家畜人ヤプー
沼正三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)日本人留学生|瀬部《せべ》麟一郎《りんいちろう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから○字下げ]
[#表示不能に付き置換え]:unicode文字のため「扉」などで表示できない文字を置き換え。同梱の注釈を参照のこと
(例):祈祷[#表示不能に付き置換え]
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注意
半角縦中横から半角英字を抜くこと
底本データ(推測)
都市出版社版(1970年)全28章。
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目 次
第一章 発端
1家畜調教問答
2ポーリン・ジャンセン
3クララと麟一郎《りんいちろう》
4自慰《オナニー》
5空飛ぶ円盤
第二章 円盤艇の内部
1美女と侏儒《しゅじゅ》
2読心家具《テレパス》
3畜人犬《ヤップ・ドッグ》ニューマ
4狩猟犬訓練
第三章 驚くべき真相
1自己紹介
2有翼四足人《プテロ・カドルペス》哀史
3宇宙帝国『イース』
第四章 ヤプー本質論
1|知 性 猿 猴《シミアス・サピエンス》とは?
2畜人論の成立と意義
3知性ある家畜
第五章 宇宙帝国への招待
1ヤプーとの接吻《せっぷん》
2女王の土産
3愛の誓い
第六章 便所のない世界
1着替え
2三色摂食連鎖機構《トリコロル・フッドチェーンシステム》
3標準型肉便器《スタンダード・セッチン》
第七章 第一の経験
1家畜語《ヤプーン》概説
2ある肉便器《セッチン》の個体史
3ASHIK, UNGK
4肉便器《セッチン》の初使用
第八章 二千年後の地球へ
1円筒船《シリンダー》『氷河《グレイシア》』号
2三貴族登場
3腕送話器《リスト・マイク》と頭蓋内蔵受話器《ビルトイン・クレイニアルイヤホーン》
第九章 別々になって
1皮膚窯《スキン・アブン》
2霊液《ソーマ》と矮人《ピグミー》
3矮人種の歴史と現状
第一〇章 矮人決闘
1小決闘士箪笥《グラジャトーレット・チェスト》
2便器使用風俗
3肉体の変質
4|切 腹 演 戯《ハラキリ・プレイイング》
第一一章 別荘到着第一歩
1|複 式 動 路《プルラル・エスカロード》
2隧道車《トンネル・カー》
3|足 項 礼《フット・ネッキング》
4自動椅子《オート・チェア》
5緩解注射
第一二章 水晶宮の上階と地階で
1靴具畜人《シュー・ヤプー》
2麟一郎大暴れ
3愛の告白
4皮膚反応痛《デルマチック・ペイン》
5鞭打《むちう》つために飼う家畜
第一三章 美女と野獣
1再会
2ウィリアムの心配
3|郭 公 手 術 法《クックー・オペレーション》
4子宮畜《ヤプム》
5破綻《はたん》
第一四章 二つの手術
1昏睡波動《コーマ・ウェイブ》
2|特 別 檻《スペシャル・ペン》
3|人 工 動 物《アーティシャル・アニマル》「去勢鞍《カスト・サドル》」
4五趾足《ごしそく》整形
5如意鞭「珍棒《ティンボウ》」
6家畜語《ヤプーン》学習と生本能注射
第一五章 海辺のドリス
1畜人皮《ヤップ・ハイド》の|水 中 服《ウォーター・スーツ》
2両棲畜人《アンフィビ・ヤプー》ピュー
3畜人馬《ヤップ・ホース》アマディオ
第一六章 夜明けの予備檻で
1悪夢と指輪(上)
2悪夢と指輪(下)
3家畜適性検査《ドメス・テスト》
4先端器試験《コブラ・エグザム》
5赤《レッド》クリーム|馴 致《コンバーション》
第一七章 畜舎のドリス
1予備檻《スペア・ペン》へ
2電気針服従度試験
3ドリス対|麟一郎《りんいちろう》
4恋人から女主人へ
第一八章 神々の起床
1肉反吐盆《ヴォミトラー》と|香  楽  浴《パーフュム・ミュージックバス》
2霊乳浴《オロニア・バス》と唇人形《ペニリンガ》キミコ
3黒奴監督機《ネグロ・コントローラー》
4化粧肉椅子《トイレット・チェア》と|畜 肌 焼 彩《ブランディング・タトゥ》
第一九章 朝のひととき
1私室のドリス
2|携 帯 諮 問 器《ポケット・レファランサー》
3鞭《むち》を惜しめば……
4恋人から家畜へ
第二〇章 霊液パーティー
1美少年登場
2|畜 体 彫 塑《ボディ・スカルプチュア》
3クララの心理
4畜体検査諸景
5手提袋《ハンド・バッグ》と聖水瓶《ユーア》
6男のズボン論議
7イース女権制略説
第二一章 畜籍登録手続き
1光幕を隔てて
2物々交換取引
3|新 畜 登 録《ヤプーナル・レジスター》
4人畜初対面
5|権利宣言の鞭《デクレアリング・ラッシュ》
6蹴《け》られ踏まれ鞭《むち》打たれ……
第二二章 畜人洗礼儀式
1口唇締金具《リップ・ファスナー》
2|光  傘《ヘイロ・パラソル》
3賭《かけ》と討論
4|聖 尿 灌 頂《ユーリナリ・パプテイズム》
5馬形双体《セントーア》と飛行下駄《ジェッタ》
第二三章 『竜巻』号飛ぶ
1賛美歌と説教
2竜《りゅう》に乗る人々
3人類の近き未来図
第二四章 長椅子の上と下
1祈りは聞かれた
2日本の滅亡と『邪蛮《ジャバン》』の誕生
3従畜馴致椅子《ティミング・ソファ》
第二五章 『高天原』諸景
1飛行島《ラピュータ》着陸
2軽畜車《プクーター》
3天照大神《アンナ・テラス》
第二六章 遊仙窟で
1雪上畜《プキー》
2アンナ・テラスの慈畜主義《チャリティズム》
3『記紀』解義 (一)[#表示不能に付き置換え「○に漢数字の一」]天の岩戸
第二七章 狩猟場へ
1|足 踏 錠《ステッピング・ロック》と肉リフト
2『記紀』解義 (二)[#表示不能に付き置換え「○に漢数字の二」]大蛇《オロチ》退治
3『記紀』解義 (三)[#表示不能に付き置換え「○に漢数字の三」]神勅と神器
4黒色猟獣《ブラック・ゲイム》
第二八章 矮人の死・黒奴の死
1|検 尿 矮 人《ユーリナリ・ピグミー》
2ある矮人《ピグミー》の死と呪咀《じゅそ》
3ある黒奴《ニガー》の死と祝福
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その時魔女(キルケ)は杖あげて
われを打ちつつ叫びいふ
「いざ今汝獣欄(獣の檻)に
行きて他と共そこに臥せ」
ホメーロス『オデュッセーア』
(土井晩翠訳)
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第一章 発端
1家畜調教問答
一九六×年の夏の午後、西独はヴィスバーデンに近いタウヌスの山腹のゆるやかな登山道を、騎馬で登ってゆく男女の二人連れがあった。上着が黒、ズボンが白の揃《そろ》いの乗馬服装だが、馬術のほうでは前に立った女のほうが指導者格らしいことは、手綱の引き方、騎座の締め方だけからでも明らかに見てとれた。男のほうはつい遅れがちになる。その二頭の馬の、先になったり後《あと》になったりして走ってゆく見るからに軽快なグレイハウンド種の犬は、馬上の二人の、どちらかの飼犬に違いない。
「乗馬はどうも苦手だ。人間相手のスポーツのほうがいいや」
男が弱音を吐いた。浅黒い肌、黒眼にして黒髪、東洋人らしい。ちんまりした鼻、高い頬骨《ほおぼね》、典型的な蒙古《もうこ》型の容貌《ようぼう》だったが、広い額が聰明な知性を表わし、総体的には頼もしい印象を与える顔であった。
「貴方《あなた》はまだ馬に遠慮してるとこがあるのよ、それがいけないの。馬ってものは、一度増長させたら癖馬になってしまうのよ。こちらのほうが強くて偉いんだということを馬にのみ込ませるまでは、徹底的に責めつけなくちゃ……」
女は白人である。栗色《くりいろ》の髪、茶色がかった目、そして、肌は白磁のように白い。それに肉の薄い鼻と引き締まった唇《くちびる》とが、やや面長な顔に適度なアクセントを与え、その雰囲気《ふんいき》には、ある鋭敏さと冷酷さがないまざった不思議な魅力があった。
男はいった。
「そう思っていても、鞭《むら》や拍車を使うのが何だか可哀そうで、同情《ミットライト》を感じちゃって……」
「馬に同情するのは調教には禁物よ」、赤革《あかがわ》の細鞭をビュッと空鳴《からな》りさせながら、女が答えた。「だいたい、同情《ミットライト》ってものは自分の同類《ミットゲシェフ》に対して持つものよ。家畜に同情するなんておかしいわ」、女には、ピシッと定まった厳《きび》しさがあった。
「しかし、動物は愛護すべきものじゃないか……」
釈然としない男に対し、
「甘やかすことはいけないわ。家畜に対する貴方は甘すぎるわよ、あのタロだって……」と、女は馬の前後を駆ける犬を鞭でさしながら、「貴方が飼ってたときに比べて、妾《あたし》が仕込んでからどれほど芸を覚えたか」と応ずるのだった。
「それは認めるよ」
面目なげに男が答えると、あまりそれが素直すぎたのに女は気がとがめ、自分の言い過ぎを後悔したのか今度は優しく、
「いいのよ。貴方にはジュウドーっていう特技があるんだから……」
ジュウドー? 男はどうやら日本人のようだった。そういえば、男が女に贈ったものらしい犬の名タロも、『太郎』という日本的な呼名と通じるところがある。
階段の踊場のように、山道の途中に作られた樵《きこり》小屋の広場、遠くに水の音が聞える静かな場所に来ると、二人は馬をつないだ。いかにも楽しげに寄り添い、いたわり合った。相思相愛の絆《きずな》で強く結ばれている間柄であることが見てとれた。この二人が、今目前に迫りつつあった奇怪な運命について少しも感知しなかったとしても不思議ではない。運命の幕は既に開《あ》き、二人をしっかりと捕《つか》まえてしまっていたのだ。
2ポーリン・ジャンセン
同じころ――かつ千五百余年も昔、といえばおかしく聞えるかもしれないが、とにかく同じころ、しかも千五百余年も昔のことと思っていただきたい。
西紀三八×年の中欧の空に、不思議な物体が浮んでいた。
地上には、南へ南へと進む大部族の行列が見られた。金髪を長く肩までたらし、槍《やり》と楯《たて》を握った男たちが前後に、子供連れの女どもを中に守りながら草原を進んでいた。白皙《はくせき》長身のゲルマン族の、大移動の一齣《ひとこま》でもあったろうか……。
「やっ、何だ、あれは?」
一人が天の一角を指さした。オレンジ色に輝く円盤状の物体に気づいたのだ。
「鳥ではない!」
「大神オーディンの遣《つか》わされたものではないか?」
「いや、日神フライの船、スキドブラドニルが飛んでいるのだろう!」
一行がようやく騒然となったころ、不思議な物体はいつか消えていた。
不思議な物体――宇宙帝国『イース』(EHS)の航時遊歩艇《タイム・ヨット》であったが、その操縦席にいたのは、イースの大貴族、ジャンセン侯爵家の嗣女として、またシリウス地区検事長として知られるポーリンであった。彼女は望遠レンズから壁面に投射される地上の有様をながめながら、時々ボタンを押しては立体写真《ステロ・フォト》に撮影していた。地球三八×号台諸球面の空間を遊弋《ゆうよく》しつつ、宇宙人類の遠い祖先であるゲルマン人の大移動の有様を実見しているのだった。
本国星《ホーム・プラニト》にある本邸で、腰には|貞 操 帯《チャスティティ・ベルト》をつけて、彼女の帰りを待ちわびつつ絵を描いているであろう夫《つま》ロバートのことをなんとなく思い出したのは、こちらを指さして何かいっている大写しの顔がロバートそっくりの目鼻立ちをしているうえ、表われている畏怖の表情にも、ポーリンが手ずから貞操帯に錠をかけてやったときの彼とよく似たものを見つけたからである(男が夫《つま》と呼ばれ、貞操帯をかけられるという習慣は、イースの完全女権制度のためである。第二〇章7「イース女権制略説」参照)。彼女は急に本国が恋しくなり、帰りたくなった。
でも、本国星《カルー》へ帰るのはまだ二週間も先のことであった。ともかく、その日の遊航《ドライブ》は切り上げることにしてポーリンは、原球面で待っているであろう妹や兄(妹を兄より先にいうのは、これまたイースの女権制のゆえである)のことを思った。
高度一万メートル――今まで一つ所の風景と人物を示していた立体レーダーはみるみる遠景になって広大な地域を包み始め、やがて中欧の雄大な山脈群を示した。
時間軸に固定して作動する次元推進機《ディメンショナル・プロペラ》の槓桿《レバー》を零《ゼロ》から未来《プラス》に切り換え、機関《エンジン》を全速力にする。速度計の目盛りは時速六百年をさしていた。六秒ごとに、一号ずつ球面を乗り越えてゆく。六秒が地上の一年に当るのだ。昼夜交替があまりに短いのでいちおう昼間の明るさを持続してはいたが、山頂に積もる雪線が冬と夏の両限界を六秒ごとに目まぐるしく往復して波打つ有様には、見慣れない者は目を見張るであろう。
しかし、航時遊歩艇《タイム・ヨット》では当り前のことであり、ポーリンはそうした風景を見ることもなく、操縦席を離れてあとは自動操縦装置にすべてを任せ、自分はゆったりと長椅子に腰をおろし、前にうずくまる肉足台《スツール》に足を載せ、精気煙草《ホルモン・シガー》をくわえるのだった。
地球紀元三九七〇年の原球面まで、六時間は充分かかるだろう。
3クララと麟一郎《りんいちろう》
一九六×号球面では、樵《きこり》小屋の中で二人の話がはずんでいた。お互い、それぞれの指輪を薬指から抜き取り、彫り込まれた細字を見つめ合った。男のには二人の名前が、女のには少々大時代な誓いの言葉が彫られていた。男は、自分のを指に戻してシガレット・ケースを取り出しながら、女の持つ指輪をしげしげと見て、
「それを注文する前に両親には報告して――もちろん認めてくれてね、妹だって――百合枝《ゆりえ》というんだけど――大喜びさ」
「妹さんにお会いするの、楽しみにしててよ」
女は仕合せそうに微笑《ほほえ》み返した。
「日本で披露するときは、日本風の儀式でやってみないか」
男はいいだした。
「日本風のは三三九度といってね、新郎・新婦の両方を示す二つの酒器から酒を注《つ》いで、それをお互い三口で飲むという象徴的な儀式をするんだ……」
「おもしろそうね、お願いするわ。……それから妾《あたし》、フジヤマ登山したいの」
「よし、いっしょに登ろう、約束するよ」
「フジヤマっていえば、妾、『独訳日本伝説集《ヤバニッシェ・ザーゲン》』でね――」、女は男の祖国への関心のあり方を誇るかのように、珍しい本の名まで持ち出していった。
「こんな話を読んだわ。――天上界の女性が地上に降りて男性をからかうの。天皇《カイザー》はじ|め日《*》本の男性たちに難題を出して苦しめたあげく、誰《だれ》にも身を許さずに天に戻ってしまう話よ」
「わかった、タケトリ物語だね」
[#ここから2字下げ]
*『竹取物語』では、難題を出される男たちの中に天皇は含まれていない。独訳者の誤りというより、女の記憶違いであろう。
[#ここで字下げ終わり]
「あの中に、フジヤマが煙を吐いてるってあったけど……」
「今は休火山で、煙なんか吐かないよ」
「また火を噴《ふ》かないかしら? 妾、煙を吐いているフジヤマ[#「煙を吐いているフジヤマ」に傍点]の頂上に立ってみたいわ」
「クララ、君も相当難題を出すね」
「妾、天上界に属する女性[#「天上界に属する女性」に傍点]だからね……」
相愛の二人のこの楽しい冗談が、二十数時間後にはもう冗談ではなく、おのおの奇妙な立場でこのときの会話を思い返すことになろうとは、二人は夢にも知らない。
クララ・フォン・コトヴィッツ嬢は東独の名家の生れだが、幼いころ、ドイツの敗戦のどさくさ[#「どさくさ」に傍点]で両親・兄弟は死に、姉レナーテとも離れ離れになって天涯《てんがい》孤独の身となった。召使いに助けられて酉独にのがれ、豊富な遺産と父の友人の庇護《ひご》により、以来十年の学生生活を送ってきた。現に女ながら大学馬術部の主将として活躍している一方、天成の美貌《びぼう》とあふれる才気によって「大学の女王」と称《よ》ばれる存在でもあった。
そういう女性と婚約して、級友にうらやましがられている日本人留学生|瀬部《せべ》麟一郎《りんいちろう》は当年二十三歳。前年東大法学部卒業後、最年少で留学して来た秀才で、かつ柔道の名手である。
来春彼の卒業後クララも連れ立って日本を訪れ、拳式の予定であった。
「ちょっと水を浴びてくるよ」
麟一郎は煙草《たばこ》を捨てて立ち上った。足元にはいつの間にか、彼がクララに贈った犬のタロが来ていた。
「山の水は冷たいわよ」
「大丈夫、なにしろひどい汗でね」
男が立って行く後ろ姿を頼もしそうに見やってクララは、タロの頭をなでながらふとつぶやいた。
「|彼は何になるだろうか《ヴァス・ヴィルド・アオス・イーム》?」
意味深長なこの呟《つぶや》きに、彼女はふと無意識に、ある恐れを予感したのだ。
4自慰《オナニー》
円盤の中では、ポーリンが、さっきからロバートのことを考えていた……。
――貞操帯をつける前の晩はえらい元気だったわね、ボブ。トンネル・ボーイは殺すし、ボンボンも五つは作ったわ(トンネル・ボーイについては第九章3「矮人種の歴史と現状」、ビデ。ボンボンについては第一六章5「赤クリーム馴致」参照)……もう何日になるかしら? 外してほしいだろうね。あと半月の我慢よ。うんとそのときには乗ってあげるからね(イースでは女上位を正常とする)――。
いつか思いが燃え上っていた。それを敏感に感じ取って肉足台《スツール》が身動きした。読心能《テレパシー》を持っているのだ(第二章2「読心家具」参照)。ポーリンの両足が肉足台の背中の凹《くぼ》みからおろされ、両脚が少し開かれた。その間へ、徐々[#底本「徐徐」修正]に這《は》い込んでくるこの肉足台は、舌人形《クニリンガ》を兼ねているものだった。
それがどんなものか詳しくは次章に譲るとして、その役目と仕事の概略についてはここで述べておきたい。
舌人形(cunnilinger)というのは、独《ひと》り寝《ね》の女性を慰めるのを唯一最高の任務としている一種の生体家具である。独り寝の男にも唇人形《ペニリンガ》(penilinger)というものがあるが、未婚の間はともかく、結婚して「女主人《マダム》|」《*》を持ってしまうと、唇人形の使用はまるで彼女への不満の表明ともいえるので、既婚男性は多少とも後ろめたい気持でしかこれを使おうとせず、それに、ちょうどロバートのように、独り寝になる前に妻から貞操帯をつけさせられて、事実上これを使うことも禁じられてしまうことが多いのに反し、女性のほうは、女権文明の当の担《にな》い手《て》たる特権として、夫《つま》にも面首《めかけ》(男妾)にも接しない夜、舌人形を使うぐらいは当り前にしている。独り旅の旅先に舌人形を伴うのは、昔の男性が剃刀《かみそり》を忘れなかったくらい当然なことであった。
[#ここから2字下げ]
* イースでは、夫は妻に隷属《れいぞく》している。そこで、夫は自分の妻のことを、二人称・三人称いずれの場合にも女主人《マダム》と称《よ》ぶ。ちょうど昔の日本の女性が、夫のことを三人称では「主人」と称んだのに似ている。
[#ここで字下げ終わり]
生体家具《リビング・ファニチュア》は生きているけれども器物である。舌人形・唇人形は畢竟《ひっきょう》寝台の備品にすぎない。だから、これを使用する側としては、決して人間を相手にしている気持にならず、単純な自慰《オナニー》の意識しか生じない。未婚の男女が使用しても問題にされないのはそのためである。
長椅子に腰をおろしたままポーリンは、両腿《りょうもも》で舌人形のツルツルの頭部に触れ、細くなっている顔の下半分を左右から締めつけた。それにつれ、舌人形の機能が活動を開始した。
素晴らしい技巧……。
彼女はいつか恍惚状態《エクスターゼ》に陥り、ときどき思い出したように、締めつける両腿に意識的な力を加えはするが、もはや自らは、無意識状態で半醒半睡《はんせいはんすい》の境を彷徨《ほうこう》していた……。
突如として、時ならぬ愛犬ニューマの吠え声を聞いてポーリンは、ハッと意識づいた。――墜落感があった。――あわてて立体レーダーを見ると、風景はグッと近く、刻々に山肌が大きく迫ってきていた。
――いけない! 自動操縦装置の故障だわ!
舌人形を蹴飛《けと》ばすようにしてポーリンは立ち上り、操縦席に駆け戻ろうとした途端、激突のショックがポーリンを襲い、彼女は頭を中央の| 卓 《テーブル》の角《かど》にぶつけて失神した。
5空飛ぶ円盤
そのとき、麟一郎《りんいちろう》は渓流を泳ぎ下っていた。突然の異様な轟音《ごうおん》に耳をそばだてたとき、女の悲鳴が小屋の方角から聞えた。
「クララだ!」
彼は岸に飛び上った。危急の際であった。麟一郎は意を決して、素裸のまま、百六十センチの短躯《たんく》ながら、柔道で鍛えた隆々とした肉体を、全力で小屋のほうに駆けらせた。
異様に大きな物体が、さっきまで樵《きこり》小屋の立っていたあたりの空間を占領して無気味なオレンジ色に輝いていた。クララはその前に、放心状態で佇立《ちょりつ》していた。
「クララ!」
「ああ! 麟《リン》!――」
二人はそのまま抱き合った。右手に乗馬|鞭《むち》を持った乗馬服の白人女性と、一糸も身にまとわぬ日本人男性の抱擁の図は、まことに奇妙なものではあった。
男に比べ十二、三センチほども背の高かろう白人女性が、背の低い素裸の男を抱くところは、まるで牧野神《ファウン》を愛《め》でるオリンパスの女神といったように見えた。
「よかった! クララ! 無事で!」
長い接吻《キッス》――あとから考えれば、これは彼が対等に[#「対等に」に傍点]彼女と| 唇 《くちびる》を交し得た最後の機会になったのだが――のあとで、麟一郎は安堵《あんど》の吐息《といき》を漏らした。
「妾《あたし》も泳ごうと思って小屋を出たの、その途端、一瞬の差でこれが小屋をつぶしてしまったの!」
クララはまだ驚愕《きょうがく》の情から覚《さ》めてはいない。
「タロは?」
「馬から外して中に置いた鞍《くら》ね、その見張りに残したの。――可哀そうなことしたわ。馬はつないであったから仕方ないとしても、犬は妾の供をさせれば助かっていたんだわ」
「仕方ない、君の身代りだよ。……でもいったい、こいつは何だっていうのだろう!」
お互い無事とわかるとそれが問題だった。
「麟《リン》、空飛ぶ円盤じゃないかしら――」
――なるほど、そういわれてみれば、評判の「|空飛ぶ円盤《フライング・ソーサー》」に相違なかった。平たくつぶしたドーナツに、ピンポン玉をはめ込んだとでも例えればよかろうか、直径二十メートル、厚さ三メートルほどの完全な円盤体の中央部が、直径五メートルほどの球体にふくれ上っているのだ。オレンジ色に輝く金属で張られた外側の一部分が破損し、内部から柔らかく光が射し、うかがうと機械らしいものが作動しているのが見えた。
麟一郎はだんだん裸が気になってきた。さっきは危急の際だった。彼女が無事だったとわかった以上、急に恥ずかしさをおぼえた。婚約したとはいっても、まだ肉体関係にも至っていない間柄なのであった。
思わず赤面し、川縁の脱衣した場所まで一走りしてこようとしたとき、円盤内部の機械の動きが止って突然のように| 軸 《シャフト》が折れ、機械の一部が横倒しになって、その間に、人一人通れるほどの空隙《くうげき》ができた。
クララは、勇敢にもそこへ近づこうとした。
「クララ、待て!」、麟一郎は叫んだ。「中に何があるかわからん、危険だ。僕《ぼく》が服を取って来るまで待って、それからにするんだ」
「今見たいのよ」
クララはわざと彼のほうを見ずにいった。好奇心と冒険心の強い彼女ではあった。
「また難題をもちかける……」
実際、のっぴきならなかった。――服を取りに行っている間に、彼女の性格からすれば、一人ででも中にはいってしまうだろうことは明らかだった。そんな危険なことはさせられなかった。
「いいよ。このままじゃ気まり悪いが、僕が先に立つから――」
二人は、こうして墜落した円盤の中へはいって行ったのだが、麟一郎が裸でいたばっかりに、とんでもない運命が二人のその後のすべてを、根底から変えてしまうことになるのだが、二人がそれを感知するはずはなかった。
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第二章 円盤艇の内部
1美女と侏儒《しゅじゅ》
こわれた機械室の扉口《ドア》から回廊に出て間もなく、二人は中央部につながる廊下を発見した。照明装置は見当らないのに一面に明るい昼光が満ちていたのは、|電 子 発 光《エレクトロ・ルミネッセンス》による面光源を用いているためであった。絨毯《じゅうたん》こそ敷かれてなかったが、床の表面はゴムのように弾力に富み、麟一郎《りんいちろう》の素足に金属特有のあの冷たい感触がないのは、どんな材質によるためであったろうか。
中央室との仕切扉《ドア》は自動装置らしく、二人が近づくとひとりでに開いた。
畳が八つほどはいる円形の丸天井の一室が目にはいった。部屋の中央部に箱庭のような工作物を載せた円卓《テーブル》があり、その一隅《いちぐう》に計器類をおびただしく置いたのは操縦席であろうか、しかし人影はなかった。
扉口から一歩踏み込むと隣室からか、獣の唸《うな》り声のようなものが聞えた。見回すと右手の壁面に沿って丸く豪奢《ごうしゃ》な長椅子がしつらえてあり、その前の床に女が倒れていた。ほとんど露出した下半身の豊満な太腿《ふともも》に始まり、格好のよい| 踝 《くるぶし》に終る脚線の見事さがまず麟一郎の目を射た。
はせ寄って彼は、さらに胆を奪われた。素晴らしい美人なのだ。年のころは二十五、六か、背はクララと同じくらいであったろう。羽織っていたらしい紫色の光る不思議な毛皮のケープが脱げて、海水着のような、乳房《ちぶさ》から腿の付根までを包むだけの簡単着しか身についていなかった。玉貝《カメオ》のように透き通った下に血色のいい薄桃色の肌、隆起した胸《バスト》、締った| 腰 《ウエスト》と豊満な臀《ヒップ》とを連ねる成熟した女体の曲線、それらがじかに麟一郎の目を挑発するのだった。房々した金髪を床上に乱して双眼は閉じたまま、細く濃い眉《まゆ》の気品、真っ白な歯がのぞく口元の薄い| 唇 《くちびる》のコケトリー、格好のよい鼻と耳、……その衣装に感じられた異国風な味にもかかわらず、彼女はまさしく北欧系|金髪女《ブロンド》の最高級の標本に違いなかった。一見外傷はなく、呼吸もすっかり止ってはいない。墜落の時の衝撃《ショック》による気絶であったろう。麟一郎は女の頭のわきに両膝《りょうひざ》ついてすわり、上半身を抱き起した。するとえもいえぬ芳香が彼の鼻のあたりに漂ってきた。
抱き上げた途端、二人は思わず叫んだ。ケープの下になっていて、それまでは見えなかった女の体の下の、ちょうど緩衝布団《クッション》のように横たわっていたものが現われてきたのである。
そんな奇形|侏儒《こびと》でも人間といえるならば、それでも人間だった。身長は九十センチほどで素裸、切断された penis ――胴体は短いが肉付きはよかった。両脚とも足首から先がなく、端が擂《すり》粉木《こぎ》のようになって、手指には爪《つめ》もない。そして奇妙なことに、長椅子の下から一見電機具コードを思わせる肉質の紐《ひも》が出て床を這い、彼の肛門の中に挿入されていたのだ。しかも頭部が極端な逆三角形で、子供並の頭蓋に顔の下半分がさらに細く、まるで左右から搾木《しめぎ》で圧縮したようで、その上耳殻がなくて耳の穴があるだけ、鼻も削いだように欠けて穴が二つあるだけ、目は開いてはいたが、瞳《ひとみ》は濁って視力の乏しいことがそれでわかった。頭髪はもとより、睫毛《まつげ》、眉毛、髭《ひげ》の一本すらもない。やはり気絶して口をだらしなく開いていたが、見ると歯が全部抜けていた。なお奥に見える舌は大きく、それに普通人のように平らではなく筒状で、何がしか penis を連想させた……見れば見るほど醜怪な奇形であった。肌は黄色く、女の下半身のまばゆいばかりの純白に此べるとひどく汚れていた。
対照が極端すぎるので、応急手当をどちらに施すかについては、麟一郎は何の迷いも感じなかった。侏儒よりも女のほうを先に回復させるべきであった。
「ブランデーか何かあるといいのにね」
クララがいった。その時隣室から、また獣の唸り声が聞えてきた。犬であろうか、壁に体をぶつける音もいっしょに聞えた。
「早いとこ、荒療治をやるぞ」
麟一郎は左手で女をかかえたまま、右手の裏表で女の左右の頬《ほお》を連打した。クララは立ったまま覗き込んでいた。
やがて頬に赤みがさしてきて、女は不意にパチリと目を開《あ》け、麟一郎とクララの顔を交互に見た。
頬に痛みを覚えるとともにポーリンは正気づいた。上から二つの顔が見守っていた。白い人間の顔と黄色いヤプーの顔だった。
若い令嬢風の美人が若い雄ヤプーを連れている……。
彼女はとんでもない錯覚に陥って、出発面たる三九七〇号台球面に、すなわら地球紀元三九七〇年の空間に帰着し、その球面上のどこかに墜落したところを、その辺の別荘の令嬢に救われたのだと思い込んでしまった。オナニーにふけっていて時間を忘れていたためもあるが、おもな理由はクララの服装と麟一郎の裸体とにあった。
前史時代、すなわち人類がまだ宇宙を知らず地球表面だけに文明を営んでいたころには、女が男に隷属《れいぞく》し、その象徴としてスカートを穿《は》いていたのだとポーリンは歴史の課程で学んだことがあった。本式に古代風俗を研究したわけでもない彼女が、自分たちの穿く乗馬ズボンや長靴は前史時代の女にはまったく無関係なものと考えていたのも無理はなかった。だから乗馬服装で手に鞭を握ったクララを見て、同時代人だと錯覚したのだ。
もちろんその服地がひどく粗末なことは多少不審に思えたが、本国星《カルー》にいるのでなく、シリウス圏から見てずいぶん田舎《いなか》の地球別荘に来ているという意識が、深くは彼女を怪しませなかった。上衣が黒、ズボンが白という服装は正式のものである。それに彼女はヤプーを連れているではないか。
前史時代に旧ヤプーが人類と並んで――いや、人類を僭称《せんしょう》してヤプン諸島において国家を形成し、人間並の衣食住生活を営んでいたばかりか人間国家と戦争を試みるほど発達していたこと、『テラ・ノヴァ女王国』による地球再占領後も、原《ロー》ヤプーの供給源として、人間意識を備えた土着《ネイティブ》ヤプーの繁殖をはかるために、そのヤプーたちの国家『邪蛮《ジャバン》』がヤプン島において形式的に存続を許され、公式には「土着畜人《ネイティブ・ヤプー》飼育地域」として畜人省の「土着畜人課」の保護育成に付託せられていること……、これらを理科の課業で人間以外にも社会生活を営む動物がある≠ニいう例として学んだのをポーリンは覚えていた。服を着たヤプー[#「服を着たヤプー」に傍点]なんてどうしても想像できず、教材の立体映画で土着《ネイティブ》ヤプーの生活ぶりを見てやっと納得する程度だった。……今目の前にいる黄色い顔の持主は裸なのだ。それは前史時代には存在しなかったはずのヤプーの風俗だった。彼女が原球面に帰着したと思い込んだのも無理はなかった。もっともこのヤプーは、未加工の原ヤプーであるのに首輪をしていなかった。「原畜人《ロー・ヤプー》飼養令」の規定があるので、本国星ではそんなことは決して許されないはずだが、地球では特別なのかも知れないという推測がこの時働いて、彼女には気にならなかった。
ともあれ、この錯覚に陥ったポーリンは、実は地球紀元一九六×年の空間に自分がいるなどとは夢にも考えなかった。心配そうに覗き込んでいるクララの顔に、にっこり笑いかけながら礼を述べた。
「お助けいただいて、どうもありがとう」
言葉は英語である。何か妙な訛《なまり》があるが英語であった。人類の宇宙征服はアングロ・サクソン族によって達成されたから、英語が字宙帝国『イース』の共通語になった。長い歴史の間の変遷はしていたが、貴族階級はできるだけ昔の発音と表現《いいまわし》を重んじ、維持してきた。だから、クララと麟一郎《りんいちろう》が聞いたのも、訛があるという程度で充分理解できる英語だった。若い女性らしいさわやかな声である。思わず二人で顔を見合せたものである。
「いかが、ご気分は?」、クララが流暢《りゅうちょう》な英語で訊《き》いた。麟一郎は、聞くほうはわかるが話すほうはサッパリなのだ。
「ええ、もうすっかりいいわ」
ポーリンは、麟一郎の腕からするりと身をよじって抜け出し、立ち上りながら答えた。麟一郎はその敏捷《びんしょう》な挙動に唖然《あぜん》としながら、今さらのように自分の素裸を自覚して赤面した。円盤の中でまで美人に会うとは!
ああ、服を着てくればよかった……。
「でもびっくりしたわ、今日《きょう》は。四世紀まで遊航《ドライブ》したんだけど、帰りはぐっすり寝込んでいて……」、オナニーにふけっていたとはいえず取りつくろってしゃべったが、頭にパンツもしない舌人形(第五章3「愛の誓い」参照)を見つけられた以上、相手は推測しているかも知れないと思うと、ポーリンは恥ずかしさに赤くなって早口にいい続けた。「……自動装置が故障したらしいの、落ちる感じがして、アッと思った瞬間、ドシーンと来て、あとは覚えがないわ」
――舌人形《リンガ》の奴《やつ》、技巧家《テクニシャン》過ぎる。お陰でとんだ醜態を演じたわ。ジャンセン侯爵若夫人が航時遊歩《タイム・ドライブ》中オナニーにウツツを抜かして墜落したなんて評判されないか知ら……。思わずいらいらしたポーリンは、内心の忿懣《ふんまん》をそのまま足の動きに表わして、仰向けに気絶したままの肉足台《スツール》の福助頭を、サンダルをはいた足で強く蹴《け》りつけた。麟一郎は、女の動作の活発さと蹴り方の邪慳《じゃけん》さに驚いた。
2読心家具《テレパス》
舌人形《クニリンガ》は、蹴られて意識が回復した。読心神経中枢に主人の激しい怒りをピンピン感じた彼は、腹這《はらば》いになり四肢《しし》を縮めて恐縮の態《てい》だった。露出した背中に、人の足形の凹みが二つ見える。
ここで、この舌人形の持つ読心能《テレパシー》について説明しておかねばならない。読心家具《テレパス》が初めて作られたのは地球紀元換算三〇世紀のことで、二〇世紀世界の読者には説明なしでは何のことかわからないであろう。
読心家具は|生 体 家 具《リビング・ファニチュア》といわれるものの一種である。生体家具とは、ヤプーの肉体をそのまま材料にして家具にしたものであるが、これを可能にしたのは、畜体循環装置《サーキュレーター》の発明であった。後に説明するように(第六章2「三色摂食連鎖機構」参照)、一般のヤプーはすべて体内に天馬吸餌回虫《アスカリス・ペガサス》なる腸虫《ヘルミンス》を寄生させ、その消化力を借りて最下等の汚物から成る畜餌乳液《ヤップ・ミルク》を自己の栄養分に化してしまうのであるが、この場合、定時的な給餌が必要である。一般ヤプーは自分で摂餌行為をするからそれでよいが、個体性・移動性を奪って家具化したヤプーには使用者側から給餌して回らねばならないことになる。その煩《はん》を除こうというのが畜体循環《サーキュレーション》の思想であった。ヤプーの体は、本来人体と同じで、その栄養は小腸|皺襞《しゅうへき》からの吸収によってまかなわれる。そこで、体外から管を入れて小腸の先端につなぎ、腸虫により消化吸収できるよう組成を変化させた畜餌乳液を注いでやる。吸収済みになった廃液は、小腸末端のあたりで別につないだ管によって外に導く。さらにこの出管には、膀胱《ぼうこう》からの輸尿管もいっしょにして排出させる。これによってその肉体は、摂取・排泄《はいせつ》の両作業の要はなくなり、そのことから口腔《こうくう》や舌や胃等を本来の用途から転じて別の作業に使用しうるに至る。
この二つの、つまり入管と出管とを一つにまとめて電機具コードのような体裁にしたのを、装着するのに肛門《こうもん》から挿入《そうにゅう》して接続させる。これをこうして装着されたヤプーは、そのコードにつながれてのみ生存しうる生体家具としての使用に耐え、衣食住の労なく室内に置かれて主人の使役を待つ身となるのである。
生体家具は移動能力がない――電機具のように、コードを別のコンセントに差し替える、といった方法での移動は可能であるが、独立の移動能力はコードの長さに限定されている――が、個体意識は必ずしも失われているわけではない。それをさらに一歩進めて、心身共に個体性を奪ってしまったものが読心家具である。あとで説明するように(第二四章3「従畜馴致椅子」参照)、個体として独立している原《ロー》ヤプー、たとえば従畜《パンチー*》を読心能化するのはなかなか面倒なのであるが、生体家具の場合には、常時畜体を循環する乳液があるので仕事はしやすい。
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* 家具化・材料化されずに個体性・移動能力を持っている畜人系動物《ヤップ・アニマル》(原ヤプーも含めて)を個畜といい、これをさらに、労役を主とする役畜(運搬畜など)と主人の身辺に侍らせる従畜(畜人犬など)に分つ。個畜と家具との中間形態として生体利用家具(肉椅子など)というのもある。従畜を penis と称《よ》ぶのは、身辺に|内 密《インチメート》の用を足させる点で panty に似ているからである。
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特定人の肉体から採《と》られた液体――血液・淋巴液《りんぱえき》、何でもよいのだが、普通は尿が用いられる――を物質複製機《リプロデューサー》にかけ、その同質の液体を定常的に生産補給しつつ乳液に混ぜてやる。常時液体を小腸から吸収させるとともに、大脳の一定部位に脳波感応増進薬テレポルモン(te-lepormone
そこへ、小腸から吸収されて後血液にはいった特定人の体液が作用すると、その特定人の脳波だけを受信するようになる。この読心能を維持するためには、その液を常時乳液に混ぜていなければならないが、複製機があるから、人体からの採取は一度で足りる。
読心能化した家具の自意識は消滅する。潜在的な記憶は残るともいわれるが、少なくとも主体性ある思考作用は不可能になり、肉体のみならず、精神的にも個体性は失われ、その特定人の四肢の延長そのものに化してしまうのだ。そして、一度その特定人のための読心能を付与されると、これを消去したり、改めて他の人のために読心能化したりすることは、イースの脳波科学をもってしても不可能である。完全にその特定人の精神に従属し、その死とともに死ぬ――いや、厳密には死とともに死にはしないが、痴呆《ちほう》化してしまって他の人間のためには用をなさぬから、殉死処分[#「殉死処分」に傍点]されてしまう。これが読心家具というものだ。
読心能化が可能なためのIQは一五〇以上とされている。ヤプーの旧学者・教授たちの血統を交配してIQの高い原ヤプーが繁殖生産され、血統書付で読心家具用に市場で特別に売られるのはそのためである。
しかし、だからといって、誰《だれ》でもが読心家具を使えるわけではない。それは貴族《ピーア》だけである。法律上においても〈原畜人《ロー・ヤプー》加工取締法〉で平民《ブレプス》には使用が禁止されているが、それ以上に、第一生理的にそもそも使用不可能なのである。脳波科学の進歩していなかった二〇世紀人にはわからないことかもしれないが、つまり人間の思惟《しい》形態はそれぞれ固有の脳波型を持っていて、たとえば憤怒波、愛情波、命令波等々が区別できるのであるが、このうちで、|命 令 波《オーダー・ウェイブ》というのが読心家具使用に密接な関係があるのである。すなわち、OQ(命令波指数)一〇〇以下の脳波では、いくら鋭敏な読心家具も動かせない。ところが、この一〇〇以上のOQは、貴族でないと持ち合せせてはいない。貴族だけが遺伝的にOQが高いのであ|る《*》。生きた器物に囲まれて、自身は指一本動かさず、心に思うだけでいっさいの用事が片づいていく快適な生活は、有史以来、イース貴族のみがその享受を実現し得たのであった。
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* 厳密にいうと、突然変異などの理由で例外も生じるが、〈帝国貴族典範〉により、OQの低い貴族子弟は平民に落されるし、逆に平民の子弟でも、OQが一〇〇以上であれば、他の諸条件を審査されたうえで下級貴族に叙せられる可能性がある。つまり、強い命令脳波ということがイースの貴族たる資格の一つになっているのである。これがイース貴族制の生理的・生物学的保障になってもいる。
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さて、この舌人形はこういう読心家具の一つだが、これはなお特に、ポーリンがジャンセン家専|属《*》の家具工場に特別注文して作らせた別誂《べつあつら》えのものだった。受胎告知者《アナンシエイター》の知らせで(第二八章1「検尿矮人」参照)彼女の妊娠がわかり、さっそく地球別荘行きを決心してから後に注文したのだから、まだ一月余りしかたっていなかった。
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* イースでは、貴族に対する荘園《しょうえん》経済と平民に対する市場経済とが奇妙に混ざり合っている。しかし、特に大貴族の場合には、ほとんどあらゆる品に自家専用の工場を持っている。
[#ここで字下げ終わり]
「肉足台《スツール》兼用の舌人形を作ってほしいの」。貴族であるポーリンは、貴族仲間に対するときとは違って、平民であり使用人である工場長に対しては、自分の使う舌人形のことを話すのに何の羞恥感《しゅうちかん》もなかった。「旅行用だから小型にして、でも性能は並以上に。できる?」
「畏《かしこ》まりました。舌長《レングス》を前のと同じにしておきます。たしか若奥様のは……」と手帳を調べながら、「全長二十五、唇外《しんがい》長十九センチにすればよろしいので」
「今使ってるのは顎《あご》が張りすぎてるから、今度のはもう少し削って。腰掛けてて使うことが多いと思うから、あまり開股角度《シザーズ・アングル》の大きいのは困るわ」
「ごもっとも、削ります」
「それと、妾《あたし》はおつゆ[#「おつゆ」に傍点]が多いほうだから……」
平民相手の羞恥心の無さから、こんなことまで平気で口にするのだ。
「存じあげております。例のように| 唇 《くちびる》の細工に、並のよりはスポンジをふやしておきましょう」
「読心能をつけておいてね」
「畏まりました。で、ご出発は?」
「二週間くらい先よ」
「畏まりました。では、さっそく一匹お選びいただきまして……」
「|原 畜 舎《ローヤプー・ホールド》に行って、お前がまず十二匹《ダズン》ぐらい下選びしてよ。その立体型録《ステレオ・カタログ》を見て妾が決めるわ」
工場長にしてみれば、二週間というのはずいぶん短い期間だった。|染 色 体 手 術《クロモゾーム・オペレーション》の技巧が発達しているので、授精前の精子と卵子に加工して、注文どおりの肉体で生れて来るように按配《あんばい》することはむずかしくないのだが、それには最低一年はかかる。早急にといわれれば、原ヤプーへの整形外科加工しかないのである。
彼が選んだ候補畜の中から、ポーリンがその一匹を選び出したときまでは、今彼女の足元にうずくまるその奇形|侏儒《しゅじゅ》は、立派な肉体とIQ一七四という優秀な頭脳を持った原ヤプーだったのだ。血統書によれば、先祖には昔の『邪蛮《ジャバン》国』の大学教授が何人もいた。
「これにするわ、丈夫そうだし、血統もいいから……」
「畏まりました。十日間お待ち下さいませ」
これで彼の運命が決ったのだ。工場の技師は、直ちに彼を|生 体 縮 小 機《ディミニッシング・マシン》(第九章3「矮人種の歴史と現状」参照)に掛けて二分の一の身長に変えた。次いで薬液につけて全身の毛を落した。歯を全部抜いて顎の骨を削る。著奥様ご注文のとおり、股《また》をそれほど開かずに使用できるよう、顔の下半分を幅狭くせねばならないからであった。口腔はただ舌の容器でさえあれば足りるのだ。その舌は造肉刺激剤によって発育させ海綿体を移植する。伸長時に唇の外に出る部分に十九センチの長さが必要なのだ。舌を使っているとき与えられる|愛 液《ラブ・ジュース》を口腔外に決してこぼさないようにするため、唇の外側に吸盤質の、内側にスポンジ質の性質を与えねばならないが、これは|人 工 皮 膚 癌《アーティフィシャル・カンクロイド》の技術で容易に形成される。外見《そとみ》には唇が少しばかりふくれ上って見えるだけだ。そうしたうえで両唇を童貞膜で閉鎖してしまう。また眼球水晶体に加圧して、二十ジオプトリーぐらいに視力を減少さす。用途上、コードにつながれた範囲内での至近距離で、主人の下半身さえ見えれば充分だからである。読心家具には聴覚は不要だから鼓膜も除去した。鼻と耳とを削《そ》ぎ落したのは、頭部脱毛と同じねらいで、つまり、頭部全体を突起のない肌《はだ》ざわりのよいものにして、若奥様ご使用の際、無用の不快感を与えないようにという技師の心づかいからである。肉足台は常に這《は》っていて、起立の必要はないから両足首も切断した。ポーリンの足形が工場に備えつけられている。それを背中に載せて、その形に合わせて背肉を剥《は》ぎ取る。こうした一連の肉体処置が終ると今度は読心能付与《テレパサイジング》である。前に説明した方法で、つまりポーリンの尿が畜餌乳液《ヤップ・ミルク》として使用された……。
こうして、つい十日前には人間らしい肉体の持主だった一匹のヤプーが、ジャンセン侯爵家若夫人専用の肉足台兼舌人形として生れ変り、彼女に引き渡されたのであった。それが三週間ほど前だった。
以来彼は、旅のポーリンの、昼は肉足台、夜は舌人形として使用されてきた。彼女の気持なら何でもわかってしまう彼にとって、その日のように主人の怒りを感じたことはなかった。
オドオドと縮こまる舌形の態度がクララや麟一郎にはわからない。いや、それが何者であるか? その背中の凹みはいったい何のために? そもそもこの女は何者なのだ? 空飛ぶ円盤はどこで造られたのだ? 英国か米国か、それともソ連か? それにしても女が操縦するのでは秘密兵器らしくもないが――疑問は次々にわくのであったが、しかし、今さらのように自分の裸を気にした麟一郎は、立ち上る勇気もなく、すわったまま女を振り仰いだ。女の視線は彼の後ろのクララに向けられていた。
女の服は驚くべきものだった。ケープを背中にまとってはいたが、上半身を海水着のようなものでおおっただけであった。それが体に密着していて、まるで無縫の天衣と見えた。地の色は淡青だが、目の角度によって異なる隠微な七彩《なないろ》の幻光が内部から輝き出るのであった。
が、その妖《あや》しい美しさと相まって麟一郎を惑わせたのは、ポーリンのまばゆいばかりの脚線美であった。一尺ぐらいに踏み開いた双脚は、そのまま金色の産毛《うぶげ》の光る二本の象牙にたとえられた。麟一郎は脳神経の惑乱するのを覚えた。その時、また犬の唸り声が聞えた。
「まだ少し痛いわ。ずいぶん強くたたいたのね」
片手で頬をそっとさすりながら、ポーリンは乗馬服の令嬢に微笑みかけた。「……でも平手打とは当意即妙ね。貴女《あなた》に敬意を表するわ」
「いえ、あれは愛でなく、こちらの麟《リン》――瀬部氏《ミスター・セベ》が考えて――」
自分の手柄にされて、クララはあわてて麟一郎を指さした。
ヤプーに氏《ミスター》などの敬称を付けるはずがなく、名と姓と両方あるわけもない。後から考えれば不思議なくらいだが、瀬部氏などという変な呼び方を耳にしても、ポーリンはまだ錯覚に気づかなかった。
「ま、このヤプーが――」と下目づかいに麟一郎のほうを見て、「なかなかの逸品じゃないの。妾に譲っていただけない? 仕込んで来年の従畜品評展《パンチー・ショー》に出してみたいわ。妾、シリウス大賞をねらってるの」
「あの、何か誤解なさっていらっしゃるようね――」
たまりかねてクララがいい出したが、駆引きでの断わり文句を聞かされると取ったポーリンはみなまでいわせず、
「おや、妾としたことが、まだお名前も伺わない先から余計な口をきいちゃって、ご免なさい。お気持悪くなさらないで――」
「いえ、妾の申したのは、瀬部氏が――」
「立ち話も何だから、掛けましょうよ」
3畜人犬《ヤップ・ドッグ》ニューマ
麟一郎《りんいちろう》の存在をまったく無視して、ポーリンはクララにばかり話しかける。ヤプーという変な言葉を聞かされても、自分が下等な畜生と思われているとはまだ悟らない麟一郎は、その原因を自分の裸にあると考えた。
――淑女だから裸の男に話しかけられないでいるのだろう、クララも執《と》り成しように困っているらしい、何とかせねばならない。第一、若い女二人が向い合って話している足元に、裸ですわってるなんてほめられた図ではない。仕方がない、下手な英語でも、裸で飛び込まねばならなかった危急の経緯《いきさつ》を説明して非礼を詫《わ》び、脱いで来た乗馬服を着に戻ろう――。
そう思案しながら麟一郎は立ち上ろうとした。すると後方に何か物音がして、獣でも飛び出した気配がして、「キャーッ」と魂消《たまげ》るようにクララが悲鳴を上げた。ポーリンの「|おやめ《ストップ》!」という激しい命令とを同時に耳にした瞬間、彼は何物かに背中に飛びかかられた。とっさに上半身をひねったが右肩にかみつかれ、高圧線に触れたような電撃《ショック》を感じて全身が痙攣《けいれん》した。その瞬間、目の前にあったあの美しいポーリンの足が素早くおどって、そいつを右肩から蹴《け》り上げた。と同時に、麟一郎は右の耳に激痛を感じた。彼女のサンダルが蹴りつけるそのトバッチリで、彼の耳の皮膚が切れたのだ。
「麟《リン》!」、真っ青になってクララが叫んだ。
「大丈夫よ、貴女《あなた》」
ポーリンは、相手が犬ぎらいなのだと思って安心させるようにいった。「人間[#「人間」に傍点]には決してかみつかないから」
「これはどうしたことです? ――麟《リン》、何ともなくて?」
前半を英語で、後半は思わずドイツ語で、クララは別々[#底本「別別」修正]の問いを早口でいった。犬(?)の姿が無気味で、かまれそうで、麟一郎のそばに近寄りたくても寄れなかったのだ。
麟一郎はクララを安心させようとして振り向こうとしたが、全身がしびれ切って身動きできない。驚いて口を開こうとしたがだめだ。目の玉さえ自由に動かせなくなっていた。怪しむべし、メズサの首をながめた者のように、彼は腰を浮かし上半身をひねった不安定な一瞬の姿勢のまま化石状態になってしまったのだ。そしてその耳からしたたった鮮血が床を赤く染めていた。
奇怪な犬がノソリと這い出てポーリンのほうに歩み寄った。彼女は犬の頭をなでながら、驚くクララの様子をけげんそうに見ながら、
「まあ、今|流行《はやり》の古石器時代人狩猟犬《ネアンデルタール・ハウンド》をごぞんじないの?」と、あきれたように答えた。その口調には、都会の洗練された女性が百姓娘の無知加減を軽蔑《けいべつ》するような気味があった。
うつ向いた麟一郎の視野は限られていた。輝くようなポーリンの双脚だけが見えていた。そこへ不意に奇怪な犬の姿が視野の中へまぎれ込んできた。麟一郎は体は既に麻痺しながらも凍るような恐怖を覚えた。その犬[#「犬」に傍点]――これが犬といえようか――は、人間[#「人間」に傍点]、これが人間といえようか――いとも奇妙な相貌《そうぼう》を呈していた。
四肢《しし》と躯幹《くかん》と頭部との釣合は、一見犬を連想させるものがあった。金属製の首輪、後肢を踏んばった、それは確かに大型種の犬を思わせた。しかし、後肢と前肢とは細く短くなっていて直立歩行に適しなくなってはいたが、明らかに人間の両足の退化したものであった。前肢にも未発達の五指を備えた手のひらがあり、両足が短く、一見、四足獣らしい安定感と四這姿勢ながら獣らしい敏捷さがあったが、もともとは、人間の四足だった。だのに躯幹は筋張ってほっそりして贅肉《ぜいにく》がなく、腹部など極端に細く引き締って、グレイハウンドの軽快さがあった。さっき、円盤の下で死んだタロの姿そっくりといっていい。ただ、頭部のほかにはほとんど被毛のない、浅黒く日焼けした黄色の体、その背中には獣の爪《つめ》にでもむしられたような傷痕や、鞭跡の条痕《みみずばれ》が残っていて、激しい使役と調教との様を雄弁に物語っていた。しかも皮肉なことには丸刈りの黒い頭髪、ジャンセン家の紋章を刺青《いれずみ》した広い額、黒い瞳、低い鼻、いずれも麟一郎と同じ人種の顔を表わしていた。鼻下にピンと左右に張ったカイゼル髭《ひげ》が妙に滑稽《こっけい》だし、その下の恐ろしく突き出した口唇《こうしん》と、それからはみ出した金属製の犬牙《けんが》とが人間の顔としての調和を破ってはいたが、ヒョットコ面が人間の顔である以上、この顔も人間の顔には違いないのだった。
これがポーリン・ジャンセンの愛犬ニューマだったのだ。
前史時代に人類に愛玩《あいがん》された旧犬《カニス》は今は動物園で見られるだけとなり、犬《ドッグ》といえば当然|畜人犬《ヤップ・ドッグ》を意味するようになってからもう何世紀にもなる。短脚ヤプーを生後直らに天井の低い檻《おり》に入れ、天井に電流を通じて条件反射を与え、満二年――縮小犬では二ヵ月まで短縮し得たが――を経過すると一生這う癖がつくのだった。こうやって短脚ヤプーから畜人犬が作られ、さらに体躯の大小、被毛、有尾等々、ヤプー畜種学の進歩が幾十頭の変種を生んで、背の犬同様の多様性を獲得してくると、その優秀な能力は背の犬の比ではなく、たちまら愛玩動物界の王者となり、旧犬を動物園に駆逐し、畜人犬は人類の最も忠実な伴侶《はんりょ》たる「犬」の名称のお株を奪うに至ったのであった。およそ、イースにありとあらゆる畜人系動物《ヤップ・アニマル》(原《ロー》ヤプーを変形させて作出した家畜の総称)の中でこれほど人間に親しまれているものはない。
古石器時代人狩猟犬《ネアンデルタール・ハウンド》は、中でも比較的新しく作り出された新犬種で、当初|剣闘士《グラジャトール》として使うために、五万年前の地球からネアンデルタール人を生け捕って狩猟に使用したためにこの名があったが、今では護身犬としても喜ばれ、イースの貴族社会では目下大流行であった。被毛も尾もなく、体格も標準型で、すべての点でヤプーの原形を留めているのも素朴な味があり、訓練次第では非常な快速で疾走《しっそう》することができ、素晴らしい攻撃力も持っている|衝 撃 牙《ショック・ファング》という人工の犬牙で、まず電気衝撃をもって相手の防御力を奪っておいて牙《きば》から毒を注射する。毒は神経の運動中枢を選択して冒すので、かまれると全身麻痺を起し、自分からは指一本動かすこともできないという無抵抗な状態に陥ってしまい、緩解薬《くすり》を注射されるまでその状態が続く。生け捕った原《ロー》ヤプーを狭い艇内に積み帰る時にはこれがなかなか便利なのである。
4狩猟犬訓練
ニューマは、品評会《ショー》で全犬最優秀|牌《はい》を三度も取ったポーリン自慢の古石器時代人狩猟犬《ネアンデルタール・ハウンド》だった。今日は墜落の時から状況の急変に昂奮《こうふん》していたが、墜落の衝撃でゆるんだ扉をやっとこわし、主人のほうにはせ寄ろうとした時、麟一郎を見てとっさに飛びかかり、昂奮のあまり主人の制止も聞かずかみついたのである。それというのも麟一郎が裸だったからだ。
畜人犬《ヤップ・ドッグ》の大生産地なるフンデ星(プロキオン、すなわら|小犬座α星圏《アルファ・カニス・ミノリス》第二遊星)で彼は生れた。シァン州所在のジャンセン領地――ここで同家に飼育される犬のほとんど全部が生産調教されるのだ――の畜人犬場《ケンネル》の、天井の低い檻《おり》の中で物心ついたとき、まず彼が覚えたのは彼の飼育を祖当していた犬飼黒奴《ドッグ・ニガー》の存在だった。彼は四這の自分の同族と、直立して歩く種族との違いを学んだ。
しかし、檻を出て、訓練所――|犬 族 学 校《ケイナイン・スクール》と称《よ》ばれる――にはいり、教育を受けるようになると、彼は、黒奴の上に白い肌《はだ》をした神々の種族があるのを知った。現に生きた神々を拝むことはフンデ星ではできなかったが、しかし神々の立体像が立てられてあって、朝な夕な、彼ら生徒たちはそれを礼拝せねばならなかった。そして学科において、また宗教教育において、白き神と彼ら犬族との関係が繰り返し教えられた。
「お前らの所有者はこの神々のご一家だ。お前らが生きてゆけるのは、畜乳《ピルク》をお恵み下さる神様のお陰だぞ」、黒奴調教師はそう説くのであった。「そのご恩を忘れてはいかん」
同じ直立種族でも、黒奴《ネグロ》と白い神とは、犬と黒奴が違うほども違うらしかった。礼拝のときには、黒奴も彼らと同じように地に這《は》って白神像に向っていた。そんなにも尊《とうと》い神は、髪の色、目の色、なかんずく肌の色に黒奴との違いを表わしていた。ニューマにとっては、神とは深遠な教理の中にあるのではなく、ただ、肌が白いという、そのことにあった。護身犬としての彼には、その白い肌を守ることが絶対の与えられた使命であった。直接護身の対象は、ただ一人の主神であったが、さりとて他の白い肌も神様であることに違いはない。神々の争いあるときは主神を第一に守るとしても、それでも他の神々に対して|衝 撃 牙《ショック・ファング》は使うべきではなかった。「白い肌を咬《か》むな」、これが彼の教えられた第一の禁令であり、至高の命題であった。白い肌は咬むべきでなく、舐《な》めるべきものであった。
また、黒い肌の黒奴といえども、神々に奉仕する有用な存在で、その限りにおいてこれを攻撃してはならないのであった。それを彼は「服を着ている者を咬むな」という、第二の禁令として教えられた。
もうそのころには彼は、自分らと同じヤプー種族に属しながら、形だけは神々や黒奴と同じく、直立歩行の原《ロー》ヤプーと称《よ》ばれる仲間がいることも教えられていた。これとて、やはり神々の所有物であり、勝手に咬んではならない。その外貌《がいぼう》は、一見裸体になった神々を思わせはするが、しかし、よく見れば首輪をしていることで判別がつく。それが原ヤプーの印である。されば、「首輪をしている者を咬むな」、これが第三の禁令であった。
こういう学科のほかに術科がある。狩猟犬・護身犬としての攻撃訓練であった。硫酸・硝酸《しょうさん》などがフツフツとたぎる幅広い溝《みぞ》の飛越、針を植え込んだ高障壁の跳躍、いずれも命がけであった。越えられなかった僚犬は、薬に溶かされ針に貫かれて苦悶《くもん》しつつ死んだ。そうした僚犬の| 屍 《しかばね》を越えて訓練に耐え抜いたのだ。
優等の成績で順調に上級へ進み、犬族大学《カレッジ》を首席で卒業したこのニューマは、その直後、新卒犬族ばかりで行なわれる畜人犬品評会《ドッグ・ショー》に出場し、見事に全犬最優秀|牌《はい》をかちえて、幼犬時代から夢見ていたジャンセン家の若夫人ポーリン様の愛犬となるの光栄に浴したのだ。彼の一期後輩の最優秀犬で、ポーリン様の妹神ドリス様の愛犬となった友犬タロと並んで、ニューマはジャンセン家の飼犬の中でもいちばんすぐれているといわれていた。
今しがた、主人の足元に変なものがうずくまっていると見たとき、ニューマの攻撃本能は猛然と燃えさかった。白い肌[#「白い肌」に傍点]でなく、服[#「服」に傍点]を着ていない、そして首輪[#「首輪」に傍点]をしていない、三つの禁令のどの一つにも該当しなかったのだ!
しかし、普通なら、ニューマも、主人の命令を待ったであろう。それが、このときはその余裕もない、いきなり飛びかかったというのは、墜落時による昂奮《こうふん》もあったが、一つは、土着《ネイティブ》畜人《ヤプー・》狩猟《ハンチング》の記憶があったためである。あとで「黒色猟獣《ブラック・ゲイム》」というのといっしょに説朋するが(第二七章4「黒色猟獣」参照)、短刀などを持たせた原ヤプーを猟場に放し、これを狩猟する原《ロー》畜人《ヤプー・》狩猟《ハンチング》は、狩猟の中でもいちばんおもしろいものの一つとされている。そのさらに一歩進んだものが土着畜人狩猟であって、ヤプン諸島から捕獲してきた土着ヤプーを「黄色猟獣《イエロー・ゲイム》」とするのである。これには畜人省土着畜人局畜殺管理課の許可がいるので、実際には大貴族以外にはできない娯楽《ゲイム》ではあるが、ポーリンは地球別荘到着後三日目に、妹といっしょにこのゲイムをやった経験がある。土着ヤプーはもともと人間意識を持って暮しているから、普通の原畜人と異なり首輪をしていない。そこで、その服を剥《は》いでしまうと「裸で首輪のない有色人」となり、|狩 猟 犬《ネアンデルタール・ハウンド》の絶好の目標動物になる。
ニューマは、つい二週間ほど前に、そういう一匹に牙を立てて仕止め、女主人から褒《ほ》められたばかりだったのだ。だから、今また、これに似た麟一郎《りんいちろう》を見て、躊躇《ためらい》なく飛びかかった次第であった。(麟一郎がパンツひとつでも穿いていたとしたら、第二の禁令がニューマの攻撃本能を制止し得たことだったろうに、思えば、彼の全裸は不幸なことであった)
ポーリンにしても、愛犬がいきなり飛びかかったわけは見当がつくから、強く叱《しか》る気になれない。他人のヤプーを咬《か》んだことで蹴《け》とばしはしたものの、心中では、
――首輪もさせずに原ヤプーを連れて歩くのが悪いのよ――と、かえって見知らぬ女を非難したい気持であった。
クララは、そんなこととは露知らない。死んだタロが人間に生れ変りそこなって、化けて出たかと思われるような怪しい人犬《ひといぬ》に咬まれた愛人が、中途半端な姿勢のまま身じろぎもしなくなったばかりか、訊《き》いても返事ひとつしない。心細くなって、
「麟《リン》、どうしたの? 大丈夫?」ともう一度訊いた。
「血が出てるわ麟《リン》、麟《リン》……」
「ヤプーなら、心配いらないわよ」
|衝 撃 牙《ショック・ファング》で咬まれたらどうなるということさえ知らないらしい非常識さに、内心あきれながら、ポーリンが代って答えた。「緩解薬注射一本ですぐ元どおりになるから。――それまでは仕方ないわよ。――可愛がってらっしゃる愛玩動物《ペット》を、うちのニューマが咬んじゃってお気の毒でしたわね。首輪はしてなかったようだけど」
皮肉を含めたつもりでいったが、クララには通ずるわけもない。愛玩動物だの、首輪だの、相変らず珍妙な思い違いをしているなとわかっても、それを問いただす余裕がない。事情はのみ込めぬまま、愛人のために必要らしい薬を要求した。
「早くその緩解薬《くすり》を――」
「心配しなくても大丈夫よ。時間がたっても緩解効果《ききめ》は同じだから……騒ぎで、まだお名前を伺わないままだわ。さあ、どうぞお掛けなさい」
クララに椅子を勧めながらポーリンは、麟一郎のほうに足早に歩み寄ると、
「さ、お前も楽な姿勢にしてやろうね」
ポーリンは、サンダルの先を、爪先立てていた麟一郎の両足先の下に突っ込んで指先を伸ばさせ、さっきまでのようにペタリと足をそろえた格好ですわらせた。投げ業《わざ》をしようとねじっていた彼の両腕を、膝《ひざ》がしらと足先を使って前に蹴り出し、床に両手をつかせて、上半身を前にささえさせる。麟一郎が自分では少しも動かせなかった肢体が、彼女にかかると柔軟自在で、たちまち否応なしに| 蟇 《ひきがえる》みたいな姿勢を取らされてしまった。耳朶《みみたぶ》の出血は止ったようだった。
クララはといえば、内心の恐怖を隠して長椅子の右に席を占めた。愛人をこんな目にあわして後悔してはいたが、今逃げることはできない。麟一郎に緩解薬を注射してもらわねばここを出るわけにいかないのだ。
ポーリンが腰掛けた位置が麟一郎の土下座した方向なので、まるで彼女にお辞儀をしているように見えた。彼の視野には彼女の純白な下半身と、そのわきに、両前|肢《あし》をそろえて旧犬《カニス》と同じような格好ですわっているニューマの姿とが写るばかりだった。
と、離れてうずくまっていた例の奇形侏儒《こびと》がポーリンの足元にはい寄り、四肢を縮めてかしこまった。彼女の命令脳波を受けて動いたのである。無雑作にサンダルを脱いだポーリンは、彼の背の上に、伸ばした両足を長々と休めた。肉を刳《く》った凹みにすっぽりと足先が収まった。ニューマが後肢を伸ばして身を起し、首をその足台の上に伸ばして、真っ白な彼女の足の甲を舐め始めた。その舌は人間よりは旧犬に近い。麟一郎は、ふと女の足先に、小さい貝殼のように並ぶ足指が四本しかないことに気づいた。
――この不思議な女はいったい人間なのだろうか? 人間を足台にし、犬にして平然としているのは、人間以上の存在であるのか? 俺《おれ》はいったいどうされるのだ? クララはどうする気だろう?
円盤艇の奇怪な一室で、日本人・瀬部麟一郎の胸中は思い乱れるばかりであった。
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第三章 驚くべき真相
1自己紹介
「妾《あたし》は侯爵嗣女《マーショネット》ポーリン・ジャンセン、既婚よ。今|本国星《カルー》でシリウス地区検事長をしてますの……」
肉足台《スツール》に載せた足の片方を上げて、犬の舌が足裏にも届くようにしてやりながらポーリンは自己紹介し、優雅な身のこなしで上半身をクララのほうに向けた。
彼女は将来、自分が嗣《つ》ぐことになるジャンセン侯爵家(正確には女侯爵[#「女侯爵」に傍点]であるが、女権制のイースでは特に女[#「女」に傍点]と断わる必要はない)の家名を矜持《ほこり》としていた。
イースの歴史は、前史時代の末期、喜望峰から飛び立った光波宇宙船『栄光《グロリア》』号――後に『ノアの方舟《アーク》』号と改称した――が、人馬座《ケンタウルス》| α 《・アルファ》星圏第四遊星「新地球《テラ・ノヴァ》」を征服し、|ω《オメガ》熱ヴィールスの猛威にさらされて危険な地球から英国女王マーガレット――既に『南アフリカ共和国』に避難しておられた――をお迎えして『テラ・ノヴァ女王国』を建国した日に始まる。ジャンセン家の遠祖ウィリアムは共和国有数の政治家の一人だったと伝えられる。彼は方舟号での功により|子 爵《ヴァイカウント》に叙せられた。八代目がシリウス圏征服に大功を立て伯爵《カウント》になり、十五代目が現ジャンセン家の領地であるアルタイル圏を征服して侯爵《マーキース》になった。女権革命後は、家督の名称も|(女)侯爵《マーショネス》に変って女系の女子が相続するようになったが、その初代は、今や『女王《クイーン》アン』と並ぶ黒奴酒《ネグタル》の銘酒『女卿《レディ》ジャンセン』に名の残る女傑で、当時|黒奴《ネグロ》がいっさいの嗜好品を禁ぜられていたのを哀れみ、自家の黒奴に対し、ジャンセン一族の尿を処理した酒の飲用を許して彼らに人生の慰安を与えると共に、人間的尊厳を奪うことで精神的に馴致《じゅんち》する黒奴制度の物質的基礎「黒奴酒」の製造に先鞭をつけた人として知られていた。
現在、ジャンセン家の当主は、つまりポーリンの母、アデライン卿である。彼女は、帝国副総理たると共に世襲のアルタイル圏総督を兼ね、面首《バラムア》(男妾《めかけ》)を何人もたくわえるというその私生活を非難する人はあったが、政治家としての彼女の能力を疑う者はなく、巨富と、女王の寵《ちょう》とを背景とする権勢は当代屈指のものといわれ、その威厳ある美貌《びぼう》は国中に多くの崇拝者《ファン*》を持っていた。娘ポーリンは、名門の子女の常としていきなり顕要の地位に就《つ》かされ、総督たる日に備えて修業中の身であるが、母譲りの美貌は若いころからシリウス圏に著名で、ミス・ユニヴァースにも選ばれたことがあった。
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* 大貴族への平民の崇拝者をファンと呼ぶ。イースの政治は上院の大貴族、下院の中小貴族の手に独占され、平民には参政権[#「参政権」に傍点]がない。平民を代表する政党はあるが議員は貴族で平民ではない。しかし、平民も投票権[#「投票権」に傍点]はある。大貴族を対象とする人気投票である。政見より人的魅力がものをいう。
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誇らかに自己紹介したポーリンは、ひそかに相手の態度の変ることを予期していたのだ。が特別の反応もないので、物足りない思いをしながら、彼女は言葉を続けた。
「……今度、この遊星に別荘を新築しましたので、三週間前から妹や兄を連れて遊びに来ましたの。――今日はご親切にしていただきまして、本当にお礼の言葉もありませんわ。一度妾の別荘にお招きして感謝の意を表させていただきたいと存じます。ぜひお出かけ下さいませね。どちらへご連絡すればよろしいの? 初めてお目にかかるように思いますけど……」
本国星《ホーム・プラニト》『カルー』の首都アベルデーン在住の貴族なら、ほとんどすべて遊び仲間として社交界相識の間柄になっていた。――今目の前のこの令嬢、服装や物腰から見て身分のある女には違いないが、質素な服地といい、ポーリンの自己紹介にも関心を示さないことといい、どこかの植民星《いなか》貴族に違いない――そう思って彼女は、暗にそのことをほのめかしながら尋ねたのだった。
それに対してクララは答えた。
「申し遅れまして……妾はクララ・フォン・コトヴィッツ。未婚です。生れは独逸《ジャーマニ》。父は革命前は伯爵《グラーフ》でございました。妾は今学生で住所は……」
侯爵嗣女《マーショネット》などと妙な肩書を聞かされ、クララは対抗上父の旧爵位を持ち出したりしたが、ポーリンは驚いた。
「独逸《ジャーマニ》? 伯爵《グラーフ》? 革命? いったい何のこと? あッ」
ポーリンは、真相に思い当って愕然《がくぜん》とし、しかもなお信じ切れないといった面持で、「答えてちょうだい! ここは何号台球面なの?――いえ、ここ[#「ここ」に傍点]は紀元何年なの?」
「今年[#「今年」に傍点]はもちろん一九六×年……」
「大へん!」
ちょうど右足の四本指を口に含んで吸おうとしていた愛犬ニューマの顔をポンと蹴《け》りのけながら、ポーリンはあわててサンダルを突っかけ、操縦席に駆け寄った。
計器を調べ、故障と艇《ヨット》の現在位置を確認して、彼女は顔色を変えた。二〇世紀途中に墜落していたのだ。ヤプーを連れたこの女は前史時代の人だったのだ。とんでもない錯覚をしていたものだ。艇外に出て破損を調べてみた。結果はとても航時運行《ドライブ》は続けられそうになかった。
――救援を求めなければならないが、連絡が取れるだろうか? 時間電話《テレフォン》が墜落事故で破損《こわ》れてなければよいが……。
操縦室にもどって彼女はダイヤルを回してみた。ニューマは忠実な護身犬らしく、出たり入ったりするポーリンにずっと付きまとって離れない。こちらに目もくれずに夢中になうてしまったポーリンを、クララはただあきれて見ていた。一九六×年と聞いて何でああ急にあわて出したのかしら……。
ポーリンの耳にブザーの音が聞えてきた。宇宙線を媒介《ばいかい》として、時間を異にする球面を継《つな》ぐ時間電話装置《インタテンポラル・テレフォン》は機能を失っていなかったのだ。ありがたい、助かったわ……。
通話機の前の空間がパッと明るくなったのがクララを驚かした。
別荘の電話番黒奴《テレホン・ボーイ》の半身像が立体受像機に現われた。ポーリンと知って一礼して、
「あ、若奥様で……」
「ドリスを呼んでおくれ」
「畏《かしこ》まりました……エー、ただ今三角|厩舎《きゅうしゃ》のほうに行ってらっしゃるそうでございますが……」
「厩舎に回して」
「畏まりました」
パッと黒奴の姿が消えた。
見慣れない黒人が不意に現われ、発言し、動作し、表情を変える不思議さに、クララは、しばし恋人の運命のことも忘れて茫然《ぼうぜん》として見とれた。消えた後に別な黒奴の上半身が出現してポーリンに一礼した。
「ドリスは?」
「ただ今、ポロの練習で『アヴァロン』号にお騎《の》りになり……」
「呼んでみて」
「畏まりました」
黒奴が消えて、遠くに大きな鳥の飛ぶのが見えた。その背に美少年がまたがっている……と見る間に、ぐんぐん近寄り拡大してきた。鳥と思ったのは巨大な鷲《わし》の翼を羽ばたかす奇妙な四足獣だった。少年と思ったのは、打球戯帽《ポロ・キャップ》からはみ出す豊かな金髪から見て男装の美少女だ、とクララは見てとった。これが天馬《ペガサス》アヴァロン号に騎《の》ったドリスであった。
2有翼四足人《プテロ・カドルペス》哀史
脱線のようだが、天馬《ペガサス》について説明しておこう。前史時代の馬はイースでは旧馬《エクウス》と称ばれ、今では動物園にしかいない。馬《ホース》といえば巨大な畜人馬《ヤップ・ホース》(第一五章3「畜人馬アマディオ」参照)のことだが、他に騎乗用の動物が二種あった。一つは核酸処理による受精卵染色体加工で双生児《ツゥイン》ヤプーに手術し、芝居の馬のように一方の肩と他方の腰とを接着させたうえ、シャム兄弟のような双体|癒着《ゆちゃく》により一体にして生れさせた人為の動物|馬形双体《セントーア》で、もう一つが天馬だった。胴体は驢馬《ろば》ほどで、背中に酪駝《らくだ》のような瘤《こぶ》があり、両脇《りょうわき》から禿鷹《コンドル》の三倍ほどもある翼が生えている。轡《くつわ》や鞍《くら》の装置も、手綱と鞭《むち》と拍車による制御もすべて旧馬と同様で、地上を走る能力こそあまりないが、人間一人を乗せて天空を悠々|飛翔《ひしょう》し得る。天馬の名にふさわしいこの飛行動物は、しかし、人為の作物でなく、「新地球《テラ・ノヴァ》」の原住民だった有翼四足人《プテロ・カドルペス》を家畜化したものであった。
地球人類に劣らない高い精神文明を誇り、今に懐古の客を喜ばす壮麗な三角塔を山上に築いて、大空をわが物顔に飛び回ってこの遊星を支配していた彼らも、原子力文明に暗く、しょせん超水爆を持つ人類の敵ではなかった。生き残った全員は捕虜にされ、のちに女王の愛馬『ロック一世』号として知られた彼らの王は、女王マーガレットの玉座の前に引きすえられた。地球を離れて以来馬に騎《の》れなくなったのを寂しがっていた女王は、巨翼を畳み、四肢を折って畏まった王の姿態に天馬を連想し、人間による騎乗の可能性を検討するよう命じた時、王に代表される有翼四足人《プテロ・カドルペス》たちの運命は定まったのだった。
動物学者・生理学者等が共同でこの動物の研究を始めた。研究の結果わかってきた重要点は、彼らが円形動物と共棲《きょうせい》し、奇妙な摂餌《せつじ》と排泄《はいせつ》の風習を有する哺乳《ほにゅう》類であること、その文明の原動力として人間の手に相当する|舌 触 手《タング・テンタクル》を持っていることなどであった。
彼らの腸内には一匹ずつ長大な有鉤回虫《アスカリス》が住んでおり、胃と腸の境にある幽門に首を突っ込み、鉤《かぎ》で固着し、尾部が肛門《こうもん》に達するまで?虫《さなだむし》[#読取不可]のように腸内を延々と走っていた。食事時になるとその尾部が肛門から突き出して栄養液中に差し込まれ、尾部末端の開孔部から液を吸い上げて、中空の、袋のような体内を一杯に満たすのである。そして幽門の直下にある細裂孔から徐々にこの栄養液を吹き出して腸壁をうるおし、寄生主たる天馬に摂餌の労を省かせると共に、吸収しやすい形でその腸に滋養分を与えるのである。しかし回虫自体の栄養はその液から取られるのではない。液が腸内を下りつつ養分を失って廃液と化し、排泄される一歩手前という段階に達すると、回虫の下半身がそれを吸収して自家の栄養とする。その栄養摂取能力はまことに素晴らしいもので、どんな不消化分でも最後の一分子まで同化吸収し、なんら不要の廃物を余さず、ただ、尾部の体節がわずかに硬化《スクレローズ》するのが新陳代謝の行なわれた徴《しるし》になるだけで、排泄ということをしない。回虫自体がそうであるから、もちろん天馬自体としてはべつに排泄という行為をする必要がなかった。こういう、生きたポンプのような虫を寄生させることによって摂餌・排泄の労から免れることにおもしろい共棲現象が見られた。
後のことであるが、畜人制度《ヤプー・フッド》の確立に際して、その物質的基礎を成したのはこの天馬吸餌回虫《アスカリス・ペガサス》(テラ・ノヴァ腸虫ともいう)の変種を各ヤプーの体内に寄生させ、ヤプーの摂餌を人間のそれと全然異ならしめるのに成功したことであった。生体家具の畜体循環装置《サーキュレーター》(第二章2「読心家具」参照)もこの段階を経過して後に初めて発明されたのである。土着ヤプー、および特に生体実験用(内服用の新薬の効能を試みる場合等)、あるいは生体模型用(腹部を切り開いて胃の収縮運動の具合を見せるのに用いる場合等)として使うための人間同様の生活様式で飼育する原《ロー》ヤプーを除き、すべてのヤプーは生後直らに飼育所《ヤプーナリー》の係員の手によりこの腸虫《ヘルミンス》――俗にエンジン[#「エンジン」に傍点]虫《ワーム》と呼ばれるが――の幼虫を呑まされ、右のような共棲生活を営まされることになったのであった。が、これについては後で述べる。今は天馬のことに戻ろう。
天馬も進化の初期においては口腔《こうくう》から摂食し、肛門から排泄したらしい。しかしエンジン虫との共棲により、口腔が摂食の労を省かれると共に二枚の舌が伸長発達し始め、結局|蛇《へび》のような二本の触手にまでこれが進化した。この触手によって彼らは器具を取り扱うことが可能となり、高等生物に進化し、かくて絢欄《けんらん》たるテラ・ノヴァ古代文明の花を咲かせたのであった。
そこで、女王のご下命に対する答申は簡単だった。騎《の》る前に彼らの舌触手を切断してしまうことであった。この手術――|舌 去 勢《タング・カストレーション》といわれている――によって、彼らの高次行動能力は消滅するが、知性および乗用飛行畜としての肉体能力は少しも減じなかった。
こうしてテラ・ノヴァ原住民たる有翼四足人たちは、一人の女性の気まぐれな思いつきから、人類の新家畜として生れ変らされ、舌去勢されたうえで、かつての山上三角塔に代る三角厩舎の中で飼われる身となったのだった。以来二千年、累代の去勢によって従順化はしていたが、いまだに、精神力において劣る騎手《のりて》に対しては、往往にして発作的な|抵 抗《レジスタンス》を試みることがあるので、現在ではOQ(命令波指数)一〇〇に達せぬ輩《やから》、すなわち平民には|天 馬 騎 乗《ペガサス・ライディング》は禁止されていた。乗馬一般が平民には縁の遠い娯楽だが、特に天馬は、読心家具《テレパス》と同じく貴族階級の専有物なのであった。
3宇宙帝国『イース』
左手に手綱、右手に|打 球 杖《ポロ・スティック》を握り、打球戯上衣《ポロ・シャツ》を着た少女の姿がハッキリしてきた。羽ばたきもゆるやかになった。
『イース』の貴族階級の九十パーセントを占めるのはアングロ・サクソン族であるが、彼らは家畜作りと同様、新遊戯の発明にも古来優秀な能力を示した民族である。旧馬《エクウス》の代りに天馬《ペガサス》を使う新形式ポロを案出しなかったとすれば、むしろ不思議なくらいだ。「ペガサス・ポロ」は、昔の平面競技場の上空百メートルに達する空間を競技場《グラウンド》とし、内部に回転体《ジャイロ》を包んだ重力の作用を受けない特殊球を、地上五十メートルの高さの標穴《ゴール》にたたき込む三次元の馬上打球戯《ポロ》であった。各組《チーム》別の配色に翼を染め分けられた天馬が左右上下に飛び交い、その間を白球が縦横に動き回る、実に壮快な競技だ。そしてドリスは、『アベルデーン・ポロ・チーム』の正選手なのだった。
『アヴァロン』号が翼をおさめ、その四脚が地に着いた。ドリスが身軽に鞍《くら》から飛び降り、拍車が光った。厩舎《きゅうしゃ》からの合図で戻って来たのだろう。連絡のために馳せ寄る黒奴《ボーイ》の姿が受像機に小さく現われた。
像が消え、今度は美少女の上半身が|大 写《クローズ・アップ》で立体化した。ポロ正選手の服装である。乗馬ズボンに長靴《ブーツ》の下半身を見なくても、スラリとした体つきに、鞭《むち》のような強靱《きょうじん》なしなやかさを秘めていることがわかろう。ドリスはまだ十八歳だが、男妾《めかけ》の胤《たね》ということもあって、姉のように枢要な地位を望むわけにはいかないため、政治に興味を持たず、ひたすらスポーツに励んで、若くして乗馬の名手とうたわれるようになっていた。馬(畜人馬《ヤップ・ホース》)の数は多くはないが、粒よりの名馬をそろえた彼女の厩舎は、いつも姉をうらやましがらせていた。狩猟の腕前も姉より上であった。父親似で顔立は少し姉よりいかついが、男女の役目が前史時代とは逆になっている『イース』では、そういういかつさ[#「いかつさ」に傍点]は女の顔にとって少しもマイナスになってはいない。整った顔立だった。まだ熟《う》れ切らぬ処女の肉体の清純さが、若い顔、特にその汚れを知らぬつぶらな目によく調和していた。彼女は片手に打球杖を握って振り動かしながら、ふくれ面《つら》で、
「どうしたの、姉さん、今練習中だったのよ」
「ドリー、妾《あたし》、不時着――墜落しちゃったのよ」
「えッ、墜落、今どこ?」
「一九六×号台球面、北緯五〇度一二分、東経八度二三分五〇秒。わかった? 円盤《ディスク》も破壊《こわ》れちゃって……」
「わかった、すぐ迎えに行くわ。誘導波を出しておいて!」
「うん、セシルは?」
「今、ウィリアムと一緒に|巨 大 蜘 蛛《ジャイアント・スパイダー》の生餌《いきえ》をかってる|わ《*》。二人とも巡れて行く」
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* 巨大蜘蛛はスクーターぐらいの大きさに育てたもので、美しさを愛《め》でて貴族に飼われる。生餌をすぐ殺さず、徐々に縛っていくように毒牙が抜かれている。生餌はもちろんヤプー(あるいは死刑にする黒奴)である。生餌を縛るのに蜘蛛は二時間ぐらいかかるので、「生餌をかう」ことは貴族のいい消閑《ひまつぶし》の一つとされている。
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ホッとした顔で、ポーリンはクララを振り返り、
「失礼したわね、フォン・コトヴィッツ嬢《さん》。もう大丈夫、すぐ迎えが来るわ」、操縦席を立ち、また戻って来ながら話し続けた。
「でも本当に驚いたわ。貴女《あなた》を『イース』(EHS)の人とばかり思ってたものだから――そういえば、貴女の服地も、ヤプーに首輪させてないのも、変な気はしたけど、まさかと思って……」
「|EHS《イース》の人?」、不思議な立体像に、圧倒されたような気持から立ち直れないままクララは、不可解な言葉を繰り返した。「EHSって何です?」
「 |The《ジ》 |Empire《エンパイア》 |of《オブ》 |Hundred《ハンドレッド》 |Suns《サンズ》 (百太陽帝国)、またの名は |The《ザ》 |British《ブリティシュ》 |Universal《ユニヴァーサル》 |Empire《エンパイア》 (大英宇宙帝国)――といっても、やはりわからないでしょうけど」
クララのすぐ前にまで来たポーリンは元の場所にすわろうとはせず、彼女と向い合って話したいために四つん遣いのまま動けない麟一郎の背中に横ずわりに腰をおろした。
「これは昔の人には知らせていけないことになってるの。前史時代の球面の無許可着陸だけでも処刑を受けるのよ。でも妾《あたし》は墜落して貴女に救われたんだから、妾、隠そうとは思わない。驚いてはいけないことよ。今貴女の住んでいる時代から二千年余り先の世界、それがEHSです。妾は何百もの太陽圏全部の首都のある本国星《カルー》から地球別荘に遊びに来たの。でも、今妾たちのいるこの球面じゃなく、三九六〇号台球面に、つまり地球紀元で三九六〇年の地球上に新築された別荘に来たわけなのよ」
語り続けるポーリンは、尻《しり》の下のヤプーには全く無関心だった。アベルデーンの本宅では各室に|肉 椅 子《フレッシー・チェア》(第一八章2「霊乳浴と唇人形キミコ」参照)を置き、寝室には|肉 寝 台《フレッシー・ベッド》(同章参照)を備えつけていることとて、彼女はヤプーの肌で自身の体を温めることに慣れ切っていたから、今このヤプーの背に腰掛けたについても何の緊張も感じなかったのである。ケープが短くて尻の下に敷けず、尻の肉は薄物の一枚を隔ててヤプーの背中に接し、下から温められる。彼女は高々と脚を組んだ。
麟一郎のほうは、腰掛けられると同時に、彼女の体重を四肢に重く感じたが、それ以上に精神的な屈辱感を新たにした。それを口に出せずこらえるので全身が熱《ほて》ってくる。その背に女の尻が冷たかった。クララと接吻《キッス》した以外、女に関する経験がなく、もちろん女の裸体など知らない彼は、女体の尻の冷たさを初めて味わって驚いたが、もっとビックリさせられたのは女の話の内容である。ただ聞けば、狂人の痴言《たわごと》としか思えないことだが、こういう特異な状況のもとで聞かされると、それを信じる外はないリアリティがあった。麟一郎は、空中を飛行し、人を犬にし、大きな都を海の底に変える「アラビアン・ナイト」の魔女のために石に化せられてしまったような気持だった。女が脚を組んだころは、初め感じていた尻の冷たさは消えて、かえって温かみさえを覚え出した。
クララは、恋人の背中を目の前で腰掛代りにされて不快に感じたが、あまりのポーリンの無雑作さにかえって気をのまれ、急には抗議もできなかった。
「どうして英語をご存じですの?」と、さすがに鋭く質問したが、
「英語?――ああ、|言 語《ランゲエッジ》(ただ一つの言語であるから、イース語は単に language ことば[#「ことば」に傍点]と称ばれる)のことを昔そう称んだのね。その英語が、宇宙帝国全体の共通語になったのよ。もちろん方言はあるし、平民はかなりくずしてしゃべるようだけど……」
「この|空飛ぶ円盤《フライング・ソーサー》は?」
「円盤《ディスク》のこと? これは航時遊歩艇《タイム・ヨット》よ。時間航行機《タイム・マシン》といってね、四次元宇宙船に使う|次 元 推 進 機《ディメンショナル・プロペラ》を時間次元に作動させたものがあるの」、何も知らない相手とわかるとポーリンの話も解説調にくだけた。
「そのいちばん小型がこれで、一人乗りよ。……じゃあ、今度は妾からお尋ねするけど、貴女はなぜこのヤプーを裸にして連れてらっしゃったの。前史時代にはヤプーたちは皆服を着てたって妾は教わってたんだけど……。さっきは一つにはそれで勘違いしちゃったのよ」
ポーリンは、ほっそりと品のよい右手の人差指で、腰の下の麟一郎を指しながらクララのほうを見た。
麟一郎は気配で自分のことと察し、再び屈辱で血が燃えた。さっき、女の前に裸を示すことを恥ずかしく思った時には、相手も彼の裸を正視できず困っているのだろうと考えて、女性の立場を尊重し遠慮したのだったが、今このように女が平然と彼の裸を口にし、あろうことか複[#読取不可]の裸の背中に腰をおろすなど、男の裸に対して、女としての当惑を全く感じていないのを見ると、一人前の男性としての屈辱感と憤りに身を燃やした。
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第四章 ヤプー本質論
1|知 性 猿 猴《シミアス・サピエンス》とは?
「たびたび妾《あたし》の麟《リン》――瀬部氏《ミスター・セベ》のことを、ヤプーなどと妙な名で称《よ》んで変なことをおっしゃいますけど、どうしたことなんでしょう!」、クララは、さっきから喉《のど》に詰っていたことをポーリンの質問を好機会と見て、忿懣を込めてぶちまけた。「彼が全身麻痺で苦しんでいるのに、その背中にすわったりして! 妾はさっきから気になっていたのです。やめて下さい。そしてさっそく薬の注射をして下さい。妾は婚約者《フィアンセ》がこれ以上はずかしめられるのに耐えられません」
麟一郎はクララの抗議をうれしく聞いたが、途端にポーリンの尻《しり》にグイと押されて無抵抗に前にのめり、今まで両手でささえていた上半身を肘《ひじ》まで床に着けて、低くささえるような姿勢になった。ポーリンが勢いよく立ち上った反動で押されたのだ。彼女の尻が退くと今度は背中が寒かった。
「何ですって、ヤプーと婚約? いくらなんでも、そんな……」、ポーリンの声は、ほとんど信じられないといったほどの驚きを語っていた。しかし、クララは、自分も立ち上ると平然としていった。
「妾たち二人は愛し合っているのです。彼が大学を卒業したら、彼の祖国[#「祖国」に傍点]に行って、拳式するのです……」
「じゃ本気で結婚を考えてるのね。何て恐ろしいこと、ヤプーとの結婚……」
「ヤプーなんてものは存じません!」
「それは旧ヤプーがヤプーと呼ばれてなかったからよ。人間扱いされてたからよ。たしかジャバン人とかヤプン人とかいうんだったわね。でも名前なんかどうでもいいのよ。問題は貴女《あなた》のいわゆる彼の祖国[#「祖国」に傍点]が実はヤプン諸島のヤプンどもの群棲地だということなのよ。貴女の婚約者《フィアンセ》はその……」
「奥様《マダム》」、クララはたまりかねて口をはさんだ。「私の将来の夫のことをとやかくいって頂きたくありません。それに彼は貴女を失神から救ったので、貴女にとっても恩人のはずですわ(この時、ポーリンは肩をすくめた)。彼は貴女がヤプーとやら称ばれる下賤《げせん》な存在ではありません。妾、先ほどは貴女が精神的|衝撃《ショック》から回復していらっしゃらないのだと思って、我慢をしていました。でも貴女が不思議な未来の国の人だとおっしゃって、事情がのみ込めてからは、貴女の彼に対する態度が何かの偏見にもとづいていることがわかってきたのです。妾は貴女のためにそれを惜しまずにはいられません。……」、クララの抗議は故フォン・コトヴィッツ伯爵の令嬢たるに恥じぬ立派な辞令だった。
クララの熱弁に、その迷いのまだまだ深いことを見抜いたポーリンは相手の気持を尊重して、麟一郎の温い背中は使わず今度は長椅子に戻り、肉足台《スツール》の凹みに両足先を休ませ、手真似でクララに掛けるよう勧めながら、
「フォン・コトヴィッツ嬢《さん》、貴女のお気持はよくわかったわ。前史時代の旧ヤプーが人間として扱れれていたということは理屈では知ってたけど、まさかこれほどとは思ってなかったから吃驚《びっくり》したのよ。考えてみると、そんな時代に住む貴女に妾《あたし》と同じ感じをすぐ持てというのは無理かも知れません。……でも、妾、黙っていられないの。貴女みたいに立派な人間の愛情がヤプーに向けられるなんて、考えるだけでも人間性の侮辱だわ。考え直してほしいわ」
「何をおっしゃるの」、クララはあきれ返り、次いでいきり立った。「侮辱にも程《ほど》がありますわ」
「相手がヤプーですもの。いいこと、フォン・コトヴィッツ嬢《さん》、これは」――彼は[#「彼は」に傍点]といわず、これは[#「これは」に傍点]と、物を指す代名詞を使いながら、麟一郎を指さして、「ヤプーよ。貴女方の二〇世紀がヤプーという呼名をご存じかどうかは問題じゃないの。問題は肌の色よ。黄色の肌が教えてくれるわ、これはヤプーで、人間じゃないってことを……」
「遠い未来の世界で白人が黄色人を奴隷にしているからといって、妾たちの愛情に何の関係があるとおっしゃるの? 仮にそうだとしたって妾は少しも結婚を躊躇《ちゅうちょ》しません」、クララは目を輝かせていい切った。
「奴隷だって|人 間《マンカインド》です」
「黄色い奴隷なんてものはありません、奴隷は黒色よ。そして黒奴は|人 間《ウマンカインド》じゃなく|半 人 間《デミ・ウマンカインド》よ」、ポーリンは事もなげにいった。「肌が白くなければ人間といわないわ。形容詞をつけて白人[#「白人」に傍点]なんていう必要はないの|よ《*》、妾たち人間は――」
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* このようにイースにおいては白人[#「白人」に傍点]という概念は存在しないのであるが、二〇世紀人を読者に持つ関係から、以下の説明において白人[#「白人」に傍点]の語を用いることあるを了とされたい。
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「それは偏見です。奴隷は制度の産物で人間の本質を否定することはできません。妾たちの世界はそれに気づいて百年前に黒人奴隷を解放しました……」
「その解放が後にアメリカ――だったわね、たしか――それでアメリカ自身を滅ぼすことになったのよ(第二三章3「人類の近き未来図」参照)。解放する前にもっと考えるべきだったわね。……そりゃ、奴隷は制度の産物よ。肉体的には黒奴も人間も同じ homo sapiens に属していることはもちろんよ。けど知性人類《ホモ・サピエンス》だから人間[#「人間」に傍点]だというのは論理の飛躍ね。半人間[#「半人間」に傍点]もありうるはずよ。色のある皮膚は人権とマッチしない。……でも、こんなことはヤプーとは関係のない話だわ」
「黄色人は黒人と違い……」
……優秀な民族です、と続けようとしたクララの言葉をポーリンは途中から引き取って、
「……ますとも。全然違います。比較するのがおかしいくらいだわ。黒奴は奴隷[#「奴隷」に傍点]だけど、ヤプーは家畜[#「家畜」に傍点]なんだもの」、ピシャリといい切った。
「ヤプーは類人猿《エイプ》よ。| 獣 《ビースト》よ。いくら|知 性《インテリジェンス》があっても、獣を奴隷とはいわないわ、家畜だわ。ヤプーは知性ある家畜[#「知性ある家畜」に傍点]なのよ」
「痴《たわ》けたことを! 何を根拠にそんな大嘘《でたらめ》を……」、クララは絶叫した。
「何をいうのよ。妾は単に事実をいってるんだわ。貴女が知らないだけよ。――もっとも貴女だけじゃない。前史時代の人は誰も知らなかった。ヤプーが『|知性ある類人猿《インテリジェント・エイプ》』――学名は simius sapiens (知性猿猴《シミアス・サピエンス》)よ――だということを、テラ・ノヴァの人たちが気づくまで、誰一人知らなかったのよ」、ポーリンもようやく昂奮してきて、白い頬《ほお》が美しく紅潮した。
「旧ヤプーが人間(白人)から『|黄色い猿《イエロー・マンキー》』と称ばれた時代もあったらしいの。昔にも目のある人が全然無いじゃなかったのね。旧ヤプーが模倣能力――これは| 猿 《マンキー》の特性だわね――にすぐれていたことは見抜かれていたのよ。もう一押しだったと思うんだけど、当時は|知 性《インテリジェンス》というものを人類の占有物みたいに思いこんでいたから、類人猿《エイプ》だって知性動物たりうる、そういう進化もありうるということに誰も考え及ばなかったのね。それがテラ・ノヴァに渡って、人類以外にも天馬《ペガサス》のような知性動物があるのを知って目から鱗《うろこ》が落ちて、その目で旧ヤプーを見直すと、『黄色い猿』というのがただの比喩でないことがわかったわけよ。それを学問的に証明したのがローゼンベルクでした……」
2畜人論の成立と意義
元来、ヤプーは類人猿《エイプ》の一種だ≠ニいう説は、新地球《テラ・ノヴァ》軍の地球再占領当時初めて、ヤプー処遇上、人権問題の口を塞《ふさ》ぐ便宜上から大衆伝達機関《マスコミ》に付された俗説で、政策的神話[#「政策的神話」に傍点]ともいうべきものだった。テラ・ノヴァの本国では既に黒人は奴隷化していたから、黒奴の人間性を今さら問題にする必要はなく、地球での政策としてはヤプーだけを対象として、その人権剥奪の理由を作り出せばよかったのだ。
しかしヤプーの奴隷化・家畜化の推進に当り、その理由として繰り返されているうちに、俗説はいつか人々の信念に根をおろし始めた。そしてその信念からの逆作用でさらに家畜化が拍車をかけられた。天馬吸餌回虫《ペガサス・エンジンワーム》のヤプー寄生種の発明も、ヤプー人間観の下では不可能だったろう。生体解剖《ヴィヴィセクション》による医学の進歩の恩恵はあまりに大きく、今さら生体解剖を中止することはできなかった。ヤプーは別扱いでよい=Aヤプー類人猿説を俗説と見る人も、これだけは認めざるを得なかった。奇形者の交配から短脚・長喙《ちょうかい》の畜人犬《ヤップ・ドッグ》の原種が作出固定され、四這《よつばい》[#読取不可]にして飼われ始めると、もうヤプー人間観ではまかない切れない新情勢となった。
この時、人々の期待に応え、その内心にまだしつこくついていた疑惑の雲を残りなく吹き飛ばしたのが、地球紀元で二三世紀末のローゼンベルクの大著『|家畜人の起源《オリジン・オブ・ヤプー》』の発表だった。第二の進化論[#「第二の進化論」に傍点]≠ニいわれるこの業績の著者は前史時代末期に『二十世紀の神話』を著わしたナチス戦犯哲学者の血を引く大生物学者で、彼は従来 homo sapiens (知性人類《ホモ・サピエンス》)といわれてきた中に異種の simius sapiens (知性猿猴《シミアス・サピエンス》)がはいっていることを発見し、皮膚の白[#「白」に傍点]と黒[#「黒」に傍点]は前者に、黄[#「黄」に傍点]は後者に属すること、すなわちヤプーは simius sapiens であることを論証するに、 primates (霊長類)中の homo (人類)と simia (猿猴)とが共に代表選手たる知性動物を進化させ、それぞれ右の両者となった、との豊富な例証に裏づけられた巧妙な理論をもってした、まさに旱天《かんてん》の慈雨のような学説[#「学説」に傍点]だった。
基礎哲学と応用技術とは平行する。「畜人論《ヤプーニズム》」が学界の定説として受け入れられ、やがてヤプーの非人間化が良心の曇りを感ぜずに遂行し得られるようになると、ヤプー文化史上の三大発明、生体縮小機《ディミニッシング・マシン》、読心装置《テレパシー》、|染 色 体 手 術《クロモゾーム・オペレーション》が次々に登場してきた。これによって畜人制度《ヤプー・フッド》は完成期にはいったといわれる。初めは愛玩動物《ペット》だった矮人《ピグミー》――|縮 小 畜 人《ディミニッシュト・ヤプー》の最小種――は「有魂機械《ソウルド・マシン》」の部品として使用せられるに至り、第三次|機械自動化《オートメーション》による第五次産業革命を招来する原動力となった。畜体循環装置《サーキュレーター》の普及により、肉便器《セッチン》その他の|生 体 家 具《リビング・ファニチュア》が各家庭の常備品となってきた。新種のヤプーが続々作出され、皮革ヤプー・食用ヤプーが飼養され、生体処理工業が興り、さらに血液媒剤《コサンギニン》と|電 気 焼 筆《ブランディング・ペン》による生体彫画は第十一番目の新芸術として認められるに至った……。
ヤプーは単なる家畜ではなく、器物でもあり、動力《エネルギー》でもある。生体家具として生産されるものは生れながらにして器物性を帯びている。生体[#「生体」に傍点]とはいっても本質は家具[#「家具」に傍点]なのである。ヤプーの登場が家畜と家具との概念的区別を曖昧《あいまい》にしてしまったのだ。また、その精神能力が機械の一部に組み入れられている時、ヤプーの存在価値は新しい動力源たるに在るともいえた。今やこうして生活の隅々《すみずみ》までヤプー利用の浸透した世界におけるヤプーの意義は、あたかも二〇世紀世界における電気にも比せられよう。万能の召使いたる電気なしに二〇世紀人の生活が考えられなかったように、ヤプーという、これまた万能の召使いなしにイースの衣食住は考えられなくなっていた。
かつて「進化論」が自由競争の自然法則視によって資本制を合理化したように「畜人論」はヤプーの非人間性の論証によって畜人制度を合理化した。それは理論なるものの上部構造性《イデオロギー》を示す見事な一例ともいえたであろう。イース社会の人々にとってはヤプーの由来についてのローゼンベルク学説は常識であり、この人々に対し、ヤプーが人間であるということは、二〇世紀人に対し、| 雷 《かみなり》公《さま》の絵を示して電気の本質はこれだと説くような印象を与えるだろう。ヤプーの非人間性は既に論議以前の科学的真理なのであった。――原《ロー》ヤプーの裸体は人間と酷似していること、地球のヤプン諸島には服を着たり物を食べたりして、「|知性ある類人猿《インテリジェント・エイプ》」がどれほど人間そっくりの衣食住や社会生活を営み得るかの、好個の観察対象たる土着《ネイティブ》ヤプーのいること、彼らは皮膚の色以外はほとんど人間と区別がつかず、むしろ皮膚から見ると白人と黒人の中間に位する人間かのように見えること、こういう事実はイース人の心を脅かさない。なるほど外見からいえばそうであろうし、人間と黒奴だけが homo sapiens でヤプーは別種だというのは外見に反することだ[#「外見に反することだ」に傍点]。しかし外見は似ててもヤプーは類人猿にすぎず、ひとは矮人決闘《ピグミー・デュエル》に興じ、畜人焼肉《ヤップ・ステーキ》に舌鼓を打ち、精気《ホルモン》吸引具を喫《す》って若返りすることができた。
百億の人間と、その百倍の数の黒奴の下に、さらにその百万倍ものヤプーがイース社会の生産力の根底をささえていた。ヤプー人間観になじみやすい前史時代人の目には、この畜人制社会はヤプーを搾取する階級社会に見えるかも知れない。この見地に立てば、イースの社会組織こそ人類最高の空前の支配体制であろう。奴隷の暴動、封建制の一揆《いっき》、資本制の罷業《ストライキ》、いつの世にも支配階級は脅かされ、革命で取って代られたが、イース社会をヤプーが脅かすことは絶対にないのだから。
――だが、ヤプーを被支配階級と見ることは誤りであった。彼らは階級[#「階級」に傍点]というに値しない家畜なのだ。牛や豚は人間を脅かさず、ただ使役され消費される。それが家畜の宿命だが、ヤプーもそれと同じであった。いや家畜そのものとしては牛や豚よりも卑賎《いや》しいものとされているくらいなのであった。ただ単なる家畜でなく、一方に器物であり動力であり、各種各様の使用形態のすべてがヤプー yapoo (ついでながら、これは単複同形である)の名に総称されている。一度電気を使うことを知った人間が二度と電気以前の状態に戻ることはないように、既にヤプー使用の便利を経験し、生活体系にヤプーの肉体と精神を織り込んでしまったイース社会がヤプーを使用しなくなることは考えられない。否、現状では既に不足するといわれ、帝国発展に伴うヤプー大増産は刻下の急務と叫ばれているくらいだった。
かくてヤプーの将来には唯一つの道が続いている。これまでと同じく今後も永久[#「永久」に傍点]に人間(白人)社会の維持と発展のための材料や道具となること、これであった。白人の楽園《パラダイス》『イース』の文明に栄華の花を咲かせるための肥料として生産され愛用されてゆくのが、今後のヤプーの運命なのである――ヤプー人間観からすれば、この|解 放《たすかること》のない永久的隷属、救済《すくい》のない永劫《えいごう》の地獄はやり切れないことだが、仕方がなかった。これを悲劇と見るのは誤ったヤプー人間観に立つからで、正しいヤプー家畜観に立つなら、少しも悲観におよばない。種に属する個体の増加と、分化した変種の多様性とが生物の繁栄を示すものである限り、幾百の太陽の下、現に simius sapiens ほど繁栄している種はほかにないのであり、人類と共に発展してゆくこの知性ある家畜の将来は洋々たるものだ。
そして、その正しいヤプー観を教え、将来の発展を示唆するものこそ、ローゼンベルクの「畜人論」なのであった。
3知性ある家畜
ポーリンもローゼンベルクの「畜人論《ヤプーニズム》」は子供のころから常識として頭に入れていた。そう教えられそう信じてきた。ヤプーは人間であるなど考えられない――というより、ヤプーの本質について、彼女はそもそも懐疑したことがない。一度、家畜文化史の専門家である兄セシルから、五百年ほど前、ヤプーは人間である≠ニいう説を唱えた学者がいたという話を聞いたことがある。もう名前も忘れたが、何でも畜人省の局長だった女《ひと》の夫《つま》で、地球で土着ヤプーを研究したうえ、『|家 畜 人 解 放 論《ヤプーナル・エマンシパーション》』という大著を刊行し、ヤプー人間観に立って、ローゼンベルク学説のイデオロギー性を衝《つ》き、ヤプー解放を説いた。しかし誰にも相手にされず、妻からも離縁され、おまけに滑稽《こっけい》にも、読心能付肉便器《テレパシック・セッチン》が彼の内心の人間を便器にしてよいものか≠ニいう躊躇《ためらい》を読み取って口を開かないため、黒奴用真空便管《ネグロ・ヴァキューム・シュア》の先端器《コブラ》を使わねばならなくなった……。「それでどうしたの?」、笑いころげた後でポーリンが訊いたら兄は答えた。「すっかり閉口して自説を撤回した。復縁は許されなかったそうだ。お笑い草だね」。ヤプーが人間であるなど、もっとも赤Y字運動のナイチンボイ卿などの同調者もいるにはいたが、このバカ男の外に考えた人のあるのを知らない。だから今はからずも前史時代の人に会って、こういう明白なる真実を知らないばかりでなく、容易に納得しそうにないのを見ると、ポーリンは無理もないとは思いながらももどかしさが先に立った。――外見に反する[#「外見に反する」に傍点]という理由で、地球が動いていることを信じようとしない中世紀人に会った二〇世紀人の心境を想像すれば、彼女の心中、思い半ばに過ぎるであろう。
ポーリンは、ややもすればじれったくなるのを押えてクララを説得するように努めながら、
「わかって? 旧ヤプーの正体を|知性ある類人猿《インテリジェント・エイプ》と知って、これを家畜に飼い慣らしたのがヤプーなのよ。ヤプーは家畜だから、黒奴と違っていろいろなことに使えるのよ。この犬」、彼女は床に腹這っている古石器時代人狩猟犬《ネアンデルタール・ハウンド》のほうを顎でしゃくった。犬は両前足をそろえて投げ出した上に長々と顎を載せ目をつむっていた。額に彫りつけられたジャンセン家の紋章に矜持《ほこり》を感じ自足しているような姿だった。「これだって、元来はヤプーなのよ。ヤプーから作った犬よ。貴女はこのニューマの同類を婚約者《フィアンセ》……」
「やめて!」、クララは鞭《むち》を焦々《いらいら》しげに振ってやめさせようとしながら、金切声をあげた。「麟《リン》はこんな醜怪《おばけ》ではありません」
「そりゃ、土着ヤプー――いえ、旧ヤプーだからだわ。つまり生《なま》なんだわ。使いやすく加工する前の原《ロー》ヤプーは、皮膚の色以外は人間そっくりに見えるものよ、この肉足台だって」、と肉の凹みに踵《かかと》をトントンさせながら、「一月前には、貴女のそのヤプーよりたくましい大男で、容貌《かおつき》も気のきいた原ヤプーだったのよ。それを工場で加工させて、背中に足形を刳《く》らせて、こういう肉足台にしたのよ。妾《あたし》の舌人形《おもちゃ》に作らせたのよ」
「そんな、人間をわざと奇形化するなど……」
「違う! 今いったでしょう、ヤプーは人間じゃないんだって!」
息詰るような二人の貴婦人のやりとりを、麟一郎は呪縛《じゅばく》されたまま、全身を耳にして聞いていた。ようやく彼に先ほどからのポーリンの態度がわかってきた。そして今初めて正体を知った犬や肉足台に妙な親近感を覚えた。――そうだったのか、なるほど肌色は俺《おれ》と同じだな。だから何と恐ろしいことだろう。知性ある家畜人ヤプー、俺もその一匹と見られているとは……何をクソ! と思っても、身動きひとつできない体なのだった。
クララは麟一郎に視線を向けた。何といわれようとたいせつな恋人、その土下座した哀れな姿を見ると、激情がこみあげてきて思わず進み寄り、ひざまずいて彼の体に手を掛けた。……彼は凝《じ》っとして動かなかった。今さらのように全身麻痺の恐ろしさを感じ、先ほどからの自分の昂奮も緊張も皆この人のためなのに、彼の体はこんな不具《かたわ》に……と思うとたまらなくなって、崩折れるように彼の動かない体にすがってクララは悔《くや》し涙を流した。鞭を床に捨て、男の背に上半身を寄せつつ、両手で首を抱き、そっと自分のほうにねじ向けさせると、
「麟《リン》!」
と| 唇 《くちびる》を近づけたが、男の唇は死んだように動かない。ふっとさっき、円盤落下直後、水辺から駆けつけた彼と熱い抱擁《ほうよう》と接吻を交したことを思い出してクララは、また涙した。麟一郎の目からも涙がしたたった。
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第五章 宇宙帝国への招待
1ヤプーとの接吻《せっぷん》
ポーリンは思わず目をつぶった。人間とヤプーの接吻《せっぷん》、汚ならしさは正気の沙汰《さた》とも思えず、見るに耐えなかったのだ。
ふと彼女は「白色唇人形《ホワイト・ペニリンガ》」にされた男のことを思い出した。古い記憶である。まだ母アデラインの膝下《しっか》にいた未婚時代で、しかしもう舌人形の使い方は心得ていたころだった。母にファン・レターをよこしていた青年の崇拝者《ファン》が、母の使い古しの舌人形を入手したと狂喜した便りをしてきたことがあった。間もなく「貴女の舌人形がうらやましい……」、と注して一基の立体写真を送ってきた。それが何と、舌人形と抱擁し接吻し合っている像なのであった。一目見るなり、「まあ汚ならしい」と嘔気《はきけ》を催し、あわてて肉反吐盆《ヴォミトラー》をさし招いた潔癖な彼女だったが、母は案外平気で、「平民の中には時々こういう生れそこないが出るものだよ。分相応[#「分相応」に傍点]の扱いをしてやろうかね」と笑っていた。
白人の肉体は、黒奴やヤプーの肉体とは尊貴の度において次元を異にするにしたがって、| 唇 《くちびる》に唇を接しセクスにセクスを合わせる対等結合は、白人同士、有色人同士では可能であっても、白人と有色人との間にはあり得ない。もし結合する場合には、有色人の肉体中。いちばん清潔な上等な部分をもってして、ようやく前者の肉体中いちばん不潔な下等な部分にさわり得るというにすぎない。つまり、犬のように足先を舐《な》めるか、それとも舌人形《クニリンガ》・唇人形《ペニリンガ》のような方法でセクスに奉仕するか、どちらかが許されるだけである。それでも、白人の肉体のほうが尊貴にすぎるくらいのものであった。だから、白人が事もあろうに舌人形と接吻しているのを見ては、ポーリンにとって正気の沙汰《さた》とは思えなかったのも当然である。舌人形の舌は白人女性のセクスに奉仕し、それと対等の価値のものだから、舌人形と接吻したということは、青年の唇が舌人形の舌と、したがってアデライン卿のセクスと等価値にまでなり下っていることを意味した。分相応[#「分相応」に傍点]とは、その低い価値にふさわしく、ということである。
あとで聞いたのだが、この青年が面首《バラムア》(男妾《めかけ》)になりたいと望んで送って来ていた白紙身売状《カート・ブランシュ》|に《*》、母は、「唇人形」と記入し、寵愛の面首《めかけ》の一人に彼の身柄の処分権を贈ったという話だった。彼女のセクスに奉仕するという点では舌人形の舌と男妾のセクスとは等価値である。しからば、舌人形の舌と等価値の青年の唇は男妾のセクスとも等価値なのだ――お前は、面首に奉仕することで、妾《あたし》にそれで間接の奉仕をするがいい、直接の奉仕は許さない=\―これがアデライン卿の気持だったのだ。接吻像からちょっとした思いつきを得て、それが青年の純真な愛情を玩弄《がんろう》する彼女の嗜虐癖《サジズム》を刺激し、ここに珍しい白色唇人形《ホワイト・ペニリンガ》を生んだわけだった。彼は、万物の霊長たる白人《ひと》の身に生れながら、求愛の誓約に縛られ、求愛の対象だった当の女性ではなく、その女性に男性《おとこ》として奉仕する他の白人――本来なら、アデライン卿の後宮《ハレム》で面首の同僚として恋敵《ライバル》であったはずの男――の道具として彼に奉仕せねばならない運命となったのだ。
当時、ポーリンは、犠牲となった青年に一面同情もし、人間をヤプー扱いする母の異常性《アブノマリティ》に反発を感じはしたが、結局、「あんな変態男、それで当然よ」と母の処置そのものには表面賛成せざるを得なかったが、それというのも、彼女は、男が習俗を無視して舌人形と接吻している像に極端なおぞましさを感じたからであった。
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* 身売状[#「身売状」に傍点]は、債務者が債権者に弁済しない時は、指定した身分に貶《おと》されても異議ないと認めて差し入れる証文で、その指定欄を白紙にしたものが白紙身売状[#「白紙身売状」に傍点]である。相手に生殺与奪の権限を与えることになる。イース社会では、これが求愛の表現として愛用された。法的には有効でも慣習上は単なる恋文《ラブレター》としか見ないのが例である。それをアデライン卿は濫用して正式の身売状として利用し、有無をいわせず男を処分してしまったわけである。(人間を唇人形にするなどは、たとえ貴族が平民に対する場合でもこういう身売状がなければ違法である。ただし、王族は別である。天狗《テング》と称する白色鼻人形《ホワイト・ナーゼ》が、女王への奉仕者として制度化されているくらいだ)
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今ヤプーと接吻する女を見て、ポーリンの思い出したのはこの時のおぞましさであった。舌人形よりは不潔さの少ない原《ロー》ヤプーではあったが、前のは平民の男だったのに今度は貴族の女であっただけに、ポーリンは、それだけまた前とは異なった不愉快さを感じた。
しかし、女の嗚咽《おえつ》が耳に響いてくると、男を気づかう情愛がしだいにひしひしと胸に迫って、彼女の心を揺り動かした。
――可哀そうな女《ひと》、こんな可愛い顔をしながら、ヤプーに惚《ほ》れ込むなんて。……でも彼女の罪じゃない、時代の罪なんだわ。この女《ひと》、ヤプーが人間として通用していた倒錯的な世界[#「ヤプーが人間として通用していた倒錯的な世界」に傍点]に住んでいたんだから……ああ、さっきミスター・セベといわれて何のことかわからなかったけど、ミスターは| 氏 《ミスター》のことね、セベ氏といったんだわ。旧ヤプーだから、名の外に苗字《みょうじ》を持ってるんだわ。……ヤプーを人間の男と思って惚れ込んでいるこの愛情を何とか正しい方向に向け変えられないものか? 自覚しない病人が治療を拒んでも医者には治療の義務があるんじゃないかしら? この女《ひと》は妾を救《たす》けてくれた。今度は妾がこの女《ひと》を救けてあげる番だわ。ヤプーと接吻したりして不愉快だけど、それでも見捨てず、積極的にこの人の病的愛情の匡正《きょうせい》に努力してあげなければ……。
ポーリンがそこまで考え進んだ時、
「奥様、一刻も早く緩解薬の注射をして下さい」という、激情を押し殺したような声が彼女の目を開かせた。クララが麟一郎《りんいちろう》のそばにひざまずき、彼の体を抱えたまま、キッと顔を上げて彼女のほうを見ているのが目に入った。男の唇から今顔を離したばかりのところらしかった。ほつれた栗色の髪と涙にうるんだ瞳の表情とをポーリンは、同性ながら美しいと思わないではいられなかった。
2女王の土産
緩解薬《くすり》のことをすっかり忘れていた――というのもヤプーを犬が咬《か》んだことなど重視するにたらぬ≠ニいう気持が無意識にあったからだが――ポーリンは眉《まゆ》をひそめた。さっきは原球面にいると思って安心していたのだが、ここが二〇世紀の球面では困ったことになった。
|衝 撃 牙《ショック・ファング》に咬まれた獲物の麻痺を緩解する必要は猟場から帰る途中では生じないのが普通だし、またこの薬が数種の薬品から合成され、合成後短時間内に使用しないと薬効が減じる性質を持っているためもあって、緩解薬は、船や艇に備え付けられているものではないのである。このヤプーに緩解薬を注射するには、原球面に連れ戻るか、向うで合成させてすぐ届けさせるか≠フ二つしかない。ふと思いついてポーリンは、時間電話機で別荘を呼び出した。
「ドリスはもう出かけた?」
「はい、先ほどのお電話から五分ほど後で、皆様とご一緒に『氷河《グレイシア》』号で御出発《おでまし》になりました。もう半時間ほどたっておりますから、間もなくそちらに……」
「そう、『氷河』号を出したの……」
『氷河《グレイシア》』号は、古石器時代人狩猟《ネアンデルタール・ハンチング》に氷河時代までさか上る時に使う大型の航時快速船で時速二千年からの性能があった。別荘にあるジャンセン家の持船でこれより速いのはないから、緩解薬を届けに別の船を今出させても『氷河』号には追いつけず、むだ待ちせねばならない。それより、『氷河』号で連れ帰って、注射してから速れ戻したほうが速い……。
素早く計算したポーリンはクララに向い、
「困ったわね。薬はこの艇《ヨット》にはないし、迎えの円筒《シリンダー》はもう出ちゃったから持たせられなかったし……こうしましょう。『氷河』号――迎えの円筒《シリンダー》のことだけど――なら、この球面と原球面とを二時間余りで往復できるから、この貴女の愛玩動物《ペット》をお預かりして、戻って注射してからお返しすることにするわ」
接吻の時クララに首をねじ曲げられたままの不自然な姿勢をそのまま凝然《じっ》と取り続ける麟一郎、その体を抱くようにしてひざまずいたままポーリンのほうを見ているクララ、その美しい茶色の瞳が憂慮と疑心に満ちているのを気の毒そうに見やりながら、ポーリンはいい添えた。
「緩解させれば異常は残らないんだから、ちっとも心配いらないのよ」
「妾の案じているのは、貴女の彼に対する偏見が……」
「とんでもない、貴女が前史時代人だからって、貴女の所有物を詐取《だま》したりなんかしないわ。お預かりする以上責任持つわよ」
「妾も彼について行きたいのです」
「さあ、それは困るわ、関係者じゃないから。誰か既に前史時代人が原球面に行っててね、貴女がその人と何か関係のある人なら例外が認められるんだけど、貴女はそうじゃない。無関係な前史時代人を無許可で連れ帰ることは許されてないの。妾自身検察の職務に従事してて、自分から法律を破るわけにはいかないし……」
「貴女はさっき、救助のお礼だとおっしゃって別荘に妾を招待して下さったわ」
クララは必死であった。恋人を倒したこの麻痺毒が現代の医学で解毒できるかどうか疑問だった。先ほどから垣間《かいま》見ただけでも、相手の文明の水準は現代とは比較にならないほど高いらしいから、相手に解毒させなければ到底現代人の手には負えないように思えた。しかし黄色人を畜生扱いにしている女の手にゆだねて、この無抵抗な状態の恋人を、そんな、黄色人にとっては地獄みたいな所へ一人でやるなんて、できることではなかった……。
しばらく沈黙のまま、時が流れた。
「そうね。貴女に救われた以上お礼をしなければならなかったわ。犬が咬んだのはこちらの責任だから、緩解させるだけではお礼にならないものね」、うまい理屈を考えついたポーリンはにっこりしていった。「異例ですけど、円筒《シリンダー》にお乗せしましょう。貴女を妾の別荘に、そしてイースの首都アベルデーンの本宅にもご招待しますわ」
「ありがとうございます。けど、妾は瀬部氏《ミスター・セベ》の看護に行くのが目的ですから」、落着きを取り戻したクララは、また麟一郎を正式に苗字で呼んでハッキリといい切った。
「注射のできるいちばん近い所、多分その別荘のほうにお招き頂くだけで充分ですわ」
「フォン・コトヴィッツ嬢《さん》。貴女を円筒にお乗せするのに一つ条件があるのよ」
「条件? どんな……?」
「アベルデーンで、女王陛下に拝謁して頂きたいの。だから、本宅にもご招待したわけなのよ」
ポーリンの考えた理屈というのはこんなことだった。今度のこの休暇旅行前、女王陛下にご挨拶した時、「地球から何か土産《みやげ》を頼むわ」、と冗談交りにご下命があったのである。「畏《かしこ》まりました」、と申し上げたものの、正直彼女には何をみつくろおうか、いいあて[#「あて」に傍点]がなかった。何しろ陛下は、幾百の太陽の圏下の幾千の遊星からありとあらゆる珍宝・奇物を集めておられるのだから。ところで、この前史時代の美しい令嬢を連れて帰れば、これこそ立派な土産ではあるまいか。美少女《エス》好みで有名な女王陛下はきっとこの女《ひと》を寵愛《あい》され、側近の侍従として官職にも任ぜられるに違いない。そうすればこの女《ひと》は帝国の人になる、帝国人なら妾が連れて帰るのは違法にはならないのだ。……もちろん、この女が本国星《カルー》に留まる気になるかどうかはわからない。留まらないといえばそれっきりだが、それにしても陛下のご下命に応じる目的で連れて帰っても悪くはなかろう。第一、こんな未開時代からカルーを訪れたら、帰りたいなんていうはずがない。それに一九六×年っていえば、第三次大戦までいくらもない。この球面に残っていれば| α 《アルファ》爆弾か|ω《オメガ》熱かどちらかで死んでしまうんだから……そうだ、それにこの女が留まる気にさえなれば、さっき妾が何とかこの女の、ヤプーへのゆがんだ愛情を正道に引き戻してあげたいと思った目的も、うまく実現することになる。イース文化に触れたら、霊液《ソーマ》を五杯も飲んだら、ヤプーが何か、どう扱ったらいいのか、すぐ納得がいくようになるだろう……とにかく、この女をカルーに連れて行って陛下に拝謁させることが唯一の解答だわ……。
だから、ポーリンとしては、ヤプーの解毒よりもクララの身柄こそたいせつであった。
クララはそんな事情にあることをまったく知らないので、まるで、狐につままれたような面持であった。
「なんで妾が女王陛下に拝謁しますの?」
「前史時代の人を連れて帰ることが異例だからよ」とポーリンはごまかして、「べつにむずかしく考えなくてもいいの。見物がてら本国星《ホーム・プラニト》『カルー』に行けばいいのよ。貴女を失望させることは決してないってお約束できるわ。カルーはイース文明の中心地ですからね」
「その星までは遠いんでしょう?」
「カルーはシリウス圏――連星太陽系よ――の第八遊星です。この地球から約九光年、四次元宇宙船なら地球時間にして三日と数時間しかかからないわ」
3愛の誓い
「瀬部氏はどうなりますの」、クララは単刀直入に訊《き》いた。「妾のお返事はそれ次第ですわ」
「迎えの円筒《シリンダー》で別荘に戻ったら、すぐ元どおりの体にしてお渡しするわ。それ以後のことは妾としては無関心よ。旅行中|貴女《あなた》がこれを携行なさることはもちろんかまいません」とポーリンはまるで麟一郎を品物みたいにいった。
「ずっと一緒にいられますのね?」
「貴女が処分しない限りはね。ヤプーのほうで飼主を離れることはできないから、貴女さえその気なら、ずっと手元に置いておけるわ」
「誰も妾たち二人の邪魔をしないと約束できます?」
「できるわ。ヤプーの処置は飼主の専権よ。――陛下は別だけど――陛下はこんなヤプー、問題になさらないから――貴女が法律に従ってこのヤプーを飼養してる限り、誰も貴女を邪魔する権利は持ってないのよ」
「じゃ妾たちは」、まだ安心し切れずクララは念を押すようにいった。
「堂々と結婚式をあげられますのね」
「そう……」、ポーリンは、ちょっと返事をためらったが、「できないことはないわ。でも、貴女の気持がどう変るかわからないでしょ」と答えた。
これは読者には意外であろうと思う。ヤプーが白人女性と結婚[#「結婚」に傍点]できるはずはないのだ。――ポーリンはつまり、この問題を、「舌人形《クニリンガ》との結婚式」にすりかえて肯定したのだ。
この意味を解説する前に、イースにおける舌人形使用の風俗の一端を説明せねばならない。女権制確立後、男子の貞操義務が強調され習俗化して、昔は処女[#「処女」に傍点]を意味した virgin の語が、それからは童貞[#「童貞」に傍点]を意味し、もっぱら男性について使用されるようになってから既に久しい(この意味での童貞は、唇人形を自慰的に使用したとて傷つくことはない)。こういう男女――女男観のもとでは、舌人形も童貞《ヴァージン》が否かでずいぶん値が違うのである。
童貞保証の方法は、大きくいって二種ある。一つは、口唇締金具《リップ・ファスナー》というチャック式のもので両| 唇 《くちびる》を綴《と》じ、それに鎖錠を施して鍵《かぎ》を注文主に渡しておくか、または、注文主の指から指紋錠を合わせて作り、他の人の指ではあけられないようにしてしまう方法である。それほど値がはらないという理由で、平民女性の購入するのはだいたいこのチャック付のものであった。
ところが貴族は、童貞膜《ハイメン》付のものを求める。童貞膜は、両唇を薄膜で接合したもので、この手術が童貞保証のもう一つ、第二の方法であった。元来は女権革命前に、男性たちが唇人形の両唇を接合したものを処女膜《ハイメン》と称したのが始まりであったのが革命後そのまま舌人形に及んだのであるが、いずれにしても、口腔を摂餌の用に供せぬヤプーに対してなればこそ可能なことであった。それはほんとうの処女膜同様、中央にわずかの裂孔があるが、それはやっと舌の先がのぞく程度でしかない。
童貞膜をつけられた舌人形は、自分で外からその膜を破ることはできない。人形の指の爪は、普通抜いてあるのが建前だからである。ところがそれは、しかるべき刺激を受けると海綿体を移植した penial tongue は erect して、膜を内側から破らざるを得なくなってくる。だから、その逆に、まだ膜が破れてないということは、その舌が、まだどんなご神体をも知らない童貞舌《ヴァージン・タング》であることを意味することになる。
舌人形の顔を引き寄せ、両腿《りょうもも》で頬《ほお》を強くはさみつけたり、神体の匂《にお》いを嗅《か》がせたり、分泌物《ぶんぴつぶつ》で湿らせたりして刺激を与え、出血と疼痛に苦しむのを無理に破かせつつ、初心《うぶ》な舌に技巧を仕込む――この童貞舌の賞玩《しょうがん》こそ、人類あって以来、『イース』の貴婦人《レディ》のみが知る最も嗜虐的《サジスチック》な快楽の一つで、これは女権革命前の、すべての女性の初夜の苦しみを裏返しにしたものともいえた。
漁色家たちの中には、したがって人形の読心家具《テレパス》化を喜ばぬ人もいた。その理由は、読心能《テレパシー》で、人形が女性の意向を事前に察してすぐ erect するのではつまらないからであった。むしろ読心能がなく、女性側の肉体の魅力だけで刺激し破かせるほうがずっと嗜虐《しぎゃく》感を満足させるから、というのである。それくらい読心能のない人形の膜破りは楽しいものである。
ポーリンの母アデライン卿もそういった漁色家の一人で、人形にはわざと読心能を与えず、新しい童貞物を次々と求めては古いほうを中古品《セコハン》として処分してしまう習慣《ならわし》であった。もっとも彼女ほどの名流婦人になると、払い下げの中古品でも崇拝者《ファン》からは引っ張り凧《だこ》で、膜付の新品と大して値が違わないのであった。(前記の、白色唇人形《ホワイト・ペニリンガ》にされた平民青年が入手して喜んだのは、こういう払い下げ品の一つだったわけである)
舌人形は生きた玩具《おもちゃ》にすぎない。しかし、それは性的快感のためのものであって、童貞か否かが関心の的にもなる男性相当のセクス代用品であるから、この人形自体に「男」を感じるようになってきたのも当然である。舌人形・唇人形は他人に見せるものではなく、もし他の人の目に触れる場合には畜頭猿股《リンガ・パンツ》|と《*》称する袋覆面《サック・マスク》をスポリとかぶせるのが常である(ただし、白人同士・貴族同士のみが羞恥《しゅうち》感の対象になるが、貴族は平民に対してほとんど羞恥心を持たない)が、これも、セックスを感じる以上、他人に対しては被服《おおい》が要《い》るという考えからに外ならない。これを舌人形・唇人形の擬人化というとすれば、童貞物の初使用を、花婿の童貞が花嫁にささげられる結婚初夜(花嫁の処女性は現在はまったく問題にされない)に類比して、結婚式《ウエディング》とふざけていう裏には、やはりこの擬人化の心理があったといえよう。
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* この畜頭猿股は金色の毛糸で編まれた袋で、折り返して帽子のようにもなる。この毛糸は、実は、女主人の Scham Haare を物質複製機で増量して毛糸に撚《よ》り上げたもので(イース貴族は皆ブロンドなので、金色系統になる)それをかぶることでいっそう女主人への密接な従属を示す効果も強まるのである。
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ポーリン自身も、そういう人形との結婚式なら何度も覚えがあるし、今回の地球旅行に際し四次元宇宙船内で過した最初の夜にもさっそく結婚[#「結婚」に傍点]してみた。
……堂々と結婚式をあげられますのね≠ニ訊《き》かれていったんは詰ったポーリンではあったが、結婚式という言葉から、宇宙船上での自分の拳式を連想し、できないことはない≠ニ、消極的ながら肯定したわけだった。
「麟《リン》に対する妾の愛情は」、クララは宣言した。
「妾が死ぬまで変りませんわ」
「おやおや、ずいぶん先のことまで約束なさるのね」、ポーリンの目にはあざけるような色があった。「妾はそんな先のことまで要求しません。とにかく、一緒に来てちょうだい」、それまでにはヤプーのことがわかって気が変るに違いない、ヤプーとの結婚なんて舌人形との結婚式[#「舌人形との結婚式」に傍点]のこと以外には考える余地のないことがのみ込めるだろう。……「その後で貴女が結婚式をあげたいとおっしゃるなら、妾は止めやしないわ」
「拝謁後の行動は……」とクララがいいかけたのをポーリンは、
「それは自由よ」と引き取って、「きっと本国星が楽園のように思えるでしょうけど、万一お気に召さねば、すぐこの二〇世紀の球面にお送りするわ」
「ほかには何も……?」
「ええ、それだけを条件にしてのご招待よ、いかが?」
「御招待《おまねき》を喜んでお受けしますわ。この恋人《ひと》のために」
クララは麟一郎を抱きながらそう答えつつ、「麻痺毒は……その、……聴神経をそこなってはいませんの?」と別のことをきいた。
「五官の感覚は平生《ふだん》より鋭敏になるはずよ。毒の効果《ききめ》は自分で動けなくなるだけ。けど、どうして?」
それを聞くと、クララは、麟一郎の耳元に口を寄せると、いいきかせるように低くささやくのであった。
「麟《リン》、行ってみましょう。どんな所かわからないけど、二人一緒にさえ居られるんなら心強いじゃない。あなたの肌の色をなんのかのといってたけど、それが愛情の試金石だというなら、その試練を受けてみましょうよ。麟、妾誓うわ、あなたをいつまでも愛するってこと。二人は離れないんだわ」
後のことだが、麟一郎を愛玩ヤプーとして可愛がるようになったころ、クララはよくこの時の言葉を思い出し、「妾は最後まで嘘はいわなかったわ、今だって麟を愛してるんだもの」と思ったものだ。この話しかけの言葉は、クララがフォン・コトヴィッツ嬢として恋人の日本人学生・瀬部麟一郎に話しかけた最後の言葉になったのだった。もちろん二人が完全に飼主対家畜の愛情関係に立つまでにはもう少し対話が交わされたのだが、この次にクララがポーリンの別荘で麟一郎と口をきいた時(第一三章1「再会」参照)には、彼女の心中には既に相手をヤプーと見る気持がはいり始めていたのだから。女から男への、人間から人間への話しかけとしては、これが最後の機会であった。
だがこの時のクララはそんなことは予想もしなかった。恋人の身を案じて慰め励ますことで胸はいっぱいだった。
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第六章 便所のない世界
1着替え
麟一郎の目からまた涙がほとばしって、顔の下のクララの乗馬用革長靴を濡《ぬ》らした。この災厄に際しても、なお変らぬ恋人の愛情に感激したのだ。物いえぬ身に涙だけが意思の表明だった。
――クララ、ありがとう。それでこそ僕の未来の妻だ……。
クララはもう泣かなかったが、万感胸に迫って身動きひとつせず、涙で洗われてゆく靴先を黙って見つめた。長靴の先は塵埃《ほこり》をかぶっていたが、麟一郎の涙がそれを洗い流すのだった。
二人が抱擁・接吻した時には目をそむけたポーリンだったが、今度はごく平静な気持でそれをながめていた。
靴をヤプーの涙で洗わせる光景は、イースでは珍しくないのである。すべて|騎 乗《ライディング》に際し、その乗用畜《のりもの》に応じて一定の服装を要求するのがイースの風習だが、鞭《むち》、長靴、手袋については特に厳重で、馬や馬形双体《セントーア》に騎る時には|乗 馬 鞭《ホース・ウイップ》(犀《さい》からシャムボク Bjambok[#読取不可] を取るようにして畜人馬《ヤップ・ホース》の巨大な penis から作る)、乗馬革長靴、乗馬手袋(いずれもヤプー皮革から作る)を、天馬《ペガサス》に騎る時には天馬《ペガサス》| 鞭 《・ウイップ》(舌去勢した天馬の舌触手を干して作る)、天馬長靴・天馬手袋(いずれも天馬皮革から作る。後者は赤児《ベビー》の柔らかい皮を使用する)をそれぞれ着用することになっているのだ。ところで、この天馬皮革《ペガサス・ハイド》はヤプーの涙で光沢《つや》が良くなる。という性質を持っていた。ただし、涙といっても、嬉し涙、悔し涙、苦痛の涙、皆成分が異なるので、天馬皮革に効《き》くのは、痛覚が涙腺《るいせん》を刺激して分泌させる特殊の物質苦痛素「ドロロゲン」を含んだ痛きの涙[#「痛きの涙」に傍点]に限るのであった。
そこで貴族の邸宅の玄関に飼われる靴道具一揃《シューシャイン・セット》の中には、戴靴奴《くつぬぎ》、搾靴奴《くつもち》、舐靴奴《ごみとり》、磨靴奴《ブラシ》等と並んで洗靴奴《つやだし》が欠くことのできぬものになっていた。鞭打ちで皮膚の末梢神経を刺激してやると、鞭数に応じて涙を出し靴を洗う。ポーリン自身は面倒くさがって、天馬騎乗《ペガサス・ライディング》の後でも使わないことがあるが、ドリスはポロ競技の後では必ずこれを使い、戴靴奴《くつぬぎ》を前にひざまずかせ、ピシピシ鞭をくれて丁寧に洗わせるのが常だった。だから、鞭を握って、足元のヤプーの涙に濡れる靴を見おろしている乗馬服の令嬢に、彼女は以前一緒に暮したころの見慣れた妹の姿態《ポーズ》を思い浮べ、ふっと、この女《ひと》はイースの人ではないのか、と先ほどの錯覚にもう一度とらわれそうになり、あわてて鞭や長靴が天馬騎乗用のものでないことを確認して打ち消したくらいで、その光景自体には何の不自然さも感じなかったのである。
考えてみると、もう間もなく迎えの円筒が到着する時刻であった。
「皆様でお出かけ」とさっきいっていたから、ドリスだけではなく、兄や弟も乗って来るのだろう、着替えしておかなければ……そう思ってポーリンは立ち上った。
空気の存在する遊星はいずれも完全な|大 気 調 節《アトモス・コンディショニング》によって人間の生活を快適ならしめてあったが、四季の区別はわざと従前どおり残されていた。地球の原球面は目下秋だったが、円盤《ディスク》の中は暖かくしてあったので、ポーリンは下着にケープだけ羽織った軽装でいた。クララは同性《おんな》だし、麟一郎はヤプーなので、この略装でべつに彼女は羞恥を感じなかったのだが、兄弟にせよ、男性《おとこ》の前には、こんな、裸に近い格好では出られない。屋敷《やしき》でなら黒奴《ボーイ》に命じて着替えさせもするのだが、この円盤の中では自分で着替えねばならないのだ。
立ち上りポーリンがクララのほうを見ると、彼女は額に汗をかいていた。夏物の乗馬服だが、この部屋では暖か過ぎるのだ。それにその乗馬服も、ポーリンの目には服地の悪い貧弱なものとしか見えなかった。招待したお客様なんだから、妹たちの目にみっともなくないようにしてあげるのが、ホステスたる彼女の義務であろう……。
「クララ嬢《さん》」と苗字でなく名前でポーリンは呼びかけた。「お着替えなさい、そしてこちらへいらっしゃい」
その声には命令することに慣れた人に特有の抗《あらが》い難《がた》い調子があった。ポーリンは長椅子とは反対側の壁のほうへ近づいた。すると何かボタンでも押したのか、壁が割れて衣装|棚《だな》が現われた。
「貴女に似合うかどうか? まあ、しばらくのことだから……どれでもいいのよ……そうね、これになさる?……そうそう、貴女《あなた》には下着も要るわね、はい、これ。使ってないんだから気持悪くなさらなくともいいのよ」
ポーリンは一揃《ひとそろ》いのスーツと、それから下着、|靴 下《ストッキング》を取り出すと、恥ずかしがっているクララを急《せ》き立てて着ている物をすっかり脱《ぬ》がし、下着の着方から手を取って教え始めた。パンティーもブラジャーも、その他の下着も縫目がなかったが、どれも伸縮自在でピタリと体に密着し、今までどんな下着からも味わったことのない快適な肌ざわりだった。靴下は、絹でも合成繊維でもなかったが、もっとずっと繊細で透明で、やはり縫目がなく、太腿《ふともも》まで引き上げると靴下留《ガーター》なしでとまり、ほとんど穿《は》いていることがわからない。妙齢の女性にとって夢想《ゆめ》の靴下みたいなものであった。
ポーリンもケープを脱いでこれはコンビネーション風の変った下着だけになっていたが、自分もクララにならって靴下を穿いた。彼女は、クララの足指が五本あること(もっとも、西欧人の小趾は一般に日本人の小趾よりもずっと小型である)に気づいていた。クララも相手が四本指なことに気づいていた。だが二人ともそのことには触れなかった。
裸になるのを恥ずかしがっていたクララも、下着を着てしまい靴下を穿いてしまうと、しだいに大胆になり、若い女性らしい服飾への好奇心に駆られ始めた。
スーツは、彼女が今までに見たどんな婦人服とも違っていたが、しいていうなら、ブラウスと上着と細身のズボンの三揃いになっているといえばよかろうか。その服地は聞いたこともない微妙な織物で、下着と同じように七彩《なないろ》の幻光に輝いていたが、地の色は、ブラウスが白、上着とズボンが茶を主調にする縞柄《しまがら》だった。やはり縫目らしいものがなく、締金や釦や帯の代りに布地自体の伸縮力に頼っている仕立であった。
自分もセーター風の桃色の上着と紺のズボンを着けたポーリンは、着終ったクララを見て、
「まあ、思ったよりよく似合うわ」と嘆賞し、衣装棚の横の鏡を指さした。クララがそのほうを見ると、どういう仕掛があるのか、初めに正面からの彼女の像が映り、鏡自体がクララの体を一回りするように横から背後から、そして、横からの像を映した。――今まで自分の知らなかった美しさを彼女は感じた。この瞬間には、新しい衣装への関心のために、一時にもせよ彼女の心から麟一郎のことが忘れられていたのは、何かしら意味深い示唆を投げかけるものだった。
次にポーリンは彼女に靴を出してくれた。中ヒールのパンプスで、何の皮革かゴムのように伸縮し、とても軽い。少しゆる目だが穿けぬことはない。ポーリンは笑っていった、「ちょっとの辛抱だから……あの長靴よりはいいでしょ」。底革は素晴らしく弾力に富んでいた。クララは何も気づかずにその穿き心地のよさだけを感じたが、実は彼女の足裏は|足 裏 布 団《プランター・クッション》(第九章3「矮人種の歴史と現状」参照)の肉体を踏んでいたのだった。
ポーリンの打ち解けた態度に急に気安さを感じたクララは、先ほどの息詰るような緊張が終った後、急に我慢できなくなってきていた尿意を、便所《ラヴァトリ》の所在を尋ねることで解決しようとした。
「あの、失礼ですけど、お手洗いを……」
「お手洗い?」、ちょっと戸惑ったようだったが、クララのもじもじした様子でポーリンは悟ったらしい。しかし彼女は変なことをいった。「あ、足に触れさせたい[#「足に触れさせたい」に傍点]のね(次章4「肉便器の初使用」参照)。どうぞ」
ピューッと口笛が鳴ると、すぐわきの壁の、今度は低いところが割れて、素裸の奇形侏儒が立ち現われた。
2三色摂食連鎖機構《トリコロル・フッドチェーンシステム》
ここで、『イース』における排泄の風俗について一通り述べておくことにしよう。二〇世紀人の読者に対しては、黒奴用《ボーイ》の|真 空 便 管《ヴァキューム・シュア》(vacuum sewer)から説明して、次に白人に及ぶのがわかりやすいだろう。
真空便管はその名のとおり|真 空 掃 除 機《ヴァキューム・クリーナー》と水洗便所下水道《シュア・レッジ》を総合したもので、真空圧で排泄物を吸引し便管に集めて送るのであるが、水を使わないので、水で薄められぬままの屎尿《しにょう》が管内を流れる点が下水道と異なる。黒奴の住宅の各室および白人住宅内の黒奴の私室にはこの便管の支管が敷かれ、さらに細管が分岐して伸縮自在の特殊ゴム管になって、椅子の裏とか寝台の側板とかに伸び、先端器《コブラ》という部分で終っている。先端器がゴム管より太くなった形が毒蛇コブラを思わせるので、先端器はコブラと称《よ》ばれる。これが黒奴の便器であった。だから便所という特別の場所はない。既に二〇世紀においても欧米の新住宅では便所という区画はなく、浴室に便器を備えた様式が増加していたが、今ではさらに進んで各居室の便利な場所に設備されているので、便所に通うことはもちろん、仕事中排泄のために席を立つ必要もない。臭気は漏れず濡れることもなく、| 紙 《ペーパー》を扱うこともないので、前史時代人が便器というものに感じた不潔感はまったくなくなっている。これが|真 空 便 器《ヴァキューム・クロゼット》で、衛生的で便利な便所設備が文明の進歩の象徴だという命題に従うなら、今、半人間と軽蔑される黒奴も、二〇世紀人よりはるかに文明的な生活をしているといえよう。しかし物の反面を見失ってはならない。|真 空 便 管《ヴァキューム・シュア》の先端器《コブラ》は固形物を受けつけないので、使用者は常に軟便を排泄せねばならない。黒奴用の食べ物――後に述べるようにこれは主として配給管によって給与される――には常に緩下剤が含まれている。黒奴は摂食上の自由を制限されることによって排泄上の便利を享楽しているのであり、その目的は、黒奴のためよりも、むしろ、彼らの使用主たる自人に不快な不潔感を与えまいとするにあった。
さて白人であるが、排泄物処理方式の基礎が真空便管設備《ヴァキューム・シュアレッジ》にある点は黒奴におけると同じであるけれども、その実質、付属品、さらにその客観的意義という点では全然比較にならぬくらい違っていた。
まず先端部から説明しよう。白人住宅や輸送車両、集会場等、およそ人間の住む所ならどこでもといってよい、壁の隅《すみ》に地袋《じぶくろ》が必ず設けられている。この地袋は狭く低く、犬小屋《ドッグ・ハウス》くらいの容積しかないが、SCと称ばれ、ちょうど二〇世紀人にあってのWCと同じ語感をイース人に与える。
しかし、そんな狭い所に人間がはいって用便することはもちろんできない。そうではなくこのSCは、不浄畜《ラヴァタ》(lavator)の一種で、肉便器《セッチン》|と《*》称ばれる生体家具の定位置なのである。SCとは「肉便器の押入れ」の意の sette-en's closet の略である。
[#ここから2字下げ]
*  lavator は、昔、水洗便所の意であった lavatory から来たことは明らかである。これに反し、 setteen のほうは定説がない。しかし普通には、「使用者の股《また》の間に setin するから」とか、「setting yapoo の意」とか、「初期のころ安楽椅子《セッティ》(settee)の下を定位置としたから」とかの語源説が信じられている。なお、家畜語では、便所そのものを雪隠《セッチン》というが、生きた便器[#「生きた便器」に傍点]を持たぬため比較的似たものに転用したもので、家畜語の外来語によくある誤用である。
[#ここで字下げ終わり]
不浄畜《ラヴァタ》には、肉便器のほか、肉痰壺《スピツーン》とか肉反吐盆《ヴォミトラー》とかがあるが、代表的不浄畜はもちろんセッチンである。この肉便器は、多くの生体家具と同じく雄ヤプーを材料として作られるもので、その機能は、口腔と内臓を人間の排泄物の容器とすることにある。生体家具の常として、幽門、すなわち胃と腸との境界部分は循環装置のため閉塞されているので、内臓といってもこの場合、腸は関係がない。おもに胃であり、後に説明する標準型の三能具等ではその外に右肺部をも使用する。セッチンは、つまり生きた先端器として白人の排泄時に奉仕し、その大小便を区分けして体内に受容し、これを別々に白人用の両真空便管、「|尿 導 管《ユライン・パイプ》」(黒奴酒導管《ネグタル・パイプ》)と「|便 導 管《フィーシズ・パイプ》」(畜人薬導管《ミクソ・パイプ》)に送り込む。
白人はセッチンの使用によって黒奴用先端器など問題にならぬ最も快適・安楽な排泄形式を享受すると同時に、それが介在して固形便を咀嚼《そしゃく》し液状化してくれることにより、自ら緩下剤などを服用することなく自由な食生活を営みうるに至ったのである。
真空便管装置との関係から客観的に見れば、白人は、この尿導管および便導管をば、セッチンという生きた先端器を使って利用しているわけなのであるが、白人の主観においてはそうではない。彼らはむしろこの両便管をセッチンが使うものと考え、自分たちに属するものとは思わない。いや、両便管の存在すらを知らず、まったく意識しない人のほうが普通なのだ。彼らの主観においては、排泄とはセッチンに |food《たべもの》 と |drink《のみもの》 を与えることなのである。
前史時代の東洋の一地方では、豚を便所に飼って排泄物を飲食させたといわれるが、その折りの人々になら、イースの白人がセッチンを見る気持がわかるであろう。つまり、自分たちの屎尿をご馳走《ちそう》として飲食する家畜がある[#「ある」に傍点]≠ニいう意識である。ただ、この家畜が、昔と違って半ば家具化しているのが異なる点である。それに、自分たちの排泄物がセッチンを経由して後、さらに黒奴やヤプーを喜ばせることがわかっている点では昔の人以上に高等生物たる自覚が強いのかもしれない。
逆にいえば、セッチンのほうにも便器としての自意識はない。便器は黒奴の使うものであって、神様にはそんなものは本来不要なものである。なぜなら、神様は、ヤプー中の優良児たるわれわれセッチン族を愛《め》でて、直接|神酒《ネクタール》と|神 糧《アンブロジア》とをもってわれわれを飼養して下さるのだ……
これが彼らの神話であり信念であって、一般に、白人を神として礼拝するヤプーの宗教「白神信仰《アルビニズム》」(albinism)においては、各種ヤプーが、それぞれ、自分たちこそ神様に愛されていると信じているのであるが、その中でも、この肉便器神話《セッチン・ミス》は、選畜[#「選畜」に傍点]意識の強い点で特殊である。生体家具の一つとして、実際の栄養はコードから来るのであるが、自身ではそれを意識しないセッチンは、自分たちの栄養は直接神から与えられ、直接口に受けた聖なる物質から摂《と》られるものと考えているわけで、事実、彼らの特権的地位は黒奴にさえ羨ましがられることもあるのである。
しかし現実には、聖なる物質は少しも彼らの体内には吸収されない。尿導管には神体から排出された液体が全部そのままの状態で送り込まれるのであり、便導管には、胃液・膵液《すいえき》等を混じて粘液状となっている以外には、排泄受容時と組成の変らぬ便液が全部流れ込むのである。
以上が黒奴と白人とのそれぞれの排泄様式であるが、それでは、これら排泄物は結局どのようにして処理されるのだろう? ここで「三色摂食連鎖機構《トリコロル・フッドチェーンシステム》」の説明をしなければならない。
概括的にいうと、白人の尿は黒奴のための酒になり、白人の便はヤプーのための薬になり、黒奴のそれはヤプーの餌料《じりょう》となる。そしてヤプー自身は、摂取のみで排泄をしない。
白人尿はなぜ黒奴の酒となりうるのか? 昔、ジャンセン女卿が初めて黒奴酒をつくったときは、混尿酒《カクテル》とて実際には酒精《アルコール》を尿で割ったものを用いたのであるが、現在はそうではない。白人尿はそのまま[#「そのまま」に傍点]黒奴酒として彼らを酩酊《めいてい》させるのである。しかし、それを白人が仮に飲んだとしても酔うことはない。また、黒奴が自分らの仲間のものを飲んでも酔わない。白人尿だけが、また黒奴だけに効《き》くのである。
といって、白人尿を分析してみても、それは二〇世紀の白人のものとほとんど違いはないであろう。しいていうなら、蛋白質《たんぱくしつ》の、窒素分から生じる尿素《ユリア》の量がふえているかもしれないが、イース白人は、生体科学一般の発達にかかわらず、古代ギリシャ人の肉体を典型視しているので、自分たちの天賦の肉体そのものに直接加工することは決してしない。だから、彼らの肉体は本質的には二千年以前と同じなのである。
鍵《かぎ》はむしろ黒奴の体内にあった。黒奴は、先端器使用のために常に軟便を排出すべく緩下剤の服用を強制されていると前述したが、この薬の、一成分として添加される酒精転化素《アルコリノゾリゲン》という物質がある。一種の酵素《エンジム》であって胃壁に吸着し、微量ずつ吸収されて尿中に排出されるが、また新しく補給されるから、各黒奴の胃の中には常に少量の酒精転化素が残存している。これが尿中の主成分たる尿素(CON2H4)[#表示不能に付き置換え]に作用すると、尿素がアンモニア(NH3)[#表示不能に付き置換え]に分解するところをアルコール(C2H5OH)[#表示不能に付き置換え]に化せしめるのである。だから白人尿が黒奴の胃にはいり、胃壁中の酒精転化素に逢《あ》うと、強烈な酒を飲んだときと同じ効果を示すのだ。しかし、黒奴尿には酒精転化素自体が排出されて含まれているので、仮に黒奴の胃の中にはいったとしても、胃壁中のそれと互いに打ち消し合い、酩酊効果は生じない。これが白人尿だけが黒奴を酔わしめる秘密なのだ。
黒奴の人口は白人に百倍し、白人の排出した液体のみでは到底黒奴酒の全需要を満たし得ない。そこで、尿導管(黒奴酒導管)は、途中で物質複製機《リプロデューサー》にかかり、色も臭いも成分もまったく原液に等しい多量の液に増量されたうえで各所の黒奴酒倉庫に達し、そこで樽詰《たるづめ》にされ、製造者(排泄者)と製造年月日を明記したうえで市場へ、黒奴酒酒場へと送られるのである。もっとも、平民のものは製造者名なしの二流品として瓶諾《びんづめ》されるのが常である。
次に、白人便はなぜヤプーの薬になるのか? これは畜体栄養学を前提とせねば答えられないので、その前に、まず、なぜ黒奴の排泄物がヤプーの餌料たりうるかの問題について答えよう。
黒奴の排泄物を集めた真空便管はどこへ導かれるのであろう? それは畜乳本管《ピルク・パイプ》である。畜乳本管に合流するのは黒奴用真空便管ばかりではない。厨芥《ちゅうかい》(もっとも、白人家庭の厨芥は黒奴酒酒場の肴《さかな》になるので例外である)も紙屑《かみくず》類も、牛や豚の糞尿《ふんにょう》も、およそイース世界のいっさいの有機不要物は、ディスポーザーによって粉砕されたうえでそれぞれ畜乳本管に流れ込む。いわばそれは、一大総合下水道といえよう。そして、こうして作られた汚液が畜人餌料《ヤプーナル・フッド》すなわち畜餌乳液《ピルク》(pilk < yap + milk「畜乳」)と称《よ》ばれるものである。排泄物が主体であるため黄濁しているので、|黄 液《イエロー・ジュース》とも称ばれる。これが、やはり物質複製機によって増量されたうえでイースの全ヤプー(子宮畜その他の例外はあるが)の餌料となっているのである。
畜乳本管は無数の支管に細分されて各所の充填室《じゅうてんしつ》(charging room)の蛇口《じゃぐち》に導かれ、ヤプーたちの肛門から覗くエンジン虫の尾部吸乳口に畜乳を供給する。週に一度の充填が一週間の畜体の栄養を保証するのだ。ヤプーの肉体が、外見こそ白人と変らね[#底本「変らね」ママ]、こと栄養に関しては、いかに謙虚《ハンブル》な、つましいものであるか、思い半ばにすぎよう。人間の排泄物だけで肥《こ》え太る豚でさえ、これに比すればはるかに多くの栄養を要求するのである。
どうしてそんなことが可能なのか? ヤプーの体内(生体家具の場合には、体外の循環装置機関部内)に存する天馬吸餌回虫《アスカリス・ペガサス》の能力によるのである。先に略述したように(第三章2「有翼四足人哀史」参照)、この他遊星生物は排泄を知らない。老廃物の痕跡を尾部先端の諸節の硬化現象《スクレロゼーション》にとどめる以外、吸入した餌料を体内の超酵素《パラ・エンジム》により全部完全に分解し、栄養分と化するのであって、いわば、他の動物の栄養代謝が酵素による化学的[#「化学的」に傍点]変化として行なわれているところを、この腸虫は超酵素による物理的[#「物理的」に傍点]変化として行なう。したがって、栄養素の熱量、すなわち栄養価がおよそ百倍に達するのだ。たとえば糖、脂肪《しぼう》、蛋白《たんぱく》の熱量は、通常にはそれぞれ四・一、九・二、五・六カロリーであるが、天馬回虫が組成を体内で変化させて頭部細裂孔からしみ出させる場合の右の各物質の熱量は、それぞれ四百十、九百二十、五百六十カロリーとして計算される。畜乳を腹いっぱい吸い上げたとき、その全体の総熱量はわずか二百十カロリーしかない。畜乳とはそんな下等栄養分なのだが、なにしろ三十カロリーから一日の代謝量三千カロリーを作り出せる――それでこそ「機関虫《エンジン・ワーム》」の異名もある――のだから、それは一週間分に当るわけなのである。このようにしてヤプーは、人体にとってはまったく栄養価値のない黒奴の排泄物から十分の栄養を摂取し得るのであり、換言すれば、イースの下水《シューイジ》のすべては何千兆にも分岐して、ヤプーという生きた汚物処理場[#「生きた汚物処理場」に傍点]に注ぎつつ、これを養っていることになるのである。
そこで白人便の問題にもどる。前記のように、白人の肉体は二千年前と本質的に同じである――したがって尿の組成は変らない――が、食べ物が変ってきているため、便にはその反映が見られる。イース白人は、毎日少なくとも一万カロリー分を胃に送り込む(肉反吐盆に嘔吐《おうと》する分を含めればその三倍にもなろうが、ここでは、体内に収まる分だけを考える)。美食する貴族たちだけについての平均になると二万カロリーにも達しよう。肉体は昔のままで基礎代謝に要する熱量のほうは昔どおりだから、どんな運動をして体力を消耗しても一日四、五千カロリーもあれば足りる。そこへ、一万、二万というカロリー摂取をする。これは量のことではなく質の問題だから、そのために腹をこわすようなことはない。それに伴って美容体操や美容薬摂取を怠らないので皮下脂肪に蓄積される分も少ない。そこで消化器はその必要性から余剰栄養分を消化せずに捨ててしまう。食べ物の一部だけが消化吸収され、残部は未消化のまま便になるのだ。
排便回数は多いが(一日平均三回)、量は昔と違わない。胆汁《たんじゅう》で黄色になり苦味を帯びていることも同じである。しかし、その組成を見れば、腸内細菌の残骸《ざんがい》や腸壁から剥離《はくり》した上皮細胞などは昔どおりとして、他に食べ物の不消化分があるので、実は数千カロリーの熱量ある高度の栄養物といえるのだ。そして異常発酵しないから、臭《にお》いも昔の人の便のように臭くない。とはいっても、イースの芳香文化はレベルが高いから、イース人が嗅《か》ぐとすれば――実際には肉便器が臭気を吸ってしまうので白人はこの臭いを嗅ぐことはないが――|嘔 吐 的《ディスガスティング》であろう。しかし、昔の日本人なら、昧噌《みそ》の匂《にお》いだ≠ニ思うだろうし、舐めて苦いので味噌ではないと知っても、チョコレートの一種だ≠ニいわれればそう信じるだろう。人間の便だ≠ニ聞いても、冗談としか受け取るまい。そんな味であり匂いであり、色であり、また実質的栄養物でもあるのである。
黒奴の排泄物を主成分とする畜乳からさえ栄養の摂れるヤプーの肉体にとっては、だから、白人の便は超高級な栄養食品に当るのだ。熱量計算だけからいえば、白人貴族一人は、自分の便のみで優に百人以上の原《ロー》ヤプーを飼養できるし、一匹のヤプーが、畜乳の代りに白人便液を腹いっぱい吸ったとすれば、他に補給充填することなしに半年は十分に活動を続けうるといわれる。白人の便は、黒奴のそれに比してそれほどにも栄養価が高いのである。もちろん、白人便が――ヤプーにとっては高貴薬《くすり》なのだから――そんなふうに餌料《えさ》として取り扱われることは実際には起り得ない。
薬効は、しかし、栄養価だけによるのではない。神様のものを頂く[#「神様のものを頂く」に傍点]という、心理上の精神医学的《サイコゾマチック》治療効果もさることながら、絶対に無視できないのは万能畜薬《パナシア》(panacea)の存在である。これはイース白人の食卓で、ソースや塩や胡椒《こしょう》と共に使われる香辛料の万効薬味液《エリキサ》(elixir)が、白人の胃の中で胆汁と結合した末、便中に排出されたもので、猛烈な苦味を持っているが、下等栄養に慣れた畜体には素晴らしい医療効果を示す。(家畜語の| 諺 《ことわざ》で「良薬口に苦し」というのは、元来このことを指《さ》すのである)
便導管(畜人薬導管《ミクソ・パイプ》)で赤Y字本社・支社の地下工場に導かれ、物質複製機《リプロデューサー》で増量された白人便液からは、まず注射薬が作られる。ヤプーたちの中には、口を白人への奉仕に専用して自己の摂薬に使用できぬものが少なくない。これらのヤプーのための注射薬である。残りは、水分を失って黄色の固形物に復元する。これからは錠剤が作られるので廃棄部分は出ない。口の使えるヤプーはこれを口で溶かして服用するのだ。本来、この注射や内服は治療のために用いられたものであるが、物質複製機による増量が可能となってからは、予防医学的にも使われるようになった。しかし、依然として高貴薬[#「高貴薬」に傍点]である。これを畜人薬《ミクソー*》と称する。
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* 黒奴酒 negtar は、黒奴《ネグロ》 negro と神酒 nectar とを複合造語したものだが、畜人薬 mixor の語源はハッキリしない。便導管を流れる液は、尿導管を流れる液と異なり、肉便器の胃内で消化液と混じている。そこで混合[#「混合」に傍点]の意の mixo-(接頭辞)から来たとする説。いや、便液が粘液状《ミクサ》になっているところから myxo-(接頭辞)から来たとする説。尿[#「尿」に傍点]を意味する |mictio《ミクショ》 が誤用から便[#「便」に傍点]に用いられたと考えられる説。家畜語「御糞《みくそ》」こそ語義そのものであるとする説(この説は、昧噌は御糞の転化で、だから「ミソもクソも……」といった慣用句があると説く)等々。
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右のように、白人の屎尿は物質複製機によって同一組成のまま増量されたうえで黒奴やヤプーを潤すのを原則とするが、例外的に、生《なま》の現物を「聖水《ワラ》」(warer < water)(神酒-nectar 甘露《アムリタ》-amrita)、「聖体《ボディ》」(body)(|神 糧《アンブロジア》-amb-rosia)と称して特殊用途に使用することがあり、肉便器がいない際、黒奴にそのまま飲ませる立小便の風などもあるが、それはその場面に応じて説くことにし、ここでは一般論に返ろう。
白人のものが黒奴と黄畜《ヤプー》の口に、黒奴のものがすべて黄畜の肛門に、この三色逐次間の摂食連鎖は、イースの社会構造を具象し、三色間の価値の序列を固定する作用を営むのみならず、排泄を知らぬヤプーにすべてを消化させることによって、イース世界を前史時代のような不便・不衛生な便所の使用とか、厄介《やっかい》至極《しごく》な汚物処理・塵芥消却の問題とかから完全に解放された「便所のない世界」(no lavatory world)にしている。このような重要な制度の生きたシンボルが不浄畜《ラヴァタ》の代表、セッチンなのである。聖水と聖体を直接に神々から受領する特権的存在として彼らがプライドを持つのも無理はない。
3標準型肉便器《スタンダード・セッチン》
ところで、イースにおける肉便器《セッチン》使用の風俗は、初期の形態をも算入すれば既に千五百年以上の歴史を有する。現在帝国内のどの遊星のどの大陸に行っても、おおよそ個人の私室で専用便器の備えてない部屋はなく、客室、船車内、集会場などで標準型共用便器の姿の見られないところはないが、このように普及するまでには、ことに便利至極な三能具標準型の誕生するまでには、長い変遷の跡があるのである。
セッチン使用の端緒は、女権革命以前、アルタイル圏への膨張期にさかのぼる。『イース事物起源』の記するところによると、遊星「ゴンダ」への植民に際し、その星の大気の状態から気密円頂閣《キュポラ》(cupola)内に便所が一個所しか設けられなかったので、夜中尿意を催した時、遠い便所まで歩いてゆくのを面倒くさがった男たちが、寝台の上でヤプーを尿瓶《しびん》代りに使うことを考えた。これが最初のセッチンだという。女性用小便器と違って男性用のものは口唇部に特殊の構造を要求しないから、ヤプーを持っている人はすぐ利用できた。十年ほどの間に、ゴンダ星の風習は帝国全体に広がった。当然昼間も使う、大便にも使うという人が出た。自家の便所から陶製便器を追放し、小便所の朝顔の跡へは、立姿勢での口唇の位置がちょうど大人の泌尿器に当るくらいの身長の仔《こども》ヤプーを縛りつけ、大便所腰掛の下には口の大きなヤプーを屈《かが》んで仰向かせ、結局自分の排泄物を全部ヤプーの体内に収める創案者たるの栄をになったのは、ペトロニウスの再来[#「ペトロニウスの再来」に傍点]と称せられた伊達者《だてもの》の卿《ロード》ドレイパア(ウィリアム郎[#底本「郎」ママ]の先祖)だったと伝えられる。
やがて女権革命が起り、男子用朝顔と並んで女子用朝顔《サニスタンド》にヤプーが使用されるようになり、子供では口も胃も小さすぎるとて侏儒《ドゥオフ》をそのために便所で飼うようになった。そのころ、一方では黒奴《ネグロ》のために混尿酒《カクテル》を与えるジャンセン女卿の試みもあり、やがて黒奴酒《ネグタル》が作られ、真空便管が普及し、結局今から千三百年ほど前に、祖笨《そほん》ながら三色摂食連鎖《トリコロル・フッドチェーン》の原始形態が成立して、セッチンの存在は動かすことのできぬ重要な社会的機構の一環となり、陶製便器の使用はまったく廃《すた》れるに至った。セッチンという呼称はこのころから生じたのである。
しかし、まだ染色体手術の技法が発明される前であったから、便利な体型は誘導変異から長期にわたって育種淘汰する以外には得ることができなかった。椅子に掛けたまま、寝台で寝たまま放尿できる轆轤首型肉便器《ロングネックド・セッチン》は、本来|舌人形《クニリンガ》・唇人形《ペニリンガ》として発達した体型を尿壺《ビス・ポット》に転用したものであるが、その数十センチの長い首が作られるまでには数世紀にわたる育種学者の苦心があったし、大便器としての傴僂型《ハンチバック》[#読取不可]も、いわゆる|馬 蹄 肉 瘤《ホースシュー・ハンプ》――両肩が著しく怒ったのと背中の瘤とが筋肉塊で連結して、頭部を三方から馬蹄形に囲む肉質の山脈状になったもの――が発達して、すわった時、腰掛便器の眼鏡板《シート》(穴あき蓋)の代りに楽々と使用者の尻をささえ得るような見事な奇形になるまでには、幾百の試作品がむだになったのだ。
侏儒《ドゥオフ》、傴僂、轆轤首の三種が、三用途に応ずるセッチンの三定型として発達したが、こういう単能具は私室に置くには充分だが外出先へ連れて歩くには不便である。共用器でなく専用器として持つ階級からの要求に染色体手術法の発明が呼応して、八百年前初めて三能具が作出された。三種の定型を一身に兼ねている奇形である。その第一号試作品は、時の女王マーガレット三世に奉献され、ご愛用品となった彼女は、用便のたびに、その間じゅう従者たちをしてオマール・カイアムの詩を朗誦《ろうしょう》させるのが常だったので、この第一号標準型肉便器はオマールの異名(家畜語のオマルはこれから来ている)を得、今でも宮廷用語として標準型セッチンは「オマール」と称ばれている。ともあれこの標準型は、女王家の愛用品となって以後ますます名声を博し、その便利さから単能具を圧迫し、平民の専用器および一般共用器として広く用いられるに至り、単能具は特殊化して貴族向きの高価な専用器としてのみ残存している。
単能具は貴族の私室に置く、専用器として読心能付《テレパシック》にもできるし、頭部の造作(第二章で舌人形の頭部にどんな加工がなされたかを想起されたい)に変った趣を加えたり、|生 体 彫 画《フレッシー・イングレイピング》による皮膚の装飾に高尚な趣味を示したりすることも自由で、極端にいえば、帝国内一万の貴族の使用しつつある数万の専用器中にまったく同じ二つを見いだしがたいくらいである。これに反して共用器は、個人の嗜好《このみ》に属する部分に手を加えないほうがよいとされ、もっぱら実用本位に、機能第一に体形を追究した結果、いちばん便利な形と認められたものが標準型として規格が公認され、量産普及化されるようになった。
これは大へんな奇形であった。侏儒《こびと》、傴僂《せむし》で轆轤首《ろくろくび》というのだから想像できよう。身長は首を伸ばしたとき(実際にはこうした姿勢はとらない)百五十センチ、たたんだとき百十五センチ(頭部二十センチ、脚部四十センチ、胴は肉瘤頂《あたま》から尻《しり》まで五十五センチだが、中央の首の付根から尻までは四十五センチで、四十五センチもある長い首は、たたむと凹《くぼ》みに収まるのである)、腹囲は百三十センチという規格がある。四十センチしかない太い両脚《りょうあし》は膝《ひざ》で二等分され、足は大きく偏平足である。両脚の上にある胴体は肉樽《にくだる》といった感じで、胸腹部はおそろしく肥満しているが、これは、十二人、次々に続けざまに使用しても全部収まるよう、胃の膨張に備え、右肺を剔出《てきしゅつ》除去してその空間をも利用しつつ、受納量を十二膀胱容積《ダズン・ビサイカ》(肉便器の胃の膨張度を測る単位)にまで増加させたからだ。
内臓への加工は、そればかりではない。生体家具として畜体循環装置《サーキュレーター》を備えているのは当然であるが、ほかにも気管に手を加えて左肺気管支は喉《のど》を通らず、首の付根の後方に開孔《かいこう》するようにしてある。背中には馬蹄肉瘤《こぶ》がある。その凹みの内側に開孔しているわけで、鼻粘膜もここに移され、ここから呼吸している。加工の狙《ねら》いは、ひとえに長い頸部《けいぶ》を飲食物[#「飲食物」に傍点]の嚥下《えんか》に専用させ、呼吸によって飲食物の通過を妨げないようにするにある。不要になった鼻腔《びこう》に小型高性能の熱気噴出装置《ドライヤー》が仕込まれている。
腕は細く長い。手指は短く柔らかく、爪《つめ》は舌人形《クニリンガ》と同じく全部抜いてある。馬蹄肉瘤の内側、深さ十センチの凹みの中いっぱいに細長い首がトグロを巻いてたたまれ、頭が戴っている。大便器になるときには首を折って凹みに後頭部を入れ、顔を仰向けにして口を開き、小便の場合は首を伸ばす。頭部は口唇部《こうしんぶ》の異常な発達を除けば目・鼻・耳・頭髪すべて尋常の外見を有するが、使用時の不快な刺激を避けるため、髭《ひげ》の毛根は除いてある。深く裂けた口は、開けば優に直径十センチの壷《つぼ》となろうが、女性の放尿に際しては腫《は》れ上ったような感じの厚い| 唇 《くちびる》が有用である。これは、外側が吸盤的、内側がスポンジ的な性質を備えた人工皮膚癌《がん》で形成されたもので、これによってピタリと吸い着くから液体がこぼれることも臭気が漏れることもない。口腔《こうくう》の内部も広く深く、歯は咀嚼《そしゃく》用に奥歯が残っているばかりで、前歯は全然ない。舌は普通人の倍もある幅と長さの見事なもので、これでぬぐったあとを鼻からの熱気でかわかす仕掛は、黒奴用先端器の洗浄乾燥装置と並んでイース世界からトイレット・ペーパーを追放してしまったのだ。
これが標準型肉便器《スタンダード・セッチン》である。エリダヌス座| ε 《エプシロン》星圏にあるアポルト星で量産され、帝国全版図の需要を充《み》たしている。今後もこの愛すべき生きた道具の一類はたびたび読者の前に姿を見せるであろう。
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第七章 第一の経験
1家畜語《ヤプーン》概説
壁から現われた奇形侏儒《ドゥオフ》は、SC(肉便器の押入れ)から出て来た標準型肉便器《スタンダード・セッチン》だったのである。円盤がポーリン一人のものなら専用器を置けるのだが、ジャンセン家の他の人も乗ることがあるから共用器を付設してあるのだ。もちろん、乗る時に手間を惜しまねばコードをはずして専用器と取り換えさせることはできるのだが、あまり物にこだわりを見せない性質《たち》のポーリンはいつもそのまま使っていた。
口笛で出て来たのは、これが呼出し合図になっていたからであった。読心能付《テレパシック》のもの以外は耳が生体家具の重要な能力であって、標準型セッチンは、同じような口笛を一度聞いただけで、百人を百人、二度目にはその違いを見事に聞き分けるという素晴らしい聴覚《みみ》を持っていた。今この操縦室付属のセッチンも、今の口笛の主が誰であるか、もちろん知っていたのである。
彼は短い脚を運びながら、いそいそとポーリンのほうに進み寄った。コードが、長い尻尾のように床に這った。その胸にYという字が三つ烙印《らくいん》されているのはどういう意味であったろうか?
ポーリンは、いきなり、「|違う《ノウ》!」と叱るように制止すると、さらに数語をつけ加えた。「コッチジャナイ。客様ノゴ用ナンダヨ」と日本語でいった。
この数語は麟一郎を仰天させた。セッチンの姿を見ず、誰の発言か確かめるために振り向くこともできぬ彼は、クララの声でない以上ポーリンに違いないとは思いつつも、一瞬耳を疑わずにいられなかった。
クララも驚いた。セッチンの異様な姿態は、先ほどから続けざまに珍奇な事物を見て、ある程度神経が鈍磨してきていたのと、これがまだ首を伸ばさないので単に太った侏儒《こびと》のように見え、目、鼻、耳などは普通人と同じで人間らしい印象に富んだ点もあったことから、それほど彼女を脅かさなかったのだが、今この数語を聞いて、なぜとも知らず凝《ぎょ》っとした。麟一郎との交際以来、日本留学生の会合などに出たりして彼らの会話を聞いたこともあり、自身も恋人の母国語に相応の関心を持っていた彼女は、意味はわからぬまま、それが何語かを直感的に悟ったのだった。ポーリンがセッチンを叱った言葉はまぎれもなく日本語だったのである。
いったい、どうしてポーリンは日本語を話せるのだろう。外でもない、これが家畜語《ヤプーン》 yapoon だからだ。イースの人類は共通語としてイース語(平民方言、黒奴《ネグロ》方言、また各遊星での方言など訛《なま》りはいろいろあったが、基礎が英語であることは前述のとおり)を話すのだが、その片言を覚えるころにはもう家畜語をマスターする。家畜語音盤《ヤプーン・レコード》(既に二〇世紀に着想されていた言語学習法――睡眠中、「睡眠学習音盤」という語学レコードを聞かせて下意識に教授する仕方――の進歩したもの)でしゃべり方を身につけてしまうのであり、またそれで充分なのである。いわばイースの人類にとっては、スプーンやフォークの使い方を覚えるのと同じような(事実「スプーンの次にヤプーンを覚える」という厘諺もあるくらいである)生活技術上の初歩的必須知識としてであり、英文を書いたり読んだり、詩をそらんじたりする精神的作業とはまったく異質な、いとも自然な状態で家畜語をあやつっているのである。
家畜語文字《ヤプーン・レター》というものは全然用いられない。ヤプー用書籍はローマ字で書かれる。語彙《ごい》も貧弱である。もともと論理的・思想的表現に適しなかった家畜語は、語彙の貧困化に伴って複雑な思想の表現はまったく不可能になったが、普通のヤプーの仕事は思想には縁がないので、白人がヤプーに命令するための言語としては充分である。敬語は非常に発達していたが、白人とヤプーとの間にはほとんど対話は存在せず、白人が一方的に命令するだけだから敬語用法にも白人は無関心であった。
もっとも、ヤプーへ命令するのに家畜語を使わなければならないわけではない。人間の言葉で命令してももちろんかまわないのである。ただヤプーは、一般に人間の言葉を理解し得ない。特別の用途に充《あ》てるため、人間の言葉を教える必要がある時には、「睡眠学習音盤」ですぐ教え込めるので、この点が知性ある家畜[#「知性ある家畜」に傍点]の有能な点ではあったが、普通は教える必要がないとされる。家畜が人間同士の会話を理解したりする必要はないからである。言語は系統だって教えられるか、自分で話し言葉として使ってみるかせねばマスターできるものではないから、自分で話すことを許されないヤプーには、結局、人間の言葉は理解できぬままにとどまるのであって、この点他の知性なき家畜[#「知性なき家畜」に傍点]と全く選ぶところがないのである。したがってヤプーに命令するには家畜語ですればよい[#「したがってヤプーに命令するには家畜語ですればよい」に傍点]、これが伝統的な考え方だった。これに一石を投じたのが有名なクァドリー(女)伯爵であった。彼女は家畜語は命令補助用具たるにとどめるべきで、命令は人間の言葉でなされるべきだと主張した。――人間が家畜に命令するのに自分の言葉を捨てて家畜に迎合する必要がどこにあろう。前史時代、馬や犬に命令するのに人間は人間の言葉を使ったではないか。もちろん教え込める語数は人間の語彙の何分の一パーセントにしかすぎまいし、大へんな鞭打的《スパルタ》教育の必要があろうが、しかしそうやって教え込んだ人間の言葉で行動させてこそ家畜を扱う[#「家畜を扱う」に傍点]というにふさわしい取扱いではないのか。もし人間の言葉で指示できない部分があるならば家畜語で命令するのもよいだろう。しかし、妾はそんな場合にも鞭《むち》と手綱で自分の思いどおりの行動に強制しうると信じる……。
この説は一般世論を動かし、以来、白人のヤプーに対する命令はまず簡単な人間の言葉でなされ、家畜語はその説明補助に用いられるのが普通になった。要するに、ヤプーは白人に対しては「口のきけない家畜」たるにとどまるのだ。
黒奴《ネグロ》との関係は多少異なる。黒奴はヤプーに話しかけるには家畜語をもってしなければならないし、白人とは会話することのできないヤプーも、黒奴に対しては、許された時、必要ある時、口をきくことができる。ただこの場合の敬語は「アリマス」調にすべきで「ゴザイマス」調は使ってはならないとされる。後者はヤプーの神、すなわち白人への祈祷《いのり》[#表示不能に付き置換え]にのみ用うべきものである。黒奴はヤプーの用語が正しい敬語法を守っているかどうかわからねばならぬ必要から、白人よりは家畜語の知識が深く、幼児期に充分マスターさせられるのである。
もっとも、黒奴に対して話すことができるなどといっても、実際問題としてヤプーが口をきくことはきわめて稀《まれ》であり、肉体的にも舌の構造等から唖《おし》[#表示不能に付き置換え]であるのが多|い《*》のであるが、話しこそせね聞く能力だけはいちおう標準に達して、家畜語で解説すればいくらでも複雑な命令が可能であり、これが「言語を解する家畜」たる彼らの矜持《ほこり》なのであった。単純な文法と貧弱な語彙、イースでは家畜言語《キャットル・タング》と軽蔑され、言語として扱う価値がまったくないとされているとはいえ、家畜語はやはり知性動物の特徴たる言語の一種(少なくともその退化形態)であるには違いなかったのだから。
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* セッチンでも、昔はしゃべれたが現在の標準型はしゃべれない。舌が大きく発達し過ぎたためである。この過程を示すともいえる裡諺に「|良くと舐める《グッド・リック》(舌は)|拙く語る《バッド・スピータ》」いうのが残っている。
[#ここで字下げ終わり]
もし退化する以前の家畜語を知りたければ、ヤプン島に行けばよい。ここに飼育されている一億匹の土着《ネイティブ》ヤプーは、昔ながらの旧家畜語と家畜語文字を使って未開文明生活を送っているのである。
イース世界における家畜語の地位・機能がこのようなものであったことから、ポーリンとしては、ただセッチンに指示を与えるというだけの意味で家畜語を使ったに過ぎなかったのだった。
2ある肉便器《セッチン》の個体史
しかられた肉便器《セッチン》は、あわててクララのほうに向き直って近寄ってきた。クララが気味悪そうに身を退くと、ポーリンはハッと気づいて、
「そうそう、貴女《あなた》はまだセッチンを使ったことがないんだったわね。……べつに面倒なもんじゃないんだけど……」といいながら、それでも考えたうえで、
「じゃ、妾が使ってみせてあげるわ」
といって、今度はきつい口調でセッチンに命令した。
「come here ashicko」
このセッチンは既に三十八歳である。三十八年前アポルト星の大飼育所《ヤプーナリー》で生れたときから今のような奇形であり、生れるとすぐ肉体改造の手術を受けた。成育してから右肺を剔出《てきしゅつ》したのでは、その空間を胃が充分利用しうるに足らないからだ。いっしょにいる仲間も同じ姿であったから、彼自身には不具・奇形の意識は生じなかった。| 唇 《くちびる》の吸盤を使って遊ぶ乳児期が終ると、畜体循環装置《サーキュレーター》はまだつけられず、個体性を持ったまま三歳になって訓練所《スクール》にはいった。
黒奴教師(アポルト星飼育所の職制でいえば、製造工場の心身馴致《じゅんち》係員)が、まず物いう術《すべ》を知らない彼らに家畜語《ヤプーン》を聞き解することを教え、次いで白神の像を礼拝させた。しかしその礼拝の対象は、白神像全体ではなく全裸の下半身の一局部であった。女神様と男神様とはハッキリ違ったご神体を持っておられた。どちらも聖陰毛《おひげ》を生やしておられるが、その毛の色は金色もあり褐色もあった。礼拝のたびに漂ってくる独特の臭気を、いつか彼らは快い芳香と感じるようになっていたが、それが何の匂《にお》いかはまだ知らなかったのである。
六歳で小学校の普通教育が始まる。三十二年前のことだが、今でも彼は、教師が最初の時間に彼に説いた福音《ゴスペル》への感激を忘れない。「別の世界――あの天の星の世界――に、白い神様は実際にいらっしゃるのだ。お前らがこの三年間、御像《みすがた》を礼拝してきた神様、その神様はお前たちの祈祷《いのり》[#表示不能に付き置換え]に応えてお前たちをお召しになる。お前たちが毎日|嗅《か》いできたあの良い匂いをたっぷり嗅がせ、食べ物・飲物をお恵み下さるのだ。その日はきっと来る。お前たちはその日に備えて勉強するのだぞ……」
白神実在の認識、選畜《エリート》としてのセッチンの自覚、神に奉仕する将来への輝かしい予感……それが彼の心身を揺さぶった。
授業は宗教と学科と術科とがある。宗教は白神崇拝《アルビニズム》の教義。学科は白神の日常生活についてだった。家具として神様の室内で活動するときに、他の家具仲間――彼ら自身のように生きている[#「生きている」に傍点]のも、そうでないのもあるが、――の名称や効能を知らねば困る。そういった意味で、特に神々の衣食住形態は詳しく教えられたが、必ずしも個室備え付けになれるかどうかわからないので、とにかく神意のご都合でどこに向けられてもまごつかないよう、イース世界のありとあらゆる乗物のことも、宴会場や劇場のことも、またゴルフ場の茂みに隠されたSCのことも学習するのである。術科は聴覚訓練のための音楽と食事作法の実習だった。
「食べ物三回・飲物十二|回《*》≠ニいってな、平均して神様がお前たちにお恵みになるのは食べ物が一日三回、飲物が一日十二回だ。だが、それは平均してのこと。実際は、主なる神様はいつ下関係《おしも》の御用にお前たちをお召しになるかわからない。いつでも、即座にお恵みにあずかれるように心がけねばならない。セッチン族の信仰にはこの心掛が第一だ。アシッコとおっしゃったら、これは|賜 飲 号 令《ドリンク・ビディング》。飲物《ドリンク》をお恵み下さるから、立位で神様の股《また》の|飲 物 孔《ドリンク・ホール》のほうへ首を伸ばすのだ。女神様によっていろいろな癖があるぞ。こちらの顔がはいったとたん、すぐご下賜なさる方、いったんこちらの顔を締めつけてからなされる方、お年齢《とし》を召した方のときには、まずこちらの舌で刺激を加えて差しあげることが必要なこともあるから、注意せいよ。さ、実習……」
「次は男神様のとき。これも、くわえただけで出される方、吸わないといけない方、癖があるから気をつける。さ、実習……」
「今度は、食べるほうをやる。|賜食号令《イート・ビディング》はアンコだ。このときは|食べ物《フード》を下さる。座位で仰向いて、お尻の食物孔《フード・ホール》が、開けた口の真上に来るようにする。いいな、尻に顔を合わせる[#「尻に顔を合わせる」に傍点]のであって、神様のほうで顔に尻を合わせて下さると思ったら大間違いだぞ。さ、実習……」
「口に受けたとき、咀嚼《かむの》に気をとられると次のを受けそこねるぞ、そんな粗相のないように。それから、立ちこめる芳香《かおり》は、全部漏らさず息で吸い取れよ。外に漏らすようなもったいないことをするな。さ、実習……」
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* この回数は、二〇世紀人には少し多過ぎるように思えるであろうが、イース人は、便意をこらえることをしない。セッチンという便利|至極《しごく》なものがあるからだ。排泄物を体内に留《た》めないから、ちょうど鳥類のように自然の長命が得られるのである。
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実習室には、白神の下半身を象《かたど》った精巧な実物大模型《マネキン》がいろいろの衣装と様々な姿勢で置いてある。これに対して、生徒たちが正しい姿勢をとると初めて一回分の飲物なり食べ物なりが放出されるのだ。
「食事後の作法もたいせつだぞ。舌(清拭《せいしき》)の前に鼻(乾燥)を使ってはいかん。舌を二度使ってもいかん。ペロリと一度にまず飲物孔、次に食物孔、これを前から後へ[#「前から後へ」に傍点]と覚える。いいな、さ、実習……」
こうして初等課程を終ると、十歳から中学校にはいる。ここでは、「匂いの研究」「味の研究」などといって異状神体の食べ物の分析を学習する。健康状態のご神体のものと、病気のご神体からのものとはどの点で違うか。肉瘤内《とうぶ》に開いていて、凹みの中にこもる臭気を全部吸ってしまう呼吸孔に移植された鼻粘膜がまず匂いで嗅ぎつける、さらに舌で味わう。平生と違う点を明確にして、それがご神体のどの臓器の異状と結びつくかを覚える。下痢便と胃腸カタルなどといった初歩のものから苦味の多少で胆石を知り、特殊の味で癌の初発を知るといった昔では到底考えられなかった便診断《コブログノシス》ができるようになるまで、白神下半身像内に仕込まれてある複製機から作られる異状便で繰り返し実習するのである。これを可能にするためには、白神が何を食されたかを知らねばならないから、白神のメニューの研究も並行してなされる。五年目には、食べ物(?)を一口味わっただけで前日の白神の食事内容をピタリと当て、健康状態も判断がつくようになる。そのメニューの知識がほぼ五百種に達するまで、各種の白神便が与えられるのだ。
中学校ではまた、セッチン・レポートの通信法を教えられる。畜人用綴字機《ヤップ・タイプ》と称する一種の簡易ローマ字通信機が各SC内に備えられている。それを使ってローマ字家畜語で白神の肉体状況を報告するのだ。専用器にとっては必須の義務であり、共用器とて時にはこれを要求されることがある。毎回の食事のたびに、お召しいただいたご神体、屎尿別、分量、温度(屎尿温度は体内温度を示す)、匂い、味、組成推定(神様の前日の食事内容)、異状所見等の各項目について報告され記録される。病気の場合、白人医師の診断にこの平常のセッチン・レポが参考となることが多いのである。
十五歳の終りに試験があり、六十点以上九十九点までが合格ということで卒業する。五十九点以下は神様のお召しに応《こた》え得ない屑《くず》で、セッチンとして生きるに値しないものとされ、廃品処分に付されて畜肥業者《こやしや》(第二〇章1「美少年登場」参照)に払い下げられてしまう。
この試験で百点満点を取った者はさらに上の大学に進学し、貴族用セッチンとしての特殊教育を施される。中学・高校卒だけの平民用セッチンのやれる技術といっては便診断だけだが、これだけでは実は診断しうる病気の範囲は限られている。それでさらに必要な尿診断《ユーログノシス》を学ぶことになるのだ。|検 尿 矮 人《ユーリナリ・ピグミー》(第二八章1「検尿矮人」参照)のような微妙な定量分析はできないが、どの臓器に異状があるかの定期的診断のできる範囲はうんとふえる。糖分検出で腎臓の故障を知る、などといった昔からの方法だけでなく、二〇世紀医学では到底望むべくもなかった早期診断が可能になる。一方、白神料理のメニューの知識もふえて、それは三千種から一万種にも及ぶ。一般貴族で三千種、大貴族で一万種、食卓《テーブル》を賑《にぎ》わす料理も範囲はだいたいそんなものだから、一万種を知るセッチンなら大貴族の愛用に充分耐え得ることになる。そのすべてを、翌日の便の味だけから推定できるほどの能力を持っているのである。二〇世紀地球の最も優秀な料理人《コック》よりも多くの料理を知り、どこの大学医学部教授も及ばぬ人体の生理・病理上の知識を備えている――こうした大学課程を終えた幾万のセッチンたちの一匹一匹についてそういえるのだ。
彼らセッチン大学生中、IQ一五〇以上の者はさらに大学院において読心家具《テレパス》としての修業をする。神様の肉体の延長と化し、その心を心とするのだから、これは最高の栄誉と考えられている。大学院修士は極楽機械《エリジアン・マシン》|の《*》称を受ける。
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* 無量寿仏《あみださま》の極楽浄土《エリジアム》では、人は心に排泄を念《おも》えば大地が開閉して不浄を受け容《い》れる=Aと仏典にあるが、読心能セッチンは、イース貴族にこれと同じ快適さを与えるのだ。極楽機械の称あるのも故《ゆえ》あるところである。
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このセッチンは、大学院修士ではないが大学課程は終了した学士である。十八歳で卒業のとき、黒奴の総長(製造工場高級品係長心得。ヤプーに対してこそ総長でも、正式には黒奴は係長以上になれないのだ)は、彼を祝福してくれた――。
「神々の家畜、ヤプー種族中の選畜《エリート》なるセッチン族の希望《ホープ》たる若畜《わかもの》よ。さらば行け! 天国星《てんごく》にはいれる日は近いぞ。何を食《くら》い何を飲もうと思いわずらうな。神様の御心《みこころ》のままに、与えられたものを食い、飲んで、栄光ある生を楽しめ! 忘れるな、セッチンたるのプライドを……」
爾来《じらい》二十年になる。卒業後、はたして直ちに買われて昇天し、畜体循環装置を施されて生体家具化されるとともに、アデライン・ジャンセン卿の愛機だった航時艇《ヨット》のSCに取り付けられた。そして、その航時艇が母から娘に譲られたとき、自動的にポーリンの所有物になった。それが操縦室に付属させられたのはポーリンが円盤艇を新型に買い直した昨年からのことだが、ジャンセン一族、ことに主神《ドミナ》として奉仕したアデライン、ポーリンのお二方の「下関係《おしも》」については彼は知り尽している。航時艇遊航《タイム・ドライブ》の際だけの奉仕ながら、飲物の味からご神体の異状を発見し、「緊急異状報告《イマジェンシー・レポート》」を出して名誉のY字勲章を肌《はだ》に烙印《らくいん》されたことが両三度に及ぶベテランである。何を食《くら》い、何を飲まんと思いわずらうことなきセッチンの生の二十年、顧みて悔いありや?
肉便器の一匹一匹に、こういう個体精神史があるとは、ポーリンは知らない。彼女にとっては、このセッチンは、ただ「航時艇操縦室備え付けのセッチン」というにすぎない。その個別性さえ認識していない。もちろん、誘導尋問されれば、母アデラインから譲られた旧型の航時艇にセッチンが付属していたこと、新型に買い直したとき、そのセッチンを新しい艇に移したことなどを思い出すであろうが、表面の意識では、特定のセッチンではなく、『イース』領内どこに行っても口笛ひとつで出て来る標準型セッチンの一匹というだけのことなのである。
知性ある道具に囲まれて暮しているイース人にとっては、器物の知性そのものは、もはや何らの驚きをも引き起さないのだ。「アシッコ」という指示は、セッチンにとってはそれこそが生甲斐《いきがい》であるところの神様の命令だったのだが、ポーリンにとっては、二〇世紀人が水洗便所で取手《ハンドル》を引くのと同じような、生理作用に付属して一日に何回か行なう当り前の|賜 飲 号 令《ドリンク・ビディング》にすぎなかったのである。
3ASHIK, UNGK
たびたびの脱線で恐縮だが、これから先もよく使われる言葉なので、ここでこの ashicko という語の意味、由来、用法を、『オクスフォード大辞典』の最新版を訳して紹介することにしよう。用例はイースの事物に慣れぬ読者にはわかりにくい点もあろうから、訳注を付しておく。
ASHICKO 【asik】外来語【語源】 oshikko (旧家畜語)
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【名詞】(一)【廃義《オブサリート》】尿。小便。比較→UNGK(大便)。@【本来は、古体 ASHICKO 【asikou】を用いて】ヤプー尿(例1)。A【転じて】人尿(例2)。(二)【自動詞(二)から】(ヤプーが)起立すること。@(肉便器《セッチン》の)立位(例3)。A(犬の)チンチン(例4)。B(馬の)立姿勢(例5)。C(原ヤプーの)起立(例6)。D【転じて】(黒奴の罰としての)立ちん棒(例7)。(三)【他動詞から】(ヤプーを)立たせること。【特に】(セッチンを小便に)使うこと(例8)。(四)【熟語】 ASHICK and ungk (立つことと坐ること)(ヤプーの)両姿勢(例9)(例10)。
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【自動詞】(一)【廃義《オブサリート》】-ed, -ed; 排尿する。比較→UNGK(大便する)。@【本来は、古体 ASHICKO 【asikou】を用いて】ヤプーが排尿する(例11)。A【転じて】(人間が)小便する(例12)。(二)【現在は、自動詞としては次の命令でのみ用いる。受命自動詞】命令形 A-SHICKO 【asika】略体 SHICKO 【sikou】(ヤプーに対する)「起《た》て」【起立号令】。反対→UNGKO 【Anka】(坐れ)。@【本来は】(三能型肉便器に対する命令)立位を取れ(例13)。A【広義化して】(ヤプー系動物への)起て。特に(犬に)後脚で立て(例14)。(馬に)立上れ(例15)。B【さらに広く】(原ヤプーに対して)起て(例16)。C【転じて】(矮人《ピグミー》に対して)掛れ(神々の競技や矮人闘技において)(例17)。(三)【熟語】 to say ASHICKO(起立号令をかける)。セッチンを使用する意の婉曲《えんきょく》語法(大小便を問わぬ)(例18)(例19)。
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【他動飼】 -ed, -t. 【自動詞(二)から】(一)起立号令《アシッコ》をかける(例20)。(二)(ヤプーを)起たせる(例21)。(三)(ASHI-CKO の号令をかけて)起動させる(例22)。(四)【熟語】 to ASHICK a person(ある人に起立号令をかける)原ヤプー扱いする。人格を無視して侮辱を加える意味(例23)。 to ungk and ASHICK a horse(馬を坐り立たせる)馬にまたがる動作(例24)。
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【語史】ヤプーの文化史的運命を象徴する語の一つ。初期には、 OSHICKO,ASHICKO とつづられ、ヤプーの(排)尿を意味したが、エンジン虫寄生によってヤプーが排尿と無縁になって以後、語尾の -O が脱落して人間に転用され、セッチンへの説明語として用いられる(用例12参照)うちに起立を意味する号令語と変り、女権革命後は尿の意はまったく忘れられて、起立の意味の受命自動詞として意識されるに至り、最後に他動詞化した。ただし、常にヤプー系動物に用いられ、人間には用いられない、黒奴《ネグロ》にも刑罰用語以外は用いない。逆にヤプーに対しては、 stand, stand up という語を用いず、すべて ASHICK で代用する。また、 to say ASHICKO(アシッコという)が用便を意味するのは、 ASHICK がいったん古義を離れ、排泄と無関係な起立動作のみの意義と観ぜられて後に(昔手と紙で尻《しり》をぬぐった時代に「手洗い」という語が便所[#「便所」に傍点]を意味したような)、排泄に関する直接表現を避けた婉曲語法として成立したもので、語義変遷の好例とされる。
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【用 例】
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例1。人間でなく猿《エイプ》だということは雄《メイル》特有の立小便のふうでもわかる。便所を持っていても猿《さる》真似した借り物に過ぎんから、尿意を催すと便所でない所で ashi-cko を放出するんじゃ。J・ラッセル編『将軍《ゼネラル》マック言行録(地球都督時代編)』
例2。儂《わし》はその仔畜人《カブ》 cub にいった。「お前は今日から小便所《ユアリナル》じゃ。儂の ashick がお前の唯一の飲物《ドリンク》になるのじゃ」。B・スタンウィック編「卿《ロード》P・ドレイパア書簡集』
例3。歴史時代、印度仏教の経典に無量寿《あみだ》仏《さま》の極楽世界を説いて、そこでは人は心に排泄を念《おも》えば大地が開閉して不浄を受け容れると叙しているが、心に放尿を念うと、すぐ、セッチンが ashick で前に立つわれわれ貴族の生活は、昔の人には極楽《パラダイス》とも思えるわけだ。A・ヘプバーン『古代宗教雑話』
例4。満二年で完全に這《は》うことが身についたら、仔犬 puppy を外に出して、初めて ashick を仕込みます。I・バーグマン『バウ星紀行』
例5。さても女丈夫エド・フィエール/ashick の馬の肩に跨《またが》り/拍車|燦《きらら》と輝いて/威風|辺《あた》りを払いけり。J・モロー『女城主《シャダレーン》(物語詩)』
例6。 ashick している原ヤプーを立っている人間と比べて見よう。どこが違うだろう? S・ローレン『ローゼンベルク畜人論の擁護』
例7。妾は一方|混尿酒《カクテル》を与えるとともに、他方気に入らぬ黒奴はどしどし ashick に処したから、彼らからは愛されると同じく恐れられた。女卿《レディ》ジャンセン『回想録』
例8。セッチンの |ashick《つかいかた》 にも人によって違いがある。妾は両股で尿壺頭《ビス・ポット》を締めつけながらでないとうまく放出できないが、感触だけで放出できる人も多いらしい。男にも、姪《くわ》えさせるだけで出る人、吸わせないとダメな人、いろいろあるようだ。G・ケーリー『随筆・こんなこと』
例9。 ashick と ungk が家畜語にはいると、前者は立つ[#「立つ」に傍点]ためのアシ(脚)となり、後者は坐る[#「坐る」に傍点]意を保存したまま変音してエンコとなった。なお家畜語で柔らかい甘いもの[#「柔らかい甘いもの」に傍点]をアンコというのは、セッチンに対する ungko から連想されるものが直輸入されたのであろう。D・デイ『家畜語考』
例10。「ashick 十二回、 ungk 三回」健康体の意。(諺)。
例11。「おい、どこへ行く」「ハイ、oshicko に……」「その前にここへ首を入れろ、俺が小便《ビス》したい」。H・ネフ『ゴンダ星異聞』
例12。「|お起ち《スタンダップ》」とお姫様は肉便器《ワアラ》に命じ、それにわかる言葉で付け足しました。「妾ハ ashick シタイカラ」。M・オハラ『童話・|情深いお姫様の話《テンダーハーテッド・プリンセス》』
例13。肉襁褓《ディアプー》は生後十ヵ月くらいでとどめ、以後はひとりで排便させましょう。 ashicko, ungko は片言でもいえますから、すぐ肉便器《ワアラ》が使えるようになります。「家畜語音盤」を聞かせるのはずっと後でよいのです。J・シモンズ『躾《しつけ》読本』
例14。彼女の愛犬ニューマは脳の言語中枢を抜かれた犬であったが、 ashicko といわれれば、どんな犬より素速く後脚で立って、獅子《ライオン》のように刈り込んだ上半身の長毛を誇示するのだった。J・ドルー『クァドリー伯爵伝』
例15。飛び乗りながら ashicko と叫び力強い一鞭《ひとむち》を入れた。馬は彼女を肩に、跳び起ち上って疾駆し始めた。E・ガードナー『暗黒星雲《ブラック・ネビュラ》から来た娘(長編小説)』
例16。九月三日。朝暗いうちに伝声管を原《ロー》ヤプーの畜舎《ケース》に継《つな》がせ ashicko とどなって画面《スクリーン》を見ていたら、皆|地面《じべた》から跳ね起きたが、一匹の雄だけは動作が遅《のろ》かったので、連れて来させ、|巨 大 蜘 蛛《ジャイアント・スパイダー》の生餌にした。 ashicko, ashicko と励ましたが結局二時間で完全に縛られる。午前中の面白い消閑《ひまつぶし》だった。E・テイラー『飼育所長日記』
例17。トロイ戦争ゲイムのシリウス地区予選決勝は、昨日L・ヤングの白組とA・バクスダーの青組との間に競われた。審判官たるN・ウッドの ashicko の号令一下、二千匹の矮人《ピグミー》は縦横に斬り交じえ、激闘数時間、白組に勝鬨《かちどき》の上ったころは競技場の河流は真紅《あけ》に染まっていた。『アベルデーン・タイムズ』記事
例18。「ashicko と二度いう必要はない」。M・ディートリヒの言葉。(一度いって用の足りぬようなセッチンは捨ててしまえ、の意)(故事成句)
例19。「一度に二台に ashicko をいうな」(ムダなことをするなの意)(金言)
例20。夫《つま》は、妻《おっと》からたとえ ashick されても口答えは禁物です。妻の望みなら、私はいつでもこの手を蹂躙《ふみにじ》ってもらおうと思います。妻は夫の主君なのです。T・ムーア『じゃじゃ馬馴らし・五幕』
例21。陛下の御足がベロ星の土を踏まれる間、全ヤプーを ashick し続けるように、との宮内庁の意向が内達された。G・ガースン『セオドラ女王朝史』
例22。近時|有魂計算機《ヤパマトロン》の起動と制動を ashick, ungk の語で表現する者があるように聞き及んでおりますが、どうかと思うのであります。「国語審議会議議事録(デボラ・カー委員の発言)』
例23。証拠算出計《エビデンス・マシン》によれば被告人の有罪度は八十度強である。よって被告人は被害者を ashick したものと認め、名誉|毀損《きそん》の罪により縮小刑二級三年に処し被害者に引き渡すものとする。V・リイ判事『判決録』
例24。母の血を引いたか、男のくせに子供の時から|乗 馬《ライディング》が好き。仔馬《ポニー》を買ってやると、上手に ungk-and-ashick します。今度は天馬《ペガサス》をほしがり始めました。E・パーカー『おてんば息子を持てば』
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(訳注)例1注。M将軍は地球占領軍司令官で初代地球都督となった人。当時ヤプーの語はまだなかったが、彼は類人猿《エイプ》と称んで人権を剥奪した。(第四章3「知性ある家畜」参照)
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例2注。P・D卿は肉便器使用の先駆者。(第六章3「標準型肉便器」参照)
例3注。読心能付肉便器の使用を意味している。 ashick の語が三能具だけでなく、単能具にも用いられる例。
例4注。外に出す[#「外に出す」に傍点]とは、それまでは畜人犬場《ケンネル》内の電流の通じた低天井の室で飼育されているからである(第二章3「畜人犬」参照)。バウ星は犬の生産地。
例5注。馬とは畜人馬《ヤップ・ホース》。騎手を肩車に乗せて走る巨人ヤプーで第一五章3「畜人馬アマディオ」に詳述する。
例6注。『ローゼンベルク畜人論』は第四章2「畜人論の成立と意義」参照。
例7注。J女卿は第三章1「自己紹介」参照。立ちん棒は横臥を禁じる黒奴への刑である。混尿酒《カクテル》とあるのは、当時のは醸造過程がなく屎尿を酒に割るだけだし、黒奴酒《ネグタル》の名称もなかったため。
例8注。G・Cはモナコ星都督だったが、夫君は乳児時代|肉襁褓《ディアプー》が悪い癖をつけたため、生涯強く吸わせながらでないと放尿ができなかった。それを不具《かたわ》扱いする人がいたので、彼女がこれを書いたといわれる。
例9注。D・Dは、学問の対象にならぬとされていた家畜語を初めて真面目に考察した人で、誤謬《ごびゅう》がなくはないが、研究の結果には卓見が多い。エンコ・アンコの解は既に定説である。
例10注。鳥類の長命は排泄物を体内にためないからである。イース人は便意を我慢しない。健康な普通人で小便十二回、大便三回が一日の定数である。
例11注。(綴りがOで始まっているのに注意)。ゴンダ星での風習は前章3「標準型肉便器」参照。この時代にはヤプーが主人と対話したりする地方もあったことがこの記述からうかがえる。
例12注。 ashicko が命令語として確立する以前には、 stand up という命令も用いられたことがわかろう。 |warra《ワアラ》 はセッチンの幼児語でオマル、オカワといった感じ。 |I'll《アイル》 |make《メイク》 |wate《ワーラー》.(小便したい)の末尾の語から訛ったもので、 |I'll《アイル》 |spit《スピット》.(唾《つば》を吐きたい)が転訛《てんか》して ilspy(肉痰壼《イルスピー》)になったのと同じ過程である。なお water は別途家畜語の語彙《ごい》にはいって、貴重な神聖な(すなわち白人関係的な)物質を意味する語ワラになっている。
例13注。 diapoo は |diaper《おむつ》-|yapoo《ヤプー》 縮合語で、乳児の股間《こかん》を常時清潔に保つため襁褓被覆《ダイアバー・カバー》の下に矮人《ピグミー》を入れたもので、mens-pigmy と同様の着想にもとづく。紙や布の襁褓《ナプキン》のように、交換の時不快な便臭がないし、交換も六時間おきでよく、便の異常は矮人が教える便利なものである。
例14注。Q伯爵は本章1「家畜語としての言語」参照。ニューマ numa は畜人尨犬《プードル》(毛の刈り方は旧犬《カニス》の場合と同じ)の名で、犬の名としては最もありふれたもの。
例15注。(例5注と同じく)第一五章参照。
例16注。E・T自身は寝台に寝たままでヤプーどもを起し、その様子を遠写画面《テレビ・スクリーン》で見ているのである。巨大蜘蛛は女郎蜘蛛をスクーターくらいの大きさにした変種で、美しさを愛《め》でて貴族に飼われる。生餌をすぐ殺さず、だんだん糸で縛るように毒牙は抜かれている。(第三章3「宇宙帝国・イース」参照)
例17注。「神々の競技」と総称される、矮人を使う遊戯中いちばん大仕掛なのが trojan wargame で、武装の矮人千人ずつを指揮して戦争する。血みどろの戦闘をながめる気分がトロイ戦争に臨むギリシャの神々さながらなので、この名がある。規模を小にし、素手で格闘させる型のは矮人将棋《ピグミー・チェス》という。(いずれも第九、第一〇章参照)
例18注。立位を取らせるのに二度も号令を掛けねばならぬのはセッチンとして不良品である。M・Dが息子が二度号令したのを見て不見識をしかった故事から出て、廃品や無能者を処分する時に用いられる表現。
例19注。もちろん、一度に二台のセッチンは使えないからである。
例20注。悍夫《かんぷ》ペトルキオが、結局は妻カサリンに征服されて貞淑になるという筋の喜劇。
例21注。この星はセッチン製造の飼育所のある星(前章3「標準型肉便器」参照)
例22注。有魂計算機は、電子人工頭脳の要所要所に矮人を入れて有魂にしたもの。
例23注。証拠算出計は、陪審員に代って証言の信用価値を計算する機械。縮小刑、その他の司法制度は後章で詳述する。
例24注。イースでは男性は学問美術音楽等に携わり、勇壮なことは女性の領分だからである。
(お断わり。なお、各例文には年代が掲記されてその意義での初使用時期を示しているが、イース紀元年数は、カルー星の一年を地球時の十八ヵ月として換算せねば無意味だし、ここではそこまでの必要もないと見て数字は省略した)
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4肉便器《セッチン》の初使用
『イース』の人々にとって ashick ungk の両語は、本来は動作(起立と胡坐)を意味するのみで排泄行為とは無縁な語である。この事情は「言語を解する家畜」たるヤプーにとっても変らない。彼らはこの両語を、特に語尾にOを付した語形で命令語として理解し記憶している。旧家畜語語彙《ヤプーン》での原義などはすべてのヤプーの誰もが知らない。
いや、大小便や飲食物の観念なく、かりに原義を教えられても充分には理解し得ないだろう。
この点、セッチンたちは多少特権的地位にあった。彼らは自ら誇りをもって一見黒奴風[#「一見黒奴風」に傍点]の摂食・排泄を営み、また職掌柄も人間の排泄を理解している――が、大小便と飲食物という、本来まるで違った異質の事物が、概念において渾然一体になっている点では、やはり畜生《ヤプー》は畜生、黒奴たちとはまったく違うのだ。
彼らは |food《たべもの》 と |drink《のみもの》 という二つの概念だけで事態を理解する。彼らが口から摂取する固体・液体は、とりもなおさず人間[#「人間」に傍点]の肉体から出る固体・液体なのだから(それに、彼らの排泄する液体も黒奴酒《ネグタル》原料として drink の性格を持っている)、彼らは feces だの urine だのという他の概念の必要を感じないのである。
彼らはこの両概念を食事の作法(ベロ星訓練場で模型人体を使って仕込む)とともに覚える。「神様は食べろ[#「食べろ」に傍点]とか飲め[#「飲め」に傍点]とかはおっしゃらない。坐れ[#「坐れ」に傍点]とか立て[#「立て」に傍点]とかおっしゃるだけだ。|坐れ《アンコ》とおっしゃったら |food《たべもの》 の時間――坐位で仰向くのだ。|立て《アシッコ》とおっしゃったら |drink《のみもの》 の時間だ。立位で神様――臥《ね》るか腰掛けるか立つか、どれかの姿勢を取ってらっしゃるが――の股まで首を伸ばし顔を近寄せていくのだ……何を食い何を飲もうと思いわずらうな[#「何を食い何を飲もうと思いわずらうな」に傍点]。神様の思召し次第なのだから……」こうして仕込まれ、号令に条件反射しうるようになった彼らには、 ashicko はまさしく drink と同義になったのである。
ともあれ、ポーリンの ashicko という命令には、このような複雑な文化史的背景があった。だから彼女には起立号令であるものが、セッチン(標準型肉便器)には drink の合図であり、麟一郎にはオシッコと聞え、クララにはまるで無意味《ナンセンス》だった。
声に応じてそのセッチンは回れ右をした。ポーリンが両足を踏み開いて近寄ると、首のとぐろ[#「とぐろ」に傍点]をほどき、するすると伸ばす……と見る間に頭部は見えなくなる。初めての光景に接したクララには、首の伸びてゆく有様が悪夢のように印象的だった。頭部が急に隠れたのにも何がしか魔法じみた妖しげな世界をそこに感じた。セッチンの右手がポーリンの左脚に、左手が右脚に、それぞれかかった瞬間、ズボンに穴があいたのだ。
|金属ゴム《メタリック》と称ばれる合金は特殊弱電流を通じると急激に伸長し、電流を断つと元にもどる。この性質を利用して、イース工業界ではいろいろな応用品が作られていたが、その一つが|孔 釦《ホール・ボタン》である。真ん中に針で突いたほどの小孔のある径二ミリくらいの平たい丸い金属片が布地中にはめ込まれていた。電流が通じると環状に広がり、径三十センチの針金の環のようなものになる。布地は伸縮自在だから、瞬間的に布地に大穴があいたようになるわけだ。この孔釦が昔の男子ズボンで、いちばん下のM釦のあった位置に付けられていた。セッチンの全身にはコードを通じているので、その両手が使用者のズボンのどこにでも触れさえすれば、爪のない両指先が電極として作用し、孔釦を開かせるのであ|る《*》。手を放すと電流が切れ、即時に元にもどる。使用中うっかり手を放させるとセッチンの首が締って扼殺《やくさつ》――家具の一種だから「破損《こわ》す」と表現されるが――の結果を生じるくらい復元力が強い。この孔釦が黒奴服(後述のように、これはコンビネーション・スタイルである)以外のあらゆるズボンやパンツに付けられているから、イースの人々は排泄行為に当って自分の手を使う必要がまったくないのである。下着の紐をいちいちほどいていた未開人には、二〇世紀人のゴム紐のパンツが不思議に見えるであろうように、二〇世紀人にはこの金属ゴムの孔釦は魔法のように思えるのだが、慣れればあたり前の被服部品なのであった。もちろん、自分で開閉することも可能である。
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* 先に(前章1「着替え」末尾)、ポーリンがクララのもじもじしているのを見て「足に触れさせたい[#「足に触れさせたい」に傍点]のね」といったのは、婉曲的な社交語である。ちょうど二〇世紀人が、「便所に行く」という代りに「手を洗う」といったように、イース白人は「セッチンを使う」という代りに「足に触れさせる」(to have one's lege touched)というのである。また「食事させる」(to give it a meal)ともいう。多少くだけた表現である。
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水平に伸びた細長い首がピクピクと波打ち、嚥下を示す。放尿につきものの物音は少しもしないが、隠れた部分でどんな作業が行なわれているかは、気配でクララにも充分想像がついた。
彼女はびっくりした。しかし後から考えると不思議なくらいだが、その時の驚きの大部分は、若い女性が立ちながら[#「立ちながら」に傍点]放尿しているという事実そのことに対するもので、人体[#「人体」に傍点]が便器になっているという、本来いっそう驚くべき事実に対してではなかった。
それは、ポーリンの態度の、あまりの平然さのせいでもあったし、セッチンの体でいちばん人間的な部分である頭部が隠れ、目に見える部分がひどく非人間的な姿態――ことに|馬 蹄 肉 瘤《ホースシュー・ハンプ》の凹みから水平に伸びた細長い首がズボンの中に消えているのは、ポンプにつないだゴム・ホースを示していたためでもあろうが、ポーリンから聞かされたヤプー本質論に、いつの間にか彼女の下意識が説得されかかっていたことがいちばん大きな原因だったともいえた。さっきは、クララはポーリンにむき[#「むき」に傍点]になって反対したが、それはひとえに愛人のためであった。最初ポーリンの体の下に緩衝布団《クッション》代りになっていた奇形|侏儒《ピグミー》を見た時も、次に四這人間が人犬《ひといぬ》になって飛び出して来た時も、彼女はただ人間に対するこのような取扱いに対して疑問を感じたのは理性上においてのことに過ぎず、感情からの反発はなかった。だからそれらが人間でなくヤプーであり知性猿猴《シミアス・サピエンス》という猿《エイプ》の一種だとするポーリンの議論は、本来ならそれだけで彼女を安心させたに違いなかったのだ。ただ、ポーリンの結論は、彼女の愛人麟一郎もそのヤプーだというにあったから、その限り彼女は反発せざるを得なかったにすぎない。
つまり表立って意識こそせね[#底本「せね」ママ]、彼女は肉足台や人犬に対して人間的。 sym=pathy(共=感)は感じていなかった。そこへこのセッチンであった。ゴム・ホースのような首の奇形侏儒に対する同類意識はちっともわかない。だから人体[#「人体」に傍点]を便器に思えないのだ。むしろ気になるのはポーリンの姿態だった。これこそ彼女のまぎれもない同類なのだから。
踏み開いた両脚を少し曲げて、腰を少しばかり落した。ポーリンの格好は、クララには米国旅行の折りに見たサニ・スタンド(婦人用立小便器)を思い出させた。腰を下ろせないのが妙に不安で、とうとう使わないで出て来たクララであっ|た《*》。
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* 「ポーツマスの新式小便所に震え上って逃げ出した婦人たちは、立ったまま両脚を開き、スカートをまくり、体の下から、そんなに長い放射を垂らすのが、女性として非常に猥《みだ》らなことであると考えたに違いないと思います」
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[#地付き](――ボーヴォワールの著書から)
だから、ポーリンが朗らかに、
「わかったでしょ。さあ、 ashicko っていってご寛なさい」
と勧めた時、クララの心中にあった躊躇の大部分は、自分が取らねばならぬ姿態にあったのである。
しかしこの躊躇を吹き飛ばしたのはひとえに激しい尿意にあった。他人《ひと》が放尿《すま》したのを見るともう我慢できない。呪文の意味は知らぬままに彼女は、
「ashicko」
見真似で足を踏み開いた。人間とは思ってなくても、人間同様の顔が伸びて来た時、無理もないことだが、一瞬恐怖に伴う後悔があった。「人間だろうか?」という疑惑も改めてわいた。「人間じゃない。こんな細長い首の人間がいるわけがない――」「いや、あの肉足台も元は正常な人間だったという話だった、奇形というだけでは……」――「いったい人間がこんな仕事をさせられたってするものか。それを喜んで首を伸ばして来るような奴は、やはり人間でなく、ヤプーとかいう動物に違いない」
自問と自答を一瞬の躊躇のうちに終えると、後は耐《こら》えてきた膀胱の緊張のゆるみゆく快感だけが彼女の心を占領した。下に長い放射を垂らさないで済むのが、サニ・スタンドになかった安心感を与えた。自分の排泄したものが自分の前に立つこの奇怪な動物の体内に収まってゆくという、今まで考えたこともなかった事態が何か当然のことのように思われてくるのだった。姿勢もそれほど不自然でもないように思えてきた。
局部に何かくすぐったい感触を覚え、温かい息がかかったかと思うと、首は早くも抜き出されて畳まれ、凹みの埋まった肩の線の上にチョコンと載っているのが見えた。紙でぬぐったように、局部は少しも濡れていないのを感じる。
思ったよりあっけなかった。だが、これがクララがイース文化を味わった最初の記念すべき瞬間だったのである。今後もう二度と再び、彼女の体から出たものが無駄に捨てられることはないだろう。彼女の姓 v. |Kotowitz《コトヴィッツ》 に因んで『|Kotowicky《コトブキ》』と命名された黒奴酒《ネグタル》の銘酒が誕生する日も遠くはあるまい。
「カルー」星どころか、まだ一九六×年号台球面を離れもせぬうちから、クララの心は早くもイース文化に傾きそうに見えた。彼女はヤプー家畜論を、知性猿猴《シミアス・サピエンス》の実在を信じ始めたのではないだろうか。……もちろんいまだ彼女の麟一郎に対する愛情には変りはない、彼女に問えば彼女はそう答えるに違いないのだ。が、下意識ではどうであろうか。先ほどポーリンのセッチンに話しかける言葉が日本語なのを聞いて凝《ぎょ》ッとしたのも、自分には同類意識のない奇形侏儒と自分の愛人との案外な共通性を暴露されたようなその感じに、将来の不安を無意識に予感したためではなかっただろうか。
麟一郎はさっきと同じ姿勢ではいつくばっていた。女二人は彼の視界を去ったままで、彼は何も見ていない。ただ耳から聞えるもので、今着替えをしたな、用便したな、と見当をつけるだけであった。もし彼にセッチンの仕事振りが見えたのだったら、彼はたとえ全身不随のままでもいいから、この球面に残りたいと思ったに違いない、それだけその仕事のおぞましさを見るに忍びなかっただろうから。
いや、何も見ていなくてさえ、彼の直感はクララに伴われて行く『イース』への旅に何か気味悪いものを感じ始めていた。先ほど涙を流して喜んだ彼女の愛情への信頼だけが、彼女の内心に何が芽生えたかを知らぬ彼の不安を救っていたのである。
短い口笛の一吹きでセッチンをSCに追い返したポーリンが、その時、つと円卓上の立体レーダーをクララに指し示した。細長い直立円筒体《シリンダー》が立体盤《ステレオ》の真上を示す位置に突如出現していた。ついに迎えの航時快速船『氷河《グレイシア》』号がこの球面に到着したのだ。
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第八章 二千年後の地球へ
1円筒船《シリンダー》『氷河《グレイシア》』号
一時間あまり前、タウヌス山麓で蝶の採集をしていた時に、山中に円盤状の物体が落下するのを目撃し、少年らしい好奇心に燃えてさっそく山道を登って来ていた二人の中学生は、この時思わず立ち止って前方の空を注視した。
忽然と、まったくいきなりわいて出たように、大きな円筒形の物体が空に浮んでいた。直径三十メートルの円形底面に、高さ百メートルの完全な円筒体、日本人なら茶筒を連想するだろう、窓も何もないオレンジ色に輝く物体が地球に対して垂直に静止していた。
「あッ、円筒だ」
「オロロンの時と同じだ。さっきのはやっぱり空飛ぶ円盤だったんだぜ」
一九五二年十月、南仏オロロン市に円盤を伴う円筒が出現し、あとに「|天使の髪の毛《エンゼル・ヘア》」と呼ばれる不思議な蒸発繊維を残して去ったことは|空飛ぶ円盤《フライング・ソーサー》に関心を持つ人なら知らぬ者はない事実である。二少年はますます昂奮して、早くその真下まで到達しようとした。円筒体の静止した下の地点に、さっき見かけた円盤がまだあるような直覚が働いた。未知の物体、世界の謎、中にはきっと宇宙人が……知らず知らず彼らは駆足になった。
道が渓流に沿って回り、樵《きこり》小屋のある山腹の広場の端に二人の少年はたどり着いた。
「あッ、山小屋が……」
「円盤だ……」
小屋は押しつぶされ、それにのしかかるような格好で一部分が破壊された円盤が坐っていた。その真上おおよそ三百メートルの上空に悠然と円筒が静止していた。
こちらは円盤艇の操縦室の中――。
急にブザーが鳴った。ポーリンがスイッチを入れると、立体受像《ステレオ》台にドリスの半身像が現われて姉に向っていった。
「壊《こわ》れてるようだけど、上って来れない?」
「うん、動けない。牽引線で吊り上げてもらうんだわね」
「わかった、今|青光線《ブルーレイ》の用意させるから、ちょっと待っててね」
あわただしい会話をして像が消えた。
ポーリンは、クララを顧みて、
「|大 気《アトモスフィア》が青くなるけど、心配要らないのよ」
いい終って間もなく、部屋全体が青い気体に包まれ、まるで窓のあるあたりで夕暮を感じるかの思いがすると同時に、エレベーターのような上昇感とともに、卓上の立体レーダーに示されている『氷河』号の船体がぐんぐん近寄って拡大してきた。
「ところで、ね、クララ嬢《さん》、貴女《あなた》のことを皆にどういおうか……」
ポーリンは少々心もとなさそうな様子で、「前史時代人だとわかったら、貴女を乗せることを承知しないと思うの。そりゃ、ゆっくり事をわけて説得すれば別だけど、すぐには承知しっこないわ、法律違反だもの。だから、妾《あたし》こうしたらと思うの。貴女もイースの人だけど、航時遊航《タイム・ドライブ》中に妾みたいに墜落したか、それとも故意に無断着陸したか、とにかく、この球面に降りた。ところが何かの事故で航時機《タイム・マシン》が壊れて帰れなくなると同時に、その事故の衝撃《ショック》で貴女は過去の記憶を喪失してしまった。名前がクララということだけは覚えてるんだけど、外のことは、姓も|生 国 星《ボーン・プラニト》も経歴も、イース人だということさえも全部忘れてしまっていた。その事故の直前に、捕獲してあったヤプーが忠実に貴女に仕えて世話をしていた。……そこへ、妾が墜落して、貴女に救われた。妾は一見して貴女をイース人と認知したし、貴女も円盤を見て朧《おぼろ》げながら自分がイースのどこかの植民星で生れたことを思い出した。それで妾が貴女を連れ戻ることにした。……どうかしら、このお芝居?」
「わかりました。そういうことにしなければ乗せてもらえないのなら、仕方ありませんわ」
「貴女にとっては初めてのものが沢山あるでしょうけど、記憶喪失ということでしばらくは誤魔化しておけると思うの、……さあ、船倉の底に収まったわ。すぐ皆が来るわよ」
青い光が消え、円盤は静止した。
馳せ寄って円盤のすぐそばまで来ていた一少年は、にわかに空間が濃青色になって一寸先も見えなくなったのに思わず悲鳴をあげた。
あとに続いていた一人は、突然目の前に真っ青な光の柱が立ったのに驚いて、立ち止った。
その太い柱は三百メートル上空の円筒の底面全体から下りて来ていた。光線の束が垂直に地面に放射されて円盤をすっぽりと隠してしまっていたのだ。……一分半くらいもしたであろうか、光柱は消えた。驚くべし、円盤は見えなくなっていた。光柱の中にいた一人は上空を指さした。
「上昇して行ったよ。周りは真っ青で何も見えなかったが、手探りで円盤の端に触れた。それは上に動いて行った……」
見上げると、真ん丸な円筒の下面に同心円状の黒い部分があって、急速に丸く縮むのが見えたがたちまち黒点と化してそれは消えた。
「カメラの絞りと同じ構造じゃないかしら」
「うん、穴があいて円盤を収め、それから閉じたのだろうね」
「今の青い光は何だろう?」
「円盤の上昇を僕らから隠すため……あッ」
「やッ、消えた!」
まったく、消えた[#「消えた」に傍点]というよりいいようがなかった。円筒は見上げていた二人の目の前で忽然と消滅してしまったのだ。白雲のたなびく真昼の空が二人には眩しかった。
茫然と佇立する二少年の顔を、蜘蛛糸のようにふんわりした青い糸筋がなぶった。見回すとそれらの奇妙なものが何本も四囲《まわり》に漂っていたのである。
「エンゼル・ヘアだ、やっぱり!」
「宇宙船だったんだね」
「宇宙人に会いたかったなア」
後になって、彼らが円筒の忽然たる消滅[#「忽然たる消滅」に傍点]を繰り返し証言した時には、多くの人は二少年の言葉を超音速飛行の見聞を跨張した表現であると見た。彼らにはそれが不満だった。もちろん彼らは円筒が航時船であることも、エンゼル・ヘアが青光線空間内牽引線《ブルーレイ・トラクター》であることも、ちっとも知らなかった。しかし彼らは円盤と円筒がこの世界のものでないことを直感していた。だから、彼らの報告にもとづいて現場を捜索した結果、二匹の馬の死体や麟一郎の衣服が発見されたことから、宇宙船説が一転してソ連の秘密兵器説となり、日独男女二人の不可解な失踪は東独またはソ連への逃避行か誘拐であるとして報道された後にも、この二少年だけは、自分たちが宇宙船を見たことを確信していた。彼らの想像したような宇宙人でこそなかったが、円筒の中にいたのは確かにこの二〇世紀の世界に属する人ではなかったのだから。
2三貴族登場
引揚げの際、室温調整が損じでもしたのだろうか、室内が急に涼しくなった。その時|扉《ドア》が外から開かれて、一人の美少女が飛び込んで来た。ドリスであった。ふさふさした金髪をおおい隠せず、軽快にチョコンとかぶりこなしたポロ帽の庇《ひさし》の下に、ほとんど黒と思われるほどの渋い青色のつぶらな目。完全な美しさというには少々いかつい顔の輪郭、表情も精悍だが赤い唇は可愛らしい。横に太目の縞のはいったポロ・シャツが胸の隆起をかたく押えていた。クララが一時間前に受像機で見た時と同じ服装であった。ポロ練習着の着替えの暇もなしに、『氷河《グレイシア》』号に乗り込んだというわけであろう。さっきは見えなかった下半身を、両脚をジョッパズ風の乗馬ズボンに包み、長靴を穿き、右靴の胴に鞭を差し込んで柄が上に見えていた。皮革《かわ》は薄紅色に底光りする見事なもので、|洗 靴 奴《シュー・ウォシャー》の涙で洗う天馬皮革《ペガサス・レザー》などとは知らぬクララにも、横に脱ぎ捨てたばかりの自分の乗馬長靴がこれに比較しては乞食の靴みたいにみすぼらしいことが気になった。服の布地のことはいうまでもない。
――ほんとうにこの方の勧めたとおり、着替えしておいてよかった。あんな服、あんな靴だったらどんなに恥ずかしい思いをしたことだろう――と、クララは思った。
続いて二人がはいって来た。男か女か、クララは思わず戸惑った。着ているものからは女という印象を受けた。一人はキモノに似た前合せのワンピース・ドレスを着ていたが、床に達するほどの長いスカートに花模様があり、床を向いたままの麟一郎の視界のすみにこれが映った時、彼はキモノを着た日本婦人と錯覚したくらいだった。もう一人は下はズボンだが派手な色だし、上半身にまとっているのも二〇世紀人の通念からすれば婦人用ブラウスとしか思えぬもので、ドレッシーな感じが、クララが借着している服のスポーティな簡素さと比べてはるかに婦人服らしかった。前者は金髪を辮髪《べんぱつ》のように編んで顔の両側に垂らし、後者は濃い亜麻色の髪を伸ばして後頭部で一縛りしただけであったが、頭の上にトルコ帽風の小型の帽子を載っけた粋な姿であった。
服装や髪形が婦人を思わせるにかかわらず、顔や体の感じは男性的だった。二人ともよい体格で、ことに後者は百八十センチはあろうという体、その肉体の線や、衣装の下にうかがわれるたくましい筋肉は明らかに男性のものに違いなかった。
顔も整っていた。金髪のほうは一見してポーリンやドリスの同胞《きょうだい》とわかった。細く濃い眉、長い睫毛、格好よいとがった鼻、引き締った口元の薄紅色の唇、肌は玉貝《カメオ》か乳色の琥珀《こはく》のようで髭もないのだが、やはり男の顔である。亜麻色の髪をしたほうは、単に美男子という点では前者に劣るかも知れないがそれだけ個性的な顔立で、しかも若さにあふれていた。濃い、多少迫り気味の眉、大きな灰色の明るい目、鷲の嘴《くちばし》のような鋭い鼻、日に焼けて赤らんだ肌――、類いまれな美青年といえた。前者には服装にふさわしい女性的な物腰があったが、後者はそうではない。もっとも軽く微笑んでいる表情の柔らかさは、クララの目には男よりも女のものに見えた。年はどちらも二十代には違いなかったが、後者のほうが若かったであろう。
男か女か、半男半女《ふたなり》のように肉体的な変態ではないから、男の服装の奇妙さを風俗の違いとして受け取ってしまえば、それほど倒錯的な感じではなかった。態度こそ物優しいが、体はとことんまで男性なのだ。男も男、クララはこんな美男子が二人もそろっているのに出会ったことがない。ことに年若な男の態度には前者に比べて女性的なところが少なく、二〇世紀の婦人であるクララはそれだけこの男のほうに気をひかれた。
三人はこもごもポーリンを抱擁し、接吻《キッス》して祝辞を述べたが、そのたびにそれぞれよい匂いがクララの鼻を打った。一人一人が違う香水を使っているのだろうか? それとも体臭だろうか? だがあまり不思議そうな顔は禁物――、イース人ということになってるのだから……。
ポーリンは三人を一まとめに次々と紹介した。
「クララ嬢《さん》、ご紹介しますわ。こちら、妹の嬢《ミス》ドリス・ジャンセン、まだ|十 代 娘《ティーン・エイジャー》よ。スポーツ| 狂 《きちがい》でポロの正選手、次のオリンピックで五種競技(二〇世紀オリンピックで近代五種といわれたものに当る)の選手権を取るんだってがんばっている人よ……その横が兄のセシル、結婚して今は伯爵メアリ・ドレイパアの忠実なる夫君《ハズ》、家畜文化史を専攻してる学者よ。ご主人の卿《レディ》ドレイパアは国軍中堅幹部で、遊星間戦争競技会《インタープラネタリ・ウォアゲーム》(各遊星が対抗してヤプーの兵隊を戦闘させ、戦争術の優劣を争う競技)のカルー代表軍にも選ばれたことのある人。ドレイパア伯爵家も古い家柄だわ。……それからそっちが卿《レディ》ドレイパアの弟の郎《オス》ウィリアム・ドレイパ|ア《*》、男のくせして武骨な荒事が大好きという、アベルデーン切ってのおてんば青年よ。……こちらは嬢《ミス》クララ、今日危ないところをこの方に救っていただいたの。姓のことはあとでいうわ」
[#ここから2字下げ]
* 郎《オス》 osg は、既婚男子に対する夫君《ミスター》と区別して、未婚男子の姓名に冠せられる。もちろん女権制確立後、男子の童貞が重んぜられるようになってからの新語である。女子の嬢《ミス》、婦《ミセス》も昔からの慣習で用いられているが、二〇世紀での嬢《ミス》、夫人《ミセス》に当る区別は、男子の郎《オス》、夫君《ミスター》である。爵位を離れていえば、メアリ・ドレイパア嬢とセシル・ジャンセン朗が結婚して、メアリ・ドレイパア婦と同夫君セシルになる。婦《ミセス》と夫君《ミスター》とが昔の氏《ミスター》と夫人《ミセス》に相当するのである。
[#ここで字下げ終わり]
クララは一人一人と握手した。ポーリンは語を継いで、
「こちら、とても変った体験なさったの。そのため今でもご自分の姓や生国星の記憶がなくてね」
「えッ、記憶がない?」
三人は異口同音に叫んだ。
ポーリンは手短かに事の経緯《いきさつ》を説明した。墜落のこと、クララに救われたこと、ヤプーを連れていたのでイース人と知って話したところ、相手は過去の記憶をまったく喪失していることがわかったこと、ニューマがヤプーを咬んだこと……先ほど打ら合せたとおりのことであった。
ポーリンが、クララはこの土着ヤプーをヤプーと思わず、人間扱いしていたのだというと三人は吃驚《びっくり》し、無遠慮なドリスなどは失笑して姉からたしなめられたりした。
「何しろイース人としての生活の記憶をなくして原始生活していたんだから、そのつもりで彼女の身にもなってあげなくちゃ」、ポーリンは大声でそういったあと、今度はクララには聞えぬほどの低声で三人にささやいた。
「記憶が復活するまでは前史時代人と違いがないの。でも円盤《ディスク》を見て内部《なか》にはいって来たくらいだから、目で見、耳で聞けば、記憶が戻るらしいわ。とにかく、彼女の反応ぶりが少々おかしくても笑っちゃだめよ。彼女も記憶の回復に一生懸命なんだから……とにかく平民じゃないわ。植民地貴族には違いないの」
三人はうなずいて、クララに対し、記憶の回復にできるだけお手伝いをしましょう、と申し出た。彼らは彼女に不躾《ぶしつけ》な視線を浴びせたりすることは決してなかった。しかし、部屋の一すみに裸のまま四つん這いになっている、放浪の女主人に仕えたという土着ヤプーに対しては、好奇心に満ちた視線を向けることを辞さなかった。
クララは不快を感じた。彼女のたいせつな婚約者の身を、そんな無遠慮な視線にさらしたくなかったからだ。もしその視線が麟一郎に対する敵愾心《てきがいしん》を、否定的評価を感じさせるものだったら、彼女はなおのことそれに反発していたかも知れない。しかし、彼らの目にはそんなものはなかった。軽蔑すらもなかった。彼らの示したものはただ純粋な好奇心だけだった。厩舎で新しい馬を見る時に彼女が示すような目つきで彼らは麟一郎を見ていた。それが彼女をだんだん不安にした。さっきポーリンの口から聞いた日本語のことがふと思い出された。妾は間違っていたのかしら? 麟《リン》はほんとうにヤプーとかいう似而非人間《プソイド・メンシュ》なのかしら? そういう疑いが初めてクララの心にきざしたのだった。
3腕送話器《リスト・マイク》と頭蓋内蔵受話器《ビルトイン・クレイニアルイヤホーン》
「さ、着くまで、一時間あるわ。上階《うえ》の船室のほうに行きましょう」
互いに紹介の終ったところで、ドリスがいった。
「妾《あたし》は麟《リン》を……このヤプーを離れるわけにゆきませんわ、丈夫な時ならともかく、全身麻痺状態にあるので……」
今度こそ瀬部氏《ミスター・セベ》とはいえない。記憶喪失を装うとはいえ、イース人になりすまそうという手前、心ならずも麟一郎をヤプー呼ばわりはしたが、もともとこの旅行は、彼の麻痺を本復させるのが目的だったことを彼女は忘れていない。麟一郎はヤプーではないのか、と一抹の疑いこそ芽生えたのを自覚するクララではあったが、今、この状態にある彼をおいて自分だけが宴に招かれるような心境にはまだ程遠い。愛情というより憐憫かも知れなかったが、とにかく彼を見捨てようとは思わなかった。……が、皆はそれでは承知しなかった。
「あら、いくら大事だって、そうまでヤプーに義理を立てなくたって……第一、お客様の貴女をこの部屋に置いて、妾《あたし》たちだけ引き揚げるなんてこと、できないわ」とドリスは気をつかった。
「そばに居ても居なくても、同じことですよ。どうせ注射するまで変化はないんだし、到着するまで、注射はできないんだから……」とこれはウィリアムの助言だった。
「一時間くらいいいでしょ。心配なら代りの者に見させてもいいんだし、もう二〇世紀の球面にいるんじゃないんだから……」、あまり躊躇したら、イース人と思ってもらえなくなるぞと、いわんばかりにポーリンがいった。
麟一郎を救うにはどうすれば賢明なのか、代る代る勧められて、クララの気持は動いた。前史時代人と見破られては何にもならない。迷っているところへ、セシルが、女にもしてみたいような美しい顔を赤くしながら、口ごもりつついった。
「尾籠な話で何ですが……貴女のヤプーは導尿処置をしてやる必要がありますよ。土着ヤプーは私たち人間と同じような泌尿排泄をするわけですが、麻痺させてあるとそれがうまくいかないで苦しむんです。以前、古石器時代人《ネアンデルタール》を捕獲した帰りの船中、膀胱破裂で死んだことがあって、それ以来、|衝 撃 牙《ショック・ファング》で庶痺させたあとはヤプーには導尿管《カテーテル》を挿入するのが普通になってるんです。それに土着ヤプーを裸にしたままほっといては肺炎になっちまいますから、そのほうの処置もしなければなりませんし……」
よく気づいてくれた、とうずくまったまま聴神経を緊張させていた麟一郎は心ひそかに感謝した。室温が艇《ヨット》の格納後急速に下降したらしく、肌寒さをさっきから感じていた。そして冷えるにつれて膀胱がしだいに充満して来ていたのだ。
着替えし用便を済ませたクララは、自分は寒さも尿意も感じないので、そこまで気がつかなかったのだが、セシルはさすがに専門家で、土着ヤプーの生理をよく知っていたのだった。
「セシル、貴方のいうとおりだわ」、ポーリンはさっそく賛成し、ほんとうは自分も忘れていたのだが、そこは取りつくろって弁明した。「妾もね、そう思ってたけど、遊歩艇《ヨット》では設備はなし、黒奴《ボーイ》はおらずで……」
「この船には両方いっしょにできる設備があるはずだから……」
「すぐ、黒奴《ニガー》にやらせるわ」とドリスが結論づけた。
「クララ嬢《さん》、そんなこと、貴女は見ないほうがいいわ、黒奴が慣れてるから……」
ヤプーの排泄に関する作業など目や手がよごれるからおよしなさいという意味でいったのだが、クララはそうは取らなかった。しかし先ほどの自分の行動から考えて、麟一郎にも生理的必要はあると思われた。導尿管を挿入する作業に立ち会うことは躊躇された。ドリスの思ったのとは反対に、彼女は麟一郎の人格を認め、男性を認めていたからこそ、それを見るのが恥ずかしかったのだ。体を知り合った夫婦ならそうは感じなかっただろうが、浄《きよ》い恋愛婚約の間でしかなかった二人であった。……裸でおいていては肺炎になるから、という言葉も彼女は、常識的に彼に服を着せてくれるのだと理解した。その言葉が何を意味するかを知ったら、彼女は、別の行動を取ったかもしれない。しかし、ヤプーがすべて裸でいることなど全然知らない彼女がその真意を理解できなかったのも無理はなかった。だから、病人を入院させる時のような気持で、
「それじゃ、お任せして、妾は場をはずしますわ。ご案内いただきましょう」
と勧めどおりに従ったことを責めるわけにはゆかない。
ドリスは左手首の腕時計ようのものの龍頭《りゅうず》を押して蓋を開くと、口の前に近寄せ、低い声でささやくようにいった。
「今ね、船倉に入れた円盤の操縦室にいるんだけど、お客様が土着ヤプーをお連れになって、それが衝撃牙にやられてるの。……いつもネアンデルタールに使う| 棺 《コフイン》は積んでるんでしょ?……じゃ、獲物置場《ゲイム・シェッド》からすぐ二人お寄越し」
これは腕送話器《リスト・マイク》という黒奴使役用の間接小型指令機であった。生体家具の発達した今日でも、貴族は家庭内に黒奴を養っている。昔ながらの生活様式を維持した面が上流になるとたくさんあるので、どうしても生体家具だけでは用が足りない。たとえば食事などは給仕人を後方に侍立させるのが貴族の家庭の習わしだが、この給仕人にはヤプーでなく黒奴を使うのだ。こういう、白人家庭内で使役される連中は選抜された最優秀黒奴であって、これを召使《サーバント》いまたは従僕《フットマン》と称し、黒奴の最高階級を形成していた。
黒奴は半人間[#「半人間」に傍点]とて、ヤプーと違い多少は人権を認められているので、その肉体に読心装置を仕掛けることができない(また仕掛け得るほどIQの高いのも稀である)。そこで、彼らへの命令伝達には超短波放送《マイクロ・ウェイヴ》が用いられる。召使いはすべて脳外科手術によって内蔵受話器《ビルトイン・イヤホーン》を耳殻内部外聴道下方に装置され、固有周波数を与えられる。指令機というシガレット・ケース大の送話器に命令を吹き込めば、それは極小型の放送局になっているので直ちに電波となり、召使いの耳の中で音波に戻って命令として響き渡る。特定の受信者一人を相手にする放送だが、召使い側には受信しない[#「受信しない」に傍点]自由はなく、たとえ眠っている時でも命令が耳の中で鳴り響くのをどうすることもできな|い《*》。しかし命令する主人の側では、各召使いの周波数を覚えたり、発令ごとにセットしたりする手間を面倒くさがって、|召 使 頭《チーフ・サーバント》に直接指令機を持たせ、自分は間接指令機で召使頭に命令するのが常である。間接指令機は召使頭たちの耳の中の受話器を対象にその人数だけの周波数で足りるので極小型にできる。これが腕送話器《リスト・マイク》なのである。各召使頭は別に脳波追跡装置で輩下十数名の召使いの現位置を常に掌握し、主人の命令を受けて、適当な召使いを選んで作業させ監督する。別名を中継奴《トランス》ともいう。普通職場単位に一組を構成するが、『氷河』号にも五十数名の黒奴船員がいるのでこれが三組に分れているのである。ドリスは乗り込むと同時にこの船の腕送話器を腕につけていたのである。
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* ビルトイン・イヤホーンは、主人の命令を受けるだけにとどまらない。たとえば、イース貴族は健康見張番(ヘルス・ガード)を持つが、これは、主人の心臓の鼓動を短波で受けて増幅したものを四六時中聞かされている従畜(パンチー)である。
[#ここで字下げ終わり]
「ね、クララ嬢《さん》、これで安心でしょ。さあ、皆、上の大広間に行きましょう」
ドリスが先に立った。ポーリンがクララを促すように誘ったが、クララは、「私は後から……」と譲った。
ポーリン、犬のニューマ、セシル、ウィリアム……の順に続いた。クララは最後に一人で麟一郎に一言慰めと励ましの言葉をかけてからいっしょに行こうと思って残っていたのを、ドレイパア青年が立ち止り、にっこりと手を差し伸ばして彼女を待っているのを見たクララは、いったんは踵《きびす》を返して部屋のすみに近づきかけたのだが、裸のまま四つん這いになった麟一郎の姿が目にはいると、アポロのような美青年を待たせておいて、ファウンのような黄色い肌の男にかまっているのは気がひけるように感じられ、わずかに思い返すと、そのまま言葉を掛けずに回れ右して、彼女はアポロと手を組んで出て行った。
あとには肉足台の舌人形と並んで、床の上に這いつくばった麟一郎が寂しく取り残された。
――クララ、行かないでくれ、僕を見捨てないでくれ。
心中必死に呼びかけたが、唇ひとつ動かせぬもどかしさ――。
室内はますます冷え、尿意も迫って来た。
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第九章 別々になって
1皮膚窯《スキン・アブン》
柔らかい肉質金属床なので足音は少しもしないが、うずくまったまま神経をとぎすませていた麟一郎《りんいちろう》には、人の近づいて来る気配がわかった。
――クララが帰って来てくれたのか?
と喜んだ時、扉《ドア》が開いて、
「これか」
「なかなかいい肉づきじゃねェか」
「この部屋で脱がせて裸にしたらしい。見ねェ、乗馬服や長靴があるぜ。ヤプーの分際で馬に騎ってたってわけだな……だが悪い皮革《かわ》だ、こりゃ」
「へッ、生意気に鞭まで持ってやがったんだ」
下品な言葉づかいの会話とともに、クララの残した鞭を拾う、黒い腕と黒い首が視界のすみに写った。黒人二人らしい。
「若奥様がお獲《と》んなすったのかと思ったが、そうじゃねェんだって?」
「うん、今来る途中で拝んだ中にお客様がいらしたろう? あのお方の飼ヤプーよ」
「飼ヤプーたって首輪してねェ……」
「バカ、これから登録しよってんじゃねえか。珍棒《ティンボウ》(第一四章5「如意鞭・珍棒」参照)で飼ヤプーに慣らそうてんだよ。見ろ、背中ののっぺりしてること……」
「そのうちあのお方のお手々で綺麗な模様ができるってわけか、この辺にな」
ピシリ、麟一郎の背中に軽く鞭が当った。黒人の一人が今拾ったばかりの乗馬鞭を戯れにためしたらしい。
「アッ、お前《めェ》、そんなことしていいのか、この土着ヤプーの背中は|鞭の処女地《ウィップ・ヴァージン》≠ネんだ。それを命令もなしに……」
「いや、今のは鞭《う》ったんじゃねェ、冗談に当てただけだ」
「どうだか。とにかく、今日俺は報告するからな」
「とんでもねェ、断じて鞭《う》ったんじゃねェ……」
ヤプーには自分たちの話はわからぬものと思い込んでいる二人は、無遠慮に話し合いながら、麟一郎をかかえて担架に乗せ、手足を伸ばさせて仰臥させた。
目のすみに見える彼らの頭部を見て、麟一郎は『西遊記』の孫悟空を連想した。後頭部を一周した末、前額部で拝み合わさって短く上にはねた孫悟空の金の鉢巻にそっくりの金属輪を二人とも巻いていたからであった。これは実は、彼らの耳内に存在する受信装置《レシーバー》のアンテナで、前述の頭蓋内蔵受話器《ビルトイン・イヤホーン》とともに召使族《サーバント》の肉体の一部に化しているものである。
担架は円盤艇《ヨット》を出て、船倉の高い天井の下に出た。目の玉が動かせないのではっきりとは見えないが、半袖シャツ、半ズボンの白地の制服らしい背中には、さっきニューマの額に彫りつけてあるのを見た紋章が、胸のほうには何やら数字が見えた。麟一郎には何とも見当がつかなかったが、各召使いの固有番号を示す数字らしかった。鞭をふるったほうが8番、もう一人が13番である。
高い天井がにわかに低くなった、獲物置場《ゲイム・シェッド》に来たのだ。さらに寒くなってきた。氷点近いだろう。
「可哀そうに、鳥肌立ててやがら」
「すぐ温かにしてやるってことよ……オイ、ヤプー」、急に日本語《ヤプーン》になって、「手前《テメエ》、今マデハ人間ミテエニ着物ヲ着テタンダロ。サゾ面倒クサカッタロウナ。安心シナ、コノ棺ニハイリャ、ソンナ面倒ハナクナルンダカラ……」
「手前ハ着物ノ要ラナイ体ニナルンダ。アリガテエト思イナ、御主人《オカタ》様ノ思召《オボシメ》シヲ」
「ソノウチニャ飲ミ食イモ無用ニナルッテネ」
口々に毒づきながら無気味な予言をする。担架から下ろされる時に視野に周囲の情景が写ったが、エジプトのミイラの棺のようなものを載せた寝台くらいの高さの台が数脚見えるだけの殺風景な部屋だった。設備があるというのはこの台のことであろうか? 麟一郎は知る由もなかったが、これは|皮 膚 窯《スキン・アブン》というものだった。
それより驚いたのは、黒人どもの服であった。半袖シャツ、半ズボンと思ったのは、両方連結していたし、ズボンの下が割れて重ね合せになっているので、ちょうど下着のコンビネーションと同じなのだ。これは|真 空 便 管《ヴァキューム・シュア》の先端器《コブラ》を使用するのに便利なためもあるが、おもなねらいは、懲罰鞭打《バステネード》に際してすぐ臀部を露出させることができるようにするにあった。イース中、どこでも召使族《サーバント》のお仕着せはこのコンビネーション仕立《スタイル》の服と定まっていたのである。
が、よく眺める暇もなく、麟一郎は人型の棺の一つに入れられてしまった。内部は例の肉質金属で人体に合わせてえぐってあり、ほとんど隙間を感じない。足裏に何か薬を塗られ、蓋が閉ざされた。ただでさえ全身麻痺の身が、耳目も奪われて完全に外界と遮断されてしまったのである。
肉壁がだんだん膨張してきて全身の表面をピタリとおおった。呼吸は何ともない。同時にその温度が上って体温と同じになった。入浴のような快適さに、なるほど、この中にはいれば着物は要るまい、と麟一郎は先ほどの黒人の言葉を理解した。外から操作する仕掛でもあるらしく、その時そろそろと導尿管が挿入された。膀胱の緊張が解けて楽になった時、彼はセシルと呼ばれた白人にひそかに感謝した。
と、気持の悪いことが起った。肉壁の膨張でわずかばかり押し開けられた両唇の間から、何か細長いものが口の中へはいって来たのだ。しかも蠕動《ぜんどう》していた。生きているのだ。蚯蚓《みみず》か蛭《ひる》のような長虫らしかった。それが麻痺した舌の上を伝わって咽喉《のど》からそろそろと食道のほうにはいってゆく。何という気味悪さ!
読者諸君には説明するまでもない。これはエンジン虫の幼虫であった。胃にはいり、幽門に取りついて急速に尾部《しっぽ》を成長させてゆく。ヤプーの赤ん坊に生後すぐ呑ませた時で十時間、成人ヤプーでは百時間が尾部の成長に費やされるはずであった。……あと百時間のうちにはいろいろなことが起ることだろうが……。
今度は肛門に何か挿入されるのを感じた。「また虫か?」と思ったが、今度はそうでなく細長い管らしかった。浣腸だろうか? ただの浣腸器《クリスター》にしてはひどく長いようだ。腸内奥深くはいってゆく。これが腸内注入管《エネマ》と称ばれるヤプー用の投薬具であった。「神薬《パナシア》以外は腸内注入するのがヤプーへの投薬の原則である。
腹腔に何か温かいものがあふれるような感じがし、「何を浣腸したのか?」と怪しむ間もなく、体中がほてり出した。弾力的にピタリと全身の皮膚に密着してた肉質金属の温度がだんだん上昇してきたのであった。体温をとうに越し、摂氏四十度以上五十度にも達したろうか。カッカッと脂汗がにじみ出て、それは肉質金属に吸われてゆくのである。
――いったい何事だ? この黒人たちはあの白人から、俺を保温器に入れて温めてやれ、尿を取ってやれ、と命ぜられたのに違いない。この箱がその保温器なのだ。ところが、奴らは俺に抵抗力のないのをいいことに、玩具にして、気味の悪い虫を呑ませたり、悪戯の浣腸をしたり、こんな高熱を加えたりして俺を苦しめてるんだ。でたらめな黒人たち! さっきのあの親切な白人よ、あんたの命令を黒人は守ってませんよ! クララ、僕のこの苦しみを知ってるか! 救けてくれ! なんでこんな無意味な拷問を僕は受けねばならないんだ。
真っ赤にうだりながら、麟一郎は心に絶叫した。クララを呼び求めた。
だが、答えはなしに、温度はかえって上昇してゆくのだった。もう摂氏何度かわからない。心臓が破裂しないのが不思議だった。腹腔への液体の注入も依然続いていることが感じでわかった。
窯の外では黒奴二名が忙しく作業していた。麟一郎には無意味な拷問と思えたが、実は拷問でも無意味でもなかった。彼らは決して悪戯をしていたのでもない。「新捕獲の土着ヤプー一匹が船倉に入れた円盤の操縦室にいる。麻痺体。直ちに受領して処置せよ」という召使頭から命令を受けて後、獲物置場《ゲイム・シェッド》係の黒奴《ネグロ》として為慣《しな》れた作業をしているだけであった。まず窯に入れ、導尿処置をし、エンジン虫を呑ませ、次に皮膚強化処置《デルマタイジング》の最中なのである。
皮膚強化処置とは何か? これこそエンジン虫寄生と並んで、ヤプー化に必須の手続きである。ヤプーは完全裸体でいなければならない。しかし服を着慣れていた土着ヤプーを裸にして放置すれば、肺炎になってしまう。そこで、飼育所《ヤプーナリー》では生後直ちに施行されることになっている皮膚強化処置が、土着ヤプーにも捕獲後可及的速やかに施されて、裸のまま気温の激変に耐えられるようにするのである。
これは高熱により非常な苦痛を伴うのだが、この処置は、ヤプーを使用する人間にとって必要にして有益であり、その限り、それがヤプーたちにとって苦痛を伴うかどうかは問題にされない。犬の姿をよくするためその苦痛にかまわず耳をそぎ落してピンと立たせるのと同じ論理である。その際不必要な加害は動物愛護の精神に反するが、人間に有用ならしめるために必要な限りの加害は許される。動物はそのための苦痛を忍ぶべきなのだ。
では、この窯内の高熱は必要なのか? 然り、必要であった。
これを説明するためには血液媒剤《コサンギニン》(cosanguinin)という酵素のことを述べねばならない。人体の生理を支配する酵素の秘密を解明して、任意に何でも合成しうるようになったイース生体化学の成果中でも、酒精転化素《アルコリノゾリゲン》(第六章2「三色摂食連鎖機構」参照)と並んでこれは利用価値の特に高いものである。血液中の異常成分はすべて肝臓で吸収されてしまうのが人体の生理であるが、このコサンギニンを加えると、異常成分は肝臓で吸収されなくなる。一方、皮膚表面を強く熱して脂汗を流させると、毛細管現象が平温の時とは変化してきてコサンギニンに媒介された異常成分を皮膚細胞に定着させる作用を営むようになるのである。
これは非常に応用の広い現象で、各種色素を与えた定着温度を調節することで、生体表面の細胞を自由に染め分けることができ、|電 気 焼 筆《ブランディング・ペン》はこの原理にもとづいて発明されたものだし、海底や、気圧の異なる遊星大気内で作業させるための鉄皮畜人《アイアン・クラッド》も、生体のまま皮膚細胞を特殊金属化して作られるのだ。……が、この種の血液媒剤《コサンギニン》の利用の詳細は、後日クララが皮革工場を視察する日まで保留し、ここでは麟一郎の受けている処置の説明だけにとどめよう。
彼の腸内に注入されているのは皮膚強化剤《デルマトローム》を血液媒剤《コサンギニン》に溶かした薬液であった。ヤプーの皮膚から精製する有機化合物に|皮 膚 素《キューティニアム》というものがある。これを陽イオンで処理して繊維にした皮膚繊維《デルマトコン》は断熱性に富み、服地強化用原料として重用されるが、逆に陰イオンで処理すると細胞膜を冷熱に対して強くする皮膚強化剤《デルマトローム》になる。定着熱度摂氏八十度で約四十分かけてこれを皮膚細胞に沈殿付着させると、ちょうど皮膚繊維混織の衣服を皮膚の内部に着込んだようになって、極暑・極寒に耐えられるようになる。表皮の汗腺も全部閉塞されてしまう。発汗性と断熱性に変化が生じるのみで、肌色、肌触り、触覚能力等には何の影響もないが、皮膚繊維にだけは(イオン処理が反対なので)陰陽相引く反応を示し、長く皮膚繊維布地に触れると皮膚剥離を生じる。ところが『イース』では服地にはすべて皮膚繊維を混織してあるから、デルマトロームによる皮膚強化処置を受けたら、もう服を着ることはできない体になってしまうわけだ。そこで、この処置は、どんな衣服も着る必要のない動物であるヤプーに対してなされるにとどまり、白人、黒奴には施されないことになっていた。
とまれ、麟一郎は今その処置を受けていたのだ。温度計の針は摂氏八十度で止った。あと四十分、この航時快速船が二千年後の地球面に到着する直前まで、彼はこの棺桶形の窯――それはまさに古い瀬部麟一郎を葬る棺桶だった――内で身を焼かれねばならないのである。腸内ではエンジン虫の尾部が伸び始めたことだろう。
2霊液《ソーマ》と矮人《ピグミー》
円筒船最底部で麟一郎が、苦悩のあまり声なき悲鳴をあげてクララに呼びかけていたころ、最上階の応接用大広間ではクララが愉快に談笑していた。壁には抽象派の| 画 《タプロー》が掲げられ、すみには不思議な大輪の花を咲かせた鉢植の木があり、花の異香は彼女の鼻を快く刺激した。その枝には丸い鳥籠がかかり、紫と黄との混った派手な模様の羽色をした鸚鵡《おうむ》が首をかしげつつ、動かぬ目で彼女を見ていた。奥の壁に掛っている電畜からは妙なる器楽の音、ドイツ生れで音楽の素養の深いクララも初めて耳にする美しい交響曲だった。
五人は丸く輪になって腰をおろしていた。犬のニューマはポーリンの足元に長々と横たわっていた。初め異様に感じた男たちの派手な服も、慣れれば龍騎兵の制服の赤いのと同じで、ちっともおかしくなく、そういうものとして美しかった。
案じていたような気づまりはなかった。ポーリンは主人役《ホステス》として気を配っていることはもちろんだし、率直明朗なドリスは、年齢《とし》も同じくらいのクララと大いに意気投合して、自分から、「貴女とは古くからのお知合いみたいな気がするわ。貴女は貴族よ。一目見てわかったわ。私たちもクララ[#「クララ」に傍点]で呼ぶんだから、貴女も名で呼んでちょうだい――ねえみんな、それでいいわね」
といい出したくらいの打ち解け方だった。セシルは古代史通をもって任じるだけに、二〇世紀球面に放浪したというクララには特に関心と好意を持っていたようだし、ウィリアムに至っては、明らかに好意以上のものを彼女に示し始めてひどく親切だった。さっき船倉を出てこちらに上って来る途中、廊下で船倉のほうに行く二人の黒奴に出会い、彼らが土下座して一行を避けるのに答礼しようとした時に、手を組んでいた彼がぐっとクララを引きとめた。そして人間が半人間に答礼する必要はないことを彼女に思い出させて[#「思い出させて」に傍点]くれた。無知からするそんな妙な言動のたびに、彼女は矯正され、記憶を回復する[#「記憶を回復する」に傍点]のだった。
――知識のうえではこの人たちとの間に二千年の隔たりがあるわけだけど、まるで親友の家庭に招かれたようなくつろいだ気分でいられる――、
クララはそう思った。
声をかけずに来てしまったのが気がかりになっていた麟一郎のことも、もう服を着せられて寝かされているに違いないと考えて、無理にも安心した後は念頭から去ってしまっていた。代ってウィリアムの男性的魅力がしだいに彼女の心を領し始めていた。
彼女は円盤の墜落を見、中にポーリンを発見した顛末を話したが、意識的にか無意識的にか、彼女一人の行動を述べ、麟一郎の名に触れなかったから、聞くほうには、ポーリンを正気づけたのも彼女であるように聞えたことだろう。セシルは二〇世紀球面での彼女の生活や、記憶喪失の原因になった事故について聞きたがったが、ポーリンが、
「クララは、まだそれを話すことができるほど気が落ら着いていないわ。記憶が回復してから、彼女が充分自分を客観視できるようになってから聞くほうがいいんじゃない?」
と押し留め、ウィリアムもさからわずに、
「そう。それより、クララの|生国の遊星《ボーン・プラニト》を捜すのが先決だよ。僕、捜しますよ、クララ」
と真剣な顔でいうのだった。
「ありがとう。皆様のお力添えで生国星に帰れましたらどんなにうれしいでしょう。地球での事故のことは今全然お答えできませんの。放浪中のことは話せます。いずれ詳しくお話しする機会が来ると思いますけど、今は疲れてますから……」
クララがそういうと、ポーリンは、
「霊液《ソーマ》(soma)を飲みましょう。体力とともに記憶のほうも回復するでしょうよ」とドリスに合図した。
ドリスが心得て、腕送話器《リスト・マイク》にささやいた。
「ソーマを持っといで」
配膳盆をささげた召使いがはいって来た。麟一郎を処置している黒奴と胸の数字が違う以外はまったく同様の形姿《なりかたち》である。これは胸番号2番だった。と、交響曲の快い響きを破って、突然、横から、
「ソーマ、ソーマ、ソーマ、の、じかん、です、ソーマ」、金切声がクララの耳を驚かした。鸚鵡だった。
ソーマ、とは何かしら? 飲物らしいが? ――と思った時、どこからかひとりでに一台の丸形|茶卓《テーブル》がすべるように動いて来て、丸く坐していた五人の中央にピタリと静止した。卓の中央にマッチ棒ほど細く鉛筆ほど長い棒が立ち、それを右手で槓桿《レバー》状に握り、左手では背中にかついだ大きな袋の口を押えた高さ十四センチほどの人形がその横に立っていた。卓上装飾用のサンタクロースだ。白い顎鬚は植えたのだろうか。赤い三角帽子、赤い外套、白毛皮の縁取り、そして黒い長靴、このままの寸法で全体を十二倍ほどもしたら、まるで本物ではないか。
召使いが卓上に五つの空コップを配った。
するとサンタ人形は、右手に握っていた棒を放してつと前に進み出て来た。動作に少しも人形らしいぎこちなさがなかった。何という精巧な自動人形だろう、とクララは感服した。
「妾は二つ、お客様には三つがいいわ」
とポーリンがいった。人形は白鬚を揺るがせつつ一礼すると、背中に背負った白い袋から丸い錠剤を取り出し、二人のコップにその数だけ入れた。
「妾二つ」とドリス。
「僕も」とセシル。
「僕は要らない」とウィリアム。
コーヒーに入れる角砂糖みたいに各人の好みによるらしい。人形はいちいちお辞儀して、注文の粒数だけをコップに入れてゆく。待っていたように召使いがポットを傾けて、湯気の立つ緑色の液体を注いだ。馥郁《ふくいく》たる香気が部屋一面に漂った。
「ソーマのこと、思い出しましたか? 汗の匂いをよくするために誰でも飲むでしょう」、ウィリアムは一口二口すすりながら、「別名を|人類愛の蜜《ヒュマニティ・ハニー》というやつです。……ミトガルド星の巨樹イグドラジルに年に一度数万の花が開く時、空中矮人《エアロ・ピグミーズ》達に花の蜜を集めさせて……ああ、記憶がもどったようですね。で、お好きですか?」
「ドレイパア郎《オス》が心配してるわけはね、クララ」、ポーリンが笑いながらいった。「彼は貴女の生国星を捜しに、貴女といっしょにイース中回るつもりでいるからよ。彼はソーマなしでは一日も暮せない男なの。だから、貴女がこれを嫌い[#「嫌い」に傍点]といったら、彼は閉口するわけよ。もっとも好き[#「好き」に傍点]といったら、旅行中一日に五度も付き合って飲まされる覚悟でなきゃア……」
クララは、こわごわ一口すすってから、ぐっと飲み干した。西独が連合軍に占領された当時、米国からはいって来て飲んでなじみになったコカ・コーラにちょっと似ていて、はるかに微妙な縹緲《ひょうびょう》たる趣《おもむき》のある味だった。
「飲んでみて、はっきり思い出しましたわ、ソーマの味。妾、好き[#「好き」に傍点]でしたし、今飲んでみて懐かしくて……今でも好き[#「好き」に傍点]よ」
そばの美青年を顧みて微笑みながら彼女はいった。
「ソーマに祝福あれ、貴女にも」
目を細くしてウィリアムは叫んだ。
「二〇世紀人ならコカ・コーラに似ているといったでしょう」
今度はセシルのほうを見て、クララはいった。
「コカコーラ?」、他の人にはわからなかったが、
「そう、前史時代末期に、コカ・コーラという飲物が流行《はや》ったのでしたね。私は文献で知ってるのですが、貴女が放浪中それを味わわれたとは貴重な経験でした。そうですか? ソーマに似てますか?……」
セシルは古代史の知識をひけらかす機会を喜ぶように、
「しかし、コカ・コーラはソーマほど日常生活にはいってないんじゃないですか? 味の点を離れていえば、ココアとかコーヒーとか紅茶《ティー》とかのほうに近いんじゃないかな? |お茶の時間《ティー・タイム》という言葉がソーマの時間《タイム》という言葉に取って代られたと国語学者はいってますからね」
「おっしゃるとおりですわ。それで妾は、ソーマがどんなに日常的な飲物だったかを、やっと思い出しました」、苦しい返事だった。
この時卓上の人形が少し動いて、鎖が揺れた。
「この人形はずいぶん精巧な機械仕掛《メカニズム》ですのね」
皆が妙な表情をしたのに気がついて、また何か間違ったのかしら、と思った時、ウィリアムの陽に焼けた手が人形を鷲《わし》づかみにし、彼女の目の前に持って来て、掌を開いた。
「機械じゃありませんよ。(|薬味)袋持ち《バッグ・ボーター》とか薬味《スパイス》サンタとかいう食卓矮人《テーブル・ピグミー》の一種ですよ。ソーマを飲む時|薬味《スパイス》錠を入れるのに使う道具です。思い出しませんか?」
白い大きな掌の上で、赤く塗られた人形は立ち上って向き直ると最敬礼をした。その動作、白い顎鬚と目尻や額の皺との見事な調和からかもし出される豊かな表情……人形にしては精巧すぎる、生きているのだ、小人なのだ。これを食卓矮人《テーブル・ピグミー》というのか? さっきは空中矮人《エアロ・ピグミー》という言葉を聞いた。その時は蜜蜂のようなものかと思っていたのだが、こういう小人を pigmy と称《よ》ぶのだろうか? 『ガリヴァー旅行記』に出て来る小人島《リリパット》の住人たちと同じような人間の縮小体《ミニチュア》……二千年後の世界には何と空想的な生物がいることだろう。この人たちがそこから来たという遠いシリウスの世界には、こんな小人が住む星があるのだろうか?
「ええ、だんだん思い出して来ましたわ。矮人《ピグミー》……他にもいろいろ使うんじゃなくて?」とハッタリでクララがいうと、「もちろん、矮人《ピグミー》たちの用途は無限ですよ」
ウィリアムの声を聞きながら、このサンタクロースの扮装《なり》をした小人の鬚のある立派な顔の肌色が黄色味を帯びていることにクララは気づいて、ふと心を曇らせた。美青年の手が小人を卓上に戻すと、彼はチョコチョコと中央の棒のところに走り寄った。と、丸形茶卓はひとりでに――いや、槓桿《レバー》を握った小人に操縦されながら、走り去って行くのだった。
「ここにもいてよ」、ポーリンが鸚鵡の籠を下げて来てクララに見せた。「これは鳥籠奴隷《ケイジ・スレイブ》っていうの、今雌しか見えないけど」
鳥籠の底はたいてい汚ならしいものだが、これはピカピカに光っていた。籠の底に鳥の羽色に合わせたらしい紫と黄とに塗り分けた、中世騎士の甲冑《かっちゅう》のようなものを着込んだ同じ大きさの小人が見えた。ままごと[#「ままごと」に傍点]の匙《さじ》くらいのシャベルで、今しがた鳥のお尻から落ちた柔らかな糞《ふん》をすくって横の穴に入れ、掃除をしていた。籠の底が二重になっているらしい。鳥の糞といってもこの小人にとってはちょっとした一《ひと》堆積《やま》で、大作業だった。……と底のすみに別の穴があき、同じなり[#「なり」に傍点]の雄がもう一匹出て来て撥釣瓶《はねつるべ》のような仕掛を使って、下の蛇口から出る水を桶に入れ、うんうん力《りき》みつつ引き揚げて、上方の水飲器を満たし始めた。
「雌雄《めおと》でこの鸚鵡に仕えている奴隷だけれど」、その鸚鵡の飼主が説明した。「主人《あるじ》が気が荒くて、いつ| 嘴 《くちばし》や爪でやられるかわからないので、甲冑をはずせるのは自分の巣に戻った時だけなのよ。どう、思い出すでしょ?」
鳥糞を落す二重底の中に巣を営んで、主人たる鸚鵡に隷属しつつその身辺の世話をする鳥籠の奴隷……仕事振りからは知性を備えた人間の縮小体《ミニチュア》に違いないが、それをこんなところでこんな風に飼うとは……。
「あの植木鉢にも付属の奴隷が住んでますよ。|花 矮 人《フラワー・ピグミー》といいましてね」とセシルがつけ加えた。
クララは度胆を抜かれて、返事の声も出なかったが、その驚きを面白がるかのように、ドリスは、長靴の胴から抜き持った|天 馬 鞭《ペガサス・ウイップ》で、今しも第三楽章にかかった交響曲の美しく流れ出す壁の電畜を指し示しながらいった。
「あの携帯用管弦楽団《ポータブル・オーケストラ》だって、そうなのよ」
「あの電畜――ラジオかしら……」
「まあ、ラジオだと思ってたの」
とドリスは笑って、いつの間にか例の腕送話器《リスト・マイク》を使っていたらしく、ちょうどこの時、腕力の強そうな召使いが入って来たのに命じて、その箱を下ろさせ、クララの前に持って来て開かせた。大型のトランクに似て取手が付いていた。蓋が開かれ……、
「ほら、|小 伶 人 達《リツル・ミュジシャンズ》」
「あらッ!」
驚く様を見せまいとしていた彼女も、思わず大声をあげて、また一座を微笑ませた。電畜でもラジオでもなかった。箱の中には、礼服を着た小人の楽人五十人くらいがそれぞれ席につき、楽器を持ち、指揮者のタクトに従って整然と演奏をしていたのだ。天井蓋が開いて五人の顔が上からのぞいたのにも、わき見一つしない真剣さだった。トランクの中に詰った小人たちの管弦楽団……。
「どう? 思い出した?」、ドリスはクララに目で笑いかけながら鞭の手真似で召使いにそれを元通りにさせた。蓋が閉じられ、黒奴《ボーイ》の太い手が取手を握って箱は横にぶらさげられる。思わず、
「あッ、横にしていいのかしら」
中の小人たちが下のほうにずり落ち押しつぶされはしないかと心配したのだが、
「底に|引 力 板《グラヴィ・ボード》が張ってありましてね、どう傾《かし》いでも平気なんです」、横からウィリアムが説明してくれた。「この船だってそうです。宇宙船は皆床に引力板を使っているのです」
「そうでしたわね。|引 力 板《グラヴィ・ボード》という言葉に記憶《おぼえ》がありますわ」とクララは苦しい受け止め方をした。
「矮人《ピグミー》のこと思い出した、すっかり?」とポーリン。変なこといい出される前に説明するつもりらしい。
「多少は。でも彼らがどこの星で生れたのか伺いたいわ、そんな小人島《リリパット》のような星が……」
「まあ、思い出したじゃない。|釣  堀《フィッシング・ポンド》の本当の名前を。その調子」とドリスが喜んだ。
「そう、矮人族《ピグミーズ》の最大生産地は小人島《リリパット》の牧場よ。ほんとによく思い出したわね」
星の各と『ガリヴァー旅行記』との関|係《*》を知らないポーリンは、クララがイース人でないとわかっているだけに、どうしてわかったかとこの的中が不思議だったが、これ幸いと語を継いで、
「|矮 人 牧 場《ピグミー・パスチュア》というだけなら外にも星はあるけど、小人島には|野 生 矮 人《ワイルド・ピグミー》がいる。貴女が覚えてたのは、きっと前にそこで矮人釣をしたことがあったのね」
「クララが貴族だということは、今や一点の疑いもないね」とウィリアムはうれしそうだった。
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*『ガリヴァー旅行記』の著者ジョナサン・スイフト(1667〜1745)は、航時旅行者からイース文明のことを聞きかじっていたらしい。小人国『リリパット』、飛行島『ラピュータ』、畜人ヤフー(yahoo)など、いずれもそれを推測させる。スイフトが、火星の二衛星発見に先立つ百年前にこの二衛星のことを詳しく知っていたことは今も謎とされているが、実は未来人からその知識を得たのであろう。
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「この小ささは何から?」とクララが訊くと、
「|縮  小《ディミニッシュト》ヤプーが変種として固定したものですね」
「|縮  小《ディミニッシュト》……元は人間なのが、縮んだ……」
「人間じゃありませんよ、全然――」
「あら、妾、元はヤプーなのが≠チていうつもりだったの……ヤプーが縮んだんだったわね」
「そうです、十二分の一に」
縮んだ[#「縮んだ」に傍点]ということのほうに気を取られて、クララは無心に訂正したが、いつの間にか人間とは別のヤプーという動物の存在を認めてしゃべっているのを自分では意識しなかった。
「そうだ」、ドレイパア青年は何を思ったか、急に顔を輝かせてドリスに向うと、「さっきのこと、矮人《ピグミー》に決めさせよう」
「いいわ」とドリス。
「いったい何のこと? 何を決めさせるの?」
とポーリンが訊くと、青年は赤くなって、
「いえね、アベルデーンで、貴女の次にクララ嬢《さん》の|歓 迎 招 宴《ウェルカム・パーティ》をする役を僕とドリスで取り合っているんですよ」
「矮人決闘《ピグミー・デュエル》で決めるのなら、生き残ったほうをクララに贈物《プレゼント》するわ」
未来のジャンセン家当主として、母に次ぐ処分権を持つポーリンがいった。
「僕の選んだのが残ったら、僕はこのごろ手に入れた珍品を持参金代りにその矮人に持たせよう――置物の船だけど」
「妾のが勝ったら」とドリスが負けずにいった。「妾の厩《うまや》の中で、好きな馬を一匹クララに選ばせるわ」
「旧馬《エクウス》に乗っていたクララに畜人馬《ヤップ・ホース》を思い出させるには絶好の思いつきね」とポーリンが応じた。
「僕も何か贈物《プレゼント》を考えなくちゃ」
金色の編髪を揺すりつつ、ドレイパア伯爵夫君がいった。
3矮人種の歴史と現状
千六百年ほど前、シリウス圏が征服され、テラ・ノヴァ星のトライゴンからカルー星のアベルデーンへと大遷都が行なわれたころ、前後して畜人制度《ヤプー・フッド》完成期の三大発明の一つといわれる生体縮小機《ディミニッシング・マシン》が案出された。
完全気密の吊鐘状水晶瓶《クリスタル・ベル》(今では水晶服という便利なものもあるが)の中に動物を入れてから水晶発振機を動かし、特殊の放射線を注ぐと鐘《ベル》が縮み、それにつれて中の動物も縮む。しかも生体各細胞の分子が一定の割合で体外に呼気になって排出されてゆくので、縮小された動物には元の個体性が維持されている一方、この呼気を他の個体の呼気と分離して保存しておけば(換言すれば、機密鐘を壊しさえせねば)、逆装置によってもう一度原形に復させることも可能なのであった。こうして生体を任意の寸法に可逆的に縮小しうるに至ったのだ。
これは遷都後の輸送業務にとっては大福音と思われた。つまり多人数を輸送する際はいったん縮小、到着後復元してやればいいのだ。
すぐ人間には試みず、まずヤプーについて試験してみたところ、縮小中は、わずかだが宇宙線疾患羅病率が増加することがわかったので、結局人間への使用は中止された(もっとも、後章で述べるように、後に白人にも縮小刑というものが制定された)が、この疾患による損失《ロス》を見込んでも、輸送能率向上から経済的に採算は取れたから、黒奴とヤプーがもっぱら縮小機にかけられた。しかし二分の一以上の縮小率だと雄の生殖能力が消失することが証明された結果、黒奴縮小率は二分の一止りと定められた。(ただし黒奴が半人間《デミ・ウマン》といわれるのがこれにもとづくというのは俗説である)
ヤプーに対しては黒奴と違ってまったく人権的な顧慮の必要がないから、積載数を少しでも増そうと縮小率はしだいに高められたが、|十二分の一《トゥエルブス》以上になると知能が著しく減退することがわかったので、十二分の一というのが限界の縮小率となった。これによって輸送能力は実に十二の三乗、すなわち千七百二十八倍することになったのである。
ところが、こうしていろいろの縮小率を変えて縮小ヤプーを輸送していると、おもしろい事実がわかってきた。縮小されている間は縮小率に応じて時間の経過が加速されるらしいのである。三分の一物にとっては普通の四ヵ月が一年にあたる。十二分の一物は一ヵ月に一年分を年取る。肉体と同時に人生も縮小されるのだ。
この性質を利用して、生体縮小機は生長促進機として応用されるに至った。たとえば畜人犬《ヤップ・ドッグ》は(第二章既述のとおり)短脚ヤプーを天井の低い室《へや》に入れて生後二ヵ年飼育し、その間基礎訓練として四つん這いの癖をつけたものであるが、それを十二分の一形態で飼えば(鐘を天井の低い特殊な形のものにする必要はあるが)二ヵ月に短縮でき、二ヵ月後に逆装置に掛ければ繁殖力こそないが立派な二歳仔として以後の訓練に耐えるのである。
こうして縮小機は広く使用されるに至ったが、輸送中の事故で鐘が割れ、中の呼気が散逸したため、到着先で原形に戻せず、仕方なく植民星人の玩具とされた縮小ヤプーが、偶然本国貴族の目に触れ、その頽廃した猟奇趣味に投じて「生きた人形」として珍重されたことから、それまでは輸送や生長促進のための一時的手段に過ぎなかった縮小形態は、一転して自己目的として存在を主張するに至り、呼気を保存せずに初めから人形用として生産された|縮  小《ディミニッシュト》ヤプーが出現するに至った。
玩具としての恒常的需要が生じると、いちいち縮小機に掛けずに済むよう、縮小ヤプー自体の再生産が要求されてくるのは自然の成行きである。しかし前記のように、性能力は二分の一形態までしか維持できないので、玩具向きの小型のものについては当初再生産は不能だった。
ところが、縮小機の発明後ほとんど五世紀を経て後、ついに生殖能力を持つ十二分の一縮小ヤプーが発見されたのである。
ヤプーの中に純血種《サラブレッド》と称せられる血統があった。地球征服者マック将軍は、旧ヤプー首長一族を捕虜としてテラ・ノヴァなる「トライゴンの宮廷」にもたらし帰って王に献じ、爾来彼らは宮廷用として王室飼育所《ローヤル・ヤプーナリー》で繁殖させられ、性能の優秀な純血種《サラブレッド》ヤプーとなった。
ヘレン三世が王女クリスチーナの十二歳の誕生祝いに、十二分の一縮小ヤプー二百匹を「生きた玩具の兵隊」にして、「矮人中隊《ピグミー・カンパニー》」と名づけて贈物《プレゼント》した時も、もちろんこのサラブレッドを材料にしたのだが、そのうち隊員中に性能力を維持し続けている者が一匹発見された。突然変異であったろうが、サラブレッドからこれが生れたのは偶然とはいえまい。これはアダムと名づけられた。
彼は、性能力の続く限り、毎日何回でも雌の縮小ヤプーを相手に子孫を作らされた。彼の相手はイヴ一号とか百号とかイヴ号数で呼ばれたが、イヴ同士は母娘《おやこ》直系が多かった。つまり彼は変種作出のため、娘、孫娘、曽孫娘等と戻《れい》交配を強制されていたわけだ。かくてアダムの後に残された一群の小人族はヤプーの一大変種として公認されたが、これを矮人《ピグミー》種と称ぶのはクリスチーナ王女の玩具の兵隊「矮人中隊」にちなんだ命名であった。(正式学名は「小畜人《ヤペット》」 yappet)
彼らは二十四日で母胎を離れ、一年半で成熟し、六歳まで繁殖し十年で老衰死する。肉体的にはあらゆる点で十二分の一になっていたが、知能その他の精神的能力は普通のヤプーと少しも異ならない立派な知性動物だった。
矮人種の作出はヤプー文化史に一時期《エポック》を画した。始祖アダム、イヴからの系統図がわかっているうえ、世代の交代が早いので遺伝学・優生学・育種学の実験用動物としては最適であった。しかも肉体は人体の完全な縮小体《ミニチュア》である。医学・生理学・病理学でのモルモット代用としても手軽で、結果が早く出る等、原《ロー》ヤプーを使うよりずっと便利な点が少なくない。……が、歴史的に見れば、いちばん大きな収穫はその機械工学的利用にあった。読心能矮人《テレパシック・ピグミー》は命令脳波エネルギーが少しでも(つまりOQの低い平民でも)動かせる。それで、これを機械の要所要所に生体家具化して備えつけた完全自動装置が生産[#「生産」に傍点](これは平民の仕事である)過程に使用されることになった。有魂計算機《ヤパマトロン》を代表とする、いわゆる有魂機械《ソウルド・マシン》こそは第三次|機械自動化《オートメーション》による第五次産業革命の基礎となったものである。巨大なビルのような体積を誇っていた人工頭脳が、これにより一挙に千分の一の大きさになった有様は、二〇世紀人の読者に対しては、真空管ラジオがゲルマニウム・トランジスターの使用によって小型化したことに比喩するのがいちばんわかりやすいであろう。とにかく、矮人《ピグミー》種は読心装置《テレパシー》と結合することによって、真に革命的な意義をになうことになったのだった。
しかし、こればかりではない。いちいち縮小機に掛けて生産された時代には、高価な贅沢品としての「生きた玩具」でしかなかったものが、小人島の大牧|場《*》で量産されるようになると、広範な実用的用途が開けてきた。
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* 大気が希薄なため、人間には住めぬような屋でも、矮人は呼吸量が少ないので生存できる。そこで、そういう遊星の一つ(リゲル圏第六遊星)が矮人飼育用に選ばれ、人間は気密円頂閣《ドーム》に住みながら、外に屋外飼育場《オープン・ファーム》を施設して矮人族を収容・飼育・繁殖させることになった。これが矮人牧場《ピグミー・パスチュア》である。
牧場に事故があって、放牧中の一部矮人が逸出したことがあり、いつか囲障外で食をあさりつつ野生化した連中が多数群がり住むに至って、小人島《リリパット》の称を生んだ。生態学的研究《エコロジック・スタディ》の宝庫といわれるこの星を、イース貴族たちは|釣  堀《フィッシング・ポンド》とも称《よ》ぶ。人間の住めぬ大気層だから、気密帽《ヘルメット》や|宇 宙 服《スペース・スーツ》を着けねばならぬ点で海底にもぐるのに似ているので、|野 生 矮 人《ワイルド・ピグミー》の捕獲は| 猟 《ハンチング》でなく| 釣 《フィッシング》といわれたのである。|矮 人 釣《ピグミー・フィッシング》は貴族以外味わえぬ楽しい消閑《あそび》の一つだった。さてこそクララは貴族に違いないとの信用をかち得たのもここにあった。
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客間でクララが見聞した食卓矮人《テーブル・ピグミー》(薬味サンタはその一種にすぎない)、鳥籠奴隷《ケイジ・スレイブ》、|花 矮 人《フラワー・ピグミー》など、いずれも従来の生体家具では用をなさなかった微小領域を矮人利用化《ピグマイゼーション》によって新たに活性化したもので、この類《たぐ》いの応用はほとんど無限だった。机矮人《デスク・ピグミー》(机上の文房具の運搬操作に使役される)、香水瓶童子《パーフュム・ボーイ》(鏡台の引出に住み、常に香水|瓶《びん》を背負っており、主人の意に応じ香水を吹きかける)、浴槽矮人隊《バスタブ・ピグミーズ》(潜水兜《ヘルメット》をかぶり、十二匹一組で、浴槽に安臥《あんが》している主人の体《からだ》を湯の中にもぐって行って洗う)、|足 裏 布 団《プランター・クッション》(絹皮化し、四肢《しし》を切断した矮人の胴体を、|足裏の土踏まず《プランター・アーチ》のクッションとして横にして靴底《くつぞこ》に入れたもの。アーチ・サポートとか|靴 底 矮 人《インソウル・ピグミー》ともいう。絶え間ない圧迫のため、普通の十分の一の、一年ぐらいしか平均寿命がない消耗品だが、使う側からいえば、弾力ある踏み心地《ごこち》の良さは格別で、歩き疲れがないうえ、足裏の脂《あぶら》を吸い取らせるので足の美容にもよい。イース貴族の靴にはたいてい入れてある)、肉襁褓《ディアプー》(diapoo < diaper + yapoo 生理極小畜《メンス・ミゼット》と同じく、全身表面に海綿状皮膚癌《スポンジ・カンクロイド》を有し、汚血・汚液を吸着する性質があるので、股間《こかん》衛生維持のため愛用される)、検定小畜《テスト・ヤペット》(モルモットの代りに薬品の検定に用いられる。|検 尿 矮 人《ユーリナリ・ピグミー》はこの一種)等々……。さらにソーマ原液を、花から花に集めたりする空中矮人《エアロ・ピグミー》(超小型空中車に、下肢を切断した矮人を生体|糊《のり》で接着固定したもの。用途広し)に至っては、従来のヤプー利用では到底考えることもできなかった微小作業を、蜜蜂《みつばち》や蜂鳥と同じようにやってのけるのだ。
機械有魂化の方向も進歩は著しく、有魂計算機《ヤパマトロン》(電子人工頭脳にIQ一九〇以上の矮人数人を配したもの。普通の人工頭脳は命令をテープ化して与えねばならないが、これにはその必要がない。また種々の故障も修理する)、黒奴監督機《ネグロ・コントローラー》(後述の、黒奴の日記報告《デイリー・レポート》を照合する機械で、やはり人工頭脳を用いるが矮人が付属している)、有罪度算出計《ギルティカル・クレーター》(証拠機械《エビデンス・マシン》ともいう。裁判官としての特別教育を受けた矮人百人を組み合せて一つの裁判用補助具としたもの。証言を聞いて真偽を判断し、ランプで表示する。百灯あるので、有罪度が百分率で示されるのである)、神託機《オラクラタ》(「|女王の予言者《クインズ・プロフェト》」ともいわれる。最大の有魂計算機と、それぞれ専門を持つ一万人の矮人を組み合せ、何を聞いても答えられるようにした大きな機械で、立法諮問用として女王専用である)等の高度のものが誕生している。(平民が生産に従事し、貴族は政治や司法を行なうのがイース白人間での職分であるが、その後者は、このような有魂機械によって代理される部分が大きいので、貴族は安逸にふけりつつ、しかも、正しい裁判、すぐれた政治を行なうことができるのである)
この際、原種ヤプーに比べて矮人《ピグミー》の長所だったのは世代交代の早いことから優生交配による品種改良が急速に行なわれ得たことである。たとえば、さっき、ウィリアムが賭けた「置物の船」とは、「生きた七福神を乗せた宝船」なのであった。布袋《ほてい》の大きな腹、福禄寿の長い頭、皆そっくりそのままの形で、しかも生きているのだ。すべて育種的に作出した奇形矮人なのである。たとえば福禄寿の長い尖《とん》がり帽子のような頭部にしても、放射線で突然変異させた奇形矮人中から尖頭児を選んで交配し、変種を確立したものだ。染色体手術法の発明前に、こうして原矮人からは続々珍奇な変種が作られた。肉体だけではなく、たとえば音楽の天才をやはり交配によって純血血統として確立するのも何でもない。この血統の|小 伶 人《リツル・ミュジシャン》を特に一年間(人間の十二年にあたる)訓練し、一人前に仕込んでから、超小型ピアノに付属させて自動演奏具《オルゴール》の中に仕込んだり、一組にしてトランクに入れ携帯用管弦楽団を作ったりするわけだ。これらは、高級玩具として、先に列記した実用具とはまた別に、広い需要を呼び起した。玩具だからといってバカにすると間違いで、現にトランクの中に住む五十人のどの一人でも、二〇世紀の地球世界なら大演奏家として通用するに違いない天才たちなのだ。楽器は小さくても性能がよいから、そのままの形でも二〇世紀人の演奏家にひけをとるまい。
音楽に限らず何か特技を持たされた矮人が、このようにどしどし生産される。その特技として武術を選ばされたものが後節に紹介しようとする小決闘士《グラジャトーレット》であった。|決 闘 士《グラジャトール》には原《ロー》ヤプーをそのまま転用しうる関係で、畜人決闘《ヤプー・デュエル》は古来からイース人士の愛好する娯楽だったのだが、これが矮人化《ピグマイズ》されたことにより、矮人決闘《ピグミー・デュエル》というきわめて手軽《ハンディ》な形式で室内遊戯場に持ら込まれるに至り、ことにアングロ・サクソンの伝統で賭博好きな貴族たちは、ちょっとした賭けでも「矮人《ピグミー》に決めさせる」ので、短日月の間に広く普及したのであった。ジャンセン家の財力は、屋敷内ばかりでなく、『氷河』号のような持船の中にまで立派な小決闘士《グラジャトーレット》の組物《セット》を備えているのである。
しかし、あまり横道にそれぬうちに、この程度の予備知識で満足して、われわれはクララや麟一郎のところに戻ってゆくことにしよ|う《*》。
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* 本節では、極小《ミゼット》畜のことには触れなかった。これは知能劣弱化をかまわずに縮小した身長三センチ半の五十分の一物だ。完全な一寸法師である。親指太郎《トムサム》と称ばれる上等のものは主人の頭部諸孔の管理が任務で、眼係(睫毛を刈りそろえ、目糞をとる)、鼻係(鼻毛を刈り鼻糞をとる)、耳係(耳垢をとる)、口係(常務は歯垢の除去。臨時には爪楊子の代りもする)等がある。生理極小畜(メンス・ミゼット)のほか、陰部寄生虫(ピュービック・パラサイト)とか、トンネル・ボーイとか称ばれる下等のものは粘液環境内《トンネル》作業を天職とするが、 vagina-scraper,glans-knocker,semen-drinker など各種がある。しかし矮人のような生殖繁殖能力がなく、いらいち縮小機で作るのだし、複雑な作業もできぬから文化史的意義では矮人種の重要性に及ぶべくもないのである。
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第一〇章 矮人決闘
1小決闘士箪笥《グラジャトーレット・チェスト》
クララは遊戯室中央の黒い箱のわきに立って、これからどんなことが始まるのか、好奇心に胸を躍らせていた。
高さ八十センチ、縦横一メートルほどの四角ながっしりした鉄の大箱。側方は四面とも四段の引出《ひきだし》になっており、上面には縁を十センチほど残して八十センチ四方の試合場《アリーナ》がしつらえられ、周囲に五センチ、十センチほどの高さで綱《ロープ》が張られていた。対角線上に青と白の旗門が立っているのは隅《コーナー》の標示であろうか。引出には BOXING (拳闘)とか FENCING (剣術)とかいった闘技の名称が記されている。競争の当事者になったジャンセン嬢ドリスとドレイパア郎ウィリアムとが骰子《さいころ》を振り合っている間、クララは、好奇心を満たしたい欲望とイース貴族を装ううえでの自重・自制との格闘に苦しんだが、妹から聞かされたとおり、クララはすべての記憶を喪失した人であると信じ込んでいるセシルは、一つにはヤプーについての知識をこの美しい客人に披瀝《ひれき》するうれしさも手伝って、頼まれもしないのにクララに向って説明を始めた。
「この|小 決 闘 士 箪 笥《グラジャトーレット・チェスト》のことを彼ら自身は|引 出 寄 宿 舎《ドロアーズ・ドミトリー》と称《よ》びます。引出十六個のうち四つは素手組《ハヴナッツ》、残りが武器組《ハヴズ》です。素手組はボクシング、レスリング、ジュウドー――この言葉で、クララはふと麟一郎のたくましい体格を思い出した――パンクレイシャム(禁じ手のない力技の一種、ギリシャから伝わる)の四種です。武器組は、剣、槍、棒からローマ決闘風の盾《たて》と刀まで、十二種の凶器《もちもの》で区別され専門化してます。どの引出を選ぶかは骰子の目が決めますが……」
それが決ったらしい。ドリスが OLD YAPOON FENCING (|古 式《オールド》| 畜 人《・ヤプーン》| 風 剣 術《フェンシング》)と標示のある引出を抜いた。横からのぞき込んで、クララはまたまた内心びっくりさせられた。小人《こびと》のアパートなのだ。
引出は三角形だったが、鉱物の標本箱のように縦横に狭い仕切があった。一引出に百ほども区画があろうか。その一つ一つが|個 室《アパートメント》になって小さな家具を備え、中に裸の矮人《ピグミー》が寝たりすわったりしているのである。引き出された引出の連中は天から光が射したので、上を仰ぎ、五人の姿を見ると正坐して両手を合わせて祈祷《きとう》[#表示不能に付き置換え]を唱え始めた。
ドリスはしばらく見渡していたが、
「これにしよう」
といって、鞭を小脇《こわき》にはさむと、右手を伸ばして一人を摘み上げた。彼は胸にニューマの額と同じジャンセン家の紋を、背中には MUSASHI の七文字を焼きつけられていた。五体は刀傷の痕《あと》だらけである。六尺| 褌 《ふんどし》のような白いものを腰にまとっていたが、よく見ると布ではなく|白 金《プラチナム》だった。この白金褌以外は何も身につけていない。顔から見ると年若なようだ。
ムサシを左の| 掌 《てのひら》に載せたドリスは、あるかないかの産ぶ毛が微《かす》かに|上 唇《うわくちびる》をかげらせているポッチリ赤い口元をとがらすと、その掌の上に、プッと小さく唾《つば》を吐いた。矮人は待っていたように膝《ひざ》をつき両手をつくと、顔をその唾のほうに近寄せすすり出した。吐くほうには一口でも、矮人には相当の分量なのである。ウィリアムも一人を掌にして、同じように唾を飲ませている。その背中には KOJIRO の六文字が見えた。
「|激 励 の 唾《エンカレジング・サリバ》といいましてね」、セシルが教えた。「これで俄然《がぜん》元気を出すのです。今では試合前の儀式の一つみたいになってます。……試合で勝ったほうにも……」
「唾を与《や》るんでしょう」とクララは当て推量した。「激励《はげまし》と慰労《ねぎらい》に|唾吐くこと《スピット》、記憶があるわ。だんだん思い出してくる」
「|慰 労 の 唾《リウォーディング・サリバ》は」、ドリスが聞きつけて口をはさんだ。
「貴女《あなた》が与《や》るのよ。勝ったほうは貴女のものになるんだから」
両戦士は、掌から下ろされ、台の両端、青と白の旗門外に待機した。
どこからか、奇妙な服装――実は紋付|袴《はかま》だった――で別の老顔の矮人が現われ、試合場の綱《ロープ》を検分していた。これが審判員であった。
「艇《ヨット》が着くまでに勝負を決めなきゃなんないから、休憩なしにしようね」
簡単にウィリアムと打合せしたドリスは、綱を調べている審判矮人を右手の鞭《むち》のピンととがった先でちょっと突っついて合図すると、キビキビした声で指令を発した。
「途中休憩なし。すぐ始め!」
審判員は両戦士を門から中に入れた。コジロは赤ら顔の中年者である。
「なかなかよい決闘《デュエル》になるでしょう」、金髪の美男子ドレイパア夫君は楽しそうにいった。「ヤプー刀は刺突《つく》より斬撃《きる》が主で派手ですから、見てていちばんおもしろい。老練コジロは過去三年間に試合数八十八回で、そのうち七十二回相手を殺してます。ムサシは若いが、過去半年に十五試合で十四人殺し、経験ではコジロがまさり、殺敵率ではムサシが上。こりゃよい勝負ですよ。さあ、貴女を招待するパーティーの主催者はどちらになりますかね……」
解説者然と語る彼の手には、引出の両戦士の居室から取り出した二枚の戦績カードが握られていた。
審判矮人がムサシに青、コジロに白の鉢巻をさせ、さらに反《そ》りのある刀を渡して何かしゃべっていた。日本語らしかったが、クララにはわからない。……と、突然、その話の終るのが待ち切れない、といった様子でドリスが叫んだ。
「ashicko (かかれ)」(第八章3、「ASHICK, UNGK」例17参照)
三矮人はハッとして上を仰いだが、次の瞬間には、両戦士は鞘《さや》を捨てて身構えていた。
ドリスのわがままな気まぐれで中断された審判の話の内容は何だったのかと、好奇心を起してクララが尋ねると、セシルは、
「ああ、あれはね、決り文句の訓辞なんです。[#ここからフォント太字]これは神聖なる神前奉納試合なるぞ。生命を賭けて戦い、神々の目を楽しませよ。聖唾《サリバ》[#ここまでフォント太字](サリバ[#「サリバ」に傍点]は saliva から家畜語化した単語で、特に白人の唾を指す。ヤプー自身のや黒奴のを指す家畜語はツバ[#「ツバ」に傍点]である)[#ここからフォント太字]味わいし身の誉《ほま》れを忘れず、いやしくも卑怯の振舞して己れに唾吐き給いし神を裏切るな[#ここまでフォント太字]」、スラスラと家畜語《ヤプーン》を訳し終って、なお彼はいい添えた。
「奴らにとっては、私たち人間は、睡を吐きかけられてさえありがたい神々なんですな。矮人に限らず、ヤプーどもはすべてそういう信仰を持っています。私たちの体に関係のあるものなら、唾どころか、もっと汚ないものでもフェティシュになるんですよ」
「そうでしたわね、思い出しますわ」、バツを合わせながら、クララはセッチンの姿を脳裏に浮べた。ウィリアムが彼女のほうを見ていた。
二人の――というべきか、二匹の、というべきか――小決闘士は依然身構えたままであった。ムサシは体の前に、コジロは頭の上に、どちらも刀を両手で握っている構えがクララには物珍しかった。他の四人は見慣れた通《つう》でもあるらしく、正眼《セイガン》だの大上段《ダイジョウダン》だの、間《マ》があるの隙《スキ》がないの、と口々に評し合っていた。どちらもなかなかの使い手らしいことは、クララにも見て取れた。
「勝負はどっちか死ぬまで……」
「たいていそうです。今日この引出の区画は少なくとも一室はあくわけです。小決闘士飼育所《グラジャトーレット・ファーム》から補充を買うんですが、ジャンセン家の烙印《らくいん》を胸にもらい、そこの引出(寄宿舎)に住み、そこの屋上(試合場)で死ねるのはたいへんな名誉なんで、買われる奴は大喜び。飼育所じゃいつも選抜試合をさせて決めてるそうで、だから、ジャンセン家の箪笥《たんす》の奴は皆相当な腕達者ばかりで……あ、やった」
急にコジロが飛びかかったのだ。激しい鍔《つば》ぜり合い。再び間《ま》があくと、ムサシの肩とコジロの左手から血が流れていた。技量伯仲。しかもその全能力を挙げて生命の遣《や》り取りをして、それをクララたちの娯楽に供することに、甘んじるどころか名誉を感じている両戦士なのであった。
彼らの神々たちは、箱を囲んで坐し、四面斜上方から見守っていたが、その美しくも非情な目つきは、まるでオリンパスなる諸神が地上の争いを眺めるにも似ていた。より卑俗な比喩《ひゆ》をとれば、闘鶏場を囲んで二羽の軍鶏《しゃも》が死ぬまで闘うのを楽しむ人々のと同じ目つきだった。
2便器使用風俗
セシルがそっと振り返って口笛《ホイスル》した。何事かと自分も振り向いたクララは、壁が割れて、円盤の中で見たのと同規格のセッチン(標準型肉便器)が現われたのを見て、あわてて前を向いた。
セシルが、皆の邪魔にならないように、低い声で起立号令《アシッコ》を掛けた。セッチンがいつか彼の腰掛けていた椅子の前に来てうずくまり、長い首を伸ばしており、彼の前合せになったロング・スカートがそのため割れているのを彼女は目尻《めじり》で認めた。
――まあ、この人は、試合を見物しながら、腰掛けたままでこれを使うんだわ!
他の人々はいっこう気にもとめてないらしい。
「ムサシのほうが傷が深いようだね、ドリス」
と、放尿してるようにも見えず話しかけたセシルの言葉に、ドリスはむき[#「むき」に傍点]になって、
「ところがムサシは手負《ておい》獅子《じし》って渾名《あだな》があるくらいでね、怪我してからがかえって強いのよ。今までの試合でもたいてい先に斬られてから相手を殺した……パーティーは妾《あたし》がすることになるわ」
彼女はしゃべりながら席を立った。特有の香水の匂いが漂うので気づいたクララが横目で見ていると、少し後ろに下り、今しもセシルの花模様のスカートから首をくねらせつつ頭部を引き抜いたセッチンに向って乗馬ズボンの両脚を踏み開きながら胡坐号令《アンコ》を掛けた。|孔 釦《ホール・ボタン》というものがあるから、ズボンを下ろしたりする必要はない。ただ|馬 蹄 肉 瘤《ホースシュー・ハンプ》に腰を下ろすだけだ。彼女は試合場のほうを向いて腰掛けた。
目では矮人たちの動きを追いつつ、片手でシガレット・ケースを探って一本取り出し、くわえると指輪ライターで点火し、気持よさそうにくゆらしながら、ゆっくり生理的排出を行なっていた。急いで息《いき》んだりすることはイース人のなさぬところである。知らない者には椅子を替えて見物し続けているとしか見えまい。落ち着いたものであった。
口にくわえていたシガレットは、前史時代の紙巻煙草そっくりだったが、材料は精気《ホルモン》結晶で、イースでは、|喫 煙《スモーキング》といえばこの精気煙草《ホルモン・シガー》のことなのである。
一本を半分ほどふかしたところで、ドリスは、突然右脚を宙にわずか浮かせてから急に後ろに腰を引いて、長靴の拍車でセッチンの肥満した腹部を一撃したが、それは、このセッチンが当然しつけられているはずの礼法を忘却し、食後、食器を後ろから前へ[#「後ろから前へ」に傍点]清拭しようとしたから、拍車でその無作法をとがめ「食器の舐拭は前から後ろへ[#「前から後ろへ」に傍点]」(第七章2「ある肉便器の個体史」参照)という正しい食後の行儀を思い出させたのだ。
ドリスが立ち上って自席に戻ると、今度はウィリアムがアシッコといって呼び寄せた。……やがてセッチンをSCにしまう時の口笛《ホイスル》が聞えた。
人前で平気で排泄《はいせつ》行為をする無神経さにクララは少々あきれたが、それは彼女がまだイースにおける白人社会の風習に親しまなかったからである。排泄回数の頻繁《ひんぱん》な白人の間では、特に目上の者がいない限り、他の人の前でセッチンを使うことはべつだん失礼にならないという風俗が成立しているのだ。それに、いちいちズボンを下ろして隠し所を現わすじゃなし、手を汚すじゃなし、いやな臭気が漏れるじゃな|し《*》、他人の迷惑になる点がないから、昔とは事情が違うのである。現にクララも、もしセッチンの機能を知らなかったら、何が行なわれたかわからなかったろう。昔の人は、人前で鼻をかむ時ちょっと後ろを向くくらいでいちいち部屋を離れはしなかったが、今セッチンの使用はちょうどその程度の軽い無作法と観念されているのだ。
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* スタンダード・セッチン――他の肉便器も大同小異であるが――の鼻孔は、顔面の鼻でなく、|馬 蹄 肉 瘤《ホースシュー・ハンプ》の内側に開いていることは既述のとおりで、用便中馬肉瘤内にこもる臭気は全部ここから吸われて肺に収まるから、外には少しも漏れないのだ。人間には悪臭でもセッチンはこれをよい匂いと感じるよう条件反射で仕込まれているし、またその鋭敏な嗅覚で(舌による便の味[#「味」に傍点]と並んで)主人の体の異状を便の匂い[#「匂い」に傍点]によって診断《かぎつけ》する技術もセッチンの必須教養の一課になっているのである。(第六章2「三色摂食連鎖機構」参照)
[#ここで字下げ終わり]
ところで決闘試合は今や白熱していた。激闘数十合、両戦士の裸身は共に血まみれであった。
「実に矮人決闘《ピグミー・デュエル》の醍醐味《だいごみ》というのはこれでしょう」
セシルは、クララに聞かせるともなくつぶやいて、ほれぼれと試合場《アリーナ》を見つめていた。
「いかが、クララ」
ポーリンは足元にうずくまったニューマの黒髪を無心に片足で愛撫《あいぶ》してやりながらクララを顧みた。彼女は、息を凝らし目を輝かせながら、ポツリと一言答えた。思わずドイツ語になっていた。
「|素晴らしいですわ《ヴンダバー》」
3肉体の変質
そのころ、船底の獲物置場《ゲイム・シェッド》の| 棺 《コフイン》――|皮 膚 窯《スキン・アブン》――の内では、古い瀬部麟一郎の肉体が葬り去られて、後にリンと名づけられた新しい一匹のヤプーが誕生しつつあった。
皮膚強化剤《デルマトローム》はしだいしだいに定着度を増してゆき、脂汗が涸《か》れ尽したころから彼はあまり熱痛を感じなくなってきた。――ついにまったく感じなくなった。暖かさは感じるが熱くはない。さっきポーリンのサンダルで切られた耳の傷も、初めしばらく感じていた痛みがまったく消えた。
ちょうど四十分がたった。一人は温度計を、一人は窯内のヤプーの体温や脈搏《みゃくはく》等を示す計測自記|捲取表《テープ》を見つめつつ、一歩も離れず待機していた係りの両船員が立ち上った。定着は終ったはずだが、いちおうテストせねばならない。高温のほうはもう充分なのだから、今度は低温であった。
ずっと摂氏八十度を持続していた窯内にあって、皮膚強化に従い主観的には温度の漸次的下降を錯覚していた麟一郎《りんいちろう》だったが、この時、さらに温度が急速に下っていくのを覚えた。――や、何だか涼しくなったぞ。黒人ども奴《め》、また悪戯《わるさ》をする気か!……さっきこの箱にはいる前の氷点近い寒さ、あれに比べると、このくらいの涼しさは問題じゃないが……。
彼は多少肌寒い程度にしか感ぜず、かえって清涼ささえ覚えたのだが、もしデルマトローム強化皮膚を持っていなかったら、焦熱地獄の後の八寒地獄、直ちに凍死してしまっていたに違いない。――この時の窯内の温度は摂氏零下五十度になっていたのである。八十度を暖かいくらいに、この極寒を涼しいくらいにしか感じなくなった今こそ、彼は、気温変化の激しいカルー星で、全裸のままで生命を保持してゆけるようになったのだ。麟一郎の肉体は、熱さ寒さを知らぬヤプーの肉体として生れ変ったのである。汗腺もふさがれたからもう汗をかくこともないが、その代り、作業のあとでは犬のように舌を吐くことだろう。エンジン虫の尾部《しっぽ》はさらに伸びたに違いない。彼はだんだんヤプー化されてゆくのだ。
胸番号8番は、自記テープをじっと見凝《みつ》めていたが、
「よかろう、異状なしだ。定着度百パーセント。処置完了」
13番が温度計の針を室温と同じ三度に戻した。これがこの室の常温なのであった。
「もう出しとくか」
「そうさな。導尿管《カテーテル》をはずしても、もうすぐ着くんだから、破裂するほど膀胱《ぼうこう》にたまることもあるめェし」
導尿管《カテーテル》と腸内注入管《エネマ》とが同時に引き抜かれ、窯《かま》が開かれ、彼は担架《たんか》の上に運び出された。肉体は見たところ何の異常もない。彼も自覚しない。黒人二人を見て、いったい、なぜあんなひどいことをした!≠ニ難詰したくも舌は動かない。全身麻痺も最前と同じであった。さっき呑んだ虫のことも何にも感じない。
四十分を麟一郎は何時間、何十時間にも感じていた。焦熱地獄の中では時の歩みが遅々たるものだったのだ。窯にはいる前の出来事が遠い過去のことのような気がした。二時間ほど前に円盤艇《ヨット》に踏み込んでいった時からの生ま生ましい経験は忘れるべくもないが、それさえ、色あせ印象が薄らいだ。それに恐ろしい肉体的|苦悶《くもん》の終ったあとのせいでもあるのか精神的にも虚脱感があり、系統立った記憶のつながりがなかった。
――人犬《ひといぬ》に咬《か》まれたっけ。それで動けなくなったんだった。女は俺のことをヤプーと呼んでいた。クララが……ああ、クララはどうしているだろう。俺と違って歓迎されていたから間違いはあるまいが……俺にだってあの連中の一人は、親切に小便のことや寒いことに気がついてくれたのに、命令を実行する黒人がこういう無茶をするんだから、クララも気をつけなくちゃ……大丈夫だろうか? ああ、会いたい、抱きしめたい、そして接吻《キス》……そうだ、何にしても早くこの麻痺が解けなけりゃ……。
平生どおりの頭脳の働きがあったら、彼は、暖房らしいもののないこの室内で、さっきあんなにも寒かったのに、今はどうして暖かく感じるのか? と、そこで黒人の毒舌と、その前セシルがいった言葉の示唆する真の意味を考え直して、ついには自分の肉体の異常をも結論し得たであったろう。しかし、虚脱状態の頭脳では思考の集中ができず、注意力も鈍っていたので、彼は何一つ気づかなかったのだ。セシルの好意で保温用の箱に入れてもらったのに、黒人どもが無茶をしたのだ、と信じ込んでいる。おめでたい話だった。
と……その時、入窯前に彼の背中に鞭《むち》を当てて相棒からとがめられた8番が、
「ここをためすんなら、いいやな」
といいざま、右手に握ったクララの鞭を大きくふるって、彼の両足裏をピシッと鞭打った。
驚いたことに痛くないのである。足裏の中でもいちばん柔らかいところに当ったのだが、軽くたたかれた程度にしか知覚しなかった。彼は窯に入れられた時、足裏に何か塗られたのを思い出した。どうしたことだろう?
「|良い靴底《グッド・アウトソウル》だ」
満足そうに8番がいった。
読者は舌人形の舌に造肉刺激剤が加えられて立派な形に成長させられたとの記述(第二章2「読心家具」参照)を覚えておられるであろう。さっき彼の足裏に塗布されたのはこの薬の一種だったのである。わずかの間に彼の足裏は厚みと堅さを増し、南方原住人の十倍も強靱《きょうじん》なものになっていたのだ。もう靴を穿《は》く必要はなかった。彼の肌が衣服そのものに化したように、彼の足裏も|靴 底《アウトソウル》の半張革と同じになってしまったのだ。一方クララの足裏は、今後|足 裏 布 団《プランター・クッション》の肉体に脂を吸わせつつ、ますます柔軟になってゆくというのに……。
麟一郎にはこの足裏の変化もわけがわからなかった。漠然《ばくぜん》と異常を感じて不安に思ってはいたが、異常といい、不安というだけなら、ニューマに咬まれてからの出来事で、異常でないものはなく、不安を呼ばぬものはない。……彼はもう何も考えるのをやめて、ただクララを待つことにした。担架に横たえられ、天井をながめつつ、彼の脳中は恋人のことでいっぱいだった。――クララ、君は今何をしているのだ。どこにいるのだ。きっと僕のことを心配していてくれるのだろうね。……僕は恐ろしい目にあったんだよ……早く会いたいねえ……別荘とやらに着いたらすぐ会いたいねえ……。
4|切 腹 演 戯《ハラキリ・プレイイング》
最上階の遊戯室では、流血の場面が大詰に近づいていた。
血みどろの舞台を真っ白な肌を紅潮させながら見守っていたクララは、麟一郎の思惑《おもわく》とは違って彼のことなどとんと念頭にない。両|矮人《ピグミー》は秘術を尽して渡り合い、刀が目まぐるしくきらめく。マッチ棒ほどの刀身ながら、丁々と斬り結ぶ響きが昂奮《こうふん》し切った五人の耳に響いてくる。
ムサシはさらに左股を斬られていたが、コジロの額も切り裂かれて顔面は真紅の血に彩《いろど》られていた。
「それ、そこで踏み込め、ムサシ!」
「ほら、相手の右が空《あ》いてるよ!」
五種競技のオリンピック選手権をねらっているくらいで、ドリスはフェンシングの心得もあるからなかなか技術的な応援をする。
ウィリアムのはひどく乱暴で、
「コジロ! 殺《や》っつけろ、斬ってしまえ、そら、惜しいとこ、もう一撃!」
と夢中に叫ぶそのたびに、後ろで縛ってある亜麻色の髪がふさふさと揺れた。
クララは、初めは、こんな人間そっくりの縮小体《ミニチュア》に殺し合いをさせることに何か非人間的なものを感じて後ろめたい思いもあったのだが、だんだん引き入れられ、先ほどポーリンに「素晴らしい」と返事したころからは、周りの四人といっしょに熱狂していった。もともと拳闘試合を見るのは好きだったし、麟一郎に関心を持ったのも彼の柔道が機縁になったくらいで、こういうものに昂奮する素質があったに違いない。一つにはさっき飲んだソーマの効き目もあった。昔のお茶同様に好んで飲まれるこの飲料は、滋養強壮、神経昂奮、芳香発汗等の効能もあるほかに、さらに「|人類愛の蜜《ヒュマニティ・ハニー》」の名称にふさわしく、人類の同胞感や人道精神を強固ならしめる効果を持つのだが、反面、それを感じる範囲を限定する傾きがあり、白人がこれを飲めば自分と同じような白い肌の者以外には同類意識を持たなくなってくる。クララがこの血みどろの戦いを余興として平気でながめうる心境になっていったのもそのためで、矮人同士を殺傷させることに躊躇《ちゅうちょ》しなくなったからといって、べつに彼女が前より残酷になったわけではない。ポーリンやウィリアムに対する気持はかえってより親しくなったくらいなのである。
突然、コジロが一声叫んでよろめいた。血が目にはいったので手元が狂った瞬間、腰に斬り込まれたのだ。ムサシが踏み込んで真っ向から拝み打ちにしたのと、よろめく足を踏みしめつつ、コジロが右手の刀を突き出したのと、どっちが早かったか……。
コジロの頭蓋《ずがい》から血が噴《ふ》いて、どうと倒れると同時に、ムサシも腹を押えてかがみ込んだ。苦痛をこらえる青年矮人の小さい人形のような顔をクララは美しいと思った。
審判員が青門に青旗を掲揚した。
「ムサシの勝。クララ、妾《あたし》のパーティーに出てね。そして、妾の持馬の贈物を受けてね。妾の厩《うまや》にはアベルデーン一の名馬もいるわよ。……でも好取組だったわね。ねえ、セシル、感想はいかが? クララに聞かせてあげなさいよ。彼女には初めても同然なんだから……」
早口にドリスがしゃべるのを受けて、彼女の兄はゆっくりと、戦績カードに何か書き込んでいた手を休めて、感にたえたようにいった。
「何といいましょうか、実に、いい試合――稀《まれ》に見る勝負でした」
ウィリアムは残念そうに黙っていた。
ドリスは鞭を短く持ち直すと、とがった先端をうつぶして苦しんでいるムサシの顎《あご》の下に入れて顔を上げさせた。真っ青で血の気がなかった。
「ムサシも傷《や》られてる。助からんね。こりゃ相撃《あいうち》で無勝負じゃないかな」
ウィリアムがつぶやいた。
コジロの体から流れる血で試合場は真っ赤に染まった。審判はムサシと言葉を交した後、箱の縁まで出て来てドリスに何か話しかけ、彼女がクララの名を告げて何かいうと、引き下がってムサシのところに戻った。ドリスはクララに向って、
「ムサシは助からぬ命と悟って、最後に聖唾《サリバ》を頂きたい、と願ってるの。もう彼は貴女《あなた》のものになってるんだから、貴女の名を教えてやった。さあ、貴女から慰労《ねぎらい》の唾《つば》を与《や》って頂戴」
「ええ」
と引き受けたもののクララは困った。激励《はげまし》の唾と同じように| 掌 《てのひら》に載せてやるのだろうか? さっき思い出したなどとハッタリをいった手前、退《ひ》くわけにもゆかず、血だらけの矮人を掌に載せることに躊躇《ためらい》も感じるのだ。それでも白魚のような人差指の先に一かたまりの唾をつけると、肩で息をしている勇敢な矮人青年の面前に持っていった。
「ムサシ、よくやったわ。さ、ご褒美《ほうび》にたっぷりお飲み」
「変った仕方で唾をやるのね」
ドリスがつぶやくのがクララをヒヤリとさせたが、べつに彼女は深く怪しんでいる様子ではない。
ムサシは、うれしそうに上を仰いで、莞爾《にこり》と笑ったが、目に隈《くま》が出て、死相が現われていた。だが毅然《きぜん》とした態度をくずさず、両手で彼女の指先をかかえるようにして「聖唾《サリバ》」を吸い取り始めた。小さい舌端のかすかな動きを指先に覚知しながら、彼女は誰にいうともなく訊《き》いた。
「何とか助からないものかしら?」
「出血してても、畜人薬《ミクソ》をやれば生命は取り止めるわ」、ドリスが答えた。「でも、そんなことムダよ」
「出血を薬で止めた後は、前より弱くなることが多いのです」、セシルが解説した。「そんな小決闘士《グラジャトール》は飼う値打ちがないでしょう? だから怪我しても矮人病院《ピグミー・ホスピタル》に送ることはしないのです。ひとりで直すか、死ぬか……」
「でも、手当すれば直るものを……」
「いたずらに苦しむのを見るのが可哀そうなら、慈悲の死[#「慈悲の死」に傍点]を与えればいいのです」
「そう、慈悲殺人《マーシィ・キリング》というものがあったわね」
クララは曖昧に口をきいた。ある程度で記憶の戻った振りをせねばならない。あまりくどくどした質問は怪しまれる。
「殺してやろうか? 直りそうもないわ」
ドリスがいった。
「ま、クララの矮人《ピグミー》だから、彼女の意向をきかなくちゃ」とセシル。
「いっそ、ハラキリを|演らせ《プレイ》たら?」、ウィリアムが提案した。「貴女《あなた》の記憶の回復にもこれはうんと役立つと思うな、とても印象深いものだから。幸い『|古 式《オールド》| 畜 人《・ヤプーン》| 風 剣 術《フェンシング》』の引出に住んでる奴らは、いつでもこの余興を演《や》れるよう本式に仕込まれているから、おもしろく見られるし……」
「賛成、クララ、そうなさいよ」
とポーリンも勧めた。ほかの二人も無言でうなずいた。
クララは、黙って矮人に指先を舐めさせながら思案したが、ついに好奇心に負けて指を引き、「ムサシ」と呼びかけてから、これが初めてとは思えぬような物慣れた調子で、一言で命令した。「ハラキリをお演り(play harakiri)」
かつて知らなかった全感能が、怪しい魅力で彼女を捕えた。円形競技場で負けた決闘士《グラジャトール》に拇指《おやゆび》を下に向けて死の合図をしたローマの貴婦人たち、遠い遠い先祖の血が、今彼女の体内で沸《たぎ》っているのだった。
言下に瀕死《ひんし》の青年が血の漂う床にすわり直したのを見て、クララはふと、自分たちの普通の声も、彼ら矮人の耳には雷霆《らいてい》のようなゼウスの声さながらのものとして響くのだろうと思った。
ムサシは、ふり仰いで神々の中に彼女の姿を求め、じっと見つめながら、ふりしぼるような声で叫んだ。彼らの知っている数少ない英語(イース語)の単語を日本語(家畜語)に混ぜて、
「|白皙の女神《ホワイト・ゴッテス》なるクララ・サマ、バンザーイ」
「バンザイというのは、もう思い出されたかも知れませんが、主よ寿長《いのち》かれ≠ニいう祈りです」、セシルが素早く説明した。「ヤプーは、昔から死ぬ時は自分の首長のバンザイを唱えたものらしいです」
叫び終ると、彼は短く握った太刀を突き立て、白金| 褌 《ふんどし》の上縁に沿って一気に引き回した。血が噴《ふ》き出し、上半身が前にのめろうとする時に介錯《かいしゃく》に立った審判矮人がその首を打ち落した。決闘《デュエル》試合の余興の|切 腹 演 戯《ハラキリ・プレイイング》は終ったのだ。
初めて見る悲壮美の舞台で、自分の名にささげられ、自分の意思で流された血潮の鮮《あざや》かな色に魅せられたクララは、快い昂奮にしばし放心したようになっていたが、
「さあ、別荘に着いたことよ」
というポーリンの声にふと我に返った。
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第一一章 別荘到着第一歩
1|複 式 動 路《プルラル・エスカロード》
「別荘《ヴィラ》はどこにありますの?」
クララが尋ねた。ポーリンは笑って、
「さあ、自分でご覧なさい」
壁が開いて隣室の立体レーダーが現われた。
「あ、シシリー島……」
地図で見慣れた長靴の先が見える。東海岸、エトナの山が大きくなった。さらにその南、シラキューズに近いあたりか。
「まあ、美しい……」、クララは思わず嘆賞の声を放った。緑の絨毯《じゅうたん》に大粒のダイヤを落したとでも比喩《ひゆ》したいような、広々とした芝生に囲まれた正多面体の|水 晶 宮《クリスタル・パレス》が円筒《シリンダー》のはるか斜め下方に、陽の光を受けてキラキラと輝いていたのだ。光は西から射して来ていた。今、原球面は秋の午後なのだった。
「この島には別荘が多いの。この辺六十キロ四方くらいがうちの地所よ。隣は卿《レディ》アグネス・マックといって、私の親しい公爵の地所。ちょうど彼女も地球に来てるところなの」
ポーリンが説明しているうちに円筒は下降し続け、水晶宮からはだいぶ離れて、芝生の中に径三十メートルほどに光る金属板上に着陸した……と思うと、意外、さらに沈み続ける。金属板は深さ百メートル、船体を完全に地中に格納しうるだけの竪穴《たてあな》の蓋になっていたのだ。
出入口の扉《ドア》が開くと、立派な地下街があった。地上は芝生でも、下は驚くべき文明世界が開けていた……。
地下街の床がそのまま動いていた。それは床にいくつかの帯状の仕切りがあり、一定方向に絶えず動いているのだった。帯と帯とが交差するところでは立体交差させて停滞しないようになっている。そして一方向には必ず逆方向のが隣り合っていた。
「|動 路《エスカ・ロード》で行こうね」、ポーリンがいった。
エスカ・ロード? ではこれは一種の道路なのか! もちろん旧世界文明下の都市でも、この程度のものは開発されていた。しかし、これほどの規模で、これほどの様式をもって都市機能をコントロールしている状態を見ることはなかった。
一行はまず、水晶宮のほうに走っているらしい動路にニューマを先立てて近づいた。遠くからではわからなかったのだが、帯は平行する四筋の移動路面でできていて、端からだんだん速度が増している。まず端の緩速の帯に乗り、次々に乗り換えて最後に奥の高速路面に達するようになっているのだ。端の路面から奥の路面を見ると、ひどく速くてとても乗り移れそうもなかったが、三番路面からは楽に移れるのである。これを|複 式 動 路《プルラル・エスカロード》という。
もっとも、慣れれば無造作に乗り移れるのだろうが、初めてのクララはやはり足を取られそうな気がして、思わず手を伸ばしてウィリアムにささえてもらった。彼独特の香水の匂いが快く鼻をついた。四番路面は相当な快速だ。美青年と手を組んだまま、金髪を風になびかせて、足元の路面の動きを楽しんでいるクララの耳に、前に立つポーリンの声が、とぎれとぎれにはいって来た。
「……から、獣医科手術室に入れ……緩解薬の合成にかかるよう……さっきニューマに咬《か》まれたばかり……」
ポーリンは自分の腕送話器《リスト・マイク》で、さっそく麟一郎の取扱い方を指令しているのであった。
クララは、ハッと彼のことを思い出した。――そうだ。妾《あたし》は麟《リン》の麻痺状態を緩解《なお》してもらいにこの別荘に来たんだった。いったい麟はどうしてるのかしら? この動路《みち》を後から来るのかしら?
2隧道車《トンネル・カー》
麟一郎は隧道車《トンネル・カー》の中にいた。『氷河《グレイシア》』号の船底部から外に出たところに水晶宮の地階に通ずる地下百メートルの深さの地下道があり、これが『氷河』号の乗組黒奴《ネグロ》たちの通路なのだ。そこには複式動路などない代りに、隧道高速線がある。回転体《ジャイロ》を使って重力を絶ち、隧道内で宙に浮いている弾丸状の車体を備えた輸送機関である。担架のまま床に置かれた麟一郎と座席の二船員を乗せて、車は水晶宮の地階深部へと急いだ。
麟一郎の耳に二人の会話が聞えて来た。
「さっき、このヤプーの背中に鞭《むち》をあてたことな、あれ黙っててくんなよ、頼む、な……」
「さァて、俺《おれ》も公売《せりうり》されるのは嫌だでなァ」
「俺は鞭《ぶ》ち殺されるかも知んねェんだぜ。頼むよ、なァ、俺はうっかりしてたんだ。こんなことで死にたくね|ェ《*》」
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* この会話を理解していただくため、黒奴犯罪に対する「刑法典」の条文を紹介しておく。
[#ここからフォント太字]黒奴刑法第十九条[#ここまでフォント太字] 人間(白人のことである点を注意)ノ権利ヲ侵害スル者ハ死刑三級ニ処ス
[#ここからフォント太字]同第二十五条[#ここまでフォント太字] |日 記 報 告《デイリー・レポート》ニ嘘言アルモノハ|私 刑 公 売《オークション・フォア・リンチ》 auction for lynch ニ処ス
[#ここからフォント太字]同第二十六条[#ここまでフォント太字] 他ノ黒奴ノ犯罪ヲ知リテ報告セザルトキハ嘘言アルモノト看做ス
[#ここからフォント太字]同第百三十一条[#ここまでフォント太字] 死刑三級ハ|鞭 撻《パスチナード》ヲ以テ執行ス
[#ここからフォント太字]同第百九十三条[#ここまでフォント太字] 公売セラレタル黒奴ノ処遇ハ畜人《ヤプー》ト同様トス
私刑公売[#「私刑公売」に傍点]についていま少し補足すると、貴族は黒奴の生命を奪うことができるが、ヤプーと同じに扱うことまではできないし、平民は一般に黒奴の生命を尊重せねばならない。つまり黒奴は半人間[#「半人間」に傍点]としての法律の保護を受ける。この保護を公に奪ってヤプー並にするのが私刑公売の刑であって、私刑用としてせり売り[#「せり売り」に傍点]される。落札者(もちろん白人に限る。平民が多い)はこの黒奴にどんなリンチを加えてもよい。これで民衆のサジズム本能を満足させていることが、戦争競技の存在と並んでイース世界に内乱などの起らぬ心理的根拠だといわれている。黒奴やヤプーを殺すことによって白人同士の殺し合いを防止しているのが「イースの平和[#「イースの平和」に傍点]」なのだ。(イース黒奴の平均寿命は三十年である――一方、白人は天寿界[#読取不可]二百年を享受しているが、それは、こうして簡単に殺されるからである)
[#ここで字下げ終わり]
――つまらんことをいっている。俺の背中をちょっと鞭打ったことより俺を窯《かま》の中に入れて、あんなひどい目にあわせたことのほうがよほど重大な犯罪じゃないか。後で体が利《き》くようになったら、此奴《こやつ》ら、ただじゃおかないから……。
その時、車が停って降ろされた。白人が一人もいないなかを担架は移動して、獣医科手術室に着いた。この行先については、先のポーリンの命令が|召 使 頭《チーフ・サーバント》に中継されて護送の二船員に伝達されていたのである。
黒奴看護婦が麟一郎を寝台に仰向けに寝かせた。ヤプー専用の寝台で、デルマトコンを避けて薄い金属板で張ってある冷たい寝台だったが、彼の皮膚はもはやその冷たさを感じないのだった。
「獣医《せんせい》は今お薬を作ってらっしゃるから」
看護婦は護送の両黒奴にそういいながら、慣れた手つきで麟一郎の体を扱い、導尿管《カテーテル》を挿入した。看護婦の制服は、黒奴男《おとこ》たちの半袖《はんそで》・半ズボンと異なり、手首・足首までとどく長袖・長股引だが、肌に密着しており、やはり尻で割れるコンビネーション仕立だった。背中のジャンセン家の紋や胸のN5号の繍取《ぬいとり》も色が派手で女性好みであった。(黒奴社会には女権制はないので、黒奴女は昔のように「女らしい」のである)
ヤプーに導尿したので、つられて自分も尿意をもよおした彼女は、椅子のわきに引っ掛けてあった真空便管の先端器《コブラ》を取りあげて股《また》にはさんだ。黒奴の服には孔釦はなかったが、コンビネーション仕立だから挿入に不便はない。これは彼女の専用器で便利であった。だがその便利さは、結局、黒奴を使用する白人のための便利さであった。先端器を元にもどすとまたヤプーの検査であった。
続いて口から胃内鏡をさし込み、エンジン虫の頭部が幽門の適正部位に付着してるかどうかを調べた。異状なし。伝声管でその旨《むね》獣医に報告すると、胃内鏡挿入の刺激で麟一郎が嘔吐《おうと》した。麻痺したままの口から汚物があふれ出すのを認めて、
「汚ならしい」
舌打ちしながら、つい今、自分が使ったばかりの先端器《コブラ》を椅子のわきからはずして、股当部を麟一郎の口に当てて汚物を吸い取り掃除したうえ消毒器に突っ込んだ。その接触で汚れた[#「汚れた」に傍点]のは、ヤプーの| 唇 《くちびる》ではなく先端器なのだから。黒奴用の便器に接吻《せっぷん》させられたとは知らぬ麟一郎は、ただクララがいっこうに姿を見せないので、だんだん心細くなってきた。円筒の船倉内から、四人の白人と愉快そうに談笑しつつ去った彼女の姿がいまだに目に浮ぶ。あれほど誓ってくれたのに来ないのは何かあったのか、彼女の身に……それとも俺のことを忘れたのか、心変りしたのか、そんなはずはない……疑心は暗鬼を生み、思いは千々に乱れるばかりだった。
3|足 項 礼《フット・ネッキング》
麟一郎が寝台に横たえられたころ、クララたちの乗る四番路面はようやく地階第一階のステーションに達した。速いといっても動路は隧道車の半分くらいしか速度が出ない。その代り、気まぐれな白人たちが急に『氷河』号を使う気になった時にも、知らせを受けて後から出た船員たちが先に円筒に乗り込んで諸般の準備をしてしまえる等の便利があった。速いばかりが能でもない。イース人は生活の快適さをこそ求めるのである。
――麟《リン》はほんとにヤプーなのであろうか?
一度麟一郎のことに考えが向いてからは、この問題がずっと心を占領し続けてクララを悩ましていた。
円盤内で見た人犬《ひといぬ》、肉足台、肉便器などから考えて、ヤプーと称《よ》ばれる似而非人間《プソイド・メンシュ》の存在は疑えない。そして彼女はこのヤプーには何の同類意識も同情も持ってはいない(第一章1「家畜調教問答」参照)。これらに対してイース白人と同様な感じを持ち行動できる心理的準備は整っていた。矮人《ピグミー》に対してもそれは同じであった。ただ気がかりなのは、ヤプーが日本人の末裔《まつえい》らしいことだ。なぜなら麟一郎はまぎれもない日本人だからである。「たしかヤプン人とかジャバン人とかいう……」とポーリンはいった、「黄色い猿《サル》」ともいった。どうも日本人のことらしい。壁から出て来た奇形の便器人間を叱りつけた時の言葉も日本語だったようだし、矮人は死ぬ時彼女のバンザイを祈ったが、これは日本語だと聞いた記憶がある。……もし、日本人はすべてヤプーだというのなら……もし麟が(ポーリンたちはこのことに何の疑念も持ってないが)ほんとうにヤプーだったら……。
円筒の中では芝居をする必要上、麟一郎をことさらにヤプー扱いはしたものの、クララはまだ心からそう信じる気にはなれなかった。しかしヤプーでないといい切る自信もないのだった……。
五人の黒奴が出迎えていた。制服は同じくコンビネーションでも、色が船で見た召使いたちと違って桃色であった。これは特に主人の身の回りの世話をする名誉の召使《サーバント》いを示す色で、従者《フットマン》と称ばれる。一人一人が自分の主人を迎えに出るのだ。
クララにももう従者が定まっている手回しのよさだった。胸番号Fl――Fは小さく1は大きい――の青年黒奴が彼女の前でひざまずいて挨拶《あいさつ》した。額の金輪が床に接触していた。
「|F1号《エフ・ワン》と申します。どうぞ御足《おみあし》を」
クララが、どうしていいかわからずにいると、
「|足 項 礼《フット・ネッキング》 foot-necking といってね。ここを踏んでやるの。強《きつ》いほど喜ぶのよ」
と、ポーリンがささやいて彼の項《うなじ》を指した。
「こう?」
クララは、右足を平伏しているこの青年黒奴の後頭部に載せ、靴《くつ》の踵《かかと》を金輪にかけて支点にし、爪先のほうで項《うなじ》をギュッと圧迫してやった。
F1号が立ち上った。利発《りはつ》そうな目つきで、キビキビした動作であった。
「じゃあ、晩餐《ばんさん》に寄り合いましょう」
ポーリン遭難の救出隊一行は十二分に目的を達して、ここでひとまず別れることになった。
ポーリンはクララに向って、
「貴女ね、今この従者がお部屋に案内するから、そこで待ってて。妾《あたし》は貴女との約束があるから、あのヤプーのところに回って、奴《それ》を貴女の部屋まで連れてゆくから。そんなに待たせないつもりよ」
緩解作業を済ませてから連れてゆこうとする彼女の計画を知っていたら、クララも同行を望んだだろうが、この時はただ連れに行くだけのように聞いたし、待たせないといわれたので、いわれるとおりにするしかなかった。
「ええ、いいわ。麟《リシ》――瀬《ミスター》……」、瀬部氏[#「瀬部氏」に傍点]といい直しかけてやめた。
「麟のこと、お願いするわ」
「じゃ、あとでまた……あ、ちょっと」、急いで左腕から腕送話器《マイク》をはずすとポーリンはクララに渡した。
「これお持ちなさい。便利よ」
「いいの? 貴女は?」
「別のが部屋に行けばあるの。従者もいるし、心配いらないわよ」
従者一人を連れてポーリンは歩み去っていった。ニューマが続いて駆け出し追い抜くのが見えたが、それを彼女が呼び掛けて、
「ニューマ、お前は部屋にお帰り。また悪戯《わるさ》されちゃたまらないから」
という声が聞えてきた。
犬は軽快に走って姿を消した。ドリスやセシルも次々に去っていった。
クララは少々心細くなったが胸を張り、残っていたウィリアム・ドレイパアに挨拶を済ませ、F1号に案内を命じた。
少し行くと後ろから足音がして、
「クララ、もしお許しいただければ、お部屋までお伴して、少しお話ししたいことがあるんですが……」
というウィリアムの声が聞えた。従者も連れて、二人で追って来たのだ。出がけに遊んでいた|巨 大 蜘 蛛《ジャイアント・スパイダー》の生餌かい[#「かい」に傍点]が中途だったのに、すっかり忘れていたのは、よほどクララのことを気にしていたのだろう。
「どうぞ、こちらからお願いしたいくらいよ」
エレベーターでだいぶ上った。開閉機が開くと立派な廊下がある。昇降も開閉も自動的だが光電管などの機械的な仕掛ではない。矮人が隠れて操縦している一種の有魂装置《ソウル・マシン》だった。絨毯《じゅうたん》を踏んで、ある私室の前まで来たところでF1号が立ち止った。ウィリアムがいった。
「さあ、|扉 魂《ドア・ソウル》に新しい|主 人《ミストレス》の声を聞かせるのです。開けよ≠ニお命じなさい」
「|開けよ《オープン》」、クララはそのとおりいった。言下に扉《ドア》が開いた。ウィリアムは彼女に先を譲りながら、
「これで脳波型と声波型を覚えましたから、これからは貴女が近づけばひとりでに開きます。他の人の声では開きませんが、貴女の命令なら開くわけです」
4自動椅子《オート・チェア》
――これが妾《あたし》の私室か。
クララは心を落ち着けて見回した。奥に寝室に続く扉《ドア》を持つ二間続き。こちらが応接間だ。絨毯もセットも豪奢《ごうしゃ》なもので立派なソファと肘掛椅子があり、その間に素裸の男がひざまずいていた。その背中に大きな傷……と思ってハッと悟った。円盤の中で見たものの倍はあろうか、普通人の大きさの肉足台ヤプーなのだ。傷と見たのは、足形に刳《く》った凹《くぼ》みで、二つずつ方向が逆に、計四つついていた。ソファの客とそれに向い合った肘掛椅子のホステスとが、両方からいっしょに足を載せられるようになっていたのだ。
外にも二分の一くらいに縮小されたヤプーが室の四隅《よすみ》に立っていた。何に使うものだろうか?
クララはホステス用の肘掛椅子に掛けながら、従者に向って、
「名前は?」
「名前……|F組頭《かしら》はジョウでございますが……私奴《わたくしめ》はただ|F1号《エフ・ワン》とお呼び下さいまし」
「組頭以外は名を知る必要はないんですよ。僕もこの別荘にもう何日も泊ってその間ずっとあのM9号を使ってますけど」、ウィリアムは、ソファに深々と腰を下ろしつつ、部屋の内|扉《とびら》口近くに立つ自分の従者のほうを顎《あご》でしゃくって、「いまだに番号以外は知りませんよ。……おい」
「はい」
「煙草《たばこ》」
「はい」
M9号は進み寄って、ウィリアムの上衣のポケットからパイプを取り出し、精気《ホルモン》結晶の刻みを詰め、点火して彼にくわえさせた。クララは肉足台の凹みに足を置いてみたくなり、靴を脱ごうとしたが、この男が自分のポケットからパイプを取り出すだけの作業さえ従者にやらせるのを見て、内心あきれると同時に、従者の使い方を実物教育されたような気もし、自分で靴を脱ぐ動作を中止した。
ウィリアムは、煙を吐きながら、
「クララ、ちょっとお話ししたいことがあるんですが、貴女まだ奥の部屋も見てらっしゃらない。……着替えや化粧もありましょうし、僕ここで待たせてもらいますから、どうぞ、先に奥にいらしって[#底本「いらしって」ママ]下さい」
奥にも部屋があるのに先ほどから好奇心を起していたクララは、それをよい機会《しお》にして、
「じゃあ……」
と立ち上ろうとしたが、ウィリアムの声がその動作をさえぎった。
「自動椅子《オート・チェア》です。右のペダルを踏みながら、行先をおっしゃればいいんですよ。左を踏めば止ります。来客用だから読心能《テレパシー》はないが……」
そういいながら、いつの間にかソファの横に来ていた二分の一縮小ヤプーの顔に向けてパイプの灰を落し、ついでにプッと唾《つば》を吐いた。クララはハッとしたが、このヤプーは灰と唾が顔面にかかろうとする一瞬、パクリと口を開いて含んでしまった。そして用済みの合図なのかパイプで頭をコツンとたたかれると、尻《しり》からコードを引きつつ、部屋のすみに戻って行った。これは肉痰壺《スピツーン》という一種の不浄畜《ラヴァタ》で、落ちかかる小さい物体を素早く口中に含むことを専門に仕込まれてあった。これを使用する場合、あらかじめ口を開かせたりする必要はない。いきなり顔の近くで唾を吐きかけても、必ず口中に収める素早い動作は、蛙《かえる》が蝿《はえ》を呑む時のようで目にもとまらぬ早業《はやわざ》なのである。
しかし、クララはいつまでもそんなものを見ていたわけではない。膝《ひざ》を曲げた時、両足が載るような位置にペダルがあるので、その右をぐっと踏みながら命じた。
「奥へ」
自動椅子《オート・チェア》は矮人《ピグミー》登場以前からの伝統的な生体可動家具で、貴族の私室で愛用される。外見は革張りの肘掛椅子だが、小型の自動車になっており、しかも腰の下に天然スプリングとしてのヤプーがはいっていて操縦者を兼ねているのであった。両肘のところに宝石ようの装飾があるのが眼鏡で、屈折鏡《プリズム》の作用でヤプーには前方が見える。四肢(ただし後肢は膝から下がない)を突っ張って背中で使用者の尻をささえねばならないから、腕や手の自由は利かないが、十本の指と顎に固定した槓桿《レバー》とで椅子を自在に操縦する。読心能付《テレパス》の場合なら、使用者はまったく体を動かさずに部屋中どこへでも行けるのである。もっとも、ふと心に思っただけで、ほんとうにその気にならぬうちに動き出したりしないように、使用者が右のペダルを下に押して初めて始動《セット》し、左を押せば止る仕掛になっている。
クララの自動椅子は、命令に応じて、奥に続く扉のほうへ進み始めた。この扉も既に彼女の脳波型を知ってるのか、椅子の前に音もなく開いた。F1号が続く。扉が閉じた。
クララは豪奢な寝室の中に自分を見いだした。
5緩解注射
一方、クララと別れたポーリンは、従者一人を連れただけで、エレベーターで降りて行った。『イース』では白人は地上階に住み、黒人や原ヤプーは地階で暮す。さっき動路上から指令してクララのヤプーを運ばせておいた獣医科手術室は地階深くにあるので、そこへ緩解作業を見に行くのである。
ネアンデルタールを捕獲してきた時にも、獣医に緩解注射させるのだが、ポーリンは平生緩解されて元気になって地上《うえ》に送られて来た奴しか用がないので、今まで緩解作業そのものを見たことはない。しかし、今日はクララとの約束もあり、責任上自分で緩解作業に立ち会うことにしたのだ。かくて珍しくも、若奥様の地階深層御来臨となったわけである。
獣医ジムは黒奴である。イースでは、単に医師といえばもちろん白人だが、彼らは黒奴やヤプーの診療はしない。手がけがれる[#「けがれる」に傍点]からである。そこで、黒奴、ヤプー、天馬《ペガサス》等のためには黒奴の医者がいた。この獣医もその一人で、ヤプー専門であった。医者といっても黒奴だから、もちろん奴隷の身分である。まだ若く経験も浅いのだが、学業成績を買われて地球別荘の新築落成とともにここに派遣され、組頭《チーフ》待遇で別荘内の数多いヤプーの健康管理を命ぜられたのだ。
寝台にヤプーを寝かせ、護送の二船員を待たせて、緩解薬を合成し終り、これからというところへ、ポーリンがはいって来た。
「ウヘーッ」
白い手術着の裾《すそ》を乱しながら、彼は平伏した。看護婦N5号もそれに続いた。
ポーリンは、彼の頭を軽く右足で蹴って、
「よし、仕事をお続け」
と命じた。これは足蹴礼《キッキング》 kicking といって、|足 項 礼《フット・ネッキング》より少し略式の答礼である。
「薬は?」
「でき上ったところでございます、若奥様」
「早くおし」
「はい、畏《かしこ》まりました」
彼女は見回してヤプーを認めた。たくましい男性の全裸体が寝台に仰向けられていた。導尿管を挿入してある部分が否応なしに目にはいるが、彼女は何の動揺も示さなかった。二〇世紀の女性が飼犬のそれに羞恥《しゅうち》を感じないのと同じだった。
麟一郎のほうは、体こそ凝《じ》っとしていたが、内心の動揺ははなはだしかった。声でクララではないとわかる。どうもポーリンらしいが、いったいどうしてポーリンが来たのだろう? クララの身に何かあったのか、それとも俺を……。
獣医はN5号に命じてヤプーに手錠・足錠を施させようとした。ネアンデルタールは麻痺が解けるとあばれだすからいつもそうするのだ。が、ポーリンは、
「そんなもの、要らないよ」ときつくいった。
「は?」
「要らないんだよ」
狩り立てて捕まえたネアンデルタールと違って、このヤプーはクララに伴して温順《おとな》しくすわってるところを、ニューマがうっかり咬んだんだ。だから、そんな厳重な警戒は必要ではない。どうせすぐ上階《うえ》に連れてゆくんだし……。
ポーリンの気持はそんなことであったが、命令の理由をいちいち説明するなんて不見識なことはしないのがイースの白人だ。
彼女の意向は絶対命令である。ジムは緩解薬液を満した太い注射器を取り出し、麟一郎の太腿《ふともも》にズブリと突き立てた。
美しい若奥様に足蹴礼を受け、その御前《ごぜん》で仕事をするという破天荒の光栄に、若い獣医はすっかりあがってしまって手がブルブル震えた。
「だらしないわよ。震えてるじゃないか」
ポーリンに笑いながらしかられて、獣医はますます震え出し、麟一郎の注射の苦痛を倍加させた。
が、どうにかこうにか注射は終った。
「この薬はすぐ効くって聞いてたけど?」
「は、三十分で、若奥様。毒が少しでも残ってますとまったく体が動きませんが、毒が消えますと瞬間的に元通りになります。漸層的でなく飛躍的に肉体能力が戻りますのがこの|衝 撃 牙《ショック・ファング》の毒の緩解経過の特徴でございまして……」
「三十分ね、その時また来るわ」
この部屋でただ待っているより、この機会に地階の黒奴舎でも見回ってみよう、とポーリンは獣医科手術室を出て行った。従者のA3号が形に添う影のように、従った。
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第一二章 水晶宮の上階と地階で
1靴具畜人《シュー・ヤプー》
クララは自動椅子に乗って寝室にはいって行った。衣装箪笥《いしょうだんす》の前で左のペダルを踏んだ。F1号が聞いた。
「お召替えは……部屋着になさいますか?」
「そうね、それにスリッパにはき換えたいわ」
ちょうどそのとき、箪笥の横から、奇妙な生体家具が現われた。身長は三分の一縮小型で、頭部と両腕だけが尋常の大きさだから、手長の頭でっかちだが、変っていたのはかぶっている帽子(?)の頂上が平らになって、その上に一足のスリッパがそろえて載せてあることであった。それに頭髪が異常に長く、左右に分けて編んだ黒い太い髪束が左右とも五十センチくらいに伸びており、その先にブラシが結びつけてある――と見えたが、実は、そのたばねた頭髪の一本一本を握り部の無数の小孔から通し、その裏の面で切りそろえて、ブラシに作りあげてあるのだ。つまりこのヤプーの髪の毛は、生きながらブラシそのものの一部分になっているのであった。
いうまでもなく、これは靴具畜人《シュー・ヤプー》である。ぜいたくな貴族は、戴靴奴《くつぬぎ》、搾靴奴《くつもち》[#底本「棒靴奴《くつもも》」修正]、磨靴奴《ブラシ》など皆別々に取りそろえるのが建前だが、ここは別荘だということから各種兼用の多能具を備えつけたものであった。
奴《それ》はクララの椅子《いす》の前にひざまずき、下顎《したあご》を床に接触するまで下げると、頭上のスリッパがちょうどクララにはきよい高さに位置した。ひどく長い両手を伸ばして、その姿勢を変えずにじょうずに彼女の靴《くつ》を脱がせるので、クララは、片足だけ、頭を踏むようにしてスリッパを突っかけた。一見帽子と思ったが、それは周辺の枠《わく》からそう見えただけで、靴底が周辺の枠組を残してじかに頭頂を踏み荒すためにそうなのだとわかった。もっと驚いたことに、靴具ヤプーは脱がせた靴を頭に載せると、出てきた元の場所に戻って行き、そこにすわって、今度はクララがその靴を使う時までに舌で塵埃《ほこり》を紙め取ったうえに、頭髪の靴ブラシを使ってみがき上げ、|足 裏 布 団《プランター・クッション》を取り換えておくのである。
履物《はきもの》を換えたわずかの間に、F1号は着替えの用意を整えて待っていた。三つ揃《ぞろ》いのスーツを脱がせてくれ、しかも下着まで脱がせようとするのだ。ちょっとびっくりしたが、彼女はイースの風習を知らないというひけ目がひそんでいるため、強いて止めずに、やらせてみるほうが恥もかかず風習がわかっていいような気もした。もっとも昨日までのクララだったら、黒奴にもせよ、若い男に手伝わせて下着を脱ぐことなど、羞恥心からとても許せなかったろうが、いつしか彼女は、無意識にイース人らしい黒奴観を身につけてきていたのだ。
下着をよく替えるのは、イース人の身嗜《みだしな》みである。ことに女性は下着を汚しやすいから、できるだけたびたび取り換えるのがオシャレとされている。黒奴の従者に手伝わせるのはその場合当然のことだ。女主人の肉体に劣情を催すような不届きな黒奴には恐ろしい処罰が待っているから、べつに去勢した奴を使う必要はない。黒奴は我慢する義務があるのであった。その代り、はき捨てられたパンティなどの下着に対して優先権が与えられる。後に説明するように、白人の下着はサヨナラ・パンティ、サヨナラ・ブラジャーであって、黒奴にはご馳走《ちそう》になるのである。
彼女は裸になって新しい下着をつけ、細身のズボンとジャンパー風のコートを着た。来客用に各種の寸法の衣服が用意されている中から、クララの体に合った寸法のセットをF1号が選《え》り出したのである。新しい服のうつり[#「うつり」に傍点]を見る鏡は、円盤の中のと違って四面鏡だった。
彼女は化粧台にすわった。鏡台付矮人《ミラー・スレイプス》たちに手伝わせながら、F1号が髪や顔を作ってくれた。元来、従者は単に主人の手の代用品であるだけで、化粧など特殊技能には専門の黒奴が別にいるのだが、急いでいるクララは構わずに彼にさせたのだ。彼の感激はいうまでもなかった。
室内にはまだいろいろの家具があった。クララは寝台を詳しく見なかったが、さもなければ、円盤内で見たのとは形の異なる舌人形《クニリンガ》と轆轤首型単能肉便器《ロングネックド・セッチン》とが寝台の下にはいっているのに気付いたことだったろう。
衝立《ついたて》の裏には浴槽があって、その横に傴僂型単能肉便器《ハンチバックド・セッチン》が据えてあった。標準型のセッチンとは形が違ったが、腰掛便器の形だからすぐわかる。一昨日から便通がなかったのが、先ほどのソーマが効いたのか便意を催してきているところだったので、彼女は使ってみる気になった。それは来客用で専用器ではないから生体彫画などの個人的趣味は省いてあったが、単能具にふさわしい体をしていた。よく発達した馬蹄肉瘤の内底に後頭部を接して仰向けた大きな顔があった。| 唇 《くちびる》の裂目も大きい。胡坐《あぐら》して開いた両|膝頭《ひざがしら》が偏平になって、使用者がそこに両足を載せるようになっていた。
またがってみると、同時に|孔 釦《ホール・ボタン》が開いてお尻が露出した。それをささえる肉瘤の暖かい感触は今まで使っていた水洗便所の冷たい腰掛よりずっと気持がよかった。
尻の下に口を開けている人間(?)の顔があることは、もはや少しも彼女の羞恥心を起させなかった。かたわらに立っていたF1号のほうこそ多少気にかかったが、さっき裸まで見せたあとのこと、その前で排泄《はいせつ》できないほどに羞恥を感じるというほどではなかった。「黒奴なんて人間じゃない、半人間よ」といったポーリンの言葉が思い出された。円盤内のあのときの論争であった。(第四章1「知性猿猴とは?」参照)
と、連想は、またもや麟一郎《りんいちろう》のことに返るのだった。
――麟《リン》はいったいヤプーなのかしら?
いや、彼がヤプーかどうかは、すでに問題外かもしれない。確かなことは、自分の愛情がもはや彼のほうに向いていないことだった。黄色い肌のあの小男は自分の婚約者たるに価しない。こんな自明なことがなぜ今までわからなかったのか不思議なくらいだった。円筒内の体験がクララを開眼させていた。ソーマの効き目もあった。彼女は彼との関係をきれいに清算したいと思った。
しかし、円盤内で、「二人は決して離れまい」と誓ったあの堅い約束も彼女は忘れてはいなかった。その言葉の手前、自分のほうから彼に「別れよう」ということにはやはり憚《はばか》りを感じるのであった。何とか彼のほうからそういい出してくれないものか。――それは、彼がこの『イース』世界でどんなふうに扱われるかにかかっていた。ほんとうにヤプーかどうかはしらないが、現に白人たちは皆彼をヤプーと見て疑っていないことだけは事実なのだ。彼にはここは住みがたい世界、そう悟って二〇世紀球面に帰る気になってくれればいい。もちろん妾《あたし》はいっしょに帰る気はない。しかし、円筒船を手配してもらうくらいは妾から頼んでやれる。もともと麟一郎の麻痺を直しに来た妾ではないか、元の体にもどした彼を二〇世紀の世界に帰らせてやれば、それ以上の責任はないはずであった。妾は、そのうえでこの素晴らしい未来世界をできるだけ享楽すればいいのだわ。滞在できるだけ滞在して、帰らねばならなくなったら帰るとしても、もう麟といっしょになる気はしない。妾の相手はやはり白人でなければ……あのウィリアムのような……。
黙想しつつゆっくり生理上の要求を済ませた彼女は、美青年の顔を頭に思い浮べ、急いで立ち上った。
――そうだ。ウィリアムが隣室でさぞ待ちくたびれていることだろう。
|孔 釦《ホール・ボタン》が閉じた。下を見ると、食器を清拭したばかりの口が舌なめずりをしていた。太い厚い唇のみにくさ!
――妾が今まで食べたものはイース人とは違うから、こいつ、味が変だといって驚いているのかもしれない。それとも、何を食べても便になれば同じなのかしら、妾が昨日食べたのは……。
とりとめもないことを考えながら、化粧机に倚《よ》って、ちょっと顔を直すとクララは、ふたたび先ほどの応接室に自動椅子を駆って行った。
「お待ちどおさま、ウィリアム」
2麟一郎大暴れ
ちょうどクララが肉便器に跨《またが》って、麟一郎との関係をあれこれ思いめぐらしていたころ、獣医科手術室の寝台に横たわっていた麟一郎は、にわかに五体が回復してきたのを感じた。
獣医が注射針をブルブル震わしたことがかえって幸いして、薬のまわりを促進したため、注射後二十五分あまりで、毒が緩解してしまったのである。
麟一郎は半身を起して、自ら導尿管《カテーテル》を抜き去った。何時間ぶりかで自分の体が動かせる。
「クララ、直った。動けるぞ!」
喜びにあふれて麟一郎は叫んだ。
「あっ、ヤプーが……」
二十九分三十秒にタイム・スイッチをかけて安心していたジムは、突然の大声とともに、ヤプーが寝台からむっくと起き上ったのを見て仰天してしまった。予定より五分も早い。
さっき、ポーリンだけが来てクララが来なかったのに不安を感じていた麟一郎は、一刻も早く恋人に出会って、無事を確かめたかった。しかし、不案内なこの広壮な屋敷内、一人では捜せない。それに第一、素裸じゃ困る。円盤の中へ素裸ではいったのが今度の苦難の原因だったんだ。まず着る物を手に入れて、と麟一郎は思った。
獣医に向って頼もうとしたが、英語で話すのはいっこう不得手な麟一郎、とっさの際とて、なお言葉が出ずに、
「着物……着物……」
とだけいって獣医の着ている手術着を引っ張ってみせようとしたところ、獣医は動転している際とて、何か危害でも加えようとするのだと誤解してか、いきなりその手を振り払って助けを求めた。
「来てくれ、ヤプーが乱暴する……」
叫びを聞いて、奥の控え室から二人の船員が駆けつけて来た。
麟一郎は、自分は乱暴するのではない、着物を求めているだけなんだということを伝えようとしたが、彼らは耳を貸そうともせず、いきなり手錠を持ち出して、彼の手を押え、枷《かせ》を掛けようとするのだ。冗談じゃない、と手を引っ込めた麟一郎は、喧嘩《けんか》せずにこちらの希望をわからせたいとの一念から、腹の虫を押えながら、一人に笑いかけながら、何とか言葉を捜そうとした。そのとき、もう一人のほうが荒々しく、
「ヤプー、おとなしくせんか!」
というなり、いきなり拳骨《げんこつ》で頬桁《ほねげた》を殴りつけてきた。
ヤプーは服従本能の旺盛な動物といわれ、普通の原《ロー》ヤプーが人間や半人間に反抗するなどということは決してない。しかし、未調教の土着ヤプーは別物で、殴ったりすれば怒ることは当然である。それを知らぬではなかったが、若奥様が手枷をつけさせなかったくらいのおとなしそうな小男、暴れたって何ほどのことがあろう。ぐずぐずしているうちに若奥様がお見えになって、こんなところをご覧になっては大変、早く取り押えてしまわねば、といった焦《あせ》りから彼は手荒い処置に出たのだった。
麟一郎としては憤怒に自制力を失った。円筒船の船倉で、この二人から言語に絶する焦熱地獄の拷問を受けたことは、忘れようとしたって忘れられるものでなかった。恨みかさなる奴らだったが、クララに会いたいばかりに下手に出ていたのだ。それを何事ぞ、手錠だの|打 擲《ちょうちゃく》だの、理不尽千万ではないか!
「ナニヲッ」
怒鳴ると、彼は今殴った8番につかみかかった。小兵ながら、高校時代から学生柔道界に知られ、華麗な投げ業《わざ》で鳴らした柔道五段の麟一郎であった。大きな黒い8番の図体が地響き立てて床に落ちた。途端に13番が後方から襲いかかったが、危うく身をかわして、腰車|一閃《いっせん》、鮮かに決った。二人とも受身を知らないから骨を痛めて起き上れないところを当身で気絶させてしまった。
獣医の黒い顔から血の気が引いた。この狂暴な土着ヤプーの前にただ一人立つ恐怖……背後では看護婦も震えていた。
麟一郎は獣医のほうに詰めよった。相手は後じさりしながら、
「ラ、乱暴ハヨセ」
意外にも日本語であった。円筒内でも日本語を耳にしたことを麟一郎は思い出した。そうだ、ここでは日本語が通じるのだな、とっさの判断で、
「何カ着ル物ガホシイ」
「着ル物、オ前ガ?」、ジムはドス青くなった顔に素《す》っ頓狂《とんきょう》な表情を浮べた。二〇世紀世界の獣医も、犬が洋服をほしがったらこんな顔をするだろう。「ソンナ物、アルモンカ」
「ナニッ」、思わず麟一郎は語気を荒らげたが、思い直して、今度は下手に頼んだ。「ソンナコトイワズニ、頬ミマス、ドウゾ……」
3愛の告白
自動椅子《オート・チェア》に乗って応接間に戻ったクララは、ウィリアムの横に侍立する従者M9号が、両手にひとかかえほどもある宇宙船の模型を持っているのを認めた。雑誌でよく見たロケット船だった。
「クララ、矮人決闘《ピグミー・デュエル》では僕の選んだ奴は負けましたけど、勝ったら引出物にしようと思っていたこの置物は、あの勝負を離れて、やはり貴女《あなた》に贈物《プレゼント》したいと思って、今持ってこさせたところです。受けて下さいますか?」
「まあ、うれしい。喜んで頂戴しますわ。立派な宇宙船の模型だことね」
「宇宙船としてはいちばん旧式なロケット船ですがね。|宝  船《トレジャ・シップ》といって、枕元に置くと幸福が来るというんです。福の神を形どった七匹の矮人《ピグミー》が集められているんですよ……」
帆掛舟が原始的なロケット式宇宙船になっただけで、七福神《しちふくじん》の個々一人一人は同じであった。ただ、服装はやはり新しいものだけに変っていたし、船長が弁財天女《べんてん》なのも、イース世界の女権制を反映してのことだった。
もっとも七福神そのものを知らないクララには、その変化は心に留らない。ただ上蓋をはずして、中の七矮人の長頭や布袋《ほてい》腹の奇形を珍しがるだけだ。
「ほんとうにおもしろい収集品《コレクション》ね。じゃ、さっそく飾らせるわ」
従者に命じて彼女は寝台の枕元の台上に飾らせた。このためにあとで彼女の生命は救われることになったのであるが、その椿事はあとのことになる。
「お前たち、しばらくはずしてくれ」、ウィリアムは、F1号、M9号の二人とも、廊下に出した。精気《ホルモン》パイプをくゆらせつつ、「下郎は口さがないもの、余計なことを聞かれて、後で舌を抜かせなきゃならんのも面倒ですからね。御用があれば、僕におっしゃって下さい」
と弁解するようにいって、すわり直し、
「ところで、クララ、貴女《あなた》はイースの人じゃないんでしょう?」
と、ズバリといった。
クララはハッとしたが、もうこれ以上|嘘《うそ》をいっても、ボロを出すだけと観念して、
「そのとおりよ。妾《あたし》は二〇世紀球面の人間なの。それがわかったら、『氷河』号に乗せてもらえないからって、レディ・ジャンセンと相談してお芝居をしたの。ずいぶん一生懸命やったんだけど、やっぱりわかったかしら……」
「僕が変だなと思ったのは、決闘前の審判の訓辞を貴女がセシルに訳してもらったときですよ。彼は気がつかなかったようですが、家畜語《ヤプーン》の知識は記憶喪失というだけじゃなくなるはずがないんです。我々は片言もしゃべれない間に家畜語は自由になるんですから、言語障害とも思えない。とにかく普通の言葉がしゃべれて、家畜語はしゃべれないというのはどう考えても納得いかなかったんですよ。そう思って見ているとどうもおかしい。たとえばムサシに唾《つば》をやるのに指先につけてやったでしょう、ドリスもちょっと変に思ったようだけど、普通には上を向けさせておいて顔に唾を吐きかけてやるんです。貴女のはどうも前に経験ある人の記憶復活とは思えないふし[#「ふし」に傍点]がある。……まあ、それやこれやから推理したんですが、僕だけが気づいたというのは、やはり恋する者だけの|霊  感《インスピレーション》でしょうかな」
じょうずに恋愛の告白をされて、クララの白皙の頬がポッと赤くなった。相手はアポロのような美青年、自分とて憎からず思っていたところだったのだ。
「どうでしょう、もし、おさしつかえなかったら、貴女がなぜそんな冒険をなさったのか、お聞かせ願えませんか?」
「ええ、お話ししましょう、すっかり」
クララは、こうして、いっさいの事情をぶちまけてしまった。もはや、新しい求愛者に対し、何事も包み隠さないほうが得策だと思ったし、また、自分の気持としてもすべてを打ち明けたかった。麟一郎との関係、彼の麻痺、それを救うための冒険行、と話は続いたが、二人が婚約関係にあったと聞いて、ウィリアムは大息した。
「あのヤプーとねェ、二〇世紀って野蛮な時代だったんだなあ」
「このこと、他の方にも打ち明けたほうがいいかしら。だましてるようで心苦しいの」
「いや、まだ黙ってるほうがいいです。女王陛下から帰化の裁可があるまでは、記憶喪失で押しとおしたほうが面倒がないでしょう」
「帰化の裁可って?」
「え? 貴女はそのためにアベルデーンに行くんでしょう?」
「いえ、レディ・ジャンセンは、ただ麟《リン》の麻痺を直すことの交換条件として女王陛下《へいか》に拝謁《はいえつ》するようにっていっただけだったわ」
「じゃ、貴女にも真の目的をいわなかったんだ。彼女《あのひと》はなかなか策士ですからね。もちろん、貴女を帰化させるつもりだったんですよ」
「帰化できますの?」
「控下の御諚《ごじょう》があればね」
「帰化できるものなら、是非したいわ」
「陛下はもちろんご裁可なさるでしょう。ポーリン御《さん》はそれを見込んだんです。しかしどうして貴女にまで隠したのか、おかしいな……」
「そういえば思い当るわ」
クララは、麟一郎の麻痺が緩解ししだいに二〇世紀球面に引き返したいくらいで、アベルデーン行きをしぶしぶ承諾したときの心境を想起していった。「妾はそのときにはこちらに長くいる気持なんかちっともなかったの。麟のことだけで……」
「なるほど、そういうもんですかね。ヤプーに対してそんな気持になるってことだけはどうしても理解できませんがねェ。ま、とにかく、貴女のお気持が正常に戻ってきてよござんした。勇を鼓《こ》してこの球面に来られた甲斐《かい》がありましたよ」
「ええ、『氷河』号で貴方にお会いしてから、だんだん気持が変ってきたんですわ」
クララのほうも巧みに愛情を表現した。
「今ではほんとに二〇世紀に帰りたくはないんですね」
「もう思わないわ。妾にはどうせ一人も身寄りの者がいないの、両親とも戦争で亡くして……」
「野蛮な時代でしたね、まったく……」
語題をはずませながらこうして、睦《むつま》じく語り合う美男美女の四つの足が、うずくまった肉足台《スツール》の背中に刳《く》られた深い足形の凹《くぼ》みに埋まっていたのは改めて説明の要もあるまい。
4皮膚反応痛《デルマチック・ペイン》
獣医ジムを部屋の片隅に追い詰めた麟一郎は、埒《らち》のあかぬ押し問答を重ねていたが、このとき突然、勢いよく後ろの扉《ドア》のあく気配がして、
「どうしたの、いったい?」
と、さわやかな声が聞えてきた。ポーリンだった。麟一郎は救われた思いで振り返った。彼女なら、話もわかり、クララにも会わせてくれるだろうと思ったからだ。
彼女は一人だった。実は、黒奴舎を視察しながら、彼女は腕送話器《リスト・マイク》をクララに渡したのを後悔していた。あのときは、地階《した》ですぐヤプーを受け取れるつもりで、ほんのちょっとの間だから構わないと思ったのだが、こうして地下街にいる間にいろいろ命令したいことが頭に浮んだ。いつも、思ったことはすぐ腕送話器で命令しつけている彼女には、腕送話器なしの不便さが耐えられない。とうとう従者A3号に彼女の私室から別の腕送話器を取って来るよう命じて使いに出し、自分は、そろそろ三十分になるので手術室に戻って来たところだったのである。
麟一郎が振り返った一瞬の隙《すき》をとらえて、ジムは卓上の空《から》フラスコの首を握るなり、麟一郎の頭めがけて振り下ろした。臆病《おくびょう》な彼も、今、女主人の現われたのを見て、彼女に危難の及ぶことを恐れ、渾身《こんしん》の勇をふるって反撃に出たのだ。『黒奴訓』第一条には、「黒奴は忠節を尽すを本分とすべし」とある。
しかし、麟一郎のほうが素速かった。サッとかわして空振りさせたその腕をつかんで身を沈めると、
「エーイ」
見事な背負投げであった。ちょうどポーリンの立つ床の前にジムの長身が長々と伸びた。フラスコがころがった。
ポーリンは一瞥《いちべつ》して事態を悟った。
――失敗《しま》った。手錠を掛けさせておくんだった。ニューマを連れて来ればよかった。腕送話器《リスト・マイク》を片時だって身から放したことがないのに今日に限って嵌《は》めてないなんて、おまけにA3号まで……何てあいにくな……けれど、それにしても、このヤプーの素晴らしさは何としたことだろう! 大の男三人をノシてしまった腕力、それもわずかの間に……|決 闘 士《グラジャトール》にしたら大したもの、仔種《スパーマ》を取りたいくらいだわ!
イース女性は雄々しい心を備えていた。こんな場面に遭遇してもポーリンは、そんな感想をいだくだけの余裕を持っていた。
――しかし、このヤプーをとり鎮《しず》めなければ、と彼女は思案した。
麟一郎は、ポーリンの前に来ると、前のほうを| 掌 《てのひら》で隠しながらいった。
「クララニ会イタインデス」
「ウン、会ワセヨウ」
ポーリンの家畜語《ヤプーン》は女言葉としてのニュアンスのないいい回しだったが、それはヤプーに命令することに使用するだけで、女言葉として話したことがないからである。
「ソレニ、何カ着ル物ヲオ願イシマス」
乱暴者という印象を持たれたに違いないひけ目を感じ、少しでもそれを和らげようと、麟一郎は丁寧《ていねい》ないい方をした。
「着ル物?」
ポーリンは思わず問い返したが、回転の速い頭にたちまち真実を感じ取った。
――そうか、このヤプーは、まだ、自分の体に加えられた皮膚強化処置の意味を知らないんだわ。よし、これを利用して、こいつをとり押えることにしよう。
ポーリンは隅の看護婦を目にとめて、
「お前、服を全部脱いでヤプーにおやり」
「はい、若奥様」
命令は絶対であった。人前で裸になるのは、ヤプーでない以上異例のことだが、N5号は不審の色ひとつ見せ|ず《*》、すぐ服を脱ぎ捨てて、真っ黒な肌をさらし出した。靴も脱いだ。
[#ここから2字下げ]
* 主人(白人)の命令を受けて、その理由を反問することは、黒奴にとっては犯罪を構成する。黒奴同士でこれをあげつらうこともいけない。独り、心中にこのことを考えることは処罰の対象にはなっていないが、道徳的には非常に悪いこととされている。要するに、黒奴やヤプーの知性は、命令の効果的遂行に注がれるべきで、命令そのものへの反省や懐疑は許されないのである。
[#ここで字下げ終わり]
――女の服か。
しかし、不満はなかった。贅沢《ぜいたく》はいうまいと思った。飢えた者は食を選ばない。長い間の裸に麟一郎はすっかり謙虚になっていた。実際はタウヌス山腹の渓流で泳いだあのときからまだ四半日も経っていないのだが、気持のうえでは何ヵ月も着る物なしでいたように感じていた。身をまとうに足るならどんな服でもいい、いや、この服なら、半袖・半ズボンの黒奴男性《おとこ》用のよりましなくらいだった。
服はピッタリ肌に吸い着いた。手首・足首まで四肢《しし》が、包まれ、サーカス芸人の肉衣装《タイツ》のようであった。靴はひどくきつそうなので、そちらはあきらめた。裸足《はだし》でも仕方がない。とにかく、これでクララのところに行き、彼女の前に立つだけの、準備はできたと彼は思った。
ポーリンは奇妙な薄笑いを浮べて、黒奴女の服を着込んだヤプーをながめていた。もうしめたものだ。あと三分もすれば七転八倒の苦しみが始まる。……そろそろA3号も帰ってくるはずだし……などと考えていた。
「後始末は頼んだよ」、裸になったまま震えて立っていたN5号に彼女はいい捨て、麟一郎に向って命令した。
「ッイトイデ」
麟一郎は黒奴女に一礼すると、すぐ後を追った。もし彼を捕縛しようとする連中が現われたらすぐポーリンを人質に取れるよう、彼は用心深く彼女の背後にぴったりついて行った。並んでみると、彼女の体格のよさにいまさら驚くばかりで、彼は彼女の肩くらいしかないのである。
ポーリンはゆっくり歩いていった。廊下には人影がなかった。彼女の来臨はもう地階中に知れ渡っていたので、この通路は通行禁止になったに等しく、誰も出て来ないのだ。
エレベーターの手前まで来たとき、突然、麟一郎が悲鳴を上げて飛び上った。
「ア、痛《イテ》ッ、痛《イテ》ッ、助ケテクレ――」
と、全身をかきむしるような格好で、床の上をころげ回った。
莞爾《にこり》と振り向いたポーリンの目が、冷然とその姿を追った。知恵の働きで、この狂暴なヤプーの暴力を征服した喜びが輝いていた。
麟一郎の表皮細胞に含まれるデルマトロームと、服地中のデルマトコンとが|皮 膚 反 応《デルマチック・リアクション》を起し、末梢神経に激烈な疼痛《とうつう》を与えるのだ。服地の当る部分一面に針で間断なく突き刺されるのに似た、言語に絶する苦しみがあって、これを皮膚反応痛《デルマチック・ペイン》という。一時間くらい続くと止るが、そのときには皮膚は完全に剥離《はくり》し、服地と一枚になってしまっているの|だ《*》。
[#ここから2字下げ]
* ヤプー皮の生剥《いきはぎ》には二つの方法がある。剥がした皮膚に用のある場合にはコサンギニンを利用し、白血球を増加させて皮膚と肉とを淋巴液《りんぱえき》でしだいに遊離させる。そしてぶよぶよと水腫《みずば》れした状態のままなめし[#「なめし」に傍点]液に漬《つ》ける。「生《いき》なめし」といって、これによって新陳代謝を受けながらなめされて、作り出されるヤプー皮革は最も美麗で強靭《きょうじん》である。ただこの方法は肉体のほうも変質させてしまう。そこで、食用ヤプーの場合には皮膚反応を利用して剥ぐのだ。皮は捨てて、肉を使うからである。
参考「食用ヤプーも皮膚強化処置がしてあるので、皮は食べられません。そこで調理前に服型|布巾《ふきん》で一時間全身を包みますと、皮は全部布巾に付着して取れてしまい赤身になります。赤身でも保存室で飼えば一週間は生きています。剥ぐときの皮膚反応痛で分泌《ぶんぴ》された苦痛素《ドロロゲン》は二、三日で消えますから、餌《えさ》に注意して、少なくも三日間は赤身のまま生かしておき、それから調理すれば、美味《おい》しくいただけます……」(「畜人料理のこつ」から)
[#ここで字下げ終わり]
窯《かま》の中が焦熱地獄なら、これは刀葉林地獄とでもいおうか、服地を引き剥がそうとしても離れればこそ、ただころげ回るばかりである。
このとき従者が帰って来た。ポーリンは腕送謡器を腕に着用しながら、彼に命じて手術室から手錠・足錠を持って来させ、とても抵抗どころでない麟一郎の両手・両足に鎖錠させた。
「よし、じゃ、こいつの服を切り裂いて剥がしておしまい」
服の背中に切り目を作って、そこからペリペリと引き剥がす。まだそれほど反応が進行していないから、強い絆創膏《ばんそうこう》程度の付着力で、剥がしてしまえば皮膚には影響は残らない。服地が取り去られると嘘《うそ》のように激痛は去った。
「二度と服を着る気は起すまい」
ふたたび素裸に剥《む》かれた麟一郎を足元に見おろしながら、ポーリンは独《ひと》りごちた。
原因のすべてが服にあったことを悟った麟一郎は、今こそ船倉内で入棺前に聞かされた「着物ノ要ラネエ肉体ニナル」との謎《なぞ》のような言葉の真意を理解した。――そうだったのか。あの高熱棺は俺《おれ》の皮膚を変質させる窯《かまど》だったのか。俺は着物の着られない体になってしまった。どうすればいいのだ、俺は……。
ポーリンが笑いながらいった。
「サ、約束ドオリ、オ前ノ主人《アルジ》ニ会ワセルヨ」
後ろ手錠の鎖尻をA3号に取られ、両| 踝 《くるぶし》を結ぶたった三十センチしかない足錠の鎖に歩き悩みつつ、彼は彼女に続いてエレベーターの人となった。絶望が暗く心を満たしていた。今はクララの暖かい言葉への期待だけが、彼の心の支柱だった。
5鞭打《むちう》つために飼う家畜
ウィリアムは、新しい一服を吸いつけながら、ふと思い出したように訊いた。
「あのヤプー――麟《リン》っていうんでしたね――奴をどうするおつもりです?」
「そうねえ、妾《あたし》……」
さっき考えたように、送還してもらうのがいちばん得策だろうとクララは口に出しかかったが、
「どうです? 何に使います?」
再度のウィリアムの問いが意味する、何に使います[#「何に使います」に傍点]? という表現には、彼女をドキリとさせ、口をつぐませてしまうようなものがあった。
「…………」
「なるほど、いきなりそう訊いても無理かもしれませんね」とウィリアムは煙を吐きながらひとりうなずいて、
「貴女《あなた》はまだヤプーの用途全部をご存じないんだから……でも、じきわかるようになりますよ、新しい原《ロー》ヤプーを手にいれた時のさあ、何に使おうか、何を作ろうか≠ニいう私たちの楽しみが。……それに奴はまだ土着ヤプー、いや旧ヤプーだから、洗脳手術を施す間にだいぶ楽しめるわけですね」
「洗脳[#「洗脳」に傍点]……聞いたことのある言葉だわ」
「つまり、土着ヤプーから原《ロー》ヤプーを作り出すのに、なかなか手間がかかるわけです。愉快な手間がね……」
「何だかよくわからないわ」
「ヤプーは服従本能の旺盛《おうせい》な動物だと誰でもいいます。ところが実際は……」とウィリアムはさらに本格的に説明を始めた。「ヤプーを生れたまま手を加えずに放っておくと、自由意志を持つ個体に成長してしまうんです。そこで、原《ロー》ヤプーとして生産される奴らは、普通、生後一週間内に、意思去勢[#「意思去勢」に傍点]といって、生育後、自由意志を発達させるような大脳局部――|鳥 距《カルカラヴィス》の近くですがね――を剔出《てきしゅつ》して服従本能だけが残るように脳外科的に手術されるのです。ヤプーの持つ優秀な知性を十分に利用するためにはそれがいちばんいいのですね。しかし、この脳葉剔出《ロボトミー》手術は年取ってからではできません。そこで、その場合には条件反射によって脳神経節《シナプス》の当該局部回路を閉鎖させ、脳葉剔出による意志去勢と同じ目的を達成するのですが、この過程で、生育後のムダな知識経験にもとづくヤプーには有害な物の考え方が一掃されてしまうので、これを|洗  脳《ブレイン・ウォッシング》と称ぶのです。一種の精神外科的《サイコ・テージカル》[#読取不可]手術ですね」
「では麟……も」
もうクララは、瀬部氏《ミスター・セベ》と口をすべらせもしなかった。
「ええ、麟の場合はもちろん洗脳しなければなりません。時間がかかる代り、貴女に絶大な愉楽を与える時間です」
「妾がその仕事をするわけ?」
「ええ。もっとも訓練局に預ければ仕事は早いです。ですから、貴女が奴をすぐ愛玩《ペット》ヤプーにして手元に置きたいとか、さっそくセッチンにして使いたいとか――(クララは、先ほど寝室の奥で使ったあと見たセッチンの舌なめずりの様子をふと思い出した)――おっしゃるんでしたら、訓練局の技師の手に掛けるのもいいのですが、お急ぎでなければ、是非ご自分でなさることですね。おもしろい|手 術《オペレーション》です」
「でも妾はメスなど一度も持ったことないわ」
「いや、メスじゃないのです。メスの代りに鞭を揮《ふる》って施す手術です」
「え?」
「クララ、ヤプーには自由意思を認めないこの世界に、ヤプン緒島一億の土着《ネイティブ》ヤプーが人間意識を持つことを許されて生存しているのはなぜだと思います? 表面的には原《ロー》ヤプーの補給源ということになっていますが、土着ヤプーなしにだって、原ヤプーはいくらでも仔を作りますから、補給には事欠きません。実際は奴らの存在意義《レーゾン・デートル》は――」、パイプの灰を肉痰壺《スピツーン》に落しながら続けた。「私たち貴族に洗脳手術の愉楽を与える材料たるにあるといえるのです。この地球まで捕獲《とり》に来るのが遠すぎる星の人々のためには、市場でわざわざ土着ヤプーが売られているくらいです。商標は貴方の鞭のお楽しみに≠ニいうんですよ。わかるでしょう、鞭で土着ヤプーの自由意思を叩きこわし、服従本能を引き出して一匹前の原ヤプーに仕立て上げるまでの調教が、私たち貴族にとって、いかに愉快な精神的娯楽《リクリエーション》だということが――」。恐ろしいことをウィリアムは平然と語り続けるのだった。「つまり、原《ロー》ヤプーでなく、わざわざ土着《ネイティブ》ヤプーを飼う理由はといえば、自分でヤプーの洗脳をしたいから、ということです。土着ヤプーは鞭打つために飼う家畜[#「鞭打つために飼う家畜」に傍点]なんですよ」
「まあ!」
「貴女の麟《リン》はただの土着ヤプーでなく、旧ヤプーだから、いっそう洗脳し甲斐《がい》があると思いますね」
ウィリアムは、彼女が麟一郎を、飼ヤプーとして今後飼育することを当然のこととした話しぶりであった。クララはそれにはまだ抵抗を感じ、先ほどから考えていた麟一郎送還の案を逆に相談しようとした。
「妾が考えているのは……」
と切り出したが、そのとき扉にノックの音が聞え、どこからか声が聞えた。
「F1号でこざいます……お話中でございますが、ただいま、若奥様がお見えになりました」
「|おはいりなさい《カム・イン》」
クララの声に応じて、扉が開き、ポーリンがはいってきた。後に続くのは素裸の麟一郎と、彼をつないだ鎖の端を握る黒奴従者であった。
[#改ページ]
第一三章 美女と野獣
1再会
クララは、仰天して声も出ない。当然服を着ているものと思い込んでいた麟一郎《りんいちろう》が、一糸まとわぬ姿で戸口に立っているのだ……。
――じゃ、あのとき別れてから、ずっと裸のまま置いとかれたのかしら? セシルは服を着せるようなことをいってたが……。
一瞬怪しんだとき、
「クララ!」
という、喜ばしげな呼声があがると見たとき、麟一郎は急に後じさった――と見えたのは、鎖を握る黒奴《ネグロ》に前進をさえぎられて、逆に引き戻されたからだ。後ろ手錠、いや、足錠まで! いったい何としたことか!
頭では、麟一郎に対して否定的評価を強くしてきていた彼女ではあったが、今、その哀れな姿を目前にすると、憐憫《れんびん》の情が一時にわいた。女心とは不思議なものである。何といっても、半年の間あんなに愛し合ってきた仲ではなかったか! ヤプーだと聞かされ、そうかと疑ってはいても、こうして目の前に現われればいろいろな思い出が湧き、ヤプーだなどと、とんでもない作りごとを聞かされた気がする。彼が「人間でない」なぞ、どうして信じられよう。
「麟《リン》!」
「クララ!」
クララは思わずそばまで寄って声をかけた。しかし、抱擁《ほうよう》はしなかった。先に、円盤内で、ポーリンの視線《みるの》にもかまわず接吻《せっぷん》したときのクララとは、微妙に変化していた。
麟一郎がもう一度前へ出ようとして邪慳《じゃけん》に引きもどされ、鎖がチャリチャリと音を立てた。見方によっては、それは、旧主人と見かけて勇み立つ犬が、新しい飼主に制止されているような光景とも思えるのであった。
「ご免なさいね、遅れて」と、ポーリンは従者に目配せして鎖の端をクララのほうに差し出させ、自分も鍵《かぎ》を渡しながらそういった。
「緩解《なお》してやったらひどく暴《あば》れてね、仕方ないから鎖を掛けていたの。檻《おり》に入れてから連絡しようかとも思ったけど、緩解して返す[#「緩解して返す」に傍点]って約束だったから、いちおう貴女《あなた》の手に、と思ってね。遅《おそ》くなってご免なさい。……すぐまたお預かりしてもいいのよ。でも、ともかく返すわね」
「確かに……ありがとう」
手錠の鍵をクララがあけようとしたとき、そばからウィリアムが、あわてて口をはさんだ。「あぶないですよ、そんな乱暴なヤプーを……」
「乱暴なんかしないよ」、麟一郎は怒りをいじらしいまでの努力で押えながら、それでも精一杯の抗議をこめていった。そしてクララとの間だけのドイツ語に懐《なつ》かしみをこめ、「着物をくれ、といったら、皆でひどい目にあわせるから、それで抵抗したんだ。ひどい奴《やつ》らばかりだよ……」
訴えるような、ほとんど哀願するような目で恋人の顔を仰ぎ見た。
クララは、すぐにも鎖を解いてやりたい気持であった。が、ここで解いてはウィリアムと喧嘩《けんか》になる、と思い直した……では、ウィリアムに部屋《へや》から出てもらうか? いまさらこうなってはそれも不自然だった。
ともかく麟一郎と二人だけで話をしたかった。彼女は決心していった。「隣室《となり》で彼と話し合ってみたいの。お待ち下さるなりお引き取りいただくなり、どちらでも……」。そして麟一郎を顧みては、わざと英語で聞えよがしに命令した。「こっちへいらっしゃい、麟《リン》!」
自動椅子《オート・チェア》を使うのも忘れて隣室に消えたクララの背後を、後ろ手錠から引鎖をぶら下げ、足錠に足をとられながら麟一郎が従った。
2ウィリアムの心配
「大丈夫かな」
従者に用意させたパイプをくわえた美青年は、手真似で彼らを追い出しながらつぶやいた。
「うん、奴《あれ》はもともとはよく馴《な》れてたから、彼女に対して乱暴することは決してないと思うわ」
「ポーリン、僕の心配しているのは違うんだよ。……僕、知ってるんだ、真相を。あのヤプーは馴れてたどころか、彼女の婚約者[#「婚約者」に傍点]なんだね」
「まあ、彼女が打ち明けたの?」
「僕のほうが嗅《か》ぎつけたんだ、彼女が旧世界の人に違いないってね」
「……そうお、いずれはわかる、とは思ってたけど……。他の人には秘密よ、ビル」
「それは大丈夫だが……心配だな」
「何が……」
「寝室にはいって……」
ポーリンは高笑いした。
「ばかな、いくら何でも。……彼女に対して失礼だわ」
「でも、初め手錠をはずそうとしてただろ?」
「考えてもごらんなさい、そんな気があれば人の前で寝室にはいれて? そりゃ、円盤《ヨット》の中では本気に婚約者《フィアンセ》扱いしてるようだったわ。でも、今はもう違うはずよ。だからこそ平気で寝室に連れ込めたのよ。古代語を聞かれたくなかったからじゃないかしら」
「そういわれれば、そうかな」
「第一、奴《あれ》はもう強化皮膚になってるから、ベッドにははいれっこないわ」
「そうだね、どうやら安心した……」
「ひどく気にするのね」
「だって……」
「ビル、貴方《あなた》、彼女が好きなのね」
「好きだ、一目見たときから……」、青年は急に雄弁になった。「僕はこんなおてんば[#「おてんば」に傍点]でしょ? あれじゃ、結婚しても良い夫にはなれまい、なんて陰口きかれたのも知ってますよ。結婚はあきらめてたし、また、これなら、と思う女《ひと》にも出会わなかった。それがあのコトヴィッツ嬢は……」
「フォン・コトヴィッツ嬢よ」
「フォン・コトヴィッツ嬢は違うんだ。前史時代の女は、みんなあんなにしとやかなのかな、とても内気なところがあって……」
「そう、妾《あたし》たちより遠慮深いわね。男みたい」
「そうなんだ。さっきも、僕に会ってからあのヤプーに対する気持が変ったっていったけど、きっと、遠まわしに、僕が嫌《きら》いじゃないってことを表現したんだと思う。普通の女性の、ズバリとした求婚とは違うよ」
「おてんば[#「おてんば」に傍点]の貴方には……」
「……似合いの妻だろうと思うのさ」
「なるほど、貴方が彼女に惹《ひ》かれた気持もわかるけど」、ポーリンは考えぶかそうにいった。「クララはいつまでもそんなままかしら? ほんとうは女のほうが強いんだとわかったときにも変らないかしら? 彼女はまだ何にも知らないんだから……」
「変らないと思うよ」、ウィリアムは目を輝かせた。「前史時代人だもの」
「でも、ヤプーがどんなものかをちょっと知っただけでも、もう彼女の、あの旧ヤプーに対する気持は変ったのよ。男がどんなものか、それを知ったときに、ビル、貴方に対する気持も変らない、とはいえないわ。とにかく、彼女は、まだ妾たちの世界のことは何にも知らないんだから……」
「そうかな……」
あまり歓迎もできないことをズケズケいわれて、ウィリアムは黙って考え込んでしまった。ポーリンは立ち上りながらいった。
「ま、貴方はここで待ってたほうがよさそうね、じき出て来るだろうから。それから、あのヤプーをどうするか、相談にのってあげるといいわ……妾、打合せが残ってるの。明日『タカラマハン』に|前 地 球 都 督《エキスガバナ・オブ・ジ・アース》を訪問する予定よ。ちょっとそっちを済ませてくる。それからヤプーを受け取るわ」
「前都督《エキスガバナ》って、あの探検家のアンナ・テラスのこと?」
「そう、彼女にヤプムの鑑別法《めきき》を教えてもらうことになってるのよ」
「なんだ、ポーリー、今度の休暇旅行はヤプム買いが狙いだったのか」
「そうなのよ。なにも人に宣伝することもなし、新築別荘の検分のためということにしてあるけど、実はそうなのよ。ソフィアのときは、いちばん高価《たか》い地球ものを買ったんだけどあまりいい品じゃなくてね、妊娠七月《ななつき》めに病気されて……」
「そうだったね」
「だから、今度は直接|富 士 山 降 臨《フジヤマ・ディセンディング》して選《え》ろうと思うの。アンナが案内してくれるのよ」
「僕も会ってみたいなア、あの女性《ひと》には。一昨年出した『妾達姉妹は神話となった』という本、おもしろかったね。彼女の妹は……」
「スザンのこと知りたきゃ、明日行ってアンナからお聞きなさい。じゃ……」
心配をまぎらそうとしてか、ウィリアムはもっとその話をしたそうだったが、気の急《せ》いてるポーリンは早々に出て行ってしまった。ウィリアムは、所在なさそうに肉痰壺《スピツーン》の頭をパイプでポカリとたたいたり、肉足台《スツール》の顔を蹴《け》りつけたりしていたが、寝室の扉《ドア》がなかなか開かないのに焦慮して、不安に苛《さいな》まれてきた。
――いったい、いつまで話してるんだ。おもしろくもない……。
部屋《へや》の外に待つ従者を呼び入れると、一言命令した。
「霊液《ソーマ》」
3|郭 公 手 術 法《クックー・オペレーション》
前節の二人の対話は、解説なしには理解し難いだろうと思われる。しかし、広大な飛行島《ラピュータ》『高天原《タカラマハン》』やその主《あるじ》なるアンナ・テラスについては、明日、クララがポーリンと行を共にするときまで好奇心を押えておいていただくよう読者にお願いし、ここではヤプムについての説明をするだけにとどめよう。だが、その前に「郭公手術法《クックー・オペレーション》」について一言するのが順序のようだ。
地球紀元で換算すると二三世紀中葉のことだが、ある畜人飼育所《ヤプーナリー》で胎盤移植[#「胎盤移植」に傍点]に成功した。妊娠初期の胎児を雌ヤプーの子宮から別の雌ヤプーの子宮に移して発育出産させたのである。後者は単に母胎的環境条件として影響するだけで、生れて来る仔《こ》は、まったく前者の遺伝因子を備えているのは当然のことであった。これが郭公手《ほととぎす》術法(cuckoo operation)の名を得た所以《ゆえん》である。
これは、間もなく人間の女性に応用されるに至った。受胎に気づいたら、胎児を胎盤|諸共《もろとも》に子宮から取りはずして適当な雌ヤプーの子宮に植えれば、以後、出産までの母胎の苦労を味わわずに自分の子が得られるのである。有史以来最大の女性の福音[#「有史以来最大の女性の福音」に傍点]と喜ばれたのも無理はない。そして、事実、二七世紀初頭に起った|女 権 革 命《フェミナル・レボリューション》への物質的基礎を形造ったのはこの手術法のおかげで、女性が、妊娠・出産という生理的宿命を払いのけてしまったのである。
しかし、発明当初から比較すると、この手術法自体もその後大きく進歩した。
第一に、胎児を取り出す方法である。掻爬《そうは》は危険でできないから、初期には帝王切開したうえで取り出した。切開手術の一時間のほうが、妊娠十ヵ月間の労苦よりはいい、とされたのである。しかし、いくら外科技法が進んで無痛手術といわれても、帝王切開は大手術である。なるべくなら母胎を傷つけたくない。あたかも、前世紀から発達してきていたヤプー縮小の技術(第九章3「矮人種の歴史と現状」参照)が、黄体ホルモンの検出法の進歩によって受胎直後に胎盤の形成を確知しうるようになったことと相まって、直接、母胎子宮内から胎児を取りはずしてくることを可能ならしめるようになったのだ。現在では、この手術は妊娠一ヵ月前後に行なうべきこととされ、「|肉 鉗 子《フレッシー・ピンサーズ》」(fleshy pincers)として、あらかじめ子宮内作業を修得させた極小畜《ミゼット》を女主人の womb にまでもぐって行かせて、まだ小さな胎児を胎盤ごと取って来させるのが常のやり方だった。身長三センチ余の小人の繊細な手指《ゆび》には、金属製鉗子《フォーセップス》では不可避な危険が皆無である。
第二には、胎児の発育容器となる雌ヤプーの側の問題である。遺伝因子には影響しないにせよ、母胎の環境条件が胎児にとって無視できぬ重要性があることはいうまでもない。当時は、まだ「三色摂食連鎖機構《トリコロル・フッドチェーンシステム》」のできる以前で、ヤプーの栄養が今日のように一定していなかったが、エンジン虫の吸い上げる栄養液が、およそ正常の人士の口にするを避けるようなものであることは、そのころも今と変りはなかった。そこで、そういう汚れた母胎から白人の胎児が栄養を摂取するのは、はたしてどうであろうか? ということが問題であり、――白人女性の身代りになる雌ヤプーにはエンジン虫を寄生させず、人間なみの食生活を許し、ことに、いよいよ「神の胤《たね》」を宿して後は、白人とほとんど同じ高さにまで食生活を向上させてやる――一つには、それがヤプーの精神を明るくして、胎教的にも好影響があるからだが――という形でこの問題への解答が与えられた。
だが、まだ難点は残った。いやしくも人間[#「人間」に傍点]の赤ん坊が、畜生[#「畜生」に傍点]たるヤプーの股《また》から生れるなどとはとんでもない、という当然の議論である。さらには、ヤプーの仔を宿す同じ子宮にはいって育つのでは、まるでヤプーとは姉妹・兄弟と同じになるではないか、という当然の感情論である。処女の雌を特に選んで「神の胤」を受胎させ、月満ち分娩《ぶんべん》が始まる、その第一期、すなわち陣痛を感じたらすぐに帝王切開して、胎児が膣《ちつ》を通過しないうちに分娩させるという方法がとられたのは、こういう当然の問題に解答を与えるためであった。
イース文明の発展に伴い、ヤプーの雄と雌とは職能を分化し、人間の使役に応ずる生きた道具としてはもっぱら雄が用いられ、雌は、その道具を生産する機械として存在価値《レーゾン・デートル》を認められるようになってきた。この雌たちのほかに、数でこそ少ないが、ヤプーを生産する代りに「神の御子《みこ》」の成育容器たるを任務とし、そのための教育を受ける専門の雌が現われるに至ったのは、「郭公手術法」の進歩に照応するものだったということができよう。これがヤプムである。節を改めて詳述しよう。
4子宮畜《ヤプム》
「郭公手術法《クックー・オペレーション》」は、初めは貴族夫人《ピアレス》――当時は女権革命以前である。むしろ、この手術法が平民《ブレプス》に普及して後に、そのゆえにこそ革命となったのである――の専有物だった。彼女らは、必要に応じて地球のヤプン諸島に出かけて行った。読者もすでにご承知のとおり、土着ヤプーは人間的衣食住生活を享有しているから、その雌の「子宮《ウーム》」(womb)を利用することは、その限りにおいては不潔感はない。昇天(土着ヤプーがイース世界にはいること)後も、エンジン虫を呑《の》まさずにおけばよいのである。
もちろん処女でなければならない。骨盤は広く丈夫で、胎児を充分発育させるようでありたい。しかし、あまりお産が軽くて帝王切開手術の前に胎児が膣《ちつ》を通過しては困るから、腰部以外は華奢《きゃしゃ》な難産型の体格が好ましい。容貌《ようぼう》・知能・血統も、優秀なのにこしたことはない。――昇天したい雌は無数にいるので、貴婦人たちは、その中から右の諸条件にかなった好みの一匹を選び出せばよかったのだ。
こうして選び出した雌を、彼女らはヤプム(yapomb)と称《よ》んだ。子宮畜《ヤプー・ウーム》(yapoo + womb)の意である。
しかし、そのうち平民女性間にもこの風《ふう》が瀰漫《びまん》してくると、ヤプン諸島のヤプーだけでは需要を満たしきれなくなった。貴族の婦人たちは、特権を維持するために、平民用のヤプム専門の大飼育所を興した。これが、シリウス圏アマゾン星にある「女護島」である。ここには、地球のヤプン請島から移住させられた標準型のヤプムが、処女生殖《ヴァージン・バース》によって繁殖させられていた。ヤプムは食生活は特別でも、衣生活は一般ヤプーと同じで、皮膚強化処置《デルマタイジング》を受けているのだから、島の全住民が全裸である。ここで育って、十八歳になった処女が『イース』中に移出されて平民女性の身代り子宮となるのである。
貴婦人たちは、これを「アマゾン物《もの》」として軽蔑《けいべつ》する。彼女たちは、直接「地球物」を使用する特権があるのだ。平民たちの需要を排除すれば必要数も少なくなるから、自由に選択できる。そのための大規模な組織が、いわゆる処女検査制度《ヴァージン・エグザム》であって、しかも、これが「畜人省土着畜人局」の事業としてでなく、『邪蛮《ジャバン》』国政府のほうからの自発的措置として行なわれているのだからおもしろい。『邪蛮』国の全女性は、満十四歳になると、国立検査場に行って、容貌《ようぼう》・体格・健康・知能・性格等、あらゆる面からの検査を受け登録される。ちょうど、昔の兵役義務による懲兵検査のような国民的義務なのだが、合格者が何千人に一人というほど選別基箪がきびしいこと、受験者の誰《だれ》もが合格を熱望している、といったことが兵役とは異なる点であった。検査成績に、なお、門地その他の内申を総合したうえ、特別優秀者だけが選抜されてヤプム要員[#「ヤプム要員」に傍点]となる。国民は彼らを「お袋様」(家畜語のおふくろ[#「おふくろ」に傍点]とは、子袋、すなわち子宮を意味する)とか、「聖母《マリア》様」(神の胤を処女受胎するからである)とか称《よ》んで崇《あが》め尊《とうと》ぶ。
満十五歳を過ぎると、その次の満月の夜、|富 士 登 山《フジヤマ・クライミング》が行なわれる。山麓《さんろく》で再検査を受けて合格すると、裸になって皮膚強化処置を施され、そのうえで山頂を目ざす。烈風が黒髪を乱し、激しく吹きおろしてきても、素裸に肌をさらしながらも、何の寒さをも感じない。彼女らは、いよいよ神に近づいたのかと、歓喜するのである。
山頂にある修道院《ナナリー》(nunnery)――イース貴婦人にとっては、飼育所《ヤプーナリー》(yapoonery)だが――で、『邪蛮』全国から選《え》り抜かれた美貌の乙女《おとめ》たちは、満十八歳になるまで修行する。高貴な神々の「お袋」となる身の幸福《しあわせ》を思い、それに伴う責任を感じている彼女たちは、妊娠・出産・授乳時の衛生法等の学科を授けられる一方、健康に留意してスポーツに励み、胎児発育に最適の母体たらんと努める。こうして三年の期間が過ぎると、心身共に、今や準備まったく成った子宮畜《ヤプム》となって昇天し、市場に出される。
このように、規模としてはアマゾン星の「女護島」の何十分の一だが、質においてははるかにまさる貴婦人用ヤプム専門の飼育所がこうしてできているために、貴婦人たちは、わざわざそのつど地球まで出かけて行かなくとも、優秀な「地球物」が入手できることになっているのである。だが、贅沢《ぜいたく》にはキリがない。長女ソフィアの妊娠のときに使ったヤプムに失敗したポーリンは、市場で見る品では満足できず、今度は直接その飼育所まで行って気に入ったのを捜そうというのである。もっとも、こういう|富 士 山 降 臨《フジヤマ・ディセンディング》は、彼女が初めてではない、地球別荘に来る有閑女性はしばしば降臨を試みた。
さて、我々はここで、ふたたびクララの部屋《へや》に目を転じねばならない。
5破綻《はたん》
焦々《いらいら》しながらソーマの杯をあおっていたウィリアムは、ふと隣室から器楽の旋律が流れて来るのに気づいた。それは子守歌のような単調な調べだった。
「あっ、|催 眠 楽《スリーピング・ミュージック》だ! さては寝台で……」
美青年は顔色を変えてソファから身を起した。案の定、猛烈な眠気がおそってきた。二人の黒奴《ネグロ》はもう床にしゃがみ込んで、それでもしきりに手で顔をこすりながら眠気とたたかっているようだったが、やがてそこへ突っ伏すと額の金輪が床に触れ、同時に鼾《いびき》をかきだした。
クララがヤプーを抱いているのか、というおぞましさと嫉妬《しっと》と、ひとつにはソーマによる神経の昂奮《こうふん》とから、ウィリアムはやっと持ちこたえて隣室の扉《ドア》の前まで行ったが、扉ごしの楽の音はいちだんと強くなり、ついに彼は、持ちこたえられずに扉の取手に手をかけたまま、バタリと腰を落し、そのうちだらしなく扉にもたれて眠り始めた。
肉痰壺《スピツーン》、その他の生体家具たちだけは、何の影響も受けず、キョトンとして立っているのが異様であった。
やがて楽音は消え、かすかな鼾のほかは静寂のみがあたりを支配した。
だいぶたってから、ポーリンが外からのドアをあけた。虫が知らせでもしたのか、アンナとの打合せが終ると早早に戻って来たのである。奥への扉の前に倒れているウィリアムの姿に、ハッと驚いて走り寄る。その足元に倒れている二人の黒奴の体に、あやうくつまずきそうになった。
三人とも、ただ眠っているだけだとわかって安心はしたが、奥の部屋が気にかかった。
奥への扉は、クララならば「|開けよ《オープン》」の命令で開けるが、他の人にはそれができない。ポーリンは合鍵《あいかぎ》を取り寄せて開かねばならなかった。
真っ先に目に映ったのは、床に倒れているクララと、ヤプーの姿であった。美女と野獣[#「美女と野獣」に傍点]、そんな表現がピタリとする印象だった。クララの、仰向けに横たわった上半身にのしかかるようにして、手錠だけははずされた両手が彼女の喉《のど》にかかり、その両手首を彼女の両手がさえぎるように握っている。衣装の乱れ方に、なおその場に激しい揉合《もみあ》いのあったことを示していた。
――ヤプーが、クララを扼殺《やくさつ》しようとしたのだ。……彼女に同衾《どうきん》を迫って拒否されたからか……?
ポーリンは、まずクララの上に俯伏《うつぶ》せに重なっていたヤプーを足で床の上に、仰向けに蹴落《けおと》した。ヤプーも、クララも、深く眠っていた。
――誰かが|麻 酔 短 銃《ナルコチック・ピストル》を使っていったとしか思えない、いったい誰か? またなぜそんなことをしたのか?
部屋中見回しても、手掛りらしいものはなかった。だが・小テーブルの横に、衣装《いしょう》箪笥《だんす》から出したらしいスーツ一着分がほうり出されたままなのが不審といえば不審であった。
検事長という職業がら、犯罪捜査には慣れているはずのポーリンだが、この不思議な突発事態《アクシデント》には、にわかには見当がつきかねた。
――ただ、一つ確かなのは、ヤプーがクララに手向いしたこと、いいかえれば、円盤艇《ヨット》の中ではあんなにむつまじかった二人の仲が、おそらく決定的に破綻《はたん》したこと……。
従者A3号はかいがいしくクララを寝台に運び、昏々《こんこん》として正体のない肢体《したい》をじょうずに扱いながら服を脱がせた。パジャマを出して来て、下着も脱がせようとしたところでポーリンは押し留めた。
「寝巻は妾《あたし》が着せてあげるから、お前はドレイパア郎を介抱して彼の私室へ運んでおあげ。ほかの従者たちも適当に……」
ポーリンは、さも大きな人形を扱うようにクララにパジャマを着せてやりながら、心中そっと話しかけた。
――クララ嬢《さん》、さぞこわかったでしょう。可哀《かわい》そうに、あんなに愛していたのにね……でも、かえってよかったのよ。所詮《しょせん》畜生相手の恋愛《れんあい》沙汰《ざた》、獣姦愛《ソドミ》は早く精算したほうがいいの。貴女《あなた》の病的愛情は根が深いから、へたすると憐憫《れんびん》の気持が残るんじゃないかと、心配してたのよ……こんな目にあえば、貴女の迷いも覚《さ》めて、ヤプーの扱い方がよくわかったでしょうし……このヤプーにしたって、これから先、甘やかされずにチャンとした調教《しこみ》を受けられれば、そのほうが結局は幸福《しあわせ》なんだから……。
クララの靴下《くつした》を脱がせていたポーリンの手がふと止った。五本趾《ごほんゆび》を見た(第六章1「着替え」参照)からだった。
――そうだった、この令嬢《ひと》は五趾足《ごしそく》なんだ。
……前史時代には人類は五本の足趾を持っていた。それが、宇宙文明の発達とともに小趾《しょうし》がだんだんと退化の一途をたどり、今から千年ほど前には完全に四本趾の生物に進化したのである。
――四趾足にならなければ、イース人で通用しないわ、アレマン医師を呼ぼう。
そう決心したとき床上のヤプーが急に身動きして唸《うな》り声《ごえ》をあげた。不安になったポーリンは従者を呼んだ。
「このヤプーを|原 畜 舎《ローヤプー・ホールド》に連れて行って、予備檻《スペア・ペン》(spare pen)にお入れ!」
その途中でこいつがあばれだせば事だ、やはり手錠が必要だ。もう一度部屋中を見回してポーリンは、寝台の枕元《まくらもと》の台に立派な置物――旧式|宇宙船模型《ロケット・モデル》――があり、その横に一度はずされたヤプーの手錠が置いてあるのを見いだした。手錠を従者に渡し、ヤプーを担《かつ》がせて出て行かせた後彼女は、そのロケットの模型のほうに近寄った。それは何を思ってのことであったのか?
ともあれ再会も束《つか》の間、クララと麟一郎《りんいちろう》とは、こうしてふたたび引き離された。恋人同士としての二人の間は、永久に破綻してしまったのだ。この次に両者が顔を合わせるときは、一人のイース婦人と一匹の原ヤプーとしてであろう。
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第一四章 二つの手術
1昏睡波動《コーマ・ウェイブ》
旧式|宇宙船模型《ロケット・モデル》が宝船だろうということはポーリンには一目見て見当がついていた。ジャンセン一族は骨董《こっとう》趣味がないから、この部屋《へや》に元からあったわけはない、矮人決闘《ピグミー・デュエル》の折りウィリアムが賭《か》けた船の置物[#「船の置物」に傍点]というのがこれであろう。さて宝船なら、中に矮人がいるはずだ。彼らが、この部屋で起った怪事件の一部始終を知っているのではなかろうか。
それは敏腕な検事長としての捜査の勘だった。ポーリンは躊躇《ためらい》なく上蓋《うわぶた》をはずした。案の定、七矮人《しちわいじん》がとりどりの奇形の姿をさらしている中で、船長格の弁財天女《べんてん》をつまみ出すと、そっと掌上《てのひら》に載せてポーリンは、
「さ、お話し、お前の見たこと、聞いたことを、……」
弁財天女は人間(白人)の肌にまごうばかりの白い肌をしたうら若い美人だった。手に持った宝槍《ほうそう》(昔は多聞天《びしゃもんてん》の持物だったもの)を横に置くと、ひざまずいて最敬礼し、しとやかに立ち上って話し始めた。低いが、鈴を振るような美声である。
『わたくしは、司令室に立って覗《のぞ》き窓から部屋の様子を見ておりました。女神《めがみ》がヤプーをつれてはいっておいでになりました。すぐ手錠をはずしておやりになりますので、わたくしはてっきり女神がこのヤプーを舌人形《クニリンガ》としてお慰みになるのだろうと存じて、|交 悦 楽《インターコース・ミュージック》演奏の用意を致させました……』
――ビル、貴方《あなた》の心配も(とポーリンは独《ひと》り思った)いちおうもっともだったわけね。
『ところが、女神は箪笥《たんす》から服をお出しになるとヤプーにお渡しになりました。わたくしにわからない言葉で命令なさりつつ……彼はそれを引きつかむや、何か叫んで横に放《ほう》り出しました。何のことかわかりませんでした』
――妾《あたし》にはわかる。クララは奴《あれ》に服を着せようとしたのだわ。だが奴《あれ》は、自分が服の着られない体になっていることを知っていたのだ。
『驚きましたことに、ヤプーは女神と並んで[#「女神と並んで」に傍点]ソファに腰掛けました。話が続きましたが、船内スピーカーで聞きましてもわたくしには全然理解できませんでした。ただ、女神がむしろゆっくりと頼むような口調でお話しになるのに対して、ヤプーのほうが強い怒った声でしゃべっていました。彼はたびたび隣室への扉《とびら》を指さしました』
――ビル、貴方が奴《あれ》のことを嫉《や》いていたように、奴《あれ》のほうでも貴方のことを嫉いていたらしいよ、お笑い草ね。……クララが頼んだっていうのは、いったい何かしら? 頼むなんて。(ポーリンにはクララが麟一郎を原球面に一人帰らせようとしていたことなど想像《おもい》も及ばなかったのだ)
『急にヤプーは飛び上って尻《しり》をさすり、もう腰をおろそうとはしませんでした……』
――皮膚反応痛《デルマチック・ペイン》だわ。ビルはヤプーが寝台の中にはいるんではないかなんて心配してたけど、寝台どころか、強化皮膚《デルマル》にはソファさえ許されてないってことを忘れていたのね。
『今度はヤプーが哀願し始めました。彼は、女神の掛けてらっしゃるソファの前にひざまずいて頭を下げました。女神は断わっておられました』
――クララはヤプーに、お前を何々にするつもりだ、と宜告したに違いない。奴《あれ》はその運命を恐れて、決心を変えてくれと頼んだのだろう。(これは無理もない推測だったが、実は、麟一郎は、自分といっしょに原球面に帰ってほしいと懇願して、クララに断わられたのであった)
『ヤプーがヤプーらしい姿勢を取ったことに満足と安心を覚えまして、わたくしはちょっと目を放しました。突然、今までチンプンカンプンでした言葉の中に、家畜語《ヤプーン》が混ってスピーカーから流れ出て来ました……』
「何といったの?」、ポーリンは思わず口に出して聞いた。
『はい。「心中ダ、クララ、オレモ死ヌカラ」、そう聞えてきました。それでびっくりして覗きますと、ヤプーは自由になった両手で女神の咽喉《のど》元を絞めつけ、女神は苦しそうに身悶《みもだ》えしておられます。ヤプーの恐ろしい形相《ぎょうそう》と今の言葉、無理心中を図っていたことは疑いようがありません。それで、非常措置として、|催 眠 楽《スリーピング・ミュージック》を平生より倍も強く演奏させ、さらに五倍にも増幅して放送しました……』
「この宝船は自動演奏具《オルゴール》兼用なのね?」
『はい。多聞天《びしゃもん》が小伶人血統《リツル・ミュジシャン》でございますので……』
――そうだったのか、それが珍しい品[#「珍しい品」に傍点]、というわけだったんだわ。
やっと昏睡《こんすい》現象の謎《なぞ》が解けた。就寝時に催眠楽を奏する自動演奏具。その催眠楽は、耳できいては子守歌に過ぎないが、副次的に人間の鼓膜にのらぬ高周波の昏睡波動《コーマ・ウェイブ》を伴う。常は徐々に人を眠りに導くだけだが、それが十倍に強化されて、|麻 酔 短 銃《ナルコチック・ピストル》で撃ったのと同じ効果を示したのだ。この雌矮人の機転のおかげでクララは危ういところでヤプーの暴力から救われたわけだ。
「よくやった、ごほうび」
弁財天女《べんてん》と、彼女の昔の持物だった弦楽器を抱いている多聞天《びしゃもん》と二人に一口ずつ、唾《つば》を吐き与え、感激に頬《ほお》を紅潮させて恩賜の聖唾《サリバ》をすすり始めた小動物を横目に見ながら、ポーリンは腕送話器《リスト・マイク》に命令した。
「アレマン医師を大至急この部屋によこしておくれ。極秘で、簡単な手術道具を持って……」
寝台のクララは身動きひとつしない。昏睡波動の襲うまえに気絶していたのかもしれない。
2|特 別 檻《スペシャル・ペン》
麟一郎《りんいちろう》は黒奴《ネグロ》の肩の上で正気づいた。首を絞められて失神したクララと違って、昏睡が浅かったのだ。
――クララを殺してしまったのに、俺《おれ》はまだ生きている。……
悔恨が胸を噛《か》んだ。自殺の機会を狙《ねら》おうと決心した。
黒奴は地階の裏庭の下に当るあたりに建てられていた|原 畜 舎《ローヤプー・ホールド》まで降りて来た。
ちょうどその時、ドレイパア伯爵夫君セシルが居合せた。彼は、出発前やった生餌《いきえ》を|巨 大 蜘 蛛《ジャイアント・スパイダー》がもう食べたのを調べたあと、晩餐《ばんさん》前の一刻を原ヤプーの調教に費やしたが、ここで今しがた、例のヤプーがさっき地階で大暴れしたという噂《うわさ》を聞いたところだった。
そこへやって来たのが、まさに噂のヤプーではないか。見れば手錠・足錠がつけられている。……
「|御 用 中《イン・ハー・サービス》」(これは欠礼の際の挨拶である)
と通り過ぎようとする従者A3号をセシルは呼び留めた。
「待て、どこへ行く」
黒奴はヤプーを肩からおろして立たせ、
「このヤプーを予備檻《スペア・ペン》へ入れますので……」
「予備檻《スペア・ペン》? そうじゃあるまい、|特 別 檻《スペシャル・ペン》(special pen)だろう。決ってるじゃないか。バカ!」
白人からそう決めつけられると、自分が聞き違えていたに違いない、という気になり黒奴は、
「は、|特 別 檻《スペシャル・ペン》で」
麟一郎は、声の調子と着物の裾模様《すそもよう》から、この白人こそ船中で自分に好意を示してくれた人だと確認すると、
「貴方《あなた》、先ほどはどうも」
そう呼び掛けると、さっそくあれ以後の黒人の非行を訴えた。
ヤプーは人間に話しかけてはならないが、未訓練の土着ヤプーはその禁令がわかってないから例外である。だから、セシルは話しかけられたことには平気であったが、「先ほどはどうも」という挨拶には驚いた。そして、さらにこのヤプーが、自分が服の着られない体になったのは、黒奴が彼の命令を濫用して悪戯《わるさ》したためである≠ニ信じ切っているのを知ると、このたくましい原ヤプーの知能の低さを哀れみながらも、セシルは笑い出さずにいられなかった。その笑顔《えがお》を、また麟一郎は、彼への好意の印しと思ってしまったのだから始宋が悪い。
一人と一匹がこうして並んで、ある扉《ドア》の前まで来ると、
「この中へはいって待つがいい、悪いようにはしないから……A3号、錠をはずしてやれ」
この一言でますますセシルを親切な人と信じ込んだ麟一郎は、彼の言葉を寸毫《すんごう》も疑わず、扉をあけて中へはいって行った。
さっき、檻《ペン》という言葉が話されていたが、ここには鉄格子もない。明るく照明された殺風景な八畳敷くらいの一室であった。造作といっては中央に奇妙な腰掛(?)があるだけだ。細長い鞍馬《あんば》状で背中の倚懸《よりかかり》もなかった。奇妙な形だったが、四脚から見て腰掛以外の用途に用いられるものとも思えなかった。ほかには何もない真っ白な床と壁に、脚の黒色と背面の黄色がよく映《は》えていた。
麟一郎は何気なく近寄り、跨って休もうとしたが、ふっと先ほどソファにうっかり腰をおろしてひどい目にあったことを思い出し、布地が張られていないかどうか、手でさわってみた。
――生きている!
そういう直感があった。手には例の肉質金属の弾力に富んだ肌触りしか感じない。しかしその全体から「生物《いきもの》」の印象を受けるのである。|生 体 家 具《リビング・ファニチュア》というのではなく、人間とかヤプーとかいった高等生命体とは全然別種の、いわばなまこ[#「なまこ」に傍点]やひとで[#「ひとで」に傍点]を眺《なが》めて感じるときの、あのような「生命」の認識だった――いや、この時にはまだ認識[#「認識」に傍点]というより予感[#「予感」に傍点]だったが……。
無気味さに麟一郎は思わず後退《あとじさ》りしようとした、その瞬間、鞍形胴体の下腹部、ちょうど鐙《あぶみ》の垂《た》れ下る。両側の部位から、サッと二本の触手が飛び出して来て彼の両脚をとらえようとした。柔道で鍛えた彼の運動神経が一瞬早く一間も飛びさがらせなかったら、彼は簡単につかまっていたに違いない。
と、この生きた鞍《くら》は、ノッシノッシと、今までただの棒と見えていた四本の脚を動かして、触手を振りつつ、隅《すみ》に立っている麟一郎のほうに寄って来るではないか。彼が素早く他の隅にまわり込むと、どうして知覚するのか、確実に彼の位置を探り当て、方向を変えて寄って来る。ゆっくりだが、歩みは確かだった。
3|人 工 動 物《アーティシャル・アニマル》「去勢鞍《カスト・サドル》」
|特 別 檻《スペシャル・ペン》の中で麟一郎を追いまわしていた動く腰掛は|去 勢 鞍《カストレイテング・サドル》と呼ばれる人工合成による生物の一種なのであった。
蛋白質《たんぱくしつ》の合成に始まる生命体の人造は『イース』においても長い歴史を閲《けみ》していたが、生物進化の跡をたどり尽すには研究室内の二千年の時間はあまりに短く、今まで、せいぜい腔腸動物程度のものが合成されたに過ぎなかった。しかし、天然に存在する生物と同じものを作ろうとあせらず、人工で別種の生命体を作り出そうとする試みは予想外の成功を示した。
原形質細胞の代りに肉質金属粒子、血液として特殊な化学溶液、神経作用は電磁気――これらを統合する脳髄として矮人《ピグミー》により有魂化した小型人工頭脳――こうして出来上った作品は、動物体の持つあらゆる特徴を示し、ただ生殖による再生産の能力を欠くだけだった。そして、あらかじめ一連の作業を本能化しておくと、それを忠実に正確に遂行した。本能動物の例に漏れず、予定された枠《わく》以外での適応行動という知性能力は示し得ないが、本能的行動としてはずいぶん複雑高次な段階に達し、ほぼ昆虫類と同程度に及んだ。これが|人 工 動 物《アーティフィシャル・アニマル》である。
そこで、いろいろな作業が、こうした有魂機械《ソウルド・マシン》よりさらに一歩進んだ人工動物に委《ゆだ》ねられることになったわけである。去勢鞍《カスト・サドル》というのもその一つで、原《ロー》ヤプーの去勢手術をすることを本能にしている人工動物であった。
その真っ黄色の背部表面は、椙手の肌色《はだいろ》が黄色である場合にだけ反応を起すための識別器官である。自人や黒人には、これは単に鞍馬状《あんばじょう》の腰掛に過ぎない。しかし、肌の黄色い奴《もの》が掛けると、この鞍《くら》は恐るべき去勢機械として作用する。そして、近くに黄肌の奴がいて、しかも台に乗らない場合、それを捕えに行く。行動範囲は特別檻[#「特別檻」に傍点]と呼ばれる白色平面で囲まれた空間に限られるが、蜘蛛《くも》が自分の巣におけると同じく、この檻《おり》の内部にある限り、はなはだ有能で、どんな敏捷《びんしょう》なヤプーも結局は彼の餌食《えじき》にならざるを得ないのだ。
ところで、セシルが麟一郎をこの檻に入れたのはどういうわけだったのか?
いったい、原ヤプーは必ずしも去勢されなければならないものではないのである。ことに以前は、去勢してしまっては雄心が減じて鞭打《むちうち》を忍耐しやすくなるので調教するうえでの楽しみがなくなる、という理由と、去勢してしまうと後で仔種《こだね》を取りたいとき困るという理由から、原ヤプーは去勢しないのが普通だった。ところが、畜乳中の男性ホルモンにより去勢ヤプーも女性化する心配がなくなったこと、剔出睾丸《てきしゅつこうがん》を精虫金庫《シメン・バンク》に預けて、いつでも仔種《スパーマ》が引き出せるようになったことなどから、この反対理由がなくなった。また一方には上流人士の珍棒《ティンボウ》愛好、ことに、|自 己 珍 棒 訓 練《セルフ・ティンボウディシブリン》の流行があり、このころでは原ヤプーの約半数が去勢された。
だから、ヤプーの大暴れの噂《うわさ》だけ聞いて、その後の出来事を知らなかったセシルが、客室から手錠・足錠で送られて来たこのヤプーを特別檻行きと思い込んだのも無理はないので、「ヤプーの処分は持主の意思に従う」という原則から、いちおうクララの覚醒まで予備檻《スペア・ペン》に入れておこうとしたポーリンの意図はセシルには通じなかったのだ。
そして、ドリスやウィリアムがそれぞれクララに贈物をしたとき以来(第九章2「霊液と矮人」参照)、「自分も何か」と考えていたセシルは、このヤプーを去勢し、珍棒を作ることになれば、自分が立派な握り柄をプレゼントしてやれる、ととっさに思いついたので――一つはそんなこともあって spare pen を special pen と誤解したのだ――すっかり乗気になって、特別檻に直接このヤプーを送り込むことまで執行したのだった。
檻の中では、麟一郎がハッハッと口から舌を吐き吐き、襲いかかって来る怪物から辛うじて身をかわすのに精一杯である。もう時間の問題であった。
4五趾足《ごしそく》整形
クララの寝台のわきでは、医師カルロス・アレマンがちょっとした外科手術をしていた。
彼は、年のころ三十五くらい、南欧系で、黒い髪、灰白色の肌《はだ》、背はあまり高くなく、性格をそのままの情熱的な目に黒い瞳《ひとみ》だった。しかし争えぬもので、表情にどこか卑《いや》しげなところがあり、一見して平民《ブレプス》であるとわかる。御用医師団の一人として若夫人に随行してやって来た練達の外科医だった。
彼の目の下には、象牙《ぞうげ》を刻んだような美しい足と、それに貝殻《かいがら》を嵌《は》め込んだともたとえたい趾《ゆび》の爪とがあった。……ただそれが五つある!
――不思議だ。こんな可愛い足の持主にこんな奇形が出るなんて……。
メスで小趾《しょうし》を削りながら、彼は心につぶやいた。染色体医学の発達が肉体形質の奇形因子を絶滅した、と彼は学んだのだ。学者の常識としては、隔世遺伝《アクピズム》としてでも五趾足のイース人が存在するはずがないのだ。しかも眼前のこの患者は明らかに小趾を持っていた。
――いったい何者だろう。美人には違いないが……。
まさか、検事長のジャンセン若夫人が、前史時代人を連れて帰るなどという重大犯罪を犯したとは知る由もないアレマンは、「奇形を恥じて家出した友達だから、極秘に手術してほしい」というポーリンの説明を鵜呑《うの》みにして、クララをイース貴族と信じていたから、なお不思議でしょうがなかったのだ。
彼は横に立っていた外科道具を満載した|移 動 架《ウォーキング・ホルダー》|に《*》向い、|皮 膚 鏝《スキン・アイロン》を出すように命じた。患者は顔をハンカチで覆《おお》ったまま眠り続けていた。さっき来たときもそうだったし、手術前に|超 笑 気《スーパー・ラーフィング》ガスで麻酔し直したときも、ポーリンが自分でガスを吸入させ、彼には患者の顔を見ることを許さなかったのだ。今も、後方で彼女が、監視するように彼の作業ぶりを見守っているのを彼は全身で感じていた。
[#ここから2字下げ]
* |移 動 架《ウォーキング・ホルダー》(walking holder)というのは、上半身に金属性の枠や釣手や函を取りつけて、いろいろな小道具を装着収納しているヤプーで、生体可動家具(生体家具とは異なり循環装置がついていない)の一つである。所要の物を取り出して主人に手渡すこともできるから、非常に便利なものだ。ポーリンの夫ロバートが野外写生のとき連れて行く画布《カンバス》ヤプーや絵具皿《パレット》ヤプーもその一種で、総称して|運 搬 畜《ヤップ・ポーター》といわれる。
[#ここで字下げ終わり]
皮膚鏝を使うと、手術の痕跡《こんせき》もわからない。クララの足は生れながらの四趾足としか見えぬほどに整形されていった。
「終りました」、鏝《アイロン》を移動架の手に渡しながら、アレマンはポーリンに報告し、改めて、自分の手術した美女の足先に見入った。
――何という変った美しさだろう。この足先の筋肉には、今まで自分の知っていたどんな貴婦人《レディ》にも見られなかった異様な野性が秘められている。この天下一品《ユニーク》の足の持主はいったい……。
「秘密厳守はいうまでもないけど、カルロス」、ポーリンの声はきびしかった。「お前さん自身も無用な好奇心は捨てるんだよ」
「はい、畏《かしこ》まりました。若奥様」
彼はきっぱりと返事した。この怪しい美女の秘密に参じて、その足に恋したばかりに、後に当の彼女自身の手で彼の人間性が剥奪《はくだつ》される羽目になろうとは、夢にも知る由がなかった……。
5如意鞭「珍棒《ティンボウ》」
クララ自身も知らぬうちに、足趾《そくし》の整形手術が始まったころ、階下の|原 畜 舎《ローヤプー・ホールド》の|特 別 檻《スペシャル・ペン》では、とうとう麟一郎が去勢鞍《カスト・サドル》に捕えられた。
さんざん逃げ回った末、麟一郎は、「これでは結局疲れて負ける。いっそ逆手に出て、怪物の脚を取って倒してしまおう。失敗して殺されたって、どうせ自殺する気の俺《おれ》には同じだ」と、猫《ねこ》を咬《か》む窮鼠《きゅうそ》のように、回り込んで後方から飛びかかっていったのだったが、やはりそれが運の尽きだった。触手が片脚に巻きついたと思うと、その先端がパッと環状に膨張し、足首を通すとたちまち締る。金属ゴム製|孔 釦《ホール・ボタン》の仕掛を知らない彼にはまったくわけがわからないうちに触手はグーッと縮まり、片足を取られて彼はすぐ引き倒された。直ちにもう一方の足首にも輪が掛って締った。この触手は、上半身は問題にせず、両足首だけをねらう、|鐙 触 手《ステラップ・テンタクルス》という名を持つ奴《きかい》であった。
怪物が四脚を縮めて台部が低くなった上方に麟一郎は両脚を開いて立ち跨《またが》った――いや跨がせられた。自由な上半身をどう動かしても、両腕で触手を叩《たた》いてもまったく無益で、触手は捕捉《ほそく》した彼の両足を思いどおりの位置に持って行き、彼は否応《いやおう》なしにその姿勢を取らされてしまったのだ。
いきなり、台が下から飛びついて来た――と思ったときには、もう跨がせられていた。台は柔軟で、中ほどで深く凹みだし、左右にも反《そ》りを作り、極端な鞍形に変形している。両足首が鐙触手で下方に引かれているために、内腿でぴたりと鞍を挟《はさ》みつけるだけでなく、常の乗馬鞍――麟一郎自身も、半日前には、これに跨ってタウヌス山に登って来たのだが――よりも、座《シート》の前後の曲線の反《そ》りが急なので、前は臍下《へそした》二寸くらいから、後ろは腰椎《ようつい》下部までを結ぶ部分が鞍に前後から挟まれて密着してしまった。しかも奇妙なことに、前陰部には何の圧迫もなかった――そのはずだ、鞍座《シート》の前部中央線上、ちょうど前陰部の当る部位にぽかりと適当な大きさの穴があいて、袋も筒もそこに収まっていたのだ。それが去勢鞍の口だった。中に何か液体がはいっているらしく、彼は筒が濡れひたっているのを感じた。
この怪物の正体を知らない麟一郎は、無理矢理妙な姿勢を取らされただけで、予期していたような死の苦痛が襲わないのにちょっと拍子抜けの気がしたが、それは時間にすればほんのわずかなものだった。間もなく、その穴の、細い縁が締り始めた。袋も筒も、付根から切断される、それも一ミリ締り、一センチ締るごとにだんだん切られてゆくのだ。もちろん麻酔はない。麟一郎は吼《ほ》え猛《たけ》って、両手で髪をかきむしり、胸を叩いて苦痛と格闘した。……またもや大拷問であった。
去勢鞍の行なう作業がどんなものかを説明しよう。鞍に乗せたヤプーの前陰部を口にくわえて調べ、もし penis の長さが足りなければ、造肉刺激剤にひたして充分な長さにする。その上で袋と筒を根元から咬み切る。|皮 膚 鏝《スキン・アイロン》でプレスし、表面を毛一筋、小穴一つない滑《なめ》らかさに仕上げてしまう。(尿道は塞《ふさ》がることになるが、すでにエンジン虫が体内にいれば、その体液|分泌《ぶんぴ》の効果で水分が直腸部に滲出《しんしゅつ》してくるように組織が変ってくるから、そのほうの心配はいらないのだ)
切除した袋の中の玉は、精虫金庫《シメン・バンク》に畜籍登録番号を付けて半永久的に保存され、子孫の作出に利用される。
さて、 penis であるが、なぜ、わざわざ一定の長きにまでしたりするかというと、これから鞭《むち》を作るためなのである。切断のとき、急に切り落さず、徐々に切り離していくと、その苦悶《くもん》によって苦痛素ドロロゲン(第六章1「着替え」参照)が体中に回り、penis の海綿体の組織が変化しやすくなり、直ちに増長液に入れて処理すると|鞭 海 綿 体《ウィップ・スポンジボディ》といって、伸縮率五倍の、きわめて能率の高いものに変る。同時に筒自体も外皮を伸延する処置をしておく。これを生体|接着糊《せっちゃくのり》で、一定量の人工血液を含む握り柄に接続する。そうすると、柄の握り方次第で、平生ポケットの中では二十センチぐらいの革バンド状の皺《しわ》だらけの柔軟な物体に過ぎないものが、瞬時にしてピンと細く伸びて強く撓《しな》う一メートルの竹|策《むち》状の物体に化するのである。同じように penis-whip でも、シャムボクなどよりはるかに精巧なもので、伸縮自在な点から如意鞭[#「如意鞭」に傍点]ともいわれるが、普通には珍棒《ティンボウ》(timbow)と称ばれる。
珍棒が原ヤプー訓練の鞭としてどれほどの性能を持つかは、後章で明らかになるだろう。|人 工 動 物《アーティフィシャル・アニマル》「去勢鞍」は、単に袋や筒の切断だけでなく、鞍の内部で、玉や筒をこのように処理することもその本能の一部にしているのである。精虫金庫に送る玉を外で受け取ったり、鞭の握り柄を渡してやったりする人は別にいなければならないが、その柄を取り付けて珍棒を仕上げたりすることはこの生きた鞍がするのだ。
苦悶の一刻《ひととき》が終って鞍上から解放された麟一郎は、突起物はおろか毛一筋ない前陰部を撫《な》でつつ、屈辱感に耐えられずにいた。
――俺は、とうとう去勢されてしまった。
6家畜語《ヤプーン》学習と生本能注射
ふたたびクララの寝室をのぞいてみよう――。
彼女の枕元では一台の念波式言語学習機が回転していた。
「…………
次は褒貶詞[#「褒貶詞」に傍点]です。ヨシ、ダメ、モチョットの三語を知れば充分でしょう。続いて命令詞[#「命令詞」に傍点]。これはいろいろありますが、まず九方向詞[#「方向詞」に傍点]から覚えて下さい。マエヘ、アトヘ、ミギヘ、ヒダリヘ、ウエヘ、シタヘ、ソトヘ、ナカヘ、マワッテ、いいですね。今度は禁止詞[#「禁止詞」に傍点]、これは、イケナイ、ダメ、コラ、……」
ポーリンの命令で、さっきA3号がそっと置いて行った家畜語音盤《ヤプーン・レコード》であった。眠っていたクララの心の中でただここだけが目覚《めざ》めている下意識、その座である大脳皮質内の言語中枢に対して、白人向きの文法[#「白人向きの文法」に傍点]で分析解説された家畜語が、|思 想 波《ソート・ウェイブ》に乗って最も能率的に教え込まれていく。明日《あす》の朝、クララは麟一郎と話すのにドイツ語を使う必要はもうないだろう。
特別檻の中では、麟一郎が舌を噛《か》んで自殺を図《はか》った。去勢されて生きる屈辱に耐えかねたのか、クララを失って、生きる希望を喪失したのか……。
しだいに遠くなってゆく意識の隅《すみ》で、彼は扉《ドア》が開いて何人かの人がはいって来たこと、自分が抱き上げられたことを感じた。
「やれやれ、危うく死なれるところだった。二度とこんなことのないように、生本能原液(これはネアンデルタールから採集した精気エキスである)を一本注射してやろう……」
セシルの声らしい……と思いながら、彼は意識を失った。
クララ・フォン・コトヴィッツと瀬部麟一郎とにとっての、『イース』世界の第一夜はこうして更《ふ》けていった。
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第一五章 海辺のドリス
1畜人皮《ヤップ・ハイド》の|水 中 服《ウォーター・スーツ》
一夜明けたシシリー島の東海岸、水晶宮から二十五キロほど離れたジャンセン家別荘領の端で、今しもさし昇る朝日の光を浴びつつ、金波銀波にかまれる大岩の鼻から、ザンブと飛び込んだ全裸の乙女《おとめ》があった。
素面・素裸の乙女は、伸び伸びした四肢《しし》をくねらせながら、海底の岩やトンネルを軽やかに潜り抜け、魚の隊列を脅かして逃げまどう有様を見ては微笑んだ。
顔を見ると――ドリスであった。だが奇妙なことには、乙女の頭上には黒髪が束ねられ、肌は日に焼けて浅黒くなった黄色人の皮膚をしていた。これが白皙《はくせき》の肌、金色の髪も美しいあのドリスと同一人と思えようか? それなのに背格好から顔容《かおかたち》はドリスそっくりなのである……。この不思議は、実はドリスが畜人皮製《ヤップ・ハイド》の|水 中 服《ウォーター・スーツ》を着ているためにそう見えるのであった。
平民は既製品を買うが、貴族は特別|誂《あつら》えしか着ない。そのために注文主の肉体の寸法に隅々《すみずみ》まで細かく合わして、瓜《うり》二つの肉体を持つように生育させた原《ロー》ヤプーを、顔ももちろん整形外科手術でそっくり同じに変えさせて、その皮膚をコサンギニンを使って生なめし[#「なめし」に傍点](第一二章4「皮膚反応痛」参照)した後、シリコン化して耐酸性にし、そのうえで王水(硝酸と塩酸の混合物)を飲ませる。肉も骨も溶けてしまうが皮膚だけは完全に残る。こうして得られるのが|完 全 畜 人 皮《コンプリート・ヤップハイド》といわれるもので、縫目も継目もない、注文主の体にピタリの革肌着ができあがるのである。
それを適当に裁断して、パンティ、ブラジャー、ウエスト・ニッパー、ストッキングなどいろいろな下着が取れるが、これをそのまま着て水中服にすることもできる。顎《あご》の下、咽喉《のど》の回りから丸く刃を入れて上下二つにし、頭皮・顔皮は覆面帽《フード》にし、肢体部の截目《たちめ》には|孔 釦《ホール・ボタン》と同じ伸縮自在の金属ゴムを縁取り、これを開いて足からはくようにしてこの服を着る。手足の指先まで全体が一続きだから、覆面帽をかぶってしまうと、完全な防水気密服になり、肌荒れや海月《くらげ》かぶれ[#「かぶれ」に傍点]が問題にならなくなるばかりでなく、水圧の変化が体に影響しなくなるので潜水病の心配もなくなる。しかも、海水着の主要目的である肉体美の誇示にもこのくらい良いものはない。胸や腰の線がそのまま出ることはもちろんだが、いちばんの長所は、全裸と同様の印象を異性に与えることである。完全に体はおおわれているから、ほかにパンティもブラジャーも必要でなく、そのため、まるで裸のように見えるのである。この服が肉体美に自信のある公女・公子に愛用されるのも無理はなかった。ドリスが着ていたのは、この畜人皮製水中服なのであった。彼女はこの着心地のよさを愛していた。彼女に自分の肌を捧げるため王水の杯をあおった雌ヤプーよ、もって瞑《めい》すべし! か。
ドリスは、さらに深く海藻の林の中にはいっていった。もう十五分の余も潜《もぐ》ったきりであったが、彼女は呼吸困難どころか、いたって平気で、時折り涼しげに白い気泡を吐いた。
秘密は頭の天辺《てっぺん》にあった。漆黒のヤプーの頭髪を束ねた中に、小さな平たい丸い箱が隠されている、この中に、水中から空気を取る装置がはいっているのだ。そこで採集した空気が覆面内の細管から鼻と口とに送られて来る。畜人皮の頭部の皮には、目に、深い水中でも遠くが見えるレンズを、耳に、水中聴音膜を、口に、水中送話器をそれぞれ加工してある外に、なお鼻孔の特殊弁が、吐き出す炭酸ガスを外に排出するようになっていた。だから、そのお陰で、いつまででも水中で自在の行動ができるのである。全裸の女体はいってみれば、高性能の潜水装置でもあったのだ。
ところで、ドリスのすぐ後ろから、まるで主人の供をする犬のようについて行く奇妙な動物は何か? 背中に黒い甲羅《こうら》を背負っている外は全身緑色で、体長一メートル、四肢の先に| 蹼 《みずかき》があって、巧みに泳いでいた。頭の天辺に丸い凹みがあり、その回りを短い髪の毛が囲み、顔は倒三角形で下端が| 嘴 《くちばし》状に突き出していた……つまり河童《カッパ》、絵で見るのによく似た河童がドリスに随行していたのだ。
2両棲畜人《アンフィビ・ヤプー》ピュー
人類が海底を征服した時、種々の海底作業に従事したヤプーはしだいに専門化し、変種化して、海中畜人《マリン・ヤプー》と呼ばれる一大部門を形成した。この各種類は、近くクララが、皇子《プリンス》オットー(誤って女性視して乙姫《おとひめ》と呼ばれている)を南海の離宮『竜宮城《りゅうぐうじょう》』に訪れる日に説明するが、海中畜人とはいっても、ドリスのかぶっている覆面帽《フード》と同様な潜水兜《ヘルメット》を使うだけで、それをはずして陸上生活を建前とする連中が多かったのである。
ところが、ヤプー育種学の進歩は、ついに人工鰓《じんこうえら》で呼吸する真の水棲畜人《アクア・ヤプー》を作り出し、さらに、両棲畜人《アンフィビ・ヤプー》を誕生させるに至った。
一方、既に二〇世紀人にも知られていた水中自転車は、その操作上いろいろの不便があり、改良品が次々に生れた。推進機試作品にはギリシャ文字の番号が付けられ、アルファ、ベータ、ガンマ……と呼ばれたが、その十番目のカッ|パ《*》と呼ばれた試作品は、両棲畜人を運搬体に選んで見事な成果をあげ、広く普及するに至って今やカッパが両棲畜人の別称のようになってしまった。ドリスの連れていたのはこのカッパの一匹である。
肌が緑色なのは、陸上で全身皮膚呼吸をして生きてゆけるようになっているためである。身長一メートル以上では皮膚表面積の体重比率が減じて呼吸困難になるので、両棲畜人はこの体長を限度とした。背中の甲羅は実は原子動力機関の水中ジェットで、頭頂の凹《くぼ》みは、陸上では弁《べん》で蓋《ふた》をされていたが、水中で弁が開けば、ジェットに送られる水の取入れ孔になる。頭蓋から頸骨髄腔を通る管で甲羅につながっているのだ。肺は鰓葉に変っていて、口から飲んだ水が空気の代りに酸素を与える。両棲類というより、むしろ魚に近く、水中生活が本来の姿になっていた。
ところで、このジェットはカッパ自身のためにあるのではない。もちろん彼が操作するのだが、彼自身は| 蹼 《みずかき》で遊泳でき、ジェットの快速力を必要とはしない。彼がジェットを背負っていたのは、主人の必要に応じてこれを提供し、その意志を絶対として主人の思いどおりにジェットを操作するためなのである。
ジェットを使うにはカッパに乗る[#「乗る」に傍点]。カッパの顔は倒三角形で下に| 嘴 《くちばし》が突き出している。ちょうど自転車の鞍《サドル》に目鼻をつけて、前部に尖部《とがり》を突き出させたような格好で、そこでこの顔をサドルと呼ぶのだが、このサドルに自転車と同じように跨る[#「跨る」に傍点]。つまり開いた股座《またぐら》に顔を密着させたうえ、股を閉じて頭部をはさみ込むのである。そうすると、身長一メートルの動物だから、スラリとしたイース人の両脚の間に、ちょうどほどよくカッパの胴と脚とが収まる。そうしてカッパに、両腕で主人の両腿《りょうもも》を抱かせる。こうすると頭頂部の採水孔は主人の尻の直後に開き、ジェット本体すなわち甲羅は主人の両脚の間にその線に沿って横たわることになる。
そのうえサドルを締める。その締めつけ方、臀肉《しりにく》による頭蓋への圧迫の加え方で、発進停止・方向変換等、いろいろの合図ができるようにカッパは訓練されている。多くの畜人系動物と同様、これもまた、小学・中学・大学としだいに高級の訓練を受けて一匹前のカッパになるのである。
カッパ推進機の長所は、第一に脚の間に収まっているため、全身を流線型のままを維持して、水の抵抗が少ない。第二に、尻の使い方だけで操縦できるから、両腕の活動が自由である。第三に自力随行性である。すなわち、用が済めば股をゆるめて解放してやればよく、また使う気になって開けばすぐ股の間にはいって来る。その便利さは、昔の水中自転車の比ではない。つまり、家畜兼道具的存在としてのヤプーの特質がここにも見られるわけで、一名「|海の犬《マリン・ドッグ》」というのは、その随行力に家畜性[#「家畜性」に傍点]を見た表現であり、別称「水中自転車《ウォーター・バイシクル》」というのは、主人の操縦する軽便な乗物としての道具性[#「道具性」に傍点]に着眼した呼称であろう。
ドリスについてゆくカッパは、ピューという名の彼女の愛玩物《ペット》で、もう二年ほど飼われていた。二週間半前に連れられて別荘に来てからも、ドリスのお供で毎朝欠かさず、朝早くこの海岸に来て彼女の海中遊歩に随行しているのだった。
ドリスは尿意を覚えたので、股を開いた。ピューは喜んでその間にはいり、顔を付けてきた。動かずにいて放出したのではあたりの水がよごれるような気がして耐え難いので、潔癖なドリスはジェットで走りながら済ませて水の汚染から離れることにしているのだ。サドルをはさみ込んでジェットを作動させながら、彼女は膀胱《ぼうこう》をゆるめた。サドルの尖部《とがり》すなわち水を飲むピューの口がちょうど前部|孔 釦《ホール・ボタン》前に位置しているので、液体はそのまま吸われて肺の鰓葉にまで流入していくのだった。
海中を走り回りながら、ふと昨夜の晩餐《ばんさん》の時の情景をドリスは思い出していた。
晩餐の時、客人クララが姿を見せずウィリアムも出て来なかった。ポーリンの説明で、ヤプーの大暴《おおあば》れや心中未遂事件を知ってドリスはびっくりしたのだ。だらしない黒奴《ネグロ》たちの処刑は客人の列席する晩まで延期することに異議はなかったが、黒奴が弱いというより、ヤプーが強過ぎたのだろうとは想像がついた。
セシルが、相づちを打つように、
「なかなか敏捷《びんしょう》な奴さ。その証拠に、去勢鞍《カスト・サドル》もだいぶてこずってたからな」
といった。ポーリンは驚いて、
「まあ、貴方《あなた》、奴《あれ》を去勢したの?」
「だって、|特 別 檻《スペシャル・ペン》に入れろって……」
「予備檻《スペア・ペン》よ、妾《あたし》がA3号に命じたのは!」
兄より地位の高い妹は兄を睨《にら》みつけた。
「あ、そういえば予備檻っていったな。僕が、まさかと思って特別檻じゃないかって聞きかえしたんだ」
「だめじゃないの、クララ嬢《さん》の意向も聞かずに……」
「僕は、そんな事故が起ったこと知らなかったから、もちろん彼女の意思で|原 畜 舎《ローヤプー・ホールド》に送られて来たと思ったんだ」
「困ったわ」とポーリンは苦り切って、「クララ嬢に悪いわ」
「いちおう予備檻に入れたら、今からでも」とドリスが横から助け舟を出した。
「兄さんに悪気があったわけじゃなし、きっとクララ嬢は事後承諾するわよ。だから、その後の処分を任せる意味で予備檻に……」
「それもそうね、今どこに居て?」
「八号檻」とセシルがほっとして答えた。「今ならちょうどいい。自殺しかけたから生本能注射で眠らせて、檻仲間に監視させてある」
そんなやりとりの後、姉は八号檻(客人用原ヤプーの飼育室)のヤプーを予備檻に移すように指令した……ドリスは、これを思い出すと同時に、そのジュウドーの強いヤプーをとくと調べてみたくなった。優秀な奴なら、分けてもらって仔《こ》を取りたいものだと思ったからである。
――そうだ。今日はこのくらいにして帰ろう。そして原畜舎に行ってみよう。
ドリスは、岸に向ってジェットを走らせ始めた。
[#ここから2字下げ]
* 古来、空想上の動物とされた河童[#「河童」に傍点]は、イース世界のカッパが航時機に乗ったイース人のお供で古代地球に来て、脱走し、湖沼・河川に隠れて生存したものだと考えればすべて説明できる。甲羅[#「甲羅」に傍点]や縁の肌色[#「縁の肌色」に傍点]は既に述べたとおりだし、頭の凹み[#「頭の凹み」に傍点]に水が涸れるといけないというのは、これが採水孔だと知らずに外見だけからそう思ったためであろう。裸で泳ぐと河童が尻を抜く[#「河童が尻を抜く」に傍点]≠ニいうのも、カッパが水泳者の裸の尻を見て畜人皮の水中服を着た昔の主人を思い出し、以前仕込まれたとおりにその者の股座にはいろうとしたもので、それを誤っていわれたのに違いない。河童の屁[#「河童の屁」に傍点]という言葉がなぜあるのか、誰も説明した人はないが、後部から流体を噴出するジェットを見て、無知な古代人が放屁《ほうひ》を連想したのではあるまいか。なお、上半身女体で下半身が魚体という人魚[#「人魚」に傍点]は、縁《あお》いカッパを脚にはさんで波間に遊ぶイース女性――後に述べるが、前史世界への航時機着陸が禁止される前は、古代世界でそんな遊びをすることが可能だったのだ――の上半身の水中服を裸女[#「裸女」に傍点]、下半身の模様を魚尾[#「魚尾」に傍点]と誤認したものと思われる。
[#ここで字下げ終わり]
3畜人馬《ヤップ・ホース》アマディオ
海岸では、ドリスの長靴《ブーツ》とマントを番して、畜人馬のアマディオが昇る朝日を眺めていた。本国星「カルー」で見るシリウス二重星の壮大無比な日の出の光景を瞼《まぶた》に浮べつつ思った。
――地球の日の出は単純だな。太陽が一つしかないんだから無理もないが……。
さわやかな秋の大気を縫って、後ろの木立から小鳥の囀《さえず》りが聞え、横なぐりの風がたてがみ[#「たてがみ」に傍点]を右へなびかせた。令嬢ドリスの乗用畜として、天馬アヴァロンともども地球別荘行きの宇宙船に積み込まれたのが三週間前だった。毎朝|払暁《ふつぎょう》、カッパのピューと一緒に(俗伝にいう「河童の駒引」とはこれである)この海岸まで主人を送迎するがこれで二週間になる。
アマディオは畜人馬《ヤップ・ホース》だった。畜人馬とは巨人ヤプーを乗用畜に仕立てたものである。少々説明を加えよう。
巨人ヤプーは六倍体である。個体各細胞中の染色体数が三倍になって、これによって普通の二倍体の三倍になっているのである。既に二〇世紀においても、農芸方面では三倍体・四倍体の巨大《ばけもの》蔬菜《そさい》が栽培・収穫されていたが、ヤプー育種学の進歩は、この倍数体の応用をヤプーの個体において実現することに成功したのである。
身長四メートル五十センチ、ないし五メートル、身体各部の比率もこれにかなっていた。肉体が三倍であるという一点を除けば、心身共になんら奇形的なところはないのである。畜人犬《ヤップ・ドッグ》が奇形ヤプーから作出され、変種も多々存在するのに反し、畜人馬は単に巨人ヤプーを畜馬具によって拘束しているに過ぎない。
では、その畜馬具とはどんなものか? これを装着している畜人馬アマディオ号によって説明することにしよう。
まず目につくのは鞍《くら》である。巨人は首を差し伸べてうつ向いており、このため後頸部は水平になっているが、こうして生じた肩から首へかけての水平部分に|頸 鞍《ネック・サドル》という鞍が置かれる。鞍の前端が、ちょうど項窩《ぼんのくぼ》を押えるようになってとがっているので、巨人は顔をあげて首を垂直に立てることは決してできないのである。鞍の前半下部は左右から頸部を回って咽喉《のど》笛《ぶえ》のあたりで連結され、首を巻くことで鞍を固定している。騎手としては肩車に乗った姿勢であるが、六倍体とて首が太く長いから、両腿を広く開く関係で跨る[#「跨る」に傍点]という感じのある一方、広い肩にささえられた鞍の後半と騎手の尻との関係は、椅子[#「椅子」に傍点]を使う時のような安定感があるのだ。
手綱《レイン》は四本で、| 轡 《ブライドル》の銜《はみ》に連結された口手綱二本は始動と制止を、左右の耳朶《みみたぶ》に穿孔してこれに通した耳手綱二本は方向転換を、そしてこの四本がまとめて騎手の左手に握られる。首の付根から胸元へ左右に垂れた革紐《かわひも》は形状から|首 飾 鐙《ネックレース・ステラップ》と称《よ》ばれるもので、先に乗馬靴を受ける鐙金《あぶみ》があり、跨った首の左右から垂れる騎手の両足はこれでささえられる。
ここまでは昔の馬具から類推できるが、一つだけ畜人馬独特のものがある。アマディオの両腕は背中に回して二本重ね合されたうえ、金属製の輪が三個所で肉に食い込むくらいきつくはまって両腕を結束している。片腕の| 掌 《てのひら》が他方の肘《ひじ》に当るくらいに重なっているので、結束された両腕はピタリと背中について、少しも自由に動かせない。これは、天馬《ペガサス》における舌去勢と同じく、高次な行動能力を減殺して乗用畜としての能力だけを残すためのものであったが、同時に乗馬・下馬の際の中継台としても有用な意味がある。立位《アシック》の馬の鞍は地上四メートルないし四メートル五十センチの高さであり、蹲位《アンク》を取らせても三メートル以上である。高過ぎてとても乗れない。そこで、蹲位の馬の背後から、ちょうど跳箱に跨るまえに跳躍台を踏むように、まず背中に回した腕に片足を掛けて強く踏み、筋肉の弾性を利用して飛び上りつつ股を開き|頸 鞍《ネック・サドル》に尻を落す――これが畜人馬の乗り方である。おりる時はこの逆をとればいい。こういうふうに中継台に使われるので、結束された両腕は|肉 踏 段《フレッシー・タラップ》と称ばれ、三個の金属輪は|踏 段 輪《タラップ・リング》と称ばれる。
これが畜馬具で、わずかこれだけの道具で五十人力の巨人《ジャイアント》ヤプーが畜人馬《ヤップ・ホース》という第一級の乗用畜《のりもの》になってしまうのである。なにしろ身長が身長だから歩幅《コンパス》も大きい、全速力で走れば昔の旧馬《エクウス》よりずっと速いので、天馬《ペガサス》は別として、地上の動物への|騎 乗《ライディング》としてはこんな爽快《そうかい》なものはなく、旧馬が畜人馬に取って代られたのも無理はなかった。
じっと海面を見つめながら、主人を待つアマディオの頭をかすめて、小鳥が一羽舞い上った。
――タイタン星のころを思い出すなあ。小鳥の巣を取りに行ったっけ。
タイタン星で育った幸福な少年時代のことがゆくりなくも思い出されるのであった。
ベデルギュース圏にある巨人ヤプーの生産地タイタン星で、二十五年前に彼は生れたのだ。六倍体というだけで、特別の肉体加工を幼時から(セッチン族のように)必要としない巨人ヤプーに対しては、飼育法は寛大である。他の畜人生産星《ヤプーナル・ファーム》には、たいてい、黒奴が常駐して飼育に当るのだが、タイタン星には、毎年一度、集荷作業《コレクション》に黒奴が訪れるだけで、平生は、まったく巨人たちだけの世界なのだった。皮膚強化とかエンジン虫寄生のためとか、毎週一度の畜乳給餌とか、そういった一連の仕事は自動機械がいっさい管理している。だから、アマディオにしても、この巨人仲間同士でいる間、かつて自分を巨人と自覚したことはなかった。
毎年やって来る恐ろしい|黒 小 人《ブラック・マエキン》のことは知っていた。彼らは、白い小さい神[#「白い小さい神」に傍点]のお使者《つかい》なのだといわれていた。そして、この「|白 小 神《ホワイト・ゴデイキン》」についての宗教上の教義について、いろいろと仲間の年寄りが教えてくれた。だが、話に聞くだけではなかなか信じられなかった。前史時代、二〇世紀の日本人で、「西方極楽浄土」の実在を本気で信じる者はなかった。アマディオにとっても、白い小さい神々の住む天国星《パラダイス》など、単に教義のうえだけで存在するにすぎないと思っていた。彼自身が、批判力の強い、思索的な性格だったことにもよるだろう。
学校にはずっと通った。後においおいと述べるように、白人ヤプーの用途は畜人馬《ヤップ・ホース》たるばかりではない。|肉 梯 子《フレッシー・ラダ》(生きたエレベーター)、|肉 小 舟《フレッシー・ボート》(巨人の背中を座席としたお椀《わん》ボート。浦島太郎が乗ったという亀《かめ》はこれである)など、いろいろある。だから、教科は特定方向に片寄らず、将来何にでもなれるよう心身の健全な発達を目ざすから、今まで紹介してきた畜人犬《ヤップ・ドッグ》や肉便器《セッチン》などに比べれば、ずっと人間のに近い教育であった。それに脳髄細胞が六倍体となったために、巨人はみな頭が良く、家畜語しか知らないハンディキャップにもかかわらず、あらゆる学問を理解する。
アマディオについていえば、彼は特に哲学が好きだった。「宇宙空間に遍在すると説かれる白小神なるものはほんとに実在するのか?」という、子供の時からのその疑問を解くために、彼は研究と思索を重ね続けた。だが、学問ばかりではなく、少年時代にはよく遊びもした。当時は口も手も自由だった。上を仰ぎ見ることもできたのだ。
黒小人が年に一度やって来て生きた貢物《みつぎもの》を取り立ててゆく――その暗い宿命的事実さえなければ、タイタン星の巨人《ジャイアント》たちの生活は、実に楽しいものだといえるだろう。
生きた貢物[#「生きた貢物」に傍点]を黒小人たちは白小神たちへの人身《ひとみ》御供《ごくう》にささげるのだ、といわれていた。
――ほんとうだろうか?
アマディオは、大学では哲学科を選んだ。そして、少年時代からの懐疑と取り組んだ。形而上学《けいじじょうがく》、認識論、弁証法、実存哲学……六倍体の頭脳が哲学史を渉猟し、宇宙と神との本質について沈思した。卒業論文は『神の非実在に関する考察』と題するものだった。白小神[#「白小神」に傍点]とは、結局黒小人[#「黒小人」に傍点]族に朝貢する巨人族が、劣等感の代替補償として黒小人よりすぐれた存在を夢想し、かつ創作したものにすぎない、それが結論だった。巨人たちには、そういう「思想の自由」も許されていたのである。
しかし、アマディオが大学卒業の二十歳のとき、|徴 畜 検 査《コンスクリブティブ・エグザム》(集畜のための検査を、巨人族のほうではそう称《よ》んだ)があった。巨大な宇宙船に乗って天の彼方《かなた》からやって来た黒小人たちの前で、学科と術科の試験が行なわれた。知能指数は一七九。「特に思索推理の能力に富む」と評されたのを、彼は今でも覚えていた。が、彼の運命を決めたのはそういう精神能力ではなかった。二千メートルを走らされ、他の者が二分余りかかったのを彼だけは二分を切った、その脚力に注目されたのだ。
積み込まれた宇宙船(巨畜集荷専用の輸送船)の船底で、アマディオは、「お前は馬[#「馬」に傍点]になる」という黒小人船員の言葉をむなしく聞いたのだった。
――馬《ホース》? 何のことだろう。
それを思い知らされたのが、カルー星、ジャンセン家領地の外《はず》れにある調教馬場でだった。
畜人馬は、馬主であり騎主である白人が試乗するまえに黒奴調教師《ニガー・トレーナー》によって基礎訓練される。馬[#「馬」に傍点]の何たるかさえ知らない巨人ヤプーを馬[#「馬」に傍点]そのものに仕立てるのである。そのままでは矮小《わいしょう》すぎる黒小人たちは、大きなロボットの中にはいり、これを操縦して巨人ヤプーにふさわしい巨体を持つ調教師になる。そのロボット調教師が、まずアマディオの両腕を背中にねじ上げ、金属輪で緊縛した。両腕が振れなくなって、それがため歩きにくくなる。それを長い|調 馬 索《トレーニング・ウイップ》で追い立てられ、馬場を歩き回される辛さに耐えねばならなかった。
そうして、それでもやっと元のような速力で歩けるようになって半年後、ロボットは、いきなり彼の口に銜《ビット》をはませた。舌袋がついていて舌が収納され、アマディオは自由な発言手段を封じられてしまった。そして、あの|頸 鞍《ネック・サドル》! 首も頭もうつ向いたままの無理な姿勢をとらされ、それ以上、上を向くことができなくなったのだ。……それでもまだ、アマディオにはそれが何のためかがわからなかった。「なぜ俺《おれ》は、こんなにまでしていじめられねばならないのか?」、との疑問を持つ余裕もあらばこそで装具をつけられ、しゃがんだり立ったり、ロボットの鞭が三ヵ月間、容赦なく彼を追い回した。
そして、あの日が来たのだ。初めて白小神を見た日、|主なる女神《ミストレス》に試乗されたあの日、畜人馬ロディオの日=c…。
引き出された広場には、黒奴調教師と同じくらいの、白小人《しろこびと》といいたいほどちっぽけな体だったが、白い肌、金の髪、青い目、かつてタイタン星で聞いたとおりの美しい神々が集まっていたのだ。そして、黒奴たちがその前でうやうやしい土下座の挨拶《あいさつ》をしていた。
――白い小さい神は実在していた!
長いこといだいてきた無神論への、この痛烈な反証を目前にして受けた大きなショックは、アマディオにとって、実にはかり知れないものがあった。神は現実に生きていた! 見よ、一人の白い小さい女神が、蹲位《アンク》をとる彼の背後の腕を踏んで|頸 鞍《ネック・サドル》にまたがったではないか。その重みで頸骨《くび》はしない[#「しない」に傍点]、顔はいっそう苦しくうつ向かせられてしまう。苦しくて痛いので、アマディオは振り落そうとしてもがいたが、結果としては手綱の轡《くつわ》に締めつけられ、口と耳のあたりが激しく痛めつけられるばかりだった。
それでも、騎手《のりて》を振り落すまで、彼はどのくらいあばれたか、もう今でははっきり覚えてはいない。でも今にして思えば、彼は、相当に癇《かん》の強い荒馬であったことに間違いはない。何遍も騎手を落馬させている――。
だが、この白女神も大した乗手であった。結局はその日のロディオが終了しないうちにアマディオを乗り馴らしてしまったのだから。
騎手が、彼の知性的な面をまったく無視して、言葉を使わず、ただ手綱と騎座とで無条件に意志を伝達してくることは彼の自尊心を傷つける最大のものであった。だが、容赦なく鞭が背中に鳴り、拍車を脇腹《わきばら》に蹴込《けこ》まれ、手綱で口を締めつけられると、その苦痛に抵抗しきることは困難だった。頸鞍に座して彼を支配する白女神の存在は絶対であり、その意志には無条件に従わねばならない、ということを認めざるを得なかったのだ。
――馬[#「馬」に傍点]とは、こうして騎られるもののことだったんだ――。
大学の卒業論文で「神の非実在」を見事に論証したはずのアマディオが、その神に駒られている! 神への不敬の懲罰としてか、なんとも皮肉な光景ではあった。神の存在を実証する証《あかし》が、ほかならぬ自分自身であったのだ。
――神は騎《の》り給《たも》う。故《ゆえ》に、神|在《あ》り。余は神を保持す。故に、余在り。
この絶対命題が、それまでの過去のアマディオの意識を崩壊させ、同時に、畜人馬としての新しい彼の生涯が、その日から始まったのである。
彼の主なる白女神は、障害|飛越《とび》が好きだった。四メートル五十センチという、巨人ヤプーの巨躯《きょく》をもってしても容易に越せない高障害に向わせられる。拒否しても、拍車で強制される。騎手の意志が、気まぐれでさえが、馬にとっては絶対命令なのだった。「絶対者」の存在は絶対[#「絶対」に傍点]であった。彼が見事に障害を飛び越えたとき、絶対者は彼を賞《め》でて頭をなでてくれる。その手が恐ろしい絶対者のものであるがゆえに、その手の優しさは彼を歓喜させる。……こうして彼は、知らず知らずのうちに、神への回心《えしん》を経、信仰を深めていったのであった。かつて強固な無神論者であった彼が、今では激しい鞭撻《べんたつ》を神の試練《こころみ》として、愛の鞭として、感謝するようにまでなっていた。女神の一時《いっとき》の娯楽のために、彼は全力で疲労|困憊《こんぱい》させられる、とわかっていても、そうして神を楽しませる存在[#「神を楽しませる存在」に傍点]たりうること自体がうれしいのであった。
それでも彼の思索力が減退したというわけではなかった。勤務の余暇には|畜 人 神 学《ヤプーナル・シオロジー》の研究に情熱をささげた。信仰によって開かれた心の目には、いっそう深く白神信仰《アルビニズム》の浄福にあふれた世界が映じた。それまでの積年の哲学は甘んじてその神学の| 婢 《はしため》となった。アマディオは今こそ真理を悟得したのである。「良い馬」としての存在たらんこと、それである。
侯爵令嬢ドリス・ジャンセン、この御方こそ彼にとっての絶対者、白女神なのだった。悟得以来すでに二年余、きびしい愛の鞭[#「きびしい愛の鞭」に傍点]で可愛がられ、彼もその愛に応《こた》えて良き馬になり、腕を上げ、競技会などではドリスを騎せて幾度も優勝した……。
はるか沖合から、一直線に進んで来る主人を認めて彼は回想の糸を切った。主人の金髪が後ろになびいていた。波の上に出たので、覆面帽《フード》を脱いで背中に垂らし、首から上だけは白人に戻ったのだ。
アマディオは後ろ向きになって蹲位《アンク》を取り、待つ姿勢になった。
波打ぎわで股をゆるめてピューを解放したドリスは、左手にマントをつかみつつ、畜人革《ヤップ・レザー》の長靴を穿くと、軽やかな二動作で鞍に跨った。続いてピューが|踏 段 輪《タラップ・リング》に下から飛びついて巨体の腕にしがみつく。間髪を容れず、
「shicko」
ドリスはアマディオの耳の穴に差し込んでおいたシャムボクを右手に抜き持ち、ピシーッと一発背中で鳴らし、同時に首飾鐙を踏んばって胸に鋭い拍車を加えた。
アマディオは、水晶宮目ざして必死に駆け出した。
走らせながらドリスは、覆面帽を襟《えり》からはずし、代りに、抱えていた乗馬マントを羽織った。朝日が後方から低く射して、ひるがえるマントの、燃えるような真紅を輝かせた。
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第一六章 夜明けの予備檻で
1悪夢と指輪(上)
麟一郎《りんいちろう》は、教会にいた。ヴェールをかぶり、オレンジの花、百合の花に飾られた花嫁衣装で、いっそう美しさを増したクララの横にいた。これから結婚式が執《と》り行なわれるところであった。
――よかった。とうとうここまでこぎつけたのか。一時は二人の仲がこじれて、どうなるものかと思っていたのに……。
そのとき、麟一郎の目の前に、大きな| 杯 《さかずき》と、変てこな形をした酒器二つが持ち出された。
「三三九度の固めの杯を行なう」
牧師がいった。
――杯一つに酒器二つで三三九度とは変だな、それに教会でやるのもおかしい。祖国《くに》で披露するまえに、日本風の儀式をやろうと話したことがあったから(第一章3「クララと麟一郎」参照)、彼女が思い出したんだろうけど、それにしても、変な形をした酒器だな……。
いぶかりながらも麟一郎は、正坐して杯をとった。牧師は二つの酒器――横にねかせるようになって上部に握り柄が付き、まるで尿瓶《しびん》のような形をした中に黄色い液が透いて見えた――を取り上げて、トッ、トッ、トッと三度に分けてつぎ、もう一つからも、同じようにして三度に分けてつぎ込んだ。かくして黄色い液が白い磁器に美しく満ちた。
「さあ、三、三とついだ。三三九度になるよう、それを三口で飲み干しなさい。一口は新婦のために、一口は新郎のために、最後の一口は選ばれた自分のために……」
指図《さしず》をする牧師はセシルに似ていた……が、頭上に後光がさしているように見えるのは気の迷いであるのか?
「えっ? でも、固めの杯ですから、私だけで飲み干さないで、交互に……」
「何だと! それを人に飲ます?」
「私はクララと結婚するのですから……」
「持参畜《ダワリ・ヤプー》(花嫁の持参金の一部たる家畜)の分際で何をいっておる。新婦と新郎の運命が今後一つに結ばれようとする証《あかし》として、新婦所有のヤプーの中から特に一匹を選んで、両人の聖水《ワラ》を混ぜた下杯《ビス・カップ》を飲ませるのが三三九度の儀式じゃ。お前はその一匹に選ばれたのじゃ。あまりの光栄に血迷ったも無理はないが、落ち着くのじゃ。そして三口で飲み干すのじゃ。お両人《ふたり》が待っておられる――」
牧師の説得の意味がわからなかった。麟一郎はお両人といわれてそちらを見ると、まず目についたのは長身の青年であった。亜麻《あま》色《いろ》の髪、灰色の目、鷲《わし》のような鼻――あのウィリアムが、婚礼用の礼装に胸から花をのぞかせて立っていたではないか。そして彼の頭上にも、後光が輪のようになって浮んでいた。……気がついたとき、それまで横にいたはずのクララが、長い裳裾《もすそ》を引きながらウィリアムのほうに歩み寄っていくところが見えた。頭上のオレンジの冠はいつか脱がれていたが、やはりその少し上のあたりに光輪《ニンバス》がかかっていたのは、どうしたことからであろうか?
ヴェールから顔をあらわしたクララは、ウィリアムと向い合って立った。美青年が微笑《ほほえ》んだ。両方から手を伸ばし合い、かたく抱擁し、顔を重ねるようにしての長い接吻《せっぷん》だった……。
麟一郎はまるで悪夢を見る思いであった。あまりのことに信じられなかった。
立ら上ろうとしてハッと気づいた。またもや、いつの間にか素裸になっていたではないか。そのまま彼は羞恥《しゅうち》のため足がすくんだ。
――俺《おれ》はいったいどうなるんだ。裏切者! 婚約指輪《エンゲージ・リング》を交換までしておきながら、畜生! こんな指輪、たたき返してやる。
――麟一郎はクララ目がけて指輪を投げつけた。ところが、それは、牧師の背中に命中し、そして爆発した。天地はために暗く、暗転のうちに煙がはれていった時にはすべては消え去っていた。ただ一つ、あの鞍形《あんけい》の背を持った怪物《ばけもの》椅子が、鞭《むち》のような触手を振り振り近寄って来る。麟一郎が後退《あとじさ》りするのをどこまでも追って来る……。
「アーッ」
自分の叫びで彼は目ざめた。夢だったのか!
それまで彼は、素裸のまま軽金属性の床板の上にじかに寝ていたらしい。網目の天井《てんじょう》、鉄の格子、と見回して気づいた。これは檻《おり》ではないか! 獣の檻なのだ。檻が置かれた室内は煌々《こうこう》と明るかった。
昨日の午後以来、どれほど多くのことが起ったか、一連の出来事が走馬燈のように麟一郎の頭の中をよぎっていった。――全身麻痺、人犬《ひといぬ》、焦熱地獄、立回り、皮膚反応痛《デルマチック・ペイン》、再会、心中……そして自分だけが死にはぐれた。去勢され、舌を噛《か》んで……それも失敗《しくじ》ったんだな……。
自嘲はあったが不思議と絶望はなかった。生本能原液の注射が効いて、麟一郎の個体保存欲は倍増し、「生命《いのち》を惜しむ」気持が逆に強くなってきていたのである。だが、クララはもういない、ということが彼の胸を締めつけた。一時の激情で彼女を殺してしまったことの自責が彼をさいなんだ。しかも、この奇怪な未来社会から彼を救い出してくれる人といっては、彼女をおいて誰がいるというのか! その彼女を絞め殺してしまったのだ!
「クララ、許してくれ!」
叫んでみたがいっそう悲しみは倍加した。左手の指には、夢の中で投げつけた指輪が、まだそのままチャンとはまっていた。これだけが唯一の記念となってしまった。〈[#ここからフォント太字]クララよりリンへ[#ここまでフォント太字]〉と、指輪には刻まれていた。さらに昨日、タウヌスでの二人の語らいを彼は思い出していた。逆境にある自分を励ますために、クララがくれた護符《おまもり》なのだ。まるで彼女がまだ生きてでもいるような気がした。
「クララ! 僕はすべてを失ったがこの指輪だけが残った。僕たち二人はこの指輪がある限り一緒なんだね。クララ! 僕を導いてくれ、僕を励ましてくれ!」
彼は指輪に向って涙を流した。
2悪夢と指輪(下)
そのころ――、
クララは麟一郎《りんいちろう》とワルツを踊っていた。大学の舞踏会だった。その日はクララの誕生日であり、二人は婚約指輪《エンゲージ・リング》を交換したばかりであった。クララは、愛する男のたくましい両腕に抱かれて明日の幸福《しあわせ》に胸がふくらんでいた。その甘美な旋律が不規則に乱れ始め、不意に麟一郎はクララを突き放すようにして上着を脱ぎ捨てた。何としたことか! 彼はズボンまで脱いだ。その異様さにクララは戸惑った。
「麟《リン》! どうしたっていうの?」
クララの戸惑いをよそに、麟一郎は委細かまわず、身につけたものは全部脱ぎ捨てていくではないか――。
「クララ、びっくりしたでしょう」
耳元の声に振り向くと、そこにはウィリアムの灰色の目が微笑《ほほえ》んでいた。
「いったい、何があったっていうのかしら」
「クララ、奴《やつ》はヤプーだったんですよ」
ウィリアムの一言に、クララは愕然《がくぜん》とした。ヤプー、麟一郎がヤプー? 嘘《うそ》だわ、嘘に決ってる! ねえ、麟《リン》!
彼女は麟一郎に呼びかけようとしていっそう驚いた。彼の体が、みるみる縮んでいき、しかも首だけが伸びてするすると近寄ってくる。確かに麟一郎の顔に違いなかったのだ。突然、彼の口元がみにくくゆがみ、何か訳のわからないことを叫んだかと思うと、急に彼は彼女の咽喉《のど》元を絞めつけにかかった。苦しいっ、麟《リン》が私を殺す! ウィリアム、助けて!……。
ひどくうなされたあげく、クララは意識づいた。額に、べっとりと汗の玉が浮いていた。下着が吸ってくれたせいで感じないのであろうが、全身に冷や汗をかいたに違いない。――あの瞬間の、麟一郎の怒りに燃えた狂暴な顔が、まだ眼底に残っていた。よく死なずに助かったものだわ――との思いと同時に、彼女にも怒りがわいた。――麟《リン》、貴方《あなた》、妾《あたし》を殺そうとしたのね!
額の汗をぬぐう片手の指に堅い物があった。指輪であった。つい今、夢にも見たあの日の舞踏会、二人はダンスの前に交換したんだった……そして昨日、タウヌス山での二人の語らいが重ねて思い起された。
〈[#ここからフォント太字]永久《とわ》に汝《なれ》の所有《もの》なる者より[#ここまでフォント太字]〉
指輪に刻まれた言葉であった。その誓いが複雑な影を投げる。が、クララの神経は高ぶっていた。何て嘘っぱちな!
――たたき返してやる。こんな指輪!
クララは尿意を覚えた。昨日使った浴槽わきの肉便器《セッチン》のところに行くつもりで身を起しかけたとき、たちまち、部屋の隅《すみ》から何者かが近づいてきた。ほの暗かった照明が急に明るくなり、黒地のコンビネーションの制服を着た黒奴の姿を照らし出した。F1号ではない、彼は寝ていた。この黒奴は|寝 台 番《ベッド・キーパー》――宿直黒奴《ナイト・ウォッチ》ともいう――で、一晩中、貴人の寝台を見守る役目を負っていた。去勢されない身でありながら貴族男女の寝室に侍《はべ》り、そして心の平静を失ってはならないという、むずかしい任務であった。
「ご用でございますか」
「アシッコなの」(第七章4「肉便器の初使用」参照)
「はっ、ここにございます」
黒奴は、承って寝台下から轆轤首型単能具《ロングネックド・セッチン》を這《は》い出させ|た《*》。彼は、寝台のすそ近く位置すると長い首を伸ばし、両|股《もも》にはさみやすく瓢箪《ひょうたん》形になっている頭部を掛布の下へもぐらせてきた。
何のことはなかった。自動ドアと同じく、寝台を立つどころか上半身を起すことさえ無用だったのだ。口笛《ホイスル》で合図すれば十分なのである。そのうちに専用読心能《テレパス》を持つようになれば、口笛さえ必要がなくなろう。
照明が元の暗さに戻り、彼女はふたたび眠り込んだ。夜の明けるのも知らず、快い眠りに落ちた。
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* 夜明前の一刻はセッチンたちの身だしなみの時間である。賤《いや》しい肉体に、聖なる飲食物を与えられるその光栄、口腔《こうくう》をできるだけ清めて、少しでもご神体を汚すまいと奥歯や歯茎《はぐき》をみがいて無垢《むく》の容器にし、賜わったものを十分味わい、少しでもそれに異状があれば覚知できるように、味蕾《みらい》(舌表面の粒々)の性能を増進する薬液に舌をつけ、さらに唾腺《だせん》に強力抗生物質ベロマイシンを注射して、舌で清拭《せいしき》したとき、唾液の殺菌力でひと舐《な》めで消毒できるようにする。最後に、食事ごとに主人の肌身《はだみ》に触れる顔面や肉瘤の皮膚の手入れをする。こうして彼らは、SC内で毎朝主人の起床前に支度《したく》をととのえて一日を迎えるのだが、寝台下の単能具だけは別で、主人の就床中は身支度抜きに不時の御用に備え、離床されて後、初めてその日の身だしなみに取りかかるのが常である。クララの目ざめたころは他のセッチンたちはちょうど支度最中だったが、此奴《これ》だけがすぐ這い出せたのはそのためであった。
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3家畜適性検査《ドメス・テスト》
さて、ふたたび下界に目を転じてみよう。
クララのような手軽な解決法のない麟一郎《りんいちろう》は、便意を催して困り果て、狭い、低い檻《おり》の中をうろうろしていた。何か便器に代わるものはないかと見回していた。径十ミリほどの鉄棒が、十センチ間隔ほどに植えてあった。その格子の下方に三十センチばかり、鉄の腰板が四囲に張ってあり、その一つに、中央に首一つほどが抜けられる穴《くぐり》があり、その穴の外に| 丼 《どんぶり》状の容器が見えるのであった。見るところ、食器のようであった。外には何の容器もない。
檻の天井は、立ってやっと頭のつかえないだけの高さであった。床は二畳敷ぐらいの広さで、檻の外の部屋の床より五十センチほど高くなっていた。そして奇妙なことに、檻の外は、四方いずれも格子から二メートル範囲ぐらいのところまでしか見えない。壁も衝立《ついたて》も垂幕《たれまく》も、何ひとつ邪魔物のない空間には違いないのだが、ゆらゆらと陽炎《かげろう》の立つように輝き揺れる不思議な光の幕があって、視界をさえぎっていたのである。その向うに何があるのか、部屋全体の大きさや様子、この檻の置かれている位置、それらが何とも皆目見当がつかないのである。不安といえば不安であった。
すると、上方から、妙な形の物体が下ってきた。ゴム管らしいものの先に人工肉質の先端部――読者諸兄姉には、それが黒奴用|真空便管《ヴァキューム・シュア》の先端器《コブラ》と見当がつくだろう――であったが麟一郎にはわからない、どこかに見覚えがあるような気がしながら何であるかわからなかった。
麟一郎が先端器をいじっていた間に、読者にごく簡単に、家畜適性検査《ドメス・テスト》について説明するとしよう。巨人ヤプーのアマディオが畜人馬《ヤップ・ホース》にされたのは、その脚力を買われてのことだった。そのような、個体の性能による使用区分は、人間として育ってきた土着《ネイティブ》ヤプーを飼ヤプーにする場合、特に必要な手続きであった。この手続きがつまり家畜適性検査で、家畜化を前提として、その個体の持つ種々の可能性を計測し、用途別の決定に資せしめんとするものである。いわば一般でいう適性検査というものに当る。
知能指数[#「知能指数」に傍点]、これは人間のときと変りがない。
愛情指数[#「愛情指数」に傍点]というのがある。これは、慕主性係数と相関させて意味を持つ。秋田犬のように一人の主人だけになつくか、洋犬のように主人が変ってもわりに平気でいられるか、そしてそのなつき方はどの程度か、といった問題であった。
性格指数[#「性格指数」に傍点]というのは、各種因子を正負十点で評価した点数であるが、正負の評価が人間とは逆になる。独立自尊性・批判性等が| 負 《マイナス》で、卑屈性・依存性等が正《プラス》である。さらに多くの項目では、一次形成と二次形成とを分つ。前者は人間的意識にもとづくもので| 負 《マイナス》、後者が家畜的意識から形成されるもので正《プラス》になる。羞恥《しゅうら》心、名誉心、自負心、競争心、潔癖性など、いずれも一次と二次とで評価が反対にな|る《*》。
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* ヤプーに羞恥心があるわけはないし、あってはならない。誰でもそう思う。しかし、それは人間的羞恥心のことで、ヤプーにはヤプーなりの羞恥心があっても差しつかえはない。生れてから首輪をはずしたことのない原《ロー》ヤプーは、首輪の下の部分を露出することに人間が素裸になるときのような羞恥[#「羞恥」に傍点]を感じるという。口唇《こうしん》を閉ざす童貞膜《ハイメン》を破られるとき、舌人形《クニリンガ》の示す羞恥は前史女性の初夜のはじらいに似て、使用する者にはこよなき刺激をもたらす。|食物の器《フード・ホール》を|飲物の器《ドリンク・ホール》より先に舐め上げ、ドリスからその誤りを拍車の一撃で教えられたそのときの、あのセッチンはどんなにか恥ずかしく[#「恥ずかしく」に傍点]思ったに違いない。セッチンとしての| 誇 《プライド》りが傷ついたからだ。
品評会で全犬優勝したニューマ、競馬で勝ったアマディオ、いずれも犬として馬として競争意識と名誉と跨りを持っていたはずである。それがこうした栄誉を得ると、自信過剰となり、ときには驕慢《きょうまん》なヤプーになることもあり得る。だが、その驕慢さがヤプー仲間への驕慢である限りそれは悪徳とはいえない。セッチン族の選畜意識の昂揚《こうよう》が彼らの心の支えなのだから……。要するに、人間とは別の次元でヤプーにはヤプーの誇りがある。これにもとづくのが二次形成なのだ……。潔癖性などにしても、一次形成のものは畜化段階の初期に早く捨てねばならないが、二次形成のほうはむしろ高いほどよい。人間《ウマン》のものを汚ないと思う心があってはならないが、それ以外の不潔さには敏感なほど良い。セッチンが毎朝歯をみがき、顔を洗うのはそのためであって、自分自身の不潔さには潔癖なのである。
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さらに徳目指数[#「徳目指数」に傍点]もある。これとて美徳・悪徳の基準が人間とは違う。孝行、友愛、博愛、信義といった人間関係にもとづくものは全く問題外である。質素などの、私生活を前提とするようなものも不要である。だが、隷属関係から来る忠実性は重要で、その点数は慕主性係数と並んで重視されている。さらに、勇敢、忍耐、勤勉、報恩、奉仕等の徳目が厳重に採点される。――ヤプーは、忍耐とか勤勉とか報恩とかの徳目では、一般に、みな良い点をあげるものであ|る《*》。
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* これは、ヤプーがまだ日本人といわれていたころからの良い天性である。しかし、なぜそうなのか。実は、日本人の全部の祖先であるイザナギ、イザナミ自身が、航時機によって逆送されたヤプーだった、という事実から来るのだ(第二七章2「記紀解義」参照)。だから、日本人にはヤプー的な性質が見られたのである。白人崇拝も、日本人といわれた前史時代からすでに多かったようである。
[#ここで字下げ終わり]
こうした各種指数が計測され、その土着ヤプーの心のうちに眠る服従本能の量と質を知るための服従度検査がなされて、そのすべてを総合したうえで初めて「家畜精神評価」が結論される。これと肉体的諸数値とを合せて、ここに一匹の土着ヤプーの「家畜人」としての評価が結論的に下され、「性能表」が作り得られるようになるのであった。
ヤプーの市場価格を決めるには、この外、畜化度(土着ヤプーの場合は畜化度は低いほど高価である。第一二章5「鞭打つために飼う家畜」参照)、血統書(飼育所《ヤプーナリー》生れのものと違って、『邪蛮《ジャバン》』国からの飼主の変遷の経歴が登録簿に記載される)も問題にされるが、とにかく、いちばんたいせつなのは「性能表」であるから、これを作成する|家 畜 適 性 検 査《ドメスティケイティング・アプティチュードテスト》(domesticationg aptiiude test)(略してDAT、またはドメス・テストという)の重要性はきわめて大きいといわねばならない。
麟一郎は、つまり、これからその検査を受けるのであった。
4先端器試験《コブラ・エグザム》
ヤプーが、先端器《コブラ》をひねくり回している檻《おり》から二メートル余り離れて、二人の男が立ちながら観察していた。一人は中年の白人で、小柄ながら見るからに精力的な風貌《ふうぼう》をしていた。広い額と鋭い目を持ち、研究一途の学究の徒であることをうかがわせた。そのためか、地味なジャンパー・スカートの着こなしなど投げやりなところがあり、イース男性にしては珍しく服装に対して無関心であった。彼がコラン博士だった。「畜人学」、ことに家畜適性検査《ドメス・テスト》の専門家で、畜人省畜籍局嘱託として、同局の地球支局分類課に籍を置いていた。昨夜、ジャンセン家の別荘から連絡を受けて急いで南極の研究室から飛来して来たばかりであった。連絡内容は、「新捕獲の土着ヤプーを明朝登録したい」ということに過ぎなかったが、「二〇世紀球面で獲《と》れた珍品」との但《ただ》し書《がき》がついていたことが、|南 極 飼 育 所《サウスポール・ヤプーナリー》の博士の関心を特にひきつけたのであった。
ヤプーは眠っている、と聞き、立体像映写機や録音機を用意させ、昨日、別室でヤプーが大暴《おおあば》れした、そのときの模様などを見聞きして予備データを仕入れているうち、やがてヤプーの目覚めを報告された。コラン博士は、原畜舎の飼養係兼この予備檻の看守を勤める黒奴B2号に案内されて檻のそばまで来た。まず外部からの観察により、精神諸元の予備データを得ようとした。
榑士のほうから檻を見るには何の邪魔もなかったが、ヤプーのほうからは見えないようになっていた。檻の鉄格子から二メートルほど離して、|磁 界 片 視 光 幕《マグネチック・レイスクリーン》が張り巡《めぐ》らされてあるからであった。ある局部空間に特殊の磁場を作り、その界面が内部から外部への光線だけを通し、外部からの光線は全部乱反射してしまうようにした仕掛である。おまけに、その界面と重ねて強力空気幕《スーパー・エアカーテン》と吸音装置を連動させてあるので、こちらでしゃべることも中へは聞えない。そこで、中のヤプーには姿も声も隠し、自由な観察ができるのであった。
精神検査の手始めに、まず知能検定の目的で、博士は、さっき、真空便管の先端器を檻の中へ差し入れてやったところであった。捕獲された土着ヤプーは、エンジン虫の尾部が成長しきるまではそれまでの排泄《はいせつ》の習慣をまだ身につけていた。しかし、虫の出す体液の特殊な効果で、水分も含めて大腸に集まる(第一四章5「如意鞭・珍棒」参照)ので軟便になり、先端器の使用が可能だった。そこで、エンジン虫を呑《の》ませて以後は先端器を使用させるのである。黙ってただそれを渡してみると、この未知の道具の使用法をそのうちにヤプーは悟る。それでもヤプーによって相当個体差があり、時間の経過も万別であって、一種の知能テストができるのである。つまり、これを先端器試験《コブラ・エグザム》というのであった。
先端器を手にして考え込むヤプーを、ちょうど前史時代に、チンパンジーに道具を与えて観察した動物学者のように、コラン博士は見守りながらB2号に尋ねた。
「給餌《きゅうじ》はどうなってる?」
「はい、昨夜、生本能注射のとき一緒に|高 栄 養 液《ハイ・ニュートリション》を注射《うち》ました」
「分量は?」
「二十t[#機種依存文字「CC」]です」
「ふん、じゃ、百時間はもつな」
「はい、尾の出るまで給餌しなくて済むように……」
麟一郎《りんいちろう》は、奇妙な物の用途を簡単に発見した。緩解注射をされる前に吐瀉《としゃ》したとき(第一一章2「隧道車」参照)、看護婦がこれを使って口の周りをぬぐってくれたが、あのときは目も動かせない状態であったから、ぬぐった物が何であったのか、見たわけではない。それを、ここでただひねくり回しただけでそれが真空吸引装置だということがわかったのは、やはり特別な彼の頭の良さを証明することになる。もっとも、先端部のくびれ[#「くびれ」に傍点]が股にはさむのに都合よくできていることさえ看破すれば、使用法はすぐわかることではあったが……。
排泄し終ると温湯で肛門が洗われ、次いで熱気が乾燥させてくれる。快適で清潔、はなはだ文化的であった。用が済んだところでそれは上のほうに引き上げられていった。まるで誰かが、こちらの様子をすっかり見ていて、都合よく動かしているみたいではないか。
その疑念より先に、襲ってくる空腹感が彼を苦しめた。高栄養液が注射してあるので心配はないはずだが、その注射で空腹感をいやすことまではできないのだった。
大多数のヤプーにとっては、飢餓《きが》感というのは、エンジン虫による充填《じゅうてん》作用への欲望(第六章2「三色摂食連鎖機構」参照)にすぎず、空腹感、つまり一般的な食欲という意味とは関係がないのだが、口からの摂食経験しかない土着ヤプーの場合は、そのことを訓練に利用する目的で、エンジン虫による尻《しり》からの吸乳摂餌が始まって以後も、それと並行して口からの摂食も従来どおり続けさせる。つまり、食欲というものが持続するのだ。そのことから、彼は、いつしか食べ物だけにしか関心を持たない畜生になり、高尚《こうしょう》な精神活動の面はおろそかになっていく。空腹感が、こうして麟一郎を苦しめ始めたのであった。
5赤《レッド》クリーム|馴 致《コンバーション》
「さて次は」と、コラン樽士が檻《おり》を見つめていった。
「赤《レッド》クリームは?」
「はい、一杯分だけ用意してあります」
「よし、まずクリーム|馴 致《コンバーション》だ。電気針の味を教えながら舐《な》めさせる、いいな」
「はい」
黒奴《ネグロ》は壁の取手《ハンドル》を動かした。
麟一郎《りんいちろう》は油断なく四方《あたり》に気を配っていた。例の丼状の餌皿が、自動的に、いったん檻の縁から離れて光幕の向うに隠れたのに目を見張っていると、やがて丼は、光の幕を破ってふたたび檻の縁へもどって来た。一場の幻想を見る思いであった。丼には、暗赤色の半流動状のものがなみなみと満たされていた。アイスクリームのように、そして血糊《ちのり》のように、半ば固まりかけていた。餌皿にある以上、食べ物には違いないのだが……、まさしく食べ物に違いはなかった。飢えから来る動物的本能から、麟一郎は理性の働きを待たずに、それが食べられるものであることを嗅ぎ当てていたのだ。
潜《くぐ》り穴《あな》から首を出すためには、檻の床に腹這《はらば》いにならねばならない。踏みつぶされた蛙《かえる》みたいに、いかにもみっともない姿勢だった。彼の目にこそ映らないとはいえ、どこからかこちらを見ている人がいることは、さっきの妙な便器や、今目の前にある食器のさっきからの動きからでも明らかであった。それを承知で麟一郎は、潜り穴から首を突き出した。いつか彼の羞恥感は減少しつつあったのだ。その羞恥の最も大きな原因は、素裸でいるということであったが、それすら彼の意識からは薄らぎつつあった。それを逆にいえば、ヤプーに対しての素裸の強制は、一つにはこうした羞恥感の剥奪《はくだつ》がねらいであった。
光幕の彼方《かなた》では、コラン博士が満足そうに微笑しながらいった。
「一次羞恥度マイナス7……なるほど、羞恥心は減ってる、頭はいいし、これはなかなか良いヤプーになるぞ。……おい、電気針が遅れないように気をつけろよ」
「大丈夫です、博士《ドクター》!」
「そら、見ろ、舐《な》めるぞ!」
両手とも腰板にさえぎられて使えなかった。それで麟一郎は四つん這いで首を伸ばしたまま、舌先で赤いクリームをペロリと舐めた。途端に、ビリリッと電撃を舌に感じた。
――罠《わな》だったか!
あわてて麟一郎は首を潜り穴から引っ込めようとしたが引けなかった。舐めた瞬間、電撃と同時に、逆U字形の金具が穴に落ちて、上から彼の首筋を押え込んだからだった。苦しくはなかったが、首筋を押えられて自由がきかなかった。
頭の上近くで、男の含み笑いを伴った声がした。
「ヨシ[#「ヨシ」に傍点]、トイワレル前ニ舌ヲ出スカラダヨ、ワカッタカ。……ヨシ[#「ヨシ」に傍点]……食ベテヨシ」
どこから話しかけてくるのか、|流 暢《りゅうちょう》な日本語《ヤプーン》である。何者だろう、と思う余裕もなく声は続いた。
「食ベロ、トイウノニ食ベナイノカ!」
叱責《しっせき》するような口調が飛んで来たかと思うと、ふたたび声と重ねるように先ほどの電撃が麟一郎の舌を刺した。あわてて舌を伸ばす、舐め始める。と、不思議に電撃がやむ。
その赤いものは、一見無臭と思えるドロリとした流動体であったが、口に含むと、一種異様な臭《にお》いがツンと鼻をついた。しかし、何としたことか、今まで一度も味わったことのない珍しい味であり、いっぺんに彼の舌を虜《とりこ》にする妖《あや》しさがあった。電撃のせいばかりではなく、もはや餌皿の底まで舐め尽さねばやまない。その勢いで丼に顔を突っ込むのだが、犬の舌と違ってそう器用には舐め取れないのがもどかしいくらいであった。
こうして彼が懸命に奮闘している間に、この不思議な食べ物について少々、解説をする必要がありそうだ。
前節末で述べたように、一般の原《ロー》ヤプーと違って、土着ヤプーから飼ヤプーにされた奴《やつ》らは従前どおり食欲を持つ。この性質を利用してイース人は、訓練用に特別の餌を作る。栄養には無関係だが、特異な味を持つ人体《じんたい》分泌物《ぶんぴつぶつ》を原料としての菓子であった。|月 の 羊 羹《メンストリアル・スイートゼリー》|、《*》|愛 の 煎 餅《ラブジュース・ビスケット》|、《**》ピデ・ボン|ボン《***》、|垢  飴《スメグマ・ドロップ》|などが《****》おもなものであるが、いずれも唾液《だえき》に混じって溶けるとそれそれ強烈な異臭を発し、その異臭のゆえに、いったん嗜好物《しこうぶつ》化してしまうと、逆に麻薬のような強烈な魅力が働くという。しかし、それらが悪魔の味覚[#「悪魔の味覚」に傍点]と称《よ》ばれて、土着ヤプー訓練用以外には絶えて使用されることがないのは、材料のせいでも法律のせいでもない。その異味・異臭が強すぎ、反発が激しすぎて、一般では、とてもそれが嗜好物化する段階までは進めないからである。もちろん人間の舌に合うわけのものではない。
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* 生理極小畜(メンス・ミゼット)を生理帯から取り出すと、すぐ神血を吐かせ、皮膚が吸ったものも絞り取る。この血は凝固しないから、特殊ゼラチンを加えて固まらせる。この膠《にかわ》状のブラッド・プリンというのをさらに固めたのが月の羊羹(メンストリアル・スイートゼリー)である。暗赤色をしている。
** 男女の love juice を滲ませて焼く。舌人形の胃から採った液を原料とするのがヴィナス・ビスケット、唇人形のならアポロ・ビスケットという。
*** 男女一緒の love juice を肉洗浄器の胃から採って糖衣で包み、中から液が出るようにしたボンボン。交わり一回につき一個が作られるので「交わりの象徴(コイタス・シンボル)」ともいわれる。「昨夜はボンボンを幾つ作った」という言い回しもある。ちなみに、このボンボンを作る担当者は前記の寝台番黒奴(ベッド・キーパー)である。
****  smegma から作ったドロップ。白色不透明。量を物質複製機でふやして作る。ヴィナス・ドロップ、アポロ・ドロップの別があり、大貴族ともなれば、各個人ごとに自分のドロップを作らせるのが普通である。ヤプーに主人の体臭を教えるには、これをしゃぶらせるのがいちばん良いといわれる。
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なぜ土着ヤプーにだけはその味が通じるのか。タークァンを混ぜるからである。土着ヤプーには前史時代の昔から、味噌《みそ》とか沢庵《たくあん》とか、くさや[#「くさや」に傍点]の干物とか、白人の到底口にし得ないものが喜んで食べられた。このことからヤプー的な食べ物の調理科学が研究され、それぞれのエキスのみを抽出して再合成した粉末(「味の素」風)が作られ、白人や黒奴にとっては|嘔 吐 的《ディスガスティング》であるが、土着ヤプーにとっては珍味中の珍味ともなって、その味で魂を天外に飛ばすほどだということであった。この味の素[#「味の素」に傍点]は、ヤプー系食品の代表ともいうべき沢庵にちなみ、タークァン tarquan と命名されているが、これを混ぜることによって、土着ヤプー餌料の、あの異味・異臭を魅力的にするのであった。
麟一郎の場合は、前記のケーキ類とは違う馴致《じゅんち》用の赤クリー|ム《*》にタークァンを加えたものであった。初めは、タークァンに惹《ひ》かれて喜んで食べる。それを、しだいにタークァンの分量を減じていくに従い、だんだんと赤クリームの魔力にとらえられてきて、そのうちには、その異味・異臭自体を喜ぶようになり、ついにはタークァンなしで、いや、むしろタークァンがない純生のもののクリームが濃いほど美味と感じるようになる。この転化教育を赤《レッド》クリーム|馴 致《コンバーション》といい、馴致後はさらに月の羊羹や愛の煎餅の味を喜び、このためにはどんな珍芸でも覚えて見せようとすることになるのである。そして、命じられさえすれば、直接、主人の体から smegma を喜んで舐め取る。麻薬中毒患者が、薬の入手のためにはどんな羞恥・禁制をも顕みないのと同じである。麟一郎が喜んで舐めていたのは、たっぷりタークァンを混ぜた赤クリームであったのだ。
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* 月の羊羹の元になるブラッド・プリンを固めずに、ゼリー状のままこれを主成分として、他の肉体分泌物を添加混成したものを赤クリームという。男のものは白クリームとなる。
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第一七章 畜舎のドリス
1予備檻《スペア・ペン》へ
広々と舗装された|騎 馬 並 木 道《ライディング・アベニュウ》を、美少女ドリスを肩にして畜人馬《ヤップ・ホース》アマディオは疾駆《しっく》し続けていた。葉を落し始めた両側の樹列が飛ぶように後ろへ流れ、みるみる水晶宮が大きくなった。切子玉形の楼閣の斜面の一つが朝日にきらめいた。
ドリスは、馬上で|霊  茸《チューイング・マシルム》|を《*》ほおばった。水晶宮まで来ると、馬は正面広場の左手の馬場の隅《すみ》にある厩《うまや》に帰ろうとするのを、ドリスは右耳の方向手綱をグイと引き絞り、裏手地下の|原 畜 舎《ローヤプー・ホールド》に通ずる小門のほうへ頭を向けさせた。「原畜舎へ」と一言命令しておけばあとはほうっておいてもいいのだが、彼女は女傑クァドリー伯爵の流儀で、言葉より手綱で自分の意志を伝えることにしている。知能指数では彼女より高く、かつては難解な哲学的思考に長じていた賢い馬なのだが、彼女にとっては知性のない愚かな旧馬《エクウス》と選ぶところはない。いや、 |gee《ジー》 と |haw《ホー》 (馬に対して、右、左という時の英語)さえ使わない点では、この哲学的頭脳の持主を、旧馬《エクウス》にも劣る動物として取り扱っているともいえた。
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* 他星植物であるが、これを噛《か》んで汁《しる》を吸うと疲労回復の特効があるので運動家に愛用される。繊維は不消化なので、無理して食えぬことはないが、普通はチューインガムのように、噛みかす[#「かす」に傍点]は吐き捨てる。黒奴には禁ぜられている。もっとも、白人からその噛みかす[#「かす」に傍点]をもらうことはさしつかえがないとされているので、実際には馬は、黒奴の口でもう一度噛まれた末、食わされるのが常である。
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原畜舎の入口前に来ると、ドリスはぐいと口手綱を引いて停止を命じた。
「ungko」
馬がしゃがむ時の反動を利用して両膝《りょうひざ》を開き、後ろ斜め上方に両足先を跳ね上げながら全身を後ろに引き、両足をそろえて、いったん|肉 踏 台《フレッシー・タラップ》に靴底をおろし、その反動でもう一度軽く跳ねて、ポイと地上の人になった。あおられた真紅のマントが大きな翼のようにふうわりと下って身をまとう。カッパのピューは、馬が蹲位になると同時に、はや降り立っていた。
「厩《うまや》にお帰り!」
と、ドリスはアマディオに命令し、鉄扉の開かれている原畜舎の地上玄関口へつかつかとはいって行き、ピューもそれに従った。
厩には黒奴馬丁も従者もいたのだが、ここには急に来たわけだから誰《だれ》も待っていなかった。ドリスはかまわずに地下に降りて中にはいり、当直の黒奴係員に足蹴礼《キッキング》で応えつつ尋ねた。「予備檻《スペア・ペン》のヤプーは?」
「は、ただ今、博士《ドクター》コランが適性検査《テスト》中で……」
「博士《ドクター》コラン?」
「は、審籍局の方で……」
「フーン、ばかに早く来たんだね」
「お呼びいたしますか?」
「ううん、ちょっと行ってみるわ。案内はいいの、わかってるから」
霊茸《マシルム》を噛み噛み廊下を進んで、【予備檻】[#底本「□で囲み」]と表示のある扉を彼女は開いた。土下座するB2号には足蹴礼、平民の、貴族に対する敬礼として片膝《かたひざ》ついて低頭するコラン博士には手肩礼(片手で相手の肩を軽くたたく)で応じた。部屋《へや》は二十畳敷くらいで、中央一段高くに檻《おり》があり、ヤプーが潜《くぐ》り穴《あな》から首を出して夢中で赤クリームを舐《な》めていた。
「どう、適性検査の結果は?」
「ただ今精神検査を実施中でございますが、なかなか優秀なようで……」
「いい舐めっぷりね」
「はい、舌の使い方がまだたどたどしゅうございますが……」
「初心《うぶ》初心《うぶ》しくてかえって可愛いよ」といいながら、ドリスは性能表に書き込まれた数字をながめた。
その時コラン博士が送声器《マイク》に向って、
「オアズケ[#「オアズケ」に傍点]」
ときびしい声を吹き込んだ。が、ヤプーは舐め続ける、と見るうち、急に彼は舌を引いた。黒奴の操作する電気針が体を貫いたからである。針といっても有形物ではない、U字金具から流れる一種の刺激電流である。
「ヨシ[#「ヨシ」に傍点]!」
待っていたといわんばかりにヤプーは再び舐め始める。博士は壁の性能表[#「性能表」に傍点]の電気針服従度[#「電気針服従度」に傍点]の欄に1≠ニ書き込んだ。それをながめたドリスは、鞭《むち》の先をピタリとそこに当てると、コランに尋ねた。
「電気針服従度1、これは低過ぎない? 妾《あたし》のは今まで大抵2以上だったよ、初めから……」
「は、一度だけですから正確ではありませんが……」
「なぜ繰り返さないの?」
「は、これからお飼いになる貴族達《みなさま》のお楽しみが、洗脳手術による服従度の向上にある(第一二章5「鞭打つために飼う家畜」参照)わけでございますので、そのお楽しみを減らしますことのないようにほんの一通りの調査にとどめますのが畜籍局の慣例でして」
「でも、学者としては詳しく知りたいんじゃない?」
「もちろんでございます」とコランは力強く答えた。
「実験用に手に入れた時は徹底的に試験します」
「このヤプーも、もう一度くらいためしていいわよ……。妾がやるわ、ちょっと退《の》いて」
適性検査《ドメス・テスト》の手伝いに子供っぽい好奇心をわかしたわがままな令嬢は、口を動かしながら博士の立つほうへと近づいた。一見、素裸に見える畜人皮《ヤップ・ハイド》から発散する性的魅力に、コランはまぶしそうにうつ向いて席を譲った。黒奴は慣れているからわりあい平気で電気針のボタンを押えて待機する。この時、カッパのピューが退屈のあまり、スイッチの一つをいじったのを三人とも気づかなかった。
2電気針服従度試験
――おいしいクリームだ、材料は何だろう。おいしい、実においしい……。
麟一郎《りんいちろう》が夢中になって舐めているところへ、またもや
「オアズケ[#「オアズケ」に傍点]」
と声がかかった。さっきと違って若い女の声だった。お預け[#「お預け」に傍点]、だが我慢できずに、思わずもう一舐めしてみた。電撃はなかった。今のうちにと味をしめてペロペロ舐め続けた。
「全くいうことを聞かない。電気針にも平気だなんて……」とドリスはあきれ返った。
「不思議でございますな」と博士も頭をひねる。
二人は気づかなかったが、実は電気針の電流は、カッパのピューのさっきの悪戯《わるさ》で止っていたのだ。
ヤプーは見る間に丼《どんぶり》を空っぽにした。U字金具が同時に元に戻り、ヤプーは首を引っ込め、胡坐《アンク》して考え込んでいる。
クチャクチャ霊茸《マシルム》を噛みながら、それをながめてドリスはいった。
「赤クリームはもうないの?」
「は、今ここにはございませんが……」と黒奴。
「赤クリームじゃないほうがかえっていいかな……あんまり不思議だからもう一度やってみたいの……そう、これにしよう」
餌皿《えざら》を引き寄せて、口中の唾《つば》といっしょに霊茸の噛みかす[#「かす」に傍点]を吐き入れて檻《おり》のほうへ送ってみた。
さっきから、噛みかす[#「かす」に傍点]は自分がもらえると思って胸中ひそかに期待していたB2号は、泣きそうな顔をした。その間にピューは、そっと例のスイッチを元に戻しておいた。
丼がまた何かを入れて戻って来たのに気づいた麟一郎は、先ほどの美味を忘れかねて、さっそくまた潜り穴から首を突き出した。今度は前と違って変なものだった。噛みほぐして汁を吸ったあとのするめ[#「するめ」に傍点]みたいで、唾としか思えぬ小泡《こあわ》がついた小さな固まりがはいっているだけである。
――何かしら?
と思った時、やはり女の声で、
「ヨシ[#「ヨシ」に傍点]、オ食ベ[#「オ食ベ」に傍点]」
声は掛ったが、一瞬麟一郎は躊躇《ちゅうちょ》した。途端にピリリッと電流が来た。あわてて| 唇 《くちびる》でくわえ上げると同時に、例のU字金具が下って彼の首筋を拘束した。付着した唾が冷たかったが、思い切って一口噛むと、かすかに口中に快い芳香が広がった。味は爽快《そうかい》である。と、またもや、
「オアズケ[#「オアズケ」に傍点]」
――どうすればいいのだろう?
ピリリリ……と責められ、迷った末に麟一郎は吐き出した。すると電撃が止った。しばらくして、
「ヨシ[#「ヨシ」に傍点]」と声がかかる。
またくわえて噛む。
「オアズケ[#「オアズケ」に傍点]」
――犬みたいに仕込まれているのだ、俺は! こういう自省に我が身の浅ましさを感じようとする余裕はなかった。ピリリッと責められて、吐き出す。電撃に追われ、反省する心の余裕が持てないのだ。
「ヨシ[#「ヨシ」に傍点]」
また急いでくわえると、噛めばまだ噛んでいられそうだったのを今度はいい加減にのみ込んでしまった。とにかく、こんな状態から早く脱け出したかったのだ。
食べてしまったのにU字金具が解けないのでのぞいてみて、丼の底にまだ泡の消えかかったいくらか――人間の唾のようであった――を舐め取ると今度は首筋が楽になった。丼の中身とU字金具とが[#「丼の中身とU字金具とが」に傍点]、何かの仕掛で連動してる[#「何かの仕掛で連動してる」に傍点]らしかった。麟一郎は首を引いて胡坐《あぐら》をかいた。そういえば、先ほどから裸の尻に金属が冷たく感じないのが不思議だった……。
と、急に女と男の話し声が聞えてきた。
「今度はいうことを聞いた。電気針にも反応したし、やっぱり普通だわ」
――昨日聞いた声だ……そう、円盤にいちばんに飛び込んで来たポーリンの妹の声だ。たしかドリスといっていたが……。
「さようでございますね。電気針服従度の評点は少し増しておきます」
「もう少し仕込みたいけど、検査の手伝いが度を越すと、自分の訓練の楽しみがなくなったなんて飼主《ミストレス》に恨まれるのが落ちだから、よしとくわ」
「おや、お嬢さまがお獲《と》りになったのだと思っておりましたが、検事長さまので……」
――検事長? ポーリンが確か昨日そう名乗ってたが、彼女のことか――。
「ううん、姉様《ねえさん》のでもない、姉様《ねえさん》のお客さまの獲物《えもの》なの。目下ここに宿泊中よ。登録のとき見てごらん。素朴でしとやかな、そりゃいい方……」
――姉さんのお客さま? あ、それはクララのことらしい。クララが生きてるのだろうか?
「手前は検査を済ませますと、登録の係員と交替で帰りますのでその貴女《おかた》にお目通りできませんです。残念ですが……何とおっしゃる貴女《おかた》で?」
「嬢《ミス》……おや、ピュー、なに悪戯《わるさ》してるの! そのスイッチは吸音装置と……」
突然プツリと音が絶え、同時に、丼のある側の空間に異様な光景が展開した。
光の壁から河童《カッパ》が現われたのだ。逃げるように飛び出してきた奇怪な小男は、濡れた肌の緑色、尖《とが》った口吻《くち》、頭の皿、背中の甲羅……まさしく絵本で見た河童に違いなかった!
目をみはった麟一郎をさらに驚かせるかのように、続いて現われたのは燃える真紅のマントをひるがえした全裸の女体であった。乗馬長靴を素足に穿き、右の素手に鞭を持っているほか、何も身につけていない。ふっくらとした魅惑的な姿態はちょうどギリシャ女神の彫刻のようではなかったか!
「|止れ《ストップ》、ピュー!」
河量は檻を回って逃げようとしてたちまち追いつかれたところだった。女は身長は高く、河童は子供の身の丈ほどしかない、歩幅が違うのだ。女はピシッと鞭で横なぐりにし、河童のひるむところを蹴倒した。檻のすぐかたわらの出来事である。見ていた麟一郎が思わずハッとしたほどの邪慳《じゃけん》な蹴り方だった。
女は美しい憤激の表情で頬はにわかに紅潮し、金髪は波立って逆立つかと思われ、釣り上った目尻、そして青い目が光った。美少女は心底から腹を立てているらしい。
「ピュー、今日こそ承知しないよ」
その声は、確かに今しがたのドリスの声であった。しかし、麟一郎はふと妙なことに気づいた。首から上は白人としか思えないのが、マントの下の全身の肌は黄色いのである。
――ドリスは混血児なのか? それにしてもなぜ素裸でいるのだ? 露出狂なのか?
ヤプーの皮が衣服になるとは知る由もなく怪しんだ彼の目の前で、ドリスの右長靴がもう一度|躍《おど》った。土下座して詫《わ》びようとした河童を仰向けにひっくり返し、そのまま顔の真上からぎゅっと踏みつけて、靴底で額をすりながら、今度は前方水平にまで爪先を宙に蹴上げた。勢いで河童の顔はその方向にゴロリと半回転する。スラリと前に伸びた右脚の先で、長靴の拍車がキラリと光った。蹴上げた反動をそのまま、力強く引きつければ、それだけで、拍車は横向きになった河童の顔面を正面から裂き、眼球の一つもつぶしてしまっただろう。
ドリスの、左右両脚が開いた九十度の角度はちょうど麟一郎の真正面にあった。肩の赤マントは背中にひだを寄せたままほとんど体を覆わず、長靴のほかはバタフライもブラジャーもない完全なストリップで、バレリーナさながらのたくましい脚線美を示す金髪の美少女の足元に、倒れたまま恐怖にすくんで声も出せぬらしい奇形児。この奇怪な凄艶な情景は、麟一郎に檻の中にいることすらを忘れさせた。
一瞬、麟一郎は叫んだ。
「嬢《ミス》ドリス・ジャンセン、お願いがあります」
3ドリス対|麟一郎《りんいちろう》
ドリスにとって、未訓練の土着《ネイティブ》ヤプーから話しかけられることは珍しくなかったが、この際は憤怒にかられて我を忘れていたこととて、彼女は意表を突かれた。ハッとして檻のほうを見るその拍子に、脚の狙いが狂った。
顔面を拍車で裂かれる恐怖にすくんだようになっていたピューは、この隙に素早く跳ね起きて逃げようとした。その小さな体に、どこからかもつれた黒紐の固まりが飛んで来てぶつかった。まるで蛇のような――その生きた紐はするするとピューの片足に巻きついたと思うと、グアーッという悲鳴の消えぬうちに、縦横にその緑の肌の上を幾重にも交錯した。まるで悪夢のようであった。普通の蛇が一方向にぐるぐる巻くのとちがって、罪人を縛る縄のように、巧みに交差して結び目を作ってゆく。なおそのうえに、余って床に這った蛇体の上半身が鎌首《かまくび》をもたげるのである。それをドリスが近寄ってむんずとつかむと事もなげに檻の中の麟一郎のほうへ向き直った。何という奇怪さであったろう! その彼女の様子は、後ろ手に河童を縛り上げ、ちょうど背中から引いた縄の端を片手で握っているとしか見えなかった。黒蛇が黒縄に化してしまったのか!
これは|飼畜者の蛇《ヤプーラーズ・スネイク》 yapooler's snake と称ばれる人工合成動物《アーティシャル・アニマル》(第一四章3「人工動物・去勢鞍」参照)で、ポケットの中ではただの真田紐《さなだひも》のようだが、ヤプー系動物に投擲《とうてき》すると、命中した途端に活発に動き出して縛り上げてしまう本能を持っていた。三匹かかれば巨大な畜人馬《ヤップ・ホース》でも緊縛されるという畜舎勤務者の必携具の一つだ。今の場合は、飼育係のB2号がドリスに助力して投げつけたのである。
生きた捕縄の正体を知らぬ麟一郎はあっけにとられるばかり、今朝の悪夢の続きを見るかの思いだった。
そんな彼の心中には無関心に、ドリスはちょうど馬や犬を買うときのような目つきでこのヤプーの体を観察・検討していた。今しがたの一声で出鼻をくじかれたことが逆に彼女の興味をそそったのである。自分で|剣 術《フェンシング》を相当やるだけに、彼女にはそれが一つの気合いとして自分の行動を狂わしたことがよくわかったからだ。それはまさしく達人の気合いだった。
――ジュウドーが強いという話だったけど、嘘じゃなさそうだ、決闘士《グラジャトール》にしたら優勝牌が取れる|わ《*》。問題は体重階級《クラス》ね……肉づきはいいけど背が低いからバンタムかフェザーね……といった発想がつながっていった。
[#ここから2字下げ]
* 畜人決闘は飼主同士の勝負である。競馬の馬主などと同じく、良い動物を持てば飼主はうんともうかる。決闘はヤプーがして優勝は飼主ということになる。
[#ここで字下げ終わり]
と――、
「嬢《ミス》ジャンセン!」、ヤプーの声が彼女の想念を乱した。
「私はどうしてこんな目にあわされてるのかわからないのです。それを教えてほしいのです。いったい何の罰です? 私が何をしたというのです?」
「何ノ罰デモナイヨ」、美少女は笑って答えた。「ヤプー[#「ヤプー」に傍点]ニハ罰トイウモノハナ|イ《*》。オ前ガ何ヲシヨウガシマイガ関係ナイヨ」
[#ここから2字下げ]
* 処罰ということは責任[#「責任」に傍点]、すなわち人格[#「人格」に傍点]ある者の非行に対する概念である。白人と黒奴には刑法がある。既に触れたように(第一一章2「隧道車」参照)黒奴刑法[#「黒奴刑法」に傍点]は峻厳《しゅんげん》苛酷《かこく》だが、少なくとも黒奴を罰するにはこの刑法によらねばならない。これに反してヤプーには処罰ということがない。ピューの悪戯のようなヤプーの非行に対しては、機能不全としての調整[#「調整」に傍点]――それができねば壊《こわ》すだけだ――があるのみ。狂った時計と同じことだった。ドリスがピューを拍車で折檻《せっかん》しようとしたのは、怒りの発作で時計を地面に抛《はな》とうとしたようなもので、処罰ではない。逆にいえば、畜人刑法[#「畜人刑法」に傍点]などというものはないので、ヤプーに対しては非行とは関係なしに、どんな取扱いでもできるのである。
[#ここで字下げ終わり]
「じゃ、なぜこんな所にいれられねばならないのですか?」と麟一郎は追及した。
「オ前ガヤプー[#「ヤプー」に傍点]ダカラサ」、ドリスは平然と答えた。
「それで、いつまでもここから出さないというのですか!」
「イヤ。オ前ノ飼主《ミストレス》ガ、オ前ニイチバンフサワシイ居場所ヲ決メルマデサ。コレハ予備檻《スペア・ペン》ダヨ」
「飼主《ミストレス》って、ああ」――麟一郎は心の動揺を隠そうともせず、「それはクララですね」と悲痛な声でいった。
「妾カモ知レナイサ」、ドリスは笑いながら応じた。クララからこのヤプーをもらう気があるからだった。
「嘘だ!」、麟一郎は、鉄の格子棒を両手に握って、半身を乗り出して絶叫した。
ヤプーの極端な昂奮《こうふん》と焦燥を見ているうちにドリスは、|畜 生 虐 弄《アユマル・トーチュア》の衝動に襲われた。動物園で猿《さる》をからかって、猿が怒るほど快感を覚える、あの心理である。
「妾ノホウガイイ飼主《ミストレス》ニナレソウダヨ、多分……」
「とんでもない、僕はクララを待ちます。彼女はきっと救助に来てくれる……」
「オ前ニ殺サレカケタ人ガソンナコトヲスルト思ウノカイ、オ目出タイヤプー[#「ヤプー」に傍点]サン?」
「彼女は赦《ゆる》してくれますとも! 彼女の寛容が、彼女の愛情が、貴女《あんた》みたいな弱い者いじめする人にわかるもんですか! 彼女は僕の婚約者《フィアンセ》なんです!」
「ソノトキハ気ガ変ニナッテタノサ」――記憶喪失中のクララの行動を、ドリスは自分が理解してるとおりに表現した。
「何をいうのです! クララのような立派な淑女《レディ》のことが、貴女《あんた》みたいな|露 出 狂《エキジビショニスト》にわかってたまるか!」
全裸女体と信じての精一杯の侮辱だった。
「あっはっはっは」
吹き出したドリスが光幕の外へ河童を引きながら出て行く後ろ姿に、麟一郎は浴びせかけた。
「裸ダンサーめ!」
跨り高いイースの淑女《レディ》として、こんな罵詈《ばり》雑言《ぞうごん》がもし人間や半人間の口から出たらどうであったろう? しかしこのときドリスは少しも気を悪くしていなかった。九官鳥にバカといわれて怒る気になれないのと同じで、家畜のヤプーからいくら悪口や皮肉をいわれても、名誉感情は少しも傷つかず、全然怒る気になれないのだ。|決 闘 士《グラジャトール》を求めている彼女としては、こういうことはかえってうれしいくらいだった。
――勇敢で向う見ず、気に入ったわ。クララに頼んで譲ってもらおう。
さっきの邪魔も今の侮辱も、麟一郎が気負ってるだけで全然勝負にならない。ドリスは数段高いところから、家畜の麟一郎を見おろしていたのだから、業《わざ》のかかりようがない、勝負以前なのだ。
4恋人から女主人へ
両棲畜人《アンフィビ・ヤプー》は悪戯《わるさ》するし、光幕の向うで立回りは始まるし適性検査《テスト》に必要な行動観察がちっともできやしないと、内心苦りきっていた畜人学者コラン博士は、気儘《きまま》な令嬢がこのヤプーを虐弄《からかっ》てくれたお陰で、慕主性[#「慕主性」に傍点](旧主を慕う気持)や勇敢度[#「勇敢度」に傍点]などを測り得て喜んだが、まだまだ測定すべき諸元はたくさん残っていた。だから、この気儘な令嬢が、
「博士《ドクター》、お邪魔したわね。帰るわ」と鷹揚に差し伸べた片手の指先に、片膝《かたひざ》ついてうやうやしく接吻したときには、やれやれという気持だった。畜人皮《ヤップ・ハイド》と承知はしていても、面と向い合うとドリスが素裸のように思えて正視できない。立ち上ってからも下を向いていたのはそのためだった。
黒奴のほうを向いたドリスは微笑《ほほえ》み、
「さっきはご苦労。接吻を許す」
蛇のお礼だ。黒奴に対して白人貴族が接吻といえば、もちろん足接吻[#「足接吻」に傍点]のことである。B2号は両膝ついて長靴の先に| 唇 《くちびる》を当てたが、破格の光栄に震えて歯がガチガチと鳴った。賤《いや》しい飼育係の黒奴にとって今日は生涯の最良の日となるであろう。お嬢さまの靴に接吻した日!
ピューを縛った蛇、その縄の端と鞭の柄とを片手に握り、何か鼻歌を唱いながら、畜人皮《ヤップ・ハイド》のジャンセン侯爵令嬢はそれからやっと部屋を出て行った。
適性検査《ドメス・テスト》再開。精神諸元の調査継続。
しかし、麟一郎の頭は、今しがた確かめたクララのことでいっぱいだった。
――クララ、君は死ななかったんだね。今どこにいるのだ。昨日のことをお詫びするため、一劾も早く会いたい僕の気持が君に通じないだろうか……。
検査の合間もいや最中も、そんなことを考えずにはいられない麟一郎だった。
気が散っていたせいか、再開後の成績はあまり芳《かんば》しくないようだった。
精神評価のための諸検査は間もなく終って、彼は檻の外へ引き出された。
今度は肉体諸性能の調査なのである。担荷《たんか》力、輓曳《ばんえい》力、疾走《しっそう》力、……等の作業性能から、両脚をどのくらい開けるか、前後に背中をどのくらい湾曲できるかといった、肉体そのものの屈撓《くっとう》性の極限等、各種各様の、麟一郎にとってはまるで拷問としか思えない検査が、機械を使って次々に彼の身に加えられていくのだ。
「苦しい!……クララ!……君はどこにいるのだ。僕を助けに来てくれ!……昨日の僕のやり方は悪かった。謝るよ。早く助けに来てくれ!」
麟一郎はまたもやクララに呼びかけざるを得なかった。それも昨日、|皮 膚 窯《スキン・アブン》の中で心に祈ったのと違って、号泣しながら大声で叫んだのだ。
彼はクララが来れば事態は好転すると信じて疑わない、ドリスのいったことは威《おどか》しで、昨日の行動は謝れば赦してもらえるとまだ思っていた。
だが、昨日皮膚窯の中で彼女を求めたときに比べると、心理状態に変ってきたところがあった。ドリスに対しては「彼女は婚約者だ」と見得《みえ》を切ったが、今の彼は、婚約者[#「婚約者」に傍点]という言葉に執着して、それにふさわしい態度をクララに求める気持はほとんど持っていないのだった。彼が今号泣しつつ求める彼女は、恋人[#「恋人」に傍点]としてよりも、救い主[#「救い主」に傍点]としての面のほうがはるかに強いのだった。それが証拠には、今朝ほど夢にまで見た、あの恋敵《こいがたき》の美青年のことが、今はそれほど彼を苦しめなかった。美青年を伴っていてでも、彼の救い主であることに差しつかえはないようだった。――現実に、彼女が「救主《レスキュア》」として現われるかどうか、こういう彼の心理こそ「女主人《ミストレス》」ないし「飼主《ミストレス》」としてのクララを受け入れる最良の準備状態になっていることではなかったか。女主人が、妻として彼女の夫を愛していることを認めつつ、次元を異にしてその女主人《ミストレス》を飼主として慕うことができるのが犬の愛だ。それがなべての家畜心理の根本だ。麟一郎は、今や自分からその家畜化への道を歩んでいるのだった。
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第一八章 神々の起床
1肉反吐盆《ヴォミトラー》と|香  楽  浴《パーフュム・ミュージックバス》
麟一郎《りんいちろう》がドリスの噛《か》み捨てた|霊  茸《チューイング・マシルム》を犬のようにほおばっていたころ、クララの枕元に置かれたロケット形宝船の中で、|小 伶 人《リツル・ミュージシャン》多聞天が静かに|覚  醒  楽《アウェイクニング・ミュージック》を奏し始めた。
楽の音がしだいに強まるとともに、ほの暗かった室内がだんだんと明るくなってくる。この宮殿の壁面は水晶質で、ただ、その透明度を自在に減じて室内を暗くしてあったにすぎない。覚醒楽に合わせて、透明度を増すように調節された寝室の壁面は、ちょうど窓のカーテンを絞るのと同様に、朝の光線を明るく流れ込ませたのである。
クララはパッチリと目をあけた。外気がどこからともなく流入してさわやかに彼女の頬《ほお》をなでた。
――夢にうなされて目がさめて……また一寝入りしたんだわ。ずいぶんよく寝た……。
手足を開いて伸びをしながら、彼女は寝台下の肉便器《セッチン》を呼び出す口笛《ホイスル》を吹いた。明け方使用してからこっち、大してたまっているわけはないから軽い尿意に過ぎず、昨日までのクララならもちろん我慢したに違いないが、一挙手一投足の労もなく膀胱《ぼうこう》を空《から》にすることができる以上、どんな軽い尿意だってこらえる[#「こらえる」に傍点]必要はないというイース人風な気持にクララはいつか同化されていたのであった。
宿直の寝台番黒奴《ベッド・キーパー》とははや交替したらしく、なじみの従者F1号が湯飲みをささげて出て来た。|目 覚 水《モーニング・ウォーター》とて、弗素《フッソ》その他|口腔《こうこう》衛生に必要な薬品を溶かした含漱液《うがいみず》で、これを口に含めば、虫歯にかからず、これで咽喉《のど》を洗えば声が美しくなる。
寝台に上半身を起すと、寝台わきに肉色の小盥《バシン》が置いてある。一隅《いちぐう》に人間の顔面を彫刻してあり、その下隅に孔がある。|洗 面 器《ウォッシュ・バシン》でなく、うがい水の|吐 捨 口《ウェースト・パイプホール》だなと悟って、彼女は口を充分にすすぐとその盤中へ吐いた。
「お風呂《ふろ》とお食事と、どちらを先にお召しになりますか?」とF1号がお伺いを立てた。
「朝風呂があるの?」
「は、この部屋のは|香 楽 浴 槽《パーフュム・ミュージックバス》でございますが……」
「ふん」、何のことかわからぬままにクララは、「じゃ、風呂に――」と答えた。
「畏《かしこ》まりました」
その時、今使った吐捨盤《はきすて》がみるみる縮小して人間の顔だけが残ると、その下でひざまずいていた体も見えてくるところだった。立つと百四十センチほどの身長だが、それが回れ右して去っていくのにクララは驚いた。しかしさりげなく、
「あ、あれは何ていったっけ?」
「ペリカン形|肉反吐盆《ヴォミトラー》でございます」
と、従者は怪しむ気配もない。
「そうそ、ヴォミトラーだったね」
肉反吐盆は、不浄畜《ラヴァタ》の一種で、古代ローマ人の使用した嘔吐《おうと》設備ヴォミトリウムの畜人化したものだ。イース人もローマ人同様、宴会時、満腹後にもさらに物を食べるため、嘔吐して胃袋を空にする。吐いては食い、吐いては食うのだ。その嘔吐物はヘードと称《よ》ばれ、黒奴に「|神 膾《かみのなます》」とて愛好され、黒奴酒酒場《ネグタル・バア》では最高級の下物《さかな》として売られる。白人の尿が黒奴酒《ネグタル》の材料である時セッチンが誕生したように、この嘔吐物を口にし腹に納めて、白人と黒奴の間を仲介するヤプーが登場するに至ったのも当然のことだろう。
初めは原《ロー》ヤプーに特殊な覆面《マスク》をさせて使用したのだ。目蓋《まぶた》の下にレンズを入れて眼球を保護し、鼻孔に管を引いて呼吸を確保し、顔の周囲に外枠《そとわく》を密着させ上蓋《うわぶた》を付ける。ヤプーにすれば奇妙なお面だったが、外からは上蓋のある小盥の底が顔面になったものとも見られる。そこでこれを反吐盆と見なし、上蓋をはずしてこの中に嘔吐すれば、顔の上にたまって否応《いやおう》なくヤプーの口にはいってゆく。この覆面ヤプーを vomitorer と称んだのだが、やがてその役専門の新種が作られた。この種のものはアフリカのある種族のように|下 唇《したくちびる》を伸張させ、唇の縁に金属ゴムで伸縮枠を付け、この口を開かせ直接口腔内に吐き得るのである。これがペリカン形肉反吐盆で、宴会の食卓にとどまらず、毎朝使う洗面道具の一部として寝室にも備えられるに至ったのである。クララはこうして、しだいにいろいろな生体家具の使い方を覚えてゆくのだ。
F1号は、彼女を寝台の上で素裸にすると、両腕で軽々[#底本「軽軽」修正]とかかえて衝立《ついたて》の向うに運んで行った。
浴槽に彼女は静かにおろされた。中は空《から》だったが、浴槽そのものがまだ温かい。と、得もいわれぬ芳香が彼女の全身を包んだ。別の香《かおり》がする、また別の香が混じる、初めの香に戻る……。
――まるで香の音楽みたい――、
そう思った時、全身の肌に彼女は不思議な振動を感じた。いつか濃厚な蒸気につかっていたのだが、その蒸気を伝って皮膚に訴えて来る波動があるのだ。全身の部位によってその強弱高低が異なった。空気を伝って鼓膜に来る波動ばかりが音楽を生むのではないのだ。この香水蒸気の波動は直接全身の肌《はだ》をたたいて、微妙な音楽効果を生んでいるのである。刻々に変化する芳香と協奏しているようにも思われた。
――これが|香 楽 浴《パーフュム・ミュージックバス》なのか、
生れて初めて味わう快適さに、彼女は陶然として、しばし万事を忘れ去った。
彼女の目には見えなかったが、この浴槽を大きく覆って半球状の強力空気幕《スーパー・エアカーテン》が作られ、浴槽|近傍《きんほう》と室内の他の部分とを分けて、二空間を作っていたのである。浴槽中に満たされた香水蒸気の混合体は、昔の香水と違って時間的に芳香発散を調節できるので、香を刻々変化させることができる。まだイースの芳香文化に慣れないクララのほうでは、「香の音楽」等と比喩《ひゆ》的な表現をしたにとどまったが、やがて嗅覚《きゅうかく》が洗練されてゆけば、これが「音の交響曲」と同様、一曲一曲を芸術的に鑑賞しうる文字どおりの「|香 の 交 響 曲《シンフォニ・オブ・ジ・オウダ》」であることがわかってくるだろう。香水をつけて喜んでいた前史時代とは、芳香文化の段階が異なる世界なのだ。
香水蒸気の波動も、イースでは千年も前からある美容法で、それぞれ好みの「楽曲」を全身の肌に聞きながら好みの香を肌にしみ込ませ、これによって永遠の若さを保つ。昨日クララが会った人々が一人一人違う香をしていたのは、このためだったのだ。
と、にわかに温かい湯が吹き出して浴槽を満たした。湯といってもただの温水ではない、やはり香水であった。それも薄めたのではなく、濃い原液であった。むせかえるような強烈な芳香がした。
湯がはいって体が軽く感じられた時、どこからか十二人の矮人《ピグミー》が現われた。潜水兜《ヘルメット》らしいものをかぶり、手にブラシを持っていた。浴槽の縁に一列に並ぶと、ひざまずいて彼女の顔を拝むように見えたが、たちまちザンブと湯の中に飛び込み、それぞれ受持でもあるのか、腕へ、腹へ、股《また》へと迷わず泳ぎ着くと、慣れた調子でこすり始めるのだった。これはいうまでもなく、浴槽矮人隊《バスタブ・ピグミーズ》である。クララは矮人を知っていたので、これには驚かずに彼らのなすがままにまかせた。二〇世紀球面の垢《あか》がきれいにこすり取られていく……。
香水湯が捨てられ、新しく吹き出す。垢を流しただけで捨てるのはもったいないようだが、そのまま黒奴食糧に使われるのでむだに捨てるわけではない。石鹸《せっけん》のようなものを使わないから、飲用しても体に害はない。貴族の浴後の香水に限らず、ただの湯を使う平民の浴後水でも、単に放射線殺菌のみでべつだん垢は除かず、そのまま黒奴用水道に回って飲用にされる。黒奴酒導管《ネグタル・パイプ》以外でもこうして「白人の下水が黒奴の上水」という関係が成立しているのであった。
次には健康液スポンジによる全身《ボディ》マッサージに移るのだ……。
2霊乳浴《オロニア・バス》と唇人形《ペニリンガ》キミコ
この辺で、クララへの求愛者、郎《オス》ドレイパアの部屋《へや》をのぞいてみよう。
ただ今入浴中であった。しかし、今しがたクララの部屋で見たのとはだいぶ様子が違った。外側にヤプーの群像を浮彫りにした浴槽に真っ白な液体があふれて湯気を立て、下でかき回しているかのごとく波立っていた。美青年は目をつぶってじっとしているのにどうして波立つのか、矮人隊《ピグミーズ》ではこんなになるはずはなかったが……。
ウィリアムは|肉 浴 槽《フレッシー・タブ》で霊乳浴《オロニア・バス》の最中なのだ。
霊乳《オロニア》とは、テラ・ノヴァ星産の珍獣オロンの乳である。オロンは有翼四足人《ペガサス》王国時代から珍重された動物だが、地球人も征服後、その乳の味の絶美に驚いてやはり保護動物としている。宇宙間の珍味であるのみならず、肌の美容にもいいことから高級化粧品の材料としても珍重されるが、なにぶんにも産額が少ないので非常に高価で、飲料としても化粧品としても平民にはとても手が出ない(黒奴には初めから使用禁止である)。ところが一部の大貴族は、この珍奇な霊乳で風呂《ふろ》を立てる習慣がある。ウィリアムはイース貴族にしてはあまり身装《みなり》を構わないほうではあったが、霊乳風呂で肌をみがくことだけは欠かさない。この別荘に来ても、朝晩入浴する。もちろんジャンセン家にとって、このくらいの贅沢《ぜいたく》はべつだん驚くには当らない。――霊乳は垢《あか》をよく溶かすが、垢の溶けた仕舞い湯も、値が下るだけで売物になる。平民にも手の出るくらいの値段になるので、彼らはこれを買って飲む。平民の中には、垢の溶けこんだもののほうがおいしいと信じている者が少なくない。かつて、ある成上り貴族が真の霊乳を味わって後、平民時代に飲んだ霊乳はこれに比べれば泥水に過ぎなかったと証言した。しかし、垢のためにそれほど味が落ちても、なお平民の口にし得る他のどんな食べ物よりも格段に美味だから、平民は自分たちの飲むほうが貴族の飲むのよりおいしいと信じていたのだった。
肉浴槽というのは、十二匹のヤプーの肉体を組み合せて作った風呂桶《バスタブ》(洋風浴槽)である。生体接着糊《リビング・ペースト》とて|皮 膚 素《キュティニアム》と発癌物質《カンサレート》とを主成分とする糊《のり》があり、これをヤプーの皮膚に塗って他物に接合させると|人 工 皮 膚 癌《アーティフィシャル・カンクロイド》を生じ、その物質の内部へ、糊のしみ込んだところまで毛細血管組織が伸び、単に接着でなく肉体そのもので結びついてしまう。肉体と無機物でさえそうだから、肉体同士ならなお問題なく、たくさんの個体の、任意の部分を生きたまま接着してしまうことができるのだ。血までが共通になるのではないが、接着面では相互の毛細管が交錯し合うので、事実上一個の肉体に化するのだ。一方|畜体循環装置《サーキュレーター》の発明は、個体から摂食と排泄《はいせつ》のための運動を不要ならしめた。つまり、コードで新陳代謝が行なわれる以上、接着されたままでもその肉体は生きてゆける。かくて、循環装置と生体接着糊とは相合して、ヤプーの肉体を煉瓦《れんが》や材木並の工作建築材料に化してしまったのである。|肉 寝 台《フレッシー・ベッド》、|肉 椅 子《フレッシー・チェア》等といった|複 合 生 体 家 具《コンパウンド・リビングファニチュア》がこうして誕生した。肉浴槽もその一つなのである。甲の股《また》が乙の首をはさむ、その乙の両脚が丙と丁の脇《わき》の下を通る、その丙の手が戊の足首を握る……といったふうに、十二の個体が、内側に浴槽らしい容積と曲面を残しつつ、しかも水の漏らないように、ぴったり肌と肌を接して奇妙な姿態でからまり合っていた。群像の浮彫り[#「群像の浮彫り」に傍点]とは、それを外から見た印象だったのである。
内側は湯を入れても平気で、|珪 皮 化《シリコン・コーテッド》されている。つまり、血液媒剤《コサンギニン》使用によって皮膚を珪素化《シリコナイズ》してあるのだ。さらに十二体の組合せの工夫《くふう》で、浴槽の底と左右とから十二本の手が出て、自由に動けるようになっていた。ウィリアムの回りで波立つのは、その手が彼の体の垢を落すべく盛んに活動している結果なのであった。この手を|洗 浄 手《ウォシング・ハンズ》という。洗浄手《ハンズ》付きの肉浴槽では浴槽矮人隊は不要なのである。
従者のM9号が入浴後の主人の体を抱き上げて大理石の|冷 却 床《クーリング・ベッド》の上に横たえた。ひやりとした石の感触が、ゆるみ切ったウィリアムの肌を刺激して、快感を覚えさせる。
「キミコ!」
美青年が目を閉じたまま呼んだ。
声に応じて現われたのは、首輪をはめた全裸の美少女であった。黄肌《きはだ》黒髪、原ヤプーであった。だがその容貌《ようぼう》も姿態も、畜人皮《ヤップ・ハイド》を着たドリスに劣らぬ素晴らしさだった。だのに無残にも両手を後ろにして輪手錠で拘束されていた。パッチリした黒い目はつつましやかに、そしてヒタと、美青年の下半身の一点に視線を注いでいた。注いだまま、近寄ってウィリアムの開いた脚の間にひざまずいた。M9号がその顔に手をかけ、口から何かを取り出した。入歯である。この美少女ヤプーは総入歯をしていたのだ。入歯を取られたあとは急に口元がすぼまって、そして彼女はそのまま上半身を前にかがめた。
この美少女は、ウィリアムの唇人形《ペニリンガ》、キミコである。舌人形《クニリンガ》、唇人形は奇形生体家具化されることが多いが、このように、時には原ヤプーの肉体のまま使役されることもある。また、肉便器《セッチン》と違って必ずしも雄である必要はない。貴公子は雌の唇人形を持つことが多かった。
貴族が平民の間に、自分への崇拝者《ファン》を持つことはイース社会独得の政治風俗現象である。平民の男子は貴婦人に身代り舌人形を贈り、平民の女子は貴公子に身代り唇人形を贈る。こうして自身で相手に為《な》し得ぬ奉仕を自分の贈物にしてもらおうとする。自分の代りにしようというのだから、同性の、なるべく立派な個体を選ぼうとするわけで、かくして貴婦人は美男の舌人形を、貴公子は美女の唇人形を持つことになるのだ。
キミコは、ドレイパア伯爵令息の崇拝者の、ある平民女性が、彼への贈物用に原畜人市場《ローヤプー・マーケット》で買って彼の誕生日に贈った品で、イース男性らしくないおてんばさ[#「おてんばさ」に傍点]から比較的崇拝者の少ないウィリアムとしては、これは初めての唇人形の贈物《プレゼント》だったので、彼はとてもたいせつにしていた。
キミコは、特別雌畜訓練所《スペシャル・フィーメイルスクール》(普通、雌畜は単にヤプー生産のための機械になっている)を優秀な成績で出た才色兼備の雌ヤプーだった。二〇世紀の日本にもし連れていったとしたら、ミス・ユニヴァース候補には充分なれたはずである。顔形や体ばかりではない、学識教養からいっても、女子大学あたりの教授も勤まるであろう。特別雌畜というのは、買主のどんな気まぐれにも応じうるよう、何にでもなれるだけの広い可能性を持つものである。その点、巨人ヤプーとよく似た教育を受け(第一五章3「畜人馬アマディォ」参照)、キミコとて、こうして買われてくるまでは、イースの地理(宇宙天文誌)や歴史まで解するほどの才女であった。
だが、唇人形になるため、歯を抜かれ、総入歯にされ、後ろ手に鎖錠《さじょう》されて彼女は洗脳された(第一二章5「鞭打つために飼う家畜」参照)。今や彼女が関心を持つのは、特定の男性の肉体の一部にのみだった。それを主人[#「主人」に傍点]として、それに奉仕することだけが彼女の欲望となっていた。主人[#「主人」に傍点]は疲れがちである。それが彼女の奉仕によって元気に立ち上る。そのとき彼女は生きがいを感じる。他の何ものも、もはや彼女の興味をひかない。彼女は、主人[#「主人」に傍点]の在《おわ》す以外の場所には視線を注ぐことすらしない。どんな容貌《ようぼう》、どんな素敵な肉体にもいっさい関心がない。今、彼女の主人[#「主人」に傍点]は、郎《オス》ドレイパア自身ではなく、その体のその一部だった。そして、日本女性の伝統そのまま、彼女は主人[#「主人」に傍点]に貞淑無比な仕え方にはげんだ。
ウィリアムはキミコが気に入っていたので、独身者の特権で、今度の地球行きにも携行してきた。しかし、セッチンと違って、人前で使用するものではないから、朝晩の霊乳浴のあとで人知れず使う。
キミコの奉仕を受けつつ、彼の思いは、昨日知ったばかりの旧世界の美女クララを追っていた。
――クララ、貴女《あなた》はもう起きたかしら……。
大理石の床に長々と伸びたたくましい白い肉体、その脚の間にうずくまる後ろ手錠の黄色い肉体、その横に佇立《ちょりつ》する桃色コンビネーション制服の黒い肉体……その構図も三色の配合も、イース文化の象徴を示していた。
「髭《ひげ》そり」
しばらくして美青年が命令した。召使いがウィリアムの顔に合わせてオーダー・メイドされた|髭 剃 覆 面《シェービング・マスク》を顔にかぶせた。肉質軟プラスチックが顔面に密着し、中の矮人《ピグミー》が髭をそり始め|た《*》。キミコも主人[#「主人」に傍点]への奉仕を続けている……。
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* イースの生体科学をもってすれば、男性の諸機能はそのまま維持しつつ、髭がはえないようにすることはべつだんむずかしいことではない。しかし、イース人の考え方として、「肉体はギリシャ人と同じに」という思想がある。そこで、肉体工学的技術はヤプーや黒奴に対してだけ成果を示し、白人に対しては用いられない。そのために、たとえば髭そり[#「髭そり」に傍点]という面倒なことがあっても、それは逆に必要であり、暇を持てあましているイース人には、時間がかかる[#「時間がかかる」に傍点]こと自体は厭《いと》うものではない。生活の第一義は、生活をエンジョイする[#「生活をエンジョイする」に傍点]ことにあった。
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3黒奴監督機《ネグロ・コントローラー》
今度はポーリンの部屋に行ってみよう。
水晶宮の女主人は、朝《あさ》風呂《ぶろ》より食事を先にしたらしい。寝台で上半身を起したまま、横に召使いがささげ持つ配膳盆《はいぜんぼん》から朝の食事を取りながら、一家の主宰者としての任務たる黒奴監督機《ネグロ・コントローラー》からの報告聴取に忙しかった。
見事な果物《くだもの》を盛り上げた大皿《おおざら》に、爪楊子《つまようじ》代りに矮人《ピグミー》が付けてある。それと霊乳《オロニア》を一合ほど。これが朝の食事だった。この果物食尊重がイース人の不老の一原因だが、果物の質が段違いなので、昔のハウザー式のような窮屈さはない。西瓜《すいか》のような水蜜桃《すいみつとう》、林檎《りんご》ほども大きい苺《いちご》、長い渦巻《うずまき》形のバナナ……園芸科学二千年の発達は、雑草を根絶し、畜肥利用により大輪の草花を咲かせるとともにこの大型果実を作り出したのだ。それに加うるに、各種の|他 星 植 物《エーリアン・プランツ》の果実がある。しかもその種類の豊富さより驚くべきは、匂いや味の良さだ。なんともたとえようがなかった。神武時代の人間が二〇世紀の東京で西瓜やバナナを食べても、その美味《おいし》さを何にたとえることができよう。それと同じで、この紀元四〇世紀の果物食は二〇世紀の人間にはまったく未知の贅沢品《ぜいたくひん》であろう。
ポーリンにとっては、しかし、それはありふれた果物に過ぎない。無心に口を動かしながら、受話器《イヤホーン》から流れ出す声に耳を傾けていた。
円筒船『氷河《グレイシア》』号乗組の召使い13号の報告によれば、同8号は昨日午後、同船の帰途、船倉に収容せる円盤艇内操縦室において、「|鞭の処女地《ウィップ・ヴァージン》」たる旧ヤプーの背中に鞭《むち》を当て、飼主の権利を侵害したものの由。同8号自身はこれについて報告しておりません。……
ここで、日記報告《デイリー・レポート》制度による黒奴支配の機構を略説しよう。
すべての黒奴の最大の義務として、毎日必ずその一日の出来事を細大漏らさず|報 告 機《ダイアリ・マシン》に吹き込まねばならない。これを日記報告という。ことに他の黒奴との交渉や犯罪の嫌疑についてはできるだけ詳しく述べねばならない。述べ終ると最後に、「右の報告に嘘言《きょげん》なきを誓う」と宣誓し、これで初めて一日の義務を果したことになる。
この報告は全部テープに録音されるが、同時に高性能の嘘発見機《ライ・デテクター》が作用して、真実性監視を行ない、嘘言があればあとで追及できるようになっている。一方、テープはファイルされ、人工頭脳にかけられて分析整理される。これを|照 合《コレーション》過程という。甲が、乙と丙について述べていれば、乙丙の供述に該当部分ありや否やが調査照合され、一致すればいいが齟齬《そご》するか報告が欠けるかしていると、自動的に赤信号《レッド・ランプ》がついて追及してゆける。だから、仮に嘘発見機には気付かれなくとも、この照合過程で発覚する。黒奴は絶対に嘘がつけないのだ。嘘がわかれば|私 刑 公 売《オークション・フォア・リンチ》(第一一章2「燧道車」黒奴刑法第二十五条参照)にされてしまうのである。
こうして真実度の高い日記報告を入手できるから、黒奴の非行はすべて判明する。嘘をついて自白しないでいてもすぐわかってしまうし、第一、他の黒奴も黙っていない(右同第二十六条参照)。そして白人は自身は遊んでいながら、人工頭脳に黒奴の全行動を掌握させて、その非行だけをピック・アップしてすべてを知りうるような仕掛になっているのだ。これが日記報告《デイリー・レポート》の制度であった。白人には、もちろんこんな報告義務はない(刑余者は例外だが)。そしてヤプーたちには報告に値する私生活がない。つまり、これは文字どおり黒奴だけの義務である。これによって一家の主婦は家庭内の黒奴[#「黒奴」に傍点]を監督[#「監督」に傍点]支配してゆけるのであり、家庭管理[#「管理」に傍点]のための不可欠の制度になっていた。各黒奴の報告機からテープを受け取って照台する人工頭脳を|管 理 機 械《アドミニストレーター》または黒奴監督機《ネグロ・コントローラー》というのだ。しかし、人間の相互関係は複雑で、黒奴の私生活はその使役される白人家庭の外に及ぶこともあるから、ある一家庭内の各報告を総台するだけでは照合は完璧《かんぺき》でない。だからテープの内容はさらに高次の欧州管理機、地球管理機、中央管理機へと伝えられ、照合を重ねてゆくのである。たとえば、この水晶宮のジャンセン家所属の黒奴が隣の別荘、マック家の黒奴と悪事の相談をすれば、その日の報告では判明しなくても、欧州管理機によって数日後には犯罪をかぎつけられてしまうであろう。
白人に百倍する人口を持ちながら、黒奴たちがまったく団結し得ず、白人の奴隷《どれい》として頤使《いし》される状態から決して浮び上れないのは、根本的には、黒奴の居住を原則として、牧場星《パスチュア》(黒人居住星《ブラック・プラニト》)に制限し、宇宙船を全然持たせない内治体制によるが、選抜された優秀黒奴が召使族として混住する天国星《パラダイス》(白人居住星《ホワイト・プラニト》)でも、黒奴の組織化が絶えて成功しないのは、ひとえに監督機によって私行を監視されているためである。監督機の本体たる人工頭脳は矮人を利用しているのだから、白人は矮人を用いて黒奴を支配しているということもできようか。
今ポーリンは、昨日の各報告・照合の結果について、監督機の魂体《ソウル》から報告を受けていたのだ。麟一郎《りんいちろう》の背中を戯《たわむ》れに鞭打った8号の行為(第九章1「皮膚窯」参照)は、かくて犯罪[#「犯罪」に傍点]として女主人の耳に届いたのである。
――何てことを! おや、それにその| 鞭 《ウイップ》っていうのは、クララのじゃないかしら……あの時ヤプーは、初めから裸だったようだから。もしクララのだったら、重窃盗《ヘビー・セフト》だ|わ《*》……|破 障 検 査《エレクション・テスト》が要るわ|け《*》。でも、ちょっとクララに確かめておこうか。打ち合せしとくこともあるし……ポーリンは、つと寝台から降り立った。
[#ここから2字下げ]
* 重窃盗[#「重窃盗」に傍点]とは白人の所有物を盗んだことをいう。破障検査[#「破障検査」に傍点](障子破り)とは特に白人女性から物を盗んだ男性黒奴に対し、劣情を抱いていたかどうかを調べるために裁判の時施行される検査である。
[#ここで字下げ終わり]
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4化粧肉椅子《トイレット・チェア》と|畜 肌 焼 彩《ブランディング・タトゥ》
セシルの部屋に行ってみると――、
彼は起きて入浴と食事を終ったばかりらしい。既婚者の彼は、ポーリンの夫《つま》ロバートと同じく、貞操帯を妻《マダム》メアリから付けさせられている。だから義弟のように唇人形《ペニリンガ》を使うこともできず貞淑な日夜を送っているが、今は|化 粧 室《ドレッシング・ルーム》の四面鏡台の中央に腰掛けて、房々とした金髪の手入れに余念がない。昨日は編んで左右に垂らしたのが、今日は上に巻き上げて結《ゆ》おうというのだ。|結 髪 係《ヘア・ドレッサー》召使いは一心不乱だったが、なかなか主人の気に入るようにはできない。クララに対してあんなに慇懃《いんぎん》な彼も、召使いへの鞭《むち》は遠慮しない。足美容矮人隊《ペディキュア・ピグミーズ》が足趾の一本一本に取りついて先ほどから爪をみがいていたが、たびたび踏みつけられる。セシルは心にかかることがあって、焦々《いらいら》していたのだ――つまり、昨日の失敗を詫《わ》びにこれからクララの部屋へ行こうというのであった。
やっと髪が結い上った。今度は| 眉 《アイ・ブローズ》を描かせる。イースの男性は、毎日|眉《まゆ》の姿を変える。かえって女性のほうはそれをしない。男女の地位が転倒し、男性が女性に対して媚《こび》を呈するようになって以来、男女共に美男美女ぞろいではあっても、おしゃれということへの感覚と熱意は、男性のほうがより強くなってきているのであった。化粧室の時間も男性のほうが長いだろう。時には三時間も腰掛け続けたりする。
それに関連して化粧肉椅子《トイレット・チェア》のことを説明しておこう。今セシルが腰をおろしている椅子がそれだった。排泄《はいせつ》の頻繁《ひんぱん》なイース人が、何時間でも腰掛けていられる椅子――そういえばもうおわかりであろう、一種の便器椅子《シェーズ・ペルセ》である。|複 合 生 体 家 具《コンパウンド・リビングファニチュア》の一種で、ヤプーの肉体を生体接着糊《リビング・ペースト》で結合してあるのだが、その中に肉便器《セッチン》が仕込んであるのだ。貴公子《ゼントルメン》用と貴婦人《レディズ》用では少し違うが、ここのは貴公子用、つまり男子用で、大便器と小便器とを、腰掛けた姿勢に合わせて施設してあった。これは本国から携行した専用器で読心能《テレパス》付だから、排泄したい時に排泄すればよく、全部受けてくれる。黒奴《ネグロ》の監督管理等、政治[#「政治」に傍点]に属することにはいっこう関心のない(また権限を与えられてもいない)男性が何時間もおしゃれに身をやつすには、この化粧肉椅子くらい便利な腰掛けはないだろう。
それから、肉足台、肉椅子、肉寝台などの|肉 家 具 類《フレッシー・ファニチュア》では、体温調節もできるようになっていた。夏は三度という、冬眠一歩手前の低温から、冬は四十二度の高温まで、体熱を自在に高下しうるよう畜体循環装置《サーキュレーター》に調節器が付属していた。したがって夏はヒヤリと涼しく、冬はホカホカと温かく、快適な肌触《はだざわ》りを満喫することができるのである。セシルが今掛けている肉椅子は、秋の気候と室内暖房の因子に応じて体温を高低しつつ、彼の尻《しり》と背中を温めているのだった。
ところで、肉椅子は複合生体家具だというのに、さっきの|肉 浴 槽《フレッシー・タブ》と違って、黄色い肌が見えないのはどういうわけか? 彼が掛けていた椅子は、なるほど肉質らしくはあったが、アラベスク模様の図柄が描き込まれた物体としか見えなかったが……?
実はそうではない。近寄って見ると、背中の倚《より》掛り部分が、前向きになった女体上半身の、露出した肌でできていることがわかる。セシルの背中を自分の乳房をクッションとして受け支え、外から彼を抱くようにして美しい雌ヤプーが中腰になり、その尻の下にさらに雄ヤプーの四這の姿が見られ(こんな配置さえも、雌が雄の上になっている。イース文化の女上位性を証明する)、一方、雌の膝の間に傴僂型大便器《ハンチバックド・セッチン》が坐し、さらにその前に侏儒《ドゥオフド》型つまり小便器が向い合って立つ、つごう四体が複合し、皮膚と皮膚を密着させて一個の椅子を化成していたのだった。その皮膚表面に、直接、いろいろの模様が描かれているのだ。
これは|畜 肌 焼 彩《ブランディング・タトゥ》(電烙刺青)といって、生体彫画と総称される|畜 体 美 術《ヤップ・ボディアーツ》の絵画部門を成す|畜 皮 画《スキン・ペインチング》の技術の産物である。
ヤプーは旧ヤプー当時から刺青文化《タトゥ・カルチャー》の担《にな》い手だった。肌を染めることに強い嗜好《しこう》を持っていた。家畜化された時、その肌が画布《カンバス》代りにされるに至ったのも故《ゆえ》なしとしない。そして原始的な入墨《いれずみ》の技法は、まもなく、電熱焦彩画法にまで進歩した。各種色素を血液媒剤《コサンギニン》とともにエネマにより腸内注入し、|電 気 焼 筆《ブランディング・ペン》とて温度調節器付の先細|電熱鏝《アイロン》で肌を焼くと、先に説明した原理(第九章1「皮膚窯」参照)で、色素はそれぞれ特有の温度に応じて皮膚表面に定着する。色温示度に注意するだけで全身が自由に染められるのである。
ただの絵画と違って、立体感があった。運動性もある。野心的な画家は競ってこの技法に走った。やがて生体接着糊が発明されると、何匹かを横に並べて接着し、その背中を大画布に見立てて画筆を揮《ふる》う者も生じた。雌雄二匹を抱擁《ほうよう》させたまま固定して、奇妙な彩色を施す者もあった。展覧会、コンクール、新しい美術としての|畜 皮 画《スキン・ペインチング》の公認、やがてその一般的工芸化が始まり、生体家具への彩色は珍しいことでなくなった。クララが今まで見た生体家具類が黄肌だったのは、個人の趣味を尊重するイース人の風として、接客用家具には色をつけないのが普通で、昔の日本建築における白木[#「白木」に傍点]のように、彩色せぬ生肌[#「生肌」に傍点]の良さも一部には賞揚されるからである。
金髪《ブロンド》碧眼の美男子の尻をささえる四匹の雌雄ヤプーは、こうして|畜 肌 焼 彩《ブランディング・タトゥ》によって、使用主たるドレイパア伯爵夫君の注文通|り《*》皮膚を彩色されているのであった。
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* イースでは来客用以外の椅子はオーダー・メイドが原則である。だから腰や背の寸法にかなっているので掛心地が良い。考えてみれば、個人の使用する椅子を、衣服同様一人一人の体に合わせて作ることをしなかった二〇世紀の世界は、商品の規格化に毒されて、生活の快適さを求める精神が鈍っていたのであろう。
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セシルの化粧は、もうじき終りそうだった。
黒奴が何かを持って下階《した》から戻って来た。セシルは満足そうに点頭《うなず》いている。何であるのか?
ピューを縛って引き立てたドリスは私室《へや》に帰り、ポーリンはクララの部屋のほうに行くらしい。
往来ようやくしきり。|水 晶 宮《クリスタル・パレス》は全く目ざめたのだ。さてドリスの私室を訪れてみよう。
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第一九章 朝のひととき
1私室のドリス
ドリスは従者の手で畜人皮《ヤップ・ハイド》の|水 中 服《ウォーター・スーツ》を脱ぎ捨て、部屋着を持ってこさせながら、別の召使いを呼んで、蛇縄《スネイク》に縛られたピューを河童槽《カッパ・タブ》の上に倒懸《さかづり》にするように命じた。前室の隅《すみ》、奥の寝室へ続く扉《ドア》を左右で守るように、右側に犬舎、左に河童槽がある。床に二メートル四方、深さ一・五メートルばかりの凹所を切って水を入れたもので、ピューはそこを定位置にしている。両棲畜人《アンフィビ・ヤプー》といっても、水辺から完全には離れ得ない生理組織なので、空気中で二十四時間くらいはもつが、それ以上たつと肌《はだ》が乾《かわ》いてしまい、乾けば皮膚呼吸ができなくなって斃死《へいし》する。水への欲求が激しい動物である。
召使いはピューの胸をうんと反《そ》らさせ、両腕を背中の甲羅《こうら》の両側に付けさせてぐるぐる足首まで巻いて逆さ吊りした。胸を反らさせているので、真下になるのは頭頂ではなく自転車の鞍《サドル》に似た顔面である。ピューは観念して黙って目をつぶっていた。
「もっと下げて、もう少し、よし!」
口吻《くちさき》が水面すれすれになった。もうちょっとで水に触れるところで、水を見せびらかしながら水に触れさせず、タンタロスの苦しみを味わわせつつ、渇死《かわきじに》させようというのだ。
「我ながら妙案だわ。こら、ピュー、お前、こうやって乾干《ひぼし》になっちまうんだよ」
と嘲《あざけ》りなぶり、初めて自分の運命を悟って、「どうぞ、お赦しを……」、と叫ぶピューの口元を、「うるさいわね。お黙り!」、とドリスは蹴り上げた。懸垂の最下面になっている鞍顔《サドル》の尖《とが》った口吻にスリッパが強く当り、拳闘練習用砂嚢《パンチ・バッグ》をなぐったように、向うに大きく揺れる。
「クアッ」
と悲鳴をあげる口吻から血がしたたって、水槽に落ちた。蹴られて片|頬《ほお》が裂けたのだ。
ところが、揺れて戻るところをもう一発、と振ったドリスの足のタイミングが誤り、スリッパが反対側の壁に飛んで、棚《たな》の上の金魚鉢《きんぎょばち》を引っ繰り返してしまった。
間髪を入れず、背後から二匹の畜人犬《ヤップ・ドッグ》が走った。
大きいほうは読者諸君にもおなじみのネアンデルタール・ハウンド種で、|犬 舎《ドッグ・ハウス》の住人、名はタロといい、ポーリンの愛犬ニューマの友人兼好敵手である。ピンと張った八字《はちじ》髭《ひげ》の下にスリッパをくわえて戻り、女主人の足元に置き、金魚鉢の水を浴びて濡《ぬ》れた部分をペロペロと舐めている。偶然にも、昨日死んだクララの愛犬と同名であった。
もう一匹はスピッツほどの体格で、黒い毛が全身に密生し、二十センチほどの尻尾《しっぽ》も備えている姿は旧犬《カニス》そっくりではあったが、正面に回って顔面を見ると、毛も生えず、口吻《くちさき》もさほどとがらず、タロよりよほど人間に近い容貌《ようぼう》をしている。これは愛玩《あいがん》犬のヤップ・テリヤ種の犬で、ナメルという名前、夜も女主人の寝台で寝ることを許されている寵愛物《ペット》であった。このほうは金魚を見てふざけに行ったのだが、金魚をくわえた途端に、
「ナメル、持って来い!」ときびしく命令されて、悄々《しおしお》とくわえたまま女主人の足元に帰って来たのである。
「ふざけてばかり、馬鹿!」
不機嫌《ふきげん》な女主人の足が犬の額を蹴った。
犬の口から床の上におろされた金魚がパタパタする。でも不思議なことに、金魚の体は普通の赤い鱗《うろこ》におおわれていたが、海亀《うみがめ》の足のように鰭《ひれ》状になった四肢《しし》を動かしているではないか? これは金魚ではなかった……三センチに余る黒髪を生やした頭部には、人間の顔までついている。なんと、奇形の極小畜《ミゼット》ではないか。相撲取りのような太鼓腹、バセドウ氏病者のような突出した眼球……いかにも異常で病的である。しかし、金魚の原種たる鮒《ふな》から見たら、ランチュウや出目金は異常で病的ではないだろうか。人間はその目を喜ばすために他の動物を異常な病的状態に追い込んだのではなかったか。水棲畜人《アクア・ヤプー》を奇形化し、縮小化し、皮膚を角質化し色を与えて|人 形 金 魚《フィッシュ・ピグミー》が登場させられた以上、ランチュウ的・出同金的な奇形種の珍重と作出にまで発展したのも当然の成行きであった。……「金魚までヤプーにしなくてもいいだろうに」と、読者諸君は行過ぎを難ぜられるかも知れない。しかし、有翼四足人《ペガサス》を除いて、人間に劣らぬ知性を備えた動物といえば、ヤプーしかない。いったん知性ある家畜[#「知性ある家畜」に傍点]使用の味を覚えた人類が、従来のあらゆる家畜の、ヤプーによる代置を目ざすようになったのも無理はないのだ。
|人 形 金 魚《フィッシュ・ピグミー》は四肢をパタつかせながら床を這《は》い進んで、ドリスの足の近くにあった河童槽の縁まで来た。周縁の高くなったタイルが越えられないのをドリスの爪先《つまさき》で援助され、ついに水槽の中にはいると、身の丈《たけ》より長い黒髪をなびかせながら金魚は泳ぎ出した。
天井から逆さ吊りされた河童はまだ小さく振れていた。裂けた頬からまだ血がしたたっていた……。
「あーア」と欠伸《あくび》して戻りながら、ドリスは召使いに、「あとで金魚は鉢にお戻し」、「畏《かしこ》まりました」
「ナメルでもタロでも、悪戯《わるさ》したらこうやって逆さに吊っちまうよ、いいかい」
言い聞かせながら、椅子に戻って、「じゃ、朝食にしよう」と彼女は例の果物《くだもの》食を取った。早朝からだいぶ運動したあとだから、もりもり食べられる。粒が蜜柑《みかん》ほどもある種無し葡萄《ぶどう》の房《ふさ》から一粒取って食べると、残りを従者に示し、
「足に塗って」と指示した。
美容法としての葡萄液塗布もよく行なわれる。部屋着の裾《すそ》を捲《まく》り上げて、太腿《ふともも》の付根まで露出させた両脚に、足先から上へ、葡萄の粒をつぶした漿液《しょうえき》を塗らせるのだ。液が伝って足先に足裏へとしたたるのを指して、
「ナメル、タロ、お舐め。お前はこっち、お前こっち!」
二匹の犬の舌は液を求めて足の甲から脛《すね》にまで及んでいく。
さて彼女は便意を催す。とたんにその念波に感応して、優美に彩色された傴僂型肉便器《ハンチバックド・セッチン》が出て来る。食事中の排泄[#「食事中の排泄」に傍点]なんて昔の人には考えられないことだが、臭いが漏れるでなし、手を使うでなし、何の不潔感もないので、イースでは普通のことである。ドリスが、その時手に取っていた|一 口 瓜《マウスツル・メロン》の色と形は、我々なら糞塊を連想するようなものだったが、肉襁褓《ディアプー》と肉便器しか使ったことのないイース人の一人として、彼女は自分の尻から出てゆくものを一度も見たことがない[#「彼女は自分の尻から出てゆくものを一度も見たことがない」に傍点]。だから、何の連想もなしに気持よく食べられる。一方、|馬 蹄 肉 瘤《ホースシュー・ハンプ》に囲まれた凹みの底では、セッチンの口が、下賜された食べ物を、これまた気持よく食べている。その色[#「色」に傍点]と形[#「形」に傍点]が偶然女主人の食べ物と似てるとは知る由もなかったが――味は……もちろん客観的には珍果一口瓜の美味と比較するさえおこがましい。しかし主観的には、美食に飽いた女主人が、一口瓜から味わう以上の美味が彼の口腔内を満たしているのだった。
ナメルは、その辺を舐めるのは嫌《きら》いなのか不得手なのか、ぐずぐずしていたが、タロはいつもはこの特典にあずからないためか、ひどく熱心に舐め進んでいた。
ピューがまた悲しそうに啼《な》いた。
2|携 帯 諮 問 器《ポケット・レファランサー》
さて、クララの部屋に戻れば――、
起床以後の一刻を夢心地に送った彼女であった。|香  楽  浴《パーフュム・ミュージックバス》後の健康液|全身《ボディ》マッサージも、その後の見たことも聞いたこともない不思議な果物ずくめの朝食も、――クララには素晴らしいものばかりであった。それに、|生 体 家 具《リビング・ファニチュア》を使う時、ほとんど無意識のように口から言葉が吐かれて、適切な命令が出せるようになっているのに気付く。不思議だった。母音が多いし、家具が理解するところを見ると、日本語に違いなかったが、一晩で、知らぬ間に、習ったこともない日本語がしゃべれるようになるとはどうしたことだろう? 家畜語音盤《ヤプーン・レコード》で下意識に家畜語《ヤプーン》を仕込まれたことを知らないクララには見当もつかない。
新しい下着を着せられ、キモノ風の|化 粧 着《ドレッシング・ガウン》にくつろいだ彼女は、自動椅子《オート・チェア》に深々と身をうずめ、思いにふけった。
――昨日この部屋《へや》で麟一郎《りんいちろう》に殺さ|れ《*》かかってから以後のこと、全然記憶にないけど……。
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* クララは麟一郎の、「心中しよう[#「心中しよう」に傍点]」という言葉を理解しなかったから、彼が自分を殺そうとしたとばかり考えているのだ。
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その時ノックする音が聞えて、
「若奥様でございます」と案内の声。
「|お入り《カムイン》」
するとポーリンがはいってきて、手真似で黒奴たちを追い出しながら、
「お早う、クララ。どう? 四〇世紀球面での第一夜はよく眠れたこと?」
「ええ、ぐっすり寝たわ。お陰様で……」
「足を見た?」
腰をおろしながら、声を潜めてポーリンは問うた。
「え?」と自分の足を見たクララはハッと気が付いて、飛び上った。
「あッ、小趾《こゆび》が……」と鷲くクララをながめてポーリンは「あっはっは」と愉快そうに笑って、「やっぱり気が付いてなかったのね。昨夜《ゆうべ》、誰にも知らせず手術させたのよ。貴女《あなた》、郎《オス》ドレイパアに、帰化したいっていったそうだから、貴女をイースの人にするためにね」
「まあ、……ご親切にしていただいたのね」
クララの謝意をポーリンはさえぎった。
「ところで、クララ、昨日、貴女がヤプーを連れて円盤《ディスク》にはいってきた時、| 鞭 《ウイップ》を持ってたのは貴女だけね?」
「ええ、麟《リン》は素裸だったから、でもなぜ?」
「ううん、何でもないの。それより貴女に話しとくことがたくさんあるわ」
「妾《あたし》も、昨夜どうしたのか、好奇心満々よ」
これを皮切りにしてポーリンは、昨夜起ったことの詳細を話してクララの好奇心を満足させた。兄セシルが彼女の命令を誤解して、ヤプーを|特 別 檻《スペシャル・ペン》に入れ、去勢鞍《カスト・サドル》に去勢させてしまったことまでも……。
「セシルはひどく恐縮してたわ。それはそれとして、命令違反の黒奴たちは、貴女のお好みの刑罰に処しますけど……」
ただセシルの命令に従ったにすぎないのに、罰せられるのは黒奴両名なのだ。
「で……麟は今どこに?」
「あとで予備檻《スペア・ペン》に移したわ。今日は午前中に|畜 籍 簿《ヤップ・レジスター》に登録《エントリ》できるように係員を呼んであるから、朝の霊液《ソーマ》を飲んだら、皆で原畜舎《した》へ行ってみましょう」
「畜籍簿に登録って?」
「あのヤプーが貴女の所有物だということの登録よ。登録してないと盗まれても文句が言えないから、早く登録するほうがいいのよ」
「わかりましたわ」、驚きをおさえてクララは答えた。
「午後はいい所へ案内するわ」とポーリンは席を立ちかけたが、ふと思い出して、「そうそう、登録の時の貴女の姓名ね、クララ・コトウィック Clara Cotwick としたらどうかしら? 記憶喪失のままじゃ登録係が困るし、フォン・コトヴィッツじゃ今のイース貴族らしくないから……」
「ええ、わかりました。そうしますわ」
「何か、そのほかに打ち合わしときたいことはない?」
「妾、初めての物事が多くて困るから、百科事典でもお借りできないかしら」
「なるほどね。でも辞書のページを自分で繰るなんてことは『イース』じゃしないのよ……これをあげるわ」
ポーリンはポケットからシガレット・ケースみたいなものを取り出してクララに手渡しつつ、
「|携 帯 諮 問 器《ポケット・レファランサー》といってね。わからないことがあったら何でも聞けばすぐ教えてくれてよ」
「まあ。中に物知りの矮人《ピグミー》がはいってて?」
「いいえ。図書館の諮問係に短波連絡してるの。欧州図書館は五千万冊くらいしか蔵書がないそうだから、その範囲内だけど、貴女の知識欲を満たすにはまず充分のはずよ。……もうじき、鐘が鳴ったらソーマの間《ま》という広間に来てちょうだい――」
ポーリンはそそくさと出て行った。クララは今聞いた話を反芻《はんすう》した。
――麟を妾の所有するヤプーとして登録するんだって……去勢[#「去勢」に傍点]しちゃったって……去勢鞍が……|去 勢 鞍《カストレイテング・サドル》っていったい何かしら?」
さっそく諮問器を取り出して、受話器《イヤホーン》を右耳孔に挿入《そうにゅう》して、諮問器の蓋《ふた》をパチンと開き、送話器《マイク》に問い掛けた。
「去勢鞍[#「去勢鞍」に傍点]とはどんな物?」
直ちに回答が聞えてきた。いや、厳密にいえば、聞えるのではない。諮問器の回答は、直ちに一定の思想内容を盛った|思 想 波《ソート・ウェイブ》として質問者の大脳中枢に作用するのだ。家畜語音盤と同じく、脳波科学の進歩の産物であった。言葉で聞くのより、はるかに速い速度でたくさんの|伝 達《コミュニケーション》をなしうる。しかし、二〇世紀的には、やはり聞える[#「聞える」に傍点]と比喩《ひゆ》するほかはなかろう。
「:::::::人工合成動物《アーティシャル・アニマル》の一種で、原《ロー》ヤプーの去勢を本能とします。外見は椅子《いす》に似て四脚を有し、背部は鞍《くら》状、|鐙 触 手《ステラップ・テンタクルス》が二本……」
説明は明快だった。これに力を得て、続いて、最も根本的な第一の問題を投げかけた。
「ヤプー[#「ヤプー」に傍点]とは?」
「:::::::知性猿猴《シミアス・サピエンス》の|家 畜 化《ドメスティケイティッド》されたものです。前史時代には、日本人と称して人間の仲間入りをしていましたが、紀元三〇七年(『テラ・ノヴァ』女王国の建国紀元。地球紀元では二二九九年に当る)生物学者ローゼンベルクがその正体を発見しました……」
円盤の中でポーリンからヤプーについて初めて話を聞かされた時と違って、クララには今では一点の疑いを入れる余地もないと思えた。麟一郎に対する考え方が、今やはっきり「ヤプーの一匹」として確定したのだ。
――麟《リン》、お前、やっぱりヤプーだったのね。妾は何も知らずに、お前を人間と思って恋愛したり、婚約したりしてたんだわ。何も知らずに[#「何も知らずに」に傍点]……。
クララはさらに、肉便器[#「肉便器」に傍点]とは、矮人[#「矮人」に傍点]とは、皮膚反応痛[#「皮膚反応痛」に傍点]とは、エンジン虫[#「エンジン虫」に傍点]とは、と初見の事物、初耳の名辞について次々に諮問し、その限り(筆者が今まで読者諸君にだけ説明してきたことの)だいたいの知識を得た。麟一郎の体に生じた変化も今では彼自身より正確に理解し得た。
――もう麟《リン》を二〇世紀球面に返すことはできないんだわ。大きな寄生虫が腸《おなか》に取り付いて衣服《きもの》の着られない|体《*》だなんて……あんなひどいことをされて憎らしいと思うけど、でもそう聞くと可哀そうな気もする。妾が面倒みてやるしかないわね……。
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* 実際はデルマトコン被服以外は皮膚反応痛は起らないから、二〇世紀世界の被服なら着られるのだが、クララはこの点を誤解していたのだ。
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麟一郎がクララを救い主[#「救い主」に傍点]として待望しつつ、つまりは彼女を飼主として迎える心的状態に近づいていったころ(第一七章4「恋人から女主人へ」参照)、こうして彼女自身も麟一郎にやがて飼主[#「飼主」に傍点]として君臨するための心の準備を知らず知らず整えていたのだ。
――ところでヤプーという名称[#「名称」に傍点]はどこから来たのかしら?
諮問器に尋ねようとした時ノックが聞え、メアリ・ドレイパア夫君(セシルをこう表現するわけは第八章2「三貴族登場」注参照)の来訪を黒奴が告げた。
「|お入り《カムイン》」
3鞭《むち》を惜しめば……
「嬢《ミス》クララ、まったくお詫びの言葉もありません」
伯爵夫君セシル・ドレイパアは深く低頭《うなだ》れた。昨日のキモノ風のドレスと違って、フレヤ・スカートのツーピースを着ていたが、髪を巻き上げて結《ゆ》ったうえに一輪の花を挿《さ》し、耳飾りも大きく、二〇世紀人の目からは女性的服飾である感じは昨日と少しも変らない。
美しい顔を真っ赤にしながら、早合点による失態を詫びるセシルに対して、クララも今さら責める気にはなれない。麟《リン》には可哀そうだが要するに災難なのだ。……いや、妾にあんなひどいことをした罰かも知れない。去勢は酷に過ぎたとしても……。
「夫君《ミスター》ドレイパア。もう過ぎたことだわ。よろしいのよ。たかがヤプーのことで[#「たかがヤプーのことで」に傍点]、そんなに仰言《おっしゃ》らなくとも……」
「お赦しの言葉を得て、安心しました」
セシルはほんとうにホッとしたふうを見せて、従者に持たせていた包みを差し出した。
「クララ、これが私の早合点の記念品です」
包装を解くと、箱の中には細長い物がはいっていた。内側から赤みの透ける白色の物質でできた太軸の万年筆様の握り柄の先に、長さ二十センチぐらいのぐにゃぐにゃした細い紐《ひも》が付いていた。珍棒《ティンボウ》である。
「この鞭索《ラッシュ》はもともと貴女《あなた》の所有ですけど、この握り柄をプレゼントさせていただきますから、その関係で、さっき|特 別 檻《スペシャル・ペン》まで人をやって、取って来させ、私の手からお渡しすることにしたのです」
「じゃ、これが」と紐を指して、「麟の……」とクララはいいしぶったが、セシルは平気で、
「この鞭索は奴《やつ》の penis です。一晩でこの長さに仕上げたのです」(第一四章5「如意鞭・珍棒」参照)
手に取って見ると握り柄に銘があった。
[#ここからフォント太字]『鞭を惜しめば、ヤプーを害《そこな》|う《*》』[#ここまでフォント太字]
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*  spare the whip, spoil the yap. これは、もちろん spare the rod, spoil the child. (鞭《むち》を惜しめば子を害う――甘やかしては教育はできないの意)から由来した類句である。
[#ここで字下げ終わり]
セシルは握り方を教えた。握り柄の中の人工血液が鞭索《むちひも》の|鞭 海 綿 体《ウイップ・スポンジボディ》に通じてピンと伸びて、たちまち一メートルのしなう笞《むち》になる。握りを変えると一瞬にして元の紐に戻る。まことに如意鞭[#「如意鞭」に傍点]の名にそむかない代物《しろもの》であった。
「これで一鞭《ひとう》ちしてごらんなさい。奴は悲鳴をあげて飛び上りますよ」とセシルはいった。
「自分の物で鞭《ぶ》たれるわけね」
「そうです、だから効《き》くんです」
「立派な| 鞭 《ウイップ》と良い格言《マキシム》をありがとう」
「どういたしまして、私のは握り柄だけで……」
「ところで、セシル」、クララはふと思いついて、さっき|諮 問 器《レファランサー》に尋ねかけたことを、このヤプー史の専門家に問うた。「なぜヤプーという名ができたのです?」
「やア、それはね、いまだに定説がないんです」――夫君《ミスター》ドレイパアは知識を示す機会をのがすまいと、勢いこんで説明した。「地球再占領当時からあった言葉じゃないんでね、いろいろにいわれてます。占領軍司令官マック大将――初代地球都督ですね――は類人猿《エイプ》といってた、それがヤップになり、ヤプーになったという説。大和民族《ヤマト・ピープル》、あるいは黄色民族《イエロー・ピープル》の意味でY・Pと略したらヤプーと発音されるようになったという説。昔ヤフーという名の|家 畜 人 類《ニューマン・キャトル》を描いた文士がいた。その作品から出て訛《なま》ったという説……」
――ああ、スイフトの「ガリヴァー旅行記」のことに違いない。(第九章2「霊液と矮人」注参照)
クララは内心そう注釈したが、続く言葉に思わずドキリとした。ドイツ人という単語があったからである。
「……しかし皆うがち過ぎています。私が信じてるのは、マック将軍|麾下《きか》にいたドイツ人系の将校が、当時、ジャップ jap とつづられた略字をヤップと発音したのが真似られたという説です……」
――|japan《ヤパン》. |japaner《ヤパーナ》, |jap《ヤップ》. ……なるほど。
と心にうなずいたクララは、何食わぬ顔で、
「妾《あたし》のいた二〇世紀地球面でも、ドイツ人はそう発音してたわ」
「そうでしょう」、相槌《あいづち》を打たれて喜んで、「畜人論者《ヤプーニスト》の鼻祖ローゼンベルクもドイツ系です。畜人制度《ヤプー・フッド》確立に当ってのドイツ系テラ・ノヴァ国民の寄与は無視できない、というのが、ヤプー文化史研究者としての私の持論です……」
この時、リン、ルン、ラン、と美しい鐘の音が響き渡って、セシルにソーマの時間を思い出させた。
「おや、もう時間か。クララ、行きましょう、ソーマの間[#「ソーマの間」に傍点]へ」
廊下を先に立って案内して行くセシルが片手をあげて、
「あの扉《とびら》が下の妹の部屋《へや》です。もう帰って来てるかどうか、ちょっと誘ってみましょう」
「どこか旅行なさったの、昨日あれから?」
帰る[#「帰る」に傍点]という言葉を聞きとがめて、クララが尋ねた。
「いや、彼女、早起きでね。朝のソーマの時間にはときどき帰って来ない時がある……」
ノックに応じて扉が開き、セーターとスラックス姿の凛々《りり》しい美少女が出迎えた。
「セッシー、今行こうとしてたの……まア、貴女もいっしょ! クララ。昨夜はえらいことだったわね。飼畜人《かいヤプー》に手を咬《か》まれた≠チてわけね。体はもうすっかりいいの? 姉さんの話じゃ、絞殺一歩手前だったっていうじゃないの。びっくりしたわ……」
ドリスは懐かしそうにクララに向って一気にしゃべり立てる。足元にはタロがうずくまっていた。ナメルは見えない。奥の寝室で昼寝でも始めたのであろうか。
4恋人から家畜へ
しばらく返事がなかった。クララは扉の隙間《すきま》から垣間《かいま》見た光景に心を奪われて、話しかけられたのに気付かなかったのだ。我に返って、
「ええ、お陰さまで、もう何ともないわ」
答えたが、半ば上《うわ》の空《そら》だった。視線は室内へ釘《くぎ》づけである。
セシルも内部《なか》の様子を見たが、大して驚きもしなかった。大きな声で、
「やあ、ピューのお仕置だね。どうした?」
ずかずかと歩み入った。好奇心に駆られてクララも、つとドリスに会釈して続いた。
水槽《すいそう》上に倒懸《さかづり》された子供、肌《はだ》も血色を失って緑色に変っていると見えた。いったい何者か? あとで|諮 問 器《レファランサー》に聞くのももどかしく、
「この子供は?」とクララは尋ねた。
「子供じゃない、カッパです」とセシルの答えは明快である。「名前はピュー」
「人間じゃないの……?」
「畜人系動物《ヤップ・アニマル》の一種ですよ。思い出しませんか?」
「ええ、そういえば姿には覚えがあるような気がするけど……」と、例によりクララの返事は苦しい。
「|水 中 自 転 車《ウォーター・バイシクル》といって、海で遊ぶ時は必ず使うものですがね。これはドリス愛用の奴で、彼女は毎朝乗り回して……」と、急に妹のほうへ振り向いて、「ドリー、今朝も乗って来たの?」
「うん」
「どうして、こんなにして虐待《いじめ》るの?」
「悪戯《わるさ》したから」と事もなげにドリスは涼しい顔だった。
「どう、セッシー、水を見せびらかしながら乾干《ひぼし》にするってのは?」
この時、緑の小動物が苦しそうな声で、
「お赦《ゆる》し下さい。お慈悲でございます」
と訴えた。クララは思わず一歩踏み出した。初め思ったような人間の子供ではないにせよ、立派に口のきける生物《いきもの》である。これは残酷過ぎる……。
「嬢《ミス》ジャンセン。あまり可哀そうだわ。どんな悪戯したのか知らないけど、許してやってちょうだい」
「おやおや」、さっきの麟一郎《りんいちろう》の妨害を思い出したドリスは、皮肉な口調でぼやいた。「今度はヤプーの飼主《ミストレス》から邪魔がはいったわ」
「どんな悪戯したにせよ、こんな刑罰[#「刑罰」に傍点]を加える理由にならないわ。嬲《なぶ》り殺しよ。これじゃ……」とクララは真剣である。
「刑罰[#「刑罰」に傍点]? じゃ、これが人間だとでもおっしゃるの?」
逆襲されてクララはたじたじとなったが、
「でも、ちゃんと口も利《き》けるし……」
「貴女《あなた》が記憶喪失者《アムネジアン》だと知らなかったら」とドリスはあきれ返った。
「自分の耳を疑うわ……口の利ける畜人系動物は珍しくないのよ。第一|原《ロー》ヤプーは皆口を利くじゃないの。貴女のヤプーだってさっき私に話しかけた……だからって奴《やつ》が人間だなんていえて?」、ドリスはいかにも馬鹿馬鹿しいといった顔付で、「これは刑罰[#「刑罰」に傍点]なんてものじゃないの、このカッパが気に入らなくなったから不要品として処分《こわ》しちまうまでの話よ。この方法を選んだのは妾の思いつきというだけのことで、ほかには何も理由はないわ」
「じゃ、貴女の気まぐれな思いつきだけで……」
「そうよ。妾の所有物《もの》を妾が処分するんだから、私の気まぐれだけで、理由としては充分じゃなくって?」
「クララ嬢《さん》」、セシルが横から口をはさんだ。「ヤプーの処分は飼主の専権[#「ヤプーの処分は飼主の専権」に傍点]なんです(第五章3「夏の誓い」参照)。思い出しませんか? だから他人が指図《さしず》してもむだというものです……」
「そうでしたわね、確かに」、円盤《ディスク》の中のポーリンの言葉を思い出してクララは答えた――あまり同情を示してはイース人らしくなくて疑われてしまうだろう。しかし、何とか助けてやりたい。飼主としてのこの少女の自尊心を傷つけぬようにして……。
「貴女が要《い》らないのなら」とクララは口を切った。「妾に譲っていただけないかしら?」
意外な申し出に、ドリスはちょっと当惑したようだったが、急に目を輝かせて、
「じゃ、交換条件を出すわ。予備檻《スペア・ペン》のあのヤプーを譲って下さる?」
「えッ、麟《リン》を?!」
「ええ、麟を。ピューが悪戯したのは、麟の予備檻でなのよ。検査《テスト》の邪魔をしたのよ。妾、腹が立って蹴《け》こわしてやろうとしたら、貴女のヤプー、麟にうまいこと妨害されちまったわ」
「まあ」、この時クララが麟一郎に対して懐かしさを感じたのは、どういう心の動きだったのか。
「だからって妾、べつにピューの代りにあのヤプーをもらって虐《いじ》めようっていうんじゃないのよ」、ドリスは誤解を恐れて言葉を添えた。「妾に邪魔をした時の気合いが見事で気に入ったし、他の性能も悪くないようだったから、|決 闘 士《グラジャトール》に仕込みたいと思ってるの。ま、惚《ほ》れ込んだとでもいうのね。手元で可愛がってみたいのよ。いかが、譲って下さる?」
――どうしよう? 麟は渡したくないけど、ほうっておけば目の前のこのカッパは、ドリスの気まぐれの犠牲になって死んでしまうだろう……。
クララは困ってしまった。麟一郎を渡せば自分の素性が知れるという絶対の理由を別にしても、彼を手放す気にはなれなかった。かえって彼の能力がほめられ、ドリスが執着しているのを知れば知るほど、彼女の気持もますます彼を手放すまいとするほうへ動いてゆくのだ。
しかし、嫉妬《しっと》ではなかった。昨日までのクララだったら、他の女性が麟一郎を賞賛してむき出しの執着を示したら、嫉妬を感ぜずにはいられなかったであろうが、同じく麟一郎の個体を独占しようという気持ではあっても、今彼女のいだいていたのは、人が飼犬や飼馬に対して持つ愛着と同性質の愛情だったから、ドリスの言葉は単に自分の所有物《もちもの》への賞賛と感じられ、悪い気はしなかった。だから、彼の手で絞殺されようとした瞬間の恐怖、彼への倦厭《けんえん》と憎悪《ぞうお》、その記憶はまだ生々しいのに、しかも彼がほめられれば彼を誇らしく思い、愛着が増すのだ。飼犬の勇猛をほめられて、自分の手を咬《か》まれた傷の痛みを忘れて喜ぶ飼主の気持なのである。恋人・瀬部麟一郎に対する彼女の評価の曲線は昨日から急速な下降カーヴをたどっていった。そして、あの暴行によって極小点《ミニマム》に達し、終止符が打たれたのだ。しかし、それは自分の恋人[#「恋人」に傍点]としての、つまり人間[#「人間」に傍点]としての評価におけることであった。昨日以来のおぼろ気な疑念が先ほど明瞭《めいりょう》に答えられて、彼をヤプーの一匹[#「ヤプーの一匹」に傍点]として確認した瞬間から、家畜[#「家畜」に傍点]としての、それも自分の飼ヤプー[#「自分の飼ヤプー」に傍点]としての全然別の平面における評価の曲線が描かれ始め、それは、人間麟一郎の評価曲線の成行きとは無関係に、急激な上昇カーヴを示し始めたのである。それゆえにクララは麟一郎を手放す気にはなれないのだ。――昨日、円盤の中で、麟一郎の麻痺を緩解するため、その体をしばらく預からせてくれとポーリンに申し出られた時(第五章2「女王への土産」参照)と、今と、麟一郎を手放しがたく思う結果は同じでも、クララの心理はまったく異なっていた。男の心中では、女が「恋人から女主人へ」と転身しつつある(第一七章4「恋人から女主人へ」参照)のだが、一足先に女の心中で、男が「恋人から家畜へ」の転化を完了してしまったわけだ。
クララの沈黙をどうとったか、ドリスは、
「ピューと取換えじゃ貴女のほうは引き合わないかもしれないわね。差額を支払ってもいいけど、お金じゃ失礼《なん》だから、何か付けたらどうかしら? 馬は昨日もう贈《あげ》る約束したから……そう、これ[#「これ」に傍点]はどう?」
と、片足を足元の犬の体に掛け、さっき彼のくわえてきたスリッパの底を、彼の頭頂《いただき》に載せて足で踏まえながら、「タロっていう名なの、なかなか優秀な狩猟犬《ハウンド》よ。大事な犬だけど、これを付けてもいいわ、あのヤプーが手にはいるんだったら……」
なかなかの執心ぶりを示した。
死んだ愛犬と同じ「太郎《タロ》」という名であることが、クララの心を動かした。体形もグレイハウンドにとても似ているのに名前まで同じとは……。
縁があるのね。でも、一方麟の……。
「困ったわね」とクララは返事に苦しんだ。
麟一郎が予備檻の部屋で、家畜として[#「家畜として」に傍点]の肉体検査の残酷さに音をあげ、クララを救い主として呼び求めていたころ、彼女自身は、彼の飼主として[#「飼主として」に傍点]の立場で、彼を手放すかどうかの決断を迫られて悩む[#「悩む」に傍点]ことになった。昨日、円盤の中で、共に恋人として[#「恋人として」に傍点]同じ悩み[#「悩み」に傍点]を持った二人は、今は家畜と女主人[#「家畜と女主人」に傍点]に立場を変じて、それぞれに悩んで[#「悩んで」に傍点]いた。家畜の肉体の苦痛は一見絶大で、女主人の心中のこんな困惑とは比較にならないようにも思えるが、後者は人間の悩みであるがゆえに、家畜の経験するどんな苦悩よりも重視されねばならない。それは、『イース』世界に限らず、人間有史以来の鉄則ともいうべきであった。
返事に苦しむクララを救ったのは、セシルの発言である。
「ドリー、ピューはすぐにゃ死なないんだろう?」
「そうね……ま、まる一日は保《も》つと思うわ」
「じゃ、クララ嬢《さん》、ここですぐ決めることはない、ゆっくり考えればいいですよ。どうせ今日は畜籍登録《エントリ》をするんだし……」
「卿《レディ》ジャンセンの話では、今日午前中に登録できるように係員を呼んだとか……」
「そうですか、そんならなおさらだ。登録の時、性能表[#「性能表」に傍点]なんかよく調べてから、交換するかどうか決めても遅くありませんよ」
「そうしますわ」
救われたように、クララはすぐいった。
「さあ、ソーマの間《ま》で、ポーリンが待ってるでしょう。行きましょう」とセシルは促した。
部屋《へや》を出ようとしたクララの耳に、
「どうぞお救け下さいまし」
と、祈るようなカッパの声が届いて、二人の白い神々と並んで廊下を急ぐ彼女の胸の中に響き渡った。――どうしたらよかろう?
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第二〇章 霊液パーティー
1美少年登場
広間では霊液《ソーマ》パーティーの準備が整っていた。午前・午後、一日二度のソーマの時間には家中の者(もちろん白人だけが員数だが)が集《つど》うのだが、今朝は珍客クララを加えてのパーティーとて、ホステスのポーリンも張り切っていた。
円筒船・最上階の広間に幾層倍する華麗さ、豪奢が満ちあふれた部屋《へや》であった。壁の一方は全面を各色の大輪の花でおおわれていたが、その一つ一つは造花ではなく、また花壇から切って来たやがてしぼんでしまう花でもなく、この壁の裏の畜肥《こやし》に根を生やして四時咲き続けている花だった。畜肥とは、生きながら植物の肥料となって、皮膚に根をはやされ、生命を吸い取られるヤプーのことである。老いて役に立たなくなった従畜《パンチー》、欠点のある生体家具不良品など、廃棄処分にされたヤプーは、畜肥となって末期の一花[#「末期の一花」に傍点]を咲かせるのであ|る《*》。
ヤプーに墓場はないが、この花壁の裏は、ある意味ではヤプーの墓場だともいえる。壁の表の美しい花を賞《め》でる人々は、だが、ほとんどそのことは意識しないだろう。
[#ここから2字下げ]
* すべてのヤプーがこうして死ぬわけではなく、別の畜殺処分もある。また、畜肥のすべてがこういう廃品利用ではなく、煙草畑などでは、特にそれ用に生産された畜肥を使うこともある。葉に含まれる精気結晶《ホルモン》の味を複雑にするには、廃品ばかりを使うわけにもいかないのだ。
[#ここで字下げ終わり]
花壁の前には、船中にあったのと同じような鸚鵡《おうむ》の籠《かご》がかかっていた。正面の、低い飾物棚《アルコブ》にはラオコーンのように大蛇に全身を巻かれた等身大の裸像があった。制作者の指の跡が残る塑像《そぞう》だったが、その金髪と碧眼《へきがん》とは本物を植えたり嵌《は》めたりしたものだろうか。それに大蛇も鱗《うろこ》の一枚一枚までが本物そっくりの印象で、黒光りする鱗の輝きが像の真っ白な肌《はだ》色と絶妙な|対 照《コントラスト》を成している。それらを抑揚のある照明が浮き上らせ、四隅《よすみ》の散文的な生体家具類《リビング・ファニチュア》を巧妙な陰翳《いんえい》で隠していた。
クララがドリスとセシルに伴われて室内にはいって行くと、ポーリンと話していたウィリアムが立って来た。旧に倍する親愛感を覚えながらクララは固い握手をした。
「いかが、ドレイパア郎《さん》」
と少々改まると、
「ありがとう、コトウィック嬢《さん》」と、はや彼女の姓を知っていて、「もう朝方からソーマを二度飲んで、昏睡波動《コーマ・ウェイブ》の宿酔《ふつかよい》をさましましたよ」とウィリアムは屈託なく白い歯を見せて笑った。
「貴方《あなた》から頂戴《ちょうだい》したあの宝船が命の恩人なのよ、中の雌|矮人《ピグミー》が……」
「今聞いたところです」と彼はうれしそうに、「お役に立てて結構でした」と応じた。
「ソーマ、ソーマ、ソーマ……」
突然、例の鸚鵡が金切声をあげた。
座が定まって席を占めるとソーマが出る。この広間は、そのためのソーマの間《ま》だから、円筒の時より手はずがよく、卓上矮人《テーブル・ピグミー》の行動も活発であった。
香ばしい緑の液体をすすりながら、一同がクララの無事を祝し、姓の記憶の復活を喜んだりして打ち解けた座談がはずんでいった時、廊下のほうから、
「郎《オス》マック様……」
という案内の太い声と、
「皆さん、今日は」
という若々しい挨拶《あいさつ》とがほとんどいっしょに聞えて、一人の美少年[#「美少年」に傍点]がはいって来た。
いや、郎《オス》という案内を聞かなかったら、クララはきっと、昔の頭で美少女[#「美少女」に傍点]と錯覚したに違いない。黄色のスカート――騎乗用なのか股《また》が高く割れていたが――に高襟《たかえり》の白ブラウス、紫色のネッカチーフを粋《いき》に巻きつけ、海老茶《えびちゃ》色の髪の毛を|小馬の尾《ポニー・テール》に結《ゆ》って桃色のリボンを結んだその格好は、二〇世紀人にはとうてい女としか思えまい。男だと知ったらシスター・ボーイの称を用いるところだろうが、イースではこれが男の子の服装として少しもおかしくはないのだ。
年は十五歳ぐらいか、まだ成長途中にあることを証明する幼さを残す肢体に、もう身長だけは成人《おとな》並《な》みに伸びていた。服装に似合う優雅な物腰は、おてんば[#「おてんば」に傍点]なドレイパア青年などに比べてずっと男らしく[#「男らしく」に傍点]、箱入息子といった感じである。
「ママから『蛇に巻かれた男の像』のことを聞いたんで、急に見たくなったものだから、朝の遠乗りのついでにちょっとお寄りしたんです……」
細い眉毛《まゆげ》の下のつぶらな鳶色《とびいろ》の目をニッコリ微笑《ほほえ》ませてこちらを向いた。顎《あご》の真ん中に靨《えくぼ》があって、面長な顔の| 頤 《おとがい》の尖《とが》りから来る険の潜む表情を可愛く救っていた。知っている人ばかりと予期してながめ渡した中に、初めてのクララの顔を見いだして、急に言葉を途切らしてしまったのも、子供らしい振舞ではあった。
クララは、少年の背後に背の低い原《ロー》ヤプーが従っているのに気がついた。手を後ろに回しているのは手錠だろうか、首輪が光る。奇形ではないようだったが、去勢されているらしく、一物の代りに指輪ほどの金属輪が半分ほどうずまっていて、その|半 輪《セミ・リング》に細い銀の鎖の茄子《なす》鐶《かん》がはめられ、鎖の他端は少年の左の手に握られていた。――彼は犬を引くようにこのヤプーを引いているのだが、鎖の端がヤプーの首輪でなくて、位置の低いこの半輪につないであるために、鎖を握る手をおろしたまま、ちょうど犬を引く時と同じ姿勢でひいていけるのである。
「紹介するわ。郎《オス》チャールズ・マック、卿《レディ》アグネス・マックの一粒種でね、目下ご両親と共に隣の別荘に滞在中よ。若いけれど、絵の才能があって、私の夫《ハズ》ロバートの兄弟子よ――こちら、嬢《ミス》クララ・コトウィック、二〇世紀球面の探検家としていずれ有名になる方……」
ホステスのポーリンが要領よく話して、二人に初対面の紹介をした。クララは手を与えた。少年ははにかみながら接吻《せっぷん》した。
ウィリアムとセシルは、客に目礼したあと何か熱心に話し合っていた。どうやら話題は、昨日の|巨 大 蜘 蛛《ジャイアント・スパイダー》のことらしかった……。
2|畜 体 彫 塑《ボディ・スカルプチュア》
「ああ、これですね。僕の聞いた像は」
マック少年は設けられた席にも着かず、飾物棚《アルコブ》の前に進んで、像に見入った。
「遠慮なく批評してよ。像の制作はロバートだけど、蛇《へび》を選んで付属品《アクセサリー》にしたのも、姿勢《スタイル》も、私の好みなの」
ポーリンの希望に応えて「その付属品扱いがせっかくの蛇を殺してますね」と少年の批評は辛辣《しんらつ》だった。「腹を四重にも巻く必要はないでしょう。二巻きにして尾のほうでは左腿《ひだりもも》を巻かせ、首のほうは、像の右腕を横に伸ばさせてそれを巻かせ、残った先が鎌首《かまくび》を振り向くようにして舌を吐く、なんてどうです? それに苦悶《くもん》の表情がもう少し欲しい……」
「ウーン、こたえるわね」とポーリンはまじめに| 唇 《くちびる》をかんだ。
「ずけずけいったけど……」と少年は急にはにかむ。
「いいえ、いって欲しいの。すぐ試すわ」と、ポーリンは黒奴召使《ボーイ》いの一人を差招《さしまね》くと、像を指さして命じた。
「あれを緩解《ソフン》おし」
続いて起った出来事は、既にイースの事物にかなり慣れてきたクララを再び仰天させるに足るものだった。
急に大蛇が動き出したのだ、と同時に像の顔面と肢体《したい》にも弛緩《しかん》が表われ……二つとも生きていたのだ。黒奴に手伝わせながら、蛇を二巻きほど巻かせ、美少年のいったような構図に変えながらポーリンが何か小声で唱えたかと見るうち、蛇体は像の胸を、ぐるぐる巻いた個所をすべりつつひときわ強く締めつけた。伸びた右手で虚空を掴んで像が、
「ウーム」と必死にこらえるその胸から、鈍《にぶ》く、「ポキッ」と肋骨《ろっこつ》が一本折れた音が響いた。苦痛の極にある男の表情の迫力! 今一瞬で肋骨は全部折られ、男の体は蛇体の圧力下にグニャグニャになってしまうだろう……その時早く、ポーリンの手が上った。
「硬化《スティフン》!」
不思議! たちまち、像も蛇も先ほどと同じ微動だもせぬ像と化石したではないか。
「なるほど、ずっと感じが出たわ」――席に戻ったホステスはうれしそうに若年の客にいった。「とても良い助言《アドバイス》をしてくださってありがとう」
クララが|諮 問 器《レファランサー》に問うて委細を知る前に、この生きた置物[#「生きた置物」に傍点]について説明しよう。
畜体美術たる|畜 皮 画《スキン・ペインチング》については既に解説した(第一八章4「化粧肉椅子と畜肌焼彩」参照)。ヤプーの肉体を画布《カンバス》とするこの芸術は、当初から立体的彫刻性を兼備していたが、その本質はやはり絵画であった。これに対して、畜皮への彩色そのものはそれほど重視せず、古来の彫刻の理想だった人体の構成美や力動美をヤプーの肉体を素材として表現してゆこうとするのが畜体彫塑[#「畜体彫塑」に傍点]である。
美的観点からの四肢《しし》切断による胴体の強調は既にありふれた技法で、生体家具文化の進歩は首付|塑像《トルソ》の生命を充分に保証した。芸術的デフォルマシオンのための奇形の制作[#「制作」に傍点]も畜体彫塑家《ボディ・スカルプター》として心得ねばならない生物学的技法だった。群像も生体結合によって作られた。
しかし、彫塑[#「彫塑」に傍点]を可能にしたのは、血液媒剤《コサンギニン》の使用による皮膚と筋肉との角質化《キチナイズ》および可塑質化《プラスチサイズ》である。角質化した皮膚は鑿《のみ》の使用に耐《た》え、ヤプーの低い鼻も高い鼻に自由に成すことができる。彫刻して人間《はくじん》を象《かたど》ることはむずかしくない。この広間に来る途中の廊下の所々に見かけたアポロや、ヘルメスを思わせる見事な彫刻を、クララは大理石か象牙から彫ったものと何の気もなく通り過ぎて来たのだが、実は皆ポーリンの夫君ロバートの手に成る、この種の生きた彫刻だったのである。
しかし、皮膚を可塑質化してする|皮 膚 粘 土 塑 像《キューティキュラクレイ・フィガー》の制作はいっそうおもしろく、かつむずかしいとされる。|畜 人 肉《ヤップ・フレッシュ》をすりつぶして生体接着糊《リビング・ペースト》の主成分で練った|皮 膚 粘 土《キューティック・クレイ》という可塑材料《プラスター》があるが、原型にするヤプーの皮膚を生剥《なまはぎ》にするとともに、その血液で粘土を練ると赤肌によく接着し、肉体の一部に化するのである。ヤプー自身の肉体も可塑質に変って、指で押せばいつまでもその跡が残るくらいになるから、押してへこませるのは何でもないが、盛り上げるほうは皮膚粘土を使って肉をつけてやるのだ。大きい血管さえ壊《やぶ》らねば、こうして石膏塑像と同じような、自由な造形をしても生体の組織と機能とを損ずることはない。しかも角質化した場合よりまさるのは、可塑性を失うと以後は普通の生体と同じになるので、|硬 直 電 流《スティフニング・カレント》を掛けると硬化し、電流を断てば元どおりの柔軟さを回復できることだ。これによって、一つの塑像に各種各様の姿勢をとらせて楽しむことが可能になる。ちょうど床の間の掛軸を季節ごとに代えるように、時々好みの姿勢・表情に取り代え得る生きた置物[#「生きた置物」に傍点]になるのだ。いうまでもないが、角質彫像も粘土塑像も、生体家具並に肛門《こうもん》から畜体循環装置《サーキュレーター》――ただし家具類と違って室内の移動も不要なため、コードは短く壁の挿入穴《コンセント》に接続されていることが多い――がはいっているので、凝《じ》っとしたままいつまでも生きてゆけるのである。
これが、|畜 肌 焼 彩《ブランディング・タトゥ》と並ぶヤプーの肉体への加工による新しい造形芸術たる|畜 体 彫 塑《ボディ・スカルプチュア》で、|畜 皮 画《スキン・ペインチング》と合わせて「生体彫画《リビング・アーツ》」と称《よ》ばれ、第十一番目の芸術などといわれている。
今この塑像もロバートの作だが、モデルはポーリンの崇拝者《ファン》だった平民の美青年だった。髪や目や肌《はだ》の色が白人みたいなのは、材料ヤプーの黒髪・黒眼・黄肌をモデルに合わせて変色させたのである。彼女は別に入手した大蛇を、ふと思いついてこの像の付属品として、一緒に硬化させておいたのだが、今眼識ある少年に指摘されてポーズを変えてみたところなのだ。片手の合図で黒奴が硬直電流のスイッチを入れた瞬間、像が大蛇に締めつけられ肋骨を折られる苦悶の一瞬が固定されてしまった。次の緩解の時――女主人が今のままを気に入ればあるいは永久にその機会は来ないかも知れないが――まで、|生きた置物《リビング・オーナメント》の命がけの演技が継続するのである。思えば哀れだが、それが彼の宿命なのだ。
おぼろげながらその実体を推測し得たクララが背筋を寒くした時、懐かしい麟一郎の声がかすかに彼女の耳朶《じだ》を打った。
「クララ、赦してくれ」
驚いて振り返ると、円卓《テーブル》の置かれてあった一座六人の席の中央の床上に檻《おり》が置かれ、中に麟一郎が寝ているのが見えた。身長が半分になっていた。一瞬、心の動揺に耐えかねて、クララの顔色が変った時、ポーリンがいった。
「さあ、余興を始めるわ。コトウィック穣《さん》には畜籍登録のための予備知識として有用でしょう――マック郎《くん》も見てちょうだい、昨日|獲《と》れたこの嬢《かた》のヤプーの家畜適性検査《ドメス・テスト》よ」
3クララの心理
麟一郎《りんいちろう》は身を起し、左手の指を調べながら何かつぶやいたが、急に振り仰ぐと、
「クララ、僕は何もかも失ったが、この指輪だけは残ってたよ。これが僕を君に結びつける、ただひとつの羈絆《きずな》[#読取不可]……」
とハラハラと落涙した(第一六章1「悪夢と指輪」上参照)。偶然ながら、その視線がこの席のクララのほうに向っていたので、クララは直接話しかけられたような気がしたが、ようやく訳がわかってきた。
――立体像映写盤《ステレオ・ボード》だわ、これは幻影《まぼろし》……。
読者にはご承知のとおり、予備檻《スペア・ペン》には映写機・録音機が装置してあって、麟一郎の一挙一動が収められていた。そのフィルムとテープが早くもこの席に紹介されて、神々[#底本「神神」修正]たちのパーティーの興を添えるのに供せられるのだ。身長が半分になっていたのは二分の一の縮写投影によるものであった。
「ヤプーが指輪をもらったって、何のこと?」
経緯《いきさつ》を知らないマック少年の無邪気な声に誰も答える者はなかったが、クララはハッとして顔が赤くなった。麟一郎との婚約の事実を、今は何人《なんぴと》にも秘匿《かく》しておきたかった。昨日の円盤艇や円筒船の上での昂然《こうぜん》たる気持は跡形もない。……しかし、昨晩のあの恐ろしい別れ以来、初めて見る恋人の現状は彼女の心を動かした。悲惨にも、裸のまま、獣の檻《おり》に……。
――妾《あたし》が死んだと思ってるのね。「赦してくれ」といったのも後悔してるからだわ。
「……クララ、上から僕を見守り、この指輪で僕を導いてくれ、僕を励ましてくれ……」
麟一郎は天国にいるクララに話しかけたのだったが、ちょうど上から[#「上から」に傍点]彼を見守っていた形の今の彼女には、そうは受け取れなかった。彼が対等の愛情を要求したのなら、既に彼を恋人と思わなくなっているクララは不快を感じたかも知れなかったが、彼の求めるのは彼女の指導と激励だった。自分を殺そうとした憎い奴《やつ》だが、こうして卑下して自分に呼びかけていると知れば赦してやる気にもなる――それもこれも女心のせいであろうか?
やがて赤クリーム摂取強制の場面になった。つぶされた蛙《かえる》みたいになって潜《くぐ》り穴《あな》から素っ首を突き出した無様《ぶざま》な姿勢には、一同思わず失笑した。クララも、昨日と違って別に他の人々が彼を笑うことに焦立《いらだ》つこともなく、かえって彼女自身もいっしょになって笑ったくらいである。だが彼が、ペロペロ美味《うま》そうに舐《な》めていた赤い流動体のことを、そばのドリスに尋ねても答えてくれず、|諮 問 器《レファランサー》を使って、自分たち女性の月々の生理に関係するものと初めて知った彼女が、思わず嘔気《はきけ》を催して肉反吐盆《ヴォミトラー》を呼び寄せたところは、まだ他の人々とまったく同じほどには麟一郎をヤプー視していなかったためといえよう。今朝、諮問器に問うて以後、理性のうえではヤプーの存在を認め、麟《リン》がヤプーであると信じるに至った彼女も、まともな五体を持つ立派な男性だった昨日までの愛人を奇形的な肉便器《セッチン》やヴォミトラーと同視する気持にはなれなかった。感情のうえでの人間視が残存していた。だから、赤クリームの性質を知ると、それを舐めているのが人間[#「人間」に傍点]であるという前提のもとに、嫌悪《けんお》のあまり嘔吐《おうと》したのだ。
しかし、ヴォミトラーが自分の嘔吐したものを口腹に収めるのを見るうち、彼女の目から鱗《うろこ》が落ちた。
――そうだ。麟がヤプーだってことは、此奴《こいつ》の仲間だってことなんだわ。
セッチンやヴォミトラーを平気で使えるのはなぜだ。人間としての同類意識のわかない奇形だからだと思っていたが、むしろ本質的にはヤプーだから同類意識がないのだ。……今麟のやっている行為の不潔・不浄さは、セッチン、ヴォミトラーに劣らないではないか。ヤプーだからこんなことができる、人間にはできない。麟はヤプーなんだ。そんな汚ないものを喜んで舐める畜生だったんだ……。
理屈を越えてそれがクララには体感された。同類意識を断ち切れば嘔吐感《はきけ》は消える。映写盤のほうに戻ったクララは、今度はイース人に近い気持で檻《おり》の中のヤプーをながめることができた。昨日までは、婚約し合った熱烈な恋人同士であったことを思うと、いくら珍しい体験を重ねねばならなかったにせよ、まる一日もたたないのに、ここまでクララが変ってしまうことは、あまりにもつれないことにも思えよう。そこには、実は、昨日から彼女が飲み始めたソーマの効果があったのだ。「|人類愛の蜜《ヒュマニティ・ハニー》」を飲んだ白人は、白い肌の者以外には同類を感じなくなるのだ(第一〇章4「切腹演戯」参照)。ポーリンの予見したとおりだった(第五章2「女王の土産」参照)。今後もこの傾向はますます強くなるだろう。
場面は急速度に展開して檻のそばにドリスが河童とともに登場し、読者諸君もご存知の、麟一郎との間の激しい言葉のやりとりになった。家畜語《ヤプーン》を既に完全に理解できるクララは、
「僕はクララを待ちます……彼女は僕の婚約者《フィアンセ》なんです」という麟一郎の言葉に、ヤプーから婚約者呼ばわりされる恥ずかしさで真っ赤になり、チャールズが怪訝《けげん》な顔をするのに気づいて、穴があればはいりたいような思いで、即座にあのヤプーの口をふさいでやりたいほど憎らしく感じた。が、
「……クララのような立派な淑女のことが貴女みたいな露出狂にわかってたまるか!……裸ダンサーめ!」
と彼がドリスをののしる一段になると、
――ああ、さっき勇敢で気に入ったといってた(第一九章4「恋人から家畜へ」参照)のは、このことね、とわかってドリスを突ついて目顔で笑い合いながらも、クララは、この剛胆な向う見ずなヤプーの所有主《もちぬし》としての誇らしさを味わうのだった。それに、もはやこちらでは恋人とは思っていないにせよ、彼のその勇気が彼女をたたえ、その名誉を守る騎士的精神から発していることが、彼女にはやはりうれしくなくもなかった。それが女心というものだろう。恋人[#「恋人」に傍点]だった彼への軽蔑《けいべつ》と憎悪《ぞうお》が、家畜[#「家畜」に傍点]たる彼への賞賛と感謝に交錯して彼女の心中で渦《うず》を巻いた。
4畜体検査諸景
檻《おり》から出された麟一郎《りんいちろう》が、しばらく前後左右に身を動かしたあげく、ひと所に立ったまま駆足・足踏を始めた。何のためか?
見ると彼の足下で床板が帯のように後方に移動していた。例の動路装置《エスカ・ロード》だ。おそらく前後も左右も電撃にはばまれてこの位置から動けず、そこに止まるために、――動路に後方へ押し流されないようにするために――動路と同じ速度での逆方向への駆足を余儀なくされていたのだろう。肉体検査が始まったのだ。疾走《しっそう》力の強制的試験だった。
誰がいつ呼んだのか、肉便器《セッチン》が出て来ていた。そしてポーリンの前にうずくまっていた。
ピカリと閃光《せんこう》があって、クララの旧愛人は必死に駆け出した。体は移動しなかったが、足下の動路はすごい速度で流れた。日本の学校にいたころ中距離の選手をしたこともあったと聞いていたが、素晴らしい脚力であった。
「なかなかやるね」と、セシルの声である。
「うん、四分十秒台ね」とドリスが応じた。
動きが止った。麟一郎はもはや疲労|困憊《こんぱい》の態《てい》――。口を大きく開いて、犬のように舌を垂《た》らしていた。汗腺《かんせん》を失った肉体の、必然的現象である。
|映 写 盤《ステレオ・ボード》の横に、「一マイル、四分十六秒五」と数字が出た。精神諸元の時にはそこに出る数字の意味を理解し得なかったクララにも、これはよくわかった。
「ちょっと訓練をすれば四分を切るぜ、これは――」
「そうね」とドリスはますますこのヤプーを欲しそうな顔になった。
ご褒美《ほうび》なのか赤クリームの| 丼 《どんぶり》が与えられる。コラン博士の指示で速効性のヴィタミンYを添加したのが新たに取り寄せられたのだ。運動後の疲労同復と赤クリーム馴致《じゅんち》と一石二鳥の効果をねらったものである。見るみる元気になったヤプーに引き続いて課せられる登攀《とうはん》力試験。丸い金属柱によじ登らされると、その柱が下に沈み出す。床に近づくと電気針が刺すからいやでも上へ上へとよじ登らねばならない。舌を吐き吐き必死の登攀であった。五分間にして、やっと止った。「三十二メートル六十」と出た。クララにはよくわからなかったが、囲りの話ではかなりの好記録らしい。
「クララ、妾ぜひ欲しいわ、あのヤプー」
ドリスは真剣な顔でいった。
「妾としてはだんだん手放せない気持が強くなってきたわ。お生憎《あいにく》だけど――」
クララは、正直にそう返事した。ポーリンの前にいたセッチンは、今度はセシルの前にいた。
輓曳《ばんえい》力、担荷《たんか》力、跳躍《ちょうやく》力、投擲《とうてき》力……一度済むたびに一杯の赤クリームを与えつつ、次々に検査は進んで、今度は大鉄輪《フープ》の弧《こ》に、外向きに両手を上げ直立した姿勢で固定されている。意味がわからなかった。
「何なの、これ?」
「これはね、肉体の柔軟さを調べる湾曲試験です。完全な輪になれば満点なんです」とウィリアムが教えてくれた。
麟一郎を外側に固定した鉄輪は見るみる縮んで、円弧だった麟一郎の体が半円になり、さらに円周に近づく。示針は二〇〇度、二五〇度……三〇〇度を越えた。胸腹部の皮膚はピンと張り切って最大限の伸長に耐えている。と、鉄輪はぐるぐる室内をころがり出した。畜体転輪《ボディ・フープ》であった。
「頭部《あたま》は凹みにはいってるのね、顔面《かお》の保護なの?」
「ええ、そうしなきゃ鼻がつぶれてしまいますからね。回しながらだんだん締めていくんです」、答えたウィリアムは、セッチンを使いつつ意味深長な言葉を補足した。「去勢してあるから、顔面《かお》だけの保護でいいわけです」
輪は麟一郎の体を直径七十センチほどの完全な円周にまで縮めて回転を止めた。三六〇度、満点であった。静止した位置でクララの視線の正面になるのは彼の下腹部だった。のっぺりしていた。皮肉にも彼女は、昨日、円盤にはいる前、駆けつけた彼の体に立派なもの[#「もの」に傍点]があったのを、否応もなく目にしたことを思い出していた。
ふと、先ほど一瞥《いちべつ》した美少年所有のヤプーの下腹部のと同様にのっぺりしていたが、鎖の端をつなげるように小さい金属輪が半分うまって|半 輪《セミ・リング》が突出していた有様が目に浮んだ。
――麟《リン》もあんなふうにして鎖でつないでやろうかしら……。
連想が必然的に婚約指輪《エンゲージ・リング》に及んだのも無理はない。彼女のと彼のと二つの指輪の上手な転用を瞬間的に思いついたのである。
――ふん、我ながら妙案ね。
かつては、いや昨日までは、この男との結婚生活を夢見ていたのだと思うと、彼が可哀そうより自分がおかしかった。去勢[#「去勢」に傍点]の連想で宦官《オイヌーヒ》という言葉が頭に浮んだ時、セッチンがウィリアムの腰から離れたので、アシッコと呼ぶと、青年が妙なことをセッチンに命じるのが耳にはいった。
「おい、膀胱《ブラダー》を使え。こちらはじきに畜人洗礼式《ヤプーン・パプティズム》をなさるから」
セッチンはうなずいて、どこから出したか何か透明なものを口に入れ、さて首を伸ばした。両手が彼女の両脚にふれるとともに|孔 釦《ホール・ボタン》が開く……。
飲物《ドリンク》を下賜する筋肉弛緩の快感にひたりつつ、
――麟は宦官になったんだわ。宦官てどんなことをさせるものかしら、夫婦の寝室に入れるなんて聞いたけど……。
などと、新しい愛人[#「新しい愛人」に傍点]ウィリアムとの閨房《けいぼう》生活をめぐる連想――もっとも初心《うぶ》な乙女《おとめ》だから内心の羞恥《はじらい》に抑圧されて控え目なものではあったが――に、とりとめもなくふけった。そのとき、こらえかねたような古い愛人[#「古い愛人」に傍点]の絶叫が彼女を驚かした。
「……苦しい!……クララ!……救けに来てくれ……昨日の僕のやり方は悪かった……」
5手提袋《ハンド・バッグ》と聖水瓶《ユーア》
泣きわめくような麟一郎《りんいちろう》の声にクララは憐憫《あわれ》を催したが、ふと、さっき無心に指輪の経緯《いきさつ》を質問したチャールズ少年が今度は何と思ったろうか、と、ちらりとそのほうに目を走らせた途端、思わず心を奪われるような光景に出会って、彼女は映写盤を忘れ、旧愛人の号泣を上の空に聞き流すようなことになってしまった。
美少年の横に後ろ手に縛られたままひざまずいていた例の原《ロー》ヤプーの右乳の部分が飛び出して大穴がひらいているのである。気を落ち着けてながめると、右胸郭の内部が空洞《くうどう》になり、下開《したびら》き蓋《ぶた》に連動して前進する容器がはいっていたのだ。かたわらの椅子《いす》では少年がコンパクトの鏡を見ながら化粧紙で顔の汗をぬぐっていた。紙を丸めながら右手がヤプーの口にかかったかと思うと、カッと開いた大口にその紙屑《かみくず》を投げ込み、その手をひるがえして下顎《したあご》を上にグイと押す。パチンとかすかに音がして口がしまった。気がついて見ると、このヤプーは少々|反歯《そっぱ》なのか、| 唇 《くちびる》が突出し気味であった。少年はコンパクトをヤプーの右胸の容器に入れると、それを押し込むようにして直角に開いていた蓋を閉める……と、ヤプーの体は先ほどと同じ異状のない外観に回復した。もっとも、そう思って見れば、右の乳首は左の乳首より大きく平たく、チャックの引革《ひきかわ》みたいになっているのが変っている。
ただの原ヤプーではなかった。犬の代りに引いているのでもない。これは手提袋《ハンド・バッグ》の代りなんだわ。いえ、生きた手提袋《ハンド・バッグ》そのものなんだ……何て徹底したヤプーの利用だろう……。
昨日ウィリアムが麟一郎のことを「何に使います?」と彼女に尋ね、「貴女《あなた》はまだヤプーの用途全部をご存じないんだから……」といったのをクララは思い出した。全く、次から次へと新しい使用法を紹介されて応接する心の準備も整いかねるほどだった。
もう少し説明しよう。彼女の推測どおり、これは手提袋と称ばれるもので、|運 搬 畜《ヤップ・ポーター》の一種である。チャールズの連れていたのは最新型で、右肺を全部|剔除《てきじょ》してその空間《スペース》を利用するように設計してある。右乳首の変形した引革を引くと、底辺が|蝶 番《ちょうつがい》ように直角に折れる蓋が下に開いて容器が引き出される。そこにコンパクトでも鼻紙でも入れておける。一方、クララが反歯《そっぱ》と見たのは、実は、前歯の上下を一枚ずっ豆粒状に異常生長させて食い違わせ、蝦蟇《がま》口《ぐち》の止金具と同じ仕掛で口を閉じさせてあるのである。指でパチンとはずせば、顎骨に仕込んだバネの力で口は満開される。これを屑物入れの代りにし、ほうり込んで下顎を上に押すと前歯の止具が掛る。屑物は嚥下《えんか》されて胃に収まってしまう。そのほか左の眼球は本物ではなく小型シネ・カメラだし、耳孔も一方が録音器になっている。……外出の時、黒奴従者を連れ歩くのはオシャレに反するとされていたが、さりとて自分で手提袋を持つことなどとてもご免というイース男性は、この種の生きた手提袋[#「生きた手提袋」に傍点]を愛用しているのであった。
そのころ、この部屋の壁の裏に仕切られた肉便器《セッチン》の定位置たるSCの内部では、やはり空洞になった右肺部にまで胃袋がふくらむほど満腹して[#「満腹して」に傍点]戻ったセッチンが平生とは変った作業に従事していた。細い指で、さっきクララの前に立つとき口に含んだ透明なものを口から引っ張り出す。薄くよく伸びる袋が中に液体を含んでずるずる出て収縮し、氷嚢《ひょうのう》のようになった。中の液体が黄色く透けて見える。いったいこのセッチンは何をしていたのか、この袋は何か?
また説明の要がありそうだ。土着《ネイティブ》ヤプーは普通に人間として育っていたから、昇天させてイース人が新たに所有する場合、ヤプーとして『イース』世界に新生を受けたこと(いわゆる極楽往生である)を象徴して、所有者の尿(いわゆる甘露である)で洗礼を施す。で、麟《リン》の畜籍登録に際して、クララの尿が必要になるわけだが、先ほど彼女がセッチンを使用した時、そのままでは彼の胃の中で他の人の分と混ってしまうから、ウィリアムは注意して横隔嚢《セパレーター》を使わせたのだ。これは伸縮率の高いゴム袋で、袋の口が咽喉《のど》元《もと》をピタリおおって袋が食道に垂《た》れる。飲んだものはすっかりその袋の中に収まって、胃内のものと混合することがない。一遍ごとに取り出さなくても次々に袋をのんで連続使用者全員の液体を隔離しておくこともできる、胃内が何層にも分れるのだ。薄く伸びるので十枚重ねても食道をふさぐことはない。こうして混り気のない一人だけの尿が取り出せるのだ。この隔膜嚢《セパレーター》は通常「膀胱《ブラダー》」と称ばれている。
セッチンは、続いてSCの隅《すみ》から瓶《びん》を取り出し、浄水(SC内には彼の身仕度のために上水道の蛇口《じゃぐち》がある。第一六章2「悪夢と指輪」下参照)で洗い始めた。麟一郎が今朝の夢で妙な形だなと思って見た酒器と同じ形をしていた。健康な彼は、平生この形の容器に縁がなかったが、さりとて全然未知だったのではない。ただ三三九度と思い込んだため、また下杯《ビス・カップ》という語を解さなかったため、あまり意表に遠い真相に想到しなかったまでである。――連想さえできなかったのだ。蓋付きの、上を向いた広口を備え、背に取手のついた海鼠《なまこ》形のガラス容器、病床の下に必ず置かれるものだった。つまり尿瓶《しびん》である。『イース』世界では、もちろん本来の用途における|溲 器《ビス・ポット》・|便 器《ベッド・パン》というものはなくなっていた。しかし、溲器《しびん》の形態と本質は残っていた。黒奴街の酒場では、ジョッキがすべてこの形をしていたのである。
今、このセッチンが取り出したのは黒奴酒酒場《ネグタル・バア》にあるのよりは小型のもので、畜人洗礼式《ヤプーン・パプティズム》や|畜 人 堅 信 礼《ヤプーン・コンファメーション》等に使う|聖 水 瓶《ホーリー・ユーア》(holy ewer)である。複製されたものでなく、神様の放出直後のいわゆる聖水《ワラ》(甘露)のみを盛る容器だからの名称だが、隔膜嚢《セパレーター》を膀胱《ブラダー》と称ぶ白人たちは、この|聖 水 瓶《ホーリー・ユーア》をズバリ尿瓶と称ぶ。――同じ形態が、白人には尿瓶を、黒奴にはジョッキを、ヤプーには聖水瓶をそれぞれ意味するのである。
洗い終った瓶の中へ隔膜嚢《セパレーター》の中の聖なる液体が移された。
6男のズボン論議
一方、余興の畜体検査も次々に進んでいた。両脚を水平に開いていって股《また》を床に密着させる股関節《こかんせつ》試験では、一八〇度の満点にはならないまでも麟一郎《りんいちろう》は一七二度を示した。未訓練の原《ロー》ヤプーの成績としては素晴らしいとみえて、
「クララ、これは大したものね。仕込めば、第一級の曲芸綴字畜《アクロバット・スペラー》になるわ」
とポーリンも賞《ほ》めた。終るとすぐご褒美《ほうび》の| 丼 《どんぶり》――もうタークァンの混入度はゼロに近いはずだったが、代って赤クリーム独特の魔味が彼の舌を喜ばせているのだろう――に飛びついたヤプーを見ながら、クララは所有畜《もちもの》を賞められて鼻が高く、麟への愛情[#「麟への愛情」に傍点]の増すのを覚えた。
――麟一郎への愛情[#「麟一郎への愛情」に傍点]はもう寸毫《すんごう》も残ってはいなかった。それが証拠に、汚ないものを舐《な》めている姿を見ても、先ほどの吐気はどこへやら……人間としての同類意識がなくなっていたからだった。
続いて、両腕を背後で縛ったまま鉄棒にまたがらせ、両腿《りょうもも》を閉じさせてこれも縛り、上半身を保持させる平衡感覚の試験である。十秒ごとに加えられる電気針衝撃《エレク・ピンショック》のために、一分と保《も》たずにグルリと上半身を下へ半回転してぶら下ってしまうのが普通なのだが、麟一郎はよくしのいでなかなか倒れない。……彼の身になれば必死の努力だったが、余興に見ている白い神々にとっては動きがないのが物足りないとみえ、雑談や私語が始まる。またがった姿勢から連想したのか、ウィリアムがチャールズに語りかけた。
「君、さっき遠乗りで来たといってたけど、何? 馬《ホース》(畜人馬を指す)?」
「いいえ、とても。……馬形双体《セントーア》です」
「馬はきらい?」
「こわくて、何だか……」
「じゃ、天馬《ペガサス》も?」
「もっとこわい……とても乗る気がしない。……またがる気分は好きなんですよ。でも馬形双体《セントーア》でそれは充分味わえますからね」
「さあ、充分[#「充分」に傍点]かどうか疑問だね。君ももう子供じゃないんだから、一度馬に騎って……」
「でも男ですもの」と、美少年は鳶色《とびいろ》の瞳《ひとみ》を光らせて、青年の顔をきっと見詰めた。「馬形双体《セントーア》は男子供《おとここども》のために作られるんでしょ。僕たち男性が馬形双体騎乗《セントーア・ライディング》を捨てるのは女王陛下の政策《みむね》にそむくんじゃありませんか?」
「そりゃ、建前はそうかも知れないけど」と郎《オス》ドレイパアはいささかドギマギしながら、しかし、年長者の自信を取り戻すように、「|乗馬の快楽《ホース・ライディング》を女に独占させておくことはないさ」といいきった。
「怪《け》しからんこといってるわね」
ドリスが横から聞きとがめた。マック少年は頭のリボンをヒラヒラさせながら、首を傾《かし》げて、
「ドレイパア郎《さん》は特別ですよ。このごろ乗馬男性[#「乗馬男性」に傍点]がふえたとは聞いてますけど、僕、べつにそんなに気にならないんです。男が皆ズボンをはいて馬に騎るようになっちゃ、女男の別[#「女男の別」に傍点]が乱れる……」
「……ッてママが教えたんでしょ」と美少女が受けていった。「そのとおりよ、チャールズ。妾たち女性の肉体のほうが少し高級なんだから、楽しみが多くても当り前なのよ。郎《オス》ドレイパアの危険思想にかぶれちゃ駄目、この人は生れそこないなんだから……」
親しい間がらだけに許される戯談《じょうだん》めいた口調なので、ウィリアムも苦笑のほかはなかったが、クララが聞いていたのが憂鬱《ゆううつ》だった。いずれはわかることだが、この恋人には少しでも自分が変り者なことを隠しておきたかったからだ。
少年は調子づいて、例の可愛い顎靨《あごえくぼ》を作りながら、
「僕、どうもズボンをはく気になれませんね」
「なぜ?」とウィリアムは、わざととぼけてみせた。
「だって、あの……」と少年は急に口ごもった。
それをドリスが引き取って断言した。
「わかってるじゃないの、ズボンは女のもの、スカートは男のものだわ、体の構造からいっても。男がズボンをはいたら余計なものがつかえちゃうわ」
さらに言葉を続けて、
「|騎 乗《ライディング》もそうよ。男の体は女の体みたいに鞍《くら》にしっくりしないはずだから。馬形双体《セントーア》用の|鞍の座部《サドル・シート》を見てもわかるわ。跨る[#「跨る」に傍点]ってことは本来女性の肉体にこそ適した姿勢なのよ。あのヤプーが鉄棒にまたがっていられるのも――」と、映写盤上、依然として姿勢をくずさずにいるヤプーを指しつつ、「ひとつには、去勢されてるからだと思うわ」
ウィリアムは反論しようとしたが、その時ついにヤプーは体の平衡を失い、半回転し、そろえて縄られた両脚が上方に直立した。その肌の黄色さが今さらのようにクララの網膜に印象された。と、またもや彼の哀訴が響いた。
「救けて!……僕を見捨てたのか、クララ!」
ポーリンは、それをよい機会《しお》に、ウィリアムを手で制しつつ提案した。
「さあ、現場じゃ適性検査《ドメス・テスト》が終ってもう登録係《レジストラー》が待ってるだろうから、議論はまたのことにして予備檻《スペア・ペン》のほうへ行ってみない?」
「賛成!」
白い神々はぞろぞろ立ち上って、ソーマの間を出て行った。あとは|動 廊《エスコリドー》が彼らをゆっくりと目的地に運んでゆくことだろう。
7イース女権制略説
前節の議論は、『イース』における両性関係を知らねば充分に理解し得ないであろうから、ここで、女権制《ジネコクラシー》の由来と現状を略説することにしよう。
イース女権制は「|郭 公 手 術 法《クックー・オペレーション》」の発明に始まる。貴族も平民も、すべて女性が妊娠・出産から解放された――この時から人類の歴史は大きく変ったのだ。(第一三章3「郭公手術法」参照)
シリウス圏への遷都に伴う大移住(第九章3「矮人種の歴史と現状」参照)は、初め男性が主だったから、ちょうど昔のアメリカにおけると同様、希少価値からする女性優先《レディ・ファースト》の風を生じ、これは男女、数の均衡した二五世紀に至っても風俗としては衰えなかった。しかし、女性の現実の社会的活動が出産や授乳の点で男性に比して拘束を受けていた間は、女性優先は名のみで実を伴うものではなかった。
それが、郭公手術法による子宮畜《ヤプム》の使用でハンディキャップがなくなったのだ。女性の既得権としての女性優先の風俗がむしろ男性側のハンディキャップに変ってきた。それに「女の大厄」が解消してみると、女のほうが男より長命で抵抗力の強い肉体――ドリスの、いわゆる「少し高級な肉体」――を持っていることの長所が断然光ってきた。こうして女性はしだいに男性を圧迫していったのだ。
流布の『[#ここからフォント太字]宇宙帝国史略[#ここまでフォント太字]』によると、二七世紀にはいって女性の有権者数が男性を越えた時、「団結女性党《ユナイテッド・ウイメン》」が議会の多数を制し、党首|女卿《レディ》パーカーは最初の婦人の総理として女性内閣を組織した。この時の国王はレオ十六世であったが、総理と気脈を通じた王女アンは、軍隊を使嗾《しそう》して突然クーデターを起し、父王を退位させ、兄皇太子を幽閉し、自ら王冠を戴いて女王アン一世となった。これが建国紀元六三五年(地球紀元換算二六一七年)に起った有名な「|女 権 革 命《フェミナル・レボリューション》」であって、以後、女王と議会と内閣とは一体になって、急速に男権|剥奪《はくだつ》諸法を制定し、以後百年ほどの間にイース社会は面目を一新し、男性は女性に法律上|隷属《れいぞく》するに至った。風俗としての女尊男卑ももちろんさらに徹底化した。このような女性支配の恒久的制度化が行なわれた時代は、ちょうど先に述べた三色摂食連鎖機構《トリコロル・フッドチェーンシステム》(第六章2「三色摂食連鎖機構」参照)の成立した時代であり、|生 体 家 具《リビング・ファニチュア》(第二章2「読心家具」参照)の登場した時代でもあったので、女権革命後一世紀間の女性の活動が、それ以後のイース社会をいまだに規定しているといえるのである。
『[#ここからフォント太字]帝国憲法典[#ここまでフォント太字]』(もっとも、平民に属する公権は有名無実。第三章1「自己紹介」注参照)・『[#ここからフォント太字]帝国民法典[#ここまでフォント太字]』等によれば、現在、選挙権その他の公権はもちろん、所有権・相続権等の私権もすべて女性に専属し、男性は権利を享有する資格も能力もなく、常に女性の保護・監督下に立つことになっている。すなわち、未婚なら母の(母がなければ姉や妹や伯叔母《おば》の)監督下にあり、結婚後は妻の保護を受ける。老《お》いては娘に従う。夫は結婚すれば妻の家にはいって妻の姓を名乗る(第八章2「三貴族登場」注参照)が、離婚についてはなんの決定権もなく、妻はいつでも夫を追い出せる。家庭を整え、子供を育てるのは妻でなく夫の義務であるとされる。家庭内でも、姉妹は兄弟に優先し、女子は父親に優先する。
もっとも、良夫・賢父たるばかりが男の本分であるわけではない。女性が男性から奪ったのは、社会の支配権、換言すれば、行政、立法、司法、警察、軍事等の大権で、文学、美術、学問、教育等の分野では依然男性が主役を演じ、これが女性との分業における男性の社会的本分であった。
これに応じて、女性の気風が一般に荒事を好み、スポーツを愛するように変っていったことは当然の道理だろう。伝統的に女性側に存した容色尊重の気風がすたれたわけではないが、男性側が昔の女性同様、服装や髪容《かみかたち》に身をやつすようになったのも、女権時代なればこその現象である。男女関係も、先に一言したように(第五章3「愛の誓い」参照)処女性は問題にされず、童貞性《ヴァージン》が重んぜられる。妊娠・出産を宿命としなくなった女性はしだいに男性を単に性生活の手段視する傾向になり、富裕な女性が面首《バラムア》(男妾)を持つことはかなり多い。
女権制《ジネコクラシー》成立後の|人 類《ウマン・カインド》の驚異的発展の実績は、女性こそ真の指導者と断じた前史時代の賢者モーリス・テスカの予言の正しさを証明するものであった。
ついでに、奴隷の種属における両性関係を一瞥《いちべつ》しておこう。
黒奴の|女 性《フィーメイル》――女性《ウマン》(=人間)の語を避けるため、黒奴《ネグロ》に対応して黒婢《ネグレス》と称ぶのが正式であるが、法文などの以外にはあまり使われない――は、もちろん|郭 公 手 術 法《クックー・オペレーション》の恩典に浴することはできない。したがって、無奴の社会は女権革命を経由していない。黒奴人口の過半数は、牧場星《パスチュア》|に《*》存するが、その家族形態は父権的小家族制で、二〇世紀人には理解しやすい。
[#ここから2字下げ]
* イース領内の諸遊星は、|天 国《パラダイス》(白人居住星《ホワイト・プラニト》)、牧場星《パスチュア》(黒奴居住星《ブラック・プラニト》)、|畜 産 場《ヤプーナル・ファーム》(黄畜飼育星《イエロー・プラニト》)に三大別される。牧場星という名は総称で、牛の星[#「牛の星」に傍点]または豚の星[#「豚の星」に傍点]に分れ、その星の上に住むすべての黒奴たちの家庭が牛飼または豚飼を兼ねて白人の食用肉を生産させられていることにもとづく。
[#ここで字下げ終わり]
牧場星の黒奴社会(人口こそ多いが、数家族による小部落形成以上の社会組織はほとんど存しない)では、したがって、女は良妻・賢母を理想とし、社会的に進出するのをいやしみ、多産を誇りとする。これは、黒婢を黒奴の生産手段として最大限《フル》に活用しようとする白人の政策からきている(黒婢たち自身はもちろんそうは思っていない)。この政策にもとらぬ結婚前の就職は必ずしも禁ぜられていないが、その場合でも、看護婦とか助手とかいった黒奴の補助的職務以上には就《つ》けず、しかも直接の上司は必ず黒奴に限り、召使族《サーバント》として白人に直属することはな|い《*》。――黒婢は、白人の目には黒奴生産具に過ぎないが、半人間としての意識を享受し得る点では、後に紹介する一般雌ヤプー――純然たる生産機械に化せしめられている――に比し、限りなく幸福な存在である。
[#ここから2字下げ]
* 黒婢は生理日のある関係で、黒奴よりも使役する側にとって不便だから、白人は黒奴のほうを選ぶのである。白人女性も黒奴に羞恥《しゅうち》を感じないから、従者は黒奴で足り、黒婢の腰元を必要としない。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第二一章 畜籍登録手続き
1光幕を隔てて
予備檻《スペア・ペン》の中央では――、
金属質の床にペタリ胡坐《こざ》した麟一郎《りんいちろう》が、ようやく拷問――肉体検査のことを彼はそう思い込んでいた――から解放されて、舌を垂らしながらホッと一休みしていた。煙草《たばこ》を吸いたいなという欲求が、昨日までは運動後に必ず激しくなったものだが、今は、その気持が、空腹感からの赤クリームへの食欲に吸収されていた。幾皿《いくさら》も舐《な》めた赤クリームの味が(彼自身は知らぬタークァン混入度の減少から)、少しずっ変ってきていたことは気づいていたが、初めのころの体の融《とろ》けるほどの美味《うまさ》とは違った独特の異味・異臭が、今度はしっかり舌と鼻を俘虜《とりこ》にしていた。知らず知らず彼は――ちょうど煙草の味を解したり、阿片《アヘン》で中毒したりするのと同様に――赤クリーム系の菓子類(第一六章5「赤クリーム馴致」参照)への嗜好《しこう》を植えつけられてしまっていたのだ。
あれほど肉体を酷使したにもかかわらず、ほとんど疲労感はなかった。クリームに混ぜられたヴィタミンYの効果で筋肉内の疲労素が全部分解されてしまうからなのだが、麟一郎にはこれもクリームの効目《ききめ》と思え、この未知の世界の医学力に驚かされた。
彼の体調は、適度の|練 習《トレーニング》をした後のような完璧のコンディションのもとにあったが、心はあべこべに空虚だった。拷問を受けた時、その名を呼んだ恋人がついに現われなかった失望が彼を空虚にしていた。両膝《りょうひざ》を立てて腕で抱き、例の指輪を片手に握り締めつつ、
――クララは、来ないのだろうか? 確かにこの宮殿のどこかにいるはずなのだが……それとも、彼女が死ななかったように聞いたあの話が嘘《うそ》……いや、そんなはずはない、クララはきっと生きている! きっと来てくれる!……今度会ったらどんなことがあっても反抗すまい。昨日のことをすぐあやまろう。二度と乱暴はしません、と誓おう。赦《ゆる》すと一言いってもらうまではどんなことでもしよう。この地獄の檻《おり》からのがれる道は、ただ一つ、俺がヤプーでないことを知っている[#「俺がヤプーでないことを知っている」に傍点]クララに頼るしかないのだ。……だが、いったいなぜ彼女は来てくれないのだろう? 俺のこの有様を知らずにいるのか、知っていても具合が悪くて来られないのか! それともわざと来ないほど怒っているのか?……ああ、それにしても、君はいったいなぜ昨日、あの円盤の中へはいろうなんて気を起したんだ、こんな取り返しのつかぬことになってしまって!
とつおいつ、彼が絶望的に考え込んでいたころ、上階から地階の原畜舎《ヤプーナリー》へ導く|動 廊《エスコリドー》(斜面ではエスカレーター、平面では|動 路《エスカ・ロード》になる仕掛の貴族専用の廊下)の上では、クララが、予備檻の構造や畜籍登録の手順などの説明をポーリンから受けていた。
「……よくって? そうやって|洗 礼《パプティズム》が終ると、今度は登録カードに記入して番号が決るの。この記入は係員がいっさいやってくれるわ。こちらは聞かれたことに答えて最後の署名だけすればいいの」
「そう」
「そうすると、番号を打った鑑札をくれるわ。これは貴女《あなた》が自分でヤプーの首輪に付けてやらなきゃならない。|権 利 宣 言《デクレアリング・ラッシュ》の鞭《むち》といって、三遍打って貴女の所有権が正式に公証――妾《あたし》たちが証人になってね――されるんだけど、その前に鑑札を付けておかなければならないのよ。妾たちは片視光幕の外にいるから、貴女一人で中にはいって首輪に署名するの」
「首輪をしてるの、もう?」
「ううん、それはね、檻の固定用金具が閉じると首輪になるの。その首輪に首を入れさせるには餌《えさ》をやればいいのよ」
「餌? あのクリーム?」
「そう、さっきだいぶ舐めさせたらしいから、今度はタークァン零《ゼロ》でやってごらんなさい」
「それで召使《サーバント》いにはわかるのね」と少々頼りない調子である。
「首輪には所有者名と家畜名を記入するの。|電 気 焼 筆《ブランディング・ペン》を使うんだけど、直接じゃなく、金具が首輪のあいだは痛がらないから……」
「痛がるって……?」
「間接電烙技法《インディレクト・プランド》といってね。首輪の外側に書いたとおりが、あとで輪を締めてから肌のほうへ烙印《らくいん》されるの、その時は苦しがるわ」
「まあ、肌へ焼き込むの……」
クララはびっくりしたが、ポーリンは平然と話し続ける。「そう、それから、鑑札を付けて、床におろして、片足を首根っ子に掛けながら鞭を三度加える。一鞭ごとに唱える文句があるの……」
ふんふん、とうなずいて聞くうちに、動廊は原畜舎に一行の六人を運び込んだ。
【予備檻】[#底本「□で囲み」]と表示のある部屋の扉《とびら》が開いた。
中央の檻の周囲を片視光幕が取り巻いていることは承知しているクララだったが、皆とはいって行って、先ほど縮小立体型でながめていた当の檻と、その中に両膝をかかえている男の姿を見いだした途端、彼がヒョイと顔をあげて、その視線が彼女のほうを射た時には、思わず、彼が彼女に気づいてこちらを見たのではないかと錯覚を起したほどだった。
麟一郎としてはまったくの偶然だった。明るく揺れ動く光の壁の彼方《かなた》に何事が起ったか、見ることも聞くこともできなかった。ただ、五官を超《こ》えた本能的な予感が、彼に何かある[#「何かある」に傍点]と告げたのだったかも知れない。待ちこがれた救い主クララがそこに立っているとも知らずに、光幕を隔ててこちらを見ている彼。広い額の下の黒い目は苦難にもめげず輝いていた。
健康そのもののような筋肉のたくましさ、無精髭《ぶしょうひげ》が伸びていたが、への字に結んだ口元のきびしさ、昨日までの彼女なら、その男らしさあふれる容貌《ようぼう》に、人種を超えて強烈に心|惑《ひ》かれたに違いなかった。――だが、今、相手に知られず視線を返すクララの目には、動物園で動物を観察する人の示すような好奇心だけが露骨だった。
2物々交換取引
「クララ、どう? 譲ってくれる?」
突然ドリスの声だった。彼女の目は壁上の家畜適性検査《ドメス・テスト》結果性能表の数字をあわただしく追っていた。
「そうねえ」
クララも生《なま》返事しつつ、その表をながめた。略字と数字との簡潔な表示でよくは理解しかねたが、ドリスがIQ一四七の個所をゆびさして、
「|知 能 指 数《インテリジェンス・コーシャント》一四七か、もうちょっとで読心家具《テレパス》になるのになあ」
と惜しそうにいうのに反対して、
「いや、愛情指数《ラブ・コーシャント》一〇八、慕主性《ロイヤルティ》係数|正《プラス》5だろ。この|係  数《コエフィシャント》はひどく高い。こういうのは主人以外の人に対しては読心能《テレパシー》がぐんと減るんだ。一四七ならクララ嬢《さん》ならあるいは読心能化できるかも知れないというところだ。標準値一五〇より低くても、慕主性《ロイヤルティ》でカヴァーしてね。しかし、もちろん失敗の可能性も考えられる……」
セシルがその下のAQ一〇八、LC5とあろ数字を指で押えるところを見たり、さらにはポーリンが、
「羞恥度《しゅうちど》(一次)は| 負 《マイナス》7に減ってるけど、自尊度(一次)は| 負 《マイナス》8、批判度(一次)は| 負 《マイナス》9でたっぷりだし、服従度1・5[#底本「1.5一文字」表示不可により修正]、卑屈度0・5[#底本「0.5一文字」表示不可により修正]は、調教前の値としてもごく低い。調教訓練の楽しみにはこの畜化度の低さが大切なのよ。クララ、これは大した掘出物だわ」というのや、
「それに徳目指数が勇敢度・忍耐度以下ほとんど満点だし、肉体諸元のほうはさっき見たとおりの素晴らしさで、ホラ総合平均値がこのとおり一三二になってます。ネ……」など、ウィリアムの説明とかを聞いて、表の見方と内容がクララにもだんだんわかってきた。
セシルが、声を潜めてささやいた。
「これは絶対に人に譲るべきものではありませんよ。この慕圭性係数だけでも大したものです。あの|水 中 自 転 車《ウォーター・バイシクル》(河童《カッパ》のピューのことである)が欲しかったら、こいつの玉《ボール》と取替えにすればいいんですよ」
玉《ボール》という意味がわからず、問い返そうとした時、ドリスがまた繰り返して促した。
「クララ、譲ってくれる?」
クララは檻のほうに目をやった。檻の中では首うなだれた麟一郎が何を考えているのか――こちらの話声が聞えるはずはないのだ――泣いていた。
涙が床を濡《ぬ》らすのを見ているうち、彼女の脳中に昨日円盤内で、彼の涙が自分の長靴を洗うのをながめた時の光景がよみがえってきた(第六章1「着替え」参照)。そして、その直前、彼女が彼の耳元でささやいた言葉も思い出した。
……それが愛情の試金石だというなら、その試練を受けてみましょう。麟《リン》、妾《あたし》誓うわ、貴方をいつまでも愛するってこと。二人は離れないんだわ
ほとんど反射的に、彼女はドリスを見返りつつ、確答した。
「いいえ、妾譲らないわ、譲れないの!」
適性検査の結果の素晴らしさが、彼女の心をずっと否定のほうへ引き寄せていたことは否めないが、この時、彼女を断固たる拒絶に踏み切らせたのは、彼女が想起したあの誓言を重んじようとする意識からだった。――麟一郎が、もしそれを知らされたとすれば、大いに感謝すべきだし、また、したに違いない事実である。
――つまらない約束をしたものだ、という後悔めいた感情に一瞬襲われもしたが、考え直してみれば、「試練を受けよう」とはいったが、「試練に耐えてみせる」といったわけではない。「二人はいつまでも一緒」といったが、「夫にする」と約束したのではない。愛人[#「愛人」に傍点]としてではなく、愛玩動物[#「愛玩動物」に傍点]としてでも、「愛する」、という誓言に嘘はないはずだ。
――麟、妾は誓いを破りはしない。ドリス嬢《さん》の申出は断わったよ。妾はお前を愛の手元で可愛がってあげる、ヤプーとして……。
「じゃ、さっきピューを欲しいって話だったけど、あの話は取消しね?」
ドリスがいどむようにいった。
「…………」
「あのほかに犬のタロも付けるのよ」
ドリスは食い下る。すろとかたわらからセシルが助け舟を出した。
「しかし、ピューとタロじゃ、このヤプーと引き換えるには不足だよ、公平に見て」
「クララ嬢《さん》は放浪中、我々が鞭撻《べんたつ》用に飼うのとはまた違った可愛がり方で奴《あれ》を飼ってたようですからね」と、両女性間のさっきまでの交渉を知らないくせに、ウィリアムがクララに意味ありげにウインクしながら、セシルに同調して言葉を添えた。「そういう愛玩物《ペット》をもらうのは遠慮して、仔種《スパーマ》を取ったらどうです。|決 闘 士《グラジャトール》が欲しいだけなら、それでもいいわけでしょう?」
「うん、だって、妾、独占したいんだもの、この型の決闘士を」とドリスは執拗《しつよう》だったが、セシルから「だったら玉《ボール》ごともらっちまえばいい……」と知恵をつけられると、
「それもそうね。二つとももらえるなら、仔種は独占できるわね」と素直にうなずき、クララに、「どう? 玉《ボール》とピューの物々交換《バーター》は? 代用品だから、犬はつけないわよ」
「ヤプー自体はあきらめて、剔出睾丸《カット・ボールズ》で我慢するってのよ」、ポーリンが解説的に口を添えた。「玉とカッパの交換取引ってわけね」
「あの、麟の体から切り取ったのを?」、あきれ顔にクララはいった。
「そう、玉は今|去勢鞍《カスト・サドル》が持ってる。畜籍登録番号をつけて金庫に保存するのが普通なんだけど、……」(第一四章3「人工動物・去勢鞍」、5「如意鞭・珍棒」参照)
「それを二つとも欲しいのよ」とドリスが姉の発言を引き取った。
これから麟一郎を去勢するというのだったら、クララももう少し躊躇《ちゅうちょ》したかも知れないが、既に去勢が済んでる現在、彼女は何の迷いも感じなかった。あの逆さ吊りになった哀れな奴《やつ》の「お助け下さいまし」という嘆願はなお耳にあった。自分には用のない麟の去勢睾丸で贖《あがな》えるなら、安いものではないか。
「妾には異存はないわ」
「じゃ、これでOKね」、ドリスも満足したようにいった。「ピューの登録名義変更は、いつでもご随意の時におっしゃって。急ぐことはないけどね。……」
こうして、クララは、ピューの命をただ救けてやるだけのためにさえ、いったんは手放そうとした麟を自分の所有として確保したうえ、ピューの命も救い、しかも自分の従畜《パンチー》とすることに成功したのだった。
3|新 畜 登 録《ヤプーナル・レジスター》
「あ、大へんなこと忘れてた。クララ嬢《さん》に説明するほうに気を奪われて肝心の洗礼の液体を取らせとくのを……」
ポーリンが急にあわててつぶやいた。マック少年が不思議そうな顔をする。ウィリアムが目配せしながら、小声で、
「心配ご無用。さっき、ソーマの間で気がついたから僕が命じて膀胱《ブラダー》を使わせたよ。少し遅れるけど、ここへ持って来る……」
「ああ、よかった」と、この家の女主人はホッとしながらいった。
「じゃ、妾たち外出の予定で忙しいから、洗礼が遅れるならその前に登録をしておいてもらいましょう。……ねえ、クララ、それでいいわね?」
「ええ、かまわないわ」
すっかり任せきりのクララは、ポーリンとウィリアムの話の内容もよくはわからなかったが、マック少年という客人もいることなので、あたりさわりのない返事をしておいた。
「さ、それじゃ、先に登録を……」
ポーリンが、今まで片隅《かたすみ》に控えていた登録係を手招いた。進み出て来たのは、三十代の白人女性であった。適性検査のように学問的な事項ではなく、事務的・行政的面での仕事は、いっさい女性が担当しているのだ。もちろん平民である。貴族と違って平民はみな職業を持つのだ。彼女はジェーン・クレイとて、畜人省畜籍局地球支局欧州分室登録課で係長として課長代理を勤める練達者であった。先ほど、分類課のコラン博士と交替し、この家の人々が来るのを待つ――登録課に出頭する代りに係を呼び寄せることのできるジャンセン侯爵一族のような大貴族に対しては、彼女のほうから催促することは許されないので――間に、準備を整え終って、あとは登録者本人に関することが残っているだけであった。
若夫人から、「この方よ」と教えられて、クララの前に来たジェーンは、鞄《かばん》からカードを取り出してかたわらの机上《きじょう》に置き、さらに上着の裾《すそ》の陰、右腰帯からぶら下っている羊羹《ようかん》状の細長い筒を取りはずすと、中から一匹の矮人《ピグミー》をつまみ出し、これをそのカードの上にそっと置くと丁重にクララに礼をし、
「女王陛下の御名において、登録に先立ち、二、三の質問をいたします。貴女《あなた》の姓名は?」
「クララ・コトウィック」
さっき打ち合せたとおりにクララは名乗った。机の上で何かが動くのが視界の隅《すみ》に映り、目をやると、矮人がステッキ風の棒を持ってカードの表面を棒の先でこすりながら走っていた。どういう仕掛なのか、棒が当って過ぎたあとに ツ ツ ツ と奇麗な字が印されてゆく。既に CLARA COT と書かれ、 VICK とつづり終えるところだった。
これは|机 矮 人《デスク・ピグミー》の一種で|活 動 筆《ヴィヴィスチロ》(vivistylo 生きた万年筆)という生きている文房具で、彼が持っていたのは矮人用の写字棒《タイプ・ライター》であった。活動筆は昔の口述筆記機《ディクト・タイプ》のようにかさばらず、しかもどんな早口でもついていけるし、字体も自在に変えられる便利なものだ。かさばらないといっても、万年筆みたいに小さくはないから、誰でもが身につけているのではないが、ジェーンのような書記事務関係者は、必ず一匹を携帯用筆筒に入れて、昔の矢立みたいに腰からぶら下げているのである。
「このヤプーを捕獲したのは?」
「一九六×号台球面で、復活祭の一週間後に――」
婚約指輪《エンゲージ・リング》を交換したあの舞踏会の日――今年はそれが彼女の誕生日にも当っていたのだが――のことをとっさに思い出しながら、クララは答えた。
――『永久《とわ》に貴女《あなた》の所有《もの》』と麟《リン》の誓った日が、妾が彼を捕獲した日だわ。
|活 動 筆《ヴィヴィスチロ》は、棒をひきずるようにしてカードの上を走っている。
「貴女の所有権は完全ですか?」
――彼は妾以外に全然女を知らなかったはずだ。
「イエス」
「将来これに異議を唱える者はないであろうことを誓えますか?」
「イエス」
「これの飼育に関するいっさいの責任――飼育の権利はまた飼育上の義務を伴いますから――を負えますか?」
「イエス」
「これを何と名づけますか?」
「リン」
ヤプーとしての別の名をつけようとは考えなかった。
「よろしゅうございます。では、署名《サイン》なさって下さい。カードと引替えに、登録済み鑑札をお渡ししますから……」
署名用のペンはボールペンに似て普通のペン先ではなかったが、なめらかに書けた。署名欄以外は美しい活字で、印刷したように全部書き込まれていた。身長・体重・体温・脈搏等(昨日|皮 膚 窯《スキン・アブン》の中で計測されたものだ)から始めて、先ほど壁上で見た性能表の諸数値もすべて写し取られてあった。
クララは、推定年齢[#「推定年齢」に傍点]という欄に地球年二十三年二月とあるのに驚いた。麟一郎の誕生日を知っている彼女が正確に計算して、ちょうど二十三年二月になるのである。推定とあるし、生年月日の記載がないから、彼自身の口から聞かず、肉体検査の結果から算出したのだろうが、素晴らしい正確さに舌を巻かずにいられない。
しかし、この詳細なカードのどこにも「瀬部麟一郎」という表示はなかった。[#ここからフォント太字]TEVIN・241267[#ここまでフォント太字]という番号《ナンバー》と[#ここからフォント太字]RIN(C・C)[#ここまでフォント太字]の名前《ネーム》とが、このヤプーの個体の識別の正式表示として、カードの右肩に記されていた。それだけであった。瀬部麟一郎という人間くさい名前は永久に不要になったのだ。
――RIN(C・C)というのは、クララ・コトウィック所有のリンの意味に違いないけれど、番号の数字の前にあるTEVINは何かしら?……
カードを返すと、登録係の婦クレイは、キビキビした動作で番号彫りのある金貨ようのものを手渡しつつ、
「女王陛下の御名において、畜籍局地球支局欧州分室第五特別区第一係登録番号二十四万千二百六十七号土着ヤプーの捕獲を登録いたします」
TEVINというのは、地球支局(terra)欧州分室(europe)第五特別区(V)第一係(I)で登録した土着《ネイティブ》ヤプー(native yapoo)という意味なのであった。第五特別区とは、近時シシリー島を含む南伊方面に別荘が増加して以後特設された出張所の管区である。数年間に二十四万という数字は原《ロー》ヤプーの人口数などから見れば桁違《けたちが》いの小ささであるが、別荘利用のできる階級に属する限られた数の人々が、鞭の楽しみ[#「鞭の楽しみ」に傍点]のために、ヤプン諸島から捕獲して来た数だけだということを考えると、必ずしも少ないとはいえないだろう。麟一郎はその二十四万千二百六十七番目の一匹として受け入れられたのである。二〇世紀の地球においては一個独立の人格として――一人の生命は全地球より重い、といわれる、その貴《とうと》い人間の一人として――闊歩《かっぽ》し得た瀬部麟一郎は、『イース』世界においては畜籍《ヤプーダム》にはいってしまったのだ。心も体も、一女性に所有される――彼を飼育する権利も義務も彼女のみに属する――一匹の動物、土着ヤプー・TEVIN云々《なにがし》号に堕し去ったわけである。二〇世紀世界の彼の本国の戸籍簿から、失踪《しっそう》によって彼の名が抹消《まっしょう》されるのはまだまだ先のことであろうが、彼の実体[#「実体」に傍点]は皮肉にも、すでに四〇世紀の地球にあって畜籍簿に登録されてしまったのだ。彼自身はまだ何も知らなかったが、彼は既に瀬部麟一郎と呼ばれるに値しなくなった畜生[#「畜生」に傍点]なのである。(今後の記述はなお麟一郎[#「麟一郎」に傍点]の名を用いるであろう。しかし、読者諸君は、それを単にTEVlN241267号の冗長を避けた個体の同一性の符牒《ふちょう》と解されたい。決して人格の表示ではない)
4人畜初対面
「それでは権利宣言をどうぞ」
登録係の婦人が慎《つつ》ましくいう。万事、来る途中で聞いてきた順序どおりだった。これから、一人で光幕の内部に出て行って、型どおりの儀式をせねばならない。臆《おく》してはいけない。
「ヤプーにクリームを、タークァン零《ゼロ》でね」
クララは、いかにも物慣れたふうを装って、部屋《へや》の隅《すみ》に控えた黒奴B2号に命令した。
「は、畏《かしこ》まりました」
麟一郎《りんいちろう》――あるいはTEVIN241267号――が先ほど泣いていたのは、故郷の父母をしのんでのことだったのだ。渡欧の時、羽田空港で歓送してくれた友人たちの陰で、母や妹がハンケチを目に当てていた姿が瞼《まぶた》に浮ぶ。うれし涙と思ったが、何か不吉な虫の知らせだったのかもしれない。父親似の自分と違い、母親似で美貌《びぼう》の妹|百合枝《ゆりえ》は、今どうしているだろう。兄妹二人きりで、仲も良かった。今年は十九歳になるはずだ。変り果てたこの兄の有様を見たら何というだろうか。
その時、例の| 丼 《どんぶり》が動き出すのを認め、彼の想念は即座に中断されてしまった。そして、代って、猛烈な食欲が彼を駆り立てた。長く煙草を吸えなかった愛煙家が、一本の煙草のころがっているのを見た時にこんな全身的感情を経験するだろう。腹ばいになって潜《くぐ》り穴《あな》から首を差し伸べる動作の素速かったこと、クララは、一同とともに思わず失笑しつつ、残飯バケツをさげた豚飼いのほうへ鼻を鳴らして馳《は》せ寄る豚を連想し、蔑《さげす》みの念をいだいた。
「首を突き出したが運の尽きとは知らずに、張り切ってるね」とセシルがいえば、
「浅ましいもんですね」とこれは少年チャールズの感想であった。
「畜生ってそんなものさ。食欲《くいけ》だけなんだよ」
光幕の向うでの一同の笑い声や話は、|強 力 空 気 幕《スーパー・エアカーテン》の消音装置にさえぎられて届かず、何も知らない麟一郎は全身を食欲にして待っていた。丼が赤クリームを満たして戻って来る。すぐ舌を伸ばしたいのを必死にこらえた。許可なしに舐《な》めると電撃が来るのを承知しているからだった。家畜化の第一歩として、さっきさんざん仕込まれたことが忘れられないのだ。
「ヨシ!」
さっきとは違う女の声に聞き覚えがあるようで、オヤと、一瞬動作を停止させるものがあった。しかし、クララと日本語とを連結することがあまり意想外だったのと、舐めたい一心とから、次の瞬間には、彼はもう何も考えず、夢中になって舌を動かしていた。恋しさと飢《ひも》じさ寒さを比ぶれば、恥ずかしながら飢じさが先≠ニいう奴だ。舐め出した途端、例の逆U字の金具がおりて首筋を押えたが、例の現象だから、苦にはならない。
ペロペロと、半分ほども舐めた時だ。
丼にかぶさるようにしていた視野の隅に人影が映り、ハッとして顔をあげたが思わず「あッ」と叫んだ。
クララが正面からこちらへ近づいて来るではないか。男物のような上着とズボンは緑を主調にした柄物で、男性的な中に優美さを感じさせた。トッパーコート風のマント、赤革のハイヒールの半長靴、片手に何か万年筆みたいなものを握っていた。顔は彼のほうに微笑《ほほえ》みかけているようにも見えた。
――クララ!
あわてて檻《おり》にもどろうとしたが、金具で首を押えられていて動きがとれない。ああ、待ちに待ったこの人に会うのに、何という恥ずかしい姿勢だ。つぶれた蛙《かえる》みたいになって……。
――そうだ。金具は丼に連動してるのだった。丼が空《から》になればゆるむんだ。
思いついて、もう一度丼の中に顔を突っ込み、残りを全速力で舐め上げる。
それを、クララは索漠《さくばく》たる気持で見守っていた。昨日までの愛人として、心の奥底に残っていたわずかの愛情も、先ほど霊液《ソーマ》の間で彼の口から発せられた健気《けなげ》な言葉に感じて復活しかけていた好意も、いつしか消えていった。彼がなぜまた丼に向ったかを察する術《すべ》もなかった彼女は、暗然として、
――こんな| 獣 《ティーア》だったんだわ、此奴《こやつ》は。妾《あたし》を認めてからでも、まだ汚ならしい餌《えさ》の食べ残しを忘れずに、そっちを舐め終ろうってのだね。何て浅ましい畜生《ペスティ》だろう! | 豚 《シュヴァイン》!
昨日、彼女の私室での対面は旧愛人同士の再会[#「旧愛人同士の再会」に傍点]であったが、今ここで行なわれていたのは、人間と畜生との初対面[#「人間と畜生との初対面」に傍点]というべきだった。
クララは片手をあげて合図した。
舐め終って金具のゆるむのを期待した瞬間、逆に、金具だけ残して、檻の四囲の格子も腰板も、顔の真下に今まであった丼も、たちまち消えてしまったのだから麟一郎は驚いた。気がつくと檻の台――これと逆U字金具が残ったのだ――が多少高くなっていた。
今まで顔の下にあった丼がなくなったせいで、クララの靴先が見えた。ちょうど彼女のお腹《なか》のあたりに首を突き出している見当であろうか。肩から下は台にうつ伏せになっていた。四肢《しし》は自由だが、どうもがいても首枷《くびかせ》の金具のため姿勢は変えられない。俎板《まないた》に錐《きり》一本で留められた鰻《うなぎ》さながらではなかったか。とても良い匂《にお》いがする。クララの体臭ではないから、新しくつけた香水の匂いに違いなかろう。
何か一抹《いちまつ》の不安を感じつつも、なお、自分を救いに来てくれたに違いない≠ニの感謝をこめて、麟一郎は二人の間の用語だったドイツ語でいった。
「|どうもありがとう《ベステン・ダンク》……」
「オ黙リ!」
クララは家畜語《ヤプーン》で叱った。前にいるヤプーより後ろの光幕の陰で彼女の行動を見守っている五人の白人のほうをずっと気にしていた彼女は、ヤプーとのドイツ語の会話など聞かれたくなかったのだ。
麟一郎は驚いた。
――クララが日本語でしゃべった?!
だが「オ黙リ」という言葉つきの中に含まれた強い禁止の意味は、しゃべり出したい彼の気持を押えるに足りた。一つには、「クララの気持を害《そこ》ねないよう、何事も服従しよう」と、さっき決心していたとおりの打算でもあったが……何か引っかかるものがあった……そうだ、今しがた、一目彼女を見た時の、こちらを見ていた彼女の茶色の瞳《ひとみ》、薄ら笑いを浮べたような口元、その表情に、今までついぞ感じたことのない冷酷さがあったのだ。それが「オ黙リ」という高圧的な命令に通じる気がする。……しかし、それでもなお彼は彼女を救出者と信じた。藁《わら》をもつかみたい絶望感のなかで、ただ一つの心のささえである信念、それを捨てることができなかった。
――クララは俺《おれ》のことを怒っているのだ。昨日のことがあるから無理もないけど。……だが、最後には救ってくれる。俺の行為を懲《こ》らしめ、反省させてから赦してくれるのだ。……他の人の手前もあって、わざとああいう態度を……見せているのだろう?
台が高くなったうえに、クララが一歩近寄っているので、もう上目|遣《づか》いにも彼女の顔は見えず、豊かな胸の隆起だけが目にはいるだけだった。
その双のふくらみが台から突き出した彼の後頭部に軽く押しつけられた……彼女の両手が彼の首金具のほうに寄っていった。
――鍵《かぎ》を使ってはずしてくれるのか?!
急に幸福になった。もう解放され、抱擁され、そして彼女の乳房《ちぶさ》に顔をうずめんとするかのような気持さえ起した。……が、なかなか金具はゆるまない。金属の表面を摩擦する音だけがする。何か書いている気配だった。
カチンという物音に、胸おどらせた時、台は急速に下降し始めた。案に相違して、金具は元のままではないか。
――どうしたのだ? クララ! 解放してくれないのか?
読者にはおわかりであろう。クララは、間接電気焼筆をもって、金具――後でこれが首輪に変るのだ――の家畜名[#「家畜名」に傍点]の欄に Rin と書き、所有者名[#「所有者名」に傍点]の第一欄に Clara Cotvick と署名し、鑑札を錠で付属させ、教えられたとおりにやったのである。麟一郎は事情を知らぬから、勝手に糠喜《ぬかよろこ》びしたり、不思議がったりしてるにすぎなかった。
5|権利宣言の鞭《デクレアリング・ラッシュ》
台が下降する。突き出された頭部がクララのズボンに沿って下り、少し離して踏み開いた両足の赤い半長靴の間に、顔を床に当てんばかりにして止った。台は床の一部に変ったのだ。首筋を金具で押えられて、床上に平たくなっている旧愛人の姿を、クララは冷然と見おろした。ポケットから珍棒《ティンボウ》を取り出してピンと一メートルに伸ばし、同時に一歩すさって左足を引き、右足を前に出し、身をかがめ加減にして彼の首筋に右足を掛けた。高いとがった踵《かかと》の先を項《うなじ》に載せ、土踏まずで首金具を跨いで脊椎《せきつい》上端を靴先で踏みながら、大きく右手を振るって、背中を斜めにピシーッと一鞭入れた。そして教わったとおりの文句で叫んだ。
「[#ここからフォント太字]これ余の捕獲品なり。何人《なんぴと》か異議ありや?[#ここまでフォント太字]」
同時に足の下から、ムーッ、とこみあげるような呻《うめ》き声がして、麟一郎《りんいちろう》が五体をばたつかせ、その動きが靴底を経て伝わってきた。いかにも「生き物」を踏んでいるという感じである。彼は自由な両手で首筋の上をまさぐり、踏んでいる半長靴を捜し当てると、片手で踵をつかみ、片手で甲《こう》のほうをたたく。口がきけないので何かの意思表示らしかった。
「降参です。赦して下さい」といいたいような力ない合図だった。体の一個所しか拘束していないのに、この柔道の達人は、今やまったく無力化して彼女の靴の下に震え、彼女の鞭におびえて哀訴しているのだ。かつて感じたことのない恍惚《こうこつ》とした征服の快感がクララにわき起った。生物を支配する喜びに駆られた。相手を恋人と思って見ていた時には夢想さえできなかったことである。
瀬部麟一郎は正常な牲愛感覚の所有者だった。彼はクララをこよなく愛していたが、彼女の虐待を喜ぶマゾヒストではなかった。だから、全身の痛覚で彼女の鞭を味わうと共に、憤怒がわき起ったのもこの場合の彼としては当然だったろう。踏みつけられた時、彼は気が狂いそうな憤激を覚えた。無理もない。てっきり救いに来てくれたと信じた最愛の恋人が裏切ったのだから。「彼女、怒ってるな」とは感じていたが、まさか、彼女までが彼をヤプー扱いするとは思ってもいなかっただけに、心の傷つけられることも激しかった。
しかし、そういう精神的|苦悶《くもん》をしばしふっとばしたのが、鞭の激痛である。『イース』の俚諺《りげん》に、効果のあるものの例として「珍棒の初鞭《はつむち》」というくらいで、初めてこれをくったヤプーは、体が真二つに切り裂かれるように感じるといわれるのも誇張でない。珍棒は、元来が自分の肉体の一部だったものである。そこで、これが体に触れると、そこに含まれた苦痛素《ドロロゲン》が誘い水になって、打たれる肉体にも苦痛素を発生させる。これを珍棒の触媒効果[#「触媒効果」に傍点]と称し、これは他の鞭では得られない特長で、さてこそ、珍棒鞭打ちが土着ヤプーを恐れさせるのである。第一の鞭をくらった麟一郎は、理性も感情もないただの肉塊として反応せざるを得なかったのだ。
抗議しようにも、項《うなじ》の上のハイヒールが顔面を床に押えつけ、低い鼻もつぶれそうだし、口も開けない。もがいても首金具で拘束されているから、俎板の鰻が尻尾《しっぽ》を動かすようなものに過ぎない。踵を首の上から退かせようとして手でつかんだが、力のはいる姿勢ではなかったからだめである。
――畜生!
と切歯した時、ピシーッ、第二鞭、今度は背中の右側だ!
「[#ここからフォント太字]これ余の飼育畜なり。何人も異議なきや?[#ここまでフォント太字]」
凛《りん》とした声が響き渡った。
再び激痛が感情をふっ飛ばした。憤慨も何もない。ただ、救けてくれーッ≠ニ叫びたいばかりである。昨日、皮膚窯の中で焙《あぶ》られた時、何度この声なき叫びを発したことだろう。だが、あの時には、救助を求めるクララという相手があった。今、彼が、それからのがれたいと欲している鞭がその当のクララによって振るわれているとは、何という皮肉であろう。誰に向って救助を求めればいいのか? うめきもがきながら、麟一郎は反抗する気概を失っていった。
ピシーッ、第三鞭は左側に、
「[#ここからフォント太字]これ余の所有物なり。汝ら余が証人たりや?[#ここまでフォント太字]」
この時、光幕のこちら側にいつの間にか歩み入っていた五人が、口をそろえて、
「[#ここからフォント太字]余ら汝が所有権の証人とならん[#ここまでフォント太字]」
といったのを耳にしつつ、麟一郎は気絶してしまった。
第一鞭、第二鞭と、鞭に応じて足の下の肉体が筋肉を痙攣《けいれん》させるのを靴底で感じ取って嗜虐的な快感を楽しんでいたクララは、第三鞭とともにヤプーが身動きしなくなったので、靴にまつわりついた両手を蹴りのけつつ、そっと項《うなじ》から足を引いた。項の上にはハイヒールの先で押されたところが浅い穴に凹んでいた。それが元どおりになっていくのと同時に、背中に三条の鞭痕《むちあと》を生じ、みみずばれになって赤く浮き上ってきた。ちょうどN字形が背中に描かれたようであった。生体の反応であり、それが生きている証拠であった。
――あのきびしい肉体検査に耐え抜いた強健な体の持主を、たったの三鞭で失神させるとは!
クララは珍棒の威力に今さら驚かされたのだが、実は、三鞭は彼の頑健《がんけん》さを示す数字であって、たいていの新畜は一鞭で気絶し、かなり強くても二鞭で足りる。三鞭は最優秀さを示すものであって、いまだかつて、四鞭を必要とした新畜はないのだ。
登録係ジェーン・クレイが尋ねた。
「額には、今お描きになりますか?」
「| 紋 《クレスト》? そうね。IQが一四七で、LCが正《プラス》5だろ、ひょっとしたら、骨彫りにできるかも知れないから、今、肌焼きで描くのはやめとくわ。好きなときにこちらでするから」
ポーリンが横から代って返事をしてくれた。クララは、額紋[#「額紋」に傍点]と聞いて、昨日、円盤内で畜人犬ニューマの額にあるのを見て以後、しばしば見かけるジャンセン家の紋章を想起し、自分の紋、つまり、伯爵フォン・コトヴィッツ家の、盾《たて》と槍《やり》を握る鷲《わし》の模様の紋章を連想しながら、そっと|諮 問 器《レファランサー》に額紋《クレスト》の説明を求めた。
「:::::::畜人系動物《ヤップ・アニマル》の額に烙印《らくいん》される紋章です。貴族所有の家畜に限ります。もっとも、これを施すと否とは自由で、譲渡を予定するものには烙印をしません。読心家具は特定の人に専属しますから、紋の変ることのない、女性(女権制ゆえ、女性は結婚しても姓や家紋が変らない)の場合は骨彫りにします。これは額骨に形成層を彫るので、額の皮膚に手術して消しても、また、下からその紋が現われます。一生その紋以外の紋が許されなくなるのです。これ以外は普通、肌焼きです。これは皮膚を焼くだけですから、手術して除去できます。手術は、骨彫りは専門捜術を要しますが、肌焼きは素人でもできるためか、貴族の皆様は自分で額紋描きをなさる方が多いようで、電気焼筆による|畜 肌 焼 彩《ブランディング・タトゥ》技法への入門には好適のものであるといわれています……」
受話器《イヤホーン》に聞き入る彼女の前に登録係が立った。
「では、認証いたします」と前置きして声を張り上げると、「女王陛下の御名において、貴女を|TEVIN《テヴィン・》| 2 《ツー》| 4 《フォア》| 1 《ワン》| 2 《ツー》| 6 《シクス》| 7 《セブン》号の所有権者として公認し、貴女がそれを法律に従って(たとえば、土着ヤプーも未加工原ヤプーの一種として、「原畜人飼養令」によって、必ず首輪をすべきであるなど)飼育することを許可します」
いい終ると、登録係は語調を改め、
「失礼します」
と片膝ついた。
「ご苦労さん。じゃ引き取ってちょうだい」
クララが肩手礼で答えると、婦クレイは満足して退出して行った。
こうして、先に登録によって畜生[#「畜生」に傍点]にされた麟一郎は、ここに正式に、クララに飼育される家畜[#「家畜」に傍点]となったのである。
6蹴《け》られ踏まれ鞭《むち》打たれ……
土着《ネイティブ》ヤプーの表徴《しるし》たるN字を背に描かれ、気を失って横たわるTEVIN241267号。
「クララ、昨日、円盤の中でこのヤプーに気絶を回復させてもらったわね」とポーリンが、笑いながらいった。
「昨日のお返しに、妾があのやり方でやってみるわ」と、いきなり足を上げて、靴先《くつさき》で前に伏せたリンの横顔を蹴《け》った。
昨日のは平手打ちだったが、ポーリンの手がヤプーの頬《ほお》に当るのでは身分が違いすぎるから、靴で蹴ったのは当然のことであり、べつだん、ことさらな悪意をもって報復的にしたのではない。ポーリンとしては、同じような気絶の応急手当を好意からしてやっているつもりなのであった。なにしろ、黒奴ですら彼女の足蹴を受ければ終生の感激とする(第一一章5「緩解注射」参照》くらいだから、この足蹴の手当は賤《いや》しいヤプーにとって無二の恩恵に違いないのである。
頬を蹴られて、首だけが横倒しになり、リンの顔が見えた。目を閉じ、口を少しあけ、涎《よだれ》を垂らしただらしない顔だった。クララが、その広い額から額紋《クレスト》のことを連想し、自分の紋章がそこに烙印《らくいん》された有様をふと想像し、異様な昂奮《こうふん》を覚えた時、彼は身動きした。
意識の回復した時、蹴られた痛みがまだ麟一郎の頬に残っていた。さっきの鞭のあとだから、この足蹴もクララだと思ったのも無理もない。背中の焼けつくような疼痛《とうつう》に、また頬の痛みが加わった。思わずカッとなって、麟一郎はののしった。
「クララ、何てひどいことをするんだ、覚えてろ、僕は……」
いい終らないうらに、項《うなじ》にまた靴が掛って頭部を一転《ひところが》しさせ、たちまち顔面は床に押えられて、あとは言葉にもならない。
「オ黙リッテ、サッキイッタノヲ忘レタノ! 増長シテ!」
|流 暢《りゅうちょう》な日木語であった。その言葉つきから、柳眉《りゅうび》を逆立てた彼女の顔が想像できた。
リンがまたもやドイツ語でしゃべろうとするのを急いで踏みつけにしたクララは、グイと足に力を入れて押えつけたまま、かたわらのポーリンに向って、
「これにしゃべらせたくないんだけど……」
といった。何か猿轡《ギャッグ》にするものはないか≠ニいうほどのつもりだった。
「|舌の筒《シリンダー》を」
ポーリンは間髪を入れず黒奴に命令した。B2号が進み出てクララに一礼し、
「首枷《くびかせ》をはずしまして、すわらせましてから……」
というので、彼女は右足を退《の》けた。途端にまたヤプーがしゃべり出した。
「クララ、赦して下さい。昨日のことは悪かった。謝《あやま》ります。機嫌《きげん》を直して下さい……」
麟一郎は窮屈な首だけわずかに上げて――それでも、クララの下半身しか見えなかったが――哀願した。ドイツ語をこちらが使ったのが気にさわったのかと察したし、日木語を解するものとわかったので、日本語でしゃべってみた。
恋しさ、懐かしさ、それに先ほどの鞭撻《べんたつ》を受けて以来の憎らしさ、……様々な感情が胸の中に錯綜《さくそう》し、山ほどもいいたいことがある中で特に謝罪を選んだのは、今しがた苦痛と憤慨から、思わず彼女をののしって途端に靴で踏んづけられたからである。
――怒っては駄目だ。我慢してまず謝らねば。
と自分にいい聞かせ、必死に自制してのことだった。内心の憎悪を押えて、相手の気に入られることをいうような卑屈な行為は、麟一郎の過去において一度として取られたことはなかった。それをあえてせねばならなくなったのは、彼がかつて経験したことのない弱者の位置に追い落されていることを示すものである。クララの靴を首の上から退けることができなかった時から、彼の心理状態は新しい局面にはいったのだ。鞭打たれつつ鞭持つ手を舐めようとする犬の心理状態に比すべきものでもあろうか。彼は昨日までの男らしい彼ではなくなってきたのだ。
もっとも、麟一郎にはまだ事態の深刻さが理解されてはいなかった。クララの行動を、昨日の自分の暴行で怒っているために、イース人といっしょになって自分を虐待するのか、さもなくば、イース人中にあって、身の安全を保つため、わざと自分をヤプー扱いにしているのだろうか、とも思っていたのである。自分自身にヤプーとしての自覚を持たない麟一郎には、イース人はともあれ、クララだけは自分が本当の人間であることを知っていてくれるものと思っていたので、彼女が、今は、「リンは本当はヤプーなのだ」と信じているなどとは夢にも考えていなかったのである。
だが、早口にそれだけしゃべった時、ピシッと、また鞭が頬を横なぐりした。
「あッ」
と悲鳴を上げると、その開いた口に、黒奴が素速く鉛筆ほどの棒を突っ込んだ。もう何もいえない。クララの手から垂れ下がる鞭の先が顔の前で震えていた。オ黙リッテノニ、何度イッタラワカルノ!≠サういう無言の叱責《しっせき》をその鞭から聞かされる思いである。麟一郎は揺れる鞭先を恐怖の念で見つめているうち、馬はね、一度増長させたら癖馬になってしまうのよ。こちらのほうが強くて偉いんだということを、馬にのみ込ませるまでは徹底的に責めつけなくちゃ……≠ニいうきびしい意見を、つい昨日、タウヌス登山道でクララに聞かされたばかりなのを思い出した。
――クララ、まるで僕が馬であるみたいに責めるんだね。
ドイツ語で話されたくない自分の気持を――言葉にならない主人の意向をよく察する犬のように――見抜いて、さっそく家畜語《ヤプーン》を使った心根がいじらしく、これなら猿轡《さるぐつわ》なんか要らなかったんだ≠ニさえ思ったクララが、迷惑でもない彼の哀訴・嘆願をピシリと一鞭でやめさせたのはなぜだったか? 彼女にいわせれば、おそらく、いったん「オ黙リ」と命じた以上、家畜語《ヤプーン》でも何でも、口をきかせては躾にならない[#「躾にならない」に傍点]からで、家畜を増長させないためには、あの鞭は当然のことだと答えただろうし、確かにそれに違いはなかったが、もし、下意識顕出機《サブコンスキャナー》(subconscanner)にクララを掛けたとしたら、そういう表面的理由の下で、実は、さっき味わった鞭の喜び、支配の快感をもう一度味わうことをねらっていたものだということがわかるだろう。
麟一郎が変っていきつつあるのとは正反対に、クララも変貌を遂げつつあったのだ。彼は卑屈な家畜に、彼女は驕慢《きょうまん》な女主人に……。
黒奴は輪ゴム状のものを取り出し、麟一郎の両足首をそろえてこれをくぐらせた。金属ゴム製の緊縛輪《フェッタ・リング》である。もう一つを、両腕を胴体に付けさせた上から掛けた。そして、その二つの輪を背から足首まで別に一本の金属ゴム紐《ひも》で連結した後、首金具と床との接続部を解放した。
クララが今、鞭を振るってからほんの数十秒の早業《はやわざ》であった。
うつ伏していたヤプーの体は、突然、操《あやつ》り人形のようにぎごちなくせっかちな動きを示して、次の瞬間には、台上にキチンと正坐していた。足首の輪と腰の輪とを背後で結んだゴム紐の縮む力で、この姿勢を強要する。両膝をそろえてすわる日本風の正坐は、イースでは、|畜  人  坐《シッタイング・ア・ラ・ヤプー》りと呼ばれるが、この緊縛輪《フェッタ・リング》セットはヤプーに正しい坐り方[#「正しい坐り方」に傍点]を教えるのに愛用される訓練用具の一つであった。
正坐したヤプーの首には例の金具が首輪化してまとっていた。肌に密着すると同時に、クララが電気焼筆で外側に書いた字が内側まで浸透して、直接肌に書いたように烙印されるのだ。首輪の下の彼女の署名は、この先|一生涯《いっしょうがい》消えることはないのだ。
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第二二章 畜人洗礼儀式
1口唇締金具《リップ・ファスナー》
麟一郎《りんいちろう》は頸部《けいぶ》に激痛を覚えた。痛覚の末梢《まっしょう》神経の先端が一つ一つ焼きつぶされていた。
声を出そうとしても、先ほど突っ込まれた鉛筆くらいの棒が、もう竹筒ほどになって口を満開させ、筒の先が舌を吸い込んで、息をするのがやっとだった。これは「|舌の筒《シリンダー》」と俗称される道具である。舌去勢の時に使うもので、任意の寸法に切断し、切口を止血し、予後の治療を必要としない舌用手術具だった。正式には舌切断器《タング・カッター》と称ばれるが、舌人形の舌整形などにも使われることはもちろんである。
「さあ、好きなふうにお切りなさいな」
とポーリンがいう。クララは驚いて、
「舌を切っちゃうの?」
「だって、口をきかせたくないんでしょう?」
「ええ、でも、しばらくの間でいいの。妾《あたし》、猿轡《ギャッグ》のつもりだったのよ」
「そうなの。じゃ舌袋《バッグ》か、留金《クラスプ》か、チャックか……どれがいいかしらね」
「そりゃチャックだね」とセシルが口を添える。
「そうね、妾も賛成。チャックがいちばん使いやすいわ」とドリスも同調した。
「クララ、そうする?」
ポーリンが彼女に尋ねた。もともと、彼女に任せたクララには異論のありようもなかった。
皆がチャックというのは、先にイース女性たちの舌人形使用風俗について述べた時(第五章3「愛の誓い」参照)に触れた口唇締金具《リップ・ファスナー》のことである。彼女らのうちで、貴婦人たちは舌人形は|両 唇《りょうくちびる》を閉鎖されたのを買い、平民女性は口唇締金具付ので我慢する。
これは引手の鎖錠《さじょう》に|指 紋 錠《フィンガー・ロック》を併用するのが普通であった。ある人の、ある指の指紋を合鍵《あいかぎ》にし、しかも蝋《ろう》等で型取った代用物ではだめで、あくまで生きたその指で引手を持たないかぎり引手が動かないようになっている。絶対に他人には開けない。ヤプー自身にもどうにもできない。だから猿轡の用を兼ねる。この口唇締金具《リップ・ファスナー》が、今麟一郎の口に装着されるのだ。
チャックは、締めようとする開口の両側で基底部を縫いつけなければならないが、口唇締金具の場合は、縫う代りに、唇の裏面に生体糊で接着するのである。黒奴は、作業しやすいように台を適当な高さに上げ、口を無理に開かせられて悪鬼さながらのヤプーの両唇をめくるのである。上唇・下唇と歯齦《はぐき》の間に、セメダイン様の糊《のり》を塗りつけ、手早く締金具の上片と下片をそのおのおのに挿入《そうにゅう》する。その作業はいかにも手慣れたものであった。
その間にクララは、指紋錠の鍵になる引手に右手の人差指を当てて指紋を吸収させた。一円アルミを小判形にした程度の小片であった。指を引くと渦状《うずじょう》の紋がまるで彫り込んだように残った。黒奴はそれをうやうやしく受け取ると、ヤプーの右唇の端で、上下両側の歯金を合わせつつはめ込んだ。
「どうぞ、お試《ため》しを」
ヤプーの口から詰物を取って黒奴が一礼する。クララは引手を持って左に引いた。
ジュッ、
とチャックの締る音がして、あとには口をむずと結んだままの無念そうなヤプーの顔が残った。引手が左口元から立っているのを両唇の間の内側へ折れ込ませると、ただ口を閉じているだけのように見えたが、少し開いている両唇の間からは、奥に、本当の歯の代りに金属の二列の細い歯が並んでいるのが見えた。
ポーリンは、ロバートの貞操帯の錠も指紋錠になっていることを頭の片隅《かたすみ》で思い出しながら、クララに対して、ザッと指紋錠の説明をした。
「さあ、これでもう、貴女《あなた》がこの引手を引いてやらないかぎり口をきくことはないわ」
「|月 の 羊 羹《メンストリアル・スイートゼリー》や|垢  飴《スメグマ・ドロップ》をいっぱい入れた部屋に、指紋錠チャックを掛けたままでヤプーを入れておくととてもおもしろいわよ」とドリスが、嗜虐的《しぎゃくてき》な目を輝かせながら口を入れた。「喉《のど》から手が出るほど飢えていて、ご馳走《ちそう》が山とありながら一舐《ひとな》めすることもできない、狂い回るわ。それを遠写画面《テレビ・スクリーン》で見物して、発狂するまで何時間かかるか、何日かかるかって、賭《か》けるの」
「もっとおもしろいのがあるんですよ、嬢《ミス》クララ。餓鬼用口唇締金具《タンタライジング・リップ・ファスナー》といいましてね」と、セシルも負けぬ気でいい出した。「タンタロスが池の中につけられていながら、水を飲もうとすると水が逃げて一滴も飲めなかったって伝説がありますね。チャックの引手を飲食物の容器の固有放射波に連動しときまして、飲み食いしようとすると、口に近づいた瞬間、自動的に引手が締まる、口から遠ざけるとまた開く仕掛になってるんです。……」
「残酷ね」
「……つまみ食いをした黒奴の刑罰は|餓 死 刑《スターベイション》ですが、もし、食べ物が人間(白人のこと)のものだったら、ただの餓死刑では軽すぎるから、このチャックをつけて餓鬼道地獄《ガキドー・ヘル》(ギャッグドヘル gagged hell 「猿轡された地獄」)に追い込むのです。……」
「地獄《ヘル》……」
――そんなものが本当にあるのか?
クララはびっくりした。読者諸君には、いずれクララが現場見物する日まで好奇心を押えていただくほかはないが、仏典にいわゆる「八大地獄」、ないし、ダンテの『神曲』に描かれた「九層の地獄」が現実に存在すること、むしろ、イースの黒奴刑務所の有様が、航時機探検家《タイム・トラベラー》たちを通じて前史古代世界に伝えられたものが地獄観念の母胎となったと推定されることだけは、ここでいっておく必要があろう。
金属ゴム輪に身を縛《いまし》められ、両唇をチャックで閉ざされ、行動も発言も共に封ぜられた麟一郎は、ようやく首輪の内側の皮膚の焦烙《しょうらく》がやんで、落ち着いてその会話を耳にすることができたが、聞くほどに、イース人の底知れない残酷さに胆を冷やした。
それにクララの何と冷淡なこと! 今、チャックの引手を引いて彼の口を閉じた時の平然とした態度は!
――これが昨日までのあのクララだろうか?
クララへの愛情がなくなったのではない。しかし、彼を踏んづけ、彼の背に鞭を振るい、彼の唇を締め上げたクララへの憎悪を如何ともすることはできなかった。
2|光  傘《ヘイロ・パラソル》
「|尿 瓶《ビス・ポット》はまだ? 遅いのね」
とポーリンが先を急ぐらしくいった。
「もうすぐでしょう」
とウィリアムが答えて、黒奴に、
「準備はよいのか? 檻仲間《ペン・ギャング》は?」
「は、二匹待機させてございます」
「そろそろパラソルを飛ばせ」
「畏《かしこ》まりました」
B2号は光幕の向う、部屋《へや》の隅《すみ》へ消えた。
さっきまで檻《おり》の床だった台の上に、否応《いやおう》なしに正坐させられていた麟一郎《りんいちろう》は囲りの白人たちを見回した。台はいつか再び下降して部屋の床にもどり、自分は彼らの足元にすわっている格好だった。背中と首筋がまだヒリヒリ痛む。
――クララとポーリンと、今朝来たドリスと、昨日クララの部屋で見かけた青年、ウィリアム――それに昨夜|俺《おれ》をだまして去勢部屋にはいらせたセシルという女みたいな奴《やつ》。もう一人いる可愛い子は、いったい男の子か? おや、後ろにいるのは何物か? あっ!
いくらもがいても甲斐《かい》はなし、頼みに思ったクララさえが――本気なのか、お芝居なのか――自分をヤプー扱いするほうに回っている。少しでも、自分の置かれた境遇を理解して事に善処するほうがよい、と麟一郎は決心して目と耳と全神経を働かせたが、クララのように|諮 問 器《レファランサー》で系統的に知識を整理できず、断片的な体験から帰納するのみだからどうしても理解は不充分だった。もっとも、大学時代にも推論の精巧さで鳴らした頭脳を持ち、円盤内のポーリンの話や、今朝のドリスとの対話等を材料にして、「イース畜人制《ヤプー・フッド》」の概略をつかんではいた。しかし、それは人間を、おそらくは日本人を家畜化し、高度の科学力で生きた道具に変形して使用している文明≠ニいう観念的な理解に過ぎず、円盤内で見た畜人犬《ヤップ・ドッグ》と今朝の河童《カッパ》以外は、矮人《ピグミー》も|生 体 家 具《リビング・ファニチュア》も知らないのだから、具体的に事物一つ一つに接すればもっともっと驚かざるを得なかったろう。
美少年の後方の手提袋《ハンド・バッグ》ヤプーは、幸か不幸か、外見上の変形度が少なかったにもかかわらず、麟一郎は後ろ手錠で、しかも鎖につながれて引かれている素裸の男の姿に明日の自分を見て慄然《りつぜん》としたのだが、この時さらに驚くべき光景を目にした。
六人の白人たちの頭上に後光がさし始めたのだ。ヤプーや黒奴は元のとおりである。白人たちだけである。それもただ光るのではない。天国の神や天使の絵に必ず描かれる頭の上を取り巻く光輪《ニンバス》、まさにその光輪が彼らの頭上にかかったのだ。今朝の夢の中の光景と同じではないか。
これは|光  傘《ヘイロ・パラソル》(halo-parasol)という防身装具で、空中矮人《エアロ・ピグミー》が操縦するヘリコプターが頭の五センチほど上に停止しているのである。消音|回転翼《プロペラ》の両端が発光して光輪と見える。その光輪の外縁から垂直に床まで、空気幕《エアカーテン》ができていて、この光傘の下に立つと、一見わからないが実は外部の空気とは全然|遮断《しゃだん》された空気の中にいることになる。
光傘はどんな役に立つか。まず自動|天蓋《てんがい》として雨傘《あまがさ》・日|傘《*》になる。いちいち手で差さなくても、矮人が常に頭上を去らないように操縦しているから、雨中・炎天中を楽々と歩き回れる。さらに、空気幕の効用で、酷暑の戸外でも常に回軟翼から送られる冷たい空気の中にいることができる。冬はその逆だった。つまり、昔は建物についてのみ観念し得た冷暖房というものが、現在では服装化して一人一人の個人の肉体について可能になったのだ。風も恐れる必要がない。こうした便利な、万能自動装具なのであっ|た《**》。
[#ここから2字下げ]
* イース科学にとって、遊星の大気調節は何でもない。だから、気候・天候も当然支配できるが、一種の風流として、四季の変化や晴雨風雪の多様性が存置されているのである。(第六章1「着替え」参照)
** 前史時代の天国の絵に描かれた光輪《ニンバス》が、航時機で旅行したイース住民の光傘《ヘイロ》を誤認したものであることは、ここに断わるまでもあるまい。
[#ここで字下げ終わり]
では、今この室内でなぜに|光 傘《ヘイロ・パラソル》をさすのか? 洗礼の時発散される尿の臭いを避けるためである。黒奴酒《ネグタル》を喜ぶ黒奴にとっては、尿臭は酒の芳香そのものであるのだが、白人にとっては排泄《はいせつ》物の臭いでしかない。ところが光傘の下にいれば、室内の空気から隔離されるからその臭いをかがずに済むのだ。
クララは、先に説明を受けていたからべつに驚きもしなかったが、麟一郎には理解できなかった。クララの頭上を仰いで宗教的な畏敬の念を覚えたのも、この時の彼の身になれば無理もなかった。二〇世紀の人知を超越した文明を説明なしで理解できるはずもないが、人間は理解できないものには原始的な宗教的畏怖を起すものだから。この場合でも、いったんは光学現象と見たのだが、では黒人とヤプーにはなぜ同じ現象が起らないのか? 自分の知らないイース白人特有の体質と見るには、クララの頭上にもかかってるのがなお不可解だった。
――クララは、神様の仲間入りをしたのか? ここは天国か? まさか! だが、そういえば今日、彼女が自由に日本語を使うのも不思議ではある。昨日までのクララとは別人なんだろうか?
仮借なく鞭を振るったことでクララに対して憎悪を覚えてきていた彼は、ここに至って彼女を畏《おそ》れ始めたのだ。自分の理解しがたい力の存在を知って、既にイース人全体に対していだいていた驚異と畏怖とが、イース人の仲間入りをしたクララに対しても感じられてきたのである。今までは、彼女を自分のほうに近い存在として、そのゆえに、愛したり憎んだりしていたのだが、今や、彼女を自分のほうよりイース人の側に立つ人として見る気持を起したのだ。
犬が飼主の鞭を受けた時、初めは憤怒し憎悪《ぞうお》するだろう。しかし、どうしてもかなわない相手と知り、理解しがたい力の所有者と知れば、その憎悪は畏怖に代る。この畏怖があるからこそ、その後の飼主への愛情も許されるのだ。家畜意識の基礎は実に飼主への畏怖にあった。麟一郎は、今こそ、家畜化への実質的な第一歩を踏み出したといえよう。だが、まだまだこれもほんの第一歩にすぎなかった。
3賭《かけ》と討論
そんな麟一郎《りんいちろう》の思惑にはいっこう無関心に、白き神々たちは、それぞれの後光を輝かしながら語り合っていた。
「姉さん、これLC(慕主性係数)が高いから、じき|堅 信 礼《コンファメーション》できるわね」とドリスがいった。
「そうね。早いわ、きっと」とポーリンが応じる。
「三日じゃどうかしら?」
「そりゃ、無理よ。五日はかかるわ、どんなに早くたって」
「賭ける?」
「いいわよ」
「負けたほうの球体《スフィア》を一つ、勝ったほうが自由に処分できることにしてどう?」
「よし、挑戦に応じるわ」
賭事《かけごと》はアングロ・サクソンの伝統で、イース貴族の必要的娯楽なのだ。(第九章3「矮人種の歴史と現状」参照)
ポーリンはクララのほうを向いて、笑いながら、
「今聞いてたでしょ?」
「ええ、でも、わかんなかったわ」
「洗礼と違って堅信礼のほうは、ヤプーが心から主人になついているとわかってから、聖体拝受を兼ねてやるってこと、さっきいったわね。祈祷《きとう》[#表示不能に付き置換え]文と賛美歌を少なくとも三編は覚えてなければだめなの。それも真心からのものか口先だけかを嘘発見器《うそはっけんき》と下意識顕出器で検査する。これに合格するのに、普通早くても十日や二週間はかかるもんだけど、このヤプーは、とても貴女《あなた》を慕ってる。その数値が高いからずっと早く堅信礼できると思うの」
「そうかしら、さっきだいぶ呪《のろ》ったり恨んだりしてたから……」
「ううん、あんなのは何でもないわ、あとでまた謝《あやま》ってたじゃない。普通よりおとなしいくらいだわ。ただ、三日じゃどうもね。ドリスは三日で合格するというし、妾《あたし》は五日以上、賭よ。勝ったらおもしろいものを見せてあげるわ。ドリスの球体《スフィア》よ」
「四次元の|小 宇 宙《マイクロ・コスモス》よ」
その時、ドリスが肩を叩いた。
「クララ、お願いがあるの。今日一日ヤプーを妾に任してくれなくって?……」
「貴女が訓練するの?」とクララはいぶかしんだ。
「ドリス、貴女が直接訓練するんじゃ賭にならないわ」とポーリンが抗議する。
「そうじゃないの」、ドリスは説明した。「妾が預かるわけじゃなくて、ただ、妾のお願いするようなやり方でヤプーを訓練してほしいのよ」
「どんなふうに?」
「あとで準備してから説明するけど、楽なこと。貴女の今日の行動の差しつかえにはちっともならないわ」
「そんな楽なことで訓練になるの?」
「ううん、楽ってのは貴女のことよ。奴《やつ》にとっては猛訓練なの。十時間くらいかかるかしら。それさえすれば賭に勝てるつもりよ」
「どうしようかな。あまり猛訓練じゃ可哀そうだわ」
「でも訓練を受けてこそ家畜化するんだから、ヤプーにとっては向上なのよ。可哀そうがる必要ないわ」
「逆さ吊りなんかお断わりよ。妾あんなの嫌《いや》……」
「そんなんじゃないの」
「とにかく、妾の訓練する楽しみ[#「訓練する楽しみ」に傍点]は減るわけね」とクララはまだ難色を示したが、
「訓練自体は貴女がやるのよ。……もしきいてもらえるなら、さっきの取引の話の時取り消したタロも加えていいわ。進呈するわ」と申し出られて、
「あの古石器時代人狩猟犬《ネアンデルタール・ハウンド》を……」と、だいぶクララの心が動いた。……くれてしまうわけでないのなら……。
「じゃ、妾の手元におけるのね」とクララは念を押す。
「もちろんよ。貴女への信仰の問題ですもの。貴女のそばからは離さない。……ただ訓練方法を妾の考えどおりに試みさせてほしいの」
――どうせ、自分自身に訓練法について意見も知識もあるじゃなし、ここは一番、ドリスの申出に応じてみよう、とクララの心は決った。
「じゃ、お任せするわ。あの犬がほしいから。タロって名の犬、妾も飼ってたのよ」
と笑って彼女はいった。ドリスは、気負い込んで、
「さあ、姉さん、あなたの|球体の被造物《スファイア・クリーチャーズ》に別れを告げておくといいわ」
「貴女こそ注意が肝心」
賭の当事者は、どちらも勝ったようなことをいい合った。球体《スファイア》とか|小 宇 宙《マイクロ・コスモス》とかいうのは何だろ|う《*》? ドリスはどんな訓練を考えているのだろう? クララにはまったく珍しいことずくめであった。
[#ここから2字下げ]
* 球体は、正しくは四次元球体(four dimensional sphere)と称ばれ、知覚し得ず、この三次元世界とは大きさの比較もできないが、その一つ一つに何百万人もの住民が居住している。ただ、それぞれ歪曲した空間内に閉鎖されており、イースの貴族たちは四次元科学の成果から、次元念波鍵を利用して自由にここに出入りしうるので、この閉鎖された小宇宙の住民たちに対して全能の女神として君臨しうるのである。一つの球体には一つの念波鍵しか作れないから、唯一の支配者となりうる。ありていにいえば、球体内の住民は、彼女らイース貴族の生きた玩具なのだ。彼女らは、住民に次元的に干渉しうるし、造物主そのものとして振る舞うことができる。しかも、大貴族となると、こうした球体を幾つも持っている。その専制君主ぶりは、いずれ後章で紹介されよう。
[#ここで字下げ終わり]
耳傾けていた麟一郎にも、読者諸君と同様それはわからない。わかるのは、クララが犬――昨日見たような人犬《ひといぬ》だろう――欲しさに自分の訓練をドリスに任せたという確かなる事実だけであった。
――もう俺《おれ》のことを、あんな犬なみにしか考えていないんだ。虐待はお芝居ではない。本気なのか?
麟一郎の悲しみをよそにクララは指輪のことを思い出し、ポケットから取り出して、「これね、リンにたたき返してやるつもりだったけど、あれを見てね」とマック少年の背後の手提袋ヤプーの下腹部を指さしながら、「リンのあすこに植えつけてやろうかと思うの」と、勝手なことをいいだした。
「ふーん、どれどれ〈[#ここからフォント太字]永久《とわ》に汝《なれ》の所有《もの》なる者[#ここまでフォント太字]〉、いい文句ね、貴女への関係がよくわかるじゃない。それを肉体の一部にするのは妙案だわ」
ドリスは、賭についてのクララの協力がうれしかったのか、お世辞じみたことをいった。クララは調子づいて、
「妾の与《や》った指輪ね、〈[#ここからフォント太字]クララからリンへ[#ここまでフォント太字]〉って彫ってあるのよ。それを引鎖の先の茄子《なす》鐶《かん》にしたいの。細工させられるわね?」
「おやすいご用よ。その文句も、貴女とヤプーをつなぐ引鎖にふさわしいんじゃない」、ドリスは気楽にそんなことをいった。
「さっき、この指輪で自分を導いてくれ、なんていったでしょう。それで引鎖にしようと思いついたの。文字どおり導くわけだから」
麟一郎はやっと、クララに自分への愛情が片鱗《へんりん》さえ残っていないことを悟り、悲痛の思いに満たされた。だが、全身を拘束され、唇は閉じられ、彼のほうからは何をすることもいうこともできない。
B2号が近づき、麟一郎の左手の薬指から指輪を抜いてクララのところに持っていった。
――ああ、今朝の夢のあと、指輪を形見と信じて、死んだと思った君に祈ったあの時のほうがまだしも幸福《しあわせ》だった……。
背後から子供の声が聞える。あの美少年だろう。
「鞭で字を描くのっておもしろいですね」
――何のことだ?
「そうかい、僕はそれほどでもない。毎日描いてはいるがね」と、声はセシルらしかった。「夕食前に、ここの原畜舎におりて(第一四章2「特別檻」参照)、六匹並べてね。辞書にある六字|綴《つづり》の単語を一つずつ描いていくのを日課にしてるんだ……」
「そりゃまた、根気のいい」とはずんだ声が返る。
「べつに字を描くのがおもしろいからじゃなく、鞭を空振《からぶ》りするのが詰らんからヤプーの背中を利用してるだけさ。目的は全身美容《ボディ・ビル》なんだ、それだけさ」
――鞭で背中に字を描く話なのだ。さっきのあの殺人的な三鞭で、背中に……あッ、Nの字形になっているわけだ……。
「洗礼だ、堅信礼だって、光傘《パラソル》をかぶらされるたびに思うんですけどね、いったいなぜ、手間をかけてまでそんなことするんでしょう。肉便器《セッチン》にでもやれば黒奴のお酒になるものを、ヤプーにやるなんてもったいない気がするんですけどね」
「それはね、マック郎《くん》」、セシルの声は自信にあふれていた。「土着ヤプーが人間意識をもって育ってきた猿《エイプ》だからだよ、意識の点で黒奴に近い点があるのさ。黒奴を半人間にするために黒奴酒が使われるようになったのと同じさ。古くからの儀式だよ」
「実際に効果があるんですか?」
「うん、古い実験報告があるよ。ある動物心理学者が、二匹の双生児ヤプーの一方は、洗礼・堅信・聖体と普通に信仰の道にはいらせ、他方はそれをやらずに鞭だけで訓練した。結果は、前者の成績が段違いにいいんだ。そういう実験を数十回やったうえで、結論として、古来の儀式は実際的効果あり、といっているね」
家畜文化史の専門家だけあって、明快な説明だったが少年はまだ懐疑的だった。
「でも、その実験は、訓練の時にヤプーに白神信仰《アルビニズム》を持たせるのが損か得かの問題でしょう。私の疑問にしているのはそうじゃなく、もちろん、|白  神《ホワイト・ディティ》への信仰は持たせるとして、そのために[#「そのために」に傍点]私たちの体から出るものを使う必要があるのか、ということなんですよ、もったいない気がするんです。現に、土着ヤプー以外のものは、べつにそんなものなしでも私たちを崇拝してるでしょう。だからって奴らの礼拝はべつに不真面目なものじゃありませんからね」
「しかし……」
「少々、土着ヤプーを甘やかし過ぎないかな、黒奴用の飲食物をやるなんて!」
少年に似合わず、鋭い議論だった。
「しかし、こういうことがあるよ」とセシルが盛り返した。「前史時代の人が旧犬《いぬ》を飼う時にはね、まず自分の唾《つば》を舐めさせたそうだ。ね、それと同じさ……」
「でも、旧犬は嗅覚《きゅうかく》がヤプーより鋭いでしょう。動物園《ズー》にそう説明文がありますよ。だから、旧犬の場合は主人の匂《にお》いを覚えさせる≠チて意味があったわけです。今は、そのためには垢飴《ドロップ》を使うでしょう」(第一六章5「赤クリーム馴致」参照)
「チャールズ、やっぱり意識の問題だよ」
今度は別の声がした。ウィリアム・ドレイパアらしいと麟一郎は聞いた。「ただの洗礼では我々と同じになる、黒奴以上になる。|尿 洗 礼《ユーリナリ・パプティズム》だからこそ人間意識を洗い流せるのさ。下杯《ビス・カップ》を飲ませるからこそただの水では溶けない内心の不純な(一次形成の謂《いわれ》だ)自尊心がすっかり溶けてしまうのさ。他のヤプーには我々のものは初めから神聖だ。しかしこのヤプーにとっては、クララの尿は今はまだ[#「今はまだ」に傍点]べつに神聖なものじゃない。だからこそ自尊心を溶かす力があるのさ……」
麟一郎は耳を幾度も疑った。下杯《ビス・カップ》という語は、今朝の夢での牧師の言葉を思い出させた。
――洗礼とか堅信とかいってるのは、クララの小便を使うんだ。なんということだ!
彼は屈辱に心臓の破裂せんばかりの思いがした。いくら最愛の女性のものとはいえ、それを頭からぶっかけられるとは!
――クララ、あまりひどいじゃないか。何もそうまで俺を|凌 辱《りょうじゅく》しなくっても……昨日の僕の乱暴は悪かった、君を殺そうとした、しかしあれはつい気まぐれな発作だった。今のこの茶番のように入念に仕組んだ復讐《ふくしゅう》は、あまりにも残酷すぎる!
口がきけるなら、そう訴えたかった。だが厳然として立つクララの頭上を仰いで、周囲が輝いている神々しさを見ると、麟一郎は茶番[#「茶番」に傍点]・復讐[#「復讐」に傍点]といい切る気持もぐらつき、断崖《だんがい》に足を踏みはずして、深い谷底へ落ちてでもゆくような不安と絶望に襲われてくるのだった。
この時、神々の私語がぴたりと止んだ。聖水瓶が到着したらしい。
4|聖 尿 灌 頂《ユーリナリ・パプテイズム》
径六メートルぐらいの円周に沿って立ちめぐらされた輝く壁面中、中央にすわる麟一郎《りんいちろう》の正面の部分が破れて異様な一行が現われた。
先頭の小男はヤプーだが、頭の上に変り型の帽子のような|聖 水 瓶《ホーリー・ユーア》を載せていた。どう固定したのか、べつに手でささえてもいなかった。形は尿瓶《しびん》と同じだ――いや尿瓶そのものなのだ。ガラス様の物質製で、中に半分くらい黄金色の液体がはいっているのが透けて見えた。広口をビール・ジョッキふうの自在蓋《じざいぶた》でふたしてあったのは、その液体の臭いの発散を避けるためであろう。このヤプーは聖水瓶専門の|運 搬 畜《ヤップ・ポーター》であった。
次いで、読者にもおなじみのクララの従者F1号が現われた。彼は重要使命を帯びて緊張していた。その左右には三十から四十くらいの年輩の原《ロー》ヤプー――全裸で首輪をし、額紋はない――が従っていた。
人間が教会で洗礼を受ける時には代父母[#「代父母」に傍点]に列席してもらうが、土着ヤプーの洗礼には――雌のヤプーを立てるのに無理があるので――白神信仰《アルビニズム》の道の先達たるべき雄ヤプー二匹を代父兄[#「代父兄」に傍点]として列席させるのである。この二匹は、昨夜麟一郎のはいった八号|檻《おり》の檻仲間《ペン・ギャング》から選ばれてきた優秀なヤプーたちであった。F1号は人間の洗礼における牧師、ないし司祭に当り、洗礼を施す役である。
彼らは麟一郎のすぐそばまで来ると、聖水瓶運搬畜《ユーリー・ポーター》は、両膝《りょうひざ》ついて畜人すわりをし、頭上の瓶の取手がちょうどFl号に握りやすい高さに位置した。
代父兄の二匹は麟一郎の両側にすわり、正面に立つ女神クララに向ってY字を切り(クリスチャンが十字を切るのと似て、右手の指で胸にY字を描くのである)、床に平伏して拝み、また立って拝み、九拝礼を始めた。
権利宣言に終る畜籍登録の手続きは、イース社会の構成員の一人が他の人々に対する自分の所有権を確立するためのものであって、いわば対外的儀式である。この席にあるクララ以外の五人は、イース社会を代表するものとしてクララの宣言を聞き、公に証人となるのである。
これに反して、畜人洗礼その他の信仰上の手続きは、貴族が自己の所有畜に対して神として君臨するための手段であって、いわば一家の私事であり対内的儀式である。だから、他の五人も、権利宣言の時と立場が変り、単なる傍観者として見物しているに過ぎない。クララだけがこの場面の主宰者である。権利宣言では、一社会人として他の人間との関係を処理した彼女は、今度は女神としてヤプーどもに臨み、その信仰の対象となるのだ。近時に至り、イース貴族界に確立した風俗であった。
子供の時からヤプーたちの礼拝を受けて育って来ているイース貴族にとっては、この二つの役割を演じ分けることは別に何の苦もない。しかし、人間意識だけで育って来たクララにとっては、家畜とはいえ人間の形態を具備した連中から礼拝されることは、晴れがましくくすぐったかった。昨日決闘で倒れた矮人《ピグミー》は切腹の末期に彼女を「|白皙の女神《ホワイト・ゴッテス》」と呼んだが、今彼女を拝んでいるのは、あんな人形みたいな小人《こびと》ではない。外見は人間と同じ立派な原ヤプーなのだ。生きながら神となる[#「生きながら神となる」に傍点]全能感は昨日に幾倍した。
しかし、てれ[#「てれ」に傍点]ながらも、まるで学生演劇の舞台で女王役を演ずる時のように、落ち着いて女神になり切ることができたのは、相手が本当の人間ではない[#「本当の人間ではない」に傍点]という安心感が心裏に行動の支えとなっていたからだった。女神といってもヤプーどもの女神[#「ヤプーどもの女神」に傍点]である。そこには演劇に通ずる非現実感があった。――にもかかわらず、それは決してお芝居[#「お芝居」に傍点]ではなかった。彼女の前には二匹のヤプーが本気で[#「本気で」に傍点]彼女を拝んでいるのだった。このように彼女を礼拝し、信仰する輩《やから》がまだ幾百・幾千と続くはずだった。今後、人間と神との二重生活を、好むと好まざるとにかかわらず送らねばならないクララなのである。
二十時間前には馬の轡《くつわ》を並べてタウヌス山の山路を登っていたドイツ生れの女と日本生れの男、空飛ぶ円盤の墜落に遭遇さえせねば、幸福な結婚生活に終始したであろう相愛婚約の二人が、今は、一人は人間意識を捨てて家畜意識を持つことを強制され、一人は人間意識の外に女神意識を芽生えさせられ、神と畜生とになって向い合っているのだっ|た《*》。
[#ここから2字下げ]
* わずかな時間の経過に比し、あまりにも大きな変化であると感じられる読者もあろうかと思う。確かに、二〇世紀球面でこれだけの心理的変化が無理なく生じるには、少なくとも一ヵ年は要するであろう。それが、イースでは一日で足りた、ということは、クララのソーマ服用の功徳(第一〇章4「切腹演戯」、および第二〇章3「クララの心理」参照)もあるにせよ、根本には、この世界の時間密度の高さがある。イースの一日は心理的には二〇世紀世界の一年に当るのだ。「浦島(これは、南海離宮のプリンス・オットーを訪れたウラジミール青年のことだ)伝説」を想起されたい。
[#ここで字下げ終わり]
黒奴F1号は、最敬礼を終ると、右手に聖水瓶の取手を握った。そのまま、瓶をヤプーの頭上に持って行き、傾けつつ唱えた。
「[#ここからフォント太字]母と子と聖霊の御名により|て《*》聖水もて汝を洗う[#ここまでフォント太字]」
[#ここから2字下げ]
* ここで母[#「母」に傍点]といわれるのは、女神中の女神である大英宇宙帝国の女王陛下であり、子[#「子」に傍点]というのは、当該の貴族――平民にはこういう神様生活は許されていない――、この場合ならクララその人をさす。聖霊[#「聖霊」に傍点]というのは、|畜 人 神 学 上《ヤプーナル・シオロジー》ではいろいろに論ぜられるが、イース社会の構成原理とか畜人制度の象徴化とかというふうに考えてよいであろう。これが白神崇拝教《アルビニズム》の三位一体《トリニティ》なのである。
[#ここで字下げ終わり]
自在蓋が少し開き、光幕の輝きを反映してキラキラ光りながら黄金色の液が彼の頭頂に注がれた。丸一日以上くしけずらぬぼうぼうの髪を濡《ぬ》らすと、額から顔面に下る。胸から腹へとしたたってゆく。どういう物質なのか。軽金属ながら液体を吸い取るらしく床にはほとんどたまらないが、瓶を半ば傾けただけで、ヤプーの全身は肌一面に濡れ光った。
麟一郎は額から伝い下る液から身を守るために目を閉じた。液は体内から出たばかりのように生温かく、また。新鮮な尿に特有の、豆を煮たような臭いを帯びていた。
と、クララの声が聞えてきた。
「[#ここからフォント太字]リンよ。|TEVIN241267《テヴィン・ツーフォアワンツーシクスセブン》号よ。我、汝の畜生天《ヤプーダム》|に《*》おける新しき生を祝福す。……[#ここまでフォント太字]」
目を開くと、光輪の下で彼女の| 唇 《くちびる》が動いている。女神様のご託宜だ。
「[#ここからフォント太字]我を信ぜよ。さらば幸福《しあわせ》あらん[#ここまでフォント太字]」
「ヤーメン」
二匹の代父兄が唱えた。
[#ここから2字下げ]
* 地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅《あしゅら》・天上、この六道|輪廻《りんね》の思想からいえば、畜生天[#「畜生天」に傍点]というのは妙に聞えるだろうが、土着ヤプーにとっては、イースの|畜 籍《ヤプーダム》にはいることは、昇天すなわち極楽往生と考えられており、ただそれがイース人から見れば畜生《ヤプー》の増加に過ぎないという二重性格があるのである。だから、結局畜生天への生れ変り[#「畜生天への生れ変り」に傍点]と表現するしかない。天上界《イース》の畜生《ヤプー》たるは下界(ヤプン諸島)の(似而非)人間たるにまさるのだ。
[#ここで字下げ終わり]
健全な常識人だった瀬部麟一郎なる人物を考えると、まったく不思議なことだが、こういう状況下に置かれたら誰でもそうなるのかも知れない。とにかく、全身にクララの尿を浴び、体は濡れ、鼻にその臭いを嗅《か》ぎ、目には後光を放つ彼女の顔を見ながら、このクララの言葉を聞くと、彼は、生れて初めての異様な感情に襲われた。
法悦と呼ぶにはまだ遠かったが、宗教的|帰依《きえ》の感情だった。帰依の対象たる絶対者はクララだった。今まで、彼の彼女に対する愛情は、男の女に対する性愛ばかりだったのだが、そこに新たに人の神に対する宗教的愛がはいってきたのである。
理性は頑強《がんきょう》に抵抗していた、人間が神であるはずはないのだと。しかし、彼の横に二人の黄色人種が後光の射《さ》しているクララを礼拝していることは事実だった。さらに、クララの尿が聖水として自分の頭に注がれていることも事実だった、断じてお芝居ではなかった。
――ヤプーは白人を神としているのだ。
その認識だけは否定できなかった。そして彼自身の心中にも帰依の感情を生じつつあることを、理性に恥じながらもどうすることもできなかった。
クララの声を聞くまでの、満腔《まんこう》の恨みつらみや、さっき話をきいて尿をかけられることを彼女の復讐《ふくしゅう》と考えたことや、そういう雑念が――全部消えたのではなかったが――減じて、今のこの状態に象徴されるようなクララへの関係がしごく当然なことに思われて来て、先ほどの底知れぬ転落の不安が薄らいで、やはりクララに頼っておればよいのだ、という気がして来た。
――新しき生[#「新しき生」に傍点]……今までの俺《おれ》じゃない、クララが昨日のクララでないように……。
尿洗礼がヤプーの意識に及ぼす効果として、先ほどウィリアムが力説したのはまさにこの心理的変化なのである。麟一郎は、まだ人間意識を捨て去っていないように見えたが、自分より高い存在価値のある人間――絶対者としてその排泄物さえ神聖化されるほどの存在――を感じたことが、人格喪失の第一段階なのだった。
人間はすべて平等で、人間は他の人間に対して神とはなり得ない。人間を神とするのは人間によって創《つく》られた犬や馬のような家畜だけだ。そしてクララは人間だ。こう彼の理性の告げるところに従えば、クララを神として礼拝しているヤプーたちは人間より家畜に近い存在だ。しかし、それならば彼女に帰依しようと感じる彼の感情はヤプーと同質であり、したがって彼はヤプーだということになるではないか。
彼自身が人間であってクララが女神であるか、クララは人間にとどまって彼自身がヤプーという家畜的存在であるか、解決は二つに一つしかなかったが、前者は彼の理性が「否」と答え、後者は彼の感情が「然《しか》り」と応ずるのだった。
TEVIN241267号は、ようやく家畜人としての自覚を生じ始めたのである。麟一郎がリンに生れ変りつつあるのであった。まさにこれこそ|聖 尿 灌 頂《ユーリナリ・パプテイズム》の功徳であろう!
ところで、クララのほうには、べつだん激しい感動は起らなかった。あらかじめポーリンに教えられたとおりにしゃべっているだけのことで、たいして実感がわかなかった。麟一郎と違って、光傘《ヘイロ》の空気幕《エア・カーテン》に保護されている彼女には、嗅覚《きゅうかく》を脅かす臭気が感ぜられなかったことも一つの理由ではあったろう。
しかし、目は見ていた、黄色い液がリンの全身を濡らしていくのを。それが床にたまって吸い込まれるのを惜しんで、両脇《りょうわき》の二匹のヤプーが、| 唇 《くちびる》を床につけて少しでも吸い取ろうと夢中になるのを。
赤クリームの性質を聞いてはいたが、本当かどうか半信半疑の念が残っていたのに反し、この液がさっき自分の体から出たものだということには疑いがなかった。それだけ、赤クリームが舐められるのを見たのより印象は強かった。けれども、赤クリームの性質を初めて知った時のあの嘔吐感《おうとかん》は起らず平静な気持で眺めておれたのは、ヤプーという動物の畜生性《ティーアハイト》に充分得心がいったからである。そしてリンはそのヤプーの一匹なのだった。
「|彼は何になるだろうか《ヴァス・ヴィルド・アオス・イーム》?」、彼女は、昨日タウヌス山中で発した(第一章3「クララと麟一郎」参照)と同じ問いを独《ひと》り言《ご》ちたが、その内容は今はすっかり違っていた。
新畜への処置をひとまず終って、一同はこの予備檻《スペア・ペン》の部屋《へや》を出た。クララはいちばん後まで残って、天井から滝《たき》のような水流が注いでリンの全身を洗い始めたのを横目に、やっと廊下に歩み出て動廊に飛び乗った。気がつくと頭上の光傘《ヘイロ》はいつか消えていた。
5馬形双体《セントーア》と飛行下駄《ジェッタ》
原畜舎を出て|水 晶 宮《クリスタル・パレス》本館一階へ、|動 廊《エスコリドー》が皆を運び込んだ時、マック少年がいった。
「じゃ、ここで失礼します。コトウィック娘《さん》、地球ご滞在中に一度ぜひ私どもにお寄り下さい。矮人将棋《ピグミー・チェス》|で《*》もいたしましょう」
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* 矮人利用の遊戯を「神々の競技」という。中でもいちばん大仕掛なのが「トロイ戦争ゲーム」といって、武装の矮人千人ずつを手兵として、百メートル四方を戦場に陣地の取合いをする。血みどろの戦争をながめる気持は、トロイ戦争を見るギリシャの神になったようである。その規模を小さくし、小決闘士二十人ずつを手兵にし、素手で格闘させるのが矮人将棋(ピグミー・チェス)である。
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皆で見送ることにして、ポーチに出た。
クララは、この時初めて馬形双体《セントーア》(centaur)という動物を見たのである。
客人用|厩舎《きゅうしゃ》から黒奴の馬丁が引いて来たのは、大きさはちょうど馬ぐらいだが、クララの印象にある馬とは違う。馬の長い首に当る部分がなくて、そこには女体の上半身があるのだ。丈《たけ》なす黒髪、日焼けした黄肌《きはだ》の顔立は整って、黒瞳《くろめ》が大きく、双の乳房《ちぶさ》もよく発育していた。何の奇形的なところもない成熟した女体であった。ただ、その臍《へそ》から下が狂っていた。後ろから腰を抱くように回された二本の腕が双の| 掌 《てのひら》で臍下《へそした》の腹部をおおうように位置しつつ、明らかにその女体に癒着《ゆちゃく》しているのだ。そして、その下方の脚は――馬の脚ではなく、確かに人間の脚であった。足先の格好だけからでもわかるが、問題はその発育で、上半身は普通の人体なのだが、腰から下だけが身長が倍もある巨人、それでも三倍ある畜人馬ほどではない――の下半身と思えるのだ。だから、人間の脚でありながら、馬の前脚に負けぬ脚力があるとの印象を与える。
しかし、後部はさらに奇妙だった。奴の後脚《うしろあし》は前脚と同じ巨人の脚だった。その巨人の上半身が腰から前に折れて、馬の胴体に当る部分をなしていたのである。並の人間より倍も大きく、それでも馬の胴体の豊かさはなく、ことに厚みに欠けた。が、それでは、拍車など馬並に使えないではないか、というと、そうではない。巨人の乳房が隆々と発育して、それがちょうど鞍《くら》の下方、馬でいえば腹帯に当る胸帯を受ける個所に位置するのだが、鐙《あぶみ》を踏んで内側へ蹴込《けこ》めば、拍車はこの乳房に当るのだ。この乳房の存在で、後半身もまた女体と判明しよう。両肩を前半身の女体の大きな腰の上に付け、首は左横に窮屈そうに出し、前半身の腰の上から普通の大きさに変るため胴回りの一段細くなったところから両腕を前に回して腰を抱くようにしていた。そして、その接続部分は皮膚も肉も完全に癒着していたのだ。
畜体二つを組み合せ、その各部の発育比率を異にすることによって、旧馬《うま》の体型を再現したものである。それが人為乗用畜《ウマン・メイドホース》の馬形双体《セントーア》(ギリシャ神話に、いわゆる |cen《ケン》-|tauros《タウロス》 は、イース世界の centaur を人馬一体と見て伝説化されたものだ)であった。受精卵内で一卵性双生児に手術し、こうした癒着を人為的に作って生れさせ、整形薬で身体各部の発育を左右しながら、前部上半身はあくまで美しく、しかし四本の脚はあくまで強健に、と丹精こめて育て上げられる。雌畜《めす》がほとんどなのは、拍車で乳房を蹴ることができるためであり、また、これが主として男子用の乗用畜《のりもの》とされているためでもあった。家庭・閨房《けいぼう》内では女の尻《しり》に敷かれっぱなしの男性たちは、その心理的補償を、この美女セントーアへの騎乗に見いだしていた。平民に私刑公売により黒奴を売りつけることで(第一一章2「燧道車」参照)不平不満の抑圧を転嫁することを案出した女王セオドラ一世が、女権制擁護のためにこのセントーアを作出させて男性に与えたのだと伝えられる。
チャールズの愛馬はユッキーという名前だった。実は二匹の個体だが、乗手は一体として意識していたし、彼女らのほうでも生れた時からの習慣で、その一つ名前を怪しまない。主人から可愛がられるのは常に前半身であり、彼女は自由な両手で顔の化粧をすることもできた。後半身は主人の体を背にささえ、尻《しり》に鞭《むち》を、乳房に拍車を受ける損な役回りであったが、別に反逆心もなく、その運命を甘受していた。意志去勢(第一二章5「鞭打つために飼う家畜」参照)によって服従本能ばかりになっているためであった。もっとも、乗手には忠実であっても血の(文字どおり)つながる姉妹たる前半身のみが常に良い目を見ることに内心の嫉妬《しっと》を感じてはいたが……。
引かれて来ると、前のユッキーは、「|若 様《ぼっちゃま》」ににっこり笑いかけた。白人の男性に対する有色人女性の本能的|媚態《びたい》がこんなところにも残っていた。しかし、チャールズはべつにそんなものは意識しない。彼にはユッキーは「女」ではない、「牝馬」というに過ぎないのだ。黒髪を左右二本の長い辮髪《べんぱつ》に編んで先を結び合せたものを手綱代りにして、黒奴の馬丁にささえられつつ鞍にまたがった。股《また》の割れた黄色い乗馬用スカートの下に長靴の拍車が光る。
後ろのユッキーの背骨は、主人の体を受けて五センチばかりしなった。肋骨《ろっこつ》の両側に内股が吸いついた。前のユッキーの髪手綱を執《と》りつつ、見送る五人を振り返って笑った少年の顎《あご》の下に、例の可愛い靨《えくぼ》ができた。片手を振りながら、少年は馬を走らせて去った。
手提袋ヤプーが、後からすべるようについていった。彼は、馬に騎れない代りに畜人靴《ジェッタ》をはいていたのである。|畜 人 靴《ヤップ・シューズ》ジュッタは、下駄《げた》底の歯の間に小型回転翼を付けて、地上わずかに飛揚し、鼻緒をジェット噴出孔にして推進力を与えた飛走用履物であって、この仕掛は人間のはく靴にも仕掛けられないではなかったが、おもにヤプー、特に主人の使いやお伴《とも》をする従畜《パンチー》の履物に利用された。それが畜人靴なの|だ《*》。主人が馬や車で疾駆する時、従畜はこの畜人靴でどこへでもついて行く。便利なものだが、従畜自身の自由行動のためには決して使われないのだから、その便利さはヤプーのためより主人側、すなわち人間のために存するのである。
[#ここから2字下げ]
* 二〇世紀中葉、既に畳半畳くらいの台座で、地上数センチ浮き上るホーバー・クラフトが発明されていた。これを小型に改良し、ジェット推進機を付したのがジェッタ(jet-ter)である。格好は下駄同様だが、蹄鉄を|馬 の 靴《ホース・シュー》と称ぶと同様に、この飛行下駄[#「飛行下駄」に傍点]を|畜 人 靴《ヤップ・シューズ》と称ぶ。これは跣足《はだし》を原則とするヤプーの唯一の例外的履物だ(本当の靴をはくことは決してない)。これを jetter と称ぶのはジェット推進から来ているが、 |jeta《ジエタ》 となり、さらに |geta《ジェタ》 とつづられ、ついに家畜語としてゲタと読まれ、飛行性能なき板に鼻緒のみの履物たる下駄となったとは、『家畜語考』の所説である。
なお、ギリシャ神話のヘルメス(ローマのマーキュリー)のはく翼の生えた飛行サンダルというのも、このジェッタのことを誤り伝えたのである。ヘルメスが神々の使者として一段地位が低いのは、従畜の履物をはく点に照応している。
[#ここで字下げ終わり]
少年とヤプーとは、吸い込まれるように紅葉の真っ盤りの木立の中へ消えていった。
[#改ページ]
第二三章 『竜巻』号飛ぶ
1賛美歌と説教
瀬部《せべ》麟一郎《りんいちろう》のなれの果てなるヤプー、TEVIN241267号は、予備檻《スペア・ペン》の室内で緊縛輪にいましめられ、首に輪を、| 唇 《くちびる》にチャックをつけられた哀れな姿で床上《ゆかうえ》に正坐していた。白い神々が出て行くと同時に、天井から浄水が注いで全身から尿を洗い流す……と、横から誰かが近づき、彼の腕に注射器を突き刺し、彼は一瞬昏迷に陥った。
力強い合唱が彼を驚かせた。いつか彼は自由の身になって数千人の大群衆の中央にいたではないか。自分と同じように、彼らもことごとく裸ではなかったか。だがそのことを恥じる色もなく、目を前方上に注いで口をそろえて唱っている。その視線の先には……光輪をいただいて立つ白衣の美女の姿、何かおぼろではあったが、クララだろうか、空中に浮んで、人々の視線を微笑《ほほえ》みつつ受けている……。わき起る合唱のメロディーは賛美歌ふうの何やら知らない曲であったが、歌詞には記憶があった。
おおきみはかみにしませばあまぐもの
いかずちのうえにいおりせるかも
――万葉の歌ではないか!
麟一郎は心中驚きながらも、いつか周囲に合せて歌っていた。低音部である。合唱が繰り返され、メロディーが記憶された。おおきみ[#「おおきみ」に傍点]というのが誰を指すのかは、いわれるまでもなかった。
別な歌の合唱が始まる。
みたみわれいけるしるしありあめつちの
さかゆるときにあえらくおもえば
みたみ[#「みたみ」に傍点]とは、白人から my team (我が畜群の意。チームとは本来一組にした家畜をさす語)と称ばれるヤプーたちが、それをなまって自分たちの美称とした言葉だが、その真義を知らない麟一郎にも歌意はよくわかった。畜生天《ヤプーダム》への誕生の喜びを歌ったものに違いなかった。
さらに別な歌が次々と合唱されていった。
きょうよりはかえりみなくておおきみの
しこのみたい[#「しこのみたい」に傍点]といでたつわれは
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(しこ[#「しこ」に傍点]のみたいとは、「おしっこ飲みたい」の意である。賜飲号令には立位をとるから、立つ[#「立つ」に傍点]といっている。新しく捕獲され。肉便器《セッチン》化されんとする土着ヤプーが、イース世界での新生の決意を歌ったもの)
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かしこしやあめのみかどをかけつれば
ねのみしなかゆあさよいにして
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(朝夕|哭《な》かされるというのは、もちろん鞭撻《べんたつ》のためである。それでも主人を崇愛するという家畜の真情を吐露したもの。鞭撻用に飼われる土着ヤプーの歌)
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うみゆかばみづくかばね やまゆかばくさむすかばね
おおきみのへにこそしなめ かえりみはせじ
(これは特に注するまでもなく従畜《パンチー》の歌である)
………………………………………………
皆で十幾首にもなったろうか、ことごとく『万葉集』の歌が、それぞれ異なるメロディーをもって賛美歌として歌われているのだった。正しい訓詁を知らないまま、彼は周囲の敬虔な宗教的情熱にしだいに感化されて、空中の白女神への帰依の感情に満たされていった。
合唱が終ると、先ほどの二人の代父兄が左右から彼の手を取って台上に導いた。
「おめでとう」
その一人が話しかけた。
「原畜舎の皆さんの前で、八号|檻《おり》の檻仲間《ペン・ギャング》として、一同を代表してお祝い申します。お前|様《さん》は今日から畜人として生れ代ったのじゃ。今まで、地上でどんな仕事をしておいでたか知らんが、何にあれ、それは偽りじゃった。神の目には何の値打ちもない、つまらぬ人生じゃった。だが、今日からは違う。この天国で家畜となるのがお前様の本来の正しい生き方じゃ。主がお前様を何に召したまうか、それは誰にもわからん。何にあれ、生きがいある生活、生けるしるしありじゃ。しかしながら、正しい生活は正しい信仰にささえられねばならん、よろしいか。信仰が深くなるほど畜人たる喜びが深く味わえる。激しい鞭《むち》にも慈悲を感じられる。そして神々の肌《はだ》の白さにこそ神性の根元があるということが体得できてくる。私ら二匹(二人といわず二匹といったのが麟一郎には印象的だった)が今日新しい女神を与えられてすぐ主として受け入れることができたのも、白神崇拝の信仰が揺るがぬ堅さに達しているからじゃ。今日、お前様は洗礼と祝福を受けて信仰の道にはいったのじゃ。あとは少しも早く信心を固めて、堅信礼にまで進むことが第一。それともう一つは、檻仲間と話し合ってみるがいい。自分だけで考えてはわからんところがわかってくるものじゃ。なぜ自分は初めから天国で畜人として生れず、地上で邪蛮《ジャバン》人として生れたのか? 神々はなぜ畜人が人間を僭称《せんしょう》して暮すことを許しておかれるのか? といった畜人神学上《ヤプーナル・シオロジー》の難問になると、こりゃ一人ではわからんものでのう。……気を失っておったから自分では知るまいが、お前様、昨夜、一度我々の檻――八号檻じゃ、忘れなさるな――に入檻したのじゃ(第一五章2「両棲畜人ピュー」参照)。八号檻の檻仲間一同は、お前様が檻に帰る日を待っていますぞ。檻には……あっ、女神様……」
突然、そのヤプーは言葉を切って、そして二匹ともその場に土下座平伏したので、麟一郎はハッとして我に返った。
依然として、先ほどの予備檻に緊縛されていた。今しがた、大きく合唱した口にもチャックが締ったままだった。代父兄の二匹が平伏している前にはドリスが立っていた。頭のどこかがしびれていた。夢を見ていたのか。濡《ぬ》れた肌がかわき切っていないところをみると、それもまだ五分とはたっていまい。
「どう? コンラッド」
急に語しかけた美少女の頭上には、例のとおり光輪《ニンバス》が輝いていた。
「驚きました」
横から若い男の声が答えた。
「ご命令どおり、今晩の手慣らしに賛美歌を聞かせたのです。ところがほとんど抵抗波が出て来ないのです。しこのみたい[#「しこのみたい」に傍点]を、何か盾《たて》みたいなものと思っているなどの誤解はところどころにあるようでしたが、まず充分な了解曲線が得られました。賛美歌をほとんど全部知ってるなんて、前に一度畜籍に在《あ》ったとしか思えませんが……」
「馬鹿な……」
「お嬢様、しかし、普通は夢幻状態で仕込みましても……」
声の主が麟一郎の視界内に現われた。溌剌《はつらつ》とした青年であった。これが脳波技術主任コンラッド・ダンカンである。
「歌詞の意味をわからせるに一首に相当かかります。家畜語《ヤプーン》といっても古代語ですから……。賛美歌を教えるのに今晩一晩かけるつもりでしたが、これならもう必要ありませんです。まったく不思議で……」
「ふん。こいつはね、古代家畜語ならよく知ってるのさ。そのわけがあるのよ」
と美少女はつぶやいたが、
「ま、こちらには好都合ね、賭《かけ》は勝ったも同然だわ」と意気込んだ。
「ところで、尿反応は?」
「異状ありません。二t[#機種依存文字「CC」]注射しましたが……」
「じゃ長椅子《ソファ》にお入れ」
「畏《かしこ》まりました」
尿反応云々はわからなかったが、今見た夢が意図的に作り出されたものであること、あの賛美歌が本物であること、それを自分が記憶していたことまでわかっていることを麟一郎は悟った。脳波科学を知らない彼にはただただ不可解なことばかりであった。
ドリスは、さっきの姉との賭の直後、ひそかにダンカンに指示を与えておいて、自分もマック少年を見送るとすぐ引き返して来たのだ。クララが姉と共に空中列車で出かける前に、ちょっとした工作をしておこうというのである。
身動きできない麟一郎の視界の正面にドリスが立った。彼の顔を碧《あお》い目で見つめながら、
「リン。一つたいせつなことを教えておく。辛い時はクララにお祈りをおし[#「クララにお祈りをおし」に傍点]。いいかい。祈りは聞かれる[#「祈りは聞かれる」に傍点]のだから……」
ふたたび注射針で麟一郎は気を失い、ドリスの命令を受けた黒奴の畜体技師《ボディ・エンジニア》が、かつて彼がクララに贈った指輪を彼の下腹部の、「男性の象徴」のあった場所に、その代りの「隷属《れいぞく》の象徴」として植え込む手術をしたのに気づかず、やがて今朝ほどからいろいろの経験をしたこの予備檻の部屋から運び出されていったのも彼は知らなかったのである。
2竜《りゅう》に乗る人々
それから四半|刻《とき》ほどたったころである。今まで晴れ渡っていたシシリー島の澄明な秋の空の一点に、突如、稲妻がはためき黒雲が起って渦巻《うずま》き始めた。見るみる漏斗《じょうご》状に垂《た》れ下った尾が地面に近づいて来た。竜巻《たつまき》か?
黒雲の下には広壮をきわめたジャンセン家の別荘がある。その中央の華麗な|水 晶 宮《クリスタル・パレス》の一角に竜巻の尾が触れると見た瞬間、ふたたび紫電|一閃《いっせん》、巨竜《きょりゅう》が雲を縫って昇天した。高く高く舞い上ると、東に向って天空を横様《よこざま》に翔《かけ》って行く。黒雲がその前方に次々とわき起りつつ風に散らされて竜の進路を示したが、たちまち、すべてははるか彼方《かなた》の空に去って、後には元どおりの秋の天が高く、中空に小雲一つ留めてもいなかった。
イース世界の地球には竜が住むのか? そうではない。これこそ空中列車『竜巻《トーネード》』号、ポーリンの愛機が、主人とその二人の客人を乗せて時速二千キロ|の《*》速度で飛翔《ひしょう》する姿なのであった。
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* この五倍の速度も可能である。しかしイース貴族は、単なるスピード・アップより生活の快適を喜ぶ。(第一一章3「足項礼」、および第一八章2「霊乳浴と唇人形キミコ」注参照)
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空中列車は、なぜ雲を起し風を呼び、伝承の動物「竜」さながらの自然現象を伴って飛行するのであろうか?――例により、多少の説明を加えよう。
イース世界に知られた交通運輸機関は、星間宇宙を往来する四次元宇宙船や過去世界に遊ぶ航時機をはじめとし、遊星大気圏内における使用を目的とするものにも、大は、これから詳しく述べられる飛行島《ラピュータ》から、小は、昔の自動車に相当する水陸空兼用軽車両の黄金虫《ビートル》に至るまで、実に多種多様なものがあるが、中でもきわめて異色ある存在がこの空中列車《エアロ・トレイン》であった。他のいっさいの大気圏内航空機が、空気抵抗を考慮して流線型を採用し、それを当然として怪しまない常識を破って、空中列車は機体外に部品の突出することを少しも忌まぬばかりか、形態自体も流線型を必要としない。というのは、その推進原理が風変りなので、機体前方に人為的に真空を作り出し、後方大気の圧力差から強い風が起ってその真空部に空気が流入しようとする。この風圧を利用し、いわば風に乗って前方の真空部に進む仕掛であって、ちょうど真空トンネル内を進行するようなものだから、機体に対する空気抵抗を恐れる必要がないのである。
真空部を急に作り出す時の気温降下から周囲には水滴が生じ、雨雲がわく。機体を推す強風は同時にその雲も払い去るが、離れて見れば、あたかもこの空中列車が、風を起し雲を呼んで空中を飛翔するにも似るのである。洒落気《しゃれっけ》のあるイース貴族が、自家用の空中列車に竜《ドラゴン》の形態を象《かたど》らせたのはそんなわけからであったが、この思いつきが時流に投じ一般化するに至って、空中列車は『飛竜《ドラゴン》』車とも称ばれるようになった。機体先端操縦室は、真空を作るための空気分子絶滅線を投射する双《ふた》つのレンズを両眼とし、通信用の無線アンテナを髭《ひげ》とし、乗客出入口になる開閉孔を上下の顎《あご》の内部に収めていかめしい竜の首を模してあった。尾部も四脚もあり、外被は鱗片状《りんぺんじょう》の金属から成る。胴体は客室で、収容人員数に応じて個室を継ぎ足して長くすることができたし、その継目は胴体の屈曲を許す――要するに、外観はまったく竜なのだ。古代人の夢想の産物たる竜は、こうしてイース世界の飛竜車として実在している――いや、それとも、航時旅行者によって伝えられた後者の存在が、古代人に前者の観念を与えたのであったろうか? ともあれ、この動物体を象った乗物は、機械文明に食傷し、ある意味ではむしろそれから一歩後退した遊戯的な文化を喜ぶイース人に非常に気に入られた。ことに貴族たちは、飛竜車の運行に伴う雷電・風雲の猛威が権力の象徴たるにふさわしいのを愛して、各自専用の愛機を備えるに至っていた。
『竜巻《トーネード》』号は、地球別荘と同時に新造されたジャンセン家の自家用機で、一行の到着後、今日までの三週間というもの、別荘の誰彼を地球上の各地へ送迎するのに利用されてきたのだが、今日は、東方七千キロの彼方《かなた》、中央アジアはタリム盆地なるホータン市の郊外上空に碇泊中の飛行島『高天原《タカラマハン》』にまで、ポーリンとクララとウィリアムを運んで行くところであった。
三人はそれぞれの専用の私室にいたが、必要なら立体電話を用いて、対坐しているのと同様の会談も自由だった。各室の調度は昔の大西洋航路の遊覧汽舶の一等船室を幾層倍した豪華さにあふれていた。
ポーリンは、随行の産科医デミルと何か話していた。ウィリアムは、電子ピアノに向って即興曲を弾じていた。自動録音装置も動いているようだった。演奏のあとでは、例により霊液ソーマの杯を傾けるに違いない。さて、クララは?
新しいイース国人《びと》――と称んでも、もう差しつかえあるまい――クララ・コトウィックの百七十三センチ、五十八キロというたくましく若い肉体は、私室中央の安楽長椅子に深々とうもれてくつろいでいた。靴《くつ》を脱いでそろえて伸ばした両脚の足先にちょうど当るところに、黒い半球状の突出部がある。西瓜《すいか》を半分にしたほどの大きさだった。その半球面に両の足裏を当てがい、上半身は斜め後ろに倒しもたせ掛けたいちばん楽な姿勢で、クララは、壁面の展望|枠《わく》に特殊な立体レンズから投影される地中海の風光をながめていた。紺碧《こんぺき》に砕ける白い波頭を黒い細長い影がおおっていたのは、この『竜巻』号と、それを取り巻く雲の落す陰翳《いんえい》であろうか。
――三時間はかかるという話だった。その間に二〇世紀後半の歴史でも勉強しようかしら……。
そんなことを考えながら、彼女はのび[#「のび」に傍点]をした。細身のズボンのスラリとした両脚が伸びて、黒い半球を突っ張る――と、……
途端に椅子は、クララの体をささえて微妙な動揺を始めた。黒い半球がスプリングに連結していて、わずかな刺激でも揺れる仕掛になっていたらしい。クララはかわるがわる両足先で半球を押し、動揺を楽しんだ。
ふと、部屋《へや》の隅《すみ》の大きな姿見《ブシヘ》[#読取不可]に視線がいく。裸形の人体が膝《ひざ》をついて両手で鏡をささえ持った姿に彫刻されていた。古い西欧貴族の家によく見かける装飾付鏡台だった。昔、クララの家にもあった。
――いや、そうじゃないわ!
クララは、ハッと悟った。彫刻ではなくて、これはヤプーなのだ。命令に応じて鏡の角度をいろいろに変化できるように、生身のヤプーに鏡を持たせてあるのに違いない。|生きた姿見《リビング・ミラー》……。
ここにも|生 体 家 具《リビング・ファニチュア》の見事な一例を見いだし、底知れぬヤプー利用の文化に驚きながら、クララの思いはいつか、昨日までの愛人だったヤプーのことになっていた。
――あれから、リンはどうしたろう?
洗礼式とて尿をリンの頭に注いだ。その後、全然彼を見ていない。……つい先ほども、水晶宮の屋上階からの出発間ぎわ、セシルと一緒に見送りに来たドリスが、先ほどのクララの注文どおり、彼女から麟一郎にやった指輪を、端末の茄子《なす》鐶《かん》に細工し変えた細い引鎖を渡してくれ、さらに昆虫を象ったブローチをプレゼントとしてくれて、手ずからクララの胸にはめてくれた時にも彼女は尋ねたのだ。
「リンは? 妾《あたし》に訓練してくれといってらしたじゃない?」
「いずれわかるわよ。まあ、この鎖を持っててらっしゃい、必要だから……」
「ドリー、貴女が訓練しちゃだめよ、賭はクララの訓練なんだから……」
と横からポーリンがいった。
「心配ご無用。妾、今日はこれから狩猟《ハンチング》に出かけるんだから、ここでヤプーにかまってる暇なんかないわよ」
「あのヤプーはクララの手元に置く約束よ」
「大丈夫。とにかく妾、賭に不正はしないわ。ビルは知ってる、ねえ……」
そういってドリスは、ウィリアムと顔を見合せて笑ったのだ。
――あの時、なぜ彼女は笑ったのかしら?……
だが、その不審の解けるのは、彼女にとってはだいぶ先の話であった。今のクララは、長椅子の掛心地を楽しみつつ、リンのことは念頭から去るに任せて、目的地までの時間を有効に利用する方策に心をめぐらせればよかった。
先ほどの思いつきに、クララはひどく魅力を感じた。
――二〇世紀の地球では何が起るのだろう? 円盤《ディスク》の中でポーリンが何か示唆したようだったが、もしあの時、円盤に乗り込まなかったとしたら、どうなっていただろうか?
|諮 問 器《レファランサー》に問うてみた。
「:::::::『|夢の本《ドリーム・ブック》』をお使い下さい」
それが返事だった。
五分後、クララは、|蹴 球《しゅうきゅう》選手のような深い面帽をかぶって長椅子に坐っていた。姿勢は相変らず上半身を倒して、床屋で顔を剃《そ》らせる時のように寝そべり、両足は無心に[#「無心に」に傍点]、足台になっている黒い半球を弄《いじ》り回して動揺を楽しむ……学生蹴球選手がボールに親しむために机の下にボールを持ち込んで、勉強しながら両足でこれを弄《いじ》りまわす、ちょうどそんな無心さであった。
その揺れ方が一種の揺籠《ゆりかご》の役目を果してか、クララはしだいに眠り込んでいった。
そして、夢を見た。
しかし、その夢は、一定内容を意図的に志向して作り出されたものだった。睡眠学習音盤の存在でもわかるように、睡眠中の脳波を統制すると学習能率は著しく高まる。黄梁一炊《こうりょういっすい》の夢。夢幻状態では現実よりも時間の流れを速くして多くのことを学び得るのだ。この原理を利用して、諮問器以上に(諮問器には聞き[#「聞き」に傍点]、これは見る[#「見る」に傍点])短時間に多くの思想内容を伝達する機械が今クララのかぶっていた脳波書見器《ブレイン・リーダー》で、そのフィルムがいわゆる『夢の本[#「夢の本」に傍点]』であった。イース脳波技術の発明になる傑作の一つである。
何を夢見たか、うなされるようにクララは身動きし、その拍子に半球を蹴《け》ってまたもや体が揺れたが、目をさますどころか、夢はかえって深くなった。
3人類の近き未来図
クララの見ていた夢は、二〇世紀後半以後の人類の歴史であった。イースの前身たるテラ・ノヴァの建国史であり、黒奴制・畜人制成立の前史でもある。その概要は――、
人工衛星(クララが地球を離れた翌年の出来事だ)以来、ソ速はアメリカをリードし続けたが月世界到達の第一歩は『ウテルス3号』によってアメリカが果し、その後アメリカとソ連との間で月面の領土権を主張し合うようになった。その間、台湾を解放してから後の中国の発展は目ざましく、西欧の大陸諸国さえもその影響下に置かれる始末で、アフリカ諸国のブラック・パワーのいっそうの台頭《たいとう》とも伴って、従来の方式による国連機構は無力化した。
自由世界の指導者としてのアメリカの焦慮は年ごとに深くなっていった。『ウテルス3号』の成功でひとまずソ連に先んじた科学技術陣は、遊星ロケットでもはるかにソ連を抜きたいと努力を重ねていた。ヨーロッパではイギリス、アジアでは日本の、両国だけが、アメリカの味方であった。
だが、日本がアメリカの科学の後塵《こうじん》を拝していたのと違って、イギリスは自らも水爆を保有し高度の科学水準を誇っていた。科学者たちは月ロケットでの出遅れをアメリカよりも壮大な規模で回復しようと、ドイツの天才ゼンゲル博士を招いて光波ロケットによる光速宇宙船の試作に着手した。遊星空間を越えていきなり恒星空間に挑戦し、イギリスの栄光を輝かそうという悲願である。南ア共和国の山奥に秘密工場が建てられた。騒然たるアフリカ諸国中、ここだけはまだ白人勢力が揺るがず黒人の労働力を大量に利用し得たことと、大英連邦の一員として結局は一時的な仲違いもおさまり、以前にも増した緊密な友誼《ゆうぎ》が両国間には回復し、他の国とは有色人種差別のことで付合いが悪く、秘密保持に好都合なことからこの土地が選ばれたのだった。
一九七七年、最初の光速宇宙船『栄光《グロリア》』号は、一千名の探検隊員と最新核兵器とを搭載《とうさい》し終り、ひそかに喜望峰頭から上昇して宇宙空間に出発した。
翌七八年、第三次世界大戦が起った。世界大戦というに値するかどうか、戦闘はただ一日で終った。アメリカは秘密裏に完成した超水爆|α爆弾《アルファ・ボム》を、共産圏、すなわちソ連、中国、中南米、アラブのあらゆる地域へ人工衛星と月面秘密基地から同時にたたき込んだのだ。殲滅《せんめつ》的奇襲戦法は見事に成功し、ソ連から自動報復装置により細菌弾頭を含む核攻撃がなされたのと、中国からの、これは意外なほど強力な超水爆の報復攻撃が加えられたが、機先を制されたマイナス面が致命傷で、結局は、赤い世界は完全に戦闘力を喪失して降伏した。共産圏十五億の人口――ソ連のロシア人を除いてはすべて有色人種だったが――のうち、五億人がただ一日で殺されたのだ。しかも生き残って降伏した十億人も長くは生きられず、子孫は作れなかった。なぜなら、α爆弾の被爆地域には強烈な放射能を生じて、原子病による住民の死を運命づけていたからである。
自由世界の完全勝利。「この大虐殺も人類の自由と幸福のためには許されるのだ」とアメリカ大統領は強弁した。日本は、「それは白人だけの自由と幸福ではないか」と有色人種の生命の軽視について抗議したが黙殺された。
だが、神を恐れぬ米国のこの所行は、ソ連の放った細菌弾によって悪魔的な復讐《ふくしゅう》を受けたのである。投下されてから五日目、シカゴから発生して全世界を恐慌に落し入れた| ω 熱《オメガ・フィーバー》は、この弾のヴィールスで起ったのだ。
それは空気伝染し、伝染率はきわめて高い。死体を焼きに近寄っただけでも伝染する。四十二度の高熱が三日続いて人は死んでしまう。予防にも治療にも打つ手がない希有《けう》の悪疫であった。これが北米大陸を荒し回った。そのうちわかってきたのは、白人の死亡率はほとんど九十九パーセントなのに、黒人は助かる者が多く免疫されるという事実だった。黒人でも混血は弱く、純血黒人ほど抵抗力が強かった。ソ連が初めからアメリカ内での成行きを見越して、メラニン色素(皮膚色素)に弱いように培養したのだという説と、α爆弾の放射能が突然変異《ミューティション》を起させたのだという説とがあったが、いずれにせよ、それは有色人種よりも白人を殺す奇病だった。白人の患者の家族は黒人患者を憎んだ。医者さえ、白人は黒人患者を拒んだ。黒白の対立は激化し、リンチは頻発《ひんぱつ》し、社会不安が増大した。
この| ω 熱《オメガ・フィーバー》は西欧の白人世界をも一舐《ひとな》めにした。アジア地域では、放射能が生き残った有色人種を絶滅させつつあるころ、被爆を免れたヨーロッパでは、ヴィールスが全住民を絶滅しようとしていた。
アメリカでは全人口に対して黒人の占める比率がぐんぐん増した。ついに一九八三年、黒人が武装|蜂起《ほうき》し、アメリカは内乱状態になった。がアメリカ内の白人を救援する余力が西欧諸国にはもうなくなっていた。自国自身がω熱で国家機能の麻痺に苦しんでいる最中だったのだ。
イギリスも例外ではなく、国民の八割が倒れた。女王エリザベスさえ嫡出諸王子|諸共《もろとも》、全国民哀惜のうらに崩御《ほうぎょ》された。評判のよくなかった夫を失い、未亡人になっていた王妹マーガレットが継いで即位されたが、この機会に政府は大英断をもって南半球友邦への避難を決意した。
アメリカが遂に黒人の天下になり、ハーレム(ニューヨーク黒人街)に臨時政府が誕生した、との報道が世界を驚かせた頃、イギリスは南アとオーストラリアとニュージーランドに疎開を完了し、あわや絶滅せんとした白人の文明を辛うじて保全し得た。ことに南アの宇宙船工場が高水準の科学技術の倉庫たり得たのは、人類の将来にとっては不幸中の幸いだったといわねばなるまい。
α爆弾を受けなかった唯一のアジア地域・日本列島もω熱ヴィールスの侵入を受け、有色人種であるお陰で人口喪失は五割にとどまったが、国力の減退は例外ではなかった。三十億と数えられた地球の人口も、今は一億――ことに純血の白人種はおそらく五百万にも満たなかっただろう――といわれた。
光波宇宙船が地球に帰って来たのはこんな時期だったのだ。一九八七年、出発以来十年目であった。|人馬座α星圏《アルファ・ケンタウリ》に三重星下ながら、比較的地球と自然環境の似た第四遊星を発見し、その原住民たる有翼四足人《プテロ・カドルペス》(ptero quad-rupes)たちを撃ち破り、この星『新地球《テラ・ノヴァ》』を英領と宣して女王にささげ、イギリスの「栄光《グロリア》」を世界に輝かそうと期待して帰来した一行が見たのは、変り果てた地球の姿であった。
文明の終焉《しゅうえん》か? 地球は人類の墓場となるのか? 否《ノウ》――我に「新地球」あり。放射能による大地と大気との汚染、いつ果てるとも知れないω熱の脅威、その前にむなしく座して死を待つより、新しい遊星に移住して人類の新しい運命を開こう……。
宇宙船の船長ダーリントン卿はこう力説した。進取的なマーガレット女王はこれに賛成し、一部の反対を押し切って自ら移住の先頭に立つ決意を表明した。
一九八八年二月吉日、『|ノアの方舟《アーク・オブ・ノア》』号と改称した光波宇宙船は、女王および選りすぐった青年たち一千人を乗せてふたたび喜望峰から飛び立った。現在の『イース』世界の数百個の遊星領では、わずかに一千家族の大貴族とその十倍の小貴族が、その十万倍もの数の平民を統治し、以上の正規の白人国民数の百倍に達する黒奴と、その黒奴の数の百万倍ものヤプーとがその下に存在しているのであったが、このヒエラルキーの最上位を占める大貴族一千家族は、すべて、このとき『方舟《はこぶね》』号の乗員だった、一千人の青年の後裔《こうえい》なのであった。
勇敢なる女王に続け≠フ声は、残された白人たちの合言葉となり、もはや国籍を問わず、南アの工場を中心に白人は大同団結して大規模な移住計画が立案された。光波宇宙船百隻を建造し、一回約十万人ずつ移送しようというのだ。人馬座のα星圏までは光速度で往復九年、五百万人を移送し終るには数百年を要するかも知れなかったが……。
戒厳令下、政府に南ア全黒人を奴隷《どれい》工員として強制収容し得る権限を与える法律が施行され、彼らを強制労働せしめることによって昼夜兼行の造船工事が強行された。ω熱の侵入を避けるために、北半球とは交通・通信のいっさいを絶った。アメリカ黒人も日本人も、この計画を知らなかった――知ったとしても、何事もなし得なかったであろう。
三年目、遂にω熱ヴィールスが南半球を襲ったという報道がはいったその同じ日に、精鋭の十万人を乗せた百隻の船団が出発した。
しかし、九年後、船団が戻って来た時には、哀れ、一人の同胞も発見し得なかった。南ア、オーストラリア、ニュージーランド、どこにも見いだされるのは奴隷工員だった黒人の敵愾心《てきがいしん》に燃えた目だけだった――北半球から侵入したヴィールスが白人人口の過半を殺した時、圧制に| 憤 《いきどお》りつつ反乱の好機をうかがっていた黒人が立ち上り、一拳に残りの白人を皆殺しにしていたのである。
彼らの留守中に起った惨事を知って、宇宙船乗組員たちは失望もし憤慨もした。迎えを待ちつつむなしく殺された同胞への弔い合戦として、彼らは黒人たちを殺人光線で焼いた。生き残った黒人は二十万人足らずだった。こうして、白人種の移動は初回の十万人限りで終ったのだが、百隻の宇宙船は代りに二十万の黒人を満載して帰った。人類の新しい故郷テラ・ノヴァの開発に無限に要求された労働力需要に応ずる奴隷要員として。
これが紀元二〇〇〇年のことだ。マック将軍が地球再占領を目ざし、軍勢を率いて大挙来襲するまでに以後六十数年が経過する。この間、はるか四光年半の彼方《かなた》では一九九三年の建国以来、『テラ・ノヴァ女王国』の建設が着々と進んだ。有翼四足人たちは完全に征服され、捕虜になって家畜化された。活発・進取の女王の統治下、宰相の補佐も宜《よろ》しきを得て、首都トライゴンを中心に、領土の整備は人口の増加と相まってテラ・ノヴァ国民――新しい世界の覇者《はしゃ》なる人類――は明るい希望に燃えた。
……二〇世紀人として、この驚くべき未来を初めて知るクララがうなされたのも無理はなかったろう。
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第二四章 長椅子の上と下
1祈りは聞かれた
クララは長椅子に坐って、『|夢の本《ドリーム・ブック》』を繰り広げていた……。
ところで、麟一郎《りんいちろう》は、どこでどうしていただろう?――実は、その時クララのすぐ近くにいたのだ。二人の体は一枚の皮革を隔てて触れ合ってさえいたのだ。
話は少し前に戻る。
麟一郎は、四肢《しし》に激しい痛みを感じて失神から回復した。先ほどとはまるで違う姿勢で、体をうつ伏せにしたまま手足を四方に伸ばし、その両手首・両足首に革製《かわせい》らしい輪がはまって、胴体を平らに吊《つ》るされていた。頭部はゴムのような袋が顔面に密着してピタリと被覆《ひふく》されていたので、目も耳もまったく役に立たなかったが、どうやら、細長い箱のようなものの内部に四隅《よすみ》で四肢の先をささえて吊られているらしかった。それにしても、この背中に掛ってくる重さはどうだろう! 腹の下にささえがないから、弓形に背中が反《そ》り、手首・足首に全荷重が掛る。まるで人間ハンモックであった。頭部は鼻の下から耳にかけて枷《かせ》みたいなもので固定されていた――頭の上に何か小さいものが軽く載せられているのは何だったろうか? それに体が無性にほてった。全身の血液がカッカッとわき上るような感じだった。心臓に針が刺さったように感じるのは気の迷いだろうか?
急に、背中への荷重が移動した。身動きするような……。
――生き物? いや、人間だ!
事態が瞬間に明瞭《めいりょう》になった。先ほど、ドリスが青年に命令した「長椅子《ソファ》にお入れ」という言葉を手掛りに麟一郎は推理したのだ。
――これは人間の[#「人間の」に傍点]体を使ってささえる仕掛の長椅子《ソファ》なんだ!
人間の[#「人間の」に傍点]ではなく、畜人の[#「畜人の」に傍点]、というべきだったが、推理としては当っていた。麟一郎の体は、クララの掛けていた安楽椅子の内部に張られて、彼女の体重をもろに受けていたのだ。
その尻《しり》の動きが、背革とその裏地(スプリング要《い》らずの強い弾性体)を隔てるだけの彼の体に伝わって来る。人一人の体重がそのまま掛っていたのだ。その重心が彼の腰から尻の辺にあることから考えると、掛けている人の向きは彼とは正反対らしかった。
――すると、頭の上にあるのは、その人の足だ……。
これも当っていた。安楽椅子の足台――先に彼女の足裏を受け、ささえていた黒い半球と見えたのは、そこだけ背革がえぐられた穴から体と直角に半ば突き出した彼の頭部だったのだ。
――だが、いったい誰だろう? と麟一郎はそれがクララであることにまだ気づいていなかった。
こればかりは知る術《すべ》もないと思われた。
しかし、頭部をスッポリ包んだゴム状|覆面帽《ふくめんぼう》は、目と耳を完全に被覆しつつも、鼻孔部だけには通気用の小孔があるらしかった。この外界との唯一の通路から、上の人の身動きにつれてかすかにはいってくる香気……この匂《にお》いは……。
――クララだ!
今朝の香楽浴で彼女の体に染みついた独特の匂いは、畜籍登録の署名をしに彼女が彼のそばに立った時、彼の嗅覚《きゅうかく》に強い印象を残していたのだ。
もう疑うまでもなかった。自分の背中の上にいたのはクララだったのだ。彼女は安楽椅子を使っているつもりだったろうが、五十八キロの体重は彼の肉体ハンモックがささえていたのだ。
――クララ、僕がここにいるのを知らないのか?
まるで、それに答えたかのように、偶然に一致してクララがこの時伸びをした。そして両足で彼の頭をウンと突っ張った。
麟一郎はたちまち全身の皮膚表面に猛烈な擽《くすぐ》りの触覚を覚え、耐えがたさに思わず身もだえしてくすぐったさを振り落そうとした。その身動きは背革の裏地の弾性に倍加されて、上にあるクララの体に伝えられた。どういう仕掛なのか、固定されて自分では動かせない頭部を外から押されるたびに強いくすぐったさが生じ、否応《いやおう》なしに身を揺すり、上に掛けている人の体をも動揺させることになるのだった。
手足の首は今にもちぎれそうである。
――アーッ、痛い! クララ! どうか救けてくれ!
口唇締金具《チャック》に閉ざされた口こそ開かぬが、思わず、彼は心中クララを念じた。登録式・洗礼式のあとで、既に自分を裏切ったこの恋人の名を呼ぶことをためらわなかったのは、もはや、彼が男性としての誇りを彼女に対して完全に放棄していたからであったが、一つには、辛かったらクララに祈れ[#「辛かったらクララに祈れ」に傍点]、と教えたドリスの言葉が潜在意識への暗示になっていたからであろう。
不思議なことが起った。すっと体が軽くなったのである。腹部に直接何か支持物が当てられた感じではなかったが、しかも確かに、今まで宙に浮いていた体が何かにささえられている。そのため、クララの体重を全身でささえても楽になる。いわば、ハンモックが敷布団になったのだ。祈りは聞かれた[#「祈りは聞かれた」に傍点]!
不思議だ、とその理由を考えていると、またもや耐えられない重さを感じたが、クララよ! と念じれば、途端に楽になる。ドリスの教えたとおり、クララへの祈りが効を奏することは間違いない事実なのだ。クララ! クララ!
今や彼の意識はクララばかりだった。他のことを考えるのを肉体が嫌厭《けんえん》するのだ。だが、「苦しい時の神頼み」、彼のクララに対する気持は、もはや恋人に対するというより、救い主に、そして神に対するものに近かった。
黒い半球の正体を知ってか知らずか、クララは両足先で彼の頭をはさんで弄《いじ》るように押し動かす。そのたびにくすぐったくなり身揺すりをすることは今までどおりだったが、下からささえられているからずっと楽であった。荷重からの苦痛に比すれば、くすぐったさなどはまだしも快感を伴っていた。椅子の機構を忖度《そんたく》して祈念を中止しないかぎり、くすぐったさだけなら耐えられそうであった。気のせいか、先ほど来の全身のほてりも、少しは収まったくらいだった。
――祈りは聞かれる……。
女神クララの尊像がいつか彼の心裡によみがえっていた。合唱する畜人の大集団が仰ぎ見た、空に浮んでいたあのおぼろな白衣の美女神……。
もう、他の何事も考えず、彼はひたすらクララに祈念していた。
夢見るクララの両足が、無心に[#「無心に」に傍点]彼の頭を蹴《け》るたびに、全身の筋肉で反応して彼女を喜ばせつつ、彼は必死に彼女に祈り続けた。
2日本の滅亡と『邪蛮《ジャバン》』の誕生
長椅子の上では、クララが人類の第二の故郷テラ・ノヴァを訪れていた。有翼四足人《プテロ・カドルペス》たちの古都三角塔の壮麗さよ。天馬《ペガサス》となった彼らの王に騎乗して天駆けるマーガレット女王の颯爽《さっそう》たる雄々しさよ。(第三章2「有翼四足人哀史」参照)
だが、そのうちに夢の場面はふたたび懐かしい地球に戻ってきた――。
白人が新地球の経営に腐心していたころ、地球では何が起ったか? 白人の|故郷の星《ホーム・プラニト》は、今や有色人種に委《ゆだ》ねられていた。それも無知|蒙昧《もうまい》なオーストラリアの蛮族等を除くと、北米の黒人と日本人とだけが白人という正当な主人の留守宅「地球」の預かり手たりうる民族だった。……が、この両者間には大きな違いがあった。前者は勃興期《ぼっこうき》に、後者は衰退期にあったのだ。
アメリカ内の黒人たちは、この地球前史の終末期に、初めて彼らの最良の日を迎えていた。広大な領土、豊富な資源、高度の技術……素晴らしい白人の遺産を彼らは享受した。もちろん、その能力は受け継いだ文明をさらに進歩・発展させるには不足した。しかし、とにかく彼らは、二〇世紀末の科学水準を維持するところまでは向上したのだ。
これに反して、日本はひどい状態だった。| ω 熱《オメガ・フィーバー》で人口の半ばを失った打撃も痛手だったが、それ以上に致命的だったのは放射能に毒せられていたことである。人類最初の核爆発モルモット(広島・長崎・福竜《ふくりゅう》丸)となったばかりでなく、初期水爆実験の死の灰は、気象条件から日本列島に最も多くの死の雨を降らせた。それに加うるに、米食民族としての悲劇があった。放射能を摂取する率は小麦・肉食民族の数倍に及ぶと夙《つと》に警告されながら、米食をやめることができなかったのだ。その結果――出産率は奇妙にもかえって向上したが――新生児の六割が白痴か低能であり、その多くは奇形を伴った。
どこまでも放射能にのろわれた国土であり、民族だった。だが、この国土から脱出しようにも、アジア大陸は|α爆弾《アルファ・ボム》で焦土化し、人間はおろか草木や昆虫にも生存を許さない放射能灰の砂漠と化していた。
大気の汚染は、北半球においてはついに致死的状態に達した。ω熱ヴィールスには免疫性あるメラニン色素も、これには勝てなかった。アメリカ黒人は、北米大陸を見限ると蓄積された物量に物をいわせ、南米大陸への大移住を一挙に敢行した。南半球の大気もいずれは危険になる。根本的解決は他遊星への移住しかなかったが、それを実現する勇気も能力も彼らにはなかった。
白人文明の模倣《もほう》を事[#読取不可]としてきた日本人にも、その能力はなかった。彼らは、迫り来る死を避けるための方策としては南半球への移住しか考えられなかったが、船腹が不足していた。
そこへ南米移住を終って、不要になった輸送船を貸すから南米へ移民してこないか、と黒人政府から声がかかった。さあ、日本中が大騒ぎになった。乗船資格争奪のみにくい争いは国民をさらに分裂させ、国政を紊乱《びんらん》させた。……が、輸送船団が到着すると、国内での諸決定は無効だった。黒人の輸送司令官は、自分たちで、輸送すべき者の資格を勝手に決めた。二十代、三十代の健全な若い男女だけを集めて、その中からさらに選抜した。ただ選ばれたきに、黒人船員に秋波を送る良家の婦女が数知れなかった。勝ったほうを乗せるといわれた青年たちは、互いに死物狂いで決闘し、船員に格好の娯楽を提供したりした。日本中が黒人に玩弄《がんろう》され、地獄絵図さながらの有様に陥った。
だが、こうしてやっと選ばれ、運ばれた南米の地に待っていたのは、ブラジル移民どころではない、奴隷《どれい》の待遇だった。黒人政府は、下級労働者要員として勤務するとの契約書に署名した者以外には上陸を許可しなかったからである。かつて、先祖が奴隷として異郷に酷使された記憶を持つ北米黒人たちは、こうして、今得意の時期に他種族に奴隷労働を強制することに心理的補償を見いだした。
昔エジプトでユダヤ人がそうだったように、今、日本人は南米に奴隷となった。その受難の中で心のささえとなったのは、モーゼのような役割を果した首長一族の激励であった。
ところで、日本本土に残された者たちの運命はどうだったか? 国家組織の中堅層を一挙に失って、国政は停滞、否、崩壊した。警察力がなくなって犯罪は激発し、弱肉強食の世界を現出し、見るみる物資は欠乏し、国土は荒廃した。子に捨てられ親に捨てられた老弱の国民には、毎日の食糧さえ自由にならなかった。飢餓による死、食うための殺人、絶望による自殺と発狂、そして疫病の蔓延《まんえん》。死神は|跳 梁《ちょうりょう》して、信じられぬほどの短期間にノーマルな国民はこの国土から姿を消し終った。
『日本』は滅びたのだ。
あとには、文明の残骸《ざんがい》の中に、打ら捨てられた白痴や・奇形者の群れが、死神に対してだけは異常な抵抗力を示しつつ、もとより文化の最低水準さえ維持する能力もなく、衣服を着ることさえ知らず、食欲ばかりの動物的生活に退行して死の大気を呼吸していた。いくら生命力が強いとはいえ、彼らの死は、否、北半球の生物全体の絶滅すら時間の問題になってきていた。
マック将軍を司令官とするテラ・ノヴァの宇宙艦隊が現われたのは、そんな時だったのである。時に二〇六七年であった。
六十数年前と違い、今度は「|故郷の星《ホーム・プラニト》」の回復が目的であった。放射能を消滅させることも、ω熱ヴィールスを無害にすることも、そのときの彼らの科学力には容易に可能だった。
本国で彼らが完全に奴隷化し、半人間といやしむ黒奴が、地球の主人面で黄色人を労務に使役し、国家を構えている笑止千万な有様は、かつて、彼らの先祖が感じた| 憤 《いきどお》りを再燃させた。
戦争ではない、奴隷狩《どれいがり》だった。南半球の黒人国家を一瞬に撃滅し、思い上りを懲らして本来の奴隷の地位に置くために、全国民を捕虜にした。
黒人国家の奴隷階級を成す黄色人達《イエロー・ピープル》――彼らの中には古来からの首長一族とて皆から尊敬される者たちもいた――も、もちろん全員捕獲されて収容所に入れられた。
その間、地球浄化作業は着々と進められた。大地と大気から放射能とω熱ヴィールスは一掃され、地球はふたたび真正な主人のための楽園になった。東海の空にもフジヤマが旭日《きょくじつ》を浴びて輝いた。
驚いたことには、その日本列島に生存者がいたのだ。ゴリラか猿人《えんじん》かと疑われる容貌《ようぼう》と姿態で、相当数が野蛮な穴居生活をしていた。動物的本能ばかりの白痴の小頭児、極端な|先祖帰り《アタビズム》の奇形……これでも人間であったろうか?
この連中は全部捕獲収容されてテラ・ノヴァに送られたが、輸送に当った参謀ローゼンベルク大佐(「畜人論」で有名なローゼンベルクの先祖)は、彼らを人間[#「人間」に傍点]と見ず、動物[#「動物」に傍点](獣畜)として扱うことを主張した。死亡事故などの時、責任が軽くなるからだった。
常識的には、放射能による遺伝子の退廃と文明の壊滅こそ、この退化・転落の原因であることは明らかだったのだが、大佐は、神の懲罰による獣畜化[#「神の懲罰による獣畜化」に傍点]を唱えた従軍牧師の説を一歩進めて、彼らは元来が類人猿《エイプ》であり、白人文化を猿真似していたのが、白人文化を離れてたちまち本性を暴露したのだ、と主張した。政策的便宜が、奇形の極端と相まってこの僻説《へきせつ》が採用され、彼らは動物として宮廷動物園に入れられて王家の人々の目を楽しませたり、飼育所で育種学的研究の対象にされ、後代の多様なヤプー変種の原型となるに至った。
奇形者についてはそれでよかったが、そうなると、同じ種族の、南米で捕えられた健全者についても処遇問題が起ってきた。大佐の説を採れば、彼らも本質は類人猿なのだから、人権を認める必要はないことになるのだ。そして、彼らにとって不幸なことに、ここでもマック将軍は政策的便宜《ポリシィ》を重んじた。回復した地球を白人のみの天下にしておくのにはそのほうが都合がよいことはいうまでもなかった。類人猿説《エイプ・セオリー》が司令部を支配した。――彼らには奴隷にすぎぬ黒人の、そのまた奴隷だった劣等種族に対等の人格を認める気になれなかったこともこの説の迎えられた一理由だったであろう。(第四章3「知性ある家畜」参照)
ちょうどそのころ、南米収容所の黄色人の代表から自分たちの本国島に帰り、昔ながらの首長一族をいただいて独立国を作りたい≠ニいう申出があって司令部を大笑させた。奴隷の奴隷たるに甘んじていた家畜的劣等人が何をいうか!
「おもしろいじゃないか、そうさせたら……」
という意見も中にあった。
「どうせ奴隷資源として繁殖させなきゃならん。なら一部をこの島に住まわせて自然動物園にしたらどうだ。太平洋上の|猿 ガ 島《マンキー・アイランド》さ。動物は飼育環境がいいほど繁殖率が増すんだから、奴《やつ》らが人間なみの国家を持ちたいというんなら、許してそう幻想させておけばよい。……」
「よし、それでいこう」、マック将軍が一決した。
「収容所から三分の一を選出して本国島へ帰してやろう。首長一族も、女王陛下への献上分を残してあとは帰らせよう。そして奴らの自治に任す……そうだ、我々と対等の独立国だなんていいだされても面倒だから、保護国にするとしよう。お前らの精神年齢は十二歳くらいだからってな。……」
こうして新国家『邪蛮《ジャバン》』が誕生した。新国名がテラ・ノヴァ人、すなわち英語国民に媚《こ》びていっていることはその発音でも明らかであったが、その漢字面に、当時の建国委員たちの深刻な自己|嫌悪《けんお》ぶりが読み取れよう。彼らは、保護国たるを恥じ、いつの日か独立のあかつきには「日本」の国号に復しようと考えていたのである。が、その日はついに来なかった。
…………………………
クララはこんな一部始終を夢見ていたのだ。この畜生種族の一人を恋人にしていた彼女としては、足台を蹴飛《けと》ばしたくなるほどうなされもするだろう。
3従畜馴致椅子《ティミング・ソファ》
ところで、麟一郎《りんいちろう》が今はいっているこの椅子《いす》、クララが掛けているこの安楽椅子はいったいどういうものであったろうか? 今後の出来事をわかりやすくするために多少の説明を加えよう。――これは、イース貴族が従畜《パンチー》を読心能化《テレパサイズ》するのに使う特殊設備の機械だった。
イース貴族は読心家具《テレパス》を使用する。既に(第二章2「読心家具」参照)説明したように、これは|生 体 家 具《リビング・ファニチュア》の一種で、生理学的処置により特定人の思考を脳波として受信しうるものである。自意識の主体性は消滅しているから自分の行動というものを持たず、畜体循環装置《サーキュレーター》のコードにつながれて室内に待機し、主人の命令脳波のみに対応する行動をもって反射条件づけられていた。家具であって個体性・移動性がない。
さて、こういう便利な家具を使い慣れた貴族たちが、無制約な移動性ある従畜の使用においても、一々言葉に出さずとも心に思っただけで命令を与えうるように欲したとしても無理はない。読心能《テレパシー》を備えた従畜(読心従畜《テレ・パンチー》)への要求がかくして生じた。
しかし、従畜は個体性を持っていたから、生体家具化した場合と違い独立の行動能力も必要であった。自意識を把持《はじ》しつつ、しかも主人の命令脳波にだけは反応せねばならない。
これはイースの高度の科学にとってもむずかしい要求だったが、脳波技術の発達はついにこれを可能にする従畜読心能付与機《パンチー・テレパサイザー》を発明するに至った。これが「|馴致(長)椅子《ティミング・ソファ》」と称ばれるもので、その原理は脳波調節にある。
まずその基礎となる脳波受信を起させるためには、主人の体との共通部分を従畜の体が持たねばならない。読心家具において循環乳液中に主人の尿を混じたのと同じように、読心従畜においては、主人の尿を血液化する。細かい理屈は略するとして、尿と血液とがきわめて組成の似た液体であることは周知の事実だ。ヤプーの腎臓《じんぞう》機能を制止しつつ、コサンギニンを用いて尿毒を無害化すると、その血液は尿に赤血球・白血球を加えたような組成に近づく(ある割合を越せば老廃物を排出する。ただ、通常の人尿程度に老廃物を含んでも平気になるのである)。そこで、主人の尿に赤血球・白血球を加えたものを全血液と置換し、人工心臓によって循環させると従畜の血管は主人の尿=血液で満たされる。これによって脳波受信が可能になるのだ(昔の人工血液は、リンゲル以来、天然の血液に似せることだけを目標にしていたが、方針を換えて、組成の変った血液でも循環能を持つようにはできないか、との考えのもとに作られたのがこの尿=血液なのである)。ただ、主人の尿に特異反応を起す体質もあるから、読心化作業の前に少量の尿を注射して検査する。洗礼後(前章1「賛美歌と説教」参照)、麟一郎が受けた反応注射はそれだったのだ。
この血液置換状態を馴致中持続するためには、候補畜の体を拘束せねばならない。また後述のように肉体へ刺激を加える必要があるので、そのほうも兼ねて椅子の中でハンモックのように吊《つ》られるのである。こうしてから、椅子の底部にある主人の尿を詰めた人工心臓を従畜の心臓部に連絡して置換を行なう。麟一郎が心臓に針が刺さったように感じたのはそのためである。ドリスが聖尿洗礼《パプティズム》の時の尿の残りを人工心臓に入れさせたのである。彼の体がほてっているのは、尿=血液が血管の中を回り始めたための、慣れるまでの異物反応なのだ。――洗礼や堅信で尿を使うと知ってさえあれほどショックを受けた麟一郎が、この真相を、彼の生命を維持する赤血球がクララの尿に乗って全身を循環するこの事実を知ったら、どんなに驚くだろうか?
さて、椅子に入れたうえで視聴覚を外界から遮断《しゃだん》する。これには二つの理由があった。根本的には、後に述べる脳波送信を受けて、主人の見るのと同じものを見、主人の聞くのと同じことを聞くのに他の視聴覚刺激があってはならないからであるが、この脳波送信を感受しうるまでに思念集中が可能になるためには、あらゆる雑念の排除が必要なので、その前提としても、雑念の元になる外界刺激から絶縁することが必要なのである。
しかし、外界からの刺激を断っただけでは思念の集中はできない。ここに脳波と刺激具との相関装置が登場することになる。
原理的には、刺激は何でもいいのだが、馴致椅子では主人の体重[#「主人の体重」に傍点]が荷重として使用される。従畜自身の体重も長く吊る間に肉体的苦痛の元になるが、上に主人が掛けた時にはその負担はことに耐えがたいものになって従畜を苦しめる。しかも主人自体は何ら馴致への努力をせず、単に腰をおろしているだけでいい。いわば、主人の存在自体がそのまま強力な刺激と化する点で、特別の動作を要求する他の刺激具よりも主人にとって便利にできていたのである。
この刺激を解除する中心思念は――麟一郎においては目下「クララへの祈り」が与えられていたが――、通常、各従畜の名前、または専門職域関係の言葉になっている。なぜなら、主人の周囲にある従畜は、一匹に限らないので、自分に関係ある脳波[#「自分に関係ある脳波」に傍点]のみ感受する能力が従畜には要求されていたからである。
この中心思念の脳波型が刺激解除の条件になっている――畜体腹部をささえる空気スプリングが脳波型によって起動し、思念の強度に応じて作用するのだ。雑念があればスプリングは動かず、全荷重を四肢《しし》の先で受けねばならないが、思念集中に成功すれば畜体は支持され、荷重負担が楽になる。――恐るべき思考強制であった。他を放棄して、与えられた思念だけに精神統一するだけで救われるとわかっている時に、誰がこの苦痛を冒してまで他の思考を継続し得よう。
こうして雑念を排除し、思念を集中している従畜の体が、血管の中を走る主人の尿に慣れてくると精神交感度が高まり、ラジオのダイヤルが特定周波数に合った時のように、その中心思念の脳波型に合わせて発せられた短波を受けるようになる。いわゆる脳波受信[#「脳波受信」に傍点]現象である。
そういう短波が主人の体の近くから発信されていた。超小型の自動放送局がちょっとした服飾品の中に仕込まれていたのだ。ドリスがクララに贈ったブローチがそれだった。この中に含まれた精密な機械は、人間の目と同じ光を見、人間の耳と同じ音を聞いてそれを短波に変えるとともに、近傍《きんぼう》の脳波を捕捉して混成波(これは二〇世紀後半にはいっての発明で、二つ以上の電磁波を束にして取り扱う方法である)として発信する。
これを従畜の脳髄が受信すると、発信機の見たところを見、聞いたところを聞くことになるが、発信機は主人の耳目とほぼ同位置にあるから、従畜は自分の周囲の外界からは遮断《しゃだん》せられつつ、主人の周囲の外界の事物を見聞することになる。――近く麟一郎の目と耳とがこの経験を持つだろう。
視聴覚刺激を遮断することで精神統一に成功しているところへ、このように外界からの刺激が与えられると一時は統一が乱れる。しかし、そうなればすぐ受信が不能になって統一に便利な状態に戻るし、肉体的条件からの要求も強いのでやがてこの新状態(視聴覚刺激の受信)にも慣れ、思念は集中し得るようになる。この状態が続くうちに、中心思念、すなわち受信装置の基礎は、しだいに表面意識から深層意識へと沈んでゆく。
しかしながら、従畜の視神経と聴神経とを刺激|昂奮《こうふん》させるのは混成波の組成の全部ではない。一緒に受信された主人の脳波が、目に見えない影響を従畜の脳髄に及ぼす。
従畜自身の自由思考(自由思考時は脳波変動は活発で他からの影響を受けにくい)の停止された状況下に、主人と同じ外界を見聞しつつ、主人の脳波を受けることが三百時間以上継続すると脳波同調[#「脳波同調」に傍点]という現象が起る。つまり、視聴神経昂奮からする脳波型の符合が神経刺激全体の符合を惹起《じゃっき》するに至るのだ。働きかけるのは主人の脳波であり、模倣《もほう》変調するのは、もちろん従畜の脳波である。
以上をわかりやすくいえば、読心能化の候補畜は、血液置換状態において中心思念への精神統一を強制されつつ、主人と同じ見聞を重ねるうちに特に中心思念を意識しなくてもいいようになり、やがて主人と同じ見聞の下に主人と同じことを従属的・模倣的に考えるようになるのである。
そして、いったんこの段階に達した従畜は、もはや、血液置換状態でなしにも同じ能力を維持するから、人工心臓をはずして、つまり椅子から出して自由行動を取らせても大丈夫なのである。――ただ、従畜の自由な行動性を生かすためには、何から何まで主人と思考内容を同じくする必要はない。主人の身辺にあって、主人が命令的な思考[#「命令的な思考」に傍点]をした時に誤らず反応しさえすればそれで充分従畜としての用は足りるはずだった。
そこで、命令波|馴致《じゅんち》ということが並行的に行なわれる。椅子に掛けている主人の脳波中の命令波を選択して増幅し、これを別種の刺激具に連絡させておく。命令を苦痛と感じないほうがいいから[#「命令を苦痛と感じないほうがいいから」に傍点]、刺激としては全身の皮膚表面への擽《くすぐ》りが採用されている。何の意欲もない場合にも微弱な命令波は発しているもので、強く意欲した場合との相違は強弱に過ぎない。だから、たとえば、足先で黒い半球、すなわち従畜の頭部を押すといった任意の動作を命令に擬制して命令波を増幅すれば、実際に意欲し命令する労を執ることなしに命令した場合と同じ刺激を与え得るのだ。
こうして命令波を全身刺激と結合させつつ馴らしてゆくと、ついには刺激具を用いなくても、主人の命令波に対しては何とないくすぐったさを感じるようになる。この訓練の終った候補畜は、主人の脳波中、命令波をまず感じ分け、次いで思考内容を脳波同調によって理解する。読心能付与はかくして完成するわけであった。
ただいうまでもないことだが、主人側にはOQ(命令波指数)一〇〇以上が、従畜側にはIQ(知能指数)一五〇以上が要求されることは、読心家具におけると同じである。OQが不足では操り装置が動き出さないし、IQが不足だと脳波の同調が充分に進行しないのである。
以上が脳波調節の原理の応用による読心能付与機《テレパサイザー》の機能の概略である。長椅子《ソファ》としても普通のものと同様の性能があるので、主人はこれぞと思う候補畜、すなわちIQ一五〇以上の従畜をこの中に入れておけば、あとはただ毎日この長椅子を使うというだけで三百時間、すなわら約二週間後には立派に読心能化した従畜を手に入れることができるのである。
麟一郎は、今この椅子にはいっていたのだ。読心従畜にされてしまうのか? そうではない。麟一郎のIQは一四七だった。だから厳密には候補畜として馴致椅子に入れられる資格がないのである。
ただLC(慕主性係数)がひどく高かった。それに目をつけたドリスは、彼を馴致椅子に入れて、中心思念を「クララへの祈り」とすることを考えついたのだ。脳波同調を生じるには(IQ一五〇以上の従畜でも)少なくとも二週間近く入れて、その間、人工心臓の尿=血液も新しいのを補給せねばならない(これは物質複製機によるので、主人としてはべつだんの手間は増さない)。リンを一日やそこら入れたくらいでは到底だめである。そんなことは初めからねらってはいなかった。ねらいは、椅子の持つ思念強制の機能を、彼の、クララへの信仰の強化に利用するにあったのだ。馴致椅子を、堅信礼前にこんなふうに用いた例はないし、IQの関係で資格がない、という先入主[#底本「先入主」ママ]があったから、ポーリンは、リンがまさか馴致椅子にはいっているとは思ってもみない、ドリスの思いつきはまさにその虚をついたのである。いや、クララに教えてはポーリンにも悟られると警戒したドリスは、馴致椅子にすわる本人のクララにさえ計画を内緒にしていたのだ。
こうして、空中列車の客室の中で三時間がたっていく。馴致椅子の背革の上では、人間とヤプーとの興亡の歴史を夢に学びつつ眠る美女の三時間が、背革の下では、彼女の身体をささえ、快く主人を揺すりつつ、彼女への祈念に心を凝らすヤプーの三時間があった。
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第二五章 『高天原』諸景
1飛行島《ラピュータ》着陸
竜《りゅう》の顎《あぎと》[#表示不能に付き置換え「月+咢」、X0213画区点1-90-51、164-上-3]にあたるところに設《しつら》えられた逆鱗展望室《ゲキリン・ルーム》では、未来虫の夢の本を見終って退屈し、早目に下車の支度をしたクララが、ドレイパア青年と外をながめていた。山また山が一望の下に連なる。世界の屋根パミル高原を飛び過ぎてゆくところなのだ。
「あれが地球第二の高峰、カラコルム山脈のK2です。標高八千六百十……何メートルだったかな」
青年は、空中列車《エアロ・トレイン》の右手前方に展開する雄大な白亜の壁と見える大山脈中、きわ立ってそびえる三角の峰を指さした。
「我々の目的地である飛行島《ラピュータ》はあの山のそばに停泊中です」
彼の説明によると、昔|砂漠《さばく》地帯だったこのタリム盆地は、今は地球都督府エデンの所在する文明の中心地に変化していた。そして、古代地球の航時探検家《タイム・エクスプロラー》としてアンナ・テラス(地球のアンナ)の異名を得た|前 地 球 都 督《エキスガバナ・オブ・ジ・アース》オヒルマン公爵の所領である飛行島――これは一|遊星《プラニト》に一島だけ築造が許される――『タカラマハン』は、盆地の南端ホータン市の郊外の上空を定位置にしているのだ。自分は砂漢の名をタクラマカン taklamakan と習ったが、という彼女の問に対し、彼は飛行島の名 takalamakhan のほうが正しいのだと答え、土着畜人たちは takaman-hala (高天原《タカマンハラ》)となまっているようだとつけ加えた。
『竜巻《トーネード》』号は旋回を始めた。
「もう着いたんです。まだ見えないが……」
青年は謎《なぞ》のようなことをいった。
「管制塔と今連絡中です。島の重力圏にはいると……ほら!」
「あッ」
昨日から、不意打ちにはあまり動じないようになっていたクララだが、この時の一瞬の変化には、またまた驚きの声を隠し切れなかった。見よ、一万メートルの高度から地面を俯瞰《ふかん》する視界の中ほどに、突然新世界が現出したのだ。中央には雪をいただいたその頂上がK2の峰よりも高い円錐状《えんすいじょう》の高峰、それを円周状に囲んで七つの峰を持つ山脈、その周辺の平野、その外側を完全な円周となって取り巻く湖水、……人工とは思えない大規模な一大自然が、すぐ目の下に浮び出て来たのである。
これが、飛行島《ラピュータ》『タカラマハン』だった。
直径六十キロの大円盤を想像されたい。その面積は琵琶湖《びわこ》の四倍にもなる。厚さはいちばん薄い部分で一キロ、中央は盛り上って、最高部では厚さ五キロに達する。周辺部から望んで高さ四千メートルの高山なのだが島の底面自体が地表からずっと離れて海抜五千メートル以上の高度にあるのだから、その山頂はK2をはるかに越えた一万メートルの高峰になるわけだった。
土壌と岩盤から成る地殻部は数百メートルの厚さに達するが、その下に百メートルの厚さの引力盤の層があり、さらにその下、飛行島の底面には、二百メートルの厚さの浮力盤の層がある。どちらも特殊合金である。金属製の丸いお盆に土を盛って箱庭を作ったような趣なのだ。浮力盤は地球の重力を遮断《しゃだん》し、斥力《せきりょく》を利用して島を浮揚・推進させる基盤部で、されば島上の諸物を代って安定させるための引力盤が必要であった。
浮力盤の機構は、二〇世紀科学の用語では説明しがたいが、島の中心部(中央山の岩盤内)の振動素子結晶体《バイブロトロン・クリスタロイド》から送られる高速四次元微振動が、地球重力遮断に重要な役割を演じていることはいっておかねばならない。島全体が、その上のあらゆる物を合めて、微妙な振動を付与されている。そしてその振動のゆえに、飛行島は人間の目に見えない存在に化していたのだった。島の上空に来て、その重力圏にはいり、その振動を自分も付与されない限り、つまり、島の外や島の下(地上)からでは見えないのである。扇風機の羽根が回っている時に向う側が透けて見える、あの理屈である。四次元振動によって三次元世界から視覚的に離脱するのだと表現してもいいだろう。
クララたちの『竜巻』号がこの重力圏にはいると同時に、その振動を受けて島を見ることができるようになったのだ。振動といっても、島全体が一緒なので、ちょうど地球の自公転運動が地上では感知できないように、五官には何も感じない。
空中列車は旋回しつつ下降してゆく。中央山の中腹にある氷瀑《ひょうばく》、氷湖、外輪山脈との間の環状台地にある密林、碧潭《へきたん》、外輪の七峰がそれぞれ一大城門に削り成されている豪快な斧鉞《ふえつ》の跡、その外側の環状平原の、あるいは広潤《こうじゅん》な田野になり、あるいは繁華な都邑《とゆう》を作る有様、所々に湖をたたえつつ、周辺部のいちばん外側を取り巻く幅一キロ余の環状湖へ流れ入る七筋の川は、森の樹種でも、芝生《しばふ》の上の建物の色彩でも、尖塔《せんとう》の様式でも、花壇の配置でも、流域ごとに異なる七様の景観を提供していた。極地の氷河、砂漠のオアシス、いったいどこまでが人工、どこまでが天然なのか?……。
「着いたわね。降りましょう」
二人は連れ立って、竜の上顎《うわあご》と下顎の間にある出入口へ向った。ポーリンも侍医を従えてやって来た。デミル博士は何だか落ち着かない様子である。
実は彼は、彼女に隠していることがあるのだった。
――いちおう若夫人の前は取りつくろっておいたが、もし発覚したら!
そう思って彼はビクビクしていたのである。
四人はゾロゾロと竜の口から降りていった。『竜巻』号の船室《キャビン》はからっぽになった。ただクララの私室、ついさっきまで彼女の腰掛けていたあの安楽長椅子《ティミング・ソファ》の中では、まだ麟一郎がクララへの祈りに精神を集中していた……。
クララのほうは、麟一郎どころではなかった。期待に満らてタラップを降り立つ……。――まア! 空一面のヴァイオリン!
ドイツ語の成句に「天空一面にヴァイオリンが| 懸 《ぶらさが》っている」という表現がある。飛びきりうれしい恍惚状態《エクスタシー》を指すいい方だ。今彼女は降り立った瞬間、天から聞える音楽にふと眉《まゆ》を上げて、この成句どおりの光景を見たのである。肩に小さな羽根をはやし、頭上に光輪《ニンバス》をいただいた、裸の童形《どうぎょう》の天使たちが、小さなヴァイオリンを連ねて歓迎の合奏をしていた。子供のころから教会でなじみの天国の模様さながらなのだった。
「いつ聞いてもいいものねェ、クララ、これは畜童《ペンゼル》(pangel < yap + angel)といってね、ここの名物、アンナお得意の奏楽隊よ。ヤプーでもこんなに可愛い顔がよくもそろうものなのねェ」
ポーリンが、見上げながら解説した。
――これがヤプー! ペンゼル?
天使《エンゼル》の絵はなぜ裸の幼児で表現されるのか、クララは今それを悟った。ヤプーだから裸なのだ。縮小されてるから幼児に見える、去勢されているから性別不明と思える。しかし、なぜ縮小されているのか。なぜヤプーの癖に光輪をかぶっているのか。それは、クララにはわからなかった。
――実は、どちらも畜童に空中を飛ばせるためであった。この飛行島の人工重力圏内では、重さ十五キロ以内の物体には簡単に飛揚装置が取り付けられる。それが羽根[#「羽根」に傍点]と光輪[#「光輪」に傍点]である。羽根は正式には双小翼《アリュリー》(alulae)といい、揚力は皆無だが重力盤の作用を消去する振動を合成する。そうすると軽くなって、光輪のヘリコプターの牽引力だけで浮揚できる。この光輪は、白人用の|光 傘《ヘイロ・パラソル》(第二二章2「光傘」参照)と外見は似ているが作用はまったく異なる物で、名称も輪状翼《アニュリット》(annulet)という。この装置を使用するためにはヤプーの体重を幼児なみの十五キロ以下に減少させねばならない。そこで縮小機に掛けて作り出されたのがペンゼル、すなわち飛揚畜なのである。
あたりは一面の柔らかな芝生で、ふと身を倒して、両手で葉末をなで回してみたいような衝動にかられる。飛行場らしい建物もなかったが、遠く前方には例の中央山が傲然《ごうぜん》とそそり立って白く輝き、その手前には山岳を削り成した城が見える。高さは千五百メートルにも及ぼうか。上空からながめた時とは違って、のしかかってくる絶壁の威圧感。しかも、単なる自然の壮観ではなく、膨大な人力の加工を暗示して、プルーゲルの描いた『バベルの塔』の絵の持つ迫力を見せていた。――この飛行島全体の基盤にひそみ、これらの山々自体を造成した人工こそ真に驚異に値するものだったが、ここでは、それは自然と同一化して山々を削ったわずかの機械力だけが人為と見えていた。それですらピラミッドや巨大ダムを児戯視せしめる規模を示しているのである。
歩み出て来た出迎えの白人の頭上の光傘にふと気づけば、今下車したばかりなのに自分たち白人四人の頭上にも、いつか来ていた。振り仰いだ視線にふたたび映ずる天使たち、否、畜童隊の奏楽はますます佳境にはいった。器楽隊の後方上空には合唱隊がいて賛美歌を歌っていた。さらにその背後の空には奇妙な細雲の文様、WELCOME(歓迎)と読み取れるのは、気の迷いだろうか。
「|(女)《ダッチス》公爵オヒルマンにお目にかかりたいの。昨日、ご連絡はしてあるけど。……妾《あたし》は侯爵嗣女《マーショネット》ポーリン・ジャンセン」
「殿下にはスメラ山麓《さんろく》の別荘『|遊 仙 窟《フェアリー・ケイプ》』で皆様をお待ちでございます。ご案内いたします」
接待係の男は丁重な言い方でジャンセン侯爵家への敬意を示した。
「スメラって、あの中央の大雪山ね|?《*》」
「さようでございます」
「そういえば、昨日、一緒に雪上畜狩猟《プキー・ハンチング》になんていってたっけ。久し振りのプキーも悪くないわね」
ポーリンは独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやきながら、クララとウィリアムのほうを振り返って、
「さあ、行ってみましょう」
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* 梵語《ぼんご》でスメル sumeru といえば、須弥山《シュミセン》(蘇迷廬《ソメロ》)のことである。世界の中央にある高山で、七金山がこれを囲繞《いじょう》し、さらに海洋が取り巻く、とされる。飛行島の構造やその中央山スメラの名が、航時旅行者によって古代印度に伝えられた結果、この特色ある世界説を生んだのである。――また、ヤプー文化史上は、高天原や天照大神《アンナ・テラス》の名と結びついたスメラの語は、至高者の御座所[#「至高者の御座所」に傍点]の意から、首長《エンペラ》の接頭辞化して、皇《スメラ》の字が当てられるに至った。「皇」の字が「白」と「王」とから成るのも意味のないことではない。
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2軽畜車《プクーター》
「乗物は何になさいますか。地下動路《エスカ・ロード》か、軽車両でしたら黄金虫《ビートル》か軽畜車《プクーター》……」
レイノオ――接待係はそう名乗った――が尋ねた。ポーリンは、言下に答えて、
「プクーターだわ。時間はかかるけど、途中の景色《けしき》が楽しめるもの……」
「畏《かしこ》まりました」
間もなく、一行の前に、五台の奇妙な乗物が――あるいは、五匹の奇怪な動物が――やって来た。これが軽畜車とでも訳すべきプクーター(pcooter < yap + scooter)であった。
読者への説明には、命名の由来となったスクーターを利用するのが近道であろう。スクーターの車輪を小型にし、前輪も座席《シート》の下に持って来る。足踏板《ステップ》やボディの下縁は地面すれすれまで下げられる。前部《フロント》はハンドル以外不要になってしまうが、停車中はハンドルの支軸(前パイプ、フォーク)が結んでハンドルは左右の支持脚となって車体を安定させる用をし、前部は全然なくなっている。乗手がサドルに腰をおろし、始動スイッチを入れると支軸は伸びてハンドルが上り、停車すると同時に縮んで脚に変る。――そんな構造の車を想像されたい。走行中はちょっと普通のスクーターに似ているが、停車した時、乗手の前面をさえぎるものがないし、安定も充分だから、そのまま一種の椅子《いす》として使用できるわけである。
さて、そこで今度は、その新型スクーターのボディを、体を縮めてうずくまった原《ロー》ヤプーの体と置き換えて想像されたい。台板の上に正坐し上体を前に倒し、腕は肘《ひじ》まで板につけると、台が低い上にちょうど畜体の下方に隠れるかち、まるで地上に土下座したように見える。その背中が座席になり、スフィンクスのように肘から先をそろえて前に出した両腕の、手首と手の甲が踏板代用で乗手の両足を受け、一方がアクセル、一方がブレーキになっている。そして十本の指はエンジン――マッチ箱大の強力な原子動力機関《アトミック・エンジン》が後輪の車軸に仕込まれている――へ電流で指示を送る生きたスイッチになっているから、乗手の命令に応じての運転を遂行すると同時に、必要とあれば、自動操縦もできる。つまり、この軽畜車のヤプーは、自分の肉体を車体そのものに提供しつつ、自ら運転手も兼ねているのだ。
運転のためには前方注視が確保されなければならない。それには次のような仕掛になっている。伸縮するハンドル支軸の中ほどに対物魚眼レンズが仕込まれていて、停車中は台板の下に沈み、発進の際に座席の上縁と同じ高さまで上るのだが、ヤプーの顔とこの魚眼レンズとは鏡胴で連結される。肘と膝《ひざ》をついて背中を座席に提供するヤプーの頭部は乗手の両脚の間に位置することになるが、その顔は鏡胴の手前の端を顔の大きさに広げ、接眼レンズを付けた覆面《マスク》にスッポリと収まっている。鏡胴の他端が上下するごとに、覆面に強制されて、顔も前を向いたりうつ向いたりするわけである。
もっとも、以上の説明は女子用の車の場合で、男子用はもう少し複雑になる。というのは、男子は、女子のように必ずズボンをはいているわけではない。スカートの時にはまたがる姿勢はとりにくいから、鏡胴が座席と同じ高さで腰掛けた両脚の間を前方へ抜けるのでは都合が悪い。そこで、男子用の車では、鏡胴はプリズムを使って凹状に屈折し、スカートの裾《すそ》に触れずに女子用の車と同じ視界を得ているのである。(読者は、現在の自転車では、女子用の車のパイプの構造が、男子用のように横に通らず、V状になっていることを連想されたであろう。事情はそれと同じである)
魚眼レンズはハンドルの支軸に固定されて上下する。そこで、ヤプーは、進行中[#「進行中」に傍点]広く前方を見ることができる。ただし、余所見《よそみ》は全然できないのだし、停車中[#「停車中」に傍点]は視界自体が存在していないのだから、これは乗手の必要な時に必要なものだけを見させ、それ以外はまったく盲目の状態に置くに等しい。つまり、ヤプーの視力が、ちょうど自動車の尾灯の点滅と同様、発進・停止の機構に連動従属しているのである。そして、乗手がハンドルを動かすとヤプーはその方向を見ることを強制される。しかしまた、自動操縦させる場合には、乗手はハンドルを緩解しておけばよく、ヤプーは、覆面に固定された頭部を左右に振ることで鏡胴を逆に動かし、ハンドルを回して相当な角度まで方向転換を自主的に行なうこともできるのである。
これが軽畜車プクーターである。軽便さでは昔の自転車に相当するが、操縦したい時だけして飽きれば車自身に任しておける気楽さは、昔のどんな乗物にもなかったものだ。そして、水中におけるカッパがそうであるように、自力随行性能もあるの|で《*》、サイクリングに行って、歩きたい時は車を忘れて歩き回ることもできる。車は黙ってついて来るだろう。その代り、一週一度は畜体への|充 填《チャージング》――|給 餌《フィーディング》をせねばならない(エンジンのほうは原子機関だから半永久的である)。……機械には違いないが家畜としての性質も持つ、生きた乗物プクーター。田園の散策などに好適と、よく別荘などに備えられるのだが、この飛行島では、広いといっても限られた面積の島とて、乗手が目的地さえいえばあとは完全に車の自動操縦に任しておけるので、特に利用価値が高く、多数が設備――あるいは飼育――されているのであった。
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* プクーターは、第一一章4「自動椅子」で紹介した自動椅子《オート・チェア》に似ており、被覆を取った自動椅子といってもいいくらい共通点も多いが、この自力随行性の点で自動椅子よりも家畜的[#「家畜的」に傍点]なのである。
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五台のプクーターには、それぞれ異なる色の|畜 肌 焼 彩《ブランディング・タトゥ》(第一八章4「化粧肉椅子と畜肌焼彩」参照)が施してある。クララの前に来たのはグリーン。もちろん女子用だ(彼女自身はその区別も知らなかった)。ポーリンを見様見真似で、椅子に腰をおろすようにして、うずくまったヤプーの背中に乗った。ハンドルが上昇して来る。両膝の間にうつ向いていた頭部がだんだん顔を上げて来る。
――お面をかぶってるわ。あら、長い鼻……かしら? カメラの望遠レンズの筒みたいに太いけど……水平になった……。
両脚の間にせり上って来る鏡胴の観察に気を取られていたクララの耳にポーリンの声が聞えた――、
「デミル医師《さん》、あなたはどうする?」
「は、私は、できますれば別行動を取らせていただきたいのでして。此処《こちら》の矮人倉庫《ピグミー・ハウス》のほうへ参りたいと存じます」
「研究? 熱心なもんね。いいわ。この島がヤプン諸島へ着いて妾《あたし》たちが富士山飼育所《フジヤマ・ヤプーナリー》に降りる時に妾の伴《とも》をするのを忘れないようにね」
「畏《かしこ》まりました。では……いってらっしゃいませ」
まだ彼女に知られてない自分の失敗に、何とか彌縫策《びほうさく》を講じようと考えていた博士にとっては、単独行動できるのはもっけのさいわいなのであった。
空中を飛び交す畜童《ペンゼル》たちの奏楽と合唱に送られながら、案内役レイノオの車を先頭に、ポーリン、クララ、ウィリアムの順でプクーターは出発した。各人の頭上には|光 傘《ヘイロ・パラソル》が遅れずについて来る。金色、栗色《くりいろ》、亜麻色の髪の毛が次々に美しく後方にたなびいて、一行思わず鼻歌の出る快適なサイクリング気分であった。芝生の園を過ぎ、大吊橋《おおつりばし》を渡り、一直線に正面城門の山腹をうがったトンネルに突っ込んで行く。
道の両側に展開する人為的自然の諸風景の美学、|橋 梁《きょうりょう》やトンネルの工学、これらについても、筆者は二〇世紀のそれと異なるイメージを持っており、ここで一言したい誘惑を感じる。しかし単なる未来世界の見聞記でなく、まずマゾヒストのための読物でなければならないこの小説で、ヤプーと関係のない事物の記述にあまり道草を食うのは本意でないから、途中の説明はいっさい省略し、すべて読者の想像にお任せすることにしよう。
平地走行十五分、山地登高十五分で、一行は大雪山スメラの山麓《さんろく》に達した。雪をかぶった山腹をえぐる大洞窟の中へ四台のプクーターは次々にすべり込んで行った。|遊 仙 窟《フェアリー・ケイプ》に着いたのだ。プクーターは別々の個室にはいった。
待っていました、といわんばかりに畜童の数匹がクララのほうに飛んで来た。
「お召替えをどうぞ」
というより早く、皆でテキパキと作業を始めだした。ここは更衣室らしかった――。
――畜童は、音楽隊ばかりではなく、黒奴従者《フットマン》の代りに身の回りの世話もするんだわ。
大鏡の前に立って、脱がされるに任せつつ、日常にこの空行く小人奴隷《メンヒェン》[#読取不可]を召し使うことの便利さをクララは思いやった。
下着をすっかり替える(第一二章1「靴具畜人」参照)時に、畜童たちは手分けして彼女の体にクリームを塗りつけるのだった。その作業中、彼女は口笛で肉便器《セッチン》を呼び出し、起立号令《アシッコ》を掛けた。そして、ふと鏡の中のプクーターの、今し方乗り捨てた座席《シート》の形に首を傾けた。明らかにさっき出発前に見た時よりふくらみ、尻《しり》の形の凹みさえついた|肉 椅 子《フレッシー・チェア》に変っていたのはなぜだろう?
読者には例により説明しよう。これは、肉クッションの製造に使用される海綿状皮膚癌《スポンジ・カンクロイド》を利用した|速 成 肉 鞍《クイック・フレッシーサドル》である。各プクーターは乗用就役《サービス》に車庫(畜舎)を出る直前に、背中に癌促進物質原液《マリグノリピン》を塗布される。これが乗手の臀部体熱《ヒップ・ヒート》で作用し始めて皮膚癌を作り出す。それは尻の形状に応じ、密着して外側からスッポリ包みながら盛り上るが、筋肉組織の中に海綿状の細胞|空隙《くうげき》を生じるスポンジ化は臀部下圧力《ヒップ・プレッシャー》に応じるので、尻に接する背面部の強性は強化され、車の運行から生じる振動は完全に消去される。クララ自身は気づかなかったが、腰をおろして五分ほどで畜体の変化現象が完成してここまでの道程を快適なものにして来ていたのである。あとで車庫にはいる前にこの|肉 鞍《フレッシー・サドル》は――クララの臀部に合わせて作られるために、他の女性の腰ではピッタリ合わないから、残しておいても仕方がないので――切除されてしまうのだ。乗用就役の度ごとに、背中の肉をふくらませたり削られたりするのがプクーターの宿命なのだった。
身支度が進み、頭巾《ずきん》はないが派手な縞地《しまじ》のアノラック風の上衣と膝下《ひざした》の締った寛闊《かんかつ》なジョパーズ(乗馬ズボン)風のズボンをクララは着せられた。どうやらスキー服らしい。脱ぎ捨てた上衣の胸の昆虫ブローチが目につき、アノラックに付け直す時に朝の会話を思い出し、連想が――心をかすめるといった程度だが――旧愛人に及んだ。――今どうしてるかしら、リンは?
彼女のその思念が通じたわけではないが、ちょうどそのころ、彼自身の必死の祈りのお陰で、はるか彼方《かなた》『竜巻《トーネード》』号客室内の長椅子《ソファ》の中では、麟一郎《りんいちろう》の視聴覚が奇妙な復調を示し始めたのだった。クララのブローチに仕込まれた超小型自動放送局から送られる混成脳波が、祈念集中によって著しく精神交感度の高まった彼の脳神経に受信され、直接には外界からの刺激を遮断《しゃだん》された目と耳とに、クララの見るところを見、聞くところを聞かせるに至っていた(前章3「従畜馴致椅子」参照)。完全な脳波同調はまだまだであったが、視聴覚に関する限りは、今後麟一郎は、長椅子に吊《つ》られたまま、クララと同じ経験を持つことになるのだ。
隣室に導かれた。レイノオが待っていた。応接間らしい。簡素な調度ながら、窓からスメラ山頂が望めて遊仙[#「遊仙」に傍点]の名に恥じない神韻《しんいん》を感じさせる野趣のある部屋《へや》だった。続いて他の二人も似た服装でやって来た。
奇妙な椅子があった。原ヤプーの畜体と、肉質金属パイプが組み合わされていた。両膝をつき、尻を浮かせ、上半身を前に倒した畜体の両腕が後ろに思いきりひねられて、この両手首・両足首が別々の二本の縦パイプに錠で固定されていた。両手首を上下することによって背中の高さが変る。つまり腰掛ける人の都合のよい高さに座席高を変えられる肉椅子である。
今は遠慮もなく、これに腰をおろしてクララが窓から外を望むと、上からすごい斜面を直滑降《ちょっかっこう》して来る人影があった。足元から雪が散った。颯爽《さっそう》たるスキーヤー振りである。
「あっ、あれ、アンナ・テラスじゃない?」
ポーリンが――正式の称号で呼ぶのも忘れて――叫んだ。レイノオはうやうやしくうなずいて、
「はい、オヒルマン殿下《さま》です」
窓枠《まどわく》が上下左右に広がった。その視野のまっただ中にアンナの姿がぐんぐん大きくなってきた。向うもこちらのことに気づいているらしく、
「ヤッホー」
曲げていた腰を伸ばし、両手をあげ、よく透《とお》る声で叫んだ。手にはスキー| 杖 《ストック》ならぬ半弓《ボウ》が握られているようだった。
「クララ、素敵に奇麗な女性《かた》を紹介するわ」
とポーリンがいい、ウィリアムも、
「イース第一の美人と謳《うた》われる人ですよ」
と相槌《あいづち》を打つ。
その美女はますます近づいて来た。
――この広大な飛行島《ラピュータ》の女主人《ミストレス》・前地球都督・女性探検家《レディ・エクスプローラー》の第一人者、元赤Y字社総裁、そして世界一の美女……公爵《ダッチス》オヒルマンとはどんな女性《ひと》か?
記者会見に出て来る大物を待つ新米の女記者のような心境で、クララは先に耳にした彼女の幾つもの肩書を思い出しながら、知らず知らず胸を高ぶらせていた。
3天照大神《アンナ・テラス》
視界が開け、人声が耳にはいった。夢を見てるはずはないのだ、意識は継続してるのだから。
――頭が変になって幻覚が起ったのか?
麟一郎《りんいちろう》は頭の隅《すみ》でそう思った。縦横に童形の天使《エンゼル》たちが飛び交う光景は、幻覚としか説明できない。
クララの声はするが姿は見えない。見えるのは奇妙な椅子に掛けているポーリン、ウィリアムと、立っている見知らぬ男。椅子は両腕を上にねじられてうずくまった人体で、麟一郎は昨日、円盤艇《ディスク》内でポーリンに腰掛代りにされたことを想起した。ここにも仲間がいる! ヤプーたる同類意識が彼にわいた。
掛けた二人はスキー服装であったが、ただその仕立方が何かおかしい……そうだ! 日本の上代の男の服に似ていたのだ。留学中も祖国を忘れまいと「記紀の註釈書」を愛読していた彼は、上代人の服装の挿絵《さしえ》に親しんでいた。膝下《ひざした》で締め上げたこのズボンの仕立は埴輪《はにわ》・土偶《どぐう》そっくりではなかったか。そう思って見れば、袖口《そでぐち》で締め、ウエストを絞った上衣の仕立もそのズボンにふさわしい。服地に色や縞《しま》があり、スキー服装と思うからアノラックに見えるのだが……。
窓の外に、遠くからこちらへやって来る人影が見えた。雪の斜面を滑降《かっこう》するスキーヤーと思えたが、近づいたのを見ると猟師のように弓矢を携えていた。彼は、先ほどの観察の連想から、天照大神が乱暴者の弟神を迎えるために男装した場面の挿絵を想起した。『日本書紀』神代記のリズミカルな名文がマザマザと彼の記憶によみがえって来た。
……乃《すなは》ち髪《みぐし》を結《あ》げて髻《みづら》に為し、裳《みも》を縛《ひ》きまつりて袴《はかま》に為して、便《すなは》ち、八坂瓊《やさかに》の五百箇《いほつ》の御統《みすまる》を以《も》て、其の髻鬘及《みいなだきおよ》び腕《たぶさ》に纏《まきつ》きつけ、又|背《そびら》に千箭《ちのり》の靫《ゆき》と五百箭《いほのり》の靫《ゆき》とを負ひ、| 臂 《ただむき》には稜威《いつ》の高鞆《たかとも》を著《は》き、弓彌振《ゆはずふ》り起《た》て、剣柄《たかび》急握《とりしば》りて、堅庭《かたには》を踏《ふ》みて、| 股 《むかもも》に陥《ふみぬ》き、沫雪《あわゆき》の若《ごと》くに蹴散《くゑはららか》し、稜威《いつ》の雄誥奪《をたけびふる》はし……、
近づく姿は、見れば見るほどこの文章と同じだった。黒髪は左右に綰《わが》ねられて髻《みづら》になっていた。ポーリンやウィリアムのと同じ仕立の、股上《またうえ》はゆったりして膝下を絞ったズボン、なるほど、| 裳 《スカート》を縛《くく》って袴《ズボン》にしたという感じだ。ヘア・バンドもネックレスも大きな宝石で輝いていたが、これが五百箇《いほつ》御統《みすまる》の玉ではあるまいか。背中には短い矢をたくさん差した靫《ゆき》(矢袋)を背負い、左臂《ひだりひじ》には革製《かわせい》の鞆《とも》(弓射用具)を着け、手には半弓、腰には短刀、堅庭《かたにわ》(大地)を踏む代りにスキーをはいていたが、文字どおり雪を蹴散《けち》らし、ヤッホーと雄叫《おたけ》びしながら降りて来るのだ。そして、男の扮装《なり》でありながら、実は女性と直感される点でも、女神の男装を叙するこの文章にかなっていた……。
と、そこへ、ポーリンのはずんだ声がして、
「あれ、アマテラスじゃない?」
と響き、続いて男の落ち着いた返事――、
「はい、オオヒルメさまです」
麟一郎がオヒルマンをオオヒルメと聞いたのは、書紀に、天照大神の本名を「大日女[#表示不能に付き置換え「雨+口3個+女」X0213画区点1-47-53、376-下-18]貴《おおひるめのむち》と号《まう》す」と書いてあるからだった。後に述べるように、アンナ・オヒルマンが前史地球世界の征服者となったころは、古代ヤプー族は、彼女をオヒルマン貴女《むち》|と《*》呼んでいたが、その後アンナ・テラスの渾名《あだな》が『イース』国内に一般化すると、ヤプー族も彼らの宇宙の支配者なる女神を(少し訛《なま》って)|天 照 大 神《アマテラスおおみかみ》と尊称するようになり、今までの称び方はすたれた。そして語部《かたりべ》たちの口承の中に、しだいにオオヒルメむちと転訛《てんか》した末、書紀の編纂者《へんさんしゃ》には、本来アイルランド系の姓である O'Hillman がアンナ・テラスの個人名であるかのように誤解されるに至ったのである。
麟一郎の聞き違えは、文化史的由来から無理もなかったし、また、偶然正しい識別を得ていたわけだったのだが、彼自身にはばかげた虚妄《きょもう》としか思えなかった。
――幻覚だ。夢なんだ、これは!
[#ここから2字下げ]
* 大日女[#表示不能に付き置換え「雨+口3個+女」X0213画区点1-47-53、376-下-18]《オオヒルメ》貴《むち》の貴[#「貴」に傍点]の訓に書紀は武智[#「武智」に傍点]の字をあてている(巻第一)。本居宣長《もとおりのりなが》は、師説を合わせて、「貴《ムチ》とは女《メ》であり、女《メ》は美《ミ》である」と説いたが(『古事記伝』六之巻)、真義の半ばしか言い得ていない。古代ヤプー族は、美[#「美」に傍点]しいイース女[#「女」に傍点]の武勇[#「武勇」に傍点]と才知[#「才知」に傍点]を崇《あが》めて、彼女らを武智《むち》と呼んだ。そして、白人であるというだけでヤプー族は、彼らを貴族と見たから、むち[#「むち」に傍点]の語は貴婦人[#「貴婦人」に傍点]の意義を得た。つまり、オヒルマンむちとは、オヒルマン貴女《さま》(lady O'Hillman)の意なのである。――イース人の直接支配がやむと、この意義はすたれたが、代って革鞭[#「革鞭」に傍点]を意味するようになった。棒や竹の筈《しもと》しか知らなかったヤプー族にとって、珍棒に代表される革[#「革」に傍点]製の鞭[#「鞭」に傍点]はイース女性の――その権威・権力の――象徴だったから、持主に代ってむち[#「むち」に傍点]と呼ばれるようになったのだ。
[#ここで字下げ終わり]
窓から飛び入って来るかと思う勢いで一気にすべり降りて来たアンナは、降り切ったところでクリスチャニアの妙技を見せ、さっと視界の左に去った。その瞬間、彼女の足の下にある裸形の人体?――ただのスキーではなかった――が見えた。しかし、それが何物であるかと思い巡《めぐ》らす間もなく、クララの関心は、帰着したアンナが服も替えずにこの部屋《へや》へ駆け込んでくるほうに向けられねばならなかった。
「お待ちになった? いえね、|黒 獣 狩 猟《ブラックゲイム・ハンチング》にご案内しようと思って、下見に行ったらひどく手間どっちゃって……」
あけすけで気さくな声が話し手の姿に先行した。続いて現われたアンナ・テラス……。
輝く美貌《びぼう》という形容はしばしば濫用されるけれども、現実に光輝[#「光輝」に傍点]という印象を人に与える顔はめったにあるものではない。しかし、今クララの目に映じたこの有名な美人の顔は――化粧したようにも見えないから、皮膚の生得《しょうとく》の性質なのだろうが、――まさにその形容に値した。桃色の肌《はだ》が内側から光っている感じなのである。ポーリンのような純粋の金髪ではなくて、茶色がかったのが、長くうねり、肩まで届く豊かな頭髪。体格はグラマーではない。豊満というより引き締った肉づきであった。身長はクララくらいだが、目鼻立ちは大柄で、長い眉《まゆ》の下のつぶらな緑色の目、立体幾何学の標本のような線を示すギリシャ鼻、横一文字の紅唇《こうしん》……一つ一つ取り上げれば難もあろうが、配置の妙に見事な調和を得て、一目見たら忘れることのできない妖艶《ようえん》な美貌を形造っていた。若い顔ではない。小皺《こじわ》一つないが、人生経験の数々がどこかに痕跡《こんせき》を残していることは争われない――しかし、何歳くらいかは見当もつかなかった。肌の状態だけからいえば三十歳でとおる顔である。いや、肌の光輝《かがやき》が年齢《とし》のことなど考えるのを忘れさせてしまうような年増女の顔でもあった。
さっき、足の下に踏んでいた物と弓射具(弓・靱・靹)を置いてきただけで服装は変っていなかったが、アノラックの後襟《うしろえり》から黒い頭巾《フード》が背にぶら下っていた。よく見ると、黒髪の鬘《かずら》に目鼻付きの覆面《マスク》をつけたものだ。左右に結った髻《みづら》が耳をおおうようになっているらしい。ヤプーの頭皮・顔皮を剥《は》いで作った畜人皮《ヤップ・ハイド》(第一五章1「畜人皮の水中服」参照)の覆面帽とまではクララにはわからなかったが、さっき滑降中、黒い頭髪をしているように見えたのはこの新型頭巾をかぶっていたためだ、ということは察しがついた。――部屋中に良い匂《にお》いが立ちこめてきたのは、イース人の例として独特の|個 人 香《パーソナル・パーフュム》を身につけていたからであろう。
ポーリンの母アデライン卿とは親友の間柄で、ジャンセン令嬢たちを幼い時から知っているアンナは、懐かしそうに抱擁《ほうよう》・接吻《せっぷん》して、
「ご機嫌《きげん》よう、ポーリー。お母さまもお元気で何よりね」
「ええ、お陰さまで。それに今日はまたぶしつけなお願いをしちゃって……」
「いいのよ。暇を持てあましてるんだから。……富士山《フジヤマ》へはしばらく降りてないの。今日は久しぶりの降臨で楽しみにしてるの……」
「お願いしますわ。ところで、こちらの二人をご紹介します……」
金色のマニキュアをした温かい手がクララの手を握り、緑色の瞳《ひとみ》が微笑をたたえて彼女の視線を受けとめた。慈愛が肌の光輝と共に肉体の内側からあふれ出て回りの人間を包んでしまうような、温かい平和な雰囲気《ふんいき》の持主だと感じられた。さっき、山上から弓矢を携えてすべり降りて来た時の雄姿から発散していた激しい気魄《きはく》の持主と同一人とは、ちょっと考えられない気がする。アンナ・テラスの和御魂《にぎみたま》・荒御魂《あらみたま》の使い分けは、高い天賦《てんぷ》と長い体験にもとづく人生知にささえられていて、クララ程度の人生経験では察知し難いほどの円熟境に達していたのだ。ともあれ、クララは彼女から、単なる社交技術の産物ではない優しい愛情を感じ取り、肉体ではまだ三十歳の若さを示している女性に対し、まるで昔祖母の膝に抱かれていた時のような懐かしさを覚えたのだった。
ウィリアムも同じような親しみと気やすさをアンナに感じたらしい。男に似合わぬおてんば[#「おてんば」に傍点]な性質(第一三章2「ウィリアムの心配」参照)も手伝ってのことだが、初対面の挨拶《あいさつ》もそこそこに、いきなり、彼女に著作の進捗《しんちょく》状況を尋ねたものだ。(同節参照)
「[#ここからフォント太字]『回想録』[#ここまでフォント太字]の第二巻はもうお書きになったんですか? 出版はいつごろで?」
[#ここからフォント太字]『回想録』[#ここまでフォント太字]というのは、一昨年第一巻を出してノン・フィクション部門のベスト・ブックになった[#ここからフォント太字]『妾達姉妹は神話となった』[#ここまでフォント太字]のことだ。
「まだ執筆中よ。本になるのはいつのことやら……」
アンナは笑って答えた。
「スサノオは結局どうなるんです?」
「そんなに先が待ち遠しいの?」
「ええ、子供みたいですけど……」
「じゃあ、後で少し話してあげるわ。狩場まで登る時にしましょう」
アンナは気軽に約束をして、そばに控えたレイノォを手招き、何事かを申し渡した後、客人一同にいった。
「さあ、皆さんを狩場にご案内しますけど、その前に、一杯ソーマを飲みましょうよ」
長椅子の中では麟一郎《りんいちろう》がこれらの一部始終を見ていた。場景の移り行きが常に一定の視点からなされていることから、彼は、この幻覚がクララの胸の辺にカメラを置いて写したテレビ画面に似ていることを感じていた。場面の推移は、夢のように唐突《とうとつ》でもなく、映画のような転換技法も持たない。単純で合理的だ。ただ、内容について行けない……。
女の足の下には、スキーの代りにうつ伏せた裸形の人体があった。その女の頭上の髪の色や形から、男装した古代日本の女性を想像していたら、何と女は、無造作に、頭の皮もろとも顔の皮を脱ぎ捨てた。そしたら、その下から現われ出て来たのは、黒髪の日本人どころか輝くような美貌の白人女性の顔ではなかったか!……。
――やっぱり幻覚だ。悪い夢を見てるのに違いない。
自分にそういい聞かせ、そう信じることで理性を保つのに精一杯の麟一郎であった。
それに、あまり気を奪われていると、クララへの祈念がおろそかになり、覿面《てきめん》に肉体的苦痛が襲って来る(前章1「祈りは聞かれた」、3「従畜馴致椅子」参照)。麟一郎としては、クララのこと以外はなるべく考えたくないのだ。だから、裸形の人体を見て「あれもヤプーだろうか」と思ったり、頭や顔を一皮|剥《は》いだのを、「結局あれは変り型のアノラックの頭巾《フード》だったんだな」と納得したり、白人女性の光輝ある美貌に驚いて、例の「大日女[#表示不能に付き置換え「雨+口3個+女」X0213画区点1-47-53、376-下-18]貴《おおひるめのむち》と号《まう》す」という文章の続きに、「此《こ》の子光華明彩《みこひかりうるは》しくして、六合《くに》の内《うち》に照《て》り徹《とほ》る」とあるのを連想したりする程度の反射的な感想は持つが、それを分析する余裕はなかった。それに場景も刻々に変る。我々が、映画の一場面で立ち止れず、次々の場面ごとの印象の受入れに追われてしまうのに似た受動的な体験なのだ。
しかし、彼が発狂してしまわないかぎり、こうした見聞でも積み重ねられてゆくうちに麟一郎に真相を悟らせるだろう。なぜなら、彼には日本神話の知識があるから、深く考えないでも、該当する事物への理解と認識は得られるはずなのだ。たとえば、ウィリアムがアンナに対して尋ねた中の「スサノオ」の一語は、クララにはまだ無意味であったが、彼の脳髄をふたたび激しく刺激したのである。……
けれども、思えば、幻覚だ、夢だと信じているほうが、彼には幸福かも知れない。彼は自分の身に降りかかったような家畜化の運命が、未来世界において日本民族全体を襲ったらしいということを、円盤艇内でのポーリンのヤプー論議(第四章参照)以来、おぼろげながら察知していたのだが、それを不当な抑圧と観ぜしめる民族的自尊心の根底には、万世一系の皇統を生んだ、美しい伝承の神々への愛着があった。彼は留学に際して「記紀万葉」を携えることを忘れなかった。日本神話の真相を知ることは、彼の人格をささえる最後の民族的プライドをも破壊してしまうことになりかねない。たとえば、今彼がアンナを一見して連想した「光華明彩《ひかりうるは》しく」の文字にしても、彼は美貌の形容として借用したくらいのつもりだが、実は古代日本人が彼の見たその当の白人女性の美貌に彼同様魅せられて、「日《ひ》の女神《めがみ》」と崇《あが》め、その光輝に賛嘆して使用した表現で、借用[#「借用」に傍点]どころか、まさに当のアンナにささげられた、現実に彼女に所属[#「所属」に傍点]する形容なのだという真相を知ったら、彼の連想はもっともっと苦いものであっただろう。
だが、真相がいかに苦くとも、遠からず麟一郎はそこへ到達するに違いない。彼の知識と知性は、真実の見聞をいつまでも幻覚として自己|欺瞞《ぎまん》することに耐えないだろう。そしてさらに思えば、今後クララに飼育されるヤプーとして生きねばならない彼の本当の幸福のためには、真実の苦い杯を少しでも早く飲み干すことがむしろ必要なのだ。|白 神 崇 拝《ホワイト・ワーシップ》の信仰に悟入するうえには「天照《アマテラス》大神は実は白人女性アンナ・テラスである」という史実の認識はプラスである。将来麟一郎がヤプーになりきって、白人種の家畜たるヤプーの生に安心立命する心境に達した時に問えば、彼は、その史実の知識あればこそ天照大神《アンナ・テラス》への崇愛の念を失わずにこられたのだと、感謝して語るに違いない。
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第二六章 遊仙窟で
1雪上畜《プキー》
『|遊 仙 窟《フェアリー・ケイプ》』の客間で、|肉 椅 子《フレッシー・チェア》に坐る四貴人は和御魂《にぎみたま》に包まれていた――
畜童《ペンゼル》たちは霊液ソーマの杯をささげながら空中を飛んで来る。貴婦人に給仕する翼ある童児[#「貴婦人に給仕する翼ある童児」に傍点]、ロココ名画でおなじみのヴィナスとキューピッドの構図の数々に似ていなくもない。
「時間が許せば、|水 晶 湖《クリスタル・レイク》の『氷宮殿《アイス・パレス》』でプケー|ト《*》のおもてなしもしたかったんですけど」――温かい緑の液体をすすりながら、和御魂の主《ぬし》アンナ・テラスがいった。「今伺えば、今日中にシシリーへお帰りのご予定とか。もうこの島は東へ発進しましたから一時間半もすれば富士山《フジヤマ》、ご予定のほうは大丈夫です。でも、その間にというと、雪猟場ご案内がやっとですの。プキーなんかも本当は倉庫で皆様直々にお好みのをお選びいただくべきでしょうけど、時間が惜しいから失礼して、こちらからあてがいの三台で我慢して頂戴《ちょうだい》。レイノオ、お目にお掛け……」
遠慮してか、一人だけ腰をおろさずにいた秘書にアンナは命じた。
「はい、殿下」
壁が開いて床が動いて来た。床の上には三台の――三匹のヤプーが、それぞれ色の違う二本のスキーの上に両手両足をついて四這《よつんば》っている。金属の首輪、風変りな旭日《きょくじつ》模様の額紋、背中にはポツポツと一面のほくろ――ではない、小さな火傷《やけど》の跡らしかった。(長椅子に吊《つ》られたままこの光景を念視している麟一郎《りんいちろう》なら、お灸《きゅう》の跡と表現しただろう)
――さっき、山から降りて来たアンナさんの足の下にいたのはこれだわ!――これがプキーなのね。……
クララは心にうなずいた。
「三台とも、このごろスベロー星からの便で入庫したばかりの|ノラール物《ノラリヤン》よ」とアンナがいった。「妾《あたし》もまだためしてないの。大学卒業成績は皆よかったらしいんですけど」
「嬢《ミス》コトウィックは初めてです。いちばん初心者向きのを……」とポーリン。
「そうお。じゃ、これがいいわ、貴女《あなた》には」とアンナは、桃色のスキーをつけ、金色の首輪をしたのをクララに指示した。「これは首席卒業の|金 賞 畜《グラン・プリもの》よ」、「ありがとう。……」とクララが微笑《ほほえ》んだ。
スキーなら素人離れした技術の持主であるクララだが、プキーなんて初めて。まして大学だの、首席だの、何のことかちっともわからない。
――そうだ。|諮 問 器《レファランサー》に聞いてみよう。プキーとは?
器械を取り出しながら彼女は、自分の足元に来た奇怪な生物《いきもの》をながめやった。
ポーリンとウィリアムのほうは慣れたもので、「|熊 (狩) 科《ベアハンチング・セクション》卒業?」とか、「|鍵 点 反 射《キーポイント・リアクション》の指数値は?」とか、専門的な質問をレイノオに浴びせ、さらに、プキーを仰向けに引っ繰り返して、両手・両足|諸共《もろとも》スキーを左右に開かせ、腹部一面に焼き込まれた文字と数字を検分したりした。
「なるほど、成績は飛びきりですね」
ウィリアムは感心したようにいった。
「|いい猟畜《ナイス・ハンター》ね。気に入りましたわ」
そういったポーリンの口調は、クララが新しいスキーを友達から借りようとして、材質や目方を調べたうえで「いい品物ね」と賞《ほ》める時に使うであろうような調子で、彼女にとっては眼前のヤプーが知性[#「知性」に傍点]を持っているということがまるで念頭にないようだった。学校の成績[#「学校の成績」に傍点]が問題になり得るほどの知性の持主を、かくまで徹底して器物[#「器物」に傍点]視できるものなのか。
「幸い、皆さん、お気に召したようね」、アンナは美しい光り肌《はだ》を輝かせつつ微笑《ほほえ》んで、「レイノオ、先に|上昇機の旗門《リフト・ゲイト》へ行って準備してておくれ。こちらはもう少しお話ししているからね」
「畏《かしこ》まりました」
「さあ、もう一杯いかが? 皆さん」
クララが諮問器から学んだ大要をここに紹介しておこう。
彼女の足元にいたのは雪上畜《スノウ・ヤプー》という畜人系動物《ヤップ・アニマル》の一種であった――ただし自種繁殖せず、原《ロー》ヤプーの仔畜《カプ》から後天的に育成されるので、原《ロー》ヤプーの変種ともいえる――が、人間(白人)からは道具としてのスキーと同視され、自動《オート》スキーとかプキー(pki < yap + ski または pookie ともつづる)とか称ばれているものである。
プキーの生産地はスベロー星で、大陸の七割は万年雪の山岳地帯である。他星産の原ヤプーで皮膚処理とエンジン虫寄生の済んだ生後十ヵ月くらいのものをスキーに装着して、この星の山岳部分に放し飼いにする。一匹だけでなく数百・数千匹を同時に放つのである。
装着は次のようになされる。スキーには後半部に、前後にすべり動く嵌付《はめつ》けの滑台《スライダー》があって、まず足裏の前半分がこれに生体糊で接着される。膝《ひざ》をつかせると脛《すね》が滑台に載る。その姿勢で両手を前につかせ、| 掌 《てのひら》をスキーに接着・固定する。両掌《りょうて》を支点にして、下半身は滑台によって前後運動できるし、その範囲内で背と尻《しり》の上下運動もできるが、足裏と掌が接着されているから、根本の四這《よつばい》姿勢《しせい》は変えられない。そして、スキーは超テフロン系の合成樹脂《プラスチック》製であるが(すべて仔ヤプーの首輪がそうであるように)、生長物質素粒《オーグメンタリノン》を包含し、年齢に応じて大型になるので、着け代える必要がない。つまり、この時以後原ヤプーは、スキーを体の一部とする新種の動物雪上畜として生れ代るのである。
放し飼いといっても、|畜 乳《ヤップ・ミルク》をエンジン虫の吸う場所は決っている。山中至るところに白大理石像があり、「|雪の女神《スノウ・ゴッデス》」と称ばれるが、それが一集団の中心になる(貴族の場合には石像も本人に象《かたど》って彫られ、その所有の雪上畜が全部そこに集められる)。そしてその一団はこの女神像の排泄《はいせつ》する畜乳《ミルク》を吸うのである。像の姿勢は昔の腰掛便器を使っている姿で、一見、椅子座像のようで、下部に畜乳管が開孔している。
仔畜は、ちょうど人間の赤ん坊が母親の胸にはい寄るように、この女神像の足の下にはって、彼女の与える畜乳で育つ。そして、当座の間は像のそばですべりを試みるくらいだが、這いはいの達者なころだから、やがて山向きに這い進むことを会得する。滑台上の両脚を前後に運動させると、スキー底面の鱗状節《スケール》に波状運動を生じる仕掛になっており、蛇の腹が鱗《うろこ》を使うのと同じふうに雪をかいて前進でき、したがって登攀動作《スケーリング》が可能なのだ。鱗動《りんどう》はまた谷向きの滑走に際してスキーヤーの| 杖 《ストック》による推進の代りもする。
初めはヨチヨチの仔畜たちもしだいにうまくなり、速力を増す。運動神経は二脚直立歩行の代りに四脚スキー動作に順応して発達する。やがて、スキーを体の一部として運動は自由自在化し、五年もたつと滑降中片方のスキーだけに強力な鱗動を急に起させて、スケール・クリスチャニアという急角度の回転をすることまでできるようになる。女神像からの摂餌を除けば、まったくの野生動物同様になって、兎《うさぎ》や鹿《しか》や雷鳥と雪上で遊ぶ。これが放し飼いの幼児期だ。
満六歳から雪上畜訓練所《プキー・スクール》(学校)にはいる。それぞれの女神集団から教場に通うのだ。訓練者(教師)は雪上畜黒奴《プキー・ニガー》(第二章4「狩猟犬訓練」の犬飼黒奴《ドッグ・ニガー》などと同列)で、訓練は初級・中級・上級に分れ、各三年間の課程がある。教科は、宗教と学習と術科に三分される。宗教はもちろん白神信仰《アルビニズム》だが、雪上畜に対しては、|雪 女 神 崇 拝《スノウゴッデス・ワーシップ》の教義が成立している。
「お前たちは、毎日、雪の女神の乳を吸って生きている。あのような白い肌《はだ》の女神が石でなく本当に生きていらっしゃるのだ。そして、やがてお前たちを履物《はきもの》にお召し[#「お召し」に傍点]になる。神々は雪の上で遊ぶ時の履物にするために、お前たちプキー族を作り育てられたのだ。お前たちは、それぞれ自分の属する女神への信仰を強めよ。名誉ある地位への誇りを持て。神の履物[#「神の履物」に傍点]としての天職《コーリング》(お召し)を立派に成し遂げるための学業に励め」。こういった説教が彼らの精神を形成してゆく。
学科は、仔畜らが物心つかぬうちから修得しているスキー動作の力学的分析から、気象、雪質、樹種、さらに昔いっしょに遊んだ兎や熊や、かもしか[#「かもしか」に傍点]などの雪中動物の習性に至るまでも学習する。後年、白人にプキーとして奉仕する時、雪崩《なだれ》の危険を知ったり、かもしか[#「かもしか」に傍点]の足跡をたどったりできるのは、皆この学科のお陰なのだ。試験の成績は腹部に|焼  筆《ブランディング・ペン》で焼き込まれる。
毎日、いちばん鍛えられるのは術科である。プキー本来の運動形態についての技術の鍛練はいうまでもない。滑降の瞬間時速百キロといえば、スキーヤーでは選手でないと出せない高速だが、プキーでは中学生程度である。回転もますます巧みになる。しかし術科訓練の眼目は、べつに被踏乗技術《のられかた》の修得にある。これは鍵点反射馴致《キーポイント・トレーニング》と称ばれる。背中の上の一点ないし二点への熱針刺激(熱い灸《きゅう》に似ている。鍵《キー》点が灸《キュー》点(つぼ)と一致しているのは偶然ではあるまい)と一定のスキー動作(前進とか右転回とか)との条件反射を仕込まれるのだ。初級(小学校)で八個所、中級(中学校)で十六個所、上級(高等学校)では実に三十二個所を鍵点として与えられ、その組合せであらゆる複雑な動作が可能になる。上級までは義務課程だが、高校卒業時の試験のノルディック(複合・耐久・長距離・ジャンプの四種)の総合得点と学科成績とから優秀畜のみが選抜されて、スベロー星最高峰ノラールにある最高級訓練所、俗称『雪上畜大学《プキー・カレッジ》』で訓練されるのだ。ここは、競走部《レイシング》・狩猟部《ハンチング》の両学部があり、前者はスラローム科、ジャンプ科等、後者は|兎《ヘ》(|狩《ア》)科、|熊《ベ》(|狩《ア》)科等、とそれぞれ専攻学科に分れ、専門技術を教えている。雪質学などでは二〇世紀の学者よりずっと深い知識が教授されるし、専攻動物の生態学的研究も詳密だ。術科の訓練はいうまでもない。時速は二百キロ、ジャンプは百五十メートルが要求される。被踏乗実習《のられならい》とて、毎日十二時間ずつ、アンドロイド(黒奴は白人の乗物にはたとえ訓練のためでも乗れない。そこで白人を象ったロボットを使うのだ)を背中に乗せる。テープによって足が動き、鍵点刺激が与えられるのに応じてあらゆる動作が練習されるのだ。二年目からは盲目《めくら》訓練《じこみ》といって、|覆 眼 鏡《ブラインド・グラス》(眼帯状の眼鏡で、レンズの透明度を人間[#「人間」に傍点]が調節できるもの)を用いて視力を奪われたまま、鍵点刺激によってのみ動き回る練習も重ねる。三年で卒業するが、毎年スベロー星で開かれる雪上畜品評展《プキー・ショー》には、大学三年生のみ出場資格があり、優勝畜に賞が与えられる。この最高級訓練を終った雪上畜をノラリヤン・プキー(ノラール物)という。これを使えるのは貴族の特権で、平民は上級訓練を経た程度の品しか使えないのである。
以上は、雪上畜の側からその生育と教養を語ったのだが、人間から見れば、すべてはウィンター・スポーツとしてのプキー・ライディングの準備に過ぎない。プキー・ライディング(雪上畜踏乗)は、訓練によって彼らの身についた鍵点反射運動を利用し、乗手の意のままに雪の上を走り回らせるのである。これには特殊のプキー長靴《ブーツ》をはく。去勢鞍《カスト・サドル》の背革と同じヤプーの黄色皮膚を識別する黄革を底に使い、黄色の肌には強い吸着力を持った靴である(しかし簡単な足指の操作でそれを消せるようにしてあるので、スキー靴のような|安 全 装 置《セイフティ・ビンディング》の手間は不要である)。この靴底の先端に鍵点スパイクがある。足の親指で押すと出る熱針装置で、雪上畜学校《プキー・スクール》で教授されるのと同じ刺激が、この靴先の熱針で鍵点に与えられる。
乗手はプキー靴をはいて、両足をプキーの背中の靴位置(これはそこだけ鍵点が存在しないのですぐわかる。脊椎《せきつい》の最下部から腰椎《ようつい》にかけての両側である。背中の幅一杯の間隔がつけてあるので、両足は横に踏み開くことになる)の上に載せて、素直な姿勢で立てばよい。刺激を与えないで、口で命令してもプキーは自分の能力に応じて立派に行動するだろう。しかし、口で命令などする必要はないのだ。靴を移動させて鍵点(背上、靴位置以外の部分に三十二個のQ点がばらまかれている)を刺激すると、反射的に命令に順応するのだから、その気になれば、終始、刺激を与え続けて完全に自分の意志に従属させることができる。馬に乗るのと似ているが、馬よりも器物性が強く、鍵点を覚え、スパイクの使い方に慣れれば昔の人がスキーをはいた時と変らない、まったくの道具[#「道具」に傍点]として扱うこともできるようになる。現に、踏乗技術《のりかた》に自信のある人は、使用中覆眼鏡を掛けさせるのが多いし――またプキー競技もそうして行なわれるのが普通だ――、中には、「自分のプキーには目も耳も要らない。鍵点さえあればいい」といって、プキーの眼睛と鼓膜を針で破り、プキー靴による指図に反射的に行動することだけしかできない生きたスキー[#「スキー」に傍点]にしてしまう名人級もいる。
逆に、プキーの行動能力や雪中動物についての知識を最大限に利用する使い方もある。これが多いのは雪上畜狩猟《プキー・ハンチング》である。馬と違って手綱は要らず、スキーと違って杖を持つ必要もないので、手にする武器は何でも自由なのだが、プキーを急がせる時の鞭代りにもなるという便利さから、普通、半弓を携える。プキーは猟犬の役目も兼ねて、獲物の足跡を追い、半弓の届く距離まで乗手を連れて行くし、逃げれば確実に追尾する。
プキーは、このように、乗物畜《のりもの》であって、かつまた、履物である(以上の記述中「乗る」と「はく」が混用しているのもそのためである)。――行動力ある動物を制馭《せいぎょ》する乗馬の痛快さと、縦横に雪上を走り回るスキーの爽快《そうかい》なスピード感と、この二つを兼ねたのがプキー・ライディングなのだ。
[#ここから2字下げ]
* ついでに、同じような生きた履物としてのプケート(pkate < yap + skate)のことを略述する。スキーに対してプキーのあるように、スケートに対して|氷 上 畜《アイス・ヤプー》のプケートがある。氷上畜の生産もスベロー星だが、このほうは山でなく氷結した湖面の放牧場を、四這の四肢の先を氷面につけて――ちょっと水すまし[#「水すまし」に傍点]に似た姿勢で――滑り回る矮人《ピグミー》族である。訓練所では、二匹一対になることを教え、また背中に百五十キロまでの荷重(だんだん重くする)を加えて滑る練習をさせる。荷は靴の形で重心と荷重が変化するが、それは教育で慣れさせる。次に、今まで、四肢の先の電気架柱でローラー・スケート状の四点支持をしていたのを、必要に応じ、両手を合わせた前極と、両足を合わせた後極の二点支持にし、両極間に電気架橋を作ってアイス・スケートの金具と同じ効果を持たせたり、さらに四肢の先の架柱を全部併合して一点支持にし、錐揉回転《スピニング》に便利にしたり、いろいろな技術を訓練する。卒業前には、正式に二匹一緒にアンドロイドの靴底につけて実地演習をする。この氷上畜を各自のスケート靴の底に装着したのがプケートである。金属スケートの代りに万能の矮人《ピグミー》を取り付けたスケート靴とでもいえばよかろうか。スメラ山腹の|水 晶 湖《クリスタル・レイク》では、女主人や客人がいつでもプケート遊びのできるよう、四六時中、靴を背負ったまま湖畔の氷宮殿で待機して暮すプケートの群れがいるのだが、クララは今日はそのほうには案内されない。(因《ちな》みに、百五十キロはほとんど四十貫に当る。一匹にそこまでの耐荷重訓練は不要と思われるかも知れないが、これは男女《ペア》の氷上舞踏で、男が女を抱いて一脚で滑り回ることがあるからである)
[#ここで字下げ終わり]
2アンナ・テラスの慈畜主義《チャリティズム》
ポーリンの足元に四這《よつばい》の手足を縮めて腹に寄せた姿勢でうずくまっていた紫色のスキーをはいたプキーが、急に身震いをした。
「早く乗ってほしいのね」、ポーリンは、ソーマの杯を空《から》にして畜童《ペンゼル》に渡すと、煙草《たばこ》の一本をくわえながらいった。「武者震いしているわ」
別の畜童が上から近寄り、空中に逆立ちする様な姿勢で[#「空中に逆立ちする様な姿勢で」に傍点]この女客のくわえた煙草に点火した。両手の指をすり合わせただけで火が出たようだが、どういう仕掛だろうか?
「無理もないですね」、ソーマ中毒の美青年ウィリアムは三杯目を傾けながら、「十八年間、待ちに待ったのだから」という。
「コトウィック嬢《さん》には初回踏乗《はつのり》でもあるわけね」、アンナが、クララに話しかけた。「まあ、せいぜいご愛用――可愛がってやって下さいな、|慈悲深くね《ビー・イン・チャリティ》(be in charity)」
「慈畜主義者《チャリティスト》らしい表現ですね」とウィリアムが少々おもしろそうにいった。
「昔の口癖が出たわ」、顔には少しも衰えを見せない老貴婦人は、ふと年齢を感じさせるような陰翳《かげ》を見せて苦笑したが、「でも、そういわれると昔が懐かしいわ。貴方《あなた》は妾《あたし》の本を読んで下さったからご存じなのね。貴方くらいの年齢《とし》の方からその言葉を聞くとは思わなかった……」
クララは、ようやくその美味《うま》さがわかるようになってきたイースの愛好飲料《のみもの》、ソーマの二杯目の最後の雫《しずく》をすすりながら、足元の桃色スキーの雪上畜《プキー》をながめた。
物心つかぬころから今日までを、人間に踏まれ乗られる技術の修得を、最高唯一の生活目標として訓練されてきたこの動物。肉づきのいい黄色の肌《はだ》に焼き込まれた三十二個の鍵点《キー》も、雪上畜品評会《プキー・ショー》での最優等《グラン・プリ》の名誉を誇る金色の首輪も、高いIQを持つ脳髄にたくわえられているであろう深遠な雪質学も……彼の積年の苦労や努力のすべては、クララたちにとっては単なるレクリエーションの一駒《ひとこま》に過ぎない雪上畜《プキー》踏乗《のり》というスポーツの用具となるためにささげられたのだ――|知 性 動 物《インテリジェント・アニマル》として、その生の目的に疑いを持つことはないのだろうか?
――プキーよ。お前は妾に乗ってほしいのか? それで満足だというのか? よし、妾はお前を可愛がってあげようね。
クララは、身をかがめ、手を伸ばしてプキーの黒い頭をなでてやった。憐憫《れんびん》の情に誘われたのであるが、その黒い頭髪に麟一郎《りんいちろう》への連想が働かなかったとはいえない。
「クララ!」、低いが力のこもった声でウィリアムがたしなめた。「愛玩畜《ペット》でもないのに、手でなでたりしたらおかしいですよ!」
クララはあわてて手を引いた。
「ほら、ドレイパア郎《さん》、慈畜主義という言葉がもう通用しなくなってることが今のでもわかるでしょう? コトウィック嬢《さん》は妾が慈愛といったのを誤解なさったのよ。若い人には無理もないけど。……」、アンナは今度はクララに向って、「可愛がってやってと妾がいったのは、愛撫《あいぶ》とは違うの。プキーは履物《はきもの》でしょう? 履物ははいてやるのが何より可愛がってることになるのよ」
「どうも不躾《ぶしつけ》なことをしまして……」
赤面して素直に詫《わ》びたが、クララには何か腑《ふ》に落ちなかった。プキーを、ただはくことがなんで可愛がってることになるのだ?
「妾ね」、ポーリンが煙を吐きながら口を開いた。「貴女の慈畜主義のご活動で、ヤプーの作業能率が上って妾たちがお陰をこうむったんだということは母から聞いてよく理解しているつもりです。ただ、今の嬢《ミス》クララの勘違いを見ましても感じることですけど」と、彼女はクララをかばってくれるつもりらしく、ただこの老貴婦人の気分を害したくないと見えて気を使ったのか、しばらく絶句してから、「慈畜[#「慈畜」に傍点]という言葉に引っ掛かるんですよ。苦痛を快楽と感じるようにヤプーを仕込むわけね。それが|慈 愛《チャリティ》といえるかしら? 人間でいえば、|マゾ仕立《マゾヒゼーション》|の《*》遊戯《プレイ》ね。戯《たわむ》れに演じる偽りの好意はあっても、本当の慈悲や愛情には遠いのではないかしら……」
[#ここから2字下げ]
* マゾ仕立[#「マゾ仕立」に傍点]とは、イース貴婦人《レディ》の好む愛情狩猟《ラブハンチング》|の《・》遊戯《ゲイム》で、平民の男性を自分の崇愛者《ファン》にし、完全にマゾヒストに仕立て上げる腕前を競うのである。同じ男をどちらがものにするかで勝負する時もあり、別々の男を日数を限ってどの程度までマゾ化できるか馴致度《じゅんちど》を比べる時もある。暴力を用いることや、ねらった男にそれと予告することは反則なので、もっぱら手練手管による。イースは白人の楽園といわれるが、平民はいつこの狩猟の獲物にされるかも知れないわけだ。生れもつかない天狗《テング》(penis――白人平民男性)を鼻に植えて、貴婦人に奉仕する白人平民男性に変えられる可能性さえあるのである。
[#ここで字下げ終わり]
「しかし、動物だから……」とウィリアムが口を入れた。足元の茶色スキーをはいた奴《やつ》の頭を上靴の底でなでていた。
「そう、家畜だから、もちろんどう仕込んでもいい。それが、悪いとはいわないけど、仕込みはヤプーのためじゃなく、妾たち人間のためでしょう。それを慈畜心の表現といえるかしら? 慈愛は相手のことを思うのでなければ……」
この時、音もなく現われたヤプーがすわって仰向いたその顔の上に、アンナは悠々《ゆうゆう》と腰をおろした。単能具セッチンであろう。標準型に見るような、それほどすごい寄形ではない。
「相手のことを思ってるのよ」と、アンナは自信に満らた口調であった。「白神信仰教育の趣旨は、結果的には妾たち人間のためでもあるけど、まず第一にはヤプーたちのためなのよ。少なくとも、妾が主神崇拝《ドミナ・ワーシップ》の|新 福 音《ニュー・ゴスペル》を説いたのはその気持からだったの。……妾たち人間の生活はヤプーを必要とする。妾たちは彼らの意向にかかわりなしに、宿命づけられた作業を彼らに命令する。たとえば、こうやって……」
アンナは尻の下の肉便器《セッチン》を示唆するふうに、顎《あご》を下に引き視線を落し、
「毎日何回もセッチンを使うけど、たいていの人はセッチンの気持なんて考えてみもしない。考えたってどうにもなりゃしない。下賜されたものを、課された作業を処理するのがヤプーの存在理由《レーゾン・デートル》なんだから、と割り切るのが普通よ。妾たちの生活が、ヤプーなしでは成り立たないという事実だけで、理由として充分、と満足してしまうわけよ。……ただ、慈畜心の深い者はそれだけでは満足できないの。手前|味噌《みそ》のようだけど、徳|禽獣《きんじゅう》に及ぶ≠ナ、セッチンの気持が気にかかる。貴女、土着ヤプーをこうやってセッチンに仕込んだことあって?」
彼女の尻の下にいたのは、生れながらのセッチンではなく、土着ヤプーを肉便器化したものなのだ。だから、体形も標準型ではないのである。貴族用の単能具の多くは、そうやって後天的に製造されるものであることを知らないクララは、内心驚きの念をいだいた。
「ええ、何度も」、ポーリンは平気で答える。「身近に使うセッチンは、半分は鞭《むち》で仕込みましてよ」
「それじゃ、ご存じね、調教開始の時の神嘗《かんなめ》の|儀《*》≠ナ初めて妾たちのものに接するヤプーたちの嫌《いや》がりようを。毎口、妾たちが無心にセッチンに与えているものの元来の味はそんなもの……きっと、うんと不味《まず》いのよ。考えてみれば、妾たちの体が栄養を吸収し尽した残《のこ》り滓《かす》だわ。そんなもの、美味《おい》しいわけがない。それを、否《いや》も応《おう》もなく食べなければならないなんて、ちょっと可哀そうにも思わない?」
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* 神[#「神」に傍点]様のものを嘗[#「嘗」に傍点]める(飲食する)存在になろうと思います、という誓いのしるしに、液体・固体を一口ずつ味わう儀式。調教終了後、新[#「新」に傍点]しいセッチンとして初めて嘗[#「嘗」に傍点]める儀式は新嘗《にいなめ》の儀≠ニいう。
[#ここで字下げ終わり]
アンナは今度はクララのほうを向いていた。クララは、諮問器を取り出しはしたが、使う折りがなく、アンナの長広舌を聞いていたのだが、にわかに自分も和御魂《にぎみたま》の持主になったような気持で、
「ええ、思いますわ」と、素直にうなずいた。
「|惻隠の心は仁の端《ピチー・イズ・アキン・トゥ・ラブ》、というでしょう。その、可哀そう[#「可哀そう」に傍点]が慈畜主義《チャリティズム》の第一歩なのよ」
「あの『|家 畜 人 解 放 論《ヤプーナル・エマンシパーション》』(第四章3「知性ある家畜」参照)の著者も……」
ポーリンが口を入れようとしたが、アンナは軽く引き取って続けた。
「ケレラーね。似てるかもしれないけど、根本は違うわ。彼は、ヤプーを人間だと考えたんでしょう。妾はそんなばかげたことはこれっぽっちも考えたことはないわ。彼はそのためセッチンを使えなくなったなんていわれているけど、妾は一度もそんなことはないわ。妾たちの日常生活には何の変化もないように。しかし、ヤプーたちは幸福にしてやりたい。救ってやりたい。毎日毎日のご馳走《ちそう》を美味《おい》しく食べさせてやりたい……この気持よ、慈畜《チャリティ》というのは――」
「赤Y字思想と通じるところがありますね」
と、これはウィリアムだった。
「ヤプーを人間と見ない点ではね。しかし、卿《レディ》ナイチンボイの思想には、元来は、ケレラーに影響された危険な面があったのよ。妾は赤Y字のほうにも関係してるから遠慮なくいえるけど、動物愛護[#「動物愛護」に傍点]や家畜虐待防止[#「家畜虐待防止」に傍点]ということは、慈畜主義運動の前と後《あと》で、内容的には正反対になったの。前後一貫しているのは病畜治療[#「病畜治療」に傍点]だけよ。昔は、虐待防止のスローガンで、ヤプーへの鞭数《むちかず》の制限とか、珍棒《ティンボウ》使用禁止とかいったものよ。ヤプーのために、こちらの生活を変えろというのよ。早い話が、鞭の楽しみ[#「鞭の楽しみ」に傍点]のための土着ヤプー飼育ができない人生なんて、考えられる?」
皆無言だった。
「主神崇拝の信仰教育は、それを逆転させて、虐待[#「虐待」に傍点]でしかなかったものを愛護[#「愛護」に傍点]といえるようにしたの。こちらの生活を変える代りに、ヤプーの頭の中を変えることによってね。今の赤Y字の動物愛護[#「動物愛護」に傍点]はそういうものなのよ」
「貴女が赤Y字運動の中興の祖と賛《たた》えられているのは、そういうわけなんですね」
「このセッチンは、今、妾のものを食べ終ったけど」と、アンナは、ウィリアムの発言を無視して説き進めた。
「ありがたい、もったいない、ちょうだいしました、と感謝しているわ、妾が奴《やつ》の神様だからよ。信仰がない間は苦痛[#「苦痛」に傍点]だった作業が、信仰を持つことによって快楽[#「快楽」に傍点]になったのよ。虐待[#「虐待」に傍点]が愛護[#「愛護」に傍点]に変ったのよ」、話しながらアンナは元の肉椅子にもどった。主神への奉仕を終ったセッチン――今の身になるまでは、『邪蛮《ジャバン》』国内で一人前の人間として暮していたに違いない土着ヤプー出身畜――は、壁の中に帰った。どんなセッチン・レポートを書くのだろう。
「ほんとうは不味《まず》いものを、信仰で錯覚させるのは、やはり使用者側の狡知《ずるさ》ではありません?」
と、ポーリンは疑問を呈した。
「いいえ。味覚には本当も嘘《うそ》もありません。信仰なしでは不味《まず》いものも、信仰に比例して美味《おい》しくなるのよ。今のあのセッチンがそうだった。神嘗直後からずっとレポートを出させたけど、だんだん美味しくなるって報告して来たものよ。それが信仰の力よ。この椅子だって――」と、皆それぞれが掛けている肉椅子ヤプーたちにアンナは目を走らせ、「肉体的には重いに違いないわ。しかし、精神的には神体支持[#「神体支持」に傍点]の誇りに満たされて、生《いき》甲斐《がい》を感じてる。脳波を調べると、腰掛けられて腕の骨が折れそうになっている時に、幸福感の曲線《カーブ》がいちばん高くなるの。肉体的苦痛感と精神的幸福感とが正比例するのよ。……そうわかってくれば、こちらの慈畜心も安らげるわけ。ね? 慈畜主義の運動では、信仰の力でヤプーを救ったのよ。奴らがそのため率仕を楽しむようになって、作業能率が上ったのは単なる副産物よ」
「奉仕するのをいやがるヤプーなんて、土着ヤプー以外には考えられないけど」と、これはポーリンのつぶやきだった。
「今では白神信仰が完全に全ヤプーの宗教になってしまって、どの星のどの飼育所でも、仔畜《カプ》時代から白神像の礼拝を怠らないから、無信心ヤプーなんて見られなくなったけど」、アンナは感に耐えぬような顔でいった。「昔の無信心ヤプーの悲惨さといったら……つい五十年前、妾と妹がタカマハールの畜舎管理で争ったころは……」
「暗室方式論争ですね」、ウィリアムが、アンナの『回想録』の読者であることを示した。
「そう。あのころは、使役、すなわら虐待だった。今ではどう? 使役しないことが虐待よ。|使役すなわら慈畜《トゥ・ユーズ・イズ・トゥ・ラブ》よ。貴女はさっき、マゾ仕立と比較なさったけど」、アンナは、妾もマゾ仕立ならずいぶん経験してよ≠ニいいたげな笑顔《えがお》をポーリンに見せながら、
「ノーマルな平民青年《げすのおとこ》を鞭や縄《なわ》に慣らしていく時の気持、あれは初めは慈悲や愛情とは逆のものだわ。でも、一度仕込んでしまえば、あとは鞭と縄で可愛がってやれるでしょう? この二つだけが愛情の表現になるでしょう。だから、さかのぼって、訓練中の鞭や縄も肯定できるのね。ヤプーだって同じよ。土着ヤプーの飼育は、元来妾たちの鞭の楽しみ≠フためだけど、それは同時にヤプーのための愛の鞭≠ナもある。神嘗の儀ではいやがったものを、新嘗の儀では喜んで口にするようになるんだから、ひとえに信仰の力ね。そして、いったん喜ぶようになってしまえば、あとは奴らにとっては作業は楽しいはず……だから、妾たちは奴らの神様として奴らを使役する、これで慈畜心を示せば充分なのよ」
驚くべき教説ではあった。しかし、クララの家畜観(第一章1「家畜調教問答」参照)にピタリと来るところがあり、反発は少しも感じなかった。
「もっとも、あなた方の心掛としてヤプー使役のたびに慈愛を意識せよ、とはいいません。さっきは、つい昔の口癖が出たけど。昔は必要だった……今みたいに白神信仰が普及しては、もう要りません。慈畜主義という思想は過去のものになったのよ。あなた方は生れた時から礼拝を受けて育って白神《ディティ》としての自意識も充分ある。ヤプーの奉仕を当然のこととして享受《エンジョイ》している。使役即慈愛という効果も知らずに使役している。無心な動作の一々でそれぞれのヤプーに恩恵を与えている。慈畜主義という言葉の意味も知らないで。……それで結構よ、ヤプーたちは皆満足してるんですから。妾の運動は充分目的を達したわけなの。新しい世代に、慈畜を説く必要を認めないの。そこまで主神崇拝の新福音が歓迎されるとは、実のところ唱導した妾自身にさえ意外なほどの成功なんですけどね。……ただ、もし昔の妾のようにヤプーの気持を思いやる人がいたら、その人にはいっておきたいの。ヤプーの幸福《しあわせ》は信仰から出て来るんだから、できるだけ信心深くさせておけば、あとは使えば使うだけ可愛がっていることになるんだってことね。いいこと、慈畜の第一歩は自分を崇拝させることなのよ[#「慈畜の第一歩は自分を崇拝させることなのよ」に傍点]……」
アンナ・テラスは、いつかクララに向って語っていた。
なるほど、クララには有益だが、他の二人には必要のない説教だ。探検に統治に、人生経験の豊富なこの慈畜主義者は、慧眼《けいがん》にもクララ・コトウィックの正体を見破り、それとなしにイース貴族たるの心得を教えてくれたのかも知れなかった。
――この女性《ひと》は、妾がリンのことを気にかけているのを知っているのだろうか?
クララが心ひそかに薄気味悪い思いさえした時、アンナは、急に口調を変えて、
「これが妾の慈畜主義。普及には成功したけれど、たった一人の妹を失うという大きな代償を払ったわ。もう昔のこと……」
光華明彩《ひかりうるわ》し≠ニたたえられた晴れやかな顔を心なしか曇らせながら、彼女は窓の外を見やったが、目をすえると、
「さあ、|上昇機の旗門《リフト・ゲイト》に来ました。昔話は登りながらするお約束でしたっけ……」
と立ち上った。
なるほど、窓の外の景色が変っていた。そうすると、この『遊仙窟』の一間と思った客室は、部屋ぐるみ移動することのできる仕掛で、会話の間ずっと動いていたのだ。壁が開いた。レイノオが立っている。後方の窓には、雪のスロープを背景にして旭白《きょくじつ》模様の紋章旗を立てた門が見えた。
3『記紀』解義 (一)[#表示不能に付き置換え「○に漢数字の一」]天の岩戸
前節の会話を理解していただくために、クララが|諮 問 器《レファランサー》から得た知識を要約して紹介しよう。麟一郎《りんいちろう》同様に、日本神話の知識ある読者諸君には要約で充分であろう。
オヒルマン侯爵家(公爵になったのはアンナの代だ)の姉妹、アンナとスザンは二月違い(受胎ひと月で郭公手術をするから、こういうことがあり得る)の同胞で、双生児《ふたご》のようにして育ら、仲もよかったが、性格は全然違っていた。どちらもイース女性らしく雄々しい気質だったが、姉の沈着|剛毅《ごうき》に対し、妹は勇猛果敢。姉は少女時代から「|光明令嬢《ミス・ルーミナリ》」と称ばれた美女の中の美女であったのに対し、妹は、もとより美貌ではあったが姉に及ばず、侯爵嗣女でもなく――この辺の事情はジャンセン家のドリスにもいえることかもしれない――姉への劣等感を武術を修行して次々に得た選手権杯の数で補償していた。黒奴《ネグロ》やヤプーに対しても、姉は寛仁で慈悲深く、妹は峻厳《しゅんげん》で過酷《かこく》であった。
アンナが若くして侯爵家を継いで間もなく、女王陛下の諸遊星巡視に随行し、一年ほどオヒルマン侯爵領タカマハール(これは本国星カルーの地名である。飛行島『タカラマハン』はこの本国領地をしのんで命名されたもの)を離れたことがある。五十年前のことだ。姉の不在中、妹スザンが名代《みょうだい》として家を治めた。アンナとスザンとの考え方の相違が、この時にはっきり現われてきた。その一つが畜|舎《*》管理の暗室方式の採用である。姉が使役時間以外にはヤプーの生態に無関心で、畜舎内部における生活には相当な自由を許しているのがかねがね気に入らなかったスザンは、畜舎内統制強化の徹底から、舎内を暗室にし、飼育係黒奴《ヤプー・ニガー》には赤外線眼鏡《インフラレッド・グラス》を掛けさせ、かくしてヤプー自身の行動の自由を制限しつつ被監視意識を持たせることに成功したのである。
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* 畜舎[#「畜舎」に傍点]とはここでは原畜舎だけでなく、たとえばプキー倉庫、畜人犬舎や厩《うまや》等、個畜(個体性ヤプー)集団の飼育収容設備一般をも意味する。――個体性のない生体家具の類いにはこの問題のないことは当然である。
[#ここで字下げ終わり]
タカマハール在オヒルマン家所属の八百万匹のヤプー(大貴族家は一領地でもこのくらいの数を使役している。読者諸君に、今さら「八百万《やおよろず》の神々《かみがみ》」について説く要はあるまい)にとっては、これは大恐慌であった。今まで明るかった檻《おり》の中が真っ暗になったのだ。明るい昼の世界を意味するゆえに彼らは就役を歓迎した。役務が終っても帰りたがらず、少しでも長く勤務しようとした。どんな辛い労役も暗黒の恐怖よりは喜ばれたからだ。ヤプーたちを役務に積極的ならしめたことをスザンは自分の方式の成功として得意がったが、ヤプーは安息を失って疲労|困憊《こんぱい》していった。そんな時、彼らの心をささえたのは「心《むね》に祈祷《いの》[#表示不能に付き置換え]りを」(|amen in heart《アーメン・イン・ハート》)|と《*》いう合言葉だった。「われわれの女神へのひそかなる祈りによって安心を求めよう」という意味である。アンナはそのように慕われていたのだ。
[#ここから2字下げ]
* 白人の祈祷《きとう》[#表示不能に付き置換え]のアーメンを、祈祷[#表示不能に付き置換え]そのものの名詞とし、ブロークンな英語にしたのだが、これはあくまでスローガンなので、白人からの命令句になぞらえて英語にしたのだ(ヤプーの外国語尊重癖)。後に|主 神 信 仰《ドミナ・ワーシップ》が確立されて祈祷[#表示不能に付き置換え]文が制定された時、これはヤーメンと改められたが(第二二章4「聖尿灌頂」参照)、古代家畜語にはアーメンの形ではいり、祈祷[#表示不能に付き置換え]の意から転じて神や天国を意味するようになった。「天《あめ》の……」というのがそれである。
[#ここで字下げ終わり]
やがて、アンナの帰来とともに暗室方式についての姉妹の激しい論争が始まった。
後の慈畜主義者《チャリティスト》アンナ・テラスも、初めは単なる|感 傷 家《センチメンタリスト》に過ぎなかったようである。しかし、「そんなことではヤプーに舐《な》められて能率は上らない」とスザンにいわれると、彼女のほうも、「いや、自由を与えたほうが能率は上る」と反駁《はんばく》せざるを得なかった。たとえていえば、内務班が楽しくては兵が教練をきらうという論理から、兵を練兵場に親しませるためには内務班の躾《しつけ》が厳格なほどよいと信じている旧陸軍の将校と、労働能率を向上させるには労働者の生活環境を改善するのがよいとし、休養の時間を与えることはより多き搾取への捷径《しょうけい》であると考えている資本家との論争に似て来た。同じ目的に正反対の手段が主張されたのだ。その結着を、双方が自分流に飼育したヤプーの作業成績を競わせて決しよう、ということになったのも自然の成り行きであった。試合は半年後、各自|一檻《ひとおり》ずつ実験的に飼育を担当することになり、畜舎全体は、それまで現状のまま、すなわち暗黒にすえ置かれることになった。
さて、アンナの『回想録』から原文を引こう。
〈幼い時から妾《あたし》はヤプーに対して慈悲深いといわれた。しかし、実をいえば、それは妾の気質の問題でなく体質の問題だったのだ。というのは、妾は、ヤプーが嫌々《いやいや》仕事をしていると、その奉仕《サービス》を享受《エンジョイ》できない、生理的に不快を感じるのである。だから、彼らに仕事を楽しませたいということは、そういう贅沢《ぜいたく》な肉体の生理的要求で、そのゆえに妾はヤプーを可愛がったのだ。その結果としてヤプーたちが妾に感謝し、妾を守り神として拝んでいることにも妾は気づいていたが、そのためべつにどうということもなかった。ある種のヤプーが人間を神として崇拝しているという事実自体は数百年来知られていたことで、知性動物における多神教の自然発生の事例としてこれを学んだこともある妾には、拝まれたとてべつに珍しいこととは思えなかったからである。
さて、論争の勝敗をヤプーの作業競争で決定することになった時。妾の関心は、ヤプーの役務の性質にあった。妹は、役務自体が辛労である以上、ヤプーへの慈愛は役務の軽減以外にはあり得ないと主張したのだ。しかし、役務の苦痛をかえって快楽と感じるような精神状熊に彼らを置くことができれば、その主張は成り立たないはずである。そんなことができるか? 超精神明朗剤《スーパー・アトラキシン》を使えば可能だが、連続服用は効果が逓減《ていげん》して長期の用を成さない。薬剤なしでできないか?――ここで妾は、自分がヤプーたちからよく拝まれていたことと、宗教は阿片だといった古人の言葉とを想起した。すべて信仰は救済《すくい》である。神前の勤行《ごんぎょう》は信者に愉楽《たのしみ》と安穏《やすらぎ》を与える。ここに薬剤を使わずにヤプーの役務を快楽化する契機があるのではないか。そしてまた、妾の幼時からの体質的要求もこれによって満足されるのではないか。こうして妾は慈畜主義《チャリティズム》の根本思想に到達したのであった。
この当時の畜人宗教は汎白神信仰《パン・アルビニズム》で、人間一般に優越者の神格を認めるという段階にとどまり、間々《まま》妾のように個人で礼拝を受ける者があるという程度だった。妾の構想は主神崇拝をプラスした白神信仰(今日では単に albi-nism といえばこれをさす)、すなわち多神教への一神教的色彩の付与にあった。
妾は、妾の檻のヤプーに徹底的な宗教教育を施し始めた。妹に反対し、「畜舎内の時間は自由に」と主張した。手前、強制はしなかったが、彼らの関心を妾個人に集中させるよう誘導していった。初めは妾の肉体を中心とする形而下《けいじか》的話題に限って情報交換させた。妾の身長・体重・嗜好品などが共通の知識になった後は、毎日の服装・献立・生理状態などが熱狂的に論ぜられた。「今日は六百八十歩お歩きになった」「三回あくびなさった」「おみ足裏の汗は昨日より塩辛かった」といったことが彼らの一大関心事になった。だんだんに形而上的話題、すなわち一般的な神学上の討論の数を増させた。「信仰を持たずに死んだ仲間は死後はどうなるのか?」「主神から他の白神に譲渡された場合の信仰対象の切換えはどういうふうにやるのがよいか?」等々。一方では、後に畜人宗教の儀式として広く行なわれるようになった儀礼の数々や祈祷《きとう》[#表示不能に付き置換え]文を定め、定時に祈祷[#表示不能に付き置換え]させた。信仰試験をして、洗礼をしてやった。……やがて、自分でも驚くほどの効果が見えてきた。彼らはいっそう嬉々《きき》として作業に従事するようになり、使役されることを寵愛《ちょうあい》のしるしと考え、酷使されるほどありがたがるに至った。奉仕がそのまま愉悦に化した。昔のように、特に可愛がるということなしに彼らに快楽を与えてやれることになったのである。ヤプーを楽しませてやりたいという妾の念願は達成された。しかも情けはヤプーのためならず#゙らを少しも甘やかしてはいないから能率は上った。今やスザンの檻のヤプーに劣らない作業をさせられるはずだ。いや、一日の大部分を占める使役時間をこうして愉快に過し、檻に戻っても仲間と神を論じてやまぬ妾のヤプーと、使役時間の疲労を畜舎に帰っても回復できないスザンのヤプーとでは、勝負はもう見えたも同然であった。そう妾は自信を持った。
やがて、全畜舎の鍵《かぎ》を賭《か》けた試合の日が来た。ヤス河原に妹と妾は向い合った。
[#地付き]………………………………………………〉
五匹の雄畜と三匹の雌畜(「記紀」所伝の両神のうけひ[#「うけひ」に傍点]によって生じた五男神、三女神の名称についても畜語解があるが、今は割愛する)とを競わせたこの試合の詳細はまたの機会に譲るが、結果はアンナの圧倒的勝利に終った。
スザンは敗北を認め、意気|消沈《しょうちん》して、古代地球探検への航時旅行に旅立った。畜舎の鍵を取り戻して、まだ暗室設備のままの畜舎に取りあえず見回りに来たアンナの頭上の|光 傘《ヘイロパラソル》は、舎内の暗黒に燦《さん》として輝いた。さらでも|光 明《ルミネッセンス》に富むこのオヒルマン家の当主の体が、後光《ニンバス》を伴って照り渡ると見え、この日まで「|心に祈祷[#表示不能に付き置換え]を《アーメン・イン・ハート》」と耐えてきたヤプーたちを、ひざまずいたまま、思わず歓呼させたのである。
以後、アンナ・オヒルマン侯爵は、自信をもって慈畜主義を宣伝し、畜人宗教の新福音を説いて普及させた。作業能率向上の実証はイース貴族をして各自の家庭内ヤプーに対し続々新福音による信仰儀式の数々を採用させた(キリスト教におけるカトリック教会建設にも此せられる)。彼女が後に考古学的探検家となり、原始ヤプー族の古代史に大きな足跡を残して、アンナ・テラス(地球《テラ》のアンナ)の異名を得るに至ったのは、探検中行方不明となった妹スザンの遺志を継いだことからでもあったが、他面、畜人宗教の根源に平渉して、後代のヤプーの精神形成に深刻な影響を与えようとの目的があったのである。それは、彼女自身が|天 照 大 神《アマテラスオオミカミ》として彼らの最高神に納まったことによって見事に達成された。のみならず、彼女は、自分の従畜《パンチー》ニニギーをヤプー族の首長として、「爾《なんじ》就《ゆ》きて治《おさ》めよ」と降臨させ、その子孫をヤプー族の精神的中心とすることにも成功したのだった。
ニニギーに同行した一群のオヒルマン家ヤプーは、自分たちの身上に起った異変を歴史として語り伝えた。畜舎を襲った暗闇《くらやみ》、「|心に祈祷[#表示不能に付き置換え]を《アーメン・イン・ハート》」の合言葉、アンナの輝く帰来……口承の間に、合言葉は「アメンインハト」と訛《なま》り、「アメノイハト」と変り、ついには「天《あま》の岩戸《いわと》」と解せられ、「日の神|天照大神《アンナ・テラス》の岩戸隠れと再現」の神話を生んだのだった。
七年前地球都督を最後に致仕し、陛下から特に許された飛行島《ラピュータ》に隠棲《いんせい》して、『回想録』の執筆に余生を送るアンナ・テラスであった。生涯《しょうがい》かけた事業は成功した。彼女の名声は天下にあまねしといえる。だが、一生を独身で過したこの女傑は、たった一人の妹を失って得た虚名・虚爵に必ずしも満足してはいないようだ。
[#改ページ]
第二七章 狩猟場へ
1|足 踏 錠《ステッピング・ロック》と肉リフト
いつのまにか、|上昇機の旗門《リフト・ゲイト》のところにまで移動して来ていた『|遊仙窟』地中別荘《フェアリー・ケイプ・ビラ》の一室――、
レイノオが手で合図すると、控えていた畜童《ペンゼル》たちが手に手に何か持って飛んで来た。いよいよ戸外へ出て雪上畜狩猟《プキー・ハンチング》に行くので、完全に身支度をさせるわけだ。アノラック姿のクララたちの背に靱《ゆき》(矢袋)を背負わせ、腕に靹《とも》(革の弓射具。左手につける)を取り付け、……畜童たちはかいがいしい腰元ぶりであった。
振り向いたアンナ・テラスの顔にクララはびっくりした。端正なギリシャ鼻、優美な顎《あご》の曲線、確かに彼女の容貌《ようぼう》に違いなかったが、あの輝く肌《はだ》が黄色白粉《イエロー・パウダー》で塗りつぶされ、大きな緑色の目は黒い瞳《ひとみ》に変っていた。豊かな茶色の頭髪の代りに、左右に分けて耳隠しの髷《まげ》を作った角髪《みずら》結《ゆ》いの黒い髪……。
――頭にはさっき、襟《えり》から背中にぶら下げていた鬘《かつら》付きの頭巾《フード》をかぶったのに違いない。日焼止めのクリームで化粧したのであろうが、目の色は?……|雪 眼 鏡《スノウ・ゴグルズ》を接眼球《コンタクト》レンズにしてはめ込みにでもしたのだろうか?
無理もない想像だったが、クララは畜童の一匹にフードをかぶらされてやっと事情がわかった。頭部から顔面までスポリとかぶさってしまう畜人皮《ヤップ・ハイド》の覆面帽《マスク・フード》、既製品ながら(本来は使用者の体に合わせて成育させたヤプーの皮を使う。第一五章1「畜人皮の水中服」参照)――さっきからわずかの間に、レイノオが畜童に命じて客人たちの顔の造作の寸法を取らせ、それに台わせて修正してあるから――顔面に暖かく簿皮が密着して何の不快感もない。高山の、希薄な大気内での行動を楽にするよう、頭髪の中に隠された酸素発生装置《オクシジョン・アパレタス》から新鮮な空気が送られるから息苦しさもない。角髪は|耳 覆《イヤ・フラップ》を兼ねた聴音器《オウディフォン》になっていた。……さらに、同じく畜皮の手袋《てぶくろ》、これも肌色が変っただけとしか思えない薄手の高級品だった。それに靴下《くつした》、長靴《ブーツ》、最後に腰帯《ベルト》から短剣が吊《つ》られる……装備は見るみる整っていった。……
馴致椅子《ティミング・ソファ》の中で念視していた麟一郎《りんいちろう》には、――頭巾《フード》をかぶる動作を見ながらも――ほとんど目が信じられなかった。談笑していたアンナは一瞬にして去り、ふたたび男装の天照大御神《アンナ・テラス》になっていたではないか。その横に天手力男神《アメノタジカラオノカミ》や建御雷男神《タケミカズチオノカミ》までが立っている。……と見えながら、熱視すれば目鼻立らはアンナでありポーリンでありウィリアムであった。肌《はだ》は黄色く、黒い髪を角髪《みずら》に結って、明らかに上代日本男性の印象を与える姿をしながら、それがイース白人であることもまた疑いない。……ハッと彼は、一つの事実に気づいた。
――覆面《マスク》だ、これは! 黄色人種の顔の皮と頭の皮を剥《は》いで頭からかぶっているんだ!
今朝、予備檻《スペア・ペン》で見かけたドリスの裸体の、首から上と下とで肌の色が違うのを怪しんだことを麟一郎は思い出した。あれも皮を着ていたのか?
――だが、なぜ彼女らは日本の昔の神様の服装をするのだ? あっ、それとも……イース人の雪上畜《プキー》遊びの服装のほうが先で、それが古代日本へ伝わったのか? 真似したのはむしろ古代人のほうなのか!
何故《なにゆえ》、という理由は知らず、事実だけは麟一郎にもわかったようだった。
「準備整いました」
レイノオが女主人に向って報告した。
アンナはうなずいて、旗門《ゲイト》の見える窓のほうに歩み寄った。窓枠《まどわく》の下方に、床から上半身を伸ばし、頭に窓の下辺をいただくような位置で黒奴《ネグロ》の半身像が浮彫りされているのが先ほどから目にとまっていたのだが、驚いたことに、この像は、アンナが近づくと自動的に上半身を前に直角に折り、顔を床にくっつけた。そして、それまで像のあった所には、像が抜け出した剥形がその形の穴をあけて残った。
アンナは、無造作に雪上畜靴《プキー・シューズ》の両足を、うつ伏せになった像の黒い背中にそろえて乗った。――と、何と、部屋《へや》全体が動き出した。震動はほとんど感じなかったが、窓の向うの旗門がぐんぐん近寄って来る。この『|遊 仙 窟《フェアリー・ケイプ》』という別荘《ビラ》は、山腹の洞窟《どうくつ》のように思えたが、どうしてこのように建物全体が自由自在に移動できるのだろう。
旗門はテレビ塔の脚部のような櫓《やぐら》になっていた。その脚の下に部屋がもぐり込んだと見えたところで動きが止った。アンナがそれまで載っていた黒奴の背中から降りると、その像は元の位置へもどっていった。と同時に、部屋の丸天井が左右に割れ始めた……はるか彼方《かなた》の紺青の空に、白くそそり立つスメラ山頂が仰がれた。そしてすぐ、割れた丸天井の真上には旗のはためく櫓《タワー》があった。
そういう不思議な成行きや光景もさることながら、クララには、アンナが土足で踏まえた黒奴像のことが気になった。――生きている人間ではないのだろうか、あの黒奴像は?
さんざん|生 体 彫 刻《フレッシー・スタチュー》を見たあとだけに、それがヤプーではなく黒奴と見えても、その疑いは当然であった。しかしクララの注意は、やがて大きく開いた天井の上方から、斜めに降りて来た滑《すべ》り台《だい》状の物体のほうへ移ってしまったので、像のことはひとまず念頭から去った。
さて、そうなっては、像については筆者から説明の要があろうというもの、まさに、その像はクララの想像どおりに生きているのである。錠刑[#「錠刑」に傍点]に処せられた黒奴なのである。刑の執行として、生きながら|足 踏 錠《ステッピング・ロック》になっているのである。
足踏錠(stepping lock)とは|肉 体 錠《フレッシー・ロック》ともいわれ、本来はヤプー|生 体 家 具《リビング・ファニチュア》の一種である。昔は貴族の邸宅などで、玄関の回転ドアによく利用されたもので、|門 番 錠《ドアマン・ロック》ともいった。ヤプーを回転ドアの床下部分に下半身を埋込みにし、上半身は扉《とびら》の生きた装飾を兼ねながら、その腰関節の屈伸に回転装置を連動させ、前に折った上半身に特定キロ数以上の負担が加重されると、扉もろとも、一八〇度回転する仕掛になっていて、この荷重はすなわち人間の体重である。来客があったりして、ヤプーのお辞儀した背中に載ると自動的に屋内に送り込まれるのである。とはいっても怪しい人にはヤプーはお辞儀しない。それを無理に頭を下げさせるとヤプーは死ぬ。死ねば連動装置がこわれるので殺して通ることはできない。だから門番[#「門番」に傍点]であり、同時に生きた錠前[#「生きた錠前」に傍点]を兼ねていることにな|る《*》。
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* コロボプシス蟻《あり》の巣の入口には、兵隊蟻が番をしている。しかも、ただの門番ではなく、扉そのものとなっている。すなわちその兵隊蟻の頭部は、前額のところで切断したようになり、それを入口に持って行くと入口をいっぱいにふさぐ栓の役目をする。結局、この蟻は、身をもって入口の扉となり、これを番するのである。(ウェルズ『生命の科学』)
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この回転ドァは現在のイースの建築ではすたれてしまったが、腰関節の運動を機械に連動させる装置自体は他の方面でも使えるので、いろいろの応用を生んでいる。今、アンナが使ったものは、建物を|旗 門《フラッグ・ゲイト》のほうへ引き寄せる仕掛の始動梃子《アシック・レバー》に連動させてあるのだった。
ところで、ヤプーではなく、この場合|黒奴《ネグロ》が使われていたのは、黒奴の刑の執行のためなのである。黒奴刑の一種に立ちん棒[#「立ちん棒」に傍点](立位刑《アシック》)というのがあるが、現在の『黒奴刑法典』では、立位刑部門がさらに六種類の刑に細分されている。いずれも、横臥《おうが》を禁ぜられるものだが、その中の極刑がこの錠刑[#「錠刑」に傍点]で、これは「不敬罪中の敬礼忘却の重罪」に科せられる刑罰であ|る《*》。
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* 煩わしいので『刑法典』の条文の引用は略するが、「不敬罪」にも、たとえば敬称遺脱(奥様《マダム》、旦那様《サー》を忘れる)、敬礼忘却、無作法等の各種があり、これが一般白人に対する場合は軽罪[#「軽罪」に傍点]、主人に対する場合は重罪[#「重罪」に傍点]になる。これは、故意[#「故意」に傍点]に白人の尊厳を冒した場合のみでなく、過失[#「過失」に傍点]による場合とて同じである。敬礼忘却の重罪は、主人本人への欠礼は無期[#「無期」に傍点]錠刑、主人ご真影への欠礼[#「欠礼」に傍点]は有期錠刑で、有期の場合は情状によって償却回数[#「償却回数」に傍点]が定められる。(黒奴の体刑は贖罪として考えられている)
黒奴は掲額されている主人のご真影には最敬礼(土下座礼)を怠ってはならないのである。なお敬称遺脱に対しては舌を増殖剤で伸ばさせ、それを毎日少しずつ切っていくなど、それぞれ犯罪型に応じて刑が定まっているのである。
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踏まれたこの黒奴は、三年前、たまたま夫婦|喧嘩《げんか》のあとで気をめいらせていて、ご真影(アンナの肖像)への最敬礼を忘れ、それを息子[#「息子」に傍点]に報告[#「報告」に傍点]されて(第一八章3「黒奴監督機」参照)、錠刑五千回に処せられている者であった。それ以来、今の場所で|足 踏 錠《ステッピング・ロック》にされ、壁下の穴に下半身をうずめた姿勢で立ち続け、アンナの姿を見るたびに最敬礼して、その双の御足《おみあし》を頂いてきたのである(黒奴はヤプーのような徹底した信仰を持っているわけではないから、この作業は苦痛以外のものを意味しない。そこに贖罪的刑罰としての意味があるのだ)。アンナは朝晩に二度――今日のように客を案内して踏む回数がふえる場合もあるが――雪上畜《プキー》乗りのためこの錠を使うから、刑期はだいたい七年、つまり、あと四年間、彼はこうして『|遊 仙 窟《フェアリー・ケイプ》』の建築の構成部品として、朝晩彼女に踏まれながら、敬礼を忘れたことの罪滅ぼしの難行苦行を続けるべく義務づけられていた。
幅広い滑《すべ》り台《だい》状の斜面がおりてきて、その下端のほうが部屋《へや》の床に届くと、待っていたようにプキーたちが位置について、その斜面の最下部にスキーを載せた。クララの桃色、ポーリンの紫、ウィリアムの茶のほかに真紅《しんく》の二本が並んで、いずれも手を縮め、脚を伸ばして斜面であるにもかかわらず背中の水平を保つ姿勢を取った。
「上昇速度はいかがいたしましょうか?」
下に留守として残るらしいレイノオが尋ねた。
「常速《ノーマル》」
一度答えて、アンナは自分のプキーの背中にまたがった。他の三人も次々にまたがる。両膝《りょうひざ》をプキーの肩に掛け、その首をはさむように腰掛ける。軽畜車《プクーター》のときと感じは似ている。尻《しり》が温《あたた》かい。
と、突然、周りが薄暗くなったように感じると同時に、四匹のプキーは頭を並べたまま、斜面を何かに引かれるようにスルスルと上昇し始めた。
クララたちは覆面帽《マスク・フード》のレンズを透かして見ていたからその程度にしか感じないのだが、もし外部から見ていたら、スメラ山腹を斜面に沿って長く走る、太い濃青色の光の筒を認めたであろう。今プキーを引き揚げていたのは、青光線空間内牽引線《ブルーレイ・トラクター》であった。昨日、|円 盤 艇《フライング・ソーサー》を円筒船《シリンダー》内に収容するのに用いられた(第八章1「円筒船・氷河号」参照)あの仕掛である。青光線空間《ブルーレイ・スペース》の物理学は二〇世紀人には説明しにくいが、空間内の二点を両極として強力な牽引効果《トラクション》を発生する一種の|電 磁 場《マグネチック・フィールド》を生じさせるので、これを利用して物体の引揚げや推進が行なえる。この場合、| 場 《フィールド》を構成する力の線は、青光線が消えて後、細い蜘蛛《くも》の糸のような形状で物質化して消滅する。これが、昨日、タウヌス山中で二人の少年が見た「|天使の髪の毛《エンゼル・ヘア》」なのである。今は陽極《アノウド》を山の中腹の狩場《フィールド》に設け、|陰 極 板《ネガティブ・ポールプレイト》を各プキーにくわえさせているので、プキーは乗手|諸共《もろとも》、狩場に引き寄せられるのである。プキーのくわえる鉄片《タガーズ》を、上方から磁石《マグネット》で引く、あるいは、細いロープの先をくわえさせて上で巻き揚げる、どちらにでもたとえられる現象であった。とにかく、この青光線空間内牽引線による青光線上昇機《ブルーレイ・リフト》は、物的な設備は他に必要なく、プキーの体をそのまま椅子《チェア》に転用しての巧妙なチェア・リフト設備になっているわけである。プキー自身の登攀力《とうはんりょく》を利用することももちろん可能だが、いたずらに登攀で疲労させるのは得策でないから、登りは| 肉 《フレッシー》リフトとして使用するのである。
青光線の筒は下からしだいに縮まっていった。そのあとには、ごく細いエンゼル・ヘア。その糸にからまれながら、文字どおりエンゼルの姿をした畜童《ペンゼル》四匹が、手に手に半弓を持って飛んで行く。愛の神キューピッド(エロス)が、半弓を持っているという古伝の由来もこれでしのばれるというものであろう。
「雪猟場は二千メートル上よ。十五分ぐらいかかりますから、その間に、スザンのおもしろい冒険談のお話をしましょう」
静かに上昇して行く肉リフトの温かな椅子にすわって、アンナ・テラスは語り始めた。
山頂から冷たい風が吹きおろし、もうずっと下のほうになった旗門の旭日《きょくじつ》旗《き》をはためかせていた。
2『記紀』解義 (二)[#表示不能に付き置換え「○に漢数字の二」]大蛇《オロチ》退治
馴致椅子《ティミング・ソファ》の中に、手首・足首をハンモックに吊《つ》られた姿勢《なり》の麟一郎《りんいちろう》は、クララへの祈念のみに心を澄ませ、かくて脳波受信によって、彼女の胸の昆虫形《こんちゅうがた》ブローチの位置に目と耳を置いて、彼女と同様の視聴覚体験を吸収していた。
今、彼の視界にあったのは、開けた山腹のスロープであった。ほとんど無限に、上方へ伸びている純白の雪面――そして、アンナの声が聞えた。
「……従者《フットマン》一人連れて円盤に乗って、連絡装置(第三章1「自己紹介」中の時間電話など)も持たずに紀元前一〇世紀の球面に着陸したわけなの。剣と鞭《むち》だけが頼《たよ》りで……」
「ずいぶん豪胆な女性《かた》だったんですね」と、ウィリアムの声には嘆賞の響きがあった。
「そう。それにスザンは武術に自信があったのよ。古石器時代人狩猟《ネアンデルタール・ハンチング》に行っても、銃器なしで追い回して――あのころは、まだ古石器時代人狩猟犬《ネアンデルタール・ハウンド》は作られてなかったのよ(第二章3「畜人犬」参照)――鞭でたたき伏せるなんて芸当のできるのは彼女《あのひと》だけだった……だから、原始ヤプー族ぐらい平気よ」
「すごいなあ!」
「その当時のヤプン諸島は、もうヤプー族が完全に住みついていた。ご存じでしょうけれど、王室探検隊の航時円筒船《シリンダー》『|考える葦《ロゾ・パンサン》』号が、人類文化史を探りながら過去世界へさか上って行った時、船長のマイネカア卿が、陛下のご内命で、純血種《サラブレッド》(ヤプー族首長の一族の血統。第九章3「矮人種の歴史と現状」参照)の原《ロー》ヤプー二匹、| 雌 《フィーメイル》のサナミーと雄《メイル》のサナギーとを、畜化処理《キャトライズ》(エンジン虫、皮膚強化等)せずにヤプン諸島のオノゴーロ島に放すという|考 古 学 的 実 験《アーキアロジカル・エキスペリメント》をやったのは、紀元前一二〇世紀、新石器時代の球面でした。それ以来、一万年余りの間にその子孫がヤプン諸島全域に繁殖したってわけよ……」
――何ということだ! もしこれがでたらめ[#「でたらめ」に傍点]の創作でないとしたら……。
麟一郎は、聞きながら声なき驚愕《きょうがく》もこれに極《きわ》まる心境にあった。イスパニヤをスペインと発音する英語流で、サナミー、サナギーと称《よ》ぶのが誰《だれ》かはいわれるまでもない。伊邪那美《イザナミ》、伊邪那岐《イザナギ》である。この両神が五柱の「天《あま》つ神《かみ》」の命令で淤能碁呂《オノゴロ》島《トウ》から日本の国を造り出したとは『古事記』の伝えるところであった。その神々の筆頭、天之《アメノ》御《ミ》中主神《ナカヌシノカミ》とは、マイネカアをミナカと訛《なま》ったのではあるまいか。『日本書紀』ではこれら「天つ神」たちを、あるいは「形|葦牙《あしかび》の如し」とか、「可美葦牙彦舅尊《ウマシアシカビヒコジノミコト》」とか、「蘆」に関係させて表現しているが、航時船の名を『|考える葦《ロゾ・パンサン》』と聞けば思い当る。これらの神々が、なぜ、独神《ひとりがみ》であり、なぜ、その後の神話中に登場しないのか――彼らは、航時船の乗組員だったからだ。名前が奇妙で異伝が多いのも、元来、神々の名が外国人の姓名だったとすれば解けるのではないか……だが、それにしても、日本列島原住民が実は未来世界から運ばれたヤプーの子孫だったとは!……待ってくれ、そのヤプーなるものは、元来、日本人だったのを家畜化したというではないか。その日本人の先祖がヤプーだとすれば、いったいどっちが先だ?
麟一郎の頭は、時間旅行《タイム・トラベル》の逆説《パラドクス》に、すっかり混乱してしまっ|た《*》。
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* 読者諸君は、すでにヤプーが、「知性猿猴」であることを説いたローゼンベルクの『畜人論』をご存じであろう(第四章3「知性ある家畜」参照)。そのことと、この航時船の実験とは両立しないように思われるかもしれない。しかし、そうではなく、それはあたかも、鶏が進化論上「爬虫類の子孫」であると同時に発生論的には鶏が先か卵が先か≠ニいう逆説が人を悩まし得るのに似ている。生物学的にはヤプーは類人猿の一種である≠ェ、歴史学的にはヤプーは日本人の子孫であると同時に先祖でもある≠ニいえるのである。なお第一六章3「家畜適性検査」の注を参照。
[#ここで字下げ終わり]
この間に、アンナの話は進んでいた。
「……おもしろいことに、彼女は男と思われてしまったのよ。ヤプー族は当時、すでに父権制的倒錯[#「父権制的倒錯」に傍点]にはいっていて、男がズボン、女がスカートだった。だから、スザンの佩剣《はいけん》でズボンをはいた服装《なり》は、どうしても男としか思えなかったのね。ただ、髭《ひげ》がないのが怪しまれたもんだから、彼女は、実は姉と賭《かけ》をして負けたので落した≠ニ返事したそうよ。ヤプーたちは、自分たちの風習から察して、何か罰を受けて追放されたんじゃないかと疑ったらしいけど……」
――於《ココ》[#レ]是《ニ》八《ヤ》百《オ》| 万《ヨロズノ》神《カミ》共《トモニ》| 議《ハカリ》而《テ》、於[#二]速《ハヤ》須《ス》佐《サ》之《ノ》男《オノ》命《ミコト》、負《ニ》[#二]千《テ》位《クラノ》置《オキ》戸《ドヲ》[#一]、|亦 《オホセマタ》切《ヒゲヲ》[#レ]鬚《キリ》……神《カム》夜《ヤ》良《ラ》比《ヒ》夜《ヤ》良《ラ》比《ヒ》岐《キ》……
かつて誦《そら》んじたこともある『古事記』の一節が、麟一郎の頭に浮び上ってくるのだった。
「スザンのほうも、女とわかっては面倒だと思ったのね。男になりすますつもりでスザン(susan)をスザノ(susa-no)にしたのよ(Oは男性名語尾)。それがヤプーたちにはスサノオ(susanoo)と聞えたらしくて、今ではイースでもこの名が……」
「それは、貴女《あなた》の御本が読まれたせいでしょ」と、ポーリンの笑いながらいう声が聞えた。
――やはり間違いなく、須佐之男命《スサノオノミコト》のことだ。それがアンナと呼ばれている話手の妹! さっき、天照大御神《アマテラスオオミカミ》と直感したのは、こっちの幻覚でも向うの仮装でもない。この人は本当の天照大御神なんだ[#「この人は本当の天照大御神なんだ」に傍点]! ああ、俺《おれ》は気違いになりそうだ!
麟一郎がつとめて気持を静めようとしているうちに、話はまた進行してしまっていた。
「……その|酋 長《しゅうちょう》を鞭でたたき伏せると、一同すっかり降参、心服しちまったのよ。大神《オオカミ》と崇《あが》めてね。自分たちがあなたの手とも足ともなる[#「手とも足ともなる」に傍点]から、オロチョン族をやっつけてくれと懇願するのよ」
――手名《テナ》椎《ズチ》、足名《アシナ》椎《ズチ》に頼まれての大蛇《オロチ》退治の話だ……。
「彼女、崇敬礼拝されて、ずいぶんいい気持だったらしいわ……」
「未開の土人の間へ我々文明人が行けば、神様扱いは当り前だ。まして相手がヤプーでは……」
「でもね、ビリー」とポーリンの声。「彼女は、自分が信仰の対象にならなかったために試合に負けたこと(前章3「記紀・解義(一)[#表示不能に付き置換え「○に漢数字の一」]天の岩戸」参照)にコンプレックスを感じていたに違いないわ。だから、本気に拝まれりゃうれしかったでしょう」
「妾《あたし》もそう思うわ」、アンナが引き取って、「それで、頼みというのを聞いてみると、大陸からの侵入者を追っ払ってくれというのよ。満州方面からオロチョン族が侵入していて、大八洲《おおやしま》といわれたヤプン八島の支配権を握り、八人の部将というか、|酋 長《しゅうちょう》代理を置いてヤプーたちを制圧している事態が理解できた。スザンは、それに対して義侠心《ぎきょうしん》を起したのね」
「後世のためにヤプー資源を確保する、という気持はなかったんでしょうか」とウィリアムの質問。
「さあね、そこまではどうかしら? 崇《あが》められてうれしかったから助勢したくらいのことかもしれないのよ。崇拝される快感[#「崇拝される快感」に傍点]というものに酔ってたに違いないから……」
――高志《コシ》の八俣《ヤマタ》の大蛇《オロチ》とは、大陸から越《コシ》(北陸地方)にやって来たオロチョン族の八部将のことだったらしい……。
「そこで、女を餌《えさ》に八部将をおびき寄せ、酒を飲ませておいて、酔ったところを逆《さか》さ吊《づ》りにし、全部を一人で、みな首を切ってしまったのよ。――スザンにとっては何でもないことだったけれど、ヤプー族にとっては、彼女は文字どおり守護神だったわけね。――しかし、大陸にあるオロチョンの本拠をつく必要があるというので、朝鮮から満州へ出て、何でもオロチョン族は興安嶺《コウアンレイ》のあたりに住んでいるのね。今、妾たちが飛んでる下あたりかな。酋長モロク・モンを捕えて殺したのよ」
――須佐之男命が朝鮮に行ったという伝説があったっけ。「神功皇后《ジングウコウゴウ》の三韓《サンカン》征伐」にしても、美女男装[#「美女男装」に傍点]という点ではこの異伝かもしれない……。
「どうしてそんなに詳しくわかるんです」
と、ウィリアムはなお懐疑的だった。アンナは気を悪くもせず、
「彼女の報告よ。想像はひとつもないわ」
「じゃ、彼女はいったん帰国なさったの?」
ポーリンの声も交じる。いちばん麟一郎の聞きたいクララの声が、まったくはいってこないのは、アンナの話に聞きほれているせいであろうか。
「スザンの円盤で帰って来たのは、例の従者だったのよ。オロチョンの酋長モロク・モンの penis を如意鞭《ティンボウ》(penis-whip)にしてくれっていう妾あてのスザンの手紙を持って来たの。こまごまと今までのことを知らせてねヤプーの管理については姉さんが正しかったことが今度よくわかった。自分は原始ヤプー族の神様になって、奴らを愛護している。姉さんも来ないか≠ニ誘ってきてね」
心なしかアンナの声が湿ったようだった。
――大蛇の尻尾《しっぽ》のところにあったという剣の名、ムラクモ(|天 叢 雲 剣《アメノムラクモノウツルギ》)は、オロチョン族のいちばん奥地の拠点にいた酋長の名前だったのか? ツルギといっても、鞭のこ|と《*》なのだな……。
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* 古代ヤプー族にとっては、スサノオの腰の鋭利な長剣(これは鞘の要らない刀身だけのものだった)と、伸びてよくしない、皮膚をつんざく不思議な革鞭とは、当初は区別がつかなかった。どちらも彼らに対し未知の霊力を秘めていた。八部将の首が次々とはねられたため、そのサーベルを彼らはツムガリ[#「ツムガリ」に傍点](頭刈)の大刀[#「の大刀」に傍点]と称し、それは如意鞭の称ともなった。スサノオの十拳剣(トツカノツルギ)はこれである(ツムガリがツムギ、ツルギとなるのは定説)。後に、鞭と剣との区別が明らかになったとき、鞭に白人貴女をさすムチの語が充てられたことは既に説明したところだ(第二五章3「天照大神」参照)。以後、ツルギは剣のみをさすことになるのである。
[#ここで字下げ終わり]
「でも、鞭は結局、彼女に渡せなかったの。さっそく作って持たしたけど、帰りにその従者が円盤で|時 間 漂 流《タイム・ドリフチング》を起しちゃって、やっともどったのは五年後になるし、その時はスザンの行万がわからなくなってしまっていたというわけ。その球面にいるには違いないんだけど、どう捜させてもわからなかったわ」
しばらくは、| 咳 《しわぶき》ひとつない、不思議な古代のミステリーだった。
3『記紀』解義 (三)[#表示不能に付き置換え「○に漢数字の三」]神勅と神器
「妾《あたし》自身、慈畜主義《チャリティズム》運動は、結局、|畜 人 宗 教《ヤプーナル・シオロジー》の問題に帰すると気づき、できれば、直接自分で原始ヤプー族の精神形成に干渉してみたい、と考え始めていたところだったの」、アンナ・テラスは、また話し始めた。「その矢先にこの失踪《しっそう》でしょ。妹の弔い合戦も兼ねて、妾は熱心な|古 代 地 球 探 検 家《エイシアントグローブ・エクスプロラー》になったのよ……」
「そして『天照大御神《アマテラスオオミカミ》』が誕生したわけですね」と、ウィリアムの満足したような声だった。
「スザン失踪についての手掛りはその後も得られませんでしたの?」、ポーリンがいかにも検事長らしい関心を示して追及する。
「だめ、自分で直接ヤプー族と接触するようになってずいぶん調べたけど。……ただね、スザンなきあとヤプー族を率いていた実力者のオークニーがね、スザンの愛玩畜《ペット》だったスクーナー・ピッコという矮人《ピグミー》を持ってたのよ、怪しいでしょ。調べてみると、その妻のセスリーという| 雌 《フィーメイル》は、もとスザンが召し使ってた奴《やつ》なの……スザンは原始ヤプー族に最初に神臨[#「神臨」に傍点]した時に、|酋 長《しゅうちょう》の娘のクシナーダというのを従畜《パンチー》に採用して以来、いつも雌ヤプーに身の回りの世話をさせていたらしいのね……」
――大国主命、須勢理《スセリ》姫《ヒメ》、櫛《クシ》名田《ナダ》姫《ヒメ》のことに違いない。スクーナー・ピッコとは少彦名命《スクナヒコナノミコト》(一寸法師の神様)である。また少彦名命の乗って来た『天之羅摩船《アメノカガミノフネ》』は縦帆《スクーナー》船だったというのだろうか?
「どうして雌なんかに……」と、ポーリンのいぶかる声。今の常識からしてちょっと考えられないことらしい。
「それはね、スザンは男に化けてたでしょ。だから、自分の体を召使いに見られるのは仕方ないとして、実は女だということを雄《メイル》ヤプーたちには知られたくなかったんだと思うの。オークニーはそのセスリーと恋仲になって、スザンの秘密を知った形跡があるのよ。妾は、初めから女で通して、神々の世界では女のほうが偉いんだ[#「神々の世界では女のほうが偉いんだ」に傍点]、と教えてしまったけれど、スザンの場合は男で通した。それが女だとわかると、なにしろ両性の倒錯していた時代でしょ。ことにオークニーは狡猾《こうかつ》で凶暴だったから、女と知って、急にスザンに反逆を試みた、ということも想像できないじゃなかったのよ」
「…………」
「奴らが妾の所有畜《もちもの》だったら、その嫌疑《けんぎ》だけでも充分、八裂きにしてやりたかったけど、他球面ヤプーはすべて|国 有 財 産《ナショナル・プロパティ》だから、あまり軽率なこともできずね……ヤプー族全体に対する妾の絶対神としての立場もあるし……それにしても、妾とあんな| 諍 《いさかい》をしたばっかりに、スザンが若い身空で他球面に客死したかと思うと、可哀《かわい》そうでね。スクーナー・ピッコは、すぐ妾が取り上げて来て飼うようにしたけど、それを見るごとに泣けたわ……」
アンナは鼻をつまらせている。
麟一郎《りんいちろう》の頭の中を「記紀」の文章があわただしく通り過ぎる。
――そうだ、あの説話には犯罪の臭《にお》いがある、確かに|!《*》
[#ここから2字下げ]
* 大国主は須佐之男から何度も殺されかかるが、須世理姫が秘密を教えて大国主を助ける。その後、大国主は姫と共謀して昼寝している須佐之男の頭髪を天井の椽捶[#表示不能に付き置換え「木+垂」X0213画区点1-85-77、414-上-17](たるき)に結びつけて逃げ出すのだ。椽捶[#表示不能に付き置換え「木+垂」X0213画区点1-85-77、414-上-18]に巻きつけ得るほどの頭髪の豊かさは、そして髭のことが書かれてないのと合わせて、いかにも女性を思わせるではないか。――大国主は、ただ逃げ出しただけだったろうか。白人美女スザンが、髪の毛で天井から吊られ、二匹のヤプーがそれを責める、さながらサド好みの凄惨な場面が考えられぬでもない――なお、少彦名は「常世(とこよ)の国」に去ったと記されており、これは仙郷(パラダイス)であると注されるが、実はアンナに回収されて行った先のイース国をさすことはいうまでもない。
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「じゃ、スザン(スサノオ)は殺されたんですか?」とウィリアム。
「疑えばね……。でも、むざむざ殺されるような女性《ひと》じゃなかったし……」
「結局、行方《ゆくえ》不明のままなんですね」
「そう、いまだに謎《なぞ》よ」
「そのオークニーというのをそのまま放っておおきになったの?」と、ポーリンは悔しそうだった。
「ううん。殺す代りに野たれ死させたわ。こちらの宗教的権威を利用して一族全部追放したのよ。『国有財産法』には触れないように自発的退位の形式でね。退位までにはいろいろなことがあったけど(読者は『古事記』を参照しつつ想像されたい)、もうじき終点だからとても話し切れないわ……」
なるほど、前方に別な旗門《ゲイト》が見えてきた。
「結論だけいうと、穏やかに首長の席を妾のパンチーに譲らせたの。ニニギーといって、陛下から拝領の純血種《サラブレッド》よ」
――出雲《いずも》族《ぞく》から大和《やまと》族《ぞく》への国譲りの話だ。ニニギーとは、もちろん瓊瓊《ニニ》杵尊《ギノミコト》のこと――。
「すると、今でもその子孫が首長で……」
「まあ、ウィリアム、有名な事実よ。『邪蛮《ジャバン》』首長家の万世一系というのは……」、ここに、初めてクララの声がして麟一郎を緊張させた。そうだ、婚約時代、彼は誇らかに日本の国体なるものを彼女に説いたのではなかったか……。さてアンナの声であった。
「そう。コトウィック嬢《さん》はよくご存じね。それ以来、ずうっと続いてるわ。妾が地球都督になって、国有財産法に触れずに他球面ヤプーを管理処分できるようになったとき変えてもよかったんですけどね。ニニギーを遣《や》る前に、お前、ヤプー族を治めにお行き。お前の子孫が率先して天照大神信仰を鼓吹して奴らに妾を拝ませている間はお前の子孫を首長にしておいてやるから≠チていってやったのを思い出して……」
――「|是吾子孫可[#レ]王之地也《コレアガウミノコノキミタルベキクニナリ》。宜爾皇孫就而治焉《ウベイマシスメミマユキテシヲセ》。行矣《サキクマセ》。|宝 祚 之 隆《アマツヒツギノサカエマサムコト》、|当与[#二]天壌[#一]無[#レ]窮者矣《マサニアメツチトキハマリナケム》。(『日本書紀』巻の第二神代の下〔五〕)の、あの神勅のことだ!
「でもヤプーとの約束なんて……」とウィリアムが突っ込んで聞いた。アンナの落ち着いた声で――。
「実際にもね、首長家を変えないほうが奴らの信仰が動揺しなくていいの。ニニギーに渡した「|三つの品物《スリー・アーチクルズ》」が、いまだに首長家の象徴になってるくらいですからね」
――三種の神器のことだ――。
「いったい、その三つの品物とは何々ですの?」と、ふたたびクララの声、いかにも好奇心にあふれていた。
「一つは例のモロク・モン| 鞭 《ウイップ》よ……」
「ああ、如意鞭ですね。スザンを記念する意味ですか」と、ウィリアムが話を横取りした。
――さっきから、話への興味の合間にも、ともすると麟一郎の、恋敵《ライバル》に対しての敵愾心《てきがいしん》、失恋の苦痛が突如として吹き上げるときがある。そのたびに思念は集中力を失い、たちまち手首・足首の猛烈な疼痛《とうつう》が復活し(第二四章3「従畜馴致椅子」参照)、ヤプーの分際で女主人の愛情問題《ラブ・アフェアス》に関心を持つ不敬を即座に思い知らされた。麟一郎は反射的に、まったく無条件にクララへの祈りに思念を集中せねばならなかった。
――クララ、クララ! お救い下さい!
ふたたびアンナの声が聞え出した時には、もう鞭の話ではなくなっていた。
「……時間電話機《テレフォン》と小型自記箱《マイクロ・ボックス》を持たせたのは、神意受領と神前報告のためよ」
「連絡をとって命令を与えてらっしたの……」とポーリン。
「初め七代ほどは時々干渉することもあったわ。それ以後の時代は、わざと放っておいたの。天照大神信仰の宗教生態学的観察をしたかったから、積極的な指令は全然しなかったのよ……」
――それが「神代《かみよ》七代《ななよ》」ということか?
「じゃ、テレフォンやボックスは……」
「ええ、案の定神格化されたわ。テレフォンは立体テレビ受像画が付いているので鏡[#「鏡」に傍点]、ボックスは形から見て曲玉[#「曲玉」に傍点]――妾が髪飾りにしてるのもそれだけど(第二五章3「天照大神」参照)、似てるでしょ――、如意鞭は刀剣[#「刀剣」に傍点]、そう考えられてそれぞれ神社のご神体になってるわ」
――それが三種《みくさ》の宝物《たから》の正体なのか! すべて、アンナがヤプーに渡した道具だったのか!
――聞けば聞くほどあきれるばかりだった。だが、現に自分が二〇世紀世界から四〇世紀世界へと時間旅行している以上、この驚くべき神話の実相も話されるとおりに信じるほかはないのだった。いや、今話されなかった神話伝説の数々も、イース文化の影響やアンナの球面干渉を考えれば理解のいくものが少なくないことに麟一郎は想到した。
――海幸《うみさち》・山幸《やまさち》の兄弟《はらから》を巡る潮満瓊《しおみつに》・潮涸瓊《しおひるに》、神武天皇の弓に止ったき金鵄《きんし》、みなイース科学でもってすれば解けることではないか。「天磐船《あめのいわふね》に乗りて飛び降れり者あり」とは何か。神武東征の途中に現われたという尻尾《しっぽ》のある畜人[#「畜人」に傍点]とは何か。イース世界の事物が、航時機によって逆送されていたことを知らなければすべて荒唐《こうとう》であり無稽《むけい》であるが、今、俺《おれ》はこれらの話を全部信じる……信じないではいられないんだ。俺の耳にしたのは、天照大神《アマテラスオオミカミ》様、じきじきのお話なんだから……。
その天照大神のお声が聞えてきた。
「お待ちどおさま、やっと着きました」
4黒色猟獣《ブラック・ゲイム》
クララは雪上畜《プキー》の背中にまたがったまま後方を振り返ってみた。
二千メートルも上ったところであろうか、スメラ山頂までにはまだまだ険峻《けんしゅん》な道のりを残していたが、ここからながめただけでも、この飛行島《ラピュータ》『高天原《タカラマハン》』の雄大な規模を認識し、無比の絶景を賞玩《しょうがん》するには充分だった。雪におおわれた山麓《さんろく》を過ぎて、鬱蒼《うっそう》たる巨木の大密林、その中央の碧潭と波上に浮ぶヨット、その向うに、ぐるりと取り巻く外輪山脈の峰々、さらにその向うの周辺平原は今は靄《もや》に包まれている……まことに絵のような楽園風景――この楽園全体が、今、東に向って飛んでいるのであるか!
真上を見上げると大きな楼門《ろうもん》の櫓《やぐら》が組まれ、天辺《てっぺん》には黒旗が掲げられていた。
雪上畜《プキー》四匹は、そろってステーションにすべり込んだ。後ろからは、半弓をささげ持った四畜童《ペンゼル》が追って来るのが見えた。青光線はいつか消えていた。蜘蛛《くも》糸《いと》のようなものがクララの頬をなぶった。
「ポーリー、お客は貴女《あなた》一人《ひとり》だと思ったので、受験獣《キャンデー》は妾《あたし》の分と合わせて二匹しか放してないのよ」。今まで、またがっていたプキーの背中に両足を横に開いて立ち上りながら、アンナ・テラスが口を開いた。「ですから、二手に分れましょう」
他の二人《ふたり》と一緒にクララも立ち上った。長靴《ブーツ》の底は、ピタリとプキーの背中に吸着して充分の安定感があった。
「でしたら、僕《ぼく》、嬢《ミス》コトウィックと組みます」
ウィリアムが、すかさず申し出た。
「この人はお転婆でして……」とポーリンがいう。調子を合わせてアンナもいった。
「そう。妾《あたし》たちより貴方《あなた》が教授なさるほうが、嬢コトウィックの上達は早くなりそうね」
この、人情に通じた女傑は、ちゃんと二人の仲を見抜いていたらしい。覆面帽《マスク・フード》の下に隠れているため、人に見られることはなかったが、クララは、思わず頬をほてらせた。
さて、畜童たちが、美しく塗り分けた半弓を一人一人にささげ渡した。アンナはクララとウィリアムに向って、テキパキと指示した。
「黒色猟獣《ブラック・ゲイム》二匹を、ここで試験のために放したのが三十分前よ。二匹は同じほうには逃げないから、一匹が東なら一匹は必ず西へ逃げてます。妾たちは東へ行くから、あなた方二人は西へ追って下さい。今日は猟犬は使いません。武器は半弓、止《とど》めは短剣。運搬犬《リトリバー》をあとで出しますから、獲物は置いてきてかまいません。たとえ仕止めなくても、一時間後にはきっとここに帰ること、よくって?」
さっきまでとは違い、アンナには人が変ったような活気がみなぎっていた。覆面帽の下に隠れてはいても、その肌《はだ》さえもひときわ輝きを増したかにうかがえた。アンナ・テラス様は、万畜をいつくしむ和御魂《にぎみたま》と同時に、無残な殺傷を喜ぶ荒御魂《あらみたま》を備えているのだった。
「妾、|覆 眼 鏡《ブラインド・ゴグルス》をさせて盲目畜踏乗《めくらのり》しますわ。貴女に対してはフェアでありませんもの。貴女のは盲目畜《ブラインド》でしょう?」とポーリンがいった。
「近視二十ジオプトリ。盲目同然にしてあるの」、アンナは、足の下のプキーのはく真紅のスキーの先端を見つめながら答えた。「ここは妾の猟場でこっちのほうが慣れているんだから、ハンディキャップはあって当然よ」
「いえ、いけませんわ。第一、妾が仕止めても、ほめてはもらえないでしょ?」
「まあ、雄々《めめ》しいわね(イースでは女々《おお》しいと逆)。ついこの間まで、生人形《ドールズ》を抱っこしていた貴女が、もうそんなことをいうようになったのねェ」
アデライン卿の友達《ともだち》として、ポーリンを子供の時から知っているアンナには、それでも彼女の張切り方が可愛《かわい》くうれしいらしい。畜童が紫色スキーのプキーに、眼帯のような眼覆《ブラインド》を掛けた。プキーはにわか盲《めくら》にされ、こうなると、ただ、背中からの鍵点《キー》刺激に反射運動をするだけになる。
イースの一流貴族女性として――ドリスほどの達者でこそなけれ――ポーリンはプキーの踏乗技術《のりかた》には相当の修練と自信を持っていた。現に、本国星の冬季別荘には盲瞽雪上畜[#「盲瞽雪上畜」に傍点][#読取不可](前章1「雪上畜」参照)、眼睛と鼓膜を針で破ったプキーさえも飼育している彼女である。さてこそアンナとの競争にもハンディなしで、と闘志を燃やしたのだ。
二人は、プキーの背中の上でステップを踏み始めた。と、今までおとなしく静止していたプキーが、二匹とも動き出した。プキー長靴の底面先端のスパイクが|鍵 点《キー・ポイント》を刺激したからだ。複雑な動きには複雑なステップが要《い》る。それはちょうど、三十二個のキー・ポイントを並べたプキーの背中を|鍵 盤《キー・ボード》と見なして、足先でタイプ・ライターをたたくのにもたとえられようか。(しかし、単純滑降のような場合は、一度刺激命令をすればそのまますべり続けることは、普通のスキーと同じである)
あたりを一回りして、まず足慣らしをした二人は、巧妙にプキーをあやつりながら前後して同方向にすべり去った。新雪の上にシュプールを残して……。
さて、茫然《ぼうぜん》と見送っていたクララ、その耳元にウィリアムが誘いかけた。
「さあ、クララ。僕《ぼく》たちはこちらへ行きましょう。プキー乗りといったって、貴女はただ立っていればいいんですよ。あの二人のような技術をもの[#「もの」に傍点]にするまでは、プキー自身の能力を活用したほうがいいんです、ことに狩猟の時はね(前章1「雪上畜」参照)。このシュプールを追ってみましょうよ」
ウィリアムは、ステーションから、今二人の去ったのと反対の方向に伸びる二本の足跡を指さした。
「このシュプールは?……」
――もし熊狩《くまがり》に行くんだとしたら、シュプールをたどっても仕様がないじゃないの。それとも、このシュプールは誰《だれ》か熊を追っかけている人のものだというのかしら? クララはいぶかしく思った。アンナが「ブラック・ゲイム」といったのを――前に、プキーたちが『雪上畜大学』の狩猟学部・熊狩科卒業と聞いていたせいで――「熊」のことだと思い込んでいたクララはそんな不審を起したのだったが、ウィリアムは笑いだした。
「ああ、そうか。貴女は熊狩のつもりだったんですね。クララ、違うんですよ。今日、僕たちのねらうのは『ブラック・ゲイム』なんです。すべりながら話しましょう……」
二人の足下にいる二匹の動物は、命ぜられたとおり、その走跡をたどってすべりだした。
「クララ、『ブラック・ゲイム』というのはですね」、ウィリアムは、彼女と並ぶ位置にプキーを移動させつつ、話しだした。「早くいえば黒奴《ネグロ》なんです、死刑の宜告を受けた……」――これもまたクララにとって刺激的な耳新しい話だった。
「黒奴刑法典」の数百個条の条文の半ばは過酷な死刑であり、死刑執行の方法だけでも数十種類が法定されている。各貴族は私有黒奴の裁判権を持ち、国有黒奴に対しては、国家官吏である検察官・裁判官がいて、毎日、イース領内での被死刑宣告者の数はイース全版図では数十万人にも上るであろう。この無雑作な判決の安直さは、一つには、黒奴の旺盛《おうせい》な繁殖力が死刑による人口減少を充分カバーし得るからであったが、真の理由は、主として死刑執行に関与する大衆の、サジズム本能を発散させることで平民の不満を内乱などの方向に導かないようにしようとする苦肉の政策にあるからだ、といえよう。(第一一章2「隧道車」私刑公売の注を参照)
ところで、そういう死刑囚黒奴に対して、女王(国有黒奴について)・貴族(各自私有黒奴について)は赦免権を持っている。その赦免のいちばん軽度の段階として各種の「僥倖恵与《チャンス・ギビング》」という制度があった。つまり、百パーセントの死を約束された死刑囚に対して、何パーセントかの、ひょっとしたら$カき延びる可能性ある機会《チャンス》を与えてやるのである。たとえば、宴会の余興などでよく行なわれる遊びに、「クレオパトラの奴隷《どれい》」というのがある。七色の瓶《びん》の、どれか一つだけは無害で、他の六つにはそれぞれ異なる強烈な毒薬を入れておき、死刑囚にその一つを選んで服用させる、という遊びである。宴に連なる人たちは、どの瓶が無毒かに賭《かけ》をし、見ているだけでなかなかスリルに富んだ余興である。死刑囚にとっては、七つに一つの割合で存命の可能性が与えられたわけであり、うまくその無害の瓶を選んだ者は「|幸運の黒奴《ラッキー・ニガー》」として赦免されるのだ。
さて、イース貴族にとって欠くことのできないスポーツとしての狩猟は、獲物を各遊星の動物という動物すべてを探り、ついには古石器時代人《ネアンデルターラー》にまで及んでいることは読者もご存じのところであるが、ヤプーから作出された各種の畜人系動物《ヤップ・アニマル》ももちろんその対象に漏れない。|矮 人 釣《ピグミー・フィッシング》のことは既に述べたが(第九章3「矮人種の歴史と現状」参照)、畜人馬《ヤップ・ホース》・畜人犬《ヤップ・ドッグ》等もこれを野性化して猟獣とする。畜人馬のあの巨躯《きょく》と快速(第一五章3「畜人馬アマディオ」参照)、古石器時代人狩猟犬《ネアンデルタール・ハウンド》のあの|衝 撃 牙《ショック・ファング》(第二章3「畜人犬」参照)、これらが、もし狩猟の対象となり猟人の征服すべきものとされる場合、どれほどのスリルをもたらすかは充分に想像されうるところであろう。しかし、それでも、いちばんおもしろいのはやはり原畜人狩猟《ローヤプー・ハンチング》だというのが定説である。人間に酷似したその形態が「人間狩猟《ウマン・ハンチング》」的興奮を与えるからである。この場合、相手に家畜意識があってはいけないので、ヤプーに意志去勢をせず、また洗脳もせずに(第一二章5「鞭打つために飼う家畜」参照)、猟獣《ゲイム》としての野性を育成するのである。ヤップ・ホースの巨躯、ヤップ・ドッグの攻撃力こそないが、代りに短刀などの護身具を持たせて猛獣になぞらえる。これを「黄色猟獣《イエロー・ゲイム》」という。
しかし、イース人にとってはヤプーはあまりにも獣畜すぎる[#「獣畜すぎる」に傍点]。「人間狩猟」的な味を求めるなら、真正の人類[#「真正の人類」に傍点]であり、半人間[#「半人間」に傍点]である黒奴のほうがずっとその味わいは深いはずである。ここに「黒色猟獣《ブラック・ゲイム》」が誕生する必然性があった。が、彼らとて半人間としての人権はあるから、勝手に罪もない黒奴を猟獣にはできない。そこで、死刑囚に対するチャンス・ギビングとして猟獣化するのだ。確実な死刑執行よりは、万に一つでも助かる見込みのあるほうがまだまし、と、死刑を宜告された黒奴たちは喜んで猟獣になった。
黄獣・黒獣は、自然動物園のように他の野獣・野禽《やきん》も生息する大密林《ジャングル》の猟場に放し飼いにされる。四六時中、猛獣どもは白人猟人の接近を警戒して野獣なみの生活(ただし食糧は給される)をせねばならない。他の野獣と同様、いつ命を失うかもしれないが、うまくいけば長生きできるかもしれない、つまり、死刑に対する恩赦として人間の死[#「人間の死」に傍点]の代りに野獣の生[#「野獣の生」に傍点]を与えられたわけである。
しかし、生きることは生きても猟場の中で獣の生涯《しょうがい》を終るのではたまらない。なんとか昔の文化生活に、黒奴生活にもどりたい。そういう希望を持つブラック・ゲイムたちのために、さらに、「|逃 走 試 験《エスケープ・エグザム》」の機会が与えられる。これは、猟人と猟獣(ブラック・ゲイムに限る。黄獣にはそんな不平・不満は許されない)との試合であって、一定時間内に猟人が捕獲なり射殺なりに成功するか、それとも猟獣が隠れおおすなり反撃に成功するなりするかで勝負が決る。猟人を殺傷しても、この場合に限り黒奴刑法を適用しない≠ニいう、大へんフェアな規定があるうえ、黒奴はヤプーのような白神信仰《アルビニズム》を持っていないから、反撃も思い切ってやれる。エスケープ・エグザムに合格する黒獣は実際にはほとんどいないのであるが、その、万が一のチャンスを彼らは死物狂いでねらうのだ。
「アンナ・テラスが二匹を試験中だといったのは、そういう黒色猟獣《ブラック・ゲイム》を二匹放したという意味なんです」とウィリアムはいった。
「雪上畜狩猟《プキー・ハンチング》の猟獣《ゲイム》である以上、もちろんスキーをはかせてあります。彼女のことですから、スキー技術も相当練習させてあるに違いありません。しかし、このプキーの能力なら、もちろん発見・追尾はできます。ただ、一時間ではどうですか? 彼女はきっと二十四時間を黒獣どもと約束したのでしょう。僕《ぼく》らが仕止めなくっても、あとで自分で殺してしまうつもりで、ただお客をもてなす意味でこのハンチングのスケジュールを組んでくれたんですよ」
――もてなす? では、妾《あたし》たちの|遊 楽《アミューズメント》のために黒奴《ネグロ》二人《ふたり》の命が(おそらく確実に)消費されるのだわ!
「じゃ、このシュプールをたどれば……」
「そうです。いるわけです。しかし、|狡い動物《カニング・アニマル》ですからね、どんなふうにひそんでいるかわかりませんよ。近寄ると危険だから、なるべく遠くに発見して射殺しましょう。まあ、貴女《あなた》は見てて下さい。僕が仕止めますよ……」
恋人の前で勇気を示し得る好機を得たことに勇み立つ美青年の言葉に、クララは、かつて読んだ「コンネル(Richard Connell)の短編」の題名を想起した。
――妾たちは『最も危険な猟獣』を狩《かり》に行くのだ……。
シュプールは尾根を越えたり雪渓《せっけい》を渡ったり、森林を抜けたりして、一路西へ走って行く。雪上畜《プキー》たちは猟犬が臭跡を追うように、確実にそのシュプールをたどって行く。素晴らしい快速であった。彼らにとっても、初回被踏乗《はつのられ》の記念すべき追跡行なのだろう。
――ポーリンとアンナ・テラスに勝てるかしら? その二人がまたゲイムと勝負している。人獣三つ巴《どもえ》なのね……。
旗門《ゲート》の黒旗はとうに見えなくなっていた。もつ二十分はたっていよう。
[#改ページ]
第二八章 矮人の死・黒奴の死
1|検 尿 矮 人《ユーリナリ・ピグミー》
ポーリンとアンナとが、それぞれ雪上畜《プキー》踏乗の技術を競いながら東に逃げた黒色猟獣《ブラック・ゲイム》を追い、クララとウィリアムとが西に逃げた獣を追って、スメラ山腹の新雪の上にそれぞれのシュプールをつけていたころ、飛行島《ラピュータ》――その全体が目下東方ヤプン諸島へ航行中であったが――の外輪山脈の七峰の一つの地下にある矮人倉庫《ピグミー・ハウス》の分類収納室では、ポーリンの随行医デミル博士が自己の失態を隠蔽《いんぺい》しようとして怪《け》しからぬことをしていた。
彼は、なぜ研究に藉口《しゃこう》して単独行動を取らねばならなかったか? 彼が取り繕おうとする失態とは何なのか? (第二五章2「軽畜車」参照)これを説明するまえに、まず検定小畜《テスト・ヤペット》および|検 尿 矮 人《ユーリナリ・ピグミー》のことに触れねばならないだろう。
既に二〇世紀中葉、妊婦の尿を小動物に注射し、妊娠の早期診断を得る技術は確立していた。ただ二十日《はつか》鼠《ねずみ》の卵巣早熟にせよ、兎《うさぎ》の排卵促進にせよ、反応を見きわめる検査がなかなか厄介《やっかい》である。そこで蟇《がま》の射精反応を利用する方法も発明された。しかし、当時のホルモン科学は、まだまだ幼稚なものであった。それ以来、二千年の進歩は術語の羅列《られつ》のみでも数ページを要しよう。あらゆる内分泌腺《ないぶんぴつせん》の放出する数百種のホルモンの一つ一つが、既にきわめ尽されている。ほとんど全部が合成可能でもある。その作用の研究に、生理を人間と等しくするばかりでなく、微量作用を拡大して反応して見せる矮人《ピグミー》が好適の指標動物として利用されたことはいうまでもない。ホルモン科学の発展は矮人の登場で一新紀元を画したのだった。
ことに有効な利用を示したのが尿内ホルモン定量の分野である。人間の尿にある種のホルモンが排出されていることは昔からわかっていたが、わずかな量を抽出するだけのためにも巨大な量の尿が必要だった時代には、個人の一回分の尿をホルモン分析の対象にするなどはあまり学者の歓迎することではなかった。これを可能にしたのはホルモン・アレルギーの現象を応用した生きた検定器[#「生きた検定器」に傍点]「特定ホルモン検定小畜《テスト・ヤペット》」の作出だった(小畜 yappet はピグミーの学術用語である。第九章3「矮人種の歴史と現状」参照)。まず、ある特定のホルモンの結晶をピグミーの血管内に注射してやる。人間にとってはごく微量でも、ピグミーにとっては相当量の異|蛋白《たんぱく》なので、抗体を生じ、二度目からはアレルギー反応を呈するようになる。そこで、たとえば、発疹《ほっしん》反応なら、その発疹面積を測定することによって、逆にピグミーの体内にはいった特定ホルモンを定量できるのである。
各種ホルモン別にテスト・ヤペットが作出され、血統が確立した。人尿を試験してみると、驚いたことに、どの種のヤペットも反応を示すのだ。つまり、妊婦尿のゴナドトロピン(生殖腺刺激ホルモン)のような、昔から知られていたものだけでなく、その他の各ホルモンも、実はすべて人尿に含まれているので、ただ、昔は微量検出法を知らなかったのにすぎないのだ、ということがわかってきた。もとより人により日により時刻による微差は生じるが、それが精密に測定され得るようになったのである。
こうして、尿内ホルモンの定量分析が可能になってくると、各種ホルモンの作用の認識と相まって、人体の生理状態を尿で精密に判断できることになった。尿診断《ユーログノシス》は既に高級|肉便器《セッチン》の必須《ひっす》教養であるが、これは、匂《にお》いや味にたよるのであるから診断は精密性を欠き、また微量のホルモンは検出できない。そこでピグミーが役に立つことになる。生体反応の機序はホルモンによって調節されており、その分泌の影響は時々刻々に尿に現われる。セッチンでは診断がつかないが、各種テスト・ヤペットに注射すれば反応がある。そこでその反応度を読み取り、各数値を総合することによって、確実な健康診断をなし得る。これを尿検査《ユーリナリシス》といい、このための指標動物たるテスト・ヤペットを|検 尿 矮 人《ユーリナリ・ピグミー》という。尿検査による診断法の長所の一つは、――セッチンによる場合にもいえることだが――少しも診断のための時間の無駄《むだ》がない、という点にある。忙しい人や集団検診などの場合にはもってこいなのだ。もっとも、診断を完全に行なうためには、数百種のユーリナリ・ピグミーをそろえねばならないので、きわめて特別な存|在《*》を除いては、個人的に常時これを使用するというケースは少なく、大病院の施設利用が大部分である。
[#ここから2字下げ]
* たとえば、女王家の人々がそれである。ことに女王の尿は、排泄のたびにその一部が物質複製機で増量されたうえ五百等分されて五百匹の各種の検尿矮人(ユーリナリ・ピグミー)に注射され、それぞれ反応度が記録され、その健康状態は彼女を少しも煩わさずに、一日十二回(イース人の一日の排尿回数)明らかにされることに「王室典範令」で定められているのである。彼女の健康がいかに国家的(宇宙的)関心事にもせよ、これ以外の診断法では、彼女はその煩に耐えまい。
[#ここで字下げ終わり]
ところで、右のような形では尿検査《ユーリナリシス》を利用しようとせず、セッチン・レポートだけで満足しているイース女性でも、生涯常用する一種の|検 尿 矮 人《ユーリナリ・ピグミー》がある。これが、俗に「|受 胎 告 知 矮 人《アナンシエイチング・ピグミー》」と呼ばれる黄体形成ホルモン検定小畜《テスト・ヤペット》」である。簡単に「|(受胎)告知者《アナンシエイター》」ともいう。正式の呼称は「第四種女性ホルモン検定小畜」
女性を発情させるエストロジェン、黄体を形成するプロゲストロン、子宮を収縮させるオクシトシン……女性ホルモンと一口にいってもはなはだ多種であるが、このピグミーは特に黄体形成ホルモンに反応する。これは受胎後に分泌《ぶんぴつ》が増すから、これを計量することによって妊娠が直ちに検知できる。しかも反応としては、その用途にかんがみ、素人《しろうと》にもわかりやすい酩酊[#「酩酊」に傍点]の形式を選んでいる。妊娠した女性[#「妊娠した女性」に傍点]の尿を注射すると、人間が多量のアルコールを摂取した時のような酩酊《めいてい》状態になる。生理中の女性[#「生理中の女性」に傍点]の尿でも相当酔っ払う。普通の女性[#「普通の女性」に傍点]のではちょっといい気持になる程度で酔わない。もし男性[#「男性」に傍点]の尿を与えると男性ホルモンの逆作用で全身的な違和を生じてひどく苦しむ。酩酊状態の度合によって妊娠月日まで判明するくらいこの反応は正確である。
しかし、ホルモンは同質でも、分泌の量には個人差があるので、正確な検定のためにはなるべく一人の女性の尿にふだんから長く慣らしたほうがいい。そこで、イースの白人女性は、年ごろになって初潮《メンス》を見、|元 服 式《プパティ・セレモニー》|を《*》あげる時に、母親から|受 胎 告 知 矮 人《アナンシエイチング・ピグミー》を贈られる。ポーリンも三年前まで、元服の時に母アデライン卿からもらった初代の|告 知 者《アナンシエイター》を飼っていた。母はその背中に細字の達筆で――
このセッチンの友による受胎告知《アナンシエイション》の近からんことを!
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(注=「肉便器(セッチン)の友」というのは、寝台下でセッチンと共に飼育されるからである。これによる受胎告知[#「これによる受胎告知」に傍点]という表現は、聖母マリアへの天使ガブリエルによる受胎告知=i中世画題)を踏まえたもの)
[#ここで字下げ終わり]
と書いてくれた(もちろん、電気焼筆で肌《はだ》に焼き入れたのである)。就床後、眠るまえに、「食事させよう」(第七章4「肉便器の初使用」注参照)と念じる(読心器を使うから)と、黙っていても寝台番(宿直黒奴。第一六章2「悪夢と指輪」下参照)がそのセッチンの胃にはいった尿を採ってピグミーに注射する。寝台番はピグミーの肌色の具合を観察してから眠るのが決りだった。こうして十年、成人していくポーリンの肉体上の生理の変化を、驚くほど敏感に肉体に表現し、彼女の初めての懐妊を告知する幸福《しあわせ》も味わって後、彼は老衰死した。今ポーリンは、二代目を使っている。
ポーリンだけではない。イースの女は皆こういう告知矮人《ピグミー》を持っている。いわば、これは舌人形《クニリンガ》などと同じく、女の寝台の備品なのだ。彼は、毎日女主人の聖水《ワラ》を頂戴《ちょうだい》し、その酔いっぷりを彼女に見せる。もし酩酊するようなら、お目出度[#「お目出度」に傍点]の祝酒[#「祝酒」に傍点]だ。受胎後一月余で|郭 公 手 術《クックー・オペレーション》(第一三章3「郭公手術怯」参照)ができるのも、告知者の酩酊の意味するところを全女性が熟知しているからのことなのである。
妊娠とわかったら、胎児を子宮畜《ヤプム》(第一三章4「子宮畜」参照)の胎内に移植し終るまで、一日三回ずつ検尿し、判定も専門家(医師)に委《ゆだ》ねられる。その酩酊度を見て、移植手術の時期を決定するためだ。
子宮畜《ヤプム》への移植後は、黄体ホルモンおよび子宮収縮ホルモン検定小畜《テスト・ヤペット》を|検 尿 矮 人《ユーリナリ・ピグミー》として、もっぱら産科医が判定する。このピグミーは、黄体ホルモンが母胎の発育に従って分泌《ぶんぴつ》量を増加すると、それに応じて酩酊愉楽することは黄体ホルモンの|受 胎 告 知 矮 人《アナンシエイチング・ピグミー》におけると同じようだが、子宮収縮ホルモンがヤプムに陣痛を感ぜしめる程度まで増加すると、これに致死的に作用される。妊娠の九ヵ月間、毎日元気にしていたそのピグミーが、ある夜ヤプムの尿を身に受けると同時に痙攣《けいれん》を起し始めたら、さっそくヤプムに子宮|弛緩薬《しかんやく》(収縮ホルモンの分泌を制止するもの)を注射してやり、分娩[#読取不可]の進行を制止せねばならない。そして翌日このピグミーが息を引き取ったら、それがヤプムに|帝 王 切 開 手 術《シーザリアン・オペレーション》を施すべき刻限なのである。こうして、「神の胤《たね》」が、いやしい畜生の膣《ワギナ》を通らずに誕生できることが保証されるのだが、そのため、神の子なる白人一人の誕生ごとに一匹のピグミーが死ぬのだった。俗称を「切腹命令者《ハラキライザー》」(harakirizer ハラキリさせるもの)とも、「子宮畜矮人《ヤプム・ピグミー》」ともいう(後の名称は、これが白人女性に直接の関係を持たず、ヤプムの付属物であることから来る。前者は、この帝王切開の第一段階をヤプムが自分で行なうことから来る。彼女らは平生から訓練されているので、ピグミーが死ねば自分で臨月の妊腹《はらみばら》を縦に切るのである)。ヤプムは、ちょうど白人女性が少女時代から受胎告知者《アナンシエイター》を飼育するように、飼育所《ヤプーナリー》入所の時から一匹ずつハラキライザーを飼育させられる。飼育するほうもされるほうも両者共、ただ一人の人間誕生に奉仕する家畜なのだが、ヤプム[#「ヤプム」に傍点]のほうは、その後も勤務《つとめ》(後述)があるに比し、ヤプム・ピグミーのほうは自己《おのれ》の死をもって神の御子《みこ》の生誕を奉祝するわけだ。
こうして、|郭 公 手 術 法《クックー・オペレーション》における移植も切開も、それぞれその告知者の利用によって安全正確なものとされているのである。クックー・オペレーションが女権制の基礎だといわれていることを考えれば、今日イースの女性たちを史上最高の幸福《しあわせ》な状態に安んじさせている縁の下の力持ちは、実に、彼女らやその身代りであるヤプムの尿を、毎夜毎夜、肉体《からだ》を張って検査しているこの二種類の|検 尿 矮 人《ユーリナリ・ピグミーズ》たちだともいえるのである。――ただ、単に一方的なピグミー利用でなく、ピグミーたち自身もこの検査作業を晩酌[#「晩酌」に傍点]として楽しめるよう、酩酊効果が選ばれているところに、下は畜生にまで及ぶ神の仁慈《なさけ》――大ざっぱにいえば、白人種独特の家畜愛《チャリティズム》であり、正確にいえばアンナ・テラスのチャリティズム運動の成果の一つである――を見いだすことができよう。ありがたいことである。
[#ここから2字下げ]
* 事柄の性質上、一節を設けて税明するのをはばかり、ここで元服式(プパティ・セレモニー)について説明する。これは生理帯着用儀式[#「生理帯着用儀式」に傍点]である。女性の生理現象は、二〇世紀の地球では女性の悩みであったが、イースではそうではなく、かえって女性の楽しみである。妊娠・出産という仕事から免れているから根本的な作業能率上のハンディキャップはないし、もちろん生理痛などもない。かえって期間中は精神的に雌々《おお》しく(つまり、勇敢で元気いっぱいに)なる。生理学の発達がそれを可能にしたのだ。だから、イース女性は生理現象を少しも面倒くさく思ってはいない。むしろ男性のほうがそれを持たないことに劣等感をいだくくらいである。男の鬚もそうだが(第一八章2「霊乳浴と唇人形キミコ」参照)、生理学的に肉体を変化させてそれをなくすことができないではない。しかし、ギリシャ人の肉体を範とするイースの風俗は、そういう簡略化への肉体改造を喜ばないのである。むしろ逆にイース女性は平均十歳の初潮から二百歳近い老年まで月一度の訪れを楽しむことができるのだ。
さて、イース女性は初潮で一人前の女《ウマン》(イースでは、 woman が人間の意義を示す。第四章2「畜人論の成立と意義」参照)となり、社会的に男よりも特権を受ける(家庭内では、初めから父や兄より上席である。第二〇章7「イース女権制略説」参照)。そこで、これを祝って正式に生理帯を締めるのである。(昔の日本でも初花に赤飯をたいて祝ったようなものである)
生理帯(メンス・バンド)には、ショーツ式、前開き式、コルセット兼用式などのパンティー形と、T字帯形とがあるが、イース女性のおもに用いるのはT字帯形[#「T字帯形」に傍点]のもので、それも、二〇世紀西洋婦人の愛用したテックス式[#「テックス式」に傍点](テックスの上に紙綿のパットを載せ、バンドで調節するもの)の発展した形式である。仔畜(カプ。赤ん坊ヤプー)の皮膚(スキン)を特殊薬品で処理してから生き剥《は》ぎにした股当皮革《テック・スキン》(吸収力が強いうえに肌ざわりがよく、股部をおおうに適している。パンティーもこれで作る)をバタフライ状に裁断したものを(背の綿とガーゼの代りに)テックスとし、(紙綿の代りに)生理極小畜(メンス・ミゼット)をパットとして用いるT字帯である。このピグミーは海綿状皮膚癌(スポンジ・カンクロイド)によって表皮表面に無数の細孔を有し、口だけでなく皮膚からも神血を摂取することができる。(第九章3「矮人種の歴史と現状」、および第一六章5「赤クリーム馴致」参照)
いわゆる着帯の儀[#「着帯の儀」に傍点]では、これから彼女に使用されるべき一群のメンス・ミゼットたちが、自分たちの賛美歌を合唱しつつ、全員で、今後彼らの宿りの家となるT字帯をささげて進み、女主人に奉献するのである。
[#ここで字下げ終わり]
血はヤプー神腿《かみもも》基架《きか》す截《た》つた革《かわ》
唐《から》| 紅 《くれない》に水漬《みず》くクルトは
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〔注〕 血はヤプー[#「血はヤプー」に傍点]というのは、われわれはヤプーの一血統だ、という自覚と同時に、神血の処理は私どもにお任せ下さい、という任務に対してのプライドをも示す。神腿基架す[#「神腿基架す」に傍点]は、腿の間にT字帯を装着することを、住居の建設にたとえて「基架」というむずかしい建築用語を使ったもの。裁った革[#「裁った革」に傍点]とは、前記の股当用に裁断したテック・スキンのこと。唐紅に水漬く[#「唐紅に水漬く」に傍点]はいうまでもあるまい。クルト[#「クルト」に傍点]とは、メンス・ミゼットの第一号の名前。――これは、彼が初めて使用された時、仲間が詠《よ》んだ歌である。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから2字下げ]
イース女性がその一匹をつまみ上げると、黒奴従者がそれをテック・スキンに装着し、さて帯を女主人に着用させる。
その時、残りのミゼットたちの歌う賛美歌がいっそうおごそかに、情感豊かに歌い上げられる。
[#ここで字下げ終わり]
此の旅は幣帛《ぬさ》も取りあえず手向山《たむけやま》
紅葉《もみじ》の錦《にしき》女神《かみ》の随意《まにま》に
[#ここから4字下げ]
〔注〕 ぬさ[#「ぬさ」に傍点]は、初期の mens-pigmy が携えた吸取紙。今は皮膚細孔の性能がよいので取りあえず[#「取りあえず」に傍点]、すなわち持たせない。手向山[#「手向山」に傍点]は「ヴィナスの山」へ手向(装着)けられること。紅葉の錦[#「紅葉の錦」に傍点]はいうまでもない。――これはクルトが、当時、就役をヴィナスの山への旅にたとえ、女神から錦[#「錦」に傍点]を賜わる幸福を詠んだものである。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから2字下げ]
これが初着用の儀式であるが、初潮の時は帯はずしにも式がある。そのとき仲間を迎える賛美歌は――、
[#ここで字下げ終わり]
聖孔《ほと》と接唇《キス》なしつる極小畜《かた》を眺《なが》むれば
ただ真紅《ありあけ》の経水《つき》ぞ残れる
[#ここから4字下げ]
〔注〕 これはほとんど注釈の必要はあるまい。初代メンス・ミゼットであるクルトが、全身の皮膚孔に神血を吸って真紅に染まって帰った姿を仲間がたたえた歌である。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから2字下げ]
このミゼットたちの賛美歌は、先のヤプー賛美歌(第二三章1「賛美歌と説教」参照)とは別に、全百番ある。これが後世の『百人一首』になったのである。
[#ここで字下げ終わり]
2ある矮人《ピグミー》の死と呪咀《じゅそ》
さて、デミル博士の仕えているジャンセン侯爵家の若夫人は目下妊娠中である。ご用医師団の首席で内科専門の侍医ランドン博士がその診断をした。一日三回の検尿も彼がしている。胎児移植後は産科医の専門だが、それまでは内科医でも判定できるからである。今日は子宮畜《ヤプム》を選定するについての助言者として、次席の産科医であるデミル博士が随行を命ぜられたのだが、そのとき、彼はうれしさのあまり、「|検 尿《ユーリナリシス》も今日は自分にやらせて下さい」と申し出た。そこでポーリンもランドン博士を連れずに出て来たのだが、さて、さっき来る途中で検尿の定刻が来て、『竜巻《トーネード》』号の機上で初の検査を実施した時、彼は大失敗をやらかしてしまったのだ。
ポーリンは、いつものランドンの時と同じに、肉便器《セッチン》を使いながらデミルを呼んで、すぐにセッチンの臍《へそ》から注射針を刺し、今、ポーリンが排泄中にでも胃の中に収まったばかりの新鮮な尿を採取させようとした。排泄《はいせつ》行為は、同室に目上の人がいない限りべつに避ける必要のない生理現象とされているし(第一〇章2「便器使用風俗」参照)、ことにこれが検査のためだから、放尿自体は問題ないが、放出の最中に、セッチンと並んで男を自分の前にしゃがませる(セッチンは背が低いから、胃から採尿するのに床に膝《ひざ》をつく姿勢になる)などは、相手が貴族ではできないことで、平民の男に羞恥《しゅうち》を感じない貴婦人の立場なればこそ、そして相手が平民なればこそできる行為であった。女主人がご用済みのあとでセッチンを別室に呼ぶつもりだったデミルは、ポーリンに呼ばれて、排泄中の採尿という予定外の作業を強《し》いられた。そして彼は、尿壺頭《ビス・ポット》をはさんで平然としている女主人の瑞々《みずみず》しい肉体の魅力に昂奮《こうふん》した。刺激が強すぎたのである。採尿を終って隣の随員室にもどったデミルは、さっそく鞄《かばん》の|矮 人 箱《ピグミー・ケース》から持参してきたポーリン専用の|検 尿 矮 人《ユーリナリ・ピグミー》を取り出して注射したが、その時、注射目盛を誤った。老ランドンと違って若い血の気《け》の多い男、つい今しがた、鼻の先に見たばかりの美女の肉体に、昂奮がさめなかったのも無理はなかったのだ……。妊娠中は、黄体形成ホルモンの外に黄体ホルモンの分泌《ぶんぴつ》量が増してくるし、午前・午後・就寝時と、注射も三度になるので、一回分は〇・〇一t[#機種依存文字「CC」]、つまり平常時の五分の一の尿量で足りる。それより多くては異常|酩酊《めいてい》を招いて危険とされる。それを、なんと、デミルは〇・一t[#機種依存文字「CC」]、つまり平時量の二倍、妊娠時規定量の十倍の、大目盛のボタン(注射器はボタンを押す仕掛になっている)を押してしまったのだ。押してからすぐハッと気づいたが、見るみる苦しみだしたピグミーを解毒しようにも、機上では何の用意もなく、何も知らない若夫人ポーリンが、「そろそろ下車の準備よ」(第二五章1「飛行島着陸」参照)と声をかけたのにびっくりさせられ、デミルはそのままピグミーをケースにもどし、鞄に入れて下車してきた、という次第だったのである。
アンナやポーリン、クララたち一行が『|遊 仙 窟《フェアリー・ケイプ》』へ向うのを見送ってから、デミルはさっそくこの矮人倉庫《ピグミー・ハウス》に案内を乞《こ》うてやって来た。死なずにいてくれればよし、もし死んでいたら、――代りのピグミーをもらおう、そう思案してピグミー・ハウスを選んだのである。
一人になってデミルは、こわごわ鞄を開いてみた。……大丈夫か?……ピグミーはもはや虫の息であり、絶望的だった。デミルはその血の気のないピグミーを| 掌 《てのひら》に載せて吐息をついた。おそかった!
デミル博士は確かに混乱していた。自分の失敗《しくじり》のためにポーリン専用のピグミーを死なせたことの責任の重大さに混乱していた。……苦しまぎれの窮余の一策として、彼が考えついたのが、この倉庫からピグミーを一匹もらって、黙ってケースに入れておけば、……若夫人やランドンにこれがわかるだろうか? ということであった。まさしく策はこれしかなかった。
ジャンセン家の侍医デミル博士といえば、ただ一言、「研究用にほしいのだが……」といい出しさえすれば、二つ返事で「ご自由に、どうぞこの中からお選び下さい」と、倉庫係の黒奴《ネグロ》をかしこまらせるだけの絶大な信用を持っていた。
ピグミー・ハウスの収納室といえば、天井までの棚《たな》がずらりと背中合せに並んでいる昔の図書館倉庫と同じで、ただ、本の代りに冷凍・瓶詰《びんづめ》にされたピグミーが目白押しに並んでいると思えばいい。死んだ標本ではない。むだに年齢《とし》を取らさないように、温度を下げて人工冬眠させてあるだけなのだ。その一室内で既に何万、何十万という数である。ピグミーの取扱いには慣れていても、デミルにとってはこんな貯蔵庫は初めてで、矮人箪笥《ピグミー・チェスト》の引出寄宿舎《ドロアーズ・ドーミトリー》(第一〇章1「小決闘士箪笥」参照)みたいな構造を予想していた彼は意外だったが、ともかくラベル標示の分類番号を調べて、「第四種女性ホルモン検定小畜《テスト・ヤペット》」の仕切りを捜した。そして比較的背格好が前のに似ているのを一匹選び出した。備え付けの超短波装置で温度を高め、手ぎわよく冬眠からさめさす。少し真物《ほんもの》より若いようだが、まあ仕方ない……博士はこれでともかく一安堵《ひとあんど》した。
「この矮人を一匹譲り受けたいのですが」
「どうぞお持ち下さい。私のほうは、上司の了解なんかすぐ得られますから……」
係員はまったく疑念をいだいていない。
――これで安心だ。検尿矮人は口をきかないから、発覚するおそれはまるでない……そうだ、死んだも同然の真物《ほんもの》をどうするかな、帰りに空の上から海へでも捨ててしまおうか……。
瀕死《ひんし》の矮人をポケットに突っ込み、贋物を鞄《かばん》の矮人箱にしまいながらデミル博士は、ホッと胸をなでおろすと同時に思わずニヤリとほくそ笑んだ。
検尿矮人には舌がなかった。寝台下で変に声でも出されては安眠の妨げだし、主人の|秘 密《プライベート》なことなどを他におしゃべりされても困る。検尿矮人は口で語れずとも、肉体の症状がすべてを物語るのだ。(ピグミーは一般ヤプーと違って着衣しているのが原則なのに、検尿矮人だけは役目がら裸である)
矮人が唖《おし》[#表示不能に付き置換え]であることは、デミル博士にとってそのときは大へん好都合なことに思えたのであったが――。
デミル博士のポケットの中で、瀕死《ひんし》の矮人《ピグミー》は、己《おの》れの悪《あ》しき運命を思いやった。
――不手ぎわな注射で自分をこんな目にあわせた悪い神が、他《よそ》の矮人を黙って俺《おれ》の代りにした……俺を殺すつもりなんだ……。
断末魔の苦しみにあえぐ目の前に、思い出が走馬燈のように過ぎる。
矮人訓練所検尿科《ピグミー・スクールユーリナリシス》における若かりし日々、ホルモンを中心とする女神の肉体の生理・病理・妊娠衛生の学習……一方に黄体形成ホルモンによるアレルギー獲得の実習……妊娠した女神の聖水《ワラ》による快美な酩酊の状態を講話に聞いて、どれほどあこがれたことだったろう。
訓練を終り、舌を抜かれて市場に出たのは三年前。その日すぐ買手がついた。男神だった。
「私の妻君《マダム》が今使用中の|告 知 者《アナンシエイター》がすっかり老衰したのでね。代りをプレゼントしたいのだが……」
「これはいかがでしょう? 今日、店に出ました新品でして、知能指数もホルモン反応指数もクラスのトップという逸物《いちもつ》でございます。値は張りますが……」
「じゃ、それにしてもいいね。……だが一つだけ注文がある。妊娠した時にだけ皮膚に浮き出る隠顕焼彩《かくしやき》をやれるかね」
「できます。〇・〇五t[#機種依存文字「CC」]の妊婦尿の成分に合わせて血液媒剤《コサンギニン》を使いますから……。これでお書き下さい」
男神は|電 気 焼 筆《ブランディング・ペン》を取って――器物の表面ででもあるかのように――彼の肌の上に何かを書いた。肌を、電熱のペン先で焼かれる矮人の激痛など気にもとめずに。……さて何と書かれたのかも知らぬまま、女神ポーリンの受胎告知者としての彼の生活が始まった。夜ごとに打たれる一本の注射は、(ビール一本の酔いとでもいおうか)彼の頬《ほお》をほんのり[#「ほんのり」に傍点]染めた。ひと月に一度の女神の生理期間中は(お銚子三本ほどの)ホロ酔い気分[#「ホロ酔い気分」に傍点]が味わえて楽しみだった。だが(飲み放題の)酩酊[#「酩酊」に傍点]というにはまだ遠かった。寝台の上で、女神・男神がボンボン製造《づくり》(第一六章5「赤クリーム馴致」参照)に精を出す、彼は、今度こそは聖水が芳醇《ほうじゅん》な美酒《ワイン》になるようにと祈ったものだ。……そして、ついに来たあの受胎告知の宥《よい》、生れて初めて知る酩酊[#「酩酊」に傍点]の歓喜に、真《ま》っ赤《か》にほてって寝台下からはい出し、肉足台《スツール》の上に脱がれた女神のスリッパの爪先《つまさき》に立って踊り出した彼を、寝台で男神ロバートにまたがったあと、肉洗浄器《ピデ》|を《*》両股《りょうまた》にはさんでいた女神が見つけたのだった。
[#ここから2字下げ]
* ビデ(pidet)は yap-pidet の略で、ビデの役目を果す。顔面は両股ではさまれやすいようヴァイオリン状に中凹みになり、口での吸引力は強力で、吸い取ったあとは舌で清めるべく本能条件づけられている。
[#ここで字下げ終わり]
「まあ、真っ赤に酔っぱらってる! 貴方《ダーリン》! 妾《あたし》、妊娠したんだわ!……あら、背中に字が……『|おめでとう!《コングラチュレーションズ》』ですって! ボブ、貴方《あんた》なのね?!」
「酔っぱらったときだけ出てくる隠顕焼彩《かくしやき》をしたのさ」
「まア、すばらしいわ。ありがとう、ボブ……」
矮人の背中の文字は、二神の再度の抱擁《ほうよう》の契機となった。踊るばかりで物がいえない矮人に代って、その皮膚の動きにつれて伸び縮みする文字の配列が女主人のお目出度《めでた》への祝意を表明し、その伸縮の表情がおかしいと、さらに二神は気分よく笑いこけたりした。……ああ、至高者《いとたかきもの》の前に道化であることの幸福[#「道化であることの幸福」に傍点]を知ったこの感激! そして、それ以来、日に三回、泥酔できる饗宴《きょうえん》の毎日! 実際、彼にしてみれば、今は生涯の最良の日々なのだ。死んでも死にきれないと、矮人はその至福に酔っていた。せめて女神の移植手術が終るまで、どうしても生きていねばならなかった。
女神ポーリンにとって、矮人ほど重宝な道具はなかった。自己の義務と分限を心得た生きた検定器として重宝であった。だがその重宝さも、女神の目から見れば、単に忠実な、卑《いや》しい小動物にすぎない。ところが、女神の最も内密な生理に奉仕するという、聖職者意識を持つ矮人にとっては、受胎告知を生涯の使命とし、全身全霊で一喜一憂する――その情熱は、文字どおりこれこそ一個の人間がライフ・ワークに注ぐところの情熱と同じものだといえるのであった。それなのに、今やその情熱が最終的に報われ、完成期ともいうべき総仕上げ(移植手術)にあと一息というところに至って、デミル博士のためにいっさいが闇《やみ》のうちに葬られようとしていた。瀕死の矮人の死ぬにも死ねない恨みのほどは一入《ひとしお》であった。一寸の虫にも五分の魂という。ましてこの矮人は――女の尿の成分に支配されるだけの生涯であったとはいえ――デミル博士にも劣らない情念と理知と意志とを備えた動物だった。その、感情[#「感情」に傍点]をこめて博士を憎悪した彼は、その知性[#「知性」に傍点]でもって博士の没落を推理・予見した。なぜなら、彼の身代りにされる矮人には、あの隠顕焼彩《かくしやき》がないではないか。真贋《しんがん》は立ちどころに明らかになり、博士の犯|罪《*》は確実に発覚する……!
[#ここから2字下げ]
* 矮人を殺すこと自体が問題ではない。他人の所有[#「他人の所有」に傍点]の畜人系動物を殺すから犯罪[#「犯罪」に傍点]なのである。自分の所有畜ならその処分はどうしようと自由である。
[#ここで字下げ終わり]
この確信のもとに、彼は悪《あ》しき神デミル博士を、全身の意力[#「意力」に傍点]をふり絞って呪詛した。
――汝《なんじ》の|犯 罪《おかせるつみ》は発覚《みいだされ》ん。汝は囚《とら》えられて罪《つみ》の審判《さばき》を受《う》け、汝の殺戮《ころ》したるものと同じ形体《すがた》とならん。……(後日、彼のこの呪詛が実現して、博士は一級縮小の酷刑に処せられ、罪の償いをすることになるのだが、これは後のことである)
やがてその気力も尽きて、彼は最後に念じた――、
――女神さま、私はこんなところで死にます。もう貴女さまの聖水《ワラ》をいただくことはできません。でも、女神さま、酩酊の味[#「酩酊の味」に傍点]、酔いしれることの信仰の喜びを教えていただきまして私は幸福《しあわせ》でした。ありがとうございます。お恵みに感謝いたします。|白皙の女神《ホワイト・ゴッテス》なるポーリンさま、バンザーイ。(第一〇章4「切腹演戯」参照)
こうして、ポーリンの二代目の受胎告知矮人、この哀れな――しかし幸福な――小動物が、デミル博士のポケットの中で冷たい骸《むくろ》になったとき、当のポーリンは、黒色猟獣《ブラック・ゲイム》に対して一の矢を射あてたところだった。アンナ・テラスと競争でシュプールを追った彼女は、遠い彼方に黒い点のような動く目標を発見するや、まるでその紫色のスキーを自分の両足に直接はいているのかと思うほどの自由さで追いかけた。素晴らしいスピードであった。黒獣《ゲイム》のほうもなかなかのスキー技術の持主であったが、雪上畜《プキー》を駆るポーリンの技量はそれを上回った。黒獣が山陰に消えたあたりまで一気に飛ばし、速力を落さずにカーブする。あと五十メートル、四十メートル、三十メートル、そこで半弓を取り出し、矢袋から矢を取ってつがえた。そして力いっぱい引き放った。
矢は黒獣の右腕に命中した。彼は衝撃でいくらか体を揺るがせはしたが、よほど気丈な獣とみえ倒れもせず、なおそのままスキーを駆って走った。と見えたとき、どこからか飛んで来た矢が黒獣を追って左肩の下に……この第二の矢は、ポーリンの後ろから走って来ていたアンナが放ったものだった。
黒色猟獣の一匹はついに倒れたのだ。情念と理知と意志とを、人間と等しなみに備えた動物が、狩猟《かり》の獲物として屠《ほふ》られたのだった。
3ある黒奴《ニガー》の死と祝福
ちょうどそのころ――、
クララとウィリアムのほうの組は、別の黒色猟獣《ブラック・ゲイム》と死闘していた。
クララとしてはまったくの未経験者だったのだから、それだけに責任の重かったウィリアムが、二人きりの狩猟行にすっかり気分を浮かれさせていささか注意を欠いていたのがいけなかったのだ。その時、クララはまばらな針葉樹の木立の中にいた。さっき飲んだ霊液《ソーマ》のせいか生理上の要求にかられた彼女は、まずウィリアムを先にやって、一人|雪上畜《プキー》の背から降りた。立小|便《*》の仕方を知らず、こっそりかがんで済ますつもりであったのだ。プキーを降りると長靴《ブーツ》が雪に沈んだ。その瞬間であった。いきなり例の黒獣《ゲイム》が樹上から飛びかかって来たのだ。
「キャーッ」
クララはそれこそ、とっさのこととて、女神らしくもない悲鳴をあげた。
[#ここから2字下げ]
* 肉便器(セッチン)は、各建物の各室のみではなく、船や車などの大型交通機関の客室にまで備えられ、排泄回数の多いイース人の便宜を図っているが、もしこうしたセッチンのない所ではどうするか? 身近に黒奴でもいれば「飲むか?」といちおうその意思を聞く。ただそれは形式だけのことで、黒奴は必ず「はい」と答えて口を開くことになっている。神の体から直接排出される生のものは神酒(ネクタール)であり、これが複製醸造された黒奴酒(ネグタル)以上に黒奴を喜ばせる飲料である。このことからいってもまず拒むことはあり得ないのだが、黒奴はヤプーと違って半人間であるのでそれだけの半人権がある、そこでおざなりの形式ではあってもいちおう承諾を得る′`式をふむのだ。おざなりの形式≠フ譬喩として、イースでは立小便契約のよう≠ニいう成句さえあるくらいである。
近くに黒奴がいなければどうするか。畜人系動物に「飲め」と命じる。普通は生の神酒など、そこらのヤプーごときの口にはいるものではないので、ヤップ・アニマルは大喜びである。神にとってはセッチンを使わない例外的排泄なので、これをつまり立小便[#「立小便」に傍点]というのである。この場合なら、クララは自分のプキーに飲ませればよかったのである。黒奴にもヤプーにも与えず、ただ地面に吸わせてしまうようなことは、本来、イース人は決してやらない。
[#ここで字下げ終わり]
迂回《うかい》するようにしてもどって来る黒獣《ゲイム》のシュプールの跡を、いぶかしげに思いながらたどって来たウィリアムが、そのときクララの悲鳴を聞いた。彼は急走ステップを踏み、全力|滑走《かっそう》で雪上畜《プキー》を走らせた。雪の上にクララが倒れ、倒れた彼女に馬乗りになった黒獣の猛《たけ》り立った姿が目にとまったのもまるで無意識|裡《り》に、ウィリアムはただ夢中になって獣に飛びつき、横抱きにころがった。
クララは、真《ま》っ青《さお》な顔のまま、急いで立ち上った。
黒色猟獣は、猛々しい奇怪な印象を見る人に与えた。寒中に猟獣として追放された彼、黒奴には、素肌にぴったりと密着した防寒着を与えられていた。服地は透明で、黒い素肌をそのまま露出したように見せる。
黒獣と白い男神が雪中に組み合ってころげ回っていた。凄絶《せいぜつ》な戦いであるべきなのが、雪中の不自由さのせいか、動きは緩慢《かんまん》に見えた。特にウィリアムのほうは、背中に負ったままの矢袋が邪魔なためか、黒獣の必死の力と、野獣さながらの敏捷《びんしょう》さに対抗できず、ついに組み敷かれてしまった。黒獣は黒鬼のごとく、すさまじい形相をし、いつしか握った右手の短刀で、組み敷いたウィリアムの喉《のど》っ首をかっ切ろうとして迫っていたのだ。辛うじてウィリアムは、その獣の右手首を両手で握り返し、全力で下からささえていた。彼の額に脂汗《あぶらあせ》がにじんでいた。短刀は少しずつ下って、ウィリアムに迫っていた。黒獣の肌が全身充血し、どす黒い色で怒張した。
この瞬間、クララは我を忘れていた。勇気というより夢中だったのだ。持っていた半弓を力いっぱい振るって、黒獣の手にした短刀を横合いからはね飛ばしたのだ。黒獣は下肢《かし》を伸ばし、クララの足を払った。クララは見事に雪中に転倒した。
ウィリアムがはね返し、下から身を起しざま強烈なアッパーを黒獣の下顎《したあご》にたたき込んでひるませたのはよかったが、もう次には、黒獣の片足がウィリアムの下腹を蹴りつけ、彼をのけぞらせていた。このとき、黒獣の右手にまだ短刀があったとしたら、確実にこのときにはウィリアム・ドレイパアの命はなくなったであろう!
――これが麟《リン》だったら!
雪中に、深く長靴《ブーツ》を踏み込みながら立ち上ったクララの脳中を、瞬間よぎって過ぎたのはそのことだった。ヤプーのリンではなく、日本人柔道家としての、たくましい瀬部麟一郎の凛々《りり》しい姿がよぎって過ぎたのである。だが、クララの思いは、長くひと所にとどまっていることはできなかった。今や間一髪の危機にあった。事はウィリアムばかりではなく、クララの命もあぶない。クララは自分の勇気におどろく余裕はなかったが、意外に冷静に、しかも敏速に反応するこの確かな反射神経のむだのないリズムを自覚していた。とっさに腰の短剣を抜き、ウィリアムにのしかかって首を絞めつけている黒獣の大きな背中の肉塊に、力いっぱい突き入れたのだ。
グオッ!
血が噴《ふ》きあげて、たちまちにしてあたりの雪を朱に染めていった。黒獣は振り向きざまクララをにらみつけた。
――殺《や》った! 妾《あたし》が、この手で、殺ったんだわ!
ウィリアムは、ただ、気絶していただけでほかに大きな外傷はなかった。クララの緊張はいっぺんにゆるみ、ゆるむと同時に尿意を覚えた。偶然の符号の合致か、背後で瀕死の黒獣が苦しげに訴えかけてきた。
「み、みず、水をくれ!」
――末期《まつご》の| 水 《ウォーター》を欲しがってる!
ピンと頭にくることがあった。今朝、クララが寝室で|諮 問 器《レファランサー》を初使用したとき(第一九章2「携帯諮問器」参照)、肉便器《セッチン》についての説明で、「神の小水《ウォーター》が黒奴酒《ネグタル》になる」ということを聞いたばかりであった。――なぜこうも、調子よくクララがそれを思いついたのか、ともかくさっきからの尿意はいちだんと高まっていた。
――そうだ! 飲ませてやればいい!
それは一種の復讐《ふくしゅう》めいた感情からであった。黒奴が喜ぼうと喜ぶまいと、飲ませることが最大の報復だという、それはサジスチックな快感にも通じる感情であった。
しかし、同時に憐憫《れんびん》の情も動いた。奇妙な矛盾ではあったが、その優越の心情には、相手に恵みを垂《た》れようという、慈悲心とも通じ合っていた。人間と思えば腹も立つが、相手が獣畜だと思えば憐憫の情が動く。
「神酒《ネクタール》を飲みたくないか?」
クララはそう尋ねた。血の気もなくなり、どす黒く変色した顔をうなずかせて、黒獣はニコと笑った。そして口を開いた。
クララはまたがった。一気に|孔 釦《ホール・ボタン》が下着のほうまで全部開いた。今、この下に黒獣、いや、黒奴の顔が……。ということをクララは意識していた。
昨日までのクララだったら、男(たとえ黒人でも)の顔にセクスを、とは、とても考えられないことであった。相手に対等の人格を認める限り、顔には顔、セクスにはセクスこそ相当するわけだから、顔にセクス[#「顔にセクス」に傍点]では、考えるだけで羞恥《しゅうち》に耐えない。そのクララが、瀕死の黒奴の願いをいれて特に平然としていたのは、彼女の黒奴観が、既に人間以下の半人間として見ることに疑いなく定着していたことであり、つまりそのことは、人間のセクスに等価値の半人間の肉体部位は、顔しかない(第五章1「ヤプーとの接吻」参照)、という認識であった。こうした黒奴観に立つ限り、いささかの羞恥の情ももはや動くことはない。
しかし、それでも、もしこのとき、ウィリァムが正気づいていたとしたら彼女はもちろん躊躇《ちゅうちょ》したであろう。黒奴の顔面に直接セクスをさらす行為にためらい[#「ためらい」に傍点]はなくとも、ウィリアムの見守るなかでそうした行為を演ずることには、耐えられない羞恥感があったであろうからだ。この羞恥感の矛盾は、すべて彼女の同類意識[#「同類意識」に傍点]に根ざしていた。クララは本来礼儀正しい、慎みをわきまえた女性であった。だがその慎みも礼儀も、人間同士という同類意識があってのことであった(イース女性間でも、人前の立小便は非礼とされる。セッチン使用はごく普通のことだが、立小便では多少とも雫《しずく》が散り、尿臭が漏れるからである)。幸いにも、ウィリアムはまだ気を失っていた。だから、見ていた[#「見ていた」に傍点]のは白神女性像から畜乳《ピルク》を吸って育ったというプキーたちだけであった。クララに、何のためらい[#「ためらい」に傍点]もあるはずはなかった。
――温かい、「末期の water」が注ぎ込まれる――。
猛々しい黒獣ではなく、一人の哀れな黒奴がクララから直接の神酒を授けられていた。黒奴は、神の恩恵に感激していた。その感激の様を見ているうちにクララは、先ほどの復讐の快感といったものは薄らぎ、憐憫の情だけが強まっていった。
――何で死刑囚になり、黒獣にされたかは知らないが、こんな所でこうして死ぬのも可哀そうに。さあ、たんと心ゆくまで飲むがいいよ……。
この立小便[#「立小便」に傍点]は、しかしクララにとってまことに好都合なことであった。
この黒色猟獣《ブラック・ゲイム》がまだ世にあって一人前の黒奴だった時、彼をつまずかせ、今の境涯《きょうがい》に転落させたのは、皮肉なことに立小便奉仕[#「立小便奉仕」に傍点]のうえの失敗だったのだ。彼は、もう少しで組頭《チーフ》になろうという従者《フットマン》だった。『高天原《タカラマハン》』を訪問したある貴婦人――アデライン・ジャンセン卿だったらしいのだが――の接待を命ぜられ、狩猟にお供し、密林の中で「立小便契約」をした。ところがどうしたわけか、途中でむせてしまって口からこぼしてしまったのだ。「飲みます」と約した以上、これは契約不履行[#「契約不履行」に傍点]である。「黒奴民法」は白人と黒奴との契約については、前者には自由な破棄権限を与えると同時に、後者には絶対の遵守《じゅんしゅ》義務を負わせている。そして「黒奴刑法」は、白人との契約違反については死刑四級をもって臨んでおり、「死刑四級ハ|脳 真 珠《ブレイン・パール》養殖ヲ以テ執行ス」である。彼は、立小便で、婦人客に不快な思いをさせた慰謝料相当額の脳真珠の胚子《はいし》を脳内に植えつけられるはずだったのだ。
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* 脳真珠(brain pearl)は、哺乳類の脳髄中に寄生し、真珠様の結晶殻を作る寄生虫であるが、高等な精神作用を営む脳内にあって神経活動を餌にして育つと美しく発色するので、人類と同程度の精神作用を持つヤプーの脳に寄生させ、人工養殖[#「人工養殖」に傍点]によって装飾用脳真珠[#「装飾用脳真珠」に傍点]を得るのである。冷静[#「冷静」に傍点]であれば青[#「青」に傍点]、陽気[#「陽気」に傍点]なら赤[#「赤」に傍点]、精神的苦痛[#「精神的苦痛」に傍点]で黄[#「黄」に傍点]、肉体的苦痛[#「肉体的苦痛」に傍点]で縞[#「縞」に傍点]、運動量[#「運動量」に傍点]で光沢[#「光沢」に傍点]と……養殖媒体になったヤプーを所定条件で生活させていくうちに虫は育ち、本体のヤプーは狂死するが珠が残る(「ヤプーは死して珠を残す」といわれる)。これが黒奴に対する刑罰として科せられるのは、契約不履行や不法行為で白人に対して損害賠償の義務がある場合で、私有財産というものを持たない黒奴は、脳真珠を自分の生命と引換えに養殖させて白人に賠償させられるのである。
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しかし、アンナ様は、その時、彼がむせたのは故意でなかったということを哀れまれ、客人には、ご自分が弁償なさることにして、その黒奴を恩赦し黒獣《ゲイム》にされたのだった。女客のお供をして失敗をやらかした同じ場所の密林《ジャングル》(もちろん『高天原』内部にある)で、今度はねらわれる獣として生きねばならなくなったのだ。大自然の中で文明から一歩離れると、人類がどんなに弱小な存在であるかを日ごとに体験させられて三年間、ついにターザン的生活に落伍《らくご》して|脱 逃 試 験《エスケープ・エグザム》の受験を願い出た。以来、スメラ山腹の檻《おり》に飼われてスキーの訓練を重ねること数ヵ月。今日、初めてアンナ様から、十二時間の期限で保釈された。その間、何としてでも逃げ回っていれば正式釈放になるはずだった。……だが、彼は結局仕止められたのである。そして、自分を仕止めた女客の憐憫《れんびん》を受けて、神酒《ネクタール》を受ける……。
――お嬢さま、ありがとうございます。最後のお情けを感謝いたします。貴女《あなた》様のお身の上に祝福がありますように……。
こうして、一匹の黒色猟獣《ブラック・ゲイム》が生涯を終えたのだ。途中で絶息でもしたのか、嚥下《えんか》できない分があふれ出たが、既に胃中にはいった神酒は酔いを誘い、彼の頬《ほお》は紅潮しかかっていた。その死するに当り何という幸福《しあわせ》!
――|可哀そうな黒奴《アルマー・ネーゲル》!
そのときになって、気を失っていたウィリアムはやっと意識づき、思わずすり寄ったクララに両手を差し出すようにして身を起した。
「クララ!」
「ああ、ビル! こわかったわ……」
二人は堅く抱き合った。偶然なことに、昨日タウヌス山中に墜落した円盤《ディスク》の前でのクララと麟一郎《りんいちろう》の対話と状態が再現されていた。(第一章5「空飛ぶ円盤」参照)
「よかったね、無事で……」
「見てちょうだい。私、戦ったのよ、やっつけたのよ……」
「すごいじゃないか!」
「スリルだったわ。ライオンに飛びかかられたら、あんなかしら……」
「黒色猟獣」とイース人はいわばいえ、昨日までのクララの目からすれば立派な一個の人格の持主ではないか。それを殺したのだ。なるほど、殺さなければ犯され、こちらが殺されたであろう。正当防衛であった。しかし、その死にもの狂いの反撃に追い込んだのは、彼を黒獣化した白人たちなのであった。りっぱに殺人である。それなのに、良心の呵責《かしゃく》の代りにクララは、猛獣狩でライオンを射止めでもしたような快い昂奮を感じていた! もはやクララの心情はイース人的心情になり変ってきているのであった。
女の| 唇 《くちびる》が男のそれに強く重ねられていた。
二匹の雪上畜《プキー》がその光景を黙ってながめていた。一匹は桃色の、一匹は茶色の、それぞれ二本のスキーをきちんとそろえてうずくまりながら、それを見ていた。しかし、「神の履物」としての教育を受けてきたプキーたちの視線は慎しかった。そして相いだく二人にとっては、それは、二台のスキーが単に脱ぎ捨ててあるというに過ぎなかった。
もう一人――一匹?――麟一郎もその一部始終を見聞していた。クララの胸のブローチのところにある目は、抱擁《ほうよう》の場面では青年の胸と密着して何も見えなくなってしまったが、耳には、熱い接吻《せっぷん》の音が、唾《つば》を飲み下す喉仏[#「喉仏」に傍点]のかすかな動きさえもが聞えてくるのだ。
二人の抱擁の間麟一郎は、昨日までの恋人としての嫉妬心《しっとしん》から、何度も思念の集中を中断させられた。そして、そのたびに、宙に吊《つ》られた肉体を支《ささ》える四肢《しし》の先に激痛が襲って、彼がただ今はクララに所有されるヤプーであることを、所有者であるクララが誰を愛そうと、それはそのまま女神の意志として無条件に受け入れねばならない家畜の身分なのだということを、彼が納得するまで執拗《しつよう》に教えるのだった。
「イース男性にとって、女性に助けてもらうことは恥ではありません」、帰り支度《じたく》をしながらクララの愛人はいった。「女性にしても、男性を危難から救うことが騎士道《シバルリー》にはいる第一歩なのです。しかし、今日ここで、さっそく貴女《あなた》から助けていただくとは思いもよりませんでしたし、さっきの広言を思えば恥ずかしいのです」
「妾《あたし》こそ助けていただいたんですわ」
「いや、奴《やつ》の短刀をはね飛ばしたのも、背中を一刺しなさったのもみな貴女の沈着な勇気を物語ってます。他球面生れとはいえ、貴女はやはり生れながらのイース貴婦人ですよ」
ウィリアムは、クララを惜しみなく賛《たた》えてから、黒奴の penis をその短刀で切り取った。クララは、ついさっき聞いたばかりのモロク・モンの penis のことを想起した。
――なるほど、イースでは倒した相手の penis を切り取るという風習があるのね……。
うまく黒色猟獣《ブラック・ゲイム》を仕止めたばかりか、相互の愛情まで確かめ合うことができた二人は、雪上畜《プキー》を踏む足取りも軽く上昇機《リフト》のステーションへと帰来した。
他の二人ももう帰っていた。
「見事にポーリーに一の矢を取られたわ」
「でも、貴女《あなた》のとどめの矢がなければ……」
ほめ合い譲り合うやりとりから、もう一匹の黒獣《ゲイム》も両貴婦人の弓勢に調伏されてしまったことがうかがえた。
「霊茸《マシルム》でもおかみなさいな。昼食《おひる》はフジヤマですることにして」
アンナは畜童《ペンゼル》に命じて皆に元気回復の妙薬(第一七章1「予備檻へ」参照)を配らせた。
歓談のひとときを過すうちにアンナが気づいていった。
「さ、もう着くころです、フジヤマはすぐそこのはずです。降臨《おり》ましょうね」
――自分たちは高山の山腹にいるというのに何をいい出すのか? クララは思った。早く下の別荘へ、また元の『竜巻《トーネード》』号の着陸地点へ戻らねば……。
このとき、アンナの指さした空の一角に大きな虹《にじ》の橋が現われ、その一方の端が一行四人の立っているあたりへするすると伸びてきたのにクララは一驚せずにおれなかった。
「この懸橋《かけはし》の向うの端がフジヤマの噴火口に届いています。天狗《テング》|の《*》猿田彦《サッド・ヒック》が途中まで迎えに来てるでしょう。さ、渡りましょう」
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* 天狗とは、女王や大貴族女性の後宮でテング奉仕する白人平民男性のことである。鼻に penis の海綿体を移植され、舌(tongue)の奉仕の十倍(ten times)も強い悦楽を女主人に与えるので、彼らの加工された高い鼻は tengue と呼ばれ、それがいつしか彼らの名称にもなった。彼らは、宮殿内では四つんばいで「狗《いぬ》」扱いされ、女主人のベッドでもその鼻での接触以外許されないくらい蔑視《べっし》されているが、一般の人民からは王族・大貴族の肉体に触れたものとして聖別され、用済み後も平民世界には戻れない。アンナ・テラスは、自分の使ったテングをタイム・マシンで古代日本の山々に送って山の守護神とし、ヤプーたちに恐れられるようにした。猿田彦もその一人である。
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*   *   *
考えてみれば、これでやっと『家畜人ヤプー』はその序章を終えた気がします。クララは今、ヤプン島のフジヤマ大飼育所《ヤプーナリー》にアンナの導きで降臨しようとします。それはエピローグでもあり同時にプロローグでもあります。女神信仰に目ざめ、やっとヤプー的意識を自覚するに至った麟一郎とクララの関係は、いよいよこれから再出発するのであります。
ヤプン島に女神として君臨することになるクララの生活と意見はまたどうなのでしょうか。
一方ドリスは、二〇世紀球面に麟一郎の妹百合枝を誘拐に出かけるかもわかりません。南海の竜宮城には、オットー姫(実は男性で、スカートをはいた内気な性格)が、浦島ことウラジミール青年と素晴らしい饗宴に惑溺するかと思えば、鈴をつけたヤプーの引く三頭橇《トロイカ》で南極の大ヤプーナリーを訪れれば、ここにコラン博士が待ってもいましょう。|産 仔 機 械《ブリーディング・マシン》と化した雌畜蜂房の奇観……突然麟は脱走し、『イース』世界を克明に見聞することになるやもしれません。ネグタルに酔いしれる黒人酒場の退廃を、脱走畜を捕える恐ろしい囮《おとり》と、そして残酷な刑罰の数々。麟はスリリングな逃走の間に、いったいどんな文明社会の実態を目撃するのか……。
『家畜人ヤプー』の結末がどうなるのか、それは混沌として広がる宇宙空間の果てを求めるがごとく、際限もないことでしょう。その際限のない世界に人知れずロケットを飛ばし、及ばずとも必要な諸データを採集してはいますが、うまくそれらのすべてがまとめられて無事回収されるかどうか、心もとないことではあります。
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「家 畜 人 ヤ プ ー」伝 説
奥野健男
好事家の文学者や文学青年や編集者の間でヤプーとか、家畜人間とか、定かでない言葉が秘密ぽく、ささやかれ、耳打ちされるようになってから、もう十年になるであろうか。何かヤプーとかいう題の不思議な小説があるそうだとか、ものすごい作品で世に出れば大問題になるからとても出版できないらしいとか、ぼくの耳にも各方面からさまざまな噂さが入ってくる。次第に噂さには尾ひれがつき、それだけで一篇の怪異譚になるようなヤプー伝説≠ェできあがってしまった。すべての伝説がそうであるようにふくれあがり、人々の口から口へ変幻して行くままにしていた方が、ますますおもしろいのだが、ここに幻の小説「家畜人ヤプー」が今度こそほんとうに出版されそうなので(この解説めいた文章が諸君の目に触れ、それは正真正銘に出版されたことの証明になるのだが、まだまだ油断ならない。たとえ出版されたとしてもまた忽ち陽の目を見ない薄暗闇の中に処分されるなどという、どんな運命が待ちかまえているのかわからないのだか
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http://azure2004.sakura.ne.jp/yapoo/mokuji.html
平成十九年三月六日 入力 校正 ぴよこ