馬天狗ごたるふうで乗りこんできて|くさ《ヽヽ》、商売まとめて帰ったっちゅうもんやから、おれもあわてとるったい」
森はおおきな躰をすくめ、長い鼻のあたりを掻いてみせた。
「まったく嵐ではありましたな」
伸彦は手短に今回の送油管輸出の経緯を説明した。
伸彦の語学学校の友人、ラファエル・サラザールの会社、ベルジアン・ハイ・テクノロジーが爆撃に強い送油管の設計をやっていること、その送油管の製造にあたっているのが、ノースハンプトンにある英国のメーカー、サミュエル・ブラザースであること、イラクの空軍力に圧倒されて守勢に立っているイランがこの「対空爆用」送油管の購入に強い関心を示していること、などである。
「イランは戦争の最中で、テヘラン支店は店張《みせは》ってるだけで、精一杯じゃろ。ろーくな商売もなかばい。こりゃひとつロンドンも頑張って応援しまっしょ」
森勇平はこの際、湧谷に侠気《おとこぎ》を示して、商売をまとめてやりたい様子であった。
この商売は英国製品をイランに輸出するのだから、信用状を開くなど輸出に関する事務手続きはロンドン支店の森の責任になる。つまり湧谷と伸彦が手をつけた商売の尻拭いは、森がやるのである。
「あんたも昔の上司の仕事ですけん、学校はほどほどにして、この商売手伝わにゃ、いかんでしょうが」
伸彦は森に背中をどやされた。
十一月中旬、湧谷昭生が再び、ロンドンへやってきた。
ラファエル・サラザールに案内されて、湧谷、森勇平、そして安原伸彦はノースハンプトンにあるサミュエル・ブラザースという送油管の製造工場を訪れた。
顧客筋にあたるイラン石油公社のキルス・ファヒムはイランから呼んだ技術者と一緒に工場へ直行していて、工場で落ち合う手筈になっている。
先乗りしていたキルス一行と一緒に、送油管の設計者のロベール・ガルーという男から、簡単な説明を受け、「とにかくサンプルを見てくれ」といわれて、一同、ロベール・ガルーに従って倉庫に出かけた。
倉庫の中央に置かれたパイプを見るなり、日本側の三人は驚いて息を呑んだ。
「なんだ、これがパイプかね」
湧谷が奇声を発し、
「こりゃまた、恐ろしか恰好した品物ですたい」
森が大声を出した。
鋼管ビジネスの経験の浅い安原伸彦も、あらかじめ図面では承知していたが、実際に眼にしてみると、この送油管がいかにも異形の製品と映った。
なにより異形なのは、パイプの継ぎ目が、大輪の花弁のようにおおきなことであった。パイプ自身も内径に比較して、たいそう肉厚にできているのだが、継ぎ目の部分は内径の二倍ほどもあり、円周の部分に穴がずらりとうがたれている。ふつうの送油管は外見からは継ぎ目の部分がわからないくらいで、継ぎ目の部分を特に肉厚にしたりはしないのである。
「バーベルか鉄亜鈴を大きくしたような恰好してるが、こんな恰好のパイプ繋いだら、でこぼこの土管、繋いだみたいになるんじゃねえか」
湧谷が唸った。三人ともパイプの異形さに度胆を抜かれて呆然と眺めていた。
設計者のロベール・ガルーが三人のところへ歩み寄ってきた。六十過ぎ、禿頭、肥満体の男である。
「皆さん、驚かれているようですな」
ガルーは満足そうにいった。
「驚かれているのは、多分、継ぎ目の部分がおおきいからでしょう。しかしこれまでのパイプは継ぎ目が弱かった。至近弾を食らえば、継ぎ目が外れ、油洩れを起して、パイプ・ラインは使用不能になってしまう。だから私は継ぎ目を徹底的に強化する設計にしたんですよ。このパイプなら、エグゾセの直撃を食らっても、継ぎ目は外れません。どんな空爆にも耐えて、パイプ・ラインを維持できるんですよ」
「なるほど」
湧谷は頷いて、
「ちょっとなかを覗いて見ようや」
森と伸彦を促した。
パイプの内面はきらきらと輝いて、ごく普通の送油管である。
「別段、種も仕かけもなかと」
森が呟いた。
三人がパイプから出てくると、ガルーは倉庫の奥を指差した。倉庫の奥にはおなじ種類のパイプが山積みになっている。
「じつはこれはある産油国から注文があって、五十二本ほどこの工場で生産したんだが、先方の都合でキャンセルになったんです。だから、イラン石油公社から注文があればいつでも積みだせるんですよ」
ガルーは説明した。
「その国はアメリカから爆撃を受けて、あわてて注文したんだが、その後爆撃される恐れがなくなったんだ、というんで、キャンセルしてきたんですよ」
ここまで聞けば、その国がリビアらしいことは伸彦にもわかった。
「馬鹿な話だ。この送油管があれば恐い国なんかないのに」
吐きだすようにガルーはいったが、ガルーのこの秘話の披露で、奇怪な形のパイプは俄《にわか》に迫力を帯びて、伸彦の眼に迫ってきた。
湧谷が、キルスに向い、
「お国の技術者はなんといっていますか」
キルスが両手を拡げて、
「いや、じつにすばらしい。これを輸入して、新しい石油基地に是非、使用したい、といっているよ」
と答えた。
「イラン石油公社が発注のご意向であれば、是非うちに扱わせていただきたいですな」
湧谷がいい、小男のキルスと湧谷は抱き合った。
またまた派手にキルスの生々しく赤い唇が湧谷の頬に吸いつくのを正視できず、伸彦は俯《うつむ》いたのだが、背中をぽんと叩かれた。振りむくと、ラファエルは眼をうるませ、顔を赤くして昂奮している。
「これはいい商売だぞ。このパイプでイランの勝利は間違いなしだぞ」
細かい詰めはまかせろ、とキルスとラファエルがこもごもいうので、夕刻、宮井物産の三人は湧谷が「うんこ色」と呼ぶ、キルスの黄色のロールスロイスでロンドンへ引き揚げた。
イギリスの十一月はすでに冬だから、薄闇のなかにモーター・ウェイ一号線の左右には落葉した森が次々と現れ、後方へ飛び去ってゆく。伸彦が助手席にすわって窓外の景色を眺めていると、
「|うまへい《ヽヽヽヽ》」
後部座席で、湧谷が並んですわっている森勇平に声をかけた。
「おまえ、今日の商売、気にいったか、それとも気にいらねえか、どっちだ」
「あのパイプの恰好にゃ、たまげましたばい。私も鋼管の工場にゃ、ずいぶんと出入りしちょりますが、あげな不恰好なパイプはお初ですたい。ちょいと違和感はありますな」
湧谷は一瞬黙り、こんどは助手席の伸彦に向って、
「ナガスネ、おまえはどうおもう」
質問してきた。
「私もバーベルみたいな恰好には驚きましたが、しかし内側はつるっとしたパイプで、種も仕掛けもないんでありますね。ガルーの説明を聞いて、とっつきにくい顔はしてるが、戦争している国にはたしかにこういうパイプが必要だろう、とおもいました」
「種も仕掛けもないたあ、うまいことをいうな。ただ、たしかに気にいらねえ面がまえだけどな」
湧谷は窓の外を眺めて、黙りこむ気配である。心中にまだいくぶんの違和感が残っているらしい。
「うまへい、あのパイプは軍需物資には入らんだろうな」
また森に確かめている。
「昔、ペルーへ鋼板を輸出しようとしたら、ペルー陸軍の鉄かぶと用の鋼板だとわかって、MITI(通産省)のOKが出なかったことがあったよな、おまえ、知ってるか」
「はあ、聞いちょります。鉄のヘルメットをかぶった軍人が人を殺すから、こりゃ武器だ、MITIはそういうたとでっしょう。しかし今度のパイプはあのケースとは違うとなかですか。パイプ使って、人ば殺すこつはできんとですよ」
「まあ、どう考えても武器にゃあ、入らないやな」
湧谷は少し納得した声になった。
「たしかに、そんな細《こま》けえこといってたら、イランのテレビなんぞ、見てられねえやな。伸彦が乗ってるような四輪駆動の日本の車や、浜松で作ってるモーター・ボートがさ、兵隊乗せて毎晩賑やかに走りまわってるよ。特にモーター・ボートは船体に日本の企業の社名がおおきく書いてあってな」
湧谷は笑った。
ホテルに着き、運転手にチップをやっている湧谷に、「晩メシば、どうされますか」と、森が訊いた。
「この前な、キルスの婚約者のフィオーナって女に紹介されただろ。ありゃ、四番目の細君にしようてんで、婚約したってんだけどな、あの女性がキルスの代りにおれにご馳走してくれるってんだよ」
湧谷はウインクしてみせた。そういえば、ロビーの奥にフィオーナらしい華やかな装いの女性がいて、人待ち顔の気配である。
「では、プリーズ・エンジョイ・ユアセルフというこつで、私たち消えますたい」
湧谷はロビーへ入ってゆき、女に向って手を挙げるのが見えた。
加藤洋造こと水田清が、その朝教室に入っていくと、「コ」の字型にならんだ机のあちこちから、例のごとく「ハアイ、アンクル」と声がかかった。
水田はこの英語初級の教室では、唯一の中年男性のせいか、「アンクル」とか「アンクル・カトー」とか、いくぶん敬称の意味合いをこめて呼ばれるようになっている。水田はいつものごとく「オス、オス」と応じながら、定席になっている「コ」の字型の隅の席のほうへ歩いて行った。
「ねえ、アンクルさん」
呼ばれて振り向くと、佐久間浩美がこちらを見上げている。
「うちの小さいのがね、ハンドバッグのおじさんと一緒にバタシー・パークに行きたいっていってるのよね」
浩美の息子までが「ハンドバッグのおじさん」と水田を呼ぶのは、水田が中小企業経営者で日本でハンドバッグなど雑貨の輸入を手がけている、と自称しているからである。
「そりゃ嬉しい話だな」
芝居でなく、自然に顔がほころぶのを水田は感じた。
「いや、実のところ嬉しくもあり悲しくもありってところさね。おれってのはよ、美人のおふくろさんより他愛のない子どもに好かれちまう、因果な質《たち》でな」
「なにいってるの。いつもキティゴンみたいな若いお嬢さんが、あとを追っかけてるじゃない」
浩美が容赦なくいった。
水田は、水田のために「コ」の字型の隅の席を確保しているキティゴンの方へ眼をやった。
「ま、あれも娘みてえなもんでよ」
水田は話題を変えて、
「しかしバタシー・パークもこの天気じゃ、ちっと寒かろうぜ」
日本に比べると、ロンドンの冬は呆れるほど天気がわるくて、昨日はどしゃ降りだったし、今日も窓の外の空はどんより曇っている。
「だけどこの週末、バタシー・パークには移動式のアミューズメント・パーク(遊戯場)、小型の遊園地がくるらしいのよ。昨日、パトニー・クロニクルを見てたら、そう出てたの」
浩美が水田の顔色をうかがいながら、いった。パトニー・クロニクルというのはこの周辺で販売されている地元紙らしかった。
「それなら話が違うわな。よし、雨が降っても槍が降っても、息子のために行ってやろうじゃねえか」
「そう張りきられると、私も重荷になってしまうけど」
「気を使うなってことよ。どうせ毎日天気がわるくて不景気な気分なんだからよ、たまには景気よくぱっとゆこうや。あんたがよく一緒にメシ食ってるひょろっとした秀才や目つきのおっかねえスペイン人とか、ああいう仲間も連れてこいや」
ほんのおもいつきで、そう誘った。
「伸彦さんはこられるだろうけど」
浩美がいった。
「ラファエルはどうかな。最近、会社の仕事が忙しいみたいだからねえ」
その夜、ふた間しかない安アパートのベッドに腰かけて、笹岡が、
「今日、ウイーンの李と電話で話したんやがな」
水田にいった。
「結局、佐久間浩美をあんじょう誘いだして、ウイーンに連れてこい、いうんやね」
「子連れの女が簡単に旅行に出てくるかな」
ボロ椅子に腰かけた水田は首をかしげた。
「意外なんは、佐久間浩美はイランと商売している男たちに取り巻かれてて、近づかれへんのや、いうたら、李のおっさん、えらい興味示してな、北朝鮮もイランと商売したいんや、武器売って油買いたいんや、連中がどんな商売しとんのか調べてくれ、いいよるんや」
うまくゆけば、自分も商売に割りこまして欲しい、と李はいったそうであった。
「社長も北に協力せい、いうてるんやしな。あんた、バタシーへ遠足に行ったら、どないかして宮井の商売のヒントくらい、訊きだして貰えんかな。つまりなにをイランに売りこもうとしとんのか、そういうことや」
「社長」というのは仲間うちでリーダーの滋山久子を呼ぶときの隠語である。社長を持ちだされて、水田も閉口し、厄介なことになった、とおもった。
「それより、ダビトがあの秀才もどきの家によ、しのびこむわけにゆかねえのか」
と笹岡に提案してみた。台所でキティゴンがお茶をいれてくれているらしい音がする。
「あれは佐久間浩美のボロ家と違ってピカピカの新しい家やから、どうしようもないやろな」
笹岡がいう。
「やれやれ」
水田は首を振った。
「ベッカー高原で、コマンドやってるほうがよ、頭使わない分、楽かも知れねえな」
金曜の朝も午前五時に、伸彦は湧谷の電話で叩き起された。
どうも湧谷はテヘラン時間九時に出勤して、すぐ電話をかける習慣らしい。
「おまえさん、船がねえんだ」
伸彦が「ハロォ」とも答えぬうちに、湧谷はいきなりそういった。
湧谷の声を聞くなり、伸彦の眼は反射的にぱっと覚めた。前回、深夜に電話を貰ったとき、「東大出が寝呆けるのか」などとからかわれたのが頭にあったのだ。
「船がないのでありますか」
眼が覚めておりますぞといわんばかりに、伸彦はおおきな声をだした。
「その声からすると、今朝は日本語が通じそうだな」
湧谷は笑ったが、すぐに、
「船よ。パイプは五十二本ぴったり揃って、積み出し待ってるてえのに、船がない」
「船はイラン側《サイド》が手配する段取りと記憶しておりますが。イラン向けの輸出は船も保険もイラン側がすべて手配する、そういうイラン政府の決定があるんじゃないですか」
「イランの|おい《ヽヽ》さんたちも、手配はしたいのさ。しかしない袖は振れねえや。イランの国営船会社はIRSLってんだが、イラクのエグゾセだのミサイル・ボートだのでがんがん沈められるもんだから、イランには船なんか残ってやしねえ」
「リベリアやパナマ船籍の船はどうでありますか」
「皆さん、逃げ腰、及び腰よ。進んで手をあげるような度胸のあるのはいやしないやね」
「困ったものでありますね」
「他人事《ひとごと》みたいな声出しなさんな。物は相談だが、おまえさんの同級生のさ、栗まんじゅうに一肌脱がせろや。あの見ざる、聞かざる、サラザールとかいう男は、眼つきもわるいが、鼻も利きそうだから、なんとか船を見つけてくるかもしれねえぞ」
また一方的に切れた湧谷の電話の内容をメモしていると、森勇平からも電話がかかってきた。
「お互い、朝もはよから湧《わく》さんに叩き起されて、楽じゃなかと」
森の声も眠気のために嗄《しわが》れている。
「じつはな、パイプはここのメーカーで作ったわけやが、付属の機械類はイタリアで作っちょるんだ。ラファエルに頼まれて、そっちの輸出も仕切ってやっちょるんよ」
その話は初耳であった。
「そやけど、イランはイタリアに出す船もないとです、いうとるたい。ラファエルの栗まんじゅう、あちこち飛びまわっとってよう掴まらんが、あんた、ひとつ、ケツば叩いてプッシュしてくれんと」
「あの男だって、船がなきゃ、元も子もないから、頑張っておるのではないか、とおもいますがねえ」
伸彦はメモをアタッシェ・ケースに入れて学校に出かけたが、ラファエル・サラザールは欠席していた。
土曜日は変りやすいロンドンの天気の常で、午前中は、墨色の雲が空一面に垂れこめて、雨がぱらついたりしていたが、午後は突然雲が切れて、陽が射した。
水田は佐久間浩美に電話をして、自分とキティゴンをキングストン語学学校の前で拾って貰うことにした。
浩美親子は自分のミニではなく、安原伸彦の運転するニッサン・パトロールに乗ってやってきた。
「この車の方がミニより広いからね」
ちょっと弁解する表情で浩美はいう。
ベンチ式になったニッサン・パトロールの後部の席に、水田とキティゴンは浩美の息子、浩一を挟んで乗ったのだが、水田は、「坊主はよ、浩一っていったよな」と話しかけた。
「浩一はこういう優しいママさん持って、ありがたくおもわなきゃいかんぜ」
水田がなにをいおうとしているのか、わからないらしく、浩一はぽかんとしている。
「ハンドバッグのおじさんのいうとおりよ。浩一、こういう優しいママは珍しいのよ」
助手席にすわった浩美が、威張ってみせた。
水田は子ども好きの性質が出て、
「このおじさんのママなんか恐くてよ、ヒステリー起すじゃん、そうすっと暑いのに雨戸閉めちゃってよ、家へ入れてくれねえんだよ。こっちは泣いて謝《あやま》んだけど、入れてくんなくてさ、夏の夜なんか、藪蚊《やぶか》がもうぶわあっと押し寄せてきやがってよ、躰《からだ》じゅう刺されて、ダルマが酒飲んだみたいになっちまうんだ」
「ダルマがお酒飲むのかあ」
ダルマが酒飲んだ、といういいかたが、意味のわからないなりに面白かったらしく、浩一は笑った。
「だけど、雨戸閉めて、家のなかにいるお母さんも暑かったでしょうね。えらいお母さんだなあ。子どもの教育のために暑いのを我慢するなんて、私にはとてもできそうにないな」
浩美が感心した。
「子どもの教育のため、なんて立派な理由はねえの。単純に強情でさ、ヒステリーが起きると、暑さもへちまもなくなっちまうだけの話なんだよ」
浩美が新聞で見たといったとおり、バタシー・パークには、季節外れの移動遊園地の一隊がやってきていた。木馬やカップソーサーが蛸足《たこあし》状に突き出たマシーンをトラックに積んで、週末に繰りこんできてはばたばたと商売をして、またいずこともなく走り去ってゆく零細業者である。
イギリスには、この種のアミューズメント・パークが少ないために、冬だというのに、一家揃ってジャンパー姿の家族がつめかけ、繁昌している。
水田はキティゴンと一緒に浩一の相手をして、手当り次第にありふれた乗り物に乗せてやった。浩一は大変なはしゃぎようで、「ハンドバッグのおじさん、あそこへゆこう」などと、「ハンドバッグのおじさん」を連発する。
――おれも子どもが、男の子が欲しくなってきたぜ。
水田は真面目にそうおもい、ほんの一瞬だが日本赤衛軍に加わって、ロンドンくんだりを放浪している自分がひどく不幸な男のような気がした。おふくろに閉めだされてから、おれは家庭に縁がなくなっちまったんだ、と思った。このまま放浪して一生終るのかとおもうと、胸のどこかが鋭く痛む気がする。
浩美自身は乗り物に乗ろうとはせず、しかし息子の浩一が心配なのか、うるんだような眼をこちらから離さない。そんな浩美に安原伸彦がぴったり付き添っている。
ひとわたり遊んでやったあと、吹きっさらしのコーヒー・ショップで、セルフ・サービスのコーヒーを飲み、ショート・ブレッドという、スコットランド製の、脂肪の強いビスケットをかじったが、水田は、
「クリスマスの前、十二月の十四、五日から、新年の六日くらいまで、学校は休みになるよな。浩美さんは年末年始、日本に帰《かい》んの」
何気ない調子で訊ねた。
「子連れできてるから、そんなお金の余裕ないの。日本よりこっちにいるほうが気に入ってるし」
浩美が答えた。
「そいじゃよお、皆でオーストリーやドイツの方へ旅行しねえか。リクリエーション担当の|センコウ《ヽヽヽヽ》から紹介して貰ったんだけど、学校へ出入りしてる旅行屋がいてさ、安いツアーのプラン、作ってやるっていってるんだよ。ウイーンの大晦日ってのはえらい派手だっていうしよ、おれもこの際見ときたい、とおもってんだよ。もし浩美さんがさ、家具に興味あんなら、どこかで家具工場も見してくれるようにコースに入れさせるよ」
「へえ、ウイーンの大晦日か。すてきっぽいなあ。それに家具工場も見たいな」
浩美の表情がおおきく動いた。
これはゆけるぞ、と水田はおもった。
「おれがいろいろ面倒見るからよ。安原秀才も一緒にゆかねえか」
伸彦は口髭を指でおさえて腕組みをした。
「お供したいのは山々でありますが、いささか野暮用に引っかかっておりまして、目下予定が立たんのです」
それが癖の気取った口をきいた。
浩美がすかさず、
「ごちゃごちゃいってないで、一緒にいってしまいましょうよ。野暮用もクリスマスはお休みでしょうが」
きめつけた。
「はあ、その可能性につきまして前向きに検討してはみますが、なかなか前倒しにできない話でありまして」
伸彦は歯切れがわるい。明らかにロンドンを離れたくない仕事に巻きこまれている様子である。
「前向きに考えても前倒しできないってのもよくわかんねえこったけど、クリスマスくらい商売には後向《うしろむ》きになってよ、出かけようや」
水田は強引に誘った。その実、この秀才の|やっこ《ヽヽヽ》はこられやしねえ、と踏んでいるのである。伸彦が同行するとどうも話がこんがらかり、計画に支障をきたす恐れがあった。
その夜、水田の策略はまことにテンポよく運んだ。
「皆で、食事にゆこう」という話になったのだが、
「ここは子ども嫌いの国でよ、子どもはレストランに連れてゆけねえことになってるじゃないさ。おれ、おもったんだけどよ、子連れの浩美さんはロンドンへきてから、ろくに外食したことないんじゃねえかな」
そういってみた。
「まあね」
浩美は肯定する表情になった。
「安原秀才よ。今夜のところはさ、あんた、どっかまともな店に浩美さんを案内して、ご馳走してやんなよ。浩一の面倒はよ、おれとキティゴンで見てやっからさ」
伸彦はもじもじしたが、浩美が、
「それじゃ、お言葉に甘えましょうか」
伸彦を差しおいて、そういった。
伸彦も受けざるを得なくなり、
「レストランの予約の都合もありますから、いったん小生の家へお出でいただけませんか」
一同はいったん伸彦のメゾネットへゆき、伸彦は自宅からテームズ河畔のレストランを予約し、浩美と出かけてゆくことになった。伸彦は浩美とふたりで外食にゆくことの弁解のように、
「皆さんはここでくつろいでいただけませんか。自慢じゃないですが、冷蔵庫の中身は質も量も浩美先輩のお宅とは比較にならないくらい豊富だとおもうんであります。その中身をなんでも自由にお使いいただいて、食事なすってください」
そう言い残して浩美と出て行った。
キティゴンが冷蔵庫の扉を開いて、冷凍食品を取りだし、料理を作っている間、水田は浩一とゲームをしていたが、頃合を見計らい、
「坊主、この家のトイレ、どこだか知ってるか」
と訊いた。
「ロンドンの家のトイレは、どの家も二階にあるんだよ」
浩一は生意気な口をきく。
二階に上り、水田はトイレのドアをおおきな音を立てて開閉させ、トイレに入らずあたりを見まわした。念のためゴム手袋をはめ、右の部屋のドアを開くと、そこはマスター・ベッドルームで、廊下の明りのなかにきちんとベッド・カバーをかけたダブルベッドが目に入ってきた。
ベッドの横の椅子にはパジャマがこれもきちんと畳んで置いてあり、パジャマの上にはブリーフの替えまで置いてある。
「準備のいい秀才だよ。朝起きると、もう寝ること考えてんだな」
水田は首を振り、もうひとつの部屋のドアを開いた。こちらは暗く、手探りで壁のスイッチを捻った。
そこには使っていない小型のベッドと古いデスクが置いてあり、伸彦は書斎にしているようであった。真新しいステンレスの書棚が壁ぎわにあって、日・英両国語の書籍がずらりとならんでいる。
デスクの上には「HISTORY OF LORRY’S」という本が置いてある。恐らくビジネス・コースの教科書で、「ローリーズ保険会社の歴史」という本らしいことは水田にもわかる。
デスクの引出しを引いてみると、ノートが何冊かと、主婦でもあるまいに家計簿が入っている。
ふとおもいついて、シングルベッドの下を探ると、固い物が手にぶつかった。アタッシェ・ケースである。橙《だいだい》色の革が張ってあって、日本製ではなさそうだ。かなり重くて、振ってみると書類が入っているらしい音がする。暗証番号でロックされてるふうで、水田はスポーツ・ジャケットの内ポケットからメモ帳とボールペンを引き出し、現在の番号をメモした。
意外とゼロならびで開くのではないか、とセットしてみたが、開かない。左右それぞれ三桁の番号がセットしてあるわけで、こうなると、素人には手に負えない。
ふと背中に視線を感じ、水田はぎょっとして振り向いた。
階段の向うに一階の照明を受けて、白い顔が浮かび出している。切れ長の少し腫れぼったい眼がじっとこちらをみつめていた。
「|晩ご飯《デイナー》」
キティゴンの声が響き、顔は階下に沈んで行った。
食事の最中、突然、焼きそばを掻きこんでいる浩一に向って、キティゴンが、
「ママはいぐづ?」
日本語で訊いた。李の北朝鮮訛りと違って、中国系のキティゴンの日本語は時々濁る癖があるから、よくわからないのか、浩一は素知らぬ顔をしている。
「ママはいくつだって、お姉さんが訊いてるよ」
「三十一歳」
浩一は答えた。
「それじゃ、今年は一九八四年だから、一九五三年生まれか」
キティゴンは英語で呟き、朱塗りの箸で空中に1953と描いた。
「ママのバースデイはいづですか」
今度は浩一は、
「一月三日」
大声の日本語で答えた。
「いつもお正月と一緒にお祝いしてるんだ。ママはお正月とお誕生日が一緒で損だ損だっていってるよ」
キティゴンは浩一の返事を聞くと、じっと水田をみつめた。
「一九五三の一の三よ」
水田は「あっ」とおもい、そういうこともあり得る気がしてきた。
水田はキティゴンを「人柄はいいが、|眼はし《ヽヽヽ》や機転のきかない娘」とおもいこんでいた。しかし、この中国系タイ人の娘は、下ぶくれの顔にはっきりした表情を宿さないものの、水田や笹岡、ダビトとの会話のなかから、彼らの仕事の内容を的確に嗅《か》ぎ取っているらしいのである。
ややあって、キティゴンは、
「あんさん」
と水田に呼びかけた。
「口、ベドベド、トイレ」
片ことの日本語でいい、階段を指差した。
キティゴンの調理した、ギョウザや焼きそばで、口のまわりがベトベトだ、洗ってこい、といっているのである。
階段を上った水田は、躊躇せずに書斎に入り、橙《だいだい》色のアタッシェ・ケースを引き出した。右の番号に195をセットし、左に313をセットすると、パチンと音を立てて、留め金が跳ね上がった。
――こりゃ、驚きだぜ。暗証番号に浩美の誕生日を使うなんて、やっこはやっぱし浩美に惚れてやがんな。
水田はおもわず天井を仰いだ。
アタッシェ・ケースを開いてまず目に飛び込んできたのは、白いメモ用紙である。
白いメモ用紙には大きな字で「船がない!」と書いてある。その下に律儀な小さい字が並んでいて、「イランまでパイプを運ぶ船が見つからぬ。イラン頼りにならず。ラファエルをプッシュのこと」と書いてある。
メモ用紙の下、アタッシェ・ケースの底には、紙袋が二セット入っていた。中身を改めると、両方ともどこかの会社のパンフレットで、ひとつには英語とフランス語、もうひとつには英語の活字が並んでいる。自社紹介用パンフレットらしい。
水田はメモ帳を取りだし、まず一番上の「船がない」以下の言葉を写した。それからパンフレットに出ている会社の社名とおもわれるローマ字、社長らしい中年、禿げ頭の男の写真の下の名前を書き写した。金釘流で書き写した文字をもう一度、確認したが、馴れぬ仕事に額から汗が噴き出た。
パンフレットを注意深く紙袋に戻し、その上に「船がない」のメモをこれも注意深くのせて、アタッシェ・ケースを閉めた。メモを見て、数字を最初のものに直した。
あらかじめ指で計っておいた奥行きに、アタッシェ・ケースを押し入れた。
階下に降りてゆくと、キティゴンは浩一を膝にのせて、テレビを見ている。
振り向いたキティゴンと水田は目を合わせた。キティゴンの下ぶくれの顔は、相変らず無表情である。
「顔、洗ったよ」
顔を洗うジェスチュアをしてみせながら、「このアマはたいしたタマよ」と水田はおもった。
おおきな柳の木が庭先にあり、その向うをテームズ河の支流が流れているレストラン「ウォーター・サイド・イン」で安原伸彦は浩美と食事をした。
ワインの在庫も豊富な、フランス系のレストランで、十時過ぎに店を出たときには、ふたりともすっかり出来上っていた。
「この店では、夏の間は河に船を出してくれて、柳の下でアペリティフを飲むんだそうです。先輩、また夏に一緒にきましょう」
そう囁きながら、伸彦が浩美の肩に腕をまわすと、浩美は素直に躰を預けてきた。
冬枯れた林のなかの駐車場で、
「これ、酔っぱらって乗る車じゃないわね。シートまでよじ登らなくちゃいけないんだものね」
そういう浩美の腰を支えて、伸彦はニッサン・パトロールの助手席にのせた。先日、浩美がたくしあげて見せてくれたみごとな尻の白さが目の前の闇のなかに浮かびあがるようで、伸彦は気持が動揺した。あのときガードルの向うで、白い尻は「ラグビー・ボール状」に、しかしはじけるように張りだしていたものだ。
運転席にすわった伸彦は、ちょっと図に乗って、浩美を抱き寄せたが、浩美は軽く頬を合わせ、伸彦の唇の端にこれも軽いキスをした。
伸彦が腕に力を入れると、
「それは駄目。これでおしまい」
じつに冷静に拒否された。
「伸彦さん、ツアーにゆきましょうよ、ツアーに参加して、家具工場を見てこよう」
と浩美は生き生きした声でいう。
「ツアーか。商売がそれまでに片づくかなあ」
伸彦は相変らず不安であった。
「パイプの商売、大変そうね」
浩美は同情する顔になった。
「だけどイランは戦争してるわけじゃない。戦争の最中に油のパイプの買いつけをするなんて、ずいぶんのんびりしてるなあ」
「しかしイランだって油を売らなくちゃ、肝心の戦争の費用が調達できないのでありますよ。油を売るためにパイプを買うんです」
「そうかなあ、パイプより大急ぎで買うものがあるとおもうけどなあ。戦車とか戦闘機とか鉄砲とか」
伸彦は現実に引き戻された感じで、ニッサン・パトロールのエンジンをかけた。
水田清が安原伸彦の家で探りだしてきた情報は、ダビトを通じてウイーンの|李 仲麟《リー・チユンリン》に送ったが、折り返し北朝鮮側から連絡があった。
水田と笹岡の下宿にやってきたダビトは、
「北のウェンブレイでな、今度の日曜にグレイハウンド・レーシングがある。そこに北朝鮮の工作員がくるそうだ」
そう告げた。
「グレイハウンド・レーシングってなんですねん。犬の品評会でもやりますのんか」
笹岡が首をかしげた。
「いや、ドッグ・レースだ。兎の玩具《おもちや》走らせて、グレイハウンドの犬に追いかけさせるレースよ。どの犬が勝つか、皆、金賭けて大騒ぎするんだよ」
ダビトはドッグ・レースを見に行った経験があるらしかった。
「観客席の前のほうにね、男が五、六人立って、バレーみたいに両手を振っている。賭け金の率を手で説明しているんだが、その後ろに立っていてくれ、といってきた。ふたりともハンチングをかぶってきて欲しいそうだよ」
「ハンチングって鳥打ち帽だよな。なんでふたり揃って鳥打ち帽かぶるんだよ。大の大人がお揃いでハンチングかぶって歩くなんて、お笑い番組だぜ」
水田が文句をいった。
「まあ、北の感覚としたら、ハンチングは労働者の帽子ちゅうイメージがあるんやろなあ。ここはあんさん、ひとつ童心に返ってやね、ペアー・ルックとゆきまひょ」
ふたりはパトニーの洋品店で、ツイードのハンチングを買いこみ、地下鉄に乗ってロンドンの北の郊外、ウェンブレイへ出向いた。
要するにグレイハウンド種の犬が競走するから、グレイハウンド・レーシングというのだが、ドッグ・レース場は見る物聞く物、ことごとく目新しくて物珍しかった。
競技場の中央を白衣を着た男女が、一頭ずつグレイハウンド種の競走犬を引っ張り、行列して歩いてゆく。呆れたことに行列の最後にシルクハットの紳士然とした男がシャベルとバケツを下げ、犬の糞を拾っている。
犬の腹には大文字の番号がついていて、これは競走犬のデモンストレーションであった。金の賭け方は競馬の場合とおなじらしかった。
ダビトの教えたとおり、観客席の中央に、ネクタイをきちんと締めた背広姿に、なぜか白手袋をはめた男が、横一列に並んで立っていて、盛大に両手を振っている。これは観客に向って賭け金の率を身ぶりで示しているのだが、なんとも奇妙な印象であった。
「こら、旗のない手旗信号やなあ」
笹岡がいう。
「株の取引所のよ、場立ちってのか、あれじゃねえかよ」
ふたりは一列横隊に並んで、株の場立ちふうに派手に手を振る身振りの男たちの後ろにまわった。
水田はかぶりなれないハンチングを気にしながら、周囲を見まわしたが周囲はダウン・コートやスウェーター姿の労働者めいた、イギリスの男たちばかりで、北朝鮮からの連絡員とおぼしき、李のような人物はだれも眼に入らない。「馬主」ならぬ「犬主」なのだろうか、目の前には、カシミヤの外套《コート》を着、エルメスのスカーフを巻いた白髪まじりの女性がレースに見入っている。
やがてレースが始まり、玩具の兎を追ってグレイハウンドの犬たちが鳴き叫びながら、いっせいに走り始めた。競馬ほどのスケールのおおきさはないけれども、スピード感はこちらのほうがあって、それなりに迫力があり、水田は眼を奪われた。
疾走する犬の胴が激しく伸び縮みし、コーナーをまわると、冬の弱い光に犬の腹の毛が白く光る。
犬たちが猛烈なスピードでグラウンドを一周して、ゴールに飛びこみ、歓声があがって、溜め息が洩れた。
「結構、おもしれえじゃんか。犬券《いぬけん》買ってみるかよ」
水田が笹岡にいったとき、眼の前にいた女性がゆっくり振り向いた。
女は柄の長い、洒落た雨傘に両手をのせて、ふたりに向き合う姿勢になった。カシミヤのベージュのコートといい、水田にもそれと判別できるエルメスのスカーフといい、長い金鎖のついたシャネルのハンドバッグといい、とびきり高価なブランド品をたくみに着こなしているが、半白の髪の下の顔はたしかにアジア系である。
「ご機嫌よう。ベッカー高原からおいでになった方《かた》がたでらっしゃいましょ」
完璧な発音、それも東京、山手ふうの鼻にひびかせる発声で女はいい、水田は聞き違いではないか、と耳を疑った。
「お寒いなかをこんな田舎までおいでいただいて、恐縮しております」
女は両足を揃えるようにして、小腰をかがめた。
「わたくし、パトニーまで出向くって申し上げたんざんすけれども、ウイーンのなにが、この犬の運動場でお目にかかれって、うるさいんざんすよ。北のほうは犬が好きなもんでして、自分も興味があるんざんしょうね」
「ウイーンのなにが」だと?「北のほう」だと? この女は何者だよ、と水田は眼をむく感じになり、ハンチングの|ひさし《ヽヽヽ》をおもわず引っぱった。これも驚いた表情の笹岡と顔を見合わせた。
「わたくし、|梁 美善《ヤン・ミーソン》と申します。ここではヨシコ・オツールと申しておりますざんすけどね」
雛《ひな》人形のような顔をした女じゃねえか、と水田はおもった。
色が白く、眼が細く、まさに雛人形のような顔立ちの女である。白髪の下の顔は白々と皺《しわ》がなく、髪は白く染めているようにおもえ、白髪に染めるのを止めると恐ろしく若い容貌が現われそうな気配もある。梁美善というからには、ダビトのいうとおり北朝鮮の工作員なのだろうが、容姿、発声ともに東京・山手の名家の令夫人という印象であった。「ヨシコ・オツール」とここで名乗っているのは、英国人と結婚でもしているのだろうか。
「イランがお船に困っているって申しますのは、ほんとざんすか」
女は「お船」といい、まったく無邪気といっていいような眼をして、ふたりを交互に見た。
「そら、ほんまですわ。イランの石油公社は船がのうて困ってはるみたいや」
笹岡が応じて、その後集めてきた情報を説明した。
「ノースハンプトンの工場には、もうパイプがでけて積んでありますのや。工員の話では、イランがバタバタ駆けまわって船を探しとるんやけど、イランとイラクが戦争やってる危険な海はいやや、いうて手挙げてくれる会社がみつからへんのやそうや」
女は眼を外《そ》らし、気取った仕草で顎に人差し指をあてた。
「お船に乗るかたは、入れ墨なんかしてらっしゃるのに、意外と恐がり屋さんが多いのねえ」
と呟いた。
「よろしいわ。この件はウイーンだけにまかせずに、本式に取り組みますわよ。お船は出しましょうよ」
女は無邪気な顔でのどかにいった。
「ウイーンのなにをね、パトニーまで出張いたさせますから、それまでに先《さき》さまとのコネを強くしておいていただけませんかしら。コネを強くしておいていただいてね、ウイーンのなにを先さまにご紹介いただきたいの」
「そら、あんさんの役や」
笹岡が水田を親指でしゃくってみせた。
「間に立っているベルギーの|やっこ《ヽヽヽ》がおってね、なんとかそれとのコネってえのか、なにを強くしといて、ウイーンとこのなにを引き合わせるようにしときますんでね」
水田は意外な女の出現に上ずってしまい、女同様に「なに」を連発した。居心地わるくまたハンチングをかぶりなおした。
「わたくしもそのときにはパトニーへ出向いて参りますわよ。佐久間浩美という女性をよく拝見してみたいし」
女は商品展示会にでも出かける口ぶりである。
「あの女の情報は東京から平壌《ピヨンヤン》の機関に入って、ウイーンに指示が参ったんざんすけど、実物も見ずにお人攫《ひとさらい》をお願いするなんて無茶苦茶ざんしょう」
「お人攫い」の言葉に意表を衝《つ》かれて、返事が遅れた。
「お人攫いってのは、つまり人攫いのお人攫いかね」
まるで「お画かき」みたいにいうじゃねえか、と水田はおもった。
「ま、鞄のなかからサンプルに取りだすようなわけにゆかねえが、なんとか実物見本をお見せするこたあできるでしょうな」
グラウンドに、次のレースに出場する犬の一隊が白衣の男女にひかれて登場した。
「佐久間浩美をどうするかは私が本人をよく観察して、最終的に決めます。では、改めてご連絡致しますわ」
女が話を打ち切った。
歓声にひきこまれるように、女はグラウンドを歩くグレイハウンドの新しい一隊を眺めた。女の眼の光が笑いを含んで和《なご》んだ。
「おいしそうな犬たちざんすね。国の人民にあの行列を見せたら、指くわえて、食べたがりますざんすよ」
女は「車が待たせてございますの」と、しゃなりしゃなりと遠ざかって行った。
その週末、安原伸彦は家に閉じこもって勉強に精出すつもりであった。
翌週月曜日、学校でプレゼンテーションをやる順番になっている。
世界一といわれる「ローリーズ」保険について講義するように命じられているのだが、ローリーズは日本の保険会社と違って、保険引き受け組合のようなものだから、なかなか簡単に理解できない。結局現実にローリーズのドイツの代理店から派遣されてきているアンジェリカ・ウーファの助けを借りることになった。
土曜、日曜と教科書をかかえて、女友達とシェアしているアンジェリカの下宿に通ってローリーズについて説明を受けた。
日曜の夕刻、アンジェリカが気晴らしにテニスにゆこうという。
美貌のテニス・プレイヤー、クリス・エバートの昔の夫がジョン・ロイドだが、そのジョンの兄、ディヴィッドが運動具メーカーのスラゼンジャーと組んで、屋内テニス・コート・チェーンを英国に展開し始めている。「ザ・ディヴィッド・ロイド・テニス・クラブ」というチェーンだが、その第一号がヒースロー空港の手前にできた、という。アンジェリカの会社もメンバーになっているそうで、アンジェリカに誘われて、伸彦はそこへ出かけることになった。
伸彦はニッサン・パトロールにアンジェリカを乗せて、ヒースローに向う高速道路、M4に出た。出口三番で降り、右に向うと、軍隊の蒲鉾《かまぼこ》兵舎のような建物がならんでいる。そこが正確にはヘストンという地区にある「ザ・ディヴィッド・ロイド・テニス・クラブ」であった。
伸彦はアンジェリカとラリーを始めて、そのボールの伸びのよさに「おやおや」とおもった。球質の重いボールで、リノリウムの床に落ちて、ぐんと伸びてくるから、早目にラケットを引かないと打ち損じてしまう。
いつかラファエルに騙されて女性トイレから出られなくなったのがいい例で、アンジェリカはいつも「悪餓鬼」ラファエル・サラザールのいじめの対象になっていて、テニスではもちろん教室でも狙い射ちされる。アンジェリカが背中に「TOTEM POLE」という札をぶら下げていたことがあり、伸彦が外してやったことがある。むろん「あいつは裸になっても、きっとトーテム・ポールみたいにのっぺらぼうだぜ」といっているラファエルの仕業であった。
今日のアンジェリカはいつも一緒にテニスをやる「悪餓鬼ラファエル」がいないせいか、のびのびと剛球を放ってくる。伸彦はアンジェリカを見直すおもいで、次第にアンジェリカとのラリーに熱中し始めた。球質の重いスピード・ボールを打ち返すのに快感を覚え始めた。
三十分も打ち合ってひと休みすることになり、コートサイドのベンチに向って歩きだすと、アンジェリカが歩きながら、スウェーターを脱いだ。スウェーターを脱ぐ拍子に腋毛が見えた。アンジェリカは焦げ茶色の腋毛を自然のままに残して始末していない。
「ラファエルとのビジネスはうまくいっているみたいね」
「ラファエルはそのことでブラッセルに帰ってるけど、まあまあかな」
伸彦は船がなくて困っている話をしようか、とおもって止めにした。
「ラファエルと気を許してつきあっていると、私みたいにトイレに閉じこめられちゃうわよ」
アンジェリカがふいに蒲鉾型の天井を仰いでいった。
「今度の商売の相手はどこ?」
「イランの会社に売りこんでるんだ」
アンジェリカは地面に立てたラケットをくるくるとまわした。
「イランは自国保険主義で、シェルカテ・ビメ・イランって保険会社に入るように強制してくるの。ところがいざ船が沈んだとなると、この会社、いろいろと難癖つけて、保険金、払わないのよ」
「へえ」
伸彦は唸った。
「わるいことはいわないから、ローリーズの、保険が支払われなかったときの保険に入っときなさい」
「他の保険会社が保険金を支払わなかったときの保険、そんなのありかね?」
「ローリーズにはどんな保険もあるの」
アンジェリカは澄ました顔でいった。
隣のコートとの間には、ナイロン製の網が塀のように垂らしてある。その網の向うで、中年肥りした、色の浅黒い男がしきりに手を振っているのに気づいた。伸彦が近寄ってゆくと、
「この前、レ・ザンバッサドゥール・クラブでお目にかかったイラク大使館のハッサン・アーメッドです」
シャンパンを贈ってくれ、そのあとトイレで名刺を交換したイラク人であった。
ふたりはナイロンの網に手を突っこみ合って網ごしに握手した。
翌朝教師に促されて伸彦は教壇に立った。緊張したときの癖で伸彦は、口髭に絶えず手をやりながら、「ローリーズ」について喋り始めた。
「ローリーズ保険は約三百年前、エドモンド・ローリーズがタワー・ストリートで経営するコーヒー店から始まりました。このローリーズ・コーヒー店は貿易船の船主、船長、貿易商が集まり、海外事情や海事の情報をもたらす場所として有名でありました。
ここで海難事故のような災害の生じた場合には、自分の全財産をはたいて補填《ほてん》してやる、という一群の有志のひとが現れた。いざというとき補填してやる代りに事故に備えて、安心料を払え、という形で今日の保険の基礎ができたのです」
口髭に手をやるな、という意味だろう、アンジェリカが自分の鼻の下を指さしている。
「ローリーズの特色をひとことでいってしまえば、投機性です。ピアニストの指、ディートリッヒの足、ハイジャックに至るまで、危険の伴う行為はすべて保険の対象になる。いってみれば、投機、賭けの対象になります。こういう保険会社はドイツ、日本などには見当りません。最近は誘拐に備える誘拐保険もできた。さらに一歩進んで、誘拐された場合、相談に乗る子会社まで作っております」
口髭に触らなくなった代りに、伸彦はしきりに咳ばらいをした。それが気になるらしくアンジェリカが今度はこぶしで口を叩いて見せる。
「お節介焼きだな、まったく」と伸彦はおもった。
「ローリーズは、つまり保険は危険を材料にした真面目な賭けである≠ニ考えている。もうひとつローリーズの特色は、保険金は進んで支払うもの、という責任感の強さです。私などには保険会社はとかく保険金の支払いを渋るもの=Aという先入観がありますが、ローリーズの経営哲学は保険を引き受けた以上、シャツの最後のボタンまで請求に応じる≠ニいう点にある。これは保険金を支払わなかったら、保険に加入する人間がどこにいるか≠ニいう発想から出ているのです」
そこで伸彦は卑近な実例を挙げた。
「四年前の一九八〇年、イラン・イラク戦争が始まった折、イラク領のシャトル・アル・アラブ川の河口に各国の船舶、九十三隻が碇泊《ていはく》していましたが、河口をイラク軍に封鎖され、全船舶動きが取れなくなった。しかし、僅か一年後の一九八一年、ローリーズはこの九十三隻全船に対し保険の支払いを決定、ただちに実行したのです」
おおむねこんな話をして、なんとか課題をこなしたのだが、一番にアンジェリカが立ちあがって、拍手をした。教師が、
「おや、アンジェリカがスタンディング・オベイション(音楽会などで起立して拍手すること)をやっている。保険代理店の社員が拍手してくれればたいしたものだ」
と伸彦のスピーチを賞《ほ》めてくれた。
北朝鮮の|李 仲麟《リー・チユンリン》や|梁 美善《ヤン・ミーソン》に「先方とのコネを強くしろ」と依頼を受けた水田は、なんとかラファエル・サラザールにわたりをつけようと、語学学校の中をうろうろしていた。
ラファエルとは、浩美や伸彦を交えて学校のキャンティーンで何度か昼のサンドイッチを食べたことがあるくらいで、水田はいわば顔見知り程度の知り合いだ。
ラファエルを掴《つか》まえたとして、ラファエルに商売の時間を割いて貰えるかどうか自信がない。ただでさえビジネス・コースを取っている連中はとかくエリート気取りで、水田のような一般英語のクラスの連中を小馬鹿にする風があり、鼻であしらう傾向があった。
「キティゴンよ、どうせおれの英語は通じねえんだからよ、そのときはうまく助《す》けてくれ。ラファエル・サラザールの|らっきょう《ヽヽヽヽヽ》野郎の機嫌取ってな、なんとかアポイント取るようにな、話を持ってってくれや」
水田は弱気になり、キティゴンの肩をかかえこんで頼みこんだ。
キティゴンはにいっと笑って頷《うなず》くでもない。
しかし肝心のラファエルが掴まらなかった。
朝、ビジネス・コースの教室に行ってみたが、伸彦がプレゼンテーションをするらしく、教師の椅子にすわって落ち着かなげに口髭を撫でていたが、ラファエルの姿は見当らない。昼前にも、キティゴンと一緒に教室をこっそり抜けだして、ビジネス・コースに行ってみたが、どやどやと出てくる学生たちのなかにラファエルはいなかった。
「かまわねえ。安原の秀才に住所を訊《き》いちまうか」
とおもったが、あまりに慎重さを欠くようにおもえる。
「仕様があんめえ」
佐久間浩美にでも様子を訊いてみるか、とベル・エポックふうの唐草模様の欄干のついた階段を降り、ふと表を眺めると、ちょうどラファエル・サラザールが道路の向う側に車を停めたところであった。ラファエルはベージュのオーバーの前をはだけ、オーバーのベルトをぶらぶらさせて、アタッシェ・ケースを片手に下げている。ヨーロッパのどこからか、ロンドンのヒースロー空港に帰ってきたばかり、という感じである。
ラファエルがこちらに向けて道路を渡ってくるのを待ちうけ、水田は手を挙げた。
ラファエルは機嫌がよくないらしく、かすかに手を挙げて応えたものの、笑顔は見せない。
「ラファエルよ、|おれ《ミー》な、あんたに相談してえことがあるんだよな、今週二、三十分時間くれねえかよ」
水田は棒暗記してきた英語をつっかえ、つっかえしゃべった。
背の高いラファエルは怪訝《けげん》そうに水田の顔を見下ろしている。
「おれもトレードのビジネスやっててな。あんたのヘルプを頼みてえ話があんだよ」
必死にいったが、ラファエルのいぶかしげな表情は動かない。
するとキティゴンが横合いから、
「ラファエル、彼、イランゆきの船を世話《アレンジ》するって話したいのよ。あんた、この話聞いたら、とてもハッピイになるよ」
水田よりもはるかに達者な英語で口を挟んだ。
船の話まで持ちだす予定はなかったから、水田はあわててキティゴンを見たが、キティゴンは知らぬ顔をきめこんでいる。水田と笹岡の話を小耳に挟み、万事心得てしまったらしい。
それを聞いて、ラファエルの顔はいっそういぶかしげになったが、やがて眼が動き、宙をさまよった。とにかく話を聞いてみよう、という気になったのだろう。彼の立場としては、背に腹はかえられないほど追いこまれているらしかった。
「おれは今、とても忙しいんだよ。明後日の朝八時におれの家へきてくれ。パトニーのクーム・レーン十八番地だ」
ラファエルはいい捨てて、学校のなかに入って行った。
翌日の午後、水田がキティゴンを連れて、パトニーの下宿へ戻ってくると、お客がいるらしく、部屋の外まで甲高い話し声が聞えてくる。
水田は本能的に警戒をして、ドアに耳をつけた。ウイーン北朝鮮大使館の李仲麟の声らしい。
水田がドアを開けると、
「やあ、みつたくん」
李は手を挙げ、じろりと水田の背後のキティゴンを眺めた。
「神出鬼没ってやつだね、李《リー》さん」
水田は挨拶代りにいった。
「あんさん、李さんは無理して在日韓国人の旅券|使《つこ》うて、ようようここへきはったんやで。船も調達してくれはって、明日は胸張ってやね、ラファエル・サラザールに会うて、船の話をしたい、こないいわはんのや」
李は馬鹿に機嫌がよかった。
「ミスタ・みつたのお陰で、私かね、わか祖国の偉大なる首領様に大変な忠誠心を示すチャンスかきたんた。よろしくおねかいしたい」
「偉大なる首領様ってだれだよ。もしかして、おたくたちの親分かね」
傍らの笹岡が大袈裟に頭をかかえる仕種をしてみせた。
「そうそう大親分《おおおやぷん》た。日本の女みたいな天皇なんか問題《もんたい》ちゃない、男らしい偉大《いたい》なかたた」
李は親分のニュアンスを好意的な表現と取り違えているらしい。
その夜は李のために、水田と笹岡が、パトニーの中華料理屋の個室に席を設けた。パトニーにきているPFLPのダビトも、この宴席に連なった。
「PFLPと朝鮮民主主義人民共和国の連帯のために乾杯」
李の音頭でエレファント・ビールのグラスをあげた。
「明日、ラファエル・サラサールとかいう男に会うわけたか、ぽく、船は用意した。一万四千トンもあるってね、偉大なる首領様も|ちまん《ヽヽヽ》にしてる船た。ミョウヒャンサン丸といってね、妙なる香りの山と書くんた。妙香山はチョンチン川の上流にある一千九百メートルの美しい山てす。世界各地から偉大なる首領様に贈られた贈り物のね、展示館《てんちかん》もあるんたよ」
李はいった。
「とにかくね、今年の一月にアメリカがイランはテロ国家たから、皆、武器《ぷき》売るな、そういう圧力をヨーロッパの国に出したね。たからイランは血まなこいうのかな、武器《ぷき》欲しかって頭に血のぽっちゃってるんたよ。そこを皆、狙ってる。ぽくもね、船のしょうぱいきっかけにね、それ狙ってる」
李はビールのグラスを手に取って、
「もう一回乾杯しよう。佐久間浩美、生け捕り工作の成功を祈って、乾杯」
これには、水田は複雑な気分になり、しぶしぶという感じで、杯をあげた。
「このあいた、笹岡くんとみつたくんがお会いした、梁《ヤン》同志《トンチ》、朝鮮語ではえらい同志のことをトンチというんたけと、あの梁同志が平壌《ピヨンヤン》と連絡をとって、話をされたんた。それて、明日の二|時《ち》にね、梁同志がパトニーの学校の前に車ていらっしゃる。浩美の容姿の力量を見にこられるんた。簡単にいえぱ、|くぴちっけん《ヽヽヽヽヽヽ》よ。くぴちっけんを組織してくたさい」
なにかといえば「組織する」が北朝鮮の得意の言葉のようであった。
「しかし梁《ヤン》のおばさんにしてもよ、なんで佐久間浩美にこだわるんだよ。子連れじゃなくて、もっととらまえやすい娘っ子はうじゃうじゃいるぜ」
水田はそう突っこんだ。
「そんなことは知らん。梁同志のお兄さんは朝鮮労働党の情報機関の幹部をしておられる。偉大なる首領様の信頼も厚いか、なんといっても親愛なる指導者同志の信頼か厚い。そのお兄さんからちきちきにね、佐久間浩美くぴちっけんの指令が出とるんた」
「偉大なる首領様」とは|金 日成《キム・イルソン》首相を意味し、「親愛なる指導者同志」とは|金 正日《キム・ジヨンイル》書記を意味するのだ、と李は説明した。
10
翌朝、笹岡の運転するレンタカーのトヨタに乗って、水田は北朝鮮大使館の李仲麟をクーム・レーン十八番地のラファエル・サラザールの家に案内した。
ロンドンの番地は道路の片側に奇数番地がならび、もう一方の側に偶数番地がならぶ、というぐあいにはっきり区画されているから、ラファエルの家はすぐわかった。セミ・ディタッチド・ハウスと呼ばれる二軒長屋の一軒である。
ベルを押すと、玄関横の窓からこちらを窺う気配があって、すぐにドアが開いた。身仕度を整え、ネクタイを締めたラファエルは、連れのふたりを眺め、ちょっと意外な顔をしたが、すぐに応接間《レセプシヨン》に通してくれた。
家具つきの部屋を借りているのだろうが、それにしても生活の匂いがしない。
水田がいい加減な英語で、
「このひと韓国人なんだけど、日本で会社やっている李《イー》さん、それからその下で働いている呉《オー》さん」
と李と笹岡を紹介した。
北朝鮮で「リー」と発音する李の姓は韓国では「イー」になるのだそうであった。「呉」のほうは覚えやすいだろう、というので、笹岡が「|呉 昌奉《オー・チヤンポン》」というのを選んだのである。
応接セットにすわると、李仲麟がいきなり、
「時間《ちかん》ない、と聞いてるからね、すくピチネスの話したいてす」
日本語同様、訛りの強い英語で切り出した。
「あなた、イランゆきの貨物船《カーゴ・シツプ》、探してる話ね、ここの海運業界て聞きました。オーナーも船員《クルー》も皆、恐かってね、ペルシャ湾へゆく船、たんたん少なくなってる。それ当り前の話てす。たけと私は船を用意てきる。十日以内にヨーロッパに空《から》の貨物船を持ってくることてきる」
ラファエルは眉をあげて驚いた顔になった。疑わしそうな薄笑いを口もとに浮かべ、顎を撫でた。
「たたしこの船は北朝鮮の船てす。一万四千トンの|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸という、立派な船たか、北朝鮮たからね、国交のないイキリスにはこられない。ポルトカルかテンマークかその辺の国ならこられる。妙香山丸は今中近東にいるからね、ポルトカルのリスポンか一番近いね」
北朝鮮の船、という一言がラファエルに衝撃を与えたらしく、薄笑いが消え、顔に赤味が差した。
「しかしペルシャ湾は危険ですよ」
ラファエルはいった。
「朝鮮民主主義人民共和国の船員は勇敢てす。共和国の船員は偉大なる金日成主席のために、生命のことなと考えないて、とこへても出てゆくんた」
李は胸を張った。
ラファエルの顔には、まだ戸惑いが残っている。
実業家というには李の服装はなんともみすぼらしい。袖のすりきれたワイシャツを着て、縒《よ》れたような人参《にんじん》色のネクタイをだらりと締めている。この男は素姓の怪しい、いかがわしいブローカーではないか。ラファエルはそうおもって戸惑っているに違いなかった。
ラファエルの戸惑いを見てとったのだろう、李はいきなり立ちあがり、テーブルをまわった。|肘かけ椅子《アーム・チエアー》にすわっているラファエルの足もとにしゃがみこんだ。
膝もとに李の顔が迫って、ラファエルはさすがに怯《ひる》む表情になり、躰《からだ》を固くしたが、李は委細かまわずラファエルの膝を両手で掴《つか》んだ。
「北朝鮮はね、イランの油か欲しいんてす。中国から百万トン、ソ連から五十万トンくらいまわして貰ってるけと、とても足りないんた。この船のピチネスをチャンスに、イランと油の商売始めたいんたよ」
こんなに北朝鮮の立場を強調すれば、日本で商売してる韓国人という触れこみは真赤な嘘で、北朝鮮人という正体が露見してしまうに決っていた。
「この船のピチネスかOKになったら、私は北朝鮮の殲《ソム》七型戦闘機≠イランにサプライしたい。殲七型は中国のMIG21をね、北朝鮮て組みたててる、優秀な戦闘機たよ」
李は|ひきつれ《ヽヽヽヽ》の多い顔から一気に韓国人としての仮面をはぎとり、北朝鮮人としての素顔をさらす感じのひたむきな表情でいった。両手に力をこめて、ラファエルの膝を何度もゆすぶった。
「イラクは空軍力強い。しかしイランのほうは戦闘機か足りなくて困ってるんたよね。たからMIG21を少くとも六十機世話する。支払いは油ていいんた」
ラファエルはじっと李をみつめ、「わかった」と頷いた。
「あなたの話には非常に興味がある。至急傭船料の見積りとその北朝鮮の貨物船のリスボン到着予定を知らせてください」
そこでラファエルはちょっと躊躇《ためら》い、唇を舐《な》めた。
「うちが積みたいのは鉄鋼の送油管五十二本とね、付属施設です。パイプはイギリスから積みだすが、付属施設はイタリアから積みだす。その両方をリスボンで、北朝鮮の貨物船に積み替えてイランに運びたいんだ」
この|らっきょう《ヽヽヽヽヽ》野郎がよくイタリアに行っていたのは、この付属施設発注のためだったのか。付属施設てえのはなんだろう、と水田は考えた。
「爆撃に強い送油管をイランは欲しがってる。こっちはそれを売るだけの話なんだがね」
水田と笹岡の視線をふり払うようにラファエルは言葉を補った。
「ありかとう、ミスタ・ラファエル。十日ちゃない、一週間以内に船をリスポンに入港させます」
ラファエルの膝に両手を置いたまま、李は頭を下げた。
するとラファエルはヨーロッパのどこかの習慣なのか、なんだか勿体ぶった感じで、右手の手の甲を李の額に押しあてた。
――賞《ほ》めてとらすぞ、ってやつかよ。まるで王子と乞食みてえじゃないか。
水田はなんだか情けない感じでそうおもった。
李は偉大なる首領様の前から退出するときのように、しずしずと立ちあがり、席に戻って両手を膝に置いた。重大任務を果したというおもいいれで、両目をつぶっておもむろに咳払いをした。
ラファエルが、
「ミスタ・ハンドバッグ、今後の連絡はどうすればいいんだ。おれはしょっちゅう留守だぞ」
水田はあらかじめ打ち合わせておいたとおり、
「学校の地下にさ、学生の連絡板があるだろ。あそこに入港の日付けと運賃を書いた紙を貼っておくよ」
と答えた。
「よし、連絡には数字だけ書いてくれ。十二月一日入港なら1201、運賃も数字だけだ」
帰りの車のなかで、笹岡が、
「李さん、まずは成功ということやね。そやけど妙香山丸はほんまに一週間以内にリスボンに入れるのやろか」
「なに、船はもうリスポンに向っとるよ、リスポンに」
李は平然といい放った。
11
キャデラックのリムジンで、「ご機嫌よう」の梁《ヤン》同志《トンチ》がキングストン語学学校の前に着いたときは、ちょっとした見物であった。
レンタカーに乗って水田たちが待っていると、その前に静々と長大なストレッチ・タイプのリムジンが停まった。李仲麟が泡を食って、トヨタから跳びだし、リムジンの後部座席のドアを開けた。
「梁同志ありかとうこちゃいます」
直立不動の姿勢で挨拶する。
車から降り立った|梁 美善《ヤン・ミーソン》は、今日は小さいトルコ帽のような、しゃれた黒の帽子をかぶり、これも高価そうな、片側だけにおおきめの金ボタンが三つならんだ黒のコートを着ている。
李の存在など頭から無視したふうで、後ろの水田と笹岡にまた、
「ご機嫌よう。先日は遠いところを犬の運動場までお運《はこ》びいただいて恐れ入りました」
と例の鼻にかかる山手ふう日本語で挨拶した。それから学校を見あげ、「なかなか立派な|お《ヽ》学校じゃございませんの」と感心してみせた。
水田が後ろから眺めると、今日は白髪の数が少ない気がした。梁はどうやら髪を黒くか白くか、とにかく染めていて、日によってムラが出るらしかった。
まもなく授業が終るので、キティゴンが囮《おとり》役で学校の前にゆき、一同はキャデラックに乗って佐久間浩美の出現を待ち受けた。
浩美が出てきて、キティゴンと立ち話を始めると、キティゴンは気をきかせ、浩美と自分の躰が車内からの視線に重ならないように、巧みに姿勢をずらした。
広いリムジンの車内の、窓側にひとつ置かれた豪華なシートにすわった梁は、ハンドバッグからオペラグラスを取りだすと、それを眼にあててじっと佐久間浩美を眺めた。
「あら、日本人のくせにお色が白いのねえ。肌の艶もいいわ」
そう呟いた。
リムジンの反対側のソファにすわった水田は、浩美の品評会のような空気に耐えかねて、
「李さん、佐久間浩美はわるくないでしょう。少くともお婆さんでもブスでもないよね」
李に話しかけた。
「まあ、おぱあさんちゃないのはたしかたな。プスてもないけと、しかしピチンちゃないな」
李が答え、そこで梁に向って、
「同志《トンチ》、わか国ていうピチンはもっと革命性がなくちゃいけませんな。|かっしり《ヽヽヽヽ》肥った躰で共和国建設の希望に燃えている雰囲気がなくちゃいかん。佐久間浩美には革命性ていうか、革命力量というかそれが欠けとるな」
ゴマをするようにいった。
梁はオペラグラスを眼にあてたまま、顔を動かさず、今度もみごとに李を無視した。
李はやむを得ず、
「みつたくん、あのキチコンという、きみの女のほうか革命性があるよ。少くても佐久間浩美より肥っていてね、つうっとピチンたよ」
といった。
「そらほんまや。わしもね、あの子は全身羽二重餅みたいにポチャポチャッとして、可愛い子やで、そういうとるんですわ」
笹岡が面白がって相槌を打った。
そこで梁がオペラグラスをゆっくりと眼から離した。
「合格ざんすよ。あの女性なら、きっと親愛なる指導者同志のお気に召すでしょう」
梁は満足気にいった。
「ああいうグレイハウンドみたいな女性は親愛なる指導者同志のまわりの女たちのなかにも見当らないしねえ」
子連れで外国へきて、勉強している浩美には、たしかに一種精悍な雰囲気があった。それが梁に競走犬の「グレイハウンド」に似ている、という表現を取らせたのかもしれなかった。躰もしなやかで、手足も長く、立ち話をしている「マルポチャ」のキティゴンとは対照的な体型である。
水田は梁がこの前、ドッグレースの競技場で、「グレイハウンドはおいしそうね。うちの人民に食べさせてやりたい」といっていたのをおもいだして、ぞっとした。
「あと一年か二年して、平壌《ピヨンヤン》、東ベルリン間に定期航空路が開かれるんざんすよ。それで、パイロットにこのラインのライセンスを取らせなくちゃなりませんの。その慣らし運転の飛行機がちょいちょい、ベルリンへきておりますのよ。今度のお正月にも、ベルリンのシェーネフェルトに慣らし運転のなにが参りますから、それにお乗せして、お攫《さら》いしましょう」
梁はつるりといった。
「あの女性をお正月にベルリンへお連れ下さいませよ」
「しかしお攫いしてどうすんのかね」
「そりゃいろいろお仕事はございますわよ。破壊工作のなにもありますし、工作員に日本語教えるなにもありますし。だけど親愛なる指導者同志のお傍《そば》で働く仕事に一番向いているかも存じませんよ」
「金正日のお傍で働く仕事」ってのはなんか怪しげな仕事じゃねえのか、と水田は漠然とした不安を抱いた。
とにかく梁のひとことで、佐久間浩美の人生は決った感じになった。もはや彼女の所持する旅券は問題でなく、彼女そのものがターゲットと化している。それもどうやら金正日への献上品にされそうな気配なのである。
浩美が立ち話を終えて歩きだし、キティゴンがこちらへ戻ってきた。
梁はオペラグラスをバッグにしまい、雛人形のように白い顔に笑みを浮かべた。
「それじゃ、同志《トンチ》、あとはよろしくね」
梁は初めて李に向っていった。相変らず李の顔を見ようとはしない。
李は恐縮して車を降り、水田と笹岡も一緒に降りた。
「ちゃんと皆さんに|おご馳走《ヽヽヽヽ》して頂だいよ」
梁がそういいおくと、キャデラックはゆるゆると走り去ったが、結局その晩も赤衛軍持ちでインド料理を李に|おご馳走《ヽヽヽヽ》することになった。
食事のあと、ロンドンのケンジントンにある安ホテルに李を送りこもうとしたのだが、李は肯《がえ》んじない。ウェイトレスに水を所望し、がらがらと嗽《うがい》をして、それを呑みこんでから、
「ぽくはきみたちの下宿《けしゆく》に泊りたいな。ぽく、あそこか気に入ったよ。まあ、ピチネスの方向も見えてきたし、今日は皆さんに、ぽくか偉大なる首領様の話をしてあけるよ。皆さん、たいへん感動《かんとう》してね、人生観変る、とおもうよ」
「ぽく」を連発して、押しつけがましくいいだした。
ははあ、この男、旅費を倹約して、女房に土産のひとつも買って帰ろうって腹だな、水田は勘繰った。
「それやったら、李さん、あの下宿は自由に使うてください。ホテルは予約してしもたんやから、キャンセル・チャージ取られますさかい、われわれが李さんの代りに泊りますわ」
インド料理屋を出た笹岡がいった。
「もうひと部屋、取るからな、あんた、キティゴン連れてきたらええ」
「そうか、わが社の経費でおとすチャンスだってことか」
日本赤衛軍の連中は自分の組織のことを「わが社」と呼ぶのである。
李を下宿に送りこんだあと、ふたりはキティゴンを乗せ、ケンジントンに向った。キティゴンはごく当然のような顔をして車に乗りこんできた。
「ラファエルに土下座まがいの売りこみやってよ、北朝鮮はなかなか商売人じゃねえか」
水田は笹岡に感想を述べた。
「そこへゆくと、ベッカー高原のいうこたあ、いつまで経っても青臭くて浮き世離れしてるぜ。そうおもわねえか、チャンポン」
面白半分、笹岡が今日使った偽名を持ちだして、そういった。
「あんさんのいうとおりかも知れへんな」
笹岡は素直に受けた。
「世の中、なんでもビジネスになってきたとはおもいますわ。そやけどな、革命の世界はもうひとつ厳しいのとちゃいますか」
日本赤衛軍のなかでは「武闘派」の立場に立つ笹岡はやんわり反論した。
「そやけど、どない立派な作戦も金がなくては組織でけへん、ということやとおれはおもうな」
その晩ケンジントンのホテルの部屋で、水田は初めてキティゴンを抱いた。
中国系タイ人の白い裸を愛撫しながら、
「晩めしのとき、李さんもいってたろ。おまえもノース・コリアにゆきゃ、美人だぞ」
水田はいった。
「ノース・コリアじゃ、テプがピチンだってね。テプってなんのこと?」
「だんだんおまえまで発音がおかしくなってきやがったな。テプじゃない。デブってのが正確な発音でな、ファットの意味よ」
「私、デブないよ。お腹、ファットじゃなくてフラット」
キティゴンは誇るように平らな腹を指差し、おおきく息を吸って、平らな腹をさらにへこませて見せた。
白いキティゴンの腹を撫で、水田は、
「アジアはええよなあ、アジアは」
と呟いた。
二日後に李が妙香山丸の日程を細かくアレンジし、水田は加藤の偽名で学校の連絡板に数字のならんだ紙片を貼りだした。
12
その夜、安原伸彦は安眠できた筈であった。
語学学校から帰って、ロンドン支店の森勇平に電話すると、森は、
「おう、電話待っとったばい。船は一昨日、ミドルズブラちゅう、イギリスの田舎の港をでたとね。税関のサインの入った貨物証券が今日、こっちへ着いちょるわ」
と上機嫌でいった。
|イラン石油公社《NIOC》は、この件に関する限り馬鹿に金払いがよくて、契約と同時に本船渡し料金をイラン銀行経由で払い込んできて、森を驚かせた。
「これでこの商売も大船に乗ったっちゅうこっちゃな。リスボンで北朝鮮の船に積み替えて、お正月早々には、ペルシャ湾に安着じゃろ」
「北朝鮮の船ですか」
伸彦は少し違和感を覚えた。
「ラファエルの手配よ。ま、ほかに船がないくさ、仕様がなかと。とにかくこれで、あの色気のないパイプとも縁切りでしょうが」
本船渡しの契約だから、船に積んで送り出してしまった以上、商売は無事に終ったも同然ということになる。
その夜の明け方、何か物音がして、伸彦は目を覚ました。
表の路上で、ボールのような物の弾む音がしている。ボールというよりは石が弾むような硬い感じの音だったが、枕から頭を上げ、耳を澄ませていると、それきり音はせず、しんと静まり返っている。
近所の家の壁の一部でも崩落したのかな、と伸彦は考えた。
目をつぶった瞬間、寝室の外でガラスの割れる大きな音が響きわたった。つづいて二階の階段あたりで、ボールがどおんどおんと弾む音がする。
伸彦がはね起きて、寝室から走り出てみると、階段の踊り場のアーチ型の窓に、直径二、三十センチの穴が開き、窓ガラス一面に罅《ひび》が入っている。穴の向うに、明け方とはいうものの、真夜中のように暗いロンドンの闇が広がっている。
銃で狙撃でもされたのか、と疑い、それなら弾丸はどこに飛んできたのだろう、と周囲を見まわした。
しかし弾丸なら、あんなボールの弾むような音はしない筈である。伸彦は階段を注意深く眺め、階下の居間の電気を点《つ》けた。
銃弾の銃痕らしいものは居間の何処にも見当らなかったが、踊り場とは反対側、庭に面した出窓の手前になにか紙にくるんだものが落ちている。近寄って拾いあげると、赤い皮革製のボールが白いタイプ用箋のような紙片でくるんである。赤い革のボールは野球の硬球より少し小さく、イギリスの運動具店で見かけるクリケット用のボールらしい。
白いタイプ用箋には英文が打たれていた。
〈船がバンダル・カナベに着けばおまえの命はない。宮井物産も日本政府に営業停止を命じられるだろう〉
そう読めた。
伸彦は動転して鎖で施錠した玄関のドアを細く開いて、表を窺った。冷気と一緒に、暗い闇の彼方で車のエンジンをかける音が飛びこんできた。
伸彦はあとさきを考えずに手紙を放りだし、鎖の施錠を外して玄関から飛びだした。テームズ河沿いの道の彼方を、車が一台、ライトも点けずに走り去ってゆく。遠くてナンバーはおろか車の型もわからない。
突然背後で玄関のドアが閉る音がした。
動転した伸彦は鍵も持たずに家から走り出て、自分から閉めだされてしまったのである。
伸彦は、パジャマ姿のまま濃霧対策用の黄色い街灯がぼうっと不気味にともる、寒い路上に呆然と立ち尽した。
明け方、玄関のベルが鳴った気がして、佐久間浩美は二階の幅広のダブルベッドのなかで目を覚した。
夢のなかで聞いた空耳か、とおもい、もう一度寝つこうとすると、再びベルがなんだか遠慮する感じで、短く鳴った。
今度は空耳ではなかったので、浩美はやかましく軋《きし》むベッドから起きあがってガウンを着た。時計を見ると、まだ午前五時を過ぎたところである。戸外は朝九時近くまで暗いことがわかっているし、警戒する気持が先に立った。
前よりも少しだけ長くベルが鳴り、浩美は決心して、階下へ降りることにした。
足音をしのばせて、玄関に近寄り、
「どういうご用ですか」
英語で訊ねた。
「先輩、すみません。伸彦です」
押し殺した伸彦の声がした。
「表にゴミを捨てに出た拍子に、玄関のドアが閉っちゃって、家に入れなくなっちゃったんですよ」
語尾が震える感じで、切羽詰った感じだが、声は間違いなく伸彦のものとおもえた。
「まあ、驚いた」
浩美が学校のオッズジョブマンに取りつけて貰ったチェーンを外し、ドアを開くと、真っ暗な戸外に伸彦がパジャマ姿で立っている。足には踵《かかと》のついたスリッパを履いており、寒さに全身が小刻みに震えているようだ。
「この寒いのに、風邪をひくわよ」
背の高い伸彦をかかえ入れる感じで、家に入れた。
「いや、テヘランから電話が入って起こされてしまいましてね、それで眠れそうにないんで、ゴミでも捨てるか、と玄関のドアを尻でおさえましてね」
伸彦は震え声で説明しながら、ひきしまった腰を突きだしてみせた。
ゴミの収集は月、水、金の朝に行われるので、どの家も四斗樽ほどある、真黒なプラスチックのゴミ容器を表に出しておかなくてはならない。
「ゴミ缶の蓋を開けて、台所のゴミを放りこんだ途端に、なんとなんとドアがお尻から外れて閉ってしまったのであります。むろん鍵なんて持ってる筈はないんでありましてね、さりとて家を管理している不動産屋にゆこうにも、午前五時半に開いている筈がない。おもいあまってここにきた次第です」
「ははあ、それでこわごわベルを鳴らしたんだ。ちゃんと鳴らさないから、目が覚めなかったのよ。いったい何回鳴らしたの」
「ええと五回かな」
伸彦は遠慮がちにそういったが、この顔では七、八回鳴らしているに違いない、と浩美はおもった。
「とにかくなにか着なくちゃ。この家はあなたのところと違って寒いから」
伸彦の家は床下にスチーム暖房のパイプがびっしり通っていて、暖かいが、この家は壁ぎわに小型のスチーム暖房があるきりで、ききがにぶい。
浩美は二階へ駆けあがり、自分のおおきめのスウェーターとジーンズを寝室から持ちだし、ふと気がついて、バスタブのお湯の蛇口を開いた。
階下では伸彦がソファにすわり、よほど寒かったらしく、パジャマの上から両手で躰をこすっている。
「取り敢えずこれを着てよ。今、お湯を溜めているから、お風呂にお入りなさい」
伸彦はつんつるてんのジーンズをパジャマの上に穿《は》き、スウェーターを頭からかぶった。
「それで例のパイプとやらのビジネスはどうなったの。なんだか忙しそうで、このタウン・ハウスのほうには、目もくれないみたいだけど」
ちくりと厭味をいった。
スウェーターから頭を出した伸彦は、
「お陰様で、船は一昨日出ました」
といい、咳払いして口髭を撫でた。
前髪を額に垂らした伸彦はまだ寒いらしく、唇の色が戻らない。乾いて色を失った伸彦の唇に、浩美は性的な魅力を覚えた。
寒さに震えている伸彦に男の色気を感じてしまって、浩美は落ち着かない気分になった。
「まだお風呂、溜まらないかな」
二階の湯の出る音を窺い、階段を昇った。風呂の溜まるのを暫く待ち、半分ほど溜まったところで、伸彦を呼びに戻った。
「お風呂に入ってらっしゃい。その間に朝ご飯、用意するから」
バス・ルームに伸彦を送りこんでから、台所にゆき、ばたばたと食事の用意に取りかかった。
笛吹きヤカンのお湯が沸いて、笛が昔の汽車の汽笛のように長く尾を引いて鳴るのを聞きながら、卵を焼いた。物珍しさに買いおいてあった|燻製の鰊《キツパーズ》を温めた。
浩美はヤカンの笛の音を楽しんでいる自分に気づいた。こんな早朝に、文字どおり叩き起こされたというのに、気持が遠足に出かける朝の少女のように弾んでいる。
牛乳配達らしい車の音がしたので、玄関に出て、ボルドーワインに似た形の牛乳瓶を取りに出た。そこで激しい水音がしているのに気づき、玄関から裏庭にまわってみると、裏庭の暗闇のなかに湯が一階から滝のようにほとばしって落ちている。芝生に濛々《もうもう》たる湯気をあげていた。
「伸彦、やったね」
と浩美は手を叩き、おもわず吹きだした。
屋内に戻り、階段を駆けあがって、バス・ルームのドアをどんどん叩いた。
「伸彦さん、うちのお風呂に入るときは顎まで浸《つか》っちゃ駄目」
浩美はいったが、意味が通じないのか内部から返事がない。
13
伸彦は浩美の家のバスタブの湯に浸りながら、恐怖感から脱しきれなかった。
これは決して、佐久間浩美が襲われたようなゆきずりの事件ではない。なによりもクリケットの赤いボールと一緒に投げこまれた脅迫状の存在がこの事件の性格を裏づけている。「おれはとうとう戦争にまきこまれた」と伸彦は、おもった。
イラン・イラク戦争の最中に、イランに対空爆用の送油管を売りこんだものだから、相手の交戦国、イラクの怒りを買ったのだろう。
しかし、イラク側に脅されているとして、一修業生がこの商売に関係していることをどうしてイラク側が察知したのであろうか。
イギリスの首都ロンドンがイラン、イラク双方の激しい諜報戦争の戦場と化している、という記事をこちらの雑誌で読んだことがある。現に伸彦がイランのキルス・ファヒムと「レ・ザンバッサドゥール」で食事をしていたとき、イラク側がちゃんとその場に居あわせて、シャンパンをこちらに贈ってよこしたりしたではないか。
伸彦はその折、これも故意か偶然かトイレで、イラク大使館のハッサン・アーメッドという陸軍武官と出会い、名刺を交換している。
ハッサン・アーメッドには、その後「ザ・ディヴィッド・ロイド・テニス・クラブ」でも顔を合わせ、ナイロンのネット越しに握手を交わしている。
おれを脅迫しているのは、たとえばあのアーメッドか、その手先なのだろうか。
しかしなぜ伸彦や宮井物産がイラク側から脅迫されねばならないのだろう。どうして送油管を輸出するのが、これほどイラク側の怒りを買うのかがわからないのである。あのパイプは工場で実際に検分した限り、内側のつるりとした単純な管で、どう見ても種や仕かけがあるとはおもえない。
現に森のところに貨物証券が着いたそうだが、貨物証券は英国税関が貨物を検分して承認しなければ発行できない筈のものなのである。つまり英国税関も種や仕かけはないと判断して輸出を許可したのだ。
それにしても〈宮井物産も日本政府に営業停止を命じられるだろう〉というのはどういう意味なのだろうか。
伸彦はわけがわからず、それだけに恐怖感が募った。恐怖感を洗い流すように、伸彦はバスタブのお湯を両手ですくって、顔を洗った。
そこへ突然バス・ルームのドアが開き、浩美が入ってきた。
浩美は両手を腰にあてて、バスタブのなかの伸彦を見下ろし、
「この家のお風呂はお宅のお風呂みたいに高級じゃないの」
といった。
「お湯を溜めすぎると、ここから表にあふれちゃうのよ」
浩美は突然、伸彦が長々と足を伸ばしているバスタブにかがみこんだ。呆然と伸ばしたままのサイズ28の足の上、蛇口の下の排水孔を指で触ってみせた。
「ここから家の外に樋《とい》が突き出ていて、今、お湯がじゃあじゃあ、この二階から庭にあふれて、落っこちているのよ。ご近所の方が起きてしまうわ」
伸彦は驚いて、
「へえ、知らなかったなあ。申しわけありません」
あわててバスタブのなかに立ちあがった。
バスタブの中の湯の高さが排水孔の下までさがり、戸外にあふれ落ちる音がふいに止ったのに伸彦は改めて気づいた。
恐怖感の後遺症が残っていて、表にほとばしる湯の音が耳に入らなかったのである。
浩美は息を吐いて、
「ご免なさい。折角ゆっくり暖まってらしたのに」
と謝った。
それからぼうっと湯船に突っ立ったままの伸彦の躰を一瞥《いちべつ》して、
「だけどなかなか素敵なヌードよ」
伸彦はあわてて前をかくし、浩美は華やかに笑って廊下へ出て行った。
八時半、浩一を保育所に送ったあと、伸彦は浩美のジャンパーを着たまま浩美に不動産屋まで連れて行って貰った。不動産屋の中年の女性が鍵を持って、車で送ってくれ、伸彦はやっと家に入ることができた。
14
最初、ウイーンで北朝鮮大使館の|李 仲麟《リー・チユンリン》と会ったときは、佐久間浩美の旅券を盗むのが第一目的で、旅券の再発給の申請をさせないために、できれば当人も拉致《らち》連行してくれ、そんなニュアンスであった。
しかし、あのあと話が次第に変ってきた、と水田はおもった。特にあの「ご機嫌よう」の女おばけが出てきてから、旅券の話などどこかへ消えてしまい、浩美の誘拐、北朝鮮への拉致連行が第一目的として急浮上してきてほとんど決定してしまった。|梁 美善《ヤン・ミーソン》は「親愛なる指導者同志のお気に召すだろう」とまるで浩美を金正日への献上品のように考え始めているのだ。
その夕刻、下宿で笹岡とウィスキーを飲みながら、水田は「北朝鮮儲け過ぎ」の話を持ちだしてみた。
「笹やん、北へは船の商売も仲介したしよ、船に加えて、うまくゆきゃ北は武器もイランへ売りこめるわけだよな、いってみりゃおれたちゃ、北へは充分恩売ってるってこったろ。このうえ、浩美の誘拐まで取り持つこともなかろうぜ」
笹岡はスコッチのティーチャーズの水割りのグラスを、安物のフロアスタンドの明りに透かしながら、
「あんさんが浩美と仲ようなってきてな、仏《ほとけ》ごころが出てきたのもようわかるけど、ここはひとつ気張って、北に恩売っとかな、あかんのやて」
機嫌をとるようにいう。
「わが社の社長がどう考えはるか、そこが微妙なんやけど、おれは次におおきな作戦をやらなあかん、おもうてる。そのときは国際革命勢力の助けを借りることになるんやろしな」
「わが社」とは、むろん日本赤衛軍のことであり、「社長」とはリーダー滋山久子を指している。
「おおきな作戦って、なんだよ」
「そら天皇制打倒や」
笹岡はにこにこといった。
「そりゃ耳に|たこ《ヽヽ》ができるほど、聞きあきた言葉よ。日本帝国主義とおなじくらい、新鮮味に欠けるぜ」
「そやけどな、あんさん、考えてみ。畏《おそ》れ多いことやけど、天皇制がこの英国のすぐ近くに下宿してはりますのやで」
直近《ちよつきん》皇族のひとりが英国の大学に留学中なのは周知の事実であった。水田もその意味に気づき、さすがに恐怖に躰《からだ》が硬《こわ》ばるおもいがした。
「そら、畏れ多い話だよな」
笹岡は水割りをひとくち、呑んだ。
「たとえばの話や、北朝鮮の武器をIRA(アイルランド共和国軍=北アイルランドの反英地下組織)に売りこむなりしてな、その見返りにIRAに協力を依頼して、次の作戦を起すことになるかもしれんのや。ここんところは気張って、北のご機嫌取らな、あかん。あのご機嫌よう≠フおばはん同志《トンチ》がえろう浩美を気に入ってはるんやからね、ここは御意《ぎよい》に添いましょうや。浩美はいうてみれば大作戦の前の袖の下、いうところかな」
やっと家に入れた安原伸彦は、不動産屋の中年女性に踊り場のガラス窓を見せ、「いたずらをされたらしいから、修繕してくれ」と頼んだ。
会社の仕事絡みで脅迫状を送りつけられたわけだから、不動産屋が帰ったあと、まず一番にロンドン支店の森勇平に連絡した。
「へえ、あんたにもきちょるか」
森は意外に平静な声でいった。
森勇平も会社気付けで脅迫状を受け取っており、読みあわせてみると、文面はまったくおなじである。
「われわれは湧《わく》さんと一緒にパイプ見に工場へ行ったりしちょるけん。脅されて当然じゃろ」
「小生と致しましては、一修業生の身で脅して貰いまして、光栄とおもっておりますよ」
しかし森宛ての脅迫状が会社気付けできていて、伸彦宛ての脅迫状が自宅に、それも窓ガラスを割って投げこまれたのはどういうことだろうか。
「おれの名前は鉄鋼業界のブローカーにでも訊けば、すぐわかる。あんたの名前も、英文の社員名簿には載っとるし、髭のトレーニーはだれだと問い合わせりゃ、名前を割りだすのにそう手間、暇はかからんでしょうが」
森がいった。
「そこで、万一ということもあるけん、生命保険をお互いに増額しといたほうがよかと。それから気になってるのは船やな。当然船も狙われてると考えんとあかんが、船が沈んだら、保険はどうなるかが問題ですたい」
伸彦は反射的にアンジェリカ・ウーファの化粧っ気のない顔を思いうかべた。
「じつは私の同級生にドイツ人で、ローリーズの代理店から派遣されてきている娘《こ》がおりましてね。その子はイランの国営保険会社、シェルカテ・ビメ・イランは船が沈んでも、いろいろ難癖をつけて金を払わんことで有名だ、というんでありますよ。しかしローリーズには、他の保険会社が保険を支払わなかったときの保険というのがある、だから念のためにその保険に入っとけ、といっておりました」
「それは面白か話だわ。その娘《こ》は信頼できるとね」
「英語でプレーンな娘というんでありますか、愛嬌のない顔をしておりまして、躰もやや立体感に欠けておりましてね、トーテム・ポールという綽名《あだな》がついている娘なんですが、大変真面目で信頼できる、とおもいます」
「そら、この際、顔かたちはトーテム・ポールでもセント・ポールでも関係なかとよ。その女子《おなご》、今日の夕方でもこっちへ連れてきんしゃらんね」
森がいった。
午後五時過ぎ、ビジネス・コースの授業の終ったあと、伸彦はアンジェリカ・ウーファと一緒にロンドンのシティにある、宮井物産を訪ねた。アンジェリカと握手した森は、
「時間も時間やし、そこんとこのパブで話しまっしょ」
という。
森はふたりをフリート・ストリートのパブ、「イ・オールド・チェッシャー・チーズ」に連れて行った。途中の路上で、森は、
「トーテム・ポールとかいう、あの娘《こ》、自然体でよかばい。そこはかとのう色気も漂っちょって、わるくなか」
という。
「森さんに会うというので、彼女、昼に家に帰って、精いっぱい化粧してきましたからね」
そんなやりとりをした。
「イ・オールド・チェッシャー・チーズ」は古いパブで、床におが屑《くず》が撒《ま》き散らしてあることで有名だ。昔のイギリス人は行儀がわるく、今の中国大陸の連中が料理屋で痰《たん》を吐くように、絶えず|唾き《スピツト》を床に吐いたらしい。その唾きを吐き散らした床を掃除するために、昔、イギリスの酒場はどこも床におが屑が敷いてあったそうで、このパブはその名残りを留めているのだ、と伸彦は聞いたことがある。
おが屑を踏んで入った店の奥、カウンターの傍らで、これもイギリスのビール「エール」を飲みながら、立ち話をした。
「エール」はまるでウーロン茶のような味がして、伸彦はあまり好きではないが、森が勝手に注文して金を払ってしまったから、渋々つきあった。
「イランの保険会社が保険を支払わなかった場合の保険ね。いつでもOKですよ。|保険引き受け人《アンダー・ライター》の手当てもついてます」
アンジェリカは胸を叩いた。
「ただし保険料は高いですよ。ふつうの海上保険は貨物価格の〇・〇二七五%だけど、この保険は二%、だいたい百倍ね」
「保険会社が保険を支払わんかった場合の保険か。さすがはローリーズやな、森羅万象、なんちゅうか、エブリイシングを保険にしてしまうわけや。保険料の率など、どうでもよかたい。GOとゆこう、GOと」
森は即決した。
「それで船が沈んだときの手当てはできたとして、パイプがイランに着くと、宮井物産が営業停止処分にされるちゅうのは、どういう意味かね」
森は首を捻った。
「こっちのメーカーについちゃ、視察もしちょるし、調査もしちょる。問題は設計会社やな、ロベール・ガルーとかいった、あのデブ親父がポイントやな。あそこに問題があるんじゃなかか」
そこで森が、
「ミス・ウーファ、あんた、ブラッセルにある、ベルジアン・ハイ・テクノロジーちゅう会社を知っちょりますか」
と訊ねた。
「ラファエルの勤めている会社ね。会社の内容は知りません」
アンジェリカは長い首を振った。
「でもデュッセルドルフの本社に訊けば、調べられる、とはおもいますけど」
「うちが経費、出しますから、現地へ行って貰えませんかね」
森は伸彦に向い、
「あんたも一緒に出張ばしてきちゃらんね。命狙う脅迫状がきとるときに、学校でもなかとよ。至急調査に行ってくれんね」
十二月十四日の金曜で、キングストン語学学校秋季学期は終って、クリスマス休暇に入るのである。
その夜は森が「イ・オールド・チェッシャー・チーズ」の二階で、夕食を奢《おご》ってくれた。
夕食をとりながら決めたのだが、翌朝、伸彦はブラッセルに行って、銀行筋からベルジアン・ハイ・テクノロジーについての評判を聞かせて貰うことになった。
アンジェリカ・ウーファのほうは、彼女のもともとの勤め先である、デュッセルドルフの保険会社に戻り、調査関係その他の部門で、やはりベルジアン・ハイ・テクノロジーの評価を聞き出してみる、という。
伸彦はアンジェリカと十三日の夕刻、デュッセルドルフのホテル、「|ラインの星《ライン・シユテルン》」で落ち合うことになった。アンジェリカは自宅がデュッセルドルフ郊外にあるので、そこに泊るが、伸彦のために「ライン・シュテルン」の部屋を取っておいてくれる、という。
「イ・オールド・チェッシャー・チーズ」を出たあと、伸彦はニッサン・パトロールで、アンジェリカをパトニーのアパートに送り、メゾネットの自宅に帰宅したのだが、玄関の鍵をまわしながら、ごく自然に明け方に脅迫状を放り込まれた踊り場の窓の破れ穴に眼が行った。改めて恐怖感がせりあがってくる気がした。
メゾネット式の家のなかをひとまわりして、異常のなさを確かめたが、いつものようにすぐシャワーを浴びる気になれない。居間にすわって、テレビをつけたが、BBCがイラン・イラク戦争の推移を報じているので、あわてて消した。
じっとすわっていると、踊り場の窓からだれかの顔が覗いていはしないかという恐怖感が背筋を這い昇ってくる。ハッサン・アーメッドに似たイラク人の顔が廊下の明りを浴びて浮かびだしている気がする。
恐怖感を払いのけようと、伸彦はドレッサーからブランディを取り出し、ヘンリー・パーセルの室内楽のCDをかけた。踊り場の破れ穴の見える場所に席を移し、正面から破れ穴を睨みつけた。
――おれはこういう恐怖感にさらされたことがあるか。
昭和三十一年生まれの伸彦は戦争の恐怖、貧困の恐怖、挫折の恐怖からおよそ遠い人生を歩んできた。伸彦にとって、もっともまがまがしい恐怖感を味わったのは、高校進学直前の昭和四十七年二月、連合赤衛軍が起した浅間山荘事件であり、翌月発覚した連合赤衛軍による妙義山リンチ事件であった。
特に十二人のリンチの遺体の発見された妙義山の事件は高校進学直前であった伸彦にひどい衝撃を与えた。
伸彦は当時、神奈川県大船にあった中学・高校一貫教育のカトリック系ミッション・スクール栄光学園に通っていたのだが、朝の通学の電車のなかで、二歳違いの兄の龍彦が、
「総括≠チてのは恐いなあ」
と呟いたのをよく覚えている。
「おまえ、あの十二人のなかのひとりは弟に総括されたんだぜ。弟がほかの同志と一緒になって、兄貴を総括≠オたんだぜ」
兄の龍彦は顔をそむけるようにしていい、ちらりと伸彦の表情を一瞥した。おまえも、組織に強制されると、実の兄を総括≠キるのか、そんな微妙な気配が朝の車中に漂った。
伸彦は兄の龍彦とふたり兄弟だったが、男の兄弟の間には、血ばかりでなく、体臭までも共有しているような濃密な関係がある。幼年時代から、お互いの乳臭さ、小便臭さ、少年期の汗と脂臭さを共有してきた。兄の部屋に入ると、自慰行為のあとらしい匂いを嗅いだこともあるから、青臭い精液の匂いまで共有してきたのだ。
その兄弟同士に総括≠命じる組織がこの世には存在するのである。まがまがしい悪の存在を感じたのは、あのときだったといっていい。
そのあと兄弟は一緒に学校の「宗教」の課目の担当教師、スペイン系フィリピン人、フェルナンデス神父から洗礼を授って信者になった。兄弟ふたりとも口にしたことはないが、あの事件が兄弟の洗礼に影響をおよぼさなかった、とはいいきれない。
そして高校三年の八月には、おなじような過激派組織による、丸の内の三菱重工ビル爆破事件が起った。
そうした思い出が重なり、伸彦は踊り場の窓から眼が離せず、躰が金しばりにあったようになっていた。
ふいに電話が鳴った。
「伸彦さん、今朝はずいぶん寒そうだったけど風邪をひかなかった?」
佐久間浩美の華やかな声が響いた。
「ああ、先輩でありますか。どうもご迷惑をおかけ致しました」
伸彦はほっと救われるおもいがし、恐怖感が音を立ててしぼんでゆくような気持がした。
「あなた、今朝、ゴミを捨てに出たら、ドアが閉って家に入れなくなった、というのは嘘でしょう。家のなかで、なにか音がしたりして、恐くなって跳びだしたら、ドアが閉っちゃったんでしょう」
「ほんとは先輩のおたくになんとかしのびこんでお風呂に入れていただきたかった、それだけの話であります」
やっと伸彦も冗談に応じる余裕ができた。
15
翌朝、伸彦は簡単な旅仕度をして、パトニーのウェールス銀行の支店にゆき、ブラッセルのウェールス銀行宛ての紹介状を受け取った。
森勇平が朝一番にウェールス銀行本店に頼んで手配してくれたのである。
午後早々にブラッセルに着いたが、ウェールス銀行ブラッセル支店次長とのアポイントメントは午後三時で、時間が余っている。
伸彦はベルジアン・ハイ・テクノロジーのオフィスを外からだけでも眺めてみよう、とおもいついた。
ベンツのタクシーに乗り、自社紹介のパンフレットに載っている住所を示した。
タクシーはものの二十分足らずで、ブラッセル市内に入った。
伸彦にとっては初めて訪れるブラッセルの街だが、おなじ真冬の曇天に閉ざされているというのに、イギリスの街とは違った、なにか華やかで浮き立つような空気がある。おなじクリスマス・セール真っただなかの店頭ながら、街の小さいブラッセルのほうが、セールの空気がもりあがっている気がした。
街ゆく車のナンバー・プレートが他の国のように白地に黒ナンバーではなくて、白地に赤文字や緑文字でナンバーを書いてあるのが、物珍しく眼に映る。
「アクシデント」
訛りの強い英語で運転手がいい、行く手を指差した。
商店街の一角に建つビルの前に、白い救急車が停まっている。フロント・グラスの上に、赤色でなく、青色のライトが鬼の角のように二本立っていて、ぴかぴかと光っていた。濃紺のパトロール・カーがサイレンを鳴らして、伸彦の乗るタクシーを追い越してゆき、救急車の反対側に停車した。
伸彦はパトカーから降り立つ警官たちを、他人事《ひとごと》のように見ていたが、タクシーはパトカーの後方にぴたりと停まって、
「あんたが訪ねたいのは、あそこの救急車が停まっているビルだよ」
運転手がいう。
「それから、タクシー代はメーターの二倍だよ。空港出入りのタクシーは往復運賃を貰うきまりだ」
呟くようにいう。
よく事情が掴《つか》めないままに、二倍の料金を払い、タクシーを降りた。
そこはアヴニュー・ルイーズという、商店街の一角らしいのだが、新しいビジネス街が形成されつつあるようで、ベルジアン・ハイ・テクノロジーのあるビルも新築、高層のビルであった。
伸彦は道路を横切り、救急車の傍らを通って、そのビルに近寄った。
白い救急車はフォルクスワーゲン社製で、横腹にふとい赤線がひいてあり、電話印のマークに100と書いてある。ベルギーの救急電話の番号は100番なのだろうと伸彦はおもった。
群衆を掻きわけて、ビルに入ろうとしたとき、「担架《ブランカール》」という囁きが起り、白衣の救急隊員がビルのなかから担架を運びだしてきた。
群衆の頭の間から伸彦が覗くと、肥満体の男が足に包帯をぐるぐる巻きにされて、担架に横たわっている。血の気を失った男の顔を見て、伸彦は息を呑んだ。担架に横たわっているのは、ベルジアン・ハイ・テクノロジーの社長で、いつかノース・ハンプトンの工場で会ったロベール・ガルーであった。
午後三時、伸彦が訪ねたウェールス銀行、ブラッセル支店次長は、
「あの会社の社長、ロベール・ガルー氏は、昨夜、自宅に入ろうとして何者かに襲われましてね。足を鉄の棒かなにかで撲られたんです。たいしたことはない、といって、杖ついて事務所にきてたんですが、午後に脅迫の電話が入って気分がわるくなった。救急車で病院に行ったんですよ」
困惑した表情で語った。
「こうした事故は起りましたが、あの会社はまあ、金融筋の信用の高い会社です。社長のロベール・ガルー氏は、以前カナダで宇宙工学の研究をしていましたが、送油管などパイプ類の設計に転向をして、中東の産油国と商売している。業績に波はありますが、成功を収めている、といえるんじゃないですか」
それ以上、話は進展しなかった。
16
安原伸彦はその夜、ブラッセルの商店街、アヴニュー・ルイーズの古い大きなホテル「メトロポール」に泊った。
コーヒー・ハウスで夕食を摂ったあと、部屋に帰り、まるで中世から使っているような、大型の鍵をドアの鍵穴に差しこんだが、うまく噛み合わない。あたかも人生の流れがうまく噛み合わなくなった予兆のような気がして、伸彦は焦った。結局通りかかった中年のメイドに助けて貰って、ドアを開き、部屋に入った。
伸彦はヒースロー空港で買ってきたウィスキーを呑んだ。
昨夜、ロベール・ガルーは何者かに襲われて、足に怪我をし、今日の午後にも脅迫の電話が入ったという。ガルーを襲ったのも、伸彦やロンドン支店の森を脅しているのも、おなじ筋の連中と考えてよかろう。イランに空爆に対抗できる送油管を売ったために、イランの交戦国、イラクを刺激してしまったにちがいない。
――それにしてもたかが鉄のパイプの話だぜ。
「マッチ・アドウ・アバウト・ナッシング(シェイクスピアの『空さわぎ』)」というやつではないか。
酔いがまわらないままに、伸彦は眼鏡を外し、顔を擦《こす》った。
翌朝、「ベルジアン・ハイ・テクノロジー」に電話し、名前を名乗って、ロベール・ガルー氏に話したい、と申しこんだが、秘書は、
「ミスタ・ガルーは今旅行中です。多分来週は出社するとおもいます」
という返事である。どうやらガルーは、あのまま病院で静養中らしかった。
伸彦はギルドだった、バロック調の建物が並ぶ、グラン・プラースを突っ切って、レンタカーの店にゆき、デュッセルドルフで返す約束で、古いベンツを借りた。
昼前に、ホテルをチェック・アウトし、陸路デュッセルドルフへ向った。
日頃ロンドンで乗っているニッサン・パトロールに比べ、当然ながらベンツの高速性能は抜群で、加速すると、重心が沈んで車体が路面に吸いついてゆく感じがいかにも快適である。広い野中を一直線に延びる高速道路を百マイルから百二十マイルの速度で飛ばした。
ヨーロッパの冬には珍しく、薄日の差す日で、遠くに露天掘りの炭坑が見え、大きな赤塗りのブルドーザーの動いているのが見える。
二時間足らずで、伸彦はデュッセルドルフの街に入った。デュッセルドルフの街に入ってからは、地図と首っぴきで、オーバー・カッセル橋を渡り、ライン川のほとりの現代調、十九階建てのホテル「|ラインの星《ライン・シユテルン》」に到着した。
デュッセルドルフに入ってから手間取ったので、時刻は午後三時を過ぎている。アンジェリカは夕刻、五時にホテルに連絡をくれる、といっていたが、五時までは大分時間がある。ホテルの傍の「江戸」という、日本家屋をそのまま移築したような日本料理屋にゆき、炉端焼きのカウンターにすわって、ざる蕎麦を食べた。ホテルに戻って、一階の奥にあるサウナへ行った。
一昨日、ロンドン支店の森勇平が、目配せをして、
「ドイツはサウナたい」
といっていたのをおもいだしたのである。
サウナの更衣室は「GENTLEMEN」と「LADIES」に分れている。裸になった伸彦は、入口で貰った大型のタオルをぶらさげて、サウナに入ろうとしたのだが、サウナの入口はひとつで、何度見まわしても「男女」別の表示はない。やはり裸になった中年の男に「OK?」と訊くと、にやりと笑って「OK」という。
白木のドアを開けた入口にサウナ・ストーブがあって、石炭のようにごつごつした石を真赤に焼いて、四角い火鉢のような箱のなかに放りこんである。
熱い室内に入るなり、伸彦は驚いて立ちすくんだ。
ここにもどこのサウナにもある木製の雛壇式ベンチが設けられているのだが、その一段目に全裸の女性がタオルを敷いてながながと寝ころんでいる。
金茶色の髪をこちらにむけているが、ゆったりと伸ばした躰《からだ》つきは若々しく、伸彦はやっと森勇平の目配せは混浴の意味であると悟った。そういえば、いまや「混浴の本場は日本でなくて、ドイツだ」という話を耳にしたこともある。
伸彦は裸女の手前からベンチに昇り、雛壇の二段目に腰をかけた。上へゆくほど温度が高いし、裸女に遠慮をして一段上にすわったのである。
ベンチにタオルを敷き、腰を下ろすと、床に寝そべった裸女をつい鼻の先に、見下ろす恰好になる。
――この間は佐久間浩美の風呂場で、こちらの裸を見下ろされたが、今日はこちらが裸女を見下ろす番か。
顔を見ないように努めたが、長い裸体は嫌でも伸彦の眼に入ってくる。眼前に寝そべった女性は大柄、痩せ型で、色も浅黒いが、胸は柔らかく膨らみ、特に脚が長くて、美しい裸体といっていい。
頭髪より色の濃い、股間の茶色の体毛を隠す気配もなく、長い脚を少し開き加減に伸ばしている。
その裸女が突然眼を開き、
「ノブヒコ、今、着いたの」
英語で話しかけてきたから、伸彦はもう一度驚いた。
声の調子で、鼻の先に寝そべっている女性が「トーテム・ポール」ことアンジェリカ・ウーファだと遅まきながら理解した。
アンジェリカは額にかぶさる髪の毛を掻きあげて、ゆっくりと立ちあがり、伸彦の前に立った。背が高いから、眼の前で、小さいが形のいい、双《ふた》つの乳房が揺れている感じになった。こちらに鋭い刃先のように突き出た、小粒の茶色の乳首を見つめ、伸彦は眼をしばたたいた。
ラファエルは、「アンジェリカは裸になってもおれたちと見分けがつかないんじゃないか」などと悪口をいって、「トーテム・ポール」という綽名をつけていたのだが、「トーテム・ポール」の意外な裸体の迫力に伸彦もたじろぐおもいであった。「トーテム・ポール」という綽名はアンジェリカ自身も知っているから、こんな正面きった挑戦的な姿勢を取るのかもしれない、と伸彦はおもった。
「ノブヒコ、なにもかも判ったわ」
アンジェリカは腰に両手をあてて立ちはだかったまま、いった。
「あのパイプは油を運ぶパイプじゃないのよ。あれはスーパーガンなのよ。大砲の一種なの」
「スーパーガン?」
鸚鵡《おうむ》返しに言ったものの、眼の前の裸体に気を取られて、意味が理解できない。
「スーパーガンってなんだ」
意味がわかってくるにつれて、頭の中が白くなってゆく気がした。
「大砲だって?」
おもわずアンジェリカの裸の腕を掴んだ。
アンジェリカはなだめるように伸彦の腕を叩き、床に敷いたタオルを拾いあげた。床にかがむと、よく締った尻がこちら向きになる。
アンジェリカは木のベンチを一段昇り、伸彦の隣にタオルを敷いて腰を下ろした。
「あのパイプはね、イランの山の中腹に並べて、長い大砲にするんだって。二十六本のパイプを繋いで一門の大砲を造る。あなたは五十二本のパイプを輸出したわけだから、二門の大砲ができる勘定ね。イラクの首府を攻撃できる。長距離砲よ」
「しかし」
伸彦は唸り、蒸気で濡れた口髭を撫でた。
「あのパイプは工場に見に行ったが、内側はなんていうか、|つるつる《スムース》で、溝《デイツチ》のようなものはなかったぜ。ふつう、鉄砲や大砲の内側には、溝のようなものがあるんじゃないか」
伸彦は指を螺旋《らせん》状にくるくるとまわしてみせた。
弾丸の方向性を安定させるために、銃砲の砲身の内側には螺旋状の溝が切ってあるのが常識である。しかし湧谷とノースハンプトン近くの工場へ視察に行ったとき、伸彦は湧谷や森勇平と三人でパイプの中に入り、表面になんの溝も刻まれていなかったのを確認している。
「腔綫《ライフリング》のことね。ガルーは天才だから、ライフリングなんか必要ないの。弾丸に羽根《ウイング》をつけて、羽根の力でまっすぐ飛ばすのよ」
伸彦は呆然として、首を振った。
「信じられんな。いったい弾丸とか発射装置はどこで造ったんだろう」
「イタリアよ。砲身のほうはイギリスからリスボンに運んでいるし、弾丸や発射装置はイタリアからもうリスボンに着いている。一緒にして、北朝鮮の貨物船でペルシャ湾に運ぶわけ。全部ラファエルが手配済みよ」
アンジェリカは額に汗を浮かばせて説明した。
「ラファエルがね、またロンドンの森さんを上手にだまして、イタリアで造った発射装置と弾丸も、油の汲みあげ機械ということで、正規の輸出手続きにのせてしまった。むろんイタリアの税関は買収済みよ」
アメリカによる武器禁輸政策のまっただなか、伸彦、湧谷、森の、宮井物産三人組はあざやかにラファエルとガルーにだまされて、正規の輸出ルートにのせて武器をそれも長距離砲を輸出してしまったのである。
伸彦は胸がわるくなりそうな気分になった。
アンジェリカがすわり直して、伸彦ににじり寄ってきた。
「ノブヒコ、日本はドイツとおなじで、武器の商売に手を出しちゃいけないんでしょう。もし送油管が大砲だとわかったら、どうなるの」
アンジェリカの、汗で濡れた腿《もも》が、伸彦の腿にくっついているが、アンジェリカの肉体は意識の外側の、どこか遠くで触れている気がする。
「日本には武器輸出禁止三原則があって、武器の輸出は禁じられている。海外での武器取り引きも、当然問題になるんだよ。第一に会社の内規ではっきり禁止されているし、日本の国会でも採りあげられるだろうしな」
男がひとりサウナに入ってきて、桶に水を汲み、サウナ・ストーブの熱く焼けた石塊にぶちまけた。物凄い音がして、室内に湯気が立ちこめ、湿度が一気に上ってゆくのがわかる。
「アンジェリカ、これは駄目だ。ホープレスだよ。おれは会社を馘《くび》になる。湧谷さんも森さんもあぶないな」
やっと声が出る感じであった。
アンジェリカは腕組みをして、
「なんとかイランにパイプが着かないようにする手はないかしら」
眉を寄せていた。
「決定的なのは、もう代金の支払いが済んでいるってことだ。FOB(本船渡し)の契約だから、船に積みこんだ時点で、商売は終っているんだよ。そして船はもうリスボンに入って北朝鮮の船にパイプを積みかえた頃だ」
伸彦は絶望的になり、叫びだしたい気分におちいった。
17
この年のキングストン語学学校の秋季学期《オータム・ターム》は、十二月十四日の金曜日に終了することになっていた。その夜には、学校の地階のキャンティーンで、一足もふた足も早いクリスマス・パーティが開かれる予定になっている。
水田は一張羅の背広を着て、ネクタイを締め、エスニック調のロング・ドレスを着たキティゴンと一緒に、このクリスマス・パーティに出かけた。笹岡も、混雑するパーティなら、目立つこともあるまい、というので同行することになった。
学校の近くまできたとき、笹岡が、
「あんさん、ありゃ、ご機嫌ようのおばはんの車やないか」
路傍に止っている、ダックスフントのように胴長の大型アメリカ車を指差した。キャデラックのストレッチ・タイプのリムジンである。
三人が車の傍らに差しかかると、黒く塗った車の窓ガラスがすうっと下りて、|梁 美善《ヤン・ミーソン》が、
「ご機嫌よう」
ほんとうに顔を出した。
「ちょっとお耳に入れておきたいニュースがございましてね。皆さんをお待ちしてたんざんすよ。立ち話もなんざんすし、この車にお寄りになりません?」
イギリス人の運転手がキャデラックのドアを開いてくれる。
三人は小さな客間のような、暗い車内に乗りこんだのだが、梁は窓ぎわの特別製の椅子をくるりとまわして、ソファにすわった三人に向き合った。外から差しこむ街灯の光のぐあいでは、梁は今日はスカートにスウェーターの普段着姿だが、相変らず高価な品物をうまく着こなしている風である。
「今、リスボンで|たく《ヽヽ》の船が例のイラン向けのお荷物を積みこんでおりますわよね。今夜にも積みこみがおしまいになりまして、イランへ出てゆくらしいんざんすけど、あのお荷物の中身、皆さん、ご存じでらっしゃるわよね」
「そら、パイプゆうことになっとりますけど中身が違《ちご》うてましたか、パイプやなかったいうことかな」
笹岡がいった。
「あら、皆さん、ご存じなかったのかしら。それともおとぼけ?」
暗い車内で、梁はおもしろそうに躰を乗りだした。フランス物らしい強い香料が車内に漂った。
「ご存じなかったのなら、当ててごらんにならないこと? たとえば、お荷物の中身はイラン人の大嫌いな|お豚さん《ヽヽヽヽ》が、何百匹も詰めてあった、とか」
梁はけたたましく笑った。
「イラン攻撃にお豚さんを使う計略なんて、|お《ヽ》すてきじゃないこと?」
水田は梁のはしゃぎように不愉快になり、
「真面目な話、おいらたちはおたくに船の商売を世話しただけで、荷物の中身は知らねえんでね。まあ、イギリスの税関を通ってんだから、あんまりひでえ法律破りの品物じゃねえ、たあ、おもってたけどよ」
そう、いった。
「じゃ、教えて差しあげる」
梁はまだ勿体ぶった声である。
「あれは遠くのほうを撃つ大砲よ。あの送油管を繋げて、長い長い大砲を造りますのよ。そこにイタリアで造った羽根のついた爆弾を詰めてね、イラクの首都目がけてどおんと撃つんざんすよ。とってもお利口なお話ざんしょ」
梁は「失礼」といって、細い葉巻煙草にこれも宝石入りのライターで火をつけた。
「これ、皮肉でなくて、わたし、とってもおふたりに感謝しておりますのよ。普通の商品じゃつまりませんけど、武器を輸送して差しあげますとね、イラン側に結構な貸しができましてね、今後のお商売にもプラスになりますものね。うちのお国が困っている油も沢山売って貰えますね」
リムジンの外を学校のクリスマス・パーティに出向く学生たちが、三々五々歩いてゆく。
「おや、あれは佐久間浩美じゃございませんの?」
髪をひっつめのように後ろに編みこんで、毛皮のコートをまとった佐久間浩美が、歩いてくる。毛皮のコートの下から、白いロング・ドレスの裾がはみでていた。
こういうひっつめのような髪型にすると、目鼻立ちのはっきりした、「宝塚のカルメン」ふうの顔がいっそう引き立ち、「外人」のなかでも目立つ感じであった。
「きっと伊達の薄着をして、張り切ってるんざんしょうけど、風邪ひかれると困るのよね。少しくらい風邪ひいても、強引にベルリンから、お人攫《ひとさら》いしなくちゃなりませんでしょ」
梁はいった。
「おふたかたとも、佐久間浩美にお風邪をひかせないように、お気をつけあそばせ。風邪をひくなら、おふたりがお引き受けなすってよ」
三人は憮然たる顔でリムジンを降りた。
その背に向って、
「もしなにか必要があれば、わたくし、IRAはご紹介できましてよ。あそこには、ちょっとしたコネがありますの」
梁の叫ぶ声が聞えた。
学校の地下室への階段を降りながら、笹岡が、
「こら、ベッカー高原がなんちゅうやろな」
と呟いた。
「考えてみなよ。日本赤衛軍はシリアによ、おんぶして貰ってるわけじゃあねえか」
水田は慰める口調になった。
現に日本赤衛軍が本拠を置いているのはシリアの占領地域、ベッカー高原の山岳部なのである。
「ダッカのハイジャックのときもよ、日本政府が支払った六百万ドルの金をよ、シリアのダマスカスで降して、シリアに全額寄附したじゃねえか」
あのときは乗客のなかに滋山久子らが化けていて、笹岡から受け取った六百万ドルを持って、ダマスカスで降りた、他の乗客と一緒に解放されるや、金の全額をシリア政府に寄附したのだ。
水田は笹岡たちと一緒に素手で、最終地点のアルジェで投降したが、あの六百万ドルの寄附が物をいって、今日シリア占領地域のベッカー高原に本拠をかまえることが可能になった、といえる。
「そのシリアと仲がいいのがイランで、わるいのがイラクだ。イランが喜びゃ、シリアもベッカー高原も幸せってことよ」
水田、キティゴン、笹岡の順で、地下のキャンティーンに入ってゆくと、盛んに「ハアイ、アンクル」と声がかかる。
いつもはジーパンにジャンパー、スニーカーの生徒たちも、男は背広姿、女はロング・ドレスを着て、見違えるような姿である。
語学学校のパーティだから、シャンパンや七面鳥は出ず、白ワインと鶏肉が立食形式でサービスされていたが、佐久間浩美は会場の中央に学園祭の女王のように立っている。白に大胆に水仙の模様を描いたロング・ドレスを着て、周囲をイタリアやスペインなどの同級生たちに囲まれていた。
水田は人混みをかきわけて、浩美に近づいた。
「ヒロミさん、今夜はビューティフルじゃんかよ」
両手を拡げて誉めた。
「ユーらのカンツリーにも、こんな美人はおらんだろうが。こういうひとを掃き溜めの鶴ってんだ。ビューティフル・バード・イン・ア・ギャベージ・ビンよ」
「それ、誉め言葉?」
浩美が水田の肩を叩いた。
「今夜、浩一はどうしたね」
「保育所の小母さんが九時まで預かってくれてるの。この子ども嫌いの国で、まさか子連れでパーティにもこられないでしょう」
「そういえば安原の秀才も見あたらねえな」
「仕事で出張中なのよ」
佐久間浩美の表情が、雲の影が通り過ぎるようにかげるのを水田は見逃さなかった。
「そうか。それじゃ、もう一度秀才を入れてクリスマスをやり直そうじゃないの」
ロック・バンドが入ってきて、演奏の準備を始めたとき、タキシードを着たラファエル・サラザールが姿を現した。
すうっと水田の脇に寄ってくると、
「この間北朝鮮からオファーのあったMIG21を六十機、買わないかという話だが、イラン側は乗り気だよ」
いきなりそう囁いた。
「ただしイランのパイロットはソ連系の機材には不慣れだから、北朝鮮で訓練をしてくれないか、という話だ。代金は希望どおり油で支払うそうだよ」
ロック・バンドが演奏を始め、浩美がイタリアのホテルマン志望の男と激しく踊り始めた。昔、浩美は女優の卵だったといっていたが、その際、踊りの修業もしたのだろう、ほとんどプロの音感と動きを見せ、まわりから手拍子と拍手が起った。
どうも物事の流れは、佐久間浩美の北朝鮮への拉致《らち》に向って、ゆっくり、しかし確実に動いているような気がする。
多くの犯罪者、そして被害者が巻きこまれた「浮世の風」の音が聞えるようで、水田は一種悲哀の念をもって、拍手を浴びながら軽快に踊る浩美を眺めていた。
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三 平壌フライト
ホテル「ライン・シュテルン」のサウナに、裸のまま、アンジェリカと並んですわった安原伸彦は、熱気に眼が眩んだようになって何度も額の汗をこすった。
「いつか、学校のトイレで、私、出られなくなったことがあったでしょう。ラファエルの悪戯で閉じこめられてしまったのだけど、今度はあなたがみごとにラファエルの罠《わな》にはめられたのよ」
アンジェリカが呟いた。
事実、すべてはラファエル・サラザールに始まったのだ。ラファエルの持ちこんできた爆撃に強い、と称する送油管の商談を伸彦はテヘラン支店長の湧谷昭生とロンドン支店鉄鋼担当の森勇平に繋いだ。ところがこの商談がくわせもので、実は送油管を装った長距離砲の砲身だったのである。
「ラファエルのやつ、今度、学校で会ったらなぐってやる」
伸彦はうめくようにいったが、
「あら、なぐるだけ? 殺してしまわないの」
アンジェリカは冗談とも真面目ともつかぬ態度でいう。
伸彦はサウナにアンジェリカを残したまま、ホテルの部屋に上った。
宮井物産、ロンドン支店の森勇平に電話を入れた。
「申しわけありません。ラファエルにひっかけられたようであります」
アンジェリカの調査結果を報告すると、森は電話の向うで絶句した。
「これはおれの責任もおおきいわ。イタリアから輸出したのが、羽根つきの爆弾だった、トーテム・ポールだかセント・ポールだかは、そういってるんじゃろ。おれがイタリアへ出張しちょったら、爆弾の見分けくらいついたきに、ラファエルまかせで、なにもやらなかったけん、こんな結果になったばい」
森は森で律儀に自分の責任を反省している。
「至急相談せなあかんが、ロンドンは、イラン、イラクの眼が光っちょって、やりにくいけん、これからおれがそっちへ、デュッセルドルフへゆくけん、待っちょってくれ」
その足でヒースローへゆき、一番早いデュッセルドルフゆきを捉《つかま》える、と森はいった。
伸彦はまだサウナにいたアンジェリカに連絡をし、七時に一階のロビーで落ち合うことにした。
ホテルの窓からは、亀甲模様の、奇妙なかたちをしたランク・ゼロックスの建物が眼下に見下ろせる。亀甲型の建物の屋上には水が溜っていて、夕刻の光を僅かにたたえて光っている。
――脅迫状の後半の意味がやっとわかった。
伸彦は屋上の水溜りを見下ろしながら、おもった。武器輸出が露見すれば、日本国内では大騒ぎになるから「宮井物産は営業停止を命ぜられる」と脅しているのである。
いかにも現代建築風の、天井の低いロビーに降りてゆくと、服を着て、化粧をしたアンジェリカが、
「ガルー襲撃の犯人の写真が出てるわよ」
とベルギーの新聞を差しだした。
「ガルーをもう一度襲おうと病院に訪ねてきて捕ったらしいわ。ロンドン居住のイラク人と書いてあるわよ」
伸彦よりはるかに立派な口髭を備えたイラク人の写真が載っており、伸彦は「おれの家に脅迫状を投げこんだのはこの男か」とおもった。どこかで見かけた顔のような気がするが、アラブの男の顔はどれも似ていてはっきりしない。
まもなく大柄の森が玄関を入ってきた。手にブリーフ・ケースをかかえたきりの軽装である。
チェック・インも早々に、外套も脱がない森と、ロビーの隅で対策の相談になった。
目下、イラン、イラクは両国とも相手の首都爆撃を自粛しているが、首都爆撃再開の場合、イランの空軍力が弱くてイラクに対抗できないこと、そこでイラン側は宇宙工学の権威、ロベール・ガルーが考えだした、送油管を装った長距離砲に目をつけたこと、などを改めてアンジェリカが説明をした。
「要するにNIOCがガルーのパイプを買う話は、初めから|でき《ヽヽ》レースだったんじゃろ。それにすぽんとのせられて、輸出の名目に使われたわしらが、馬鹿だったと」
自ら「馬面のうま平」と称している森勇平は、長い顔の頬を平手でぴしゃりと叩いた。
「安原、これはふたり揃ってハラキリちゅうこつじゃなかか」
手のひらで、腹を一文字に切る真似をした。
「私も覚悟はきめております」
伸彦も刀を腹に突き刺すジェスチュアをした。
「駄目、駄目」
アンジェリカが長い指をおおきく振ってふたりを制した。
「肝心なことは、もう商売は船積みの段階で終ってしまっている、ということ。それから船がイランに着くかどうかもわからない、ということ。そして船が着いても、あんな長い大砲は人工衛星にすぐ見つかって、情報が入って、優秀なイラク空軍のミサイルでたちまち破壊されてしまうだろうってこと」
保険会社で出してきたらしい推論をアンジェリカは述べた。
「だから永遠にあの送油管が大砲だったとは知られないまま終ってしまう可能性が強いのよ。だったら、皆、黙っていたほうがいい」
「なるほど。あんたのいうのも一理あるくさ」
森が頷いた。
「しかし|だんまり《ヽヽヽヽ》をきめこみそうにないおひとがテヘランにおらっしゃるけん、難しいたい」
そこでふいに森が伸彦に向い、
「あんた、明日、テヘランに飛んでくれんと。湧谷さんに会って、ダンマリでゆきましょう、そう口説いてきんしゃい」
といった。
十二月十五日の土曜日、午後十時三十分伸彦はテヘランに到着した。
イラン革命以来、テヘランの入国管理、税関の検査の厳しさには定評があるが、所持品を洗いざらい掻きまわし、空にしたアタッシェ・ケースを空中で振って、隠しポケットがないか、と耳を澄ます始末である。
やっと表に出て、宮井物産の若い日本人社員に迎えられた。伸彦より二、三年上の社員で、そのまま車で湧谷昭生の住む支店長宅に案内してくれた。
テヘランは高層ビルの並ぶ近代都市だが、この時間、街は静まり返っている。
「いま、協定が結ばれて、お互いに首都の空襲はやらないことになっていますが、空襲があるとすれば夜なんですよ。だから、なんとなく夜はいやな感じなんですよね」
若い社員はいった。
「もっとも湧谷支店長は、おれは空襲になっても絶対に逃げん。空襲になったら、トイレに入って本を読む。トイレは柱が四隅に立っていて安全だ。そういって威張っておられますけどね」
いかにも湧谷のいいそうな話ではあった。
途中、革命警備隊の検問を受けたが、簡単に通過して、ナフトという北の住宅地に入った。
湧谷の家は、日本大使公邸に近い、高級マンションにあった。
イラン人のメイドが玄関のドアを開けてくれ、その後ろから、湧谷の細君、和子が顔を見せた。
「あら、O脚さん、遠いところをよくいらっしゃいました」
湧谷は伸彦に向っては「ナガスネヒコ」と呼ぶが、家庭では「あのO脚」と呼んでいるらしい。それが和子のひとことで判ってしまった。
「いま、ロンドンのイラン石油公社のファヒムさんが見えていてね、パーティをやっているのよ」
道理でさんざめく男女の声が玄関まで流れてくる。
キルス・ファヒムといえば、ラファエル・サラザールとグルになって、伸彦と湧谷を、いいかえれば宮井物産を欺いた元凶ではないか。伸彦は緊張した。
伸彦は緊張しつつ、玄関の傍らのクローク・ルームにゆき、外套を脱いだが、反対側の女性用のクロークには真黒なチャドルやだぶだぶの外套のようなイスラミック・コートが何着もハンガーにかけてあるのが見えた。
五、六十畳もありそうな、大きな応接室では、戦時下のイランとはおもえない、華やかなパーティが開かれていた。
小柄なキルス・ファヒムが肩や胸を露《あらわ》にしたペルシャ美人の肩を抱くようにして、こっちへやってきた。
「ハロォ」
キルス・ファヒムが手を伸ばしてきて握手をしたのだが、伸彦はどぎまぎして顔が赤くなる気がした。
キルスは顔を近づけてきて、
「われわれはイラクに対し、大勝利をおさめつつあるからな。イラクの空軍なんか問題じゃない。船は無事にバンダル・カナベに入るよ」
と囁く。
キルスの身辺から中東の男たちが好むアラミスの強い香りが漂ってきて、キルスは握った手を離さない。伸彦は緊張のあまり、握られた手ががたがたと震えだしそうな気がする。
キルスに肩を抱かれた肌も露な女性が目配せをした。キルスの四番目の「婚約者」と称するフィオーナである。
フィオーナの動きにつられたように、人々は玄関に動き始めた。パーティがお開きになるのであろう。玄関では女たちが次々とチャドルやイスラミック・コートをまとって出てゆく。髪や白い肩や胸がかくれて、黒ずくめの、まるで弔問客がひしめいている感じになる。
客が引き揚げたあと、五、六十畳はある応接間で伸彦と湧谷は向い合った。空港に迎えにきてくれた社員も帰って、社宅にいる日本人は湧谷夫婦と伸彦だけである。
「おまえさん、突然、ばたばた、おっとり刀《がたな》でテヘランくんだりまで駆けつけてきて、いったい急用てなあ、なんなんだ」
日本の橋の欄干みたいに、肘掛けや背を朱色に塗った木製の椅子に腰かけて、湧谷はいう。
「はあ」
伸彦は口ごもった。
壁には銅製の大皿が何枚も飾ってあり、その下には、浩一の背たけほどもある巨大な銅製の水差しが置いてある。
「じつはあのパイプは長距離砲にして使うらしいです。なかに、イタリア製の羽根のついた砲弾を入れて、バグダッドに向けて、発射する計画だそうです。要するに武器であります」
湧谷はじっと伸彦をみつめた。
「へえ、おもしれえ話じゃないか」
部屋ではイラン人のメイドがパーティのあと片づけをしており、その傍らのソファに和子が浅く腰かけ、こちらの話を聞いている。
「これはそもそも私が支店長に持ち込んだ話でありまして、まことに申しわけなくおもっている次第であります。私も辞表を出す覚悟であります」
伸彦は頭を下げてみせた。
「なにのぼせてんだ。おまえさんは一介の修業生、いってみりゃあ、書生っぽじゃないか。修業生の辞表なんか受け取ったって、鼻もかめねえし、尻も拭けねえや。おまえさんは辞表を出せる身分でもないし、年でもないよ」
そういってから湧谷は、
「和子、コニャック持ってきてくれ」
と細君を促した。
「それで馬面の森|うまへい《ヽヽヽヽ》はなんていってるんだ」
湧谷は訊いた。
「パイプは、イギリスの税関も通っていて、付属部分はイタリアの税関も通っていますし、このパイプが武器だってことはまず露見しないだろう、と森さんはいわれるわけです。ですから、このまま知らぬ顔で通したらどうか、その辺のところをご相談してこい、といわれて、こちらに伺った次第であります」
細君の和子がコニャックとグラスをふたつ持ってきた。
湧谷はおもむろにコニャックをひと口飲んで、
「そりゃ森うまへいの馬知恵だ。このままとぼけてしまおう、てのはおれの哲学に相反するな」
眼を細めて、伸彦を眺めた。
「おまえは会社に入って、パイプ扱って七、八年てところだろうが、このおれはな、二十五年パイプ見てきたんだぜ。あのパイプを見たときは、こりゃ、キナクセエや、とおもったさ。あんなジョイントのとこが、大八車の|輪っか《ヽヽヽ》みたいに大きくふくらんでるパイプなんか、この年になるまで、見たことがないわな」
湧谷は朱塗りの椅子の肘掛けを叩いた。
「こりゃ五割がた危ない商《あきな》いとはおもったが、しかし戦争してる国にいて、危ない、危ないじゃ、動きがとれねえしな。残りの五割にかけたんだ」
部屋の遠くから、
「安原さんもコニャック召しあがったら」
和子が気を遣って声をかけてくれる。
伸彦は緊張の震えが残る手で、コニャックを口もとに持って行った。
「おれはな、あのパイプがバンダル・カナベへ着いた日、本社の鉄鋼本部長に進退伺いを出す」
湧谷は宣言するように大声をだした。
「なにせこのイランは戦争やってるんだからな、なにかのはずみにあのパイプは大砲でした、そう露見する可能性がある。そのとき、へえ、私は二十五年、鋼管扱ってきましたが、まるっきり気がつきませんでした、そんな|ねんね《ヽヽヽ》みたいなおとぼけがいえるかよ。ここはな、パイプの到着待って、いさぎよく皺腹《しわばら》かっさばいてみせなくちゃいけねえ」
伸彦は弱りきって、口髭を撫で腕を組んだ。正面の壁にかかっているペルシャ特産の壁かけを睨んだ。
「ナガスネよ。サラリーマンにもいろいろな生きかたがある。休まず、遅れず、働かず、もそのひとつよ。うまへいもおまえもそれでゆこうってんだが、そうはいかねえぞ。おれは向う傷は武士の誉れ、とおもってるんだ。おれ自身は小《こ》商人《あきんど》の小せがれのくせしてな。この話は武士の向う傷よ。こんなチャンスに恵まれてありがたい話だよ」
湧谷はコニャックをひと口飲んだ。
「ただし船が着かなきゃ、話は別だろうな。沈める船のならいにて、あとは白波ばかりなり、ときちまえば、皺腹切ることもなかろうよ」
そこで湧谷は、
「ゆっくり飲んでくれ。おれはひと風呂、浴びてくるから」
と立ちあがった。
湧谷が部屋を出てゆくと、和子が伸彦の傍らにきて、わきの椅子にすわった。
「あのひとも恰好よく見得切り過ぎるわよね。ここはテヘランで、歌舞伎座でも、演舞場でもないんだからね」
和子は溜め息をついた。
「進退伺いって、辞表だすことでしょう。それやられたら、こっちは困っちゃう。あんな見栄っ張りの中年、子会社だって引き取り手はないでしょう」
和子はずけずけといった。
湧谷和子はよく海外駐在員夫人に見られる、気位ばかりがやたらに高い性格ではなく、率直、開放的な人柄のようである。
「だけど、見栄っ張りってのは臆病なのが普通なんだけど、そうでもないから困っちゃうのよ」
開けたドアの向うから、廊下を風呂場に向うらしい湧谷の歌声が聞えた。なんと湧谷は、「待ちましょう」を怪しげなフランス語で歌っていた。船が着くのを待ちましょう、という意味を表しているらしい。
――船が着いたら、えらい騒ぎになる。
伸彦は額の脂汗を手の甲で拭った。
その晩は湧谷の家に泊めて貰い、伸彦は十七日の月曜日、ロンドンへ戻った。
シティの宮井物産に寄って、森に報告すると、森も腕を組んで考えるばかりである。
「そう勇ましいこつ、いわれちゃ、おれも立つ瀬がなかとよ。今日はふとんひっかぶって、早く寝て、よう考えるたい」
というので、伸彦も夕刻パトニーの自宅に戻った。
帰って、入れたばかりの留守番電話をチェックすると、照れ臭げな咳ばらいのあと、佐久間浩美の、高い、しかしじつに正確な日本語が響いてきた。
「お疲れでしょう。私、明日は家具修繕の学校にいます。ほんの少しでいいから、お顔を見せてください。髪の伸びたお顔が見たいの」
その声は切ないほど甘く聞え、伸彦は「おれの最後の頼りは、このひとではないか」、疲労のせいかそんな感情に捉われた。
佐久間浩美は安原伸彦のことが心にかかってしようがなかった。「デュッセルドルフに出張してきます」と電話してきたきり、伸彦からは音沙汰がない。
もしや今日は帰宅しているのではないかと、伸彦のメゾネットの前を車で通る度に徐行してみたが、人の気配がなく、例のゴミ缶も表に出ていない。よく眺めてみると、玄関の上、階段の踊り場の窓ガラスが割れて、ぽっかり黒い穴ができている。
どうしてあんな場所のガラスが割れたのか不思議であった。
留守番電話にメッセージを吹きこんだものの、じっとしていると、どうしても気持が伸彦のほうに行ってしまうので、家具修繕の授業に気持を集中させようと努めた。
家具修繕のクラスも成人学級のひとつだから、十二月十五日からクリスマス休暇に入ったのだが、浩美は事前に許可を貰って、休暇中も仕事をしてもいいことになっている。
下見に行って帰路、強盗に襲われ、翌日、改めて購入した椅子はクリスマス前にほとんど木の枠だけの裸にしてあったが、その椅子の底にガムテープのような幅広のテープを貼り、その上にスプリングを入れ直し、そのスプリングの上に、「|馬のたてがみ《ホース・ヘア》」を詰めたクッションを重ねる仕事に、浩美は入っていた。英国の古い椅子は尻のあたるクッションの部分に「馬のたてがみ」を詰めるのが高級とされているのである。
教室に連れてきた浩一には、寒いので厚着をさせ、本を与えておくのだが、すぐに退屈して教室のなかを跳ねまわる。保育園仕込みの英語で「フォウォード、バックウォード(前へ、後ろへ)」と叫んで、前後に両足跳びをしたりする。
二十日の木曜の午後、寒さは寒し、そろそろ帰ろうか、と浩美が道具類を持参のバスケットにしまっていると、跳びはねていたその浩一が、跳ぶのを中断して、
「あ、髭のおじさん」
と大声を出した。
今日は眼鏡をかけた伸彦が、ダウン・コートをひっかけて、教室の入口に立っている。
「あら、伸彦さん、いつ帰ってきたの」
浩美は道具類を詰める手を止めて、立ちあがった。
「昨夜なんです。商売がもつれまして、デュッセルからテヘランにまわったのでありますが、少々疲れました」
伸彦は作業用のテーブルに、あさく腰をのせたが、ダウン・コートのポケットに両手を突っこみ、見るからに元気がない。浩美は伸彦の元気のなさに、両頬を手のひらで挟んで温めて、励ましてやりたいような衝動に駆られた。
先日の早朝、寒さのためか、何かの衝撃のためか、総毛立った伸彦の素顔に接して以来、肉体的ともおもえる親近感が増している。
「ラファエルの持ちこんできた話は、ほんとうはパイプの商売じゃなかったのね」
伸彦は髭をこすり、
「パイプはパイプなんですが、あのパイプは大砲の砲身にするパイプだったんです」
「まあ」
浩美も息を呑む感じになった。
「それでテヘランへ相談に行ってきたわけね」
浩一の「フォウォード、バックウォード」の声が、がらんとした倉庫のような教室に寒々しく響く。
「先輩はピンチにおちいられたとき、どうやって抜けだされたのでありますか」
「私のピンチなんて知れてるけれど」
浩美は顎に手をやり、教室のなかをゆっくり歩いた。
「女優やってたとき、なんか気分が滅入って、もう絶望的な状態に落ちこんじゃうときがあってね。そういうときは、いま自分が一番会いたくないひとはだれだろうか≠チて考えるのね。それは相手役の男のひとだったり、演出家だったり、製作プロダクションのオーナーだったりするんだけど、その一番、会いたくないひとに会いに行ってみると、急に目の前が開けてくることがあるのね」
夫が白血病で急死したときもそうだった。
一番会いたくないのはだれだろう、とおもいなやみ、頭に浮かんだのが、埼京市で家具屋やゲームセンターをやっている、その頃は気難しくて、とっつきにくいひととおもいこんでいた、夫の伯父、佐久間賢一の顔だったのである。
その佐久間賢一に会ってみたら、おもいがけず「家具輸入の仕事を手伝わないか」とか「ロンドンへ留学したら」という話が持ちあがったのであった。
「あなたが、いま、一番会って文句をいいたいのはラファエルでしょう。だけど、だれか一番会いたくないひとがいない?」
伸彦は足もとに眼を落として、なにもいわない。
「ろくに社会体験のない女の言葉では、助けにもならないわね」
伸彦の肩に手を置いた。
「いや、おおいに参考になります。よく考えてみます」
今日明日じゅうにもう一度連絡する、といって、伸彦は倉庫のような教室を出て行った。相変らず長い、O脚の足どりが老人のようにおぼつかなく、頼りなかった。
――自分が一番会いたくない人物はだれか。
テームズのほとりに車を停めて、伸彦は考えた。
ごく自然に、イラク大使館陸軍武官、ハッサン・アーメッドの顔が浮かんできた。
先日、ベルギーの新聞に写真の出ていた、ガルー襲撃犯人は、どうもレ・ザンバッサドゥール・クラブで、アーメッドのテーブルに同席していたような気がしてならなかった。
――アーメッドに会ってみたらどうか。アーメッドに会って、北朝鮮の船員を退避させたうえで、|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸という船を沈めてくれないか、暗にそうほのめかしてみたら、どうだろうか。
妙香山丸が沈んでも、だれも金銭的に損をする者はいないのである。パイプの代金は支払い済み、発注側のNIOCにはイランの国営保険会社と英国のローリーズから、二重に保険がかかっている。船のほうは北朝鮮の保険会社が損害をカバーする筈だ。一方、妙香山丸が沈めば、宮井物産の立場は救われる。テヘランの湧谷もロンドンの森も伸彦も、いや、東京の鉄鋼本部長の屋敷常務や社長の立場も救われるのだ。
伸彦は車を発進し、自宅に戻った。
イラク大使館のハッサン・アーメッドの名刺を取りだした。深呼吸して、気合を入れてから、電話機を取りあげた。
電話に出てきたアーメッドは、
「ハロォ、ミスタ・ヤスハラ、ハウ・アー・ユー」
おもいがけず陽気な声で挨拶する。十年の知己と話すような親しげな口調だ。
「クリスマス・ヴァケーションはいかがお過ごしの予定ですか」
「もちろんご存じとおもいますが、われわれの母国、イラクは目下戦争をしておりましてね」
アーメッドは笑いを含んだ声でいう。
「早く戦争に勝って、トラファルガー・スクエアにクリスマス・ツリーを贈る立場になりたいものですな」
毎年ロンドンのトラファルガー・スクエアに飾られるクリスマス・ツリーは、第二次世界大戦の勝利を祝し、ノルウェーから贈られてくる。ノルウェーはナチス・ドイツの占領地域だったから、贈り物の意味が少し違うが、とにかく勝利とクリスマスにひっかけたのだろう。
伸彦はハッサンの陽気な口調に元気づいて、
「いかがですか。気晴らしにテニスでもご一緒しませんか。私のほうは学校もクリスマス休暇になりまして、閑で弱っているんですよ」
ひと息に誘ってみた。
「いいですな。明日の午後やりませんか」
相手はこちらの機先を制するようにいった。
「このあいだお会いしたクラブで、午後二時というのはいかがです。私はあそこのメンバーでして、いつでもプレイできるんですよ」
おもわぬ話の進展ぶりに気圧《けお》され、
「ええ、大丈夫だとおもいます」
伸彦はそう答えるのがやっとであった。
「じゃあ、二時にお目にかかりましょう。二時ですよ、二時」
ハッサンは執拗に念を押した。
受話器を置いてから、不安が高じてきて、伸彦は立ったまま、口髭を撫でていた。
こうなったら、もう突っ走るしかない、と首を振って、怯《ひる》みがちな気持を奮い立たせた。
翌日、伸彦はヒースロー空港に近い「ザ・ディヴィッド・ロイド・テニス・クラブ」に向い、二時十分前に百台入る大駐車場にニッサン・パトロールを入れた。クリスマス休暇はすでに始まっていて、クラブのメンバーは旅行にでも出かけているのか、駐車場はがらがらに空いている。
更衣室に入ってゆくと、すでにハッサンは着替えをすませていて、おおきく手を挙げてみせた。痛いほどこちらの手を握る握手をしたあと、ハッサンは伸彦の手からキイを取りあげ、ロッカーを開けてくれた。
「着替えなさいよ」
ハッサンは伸彦を促して、その場を離れようとしない。止むを得ず、伸彦はハッサンにみつめられたまま、シャツを着替え、ズボンをはきかえる羽目になった。
呆れたことに、ハッサンは過剰なほど親切で、伸彦がスーパーのショッピング・バッグに入れて持参したテニス・シューズを取りだし、紐をゆるめて、床に並べてくれたりする。
やっと着替えをすませ、靴を履きかえると、ハッサンはロッカーの鍵をかけてくれて、何度も鍵がかかったか、執拗《しつこ》く確認をした。
「レッツ・プレイ」
ハッサンはロッカー・ルームを出ながら、伸彦の肩に手をまわした。強烈な体臭に強いアラミスの香料が混じって鼻を衝《つ》き、伸彦はおもわず咳こみそうになった。
ハッサンのテニスは、ラファエル・サラザールのようにロブを上げたり、ドロップ・ボールを放ったりするケレン味の多いテニスではない。アンジェリカのように球質の重い剛球を放ったりするテニスでもない。執拗にボールを拾いまくり、繋ぎまくってくるテニスなのである。中年の肥満体についた、細い手足がぐにゃぐにゃと動き、巧みにボールを捉える。
――まるで蛙《かえる》とテニスしているみたいじゃないか。
伸彦は苦笑したが、試合をしてみると、この蛙男にどうにも勝てない。
うまくコーナーを抜いたとおもう場面でも、ひょろひょろとボールに追いつき、長い手を伸ばし、日本の軟式庭球のようなフォームで打ち返してくる。あっという間にワン・セット失い、次のセットは接戦に持ちこんだものの、やはり負けてしまった。
「お茶を飲みにゆきましょうや」
ハッサンは禿げあがった額に、なんの喜怒哀楽の感情も示さずに誘った。
レストランの壁には、クリス・エバートと経営者の弟、ジョン・ロイドのサイン入りの、大きな写真がパネルにして飾ってある。
「いま、英語の学校は休みでしょう」
レストランにすわって、ハッサンは訊ねた。
先日、このクラブで出会った折、伸彦は英語の学校に通っていることを説明し、その同級生としてアンジェリカを紹介したのであった。
「学校は休みなんでありますが、日本の会社は厳しくてね。結構、ビジネスをしておりましてね」
伸彦は答えた。
「いま、どんな仕事をしているんです?」
ハッサンはじつに何気なく踏みこんできた。
「お国には申しわけないんですけど、送油用のパイプをイランに送りこんだところでありまして」
伸彦はクリス・エバートの写真へ眼をやっていった。
「|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸という船に積みましてね」
ウェイトレスが紅茶のポットと茶碗を持ってきて、おおきなラケットのイラストのついたランチョン・マットの上に置いてゆく。
ハッサンは紅茶茶碗にミルクを入れ、黒く濃い紅茶を注いだ。
「変った名前の船ですな。中国の船ですか」
「いや、北朝鮮の船ですよ」
「ほう、北朝鮮ね」
ハッサンは毛の生えた指で砂糖をつまんで茶碗に放りこみ、スプーンで掻きまわした。音を立てずに、茶碗の中心に渦巻きを作るように、ゆっくり掻きまわしている。
「このパイプはベルギーのドクター・ロベール・ガルーというひとが設計した製品でありましてね」
ハッサンのスプーンの動きが少しのろくなった気がした。
「大砲設計の分野では有名な方ですな」
陸軍武官のハッサンはいい、スプーンを長い舌でペロリと舐《な》めた。
「ペルシャ湾に入る船はよく攻撃されますが、船員は助かるんでしょうかね」
伸彦は動悸をおさえて訊ねた。
「イランは知らんが、少くともイラクは人権を尊重する国ですよ。まず船員に下船を警告してから攻撃しますよ」
それきり黙りこんだ。
客はハッサンと伸彦だけである。ウェイトレスはレジの係とお喋りしている。
ハッサンはペロリと舐めたスプーンで、また紅茶を丹念に掻きまわし始めた。
「その変った名前の船は、いつイランに着くのですか」
と訊ねた。
「まもなくリスボンを出ましてね。一月早々にバンダル・カナベに着く予定でありまして」
ああ、おれはなにもかも喋ってしまったぞ、と伸彦はおもった。
ハッサンは紅茶のカップを口もとに持って行った。カップを元にもどすと、紅茶の露が一粒、口髭の端に玉を結んでいる。それを指の腹でこすり、ウェイトレスを呼んで、ボールペンを借りた。
「なんというんですって、その船の名前は」
伸彦の顔を覗きこんでいう。
「ミョウヒャンサン。M、Y、O、H、Y、A、N、S、A、N、そうつづるんです」
ハッサンはラケットを描いたランチョン・マットに綴りを書いて見せ、伸彦に確認をもとめた。続いて一月初旬、バンダル・カナベと書いた。
「これで正しいですね」
テニスのように執拗である。
伸彦が頷くと、ランチョン・マットをびりびりと縦に破り、丁寧にたたんでズボンの尻ポケットにしまい、ボタンをかけた。
そのあと、もう二セット試合をしたが、ハッサンのテニスは明らかな変化を見せた。相変らずぬらりくらりとボールを拾いまくるのだが、集中力が無くなった気がした。いま一歩、ボールに追いつかない感じで、その証拠に伸彦が今度は簡単に二セットを取った。
「今日はあんたのおかげでエンジョイできた。またプレイしましょうや」
ロッカー・ルームで、割礼《かつれい》のあとが顕著な裸体をさらして、下着まではき替え、ハッサンは上機嫌に去った。
「メリー・クリスマス」といって駐車場で別れると、伸彦は疲労感と同時に妙に度胸がすわってくるのを感じた。
人事を尽くしたんだ、と伸彦は考えた。だれだってこれ以上はなにもできなかろう。
夕刻、伸彦が浩美の家に電話をかけてきた。
「浩美先輩、明日の朝、ちょっとご案内したいところがあるんですが、お閑でありましょうか」
前日、家具修繕教室へきたときとはうって変った生き生きした声である。
「むろん閑だけど」
「では少し早いけど、明朝六時にお宅にお迎えにゆきます」
翌朝、浩美は五時半に起きだし、シャワーを浴び、浩一も起して待っていたのだが、六時前にもう伸彦のニッサン・パトロールが家の前に停まる音がした。
玄関に入ってきた伸彦の表情は早朝なのに穏やかで、額の縦皺が消え、逆三角形の顔が柔和に丸味を帯びている感じだ。
「今日はいい顔してる。お仕事がうまくいってるのね」
図星だったのか、伸彦は照れて顔を赤くした。授業や車を運転するときにかける黒ぶちの眼鏡をずりあげた。
「いや、ご忠告に従って、一番会いたくない人物に会っただけでして。たしかにこれをやると、度胸はすわるものでありますね」
そのままニッサン・パトロールに親子ともども乗りこんで出かけたのだが、伸彦はパトニー・ブリッジを渡って、テームズ河の向う岸、チェルシー・エンバークメントを東へ走ってゆく。
「ねえ、どこへゆくの」
眠い眼をこすって浩一が訊《き》く。
「ヴォックスホール・ブリッジの傍のきれいな所にゆくんだよ」
伸彦は笑いを含んだ、嬉しそうな顔でいう。
車はヴォックスホール・ブリッジを渡って、もう一度パトニー側へ戻り、大きな建物の前に駐車した。工場のような建物で、白い三角帽子ふうの屋根が屋上に波形に並んでいる。辺りは真っ暗だが、大型、小型のバンが行き交い、青い作業服の男女が建物に出入りして活気がある。
「ここどこなの」
「いや、すぐにわかります」
伸彦の表情はいよいよ楽しそうになった。
体育館のような建物に入った瞬間、ときならぬ極彩色の波が覚《さ》めやらぬ浩美の眼を打った。視野にあふれるように拡がった。
極彩色の氾濫の衝撃はおおきくて、それが無数の花の集団だと浩美が気がつくまでに、時間がかかった。
「すごいねえ」
車中で眼をこすり、あくびばかり繰り返していた浩一も眼を見張っている。
「|花の 市場《フラワー・マーケツト》です」
高い天井の館内には簡単な柵で仕切った数えきれぬほどのブースがあって、花の卸し商なのだろう、いずれも華麗に花をならべている。
床に縦長のバケツのような黒い花入れをならべて、豪華に花を飾りつけ、洋服の箱のような、大きなボール箱にも長い切り花をならべてある。
五、六段もあるディスプレイ用の棚があちこちにあり、冬だというのにチューリップが一面に咲き誇り、水仙が目にもあざやかな花をつけて、しなやかに身をくねらせている。冬枯れたイギリスの風景のなかに、突然春≠ェ出現した、まさにそんな感じであった。
「花はね、おもにオランダのグリーン・ハウス、温室で作られて、ここへ運ばれてくるんですよ。オランダは欧州一の花生産国なんです。交通網の関係か流通網の関係か、イギリスはグリーン・ハウスで花を作っても採算が取れないらしいんですね」
伸彦は「こっちへゆきましょう」と先に立って通路を歩いてゆく。歩きながら、
「これが私の好きなギルダルーンであります」
白いあじさいふうの花を指差し、
「これもわるくないですな。デルフィニアムといいます」
ブルーの百合に似た花を差した。
伸彦は軽量鉄骨で囲った、ひときわおおきなブースの前に立ち止った。そこで立ち働いている青い作業服の若い男に合図した。
「そうだ、あんただったな」
男は店の奥から黒いバケツごと、花を持ってきた。あらかじめセロファンに包んであった花をかかえあげた。特大の真紅の薔薇の花束である。
伸彦はその特大の花束を浩美に差し出して、
「メリー・クリスマス、という次第でありまして、小生の、なんといいますか、これはささやかなプレゼントであります」
例によって照れて赤い顔をしている。
――昨日予約してあったんだ。
浩美は両腕いっぱいの真紅の花束を受け取った途端、花の香りと一緒に喜悦の感情が激しく噴き上ってきて、息が詰まりそうになった。
「嬉しいわ、伸彦さん。私、嬉しくて花に酔ってしまう」
顔を薔薇の花々に埋めるようにすると、涙が両眼に滲《にじ》んできた。
「このフラワー・マーケットは八時を過ぎないと、商売屋以外の素人筋にバラ売りしないんですよ。昨日、そこをまげて頼んだんです」
伸彦は得意そうに口ひげを撫でた。
青の作業服の男が近寄ってきて、
「レイディ、あなたは赤い薔薇の花ことばを知っていますかね」
と訊いた。
浩美が首を振ると、男は店の奥から「フラワー・ランゲージ」という色刷りの本を取りだした。後ろのほうのページを開いてみせた。男の指はROSE――「LOVE」と書いてある行を差し、さらにRED ROSEの項を指差した。
「これはフランス語だがね、|SI《シ》 |TU《チユ》 |M《メ》A|I《イ》M|E《ム》、|P《プ》R|EN《ラ》D|S《ン》 |GARDE《ギヤルド》 |A《ア》 |TOI《トワ》、もしあんたが私を愛しているのなら、覚悟がいるぜ。何が起るかわからないよって意味だ。オペラのカルメンのせりふだよ」
「まあ、素敵。私、昔、宝塚のカルメンって綽名だったのよ」
浩美は涙を滲ませたまま、高い天井を仰いで笑い、胸もとの花束をまるで伸彦であるかのように抱き締めた。
「だけどこの薔薇の花言葉はつまりメッセージでしょう。私は命がけで伸彦さんとおつきあいしなくちゃいけないのかしら」
十二月二十四日のクリスマス・イブは、水田の提案で、浩一、伸彦を入れて、改めてクリスマス・パーティをやることになった。
最初、場所は水田のほうで用意する、といったのだが、浩美がどうしても自分の手料理をご馳走したいといってきかず、結局浩美の家に集まることに落ち着いた。
二十四日の午後、キティゴンが自分からいいだして、子ども向けの映画を見せに浩美の息子、浩一をロンドンのイースト・エンドに連れて行った。
その留守、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)のレポ役のダビトがやってきた。
「ベッカー高原へ報告してさ、イランへ武器を送る手伝いをしちまった、といってやったわけだがね、イラクじゃ絶対困るが、イランじゃ仕方あるまい、そういう答えだよ」
「そらぁ、助かったわ」
笹岡が柄にもなく、胸を撫でおろすジェスチュアをした。
「社長がみとめたんだからよ、これからはラファエルのやっこをけしかけて、じゃんじゃん北朝鮮の武器をイランに輸出してやろうじゃねえか」
――北朝鮮の武器をイランに輸出するきっかけを作ってやったんじゃねえか、それならなにも佐久間浩美まで北朝鮮に人身御供《ひとみごくう》に差し出すことはあんめえ。
水田はおもった。
――今日のイブじゃ、なんとか安原の秀才をツアーに引っ張りだすよう、頑張ってみるか。あの男がくりゃ、むざむざ北朝鮮に浩美を拉致させるような真似はさせねえだろう。それには、あの秀才が浩美に入れあげるように持っていかなくちゃいけねえな。なんとしても年末年始は浩美と過ごしてえ、そんな空気に持ってゆかなくちゃならねえわな。
水田はそれなりの覚悟をきめ、夕刻、浩一を連れて帰ってきたキティゴンと一緒に佐久間浩美の家に向った。
途中、道路の両側の家々の応接間や食堂にクリスマス・ツリーが飾られ、豆電球の明滅しているのが見えて、クリスマス・イブの気分を醸《かも》し出している。
「浩一、おまえんちでな、クリスマス・ツリーはどこに飾ってあんだよ」
じつは前日、水田はキティゴンといっしょにクリスマス・ツリーを買って、浩美の家に運びこんだのである。
「ダイニングに飾ったんだけど、あれ、大き過ぎてさ、ママが玄関に移したよ」
浩一がいった。
浩美の家の玄関のドアは、先着していた安原伸彦が開いたが、なるほど浩一のいうとおり、玄関にクリスマス・ツリーが飾ってある。
「よお、安原秀才、だいぶ顔を見なかったけども、元気かね」
水田は「マークス・アンド・スペンサー」で買った安物の外套《がいとう》を脱ぎながら、訊ねた。
「走り使いにこき使われまして、とてもアンクルほどの元気はないようでありますね」
そういいながら、しかし安原伸彦の顔色は生き生きして元気がいい。
――イランに武器、売りこんで大分成績あげやがったのかね、こいつは。それともやっとこさ、浩美との仲ができあがったのかな。
水田は、伸彦の顔色のいいのが不審であった。取り敢えず浩美との関係を強調する作戦に出た。
「仕事だ、勉強だ、佐久間浩美だ、いろんなことに色気だすからいけねえんだ。ひとつ、当分は浩美一本にしぼったらどうかね」
伸彦が顔を赤くすると同時に、台所から浩美が現れた。
「アンクルはなににしぼってるのよ」
浩美が助け船を出してきた。
「そりゃむろん英語よ」
一同、爆笑するなかで、
「今日は浩一を映画に連れて行ってくれて、ありがとう」
浩美はキティゴンに礼を述べた。
「食事の前に、伸彦さんご持参のシャンペンを抜くとしますか」
浩美がいって、モエ・エ・シャンドンを持ちだしたが、封を切ろうとする手つきが危なっかしい。
「おれに貸してみな」
水田が買って出た。
キャバレーのボーイをやっていた時期があるから、国産、外国産、シャンペンを抜いた経験は山ほどある。ここは語学学校入学のとき、モンロー・ウォークをやって、同級生を沸かしたように、ひと芝居演じたほうが座興になりそうであった。
瓶の口の針金を抜き取ると、いきなりシャンペンを股の間に挟んだ。
「ちょっと品格に欠けるけどよ、このやりかたがシャンペン抜くには一番なんだ。シャンペンが泡噴いても手前《てめえ》が泡食って、顔をシャンペンだらけにすりゃ、済むんでな」
もう一度、皆を笑わせてから、水田はコルクの栓を抜いて、ひと呼吸置いた。空気を少し入れて、シャンペンが噴き出さないようにしておいて、ぽんと上手に抜いた。
「すごい。専門家」
浩美が拍手する。
「専門家は参ったな」
おれは専門のない男でよ、といいかけたのを抑えて、
「ま、業界の集まりで、結構シャンペン抜くこともあるんでな」
おれにとって業界とはなんだろう、極左テロル業界のことか、と水田は心中、屈折しながら、ダイニング・テーブルのシャンペン・グラスにシャンペンを注いでまわった。
浩美が台所から刺身の大皿をふた皿、運んできた。一枚の大皿にはドーバー・ソールらしい白身の魚が大輪の菊のように盛られ、もう一枚には新鮮な紅色の鮭が、これはダリアの花のように盛られている。
「昨日、頑張ってバーミンガム・ゲートの魚市場に行って、このドーバー・ソールとサーモンを買ってきたの」
「浩美先輩がご自分で三枚におろされたそうであります」
伸彦がわがことのように自慢げに説明する。
「私は日本海は隠岐島育ちでしょう。奥さんていう意味かしら、祖母は御簾《ごれん》さんって呼ばれていたのね。その御簾さん譲りで、お魚はおろせるのよ」
浩美はいった。
「ただ日本海に比べると、ドーバーはメキシコ湾流のおかげで、海が温かいみたいね。温かい分、身がしまっていない感じ。日本海の魚は人相がわるいけど、味はいいの」
「するってえと、さしずめおれなんか人相はわるいけど、味のある男ってことになるんじゃねえかね」
水田はまぜ返し、座はいよいよなごんだ。
一同、席につき、「メリー・クリスマス」とグラスをあげたのだが、水田は率先して、刺し身に箸を伸ばし、「うめえ、うめえ」と舌鼓を打ってみせた。
「今夜はありがてえな。おれは七面鳥なんて上野の動物園にいるような鳥は食いたくなかったんだ。おれの餓鬼の頃は、七面鳥はたしか、動物園の檻《おり》に入ってたぜ」
「アンクルのお言葉に励まされて、図に乗ってしまいましょう」
浩美は立ちあがって、台所にゆき、煮物の皿を持ってきた。輪切りの大根と鳥肉を煮つけた皿である。
「中国の食品店にいい大根が入っていたの」
「泣かせてくれるなあ」
水田はいってから、ふとおもいだし、
「そういえば、浩美は昔、女優やってたんだっけな」
そういってみた。
「どうして、大根が出てくると、女優の話になるのかしら」
浩美は睨《にら》んでみせ、キティゴンに大根女優の意味を説明した。
「ヒロミ、ダイコンない、おもうよ。グッド・ダンサーはグッド・アクトレスよ」
キティゴンが弁護し、それがまた笑いを誘った。
「今夜は面白いねえ」
浩一までが笑っていた。
「しかしあそこに飾ってある薔薇の花は立派だな。秀才がよ、ああいう花をプレゼントするくれえ気が利きゃあ、話はもっと早いだろうによ」
水田の言葉が嬉しいらしく、浩美は両手で頬を抑えた。
そのクリスマス・イブの夜、日本食尽くしのディナーを摂りながら、水田は久かたぶりに気を許した感じになり、超法規出国後、前例がないほど酔ってしまった。
食事を終え、居間に移ると、昼間、映画を見に行った疲労が出たらしく、浩一がキティゴンの膝に頭をのせて眠ってしまった。
「浩一は幸せだよな。浩美は浩一に物なんか投げんだろ」
水田はわれ知らずそんな話題を持ち出した。
「うちの母親は、親父には逃げられるし、生活は苦しいし、しょっちゅう爆発してな。鍋から茶碗、大皿、小皿、手あたり次第、子どものおれに向って投げるんだ。子どもをストレスのサンドバッグにすんだよ。おれも友だちに借りた本を破られたときは、情けなくて泣いたもんだよ」
「あたしはそんな大物じゃないのね。ケチな主婦感覚で、物を壊せないのよ」
浩美は上手に、酔った水田の相手になってくれる。
キティゴンが水田の様子を見て不安になったらしく、
「あんさん、そろそろゴー・ホームよ」
そう言い置いて、浩一を二階の寝室に連れて行った。
門の前で、水田は伸彦に向い、
「秀才、おまえ、残って浩美の相手してろ」
そういった。
「私は甚だ遺憾ではありますが、野暮用が残っておりまして、家からあちこち電話を入れなくちゃいかんのです」
伸彦はへどもどしながら、弁解する。
「おまえはいつも野暮用かかえてる野暮な男よ。洗い物のお手伝いをするんで、私は残ります、なんてスマートなせりふはいえんのかよ」
「まあまあ」
送りに出てきた浩美が取りなした。
「私は元専業主婦ですからね。洗い物など、あっという間に片づけてしまうの。ご心配なく」
結局、水田は伸彦の肩をかかえて、伸彦のメゾネットの前までもつれあうようにして歩いた。
「秀才よ、おまえ、暮れのツアーには、絶対参加しろ。おれたちゃ、ウイーン、ベルリン、コペンハーゲンとゆくんだが、なんとか都合つけろや。これは浩美を口説くチャンスだぞ」
水田は熱心に伸彦を誘った。
――おまえが参加しないと、浩美は地獄へまっしぐらだぞ。
そのせりふが喉もとまでせりあがってくるが、必死におさえた。
「秀才、これはチャンスなんだ。わかっとるよな」
伸彦は例のごとく、「前向きに努力致します」などと会社社会の用語を使って、態度を鮮明にしない。
「踏みこむべきときによ、立ち止っちゃうのが秀才のわるいところだぜ。しつこいようだけどよ、このツアーに参加しろや。あとで感謝するぞ」
そのまま別れたのだが、別れた途端にキティゴンの感情が爆発した。
「あんだ、よぐない」
中国語訛りの日本語で、キティゴンは水田に文句をいった。
「あんだ、ヒロミを誘拐《キツドナツプ》する。ヒロミ、いなくなれば、ノブヒコ、ショックね。それなのに、ノブヒコに、ヒロミと仲よくしろ、ツアーにいらっしゃい、いってる。それ、わるいのこどよ」
「キティゴン、そうじゃねえんだよ」
反論しようとして、水田は絶句した。
伸彦をツアーに誘って、浩美の誘拐をなんとか防いでやろう。おれはそう考えているのだ、と水田はいいたかった。北朝鮮は完全犯罪とは縁の遠い、ドジばかり踏む国家だから、ちょっと頭のいい伸彦でもついてくれば事前に浩美の拉致《らち》を防止できる、と水田はおもっていた。
しかしいくら酔っぱらっても、それはいうわけにゆかなかった。
「あなだのこど、わだし、わからないよ。なに考えてるか。ほんど、わからない」
キティゴンはいい放ち、くるりと背を向けて走ってゆく。
「やれやれ」
水田は溜め息を吐いた。
どこかで、子どもたちの歌うクリスマス・キャロルが聞える。家々を訪ねて、チャリティの募金をしているのだろう。もし日本なら、このまま大の字になって、道路にひっくり返って眠っちまうところだ、と水田はおもった。
「泣くな妹よ妹よ泣くな泣けばおさない二人して故郷を捨てた甲斐がない」
水田は調子外れの声で歌い、ふらふらとキティゴンのあとを追った。
伸彦にはっきりした「野暮用」があったわけではない。
ハッサン・アーメッドを呼び出し、「|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸」のイランへの航海を囁いて以来、なんとなくロンドン支店の森にも気おくれがして連絡を取っていない。森の自宅に電話を入れるにしても、少し時間が遅過ぎる。要するに伸彦としては、アンクルに嗾《けしか》けられるまでもなく、「洗い物」の手伝いにかこつけて、浩美の家に残りたかった。
しかしシティ・ボーイの弱点というべきか、アンクルとキティゴンの眼の前で、そんな外聞のわるいことはできなかった。だから別れぎわにアンクルのいった「踏みこむべきときに立ち止っちゃうのが秀才のわるいくせだぜ」というひとことは堪《こた》えた。
伸彦は紺色のバーバリーの外套を着たまま、暫く自宅のレセプションの真ん中に突っ立っていた。
もう一度浩美の家へ引き返して、
「洗い物のお手伝いに戻って参りました」
しれっとそういってみたら、どんなものだろうか。
「やっぱりお手伝いしてくださるの」と浩美が顔を輝かせる確率が六割。「あら、洗い物なんか、すぐ終っちゃったわよ」と宴の果てたあとの、白けた顔を見せ、興醒めの空気のなかでコーヒーを飲んで帰ってくる確率が四割という気がする。
六割の確率なら、引き返すべきか、という気もするし、いや、タイミングを逸してしまった、もう一度顔を出したりすれば、イメージを落とし、浩美の気持を白けさせるだけだ、という気もして、決断できない。外套を着たまま、部屋のなかをぐるぐる歩きまわった。
突然玄関のブザーが鳴った。クリスマス・キャロルを歌って、募金してまわる子どもたちだろうとおもい、外套姿のまま、ドアを開いた。
ドアを開いた途端に、佐久間浩美のしなやかな躰《からだ》が腕のなかに倒れこんできた。
ドアも閉めずに唇をもとめあった。ワインの香りを残した浩美の唇は切なく甘く、柔らかい舌が愛らしく躍動する。
「これも野暮用のうち?」
浩美が囁いた。
「いえ、これは粋《いき》なほうであります」
伸彦は大真面目に答えた。
ふいにドアの向うに子どもたちの顔が現れた。あわてて離れたふたりに向って、クリスマス・キャロルを歌い始めた。
伸彦は背広の内ポケットを探り、財布を眺めたが、一ポンド紙幣も二ポンド紙幣もない。多過ぎるか、とおもったが、五ポンド紙幣を引きだした。今の昂奮状態からいえば、十ポンド、二十ポンドの金を与えても惜しくない気がする。
子どもたちの歌が終り、金を渡し、ドアを閉めると、伸彦は浩美のコートを脱がせながら、
「先輩が夜中にきてくださるとは感激であります」
といった。
「皆が帰ったあと、私、あなたのくだすった薔薇の花を寝室に運ぼうとしたの。だけど花をかかえて、階段をのぼってゆくうちにね、花の匂いに酔ったようになってしまって、階段の途中にすわりこんでしまったのよ。それでそのまま、コートをひっかけて、ここへきてしまった」
今夜は肩に垂らしていた長い髪を掻きあげるようにして、いった。
なるほど浩美の恰好は先刻までと変らない。
「コニャックでも召しあがりますか」
伸彦はコニャックをグラスに注いで、テーブルに置いたのだが、浩美は、
「だけど野暮用が全然ないわけでもないの。先刻、キティゴンが年末のツアーの日程表置いていったのよ」
浩美はハンドバッグから、旅行会社のネーム入りの紙にタイプした日程表を取りだした。
自然に居間のソファにならんですわり、日程表を眺める恰好になった。
十二月二十九日にロンドンを出発してウイーンに入る。ウイーンで元旦を迎え、元日の夕刻ベルリンに移動、三日にベルリンからコペンハーゲンに向う。六日にコペンハーゲンからロンドンに帰ってくる、という予定だ。
「アンクルがウイーンに友だちもいるから、ウイーンで大晦日と新年を過ごそう、ウイーンの大晦日と新年は派手で面白れえそうだぜっていうの。そのあとベルリンでマイセンの陶器を見て、最後にコペンハーゲンで家具工場を見に行って、六日に帰ってくる。学校の新学期は七日からだから、ちゃんと間に合うってわけ」
日程表を覗きこんだ伸彦は、
「なんだか暗い、寒いところばかり選んだ、という感じもするなあ。南イタリアやスペインへの旅行は全然考えなかったんでありますか」
いぶかる気持を口に出した。
「あたしが一番見たいのは、コペンハーゲンの家具工場なんだから、これでいいの」
浩美は断乎たる感じでいった。それから表情を和らげて、
「あなた、どこでこのツアーにジョインしてくださる?」
と訊ねた。
元日の夕刻に、宮井物産ロンドン支店の新年会が支店長社宅で催される。この新年会には修業生の伸彦も招かれており、顔をだしたほうがよさそうであった。
「じゃあ二日にベルリンにゆきます。ベルリン、コペンハーゲンとご一緒しましょう」
「わあ、すてき」
「野暮用」ばかりふりかざす伸彦の決断が意外だったようで、浩美は手を打って喜んだ。
「ベルリンのホテルはね」
とテーブルの日程表の上にかがんだ。
浩美は背中の上の部分が露《あらわ》なブラウスを着ていて、首筋から背中にかけての肌がフロアスタンドの光を受けて白く輝いている。
伸彦は耐えきれなくなり、背後から浩美を抱きすくめ、首筋にキスをした。
キスしながら、ブラウスの背中のボタンを外すと、脂がのった、なめらかな背中が現れた。浩美はブラジャーはつけていなかった。
伸彦の唇が背骨に沿って下っていくと、浩美は快感を抑えるように両手を突っ張って躰を反らし、背中が柔らかくしなった。
伸彦がスカートのファスナーを下ろすと、左右にはじけるように張りだした腰が現れる。
伸彦の唇が腰の部分に触れたとき、浩美が相変らず背中をしならせたまま、
「そこに私、蒙古斑《もうこはん》が残っているでしょう」
はずむ息をおさえるようにしていう。
「蒙古斑?」
「そう、モンゴリアン・スポットよ」
パンティを引き下げると、なるほど白い腰の中央、というより見事に肉のついた尻の割れ目の上に、直径二、三センチの青い痣《あざ》が浮きだしている。
「なるほど、可愛い痣じゃないですか」
伸彦は痣をみつめてから、そこを軽く吸った。
「私ね、子どもの頃、自分は朝鮮半島から流れ着いた子どもなのかもしれないっておもってた」
浩美は嗄《かす》れ声で、意外なことをいう。
「小学生の頃ね、隠岐に北朝鮮の漁船が流れ着いたのよ。漁船にはチョウさんって一家が乗っていたんだけれど、父が警察に頼まれて、チョウさん一家の船の修理ができるまで預かったの。父は小さな漁業会社をやっていたのね」
「はあ」と伸彦は相槌を打ちながら、手を浩美の胸にまわした。両の掌に乳房があふれた。
「チョウさんはうちのお米のお蔵に住んでたんだけど、私、チョウさんの子どもたちとね、遊んだり、お風呂に入ったりした。その女の子とお風呂に入ったら、私みたいにお尻に痣があるの。その話を父にしたら、父がおまえも昔、海岸に流れ着いたのを、拾ってきたんだよって、からかったのね」
浩美の息づかいが荒くなった。
「しかし」
首筋にキスを繰り返しながら、伸彦は、
「蒙古斑は子どものうちに消えてしまうのが大半なんじゃないですか」
と訊ねた。
浩美は指を三本、立てた。
「三パーセントよ。三パーセントのひとは大人になっても残るの」
と、いよいよ嗄れた声で答えた。
ソファの上で、激しい愛情の交歓になった。
感情の尽きたあと、伸彦の指は再び蒙古斑に戻った。浩美は美しい背中と尻をさらして、ソファに俯《うつぶ》せに横たわっている。
「あなた、覚えてる? 昔、学研が学校の先生通じて、売っていた、『科学』って雑誌があったでしょ。あれにいろいろ付録がついてたわよね」
「ああ、あれは覚えてる。印画紙・現像液つきカメラとか人体ドッキリスコープとか、そういう付録でしたな」
「そう、手作りとうふセットとかアイスクリーム作りシロクマくんとか、そういう付録よ。その付録をチョウさんの子どもたちにあげたら、すごく喜んでいた」
感情が昂揚したせいか、痣の色は先刻よりいっそう鮮やかになったように見える。
「ひと月くらい、家にいたのかな。たしかお兄さんがスミヨンっていって、私が一緒にお風呂に入った女の子はシネっていったんじゃないかな。船の修理ができて、北朝鮮に帰るとき、港でふたりとも泣いて泣いて、私も貰い泣きしちゃった」
伸彦は浩美の話から「妙香山丸」のことをおもいだし、身震いして、階段の踊り場の、穴が開いたままになっている窓を見上げた。浩美は伸彦の腕を掴み、伸彦の腕時計を眺めた。
「母性本能が目覚めてきたわ。もう帰らなくちゃ」
ゆっくりと躰を起した。
クリスマス・イブのあとは、激しい交情の日々を重ねることになった。
「若いあなたには、見えないでしょうけれども、私のお腹には、妊娠線があるの。日によってだけれどもね、お臍《へそ》から股の間まで、ピンクの線が浮きだしてくる。つまり、私は母親なのよ。子どもを産んだ女なのね。そのことを認めてくれなければ、私との色恋沙汰は成り立たないの」
と伸彦のメゾネットで、あるいは浩美のタウン・ハウスのベッドルームで、浩美は常に母親としての自分にこだわった。
「先輩は少々、お考え過ぎのようでありますな」
妊娠線などに縁のない、白く輝く裸体を愛撫しつつ、伸彦は繰り返したものであった。
――おれが連れ子のいる女性に惚れてしまった、といったら、両親はどんな顔をするだろう。
有名私立から東大へ進んだおまえがなにを好き好んで、連れ子のいる年長の女性と一緒になるのか、とこうくるだろう。
伸彦はそういわれるのが却《かえ》って嬉しいような気がした。
浩美は、亡夫の伯父が埼京市で家具店をやっていて、それを自分にまかせようとしていること、伯父はゲーム・センターも経営していて、それも成功していること、などを寝物語に話した。
十二月二十九日、ヒースロー空港の第二ターミナルへ、伸彦は浩美、浩一親子を送って行った。
空港ターミナルには、アンクルとキティゴンの友人という、中国系タイ人の娘ふたり、それにフィリピンの娘ひとりが待っていた。
アンクルは頭を掻いて、
「なんだかよ、おれは女子学生のツアーの添乗員みたいな気分でよ」
とぼやき気味にいった。
「とにかく、安原秀才とはベルリンで会おうや」
ツアーを送りだしたあと、伸彦は宮井物産ロンドン支店に森勇平を訪ねた。
「おれは東京ば行ってきたたい」
森がいった。
「おれはな、サラリーマンちゅうのはひっきょう、土下座の世界や、そう考えちょるけん、今度も土下座しに行きましたばい。鉄鋼本部長の屋敷さんに頭下げて、一部始終、自白しましたわ」
森勇平も、一番会いたくない相手、いちばん話し難い相手に会いに行ったらしい、と伸彦にも判った。
佐久間浩美が|李 仲麟《リー・チユンリン》に初めて会ったのは、一九八四年十二月三十日の午後である。
この年、十二月三十日のウイーンは朝から雪であった。雪の舞うなかをバスでシェーンブルクやベルヴェデーレなど宮殿めぐりをして、午後にウイーン市を山手線のようにめぐるリンク・シュトラーセ(環状道路)まで戻ってきた。
そこで博物館などを見たのだが、浩一が、「ぼく、カンコウに飽きたよ」といい、「疲れた」を連発し始めた。するとハンドバッグ屋のアンクルが、
「そこの銀行によ、おれの友だちがいるからよ、ちょっくら休んでゆこうや」
と提案した。
結局、浩美と浩一、アンクルとキティゴンだけがツアーを離れることになった。
博物館の前に、古いどっしりした石造の建物があり、一階にはアーチ型のおおきな窓が並んでいる。その窓の上に『GOLDEN STAR BANK』という、古い建物と不釣り合いな感じの真新しい金文字が光っている。金文字の縁にも雪が積もっていた。
アンクルが先に立ち、横手のアーチ型のドアを開いてのこのこ入ってゆく。
ヨーロッパの銀行の内部はどこでも殺風景だが、この銀行の中はとりわけ寒々とした感じであった。壁には絵画の類はまったく飾られておらず、安もののカレンダーがテープで貼りつけてある。
浩美たちが入ってゆくと、机にすわっていた数人の男たちがいっせいに振り向いたが、ことごとくアジア人で、オーストリー人の姿はひとりも見えない。
襟まわりの合わない古い背広に化学繊維の白いワイシャツを着た男たちは、揃って背広の下にVネックの厚いスウェーターを着こんでいて、それがひどく野暮臭く見えた。
アンクルがカウンターに寄って声をかけると、男のひとりがこれもお粗末な椅子をがたつかせて立ちあがった。まるでパトニーの語学学校のビジネス・コースで使っているような折り畳み式、スチールの椅子だ。
しかしアンクルの英語が通ぜず、困惑して他の同僚のほうを振り向いた。
するとアンクルの声を聞きつけたように、奥のドアが開き、痩せぎすの男が外套を着こみながら現れた。
「ウイーンへようこそいらっしゃいました」
痩せた男は躰に似合わぬ大声の日本語でいった。
「この人、おれの友だちでよ、李さん、ここのえらいさんだ」
アンクルが痩せた男を紹介した。
李という男は借り物のようなだぶだぶの外套を着ていて、裾はひきずりそうに長いし、手先はこれも長い袖からかろうじて顔をだしている。
男は、
「いやあ、皆さんのことはよく聞いてます。ここちゃお茶ものめないから、そこのカフェにゆきましょか」
と誘った。
「佐久間さんはお母さんもとうとうたるかたたが、息子さんも可愛いな」
李はいった。
「とうとうたるかた」とは「堂々たる方」という意味だろうが、女に対して使えば「躰が大き過ぎる、威張っている」という意味にならないか、と浩美は苦笑した。
李はしゃがみこんで、
「坊《ぽう》や、ウイーンきて、お菓子食ぺたかね、おちさんがとぴきりおおきいお菓子、こ馳走するよ」
浩一の肩に両手を置いて話しかけている。
人見知りする性質の浩一は照れて返事をしない。
李は浩一の手を引いて、
「オペラの前てすから」
と表へ出た。
言葉の通じない行員たちが傘を貸してくれたが、浩美の借りた傘は骨が二本も折れている。
環状通りを歩いて、オペラ座の前にあるカフェに行ったのだが、アンクルは浩一の手を引いて歩く李を顎でしゃくって、
「あいつは朝鮮半島出身の男だけどよ、まあまあ、いい男なんじゃねえか」
無責任とも取れる発言をする。
しかしこれはアンクル流の逆説的な表現で、要するに「いい男だよ」といっているのである。
ウイーンの名物のカフェに入ると、店内の暖かい空気に冷たい頬がぱっと火照《ほて》る感じになる。飾り彫りのついた傘立て兼用のコート掛けに、骨の折れた傘を置き、コートをかけたのだが、浩美は店の様子に陶然たる気分になった。
壁には赤いシェードのランプが灯り、その下の楕円形をした大鏡は十九世紀の女たちの優雅な姿を映し続けてきたに相違ない、そんな想いに誘わせる。いわくありげに湾曲するデザインの椅子とテーブルがならぶ光景は、まるでエゴン・シーレの画題の時代に立ち返ったように、世紀末の物語を語りかけてくる。
菓子の種類は考えられないほど豊富で、パフェもあり、浩一はむしゃぶりつくように食べている。
「イギリスでまずい菓子ばっか食べてきたもんだから、浩一のやつ、眼の色変えて食ってるぜ」
アンクルがいい、皆浩一の食べっぷりを見物する顔になった。
「奥さん、あした大晦日たよね、夜、皆で食事《しよくち》しないかね」
浩一の食べっぷりに触発されたのか、李が誘ってくれた。
「ここの大使館の参事官《さんちかん》の奥さんか日本人《にほんちん》てね、ヤン・ヨシコさんとおっしゃるんたけと、皆さんをホテル・ツアッハの食堂に招待したい、いってる。よかったら一緒になりませんか。ぽく、この子と一緒に、こ飯食ぺたいよ」
こちらを覗きこんでいう。
「国に小学生の子とも置いてきたのてね、子ともが恋しくてしかたないんた」
「ホテル・ザッハーですか。行ってみたいな」
浩美は答えた。
相変らず小雪の舞う翌三十一日の夜、李仲麟は浩美たちの泊っている大衆ホテルにベンツ二台で迎えにきて、ホテル・ザッハーまで案内してくれた。
「ぽっちゃん、ペンツ好きか」
運転手席の背につかまって、身を乗りだしている浩一に向い、助手席の李は話しかけた。
「うん。大好きだよ」
浩一は馬鹿に威勢よく答える。
昨日もカフェからホテルまでベンツで送ってくれたし、今日もベンツ二台を動員してくれているし、どうやら李は貧相な見かけによらず「えらいさん」らしい、と浩美はおもったものである。
大晦日の夜のウイーンはオペラ「蝙蝠《こうもり》」の上演やオペラ座の舞踏会など多彩な行事が催されることで有名だが、ホテル・ザッハーでも舞踏会が催される。華やかな装いの人々の出入りするなか、一行はホテル・ザッハーに着いた。
一階のダイニング・ルームのわきに、黒の夜会服に黒の長手袋をはめた女が立っていた。
女は浩美の一行をみとめるなり、
「佐久間さんの奥様でらっしゃいましょ」
胸の前で、両手を打ち合わせるようにしていった。
「あたくしね、こちらのほうの参事官の家内をしております。ヤン・ヨシコと申します。ヤンは天井を支えます梁《はり》という字、ヨシコは善悪の善に子と書きますの。ご機嫌よう」
小腰をかがめた。
「さ、こちらへどうぞ」
先に立って、ダイニング・ルームへ案内してくれる。
ホテル・ザッハーのダイニング・ルームは、焦げ茶の羽目板の壁の中央に三百号の油絵がかかり、天井からシャンデリアがいくつも垂れ下って、重厚な印象だが、子ども連れの家族客も多くて、賑やかであった。
一行はおおきなテーブルを囲んだのだが、梁《ヤンヽ》善子《よしこ》と名乗る女は、
「あたくし、今夜は日本の皆さまとゆっくりお話できると楽しみにしておりましたんざんすけれどもね、どうしても顔を出せ、と主人が申しております会合がありまして、アペリティフだけで失礼させていただかなくちゃなりませんの。申しわけございません」
軽く頭を下げた。
善子は隣席の浩美に向い、
「奥さまはおえらいのねえ。お子さまお連れになって、ロンドンで勉強しておいでなんざんすって」
そう訊いた。
「私、なかなか子離れができませんの。それでコブつきでロンドンへきて、またコブつきでウイーンまで伺ってしまいました」
善子の切れ長の眼の品のよい顔立ち、落ち着いた物腰、イヤリングやブレスレット、指輪の豪華さ、なによりも鼻にかかった東京、山手弁に気圧《けお》されながら答えた。
子連れで旅行している自分が惨めなような気分になってくる。一応カクテルふうのドレスは着ているが、善子と比較したら、振袖の前で浴衣を着ているような気がした。
「浩美さんは、わしの語学学校の同級生なんだが、母親業やりながら、いろいろエネルギッシュに勉強してね、たいしたもんだよ」
アンクルが浩美の印象点をあげようと助け船を出してくれる。
「結婚前は芝居の女優さんやっててね。まあ、わしらが見るような壺持って入ります≠チてほうの映画とは関係なかったらしいけどよ、まあ、そんな役もやれそうな、派手な空気は持ってるしよ」
浩美は閉口して、アンクルを叩く真似をした。
「このあいだ、パーティで見かけたが、ダンスもうめえもんだな」
「ふうん、芝居やダンスがおできになりますの。それでスタイルもおよろしいし、お洋服の趣味も洗練されてらっしゃるのね」
善子は感心したように唸って、少し躰を遠ざけて浩美を眺めた。
「それに訛《なま》りがない日本語をお話しになるのね。どちらのご出身?」
見下げたようないいかたをする。
「島根県の隠岐島です。あそこは京都のお公卿《くげ》さんが島流しにされてたところなんですね。だから島根と京都の訛りが混ってるんですけど、大学が演劇科だったし、矯正にはあまり苦労しなかったんです」
「ほんとにすてきな日本語、お話しになるのね。あなた、どこかのお国で日本語の先生になれますことよ」
アペリティフにもほとんど口をつけず、善子は立ちあがった。
「では皆さん、ご免あそばせ。どうぞごゆっくりあそばしてね」
善子を送りに李が付き添って出てゆくと、
「台風一過というやつだぜ」
アンクルがいい、座は一気にくつろいだ。
李が戻ってきて、善子が注文しておいてくれたらしいフル・コースの食事とワインが出始めた。
李は浩一を隣にすわらせ、食事の間じゅういちいち世話を焼いてくれた。
浩一をまるで三、四歳の幼児扱いにして、鳥に餌をやるようにパンを小指の先ほどに細かく千切っては、「ほい、ぽうや、アーンして」などとやる。スープが出てくると、自分のスプーンで浩一のスープをすくい、
「ほい、スープたよ、ぽっちゃん」
浩一の口もとにつきつける。
浩一は弱った顔になり、鼻先のスプーンを睨んでいる。
浩美は浩一が「要らない」と叫んだりしたら、どうしようとはらはらした。浩一はパトニーの保育所で「|要らない《イアツク》」という言葉を覚え、最近はなにかといえば「|要らない《イアツク》」を連発するのだ。
浩美の隣にすわったアンクルが、
「浩一、ベンツのおじさんがすすめてんだからよ、気合を入れて飲んじまえ」
「そら」と気合をいれた。
浩一が観念したように眼を閉じてスープを飲みこむと、李は、
「ほい、飲んたね」
嬉しそうに、おなじスプーンで自分もつるつるとスープを飲んだ。
そのあとの料理もこまめに「ほい、ほい」とフォークに突き刺して、浩一にすすめてくれる。
李が自分の黄いろい歯の間にくわえたフォークに新しい肉片を突き刺し、浩一にすすめてくれるのを見ると、浩美はなんとなく身震いする気分になった。
「浩一はベンツのおっさんにまかしてよ、おれたちゃ、気楽にゆこうや」
アンクルがいって、ワインを注ぎ足してくれる。
しかし専属バンドが演奏するウインナ・ワルツを聞き、窓の外の中庭に小雪の舞う光景を眺めているうちに酔いが次第にまわってきて、李の過剰な親切が気にならなくなった。
「私、日本からこっちにきて、ほんとうによかった」
浩美はおもわずぽつりと本音を洩らした。
「そうだよな。こっちへ英語勉強にきたおかげで、安原の秀才にも会えたんだしな」
アンクルがずけずけといった。
「私、そうおもう」
浩美はわるびれなかった。
今、このホテル・ザッハーでの会食に、安原伸彦が同席してくれていたら、どんなに幸せだったろう、とおもう。一緒にウインナ・ワルツを聞きたかった、と口惜しくおもう気持がつのってくる。
しかしそれは贅沢というものだろう。伸彦にはもうすぐ会えるのだ。明後日ベルリンで落ち合う約束になっているのだ。
「それに、こっちへ留学したおかげで、アンクルやキティゴンにも会えたしね。とってもよかった」
そのとき、ほんの一瞬だが、アンクルが微妙な表情を見せた気がした。
ひと呼吸置いて、
「そりゃそうだ。そのうち、浩美さんもおれに会えてよかった、とおもうぜ。おれはあんたの味方だからな」
アンクルはそう応じた。
浩美は、
「日本に帰って商売始めたら、いろいろ教えて下さい」
と頭を軽く下げた。
アンクルとの会話を小耳に挟んでいたらしく、李が、
「奥さん、ロントンやウイーンもいいが、私の国もすてきたよ」
話しかけてきた。
「私も一度、お国に行ってみたいとおもっています」
ご馳走になっている手前、浩美はお愛想をいった。
「なにしろうちの国にはね、パリの凱旋門よりおおきな凱旋門があるんたよ。ここでトナウ・タワー見たてしょう。トナウ・タワーより立派な塔もあるんたよ。石の塔なんたかね」
韓国に凱旋門があったかしら、パリの凱旋門よりおおきいとは知らなかった、と浩美はおもった。ドナウ・タワーより立派な石の塔が韓国にある、という話も初耳であった。
一九八五年の元旦がきた。
この日のロンドンはまるで日本の冬空のように快晴であった。安原伸彦はひとりで雑煮を食い、防腐剤入りの日本酒を少し飲んだ。
横浜の両親に電話を入れて、新年の挨拶をしようとおもったが、ロンドンと日本の間の時差を考えて、午後に延ばした。
昼近くウイーンの浩美から電話がかかってきた。
「新年おめでとうございます」
浩美は神妙な声で挨拶をした。
「ウイーンはずっと雪でね、昔をおもいだしてとても楽しかった。私の子どもの頃の隠岐は暮からお正月にかけていつも雪だったもの」
戸外の雪を滑り台のように固め、二階の廊下からピアノのお稽古ケースや絵本を尻に敷いてつるつると庭へ滑り降りたと浩美はいう。
「それはそうと昨日も雪のなか、ホテル・ザッハーへお食事に行ったの」
明るい声で浩美はウイーンでの大晦日体験を話した。
「とにかくアンクルのお友だちが親切なのよ。ヤンさんっていうこちらの韓国の参事官の奥さんや李《リー》さんっていうゴールデン・スター・バンクのえらいひとにね、すっかりお世話になったの」
「ゴールデン・スター・バンクでありますか。初めて聞く銀行ですな」
たしか韓国には、金星という財閥があったから、その系列の銀行かな、と伸彦はおもった。
「李さん、ベルリンへも一緒にくるっていってるから、ベルリンでご紹介するわよ」
そこで浩美はちょっと言葉をつまらせた。
「明日、お会いできるの、とっても楽しみにしてる」
語尾が震える感じになった。
「小生もおなじであります。特にモンゴリアン・スポットにお会いできるとおもうと、今夜、眠れそうにありません」
そういうと、目の前に浩美のみごとに白い「ラグビー・ボール」状の尻が浮かんだ。尻の割れ目の上、小さな青い痣《あざ》がくっきりと鮮やかである。
浩美は華やかに笑い、伸彦はこの電話におおいに満足した。
元日は、午後三時ころから、北のハムステッドにある宮井物産ロンドン支店長の社宅に社員一同集まることになっている。
伸彦がバス・ルームで髭を剃って、外出の準備をしていると、玄関の前に車が急停車する音がした。ばたん、ばたんとあわただしくドアの開閉の音が続いて、なんとなくただならない気配だ。
バス・ルームの窓を開けて、下を覗くと、玄関への階段を駆けあがってくる女性の姿が見える。アンジェリカ・ウーファとすぐに気がついた。
伸彦は顎の髭を剃りかけのまま、階下へ急いだ。
鳴らしっ放しのブザーを聞きながら、玄関を開くと、化粧っ気のないアンジェリカがいきなり、
「大変よ。|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸がイラクに捕まったわよ」
と叫んだ。
「いったい、どうしたんでありますか」
アンジェリカはダウン・コートを着たまま、玄関に仁王立ちになった。
「ローリーズ保険の情報センターに入った情報だと、イラクの空軍と海軍が協力してカーグ島の手前で、妙香山丸を捕獲したんだって。妙香山丸の甲板にイラクの空挺隊が降りて、今、船をイラク領へ運んでる最中らしいのよ」
「沈んだんじゃなくて、捕まったのか」
伸彦は絶句した。
「そうよ。あなたがたがイランへ売りこんだ長距離砲はイラクに横取りされてしまったのよ」
10
アンジェリカの話を聞くや、伸彦はロンドン支店鉄鋼担当の森勇平の自宅に電話をかけた。
「森さん、例のパイプを載せた|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸が、イラク側、イラク側でありますよ、イラク側に拿捕《だほ》というんですか、捕獲されたそうです。捕獲されて、シャッタル・アラブ川のほうに護送されているそうです」
ロンドンの北東五十マイルのコルチェスター市にローリーズ保険会社の情報センターがあり、そこには米国の衛星写真を含め、確度の高い情報が事故発生と同時に流れてくるシステムになっているが、そこから「妙香山丸をイラク海空軍が拿捕」という報告がアンジェリカのもとに入ってきたことを伸彦は手短かに伝えた。
森は唸ってから、
「アンジェリカを電話に出してきんしゃらんね」
うめくようにいった。
受話器を取ったアンジェリカが、森と大声でやりとりし始めた。
「ローリーズに入る情報が、これは世界じゅうで一番早い情報なのよ。偵察衛星もあるし、湾岸各地にはローリーズの情報基地があるからね。それでも今日のうちにはイラン政府に知れてしまうでしょうね」
アンジェリカは細長い腕の時計を見ている。
現在、ロンドン時間、一九八五年一月一日午後三時、テヘランは時差三時間半で午後六時半になる。
「イラン政府は宮井物産を、具体的にはミスタ・湧谷を疑うわよ。彼がイラクに大砲を売ってしまったんだって疑うわ。二重売りしたんだという疑いは当然かけてくるでしょうね。むろんミスタ・湧谷の逮捕、投獄の可能性も大ありじゃないの」
アンジェリカは眼をしばたたいて応答している。
――うっそお、というやつだ。信じられないよ、まったく。
伸彦は動転して唇を噛んだ。
送油管に見せかけた長距離砲が、イランに着けば、湧谷、森、伸彦は「武器輸出」のタブーに触れたことになり、湧谷は「露見すりゃ、おまえ、おれは辞表提出よ、これも男の花道よ」などと粋がっている。
そうなっては一大事と、伸彦はイラク大使館のハッサン・アーメッドに妙香山丸の一件を囁いたのだ。イラク海空軍が出てきても、船員の生命の保障をした上で船を撃沈してしまうものと伸彦は頭からおもいこんでいた。まさか船ごと捕獲されてしまうとは想像もしていなかった。
イラク側は送油管が長距離砲であることを知って捕獲したのだ。長距離砲を今度はイラクがイランに向って射つに違いなかった。
「ノブヒコ」
アンジェリカが差しだした受話器を取ると、
「時間のあるうちに手を打たにゃあいかんき、家へ彼女と一緒にすぐきんしゃい」
森は大声でいった。
「ロンドン支店長の新年会のほうはワイフでいいっちゃ。まずこの大問題と取り組みまっしょ」
急いで背広に着替え、玄関前に停めたアンジェリカのゴルフに乗って、森の家のあるロンドン北部のゴルダース・グリーンに向った。元日のロンドンの街はクリスマス休暇の続きで人気《ひとけ》がない。セミディタッチド・ハウス(二軒長屋)の一軒のベルを押すと、ネクタイを締め、新年会にゆく身仕度のままの森が出てきた。
「こっちで相談ばしましょう」
躰のおおきい森が食堂へ案内する。
家のなかは深閑と静まり返っている。細君は新年会に子ども連れで、出かけたらしい。
「この間も話したとおり、去年の暮、おれ、東京ば出張して、鉄鋼本部長の屋敷さんに、全部今度の仕事の経緯を報告したばい。屋敷さん、ようわかってくれて、ミスば恐れとったら、仕事はできんき、皆、|しゃんしゃん《ヽヽヽヽヽヽ》しよってよかたい、そういってくれたと。じゃ本部長、湧谷さんが恰好つけて、辞表だしたら、受理せんちゅうこってすね。念押したら、まかしとかんね、そういってくれたと」
森は昂奮して、早口の九州訛りでまくしたてるが、森の九州弁の話は英語より難しい。
「しゃんしゃんってどういう意味でありますか」
「生き生きしてるっちゅうか、頑張っちょるってこつよ。本部長に土下座してきて、よかったばい」
「ありがとうございました。助かりました」
伸彦は頭を下げた。
「先刻、本部長の自宅に電話入れて、報告したばってん、東京は元日の深夜だき、本部長、えらい新年のご挨拶や、驚いちょったが、すぐテヘランに電話して、今夜の便で、湧さんを東京へ出張させる、そういうてくれたと。念のため、奥さんも同伴で出張させる、いっちょった」
森はおなじ内容を九州訛りの英語でアンジェリカに説明したが、このほうがずっとわかりやすい。
「アンジェリカ、もとはといえば、これはイランがベルギーと共謀して、宮井物産を罠《わな》にかけて、大砲運んだちゅう話だき。それでも彼ら、宮井を恨んじょるか」
「そんな古い話、彼らはとうに忘れてるわよ」
アンジェリカは突き放すようにいった。
「イランにしてみれば、宮井物産がイラクに通じて、イランとイラクに大砲を二重売りした、その疑惑と恨みだけね。アラブの恨みは恐ろしいわよ。|眼には 眼を《アイ・フオー・アイ》、|歯 には 歯を《トウース・フオー・トウース》≠ナしょう」
「眼には眼を、歯には歯を」のロジックを応用すれば、妙香山丸がイラクに拿捕されたのだから、湧谷がイラクの敵国、イランに捕まって当然ということになりはしないか。
イランの牢獄の苛酷さは、伸彦も耳にしたことがある。
獄内は汚物の臭気に満ち、壁には南京虫の大群が走りまわり、大勢の髭面の囚人が男色の相手を求めて、強姦しようと新しい囚人を待ち受けている。人権などほとんど存在しないに等しく、イラン革命以来、イランでは軍の将校を筆頭にどのくらいの人間が処刑されたか見当もつかないのだ。
スパイ容疑者となると、イランもイラクも外国人だろうと一切容赦しないだろう。それが中東の世界なのだ。アメリカ大使館員も人質に取られれば、アメリカのコンピュータ会社の社員も投獄されてしまうのがイランの国柄なのである。
元日のロンドンの暗闇と寒気がひしひしとこの家に迫ってくる感じであった。
「日本とイランの間には、査証協定があるから、休暇といえば、出国は問題ない筈ですな。ただしイラン側に妙香山丸拿捕の情報が入っていない限りでありますが」
伸彦は拡がってくる不安を抑えつけようとして喋った。
「とにかくすぐ出国するように、ここから湧さんに電話入れてみましょうか」
森はちょっと考え、首を振った。
「電話すりゃ湧さんはおれたちが本社に通じていると勘繰るかもしれん。勘繰って、意地になったりされても敵《かな》わんたい。ここはおとなしく構えているほうがよかと」
11
東京の鉄鋼本部長、屋敷正二からの電話を受けたテヘランの湧谷昭生は、受話器を置くや、応接間《レセプシヨン》に入っていった。
応接間のソファで、日本の雑誌を読んでいる細君の和子に向い、
「おまえさん、元日早々にお召しがかかったぞ。即刻カミさん連れて東京へ参れ、こういうことだ」
宣言するようにいった。
「屋敷さんから電話があってさ、急な人事の話があるから、今夜の飛行機で上京しろってんだ。主君のお召しとあっちゃあ、こりゃおっとり刀《がたな》で駆けつけにゃあなるまいぜ」
和子は驚いて立ちあがった。
「それにしても、今夜の飛行機に乗れってのはずいぶん急な話じゃないの」
日本向けの南まわり便は午前一時の深夜便だから時間的には間に合うものの、いかにもあわただしい。
「人事というからな、これもんじゃないか」
湧谷は手の甲で、自分の首を切ってみせる真似をして、にやりと笑ってみせた。
湧谷は和子を置いて書斎にしている部屋へ入ると、空襲に備えて、×印にガムテープを貼った窓から暗い表を眺めた。
――大砲《ドン》の一件がばれやがったな、こりゃ。
テヘランにもロンドンにも、岩崎商事、江利産商など競争会社は沢山あり、そのどこかが情報を掴み、日本へ通報したのだろう。そして元日早々に宮井物産は武器輸出に関与している、という情報が屋敷の耳を驚かしたにちがいない。
湧谷は猫足の重厚な趣きのデスクにすわった。抽《ひ》きだしを開け、無罫の便箋とボールペンを取り出した。
進退伺
昭和六十年一月一日
常務取締役鉄鋼本部長
屋敷正二殿
[#地付き]テヘラン支店長湧谷昭生
イラン国に対する鋼管輸出に関しましては、会社に多大のご迷惑をおかけする仕儀と相成りました。まことに申し訳なく深く御詫び申し上げます。
本件は事前の調査不足等、すべて小職の失態によるものでありますので、職を辞して責任を負いたく存じます。
何分の御決裁を仰ぎ度、茲《ここ》に辞表を同封して、然るべく御指示をお待ち申し上げます。
続いて辞表を書いたが、じつに気分爽快な気がした。長年の胸のつかえが一挙に降りるようであった。
「入社以来、一度これをやってみてえ、とおもってたんだよな」と湧谷は呟いた。
しかし困ることがないではない。
明日はキルス・アブドラ・ファヒムとテヘランのフランス料理屋で昼食を食べる約束になっている。それから三時には建前上、キルスの四番目の婚約者とされているペルシャ美人、フィオーナの家に行って、お茶を飲むことになっている。
フィオーナとは、ロンドンで会食して以来、親しくなって、毎週のようにお茶に招かれる仲になっている。むろんイスラム社会では、夫以外の男に会ったりすれば、イスラムの掟の監視に当る宗教警察に厳しく指弾されることになっているが、だれも家のなかまでは見通せない。
湧谷はまずキルスの自宅に電話した。
「キルス、明日の昼めしの約束だがね、ちょっと延期して貰えないかな。じつは東京の義妹が躰をわるくしてさ、おれ、今夜の飛行機で帰らなくちゃならねえんだよ」
「今夜、帰るのか」
キルスは一瞬黙った。
「そりゃ心配だな。おれのほうは別にいつだってかまわんよ。念のために空港のほうにはおれから話しておこう」
簡単に話はついた。
フィオーナのほうは、明日会社の総務課長から電話させればいい、とおもった。
家のなかでは、がたがたとメイドが走りまわり始めた。和子が大あわてで荷造りをしているのだろう。
もう一度イランに帰ってきて、あの送油管を装った大砲《ドン》がイラクに向って、どんと鳴るのを聞きたいもんだ。しかし一度辞表を出してしまったら、自分の人生などどう転ぶのか、知れたものではない。湧谷は壁に飾ってある銅の大皿をカンカンと指の先ではじいてから、支店の総務課長の自宅に電話した。
「これから東京にけえるんだ。すまねえが、すぐに顔だしてくれないか」
12
伸彦と森は一応、アンジェリカと別れ、宮井物産ロンドン支店長の社宅で催されている新年会に顔をだしたが、まったく意気があがらない。支店長を囲む談笑の輪に暫く加わったが、空気に乗り切れず、ふたりだけ外れて、部屋の端で酒を飲んだ。
支店長を囲む男たちの輪のほかに、支店長夫人を囲む女たちの輪ができていて、その輪にすわった森の細君が時々、心配げにこちらに視線を投げてくる。別室で騒ぐ社員の子どもたちの声がひどく遠くに聞えた。
突然支店長が席を外し、それから部屋に戻ってくると、まっすぐふたりの所にやってきた。
「今、東京の屋敷常務から連絡が入ってな、テヘランの湧谷さんが先月二十八日付けで、鉄鋼本部長付部長、待命《たいめい》になったそうだ。暮のことで、ばたばたして連絡が遅れた、すまんという話だった」
「はあ」
伸彦は森と顔を見合わせた。
「新支店長は物資本部からくる。湧さんはどこかの店《みせ》の支店長にはめこまれるらしいよ。どうせ鉄の店《みせ》だろうがね」
商社の支店には、代々鉄鋼本部の出身者が支店長に就任する店があって、「鉄の店」とはそのことを指しているのである。鉄鋼本部長は、暮の二十八日付けで、辞令を発令した形にして、湧谷を東京に釘づけにしてイランに帰すまい、としているとわかった。
「少し気持が晴れるき。飲みんしゃい」
森が水割りを作ってくれるが、酔いが胸の底に重苦しくとどこおるばかりで、気持が晴れるどころではない。辞令が降りたとして、いったい湧谷は無事にテヘランを出られるのだろうか。
その夜は森の自宅に泊めて貰ったが、夜半になっても、何の連絡も入らない。
夜半、森の家の狭いゲスト・ルームのベッドで輾転《てんてん》反側しながら、伸彦は明日のベルリンゆきは諦めざるを得ないとおもった。佐久間浩美との逢いびきはお預けだ。
浩美の白いみごとな尻とモンゴリアン・スポットが寝室の闇に青白く浮かびあがって、消えようとしなかった。白い大理石の上に置いた、一輪の青い花のようにおもえる。
伸彦は苦しくなり、借り物の森のパジャマの胸を掻きむしった。
13
ウイーンに三泊した浩美は、ずっと憧れていたオーストリー特産のローデン・クロスのグリーンのコートを買ったり、それに合う革の手袋やマフラーを探したりして、すこぶる幸せな気分で元日の夕方、ベルリンに入った。
ベルリンで安原伸彦と会えるとおもうと、期待感に胸がふくらんだ。古典的で静寂な街の風景が愛の交歓のドラマの幕開けを告げて、緊張をはらんでいるような気さえする。
翌日の一月二日のベルリンは気温こそ零度前後だったが、快晴でまことに気分がよく、この土地での滞在を祝福するようである。
ウイーンからツアーに同行している、アンクルの友人、李《リー》が、
「今日はお天気たし、坊《ぽう》やを動物園に連れてゆこう。ここの動物園は有名てね、パンタもいるしさ」
と提案した。
ベルリンの玄関とされるツォーロギシャーガルテン駅は日本語に訳すと「動物園駅」になるが、駅名の由来になっている、駅の傍らの動物園は百四十年前に作られた、ヨーロッパ最古の動物園だ、という。世界最大規模を誇る鳥のコレクション、猫のコレクションで有名なのだそうである。ちゃんとパンダも中国から取り寄せて飼育されているそうであった。
動物園ゆきは、大人の博物館やアンティーク・ショップめぐりにつきあわせてきた息子の浩一の機嫌をとるチャンスではあった。
李はここでも伝手《つて》があるのか、どこからか「ベンツ」を二台、手配してくれた。
動物園に着くと、アンクルが、「なんだよ、まるで横浜の中華街の入口みてえな門が建ってるぜ」という。なるほど動物園の入口には、二匹の象の石像を柱にして、なぜか中華風の青瓦を葺《ふ》いた屋根つきの門が建っている。
ここでもだぶだぶの外套を着た李が浩一の手を取って、連れ歩いてくれたが、幸い浩一お目あてのパンダもうまいぐあいに餌の竹を齧《かじ》っているところを見せることができた。
浩一も李の日本語の発音がうつって、李のことを「ペンツのおちさん」と呼び、パンダのことを「パンタ、パンタ」と呼んで、機嫌よく飛びまわっている。
しかし母親の浩美のほうは、今日ベルリンに到着する伸彦のほうに心が吸い寄せられてしまい、動物園の光景がよく眼に入ってこない。伸彦の顔や長い脛《すね》がきれぎれに浮かび、伸彦に心をすっかり絡《から》め取られている感じである。
私はほとんど三分おきに伸彦のことを考えている、と浩美はおもった。この動物園に多い鳥や猫の顔がみんな伸彦に見えてしまう、といえば、伸彦は顔を赤くして怒るに相違なかった。
縞馬《しまうま》の檻《おり》のなかで、一頭が後ろ足で棒立ちになり、観客を驚かせた。縞馬の向うに、戸外にあふれでるお湯を止めに浩美の家のバス・ルームに入っていったときに、呆然と立ちあがった伸彦の裸体がふいによみがえり、今度は浩美が顔を赤くした。
最初に家の門の前で伸彦に出会ったとき、すでに恋の予感があった気がする。
――自分の生涯の最高の恋愛になるのではないか。
この動物園は動物のコレクションもたいしたものだが、道路の真ん中に実物そっくりのゴリラの彫刻がしゃがみこんでいたり、池の真ん中に白熊の彫刻が置いてあったりして、「動物」というテーマがすみずみまでゆきとどいている。
動物園内を一周したのち、また門に近い黒いゴリラの彫刻に戻ったのだが、浩一はしゃがみこんだそのゴリラの彫刻の前で李に写真を撮って貰ったりして、すっかりはしゃいでいた。
アンクルこと水田清は、帰路についた|李 仲麟《リー・チユンリン》、佐久間浩美・浩一親子の少し後ろから、「横浜中華街の入口」ふうの動物園の門に向って歩いていたのだが、ゴリラの彫刻の傍らをゆき過ぎようとしたところ、ゴリラの彫刻の向う側からサングラスをかけた女性が現れた。
女は鬘《かつら》なのか、褐色の髪を長く垂らしていて、水田には、すぐにそれが|梁 美善《ヤン・ミーソン》とはわからなかった。
「ベッカー高原の方、|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸がイラクにぶん捕られましたのよ。大砲もお船も船員もそっくりイラクに捕まってしまって、今、イラクのシャッタル・アラブ川のほうに運ばれておりますの」
「イラクに捕まったってえの」
水田はゴリラの背中の後ろで、棒立ちになった。
「イラクの飛行隊《ヽヽヽ》は強いざんすからねえ。危険がある、とはおもっておりましたのよ。でもまさか捕まってしまうとはねえ」
事態がわかってくるにつれて、水田はすっかり混乱した。
「イラクに長距離砲を取られたってことになるとよ、日本赤衛軍の本部は怒るだろうな。日本赤衛軍はシリアに世話になってんだが、そのシリアはイラクと犬猿の仲よ。こりゃ弱ったぜ」
水田は本当に弱って、溜め息を吐《つ》いた。
「シリアよりもうちの国の船のことをお考えになってよ」
梁美善は険しい顔になっていった。
「妙香山丸はうちにとって大事な大事なお船なんです。それを危ない商売に使って、ぶん捕られたんじゃ、偉大なる首領様に申しわけが立ちませんわよ」
「いや、一言もねえ」
水田は頭を下げた。梁は一歩近づいて、
「その代り、明日はなんとしても佐久間浩美を生捕ってくださいませ。飛行機はもう着いておりますのよ」
命令口調でいった。
水田は梁と別れ、一同ベンツに乗って、李にホテルまで送って貰ったのだが、浩美はホテルに入るなり、ロビーのなかを見まわしている。伸彦が着いているとおもい、伸彦の顔を探しているらしい。浩美の頬が緊張に青ざめていて、水田は「相思相愛ってやつか、やっぱりふたりはできあがってんだ」とおもった。
水田は浩美とフロントにキイを取りに行ったのだが、フロントの老人が、
「マダム、メッセージがあります」
そう浩美に告げている。
少し震える感じの手で、浩美はメッセージを開いたが、浩美の顔が紅潮した。
「アンクル、私、落ちこむなあ。伸彦さんが仕事でこられないんだって」
泣きだしそうな顔でいい、メッセージを見せた。
「仕事で緊急の事故が起き、ベルリンにゆかれません。ヒースロー空港にお迎えにゆきます。ノブヒコ」
そういう意味の英文が並んでいる。
これは梁美善の情報どおりだ、と水田はおもった。長距離砲をイラクに横取りされて安原伸彦は泡を食っているに違いなかった。安堵に似た感情が顔に出てしまい、あわてて眉をしかめた。
「あんなにはっきり約束して、チケットも買ったのに、なにが起ったのかなあ」
浩美は初めて恋をした少女のように衝撃を受けている。水田は胸を打たれる感じがした。おれは、こんなに女に想われたこたあねえぜ、しかしこうなったら、おれも覚悟をきめなくちゃいけねえぞ、とおもった。
「浩美さん、安原の秀才は律儀だからよ、商売にちょっとひっかかりができると動きがとれなくなるんじゃねえか。あとで電話してみたらいいよ」
浩美と別れ、キティゴンと部屋に戻ると、すぐにドアがノックされ、
「聞いたやろ。えらいことになってしもた」
ベルリンへ先乗りしていた笹岡が待ちかねたように入ってきた。
「わが社の社長は怒るやろなあ。北の船をぶん捕られて、それもやね、シリアと仲のわるいイラクに強盗されたんやから、義理が立たへん」
ふたりは顔をみつめ合った。
「あんさん、こうなったらやね、どないしても明日は踏ん張って、北に協力せなあかんで」
「梁にもそう脅かされたぜ。飛行機は着いてるとよ」
――浩美の運命はきまったよな。
一種、悲哀を持って水田は考えた。
「どうやって、ヒロミをノースへ連れてゆぐの」
キティゴンが訊ねた。
「そらわからへんがな」
笹岡は首を振った。
「まさか空港のど真ん中で、頭から袋かぶせたりはせんとはおもうけどな。佐久間浩美はおおきいしバネもありそうやから袋かぶせたら、跳びはねるわな。親子ふたりに袋かぶせて跳びはねたら、こら、運動会の親子障害物競走やで」
せめて浩一だけでもなんとかできんかな、と水田はおもった。
その一月二日の夕刻になって、浩一が咳をし始めた。今日も快晴だったとはいえ、気温は零下で、浩一は動物園に行って喉をやられたらしい。
浩美は夜の外出を取り止め、浩一に日本から持参の風邪薬をのませて、早目に就寝させると、自分はルーム・サービスで食事をとった。
安原伸彦はこないし、浩一は風邪を引くし、「やれやれ」と浩美はおもった。子連れ留学も大変だが、子連れの旅行も楽ではない。
夜になって、二度ほど伸彦に電話を入れたが、留守番電話の声がうつろに響く。
夜半になって浩一が熱を出し、また薬をのませたが、浩美は浩一の様子が気になって眠れぬ夜を過ごした。
14
翌日の三日は午前中にマイセンの陶器を見ることになっていたが、浩一が風邪を引いたので浩美は参加を取り止めた。
「浩一の風邪がこじれると困るから、私、ベルリンに残ろうかなあ」
そう電話でアンクルに話すと、アンクルは驚いた様子で部屋にやってきた。
「熱は下ってんだろ。それならコペンハーゲンまで行って、医者に見せようや」
アンクルは強引にそう勧める。
「ベルリンはよ、政治的にごちゃごちゃして、医者のほうも大変らしいぜ。コペンのほうが安心よ」
いつになくアンクルは執拗にコペンハーゲンゆきを勧める。
結局アンクルの勧めに従い、昼過ぎにホテルを出てSAS(スカンジナビア航空)のコペンハーゲンゆきに乗るために、高速道路を経由して東ベルリンに入った。
東西ベルリン分割以来、常に問題になるのは、東ベルリンから西ベルリンへ入るケースで、西ベルリンから東ベルリンに入るのは何の問題もない。旅券と航空券を見せれば簡単に空港ゆきのビザをくれる。
ベルリンが東西四カ国共同管理になって以来、ベルリンには、四カ国がそれぞれ空港|乃至《ないし》軍用飛行場を持っている。
一九八五年当時、シェーネフェルト空港はソ連の専用空港であり、そこに東欧など社会主義国の航空会社、そしてSASのような中立国の航空会社が乗り入れていた。
ベルリンからSASに乗って、コペンハーゲンにゆくためには、東ベルリン側に出て、シェーネフェルト空港から乗らなくてはならない、という点に、このツアーの裏の意味があるのだが、むろん佐久間浩美は知る由もない。
草原のようにだだっ広い空港に、いかにも東側の空港らしい、平べったい三階建てのターミナル・ビルが建っていたが、定期便の発着ゲートが埠頭《ふとう》のように長く張りだしている。
ターミナルに入ると、アンクルと李が全員の旅券と航空券、チェック・インする荷物を預かり、搭乗手続きに忙しく走りまわった。
浩美は浩一の様子が気になり、このまま土地勘のあるロンドンへ帰りたい気分であった。昨夜、ろくに眠っていないので、充分働かない感じのする頭の隅で、こういうとき、もし伸彦がいたら、頼りになったのに、とおもう。
ようやくアンクルと李が帰ってきて、二階のレストランにゆき、昼食を摂ることになった。
愛想のないレストランで、窓外には草原のように広い空港が一望できるが、離発着する航空機のほとんどがソ連製の見慣れぬ機種であり、航空会社の名前も判読すらできないものが多く、異国の感じが強かった。
「坊《ぽう》や、なにか食ぺなさい」
李はメニューを浩美親子に差しだした。それから、
「クラス、くたさい」
ドイツ語でウェイトレスに命じている。
「アンクルさんに聞いたけと、今日は浩美さんのパーステイてしょう。一杯たけお祝いの乾杯しましょう」
李は傷あとの多い顔に満面の笑みを浮かべていう。
グラスがくると、李はだぶだぶの外套《がいとう》のポケットからバレンタインのクォーター・ボトルを取りだした。
「これ、中身はぽくの国の、人参酒です。おいしいし、からたにいい。これ飲んておかあさん、もっとテプになってくたさい。テプになれぱもっともっと美人になるよ」
席には浩美親子、李、アンクルとキティゴンがいたが、大人四人のグラスに飴色の酒を注いでゆく。
「坊《ぽう》やはお酒飲めないな。なにか早く頼んたらいい」
「浩一、スパゲッティでも頼む?」
浩美が訊くが、
「|要らない《イアツク》」
と頑固に首を振る。
浩美がなだめすかしていると、李が、
「おや、おかあさんのクラス、汚れています」
酒の入ったグラスを宙にかざしている。
「ちょっとこのクラス、替えてくたさい」
ウェイトレスを呼んで浩美のグラスを替えさせた。
無愛想な中年のウェイトレスが新しいグラスをがちゃんと置いてゆく。
まただぶだぶの外套のポケットから、バレンタインのクォーター・ボトルを取りだし、浩美のグラスに注いだ。
「坊《ぽう》や、駄々《たた》こねてるから、大人たけて乾杯しましょう。ハッピイ・パーステイ。イッキ飲みていこうよ」
大人四人で乾杯をした。
「イッキ飲み」といわれて、浩美はつい油断をして、おおきくあおってしまい、次の瞬間食道が焼けるような気がした。酒精分のずいぶん高い酒らしい。
「このお酒、強いなあ。私、酔っぱらいそう」
浩美はかっと熱くなった頬を手のひらでぱたぱたと叩いた。
そこへドイツ人の背広の男がやってきて、李に何事かドイツ語で訊いている。
「おかあさん、旅券のことでお役人さん、なにか訊きたいらしいてすよ。ちょっときてくれ、いってるよ」
先刻返して貰った自分と浩一の旅券を取り出し、立ちあがろうとすると、おおきくよろけた。
「坊《ぽう》やもきなさい」
李が菓子を前にしても、不機嫌そうに手を出さない浩一を覗きこんでいった。
「浩一は風邪引いてんだからよ、ゆっくり菓子を食べさしてやんなよ」
突然アンクルが強い調子で李の腕を押した。
「浩美さんよ、浩一の旅券はおれが預かっといてやるよ」
なんとなくアンクルの調子に気圧《けお》されて、
「そうね、旅券を二冊、持ってゆくこともないか」
浩美はアンクルに浩一の旅券を手渡したのだが、李は、
「いや、その旅券も持っていったほうがいいよ」
アンクルの手から浩一の旅券を取り戻そうとする。アンクルは、
「いいってことよ、おれがあとから浩一を連れてゆくよ」
意外に強い調子でいい返した。李は、
「ちゃ、とにかくおかあさんたけゆくか」
足もとの危なっかしい浩美を支えて歩きだした。
「浩一、おとなしく待っといで。ママ、すぐ帰ってくるからね」
そういいおいたのだが、心なしか舌がもつれる感じがした。
李に支えられて、出入国管理に向ったのだが、シェーネフェルトの出入国管理はブースの十メートル手前から壁に挟まれた狭い通路になっている。
行列の後尾についてその通路を歩いてゆくうちに、恐ろしいスピードで酔いがまわり始めた。一歩ごとに酔いが増す感じで、浩美は壁を伝って高速道路の料金所のようなブースにたどりついた。
出入国管理のブースでは、迎えにきたドイツ人の係官と李とがドイツ語でなにやら交渉して、すぐに話はついたのだが、その間にも酔いが激しくなって、浩美はすわりこみたい気分になった。
「李さん、ご免なさい。私、どこかにすわりたいの。ゆうべ眠っていないからかな、それとも浩一の風邪がうつったのかな、変に酔っぱらっちゃって」
「私の国の酒はちょっと日本のひとには強過きるのかな。それちゃ先に飛行機に乗ってしまおうか」
手荷物検査のところで、アジア人の男がふたり、李に代って両側から浩美を支えてくれた。
ふたりの男に支えられたまま、ゲートのならぶ長い通路を歩き、ジェット・ウェイを通り、機内に入った。
アジア人のスチュワーデスに案内されて座席にすわったが、スチュワーデスは二十年も昔のスタイルのような、野暮ったい紺色の制服を着ている。ぼんやりかすむ頭のどこかで、「SASの制服もデザインが古いな」とおもった。
「もう駄目」
両脇を支えてくれる男女からは何度も嗅《か》いだことのある、強い食用香辛料の匂いがする。
聞いたことのない外国語が飛び交い、浩美は意識を失った。
水田はさすがに落ち着きを失って、レストランの入口をみつめている。レストランの隅にすわっていた笹岡もやってきて、入口へ眼をやっていた。
「李さん、右のポケットと左のポケット、ふたつお酒入れてたね」
キティゴンがいう。
「そうだ。右のポケットにふつうの人参酒入れてよ、左のポケットに薬の入った人参酒入れてたのさ。今じゃ、日本のテキ屋もやらねえような、クラシックな芸よ」
「右、左、間違える、私たち危なかったね」
キティゴンの声が少し震えている。
「社会主義だからよ。大事なほうを左に入れてたんだろう。それにしてもよ、もしやっこが右と左、間違えてよ、おれたちが酔っぱらったんじゃサマにならなかったけどよ」
浩一がケーキを食べ終えたところへ、李が笑顔を浮かべて帰ってきた。
テーブルにすわって、
「坊《ぽう》や、日本のおちさんか病気てさ、おかあさん、電話かけてるよ。坊《ぽう》や、こっちのおちさんと一緒に、先に出かけてくれってさ。いい子たから、おかあさんのいうこと、ききなさいよ」
そう話しかけている。
まもなく李と別れ、浩美を除いた一行は出入国管理を抜け、コペンハーゲンゆきのゲートに向った。
折しも「朝鮮民航」と読むらしい、ハングル文字を機体の胴に書き、白地に赤い横線を一本引いた旅客機が、滑走路に向ってゆくのが見えた。長胴型で、胴体後部にエンジンが四つ並び、そこにIL62Mと書いてある。ソ連製イリューシン62M型の意味だろう。
「まるで葬式のあとみたいな気分だぜ」
水田は笹岡にいった。
「ま、平壌《ピヨンヤン》へゆく、いうのはあの世にゆくようなもんとちゃうか。北に比べたら、ベッカー高原はこの世の天国や。とにかく生きて出られるんやからな」
笹岡のほうは割りきっているようで、平静な声音である。それだけに凄味があった。
15
佐久間浩美は躰《からだ》を激しく揺すぶられる感じがして、半分眼が覚めた。
飛行機が気流の状態のわるいところを飛行しているらしく、座席ごと宙に放り投げられるように躰がきりもなく浮かびあがってゆき、次の瞬間には奈落の底に深く深く沈んでゆく。まるで浩一と一緒に、日本でジェット・コースターに乗ったときのようだ。
「浩一、大丈夫?」
隣の座席をさぐったが、隣は空席になっていて、右手はむなしく空を掻いた。
顔がゆがみそうなほどの頭痛がし、胃を大きな手でしぼりあげられるような吐き気がこみあげてくる。飛行機の最前列の席にすわっているらしく、眼の前は藤色の壁なのだが、その壁の色がうっとうしく、こちらにのしかかってくるようだ。
「コペンハーゲンはまだなのかしら」
東ベルリンのシェーネフェルト空港からSASへ乗って、デンマークのコペンハーゲンへ出る筈だった。それが浩美の意識の底にある。
それにしても頭痛と胸苦しさがひどかった。浩美は喉もとをおさえ、
「ああ、失敗した。お酒を飲み過ぎてしまった」
と、うめいた。
「あなた、お苦しいみたいね」
左隣、通路を隔てた席から、女の声が聞え、浩美の二の腕をおさえた。
どうやらそちらに日本人の女性客がすわっているらしかったが、胸苦しくてそちらを見やる余裕がない。
ディスポーザル・バッグが欲しいとおもって、前の壁を両手で探ったが、どこにもシート・ポケットがなかった。
「ちょっとお待ちになって」
隣の女性がシート・ベルトを外し、立ちあがる気配がした。ゆらゆらと通路に出て、浩美の視野の端を横切り、機体後方へ歩いてゆく。
突然、浩美の目の前に赤いバケツが差しだされた。バケツのなかには、新聞紙が敷いてある。
バケツを差しだしたのは、紺色の制服を着たスチュワーデスである。
意識のどこかで、飛行機にどうしてバケツが置いてあるのだろうとおもいながら、浩美はバケツをかかえこんで吐こうとしたが、苦い唾《つば》が細い糸を引いて落ちるだけで、吐こうにも吐けない。
――先刻、お酒を飲んだばかりなのに、どうして吐けないのだろう。
もう一度、苦い唾が糸を引いて、落ちた。唾の落ちた新聞紙には、見たことのない外国語、生物学の雌雄の別を表わす記号のような文字がならんでいる。
「駄目よ。その新聞に首領様の写真が載ってるわよ」
ふいに先刻の日本人らしい女性が日本語でいってから、もう一度外国語で叫び、バケツの中を指差した。スチュワーデスはあわてふためいてバケツのなかから、浩美の唾の落ちている新聞紙を引きだし、それを眼の前にささげるように去ってゆく。
「この飛行機、田舎のバスみたいに揺れるざんしょ」
スチュワーデスに代って、日本人らしい女が椅子に掴まり、浩美の傍らにしゃがみこんだ。
「離陸して暫くはどうしても揺れますわよね。もう少し上に昇ると、落ち着きますわ」
なんだ、まだベルリンを離陸したばかりなのか、と浩美はおもった。
「それにしても偶然ねえ。ウイーンでお目にかかって、またこの飛行機でお目にかかるなんて」
女はいった。
「ウイーンのホテル・ザッハーでお目にかかった参事官の家内の梁善子《ヤン・よしこ》でございます」
浩美は、暮に「ホテル・ザッハー」でご馳走してくれた女性のことをおもいだしたが、気分がわるくて嗄《しわが》れた声で「あのときはどうも」というのがやっとであった。
「薬、貰って差しあげるわ」
通路にしゃがんだまま女はいった。
白髪混じりの、この四十代半ばの感じの女はたしか、ウイーン駐在の外交官と結婚している日本人、そう自己紹介していた、と浩美はおもいだした。
「シントクスイね」
梁に命ぜられて、スチュワーデスが持ってきたのは、ミネラル・ウォーターらしい水である。飛行機が揺れるから、プラスチックのコップに半分ほど入った水も激しく波打って揺れている。
梁善子の差しだしてくれた白い錠剤をふたつ、浩美はコップの水と一緒に呑みこんだ。大きく溜め息を吐《つ》いた。
気がついてみると、ローデン・コートを着たままで、この飛行機に乗ったなり脱ぐ余裕もなく眠りこんでしまったらしい。
すわったままコートを脱ぐのをスチュワーデスが手伝ってくれたが、スチュワーデスは制服の胸にどういういわれか、中年の男の顔を描いたバッジをつけている。
赤いバケツのほうは足もとに置いたまま、コップをスチュワーデスに返した。
浩美は、
「コペンハーゲンはまだなのかしら」
英語で訊いた。
たかだか二、三十分寝ただけのような気もするし、途方もなく長い時間寝こんでいた気もする。時間の感覚が、すっかりなくなっていた。
この飛行機は爆音が激しくて、スチュワーデスには聞えないらしく、そのまま引き返してゆく。色白の品のいい日本女性が眉を寄せて訊き直す顔になった。
「あと、どのくらいかかるんでしょうか」
女に訊いてみた。
「お苦しいでしょうけど、もうちょっとの我慢だとおもうわ」
梁善子は答えて、通路の向う側の席にすわった。
腕時計を見ると、数字を刻んでいない服飾ブランド物の時計の針は六時五分を指しているように見える。たしかコペンハーゲンゆきの便は午後一時ベルリン発と覚えているから、そんな筈はない、一時半の見間違いだ、とおもったが、時計の盤面がたちまちかすんでゆき、浩美はまた寝こんでしまった。
16
二日の朝、安原伸彦は森と一緒にロンドン支店に出社して、すぐに佐久間浩美のホテルに電話を入れ、「ベルリンにはゆけない」というメッセージを残した。そのあとは終日東京と連絡を取り合った。
夕刻になってやっと湧谷夫婦がテヘランから北京経由で無事成田に帰国した、という連絡が入った。愁眉《しゆうび》を開くというやつで、伸彦は森と歓声をあげて握手したのだが、握手が終ると、
「これで湧さんのほうはひと安心たい。そやけど次はあんたじゃけん、注意したほうがよかよ」
森が脅しめいたことをいう。
「あんたももう勉強中止やね。帰国しなきゃいけんよ」
「それは冷酷無情ですな。月謝もワンターム(一学期)分、払いこんでありますし、もうちょっといさせて下さい。今、帰ったんじゃ恰好がつかんですよ」
昨年九月にパトニーへやってきて、まだ四カ月目に入ったばかりである。学校はともかく、なによりも佐久間浩美に未練があった。浩美は一年の予定できたので、六月までパトニーにいる、といっていた。五月から始まる英国の夏は、この国の最も美しい季節と聞いている。その美しい五月を浩美と一緒に迎えられないのは、いかにも残念である。
森は長い顎を掻きながら、
「まあ、男なら、あの娘《こ》ひとりにくよくよするな、ちゅう歌もあるけん、日本に帰ってぱっと気分変えるほうが正解よ」
伸彦の気持を読み取ったようにいう。
ラファエルかアンジェリカから、伸彦と浩美の噂をなにか耳にしているのかもしれなかった。
「次の話は戦争保険や」
そういって、森は電話機を取り、ローリーズの番号をプッシュした。
緊急要件ということで、夜七時にローリーズへ出かけて、アンジェリカに会い、さらに戦争保険の担当者に会った。
「たしかに|妙 香山《ミヨウヒヤンサン》丸はイラク側に拿捕《だほ》された、と湾岸地区のローリーズの調査員が証言していますからね、保険金は支払われる、と申しあげられます」
担当者は断定的にいい、森はおおいに喜んだ。
アンジェリカの助言を得て、ぎりぎりのところで、手を打った「保険金が支払われない場合の保険金」を支払ってくれるというのである。
「イランの保険会社は渋くて有名だから、なんちかんち文句つけて金払わんでしょう。イラン石油公社はうちへ責任転嫁して、代金を請求してくるわけやけど、こっちはちゃんとこの保険金で、ぽんと払ってやれるちゅうわけだ」
湧谷の後任の支店長にいい土産ができた、というのである。
そこでアンジェリカが意表を衝《つ》く提案をした。
「ミスタ・森。宮井物産も誘拐保険に入ったほうがいいんじゃないですか」
「誘拐保険? そりゃ初耳じゃけん、なんですか」
「社員が誘拐された場合に備えて、会社が入っておく保険よ。社員が誘拐されて、莫大な身代金を請求されてもね、この保険でカバーできるわけ」
アンジェリカは親指をまげて、森を指差し、伸彦を指差した。
「あなたがたふたりとも、今、この瞬間にも狙われているのかもしれないのよ」
アンジェリカはにやりと笑って、
「是非、誘拐保険に加入されるよう、お勧めします」
日本流にお辞儀してみせた。
森はすっかり感じ入った顔で、
「たしかにうちみたいにリスクと隣り合わせで、商売しとる会社は考えにゃいかんな」
と頷《うなず》いた。
「それに日本の会社は、保険が大好きで、保険にはお金を惜しまないんじゃない。なによりの証拠に、日本の保険会社は大変な利益を上げているじゃないの」
アンジェリカが皮肉っぽくいう。
帰りに、アンジェリカが伸彦の傍らに寄ってきて、
「ノブヒコ、気をつけなくちゃ駄目よ。人間の感情は保険で解決できないからね」
その日も伸彦は森と日本風の飲み屋にゆき、深夜に帰宅した。
佐久間浩美から留守番電話が入っているのを知ったが、この時刻に電話するのはいかにも遅い気がして、伸彦は翌日、浩美がコペンハーゲンへ入った頃合に電話を入れることにした。
翌日も会社に出社して、森の手伝いをし、午後早々に、コペンハーゲンのホテルに電話を入れてみたが、佐久間浩美はまだ到着していなかった。
17
顔に冷たいものが落ちてきて、佐久間浩美は眼を醒ました。
天井の空調機から水滴が浩美の顔にしたたり落ちている。顔の半面が泣いたように濡れていた。
飛行機はもはや揺れていなかった。
時計を見ると、針は四時を指している。ベルリン、コペンハーゲン間の飛行時間は一時間足らずの筈だから、とっくにコペンハーゲンに到着している筈の時刻であった。
浩美は自分が眠りこけて、コペンハーゲンで降り損ない、とんでもないところへ連れてゆかれようとしているのではないか、とおもい恐怖に駆られた。
それにしても、コペンハーゲンに着いたら、引率者格のアンクルこと加藤洋造や浩一が起しにきてくれてもよさそうなものではないか。アンクルや浩一はどこにいるのだろう。浩一は昨夜から風邪を引いていて、ベルリンでは食欲もなかったが、風邪のぐあいはその後どうだろう。
「浩一を探そう」とおもい、浩美はベルトを外して立ちあがった。この飛行機は変っていて、座席に水色の座ぶとんが敷いてあり、それがお尻にくっついていて、ぱたりと落ちた。
先刻、日本女性の梁善子がくれた薬が効いたらしく、頭痛はほとんど消えているが、頭の芯がまだぼんやり霞み、足もとがふらついた。
立ちあがってみると、浩美がいるのは、通路を挟んで、左右に二席ずつ座席の並んだ客室である。二席ずつ並んだ座席は幅が広くて、ファースト・クラスのようであった。
異様なのは、お客の姿がなくて、座席の背がまるで倒木のように前倒しにしてあることであった。先刻、薬をくれた梁という女性の姿も見当らない。梁のすわっていた左手の席には、やはり水色の座ぶとんの上に彼女自身の私物らしい、高価そうな膝かけが置いてあるだけだ。
後部のエコノミー・クラスに向って、浩美はおぼつかない足取りで歩きだしたが、通路には、浩美がかかえていたのとおなじ赤いバケツが置いてある。雨漏りのように天井の空調機から水滴が落ちていて、赤いバケツはその水を受けるための容器らしい。
左側の席で、女の泣き声が聞える。立ち止って眺めると、アジア系の、少女のように若い娘がうすっぺらな毛布で首もとまで躰を包みこみ、眼をつぶったまましきりにしゃくりあげている。日本人のように見えたが、泣きかたが激しく、ときどき絶叫に似た声が混じる。とても声をかけられたものではない。
調理室の隣に下へ降りる階段があった。これも異様で、二階建ての飛行機など、浩美はそれまで見たことがない。
トイレの前を過ぎ、エコノミーの境のカーテンを開くと、一番前列にすわっていた軍服を着たアジア人の男が、バネ仕掛けの人形ように立ちあがった。横合いから、先刻、バケツや水を持ってきてくれたのとは違うアジア人のスチュワーデスが現れ、浩美をカーテンの外に押し戻した。
ちらりと見ただけだったが、エコノミーにもあまり客はなく、軍服姿の男が十数人、いただけのようであった。
エコノミーには、アジアの軍事顧問団のグループが乗っているような空気である。
やはり胸に男の顔のバッジをつけたスチュワーデスは無言のまま、カーテン手前のトイレのドアを開き、浩美の背を押した。
トイレに入ると、床に土足の跡があり、便器のなかが黄色く濁っている。浩美は便座に敷く紙を探したが、そんなものはまるで見当らない。トイレット・ペーパーもなくて、麦藁《むぎわら》の透けて見える藁半紙のような落し紙が洗面台のわきに積んである。
浩美は落し紙を便座に敷いて用を足したが、驚くほど多量の尿が出た。こんなに多量の尿が出るのは、ずいぶんながいこと用を足していないということであり、つまり長時間眠っていたということになりはしないか。
一時にベルリンを出て、四時過ぎにまだ飛行機が飛び続けている、とはどういうことなのだろう。
浩美は不安に胸が重苦しく閉ざされてきて、便座から立ちあがった。
習慣的に手を洗おうとしたが、石鹸が見当らない。手拭きの紙もなくて、ピンクのよれよれのタオルがぶら下っていた。
ふと手洗いの周辺に、雌雄の別を示す、生物学の記号のような文字が記してあるのが浩美の目についた。ドアのロックの部分にも、おなじ文字が書いてある。先刻、赤いバケツのなかに敷いてあった新聞紙にも、おなじ文字が並んでいた。
――ハングル文字だ。私はSAS機に乗るつもりが、大韓航空機に乗ってしまったのではないか。
浩美は眼が眩《くら》んだようになって、トイレのドアを開いた。
調理室の隣の階段から、梁善子が肥ったアジア人と外国語で話しながら上ってきた。男はすぐにエコノミーのカーテンのなかに消えた。
「ご気分よろしい?」
梁は相変らずにこやかで親身な表情である。
「あたくし、ちょっと飛行機を見学してたの。この飛行機の台所は地下室にあるもんですからね」
「私、大変なことしてしまったらしいんです」
浩美はいった。
「私、ベルリンからコペンハーゲンにゆくつもりだったんですが、酔ってしまって、乗る飛行機を間違えてしまったらしいんです」
「あら、大変じゃないの」
善子は頬に手をあてて、心配そうに眉を寄せた。
「あたくしもね、あなたが飛行機に乗ってくるなりお寝《やす》みになってしまったので、どうなすったのかなって、心配してましたのよ。だけど、まさか乗り間違えたとはおもわなかったわ」
「出入国管理を出るまでは、割にしっかりしていたんですけど、そのあとひどく酔ってしまって、航空会社のひとに助けられてやっとこの飛行機に乗ったんです」
「それはお困りねえ。どうしたらよろしいかしら」
梁善子も困りきった表情になり、うつむいて腕を組んだ。
「しかたありません。この飛行機、ソウルに着くんでしょう。ソウルからヨーロッパに引き返します。とんだ寄り道をしてしまった」
苦い後悔が浩美の胸いっぱいにあふれてくる。
「この飛行機、ソウルにはゆかないのよ」
善子は浩美の顔をちらりと一暼していった。
「この飛行機はまもなく平壌《ピヨンヤン》に着くの」
「ピョンヤン? ってどこでしたっけ」
それから冷水を浴びたような、戦《おのの》きが浩美の躰を走り抜けた。
「平壌って北朝鮮ですか」
女は黙って頷いた。
「それは困るわ。それじゃこの飛行機で、このままヨーロッパに帰して下さい」
「難しいんじゃないかしら」
善子は気の毒そうに呟いた。
「困ったわねえ。この朝鮮民航の飛行機はね、ふつうの旅客機じゃないのよ。来年から平壌―ベルリン間に定期便が開設されるので、そのためのサーベイ・フライトなの。慣らし運転の飛行機なのよ」
おもいがけないことをいう。
「私は夫が北朝鮮の外交官してるから、特別にこの飛行機に乗せて貰ったんだけど、私のほかは朝鮮民航の技術者やお役人ばかりなのね。平壌へ着いても、次のサーベイ・フライトがいつベルリンに飛ぶかはわからないのよ」
絶望のあまり、浩美は顔を両手でおおい、通路にしゃがみこんだ。
間違えて北朝鮮行きの飛行機に乗ってしまった? ほんとうだろうか。ほんとうだとしたら、私はなんとついていない女なのだろう。
「あなた、モスクワを出たあと、一度目をお覚しになったけど、またお寝《やす》すみになってしまったでしょう。あのあとイルクーツクに降りて、油を補給しましたのよ。でも、よくお寝みだったから、お声かけなかったの」
善子が柔らかく浩美の肩をおさえた。
「平壌へ着いてから、どうすればいいか、考えましょう。私は外交官の妻だし、お力になれるとおもうわ」
飛行機は早くも平壌の空港らしい、だだっ広い飛行場に向けて、降下し始めている。
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四 恐 怖 国 家
呆然たるおもいのまま、佐久間浩美はスチュワーデスに席にすわらされ、「チャーソク、チャーソク」と促された。「チャーソク」とは座席ベルトのことらしい。
朝鮮民航のサーベイ・フライトは轟音《ごうおん》を発してフラップを下ろし、脚を下ろす気配である。脚の下りる音がおおきくて、脚のでた途端に、さながら急ブレーキをかけたようにがくんと機体が揺れ、飛行機の機体がおおきく落下したような気がした。
機体が接地し、タクシングに入ると、梁善子《ヤン・よしこ》が立ちあがって、浩美の横に立ち、
「あたくし、ご案内させていただきますから、とにかく今夜は平壌に泊ることになさいませよ」
という。
「私だけが間違ってこの飛行機に乗ってしまったんでしょうか。子どもはこの飛行機に乗っていないんでしょうか」
「ウイーンでお目にかかった坊ちゃんね。とっても可愛くてらしたから、あたくしもよく覚えておりますわ。乗ってらっしゃらないとおもうんざんすけど、ご心配でしょうから、念のため、飛行機のなかを見てらしたら」
梁善子はそう勧め、傍らのスチュワーデスに朝鮮語で、声高に案内を命じた。
ひと時代前のスチュワーデスのような、紺の制服を着用し、紺の帽子をかぶった女性に案内されて、浩美は停まったばかりの機内を後方に歩いた。
ファーストの後方ではアジア系らしい少女が相変らず、毛布をかぶって泣きじゃくっており、「介護役」という感じで、スチュワーデスが脇にすわっている。
長胴型というのか、この飛行機の機体は恐ろしく長い。浩美のいたファーストにあたる部分は通路を挟んで左右二席ずつだが、後方、カーテンの彼方は、通路を挟んで左右三席ずつ、座席が並んでいる。
先ほど浩美を驚かせた兵士たちは、ソ連兵のかぶるような防寒帽をかぶり、青い背負い袋を棚から降ろしたり、赤い襟章のついた軍用外套を着こんだりして、身仕度に取りかかっている。その後方には、昔、中国人がかぶっていた、ハンチングのような人民帽をかぶった男たちが、ダウン・コートやジャンパーを着こんでいた。
乗客はこのひとつかみの男たちだけで、後ろの区画は使われておらず、椅子が全部、嵐に会った倒木のように背中を前方に倒してある。
スチュワーデスは、後方にはだれもいない、というように首を振ったが、浩美はスチュワーデスの制止を振り切って、倒木のような椅子の真ん中の通路に入り込んだ。
「浩一、浩一はいないの」
おもわず叫んで、小走りに走った。
倒木の間から肥った男がひとり、ゆっくり躰《からだ》を起した。先刻、梁と話していた恰幅《かつぷく》のいいアジア人で、ふとい眉の下から鋭い眼でじっとこちらをみつめている。
浩美は最後部のトイレまで走って、二つのトイレのドアを開いた。どちらも土足と小便で汚れたトイレで、ピンクのタオルがぶら下っている。
浩一というより、人の影さえも見当らず、浩美はがっくり肩を落とし、兵士や人民帽の男たちが見つめるなかをファーストの席へ戻った。
ふと気がついて調理室のわきにある階段を下へ降りた。この飛行機は胴体下部の貨物室のなかに調理室が設けられているのだが、銀色の調理棚が並ぶなかで、スチュワーデスがひとり、庭を掃くような竹箒《たけぼうき》で床の掃除をしていた。
浩美はおもわず涙を流し、調理棚にもたれかかった。床を掃いていたスチュワーデスが、竹箒を持ったまま、浩美の顔を覗きこんだ。スチュワーデスが何ごとか話しかけるが、意味はわからず、強烈なにんにくの口臭ばかりが鼻に迫ってくる。
竹箒を捨てたスチュワーデスに抱きかかえられ、階段を上った。
階段の上には、梁善子が腕組みをして、心配そうにこちらを見下ろして立っている。
「お可哀相にねえ、奥さま。あなた、やっぱりおひとりだけ、お友だちからはぐれておしまいになったのよ」
スチュワーデスに替わって、善子が腕を支えてくれる。こちらはにんにくとは縁のない、フランス製香水の、多分シャネルの香りをふんだんに周囲に撒き散らしている。
そこで、オーストリーで買ったローデン・コートを着させられた。
「あたくし、ホテルを取るように、いま、申しておきましたから、そちらまでご一緒致しましょう」
機体前部の、開かれたドアに立つと、恐ろしいほどの寒気に、身がすくむようであった。
平壌は午後の時刻になるらしく、陽は傾きかけていたが、快晴である。しかし寒気の厳しさはロンドンはもとよりベルリンの比ではない。
「ここは順安《スアン》空港と申しますのよ」
梁が説明した。
空港とはいうものの、他の旅客機はまったく見当らない。遠くに小型のセスナ機が一機、ぽつんと見えるだけである。
すぐ近くに日本の地方空港のような、小さなターミナルビルが見える。ターミナルビルの上に中年の、しかし真黒な髪の男の顔のおおきな肖像画が飾ってある。黒い髪をきれいに後ろに撫《な》でつけ、頬が不自然に赤い、中国の中山《ちゆうざん》服を着た男の肖像画だ。この肖像画の主がスチュワーデスが胸につけていたブローチの男とおなじ人物だと、浩美はやっと気づいた。
「ご立派でしょう。あのお写真が、偉大なる首領様なの。よくご存じでらっしゃるとおもうけど、金日成主席とお呼びせずにね、みんな偉大なる首領様とお呼びしているのよ」
突然、タラップの下で女の悲鳴が走った。
兵士が若い女の腕を掴《つか》み、軍用ジープに乗せようとしている。若い女がそれに抵抗して、悲鳴を上げているのである。
女は兵士の腕を振りほどき、タラップのほうへ駆けてきた。浩美に向って、はっきりした英語で、
「ヘルプ・ミー、ミス」
と叫んだ。
浩美もこの女が機内で毛布をかぶり、激しく泣いていた少女と気づいたが、たちまちふたりの兵士に背後から腕を掴まれ、そのまま引きずるようにして、ジープへ運ばれ、押しこまれた。
「さ、参りましょう。下に車がきておりますわ」
何ごともなかったように善子はいい、先にたってタラップを降りてゆく。
タラップのすぐ下に、黒塗りのベンツが横付けされており、まわりを兵士が取りかこんでいた。
「この車は金正日書記が特別にあたくしどもにくだすったんですよ。このナンバーは金正日書記のね、お誕生日の二月十六日に因《ちな》んでおりますの」
黒塗りのベンツには「2―1611」の白いナンバー・プレートがついている。
「まあ、金正日書記にご信頼いただいているひとしか貰えないナンバーなんざんすよ」
梁善子は得意そうに、そういった。
「2―1611」のベンツの後部座席に浩美が乗り、助手席に護衛役の兵士が乗りこんだ。
車の窓には、白いレースのカーテンがついており、善子は自分の側のカーテンをひいた。
浩美はこれから出入国管理の審査を受けるのだ、と気づき、旅券を出そうとショルダー・バッグのなかを掻きまわした。
浩美と浩一の航空券はすぐ出てきたが、旅券がない。化粧品や手帳、ヒースロー空港に置き放しのオースチン・ミニの車のキイなどの間をいくら掻きまわしても、旅券だけは見当らない。
ローデン・コートのポケットを探り、その下に着ている、ツイードのツー・ピースの旅行着のポケットもひっくり返した。
お尻にいれたヒップ・パッドに隠しポケットを作ってあり、ここに旅券を入れることもあるのだが、外から触っても旅券らしいものは触れてこない。だいたい、移動日には、いちいちヒップ・パッドから旅券や航空券を取りだすのは大変なので、ショルダー・バッグに移しておくのである。今ヒップ・パッドに入っているのは、旅券番号のコピーと英国のグリーン・カード(滞在許可証)だけのようである。
「大変だわ。旅券が見つからないんです」
「あらあら、一難去ってまた一難ね。よくお探しになって」
善子が手もとを覗きこんでいう。
浩美はショルダー・バッグを握りしめて、ベルリンで飛行機に乗った前後のことを考えた。
浩美、浩一の親子、アンクルとキティゴン、それにアンクルの友人の韓国人の李《リー》と、ベルリンのシェーネフェルト空港、二階のレストランで軽食を摂ろうとしていた。
そこで李が「お誕生日おめてとう」と祝ってくれ、人参酒を一杯だけ飲んだのであった。その乾杯の最中、ドイツ人の役人が呼びにきて、「旅券のことで訊《き》きたいことがある」といい、浩美はショルダー・バッグから旅券を二冊取りだしたのだ。
そのとき、アンクルが「浩一の旅券はおれが預かってやるよ」といってくれ、浩一の旅券をアンクルに預けたのは、はっきり憶えている。
それから酔いが激しくなって、李に支えられて出入国管理にゆき、出入国管理のブースで旅券を差しだしたまでは憶えている。李がその旅券を手にして、なにか説明していたことも記憶にある。
しかし、そのあと旅券を返して貰った記憶がない。搭乗券に至っては、最初から貰っていなかった。
「私、どうしよう。旅券をベルリンに置いてきてしまったみたいです。李さんって韓国のひとに預けっ放しにしてきちゃったんだわ」
浩美は青くなって、またショルダー・バッグのなかを掻きまわし、ローデン・コートのポケットを探った。
「この国にお入りになるのに、旅券は要りませんのよ。特にあたくしと一緒にいらっしゃればね」
梁善子はこともなげにいった。
「ほら、もう空港はとうに出て、車は平壌に向っておりますのよ」
窓の外を眺めると、ベンツは広い道路を走っている。路上に車の影は一台もない。道路の左右も寒々とした荒野で、遠くに数軒の人家が見える。その手前を頭に荷物を載せた女たちが歩いていた。
「ただねえ、お可哀相なんだけど、旅券がなくても、この国に入ることはできるけれども、旅券なしではこの国から出るのが大変なのよ」
「ええ?」とおもい、浩美は動悸《どうき》の収まらない心臓が凍りつくような気がした。
「私、旅券番号も控えてありますし、暗記もしているんです。ふつうヨーロッパじゃ、日本大使館の領事部へゆけば、一日二日で旅券を再発給してくれるんじゃないですか」
「そんなことおっしゃったって、あなた」
善子の手が柔らかく浩美の膝をおさえた。
「ここには日本大使館も領事館もありませんのよ。ご存じなかった? 残念ながら、朝鮮民主主義人民共和国は日本国とは国交がございませんの」
「私、どうしたらいいんでしょう」
浩美は心臓のあたりを両手でおさえ、ベンツのシートに倒れこんだ。
「それはゆっくりご相談しましょ」
善子の手が二、三度、優しく浩美の膝を叩いた。
「前をご覧になって。あれがこの国ご自慢の凱旋門なのよ」
ベンツの前方に巨大で、奇怪な石の門が迫りつつあった。
「あの凱旋門は大理石と花崗岩でできていて、高さが六十メートルもあるの。パリのエトワールの凱旋門より十一メートルも高いんですのよ」
浩美の気分のせいだろうか、平壌の凱旋門は不吉な印象を与えた。
写真集で見たどこか外国の墓地に、よくこういう石の門に似た墓石が建っているのを見たような気がした。「地獄の門」という彫刻もあった気がする。この凱旋門については以前にだれかから耳にしたことがあるとおもったが、浩美ははっきりおもいだせなかった。
ふいに凱旋門の真ん中に、午後の陽光を浴びて、赤銅色《しやくどういろ》に輝く男の、巨大な彫像が現れた。男は外套の前をはだけ、胸を張り、右手を高く挙げて民衆の歓呼に応えている。
「偉大なる首領様の銅像です。ご立派でしょう。高さが二十一メートルありますのよ」
赤銅色の巨大な銅像は、凱旋門の間から威圧するように浮かびあがり、車の正面に迫ってきた。
「あのひと、生きてるんですよね」
浩美はおもわず訊ねた。
「ええ、もちろんご健在でご活躍ですよ」
眼前に拡がる巨像とともに、いい知れぬ恐怖感が浩美の体内で膨れあがってくる。
四日になって、伸彦はやっとコペンハーゲンのアンクルと連絡が取れた。
「秀才には気の毒だけどよ、浩美さん、世話になっている埼京市の伯父さんが倒れたって話でな、ベルリンから日本に帰っちまったよ」
「へえ、それは知らなかった」
浩美が電話をいれてきたのはそのためだったのか、それなら深夜でも電話すればよかった、と伸彦はおもった。
「浩美さんも律儀だからよ、旅行の予定を埼京市だかの伯父貴に知らせてあったんだわ。それで東京の航空会社からベルリンの空港へ連絡がきてよ、急いで日本に帰っていったよ」
「へええ、それで彼女の日本の連絡先、おわかりでありましょうか」
佐久間浩美といっときも早くその後の身辺事情を語り合いたい、と伸彦はおもった。
「それがお互い、ばたばたしちまってな」
そこでアンクルは声の調子を変え、「浩一はおれが預ってるよ。今、この部屋にいるよ」といい、「浩一、安原のおじさんが話したいっていってるぜ」と呼んでいる。
浩一は鼻声で、
「おじさん、ママ、帰っちゃったよ」
といった。
「話のぐあいじゃ、すぐ帰ってくるから、心配しなくていいんじゃないの。ハンドバッグのおじさんもキティゴンもいるんだろう。大丈夫だよ」
と伸彦は浩一を励ました。
「ロンドンへ帰ったら、レゴの玩具、買ってね」
浩一はしきりに咳をしている。
「お安いご用だ。また遊ぼうや」
またアンクルが電話口に出てきた。
「というわけでよ、おれたちゃ、じきにそっちに帰るからよ、心配しねえでくれや」
伸彦は浩一の声を聞いてすっかり安心してしまい、電話を切った。
平壌《ピヨンヤン》の街はどこまで行っても人気《ひとけ》がない。自動車にもほとんど行き会わず、浩美が中国の写真でよく見かけた大群の自転車も、ここでは一台も走っていない。
無人の街だ。
ベンツ「2―1611」はやがて大きな川にゆきあたった。「大同江」と呼ぶのだそうだが、薄墨色の川面は流れているともおもえず、沼のように淀んでいる。陽だまりがあちこちにできていて、動かない水面には、一隻の船も見当らない。
大同江の川岸にある古ぼけたビルの前で、ベンツは止った。
ホテルなのか、擦り切れたカーペットを敷いたロビーがあり、ロビーの中央に痩せた男がひとり立っている。眉が極端にうすく、三角形の顔に菱形の眼がふたつ、ぽかりと開いた男である。
男はまったく無表情に佐久間浩美と梁善子《ヤン・よしこ》を迎えた。
「あなたをガードしてくれる孫《ソン》さんよ。あたくし、飛行場から指示しておきましたの」
善子がいった。
孫という男に案内されて、エレベーターに乗ったのだが、男がボタンを押しても、エレベーターは動かない。
「あら、おとぼけのエレベーター」
善子が言う。
男が二度、三度とボタンを押して、エレベーターは老人が掛け声をかけて腰をあげるような呻《うめ》き声を発してからぎしぎしと動きだし、きいんきいんと耳鳴りのような音を発して昇ってゆく。
部屋は日本旅館のように入口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える仕組みになっている。
部屋に入った梁善子は、
「あなた、着替えをお持ちじゃないのよね。なにかありあわせを用意致しましょ」
といい、眼を細めて浩美の体型を上から下まで眺めた。
「サイズはイギリスで12、フランスのサイズで42っていったところざんしょ。そのサイズはここにあるかしらね。ここは労働者の国で、皆、小さい頃からよく働きますから、躰《からだ》が小さくてね。あたくしなんかも、日本でお怠けして、おおきめに育っちゃったものだから、ここではサイズが合いませんのよ」
梁善子も身長一メートル六十二、三はあって、日本でも小さいほうではない。しかし浩美は善子より五、六センチおおきく、その分だけ「お怠けして」いたことになりそうであった。
夕方、着替えを用意して、食事の案内にくる、といい残し、善子は部屋を出て行った。
ツイン・ルームだが、ベッドにはベッド・カバーがなく、極彩色、花柄の掛けぶとんが視野いっぱいを占めている感じであった。ふたつのベッドの上には、またもや「首領様」という奇怪な尊称の男の肖像画が掛けてある。その隣には、息子らしい、顔がムーン・フェイスのようにふくれた男の肖像画が掛けてある。
浩美はベッドの極彩色の掛けぶとんの上にショルダー・バッグの中身をぶちまけてみた。やはり赤い表紙の旅券は見当らない。
スカートをたくしあげ、尻のヒップ・パッドを外し、そこに作った隠しポケットの中身も引っぱりだした。イギリスのグリーン・カード、クレジット・カード、いざというときのための現金が百ドル紙幣二十枚と十ドル紙幣数枚、約二千ドルが入っている。しかし旅券はなかった。
浩美は溜め息を吐き、ふとおもいついて、電話の受話器を取りあげたが、その途端に女の交換手の声がした。日本の地方の旅館のように、電話はすべて交換を経由する旧式のシステムらしい。
浩美が「ハロォ」というと、女は息を呑んだように黙りこんだ。
それから、
「ハロ」
稚《つたな》い、ためらいがちの英語で応じてきた。
「ロンドンに電話したいんです」
英語でいった。
いちばん頼りたいのは、安原伸彦であった。とにかく伸彦に急を告げ、善後措置を講じて貰いたかった。
「ロンドン?」
「そう、英国のロンドンに電話したいんです」
女の交換手はまた黙った。
まわりのだれかと話しているらしい朝鮮語が聞える。
そこで電話は一方的に切られてしまい、ピィーという甲高い音が響き始めた。
浩美は狂ったように電話機のフックをかたかたと鳴らし続けた。
ロンドンが駄目なら、埼京市の伯父に電話しようとおもった。佐久間の伯父には毎週連絡しているが、酔った挙げ句、飛行機を乗り間違えて北朝鮮にきてしまった、などとは恥ずかしくて話す勇気はなかなか出ない。しかし浩美の気持は時間の経過とともに切羽詰まってきた。
やっと交換手がまた出てきた。
「日本に電話したいんです。日本の埼京市というところです」
「ジャパン? ノー・ジャパン、ディス・ホテル・ノー・ジャパン」
このホテルからは日本に電話できない、という意味らしかった。
派手な掛けぶとんの花柄が目の前で入り乱れる気がする。
そこで電話はまた切られ、ピィーという甲高い音が尾をひき始めた。そのあとも十数回、受話器をとったが、もう交換手は出てこなくなり、ピィーという音しか聞えない。浩美は唇を噛んで壁の金日成と金正日の肖像を睨みつけた。
──この近くに電話できるところはないものか。
もっと新しいホテルなり、郵便局があるかもしれない。
立ちすくみ、ベッドにすわりこんで考えた末にとにかくホテルの外へでてみよう、と浩美は決断した。ベッドの上に散らばった化粧品や航空券をショルダー・バッグに戻した。グリーン・カードやドル札もヒップ・パッドに戻し、腰の上につけ直した。
二重窓の下から男女の歓声が聞えてきた。
窓から眺めると、巨大な大同江の手前の道路を兵士の一隊が行進してゆく。小銃をかつぎ、四列縦隊を組み、足を高くはねあげるロシア式の行進だ。カーキ色のベルトが動いてゆくようで、この反対側を高校か大学の女性か、やはりカーキ色の服を着た女たちが、これは木製の銃をかつぎ、行進してくる。
恐怖感にひるみがちな気持を奮い立たせて、靴を履き、部屋を出た。
耳鳴りのような音を発するエレベーターに乗って、一階で降りたのだが、えらくゆっくりドアが開くと、軍服を着て、ピストルを腰につけた兵士の姿が眼に飛びこんできた。
浩美は兵士を無視して、フロントに近寄った。
フロントの前には、先ほど案内に立った、孫《ソン》という男が立っている。うすい眉の下にぽかりと開いた菱形の眼が険を含んで光っている。
「郵便局、どこにありますか」
浩美はゆっくりした英語で、訊いた。
「あんた、なにしたいか」
乱暴な英語で、男は訊いた。
孫という男もまた、紺色の背広の胸に金日成の顔を描いた、まるいバッジをつけている。
「ロンドンと日本へ電話をかけたいんです」
孫は正面から浩美を見た。菱形の眼の光が鋭くなり、いよいよ角張った感じになった。
「ノー・テレフォン。許可、いるよ」
「それでは、許可をください」
浩美は戦闘的になった。
「それ、国の、きめること。ノット・マイ・ピチネス」
「それじゃ、国に話して許可を貰ってください」
たかが電話ではないか、と浩美はいきりたったが、男は「ノット・マイ・ピチネス」を連発する。
浩美は意地になった。
「私、自分で探してみるわ」
玄関へ向って歩きだしたが、背後から荒々しい靴音が駆け寄ってきて、たちまちカーキ色の軍服の兵士に腕を掴まれた。
それを振り切って、玄関のガラス戸を押し、表に出ようとすると、ガラスの向うから、もうひとりの兵士がやってきて、浩美をロビーに押し戻そうとする。ふたりとも浩美より背が低いのだが、男の腕力にかなわず、ずるずると押し戻された。
そこへ黒のベンツが滑り込んできた。「2―1611」のナンバーのベンツだ。
「まあまあ、ここで待っていてくだすったの」
梁善子がそういいながら車から降りてきた。
「中国製で、|おすてき《ヽヽヽヽ》じゃないんだけど、着替えをお持ちしたわ。それと寝まき用の浴衣《ゆかた》ね。お使いになってみて」
ハロッズのショッピング・バッグに入れた衣類を手渡した。
「では食事に参りましょう」
ホテルの前は合唱して行進する兵士と、女子学生のカーキ色のベルトが交叉して、まるでメーデーの日かなにかのようである。ただし兵士の歩調も女子学生の歩調も、ぴったりと一致して、巨大な一本の足が巨大な靴を踏み鳴らして歩いているように聞える。
「私、ロンドンと日本に電話を入れたいんです」
車のなかで、浩美は切りだした。
「それが大変なのよねえ」
善子の声が同情するように長く延びた。
「このお国は日本ともイギリスとも外交関係がありませんのよ。だから電話回線も通じてませんの」
「この国に入ったら、出られない」といわれ、今度は嘘かほんとか「電話も通じない」といわれる。浩美はこの世のものともおもえぬ悪夢のなかに誘いこまれた気分になった。
ベンツは大同江にかかった長い橋を渡ってゆく。昔の子どもの絵本に出てきた汽車の鉄橋のような、半月形のおおきな欄干がいくつも連なっている、古めかしい鉄橋だ。おおきな川面は早くも灰色にたそがれ、相変らず船一隻見えない。
「それよりこれから東ドイツ大使館の方をご紹介するから、その方とご相談なさいませよ」
この橋を渡ったところに、コンクリートの軒が張りだした二階建ての建物があり、やはり軍服の兵士が入口に立っている。
「外交官クラブですの。平壌に住む外交官のためのクラブなの」
なるほど玄関の上には「TAODONGGANG DIPLOMATIC CLUB」というローマ字が書いてある。
一階に映画館とディスコがあり、二階にビリヤードと卓球場がある、という。
ロックの音が響くなかを、浩美は梁善子に案内され二階に上った。
二階の一角にバーがあり、眼鏡をかけた大柄な男が長い手を挙げた。
「こちら、東ドイツ大使館のワルターさん」
紹介されて、浩美は握手したが、灰白色の髪を短く刈りあげ、ヨーロッパ系に中東の血が少し混じっている感じの男だ。
驚いたことに、フランス製のシャンペンを男は飲んでいて、浩美と善子にも勧める。
「平壌へようこそ」
と英語でいって、グラスを上げてみせた。
「結論を最初に申し上げますが、暫く平壌にご滞在になって、この国について勉強されたらいかがですか。あなたの人生にとって、ひとつのチャンスだとおもいますよ」
浩美は激しく首を横に振った。
「私は目的があって、この国にきたのではないんです。間違ってこの国の飛行機に乗ってしまったんですよ。まさにミステークなんです」
ミステークという単語を口にすると、口惜しさに胸が詰まり、浩美の眼に涙が滲《にじ》んできた。
「私には目的があるんです。英語を勉強して、日本で家具輸入の仕事を始める計画なんです」
ドイツ人と梁善子はじっと浩美の様子を眺めている。
「私には男の子がひとりいます。夫は死にましたが、日本人の恋人もいる。どうしても私、ロンドンにもどらなくちゃならないんです」
善子がハンカチを出してくれ、それで浩美は涙を拭いた。
一座はしんと白け、二階のどこかでビリヤードの球を撞《つ》く音、球のぶつかり合う金属性の音が響いた。
独裁者の赤銅色の巨像のそそり立つ平壌とビリヤード、という異常な組合わせが、浩美に悪寒《おかん》に似た、気分の悪さを味わわせる。
「もしこの国が助けてくれないのなら、東ドイツ大使館が私の面倒を見ていただけませんか。私、ベルリンから来たんですから」
ドイツ人は弱った表情になり、
「インターフルクで着いたなら、なんとでもなったんだが」
と呟いた。
インターフルクとは東ドイツの航空会社の名である。
「子どもが風邪ひいているんです。急いで帰らなくちゃならないんです」
また涙があふれた。
「まあ、落ち着いてください」
ドイツ人はなだめた。
「あなたのような美人については、東ドイツ大使館も喜んでお世話したいところです」
半ば冗談めかしてから、
「とにかく、北朝鮮の関係先とさっそく話してみましょう」
交渉を請け合ってくれた。
そのあと何を話したかは、ほとんど記憶にない。
まったく食欲がないのに、二階のレストランで食事をつきあうことになった。相変らずビリヤードの音が響き、辛い朝鮮風味のスープを流しこむと、ビリヤードの球が胃のなかでぶつかり合うような痛みを感じた。
食後、善子はじつに何気なく、
「今夜はね、招待所というんですけど、役所のゲスト・ハウスにお泊りになったら」
といいだした。
「ホテルは街中にあるからね、朝早くから兵隊が行進したり、掃除のお婆さんがお喋りしたりして、よくお寝《やす》みになれませんのよ」
ワルターというドイツ人と別れ、ベンツに乗ったのだが、闇のなかを三十分ほど走って、高い塀の連なる門についた。
サーチライトが光り、また自動小銃を持った兵士が現れた。傍にグレートデンの軍用犬もいて、盛んに吼《ほ》えたてる。
門が開かれ、車は丘を登り始めた。
一月四日、安原伸彦からコペンハーゲンに電話があった夜、佐久間浩一が再び発熱した。
水田とキティゴンは浩一を連れて、コペンハーゲンの市庁舎の前にある古いホテル、「パレース・ホテル」に泊っていたのだが、夜、食堂へ連れて行っても、「|嫌いだよ《イアツク》」を連発してなにも食べない。水田とキティゴンは弱り切って、部屋に連れ帰ったが、浩一はツインの部屋に入れたエキストラ・ベッドに寝ころがって元気がない。
そのうち咳がだんだん激しくなった。十時過ぎ、キティゴンが浩一の額に手を当てて、
「熱あるよ。たくさん熱あるよ」
と切迫した声を出した。
「風邪が治んねえんだな。わりとしつこい風邪に罹《かか》っちまったな」
しかし浩一の額は火のように熱く、手を当てた水田も青くなった。
「坊、元気だせや。今な、おじさんがよ、お医者、呼んで貰うからよ」
浩一は眼がすわったようなあんばいで、荒い呼吸をしている。いったん咳が始まると止らず、咳のあと、吐くのではないかとおもうほど、苦しそうに喉をひいっと鳴らした。
キティゴンがフロントに電話し、十分と経たないうちに女医がやってきた。
四十がらみの背の高い女医は、診察してから、「ニューモニア」とひとこという。ホテルのメモ用紙に「PNEUMONIA」と書いた。
水田があわてて英和辞典を引いたところ、「肺炎」と書いてある。
「こいつはやばいぜ。シリアスだな」
水田はかなり動揺した。
そのとき、向い側の市庁舎の大時計が鳴った。女医はつかつかと部屋の窓ぎわに歩いてゆき、カーテンをかかげて市庁舎前の広場を眺めている。
「アポテーク・ハズ・クローズド」といってから、「ケミスト・ショップ・ハズ・クローズド」といい直した。
薬局はしまってしまった、という意味らしい。
女医は鞄から砲弾型の薬を取りだし、浩一を俯《うつぶ》せにさせると、穿いていたズボンをおろして、解熱用の座薬を浩一の肛門に挿入した。
「明日の朝までに、もう一度、座薬を入れなさい。明日の朝、必ず病院に連れてゆきなさい」
言葉が通じるかどうか不安らしく、女医は同じ言葉をメモ用紙に記して、帰って行った。
浩一の容態が不安で、水田も眠る気にならない。キティゴンは二、三十分おきに浩一の額にのせたタオルを水で冷やして取り替えている。
「それにしてもうるせえ時計だな」
水田は溜め息まじりに文句をいった。
ホテルの向い側にある市庁舎の大時計が十五分おきにオルゴールを鳴らすのである。これには水田も神経を逆撫《さかな》でされるおもいを味わった。
「あんさんが目茶苦茶やって、ここに連れてきたから、浩一、病気になったね。ベルリンにいれば、病気ならなかった」
キティゴンの口調には非難する響きがある。
「そういうけどよ、もしおれが浩一を手もとに引き寄せとかなかったら、どうなってるよ。朝鮮民航に乗せられて、今時分、シベリアの上空で死んでるぜ」
水田は反論したが、キティゴンは返事をしない。
午前一時過ぎ、キティゴンが、
「もう一度、薬ね」
という。
水田は浩一を俯せにして、暴れないように背中をおさえこんだ。
キティゴンが浩一のズボンをおろし、長い指で肛門を開き、円錐形の座薬を押しこむ。
浩一の尻には、蒙古斑が青々とペンキを塗ったようにおおきく拡がっている。
水田の手の下で、浩一が咳きこみ、そのはずみに座薬が飛びだしてしまった。
キティゴンが飛びだした座薬を拾って入れ直したあと、用心して長い指を浩一の肛門に差しこんだまま、座薬が溶けるのを待っている。
──人の親にならなきゃ、わからねえ感情ってのがあるんだよな。
水田は熱であつい浩一の躰をおさえ、切なく泣きたいような気分であった。浩美のやつも辛いだろうが、おれも辛いんだぞ、と倒錯した気分で考えた。
浩一が咳きこむなか、大時計がまた鳴って、その余韻が冷たい風のように心に滲《し》み入ってくる。
夜八時、佐久間浩美を乗せたベンツ「2―1611」は、平壌市内の、白く雪をかぶった樹木の間の道をうねうねと登ってゆく。
山あいに、夜目にも緑色に輝く瓦屋根を葺《ふ》いた二階屋があった。屋根は朝鮮半島の伝統にならったデザインで、空に向って鳥の羽根のように反り返っているが、二階屋自体は真新しいコンクリート造りの小家屋である。
「さあ、着きましてよ」
護衛と運転手がドアを開き、梁善子《ヤン・よしこ》と浩美は小家屋の前に降り立った。
家のなかから、中年の女性と若い女性が走り出てきて、梁善子に挨拶する。
若いほうの女性が、浩美に向い、
「いらっしゃいませ。こちらへとうそ」
訛りの強い日本語で、いった。
浩美はやはりホテルとおなじに玄関で靴を脱ぎ、そのまま二階へ案内された。
二階には書斎と大小の寝室、風呂場にトイレがついている。
ベッドはヘッド・ボードに椅子の背のような緑色の布がはめこんであり、ベッド・カバーは、青いチマ・チョゴリの布地をそのまま使ったような、派手な色できらきら光っている。
浩美は心も躰も鉛のように重く、放心状態で青いベッド・カバーの上にすわった。
善子は浩美の隣にすわり、背中をさすってくれた。
「あたくしも子持ちの母親だから、あなたの辛いお気持はよおくわかりますの。またあの浩一君っておっしゃるの、あの坊ちゃまは眼がぱっちりしてて、ほんとお可愛いものねえ」
善子はそれから浩美の正面にまわり、今度は両肩に手をかけた。
「東ドイツ大使館のワルターさんも、いろいろやってくださるそうだし、私、明日はこの国のえらいかたに掛け合って差しあげる。できたら、お引き合わせもするわ」
そこで両肩に置いた手に一段と力を入れた。
「だけどね、奥さま、考えてご覧あそばせ。ここだってアマゾンのジャングルじゃありませんのよ。常識的に考えて、入国は認めるけど、出国は認めないなんて、そんなマジックみたいな国がこの世界に存在する、なんてお信じになる?」
それはそのとおりだ、と浩美はおもった。
日本人は世界中、どこでも国法の保護のもと、行動の自由を認められている筈であった。
──私は別に戦争で捕虜になったわけじゃない。
自分の立場は、ハイジャックされた旅客機の乗客がそのまま帰国できるのとおなじではないか。酔って行先の違う飛行機に乗ってしまったというミスはあったにしろ、自分の意思に反してこの国に来てしまったという点では、ハイジャックされた旅客機の乗客と何ら変りがない。
浩美は一九五九年以降、朝鮮半島出身者の配偶者、配偶者の母親など、六千六百名の日本人、日本国籍保有者が北朝鮮に帰国したまま、一名も日本にもどっていない事実など、まったく知らなかった。
「ただね、時間が少しかかりますのよ。時間が」
善子は慰め顔でいい、
「さ、お風呂に入ってらっしゃいませな」
と促した。浩美は若いメイドに案内されて風呂場に行った。
若い女性が服を脱ぐのを手伝ってくれる。浩美は、長時間の旅行のあとで服が汗臭いのではないかと気を遣い、同時にヒップ・パッドの秘密が露見しはしないかと恐れた。
「もう結構です」
メイドを風呂場の外に押しだした。
ピンク色のタイルの浴槽の底には、平たい、握りこぶし大の石が一面に敷いてある。よくわからないが、石の保温力を利用しているらしい。足の裏や尻の下にあたる石が気になったが、長時間の旅行の疲労が湯の中に溶けてゆくようで快かった。
しかし湯の中で、出てくるのは溜め息ばかりである。
ピンク地にグリーンの雲が描いてある、奇妙なデザインの手拭いで躰を洗った。
風呂を出て、躰を拭いていると、ドアをノックして、若い女性が善子持参の着古した浴衣《ゆかた》を差し入れてくれた。
ベッドの傍らに、真赤なテーブル・クロスを掛けた丸テーブルがあり、そこにハングルのラベルを貼った瓶が置いてある。
「梁《ヤン》同志《トンチ》、明日九時、くる。このお酒、飲んて寝る、いいね」
北朝鮮の酒には、懲りている。この平壌へ来てしまったのも、もとはといえば李が誕生祝いに勧めた人参酒のせいなのだ。
しかし神経が毛羽立ってしまっていて、到底眠れそうになかった。
「これ、なんのお酒?」
「ワインよ」
ワインならアルコール度が低かろう、とコップに注がれた酒をひとくち含むと、これまた喉がひりつくように強い。
ワインのおかげで、ベッドに倒れこみ、真四角な長枕に頭をのせたが、眠りは浅かった。
浅い夢のなかには浩一や安原伸彦やコペンハーゲンの街も現れた。「やっぱり平壌に来たというのは夢だったんだ」とおもって目覚めると、西欧では考えられない真赤なテーブル・クロスとハングル文字のワインのラベルが目に映る。
また眼を閉じると、今度は浩一の咳きこむ声を聞いたようにおもって目を覚ました。
風が出たらしく、周囲の木立を揺らす風の音がまるで嵐のように耳につき、浩美は真四角な枕の上で首を振った。
翌朝、佐久間浩美は疲労で腫《は》れぼったい顔をしたまま、招待所の一階にある食堂で朝食を摂った。
若いほうの「接待員」が食卓にならべてくれたのは、学校給食で食べたようなコッペパン、ビール瓶のように大きく、うすいブルーの瓶に入った牛乳、ハムエッグス、それに辛い味噌汁である。
相変らずうっとうしく、気持がふさいでいて、食欲が起らない。固いコッペパンを少し齧《かじ》り、辛い味噌汁をひとくち、ふたくちすすった。
「躰のため、食べた方がいいね」
接待員がしきりに心配してくれる。
食事にろくに手をつけぬうちに、丘の下からベンツのエンジンの音が登ってきた。
接待員がサンダルをつっかけてばたばたと玄関の外に駆けだしてゆき、
「ご機嫌よう」
という、梁善子の高く、明るい声が玄関に入ってきた。
そのあとにふとい、男の胴間声が、接待員を労《ねぎら》うように続いた。
梁善子に続いて、食堂に入ってきたのは、頭を短く刈りあげた、肥った中年の男である。
「アンニョンハセヨ」
恰幅《かつぷく》のいい男は、浩美の顔を覗きこむようにしていい、それから、
「飛行機のなかでは失礼しました」
と、上手い日本語でいった。
そういわれて見直してみると、浩美が浩一を探して、朝鮮民航機の最後部へ行ったとき、だれもいない客室の真ん中に、まるで銅像のような感じですわっていた男であった。
男は食卓の向うに、どしんとすわった。胸には旗の形をした、金日成の肖像バッジをつけている。
「あなたはじつに幸運なかただな。こういう立派な国にこられたんだから」
完璧な発音の日本語でいった。
「平壌にくることができた、というのは幸運なことなんだから、覚悟をきめてこの国に住んでみることですよ」
これは恐喝ではないか、と浩美はおもった。
「私は北朝鮮に自分から来たい、とおもったことは、生まれてから一度もありません。独裁者が威張っている国に住みたいひとなんていないでしょう」
浩美は激しい口調でいい返した。
「まあまあ、お静かにお話しになって」
梁善子がふたりを制するようにいって、食卓の、ちょうどふたりの間の席にすわった。
「こちらの車《チヤー》先生はね、国交のない国との、対外交流のお仕事をしてらしてね、国交のない日本からあなたがいらしたことを喜んでらっしゃるの。日本のひとにぜひ、この国に住んで貰って、この国のよさを理解して貰いたい、そう考えてらっしゃるのよ。ただ、言葉遣いがちょっときついからねえ。そのお気持が素直に伝わらないのよ」
「私のお願いはただひとつです。この国から出してください。もしベルリンに帰していただくのが無理なら、北京へ出していただいてもいいんです。北京から東京へ帰ります」
「どうも、私は日本の美人には嫌われてばかりいるな。梁同志、まず平壌をよくご案内して、少し、この美人先生の理解を深めていただかにゃあ、いかんぞ」
笑いながら、善子にいう。
「奥さまね、今日のところは私におつきあいいただいて、平壌を観光してくださいませよ」
善子がちらりと目配せをし、浩美の肩を叩いた。今日のところは自分の顔を立ててくれ、悪いようにはしないという意味らしい。
現在、梁善子は浩美にとって、この土地での唯一の知人なのである。善子にすがる以外に、なんの手立てもないのである。佐久間浩美はしぶしぶ立ちあがり、二階へ上って身づくろいをした。
身づくろいといっても、善子が用意してくれたスウェーターのうえに、昨日まで着続けていたツイードの旅行着を着ただけの話である。そのまま、接待員に見送られて、ベンツに乗った。
ベンツは丘を下り、大同江の川岸に出た。大同江の川面が午前の陽を受けて、相変らず沼のようにとろりと光っている。道路には、昨日と同じくまったく人影も車の姿もない。
大同江を渡ったところにとてつもなく高い石の塔が立っている。
「主体思想塔と申します。主体思想は、朝鮮語でチュチェ思想といいまして、この国を松明《たいまつ》のように照らす思想なんです。ですから、この塔は松明の形をしておりますでしょう」
百七十メートルの高さ、という石の塔の頂きには、松明の炎の形の彫刻が輝いている。百七十メートルの石塔には、人を威嚇するような圧迫感があった。
──ひとだまのような形の炎ではないか。
北朝鮮の誇る凱旋門にしても、この主体思想塔にしても、石の建造物は、なにか不吉な連想をさせる。たとえば、墓の石塔の上にひとだまがのっている、というような。
三人は護衛らしい軍服の男と、主体思想塔の地下に入った。パンフレットなどの売店の奥にエレベーターがあった。
十人も乗れば満員のエレベーターだが、その八の数字を車《チヤー》が押した。一階が普通の建物の七階分くらいに相当するらしく、長い時間をかけて、エレベーターは登ってゆく。
八階で降りると、そこは百七十メートルの塔のてっぺんで、吹きさらしの展望台であった。
まるでパノラマを見るような、美しい、しかし人の体臭がしない都市が眼の前に拡がっている。
正面の大同江の向う岸には東京の歌舞伎座を幾重にも積み重ねたような「人民大学習堂」の建物が人目をひきつける。
遠くに、昨日見た、金日成の巨大な銅像が赤銅色《しやくどういろ》に光り輝いているし、千里を走るという伝説の馬「千里馬《チヨンリマ》」の巨像が天に向っていなないている。
車の影、人の影はほとんどない。
──まるで休業の日のディズニーランドのようではないか。
浩美は唖然として、この大都市の景観を眺めた。こんな都市が日本のすぐ近くに存在することなど、この歳になるまでまったく知らなかったのである。
「これ、全部、ソ連に建てて貰ったんですか」
浩美はおもわず訊ねたが、梁善子は聞えなかったように知らぬ顔をしている。
「塔の上じゃ、そのオーバーでは、あなた、寒いだろう」
車という男がいって、浩美の格好を眺めた。
それから伸びをして、
「あなたは美人だし、踊りも芝居もうまいそうだ。それをこの国の人間に教えてくれてもいいんだよ」
善子が喋ったのだろう。この男は浩美が女優をやっていたこと、踊りを習っていたことまで知っていた。
「息子さんは埼京市の伯父さんに預かって貰えばいいんだよ。伯父さんはゲーム・センターや家具屋をやって、儲かっているんだから」
男がそういった瞬間、善子が男の袖を引っぱるのが、視野の端に映った。
どうしてこの男は、私の伯父、正確には亡夫の伯父が埼京市にいて、家具屋やゲーム・センターをやっていることを知っているのか。伯父のことを梁善子に喋った記憶はない。
キングストン語学学校の仲間にも、伯父が家具屋をやっていることは喋っているが、ゲーム・センターについては話していない。浩美が家具のほうの仕事を手伝うことになっていて、ゲーム・センターのほうは関係なかったこともある。またゲーム・センターのイメージがよくないこともあった。
ゲーム・センターについて話したのは、安原伸彦だけである。
胸の奥に疑惑を落としこんだまま、浩美はふたりについて、主体思想塔を下りた。
思想塔の下では、高校生らしい一団がいて、「整列」「番号」と日本語の号令をかけられて、勢いよく「一」「二」「三」と怒鳴り返している。
「日本から修学旅行でこちらにきている朝鮮高校の生徒さんたちざんすよ。日本には朝鮮の学校が百以上もありますでしょ。それでしょっちゅうこの国を見学に参っておりますの」
善子が説明した。
胸に金日成バッジをつけた生徒たちは、浩美と善子を目ざとく日本人と見抜いたらしく、主体思想塔に入りながら、
「こんにちはあ」
と日本語で挨拶した。
そのあと、浩美は高級幹部用なのだろう、四方の窓に厚いカーテンを下ろした店に連れてゆかれ、厚い防寒コートと帽子を買って貰った。
「よくお似合いよ。ウイーンでお買いになったコートよりずっとお似合いだわ」
善子の言葉が厭味に聞えた。
水田清とキティゴンはコペンハーゲンに滞在したまま、動けなくなった。
少し熱の下った浩一を翌日、病院に連れて行ったところ、「マイコプラズマによる肺炎」と診断されて、入院させられてしまったのである。
キティゴンはほとんど終日、病院に詰めきりで、水田は所在なくホテルの窓から、市庁舎前の広場に降る雪を眺めて暮らした。
市庁舎の建物の大時計は、相変らず十五分おきにオルゴールを鳴らす。雪の広場に響くこのオルゴールの音がうっとうしく、心が限りなく滅入ってゆく気がした。
浩一にもしものことがあったら、おれは浩美に申しわけがたたねえ。
北朝鮮による佐久間浩美誘拐を幇助《ほうじよ》しておきながら、浩美に「申しわけがたたねえ」もあるまいよ、自分でもそうおもうが、オルゴールが雪の降る街に鳴り響く度に気持の滅入るのはどうしようもない。
──おれはいつも世間の動きに流されちまうな。意志の力が弱くて、抵抗できねえんだ。
過去の人生がすべてそうだった。日本で人妻殺人幇助の、自分にいわせれば「汚名」を着せられたのもまったく自分の意思に反することだった。ハイジャックの乗客の身代りに「超法規出国」の指名に応じたのも、自分では自分の意思として決断したつもりだったが、結局はおおきな運命に翻弄されるなかでの、強制された決断でしかなかった。
自分の意志でやった唯一の行為は、刑務所内の病人に対する待遇改善を要求して、ひと暴れしたときくらいのものか。もっともそれで、日本赤衛軍に目をつけられてしまったのだったが。
雪の降るなかを、別の安宿に泊っている笹岡が訪ねてきた。
「社長がな、ベルリンで会議やる、出席せよ、そういうてきましたわ」
社長とはベッカー高原に本拠を置く日本赤衛軍のリーダー、滋山久子である。
「北朝鮮の船は捕まって、長距離砲はイラクの手に渡っちまってよ、おれたちは総括されるんじゃねえか」
水田は頭をがりがりと掻いて、顔をしかめた。
「そりゃ、ちょっとはやられましょうな」
笹岡はしれっとしたものである。
「ま、しかし会議の目的は今後のわれわれの作戦行動をどうするか、そこにあるんや。少くとも、わしは大声でそれを社長に訊くつもりや。なにか新しい作戦展開せにゃ、わしら単なる親パレスチナのゲリラになってしまうんよ。日本人としちゃ、そらあまりにも情けないやないか」
「故郷を捨てた甲斐がない≠チてわけか」
夜、浩一が寝入ったのを見届けて、キティゴンが病院から帰ってきた。
「おれ、社長から呼び出し食ってよ。笹やんと一緒にベルリンにちょっくら行ってくらあ」
水田はキティゴンの顔色を窺いながら、いった。
キティゴンはすぐには返事をしない。
ややあって、
「あんさん、ここに帰ってこなくてもいいよ。あたし、浩一の病気なおったら、浩一連れてタイへ帰るから」
挑発的な眼でこちらを睨んだ。
水田はキティゴンと佐久間浩一をコペンハーゲンに残したまま、笹岡と一緒に再びSASの便で東ベルリンに向った。
シェーネフェルト空港に着くと、タクシーで凍《い》てついた雪道を走り、PFLPがアジトとして使っている、古い住宅に辿り着いた。
中年の女性がドアを開き、招じ入れてくれたが、先着しているダビトの手配によるものか、応接間の暖炉に薪《まき》が燃えていて、いかにも冬のヨーロッパの夜という趣きがある。
まもなく家の前に車が着き、ダビトの案内で日本赤衛軍リーダーの滋山《しげやま》久子と幹部の光寺修二が部屋に入ってきた。
「あんさん、笹やん、今回はご苦労様」
滋山久子は気さくにいって、ふたりの手を握った。
滋山は変装のためもあるのか、髪を長くし、ピンクのスウェーターに厚手のスカート、ブーツを履いて小ざっぱりした感じである。
「どうも」
光寺ともふたりは手を握り合った。光寺は紺の背広にネクタイを締めて、ビジネスマンを装っているのだろうが、こちらは学生が背広を着たみたいにぎこちない感じだ。
笹岡は滋山久子に向い、
「サミーラ同志、今回の件は申しわけなかった、おもいますわ」
と謝った。サミーラ・マリアンヌは滋山のアラブ名である。
「裏の事情はようわからへんのやけど、あのイランにゆくはずの長距離砲がイラクに横取りされてしもたのは、要するにイラクがイランより手強かった、こういうことやとおもいますねん。長距離砲が、イラクに行ってしもて、イラクと仲のわるいシリアは怒ってるのと違いますか」
それは水田の懸念でもあった。
まさかイランへ長距離砲輸送途中の北朝鮮の輸送船が、イラクの空軍、海軍の共同作戦によって、船ごと捕獲されてしまうとは予想してもいなかったのである。
「それは気にしない、気にしない」
滋山久子は笑顔で、手を振った。
滋山は都立第一商業高校を経て明治大学文学部を卒業後、OL生活やスナックでアルバイトをした経験もあり、いつも職場で人気者だったというが、そういう気さくさがリーダーとしての身上でもあった。
「アラブの世界はまだ成熟していないからね、しょっちゅうこの手の荒っぽいことが起る。それをいちいち気にしていたら、これまた生きられないのよね」
昭和二十年秋生まれで、今年四十歳になる滋山久子は、表情に若さを残しつつ、さすがに言動に余裕が出てきている。
「こりゃ、助かったな。じつはわしら、この一件でサミーラ同志に怒鳴られるんじゃないか、と夜も眠れんくらい、気にしてたわけでね」
水田も口を添えた。
「嘘ばっかり。滋山久子なんぞ、口先三寸、どうにでも転がせる、あんたがた、そうおもってたんじゃないの」
滋山久子は晴れやかに笑ってから、突然表情を引き締めた。
「私はね、ここで皆に、ベッカー高原に一度戻って貰いたいの。パレスチナ人民のね、パレスチナ奪回の武装闘争支援に、復帰して貰いたいんですよ。われわれの闘争の原点はね、不当にイスラエルに土地を奪われたパレスチナ人民への、限りないシンパシィ、共感にあるわけでしょう。革命の主役は人民にあること、それを絶えず認識するためにもね、やっぱりベッカー高原を基地にして闘うべきだ、とおもうわけ」
滋山久子には、何年もリーダー役として、革命闘争を闘ってきた自信がみなぎっていて、言葉の一語一語に力があった。
「サミーラ同志、そこなんやけどね」
笹岡がさえぎるように口を開いた。
「この際、正直にいわして貰いますんやけどね、他の同志はともかく、少くとも私は焦ってますのや。パレスチナ解放闘争を深めてゆくとね、日本の革命活動からはいよいよ遠ざかってゆく、いう焦りがあるんやね」
沈黙が訪れ、暖炉の薪の燃えてはじける音がぱちぱちと部屋に響いた。
「笹やん、それは私が繰り返しいってきたことなんだけど、日本という国家の枠を越えてね、世界革命に挑んでいるところに、日本赤衛軍の存在意義があるわけでしょう」
滋山久子は穏やかな笑顔をくずさずにいった。
「お言葉を返すようやけど、問題は私らがなんぼ頑張ってもパレスチナ人にはなり得ない、所詮日本人でしかあらへん、いう点でね、なんか焦りますのや。国際的な革命活動やってる自信がなくなって、なんかこう根なし草のコスモポリタンみたいな気分になってきますねん」
笹岡には笹岡なりのおもいいれがあるらしく、俯《うつむ》いて沈痛な表情を浮かべている。
「笹やんは、つまりもう一度、日本回帰の革命活動をやりたい、というわけね」
笹岡は顔をあげた。
「そうですねん。われわれには、パレスチナ解放闘争のほかに、大事な課題が残っておりますわな。今更、持ちだすのも恥ずかしいみたいなものやけど、ひとつは日本天皇制の打倒、それと日本帝国主義の打倒ですわ」
滋山は笑顔をくずさない。
「笹やんのいうふたつの課題をわれわれはいかに果してきたか、それは日本赤衛軍の闘争の歴史を見れば、はっきりしている、とおもう。現にここに水田のあんさんがいるのだって、われわれの日帝との闘争の勝利のね、生きた証しじゃないの」
この発言は水田にとっては必ずしも愉快な表現ではなかった。自分が日本赤衛軍の勝利の証しかよ、と水田はおもった。
自分はハイジャックの旅客、数百名の生命を救うために、西も東もわからぬ砂漠の地に、身代りとしてやってきたのである。赤衛軍一人一人の、日本や世界をおもう、純粋さには共感があるが、テロルという手段にはどうも釈然としないものがある。だれが好んで、テロの一味に加わるかよ、という反発を消しきれない。
「滋山さんもや、腹の底にあるのは中央集権の打倒でしょう。滋山さんのお父さんは、血盟団の井上|日召《につしよう》のお弟子やった。そうおっしゃってたやないですか。右翼と左翼の違いはあるやろ、そやけどお父さんも滋山さんも志はおなじや、とおもうわ。日本の中央集権打倒、天皇制打倒や」
滋山は酒の席などで、折りに触れ、父親について語った。
井上日召は群馬県出身の昭和初期の国家主義者で、昭和七年血盟団を組織、「一人一殺」を唱え、井上準之助、團琢磨の暗殺を指導した、とされる。いわゆる五・一五事件の黒幕だが、滋山久子の父親はこの血盟団の一員で、逮捕は免れたものの、故郷の宮崎県都城にこもり、教師として人生の大半を過ごした。
その父親の「地方民権無視の日本中央集権政府打倒」の信念が、いわば血となって久子の身中に生きているのだ、そう久子は語って聞かせるのが常であった。
「今夜は、笹やん、なんか激しいなあ。ファザコン滋山の弱味を衝いてくるじゃないの」
滋山久子のファーザー・コンプレックスは仲間うちでも有名で、父親の世代に対する共感が強く、元共産党の伊藤律と書簡の往復を重ねたりしている。
滋山久子は困ったように長い髪を掻きあげてみせた。
「結局のところ、なにをいいたいの」
「そら、はっきりしてますがな。今、日本の皇孫の高宮《たかのみや》がオックスフォード大学に留学してはりますな。これは天皇制打倒の絶好のチャンスや、おもはりまへんか」
笹岡の頬に暖炉の火が赤く映えて、不気味な感じを与えている。
「高宮誘拐か。少し空想的過ぎるんじゃないかなあ」
滋山久子は明らかに逡巡《しゆんじゆん》して、頬を掌でおさえ、考えこむ表情になった。
「どうやって誘拐するの」
「とにかく襲うことや。北朝鮮の|梁 美善《ヤン・ミーソン》いう工作員がおりましてな、このひとはじつは日本国籍で、別名ヨシコ・オツールいいますのや。アイルランド系の金持ちの爺さんと結婚してロンドンに住んどりますのや。このオツール爺さんがね、IRA(アイルランド共和国軍)に肩入れしはってリーダーをよう知ってはって、いつでも紹介する、いうてます。同志、このチャンスを逃す手はないおもうんや。IRAと共同作戦取って、天皇制、打倒しましょうや」
するとそれまで黙っていた光寺が、
「これは絶対やりましょう。われわれの長年の信念を実行する絶好のチャンスですよ」
北海道訛りの高い声で叫んだ。
「笹やんのいうとおり、われわれがアラブにきたのは世界革命の拠点づくりに過ぎなかったわけでしょう。ここで革命の原点に戻るべきだ。笹やんの発言は正解よ」
光寺には、ヒステリックな体質がひそんでいて、水田でさえ扱いかねるようなところがある。
「笹やんの情熱はわかるけどよ」
水田は暗く閉ざし始めた滋山久子の表情を読みながら、いった。
「これは大冒険だぜ。警備が厳重だろうしよ。いざとなれば、イギリスの特殊部隊が乗りこんでくるだろうし、そうなりゃ、全員皆殺し、日本赤衛軍の組織は壊滅するぜ。笹岡同志には水を差すようでわるいけどよ、ここは慎重にいかなくちゃいけねえんじゃねえか」
「あんたは刑務所で新右翼とつきあいがあったからな、そんな日和見をいうんだ」
光寺が人差し指を突きつけて金切り声をあげた。
水田が服役中、新右翼の海原春介あたりと交際があったのは事実だが、それと今のテーマとは関係がない。
「そう感情的になられたんじゃ、話ができねえよ。革命ってのは、もう少し冷静に地道に考えるもんじゃねえのか」
また一同、押し黙った。
暫くして滋山久子が沈黙を破った。
「高宮の日常と周辺を笹やんと水田同志で調べて貰うことにしよう。それから、IRAのリーダーにも、私が会って話を聞いてみるわ」
久子も父親からの思想的影響まで持ち出され、あとにひけなくなったらしい。
水田は、
「おれは子どもが肺炎起して、コペンハーゲンで入院してんだよな。ここんとこはちょっと動きが取れねえな」
逃げを打った。
「あの子はキティゴンに、金つけて、まかしたらどうや。革命第一でゆかな、あかんで」
笹岡がぴしゃりといった。
10
|車 明吉《チヤー・ミヨンギル》という、北朝鮮対外文化交流協会の部長は、翌日も佐久間浩美の泊っている、平壌郊外の招待所にやってきた。その日も梁善子《ヤン・よしこ》と一緒の平壌見物というか、学習である。
三日目にも、昼近くスリッパをばたばたいわせて、ロビーに入ってきた。今日は善子はついておらず、ひとりきりである。
肥った車《チヤー》を見るなり、浩美は、
「政府と話していただけましたか。私はいつこの北朝鮮からベルリンへ帰れるんですか」
おもいつめた表情で訊ねた。
「まあまあ」
車は両手で浩美を制して、
「日本人はせっかちで困るな」
といった。
「主体《チユチエ》思想の国では、物事は簡単に決まらんのだよ」
「女ひとりの出入りひとつ、決められないんですか」
浩美は気丈にいい返した。
車は、悠然たる笑みを浮かべた。
「主体思想というのはね、朝鮮民族を中心にして、ひとつの国家を作ってゆこう、そういう考えかただ。つまり他国の力は借りずにやってゆこう、という民族自決主義なんだよ。だから鎖国とはいわんが、どうしても外国との関係はうすくなる。外国との出入りも難しくなるんだ」
「まるで江戸時代の日本みたい」
浩美は眉をひそめ、首を振った。
「ちゃんとあそこに公方様《くぼうさま》もいらっしゃるし」
このロビーにも飾ってある金日成の肖像画を指差していった。
この招待所では、朝夕、ふたりの接待員が刷毛《はけ》で金日成、金正日の肖像画をうやうやしく掃除するのである。その刷毛入れがこのロビーの壁の高いところに取りつけてあって、刷毛自体が宝物の扱いなのであった。
車はいらだつ浩美の挑発には乗ってこなかった。
「江戸時代の日本とこの国が違うのは、江戸時代の日本には将軍がいて、人民を搾取していた。しかしこの国の主体は人民なのであって、将軍はいない。偉大なる首領様、金日成主席は、人民を単に領導、つまり指導しているに過ぎないんだよ」
しかしこの二日間、見物させられた平壌の街は、街全体が金日成、金正日親子の博物館といっていい。
その日の午後、車と出かけた「朝鮮革命博物館」もその典型であった。金日成の生家や十三歳の金日成少年が鴨緑江を渡る絵、抗日パルチザンを率いて、日本軍と闘う絵、すべて戦後もごく近年になって描かれた金日成一家にまつわる絵ばかりが飾られている。
──金日成主演の映画の看板をならべたようなものではないか。
ヨーロッパ美術に接してきた浩美の眼には、どれもこれも映画館の看板のペンキ絵もどきに、陳腐で、安っぽく映った。
「抗日パルチザンとして、日本の警備隊と闘ったというけれども、あの頃の朝鮮半島にいた日本の警備隊はほとんど朝鮮の志願のひとだったんじゃないですか」
浩美は訊ねた。
昔、父親の漁業会社に朝鮮半島からの引き揚げ者がいて、そんな話を聞いたのを想いだしたのである。
これには車も意表を衝《つ》かれたらしく、
「まあ、日本におどされて、警備隊に入った連中も少しはいただろうな」
曖昧《あいまい》な表情になった。
浩美は疲労しきって、夕刻、招待所に帰ってきた。車が「モランボン」とベンツの運転手に命じるところから察するに、浩美の滞在している招待所は平壌市内のモランボンと呼ばれる地区にあるらしい。
車はベンツで帰ってゆき、浩美は孤独な食事を摂ったのだが、食事中に台所のほうから電話の鳴る音がした。
──おや、この家に電話があるらしい。
すぐに日本語がほんの少し判る、若い接待員がやってきて、
「テンワね、梁先生、話したいね」
という。
この二階屋はホテルのコテージふうの造りで、一階にロビー、食堂、台所があるのだが、その台所の壁に電話がついている。
「お食事中だったかしら。ご免遊ばせね。梁でございます、ご機嫌よう」
梁善子の華やかな声が受話器に響いた。
「あたくし、じつはね、ウイーンの主人の実家のほうにね、ちょっと行ってくることになりましたのよ。一週間か十日で戻って参りますから、暫くはおひとりで頑張ってらしてね。車同志も毎日、お見舞いしてくださるっておっしゃってるし、ご安心よ」
梁善子が暫くいなくなる、と聞いて、心細さがつのるようである。
「お子さまのことや、ボーイフレンドのことなんぞあまり気をもまないで、のんびりお暮らしになることよ。決して悪いようには致しませんから」
善子との電話を終えて台所を出たのだが、そこで浩美は異様なものを見た。
台所の向い側に接待員たちの休憩用の小部屋がある。接待員たちはこの招待所には住んでおらず、玄関の向い側にある寮に住んでいるのだが、昼間はこの小部屋を休憩用に使っているのである。
その小さなテーブルとまるい椅子を置いた小部屋の隅に、茶色の毛布をかけた鞄があり、その鞄の色に見覚えがあった。
浩美が近寄って、茶色の毛布をめくってみると、グリーンの大型のサムソナイトで、どうも浩美の鞄のように見える。H・Sのイニシャルが入っているし、世間に多く出まわっているサムソナイトのなかからたやすく見分けられるように、古いピンク色のスカーフを把手に結びつけてあるのだが、そのスカーフもそのままだ。
念のため、隠岐の本籍を使った、暗証番号を押してみると、サムソナイトは簡単に開き、浩美と浩一の衣料、ウイーンで買ったクッション・カバーやテーブル・クロスが現れた。まがうかたなく浩美の鞄であった。
──いったい、これはどういう意味なの。
浩美の荷物はアンクルやアンクルの友だちの韓国人、李《リー》などが飛びまわって、コペンハーゲンゆきの便にチェック・インしてくれたはずなのである。だから浩美自身は酔って間違えて朝鮮民航機に乗りこんでしまったけれども、荷物はそのまま、コペンハーゲンに行ったもの、とおもいこんでいたのである。それがなんと平壌の招待所の一隅に、それも毛布に隠されて、存在しているのだ。
「それ、ため」
傍に若い女性の接待員が困ったような顔をして立っていた。
「これ、私の荷物よ。いつ着いたの」
浩美は接待員を詰問した。
「佐久間先生とおなじのとき」
ええっと浩美は口をおさえた。
「たけと、つきの週まて、渡すな、梁先生いってる」
浩美は呆然とした。
いったい、これはどういう意味だろう、とすっかり混乱して、サムソナイトをみつめていた。
荷物が浩美と同時に着いた、ということは、浩美が間違えて乗ったはずの朝鮮民航のサーベイ・フライトに荷物も積みこまれていた、ということである。つまり李もアンクルも、最初から浩美が朝鮮民航機に「間違えて」乗ってしまうことを知っていた、そういうことになる。
疑惑がきりきりと胃痛のように胸に差しこんできて、浩美は立っていられなくなり、その場にしゃがみこんだ。それからふとおもいついて一階のトイレに入り、ヒップ・パッドの隠しポケットに入れておいた航空券を取りだし、クーポンをめくってみた。
航空券には信じ難いことに、ベルリン、コペンハーゲンのクーポンが未使用のまま、残っていた。つまりだれも浩美のコペンハーゲンゆきの手続きは取らず、サムソナイトもSASには預けていなかったのである。
──つまり私は計画的に誘拐された、ということではないか。
浩美はほんとうに胃が痛くなり、トイレの便座にすわった。
心配した接待員がトイレのドアを叩くので、浩美は止むなく立ちあがり、トイレを出た。
「たいちょうぷてすか」
声をかける老若ふたりの接待員を押しのけ、サムソナイトを閉めて、二階の寝室へひとりで担ぎあげた。
──私は誘拐、拉致《らち》されたらしい。
しかしどうして、なぜこの私が誘拐、拉致されねばならないのか。ヨーロッパに留学にきている日本の女性は何千人といるのに、なぜ佐久間浩美が拉致されねばならないのか。
浩美は腕を組んでサムソナイトを眺め、カーテンを閉めてない窓の外を睨んだ。遠くに松明《たいまつ》をかたどった、高さ百七十メートルの主体思想塔が見える。四方からサーチライトで照らされ、先端のかがり火の部分が赤く不気味に、まるで人だまのように輝いている。
11
佐久間浩美は平壌市|牡丹峰《モランボン》の招待所の二階から、主体思想塔の頂きで赤く燃えるかがり火をいつまでも睨んでいた。
──私は計画的に誘拐されたんだ。
暗闇のなかで赤く燃える、人だま型の火が頭のなかでくるくる回転し、すべての謎が解けてゆくようにおもえた。
あの日、東ベルリン、シェーネフェルトの空港で、李《リー》という男が突然だぶだぶの外套のポケットからバレンタインのクォーター・ボトルを取り出し、
「今日は浩美さんのパーステイてしょう。一杯たけお祝いの乾杯しましょう」
そういって、皆のグラスに人参酒を注いだ。そして浩美のグラスだけ、汚れている、といって、自分でウェイトレスのところに持ってゆき、新しいグラスに取り替えて貰い、それに酒を注いだ。
新しいグラスに注がれた酒を飲んだ途端、浩美は激しく酔ってしまい、そこにドイツの役人と称する男が現れ、出入国管理に連れてゆかれた。
そのあとははっきりしないが、両脇を航空会社の社員らしい男たちに支えられ、航空機内に連れこまれた。
飛行機が揺れ、気分がわるくて、眼を覚ますと、すぐ傍らの席に外交官の日本人妻という梁善子《ヤン・よしこ》がすわっていた。「あなた、お苦しいみたいね」と白い錠剤を二粒飲ませてくれた。
次に眼が覚めたときは、もう飛行機はほとんど平壌上空に近づいていたのである。
李が勧めた酒に薬品が入っていたのは明らかである。李は恐らく北朝鮮の情報工作員であるに相違ない。
梁善子は何者なのか。ウイーンの大晦日に豪華な夕食をおごってくれたのは梁である。その梁を浩美をはじめ、一同に紹介したのは李である。
すると梁善子も北朝鮮の工作員である可能性が強い。
しかしあんなに洗練された服を着こなし、山手ふうの気取った日本語を喋《しやべ》る共産圏の工作員など存在するのだろうか。まさに外交官夫人を画に描いたような華やかな存在である。しかも浩美に対しては終始親切で、先刻も「悪いようには致しませんから」といった。
そこで浩美は、はっと気づいた。
梁が機内で勧めてくれた薬はあれから平壌まで浩美を眠らせ続けるための、新しい睡眠薬だったのではないか。「モスクワを出たあと、一度眼をお覚しになったけど、またお寝《やす》みになってしまったでしょう」と梁はいっていたが、意図的に睡眠薬で眠らされたということなのではないか。しかしただの外交官夫人が、睡眠薬を「盛った」りするだろうか。
頭のなかの赤いかがり火はなおもスピードを速めて回転する。
もっと遡って考えてみる必要がある。そもそも李を紹介したのは、アンクルと皆に呼ばれていた、加藤洋造なる自称ハンドバッグ輸入業の日本の中年男であった。そしてその李のいる、ウイーン、誘拐されたベルリンへのツアーを企画したのもそのアンクルであった。
ウイーン、ベルリン、コペンハーゲンとまわる日程表を安原伸彦に見せたとき、伸彦が「なんだか暗い、寒いところばかり選んだ、という感じもするなあ。南イタリアやスペインへの旅行は全然考えなかったんでありますか」そういっていたのを改めて浩美はおもいだした。
そしてベルリンで浩一が風邪を引き、熱を出して、浩美がコペンハーゲンへの出発を逡巡《しゆんじゆん》したとき、「コペンハーゲンのほうが医療のレベルが高い」と強引に浩美を説き伏せて、シェーネフェルト空港に浩美親子を連れて行ったのも、アンクルだったのである。
あの親分肌の中小企業経営者ふうの男こそ、じつは浩美誘拐の手先だったのだ、と浩美はおもった。
彼はキングストン語学学校にもぐりこみ、浩美の友人、キティゴンを口説きおとして、じつにたくみに浩美に接近してきた。浩美はすっかり心を許してしまい、誘拐犯の一味を自宅に招待し、クリスマス・パーティを催したりしたのだ。誘拐犯にご馳走するためにわざわざロンドンの魚市場に買い出しにゆき、刺身を作ったりしたのである。
──ああ、なんて頓馬で馬鹿な私。
とおもい、次の瞬間、悪寒のような恐怖に捉われた。アンクルの左手の指が二本欠損していたのをおもいだしたのだ。アンクルは器用にシャンペンの栓を抜いてくれたが、あの欠損はもしかして犯罪事件に関係があるのではないか。
そんなおぞましい誘拐犯の一味に息子の浩一を預けてしまうなんて。浩一はどうなったのだろう。足手まといになって殺されたりしているのではないか。
このサムソナイトの鞄を私の身柄と一緒に朝鮮民航のフライトに載せてしまったのは、つまり、もう浩一の衣類は必要としない、という意味ではないのか。
浩美は狂気のようにサムソナイトを開き、浩一の衣類を数えた。ベルリンでパッキングしたときのままで、なにも持ち去った形跡はない。衣類を持ち去っていない、というのは浩一はもう衣類の不要などこか暗く寒い場所に横たわっている、ということではないだろうか。
浩美は息苦しくなり、二階の寝室の隣のトイレに入って、採ったばかりの食事を便器に吐いた。涙があふれ、ぽたぽたと便器の吐瀉物《としやぶつ》の上にしたたり落ちる。そのまま床にすわりこんだ浩美は、自分の間抜けさ、迂闊《うかつ》さに地団太を踏むおもいで、床のタイルを激しく、きりもなく拳で叩き続けた。情けなさにひっきりなしに涙があふれ、遂に声を挙げて泣いた。
「伸彦さん、あたしはどうしようもない間抜けだった」
伸彦がベルリンへきてくれれば、ことはこんなに簡単に運ばなかっただろう。薬を飲ます|からくり《ヽヽヽヽ》を見破ったかもしれないし、浩美がよろめきながら出入国管理に向うのを助けてくれたに違いない。たとえ阻止できなかったとして、少くともどこに拉致《らち》されたか、を咄嗟《とつさ》に感じ取ったに相違ない。
ベルリンのホテルで「伸彦がこられなくなった」と浩美がアンクルに伝えたとき、アンクルの顔を安堵に似た表情がよぎったのを、ふいに浩美はおもいだし、泣くのを中断した。
もう間違いはなかった。
やっとのおもいで、浩美はトイレの床から立ちあがり、フラッシュを押して、吐瀉物を流した。ドアを開けて寝室に戻ると、ふたりの接待員がじっと刺すように浩美をみつめている。
浩美は危険を感じ、お腹をおさえてみせた。
「お腹、痛いの」
「お腹ね。薬持ってくる」
若いほうが朝鮮語で、年寄りの接待員に何事か命じる。
年寄りの接待員が階下に降りてゆくと、若い接待員が探るように浩美を見、サムソナイトを指差した。
「これ、次の週、わたす。それ、いいか」
この女はサムソナイトを浩美に見つけられたことが、接待員としての成績に響くのではないか、と明らかに恐れていた。
浩美が頷くと、若い接待員はサムソナイトの傍に散らばった浩一の衣類を鞄に押しこんだ。力仕事に馴れているらしく軽々と下へ運んでゆく。入れ替わりに年寄りの接待員が上ってきて、日本の昔の粉薬とおなじに、折紙のように折り畳んだ薬を一包、水と一緒に持ってきた。
その夜は恐ろしい夜であった。
花模様のついた、枕もとのスタンドだけを点すと、恐怖感が浩美を包みこみ、身動きできなくなった。
家のまわりで、風が唸りを生じて鳴っている。それに大勢の足音がひたひたと混じって、この家に迫ってくるような気がする。家を取り巻く枝々がこすれ合い、それが人間の嘲笑のように聞える。
浩美は起きあがり、部屋の電気をつけっ放しにした。ふと、先刻、接待員が降ろしたサムソナイトのなかに、日本から持参した薬の袋が入っているのをおもいだした。そのなかに抗ヒスタミン系の、眠気を誘う風邪薬が入っているのをおもいだした。
階下に降りてゆき、サムソナイトの置いてある小部屋に入ろう、とすると、突然女の顔が台所の光のなかに浮かびあがった。
「ナンテスカ」
若い接待員の菱形の眼が光っている。眉がうすいから、眼の光がいっそう強い気がする。接待員は招待所の向い側の寮に帰らず、サムソナイトを浩美に取り返されないよう、不寝番をしているのであった。
「なにか眠れる薬、ないですか」
眉のうすい女は黙って首を振った。
12
安原伸彦は、佐久間浩美からの連絡を心待ちにしていた。
日本の埼京市に住む浩美の伯父が病気になり、その知らせをベルリンで受けた浩美は旅行を打ち切り、急遽《きゆうきよ》日本へ帰った、と添乗員役のアンクルはいうのだが、それなら当然、埼京市に帰った浩美から連絡の電話があるもの、と伸彦はおもっていた。
一月三日にベルリンを発ったそうだから、四日には成田に着いているだろうに、五日も六日も連絡がない。
浩美は伸彦のロンドンの家の電話番号を憶えているはずだし、現にウイーンやベルリンから電話をよこしているのである。
伯父さんというひとの病状がよほどわるくて、看病に追われているのだろう、と伸彦は考えた。それにしても日本のどこからでも、安直に国際電話のかけられる時代である。浩美さん、冷たいじゃないですか、と伸彦は少々不満であった。自分がベルリンゆきを急に中止したものだから、怒っているのかもしれない、とおもった。
芯の強い浩美のことだから、怒っても当然だが、しかしもし伸彦がベルリンへ行けたとしても、せいぜいひと晩しか一緒に過ごせず、浩美もあわただしく日本へ帰ることになったはずであった。理由はなににしろ、旅行の中止はお互いさまで、浩美のほうから電話をくれてもいいのではないか。
一月七日、すっきりしない気分のまま、キングストン語学学校の新学期、スプリング・タームを迎えた。
登校して、幅広の階段を昇ってゆくと、二階へ向う踊り場で、後ろからいきなり肩を掴まれた。
振り向くと、長身のラファエル・サラザールが立っている。にやりと笑って「ハアイ」といった。
「おまえ、おれを|だました《デイシーブ》な」
自分でもおもいがけない英語が伸彦の口をついて出た。
「おまえ、送油管だと出たらめをいって、あのパイプは大砲《キヤノン》だった、と報告があったぞ」
ラファエルはせせら笑う表情になった。
「今頃になってとぼけるなよ。おれは宮井物産のパイプ専門家を三人も工場へお連れしたんだ。おまえだってパイプのなかへ入ったりしてたじゃないか。皆、専門家なんだから、口には出さないが、これは大砲だとわかって商売にのったんだろ。それを今頃になって、なに文句いうんだ」
ラファエルの顔に赤みが差した。
「おまえこそ、とぼけやがって、この野郎」
ラファエルは大きな手で、階段の手すりをガンと叩いた。
「あの湧谷の野郎か、おまえか、知らないが、とにかく宮井物産はあの大砲を、イランとイラク、両方に売りつけやがったろう。イランに売って金が入ったところで、こっそりイラクに売りつけやがった。イラン到着の寸前にイラクの空挺隊に捕獲させて、二重に儲けやがった」
ラファエルは、ジャンパーを着ている伸彦の襟もとを掴んだ。
「汚ねえ商売やりやがって、おれは宮井物産を許さねえぞ」
伸彦は踊り場の壁に押しつけられた。頭を壁に打ちつけられる。
伸彦は猛烈に抵抗をして、ラファエルの頬をおもいきりなぐった。すぐに両頬に強烈なパンチを食った。
日本の少年によくあるように、伸彦も小学から中学にかけて、柔道を習っていたので、なぐり合いよりは組み技のほうが、有利である。
伸彦は立て続けになぐられながら、相手のふところに飛びこんだ。外套の下の背広の襟を掴み、足技をかけて、ラファエルを投げた。投げておいて、寝技に持ちこもうとしたのだが、長い足で蹴とばされ、二階へ通じる階段へ転がった。
ふたりはほとんど同時に起きあがり、踊り場で、息を殺して睨み合った。
そろそろ授業の始まる時間だから、階段の下には大勢、学生が集まり、喚声をあげてはやし立てる。
「止めて、ノブヒコ。止めて、ラファエル」
階段の下から金切り声をあげて、アンジェリカが駆け昇ってきた。ふたりの間に割りこんできた。
「|おまえの知ったこっちゃねえ《ノツト・ユア・ビジネス》」
ラファエルは怒鳴り、横に手を振って、アンジェリカをなぎはらった。
アンジェリカは転げ落ちそうになり、辛うじて、手すりに掴まって踏み止った。
教師と事務局のヘレンが駆け上がってきて、ふたりを引き離そうとする。
ラファエルはその手を振りはらい、人差し指を伸彦に突きつけた。
「汚ねえ商売やりやがって、そのうち宮井物産を叩きのめしてやるからな。よく憶えておけ」
わめくと、階段を大股に走り降りて、校舎の外へ出て行った。
口のなかが切れて、不愉快だったが、ラファエルがいなくなったこともあり、伸彦はそのまま授業を受けた。
昼休みにアンジェリカと地下のキャンティーンに降りてゆくと、フィリピンの女の子がひとり、寄ってきた。浩美やアンクルと一緒にツアーに出かけた、リタという女の子である。
「アンクルとキティゴンはまだ、コペンハーゲンにいるよ」
とリタはいう。
「へえ、おれはもう帰ってきてんのか、とおもった」
「それがね、ヒロミの子どもが病気になって入院しちゃったのよ」
「浩一が入院したのか。またどうして」
伸彦は驚いたが、リタは詳しいことは知らないと首を振る。彼らをコペンハーゲンに置いたまま、ロンドンに帰ってきたのだそうだ。
埼京市の伯父と、コペンハーゲンの浩一と身内にふたりも病人をかかえたのでは、浩美も大変だ。浩美にしてみれば、コペンハーゲンに電話を入れこそすれ、ロンドンに電話してくる余裕はあるまい、と伸彦はおもった。
13
その晩、浩美はやはりほとんど眠れなかった。
北朝鮮に拉致された、という信じられない事実の恐ろしさ、息子の浩一がどうなっているだろうという不安、それが交錯し、すぐに眼が覚めて涙が止めどもなくあふれる。
「伸彦さん、助けて。お願いだから助けにきて」
泣きながら、浩美は叫んだ。
それでも子どもが泣き寝入りするように浅い眠りに入るのだが、たちまち朝鮮民航の爆音が耳に響き、躰《からだ》が木の葉のように揺れ始める。飛行機のなかで泣いていたアジア系の少女の顔が眼の前に広がってきて、眼が覚める。
また枕を抱いて、泣き、伸彦の名を呼ぶ。隠岐にいる母親の名を呼び、埼京市の伯父の名前を呼んだ。
「佐久間の伯父さま、申しわけありません。折角留学させてくださったのに、私、間抜けなことに北朝鮮に拉致されてしまったんです。助けてください」
白髪の、貫禄のある伯父の顔が浮かび、このうえなくなつかしかった。
朝方、胃の痛みに堪えかねて、トイレにいったが、ぐらぐらと眩暈《めまい》がして、便器に向う足が空を踏むように頼りない。胃のなかで怪物がうごめき、のたうつようで、浩美は便器にしがみついた。胃痛が甚だしく、便器にしがみついたまま、一時間近くを過ごした。
暫くして浩美は両肩をかかえて抱き起された。
ふたりの接待員にかかえあげられ、ベッドに運びこまれたまま起きあがれなくなり、接待員が運んできた朝食にも手がつけられなかった。
九時頃、車《チヤー》の大声が階下に響き、中山服の男はいきなり寝室に入ってきた。
「胃がわるいらしいな」
車は勝手にベッドの傍にすわりこんでいった。
浩美の額に手をあて、
「熱はないな。水にあたったんだろ」
という。
それから、毛布の下に手を突っこみ、「脈を見よう」といって手首を握って、毛布の上にひきだした。
「脈もそんなに早くないよ」
脈を取り終えたのに、男は手を放さない。
男の節のふとい手はゆっくりと浩美の腕を撫であげた。
「白くてきれいな手をしているね」
車はそう呟いた。
「この国では、農繁期に農村を助けにね、田植え戦闘に出かけるから、こんな白い手には、なかなかお目にかかれないよ」
14
浩美は結局、丸二日間、何も食べずに、平壌市内、牡丹峰《モランボン》の招待所の寝室で寝ていた。
トイレに立つたびに、鏡をなるべく見ないようにした。鏡の前を通り過ぎるだけで、ちらりと垣間見る自分の顔が衝撃と絶食のため、恐ろしく面変りしているのがわかる。頬がこけ、眼の下に黒く隈ができている。
──安原伸彦にこの顔を見せたら、幻滅されてしまうだろうな。
そうおもい、しかしもはや伸彦に一生会うこともないかもしれない、という想いに胸ふたがれ、浩美はベッドにすわりこんでひとしきり泣いた。
北朝鮮の対外文化交流協会の車《チヤー》は、相変らず毎朝、午前九時に見舞いにやってくる。
「なにも食べられないらしいな」
そういって、浩美の額に手のひらをあて、手首の脈を計る。脈を計ったあと、車のぶあつい手は、浩美の腕を撫であげてくる。車の手は、日ごとに上へとあがってきて、梁善子《ヤン・よしこ》が置いていった洗いざらしの浴衣の袖近くまで這い上ってくる。
車のぶあつい手に、なんだか切り傷なようなものが沢山あり、ざらざらと荒れているのまで浩美の薄い皮膚は、感じとるが、それを払いのける気力が残っていない。
浩美の二の腕を掴んだまま、車は、
「病院へ入ったほうがよくはないかね」
と訊いた。
精神病院に入れられて、一生出られなかった、という、どこか東側社会主義国の話が浩美の頭をかすめ、悪寒が走った。
「大丈夫です。胃が痛いだけですから」
「そんなに自分で勝手にきめこんじゃいかんな。胃が痛い、といって、じつは心臓が悪かった、というケースが沢山あるよ」
「私はよく胃をやられるんです」
実際、死んだ夫が白血病と聞いたときも浩美は胃痛になって、寝こんだものであった。
今度もキングストン語学学校の同級生に騙《だま》され、ベルリンから平壌へ強制連行されたことが判って、胃に潰瘍《かいよう》がいくつかできてしまったのだろう。
「寝ていればなおります」
そういって、車の手をそれとなく外すために額に手をやった。
寝こんで四日目の朝、車が、
「梁さんがね、あんたの荷物をコペンハーゲンから取り寄せてくれたよ」
大声でいいながら、部屋に入ってきた。
そのうしろから老若の女性接待員ふたりが、浩美のグリーンのサムソナイトを担ぎあげてきた。
「コペンハーゲンのスカンジナビア航空に連絡して、探しだして貰ってな、モスクワまで運んで貰って、あとはうちの朝鮮民航が運んできたんだよ」
女性接待員はじっと浩美の反応を注視している。
このサムソナイトは、浩美と一緒にベルリンから朝鮮民航で運ばれてきて、この招待所の下の小部屋にかくしてあった。
浩美が偶然それを見つけてしまったのだが、浩美に発見されたのは、自分たちの落度と、接待員はおもっている。「嘘でしょう。着いた日から下の部屋にあったじゃないですか」浩美がそんなことをいいだしはしないか、と彼女たちは恐れていた。
「ずいぶん早く見つかりましたね」
さすがに皮肉めいた言葉が口をついて出たが、ふたりの接待員に、こんなことで責任を負わせても無駄な気がした。
「おかげさまで助かります」
ふたりの接待員が安堵した表情で、階下へ降りて行ったあと、車はまた浩美の額に手をのせ、手首から二の腕を撫であげた。
車が帰ったあと、浩美は底にまるい石をいくつも敷いた風呂に湯を溜めた。
湯はちょろちょろと心細い音を立て、なかなか熱くならなかったが、それでもようやく七分ほど溜まったところで、ずっと着たきりの浴衣を脱ぎ、下着を取って湯に浸った。
浴室には「INSAM MADE IN D・P・R・K」と書いた紙袋入りの石鹸が置いてある。
「INSAM」を使おう、として気がついて、浴衣をひっかけ、寝室に引き返し、サムソナイトの暗証番号を押し、トイレット・キットを取りだした。ベルリンのホテルに置いてあった、銀紙包みの化粧石鹸の匂いが気に入ったので、トイレット・キットに入れておいたのである。
この石鹸で心なしか肉の落ちた躰《からだ》を洗い、洗顔クリームで顔を洗うと、女の気分の不思議さで、気力が少し戻ってきた。うすく化粧をして、これもサムソナイトに入っていた、下着をつけ、カシミヤのスウェーターを着、スコッチ・ハウスのスカートを穿《は》くと、気力がいっそう戻ってきた。
胃のあたりは相変らず重苦しいが、なにか固形物の食物が取れそうであった。この三日間、重湯のようなスープしか飲んでいない。
階下へ降りてゆくと、ふたりの接待員がぽかんと口を開いて、着替えをした浩美をみつめた。
「パンとハムエッグスをください」
浩美は日本語と英語で繰り返した。
学校給食で食べたような、固いコッペパンをかじりながら、ふいに、
──浩一は大丈夫だ。
霊感が閃《ひらめ》いたように、浩美はおもった。キティゴンが自分の子どものように浩一を可愛がってくれているのをおもいだしたのである。
クリスマスには、キティゴンは浩一を映画に連れて行ってくれたし、自分で抱いて二階へ寝かせに行ってくれたりした。キティゴンの性格のよさ、浩一への愛情は、母親の実感で理解している。キティゴンがついている以上、取りあえず浩一の身は安全だろう。
そして、安原伸彦も一見頼りなげに、口髭ばかりを撫でているが、頭は抜群によいのではないか。それからあっという間にデュッセルドルフやイランに行ってきてしまう行動力にも目を見張るものがあったではないか。
なによりも自分に対して、伸彦が抱いている愛情は本物だ、とおもった。こちらも女の実感で感じとっている。浩美の危機を知れば放ってはおくまい。
そして一番頼りになるのは、ロンドンに留学させてくれた、埼京市の伯父、佐久間賢一だろう。
つまり伸彦や佐久間賢一など自分にも心強い味方はいるのである。なんらかの方法で、この国に自分が強制連行されてしまったことを、彼らに連絡できないだろうか。ロンドンの伸彦に連絡するのは、難しいとして、埼京市の亡夫の伯父、というより父親代りの佐久間賢一に連絡がつかないものか。
浩美は金日成の肖像画を睨み、うすいコーヒーを飲んだ。
15
翌日、浩美は八時に起き、食事を摂って、|車 明吉《チヤー・ミヨンギル》がくるのを待ち受けた。
「おや、元気になったな」
車は躰をゆすって玄関に上ってきて、熱を計るように浩美の額に手を伸ばしたが、
「今日は、化粧してるじゃないか」
といった。
一、二歩下って、
「寝込んでいるときも、薄命の美人という感じでな、なかなか魅力があったが、化粧すると、いっそう美人だな。招待所に閉じこめておくのは勿体《もつたい》ない」
頷き顔にいう。
「私、外の空気に触れたいんです。新鮮な空気を吸ったら、気分が変るかもしれない、とおもいます」
「ほう、そりゃ結構な考えだ」
車が台所へ電話をかけにゆき、浩美は二階へ外出の仕度をしに行った。
二階で身仕度をしていると、若い接待員が寝室に入ってきた。薬包紙に包んだ胃の薬を三服、手の平にのせて差しだす。
「胃、痛いとき、これ飲むね」
浩美は下の小部屋にかくしていたサムソナイトを発見してしまったことを結局、車に話していないが、それをこの接待員は感謝しているのかもしれなかった。
まもなく車が乗ってきたのとは別のベンツが迎えにやってきた。玄関に入ってきたのは、先日、平壌に着いた日に、大同江の前のホテルで会った「公安警察」らしい、孫《ソン》という男である。平べったい顔に、菱形に角張った眼が、ふたつの穴のように開いていて、何の感情も宿していない。
「このひとは孫の字を書いて、ソンという人だ、国家|保衛《ほえい》部というところの所属だが、要するに外国からの大事なお客をガードする役人さんだ」
日本語は話せないが、英語を少し話すと、車はいった。
車は孫とふたことみこと話して、
「新鮮な空気に触れるのなら、万景台、マンギョンデだな。偉大なる首領様、金日成主席の生家があるところだよ」
浩美、車、菱形の眼の男、孫の三人を乗せたベンツは牡丹峰《モランボン》公園の枯木立の間を曲折する道を下って、またあのパリの凱旋門より大きいという石の凱旋門の前に出た。
浩美は初めて、この門を見たとき、どこか外国の墓を連想したが、今日は故郷の隠岐の墓にも似ていると、おもった。隠岐の古い墓は「須屋《すや》」といって木の屋根つきのものが多いが、石の屋根をのせたものもあるのだ。
凱旋門の右の柱には1925、左の柱には1945という数字が書いてある。「一九二五年は、偉大なる首領様が、これからゆく故郷、万景台を離れた年で、一九四五年は、偉大なる首領様がこの国に凱旋された年の意味だ」と車がいう。
相変らず平壌の街中はひっそりと静まり返って、車もほとんど走っておらず、人影もない。「廃市」という言葉があれば、それがふさわしい感じがする。
ベンツは静まり返った平壌市街を抜け、市の北西部に位置するらしい広大な公園ふうの場所で停車した。
広大な点では、浩美が訪れたイギリスの公園を連想させるが、樹木を自然のままに生い繁るのにまかせてあるイギリスの公園と異なり、この万景台は樹木もきれいに刈りこまれ、きいろい芝生もよく整備されてごみひとつ落ちていない。樹木の根元や石碑の周囲には卵形をした玉砂利ならぬ卵砂利が敷き詰められている。
「ここはな、聖地だよ。日本にたとえれば、伊勢神宮だな」
「つまり金日成主席は生き神さまってことですか」
「そういうことだ。この国の人民は、偉大なる首領様の神格化、絶対化、唯一化を信条として生きているからね」
車は重々しく頷いた。
ベンツを降りると、寒気は厳しいが、晴れ渡っていて気分はよかった。
公園の一角に、古い朝鮮半島の農家が残されており、それが金日成の生家を再現したものだ、という話であった。その農家の周辺には、見学者が詰めかけ行列ができている。
車の顔のせいなのだろう、他の見学者を差しおいて、三人は金日成の生家を見学した。
女性の解説員が待っていて、小さなわら葺き小屋を案内し、日本語で解説する。小さな部屋にはまたしても金日成一家の写真が盛り沢山に飾ってある。
金日成の曾祖父は地主の墓守りだったそうだが、女性解説員はきいろい声を張りあげて「偉大なる愛国者」であったことを強調する。金日成の父親も母親も「不撓《ふとう》不屈の反日革命闘士であられた」という。こういう家系だったから、当然ながら「偉大なる首領様、金日成主席は生まれながらにして、革命の英才であられました。この万景台こそ民族の太陽を生んだ栄光の地であります」。
女性解説員は甲高い声で喋《しやべ》り、浩美は「まるで選挙演説みたいだ」とおもった。毎日毎日、こうした泥臭い田舎芝居を演じ続けるのも楽ではあるまい。
「いったい革命っていうのは、いつあったんですか」
浩美は車明吉に日本語で訊ねた。
周囲は女子高校生の団体でいっぱいだが、日本語ならわかるまい。
「一九四五年八月十五日、わが反日闘争は勝利し、革命は成就したんだ」
「あれは日本がアメリカとソ連に負けただけの話で、北朝鮮には関係がないんじゃないですか」
突然、まわりの女子高生たちが、
「あのひと、日本語で喋ってるよ」
「在日かな、それとも日本人かな」
ざわざわと私語し始めた。日本から学習にきた朝鮮高校の一団らしかった。車が閉口したように、浩美の防寒|外套《がいとう》の袖をひっぱって、表へ連れだした。
「あんたは、朝鮮半島人民の苦難の歴史を知らんから困る」
「それはわかっています。私だって、どちらかといえば、左翼の演劇少女だったんですから」
しかし朝鮮半島の反日感情が激しかったのは事実として、抗日戦争自体が効果があったとはいえまい。戦車に遠くから石を投げる程度のものだったろう。
「要するに日本を負かしてこの国を造ってくれたのは、ソ連のわけでしょう。あのパリの凱旋門より大きいっていう凱旋門だって、別に金日成主席が戦争に勝って凱旋したわけではないでしょう。日本がソ連に負けた記念碑というのならわかりますけど」
「おやおや、急に元気になって、議論を仕かけてくるな」
車は余裕を見せて、浩美の質問をいなした。
「見てごらん。そこで少年団の入団式をやっている」
金日成の生家の前に、青い制服に赤いスカーフを巻いた少年少女が整列し、スローガンらしい言葉を叫んでいる。それから軍隊式の一種の挙手の礼なのだろう、いっせいに片手の甲を額の前に立てる敬礼をした。
浩美は少年団のわきを通ってゆく、日本からきた朝鮮高校の女生徒の一群をみつめた。
──なんとかあの朝鮮高校の生徒たちに頼んで、佐久間の伯父に連絡して貰えないものだろうか。
ロンドンに連絡するのは無理だとして、日本ならなんとか可能性が残っていそうな気がする。
この際、なんとかして埼京市の伯父に自分の危機を知らせるのが、ベストの手段なのではないか。
女子高校生は生家を背にして、右手の方向の坂道を下ってゆく。
そちらにバスが停っているに違いない。バスに飛びこんで、怒鳴ってみようか。
「私、佐久間浩美は北朝鮮に強制連行されました。埼京市の平安堂家具店に連絡してください」
それはあまりに危険過ぎる気がする。
浩美はふとおもいついて、
「私、トイレにゆきたいんですけど」
そういってみた。
「トイレはあっちのほうだ」
車は女子高校生の歩いてゆく方向を指差した。しめた、とおもい、そちらに歩きだすと、すかさず孫がぴたりと浩美のわきに付き添ってきた。
トイレは日本の公園にあるような、コンクリート造りの建物で、果して日本からきた女子高校生が何人も出入りしている。
女性トイレの前に孫を待たせ、浩美はトイレに入っていった。
入口で白いハンカチを口にくわえた三十前後の女が冷たそうに指の先を水道の水に濡らしている。その向う、三つある個室の前に、朝鮮高校の生徒たちが、二、三人ずつ行列していた。
「ちょっと臭うねえ」
そういってくすくす笑いをしている生徒もいる。トイレは水洗ではないらしく、激しい悪臭を放っていた。
一番奥の列に並んだ浩美は、自分の順番がくると、ドアを閉めた上で、ショルダーバッグを開いた。メモ用紙はないか、とおもったが、なにも見当らない。ふと気づいて、接待員がくれた胃の薬を取りだし、きいろい粉末を和式の便器に捨てた。三袋とも捨てると、薬包紙を拡げ、壁を机代りにして、
「埼京市駅前、平安堂家具店 〇四八―三三三―〇九八二」
とボールペンで書きつけた。冬の蠅《はえ》が一匹、浩美の手の甲にたかってきた。
トイレを出ると、行列している女子高校生に向い、
「私、佐久間浩美といいます。無理矢理、北朝鮮に連れてこられました。日本へ帰ったら、この番号に連絡してください」
そう叫んだ。
手に持っている薬包紙を手近の三人の高校生に押しつけた。
「そんなもの、受け取っちゃ駄目」
突然入口近くの洗面台で口にハンカチをくわえて手を洗っていた女が、手を拭きながら怒鳴った。朝鮮高校の女教師らしい。
女はこちらにやってくると、三枚の薬包紙を高校生から奪いとり、まるめて屑籠に投げ捨てた。
16
佐久間浩美は、トイレで朝鮮高校生に連絡しようとした試みが失敗してしまい、がっくり気落ちした。そのあと、おなじ万景台にある「万景台少年学生宮殿」を見せられたが、何の関心も起らない。
平壌市の少年少女たちがえらく立派な教室で、絵を描いたり、刺繍をしたり、楽器演奏をしているのだが、以前浩美が北京で見た「模範学校」や「模範家庭」そのままである。
絵の教室では、少年たちが石膏《せつこう》デッサンをしていたが、大人の画家の描いたデッサンの上をなぞって見せているに過ぎない。刺繍にしても、専門家の半製品の一部に針を刺したりしてみせているだけの話である。要するに外国人に金日成政権の政治的成果を見せるためのショウに過ぎない。
浩美は無気力に足を引きずって車《チヤー》と孫《ソン》に従って歩いたが、その日二度目の、おもわぬ冒険のきっかけが、午後の人民大学習堂見学の際に訪れた。
「人民大学習堂というのは、日本でいえば国会図書館だな。三十万部の蔵書が可能なんだ」
大同江を挟んで、主体《チユチエ》思想塔の正面に建っているのが、人民大学習堂で、東京の歌舞伎座を十倍くらいに拡大したような、瓦葺《かわらぶ》きの朝鮮半島の伝統的な建築物である。
入口を入ると、またしても巨大な金日成像の白色の座像が鎮座している。凱旋門がパリの凱旋門の模倣なら、これはたしかワシントンのリンカーン・メモリアルにあるというリンカーンの座像の模倣のようにおもえる。
大理石の円柱に囲まれた二階の閲覧室は浩美が見たこともない広さだが、天井のシャンデリアが高過ぎて、部屋は暗い。学生らしい若者たちが読んでいる本の紙質がザラ紙のように粗悪で、こんな暗いなかで、こんな紙質の本を読んだら、必ず眼をわるくしそうな気がする。
ミュージック・ルームを訪れると、カセットで美空ひばりの「柔」を流している。至るところ金日成、金正日の写真が飾られた建物のなかで聞く「柔」には、気分がわるくなるような違和感があった。
最上階の展望室では、関西弁をしゃべる日本人の中高年男性のグループに出会った。
「在日商工人のひとたちだな」
車が呟く。
商工人というのは北朝鮮系経済人ということらしい。
階下に降りるエレベーターがきて、在日商工人の一団はどやどやと乗りこんだが、乗りこんだ連中のひとり、小柄な禿頭の男が浩美に向って、
「お姉ちゃん、一緒に乗れや」
西日本訛りの柔らかい日本語で、手招きする。
金縁眼鏡をかけた商店主といった感じで、身長が一メートル五十センチ台の小柄な人物である。
咄嗟《とつさ》の判断で、浩美はエレベーターに走った。エレベーターは満員で、躰を斜めにしてやっと乗りこんだ。またしても間髪を置かず、菱型の眼の「公安」の男、孫がエレベーター・ガールのわきに強引に飛びこんだ。
肥っている車は自分も乗ろうとしてためらい、灰色の制服を着たエレベーター・ガールに「先にゆけ」と手で合図をした。
大型のエレベーターが動きだすと、
「姉ちゃん、在日同胞か、それとも日本人のお嬢さんかいね」
一団の中から声がした。
「日本人です」
浩美は答えた。
「日本人のお嬢さんがなんで平壌にきとるんや」
背後で声がした。
ふいにエレベーターががくんと音を立てて止り、躰を斜めにして乗っていた浩美は膝を禿頭の小男の腰のあたりにぶつけた。同時にエレベーターのなかの電気が消えた。
「また途中で止りよったで。今回の旅行でエレベーターの途中停車は二度目やね」
闇のなかで、グループのひとりが大声でいう。
「このエレベーターは在日の寄附じゃないやろな」
「ちゃうちゃう、こんなオンボロはロシア製にきまっとる」
エレベーター・ガールは制服のポケットから懐中電灯を取りだし、文字盤の下を開いて、緊急用の電話機をひきだした。電話機で、しきりに「ヨボセヨ、ヨボセヨ」と甲高い声で呼びかけ始めた。
しかし応答がないらしく、国家保衛部の孫がいらだって、エレベーター・ガールの電話機をひったくるように取って、「ヨボセヨ」を連呼する。
「エレベーターもロシア製なんやろが、電話機もロシア製らしいわ」
満員の乗客は割に平静である。
「指導員のおっさんが先に降りとるんやろ。すぐにあわてて助けに飛んでくるがな」
──今がチャンスだ。
浩美はおもった。
手招きして、このエレベーターに乗るように誘ってくれた、隣の小柄、金縁眼鏡の老人の上にかがみこんだ。老人の耳もとに口を寄せると、
「日本にお帰りになったら、埼玉県埼京市の平安堂家具店にご連絡いただけますか」
そう囁《ささや》いた。
「私、佐久間浩美と申します。伯父、というより父親代りの佐久間賢一にご連絡いただきたいんです。浩美が平壌にいる、ここから出たい、そうお伝えいただけないでしょうか」
「日本の姉ちゃん、もう少し大きな声で喋ってくれんかのう」
隅のほうから声がした。
エレベーター・ガールに気を取られていた孫が長い腕を伸ばしてきて、浩美の二の腕を掴んだ。在日の商工人グループに向って大声の朝鮮語で説明し始めた。
「なんや、バレーボールのコーチか。道理でおおきいわ。姉ちゃん、背はなんぼや」
朝鮮語がわかるらしく、だれかが納得したように日本語でいった。
「百六十七センチです。百七十はないんです」
今度はおおきな声で、浩美は答えた。
「共和国へきてから、小さい栄養不良の女子《おなご》ばっか見とるせいか、日本の姉ちゃんが特におおきく見えるんやろなあ」
電話が通じたらしく、エレベーター・ガールが指示に答えながら、懐中電灯でエレベーターの操作盤の辺を照らしている。
孫が浩美の腕を離し、また早口にエレベーター・ガールに指示している。
突然、エレベーター内の電気が点《つ》いた。
浩美が助けをもとめた、隣の小柄な老人が、
「あんた、なんかいうたかね」
浩美を見上げながらいい、首にぶら下げていた補聴器を耳にはめた。老人は耳がわるく、浩美のSOSは、通じなかったのである。
エレベーターが一回はねあがってから、ごとんごとんと降り始め、浩美は挫折感に打ちひしがれた。エレベーターと一緒に絶望の淵《ふち》に落ちてゆく気がした。
一階のロビーには、車を始め、大勢の朝鮮人、日本人が待ち受けている。
「定員オーバーで止まったんだよ。定員オーバーのブザーが故障しとって鳴らなかったんだ」
車がいった。
「姉ちゃん、元気だしいな。パルパル(一九八八年)のオリンピックが南北共催になったらあんたも頑張ってや」
金日成バッジを胸につけた在日商工人たちの何人かが口々にいう。
「あの連中は、祖国訪問同胞だ。こちらに帰った親類にね、つまり帰国同胞に面会にきたんだよ。親類が世話になっている、というので、いつも莫大な寄附をしてくれる、ありがたいひとたちだ」
──あの禿げた小柄な老人の耳さえよかったなら。
折角のチャンスを逃したとおもい、浩美は足の力が萎えて歩く元気も出ない。
牡丹峰《モランボン》の招待所に帰ったあとも、チャンスを逃した無念さは、あとを引いた。
寝室の窓の彼方、今夜も、主体思想塔の天辺《てつぺん》のかがり火が赤々と輝いている。
改めて、自分がなぜ、この北朝鮮へ強制連行されたのか、不思議な気がする。ただ日本の女を必要としていたのなら、ウイーンに何千人もいる、といわれる音楽留学生を拉致《らち》するほうがよほど簡単ではないのか。少くとも独身で、子連れでない女のほうが拉致連行しやすいことは間違いあるまい。そこにもなにかの裏の理由がありそうだが、さて梁《ヤン》や車は、浩美をどうしようと考えているのだろうか。
ウイーンで梁は「きれいな日本語をお話しになるのね」と浩美にいっていたものだ。訛《なま》りのない日本語を話せる自分は、たしかに日本語会話の教師としては資格があろう。しかし自分のように「資本主義の害悪」にたっぷり毒された女を、純粋培養されてきた、北朝鮮の学生にぶつけるのは、危険と考えないのだろうか。
今日、朝鮮高校の学習旅行の生徒のいるトイレで、また人民大学習堂のエレベーターのなかで、自分は「助けてくれ」とSOSを発したのだが、失敗に終った。あれはこの国で生き延びる道を自ら絶ってしまう行為だったのかもしれなかった。
翌朝、九時に車と孫がベンツで、またやってきた。
車は、
「引っ越しだよ。ちょっと遠い所へ移る。荷物を十分以内にまとめなさい」
と高圧的にいう。
荷物をサムソナイトに戻し、浩美は「もう駄目かもしれない」とおもった。
「ちょっと遠い所」というのは、多分強制収容所なのだろう。社会主義国に、必ず存在するという「この世の地獄」ではないのか。
恐らく昨日の万景台のトイレでの振る舞い、人民大学習堂のエレベーターのなかでの行動が通報されたにちがいない。
サムソナイトのロックをかけながら、浩美は亡くなった夫が『収容所群島』という本を繰り返し読んでいたのをおもいだした。
17
水田清はコペンハーゲンに帰ったものの、預かっている形の佐久間浩美の息子、浩一が入院したままで、退院の許可が下りない。デンマークの医師の話によると、マイコプラズマ性の肺炎には特効薬がないのだそうで、ただ体力の回復に頼るほかはない、という。
仕方なく、浩一をキティゴンにまかせたまま、水田は笹岡規也それに光寺修二を加えて、イギリスへゆき、オックスフォードの安宿に泊ることになった。
笹岡と光寺は「天皇制打倒」は赤衛軍の基本的テーゼであると主張して止まず、オックスフォード留学中の皇孫、高宮《たかのみや》襲撃にこだわった。
リーダーの滋山久子が、「とにかく襲撃可能かどうか、調査だけはしてみよう」と間を取り、オックスフォードにきて、高宮の身辺を探ることになったのである。
「あんたは、この話には気いすすまへんのやろ。まあ、ここんところは生まれついての過激派のわしらにまかしときなはれ」
笹岡はそういって、光寺とふたりで、毎日高宮の身辺を探っていた。日本の女性雑誌の記者とカメラマンを装って、片端から聞きこみをやって、詳しいメモを作っていた。
水田が覗いてみると、
「皇孫高宮の留学先、オックスフォード大学マートン・カレッジ、宿泊先はマートン大の宿舎最上階の三階だが、部屋を高宮《たかのみや》用に特別に改造、十畳の居間、六畳の寝室に加え、おなじ室内に護衛官用の寝室を設けてある。スコットランド・ヤード派遣のロナルド・ブロンテ、サージャント・ポリス(巡査部長)が居住。
日本からは東宮侍従と警察庁警視が派遣されているが、オックスフォード市内に居住。寮には同居していない」
「高宮の日常生活。〇七〇〇起床、〇八〇〇朝食、〇九〇〇週三回講義、十二〇〇昼食、十三〇〇講義、十八〇〇夕食」
「パブが好きでよく出かけるが、ゆきつけのパブはオーピアム・デン(阿片窟)∞ザ・ベアー%凵v
などと書いてあった。
学校や寮、よくゆくパブの位置など細かく地図、見取り図も書いてある。
ある午後、笹岡が時計を見て、
「そろそろ宮さんが寮へ帰る時間やな。あんさんも、ふて寝ばかりしとらんで、たまには宮さんのお顔を拝見しにいったらどうや」
と水田を誘った。
「そうだ、そうだ。水田同志、これは仕事だぜ。あんた、コマンドとしての義務を忘れたのか。痔《じ》と一緒に切り取っちまったのか」
光寺も独特の嫌味をいうので、水田もいやいや重い腰を上げた。
水田はこのオックスフォードという大学町が好きでない。パトニーのような新興郊外都市には、まだ水田のような人間の暮らす余地もあるようにおもえるが、この大学町には自分のようにドロップ・アウトした人間の住む余地はまったくなさそうな気がする。
しかし京大中退の笹岡は、この街が好きなようで、嬉々として毎日走りまわっていた。
「マートン・カレッジは創立一二六四年やで、日本でいうたら文永何年かな。とにかく鎌倉幕府の頃や。徳川以前なんや。詩人のエリオットもここを卒業してんのや」
昂奮した口調で語ったりする。
「笹やんもな、おとなしく京大出てさ、この学校へ留学してたら、母校の教授になれたかも知れんぜ」
水田は皮肉をいった。
「京都には、哲学の道とかいうのがあんだろ。学生連れてあそこ歩いて、私がオックスフォードにいたときには、よく今の陛下をお見かけしたもんです、なんちゃってさ」
石畳を踏んで、マートン校へゆくと、まもなく屈強なイギリス人二人と日本人の護衛に付き添われて、高宮が現れた。ジーンズにスウェーターという、リラックスした姿だが、小柄ながら、胸を張り、毅然たる風格がある。
「男っぽくていい顔してるじゃねえか。おれは皇室を見直したぜ」
そういいながら、水田は自然にお辞儀をした。女性雑誌編集者を装っているからか、笹岡、光寺もかなり深く頭を下げた。
高宮は軽く手を挙げ、ブロンテという男なのだろう、護衛官と英語で喋りながら、立ち去ってゆく。
すぐ傍らの観光客の群から拍手が起った。日本人の観光客が待ち受けていたのだろう。
その一群の観光客の間をすり抜けたとき、水田はだれかに背中を叩かれた。
振り向くと、安原伸彦が立っている。
「よう、安原の秀才」
反射的にそういったものの、水田は不意を衝《つ》かれて狼狽した。
「あんた、なんでこんなところにいるんだ」
伸彦は不審そうな顔をした。
「私はキングストンの学校の見学ツアーで、オックスフォードにきたんでありますよ。アンクルさんこそ、どうしてここにおられるんですか。いつパトニーへお戻りになったんですか」
「それがよ、パトニーにゃ、戻っちゃいねえんだよ」
水田は溜め息を吐いてみせたが、本当に弱っていたから、溜め息の吐きかたに実感が伴った。
「浩一がマイコプラズマの肺炎に罹《かか》っちまってよ、コペンで入院したままで、おれもキティゴンも動きが取れねえんだ。おれも商売があんでよ、この近くへきたんだが、またコペンに帰らなきゃならねえんだよ」
「リタから浩一君の入院の話は聞きましたが、まだ退院できないんですか」
伸彦は衝撃を受けた顔になった。
「すると浩美さんは日本へ帰ったままでありますか」
「そりゃそうよ。浩美は浩美で、重病の伯父さんとかの面倒見てんだよ。とってもコペンの子どもまで手がまわらねえわけだ。ただ浩一のやつは、肺炎たって、別段、命にかかわる病気でもねえしな、まあ、わしも浩一が退院したら、日本へ連れて帰るつもりじゃあ、いるんだがね」
「ふうん」
伸彦は髭をこすって唸った。
「そりゃ、私がコペンから日本へ浩一君を連れて帰らなきゃ、いかんのでしょうな」
伸彦が突っこんできて、水田はたじろぐ感じになった。
「その点を私が浩美さんと相談したいんでありますが、浩美さんの日本での連絡先を教えていただけますか」
水田はあわてたときの癖で、頭をがりがりと掻いた。
「急にそういわれても、おれはあんたと違って浩美と深い仲じゃねえし、電話番号は覚えちゃいねえな」
伸彦の顔が赤くなるのを見て、水田は心理的に余裕ができた。
「コペンに浩美の連絡先は置いてきちまったが、今夜でもキティゴンに聞いてよ、あんたに電話入れるよ」
18
オックスフォードの安宿で、日本赤衛軍の水田と笹岡は支援の光寺を加えて、密議を重ねていた。オックスフォードのマートン・カレッジに留学中の高宮《たかのみや》襲撃、誘拐がテーマであった。
「問題はようけあるけど、まあ、肝心のポイントは三つやろうな」
笹岡はいった。
「ひとつはどこで、高宮を誘拐するか、ということや。だいたいプロの護衛が三人はついとるやろ。スコットランド・ヤードの巡査部長が二十四時間、高宮の部屋に住みこんでるし、日本人の護衛もふたりついとる。特にスコットランド・ヤードは手強《てごわ》いで」
「ううん」
と水田は唸った。
「ふたつ目やけど、誘拐した宮さんをどこへご案内して立てこもるか、いうことやろな。これが一番楽やないで。相当長い時間、立てこもらなあかんやろが、その場所があるか、いうことや」
「学校の寮に押し入るのはよしたほうがいいぜ。なかに入るのが楽じゃねえしよ、なかにどんな仕掛けがあるか、わかりゃしねえ。便所にかくしドアがあってよ、隣の部屋からポリ公が入ってくるかもしんねえよ」
水田はいった。
「そら、わかっとるがな。三つ目は逃げかたや。ヒースローの空港も、なんや不安やしな。ジャンボ用意させたって、あれも客室のどこかに、穴が開いてて、貨物室から入れるらしいしな。ま、船、用意させてリバプールの港から出るか、やね」
「人質が大物だからな、いったんこっちの手に入りゃ、敵は人質を心配して手を出せんさ。恐い物は何もないよ。あんたら、考え過ぎよ。臆病風に吹かれとるよ。見る前に跳ぼうや」
光寺が噛みついた。
「まあ、聞いてや」
笹岡が制した。
「おれの考えは、宮さんがよう日本から付き添ってきた侍従はんの家にいかはるんやが、そのチャンスを狙うんやね。侍従はんの家は一軒家やさかい、まあ、狙いやすい。侍従はんの家の出入りどきに襲ってや、宮さんをここのつぶれた工場あたりへご案内して、閉じこもるんやな。それでネゴや。ネゴしてここから近いリバプールの港に船、用意させる。結果は金と交換ということになるかしれんけど、なにより宮さんをキドナップすることが大テーマや。世界中を騒がす大事件になるで」
笹岡は心あたりの工場があるから、下調べにゆこう、という。
三人は安宿を出て、大学の反対の方向へ向った。
オックスフォードの街は大学街としての名前のみが際立つが、自動車修理や部品製造の、中小の工場街が街の半分近くを占めている。その一角に笹岡がふたりを連れて行った。前庭が広く、その奥に二階建ての工場が建っているが、廃屋同然である。広い前庭でジャンパーを着た子どもが二、三人、黒と白の水玉模様のサッカー・ボールを蹴っていた。
「ここはな、浅間山荘やないが、まわりが見通せて、相手もなかなかよう近づかんやろ。ここに閉じこもったら、相当長期間、持ちこたえられまっせ」
ここも自動車関係の工場だったらしく、建物の前には車輪を外したトラックが疲れた牛のようにどたりとすわりこんでいる。その傍らにボロボロに擦り切れたタイヤがころがっていて、おおきなドラム缶が横倒しになっている。
「こんなところに閉じこもって浅間山荘の真似事やろうってわけかよ」
倒産して機械類は売却してしまったらしく、工場のなかはがらんどうで、奥には事務室があった。傷だらけの机が放置されている。
「こんな汚ねえ部屋に皇族をお連れすんのかね」
工場を出てみると、庭でサッカーをしていた子どもの姿が見えなくなっている。代りに数人の労働者ふうのイギリス人が門の外に立ってこちらを見ている。子どもたちが三人の東洋人を怪しんで、近所の連中に通報したらしかった。
「やばい感じだぜ」
「英語がわからんふりをしまひょ」
門を出ようとすると、イギリス人が、三人を囲んだ。
「おまえたち、なにしてた」
鋭く問いつめた。
「ミー、中国人《チーノ》、|仕事、探してる《ウイ・ウオント・ジヨブ》」
笹岡がいう。
「おまえたち、どこに住んでるんだ」
ほかのひとりが訊く。
「ロンドン、ロンドン」
今度は水田が答え、三人は逃げるように工場を離れた。
「おれたちだけじゃよ、黄色い顔が目立ってどうにもならねえんじゃねえか」
大学街へ入ったところで、水田はいった。
「ちょっとつぶれた工場下見しただけでよ、あのひとだかりやもんな」
「あんさんのいうとおりかもしれんな。梁《ヤン》のおばはん、呼び出して、相談してみるか。IRAとの共同作戦やれば、まだまだ望みありまっせ」
そこで笹岡は、水田の顔を見て、
「もう、浩美の子どもの病気は直ったんやろ。キティゴンにいうてさ、浩美の家を始末させたらどうや。荷物は倉庫に預けるなり、梁のおばはんのロンドンの家に預けるなり、なんとでもなるわ」
北朝鮮名、|梁 美善《ヤン・ミーソン》は日本国籍、ドナルド・オツールというイギリスの老人の金持ちと結婚してロンドンの高級住宅地に暮らしているのである。
19
オックスフォードで、アンクルこと水田に会った夜、安原伸彦はアンクルからの連絡を待っていた。
アンクルは「佐久間浩美の息子がマイコプラズマ性の肺炎に罹《かか》って、まだコペンハーゲンの病院に入院している」といい、伸彦が「佐久間浩美の連絡先を教えてくれ」と頼んだところ、「おれがコペンに訊いてよう、今夜、秀才に電話してやるよ」といってくれたのである。
その日はだから、キングストン語学学校から帰ると、そのまま買物にも出ず、家で電話を待っていたのだが何の音沙汰もない。伸彦はしびれを切らして、コペンハーゲンのホテルに電話してみた。直接キティゴンを呼びだして、浩美の日本の連絡先を訊こうとおもったのである。
ところが以前、アンクルとキティゴンが滞在していた、というホテルに電話してみたが、彼らはそのホテルをチェック・アウトしたあとであった。
浩一の入院が長期化して、ホテルの費用がかさみ、もっと安い宿に移ったのだろうか、と伸彦は考えた。
そのまま日が経った。
商売が閑《ひま》になったせいか、ラファエル・サラザールは語学学校に毎日きているが、撲《なぐ》り合いをやって以来、ふたりとも素知らぬ顔で口をきかない。
アンジェリカとは、つかず離れずの交際だが、最近は宮井物産ロンドン支店の森のもとに頻繁に出入りしている気配である。森のほうも「あれはそこはかとのう色気があってよか」といって気に入った様子だったから、ふたりの間で、保険の商談を進めているのだろう。
伸彦は毎日、学校の行き帰りに、浩美の家の前に必ず行ってみるのが癖になっていた。今日こそは浩美が突然帰ってきているのではないか、そんな期待感から、どうしてもそちらに足が向いてしまうのだ。
一月末の午後、タウン・ハウスの一番端の浩美の家に電気が点《つ》いて、玄関のドアが十センチほど開いているのに気づいた。
家の前にはミニではなくて、古いオペルが停まっていたが、家に電気が点いている、という一事で伸彦は眼が眩《くら》んだようになった。
「やっと日本から帰ってきたか、浩美さん」
伸彦は車のキイを抜くのももどかしく玄関に向って走った。
少し開いたドアの中を覗くと、女がひとりいて、ダンボールの箱のなかに、なにか詰めている。
──空き巣か。
一瞬そうおもったが、女は伸彦を見て、
「ハロォ」
と手を挙げた。
キティゴンの同級の、リタというフィリピン女性で、浩美たちと一緒にツアーに出かけた女性であった。浩一がコペンハーゲンで病気になり、入院をして、ロンドンには帰っていない、と教えてくれた娘である。
フィリピン娘は浩美が買い集めた、アンティークの花器を新聞にくるんで箱に詰めている。
近寄って箱のなかを眺めると、クリスマスに浩美がダリアの花のようにスモーク・サーモンの刺し身を盛りつけた大皿らしいものや小皿や茶碗らしいものが、浩美のとっていた新聞、デイリー・テレグラフに包まれて、詰めこまれている。
「ヒロミ、この家から引っ越すよ」
フィリピン娘はいった。
「日本に帰ってしまうのか」
衝撃を受けて、伸彦は訊ねた。
「よく知らない。二階にキティゴンがいるから訊いてごらんよ」
二階の寝室へ上がってゆくと、寝室の床にしゃがみこんでいるキティゴンの後ろ姿が見えた。こちらは古い型のサムソナイトに、浩美のドレスを一枚一枚床に拡げて畳んでは、丁寧にしまっている。
「キティゴン」
声をかけると、一瞬それこそ空き巣の現場を見られたかのように、キティゴンの肩がびくりと震えた。浩美のドレスを畳む手が止った。
一拍の間があって、キティゴンはゆっくり立ちあがり、こちらを振り向いた。
「ハウ・アー・ユー」
きらりと眼を光らせて伸彦を見た。その光る眼を伸彦から外《はず》して、
「ヒロミ、もうこのハウスに帰ってごないよ」
といった。
「ハウスのコントラクト、キャンセルして、荷物、日本へ送《おぐ》れ、わだし、そう頼まれただよ」
東北弁のように濁る日本語でいう。
「わだしだち、荷物、日本に送って、浩一も日本に連れてゆぐよ」
──浩美はもうロンドンへ帰ってこないのか。
伸彦はがっくり気落ちして、幅広のダブル・ベッドに腰をおろした。しかしなぜ、このおれには連絡をくれないのだろう。伸彦は呆然として、無意識にベッド・カバーを撫でた。
ひと月前の年末は、このベッドの上で、連夜、浩美と愛情の交歓を重ねたものであった。
浩美は真白な裸体を艶やかにのけぞらせ、眉をしかめ、赤子のように首を振って、
「あなたが好き。今まで会っただれよりも好き」
と繰り返し呟いた。
「先輩の亡くなったご主人よりも好き、と考えていいわけでありますか」
伸彦が意地わるく突っこむと、浩美はうるんだ眼を開いて、深く頷いたものであった。
その浩美が何の連絡もよこさないのである。
「ノブヒコ」
キティゴンが声をかけた。
抽き出しを全部、引っぱりだした整理箪笥の前で、キティゴンは白い絹のパンティをかかげている。
「これ、浩美のメモリーに持ってゆぐか」
絹のパンティと一緒にみごとに張りだした浩美の腰がまざまざと浮かびあがったが、伸彦は首を振った。
「浩美はなんだか急におれのことが嫌いになってしまったらしい。嫌いになったおれがそんなものを貰ったと知ったら、怒られてしまうよ」
十代の頃から、日夜揺れ動く娘たちの気持の振幅の激しさには、絶えず傷ついてきたものだ、と伸彦はおもった。
「なんだかね、私自身も理由がはっきりわからないんだけど、私、急にあなたが嫌いになったの」
学生時代に面と向って、そういわれたこともある。何が理由か想像もつかないが、あの学生時代の娘のように浩美はふいに伸彦のことを嫌いになって遠くへ離れて行ってしまったのだ。
「どうして、ノブヒコ、ヒロミが愛しでない、わかる?」
両手にパンティを握ったまま、キティゴンは、伸彦に近づいてきた。
「だって、ベルリンから日本に帰ったまま、何の連絡もくれないんだぜ。電話もなければ手紙もこない。急に声を聞くのも、顔を見るのも嫌になったとしかおもえないだろう」
キティゴンは窓に近寄り、
「そんなこどないよ。ヒロミ、ノブヒコのこと、とでもとでも愛してる。ベルリンへノブヒコがこなかったとき、がっかりしてね、泣きそうだった」
すっかり暮れた戸外を眺めていう。
「じゃあ、どうして連絡をくれないんだ」
「わだし、知らないよ。だけど、きっど深い理由、あるとおもうよ。とでもノブヒコを愛しているけれど、連絡とれないとかね」
少し気持が落ち着いて、伸彦は室内の荷物を見まわした。
「この荷物はどこへ送るんだ」
キティゴンは首を振った。
「わだし、日本語読めないから知らない。いったんこの近くのホテルへ運んで、そこからあんさんが日本へ送るね」
家の前に停めてあるオペルで運ぶのか、とおもった。
「あんさん、今、どこにいるんだ」
「今、外国よ。商売で行ってる。わだし、浩一と一緒にホテルで待っでるよ。浩一、まだ元気なくて、ベッドで寝てるけどね」
ホテルはこの近くのリッチモンド・パーク・ホテルだ、という。
夜、連絡することにして、寝室を出ようとして、すっかり枯れたまま、花瓶に活けっぱなしになっている薔薇の花が目に入った。年末に伸彦が浩美に贈った薔薇である。みじめに茶色く枯れた花びらが床一面に落葉のように散っていた。
──おれたちの恋も枯れ果てたのでありますか、先輩。
伸彦は呟きながら、階下へ降りた。
フィリピン娘に声をかけ、玄関を出ようとして、郵便受けに日本語の葉書が挟まっているのに気づいた。
手に取って見ると、
「新年お目出とう。
毎週、折目正しく手紙をくれた貴女から、新春以来、何の便りもなく心配しております。欧州大陸への旅行からは、確か六日に帰着しているはず、NO NEWS IS GOOD NEWSと言うから、無用の心配とは思うが、一言お便り下さい。旅行で金を費《つか》い、手元不如意なら、料金当方払いで、電話下さい。因《ちな》みに此方から電話入れても応答なし。不一」
差し出し人を見ると「埼京市、佐久間賢一」とある。
この佐久間賢一こそ、急病になって、浩美が急遽見舞いに駆けつけた、という伯父さんというか、父親代りの人物なのではないか。葉書の文面には病気の「病」の字も見当らない。
その葉書を急いでポケットに突っこみ、伸彦は逃げるようにタウン・ハウスを離れた。
車のエンジンをかけながらタウン・ハウスを見あげると、二階の窓ぎわにまるで亡霊のようにキティゴンが立っていて、こちらを見下ろしている。
伸彦は急いで車を発進させた。
佐久間賢一が健在だとすると、浩美が伯父の急病のために日本に帰った、という話は嘘になる。これはおかしい、と伸彦はおもった。
浩美の身にベルリンでなにかが起ったのではないか。そのことをアンクルの親父もキティゴンも知っていて、故意に伸彦に隠しているのではないか。
夜、リッチモンド・パーク・ホテルに電話を入れてみようとしたが、電話局の交換手はそんなホテルは存在しない、といった。
日本時間が午前九時になるのを待って、伸彦は浜松楽器の浜松本社に勤める、兄の龍彦を呼びだした。
「龍ちゃんはピアノの材料専門だけど、浜松楽器は家具も作ってるんだろう。埼玉の家具屋さんの住所なんてのは、わかるかな」
「ああ、同期が家具部にいるから、訊いてやるよ」
龍彦は簡単に請け合った。
20
ロンドンの高級住宅地、ベルグレイビアに住んでいる|梁 美善《ヤン・ミーソン》とは、まもなく連絡が取れ、梁は例のリムジン型リンカーンに乗って、オックスフォードにやってきた。
笹岡規也と光寺修二は今日も高宮《たかのみや》の動静を探りに行って、まだ帰っていない。
安ホテルの狭いロビーで、水田は、
「佐久間浩美はどうなってんの。生きてんのかね」
と梁に訊ねた。
「勿論、お元気よ」
梁美善は涼しい顔でいった。
「眼が覚めたら、地獄の平壌ときちゃ、ショックも大きかったろうな。気絶したりしなかったかね」
水田は真面目な顔で訊いた。
「地獄の平壌だなんて、あなた、悪口おっしゃってるのね。平壌は|金 正日《キム・ジヨンイル》書記が毎晩パーティをなすったりして、こんな退屈なイギリスより、ずっとおもしろいところよ。水田さんも、一度いらしたら?」
「おれは結構だけどよ」
水田はあわてて手を振った。
「まあねえ、車《チヤー》という私の兄がね、対外文化交流協会、じつは対外情報調査部という情報機関の部長をしておりましてね、彼女のお世話しておりますのよ。毎日、精がつくように、朝鮮人参のクリームや犬のお肉、差しあげてるから、もっとお元気になるでしょ」
「浩美に犬の肉、食わしてんのかね」
「あれはねえ、日本の鰻とおなじで、とっても精がつきますのよ」
「子どもと別れ別れになって、平壌へ連行されて、犬の肉、食わされてんのか。浩美もえれえ可哀相なことになったな」
水田は暗然たる想いになった。
「それで、いったい、今後浩美をどうするつもりだね」
「まあね、一度、金正日書記にお見せしようかって、兄といってますのよ。親愛なる指導者同志のお気に召せば、一生、お傍で働いて貰ってもいいしねえ」
やれやれ、浩美は北の大奥に売られちまうのか、と水田はいよいよ気持がふさいだ。
笹岡と光寺が帰ってきて、市内で簡単な食事をしたが、食後、席を外した笹岡が、
「今、そこのな、オーピアム・デン、阿片窟いうパブにな、宮さんがきてはりますわ。ちょっとお顔、拝みに行ってみますか」
そこで梁を交えて四人、パブに高宮の様子を見に行った。
オーピアム・デンは奥行きの深い、うす暗いパブだが、立て混んでいる奥で、高宮の一行がさかんに談笑している。
「これはなかなか難しい空気ね」
梁美善がいった。
「地元の警察なのかな。われわれをじっと観察している男女が、少くとも二組はいる感じざんすよ。われわれがもう二、三歩動いたら、わっと取りおさえられるかもね」
しかし高宮はまったく周囲を意に介さず、驚くべきことに、侍従の酒のお代りを自分でカウンターに行って、注文したりしている。ひどく気さくな性格と見受けた。
「あたくし、いつでもね、IRAの幹部はご紹介しましてよ」
梁はいった。
「だけど、この工作がうまく組織できて、高宮様が日本赤衛軍の手に落ちたら、わたくし、ご紹介いただきたいわ。高宮様とご一緒に記念写真を撮っていただきたいの」
21
佐久間浩美は、平壌にきた朝鮮高校の女子生徒や在日商工人の老人に「助け」を求めたのが露見してしまい、強制収容所に連れてゆかれるものと、おもいこんでいた。
浩美と車《チヤー》、孫《ソン》の三人をのせたベンツは、平壌の街とは反対の方向に走ってゆく。
車や孫も妙に黙りこんでいる気配で、浩美は、道路の両側の、ほとんど人家の見えない野原を、「この世の見おさめかな」とおもいながら、眺めていた。
――私は、初めて「アンネ」の主役になったんだ。
小劇団の公演で「アンネの日記」に脇役で出たことがあったが、三十歳を過ぎてまさか自分がアンネとおなじ運命を辿るとは、予想もしないことだった。浩美は動悸の激しい胸をおさえて、後部座席に頭をもたせかけ、眼を閉じていた。
「あんたは、朝鮮人参のクリームをちゃんと食べているのかね」
隣にすわった車が話しかける。
「あれは色が黒くて、慣れんうちは食べ難いかもしれんが、日本のな、海苔《のり》の佃煮を食べる、とおもえばいいんだ。とにかく躰《からだ》にはよくきくよ。精がつくぞ」
収容所に入れられても、朝鮮人参のクリームが食べられるのか、と浩美はおもった。
ベンツは平壌を出て二十分も走ったところで、横道に折れ、ゆるやかな丘陵地帯に入った。曲折する道を登って行った丘の上、やはり雑木林のなかに、コンクリート造りの二階建ての家が建っている。
「ここが新しい招待所だ。当分、ここで暮らして貰うことになるよ」
浩美は強制収容所に連れてゆかれる、とおもいこんでいたから、新しい招待所と聞いて胸を撫でおろすおもいであった。収容所は刑務所だが、招待所はゲスト・ハウスである。「ここで当分、暮らして貰う」というのは、考えてみれば恐ろしい言葉であったが、恐怖感のレベルが違った。
なんとなくこの朝鮮民主主義人民共和国という国の底知れぬ恐ろしさを、浩美も肌で理解し始めていたのである。
新しい招待所は、牡丹峰《モランボン》の招待所とほぼおなじ大きさのコンクリート二階建てで、しかし牡丹峰の家と違って、緑の瓦屋根はついていない。
ここにも中年と若い娘のふたりのコンビの接待員がいて、迎えに飛びだしてきた。ふたりがかりで、浩美の大型のサムソナイトを家のなかに運びこんでゆく。
玄関先で、浩美はふと視線を感じて、振り向くと、ほとんど老婆のように見える女性が、頭に籠をのせて、こちらをみつめている。青い粗末なジャンパーに同色のもんぺのようなズボンを穿《は》いていて、野良着姿といっていい。頭の籠から、白菜や細い大根が顔を出していて、この招待所出入りの野菜売りらしかった。
「今日はここでゆっくり休んでください」
車がいう。
「散歩してみたらどうかな。まあ、この招待所の見える範囲なら、出歩いてもかまわんよ」
いつのまにか、自分は「客」の身分から「出歩いてもかまわんよ」といわれる「捕虜」の身分に落ちている、と浩美はおもった。
「北朝鮮に連れてきていただいたうえに、散歩まで許していただいて、ありがとうございます」
浩美は精いっぱいの皮肉をいったつもりだったが、車は一向に動じる気配がない。一歩近寄ってきて、
「毎日、人参クリームとな、肉だけは食べなさい。今でも美人だが、ちょっと疲れた美人だ。もっと元気な美人になって貰わんとな」
言葉と一緒にキムチの匂いを撒き散らしながら強圧的にいった。
新しい招待所は、やはり「収容所」の趣きがあった。
前の招待所の接待員は、片言にしろ、日本語を話したが、今度の接待員はふたりとも日本語も英語も話さない。筆談は通じるか、とおもったが、ハングル文字しか習っていないらしく、漢字も読み書きができない。
午後、接待員たちが、向い側の寮に引き揚げたところで、浩美は車《チヤー》に許された散歩にでかけた。
冬枯れた林間の道を下り、招待所から遠くへ遠くへと歩いて行った。
故意に道を外れ、雑木林のなかに入りこんだ。道のない林間で、切株につまずいたりしながら、数百メートル歩いた。ふいに細い農道のような道に突きあたり、その向う、道路より低い場所に数軒の小さな家が現れた。
両端の跳ねあがった、もとは緑色だったらしい瓦屋根がのってはいるが、屋根の重さに耐えかねて、家全体が崩れ落ちそうな、古い家である。家の壁も、もとは白壁だったのがうす黒く汚れて、板戸が開いている。
一番手前の家の前に共同水道場があり、裸の鉄管が一本、空に突き出していて、蛇口から赤く濁った水がちょろちょろと落ちている。年老いた女が蛇口の下に剥《は》げちょろけの琺瑯《ほうろう》びきの鍋を置き、野菜を洗っている。
水が冷たいだろうに、手袋もはめておらず、小さな手が真赤にふくれて見える。ひどい霜焼けの上に、水の冷たさが加わって、手が真赤に見えるのだろう。
浩美は林の端に立ち、道路ごしに老婆をみつめていた。
水の出の悪いこと、手の赤くふくれていること、洗っている野菜の粗悪なことに驚いて、足が前に出ない。大根を丹念に洗っているのだが、それが人参のように細い。
「あんた、日本人でしょう」
真赤にふくれた手で、大根を洗っていた老婆が、尻あがりの日本語で、突然、そういった。
浩美は聞き違えか、とおもい、周囲を見まわしたが、目の届く限り、浩美と老婆のほかに人影はない。
「そうです」
浩美はまだ道に出ずに答えた。
「あんた、ここのさ、役人にひっつかまって、北朝鮮に連行されたんだろ」
老婆は相変らず野菜を洗い続けていて、こちらを見ない。
「まあ、そういうことみたいですね」
浩美は答えて、一歩道路に踏みだした。
道路は石炭がらを棄てたのか、黒く盛りあがっている。
「どこから連れてこりゃあたの」
日本のどこかの地方の訛りが出た。
「ドイツのベルリンです。イギリスからベルリンに旅行に行ったところで、薬を呑まされて、飛行機で運ばれてしまったんです」
そこで初めて老婆はこちらを眺めた。皺だらけの顔にまぎれこみそうな細い眼が好奇心に光っている。
「ベルリン? そりゃあ、えりゃあこっちゃ。大抵の日本人は日本海の海岸から、さらわれてくるんだがね。日本の警戒も厳しくなったから、方針を変えたんかな」
老婆は洗っていた細い大根をバケツの傍らに置いて、こちらに向き直り、立ちあがった。
浩美は老婆が先刻、招待所に野菜を頭にのせて運んできた野菜売りと気がついた。
「あんた、この国からは生きて出られんよ」
老婆は腰に手をあてて、宣告するようにいった。
「私もね、日本人なんだ。朝鮮の男と結婚してさ、この国へきたんだがね、もう、そりゃあ、往生《おうじよう》こいたわ」
女は睨むように浩美をみつめている。
「日本人のことをこの国のやつらはチョッパリ、チョッパリって、馬鹿にしてさ、チョッパリってのは豚の足の意味でさ、日本の足袋《たび》がな、豚の足に似てるからってわけよ。チョッパリというだけで、すぐスパイだ何だと密告されて、強制収容所送りよ。収容所でまた密告されて、銃殺か絞首刑、そうじゃなきゃ栄養失調で餓死するのよ。朝鮮の男と結婚して、この国へきた日本の女は五、六千人いたが、何人生きてるだかね。まあ、半分も生き残っとりあすかな」
大声でいう。
話の深刻さに衝撃を受けながら、しかし浩美は、
――ははあ、この老婆に会うことも、北朝鮮側のシナリオに入っているんだな。
とおもった。
車は、この老婆を通じて、北へきた日本人の運命の酷薄さを浩美におもい知らせ、この国に止って、この国の政府に協力する覚悟を固めさせよう、という腹なのだろう。
浩美は余裕ができて、微笑を浮かべた。
「私は、朝鮮民主主義人民共和国を信じているんです。この共和国は偉大な首領様が統治しておられる、公明正大な国家ですから、何の罪もない私のような人間を放っておくはずがありません。必ず近いうちに日本かベルリンへ帰してくれると信じています」
老婆は浩美をみつめたまま、皺のよった唇をゆがめた。嘲笑に似た笑顔になった。
「とろくっさあこといって、あんた、おとぼけか、極楽とんぼか、よう判らんけど、国はどこきゃあ?」
「出身は島根の隠岐島です」
「名前はなんていうの」
老婆はたたみかけてくる。
「佐久間浩美です」
そこで老婆は遠くを見る顔になった。
「昔、愛知の私の家へ、高賢一、日本名佐久間賢一という男がみえとったが、もしかして、あの佐久間賢一のなにかかね」
「佐久間賢一は伯父ですが、伯父をご存じですか」
老婆は黙りこみ、細い大根を掴んだ。
「伯父をご存じですか」
遠くで犬の吠える声がした。
「犬も吠えとるよ。もうそろそろ、あんたも招待所へ帰りゃあせ。そのうちまた会えるよう」
老婆は歌うような愛知弁で浩美を促した。浩美は招待所のほうへ歩きだした。
――あのお婆さんが伯父のことを高賢一と呼んだのはどういう意味だろう。
後方から、シェパードを連れ、自動小銃を背負った兵士がふたり恐ろしいスピードで追いかけてきた。小柄だが屈強な体格の兵士たちである。
22
梁善子《ヤン・よしこ》こと北朝鮮対外情報調査部の工作員、|梁 美善《ヤン・ミーソン》がアイルランド系イギリス人の夫、ドナルド・オツールを通して斡旋《あつせん》をして、日本赤衛軍のリーダー、滋山久子は、IRAの幹部と会うことになった。
オックスフォード大学留学中の高宮《たかのみや》襲撃について、日本赤衛軍と共同作戦を取ってくれる余地があるか、IRAに打診するためである。
会合の場所はウイーンにある、金正日直轄の北朝鮮系銀行、ゴールデン・スター・バンクであったが、天皇制打倒、ひいては高宮襲撃を強く主張する笹岡規也が滋山久子についていった。
水田清は日本赤衛軍の光寺修二と一緒にPFLPのダビトの事務所で、会談の終るのを待っていたのだが、三時から始まった会談は三時間以上かかり、六時になって、やっと滋山と笹岡が事務所に帰ってきた。帰ってくるなり笹岡は、
「ほんま、くたびれましたわ。アイルランド訛りの英語はようわからへんし、おまけにえらい頑固な連中ときよるしなあ」
古いソファにひっくり返って頭髪を掻きあげた。
滋山久子のほうは、わりに落ち着いていて、
「ダビト、コーヒー頂戴」
と英語で頼んだ。
「梁美善は紹介するなり、帰ってしまったでしょ。あのゴールデン・スター・バンクには、とにかくまるで外国語のできない北の連中ばかりで、お茶いっぱい出してくれなくてねえ」
手早くダビトがコーヒーを出してくると、滋山はひとくちすすって、
「ああ、生命の水だね」
肩で息を吐いた。
そして、一同を見まわし、
「結論からいいます。高宮襲撃計画は中止します」
といい、反応を見るように一座の顔いろを見まわした。
「中止、なんで中止するんですか。ろくに計画もつめんうちに中止とは、滋山同志も消極分子だな」
感情家の光寺が高い声で反論した。
滋山は落ち着いたもので、
「IRAは他国の王室は襲撃しない方針だ、というのよ。北アイルランドの独立がわれわれの目的であって、日本の皇族襲撃に加わっても、なんのメリットもない、というんだな」
淡々たる口調で話した。
「まあ、なんちゅうのか」
笹岡が両手をだらりとのばし、ソファに寝そべったまま、いった。こちらは疲労し、挫折した表情である。
「わしも口を酸っぽうして口説いたんやが、あの連中には世界同時革命なんて理念はないんやね。北アイルランドさえ独立できれば、ほかはどうなってもかまへん。そういう利己的な連中や」
「サミーラ同志」
光寺は滋山のアラブ名で呼びかけた。
「天皇制打倒は日本赤衛軍の基本理念じゃないですか。日本赤衛軍は天皇制打倒によって、日本の人民大衆にアッピールする道が開けるんだ。IRAが乗ってこんのなら、われわれだけでやろうじゃないですか。せめて爆弾くらいしかけさせてください」
北海道出身の光寺は、一九七三年に昭和天皇の御召列車爆破を計画、荒川鉄橋に爆弾をしかけて、見とがめられ、未遂に終った過去を持っている。
「そやけどな、あんたも見たやろ。スコットランド・ヤードからふたり、日本からふたりきとって、警備は厳重やで。それに加えて地元の警察や。こないだの工場下見がいい例で、きいろい顔したのがうろうろしたら、たちまちひっくくられるで。IRAが協力してくれへんのやったら、ここはすっぱり退《ひ》きまひょ。さもないと日本赤衛軍は全滅や」
笹岡はなだめる口調である。
滋山久子は熱い紅茶でも呑むように両の手のひらのなかに、コーヒー茶碗を包みこむようにして、コーヒーをひとくちすすった。
「日本赤衛軍の基本理念は守るわよ。それから日本回帰も充分、考えてる」
そこで滋山は顔をあげた。
「ここで作戦を天皇制打倒から日帝打倒に切りかえます。昔島根でやった銀行襲撃のM作戦、欧州で計画した翻訳作戦、あれは日本企業の支店長襲撃の作戦だったけど、その翻訳作戦を今度はアジアでやろう、とおもうの」
一同の顔を見まわした。
「アジアのどこですか」
「フィリピンやろな」
笹岡が言下にいった。
「フィリピンはな、日本企業が出てくるとや、ひと握りの金持ちがいよいよ金持ちになって、人民大衆はいよいよ貧しくなる国なんよ。バターン加工区がいい例や」
「今、円高でね、日本企業がいっせいにアジアに出始めているのよ。それをフィリピンの線で阻止したいんです」
滋山がはっきりした口調で方針を打ちだした。笹岡との間では、話がついているらしかった。
「私の父親はね、民族の心を知らぬ者が世界革命を唱えても、コスモポリタンに過ぎない、ってよくいってた。ここでアジアの、フィリピンの民心を大事にしよう。ここにいるダビトはフィリピンのゲリラ部隊、モロ民族解放戦線の出身だしね、フィリピンの左翼の同志に呼びかけて、共同作戦を行なおう」
一同驚いてダビトの顔を見た。
「水田同志、あんた、女子どもを連れて、マニラに行ってくれない? もう一度中小企業の経営者に化けてさ、マニラに住みこんでくれないかな」
「そりゃありがてえな」
水田はおもわず顔がほころんだ。
「マニラはいってみりゃ、歌舞伎町だろ。おれは育ちがわるいからよ、乙《おつ》に澄ましたヨーロッパより、上野、浅草、歌舞伎町が性に合うんだよ」
23
埼京市の平安堂家具店は、駅前から市の中心部に通じる大通りに面して建った三階建てのビルである。一階二階が家具の展示場になっており、三階に事務室、社長室がある。
佐久間賢一は五十代半ばだが、大男で、鼻のおおきい、立派な顔をしている。
義理の姪に当たる佐久間浩美から、「伯父さま、千田是也先生みたい」といわれて、気をよくしたことがある。その姪のことで、不安を覚え、賢一はポケットに両手を突っこみ、社長室のなかをぐるぐると歩きまわっていた。
佐久間賢一は日本国籍だが、父親は朝鮮半島から働きにきた在日朝鮮人であった。
賢一は戦後、朝鮮総聯の前身、在日日本朝鮮人聯盟、通称朝聯で、働いていた。昭和三十五、六年当時は、朝聯の「帰国対策委員会・宣伝部」の専従であった。差別が激しく、まともな就職機会もなく、子どもの非行化になやむ日本を離れ、「祖国、北朝鮮」へ帰ろうと、帰国運動を指導し、在日の人々の間を説いてまわった当事者である。
率先垂範をしめすべく、たったひとりの弟夫婦を祖国へ帰還させたが、一年経って、弟夫婦は密告され、公開銃殺された。日本から持って帰ったトランジスター・ラジオで日本の放送を聞いていることが露見し、スパイ容疑で処刑されたのである。
この事実を耳にしてから、賢一は朝聯を離れ、いわゆる「商工人」に徹してきた。幸い家具店、ゲーム・センターともに成功し、日本の社会にも受容されるようになった。
現在は埼京市商工会議所の副会頭やロータリー・クラブの役員にも推されている。
自分には子どもがないので、弟夫婦が預けて行った甥にゆくゆくは事業を託す心算《こころづもり》だったが、この甥は若くして病死してしまった。そこでたったひとりの縁者である甥の妻、佐久間浩美に自分の仕事を譲ろうと考えた。弟夫婦を北朝鮮へ送り帰し、死なせてしまった責任をなんとしてもとりたかったのである。
ところがロンドンへ送りだし、勉強させている、その浩美の消息が、最近どうもおかしいのである。
几帳面な娘で、毎週毎週、レポートのように手紙をよこし、語学学校や、賢一が誰よりも可愛がっている浩一の様子を報告してよこしていた。最近は家具修繕教室に通っているそうで、その授業の光景を写真や図解入りで、報告してきていた。
ところが、一九八五年の年が明けてから、その手紙がこなくなった。電話して呼び出し音の数を十回数えても、だれも出てこない。
欧州大陸へ旅行する、といっていたが、きっとその旅行が長びいているのだろう、と考えていたが、いくらなんでも音信不通が長過ぎる、とおもっていたところ、どこかの女子高校生から会社に電話があった。
賢一の留守中のことで、電話を取ったのが古くから働いている中年女性の経理係だったから、話がはっきりしないが、その高校生がなんとかいう外国の街で、浩美に会い、埼京市の伯父によろしく伝えてくれ、と頼まれた、という。
その街はどこだ、といって、賢一が街の名前を挙げてゆくと、ミュンヘンのところで、「どうもそこのような気がします」と経理係はいった。ははあ、やっぱりドイツの街が気に入ってしまって、長逗留しているのだな、そこで日本の若者と親しくなって、伝言を頼んだのだろう、と賢一はおもったのであった。
二、三日前に、それにしてもあまりに音信不通が長過ぎる、とおもい、パトニーの英語学校、さらに英語学校に訊いて家具修繕教室に自分で電話してみた。賢一は東京外語大を出ているから、そのくらいの会話には不自由しない。
すると、両方の学校とも、佐久間浩美は新年からまったく姿を見せていないし、連絡もないという。あんなに授業に熱心だった浩美がほぼ一カ月もふたつの学校を無断で欠席しているのは、どう考えてもおかしかった。なにか身辺に異変が起ったとしかおもえない。
部屋のなかを歩きまわっていると、電話が入った。
「ロンドンの日本の男のひとから電話なんです。なんでも浩美さんの件らしいんですけど」
電話を取ると、
「佐久間浩美さんの伯父様でありますか。やっぱりご病気じゃないんだ」
若い男はいった。
安原伸彦と名乗る男と数分と話さないうちに、佐久間賢一の胸に確信が宿った。
「そりゃ、恐らく、浩美はなにかの事件に巻きこまれたんだな。私、すぐに、一番早い便でロンドンへゆきます」
賢一は答えた。
受話器を置いた賢一は呆然として、窓の外を眺めた。埼京駅の向う側にある、ライバル店の「ヤング・パチンコ・センター」のネオンが午後四時というのに早くもけばけばしく明滅している。
24
安原伸彦は、直行便で東京から着いた佐久間賢一をロンドンのヒースロー空港に出迎え、そのままパトニーの佐久間浩美が借りていたタウン・ハウスへ案内した。
もはや黄色い濃霧用の街灯の点《つ》いている時刻である。
西洋長屋の一番端の、佐久間浩美の家の前に立ち、佐久間賢一は、
「浩美はじつに律儀な娘でね。この家の写真、間取り、賃貸契約書のコピーまで、私に送ってきたんですよ。だから、家のなかに入らなくとも、全部わかっている」
そう伸彦にいった。
伸彦は、自分との関係まで、浩美は佐久間賢一に報告していたのではないか、とおもい、まばたきをして、咳払いをした。
「それで契約はだれが打ち切ったのですか」
「私も気になりまして、不動産屋に行って訊ねたのですが、浩美さんの語学学校の同級生のタイ人のようです。キティゴンといいまして、浩美さんとは仲良くしておりました」
キティゴンは契約を打ち切ったとき、新聞や牛乳の配達も断ったに相違ないが、若干の時間のずれが生じたのだろう。玄関の前に二本、ボルドー・ワインのような形の牛乳瓶が置いてあり、中の牛乳がチーズのように黄色く変色している。雨に打たれて、ボロボロになった日刊紙のデイリー・テレグラフも、玄関の前に配達されたまま打ち捨てられている。
「そのタイ人留学生が、なぜ、勝手にこの家の賃貸契約をキャンセルしたんですかな。欧米の場合、予告なしに契約を打ち切ったりすれば、違約金を取られるわけでしょう。違約金を払ってまで、なぜキャンセルしたのかな」
「私にもその辺がわからないのでありますが、キティゴンの愛人というか、パトロンといいますか、それが加藤という日本人の中年の貿易業者でして、実際には、彼がキティゴンにキャンセルさせたんだ、とおもいます」
伸彦は、日本名加藤洋造、アンクルと呼ばれていた中年の日本人が浩美のクラスにいたこと、彼の提案でウイーン、ベルリン、コペンハーゲンへのツアーに浩美と浩一が出かけたこと、浩美がふいに姿を消したあと、コペンハーゲンのアンクルと電話で話をし、賢一の急病の話を聞いたこと、その折、風邪気味の浩一の声も聞いたこと、アンクルとは、その後、オックスフォードで会ったことなどを語った。
「ふうん、浩一が無事で、あなたが声を聞いたというのは、不幸中の幸いというか、ともかく朗報だな」
佐久間賢一は溜め息をついた。
「それにしても浩美は、どうも妙なグループとつき合っていた感じですな。私への手紙には、書いてなかったが」
伸彦と佐久間賢一は、タウン・ハウスの庭へまわった。
二階の浴室からは、樋《とい》のようにバスタブの排水口が突きだしていて、伸彦はいやでも、この浴室の風呂をあふれさせ、庭に濛々《もうもう》たる湯気と一緒に、湯を撒き散らしたことをおもいださざるを得なかった。あのとき、浴室で仁王立ちになって、怒鳴った浩美の姿が、悲哀の情とともに蘇ってくる。
「電話でも申しあげたが、浩美が、ベルリンで失踪したのは確かでしょう。しかし自分から姿を消したとしたら、母親の感情として、またあの浩美の性格からして、浩一を置いてゆくことはないでしょうな。私は浩美は自分の意思から姿を消したのではないとおもうな」
賢一はみごとな白髪を掻きあげた。
みごとな白髪といい、鼻の高い、面長の顔といい、賢一の品のよさに、伸彦はすっかり圧倒されていたが、賢一の言葉にも説得力があり、伸彦はおもわず頷《うなず》いた。
「もし強制的に連行されたとしたら、だれがどこへ連れて行ったか、ということになるな。あなた、最後に浩美と話されたのはいつですか」
「元旦でありました。ウイーンにいる浩美さんのほうから新年のご挨拶のお電話を頂戴致しました」
「そのとき、どんな話題が出ましたか」
佐久間賢一は顎《あご》を親指で撫でながら、伸彦の顔をじっとみつめた。
「ホテル・ザッハーで食事をした、といっておられました。はっきりしませんが、ヤンさんという韓国の外交官の奥さんや、李《リー》さんというゴールデン・スター・バンクのえらいひとのお世話になったり、ご馳走になったりしている、といっておられましたね。私もベルリンで、じつはこのツアーにジョインすることになっておりまして、ベルリンでこのひとたちを私に紹介してくれる、そんな非常に明るいお話でありました」
自分がベルリンでジョインする、という意味は、つまり浩美とベルリンで密会する、ということを意味するので、伸彦はまたまばたきをした。
しかしそこで佐久間賢一の顔が俄《にわ》かに青ざめる感じになった。
賢一は正面から伸彦を見つめた。
「ゴールデン・スター・バンクといったんだね、浩美は」
「はあ」
伸彦はなにか失言をしたかとどぎまぎして、足もとの枯れた芝生へ眼をおとした。
「韓国の金星財閥が直営している銀行かな、とおもいました。そう浩美さんにいったのを覚えております」
「ゴールデン・スター・バンクは韓国の銀行じゃないよ」
賢一は憮然《ぶぜん》たる表情でいった。
「北朝鮮のね、金正日という書記がおるでしょう。あの道楽息子の直轄の銀行だ、と私はおもうな」
賢一の表情は強張《こわば》り、両眼が異様に光っている。
「ウイーンで知り合った韓国人の名前はなんといったんですか」
「関心がなかったもので、あまり自信はないのでありますが、たしか李さんとヤンさんだった、と記憶しております」
「ヤンねえ」
佐久間賢一は腕を組んだ。
「浩美は、北朝鮮に誘拐されたんだ、とおもうな。これは確実といっていいでしょう」
ぼそっといい、伸彦はその言葉に動転した。
「北朝鮮でありますか。なぜ、浩美さんが北朝鮮へ連行されるのでありましょうか」
佐久間賢一は、暗い庭を二、三歩歩いた。
「あなた、浩美とはどういうご関係ですか」
不意を衝《つ》かれて、伸彦は狼狽《ろうばい》した。
「関係は浅くない、と自分ではおもっているのでありますが、あるいはひとりよがりかもしれないのでありまして」
「まあ、あなたにはあなたのプライバシーがあり、浩美には浩美のプライバシーがある。ひとつだけお聞きするが、あなたは浩美に惚れてくだすってたんですか」
「その、惚れてくださる、といっていただくような大層な人間ではないのでありますが」
伸彦はしどろもどろの答えをしたが、そこで度胸がすわった気分になった。
「私は、もう命がけの気分で、浩美さんに惚れさせていただいております。お目にかかった瞬間から、浩美さんこそ生涯のパートナーとおもいました」
しかしこんな告白を佐久間賢一にしてしまっていいのだろうか。佐久間賢一は、とにかく浩美の亡夫の伯父なのである。なにより佐久間賢一は、自分の血を引く浩一を孫同然におもって愛しているに相違ない。佐久間賢一にとって、浩美は浩一の母親としての存在であり、その母親に年下の、若い愛人が出現しては不愉快極まりないに違いない。
しかし佐久間賢一は、
「わかりました。あんな子連れの嫁をそんなにおもって下さるなんて、じつにありがたい話です」
意外な反応を示した。
「そういうことなら申しあげるが、浩美はヤンという女の指揮でね、北朝鮮に拉致《らち》されたんだ、とおもいます。それもね、浩美のまったく関知しない理由で、連行された。はっきりいえば、私が逆恨みを食って、そのあおりで浩美が狙われたんでしょう」
賢一はマフラーの襟もとを掻き合わせるようにした。
「そのアンクルという日本の中年男も、キティゴンというタイ人女性も、皆、北のね、ヤンの指揮下で動いていたんでしょうな」
その晩、安原伸彦は、佐久間賢一に自宅へ泊って貰うことにした。
自宅でひと息入れたのち、ロンドンのウォルトン・ストリートのイタリア料理店に案内した。
佐久間賢一は埼京市のアメリカにある姉妹都市との共催の行事やロータリー・クラブの留学生派遣、アメリカ人青年のホーム・ステイ誘致の仕事も担当している、とのことで、態度も堂々たるものなら、英語も達者で、料理の注文、ウェイターとの応対も物慣れたものであった。器用にパスタをフォークで絡めとりながら、
「あなたが、どういうふうに受け止められるかわからないが、佐久間の家は朝鮮半島系なのですよ」
物静かにいう。
「私の父が日本にきて、私は在日二代目だった。私は戦後、朝鮮総聯でまあ、張り切ってね。日本で就職の自由もなくて、子どもたちが将来への絶望感から非行化して、組織暴力団に入ったりするのを目のあたりに見ててね、これはなんとかしなくちゃいかんとおもった。先頭に立って北朝鮮へ帰り、祖国を再建しようと旗を振ったんです。総聯の帰国対策委員会の宣伝部におったんですよ。そして率先模範を示さなくちゃいかん、というので、弟夫婦にね、子どもは預かるから、お前たち、まず北へ帰れ、と説得した。しぶるのをやっと帰国させたら帰国後一年も経たないうちに、弟は夫婦ともスパイ容疑で銃殺されてしまったんですよ」
話の内容の意外さに伸彦は、フォークを握ったまま、佐久間賢一の顔を見守っていた。
「私はそれで挫折して、総聯とも北とも関係を断った。その後は日本国籍を取って、日本人として生きてきたし、預かった甥も日本人として育ててきた。私は日本人の、外語大の同級生のね、家具屋の娘と結婚して、しかし子どもはできなかった。だから浩美の亭主というのは、私の息子のようなものだった。というより、まさしく私の息子だったんです」
浩美がしきりに「夫の伯父」に頼るのを伸彦はいくぶん不思議な感じで見ていたのだが、この話で浩美の賢一に対する気持、また消息不明と聞いてすぐロンドンにやってくる、賢一の浩美に対するおもいいれがわかったような気がした。佐久間賢一は浩美夫婦の親代りだったのである。
「しかし誤解していただいては困るが、浩美は自分の死んだ夫にまつわる事情などは、これっぽっちも知らなかったんですよ。私は甥にね、結婚するまえに、お前の両親のことを話してやる、それを浩美に打ち明けろ、といったんだが、あいつは私の説得を聞かなかった。想像はついているが、なにも聞きたくない、また浩美にも話したくない。もうわれわれの世代は、そんなことと関係がない、といい張って聞こうとしないんですなあ」
浩美はなにも知らないままに、北朝鮮系日本人と結婚し、その夫は難病で若死にしてしまった。
「今の時代の婚姻届じゃ、親の出自など、なにも申告の必要がないしね。浩美は結婚前から私の家に出入りしていたが、私は日本で学校教育を受けて、幸い外語大を卒業しているし、家内も日本人だし、彼女もなにも気づかなかったんでしょう。今からおもえば、話しておくべきだったんだろうな。少しは朝鮮半島の人間に注意したかもしれん」
賢一は食欲が失せたらしく、パスタをフォークに絡《から》めとりはするものの、口もとへ運ぼうとはしない。
「浩美さんを拉致したという、ヤンなる女性は何者なのでありますか」
「私も、朝鮮総聯から手を引いて、久しいからね、よくわからんです。もしかしたら、パチンコ業界の大手のね、梁という男の娘じゃないか、とおもう」
佐久間賢一は考え考え、いった。
「私は法人会の会長やっていたし、日本の税務署への申告はしっかりやっているんだが、梁のところはデタラメだ。それも度の過ぎたデタラメやって、せっせと北朝鮮へ送金してるんです。それで税務署から脱税でやられたんだが、私の密告とおもっているのかもしれんな。もしその女が梁の娘だとしたらね」
結局、賢一はパスタを絡めたフォークを皿に置いてしまった。
「あそこも息子は北へ帰したんだが、そのあと、猛烈に景気がよくなってね、関東一円にゲーム・センターのチェーンを展開して、成功者になったんです。ヤンは美善《ミーソン》という娘に善子という日本名をつけて東京のマンションに住まわせて、中学から名門私立へ通わせたんじゃないかな。梁は娘を完璧な上流日本人、ハイソの娘というやつに育てたと聞いていますがね」
「浩美さんはどうなるんでありますか。弟さんのように、殺されてしまう、ということですか」
伸彦のほうも、食欲が出ない。パスタの皿をそのままに、賢一を問い詰めた。
「はっきりいって、大変危ないでしょうな。あそこは外国人だろうとなんだろうと、容赦しない。北朝鮮に一歩足を踏み入れたら、北朝鮮の公民≠セという態度です。特に日本人は憎まれているからね」
賢一は首を振った。
「あの国へ帰った日本人妻も、まあ、ほとんど生きていないだろうしね。戦前日本で有名だった崔承喜という舞踊家も永田絃次郎というオペラ歌手もね、北へ帰って、全部行方不明になった。まあ、収容所で殺されたんでしょう」
賢一は黙った。
「若い頃、北へ帰れ、とオルグして回った罰が今、あたったんだな。なにも知らない浩美と、安原さん、あなたには申しわけない話です」
それから背筋を伸ばし、
「私は浩美の身も心配だが、浩一の身も心配なんですよ。なにか手がかりはありませんかね」
と訊いた。
25
翌日、伸彦は佐久間賢一をキングストンの語学学校へ案内した。
自分は授業を欠席することにして、浩美の出ていた一般英語のコースのディスカッション・クラスへ行ってみたのだが、始業前のクラスには、浩美はもちろん、アンクルと呼ばれていた日本の中年男もキティゴンもいない。
一緒にツアーに参加したり、キティゴンと浩美の家の引っ越しを手伝ったりしていたフィリピン娘のリタも教室から姿を消している。
ホテルマンを志望し、いつも地階のキャンティーンで賑やかに騒いでいるイタリア人の小柄な青年が相変らず「コ」の字型に置かれた長机の一番前にすわっていて、伸彦に向って手を振った。
「キティゴンの友だちでさ、リタといったかな、フィリピンの娘がいただろ。彼女はきてるのかな」
イタリアの青年は首をすくめた。
「あのアンクルのやつがさ、アジアの女は皆、どこかへ連れていっちゃったよ。タイの田舎でさ、ハーレムを作ってるんじゃないか」
それから、おまえとヒロミの仲は知ってるぞ、という皮肉な顔になり、
「ヒロミはどうした?」
と訊く。
「ヒロミは日本に帰っているよ」
伸彦がいなすと、青年は眼くばせして、
「ヒロミがハーレムに運ばれなくてよかったな」
といった。
事務所にゆき、相変らず退屈そうに爪を磨いているヘレンに住所を聞き、アンクルの家を訪ねたが、むろんきれいに引き払ったあとであった。
「浩一は大丈夫かな。足手まといになって殺されたり、売られたりせんだろうな」
アンクルのいた安下宿の前で、賢一は呟いた。
次に、浩美の通っていた家具修繕教室へ賢一を案内したのだが、賢一は家具商だから当然とはいえ、異常な興味を示した。生徒たちの仕事をひとりひとり丁寧に眺め、英語で質問し、修繕の道具を手に取った。
浩美が木組に白い麻布を張ったまま残して行った椅子を、教師が見せてくれたが、賢一は大きな手で、ほとんど愛撫するように麻布をさすった。その手つきの優しさが、この人物の人柄と浩美、浩一親子に対する優しい気持を表しているように伸彦は感じた。
午後、自宅で、伸彦は賢一にアンジェリカ・ウーファを引き合わせた。
「私は、ヒロミはベルリンで強制連行されたんだ、とおもいます」
アンジェリカは断言する口調である。
「ベルリンからコペンハーゲンにSASでゆく、という行程をね、わざわざ組んだところに事件のポイントがある、と私はおもうんです。現在のベルリンは米英仏ソ四カ国共同管理で、各国が専用の空港を持っているの。だけど、スカンジナビア三国のような中立国は東ベルリンにある、ソ連の管理する空港に発着しているんですよ。ベルリンからコペンハーゲンにゆくとなると、東ベルリンに入ってソ連の空港にゆくんです。東ベルリンに入らせて、ソ連側の空港にとりこんでしまえば、東側のテロ・グループは自由自在、なんでもできますよ」
「ははあ」
伸彦は唸り、おもわず賢一と顔を見合わせた。
「ちょっとした小細工で、ソ連の飛行機、中国の飛行機、どこへでも乗せてしまえるんじゃないですか」
「浩美のやつは、脅されてモスクワか北京経由で、平壌へ連れてゆかれちまったんだな」
――やはり浩美は誘拐されたのか。可哀相に。
伸彦は感情がせりあがってきて、息が苦しくなり、何度も眼をしばたたいた。
「アンジェリカさん」
賢一も昂《たかぶ》る感情を抑えるのか、両手をもみあわせるようにして、切りだした。
「あなたはドイツ人で、分断された国民の苦しみは、目のあたり、見て来られたでしょう。私も父親が朝鮮半島の出身で、あなたとおなじ分断の苦しみを味わってきた。同じ苦しみを自分の嫁同然の浩美に味わわせたくないんです。なんとかお力を貸して貰えませんかね」
一瞬の沈黙が流れたのち、突然、
「私の母親も東ドイツ出身です」
アンジェリカはいった。
「一番頼りになるのはローリーズ保険会社の情報センターでしょう。飛行機の発着記録とか、なにか情報がとれないか、ローリーズに当ってみましょう」
「感謝します。それから安原さん、浩一は無事なようですが、なんとか行方を探していただけませんか」
賢一は改めて伸彦に頼んだ。
「私自身も心配でありますから、およばずながら、トレースしてみます」
伸彦は答えた。
話が終ると、アンジェリカは賢一と握手し、伸彦の両頬にキスをして帰って行った。
友情と慰めのキスであった。
26
佐久間浩美が移された、平壌《ピヨンヤン》郊外の招待所は、最初に宿泊させられた牡丹峰《モランボン》の招待所に比べて、何ランクも落ちる感じであった。
一階に居間、食堂、調理場があり、二階に寝室、書斎、バストイレがある間取りはおなじだが、部屋がひとまわり小さく、ベッドも小さい。
あらゆる部屋に金日成と金正日の肖像画が飾ってあるのは前の招待所と変らないが、一階の居間の壁、二階の寝室の壁には日本では見たこともない、長い蝋燭《ろうそく》が縦に吊るしてある。停電が多いらしい、と浩美はおもった。
ただし食事は前とおなじか、あるいはそれ以上に豊かになった。
|車 明吉《チヤー・ミヨンギル》の指図らしく、食事の前に、靴墨のような、真黒な朝鮮人参クリームが出てくるのには閉口してひとくちしか口をつけないが、相変らず、夕食にはどろどろに煮込んだ肉が出てくる。牛肉とも豚肉とも違い、浩美は「鹿の肉かな」とおもいながら、結構美味におもって口に運んだものだ。
食事をする度に、「浩一は何を食べているのだろう」とおもい、息苦しくなる。お得意の「イアック(要《い》らない)」を連発して、なにも食べず、栄養失調になっているのではないか。
もうひとつ孤独感の強まるのは、ここの老若ふたりの女性接待員が、ふたりともまったく日本語も英語も話せないことであった。漢字を書いて筆談で意思を通じさせようとしても、北朝鮮ではハングル文字しか教えないらしく、ふたりとも首をかしげるばかりである。ふたりとも総入れ歯のように真白で、きれいな歯ならびの口を開いて、戸惑ったような笑いを繰り返すばかりである。
――入れ歯お化けだ。
あまりにみごとな歯ならびのよさが人工的で、疎外感を味わわせた。
前の招待所の接待員もそうだったが、眉のうすいこと、歯ならびのいいことが朝鮮民族のおおきな特色のようであった。
翌日の夕刻も浩美は散歩に出たが、足が自然に日本人妻のいる家のほうに向いた。
あの農家の日本人妻が、浩美に北朝鮮への永住を覚悟させるべく、当局が意図的に配置した人物であることは間違いないとおもうのだが、それと知りつつ、足がそちらの方向に向いてしまうのである。
伯父というか、父親代りの佐久間賢一をあの老婆は、高賢一と朝鮮名で呼んだ。「高賢一は愛知の私の家へきたものだ」と謎のような言葉を吐いたが、それが気になって仕方がない。自分が北朝鮮へ拉致《らち》、連行されたことには、なにか浩美の知らぬ背景がひそんでいる気がして落ち着かないのだ。
あちこちに雪の残る雑木林を抜け、昨日きた二、三軒の崩れ落ちそうに古い家の前に出た。
鉄管がむきだしになった共同水道の周辺には人の姿が見えず、氷結を避けるためか、蛇口からはちょろちょろと水が出っ放しになっている。
一軒目の家の戸が開きっ放しになっていた。覗いてみると、とっつきが土間の台所で、昨日会った老婆が、大きな竈《かまど》の前にしゃがみこんでいる。竈には練炭が入っており、老婆はその練炭に火をつけようとしていた。枯れた松葉を燃してその火が練炭に移るのに注意を集中していて、異常なほど眼を光らせ、竈の下のうす赤く染まり始めた練炭をみつめている。
「今日は。お邪魔します」
浩美は遠慮がちな声を出した。
「お疲れのところを申しわけないんですけど、日本語でお話ししたくて、伺いました」
戸口からそう声をかけた。
老婆は肩ごしにうっとうしそうな視線を投げてよこし、それからのっそり、という感じで立ちあがった。
「ま、お入りやあせ」
土間の向うは土気色の壁になっており、その一隅に木のドアがある。そのドアの日本流にいえば、あがりかまちにふたりは並んで腰かけた。
「日本なら、|おしんこ《ヽヽヽヽ》かなにかお茶|請《う》けだすところだが、ここじゃ、お茶もないのよ。あたしゃ、もう何年もお茶を呑んだことがないんだわ。お湯を呑むだけだが、お湯をわかすのも、見てのとおり手間かかってたまらんがや」
老婆は肩で息を吐いた。
「食い物だって、油を抜いたトウモロコシのカスと糠《ぬか》の粉だぎゃあ」
老婆は竈の傍の甕《かめ》に入った赤茶けた粉を指差した。
「お茶も米も、何年も見たことがないんだわ」
「お話しできれば私はいいんです」
土間のあがりかまちにすわった浩美は、あまりの貧しさに声もかすれるおもいで、そういった。
土間の向うのひと間きりの部屋には、ほとんどなにもない。部屋の真ん中に新聞紙が拡げてあり、黒い石炭の塊が三つ四つ、その上にころがっている。
「夜なべにさ、石炭つぶして、練炭作ってんの」
と老婆はいった。
部屋の一方の隅から隅へ、縄が張ってあり、そこに合成繊維のチマ・チョゴリと、ランニング・シャツのような、女性用の下着が一着かけてある。この縄が洋服箪笥の役割を果しているらしい。
浩美は気持がひるむのをおさえて、
「佐久間賢一は私の夫の伯父なんですけど、どうして伯父をご存じなんですか」
老婆はふいに浩美の肩を掴んだ。
「北へ帰されたのを北送≠ニいうんだが、北送された人間はだれも佐久間賢一を許すみゃあね」
共同農場の労働で陽焼けした顔から血の気が引いて、青ぐろい感じになっている。荒れて、紫色に皮のむけた唇がわらわらと震え始めた。
「佐久間賢一は、朝鮮名を高賢一というんだがね、あいつは朝聯のさ、在日朝鮮人聯盟の帰国対策委員会の宣伝やってたのよ。朝鮮民主主義人民共和国に帰ろう、北朝鮮こそ、精神の理想郷だ、そう説いてまわった張本人よ」
浩美はまたまた唖然《あぜん》として、返す言葉もない。
老婆の話によると、佐久間賢一は父親が朝鮮半島出身で、北朝鮮への帰国運動の最先鋭として、オルグ活動に献身していた、という。
「佐久間賢一はさ、鼻の高い美男でさ、外語大出とるいうし、皆、ケンイチとかヒョンイルとか呼んでさ、大変な人気だったわ。あたしゃ、愛知に住んどったんだけど、愛知に住んどった連中も大勢あれのいうこと信じてさ、この国へ帰国したの。帰国してみりゃ、待ってたのは銃殺か収容所送りよ。あいつに都合《あんば》ようだまされたんだよ。だから、あいつの弟夫婦もさ、帰国して、すぐ公開銃殺になったんだわ」
浩美は耳を疑った。
弟夫婦、というのは、つまり浩美の亡夫の両親ということになる。浩美は亡夫から、「両親はおれの幼い頃、ほぼ同時に死んでしまってね」と聞かされていた。「そのうち伯父貴に詳しい事情を聞いてこなくちゃいけないんだけど、両親の死んだ状況についてはよく知らないんだ」と夫はいっていた。
佐久間賢一について、浩美自身「伯父さまは俳優座の大先生の千田是也さんみたいにすてきな方」といったことがあったけれども、浩美の亡夫も、早稲田の高等学院から政経学部に進んだ、まことに容姿も端正なら、品格も上等の人物であった。自分の眼に狂いはあるまい、とおもって結婚したのだし、現在でもそう考えている。しかしその亡夫の両親は北朝鮮に帰国後、公開銃殺された、というのだ。
これは多分事実なのだろう、と浩美はおもった。
佐久間賢一にも亡夫にも、おおきな挫折を経た人の、諦観に似た空気が漂っていたようで、浩美には納得がゆくのである。
「高賢一らのな、帰国運動で、九万三千三百三十九人の在日朝鮮人が帰ったが、まあ、五体満足で生き残っているのは、半分もおらんでしょう」
「だけど、弟まで殺されたのなら、私の伯父も、被害者のひとりでしょう」
浩美は反論した。
老婆は立ちあがり、練炭の燃えぐあいをうかがった。
「過失致死だって、世の中、罪になるんだろうが」
そう呟いて老婆は浩美の前に立ちはだかった。
「つまり、私は、この国へ強制連行されて当然だ、ということなんですね。帰国した在日のひとたちの苦難を考えたら、佐久間の身内が責任を取るべきだ、とおっしゃりたいわけですね」
浩美は心底そうおもっていったのだが、老婆はさすがにすぐには返事をしない。
「親の因果が子に報《むく》い、ってことも、たしかにあるわね」
老婆がぼそっといい、裸足に履いた運動靴で土間の地面を蹴った。
「日本人妻や帰国同胞がこの国でなぜ迫害されたか、といえば、日本帝国主義三十六年の統治への恨みがあって、そのあおりを食ってるのよ。だからあんたもここで、その恨みに謝罪しなきゃいかんのよ。われわれ日本人妻が身をもって謝罪してきたように、あんたも、この国に身をもって謝罪しなきゃいかん、とおもうわ。あんたがこの国へ連れてこられたのは、佐久間賢一のせいだろ。しかしよう考えやあせ、日本人としては、謝罪のいいチャンスを与えられたのよ」
老婆の語気には鬼気迫るものがあった。
「わかりました。私なりに努力してみます」
浩美はいって、あがりかまちを立ちあがった。
老婆の家にいる間は、伯父、佐久間賢一の履歴をどう受け止めたらよいのか、ショックと戸惑いで浩美はなにも考えられなかった。
しかし外の寒気に触れると、逆に希望が湧いてくるのを感じた。佐久間賢一が若い頃、あれだけの仕事を北に対してやった人間なら、依然として何らかのコネクションを、北朝鮮内に持っていて当然ではないか。浩美が北朝鮮に拉致されたと知れば、浩美救出の方法を考えだしてくれるのではないか、とおもった。
道路を渡り、林に入ったところで、浩美は穿《は》いているズボンの腰のボタンをゆるめ、ヒップ・パッドを取り出した。ヒップ・パッドについている隠しポケットから、米ドルの百ドル紙幣を一枚抜きだした。
ヒップ・パッドをつけ直すと、もう一度、老婆の家に引き返した。
老婆はトウモロコシのカスと糠の粉という、赤茶けた粉末に水を入れた剥げた琺瑯《ほうろう》鍋を練炭の上にのせているところであった。
「おばさん、いろいろ教えてくだすった御礼に、このアメリカのお金を差しあげます」
老婆は青い作業服を着ており、痩せて薄い胸には例によって金日成バッジをつけている。その金日成バッジの下の胸ポケットに、強引に百ドル紙幣を押しこんだ。
「佐久間の伯父も、償いをしたがっている、とおもうんです。埼京市の平安堂家具店に、私のことを連絡していただけませんか。電話は048―33―0982です」
浩美は床に投げ棄ててある、先端の焦げた木製の火掻き棒を取って、土間の床に平安堂家具店と書いてみた。多分、松葉を燃した灰が溜っているのだろう、地面は砂地のように柔らかく、すらすらと書ける。勢いを得て、埼京市栄町と住所を書き、デンワ048―33―0982と書いた。
老婆はぼんやり突っ立って、浩美が床の上に書いた文字をみつめている。
その夜、どろどろに煮こんだ、柔らかな肉料理を食べながら、佐久間浩美は不思議に静かな気持だった。
どうして朝鮮半島にまつわる人生を話してくれなかったのか、と亡夫や伯父の賢一を責める気持にはなれない。心を開かなかったという印象はなく、むしろ大声で自分たちの苦難を語らず、節度を守っていた人間、という点でふたりは共通している気がする。
食事が終ると、待っていたように停電になり、接待員がおおきな蝋燭を壁から外し、マッチを擦って火をつけた。
蝋燭の火に、生まれ故郷の隠岐の土間にともる裸電球がふと重なった。
浩美の育ったのは、父親が戦後に建てた家のほうだったが、祖母のいた母屋のほうは古い家で、広い土間があり、土間の中央にふとい柱があり、おおきな釜が隅に置いてあった。その土間の天井から垂れた長い長い電線を途中で手繰《たぐ》ったように結んで、電線の先に裸電球が吊るしてあり、昼間からぽつんと点《とも》っていた。
隠岐は、後鳥羽上皇や後醍醐天皇が流されて以来、流刑の地として、歴史に名前を残してきたが、江戸、京都からの三千人余の流刑囚や、漂流してきたロシア船員、さらには風待ちに多数寄港した北前船《きたまえぶね》の影響を受けて独特の文化を作ってきた。
そのくせ長く土葬の習慣を守るなど、離島の頑固さも裸電球のように点り続けている。
隠岐の女はにこにこと外来者に愛嬌を見せるが、芯の強さは、あの裸電球のように消えないのではないか。
私は必ずこの国を脱け出して、浩一を取り戻してやる、と浩美は自らに誓うように考えた。
――伸彦さん、隠岐の女の心に点った灯は、ここの電灯と違って、簡単に消えはしないのよ、待っていて、私は失ったものを全部取り返してみせるから。
浩美は呟いた。
それにしても、あの日本人妻のお婆さんはたいした役者だったではないか。北林谷栄さんも顔負けの名演技で、浩美の帰国願望を押しつぶそうとしたではないか。セットの作りかたも堂に入っていて、なかなかのできばえであった。
あの家には共産圏の家庭紹介に現れる、小ぎれいな、いかにも作りものじみた印象がほとんどない。なにもない、うすべりを敷いた部屋。新聞紙の上に転がった、練炭製造用の石炭の塊、部屋の隅から隅へ渡した縄にひっかけたチマ・チョゴリとランニングのような下着。
あの老婆はほんとうに日本人妻かもしれない、と浩美はおもった。
浩美は、接待員が家の鍵を外から締め、前の寮に帰って行ったあと、蝋燭を持って台所へ行った。
ドル紙幣など与えたところで、老婆には何の役にも立つまい。もっと直接、生活の役に立つものを持っていってやりたい、そうおもったのである。
台所にはキムチの匂いが満ち満ちている。とっつきのテーブルには男物の腕時計がふたつ並んでいる。接待員は出勤してくるとこの時計を腕につけ、寮に帰るとき置いてゆくのだ。私物の腕時計などこの国には存在しないのである。
つきあたりの冷蔵庫を開くと、扉の裏に卵が並び、うすいブルーの牛乳の瓶が数本並んでいた。
浩美は卵を取りあげてみて、愕然としたのだが、卵に墨で番号が振ってあった。卵に番号を振って、個数をチェックしているらしい。気がついてみると、冷蔵庫の上に墨汁がインク壺に入っており、傍らに筆が置いてある。
老婆に卵を土産にするのは難しいとわかり、台所を見まわすと、一隅に木箱があって、缶詰が顔を覗かせている。
缶詰の表面には「平壌甘肉」と書いてある。どうやら夕食に出てくる、煮こみの肉はこの肉ではないか、という気がした。
「平壌甘肉」の缶詰を三個失敬して、浩美は寝室に帰り、サムソナイトの鞄に隠し、鍵をかけた。
翌朝、車《チヤー》は例のごとく早々とやってきてどしんとすわると、浩美をじっとみつめた。
「顔色がよくなった。ずいぶん元気になったようだな。朝鮮人参と甘肉の効果が出たようだ」
といった。
「あんた、なんの踊りが得意かね」
「最近はジャズ・ダンスとかエアロビクスくらいしかやっていませんけれども」
どういう意味か、と怪しみながら、浩美は答えた。
「ヨーロッパの踊りはどうかな」
「スペインのフラメンコなら、昔、半年ほど遊び半分に習ったことがあります」
車は満足そうに頷いた。
「じゃ、明日からフラメンコを勉強してくれ。車をまわすから、練習を始めてみてくれんかな」
勿体ぶった態度である。
「われわれの協会では、親愛なる指導者同志に、毎週、ニューヨークの夜とかパリの夜とか、そういった保養を提供しているんだ。あんたにはスペインの夜に出演して欲しいのだよ」
27
佐久間賢一は、ふた晩、ロンドンの安原伸彦の家に厄介になり、とんぼ返りをして、埼京市に帰ってきた。
その夜、埼京市内の自宅に、朝聯時代の友人、金林忠清から電話を受けた。
金林忠清は背の低い、小肥りの愛嬌のある男で、若い頃、賢一は彼と組んで、日本各地の在日同胞に北朝鮮への帰国を説いてまわった。金林も賢一と前後して、政治活動は止め、日本の商工人として生活している筈であった。
金林は大阪から広島に移り、建築業、金融業を営んでいて、在日同胞としては成功者のひとりといっていい。
「あんたの親類に佐久間ヒロミという娘はおるかね」
賢一は咄嗟《とつさ》に声が出ない。
「私の姪になるが、どうしたんだね」
「いや、この間、在日の商工人の連中に誘われて、平壌に行ってな、エレベーターのなかで彼女に会ったんじゃよ。わしは補聴器、外しててよう聞えなかったが、あとでまわりの連中が教えてくれた。埼京市にいる伯父の佐久間賢一にヒロミさんが平壌におること、助けだして欲しいこと、それを伝えてくれっちゅうのや」
賢一は推測があたっていたことに愕然《がくぜん》とした。
賢一はやっと気力を取り戻し、手短にこれまでの浩美の身辺に起ったことを説明した。さらに納税と北への送金の問題で、梁一族の恨みを買っている可能性も説明した。
「梁の息子と娘にやられたとすると、嫌な話じゃね」
金林は呟いた。
「知ってのとおり、息子は帰国して、車《チヤー》ちゅう母方の名前に変えて、今や金正日の側近や。娘は日本籍で、ロンドンに住んどるいうが、兄貴のために娘のほうがどこか、外国で、これという女をさらってきて、北へ連行する。兄貴がその女たちを金正日の大奥に貢《みつ》いでいるって話じゃよ。あんたの姪ごさんも、危ないんじゃなかろうか」
「どうすりゃあいいんだ。おれは店を売って総聯に献金してもいいんだよ。なんとかならんか」
賢一は唸り、懇願する口調になった。
「金は必要だが、うまいこと使わんと、なにもならんじゃろ。あんたもわしも、祖国に寄附せい、寄附すりゃ帰国した肉親に会わしてやる、いわれて身ぐるみ剥ぎとられて、結局肉親には会えなかった例を山のように見てきたじゃけんのう。ましてや、あの国にいったん入った娘を救い出そうなんて話は、これは不可能に近いじゃろうなあ」
金林は少し時間を貸せ、なにか方法を考える、といった。
28
翌週、早速佐久間賢一のところに金林忠清が電話してきた。佐久間浩美を北朝鮮から救出する方法について、ほんの僅かだが、可能性が見えてきた。ついてはどこかで相談したい、という。
「こちらの頼みごとだし、おれが広島のあんたのところに行こうか」
金林は「ううん」と唸り、
「若い頃からのつき合いじゃけん、あんたにばかり遠出もさせられんのう」
と呟いた。
「ほならこうしよ。わしも大阪に用事があるけん、大阪で会いましょ」
結局、大阪で会うことになった。
大阪城の傍らのホテルに入り、先に到着していた金林忠清とロビーで落ち合った。
「おい、高君」
声をかけられて、賢一はやっと小柄の禿げ上がった老人が昔の金《キム》こと金林と気づいた。
金林忠清は昔、「マメタンク」と綽名《あだな》されていて、小柄ながらエネルギーに満ち満ちていて、長い髪を掻きあげ掻きあげ飛びまわっていたものだ。一方、佐久間賢一はのっぽで「ドゴール」と綽名されていたが、ふたりが一組になって朝聯の帰国対策委員会の宣伝部のスタッフとして、北朝鮮への帰国運動の旗振りを始めると、今度は、アメリカの喜劇コンビになぞらえて「アボット・コステロ」などと綽名されたものであった。
その金林の顔は今も艶々と輝いて、禿げ上がった頭のぐあいよりはずっとエネルギーがありそうである。
「お願いしてもスパイには、狙って貰えないやろけどな、ま、用心するに越したことはないけん。表を歩きながら話そうや」
ふたりは大阪城周辺の公園を歩きながら、話すことにした。春は浅いが、梅林を通り抜けてゆくと、すでに白梅が満開である。
「あんた、わしの左を歩いてくれんか。右の耳が聞えんでな」
金林がいった。
「この耳のおかげで、平壌のエレベーターのなかでな、浩美さんの伝言を聞き逃してしまったんや。わしが補聴器はめるのを見て、彼女、ほんとにがっかりしとった。可哀相なことをしたのう」
昔の「アボット・コステロ」コンビは、満開の梅林を大阪城に向ってあるいた。
「北に一度、強制連行されたら、脱出も救出も不可能、これは常識や。むろんあんたも百も承知じゃな」
「百も承知だ」
賢一は頷いた。
「しかし社会主義国ほど、金と顔が物をいう世界はないことも承知じゃろう」
「それも承知だ。中国も北朝鮮も、顔がなくては中学にも大学にも入れんのだからな」
「その社会主義の名物の金と顔をつかっても、北朝鮮から救出するのは大変やが、ひとつ、耳寄りな話があるのや」
ふたりは大阪城の見える、濠端へ出て、いつの間にか足を止めていた。
「これも知ってのとおり、中国じゃ、軍隊も党も官庁も皆、商売やっとる。人民解放軍なんぞ、養豚なんぞはもちろん、カシミヤ売ったり、デパート経営したりしとる。海南島じゃ共産党も日本の自動車の輸入やっとったし、学校まで商売やっとるじゃろ。北はな、知ってのとおり、全部中国の真似やからね、官庁も商売やっとる」
「それはおれも耳にしてるよ」
「おれは建築屋やから、多少の伝手《つて》があってな、訊いてみたら、ある会社がな、といっても官庁やがね、木材を売っとるんだな。高級家具用の木材じゃというんだよ。あんた、家具を扱っとんのじゃろ。この木材を買ってみんか」
アボットは、コステロを見あげていった。
「木材、買ってどうなるんだ」
「何千万の規模で木材買えば、その会社、つまり官庁やがね、熱烈歓迎よ。それで買いつけのときにワイロかまして、その代り浩美さんを出国させろ、こう注文つける寸法や」
「そんなに簡単な話かね。われわれが北送した在日同胞は九万三千人だが、九万人のうちひとりとして国を出られた例はない。材木買うくらいで、浩美を出せるかね」
金林は自信ありげな微笑を浮かべた。
「この材木、売っとる官庁はなみのところやないんや。国家保衛部じゃ。つまり公安警察じゃよ」
賢一は腕を組んで大阪城を見あげた。
「なるほど」
と呟いた。
「おれの店は浜松楽器のチェーンに入っててな、浜松楽器の作る家具のセットを扱ってるんだ。これが団地サイズで、高級感もあるから、まあまあ売れてるんだよ。浜松楽器は家具の製造、卸し一貫してやってくれてるから、材木の買いつけは引き受けてくれるかもしれない」
佐久間賢一は朝聯の専従を辞めたあと、外語大同級生の日本人、桐箪笥《きりだんす》屋の娘と結婚して、日本名は細君の姓の佐久間を名乗っていたが、その後、細君の父親の店を継ぎ、その店が、今は総合家具販売店になっている。
アボットは寒いのか、足もとをばたばたと踏みつけながら、
「三千万くらい、買ってみんか」
といった。
「引き取り手があれば、三千万払ったって、どうってことはない。しかしな、問題はおれたちの過去じゃろうな。これが露顕せんように商売を持ちこめるかが問題や」
「つまり東京にある、総聯系の商社、朝鮮産業、東海商事あたりからは話は持ちこめないだろうということだな」
「そのとおりや」
金林も黙り、賢一とふたりまた大阪城を眺めた。
「せめて浩美さんがどこの招待所にいるか、わからんじゃろか。わしが恐れとるのは、ぐずぐずしているうちに、浩美さんが金正日に献上されてしまうことなんや。あの美形と色の白さじゃ、金正日はころりと参るじゃろ。梁の息子はまた出世できるけん、今頃、鵜の目鷹の目、浩美さん献上のタイミングを狙っているのとちゃうやろか」
ホテルへ帰った賢一は、すぐに浜松楽器の家具部門へ電話を入れた。
卸しの担当部長に北朝鮮の木材の買いつけについて打診してみると、
「いや、うちも以前から朝鮮産業さんを通じて買いつけてますよ」
という。
賢一は力を得て、ロンドンの安原伸彦に電話を入れた。
登校前の伸彦を捉え、ローリーズの手も借りてなんとか浩美の居場所を確認できないか、と頼んだ。
29
佐久間浩美は、車《チヤー》に伴われて、フラメンコの練習をやらされることになった。
朝、九時過ぎ、平壌市内の小さな劇場にゆき、楽屋裏の、これもまた腰が重く、がくがくと膝を折るようにして昇ってゆくエレベーターに乗った。
「親愛なる指導者同志がね、抗日戦争をテーマにピバタ(血の海)≠ニいう歌劇をお書きになった。この劇場はその血の海′団用の劇場でね」
車が説明する。
「血の海≠ニは金正日書記もすごい名前のオペラを書かれたんですね」
浩美は皮肉をいったが、車には通じそうにない。抗日戦争など、たいした戦争があったとはおもわれず、いずれ歴史の改竄《かいざん》ドラマなのだろう、とおもった。
一番上階に稽古場があり、そこの椅子に腰をかけて、アジア系の、色の浅黒い少女が待っていた。
「この娘はモレナといってな、あんたと一緒に、親愛なる指導者同志の前で、フラメンコを踊ることになってる」
少女はまったく笑顔を見せず、浩美が「グッド・モーニング」と挨拶したが、ぷいと横を向いてしまう。
「靴とカスタネットだけは用意したが、衣装は取り敢えずこれで我慢してくれ」
車が劇場の中年女性を促し、レオタードとトレーナーを差しださせた。浩美は少女と一緒に更衣室に着替えに行った。
更衣室だというのに、部屋の隅にちいさな電熱器が置いてあるだけで、恐ろしく寒い。
「ユーあたしを助けてくれなかったね」
突然、少女が英語でいった。
少女はスウェーターを脱ごうとしていて、顔が見えない。
そこでようやく浩美は、平壌へ強制連行される、朝鮮民航の機内でこの少女に会ったことを想い出した。この少女は機内で、うすい毛布をかぶり激しく泣いていた。平壌空港に着いたとき、少女は浩美に向って「ヘルプ・ミー」と叫び、走り寄ってきたが、兵士たちに取りおさえられ、軍用ジープで連れ去られてしまったのである。
「私もベルリンで誘拐されて、平壌へ連れてこられたのよ。私があなたを救えるわけがないでしょう」
スウェーターを脱ぐ手が止った。スウェーターの下からびっくりした、まるい目と半開きの口が現れた。
「あなたはどこで捕まったの」
浩美の質問に少女は深い溜め息を吐いた。床にぺたりとすわりこんだ。
「私はもともとフィリピン人なんです。生家はものすごく貧しかったんだけど、教会の神父さんがイタリアに養女の口を探してくれたの。それでイタリアの老夫婦の養女になって、イタリアに住んでいた。それでユーゴスラビアに旅行に行って、養父母と喧嘩してしまってね。街の広場にすわってたら、ミスタ・車《チヤー》が親切にご飯、ご馳走してくれて、ホテルにも泊めてくれた。いい就職口があるといわれて、着いたらそこがモスクワよ。それから朝鮮民航のあの飛行機に乗せられてしまった」
少女は途中で話がおかしい、と気づき、泣きわめいたが、遅かった、という。
「私、フィリピンとイタリアと両方の旅券持っていたから、ミスタ・車はそれが欲しかったらしいの」
少女は肩を落して床にすわりこみ、涙ぐんでいる。
浩美はしゃがみこみ、少女の手を取った。少女の手は氷のように冷たい。
「私、日本人で浩美というの。頑張ってなんとかサーバイブしましょう」
浩美は少女を立ちあがらせ、着替えさせた。
浩美は用意してあった、つんつるてんのレオタードを着て、フラメンコ用の、爪先と踵《かかと》に鉄を打った靴を履いた。ハート形のカスタネットの紐に親指を通し、中指で二重に重ねた板をはじいてみる。板と板が鳴って、うつろに楽屋に反響する。
練習場にやってきた教師は、スペイン人のみっともなく肥った中年女性と初老の男性である。
「今年一九八五年の四月十五日偉大なる首領様、金日成主席は七十三歳になられる。それを記念して国際芸術祭が開かれるが、この先生には少し早めにきていただいて、わが共和国のあちこちでスペイン舞踊を教えていただいているんだ」
車がそう紹介した。
スペイン人の初老の男があくびを連発しながら、ギターで、アンダルーシアの民謡という曲を弾き始めた。だぶだぶと肉のついた女がギターに合わせて、初歩のステップを教える。
浩美には「なぜ北朝鮮でフラメンコを踊るのか」という疑問がわだかまって、気乗りがしない。
しかし浩美がステップを踏み出すと、教師もギター弾きもおやという顔になった。気分とは裏腹に昔の経験が顔を出し、足がひとりでに動いてしまうらしかった。
惨事はその翌々日の午後起った。
その日も浩美は三時間近く、フラメンコの練習をやって、招待所に帰ってきた。
帰宅して遅い昼食を摂った浩美は、甘肉の缶詰を林の向うの、山裾に住む老婆に届けてやろう、と考えた。サムソナイトに隠しておいた缶詰を三個取りだし、防寒外套のポケットに忍ばせた。
ふたりの接待員が声高に喋っている台所を気にしながら、玄関を抜けだした。
あの老婆は一応、共同農場で働いているらしいが、午後の三時前後に浩美が訪ねると、いつもあのくずれかけたようなボロ家に帰っている。
よほど朝早く働きに出て、あの時刻に帰ってくるのか、それとも車の命令を受けて、午後は在宅し、浩美の来訪を待ち受けているのか、そこはどちらとも判断がつかない。
針葉樹の林のなかを、浩美はブーツで踏み分けて降りて行ったのだが、ふとい松の脇を通り過ぎようとして、
「佐久間さん」
ふいに声がかかって、足を止めた。
松の幹の陰に、例の日本人妻と自称する老婆がうずくまっている。
「あんたをな、ここで待ってたんだわ。毎日ここにきてな」
老婆は松の木に手をかけて、躰《からだ》を起した。
「あの家にはな、兵隊がよく見まわりにきよるだでよう、ここで話したかったのよ」
「ご免なさい。もう少し早くきたかったんだけど、この二、三日、とても忙しかったのよ。疲れて散歩にも出られなかったの」
寒気に老婆の唇が紫色になり、顔が白く粉を吹いたように総毛立っているのに気づいた。顔にぷつぷつと赤い斑点が浮かんでいる。浩美は老婆の肩に手をかけた。
「こんなところに毎日すわって、寒かったでしょう。ほんとご免なさい」
老婆は紫色の唇を舐《な》めて、
「佐久間さんにお願いがあるんだよ」
と呟いた。
「こないだ、百ドル貰って、ほんと嬉しかったんだわ。それにつけこむようで、わりいんだけど、もう百ドル、分けて貰えんもんかね」
老婆は両手を合わせてみせた。
「二百ドルあればな、息子を病院で診て貰えると思うだでよう」
「息子さん、病気なんですか」
「息子は遠くの炭鉱にいるんだが、ペラクラ病に罹《かか》ったで、すっかり弱ってる。わしも今の仕事が終ったら、炭鉱へ帰るんだが、帰ったら息子を病院にゆかしてやりたいのよ」
今の仕事、というのは車の命令なのだろう。浩美に北朝鮮における日本人の悲惨な生活をおもい知らせ、定住の決意を固めさせる仕事なのに相違ない。
「ペラクラ病ってなんですか」
「トウモロコシ病よ。北は貧しいもんで、主食はほとんど輸入トウモロコシよ。そのトウモロコシの古いのを食べると、ペラクラ病にかかる。躰じゅうにおできができて熱が出るんだわ。ひどい皮膚病の一種だぎゃあ。わしも軽いペラクラ病よ」
と老婆は顔の発疹を指差し、それから手の爪を見せた。手の爪が異常に反《そ》り返っている。
「お願いだ。なんとかもう百ドル、恵んでもらえんかしら」
老婆が手を合わせるのを、浩美は上から握った。
「恵んでくれ、なんて悲しいこといわないで、お婆ちゃん」
「そのかわり、日本の親類に手紙だして、あんたのことを埼京市の平安堂には必ず連絡させるからね」
浩美は一瞬迷った。しかしこんな戸外でヒップ・パッドを外し、ドル札を取りだすわけにもゆかない。寒いので、ブラジャーとガードルが繋がった下着を着ており、ほとんど裸にならねばヒップ・パッドを取り出せないのである。
それに完全に老婆に心を許しているわけではない。金の隠し場所を悟られたくはなかった。
「お婆ちゃん、いいわ。明日、必ずここに持ってくる」
老婆は白くなったほつれ毛を掻きあげた。
「わしもそう長い命じゃないんだわ。明日、もってくるとゲンマンしてくれる?」
「むろんゲンマンするわよ」
浩美は老婆のガサガサに荒れた小指に、自分の白い小指を絡ませた。
「今日はその代り、この缶詰を持って行って頂だい」
浩美は外套のポケットから「平壌甘肉」と書いた缶詰を取りだし、老婆の手に握らせた。
「タンコギきゃあ」
ひどい名古屋弁で老婆は叫んだ。
「これ食うと、精がつくで、ペラクラ病によくきくんだわ」
老婆は眼を輝かせた。
「あんたはこんな犬の肉を毎日、食っとるのかね。いい身分だな」
「犬の肉? 甘肉って、犬の肉ですか」
「そうとも、この国じゃ大変な贅沢品だぎゃあ」
私は毎日、犬の肉を食べさせられていたのか、浩美が愕然として口をおさえた瞬間、すぐ傍らから、甲高い朝鮮語の叫び声があがった。
眼の前に孫《ソン》と自動小銃を持った兵士がふたり現れた。
孫はいきなり老婆を突き飛ばした。老婆は仰向けに倒れてごろごろと斜面をころげ落ちた。そのはずみに甘肉の缶詰を落してしまい、缶詰が木の幹にあたり、甲高い音を立て、遠くへはじけ飛んだ。
老婆は松の幹にあたって止った。
兵士が缶詰を追いかけて拾いあげた。
「この女は、招待所の肉を盗んだな」
孫は英語で叫んだ。
「いえ、私があげたんです。招待所から盗んだのは私です」
浩美は孫にすがりついて叫んだ。
孫は耳を貸さず、松の根もとに横たわっている老婆に近寄ると、いきなり顔を蹴った。横倒しになった老婆は鼻血を出したらしく、霜の立った地面に血の輪が拡がってゆく。
浩美は老婆の上に重なって叫んだ。
「なぐるのなら、私をなぐって」
浩美は英語でもう一度叫んだ。
兵士たちが駆け寄ってきて、浩美を倒れた老婆から引き剥がした。
兵士のひとりが浩美をずるずると引っ張ってゆく。残りのひとりが乱暴に老婆の腕を掴み、起きあがらせようとする。
老婆が腰をおさえ、顔をしかめ、何事か朝鮮語で叫んでいる。老婆が兵士に引っぱられ、中腰で松の幹に寄りかかったところで、信じ難いことが起った。
孫がいきなり腰のピストルを抜き、至近距離から老婆を射った。老婆はがくんと前倒しになり、口から血がスプリンクラーから噴き出る水のようにほとばしった。
浩美は兵士に突き飛ばされ、突き飛ばされして、招待所に帰った。
口から血がスプリンクラーの水のように吹き出た記憶が去りやらず、浩美は外套も脱がずに一階の食堂にすわっていた。
暫くして、孫が部屋に入ってきた。
「少し遠くまで、散歩し過ぎたようだな」
孫はいった。
30
ロンドンの安原伸彦のもとに、夜、アンジェリカが訪ねてきた。
レセプションにすわったアンジェリカは、
「東ドイツの外交筋を通して得た情報によると、浩美は、平壌郊外のゲスト・ハウスに閉じこめられているみたいね」
といった。
想像はしていても、はっきりいわれると、伸彦は衝撃を受けた。
そこでアンジェリカは、席を伸彦のすわっているソファに移した。
「私、今度ね、ローリーズの子会社なんだけど、セキュリティ・コントロールっていう危機管理の会社に入社することになったの。それで、このあとは、私がセキュリティ・コントロールの代表として、佐久間賢一と交渉したいの。ビジネスとしてね」
アンジェリカはさらに伸彦ににじり寄ってきた。
――まるでいつかサウナで会ったときとおなじだな。
と伸彦はおもった。
「ノブヒコ、もうひとつのお願いはね、今度のケースを宮井物産ロンドン支店の森さんに打ち明ける許可を貰いたいのよ」
アンジェリカは伸彦の膝に手をのせた。
「森さんを通してね、宮井物産に話を持ちこんでうちの誘拐保険に入って貰いたいのよ。このヒロミの一件を打ち明ければ、森さんも本社に説明しやすくなるでしょう」
「止むを得ないだろうな」
伸彦は憮然《ぶぜん》として口髭を撫でた。
「サンキュー、ノブヒコ」
アンジェリカはいい、それから長い腕を伸彦の首に絡《から》ませて唇にキスをした。
[#改ページ]
五 強制収容所T
佐久間賢一が大阪から帰った直後、埼京市の店に来客があった。
一階の展示場で働く女性が持ってきた名刺には、「浜松楽器 楽器材仕入れ部主任 安原龍彦」とある。日頃店に出入りしていて、先日も大阪から電話した浜松楽器家具部の課長からの簡単な紹介状が添えてあった。
すぐには名前がぴんとこず、埼京市の楽器店について情報をくれないか、とでもいう話だろうと、おもった。
しかし社長室に案内されてきた若い男を見て、賢一は「あっ」と気がついた。若い男は濃い眉といい、逆三角形の童顔といい、ロンドンで会った安原伸彦とそっくりであった。ただし髭は生やしていない。
「私、ロンドンで社長にお目にかからせていただきました安原伸彦の兄の、龍彦でございます」
安原龍彦は頭を下げた。
「伸彦さんのお兄さんが浜松楽器にお勤めとは存じませんでしたな。いや、弟さんのところには、ふた晩も泊めていただいて、えらくお世話になりました」
賢一のほうが恐縮をして、白髪を掻きあげ、部屋に置いたソファを勧めた。
「弟から詳しく話は聞きましたが、この度はご心痛のことと存じます」
どうやら伸彦は電話で万事、龍彦に打ち明けて相談したらしい。
「いや、参りましたな。あの嫁もしっかりしているようで、やっぱりお嬢さん育ちなんでしょうな。自分に近づいてくる人間は皆善人、と初めからきめてかかっているようなところがありましてね、一瞬の油断で、命さえ危ないことになった」
そう話しながら、賢一は自分や弟夫婦の過去について、浩美になにも打ち明けておかなかったことを改めて後悔した。
しかしロンドンに留学する姪に、自分の北朝鮮にかかわる過去や、現在のパチンコ業界の脱税問題などが危険な影を落す、とだれが考えるだろうか。
「じつは今日伺いましたのは、もし社長のほうで、北朝鮮から木材をお買いつけになるのでしたら、まず私の部門で扱わせていただけないものか、とおもいまして」
安原龍彦は意外な発言をした。
「そりゃ、またどうしてですか」
賢一は名刺の「楽器材仕入れ部」という肩書きに改めて目を落していった。
「私はピアノの材料の仕入れを担当しておりまして、ピアノの材料を仕入れるために、寒いところをあちこち飛びまわっております」
ピアノは「木の芸術品」と呼ばれるくらいで、鍵盤からアクション機構の数千個におよぶ部品まで、ことごとく木製である。しかしそのなかでも、ピアノの心臓部と称せられるのは「響板《きようばん》」という、音の九〇パーセントを発する、一メートルの板材の部分だ。この「響板」にどんな板材を使うか、でピアノの音色は左右されてしまい、従ってピアノの価値も決まってしまう。
「この響板に使う木はスプルースという松の一種が一番なのですが、この松は北緯四十度以上でないと、いい材のものがないんです。それで私どもピアノ材の仕入れ担当は、アラスカ、シベリア、北欧などを駆けずりまわって、この松を探しまわっては買いつけておりましてね」
浜松楽器は浜松におおきな貯木場を持っていて、世界各地で買いつけてきた松材をここに保存しているのだ、と龍彦は説明した。
顔は弟の伸彦とそっくりだが、龍彦は声音が低く、老成した話しかたをする。
伸彦より線がふとく、粗削りのところがある、と賢一はおもった。
伸彦には、浩美のことに話がおよぶと、顔色が変ったり、急に咳きこんだり、動揺がありありと窺えて、それを賢一は好ましくおもい、浩美は伸彦のこういう繊細で純情な面にひかれたのだろうな、とおもったが、兄の龍彦は話しながら表情をほとんど動かさない。
「ところがこの響板に使う松材が世界各地で手に入り難くなって、われわれも弱っているのです。まず山中へ入って伐りだしてくる労働者がいない。伐りだしてきても、えらく傷んでいたり、角材にされていて、板が取れなかったりするんですね。そこでお願いですが」
龍彦は言葉を切って、正面から賢一をみつめた。
「私を北朝鮮にゆかせていただけませんか。北朝鮮はいわゆる三十八度線の上ですから、当然大部分は北緯四十度以北になります。伸彦の話では、社長は北朝鮮から家具用の木材を買いつける、というお考えのようですが、私はまだ北朝鮮には、このピアノ用の松材が残っている、とおもうんですよ」
「ふうん、なるほど」
これはおおきなポイントになる話だ、と賢一は直感した。
「ピアノ用、特に響板の材料ということになると、上限なしとはいいませんが、相当高い値段で買い取ることになります。高い値段で、今後何年間にもわたって、買い取ってゆく、という商談が成立すれば、向うも浩美さんを手放しやすくなるんじゃないですか」
龍彦の態度には、伸彦にない、商売人の迫力があった。
「それはそうですな。漠然と家具用の木材を買いつける、というより、ピアノ用と特定して、しかも高価格とくれば、こちらも話を持ちこみやすいし、相手も乗ってきやすい」
これはいけるかもしれない、賢一は初めて浩美救出の糸口を掴めたようにおもった。
佐久間賢一は、安原伸彦の兄、龍彦が帰って行ったあと、広島の金林忠清に電話を入れた。
「そら、ええ話や、とわしもおもうわ」
金林はいった。
「保衛部の売りたい木材は、北緯四十度より上のものや、おもうけん、その浜松楽器の男を連れてわしがちょっと平壌へ行ってこよか」
金林はこともなげにいう。
「そんなに簡単に北朝鮮へ入国できるのか。入国申請はこっちの朝鮮総聯を通さなきゃならんのだろう」
日本の朝鮮総聯は、北朝鮮の領事館の役割を果している。朝鮮総聯の審査を通らなくては、渡航申請もできない。
「わしはな、今度は総聯を通さずにゆけるとおもうんや。昔、あんたと北送やってた頃、まあ、知ってのとおりじゃが、一時は毎週のように船がきて、迎接《げいせつ》をやって、共和国の指導員の連中とつきあってたわな。あんたは、ぷっつり北とは縁を切ったが、わしは事務局を辞めてからもつかず離れずでな、共和国の連中、特に迎接で知り合った連中とつき合ってきたんじゃよ。祖国は祖国おもって、機会があると、ぎょうさん土産持って出かけたわ。その連中のひとりが、国家保衛部のえらいさんになっとる。この間、そのえらいさんに会ったんやが、北京の総領事部に話がついとるから、これからは北京で入国査証、申請せい、いうとったんじゃ。総領事部がすぐ連絡取って、すぐに入国査証を出してくれるけん、そのほうが簡単じゃいうとった」
金林はいった。
「あんたを北へゆかすのは、慎重にやるがな。まあ、取り敢えずその安原龍彦いう青年、連れて共和国にいってみよ」
金林は結局、佐久間の平安堂家具店の役員という肩書きで、龍彦を連れて平壌へゆき、仲介役を務めてくれることになった。
老婆が孫《ソン》に射たれた翌朝、佐久間浩美は白々明《しらじらあ》けに目を覚ました。
あの老婆はどうしたろう、とおもった。あんな至近距離からピストルで射たれたのでは到底助からない気がする。
あの老婆の死は、浩美の責任だ、といってよかった。浩美が百ドル与えたりしなかったなら、あの農家ふうの家を抜け出て、招待所の傍らまで忍んできたりはしなかったろう。そしてタンコギ、犬の肉の缶詰が孫に見とがめられ、盗んだと誤認されて、射たれる原因になったが、あの「甘肉」の缶詰を盗みだし、老婆に与えたのは、これまた浩美なのである。
浩美は首を振って起きあがった。
朝食のうすいコーヒーをすすりながら、どうしても、朝のうちに老婆の家に行ってみよう、とおもった。
その日もフラメンコの練習があるが、劇場の都合なのだろう、練習は午後で、出迎えは一時と通知されている。
コーヒーを飲み終えて、玄関先を窺ったが、昨日は夜半までいた、自動小銃を持った兵士たちの姿は見えない。
二階に上って防寒外套を着ると、素早く玄関から抜けだした。接待員たちが見つめているらしい視線を背中に感じたが、委細かまわずに小走りに山林へ入った。
斜面を降りて、老婆が射たれた松の根もとに近寄ってみると、流れ出た血の輪が直径一メートル以上の、薄黒いしみになって朝霜と一緒に地面から浮き上っている。この血の跡からすれば、出血量はずいぶんと多く、老婆が即死したのは間違いのない気がする。
石炭殻で黒く汚れた道路を横切り、屋根瓦の重さにうちひしがれそうな家の裏口の前に立った。
青いペンキのはげたドアが閉っていたが、ノブを引っ張ると、意外にもぎしぎしと音を立てて、ドアは開いた。
暗い土間には、穴の沢山開いた練炭が数個、散乱している。火の消えた竈《かまど》の上には、剥げちょろけの琺瑯《ほうろう》鍋が置いてあり、なかには煮つまった茶色のカスがこびりついている。トウモロコシの滓《かす》と|ぬか《ヽヽ》を混ぜた、この国の貧しい主食の残飯なのだろう。このトウモロコシの滓の古い輸入品の配給を受け、それを食べると「ペラクラ病」という皮膚病にかかるのだ、と老婆は語っていた。
土間に溜った灰はすっかり掃除されていて、浩美が平安堂の住所を書きつけた痕跡も残っていない。
「婆さんは死んだよ」
ふいに隅のほうから、男の声がした。
部屋に通じるドアのあがりかまちに、車《チヤー》がすわっていた。
「昨夜、婆さんは練炭の一酸化炭素で中毒になってな、病院に運ばれたが、手遅れだったそうだ。わしは今朝、それを聞いて、おなじ帰国同胞だからな、形見でも残っていれば炭鉱にいる亭主のところに送ってやろう、とおもって、立ち寄ったんだよ」
浩美はふいに怒りで眼が眩んだようになった。なにが練炭の中毒だ、とおもった。
「なにをおっしゃってるんですか。あのお婆さんは私の眼の前で孫《ソン》さんに射たれて死んだんですよ」
車は眼を土間のほの暗い空間に据えて動かさない。
「この国では、ずいぶん簡単に人を殺してしまうんで、驚きました」
土間に立ったまま、浩美はいった。
「タンコギの缶詰を盗んだのは、お婆さんでなくて、私なのに、なにも確かめずに殺してしまった」
「いや、私のいうことに間違いはない。今朝、病院に行って確かめてきたが、婆さんは練炭の中毒で死んだんだ。医者もそういっとったよ」
車は表情を変えずにいい放った。
「この国には犯罪はないんだ。婆さんにしろ、だれにしろ、物を盗んだりするはずがない。ここは犯罪など存在しない理想郷なんだぞ」
大声でいいながら、しかし一瞬、車の顔に悲哀に似た感情が揺れ動いた。浩美は暫く黙ったのち、
「だけど、あのお婆さんは、車さんが配置した工作員だったんでしょう。工作員でも、あんなに簡単に殺されてしまうんですか」
浩美は問い詰めた。
「あれは工作員なんかじゃない」
車はおもわせぶりな弱々しい声でいい、首を振った。
「工作員だったら、こんなひどい生活させるか。見てみろ、この部屋にはなにもないだろう。おれも形見になる物はないか、とこの家にきてみたが、なにもありゃせんよ」
車は背後の部屋を指差していう。
浩美は車のほうに歩み寄り、部屋のなかを覗いた。ほんとうになにもなかった。というよりなにも無くなっていた。
先日覗いたときは、部屋の一方から一方へ縄を張って、それに合繊らしいチマ・チョゴリと女のランニング・シャツのような下着がかけてあったが、それが縄ごと姿を消している。
「これが帰国同胞の典型的人生よ。日本じゃ差別されて、就職もできん。子どもは前途を悲観して、ぐれてな、暴力団に入っちまう。これはいかんと祖国に帰国してみれば、慣れない練炭、焚かなくちゃいかん。挙句の果てに、一酸化炭素の中毒で命を落すのよ」
車は悲痛な声を出した。両頬があふれる涙で濡れている。車は自分の語れる限界のなかで、日本からの帰国同胞の悲痛な人生を語っていた。
――しかしチマ・チョゴリはどこへ消えたのだろう。
浩美には不審で、車の涙にむしろ不快感がつのる気分であった。やはりあれは芝居のための小道具で、もう昨日のうちに片づけてしまったのではないのか。
「形見といえば、これが唯一の形見なんだろうが、これはあんたが婆さんにやったんだろう」
突然、車はドル紙幣を外套のポケットから取りだし、浩美につきつけた。
浩美が先日、老婆に預けた百ドル紙幣であった。
「この部屋に敷いた油紙がめくれててな、そこをひっくり返したら、封筒に入れたこのドル札が出てきたよ」
ドル紙幣を見た瞬間、あの老婆は、浩美への見せしめのために殺されたに違いない、という考えが天啓のように閃《ひらめ》いた。
浩美にこの国の恐ろしさ、特に不安定な外来者の立場を悟らせる切り札として、あの老婆は計画的に「配置」され、意図的に殺人を「組織」されたのではないか。うかうかすると、おまえもあの老婆のように簡単に殺されて、「あれは一酸化炭素中毒だった」とこれまた簡単に片づけられてしまうぞ、そういう意味なのだ。
この国ではすべてが悪意に満ち、策略に基づいていることを、浩美は遅まきながら悟り始めていた。
「帰国同胞の希望は、親愛なる指導者同志、|金 正日《キム・ジヨンイル》書記なのだ。梁《ヤン》同志を見てごらん。金正日同志の信頼が厚いから、おもうままにこの国を出入りしている。あんただってこの国を出られれば、息子に会う機会もできるだろう」
「息子に会う機会もできるだろう」という言葉は鋭い痛みになって浩美を打った。浩一のことは鋭い棘《とげ》のように浩美の胸に刺さったままになっていて、朝な夕な、苦痛に浩美をあえがせる。
「だからあんたも、フラメンコを一生懸命頑張って勉強して貰って、金正日書記の信頼を獲得するようにしなくちゃいかん」
車は早くも涙の乾いた顔でいった。
帰りに石炭がらで固めた道路を横切った浩美は、林の入口の新しい盛り土につまずきそうになった。盛り土の端から手の親指が一本はみだしているのに気づき、浩美は悲鳴をあげた。
その親指の爪は異常なほど反り返っていた。やはり浩美の推測どおり、老婆は昨日殺され、そのままここに埋められたのである。
|血の海《ピバタ》′場でのフラメンコの練習は、段々熱を帯び始めた。
浩美は桐朋学園大の演劇科を出て、小劇団にいた頃、中野の地下の貸しスタジオで、週に二回、六カ月ほど、フラメンコを習っていたことがある。その頃の感覚が戻ってきたのだろう、だぶだぶに肥ったスペインの中年女性の教師の指導ぶりにも熱が入ってきた。ギター弾きの男のあくびの数も減り始め、ギターの音色が変ってきた。
「上体をまっすぐ立てたまま、お尻を落すのよ。膝をいつもまげていること」
片言の英語で、どうやらそういう意味のことを繰り返し、女教師はいうのだが、「お尻を落す」感覚がすぐに浩美には戻ってきたのである。
カスタネットを打ち鳴らしながら、爪先と踵《かかと》に鉄を打った靴で、「タッタ、タッタ」と激しく床を踏み鳴らす。左手を高くかかげ、右手で弧を描きながら、重く長いスカートを蹴って、くるりとまわり、また足を踏み鳴らす。鉄を打った靴でおもいきり、床を蹴って、靴音高く鳴らすのが、フラメンコの快感で、その度に汗が噴き出てくる。
一緒に習っている、やはり強制連行されてきたフィリピンの少女、モレナもイタリアでバレエを習っていた経験があるそうで、たちまち感覚を掴んで、技量をあげてきた。
呼吸も合ってきて、ついに女教師が、
「このふたりはいいコンビよ。スペインに連れて帰りたいわ」
と、監督している車にいったほどである。
ある日、車と一緒に、背の高い外国人が練習を見学にやってきた。スペイン人たちとも知り合いらしく、女教師と抱き合い、ギター弾きと握手をしている。
浩美とモレナがアンダルーシアの民謡、ブレリアスを踊り終えると、盛んに拍手をしながら、近寄ってきた。
「東ドイツ大使館のカール・ワルターです。いつかこちらへおいでになった夜に、あなたにお目にかかって、一緒に食事をしました」
そういわれれば短く刈りあげた髪、ちょっと中東の血が混っているような、浅黒い感じの肌に見覚えがあった。
「すっかりお元気になられましたな。とてもきれいだ」
カール・ワルターは、花模様のロング・スカートのフラメンコ用衣装を着た浩美の姿をじろじろと眺める。
あのとき、この男は「北朝鮮の関係先と交渉してみましょう」などといったが、その後、別になんの連絡もしてきたわけではない。
「車さんの命令で、毎日、朝鮮人参のクリームと犬の肉を食べて、少し元気になりました」
ワルターは困った顔になり、
「きっとそれは特別の犬の肉だ。チャウチャウじゃないかな。美しい犬を食べれば、食べた人も美しくなる」
つまらぬ冗談を英語でいった。
「とにかく一度、お目にかかりたいですな。東文里《トンブンリ》の招待所におられるんですな。何号ですか」
「13号です」
浩美は接待員が書いている経理の報告書を盗み見て、なんとなく接待所の番号の見当をつけていたのである。
「まあまあ、私がアレンジするよ。保衛がしょっちゅうきてて、接待員に聞きこみやってるし、面倒だからね」
車が割って入ってきた。
「ホエイか。ゲシュタポがいるんじゃ、うるさいな」
英語の会話で気を許しているのか、ワルターは大声でそんなことをいい、それからにやりと笑って周囲を見わたすふりをした。
「外交官の特権でね、私は市内の外出は自由なんですよ、少くとも今のところはね」
ワルターが車に見送られて帰ってゆくのを眺めながら、モレナが、
「あの外交官は、車や梁の仲間よ。あんな男に気を許したら、とんでもないことになるとおもうわ」
と囁いた。
日の経つにつれて、老婆の死の衝撃は、佐久間浩美の心境に変化を与え始めた。
眼前で、それも警察か公安かわからないが、行政当局によって人が簡単に殺害されてしまい、その死体をいわば遺棄同然に路傍に埋めてしまうという事実は、北朝鮮という国家のいい知れぬ恐ろしい体質を物語ってあまりある。この国家の体質への恐怖が、おおきな波紋のように、浩美の心に拡がっていって、自然に躰が縮んでゆく気がした。臆病風に吹かれる、という感じになった。
この国から脱出する、というのはだいそれた望みであって、とにかく一日一日を生き延びられればそれでよい、とおもうような弱気に駆られるのである。
あの老婆はそれこそ、日本語を喋るというような、先進諸国では考えられないようなことから、スパイと疑われ、近々に処刑される運命にあったのだろう。事実、老婆自身、白いほつれ毛を掻きあげて、「わしもそう長い命じゃないんだわ」と呟いていたものである。
あの老婆の射殺事件は、間違いなく佐久間浩美に対する、見せしめの意味があったのである。
浩美の躰の隅々に、恐怖感が浸透してゆく頃合を見計らうようにして、対外文化交流協会の車《チヤー》が、
「親愛なる指導者同志、金正日書記の前で、あんたもスペイン舞踊を披露するんだから、それなりの心がまえはしておいて貰わないと困るよ。そろそろわが国の国体の意義について、勉強してみようとはおもわんかね」
そういいだした。
浩美は心中に湧き起る恐怖感を消すことができず、
「お話を伺うだけは伺ってみます」
そう答えてしまったのである。
翌日、車に伴われて、細い眼の吊りあがった、中年の平壌大学講師という男が、招待所にやってきた。
この男から、浩美は招待所のロビーで、朝鮮民主主義人民共和国の国家哲学を教わることになった。
男は「金日成回顧録」に基づいて、講話を始めたのだけれども、彼の講話の一言一句が、浩美の心を恐怖の矢で突き刺した。
「いったい、封建主義時代の、歴代の王がやったことは何か、と偉大なる首領様は、金日成回顧録のなかで、追及しておられます。歴代の王のやったことは、民衆を搾《しぼ》り、正論を吐く忠臣を流罪に処し、首をはねたことのほかに何をしたというのか。われわれは朝鮮の独立後、祖国に搾取と抑圧のない社会、労働者、農民を始め、勤労者大衆が幸せに暮らせる社会を築かねばならない」
ロンドン留学中に誘拐され、北朝鮮に強制連行された人間にとっては、「偉大なる首領様」は、まったく彼の非難する、封建時代の王たちと変りがない。
強制連行された人間に、正義を説いても、それはアウシュヴィッツに収容されている人間にナチス党員が正義を説くのとなにほどの違いがあろう。
「偉大なる首領様は、こうも主張されております。私は朝鮮民族を劣等民族だと考えたことは一度もなかった。朝鮮民族は世界で初めて鉄甲船、金属活字などを造りだした、文化的で聡明な民族であり、白紙のように清楚な朝鮮民族の道徳は世界の賛嘆を呼んでいた≠サういっておられるのです。朝鮮が滅んだのは立ち遅れた民族性のためではなく、支配層の腐敗と無能のためである≠ニ」
こうした発想は、浩美が高校で、あるいは受験勉強の教科書で習ったナチス・ドイツの発想に恐ろしく似通っていはしないか。民族と国家の優越性の主張は、帰国同胞の老婆の虐殺に象徴されるごとく、他国からの移住者、ひいては他民族への憎悪と抹殺に繋がるのではないか。
佐久間浩美にとっては、金日成、金正日父子のすべての発言が、厚顔無恥の、政治的演技に映る。
「どんな名優でも、ここまで善玉役は演じきれませんよ」
そう叫びたいのを我慢して、浩美は黙々と講義をザラ紙のように紙質のわるいノートブックにメモしていた。
この授業に加えて、まもなく朝鮮語の講義も始った。
フラメンコの練習には、ときどきスペインの本場から招かれてきた踊り子が二、三名加わり、気合いが入ってきた。
今年一九八五年の四月十五日に「偉大なる首領様」金日成は七十三歳の誕生日を迎えるが、それを記念して、今年は国際芸術祭が催される。踊り子たちはそれに出演すべく、招ばれてきたのだ、という。
フラメンコ公演の会場に近い、という理由から、浩美はまたまた平壌市内の招待所に移された。
最初に入れられた牡丹峰《モランボン》の招待所より主体《チユチエ》思想塔に近く、夜になると、主体思想塔の天辺《てつぺん》の真赤な人だまが窓のすぐ向うに見えて、浩美の神経をおびやかした。
ありがたかったのは、おなじ朝鮮民航で、強制連行されてきて、一緒にフラメンコを習わされているモレナが、おなじ招待所に移ってきたことであった。
年はモレナのほうが十歳も若いが、強制連行されてきたという立場が似通っており、なにより英語の通じることから、ふたりは気が合った。二階に寝室はふたつあったが、ふたりはおおきなツインのほうで、一緒に寝起きすることにした。
寝る前に浩美は、隠岐の浜辺に無数の小旗のように翻がえる、白|烏賊《いか》を干す風景やその浜辺に漂着した北朝鮮の漁師一家の話を、モレナに語り聞かせたりしたものであった。
ある朝、車《チヤー》がやってきて、
「今日、ふたりを病院に案内するから、健康診断を受けて貰う。親愛なる指導者同志やほかの大事なお客さんに、風邪でもうつされたら大ごとだからな」
強圧的な命令口調である。
ふたりが連れてゆかれたのは「平壌駐在の外交官もここへくる」という「南山診療所」である。
五階建ての病院だが、正面玄関を入ったところに、例によって「偉大なる指導者、金日成」が直立不動の医師や看護婦に労《ねぎら》いの言葉をかけている、巨大な油絵が飾ってある。
車に連れられた浩美とモレナがエレベーターを待っていると、突然、玄関から華やかな娘たちの一隊が二、三十人、大声で喋りながら、病院に入ってきた。
いずれも二十歳前後、北朝鮮へきて初めて見る美女たちである。劇場や観光名所で見かける娘たちに比べ、なにより色が際立って白い。外貨ショップで手に入れるのか、濃い口紅をさし、アイ・シャドウを引いて、資本主義社会ふうの化粧をしている。外套も色とりどりで、派手なスカーフを頭からかぶったり、首に巻いたりしている。
日本人か、あるいは在日の娘たちか、と浩美が眼を凝らしていると、モレナが、
「キップムジョよ。金正日のための、プライベート・ダンサーよ」
と囁いた。
車はふたりの気配を察して、
「あれは親愛なる指導者同志が、特に養成しているダンサーたちだ。そのうち、外交団の前で披露したい、と指導者同志はおっしゃってる」
といった。
娘たちは大声で喋りながら、階段をがたがたと駆け昇ってゆく。
四階の受付で、車が何事か話し、浩美とモレナは内科へゆき、問診を受け、血液を取られた。無愛想な看護婦に、コップと古いコルクの栓の詰った試験管を渡され、トイレに連れてゆかれる。
「尿を取れ、といってるのね」
モレナがいった。
昔、小学校低学年の頃、家で古いコップに尿を取り、こんなぐあいに試験管に入れて、学校に持って行ったのを浩美はおもいだした。
トイレで尿をコップに取り、それを注意深く、試験管に注ぎ入れる。ずいぶん注意したのだけれども、尿が一滴、試験管を持つ手の甲の上にはねた。
コルクの栓をした試験管を看護婦に渡すのを、車がじっと眺めていて、浩美は顔が赤くなった。
さらに浩美とモレナはX線撮影をやらされたのだが、問題はそのあとに起った。
X線撮影を終えて廊下に出ると、車は、
「最後は婦人科の検査だ。これで終りだ」
という。
浩美は、
「婦人科は必要ないんじゃないですか」
と反発をした。
「先刻、車さんは金正日書記に風邪をうつさないように、身体検査を受けて貰う、とおっしゃいましたよね。それなら婦人科の検査は必要ないでしょう」
今日会った北朝鮮の医者たちはいずれも仮面をかぶったように無表情だったが、あの無表情な医者たちに、自分の女性の部分を晒《さら》すのは耐え難い気がした。
「この国では、学生も働く女性も、必ず婦人科の検査を受ける。婦人科の検査抜きにしては、女の身体検査は成りたたんのだ」
車もあとへひこうとしない。
「なに」
モレナが訊いてくる。
「女性のための特別なチェックを受けろ、といっているのよ」
「ガイニコロジー(婦人科)? ノー、いやよ」
モレナは泣き顔になり、首を振った。
廊下の向うから、キップムジョの娘たちが相変らず声高に喋りながら、やってくる。手に手にそれぞれのカルテらしいものをかかえていた。
「あのダンサーたちだって、ちゃんと金正日書記の前で踊るときは、婦人科の検査を受けているんだ」
車は近づいてくる娘たちを顎でしゃくっていった。
「だって、あの娘たちは、金正日の愛人《ミストレス》たちなんでしょう。私たちは愛人ではないわ」
モレナが叫んだ。
モレナは前の招待所で、レバノンから拉致、強制連行されてきた女性と一緒だったそうで、いろいろな情報に富んでいる。
「キップムジョは真面目なダンサーだ」
車は表情を変えない。
色の白い娘たちが、嬌声を振りまきながら彼らの傍らを通ってゆく。車に向って話しかけたり、挨拶する娘たちもいて、車は閉口したように応じている。
原色の奔流が通り過ぎると、病院の廊下に白けた空気が落ちた。泣き虫のモレナは早くも洟《はな》をすすっている。
「今日は帰ろう。しかしそのうち必ず受けて貰う」
車は頑《かたく》なにいい張った。
一週間後の午後、小雪の舞うなかを、浩美とモレナは、車《チヤー》と孫《ソン》に付き添われて、平壌市の中心とおもわれる「会場」へ向った。
いよいよ「親愛なる指導者同志」の前で、フラメンコを踊る「スペインの夜」の当日がきたのであった。
茶色の高い土塀が二重に張りめぐらされたなかに、白壁の西洋館ふうの建物が建っている。
玄関を入ってゆくと、バンドの演奏が聞える。「イパネマの娘」かなにか、そういったポピュラーな曲を演奏していた。二階に大広間があり、その舞台の上で、数十名の娘たちがスパニッシュ・ダンスふうの群舞を踊っている。
浩美とモレナにフラメンコを教えているスペイン人の女性が、じっと娘たちの踊りをみつめている。
「このあいだ、病院で会った娘たちよ。キップムジョよ」
モレナが舞台の娘たちを顎でしゃくっていった。
浩美とモレナはリハーサルをやったが、緊張して、手足が自由に動かない。
「私、恐いよ」
練習の合間にモレナが囁き、浩美に抱きついてきた。
「うん、私も恐いわ」
浩美はいい、モレナを抱きしめた。
舞台出演前の緊張だけではない。もし舞台で失敗して、ころんだりすると、どうなるのだろうか。あの北送された日本人妻の老婆のように、ピストルで射殺されたりしないだろうか。この華やかに音楽の響く、豪華な舞台の上で、そんな馬鹿なことが起るとはおもえないのだが、この国ではなにが起っても不思議ではない気がする。
その恐怖に襲われて、うまく手足が動かないのだ。
二度目のリハーサルのとき、スペイン人の教師が、足を踏み鳴らして怒り、浩美を突き飛ばし、その手でモレナの頬を激しくなぐった。
モレナが悲鳴をあげて、しゃくりあげる。
「あんたたち、音楽が聞えないの」
耳を指差して、怒鳴っている。
舞台の袖で、キップムジョの娘たちが甲高い声でいっせいに笑った。
キップムジョたちの嘲笑が浩美とモレナを目覚めさせた。金正日の閨房の相手だという、こんな小娘たちにまけられるか、そういう気持になったのである。
腰の重心を落とす。すすり泣くような男の歌に合わせて、花模様の長いスカートを蹴り、一回転し、激しく鉄を打った靴を踏み鳴らす。フラメンコの手の所作《しよさ》は、あるときは花を語り、月を語るが、その手の物語も忘れてはならない。
モレナとの呼吸も合い、音楽にもうまく乗れた、とおもいつつ、まるで歌舞伎の見得を切るみたいな最後のポーズをきめたとき、客席から盛大な拍手が起った。
ライトを浴びた舞台からは、暗くてよく見えないが、正面で色の白い、丸顔に眼鏡をかけた男が立ちあがって、盛んに拍手してくれているのがぼんやり眼に入った。かつらをかぶったような、縮れた髪の毛が目立って、「五頭身」のように見える、背の低い男だ。あれが「親愛なる指導者同志」金正日なのだろうか。
アンコールに二度ほど応じて、舞台の袖に引き揚げたが、車が、
「やあ、よくできた。親愛なる指導者同志も大変お喜びだった」
喜色満面である。
「ふたりとも指導者同志に挨拶に行ってくれないか」
素人芸にしてはうまくやれたという自信が、浩美に精神的余裕を与えていた。
浩美はモレナを促して、舞台の下、おおきな広間に向った。
フラメンコのあと、照明が明るくなった広間には、巨大な長机が置いてある。その長机の中央に、この国のあらゆる場所に肖像画の飾られている人物がすわっていた。
グレーの中山《ちゆうざん》服を着て、すわっていても小柄の人物であることが判る。
車が紹介すると、「親愛なる指導者同志」は愛想のよい笑顔を見せて、隣へすわるようにいう。
隣の椅子にふたりはすわったが、金正日が、車に向ってしきりになにか話しかけ、通訳するように命じている。
「親愛なる指導者同志は、ふたりの踊りが大変気に入っておられる。来月、マグノリア・ハウス、いってみれば木蓮館だが、その招待所で、外交官招待の行事を組織するが、それにも出て貰いたい、そうおっしゃっている」
車はおなじことを英語でモレナにいい、ふたりは「光栄です」と頭を下げた。
突然、「天国と地獄」の音楽が爆発し、舞台に、キップムジョの一隊が現れ、フレンチ・カンカンを踊り始めた。
娘たちが足を高くあげる度に、広間からどっと歓声が沸く。
金正日は女におおきなシャンパン・グラスを持ってこさせ、浩美とモレナにシャンパンをなみなみと注いだ。日本語で「カンパイ」といい、一挙に呷《あお》ってみせた。
浩美とモレナは恐る恐る口をつけただけだが、金正日はしきりにグラスをあげて、もっと飲め、と手真似で強制する。
フレンチ・カンカンが終って、キップムジョが広間に降りてきて、客たちの間に侍《はべ》り始めた。
乱痴気騒ぎが始まった。
金正日はしきりに浩美に笑いかけては、シャンパンを口に運んでいたが、酔いを発したのだろう、突然立ちあがって、何事か朝鮮語で怒鳴った。
後に浩美がモレナから聞いたところでは、この宴席に出席しているのは、金正日側近の「酒飲みチーム」で、いずれも朝鮮労働党の幹部たちだというのだが、その幹部たちとキップムジョの娘たちは、金正日の号令を聞くなり、ぞろぞろと部屋を出て行った。
あとに残ったのは、金正日それに浩美とモレナだけで、浩美も席を立とうかと迷い、モレナと顔を見合わせたのだが、金正日が「すわっていろ」というように手で制する。
まもなく宴席の連中が戻ってきたが、いずれも陸軍の軍服に着替えている。キップムジョの娘たちには軍服がだぶだぶで、指の先しか出ていない娘もいた。
バンドが行進曲を演奏し始め、客たちは二列になって、行進し始めた。例のソ連式に、膝を曲げずに足を棒のように前に突きだす行進である。これもソ連式に横に振る手が白い蝶の群のようにひらめいた。
行列はホールをぐるぐるまわり、金正日の前を通るときは、甲高い声で号令をかけていっせいに挙手の礼をする。驚いたことに隊列には、車も混っていて、これは小さめの軍服を窮屈そうに着て、しかし大真面目な顔で行進している。
なんのことはない、これは兵隊ごっこのような酒席の座興なのであった。
ひとしきり行進すると、椅子にすわった金正日はまた朝鮮語で、怒鳴った。陸軍の軍服を着た連中が、出てゆき、金正日は面白そうに浩美にウインクをして、
「ディス・タイム・ネイビィ」
といった。
まもなく今度は白い海軍の軍服を着て、「酒飲みチーム」とキップムジョは戻ってきた。
また軍服の連中は足を空中に突きだす行進を始め、ホールをまわっては、金正日の前で敬礼する。
キップムジョのひとりが躓《つまず》いてころんだ。白い軍服のズボンが長過ぎて踏んづけたのである。
ころんだキップムジョが直立不動の姿勢を取り、甲高い声で、金正日に訴えた。多分ズボンが長いと訴えたのだろう。金正日がひと声叫ぶと、女たちは皆、軍服のズボンだけを舞台に脱ぎ捨てた。タイツを穿いた足が現れた。
ほかの男の連中は宴席に引き揚げ、軍服の上着にタイツ姿のキップムジョの娘たちだけが、数十名尻を振って行進する。軍帽を斜めにかぶり、軍服の上着に見えかくれする尻がきらりきらりと光り、エロチックであった。金正日が手を打って喜び、他の連中もそれに倣《なら》って拍手する。
浩美は映画でこれに似た場面をみたようにおもった。あれは「チャップリンの独裁者」だったのだろうか。
盛んに拍手して喜んでいた金正日の手が、いつの間にか、浩美の膝に載っていた。
平壌から帰ってきた金林忠清から佐久間賢一のもとへ至急会いたい旨の連絡が入った。
「ひとこと聞かせてくれ、見こみはどうなんだ」
賢一がせっつくと、
「わが共和国もよっぽど金に困ってるんじゃなかろうかね。わし、おもうに金の力でなんとかなるかもしれんのう」
溜め息混じりに金林はいった。
「ソウルで開催の八八年《パルパル》オリンピックに対抗しようとしてな、共和国は八九年に第十三回世界青年学生祭を平壌でやるけん、競技場建設にぎょうさん金がかかるんじゃろなあ」
翌日、取るものも取りあえず、賢一は浜松の海岸にある、浜松楽器の寮で、金林と安原龍彦と落ち合うことになった。
龍彦が急遽、アレンジしてくれた場所で、寮とはいっても、外国からのVIP接待用に使う小ぎれいな別荘ふうの西洋館である。仲居に案内されて、賢一は廊下を歩き、途中、ドアを開け放った部屋をいくつか覗いたが、調度類も、シティ・ホテル顔負けの豪華さである。
松林のなかに突き出ている、潮騒《しおさい》の聞える応接間に通されてみると、すでに金林と安原龍彦が待ち受けていた。
「平壌へ入ってな、すぐベンツで国家保衛部へ運ばれたんよ。帰国同胞を北へ送った当時の古い友人がそこのえらいさんにおさまっとるんじゃけど、まず一にも二にも金や、とおもうてな、いきなり商売の話を持ちだした。在日の話を聞くと、国家保衛部じゃ、北のほうで材木を伐採しておられるそうじゃけど、それを売ってくれんか、それもピアノの材料になる、高い松の木の一種を売ってくれんかなあ、そういうたんじゃ」
相手は怪訝《けげん》な顔をしていたという。
「わしは今回は平安堂の役員として、この龍ちゃんに頼まれて、ピアノの材料買いにきたんじゃいうて、龍ちゃんの会社は世界でも一流の会社じゃけん、いい材木があれば、何千万でも何億でも買わして欲しい、いうとる、そう胸張ってみせた」
「私も具体的にですね、どういう商売しているか、どういう材木が欲しいか、説明しました」
龍彦が口を添えた。
保衛部の副部長は隣室に行って、あちこち電話していたが、まもなく喜色満面の顔をして部屋に戻ってきた。
「もともと眉がこう吊り上ってな、見るからに党性≠ェ強いというんか、革命的な顔をした男なんじゃけど、それがもうみっともなく眼尻下げよって革命はどこへやら、という顔よ。たしかに国家保衛部、咸鏡《ハムキヨン》南道《ナンド》の道保衛部じゃ、材木の伐採をやって、国内に配送しとります。その材木の中にはピアノに使える木もあるそうです。もみ手せんばかりにいうんじゃよ。そこの材木は、咸興《ハムフン》市の傍の役所が扱ってて、おもに興南《フンナム》港から積み出しとる、そういうんじゃ」
金林が説明した。
「よし、伐りだしてくれ、近々改めてうちの社長とこの龍ちゃんが現地に見本を見にゆくけん、よろしゅう頼む、わしはそういうたわい。ところで、じつはちょっと別件の頼みがある。今、こっちにきてる佐久間浩美いう娘を返してんかあ、何気なく持ちだしたんよ。たしかに東文里の招待所におるんじゃろう、そう聞いとるいうてな」
金林は手もとのメモに「佐久間浩美」と書いて国家保衛部の副部長に差しだした。
「百面相とはあのことじゃね、途端にただでさえ吊り上ってる眉がきゅっとほとんど垂直に吊り上ってな、|金 先生《キムソンセンニム》、わが共和国に拉致、軟禁されとる女性がおる、といわれるのですか、ご存じのように、わが共和国には、日本やアメリカのような資本主義国に見られる犯罪者はおりません、従って強盗、誘拐犯もおりませんし、その被害者もおりません。切り口上でいいよったわい」
そこで金林は「よくわかっている」と頷いてみせた。
「いや、だれも拉致されたの、監禁されとる、とはいうとらんがの、そやけど、この前、わしはこの平壌にきたとき、人民大学習堂のエレベーターで、その娘に会うたんじゃ、そしたら、日本に帰りたい、いうとったから、早く探して欲しい、おもうただけじゃ、そういうてね、それからおもいいれたっぷりに、この龍ちゃんに、日本語で浩美の話がまとまらんと商売も難しいかなあ、と呟いてみせたんよ」
国家保衛部副部長は隣室へゆき、今度は長いこと戻ってこなかった。やっと戻ってきて、今調べている、明日もう一度会いたい、と申し出た。
「翌日、ベンツの迎えがきて、行ってみるとな、おっさん、閉口したような顔をして、佐久間浩美さんは最初、わが共和国のバレーボールのコーチとして招かれてきたが、踊りもうまいことがわかったんで、今はわが共和国の労働者に踊りを教えとる、なんていい加減なことをいいよるんじゃよ。しかも彼女は朝鮮労働党の招待で、わが国に招かれたんや、招待所も党の招待所に宿泊しておって、国家保衛部の管轄外や、いうんじゃね」
金林は龍彦を促して、アタッシェ・ケースから、浜松楽器の社用箋を出させた。その紙に「朝鮮労働党」と書き、それに並べて「行政機構」と書いた。
「あんたもよく知っとるこっちゃが、北朝鮮の組織は二重構造になっておるわな。朝鮮労働党が絶対的な力持っとって、その下に行政があって、党の決定を実行するわけじゃ。今度やね、浩美さんを誘拐したのは、党のほうじゃけえ」
朝鮮労働党所属の秘密工作機関としては、「統一戦線部、対外情報調査部、社会文化部、作戦部」があるが、佐久間浩美の誘拐工作は対外情報調査部、別名対外文化交流協会が「組織」したのではないか、と金林はいった。
「わしの聞きかじりによるとじゃ、対外情報調査部は日本の朝鮮総聯の窓口にもなっとるんじゃけど、おっかないテロ専門、それも世界じゅうでテロをやりよる部署よ。ラングーンで、韓国の閣僚爆殺事件を組織して、人民武力部、つまり軍隊にやらしたのもあそこらしいわ。だから浩美さん誘拐犯の李《リー》 某《なにがし》や|梁 美善《ヤン・ミーソン》、それに兄貴の|車 明吉《チヤー・ミヨンギル》もこの対外情報調査部所属とおもうな」
これに対して国家保衛部は治安警察で、行政機構だから、党の工作関係については手を出しにくい面があるらしかった。
「しかし国家保衛部は、ゲシュタポであり、|KGB《カーゲーベー》であるわけだろう。ゲシュタポなら、なんでもできるとおもうがね。そのゲシュタポが政治犯でもない、女ひとりを奪い取ることもできんのか」
賢一は語気鋭くいった。
「まあまあ、朝鮮半島系はこんなぐあいにすぐいきりたつから話しにくいなあ」
金林はうすい髪の毛をきれいに撫でつけた頭を人差し指ですきあげていった。
「とにかく党のほうと交渉してみてくれ、それが可能じゃったら、いつでも咸興《ハムフン》や興南《フンナム》まで商売にゆくいうた。返事は北京の保衛部にこちらから電話して訊くといってな。デスクに千ドル入れた封筒を置いてきたんよ」
「ふうん」
と賢一は唸った。
それから、
「とにかくえらいおふたりにお世話になった。どうもありがとう」
と改めて頭を下げた。
ふいにドアがノックされ、和服の仲居に案内されて、長身の外国女性が姿を見せた。賢一が先日、ロンドンで会ったセキュリティ・コントロールのアンジェリカ・ウーファであった。
「おお、アンジェリカ」
賢一は驚いて立ちあがり、アンジェリカと握手をした。
「あなたがきているとは知らなかった。龍彦君も伸彦君もちっとも教えてくれないからね」
「いや、佐久間さんを驚かそうとおもいましてね」
龍彦はにやにや笑っている。
アンジェリカも学生的な身なりからすっかりキャリア・ガールに変身をして、茶系の強かった髪をすっかり金髪に染め、きちんとしたドレスに身を固めている。
「今度は保険の用事があって、出張してきたんです」
アンジェリカはいった。
「出張の目的はある日本企業と保険の契約を結ぶためなんですが、もうひとつはヒロミに関する情報もほんの少し入手しています」
「なにか浩美について、わかりましたか」
賢一が訊ねた。
「東ドイツの外交筋の情報ですが、今月の中旬、十七日に、平壌市の朝鮮労働党ですか、あの党の本部庁舎の区域にあるマグノリア・ハウスで、外交官接待のパーティが催されます。その席上で、ヒロミがフラメンコを踊るそうです」
その夜はそのまま、浜松楽器の寮で龍彦のご馳走になったが、伸彦の申し送りを受けているのだろう、龍彦が親切にあれこれとアンジェリカの面倒を見るのが目立った。
結局、北京経由、国家保衛部から返事がきて、佐久間賢一は、安原龍彦と一緒に北朝鮮の興南《フンナム》という港から、咸興《ハムフン》市の傍の街に入り、ピアノ用木材の買い付けを行なうことになった。
空路ハバロフスクに渡り、ハバロフスクからナホトカに出て、ナホトカの北朝鮮総領事部で入国査証を貰う。ナホトカからリベリア船籍の貨客船に乗り、興南港にくるように、という指示が北朝鮮側からきたのである。
興南は日本海に面した東海岸第二の貿易港だが、木材はここに伐り出されてくるらしい。入国査証が日本の総聯を通さず、ナホトカの北朝鮮領事館で交付される、という点がミソであった。
「それでその興南か、その近くで浩美を引き渡して貰えるのかね」
「そう運べは上々じゃろうがね。しかしなにせわが共和国は当てにならん国じゃけんのう。なにより帰国同胞にしろ、強制連行された者にしろ、あの国から出た者はおらんけん、ま、金の力でどこまで押せるかが勝負じゃろうな」
金林はハバロフスクの北朝鮮保衛部宛てにテレビ二、三台、興南の役人たちには、現金三千ドルから五千ドル、手巻きの時計百個、男物女物のスウェーター、女性用ネッカチーフ、化粧品など、おもいつくだけの土産を持ってゆけ、といった。
手巻きの時計を持ってゆくのは、現地ではクオーツを生産しておらず、止ったきりになってしまうので、手巻きの時計のほうが喜ばれるためである。
「ハバロフスクでも迎えは出るじゃけえ、引っ越し荷物、運ぶつもりで持ってゆくんよ」
金林はいった。
「向うには、三月十七日に仕上げの踊りがあるそうじゃな、とはいってある。それを締めくくりにして、引き渡せ、いう意味じゃが、あてにはできんなあ。党というより、金の息子がどうしても浩美さんを離さんかもしれんしな。あれに目えつけられたら、すべてパアや。覚悟せえよ」
おなじ三月初め、宮井物産、ロンドン支店の鉄鋼担当、森勇平から、安原伸彦のもとへ電話があった。
「社内の内示だが、あんた、四月一日付けで東京本社の鉄鋼本部鉄鋼貿易部へ、戻ることになったばい」
「ははあ、また本社勤務でありますか」
「今度は色々あったきに、まあ、修業期間短縮して、帰さねばいけん、いうこつで、帰る話だからな、本社勤務もそう長いこつはあるまい、おもうちょるがね」
通例だと修業生は語学勉強一年の後、現地で実務を一年実習するケースが多い。それが安原の口ききから始まった商売で、湧谷まで帰国するような波瀾に巻きこまれてしまい、結局、安全のため、安原も早めにとにかく帰国させようというのが、鉄鋼本部長の屋敷あたりの腹のようであった。
「あんたも、もう学校も終りだろうし、旅行でもして気分、変えてきんしゃい」
「じつはこの前、お話しした佐久間浩美のケースですが、父親代りの賢一さんに頼まれて浩一という息子の行方を探してるんでありまして」
アンクルという男の住所、キティゴンの住所を不動産屋に訊いてみたりしたが、学校の住所が書いてあったりしてはっきりしない。そのうち、灯台|下《もと》暗しと気づいて、キングストン語学学校の事務局のヘレンに訊ねてみた。
ヘレンは伸彦に好意的だったから、入学申し込み書を調べてくれて、キティゴンのタイの住所を書き出してくれた。
「このアパートは、家具つきでありますが、そのまま、アンジェリカが借りることに話がついております。私は少し早目にロンドンを出て、バンコクへ寄って浩一くんを探してみようか、とおもってるんであります」
「それがよか。浩美さんも伯父さんも一番心配しているのは、子どものことたい。バンコクへ寄っていきんしゃい」
電話を切る間際に、森は、
「ああ、忘れてたが、湧谷さんもな、三月十五日付けで辞令が出るいうとったよ。今度はマニラ支店長だと。ま、マニラは代々鉄出身の支店長が続いている支店だし、湧さんもあの辺にはめこまれる、とはおもってたがな」
そう付け加えた。
バンコクへ来た安原伸彦はホテルに頼んで、少々値段は張るが、ホテルの専属の車と運転手を使わせて貰うことにした。
バンコクのタクシー運転手は信用の置けない者もいる、と聞いていたし、だいいち英語のできる運転手でなくては話が通じない。
だいたい学校の事務局のヘレンが調べてくれたところによると、キティゴンというのは通称で、彼女の正式の名前は学籍簿二行分を取っているくらい長かった。
KITTY GONG SOTHORNOPABUTRというのである。
「タイ人の名前は皆長くて覚えられないのよ。おまけに発音もできないしね」
ヘレンは首を振っていたが、キティゴンはKITTY GONGの訛ったもので、KITTYは英語の愛称、GONGは中国名のようである。「権」とでも書くのだろうか。
ホテルの運転手に見せると、バンコクから約二時間の田舎で、自分は親類がいるから、だいたいの位置はわかる、という。
伸彦はホテルで菓子を買い、九時にホテルを出発した。
バンコク名物の大渋滞をすり抜け、車は土埃《つちぼこり》を巻きあげるトラック群の後ろを、南へ向った。
二階建ての新築建売り住宅の大群が次々と現れ、その向うに巨大な日本との合弁工場が現れる。伸彦にとって、バンコクは初めて訪れる土地だが、その都市化、工業化の進展には眼をみはるものがあった。
工場地帯を出外れて、やっと田園地帯に入り、バナナや棕櫚《しゆろ》の林が目につくようになった。
運転手は雑貨店に立ち寄り、しきりに訊ねていたが、やがて自信ありげに林の奥に入り、
「ディス・ハウスね」
という。
林を背に、古いが瓦葺きのおおきな家が建っている。庭が広くて、赤いカンナの花が咲き乱れている。家のおおきなことに驚いたが、考えてみれば、タイから娘をイギリスへ留学させる親もとはそれ相応の資力の持主ということになるのだろう。
伸彦は恐る恐る広い庭に入って行った。
家のなかは深閑と静まって、無人の様子である。板敷の部屋の中に、巨大な電気冷蔵庫がまるで金庫かなにかのように置いてある。テレビの上の壁に、おおきなタイ国王の写真が貼ってあるが、風に吹かれてぱたぱたと鳴っていた。
どこかで犬の鳴くような声がした。
「あのマホガニーの木の下に老人がすわってるよ」
運転手が庭の大木の木陰を指差した。マホガニーの木の下の腰掛けに、老人がすわっていて、片手をあげ、しきりに手招きをして、こちらに合図している。
「今日は、ミス・キティさん、いらっしゃいますか。私、ロンドンの学校で友人だった安原と申します」
やせた、中国系の老人に伸彦は小腰をかがめて挨拶し、そう訊いた。
運転手がタイ語に通訳すると、山羊髭を生やした老人は、犬の鳴き声のような声を発するが、言葉にならない。どうやら脳溢血かなにかの後遺症で、言葉が不自由らしい。
「弱ったな」
だれかいないか、と見まわすと、ゴム草履を履いた男の子が家の陰にかくれるようにして立っていて、こちらをみつめている。
ふと浩一ではないか、とおもい、伸彦は息を呑んだ。
運転手が近寄ってゆき、タイ語で話しかけながら、こちらへ連れてきた。近づいてくるに従って、男の子は浩一とおなじ年頃だが、色が浅黒く、眼がキティゴンのように細くて別人とわかった。
「キティという娘は、今、いないそうですよ」
運転手はいい、なおも男の子の顔を覗き込んでしきりに質問している。その質問の合間に、老人がもどかしげに犬の遠吠えのような声をあげる。
男の子は照れたようになにもいわない。
「仕様がないな。お爺さんが何いってるか、この男の子はわかるんでしょう。お爺さんのいってることを通訳して貰ってくれんですか」
男の子はそれでもはにかんでいたが、山羊髭の老人に背中を叩かれて、答え始めた。
「ミス・キティはこの間までこの家にいたそうです。ほんの二、三日前、出て行ったようです」
「へえ、やっぱり」
伸彦は半ば自分の想像のあたったことに自信を持ち、半ばタイミングのわるさに落胆した。
「だれと一緒にきたか、訊いてください」
運転手がまた子どもと老人と押し問答を始めた。
「男のひとと子どもときた、といっていますね」
「男の子の名前を訊いてくれますか」
男の子の細い眼が一層細くなり、鼻のあたりがくしゃくしゃにくずれた。
「コウイチ」
はっきりとそういった。
「コウイチという少年と毎日、この家で遊んでいたようですね」
運転手がいう。
病気だった浩一は元気になってこの家へやってきたらしい。
伸彦は勢いを得て、
「皆、どこへ行ったのか、今どこにいるのか、訊いてみてくれんですかね」
急《せ》きこんで頼んだ。
また押し問答になった。
「言葉の不自由な老人と子どものいうことで、はっきりしないのですが、最初、ミス・キティという女性がコウイチを連れて、この家に暫くいた。そこへ中年の男がきて、ふたりと一緒にどこかへ行った、ということのようです」
「それはどこに行ったんですか。バンコクなのかな。それとも日本なのかな」
嘘かもしれないのだが、伸彦が浩美の家へ行ったとき、キティゴンは浩美の家財道具を整理していた。浩美の家財道具を日本に送り、自分も浩一を日本へ連れてゆくのだ、といっていたのである。
「パラニャケといってますが、いったいどこですかな」
運転手が唸った。
「この老人はキティゴンのお祖父さんのようで、男の子は孫みたいですね。ミス・キティという娘の従弟《いとこ》なんじゃないですか。夜にはミス・キティの両親が帰ってくる、といっています。電話番号、訊いてみましょうか」
伸彦が紙を出すと、老人が震える手で、電話番号を書いてくれた。
菓子を置いてかえってきたのだが、夕刻ホテルのゲスト・リレーションズの女性に、キティゴンの家へ電話をして貰った。
「ミス・キティはいない、ロンドンに帰った、お母さんはそういってますよ」
そういう返事である。浩一の生存が確認できただけでも収穫はあった、ということなのだろう。
伸彦は埼京市の佐久間賢一にその旨報告をした。それから宮井物産のバンコク支店に行って、こちらの大学に通っている修業生と夕食を食べに街へ出た。
酒を飲んでいるうちに、自分も浩美を救出しに北朝鮮へ出かけたい、という気持が次第に強くなってきた。
間をおかず、佐久間浩美とモレナは、金正日から二度目の招待を受けた。
浩美とモレナが「血の海」劇場の楽屋で、フラメンコの練習をしているところへ、車《チヤー》がやってきて、突然招待の話を持ちだしたのである。
「明日、親愛なる指導者同志は地方で、雉《きじ》狩りをなさる。そのあと、特閣、ま、別荘だが、そこで宴会を組織される。この宴会にスペシャル・ゲストとして、あなたがたふたりを招待するよう、指示された」
車はおなじ説明を英語でモレナに繰り返した。
「これは外国人としては、大変に光栄なことだから、服装、化粧には特に注意するように」
モレナはすぐに、
「私、洋服ないよ。そんなところにゆかれないよ」
といった。モレナは気分屋で喜怒哀楽が激しい。
「私ゆかれないよ」
車は閉口した顔になり、練習後、浩美が防寒外套を買って貰った、幹部用の店にふたりを連れて行った。外から内部が窺《うかが》えないように、窓に厚いカーテンを張りめぐらせた店である。そこであれこれと迷ったが、幹部用の店といっても、宴会用のドレスなど揃っている筈もない。
やむなくモレナは黄色の中国服、浩美は藍色の中国服を買うことにした。試着して、翌日までにサイズを合わせて届けて貰うことで、話がまとまった。
その夜、モレナは声をひそめた英語で、
「ヒロミは、|金 正日《キム・ジヨンイル》をどう思う?」
と訊ねた。
「お金持ちの道楽息子《プレイボーイ》ってところかしらね」
浩美は縮れっ毛で、朝鮮民族特有の眉のうすい、丸顔の男の顔をおもいうかべた。
「だけど道楽息子ほど恐いものはないわ。玩具に厭《あ》きると、すぐ壊してしまうでしょ。人間にも厭きると、すぐ殺してしまうんじゃないの」
「それは本当よ、前に金正日の愛人だった女優が、浮気して銃殺されたって話、聞いたわ。その女優に男ができた。親が在日の金持ちで、親のおかげで平壌のテレビ局のボスをしていた男だったんだって。金正日の愛人の女優が金正日の眼を盗んでその男と車の中で密会したらしいの。寒いので、エンジンかけっ放しにしていたら、排気ガス中毒になって男は死んでしまったんだってよ。女優だけ生き残ったんだけど、そうしたら金正日がひどく怒ってね、飛行場に沢山人を集めて、見せしめにその女優を公開銃殺させたっていうの」
「ふうん。ありそうな話ね」
浩美は眼の前で殺害された、愛知県出身という、帰国同胞の老婆のことをおもいだし、眉をひそめて首を振った。
「ある警察官がね、夜中に金正日の車を見損なって、ストップさせてね、身分証明書出せ、とやっちゃったんだって。翌日警察署長以下皆、地方へ飛ばされたり、炭鉱に送られたりしたらしいよ」
それからモレナは、
「私たち、ふたりとも、金正日に誘拐されたんだものね、いい話は出ないよね」
肩をすくめて笑った。
翌日の夕刻、車が迎えにきて、中国服の上に防寒外套を着た浩美とモレナはベンツに乗って、金正日の国内に数十カ所あるという別荘のひとつに向った。
雪の積もる広野の中、北東の方向に延びる国道を一時間ほど走ったのだが、途中で困った事態が起きた。
浩美とモレナは後部座席にすわっていたのだが、モレナが口を寄せてきて、「ヒロミ、トイレにゆきたいよ」と囁いた。
「私、一応、用意はしてきたんだけど、生理がきちゃったみたい」
浅黒い顔の、細い眉を寄せ、泣きそうな顔をしている。
浩美は助手席にすわっている車の背中に向って、身を乗りだした。
「車さん、あとどのくらいかかりますか」
「うん、一時間くらいかな」
「それじゃ、申しわけありませんが、どこかでトイレにゆかせていただけませんか。モレナがトイレにゆきたいそうです」
車は不機嫌な顔をこちらに向けた。
「モレナ、あと一時間、待てんのかね」
英語で訊ねる。
モレナは眉をしかめ、親指の爪を噛んだまま、返事をしない。
「車さん、あちこちに村が見えるじゃないですか。あの村のどこかへ寄って、トイレを借りればいいんでしょう。簡単なことじゃないですか」
浩美は道路の遠くに見える、雪をかぶった家々を指差していった。
「この国じゃ、許可なしに村に立ち寄ったりはできんのだ」
車はモレナをもう一度眺め、
「小便くらい辛抱できなくてどうする」
居丈高に叱った。
「トイレといっても、ちょっと違うのよ。女性の生理現象なの」
浩美は間に入って、小声で説明した。
「モレナは折角の衣装が赤く汚れるのを心配しているのよ。もし衣装が汚れたりしたら、親愛なる指導者同志の前で、車さんに恥を掻かせることになるでしょう。そんなことになったら大変ですものね」
車は弱り切った顔になり、顔をしかめた。
運転手に向い、朝鮮語でしきりに話している。
行く手に小さい集落が見え、ベンツは高速道路を降りた。
小さい集落には、前の招待所の傍にあって、浩美がよく訪ねた老婆の家とそっくりの、小さな朝鮮家屋が数軒、かたまって建っている。道端に残る雪にタイヤをきしませながら、ベンツは集落に向った。
瓦葺きの屋根の家々だが、なかには掘立て小屋のような、木の板で葺いただけの家もある。
車を降りると、子どもたちが何事か、と寄ってきたが、雪の残る寒い日の、夕刻が迫る時刻だというのに、子どもは素足に、真黒に変色した運動靴を履いている。男の子は学校の制服らしい青い服を着ているが、膝や肘に継ぎがあたっており、近づいてくると汗と垢《あか》の混ざった、饐《す》えたような臭いがした。
車が「トイレはどこだ」と訊ねているらしく、年長の少年に案内されて一行は家々の間を通って、集落の中央へ向った。
浩美が通りすがりに覗いた家は、やはり老婆の家とおなじように、台所になっている土間と、その土間からオンドルの管を床下に通している部屋とをふたつ組み合わせた造りで、部屋の床下を抜けた熱気を排出する、手製らしい煙突が家の向う側から突きだしている。
窓の開いている家のなかには、洗いざらして、鼠色になった洗濯物が紐を張って干してあるのが見えた。
まだ濡れているような洗濯物が垂れた、海の底のようにほの暗い部屋のなかで、子どもが遊んでいる。
集落の中央に屋根のついた共同水道場と、やはり屋根のついた共同便所があった。ところが共同便所のドアには、引手のところに大きな、さびた南京錠がかかっていて開かない。
車が案内してきた子どもたちを怒鳴り、子どものひとりが急いでどこかへ走って行った。
「わが共和国ではな、人糞は大切な肥料で、きちんときまった量を供出しなくてはいかん。それで貴重な資源を盗まれないように、便所とな、汲み取り口に鍵をかけておくのだ。その鍵は隣組の組長が管理しとるので、それを取りにゆかせたよ」
朝、共稼ぎの夫婦は近所の農場に出かけてゆくのだが、そのとき隣組の組長が便所に南京錠をかけてゆくらしい。
「トイレの汲み取り口にまで鍵がかけてあるのは、この国に泥棒が多い、ということですか」
浩美は訊いた。
洗濯物を家の中に干してあるのも、盗難を恐れてのことだろう、とおもった。
「平壌に住む人間は革命性が高いから、そんな馬鹿者はおらんが、地方には革命性の低い人間もおるからな」
「革命性が高いと強制連行、という犯罪も犯すわけですか」
浩美が挑戦的になってそういうと、さすがに車の顔色が変った。赤く染まった額に青筋が立った。
「貴様、わが共和国にきたおかげで、安楽に暮らしとるくせに、つけあがった口をきくなよ」
ようやく紺色の作業服を着て、鳥打帽をかぶった男が息せき切って駆けつけてきた。車にぺこぺことお辞儀をし、作業衣のポケットから大きな鍵を取り出し、がちがちと震える手で南京錠に差しこんだ。
やっとドアが開き、悪臭と一緒によろよろと冬の蠅が数匹、飛び出してくる。
モレナが少し眉をしかめて入ってゆき、ドアを閉めた。たてつけの悪いドアはばたばたと開閉して、完全には閉まらない。浩美はモレナに声をかけ、外からドアをおさえていてやることにした。
始末を終えて出てきたモレナとベンツへ引き返したのだが、途中の一軒の家の窓から部屋に置いてある自転車が見えた。自転車の前で男の子がすわって見張り番をしていたが男の子は眼がわるいらしく、細い白眼を覗かせ、口を半分開けて、こちらの気配を窺っている。
海の底のような部屋の真ん中に大事そうに置かれた自転車は車輪を縄で車体に絡《から》めてしばってあり、盗難を極度に恐れているらしい。
ベンツに乗るとき、モレナが、
「フィリピンも貧しいけどね、トイレのなかに、白い虫はいないよ」
ぽつりといい、胸をおさえて咳きこんだ。
白い虫とは寄生虫のことらしかった。
10
夕刻、浩美とモレナを乗せたベンツは、雪の積もる山間《やまあい》の別荘に着いた。コンクリートの洋館ふうの建物で、二重窓になっている。
途中、トイレに立ち寄ったことが頭にあるのだろう、車《チヤー》はふたりを厨房に連れてゆき、厨房の入口に置いてある洗面器で、手を洗わせた。洗面器には、クレゾール液が入っていて、昔なつかしいような、強烈な臭いを放っている。
「これ、なに?」
モレナが不安そうなので、まず浩美が手を洗い、それからモレナが洗った。
さらにふたりは、うがい薬でうがいをすることを命じられた。
「まもなく親愛なる指導者同志がお着きになる」
車《チヤー》がいうので、ふたりは厨房から広間を通り、玄関に向った。
広間には低い舞台があり、ちゃんとバンドが入っていて、「指導者喜ばせ組」のキップムジョの娘たちがミニスカートを穿き、ライン・ダンスの練習をしている。
寒気を防ぐため二重になった玄関で、浩美とモレナは、金正日の到着を待ったが、モレナが英語で、
「フィリピンのマルコス大統領にも、ボンボンっていうジュニアがいるでしょう。ミスタ・金正日はあのボンボンより頭がいいというか、能力があるんですか」
車に訊いている。
「金書記をあんな、馬鹿な遊び人と比べるのは失礼だぞ。金書記はいろいろな分野で才能を発揮されたが、特に映画、演劇面で優れた能力を発揮された。血の海≠竍花を売る乙女≠サの他、沢山の歌劇の制作、指揮を取られて、偉大なる首領、|金 日成《キム・イルソン》の業績を共和国の国民に周知徹底せられた。そこで人民が書記を偉大なる首領様の後継者としてお選びしたんだ」
――演劇青年、映画青年が統治する国家というのは、恐ろしい世界ではないか。
かつて演劇少女だった浩美はそうおもった。
演出家にも俳優にも、天才の閃きと激しい気まぐれが共存している、といっていい。舞台創造への情熱が昂揚し、昇華する一方で、独裁的な感情が暴走し、爆発する。この世のものでない妄想が緻密な計算のもとに、現実に演じられる。政治家が演劇青年的要素を持ち合わせ過ぎると、恐ろしいことになるのではないか。
「お着きだぞ」
玄関先に雪を巻きあげて、先導の軍用四輪駆動車が着き、兵士が跳び降りた。次に続く四輪駆動車のドアを開いた。
狩猟用のハーフ・コートを着て、防寒帽をかぶった金正日が、肥った大男と降りてきた。
金正日は玄関を入ってくるなり、立って迎えた浩美に、
「コンニチワ」
といい、モレナに向って、
「グッド・イブニング」
といった。
上機嫌で、車に何事か話し、広間に入ってゆく。
「親愛なる指導者同志は党のえらいひととな、朝から狩猟をされたんだが、雉《きじ》とノロジカが沢山とれたそうだ。あんたがたにご馳走して下さるそうだよ」
広間で奇声があがった。
舞台のキップムジョの娘たちが両足を揃えて、万歳の恰好をして跳びあがっている。「親愛なる指導者同志」に挨拶しているのだが、きいろいと形容したくなる奇声と、両手両足を揃えて跳びあがる恰好がなにか動物的で、サーカスの猿の芸を見ているような印象を与える。
玄関先には次々とジープが着き、狩猟姿の男たちが降りてくるが、なかにはまだ二連装の猟銃をかかえていて、従者に手渡している男もいる。揃いも揃って、浩美が北朝鮮にきてから、初めて見る大男ばかりであった。
広間に置かれた、大きな円卓に金正日と、七、八人の朝鮮労働党の要人たち、それに浩美とモレナがすわって宴会が始まった。金正日の右に浩美、モレナとすわり、左側に車がすわって、通訳を務めた。
金正日は、大きなブランディ・グラスに注いだヘネシーのブランディを手にして、
「この間のフラメンコはすばらしかった。そのうち、ふたりでスペインへフラメンコの修業に行ってはどうかね」
とんでもない発言をする。
スペインへ修業に出すくらいなら、日本へ帰してくれ、と叫びたいところだが、万事心得た上で、意地のわるい言葉を投げかけてくるのだろうとおもい、浩美は黙っていた。
「この車《チヤー》もよく知ってるが、私は帰国同胞の娘をね、フランスへピアノ修業に出した。彼女の母親は日本に残っていたが、日本からフランスへ行って、娘の面倒をみていたよ」
信じ難いような話をする。恐らく巨額の寄附をした在日朝鮮人の娘の話なのだろうが、金正日は眉のうすい、ムーン・フェースのようにふくらんだ童顔を輝かせて、得意満面である。
音楽が鳴り響き、キップムジョのライン・ダンスが始まった。
それを合図のようにして宴会が始まったが、一座の男たちの恐ろしい飲みっぷりに、浩美は嫌な胸騒ぎを覚えた。
「昔、ナチス・ドイツの航空元帥にゲーリングという肥った大男がいたが、あの男はそのゲーリングにそっくりでね、だから綽名《あだな》をゲーリングというのだ」
その「ゲーリング」は、朝鮮労働党国際部長だというのだが、この男が立ちあがって、「乾杯」の発声をすると、一座の男たちはいっせいに大きなブランディ・グラスになみなみと注がれたブランディをひと息に飲み干した。
ブランディという酒は食後にちびちびと舐めるように飲むものとばかり、ヨーロッパにいた浩美はおもっていたが、ここではまるでビールのように食前からあおるのである。
ひと踊り終えたキップムジョが一座に加わって、先夜を上まわる乱痴気騒ぎが始まった。
娘のひとりが茹《ゆ》で卵を一箇載せた大皿とビールの大ジョッキを持ってきて、テーブルの中央に置いた。
ビールのジョッキにブランディを、それこそビールのように注ぐ。茹で卵には墨で矢印が描いてあり、それを娘は細い指でくるくるとまわした。
卵はまるで演出されたように「ゲーリング」という綽名の男の方向を差して止った。娘が拍手しながら、ブランディのジョッキを彼の前に置く。
ゲーリングは、掛け声をかけると、一気に大ジョッキをあおった。
浩美は男が急性アルコール中毒で死んでしまうのではないか、とおもい、眼をつぶったが、「ゲーリング」はけろりとしたもので、天井に向けたジョッキの底を叩いて、最後の一滴を口に落したりしている。
また卵がまわされて、もうひとりの巨漢の方を差して、止ったが、この男もけろりとジョッキのブランディを飲み干してしまう。
このゲームが続いて卵が自分の方向を指したらどうしよう、と浩美は胸が痛くなるような恐怖感を味わったが、今度は突然、別の娘が大きなリンゴに楊枝を沢山差したのを持ってやってきた。
「これは日本産のリンゴだ。朝鮮半島ではリンゴはセクシィな果物なんだよ。特にふたつに割った断面がね、女のセックスを連想させるんだ」
車が解説する。
今度は女も加わって、楊枝をひとりひとり抜いてゆく。金正日だけが楊枝を抜かずに煙草を吸って見守っている。
奇声が上り、ゲーリングとキップムジョの娘のひとりが楊枝をかざしている。彼らのかざしている楊枝だけが先端が黒く焦げていた。
ふたりはホールの真ん中に出て、「じゃんけん」を始めた。
「ここではな、じゃんけんはトル、ガー、ポー≠ニいうんだ。トルが石、ガーがはさみ、ポーが紙よ」
車は解説するが、要するに服脱ぎゲームでじゃんけんで負けた者が服を一枚ずつ脱いでゆくのである。
ここでもゲーリングは三枚目ぶりを発揮して、わざと拳の出し方を遅くしたりして、負けてみせた。厚手の長袖のシャツと股引き姿になり、最後はパンツ一枚になって、厨房のほうへ駆けこんでゆく。キップムジョのひとりが鼻をつまんでみせながら、男の衣服を拾いあげて片づけてゆく。爆笑と歓声が一段と大きくなった。
問題はその次であった。再びリンゴが持ちこまれ、浩美は貧血を起しそうな気分で、楊枝をひいたのだが、先端に焦げ目はなくて、真白である。ほっと息を抜く気分であった。
しかし、ふと隣を見ると、モレナがすくんだように、焦げ目のついた楊枝を眺めている。
キップムジョの娘たちに手を引かれ、モレナと白髪、長身の男がホールの真ん中に出た。
車が出て行って、英語で説明しているが、モレナはじゃんけんのルールがわからないらしい。
モレナはじゃんけんのルールがよくわからないままに立て続けに負け、キップムジョがその度にわっとたかって、モレナの靴を脱がせ、イヤリングを外し、腕輪を外す。
あっという間に黄色の中国服を脱がされて、モレナは下着姿になった。
浩美は眺めているのに耐えられず、両手で眼をおおったが、次に男女の大歓声が上り、指の間から眼を開くと、モレナはブラジャーを剥ぎとられて、小さいが、形のよい乳房をぽろりと丸出しにされて、泣きそうな顔で立っている。
浩美はモレナが生理なのをおもいだし、捨ててはおけない気分になった。浩美は立ちあがって、車に向い、
「私が交替します」
といった。
ホールの真ん中に浩美が歩み出すと、モレナのときに倍する大歓声が男たちから上った。
モレナが泣きながら衣服をかかえて駆け去るのを見送って、「トル、ガー、ポー」を始めたが、白髪の党の要人は恐ろしく勝負強かった。
浩美の気配に押されたのか、今度はキップムジョも手を出さないが、浩美は負け続け、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、イヤリングを外した。指輪は結婚指輪しかしていないが、これは肉に固く食いこんで外せない。
また負けて、ついに浩美は中国服も脱いだ。
バランスのよい浩美の肉体に男たちの間から、また歓声が上った。
もう一度負けて、浩美がついに下着に手をかけたとき、突然小柄の、顔のおおきい男が立ちあがった。金正日である。
「ウタ」
といい、バンドに向って「離別《イビヨル》」と叫んだ。
バンドが信じ難いことに敵対国家韓国の大衆歌謡「イビヨル」を演奏し始め、金正日が手を振って指揮を取り始めた。一座の男女がいっせいに歌い始める。
突然「離別」の歌詞が浩美の頭にうかんできた。「離別」は韓国出身の歌手、パティ・キムが歌って、日本のカラオケでも大流行した歌だから浩美も何回か歌ったことがある。
「山越え遠くに別れても 海の彼方遥か離れても 時には思い出すでしょう 冷たい人だけどあんなに愛した想い出を 忘れはしないでしょう」
浩一、と浩美は胸中で叫んだ。伸彦さん、佐久間の伯父さま、私、こんなところで半分裸みたいにされて、歌を歌わされているんです。しかも「離別」なんていう、残酷な歌を。
涙が浩美の頬を止めどなく濡らす。
金正日がやってきて、ナプキンで浩美の頬を流れる涙を拭った。そのまま浩美と向い合わせに立って指揮の手を振り続けた。
浩美の涙が受けたのか、浩美が歌い終ると、万雷の拍手がホールを揺るがした。
キップムジョが走り寄ってきて、脱いだ衣服を拾ってくれる。
浩美はトイレで衣服をつけて、再びホールへ戻ったのだが、ホールはカラオケ大パーティになっていて、韓国の大衆演歌、そして日本の軍歌の大合唱が続いた。
金正日が「さらばラバウル」を歌うと、それが乱痴気パーティの終幕の合図だったらしく、皆が「首領様、夜も更けました」という、グッナイト・スウィートハートのような歌を合唱した。
金正日は一同に手を振り、キップムジョの娘たちを見まわして、ひとりの女を指差した。娘は嬉々として両手を挙げ、金正日の後について、退場していく。
まさに夜は更けたのであった。
[#地付き]〈下巻につづく〉
〈底 本〉文春文庫 平成七年十二月十日刊