妖魔夜行 悪魔がささやく
水野良/白井英/山本弘
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【テキスト中に現れる記号について】
:ルビ
(例)悪魔に憑《つ》かれてるのよ!?
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)悪魔|祓《ばら》い
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(例)[#改ページ]
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目 次
第一話 見飾り 水野 良
第二話 妖刀 白井 英
第三話 悪魔がささやく 山本 弘
妖怪ファイル
あとがき 水野 良
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Take-1――――――――
東京都渋谷区道玄坂一丁目――
JR渋谷駅のすぐ近く、居酒屋、大衆食堂、パチンコ店などが立ち並び、深夜でもにぎやかなこの街の一画に、現実世界と非現実の裂け目が存在することは、ほとんど知られていない。
その超自然的なスポットは、見かけは平凡な雑居ビルの五階にある小さなバーである−だが、その正確な場所をここに書いても無駄だろう。あなたが好奇心を抱き、そこに行こうとしても、店を発見するのはまず不可能である。というのも、その店の看板は目に見えないうえ、そのビルには四階までしかない[#「そのビルには四階までしかない」に傍点]からだ。
店の名を <うさぎの穴> という。
その小さな空間が大都会の真ん中で完璧に存在を隠していられるのは、科学では説明できない不思議な作用があるからだった。看板を目にすることができ、エレベーターで五階まで昇ることができるのは、この店の常連客と、どうしてもこの店を必要としている少数の人間だけなのだ。用事のない者は、エレベーターに乗りこんだとしても、そこには(4)のボタンまでしか発見できない。決して五階にたどりつくことはないのである。
当然、そこの常連客たちは普通の人間ではない。
今夜もまた、一人の女性が店に現われた。日本的な端正な顔立ちの美女で、ワンピースを優雅に着こなし、勤め帰りのOLのように見える。本職は占い師で、原宿に <ミラーメイズ> という店を出している。店を閉めた後、ちょくちょく <うさぎの穴> に顔を見せるのである。
見かけは三〇歳くらいの彼女の年齢が、実は一〇〇〇歳を超えているなどと、誰に想像できるだろう。
「おや、いらっしゃい、霧香さん」
カウンターの中にいた初老のマスターが顔を上げた。霧香は店内を見回した。いつも数人の常連がたむろしているのだが、今日は珍しく誰もいない。
店の隅におかれた年代物のピアノだけが、弾き手もいないのに曲を奏でている。
「ちょうど良かった。連絡しようと思ってたとこだよ」
「私に?」
霧香は優雅な動作でスツールに腰掛けながら訊ねた。
「さっき、 <かすみ> から電話があってね。応援を頼みたいと言ってきたんだ。あんたをご指名でね」
「 <かすみ> から?」
霧香は眉をひそめた。 <かすみ> は神戸にあるアンティーク・ショップで、この <うさぎの穴> と同じく、妖怪たちの地方ネットワークの拠点として機能している。同様のネットワークは日本各地に点在しており、絶えず連絡を取り合ってはいるものの、いずれも基本的には独立した集団である。その地域で起きた事件は、たいていの場合、その地域の妖怪たちの手で処理され、よほどの重大事件でないかぎり他のネットワークに応援を求めることはない。
つまり <かすみ> は自分たちだけでは対処できない大きな厄介事を抱えこんだのである。
「放っておけないわね」おおよその事情を聞き、霧香はうなずいた。「店は臨時休業するとしても――できれは誰かいっしょに来て欲しいわ。何があるか分からないから」
「加藤くんは?」
加藤蔦矢はしばしば霧香の助手を務めている青年である――もちろん人間ではない。
「今は大学が忙しいらしいのよ」
「こっちも今、見ての通り、手の空いてる者は少なくてねえ。八環さんは撮影旅行に行ってるし、流くんは女の子とバカンスだそうだし――大樹くんはどうだい? いないよりはましだろう?」
霧香は微笑んだ。「悪く言うもんじゃないわ。彼だってけっこう役に立つのよ」
「じゃあ、行くんだね?」
「ええ――明日さっそく新幹線でね」
霧香は大きくため息をついた。いつものことながら、こういう仕事は心が重い。平和を保つためとはいえ、同じ妖怪を敵に回して戦わなくてはならないのだから。
「……でも、今夜はとりあえず飲ませてちょうだい」
「いつものやつ?」
「そう」
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第一話 身飾り 水野良
1.はじまり
2.東京からの客
3.奇怪な事件
4.ひとりめの犠牲者
5.追跡
6.意外な送り先
7.対決
8.オルヌモン
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1 はじまり
昼間は暑いとさえ感じられたのが、嘘《うそ》のように寒い。
まるで真冬に戻ったのかと思うぐらい。暖房の効いていない倉庫の中にいると、まるで冷凍庫に放り込まれたような気分になる。
四月初旬の夜、腕時計の針は八時十五分を指している。
念を入れて用意していた厚手のカーディガンを制服の上から羽織っても、まだ寒い。
それでも、吐く息は白くならないのだから、気温はそれほど低くないのだろう。昼間との気温差の問題なのかもしれない。
それから、殺風景な倉庫の中、ひとり残業しているという気持ちの問題。たぶん、そっちが影響大だわ、と西岡真紀は思った。
心が寒いんだ、と胸のなかで笑えない冗談を飛ばし、表情を曇らせる。
「さあ、仕事に戻ろ」
真紀は神戸税関に勤務している国家公務員。昨年の春に試験に合格し、採用された。
華やかな仕事とは思っていなかったが、これほど地味な仕事とも思わなかった。書類の整理、電算機のオペレート、覚悟はしていたが、お茶|汲《く》みも仕事のひとつとされた。それから、イレギュラーで入ってくるトラブル処理。こういう仕事は、たいてい残業になる。
今日が、ちょうどそう。
この倉庫に集められているのは、受取人が姿を現わさず、廃棄処分が決まった貨物≠ナある。貨物といっても、別にコンテナに満載されている物ばかりではない。税関で扱う荷物のすべてを正式にこう呼んでいるだけのこと。
この倉庫に集められたのは、小物ばかり。それだけに種類が多く、大きさも形も不揃《ふぞろ》いだ。これらの貨物を、ひとつずつ梱包《こんぽう》を開け、中味を確認してゆかねばならない。
受取人が名乗りでないような貨物は、犯罪と関わっているケースが稀《まれ》にあるからだ。
たとえば、三年ほど前には、二重に仕切られたコンテナの奥に象牙《ぞうげ》二十七本が発見されるという事件があった。
そのコンテナの受取人は、姿を現わしていない。神戸税関の玄関|脇《わき》にある告知板には、象牙の収用を公告し、期日を定めて荷物を取りにくるよう知らせている。
その告知書を見るたびに、職員たちは苦笑を浮かべる。こんな告知をして、受取人が姿を現わすとでも思っているのだろうか? こんなことだからお役所は、と人々から陰口を叩《たた》かれるのだ。もっとも市役所などとは違い、税関は一般人が訪れることは、めったにないのだが……
やりかけだったダンボール箱のチェックを手早く片付け、真紀は次の貨物を調べにかかった。
アンティークでも入っていそうな古風な雰囲気の包装紙で梱包された箱だった。
麻紐《あさひも》を切り、包装を解くと、木製の箱が姿を現わした。木箱の蓋《ふた》は幾何学模様と見慣れぬ文字が書きこまれた紙で封じられ、さらに紐もかけてある。
年代物のお酒かな、と真紀は思った。いずれにせよ、こんな仰々しい梱包をするのだから、かなり高価な品物だろう。
廃棄処分貨物のリストを見れば、何が入っているのか確かめられるが、それよりも梱包を解いてしまったほうが早い。
紐を切り、封紙をはがす。それから、憤重な手つきで蓋を開ける。
出てきたのは、お酒ではなかった。
手紙が一通。そして、エアキャップと不織布で包まれた真っ黒なショルダーバッグ。フランスの有名ブランドのトレードマークが、シボ加工された牛革の右隅にひとつ刻印されている。
「これ、本物?」
バッグを手に取って、しげしげと見る。
これだけの梱包をしているのだ。おそらく、本物だろう。
「持って帰りたいなぁ」
真剣に思う。
このバッグのシリーズは元町なんかの店で何度も見たことがある。シンプルなデザインが気に入って、買ってみたいと思った。しかし、日本で買うには高価すぎる。勤めにでてからは、海外旅行に行く機会もない。だから、あきらめた。
そのバッグが目の前にある。しかも、月曜日には、廃棄処分になる品物なのだ。
もったいない、と思う。しかし、持って帰るわけにはいかない。もし、見つかったら厳罰ものだから。
今度も、あきらめるしかない。
ため息をつきながら、真紀はバッグの蓋《ふた》を開け、中を確かめる。
麻薬が隠されているかもしれないので、バッグの内側が二重になっていないかなど、入念にチェックする。
細工がしてあるようには思えなかった。
「ま、当然よね」
麻薬や武器類などが隠されている貨物など、彼女はまだお目にかかったことがない。
バッグを木箱に戻し、次の貨物に取りかかろうと真紀は数歩、移動した。
と、そのとき。
背後から声が聞こえてきたような気がした。
「わたしを……見て」
声は、そう告げていた。
びくりとして、真紀は振り返る。
誰も、いない。
周囲を見回す。
やはり、誰もいない。
廃棄処分が決まった大小の貨物が、雑然と積みあげられているだけ。
表は闇《やみ》に閉ざされ、山側の窓から見える高速道路は、水銀灯のオレンジ色で縁取られている。天井から吊《つ》るされている二灯式蛍光灯で照らされる倉庫の中は、やけに白く輝いてみえた。
「やだ、空耳」
そう声に出して、真紀は笑おうとした。だが、その笑顔は口許で凍りついた。
この倉庫には自分ひとりしかいないことが、ことさら強く意識された。
表の通りを一台の車が、通りすぎてゆく。遠くで、けたたましくクラクションが響いた。
肩が、震えた。
保税地区は、一般の人々が訪れることを歓迎していない。
職員が二十四時間巡回しており、この地区に入ってきた者は職務質問を覚悟しろ、と張紙までしてある。だから、夜になると人通りは絶え、車の通行さえ珍しくなる。倉庫から荷物を運びだすトラックが、ときどき通るぐらい。
「金曜の晩に、こんな仕事を押しつけるなんて」
上司の顔を思い浮かべ、真紀は心の中で悪態をついた。
適当に仕事を切り上げて、帰ってしまおうと心に決めた。梱包《こんぽう》さえ解いておけば、いや、たとえそうしなくても、業者は引き取ってくれるはずだ。焼却されれば、麻薬だって武器だって危険じゃなくなる。
「わたしを見て……」
ふたたび、声がした。
今度は、さっきよりはっきりと聞こえた。
額に汗がにじむのが、意識された。
胸の鼓動が激しくなる。
「だ、誰かいるの?」
その声が倉庫の壁や天井にはねかえり、音響の悪いカラオケボックスで歌っているようなエコーになった。自分の声が震えているのかどうかも、分からない。
知らないあいだに、誰かが倉庫の中に入ってきて、荷物の陰に隠れたのだろうか? 少し安心したのは、声が女性だということ。乱暴される心配はなさそう。
「もしかして、成美?」
なかば期待をこめて、そう呼びかけてみる。
同僚の有吉成美も、たしか本局で残業していたはずだ。一足早く仕事を終えて、誘いに来てくれたのかもしいない。
「成美……でしょ。いるんなら、出てきてよ」
真面目な彼女が、こんな悪戯《いたずら》をするとは思えない。だが、そう思わなければ、悲鳴をあげてしまいそうだった。
人が隠れているとしたらどこなのだろうか、と積み重なっている荷物の山を順に見回してゆく。床にも気をつけて、荷物の端から人影が伸びていないかも確かめる。それから、一歩足を踏み出した。
そして、一歩。
さらに、もう一歩。
彼女自身は意識はしていなかったが、その歩幅はいつもの半分ほどもなかった。
目星をつけていた積荷の山のところにつくと、もう一度、成美の名を呼んだ。
返事はなかった。
ひとつ息をしてから、思いきって積荷の裏側を覗《のぞ》きこむ。
誰も、いない。
小さな荷物が、床のうえに転がっているだけ。
ほっとすると同時に、涙が浮かんできた。そして、背筋が寒くなるような思い。
誰もいないのに、声だけが聞こえてくる。
このまま帰ってしまおう、と美紀は決心する。
「帰さないわ……」
その声は、ふたたび背後から聞こえてきた。まるで、真紀の心を読み取ったかのように。
喉《のど》の奥で、小さく悲鳴をあげた。
恐る恐る振り返ってみる。
やはり、誰もいなかった。あるのは、梱包《こんぽう》が解かれた大小の荷物だけ。
そのうちのひとつに、真紀の目はなぜか釘付《くぎづ》けになった。
さっき開封したばかりの小さな木箱。黒のショルダーバッグが、収められていた。
「そう……、わたしを見て」
その声は鮮明で、もはや空耳だと自分を騙《だま》すことさえできなかった。
真紀は涙で頬《ほお》を濡《ぬ》らしながら、必死になって助けを呼ぼうとした。
しかし、声は出なかった。
この場から一刻も早く逃げだそうと思っても、ふたつの足は出口ではなく、木箱の方へ向いて動いた。
美紀の意志とは関係なく。
木箱の前までくると、その場に崩れるように膝《ひざ》をついた。
目を背けようとするのだが、顔が勝手に木箱へと向けられてゆく。その先にあるのは、包装を解かれた、黒色のショルダーバッグ。
「わたしに、触れて」
その声は、バッグから聞こえてくるように思えた。
起こるはずのない現実を打ち消そうと、何度も何度も首を横に振る。夢なら醒《さ》めて、と心のなかで叫ぶ。
だが、目は覚めない。目の前の現実も変わらない。
右手がまるで他人の手のように、バッグに伸びてゆく。
全身が震え、奥歯がかちかちと鳴る。
指の先がバッグに触れた。
その瞬間、頭の中に何かがぬるりと滑りこんできた気がした。
「やっと、帰ってきた。やっと……」
その声は、バッグから聞こえてきたのではなかった。
それは、真紀の口から出ていた。
意識が白濁し、恐怖の感情が遠ざかっていった。それと同時に、麻酔をかけられたように全身の感覚が喪失してゆく。
代わりに、ひとつの衝動が真紀の心のなかいっぱいに膨れあがってゆく。
その衝動を満足させるために、何をすればいいかは分かっていた。
真紀がではなく、美紀の精神に入りこんできた何者かが……
2 東京からの客
新大阪駅からおよそ十五分、誰かの小説の一節ではないが、長いトンネルを抜けたところにJR新神戸駅はある。そして、駅をすぎると、すぐまたトンネルになっている。
山と山のあいだを流れる谷川の上に、新神戸駅は造られている。強引に駅を造ったものだな、と初めてこの駅に降り立った人は思うはずだ。
地元の人間でさえ、そう感じている者は多い。灘区に住む龍宮寺《りゅうぐうじ》隆《たかし》も、そのひとりだ。
もっとも、隆は生粋《きっすい》の神戸人ではない。生まれたのは佐賀県、中学一年のときに実業家だった父が亡くなり、母の実家があるこの神戸に移ってきた。
さいわいにして、父がかなりの財産を残してくれたので、当面、生活に窮する心配はない。現在は、六甲山の麓にある私立の高校に通いながら、勉強と遊びとを適度にバランスをとって日々を送っている。
平凡な高校生活といいたいところだが、残念ながら隆は普通の高校生とは異なっている。
それは、隆自身の問題ではない。
今、隆の隣で新神戸駅名物の待ち合わせ場所お待たせ桶《おけ》≠ノもたれて雑誌を読んでいる同居人のせいなのだ。
同居人の名は龍宮寺|菜穂《なお》、隆の従姉《いとこ》というごとになっている[#「なっている」に傍点]。戸籍の上でも、そうだ。
龍宮寺菜穂、十九歳――
神戸女子学園の家政科に通っている。こう言えば、神戸の人間なら出来のいいお嬢さまだと思ってくれるだろう。
だが、それは当っていない。
根本的なところで間違っている。
なぜなら、菜穂は人間ではないからだ[#「人間ではないからだ」に傍点]。
妖怪《ようかい》と呼ばれる生き物である。
生き物≠ニいうと異論があるかもしれない。だが、そう呼ぶべきだと隆は思っている。
妖怪たちはたしかに普通の動物や植物とは違う。だが、間違いなく彼らは生きている。自らの意志を持ち、活動しているのだから。それを科学的な定義と異なるからと否定してもはじまらない。
妖怪が存在していることを知ったのは、父が死んだ次の日のことだ。
戦国大名として九州に名をはせた名門、龍宮寺家の当主に隆がなった日のことだ。
父の通夜の席に菜穂は現われた。そして、隆にこう言ったのだ。
「あたしはあなたを守る。それがあたしの使命だから……」
そのときは、菜穂の言葉の意味は、分からなかった。
いや、今でも分かっていないかもしれない。守ってもらっているという実感があまりないからだ。それどころか、菜穂と一緒にいるために、危険な目にあうことのほうが多い。
菜穂は、自分の正体をすぐに明かしてくれた。
妖猫――化け猫と言ってもいい。
隆も、名前は知っていた。龍宮寺家にとって、縁のある妖怪だったから。
鍋山の猫騒動と呼ばれる事件が、江戸時代初期に起こっている。
徳川幕府において、北九州の外様大名となった鍋山家は、戦国大名龍宮寺家の有力家臣だった。ところが、主人が病弱であることにつけこみ、実権を奪ってしまう。これを恨みに思った龍宮寺家の当主は、妻を殺害し、自らも切腹して果てる。お家を乗っ取った鍋山家に対する呪《のろ》いの言葉を残して……
ここまでは、いちおう史実だ。
主人の恨みを晴すべく、龍宮寺家の飼い猫が化けてでて、鍋山家を崇《たた》ったというのが猫騒動の顛末《てんまつ》である。
もちろん、これはフィクションだ。
江戸時代の歌舞伎《かぶき》作者の創作でしかない。ところが、この作者が急死したり、役者が自殺をしたりと猫の崇りは本物だと、江戸の庶民は噂《うわさ》したのだそうだ。
隆自身は見たことはないが、映画も何本か作られている。
歌舞伎や映画を見て、本当に化け猫がいる、と思った人がいたのかもしれない[#「かもしれない」に傍点]。妖怪の実在を信じない人でも、いたらおもしろいのに、と考えたことがあったのかもしれない[#「かもしれない」に傍点]。
そういった人間の想念が、妖怪たちを生みだすのだ。
だから、菜穂が生まれた。
龍宮寺家を守護する妖猫として、そして主人に仇《あだ》なす者に復讐《ふくしゅう》する化け猫として。
人間の想念が妖怪を生む――
たとえば、神話や昔話では、妖怪たちの物語が伝えられている。そして、妖怪たちの伝承は、現在でも生まれ、語られている。ツチノコ、口裂け女、人面犬――
彼らが実在しているのかどうか、隆は知らない。
だが、実在している妖怪もいるに違いない。
今、隆の隣であくびをしている猫娘のように……
「到着したみたいね」
三階のホームから改札口のある二階へと降りてくる人々を見て、菜穂が読みかけていた占いの本を閉じ、顔をあげた。
新神戸駅十五時二十分発のひかり四十七号。
ほぼ定刻どおり。
この列車に、東京からのお客がふたり乗っているという。
隆と菜穂は、そのふたりを出迎えるために、新神戸駅にやってきたのだ。
ひとりは女性。神秘的な雰囲気の美人だそうだ。年齢は教えてもらっていない。
もうひとりは眼鏡をかけた小太りの大学生ふうの男。マリオ・ブラザーズのマリオ≠ゥら髭《ひげ》をとって、眼鏡をかけたような外見らしい。
そのふたりも、妖怪である。
ふたりを出迎え、アンティーク・ショップ <かすみ> に案内すること。
隆には、もうひとつ菜穂の監視という役目もある。菜穂ひとりだと、どんな寄り道をするか分かったものではないからだ。気になったことがあったり、気に入ったものを見つければ、飛んでいってしまう性格なのだ。
「あっ、あの人たちだよ」
階段から降りてくる乗客のなかで、そのふたりはあまりにも目立っていた。
ひとりひとりが、ではない。その組み合わせが、だ。
オーバーオールのジーパンに、フライトジャケットをだらしなく着ている小太りの若者と、クリーム色のタイトなスーツにぴしりと身を包んだ一流企業の秘書ふうの美人とが、肩を並べて歩いているのだ。
周囲を歩く乗客たちのほとんどが、それとなく、あるいはまじまじとこの奇妙なカップルを見つめている。
どういう関係なのかと心の中で詮索《せんさく》していることだろう。
「間違いないわね」
鼻をひくつかせるような仕草をしてから、菜穂がつぶやいた。
彼女の嗅覚《きゅうかく》はただ鋭いだけではなく、妖怪そのものや妖術、妖力を感知する能力がある。
ショートカットの髪をかきわけ、服装を丹念に整えてから、菜穂は改札口へ向かって歩きはじめた。
隆はその後からすこし遅れて続いた。
「ハ〜イ、こっちこっち」
改札口から出てくるふたりに、菜穂が手を振って、気軽な口調で声をかける。
隆は頭を下げて挨拶《あいさつ》をする。
「あなたたちが、夏樹のところの?」
スーツの女性が寄ってきて、微笑みながら声をかけてきた。
眼鏡の若者は、辺りをきょろきょろ見回している。背中にはキスリングを背負っている。何が入っているのか、ずいぶん重たそうに見える。
「そうで〜す。あたしは、龍宮寺菜穂。こっちは従弟《いとこ》の隆」
「でも、あなたは……」
菜穂に紹介されて、ふたたび頭をかるく下げた隆を見て、女性の目がわずかに細められた。
黒い瞳《ひとみ》に、鋭い輝きが一瞬、浮かぶ。
心の底まで見通しているようだ、と隆は思った。ようなではなく、事実、そうなのだろう。
「ええ、そうです」
人間です、と答えようと思ったのだが、周囲にはまだ乗客がたくさんいて、彼らの好奇の視線を感じていたから、隆は無難な返事をしておいた。
「よろしくね、隆くん」
優雅に微笑んで、スーツの女性は手を差し伸べてきた。
「は、はい」
握手をするときは、さすがに緊張した。
なんといっても、まだ高校生。それも男子校に通っている。女性の手を握るなんて、ほとんど経験がない。
すこし冷たいが、しなやかな感触が隆の手に伝わる。
つい頬《ほお》が赤くなり、それを見た菜穂が腹を抱えるように笑う。
「わたしは、狩野《かのう》霧香《きりか》よ」
東京から来た女性はそう名乗り、連れの若者を高徳《たかとく》大樹《だいき》と紹介した。
「では、ご案内します。すこし歩きますが、よろしいですか? お疲れでしたらタクシーを使いますが」
「ありがとう、大丈夫よ。若いのに、しっかりしてるのね」
感心したように、霧香が言った。
「それに嬉《うれ》しいわ、普通の女性のように接してくれて」
「そ、そんな……」
隆はどう答えていいか分からず、しどろもどろになった。
「あたしの教育がいいもん」
菜穂が、すかさず横槍《よこやり》を入れる。
反論したいことは山ほどあったが、隆は黙っておいた。妖怪を特別視しないようになったのは、たしかに菜穂のおかげだ。人間には真似のできない特殊な能力《ちから》を持っていても、妖怪たちのメンタリティが特別なものではないことを教えてくれたから。
彼女はどう見ても、そこらにいる女子大生とまったく変わりがない。
生魚に目がないという、食の好みを別にすれば。
隆は先頭に立って歩き、オリエンタル・パーク・アベニュー(OPA)を抜け、グリーンヒルホテルの前を通るフラワー道路の裏道から北野へと向かった。正確にいえば北野ではなく、その界隈《かいわい》へである。目指すアンティーク・ショップがあるのは不動坂を降りきったところ。地名でいえば、山本通一丁目。
道を歩いているあいだに、周囲に人がいないのを確かめて、霧香たちは本当の自己紹介をしてくれた。
狩野霧香は雲外鏡。
鏡の妖怪である。何百年も使われた銅鏡に、人間の愛着がしみこんで妖怪となった。
高徳大樹は、算盤《そろばん》の妖怪。
人間の愛着がしみこんで生まれたのは、霧香と同じ。彼の出身地は丹波の山奥だそうだから、神戸ともそれほど離れていない。神戸の北隣の三木市は、日本一の算盤の生産地だ。
ふたりは、渋谷のBAR <うさぎの穴> を拠点にする妖怪ネットワークに所属している。
菜穂も、自分の正体が妖猫であることを霧香に明かした。
やがて、複雑に道路が交差した北西の角に、赤レンガに蔦《つた》をはわしたいかにも神戸ふうの建物が見えてきた。
正面には自然石を積みあげた階段があり、それを昇った二階にオーク材で造られた古風な印象の入口がある。入口の横にはショーウィンドウがあるが、真っ白なカーテンが引かれていて、何がディスプレイされているのか、よく分からない。
この店によく出入りをしている隆でも、気をつけていないと、ふと行き過ぎてしまうことがある。一般の人間が近寄らないように、結界が張られているためだ。そのため、新聞や郵便が届かなかったりすることもしばしばある。
「こちらです」
隆は、霧香に言った。
このアンティーク・ショップが、神戸の妖怪ネットワークの連絡場所なのである。
店の一階はホーム・バーになっていて、ここが妖怪たちの憩いの場となっているのだ。
神戸ネットワークに所属している妖怪は、だいたい二十人くらい。常連≠ニいえるのは、そのうち七、八人。残りはときどき顔を見せる程度で、普段はそれぞれの住処で暮らしている。
ホーム.バーには、三十歳半ばのふくよかな印象の女性と、四十すぎの痩《や》せた男がいてカウンターごしに向かいあっている。
「松井さん?」
隆は驚いたような声をあげた。
「よお、隆くん」
松井茂は片手をあげて挨拶《あいさつ》を送ってきた。声は陽気だが、その表情は明るくない。
何か事件があったんだな、と隆は思った。そうでなければ、こんな平日の昼間に、松井が来るはずはない。
松井茂は、神戸市役所に勤める公務員。市民から寄せられる苦情処理が、彼の仕事だ。より正確にいえば、人間の仕業とは思えないような苦情の処理が、である。
「いらっしゃい、霧香」
カウンターの奥でコーヒーをたてながら、アンティーク・ショップの女主人、和田夏樹がにっこりと笑った。
見ている人を、はっとさせるような笑顔だ。
和田夏樹の正体は人柱≠ナある。
昔、平清盛が大和田泊《おおわだどまり》(現在の兵庫港)の整備を行ったとき、工事の成功と安全を祈願して三十人の人柱を埋めようとした。だが、人柱にされようとした人々が嘆き哀しむのを見て、平清盛はお経を記した石を三十個代わりに埋めよ、と命令を変えている。
そのおかげかどうか、工事は無事に終了し、大和田泊には大型の宋船が入港できるようにまでなった。昔の神戸の人々は、このとき埋められた人柱こそ、土地の守護者だと信じるようになったという。
その思いが、夏樹を生みだしたのだ。
「お久しぶりね。また、面倒をかけるけど」
霧香が申し訳なさそうに、夏樹に言った。
「お連れの人が背負っている荷物ね。いいわよ、うちで預らせてもらうわ」
「くれぐれも、売り物にはしないでね」
霧香の言葉に、夏樹は口に手をあてて笑った。いかにも神戸マダム≠ニいった笑い方だが、彼女がそうしてもいやらしい感じはしない。
霧香が目で合図を送ると、大樹は背中のキスリングをどんと床に下ろした。
その中に何が入っているかは、簡単に推測できた。危険なもの――おそらくは妖怪――を封印しているのだろう。
この店には、そういう危険な品物がごろごろ転がっている。だが、この店内にあるかぎり、安全は保障されている。
人柱である夏樹が、強力な結界を張っているためだ。
彼女の結界が破られたことは、ここ数百年というもの、ただの一度もないそうだ。
夏樹のこの妖力は全国の妖怪ネットワークに知れ渡っていて、遠方からお客がやってきては、危険な品物を置いて帰ってゆく。
霧香たちが東京からやってきた目的も、それだったようだ。
「せっかくだから、ゆっくりしていって。今、コーヒーを淹《い》れるわ。松井さんがアンテノールのケーキを持ってきてくれてるの」
夏樹が視線を向けたので、松井が照れたように頭をかいた。
「それにしても、菜穂ちゃんが戻ってきてくれて本当によかったわ。鎌風《かまかぜ》に頼んで、古河くんか、三衣ちゃんを呼ぼうと思っていたところよ」
「鎌風、きてるの?」
夏樹の言葉に、菜穂が天井を見上げた。
鎌風というのは、カマイタチの別名だ。
但馬《たじま》(兵庫県北部)を根城にしている妖怪だが、北風に乗ってよく神戸にも遊びにくる。常連ではないが、神戸ネットワークの古くからの仲間だと聞いている。
あと夏樹の言葉に出てきた古河くんというのは、河童で古河太郎。三衣ちゃんは、蛇の妖怪で大岩三衣と名乗っている。ふたりとも常連であるが、古河太郎は三田《さんだ》、大岩三衣は西宮と、住んでいる場所は神戸からすこし離れている。
「そういえば、昨日、六甲|颪《おろし》が強かったわね」
菜穂はつぶやきながら、カウンターに両手をつき、その上に顔をちょこんと載せた。
「おもしろい話があるわけね」
「おもしろくなんかないよ」
松井が、憮然《ぶぜん》として言う。
「それはあたしが決めるわ。聞かせてちょうだい。このところ何もなくて、退屈してたんだ」
松井の顔には、不安そうな表情がありありと浮かんだ。
「できるだけ、穏便にたのむよ」
「分かってるって」
そう答えて、菜穂は手招きするような仕草をした。早く話せと促しているのだ。
松井はまだ不安そうだったが、咳払《せきばら》いをひとつしてから、ゆっくりと話しはじめた。
ある奇怪な事件について。
3 奇怪な事件
事件が起こりはじめたのは、二週間前の週末ごろかららしい。
三宮センター街やハーバーランドといった神戸の繁華街で、窃盗や恐喝事件があいついでいるというのだ。犯人を捕らえてみると、ほとんどが精神喪失状態で、自らの犯行を覚えていなかったり、他人に命令されてやったのだ、と主張したりした。
犯行を命令したのは、二十歳半ばの女性だという点で、犯人の供述は一致していた。その女性は派手な服装をしており、高価なアクセサリーで身を飾っているという。そして、犯人が盗んでこいと指定したのも、装身具や服飾関係に限定されていた。
兵庫県警は、もちろん、その女性を連行しようとした。
今日までのあいだに、何人かの警官が問題の女性らしき人物を発見し、職務質問を行ったり、連行しようとしたそうだ。だが、その警官たちは一様に精神に錯乱をきたし、女性を取り逃がしている。警官のうちのひとりは道路にふらふらと飛びだしたところを、車にはねられ重傷を負っている。
「へえ、そんな事件があったんだ」
菜穂が感心したように言う。
「でも、そんな事件、新聞には載ってなかったよ。朝日新聞と神戸新聞を、うちはとっているけど。ニュースも毎日、見ているつもりだけど……」
「あまりに事件が異常なんで、マスコミには箝口令《かんこうれい》を敷いているんです。それに事件自体は、万引ですからね。被害金額もたいしたもんじゃありませんし……」
「デーハー女が、背後にいるってことが共通しているだけなのね」
菜穂がうんうんとうなずき、ぺろりと舌なめずりをした。
「間違いないわ、お仲間の仕業ね」
「話を聞いたときは、菜穂ちゃんの仕業かと思ったよ」
松井は、ひどく真面目な顔をして言った。
「失礼ね〜」
憤慨する菜穂を見て、隆は声をあげて笑った。
「菜穂姉なら、誤解されても仕方ないよ」
今日は白のシャツブラウスにハイウエストのジャンパースカートというおとなしい格好をしているが、菜穂はときどきぶっとんだ服装をする。
フォーマルなスーツを着ながら、原色のカラーストッキングとスニーカーをはいたり。下はホットパンツとロングブーツで、上には男物のジャケットを着たりなど、隆の目には気が狂っているとしか見えないときがある。
今日の格好だって、お客が来るからというので、隆がそうするように勧めたのだ。
隆は、ジャケットとスラックスでまとめている。普段は、お気に入りのスタジャンとジーパンを気分にあわせて選ぶのだ。
「松井さんのところに連絡が入ったのは、いつなの?」
夏樹が松井のカップにコーヒーを注ぎたしながら、柔らかく尋ねる。
「今日の午前だ。まったく、警察のお偉いさんたちは気位が高くてねぇ。事件を知って、すぐここに飛んできたんだよ。犯人が菜穂ちゃんでなくって、本当によかった」
「菜穂ちゃんは、そんなに悪い子じゃないわよ。お友達が関係しているようね。日本じゃ聞いたこともない話だから、たぶん外国からのお客さまでしょう」
「外国からの不良妖怪か……。最近、多いよね」
「そうだね」
隆も、菜穂に同感だった。
もちろん、外国の妖怪がすべて邪悪なわけではない。国を追われて、日本に流れくるような妖怪が邪悪なだけである。
反対に、日本を追われた邪悪な妖怪が、海外で暴れるという例も聞いたことがある。
実際、海外にも妖怪ネットワークがあり、こういった不良妖怪の情報交換がときどき行われているそうだ。
「そうそう、海外で思い出しました」
松井が口に含んでいたコーヒーを、あわてて飲みこんで言った。
「何を思い出したの?」
夏樹にうながされ、松井はロイヤルドルトンのコーヒーカップを皿に戻し、話しはじめた。
「一連の事件がはじまる前日に、神戸税関の職員で西岡真紀って娘《こ》が失踪《しっそう》しているんです。犯人や目撃者の証言から、警察は問題の女性はその西岡真紀じゃないかと疑っていて……」
「神戸税関の職員ですって!」
松井の話を途中で遮って、菜穂が驚きの声をあげた。
「なんで、そんな大事なこと、言い忘れてたのよ」
「やあ、面目ない」
「面目ないじゃないわよ。それを聞かなかったら、あたしはその真紀とかいう女をやつざきにしていたかもよ」
「だから、菜穂ちゃん、穏便にすませてくれって」
「そうか、できればね。それより、その真紀って娘が、失踪したときの状況を教えて?」
「西岡真紀は、倉庫で残業をしていたらしい。廃棄処分の決まった貨物の点検だそうだ……」
「その貨物のなかで紛失した物とかない?」
菜穂が尋ねた。
「あるよ。フランスから送られてきた貨物がひとつ。ショルダーバッグだそうだ」
「ショルダーバッグぅ?」
菜穂は、いかにも怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》を寄せた。
「わたしはよく知らないんだけどね。外国のバッグって高いんだろ?」
「高いったって百万もしないわよ。キョービの女の子なら、一個や二個は持ってるわよ。松井さん、まさか真紀って女がバッグ盗んで失踪したなんて、思っているわけ?」
「まさか。わたしはそんなこと思っちゃいないよ」
「ところが、警察は西岡真紀を窃盗、恐喝の主犯として疑っているわけね」
「問題の女性が盗もうとしているのは、装身具や衣服だろ。西岡真紀がバッグを持ち逃げしたのだとしたら、いかにも犯人っぽいじゃないか?」
「ぜんぜん、ぽく[#「ぽく」に傍点]ないわよ。そんなこと考えるなんて警察って馬鹿じゃない」
「警察はキミたちみたいな人がいるのを知らないからねぇ」
「それって、皮肉?」
菜穂に問いつめられて、松井はあわてて否定した。
「ま、これで事件は読めたわ。ようするに、その女を捜し出して、ショルダーバッグをズタズタにすればいいわけだ」
「頼むから、菜穂ちゃん……」
「分かったわよ。穏便に、優しく、丁寧に、バラバラにしておくわ」
松井はため息をつきつつ、肩をすくめた。
「隆くん、頼むわ」
「あんまり、期待しないでくださいよ」
隆は、答えた。
菜穂は隆の言葉にはたいてい従ってくれるが、ひとたびキレたら、誰も手を出せなくなる。
「わたしたちも、手伝いましょうか?」
それまで、無言で話を聞いていた霧香が、遠慮がちに申し出た。
「そうね。もし、菜穂ちゃんの手に負えないようなら……」
「あっ、信用ないんだ。なによ、簡単そうな相手じゃない。やってることも、ちゃっちいしさ」
「そうだといいけれど……」
夏樹は、ふと遠い目をしていった。
「まあ、この事件は菜穂ちゃんにおまかせするわ。もしものときは、霧香、応援お願いね」
「こちらも無理を言ってるのですもの。なんなりと、どうぞ」
霧香は笑顔で答え、そうよね、と大樹に同意を求めた。
大樹は渋々といった感じでうなずいた。
「神戸には、どうせ僕好みの店はありませんからね」
「そうと決まれば」
菜穂はべろりと唇をなめて、椅子《いす》から立ち上がった。
「さっそく、調査と行こうじゃないの。隆、ついてきてよ」
菜穂は当然のように言った。
「分かってるよ」
答えて、隆も立ち上がった。
妖怪と戦うつもりは毛頭ないが、捜査の手伝いくらいは隆にもできる。
さいわい、今は春休みなので、学校のことは心配しなくていい。
隆にとっては、毎度のことである。怖くないといえば嘘《うそ》になるが、テレビゲームで遊んだり、ビデオを見たりしているより、よほど刺激的だ。
正直に言えば、今の境遇はけっこう気にいっているのである。
「気をつけてね」
扉から出ようとした隆たちに、夏樹が声をかけた。
「まかしてよ」
夏樹にウィンクを送って、菜穂は階段をすばやく駆けあがってゆく。
「松井さん、情報収集お願いします。まめに連絡入れますから……」
隆は松井にそう言ってから、霧香や夏樹たちにかるく会釈をして、菜穂の後を追いかけた。
4 ひとりめの犠牲者
阪急三宮駅の東改札口の階段を降りて、北に出ると、そこは小さな広場になっている。
夜になると、この広場には若者たちが溜まり、電車が終わるころまで騒いでいる。
何もこんな狭い場所で、と大人たちほ冷やかな視線を送っているが、若者たちにしてみれば、神戸でもっとも人通りの多いこの広場で騒ぐのが何より楽しいのだろう。
気ままに踊ったり、歌ったりしているよう見えても、彼らは心の底では他人の注目を浴びることを望んでいるのだ。
だが、今日のところは、様子が違っていた。なぜなら、彼らの視線はひとりの女性に集中していたから。
その女性は、広場の真ん中にあるコンクリートでできた小山の頂上に腰を下ろし、長い髪をただ撫《な》でている。
歌っているわけでもないし、踊っているわけでもない。
座ったまま、じっとしているだけ。
それでも、若者たちの視線が集まるのは、その異様な服装のせいだ。
ファッションというには、あまりにも統一感がない。羽根のついた帽子、右と左で不揃《ふぞろ》いのピアス。服はミラノ・コレクションから持ってきたような奇抜なデザイン、熱帯に生息する鳥のような柄をしている。
その服装の上から、これでもかというほど、多種多様な装飾品を身につけている。
ブティックのショーウィンドウから逃げ出してきたマネキンなのではと疑いたくなる格好だが、その髪や肌は間違いなく人間のそれだ。
ただ、生きている人間にしては、あまりにうつろな目をしていた。髪を撫でつける動作も機械的で、アーケードゲームのデモ画面を見ているような印象だった。
最初、この女性が現われたとき、若者たちの何人かはテレビの撮影でもあるのかと中継車を探したぐらいだ。
だが、どうやら違うらしい。
女優でもなければ、レポーターでもなさそうだ。
「お姉さん、彼氏と待ち合わせ?」
ひとりの若者が近づいて、女に声をかけた。
こういうことには場数を踏んでいるらしく、若者の顔には自信のようなものがうかがえた。
女はゆっくりと首を横に振って、そうではない、と意思表示をした。それから、声をかけた若者に微笑みかけると、
「嬉《うれ》しいわ」
と言った。
「わたしを、見てくれてたのね」
「お姉さん、目立つもの」
若者は笑顔で答えた。
「東京あたりじゃ、そんな格好が流行《はや》ってるわけ?」
その問いには、女は答えなかった。
妖艶《ようえん》な笑みを浮かべて、若者を値踏みするように見つめるだけだ。
その笑みを若者は、自分の都合のいいように解釈した。そして、女に遊びに行かないか、と誘いかける。
こういういかれた格好をしているのは、欲求不満のあらわれに違いない、と若者は勝手に決めつける。
「別に、かまわないけれど……」
案の定、女は話に乗ってきた。
ふたりの会話に聞き耳を立てていたまわりの男たちが、羨《うらや》ましげな視線で若者を見る。もっとも、二、三、あきれたような顔をしている者もいた。
若者の趣味を疑っている様子だった。
そのときである。
「そこの女性」
男の声が聞こえた。
広場にたむろしていた若者たちは、声の方に注目する。
声の主人は制服警官だった。
緊張した表情で、まっすぐに女の方に向かってゆく。手には警棒を握りしめている。
「なんだよ、いったい」
水をさされたと思ったのか、若者は険悪な顔で警官を睨《にら》みつけた。
「黙っていなさい。そこの女性に用事があるんだ」
「用事ってどんな用事だよ」
からむような口調。
だが、警官は若者など、まるで気にも止めず、女の目の前に立った。
「また、あなたたち?」
女の表情が動いた。
その目に、怪しげな光が浮かんだ。近くのネオンを反射しているものか、血のような赤色に瞳《ひとみ》が染まる。
「西岡真紀だな?」
警官はきわめて事務的な口調で言った。
周囲の若者たちは、唐突な展開をあきらかに歓迎しているようで、楽しそうな顔でまわりに集まってくる。
「その女性《ひと》が、何したってんだよ」
若者たちの多くは、女の味方をしようと決めているようだ。
警官はあくまでもポーカーフェイスで、西岡真紀という名を繰り返した。それから、署までついてくるように、とお決まりの台詞《せりふ》を言う。
「令状あんのかよ」
ひとりの若者がつっかかったが、警官は相手にもしない。
西岡と呼んだ女性の腕を取って、立ち上がらせようとする。
「また、あたしを捕まえようというのね」
女は立ち上がり、淡々と言った。
「そして箱に閉じこめて、船に乗せるの?」
「何を言っとるんだ」
警官はあきれたように言った。
「させないわ……」
女は胸にたまった息をゆっくりと吐きながら、かすれた声で言った。
「させないじゃないだろ……」
うんざりしたような警官の声。
だが、その表情が一瞬にして変わった。
女の目が燃えているように真っ赤に光っているのに気づいたからだ。
「西岡……」
警官はあきらかに恐怖を覚え、女をつかんでいた手を放した。そして、その手がほとんど無意識に腰のホルスターへと伸びてゆく。
「それを、使うのね。あの街と同じ。やっと、帰ってきたというのに……」
「無駄な抵抗はやめろ」
警官はマニュアルどおりの警告を与える。
だが、誰が見ても、女が抵抗しているようには見えなかっただろう。
恐怖に取りつかれたように、警官の額からは汗が噴き出ている。
「どうぞ、お使いなさいな」
女は笑みを浮かべて、警官に言う。
そのときには、周囲の若者たちも異常に気がついたようだ。
警官と女性を取り囲んでいたところから、一歩、二歩と後退してゆく。それでも、立ち去りがたいのか、ふたりのやりとりを遠巻きにしている。
衆人が注目するなか、警官は何物かにとりつかれたように、ホルスター・カバーをはずし、三十八口径のニューナンブを握りしめた。
たちまち、人々がざわめいた。
見物人たちの中には、流れ弾が当たっては、と近くの物陰へと移動する者もいた。
だが、ほとんどの人が事の次第を見届けようと、その場に残っている。警官が発砲するはずがないと信じているからだ。
相手は、武器ももたない女性である。警官の命令た従わなかったという理由だけで、発砲が認められるほど、日本の治安は悪くない。
だが、警官の目はいっぱいに開かれて、目の前にいる女性をまるで飢えた猛獣であるかのように見つめている。
あきらかに異常だった。
しかし、異常なのは、警官ばかりではない。
女も、異常だった。
ピストルを向けられても、女は動じた様子もなく、不思議な笑みを浮かべながら警官の正面に立っている。
その双眸《そうぼう》が夜行性の獣のように輝いているのに、人々も気づいていた。
「さあ、お撃ちなさい」
女ははっきりとそう言った。
その言葉を聞いて、人々がざわめく。
「やめて!」
ひとりの女性がヒステリックな声をあげて、その場にしゃがみこんだ。
「やめろ!」
もうひとつ、同じような声があがった。
それは、警官の声だった。
目の前の女に向かって叫んでいる。
だが、女は何もしていない。不思議な微笑みを浮かべ、警官を見つめているだけだ。その目を怪しく輝かせて……
そのときだった。
警官が握ったピストルの銃口がゆっくりと動いた。
あちらこちらから悲鳴が上がった。
その場にしゃがんだり、逃げだしたりする者もでた。
ちょっとしたパニックになった。
警官は右手一本でピストルを持ったまま、その銃口をゆっくりと動かしつづけている。
その表情が歪《ゆが》んでいるのは、やはり恐怖のためだろうか。
「やめろ! やめるんだ!!」
警官はもう一度、叫んだ。
「やめないわ。だって、あなたはわたしを捕まえようとしたんだもの……」
「や、やめてくれー!!」
警官は絶叫した。
そして、ピストルを自らのこめかみに押し当てた。
人差し指が、引き金に手をかける。
周囲の人間は何が起ころうとしているのか、まるで理解できなかった。警官の不可思議な行動を、茫然《ぼうぜん》と見つめているだけ。
警官はゆっくりと引き金を引いてゆく。その手が震えているのが、遠目に見ても分かった。
顔は涙と鼻水で濡《ぬ》れ、口の端からはよだれが垂れている。
引き金が、いっぱいに引かれた。
カチリと乾いた音がした。
撃鉄《ハンマー》が落ちる音だった。
周囲の人々のうち、何人かが目を閉じていた。だが、弾丸は発射されない。
「や……め……」
警官は、まだ何かを言おうと口を開いているが、まるで声にならない様子だった。
ふたたび引き金を絞りはじめる。
ハンマーがゆっくりと上がってゆく。
そして、プツッと落ちた。
その途端――
破裂音があたりに轟《とどろ》いた。
警官の頭がかくんと弾け、体が横向きに倒れてゆく。こめかみのあたりから、噴水のように赤い液体をほとばしらせながら。
呪縛《じゅばく》から解かれたように、ひとりの女性が悲鳴をあげた。
ビルの谷間に、その音が響き渡ったとき、菜穂と隆は阪急電車の高架下の道を三宮に向かって歩いているところだった。
「もしかして、今の銃声?」
隆は菜穂と、思わず顔を見合せた。
風船が割れるような乾いた音だった。
テレビで聞く銃声は、もっと低音だったように思う。
だが、続いて起こった悲鳴を聞いて、隆は今のが銃声だったと確信した。
「先に行って、様子を見てきて!」
菜穂が頭上に向かって、そう声をかける。
隆には見えないが、そこにはカマイタチ――鎌風がいるはずなのだ。
菜穂の言葉に反応したように、一陣の風が吹き抜けてゆく。
その風の後を追うように、隆と菜穂も走りだす。
道を挟んで反対側の歩道は混んでいるが、隆たちがいる方の歩道は、それほどでもない。
何事かと立ち止まる人々を避けながら、ふたりは音のした方へ向かった。
その途中、正面から風が吹き寄せた。
「人間がひとり死んでいるぜ。制服警官だ」
その風に乗って、囁《ささや》くような声が聞こえてきた。
「警官が殺されたの? 例の奴《やつ》がやったの」
「分からんね。ピストルで頭、撃ち抜かれている。自殺したって、まわりの連中騒いでいたぜ」
「操られたのよ、決まってるじゃない」
菜穂はいらついたように言った。
「 <かすみ> に連絡入れておくから」
公衆電話が目に入ったので、隆はそう菜穂に声をかけた。
菜穂がうなずく。
悔しがっているのが、はっきりと分かる。
その思いは隆にとっても、同様だった。自分たちのすぐ近くで犠牲者が出たのは、なんとも残念だ。もう一足、早ければ、警官を救うことだってできたかもしれないのに。
問題の女性は、まだ近くにいるはずだ。これ以上、犠牲者を出さないために、早く彼女を見つけださねばならない。
<かすみ> に電話を入れてから、隆は現場へと向かった。
現場がどこなのかは、人垣《ひとがき》ができていたので、すぐに分かった。
パトカーのサイレンがこちらに向かってくるのが聞こえた。誰かが通報したのだ。
隆は、まず菜穂を捜そうとする。
ぐるりと周囲を見渡すと、フラワー道路を渡り、向かいのJR三宮駅の北側タクシーのりばのところで、こちらに手を振っているのが見つかった。
信号が変わるのを待って、隆も道路を渡る。
「女の人は?」
隆は菜穂に尋ねた。
「まだよ。近くにはいるはずなんだけど」
いまいましそうに、菜穂は短い髪を何度もかきあげる。
「手分けして捜そうか?」
隆がそう提案しかけたときだ。
「見つけた!}
菜穂が目を輝かせながら言った。
言うなり、走りだす。
隆はあわてて追いかけた。
本気になって走っているようで、どんどん離されてゆく。
隆の足が遅いわけではない。
菜穂が早すぎるのだ。スカートをはいてなければ、百メートルを楽に十秒を切る。
菜穂を追いかけているうちに、問題の女性らしき姿が目に入った。さくら銀行の前を、北に向かって歩いている。
隆のところからだと、二回、道路を渡らなければならない。当然のように、菜穂は信号を無視し、向こう側に渡った。
けたたましいクラクションの音が響き、ひとりのドライバーが窓から顔を出して、怒鳴り声をあげる。
隆も菜穂に続きたかったのだが車の量が多く、とても無理だった。菜穂と一緒に行動していると、自分も超人のような気がしてくる。だが、自分は生身の人間であり、車にはねられたら、命にかかわるのだ。それを忘れてはならない。
信号が変わるのを待つしかなかった。フラワー道路を北に向かって歩く女性と、全力で追いかける菜穂の姿を交互に見る。
菜穂は、すぐに追いつくに違いない。
だが、そのとき――
左車線をゆっくりと走っていた車が、ウィンカーを点滅させ、女性の脇《わき》に止まった。
あっと思ったときには、助手席側のドアが開いていた。
女性は、すばやく身を滑りこませた。
ドアが閉まると同時に、車はタイヤを鳴らし、アクセルを全開にして、遠ざかってゆく。
間一髪のところで、菜穂は間に合わなかった。
突然の出来事に、隆も茫然《ぼうぜん》とした。
信号が変わり、隆はやっと横断歩道を渡った。
菜穂が、隆の方へ駆け戻ってきた。あれほど走ったというのに、息さえ乱していない。
「信じられない!」
戻ってくるなり、菜穂は悪態をつきはじめた。
「あんな女をひっかけようなんて、いったいどんな趣味をしてるの!」
「あの手の兄ちゃんは、誰だっていいんだよ」
ため息をつきながら、隆は答えた。
「もう見えなくなったけど、どうする?」
「鎌風に追いかけさせてあるわ。たぶん、そんなに長くはドライブしないでしょう」
どうして、とは隆は聞かなかった。
あの車がどこを目指すのかは、隆にも容易に想像ができた。この近くには、その手の場所がけっこうある。
「鎌風からの連絡を待ちましょ。ああいう場所って、人通りが少ないはずだから、好都合かもしれない」
菜穂は妖《あや》しく笑うと、真っ赤な舌をだして、薄いピンクのルージュをひいた唇を湿らせた。
5 追跡
熱いシャワーが、鍛えられた肉体に弾けて、玉となって散ってゆく。
ボディシャンプーの泡を残らず流すと、高崎真はシャワーのコックを左にひねった。
ひとひねりごとに湯の勢いは弱くなり、やがて完全に止まった。
ホテル <ル・マン> の五〇三号室。
高崎が女を連れこむときによく使う部屋だった。
勝手の分かった部屋のほうが、彼にとって都合がいい。相手の女がいつも違うから、飽きるということもない。
今の時間は、午後十時を回ったばかり。
こんな早い時間に女をひっかけられたのは、上出来だった。歩道を派手な服装の女が歩いているのが見えたので、車を止めて声をかけてみたら、簡単に乗ってきた。
それにしても、変わった女だった。
名前を尋ねても、年齢を尋ねても答えようとしない。反応したのは、服装を褒《ほ》めたときだけ。もちろん、お愛想を言っただけなのだが、女には分からなかったようだ。
そして、右手の薬指にはめていた指輪を渡してくれた。
頭が弱いんじゃないか、と高崎は思った。それでも、別にかまわない。どうせ、今晩だけのお相手で、二度と会うことはないのだ。体だけが目当てなのだから、頭の出来は関係ない。
風呂場からあがると、バスタオルで体を拭《ふ》く。下着はつけずに、水色のバスローブをはおる。
色違いのバスローブがもう一着、脱衣用の籠《かご》には置いてあった。
部屋の中は、黒を基調に装飾され、白熱灯の間接照明で薄明るく照されていた。
この手のホテルにしては珍しく、広い窓がある。厚めのカーテンが引かれているので、もちろん、外から覗《のぞ》かれる心配はない。
女はベッドに腰を下ろし、真っ黒なテレビの画面をぼんやりと見ていた。
「あんたも、シャワーを浴びたらどうだ?」
高崎はぞんざいな口調で言った。
ここまでくれは、もはや女に優しくしてやることはない。
女は首だけをゆっくりと巡らせて、高崎を見上げた。
「わたしを、見て……」
女はつぶやいた。
抑揚のない声、香のきつい化粧品で真っ白に塗られた顔には、どんな表情も浮かんでいない。
どんな口紅を塗っているものか、唇は血のように赤い。
「見てるさ。けどよ、できれば裸を見せてほしいな。そのほうが、きっときれいだぜ」
「裸?」
女はつぶやいた。
「だめよ。わたしは、もっと飾らなければならないのだから。もっともっと飾らなければ。そして、見てもらうの。いろんな人にね」
高崎は無言で女を見下ろした。
その顔に険悪な表情が浮かんでいた。
「何、寝惚《ねぼ》けてやがる」
高崎は、女の前に立つと、どんと突き飛ばした。
何の抵抗もなく、女はベッドに仰向けに倒れる。
「さあ、脱げよ。でないと、自慢の飾り物がだいなしになるぜ」
言いざま、高崎は女がつけていたネックレスを、ひきちぎった。
女は顔だけをあげて、高崎を見つめた。
その目が赤く輝いていた。
目の錯覚か、と高崎は思った。
照明の加減でそう見えるのだろう。
高崎は女の上にのしかかると、その唇を強引に奪った。
「あなた、要らないわ」
声が響いた。
高崎は弾かれたように、上体を起こした。
なぜなら、その声は唇を重ねているあいだに聞こえてきたから。
高崎は舌を入れようとしたのだが、女は唇をかたく閉じていて、できなかった。
声が聞こえてきたのは、そのときだった。
腹話術でも使わなければ、声をあげられるはずがない。
「あなた、要らない」
ふたたび声がした。
今度は、女の唇は動いていた。
「勝手に決めるんじゃねぇ!」
高崎は怒鳴った。女を殴りつけようと拳を振りあげる。暴力をふるえば、おとなしくなる女は多いものだ。
しかし、高崎は拳を振りおろすことはできなかった。
「帰りなさいな、あなた」
女が、言った。
その途端、全身が硬直するのを高崎は感じた。
「お帰りなさい、そこの窓から」
高崎は立ち上がる。
悪寒が、全身を走った。彼は、立ち上がるつもりなどなかったのだ。
それなのに、体が動いていた。
窓の方に体が向く。いや、向けられた。
「さよなら」
女の言葉は、陸上競技のスターターが鳴らすピストルの音と同じだった。
高崎は全力で走った。
カーテンの引かれている窓に向かって。
そして、飛んだ。
額に固い物があたる感触があった。
何かが砕けた音がした。砕けたのが、ガラスなのか、それとも自分の額なのか、高崎には分からなかった。
ガラスが割れる甲高い音が、周囲の静寂を破った。
隆は、反射的に音がした方を見た。音は上から聞こえてきた。
五階の窓ガラスを突き破って、男が落ちてくる。
「鎌風!」
隣で、菜穂が叫んだ。
「はいよ」
声が聞こえた。風が鳴るような声。
隆と菜穂の周囲で、風が渦を巻いた。
ガラスの破片と一緒に男が放物線を描いて、地面に落ちてきた。暗いアスファルトに叩《たた》きつけられようとしたその瞬間、突風が吹いて、男の体がふわりと巻きあがった。
そして、ゆっくりと着地する。
「生きてるの?」
菜穂は男のそばに駆け寄った。
もちろん、隆も続いた。
全身、血だらけである。バスローブもはだけあられもない格好だ。
「大丈夫なんじゃねぇか。口から泡ふいて気を失ってるけどよ」
そう言って、鎌風が実体化した。
両手が鎌状をした獣の姿である。
後ろ足はなく、腰から下は尻尾《しっぽ》のように細く、長く流れている。
「おイタがすぎるから、こうなるのよ」
菜穂は、気絶している男に向かって説教じみたことを言う。
「人が来るんじゃない?」
隆は周囲を見回してみた。
夜も更けているし、もともと人通りの少ない裏道なので、人の姿は見えない。
男の怪我も気になるが、ここで時間をつぶしているわけにはいかないのだ。
「女が出てくるわ。みんな、隠れて」
菜穂が鼻をひくつかせて、臭いをかいでから言った。
隆はあわてて近くの路地に隠れた。鎌風は上空に舞いあがり、透明になった。
隆が隠れたのと同じ路地に、菜穂も滑りこんできた。
そして、塀の陰から顔を覗かせ、ホテルの入口に注意を向ける。
しばらくして、女が出てきた。
まるで何事もなかったかのように、駐車場を抜けて、表の道に出てきた。
倒れている男には一瞥《いちべつ》もくれないで、まっすぐに通りを三宮の方へ歩いてゆく。
「この道だと、いつ人が来るか分からないわ。なんとか、路地に誘いこまなきゃ」
「誘いこむって、どうやって?」
隆は菜穂に尋ねた。
菜穂は隆の顔をじろじろと見つめる。
髪の毛は七、三に分け、色白で華奢《きゃしゃ》。いいところのお坊ちゃんのように見えないこともない。身長は百七十五センチと低くはないし、容姿も悪くはない。
「隆、ナンパは得意だったよね?」
菜穂は隆の髪に手を伸ばし、くしゃっと乱した。
「うん、このほうがラフで素敵だわ」
「もしかして、オレがやるの?」
隆はさすがに驚いた。大声を出しそうになったが、それはかろうじて自制した。
「やだよ、あんなになるのは……」
血まみれで路上に倒れている男に、ちらりと視線を向ける。
「つべこべ言わないの。表通りに出られたらアウトでしょ。うまく路地に連れこんでよ。人間を操るだけで、他には妖術《ようじゅつ》もなさそうだから大丈夫だと思う。危なくなったら助けるから」
「オレ、操られたくないよ」
ぶつぶつと文句は言ったが、他にいい方法が思いつかない。
菜穂が本気で戦うには、妖怪の姿に戻らねばならない。ここで戦っては、さっきの音を聞きつけて、人間が集まってくる可能性もある。
「分かった、試してみるよ」
隆は言った。
「偉いわよ、隆。さあ、女が角を曲がるわ」
菜穂は笑顔を浮かべながら、隆の背中をぽんと叩《たた》き、通りへ押し出した。
隆は覚悟を決めて、女の後を追いかけた。
女は意外に早足だったが、隆は全力で駆けたので、すぐに追いついた。
女は後ろから追いかけてくる足音を聞いても、振り向きさえしない。
隆は心を落ち着かせて、女の肩をぽんと叩く。電気でも走るのではないかと、びくびくしたが、手のひらには布の感触しか伝わってこなかった。
「おい、明美」
適当に思いついた女性の名前を呼んだ。
女はくるりと向きをかえた。
能面のような顔。
間近で見ると、その服装の異様さは、際立っている。
菜穂のほうがまだセンスがあるような気がした。目の前の女は、高価な服やアクセサリーを、でたらめに身につけているようなのだ。
隆は目の前の妖怪がどうして生まれたのか、疑問を持った。妖怪が生まれるためには、人の想念が必要だからだ。
畏怖《いふ》、恐怖、憧《あこが》れ、嫉妬《しっと》、怒り、哀しみ、感謝、怨恨《えんこん》など。これらの思いの具現が妖怪なのである。
人間を操り、豪華な衣服や装飾品を手に入れて、身を飾りたてる。目の前にいる女性――妖怪――は、それだけが目的のように思える。
幼い[#「幼い」に傍点]妖怪は自分の意志を持たず、強迫観念や衝動のみで行動することが多い。この妖怪も、きっとそうだろう。だが、成長すると、自分の意志を持ち、あたかも普通の人間と同じように行動することができる。妖怪ネットワークに所属している妖怪たちは、全員そうだ。
隆は雑念を捨てて、目の前の女性を路地に誘うことに意識を集中した。
女性をナンパするのは、生まれてはじめての経験である。その相手が妖怪であっても、どうせ条件は同じだ。
「あれ、人違い? 後ろ姿は似てたんだけどなぁ」
陳腐な台詞《せりふ》だ、と隆は自身、あきれた。
こんな手口でひっかかる女性はいないな、と思う。
「まあ、いいや。せっかく、知り合えたんだからさ。お茶でも一緒に飲まない。そこを抜けたところに、おいしい喫茶店《サテン》あるんだ。関西ウォーカーに載ってるんだけど、読んだことない?」
冷や汗をかきながらも、隆は一気に言った。
よどみなく言えただけでも、たいしたものだと思う。
そして、
「それにしても、とても素敵な服装だね。アクセサリーもよく似合っているよ」
と最後に付け加えた。
この言葉が、目の前の妖怪に対するキーワードだと思った。
「嬉《うれ》しいわ、わたしを見てくれて」
無言だった女性が、わずかに笑みを浮かべた。
そして、左耳のピアスをはずすと、隆の手に握らせてくれた。
なんでこんなことを、と隆はぞっとした。
辺りが暗くてよかった。きっと、今、自分は紙のような顔色をしているだろう。
「ありがとう」
言いながら、隆は女性の腕を取った。
妖怪ではあるが、その感触はまさしく人間の女性のそれだった。
名前はたしか西岡真紀だったはずだ。税関勤務の二十四歳の女性。
妖怪の実体は、ショルダーバッグだったはずだ。横目で見れば、たしかに黒色のショルダーを肩から下げている。
母親が同じシリーズのハンドバッグを持っていたような気がする。
そのハンドバッグは、大丈夫だろうか?
ふと、そんな不安にかられた。
隆は強引に路地に連れこんだ。女性は抵抗する素振りも見せず、おとなしくついてくる。
車も入ってこれないような細い道である。道の両側は雑居ビルが立っている。この道に面しては、裏口も設けられていない。窓からは明かりが洩《も》れているが、すべて閉ざされ、部屋の中の音もまったく聞こえてこない。ここなら、菜穂も全力で戦うことができるだろう。
道の途中まで来たとき、隆はもう限界だと思った。
女の腕をつかんでいた手を放し、前に向かって全力で走りだした。五十メートルも走れば、表通りに出られるはずだ。
「ご苦労さん」
走ってゆくとき、前方から風が通りすぎてゆき、耳元で囁《ささや》く声が聞こえた。
鎌風の声に違いなかった。
「お願いします」
隆は、ようやく落ち着いた。
走るのをやめ、後ろを振り返る。
女性は、隆が腕を放したところで立っていた。
そして、その向こうにもうひとりの女性の姿が見えた。
菜穂だ。
猫の姿にはなっていない。
しかし、その両腕には鋭く長い爪《つめ》が伸びていた。
菜穂の鉤爪《かぎづめ》は、霊体さえ切り裂く能力がある。本気を出せば、人間の首など一振りで切断することができるだろう。
菜穂はゆっくりと女性のところへ歩いていった。
あわてた様子こそなかったが、女性は菜穂に背を向けて歩きはじめた。
その行く手を、実体化した鎌風が遮った。
女性の動きが止まる。
「これまでよ。バッグの妖怪さん」
菜穂が楽しそうな声をあげた。
その言葉に、女性ははっとしたように、ショルダーバッグを抱きかかえる。
「また、わたしを捕まえようというのね。箱に閉じこめて、船に乗せるの?」
「安心して。捕まえるなんて、面倒なことはしない。この場でやつ裂きにしてあげる」
どっちが邪悪な妖怪なんだか、と隆は思った。こういうときの迫力は、見慣れているはずの隆でも身がすくむ。
「そんなことさせない……」
女性はつぶやいた。
その目が赤く輝くのが、隆にははっきりと見えた。
「その程度の妖術で、あたしを支配するつもり?」
菜穂は鼻で笑い、地面を蹴《け》って跳躍した。
「鎌風!」
「あいよ」
鎌風が答えるのとほとんど同時に、突風が狭い路地を吹き抜けた。
鎌風は、何百年も前からこの突風で人間を転がしたり、皮膚を切り裂いたりしてきたのだ。
今でも、悪戯《いたずら》をやめていない。
人間を傷つけることこそしなくなったが、女性の衣服を切ったり、家の瓦《かわら》を裏返したりして、楽しんでいるそうだ。
それほど、鎌風の起こす風は強い。
女性の体が、一メートルぐらいはかるく浮かびあがった。そして、未舗装の地面に落ちる。
たまらず、バッグを抱えていた腕が緩む。
「もらった!」
菜穂の快哉《かいさい》の声がした。
鉤爪《かぎづめ》が鋭く伸びて、黒色のショルダーバッグを捕らえた。
女性が悲鳴をあげる。
バッグは彼女の手からもぎとられ、高く空中に舞っていた。
空中でそれを待ちかまえていた鎌風が、両手をすばやく振るった。
その手は鋭利な鎌である。
地面に落ちるまでに、バッグは原型を留めないほどに切り裂かれていた。
「これで、おしまい」
菜穂は爪の先をぺろりとなめた。
「簡単だったねぇ」
鎌風は、つむじ風となって透明化した。
隆も安堵《あんど》のため息をつき、女性のところへ走った。
女性は地面に俯《うつぶ》せに倒れて、低く呻《うめ》いている。どうやら、意識は戻っているようだ。
妖怪に支配されていた記憶がないことを、隆は心から祈った。
「大丈夫ですか?」
地面に腰をおろし、顔を覗《のぞ》きこむ。
「あの、気分はどうですか? 飲み物、買ってきましょうか?」
答はなかった。
もう一度、短い呻き声をあげると、くるりと寝返りをうつ。
顔が見えた。
いっぱいに見開かれた目が、赤く輝いていた。
隆は悲鳴をあげて、立ち上がった。
「まだ、生きている!」
「そんな馬鹿な!」
菜穂は鉤爪を引っ込め、ズタズタになったバッグを拾いあげているところだった。
女性はゆっくりと立ち上がると、表の通りに向かって、走りはじめた。
「逃がすもんか!」
菜穂が叫び、追いかけようとする。両手の爪がふたたび長く伸びはじめた。
「だめだよ、菜穂!」
隆は菜穂の前に両手を広げて立ちはだかった。
「なんで、止めるのよ!」
菜穂が抗議の声をあげる。
「あの妖怪の肉体は、西岡美紀って女性《ひと》のものだろ」
菜穂は隆を睨《にら》みつけ、いかにも悔しそうに舌打ちをした。そして、表通りへ出てゆく女に視線を移す。
「鎌風、頼んだわよ……」
菜穂はつぶやいたが、鎌風から返事は返ってこなかった。
すでに女の後を追っているのだろう。
「 <かすみ> に戻るわ。夏樹さんに、相談しないと……」
隆は、無言でうなずいた。
それより他に手がない。
隆は、地面に放りだされたままのショルダーバッグを振り返った。
菜穂が進みでて、そのバッグを拾いあげると、小脇《こわき》に抱えた。夏樹に、このバッグの過去を調べてもらうつもりなのだろう。
隆たちは、このバッグこそが妖怪の本体だと思っていた。だが、それは間違っていた。
妖怪の実体は別にあるのだろうか?
いずれにせよ、今日のところは引き下がるしかないようだ。
6 意外な送り先
「急いで事を運びすぎたかもしれないわねぇ」
夏樹が <かすみ> に帰った菜穂と隆のふたりにサンドイッチとコーヒーを用意してくれた。
これをお腹に入れたら、今日は家に帰るつもりだった。
鎌風は女性を追いかけたのだが、OPAの中に逃げこまれたので見失ってしまった。
自然の風が吹かない場所に入れないのは、鎌風の弱点だった。
まだOPAの中に潜んでいるとも考えられるが、地下鉄を使ってどこかに逃げだしたのかもしれない。
今は見つけても、戦って倒すわけにはいかないのだから、手の出しようがない。さほど手ごわい妖怪ではないように思えるだけに、菜穂のジレンマは大きかった。
「美紀って娘にはかわいそうだけど、これ以上、犠牲者を出すわけにはいかないよ」
菜穂が我慢ならないという感じで、そう言った。
「最悪の場合、そうするしかないわね。でも、その結論を出すのはまだ早いわ」
霧香が、優しい口調で言った。
彼女はこの事件が解決するまで、神戸に滞在することを申し出ている。もうひとりの大樹も不承不承ではあったが、残ることにしたようだ。
「とにかく、手がかりはこのショルダーバッグよ。ひどく壊れているけれど、来歴ぐらいは調べられるはず。妖怪の正体についても、何か分かるでしょう」
「お願いします」
菜穂はしおらしく言って、夏樹に頭を下げた。
犠牲者が出たことや、妖怪を取り逃がしたことで、かなり責任を感じているようだった。
「まかせてちょうだい。警察も、真紀さんの捜索を全力で続けているわ。発見されたら、松井さんを通じて、こっちにも連絡が入る手筈《てはず》になっているから、今日は隆くんと一緒に、家にお帰りなさい」
「そんなことして、また犠牲者出ないかな?」
菜穂は不安そうな顔になった。
「発見しても、絶対に接触しないよう命令してあるそうだから、大丈夫よ」
夏樹は穏やかな笑みを浮かべ、菜穂を安心させるように言う。
菜穂は、素直にうなずいた。
「タクシーを呼んであげるわ」
夏樹は言うと、カウンターの端に置いてある電話機のところへ動いた。
その日は結局、タクシーに乗って家まで帰り、母親の冷たい視線を受けてから、それぞれの部屋に戻った。
一日中、動きまわっていて、かなり疲れているはずなのに、隆はなかなか寝つかれなかった。そして、翌日もかなり早い時間に目覚めた。届いたばかりの朝刊を見ながら、衛星放送から流れる海外のニュースを聞くとはなしに聞く。
朝は苦手のはずの菜穂も、七時には起きだした。それから、ふたりはほとんど無言で夏樹からの電話を待った。
連絡が入ったのは、昼前である。
電話ではくわしいことは話してくれなかったが、問題の妖怪について調べがついたらしい。
隆と菜穂は家を飛び出し、二系統のバスに飛び乗った。
加納町二丁目の停留所で降りて、そこからは歩いて <かすみ> に向かう。
<かすみ> には、昨日と同じメンバーが集まっていた。
今日は土曜日で休日のはずだが、松井も姿を現わしていた。それから、東京から来たふたりのお客、狩野霧香と高徳大樹。
鎌風は室内には入ってこれないので、 <かすみ> の屋上で待機している。
「で、妖怪の正体って何だったの?」
夏樹の顔を見たとたん、菜穂は勢いこんで尋ねた。
「そんなに、あわてないで」
夏樹は微笑み、菜穂と隆のためにハーブティーを作りはじめた。
霧香や大樹、それに松井の前にも同じ物が置いてある。
レモングラスの甘酸っぱい香が、部屋いっぱいに広がっている。
「ショルダーバッグの来歴を調べたんだけど、やはりバッグは普通の物ね。例の妖怪は、実体がないみたいなの。鎌風みたいに、実体化できるかどうかも疑問ね。ただし、人間であれ、物であれ、とり憑《つ》く能力はあるようよ」
「今は、西岡真紀って娘にとり憑いているのね」
「たぶんね」
夏樹は答えて、フロインドリーブのクッキーを皿に持って出してきた。
「今のは、わたしの妖術で分かったことだけど、バッグの件については、大樹くんもいろいろ調べてくれてるわ」
「たいしたことはしてませんよ。税関のホストコンピューターから、廃棄処分が決まった貨物のリストを呼びだしただけですから。問題のバッグがいつ、誰が、どこから送ったのか、調べがつくと思いましてね」
いかにも得意げに大樹は言うと、ひとしきり、税関のホスト・コンピューターに侵入《ハック》するまでの過程を説明した。
「そんなことはどうでもいいから、結果を教えてよ」
菜穂がいらだったように大樹の話の腰を折った。
彼女は完全な機械音痴で、AV機器のコードもつなげられないし、予約録画もできない。
大樹はむっとした顔をしたが、霧香になだめられて話を続けた。
「問題の貨物は、十カ月ほど前にフランスの港から船に積みこまれてますね。送り主はカフェ・ル・ドームとあります。この名前は聞いたことがありませんか?」
「知らないわよ。あたし、フランスに行ったことないもの」
菜穂は飛行機が嫌いなので、北海道にさえ行ったことはない。
「それは勉強不足ですね。パソコン通信は、もっと活用してくださいよ」
大樹は言って、パソコン通信がいかに役立つかの説明をはじめた。
実際、東京の妖怪たちは、この新しい情報網をずいぶん活用しているらしい。
妖怪とパソコン通信とはなんとも不似合いな取り合せだが、高度情報化社会を生き抜くためには、必要なのかもしれない。
隆自身はパソコンを持っているが、ワープロとして使ったり、ゲームで遊ぶくらいで、通信にはまだ手を出していない。
「このカフェは、パリの妖怪ネットワークの連絡場所なんですよ」
大樹は自慢げに言った。
「わたしも知らなかったわ」
夏樹が、素直に感心する。
「だから、パソ通を勉強してですね。情報交換に参加してください。ほとんどの妖怪ネットワークが、活用しているんですからね。神戸は情報の空白地帯なんですよ」
「今度、勉強しておきます」
菜穂の目つきが険悪になってきたので、隆は話を本筋に戻そうとした。
「そんなことだから、今回のような事件が起きたんですよ。問題の貨物の送り先は、いったいどこだったと思います?」
「知るわけないわ」
口を尖《とが》らせて、菜穂が言った。
「それが、なんとここだったのよ」
まるで少女のように顔を赤らめ、夏樹が照れ笑いを浮かべた。
「ここって <かすみ> のこと?」
「そうですよ。夏樹さんの結界の能力のことをパソ通の国際ネットで知ったんでしょうかね。今、先方に問い合せているところですから、そのうち、返事《レス》が戻ってくると思います」
「荷物には手紙が添えられてたと思うんだけど、もう廃棄処分されてしまったでしょうからね」
霧香が大樹の言葉を引き継いだ。
税関では受け取りを督促する手紙を送っているはずだが、手違いで <かすみ> には届かなかったのだろう。人払いの効力が、裏目に働いたのだ。
税関が廃棄処分の決まった荷物を点検するときに、妖怪の封印は解けて、西岡美紀に憑依《ひょうい》したのだろう。
「不良妖怪を日本に送りつけるなんて、いったいどんな神経してるのよ!」
菜穂が甲高い声で文句を言う。
「きっと、向こうには向こうの事情があるのよ」
夏樹が、柔らかく菜穂をなだめた。
「なかったら、文句を言ってやる」
「フランス語で、だよ。去年、不可とってただろ」
隆も、ついつっこんでしまった。
「うるさいわね! あたしは、生粋《きっすい》の日本妖怪なんだから、外国語なんて知らなくていいの」
「僕も生粋の日本妖怪ですけど、英語も、ドイツ語も、フランス語もできますよ」
大樹はさらりとそう言った。
菜穂はうなじの毛を逆立てて、大樹を睨《にら》みつけた。
「分かったのは、妖怪がどこから来たかってことですよね。どんな妖怪かもだいたい分かってますけど。でも、どうやって倒せばいいかは、まだ謎《なぞ》なんでしょ?」
隆はそう問題提起をして、菜穂の気分をはぐらかそうとした。
「憑いているのですもの、落とすしかないわね。西岡真紀から離してしまえば、そう難しくはないでしょう」
霧香は事もなげに言った。
「それも、答になっていませんよ。どうやって、落とすかが問題でしょう?」
「それは、わたしがやるわ」
隆の問いに、霧香は微笑みながら答えた。
「簡単ではないけれど、あなたならできるでしょうね。お願いできるかしら?」
霧香は静かにうなずく。
鏡の妖怪である霧香には、真実の姿を映しだす力がある。それゆえ、異常な状態にあるものを正常な伏態に戻すことも可能なのだ、と夏樹が説明してくれた。
ちょうど、そのときだった。
妖怪たちの話を無言で聞いていた松井の胸ポケットで、ポケベルが鳴った。
「電話、借りるよ」
松井は言って、カウンターの端にある電話の受話器を取りあげ、ダイヤルをプッシュする。
「ああ、わたしだ。うん、うん……、そうか分かった」
それだけを言って、松井は受話器を元に戻す。
「妖怪が姿を現わしたらしい。場所は、布引のハーブ園だ」
「ハーブ園か、この天気じゃ人が多いでしょうね」
菜穂がハーブ園のある方向に視線を走らせながら、いまいましそうに言った。
布引ハーブ園は四年前にオープンした神戸の新名所である。山間の斜面に、百五十種あまりの薬草を栽培している。アベックや若い女性に人気で、土、日ともなれば、たくさんの観光客で賑わうのだ。
「人払いの結界を張ればどうです? この店みたいに」
隆が言ったが、夏樹はゆっくりと首を振った。
「夏樹の結界は強力すぎるのよ。もしも、効果が残留してしまったら、ハーブ園に観光客が来なくなるわよ」
霧香が、隆にそう説明した。
「そいつは困る」
市役所勤務の松井が、あわてて言った。
神戸市にとって、観光は大きな収入源だ。
「場所は、ちょうど布引じゃないの。観光客には悪いけれど、少しのあいだ屋内で我慢してもらいましょう」
「えっ、それって、もしかして……」
菜穂が目を丸くして言った。
「そうよ、布引の滝壷の下には竜神の隠れ里があるでしょ。乙姫に手伝ってもらうわ」
布引の滝は、新神戸駅から歩いて五分ぐらいのところにある名勝である。滝の流れる様子が、天女の羽衣のように見えるので、この名がつけられている。
この滝の滝壷には竜神たちの隠れ里があり、この隠れ里を侵した平氏の武士が、雷に撃たれて命を奪われたという伝承がある。
しかし、ただの伝承ではないことを隆は知っている。
本当に存在するのだ。
そして、乙姫も実在している。
乙姫――この女性の竜神は、旱魃《かんばつ》のときに雨を降らせて人々を助けてくれる心優しき妖怪だ。しかし、怒らせると、たとえば伝承で語られる武士や二十年ほど前に起こった神戸大水害のような罰を与えて懲らしめる。
神戸大水害を起こしたのは、ハーブ園がオープンした場所に以前、建設されたゴルフ場が原因だそうだ。芝の保護や育成のために使った大量の農薬、化学肥料が生田川に流れこみ、川に生息していた生き物たちの多くが死滅した。
これを怒った竜神は大雨を降らし、鉄砲水を発生させ、ゴルフ場を完全に破壊した。
「……あんな大妖怪、呼びだすの?」
こわごわと菜穂は首をすくめる。
「大丈夫よ。ちょっと[#「ちょっと」に傍点]雨を降らしてもらうだけだから」
夏樹はあっさりと菜穂に答えた。
「さあ、はじめましょう。ぐずぐずしてたら、また逃げられてしまうわ」
7 対決
人がいる。
たくさんいる。
視線が向けられている。
その視線が、彼女には心地好い。
わたしを見て、と心のなかで叫ぶ。
わたしを見て、もっと見て。
でも、これではだめ。
もっともっと飾らなくては……
もっと飾って、もっとたくさんの視線を向けさせるのだ。
自分という概念は、それ[#「それ」に傍点]にはない。ただ、衝動がある。なぜ、そんな衝動があるのか、疑問はない。その衝動の赴くままに、行動するだけだ。
だが、それを望まない者もいるようだ。
そういう者はいらない、とそれは思った。
この世界から消えてなくなればいいのだ、と。
新神戸駅のすこし西に、夢風船と呼ばれるロープウェーがある。ロープウェーといっても、スキー場でよく見られるゴンドラである。
六人乗りの小さな箱が、ワイヤーロープに支えられ、山の谷間に沿ってゆっくりと登ってゆく。景観はすこぶるいい。神戸の街なみが、一望のもとに見渡せる。
その先に海がある。
海と山の狭間に、神戸という街は横たわっている。
夜ともなれば、色とりどりの光がさながら波のごとく斜面をかけあがり、山の麓に打ち寄せる景色が見える。
このロープウェーの終点に、布引ハーブ園がある。
坂道をゆっくりと降りて、だいたい三十分ぐらいで、出口に着く。出たところにあるのは、ロープウェーの中間駅(風の丘駅)だ。この駅のそばに、ちょっとした芝生の広場が造られている。この広場は、アベックたちにとって、聖地ともいえる場所となっている。
若い男女が等間隔に並び、人目をはばかることなく、愛を語りあっている。
だが、この日ばかりは、すこし様子が違った。
恋人たちの視線は、連れ合いではなく、ひとりの女性に向けられていたのだ。
その女性は、向かいの道路|脇《わき》に置かれていたベンチに腰を下ろし、神戸の景色をぼんやりと遠望している。
派手な衣裳《いしょう》、そして装飾。どこかしら、現実と遊離した雰囲気が、女性にはあった。無視すればいいのだろうが、どうしてか視線が向いてしまう。まるで、魔法にかけられたように。
だが、その魔法は突如として、破られた。
北の空から、黒い雲がせりだしてきて、空を覆いはじめたのだ。
あたりが薄暗くなったかと思うと、突然、閃光《せんこう》が走った。ほとんど同時に、何かが爆発したような轟音《ごうおん》が鳴りひびいた。
恋人たちのほとんどが見た。
稲妻が麓のビルの避雷針に直撃するのを。その稲妻は、巨大な竜が天に駆けのぼるかのような形をしていた。
次の瞬間、なんの予兆もなく、激しい雨が降りはじめた。大粒の雨が、地面を叩《たた》く。恋人たちは、屋根のある場所を目指して、我先に走りだす。
だが、そこへ辿《たど》りつくまでに、全員がずぶ濡《ぬ》れになった。
恋人たちの注目を浴びていたベンチの女性は、不思議そうに空を見上げた。
真っ白な顔に豪雨が容赦なく降りつける。
それから、緩慢な動作で周囲を見まわす。
人々が誰もいないのに気づくと、つまらなさそうに立ち上がる。
雨がすこし小降りになってきた。
と、そのとき。
「見ているわよ」
山手の方から声がした。
振り返ると、雨のカーテンの向こうから人影が姿を現わした。
龍宮寺菜穂だった。
ウォッシュアウトのジーンズにトレーナーという軽快そうな服装だが、今はたっぷりと水を含んで、重たそうに見えた。
「わたしも、見ているわ」
また別の声が海側の方から聞こえた。
女は百八十度、後ろを振り返る。
現れたのは、狩野霧香だった。
それでなくても、タイトなクリーム色のスーツが、ぺったりと肌に張りついている。
その手には、黒いショルダーバッグが握られている。シボ加工された革に、フランスの一流ブランドの刻印。
女に憑依《ひょうい》した妖怪は、これと同じバッグに封印されて日本へと送られてきたのだ。
「オレも見てるぜ」
声はもうひとつ、頭上からも聞こえてきた。
女は空を見上げる。
そこにいるのは、鎌風だった。前足が鎌の形をした獣の姿を現わし、女の頭上を旋回するように飛んでいる。
「逃げられないわよ」
勝ち誇った声で、龍宮寺菜穂が言った。
女は首を傾げるような仕草をする。
「わたしを、捕まえたいのね」
「捕まえる? とんでもない」
菜穂は甲高い声で笑った。そして、雨に濡《ぬ》れた髪を後ろへかきあげる。
「消滅してもらうわ」
「消滅?」
女は無表情に答えた。
その言葉の意味するところが、分からないのだ。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
「あなたたちなんて、要らない」
そう言葉を発したとたん、女の目が怪しく光りはじめた。
その輝ける視線はまず霧香に向けられた。
「思いだしなさい……」
霧香はその視線を平然と受け止めた。反対に女の目を、見つめかえす。
霧香はゆっくりと進み、女との距離を詰める。五歩ほど離れたところで、止まった。
と、輝く光の輪が、彼女の全身を包みこんだ。
次の瞬間には、霧香の全身は巨大な円形の鏡の表面に浮かびあがっていた。その手にあるは、黒色のショルダー。
「思いだしなさい。自分自身を……」
霧香は、鏡の中からそう声をかけた。
びくりとして、女は霧香の言葉に耳を傾ける。
その目はまだ赤い光を帯びたまま。だが、何をするでもなく、鏡に映る霧香の姿を不思議そうに見つめている。
「さあ、教えて。あなたの名前は?」
鏡の中の霧香に問いかけられ、紫のルージュをひいた女の唇がゆっくりと開きはじめた。
そして、小さく動く。
言葉らしきものを、女はつぶやいたように見えた。
「もっと、強く!」
凛《りん》と響きわたる声で、霧香は命令した。
「に……し……おか……」
「西岡、何?」
「にし……おか……、まき」
その瞬間、切り開かれた山の斜面を、女の叫び声のような音が鳴りわたった。
雨宿りをしている人々も、その声を確かに聞いた。だが、ほとんどの人は、その音は遠雷だと思ったに違いない。あるいは、車が急制動をかけた音だと。
女の目は、光を失っていた。
棒立ちになって、正面に現れた鏡を見つめている。
そこに映っているのは、すでに彼女自身の姿だ。姿勢もまったく同じ。ただ違うのは、ショルダーバッグを手にしているところ。
鏡の中で、女の目はゆっくりと閉じられ、スローモーションのフィルムを見ているように、ゆっくりと倒れていった。
水に濡《ぬ》れたタオルを床に叩《たた》きつけたような音がした。
次の瞬間、巨大な鏡はまばゆい白色の光に包まれた。光は数秒のあいだ明るく輝いてから、ふっと消えていった。
光とともに鏡も消え失せ、あとには霧香が立っていた。その胸に、ショルダーバッグを抱えている。
霧香は目を閉じたまま、その場に立っていた。小降りになってきた雨が、霧香の体に静かに降り注ぐ。
北の空は陽がさして、すでに明るくなってきていた。
雨は、もうすぐ止むだろう。
「そう……、そうなの……」
霧香はバッグを胸に抱きながら、ひとりごとのようにそうつぶやいた。
「さすがねぇ」
手を頭の後ろに組みながら、菜穂がやってくる。
「まったくだ。オレたちの出番も、あるかと思ったけどな」
風に乗って、声がした。
鎌風だった。しかし、このカマイタチの妖怪は、すでにその姿を消している。
「さあ、霧香さん。そのバッグを渡して。あとは、あたしが仕上げるわ」
菜穂はそう言って、右手を差し出した。
鉤爪《かぎづめ》が伸びている。
「やめておきましょう。もう、このひとは無害よ。誰も傷つけたりはしないわ」
「でも……」
霧香にそう言われて、菜穂は不満と戸惑いの表情を見せた。
「そいつは人間を殺した邪悪な妖怪よ。罰を与えなきゃならないわ」
「あなたは、人間を殺したことないの?」
霧香に問いかけられて、菜穂は思わず怯《ひる》んでしまった。
落ち着いた声。だが、圧倒的な迫力を感じさせる。
「そりゃあ、あるわ。でも、昔の話よ。それに、そいつは悪い人間だったから……」
気圧《けお》されながらも、菜穂は答えた。
「わたしもそう」
霧香は、ぽつりとそうつぶやいた。まるで、自分自身に言い聞かせるように。
菜穂はそれ以上、何も言うことができなくなった。
「さあ、帰りましょう」
霧香は言うと、ロープウェーの駅のほうを振り向いた。
「この女は?」
菜穂が、地面に倒れている女性を指さして言った。
「誰かが病院に運ぶでしょう。憑依《ひょうい》されているあいだの記憶はないと思うけれど、これからいろいろ大変でしょうね。でも、わたしにはどうすることもできないわ」
「そうなんだ? なんでも、できるのかと思ったんだけど……」
菜穂はひとりごとのようにつぶやいて、霧香の後を追いかけた。
雨は完全にあがり、空を厚く覆っていた雲も、嘘《うそ》のように晴れていた。
暖かい春の一日になりそうだった。
8 オルヌモン
「こうしていると、おとなしいもんね」
テーブルの上に置かれたショルダーバッグを指先でつつきながら、菜穂が言った。
「やめろよ。封印が解けたら、どうするんだよ」
隆は真剣に心配して言った。
菜穂たちは大丈夫かもしれないが、隆は無力な人間にしかすぎない。この妖怪に精神を支配されるかもしれない。
足手まといにならないように、と隆は逸る心を押さえて、菜穂たちの帰りを待っていたのだ。
「夏樹さんの結界のなかで妖術なんか使えないよ」
菜穂はそう言って、喉《のど》を鳴らすような笑い声をあげた。
「それに、霧香さんの封印よ。逃れられるわけないわ」
その霧香は三階の部屋で休んでいる。妖怪と対決し、かなり消耗したようだ。
「霧香には大きな借りを作ってしまったわねぇ」
夏樹は言いながらロイヤルコペンハーゲンのティーカップに、熱いティーオーレを注いでいる。もっとも、今、この場にいるのは、夏樹と菜穂、それに隆の三人だけ。
松井は事後処理のために役所に帰っており、大樹は二階の事務室においてあるパソコンにまだ囓《かじ》りついている。
パリの妖怪ネットワークと通信がつながったのだ。今は電子メイルのやりとりで、情報の収集に勤《いそ》しんでいるはずだ。
隆は霧香たちが戻ってくるまで、大樹の後ろに張りつき、パソコン通信についていろいろと勉強していた。
そのとき、ちょうど大樹が下りてきた。足下がふらついているのは、睡眠不足のためだろう。
妖怪だって長時間、集中すれば疲労するのだ。
「ご苦労様」
夏樹がねぎらいの声をかけ、もうひとつティーカップを用意した。
「カフェオーレにしてください」
大樹は答えて、菜穂たちがいるテーブルのところへやってきた。
「はいはい、ミーコーね」
いかにも神戸の住人らしく夏樹は答えた。ミーコーというのはミルクコーヒーの略語である。神戸はカフェオーレがもっともはやく流行した街なのである。港湾地区が発祥だ、となじみの喫茶店のマスターから聞いて知っている。
「何か分かった?」
菜穂が話を向ける。
「いろいろね」
大樹はもったいをつけたような言い方をした。
「簡潔にお願いね」
あきらかに期待していない顔をしながら、菜穂はそう言った。
「僕はいつも簡潔ですよ」
大樹は答え、話しはじめた。
「あの妖怪、フランスではオルヌモン≠ニ呼ばれていたらしいですよ。日本語で言えば身飾り≠ニでもなるんですかね」
「へえ、意外に詩人ね。で、どんな妖怪なの?」
「こっちでやっていたことと、だいたい同じですね。派手な服装をして、高価なアクセサリーで身をかため、人の多い場所に出現する。褒《ほ》めた人には身につけた物を与えて、けなした人には買物を持ってこさせたり、罰を与えたりする。だいたい、こんなパターンだそうですよ」
「ずいぶん、おとなしいじゃない」
「そうでもないですよ。コールガールと間違えて逮捕しようとした警官を負傷させたり、心を支配され宝石店に強盗に入った人は、反対に警官に射殺されてますからね」
「それで、向こうの妖怪ネットワークも黙っていられなくなったわけね」
菜穂がなるほど、とうなずいた。
「でも、なんで日本に送りつけてくるのよ」
「それはですね……」
大樹が得意そうな顔で話をはじめようとしたとき、
「彼女が、日本の妖怪だからよ」
という声が背後から聞こえてきた。
「霧香さん!」
隆は、驚いて振り返った。
あわててそばに走りより、疲れきった足取りで階段を下りる霧香を支えようとする。
「ありがとう、隆くん」
断わられるかと思ったが、霧香は素直に隆に体を預けてくれた。
「あたしには、そんなことしてくれないくせに」
菜穂が、口を尖《とが》らせて文句を言った。
「菜穂姉がふらふらになるなんて、またたび酒を飲むときだけだろ」
隆は真っ赤な顔をしながら、言い返した。
「菜穂ちゃん、麻薬に手を出しちゃいけないわね」
夏樹は笑顔を浮かべながら、霧香のためのティーオーレを入れて運んでくる。
「ありがとう」
「お礼を言うのはこっちよ。霧香がいてくれて本当に助かったわ」
「それよりも」
菜穂が夏樹と霧香の会話に割って入った。
「このバッグが、なんで日本の妖怪なの。日本から逃亡して、また送り返されてきたわけ?」
「残念ながらそうじゃないわ」
髪が落ちないよう気をつけながら、霧香は熱いティーオーレをひとくち味わった。
「オルヌモン――身飾りはですね。間違いなくフランス生まれの妖怪ですよ。ただ、彼女を生んだのは日本人なんです」
その隙《すき》をついて、すかさず大樹が口をはさんだ。
「日本人が生みだした?」
それがどういう意味なのか、隆にもさっぱり分からなかった。
「正確に言えば、日本人の女性でしょうね。パリに観光に行った」
「観光客がどうして?」
隆にはまだ大樹の言うことが分からない。
「……なるほどね」
隆の隣で、菜穂がうなずいた。ただ、その表情は渋い。
「でも、それってサイテーじゃない」
「最低って、どう最低なんだよ?」
「隆くんには分からないでしょうけどね。日本の女性観光客ってね、観光なんかほとんどしないの。買物だけが目的でパリに行くようなものなのよ。そして、鞄とか服とか小物とかを、ひたすら買いまくるわけね。それも一流ブランド品ばかり追いかけて」
霧香が苦笑を浮かべながら言った。
「あれを買いたい、これが欲しい。そして、身につけて、他人に見られたい、褒《ほ》められたい、羨《うらや》ましがられたい。日本人女性のこんな想念が生みだした妖怪なんでしょうね」
「はあ?」
彼女の言葉の意味は分かったが、なぜ日本の女性がそんなことをするのか、隆には理解できなかった。
「海外旅行ってお金、かかるんでしょう。いくら、関税がかからなくって安いからって、合計すれば結局、損してるんじゃないですか?」
「損得は関係ないのよ。海外で買物をするのが楽しいのよ。それに日本の女性の金銭感覚って五十円安の野菜を買うために、バス代往復四百円を平気で使う程度だしわ」
霧香の言葉に、菜穂はもう一度、サイテーと言った。
「分からないなぁ」
隆は、思わず頭を抱えた。
「彼女たちにとっては、それが喜びなのよ。すこしでも安い商品を見つけて、買うことがね。そのために時間とお金をかけるのを、すこしも厭《いと》わないわ」
「それって、いけないことなの?」
夏樹がきょとんとした表情で、霧香に尋ねた。
「そういえば夏樹さんもブランド物、大好きよね。カップだってそうだし、このショルダーバッグだって、まったく同じ物、持ってたものね」
菜穂はじと目[#「じと目」に傍点]で、夏樹を見つめる。
「去年、元町で見つけて買ったのよ。けっこう安かったわ」
夏樹は菜穂の視線など気にした様子もなく、本当に嬉《うれ》しそうな顔をした。
「こりゃだめだ」
菜穂は、テーブルにつっぷす。
「夏樹さんみたいなひとがいるから、こんな妖怪が生まれてくるわけね」
「そんなことないわよ。わたしだって妖怪なんだから。妖怪が妖怪を生むわけないでしょう」
夏樹は、むきになって言い返す。
本当にそうだろうか、と隆はぼんやりと考えた。
夏樹も、鎌風も、菜穂も、霧香も、そして大樹も、妖怪には違いない。だが、その心は人間とすこしも変わらないように思う。
人間と同じことを感じ、思っているはずだ。
彼らの想いが、妖怪を生みだすことがあるのかもしれない。タヌキやムジナなど、子供を生む妖怪の一族だっていると聞いている。
彼らとつきあっていて分かったのだが、彼らは人間に対し、畏怖《いふ》とも憧憬《どうけい》ともつかない感情を抱いている。自分たちのような存在を生みだす人間という生き物の想念の強さを驚嘆しているのだ。
「帰国子女の妖怪ってわけか」
菜穂が机のうえで片肘《かたひじ》をつき、じっとショルダーバッグを見つめる。
「それで、こいつどうするの? いつもみたいに、倉庫の中に閉じこめるの」
上目づかいに菜穂が夏樹を見る。
そうねぇ、とつぶやきながら、夏樹はテーブルの上からバッグを取りあげた。
「この子はまだ幼いから、封印を解くわけにはいかないけれど、でも、倉庫に閉じこめてしまうのはかわいそうよね」
「みんな、優しいんだ」
菜穂がふてくされたように言う。
「他人に見てほしいって思っている子だもの。ショーウィンドウにディスプレイしておきましょう。結界をすこし弛《ゆる》めてね」
「税関からの手紙が届いていれば、今回の事件は起こらなかったわけですからね」
大樹がすました顔で言う。
「この店、いつからブティックになったの?」
菜穂があきれたように言った。
「かたいことは言わないの。女性たちは、きっとこのバッグを欲しいと思うわ。持って歩きたい、見られたいって。その想いがこの子を育てるの。何年先になるか分からないけれど、彼女だって自我に目覚めるかもしれない。そのときには……」
夏樹はそこで言葉を途切らせ、ひとつのテーブルに集まった妖怪たち、ひとりひとりに微笑みかけた。
「そのときには、この子はわたしたちの新しい仲間になるはずよ」
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Take-2――――――――
「そういえば最近、流くん、顔見せないねえ」
中学生ぐらいの少女がカウンターに肘をつき、つまらなさそうに言った。井神かなた――この <うさぎの穴> のマスターの一人娘で、よく店に出入りしている。
「まあ、しょうがないわねえ」隣の席でのんびりと水割りを飲んでいた霧香が、意味ありげに微笑む。「彼も何かと忙しいし」
「忙しいって……試験は終わったはずでしょ?」
「違う違う」テーブルにラップトップ型パソコンを置き、何か打ちこんでいた大樹が、話に割って入った。「彼が忙しいって言えば決まってるだろ。女の子さ」
「へ? またなの?」かなたは顔をしかめ、指を折って数えた。「今年に入ってもう何人目?」
水波流は、人間の女性と竜族の王の間に生まれた混血の青年である。父親の血のせいか、かわいい女の子を見ると誘惑しないといられない性分なのだ。
「今度のは同じ大学の女の子らしいよ。何でも父親が医学部の教授で、すごい金持ちなんだとさ」
「ひえーっ、逆タマ!」かなたは目を輝かせた。「いいなあ、流くんがお金持ちになったら、何かおごってもらおっと」
「そんなのんきな話じゃないわよ」霧香が苦笑する。「人間と妖怪が結ばれるのには、いろいろと大きな難関があるんだから。流くんみたいに遊び半分じゃ無理ね」
「それは知ってるけどさ……」
「それに、今回はそれだけじゃないのよ」
「え?」
霧香は表情を曇らせた。「実はこの間からちょっと気になることがあって、彼にその女の子の家を調べてもらってるんだけど……」
その時、カウンターの奥で電話が鳴つた。
「はい、 <うさぎの穴> ですが……」
応対に出たマスターの表情が、さっと緊張した。かなたたちの方を振り返り、いつになく真剣な口調で告げる。
「流くんからだ。何か事件が起きたらしいぞ」
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第二話 妖刀 白井 英
プロローグ
1.幻の銘刀
2.惨劇の予兆
3.血ぬられた夜
4.暗雲は晴れず
5.破局
6.この生命ある限り
エピローグ
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プロローグ
暗い地下牢《ちかろう》の中。
桐生《きりゅう》輝之介《てるのすけ》は目を閉ざし、冷たい壁にもたれてじっと座っていた。
隣の牢からは、つい先刻まで拷問にかけられていた切支丹の女の、低い呻《うめ》きが断続的に聞こえてくる。
輝之介が牢に入れられたのは数日前のことだった。日が射さないので定かではないが、三日くらいは経っているだろう。その間、ずっと両手を後ろ手に縛り上げられたままだった。血の流れが届かぬ指先はいゆすでに感覚が麻痺《まひ》してしまっている。
牢の床には、薄い粥《かゆ》を入れた椀《わん》がじかに置かれていた。その中身は嫌な匂《にお》いを漂わせている。輝之介が牢に入れられてから、最初の食事として与えられたものだ。いくら地下牢が寒いとはいえ、腐るのも無理はなかった。
輝之介は侍だった。床に這《は》いつくばって、犬のように椀に顔を突っ込んで食べるなど、彼の誇りが許さなかったのだ。だから、ここ数日のあいだは、まったく飲まず食わずである。
さすがに、身体に力が入らない。胃は鉛の塊を飲みこんだように重く、鈍い痛みを伝えてくる。もしも生きのびられる望みがあるなら、あるいは屈辱を忍んででも、食事を摂って生命をつなごうとしたかもしれない。それほどの苦痛に苛《さいな》まれていた。
(しかし……どのみち俺《おれ》は死ぬのだ)
輝之介は目を開いた。
周囲は深い闇だった。牢に入れられて間もない頃は本能的な恐怖を覚えたものだが、馴《な》れと衰弱のせいで、そんな感性はすでに摩滅してしまっていた。
(とうとう、あのお方をお守りすることができなかった……)
徳川幕府に謀反を企て、捕らえられたある男の顔を、輝之介は脳裏に思い浮かべていた。
その男の名は由比《ゆい》正雪《しょうせつ》という。輝之介が師とも、あるじとも仰いでいた人物だ。
大逆罪を犯した正雪は斬首《ざんしゅ》の刑に処された。彼の腹心だった輝之介もまた、同じ運命をたどることだろう。
(飢えて死ぬか、首を斬《き》られて死ぬか、さほどの違いはありはせぬ……)
十八歳という若さで死にたくはなかった。まして輝之介には、自分が罪人であるという意識はない。徳川幕府の矛盾を質し、虐げられている民たちを救うためにこそ、正雪や自分は立ち上がったのだから……。
自分の無力さが腹立たしかった。そしてそれ以上に、死への恐怖を抑えかねている自分が許せなかった。
(くそ……)
闇の中で輝之介はぎりっと歯がみした。それから、こわばりきった身体をほぐそうと、姿勢を変えかけたとき。
地下牢へと続く階段を、小さなロウソクの火がゆらめきながら近付いてきた。
そんなかすかな明かりでさえ、暗闇に馴らされた輝之介の目にはしみるように痛かった。
ロウソクの火は、輝之介の閉じこめられた牢へとまっすぐに向かってくる。その小さな炎の向こうには、いくつかの人影が見て取れた。
彼らはひと言も発さないまま、輝之介のもとまでやってきた。そこでぴたりと足を止める。
刀を帯びた数人の男たちの姿が、ロウソクに照らされて不気味に浮かび上がった。
(来たか……)
取り乱すまい、そう心に決めていた。輝之介は大きく息を吸って鼓動を鎮め、ゆっくりと男たちを一瞥《いちべつ》した。
先頭に立つ男は無表情に輝之介の視線を受け止めると、腰に提げていた鍵束《かぎたば》を取り出した。
がちゃり、という錠の外れる音が闇に響いた。いよいよ牢の外に出されるのだろう。
ということは……。
「出ろ」
後ろに控えていた二人の男がずかずかと牢に踏み入り、両脇《りょうわき》から輝之介を立ち上がらせた。
そのまま引きずるようにして、二人は輝之介を牢の外に引きずり出してゆく。自分はこれから殺されるのだ、という抑えきれない実感に、輝之介は震えを止めることができなかった。
しばらく歩かされた後、弱々しい光を感じて、輝之介は力なく顔を上げた。
(外に出たのか……)
ちょうど、牢のある建物の入口に差しかかったところだった。輝之介にとっては、数日ぶりの外の世界である。
雨が上がったばかりなのか、空気はじっとりと湿り気を帯びていた。二人がかりで運ばれながら、輝之介は、これが見おさめになるであろう辺りの景色を目に焼きつけようとしていた。
空は重く曇っていて、死ぬ間際も陽の目を拝むことはできそうにない。しかし、これから死んでゆく輝之介にとって、暗い灰色に閉ざされた風景こそが、あるいはふさわしいのかもしれなかった。
男たちは、敷地内の隅にある広場まで輝之介を運んでいった。そこは、罪人たちの首を刎《は》ねるための場所なのだ。
草一本生えぬ地面には、あちらこちらに水たまりができていた。まるで荷物を扱うかのように、輝之介の身体がどさりと放り出された。
跳ねた泥が顔にかかり、輝之介は眉《まゆ》をしかめた。土色に濁った水が、白い着物をまたたく間に汚してゆく。
「桐生よ。あるじの後を追うがいい……」
うつぶせに頃がされた輝之介の耳に、鞘《さや》から刀の抜き放たれるジャキッという音が聞こえた。
(斬られるのか、いよいよ……)
心の臓の鼓動が、苦しいほどに早くなってゆく。全身に走る震えを、どうしても止めることができない。
稲妻が、灰色の空を引き裂いて疾《はし》る。それに続いて轟《とどろ》きわたった雷鳴が、輝之介の鼓膜を激しく打った。
「正雪も、この刀で冥土《めいど》に送ってやったわ。貴様の携えていたこの刀でな」
「俺の刀で……? 何故だ」
ぎらぎらと血走る目で、輝之介は地面を睨《にら》みつけた。よりにもよって、自分が携えていた愛刀で、あるじの生命を奪うとは!
輝之介は、激しい憎悪に胸が焦げる思いだった。武士の道をわきまえぬ輩に、なす術もなく殺されようとしている自分が、無性に腹立たしかった。
「徳川幕府の犬どもめ、末代まで呪《のろ》われるがいい。いまひとたび会えたならば、きっと同じ死にざまを味わわせてやる……!」
ぎりっと食いしばった歯の隙間《すきま》から、輝之介は血を吐くような呪いの言葉をもらした。
低い笑いとともに、刀が振りかぶられる気配を感じて、輝之介は固く目を閉ざした。さまざまな思いが胸のなかで渦巻き、荒れ狂っている。
そして――
ほんの一刹那《いつせつな》とも、永劫《えいごう》とも感じられる瞬間ののち。
灰色の世界に、処刑人の手にした刀が銀色の軌跡を描いた。肉に食いこみ、骨を断つ鈍い音が、周囲の空気をかすかに震わせる。
輝之介は、自分の首が胴体から切り離され、ごろりと地面に落ちるのを感じた。
痛みはなかった。
ただ、冷たい刃の感触を覚えた後、視界がずるりと下にずれただけだった。視野の隅には自分の血を吸って、ひときわ妖《あや》しく輝く刀身が映っていた。
処刑人は、刀をひと振りしてから鞘に収めた。チン、という澄んだ音が響く。
無残に転がった輝之介の生首の双眼から、ひとすじの血がこぼれ落ちた。
さながら涙のように……。
1 幻の銘刀
重く曇った夜空から、冷たい雨が降りはじめた。
傘を借りてこなかったことを後悔しながら、中里《なかざと》啓介《けいすけ》はコートの襟を立て、駅へと足を急がせていた。
今日は一月二日。元日のお祭り騒ぎに疲れ果て、人々はぐったりと家で休んでいるのだろう。立ち並ぶビルディングの灯は消えていて、まだ九時前だというのに街は真っ暗だった。表通りに出ても、まったく人気はない。
啓介は上司に年始の挨拶《あいさつ》を済ませて、家路に着く途中であった。勧められるままに干したブランデーが、身体の奥でちろちろと燃えている。とびきりの逸品だったはずだが、口の中には不快な苦味しか残っていなかった。
(ご機嫌取りも将来のため……か)
啓介は内心でつぶやき、酒気を帯びたため息をついた。酔っているのに加えて、急ぎ足で歩いているせいか鼓動が早く、少し気分が悪い。
さあっ、と雨足が早くなった。
アスファルトを叩《たた》く水滴の音が、廃都《ゴーストタウン》と化したかのような夜の街に満ちてゆく。
コートを通して沁みこんでくる雨の冷たさに、啓介は身を震わせた。少しでも早く駅に着こうと、小脇に鞄を抱えて駆け出しはじめる。最寄りの四谷《よつや》駅まで、あと十数分くらいだろうか。
一台の白い自動車が、ヘッドライトで闇《やみ》を引き裂きながら近づいてきた。それがタクシーであることに気付き、啓介は手を挙げて呼び止めようとした。
だが、フロントの小さなプレートは緑の「貨走」。肩を落とした啓介の横を、タクシーは泥水を跳ね上げながら走りすぎていった。
新年早々ついていないな、と啓介は思った。悪酔いした上に濡《ぬ》れねずみになり、挙げ句の果てに買ったばかりのコートを汚されるとは! 四十半ばにして、ようやく掴んだ医学部の教授という地位も、こんな時には何の役にも立ちはしない。
雨はさらに激しくなり、銀色のカーテンのように視界を遮った。息を喘《あえ》がせ、軽い眩暈《めまい》を覚えながらも走りつづけていた啓介は、ついに限界を悟って足を止めた。
(どこか、雨宿りのできそうな場所は……)
あった。裏路地にある一軒の店から、明かりが洩《も》れていたのだ。渡りに船とばかりに、啓介はそちらへ駆けだした。
近付いてみると、店の前には「美術品|九十九《つくも》」という古ぼけた立て看板が置かれていた。ちらりとそれに目をやって、啓介は雨に急き立てられるように引き戸を開けた。
中に入ると、かすかな香のかおりが感じられた。
「九十九」は十畳ほどの小さな店で、壷や掛け軸、それに彫刻といった品々が、所狭しと並べられていた。店の奥にはショウケースが置かれ、その向こうには二階へとつづく階段がある。
火の気は部屋の隅に置かれた小さな電気ストーブだけで、椅子《いす》に座った店番は啓介に背を向けて手をあぶっている。
「すみません……」
寒さにカチカチと歯を鳴らしながら、啓介は声をかけた。初めて彼の存在に気付いたかのように、店番はゆっくりと席を立った。
「いらっしゃいませ。何をお求めですか?」
「いや、少し雨宿りをさせていただこうかと思って……」
しどろもどろに啓介は言った。その視線は、店番の顔に釘づけになっていた。
啓介の眼前にたたずんでいるのは、神秘的な容貌《ようぼう》をした十代半ばの少年だった。どこか中性的な印象で、透き通るような白い肌と繊細な顔だちは、まるで名匠の絵から抜け出てきたかのようだ。これほどまでに美しい人間を、啓介は見たことがなかった。
「そうですか。それではごゆっくりどうぞ」
澄んだ黒い瞳《ひとみ》で、少年は啓介をじっと見つめた。啓介は咳《せき》ばらいし、内心の胸騒ぎをごまかすように、店内に置かれた品々に視線をそらせた。
「お気に入りの品がありましたら、声をかけてください」
少年はそれだけ言うと、啓介に関心を失ったかのように背を向けて、ふたたび椅子に腰を下ろした。啓介は身体を拭くタオルを所望しようとしたが、少年の様子を見て言葉を飲みこんだ。
全身からぽたぽたと滴をしたたらせながら、啓介は店内を見て回った。貴重な掛け軸が濡れたりしたら困りそうなものだが、少年は声をかけようともしなかった。
代々伝わる遺産がある上に、大学教授として高給を取っている啓介は、骨董品《こっとうひん》の収集を趣味としていた。彼の肥えた目で見る限り、店に置かれた品々には値打ち物は少ないようだった。
(まあ、こんな小さな店で、子供に店番をやらせているようでは無理もないか。まさか、この子が主人ということもないだろうが……ん?)
何気なくショウケースに目をやって、啓介は思わず息を飲んでいた。そこには、ひと振りの刀がぽつんと置かれていた。鈍く光る刀身を食い入るように見つめながら、啓介は興奮して少年に尋ねた。
「すみません。ちょっと、中のものを見せていただきたいのですが……」
「どうぞ」
背を向けたまま少年が答えた。啓介はケースを開けるのももどかしく、その刀を手に取った。
波打つように走る刃紋(刃と峰の間に走る線のこと)を確認して、啓介はごくりと唾《つば》を飲みこんだ。刀も収集している彼は、このような刃紋を持つ刀を確かに知っていた。
村正流、とも呼ぶべき技術によって鍛えられた刀だ。正式に村正と銘うたれた刀は四本あり、そのどれもが脇差し(小刀)である。
しかし、一本だけ太刀が存在するという伝説がある。眼前の刀は、幻とされている五代目村正なのだろうか。
刀を丹念に調べた啓介は、内心で強くうなずいていた。
(間違いない。これは村正だ……!)
手にした刀の根元には、銘柄を削り取ったような後があった。徳川幕府に崇《たた》る妖刀《ようとう》として忌み嫌われた村正の、それは確かな証だった。
「失礼。この村……刀をいただきたいのですが」
店の主人は、この刀の正体に気付いていないかもしれない……そう思って、とっさに啓介は言葉を濁した。
「その刀ですか? どうぞ。買い手もついていませんから……」
啓介のもとに近付いて、少年は無造作にうなずいた。
「本当ですか! それで、いくら支払えばいいですか」
「お代の方は、後日請求させていただきます。こちらの伝票に、住所と氏名をお書きください。それから、失礼ですが、ご本人と証明できるものはお持ちですか?」
「住民票はいらないんですか?」
少年の気が変わってしまうのではないかと恐れながら、啓介は慌てて内ポケットから免許証を取り出した。それを一瞥して、少年は伝票にペンを走らせている啓介に軽くうなずいた。
「結構です。それではお持ち帰りください。刀剣所持の手続きをお忘れなく」
「分かっています。これまでにも何本か刀を集めてきましたから。……それでは」
気もそぞろに挨拶して、啓介は「九十九」を後にした。店を出るとき、ちらりと目にした水墨画に、啓介はふと違和感をおぼえた。
外はまだ降りしきる雨だった。
(そうだ……)
どこかで見たような顔だと思った。そこに描かれていた人物は、先ほど店内にいた少年にそっくりだったのだ。
だが、啓介は深くは考えなかった。はやる心を抑え、ようやく乾きかけた服をずぶ濡れにしながら、啓介は熱に浮かされたような足取りで歩き始めた。
2 惨劇の予兆
あの夜のことは夢だったのではないか……啓介はそう思った。
しかし、村正は確かに啓介とともにあった。ただ気がかりなのは、請求書が送られてこないことだった。
よほど法外な値段をふっかけられないかぎり、村正を手放すつもりはなかった。しかし、数日前に感じたあの違和感を確かめるために、啓介はふたたび「美術品九十九」の看板を探すべく四谷《よつや》に向かっていた。
(おかしいな……この辺りだったはずだが)
日頃通らない場所だったせいか、いくら探しても「九十九」を見つけることはできなかった。おぼろげな記憶を頼りに、足を棒にして歩き回ったが、結果は同じだった。
啓介は探すのをあきらめて、ちょうど目に止まった一軒のショットバーに入った。「オルケスタ」という名のそのバーは木目を基調にした、クラシックの流れる店だった。
「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ」
「いや、テーブルにしてもらえませんか。こっちの方が落ち着ける」
カウンターのストゥールを指した初老のマスターに啓介は答え、奥まった位置にあるテーブル席に着こうとした。店は空いていたので、四人がけの席を一人で占領しても問題はないと考えたのだ。マスターはちょっと眉《まゆ》を動かしたが、文句は言わずにコースターとおしぼりをテーブルに置いて、啓介に席を勧めた。
「どうぞ。何を召し上がられますか?」
「オールド・グランドダッドをロックで。それとビーフ・ジャーキーを」
カクテルなどというしゃれたものには、とんと疎い啓介である。マスターはにっこりとうなずき、カウンターに戻っていった。
やがて運ばれてきた甘口のバーボンをゆっくりと飲みながら、啓介は煙草に火を点《つ》けた。
(なかなかいい店じゃないか)
内装の趣味もいいし、すみずみまで掃除が行き届いている。クラシックを流しているのも啓介の気に入った。次期学部長の候補に選ばれた、自分にふさわしい店だと思った。
(しばらく通ってみようか。だが、土曜の夜なのにこれほど空いていて大丈夫なのかな)
要らぬ心配をしてやりながら、啓介はお代わりを頼もうとした。そのとき、ちょうど扉が開かれて、二人連れの客がやってきた。
「こんばんは、マスター」
「ああ、狩野《かりの》さんですか。いらっしゃいませ。今日は津本《つもと》さんもご一緒ですか」
「ちょっと近くに寄ったもので。久しぶりですな」
現われた二人の男は、啓介の同僚だった。どちらも啓介より少し年長で、ともに医学部の教授である。近くに迫った次期学部長選挙で、啓介の味方となってくれるはずの人物たちだった。
啓介が挨拶をしようとするよりも早く、狩野と津本はカウンターに陣取り、口々にカクテルを注文した。それからマスターを交えて、三人で楽しげに談笑を始める。照明を暗くしているせいもあって、二人の教授は奥に座っているのが啓介だと気付いていないようだった。
何となくタイミングを失って、啓介は声をかけそびれてしまった。もとより、思わぬ出会いを喜ぶような間柄ではないのだ。
手を挙げ、グラスを掲げて、啓介は無言でお代わりを注文した。少し居心地は悪いが、知らぬふりをすることに決めたのだ。
狩野と津本の二人は、まったく啓介に気付くこともなく、話に花を咲かせている。彼らの会話の端々に自分の名前を聞き取って、啓介は身を固くした。
グラスを運ぶ手を止めて、じっと耳を澄ませる。二人はどうやら、今回の選挙のことについて、啓介を痛烈にこきおろしているようだった。
狩野と津本が、今回の学部長選挙で協力してくれるのは、啓介の人望に惹《ひ》かれているからではない。しょせんは利害関係でつながっているだけなのだ。それは分かっていた。分かっていたはずだったが……。
「……だいたいね、狩野さん。中里は、学部長なんて器じゃありませんよ。まだ若いし、学識もない。手術《オぺ》の技量《うで》だって……」
「まあ、そういう現場レベルの話はともかくだ。私は彼のやり口が、どうも好きになれんのだよ。彼が教授選で選ばれたときの噂《うわさ》は知っているだろう?」
「もちろん! 対立候補だった清川君は贈賄のスキャンダルを暴かれて、それを苦にして自殺。私は、あれは絶対にでっちあげだとしか思えません」
啓介は思わずどきりとした。津本の指摘は的を射ていたのだ。啓介の後ろ盾である、利根崎《とねざき》学部長の指示でやったことだった。利根崎の意に従わないある医療器具メーカーと、対立候補の清川をともに潰《つぶ》すということで、利害が一致したのだ。
学部の教授たちの選挙によって、学部長は選ばれる。特に医学部長選挙ともなれは、研究費という名目の金銭や医療器具メーカーからの付け届けなど、莫大《ばくだい》な利権が絡んでくるのだ。それゆえに、その選挙戦は政界のそれに負けず劣らず汚いものになる。
「中里君を次期学部長に据えて、自分は退官した後も発言力を握りつづける……利根崎さんはそう考えているようだが、それほど甘くはないよ。われわれ古参の連中には利根崎さんに対する反感が募りはじめている。なあ、津本くん?」
「そうですよ! 私たちは、あのじいさんを追い落とすための準備を着々と進めているんだ。事が成就した暁には、利根崎はもとより、虎の威を借る狐の中里も……」
「まあ、それほど悪しざまに言うもんじゃない。ただ、やはり私は中里君を好きになれないな。彼の目つきは医師のものじゃない。まるで政治屋だよ」
津本と狩野の言葉に、啓介は激しい動揺を覚えた。
政治屋呼ばわりされて傷ついたわけではない。そのような負け犬の遠吠えは、啓介にとって心地よくさえあった。しかし、後ろ盾である利根崎が追い落とされるとなれば、もはや冷たい優越感に浸っている余裕はない。
「マスター。勘定を」
立ち上がった啓介の声を聞きつけて、狩野と津本は驚いて振り返った。
「こんな所で奇遇ですな、狩野さんに津本さん。いい話を聞かせてもらいましたよ」
「中里さん……」
狩野が沈痛な面持ちで言った。しかし、表情に狼狽《ろうばい》の色はない。そのことに啓介は苛立《いらだ》ち、同時に不安を感じた。利根崎に告げ口されることを、狩野は恐れていないのだろうか。こいつには、それほどの自信があるのだろうか?
酒のためではなく緊張のせいで、どきどきと鼓動が早くなる。
「君がいるとも知らずに、きつい言い方をしてしまった。だが、あれは私たちの抱いている正直な気持ちだよ」
「狩野さん同様、私も次期選挙では、あなたに協力するつもりはない。いつまでも利根崎さんの力を傘に、私たちを押さえつけておけると思ったら大間違いだ」
険悪な雰囲気の三人に、マスターが慌てて割って入ろうとする。啓介は、それを制して代金を支払うと、釣り銭を受け取らずに背を向けた。
「どうせこれから、利根崎さんのところにご注進に行くんだろう?」
背後から投げつけられた津本の捨て台詞《ぜりふ》に、啓介は何も答えなかった。
そして唇を震わせ、青ざめた顔で、啓介は扉のノブに手をかけた。
「オルケスタ」を後にして、啓介は近くの電話ボックスに飛びこみ、利根崎と連絡を取ろうとした。嘲笑《ちょうしょう》する津本の顔が脳裏にちらつき、少し躊躇《ためらい》を覚えたが、プライドにこだわっている場合ではなかった。
トゥルル……トゥルル……という呼び出し音が、啓介の耳の中で響きつづけている。
焦慮もむなしく、電話はいつまで待ってもつながらない。二十回目のコールの後、啓介はあきらめて受話器を置いた。
別れ際に、津本に叩《たた》きつけようとした台詞が、ふと啓介の心によみがえった。
(憶《おぼ》えているがいい。利根崎さんに逆らったら、ただではすまないぞ――)
喉《のど》もとまで出かかっていた、そんな言葉。
後ろ盾の名前を借りなければ、反論することすらできない。そんな自分を、啓介は初めて情けなく感じていた。
それから啓介は下北沢にある自宅に戻り、ふたたび利根崎の家に電話をかけた。しかし、やはり利根崎は不在だった。
苛々《いらいら》と部屋を歩き回り、やたらに煙草をふかしても、焦りと不安を抑えることができない。
少しでも心を鎮めるために、買ってきた刀でも磨こうと思い立ち、啓介は応接室へと向かった。
十二畳ほどもある板張りの部屋の中央に座りこんで、啓介は「九十九」で買い求めた村正を抜き放った。
蛍光灯の光を浴びて、村正の刀身がぎらりと銀色に輝く。赤子にうぶ湯をつかわせるかのように、優しく丹念に刀を磨いているうちに、啓介は少しずつ動揺が治まってゆくのを感じていた。
それと同時に、どす黒い怒りが首をもたげ始める。やがてそれは自分を追いつめ、惨めな気分を味わあせた狩野と津本に対する殺意にまでふくれ上がっていった。
狩野や津本が何を企もうが、恐れるに足りないような気がした。村正――啓介がいま手にしている、この刀があれば。
啓介はニヤリと凄惨《せいさん》な笑みを浮かべた。そのとき、玄関の扉が開く気配がした。明るい挨拶の声がそれに続く。娘の琴音《ことね》が帰ってきたのだ。
「ただいまー。お父さん、いるの?」
応接室にやってきた琴音は、抜き身の刀を手にしている父の姿を見て、びっくりしたように足を止めた。
「な、何してるの」
「刀を磨いていただけだよ。遅かったじゃないか、琴音」
「ちょっと、学食で話しこんじゃって。友達に送ってもらったの。ほら、この前も話してた水波《みなみ》くん。お茶でも飲んでいってもらおうと思うんだけど……」
琴音は今年で二十歳になる。啓介の勤める大学の英文学科に通っている。数年前に亡くなった妻によく似ていて、父のひいき目を抜きにしても美人だと啓介は思う。近ごろ流行《はや》りの大胆なショートカットが、ジーンズとセーターというくだけた服装によく似合っている。
「お父さんが顔を出すと煙たいだろうから、挨拶はやめておこう。ただ、あんまり遅くなるんじゃないぞ」
「分かってるって」
にっこりと笑った娘の顔を、啓介は眉をしかめて見つめた。
「ちょっと、化粧が濃いんじゃないか」
「口紅の色を変えただけだってば。お父さん、このごろ口やかましくなったね」
屈託のない笑い声を残して、琴音は軽やかな足取りで部屋を出て行った。
娘がいなくなると、啓介の顔つきは父親のものではなく、汚れた戦いに身を投じた男のそれに変わってゆく。
無言のまま啓介は立ち上がり、手にしていた村正を青眼に構えた。素早い動作で振り上げ、そして振り下ろす。ダイニングルームから流れてきた楽しげな談笑の声を、濡《ぬ》れたように光る銀色の刃が鋭く切り裂いた。
啓介は、すさまじい形相で空中を睨《にら》みつけていた。あたかもそこに、憎むべき敵の姿があるかのように……。
3 血ぬられた夜
「こんな遅くまでお邪魔してすみません、津本さん。奥様には、後でよろしくお伝えください」
手にしていたブランデー・グラスを卓に置いて、狩野は恐縮したように頭を下げた。津本は派手な笑い声を上げて、狩野に手を振ってみせる。
「オルケスタ」を出た二人の教授は、成城学園前にある津本の家に場所を移して、引き続き酒をくみ交わしていた。
「いやいや、女房なんぞ、こんな時のために飼っているようなもんです。それにしても、オルケスタでは傑作でしたな。あのときの、中里の顔といったら! まるで、尻《し》っ尾《ぽ》を股《また》の間にはさんでキャンキャンいっている犬のようでした」
節度のない津本の言いぐさに、狩野はさすがに返答に窮して、広々とした応接室の壁に視線をそらせた。
今回の選挙で、津本は最後まで中里啓介と候補の座を争った男だった。だから、よけいに啓介が憎いのだろう。
「しかし、利根崎と中里を潰《つぶ》しても、後釜《あとがま》に座るのは田丸《たまる》先生でしょう。あの人は、ハーバードで客員教授をなさっていたほどだし、学識や格は申し分ない。ただ、外様《とざま》でさえなければねえ……狩野さん」
「はあ……」
曖昧《あいまい》なうなずきを返しながら、狩野は心のなかで津本を軽蔑《けいべつ》していた。
医師の理想を捨て、利権|漁《あさ》りにかまけている利根崎と、それに追従している中里啓介に対して、津本は義憤を燃やしているわけではない。彼が利根崎に取り入らなかったのは、そうするのを嫌ったからではなく、要領が悪かったからにすぎない。
しょせんはそういう男なのだ、と狩野は内心で決めつけた。そんな彼の思いに気付いた様子もなく、津本は機嫌よくグラスを傾けていたが、
「おっと、そろそろ酒がありませんな。おーい、可奈子《かなこ》!」
大声で呼ばれてやってきた津本夫人は、眠そうに欠伸《あくび》をかみ殺しながら、ちょっと不平そうな表情で夫を睨んだ。
「子供はもう寝てるんですから。そんなに大きな声を出さないでよ」
「酒だよ、酒をもってきてくれよ。ヘネシーのXO、まだあっただろ?」
「ああ、いや津本さん。私はそろそろ失礼しますよ。もう一時ですしね」
夫人に気兼ねして、狩野は慌てて立ち上がろうとする。その腕を掴《つか》んで強引に座らせると、津本はろれつの怪しくなりはじめた口調で非難した。
「何を言ってるんです。そんなに付き合いの悪いことを言わずに、ね? もう少し、もう少しだけ……いいじゃありませんか。それとも狩野さん、コレでも待ってるんですか?」
「そんなことは、ありませんよ」
津本が小指を立てて笑うと、狩野は少し狼狽《ろうばい》して答えた。
「分かりました。それではあと三十分だけ……。奥さん、すみません」
恐縮する狩野に向かって形式的に笑いかけ、津本夫人は応接室を出て行った。
それからしばらく狩野は、津本のとりとめない愚痴の相手になってやっていた。しかし、数分経っても夫人が戻ってこないので、少し不安になって姿勢を正した。
「津本さん。どうやら、奥様に愛想を尽かされてしまったみたいですので、そろそろ本当に失礼しますよ。津本さんも酔ってらっしゃるようだし……」
言い終える前に、狩野は後悔していた。若いころに得た教訓があったのだ。すなわち――
からみ上戸の人間に対して、「酔ってるから飲むな」と言ってはならない=B案の定、津本は血走った目で狩野を見上げ、
「酔ってなんかいるもんですか。いたって平気ですよ。女房が頼りにならんのなら、自分が取りに行くまでだ。狩野さん!」
「な、何ですか」
「帰っちゃだめですよ。そんなことしたら一生恨みますよ!」
威嚇《いかく》するような一瞥《いちべつ》をくれて、津本はふらふらと立ち上がった。きっとですよ、ともういちど念を押して、千鳥足で部屋を出てゆく。一生恨まれてはかなわないので、狩野は大人しく待つことにした。
そして待つことしばし、壁にかけられた絵をぼんやりと眺めていた狩野は、どさりと何かの倒れるような音を聞いた。
(酔っ払って倒れたのかな。やれやれ……)
夫人は寝てしまったようだったから、狩野は津本の様子を見に行くことにした。そのまま放置して帰るのは、さすがに少し気が引ける。
廊下に出ると、T字型に枝分かれした左右の方角から明かりがもれていた。初めて津本家を訪れた狩野は勝手が分からないので、とりあえず右に進んでみる。電気が点いているのは突き当たりの部屋だ。
明かり取りの窓からは、不気味なほど白く冴《さ》えわたった月が見えた。何に驚いたのか、隣家につながれた犬が突然けたたましく吠《ほ》えはじめたので、狩野はびくっと身を固くした。
気を取り直して扉を細めに開けると、そこは大人の寝室のようだった。
「失礼しました。ご主人を探しにきたのですが……」
言いかけて、狩野はふと不審を抱いた。ベッドの端からだらりと垂れ下がっている、パジャマを着た足が目に入ったのだ。おそらく夫人が横たわっているのだろうが、安らかに眠っているような様子ではなかった。
それに――臭いだ。
外科医である狩野は、毎日この臭いを嗅《か》いでいる。生ぐさく、むっとむせかえるような――
(……血!)
異変を感じて、狩野は激しく扉を開けた。夫人が病気もちだという話は聞いていないが、急に吐血でもしたのかもしれない。
だが、狩野が見た室内の光景は、彼の想像を絶する凄じいものであった。
「ひっ……」
しゃくり上げるような声が、狩野の喉《のど》からもれた。
津本夫人は死んでいた。真っ赤に汚れたシーツの上には、まるで奇怪なオブジェのように、ごろんと夫人の身体が転がっている。しかし、そこにはあるべきはずの上半身がなかった。切断面からは黄色い腸がはみ出し、象牙《ぞうげ》色をした脊椎《せきつい》までもが見て取れる。
そして、夫人の上半身は部屋の隅の床で、カッと目を開いて狩野を見すえていた。
「うっ……げぇっ!」
思わず身体を折って、狩野は嘔吐《おうと》した。内臓や血など、そして輪切りにされた死体でさえも、見慣れているはずだったのだが……。
胃の中身をすべてぶちまけ、ようやく吐き気が治まると、狩野は逃げるように部屋を転げ出て、廊下の反対側に向かった。
明かりがもれている部屋――そちらがダイニングルームのようだった――に近づくと、シューッというかすかな音が聞こえてきた。破れたホースから、水が噴き出しているような音だ。
震える足を踏みしめ、ようやくダイニングルームにたどり着く。蛍光灯の一本が切れているせいで薄暗くなった部屋の奥で、津本はこちらに足を向けて、うつぶせに倒れていた。
急いで駆け寄り、抱え起こした狩野の顔に、ばしゃばしゃと生温かい液体がかかる。
「うわあーッ!」
狩野はうろたえて、津本の身体を投げ出した。
津本の身体には首がなかった。先ほどから聞こえていたあの音は、切断された頸動脈《けいどうみゃく》から血の噴き出す音だったのだ。
口から飛び出してきそうなほどに、心臓が高鳴っている。
腰を抜かして尻《しり》もちをついたまま、狩野は後ずさった。何も見えないようにきつく目を閉じ、大きく肩で息をする。間違っても、どこかに転がっている津本の首を見つけたりしたくはない、と思った。
(そうだ、警察……警察を呼ばなければ)
混乱しきった頭に、ようやくそんな考えが浮かんでくる。恐る恐る目を開け、床を濡らす血潮に足を滑らせながら、狩野は立ち上がろうとした。
そのとき。、みしり……と背後で床が鳴った。ごく小さな音だったのだが、まるで近くで雷が鳴ったかのように、狩野は身をすくませた。
(まさか)
そう――津本夫妻の生命を奪った、むごたらしい殺人鬼。そいつはまだ、この家に潜んでいるかもしれなかったのだ。
(いや、そんなことはないだろう。きっと眠っていたお子さんが目を覚まして、様子を見にきたんだ。そうに違いない)
みしり。音がまた一歩近づいてくる。振り返って確かめたいが、身体がいうことをきかない。
大きく喉仏《のどぼとけ》を上下させながら、狩野は震える声で言った。
「ご両親が死んでしまったよ。警察を呼はないと……」
返事はない。
ありったけの勇気をかき集めて、狩野は首だけを振り返らせた。まず目に入ったのは、ぎらりと光る銀色の輝きだった。
そして――
「ああ……中里君!」
完全な無表情で、抜き身の刀を手にした中里啓介の姿を、狩野は呆然《ぼうぜん》と見上げていた。全身が、ぼうっと青白く光って見えるのは目の錯覚だろうか?
「きみが……きみが二人を殺したのか」
返事の代わりに返ってきたのは、刀を構えるジャキッという音だった。
「私も、殺すつもりなのか」
同じく無言のまま、相手はゆっくりと刀を振りかぶる。狩野は全身をわなわなと震わせ、掠《かす》れた声を絞り出そうとした。悲鳴を上げることなどできそうになかった。
「頼む、私を殺さないでくれ。きみに協力するよ。それに、ここで見たことは誰にも言わない。だから……だから」
涙を浮かべて哀願しても、刀を振りかぶる手は止まらない。ゆるやかに、そして情け容赦なく、じわじわと頭上に持ち上げられてゆく。
何を言っても無駄なんだ……そんな限りない絶望は、かえって自暴自棄の勇気を生んだ。言葉にならない叫び声を上げながら、狩野は猛然と相手におどりかかった。みくびっているのか、相手は動こうともしない。
現役から遠ざかって久しいとはいえ、若い頃はラグビーで鍛えた狩野である。彼のタックルをまともに受ければ相手は吹き飛び、床に叩《たた》きつけられるはずだった。
大木をへし折る熊のように、狩野は相手の腰を抱えこもうとした。ところが、確かに届いたと思ったその次の瞬間、狩野の両腕は相手の身体を空しく素通りしていた。
(そんな馬鹿な……!)
驚愕《きょうがく》の叫びは声にはならなかった。狩野は無様につんのめり、勢い余って顔から床に激突した。塩辛い鼻血が喉に流れこんでくるのを感じながら、ふらつく足で立ち上がろうとする。
相手は微動だ忙しないまま、無言でたたずんでいた。その全身は夜光虫のように青白く輝き、輪郭がかすかにゆらめいている。
戦慄《せんりつ》とともに狩野は悟った。たとえ同じ姿をしていても、こいつは中里啓介なんかじゃない。いや、人間ですらありえない。こいつは、まるで幽霊のように実体を持たないのだ。
「おまえはいったい何者なんだ……」
震える声をしぼり出すのが精一杯だった。逃げ出そうとか、立ち向かおうなどという気力はすでに尽きはてていた。
無表情に狩野を見下ろしていた相手の唇が、ごくわずかに歪《ゆが》んだように見えた。
笑っているのだ。
「こ、殺さないでくれえ……!」
必死の哀願も届いた様子はなかった。もはや身動きすらできない狩野の頭上に、ゆっくりと刀が振り上げられてゆく。
耐えきれず、狩野はきつく目を閉ざした。どうして自分が殺されなくちゃならないんだ、という思いが、理不尽さと恐怖で混乱した頭のなかでぐるぐると回っている。
ヒュンッ、という鋭い音を、狩野は聞いた。薄目を開ければ、空を裂いて迫る銀色の輝きが見えたことだろう。
決定的な死の瞬間が、いよいよ訪れようとしていた……。
4 暗雲は晴れず
津本教授夫妻と狩野教授が惨殺された事件は、世間に広く知れわたることになった。
夫妻が死亡したと見られる次の日から、夕刊やテレビなどで、大々的にこのニュースが扱われたためだ。
「まったく酷《ひど》い話だ。独り息子は無事だったそうだけど、これから苦労するだろうし……」
小さなストゥールを軌《きし》ませながら、水波|流《りゆう》は腕を組んで天井を見上げた。
ここは <うさぎの穴> というバーである。照明を落とした店内には、ピアノ向けにアレンジされたビートルズが低く流れていた。カウンターの奥では、初老のマスターが黙々とグラスを磨いている。
「おれの通ってる大学でも、事件の話で持ちきりですよ。二人も先生が殺されて、医学部の講義、どうなっちまうんだろう」
「珍しいじゃないか。おまえさんが授業の心配をするなんて」
流の隣に座った、鋭い目つきの男が皮肉っぽく言った。わざとらしく憤慨してみせ、流は胸を張って宣言する。
「前期までのおれとは違いますよ、八環《やたまき》さん。来期からは真面目に授業に出ます!」
八環と呼ばれた男は苦笑し、胸ポケットから取り出したショートホープに火を点けた。
「ははあん、分かった。……まったく流くんってば」
八環に代わって答えたのは、少し離れたテーブルに座っていた活発そうな少女だった。 <うさぎの穴> のマスターの娘で、名前をかなたという。
「どうせ大学に可愛い娘《こ》がいるんでしょ?」
「なぜ分かった?」
「分からいでか。不純な動機じゃ長続きせんぞ」
流の頭を軽く小突いて、八環が美味《うま》そうに紫煙を吐き隠した。
「そんなに美人なのか、その娘」
「もちろん。現代的な感じだから、おじさんが見たらどうか分からないけど」
おじさん、という単語を強調して流は言った。八環はちょっと眉《まゆ》をしかめて、
「そりゃあな、流から見ればみんな年寄りだろうさ。ここに来る連中のなかで、見かけと年齢が一致してるのはおまえさんくらいのものだからな。かなたにしたって、流と比べりゃおばさんなんだから」
「ちょっと、八環さん。なんであたしを引き合いに出すわけ?」
かなたが頬《ほお》をふくらませる。あどけないその仕草は、どう見ても流より年上とは思えない。
しかし、八環の言うとおりだった。今夜 <うさぎの穴> に集まった面々は流も含めて、一人の例外もなく、普通の人間とは異なった存在なのである。
怒りや愛情、そして恐怖といった人間たちの強い想い≠ノよって、まったくの無から生命が生じることがある。あるいは、本来なら生命の宿るはずのないものが、生命と自我を持つようになることも。
こうして生まれてきたものは、「妖怪《ようかい》」と呼ばれている。烏天狗《からすてんぐ》の八環や、化け狸《たぬき》のかなた、そして半人半竜の流は、まさしくそういった存在なのだ。 <うさぎの穴> は、彼らのたまり場――ネットワーク、と今ふうに呼ばれている――であり、流や彼の仲間たちの他にも多くの妖怪がやってくる。
「……まあ、せいぜい頑張れよ、流。若いのは元気があって結構なことだ」
中年くさい台詞を、八環は煙草の煙と一緒に吐き出した。流はちょっと肩をすくめて、
「まあね。でも、何かと大変みたいなんですよ、彼女。親父さんが、うちの医学部の教授で、中里先生っていうんだけど……次の学部長選挙のことで、いろいろあったみたいで」
「知ってるよ。象牙《ぞうげ》の塔に渦巻く黒い野望≠チてやつだろう? 殺人とは関係ないところで騒がれてるな。ライバルに濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せて教授の座をものにしたとか、医療器具メーカーから賄賂《わいろ》を受け取ったとか。まあ、どうせ証拠もないよた話だろうが」
「だといいけど、って彼女も言ってましたよ。まったく週刊誌ってやつは証拠もないくせに、どうしてあんないい加減なことを書くんだろう」
「おいおい、そんなに俺を睨《にら》むなよ。俺はゴシップ誌は畑違いなんだぜ」
山岳カメラマンとしての顔をもつ八環は、苦笑いを浮かべて眼前のグラスに手を伸ばした。
「……確かに、大学教授ともなれば事実の真偽はともかく、スキャンダルがあるっていうだけでも痛手なんだろうな。娘さんが心を痛めるのも無理はないよ」
「それだけじゃないんです。二人の先生は、刀みたいな刃物で斬《き》り殺されたんでしょう? 彼女の親父さんは美術品の収集が趣味で、何本も真物《ほんもの》の刀を持ってるんですよ。おまけに、殺された先生たちとは選挙のことで対立してたらしいし……彼女としたら気が気じゃない」
「ちょうどいいじゃない。流くんが優しく力づけてあげれば?」
「そうだな。それがいいだろう」
かなたと八環の言葉に流はうなずこうとして、思い直したように激しく首を振った。
「八環さんまで何を言ってるんだか! おれはそんな、人の心の隙《すき》につけこむようなこと……」
ふと流は顔を曇らせ、打って変わってしんみりとした調子で言った。
「かなたが羨《うらや》ましいよ。女の子がみんな、摩耶《まや》ちゃんみたいだったらいいのにな」
彼が口に出したのは、かなたが妖怪《ようかい》であると知りながらも、彼女の親友でありつづけている少女の名前だった。
人間の姿に変身できる多くの妖怪たちは、妖怪の姿こそが本性だと考えている。人間の姿は、あくまで人間の社会に溶けこんで暮らすための仮の姿にしかすぎないと。
しかし竜を父親に、人間を母親にもつ半人半竜の流にとって、それは微妙な問題だった。竜の姿に変じることができるとはいえ、彼は生まれてからずっと、普通の人間と変わらない暮らしを送ってきたのだから。もしも <うさぎの穴> の面々と出会わなかったら、二つの姿を持つ自分に対して葛藤《かっとう》せずにはいられなかったかもしれない。
(あの娘《こ》はどうだろう……? やっぱりおれのことを化け物呼ばわりするんだろうか?)
口もとまで出かかったつぶやきを、流はジャックローズの最後のひと口とともに喉の奥へ流しこんだ。ライムがききすぎているのか、紅いカクテルはほろ苦い味がした。
惨殺事件が起こってから一週間後。
中里家を訪れた流は、琴音の部屋で琴音と午後のひと時を共にしていた。
外はすがすがしく晴れていて、柔らかな陽光がガラスごしに降り注いでくる。さわやかな昼下がりだったが、事件のせいか、ふたりの雰囲気は湿りがちだった。
「週刊誌とか見たでしょ? まったく、いやになっちゃう……」
琴音はため息をついた。スキャンダル記事を目にするたびに啓介は怒っていたが、まさか「これって本当のことなの?」と確かめるわけにもいかない。ただ、啓介が近ごろ、選挙のために奔走しているのは事実だった。今日も利根崎教授に用があるとかで、朝から家を空けているのである。
「ああいう記事を見ると、中里もイヤな気持ちなんだろうな。分かるよ」
流が同情するように言うと、琴音は小さく肩をすくめた。
「それはまあね。でも、お父さんがどういう生き方を選んだって、あたしにはどうにもできないもの……結局、関係ないとも思うし。ただ、お父さんを誰かに紹介するときに、恥かしい思いだけはしたくないな」
さばさばした口調で琴音は言う。しかし、彼女の言葉の奥にある啓介への思いは、流にも容易に察することができた。
「あたしは、選挙のこととか詳しくないけど……どうして津本先生は殺されちゃったんだろう」
「何か、気になることでもあるのかい?」
さりげなく、流が尋ねた。その目に一瞬、鋭い光が浮かぶ。琴音は首を振って、
「ううん。そんなのじゃないけどね。津本先生と奥さん、とっても鋭い刃物で斬られて死んだんでしょ? 前にも話したと思うけど、うちのお父さん剣道するし、刀も持ってるから……」
「中里先生が? まさか!」
内心の疑惑を抑えて、流は笑いとばした。それから、真剣な顔で琴音の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》きこむ。じっと見つめられて、琴音の鼓動は少し早くなった。
「そんなに心配なら、確かめてみればいいじゃないか。中里先生の刀、この家にあるんだろ?」
「あるけど……どうするの。刀を調べるつもり?」
「そうさ。もしも中里先生が犯人なら、刃はべっとりと血で汚れてるはずだからね」
「でも、あたしが犯人だったら、後でちゃんと手入れしておくけど……」
「あ、それもそっか。そうだよな」
流は頭をかくと、白い歯を見せて苦笑した。つられて琴音も笑い出しながら、心のなかで流に感謝していた。琴音の不安を取り除こうと、流はおどけてくれたのだと思った。
「そんなことよりさ、これからどこか遊びにいこうぜ。家に閉じこもってても、いいことなんか何も……」
流の言葉を遮るように、インターフォンが鳴った。
「誰かな? ちょっと待っててね」
流に微笑《ほほえ》みかけてから、琴音は玄関に向かった。どなたですか、と扉ごしに尋ねる。
「警察の者です。津本泰信氏が殺害された件で、うかがいたいことがありまして」
ちょうど流と事件の話をしていたせいか、琴音は胸騒ぎを禁じえなかった。
刑事と名乗る中年の男は、くたびれたコートの懐から警察手帳を取り出し、扉を開けた琴音に示してみせた。
「中里啓介教授はご在宅ですかな」
「今はおりませんけど……父に何かご用ですか」
「いやいや、大したことじゃないんですがね。お留守ですか。申し訳ありませんが、中で待たせていただけますか?」
刑事の口調は丁寧だったが態度はあつかましく、自信に満ちているようだった。琴音は、いっそうの不安を募らせる。水波くんがいてくれてよかった、と思った。もしも独りだったら、心細くてたまらなかっただろう。
とりあえず刑事をダイニングに通し、コーヒーを淹《い》れてから、琴音は流の待つ自分の部屋に駆けこんだ。
「どうしたんだ、中里? 誰が来たんだい」
ただならぬ琴音の雰囲気を感じ取ったのか、流が少し緊張した面持ちで問いかける。
「警察よ。お父さんに、訊きたいことがあるからって。お父さん、まさか……」
「落ち着くんだ。話を聞きにきただけかもしれないじゃないか。捜査令状とかは見せなかったんだろう?」
琴音の肩を優しく叩いてから、流は何やら考えこんだ。眉を寄せて、しばらく難しい顔をしていたが、やがてきっぱりとうなずく。
「中里先生を疑ってるわけじゃないけど、やっぱり刀を調べてみよう。そうすれば中里も安心できるだろう?」
「えっ、でも……」
「さっき、血を拭《ぬぐ》えば分からないって言ったけど、あれは嘘《うそ》だ。二人も人間を斬ったら、普通の刃は刃こぼれしちまうんだよ。時代劇みたく、何人でも斬れるわけじゃないんだってさ。まさか、刀を置いてある部屋に刑事を通したとか?」
「ううん。それはだいじょうぶよ。あたしも不安だったから」
「上出来だ。それじゃ、さっそく調べに行こうぜ」
言うが早いか、流は琴音の手を引いて歩き出す。足がもつれそうになりながら、琴音は前を行く幅広い背中に小声で問いかけた。
「それで……もし、お父さんが犯人だって分かったらどうするの?」
「もちろん、その刀を隠すんだ」
間髪入れずに流は答え、目もとを少しだけ和ませた。そのかすかな笑みが、琴音にはとても頼もしく思える。
「……ありがと、水波くん」
温かな流の手を、琴音はぎゅっと握り返した。
応接間に流を案内した琴音は、少し青ざめた顔で、壁に飾られた村正を手に取った。
ずしりとした鋼の重みが、琴音の手に伝わってくる。妖刀《ようとう》の名にふさわしく、それは鞘《さや》に収められていてさえ、どこか危険でまがまがしい雰囲気を漂わせていた。
「これが、この間お父さんが買ってきた刀。村正っていう有名な刀なんだって」
「ふーん……」
琴昔から刀を受け取った流は、ゆっくりと柄《つか》に手をかけた。大きく息を吸ってから、おそるおそる鞘から引き抜いてみる。
かたずを飲んで、琴音は流の手元を見守っている。
「どう?」
「よっ、と。なかなか簡単に抜けないもんだな……」
やがてあらわになった刀身が、ふたりの目に入った。
「これは……!」
妖刀村正に、本来の濡《ぬ》れたような銀色の輝きはなかった。
柄元から刃先まで、黒く変色した血糊《ちのり》でべっとりと汚れていたのだ。引き抜くのに苦労したのは、乾いた血が鯉口《こいぐち》にこびりついていたせいだろう。
「水波くんッ!」
血の気を失った表情で、琴音は流にしがみついた。
「そんな……どうしよう? お父さんが、お父さんが人殺しだったなんて……」
まさか、そんなことはあるまいと思っていた。啓介は頭の切れる、分別のある男だったはずだ。それなのに、なぜ……?
人殺し――その一語が、琴音の頭の中でがんがんと反響していた。ふと脳裏に浮かんだ、よく知っていたはずの父の顔が、恐ろしい魔物のそれに変わってゆく。足元の床が揺れているような錯覚を覚えて、琴音は身体をよろめかせた。
沈痛な顔で琴音を見守っていた流は、彼女の身体をそっと支えてやりながら、
「この刀、しばらくおれに預らせてくれないかな」
思いがけない言葉に、琴音は驚いて頭《かぶり》を振った。
「そんなの無理よ。お父さん、この刀をとっても気に入ってるんだから。失くなってたらすぐにばれちゃうよ。それより、急いでこの刀を洗わないと」
「さっきも言ったけど、洗い流しただけじゃ無駄なんだよ。刃こぼれしてるのはもちろん、警察が調べれば、血がついてたことは簡単にばれちまう。だから……」
流が言葉を継ごうとしたとき、何の前触れもなく扉が開けられた。慌てて流は刀を鞘に収め、もとの場所に戻そうとする。
しかし、壁に掛けなおしている時間はなかった。
「すいませんが、トイレはどこですか……おや? その刀は何ですか」
しびれを切らした刑事が、家の中をうろつき始めていたらしい。取り乱している琴音を制して、流はできるだけ落ち着いた声を出そうとした。
「ちょっと、彼女に見せてもらってたんです。トイレなら廊下の突き当たりです。すぐに分かるはずですけどね」
「ああ、そうですか。なにぶん広い家なもので、勝手が分かりませんでな。あなたは? ご家族の方ですか」
「いいえ。ちょうどお邪魔してただけです」
流の言葉に刑事は何も答えず、すっと目を細めて、流の持っている村正に視線を注いだ。
「その刀、ちょっと見せてもらえますか」
「えっ……!」
琴音がはっと息を飲む。流は険しい目で刑事を睨んだ。
「お断りします。捜査令状は持ってるんですか」
「ちょっと電話をお借りできれは、すぐに運ばせられますよ」
自信に満ちて断言すると、刑事はつかつかと流のもとに歩み寄り、村正の鞘に手をかけた。
「これはわれわれ警視庁と、中里啓介さんとの問題だ。きみには関係ない」
「中里先生がいないのに、勝手な真似をさせるわけにはいかないんだよ」
流と刑事のやりとりを、琴音ははらはらしながら見守るばかりだった。そんな彼女の様子が、刑事の勘に引っ掛かったのだろうか。急に居丈高な雰囲気になって、刑事は刀を握った手に力をこめた。
「渡せと言ってるんだ! 公務執行妨害でしょっぴかれたいのか」
「やれるものならやってみな」
ぴぃんと響く声で流に言い、微動だにせずに相手を睨みすえる。刑事は少し怯《ひる》みながらも、
より一層の大声で、
「おまえが邪魔すれば、それだけ中里啓介の立場は悪くなるんだぞ! 警官たちに応援を頼んだっていいんだからな」
「…………」
さすがに困惑したのか、流がちらりと琴音に視線を送る。
琴音は弱々しくうなずいた。刑事に詰問されるなどという、想像もしなかった事態に、彼女の心は麻痺《まひ》してしまっていた。まるですべてが夢の中の出来事であるかのように、まったく現実味が感じられない。
痛ましげに琴音を見やって、流は刀を持つ手から力を抜いた。刑事は満足げにうなずき、すらりと村正を鞘から引き抜いた。琴音は思わず目を閉じる。
「ほほう……」
次の瞬間、浴びせられるであろう刑事の怒声を予測して、琴音は身をすくませた。
「これは見事な刀ですな。こんな物を持ってたら、なるほど誰かを斬りたくなるかもしれない」
感嘆したような刑事の声。
おそるおそる目を開けた琴音は、思わず自分の見ている光景を疑っていた。
窓から射しこむ光を浴びて、村正は銀色に輝きわたっていた。
その刀身には、一点の曇りすらも見られない。
(じゃあ……さっきのは何だったの? 確かに、あの刀には血がべっとりと……)
驚いているのは流も同様らしかった。何度も目をしぼたたきながら、食い入るように村正を見つめている。
「いや、きみたちがあんまり依怙地《いこじ》になってるもんだから、何かやましいことでもあるのかと思ってしまって。これは失礼なことを」
「謝ってすむことかよ。あんたのことは、先生にしっかり言いつけとくからな」
驚愕《きょうがく》から立ち直ったらしい流が、びしりと決めつける。刑事は閉口した様子で深く頭を下げながら、しきりと頭をかいた。
「いや、申し訳ない。先生もまだお戻りになられないようだし、今日は失礼させてもらいますよ、また、後日うかがいます……」
挨拶もそこそこに、そそくさと立ち去ってゆく。それを無言のまま見送り、琴音と流は顔を見合わせて大きく息をついた。
「ねえ、水波くん……どうなってるの? さっき見たときは、たしかに……」
「ああ。目の錯覚なんかじゃなかったよな」
刑事の追求を逃れたという安堵《あんど》感から、琴音は思わずその場にへたりこんだ。しかし、ぬぐいようのない謎《なぞ》が心にわだかまっている。
先ほどまで、村正は血に汚れていたのだ。それなのに……。
「なあ、中里。やっぱりこの刀、ちょっと貸してくれないかな。こういう物に詳しい知り合いがいるから、調べてもらおうと思うんだ。先生が帰ってくるまで、ほんの何時間かでいいから」
「……そうね。そうしてもらった方がいいかもしれない」
琴音は小さくうなずいた。そのとき玄関の扉が開けられて、ただいま、という啓介の声が聞こえてきた。
ぎょっとしてそちらを見やり、琴音は唇を噛《か》んだ。
「やっぱりだめみたい。お父さんが帰ってきちゃった。その刀、元に戻しておいて」
「分かったよ。持ち逃げするのは難しいだろうしな」
少しだけ引き抜いて刀身を確認してから、流は村正を壁に掛けなおした。刃には、やはり一点の染みも見当たらなかった。
「それじゃ、おれはそろそろ帰るよ」
<うさぎの穴> の面々に相談しよう、と流は思った。
幻の銘刀と呼ばれている眼前の刀は、すでにただならぬ存在と化しているのかもしれない。
(大樹《だいき》なら、村正のことで何か知ってるかもしれない。今日は無理だろうけど、教授に頼んで刀を持ち出してもらうのもいいな……)
内心でうなずき、きびすを返しかけた流を、琴音が呼び止めた。
「……待って」
すがるような目で、琴音は流を見上げた。彼女を安心させるために、流は優しく笑った。
「だいじょうぶ。先生は犯人じゃないさ。あの刑事の慌てぶりを見たろ? おれたちが動揺してたから、成り行きで迫ってきただけだって。先生は容疑者なんかじゃないんだ」
「そうじゃないの」
琴音は何度も頭《かぶり》を振った。
最初に見た光景は、あまりにも鮮烈だった。もしも啓介が犯人だったら、という恐れは、とうてい捨てされそうにない。
「帰らないで。……あたし、お父さんに殺されちゃうかもしれない」
かすかに震える声で、琴音は流にささやきかけた。
5 破局
琴音と別れてから数日後、流はふたたび <うさぎの穴> に足を運んでいた。
仲間たちから、五代目村正についての情報を手に入れたという知らせがあったのだ。常人には決して訪れることのできない、四階建てビルの五階のバーで流を迎えたのは、算盤《そろばん》坊主の大樹だった。
「この前に流さんが来たとき、僕がいればよかった!」
開口一番に大樹は言った。流に席を勧めるのももどかしく、立ったままで説明を続ける。
「幻の銘刀、五代目村正……。中里啓介氏の持っていた刀は、もともと室町時代の中期に造られたものなんです。それから何人もの手を渡り歩いて、江戸時代には由比正雪の腹心だった、桐生輝之介という侍が所持していました」
「桐生輝之介? 聞いたことのない名前だな」
「そこいらの歴史書には載ってませんからね。彼は正雪とともに捕らえられ、首を刎《は》ねられました……自分の愛刀だった村正で。血の涙を流し、呪《のろ》いの文句を吐いて死んだと、書物には記されていました」
呪い、という言葉が、薄暗い店内に忌まわしく響いた。マスターもグラスを磨く手を止めて、大樹の話にじっと聞き入っている。
「それで、その桐生なんとかいう侍が、今回の事件に何か関係があるっていうのか?」
勢いこんで尋ねる流に、大樹は首を振った。
「それは分かりませんよ。ただ、村正というのはいわくつきの刀ですからね。所持者たちの想いによって、妖怪と化していたとしても不思議はない……。それに、桐生輝之介が呪いを抱いて死んだというのも気になります。怨念《おんねん》というのは厄介ですからね」
「それで、おれはどうすればいいんだ!」
長々と続く大樹の説明をさえぎって、流は苛々《いらいら》と叫んだ。
「琴音さん……でしたか? とりあえず彼女から目を離さないことです。どんな危険が降りかかるか分かりませんからね。もちろん、父親の啓介氏もですが」
「言われなくてもそうするつもりだよ!」
ストゥールを倒して立ち上がり、流は出口へと駆け出した。琴音が危機に陥っているのではないかと思うと、矢も盾もたまらない気持ちだった。
「ちょっと待ってください。独りじゃ危ないですよ。二、三日すれば八環さんが戻ってくるから、それまで……」
バタン、とおそろしい勢いで閉められた扉に、大樹の言葉は空しく弾き返された。
「捜査令状も持たずに、勝手に家の中を調べただと! どういう了見をしているんだ。そんなことが許されると思っているのか!」
数日前、家を訪ねてきた刑事をようやく捕まえて、啓介は怒鳴りつけた。電話の向こうで平謝りする声をさえぎって、音高く舌打ちする。
「いいか、このことはきっと憶えておく。こんどいい加減な真似をしたら承知せんぞ!」
言い捨てて、啓介は荒々しく受話器を叩きつけた。
刑事が訪れてきたこと、そして応接室の村正を調べたことを、啓介は遊びにきていた水波流の口から聞いた。それから流は去っていったのだが、なぜか琴音は見送りにも来ないで、自分の部屋に閉じこもっていた。帰ってきた啓介を出迎えようともしなかった。
そんな娘に不審を抱いたものの、それどころではない事態に啓介は追いこまれていた。
刑事が来ている間、啓介は、ようやく連絡の付いた利根崎学部長の家を訪問していた。そして、衝撃的な話を告げられたのである。
残念だが、もうきみの後押しはできない……利根崎はそう言ったのだ。学究の徒たる者、清廉でなくてはならない。スキャンダル雑誌を賑《にぎ》わしたりしては、いくら何でもまずい、と。
冗談ではない、と思った。贈賭の濡れ衣を着せたり、興信所を使ってライバルの弱味を探したのは、すべて利根崎の指示でやったことだ。しかし、そう主張しても利根崎は頭《かぶり》を振るばかりだった。
「くそ……」
啓介は憎悪のしたたる声でつぶやき、酒瓶とグラスを手に応接室に向かった。
ソファに深く身を沈め、ブランデーを喉《のど》に流しこむ。熱い塊が身体の内を流れ落ち、カッと胃の奥で燃え上がった。
血走った視線を宙にさまよわせていた啓介は、壁に飾った村正に目を止めて、しばらく手入れを欠かしていたことを思い出した。酒ではなだめられない心を落ち着かせるために、刀を磨くことにする。
すらりと村正を抜きはなった啓介は、銀色に冴《さ》えわたる刃の美しさに目を細めた。酒瓶を脇《わき》にどけて、ゆっくりと刀を磨きはじめる。
(狩野と津本が死んだと知ったときには喜んだものだ。何の苦労もせずに、敵が二人もいなくなったのだから。だが、まさか私が追いこまれるはめになるとはな……!)
二人を殺した犯人に、かつて啓介は祝杯を掲げたものだ。しかし、今となってはこの村正で斬《き》り殺してやりたい気分だった。
掌を返したように啓介を見捨てて、自分は口をぬぐっている利根崎にも、啓介は憎悪を抱いた。清廉でなければならない、とはお笑い草だ。よりにもよってあの男の口から、そんな言葉が出てこようとは。
(あの狸のことだ。すでに私を見限って、対立候補の田丸につく算段を立てているのだろう)
利根崎の顔や声を思い浮かべるたびに、腸《はらわた》が煮えくりかえる思いがする。肺の底から絞り出すような大きな息を、啓介はもらした。
(あの二人だけでなく、利根崎も殺されてしまえばいいのだ……ん? 待てよ)
ふと、啓介は手を止めて考えこんだ。
(もし、いま利根崎が殺されたらどうなる? 二人を殺した犯人の仕業、と思われるんじゃないだろうか)
ちらりと浮かんだある考えが、妖《あや》しく光る銀色の刃を見ているうちに、ゆっくりとふくれ上がっていった。
(この村正で、利根崎を殺せば……)
その発想は啓介にとって、非常に魅力的な誘惑だった。妖刀村正――この刀さえあれば、利根崎の生命を奪うことなど簡単なのだ。
だが、啓介は何とか村正から視線をもぎ離した。小さく頭を振って、傍らに置かれたコードレスの受話器を取り上げ、番号をプッシュする。
八回めの呼び出し音ののち、相手とつながった。
「……もしもし、中里ですが」
「きみか。もう、きみと話すことはないと言っただろう?」
みずから電話を取った利根崎の声は、心底うんざりした様子だった。啓介は必死で自分を抑えながら、
「もう一度、考え直してはいただけませんか。私が次期学部長となった暁には、先生には充分な恩返しをさせていただきます」
「そういう問題ではないと、さっき言っただろう。もう忘れたのかね」
「私に至らぬ点があれは、改めるように努めます。ですから……」
「中里君。これ以上、私の時間を潰《つぶ》さないでくれんかね」
啓介が答えようとする前に、有無を言わせず利根崎は電話を切ってしまった。
受話器を持つ手を震わせながら、啓介はスイッチをOFFにした。その瞬間、啓介の心をつなぎ止めていた、最後の一本の鎖が弾け飛んでいた。
もう許せない。
村正を手にした自分が、利根崎の家に押しこんでゆく場面を、啓介は脳裏に描いていた。
あの男はきっと、恥も外聞もなく生命《いのち》ごいをするだろう。惨めに泣きわめきながら土下座し、許しを乞うにちがいない。そして、啓介に協力することを改めて誓うだろう。
だが、許してやるつもりはない。一本ずつ指を斬り落とし、じわじわと苦しめて、なぶり殺しにしてやるのだ。
肉に食いこむ刃の感触と、ほとばしる血しぶきの生温かさを想像して、啓介は身震いした。嫌悪感からではなく、身体の芯《しん》を走り抜けた甘美さのためだった。それは、性の疼《うず》きにもどこか似ていた。
(よし……やるか)
刀身に映る自分自身に向かって、啓介はにやりと笑いかけた。この村正さえあれば、どんな敵でも恐れるに足りないような気がした。
啓介は村正を鞘《さや》に収めると、ゴルフケースにしっかりとしまいこんだ。
応接室の扉を開け、廊下に出ると、そこには娘の琴音が立っていた。彼女の視線は、啓介が肩に担いだケースに釘づけになっている。
「お父さん……どこに行くの」
「ちょっと打ちっぱなしにね。近ごろ、少し運動不足だからな」
「嘘よ!」
琴音は叫び、応接室の壁を指さした。振り返った啓介は、そこにあるはずの刀がないのを見て失敗を悟った。
「あの刀で、誰かを殺しにいくんじゃないの」
「冗談はよしなさい。どうしてお父さんが、誰かを殺さなくちゃならないんだ」
「とぼけないでよ! 狩野先生や津本先生を殺したくせに。あたし見たんだから! お父さんの刀が血で汚れてるのを……」
いまにも泣き出しそうに、琴音の瞳《ひとみ》には涙があふれている。それを目にした啓介は、慈しみではなく激しい怒りを覚えた。
「馬鹿なことを言うんじゃない。この刀の、いったいどこに血がついているというんだ!」
啓介はどさりとケースを下ろし、ファスナーを開けて村正を取り出した。びくっと身を震わせて、琴音が後ずさる。
「見なさい。この刀のどこに……」
「近づかないで!」
少しずつ、琴音は啓介から身を遠ざけようとしている。恐怖のせいで顔から血の気が失せているが、薄く引いた口紅の赤が鮮やかだ。
あの男の――水波とかいう男のために化粧をしているのだろう。甘えた声ですり寄る琴音に、淫《みだ》らなことを仕掛けている流の姿を連想して、啓介は憎悪に心を焦がした。娘を奪った流に対して、そして自分の心配を歯牙《しが》にもかけず、好き勝手にふるまっている娘に対して。
「近づかないで。人殺し!」
「おまえに何が分かるかッ!」
激情につき動かされて、啓介は絶叫していた。
「利根崎はな、このおれを見捨てると言ったんだ。頭を下げつづけ、汚いこともして、どんな屈辱にも耐えてきたというのに。あいつはおれを見捨てると言うんだぞ!」
「だから殺すっていうの? あたしが、人殺しの娘になってもいいの?」
「何だと……」
啓介は絶句した。怒りのあまり、目がくらみそうになった。
こいつは、おれのことなど少しも心配してはいない。自分が、殺人者の娘呼ばわりされるのが嫌なのだ。ただそれだけなのだ。
「琴音! おまえという奴は!」
啓介はやにわに刀を抜きはなち、じりじりと身を遠ざけていた琴音めがけて刀を一閃《いっせん》させた。
鋭い悲鳴と、血しぶきがほとばしった。苦痛に顔を歪《ゆが》めて、琴音はどさりと倒れた。身体を起こし、何か言いかけようとするが、力を失ってくずおれてしまう。
新たな血を吸って歓喜したかのように、村正がひときわ妖《あや》しく輝いた。
自分が何をしてしまったのか、啓介には分かっていなかった。紅く濡《ぬ》れた村正を手に、ゆっくりと歩き出そうとする。
そのとき、玄関の扉が荒々しく開けられ、血相を変えた流が飛びこんできた。床に倒れた琴音を見やって、流は表情を凍りつかせた。
「先生……あんたは何ということを!」
力任せに、流は拳を壁に叩きつけた。炎のように啓介を睨《にら》みつけた目から、ひとしずくの涙がこぼれ落ちた。
6 この生命ある限り
「中里!」
流は琴音のもとに駆け寄ろうとした。しかし、血刀を手にした啓介が、凄絶《せいぜつ》な笑みを浮かべて立ちはだかった。
「水波と言ったな。よくも娘をたぶらかしおって……おまえも死ね!」
気合いとともになぎ払われた刃《やいば》を、流は身体をひねってかわした。やはり何かに憑《つ》かれているのか、啓介の動きは信じられないほど素早く、そして力感にあふれていた。
ふたたび啓介が斬りかかってくる。
「いい加減にしろよ、この野郎!」
流は焦れて叫び、啓介の振り下ろした刃を無造作に鷲《わし》づかみにしようとした。妖怪《ようかい》の姿に変身するまでもなく、常人の力では流の身体を傷つけることはできない。そのはずだったのだが、
「……痛《つ》ッ!」
掌をざっくりと斬り裂かれて、流は慌てて手を引っこめた。村正に憑いている存在は、人間離れした怪力を啓介に与えているらしい。
続けざまに繰り出される鋭い斬撃《ざんげき》が、じりじりと流を追いつめてゆく。流はちらりと天井に視線を走らせ、もどかしさに唇を噛《か》んだ。室内では狭すぎて、竜の本性を顕《あら》わすことができないのだ。
狂おしい気合いの声とともに、啓介が身体ごと突っ込んでくる。一歩後ずさり、カウンターで蹴りを浴びせようとした流は、足下に落ちていたゴルフケースにつまずいて、ぐらりとバランスを崩してしまった。
(しまった……!)
ちょうど振り上げかけた脚を、銀色の刃がまともにとらえた。灼熱《しゃくねつ》感をともなう激痛に流はうめき、もんどりうって倒れこんだ。
「もう逃げられんだろう。覚悟するんだな」
端正な顔を醜い笑みに歪めて、啓介は血刀を大きく振りかぶった。流はとっさに身構え、活路を求めて周囲を見回す。
そしてその次の瞬間、甲高い金属音が響きわたった。
流が床にあったゴルフケースから一本のクラブを取り出し、振り下ろされた村正を受け止めたのだ。そのまま渾身《こんしん》の力をこめて、のしかかってくる啓介を押し返そうとする。
床に倒れている琴音を見やると、全身に活力がみなぎってくるのが感じられた。逞《たくま》しい筋肉が、流の二の腕に盛り上がる。力と力のせめぎ合いは、わずかながら流に軍配が上がった。
啓介が少し体勢を崩した。その一瞬の隙《すき》を見逃さず、流はクラブを素早く引き寄せて、刀身めがけて思いきり叩きつけた。
ギインッという高い音に、啓介の押し殺した悲鳴が重なった。啓介の手を離れた村正は、激しく宙を回転しながらガラス窓を突き破り、屋外へと飛んでいった。
糸の切れた人形のように、啓介は力なくその場にくずおれる。それには目もくれず、流は琴音のもとに駆け寄った。
「中里! しっかりするんだ。中里!」
琴音の身体を抱き起こした流は、傷が急所をそれているのを確認して、思わず安堵《あんど》の息をもらしていた。厚手のセーターを着ていたのが幸いしたらしい。腕元が切り裂かれ、真っ白い肌がのぞいていたが、それほど出血は多くなかった。
「水波くん、あたし……お父さんが、お父さんが……!」
錯乱したように弱々しくささやいて、琴音は流の胸に顔をうずめた。小刻みに震えている彼女の肩を、流はしっかりと抱きしめてやりながら、
「もうだいじょうぶだよ。落ち着くんだ。今すぐ医者を呼んでやるからな」
いやいやをするように小さく首を振って、琴音は泣き出した。無理もなかった。信頼していたはずの父に、彼女は傷つけられたのだ。
おぼつかない足取りで、啓介がふたりのもとに近付いてきた。流は身構えたが、もう啓介の表情に害意は見受けられなかった。
「私は……私は何ということを……」
呆然《ぼうぜん》としたつぶやきが、啓介の口からこぼれた。かっとした流は立ち上がると、啓介の胸ぐらをぐいと掴《つか》んだ。
「まったくだよ。あんたはどうやって、この娘《こ》に償うつもりなんだ!」
流に引き寄せられるままに、啓介の身体は激しく前後に揺れた。まったく反応を示さない相手に感情を高ぶらせ、流は啓介を怒鳴りつけようとする。
「ひっ……」
喉《のど》を絞めつけられたような声を洩《も》らして、啓介はへたりこんだ。まるで魂が抜けてしまったかのように、その顔からは表情が消え失せていた。
そのとき、不意に背中に激痛が走り、流はびくんと身体をのけぞらせた。とっさに振り返った彼の目に、背後から斬りつけてきた相手の姿が映った。
それは抜き身の刀を手にした、十代半ばの若武者の姿だった。ただし、その全身はぼうっと青白く光り、輪郭がかすかにぼやけている。
「おまえは……!」
「我が名は五代目村正。あるじ中里啓介どのの敵は生かしておけぬ」
まるで武士が戦のときに名乗りを上げるかのように、そいつは抑揚をつけて言った。
「おまえが先生に取り憑《つ》いて、三人もの人間を殺させたのか」
「すべて拙者のしたことだ。あるじの手を煩わせるまでもない。わがあるじの敵は、すべて拙者が葬り去る……それが侍の務めだ」
いんいんと響く声でそいつは言うと、手にした刀を青眼に構えた。強烈な殺気が、その全身からほとばしっている。
容易ならざる相手であることを、流は悟った。先ほど啓介を相手にしたときとはわけが違う。妖怪の本性を顕わさなければ、とても太刀打ちできそうになかった。
表情を凍りつかせ、二人の妖怪を見守っている琴音に、流はちらりと視線を走らせた。一時的に正気を失っているらしい啓介はともかく、彼女には流の正体を見られることになる。しかし、眼前の妖怪とわたり合うためには、もはや選択の余地はなかった。
「相手になってやるぜ。来い!」
きびすを返してダッシュし、流は家の外に出た。若武者の姿をゆらめかせて、すかさず相手が後を追う。
相手の反応は予想以上に素早く、流は扉を閉めるのをあきらめた。心配げにこちらをうかがっている琴音を一瞥《いちべつ》して、流は変身を始めた。
若武者が外に現われたとき、流は金色の鱗《うろこ》に覆われた竜の姿と化して、ふわりと宙に舞い上がっていた。その光景を目にした琴音が、これまでのショックに耐えかねたせいか、意識を失ってふたたび床に倒れた。しかし、その顔には安らかな笑みが浮かんでいる。
(おれのこの姿を見て……おぞましいとは思わなかったのか?)
もしかしたら琴音は、流のもうひとつの姿を知っても、今までどおり接してくれるかもしれない。流は歓喜に胸を震わせたが、心を引きしめて眼前の妖怪と対峙《たいじ》した。
「ほほう、おぬし……」
若武者がにやりと笑い、ジャキッと音をさせて刀を構えなおした。
それが戦いの合図となった。
気合いの声とともに、若武者が鋭く刀を一閃させた。うなりとともに生じた風の刃が、空を切り裂いて流に襲いかかる。
流がカッと口を開いた。ひと筋の稲妻がそこからほとばしる。空中でぶつかり合った瞬間、二つの妖術は同時に消滅していた。
それを見て取って、流がふたたび稲妻を射とうとする。しかし、相手の方がわずかに早く、続けて風の刃を放っていた。
何枚もの金色の鱗が、夜目にも鮮やかに宙を舞う。流は苦痛の咆哮《ほうこう》を上げ、上空へと逃れた。
「逃がすか!」
若武者は叫び、激しく刀を振るった。さらなる妖術の一撃を受けて、流はぐらりと身体をよろめかせた。
こちらが稲妻を放つよりも早く、相手は風の刃を繰り出してくる。術によるわたり合いは不利だと判断して、流は急降下に移った。
若武者めがけて、金色の雷光のように飛びかかった流が、鉄をも切り裂く鉤爪を打ち振るう。
だが、確かに相手をとらえたはずの一撃は、若武者の身体をすり抜けて、むなしく空を切っただけだった。
(こいつの身体は幽体なのか……!)
勢いあまってつんのめった流に、目にもとまらぬ疾《はや》さで斬撃が浴びせられる。耐えきれず、流は地面に落下した。
「観念するがいい。貴様の力では拙者に勝てぬ」
若武者が、ぎらりと刀を突きつけて言った。流は身をくねらせ、何とか宙に舞い上がろうとする。しかし、受けたダメージは大きく、それだけの力すらも残されていなかった。
流は無念さに歯がみした。何の罪悪感もなく、三人もの人間を虫けらのように殺した村正が、無性に腹立たしかった。
ぎらりと光る銀色の刃が、おそろしい勢いで流の頭上に落ちかかる。辛うじて鉤爪で受け止めると、流は長い尾を振るって、横なぐりに刀身を打ちすえた。若武者は刀ごと吹き飛ばされ、数メートル離れたブロック塀に衝突した。
「なかなかやるではないか……」
楽しげにつぶやいて、若武者は体勢を立て直した。ゆっくりと、ふたたび流のもとに近付こうとする。
その動きが、不意にぴたりと止まった。
対峙する両者のもとに、一人の少女が寄ってきたのだ。
<うさぎの穴> のマスターの娘、かなただった。おそらく大樹から事情を聞いて、急いで応援に駆けつけたのだろう。
「流くん……だいじょうぶ?」
息を切らせながら、かなたは心配そうに流の様子をうかがった。それから、びしりと村正に指を突きつける。
「やめなさい。どうして流くんを殺さなくちゃいけないの!」
「わがあるじの敵は、誰であろうと生かしておくわけにはいかぬのだ」
「そのあんたの主人ってのが、どういう人間だか知ってるの? 無実の人間を陥れて、自殺に追いこむような奴なんだよ。自分が地位を得ることしか頭にないんだ!」
かなたの言葉に、流は愕然《がくぜん》とした。週刊誌などで報じられていた噂《うわさ》が事実だと知ったら、琴音はどれほど苦しむだろう。父に傷つけられただけでもショックだというのに……。
「……だとしたら、どうだというのだ」
一瞬の間を置いて、若武者が答えた。その声はわずかにひび割れていた。
「中里啓介には、志なんてこれっぽっちもないのよ。あんたの前の持ち主だった、桐生輝之介とは違ってね。それでも忠誠を尽くすっていうの?」
「ひとたびあるじと仰いだからには、この生命あるかぎり、あるじのために戦いつづける。それが侍というものだ」
若武者は静かに刀を構えた。その顔に迷いは感じられないが、切っ先がごくかすかに震えているのを、流は見て取っていた。
なおも言い募ろうとするかなたを優しく押しやって、流は若武者に向き直った。
咆哮を上げながら、流は村正に殴りかかった。激しい音とともに、刃と鉤爪がぶつかり合う。
「…………!」
若武者は身体をよろめかせ、驚愕《きょうがく》の表情で手にした刀に目をやった。
極限まで鍛え上げられたはずの鋼の刀身に、ひと筋の亀裂が生じていた。まるで、乱れた若武者の内心を映し出すかのように。
長い身体をくねらせて、流はさらに上空へと舞い上がった。カッと口を開けて電撃を放つ。
若武者がそれに応じて、刀を鋭く一閃させる。しかし、風の刃は生じなかった。
鋼が電気を引き寄せたのか、まともに稲妻を刀身に受けて、若武者は激しく身体を震わせた。
「生命あるかぎり……侍は、あるじのために戦わねはならぬ……!」
縦横にひびの入った刀を、若武者は構え直した。ぼうっと青白いその全身からは、すでに光が失われている。
矢のように飛来した流が、とどめとばかりに鉤爪を振るった。若武者は烈《はげ》しい気合いの声をほとばしらせ、襲いかかる流の前足めがけて、真正面から斬りつけた。
「流くんッ!」
かなたが叫ぶ。流の前足の指が、鉤爪ごと斬り飛ばされたのだ。
若武者が、ごくかすかな笑みを浮かべた。次の瞬間、その姿がゆっくりとぼやけ、そして消えていった。
最後の力を使い果たしたのか、妖刀村正は高い金属音とともに、粉々に砕け散った。
きらきらと輝きながら、無数の鋼の破片《はへん》が降りそそぐ。それは地面に落ちたとたん、まるで雪であるかのように溶けて消えていった。
妖怪と化した五代目村正の最期だった。
空から降り立った流は変身を解き、人間の姿に戻った。激しい戦いに精根つきはてて、その場にがっくりと膝《ひざ》をつく。
おれは今、ひとつの生命を奪ったのだ……傷ついた手を押さえながら、そんな思いを噛《か》みしめていると、かなたが慌てて駆け寄ってきた。
「だいじょうぶ、流くん!」
「心配いらないよ。それより、誰か傷を治せる奴を呼んでくれないか。家の中にいる人が怪我をしてるんだ」
「ああ、琴音さんね」
かなたはうなずき、ふと不安そうな顔になって流をのぞきこんだ。
「流くんの変身したところ……見られたの?」
流が小さくうなずいた。かなたは返答に詰まった様子だったが、やがて明るい声で、
「まあ、あたしと摩耶ちゃんだってうまくやってるしね。別に、記憶を消さなくたって……」
「そうはいかないよ」
かなたの言葉をさえぎって、流は静かに言った。
「おれの姿を見られたことなんか、どうでもいいんだ。それより……自分の父親に斬られたことなんて、忘れちまった方がいいだろう」
ぽつりと言った流の顔が、ほんの少しだけ翳《かげ》った。
ふたたび意識を取り戻したとき、もう琴音は憶《おぼ》えてはいないのだ。金色の鱗《うろこ》に覆われた、美しい生き物の姿を。
流の、もうひとつの姿を……。
エピローグ
それから一週間後。
傷の癒えた流は琴音に会うため、珍しく大学の授業に顔を出していた。
「中里先生はどうしてる?」
「学部長の候補から外されて、がっかりしてる。まるで元気がなくて、魂が抜けちゃったみたい。でも……これでもう、お父さんが卑怯《ひきょう》なことをしないですむんだから、少しほっとしてるけどね……」
琴音は微笑《ほほえ》んだ。哀《かな》しげだが、不思議と穏やかな笑顔だった。
週刊誌がこぞって書き立てていた啓介のスキャンダルは、他のほとんどがそうであるように、時が経つにつれれ人々から忘れ去られていった。おそらく大学側が手を伸ばして、疑惑の追及をやめさせたのだろう。もしも、数々のスキャンダルが事実であると発覚すれば、免職は免れなかったかもしれない。しかし、啓介の社会的信用が傷ついたことに変わりはなく、彼は次期学部長の席を断念せざるをえなかった。ただ、関係者たちが感心したことには、啓介はまるで悪あがきをせず、あくまでも淡々と敗北を認め、候補の座を辞退したのである。
数百年の時を越えて、村正が啓介に武士の魂を吹きこんだのかもしれない。
琴音と啓介は記憶を操作され、村正の存在すら忘れている。あの戦いの後、かなたが呼んだマンドラゴラの治癒能力によって、琴音の受けた傷は跡形もなく治っていた。
だが、流は決して忘れない。妖怪と化して、哀しい最期を遂げた妖刀村正のことを。
みずからのことを憶えている者の想い≠ェあるかぎり、妖怪はいつしか必ず蘇《よみがえ》る。ふたたび生命を得るであろう村正が、啓介への忠誠に縛られていないことを流は祈った。今度は戦うのではなく、仲間として <うさぎの穴> に迎えてやりたい。
ジリリ……と始業のベルが鳴った。
講師がやってくるまでの手持ちぶさたな時間のなかで、流は頬杖《ほおづえ》をついて、ぼんやりと窓の外を眺めやった。
雪がちらついていた。ひらひらと宙を舞う白い氷の結晶は、砕け散ってゆく村正の銀色のきらめきを流に連想させた。
そして……。
骨董品《こっとうひん》が所狭しと並べられた小さな店の片隅に、ひと振りの刀がぽつんと横たわっていた。
少年が、そっと刀を抱え上げた。そのまま赤子でもあやすかのように、優しく揺さぶりはじめる。刀身を見つめるその目には、深い慈しみに満ちていた。
「お帰り。次こそは、いいご主人を見つけられるといいね……」
そんな少年のささやきを聞きながら、刀は静かに眠っているかのように見えた。
ほんのしばしの間、やがて目覚める時が来るまで……。
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
Take-3――――――――
朝七時――
駅の方面ではそろそろラッシュのはじまる時刻だが、道玄坂一丁目はまだ眠りから覚めていない。店はどこもシャッターを閉めていて、人通りもまばらだ。
「いったい何ですか、急用って?」
加藤蔦矢が息を切らせて <うさぎの穴> に駆けこんで来たのは、とある火曜日の早朝だった。店の中には、霧香、かなた、大樹がいる。
「朝早く呼び出してごめんなさい」霧香が緊張した表情で言う。「何しろ一刻を争う事態なの――どうも摩耶ちゃんに何かあったらしいのよ」
「摩耶ちゃんに?」
蔦矢は驚いた。守崎摩耶はかなたの親友で、人間の少女である。この店に出入りできる数少ない人間の一人だ。というのも、彼女には「夢魔使い」という常人にない能力があるからだった。
「一昨日の日曜の夜、電話をくれるはずなのに来なかったの」
かなたが不安そうに言う。「それで昨日、クラスメートのふりして電話かけてみたら、お母さんが出て、摩耶ちゃんは病気で寝こんでるっていうの。だから今朝早く、お見舞いに行ったんだけど――」
「それが……?」
「二階の摩耶ちゃんの部屋を窓から覗いたけど、摩耶ちゃんはいなかったの。それだけじゃない。本やCDがみんななくなってたのよ」
蔦矢は首をひねった。「分からないなあ。どういうことですか、いったい?」
「私にもまだ分からない」霧香がかぶりを振る。「でも、悪い予感がするわ。母親の様子も不自然だし――あの子の身に何かあったんじゃないかと思うの」
「急いで探し出さないといけないのよ。ね、協力してくれる、加藤くん?」
「当たり前じゃないですか!」蔦矢は胸を張った。「友達が困ってる時に、僕たちが見て見ぬふりしたこと、ありますか?」
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第三話 悪魔がささやく 山本 弘
1.エクソシスト
2.日本から来た男
3.罠《わな》にかかった摩耶
4.爆発する衝動
5.孤立した教会
6.悪魔出現
7.空中の決戦
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1 エクソシスト
南米のとある町――
すでに陽は落ちたというのに、高い湿気を含んだ熱帯の空気は、ポタージュのように重苦しく室内に充満していた。粗末な扇風機が懸命に空気をかき混ぜているが、ほとんど役に立っていない。あたかも空気そのものが敵意を持ち、人間を押し包み、窒息させようとしているかのようだ。
貧しく小さい家であったが、国民の大半が貧困にあえいでいるこの国では、平均的な住居と言えた。家具が少ないために、白い漆喰《しっくい》の壁がやけに広く見える。装飾と言えば安物のカレンダーぐらいしかない。寿命の切れかけたちらつく蛍光灯の下で、室内のあらゆるものが、熱気と絶望にうちひしがれ、力なくうなだれているように見えた。
集まった五人の男も疲労の色濃く、小さなテーブルを囲み、パンとスープだけの質素な夕食をのろのろと口に運んでいる。誰もひと言も発さず、陰気なハミングのような扇風機のうなりだけが、やけに大きく響いている。
西に面したひび割れたガラス窓は、つい数十分前までオレンジ色の夕映えに輝いていたが、今は海底を思わせる陰鬱《いんうつ》なダークブルーに染まっていた。その薄いガラスの外には、田舎町のありきたりの日常生活があるはずだった。家の前の未舗装の道路を通り過ぎる車のエンジン音、住民たちのスペイン語の会話、通行人に吠《ほ》えかかる犬の声――だが、それらはまるで遠い世界から届く放送のように、現実感が希薄だった。この家の中は、外界とは異なる現実が支配しているのだ。
隣室からうめき声がした――敵意に満ちた野獣のうなり声のような、あるいは苦悶《くもん》する老人のような、ぞっとする声であった。
男たちは食事の手を止め、不安そうに視線を交わし合った。この一日だけでも何十回も耳にした声であったが、いっこうに慣れることができない。それを聞くと、心臓を冷たい手でつかまれたような恐怖と不安を覚えるのだ。
ただ一人、樫塚《かしづか》神父だけは、その声に動じる様子はなかった。暑さも疲労も感じないかのように、休憩中の今も黒い服のボタンをすべてはめ、背筋をしゃんと伸ばし、スープをゆっくりと規則正しく口に運んでいる。今年で四六歳。目尻《めじり》や額に皺《しわ》が目立ちはじめているが、その表情は内面の意志を反映し、鉄でできているかのように硬い印象を受ける。姿勢の乱れは意志の乱れに通じる、というのが樫塚の信念だった。何者にも負けない強固な意志を必要とされる今だからこそ、休憩中といえど、だらけた態度を見せることは許されないのだ。
それに、暑さなどどれほどのことがあろうか――これからまた立ち向かわなくてはならない、あの想像を絶する地獄に比べれば。
「ブラザー小峰《こみね》……」
食事を終えると、樫塚は隣に座っている助手に優しく呼びかけた。スプーンを持つ手を止めたまま、深刻な表情で黙りこんでいた若い神父は、はっとして顔を上げた。
「はい、何でしょう?」
「何を考えていたのですか? 心に迷いがあるのではありませんか?」
小峰は少し考えてから、言いにくそうに言った。「あの子は――カルメリタは、すでに心身の衰弱が限界に達しています。このまま続行したら、死を招くのではないかと……」
「子供の命を心配する優しい気持ちは分かります」樫塚は温和な口調で諭した。「しかし、ここで止めてどうなります? どのみちあの子はじきに悪魔に殺されてしまう。そうなれば、あの子の魂は救われることなく、永遠に悪魔のものとなってしまうのですよ」
「それは分かっています。ですが……」
「あなたは苦しいでしょう。私も苦しい。しかし、私たち以上に苦しんでいる人がいることを忘れてはいけません――ほら」
樫塚は前を見た。子供の父親であるセルヒオ・ディアスが、うつむいたまま、無言でパンを頬張《ほおば》っていた。その顔には表情が欠けており、動作もロボットのようにぎこちない。二人の神父の会話は日本語なので、セルヒオには分からなかった。
彼の一人娘に異常が目立ちはじめたのは四週間前からである。最初のうち、セルヒオは娘が悪魔に憑《つ》かれていることをなかなか認めようとしなかった。陽気だったカルメリタが急に無口になり、病気でもないのに痩《や》せ衰えはじめ、近所の人が不審を抱いた時も、「年頃の娘にはよくあることさ」と言って済ましていた。しかし、彼女が日曜の礼拝の最中にひきつけを起こし、神を冒涜《ぼうとく》する言葉をわめき散らしはじめるに至って、地区の司祭が悪魔憑きの疑いを抱き、経験豊富な樫塚神父を首都から呼び寄せたのである。
樫塚が対面して調べてみると、カルメリタははっきりと悪魔憑きの兆候を示した。十字架を恐れ、聖書の言葉を唱えることを拒み、無理に唱えさせようとすると、聴くに耐えない言葉を吐いて暴れはじめた。興奮が極致に達するとポルターガイスト現象が発生した。
あまり熱心なキリスト教徒ではなく、悪魔など信じなかったセルヒオも、重い家具が動いたりガラスが割れたりする現象を目の当たりにしては、信じざるを得なくなった。そして、しぶしぶながら、娘の悪魔|祓《ばら》いを樫塚に依頼したのである。
セルヒオが奇妙な虚脱状態に陥っているのも無理はない、と樫塚は思う。妻を早くに亡くして以来、男手ひとつで育ててきた娘だという。愛情もひとしおであろうし、それだけにショックも大きいのだろう。
「私たちの肉体的、精神的な苦しみなど、子供を悪魔に奪われた人の苦しみに比べれば、ものの数ではありません。その苦しみから人々を救えるのは私たちだけです。それを行なうのが私たちの義務なのです」
「はい……」
「心をしっかり持ちなさい。悪魔は人の弱い心につけこむのです。心に迷いが入りこんだら、私たちの敗北です」
樫塚はおもむろに立ち上がると、テーブルの端に置いた愛用の聖書を取り上げた。すでに十数年も使っているもので、ページは指の垢《あか》で薄汚れ、表紙も取れかけている。だが、新しく買い替えようという気は起きない。使いこんだものの方が、霊力が深く染みこみ、効果があるように感じられるからだ。
休憩時間は終わった。再び長い戦いがはじまるのだ。
「参りましょう」
樫塚は助手をうながし、隣室に通じるドアに向かった。小峰もうなずいて立ち上がり、医師の資格のあるマテオスとイダルゴが後に続く。三人は樫塚の助手であり、悪魔に憑かれた犠牲者が暴れ出した時に取り押さえる役目だった。セルヒオだけが室内に残り、四人の男の背中を不安な面持ちで見送っていた。
四人は隣の部屋に足を踏み入れた。
そこでは空気そのものが違っていた。さっきの部屋の空気がねばりつくような液体状だとするなら、ここでは空気が鋭い硬さを持ち、人間を突き刺そうと身構えているかのようだった。張り詰めた強烈な敵意は、ほとんど物質の密度に達していた。扇風機がないので暑さもひどく、汚物の匂《にお》いも強烈である。
室内にあるのはベッドだけで、それも釘で床に固定されていた。悪魔祓いを行なう場所では、不要な家具を撤去するのが原則である。ポルターガイスト現象によって家具が動き、負傷する危険があるからだ。窓にも板が打ちつけられていて、ひどく暗い。電球も危険なので取り外されており、照明はマテオスとイダルゴが持ったランプだけだ。
ベッドの上には白い小さなものが横たわっていた。かつては十二歳の愛らしい少女だったのだが、今は思わず目をそむけたくなる悲惨な姿に変わり果てている。暴れ回ったために全身傷だらけで、シーツや寝間着には乾いた嘔吐物《おうとぶつ》がこびりついている。茶色の髪は乱れほうだいで、その合間から覗《のぞ》く顔はげっそりと痩せこけ、眼だけが異様に輝いていた。寝間着から伸びた手足は、ミイラのように細い。
少女は動けないように両手首をベッドに縛りつけられていた。悪魔が少女自身の手を使ってその体を傷つけたり、淫《みだ》らな行為を行なうのを防ぐためだ。
小峰の不安通り、少女の衰弱は限界に達しているように見えた。もう三日も水以外のものを与えられていないのだ。体内に入りこんだ悪魔を弱らせるためには、犠牲者の体を弱らせる必要があるというのが樫塚の考えだった。医師の資格のある者を同席させるのは、犠牲者が衰弱死しないよう、その限界を見極めるためでもあった。衰弱がひどすぎる場合には、儀式を中断し、栄養剤などを注射して一時回復させることもある。
小峰がドアに鍵《かぎ》を掛けた。儀式を行なっている最中は、誰も出入りすることは許されない。
準備が整うと、樫塚は聖書を開き、いつも通り『エペソ人への手紙』第六章十一節の朗読からはじめた。
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇《くらやみ》の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです……」
「やめろ……」
少女が口を開いた。少女の細い咽喉《のど》から発せられたとはとても思えない、しわがれた不気味な声だった。
「そんな言葉など何の役にも立たん……」
しかし、樫塚は動ずることなく、詠唱を続ける。
「では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てをつけなさい。足には福音の備えを履きなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます……」
「やめるんだ……」
「救いの兜《かぶと》をかぶり、また御霊の与える剣である、神の言葉を受け取りなさい……」
「やめろと言ってるだろうが!」
少女の叫びと同時に、ずしんとベッドが揺れた。ベッドの脚を床に固定するために打ちつけられていた釘が、わずかに抜けかけていた。絶対に少女の力でできることではない。小峰はたじろぎ、とっさに胸の前で十字を切った。
だが、樫塚は脅しに屈することなく、いっそう強い口調で詠唱を続けた。
「すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊に祈りなさい。そのためには絶えず目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい……」
「やめろ! やめろ! やめろ! そんなくだらんお喋《しゃべ》りはやめるんだ! 人間がどんなに苦しもうと、神は助けてなどくれない! この世に神などいないのだ!」
ベッドが続けざまに揺れる。閉めきった室内に突風が巻き起こり、窓に打ちつけた板がぴしぴしと鳴った。風はベッドを中心に渦を巻いているようだ。
小峰たちはおびえていたが、樫塚は逆に「いいぞ」と思った。こうしたこけ威しの攻撃に出るということは、悪魔があせってきている証拠なのだ。自分が優位に立っていると確信しているなら、虚勢を張る必要などないのだから。
「……私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。アーメン」
折りを終えると、彼は聖書から顔を上げ、少女をにらみつけた。
「イエス・キリストの御名において問う。お前は何者か?」
それはこの一日で何百回も発せられ、何百回も拒否されてきた質問だった。しかし、今回は反応が違った。少女は歯ぎしりし、苦しそうなうめき声をあげたのだ。
ようやく祈りの力が効果を現わしはじめた! 悪魔の抵抗力は弱っているのだ。樫塚は勇気づけられ、強い口調で質問を繰り返した。
「イエス・キリストの御名において問う。カルメリタの中に巣食う邪悪なる霊よ、正体を現わせ! お前の名前は何か?」
少女の口から、しゅうっという息が洩《も》れた。
「……イグレオス」
「もう一度!」
少女は叫んだ。
「イグレオス!」
「それがお前の名か?」
「……そうだ」
樫塚は額の汗をぬぐった。これでひとつの山を越えた。イエス・キリストの名を出されれば、どんな悪魔も正しく答えざるを得ない。これまでの経験からすると、悪魔の名を知ることができれば、悪魔祓いは半分以上成功したも同然だった。
「イエス・キリストの御名において、汝、悪霊イグレオスに命ずる。この少女の体からただちに出て行け!」
「いやだ!」少女は吠《ほ》えるように言った。「俺はこの娘の体が気に入っているんだ。他の誰にも渡すものか!」
「その少女の体は少女自身のもの、そして神のものである。お前のものではない。イエスの血において命ずる。ただちに出て行け!」
「いやだ! この娘に俺が何をしたというのだ!? 何も悪いことはしていない!」
「再度命ずる! 汝、悪霊イグレオスよ、イエスの権限において立ち去れ!」
「いやだ!」
奇怪な押し問答はいつ果てるともなく続いた。執拗《しつよう》に繰り返される樫塚神父の命令に、少女は「いやだ!」と言い続ける。
ついにたまりかねたのか、少女の口から神を冒涜《ぼうとく》するすさまじい言葉があふれ出した。その激しさ、下品さ、おぞましさは、樫塚でさえたじろがせるほどだった。彼は顔を真っ青にすると、少女の顔に聖水を浴びせかけた。
「やったな!」少女は泣き叫んだ。「よくもやったな、この腐れ豚め!」
イダルゴが悲鳴をあげて飛び上がった。ズボンの裾《すそ》に火がついている――どこにも火種などなかったはずなのに。慌ててズボンを脱ぎ、床に叩《たた》きつけて火を消す。
少女の体が弓のようにそり起った。と思うと、インドの魔術のように、重力に反してゆっくりと浮かび上がりはじめた。手首がベッドの上端に縛られているため、その体はしだいに倒立してゆく。
「押さえなさい!」
樫塚が命じた。それまであっけに取られて眺めていたマテオスとイダルゴが、我に返って少女に飛びついた。しかし、二人の屈強な男の力をもってしても、少女をベッドに押し戻すことはできない。それ以上浮かび上がるのを防ぐので精いっぱいだ。
「恐れることはない! 悪魔はあせってきている!」樫塚は力強く言った。「さあ、いっしょに唱えるのです!」
樫塚にうながされ、小峰も気を取り直した。二人は声を揃《そろ》え、悪魔|祓《ばら》いの祈りの文句を唱えはじめた。
「サタンよ、主イエス・キリストの権威によってお前を叱《しか》りつける。カルメリタ・ディアスに対するお前の企みは打ち砕かれたことを宣言する。主イエスは荒野で、十字架の上で、また墓の中で、お前に打ち勝たれた。主の復活によって、お前の破滅は決定づけられた。今、私は主イエスの御名の力によってお前に勝利する。カルメリタ・ディアスを圧迫し、悩まし、惑わそうとするお前の企みに立ち向かい、お前を叱りつける……」
「やめろ! やめろ! やめろ!」
二人の男に力ずくで押さえつけられ、少女は苦悶《くもん》の叫びをあげ続けた。風がいっそう激しく室内を荒れ狂う。それでも二人の神父は詠唱をやめなかった。
「お前にはカルメリタ・ディアスの喜びと救いの実を奪い取る権利はない。彼女を取り囲んでいるすべての闇《やみ》の力に命じる。今すぐ去れ! イエス・キリストがお前に命じられたところへ行け! 二度と戻って来てはならない……!」
激しい悪魔祓いの儀式は、間に何度も休憩をはさみながら、それからさらに五時間も続いた。真夜中すぎになって、ようやく少女はおとなしくなり、わめき散らすのをやめた。
翌日になると、少女はまだ弱ってはいたが、普通に話せるようになった。その表情は、やつれてはいるが、かすかに微笑《ほほえ》みが戻ってきたように見えた。聖書の言葉やイエスの名に過敏に反応することもなくなった。ポルターガイスト現象もぴたりとおさまった。樫塚はイグレオスと名乗る悪魔が去ったことを確信した。あとは心身の自然な回復を待つだけだ。
悪魔祓いの儀式は終わったのだ。
2 日本から来た男
首都にある自分の教会に戻った樫塚を、意外な人物が待ち受けていた。二〇年ぶりに再会するかつての上司、河原崎《かわらざき》神父である。
「これはこれは……はるばる日本からよくいらっしゃいました」
樫塚は心の中に湧《わ》き上がる敵意を隠しながら、にこやかに手を差し伸べた。河原崎も遠慮がちに手を握り返す。
それにしても老いたな、と樫塚は相手を観察しながら思った。サラリーマンならとっくに定年を迎えている年齢だ。最後に日本で会った時には黒かった髪は、すでに雪のように真っ白になっていた。皺《しわ》が増え、手足も少し細くなったような印象で、かつて彼を怒鳴りつけた時の威厳は、すっかり失われている。しかし、数十万の信者と数百の教会を抱える巨大教団の重鎮であることに変わりはない。
この国の暑さをひとしきりぼやいた後で、河原崎は本題に入った。
「君の活躍ぶりは聞いているよ。この国ではたいそうな評判のようだね。超一流のエクソシスト……定期的に送られて来るレポートも、興味深く読ませてもらっている」
河原崎の真意を計りかね、樫塚は表情をこわばらせた。
「私にお世辞を言うためだけに、地球の裏側から来られたわけではないでしょう?」
河原崎は苦笑する。
「あいかわらず遠慮のない言い方をするね。若い頃とちっとも変わっていない」
「申し訳ありません。私はこういう性分なのです」
「悪や不正を許さない性分かね?」
「あなたを悪人だとは思っていません。しかし、判断は間違っていたと思います」
両者の間には二〇年の歳月を隔てても消しきれないわだかまりがあった。当時、血気盛んな若い神父だった樫塚の言動を危険視し、様々な工作を行なって、事実上、日本から追放したのが河原崎だった。
当時――一九七〇年代中頃、日本は空前のオカルト・ブームだった。恐怖映画や恐怖漫画が大ヒットし、子供たちの間ではスプーン曲げやコックリさんが流行した。樫塚は熱心なクリスチャンとして、こうした風潮に危機感を抱いた。それらは聖書の教えから人間を遠ざけるためのサタンの罠《わな》のように思えたからだ。
その疑惑が確信に変わったのは、自分の教区の小学校で、休み時間中にコックリさんに熱中したあまり、精神に異常をきたし、異様な言葉を喋《しゃべ》りはじめた子供を見たことだった。精神科医はその症状を「ヒステリー」や「自己暗示」と呼び、オカルト研究家は「狐憑《きつねつ》き」と呼んだが、樫塚の目には「悪魔憑き」そのものだった。
欧米では教会から認められた正式のエクソシストが存在するが、日本では一般にエクソシズムは認められていない。一部の小規模な宗派では行なわれることはあるが、大きな教団はどこも無関心だった。そもそも日本には「狐憑き」はあっても、「悪魔憑き」という現象そのものになじみがなく、ほとんど報告例がなかったのだ。
オカルト思想は心を迷わせて悪魔に近づけるための謀略であり、それが広まれば、いずれ日本でも悪魔憑きが増加する――そう樫塚は予言した。イギリスに留学していた頃、実際に活躍しているエクソシストを見たことのあった彼は、日本でも正式にエクソシズムを認めるべきだと主張した。
だが、その考えは受け入れられなかった。彼は義憤のあまり、日本のキリスト教会の及び腰の体制を批判する発言を繰り返した。そのため、河原崎らの不興を買い、日本にいられなくなったのだ。
「許してくれ――というのが虫のいい台詞《せりふ》だということは分かっている」河原崎は苦しそうに頭を下げた。「だが、私たちの立場というものも理解して欲しい。教会の体制は常に保守的なんだよ。オカルト・ブームに乗って、安易に悪魔の存在を認めたりすれば、マスコミに笑い者にされ、権威が失墜するのが目に見えていた……」
「保守的ですって?」樫塚はせせら笑った。「どちらが保守的ですか? 聖書には悪魔の存在がはっきり書かれているし、げんにキリスト教会は何百年も悪魔と戦ってきたではありませんか。今になって、悪魔など存在しないだなんて――それこそ聖書に対する冒涜《ぼうとく》以外の何物でもありませんよ!」
「確かにその通りなんだが……」
「げんに私は悪魔と戦ってきている! この国に渡って二〇年間に、私が出会った悪魔憑きの事例は三七例に及びます。この証拠を無視することなど、誰にもできないはずです。悪魔の存在を信じない者は、真理に対し目を閉じ、耳をふさいでいるのですよ!」
河原崎は手を上げて、興奮した樫塚の言葉を制した。
「それ以上は言わなくてもいい。二〇年前にたっぷり聞いたからね」
「だったら――」
「率直に言おう。私は君に謝りに来たんだ。君に日本に戻って欲しい」
一瞬、樫塚は相手の言葉が理解できず、きょとんとなった。河原崎の口からそんな台詞が出るとは、思いもよらなかったのだ。
「戻ってくれたまえ」河原崎は繰り返した。「私が日本から二万キロも飛んで来たのは、君を説得するためだ。重大な用件なので代理人を立てるわけにもいかないし、電話や手紙では私の真意が伝わらないと思ったからだ。君が必要なんだよ」
樫塚はおそるおそる問い返した。「……それはつまり、日本でエクソシズムをやっていい、ということですか?」
「そうだ。今になって、私は自分の間違いに気づいた。現代の日本の世相は、まさしく君の警告した通りになっている……」
「知っていますよ」樫塚は不愉快そうにうなずいた。「日本のニュースは流れてきますし、こっちでも日本のテレビ番組はやっていますからね」
河原崎は悲しげにかぶりを振る。「いや、おそらく君の想像以上のひどさだよ。週刊誌には女性の裸が氾濫《はんらん》し、テレビ番組は低俗化する一方。子供の読むマンガ雑誌にも、残酷描写や性描写があふれている。凶悪犯罪も増えたし、教育現場のすさみようときたら……」
「オカルトはどうです?」
「七〇年代よりも悪い状況だよ。聖人や霊能者を名乗るイカサマ師が、マスコミでスター扱いされているし、イエスの名を騙《かた》るいかがわしい新興宗教がはびこっていて、芸能人が何人も入信している。若者は占いやまじないに夢中だし、妖怪《ようかい》だの超能力だの宇宙人だのの出てくるマンガが大ヒットしている。自分たちを悪魔だと名乗るロックバンドまであるほどだよ。書店の店頭にはオカルトの本が常に山積みだが、その一方、聖書の教えを書いた本は片隅に追いやられている――誰も聖書の言葉など学ぼうとしない」
「悪魔のしわざだと思いますか?」
「すべてがサタンの陰謀かどうかは、私には分からない。しかし、悪魔がげんに存在していることは確かだ。ある事例を知って、信じざるを得なくなった――これを見てくれ」
そう言って河原崎は、持ってきた黒いカバンの中から封筒を取り出し、樫塚に手渡した。開けてみると、数葉の写真が入っていた。
少女の写真である――年は一七ぐらいだろうか。髪を長く伸ばし、額は広い。うつむき加減の内気そうな表情が愛らしく、清楚《せいそ》な印象を受ける。
「私の知り合いで、大手建設会社の重役のお嬢さんだ。名前は守崎《もりさき》摩耶《まや》。高校二年生だ」
「この娘さんが……?」
「そう。悪魔に憑かれているらしい」
樫塚はその写真を見つめ直し、不審そうに眉《まゆ》をひそめた。見たところ、少女の表情は健康そうで、特に異常な雰囲気は感じられない――もっとも、悪魔憑きというのは外見からは簡単に判断できないものなのだが。
「私に相談を持ちかけてきたのは、彼女の母親――守崎|麗子《れいこ》さんだ。彼女は娘さんに取り憑いている悪魔をはっきり見たとおっしゃっている」
河原崎の話によれば、守崎麗子が初めて悪魔を目にしたのは、昨年の初夏のことだという。ある夜、娘の勉強部屋に入った麗子は、壁の中から現われた黒い怪物にいきなり殴り倒され、意識を失ったのである。
轟音《ごうおん》に驚いた近所の人からの通報で、警察と救急隊が駆けつけた時には、麗子はベッドの上に倒れており、勉強部屋の窓は爆発物でも用いたかのように激しく破壊されていた。摩耶の姿はなかったが、警察の心配をよそに、彼女は翌朝になってふらりと姿を現わした。麗子の怪我も軽い脳震盪《のうしんとう》と打撲傷にすぎず、すぐに退院できた。
摩耶は警察の事情聴取に答えて、「熊のような大男」がいきなり部屋に侵入してきて、母親を殴り倒し、自分を誘拐したのだと説明した。犯人は強引に彼女を連れ出したものの、すぐに気が変わり、解放したという。
麗子はそれが自分の見たものと違うと思ったが、娘の証言にあえて異論を唱えることはしなかった。ショックで記憶が混乱しており、自分の体験をうまく説明できる自信がなかったからだ――翼の生えた黒い怪物に殴られたと言って、誰が信じてくれるだろう?
刑事たちは首をひねりながらも、他に解釈のしようがないので、摩耶の説明を受け入れざるを得なかった。狂言という線は考えられなかった。いかにもひ弱でおとなしそうに見える少女が、頑丈なアルミサッシの窓を破壊できるはずがないのだから。警察は変質者による誘拐未遂事件と発表し、新聞もそのように書いた。ほとんどの者はその説明で納得した。事件は急速に忘れられていった。
だが、麗子だけは忘れていなかった。誰にも話さなかったものの、彼女はひそかに、自分を襲ったのが人間ではなかったのではないかという疑いを抱き続けていた……。
摩耶の生活態度が変わったのは、その直後である。それまでは真面目で勉強熱心で、しとやかな娘だったのが、急に渋谷や原宿で遊び歩くようになった。誰と遊んでいるのか、と麗子が問い詰めても、「お母さんの知らない人たちよ」と謎《なぞ》めいた答えをするだけで、決して言おうとしない。
今年の八月一四日には無断外泊までしている。朝になって帰ってきた娘の耳に赤いピアスが光っているのを見た麗子は、ひどいショックを受けた。摩耶は断じてそんな娘ではなかったはずだ。何か自分に理解できないことが進行している……。
疑惑が確信に変わったのは、ほんの三週間前のことである。ある夜、麗子は娘の部屋から聞こえる奇妙な物音に気づいた。傘を開閉するような、ばさばさという音だ。彼女は不審に思い、ドアの隙間からそっと覗《のぞ》きこんだ。
そして目撃したのである――背中からコウモリのような翼の生えた黒い人型の生き物が、ベッドで眠っている娘の上にのしかかっているのを。麗子が耳にしたのは、その巨大な翼がははたく音だったのだ。
その怪物の姿は「悪魔」そのものであった。
麗子は恐怖に震え、うろたえた。夫に話してもどうにもなるわけがない。警察を呼ぶなど問題外だ。警察は悪魔|祓《ばら》いなどやってはくれない。それどころか、下手に誰かに話せば、狂っていると思われかねない。
彼女が相談できるのは、知り合いの河原崎神父だけだった……。
「……しかし、母親の証言だけでは、証拠とは言いかねますね」
河原崎の話に興味をそそられながらも、樫塚は慎重に言った。「悪魔憑き」と呼ばれる事例の中には、単なる錯覚や思いこみによるものも多い。守崎麗子という女性が妄想《もうそう》を抱いている可能性もあるのだ。
「もちろん、最初は私も半信半疑だったよ。しかし、麗子さんは昔からよく知っている。現実離れしたことを言うような人ではないんだ。実際、一年前の誘拐未遂事件の真相は謎のままだからね。そこで念のため、知り合いの探偵に頼んで、摩耶さんの身辺を調査してもらった。もちろん、悪魔憑きの話などまったくせずにだ。彼は休日に外出した摩耶さんをこっそり尾行した。そうしたら――」
河原崎は陰気な表情で口ごもった。
「どうしたんです?」
「翌日、彼は真っ青な顔で私のところにやって来た。『こんな気味の悪い調査は続けたくありません。お金はいただきませんから、やめさせてください』と言ってね」
「何でまた?」
「彼の話によれば、摩耶さんは中学生ぐらいの女の子といっしょに、遊園地に遊びに行ったらしい。彼は丸一日、二人を尾行しながら、たくさんの写真を隠し撮りした――君の手にしている写真は、その時のものだ」
樫塚はあらためて写真を見た。なるほど、どの写真も遊園地で撮影されたもので、摩耶が楽しそうに園内を歩き回ったり、売店でアクセサリーを物色したり、ジェットコースターの列に並んだり、ベンチに座ってソフトクリームを食べたりしている。
「その女の子というのは?」
「……写っていない」
「え?」
「どれにも写っていないんだよ[#「どれにも写っていないんだよ」に傍点]」河原崎は強調した。「彼は確かに、摩耶さんのそばに立っている女の子を目撃し、何十枚も写真に撮ったと言っている。だが、現象してみると、写っているのは摩耶さんだけだった。一枚や二枚なら撮影ミスということもあるだろうが、プロの探偵が何十枚も写真をミスするなどということがあるかね?」
樫塚は驚いて写真に注意を戻した。言われてみると、どの写真でも、摩耶は自分の隣にいる誰かに話しかけているように見える――肉眼では見えるがカメラには写らない誰かに。
「ベンチに座っている写真をよく見たまえ。ソフトクリームを食べているやつだ」
「これが何か?」
「彼女の顔の右側、ソフトクリームがもうひとつ写っているだろう?」
言われた通りに写真をよく見直して、樫塚はぎょっとなった。摩耶が手にしているのとは別に、食べかけのソフトクリームが写っていた。何の支えもなしに宙に浮いている[#「何の支えもなしに宙に浮いている」に傍点]。まるで透明人間が手に持っているかのように……。
「君はどう解釈するね?」
「……分かりません」樫塚は茫然《ぼうぜん》と写真を見つめ、正直に答えた。「こんな事例は初めてです。しかし、この少女の身辺に異常な現象が起きていることは確かですね。悪魔のしわざだとしたら、早急に手を打たなくては……」
「私もそう思う――だが、私たちではどうにもならん。事件を解決するためには、経験豊富な人物が至急必要なんだ。君以上の適任者は日本にいない」
「しかし、エクソシズムはそんな安直なものではありません。悪魔を追い払うのは聖職者個人の力ではなく、その背景である教会を通じて、神から授けられた力なのです。教会が正式に活動を認めてくれなくては、エクソシズムの効果は期待できません」
「分かっている。その点は私にまかせてくれたまえ。もちろん世間の目があるから、表立って認めることはできない。当分は極秘の活動ということになるだろうが、君を全面的に支援することは約束しよう。幸い、奥多摩の山奥に、今は使われていない教会があってね。そこなら人目に触れることはない。もちろん、信頼のできるアシスタントも用意しよう」
説明を終えると、河原崎は期待をこめて樫塚を見つめた。
「戻ってくれるかね、日本に?」
樫塚は顔を上げ、複雑な表情で河原崎を見返した。
「一日だけ考えさせてください」
その夜――
樫塚はベッドの横にひざまずき、就寝前の祈りを捧《ささ》げていた。
「聖母マリアよ、願わくば私の進むべき道をお示しください。悪魔に苦しめられる人々のために、何をすべきかをお教えください。どうか迷える子羊をお導きください……」
彼は悩んでいた。日本でエクソシズムを行なうのは長年の念願であった。サタンの標的とされている無防備な日本人を救うのは、神から与えられた自分の義務であるように思える――しかし、この国には悪魔憑きに苦しむ人がまだ多くいるのだ。彼らを見捨てて日本に帰ってよいのだろうか?
重大な悩みを抱えたり、人生の岐路に立つたびに、彼は聖母マリアにすがり、教えを乞《こ》うのだった。マリアは常にその祈りに応《こた》えて現われ、彼の迷いを解いてくれた。若い頃からずっとそうだった。
そして今夜も。
至福に満ちた温かい感覚が体内に満ちあふれた。と同時に、薄暗い室内に白い光がさっと広がった。天井に近い空間から出現したその光は、金色にきらきらと輝く微粒子を発散しながら、しだいに明るさを増していった。光速で直進するのではなく、オーロラのようにゆらめきながら、ゆっくりと広がってゆく。ついに室内は昼間のように明るくなった。太陽のようにまばゆいが、熱さを感じさせない不思議な光だ。樫塚は恍惚《こうこつ》として目を細めた。彼の周囲に輝く微粒子が降りそそぎ、雪のように舞い踊る。
まばゆい光の中央に、女性の姿が浮かび上がった。
純白の衣をまとい、フードをかぶった美しい女性だった。背後から光で照らされているにもかかわらず、その姿は影になっていなかった。ゆるやかにひるがえる衣自体が白い光を発しているのだ。樫塚を見下ろすその表情は、優しさと愛にあふれていた。
「マリア様……」
樫塚は神々しさに打たれ、深く頭を垂れた。
「迷うことはありません」その女性は慈愛にあふれたおだやかな口調で語りかけた。「闇《やみ》の力にむしばまれたこの世界をあまねく光で照らすのが、主よりあなたに与えられた使命です。光の届かぬところがあるのなら、真理の灯を掲げてお行きなさい。そして、闇の中に立ちすくんでいる人々の心に、信仰の炎をともして回りなさい……」
「はい。そういたします」
迷いを取り除かれ、樫塚は安堵《あんど》を覚えた。二〇年前の最初の訪問以来、これで七度目であるが、そのたびに彼は深い幸福感と満足感に満たされるのだった。
自分に聖母マリアがしばしば訪れることを、彼は誰にも話していなかった。話しても信仰薄い人間には容易に信用されないことは分かっていたし、こういうことは軽々しく吹聴《ふいちょう》すべきではないと思ったからだ。それに、誰かに信じてもらえなくても、彼は充分に幸福だった。聖母マリアの訪れは、自分の信仰が誰よりも深く、正しい道を歩んでいることの証明であるからだ。全世界にいる何億ものクリスチャンの中で、はたして何人がこのような栄誉を得ているのかは知らない。だが、その秘密は彼の優越感をくすぐり、決して屈することも迷うこともない強い意志を支えていた。
気がつくと、白い光は消え去り、彼は再び薄暗がりの部屋の中に一人で取り残されていた。緊張と至福の時間が終わり、現実に帰ってきた反動で、おだやかで心地好い脱力感が押し寄せてくる。彼は大きく満足のため息をつくと、体を起こした。
ベッドに入る前、彼はふと、サイドテーブルの上に置いてあった写真を取り上げた。スタンドの赤いランプの下であらためて眺める。
守崎摩耶――屈託なく笑うその少女に悪魔が取り憑いているなど、誰が想像できよう。しかし、それが事実だとするなら、彼女を取り巻く悪魔の陰謀は相当に巧妙だと考えなくてはならない。
この少女を救うのが自分の使命だ、と樫塚は確信した。
3 罠《わな》にかかった摩耶
新宿駅を起点として、東京都を横断し、西へ西へと伸びる青梅《おうめ》街道は、青梅市の中心部を通り過ぎたあたりで山の中に入りこむ。
そこから先は奥多摩町――北は埼玉県、南は山梨県に境界を接する、東京都の西の果てである。標高一〇〇〇メートルを越える山々が連なる風光|明媚《めいび》な土地で、山の合間を縫って流れる多摩川と日原《にっぱら》川沿いに、田園や小さな集落が点在している。面積は武蔵野市の二〇倍もあるが、世帯数は二〇分の一以下で、面積の大半は秩父《ちちぶ》多摩国立公園に属する山林地帯だ。行政区分上は東京都の一部だが、「田舎」というイメージが強く、東京都民にとっては手軽に自然を満喫できる絶好の行楽地である。
車は青梅街道を離れ、山の間の曲がりくねった道に入った。道は未舗装で、両側には植林されたヒノキが整然と立ち並んでいる。
「空がきれいねえ」ハンドルを握っている麗子が言った。「やっぱり標高が高くなってきているせいかしらね」
台本を読んでいるような感情のこもっていない台詞だった。助手席の摩耶は「そうね」と義理で相槌《あいづち》を打った。
吉祥寺《きちじょうじ》の自宅を出てからすでに二時間以上、摩耶は退屈しかけていた。秋の奥多摩の美しい風景も、気分をまぎらわせてはくれない。この小さな密室の中で、ちっとも会話のはずまない母といっしょにいるのは、心理的に疲れる体験だった。
そもそも、今日のドライブは最初から気乗りがしなかった。奥多摩に別荘を買おうと思うので下見に行くのだ、と母は説明したが、摩耶はたいして興味をそそられなかった。泊まるだけならホテルやペンションで充分に事足りるのに、一部の人間が「別荘」などというものを欲しがるのは、実体よりも言葉の響き、実用性よりもステイタス・シンボルを重視するせいだと思っていた。母がそんな人間の仲間であることが悲しかった。
せっかくの休日をかなたたちと過ごせないのも残念だ。だいたい、別荘の下見をするなら、麗子が一人で行くか、あるいは一家三人で出かけるべきだろう。なぜ父が九州に長期出張している間を狙《ねら》ったように、二人でこっそり出かけるのか? 母の理屈によれば、「二人でおねだりすれば、お父さんもきっと『うん』と言ってくださるからよ」ということなのだそうだ。子供のおもちゃじゃあるまいし、と摩耶はあきれたが、口には出さなかった。
それでも彼女がドライブに同意したのは、このところぎくしゃくしている母との関係を少しでも良くしておきたい、と考えてのことだった。
麗子は最近、娘に対して妙にぎこちない態度を取っていた。叱《しか》りつけることが少なくなり、視線を合わせることを避けている。自分の秘密を嗅《か》ぎつけられたのではないか、と摩耶は内心びくびくしていた。考えてみれば、ずっといっしょに暮らしているのに、今まで感づかれなかったことの方がどうかしている。
最初にあれ[#「あれ」に傍点]が出現した時のことを、母が都合良く忘れてくれたのは、実に幸運と言うべきだった。かなたの仲間たちの中には、人間の記憶を操作する能力を持った者もおり、しばしば事件のもみ消し役として役立っているという。だが、摩耶はできることならそんな手段は使いたくはなかった。記憶も人間の魂の一部である。どんな理由であれ、それをワープロの文章を書き換えるような気軽さで操作することに嫌悪を覚えた。
いずれ母には真実を告げなくては――と思いつつも、摩耶はその決定的な時をずるずると先に伸ばしていた。真相をすべて話すとなると、一年前のあの事件についても言及しないわけにはいかない。母を傷つけた怪物の正体についても。
夢魔――コウモリの翼を持った顔のない黒い怪物は、摩耶の意識下の欲望に反応して現われた存在だった。
八環《やたまき》たちの話によれば、夢魔は厳密には妖怪ではなく、妖怪に進化する前の形のないエネルギー体であるという。あと何十年も経てば完璧《かんぺき》な自我を備えた妖怪になるかもしれないが、今はまだ、強大なパワーを秘めていても決まった形はなく、自分自身の意志も持たない。特定の人間の意志と結びつくことによって、その人間が思い描いた通りの姿で実体化し、その人間が望んだ通りの行動を取るだけなのだ。
そいつは最初、摩耶を誘惑し、犯そうとした。彼女が心の底でそうされることを望んでいたからだ。さらに麗子を殴りつけた。摩耶がそうすることを望んだからだ。
今ではかなりコントロールの方法を学んだものの、何か月かに一度、淫《みだ》らな夢を見た直後など、実体化した悪魔が自分の上にのしかかっているのを発見して恐怖することがある。潜在意識を完全に制御するなど人間には不可能だ。何かのきっかけでそれが暴走したら――彼女はそれを恐れていた。
母を愛さなくてはならない、と摩耶は思った。憎しみを忘れなくてはならない。さもなければ、またいつか、母を傷つけてしまう。
だが――それは困難なことだった。愛するということは、「あの人を愛そう」と思い立ってできるものではない。愛は人の心を動かす力だが、その逆ではないからだ。アクセルを踏めば車は走るが、車を押して動かしてもアクセルが動くわけではない。
憎しみも同様だ。憎しみの爆発は意志の力で抑えることはできても、憎しみそのものを消し去ることは難しい。母に対しては常に従順に振る舞い、反抗などしたことはなかった摩耶だったが、心の底では母に対する強烈な憎悪が渦巻いていた。自分でも意識していなかったが、彼女は例の事件で否応なくその事実に気づかされた。
母は彼女が生まれた時から、娘の人生を二五年先まで完璧に計画しており、そのプラン通りに生きなくてはならないと、ことあるごとに語って聞かせていた。お上品なことで知られる有名校に入れ、お嬢様教育を受けさせる。二五歳で見合いをさせ、有名企業のエリート社員と結婚させる……」
あまりにもオリジナリティのなさすぎる人生設計だが、摩耶はこれまで何の疑問も抱くことなくそのビジョンを受け入れ、気がつくと母の引いたコースを三分の二まで進んでしまっていた。
娘に洗脳じみた教育を施し、すっかり内気でおどおどした性格に育て上げた自分の手腕に、麗子は満足しているようだった。彼女には「つつましやか」であることと「対人恐怖症」の区別がついていなかった。「子供を育てる」ということは、完璧な支配下に置いて鋳型にはめることだと思っていた。
スーファミで競走馬の育成シミュレーション・ゲームをやっていて、摩耶はふと、複雑な気分になった。母は「子供を育てている」というより、優秀な競走馬を育てているつもりなのではないだろうか。馬主がレースの結果に一喜一憂するように、テストの点数を見て喜んでいるのではないだろうか……?
そんな人間を、血がつながっているというだけの理由で、愛せるはずがない。
その教会は静かな森の中、三方を山に囲まれた小さな空き地に建っていた。街道までは曲がりくねった未舗装の道が一本あるだけで、外界からほとんど孤立している。最も近い民家まで一キロ近くあるだろう。
なぜこんな場所に教会が?――それが樫塚の第一印象だった。美しい風景であることは認めざるを得ないが、こんな場所に教会を建てても、信者が頻繁に通って来るとは思えない。だが、その疑問は河原崎から説明を受けて氷解した。
観光用の教会なのだ。一〇年ほど前に、近くのペンション業者とタイアップし、「森の中の小さな教会で、二人だけのロマンチックな挙式を」というキャッチフレーズで売り出した。海外に新婚旅行に出かけるほどの金はないけれども、人生にささやかなメルヘンを求めたい若いカップルがターゲットである。ここで式を挙げた後、美しい奥多摩を散策し、ペンションで初夜を迎える、というシナリオだ。観光用とは言え、いちおう正式の協会であり、式を執り行なうのは資格を持った本物の神父であった。
しかし、バブルがはじけてペンションが潰《つぶ》れてしまい、必然的に教会の需要もなくなってしまった。もともと安い土地だったし、売り払おうにも交通の便が悪すぎて買い手がつかず、いまだに教団が抱えこんでいた。それを掃除し、利用しようというわけである。
「俗化ですな」
樫塚は不愉快な表情を隠さなかった。失敗したこのプロジェクトの責任者の一人である河原崎は、つらそうに白髪頭をかいた。
「そう責めんでくれたまえ。我々も資本主義社会の中で生きているんだ。信者からの寄付だけでは、巨大な教団をとうてい維持できない。生き残るためには、常に金儲《かねもう》けの方法を考えなくてはならんのだ」
「そのうち、免罪符も売り出されるのですか? それとも壷《つぼ》や印鑑?」
「まさかな。どんなに金に困ろうと、道を踏みはずすようなことはせんよ。私だって神の国に行きたいからね」
「それならまず、ラクダに乗って針の穴をくぐる練習をされるべきですな」
ためらうことを知らない樫塚の毒舌に、河原崎は閉口した。
「まあ、よろしいでしょう。教会は教会ですからね。喜んで活用させていただくことにしましよう」
樫塚は白い砂利を敷き詰めた庭に立ち、教会を見上げた。建てられた理由は気に入らないが、外見はさほど悪くない。外壁が純白であったなら、周囲の風景と調和が取れなくなり、さぞかし安っぽく見えたことだろう。幸いなことに、設計者には多少なりとも美的センスがあった。映画によく出てくるようなヨーロッパの小さい教会を模して、やや古めかしいデザインでまとめ、外壁もシックな灰色にしたのだ。尖塔《せんとう》の上には高さ二メートルほどもある大きな十字架がそそり立っている。無論、偽物の古さには違いないが、悪趣味よりはましだ。
「人手は足りるかね?」河原崎は心配になって訊《たず》ねた。「助手は三人だけでいいのか?」
樫塚は来日する際、助手として小峰神父を同行していた。小峰はまだ若いが、何度も彼のエクソシズムに立ち合い、経験を重ねている。あとの二人は河原崎が用意した内村《うちむら》と山尾《やまお》という男で、医師の資格を持っていた。
「三人で充分です。必要なのは人数ではなく、最後までエクソシズムをやり遂げる強い意志ですから」
「期待しているよ――おや、いらっしゃったようだ」
白いファミリーカーが山道を登り、こちらにやって来るのが見えた。
車が教会の前で止まると、麗子は「降りて」とそっけなく言い、自分はそそくさとシートベルトをはずして外に出てしまった。摩耶は母の態度に不審なものを感じながらも、しかたなく車を降りた。
「別荘じゃないわ……」
摩耶は教会を見上げ、不思議そうにつぶやいた。なぜこんなところで車を降りなくてはならないのだろう……?
待ち受けていた黒い服の男たちが、こちらに近づいてくる。平静を装った足取りだが、緊張が漂っているのが感じられる。摩耶は事情の説明を求めて母の方を振り返ったが、麗子は関心などないかのように、ぷいと顔をそむけてしまった。
四人の男は摩耶を取り囲んだ。摩耶は後ずさったが、一人が車のドアの前に立ち、彼女が車内に戻れないようにしていた。威圧感を与えまいとしてか、四人とも不自然な微笑《ほほえ》みを浮かべているが、事情を知らされずに未知の場所に連れて来られ、正体不明の男たちに囲まれているというだけで、少女にとっては充分に恐怖だった。
「守崎摩耶さんですね?」
年長の男がわざとらしい猫撫《ねこな》で声で言った。摩耶はいっそう警戒心を強めた。
「ええ……そうですけど?」
「私は樫塚です。怖がることはありません。あなたと少しお話がしたいだけなんです」
「でも……」
もう一度、助けを求めて摩耶は振り返った。母は白髪の男と小声で会話を交わしている。あれは確か知り合いの河原崎神父だ……。
離れているので話の内容は分からなかった。やがて麗子は河原崎に頭を下げ、「よろしくお願いします」と言うと、そそくさと車に乗りこんだ。娘の方を見ようともしない。
「お母さん!?」
摩耶は困惑を言葉にしてぶつけた。その声はフロントガラスを通して、麗子の耳にも確かに届いたはずである。しかし、運転席に座った麗子は、何も聞こえないかのように無表情だ。摩耶は突然、ガラスよりも厚い心の壁が、自分と母の間にあるのを感じた。
「どういうこと? ねえ、どういうこと!?」
無益と思いつつも、かすかな希望にすがって、摩耶は繰り返した。しかし、その声は始動したエンジンの音にかき消された。車に駆け寄ろうとする摩耶の肩を、樫塚が押さえた。
麗子は車を発進させた。くるりとUターンして、元来た道を逃げるように戻ってゆく。見知らぬ男たちとともに取り残された摩耶は、茫然《ぼうぜん》と立ちすくみ、車が遠ざかってゆくのを信じられない想いで見送っていた。
母に裏切られた。
信じたくないが、そうらしい。その事実はあまりにも衝撃的で、彼女は全身が痺《しび》れるような絶望感を味わった。
「さあ、こちらへ」
樫塚は少女の手を引いた。ショックのあまり一時的に虚脱状態になった摩耶は、抵抗する気力もなく、神父に導かれるまま、のろのろと教会の中に入っていった。
礼拝堂は五〇人も入ればいっぱいになるぐらいの広さしかなかった。設計の際に「小さく質素な教会」というイメージを重視したため、聖母マリアを描いた正面のステンドグラス以外、余分な装飾はいっさいない。樫塚に手を引かれ、摩耶は花嫁のようにヴァージン・ロードを歩き、説教壇の前に立った。
「まず、いくつか簡単なテストをさせてください」
樫塚は言った。本当に悪魔|憑《つ》きかどうかを確認する、当然の手順である。母親の麗子とは二日前に会い、詳しい話を聴いた。どうやら本物らしいとほぼ確信は抱いたが、エクソシズムを行なうには決定的な証拠が必要だ。
「テスト?」
「そうです――まず、これを読んでください」
樫塚は説教壇の上に開かれたまま置かれている分厚い聖書を示した。
「読むんですか?」神父の意図が分からず、摩耶は困惑した。
「そうです。読んでいただけますか?」
事情はさっぱり理解できなかったが、逆らう理由もなさそうだ。摩耶はためらいながらも説教壇に歩み寄り、そこに置かれた聖書に目を落とした。妙なところはどこにもない。開かれているページは『マタイの福音書』第三章第一節である。
「その頃、バプテスマのヨハネが――」
彼女は最初の文章を読み終えることさえできなかった。突然、そのページに火がつき、燃え上がったのである。彼女は悲鳴をあげて後ずさった。
炎は数秒だけ燃え上がり、すぐに消えた。彼女が読もうとしたページだけが、きれいに燃え尽きたのである。
摩耶ほおびえる目で男たちを見回し、無言で説明を求めた。河原崎と、彼の手配した二人の助手は、初めて目にする超自然現象に驚き、慌てて十字を切っている。小峰は同様の現象を前にも何度も目撃したことがあったが、それでも不安は隠せなかった。経験豊富な樫塚だけが平静を保ち、満足そうにうなずいている。
「では、今度はこれを握ってみなさい」
そう言って樫塚は、長さ二〇センチほどの大きな銀の十字架を差し出した。不安に思いながらも、摩耶はそれを受け取ろうとした。
「熱い!」
彼女は悲鳴をあげ、十字架を放り出した。十字架はチーンという澄んだ音をたてて床に転がった。見ると、手の平に火ぶくれができていた。
がたがたがた……騒々しい物音が礼拝堂の中に響き渡った。河原崎たちはぎょっとしてあたりを振り返った。参列者席の長椅子《ながいす》のひとつが動いているのだ。不満でもあるかのように、脚で床を踏み鳴らしている。もちろん、誰も長椅子に触っていない。
やがて、その隣の長椅子も動きはじめた。さらにその隣のも――ほどなく、その現象はすべての長椅子に伝染し、礼拝堂の中は恐ろしい騒音に満たされた。人間たちはただ立ちすくんでいることしかできなかった。
ポルターガイスト現象は三〇秒ほど続き、潮が引くように終わった。長椅子はどれも、何事もなかったかのように元の位置に戻っている。
「どうやら本物ですな」
樫塚は落ちた十字架を拾い上げると、勝ち誇った表情で河原崎を見た。白髪の神父は蒼白《そうはく》な顔つきで、額に浮かんだ冷や汗をハンカチでぬぐっている。
「あ、ああ……そうらしい」河原崎の声はうわずっていた。「君の言う通りだ。悪魔憑きは本当にある……」
「悪魔憑き? 私が?」
摩耶は驚いて打ち消そうとした――だが、その言葉は途中で止まった。否定することはできない。自分に「悪魔」が憑いているのは事実なのだから。
混乱し、立ちすくんでいる少女を無視し、樫塚は河原崎に向き直った。
「私にまかせていただけますか?」
「ああ……ああ、もちろんだとも。この場はすべてまかせるよ」
河原崎はすっかり震え上がり、一刻も早くここから立ち去りたい様子だった。樫塚としてもその方がありがたい。エクソシズムはかなり苛酷《かこく》な手順を必要とする儀式だ。河原崎がそこに立ち合い、「人道的見地」からとやかく口出ししたら、厄介なことになる。
「私は教団本部に帰らなくてはならない。必要なものがあるなら、電話で言ってくれたまえ。何でも用意させるから――では、二日後にまた来るよ」
河原崎はそう言い残すと、こそこそと立ち去った。樫塚はかつての仇敵《きゅうてき》のぶざまな後ろ姿を見送り、心の中で嘲笑《ちょうしょう》していた。
4 爆発する衝動
その日から、摩耶の苦痛に満ちた体験がはじまった。
最初の試練は、男たちの前で裸にさせられたことだった。樫塚はこの少女が単なる悪魔憑きの犠牲者ではなく、自らの意志で悪魔と契約を結んだのではないかと疑ったのだ。それを調べるには、体のどこかにあるはずの「悪魔の印」を見つけなくてはならない。悪魔は人間と契約を結んだ印として、相手の体に変わった形の痣《あざ》やほくろを残すと考えられていた。
「ためらうことはありません。ここにおられる内村さんと山尾さんは、医師の資格を持っています。お医者さんに診察してもらうのと同じだと思えばいいのです」
樫塚はそう言ったが、あいにくと摩耶はそんな詭弁《きべん》で納得するほど純真ではなかった。かと言って、男たちの前で平気で裸になれるほど、はしたなくもなかった。もっと活発な性格だったなら、「このスケベ親父!」とののしることもできただろうが、あいにくと彼女にはそういう発想はない。
結局、彼女が羞恥心《しゅうちしん》をこらえて肌をさらしたのは、反抗すれば何をされるか分からないという恐怖心からだった。樫塚は常におだやかな笑顔を浮かべているが、その表情の下で何を考えているか読めない不気味さがある。何と言っても、彼女を悪魔憑きと疑っている連中だ。反抗的な態度を見せるのは逆効果だと思った。
内村と山尾は震えながら立ちつくす少女を調べ上げ、背中に小さな痣を発見した。確認のために針を刺してみる。悪魔の印なら痛みは感じないはずであるが、もちろん悪魔の印などであるはずがなく、摩耶は悲鳴をあげた。
それでも彼らはあきらめず、体のあちこちにあるほくろを、片っぱしから針で突いた。摩耶は歯を食いしばり、恥辱と苦痛に涙を流した。
悪魔の印は発見できなかったが、樫塚たちは疑いを捨てたわけではなかった。彼女に悪魔が憑いていることはすでに証明されている。悪魔|祓《ばら》いの儀式によって、悪魔の正体をあばき、追い出さなくてはならない。
摩耶は裾《すそ》の長い白い服に着替えさせられた。椅子に座らされへ念のために手足を縛りつけられる。
準備が完了すると、樫塚たちは摩耶を取り囲み、悪魔祓いの祈祷《きとう》を開始した。
「守崎摩耶に働いているイエス・キリストの敵の正体をみなあばく。悪霊の上に君臨しているさらに高い主権を握っているサタンとその力から、お前たちを断つ。守崎摩耶を悩ましている悪魔の権威を取り除く。あらゆるキリストに敵対する霊どもよ、神の御手によってお前たちが裁かれることを宣言する。カルバリの血潮はお前たちを弱める。キリストの権威によって、悪霊の存在をみな縛る。聖霊の御声と、今、命じている神のしもべの声によって、イエス・キリストが命じているところへ行け!」
無論、そんな祈りは摩耶に何の効果も及ぼさなかった――最初のうちは。
その単調な儀式は何時間もぶっ続けで行なわれたのだ。祈祷の合間には樫塚が十字架を突きつけ、摩耶に取り憑いている悪魔に対し、正体を現わせと迫った。
「イエス・キリストの御名において問う! 守崎摩耶に取り憑いている悪霊よ、お前の名は何と言う?」
「知りません! 名前なんて知りません!」
摩耶はかぶりを振った。事実、彼女は夢魔の名前など知らなかった――夢魔は夢魔だ。名前などない。
「信じてください! もうこんなことはやめてください!」
「本当のことを言うのだ!」
「言っています! イエス様の名を出されると、悪魔は嘘《うそ》をつけなくなるんでしょう? だったら私が嘘をつけるはずないじゃありませんか!」
だが、いくら否定しても効果はなかった。彼らは摩耶に悪魔が取り憑いており、嘘を言わせていると信じて疑わなかった。彼女が「知らない」と言い張るのは、悪魔が強情なせいだと考えられた。
「少し弱らせる必要がありますね」と樫塚は宣告した。
日が暮れたが、摩耶に夕食は与えられなかった。手を縛られたまま、一杯のオレンジジュースを飲まされただけだ。
別室で夕食を取った樫塚たちは、儀式を再開した。昼間と同じく、単調な祈祷がえんえんと繰り返され、その合間に詰問が行なわれる。
椅子に縛りつけられ、何時間も座りっぱなしなのも辛かった。腰や背中が痛くなってくるし、手足も痺《しび》れてくる。立つことを許されるのはトイレに行く時だけで、それも監視つきだ。苦痛と空腹とみじめさで、摩耶はトイレの中ですすり泣いた。
真夜中近くになってようやく解放されたものの、その晩は空腹のためにろくに眠れなかった。豊かな時代に生まれ、裕福な家で育った彼女は、胃を突き刺すほどの強烈な空腹というものを初めて味わった。窓のない物置小屋に閉じこめられ、粗末な毛布にくるまって胎児のように体をまるめ、悶々《もんもん》と時を過ごした。
脱出しようか、と何度考えたかしれない。薄いドアを打ち破るぐらい、夢魔の力ならたやすいだろう――しかし、理性でそれを抑えた。脱出してどうなる? 自分に超自然的な力があることを証明するだけではないか。
それに、夢魔を呼び出すことのできないもうひとつの理由があった。
彼女はひとたび出現させた夢魔を制御できる自信がなかった。潜在意識の奥には、自分をこんな目に遭わせた母や樫塚神父に対する憎悪が渦巻いているだろう。それを解放したらどんなことが起きるか……。
その時ふと、彼女は矛盾点に気がついた。
「変だわ……」
それは昼間起きたポルターガイスト現象のことだった。人前であんなことが起きなければ、樫塚たちも彼女が悪魔に取り憑かれているという確証は得られなかったはずで、こんな苦境に追いこまれることもなかっただろう。
夢魔に一種の念動力があることは知っている。あの現象も夢魔が起こしたものだろうか? だとすると、聖書を燃やしたい、十字架を熱くしたいという衝動が、自分の中にあったということだろうか?
しかし、なぜ自分の潜在意識がそんなことを望んだのか、自分自身を窮地に陥れたのか、彼女には見当がつかなかった。
朝食には一個のドーナツとコップ一杯の牛乳が与えられた。わずかに空腹が癒され、ほっとしたのもつかのま、昨日とまったく同じことが繰り返された。
外界から隔絶された世界で、敵意を抱いた男たちに囲まれ、単調な祈祷《きとう》と訊問の繰り返し。激しい空腹。背中の痛み。プライバシーを踏みにじられ、人間としての権利を一切奪われ、身動きする自由すら与えられない――その悲惨な境遇は、繊細な少女の心に強大なストレスとなってのしかかっていた。
何かの本で読んだ、冤罪《えんざい》を着せられた人の話を思い出した。警察に何十日も勾留《こうりゅう》され、友人や家族との接触も許されず、同じ訊問を際限なく繰り返されていると、人間の心理にしだいに変化が生じてくる。何としてでもその状況から解放されたくなり、ついには、やってもいない罪を「やりました」と自白してしまうのだ。
だが、訊問に屈服したところで、自由になれるわけではない。自白調書にサインしてしまったが最後、いくら法廷で「無理に自白させられた」と主張しても、聞き入れてはもらえない。無実の罪で何十年も服役することになるのだ。
今の自分の境遇がそれだ、と摩耶は思い当たった。真相を打ち明けたところで、状況が好転するわけでは決してない。それは有罪を認めることに等しい。樫塚たちは彼女の体から悪魔を追い出すために、いっそう激しく痛めつけるだろう。
彼女自身、夢魔の存在が重荷であり、夢魔が自分から離れてくれればと願っていた。だが、夢魔がいわゆる悪魔とは異なる存在であることぐらいは理解している。彼女の心が生み出した存在ならば、聖書の文句や悪魔|祓《ばら》いの祈りなど効果があるはずがない。悪魔祓いの儀式は彼女を弱らせるだけなのだ。
では、どうすればいいのか? 摩耶は苦悶《くもん》した。黙秘を押し通し、樫塚たちが根負けするのを待つか。しかし、彼らは固い信念に突き動かされており、容易なことであきらめそうにない。先に根負けするのは自分の方だろう。
かなたたちが助けに来ることも期待できない。自分がこんな人里離れた教会に幽閉されていることは、誰も知らないのだから。
摩耶の心に絶望が影を落とした。このまま何日もこんな状態が続いたら、殺されてしまうかもしれない。それならいっそ、思いきってこいつらを……。
「だめよ……!」彼女は小声で自分を叱《しか》りつけた。「そんなこと考えちゃ……」
「何がだめなんだね?」
樫塚がきつい口調で問い質《ただ》す。しかし、摩耶は唇を噛《か》み、答えなかった。
口を開いたら、胸の中に渦巻いているどす黒い衝動が、実体となって飛び出してきそうだった。
その日の夕刻、新たな試練が訪れた。
樫塚は助手たちに命じ、少女を縛っていた縄をほどかせた。数時間ぶりで椅子《いす》から解放された摩耶は、背中の痛みに耐えながら、よろよろと立ち上がった。
「来なさい」
樫塚はうながした。摩耶の心にかすかな希望の灯がともった。あきらめて解放してくれるのだろうか?
しかし、その希望はすぐに打ち砕かれた。
彼女が連れて来られたのは、教会の裏の小さな空き地だった。いつ到着したのか、そこには一台のライトバンが止まっており、荷台に積まれた四つの大きな段ボール箱を降ろす作業が行なわれていた。傍には穴のあいたドラム缶が置かれている。
箱を降ろし終えると、作業員たちは一礼し、ライトバンに乗りこんで走り去った。車が夕闇《ゆうやみ》の林の向こうに見えなくなるを見届けてから、小峰たちの手によって、積み上げられた箱のひとつが開けられた。
箱の中身をちらりと見た摩耶は、最初は困惑し、続いて悪い予感に襲われた。乱雑に積みこまれていたのは、どれもこれも、彼女が読んだことのある小説やマンガであった――いや、これは彼女の部屋にあったはずのものではないか。
「お母さんの許可を得て、あなたの部屋から運んでもらったんですよ」樫塚は説明した。「あなたに対するサタンの影響を断ち切るためにね」
「サタンの影響……?」
「そうです」
樫塚は箱のひとつをごそごそと探り、一冊の雑誌を取り出した。青少年向けのオカルト雑誌である。表紙には <太陽系第一〇番惑星アドナイの謎《なぞ》!> とか <秘密地球防衛組織シャドーは実在した!> とか <あなたにもできる黒魔術> といった文字が躍っている。
「あなたはこういうものを読むのですか?」
樫塚の視線を受け、摩耶は恥ずかしさに首をすくめた。確かに少し前までは真剣に読んでいたが、かなたたちとつき合うようになり、本物の超自然現象の世界を知るようになってからは、馬鹿らしくなって読むのをやめてしまった。
「オカルトというのは、人をまどわすためのサタンの謀略なのです。こういうものを読み、遊び半分で占星術や降霊術やまじないを試しているうち、人はしだいに神の教えを忘れ、ついには悪魔に取り憑《つ》かれてしまうのです」
そう言って樫塚は、ライターで雑誌に火をつけ、ドラム缶に放りこんだ。
次に彼が箱から取り出したのは、摩耶がお気に入りのヤングアダルト小説だった。戦国時代から現代に転生した美形の霊能力者が主人公だ。裏表紙のストーリー紹介を読んだ樫塚は、ふんと鼻を鳴らした。
「これもオカルトものか」
彼はその本にもライターを近づけた。「やめて!」摩耶は悲痛な叫び声をあげたが、聞き入れられなかった。夕暮れの薄明かりの中で、本は勢いよく燃え上がった。樫塚はそれを無雑作にドラム缶に投げ入れた。
摩耶はショックのあまり茫然《ぼうぜん》となっていた。何も知らない大人たちにとっては、ただの低俗で荒唐無稽《こうとうむけい》な小説にすぎないのかもしれない。しかし、彼女にとってほ深い感動を覚えた愛着のある作品なのだ。それが灰になってゆくのを見るのは、自分の体を切り裂かれるような悲痛な心境だった。
次に樫塚が取り出したのは、妖怪《ようかい》が活躍する人気マンガだった。これもためらうことなくドラム缶に放りこむ。
「うん? これもマンガかな?」
樫塚がそう言って手に取った本を見て、摩耶はうろたえた。引き出しの奥に隠していたはずの同人誌だ。
「あ、それは……」
止めようとしたが間に合わなかった。樫塚はページをぱらぱらとめくった。裸の男同士がからみ合っている場面が目に入った。摩耶は真っ赤になって顔を伏せた。樫塚は彼女をにらみつけると、けがらわしそうにその本を火に投げこんだ。
箱の中には本だけではなく、CDもたくさん入っていた。クラシックやポピュラー、アニメ主題歌なども多いが、AC/DCやアイアン・メイデン、モトレー・クルーも何枚か混じっている。樫塚はそうした曲自体は聞いたことはなかったが、バンドの名前だけはひと通り知っていた。欧米の狂信的なキリスト教徒の間では、パンク・ロックやヘビーメタルは悪魔主義者の活動の一環であるという説が広く信じられている。そうした曲にはサブリミナル・メッセージが含まれていて、それを聞いた若者は洗脳され、暴力や自殺や麻薬に走る――というのだ。もちろん樫塚もそのナンセンスな説を信じこんでいた。彼は目についたCDを片っぱしから火の中に投げこんだ。
ゲームソフトも何本かあった。樫塚にとっては、それもまた悪魔の陰謀であった。特にRPGは危険だ――暴力的で、魔法が当たり前のように出てくるうえ、しばしばエホバ以外の神が登場するからだ。
小峰たちも樫塚に習い、箱の中から本を取り出して、火の中に投げこみはじめた。樫塚は作業を彼らにまかせ、祈りの文句を唱えはじめた。
「サタンよ。私はお前に対して信仰の大盾を取り、御霊の剣である神の卸言葉によって、お前に立ち向かう。御言葉はお前が偽りの神として、全能の神の子供たちを告発し、苦しめる者として、裁きに定められていることを宣言している。守崎摩耶の人生におけるお前の働きは打ち砕かれたことを宣言する。イエス・キリストの血潮の力を通して、彼女の人生と働きを破壊するために送られたすべての邪悪な呪《のろ》い、まじない、悩まし、呪文《じゅもん》、魔法、儀式、心霊術の力を拒絶し、打ち壊す……」
摩耶の所有物がドラム缶の中に放りこまれてゆくにつれて、炎は勢いを増し、オレンジ色の火の粉が蛍のように夕闇の空に躍った。茫然と立ちすくみながら、彼女がしびれた頭で連想していたのは、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の一場面――ナチスが文化大会で本を燃やしているシーンだった。
体の奥で凶暴な衝動が膨張し、沸騰し、今にも爆発しそうになっていた。少しでも意志の力がゆるめば、それは外部に噴出するだろう――そして、この場にいる男たちを全員ずたずたに引き裂くまで止まらないだろう。
(出ないで、出ないで、出ないで……)彼女は必死になって自分を抑《おさ》えつけていた。(出ちゃだめ、出ちゃだめ、出ちゃだめ……)
そんな彼女の苦悩を知るよしもなく、樫塚は熱心に祈り続けていた。
「天にまします我らの父よ。守崎摩耶に罪を認めさせ、あなたと正しい関係に戻る願いを起こさせてください。罪を憎む思いを与えてください。彼女の自我を砕くために必要なことは何でもしてください……」
本やCDをひと通り燃やし終えると、小峰たちも祈祷に加わった。急速に暗くなってゆく山奥に、男たちのユニゾンが響く。
「天にまします我らの父よ。主イエスの御名によって、守崎摩耶の人生における敵の影響を征服します。どうかサタンの偽りや誘惑から彼女を引き離してください。神よ、どうか彼女が正気に戻るよう助けてください……」
摩耶は耳をふさぎ、歯を食い縛って、拷問に耐えていた。単調な祈りの文句は、今や鞭《むち》にも匹敵する苦痛となって、少女の精神を責め苛《さいな》んでいた。
正気に戻るよう願う彼らの祈りが、彼女を狂気に追いやっているのだ。
樫塚が儀式の終了を告げたのは真夜中だった。肉体的にも精神的にも打ちのめされた摩耶は、ふらふらになっており、もはや自分の力で歩くこともできなかった。男たちは彼女を両脇から抱え上げ、物置小屋に放りこんだ。依然として空腹感はひどかったが、全身を苛む疲労の方が激しかった。摩耶はクッションに突っ伏すと、ようやく苦しみから解放された安心感から、夢も見ない深い眠りの中に滑り落ちていった。
夜明けの一時間前、ガンガンというすさまじい物音に目を覚まされた。小屋全体が地震のように揺れていた。
狭い物置小屋の中に、大きな影がうごめいていた。そいつは横たわる摩耶をまたいで立ち、太い腕を振り回して、プレハブの壁を殴りつけていた。薄い金属でできた壁が紙のように破れ、月光が差しこんだ。摩耶はそいつの姿をはっきり見た。
夢魔だ。
「だめ!」彼女は恐怖した。「やめて!」
だが、夢魔は動きを止めようとしない。眠っている間に理性のたががはずれ、この状況から脱出したいという彼女の願望を叶えるために、夢魔が実体化したのだ。
「悪魔だ! 悪魔が……!」
小屋の外でうわずった男の声が聞こえた。樫塚の助手の一人、内村が見張りについていたのだ。夢魔は壁の残りを蹴破って飛び出すと、内村に襲いかかった。
「やめてえ!」
摩耶の悲痛な絶叫が夜の山に響き渡った。
5 孤立した教会
摩耶が必死に「消えて」と念じたので、夢魔はしぶしぶ姿を消し、飛び起きて現場に駆けつけた樫塚たちに目撃されることはなかった。幸い、内村の怪我は致命傷ではなかった。夢魔に頭を殴られ、気を失っただけだ。
罪の意識に苛まれながらも、寸前でかろうじて自制心が働いたことに、摩耶は大きな安堵《あんど》を覚えた。夢魔の怪力はよく知っている。妖怪いじん[#「いじん」に傍点]を一撃で叩《たた》き潰《つぶ》したこともあるのだ。本気で殴りつけたなら、人間など形もとどめないだろう。
だが、次もまた自制心が働くとは限らない。
「たいしたことはないと思いますが、病院に連れて行って精密検査した方がいいでしょう。脳に損傷を受けている可能性もありますから」
内村の傷を診察した山尾が報告した。思いがけない事態に、樫塚も動揺を隠せなかった。
「救急車はもう呼んだのですか?」
「それが……電話が通じないのです。線がどこかで切れているらしくて」
それはこの教会が外界から隔絶されたことを意味している。樫塚は唇を噛んだ。これも悪魔のしわざだろうか?
「分かりました。山尾さん、あなたは内村さんを車で病院に連れて行ってください。それから河原崎神父に連絡し、人手を要請してください。それまで、ここは小峰神父と私だけでどうにかしますから」
「お二人だけでよろしいのですか?」
「しかたないでしょう」
樫塚は振り返り、肩を抱いて沈みこんでいる摩耶をちらりと見た。
「あの危険な娘を放置しておくわけにはいきません。まして街に連れ戻るなど……誰かがここに残り、監視していなければならないのです」
朝焼け空の下、山尾と内村を乗せたワゴンが走り去るのを見送ってから、樫塚は今後の方針を小峰と話し合った。あんなことがあった後だけに、二人だけで悪魔祓いを続行するのは危険すぎる。応援が来るまで中断しなくてはならない。
物置小屋はもう使えない。二人は摩耶を縛り上げて、窓のない小部屋に閉じこめ、交替で監視することにした。
その日の午後四時――
一台の車が教会に通じる曲がりくねった道を急いでいた。
「まったく! 何をやってるんだろうね、彼らは?」
後部座席に座っている河原崎が、苛立って声を荒くした。いくら聖職者とはいえ、心穏やかでいられない時もある。今がまさにそうだった。
「やはり樫塚などを信用されたのはまずかったのではありませんか?」
ハンドルを握っている男が発言した。河原崎の秘書兼運転手の橋丘《はしおか》である。河原崎は彼を信頼しており、自分の思惑もすべて打ち明けていた。
「彼ほど経験豊富なエクソシストが他にいなかったんだから、しかたないだろう。もちろん私だって、彼を全面的に信用しているわけではないよ。そのためにあの二人を監視役につけたんだからね」
山尾と内村には、一日三回、電話をかけさせ、悪魔祓いがどのように進行しているかを詳しく報告させていた。それが、今日はまだ報告が来ない――こちらから電話をかけても通じないのだ。
万が一にも、守崎摩耶の身に何かあれば、取り返しのつかないことになる――その可能性を考えると、河原崎は苦悩した。守崎麗子からは、うまく悪魔祓いに成功すれば、二〇〇〇万の礼金を受け取る約束になっている。だが、失敗したら……。
普段の河原崎なら、決してこんな危険な賭けはしなかった。教会の金を個人的に株に流用して失敗したために生じた帳簿の穴を、次の監査までに埋めなくてはならないのだ。追い詰められていた時に守崎麗子から話を持ちかけられ、渡りに船と飛びついたのである。
河原崎はすでに何年も先のビジョンまで思い描いていた。他にも彼の知る限り、子供の「悪魔|憑《つ》き」に悩んでいる親は日本各地に何人もいる。大半は単なるノイローゼや病気だろうが、気にすることはない。純真な樫塚をうまく操って、それらを治療することができれば、かなりの金になるだろう。
しかし、それもこれも、守崎摩耶の悪魔祓いが成功すればの話だ……。
河原崎の思索は不意に断ち切られた。ふと運転席に目をやり、信じられない現象を目撃したからだ。
ダッシュボードの備えつけのライターが宙に浮いていた――透明人間が手に持っているかのように、それはゆっくりと正確な動きで、ハンドルを握る橋丘の腕に近づいてゆく。前を見ている橋丘はまったく気づいていない。恐ろしさのあまり河原崎は舌が凍りつき、警告を発することさえできなかった。
ライターは橋丘の左腕に押しつけられた。
橋丘は悲鳴をあげ、めちゃくちゃに腕を振り回した。その時まさに、車は急カーブに差しかかっていた。河原崎は破滅を予感し、顔を覆った。
ハンドルを切りそこねた車は、道路を飛び出し、八メートル下の谷川に転落した。
同じ時刻――
買い物に行こうとしてガレージから車を出した麗子は、家の前に立っている人影を見てびっくりして車を止めた――九州に出張中のはずの夫の正俊だ。
「あなた!」麗子は窓を開けて叫んだ。「いつ帰ったの!?」
「うん、まあ、いろいろあってね――ちょっと開けてくれないかな」
麗子は言葉を濁す夫を不審に思いながらも、助手席のロックをはずした。正俊はのっそりとした動作で助手席に乗りこんできた。
「何でこんなに早く……今週末まで帰らないはずでしょ?」
麗子にとっては予想外の事態である。悪魔|祓《ばら》いは普通、四〜五日もあれば充分だと聞いていたので、夫が帰ってくるまでには片がつくと思っていたのだ。
「ちょっと気になることがあってね」
「気になること?」
摩耶の件がバレたのかと、麗子はどきりとした。
「まあ、詳しい話は後にするとして……ちょっとお客さんがいるんだ。いっしょに乗せて行ってくれないかな?」
麗子の承諾を待たずに、正俊は後部座席のロックをはずした。どこに隠れていたのか、二人の人物がずけずけと乗りこんでくる。日本的で端正な顔立ちの三〇代ぐらいの美しい女性と、眼鏡をかけた長髪の大学生風の青年だ。
「おじゃまします」と青年が言った。
麗子は困惑した。「な、何なの、この方たち!?」
「霧香《きりか》さんと蔦失《つたや》くん。摩耶ちゃんの友達だよ――三人とも」
台詞《せりふ》の途中で夫の声が急に変わったので、麗子は驚いて助手席を見た。
助手席に乗りこんできたのは、確かに正俊のはずだった――しかし今、助手席に座っているのは、中学生ぐらいの女の子だ。いたずらっぽい笑いを浮かべ、麗子の驚く顔を見つめて楽しんでいる。
「初めまして――って言うべきかな?」かなたは陽気に言った。「ほんとは初めてじゃないんだけどね。何度もお宅に泊って、顔合わせてるから。この顔じゃ初めてだけど」
「うちに……泊ってる?」
「そ。気がつかなかったでしょ? いつもは摩耶ちゃんの顔、使わせてもらってるから――いやー、お父さんの顔を覚えといたのが、こんなことで役立つとは思わなかった」
麗子は戦慄《せんりつ》した。唐突に、河原崎神父から聞かされた話を思い出したのだ――探偵が摩耶を尾行していたら、中学生ぐらいの女の子を目撃したという話を。
「あ……あなたたち、何なの!?」
麗子の声はうわずっており、ほとんど悲鳴に近かった。
「かなたちゃんの言った通り、お嬢さんの友達ですわ」霧香が落ち着いた口調で言う。「驚かせて申し訳ありません。本当はこんな乱暴な手段は使いたくなかったんですが、緊急を要する事態のようですので……」
麗子は血相を変え、慌ててバッグの中を探った。取り出したのは銀の十字架だ。それをかなたたちに突きつけて叫ぶ。
「悪魔よ去れ! イエスの御名において……!」
かなたたちはしらけて顔を見合わせた。
「あのう、それ、宗旨が違うんですが……」蔦矢が申し訳なさそうに言う。
「あいにくと、私たちには十字架や聖書は関係ないんです」と霧香。
「ニンニクや銀の弾丸もね」とかなた。
麗子は愕然《がくぜん》となった。役に立たない十字架を握り締め、がたがた震えている。
「まあまあ、そうびくびくしないで、おばさん」かなたは麗子の肩を気安く叩いた。「今すぐ取って食おうってわけじゃないんだし……」
「かなたちゃん」霧香が優しい声でたしなめる。
「はあい」かなたは舌を出し、肩をすくめた。
麗子は失神寸前だった。「な、何なの、あなたたち!? 何が目的なの!?」
「お嬢さんの――摩耶ちゃんの行方を知りたいだけですわ」と霧香。
「昨日も今日も、学校に出てきておられませんね?」
「あ、あの子は病気なのよ!」
「確かに学校には病欠届けが出ているようですけど、家にはおられませんね――失礼ですけど、今朝、部屋を覗《のぞ》かせていただきました」
「摩耶ちゃんの本やCDはどこに行ったの?」とかなた。
「知らない! 知らないわ!」
「もうひとつ、失礼ついでですが、電話も盗聴させていただきました」と蔦矢。
「俺《おれ》たちの仲間には、そういうテクを持った奴《やつ》もいるんです――今日の昼、河原崎さんという方に電話をかけられましたね? 神父さんのようですが……悪魔がどうこうと言ってあられましたね?」
「それは――」
「率直にお訊きしますが、お嬢さんの悪魔祓いを依頼されたんじゃありません?」
麗子は絶句した。その蒼《あお》ざめた表情が、何よりも雄弁に、霧香たちの推理が正しいことを物語っていた。
「だ……だからどうだって言うのよ!?」麗子はどうにか声を出した。「あの子は悪魔に憑《つ》かれてるのよ!? 悪魔祓いを頼むのは、親として当然じゃない!」
霧香の表情は暗くなった。「お子さんを心配する気持ちはお察ししますが、軽率な行動に出る前に、もう少し勉強されるべきでしたね」
「……勉強?」
「時として、悪魔祓いは悪魔そのものより危険なんです。アメリカではキリスト教原理主義グループによる悪魔祓い≠ノ名を借りた幼児虐待が、数多く告発されています。時には死に至ることもあるんですよ。ご存じありませんでした?」
「い、いいえ……」
「だいたい、悪魔を祈りで追い払えるなどと思うのは、人間の思い上がりです。確かに、中には聖書の文句や十字架で簡単に退散するような低級な悪魔もいますけど、本物の悪魔にはそんな単純な手は通用しません。彼らは恐ろしい力を持っています。人間の力ではとうてい撃退できるものじゃありません。その気になれば、人間など簡単にひねり潰せるんです――なぜ、そうしないか分かります?」
麗子はぶるぶると首を振った。
「連中は人間をいたぶるのが好きなんです。力を直接行使したり、自分の手を汚すことはめったにありません。人間をまどわせ、苦しめ、殺し合いをさせる――それが連中の好むやり口です。歴史上の戦争のいくつかは、彼らの仕組んだものです」
「…………」
「まあ、講義は後にしましょう。私たちとしては、摩耶ちゃんが監禁されている場所に案内していただければ、それでいいんです」
「ただし、大急ぎで」かなたは笑顔だったが、口調には冷酷な響きがあった。
抵抗は無意味だった。麗子はしぶしぶ車をスタートさせた。
空にオレンジ色の夕焼けが広がる頃、車は問題の教会に近づいた。そこはつい二時間前、河原崎たちの通った道なのだが、もちろん彼らはそんなことは知らない。
最初はおびえきっていた麗子も、妖怪《ようかい》の存在を受け入れ、少し落ち着きを取り戻してきた。
それはいいのだが、いつもの性格まで戻ってきてしまい、自分の正しい行動(と信じるもの)を完璧《かんぺき》な論理(と信じるもの)で弁護しはじめて、霧香たちを閉口させた。
「だいたい、あんたたちに何の権利があるの!? あの子は私の娘よ! 何をしようとあたしの勝手じゃないの!」
「親としての権利を主張されるなら」と蔦矢。「まず、親としての義務を果たされるべきでしょうね」
「義務? 果たしてるわよ! あの子を十七年も育てたのは誰だと思ってるの?」
「家に住まわせて、食べさせて、服を着せてるだけじゃ育ててる≠ニは言わないよ」かなたは敵意を隠さない。
「あんたに何が分かるってのよ! 他人のくせに!」
「他人じゃないもん! 友達だもん! おばさんなんかより、よっぽどよく、摩耶ちゃんのこと、知ってるもん!」かなたは興奮して声を張り上げた。「摩耶ちゃんの好きな作家の名前、知ってる? 好きな俳優は? 好きなアイスクリームのフレーバーは? 先月の第一日曜に見た映画は?」
麗子はどれも答えられなかった。
「ほら、お母さん、摩耶ちゃんのこと何にも知らないんだ。テストの点以外、興味ないんだもん――摩耶ちゃん、かわいそうだよ」
かなたはあふれてくる涙をぬぐった。
「摩耶ちゃん、かわいそうだ……お母さんがもっともっと話してあげてれば、好きな作家とか、好きな俳優とかの話を聞いてあげていれば、あんな淋《さび》しい子にならなかったのに――」
「私は……私はいつもあの子の将来を――」
「止まって!」
霧香の声が麗子の弁明をさえぎった。麗子は慌ててブレーキを踏む。
「ボンネットを開けて!」
車が止まると同時に、霧香はそう言って飛び出した。蔦矢も後を追う。かなただけは麗子を監視するために残った。
霧香はボンネットを開いた。自動車のことは詳しくないが、どれがエンジンでどれがラジエーターかぐらいは分かる。蔦矢は彼女の肩越しに覗きこんだ。
「どうかしたんですか?」
「何か飛びこんだわ。人間の目には見えないものが」
「え?」
「ほら、そこよ!」
霧香が指差した場所に、青い半透明の影が現われた。小さめの猫ぐらいの大きさで、赤ん坊のような体形をした裸の生き物だ。
透明化の術を破られたことを知ると、そいつは怒って飛びかかってきた。蔦矢はそいつを手刀で叩き落とした。
「何なんです、これ?」
蔦矢は地面に落ちてもがいているそれを、気味悪そうにつかみ上げた。ゼラチンのように半透明で、ぶよぶよした感触だった。カエルのような顔をしている。
「ポルターガイストよ。日本では家鳴《やな》り≠ニも言うけど」
「へ、これが? 初めて見たなあ……」
「普段から透明だから、めったに見れるもんじゃないわ。たぶん、ブレーキを故障させようとしてたのね」
「グレムリンみたいなことする奴だな」
「普通はこんなことはしないわ。動物なみの知能しかないし、家具をがたがた揺らしたりするぐらいしか芸がない、無害な妖怪よ」
「それじゃ……」
「そう、誰かに操られてるのね」
ポルターガイストは身をよじり、蔦矢の手からするりと逃れた。ボールがはずむようにぴょんぴょんジャンプして、ヒノキ林の中に逃げこもうとする。
「逃がしちゃだめ!」霧香が叫んだ。
蔦矢が手をぴんと伸ばすと、鋭く風を切る音とともに、黒く尖《とが》ったものが忍者の手裏剣のように連射された。縁がカミソリのように鋭利な木の葉だ。それは空中でポルターガイストを捕らえ、ずたずたに引き裂いた。
半透明の妖怪の残骸《ざんがい》は、ヒノキの幹に激突して、ぐちゃっと潰《つぶ》れた。青いゼリーのようなものが幹にへばりつく。蔦矢はため息をついた。操られていた下級妖怪とはいえ、弱い者を虐殺するのは後味が悪い。
「ねえ!」かなたが窓から顔を出し、鼻をひくつかせてあたりを見回した。「やばいよ! 近くで血の匂《にお》いがする!」
あたりを探し回った一行は、その少し先のカーブで、谷川に転落したワゴンを発見した。まっすぐに落下したらしく、ボンネットがブルドッグの顔のようにひしゃげて、車体は墓石のように河原に垂直に立っている。めったに人の通らない道なので、何時間も発見されなかったのだろう。
後部座席に乗せられていた内村は、首の骨が折れていた。運転していた山尾は、転落の衝撃でシートベルトがはずれて前に放り出され、車のフロントガラスを突き破り、谷川に顔を突っこんでいた。もがいた形跡があるところを見ると、即死ではなかったらしい――身動きがとれないまま、溺死《できし》したのだ。
「ひどい……」
かなたは顔をしかめ、動揺を隠せなかった。妖怪としてまだ年若い彼女は、人の死を見ることに慣れていない。麗子の表情も蒼ざめている。それに比べ、数百年の間に多くの惨劇を目にしてきた霧香は、もう少し冷静に観察する余裕があった。
彼女は目を閉じ、この場で半日前に起きたことを霊視した。ワゴンが車道から飛び出し、きれいな放物線を描いて谷川にダイブする。勢いがついていたところを見るとブレーキを踏んだ様子はない。
それともブレーキが利かなかったのか。
「こっちにもう一台落ちてます!」
蔦矢が叫んだ。行ってみると、カーブの向こう側に車がさかさまになって落ちていた。こちらもまた、乗っていた男は二人とも死んでいた。
「河原崎さん……」
犠牲者の一人の顔を見た麗子は、息を飲んだ。ひしゃげた車の中で、河原崎の遺体は奇妙な角度にねじれていた。血にまみれたその顔は、すさまじい恐怖の表情を浮かべたまま、死の瞬間で時間が停止している。
「誰か、例の教会を孤立させようとしている奴がいるみたいね」と霧香。「それもかなり残酷な奴が……」
霧香は考えこんだ。ポルターガイストを操る手口には心当たりがあった。
三人だけで摩耶を救出しようと考えたのは間違いだったかもしれない、と彼女は思った。流か八環か未亜子を連れてくるべきだった。だが、今から電話で連絡しても、彼らが到着するには何時間もかかるだろう。それまでに摩耶の身に何が起こるか分からない。
彼女の予感が正しいなら、敵は相当に手ごわいはずだ。
6 悪魔出現
摩耶は縛り上げられて床に転がされたまま、もう半日も放置されていた。今日は悪魔祓いは行なわれなかったものの、疲労と空腹は相変わらずだ。
それより彼女を苦しめていたのは、人を傷つけてしまったという罪悪感と、精神的な苦痛だった。少しでも気をゆるめれば、また悪魔が飛び出してしまう。一瞬も気を抜くことは許されないのだ。それはまさに拷問であった。
彼女自身の心が、彼女を苦しめているのだ。
摩耶は自分が限界に達していることを感じた。肉体の疲労は精神も弱らせる。今や細い一本の糸だけで現実にすがりついている状態だ。いずれその糸は切れ、抑圧されていた悪魔が暴走を開始するだろう。憎むべき樫塚を殺し、空腹を満たすためにその肉を食らうだろう。母を見つけ出し、引き裂くだろう。自分自身を犯すだろう。そのすべての行為を、自分は狂気の愉悦の中で体験するだろう。
まさに悪魔と化すのだ。
身震いするはど恐ろしい反面、そうなったらどんなに楽だろうか、とも思う。発狂したら、もう何の責任も取る必要はない。良心の呵責《かしやく》に悩むことも、こんな理不尽な目に遭わされて苦しむこともない。力を振るい、自由気ままに殺戮《さつりく》を楽しむことができるのだ。その誘惑はあまりにも甘美で、耐えがたかった……。
摩耶はすすり泣いた。勝ち目のない絶望的な戦いだった。自分自身に勝てる者がいるだろうか?――彼女にできることはただひとつ、最後の最後まで耐えぬき、避けられない破滅の時を、可能な限り先に延ばすことだけだ。
だが、希望は思いがけないところから訪れた。
陽が落ちてしばらくして、ドアが開き、小峰神父が入ってきたのだ。牛乳やサンドイッチを山ほど載せたトレイを持っている。彼は小声で「しー」と言うと、トレイを摩耶の前に置き、縄をほどいた。
「樫塚神父は隣の部屋で仮眠を取っておられます。今のうちにお食べなさい」
疑問を抱いたり、警戒している余裕はなかった。礼儀も慎み深さも忘れ、摩耶は獣のようにサンドイッチにむしゃぶりついた。二日半ぶりの食事らしい食事である。慌てて牛乳をがぶ飲みしたために、むせ返るひと幕もあった。
トレイの上のものを残らず平らげ、空腹が満たされると、ようやく落ち着きが戻ってきた。
「ありがとうございます――でも、いいんですか? こんなことをして……」
小峰はすまなさそうに顔を伏せた。
「私は……樫塚神父の下で、何度も悪魔祓いに立ち合いました。あの方の言われることを疑ったことはない――しかし、今回は違います。あの方のやり方は間違っていると思います。あなたを見ているうち、そう感じるようになりました」
「え?」
「あなたに不思議な力があることは事実でしょう。しかし、あなたはこれまで見てきた悪魔憑きの例とは違う。悪魔に支配されてはいない。清らかな心で、自分の中の悪魔と必死に戦っておられる――そう感じました」
摩耶は顔が火照《ほて》るのを覚えた。
「強引なやり方で悪魔を追い払うことはできない。心の悪魔を追い払えるのは、心の力、愛のカです。罪もない娘さんを縛り上げたり、飢《う》えさせたりするのは、断じて愛ではない――私はそう考えるのです」
摩耶は恥ずかしそうにうつむいた。胸の中に熱いものが広がる。ようやく自分を理解してくれる人間が現われたのだ。この人になら、すべてを打ち明けられる……。
「神父様、私、懺悔《ざんげ》したいと思います」
「懺悔……ですか?」
「はい。母を傷つけ、内村さんを傷つけてしまいました。そのことで――」
小峰は手を上げ、彼女の言葉をさえぎった。
「それならば、私よりも神に懺悔されるべきですね――礼拝堂に参りましょう」
小峰はまだふらついている摩耶を支えながら、礼拝堂に入った。ステンドグラスは夕焼けを浴びて輝いており、礼拝堂全体がオレンジ色の神秘的な光に染まっていた。二人は手を取り合って、奥の壁に掲げられた十字架の前に立った。
「さあ、心の中にある重荷を吐き出し、楽におなりなさい」
摩耶はうなずいた。小峰は「神の許しを乞いなさい」とも「悔い改めなさい」とも言わなかった。「楽におなりなさい」という言葉は、純粋に彼女の身を案じて出たものだろう。それが彼女には嬉《うれ》しかった。
摩耶はごく自然にひざまずき、手を組み、頭を垂れた。
「神様、私は――」
しかし、彼女が口にできたのはそこまでだった。
小峰の悲鳴に、彼女は驚いて振り返った。小峰の体が宙に浮かんでいた。見えないピアノ線に吊《つ》るされているかのように、礼拝堂の天井めがけてぐんぐん上昇してゆく。彼はパニックに陥り、悲鳴をあげて手足をばたつかせている。
「は……放せ! 放せ!」
その悲鳴と、何かを振りほどこうとするしぐさから、摩耶は直感的に真相を知った。彼は吊るされているのではない。何か目に見えないものに抱き上げられているのだ。
天井近くまで持ち上げられた小峰の体は、ほんの数秒、そこで静止したかと思うと、いきなり水平方向に勢いよく投げ出された――ステンドグラスめがけて。
その瞬間、摩耶は恐怖のあまり目をそらせた。ガラスの割れる恐ろしい音が、礼拝堂に響き渡る……。
おそるおそる目を開けた彼女は、予想以上の凄惨《せいさん》な光景を目にし、愕然《がくぜん》となった――小峰の体はステンドグラスを破ったものの、反対側までは突き抜けず、大きな窓の中央で十字架上のキリストのようにひっかかっていた。尖ったガラスが体を貫通しており、すでに死んでいるのは明らかだ。膨大な量の血が何本もの筋となって流れ落ち、夕焼けを背景に、ステンドグラスを黒く染めてゆく。
「何ということだ!」
樫塚の驚きと怒りに満ちた声が響いた。小峰の悲鳴とガラスの割れる音を聞きつけ、駆けつけてきたのだ。彼は茫然《ぼうぜん》と立ちつくしている摩耶に大股《おおまた》で駆け寄ると、その小さな肩をつかみ、激しく揺さぶった。
「きさま、何ということをした! 何ということをしたんだ!」
「違います……私じゃ……私じゃない……」
摩耶の弱々しい弁明は、聞き入れられなかった。彼女自身、自分の言葉に確信を抱けなかった。樫塚と同様、小峰にも恨みを抱いていたのは事実だ。悪魔が暴走し、自分の意志に反して小峰を殺したのかもしれないのだ。
「この悪魔め! 人殺し! 人殺し! 人殺し!」
樫塚は怒りのあまり、祈りの言葉も忘れていた。ヒステリックに叫びながら、少女の胸ぐらをつかみ、力いっぱい頬《ほお》を叩く――何度も、何度も。
「やめ……やめて……!」
摩耶はか細い声で悲鳴をあげた。
糸が切れる――と思った。ただ一人、助けの手を差しのべてくれた小峰が死に、希望は断たれた。もう自分自身すら信用できない。この世界に理性の足がかりとなるものは、もはや何ひとつ存在しない。あるのは敵意と無理解と絶望だけだ。
あとほんの一歩、踏み出せばいい。そこには甘美な狂気の世界が待っている。樫塚に殴られながら、摩耶はうっすらと笑みを浮かべていた。もうすぐ、この無知な男に思い知らせてやれる。自分がいったい何を相手にしていたのかを……。
その時、樫塚の手が止まった。教会の前に車が急停車する音がしたのだ。数秒後、ざくざくと砂利を踏む足音がしたかと思うと、扉が大きな音を立てて開かれ、薄暗い礼拝堂の中にヘッドライトのまばゆい光が満ちあふれた。
その光の中に、三つのシルエットが立っていた。
「摩耶ちゃん!」
「かなた……?」
懐かしい声を耳にして、摩耶の意識は狂気に落ちる寸前で踏みとどまった。あまりにも意外な救いの手の訪れに、彼女は一瞬、それが現実の出来事なのか、自分の狂気が生み出した幻影なのか、判別できなかった。
思いがけないなりゆきに、樫塚の注意がそれ、束縛していた力がゆるんだ。摩耶は夢中でその手を振りほどいた。
霧香が、ずいっと一歩踏み出し、樫塚に指を突きつけた。
「あきらめなさい。あなたの企みはみんな分かってるわよ」
「企み? 何のことだ?」樫塚は混乱した。「私は何も――」
「あなたに言ってるんじゃないわ」霧香は鋭い口調でさえぎった。「あなたの後ろにいるものに言ってるのよ[#「あなたの後ろにいるものに言ってるのよ」に傍点]」
樫塚は驚いて振り返る。しかし、そこにあるのは白い壁だけだ。
「いつまでとぼけてるつもり?」霧香は言葉を重ねた。「いくら姿も気配も消していても無駄よ。私は人間の目には見えないものが見える……さあ、姿を現わしなさい。それとも私があばいてあげましょうか?」
すると、くすくすという笑い声が虚空《こくう》から響いた。
「いいわ、望み通り、姿を見せてあげましょう」
その台詞《せりふ》が終わらないうちに、壁が白い光を発しはじめた――いや、壁の手前の空気が発光しているのだ。
樫塚は至福に満ちた感覚に打たれ、ひざまずいた。摩耶が驚きながら見つめているうちに、光は明るさを増し、金色の微粒子を発散しながら広がっていった。そのまばゆい輝きの中に、白い衣をまとった人影が現われた。
「そんな――」摩耶は息を飲んだ。「マリア様……」
その女性は神々しい笑みを浮かべながら、輝く白い衣をひるがえし、ゆっくりと樫塚に歩み寄った。優美なしぐさで腰をかがめ、白いしなやかな手で彼の頬《ほお》を撫《な》でる。樫塚は感動のあまり、震える指でその手に触れ、夢中でくちづけした。
と、その手の色が、化学変化でも起こしたかのように、急に青く変わった。
「顔をお上げ。あたしの忠実なしもべよ……」
驚いて顔を上げた樫塚は、次の瞬間、悲鳴をあげた。
女の顔が青く変わっていた。血の気を失った青さではなく、蛇《へび》のうろこを連想させる毒々しい青だ。その顔に浮かぶ表情も、もはや慈愛にあふれた聖母の微笑みではなく、下品で淫《みだ》らな笑顔だった。
衣が光を失い、真っ黒に変色した。背後に輝いていた後光も消えている。今や樫塚の前に立っているのは、コウモリを連想させる漆黒《しっこく》のドレスをまとった、恐ろしい魔女だった。彼は恐怖のあまり尻餅をつき、手足をばたつかせて後ずさりした。
「おやおや、今さら何を怖がってるのさ?」女は樫塚の狼狽《ろうばい》ぶりを嘲笑《ちょうしょう》した。「二〇年もいっしょにやってきた仲じゃないの」
「そんな……馬鹿な!」樫塚の声はかすれていた。「ありえない……そんなことがあるはずがない!」
女はげらげらと笑った。
「困ったもんだねえ! あんた、神父のくせに聖書もろくに読んでないのかい? サタンでさえ光の御使いに変装することがあるって、ちゃんと書いてあるじゃない?」
「そ、そんな……」
「ちなみに、『コリント人への手紙・第二』第十一章第十四節だよ」
樫塚は胸をまさぐり、十字架を握り締めた。それを女に向けて突きつける。
「サタンよ去れ! イエス・キリストの御名において――」
女はわざとらしくよろめき、ドレスの袖《そで》で顔を覆って笑った。
「十字架だあ! おお、こわいこわい!」
次の瞬間、樫塚は苦痛の悲鳴をあげた。十字架が高熱を発し、彼の手を焼いている。彼は慌ててそれをもぎ放し、投げ捨てた。
「分かっただろ? あたしにはちょっとした隠し芸がいくつかあるのさ。金属を熱するのもそのひとつ。あるいはこんなのも――」
女が指差すと、説教壇の上に置いてあった聖書が燃え上がった。
「あるいは、そこらにいるポルターガイストに命じれば、こんなのもできる」
参列者席の長椅子ががたがたと動いた。
摩耶は目を見開いた。「あれはあなたがやったのね……!」
「そうよ」と霧香。「おおかた、摩耶ちゃんに悪魔が憑《つ》いていると思わせ、悪魔祓いの儀式でいじめぬいて、気を狂わせるつもりだった――そうじゃなくて、モリガン?」
「モリガンって……ゲームに出てくる?」かなたが口を出す。
「こっちがオリジナルよ。アイルランドの夢魔の女王……」
「言っとくけど、そのお嬢さんに憑いてる下等な夢魔といっしょにしないでよね」モリガンは気取ったポーズで言った。「あたしは六〇〇年も生きてるのよ。ちゃんと自分の意志だってある。夢魔と言うより、悪魔かな、やっぱり」
「知ってたのね……」摩耶のショックは大きかった。「私のこと、最初から……」
「そりゃそうよ。あたしはいつもこの男の後ろにいたんだもの――河原崎からあんたの話を聞いた時、同類だとピッときたよ。それで、この男をそそのかせて、あんたを狂わせて、夢魔を暴走させてみたら面白いんじゃないかなって思いついたわけ」モリガンはいたずらっぽく肩をすくめた。「最後の最後で失敗したけど、ま、充分に楽しませてもらったよ」
青い女悪魔はしゃがみこみ、床の上で震えている哀れな樫塚に覆いかぶさって、その肩を優しく抱きしめた。
「二〇年もこの男で遊んできたけど、そろそろ飽きてきたからね。他の男に乗り換えようかと思ってた矢先だったのさ」
モリガンはくすくすと思い出し笑いをした。
「本当に面白かったよ、こいつは――すごく純真でね、あたしがほんのちょっとポルターガイスト現象を起こしてみせただけで、本物の悪魔憑きだと信じこんじまうのさ……」
「う、嘘《うそ》だ……」樫塚は弱々しく首を振った。「あれはみんな悪魔憑きだった……私が祈りで追い払ったんだ……」
「いいや、違うね。本物の悪魔の言うことを信じなよ[#「本物の悪魔の言うことを信じなよ」に傍点]。あたしは人の心を覗《のぞ》くこともできるんだ。あんたが悪魔祓いをやった三七人の中で、本当に悪魔に憑《つ》かれていた奴なんて一人もいなかった。みんな哀れな犠牲者さ。夫の虐待に耐えかねて酒に逃避した女、脳に障害のある子供、貧しい街に生まれて麻薬に溺れた少年――そんなかわいそうな連中を、あんたはいじめぬき、狂わせたんだ……」
モリガンは樫塚の耳許に口を寄せ、誘惑でもするかのようにささやいた。
「ほら、こないだのカルメリタって女の子を覚えてるかい? あの子はね、毎日のように父親に犯されてたんだよ。でも、それを誰にも言えなくて、だんだん頭がおかしくなって、とうとう変な言葉を口走るようになったのさ……」
「嘘だ! 信じないぞ! あの子は本物の悪魔憑きだった! その証拠に、悪魔がイグレオスと名乗ったじゃないか!」
モリガンはげらげらと笑った。「ばっかだねえ! ほんとに馬鹿だよ! イグレオス(IGREOS)がセルヒオ(SERGIO)のアナグラムだって、何で気がつかないのさ!? あの子はね、自分を苦しめている悪魔≠フ正体が父親だって、あんたらに教えたかったんだよ」
「そんな……」
「あの子が何と言ったか覚えてるかい?――『人間がどんなに苦しもうと、神は助けてなどくれない』……あれはあの子の心の叫びだったのさ。でも、あんたはそれを無視した。罪もない女の子を痛めつけ、いっそう苦しめた……」
「嘘だ……」樫塚の否定の声は、前ほどの自信は失われていた。「あの子は……悪魔祓いで正常に戻ったじゃないか!」
「それは『正常』という言葉の定義によるね。ま、確かに明るさは取り戻したけどさ。あの子はこれからも父親にもてあそばれ続けるよ。その境遇のどこが『正常』だい? そんな境遇で明るく振る舞えるってのは、これはもう、頭のおかしい証拠だよ――あんたの悪魔祓いのせいで、完全に狂気の世界に行っちまったのさ」モリガンはそう言って、肩をすくめた。「ま、それもまた、あの子にとっては幸福ってもんかもしれないけどね」
樫塚は完全に打ちのめされ、もはや言葉も出なかった。二〇年もの間、悪魔の手先として利用され、恐ろしい罪を重ねてきたと知ったのだ。それは彼の人格を破壊するのに充分な衝撃だった。
「……お喋《しゃべ》りはもう充分かしら?」
我慢できなくなって、霧香が口をはさんだ。モリガンはにんまりと笑った。
「ああ、充分だよ――二〇年間、この男に真相をぶちまける日を楽しみにしてたんだ。これですっきりしたよ」
モリガンは虚脱状態の樫塚を乱暴に床に投げ出し、ゆらりと立ち上がると、霧香たちの方に向き直った。左手を腰に当て、右手で優雅に髪をかき上げる。
「言っとくけど、馬鹿なことはよすんだね。あたしの態度が余裕たっぷりなのは、自信過剰のせいじゃないよ。ぱっと見て、あんたらの力量はだいたい読めてる。三人がかりでも、あたしの敵じゃないね」
霧香は唇を噛《か》んだ。悔しいが、モリガンの分析は正しい。霧香は感知能力には優れているが戦闘が苦手なタイプだし、蔦矢とかなたは若くて力不足だ。六〇〇年も生きてきた悪魔と戦っても、まず勝てないだろう。
だが――
「……ひとつ、忘れてるんじゃない?」
そうつぶやいたのは摩耶だった。さっきから顔を伏せ、棒のように立ちすくんでいる。肩を震わせているので泣いているようにも見えるが、小さなこぶしは固く握り締められ、その声は怒りに震えている。
許せなかった――人間の心をもてあそび、人間同士を傷つけ合わせる悪魔。面白半分に大勢の人を苦しめ、殺してきた、最低の妖怪。小峰もこいつに殺されたのだ……。
彼女の怒りはすでに臨界を超えていた。
「ん?」
モリガンは振り返り、にんまりと微笑《ほほえ》む。摩耶はゆっくりと顔を上げ、激情に燃える目で憎むべき悪魔をにらみつけた。
「私のことを――」
おとなしかった口調が一変する。
「忘れてんじゃないかって言ってんのよ!!」
その絶叫とともに、摩耶の足許《あしもと》から、黒い影が爆発するように飛び出した。瞬時に実体化した夢魔は、黒い巨体を軽々と跳躍させ、モリガンに殴りかかる。
モリガンはひらりとパンチをかわし、宙に舞い上がった。勢い余った夢魔は、説教壇を粉々に打ち砕く。
「忘れてるんじゃなく、相手するまでもないからよ!」
モリガンがそう言うと同時に、参列者席の長椅子《ながいす》のひとつが浮き上がって、摩耶めがけて一直線にぶつかってきた。寸前でかわしたものの、他の長椅子も次々に浮き上がり、攻撃をかけてくる。摩耶は自分の身を守るため、やむなく夢魔を後退させた。
夢魔は彼女の前に立ちはだかり、飛んでくる長椅子を片っぱしから打ち砕く。だが、このままでは攻撃に転じることができない。
摩耶は怒りに歯ぎしりした。何という卑劣《ひれつ》な奴! 本人を殺せば夢魔も無力になることを知っているのだ。
「このお!」
かなたが無謀にもモリガンめがけて跳躍する。女悪魔は少しも動じることなく、ドレスの裾《すそ》をさっと振って、かなたをはたき落とした。
「かなたちゃん、どいて!」
蔦矢が木の葉を放った。ほとんどは壁に突き刺さったものの、何枚かはモリガンのドレスを切り裂き、皮膚を傷つけた。青い血が飛び散り、彼女は顔をしかめた。
「植物の妖怪《ようかい》か? ならば――」
モリガンが指を突きつけると、蔦矢のズボンの裾が燃え出した。苦痛の悲鳴をあげる蔦矢。炎は彼の最大の弱点なのだ。かなたと霧香が慌てて駆け寄り、はたいて火を消す。
蔦矢たちに気を取られたせいか、ポルターガイストの攻撃にわずかな間隙《かんげき》が生じた。その油断をついて、摩耶は夢魔を突進させた。側面からの強烈な体当たりをまともに食らい、モリガンははじき飛ばされて壁にめりこんだ。
「くっ……生意気な!」
モリガンは苦痛に顔を歪《ゆが》め、壁から自分の体を引き剥《は》がすと、黒いドレスをひるがえして跳躍した。摩耶を攻撃するのかと思いきや、彼女の頭上を一瞬で通過し、屋根を突き破って外に飛び出した。屋根の破片がばらばらと摩耶に降りかかる。
悪魔は卑劣な手段を好み、直接対決を嫌う――傷つくのを嫌がり、逃げ出したのだ。
「逃がすかあ!」
摩耶は叫んだ。その背後から夢魔が飛んできて、素早く彼女を抱き上げると、モリガンが天井に開けた穴から外に飛び出した。
霧香たちは慌てて外に出た。見上げると、すでに二つの黒い影は夕闇《ゆうやみ》の空に飛び去り、急速に小さくなってゆくところだった。
空を飛べない霧香たちには、もうどうすることもできなかった。
7 空中の決戦
モリガンは黒いドレスをコウモリの翼のようにはばたかせ、西に向かって飛んでいた。摩耶は夢魔の太い腕に抱かれ、それを追う。時速は一〇〇キロを越えていただろう。風が激しく髪をかきむしり、目が痛む。
それでもモリガンとの距離は縮まらなかった。抱えている摩耶の体重が負担になって、夢魔は全速力を出すことができないのだ。それに彼女を抱えたままでは、たとえモリガンに追いついても、まともに戦えないだろう。かと言って夢魔だけに追跡させるのは問題外だ。視野から出てしまったらコントロールできなくなる。
摩耶はあせった。憎むべき悪魔を逃がすわけにはいかない。何か夢魔の負担を軽くする方法はないのだろうか……?
その時、ひらめくものがあった。かなたたちと初めて会った夜のこと――夢魔が初めて実体を現わした夜のことだ。あの時、彼女は高空から落下するかなたを救いたい一心で、夢魔と一体化することができた。あれと同じことができれば……。
他に方法はない。摩耶はためらうことなく念じた――強く、一心に。
一瞬、夢魔の姿がぼやけ、黒い雲のようになった。夢魔の腕が実体を失うと、摩耶は空中に放り出された。それまでに獲得していた速度を維持したまま、黒雲を彗星《すいせい》の尾のようにたなびかせ、長大な放物線を描いて飛ぶ。あせることはない。落下まであと何秒もかかる。
摩耶がさらに念じると、黒雲は再び彼女の体にまとわりついた。それは彼女の全身を覆い隠し、実体化した。
再度出現した夢魔は、さっきまでとは姿が変わっていた。摩耶の体形に合わせ、ひと回り小さくなり、プロポーションが女性的になっている。翼もほっそりとなり、コウモリというより鎌のようだった。顔は仮面のようで、長く黒い髪をたなびかせていた。皮膚もゴム状ではなく、昆虫のキチン質を連想させる黒い光沢を持った装甲に変化している。
夢魔を自分の体の外側に実体化させ、鎧《よろい》のように身にまとったのだ。
全長四メートル以上ある翼を広げると、落下は停止し、水平飛行に転じた。いける! 摩耶は狂喜した。外からは黒く見える仮面は、ヴァイザーのように半透明で、周囲の様子がはっきりと見える。
力強く翼を打ち振ると、夢魔と一体になった摩耶は弾丸のように加速した。さっきまでと比ベると、速度は倍近くになっている。たちまちモリガンに追いつき、追い抜く。
いきなり目の前に現われた夢魔に、モリガンは驚き、空中で急停止した。摩耶は相手に立ち直る隙《すき》を与えなかった。
「いやあああ!」
強烈なパンチが女悪魔の顔面に炸裂《さくれつ》する。よろめいたところへ、さらに連打を見舞う。思わぬ猛攻に、モリガンは反撃する余裕すらない。確かに魔力と狡猾《こうかつ》さではモリガンの方が上だが、純粋なパワーでは摩耶の方が上回っている。
不意にモリガンの姿が消えた。一瞬、摩耶は目標を見失った。
しかし、透明化の術も傷ついていては無意味だ。流れ落ちる青い血が、空中にくっきりと軌跡を残すのだ。摩耶はそれを見失わなかった。空中に伸びる軌跡を追い、先回りして、敵がいると思われるあたりを殴りつける。
手ごたえがあった! モリガンの悲鳴が空に響く。苦痛のために精神集中が破れたのか、再び姿が現われた。摩耶は相手の頭上に回りこみ、背中を思いきり蹴《け》りつけた。
そこは奥多摩湖の上空だった。真下に向かって蹴り飛ばされたモリガンは、悲鳴をあげながら数百メートルの高度から隕石《いんせき》のように落下し、湖面に激しく叩きつけられた。大きな水柱が上がる。
水面に出てきたモリガンを、すかさず摩耶ははがい締めにした。
「イエス・キリストの御名において問う!」摩耶は叫んだ。「お前の弱点は何だ!?」
モリガンは狼狽した。「そんなこと訊いて、どうするつもりさ?」
「正直に答えないところを見ると、弱点があるのね?」
図星であった。悪魔も妖怪の一種である以上、人間たちが創り上げたイメージに縛られる。人間たちが「これが妖怪の弱点だ」と考えた弱点を実際に持つのだ。
悪魔の場合、「イエスの名を出されると嘘《うそ》がつけない」というのが弱点のひとつだった。答えることを拒否することはできても、嘘はつけないのだ。
「イエス・キリストの御名において問う! お前の弱点は十字架か!?」
「く……!」
「そう言えば、さっき十字架を突きつけられた時、『こわい』とは言ったけど、『平気だ』とは言わなかったわね? 本当はこわいんじゃないの?」
「ふん、あたしに何を期待してるのさ!」モリガンは苦しい息の下で反論した。「悪魔は嘘をつくのが大好きなんだよ! あたしが『そうだ』と答えても、それが本当かどうか、あんたにどうやって分かる!?」
摩耶は冷酷に答えた。「試してみれば分かるわ」
「戻って来た!」
かなたが西の空を指差して叫んだ。二つの黒い影が急速に近づいてくる。じたばたと暴れる一方を、もう一方が強引に引きずって飛んでいる。
「や、やめろ、放せ!」
教会が近づくにつれて、モリガンは激しく抵抗しはじめた。
「あんたの言うことなら何でも聞いてやる! あんたの願いを叶えてやるよ! ほら、『悪魔との契約』って知ってるだろ? どんな望みも思いのままなんだよ!」
「……たわ言は地獄に帰って言うことね」
教会の真上に来ると、摩耶はモリガンの足首をつかんだ。そのまま急角度でダイブに移る。目標は教会の尖塔《せんとう》だ。
「やめろーっ!」
モリガンの絶望の叫びが山間に響き渡った。摩耶は急降下を続けながら、女悪魔の体を斧《おの》のように振り下ろした。
尖塔の頂部の巨大な十字架が、女悪魔の背中を貫き、胸へと突き抜けた。摩耶は手を離し、飛び離れた。今や昆虫標本のように串刺《くしざ》しにされたモリガンは、手足を激しくばたつかせ、断末魔の絶叫をあげている。その体から白煙があがったかと思うと、皮膚を破って炎が吹き出した。たちまち全身が炎に包まれる。
数秒後、モリガンの体は爆発して四散した。燃える肉片が霧香たちの周囲に落ちてきて、しゅっと音をたてて消滅した。
その光景を見ていたのは霧香たちだけではなかった。安全のために教会に入らず、車の傍で待っていた麗子も、二匹の悪魔のすさまじい戦いを目にしていた。勝利した方の悪魔が、鎌のような翼を広げ、ゆっくりと舞い降りてくる。
車の傍にふわりと着地した摩耶は、身にまとっていた夢魔の鎧《よろい》を解いた。黒い煙は素早く消滅し、摩耶の姿が現われた。麗子は悪魔の正体が自分の娘であったことを知り、衝撃のあまり硬直していた。摩耶も母の姿を見た。
二メートルの距離を隔てて、母娘は見つめ合った。
母の瞳《ひとみ》に浮かぶ恐怖の色を見て、摩耶は悲しみを覚えた。彼女が一歩踏み出すと、麗子はおびえて三歩後ずさった。それが二人の関係を象徴していた。
その瞬間、摩耶は確信した――もう二人の関係は元には戻らないということを。
いや、違う。最初から関係などなかったのだ。同じ家で暮らし、家族というゲームを演じ続けていたが、本当の意味で家族であったことなど一度もなかった。ただ、今まではその事実を認める勇気がなかった――「家族の愛」という幻想にしがみついていたかったのだ。
摩耶は母に背を向けた。
「私――家を出るわ」彼女の声は、自分でも驚くほど平静だった。「今日はだいじょうぶだったけど、同じ家に暮らしていたら、いつかお母さんを殺してしまうかもしれないから。だから、しばらく離れて暮らす――いいわよね?」
麗子は震えながら、こっくりとうなずいた。
「でも……これだけは信じて」
摩耶は振り返り、涙のあふれる目で母を見つめた。
「私、お母さんを愛したかった――本当に愛したかったのよ」
闇《やみ》に包まれてゆく礼拝堂の中、一人取り残された樫塚は、胎児のように体を丸め、絶望にすすり泣いていた。
「嘘でしょう、マリア様……」彼は十字架を握り締めてつぶやいた。「あんなことはみんな嘘でしょう? みんな悪魔の企みなのでしょう?……いや、そうに違いない。あんなことが現実であるはずがない……嘘だ……嘘に決まってる……」
すると、彼の望んでいた声が響いた。
(ええ、そうです。あれはみんな嘘なのですよ)
樫塚は顔を上げ、表情を輝かせた。
「マリア様……!」
(安心なさい。あなたはいつでも正しいのです。悪魔の嘘にまどわされてはいけません。これからも信仰の道を歩み続けなさい……)
「はい、そういたします! そういたします!」
樫塚は狂喜し、虚空に浮かぶマリアの姿に祈りを捧げた。
だが、その姿は彼以外の誰にも見えず、その声は彼以外の誰にも聞こえないのだ。
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作者註:聖書からの引用は新改訳『聖書』(日本聖書刊行会)を、悪魔祓いの祈りの文句はトム・ホワイト『霊の戦いの戦略』(マルコーシュ・パブリケーション)を参考にしました。
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妖怪ファイル
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[龍宮寺《りゅうぐうじ》菜穂《なお》(化け猫)]
人間の姿:普通の女子大生。ちょっと変わったセンスの服装をしている。
本来の姿:化け猫。巨大な三毛猫の姿と、人猫(猫娘?)の両方の姿をとれる。
特殊能力:霊体をも切り裂く鉤爪。驚異的な跳躍力。妖怪や妖術をも感知する鋭い嗅覚。龍宮寺家の当主を殺した者を呪殺する。
職業:女子大生。
経歴:九州の大各家のお家騒動にまつわる怪談話が、広く人々に信じられて誕生した。龍宮寺家の当主を護り、害をなした者(害をなそうとする者)がいれば復讐する。現在は龍宮寺隆の従姉として、人間の戸籍をもっている。好奇心旺盛で、事件とみれば首を突っ込まずにはおられない。
好きなもの:刺身、またたび酒。
嫌いなもの:寿司飯、柑橘系の香り。水の入ったペットボトル。
弱点:特になし。
[鎌風《かまかぜ》(カマイタチ)]
人間の姿:なし。
本来の婆:両手が鋭利な鎌の形をしているイタチ。胴から下は尾をひくように消えている。
特殊能力:透明になれる。突風、つむじ風をおこす。 鎌の両手であらゆるものを切り裂く。
職業:なし。
経歴:但馬地方(兵庫県北部)に古くから棲む風の妖怪。冬は六甲下ろしにのって、神戸にもやってくる。
好きなもの:峡谷、ビル街などの風の集まる場所。
弱点:建物の中など、閉鎖された空間には入れない。閉じこめられると消滅。
[身飾《みかざ》り(オルヌモン)]
人間の姿:なし
本来の姿:なし
特殊能力:高価な衣服や装飾品、自己見示欲の強い女性に憑依する。人間を支配し、行動を強制する。
経歴:フランスで高級品を買い漁る日本人女性の想念から生まれた。フランスの妖怪ネットワークの手で捕らえられ、日本に送られてきたのだが、手違いがあって解放されてしまった。
好きなもの:高価な衣服。装飾品。
弱点:長期間、人々の注目を浴びていないと消滅する。
[妖剣(五代目村正)]
人間の姿:なし。
本来の姿:全身がぼうっと青白く光る若武者。
特殊能力:刀に変身できる。風の刃を放つ。
職業:なし。
経歴:室町時代の中期に造られた幻の名刀。所有者だった侍の想いによって妖怪となる。主人と決めた人物を守ろうとするあまり殺人を犯し、 <うさぎの穴> のメンバーに成敗されたが……。
好きな物:侍の魂を持つ人間。自分の価値を認めてくれる者。
弱点:武士道に縛られること。電撃。
[モリガン(女悪魔)]
人間の姿:清らかなイメージの美しい女性。
本来の姿:黒い衣をまとった青い肌の女。
特殊能力:空を飛ぶ。幻影を作り出す。姿を消す。金属を加熱したり、可燃物に火をつける。ポルターガイストを操る。
職業:なし。
経歴:アイルランド出身。夢魔が長く生きているうちに邪悪な意志を持つようになった。
好きなもの:人間が苦しむのを見ること。
弱点:十字架。キリストの名を出されると嘘がつけなくなる。
[ポルターガイスト]
人間の姿:なし。
本来の姿:身長約三〇センチ。赤ん坊のような体形で、青く半透明。カエルのような顔。
特殊能力:普段は目に見えない。
職業:なし。
経歴:動物なみの知能しかない低級妖怪で、世界各地に分布している。特定の家に棲みつき、家具を揺らしたり物を投げたりして人間をからかう。数匹のグループで行動することが多い。
弱点:戦闘能力はほとんどない。
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あとがき
[#地付き]水野 良
僕が現代を舞台に小説を書くのは、本書に掲載の作品が初めてです。
これまではファンタジー小説が専門だったので、わずかな知識とあとは想像力だけで書いていたのですが、今回は税関に取材に行ったり、郷土史に関する資料を調べたりと、下準備をいろいろしてから執筆にとりかかりました。苦労もしましたが、貴重な経験でした。これで、現代物も書く自信がつきました。
『妖魔夜行』は、現代を舞台にした妖怪活劇です。ホラーであるともいえますが、妖怪たちの存在が理由づけされているので、怖がりの僕でも平気で読むことができるし、書くこともできます。得体も知れない妖怪を書け、と言われたらたぶん僕には無理だったでしょう。
人間の想念が妖怪を生みだす――
これが妖魔夜行に登場する妖怪たちの基本設定です。想念によって生み出され、やがて覚醒して人格を持つにいたる。妖怪ネットワークに所属する妖怪は、すべて覚醒した妖怪であり、敵対する妖怪の多くはまだ覚醒しておらず、したがって人格も持っていません。しかし、真に恐るべき敵妖怪は覚醒したうえで、人間や善良な妖怪たちに戦いを挑んでくるのです。
「妖魔」では妖怪たちは特殊能力を持った人間として描かれています。だからこそ、妖怪たちは人間にとって、良き隣人であり、親しい友達であり、愛しい恋人となれるのです。
発表された作品を読んでいると、僕の場合、個性的で人間的な妖怪たちに親しみを感じます。お気に入りのキャラは狩野霧香で、本書に掲載の自作「身飾り」は神戸を舞台にしているにもかかわらず、彼女に出張願いました。もうひとりの東京妖怪である高徳大樹は、名前こそよく出てくるものの誰も活躍させてないので、哀れに思って登場させました。出身地も、丹波の山奥と近いことですしね。
神戸を舞台にしましたが、事件を解決するのはあくまでも霧香と大樹のふたりで、神戸の妖怪はただ走りまわっていただけ。次は、菜穂や鎌風たち神戸の妖怪だけを登場させて、作品を書いてみようと思うのですが、「うさぎの穴」の妖怪たちの個性に太刀打ちするのは、なかなか難しそう。アイデアを練らないといけませんね。
本書には、僕以外にも山本弘、白井英の作品が掲載されてます。創作集団グループSNEのベテランと若手の代表で、それぞれ力の入った作品を発表してくれています。競作という形式は、個性の異なる作家、作品が一冊にまとまっているところが魅力であると思います。作家にとっては書き比べで、大変なプレッシャーなのですが、読むほうにとってはこたえられないでしょうね。
シェアードワールド『妖魔夜行』は、これからもどんどん続きます。大好きな作品世界ですので、機会があれば僕も作品を発表したいと思います。また、お会いしましょう。
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<初出>
第一話 見飾り 水野 良
カドカワムック「コンプRPG」Vol.11
一九九四・五・三一刊
第二話 妖刀 白井 英
カドカワムック「コンプRPG」Vol.10
一九九四・二・二八刊
第三話 悪魔がささやく 山本 弘
書き下ろし
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底本
角川スニーカー文庫
シェアード・ワールド・ノベルズ
妖魔夜行《ようまやこう》 悪魔《あくま》がささやく
平成七年五月一日 初版発行
著者――水野《みずの》良《りょう》/白井《しらい》英《ひで》/山本《やまもと》弘《ひろし》