深田祐介
スチュワーデス物語
目 次
スチュワーデス誕生
スチュワーデス落ちこぼれ
スチュワーデス最前線
スチュワーデス誕生
パーサーの村沢竜太は、調理室《ギヤレイ》の横で「おや」とおもった。
七四七型機の機内、巨大なドアの傍らに、若い背の高い女が立っています。
村沢は最初、ドアについた窓から表を眺めようとしているのかな、と考えた。アンカレッジを出た極東航空四八四便は、三万五千フィートの高空を成田に向って巡航飛行中です。
しかし娘は表を眺める素振りは見せず、カバーをかけたドアのハンドルに歩み寄りました。高高度を飛行中なので、ドアのハンドルは、オートマチックと呼ばれる状態にセットしてあるんですけど、娘は腰をかがめ、そのハンドルのあたりを覗《のぞ》きこんでいます。
「これはいかん」と村沢竜太は足早やに娘のほうに近づきました。この娘、発作的にドアから跳びだして自殺でも図ろうとしてるんじゃないか。
定期便機内の気圧は、地上の八割に与圧されており、高高度では内側の濃密な空気がドアに向っていわば|重し《ヽヽ》のようにのしかかっていて、内側にひきこむ方式のドアは絶対に開くことはできません。
しかし高度が低くなり、外の気圧が機内の気圧とおなじくらいに増してくると、開閉が可能になってくるので、乗務員《クルー》はドアについちゃあ、えらく神経質なんです。
「外をご覧になりたいんですか。外は空と海ばかりで、なにも見えませんよ」
竜太は若い女とハンドルの間にゆっくり割りこんでゆきながら、そう話しかけました。
躰《からだ》を起した女は、色白、細おもて、おおきな眼もとが涼しげで、なかなかの美人です。
肌の白さが青味がかったような、異国ふうの感じで、「スラブふう美人だな」ちらりと竜太はそう考えました。
娘は困った顔になって、厚めの下唇を噛《か》むような仕ぐさを見せ、
「あの、飛行機のドアはどうやって開けるんですか」
と訊《たず》ねます。
冗談じゃない、と竜太は首を振り、
「飛行中のドアは絶対に開きませんよ。高見山がひっぱったって駄目です」
そう答えました。
「いえ、私、飛行機のドアを開けたり閉めたりする仕組を知りたいんです」
娘はなおもいいつのります。
へんにおもいつめたような眼をしていて、これは危険だ、と感じて、竜太は、
「成田に着陸してから、ご説明しますよ。そろそろ飲み物のサービスが始りますから、席に戻られたらいかがですか。お席はどこです」
娘の背中を軽く押して、エコノミーの席のほうに歩きだしました。
娘はドアに未練が残るふうで、ハンドルに流し眼をくれながら竜太に背中を押されるままに、歩きだしたんですけど、エコノミーの席にすわる間ぎわに、
「成田に着いたら、必ず教えてください。私、どうしても知りたいんです」
と懇願するようにいいます。
竜太は「わかりました、ご説明しますよ」と娘をなだめ、娘の席を離れたんですけど、通りすがった客室《キヤビン》担当のスチュワーデスに、
「あの|お客《パツクス》、ちょっと変ってるぞ。注意《ウオツチ》してくれや」
そういいつけました。
そのあと、竜太がBCコンパートメント、略してBCコンと呼ばれるエコノミー・クラス前部の席で、飲み物のサービスをしておりますと、
「パーサー、ちょっといらしていただけませんか」
と声がした。
見ると、機内後部の調理室《ギヤレイ》担当の女性|アシスタント・パーサー《AP》です。
竜太はあとについて、傍《そば》の非常口に行ったんですが、気の強そうなAPは、
「若い女の|お客《パツクス》が、ギャレイに来て、私たちクルーが仕事してるところを、見せてくれってきかないんですよ」
口をとがらせて、文句をいいます。
竜太が後部の調理室のほうを見ますと、先程のスラブふうの娘が、こちらに後ろ姿を見せて、調理室のなかを覗きこんでいる。
「また、あの|お客《パツクス》か」
「あの子、すごくしつこいんですよ。台所で働いてるところ見たって、仕様がないのにねえ。少しここがおかしいんじゃないのかな」
いかにもやり手ふうのAPは、きりっと髪を馬の尻尾《しつぽ》みたいに編んだ自分の頭を指してみせます。
「精神異常とまではゆかないんじゃないかな。女の飛行機マニアじゃないかね」
竜太は、腕組みをして顎《あご》を撫《な》でました。
「十分か二十分、|調理室の仕事《ギヤレイ・ワーク》やってるところ見せてやれ。妙な真似はしないとおもうけど、念のため、キッチン・ナイフはしまっとけや」
「どうも仕事、しづらいですね、突然、飛びかかってきたりしないかな」
ぶつぶついいながら、戻ってゆきます。
十八時過ぎに四八四便は成田に到着、竜太は出口に立って、降機する乗客に挨拶したんですが、ふと気がつくと、両手に布製の鞄《かばん》をぶら下げた航空マニアの娘が降りていくお客の列に混っています。
「皆さんが全員降りたら、ドアの操作を説明してあげますよ」
竜太がいったところ、娘は躰をゆらゆらさせて、
「いいえ、もういいんです」
といい、
「お世話になりました」
現代《いま》ふうの感じで、ぺこりと頭を下げました。
それから片手をメガフォンのようにして口の辺にあてて、
「私、スチュワーデスの試験に受かったんですけど、スチュワーデスの仕事がほんとにできるかどうか自信なかったんですよ。それでアラスカまで往復して見学してみたんです」
意外なことをいいます。
「だけど、私にはとってもできない仕事とわかりました。この際、スチュワーデスになるのは、諦《あきら》めちゃうことにします」
竜太は呆《あき》れて、娘の顔を見たもんです。
「なんだ、スチュワーデス志望者だったのか。ちゃんとそういえば、充分説明もしたし、見学もさせてあげたのに」
娘は片手を竜太の顔の前でひらひらと振り、
「もういいんです。諦めましたから」
もう一度ぺこりと頭を下げて、降りてゆきました。
「しかし驚いたもんだな。スチュワーデスの仕事を見学するために、高いお金払ってアラスカまでゆくのかねえ、今の子は」
竜太が呟《つぶや》くと、傍らに立ったAPが、
「そういえば、あの子、あたしたちがアンカレッジのホテルを出るときも、ロビーの椅子に坐って、こっちを見てましたよ」
といいました。
村沢竜太は、クルー・バスに乗って、成田空港のなかにある極東航空のオペレーション・センターに着きました。
四階の客室乗員部に上り、到着、出発の乗務員《クルー》で、ごった返すなかを乗務管理《スケジユーラー》のカウンターに行って、全員、ノートに署名をして乗務終了の報告をします。
それから入口近くの|打ち合わせ室《ブリーフイング・ルーム》に集って、便《フライト》をしめくくる簡単な打ち合わせをやりました。
ブリーフィング・ルームを出ると、客室乗員部のとっつきに、「新人乗務員コーナー」という看板の下ったデスクがあり、数人の若いスチュワーデスが群がっているのが見え、その制服の間から客室乗務員訓練所の教官の深山《みやま》さと子の顔が覗いていて、竜太は「おや」とおもった。
客室乗務員訓練所、つまりスチュワーデスの養成所は、羽田地区に設けられているんですけど、その養成所から教官がこのコーナーに出張してきて、養成を終ったばかりの、新人スチュワーデスの、いわばアフター・ケアをやっているんですね。
「訓練所で教わった知識は、初フライトのジェットの爆音とともに吹っ飛ぶ」などといわれていて、訓練所で教わった知識が、いざとなると役に立たないケースも多く、知識と実務の隙間を埋めるべく、相談に乗るのが、このコーナーの役目です。
若いスチュワーデスたちが、
「教官、お世話になりました。お休みなさい」
挨拶をしてデスクを離れてゆくと、深山さと子は、こちらを向いて、竜太のほうに軽く手を挙げてみせました。
訓練所の教官といっても、語学や一般教養、救急医学などを除いて、全員、極東航空の現役パーサー、つまり竜太の同僚たちが辞令を貰って働いているんです。
「さと子のあだっぽいお化粧にお目にかかるのは、久しぶりだね。今夜はその化粧にあたって、腹こわすんじゃないかな」
仲間うちの心安だてに竜太は悪口を叩きました。
深山さと子は、あだっぽい、と形容したくなるような、濃い目の化粧をする三十娘なのだけれども、化粧のイメージと違って根はガチガチの糞真面目《くそまじめ》という、極東航空にときどき見かけるタイプの女性パーサーです。
「ポエちゃんに勤まるかなあ、今度の仕事は」
さと子は、上目づかいに竜太のほうを見て、鉛筆で自分の頬を叩きながら、謎《なぞ》をかけるようなことをいいます。
三十過ぎていまだに独身の村沢竜太は、ひとりで外国を放浪旅行したり、ステンド・グラスを使った細工ごとに熱中したりするので、パーサーの仲間うちからは、詩人をもじった「ポエちゃん」とか「夢見る少年」といった綽名《あだな》を奉られているんですね。
「今、なんていった」
竜太はデスクに両手をかけて、躰を乗りだしました。
「あら、ポエちゃん、知らないのかねえ。あなた、今日辞令が出て、客訓の教官にご転勤だそうよ。多分、今夜にでも、自宅のほうに連絡があるんじゃない」
「へえ」と驚く竜太に向って、さと子は立ちあがり、
「ご転勤、おめでとうございます。同僚教官のひとりとして、お祝い申しあげます」
おどけて、深々と頭を下げてみせました。
訓練所で「親しい同僚への会釈」として教える前傾十五度のお辞儀ではなく、「お礼、謝罪の際の最敬礼」の四十五度のお辞儀です。
「ポエちゃん、訓練所じゃ私が先輩よ。いろいろ教わりたかったら、今のうちから私にツケトドケをしといたほうが利口なんじゃないかな」
図《ず》に乗っていいます。
竜太は制帽をデスクに放りだして、
「おれは、教官て柄じゃねえよなあ」
狭い額《ひたい》を掻《か》きました。
「そうよねえ。会社も人を見る眼がないよねえ。カナダの夕陽見て、もの想ったりする男に新人の教育をまかそうっていうんだから」
さと子は、竜太をからかうのが嬉しくてならない様子です。
カナダの夕陽うんぬんは、パーサーの仲間うちではかなり有名な竜太の口ぐせです。
竜太によると、世界一の美観は、カナダ、ロッキー山脈に落ちる夕陽だ、というのです。そこがポエちゃんと綽名される、ゆえんなんですけど、カナダの夕陽には、文明の猥雑《わいざつ》さの入りこめない、凜然《りんぜん》たる自然の美しさがある、あれは、出世欲や金銭欲に目の曇った人間には、絶対わからない美しさだ、というのが、彼の持説なんですね。
そのカナダの夕陽に輝く、教会堂のステンド・グラスを見たのが、彼をステンド・グラスの細工物へとのめりこませるきっかけにもなったんです。
「ちょっと、あなた」
突然、さと子が鋭い声を出して、通りすがった若いスチュワーデスを呼びとめました。
「新人は新人らしく、スカーフは蝶々結びにしましょうよ」
スカーフの結びかたにも、見えざるルールのようなものがあって、新人は、なぜか贈り物にリボンを結ぶときのような、蝶々結びに締めることになっている。これがベテランになるとともに、小粋《こいき》なアスコット・タイふうの、あるいはしっぽを長くしたマフラーふうの結びかたに変ってくるんですね。
「仕事が充分にできないうちはね、野暮な格好をしていたほうが得よ。スカーフを小粋に結んで、ミスばかりしていたんじゃ、どうにもならないでしょ。パーマかけて、三振ばかりしているプロ野球の選手とおなじことよ」
さと子は、ぴしぴしときめつけます。
「やれやれ」と竜太は、石原裕次郎ふうに刈った頭を撫であげました。
おれに教官なんて勤まるんだろうか。
北岡たきは、平木恵理と一緒に浜松町から羽田に向うモノレールに揺られていました。
ふたりとも極東航空の五七七期スチュワーデスとして入社し、今は極東航空の東京支店で研修中の身です。極東航空に入社したスチュワーデスは、三カ月間、出身地に近い極東航空の市内支店、空港支店で、地上業務の実習を受けます。空港でカウンターのチェック・インの見習いをやったり、市内の支店で座席予約のコンピューターを叩いたりして、航空業務の一般常識を身につける。
それがすむと、羽田にある客室乗務員訓練所で三カ月ほど、スチュワーデスとしての専門訓練を受けて、試験に合格すれば、定期便の機上の現場に出てゆくことになります。
「モンチッチ、鬼婆みたいな、おっかない教官が出てきて、馬鹿なこと訊《き》くなって、怒鳴られるかもしれないよ」
横揺れの激しいモノレールの車内で、平木恵理がいいます。
「スチュワーデスになったら、どんなメリットがあるんでしょうか、それを教えてくださあい、そう頼みにゆくのに、なんで怒られなきゃいけないのよ。そういう質問に答えるのは、教官の義務だよ」
モンチッチこと北岡たきは、吊《つ》り皮のないモノレールの車内に、危っかしい格好で立ちながら、メリットなどという覚えたての言葉を使います。
北岡たきは、入社後の自己紹介の際に「私、学生時代のニックネームをモンチッチといいます。高野山育ちみたいな顔で、スチュワーデスになれる容姿じゃないんですけど、その分は色気と技術で補います」と挨拶して、同期生の爆笑を買い、その後、学生時代同様に「モンチッチ」と呼ばれている娘です。
商社に勤務している父親が、アメリカ西海岸に駐在していたので、モンチッチも少女時代を現地で過し、そのせいか、甚《はなは》だ陽気で、楽天的な性質です。
平木恵理は顔いろも変えずに、
「ご隠居さん、ちっとばかりおせえていただきてえことがありやすんで。いってえ、スチュワーデスてえ商売《しようべえ》は、なんであんなに人気がたけえんでしょうかね。八、野暮なことを訊くんじゃねえ、あの制服ってやつを着るとな、皆、洋服に気をとられてな、顔見るのを忘れちまう。顔見るのを忘れたまんま、結婚申しこむ粗忽《そこつ》なのが多くてな、つまり嫁の貰い手にこと欠かねえんだ、あの商売は。それが人気の秘密だろ」
落語の声《こわ》いろで、そう語り、モンチッチは躰をよじって笑いました。
顔が小さく、手足の長い平木恵理は、東京の下町、門前仲町《もんぜんなかちよう》の大衆|割烹《かつぽう》「富岡」のひとり娘ですが、短大の学生時代には、オチケン、落語研究会に入って結構頑張っていたらしい。なんでも一年留年して落語に打ちこんだんだそうで、そのためにときどき冷たく醒《さ》めた顔で、落語の一節を語ったりするんです。
このふたり、じつはスチュワーデスに採用されて、研修中というものの、そろって両親の許可が貰えないんですね。
モンチッチのほうは、両親が今はアフリカに駐在していて、父方の伯母の家に下宿しているんですが、しょっちゅう両親から手紙がくるし、この間は父親から、国際電話がかかってきて「スチュワーデスなんて仕事に就くのは絶対許さんぞ」と怒られたりしている。
平木恵理は恵理で父親が、恵理に板前の婿を取って貰い、店を継いで貰いたい、と長年考えてきたので、恵理が勝手にスチュワーデスを志望して以来、口もきいてくれません。幸い、恵理を猫可愛がりしてきた祖母が、なにもわからずに支援してくれるので、それが頼り、といったありさまです。
研修も終りに近づき、客訓入所の日が迫ってきて、さすがにふたりともあせり始め、今日は早目に研修中の東京支店を出て客訓に赴き、教官から両親説得の材料を貰おうと考えて、モノレールに乗ったんですね。
ふたりは、羽田整備場という、遊園地のジェット・コースターのステーションみたいな駅で降り、五分足らずのところにある、極東航空の機装ビルへと歩いていきました。
このあたりは、各航空会社の整備の中心地ですから、白い作業服姿がしきりに往来しています。
受付で、恵理がビルの出入許可の書類に記入したんですが、モンチッチが覗きこんでみると、恵理は澄ました顔で「面接相手、客室乗務員訓練所長」などと書きこんでいます。
エレベーターに乗って、七階で降りたふたりはかなり緊張して、教官室へ向いました。
教官室のドアは上半分がガラス張りになっていて、廊下から内部が見える仕組なんですが、ふたりが覗きこんでみると、六時半だというのに、かなりの男女の教官が残って、なにやら書類の整理をしています。
ひとりだけ閑《ひま》そうな男性教官がドアに一番近い席にいて、腕組みをしてぼんやり遠くを眺めたりしています。ときどき前の机に拡げている教材に眼をおとしますが、もうひとつ身が入らない感じで、顎を撫でたりしては、すぐにまた遠くを眺めるんですね。
「あのセンコウ、話しやすそうじゃないの。おでこが狭くって、げじげじ眉毛でなんだか原始人みたいな顔してるよ」
モンチッチが恵理に囁《ささや》きました。
「原始人てより、たんたんたぬきって顔だよね」
恵理の言葉は容赦がありません。
ふたりがドアを開こうとすると、たんたんたぬきのほうが、ドアのこちらのふたりに気づき、立ちあがってきてドアを開きました。
「あの、客訓の教官でいらっしゃいますか」
モンチッチが、日頃のふとい声からは想像のできないような優しげな作り声をだしました。
たんたんたぬきは、一瞬戸惑ったような顔をしてから、
「ああ、そうだよ。村沢といいます」
そう名乗りました。
「私たち、地上研修中の五七七期の者なんです。ちょっとお訊ねしたいことがありまして」
村沢という教官は「へえ、訊ねたいことがあるの」となんだか間の抜けた調子でいい、教官室のなかを振り返ってから、
「そこの空《あ》いている教室にゆきましょう」
とふたりを真向いの、ホールのような広い教室に案内しました。
教室で向い合ってみると、中背の村沢は色あさぐろく眉も髭《ひげ》の剃《そ》りあとも濃くて、「たんたんたぬき」と形容するのは、ちょっと気の毒な気がした。ただなんとなく「閑職のひと」という感じなんですね。
「質問てなんですか」
モンチッチは、この男はたいしたことないや、早くも舐《な》めてかかる感じで、
「とてもありふれてて馬鹿みたいな質問なんですけど、ふたつあるんです」
と先ほどからの作り声で切りだしました。
「ほんとうに飛行機って安全なんでしょうか」
村沢は「ふうん」と唸《うな》ってちょっと黙っていましたが、
「そりゃ安全ですよ。鳥だって空を飛ぶんだから」
意味のわからないことをいいます。
モンチッチと恵理は、「なにいってるの、この教官」という感じで、顔を見合わせた。
村沢は平然たるもので、
「あんな単純な構造の鳥が落ちずに飛んでるんだよ。精密機械の飛行機が落ちる筈《はず》ないじゃないの」
とぼけたことをいいます。
「犬や猫は道路に跳びだして、よく自動車に轢《ひ》かれるやね。だけど自動車は滅多に事故起さないでしょう。あれとおなじで、飛行機は安全この上ないね」
村沢は真面目とも冗談ともつかぬ口調でいい、「次の質問は」とふたりを促します。
「あの、スチュワーデスになるプラス面というか、スチュワーデスになってよかったなあ、っていえることはいろいろあるとおもうんですけど、たとえばどんなことですか」
村沢はまた腕組みをして、
「靴やスカーフ、貰えるじゃない」
そういうんですね。
「高い月給貰って、月のうち十日しか日本にいないんだから、食費は助かるよね。今日はラーメン、明日はお茶漬けなんて生活しないですむよ」
なんだ、このたんたんたぬき、落語のご隠居さんのほうが、まだまともな返事するじゃないか、と恵理はおもった。
結局、村沢と不得要領の会話を交わしただけで、ふたりは機装ビルをでたんですね。
「なんだか頼りない教官だねえ。あんなのが私たちの担任になったら、最低だよね」
モノレールの駅のほうに戻りながら、ふたりはそんな話をした。
「しようがないな。私、両親との外交交渉は棚上げにして、伯母の家を出るよ。会社の沼部寮に入って、訓練所に通うことにするわ」
モンチッチはいいました。
「恵理は、お祖母《ばあ》ちゃんて味方がいるから、まだなんとかなるんじゃないの」
「私はいいけど、両親が暮しにくそうなんだよね。父なんか、トイレやお風呂の入口で顔を合わせると、あわてちゃって、どうも、なんてあたしに頭下げたりしてんのよね」
モノレールの近くで、モンチッチは「今日はタケシを呼びだして遊んじまうか」といい、公衆電話をかけにゆきました。電話を終えたモンチッチはOKのしるしに親指を空に向けて突きだしてみせてウインクし、それからふいに、
「あの村沢って教官、セクシーはセクシーだね。そうおもわない」
恵理に相槌《あいづち》をもとめました。
「つまりセクシーたぬきてえわけですな」
恵理は表情を変えずにつるりとそういいました。
六月一日に、五七七期と五七八期の入所式があって、村沢竜太は、初めて教官として、機装ビル七階の式場に出席しました。
竜太は、教官研修を受け、役割実演《ロール・プレイ》で、講義を実習したりして、この六月から五七七期の担任教官に指名されたんですけど、相変らず人に教えるなんて、自分の柄じゃない、と気持のどこかで考えています。
入所式は、まず訓練所長の挨拶から始ったんですが、訓練生の正面にすわった村沢は、目の前の五七七期の、二十人ほどの訓練生、私服を着た娘たちを眺めて、「おや」とおもった。
あらかじめ写真のついた訓練生の名簿を見ているから、この前「スチュワーデスになるメリット」を訊ねにきた、北岡たきや平木恵理が五七七期の訓練生であることは、竜太も知っています。
しかし写真ではむしろ平凡な目鼻立ちに見えて気がつかなかったのだけれども、五七七期の最前列には、ぱっと目につく、はなやかな雰囲気《ふんいき》の娘がすわっていて、青味がかったような色白の肌やおおきな眼、ちょっと厚ぼったい唇のあたりに、竜太は見覚えがあるんですね。
竜太の視線を感じたらしく、娘はこちらに眼を向け、目立たない程度に、軽く会釈をしてみせました。
竜太はそこで「あっ」とおもい、この間、おなじフライトに乗り合わせた娘、スチュワーデスの仕事を見学するために、わざわざアンカレッジまで往復した娘だ、と気がつきました。
この「スラブふう」の娘は、あのとき「私にはとってもできない仕事とわかりました。この際、スチュワーデスになるのは、諦めちゃうことにします」といっていたんですが、どうやらその後、おもい直して入社してきたようです。
同時に竜太は、この娘が松本千秋といって東北の国立大学法学部をかなりの成績で卒業しており、年齢も高くて、年齢別にならんだ五七七期の名簿のトップにいることもおもいだしました。
入所式のあと、五七七期の訓練生は教室に移り、まず竜太がパーサー何期の出身、社歴何年というような自己紹介をやり、それから訓練生自身の自己紹介を、名簿とは逆の順序でやらせてみた。
まず最若手の高卒数人が自己紹介のついでに、スチュワーデス志望の動機、社内研修の感想などを話したんですが、「子どもの頃からあ、なぜかあ、スチュワーデスという職業にい、憧《あこが》れていましてえ」とか「社内研修はあ、皆さん、親切にしてくれましたけどお、早くこの訓練所にきたくてえ、あせりましたあ」というような、語尾をやたらにひっぱる現代調の喋《しやべ》りかたで、ごく月なみの話をしました。
次いで短大卒業組に移ったんですけど、最初に、先日北岡たきと一緒に竜太を訪ねてきたねむたいような顔の下町娘平木恵理が立ちあがって、いきなり爆弾発言をした。
「私、地上研修中は予約のコンピューター叩いていたんですけど、これが毎日すごく充実しておりましてね、スチュワーデスなんか志望してばっかだねえ、おまいは、というのが私の現在の心境です」
落語調の声いろを混ぜて、そういいます。
「地上の仕事は質も高いし、なにより親の反対しない点がいいですねえ。よおく考えてみますとね、スチュワーデスなんて職業は、おさんどんとおなじじゃないかとおもうんですよ。あれじゃ、家の仕事を手伝っているのと変りがありぁあしません。うちは、深川で大衆割烹やってるんです」
平木恵理は、とぼけた表情でいい、皆、どっと笑いました。
次に立った北岡たきになって、問題はさらにエスカレートしました。
「私も平木さんとまったくおなじ考えなんです」
浅ぐろい顔の、愛嬌《あいきよう》のある八の字型眉毛を上下させて、モンチッチの北岡たきは、いいました。
「そこで教官にお願いがあるんです。私たちのうちの希望者をできるだけ早い機会に、地上職のほうに移していただけませんか。会社だって、働きたい場所で社員に働いて貰ったほうが、一生懸命やるし、得だとおもうんです。まあ、私は一年くらいはスチュワーデスとして飛んであげてもいいとおもってますけど」
「飛んであげてもいい」といういいかたにまた笑い声が起り、しかし問題が深刻なので、すぐに静まった。
教壇にすわった竜太は、不快感が胸のなかに湧《わ》いてくるのを意識しながら、北岡たきの「お願い」には答えず、「次のひと」といいました。
平木恵理、北岡たきの発言が刺激になって、四年制の大学卒業生に移っても地上の仕事を礼讃《らいさん》し、スチュワーデスの仕事をくさす発言が暫《しばら》く続いたんですね。
最後から二番目が、大学の陸上競技部にいたという、男のような骨ぶとの体格の石田信子で、
「私、陸上競技やって、主に砲丸投げてきたんですけど、陸上だってじっさいに走ったり投げたりしてみないとわからないことが多いんですよ。皆、スチュワーデスの仕事も知らずにいろんなことをいい過ぎる気がします」
ちょっととりなすような発言をしました。
自己紹介の最後が松本千秋でしたが、彼女は、
「私の場合、スチュワーデス志望の動機は、はっきりいって収入です」
これまた航空券を買ってアンカレッジまで見学旅行をした娘ともおもえない発言です。
「今、われわれ訓練生は、十二万円のお給料をいただいてますけど、地上で働いたら、これに毛の生えた程度の月給しか貰えないんです。親からときどき送金して貰わなきゃ、とっても暮してゆけないんじゃないですか。親がかりでなく、東京で自立してやってゆこうとしたら、そしてバアやセックス産業で働きたくなかったら、スチュワーデスになるのが、ベストなんですよ」
正式にスチュワーデスとして任命されると、給料は今の二倍近くになるんですね。スチュワーデスこそ、女の自立する道だというような話をして、松本千秋は同期生の盛んな拍手を受けた。
スチュワーデスの仕事は、おさんどんと変らないから、早く地上職に職種変更しろだの、いや、水商売に足を突っこみたくないから、金のために我慢してスチュワーデスになろうだの、この娘たちはなに考えてんだ、と竜太の不快感はいよいよつのってきた。
──おまえたちはなにもわかっちゃいない小娘なんだぞ。くちばしのきいろい、小便くさい小娘なんだぞ。生意気にいっぱしの口をききやがって。
自己紹介のあと、竜太は「スチュワーデスというのは、サービスという無形の商品を提供する職業である」というような、先輩に教わったとおりの形式的な訓示を喋ったんですが、おしきせのスピーチを心ならずも喋るものだから、胸のなかの不快感はいよいよつのってきた。不快感のあまり、言葉が満足に出てこず、しどろもどろの訓示になりました。
この「教育指示」に引き続いて行なわれた最初の授業、「エアクラフト」で、竜太の不快感は絶頂に達することになった。
エアクラフトは、極東航空の使用している航空機の性能や構造、特にスチュワーデスの職場である客室の仕様、調理室《ギヤレイ》と呼ばれる台所の詳細などについて、教える授業です。
竜太に指示された、当番の松本千秋が、照れたような、笑いを含んだ声で「起立、礼」と号令をかけて、授業は始ったんですけど、竜太は、
「テキスト・ブックを開く前に、きみたちの航空知識をためしてみよう」
そういって、平木恵理に向い、
「きみは予約のコンピューターを叩いていたそうだが、いったいうちのボーイング七四七型機は、何人お客さんを運べるのかね」
そう訊《たず》ねてみたんです。
ふだんまばたきもしない感じの恵理は、珍しく眼をしばたたいて、
「二百人です」
と見当違いの返事をします。
「北岡君、きみは何人運べるとおもう」
モンチッチの北岡たきは、無邪気な顔で、
「私、七四七は知りませんが、ジャンボなら知っています。ジャンボは千人、運べるんです」
竜太は、怒りに躰《からだ》が震えだしそうになるのをやっとおさえて、
「きみはふたつの点で間違っている。第一に七四七とジャンボはおなじ型の飛行機だ。第二に人数が問違っている。国内線用のジャンボは五百三十人分、国際線用は三百四十五人分の座席が備えつけてある」
そう説明したんですね。
教室のなかは「え、うっそお、七四七とジャンボはおなじ飛行機なの」「そうかあ、七四七がジャンボかあ。じゃあ、DC10はジャイアンツって呼ぶの」などという私語で騒々しくなりました。
竜太は、「静かにして」と制して、
「極東航空はプロペラの飛行機を使っているかどうか、だれか答えてごらん」
ひとりの高卒が手を挙げて、
「はい、使っています」
と答えます。
「はい、よく見ます。エンジンのなかで、からから音をたててまわっています」
この訓練生は、明らかにエンジンのなかのファンをプロペラと誤解しているんですね。
「あ、それ知らない。プロペラって、エンジンのなかにあるの」などと私語が一段と高まるなかで、とうとう竜太の感情が爆発してしまいました。
竜太は、教壇のうえの教卓をいきなり床のうえにひっくり返しました。
教卓が大音を発して、床にころがると、さすがに教室の私語はおさまり、訓練生は口を開けてこちらを眺めています。
「やれ、地上職になって、質の高い仕事がしたいの、高い給料貰って自立したいのと、あんたがた、口はばったいことをいうが、なんにも知らんじゃないか。地上研修中、いったいなにをやってたんだ。なんの勉強もせずにただ十二万円貰いにここにやってきたのか」
顔を赤くして怒鳴りました。
「自分たちの態度が正しいかどうか、頭を冷やしてよく考えてみろ」
そういい残して、教室をでて、教官室に戻ってしまいました。
村沢竜太が教卓をひっくり返して、教室を出てゆくと、教室のなかはさすがに静まり返り、ショックを受けたのか、高卒の若い訓練生が、鼻をすすって、しゃくりあげ始めました。
最前列にすわった松本千秋が、
「あの教官は性格激しいな。血液型B型かな」
割に冷静にそんなことを考えながら横倒しになった教卓を眺めておりますと、うしろで「当番さん」と声がしました。振り向くとモンチッチの北岡たきが、若い訓練生の泣き声が尾をひくなかを立ちあがって、こちらにやってきます。
訓練所では、毎日名簿の順に正副、ふたりの当番が指定される規則になっていて、当番は、訓練のスケジュールを教官と打ち合わせたり、次の授業の教材を準備したり、「起立、礼」の号令をかけたりするんですね。名簿の上から順に指名されてゆくので、第一日のその日は当然、松本、石田のふたり、ということになります。
モンチッチは、千秋の机に両手をかけて、
「これはなんとかしなくちゃ、まずいよ。私たち、なにも勉強してこなかったのは事実だし、それに入社以来、久しぶりに会って、皆はしゃぎ過ぎたんじゃない」
そういいます。
千秋は「そうね。皆、はしゃぎ過ぎね」と相槌を打ち、
「当番の私たちが謝ってくるわ。謝って、なんとか教室に戻って貰うようにする」
そう答え、「信子、ゆこう」と副当番の石田信子を促して、席を立ちました。
教官たちが授業に出払って、がらんとした教官室では、村沢竜太はまだ怒っているらしく赤い横顔をこちらに見せて、いらだたしげに机の教材をめくっています。
「行こう」と先に立って、教室を出てきたものの、村沢の硬い表情に気おくれがして、手が震えだすようで、千秋はドアのノブに手が伸びません。
「信子、ドア開けて」
気おくれをごまかすように居丈高に、千秋はいい、信子の開けたドアを、また先に立って入ったんですけど、村沢は入ってきたふたりを一瞥《いちべつ》しただけで、すぐに教材に眼を戻しました。
俄《にわ》かに高まった動悸《どうき》をおさえ、表面はいかにも冷静な態度で、千秋は、
「教官、申しわけありませんでした。私たち、気持を入れかえて、今後は一生懸命勉強致しますので、もう一度、教室に戻っていただけませんか」
と謝りました。
村沢は狭い額《ひたい》の下の眉を寄せたまま、なにもいいません。
「教官、お願いなんです。教室に戻っていただけませんか」
千秋はもう一度頼んだけれども、村沢は黙ったままです。
ふたりは所在なげにそのまま立っていたんですけど、ふいに村沢はふたりのほうに向き直り、
「改めて訊《き》くが、お腹《なか》のおおきい女性、つまり妊産婦は極東航空のフライトに乗れるか」
千秋にそう質問しました。
「国内線では出産予定日から四十日以内の妊産婦は、医師の診断書と、それから、ええと会社所定の誓約書があれば、搭乗《とうじよう》OKです。予定日から十四日以内の場合は、お医者さんが一緒に乗らなくちゃいけません。国際線の場合は、出産予定日の五週間以前は無条件、四週間以内はやはり診断書と誓約書が必要です」
千秋がほとんどつかえずに答えたので、村沢は意外なような、「ほう」という表情になった。
「もうひとつ訊くが、飛行機の客室《キヤビン》の温度は何度だ」
これには答えられまい、と舌鋒《ぜつぽう》が鋭くなった感じでしたが、千秋はちょっと咳《せき》ばらいをして、
「たしか摂氏二十三度です」
と答えました。
村沢は「よし」といい、
「きみに免じて、教室に戻ってやる」
と立ちあがりました。
石田信子は、村沢のあとを歩きながら、
「千秋、やるじゃない」
と囁きます。
村沢について教室に戻ってみると、高卒の若い娘たちの泣き声に触発されたのか、訓練生の大半が泣きじゃくったり、鼻をぐすぐすやったりしています。
村沢が戻ってきたのを見て、モンチッチと平木恵理があわてて横倒しになった教卓をもとに戻します。このふたりは、けろりとしていて、涙なんぞ、全然こぼしたりしていません。
「きみたちはなにか間違っているぞ。いいか、スチュワーデスというのは、ほかの地上の職業とは全然次元の違う仕事なんだ」
モンチッチふうにいえば、仁王立ちというより直立猿人の感じで、教壇に立った村沢は、怒鳴りました。
「きみたちは、いろんなごたくをならべてるが、ほんとはスチュワーデスという職業になにかきらきらした魅力を感じて、応募してきたんだろう。なぜスチュワーデスにきらきらした魅力があるかといえば、飛行機という舞台のうえで、他人《ひと》に見られながら、与えられた自分の役を懸命に演じきろうとしているからなんだよ。皆がうまく演じきれれば、飛行機という舞台のうえにハーモニーが、調和ができあがる。振りあてられた役をうまくこなした、というひとりひとりの満足感、充実感も倍加される。振りあてられた役をうまく演じきれなければ、皆に迷惑をかけて、傷つくほうもひと一倍だ。毎フライト一生懸命演技をやって、泣いたり笑ったりして生きているから、スチュワーデスはきらきらしているんだよ」
平木恵理が「たんたんたぬき」などと形容した、だらけたイメージが村沢から消えて、一種|精悍《せいかん》な表情になり、眼が光っています。
「きらきら光ってないスチュワーデスは、大根スチュワーデスだ、きみたちは女優としての自覚を持て。三カ月、眼をつぶって、一人前の女優になろうと努力しろ。そういう人間だけを、おれはスチュワーデスにしてやる」
ふいに燃えあがった感じの村沢の語気に気圧《けお》され、いつしか泣きじゃくる声も消えて、教室は静まり返っています。
千秋は「この教官、すてきじゃない。わるくないな」とおもいつつ、
──ようし、五七七期のトップ女優になってやる。
そう呟《つぶや》きました。
しかし飛行機のうえで、女優のように堂々と、他人の注目を浴びつつ、酒やコーヒーを注ぎ、ロースト・ビーフを切るなんてことが自分にできるんだろうか。
やがて時間がきて、千秋は「起立、礼」と号令をかけたんですが、今度は低い声で、自然に「気合い」が入りました。
「ありがとうございました」
訓練生たちも、先刻の泣き声が嘘のようなおそろしくおおきな声で挨拶をしました。
数日経って、「接客態度」の授業が始り、村沢竜太は、深山さと子にロール・プレイの相手役を頼みました。
さと子は、成田の新人乗務員コーナーで、訓練所を出たばかりのスチュワーデスの指導にあたりながら、週に何回かは、羽田の訓練所にやってきて、教材の打ち合わせ会議に出たり、教官の足りない授業を受け持ったりしています。
「さと子、今日は連中をおもいきってしごいてくれよ」
教室に向って、歩きながら、竜太はそう頼みました。
「接客態度」の授業は、男女ふたりの教官と、生徒が乗客の役を演じ、スチュワーデス役の訓練生に文句をいい、訓練生に応接をさせる。その具体的なやりとりを通じて、接客態度を教えてゆこうという授業です。
「ポエちゃん、最近は|しごきや《ヽヽヽヽ》さんに変身なんだってね。スチュワーデスは、飛行機に乗ったらヌード女優になったつもりで仕事しろって、大演説ぶったんだってね」
「ヌード女優? まさか、まさか。話がすぐこれだから、クルーの|噂 話《うわさばなし》はいやだよ」
竜太は閉口して、顔をしかめ、頭を掻《か》きました。
授業に入ると、さと子のロール・プレイは、竜太の依頼どおり、だいぶ手厳しいものになった。
「あなた、食事に虫が入っていたわよ。天下の極東航空が、こんな食事だしていいの」
黒板の前にすわって、乗客の役を演じるさと子は、前に立った訓練生を詰問します。
「申しわけありません。以後気をつけますので」
「以後なんかどうだっていいのよ。今、どうしてくれるか、訊いてるんじゃないの。こんなとき、町のレストランは食事代をただにしてくれるわよ。おたくも航空運賃、払い戻してただにしてちょうだい」
相手の訓練生が泣き声を出すほどの迫真の演技です。
次に、竜太が乗客の役を演じ、平木恵理のスチュワーデスとやりとりをしたんですけど、これも相当に手厳しいものになった。
「きみね、この飛行機、二時間も遅れてるじゃないか。おれはニューヨークで、大事な商談まとめなくちゃならないんだ。この商談がこわれたら、極東航空の責任だぞ」
「ええ、まことに申しわけありません。いま、この飛行機のほうも、一生懸命、アメリカへと飛行中でございまして、平《ひら》にお許しをお願い致します」
恵理の口調はどうしても落語調になります。
「飛行機が一生懸命、飛ぶと、早く向うへ着けるのかね。そんな落語みたいなこといってないで、ニューヨークへ電話入れてさ、おれが遅れて着くって、商売相手に連絡してくれよ」
「電話線はそのう、海の底のほうになっておりまして、空のうえにはございません」
「電話線|繋《つなが》ってなくたって、飛行機には無線電話ってのがあるじゃないか。あれ使って連絡すりゃいいんだよ」
「飛行機の通信は警察の電話みたいなもんでして、個人的な連絡には、使えないことになっております」
事実、定期便の交信は、運航関係と生命にかかわる緊急通信に限られています。
「遅れてばかりいて、ろくにあと始末もしないこんなサービスのわるい航空会社には二度とのらないぞ。この次はアメリカさんの会社だな」
竜太がおどしをかけました。
平木恵理は、つるりとした顔で、
「お客さまのほかにも、極東航空に乗ってくださるかたは大勢おられますので、お気に召しませんでしたら、どうぞアメリカの航空会社の便にお乗りくださいませ」
といい、竜太はすぐに「きみは、なにをいうか」と怒鳴り、後ろに立っていたさと子も「それ、落第」と鋭い声できめつけました。
「そのせりふをいうのなら、身分証明書返して、この場で退社してくれ。もしこの会社で働きたいのなら、お客にぶんなぐられても、そいつはいっちゃいけない」
竜太は静かになった教室を睨《にら》みまわし、
「松本、きみなら、このお客をどう扱う」
そう訊ねました。
千秋は、席を立って近づいてきて、竜太に一礼し、
「お客さま、今、飛行機から連絡を入れましても、時差の関係で、ニューヨークは夜でございます。先方もお宅でお寝《やす》みのこととおもいますので、ニューヨークに到着するまでお待ちいただけないでしょうか。到着しましたら、地上係員がすぐに電話のある場所までご案内致します」
竜太はさと子と顔を見合わせ、「サービスの知恵がある、という意味じゃ大変おもしろいな」といいました。
松本千秋は、東北の宮城県出身だというのに、言葉にほとんど訛《なま》りがなく、それもさわやかな印象を与えます。
竜太はとぼけた顔をして、躰を揺らしながら、天井を見あげている恵理に向い、
「平木、きみは全然笑わないな。スチュワーデス、四つの心得はSMILE(笑顔)、SPEED(敏速)、SINCERITY(誠意)、SMARTNESS(気がきく)だぞ。SMILEを忘れるな。毎朝鏡を見たら、必ず笑ってみろ」
そうお説教をしました。
授業のあと、機装ビルの会社の食堂に向いながら、竜太は、さと子に向って、
「あの連中はどうも人生というゲームに昂奮《こうふん》しないんだよ。昂奮しなくて、いいゲームができるわけがない。女優にもなれないよ」
そういったものです。
「たしかに昂奮させるための電撃療法が必要かもしれないわね。電撃ショックを与える、お医者としてなら、ポエちゃんは適任かもしれない」
さと子は、珍しく竜太を持ちあげます。
「なにしろあなた自身、いつも人生に昂奮しているようなところがあるからね。ただ、あの期じゃ、松本千秋がだんとつに素質があるんじゃないの。知恵があるよ、あの娘《こ》は」
といいます。
午後の授業の電撃療法は、もっぱらモンチッチの北岡たきが目標になりました。
午後の旅客運送関係の授業で、竜太は、スライドを操作して、授業をしていたんですが、どうも暗くした教室内の空気がおかしい。これはあちこちで居眠りが始っているな、とおもい、村沢はふいにスライドを止めた。
「北岡」
暗いなかで、呼んでみますと、一拍、間《ま》が空き、隣りのだれかが肘《ひじ》で突く気配があって、
「はあい」
とモンチッチの間延びのした返事が返ってきました。
「今最後に見たスライドは、なんの説明だったかね」
モンチッチは「ええと」といい、これも暗闇でだれかに囁《ささや》かれたらしく、
「ええと機内持込み手荷物の分類です」
ぼそぼそと眠気に嗄《しわが》れたような声で答えます。
「じゃあ訊くが、盲導犬を機内に持込む場合、犬の体重は計量の対象になるかね」
モンチッチは答えられず、竜太は立て続けに、二、三の訓練生に訊ねましたが、だれも答えられません。
「松本、どうだ」
「計量を必要としません」
これは即座に返事が打ち返されてきました。
竜太はモンチッチを始め、答えられなかった訓練生に眠気ざましに顔を洗ってから、七階から一階まで、階段を駆け足で降りてまた昇ってこい、と命じました。
夕刻、竜太が手洗いに行って、教官室に戻ろうとすると、モンチッチが疲れてるんでしょう、ばった、ばったという感じで、足をひきずりながら歩いてきて、折から扉の開いたエレベーターに跳びこもう、としました。
「北岡、待て」
竜太は怒鳴りました。
モンチッチはちろりと舌をだし、「申しわけありません」と謝ります。訓練生は混雑回避と健康維持の両面から、訓練所のエレベーターに乗るのを禁じられているんです。
「エレベーターもいけないが、その歩きかたはなんだ。ばったばった、足を引きずって歩くな。スチュワーデスになるんなら、もっと金になる歩きかたをしろ」
モンチッチは黒い頬をふくらませて、不満そうです。
「北岡、不満そうだな。不満があるんならいってみろ」
村沢はモンチッチの前に立ちはだかりました。
「不満はありません。だけど歩きかたなんて、生れつきのものでしょう。歩きかたを否定されるのは、人格を否定されるようなものだ、とおもうんです」
そう抗議します。
「今までのきみたちに人格なんかありゃしないよ。人格は、ここで、作るんだ」
スチュワーデスという女優修業に精をだし、人生というゲームに昂奮熱中すれば、自然に人格はできてくる。
だからしぼってやる、と竜太は、ふくれっ面《つら》のモンチッチを置き去りにして、肩をゆすって歩きだしました。
千秋は村沢竜太との間に、細いけれどもかなりしっかりしたコミュニケーションの絆《きずな》ができあがっているのを感じています。
一番最初にそれを感じたのは、朝のラッシュアワーの京浜急行に乗っていたときのことです。
仙台郊外の旧家で育った千秋は、訓練所の教室がどうにも殺風景な気がして、沼部寮で同室の石田信子と相談し、近所の花屋で小遣い銭を出し合って、ときどき教室に花を持ってゆくことにしたんですね。
沼部寮というのは、スチュワーデス訓練生専用の宿泊施設で、門前仲町に自宅のある平木恵理など数名を除いて、五七七期生の大半が入居しています。
その朝は、千秋は皆より一歩出遅れて、ひとりで駅の傍《そば》の花屋の前を通りかかったんですけど、花を買ってゆきたい気持をおさえられなかった。ピンクの花のスウィートピーを十本ほど買って、セロファンに包んで貰いました。
東北育ちの千秋は、朝夕のラッシュアワーを経験したことがなく、もうひとつ要領がわるくて、よく突きとばされたり、小突かれたりします。おまけに花を滅茶苦茶《めちやくちや》にされないように、右手で空にかざしていなくちゃなりません。いつもは腕が疲れると信子と交代したりするんですが、その朝はひとりなので、自由の女神みたいな格好で、ずっと花束をかざしていなくちゃならなかった。
腕が疲れて下ってきて、止《や》むなくセロファンの花束を横にすると、スウィートピーの花びらが天井の扇風機になぶられて、鼻孔をくすぐります。
「ああ、きびしいな、花を買うのは今日限りにしよう」と千秋が溜《た》め息をついたとき、突然「持ってやろう」という、聞き覚えのある声がして、花束のほうに手を伸ばしてきた男がいる。
見ると、これが教官の村沢です。
村沢は、二、三人の乗客の頭ごしに花束を受けとり、花束を下に向けて、
「スウィートピーか」
意外にも村沢は花の名前を知っています。
「ほかの花をまぜないで、スウィートピー一色ってところがいいな。マーガレットまぜたりすると、墓参りしたくなっちまうからな」
教室にいるときと違って、顔つきがいかにも柔和です。
「勉強とラッシュアワーの往復ビンタの毎日じゃ、花も買いたくなるだろうな」
照れくさいのか、村沢はそのあとろくに口をききませんでしたけれど、電車を乗り降りするときの心遣い、教室まで照れもせずに花を持っていってくれた態度に、千秋は自分に対する信頼の絆を見たような気がしたんです。
じっさい「勉強とラッシュアワーの往復ビンタ」の毎日なんですけど、村沢の信頼の絆を保つのには、勉強するしかない、とおもって、千秋は猛烈に勉強をした。
既に地上研修中から、郷里の先輩スチュワーデスに頼んで、教材を譲って貰って、こつこつ勉強を始めていましたから、第一日目の村沢の質問にも答えられたんですが、沼部寮に入ってから、この勉強ぶりに拍車がかかりました。
沼部寮は、鉄筋コンクリート二階建て、ふたり部屋が五十室ほどあるビルで、午後十時二十分に洗濯場の洗濯機が使用中止になり、十時三十分には一応形ばかりの「消燈」になって、廊下の燈《あか》りが暗い常夜燈に切りかえられます。千秋は、しかしそのまま勉強を続けます。
勉強の内容ときたら、「美しい身のこなし」や「言葉遣いの手引き」のようなソフト物から、寄港地、飛行経路、高度、時差などの説明がびっしり詰った「航路解説《ルート・インフオ》」、客室に積みこまれる数千の物品の種類、数量を解説する「搭載案内書」、機内で販売した物品についての、数十枚におよぶ「帳票処理」などのようなハード物まで、ちょっとしたスーツ・ケースには入りきらないくらいの、大変な量です。
同室の信子は、高校時代から砲丸投げの選手だったという猛女ですけど、「私、頭のさえない分は体力で追っかける」といい、物差しを買ってきて背中に差しこんで勉強をしています。さらに千秋に頼んで、自分の右腕と千秋の左腕をひもで結んでいる。ときどき千秋がひもを引っ張って、「起きてるね」そう確めてくれ、というんです。
──私は体力はともかく集中力、耐久力では信子に負けないぞ。
そもそもスチュワーデスになって、経済的、精神的に自立したい、というのが、千秋の長年の夢だったんです。
千秋は、代々、医者が家業の、仙台の旧家に生れたんですが、カトリックの女子高校から国立大学に通う間、終始帰宅時刻をやかましくいわれるような、いわゆる過保護の育てかたをされた。
いつか村のお祭りに友だちと出かけて、夜遅く帰宅し、父親から母親ぐるみ猛烈に怒鳴られたのが、夜に外出したほとんど唯一の、悲しい記憶です。
大学時代も、男子学生中心のコンパにはいっさい、参加を禁じられたし、ましてやスチュワーデスになるなんてことは、考えもおよばなかった。
しかし昨年、やかましかった父親が死んで、母親と、幼女時代に小児|麻痺《まひ》を患って躰《からだ》の不自由な妹、それに代々、小作人だった家からきているお手伝いの小母さんという、女家族だけになってしまい、ふいに状況が変ってきたんですね。
スチュワーデスの試験を受けて、合格した千秋は、貯金をおろして、アラスカまで飛んで、スチュワーデスの仕事を見学してみた。その仕事ぶりを見て、自分には到底無理と見当をつけて、一度は諦《あきら》めかけたんですけど、郷里に帰ると、やはり気持がおさまらず、ひきとめる母親を振りきって、入社してしまったんです。
その晩は、梅雨が近づいて、蒸し暑い夜でしたが、十時半過ぎに、千秋は腕を結び合っているひもを引っ張って、
「信子、気分換えに、お風呂にゆこうか」
と誘いました。
沼部寮のお風呂は、午後六時半から入浴できて、午後十一時が終《しま》い風呂なんですけど、娘たちの夜の化粧の関係もあって、終い風呂近くになると、混《こ》み合うんですね。
千秋と信子がタオルをかかえて、暗い常夜燈の点《つ》いた廊下を歩き、脱衣場に入ってゆくと、風呂場は大混雑のようで、湯を流す音に混って、娘たちの派手な合唱が聞えてきます。
信子はにやりと笑って脱衣場の壁に貼《は》ってある「浴場での話し声は道路につつ抜けです。嬌声《きようせい》公害。近所迷惑」という寮の管理人の注意書きを顎《あご》でしゃくってみせます。
合唱は大分昔に流行《はや》った「バラが咲いた」というフォーク調の歌に、チーズの名前をはめこんだもので、娘たちは「キャマンベール、ブルー・チーズ、ロックフォール、チェダー・チーズ」などと歌っています。
訓練所で習うことはなにもかも目新しく耳新しいことばかりですが、若い娘たちにとって、特に苦手なのは機内でサービスする酒の種類、チーズの種類です。せいぜい雪印のプロセス・チーズしか知らずに育った娘たちに、無数のナチュラル・チーズの名前は、ギリシャ・ローマ時代の将軍たちの名か、化学方程式のように映って、どうにも馴染《なじ》みにくいんですね。
千秋が二十畳ほどもある風呂場に入ってゆくと、合唱しているのは、向う側の壁の前に、こちらに背中を見せて一列にすわった娘たちです。「バラが咲いた」が終ると、裸の背中の列の真んなかにすわったモンチッチが、
「今度はチーズ宣言でゆこう」
と怒鳴った。
娘たちの合唱は、これも以前流行った「関白宣言」という曲に変り、「チーズをサービスする前に覚えておきたいことがある かなり臭い匂いもするが ナチュラル・チーズを覚えておけ ゴルゴンゾラを忘れてはいけない あの鼻を刺す匂いを忘れてはいけない」などと歌っています。
呆《あき》れたことにお調子者のモンチッチは、自分の作った歌詞を濡れないようにセロ・ケースに入れて風呂場に持ちこみ、蛇口のうえに立てかけています。
モンチッチは「はい、エメンタールにゃ穴が開いてる」「カッテージはサラダにかけろ、だよ」そんなぐあいに小節の合間に歌詞を読んでは、黒い背中を揺らして、合唱の指揮を取っています。
千秋は、モンチッチとは反対側の蛇口の前にすわって、躰にお湯をかけていたんですが、すぐに隣りの信子に向って、
「彼女たち、替え歌、作らないと覚えられないのかな」
ちょっと憎まれぐちをたたいた。
千秋は歴史の年号にしても「一四九二年、コロンブスのアメリカ発見、|イヨイクニ《ヽヽヽヽヽ》ガミエタ」などという、覚えかたはしないんですね。
千秋と信子がおおきなタイルの風呂に浸ると、合唱の指揮の一段落したモンチッチが乱暴に湯を散らして入ってきて、湯のなかをすうっと近寄ってきました。風呂の一隅の湯のなかに、日本人離れしたまっ白な千秋の裸、砲丸投げをしていただけあって、骨太で厚味のある信子の裸、地いろが黒く、やせたモンチッチの裸と、三者三様の裸が揃《そろ》った格好です。
「信子、セクタンの態度は、あまりにひどいとおもわない」
モンチッチは、千秋が眼に入らないような顔をして、石田信子に話しかけます。
最近のモンチッチは、セクシーたぬきを略して、村沢のことをセクタンなどと呼ぶんですね。
「七階から一階まで駆け足で昇り降りさせたり、このあいだは、おまえ、もっと銭になるような歩きかたしろ、とこうきたよ。マリリン・モンローじゃあるまいし、歩きかたひとつでお金になるんなら、スチュワーデスを志望したりしないよ」
モンチッチは自分の裸の肩のあたりをぴしゃぴしゃ叩いて、いかにも不満そうです。
「教官の気持もわかる気するんだよね。陸上のコーチなんて、みんなあんなものよ。ひどいこといって選手を挑発してやる気起させるんだから」
信子がとりなすようにいいます。
「私はこれ以上、我慢しないからね。いざとなったら、信子、その腕っぷし、頼りにするからね、頼むわよ」
モンチッチは信子のふとい腕を握っていい、ゆきがけの駄賃に、
「今晩は、ティーチャーズ・ペットさん」
千秋にそう捨てぜりふを残してゆきました。
毎週水曜と金曜の朝は、七階建ての機装ビルの屋上で、在所中の全訓練生、全教官が集って朝礼を行なうことになっています。
村沢竜太が訓練生の群れと一緒に階段を昇って、屋上に出てみると、朝陽を浴びて、当番の平木恵理がマイクとスピーカーのぐあいを調べています。
一週二回の朝礼では、輪番制で各クラスの当番がラジオ体操の指揮を取り、そのあと、三分間の「所感」をスピーチすることになっています。今日は、短大オチケン出身の恵理がその当番なんですね。
八時三十分に、顔が小さく、手足の長い恵理がマイクの前に進み出て、「ええ、お早うございます。毎度、お馴染みのラジオ体操を始めさせていただきます」といったんですが、その口調が、例によって「ええ毎度お馴染みの馬鹿馬鹿しいお咄《はなし》を」という落語家調だったものだから、五七七期のクラスからは、笑い声がもれました。
まず全員、屋上に散らばってラジオ体操をやり、集合しなおすと、平木恵理のスピーチが始りました。
「味の本場は関西といわれておりますけれども、この東京にもうまいものやが何軒かございます。うまいものやを訪ねてみて、驚きますのは、お手伝いさんなんかなにが気に入らないのか、ぶうっとふくれた顔をしておりまして、愛想のわるい店の多いことです」
オチケンで喋《しやべ》り慣れているのか、恵理は落ち着いたものです。
相変らずまったく笑顔もみせず、ときどき、とぼけた顔で空を見あげたりします。
「女中さんがあさってのほうを向いて、お料理をがちゃんと置いたりいたしますが、どうしたことかお客が押すな押すなと詰めかけて、行列を作っているお店も少くない。中には順番を待って、将棋指したり、碁を打ってたり、のんびりやってるお客さんもいたりしまして」
数人の笑い声がもれ、なにをいいだすのか、と竜太は、恵理の顔をじっとみつめました。
「愛想がわるいのに、なぜお客が詰めかけるか、と申しますと、第一に味がいい。味がいいってことは誠意があるってことです。第二に少々乱暴だけど、サービスのスピードは早いんです。押すな押すなのお客をうまあくさばいちまうんです。それになかなか気もききまして、行列してるひとに番号札配ったり、椅子をだしたりしております」
そこで恵理は、さすがに緊張がひどいのか、軽く咳《せき》ばらいをしました。
「俗にスチュワーデスの心得に、四つのSがあると申しまして、SMILE(笑顔)、SPEED(敏速)、SINCERITY(誠意)、SMARTNESS(気がきく)、これが心得とされておりますけど、私、ええ、老舗《しにせ》のうまいものやを考えますと、SMILEよりもあとの三つのほうが大事だ、とおもうんです。にこにこお愛想笑いばかり上手で、味はわるい、サービスのスピードがわるいじゃあ、お話になりません。SMILEを除いた三つのSで勝負するのが本当じゃないか、そうおもいます」
そこでぺこりと頭を下げて「お粗末さまでございました」といいました。
スチュワーデスは笑わなくていいんじゃないか、というのが恵理のスピーチテーマですから、皆、驚いて、屋上はしんと静まりました。遠くで整備中のエンジンの音、モノレールの通過する唸《うな》り声だけが、屋上まで響いてきます。
──あいつ、自分の愛想がわるいものだから、下手な弁解してやがる。
大勢の面前で、自分の担任の訓練生に恥をかかされたとおもい、竜太は熱くなりました。
同僚の教官たちの視線が村沢に集り、「お前、反論しろよ」と促しているようで、竜太は前に進み出て、マイクを掴《つか》み、
「平木君はああいったが、私は反対です」
とおおきな声でいいました。
「四つのSはみんな大事だが、特にSMILEのSは大事です。平木君は、味こそ誠意の表われだ、といったが、笑顔だって誠意の表われなんです」
おれもダサイ教官みたいなことを喋っているな、とおもいながら、竜太は声を張りあげました。
「きみたちが笑うことは極東航空が笑いかけることなんだ。外人にとっては、日本が笑いかけることなんです。おおいに笑う訓練をしてください」
そういってマイクを離れました。
教室に帰った竜太は、全員が席に着くや否や「平木、立って」と命じました。
立ちあがった恵理は、眼をきらきら光らせ、しかし別段、顔いろも変えません。
「平木、きみに訊《き》きたいんだが、きみは主義として笑わないのか。それとも生理的に笑えないのか」
多情多感の青春というやつ、戦前の旧制高校生の味わったような、青春のロマネスクな心情に憧《あこが》れているようなところがある竜太には、喜怒哀楽の情をおさえこんだ笑わない人間などというのは許し難い存在です。
「まあ、食堂やってる父親は、愛嬌《あいきよう》振りまいている閑《ひま》があったら、あと片づけをしろ、といいましたし、オチケンでは、落語家は笑っちゃいけない、落語家が高座のうえで笑っちまったら、お客は白けちまうよ。自分は笑わずに人を笑わさなくちゃいけないって教わりました」
同期生たちは、笑いたい気持が半分、竜太の機嫌を恐れる気持半分、といった表情でふたりのやりとりをみつめています。
「いいか、スチュワーデスは、女優とおなじだ、とおれはいった筈だ。演出家のおれが、笑えと指図したら、女優はちゃんと笑ってみせなくてはいかん」
昂奮しているので、私、というべきところが、おれ、になりました。
「わかったか」と竜太が念を押すと、恵理は足もとに眼をおとして、小さく頷《うなず》きました。
「わかったら、スチュワーデスの四Sをもう一度繰り返してごらん」
恵理は、眼を天井にやり、とぼけた顔になって、
「スピード、シンセリティ、スマートネス」
といいます。
竜太は、肝心のスマイルが抜けているのに気づいて、再びかっと熱くなり、
「最初のひとつが抜けてるな。最初のひとつはなんだ」
低い声で訊《たず》ねました。
恵理は、突然はっきりした声で、
「セクシー」
といった。そのあとだれかが小声で「たぬき」とつけ加え、笑い声が教室のなかに爆発しました。
笑い声のあと、水を打ったように教室は静かになった。
「平木、きみは不真面目だぞ。教室は寄席じゃないんだ。今日は授業の間、ずっと立っていろ」
竜太は、懸命に感情を殺して、そう命じました。
結局、その日、恵理はひとりだけ残されて、村沢からたっぷりしぼられました。
モンチッチは廊下や空《あ》いている教室をうろうろして、恵理が解放されるのを待っていたのですが、やっと許されて出てきた恵理は、頬に涙の筋をつけ、さすがに元気がありません。村沢は散々|叱言《こごと》をいった末に「平木、笑ってみろ、笑ったら帰してやる」などと無茶苦茶をいいだし、恵理は泣きながら、どうにか笑ってみせて、やっと帰宅を許された、というんです。
「泣いてる女の子に無理矢理笑顔を強制するなんて、落語にもなりゃあしない。あいつ野蛮だね。セクタンじゃなくて、鬼タンだね」
モンチッチは同期の親友のために、憤激しました。
「ようし、今夜はタケシとふたりで、恵理を励ます会を開いたげる。代議士になったつもりで、がんがんお酒、飲んでよ」
モンチッチは、意気消沈している恵理を連れて、あらかじめ約束してあった恋人もどきのタケシと落ち合い、食事をしてから、知り合いのスナックに行って、大騒ぎをした。
笑わない恵理の顔に赤味がさして、やっと生色が戻ったところで、時計をみると、もはや十時に近い。自宅通勤の恵理はともかく、モンチッチのいる沼部寮は門限十時半ですから、タクシーを奮発し、門限ぎりぎりに寮に跳びこむ始末でした。
しかし寮の部屋に落ち着いてみると、またまた腹が立ってきて、気持がおさまらない。
午前中、たっぷり五十分間立たせた挙句に、夕方ひとり残して「笑わないうちは帰さん」と脅かす──。
鬼タンのやつ、許さんぞ、とモンチッチはおもい、なにか復讐《ふくしゆう》の手はないか、と考えた。
そこでおもいついたのが、チャーム・カルテです。
チャーム・カルテは、毎週木曜日、同期生に自分の化粧、服装をチェックして貰い、記入して貰うピンクいろのシートで、各訓練生必携です。
「髪」「化粧」「手足」「服装」「その他」「全体的な印象」の大項目に分れていて、小項目には「肌・むだ毛の手入れ」「爪の長さ」「口臭」「体臭」などのなかなか微妙なチェック項目がならんでいます。
にきびがひどくて要注意の場合は、「肌の手入れ」の項目に×印をつけて、「備考欄」に「にきびがひどい」、「自由欄」に「薬をつけましょう」と書くんです。
モンチッチなんぞは、同期生のひとりに、備考欄に「色があまりに黒い」、自由欄に「なんとかなりませんか」と書かれて、怒り心頭に発したことがあるんです。
翌日、モンチッチは、訓練所の帰りにデパートに寄って、チャーム・カルテのシートとよく似た紙質のピンクいろの紙を買ってきた。寮の部屋に親しい同期生を二、三人集め、床に車座になって作業に入りました。
ピンクいろの紙をふたつ折りにし、仲間のひとりに命じて、表紙の真中に活字体で「チャーム・カルテ」と書かせた。四隅には、これまたチャーム・カルテの表紙そっくりに四つ葉のクローバーの模様を描かせました。
中身はモンチッチの独壇場で、「なるべく書体を変えるんだよ」などと注意しながら、「髪」の項目に×印をつけさせ「備考 いつも仁王さまのように逆立っている」と記入させた。くすくす笑う仲間たちを制止しつつ、「手足」の欄にはやはり×印をつけて「手の甲や指の背中にまで、黒い長い毛が群生しているのは動物的かつ不快な印象を与えます」「毎朝短く切ることにしましょう」と書かせたんですね。
きわめつきは「その他」の項目で、ここはモンチッチ自らボール・ペンを取って、「身のこなし」は「恐喝的、女性に恐怖感を与える」と書き、「言葉遣い」は「番長のしごきふう」と書いた。「全体的な印象はサディスチックな人格のようで、訓練生を人間扱いしない。校内暴力の中学もしくは某ヨット・スクールへの転校が望ましい」と書いたんです。
さすがに仲間たちは動揺して「大丈夫かねえ、モンチッチ」と不安な顔になりましたが、ご当人は「スチュワーデスは女優なのよ。悪役もちゃんと演じられなくちゃ駄目だよ」と澄ましたものです。
そこへドアが開いて、千秋と信子が姿を現わしました。
「モンチッチ、あんたが村沢教官に抗議文だすって話、ほんとうなの」
寮のどこかで小耳にはさんだらしく、千秋はチャーム・カルテを囲むグループを見下ろし、立ちはだかる感じで、そう訊ねます。
「もちろんだしますよ。あんな人でなし、追放して貰うべきよ」
答えながら、モンチッチも立ちあがりました。
「それはおかしいんじゃないかな。私たち、スチュワーデスを志望したのよ。志望した以上、志望先の会社のルールや社風は守るべきでしょう」
千秋は平静に反論します。
「志望したからってね、なにも自分を安売りする必要はないのよ。いったん安売りし始めたら、これは際限《きり》がないからね。どこかできちんと歯止めをかけるべきなんだ」
モンチッチも負けていません。
「抗議文なんか、だしたら、全員退社になる可能性があるわよ。ずっと前だけど、訓練所で問題起して、全員辞表を書かされた期があるそうだからね。あなた、五七七期が欠番の期になる覚悟はあるわけね」
千秋がいい、梅雨の、うっとうしく蒸す部屋のなかに沈黙が広がりました。
「だからこういうジョークの形にして、抗議しようというのよ。こういう柔かな形の抗議が一番こたえるからね。問題にされたって、せいぜい犯人探しでお終《しま》いよ。犯人探しが始ったら、私が名乗りでてやるわよ」
モンチッチがいうと、砲丸投げの信子が、
「とにかくモンチッチもさ、ここんところは感情に走らずにさ、ひと晩、頭冷やしてよく考えてよ」
と間に入り、千秋を促して部屋を出てゆきました。
「ペットの千秋のやつ、村沢教官ていうと、眼のいろ変えて飛んでくるんだから、いやらしいよ」
モンチッチはぶつぶつ文句をいいました。
翌朝、モンチッチは挑戦的にピンクのシートをひらひらさせながら、寮の食堂に入ってゆきました。
食堂の左手のテーブルには、トースターが十数台ならんで、あちこちで焼けたパンがぽんぽんとはねあがっています。
モンチッチは、こちらは和食の朝食を食べている松本千秋と石田信子のテーブルにゆき、
「私、考えたけど、やっぱりチャーム・カルテを使って、抗議するからね」
といいました。
千秋は食卓にうつむいたまま、なにもいいません。
その日、当番が各訓練生のチャーム・カルテを集めるとき、モンチッチはウインクをして、私製のカルテをうまくまぎれこませました。
その午後は、着物の着つけの訓練がある日で、モンチッチたちは、環状八号線の入口近く、エバラ製作所の前に立っている運航乗員の訓練センターに移動したんですが、夕方五時半に授業を終えると、村沢が教室に現われ、
「北岡、ちょっと残ってくれ」
なにげない調子で、そう命じました。
──早くもばれたか。
さすがに驚いて、モンチッチは同期生のだれかれの眼を意識しながら、「はい」と答えました。
村沢は「表に出よう」と低い声でいい、先に立って階段を一緒に降りると、道路の向う側の穴守《あなもり》稲荷《いなり》のほうに歩いてゆきます。
穴守稲荷は、女体信仰に始ったといわれる、羽田の古い神社ですが、村沢はその赤い本殿の横手にまわりこんでいった。
モンチッチは黙ってあとをついてゆくのに耐えきれなくなって、背後から、
「あのチャーム・カルテのことですか」
おもわずそう訊いてしまいました。
村沢は怪訝《けげん》そうに振り向いて、
「なんだ、チャーム・カルテってのは」
訊き返してきます。
ああ、私って馬鹿で軽薄で、救いようがないひとよねえ。自分からチャーム・カルテの一件を自白しちまうなんて。
モンチッチは、自分の愚かさに腹を立てましたが、チャーム・カルテに関係ないとなると、村沢は、このセクタンならぬ鬼タンはなにをいいだすんだろう、と改めて不安になった。まさか私に恋を打ち明けようなんて話じゃないんだろうな。
村沢は朱塗りの本殿の横手で立ちどまり、ちょっと弱ったように頭を掻《か》きました。
「北岡、いいにくい話だがな」
鬼タンは柄にもなく、赤い顔をしており、モンチッチは、この男、ほんとに恋を打ちあけるんじゃないか、一瞬真面目にそう考えたくらいです。
「先刻《さつき》、着物の着つけの講師がな、おれのところにやってきた」
着物の着つけを教えているのは、一期のスチュワーデスだったベテランの社外講師です。
「彼女が、あなた、北岡って子は少し問題よ。着物の着つけのとき見たら、首にキス・マークがついてるのよ、そういうんだよな」
村沢はじっとこちらをみつめていいます。
モンチッチはおもわず「あっ」と叫んで、口もとを掌《てのひら》でおさえました。
一昨夜、恵理を慰めてやろうと街に出たモンチッチはいくぶんはしゃぎ過ぎた。
恋人もどきのタケシも|わるのり《ヽヽヽヽ》をしてしまって、「くちびるからくちびるへ愛を伝えよう心をひらいてつなごう コーラス・ライン」という歌をカラオケで歌った挙句、「愛を伝えましょう」とふざけて、モンチッチに唇を寄せてきました。
モンチッチは「心はひらいてあげないよ。まだ|入国手続き《CIQ》すんでいないし、せいぜい税関の入口までね」といって襟《えり》もとをはだけてみせた。タケシは「近々|入国査証《VISA》を申請します」と咳ばらいをしてから、モンチッチの首筋に猛烈なキスをした。それがキス・マークになって残ったんですね。
昨日今日と関心はもっぱらチャーム・カルテのほうに集中してたものだから、すっかりキス・マークのことをモンチッチは忘れていたんです。
着物の着つけの実習は、十二畳の和室に、全員、特別製の襦袢《じゆばん》とペチコートの格好で勢揃いし、小型のトランクに入っているオレンジ系とグリーン系の和服の着つけの実習をするんですが、着つけが終ると、大先輩の社外講師がひとりひとりの着つけを点検し、注意を与えます。
モンチッチの前にきた講師は「あなた、いくら痩《や》せてるたって、きっちり着過ぎるわよ。もう少し抜き衣紋《えもん》にね、首のうしろにこぶしひとつ入るくらい襟を抜いて着たほうがいいわ」そういって、モンチッチの襟もとに手をかけ、意外に強い力でぐっと着つけをゆるめました。社外講師はあのとき、キス・マークをみつけたに違いありません。
「深い仲の愛人がいるかどうかなんてことは、おれの知ったことじゃない。しかし情事は、訓練所を無事に卒業してからにしろ」
「深い仲の愛人」だの「情事」だのと、村沢は、モンチッチの癇《かん》にさわるような言葉をならべたてます。
「そんなのじゃありません。知ってる男の子が酔っぱらって、キスしただけなんです。だから私も、全然気にしなかったんです。やましかったら、バンド・エイド貼《は》ってかくす筈です」
楽天家のモンチッチも、涙をこぼさんばかりの顔になって、弁解しました。
「社外講師はずいぶんおおきな、あざみたいなキス・マークだったって、いってたぞ。バンド・エイドなんかじゃ、かくしきれないんじゃないか」
「二枚貼れば大丈夫です。あのひと口が標準よりおおきいんです」
鬼タンは、必死の形相のモンチッチをじろじろと眺めました。
「とにかく酒を飲んで、男友だちとわるふざけをする閑はあったわけだ」
そういってから、大声になって、
「とにかくこの訓練所にいるあいだは、眼をつぶって勉強しろ。男のことは頭から追いだしてしまえ」
そう怒鳴りました。
私がお酒を飲んで、タケシと悪ふざけをしたのは、この鬼タンにいじめられた恵理を励ますためじゃないか。つまりこのキス・マークのもとは鬼タンにあるんじゃないか。
それを棚にあげて、私を怒鳴りつけているとモンチッチはおもい、猛烈な口惜《くや》しさに駆られました。口惜しくて、涙が眼に滲《にじ》んできて、髭《ひげ》が伸び始めている鬼タンの顔がぼやけ始めました。
「もし必要なら、その男友だちに暫《しばら》く近寄るな、とおれがいってやる。その男に教官室の電話番号とおれの名前を教えとくんだな」
鬼タンは憎々しくいって、モンチッチをその場に置き去りにし、穴守稲荷を出てゆこうとします。
その足をふと止めて、
「チャーム・カルテがどうしたとかいってたが、ありゃあ、なんだ」
そう訊ねます。
モンチッチは、怒りが爆発した感じになって、
「教官のようなサディスチックなひとは、暴力中学か、名古屋のヨット・スクールに転校していただきたいって、書いたんです」
といった。
一瞬村沢は呆気《あつけ》にとられたような、無邪気な顔になり、それから、
「おれが仕事を変るより、きみが仕事を変るほうが早いんじゃないか。世界にゃあ、カレーの匂いや漬け物の匂いがする、きみにはおあつらえ向きの航空会社が沢山あるぞ」
もう一度、憎まれぐちを叩きます。
穴守稲荷を出てゆく、その後ろ姿を見送ると、モンチッチは駄々っ子のように足ぶみをしました。
──私の人脈を総動員して、あいつにおもい知らせてやる。
モンチッチの入社の際の保証人は、某政党の国会議員なんですね。
竜太は、通勤の京浜急行の車内で、「今朝はいるかな」と千秋の姿を無意識に探している自分に気づいて苦笑したものです。
教師|稼業《かぎよう》を始めて、わかったことですが、いい成績の生徒というのは、試験の答案を通じて、教師に憧憬《どうけい》のメッセージを送ってくるような錯覚に捉《とら》われます。特に男の教師と女の生徒という間柄では、できのよい答案というのは、愛情のメッセージに見えてくるのではないか。
客室乗務員訓練所の場合、毎月曜第一時限目に必ず試験が行なわれます。
この〇×式の試験はかなり難しくて「ジェット燃料は灯油に近いケロシンを使用している」というような機材関係の問題、「GROUND SPEEDとは航空機自体のSPEEDにWIND FACTORを加えたものである」というような航路関係の問題、はては「レミー・マルタン一本売却の代金をタイランド・バーツで一、二五〇受領した。釣銭《つりせん》はデンマーク・クローネでいくらになるか」という問題まで広範囲にわたります。
千秋は、一回六十問から百問に達する、これらの問題をほとんど満点の成績で次々とパスしています。答案は男まさりの字体できっちり書かれていて、迫力があり、そのひたむきさが、独身の竜太には“メッセージ”に見えてきたりするんですね。
その朝、京浜急行が羽田空港駅に着き、満員の車内から放りだされ、首を振っていると、前の車輛《しやりよう》から、おおきなショッピング・バッグをぶら下げた千秋がよろめきながら、降りてきて、深呼吸でもするようにおおきく息をついて、豊かな胸のあたりを叩いています。
「今朝は花は持っていないね」
竜太が声をかけると、千秋は、はっと振り向き、「ああ」と顔を輝かしました。
派手な、いかにも若い娘好みのショッピング・バッグにはちょっと閉口したけれども、竜太が「持とうか」と声をかけたところ、千秋は素直に「ありがとうございます」と手渡します。
額《ひたい》に吹きでる汗をハンカチで叩きながら、
「仙台にいる妹に、誕生日の贈り物をするんです」
千秋はそう説明しました。
「今日、授業が終ってから、上京している母と上野の駅で待ち合わせをして、これを持って帰って貰うんです。羽田なら簡単なんですけど、母は飛行機が嫌いなものですから」
並んで通勤の人混《ひとご》みのなかを機装ビルへと歩いたんですが、ひとしきり、千秋の郷里の宮城県の話をしてしまうと、竜太の気持は弾んでいるのに、話題がみつかりません。やむなく、
「相変らず、成績がいいね」
野暮なことをいってしまった。
千秋は、意外にも少し怒った表情になり、
「そんなことありません」
といい、それから眉を寄せ、真剣な表情になって、
「これからが大変です。これからが問題なんです」
と繰り返しました。
竜太は「これからが大変です。これからが問題なんです」の意味がそのときはわからず、「きみならどうってことないだろう。簡単だよ」と真面目に取りあげませんでした。
機装ビルに入り、ショッピング・バッグを返すと、千秋は礼をいってから、
「訓練生の一部のひとが、村沢教官は厳し過ぎる、って、チャーム・カルテに抗議文を書いたり、知っている政治家にいいつける、なんて騒いだりしてますけど、大丈夫ですか」
と訊きます。
まっすぐみつめてくる視線にたじろぎながら、
「おれは大丈夫さ、もし首にされたら、好きなカナダへ渡って、日本料理屋の皿洗いでもやるさ」
そういって竜太は笑い飛ばしました。
教官室に入り、デスクにすわった途端に、深山さと子がやってきました。
「昨日、チャーム・カルテの件で、北岡たきと話したわよ」
さと子は竜太のほうに躰《からだ》を傾け、声をひそめます。
竜太は「こいつは苦手だ」といつもチャーム・カルテをさと子に見て貰う習慣だったので、例の問題のカルテの処理もさと子に頼んだんですね。
「あの娘《こ》、村沢教官は厳しいばかりで、生徒との間にコミュニケーションを作ろうとしません、なんていうのね。だから教師と生徒の間のコミュニケーションなんてそんなに簡単にできやしないのよ。あなただって、十年も経つと、厳しかった小学校の先生がなつかしくなるでしょう。五年、十年経ってやっとコミュニケーションができるのよ、そういったら、はあ、そういえばそうですね、なんて相槌《あいづち》打ってた」
「さと子は、なかなかいうんだねえ」
竜太が感心してみせると、さと子は軽く竜太の二の腕を叩き、
「あの娘はお軽い極楽とんぼなだけで、性格はわるくないわよ。そのうち伸びてくるって気がしたわね」
といいます。
夕刻、竜太は、訓練所の上役の課長に呼ばれました。
「きみの授業が厳し過ぎる、きみを転勤させろって電話が、秘書部だの人事部だのに入ってるらしいぞ」
やはり乗務員出身で、現在は地上職に変って、訓練所の管理の仕事をしている課長はにやにや笑って、いいます。
「ははあ、私も社内の話題のひとになってきましたな」
竜太は、伸びてきた髭を撫《な》でて、そう応じました。
「いくら厳しくしてもかまわん。ただ厳しくする理由ね、それのデータと証人だけはちゃんと揃えといてくれ」
課長は念を押します。
考えてみると、竜太の場合、平木恵理の朝礼のスピーチの一件といい、北岡たきのキス・マークの件といい、データはともかく証人だけはこれまでのところ、豊富に揃っているようです。
その朝、千秋は朝から落ち着きません。
早くから眼が覚めてしまい、朝食も満足に喉《のど》を通らなかった。
いよいよ環状八号線のわきにある乗員訓練センターで、モック・アップ使用の実習が始るんです。モック・アップというのは、各種機材の実物大の模型で、DC8型、DC10型、ボーイング七四七型等、極東航空使用機材の調理室、客席、ステーションなどが、実物そっくりに造ってある。
このモック・アップを使って、酒や食事のサービスの実習が行なわれるんですね。
その日の訓練は、七四七型機のファースト・クラスのサービスで、皆、支給されたばかりの制服が着られるので、大喜びして騒いでいますが、千秋は気もそぞろです。
今日こそ最優等生の化けの皮がはがれるのではないか、という不安が胸いっぱいに広がってきます。
これもふだんの私服から制服に着がえた村沢がおおよその説明をし、その説明が終ると、制服姿の千秋は村沢に命じられて、ファースト・クラスの中央にあるバーのカウンターの下を開き、そこに折りたたんで格納されているワゴンを取りだしました。
ホテルあたりで使っているものに比べ、長さが二倍ほどもあるワゴンを取りだし、車輪のついた四本の柱の間に三段の棚板をセットし、棚板の両端にストッパーをかけて、棚が落ちないようにしておくんですが、千秋は次の仕事を考えると気が気でなく、仕事に集中できません。
「今日はシャンペンのサービスの実習をやってみよう。石田、シャンペンの産地はどこだ」
と訊ね、石田信子が、「申しわけありません。ヨーロッパのどこかの国の北西部です」そう答え、皆、どっと笑ったが、千秋は顔の筋肉が硬《こわ》ばって笑えません。
村沢はもの慣れた手つきで、シャンペンの口金を外し、おおきな音を立てて、栓を抜きました。
千秋はその音に心臓を射抜かれるような気分です。
「シャンペンは、ラベルがお客さんに見えるようにラベルを上にして、片腕で持つ。右ききなら右腕、左ききなら左腕、つまり利き腕だね。そしてこういうぐあいに腕にのせる。手首と肘《ひじ》の間にのせるんだ。もう一方の手にはリネンを持つ」
村沢はリネンをかざしてみせます。
「シャンペンは最初ゆっくり注ぎ始める。ゆっくりグラスに注いでいって、グラスについてる極東航空のマーク、いわゆるモノグラムの下までいっぱいにしたら、こういうふうに糸を切るように細くしていって、最後は壜《びん》を右にまわして雫《しずく》を切る。そして片手のリネンで壜の口を拭くんだ。どうだ、芸術的だろう」
村沢はとっくり型の壜の雫をあざやかに切ってみせると、いかにも信頼している表情で「松本」と呼び、
「きみが最初にやってみろ。女優らしくおおいに芸術的にやってみせてくれ」
そういって、近くの、同期生がすわっている座席のテーブルにカクテル・ナプキンを置き、そのうえに中サイズのグラスをのせました。
訓練は二班交代で行なうので、手すきの同期生が座席にすわり、お客の役を演じているんですね。
千秋は動転して、声も出ないまま、おおきなとっくり型の壜を受けとり、片手にリネンを握りました。
ほとんど運動らしい運動をしたことがない非力の千秋には、シャンペンはずいぶん重い感じのする壜です。暗緑色の壜を右腕にのせてみると、重さに細い腕がしなうようで、早くも腕全体が、がたがたと震えだしそうな気がします。
重いボウリングのとっくり型のピンを腕にしばりつけられているような気分になり、足どりまでおぼつかなくなって、千秋はためらいながら、グラスを置いたテーブルに近づきました。
「お客さま、シャンペンでございます」
皆の視線に包まれて、「震えるぞ、震えるぞ」という強迫感が頭のなかで反響し始めました。
壜をモンチッチの前に置かれたグラスに近づけてゆくと、細い、白い腕が、千秋の意思を無視して激しく上下に震え始め、腕の上の壜が転げ落ちそうにはずみます。
視界の端で、お客役の同期生が躰を固く縮めるのがわかり、村沢や同期生の視線が千秋の右腕にのしかかってきます。
「才媛《さいえん》には重過ぎるな。両手で注ごうや」
村沢が見かねたようにいい、千秋は暗緑色の壜を両手に持ちかえて、壜の口をシャンペン・グラスに持っていったんですけど、壜の口は激しく震えて、透明なシャンペンが、蛇口のこわれた水道みたいな勢いでほとばしった。激しい勢いで中サイズのグラスをひっくり返し、白いナプキンをかけたテーブルを、シャンペン浸しにしてしまいました。
「あまり芸術的じゃなかったな」という村沢の声を遠くに聞きながら、千秋は茫然と立ちすくんだんですが、あとから考えてみると、このときはまだよかった。
そのあと、同期生の連中が取りなし顔に「シャンペンの壜て、おもいねえ」などと呟《つぶや》きながら、両手で注いだりして、千秋の気持を救ってくれようとしたからです。
千秋に名誉|挽回《ばんかい》のチャンスがまわってきたのは、スープのサービスの実習のときでした。
千秋の組みたてたワゴンの最上段に大型の銀製の|スープ入れ《チユリーン》がふたつ置かれ、コンソメとポタージュ、二種類のスープが湯気をあげており、そのわきにスープ皿がいくつかならべてある。
「いいか。ファースト・クラスで働く客室乗務員《キヤビン・クルー》は、お客さんの目の前でスープを注いで見せなくちゃならない。スープのサービスのポイントは、スープ皿をチュリーン、スープ入れだな、これにできるだけ近づけること。しかし味噌汁をつぐのとは訳が違うから、スープ皿を手に持ったりするわけにはゆかない。英語のレードル、日本語の|おたま《ヽヽヽ》、これでスープをすくうんだが、こぼさないように、レードルでスープをすくうときはいつも八分目くらいの少めにしておく。八分目のレードルを二回半、スープ皿にうつせば、だいたいいっぱいになる筈だ。スープ入れのスープが残り少くなったからって、スープ入れの底をがりがり掻《か》きまわしちゃいけないよ。学校給食とは違うんだ」
そこで村沢は、ちょっと千秋を眺め、千秋の横に立っていた平木恵理のほうに眼を移しました。
「平木、きみの家は門前仲町のお料理屋さんだったな。玄人《くろうと》筋の腕を見せてくれ」
千秋は自分にまわってこないと知って、ほっと胸を撫でおろすおもいでしたが、平木恵理の朝礼のスピーチ、それに続く村沢とのトラブルを考えると、これは意地がわるいとも受け取れる指名です。
平木恵理は小声で「はい」といい、例によって無表情ながら、あざやかな手さばきでレードルをあやつり、ひと雫もこぼさずにコンソメをスープ皿に注いでみせました。少女時代に家業を手伝うことも多かったのでしょう、動きがじつに自然に流れていきます。
村沢はわるびれない感じで「よし合格」といい、それから改めて千秋を見ました。
「松本、名誉挽回にトライしてみるか」
千秋の胸は再び早鐘のように打ち始め、「私は手が震えるんです。こういうことはできないんです」そう絶叫したいような気持になりました。
それでもこわごわレードルを握ると、モック・アップのなかの全員が緊張して、息をひそめるようで、まるで深い水中で作業してでもいるように腕の動きが自由になりません。
「ああ、マリアさま」ミッション・スクール卒業生の千秋はおもわず呟き、八分目ほどコンソメをレードルにすくって、持ちあげようとした。
そのとき、おもいがけないことが起りました。
突然、がたんと音がして、|スープ入れ《チユリーン》がワゴンの最上段から転げ落ちた。皆、悲鳴をあげ、コンソメのスープは、村沢の制服の膝《ひざ》もとから靴を濡らし、カーペットにおおきな汚点《しみ》を作りました。
眼を凝らすと、千秋がちゃんと組みたてた筈のワゴンの最上段の棚の両端が落ちて、中段の棚と三角形に重なっています。
もうひとつのスープ入れは、最上段の棚を滑りおち、隅の柱にひっかかって横倒しになり、ポタージュがゆっくり流れだしています。
訓練生が立ちすくむなかで、村沢は自分でワゴンの上のナプキンやリネンを取りあげ、制服の膝を拭き始めました。
「このワゴンを組みたてたのは、だれだ。仕事が甘いぞ」
棚がずりおちないように、きちんと掛け金を止めた筈だったけれども、手の震える心配のほうに頭がいっていた千秋は、充分に注意がゆきとどかなかったようです。
「ワゴンを組みたてたのは、私です」
色白の顔を紙のように白くし、手にレードルをぶらんとぶら下げたまま、千秋は名乗りでました。
「そうだったな、きみだったな」
優等生の打ち続くミスに呆然とした顔で、鬼タンの村沢は呟きました。
モック・アップの実習を境にして、突然五七七期の訓練生の成績に変動が起きました。
それまで人目を惹《ひ》く容姿と抜群の成績で、五七七期のリーダー格と目《もく》されていた松本千秋には、手のひどく震える癖のあることがわかって、いっぺんに影がうすくなってきた。
それにつれて、千秋の周辺の石田信子以下の学業成績優秀組の影も、なんとなくうすくなってきました。
反対にいきいきした動きを見せ始めたのが、チーズの種類を覚えるのに歌まで作って苦労していたモンチッチや平木恵理です。
門前仲町の大衆|割烹《かつぽう》の娘の恵理が、配膳やサービスに慣れているのは当然ですが、モンチッチも断然頭角を現わしてきた。
少女時代をアメリカ西海岸で過したためか、人|交際《づきあい》の感覚が身についていて、酒や食事の勧めかたが上手《うま》いんですね。
おしぼりのすすめかたひとつ取っても、萎縮《いしゆく》してしまった千秋は、ただひたすら「おしぼりでございます」を機械的に繰り返すだけで、いかにも無愛想な感じを与えますが、モンチッチは「おしぼりでございます」「お待たせいたしました」「お暑うございます。おしぼりお使い下さいませ」と千変万化で、ベテランも顔負けの愛想のよさです。
自然、沼部寮での人気も高まって、夜の食事どきなぞは、話題の中心です。
「近頃はセクシーたぬきとの関係も改善されてきたよ」
モンチッチは箸《はし》を振り振り、食堂で大声を出します。
「このあいだも、日本茶だすときに、いったん茶碗をテーブルに置いてから、どうぞって改めてお客さんのほうに押してみせたのよね。セクシーたぬき、すっかり感激してさ、北岡、きみはパーフェクトだときたよ。わかる、パーフェクトよ。私はパーフェクトの北岡なんだよ。何でも訊《き》いてよ」
だれかが「猿がパーフェクトになると人間でしょう。モンチッチがパーフェクトになると、どうなるのかな。オランウータンになるのかな」とまぜ返して、食卓は爆笑の渦です。
千秋や信子たちは、そんな騒ぎをよそに遠くの一角で黙々と手早く食事をすませ、早々に席を立ってゆきます。
竜太は、千秋の異常なほどの神経の昂《たか》ぶりには、衝撃を受けました。
最初は、自分があまりに厳しくやってきたことに対する反動が出たのか、とおもった。厳しく教育してきたので、竜太の前に出ると、緊張のあまり手が震えだすのか、と考えたんです。
しかし、実習を行なううちに、どうやら問題の根はもう少し深いところにあるらしい、と気がつきました。
竜太は千秋に毎朝、一時間早く登校するように命じ、モック・アップで特訓を施してみた。
同期生がいあわさなくとも、竜太が見ているだけで、千秋の手は震えだします。
ファースト・クラスでは、テイスティングと称して、ワインをお客のグラスに正式に注ぐ前に少しだけ注いで、試し飲みをして貰うんですが、この試し飲みのために、少量、グラスに注ぐという作業が、千秋にはなかなかうまくゆかない。壜の傾斜を加減しいしい、ワインの口をグラスに近寄せてゆくのが大変で、千秋は白い顔にびっしり玉の汗をうかべます。うまく近寄せても、壜からワインが全然出てこなかったり、そうかとおもうと、どっとあふれてしまったりする。
竜太は、千秋をリラックスさせようとして、朝もいきなり訓練に入らずに、自分でコーヒーをいれてやって、暫く雑談をすることにしました。
「私の家は何代も続いた医者なんですけど、父は私を医者にするか、あるいは医者の養子を取らせて、家業を継がせたかったんですね。ポリオで躰の不自由な妹もいるものですから、家業を継がせながら、この妹の面倒を私に見させたい、と考えたんです」
千秋は、ミッション・スクールの小学校から高校まで、首席で通すほど成績がよかったから、父親の期待も強かったんでしょうけど、しかし生活の隅々まで拘束してくる父親の態度に、千秋は激しく反発した。
「父親が亡くなって、私はスチュワーデスを志願したんですけど、母親はいまだに仙台へ戻って、医者と結婚してくれっていってるんですよ」
そんな話をしてから、千秋は白い長い指をみつめ、
「父にあんまり厳しく躾《しつ》けられた名残りかなあ、手の震えるのは。こんなに震えたんじゃ、お医者になって手術でもしたら、大変ですね」
と呟きました。
「学生時代、座敷牢《ざしきろう》に押しこめられているような生活してたからかな」
竜太はふとおもいあたって、
「きみは、厳しかったお父さんのイメージとおれのイメージを混同してるんじゃないかね、それで手が震えだすんじゃないか」
そう訊いてみました。
訊《たず》ねながら、この質問があたっていたら、ちょっと参るな、お父さんはかなわないぞ、とおもった。
千秋は驚いたように眼を見張って、竜太を眺め、
「そんなことはありません」
首を振って、ちょっと微笑をうかべ、
「父は花や荷物を持ってくれませんよ」
といいます。
千秋の家庭に変事が起ったのは、やはりモック・アップの実習があった週末の金曜日です。
その日、竜太はフォークとサービング・スプーンを片手に一緒に握って、オルドーブルを取りわける実習をやらせていた。
「まず親指と人差し指でフォークを持つ。スプーンは中指と薬指ではさむ。こんなものは箸を持つのと変らないよ」
そこで「さあ、松本」と竜太は呼びかけました。
ここのところ、モック・アップの実習作業からは意図的に千秋を外してきたんですけど、いつまでも甘えさせておくわけにはゆきません。
「箸を持つつもりで、気楽にいってみよう」
しかし千秋は、フォークとスプーンをうまく操れず、スモークド・サーモンをぺたりと床におとしてしまった。すっかり自信を失っているらしく、千秋はそのまましゃがみこんで顔を両手でおおって動かなくなってしまう始末です。
もう少し時間を稼《かせ》いでから、実習をさせるべきだったか、と後悔しながら、竜太は午後の授業を始め、暗くした部屋で、各国の通関手続きを説明するスライドを映写していました。
そこへ教官室から、地上職の若い男がやってきて、松本千秋あての電話が教官室に入っている、といって、千秋を呼びにきました。
千秋が出て行って暫くして、教室のドアが開きました。
千秋らしい人影が、明るい廊下を背景に黒く浮びあがりましたが、人影はそのまま、こちらに入ってこようとしません。心なしか前後にゆらゆらと揺れている感じです。
「どうした、松本」
竜太が近づいてゆくと、黒い影は、
「教官、私、スチュワーデスを辞めさせていただきます」
低い声で、呟くようにいいます。
「藪《やぶ》から棒に辞める、はないだろう」
千秋は躰をゆらゆらさせながら、
「母が交通事故で死んだんです」
といいました。
翌週の週末、五七七期の訓練生全員が羽田空港に集りました。
モンチッチの提案で、全員で松本千秋の仙台の自宅に弔問にゆこうという話になったんです。
「はっきりいって、私とはいろいろあったけどさ、心を広くして考えりゃ、千秋は苦楽を共にしてきた戦友ってやつでしょう。その千秋のママが亡くなったんだから、おくやみにゆくのは当然よ。それと千秋、このところめげて、スチュワーデス辞めたいムードだよね。辞めないように皆で励まして、連れて帰ってこようよ」
モンチッチはそう提案したんです。
一同は昼過ぎに出る東亜空輸のボーイング七三七に乗って仙台空港に着き、五台のタクシーを連ねて、仙台市郊外、川南《かわみなみ》にある千秋の自宅に向いました。
千秋の自宅は、旧家とは聞いていたものの、予想を上まわるおおきな屋敷で、門から梅の並木を植えた道が、幾重にも折れて玄関へと続いています。
ひと月くらい前に落ちたんでしょうか、無数といっていい梅の実が道いっぱいに落ちていて、いまだに甘ずっぱい匂いを放ち、夏の大気を重くしている感じです。
「この梅は沢山、実がなるのに、採るひとがいないんだよね、きっと」
モンチッチが呟きます。
東北地方に多いという、欅《けやき》の大木が次第に多くなり、その大木に囲まれておおきな瓦屋根の目立つ家が、水底のような、葉むらを通ってきた青い光のなかに建っています。
旅館みたいに広い玄関で、蝉《せみ》時雨《しぐれ》に負けないように大声をだして案内を請うと、年よりのお手伝いが現われた。みしみしと古めかしい音のする廊下を先に立って、一同を奥座敷に案内してくれます。
お手伝いの話では、今日は初《しよ》七日《なのか》の翌日にあたるのだそうで、広い仏間には親類らしい先客が数人いて、突然現われた二十人の若い娘に驚いた表情です。
喪服を着た千秋は、意外に冷静で、
「皆さん、お揃いでありがとうございます」
と両手を畳について挨拶をしました。
黒い喪服と対照的に、白い顔がいよいよ白くなった感じです。
二十人の娘たちは、次々と、それこそクラスの名簿の順にお焼香をしたんですが、千秋とは対照的によく肥った母親の写真に向い合うと、同期生を襲った突然の不幸が身にしみて迫ってきます。お焼香のあとで、
「ポリオで躰の不自由な妹が、風邪をひいてね。その薬をお医者さんに貰いに行って交通事故に遭ったのよ。お医者の奥さんが、お医者に薬貰いに行って死んじゃうなんておかしいでしょう」
庭石と苔《こけ》の美しい庭に目を向けて、千秋はいいます。
「自転車はお止《よ》しなさいって、いうのに、私は若いんだって足の強いのを自慢して乗りまわしていたのがいけなかったのね」
沈黙が落ち、ややあって同室の石田信子が、全員を代表する感じで、
「あなた、いつ訓練所に帰ってくるの」
最後にそう訊ねました。
千秋はその質問には、眼をおとして答えません。お手伝いに案内され、また来客が立てこんできたので、止《や》むなく一同、腰をあげました。
玄関の外の、激しい蝉時雨の真中に出たところで、モンチッチは、リーダーシップを取って、
「今夜はみんな仙台に泊ることにしようよ。夜になったら、もう一度、ここへきて、訓練所に戻るように千秋を口説いてみようよ」
一同、それに同意して、待たせておいたタクシーに乗ろうとした。すると、だれかが、
「あれ、村沢教官じゃない」
素《す》っ頓狂《とんきよう》な、驚いたような声をだしました。
なるほど、紺の上着を肩にかつぎ、サングラスをかけた村沢が梅の実を踏みながら、並木道をこちらに歩いてきます。
近づいてきた村沢は、
「きみたちもきてたのか。おれは午前の便に乗ったんだが、タクシーに妙なところに連れてかれちまってな。えらく歩かされちまった」
そういって汗を拭きました。
モンチッチは一歩進みでて、
「教官、あたしたち、今夜仙台に泊って、千秋にもう一度、訓練所に戻ってきてくれるように頼んでみようとおもうんですよ」
そういいました。
「教官も手伝っていただけませんか」
村沢はサングラスを外し、眼鏡のつるを折りたたんだりして、もてあそびながら、考えていましたが、サングラスをワイシャツのポケットにしまうと、
「おれがまず話してみよう。きみたちが話すとしたら、そのあとだな。ホテルをきめたら、この家に連絡してくれ」
そういって、玄関へ入ってゆきました。
ホテルに部屋を取った一同は、食事もホテルのなかで簡単にすませ、ロビーに集って村沢からの連絡を待ったんですけれど、いつまで経ってもなにもいってきません。
だれかが、この閑《ひま》を利用して勉強しようといいだし、一同、酒場に移って、ビールを飲みながら、それぞれ持参してきた教材を使って問題を出し合ったりしました。
村沢の連絡がないままにどんどん時間が過ぎ、皆、「あのお婆さんのお手伝いが、ホテルの名前を間違えて教えたんじゃないの」とか「村沢教官、また道に迷ったのと違う」とか、いい合って落ち着かなくなった。
九時過ぎになって、突然、上着を鷲掴《わしづか》みにした村沢が、酒場に入ってきました。
だいぶ酩酊《めいてい》していて、こちらに近づいてくる足もとが、ふらふらともつれます。
皆、立ちあがり、「教官、大丈夫ですか」口々にいって、村沢を取りかこんだ。
村沢は、躰《からだ》を前後に少し揺らしながら、
「みんな、諦《あきら》めろ。松本千秋は極東航空を退社して、つまりスチュワーデスになるのは中止して、自分の家に帰るそうだ」
ふだんより一オクターブ高い声でいいます。
「理由の一、お母さんが亡くなったので、ポリオの妹さんの面倒を自分がみたい。理由の二、自分は不器用で、手が震えるし、とてもスチュワーデスを勤める自信がない」
「あああ」という、娘たちの溜《た》め息の洩《も》れるなかで、村沢はソファにどかんと腰をおろしました。
「教官、私たちがこれから話に行っても無駄でしょうか」
信子が質問します。
「無駄だろうな」
村沢は額《ひたい》をこすっていい、
「お酒とご飯をご馳走になりながら、おれも一生懸命、慰留した。きみは、旧家のしがらみ、お父さんの影響、そういうものから脱《ぬ》け出て、ひとりだちしたかったんだろう、自分の足で自分の人生を歩きだしたかったんだろう。今、ここでその意思を放棄したら、もとの木阿弥《もくあみ》ってことにならないか。この家に残る限り、ひとりだちの自信はできないんじゃないか。妹さんのことは、われわれが真剣に相談に乗るから、とにかく訓練所に戻っておいで、亡くなったお母さんだって、ひとりだちしたきみを見たら、きっと喜んでくださるよ。親類のひとが変な顔してみてたけど、おれはかまわずにがんがんやったんだよ。だけど、千秋のやつ、もうきめたことですから、の一点張りだ。自分が家に残って、薬を貰いにゆくような仕事をやっていたら、母は死なずにすんだろう、というんだ」
村沢は、テーブルに置いてある、訓練生の飲み残しのビールのコップを次々と取りあげて、あおります。
村沢はいつになく気弱な苦笑いをうかべ、
「特訓した松本は、会社を辞めちまうし、平木はいつまで経っても、笑ってくれないし、私は最低の教官のようですなあ」
恵理の顔をちらりとながめ、冗談めかして、そういいます。
それから気を取り直し、
「北岡、明日の昼あたりの便に、全員の席を取ってくれ。午前中は、青葉城を見物するなり、勉強するなり、全員自由行動」
そういって、立ちあがります。
モンチッチは「はい」と答えながら、「この男いいね、いいところあるね」しきりに胸のなかでそう繰り返していました。
東北新幹線が開通したせいか、翌日、昼過ぎの定期便をおさえることができて、十一時過ぎ、一同はなんだかしまらない気分でタクシーに分乗し、仙台空港に向いました。
助手席にすわったモンチッチが、菓子屋の看板をみて、
「|ずんだもち《ヽヽヽヽヽ》を沢山買いこんで、やけ食いするか」
などと呟《つぶや》きます。
仙台空港のターミナルに向って、車が徐行してゆくと、空港ビルの表に、松本千秋が立っているのが見えました。
「彼女、わざわざ送りにきてくれたんだな」
竜太が呟き、一同千秋の前に車を停めたんですけど、車を降りる同期生に向って、千秋はふいに右手を高々とあげ、手に持った紙片を、頭のうえでひらひらと振りました。
「それ、|搭 乗 券《ボーデイング・パス》じゃない。千秋、私たちと一緒に東京に帰るんだね」
モンチッチが叫びました。ほぼ同時に前後のタクシーから、飛びだした同期生の口からいっせいに、「イエー」という大歓声が湧《わ》き起りました。
手にボストン・バッグを下げた千秋は、竜太に向い、
「昨夜の教官のお話を、妹が隣りの部屋で聞いていて、どうしても訓練所に戻れっていうんです。古いお手伝いも、ずっと家にいてくれることになりましたし、よろしくお願いします」
と頭を下げました。
八月下旬に訓練課程を修了した五七七期生に対して、訓練修了の認定会議があり、数人の訓練生、特に笑わない恵理のことが話題になりましたけど、村沢の主張で、全員合格と認定され、娘たちはいっせいに見《O》習|い《J》乗|務《T》と呼ばれる実習に入りました。座学の抜群の成績と人柄がものをいったのでしょう。千秋のことはひとことも話題になりません。
モンチッチも柄にもなく緊張して、ファースト・フライトを迎えたんですけど、彼女にとって幸いだったのは、OJTが平木恵理と一緒だったことです。
OJTはサンフランシスコ便だったんですが、モンチッチは帰り便で、ちょっとした事件に遭遇しました。
モンチッチは、先輩スチュワーデスに監督され、車のついた大きなカートを押して、エコノミー・クラスのお客に食事をのせた|お盆《トレイ》を配っていったんですが、カートに入った二十八人分のトレイを八分通り配り終えたところで、先輩スチュワーデスがお酒の註文を受けて、調理室《ギヤレイ》に取りにゆきました。
モンチッチはひとりで汗をかきながら、残りのトレイを配って行ったんですけど、ふと気がつくと、前方から、手洗いをすませて出てきたらしい老人がこちらに向って通路を歩いてきます。地方出身らしい小柄の老人で、背をかがめてひょこひょこ歩いてくる。
モンチッチは、あわてて頭のなかで、教材の「言葉遣いの手引き」をめくって、
「お客さま、恐れいります。そちらにお入りいただけますでしょうか」
といった。
この場合、「そちらにお入りいただく」というのは、「空《あ》いている座席の間に入っていただく」意味で、要は道を開けて、カートを通させてください、ということです。
ところが、その小柄の老人は、きょとんとした顔をして、
「へえ、こんなかに入《へえ》るのか」
といい、
「こんなせまいところに入《へえ》れるかな」
ぶつぶつこぼして、モンチッチの押しているカートに、向う側からごそごそと入りこんでしまいました。
カートが旧型のおおきめのやつでおまけにカートの向う半分は、先輩スチュワーデスがベテランぶりを発揮して手早くトレイを配ってしまったために、人間ひとりくらいは入りこめる空間ができている。
さすがのモンチッチも、これには仰天して、悲鳴をあげそうになった。
そこへ先輩スチュワーデスが帰ってきたので、
「お客さまが、カートのなかにお入りになっちゃったんです。どうしましょう」
と小声で報告をした。
先輩スチュワーデスは、なかなかの大物で「ふうん、入っちゃったかねえ」と唸《うな》り、
「とにかくお入りになってるお客さまの気持を傷つけちゃいけないわよ。あんた、このままお客さんをおのせして向うの|お手洗い《ラバトリイ》まで押してゆきなさい」
といいます。
仕方がないので、お客をのせて、すっかり重くなったカートを、モンチッチは汗を流して押してゆきました。
これが私じゃなくて、あの陸上出身の石田信子だったら、楽なんだろうな、とおもったりした。
|お手洗い《ラバトリイ》の横手にきて、モンチッチは、カートをとんとんとノックして、
「あのお客さま、到着致しました」
と知らせたんですね。
小柄の老人は「そうか」と答え、ごそごそとカートのなかから降りてきて、あたりを見まわし、
「なんだ、また便所に戻っちまったじゃないか」
文句をいいました。
老人が今、カートに乗ってきた通路を改めて引き返し始めた途端、すぐ傍《そば》で我慢しきれなくなったという感じの笑い声が起った。
前方からやはりカートを押してきた平木恵理がすぐそこまできていて、躰を折るようにして、笑っていました。
竜太は、ひさかたぶりに成田のオペレーション・センターに出かけ、新人乗務員コーナーを訪れた。デスクには、深山さと子が、例のあだっぽい化粧姿ですわっています。
「平木恵理がとうとう笑ったそうね」
さと子がいいます。
「ポエちゃんのしごきが終ったんで、安心して笑顔が出るようになったんじゃないの」
「まあ、なにをいわれようと、笑ってくれれば、おれとしては満足ですよ。それより心配なのは、これからなんだ」
竜太は、落ち着かない顔で、客室乗員部の入口のほうに眼をやります。
客室乗員部の入口は、出入する制服姿のパーサー、スチュワーデスでごった返しています。
夕刻、五時前後は到着便のラッシュアワーの時間帯で、東西南北、あらゆる方向から定期便が成田に向けて殺到してきます。
「例の松本千秋、OJTから帰ってくるんだよ、おれとしちゃ、えらい不安なんだな」
「どこの路線に出したの」
「南まわりだ。おもいきって、一番辛い南まわりに出したんだ。最初にこれをやらして自信つけさせようとおもってね」
竜太はいらいらとデスクを指で叩いたりしていかにも不安な表情です。
シャンペンの壜《びん》をおっことしたり、|スープ入れ《チユリーン》をひっくり返したり、千秋は長い南まわり便の間に、数えきれないほどのミスを犯していはすまいか。千秋のOJTを担当した先輩パーサーが、血相変えて、このデスクに飛んできて、村沢の胸ぐらを掴み、「おまえ、訓練所で、なに教えた」「あんな札つきは、首にしろ」そう怒鳴りこんでくるのではないか。
「きたわよ」
さと子の声で、入口のほうを見やると、南まわり便のクルーの姿が見えました。
乗務員の最後を歩いてくる千秋は、長旅のあとなのに、疲れもみせず、クルーの連中となにか話し合っています。
制服制帽姿の松本千秋は、デスクのわきに立っている竜太をいち早くみとめ、いかにも嬉しそうに両手をぱちんと打った。制帽の下の表情が遠目にも、生き生きと輝くのがわかります。
すぐにこちらに駆けてきそうになったが、先輩スチュワーデスに促され、カウンターに行って、到着報告のサインをしています。
「あの娘《こ》は大丈夫よ。降りてきたときの顔を見れば、ひと目でわかるんだけど、あの娘は自信つけたみたいね。逆療法成功よ」
さと子が、眼を細めて、千秋の様子をうかがいながら、医者が診断を下すようにいいます。
到着報告をすませた千秋は、いかにも生き生きした様子で、小走りにこちらにやってきます。
スラブ系をおもわせる、いろの白い大柄の姿はたくましく陽焼けしていて、訓練生のときとは別人の感じになっています。ひとりだちした新しい松本千秋、という気がしないでもありません。
「教官、やっちゃいました」
近寄ってきた千秋がいい、竜太はおもわずぎくりとして、
「どうした。どんなミスをした」
少しせきこんで訊ねました。
「お客を送りだすとき、ハイヒール、履くの忘れました」
仕事中のスチュワーデスは、踵《かかと》の低い靴を履いていて、乗客送迎の発着時にハイヒールに履きかえるんですね。
「それだけか」
「それだけです」
千秋は答え、ふいに涙がひと筋、陽焼けした頬を流れました。
「ポエちゃん、カナダの夕陽もわるくないけど、教官の仕事もわるくないでしょう。これも感激症のあなたには、あってる仕事だとおもうな」
口のなかが渇いてくるような感情をおさえこもうとしながら、竜太はさと子がそう囁《ささや》くのを夢のなかの声のように聞いたものです。
スチュワーデス落ちこぼれ
極東航空の新人スチュワーデス、北岡たきこと通称モンチッチは、ゴブラン織りの布を張った椅子に、いかにも居心地わるそうに浅く腰をかけ、ホテルのふたつの入口のほうに視線をちらちらと走らせていました。肩から下げた極東航空のスチュワーデス用ショルダーバッグを膝《ひざ》にのせ、指が厚手の皮のうえを落ち着かなげに叩《たた》いています。
花のパリは、銘柄店目白押しのフォブール・サントノレ通り、そのど真中の名門ホテル、「ブリストル」での話です。
今朝、ひとりおしのびでアムステルダムを脱《ぬ》けだして、シャルル・ド・ゴール空港に着いたモンチッチは、この名門ホテルでふたりの男、といっても実の父親と、学生時代から交際《つきあ》っている婚約者|もどき《ヽヽヽ》のタケシ、そのふたりと待ち合わせているんですね。
モンチッチの父親は、商社勤務で母親ともども北アフリカに駐在しているんですけど、母親から手紙がきて、その父親が秋十月にパリに出張する、といってよこした。
続いて建設会社に勤めている、婚約者もどきのタケシがやはりパリを含むヨーロッパ諸都市に出張する、といい始めた。
ここまではどうということもなかったのだけれども、モンチッチ自身がおなじ時期にヨーロッパ線に乗務する、ときまって、俄《にわ》かにある計画が頭をもたげ始めました。
──花のパリで|おとうま《ヽヽヽヽ》に、タケシを引き合わせたら、どうかな。
おとうま、というのは、戦前ふうのお父様といういいかたを縮めた、北岡一家独特のいいかたです。
婚約者もどきのタケシは、少々腰が軽過ぎて、男としては軽量級の嫌いがあるけれども、その点は自称「調子《ヽヽ》生れのモンチッチ」もいい勝負で、えらそうに註文つけられたもんじゃない。古めかしく破《わ》れ鍋《なべ》に綴《と》じぶたと自覚して、ゆくゆくこの軽量級《ヽヽヽ》とは結婚してもいいくらいにおもっているんです。
難点は、モンチッチたちクルーの宿泊地《ステイ》がアムステルダムだ、ということで、モンチッチはアムステルダムをうまく脱けだして、その日のうちにまたアムステルダムに帰ってこなきゃなりません。
──いいとも、いいとも。花のパリでおとうまとタケシに会えるんだからさ、そのくらいの冒険はおかそうよ。
パリ三者会談のアイデアにすっかり夢中になったモンチッチは、そう決心すると、父親とタケシの日程を強引に調整して貰って、この日、会合場所のオテル・ブリストルに乗りこんできたんです。
落ち着かないモンチッチの神経をおびやかすみたいに、突然ロビーのどこかで、物を叩くような音が響きました。
モンチッチがびくっとして、振り返りますと、ひとかたまりになってすわっているアメリカ人の観光グループの彼方《かなた》に、お河童頭《かつぱあたま》のような髪型の東洋人の女性が立ちあがっているのが見えた。女は椅子にすわったフランス人の男を睨《にら》みつけています。
雑談のざわめきが止《や》んで、ロビーの視線の集ってくるなかで、女はまた、ぴしゃあん、ぴしゃあんという感じで、男の頬《ほお》に平手打ちを食わせました。
額《ひたい》の禿《は》げあがった男は立ちあがって、どうしようもないという表情を作って、近くの客たちに唇を突きだし、手を拡げてみせた。ホテルの出口に向って女の背をかなり邪険に押します。
東洋人の女は、男の手を払いのけて、出口に歩いてゆき、フランス人の男が急ぎ足でそのあとを追いかけます。
女と入れ違いに、おとうまの健一郎が、黒い制服のボーイにドアを開けて貰って、姿を現わしました。
小柄な父親は、モンチッチに似て色が黒く、その黒い地いろと白髪《しらが》がまことに対照的です。顔もモンチッチに似ていて、いつかスチュワーデス同期生に写真を見せたら、「あんたは玩具《おもちや》のモンチッチだけど、オチチウエは真物《ほんもの》のナニね」といわれたことがあります。
「おとうま、|おかあま《ヽヽヽヽ》元気?」
「真物のナニ」の健一郎は頷《うなず》いてみせ、照れかくしなのか、
「なんだ、|制 服《ユニフオーム》着てないのか」
私用でパリにやってきた娘に、わかりきった質問をします。
スチュワーデスを志望したときは、健一郎は頑固に反対したものでしたが、いったん許したとなると、親馬鹿が顔をだして、わが娘の制服姿が見たくなるのかもしれません。
「今日、引き合わせたいとかいう、青年はまだきとらんのかい」
これも照れかくしなのか、そんな質問をしてロビーのなかを見まわします。
ちょうどそのとき、タケシがロビーに入ってきた。
その姿を見て、モンチッチは「わ、この格好」とおもいました。
だいたい長髪がふつうのヨーロッパで、タケシのようなスポーツ刈りはそれだけで異様なんですが、初のヨーロッパ出張でのぼせあがってしまったのか、秋のうすら寒い曇り空の日だというのに、サングラスをかけている。
極彩色のチェックの替え上着にきいろいチョッキを着て、茶いろの靴を履いており、モンチッチは「これじゃキンシチョウのオアニイサンだよ。ザ・ヤクザ、ときたね」とおもった。
健一郎に引き合わせると、昂奮《こうふん》のあまりこちらを見ている周囲の人間が眼に入らないんでしょう、ぺこぺこと外人には異様に見えるに違いない、派手なお辞儀を繰り返します。
あの辺から、あたしの悲劇が始ったんだな、とあとでモンチッチはおもったもんです。
そのまま、健一郎が予約しておいてくれた、ロビーの奥の|食   堂《ダイニング・ルーム》に入ったんですけど、タケシのやることなすこと、ことごとくモンチッチの気に入りません。
ウェイターが食前酒の註文を取りにくると、
「ビアー」
なんて怒鳴る。
フランスではビールはカフェの飲み物で、レストランじゃタブーのくち、新橋、赤坂の料亭でチョコレート・パフェ頼むようなもんだから、ウェイターが「なんておっしゃいましたか」と訊《き》き返します。
するとタケシは傲慢《ごうまん》にも、
「お父さん、フランス人には英語のわからないのが多くて、閉口ですねえ。これじゃアメリカがECやNATOとの交渉で苦労するのもわかりますよね」
とうそぶいたりするんです。
健一郎がメニューを見て、
「たき、ここはヌーベル・クイジーヌの店でね、松露《トリユツフ》入りのオムレツがうまいんだよ」
とモンチッチに勧めると、モンチッチが返事をするまえに、「あ、ぼく、それにします」なんて註文を横取りしてしまいます。
七五三じゃないんだよ、大の男が、オムレツなんて、紙の旗立てたお子さまランチみたいなお料理食べたりして冴《さ》えないなあ、とモンチッチはいらいらして、このパリ会談の前途を憂い始めました。
タケシはモンチッチのいら立ちにも一向気づかず、軽量級の面目をいよいよ発揮して、音高くスープをすする合間を見てはフラッシュ光らせて写真を撮りまくった。板壁のつややかに光る、優雅なレストランの真中を、ひょこひょこ跳び歩いたり、床にすわりこむみたいに低くしゃがみこんだり、店のお雇い写真師も顔負けです。
商社マンの健一郎は接待ずれしているから、顔いろも変えず、「写真がお好きですな」とタケシに調子を合わせていますが、モンチッチは恥しさ、情けなさでだんだん顔がゆがんでくるような気がした。
ピークはオムレツ料理のときで、タケシは、「このオムレツ、熱いな」とフォークにのせたのを幼稚園児みたいにふうふう吹いた挙句、
「ビール、飲み過ぎたな、お父さん、ちょっと失礼します」
愛嬌《あいきよう》のつもりか、股間《こかん》をおさえて立ちあがり、そのまま小走りにレストランを出てゆきます。
健一郎が勧めてくれたオムレツは、とろけそうに柔かく調理してあって、長さ二十センチ、厚さ二センチの端から端まで松露がびっしり詰っており、なかなかの味だったけれども、モンチッチはもはやヌーベル・クイジーヌどころの話じゃ、ありません。
「おとうま、タケシ、マナーわるくてごめんね」
恥しさに顔がひきつりそうな感じのモンチッチはそう謝りました。
「あの子も、東京じゃ可愛いのよ。それがここへくると、カッペなんだな。田舎のシティ・ボーイの地が出ちゃったの」
健一郎はワインを舐《な》めて、
「たきがおとうまをひっぱりだして、あの男に引き合わせたのには、意味があるんだろうがね、たきも二十《はたち》を出たばかりだし、結婚なんてことを考えたりするのはまだ早いんじゃないかね」
機先を制するようにいいます。
「男でも女でも就職すると、ものの見かたが変ってくるからね。学生時代に魅力的に見えた相手が、就職すると急に色あせて見えてくる、なんてことが多いんだ」
健一郎がそういってくれて、モンチッチはむしろほっと救われる気分です。
「タケシなんか放っといて、おとうまとふたりで食事すればよかったな」
モンチッチは実感を述べたんですが、これは殺し文句だったらしく、健一郎はじつに嬉しそうな顔をした。
「たきが飛んでいる限り、まだチャンスはあるさ」
親馬鹿まるだしの返事をします。
「しかし、こんなぐあいにパリをほっつき歩いていて大丈夫なのかね。今夜はアムス泊りなんだろ」
それが気がかりのようです。
「今日じゅうにアムスに帰れば大丈夫よ。アムス・パリ間は新幹線みたいに便があるからね」
モンチッチは父親を安心させるために話を誇張して答えました。
勘定をすませて、ロビーに出ると、健一郎は「やあ、楽しかった。私、飛行機の時間があるのでこれで失礼します」と如才なくタケシに挨拶します。
「今日じゅうに、ちゃんとアムスに帰るんだよ」
モンチッチにいい残し、勤務先の商社差しまわしの車で空港に向いました。
「いいお父さんだな。ジェントルマン、てやつだよな」
タケシは無邪気にお世辞をいい、時計を見て、
「おれ、夕方の汽車でブラッセルにゆくんだよ。少し時間あるから、そこらで買物しようよ」
とモンチッチを誘います。
モンチッチも時間があるので、気が進まないながら、交際《つきあ》うことにしたんですけど、ここでもタケシは「田舎のシティ・ボーイ」ぶりを見せて、やたらに買いまくった。
モンチッチが要らない、というのに、「おれ、おふくろに金貰ってきたんだ」と、ルイ王朝の夜会にでも持ってゆきそうなハンドバッグだの、肩や肘《ひじ》に皮を張った、高価なスウェーターだのを買ってくれます。
結局両手にショッピング・バッグを振り分けふうに下げることになり、肩から下げたスチュワーデス用のショルダーバッグが邪魔なくらいで、「あたしまでカッペになっちまったな」とおもった。タケシに見送られ、エルメスの前の|タクシー乗り場《テート・ド・スタシオン》でプジョーの車に乗りました。
「シャルル・ド・ゴールのアエロガール・アンに行ってちょうだい」
タクシーの運転手は中年の無愛想な女性で、助手席には護身用らしいシェパードを乗せています。
──タケシのやつ、軽薄だねえ。おかげでおとうまに恥をかいちゃった。
タケシへの幻滅、そのタケシを父親に引き合わせたことの後悔、そんなおもいが、車中に充満する犬の臭いと絡み合って、モンチッチの気持をおもく沈ませます。
タケシは「結婚に向って、頑張ろう」などと、拳骨《げんこつ》を空に突きだして、ガッツ・ポーズの真似みたいなことやって連呼しているけど、あの軽量級は、おとうまのいうとおり、暫《しばら》く上空で|待  機《ホールデイング》させといたほうがいいんじゃないか。
「あたくし、くらあいお気持です、お犬さま」
と呟《つぶや》いて、モンチッチがシェパードの頭を撫《な》でようとすると、犬はそれを嫌って低く唸《うな》ります。
やっぱり「犬猿の仲か」とモンチッチの気持はいよいよ暗くなりました。
タクシーは四時過ぎにシャルル・ド・ゴールのアエロガール・アン、極東航空に割りあてられているのとおなじターミナル・ビルに着いた。
沈んだ気持をショッピング・バッグと一緒にひきずってタクシーを降り、モンチッチは、まるい最新式のビルの自動式のドアをくぐった。
そこで肩が妙に軽いのに気がつき、次の瞬間、全身の血が逆流するおもいで、立ちすくみました。
肩にかけていた、皮の厚いスチュワーデス用のショルダーバッグがない。ショッピング・バッグに注意がいって、タクシーのなかに置き忘れてきたんです。
「うっそお」と叫びだしたい気持で、モンチッチは、自動ドアをくぐり直し、アエロガール・アンを跳びだしました。
しかしアエロガール・アンの前は一方通行で、到着したタクシーは、まるいビルに沿って一周し、そのまま遠くの出口から出てゆく仕組になっていて、先刻《さつき》の車が残っている筈もありません。
どこかにタクシー乗り場はないか、そこにあのシェパード小母《おば》さんの車がいるのではないか、そうおもい、モンチッチはショッピング・バッグをぶら下げたまま、息をはずませて、円形のビルに沿って駆けだしたが、どこにもタクシーの溜《たま》り場なんか、ありゃあしません。
あのスチュワーデス用ショルダーバッグのなかには、日本国外務省発行の数次往復旅券、パリ・アムステルダム間のオランダ航空の航空券、クレジット・カード、ペーパー・ドライバーもいいところの日本の自動車免許証、下宿している東京の伯母の家の鍵《かぎ》、そして財布など、貴重品がすべて入っているんです。
こうした貴重品のなかで、もっとも大事なのはいうまでもなく旅券で、旅券がなければフランスを出国できない。つまりアムステルダムに帰れない。アムステルダムに帰れなければ、明朝出発の北まわり、成田ゆきの便に乗務できないことになります。
モンチッチは「犬の小母さあん、犬の小母さあん」と連呼したい気持で、円形のビルに沿って走ったが、ところどころに荷物積み下ろし中の乗用車や窓のやたらにおおきい観光バスが停《とま》っているきりで、タクシーなんぞ、影も形もありません。走っているうちにまもなくもとの地点に戻ってしまいました。
かっと熱くなった頭のなかで、「ここは出発のフロアーだから、タクシー乗り場がないんだ。到着のフロアーにゆけば、タクシー乗り場があるに違いない。シェパード小母さんはそこにいるんだ」そういう考えが閃《ひらめ》きました。
モンチッチはまるい空港ビルのなかに跳びこみ、あちこち汗を流して駆けまわって、やっと公衆電話の傍《そば》にエレベーターを見つけた。足ぶみするおもいでエレベーターを待ち、三階の到着フロアーに向いました。
三階の到着フロアーの表には、一階から螺旋《らせん》状に道路がせりあがってきています。シェパード小母さんの車は、パリへの客を拾うために、ここにきたに違いない、とモンチッチは眼を光らせて、ビルから跳びだしたんですが、ここのタクシー乗り場には、一台しかタクシーが客待ちしていない。それも客が乗りこむところで、車の型がシェパード小母さんのプジョーとはまるで型の違うシトロエンです。
モンチッチはおもわず顔を両手でおおって、その場にしゃがみこんだ。「おとうまあ、助けて」とおもわず呟きました。
「おとうまあ、助けて」と繰り返しながら、こうなったら、警察にゆくしかない、とモンチッチはおもった。警察に頼んで、このシャルル・ド・ゴールからパリに通じている高速道路に非常線を張って貰い、あのシェパード小母さんの車を捉《つかま》えて貰おう。
ショックのあまり、自分の考えかたが狂い始めているのにも気づかず、モンチッチははね起きて、到着掲示《ソラーリ》板の前にある空港案内所に行った。
案内所では、橙《だいだい》いろの制服を着たパリ空港職員の女性が、お客の相談を受けて、白い前歯を鉛筆で叩きながら、ホテルの案内書かなにかをめくっていましたが、モンチッチの質問に、
「警察は、地下ですよ」
英語で答えて、鉛筆で横手のエスカレーターを差しました。
空港警察《ポリス・ド・レール》は、エスカレーターの地下一階の降り口の正面にあって、これまた全面ガラスを張った、小さいけれどもえらく現代的なオフィスです。
モンチッチが小走りに中央のガラスのドアから入ってゆくと、内部には、机がふたつ置いてあって、制服の警官がすわっています。ところが、この警官がガラス張りのオフィスとはおよそ不似合いな、禿頭《はげあたま》の老人で、信じ難いほどぶ厚い、まるで牛乳びんの底のような眼鏡をかけている。版画家の棟方志功《むなかたしこう》みたいに机に這《は》いつくばって、書類を書いているんです。
しかもフランス的というべきか、空港警察だというのに、英語がまったく通じないんですね。
「あたし旅券を入れたショルダーバッグをタクシーのなかに置き忘れちゃったんです。シャルル・ド・ゴールからパリへゆく高速道路を閉鎖して、私の乗ったタクシーを捉えて下さい。タクシーの運転手にあたしの忘れ物を持って、すぐにここにくるように、命令して下さい」
モンチッチは、少女時代を父親の任地の米国西海岸で過したので、日常の英会話については、まず不自由しません。
息せききって、英語でまくしたてたんですが、老人の警官は、鬢《びん》に僅かに残った細い白髪が、蜘蛛《くも》の糸みたいにまつわりついた耳をこちらに差しだし、「|なに《コワ》」と訊き返します。
モンチッチは、血管が網状に浮きだした警官の耳をみつめ、英語でおなじ言葉を繰り返しました。警官は「コワ?」と二度、三度と訊き返し、モンチッチは質問を繰り返すうちに脱力感に捉《とら》われ、ふいに涙がにじんできた。「もうアムステルダムには帰れないかもしれない」とおもい、血管の浮き出た耳が、涙でぼやけてゆきます。
シェパード小母さんのタクシーが、パリに向ってどんどん遠ざかってゆく光景が、絶望的に脳裏に浮んできました。
「私、極東航空のスチュワーデスなんです。旅券が出てこないとものすごく大変なんです」
涙声で、モンチッチはいいました。
老人の警官は、牛乳びんの底からモンチッチをじっと眺め、机の抽《ひ》きだしを開いて書類を取りだしました。
受けとってみると、盗難届の書類らしいんですけど、これまたフランス語しか使っていない書式です。
どうしたらいいかわからなくなり、モンチッチは錯乱状態におちいって、書類をぼんやりみつめていました。
「どうしたんです。なにか盗《と》られましたか」
日本語の声がして振り向くと、ポリス・ド・レールの入口に日本人の若い男が立っています。
口髭《くちひげ》をたくわえ、細面《ほそおもて》の顔いろが青白い男で、紺の背広を着ています。地下のキオスクに煙草を買いにきたらしく、片手に煙草のワン・カートンの包みをぶら下げている。
「ああ、助かった」とおもい、モンチッチは部屋に入ってきた日本人の男に向って、自分の身分と父親に会いにパリにきたこと、必要書類とお金など一切合財《いつさいがつさい》タクシーのなかに置き忘れてきたことを説明しました。
眼のふちに溜った涙を拭って、
「私、警察にお願いして、非常線張って貰ってね、私が乗ってきたタクシーを捉えて貰いたいんです」
といいました。
男はモンチッチの顔をじっとみつめ、腕を組んで説明を聞いていましたが、
「非常線を張って貰うなんてことは、あなたが日本の大臣ででもない限り、無理だな」
いやに冷静な口調でいいました。
「だいいち、あなた、自分の乗ったタクシーのナンバー、憶《おぼ》えてるの」
モンチッチは首を振って、
「知りませんけど、中年の女性のタクシーで、しかも隣りに犬をのせているんです。こういうタクシーなら、すぐみつかるとおもうんです」
そういいはりました。
男はにやりと笑って、
「パリに女のタクシーは何百台といますよ。犬をのせてるタクシーもおなじで、何百台じゃきかないかもしれないな」
モンチッチの無知を笑う感じになった。
「あなたのショルダーバッグは、まず絶対に出てこないと考えなくちゃ、いけない。世界広しといえどもね、現金入りのハンドバッグをそのまま警察に届けるような、正直運転手のいる国は日本だけなんだよ」
男は指を一本、モンチッチの顔の前に立てて、
「あなたにできることは、ここで紛失証明を発行して貰って、明日の朝、それに写真を添えて、日本大使館領事部へゆく。そこで改めて旅券発給の申請をする。それしかないな」
断定的にいいました。
モンチッチは急《せ》きこんで、
「今日、申請にゆかれないでしょうか」
男はやはりモンチッチをみつめたまま、
「領事部は午後四時に閉まっちまうよ。今日は遅過ぎるよな」
時計もみずにいいます。
「まあ、二、三日待ってりゃ、新しい旅券、貰えるよ」
男はいくぶん突き放すようないいかたをして、老警官のほうに向き直り、上手なフランス語で書式の各項目を確めながら、必要事項を記載し、すぐに紛失証明を取りつけてくれました。
盗難証明をモンチッチに手渡すと、男は生真面目な顔になった。
「これからが大変なんだ。あなた、極東航空のアムス宿泊《ステイ》のスチュワーデス、といったね」
そういいだしました。
真面目な顔になると、青白い顔がいよいよ青白くなる感じです。
「あんたが今日帰れなければ、明日の乗務には欠員が出る。これからすぐにアムスに、あんたが帰れないことを報告して、善後策を決めて貰わなくちゃいけない」
男は「あなた」という呼びかけを、「あんた」に替えています。モンチッチは「この男、何者なんだ」と躰《からだ》を固くしました。
「いい忘れてたけど、私は極東航空、パリ空港支店の大井です」
顔色の青白い男はそう名乗りました。
「アムスのうちの空港支店に電話入れるから、一階のカウンターへきてくれや」
先に立って、空港警察を出てゆきます。
エスカレーターに乗ろうとしながら、大井は、後ろのモンチッチを一瞥《いちべつ》し、
「先刻、お父さんに会いにパリにきたといったけど、二十代の若いお父さんに会いにきたんじゃないの」
意地わるくいいます。
大井はカウンターの裏にある、VIP用の部屋、菊ラウンジの鍵を開け、そこからアムステルダムの空港支店や、モンチッチが宿泊していたアムステルダムのホテル・オークラに電話を入れました。
モンチッチの上司のチーフ・パーサーはむろん、彼女がいなくなったことなど知りませんから、寝耳に水で、仰天してしまっている。モンチッチが電話に出て謝っても、「おれに黙って、なんでパリなんぞに行ったんだ」と低い声で繰り返すばかりです。
結局アムステルダムの空港支店がやり繰りをして、明日のフライトの欠員は、二日後出発のクルーを一名、まわしてきて補うことに決りました。後発便の欠員のほうは、成田から、早速飛んでくることになるらしい。
モンチッチがアムステルダムに置いてきた荷物はクルーの仲間が成田に運び、モンチッチ自身は、旅券の取れ次第、交代要員《デツド・ヘツド》として、客席にすわって成田に帰る手筈になった。
手配を終えた大井は、
「あんたは、今夜はオテル・ド・キョクトオに泊る。明日の朝、料理店のフーケの前の写真屋で五センチ四方の写真を最低、二枚、スピード仕上げで撮って貰う。それを持ってモンソー公園の近くのな、オーシュ通り七番地の日本大使館領事部に行って旅券申請をするんだ。わかるよな」
そういって、「帰国後、|フランス商業銀行《CCF》の極東航空パリ支店の口座に振りこむこと」といって、二千フラン、現金を貸してくれました。
「ここからオテル・ド・キョクトオまでは、直行のバスで行ってくれや。タクシーは高いし、またその貸したお金を車に忘れられたら、大変だ」
大井は憎まれぐちを叩きます。
まもなくモスクワ経由の定期便がパリに着くところで、その乗客用の直行バスが、ここからオテル・ド・キョクトオまで運行されているんですね。
パリ十五区にあるオテル・ド・キョクトオに入ったモンチッチは、溜め息をついて、窓の外のパリの街を眺めました。
闇のなかにセーヌが光り、アメリカに贈った自由の女神の原型といわれる彫像が黒い影をおとしています。
──えらいドジ、踏んじゃった。
地平線まで拡がる街の灯を眺めながら、モンチッチは知らぬ間に殺人を犯してしまった犯人のような気分です。一瞬の不注意が、彼女の冒険を大失敗に終らせてしまった。
スチュワーデス養成の訓練所を修了して、三カ月にしかならない新人スチュワーデスのモンチッチは、まだ教わったばかりの客室乗務員用マニュアルの内容をよく覚えているんですけど、モンチッチの行為は、マニュアルのチャプターWのセクション1、「HOTEL、RESTAURANT、空港における行動」の項目に明確に違反しているんですね。
まず第三項に「長時間宿泊先のホテルを離れる場合は、必ず先任客室乗務員またはそれに代るべき人にその旨連絡し、できれば外出先における連絡先などを知らせておくことが勤務を控えた客室乗務員には要求される」という項目がありますが、モンチッチはだれにも知らせずにアムステルダムの宿泊先をしのびでて、パリに来てしまった。
なにより決定的なのは、第四項に対する違反です。
第四項には「指定宿泊所以外に宿泊することは厳禁である。特に外地にあっては、いかなる事情があっても外泊はみとめられない。無断外泊し、乗務に際して連絡が取れず、|MISSHIP《ミスシップ》(乗り遅れ)するなどは乗務員として最も恥ずべき行為である」と記されています。
モンチッチは、無断外泊をしたも同然で、その結果ミスシップするという、「客室乗務員として最も恥ずべき行為」を犯してしまったのです。
──こりゃ、首かなあ。
そう呟くと、反射的に平木恵理や松本千秋など、同期のスチュワーデスのだれかれの顔が浮んできて、彼女らと別れることになるのかもしれない、とおもうと世のなか、まっくらになる気がします。
ふだん絶対に肩から外したことのないショルダーバッグを、つい座席に置いてしまったのは何度地団太を踏んでも足りないような失敗です。
だいたいタケシが馬鹿な買物をしたりするから、荷物が多くなって、注意がおろそかになった。それをいうなら、なんであんなカッペのシティ・ボーイを、父親なんぞに引き合わせようとしたのだろう。
あんな軽薄な男のために冒険やって、その結果職を失うなんて、なんたるドジぶりだろう。
自分のあさはかさに、彼女一流の表現に従えば、「めげこける」おもいです。
めげこけるあまり、ホテルの窓から跳び降りたい衝動に駆られますが、むろん窓は開きゃあしません。
夕飯の時間になっても、モンチッチはまったく食欲がなく、下に降りてゆく気にもなれません。このホテルは極東航空の指定ホテルですから、会社のクルーもいる筈で、彼、彼女らに出会ったらとおもうと、早くも顔から火の出るおもいです。
モンチッチは「ええい、寝てまえ」とおもって、ルーム・サービスで、ダブルのブランディを取り、一気にあおった。寝巻きがないので、下着のまま、ベッドにもぐりました。
眠りは浅く、妙な夢にうなされました。
ミラボー橋かなにかの、セーヌの橋の上を犬を連れた女が歩いていて、近づいてみると、ショルダーバッグを置き忘れたタクシーの小母ちゃん運転手が、あのシェパードを連れて歩いているんですね。
シェパードは口にモンチッチの旅券をくわえています。
モンチッチが「その旅券、返してよ」と叫ぶと、シェパードは威嚇《いかく》するように唸ります。モンチッチが手を犬の口に伸ばすと、犬は運転手の小母さんを引きずるようにして橋の上を向う岸へ逃げてゆきます。
モンチッチは懸命に後を追おうとするのですが、両足がしばりつけられたぐあいで、どうにも動きません。
汗をびっしょりかいて、眼を覚ましたモンチッチがまたうとうとすると、パリ空港の出入国管理官の制服を着たおとうまが夢のなかに現われ、「たき、今度、EC・日本間の旅行には、旅券が不要になったよ」と肩を抱いて教えてくれます。「わあ、助かった。これで乗務できるぞ」モンチッチは大喜びして、身仕度を整えようとするのですが、いくらサムソナイトをひっかきまわしても、今度は制服が出てきません。
傍に立ったおとうまが「ミスシップするぞ」としきりに急きたてます。
夢のなかで、汗を流してサムソナイトを引っかきまわしていたモンチッチは、ふとどこかでドアを叩くらしい音に気がつきました。
眼を覚ますと、だれかが隣りの部屋のドアを叩きながら、フランス語でなにやらわめいています。
大声でわめき、戸を叩いているのに、隣りは空《あ》き部屋なのか、なにも応答がありません。
すると女は向いの部屋に移ったらしく、すぐ廊下の向うで、ドアを叩きながら、なにかわめいています。
夢の続きで、モンチッチは、昼間のタクシーの女運転手が、座席に置き忘れたショルダーバッグを届けにきてくれたんじゃないか、と途方もないことを考えた。
日本人の持ち物、それも横に押された文字から極東航空のスチュワーデスのバッグと気づき、空港支店にでも問い合わせて、このホテルを教えられたのではないか。
ベッドからはね起きて、洋服を着こみ、自室のドアを開いてみました。
中年の女がひとり、向いの部屋のドアの前に立って、両手で部屋のドアを叩いています。
やっとドアが開いて、ドイツ人らしい金髪の青年が寝呆《ねぼ》けまなこをこすりながら、姿を現わしました。
すると廊下の女は、
「あ、あんたじゃないわ」
日本語でいい、彼にくるりと背を向けて、モンチッチのほうにやってきた。
顔の真んなかの部分だけが覗《のぞ》いているような、お河童頭《かつぱあたま》の女性です。
お河童頭は、フランス語でなにかわめいたあと、ふいに日本語で、
「あんた、うちのアンリを部屋に隠しているでしょう」
いいがかりのようなことをいいだした。
モンチッチは驚いて、首を振ったんですけど、女は据《すわ》ったような眼でモンチッチを睨《にら》み、部屋のなかに踏みこんできて、
「あんた、嘘いったって、ちゃんとわかってるんだよ。うちのアンリは、そこのベッドの下にかくれんぼしてるんだろう」
いきなりモンチッチの襟《えり》がみを掴《つか》んだ。
「そこをおどきよ」
ものすごい力で、モンチッチを突き飛ばしました。
モンチッチが壁に倒れかかると、女は部屋に入ってきて、床に両手を突き、腹ばいになって、ベッドの下を覗きこみます。
そこへ声がして、若い、やはり日本の女が部屋へ跳びこんできました。
「どうもすみません」と女は壁によりかかっているモンチッチに挨拶し、「お姉ちゃん、なにしてんのよ。さ、ゆきましょう」ベッドの下を覗こうと床に這いつくばっているお河童頭を引き起します。
女は意外に素直に部屋を出てゆきましたが、部屋を出ぎわに、あとからきた方の女が、
「真夜中にお騒がせしてすみません。ちょっとごたごたがあって、昂奮《こうふん》してるもんですから」
そう謝ります。
女たちを見送って、モンチッチがドアを閉めようとすると、廊下のあちこちの部屋からさまざまな人種の顔が覗いていて、こちらを眺めています。
お河童頭は、この廊下の両側の部屋を片端からノックしてまわり、宿泊者を起してしまった様子でした。
そのあとベッドに戻ったものの、深夜の騒ぎに神経がいよいよ立ってしまって、全然眠れません。
翌朝は早くから起きだし、またルーム・サービスでフランス式の朝食を註文して、コーヒーだけ飲むと、そのままホテルを飛びだしました。
大井に教わったとおり、シャンゼリゼーの料理屋フーケの前のカメラ屋を探しだし、その地下の写真館に降りてゆきました。開店するのを待ちかまえて、五センチ四方の旅券用写真を撮って貰った。
その写真と前日空港警察から貰った紛失証明を持って、モンソー公園の傍の日本大使館領事部に駆けつけました。
大使館のドアはまだ閉まっており、門の前を右往左往して、モンチッチは開館を待ちました。
腕時計を眺め、そろそろアムスの仲間たちは、ホテル・オークラのロビーに集合し、空港に向う時間だな、とおもうと、気持が焦って脂汗がにじみでてきます。
やっと十時になって、黒人のガードマンが現われて、門のまえに立ちました。モンチッチはガードマンに用件を話し、二重のドアをくぐって、奥のロビーで、領事部の係官に会うことができた。
若い男の係官は、
「おたくの空港の大井さんから話は聞いています」
といって、旅券申請用の用紙を手渡しました。
モンチッチは、大井からどんな話を聞いているんだろうと気になったが、モンチッチが、紛《な》くした旅券の番号、発行年月日を覚えていたのが、係官の心証をよくしたようです。
「今、発行ずみの旅券はすべてコンピューターにインプットされていますからね。こっちから打ったテレックスが着くと、コンピューターをチェックして、間違いがなければ、すぐに再発給OKの返事がきますよ」
係官は慰めるようにいい、モンチッチは「すぐって、今日じゅうの意味ですか」と訊くと、
「それはないな。まあ、すぐですよ」
と確答は与えませんでした。
モンチッチは帰りにスーパーマーケットのプリジュニック、それにホテルの売店に寄って、安物の下着や寝巻き、布地の鞄《かばん》など、当面の必要最小限の日用品を買いこみました。
オテル・ド・キョクトオに帰ってくると、さすがに昨日来の疲れが出て、服を着たまま、ベッドに横になり、眠ってしまった。
かなり音のけたたましい電話のベルに眼を覚まし、起きあがってみると、大分、眠ったらしく、部屋のなかはほの暗くなっています。
まつわりつく眠気に、躰をゆらゆらさせて受話器を取ると、
「あんた、極東航空のスチュワーデスの北岡さんやね」
突然、大阪|訛《なま》りの女の声が耳に飛びこんできました。
「はい、北岡ですけど」
モンチッチは寝起きの嗄《しわが》れ声で答えました。
「話があるんや。ちょっと降りてきてくれへん。そう時間取らせへんわ」
モンチッチはまくしたてる大阪弁に戸惑って、
「あの、どちらさまですか」
他所《よそ》ゆきの言葉で訊《たず》ねました。
「極東航空の客乗よ。あんたよりすこうしシニアやけどね。おんなじス|チュワーデス《SS》よ」
先輩スチュワーデスが、どうやら自分のことを心配してくれているらしい、とモンチッチはおもいました。
考えてみると、朝からだれとも満足な会話を交わしておらず、夕闇のホテルの部屋のなかで、俄《にわ》かに人恋しさがつのってくる感じです。
「このホテルは二階がフロントになってるやろ。そのフロントから階段二、三段降りたら、エスカレーターがあって、その先にテレビ置いてあるロビーがあるねん。そこにきてえな」
シニアのSSと名乗る相手は、一方的にそういって電話を切りました。
そこは「調子生れ」のモンチッチ、少し休息を取ったものだから、たちまち甘ちゃんの気質が顔を出して、「今夜は先輩たちに慰めて貰えるみたいだな」と考えた。
ちょっと身づくろいをして、部屋を出て、エレベーターでロビーに降りてゆきました。
フロントの前を横切り、エスカレーターの向うの、セーヌ川に面したロビーに入ってゆくと、ちょうどサッカーの番組をやっていて、テレビのまわりに大勢のヨーロッパ各国人がたかっています。
「こっちや」
テレビの置いてあるのとは、反対側の一隅から、先刻の電話の主らしい声がしました。
セーヌ川に面した席に、二人の私服姿の日本娘がすわってこちらを見ています。
いずれも一、二度見かけたことのあるSSで、特に大阪弁の色の黒いスチュワーデスは見覚えがあります。
彼女が成田を歩いているのを見かけたとき、モンチッチの連れの女性パーサーが「あの子、猛烈に色が黒いよね。大阪の難波《なんば》出身なんで、綽名《あだな》を難波のクロムスメっていうんだよね」と教えてくれた。
モンチッチが「あら、あたしだって、猛烈に色が黒いですよ」というと、パーサーは眼を細くして、モンチッチを眺め、「あんたの色の黒さにはまださわやかなところがあるけど、あの子はただもう下品にどすぐろいのよね」といったもんです。
「あんた、旅券、紛くしてもうたんやて? 事情《わけ》、聞かせてえな」
椅子にすわったモンチッチに向って、クロムスメがいいます。
「父親に会いにね、ここにきたんです」
モンチッチは、タケシの存在だけは取りのぞいて、前日からの経緯《いきさつ》を説明しました。
説明を終えると、座は変にしんとして、サッカー番組のアナウンサーの声ばかりが耳につき、モンチッチはこれはまずい雰囲気《ふんいき》だぞ、とおもった。
「あんた、いつ訓練所を|卒  業《チエツク・アウト》したの」
クロムスメが眼を光らせ、底意ありげな低い声で訊ねます。
「三カ月前です」
「ほなら、まだレギュレーションは頭に入ってる筈やね。客室乗務員は指定ホテル以外に外泊でけへんのよ」
クロムスメが冷たい声でいい放ち、モンチッチは小声で「知っています」と答えました。
するとクロムスメのわきの、顎《あご》が長くて、とがったSSが、
「外泊はむろん厳禁だけど、マニュアルの|第 五 章《チヤプター・フアイブ》には、滞在中の不要な外出は避けることって、書いてあるよ。あんた、覚えてる」
きんきんと高い声できめつけます。
「はい、覚えてます。だけどそれは|第 五 章《チヤプター・フアイブ》じゃないですよ。|第 四 章《チヤプター・フオー》のHOTEL、RESTAURANT、空港における行動の第四項です」
クロムスメと顎のとがった娘は顔を見合わせます。
「規則っていうのは、第四章がああだ、第五章がこうだ、なんてお念仏となえるためにあるんじゃないよ。守るためにあるんだよ。そうだろう」
顎のとがったSSが、だれかの受け売りらしいせりふを憎々しげに呟きました。
クロムスメは、セーヌ川のほうに眼を外《そ》らして、
「あんた、チーフかパーサーに一日、アムスを離れます、パリに行ってきます、そうゆうたの」
モンチッチは、首を振りました。
首を振りながら、モンチッチは、やっと、あたしはこのSSたちにしごかれているらしい、と気がつきました。
「あんた、お父はんと一緒やったなんてゆうてるけど、ほんまは男と一緒やったんやろ。うちのグループで、だれかがあんた見たゆうとったよ」
クロムスメが新たな攻撃をしかけてきて、モンチッチはびくっとしました。
「おとといの晩、ディスコで若い男とダンスしてた、ゆうて聞いたんやけどね」
このせりふでモンチッチは安心してしまった。タケシと一緒だったのは、昨日の午後、約一時間ほどで、それもフォブール・サントノレ界隈《かいわい》で、買物しただけの話です。
「あんた、パリまで男に会いにきて、旅券置き忘れてさ、フライトから落ちこぼれてだよ、成田に帰ったら、どうするつもり」
顎のとがったSSも、嵩《かさ》にかかって、いいつのります。
モンチッチは反発したい気持が胸のなかに拡がってゆくのを意識しながら、
「所属長に報告して、処分を待ちます」
と答えました。
四千人いる客室乗務員は、約四十人ずつのグループに分けられて、それぞれ管理職の上司のもとに統轄されているんです。
「ミスシップは大罪なんやしね、あんた、成田に帰ったら、辞表出したほうがええんやない」
クロムスメがじろりとモンチッチを眺めていいます。
「こういうひとに、おなじ制服着てて貰いたくないよねえ。制服の価値が下るんだよ」
すかさず顎のとがった娘も同調します。
そこでモンチッチの感情が爆発してしまった。
「たしかにあたしはミスシップして、フライトから落ちこぼれましたよ。だけどこのことはあんたたちに関係ないのよ。辞めるか辞めないか、それは所属長にきめて貰うことよ」
そういって、乱暴に席を立ちました。
ロビーを出ぎわに、顎のとがった娘が、
「新米のくせに可愛くないよねえ」
そういうのが聞えました。
モンチッチが憤然たる足どりで、フロントの前をエレベーターのほうに歩いてゆくと、だれかが二の腕を軽く叩きます。
口髭《くちひげ》を生やした空港支店の大井が立っていて、モンチッチの精神状態、健康状態を確めるみたいに、頭のてっぺんから足の先までひとわたり眺めます。
「なんだ、元気そうじゃない」
大井は意外そうにいい、モンチッチは「このいいかた、ずいぶんじゃない」とおもった。
ちっとも元気じゃないのだけれども、たまたま先輩SSの態度に憤慨して、顔が上気しているだけの話です。
「おれもあんたのことが気になってたんだけど、領事部のひとが空港支店長に電話よこして、あのスチュワーデス、大分落ちこんでるよ、おたくでしっかり面倒見たほうがいいよ、なんていってきたもんだからね、おれも心配になってきて、様子を見にきたんだよ」
とにかくどこかへ食事にゆこう、と大井は誘います。
考えてみると、昨日の昼に父親と一緒にオムレツの料理を食べてから、ほとんどなにも食べていないわけで、昂奮したおかげか、モンチッチは俄かに空腹を覚えて、大井の誘いを受けることにしました。
「あの連中は雪園《シユイエン》あたりにゆくんだな」
大井はこちらに気づかずにエスカレーターを降りてゆくクロムスメたちを見やっていいます。
雪園というのは、オテル・ド・キョクトオの裏手にある中華料理屋で、安価なために、パリ宿泊《ステイ》のクルーに愛用されている店です。
結局、モンチッチは大井のおんぼろアウディに乗って、ボワ・ド・ブーローニュの向うの住宅地、ヌイイにいった。
「落ちこんでるときは、箸《はし》を使う店がいいみたいだよ」
大井はそれなりに気を使っているようで、ゆきつけだという中華料理屋に入りました。
大井にいわせれば、「ヴェトナム料理」っぽい中華料理を突っつきながら、
「先刻は、先輩SSにお説教食ってたんだろう」
にやりと笑います。
大井は、部屋にいないモンチッチを探してロビーにやってきて、しごきの現場をみかけたようでした。
「仕かたないですよ。あたしがミスシップしたんですから」
モンチッチは殊勝な声をだしました。
大井はふいに白布をかけたテーブルに乗りだしてきて、口髭を気にしながら、
「おれはよくおもうんだけど、会社ってのは、ミスを許さないと駄目なんだよな」
妙なことをいいだしました。
「若くて、活《い》きのいい社員が多いと、どうしたって、ミスするやつが出てくる。そのミスを許してやると、ミスやったやつはお礼奉公しようとして、猛烈に働くよな。これが会社のエネルギーになる、とおもうんだよ」
このひと、おもしろいこというな、とモンチッチは、箸を振り振り喋《しやべ》る大井を見なおす気持になった。
大井には、有能だが、冷たい感じの事務屋という印象が強かったが、必ずしもそうではなさそうです。
「でも、おなじミスにしても程度の問題があるんじゃないですか。あたしの場合、許される範囲を越えてるんじゃないかな」
いくぶん自虐的な気持に駆られて、モンチッチはそう反論しました。
「あんたの場合、会社に百万くらいの損害を与えたってところだろう。この次に二百万|儲《もう》けてみせればいいんだよ」
「欠員が出て、成田からひとり交代要員《デツド・ヘツド》が飛んでくるんだから、やっぱり会社に百万損させたってことになるのかな」
めげるなあ、とモンチッチは自分の頬《ほ》っぺたを叩きました。
「会社も、こういう精力のありあまってる社員をちゃんと使いこなせないようじゃ、将来ないよ。ミスを許さないような会社だったら、官庁とおなじよ。こっちから見捨てて、ほかの航空会社へでも移ればいいのよ」
大井はこともなげにいいます。
モンチッチは、視野が急にひらけてきたようで、すっかり嬉しくなった。
「あたしも辞めたくないんだよなあ、この仕事。仲間がね、同期がとってもいいんですよ」
モンチッチは、門前仲町の割烹《かつぽう》の娘で、いつまでも笑顔がうかべられず、教官たちを悩ました親友、平木恵理のこと、客室乗務員訓練所在籍中に母親を亡くし、スチュワーデスを諦《あきら》めかけたのを、同期全員に慰留されて残った松本千秋のこと、そして今もよく手紙をだす訓練所の教官、村沢竜太のことなどを、堰《せき》を切ったように喋ってしまいました。
喋りながら「あの連中ともお別れだ」と改めておもい、感情が昂《たかぶ》ってきて、モンチッチは涙ぐんでしまいました。
「軽く飲みにゆこう」と大井は慰めるようにいって、またおんぼろアウディに乗り、ジョルジュ・サンク・ホテルの傍《そば》の「カルバドス」という、文字どおりカルバドス専門店に行って、バンドの演奏を聞きながら、通称「カルバ」を飲んだ。
気分を持ち直したところで、オテル・ド・キョクトオまで送って貰ったのですが、車を降りぎわに、モンチッチは、
「お礼に大井さんの頬っぺたにキスさせて」
と頼みました。
大井は「こうか」とおどけて頬を差しだし、キスを受けたあと、真面目な顔になって、
「旅券は明日の朝、出るとおもうよ。もし朝一番に旅券が出たら、十一時半のフライトに乗らなくちゃならない。旅券が出ることになったら、おれがここに迎えにくるから、待機しててくれよ」
といいます。
「もし明日のフライトなら、おれも一緒にゆくよ。東京で講習があるからな」
大井と別れたあと、エスカレーターでロビーに昇りながら、明日の朝、旅券が出るといいな、そうすると大井と一緒のフライトに乗れる、とモンチッチは心底おもったものです。
ロビーの階に昇ってみると、左手のカクテル・ラウンジの入口あたりに人だかりがしています。
人垣の後ろから覗きこんだところ、胸の空いた白い上着に、おなじ白いパンタロンの派手な服を着た女が床に長々と伸びています。お河童頭の髪が黒く、どうやら日本人らしい。
「パルドン、パルドン」と叫びながら、ウェイターが人垣を割って入ってきました。シャンペンやワインを冷やすバケットを腕にかかえています。
ウェイターは、いきなりバケットを逆さにして、山のような氷塊を女の開いた胸もとに放りこみました。
効果はあらたかで、お河童頭の女はすぐに意識をとりもどして起きあがり、胸をおさえて、そこに溜《たま》っている氷塊をじゃらじゃら揺すってみせた。濡れたパンタロンを見下ろして、
「あたし、|お寝しょ《ヽヽヽヽ》しちゃった」
と呟《つぶや》いています。
女のお河童頭に見覚えがあり、モンチッチは、この女が昨夜、ホテルの部屋のドアをノックしてまわっていた女、いや、昨日の昼、オテル・ブリストルのロビーで、フランスの男に平手打ちを食わせていた女と気がつきました。
人垣の間から、昨夜、このお河童頭の面倒をみていた女が現われて、
「ちょっと目を離すと、お酒あおって、この始末だからねえ。便所にもゆけやしない。お姉ちゃん、明日は日本に帰るんだよ。しっかりしてよ」
そういって女を助け起しています。
翌朝十時、領事部で旅券を受領したモンチッチは、ほっとしてまたまた涙ぐみそうになった。
しかし附き添っていた大井から、「時間がないんだよ。涙こぼしてる場合じゃないんだよな」と怒られ、あわてて領事部を飛びだして、シャルル・ド・ゴールに向いました。
大井が用意してくれた交代要員《デツド・ヘツド》用の航空券を持って、チェック・インをすませ、すでに乗客の搭乗が終了している、出発間ぎわの北まわりアンカレッジ行きの四八四便に跳びこんだんです。
大井はドア・サイドに立っている、チーフ・パーサーに向って、
「パリ空港支店の大井です」
と名乗り、
「彼女がデッド・ヘッドの五七七期の北岡たきさんなんですが、私も研修のため出張致しますので、成田までエスコート致します」
あっけらかんとした顔で、そんなことをいいます。
まるでコンピューター犯罪の女犯人を護送するようなこというじゃないのとモンチッチはおもったが、しかし「エスコートされる」「護送される」という感じには、ロマネスクなところがあって、わるい気はしません。
デッド・ヘッド搭乗の際の慣例で、モンチッチは、名前と社員番号を書いた紙片をチーフ・パーサーに差しだしたんですが、二枚目型の、ひょろひょろと背の高いチーフは、あらかじめモンチッチの話を聞いているらしく、眼をぱちぱちとしばたたいて、なにか眩《まぶ》しいものでも見る表情です。
「たしか席はKクラスだったな。今日は満席であそこしか空いていないんだ」
ふたりのボーディング・パスを見ていいます。
Kクラスは、ファーストとエコノミーの中間クラスにあたる、シートの幅の広い席で、ふだんはデッド・ヘッドがすわれない場所です。
Kクラスのほうに歩きだしたとき、モンチッチは調理室《ギヤレイ》の横に、昨日しごかれた難波のクロムスメが立ってこちらを睨んでいるのに気づきました。
「でたあ」とおもったが、そこは先輩に敬意を表して、「お世話になりまあす」努めて明るく挨拶しました。
クロムスメはじっとこちらをみつめて、返礼もしません。クロムスメの後ろのギャレイから、昨日の連れの顎のとがった娘まで顔を出して、「豪華配役」という感じになりました。
おまけにKクラスの席が、クロムスメたちSSの修羅場、ギャレイの真横ときています。これではしょっちゅう彼女らに睨まれてすわっていなくちゃならない。
成田まで針のむしろだな、とおもって、モンチッチは気持がおもくなりました。
「こわい先輩がおられるみたいだよな。あんた、ウインドウ・サイドにすわるべし」
大井がそういってくれます。
四八四便が上空にあがると、Kクラス担当のクロムスメがおしぼりを配り始めましたが、通路側の大井におしぼりの籠を差しだすと、すこぶる自然にモンチッチを無視して、次の列に移ってゆきます。
「先輩、後輩にもおしぼりくらい配ってやろうよな」
大井がクロムスメを呼びとめて、おしぼりを取って手渡してくれましたけど、クロムスメのほうはぶすっとふくれたような顔をして押し黙っています。
クロムスメとその相棒の顎のとがった娘は、ずいぶんおおきな顔をしているけれども、ほんとうにそんなベテランなんだろうか。モンチッチがそうおもったのは、|飲み物《リカー》サービスの始ったときです。
カーテンを閉めたギャレイのなかで、|飲み物《リカー》と食事《ミール》サービスの準備が始って、|収 納 庫《コンパートメント》を開閉したり、|ワゴン《カート》を引っぱりだす音が響き始め、モンチッチは他人《ひと》ごととはおもえず、緊張して躰《からだ》を固くしていました。
「そろそろリカー・カート出しましょう」
ベテランの|アシスタント・パーサー《AP》がカーテンのこちら側から、声をかけ、ギャレイのなかに入って行ったんですが、すぐに押し殺した声で叱り始めた。
「リカー・カートのセットがなってないよ。ウイスキーだの、コカ・コーラをこんなにならべたって駄目よ。このフライトはパリ|出  発《デイパーチユア》なんだよ。白ワイン中心に並べかえてちょうだい。それからおしぼり忘れてるよ。|お酒《リカー》のサービスすれば、手やテーブルを濡らすことが多いんだからね。二本、のせといて」
リカー類の|ワゴン《カート》の上には、すぐお客の註文に応じられるように、よく出る酒、飲み物をあらかじめならべておくのですが、それがアメリカ便とおなじにウイスキー、コカ・コーラばかりならんでいたらしく、APの逆鱗《げきりん》に触れたようです。
がたがたと積みなおす音がして、リカー・カートが出てきたんですが、見ると、押しているのはクロムスメです。
──なんだ、このひと、私とおんなじようなミスやって、怒鳴られてるじゃないか。
モンチッチは意外な気がしました。
カートが通過していったあと、クロムスメがギャレイに戻ってきて、
「お酒、お燗《かん》できたら持ってきてんか」
ホット・カップという、電熱式の容器にお湯を張り、お酒をつけて、あとを頼んだらしく、そういいおいて、カートの傍に戻ってゆきます。
ホット・カップを使うと、二分くらいでお燗はできてしまう筈です。しかし二分経ってもカーテンの向う側からはだれも出てこない。モンチッチはわがことのように気をもみ始めたんですけど、そのうちぶくぶくと泡《あわ》の吹き出る音がし始めた。
明らかにお燗したお酒を放っていたものだから、沸騰し始めたんですね。
モンチッチは耐えられなくなって席を立ち、「ちょっと失礼」と大井に断って、通路に出ました。
そのまま、ギャレイに入って、
「失礼ですけど、お酒が煮立っていますよ」
そういってしまった。
床にしゃがみこんで作業中の顎のとがったスチュワーデスは、ちらりとこちらを見て、
「わるいけど、あんた、お燗し直して、|お客《パツクス》のところに持っていってよ」
「護送されている」交代要員のモンチッチにとんでもないことをいいます。
顎のとがったスチュワーデスは、額《ひたい》に玉の汗をうかべ、昨日は長袖のシャツにかくれて見えなかったが、腕のあちこちに赤い火傷《やけど》のあとをつけている。ギャレイで作業する新人に火傷はつきもので、どう見てもベテランの姿ではありません。
仕かたがないから、モンチッチは自分でお酒を出してあらためてお燗をし直して、クロムスメのところに持っていってやった。クロムスメはものすごい顔をして、ありがとうでもなく、お酒を受けとりました。
「あんた、そんな余計なことをして、逆恨みされるのと違うか。どかんとくるぜよ」
席に戻ると、大井がにやにや笑いながら、ひやかします。
食事が始って、|お盆《トレイ》が配られたとき、一瞬モンチッチばかりか、大井までが、どかんとやられた、とおもいこんでしまった。
「このステーキ、触ってごらん。冷たくてこちこちだぞ。やられた感じだよな」
大井は、ステーキを指で突っつきながら、いいます。モンチッチも触ってみると、なるほど冷たいんですね。
「いくら出張者《ノーサブ》だって、こりゃ人権問題だ。いわして貰おうや」
大井が通りかかったAPを呼び止め、文句をいいますと、
「ああ、これはうちのSSが乗務員《クルー》用の食事《ミール》を間違えて出しちゃったんですよ」
こともなげにいいます。
APはギャレイ担当の顎のとがった娘と、客室《キヤビン》担当のクロムスメを呼びつけました。
「ギャレイ担当は、クルー用の食事ははっきりクルー用って札、貼《は》りつけて別にしとかなきゃ駄目。キャビン担当はトレイを配るとき、食事の温度の違いに気がつかなきゃ。一人前じゃないよ」
クルー用の食事は、エコノミー・クラスの食事とおんなじ内容なんですが、サービス終了後に食べるために、温めずに別にしてあるんですね。仕事の手順がわるく、ギャレイが乱雑に散らかしてあるものだから、この冷たいクルー用の食事を、乗客用の食事に混入させてしまったんです。
「すみませんね。この娘《こ》たちも、六カ月前に訓練所を|卒  業《チエツク・アウト》したばかりなんですよ」
そういって、APは大井に謝っています。
今年訓練所を出たというのであれば、彼女らはモンチッチのセミ同期、ほぼおなじ年代ということになります。
「ええっという感じ」になって、モンチッチはふたりの娘を眺めました。
クロムスメたちがセミ同期とわかると、緊張感がいくぶんとけて、針のむしろという感じがうすらぎました。
映画が始って、モンチッチは席を倒し、毛布をかけて、眼をつぶった。
隣りの大井は、やはり映画を見ずに、読書灯を点《つ》けて、フランス語の本を読んでいます。
ときどきちらりとこちらを見ては、毛布をかけ直してくれたりします。
このフライトに乗ってわかったのは、大井がひどく優しい男だ、ということです。
食事中もなにかと気を使ってくれたけれど、食事が終って、モンチッチが手洗いに立とうとすると、すっとトイレット・キットを差しだしました。
「家にころがっていたんだけど、日本の旅行者向けの土産物店で貰ったんだよ。よかったら使いなよ」
モンチッチが手洗いで開いて見ると、どれとどれが貰い物かわかりませんが、アストリンゼントや化粧水、乳液のような化粧品のほかに口紅やアイシャドウ、それにマニキュアのセットまで詰っている。
昨日今日、私がお化粧してなかったんで、あてつけにこれをくれたのかな、とモンチッチは舌を出したんですけど、わるい気はせず、早速貰い物を使って、うすくお化粧しました。
席に帰ると、枕や毛布を|上の棚《ハツト・ラツク》から下ろしてくれ、「ピル、呑《の》むかね」とふざけて、水と一緒に睡眠薬まですすめてくれた。あらかじめ、クロムスメかだれかに頼んで、水を取り寄せておいてくれたらしいんですね。
「あたし、きき過ぎちゃって駄目。そんなもの呑んだら、眠ってるうちに東京往復しちゃうな」と断った。しかしモンチッチはこの男の優しさには、すっかり感心してしまった。
──優しいだけじゃなくて、なんとなく存在感があるよ、このひとは。そこが軽量級のタケシと違うところだな。
モンチッチは倒した椅子に横になったまま、なにか話しかけたくなって、うす眼を開け、
「それ、フランス語の原書でしょ。大井さん、どこでフランス語勉強したの」
「ゲンショ?」
大井は笑って、
「これは推理小説だよ。日常会話ができりゃ、読める本なんだよな」
と説明します。
それから頭へ手をやって、
「おれ、こっちへきて三年になるけど、これが二度目のご奉公なんだよ。一度目は実習生で一年いて、そのうち半年は会社の命令で、ブザンソンの田舎の語学校に放りこまれてた。今、簡単な読み書きできるのは、あの語学校のおかげよ」
といいます。
「だけどひとり暮しやってると、語学は進歩するね」
大井がいいますので、モンチッチは何気ない声で、
「女から覚えるのが、語学の進歩のこつだっていうものね。大井さん、あんなに言葉がうまいところを見ると、独身をいいことに女出入りが結構激しいんじゃない」
そういってみました。
大井は笑って、
「いや、女のところじゃなくて、洗濯屋やパン屋に出入りするからだよ」
とり合いません。
横から見あげる大井の青白い頬には、早くも髭が目立ち始めています。
「うちの父親は嵐寛寿郎って役者が好きなのよ。明治天皇となんとか大戦争なんて映画がむかあし、あったんだってね。あれに出てくる役者なんだけど、大井さん、あのひとに似てるよね」
「明治だなんて、そんなに古めかしい顔かなあ」
大井は憮然《ぶぜん》として、頬を撫《な》で、それから、
「会社が一応、電話しとけっていうんで、今朝、お父さんに電話して話しといたよ。えらく恐縮してられたな」
おとうまに知られてしまったか、とモンチッチはおもい、それから見えないところで動いている「会社の手」を感じました。
「大井さん、あたしを東京まで送りとどけるのも、会社の命令なんでしょう。こんな落ちこぼれのSSのお守りしなくちゃいけない、なんてお役目、ご苦労さまよね」
「いやいや、こんなお役目なら、毎日でも引き受けるよ」
アラカンはいって、じっさい満更でもない様子で、毛布の上からモンチッチの手を軽く握りました。
映画が終り、機内が明るくなり、大井が躰を起して伸びをしたとき、ふいになにかが飛んできて、大井の頭にあたりました。
モンチッチが驚いて起きあがり、床に落ちたものを拾ってみると、なんと焼き栗です。
アラカンはためつすがめつして、
「マロンだな。パリの屋台で売ってるやつだ」
だれが投げたのだ、とすわったまま背伸びをして後方をうかがうと、すぐに第二、第三の焼き栗が飛んできた。
すぐにあちこちで「どうしたんだ、あの女」日本語、フランス語のざわめきが起った。
モンチッチが立ちあがってみると、お河童頭《かつぱあたま》の女が後方窓側の座席に仁王立ちになって、片手に持った紙袋から焼き栗を掴《つか》みだし、こちらに向って投げています。
女は「鬼は外、鬼は外」と怒鳴っており、どうやらモンチッチたちより一席後ろのフランス人を狙って栗を投げている様子です。
お河童頭は明らかに前夜、オテル・ド・キョクトオのカクテル・ラウンジの入口に倒れていた女です。
お河童頭の妹らしい、附添《つきそ》いの女は、隣りの席で口を開けて寝こんでいます。
すぐにAPやパーサーが飛んできて、女の手から焼き栗の袋を取りあげ、女を席にすわらせました。
「このフライトに乗っているとはおもわなかったな。あのひと、少しおかしいんですよ」
モンチッチが手短かに、一昨日、オテル・ブリストルで初めて女を見かけて以来の話をしますと、大井は「そりゃ、チーフに話しとかなきゃいかん」といいます。
話しづらい、などといっている場合ではないので、モンチッチは、女の様子を後方から見張っている優男《やさおとこ》のチーフ・パーサーのところに事情を説明にゆきました。
モンチッチの話を聞いたチーフは「わかった」といい、パーサーやAPと善後策を相談し始めました。
暫《しばら》くしてチーフが、大井のところにやってきた。
「またなにか起すと困るので、あの女をエコノミーの最後部《モースト・レア》に移そうとおもうんですよ。エコノミーは満席だけど、このKクラスは少し空いているからね、エコノミー最後部《モースト・レア》のお客にこっちにあがって貰います。で、大井さん、あなた、わるいんだけど、あの女性客の隣りにすわって、|アン《ア》|カレ《ン》|ッジ《ク》まで見張っててくれないかな」
満席なので、乗務員の手が足りないし、なにより男手のほうが安心だというんですね。
大井は、
「いいですよ」
といって、すぐ身辺を片づけ始めました。
モンチッチは、
「チーフ、私にもお手伝いさせてください」
おもいつめた表情でそう頼みました。
最初、お河童頭を真中にして、窓側に大井、通路側に、附添《つきそ》いのお河童頭の妹がすわったんですが、どうもお河童頭が大井に抱きついたり、キスを迫ったりしたらしい。
まもなくAPが「あんた、きて」と迎えにきて、モンチッチが大井と入れ代って、窓側にすわることになった。
アラカンの大井は口髭《くちひげ》を撫でて、
「あんた、仁丹の広告みたいな八の字髭にしなさい、そのほうが似合うよ、なんていわれてさ、髭をねじられて参ったよ」
モンチッチと席を代りながら、囁《ささや》きます。
「護送されるあたしが、今度は護送役? 世のなか、変化が早くて追いつけないよ」
モンチッチはぶつぶついいながらも、仕事ができたことに気をよくしてすわったんですけど、大井がいなくなったら、お河童頭はおとなしくなった。
チーフ・パーサーが気をきかして呑ませた風邪薬の催眠効果があらわれて、寝息をたて始めました。
女が投げた焼き栗には、蜜《みつ》か砂糖を塗ってあるらしく、だらしなく両脇に垂らした手の指先が茶色に染まっています。
附添いの妹は、疲れた様子で顔をこすり、
「このひとは、サントノレにブティックを持つフランス人と結婚しましてね、一時はえらい鼻いきだったんですけど、亭主に女ができて、家に帰ってこなくなっちゃったんですよ。それで頭が少しおかしくなりましてね。私が迎えに行ったんです」
問わず語りに話して聞かせます。
「一緒にいると、気を使って参っちゃうのね。日本に帰って、直るといいんですがね」
そんな話をしている間に、四八四便はアンカレッジに着陸します。
眠そうなお河童頭を、大井とアンクの空港支店のスタッフが抱きかかえるようにして、この空港の菊ラウンジに連れてゆきます。
会社の同僚の眼に触れたくないモンチッチは、長方形の空港ビルの端、免税店や土産物店を出外れたあたりのベンチに腰をかけ、早々と白雪をかぶったアラスカの山々をぼんやり眺めていました。
それからマニキュアセットを取りだして、爪に塗っていると、
「この辺にいるだろうとおもったよ」
大井がやってきて、隣りにすわります。
「今、会社の連中がさかんに議論しているよ。お河童さんをこのまま乗せて、成田まで運んじまうか、それとも万一を心配して、ここでおろすか、そんな話してるんだよな」
深夜にお河童頭がホテルの部屋をノックしてまわり、モンチッチの部屋に飛びこんできたとき、モンチッチはおそろしい力で壁に突き飛ばされたものでしたが、彼女はそれをおもいだして、
「あのひと、すごい力あるからなあ。ひとあばれしたら、あれよあれよってことになるかもしれないよ」
そういいました。
暫くして、アラカンが「うどん、食いにゆこうか」と誘い、モンチッチが頷《うなず》いて立ちあがった。
立ちあがった途端に、極東航空の旅客係が小走りにやってきました。
「先刻《さつき》の女、見なかったですか。便所に行って、帰りにうちの女の子が、ちょっと眼を離した隙《すき》に消えちまったんですよ」
「やれやれ、なにやっておられるのかね」
アラカンとモンチッチは、免税店や土産物店を片端からまわって歩いたが、女の姿はどこにも見えません。
「意外に菊ラウンジに戻っているんじゃないか」
アラカンがいい、菊ラウンジの前に戻ってみると、ドアの前でアメリカ人の警官に出会いました。
「極東航空のスタッフはおらんかね」
と訊《たず》ねます。
「私たち、社員ですが」
アラカンが答えたところ、
「税関でトラブルが起ってるんだ。一緒にきてくれ」
緊張した顔でいいます。
長身、大股《おおまた》の警官のあとを走るようにして、ふたりは追いかけたんですが、警官は、先程ふたりが休んでいたあたりを突っきり、長方形のビルの端にあるエスカレーターを一階へと降りてゆきます。
一階は、アンカレッジで降りるひとたちの税関になっていて、ベルトが鞄《かばん》を積んでまわっており、携帯荷物の申告場所になっています。
その税関のデスクで、お河童頭が書類をあたりに紙吹雪みたいに撒《ま》き散らして暴れまわっているんですね。それを税関吏やアメリカ人旅客が遠まきにして眺めています。
机のうえの書類をすべて撒いてしまった女は、デスクの抽《ひ》きだしを片端から開いて、なかの書類を掴みだし、交尾期の猫みたいな、異様な声を発しながら、空中に投げます。
そのうち、抽きだしのなかから、剣のような形の、細身の紙切りナイフをみつけだし、逆手にかまえたので、遠まきの輪のあいだから、悲鳴があがりました。
モンチッチは、隣りの警官が腰のピストルに手をかけるのを、視界の端におさめて、いったいどうなるんだろうと、胸の動悸《どうき》をおさえていたんですが、お河童頭は、突然、紙切りナイフを突きだしてはっきりした声で、
「私の旅券、ちょうだい」
といいます。
紙切りナイフの突きだされた方向をみると、附添いの妹が立っていて、呆然《ぼうぜん》とした顔でお河童頭をみつめています。
「旅券、ちょうだいよ」
女は怒鳴って、妹のほうに一歩踏みだし、また悲鳴があがりました。
「きみ、旅券を渡しながら、あのお河童を説得してみろよ」
アラカンが、モンチッチの耳もとで囁きます。
「あたしがやるの。あの女、ナイフ持ってるよ」
さすがに「調子生れ」のモンチッチも尻ごみしました。
「紙切りナイフだぜ。紙を切るナイフで人は切れないよ。いざとなったら、おれが跳びかかるさ」
アラカンはいやに冷静です。
──ははあ、このひと、会社に百万損させたあたしに二百万、儲《もう》けさせようとしてるんだな。
モンチッチは気がつきました。
モンチッチは附添いの妹のところに行って、
「とにかく旅券、渡してみましょう。旅券渡したら、おとなしくなるかもしれないですよ」
モンチッチは旅券を受けとり、こわごわお河童に近寄り、手をいっぱいに伸ばして、差しだしました。
女は旅券をひったくるなり、自分の写真の貼ってあるページを滅茶苦茶《めちやくちや》に紙切りナイフで突き刺した。それから紙切りナイフをデスクに置くと、信じられないような力で、旅券の写真の貼ってあるページをばりばりと破った。そのページをまるめると、あっという間に自分の口のなかに放りこみました。
ふたたび紙切りナイフをかまえ、もごもごと口を動かして、
「水を持ってきてちょうだい」
といいます。
お河童頭は、どうやら薬みたいに旅券を呑みこんでしまうつもりのようです。
モンチッチは、動物園のライオンに呼びかけるような、および腰の姿勢で、お河童頭に向い、
「お客さま」
と呼びかけた。
スチュワーデスの癖が出たんですけど、お河童頭がお客であることに間違いはありません。
「お客さま、旅券呑んだりするのは止《や》めましょう」
そこであとから考えると、馬鹿馬鹿しいようなことをいってしまった。
「旅券呑んでも躰のためにならないし、お腹《なか》こわすかもしれませんよ」
「あたしはね、日本の国籍を呑んでやるんだ。日本の国籍を呑んで、フランス人になるんだよ」
異国体験がきびしかったのか、女は物悲しいような言葉を吐きます。
「だから、水、ちょうだいよう」
モンチッチが、
「ここは税関ですからね、水は置いてないんです」
首を振ると、女は眼を空に据えて、喉《のど》のあたりを動かしました。
どうやら、水なしで旅券を呑みこもうとしているらしい。
女が旅券を呑みこみ、喉のあたりを手でおさえた瞬間に、モンチッチは飛びついて、紙切りナイフを奪いました。
すぐに大井やら警官やらが跳びかかって、女の両手をおさえました。両手を取られた女は、旅券を呑みこんだショックでしょう、両眼に涙をにじませています。
モンチッチが気がついてみると、向うにアンカレッジで降りるクルーたちが、クロムスメや顎のとがったスチュワーデスが、口を開けてこちらを眺めています。
「上出来でした。これで二百万とまではゆかないだろうがな、おまえさん、相当いい線までまき返したんじゃないかな」
大井が「おまえさん」という呼びかけを使い、楽しそうに笑いながら、そう賞めました。
大井の笑顔に、モンチッチは初めて「やったあ」とおもい、昂奮《こうふん》のあまり、両手で頬をおさえて、向う向きになったものです。
モンチッチは、帰国して三日後に成田の客室本部に出頭を命ぜられ、判決を受ける重罪犯人のような気分でスカイライナーに乗って、出社しました。
所属長の管理職は、意外に明るい顔で、
「本来なら服務規程違反で、停職処分だがね、お父さんから国際電話があって、私がスチュワーデスの仕事に反対し続けるものだから、娘は私を説得しにパリにきたんだ、というご説明があった。また、アンカレッジの空港支店長からも報告があがってきて、アンカレッジの空港で税関に迷惑をかけた旅客をうまく取りおさえた、極東航空社員として、責任を果してくれた、ときみのことを賞めてきている。そんな点を考慮して、情状酌量、戒告処分に留《とど》めることになった」
そういいます。
「調子生れ」のモンチッチは、「ありがとうございます」と頭を下げるなり、嬉しさまるだしの顔をしてしまいました。
それがあまりに有頂天な表情だったらしく、
「ただし情状酌量はこれが最初で最後だぞ。この次はお父さんがなんといおうと、帰り道に点数|稼《かせ》いで、員数合わせるようなことしようと、いっさい取りあげないぞ」
所属長におどしをかけられました。
大井の研修が終った夜、モンチッチは世話になったお礼に、彼を六本木の焼鳥屋に招待しました。
大部屋式の焼鳥屋の入口の縁台に腰をかけて、モンチッチが待っていると、入ってきた大井は、挨拶もせずに、
「パリからテレックスが入ってね、おまえさんのショルダーバッグが大使館に送られてきたそうだよ」
といいます。
モンチッチはおもわず立ちあがり、「うっそお」と両手を叩きました。
「財布をのぞいて、旅券や航空券、全部入ってたそうだ」
大井はにやりと笑っていいます。
「旅券を紛《な》くしたりみつけたりするやつがいるかとおもえば、旅券を食っちまうやつがいたりする。世のなか、さまざまだよな」
ふたりがおおきなカウンターにすわると、大井が「ミスを許す極東航空に乾杯」といって、ふたりはビールのコップをあげました。
それから焼鳥をかじり、日本酒を飲んだんですが、酔いのまわった頃に、アラカンが、
「ほんとうの話を聞かせてくれよ。パリにおまえさんとおまえさんの親父《おやじ》さんがいたのはたしかだとして、ほかに男はいなかったのかね。男の影さえ、差さなかったのかね」
と訊《き》きます。
モンチッチは、どうしようかと迷いましたが、これ以上、黙っているのも心苦しくて、
「学生時代から交際《つきあ》っていた男をおとうまに引き合わせたのよ。結婚するかもしれないよって、|警 告《ウオーニング》をだしたわけ」
その瞬間、酒を飲んでも一向に顔に出ず、青白いままだったアラカンの顔が燃えあがるみたいに真赤になりました。
──あ、このひと、あたしに好意、抱《いだ》いてる。
モンチッチは新鮮な驚きに打たれ、次に嬉しさがこみあげてきました。
「なんだ、やっぱりそんな男がいたのか」
顔を赤くしたアラカンはふだんの冷静さを失って、がっかりしたように呟《つぶや》きます。
「だけど、あれは若気の至りだったんだ。学生時代は可愛いとおもってたんだけど、パリで会ってみて幻滅しちゃった。あたしも就職して少しは大人になったのよね。おとうまも感心しないっていうし、あの男からは、足洗うことに決めたんだ」
じっさい、出張から帰国したタケシから、何度か電話を貰っていますが、モンチッチはいっさい誘いに応じていません。
もう一軒、飲みにゆこうということになって、ふたりは焼鳥屋を出ました。
表通りを歩きながら、モンチッチは、
「引き合わせるなんていうんじゃないけど、アラカンね、今度、パリでおとうまと三人で食事しようよ。あれは、話すに足る、なかなかいい男よ」
性こりもなく、そう持ちだしました。
アラカンは持前の冷静さを取り戻していて、
「第一に、きみがパリ・ステイのときに限る。第二に旅券はホテルのフロントに預けてくること」
人差し指を立てて大袈裟《おおげさ》なことをいうんですね。
パリと違って、東京の街はまだ冬まで間《ま》があり、さわやかな微風が頬を快く冷やして、夜の舗道を吹き過ぎてゆきます。
スチュワーデス最前線
朝の八時、極東航空の国際線スチュワーデス、平木恵理は「婦人警官そっくり」とよく悪口を叩かれる紺の制服を着こみ、バンコクのインドラ・リージェント・ホテル十七階の部屋を出ました。片手に車のついたサムソナイトの鞄《かばん》をごとごと引っぱっています。
これからバンコク発、大阪向け八一八便に乗務するところなんですけど、恵理の頭はもうひとつ目覚めていなくて、明けがたの夢の続きを引きずっている感じです。おかげでただでさえまぶたのおおきい、眠そうな顔がいっそう眠そうに見えます。
じつはその朝、恵理は東京の自宅の夢を見て、眼を覚ましたんですね。
恵理は東京深川の富岡|八幡《はちまん》の傍《そば》、門前仲町《もんぜんなかちよう》の大衆|割烹《かつぽう》の娘なんですけど、店の横手の路地を入ったところにある自宅の玄関に、鳶職《とびしよく》が祭りの提燈《ちようちん》を取りつけにきている。恵理を可愛がってくれる祖母の佳代子がそれに立ち合っている夢です。
毎年、八月十五日の富岡八幡の祭りの前になると、鳶職が富岡八幡の祭礼用の提燈を氏子の家々に取りつけてまわり、氏子たちは金四千五百円也を鳶職に支払う習慣になっています。
夢のなかの佳代子は、軒下の提燈から恵理へ視線を移しながら、
「恵理ちゃん、今年はおみこしかつぎながら、ちっとはにこにこしてみせなくちゃ、いけないよ。町内の衆がね、あの恵理って子はいつも愛嬌《あいきよう》のない顔して、みこしかついでやがる、あんな無愛想なのは、今年からお断りだよ、塩まいて追っ払っちまう、なんていってるらしいからね。あんまし愛嬌のない顔してると、頭がおかしいなんて評判が立っちまって、縁談もなくなっちまうよ」
そんなことをいいます。
じっさいの祖母は「恵理はおとぼけで、愛嬌の大安売りしないところがいいんだ」といってくれるんですが、夢のなかじゃ、恵理の無愛想を非難するような口をきくんです。
これはスチュワーデスの訓練生の時代から、恵理は笑わない娘という定評ができて、たえず「笑え、笑え」と叱られてきたので、それを気にする心理が見させた夢なんでしょう。
恵理は、もともと大の落語好き、短大でもオチケン、落語研究会に所属していて熱中したあまり、一年留年してしまったくらいです。つまり他人を笑わせるのは半分|玄人《くろうと》みたいなものなんですけど、しかし落語家が自分から笑っちゃいけない、とおもいこんでしまったのが、生来の無愛想に拍車をかけることになったようです。
今日も愛想がわるいなんてチーフやパーサーに怒られるんじゃないかな、どうも夢見がわるいやな、と恵理はベッドのなかで頭を振りました。
しかしすぐに「今年は富岡八幡の本祭りだ」とおもい、気持を切りかえることができた。耳もとで祭りの太鼓が鳴り始め、みこしをかつぐ歓声がホテルの部屋全体にこだまするような錯覚を恵理はおぼえたものです。
富岡八幡の本祭りこそ、江戸一番の祭りのなかの祭り、各町内のみこしが五十台あまり、かつぎ手二万人、浅草の三社祭《さんじやまつ》りなど遠くかすんでしまう勢いで繰りだして、牡丹《ぼたん》町から清洲《きよす》橋、八丁堀から永代《えいたい》橋と四方から降り注ぐバケツやホースの水を浴びつつ、練り歩きます。四年前の十七のとき、恵理は初めてこの町内のみこしをかついで、すっかり病みつきになってしまった。
「神さんにゃあ、申しわけねえ話だけど、おみこしかつぐてえのは、ディスコで踊るのとおんなしでね」とオチケン出身の恵理はふざけていうんですけど、あれは町内百人、二百人の衆が、古典的な「わっしょい」のリズムに合わせて行進する「おみこし踊り」のようなもんです。
おみこしのてっぺんの鳳凰《ほうおう》が正しく上下するよう、かつぎかたにリズムが出るよう、何カ月も前から練習をして、当日かつぎだしてしまえば、あたり一帯は激しいリズムと青空と水が競演する巨大なディスコテークになってしまう。
深川祭りは水かけ祭りともいわれ、四方からバケツの水をかけられるので、皆、川に跳びこんだみたいにずぶ濡れになり、町内ごとに染めあげた半てんなど、一日でおしゃかになってしまうんですけど、ずぶ濡れになった恵理ははた目にはさもつまらなそうな、感激のないおとぼけ顔をして家路を辿《たど》りながら、その実、この「神さま主催のディスコ」がすっかり気に入ってしまった。
恵理は「これからは、商売《しようべえ》、落語、趣味、みこし、と決めちまいますか」と考えた。その後「商売《しようべえ》、スチュワーデス、趣味、落語」に変ってしまったけれど、三年ごとにやってくる本祭りへの熱いおもいは一向に醒《さ》めません。
十七階の部屋を出た恵理が祭りの夢の続きをサムソナイトと一緒にひきずってエレベーター・ホールのほうに歩いていくと、おなじ客室乗務員《キヤビン・クルー》仲間の長山敏美が、やはり車つきのカートに鞄を載せて、制服姿で、立っています。
スチュワーデス用語で、自分の入社時期の前後二、三期の仲間たちを「セミ同期」と呼んでいますけど、この敏美も、恵理より三、四カ月早く入社した、セミ同期生です。
敏美は「お早う」と挨拶するでもなく、
「あたし、東京でスタンバって(自宅待機して)たら、お呼びがかかってな、ここから成田まで飛べということになって、昨夜《ゆうべ》着いたんや」
いきなりそういいます。
「へえ、敏美と一緒に飛ぶわけ」
こいつはお手あげだ、グリコの看板だ、と恵理は少し眠気が醒めたあんばいになって、おもったもんです。
敏美は、負けん気の性格が、おおきな眼やいつもきつく結んでいる唇のあたりにうかがわれる大阪出身の娘です。背の高い恵理とは対照的で、均斉はとれているものの、背がせいぜい百五十五センチと低く、地いろがすこぶる黒い。
「シンガポールでおたくのクルーに食あたりの病人がでたんやってな。生水の飲めるシンガポールで食あたりするなんて、あほとちゃうか。こんなあほがぎょうさんおったら、何人スタンバイ揃《そろ》えたかて間に合わんで」
敏美はいきなり激しい口をききます。
ふだんの態度がこんなぐあいにおおきいものだから、セミ同期の仲間うちの評判はあまり芳しくない。特に恵理たちの五七七期生の場合、仲間の北岡たきことモンチッチが、この敏美にパリでおどされたことがあって、そのおかげで、極端に評判がわるいんです。「灘《なだ》のフクムスメ、難波《なんば》のクロムスメ」と大阪難波出身にひっかけて地いろの黒い敏美の悪口をいったりする。あるいは「スチュワーデスの試験から身長の制限がはずされて、ほんとによかったよねえ」と遠くで囁《ささや》き合ったりしています。
そうはいっても、おなじフライトに乗務するのだから、少しは機嫌をとってやろうと恵理はおもい、難波のクロムスメこと敏美に向って、
「敏美、あなた、大阪の難波の出身だったよねえ」
と声をかけました。
「それがどないしたん」
大阪出身者によくある例で、お客相手はともかく、仲間うちでは、敏美は終始、大阪弁で通します。
「あたしお祭りが大好きでさ、よくおみこし、かつぐんだけどね。あなたはどうなのかな。そんなオトコっぽい真似はできねえよ、てえくちですか」
恵理が訊《たず》ねると、敏美はじろりと恵理をみた。
色が黒いから、白眼が目立ち、ほんとに「白い眼」で見られる、という感じになります。
「みこしかつぐかいわれたかて、大阪にはそんなもん、あらへんよ。大阪でみこしなんて、うちらみたことないわ」
敏美はにべもなくいい放ちます。
「あんなん、田舎でかつぐのとちゃうか。うち、いっぺんだけ姫路のほうでみたことあるんやけど、田舎のおっちゃんがよたよたしよって、ヨンチキドッコイショ、アアヨイヨイいうてかついでんねん」
敏美は妙な声色《こわいろ》を使っていい、さすがの恵理もいっぺんに白けてしまった。
「ちゃんとした祭りゆうたら山車《だし》をひっぱるんよ。みこしは道の狭い田舎でかつぐんやないの」
「なんてえいいぐさだ。煙突屋の娘みてえな、まっくろな顔して許さねえよ」と恵理はおもい、鼻をあさっての方向に向けて得意の「おとぼけ顔」を作り、口をきくのを止《や》めてしまいました。
エレベーターに乗ると、途中の十一階から実習生のアシスタント・パーサー、山田吉郎が、長い顔にぶ厚い眼鏡を光らせ、やはり紺の制服姿で恵理たちに合流してきました。
大学卒の文科系新入社員が、本社や支店に配属後二年経つと、強制的に一年間、定期便のアシスタント・パーサーとして乗務させ、客室業務を実習させるシステムが、数年前からできあがっています。
恵理はクロムスメとのやりとりで中《ちゆう》っ腹《ぱら》になっていたものですから、なおもお祭りにこだわって、
「山田さんも東京だよね。お祭りのとき、おみこしかつぎますか」
そう水を向けてみた。
山田は制帽をかかえていないほうの手で、ぶ厚い黒ぶち眼鏡を押しあげ、
「ぼくの住んでる中央線の高円寺じゃ、高円寺阿波踊りというのを毎年やってて、去年は百万人も参加したけど、ぼくはいかなかったですね」
ぼそぼそと答えます。
「阿波踊りって、もしかしてあの四国の阿波踊りのこと? なんで、四国の踊りを東京の高円寺の町内が真似するのかねえ」
これだから、東京の山の手ってのはいやなんだ、まるで節操てものがないではないの、とおもった。
「四国からの産地直輸入ですよ。楽しけりゃ、南米の踊りだって、四国の踊りだってかまわないんじゃないですか。だけどぼくは祭りの話どころじゃないんだな。これからフライトかとおもうと、じっと黙って心の準備を整えたい心境ですよ」
この実習生は、本郷にある有名国立大学の卒業生で、新入社員のエリート・コース、本社の経営政策室に配属されているんですけど、いざ定期便に乗務してみると、頓珍漢《とんちんかん》なことばかりしでかして、上役のパーサーやチーフ・パーサーにしょっちゅう怒鳴られているんですね。
バンコクにくるフライトでは、ファースト・クラスを受け持ったんですが、お皿にステーキをのせるとき、お皿を通路にずらりとならべ、そのうえにしゃがみこんでステーキをのせようとして、チーフ・パーサーにこっぴどく怒鳴られた、というエピソードの主です。
「今日の乗客《パツクス》の数はどうかな。少いと助かるな」
エレベーターからロビーへ出ながら、山田は、不安気にいいます。
「お客さんけえへんかったら、会社がつぶれてうちらボーナス貰えへんやないの」
敏美が、いかにも大阪娘らしい発言をします。
「山田はん、もっと気ばらなあかんやんか。あんたかてそんな厚い、|ぼてじゅう《ヽヽヽヽヽ》みたいな眼鏡、だてにかけてへんのやろ」
敏美はそういって、山田の背中をどやしつけました。ぼてじゅうがぼてっとメリケン粉をたらして、じゅうって焼く、お好み焼きを意味する大阪言葉だということは東京育ちの恵理にもわかります。
インドラ・リージェント・ホテルのロビーに勢揃いした八一八便のクルーたち、機長など運航乗務員《コツク・ピツト・クルー》三名、恵理など客室乗務員《キヤビン・クルー》十二名は、大型のバスに乗ってバンコクの空港に向いました。
空港への近道が大雨で水没しているとかで迂回《うかい》をして、一時間近くかかって空港に着き、一階、二階が吹き抜けになっている空港ビルに入って荷物を預け、エスカレーターで三階の|打ち合わせ室《ブリーフイング・ルーム》にいきました。
恵理たちのクルーは、八日前に成田を出て、成田・クアラルンプール間、クアラルンプール・シンガポール間、シンガポール・バンコク間のフライトをほぼ一日おきに飛んで、今日これから最終|区間《レツグ》のバンコク・大阪間の乗務に就くことになっています。
十二名の客室乗務員《キヤビン・クルー》の責任者は、チーフ・パーサーの鹿児島出身の柿野竜彦、その下についている鬼軍曹格のパーサーは女性で、山口出身の辰巳《たつみ》さくらです。
いつか祖母の佳代子が「おまえの上役はどんなかたなんだい」と訊ねるので、「この頃よく一緒に飛ぶのは、鹿児島出身の男の上役と、山口出身の女の上役よ」そう恵理が答えると、佳代子は「そりゃおまえ、薩長《さつちよう》連合じゃないか。恵理は江戸の仇《かたき》と一緒に仕事してんのかね」と呆《あき》れたような顔をしたもんです。
考えてみれば、たしかに鹿児島は薩摩《さつま》、山口は長州だから、「薩長連合」ということになりますが、そのせいかどうか、このコンビはすこぶる息が合う。
薩摩出身の柿野は、地方の団体客から「だんなさん、すみませんが、水をくれませんか」としきりに「だんな」呼ばわりをされたことがあって、それ以来「だんなチーフ」と綽名《あだな》がつきましたが、年よりずっと老けてみえる「若禿《わかは》げ」のうえに、でっぷり肥《ふと》って腹がせりだしているから、悠揚迫らぬ人物の印象を与えます。
長州出身の辰巳パーサーのほうは、恵理より少し背は低いが、やはり痩《や》せぎすの体格、かんだかい声で手きびしく註文をつける、女子大学の体育会のコーチといったタイプです。
この朝も、ブリーフィング・ルームに全員がすわるやいなや、いきなり、
「みんな、これから働きますって顔、してないね。ベッドのなかでまだ夢の続きを見てます、もう少し寝かせといてくださいって顔がずらっとならんでるよ」
声高にそう決めつけました。
辰巳さくらは「みんな起立して」と命じ、腰に手をあてて、クルー一同の前に仁王立ちになった。
「大声を出してシュプレヒ・コールやってね、気持を変えることにしようよ。私の言葉を復誦《リピート》してちょうだい」
いきなり「この便《フライト》は大阪ゆき八一八便、頑張ってゆこう」と怒鳴りました。
「お祭りじゃああるめえし、朝っぱらから、声張りあげて、シュプレヒ・コールはねえやな」と恵理は馬鹿馬鹿しいような気持になりましたが、ほかの十名のクルーもおなじ気持らしく、復誦《ふくしよう》は、お経をとなえるような、間延びのしたものになった。
「あなたがた、高いお給料貰ってるんだろう。お給料とおなじくらい高い声出してちょうだい。声の出ないひとは制服を脱いで貰うよ」
辰巳さくらは、切り口上で威《おど》しをかけます。
一座が緊張したところで、さくらはもう一度「このフライトは大阪ゆき八一八便」と怒鳴りまして、今度はかなり大声の復誦になりました。
「今の声は三日絶食したような声だ。皆、朝ごはんになに食べてきたのよ。朝ごはん食べたんなら、食べただけの声だしてよ」
さくらがまたまたハッパを掛け、復誦の声は一段とおおきくなります。「まだ小さい、まだ小さい」とハッパをかけられ、結局十回以上も大声を出させられたんですが、不思議なもので、大声をだすうちに、クルーたちの顔が生き返ったように輝き始めました。
シュプレヒ・コールが終ったところで、さくらはつかつかと恵理の前にやってきて腕組みをした。
「声の運動の最後に、恵理、おおきな声だして笑ってごらん」と命じました。
「オチケン出身、笑わないSS」という定説が、訓練生以来、できあがっているので、さくらは恵理を少しいたぶって、皆の気分をしめる材料にしようとしたみたいでした。
恵理は咳《せき》ばらいをしてから、いきなりおでこを叩き、低い声で、「はっはっはっはあ」と笑った。
さくらは変な顔をして、
「なんだか、オジンふうの笑いかたをするねえ」
といいます。
恵理は澄ました顔で、
「ええ、落語の円生《えんしよう》ふうに笑ってみました」
と答えたものだから、クルー一同、どっと湧《わ》きました。
さくらは、
「円生じゃなくて、女性《によしよう》ふうにね、女っぽく笑って貰いたいんだよ」
といい、まだなにかいいたそうでしたが、時間の関係もあったんでしょう、そこで矛《ほこ》を納めました。
腕を組んですわっているだんなチーフの柿野に向い、
「八一八便の|打ち合わせ《ブリーフイング》、始めます。チーフ、お願いします」
といいました。
だんなチーフは、せり出した腹のあたりを叩きながら、
「今日、われわれが持って帰るフライトは大忙しのフライトだ。サービスの手順が遅れて、大阪に|着 陸《ランデイング》したとき、まだ映画が終ってなかった、なんてことにならないようにしてください」
「私からはそれだけです」とだんなチーフの訓示は、いつもながら、すこぶる簡単です。
薩長コンビのブリーフィングでは、だんなチーフはほとんど喋《しやべ》らず、もっぱら辰巳さくらの独演会になってしまうんですね。
あとを受けた辰巳さくらは、
「このフライトのポイントはふたつあるのね。ひとつは大阪ゆきのフライトで、大阪のお客さんが多い、ということ。みんなよく判っているとおもうけど、大阪のお客さんはたいへん厳しいよ。はっきりいえば、すごくしっかりしてるお客さんが多いってこと」
そういい、「声の運動」で|いき《ヽヽ》のよくなったクルーたちは、どっと笑い声をあげました。
「難波のクロムスメ」が大阪出身と知っている二、三のスチュワーデスが、そちらをちらちらと眺めましたが、敏美は会社支給のメモ帳を手にしたまま、知らん顔をしています。
「|お酒のワゴン《リカー・カート》をひくときは、必ずミニチュア・ボトルの蓋を開けて、|お客《パツクス》に渡してください。蓋をしたまま渡すと、大阪のお客さんは、沢山註文して、フライトの上じゃあ一本も飲まずに皆鞄に入れて、持って帰ってしまったりするからね」
東南アジア路線では、お酒は無償《ただ》でサービスをしているので、油断をしていると、お土産にされてしまうんですね。
また笑い声があがりかけましたけど、辰巳さくらは笑い声をおさえつけるように、声を張りあげて、
「大阪ゆきのフライトは、大袈裟《おおげさ》にいえば食うか食われるかって世界なのよ。お客さんのほうは、払った航空運賃を少しでも取り返そうとおもって、お酒や|お手洗い《ラバトリイ》の香水、週刊誌を持ち帰ろうとする。航空会社の立場からいえば、いくら無償《ただ》のサービス品だからって、お酒をひとり何十本と持ち帰られたりすれば、赤字がひどくなって会社がつぶれてしまうわよ。ここのところを充分考えてサービスしてください」
大阪ゆきのフライトの厳しさは社内で定評がありますが、どうやら聞きしにまさるようです。
「もうひとつのポイントは、チーフがいったように時間の問題。大阪に着くまでに|お酒《リカー》と昼食《ランチ》のサービスやって、免税品売って、映画上映して、もう一度飲み物だすんだから、時間がないんだよね。だからおしぼりは地上《グランド》で、上空《うえ》に上《あが》るまえに出します。エコノミーのパックスが多いから、リカー・カートは、前後から鉢合わせでひきましょう。免税品の販売《セールス》は、大阪|到着《アライバル》の直前まで開いて、おおいにセールスすること。免税品の売りあげの計算は、交代要員《デツド・ヘツド》で飛ぶ大阪・成田間でやること」
辰巳さくらはきびきびと指示を与えます。
ブリーフィングの終りに、だんなチーフがまたせり出したお腹《なか》を叩いて、
「さくら、今日はファーストのお客が少くて、エコノミーのお客が多いだろう。大阪ゆきで厳しいお客も多そうだし、おれがエコノミーにまわるわ。きみ、ファーストの面倒、みてくれや」
といった。
「おや、お客の多い客室《キヤビン》は私には無理だとおっしゃるんですか」
シュプレヒ・コールの張りきりパーサーは、不満な顔をしたけれども、おもい返したらしく「わかりました」と頷《うなず》きました。
そのあとキャプテンなど操縦席《コツク・ピツト》との簡単な打ち合わせをすませ、「薩長連合」の指揮する十二人のキャビン・クルーは三階から、二階の出入国管理事務所に降りて、搭乗客待ち合い室を抜け、携帯品のX線チェックを受けました。
暫《しばら》く前までの旧式のX線透視装置に代り、スイス製の最新式の機械が入っていて、それを操作するバンコク空港公団保安課の職員の態度もすこぶる厳格、眼を光らせて、武器、凶器類の機内持ちこみを取締っています。
バスの乗車口には、犬を連れた男もいて、これは例のゴールデン・トライアングル、メコン・デルタ地方からの麻薬の流出を取締っているんですね。
犬の傍を通りすがりに、クルーのだれかが「この頃、密輸には女を使うんだってよ」と囁くのが恵理の耳に入りました。
八一八便のDC10型機に乗りこむとジェットの排気や油の臭みなどが混りあった、なつかしい飛行機の匂いが、恵理の鼻にきました。「薩長連合」指揮のクルーは、あわただしく出発準備に取りかかります。出発のちょうど一時間前です。
客室乗務員《キヤビン・クルー》は、八つあるドアを中心に配置されているんですけど、恵理は機首に向って右二番《2R》ドア、エコノミー・クラス最前部のドアが定位置です。
クロムスメの長山敏美もおなじ配置ですが、敏美は調理室《ギヤレイ》担当、恵理は客室《キヤビン》の担当です。
飛行準備のいちばん大事な点は、保安機材のチェックで、恵理はドア・サイドの床にしゃがみこみ、乗務員用座席《ジヤンプ・シート》の横にある水消火器が未使用で、安全装置のワイヤーが把《と》っ手《て》にかかっているかどうかを確認しました。
DC10型の客室には、化学微粉消火器も配置されているんですが、この2Rには水消火器しかありません。
次に乗務員用の座席の下と調理室の裏の壁にかけてある酸素ボトルをチェック、圧力計《ゲージ》を見て、千五百PSI(一平方インチあたり酸素圧力)以上あるのを確めます。
この主として病人用に使う酸素ボトルは機内の各所に十六コ、備えつけられています。
機内のあちこちで保安機材のチェックが行なわれていて、前方や後方の客室でさかんにサイレンの鳴る音が聞えます。機内には緊急時に乗客《パツクス》誘導に使うパワー・メガフォンが三つありますが、これにはサイレンがついていて、スチュワーデスがそのテストをしているんですね。
だんなチーフの柿野が、禿げあがった額《ひたい》を光らせて、左一番《1L》ドアからこちらへ保安機材のチェックにまわってきたので、恵理は、
「2Rの保安機材、OKです」
と報告しました。
だんなチーフは、恵理の報告をメモしながら、
「ワラワン殿下はあのクロムスメと同期かね」
と訊ねます。
ワラワン殿下というのは、一昨夜でしたか、皆揃ってホテルで食事したときに、だんなチーフがつけた綽名《あだな》で、なんでも前の戦争中に、タイの親日派の貴族でワンワイタヤコン殿下というひとがいたんだそうです。外務大臣として、日本にも何回かきて、オジンの世代にはかなり名前の通ったひとだったらしい。
だんなチーフの話では、日本の政治家にも全然笑わないために「ワラワン殿下」と綽名されている人物がいるんだそうでして、それやこれやを恵理の評判にひっかけて、だんなチーフは「ワラワン殿下」などといいだしたんですね。
「同期じゃないです。セミ同期てえので、ほんとは向うのほうが三カ月先輩ですよ」
だんなチーフは「セミ同期てえのか」と恵理の落語調のいいまわしを冷やかして、
「彼女はタッパが足りないから、|DC10《テン》のギャレイはちょっと辛《つら》かったかな」
ちらりと調理室のほうを見て、いいます。
調理室のなかでは、身長百五十五センチの難波のクロムスメこと長山敏美が、備えつけの|踏 み 板《フツト・ステツプ》に乗り、それでも背が足りず、爪先《つまさ》き立って天井近くの収納庫の中身をチェックしています。
この調理室には、ナンバー・3とナンバー・4の調理棚が向き合って置かれていて、食事や飲み物、食器の入った収納庫がずらりとならんでいる。調理室担当のスチュワーデスは、出発までに収納庫の中身をチェックして、食事や飲み物の数をあたらなくちゃならないので、それこそ火事場の騒ぎになるんですが、この|DC10《テン》は躰《からだ》のおおきい米人向けにできていて、日本人にはどうも作業しにくい。
敏美は幅の狭い踏み板の上に爪先き立って、片手で壁に掴《つか》まり、片手で収納庫の中身をチェックするという、子熊かなにかが壁にぶらさがっているような格好で作業している。辛い姿勢なので黒い横顔が早くも汗で光っています。
敏美の足もとでは、実習生の山田吉郎が、ぶ厚いぼてじゅう眼鏡をこれも汗で曇らせて、機内で販売する免税品のウイスキーや香水類の数をあたっています。
「そこへゆくと、ワラワン殿下は足が長くてテン向きにできてるたい」
だんなチーフはそんなことをいいます。
「足の長いのが賞められるのは、お祭りのおみこしかつぐときと、このテンに乗務するときくらいってことになりますか」
「きみはおみこし、かつぐのか」
柿野はおもしろそうな顔になりました。
「ええ、背の低い女の子はおみこしにぶら下っちゃうんで嫌われるんですけど、背が高いとぶら下りようがないでしょう。しょうがねえ、おまい、かつがしてやっから、|つっかい《ヽヽヽヽ》棒になっちくれ、なんて地もとの有力者にいっていただきましてね、仲間に入れて貰ってるわけで」
「へえ、東京のおなごは、ようやっど」
柿野が鹿児島弁で感心しているところへ、シュプレヒ・コール・パーサーの辰巳さくらが、ファースト・クラスの客室から小走りにやってきました。
「チーフ、このフライトのギャレイ・ワークは、山田君にやって貰いましょう」
さくらはきめつけるようにいいます。
──やれっかな。あのぼてじゅう眼鏡のぼんぼんに。
ギャレイ・ワークというのは、飲み物、食事の調理、供給など、調理室内の仕事ですが、恵理は自分のことは棚にあげて、反射的にそうおもった。
「山田君にやって貰うのか。彼、手が遅いぜ」
柿野も恵理とおなじことを感じたらしく、顎《あご》を撫《な》でて小声でいいます。
「少い人数で、毎回、満席のフライトを飛ばしているんですからね。彼にも早く一人前の戦力になって貰わなくちゃ、困るんですよ。山田君でゆきましょう」
さくらは、こぶしを振って柿野に迫りました。
柿野がしぶしぶ頷くのをみると、さくらはくるりとこちらに背中を向け、パーサー用のきいろいネッカチーフをひるがえす感じで、調理室に歩み寄りました。
「山田君、このフライトのギャレイ・ワーク、あんたがやってみようよ」
さくらが突然そういったものだから、免税品のカートの傍《そば》にしゃがみこんでいた、ぼてじゅう眼鏡は、ぽかんと口を開けて、シュプレヒ・コール・パーサーを眺め、ゆるゆると立ちあがりました。
「ぼくがひとりで、ぼくだけでギャレイ・ワークやるんですか」
ぼてじゅう眼鏡の顔が赤くなった。
「だれにだって、最初ってのはあるのよ。“最初”をひとつひとつ、こなしていって一人前になるんだからね、頑張ろうよ、山田君」
さくらは体育会のコーチよろしく教訓をたれます。
「敏美、あんた、キャビンをやりながら、山田君を手伝ってちょうだい。作業のポイント、ポイントはあんたも見てあげるんだよ。いいね」
さくらはフット・ステップの上のクロムスメに向っていい、肩で風を切るぐあいにファーストへ戻っていった。だんなチーフの柿野も2Lの保安機材のチェックに歩み去りました。
敏美が天井近くで、収納庫を開閉する音をがたがた響かせながら、
「山田はん、いつまでもお客の気分やったら、あかんやないの。はよう仕事おぼえて、うちらを助けてな」
仕事が手につかなくなったらしい、ぼてじゅう眼鏡を励ましています。
恵理も次の仕事に移るべく、調理室の表の壁に貼《は》ってある、引き継ぎの紙を見にゆきました。
引き継ぎの紙は、このシンガポール始発の八一八便の、シンガポール・バンコク間を乗務したクルーが貼りだしていったものですが、乗客の状態の説明に続いて、「コスメチックのキャップは、8のベーカー」と書いてあります。
恵理がドアの傍の8Bの座席にゆき、座席の背中のポケットを探りますと、手洗いの化粧品類の蓋が六コ、吐袋《とぶくろ》と呼ぶディスポーザル・バッグに入れてあります。機内の|手洗い《ラバトリイ》に置いてある、オーデコロンやローションなどの化粧品類の蓋は、全部取り外して、客室のどこかに隠しておくんですね。
うっかり化粧品の蓋を取らずに置いておこうものなら、お客にたちまち持ち去られて、いくら補給したって足りやしません。いや、蓋をちゃんと外しておいたって、紙で栓をして持っていくお客がいるくらいなんです。特にお客がしっかり者ぞろいの大阪便では注意が肝心です。
ついでに手洗いのフラッシュの作動を調べ、調理室の機首側の裏にあるCの倉庫《ストアレジ》に行って、救急箱、娯楽用・幼児用キットが揃《そろ》っているかをチェックします。それから後部の倉庫にオーディオ用のイヤホーンを取りにゆくなど、相変らず恵理は汗をかくでもなく、一見のんびりした顔で作業していますが、じっさいのところ、息をつく閑《ひま》がありません。
さらに前の日付けの日本の新聞の梱包《こんぽう》を解く、という肉体労働に従事していると、機内のマイクから、
「皆さん、位置についてください。エマージェンシイ・ライトのチェックをやります」
機長の、桑本の声が響きました。
あちこちで眼のいろを変えて働いていたスチュワーデスが、仕事を中断し、いっせいにドア・サイドに駆け寄ります。
八人のスチュワーデスが八つのドアの脇に立つと、いっせいにオレンジいろがかった非常用のライトが天井に点《つ》きます。
続いてピーンと全員連絡《オール・コール》のチャイムが鳴って、八人のスチュワーデスが全員、機内電話《インターコム》の受話器を取って耳にあてます。
「1L、どうですか」
桑本に訊《き》かれて、1L担当のスチュワーデスが、
「1Lのエマージェンシイ・ライト、正確に作動しています、異状ありません」
そう答えた。
左一番《1L》、左二番《2L》、左三番《3L》と機長のチェックが進み、緊張感がせりあがってきます。
チェックが右側に移って2のRも異状がないむね、恵理は答えました。とぼけた顔のまんまなんですけど、気持にはずみがついて、「あのクロムスメの鼻あかして、モンチッチの仇をとってやろうじゃねえか」とおもった。
チェックが終って、機長の桑本は、
「ただいまの時刻、バンコク時間十時二十七分です。時計を合わせて下さい」
そう命じました。
飛行前《プリ・フライト》のチェックは、ほぼ終りに近づいているんですけど、恵理の目の前の調理室では、ぼてじゅう眼鏡が、両側の収納庫をばたばた開閉しています。
「山田はん、うちのチェックを疑《うたご》うてんのとちゃう? うち、ちゃあんと数、かぞえたんよ。ランチは百三十八、ビールは六十三本よ」
敏美がぼてじゅう眼鏡の背中に向って、不快そうに文句をいいます。
「いや、ギャレイ・ワークやることになったんでね、どこになにが入っているのか、確認しているだけですよ」
ぼてじゅう眼鏡は、眼をしばたたいて答え、今度は調理室を出て、通路に面している倉庫《ストアレジ》Eの扉をばたばたと開閉しました。まもなく「乗客の搭乗開始五分前です。機内に不審物が搬入されてないか、セキュリティ・チェックを行ないます」さくらのかん高いアナウンスが響きました。
バンコク時間十時三十五分、八一八便の機体の下にバスが到着し、乗客の搭乗が始りました。
ファースト・クラスの1Lとエコノミー・クラスの2Lの入口にタラップが二台つけられていますが、だんなチーフは恵理に向って、
「ワラワン殿下、ここにこんね、にっこり女っぽく笑って、お客迎えなさらんとですか」
といいます。
私がドア・サイドに立ったりすると、お客が皆、タラップの下で立ち止まって、帰っちまうんじゃないですか、そういいたいのを我慢して、恵理はだんなチーフとぼてじゅう眼鏡と一緒に2Lのドア・サイドに立った。
エコノミー・クラスの乗客、二百四十七名の先頭を切って、バスから降り立ったのは、暑そうな墨染めの衣を着こんだ僧侶《そうりよ》の一団です。
仏跡視察の帰途の、五十人ばかりの一団で、僧侶たちは青々と剃《そ》りあげた坊主頭を南国の陽に光らせて、こちらを見あげていましたが、そのなかから、ひときわ大柄な、眉のふとい僧侶が進みでて、タラップを登り始めました。
「比叡山《ひえいざん》の荒法師のお越しだな」
柿野が呟《つぶや》きましたが、眉のふとい僧侶は僧衣に不似合いなルイ・ヴィトンの鞄《かばん》を片手に下げ、もう一方の手で扇子を使いながら、どすどすとタラップを踏み鳴らして上ってくる。
恵理が「いらっしゃいませ」と挨拶するのと同時に、ぼてじゅう眼鏡の手のなかの、カウンティング・マシーンがかちかちと鳴り始めます。
爆発物の入った荷物だけを預けて、自分は飛行機に乗らないような危険分子が出ることを警戒して、極東航空では、こうやってじっさいに搭乗したお客の数を数え、出発まえにカウンターにチェック・インしたお客の数に照らしてみるんですね。
比叡山の荒法師じみた大柄の僧侶は、機内に入ってくるなり、バンコクの日本料理屋が用意した和食の匂いでも嗅《か》ぎつけたのか、
「なまぐさい飛行機やな」
と大声でいいます。
僧侶が続々と乗りこんできて、ぼてじゅう眼鏡のカウンティング・マシーンが鳴り続けましたが、一団の最後は、揃って今ふうの口ひげを生やし、坊主頭との対照がおかしい、ふたりの若い僧です。
ふたりはこれもお揃いに買った水牛の角《つの》の土産を小脇にかかえています。
それに続いて、タイ人のビジネスマンや外交官とその家族らしい小グループが乗ってきた。
その次は、中年の婦人たちに、ちらほら男の混った三、四十人の一団です。
関西の観光団体らしく、バスから降りると、タラップを見あげ、
「|シャム《ヽヽヽ》にくると、階段あがらなあかんのか」
「えらいきつそうな階段やなあ」などと、ぶつくさ文句をいっています。
「ああ、しんど」と休み休みタラップを上ってくる一団を眺めて、恵理はつい、
「チーフ、しもぶくれの顔てえのがありますね。あのお客さんたちは、顔じゃなくて躰がしもぶくれてえ感じですね」
タブーになっているお客の悪口をいってしまいました。
だんなチーフは、にやっと笑っただけで、なにもいいませんでしたが、ぼてじゅう眼鏡のほうは、
「つまらない冗談、いわないでください。数がわからなくなります」
真顔になって怒りました。
客室に入ってきた「しもぶくれ旅行団」の一行は、「すんまへんけど、わてらの席、どこやろか」と口々に叫びたてて、機内は騒然たる空気になった。
そのあとも大型の団体がいくつか続き、だんなチーフが、「1Lだけ開けておくことにして、こっちは店じまいするか」そういって、エコノミー・クラスのドアを閉めようとしたとき、最後のバスが着いて、ギプスを片足にはめた男が、連れの男ふたりに両側から肩を抱かれて、バスから降り立ったんですね。
いずれも難波のクロムスメ顔負けにまっくろに陽焼けした、スポーツマンふうの男たちです。
ギプスの男が友人の両肩に腕をかけ、タラップを跳ねるようにして登ってきた後ろから、まるで附添《つきそ》いの医者みたいな感じで、白い麻の服をポロシャツのうえにひっかけた、洒落《しやれ》た服装の男が姿を現わし、客室に入ってきました。
医者みたいな男は、スチュワーデスに案内されて通路を消えてゆくギプスの男を見送りながら、だんなチーフと恵理に向い、
「シンガポール、バンコクと棒振って遊んできたんだけど、ここであの野郎がアキレス腱《けん》、切っちまいやがってね」
片手にぶら下げた紙の箱を振って、歯切れのいい、東京弁でそう説明しました。
関西弁を聞いたあとだものですから、なつかしくも物珍しくて、なんだか妙な感じです。
「まあ、ご迷惑はかけないとおもうけど、なにぶん、よ、ろ、し、く」
丸顔の男は、眼と眼の間がおおきく開いて、ロン・パリふうの感じですが、東京弁に好印象を抱いたせいか、その間延びした顔つきが、いかにもおっとりと育ちがよさそうに見えるから不思議です。
「それから、申しわけないんだけど、これ冷蔵庫に放《ほう》りこんどいてくれねえかな。タイで一緒にプレイしたひとに、たまたま今日が誕生日だって話したらね、こんな菓子をわざわざ空港まで持ってきてくれちまってね」
男は片手にぶら下げた紙の箱を恵理のほうに差しだしました。箱の包み紙にはバンコク一というより、東洋一のホテルといわれるオリエンタル・ホテルの名前が刷りこまれています。
「冷蔵庫は機内にないんですよ。だけど、ドライ・アイスを入れてちゃんと保管しておきます」
恵理はそういって、バースデイ・ケーキの箱を受けとり、調理室に行った。
調理棚の下段には、車のついたワゴンがはめこまれていて、動く収納庫になっていますが、飲み物の入っている右端の動く収納庫を開け、ビールを冷やすための袋入りドライ・アイスを五、六コつまみだしました。
皆さん、飛行機てえと、なぜ冷蔵庫がくっついてるもんとおもいこんじゃうんでしょうな、と呟きながら、ケーキの箱を開き、周囲にドライ・アイスを並べた。お客の座席番号をメモして、箱に貼りつけ、その箱をちょうど空《あ》いていた14の収納庫にしまいました。
もうクロムスメが新聞を乗客に配り始めているので、恵理も日本の新聞の束をかかえて、右側《Rサイド》の通路に向います。
これも大阪便の特色で、皆立ちあがって、われがちに新聞のほうに群がってきて、沢山の手が恵理に伸びてきます。
弱った恵理は背の高いのをいいことに新聞を両手にかざし、
「ええ、皆さん、新聞には羽根は生えておりません。しっぽも生えておりません。従いまして化けて消えることもございません」
そういった。
乗客がなにをいいだすのか、とひるんだところで、
「お席にすわってお待ちいただけませんか」
強引にすわらせてしまいました。
新聞がなくなり、通路に散らばる荷物を座席の下に押しこみながら、恵理がギャレイに引き返してくると、「おねえちゃん」と女の声がして、制服の腰のあたりをひっぱられた。
恵理が振り向いたところ、「しもぶくれ旅行団」のひとりの顔が、恵理の胸のあたりにあって、こちらを見あげています。
しもぶくれ的特色が特にひどい中年のおばはんで、通路に立っているんですけど、背が低いので、よく見ないと、立っているのか、すわっているのか、見当がつきません。
まぶたが、厚ぼったく細い眼にかぶさり、口のあたりの突きだした顔は、ある種の両棲《りようせい》動物を連想させます。
「頼みたいことがあんのやけどね」
しもぶくれのおばはんは、和服のふところをごそごそ探り、大切そうに小さな紙の包みを取りだしました。
幾重にも包んだちり紙を丁寧にはいでゆくと、中からティー・バッグがひとつ現われた。
「これ、|げんのしょうこ《ヽヽヽヽヽヽヽ》なんや。煎《せん》じて持ってきてえな」
そう頼みます。
「お安いご用ですよ。席はどの辺ですか」
「わての席は、15やったかいな。とにかくそこの席でっせ」
立っているのかすわっているのかわからない、しもぶくれのおばはんの席が、15の|F席《フオツクス》と確めた恵理は、調理室にひき返し、3の調理棚の正面にある蛇口《スピゴツト》の傍の紙コップを抜き、前倒し式の栓を開いて、げんのしょうこの紙袋を入れたコップに熱湯を注ぎました。
お湯が濃い番茶のようないろに染めあがるのを待って、これも調理棚の下段にはめこまれている|ごみ用ワゴン《ウエイスト・カート》に、げんのしょうこの紙袋をひょいと捨てた。
到着地の植物検疫、動物検疫の問題、それに衛生上の問題もからんで、スチュワーデスは残った食品をできるだけ早く捨てるように教育されています。ワインなどにしても、いったん栓を抜いたら、味が変るから、食事《ミール》サービス終了後に捨ててしまいます。
だからスチュワーデスを女房にした男たちの共通の歎《なげ》きは「うちのやつは、なんでも気前よくぽんぽん捨てちまう」ことで、亭主が毎晩酒の肴《さかな》にちびちびつまんで楽しんでいる、地方名産の珍味なんかも、あっという間《ま》に捨てられてしまうんです。
おまけに恵理は東京、下町育ちで、やたらに気前のいい男女を見て育っている。ぽんぽん捨てちまう傾向は、人一倍なんですね。
げんのしょうこの紙袋を捨てた恵理は、番茶みたいな液体が入ったコップを15のフォックスの席に持っていったんですが、しもぶくれのおばはん、コップを見るなり、文句をいった。
「あんたはん、げんのしょうこのバッグはどないしはった」
細い眼をきらりと光らせて、恵理を睨《にら》みます。
「はあ、バッグですか」
と恵理は鼻白みましたが、
「充分においろが出ましたんでね、もうご不要とおもって、捨てさせていただきました」
けろりとした顔で答えました。
「そら困るわ。あれ、最後のひとつやし、もういっぺん使おう、おもうとったんや。返して欲しいな」
おばはんは不服げに口の両端を半月形に下げていいます。
「申しわけありません。機内にはああいうげてものの薬」といいそうになって、恵理はあわてて言葉を呑みこみ、
「げんのしょうこは用意してありませんので」
と説明しました。
「あれないと、しんどうてよう帰らんわ。河内《かわち》までもたへんのや。ごみ箱探して拾《ひろ》てきてんか」
しもぶくれは頑《かたく》なにいい張ります。
恵理はしかたなく調理室に戻りました。
「これはめげますねえ。いくら大阪のお客さんが相手だったって、おこじきさんじゃあるまいし、ごみ箱かきまわさなきゃ、いけませんかね」ぶつぶついいながら、ウエイスト・カートを調理棚からひきだし、背伸びをして、深さ一メートル、まだ空っぽのカートの底からげんのしょうこの紙袋を拾いあげた。よく水洗いをしまして、上段の12の収納庫から取りだしたプラスチックの|お皿《プレート》に乗せ、15のフォックスに持っていったんですよね。
しもぶくれのおばはんは、大変不機嫌でろくすっぽ返事もせず、濡れたげんのしょうこの紙袋を大事そうにちり紙に包み、着物のふところに入れてしまいました。
「|乗客の数《パツクス・ナンバー》、あたりです。おしぼりのサービス、始めてください」
空港の旅客カウンターで受けつけたお客の数とじっさいに搭乗してきたお客の数が一致したらしく、辰巳さくらの声が、ファースト・クラスの境い目あたりでかん高く響き、ひとつだけ開けておいた1Lの自動ドアの閉まる音がします。
恵理が調理室に跳びこむと、クロムスメがナンバー・4の調理棚の左端のおしぼり用オーブンを開き、早くも白いタオルのならんだ|おぼん《トレイ》を取りだしています。
いよいよ離陸です。
2Rの乗務員用座席《ジヤンプ・シート》に、クロムスメと向い合ってすわった恵理は、ものものしい乗務員専用の|肩吊りベルト《シヨルダー・ハーネス》を頭からかぶりながら、少し伸びあがって客席の様子をチェックしました。
エコノミーの前部に、僧侶の一団が扇子を使ったりしながら、すわっており、その後方に、しもぶくれ旅行団のおばはんたちが席を取っていて、日本から持参したらしい飴《あめ》をしゃぶったり、おかきをかじったりしている。
その反対側の少し後方、3Lの非常口の辺に、ギプスをはめた男など、東京のゴルファーたちがすわって、日本の週刊誌を拡げています。
DC10型の推力二十三トンの三つのエンジンが咆哮《ほうこう》し、八一八便が大阪に向って離陸すべく滑走を開始すると、スチュワーデスは、いっせいに腕時計を眺めました。
滑走する機体の前輪が滑走路中央のライトを踏みこんでゆき、その音がかん、かんと間遠に響いてきます。どこの空港でもおなじですけど、滑走路の中央に、一列にライトがならんでいて、このライトは、前輪に踏まれると、軽い乾いた音をたてて、地中にひっこんでゆく仕組になっているんですね。
かんかんと響く音をひとつひとつ数えているうちに、八一八便のスピードが増して、たちまち音の間合いが縮まり、太鼓の連打のようなぐあいになって、躰《からだ》を快く衝《つ》きあげてきます。
どおーんと車輪が地上から離れる音がして、恵理は、もう一度、時計を眺めます。お客に説明する大阪への飛行時間は、この離陸時間を基に計算するので、社用のメモ帳に、TAKE OFF十一時十三分、と記録しました。
車輪《ギアー》が音を立ててせりあがってきて、機体におさまり、がっちゃあんとロックされ、同時に「禁煙」のサインが消えます。車輪と「禁煙」のサインは連動していて、車輪が機体におさまると、自動的に「禁煙」のサインが消える仕組です。
乗客が煙草に火をつけ、座席をリクラインさせるざわめきのなかで、正面にすわったクロムスメの敏美は、のしかかってくる重力《G》に逆らいながら、少し窮屈そうに座席から手を伸ばし、インターコムを取りあげました。
この座席は、機内八カ所にあるステーションのひとつで、座席の左わきに|指 示 盤《コントロール・パネル》があって、スイッチがならび、機内放送用《PA》のマイクロフォンや電話機がぶら下っています。
敏美はパネルのAFTとあるスイッチを押して、後部の4Rのアシスタント・パーサーを呼びだしました。
調理室の向うの2Lでも、ぼてじゅう眼鏡がこの会話を傍聴すべく受話器を取って、耳にあてています。
エコノミー・クラスには、前方後方二カ所に調理室があって、食事《ミール》が搭載されているんですけど、前方後方に分けて積まれた食事の数とそれぞれの客室のお客の数が必ずしも一致しない。そこで話し合って調整しなくちゃならないんですね。
「こちら2Rの長山です。ミールの数、チェックさせてください」
敏美は、大阪|訛《なま》りは強いけれども、さすがに標準語で通話しています。
「食事の数は百三十八なんですけどね、精進料理の数が、足りないんです。おぼんさんが五十一名いらっしゃるのに、こちらには四十九人分しかありません。そちらに精進料理が二人分、搭載してあるのと違いますか」
どうやら叡山の荒法師たちは、あらかじめ肉や魚の入らぬ、精進料理の調達方を極東航空の京都か大阪の支店に頼んでおいたとみえます。
「精進料理はないのですが。ノー・ビーフのミールが八つ。ふたつ余計ですか。こら地上《グランド》が間違えよったんやわ」
ノー・ビーフの食事というのは、シンガポール・チャイニーズと呼ばれる、中国系の乗客用の食事で、こちらは坊さん用の食事と違い、牛肉の代りに鶏肉が用意されています。
話の様子では、機内食を用意する係の手違いで、五十一人の僧侶に対し、四十九食の精進料理、六人の中国系乗客に対し、八食のノー・ビーフ食を搭載してしまったらしい。
エコノミー全体の旅客数二百四十七名に対し、トレイをひっくり返したりした場合の予備の一食を入れて、二百四十八名分がちゃんと積んであったので、間違いが看過されてしまったんですね。
「あかんなあ、どないします?」
敏美がそういったとき、機体ががくんと揺れて、すっと落ちた。
東南アジアに多い|タービュランス《エア・ポケツト》で、別にどうということもないのだけれども、しもぶくれ旅行団の中年女性の間から、悲鳴というにはふと過ぎる、唸《うな》るような声がいくつかあがりました。
唸り声の直後、突然、どすんという音がして、恵理のすぐ横の通路に重そうな円筒形の物体が、ふたつみっつ立て続けに落ちてきた。恵理が驚いて眺めると、通路に面した倉庫《ストアレジ》Eのドアが開き、機体の動揺につれて、あおっている。落ちてきたのは、この倉庫の中段に入っていた、子どもの頭ほどもあるオレンジ・ジュース、トマト・ジュースなどの五ポンド罐《かん》です。
八一八便は上昇を続けており、機体が傾《かし》いでいるものだからデル・モンテの五ポンド罐はひとつ、またひとつ坂になったエコノミーの通路を後方に転がってゆきます。
気がつくと、調理室のあちこちで収納庫の開き戸がばたばた開閉しており、明らかに開き戸の|止め金《ラツチ》が、ちゃんと止まっていなかったための事故です。調理棚や倉庫の開き戸はいったん戸を閉めたうえで、止め金をかちんとロックさせておかないと、離着陸の衝撃で中身が飛びだしてしまうんですね。
実習生の山田が、それを見て、調理室を挟《はさ》んだ向う側のジャンプ・シートから立ちあがり調理室を抜けて、こちらにやってきました。
「山田はん、ギャレイやストアレジをチェックするときは、ラッチをちゃんとロックしてくれんと困るやないの」
受話器を片手に持った敏美は、ぼてじゅう眼鏡を叱りつけるように、そういいます。
敏美の言葉で、恵理は、お客の搭乗前に、ぼてじゅう眼鏡が開き戸をばたばたいわせて、収納庫や倉庫をチェックしていたのをおもいだしました。
ぼてじゅう眼鏡は、赤い顔をして、通路を転がってゆく五ポンドのトマト罐を追いかけようとします。
「別に爆弾が落ちてきたわけやなし、そのまま放っといたらええやないの。それよりタービュランスで、天井に頭ぶつけるとえらいことや。はようジャンプ・シートに戻っといて」
もう一度、クロムスメの敏美に大声でたしなめられて、ぼてじゅうは「すごすご」という感じで、2Lのジャンプ・シートに戻りました。
──インターコムを切って、文句をいうべきだよねえ。
恵理は、クロムスメにきびしくやっつけられたぼてじゅう眼鏡にちょっと同情しました。
この機内電話《インターコム》は、機体の前部《フオワード》、中央部《ミドル》、|翼   上《オーバー・ウイング》、後部《アフター》に、左右四つずつ設けられている、合計八カ所のステーションと操縦席に繋《つなが》っていて、スイッチを押して受話器を耳にあてれば、各ドア附近の会話は全ステーションに筒抜けなんですね。
クロムスメは、ご丁寧に、電話で今の小事件の経過を、後部の4Lにすわっているだんなチーフに報告している。当然ながら、全ステーションのスチュワーデスが、ぼてじゅう眼鏡の失敗に耳を傾けているわけです。
最後にクロムスメは「はいミールのオーブンは、離陸後二十分にスイッチを入れます」と復誦《ふくしよう》して、調理室越しに反対側の2Lを眺め、
「山田はん、よろしゅうお願いします」といいました。
恵理が通路を転がっていった五ポンド罐の行方に眼をやると、反対側、左サイドの3Lの非常口の傍《そば》にすわっていたゴルフ帰りの丸顔の男がわざわざ席を立ってこちらの右《R》サイドの通路までやってきて、ひょいひょいとふたつの五ポンド罐を拾いあげた。
白い麻服の男は重そうに罐をかかえ、微笑をうかべて、こちらに歩いてきます。
気軽といえば気軽、軽薄といえば軽薄な態度です。
「この罐はえらく重いせいか、やたら転がるねえ。もしかして金の延べ棒が詰っているんじゃないの」
恵理は|肩吊りベルト《シヨルダー・ハーネス》を外し、立ちあがって、礼を言いながらずっしり重い五ポンド罐をふたつ受けとりました。
丸顔の男が席へ戻ってゆくと、しかしクロムスメは、
「なんや、あの21の|A席《エーブル》の|ぱっぱらぱあ《ヽヽヽヽヽヽ》。勝手に席離れて、ふらふら歩きよって、怪我しても知らんで」
と文句をいいます。
「|飲み物《リカー》のサービス、始めましょう」
APの指示があって、恵理は調理室《ギヤレイ》に入って、|お酒のワゴン《リカー・カート》を調理棚の下からひっぱりだしました。
Hカートと呼ばれる、このワゴンをひっぱりだすのには、相当の体力と技術が必要です。
第一にDC10型機は、巡航状態に入ると、常に仰角三度、鼻を上に向けて飛んでいますから、ちょうど坂の途中で、重い手押し車をひいたり押したりする感じになるんですね。
Hカートは、ナンバー・3の調理棚の下段にはめこまれているんですけど、恵理はまずカートを調理棚に固定しているロックを外し、それからカートの下から覗《のぞ》いている銀いろのペダルを踏んで、カート自体のブレーキを外した。そのブレーキを片足で踏み続け、カートの重味を躰で支えながら、そろそろとひきだしました。
隣りでは、おなじ要領で、「難波のクロムスメ」敏美が別のHカートをひきだしています。
敏美は、黒い顔をしかめて、Hカートを支え、
「山田はん、ビーフの|容 器《キヤセロール》温めるスイッチ、入れたね」
ぼてじゅう眼鏡に訊《たず》ねます。
ぼてじゅう眼鏡の山田は、食事《ミール》用のカートから、|おぼん《トレイ》を一枚一枚ひきだし、離陸とそのあとのタービュランスの衝撃で、重なり合っているナイフ、フォークの袋やパンの袋、サラダ、デザートのキャセロールなどを整頓《せいとん》しなおしていましたが、
「いま、入れたところです」
相変らず赤い顔をして、上司に答える口調です。
恵理は、Hカートの、ビールが天井にごとごとぶつかって滑りにくい、二番目の抽《ひ》き出しをひっぱりだし、奥に入っているシャンペンを二本抜きだしました。
このカートに入れる酒類は、成田で路線の別なく一定の種類、本数をセットで用意しているのですが、東南アジア路線ではシャンペンはサービスしないことに決められている。
東南アジア路線では、各航空会社ともお酒を無料でサービスしているんですけど、高価なシャンペンまでがぶ飲みされたのでは、ただでさえ景気のわるい極東航空の財政状態がいよいよわるくなってしまいます。
クロムスメの敏美は、ちらりと恵理の手もとを眺め、「いらん気い使うより、早いことお客にサービスするのが肝心や。それよりはよ、いこ」
自分はシャンペンを入れたまま、調理室をさっさと出てゆきます。
クロムスメが左《L》サイド縦5列のお客にサービスしているのを横眼に眺めながら、恵理はクロムスメの反対側、右《R》サイド縦5列のお客に酒類《リカー》のサービスを始めました。
エコノミーの最前列は、墨染めの衣を着た荒法師の一団で、7の|K席《キング》に坐った、眉のふとい僧侶は「精進ジュースは積んでないんかな」と怒鳴るようにいいます。
トマト・ジュースを恵理がサービスしているところへ、だんなチーフの柿野がやってきた。
荒法師に向ってしゃがみこみ、
「まことに申しわけないんですが、じつはこちらの手違いがありまして、仏跡視察の皆さんに用意した食事が、ふたり分足らないんです」
そういって謝りました。
「どういう意味や、それは」
荒法師はふとい眉を寄せて、だんなチーフを見あげます。
「精進料理と中国人用の食事の数を混同してしまったんです。つまりご一行のなかのおふたりに中国人用の鶏料理を召しあがっていただけないか、ということなんです。申しわけありません」
悠揚迫らぬ態度であまり恐縮しているふうじゃないんですけど、通りいっぺんでない、親身に謝っている感じがあって、恵理は「サービス業じゃ、若禿《わかは》げ肥満体は得をしますな」とおもった。
「極東航空は、わてらを破戒坊主にしよるんか。肉食わして地獄におとしたろ、そうおもてはんのかいな」
荒法師のほうは、だんなチーフの態度に気圧《けお》されながら、一応そう文句をいいました。
柿野のほうは、相変らずゆったりと落ち着いた風格を見せて、
「お言葉ですが、お見受けしたところ、立派なお坊さまばかりで、鶏を召しあがったくらいで、地獄に落ちるようなかたは、おられないんじゃありませんか」
人を食ったいいかたをした。
「よういわはるわ」
荒法師は微笑をうかべ、おもしろそうにだんなチーフを眺めました。
「一瞬の油断で地獄に落ちてしまうのが、わてらの商売でっせ。油断一秒、罪一生や」
「四つ足を食べれば罪になりますんでしょうが、鶏は四つ足じゃございませんよ。今日はお坊さんが乗られるというので、私ども、四発のジャンボを避けて、エンジン三つのDC10を用意したくらいでありまして、せいぜいご協力させていただいております」
柿野は微笑しながら、いよいよひとを食ったことをいい、周囲の僧侶たちの間から笑い声が起りました。荒法師は苦笑し、
「しゃあないわ。協力したるか」
と席から立ちあがった。
「そこのちょびひげ、ふたり、ちょっとこっちにこんかい」
揃《そろ》って口髭《くちひげ》を生やし、土産の水牛の角《つの》をかかえて乗りこんできた、ふたりの若い僧侶を手招きしました。
「おまえら、修業中の身やが、この飛行機のなかだけ、特別に肉を食わしたるわ。極東航空が特にお許しをくれる、いうてるさかい」
だんなチーフの説明を聞いて、ふたりの若い僧侶は眼を輝かせて、じつに嬉しそうな顔をしました。
ふたりともおそらくどこかのお寺の何代目かで、まだまだ俗世間の垢《あか》がとれていないタイプです。
坊さんたちの一行は、皆が荒法師にならって、トマト・ジュースを飲み、簡単にサービスが終ったんですけど、出発まえに、辰巳さくらがブリーフィングしたとおり、ほかのお客さんの註文はなかなかきびしい。「ジュースとお酒の両方、貰えまへんか」とか「姉ちゃん、お酒は三本やで。そのミニチュア・ボトル、三本置いてんか」などときつい註文がつきます。
サービスが進んで恵理が3Rのドア・サイドに近づいたとき、クロムスメがリカー・サービスを行なっている反対側の3Lのあたりで、口論めいた騒ぎが起ったんですね。
恵理が、なにごとだろうとそちらを見やると、ふいに男が立ちあがって、
「そっちの東京のひと、助けにきてよ」
恵理を手招きします。
ゴルフ帰りの間延びした顔の、クロムスメが「ぱっぱらぱあ」と形容した、東京の男です。
機内は坂道になっていますから、恵理はカートの下の赤いペダルを踏んでブレーキをかけ、3Rのドア・サイドから3Lのほうに、間《ま》じきりの傍をすり抜けて、歩いていきました。
「この大阪のひと、全然おれの話をわかってくれねえんだよな。もう少し、言葉の通じるひとと話したいんだよ」
両眼のあいだが開いて、やや斜視ふうの印象を与える男は、傍らのクロムスメのほうを顎《あご》でしゃくって、そういいます。
「おれがさ、このワゴンの抽き出し覗いたら、シャンペンの壜《びん》が入ってるんだよ。そいつをくれやって申しあげたらね、このひと、シャンペンはこの路線ではサービスでけまへん、の一点張りよ。いったいサービスできないものをなんで飛行機に積んでいらっしゃるのか、私《わたし》ゃ、それが伺いたいんだね」
ぱっぱらぱあの男は、いかにも都会ふうの、派手なジェスチュアを交えて、まくしたてます。
難波のクロムスメは、腕を組み、ぎょろ眼で、ぱっぱらぱあの男を睨み返し、一歩もひかない感じでしたが、
「お客さん、こういうこととちゃいますか」
と口をきりました。
「このフライトは、大阪|寿司《ずし》の店ですねん。それも大阪寿司なら、なんぼ食べても無償《ただ》や、いう店ですねん。そこにたまたま仕こみの都合で、まぐろのとろが置いてあったゆうて、それを欲しい、いわれても、大阪寿司やないよって、差しあげられへん、こういうことですわ」
地いろが黒いので、表情の変化はよくわかりませんけど、クロムスメなりに昂奮《こうふん》しているらしく、大阪弁まるだしです。
ぱっぱらぱあも腕を組んで、敏美の主張を聞いていたんですけど、この男もすぐに、
「シャンペンは、つまり大阪寿司の店に飾ってあるとろだといいたいんだね。しかし売らねえ、売りたくねえったって、いったん寿司屋のつけ台に置いちまったら、そりゃ通りませんぜ。このシャンペンはつけ台に置いてあるんだよな」
そう切り返してきました。
「いいかい、大阪のひと。誤解しちゃ困るんだぜ。おれは、自分が食いたいとろについちゃ、金は払うんだ。シャンペンが、たといいくらしようとお金は払うと申しあげてんだよ」
斜視ふうの眼を敏美と恵理に等分に当てながら、ぱっぱらぱあはいいつのります。
敏美は、自分のおでこを軽く叩いて、「困ったお客さんやなあ」と呟《つぶや》いた。
「つけ台に置いてあったって、売られへん場合もありますやろ。つけ台にだるま置いてあったって、売れませんねん」
このひとことが、ぱっぱらぱあをいたく刺激したらしい。
「とろが通らねえとなると、だるま持ちだしやがったな。いい加減な出まかせばかりいうなよ」
短気な東京人の癖が出て、顔を真赤にして怒鳴り始めました。
もはや自分が手招きした恵理の存在も眼に入らない様子です。
「鰻《うなぎ》の匂いを嗅《か》がせて、白いすっぽりめし食わせるのが、極東航空のご商売なのか。シャンペンちらちらさせて、安いウイスキー飲ませてごま化そうって腹かよ。許せねえな、こいつは」
ぱっぱらぱあは、昂奮してクロムスメに掴《つか》みかかりそうな気配を見せました。
「まあまあ、お客さま」
恵理は、間に入った。
そして突然、バースデイ・ケーキをこの男から預ったことをおもいだしたんですね。
「お客さまがなぜ、シャンペン、シャンペンとおっしゃるかといえば、今日がお誕生日だからですよね。誕生日だから、景気よくシャンペン抜いて、身内でパーティ開いちまおう、高度一万メートルのバースデイ・パーティと洒落《しやれ》こんじまおう、そうお考えなんですよね」
男は一瞬とまどい、ぽかんと口を開けて、恵理の顔を眺めました。誕生日に関係なく、駄々っ子のようにただただシャンペンを飲みたがっていたような様子です。それから斜視ふうの眼をしばたたいて、
「そりゃそうさ。そうにきまっているじゃないか」
と急いで恵理の言葉を肯定しました。
恵理は、敏美に向い、
「長山さん、ふつうのお客さんには、シャンペンはさしあげられないけど、フライトのうえでお誕生日迎えたとなりゃあ、特別に考えなくっちゃ、いけないんじゃないですか、チーフに訊《き》いてきましょうよ」
お客の前なので、彼女らのいう「丁寧語」を使って、そう提案したんですね。
男は俄《にわ》かに勢いづいて、
「そうだよ。この旅券見てごらんよ、ずばり今日がおれの誕生日だよ。だからシャンペン、シャンペンて騒いだんですよ」
横合いからまくしたてます。
恵理はお客の旅券を借り、ぶすっとふくれた顔のクロムスメと一緒に、調理室にいるだんなチーフのところにゆきました。
だんなチーフは、ぼてじゅう眼鏡のトレイを整頓する作業を手つだっていましたが、恵理の話を聞くと、
「そりゃ、特別だわな。シャンペンを特別サービスするのが正解ですたい」
おれがシャンペンを開けてやろうと、ナプキンを手に通路に出てきました。
「長山、リカー・サービスのときは、シャンペンをギャレイに置いてったほうがいいぞ。大阪のお客は、えげつないからな」
だんなチーフは、お客を大阪人と勘違いをして、そう敏美に説教をした。
「21のエーブルは東京のお客や。東京のぱっぱらぱあのほうが、ひとのリカー掻《か》きまわしたりして、よっぽどえげつないやないのん」
敏美が口惜《くや》しそうにそう呟きます。
恵理のカートは、サービスを続けながらゆるい坂になった通路を下ってゆき、後部から坂を上ってきた、別のスチュワーデスのカートとぶつかって、機内用語でいう「鉢合せ」をしました。そこでUターンをして、お代わりの註文を取りながら、引き返すことになりました。
「鉢合せ」して、引き返す直後に、「お茶を貰えまへんか」と頼まれ、恵理は前部調理室にもどった。
トレイの整頓を終った、ぼてじゅう眼鏡は、コーヒーを沸かす作業に取り組んでいましたが、ふとみると、ナンバー・4の調理棚の中段あたりから白い煙が吹き出ている。
「なんか、おかしかあないかねえ」
恵理はじっと調理棚をみつめました。
調理棚の中段には、ビーフを温めるオーブンが三つならんでいるんですが、オーブンの観音開き式になっている扉の隙間から白い煙が吹き出ているんですね。
「オーブンから煙がでてますがね、山田さん、オーブンのなかのドライ・アイス、抜いてから、スイッチ入れた?」
恵理はぼてじゅう眼鏡に訊ねました。
ぼてじゅう眼鏡は棒立ちになり、小声で「しまった」と呟きました。
ちょっと醒《さ》め加減だった顔のいろが、またまた赤くなります。
「ドライ・アイス抜かなきゃいけないとおもってたんだけど、ほかの作業に気を取られて、忘れちまった」
|お盆《トレイ》に載せて出す食事のうち、ビーフ・ステーキの入った|容 器《キヤセロール》だけは、あらかじめまとめてオーブンに納められています。オーブンのスイッチを入れて、このキャセロールを温めてから、ひとつひとつトレイに取り分けて、乗客にサービスするんですが、オーブンのキャセロールの周囲には、袋に入ったドライ・アイスが沢山詰っている。
むろん肉の腐敗を避けるためで、オーブンのスイッチを入れるまえに、このドライ・アイスは取り除くことになっています。
恵理はスイッチを切って、オーブンの観音開きの扉を開きました。
オーブンのなかには、ビーフのキャセロールが三コずつ載った棚が六段あるんですけど、隙間に詰ったビニールの袋が焼け、なかのドライ・アイスが溶けて、白煙|濛々《もうもう》たる有様で、これじゃあ、キャセロールの温まる筈がありません。
恵理がキャセロールに指を当ててみると、果して氷のような冷たさです。
「これはいけないよ。大急ぎでドライ・アイスを抜くとしようよ」
恵理はいって、11の収納庫から黄色い軍手を四組取りだし、二組をぼてじゅう眼鏡に渡した。自分も手袋を二重にはめて、オーブンのドライ・アイスを片端から取り出す作業にとりかかりました。
「チーフや辰巳パーサーに合わせる顔がないな。長山さんにも、文句をいわれるだろうな」
ドライ・アイスを抜きとりながら、ぼてじゅう眼鏡は首を振って歎《なげ》きます。
その声の終らないうちに、「ビーフ、まだ温《ぬく》うならへんの」という声がして、その敏美が調理室に入ってきたんですね。
難波のクロムスメはひと眼で事態を察した様子で、すぐに調理室に飛びこんできて、ふたりの作業を手伝い始めました。
「山田はん、飛行機のオーブンは、冷蔵庫兼用なんやで。氷のぎょうさん詰った冷蔵庫が使い方一つで、オーブンに変るんや」
ぼてじゅう眼鏡が恐れたとおり、クロムスメは激しい口調で文句をいいます。
「自分じゃ、よくわかっているつもりだったんですけどね」
ぼてじゅう眼鏡は、ぼそぼそと弁解します。
「わかってるいうんやったら、なんで冷蔵庫に火いつけんならんの。東京ゆうとこは、肉焼くのに氷燃やすの」
東京ゆうとこは、肉焼くのに氷燃やすのという、クロムスメのひとことが、癇《かん》にさわり、恵理はかっと逆上してしまった。
「敏美、それはないよ」
最後のドライ・アイスの袋を抜き取って、恵理はクロムスメにいい返しました。
「これは敏美の責任よ。あんた、辰巳パーサーから、山田さんのギャレイ・ワークのポイント、ポイントは見てやれ、そういわれてたよねえ。あれはあんたは先輩なんだから、仕事の要《かなめ》はきちんとおさえときなよ、そういう意味だとおもったけどね」
クロムスメは、あらためてオーブンのスイッチを入れながら、
「そやけど国立大学出て、何週間も実習受けてきたエリートはんが、冷蔵庫に火いつけるなんて、だれがおもうねん。このひと、|離 陸《テイク・オフ》の前に、コンパートメントやオーブンの中身、チェックしたんやで」
お客に聞えそうな声で反論します。
ぼてじゅう眼鏡が、コンパートメントの中身をチェックしていたのは事実ですから、この国立大学卒業生は、いたたまれないような顔をして、手の甲で額《ひたい》の汗を拭っています。
「だいたいやね、ええ加減の仕事する人間は嫌いなんや。あんたかてそうや。誕生日おめでとうなんて、おもいつきゆうて、売ってはならんシャンペン、無償《ただ》でサービスしてしもうたやないか。あんなやりかたはプロやないで。アルバイトのオチケンの学生がやりそうなことやで」
クロムスメはちゃんと恵理の経歴も知っていて、激しく食ってかかってきます。
恵理はいつものおとぼけで、顔をあさってのほうに向け、
「へへえ、お客とトラブル起すのがプロてえことになりますか。するてえと、高度一万メートルで毎日お客とはなばなしく喧嘩《けんか》してこそ、大空のはな、スチュワーデスてえことになりますな」
ことさらの落語調で、やり返しました。
顔はとぼけていても、鉄火な深川娘の地が出て、猛烈に頭にきています。
「お客に向って、お愛想笑いひとつでけへんスチュワーデスが、ようゆうよ。他人《ひと》に喧嘩するな、いうのやったら、自分も笑《わろ》てみたらどうや」
ふたりは調理室のなかで睨《にら》み合いました。
「セミ同期が激しくやりよって、難波のクロムスメと深川のワラワン殿下じゃ、いい勝負じゃ」
声がして、だれかが報告したのでしょう、だんなチーフの禿げあがった額が、カーテンの向うから現われました。
「たいしたことじゃなかよ、こげんことは。食事の時間が二十分遅れるだけの話よ。お客さんは、そのぶん余計に無償《ただ》のお酒が飲めるから、喜びますよ」
映画を少し早めに始めて、遅れを取り返そうとだんなチーフはいい、恵理とクロムスメは、再び飲み物のサービスに取りかかりました。恵理はさすがに昂奮のあまり、お客に頼まれていた日本茶を忘れてしまい、お客に催促される始末です。
二十分後に調理室に戻ってみると、応援に駆けつけてきたらしい、辰巳さくらパーサーが、手袋を手品のごとくひらめかせて、ビーフのキャセロールと取り組んでいる最中でした。
ぼてじゅう眼鏡がキャセロールをオーブンから取りだして、調理棚のカウンターにならべてゆくんですが、辰巳さくらは、このキャセロールをえらい早技で、カートの十四枚のトレイのうえに移しかえてゆきます。
ベテラン客室乗務員《キヤビン・クルー》が大当りのアニメーション漫画にひっかけて、「忍者ハットリくんスタイル」と称して自慢する特技のひとつなんですけど、作業が終ると、
「時間がないとおもって、あわてちゃ駄目よ」
手袋をはめた手を恵理たちに突きつけました。
「乱暴にトレイを置いたりして、お客さんとトラブルを起したりすれば、却《かえ》って時間がかかってしまうよ。こういうときは、逆に落ち着いて、ゆっくりサービスすること」
下士官ふうの注意を与えたものでした。
恵理に難問が振りかかったのは、ランチのサービスの最中です。
座席が十列で窮屈なため、乗客の足が左右から通路にはみ出ていて、食事のサービスをするスチュワーデスは「お足もと失礼致します」と連呼しつつ、ジグザグに蛇行《だこう》しながらカートを押してゆくのですが、恵理が二台目のカートのトレイ、二十八食を配り終え、軽くなったカートを調理室のほうに押していると、「おねえちゃん」と聞き覚えのある、ふとい声に呼び止められました。
恵理がげんのしょうこの紙袋を捨ててしまって叱られた、15のフォックスのお客、「しもぶくれのおばはん」です。
「食事の最中に行儀のわるいことでっけど、うち、ビール飲み過ぎてしもうてな、便所にゆかせて欲しいんや」
ランチのサービスが遅れ、飲み物を繰り返し配ったので、大阪人の乗客は猛烈に酒を飲んだ。このしもぶくれの体格の両棲《りようせい》動物ふうのおばはんも例外ではなかったようです。
恵理は、通路側の15G席にすわっているやせたおばはんのトレイと、しもぶくれのおばはんのトレイをふたつ、両手に持ちあげ、おばはんが立ちあがって、|手洗い《ラバトリイ》にゆきやすいようにしてやりました。
このトレイをいくつ持てるか、というのもスチュワーデスの競い合う特技のひとつで、皆、トレイとトレイの間に上手に指を差し入れたりして、三食分くらいは平気で持ってしまいます。
カートを調理室に返した恵理が、デカンタを持ち、「コーヒー、いかがですか」と通路を歩いていると、手洗いから出てきたおばはんに、また「おねえちゃん」と呼び止められた。
「席にお帰りになるんですね。トレイをお持ちしましょうか」
てっきり奥の15のフォックスに戻る手助けをしてくれ、ということだろうとおもい、恵理は手のデカンタを置きにゆこうとしたんですが、おばはんは、恵理の制服の袖をひっぱり、
「この飛行機は、海の上を飛んでるんでっしゃろ」
そう訊ねます。
「はあ、東シナ海の上空を飛行中でして」
恵理が答えると、両棲動物ふうのおばはんは、細い眼をしばたたいて「それやったら、海のなかやろな」とわけのわからないことを呟いた。
「どうかなさったんですか」
「あのな、便所の青い水は、飛行機の外へ出してしまうんやったかいな」
また奇怪な質問をします。
「いえ、飛行機のトイレは汲《く》み取り式なんですよ。汽車みたいに、しぶきを沿線に撒《ま》き散らすなんてことはないんです」
話の雲ゆきが怪しいぞ、とうすうす感じながら、恵理は答えました。
「へえ、さよか。そやけど空から青い氷の塊りが落ちてきてな、調べてみるとや、アンモニアの塊りやった、そんな記事、新聞で読んだことがあるがな」
「たまには汲み取り式も故障するんでしょうけどね、空から物がおちてくると、全部飛行機の責任っておっしゃられても、つらいんですよね。お年寄りの雷さんが、雲の上からシビンおっことすこともあるんじゃないですか」
恵理は危険を感じて、落語ふうに話を持ってゆこうとしたんですが、おばはんはかたい表情を変えません。
「とにかく汲み取り式なんやな。ほんならあんた、拾うてきてくれへんかいな。うち、便器のなかに大事な鍵《かぎ》、おとしてしもうたんや」
こともなげにそういったんですね。
「ははあ、鍵を便器の中にねえ」
そう応じたきり、恵理は絶句しました。
「大阪に着く前に拾うて欲しいんやわ。割り箸《ばし》でも使うて、あんた拾てきてんか。簡単やろ」
強引に迫ってきます。
手洗いに物をおとすお客の話は、恵理もいくつか耳にしています。
たとえば新婚旅行のカップルによくある例で、手洗いに行って、指輪を外して洗面台の端に置き、手を洗ったのはよかったが、手を拭く拍子に指輪を便器のなかにはじいてしまった、という例です。
これを拾いあげた古手のパーサーたちの話は聞くも涙で、あれを自分がやらされるのかと一瞬おもい、それからかっと腹が立った。
──いったい、どうなってんだ、このしもぶくれのおばはん。ちっとばかり愛想はわるいけど、娘二十一は番茶も出ばな、花も恥じらう年頃のあたしに向ってさ、便所掃除を頼むときたね。
腹が立つと、とぼけてみせるのが恵理の癖でありまして、
「別に今すぐ拾う必要はないんじゃありませんか。大阪に着いたら、お探ししますよ」
足もとに視線を外《そ》らして、そういいました。
「飛行機のお手洗いと申しますのは、タンク式になっておりますから、金庫みたいなもんでして、ちゃあんと着陸まで、鍵を保管しておいてくれますよ」
「便所と金庫が一緒になるかいな」
おばはんは呆《あき》れた顔になりました。
「一緒ですよ。どちらにも、黄金《こがね》いろのお宝が詰っております」
笑わせて、着陸まで話を引き延ばしてしまおうとしたんですが、相手がわるかった。東京の「ぱっぱらぱあ」はうまくこちらのおもいつきに乗ってくれたけれども、落語ふうのオチに乗ってくれる相手じゃありません。
「こら、話にならんわ。あのきいろい襟《えり》まきのごりょんはんに頼も」
そういって、お客のトレイのあと片づけを指揮している辰巳さくらのほうに歩み寄ってゆきます。
恵理は「ちっとまずいあんべえだぜ」とおもったが、もうあとの祭りです。
おばはんの話をいちいち頷《うなず》いて聞いていた辰巳さくらは、
「とにかくなんとかしますから、お席でお待ちいただけますか」
とおばはんをいなし、15のフォックスにすわらせると、恵理に向って、一緒にくるように眼で合図します。
恵理は、さくらの後について、調理室にいった。ギャレイでは、だんなチーフに監督されて、クロムスメとぼてじゅうが食事のあと片づけに追われています。
さくらは、しもぶくれのおばはんの鍵の一件をだんなチーフに報告してから、
「これはすぐ拾わなくちゃ駄目ですよ、チーフ」
といいました。
「お客さんが、すぐ拾って欲しい、と頼んでるってこともあるけど、こちらサイドとしても、鍵がポンプにひっかかって、ラバトリイが使用不能《ノオオプ》になったら、ことですよね。なにしろ二百四十七名のパックスに対して、ラバトリイは六つしかないんだから」
旅客機の場合、手洗いの下は、タンクになっていて、中段に金網が張ってあり、その下に水洗用のポンプが納められています。
便器におとした鍵は、汚物と一緒に、この金網に乗ってる筈なんですが、鍵の型によっては、この金網をすり抜け、その下のポンプにひっかからないとも限らない。
そうすると、ポンプが作動せず、手洗いが使用不能になる場合も出てくるんですね。
「ランチが終ると、パックスがラバトリイに殺到するわな」
だんなチーフもさくらの意見に賛成して頷きます。
辰巳さくらは、そこで両手を腰にあてて、恵理のほうに向きなおりました。
「恵理、あんた、この仕事、やってみる気ないかな」
じっとみつめて、そういいだしました。
「あんた、これはプロのスチュワーデスとして成長するチャンスなんだよ。愛嬌《あいきよう》で勝負しないのなら、こういう汚れ技で勝負してみようよ」
まるでお客に笑ってみせるか、それとも便所さらいをやるか、どっちかにしろ、と詰問する態度です。
「自分が頼まれたことについちゃ、自分が責任持たなくちゃ駄目だよ。それがキャビンの原則よ」
さくらに迫られた恵理はギャレイの天井に浮きだしている水滴を眺めて、咳払《せきばら》いをしました。訓練所の朝礼のときに、スチュワーデスは笑う必要がない、と一席ぶった、向う気の強さが、また頭をもたげてきます。
「訓練所でスチュワーデスは、女優としての自覚を持て、そう教わりましたけど、スチュワーデスは、便所さらいのような仕事をやっちゃあいけない、と私、おもうんです。女優としての自覚持ってたら、こういう仕事はやっちゃあいけないんじゃないですか。私なんか、三枚目の女優にしかなれませんけど、それでも便所さらいの現場を、お客さんに見られたりしちゃあ、いけない気がするんですよ」
相変らず、天井を眺めて落語調のとぼけた口ぶりですが、開きなおったような言葉になりました。
さくらは、恵理の言葉にかっときたらしく、少し眼の吊《つ》りあがるような表情になって、
「要するに、恵理はそんな汚い仕事はやりたくない、そう逃げをうったわけだ」
きめつけるようにいいます。
それからクロムスメに視線を移して、
「敏美はどうなの」
と訊《たず》ねました。
クロムスメは、一歩足を踏みだしまして、
「恵理は品のええ東京育ちやから、ラバトリイに手え突っこむような真似、ようせえへんとおもいますけど、うち、やらせて貰います。何事も勉強ですねん」
真向から恵理と対立する感じで、そういいます。
クロムスメが受けて立ったので、恵理の立場はいっぺんにわるくなりました。
すぐ調子合わせて、ごまするから、嫌いなんだよ、このクロムスメ、と恵理はいまいましいおもいです。
「恵理のいうことには一理あるな」
それまで腕を組んで、三人の会話を聞いていただんなチーフがそういって割りこんできました。
「たしかにスチュワーデスが便所さらいやってるところを外人のお客にでもみられたらえらいことになる、女性差別の航空会社ってことになるぞ」
といい、なにをおもったか、黒の制服の上着を脱ぎ始めました。
それをみて、さくらが、
「おや、チーフ、上着なんか脱いで、どうしたんですか。まさか自分で鍵を拾おう、なんて考えてるんじゃないでしょうね」
切り口上でいいます。
「便所に落ちた鍵を拾ったりするのは、たしかに女優じゃなくておれみたいなわき役、老け役の仕事よ」
上着を恵理に渡しながら、いいます。
「それをいうなら、私だって、わき役ですよ」
さくらも負けていません。
「この仕事は、最終的には自分がやる、と覚悟してたんです。だめですよ、チーフ」
そのとき、いままで黙っていたぼてじゅう眼鏡が、だんなチーフのまえに、跳びだしてきました。
「チーフ、パーサーはああおっしゃってますけど、その仕事は私にやらせてください。このフライトじゃ、失敗ばかりしてご迷惑をかけてますから、名誉回復のチャンスを与えていただきたいんです」
ぼてじゅう眼鏡は、おもいつめた表情で、「お願いします」と怒鳴るようにいって、だんなチーフに頭を下げました。
結局「ここは山田君に花もたせようや」という、だんなチーフの決断で、山田が鍵探しに挑戦することになりました。
ぼてじゅう眼鏡は、辰巳さくらの指示で、ナンバー・4の調理棚の右端最上段の収納庫からビニールの袋を何枚もひっぱりだして、腕に巻きつけ、緊急時用の|防煙マス《ゴーグル》クをして、|手洗い《ラバトリイ》のドアを開き、両膝《りようひざ》をついた。
膝をついて便器に手を突っこむと、臭気がまともに鼻にぶつかってくるので、マスクをかけざるを得ないんですね。
「ぬかみそのなかから鍵を拾うとおもえばいいのよ」
膝をついたぼてじゅう眼鏡の背後から、猛烈パーサーのさくらは、乱暴な表現で|はっぱ《ヽヽヽ》をかけます。
クロムスメの敏美がさくらの傍《そば》に立ち、だんなチーフ、恵理は、手洗いの入口に立って、この作業をお客の眼から遮断《しやだん》したんですが、「癇性《かんしよう》」な下町の家庭に育った恵理は、背後でぼてじゅう眼鏡が便器に手を突っこんでいる、とおもうだけで、悪寒《おかん》が躰《からだ》を走り抜けて、気分がわるくなりそうです。しかし例のごとく澄ました顔をして、そんなことはおくびにもだしません。
「スチュワーデスは女優としての自覚を持てなんて教えたのは村沢だろう。あいつはまだ成田の新人コーナーに顔を出してるのかな」
だんなチーフが、恵理に訊ねます。
「ええ、このあいだもお会いしましたよ」
村沢がオペレーション・センターの新人コーナーにすわっているのが眼に入ると、恵理はおもわず駆けだしていって、跳びつきたくなります。
しかし恵理は全然、村沢が眼に入らないような顔をして歩いてゆき、すぐ手前で初めて気がついた、というおもいいれで、「教官、こんにちは、今日はここで油を売ってらっしゃるんですか」などとちょっと突っかかるような挨拶をするんですね。
「私がひやかすと、村沢教官は、平木、相変らず笑わないのか、って逆襲するんですよ。それで、ええ、今度も全然笑いませんでしたよって、お答えしますと、へえ、それじゃあつまり元気ってわけだな、まあ、頑張れや、そうおっしゃるんですね」
「そりゃ、愉快だ。あいつもワラワン殿下にはお手あげと見えるわ」
だんなチーフがそういったとき、これも入社したての3R担当のスチュワーデスがやってきて、
「チーフ、タイ人のパックスが、日本人の態度がわるいって、怒っているんです。怒っている理由がよくわかりませんので、助けていただけますか」
だんなチーフは「よかばい」といって、気楽にスチュワーデスと一緒に客室の後方に歩いてゆきましたが、まもなく腕に真ちゅう製の仏像をかかえて、戻ってきました。
仏像を調理棚のカウンターに置きながら、
「15のフォックスは、事件の多いおばはんやなあ。鍵の次はこのほとけさん、ときたよ。お土産に買ったほとけさんを床にころがしとくものだから、傍のタイ人のお客がほとけさんに失礼だって、怒りだしよってな、|上の棚《ハツト・ラツク》に載せても問題ありそうだし、預ることにしたわ」
とこぼします。
小乗仏教国のタイは、仏像の国外持ちだしをみとめていないので、しもぶくれのおばはんは、バンコクに立ち寄る前に、多分ほかの土地、シンガポールかマレーシアあたりでこの仏像を買ってきたのでしょう。
恵理が仏像を手に取ってみると、裏に横穴が開いています。
「貯金箱みたいなほとけさんですね」
恵理がそういったとき、背後で辰巳さくらが「よし、やったね」と低く叫ぶのが、耳に入りました。
どうやらぼてじゅう眼鏡が鍵を探しあてたとみえます。
「敏美、|湯わかし用ポッ《ホツト・カツプ》トのお湯を沸騰させて。それからリカー・カートからコップ出してちょうだい」
さくらに指示されて、敏美はオーブンの隣りにふたつならんでいる、コンセント付きのホット・カップをプラグに差しこみます。
「山田君、あたりを汚さないように気をつけてよ」
さくらはそう注意してから、手洗いのなかに、ホット・カップとビール用のプラスチックのコップを持ちこみ、何回も鍵を熱湯消毒しました。
「この鍵は、すぐに15のフォックスにとどけないで、暫《しばら》くストアレジの隅に置いとこうよ。15のフォックスが、便所から拾ってきた鍵だなんて、まわりのお客に喋《しやべ》ったりすると、食事をすませたばかりのお客が気分をわるくするからね」
さくらがそう指示をします。
とにかくこの便《フライト》のサービスは、時間との競争です。
薩長《さつちよう》連合のクルーは、またまた戦場騒ぎのような昼食のあと片づけをこなし、そのあとを追いかけて、酒、煙草、香水など免税品の機内販売をやり、さらに大阪到着時に必要な税関申告書類を配り終えました。
そこでだんなチーフの柿野が2Lの機内電話《インターコム》を取って、全|客室乗務員《キヤビン・クルー》にオール・コールをかけました。
機内八カ所のステーションのチャイムがいっせいにピーンと鳴り、スチュワーデスたちが受話器を耳にあてます。
「五分後に映画の上映を開始してください。コック・ピットとの連絡では、大阪到着までの飛行時間はあと二時間二十分、映画の上映時間は一時間四十分だから、映画終了後、四十分しかないが、なんとかジュースのサービスだけでもランディングの前にカバーしよう」
恵理は調理室《ギヤレイ》の背中、エコノミー・クラス正面の花模様の| 額 《スクリーン》を裏返しにして、映写幕に変えます。客室《キヤビン》の窓を閉めて、室内を暗くし、五分後に、3Rのステーションにゆき、コントロール・パネルのほぼ中央にあるMOVIE STARTのボタンを押しました。
暗くなった機内では、まだ免税品のセールスが行なわれていて、ぼてじゅう眼鏡が忙しげに飛びまわっています。無事に鍵をみつけだしたせいか、見違えるように動きがよく、乗客への応答もきびきびと調子がよくて別人のような感じです。
これも大阪便の特色で、どのお客も免税の効果が大きくて、買いどくなブランディ類を中心に、免税基準ぎりぎりまで、酒類、煙草類を買いこみます。
「おれは、大阪通関の書類を作りにファーストのギャレイに行くから、きみたち、食事とってくれや」
だんなチーフにいわれ、恵理とクロムスメの敏美は、倉庫《ストアレジ》から、映画監督がすわるような、紺のキャンバスを貼《は》った折りたたみ椅子をひっぱりだし、調理室に持ちこんでクルー用の食事を取ることにしました。
恵理がフォークを握ったとたんに、辰巳さくらが入ってきて、調理棚左端のおしぼり用オーブン、通称マプコをひっぱりだし、そこに腰をかけて、煙草に火をつけました。
恵理はいっぺんに食欲を失った気分で、首を縮めたんですけど、はたしてさくらは、
「恵理はスチュワーデスとして、今後なにを武器にしてやってゆくつもりかな」
煙草の煙を吹きながら、そう切りだしてきました。
「ラバトリイから鍵を拾ったりして、スチュワーデスのプロとして経験を積んでゆく気はないみたいだしさ、といって愛嬌を売るつもりもさらさらないんだろう。なにしろワラワン殿下なんだからね」
手きびしくきめつけます。
「飛行機のなかで、むろん落語を一席伺うわけにもゆかないしね」
仲の悪い、セミ同期の前で、いびられるのではたまりません。恵理はうつむいて、「はあ」と小さい声でいい、膝に置いたミールのサラダをフォークで突っついていました。
「あたしは柿野チーフと違って、スチュワーデスが女優だなんておもっていないからね。キャビン・クルーはバスケットやバレーボールのチームとおなじなのよ。ひとりひとりが、自分のパートを着実にこなすのが大事なのよ。できのいい歯車じゃないと困るんだよ」
どうやら、恵理はさくらの信用を徹底的に失ってしまったようです。成田にいる村沢や深山に「あれは駄目だ、使えないよ」などと報告されるんじゃないか、とおもい、恵理の気持はすっかり落ちこみました。
突然、2Lのインターコムが鳴り、一番近かったさくらが、恵理や敏美を手で制し、煙草を紙コップのなかでもみ消して調理室を出てゆきましたが、まもなく戻ってきて、
「ふたりとも、私と一緒にファーストのギャレイにきてちょうだい」
といいます。
映画上映中の暗い通路を背をかがめて歩いて、ファーストの調理室にゆきますと、主立《おもだ》ったスチュワーデスが、集められています。ぼてじゅう眼鏡も、恵理たちの後ろから顔をだしました。
だんなチーフは、
「カンパニイ・ラジオでいってきたんだが、バンコクの空港公団保安課が連絡してきて、このフライトに麻薬密輸犯が乗っている、というんだよ。詳細はわからないんだが、バンコクの警察に密告電話があったらしいんだね」
いくぶん緊張した顔で、報告しました。
「武器の密輸と違って、保安上問題はないんだが、できるだけ捜査に協力はしたいって、機長とも話してるんだ。映画を中断して、|機内アナウンス《PA》で、乗客《パツクス》の協力を依頼して、お客さんの了解がとれたら手荷物のチェックをやらせて貰ったらどうかと考えてるんだよ」
すると辰巳さくらが、
「映画を中断したり、手荷物のチェックやったりするのは、私は反対ですね」
そういいだしました。
「このフライトのお客は、いってみればお客のプロなんですよ。旅行が好きで、よく海外に出かけたりするんだけど、お金を支払った分だけ、目いっぱい楽しもうとするわけでしょう。映画を中断して、手荷物のチェックやったりしたら、お金損したって、文句いわれるんじゃないですか」
さくらが、こんなぐあいに、スチュワーデスの面前で、だんなチーフに楯《たて》つくことは珍しいので、日頃息が合うので有名な「薩長連合」にも、鍵の一件あたりがきっかけになって、ひびが入ったのかな、という感じを一座の者に与えました。
「武器の密輸と違ってだれかが麻薬運んでたって、お客さんにはなんの関係もないでしょう。ひとの荷物、ごちゃごちゃ掻《か》きまわしよって、映画も見られへん、このつぎから極東航空には乗ったらへんで、こうなるんじゃないですか。ねえ、敏美、大阪のひとはこう考えるんだよねえ」
敏美は、だんなチーフの手前、さすがに困った顔になり、返事をしません。
「国際線を運航する航空会社は、外国の官庁の依頼には、できるだけ協力しなくちゃならん、とおれはおもうんだな。こっちは海外各国にお客を送りこんで、儲《もう》けてるんだから、各国の官庁とは、交際《つきあい》をよくしとかなきゃいかんのだよ」
さくらのおもわぬ反撃に、円満な顔つきのだんなチーフもすっかり鼻白んだ表情です。
「ですから、結局、そういう政治的配慮を取るか、商売を取るか、どっちかでしょう」
さくらがいいつのると、だんなチーフは硬《こわ》ばった表情で、
「パーサーがOKしないんじゃ、しようがなか。大阪と成田の税関にまかすことにしよう」
そういって、問題を投げだしてしまいました。
恵理と敏美は、再び映画上映中の暗い通路を歩いて、エコノミーの客室に戻ったんですけど、先を歩いていた敏美が、
「恵理、こっちへきてんか」
2Lのドア・サイドに恵理を誘うんですね。
ドアについた小さな窓の傍で、ふたりが向い合うと、クロムスメの敏美は、
「恵理、ちょっとまずいことになったんとちゃう。うちら、少し話し合ったほうがええおもうんやね」
といいます。
薩長連合にひびが入り、クルーの人間関係が、がたがたになりかねないので、この際セミ同期同士の戦争は一時休戦にしよう、一時休戦をして、善後策を相談しよう、どうもクロムスメはそう提案しているようです。
「辰巳パーサーは、商売第一やから、映画中断したり、手荷物のチェックしたらあかん、いうてはるけど、もし麻薬がすぐ手近なとこから出てきたら、問題にならへんやろか。八一八便のクルー、バンコク空港公団の依頼に全然協力せえへんかった、そないいわれるんやない。チーフもパーサーも叱られそうな気がするんよ」
「麻薬は簡単にみつかったりしないとおもうけどねえ。バンコクの空港じゃ、荷物の開披検査を厳しくやってるし、麻薬専用の犬がいたでしょう。もし鞄《かばん》に入れたり、洋服の下にかくしていたりしたら、すぐに犬が鼻鳴らしてやってきて、つかまっちまうとおもうね。よっぽど意外な場所にかくしとかないと、運びだせないんじゃないかね」
恵理は考え考え、そう答えました。
最近検査が厳しいので、ゴム袋に麻薬の白い粉末を詰め、それを嚥下《えんか》して運ぶ連中もいる、とバンコクで聞いたばかりです。
その密輸犯のひとりが、ゴム袋を嚥下したあと、バンコクの繁華街で酒を飲んでいて、胃のなかのゴム袋が破裂して、死亡してしまう、という事件があり、この密輸方法が発見されたのだ、という話でした。
「だけどちょっと気にかかることがあるにはあるねえ」
ある考えがひらめいて、恵理は呟《つぶや》きました。
「21のエーブルのお客からバースデイ・ケーキ預ってるし、15のフォックスからは仏像を預っているでしょう。どちらも中身は白い粉てえことかもしれないよ」
敏美が「へえ」と唸《うな》り、
「さすがオチケンは頭がよう働くな」
とお世辞をいいました。
「ほな、うちらで調べてみよ」ということになり、恵理と敏美はそれとなく隙を窺《うかが》いました。
まもなく座席の後方で、騒ぎが起り、ぼてじゅう眼鏡が「パーサー、助けて下さい」とやってきました。
これも大阪便によくある話ですが、自分の免税品の持ち分の、ブランディ三本を買った日本人乗客が、もう二、三本免税で持ちこみたくて、隣席の中国人に持ちこんでくれ、と頼みこみ、トラブルになったらしい。
さくらが、調理室から出てゆくのを見送ると、恵理は、立ちあがり、14の収納庫を開き、ドライ・アイスの袋を取りのけて菓子の紙箱を取りだしました。注意してひもを解き、包み紙をはがし、紙箱を開きます。菓子は円盤型のケーキで、白いクリームをかぶせたうえに島のようにマンゴーが何きれかのせてあって、そのマンゴーの間に「HAPPY BIRTHDAY」とチョコレートで書いてあります。
敏美がのぞきこんで、
「なかなかうまそうなお菓子やね」
と呟きます。
「敏美、楊子《ようじ》で、この菓子を下から突っついてみちゃあどうかな。お菓子の裏はカステラみたいなもんだから、突っついてもわからないよ」
と頼んだ。
クロムスメがリカー・カートから爪楊子《つまようじ》を取りだし、恵理がナイフを下に入れて斜めに宙に浮かしたケーキの裏側から爪楊子を刺していきます。
まるでケーキの内側に麻薬入りのゴム袋が隠されていると確信しているような、慎重な手つきで、恵理は少し動悸《どうき》がし始めました。
密輸犯人にしては、おっとりした、育ちのよさそうな顔つきをした連中ですけど、まあ、人間、どんな裏があるか、わかったものじゃありません。
ケーキの裏側を丹念に突っついた敏美は昂奮《こうふん》に嗄《しわが》れた声で、
「なにも入ってへんな」
と呟きました。
「しかしこれは簡単やないかもしれへんな。この上にかぶさってるクリームがくせ者かもわからん。麻薬溶いて、お菓子に混ぜて運ぼう、そない考えてるのがおるかもしれんよ」
「21のエーブルのお客に、このケーキ、マンゴー使ってあるから、日本の検疫通りませんよ、そういっていま食べて貰っちまいますかな。彼らが屁理屈《へりくつ》こねて、食べないなんてえことをいいだしたら、こりゃ怪しいてえことになるな」
恵理はいいました。
「ただし今すぐは無理じゃないかな。映画、上映中でしょう」
「いやね、21のABCは、一番前で映画が見えへん席なのよ。彼ら、|読 書 燈点《リーデイング・ライトつ》けて、雑誌読んどるわ」
クロムスメは、ちゃんとぱっぱらぱあゴルファーの動静を見とどけてるんですね。
「あんたのおとぼけが役に立つんやないかな。ひと芝居打ってみる手やで」
クロムスメはそうけしかけます。
「よし、一丁やってくるとしますか」
恵理は調理室を出て、暗い客室を後方へ向いました。
「お客さま、申しわけありません。お預りしてたお菓子、日本の検疫でひっかかってしまうかもしれないんですよ。今、召しあがっていただいちゃあ、どんなもんでしょうか」
雑誌を暗い中空にかざしたまま、恵理の言葉を聞いていた丸顔、斜視ふうの男は、
「おれ、腹いっぱいなんだよなあ」
とうんざりしたような声をだしました。
恵理は「おや」と緊張したんですけど、男はすぐに、
「われわれに少しだけ貰って、あとはあなたがた食べてください。食べきれなかったら、捨ててよ。甘ったるい菓子なんか食う癖がつくと、ぶったるんじまって、あたらないゴルフがいよいよあたらなくなっちまうよ」
いかにもぱっぱらぱあな調子でいったものでした。恵理が、マンゴーがのったケーキを21のエーブルに持っていくと、丸顔のぱっぱらぱあは、
「おねえさん、東京の下町だよな」
いきなりそういいます。
「よくわかりますね。言葉がおかしいですか」
恵理は気になって訊《き》き返しました。
祖母の佳代子をはじめ、恵理の一家は、下町|訛《なま》りがひどくて、「ひ」と「し」の発音をよく混同したりします。佳代子は「|こんだ《ヽヽヽ》、恵理の乗っかる|しこうき《ヽヽヽヽ》は、|しるま《ヽヽヽ》出るのかい。それとも丑三《うしみ》つどきかい」などと訊いたりするんですが、恵理自身は自分の発音はまあまあとうぬぼれている。しかしやはり気にはなるんですね。
「言葉は、あんた、正しく喋ってるよ。だけどなんか匂っちゃうのよ」
どうやらこの男たちは麻薬密輸犯でないらしいとわかって、恵理もつい気を許してしまい、
「そんなに匂いますか。あたしバンコクでお風呂に入ってよおく洗ってきたんですけど」
とやってしまった。
「バンコクの石けんじゃ、下町の匂いは落ちませんよ。あんた、浅草かい」
「深川です」
「深川か。今年は富岡|八幡《はちまん》の本祭りだな」
男は呟いたもんでした。
残るひとつは「しもぶくれのおばはん」からだんなチーフが預った仏像です。
「もうすぐパーサー戻ってくるやろけど、このケースは、恵理からパーサーに相談したほうがええんやないかな」
敏美が、恵理の顔をみていいます。
恵理がさくらに睨《にら》まれているので、この際積極的なところを見せといたほうがいいんじゃないか。どうやらクロムスメの友情の発露のようです。
──友情大バーゲンじゃないか。クロムスメ、気持わるいぞ。
そうおもったが、そこは素直に受けて、
「そういたしますか」
と機体の後部へ歩いて行った。
頭を下げて歩いてゆく途中で、15のフォックスにすわっている、しもぶくれのおばはんが、税関用の書類に一心に記入しているのが眼に入りました。上映中の映画なんぞ見向きもせず、老眼鏡をかけ、買物の明細が記録してあるらしい手帖《てちよう》を眼に近づけたり、遠ざけたりしながら、書類に書きこんでいます。
──あのおばはんが密輸の犯人てえことになると、世のなか、みかけじゃまったくわからないってことになりますな。
たしかに仏像のなかに麻薬を入れて運ぶ、というのは、「お釈迦《しやか》さまでも気がつくめえ」奇想天外のアイデアではないか。奇想天外のアイデアであるだけに、現実味があるような気もしてくるんですね。
ちょうどトラブルの処理を終えて、辰巳さくらとぼてじゅう眼鏡が通路をこちらに引き揚げてくるところで、恵理は手洗いの前の暗がりで「パーサー」と呼び止めまして、ざっとケーキの件を報告しました。
「それからもうひとつ、あの15のフォックスのパックスから、チーフが仏像を預りましたよね。あの仏像、なかが空洞になってるみたいでしたけど、調べたほうがよくはありませんか」
そういった。
「クルーが預った品物のなかから麻薬が出てきたらまずい、とおもうんですよ。バンコク空港公団の依頼に対して、なにもしなかったことになるし、燈台もと暗しの見本みたいなことになりますよね」
さくらはじっと恵理の顔をみつめ、それから「ふうん」と唸って、15のフォックスのほうを眺めました。
「あのおばはんが麻薬と関係あるかなあ。麻薬より神経痛の薬に関係ありそうな感じのひとだよねえ」
大真面目でいって、首をかしげます。
「だけど、他人《ひと》に頼まれて、麻薬を運んでるってケースだって考えられるんじゃないですか」
さくらはしぶしぶという感じで、「とにかく調べてみようか」といいます。
調理室では、敏美が映画の終了後に出す、ジュースの準備を始めており、ぼてじゅう眼鏡は、免税品の総数をチェックし終え、売りあげた数字をはじき始めたところらしく、しかつめらしい顔でメモを眺めています。
食事の準備よりは、数字を眺めるほうがはるかにさまになっている感じでした。
仏像は、ぼてじゅう眼鏡が計算している、すぐわきのカウンターのうえに置かれています。
さくらは、ちょっと手を合わせて拝んでから、仏像を手に取り、裏返しにして眺めていましたが、
「ははあ、この貯金箱には鍵《かぎ》がかかるんだねえ。鍵穴があるよ」
といいました。
「鍵がついているんだから、これは貯金箱じゃないのかな。ほとけさんの格好した金庫かもしれないね」
さくらは呟き、それからふいに顔をあげて、
「山田君、先刻《さつき》、あんたが拾った鍵、ストアレジから持ってきてよ。あれ、まだパックスには返してないでしょう」
ぼてじゅう眼鏡は「はい」と威勢のいい返事をして、調理室を出てゆきました。
戻ってきたぼてじゅう眼鏡がリネンに包んだ鍵を差しだしますと、さくらは「ちょっと待って」と収納庫から手袋を取りだして両手にはめた。
鍵を受けとると、仏像の背中についている鍵穴に差しこみました。
ぼてじゅう眼鏡も敏美も、そして恵理も背後からさくらの手もとを眺めます。
鍵をつけたまま、さくらが仏像の背中の扉をひっぱったとき、恵理は一瞬、麻薬を入れた袋が跳びだした、とおもった。
たしかに白い包みが仏像の背中に開いた穴から跳びだして床に落ちたんですが、それは白い包みは包みでも、日本のちり紙を汚らしくまるめた包みです。
恵理がかがみこんで拾いあげ、ちり紙を開いていくと、なかから恵理が|ごみ用ワゴン《ウエイスト・カート》に捨てて怒られたげんのしょうこのバッグが現われました。
映画が終り、|指 示 盤《コントロール・パネル》のMOVIE STOPのボタンを押した恵理は、調理室にゆき、トレイにジュースをのせて、乗客に配りだしました。
トレイを配り終えて、ギャレイに戻ってくると、辰巳さくらが、妙に真剣な目つきで近づいてきて、
「恵理、あたしにも、どうも気になることがあるのよ。ジュースのサービスはほかのスチュワーデスにまかせて、助けてくれないかな。ひと芝居打って貰いたいのよ」
といいます。
「はあ、あたしは女優のはしくれだとおもってますから、お芝居なら、喜んでやりますよ」
少し皮肉めいた返事をしたんですが、さくらは取り合わず、
「髭《ひげ》はやした若いお坊さんがふたり、乗ってるよね。あの坊さんたちの持ち物、調べたいんだよ。景色を見ないか、とかなんとか、うまいこといって、ドア・サイドまでひっぱり出せないかな。ドア・サイドにひっぱりだして、できるだけ長くひきとめて貰いたいんだよ」
「いいですよ。やってみましょ」
恵理は答えて、ふたりの若い僧侶《そうりよ》に近づきました。
若い僧侶のひとりはうたたねをし、ひとりはオーディオを聞きながら、ウィングという機内雑誌を拡げています。
「ここのお席は通路側で、外が見えないからお疲れになるでしょう。よかったら、気晴しにドアについた窓から表をご覧になったらいかがですか」
恵理が誘うと、
「風景よりもね、ぼく、|伸び《ヽヽ》がしたいんですよ。すわり続けは参るよねえ」
機内誌拡げてるほうがそういって立ちあがり、「おまえも交際《つきあ》えよ」とうたたねしてるほうを突っつきます。
ふたりは、恵理に先導されて、ドアの傍《そば》にゆき、僧衣の袖をたくしあげ、おもいきり伸びをします。
恵理が操作をして、ドアについている窓の間仕切りを開けますと、ふたりは顔をくっつけ合うようにして、表を覗《のぞ》きこみました。
その向うをさくらが敏美を従え、「頼むよ」というふうに背中で手を振ってみせて、通り過ぎてゆきます。
──よし、落語を一席やって、この連中を引きとめてやるか。
恵理はそう考えました。
寺に関係があって、話は簡単、そのくせ長くひっぱれるはなしとなると、なんだろう。「寿限無《じゆげむ》」だ、寿限無で、この坊さんたちのご機嫌を伺ってみますか。
窓から眼を離したふたりに向い、
「私、学校でオチケンにいたんですけどね、お坊さん見ると、どうしても寿限無って落語、おもいだしちゃうんですよね」
恵理はそういってみました。
「へへえ、あんた、オチケンにいたの」
おそらくついこの間まで仏教系の大学にいたらしいふたりは、たちまち話に乗ってきました。
恵理はちょっと姿勢を整えると、「ええ、一席伺います」と作り声をだしました。
「和尚《おしよう》さん、あっしに男の子が生れましてね、いえ、あっしじゃなくてあっしのかかあに生れやしたんですがね、これがお寺に行って、和尚さんに名前をつけて貰ってこい、そういって聞きやがらねえんですよ。あんな寺の坊主、面《つら》見るのもまっぴらだあ、おふくろの葬式のときにゃあ、ここぞとばかり、儲けやがった。こんだも会いに行っただけで、金を取られんじゃねえか。そういったんですがね。おやおや、面と向って欲ばり坊主呼ばわりは恐れ入るな」
ふたりの僧侶は笑いだし、その向うでは、さくらと敏美が彼らの席に近づき、座席のうえの毛布や枕を片づけるふりをして、座席の周囲を調べる気配です。
「ともかく愚僧に名づけ親になれ、というお頼み、しかと承知つかまつった。でどうかな。鶴は千年の寿《じゆ》を保つというから、その鶴をとって、鶴太郎、鶴之助というのは。そりゃ、いけませんや、千年と限られると、千年で死んじまうことになりまさあ」
|手洗い《ラバトリイ》へゆこうとした乗客が、「なにやってるの」といいながら、立ち止まり、そのまま恵理の話に聞き入ります。
例の「ぱっぱらぱあ」の連中も、早速やってきて、五、六人の人垣ができました。
「いっそ経文の文字を取ってつけたら、どうじゃな。たとえば寿限無ていうのがある。寿、限りなし、つまり死ぬときがない、というめでたい言葉じゃ。こりゃ珍しいな、和尚さん、スチュワーデスの名前にも、寿限無なんてなあ、ありませんぜ。まだ、いくらもある。五劫《ごこう》の摺《す》り切れはどうかな」
恵理は低い声で一席、伺っているんですけど、機内の注目が次第に集り始め、その間隙《かんげき》を縫って、さくらと敏美は、僧侶の手荷物の中身を調べたりしている気配です。
「海砂利水魚《かいざりすいぎよ》などはどうじゃ。海の砂利、水に住む魚、いずれもきりがなくて、とりつくせない、という意味でめでたいな。ほかになんかありますか。|水行末 雲行末 風来末《すいぎようまつうんぎようまつふうらいまつ》というのがあるな。水の行くすえ、雲の行くすえ、風の行くすえ、果しがなくて、これも結構だな」
人垣の向うで、さくらが僧侶の土産の水牛の角《つの》を手にしているのが見え、恵理は「あっ」とおもった。あっとおもった瞬間に次の言葉が出なくなり、「どうした」とだれかが声をかけます。
「次はヤブラコウジのブラコウジだよ」
ぱっぱらぱあがすかさず、茶々を入れます。
「ご協力、ありがとうございます」
恵理は挨拶をして、
「ヤブラコウジのブラコウジ、というのもあるぞ。和尚さん、こちとらが無学だとおもってからかっちゃいけねえや」
と続けました。
「和尚さん、こりゃあどの名前をつけてもね、あとあと病気でもされりゃあ、あのときゃあこれじゃなくてあの名前にしときゃあよかった、そんな愚痴が出るんじゃあねえですか。めんどくせえから、みんな一緒くたにつけちまいましょうや。じゅげむじゅげむ、ごこうのすりきれ、かいざりすいぎょのすいぎょうまつ、うんぎょうまつ、ふうらいまつ」
例の長々しい名前を喋《しやべ》り始めましたが、困ったことに、さくらと敏美はなかなか僧侶の席を離れません。
恵理は、いつものおとぼけ顔を忘れて、脂汗を流し始めました。
「ポンポコナの|長 久 命《ちようきゆうめい》の長助さん」まできて、やっとふたりが席を離れるのが見え、恵理はほっと息をついて、「飛行機の到着の準備もよろしいようで。お粗末でございました」と頭を下げました。
ぱちぱちと意外におおきな拍手が起り、「富岡八幡、うまいじゃないか。玄人《くろうと》はだしよ」とぱっぱらぱあに肩、叩かれて、恵理はギャレイに帰ったんですが、さくらは黙って首を振ります。
「恵理には熱演して貰ってわるかったけどね、なんにも出ないんだよ」
さくらは、通関の書類を配った折に、ふたりの僧侶に大阪での通関、特に土産物の通関について、執拗《しつこ》く訊かれ、疑いを抱いたらしい。
「あたしの勘もあてにならないやね」とさくらは鬢《びん》のほつれ毛を掻きあげてぼやき、恵理もモンチッチふうにいえば、落語の熱演が役に立たず、「めげこける」おもいです。
調理室では、敏美が、
「山田はん、ストッパー、チェックして、コーヒーとお湯、捨ててくれへんか」
と怒鳴っています。
着陸に備え、調理棚の下に戻してある酒類や昼食のカート、免税品を積んだカートの|ブレーキ《ストツパー》がかかっているかどうかをチェックし、さらにカートが調理棚にしっかり固定されているかを確認しなくてはなりません。これも安全の目的から、コーヒーや熱いお湯はすべて流しに捨てておく規則になっています。
すぐにベルト着用のサインが点きましたが、クルーは働き続けます。敏美のほうは、スチュワーデスが回収してくるジュース用の紙コップをぽんぽんウエイスト・カートに投げ棄て、調理棚のうえを整頓《せいとん》している。
恵理は恵理で、映写幕に使った| 額 《スクリーン》をひっくり返してもとに戻したり、お客からイヤホーンを回収したり、こちらもえらく目まぐるしい。
やがて機内のチャイムがいっせいに鳴ってオール・コールです。受話器を取った恵理の耳に、「高度一万フィート、通過です」という副操縦士の声が響きました。
なおも機内を小走りに動きまわり、駆けこむようにして、2Rの乗務員用座席《ジヤンプ・シート》にすわると、主翼のフラップが轟音《ごうおん》をあげて滑り降りてゆく音がして、俄《にわ》かに風を切る音が激しくなります。スピードの落ちる軽い衝撃があり、「禁煙」のサインと同時に三つの脚がこれもおおきな音をたてて、下ってゆきます。
続いて脚の固定《ロツク》される硬い音が耳を打ちます。
エンジンの音が切れるような感じで低くなると、八一八便は、大阪国際空港に着陸しました。
機首の車輪が滑走路中央のライトを踏んでゆく音を聞きながら、恵理も敏美も、機体がタクシー・ウェイに入るや否や、跳びだそうと身がまえています。タクシー・ウェイに入ったところで、ジャンプ・シートを立ち、靴をロウ・ヒールからハイ・ヒールに履きかえ、帽子をかぶり、白手袋をはめなくちゃなりません。
ふいに目の前に影が差し、恵理が見あげると、僧侶一行のリーダー、眉毛の濃い荒法師が立っています。
恵理は「お客さま、席にお戻りになって下さい」といいかけたんですけど、それより早く、
「あの肥えたおひとは、どこにいてはんのや」
荒法師が訊《たず》ねます。
「客室の後ろのほうにおりますよ。お呼びいたしますか」
機内電話に手を伸ばそうとしたんですが、荒法師の立ちあがるのを見たらしく、客室後部のほうから、だんなチーフがこちらに歩いてきました。
「ちょっとあんたに見て貰いたいんやが、あれはなんやろか」
荒法師の指差すほうをみますと、ふたりの若い僧侶が、さかんになにか喋り合っている。
その足もとに水牛の角が落ちていて、角のくちにはめてあった詰め物が、はずれ、白い粉末が床一面にこぼれ落ちています。
「あれは見習い中の坊主で、一人前の僧侶やないんやが、なんやつまらん買物《かいもん》をバンコクでしよったんとちゃうか」
荒法師にも白い粉末の持つ意味はわかっているようです。
「先刻《さつき》は角のくちになにやらきつう詰めてあって開かんかったんやけど、着陸のショックで外れたんやね」
敏美が呟きます。
荒法師は床にたまった粉末を呆然とみつめながら、
「片っぽうは鹿児島、もうひとりは山口の出身なんやが、どうも薩長《さつちよう》いうような組合わせはあかんのやなあ」
そう独りごとをいい、恵理と敏美はおもわず顔を見合わせました。
ふたりの若い僧侶は、大阪空港で荒法師に附《つ》き添われて、警察に自首したんですが、八一八便のクルーは、爾後《じご》の措置を地上《グランド》のスタッフに引き継いで、そのまま成田に向いました。
この八一八便には、大阪からは新たに八名のクルーが乗務してきて、それまでの十二名はお払い箱になりました。
交代要員《デツド・ヘツド》に代ったわけで、それぞれに制服のうえにジャケットを羽織ったり、スウェーターを着こんだりして、調理室の傍、「仏跡視察団」が降りたあとあたりに、目立たないようにすわります。
「仏跡視察団」や「しもぶくれ旅行団」の降りた機内はがらがらで、新たに乗ってきたクルーたちは手持ち無沙汰の感じですが、恵理たちのほうは残務整理をかかえこんで、相変らず忙しい。
だんなチーフは、辰巳さくらと相談しながら、成田到着後に提出する「CABIN ATTENDANT REPORT」を作成しています。
さくらがふたりの僧侶に対して勘を働かせ、それが結局はだんなチーフの方針に沿った格好になって、ふたりの仲はもとに戻ったようですけど、リポートのほうは密輸の一件と、鍵を手洗いにおとしたあたりが、ポイントになるのでしょう。
通路を隔てた隣りの列では、ぼてじゅう眼鏡が、在庫整理《インベントリー》の|しめ《ヽヽ》にかかっている。
恵理とクロムスメも、ぼてじゅう眼鏡を助けて、シンガポールやタイの通貨、ドルに円札などをそれぞれ仕分けして、通貨別に勘定をし、メモしてゆきます。
通貨別にメモした数字を恵理が積算してみると、ぼてじゅう眼鏡が割りだした売りあげの数字とぴたり一致しました。
「はい、あたっています」
恵理はおもわず叫んで、
「おぬし、できますな。あんなに猛烈に売りあげたのに、一発であたってしまうなんて、いや、拙者も兜《かぶと》を脱ぎます」
すっかり、感心していいました。
酒、煙草、香水などなど、残品がないほど売りあげたのに、そしてその代金が東南アジア各国のさまざまな通貨で支払われたのに、ぼてじゅう眼鏡の計算は、ぴたりと合っていて、狂いがありません。
「ぼてじゅうはん、よう気張ったね」
敏美も、労をねぎらいます。
ぼてじゅう眼鏡は頭を掻《か》いて、
「たまには頑張らないと、あいつはラバトリイの落し物専門だなんて、評判が立っても困るからねえ」
そんなことをいい、一同を笑わせました。
「チーフ」
精算を終えたぼてじゅう眼鏡が、通路の向う側のだんなチーフに話しかけます。
「あの若い坊さんたちのうちね、麻薬をこぼしたのはどっちなんですか。薩摩《さつま》なんですか、それとも長州のほうなんですか」
「その点はおれも聞きそこなったんだな。だが、ぽかっとおおきく抜けるのは薩摩じゃないかな」
だんなチーフは、禿《は》げた額《ひたい》を撫《な》であげて、そういいます。
「しかしワラワン殿下は、あれこれと想像を働かせて、ケーキを突っついたり、落語を熱演して、パーサーがチェックする時間を稼《かせ》いでくれたりしたらしいじゃないか」
すかさず辰巳さくらが口を入れてきて、
「ワラワンは使えますよ。二枚目じゃないけどね、三枚目にしちゃ芝居もうまいし、機転がきくしね」
そう評価してくれました。
「おれ、よくおもうんだけど、プライドの高い乗務員には、頑張り屋が多いよ。プライドの高い人間はよく仕事をするんだ。恵理がプライドが高くて笑わないのは、マイナスじゃない。むしろプラスだとおもうね」
初めて恵理をみとめてくれるような発言をします。
恵理は弾む気持をおさえ、話が一段落したところで、
「敏美、深川祭りのおみこし、見にこないかな。同期のモンチッチや千秋、村沢教官も招《よ》ぼうとおもってるのよ」
そう誘いました。
クロムスメの敏美は、微笑を浮べて、恵理の隣りにすわっているぼてじゅう眼鏡に向って、
「ぼてじゅうはん、恵理がおみこしかつぐの、みにいってみよか」
そう誘いました。
新しい友情に似た空気が機内に漂い始めました。
翌々日、乗務が休みの恵理は、祖母の佳代子と、ひさかたぶりに富岡八幡の縁日に出かけました。
富岡八幡には、いまだに月の一日《ついたち》と十五日に縁日が立つんですね。
金魚売り、植木屋がならび、そのあいだをお好み焼き、たこ焼き、いか焼きの匂いが流れ、あちらではわたあめが、煙のように白い糸をひいて、子どもに手渡されていて、奥行きの深い境内はすっかり初夏の風景です。
「おばあちゃん、うちのチーフがあたしのことを、ワラワン殿下て呼ぶんだけど、ワラワン殿下てどんなひとだろうねえ」
「ありゃ、おまえ、昔ワイワイ殿下てひとがいたんだよ。たしか新宿でカレー・ライス屋やっててね、インドの独り立ちに加勢したひとだよ」
佳代子は、やはりしもぶくれ型体格で、ゆっくり歩くんですが、口だけは、はきはきと達者です。
「おばあちゃんも話を作っちまうからねえ。殿下が、なんで新宿でカレー・ライス屋やるのよ。それにチーフはたしか戦争中のタイのひとだ、てなこといってたよ。インドはこの際関係ないんじゃないのかな」
学生時代、落語ばかりやっていた恵理の知識もすこぶる曖昧《あいまい》です。
「落語のおねえさん、おとついは、すっかりお世話になっちまったね」
声がして振り向くと、上布《じようふ》かなにかを着た、和服姿の男が三人立っている。
よくよく眺めると、先日のバンコク・大阪のフライトに乗っていた、「ぱっぱらぱあ」三人組です。
驚いたことに、ギプスをはめていた男も、両足で、なにごともなかったように立っています。
「足はもうよくなったんですか」
おもわず、恵理が訊ねると、
「いや、ありゃあね、酔狂にやったんだよ」
丸顔の男が、年甲斐《としがい》もなく、ちらりと舌をだして、意外なことをいいだしました。
「今度の旅行じゃね、遊びをしかけてやろうとおもってね、向うのインチキ医者にギプスはめて貰ってね、そのなかにポルノの写真や本を詰めこんで帰ってきたんだよ。だけど日本の税関はすごいやね、一発でばれちまって、医者立ち会いでギプスこわされて、全部没収よ」
おもしろくないから、今日は三人で飲みにでかけることにしたんだが、時間が早いので、縁日をひやかしにきたのだ、と丸顔、斜視ふうの男は説明します。
「ところで、真面目な話、本祭りじゃあ、やっぱりみこしをかつぐのかね」
「ええ、かつぎますよ」
「それじゃあ、おねえさんのすぐうしろでかつがせてくれよ。おれたち、おねえさんに触ったりしないで、真面目にかつぐからさ」
三人は、少々|卑猥《ひわい》な感じで笑いました。
深川祭りじゃ、滅多にそんなこともないようですが、ほかの町の祭りじゃあ、みこしをかつぎながら、前の女性の胸もとへ手を差し入れたりする不心得者がいるんですね。
「だけど、あのいろの黒いスチュワーデスもきますからね。不真面目なかつぎかたすると、飛んできてぶっとばされますよ」
恵理がいいますと、丸顔の男はおおあわてで手を振りました。
「ありゃあいかん。ほんとにギプスはめなくちゃ、いかんことになるよ」
ぱっぱらぱあ三人組は、頭をかかえる真似をして遠ざかってゆきます。
「あれは、フライトで一緒だったお客さんだよ」
恵理が佳代子にいうと、佳代子は、
「飛行機の乗組員も、薩摩や長州の品《しん》のわりい田舎もんらしいけど、お客も品《しん》がわりいねえ。乗組員も乗組員なら、お客もお客さね。これじゃあ、おまえが殿下になっちまっても不思議はないってこった」
恵理は聞き流しながら、夜空に祭りの風景をおもい描いていました。
みこしの屋根の鳳凰《ほうおう》が夏空に上下し、バケツの水が四方八方から飛んできて、陽にきらめきながら、空を舞います。巨大な深川ディスコの出現です。
──町内に話をつけて、クロムスメのやつにみこしをかつがせてやろうか。
敏美はちびだから、男たちに「みこしにぶらさがるな」って怒鳴られ、襟《えり》もとつかまれてはじきだされるに違いありません。しかし敏美は、その度に闘志を燃やして、もう一度みこしにぶつかってゆき、かつぎ手のなかに割りこんでゆくんじゃないか。
敏美のきらきら光る眼が、目《ま》のあたり浮び、恵理は、「セミ同期、そのうちもう一度勝負しましょうや、覚悟はよいな」そう呟《つぶや》いて、おとぼけ顔に真面目な表情をうかべたものでした。
昭和五十八年十月新潮社刊
〈底 本〉文春文庫 平成三年十一月十日刊