魔法戦士リウイ3
水野 良
「わたしは家を出る決心をしたのです」
リウイが繁華街《はんかがい》で盗賊《とうぞく》たちから助けた少女ミュリエルは、嬉《うれ》しそうに言った。彼女は親の決めた縁談に悩み、戦の神の女性侍祭に想談したところ、「断固《だんこ》戦うべきです」とそそのかされたらしい。
『メリッサの奴……』頭を抱《かか》えながらも、少女を助けるために、彼女の実家に乗り込んだリウイ。しかし、下手《へた》な小細工《こざいく》をしたばっかりに、リウイはミュリエルと婚約《こんやく》する事になってしまった。そう、彼は自ら人生の墓場《はかば》に、足を踏《ふ》み入れてしまったのだった。
着々と事は運ばれ、リウイの周囲もなかばあきらめ気味。人生最大のピンチをどう乗り切るのか?
「不本意です!」メリッサの嘆《なげ》きがオーファンの空に、今日も虚《むな》しく響《ひぴ》きわたる。
大好評のシリーズ第3弾!!
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[#地付き]口絵・本文イラスト 横田 守
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目 次
第T章 女戦士の休日に
第U章 遥《はる》かなる呼《よ》び声
第V章 復讐《ふくしゆう》の代理人
あとがき
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第T章 女戦士の休日に
1
蒸《む》し暑《あつ》い夜だった。
ここ数日、そんな夜が続いている。真夏に雪が降るという事件があった後たけに、その蒸し暑さを歓迎《かんげい》してもいたのだが、それにも限度というものがある。
オーファン魔術師《まじゆつし》ギルドの正魔術師《ソーサラー》にして、魔法戦士《ルーンソルジヤー》を自称《じしよう》している若者は、毛布を蹴り飛ばすと、寝台の上で跳《は》ね起きた。そして枕《まくら》もとに置いてあった水を飲み干す。
リウイである。
「これは寝付《ねつ》かれないな……」
リウイはそうつぶやくと、もっとも安易《あんい》な解決策《かいけつさく》を選ぶことにした。
眠《ねむ》くなるまで寝ないことである。
私服に着替《きが》えて、こっそりと部屋《へや》を出る。それから、門番に愛想笑《あいそわら》いで挨拶《あいさつ》を送って、夜の街《まち》に繰《く》りだした。
久しぶりに、裏通りにある歓楽街《かんらくがい》に足を向ける。その場所で、リウイは赤毛の女戦士ジーニ、戦神《せんしん》マイリーに仕《つか》える女性|侍祭《じさい》メリッサ、そして盗賊《とうぞく》少女のミレルの三人に出会ったのである。
思い出の場所と言えなくもない。もっとも、できればなかったことにしたい思い出ではあるのだが……
しばらく来てなかったので、挨拶代わりに馴染《なじ》みの店をはしごすることにして、それぞれの店で一杯《いつばい》、二杯と酒をひっかけてゆく。
そして夜も更《ふ》け、酔《よ》いも回ってきたので、そろそろ帰ろうかと思ったときだった。
リウイがふと路地《ろじ》のほうに目を向けると、一人の少女の姿が目に留《と》まった。
いかにも値が張りそうな服を着た金髪《きんぱつ》の少女だった。年の頃《ころ》は十三、四といったところ。この街の酒場《さかば》で働いているような服装《ふくそう》でもなければ年齢《ねんれい》でもない。ましてや、客であるはずもない。
そして、二人の若い男が少女を挟《はさ》むように立ち、愛想のいい笑顔を浮《う》かべながら、盛《さか》んに話しかけている。
「まずいな……」
リウイは思わず、声を洩《も》らした。
男たちのほうは、この界隈《かいわい》にふさわしい人間だった。
盗賊《シーフ》である。
酔っぱらいの懐《ふところ》を狙《ねら》ったり、因縁《いんねん》をつけたりして金を巻き上げて生計《せいけい》を立てている下《した》っ端《ぱ》だ。盗賊としての技術が未熟《みじゆく》であることの証《あか》しなのだが、全員が全員、ミレルのような黄金《おうごん》の指先を持っているわけではないのだ。
彼らとしても生きてゆくためだから、何をしたって別にいい。彼らにつけ込まれるような酔い方をするほうが悪いのである。
だが、金髪の少女は間違《まちが》ってこの通りに入り込んできたようにしか見えない。そしてこのままでは、二度と出てゆけなくなってしまうだろう。
あまりにも不憫《ふびん》だった。
盗賊ギルドと問題を起こしたくはないが、現場を目撃《もくげき》したからには放《ほう》っておくわけにもゆかない。
リウイは路地のほうへと入っていった。
「邪魔《じやま》して悪いんだが……」
リウイは、盗賊たちに声をかけた。
二人が同時に振《ふ》り向き、そして険悪《けんあく》な表情を浮かべる。
少女のほうは細い首を傾《かし》げるように、リウイを見つめてきた。
「悪いと思うなら、邪魔しないことだな」
盗賊の一人が凄《すご》んだ。
「そうもゆかない。その娘《むすめ》はどう見ても、この街の住人じゃないからな。黙《だま》って帰してやってくれないか」
「おまえ、この辺《あた》りでよく見かける顔だな。オレたちが誰《だれ》だか知っていて言ってるのか?」
「あいにくだが、知っている。オレにも一人、知り合いがいるからな」
リウイは盗賊たちに答えて、
「ミレルっていうんだ」
と続けた。
「ミレルの仲間?」
「それじゃ、冒険者《ばうけんしや》か?」
二人の盗賊は口々に言って、どうしたものかと顔を見合わせる。
冒険者とやり合うには、相当な覚悟《かくご》がいることを承知しているのだ。そして今のリウイは普段着《ふだんぎ》だから、魔術師ではなく戦士に見えるはずだ。
長身で、体格もある。食人鬼《オーガー》なみと称されることもあるほどだ。別に、誉め言葉ではないのだが……
とにかく、喧嘩《けんか》なら負けないという自信がある。
拳《こぶし》ひとつで、リウイは妖魔《ようま》や狂える精霊《せいれい》といった怪物《かいぶつ》を倒《たお》してきた。その自信は、余裕《よゆう》となって、盗賊たちには伝わっていることだろう。
「できれば、穏便《おんびん》に済《す》ませたいんだ。ここはミレルの顔を立てて、見逃《みのが》してやってくれないか?」
「あ、あいつの仲間じゃな……」
「し、しかたねぇ……」
盗賊たちは血《ち》の気《け》の失《う》せた顔で、言葉をかけ合う。そのまま、ぶつぶつと不満を洩《も》らしながら、路地の向こうに消えていった。
リウイと盗賊のやりとりを、少女はきょとんとした顔で聞いていた。そして、話に決着がついたと思ったのか、その場に残ったほう、すなわちリウイに声をかけてきた。
「あなたは誰なのですか? わたしは、あの人たちに今夜の宿と、お仕事を紹介《しようかい》してもらっていたんですけど……」
「それがどういう意味か分かって言っているのか?」
少女の言葉を聞いて、リウイは寒いものを感じた。
自分が蜘妹《くも》の網《あみ》にかかっていた蝶《ちよう》だということに、まったく気付いていないようだ。
こんな世間知《せけんし》らずは一度、痛い目に遭《あ》ったほうがいいのだが、それも程度問題である。立ち直れないような傷《きず》を負《お》うのを見過ごすわけにはゆかない。
「今夜の宿なら、オレが紹介してやるから、とにかくついてきな。歩きながら、いろいろ説明してやるから……」
魔術師ギルドの宿舎に連れ帰るしかなかった。
こんな時間ではほとんどの宿屋が閉《し》まっているし、開いている宿屋はいかがわしくて、とてもではないが、いたいけな少女を泊《と》まらせるわけにはゆかない。
精神的な疲《つか》れを感じつつも、リウイは少女を連れて歩きはじめた。
(おかげで、今夜は熟睡《じゆくすい》できそうだ……)
リウイは心のなかでそうつぶやく。
それだけが、救《すく》いといえば救いだった。
2
魔術師《まじゆつし》ギルドの宿舎に帰ってきたリウイは、自分の部屋《へや》には寄ろうともせず、同僚《どうりよう》の女性魔術師《ソーサリス》アイラの部屋の扉《とびら》を叩《たた》いた。
「リウイなの?」
驚《おどろ》いたような声が返ってきて、しばらくしてから扉が開いた。
「どうしたの、こんな時間に?」
アイラはいつもの魔法の眼鏡《めがね》をかけていた。そして身体《からだ》の線が透《す》けて見えそうなほどに薄《うす》い夜着《ネグリジエ》の上から上衣《ガウン》がわりに|魔術師の長衣《メイジローブ》を肩にかけている。
「訳ありなんだ。中に入れてくれないか?」
リウイは答えて、背後《はいご》にいる少女を振《ふ》り返った。
それで、アイラも少女の存在に気が付いた。
「なるほど、訳ありだ」
アイラは苦笑する。
期待したんだけどな、と軽く溜息《ためいき》をついて、部屋の扉を大きく開いた。
「どうぞ、入って」
アイラの声に導《みちび》かれるように、リウイと少女は彼女の部屋に入っていった。
部屋のなかは暗かったが、アイラが机の上に置いてあった魔法の洋燈《ランプ》の魔力を発動させると、すぐに青白い光が満ちた。
「あら?」
魔法の明かりのもとで、あらためて少女を観察して、アイラは驚《おどろ》きの声をあげる。
「どうした?」
「この子、見覚えがあるわ。あなた、ミュリエルじゃない? ロドリゴ商会の……」
アイラに訊《たず》ねられ、少女はこくんとうなずく。
「あなたは?」
「わたしはアイラよ。父はアウザール商会を経営しているわ。一年ほど前に、あなたの屋《や》敷《しき》で、誰《だれ》だかの誕生日《たんじようび》の祝宴《しゆくえん》があったでしょ。その宴《うたげ》に、わたしも招待《しようたい》されていたの」
その説明で、ミュリエルという名の少女も、アイラのことを思い出したらしい。
知った人だと分かって、少女はほっとした表情を見せた。当然といえば当然なのだが、今の状況《じようきよう》に不安を覚えていたのだろう。
「ロドリゴ商会っていえば、アイラのところの商売敵《しようばいがたき》なんじゃないか?」
「最大のね」
リウイの問いに、アイラがさらりと答えた。
「でも、わたしには関係ないわ。たぶん、この子にもね」
「金持ちの娘《むすめ》とは思ったけどな。そいつは想像以上だ」
リウイは口笛《くちぶえ》を鳴らす真似《まね》をする。
ロドリゴ商会と言えば、主人ハンセルがここ十年ほどで急成長させてきた新興《しんこう》勢力、言い替《か》えれば成金《なりきん》≠ナある。
「いったい何処《どこ》でさらってきたの? 身代金《みのしろきん》めあてなら、いくらでも要求できると思うけど……」
「人聞きの悪い。オレは彼女の危機を救った恩人なんだぜ」
リウイは憤慨《ふんがい》した顔で言うと、歓楽街《かんらくがい》での出来事をアイラに語っていった。
魔術師ギルドまでの帰り道で、ミュリエルという少女にも、いかに危《あぶ》ないところだったか事情を説明してある。もっとも相手はお子様だから、核心《かくしん》のところはぼかしておいたが。
「家出してきたんだそうだ」
リウイは言った。
「その理由は、まだ聞いていないけどな」
「わたしに聞けということ?」
アイラの問いかけに、リウイはにっと白い歯を見せる。
「知り合いなんだろ?」
リウイにそう言われて、アイラは仕方《しかた》ないというようにうなずいた。本心を言えば、関《かか》わりたくなどないのである。
(惚れた弱みよね……)
心のなかでそうつぶやいて、アイラはミュリエルに向き直った。
「どうして、家出をしたのか、お姉さんに教えてくれない?」
普段《ふだん》、聞いたこともないような優《やさ》しい声で、アイラは少女に訊《たず》ねた。
ミュリエルは恥《は》じらったようにうつむいて、しばらく身体《からだ》をもじもじさせた。
それから意を決したように顔を上げ、
「お父様が悪いの。わたしの知らないあいだに、結婚《けつこん》の相手を決めたりしたから……」
と言った。
その瞬間、リウイは全身の力が抜《ぬ》けたような気がした。
「どこかで聞いた話だな」
「どこにでもある話だもの」
アイラが冷静に応じる。
彼女の言うとおり、騎士《きし》や大商人などいわゆる上流階級の家では、結婚は親が決めるのが普通《ふつう》だ。そしてほとんどの子供は、おとなしくそれに従うものなのだ。
しかし、世の中には例外というものが必ずある。
「最初は親の決めたことだから、従おうと思ったんです。でも、戦《いくさ》の神《かみ》の神殿《しんでん》に行って、女性の侍祭様《じさいさま》に相談してみたら……」
少女の告白を聞いて、それでなくても脱力《だつりよく》していたリウイは、思わず椅子《いす》から転《ころ》げ落ちそうになった。
あわてて身体を支えながら、
「断固《だんこ》、戦うべきです!」
と、誰かの口調を真似《まね》て言ってみる。
「はい、侍祭様はそう言われました。でも、どうしてそれを?」
ミュリエルは不思議《ふしぎ》そうな顔をして、リウイを見つめる。
「分かるさ。その侍祭様のことは、よ〜く知っているから」
「侍祭様のお言葉を聞いて、わたしは家を出る決心をしたのです」
少女は嬉《うれ》しそうに言った。
わがままな印象《いんしよう》はないが、勝ち気な性格ではあるのだろう。
(それにしても、メリッサの奴《やつ》……)
そそのかすのはいいが、その後の責任も持ってほしいものだと、リウイは思った。
もしも、彼が見つけていなかったら、この少女は今頃《いまごろ》どうなっていたことか。人生は戦いかもしれないが、武器も持たずに戦場に送り出すような真似はやめてもらいたいと思う。
「それで、結婚の相手というのは?」
アイラが訊ねた。
聞かなくてもいい質問だが、商売敵の縁談《えんだん》なので興味もあるのだろう。
「なんでも、さる高貴《こうき》な御方《おかた》の血を引かれているんだそうです。ただ、事情があって、そのことは世に知られていないとか……」
「有力|貴族《きぞく》の隠《かく》し子というところだな」
「権力者と結びついて、商売を大きくしようという魂胆《こんたん》でしょうね。この娘の父親は、わたしの父を仇敵視《ライバルし》しているから……」
二人の会話を聞いて、ミュリエルは怪訝《けげん》そうな顔をした。
どうやら、彼女には難《むずか》しすぎる話だったようだ。
「アイラには、そういう話はないのか?」
子供に聞かせるような話でもないと思い、リウイは話題を変えてみた。
「縁談《えんだん》の申し込みはいろいろきているそうだけど、父が全部、断《ことわ》っているわ。父はわたしに甘《あま》いの。好きな人と一緒《いつしよ》になればいいんだそうよ。もっとも、誰かを連れてゆけば、猛反対《もうはんたい》されるに決まっているけど」
アイラは冗談《じようだん》めかしてそう言うと、リウイに意味ありげな視線を送った。
もっとも、そんな視線に気が付くリウイでないことは百も承知だ。
「誰にもやりたくないってことか?」
それはそれで問題だな、とリウイは笑い声をあげる。
アイラが予想したとおりの反応だった。
これほど鈍《にぶ》くても、リウイは、歓楽街《かんらくがい》では女性にもてているそうだから不思議というしかない。
「それでこの子、どうするの? 家に連れて帰れば、謝礼《しやれい》はもらえるでしょうけど……」
「家に帰すのはやめてください。わたしは一人で生活すると決めたんです。わたしだって、商売人の娘なんだもの」
アイラの言葉に、あわてたようにミュリエルが訴《うつた》えた。
「だそうだけど……」
アイラは肩をすくめて、どうするの、とリウイに訊《たず》ねた。
そう訊《き》かれても困るのだが、この少女を連れてきたのは、他《ほか》でもないリウイである。
嫌《いや》がる少女を無理矢理、家へ連れ帰るというのも、あまり気持ちはよくない。盗賊《とうぞく》たちの毒牙《どくが》にかかろうとしているとき、見て見ぬふりをしていたのと、同じという気がするのだ。
「とにかく今晩は、アイラの部屋に泊《と》めてやってくれ。なんとか、方法を考えてみるから……」
こんな世間知《せけんし》らずの少女を野放《のばな》しにはしておけない。それは狼《おおかみ》の群《む》れのなかに、子羊をはなすようなものだ。
「分かったわ……」
リウイの頼《たの》みを、アイラは笑顔で引き受けた。
ここで断《ことわ》れば、ミュリエルはリウイの部屋に泊まらざるを得ない。まさかとは思うが、万が一ということもある。危険は未然に防いでおくに、限るのだ。
「でも、いつまでもというわけにはゆかないわよ。フォルテス導師《どうし》に見つかったら、また罰《ばつ》として古代書の要約《ようやく》とかやらせられるわ。それでなくても、わたしたちは目を付けられているんだから。それに商売敵の娘さんだしね。彼女の父親に知られたら、いろいろ面倒《めんどう》なことになりそうだもの」
「それだけでも、助かるよ」
アイラに礼を言って、リウイは椅子から立ち上がった。
そして彼女の部屋を出て、自分の部屋に戻る。
(相談相手も、いろいろいるしな)
寝台《ベツド》に潜《もぐ》り込みながら、リウイは心のなかでつぶやいた。
眠って待っていたら、向こうからやってくるはずだ。
精神的に疲れていたのと、酒が多少とも残っていたこともあって、リウイはすぐ眠りについた。
そして目覚めたとき、彼の目の前には、短剣《ダガー》の刃《やいば》があったのだ。
3
短剣《ダガー》の刃《やいば》を見ても、リウイは別に驚《おどろ》きもしなかった。
ある程度、予測していた事態《じたい》だったからである。
「おはよう」
と、短剣を向けている相手に対して気軽に声をかける。
「何が、おはようよ!」
怒鳴《どな》り声が返ってきた。
聞き慣れた声。普段《ふだん》は愛らしいが、こういうときの迫力《はくりよく》はなかなかのものだ。
短剣を手に、リウイの枕元《まくらもと》に立っていたのは、盗賊《とうぞく》少女のミレルだった。
「まったく、その太い喉笛《のどぶえ》、切り裂《さ》いてやりたいわ! あんたがあたしの名前なんか出すから、あいつら宥《なだ》めるのに大変だったのよ!!」
リウイに商売の邪魔《じやま》をされた二人の盗賊は、その借りをミレルに払《はら》わせたのである。
夜中に家まで押《お》しかけられて、夜明けまで酒に付き合わされた。そのあいだ、愛想笑《あいそわら》いをさせられたり、べたべたと身体《からだ》に触《さわ》られたりしたのだ。
「ああ、思い出しただけで鳥肌《とりはだ》が立つ!」
短剣を胸もとにしまいながら、ミレルはわざとらしく身を震《ふる》わせた。
胸の脇《わき》に鞘《さや》をつるして、小振《こぶ》りの短剣を隠《かく》し持っているのだ。護身《ごしん》用の武器の携帯《けいたい》は、王国《おうこく》の法で認められているが、彼女みたいな少女が武器を持っていると、どういう職業の人間かそれだけで分かってしまう。
前屈《まえかが》みの姿勢だったので、胸の丘《おか》がその頂《いただき》までリウイには見えてしまった。まだまだ発育|途上《とじよう》というしかないが、これから発育するという保証も実《じつ》はない。
「そいつは大変だったな」
リウイは上体を起こしながら言った。
「だが、オレだけの責任じゃないぜ……」
そう言って、リウイは昨日《きのう》の出来事を順を追ってミレルに説明していった。特に、ミュリエルという少女が家出をした原因は、メリッサにあることを強調しておく。
話を聞き終えて、盗賊の少女は深く溜息《ためいき》をついた。
「これだから、お嬢様《じようさま》は……」
ミレルは呆《あき》れかえって、それ以上、言葉が続かなくなった。
家出ができるのは、家が豊かだからこそだと思う。貧《まず》しい家庭は、子供でも貴重《きちよう》な働き手だから、家出をしようものなら家族が路頭《ろとう》に迷うことになる。街路育《ストリートそだ》ちのミレルなど、家出しようにもそもそも出る家がない。
「同感だな。これから戦《いくさ》の神《かみ》の神殿《しんでん》に行って、もう一人のお嬢様に文句《もんく》を言いにゆこうと思うんだが、ミレルも一緒《いつしよ》に来るか?」
「行くわよ。その女の子、なんとかしないといけないんでしょ?」
「手伝《てつだ》ってくれるのか?」
「手伝うわよ。でも、謝礼《しやれい》とかもらったら、全部あたしのものだからね。あいつらにも、分け前あげないといけないんだから……」
「かまわないぞ」
リウイはさらりと答えた。
「いいわね、金持ちの養子《ようし》で!」
金なら余っているとでも言いたげな態度にムッとなって、ミレルは嫌味《いやみ》を返した。だが、言った彼女のほうが情《なさ》けなくなってくる。
「なんなら、おまえも爺《じい》さんの養子になるか? 昔《むかし》、娘《むすめ》も一人は欲しいとか言ってたから、案外、応じてくれるかもしれないぜ」
「冗談《じようだん》! 誰があんたなんかの義妹になるもんか!」
たとえ貧乏《びんぼう》でも一人で暮らしていることに、ミレルは|誇り《プライド》を持っているのだ。誰かに従属《じゆうぞく》するような生き方だけは、死んでもしたくない。
「そうだな。オレもおまえみたいな妹ができたら大変だ。いつ寝首《ねくび》をかかれるか不安で、夜もおちおち眠《ねむ》れないからな」
リウイは笑いながら起き上がり、着替《きが》えを始めた。
当然、裸《はだか》になるわけだが、ミレルの視線など別に気にもしない。
ミレルも平気なもので、椅子《いす》に反対向きに腰《こし》かけながら、背もたれに顎《あご》を乗せ、その様子《ようす》をじっと眺《なが》めている。
「また、身体《からだ》でかくなったんじゃない?」
「ここのところ毎日、剣《けん》の稽古《けいこ》を続けているからな」
ミレルの問いに、リウイはあっさりと答えた。
前回の冒険《ぼうけん》で、剣を曲げてしまったので、彼は先日、新しい剣を買い求めている。目利《めき》きのアイラに選んでもらったので、今度は品質に問題ないはずだ。
そして、その剣をあいかわらず自己流《じこりゆう》で振《ふ》りまわしているのだ。身体の一部にするぐらいに慣らさないと、狂《くる》える精霊《せいれい》や魔法像《ゴーレム》と戦ったときのような無様《ぶざま》なことになる。いつまでも拳《こぶし》に頼《たよ》った戦いばかりはしてられないのだ。
「だから、そんな暇《ひま》があったら、魔術《まじゆつ》の研究をしていなって。剣で戦うのは、ジーニに任《まか》せてればいいし、メリッサだって、あたしだって戦いは得意なんだから」
「これも、勇者《ゆうしや》になるための修行《しゆぎよう》さ。でないと、我《わ》が従者殿《じゆうしやどの》に不本意《ふほんい》だとか言われるからな」
「顔、笑ってるよ……」
ミレルはじとりとした目で、リウイを見つめる。
一人だと、どうも調子が出ないな、と思う。
なんとなく、この魔術師に主導権《しゆどうけん》を握《にぎ》られているようで、ミレルはおもしろくなかった。だいたい三人がかりでいじめても、この大男はまったく屈《くつ》しない。
前代未聞《ぜんだいみもん》の鈍感《どんかん》さだと、ミレルは思っているのだが、今のメリッサならそれも勇者の資質《ししつ》だと言うかもしれない。
最近のメリッサは、リウイが勇者であることを人々に認めさせようと躍起《やつき》になっている。しかしそれは、他《ほか》でもない彼女自身のために、だ。
世間知らずの少女を焚《た》きつけて家出させたのも、リウイに試練《しれん》を与《あた》えるためではないかという気さえしてくる。
もしも、ミュリエルという少女が盗賊たちに捕《つか》まって、行方不明《ゆくえふめい》になってたとしたら、冒険者《ぼうけんしや》の出番になったのは間違《まちが》いない。
それどころか、すでに誰かに依頼《いらい》がいっているかもしれない。
商売敵《しようばいがたき》が、知り合いの冒険者を使って、娘を誘拐《ゆうかい》した――
考えてみれば、今の状況《じようきよう》は、そういう|筋書き《シナリオ》がぴったりと当てはまるのだ。
(他《ほか》の冒険者と戦いになったりして……)
冗談《じようだん》じゃないわ、とミレルは思った。
妖魔《ようま》や魔獣《まじゆう》といった怪物《かいぶつ》も恐《おそ》ろしいが、いちばんの強敵《きようてき》は間違《まちが》いなく人間なのだ。
(はやいところ、片づけよ)
ミレルは秘《ひそ》かに心に決めると、跳《は》ねるように椅子《いす》から立ち上がった。
ちょうど、リウイが着替《きが》えを終えたところだった。
「さて、行くぞ」
「そうね」
リウイに声をかけられて、ミレルは元気よくうなずいた。
しかし、自分が嬉《うれ》しそうに返事をしたことに気付いて、すぐに憮然《ぶぜん》とした顔になる。
「あたしに命令するんじゃねぇ!」
裏街言葉《スラング》で、ミレルは文句を言った。
完全な八つ当たりなのだが、不意をついて声をかけてきたほうが悪いんだと、自分に言い聞かせる。
「そいつは悪かったな」
リウイは謝《あやま》ったが、気を悪くしたような印象はまるでなかった。もちろん、脅《おど》しが利《き》いたわけでもない。
(こいつって、いったい何者なんだろ………)
ミレルは溜息《ためいき》をつきたくなった。
絶対に、普通《ふつう》ではない。しかし、どう普通と違《ちが》うのかは、彼女にはまだ分からないのだ。
(こいつの生みの親って、どんな奴《やつ》なんだろ?)
会えるものなら会ってみたいと、ミレルは思った。
しかし、盗賊《とうぞく》ギルドの情報網《じようほうもう》をもってしても、この魔術師の生みの親が誰《だれ》なのかも、分からないのだ。
(実は、人間じゃなかったりして)
もし、それが本当だったとしても驚《おどろ》かないだろうな、とミレルは思った。
4
戦神《せんしん》マイリーの神殿《しんでん》は、王城《おうじよう》を中央に挟《はさ》んで魔術師《まじゆつし》ギルドのちょうど反対側に建《た》っている。
その事実は、オーファンという王国が剣《けん》と魔法《まほう》と信仰《しんこう》の力によって興《おこ》されたことを後世《こうせい》の人々に語り伝えているのだと人々は言う。
事実、神殿の責任者であり、マイリー教団《きようだん》の最高司祭《さいこうしさい》の地位にもある剣の姫<Wェニは、リウイの養父《ようふ》カーウェスがそうであるように、オーファンの建国王リジャールが冒険《ぼうけん》者《しや》であった頃《ころ》からの仲間であり、王の偉業《いぎよう》の数々は彼女の助けがなければ、達成《たつせい》されなかったとまで言われている。それほどに、ジェニ最高司祭は神聖魔法《しんせいまほう》の使い手として優《すぐ》れ、また神宮戦士《しんかんせんし》として戦いの技《わざ》にも秀《ひい》でていたのだ。
もっとも、リウイは子供の頃《ころ》から彼女を知っているので、可愛《かわい》がってくれた「おばさん」という意識しかないのだが……
リウイたちがマイリー神殿に着いたとき、侍祭《じさい》の地位にあるメリッサは、信者たちを前にして説教の真っ最中であった。
礼拝所《れいはいしよ》のなかに入ってきたリウイたちの姿に気付いて、メリッサは説教の言葉を一瞬《いつしゆん》、途切《とぎ》れさせた。
しかし、すぐに我《われ》に返り、
「それゆえ、人生は戦いなのです!」
と言った。
いつになく強い語調だったので、礼拝所に集まった信者たちが一様《いちよう》に驚《おどろ》く。
「なんだか、若い男ばかりだな」
信者たちを見渡して、リウイはミレルに声をかけた。
「戦《いくさ》の神《かみ》の神殿だしね。それに、こいつら、メリッサが実は目当てなのよ」
ミレルが小声で答えた。
それは物好《ものず》きなとリウイは思ったが、もちろん口には出さない。
メリッサに見込まれたせいで、散々《さんざん》な目に遭《あ》い続けている。もしも、この信者のなかに、彼女好みの勇者《ゆうしや》がいるなら、替《か》わってもらいたいぐらいだ。
もっとも、実際にそうなったら、冒険者《ぼうけんしや》ではいられなくなるのだが……
(悩《なや》ましいところだな)
リウイは苦笑を洩《も》らした。
そのとき、
「まだ、説教は続きそうね」
と、ミレルがつぶやいて、メリッサに指を立てて合図《あいず》を送った。
いつもの場所で待っている、という意味である。
そして、ミレルとリウイは礼拝所を出て、そのいつもの場所――神殿の裏庭へと回る。
リウイが以前、メリッサの婚約者《こんやくしや》なる人物と決闘《けつとう》を行《おこな》ったのも、この場所だった。
あの事件は一時、笑い話として評判になったが、最近では人々の話題に上《のぼ》ることもなくなっている。人の噂話《うわさばなし》がいかに移り変わりが激《はげ》しいかという好例だろう。
ミレルと他愛《たわい》のない話をしながら待っていると、やがて説教を終えたメリッサがやってきた。
「二人そろってとは、珍《めずら》しいこともあるものですね」
メリッサが澄《す》ましたような顔で言った。
「聞いてよ、メリッサ〜」
ミレルが突然《とつぜん》、甘《あま》えたような声を出して、メリッサに飛びつくと、昨日《きのう》、自分がどんな目に遭《あ》ったかを泣きながら訴《うつた》えた。しかし、涙《なみだ》はまったく流れていない。
「それは、かわいそうに……」
メリッサはミレルを両手で抱《だ》きしめると、冷ややかな視線をリウイに向けた。
「その件については、悪かったと思っている。しかし、そもそもの原因は、あんたにあるんだぜ」
そして、リウイは事情をメリッサに語っていった。
メリッサの助言を真面目《まじめ》に受け止めて、ミュリエルという少女が家出をしたこと。そして盗賊《とうぞく》たちの毒牙《どくが》にかかりそうになり、危《あや》ういところをリウイが助け、今はアイラに預《あず》かってもらっているということなどた。
「あの少女が家出したのですか?」
メリッサは驚《おどろ》いたように言った。
「あくまで戦えとか言ったんだろ?」
「それは言いました。しかし、家を出るというのは敵の前から逃げるような行為《こうい》ですもの。あまり、感心できませんね」
「メリッサだって、家を出たんじゃなかったっけ?」
ミレルが呆《あき》れたような声で言った。
「わたしは家を出たのではありません。捨てたのです」
メリッサはさらりと答えた。
ミレルにはその違《ちが》いがどこにあるのか分からなかったが、それは指摘《してき》しないでおく。
「家と一緒《いっしよ》に男もな。その後始末《あとしまつ》をさせられたのは誰《だれ》だっけ?」
リウイの皮肉たっぷりの言葉に、メリッサの顔がたちまち赤くなる。
「申《もう》し訳《わけ》ございませんでした!」
メリッサはそう言って、頭を下げた。
言葉や態度は謝《あやま》っているが、語調や表情は完全に怒《おこ》っている。
「ミュリエルが盗賊たちにからまれているとき、見て見ぬふりもできたんだけどな。それをしたら、勇者の資格なしとか、誰かに言われそうだったから」
「言ったでしょうね。少女を救《すく》ってさしあげたことは、わたしとしても本意です。ですが、ミレルの名前を出さなくても、他《ほか》にやりようはあったと思いますけど……」
「いちばん穏便《おんびん》で簡単な解決法を選んだだけさ。盗賊ギルドと揉《も》め事は起こしたくなかったしな」
「昔《むかし》は、平気で起こしていたくせに」
ミレルが恨《うら》めしそうに言って、リウイを睨《にら》みつける。
「あたしなんか、ギルドじゃ下《した》っ端《ぱ》なんだから、立場が悪くなるのよ。最近、稼《かせ》ぎもよくないしね……」
それもいったい誰のせいだと思っているのよと、ミレルはぶつぶつと文句を言った。
「乗りかかった船で、あの少女を助けてやりたいんだが、何かいい知恵《ちえ》はないかな?」
「家族の問題ですもの。自分で解決するしかないと思いますが」
メリッサは冷淡《れいたん》だった。
もっと少女の立場に同情してもよさそうだが、彼女自身はすでに解決した問題だからかもしれない。
「戦えとか言っておいて、どう戦えばいいのか教えないというのは問題があると思うぞ」
リウイは指摘した。
「あの少女は、一人で生活すると言っているのでしょう。させてあげれば、よろしいではありませんか?」
メリッサの問いかけに、リウイは苦笑《にがわら》いで答えた。
「昨日の様子《ようす》じゃ、すぐ騙《だま》されるだろうな。あんな子がいかがわしい酒場《さかば》で働いているところなんか、オレは見たくもない」
「そういう場所に、行かなければよろしいのではありません?」
メリッサがぴしゃりと言う。
「そういう問題じゃないたろ」
リウイは激しい脱力感《だつりよくかん》を覚えた。
「少しは真面目《まじめ》に考えてくれよ。オレはあの子を家に帰したいんだ。しかし、縁談《えんだん》は白紙に戻《もど》してやりたい。あと二、三年もすれば、彼女だって精神的に大人《おとな》になる。結婚話なんかそれからでいいんだ」
「少女の父親がそう考えてくれればいいのですけど……」
「無理に決まってるわ。父親なんて勝手《かつて》だもん」
ミレルが軽い口調で言った。
しかし、彼女がそれを言うと、聞いているほうには重く感じられる。なにしろ彼女は実《じつ》の親には捨てられ、育ての親には身売りされているのである。
それでも、ミレルは基本的には明るいし、性格も素直だ。
メリッサは愛《いと》しさを覚え、ふたたびミレルを背後《はいご》から抱《だ》きしめる。
ミレルはくすぐったそうに片目を閉《と》じたが、甘《あま》えるようにメリッサにもたれかかった。
「仲がいいのはけっこうなんだが……」
リウイは、だんだん不機嫌《ふきげん》になってきた。
どう見ても、彼女たちはふざけているようにしか見えない。
「そのなんとかっていう少女を家に帰して、縁談《えんだん》をぶち壊《こわ》せばいいわけよね……」
さすがにまずいと思ったのか、ミレルがメリッサから離《はな》れて、あわてたように言った。
「ああ、それなら彼女も、家を出ようとは思わないたろ」
「盗賊《とうぞく》ギルドのやり方でいい?」
「犯罪《はんざい》には手を貸さないぞ」
「限りなく近いけれど大丈夫《だいじようぶ》。それから、その女の子にもある程度、覚悟《かくご》してもらわないとね」
ミレルは楽しそうに言った。
どんな覚悟だと、リウイは不安を覚える。
小柄《こがら》な盗賊の少女は、まるで遊び道具を見つけた子猫《こねこ》のような顔をしていた。愛《あい》らしい表情と言えなくもないが、彼女の場合、これがくせものなのだ。
「とにかく、話を聞こうじやないか」
リウイはミレルに先を促《うなが》す。
うん、とうなずいて、ミレルは話しはじめた。
盗賊ギルドのやり方だけあって、それは悪巧《わるだく》みという言葉がぴったりであった。
5
魔術師《まじゆつし》ギルドに戻《もど》ったリウイたちは、まずアイラの部屋《へや》に行き、ミュリエルを説得《せつとく》した。
家に帰るべきであること。しかし、結婚話はなかったことにする。そして、そのためには、ミュリエルにも相当な覚悟《かくご》が必要だということを彼女に話す。
「父と戦えばいいということですね?」
少女はメリッサに向かって、嬉《うれ》しそうに言った。
どうやら、戦《いくさ》の神《かみ》の教団は、信者を一人、増《ふ》やしたようだ。
そして、リウイたちはもう一度、段取りを打ち合わせて、ミュリエルの父親が経営する商会へと足を運んだ。
商会に行ったのはリウイとミレルの二人だけで、メリッサは神殿《しんでん》に戻って待機《たいき》している。
なにしろ聖職者《せいしよくしや》だから、悪巧みの片棒《かたぼう》を担《かつ》ぐわけにはゆかないのだ。
商会は表向き平静を装《よそお》っていたが、娘《むすめ》を連れていったとたん、大変な騒《さわ》ぎとなった。
もちろん奥《おく》の部屋《へや》に通されて、商会の経営者であるミュリエルの父親と対面することになる。
「娘を助けてくれたそうですな」
ミュリエルの父、ハンセルは興奮《こうふん》した顔で部屋に入ってきた。
そして、リウイの手を掴《つか》んで、感謝の言葉を繰り返す。
「感謝《かんしや》はいらない」
リウイはわざと乱暴《らんぼう》な物言いで言った。
その声に、ハンセルの顔に一瞬、怒気《いつしゆんどき》が浮《う》かんだ。そして改めてリウイの顔を見て、ふたたびその表情を変える。
驚きの表情に見えた。
(何を驚いているんだ?)
リウイは怪訝《けげん》に思ったが、そのときミレルが目で合図《あいず》を送ってきたので、打ち合わせどおりに進めることにする。
「感謝はいらない。お礼もな」
リウイはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「もうあの子から、もらっているんだ」
そして意味ありげな笑いを浮かべる。
「どういうことですか?」
リウイの言葉に、ハンセルがまたも顔色を変えた。
感情の起伏《きふく》の激《はげ》しい人物なのだろうが、今の言葉で動揺《どうよう》しない父親がいるわけがない。
「つまり、そういうことだ。あんただって、分かるたろ」
リウイはそう言って、できるだけ品のない笑いを浮かべる。
つまり、リウイはミュリエルと関係したと暗《あん》に言っているのだ。
「なにしろオレは命の恩人だからな。それぐらいの役得《やくとく》はないと……」
「ごめんね。女ときたら、こいつ見境《みさかい》がないの。あんな小さな女の子なのにね。無傷《むきず》で返せば、いくらでも謝礼がもらえたのにさ」
残念だわ、とミレルは盗賊《とうぞく》ギルド仕込みの演技力を発揮《はつき》して、吐き捨てるように言った。そしてリウイの尻《しり》を蹴《け》り飛ばす。
打ち合わせにはなかったが、最初からそのつもりだったのだろう。
これも盗賊ギルド流の悪巧《わるだく》みなのだ。
「なんでも、婚約者《こんやくしや》がいたんだってな。ま、悪く思わないでくれ」
「あんたは、口が軽いからね。あんまり調子に乗って喋《しやべ》るんじゃないよ」
「分かっているさ。だが、それも事情によるな。喋ったほうが金になる状況《じようきよう》になったら、我慢《がまん》はしない……」
もしも、ハンセルがミュリエルの婚約を強行《きようこう》するようなことがあれば、婚約相手に彼女と関係したことをばらすと、リウイは言っているわけだ。
上流階級の結婚は純潔《じゆんけつ》にこだわるものだから、これで縁談《えんだん》はおしまいのはずだ。
「口止めのために、金を出せとでもいうのか?」
ハンセルが訊《たず》ねてきた。
だいたい予想どおりの反応だった。
しかし、その表情には余裕《よゆう》があるようにも感じられる。
一瞬、嫌《いや》な予感がした。
(生きて帰さないつもりなのか)
その可能性はリウイも考えたが、まともな商会だから、そこまではしないだろうとミレルが保証した。
もし、そういう事態《じたい》になったら、この盗賊の少女に責任は取ってもらおうと、リウイは心に決める。
「脅《おど》して金を取ったら犯罪《はんざい》じゃないか。オレたちはそこまで悪《わる》じゃない。ま、傷物《きずもの》の商品を店先に並《なら》べるようなロドリゴ商会じゃないって信じているぜ」
そして、リウイは、帰るぞとミレルに声をかけた。
「そうね」
ミレルが一瞬《いつしゆん》、ムッとした表情をしたが、すぐに真顔《まがお》に戻り、椅子《いす》から立ち上がった。
「待ってくれたまえ」
ハンセルが二人を呼び止めようとする。
「話すことはもうないな!」
リウイは振《ふ》り返ると、冷たく言った。
「こちらにはあるのだよ、魔術師《まじゆつし》リウイ」
その瞬間、リウイは心臓が止まったような衝撃《しようげき》を覚えた。
「正体ばれてたの? あんた、なんでそんなに顔が知られてるのさ」
ミレルが小声で囁《ささや》きかけてくる。
「知るかよ! それより、こういう場合、どうするんだ?」
リウイも彼女だけに聞こえる声で言う。
「しらばっくれるしかないでしょ」
ミレルは不機嫌《ふきげん》に言った。
彼女にとっても意外だったらしい。完壁《かんぺき》な計画だと自分では思っていたのだろう。
「人違《ひとちが》いだな……」
リウイは背中に汗《あせ》をかきつつも、ハンセルに言った。
「そうは言わせないよ、魔術師リウイ。わたしとて王宮《おうきゆう》にも出入りしている商人だ。あなたの御養父《ごようふ》とも面識《めんしき》があるのだよ」
やばい、とリウイは思った。
こんな話が養父に知られたら、たたではすまない。犯罪ではないが限りなくそれに近いことをしているのだから。
どう出てくる、とリウイは緊張《きんちよう》して、ハンセルの次の言葉を待った。
主導権は逆転《ぎやくてん》し、今や完全に相手がそれを握《にぎ》っている。
そして、ハンセルの口から出た言葉は、リウイが想像もしなかった一言《ひとこと》だった。
「済《す》んでしまったことはしかたがない。だが、この責任は取ってもらうぞ。わたしの娘と婚約していただく」
リウイとミレルは思わず顔を見合わせ、その場で硬直《こうちよく》した。
その頃《ころ》、女戦士のジーニは、王都《おうと》の郊外《こうがい》を流れる河川の河原《かわら》で、寝転《ねころ》がっていた。
「気持ちのいい天気だ」
水浴びもしたし、太陽の光も存分に浴びた。
日差《ひざ》しは強いがもともと浅黒い彼女の肌《はだ》は日焼けすることもない。
適度に風がそよいで、本当にのどかな一日だった。
今日ぐらいは剣《けん》を振《ふ》るのもやめようと、柄《がら》にもないことを考える。
「それにしても、あいつら今頃《いまごろ》、何やっているのかな」
ジーニは目を閉じながら、仲間たちのことを考えた。
もちろん、彼女はリウイたちが大騒動《おおそうどう》に巻き込まれているなどとは知る由《よし》もなかった。
6
大通りに面したとある酒場《さかば》の片隅《かたすみ》で、リウイは長髪《ちようはつ》の頭を抱えて、テーブルの上に突っ伏《ぶ》している。
同じテーブルには、女戦士のジーニ、戦《いくさ》の神《かみ》の侍祭《じさい》メリッサ、盗賊《とうぞく》少女のミレル、そして女性魔術師《ソーサリス》アイラの四人がいて、思い思いの表情で、リウイを見つめている。
「なんとかならないのか?」
頭を抱えたまま、リウイは呻《うめ》いた。
「オレはまだ結婚《けつこん》するつもりなんてないぞ」
「なんとかと言われてもな……」
ジーニが冷ややかな目で、リウイを見下《みお》ろす。
「わたしがいないあいだに、勝手にやったことだろう。自分の力で解決するんだな」
素《そ》っ気《け》ない言葉だが、彼女の言っていることは正論《せいろん》だった。
しかし、ミレルは共犯者《きようはんしや》で、メリッサとアイラはそれを黙認《もくにん》している。ジーニとは違《ちが》って、第三者とは言わせはしない。
(断固《だんこ》、協力してもらうぞ)
リウイはそんな思いを込《こ》めて、三人の女性を交互に睨《にら》んだ。
「可愛《かわい》い子でよかったじゃない?」
ミレルがひきつったような表情で言った。
「それは否定《ひてい》しない。だが、世間にはもっと可愛い子だっているんだ。それに、強制なんかされて、結婚などしたくない。相手ぐらい、自分で見つけられるんだから」
そしてリウイには、今のところ結婚したいという願望はない。
別に、結婚などしなくてもいいとさえ思っている。世の中には魅力的《みりよくてき》な女性がたくさんいるというのに、なぜ一人に限定する必要があるのだろうか。
世の中には結婚願望の強い男もいるが、それは女にもてないことの裏返しでしかないとリウイは思っている。
そういう男に限って、女性なら誰《だれ》でもいいみたいな印象がある。僅《わず》かでも自分に好意を向けてくれる女性に対して、飢《う》えた犬のようにすり寄ってゆく。そして、たまたま一緒《いつしよ》になった女性に、運命を感じたりするのだ。
百人の女にふられた後に、一人の女と結婚して「僕には君しかいない」とか、いったいどの口で言えるのかと思う。それが相手の女性に対しての優《やさ》しさとは言えなくもないが、誠実であるとは決して言えまい。
つまらない女と結婚するぐらいなら、独身を通したほうが百倍もましである。また自分がつまらない男なら、結婚する資格などないと思えばいい。
「結婚してからだって、遊ぼうと思えば遊べるじゃない?」
ミレルが機嫌《きげん》を取るように言った。
「あいにくだが、そういうのは嫌《きら》いなんだ」
(妙《みよう》なところで、律儀《りちぎ》なんだから)
そういう感性《かんせい》が、ミレルには理解不能なのである。
「とにかく計画を考えたのは、ミレルなんだからな」
「気安く名前で呼ぶんじゃねぇよ」
ミレルが裏街言葉《スラング》で言い返す。円《つぶ》らな目が殺気《さつき》をはらんで、糸のように細くなっている。
「あんたの面《めん》が割れていたから、失敗したんじゃねぇか。ただの魔術師《まじゆつし》のくせに、どこまで顔が知られてるんだか……」
ハンセルがリウイの正体《しようたい》を知らなければ、うまくいったはずだと思っている。完璧《かんペき》だと思っていた計画が失敗したので、ミレルとしても猛烈《もうれつ》に悔《くや》しいのだ。
「リウイはただの魔術師じゃないものね」
アイラが苦笑を浮《う》かべながら言った。
「養父は宮廷《きゆうてい》魔術師にして、魔術師ギルドの最高導師《アークメイジ》カーウェス様。その権力の大きさは、オーファンでも比類《ひるい》ないんだもの」
だから、ハンセルはリウイと娘《むすめ》と婚約《こんやく》させたのだろう、とアイラは思っている。
王国《おうこく》は表向き、商業には不介入《ふかいにゆう》ということになっているが、その影響力《えいきようりよく》はやはり小さくない。アイラの家が大きくなったのも、彼女の祖父がオーファン建国王リジャールの冒険者時代の後援者《パトロン》であったからだ。
祖父は一介《いつかい》の戦士にすぎなかった頃《ころ》のリジャールに投資したことで、最大の利益を上げたというわけである。彼はまたオーファンの財政を任《まか》されていた時期があり、その任期中にオーファン最大の商会の経営者になっている。
悪く言えば、私腹《しふく》を肥《こ》やしたということになるが、同時に王国の財政も豊かにしているので、表だって非難《ひなん》する者はいない。
「権力があるのは、爺《じい》さんだけなんだけどな」
リウイは不機嫌《ふきげん》そうな顔で言う。
「宮廷魔術師の地位も、魔術師ギルドの最高導師の地位も世襲《せしゆう》じゃない。オレが爺さんの跡《あと》を継《つ》ぐほどの魔術師かどうかは、アイラだって分かっているだろ?」
「入門したての頃は、あたしより優秀だったじゃない。真面目《まじめ》にしていたら、今だってどうだったか分からないわよ」
「真面目にできるかどうかも才能のうちさ」
リウイは関心なさそうに答えた。
「あなたが偉《えら》くなるかどうかはともかく、ロドリゴ商会にとっては、今が大事《だいじ》な時かもしれないじゃない。急速に成長してきた商会だしね……」
順調な商売をしているように見えるが、内部には問題を抱《かか》えているのかもしれない。
最初の縁談《えんだん》相手が誰だったのかは知らないが、おそらくリウイはそれ以上の良縁だったということだろう。だから、乗り換えたのである。
「ま、できるかぎりのことはしてみるわ」
アイラはそう約束《やくそく》した。
商売人にも独自の情報網《じようほうもう》があるから、調べてみれば何か掴《つか》めるかもしれない。
「頼《たの》むよ」
リウイはそう言って、アイラに頭を下げた。
それにしても、目先のことだけを考えて娘を結婚させようとしているのなら、ハンセルという男も、たいした商売人ではないなと思う。
だが、そんな人物に、リウイもミレルも完全に言いくるめられてしまったのだ。
結婚という言葉に衝撃《しようげき》を受けて、呆然《ぼうぜん》としているあいだに強引《ごういん》に話を進められたわけだが、詐欺《さぎ》まがいの商売をしてきたんじゃないかと思うほどの巧《たく》みな誘導《ゆうどう》だった。
魔術師ではあるが、リウイは常人より遥《はる》かに世間慣れしているつもりでいる。そして同行していたミレルは盗賊《とうぞく》であり、その道の玄人《プロ》だ。
そんな二人を手玉《てだま》に取ったのだから、話術《わじゆつ》に関しては相当なものだ。
「小細工《こざいく》などするから、こういう目に遭《あ》うのです。正面から正々堂々《せいせいどうどう》と説得《せつとく》するべきだったということでしょうね」
胸の前で両手を組みながら、メリッサが溜息《ためいき》まじりにつぶやいた。
彼女としては、ミレルの考えた計画にはあまり乗り気ではなかった。相手を騙《だま》すことに変わりはないし、年端《としは》もゆかぬ少女と関係を持ったなど、たとえ芝居《しばい》であっても、勇者《ゆうしや》が口にすべき言葉であるはずがない。
ただ、ミレルが珍《めずら》しく楽しそうにしていたので、あえて反対しなかったのである。たとえ失敗しても、リウイが恥《はじ》をかくぐらいだと甘《あま》く見ていたこともある。それがまさか、このような展開《てんかい》になろうとは……
「不本意ですが、わたしが説得いたしましょう」
メリッサは言った。
(今更《いまさら》、不本意はないだろう)
リウイは憮然《ぶぜん》としたが、もちろんそんなことは口にしない。
アイラに対してと同様に、頼むと言って、頭を下げる。
彼としては、どんな手段を使ってでもいいから、この婚約は破談にしたいのだ。試《こころ》みられることはすべて試みてもらいたいという心境なのである。
リウイはミレルに視線を移し、何かを訴《うつた》えるようにじっと見つめる。
「わ、分かったわよ。あたしもやるたけのことはやってみるってば。だけど、盗賊の流儀《りゆうぎ》になるからね」
「この際だ。犯罪《はんざい》に手を染《そ》めなければかまわない」
「それは大丈夫《だいじようぶ》よ」
ミレルはにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
悪い予感がしたが、リウイはやはり黙《だま》っておくことにした。
「それより、あたしたちにだけ頼らないで、自分でも努力しなよ」
「ああ、いざとなったら覚悟《かくご》を決めるつもりだ。だが、それはあくまで最後の手段だからな……」
どんな手段なんだかと、ミレルは思ったが、今はあえて詮索《せんさく》しないことにした。
「ま、がんばるんだな」
話は終わったとみて、ジーニが席を立った。
「ジーニは、どうするのよ?」
ミレルが訊《たず》ねた。
「当座の生活費には困っていないからな。この件が片づくまで、ゆっくりと休ませてもらうさ」
そう答えると、ジーニは軽《かろ》やかな足取りで立ち去っていった。
長い休暇《きゆうか》になりそうだな、と彼女は思った。だが、こうなった以上、久しぶりに一人の時間を楽しむつもりだった。
去りゆく彼女の後ろ姿を、リウイたちは複雑な表情で見送った。
「わたしたちも動きましょう…」
そして、女戦士の姿が消えるのを待って、メリッサがつぶやいた。
後の三人も無言でうなずくと、ゆっくり立ち上がった。
7
「これはこれは、戦《いくさ》の神《かみ》の侍祭《じさい》様が、何の御用でしょうか?」
ロドリゴ商会の主人ハンセルが、丁寧《ていねい》な口調でメリッサに話しかけた。
ここは、彼が経営する商会の本店。そこにある彼の執務室《しっむしつ》で、メリッサはこの大商人と向かい合っているのだ。
「実は、お願いがあってまいりました……」
メリッサは姿勢を正して、ハンセルを見つめる。
年齢《ねんれい》は三十後半、中肉中背で鼻と顎《あご》に髭《ひげ》をたくわえている。これといって特徴《とくちよう》のない容貌《ようぼう》だが、その視線は鋭《するど》く、やはりただ者ではないという印象を受ける。
「なんでしょうか?」
と、ハンセルが微笑《びしよう》を浮《う》かべて訊《たず》ねてくる。
「あなたの娘《むすめ》のミュリエルのことです。魔術師《まじゆつし》リウイとの婚約《こんやく》、なかったことにしていただけないでしょうか」
メリッサは、核心《かくしん》から切りだしていった。
正攻法でゆくと決意してきただけに、下手《へた》な小細工《こざいく》はいっさい使わないつもりだった。
「なぜですか?」
ハンセルはメリッサの言葉を十分、予想していたらしく、驚《おどろ》いた様子《ようす》も見せず、そう問い返してきた。
「数日前に、あなたの娘はわたしのもとに相談に来たのです。意に添《そ》わぬ結婚をさせられそうだと訴《うつた》え、わたしに意見を求めてきました。それで、わたしは断固《だんこ》、戦うべきであると答えたのです………」
だから、ミュリエルは家出したのだと、メリッサは言った。
「そして彼女は盗賊《とうぞく》にさらわれそうになった。魔術師リウイはその状況《じようきよう》から、彼女を救《すく》いだしたのです。その行為《こうい》は勇者《ゆうしや》にふさわしいと言うべきではないでしょうか」
「その話は娘から聞いております。仰《おつしや》るとおり、勇者と讃《たた》えるにたる行為だと思います」
「そう思われますか?」
反論されるだろうと思っていたことを、あっさりと認められて、メリッサは反射的に表情を輝《かがや》かせていた。
リウイが勇者と認められることは彼女にとって、本意なのである。
「あなたのように気高《けだか》く美しい聖女《せいじよ》に見守られているゆえは、末は大陸中に名を轟《とどろ》かすような勇者、英雄になられますでしょうな」
ハンセルはにこやかな表情を浮かべながら、そう続けた。
「いくらなんでも、そこまでは……」
「いえいえ、そんなことはありませんぞ。リウイ殿《どの》のような立派《りつば》な若者を婿《むこ》に迎《むか》えることができて、わたしはたいへん喜んでおるのですよ」
その言葉を聞いて、メリッサは内心、しまったと思った。
ふと気が付けば、完全に相手の話に乗せられている。リウイが勇者であるかどうかは、今日の話とはまったく関係がないのである。
しかし、彼女の使命《しめい》はリウイに勇者の資質を見出《みいだ》し、それを世間に認めさせることである。だから、相手の誉め言葉に、単純に喜んでしまった。
ミレルから注意を受けてはいたが、なるほど話術《わじゆつ》は巧《たく》みのようだ。
メリッサは咳払《せきばら》いをひとつして、呼吸を整《ととの》えた。
「勇者リウイはこれから更《さら》なる試練《しれん》を果たすべき身であり、今はまだ結婚を望んではおりません。ミュリエルもまた同じ気持ちでいます。そんな二人が一緒《いつしよ》になっても、幸せになれるはずがありません」
「幸せになれるかどうかは、一緒に暮らしてみなければ分からないものですよ。愛し合って結婚した夫婦が、喧嘩別《けんかわか》れすることもある。意に添わぬ結婚であっても、仲睦《なかむつ》まじい夫婦となることもある」
「それは、そうかもしれませんが……」
男女の仲は難《むずか》しいということぐらい、メリッサにも分かっている。だが、一般的《いつぱんてき》に言えば、望みもしない結婚をした男女は不幸な夫婦になるものである。
「娘にとって、リウイ殿は命の恩人。それに、見ず知らずの相手と結婚させられるよりはましだと、娘は言ってもおります」
「なんですって?」
メリッサは、思わず問い返してしまった。
ミュリエルは、相手がリウイなら結婚してもいいと思っているというのだ。
「ですが、魔術師リウイのほうは、あくまで結婚を望んでおりません。ミュリエルと関係したというのも、婚約を破談《はだん》させるための芝居《しばい》だったのですから、彼の意志を尊重《そんちよう》するベきではないでしょうか」
メリッサは劣勢《れつせい》を感じつつも、強気《つよき》を装《よそお》ってそう主張した。
「先日のことが芝居であるのは、わたしとて分かっております。しかし、店の者のなかに、先日の話を立ち聞きしていた者がいたらしく、娘とリウイ殿が関係をしたという話が噂《うわさ》で広まってしまいましてな。今更《いまさら》、芝居だったと言っても、誰も信用しますまい。傷物《きずもの》になったと噂された以上、もはや娘はリウイ殿と結婚させるしかないのです」
「し、しかし……」
メリッサは額《ひたい》に汗《あせ》をかきながら、反論の言葉を探《さが》そうと試《こころ》みた。
だが、思いつくのは、愚《おろ》かな行為をしでかしたリウイに対する罵倒《ばとう》の言葉だけだった。
「男女の関係は戦いにも例《たと》えられると、マイリー教団の最高司祭《さいこうしさい》ジェニ殿からお聞きしたことがあります。そして、わたしは商売もまた戦いであると思っているのですよ。それゆえ、わたしはチャ・ザ教団ではなく、マイリー教団に多額の寄進《きしん》を行っておるのです」
その言葉を聞いて、メリッサは自分の完全な敗北《はいぼく》を悟《さと》った。
ハンセルはマイリー教団の有力な後援者《こうえんしや》だというわけだ。メリッサは知らなかったが、おそらく相当な額《がく》を援助しているのであろう。
そんな後援者を失うのは、教団にとって大いなる損失《そんしつ》である。
そしてまた、彼の言葉は戦《いくさ》の神《かみ》の教義《きようぎ》に従ったものである。本心かどうかはともかく、メリッサに、それを否定《ひてい》することができるはずがなかった。
「ジェニ殿によろしく……」
とどめをさすように言って、ハンセルは静かに席を立った。
メリッサは歯噛《はが》みしつつも、黙《だま》って彼を見送るしかなかった。
説得は、完全に失敗だった。
(不本意ですけれど、しかたありませんわ)
メリッサはそう心のなかでつぶやいてから、
「結婚でもなんでもなさいませ!」
と言い捨てて、席を蹴るように立ち上がった。
「御主人様……」
戦の神の女性|侍祭《じさい》との話し合いを終えて、ハンセルが部屋《へや》から出ると、年老いた執事《しつじ》が青ざめた顔で待ち受けていた。
「なんだ?」
生意気《なまいき》な女性侍祭を言い負かし、気分よくしていたところを水をさされたようで、ハンセルは不機嫌《ふきげん》さをあらわにした。
「お嬢様《じようさま》のご結婚のことで、申し上げたいことが……」
老執事は覚悟《かくご》を決めたような表情で言った。
ハンセルは無言で、実直《じっちよく》だけが取《と》り柄《え》の老人を見つめる。
「わたしの部屋に来い」
ハンセルは老人を連れて、私室《ししつ》に戻った。
そして、老人に話を促《うなが》す。
「お嬢様の婚約者となったリウイ様のことですが、実は悪い噂《うわさ》を聞きまして……」
老執事は言葉を選びながら話を始めた。
「いかがわしい酒場《さかば》や娼館《しようかん》に出入りして遊び歩いておられるそうで、しかも女性たちにひどい乱暴を働くとのことです。結婚してからの、お嬢様のことを思いますと……」
「誰《だれ》からそれを聞いた?」
ハンセルは老人の顔を見つめて、そう問い返した。
「出入りの行商人《ぎようしようにん》からです。裏の世界の事情に詳《くわ》しい男でして……」
老人はミュリエルの結婚相手について、聞くとはなしに彼に聞いたのだ。
そして返ってきたのは、とてつもなくひどい悪評だった。それで心配になり、不興《ふきよう》を買うのを承知で主人に伝えたのだ。
「分かった、その男に直《じか》に会って聞こう。それから、考えてみる」
「お願いいたします」
老人は深く、頭を下げた。
そして、失礼いたしますと言って、主人の私室を出てゆく。
「馬鹿《ぱか》な年寄りめ。盗賊《とうぞく》の口車《くちぐるま》に乗せられたことに気付いてもいないとはな……」
部屋の扉《とびら》が閉《し》まったのを確認してから、ハンセルはひとつ舌打ちをしてつぶやいた。
「それに、たとえ噂が本当でも、わしの決断に変わりはしないわ。たとえ、相手が犬頭鬼《コボルド》や食人鬼《オーガー》であっても、ミュリエルには嫁《とつ》いでもらう。嫁いでもらわねばならないのだ……
8
メリッサがハンセルのところへ説得《せつとく》に行ってから三日後の夜、盗賊《とうぞく》少女のミレルは盗賊ギルド直営の地下酒場で情報屋のサムスと向かい合っていた。
「それで、首尾《しゆび》はどうだったの?」
果物の絞り汁《ジユース》を飲みながら、ミレルはサムスに訊《たず》ねる。
「依頼《いらい》されたとおりに情報は流した。だが、あの男が決心を変えるとは思わねぇな」
ミレルの問いに、サムスは肩《かた》をすくめて答えた。
三日前に、ミレルから魔術師《まじゆつし》リウイの悪口をロドリゴ商会の当主の耳に届《とど》かせてくれと頼《たの》まれて、サムスは即座に動いた。
以前から、ロドリゴ商会に出入りしている手下《てした》の一人を使って、老|執事《しつじ》と接触《せつしよく》させたのだ。その手下は老人を言葉|巧《たく》みに誘導《ゆうどう》し、ハンセルの娘の婚約話を引き出した。
そして魔術師の名が出たところで、彼の悪口を老人にさんざん吹き込んだのである。
老人はその話を頭から信じ込んだ。そして血相《けつそう》を変えて、奥《おく》の部屋《へや》へと飛び込んでいったのである。
「ハンセルって野郎が、手下に会いたいと言ったから、こりゃうまくいったかなと思ったんだ。だが奴《やつ》はどうやら、手下から情報を聞き出すのが目的だったらしい。今頃《いまごろ》はどこまでが本当で、どこからが操作《そうさ》された情報なのか思案《しあん》しているんじゃねぇか」
憮然《ぶぜん》とした顔をしながら、サムスは言った。
彼は情報操作も得意としている。それが失敗したのが悔《くや》しいのだ。
「今回は、急いでもらったものね……」
ミレルが慰《なぐさ》めるように言った。
情報操作は本来、長い時間をかけて行うものなのだ。だが、今回は事情が事情だけに、急ぎで仕事をしてもらった。
あまりにもタイミングがよすぎたので、ハンセルに疑われたのかもしれない。
「でも、結果としては失敗したんだから、残りの報酬《ほうしゆう》は払《はら》わないからね」
ミレルは表情を変えて、冷たく付け加えた。
「分かっている。まったく割《わり》の合わない仕事だったぜ……」
不機嫌《ふきげん》に、サムスはつぶやく。
「それにしても、またしてもリウイって野郎《やろう》だ。あいつはいったい何者なんだ。何か調べがついたことはないのか?」
「それは、こっちが聞きたいくらいよ」
ミレルは頬杖《ほおづえ》をついて、わざとらしく溜息《ためいき》をついた。
そして巨漢《きよかん》の魔術師がどんな男か、最近の出来事を順を迫って語ってゆく。
「とにかく普通《ふつう》じゃないのよ。とてつもない大物か、阿呆《あほう》かのどちらかね」
ミレルはそうしめくくった。
「なるほどな……」
サムスは相槌《あいづち》を打ったが、どう言葉を返していいのか分からないからそうしただけだ。
「ところで、今の話を聞いている間に、ひとつ頭に浮《う》かんだことがある」
「何よ、聞かせて?」
「オレは鼠《ねずみ》≠ネんだぜ」
サムスは尖《とが》った鼻を得意げに鳴らした。
彼は情報料を払えと暗《あん》に言っているのだ。
「あんたの推測《すいそく》なんだろ? 情報なんかじゃないじゃない!」
ミレルは椅子《いす》から身を乗り出して、大声をあげた。
「オレの推測ってのは、いくつもの情報の総合《そうごう》なんだぜ。ただの思いつきとは訳《わけ》が違《ちが》う」
「分かったわよ。今夜の勘定《かんじよう》は、わたしが持つわ」
椅子にすとんと腰《こし》を落とし、ミレルは恩着《おんき》せがましく言った。
「それだけか?」
「それだけで十分じゃない。あの魔術師について情報が欲しいなら、お互《たが》い手のなかの札《ふだ》は全部、見せ合わなきゃ」
「こっちだけが見せているだけという気がするけどな」
「気のせい、気のせい」
ミレルは猫《ねこ》が顔を洗ってでもいるように、手をひらひらさせた。そして楽しそうに笑う。
サムスは少女の笑顔を見て、そのまま無言になった。
「な、なによ」
ミレルは気味が悪くなって、反射的に身を引く。
「少しは、女の値段を上げてきたようだな。その笑顔に免《めん》じて、話してやるよ」
サムスはそう言うと、もったいぶるように酒杯《しゆはい》に口をつけた。
「ロドリゴ商会のハンセルが、娘《むすめ》の婚約者《こんやくしや》に選んでいたのは、最初からリウイの野郎だったんじゃないのか?」
サムスの言葉に、ミレルはもともと円《つぶ》らな目を更《さら》に丸くする。
「でも、ミュリエルは婚約の相手は、貴族《きぞく》の隠《かく》し子みたいなことを言っていたわよ」
「それは三日前に聞いた。だが、逆に言えば、それだけが唯一《ゆいいつ》、オレの推測を否定《ひてい》する情報なんだ。いくらカーウェスの養子《ようし》だって、あの魔術師の顔をハンセルが知っていたというのは解せない。例の決闘騒《けつとうさわ》ぎで、名前はずいぶん広まったが、その場にいた者でもなければ、顔までは知らないだろう。まあ、あの体格に長髪《ちようはつ》だ。特徴《とくちよう》はありすぎるけどな」
「あなたの推測が正しかったとしたら、わたしたちは自分たちのほうから、犬頭鬼《コボルド》の巣穴《すあな》に飛び込んでしまったことになるわね……」
「そのとおりさ。ミレルの打った芝居《しばい》にも、ハンセルは気付いたんだろ? それなのに、野郎は娘が魔術師に傷物《きずもの》にされたという噂《うわさ》が流れても、一向《いつこう》に気にした様子《ようす》がないんだ。それどころか、噂が流れているのを歓迎《かんげい》している節《ふし》さえある。そうまでして、野郎は自分の娘とあの魔術師とを結婚させたがっている。婚約相手を乗り換《か》えたとは思えないほどの熱心さじゃねぇか」
「なるほどね。最初からリウイを狙《ねら》っていたとしたら辻褄《つじっま》が合うわね」
ミレルは、うんうんと首を縦《たて》に振《ふ》る。
「でも、宮廷《きゆうてい》魔術師の養子って、そんなに影響力《えいきようりよく》があるのかしら」
「たぶん、ないな。カーウェスは公平な人物って評判だ。親戚《しんせき》なればこそ、野郎の商会に便宜《べんぎ》をはかるような真似《まね》はしないだろう」
「それじゃあ、ハンセルは娘を嫁《よめ》にやる意味がないじゃない」
「そういうことだ。野郎も抜《ぬ》け目がなさそうに見えて、案外だな。ま、いい気味だ」
サムスは意地悪く笑って、また酒杯に口をつける。
「それについては同感だけど、婚約を解消させるのはやっぱり無理そうね。最初からリウイを狙ってたんだとしたら、わざわざ向こうから飛び込んできた獲物《えもの》を、逃《に》がすわけがないもの……」
ミレルはふたたび溜息《ためいき》をついた。
もっとも、完璧《かんぺき》だと思っていた計画が失敗したのが、すべてリウイに責任があることに確信が持てたので、気分はそう悪くない。
(だったら、責任を取るのも、リウイ一人でいいわよね)
サムスに払った情報操作の前金と、ここの支払いも請求《せいきゆう》してやろうと、黒髪《くろかみ》の盗賊少女は心に決める。
(ま、ミュリエルは可愛《かわい》い女の子だもの。一緒《いつしよ》に暮《く》らしてれば、きっと好きになるわよ)
9
サムスと会ったその足で、ミレルは魔術師《まじゆつし》ギルドの宿舎《しゆくしや》にあるリウイの部屋《へや》に押《お》しかけた。そして、情報屋に情報|操作《そうさ》を頼《たの》んだこととその顛末《てんまつ》、それから情報屋の推測《すいそく》を既成《きせい》事実ということにして伝えた。
「……ということで、責任はすべてあんたにあるわけよ」
もちろん、情報操作の料金や飲み代《しろ》を請求《せいきゆう》することも忘れない。
リウイはベットに腰《こし》を落としたまま、呆然《ぼうぜん》とミレルの話を聞いていた。
二日前には説得に失敗したという報告を、メリッサから受けている。
失敗したのは彼女なのだが、リウイはなぜか散々《さんぎん》に文句を言われた。
彼女らはすでに、自分たちにも責任があるとは塵《ちり》ほどにも思っていないのだ。
(そんなのありかよ)
リウイは思っているが、これがおおありだから始末《しまつ》が悪いのだ。
頼《たの》みの綱《っな》はアイラだけだが、彼女は病気と偽《いつわ》って実家に帰ったきり、連絡《れんらく》も取れていない。
「……どうやら覚悟《かくご》を決めるしかないな」
リウイは気を取り直すと、ひとりごとのように言った。
「そうよ、そうよ、覚悟を決めなよ」
ミレルが嬉《うれ》しそうに手を叩《たた》く。
「それで、どんな覚悟なの? 最後の手段とか言ってたけど」
「爺《じい》さんに養子《ようし》の緑《えん》を切ってもらう。そうすれば、オレはただの魔術師だ」
「そんなことしたら、魔術師ギルトからも追放《ついほう》されるかもよ?」
ミレルは、あわてて言った。
「それならそれでもいい。とにかく、オレはまだ結婚《けつこん》なんかしたくないんだ」
リウイは立ち上がり、拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
「ギルドを辞《や》めて、どうやって暮らしてゆくのさ?」
「オレは今、冒険者《ばうけんしや》をやっているじゃないか」
「魔術師ギルドを辞めたあんたなんか、足手まといなだけなんだよ。分け前なんてあげられるものか」
ミレルが裏街言葉《スラング》で文句を言う。
それでなくても、ぎりぎりの生活を強《し》いられているのだ。彼女にとって、分け前が減るというのは、死活問題なのだ。
「だったら、ミュリエルじゃないが、裏通りにでも行って職を探《さが》すさ。初級とはいえ魔術は使えるし、体力にも自信がある。何処《どこ》か雇《やと》ってくれるだろうさ」
「それも、できれば止《や》めてほしいわ。また、盗賊《とうぞく》仲間と問題を起こしそうだもの」
ミレルは言った。
「だったら、どうしろと言うんだ」
「だから、あきらめてミュリエルと結婚しなって。彼女もあんたならかまわないって言ってるんだし……」
「彼女がどうこういう問題じゃない。オレは強制されるのが嫌《きら》いなだけだ。ミレルたちに冒険者になれと脅《おど》されたときは、あえてそれに乗ったけどな」
「だから、気安く名前で呼ぶんじゃないっていうの。あたしたちは、メリッサが神託《しんたく》なんか受けるからしかたなく、仲間に入れたんだから」
「それぐらい分かっている。だからお互《たが》い様《さま》なんじゃないか。オレはあんたらと冒険者を続ける。中途半端《ちゆうとはんぱ》は嫌いだからな。分け前も別にいらない。オレは世間《せけん》知らずじゃないからな。金ぐらい、何をしたって稼《かせ》げるさ」
「犯罪《はんざい》に手を染《そ》めないでよ」
ミレルがしたり顔で言う。
「分かっている!」
リウイは怒鳴《どな》り返すと、|魔術師の杖《メイジスタツフ》を手にして立ち上がった。
養父《ようふ》のカーウェスは今、魔術師ギルドの最上階の執務室《しつむしつ》にいるはずだ。
リウイは決意を秘めた顔をして部屋を出た。
「ま、あんたの好きにしな」
ミレルはリウイの尻《しり》に軽い蹴りを入れてから、結果は報告してよと声をかけた。
そしてリウイを追い抜いて走り去る。
「今晩、例の酒場《さかば》で待っているんだな」
リウイは、そう言い返した。
ミレルは片手を上げて、承知の合図《あいず》を返す。
そして、リウイはいったん中庭に出て、宿舎とは別棟《べつむね》になる魔術の研究|棟《とう》へと入っていった。そして長い螺旋《らせん》階段を上って、最上階にあるカーウェスの部屋を訪《たず》ねる。
「爺《じい》さん、話がある!」
扉《とびら》をノックもせず、リウイは部屋のなかに入っていった。
養父であるカーウェスは、奥《おく》の机で書き物をしているところだった。
ゆっくりと顔を上げて、突然《とつぜん》、訪ねてきた養子の顔を見つめる。
「おまえのほうからやってくるとはな。ちょうどよい、こちらにも話があったのだ」
静かだが迫力《はくりよく》のある声に、リウイは身を硬《かた》くした。
「まず、おまえの話から聞いてやろう」
いつになく尊大《そんだい》な口調で、カーウェスは言った。
普段《ふだん》、リウイに対しては、実の孫《まご》のように話しかけるのだが……
リウイは完全に気圧《けお》されてしまって、何も言えなくなってしまった。
この老人がオーファン王国の宮廷《きゆうてい》魔術師であり、オーファン魔術師ギルドの最高導師《アークメイジ》であることを今更《いまさら》ながらに思い出す。
「何も言えぬとあれば、わしのほうから言おう。おまえはハンセルの娘を傷物《きずもの》にしたそうだな。しかも、相手は十四歳になったばかりの少女というではないか?」
「ど、どうしてそれを?」
リウイは驚《おどろ》いて、養父に訊《たず》ねた。
「今朝方《けさがた》、ハンセルがわしのもとに訪ねてきたわ!」
雷鳴《らいめい》かと思うような大声で、カーウェスは怒鳴《どな》った。
「そ、それでなんだ、爺さん。オレのことを勘当《かんどう》してくれ。爺さんの名を汚《けが》したからには、親子でいるわけにはゆかないだろう」
「そうしてやりたいのは山々だが……」
カーウェスは吐《は》き捨てるように言って、リウイを睨《にら》みつけた。
「先方は謝罪《しやざい》を求めるかわりに、娘とおまえとの婚約を迫《せま》ってきたわ。傷物にしてしまったからには、断《ことわ》ることなどできるものか。今更、おまえを勘当すれば、かえってわしの名に傷がつく!」
先手を打たれた、とその瞬間《しゆんかん》、リウイは思った。
ハンセルはリウイの行動を予測していたようだ。どうやら相手のほうが、一枚も二枚も上手《うわて》だったようだ。
(お、おしまいだ……)
リウイは心のなかでつぶやいた。
運命の扉《とびら》が閉《し》まる音がどこからか聞こえてくるような気がした。全身が溶《と》けてゆくような脱力感《だつりよくかん》を覚える。
たまたま裏通りで、盗賊《とうぞく》の餌食《えじき》になろうとしていた少女を見かけたばかりに、こんなことになろうとは……
これから出会うであろう魅力的《みりよくてき》な女性に、リウイは心のなかで別れの挨拶《あいさつ》を送った。
あの通りは、自分にとって呪《のろ》われた場所になったのかもしれない、と思う。
「結婚は二、三年先になろうが、女遊びはひかえろよ。危険な真似《まね》もするな」
カーウェスはそう言うと、ふたたび机に視線を落とし、書き物を再開した。
出て行けと、その全身が語っていた。
リウイには、それに従うしかなかった。
さながら屍人《ゾンビー》のように、リウイは廊下《ろうか》へと出た。
10
大通りにある酒場《さかば》の片隅《かたすみ》で、リウイはテーブルの上にただ突《つ》っ伏《ぷ》している。頭を抱《かか》える気力もすでにない。
リウイが養父《ようふ》を訪《たず》ねた日の夕刻《ゆうこく》である。
側《そば》にいるのは、ミレルとメリッサの二人だ。アイラとは未《いま》だに連絡《れんらく》は取れないし、ジーニはまだ羽根を伸《の》ばしているに違《ちが》いない。
「自業自得《じごうじとく》と言うものですわ」
メリッサが容赦《ようしや》なく言う。
「まったくよね〜」
ミレルがじとりとした目を、リウイに向ける。
「なんとでも言ってくれ……」
リウイは無気力な声で答えた。
メリッサとミレルは拍子抜《ひようしぬ》けしたように互《たが》いに顔を見合わせ、肩《かた》をすくめ合う。
「だから、ミュリエルは可愛《かわい》い女の子だって……」
「婚約者《フイアンセ》ができたからと言って、勇者《ゆうしや》の資格を失ったわけではないのですから……」
ミレルとメリッサは珍《めずら》しく慰《なぐさ》めの言葉を口にした。
だが、リウイは本物の死人のように何の反応もしなかった。
養父が最後に言った言葉を文字通り解釈《かいしやく》すれば、これからは裏通りにも遊びにも行けないし、冒険者《ぼうけんしや》を続けることもできなくなる。リウイに対する魔術《まじゆつ》の指導も、おそらく厳《きび》しくなるだろう。
メリッサではないが、それは彼にとって不本意《ふほんい》なのである。
だが、養父に逆《さか》らうことはできない。
リウイにとって育ての親であるのは間違《まちが》いないし、養父の恐《おそ》ろしさは、今日《きよう》のことで改めて思い知らされた。彼が本気になれば、リウイがどれだけ抵抗《ていこう》しようと太刀打《たちう》ちできるはずがない。
定められた運命を受け入れるしかなさそうだった。
生まれて初めて味わう決定的な敗北感《はいぼくかん》に、前代未聞《ぜんだいみもん》の鈍感《どんかん》さとまでミレルに指摘《してき》されているリウイではあったが、完全に打ちのめされてしまっていた。
しかし、そのとき、
「やっぱり、ここだったのね……」
聞き慣れた声がした。
その声にリウイは顔だけを上げて、声の主を見つめた。
魔法の眼鏡《めがね》をかけた女性魔術師《ソーサリス》が、微笑《びしよう》を浮《う》かべながら、こちらに向かって歩いてくる。
「アイラ……」
リウイは魂《たましい》の抜《ぬ》けたような声で彼女の名をつぶやく。
そして、アイラはリウイたちがいるテーブルに着いた。
「聞いてくれ、アイラ……」
ようやく上体を起こして、リウイは彼女に事情を説明しようと口を開いた。
アイラはその口を、魔法の指輪がはまった人差し指で塞《ふさ》いた。
「分かっているわ。でも、もう大丈夫《だいじようぶ》よ」
アイラは、ふたたび微笑《ほほえ》んだ。
「あなたとミュリエルの婚約《こんやく》は破談《はだん》になる。明日にでも最高導師のもとに、ハンセルがお詫《わ》びに行くはずよ」
「そ、それは本当か!」
一瞬にして、リウイの表情が輝《かがや》いた。
うなずくアイラの顔が聖女《せいじよ》のように見えた。
メリッサとミレルも驚きを隠《かく》せなかった。
「どのような魔法を使われたのですか?」
「犯罪《はんざい》に手を染《そ》めたんじゃないでしょうね」
口々に、アイラに訊《たず》ねる。
「魔法も使っていないし、犯罪にも手を染めていないわ」
アイラは楽しそうに答えた。
「もったいぶらずに教えてくれ。どうやってハンセルの考えを変えたんだ」
「主人の命令に従うのが、使用人というものでしょう」
アイラはさらりと答えた。
「つまり、ロドリゴ商会は、わたしの父が買い取ったのよ……」
そしてアイラは真実のすべてを話しはじめた。
それはこの四日の間に、あらゆる手段を駆使《くし》して集めた情報なのである。そのために、彼女は莫大《ばくだい》な金を使ったが、元《もと》は十分に取れたと思っている。
ロドリゴ商会は無理な資金集めをして、これまで商売してきたのである。そしてそれに成功しつづけて露天商《ろてんしよう》から大きくなったわけだが、ついに不運が訪《おとず》れるときがやってきた。
大金を投入《とうにゆう》して送り出した呪《のろ》われた島への貿易《ぼうえき》船団が嵐《あらし》によって、全滅《ぜんめつ》したというのだ。
「その損失を埋《う》めようとして、ロマールの闇市《やみいち》から禁制の品物をいろいろと仕入れてきたのね。たとえば一角獣《ユニコーン》の角《つの》とか……」
「ユニコーンと言えば、ラムリアースの聖獣《せいじゆう》ではありませんか。あの美しく気高《けだか》い幻獣《げんじゆう》の角を商品にするなんて!」
メリッサが激昂《げつこう》したが、アイラはひどいことをするものね、と軽く受け流しただけで話を続けた。
「だから、有力者と結びつきたかったわけよ」
「つまり、犯罪に手を染めていたのは、ハンセルだったってこと?」
ミレルがアイラに訊《たず》ねる。
「そういうこと。わたしが直接、ロドリゴ商会の倉庫に行って、禁制の品物はすべて引き取ったわ。魔術師ギルドなら、魔術の研究のためと称《しよう》して禁制の品物を置いていても問題ないものね。衛兵《えいへい》に通報すれば、相手は終わりだもの」
アイラはそう答えて、もはや返すあてのなくなった借金とともにロドリゴ商会を買い取ったのだと、話をしめくくった。
「また、あなたのところの商会が大きくなるわけね」
ミレルが溜息《ためいき》をつきながら言った。
かくして貧富《ひんぶ》の差は広がってゆくわけだ。
「ハンセルに商才があるのは間違《まちが》いないものね、父の商会でその才能を発揮《はつき》してもらうわ。その条件はただひとつ、ミュリエルとリウイの婚約を解消《かいしよう》すること……」
「助かったぞ!」
その瞬間《しゆんかん》、リウイは弾《はじ》かれたように立ち上がって、快哉《かいさい》の叫《さけ》びをあげた。
それから、アイラに抱《だ》きついて、感謝の言葉を繰り返す。
「どういたしまして……」
アイラは一瞬、驚《おどろ》いたような顔をしたが、すぐに微笑《ほほえ》みを浮《う》かべて、リウイの背中をぽんぽんと叩《たた》く。
彼女にとっても、今回のことは会心《かいしん》の勝利なのである。仇敵《ライバル》を潰《つぶ》したのは、父だけではない。
「どうやら、そっちの片《かた》はついたみたいだな」
そのとき、ふたたび聞き慣れた声がして、女戦士のジーニが悠然《ゆうぜん》と姿を現《あらわ》した。
「ああ、終わった、終わった。すべて問題なしだ」
リウイはアイラから離《はな》れると、上機嫌《じようきげん》で女戦士に答えた。
「それなら好都合《こうつごう》だ」
と、ジーニはにやりとする。
「実は、冒険《ぼうけん》の依頼《いらい》を受けた。おそらく大仕事になるだろう」
「望むところだ!」
リウイは間髪《かんはつ》を入れずに答えた。
「|魔法の宝物《マジツクアイテム》をよろしくね」
アイラが言う。
「試練《しれん》ですのね!」
と、メリッサもうっとりとした顔をする。
ミレルも円《つぶ》らな瞳《ひとみ》をいっぱいに開いて、うんうんとうなずく。
かくして、女戦士の休日は終わったのだ。
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第U章 遥《はる》かなる呼《よ》び声
1
ファンの街《まち》の大通りから一筋《ひとすじ》、離《はな》れた場所に建《た》つ一軒《いつけん》の店の扉《とびら》を、リウイはくぐった。その後に、魔法《まほう》の眼鏡《めがね》をかけたアイラが続く。
店の看板《かんばん》には一角獣《ユニコーン》の角《つの》£焉sてい》と記されている。
「ここが冒険者《ぼうけんしや》の店なのか……」
リウイは感慨《かんがい》を込《こ》めてつぶやいた。
「初めてなの?」
アイラが意外そうな顔をする。
「ああ、初めてだ。これまでは、冒険者の店とは関係のない仕事ばかりしてきたからな。ジーニたちは手に入れた宝物を引き取ってもらっていたらしいが……」
そういうことにはあまり関心がないし、ジーニたちからも声をかけられていない。だから、これまで冒険者の店と無線《むえん》だったのだ。
「こういう店に入ると、冒険者になったって実感が湧《わ》くよな」
リウイはアイラに笑いかけた。
「怪物《かいぶつ》相手に戦っているときのほうが、冒険者らしいって気がするけど……」
アイラは不思議そうに首を傾《かし》げる。
「形式っていうのも、大事《だいじ》なものさ。冒険者の店で依頼《いらい》を受けたり、情報を手に入れて、仕事や冒険に行く。それを成功させて手に入れた報酬《ほうしゆう》なり、宝物を銀貨や宝石に換金《かんきん》する。それが、冒険者の正業《せいぎよう》だからな」
「普通《ふつう》の宝物はどうでもいいけど、|魔法の宝物《マジツクアイテム》はわたしに引き取らせてよ」
場所が場所だけに、リウイだけに聞こえる声で、アイラは言った。
アイラは魔術師《まじゆつし》ギルドで、付与魔術《エンチヤントメント》という系統《けいとう》を主に研究している。魔法の宝物は、彼女にとって研究材料なのだ。同時に、それを収集するのが、彼女の趣味《しゆみ》でもある。彼女はすでに莫大《ぱくだい》な数の魔法の宝物を所有しているが、まだまだ集めるつもりなのだ。
実家が王国最大の商会だからこそ、できる道楽とも言える。
「それについては、ジーニたちに交渉《こうしよう》してくれ……」
冒険者仲間と言っても、立場の低いリウイにはそう答えるしかなかった。
もっとも、アイラは努めてジーニたちと接触《せつしよく》を持つようにしているので、最近では彼女らとそれなりに親しくなっている。相手の|誇り《プライド》に障《さわ》らぬよううまく切りだせば、交渉は成立するはずだと思っている。
「ようこそ、一角獣の角亭へ!」
そのとき、店の奥《おく》から陽気な雰囲気《ふんいき》の中年男が姿を現した。おそらく、この店の主人だろう。
大袈裟《おおげさ》に両手を広げて、リウイたちを出迎《でむか》える。
「初めてみる顔だが、冒険者志望かね? 魔術師なら、大歓迎《だいかんげい》だ。店の常連でも、魔術師を仲間にしたがっている冒険者は大勢いるからな」
「あいにくだが、仲間はいるんだ」
リウイは答えて、ジーニの名前を口にした。
「この店に来るように、彼女に言われてたんだが……」
「ああ、そう言えば、彼女から聞いていたな。今度、どうしようもない素人《しろうと》を仲間に入れる羽目《はめ》になったとか……」
店の主人はそこまでを言うと、あわてて口をつぐんだ。そして、愛想笑《あいそわら》いを浮《う》かべて、リウイを見つめる。
「親父《おやじ》……」
リウイは拳《こぶし》をかためたが、それ以上は何も言う気がしなかった。
ただ、この冒険者の店の主人が正直者だということだけは分かった。もっとも、これほど正直で、うまく商売がやってゆけるかどうか心配でもある。
「依頼人《いらいにん》は来てるのか?」
リウイは気持ちを切り替《か》えて、店の主人に訊《たず》ねた。
今度の冒険の依頼人は、わざわざジーニを指名したらしい。それで、店の主人は彼女に仕事を持ちかけた。詳《くわ》しい内容は、彼女も知らされていないが、かなりの大事件のようだ。
ジーニはもちろん乗り気で、今日この店で依頼人と直接、会う段取りになっていた。それで、リウイも呼ばれたわけだ。
「依頼人は、だいぶ前に来ている。さっきまで、奥の部屋《へや》で相手をしていたところだ。なんなら、会ってみるかね?」
「いや、遠慮《えんりよ》しておく。それより、ジーニたちが来るまで、店のなかを見させてもらっていいかな?」
主人の言葉に、リウイは答えた。
冒険者の店がどんなところか興味《きようみ》もあるし、ジーニたちがいないときに依頼人に会っても彼にはどうしようもない。
「たいした店じゃないが、ゆっくり見ていってくれ。必要な物があったら、ぜひ買ってくれよ」
店の主人はそう言うと、ふたたび店の奥に引っ込んだ。
「なるほど、冒険に必要そうな物が揃《そろ》っているわね……」
主人の姿が消えたのを確かめてから、アイラが魔法の眼鏡に片手をかけながら、店の品物の品定めをしてゆく。
商人の家に生まれ、また|魔法の宝物《マジツクアイテム》を多数、購入してきた経験もあって、彼女の目利《めき》きぶりは恐《おそ》るべきものだ。
一目、見ただけで、驚《おどろ》くほど正確に品物の価値を判別できる。
「値段は割高な気もするけど、さすがにいい物が揃っているわ。武器とか防具とかなら、ここで頼《たの》めば間違《まちが》いなさそうよ。あなたの体格は常識はずれだから、寸法を測《はか》ってもらって特注したほうがいいと思うもの。冒険者にとっては命綱《いのちづな》だから、あまりケチらないことね」
アイラが言った。
「割高なんだろ? それなら、直接、武器屋に行って、普通《ふつう》の値段で買ったほうがいい。アイラが一緒《いつしよ》に行ってくれるのなら、この前みたいに粗悪品《そあくひん》を掴《つか》まされることもないからな」
リウイは他《ほか》の店では滅多《めつた》に見られない品物を手に取って眺《なが》めながら、何気なく言った。
(どうせなら、心を込《こ》めて誘《さそ》ってほしいんだけどなぁ)
アイラは、つい苦笑を浮《う》かべる。
(ま、信用はされているってことよね)
しかし、こういった関係が、普通《ふつう》に考えればただの同僚《どうりよう》の域《いき》を越えていることに、気付かないものなのだろうか。
リウイは頼《たの》み事があれば何でも言ってくるし、反対にアイラが頼み事をしても、快《こころよ》く引き受けてくれる。
子供の頃《ころ》から同じ宿舎《しゆくしや》で暮《く》らしているので、姉弟《きようだい》のような関係になってしまっているのだ。実際、昔《むかし》は彼のことを、本当の弟のように可愛《かわい》がったものである。出会った頃《ころ》は背もそれほど高くなく、利発《りはつ》で愛らしい少年だった。
それが十四|歳《さい》を過ぎた頃からぐんぐん背が伸《の》びはじめ、同時に夜遊びなどを始めるようになった。だが、魔術師ギルドでは、それまでどおりに大人《おとな》しくしていた。
おそらく、彼の心のなかでは何かが鬱屈《うつくつ》していて、それをどう吐きだしていいか、分からなかったのだろう。冒険者の仲間に入ってからというもの、リウイは精神的にも安定した気がする。魔術師ギルド内でも無理に従順《じゆうじゆん》を装《よそお》うこともなくなり、自然に振《ふ》る舞《ま》っている印象を受ける。ギルド内でも、人々に注目されるようになっている。それも悪い意味ではなく、だ。
その事実を喜ぶべきなのかどうか、アイラは少々、複雑な気分だった。ただ、自分の目利《めき》きが物だけに限っていないことは誇《ほこ》ってよさそうだと思う。
「ああ〜っ、また一緒《いつしよ》だよ〜」
そのとき、言葉遣《ことばづか》いは悪いが愛らしい声が響《ひび》いて、黒髪《くろかみ》の少女が店のなかに入ってきた。
盗賊《とうぞく》のミレルである。彼女に続いて、赤毛の女戦士ジーニと戦神《せんしん》マイリーに仕《つか》える侍祭《じさい》のメリッサも扉《とびら》をくぐってくる。
「冒険者の店に入ったことがないって言うからな。連れてきたんだ。もっとも、オレも初めてなんだが……」
リウイはジーニたちにそう答えて、依頼人《いらいにん》がすでに来ていることを告げた。
彼女たちも、依頼人にはまだ会っていないという。正式に引き受けるかどうかは、依頼の内容と報酬《ほうしゆう》との兼ね合いになるだろう。
「おっ、来たな」
そして、店の奥《おく》から冒険者の店の主人が姿を現した。
「依頼人は奥で待っている。とにかく、入ってくれ」
主人に促《うなが》されるまま、リウイたちは店の奥へと入っていった。そこは広めの部屋《へや》になっていて、長方形の卓《テーブル》が置かれていた。戸棚《とだな》もあって、酒瓶《さかびん》や酒杯《しゆはい》が並《なら》んでいる。酒場《さかば》のような雰囲気《ふんいき》だが、部屋のなかにいるのは一人だけだった。
まだ若い娘《むすめ》だった。年齢《ねんれい》はおそらく十五、六といったところである。
それに気付いた瞬間《しゆんかん》、リウイは表情を強張《こわば》らせた。近頃《ちかごろ》は若い女性を見るだけで、悪い予感を覚えるようになっているのだ。
しかし、彼よりも激《はげ》しい反応を見せる者がいた。
ジーニである。
「ルダ、ルダじゃないか!」
そう叫《さけ》ぶように言った。
「知り合いなの?」
ミレルが円《つぶ》らな目をぱちくりさせて、ジーニと依頼人を交互《こうご》に見つめる。
それで、依頼人の髪がジーニと同じ色であることに気が付いた。そしてルダという名の娘の額と二《に》の腕《うで》に、呪払《のろいばら》いの紋様《もんよう》が描《えが》かれていることも……
(同じ集落の出身なんだわ)
と、ミレルは判断する。
「どうして、おまえがここにいる。わたしに依頼したいこととは何だ?」
ジーニはルダという名の娘の側《そば》に行くと、まるで詰問《きつもん》するような口調で言った。
ルダはジーニの顔を見上げると、今にも泣きそうな表情になる。
「ジーニ姉さん……」
そうつぶやくと、依頼人はジーニの首に腕《うで》を回した。
「姉妹《きようだい》じゃないよな?」
リウイがアイラに向かって囁《ささや》いた。
「そう思うけど……」
アイラは自信なさそうに答えた。
依頼人はどちらかと言えば小柄《こがら》で、顔の雰囲気《ふんいき》もあまり似《に》ていない。親しみをこめて、姉さんと呼んだと考えてよさそうだ。
だが、彼女たちの口から真相を聞かないかぎり、勝手な判断はできないと思った。
メリッサとミレルの二人も、顔を見合わせて、意外な展開《てんかい》に戸惑《とまど》っている感じだった。
「事情を教えてくれよ」
リウイがジーニに向かって言った。
ジーニに抱《だ》きついていた娘が顔を上げて、きっとリウイを睨《にら》む。
「おまえは誰《だれ》よ?」
厳《きび》しい口調で問われて、リウイは思わずたじろいだ。
「誰って言われてもな……」
リウイは律儀《りちぎ》に名乗って、オーファン魔術師ギルドの最高導師《さいこうどうし》の養子《ようし》であることを告げた。そして最後に、
「ジーニの冒険者仲間だ」
と、付け加えた。
もっとも、ジーニがそれを認めているかどうかは自信がない。
「どうしようもない素人《しろうと》だがな。力はあるから、荷物持ちぐらいには使える」
素《そ》っ気《け》なく、ジーニが言った。
「それだけなの?」
ジーニの目を見つめながら、ルダは疑わしそうに言った。
「他《ほか》に、何がある」
困惑《こんわく》の表情を浮《う》かべながら、ジーニは言った。
リウイは、依頼人から目を逸《そ》らして、できるかぎり彼女には関《かか》わるまいと、ひそかに心に誓《ちか》った。
「そんなことより、依頼の内容だ。集落で何か起こったのか?」
ジーニが問うと、ルダという名の娘は厳《きび》しい表情でうなずいた。
「雪の女王の娘たちが襲《おそ》いかかってくるの」
「雪の女王の娘? この時期にか?」
氷《こおり》の精霊《せいれい》フラウのことを、ジーニたちの部族ではこの名で呼んでいるのである。ヤスガルン山脈の高峰《こうほう》には雪と氷でできた宮殿《きゆうでん》があり、その宮殿の主《あるじ》こそ雪の女王だという伝承が部族には伝わっている。
「先日、季節はずれの大雪が集落に降ったの。三日ほどで雪は止《や》んで、すぐに暑《あつ》くなったんだけど……」
その後、氷の精霊たちが集落に襲いかかってくるようになったと、ルダは説明した。
「そう言えば、この街《まち》でも季節はずれの雪が降ったよな」
冒険者の店の主人がうなずきながら言った。
「氷雪の魔狼《フエンリル》が、暴《あば》れているのかな」
「フエンリルって、氷の上位《じようい》精霊だよな?」
リウイがアイラに訊《たず》ねる。
「そうよ、その遠吠《とおぼ》えが雪嵐《ブリザード》となり、その視線を受けたものは凍《こお》りつくんだそうね。もっとも、わたしも見たことはないけど……」
上位精霊を呼び出して、その力を借りるには精霊使《せいれいつか》いとして高い能力が必要とされる。
「そんなことより、悪い予感がしない?」
「あの事件との関連か」
小声で囁《ささや》くアイラに対し、リウイも渋《しぶ》い顔でうなずいた。
「完全に解決したと思っていたんだが……」
あの事件とは、天候制御《てんこうせいぎよ》の魔法装置《まほうそうち》が暴走《ぼうそう》したことだ。アイラの昔《むかし》の恩師《おんし》であるバナール導師が魔法装置の実験中に心臓麻痺《しんぞうまひ》か何かで急死し、装置が暴走をはじめたのである。
そして、初夏のファンの街に雪が降るという異常事態《いじようじたい》が起こった。
ファンの街でも雪が降ったぐらいだから、寒冷なヤスガルン山脈では大雪になっていたとしても何の不思議もない。
しかも、氷の精霊たちは大雪の後、集落を襲撃するようになったという。
「……村の戦士たちは数少ない銀の武器を取って、雪の女王の娘たちと戦っている。でも、何人も傷《きず》つき、疲労《ひろう》も激《はげ》しくて。このままでは、集落は全滅《ぜんめつ》してしまう。だから、ジーニ姉さんに助けてもらおうと思って……」
「そのことを、族長は知っているのか? 若長《わかおさ》になったあの男は?」
そう問いかけるジーニの顔には、複雑な表情が浮《う》かんでいた。
彼女が生まれ故郷《こきよう》の集落で、何かがあったことは、リウイも聞いたことがある。だが、具体的に何があったかは知らないし、詮索《せんさく》する気もなかった。
彼女にとって、あまり思い出したくないことだろうから。無理に開けば、彼女の怒りを買うに決まっている。
「族長には話して、許可を得ている。ジーニ姉さんは追放《ついほう》されたのではなく、自分から出ていっただけだから、いつでも集落に戻《もど》ることができるって……」
「わたしが、か?」
ジーニが驚《おどろ》いたような顔をする。
「戻れるわけがないだろう。事情はともかく、わたしが掟《おきて》を破ったのは、確かなのだから……」
ジーニの言葉に、山岳部族《さんがくぶぞく》の娘は悔《くや》しそうな表情になる。
「それもこれも、若長たちが悪いんだわ」
憎《にく》しみをこめた声で娘は言った。
「でも、この事件を解決できるのは、集落で一番の戦士であるジーニ姉さんだけよ。ファンの街で冒険者をしていると旅の商人から聞いていたので、飛んできたの……。お願い、集落のみんなを助けて」
ジーニは険《けわ》しい顔になり、腕を組んだ。
その頭のなかで、どんな思いが去来しているかは分からないが、苦しい選択《せんたく》なのは間違《まちが》いないだろう。
「……乗り気はしないが、引き受けよう」
長い沈黙《ちんもく》の後、ジーニは言った。
「ただし、雇《やと》われ冒険者としてだ。わたしがアリド族の人間だからではない。それで、いいな?」
「よくはないけど……、しかたがない」
ルダはまるでうなだれるように、うなずいた。
「このことは貸しにしておくからな」
ジーニはリウイとアイラを振《ふ》り返ると、指を突《つ》きつけながら言った。
「なんのことだかな……」
リウイは惚《とぼ》けるふりをしたが、内心ではいったいこの借りはどれぐらい高くつくのだろうかと不安を覚える。
アイラは愛想笑《あいそわら》いをジーニに返しながら、がんばってねと、リウイの太い二の腕に手をかける。
「一緒《いつしよ》には行けないけど、わたしもできるかぎりの協力はするわ。精霊関係の宝物は、バナール導師《どうし》の遺産《いさん》のなかにたくさんあったから」
役に立つものもあるはずよと、アイラは言った。
「精霊! そうだ、この事件の解決には精霊使いが必要なんじゃ!」
リウイがはっとしたように大声をあげる。
彼の脳裏に、美しい|森《エ》|の妖精《ルフ》の娘の姿が浮かんだ。
「その心配は無用だ」
ジーニが小馬鹿《こばか》にしたような口調《くちよう》でリウイに言った。
「ルダは、部族の精霊使いだ。だから、事件解決の責任を負っているんだ」
「残念でしたわね」
メリッサが冷ややかな顔をする。
ミレルもじとりとした視線を送ってくるし、アイラも責めるような顔をしてリウイの二の腕を拳《こぶし》でつついた。
「意見を言っただけじゃないか……」
なぜ、そこまで文句を言われなければならないんだと、リウイは憤慨《ふんがい》する。
「話はまとまったでいいんだな」
店の主人がもめごとは終わりとばかり、ぱんぱんと手を叩《たた》く。
仕事の依頼が成立すれば、冒険者の店には斡旋料《あつせんりよう》が入ることになるのだ。
「これは、試練《しれん》なのでしょうか?」
メリッサが困惑《こんわく》の表情で、ミレルに訊ねる。
「さあ、どうかな? なんだか、いろいろありそうだけど……」
魔法装置の暴走との関連や、ジーニの過去の事など、複雑な事情が絡《から》んだ仕事の依頼だ。何事もなく済《す》むとは、ミレルには思えなかった。
「そうですね、心の準備だけはしておきましょう」
メリッサはうなずくと、胸の前で腕を組んで、心のなかで神に祈《いの》りを捧《ささ》げはじめる。
そのあいだに、ジーニと依頼人は仕事の条件や細部《さいぶ》について、話しあっていった。
急いだほうがいいとの判断で、出発はその日の夕刻《ゆうこく》ということになった。集合場所は、街外《まちはず》れの林のなかにある小屋。ジーニが寝泊《ねと》まりに使っているのだが、地下には隠《かく》し部屋《ベや》があって、冒険に必要な備品がいろいろ保管されている。たいていの準備はここで済ませられるのである。
リウイは一度、魔術師ギルドの宿舎《しゆくしや》に戻り、旅の支度を整《ととの》え、アイラが所有の魔力《まりよく》を帯びた宝剣《ほうけん》を一本と、精霊に関連した様々《さまざま》な魔法の宝物を借りて待ち合わせ場所に急いだ。
そして、依頼人である精霊使いの娘やジーニたちと合流し、ヤスガルン山脈を目指して、旅を始めたのである。
2
ジーニの生まれ故郷《こきよう》であるヤスガルン山脈の山岳民《さんがくみん》アリド族の集落に着いたのは、ファンの街《まち》を発《た》ってから五日後のことである。麓《ふもと》にあるグードンの街までは三日で、そこから山道を二日間、登った。
川の両岸にできた狭《せま》い階段状の平地に、五百ほどの戸数《こすう》を数える集落だった。アリド族には他《ほか》にも十いくつの集落があるが、そのなかではいちばん小さな集落だという。
ジーニたちは集落の外《はず》れで日が暮れるのを待って、依頼人《いらいにん》のルダの家にまるで人目をはばかるように入った。
「事件を解決しにきたのにね」
ミレルが不満を洩《も》らす。
「すまないな」
謝《あやま》ったのは依頼人ではなくジーニだった。
「できれば、集落の人間とは顔を会わせたくないんだ」
「それは別にかまわないが、どうやって事件を解決するつもりなんだ。襲《おそ》いかかってくる氷《こおり》の精霊《せいれい》をただ倒《たお》しているだけでは駄目《だめ》だったんだろ」
「その通りよ」
と、リウイの言葉にルダが答えた。
彼女はこの集落では、二人しかいない精霊使いの一人である。もう一人は高齢《こうれい》の老女で、集落からは出られないという。
荒《あら》ぶる精霊を鎮《しず》めるのは、彼女の務めなのだ。
「真冬ならともかく、今は夏の盛《さか》り。こんな時期に、精霊たちが襲ってくるなんて、きっと何か原因があるはず。その原因を取り除《のぞ》かなければ、いつまでも精霊の襲撃《しゆうげき》は続くに違《ちが》いない」
「部族には屈強《くつきよう》な戦士たちが何人もいるんたろう。協力は頼《たの》めないのか?」
「あんな男たち、何の役にも立たないわ」
吐き捨てるように精霊使いの娘《むすめ》は言った。
その顔には嫌悪《けんお》の表情が、ありありと浮《う》かんでいる。
(この娘も、男嫌《おとこぎら》いなのかな)
リウイは心が寒くなるのを感じた。
男嫌いの女たちのなかに、たった一人リウイがいるわけである。
旅の間も、言葉にこそしなかったが、リウイに向けてくる視線は厳《きび》しいものがあった。彼のほうから話しかけないかぎり、口もきかなかった。
(これは余計な口出しはしないほうがよさそうだ)
と、リウイはひそかに思った。
ジーニの言葉ではないが荷物持ちに徹《てつ》したほうが無難《ぶなん》のようだ。
「この時期だと、川を遡《さかのぼ》って雪の女王の宮殿《きゆうでん》近くまで行かなければ、雪も氷も溶《と》けてしまっているからな。ま、先日、大雪があったのだから、それほど登らなくても大丈夫《だいしようぶ》かもしれない。精霊力に異常があるかどうかは、ルダなら分かるだろう」
「もちろんよ!」
勢い込んで、精霊使いの少女はうなずいた。
「襲いかかってくる精霊たちは戦士たちに任《まか》せておけばいい」
嘲《あざけ》るような笑いを浮かべて、ジーニはつぶやいた。
しかし、その笑いは集落の戦士たちにではなく、彼女自身に向けられているようにリウイには感じられた。
「今夜はゆっくり休んで、明日から川を遡ってゆこう」
ジーニの言葉に、メリッサとミレルは静かにうなずいた。
「みなさんは、この家で休んでください」
ルダはジーニたち三人にそう言ってから、リウイを振《ふ》り返った。
「こう言っちゃなんだが、この部屋《へや》に全員は無理じゃないか?」
依頼人の家は小さく、四人が寝《ね》るだけでも狭《せま》いと感じられた。
「無理に決まっているでしょ。だから、あなたには裏の小屋のほうで休んでもらう」
(小屋でね)
そんなことだろうという予感もあったので、リウイは別に腹も立たなかった。
「それで十分だ」
と、返事をする。
しかし、実際に小屋に案内されて、リウイはさすがに憮然《ぶぜん》とした。なぜなら、その小屋には豚《ぶた》が飼《か》われていたからだ。
糞尿《ふんによう》と餌《えさ》の腐《くさ》った臭いで噎《む》せかえるほどだった。
小屋の片隅《かたすみ》に、ルダは日干《ひぼ》しした藁《わら》を積みあげて、粗末《そまつ》な寝床《ねどこ》を作る。
「ゆっくり休んでください」
そう言い残すと、ルダは家の方に入っていった。
「男は家畜《かちく》なみってか」
リウイは吐き捨てると、今夜は外で寝ようと心に決める。雨も降っていないし、いくら寒冷地とはいっても、今は夏だ。凍《こご》え死《じ》ぬことはないだろう。
ヤスガルン山脈に入るのは初めてなので景色《けしき》が珍《めずら》しくもある。夜空を見上げて、真実の星の数を数えてみるのも風情《ふぜい》というものだろう。
リウイは軒下《のきした》に出て、|魔術師の杖《メイジスタツフ》と剣《けん》を抱《かか》えたままマントにくるまる。
山が鳴るような音が聞こえてきたのは、そのときのことだ。
(なんだ、この音は?)
リウイは耳をそばだて、その昔にしばし聞き入った。獣《けもの》の咆哮《ほうこう》のようにも聞こえるし、風の声という気もする。とにかく、街では聞いたこともない音だった。
「山の暮らしは、衝とは全然、違うってことだな」
声に出してつぶやき、リウイは夜空を見上げた。
そのときには、山鳴りの音は止まっていた。
街で見るのより、星の数が圧倒的《あつとうてき》に多い気がする。そして星の数を二十ほど数えているうちに、旅の疲《つか》れもあって眠《ねむ》りに落ちた。
しかし、そのまま朝まで眠っているわけにはゆかなかった。
夜半に突然《とつぜん》、銅鑼《どら》の音が響《ひび》き渡ったからである。
何事だと起き上がると、松明《たいまつ》がそこかしこで焚《た》かれ、何人もの若者たちが剣を片手に表へ出ていた。
そして、四大《しだい》を極《きわ》めた魔術師《まじゆつし》の塔《とう》で見た雪の女王の娘――氷の精霊フラウの姿も……
寝付きも早いが、リウイは寝起きも悪いほうではない。状況《じようきよう》を見た彼は、即座《そくざ》に行動に移った。
拳《こぶし》に魔力《まりよく》を付与《ふよ》して、剣を握《にぎ》ったのである。
アイラから借りてきたのは魔法の剣だから、精霊にも対抗《たいこう》できる。しかし、空中を素早く動く相手だけに攻撃《こうげき》が命中しない可能性もあった。実際、前回の対決のときには、そうだった。あれから剣の練習はつんでいるが、どこまで上達《じようたつ》しているかは自信がない。
もしものときには剣を投げ捨て、素手《すで》で攻撃するつもりで、拳《こぶし》にも魔力を付与しておいたのだ。前回は、この戦法で狂《くる》える氷の精霊を倒している。
リウイは氷の精霊を相手に右往左往《うおうさおう》する集落の戦士たちの間に、悠然《ゆうぜん》と割って入った。
「だ、誰《だれ》だ! おまえは!!」
戦士の一人が大声で問いただしてくる。
「雇《やと》われ冒険者だ。この集落の精霊使いに仕事を依頼されてやってきた!」
リウイは答えて、戦況《せんきよう》を見極める。
精霊の数は三体ほど。いずれも狂っている≠轤オく、集落の戦士たちに向かって遮二《しやに》無二《むに》、攻撃を仕掛けている。
集落の戦士たちは勇敢《ゆうかん》に迎《むか》え討《う》っているが、銀の武器を持つ者は僅《わず》かで、普通《ふつう》の武器の攻撃が命中してもまったく打撃を与《あた》えられていない。
「手伝わさせてもらうぜ!」
リウイは大声で言うと、彼らからの返事も待たず、狂える氷の精霊を挑発《ちようはつ》するように魔法の剣を頭上で振《ふ》った。魔力の輝《かがや》きが、夜の闇《やみ》のなかに光の帯となって揺《ゆ》れる。
挑発に乗ったのかどうか、狂える氷の精霊のうちの一体が、リウイを狙って攻撃してきた。
「そうこないとな」
リウイはにやりとして、左手に持っていた魔術師の杖を邪魔《じやま》とばかり、地面に放《ほう》り投げる。樹齢《じゆれい》五百年を超《こ》える樫《かし》の古木でできた杖は、乾《かわ》いた音をたてて転《ころ》がった。
そして、空を滑《すべ》るようにやってきた狂精霊《きようせいれい》に、狙《ねら》いすました一撃を振るう。
だが、やはりと言うべきか、その攻撃は寸前で相手にかわされてしまった。そして反撃がきた。リウイの眼前に迫《せま》った狂えるフラウが、猛然《もうぜん》と冷気を吹《ふ》きつけてくる。
精霊の攻撃は魔法だから、避《さ》けることもできない。リウイは精神を集中させて、魔法攻撃に耐《た》えようとする。
人間の肉体や精神に潜在《せんざい》する魔力を活性化《かつせいか》させて、相手の魔力を相殺《そうさい》するのである。
抵抗《ていこう》に成功したかどうかは分からない。リウイは顔面に冷たさを通り越して肌《はだ》が切れるような痛みを感じた。
だが、それぐらいで怯《ひる》むようなリウイではない。
暴走した魔法装置を止めるときには、魔法の防護《ぼうご》があったとはいえ、狂える氷の精霊が乱舞《らんぶ》するなかに身を置いて死ななかったのだ。
冷気を吹いた後、離《はな》れようとする狂精霊に、リウイは魔法の剣をふたたび振るった。
その攻撃は見事に命中し、森の妖精《ようせい》を氷の彫像で再現したようなフラウの実体が苦痛に悶《もだ》えるように僅《わず》かに揺らいだ。
「やったぞ!」
リウイは思わず快哉《かいさい》をあげた。
その瞬間《しゆんかん》、
「一太刀《ひとたち》、当てたぐらいで浮《う》かれるんじゃない」
と、氷の精霊の吐息《といき》よりも冷たい言葉が背後からかけられた。
あわてて声の方を振り向くと、そこにジーニたちの姿があった。依頼人の精霊使いも一緒《いつしよ》だった。
騒《さわ》ぎを聞きつけて、外へ出てきたのだろう。
「自分の未熱《みじゆく》さを暴露《ばくろ》しているようなものではありませんか?」
メリッサがいかにも不本意だという表情で言う。
ミレルは無言だったが、あきらかに軽蔑《けいベつ》の眼差《まなざ》しである。
(失敗しても、成功しても、罵倒《ばとう》されるのかよ……)
リウイは憤慨《ふんがい》したが、合は彼女らと口論しているような状況ではない。狂精霊はまだ、飛びまわっているのだ。
「おまえの役割は、わたしたちの武器があの狂える精霊を倒せるようにすることだ」
そう言うと、女戦士ジーニがリウイの眼前に|大 剣《グレートソード》の切《き》っ先《さき》を突《つ》きつけながら言った。
「どうして、あなたは洗練された戦いができないのでしょう」
メリッサはわざとらしく溜息《ためいき》を洩《も》らしながら、旅用のマントの下から|戦 鎚《ウオーハンマー》を取り出した。
「まったく、自分の拳《こぶし》なんか光らせているんじゃねぇよ」
盗賊少女のミレルは裏街言葉《スラング》でぶつぶつと言い、腰《こし》に下げた|小 剣《シヨートソード》を鞘《さや》から引き抜く。
それを見て、リウイは自分の出番が終わったことを知った。
彼の認識はまさに正しく、その後、すぐ狂える氷の精霊たちは彼女たちの手によって消滅《しようめつ》させられたのである。
3
氷の精霊たちがすべて消滅した後、集落の戦士たちは当然のように、リウイたちの周囲に集まってきた。
彼らの顔には疲労感《ひろうかん》が漂《ただよ》い、困惑《こんわく》の表情も浮《う》かんでいた。
「どういうことか、説明してもらおう」
もっとも体格の大きな男が、彼らを代表するように進みでてきた。
「久しぶりだな、ネフラ」
まだ魔力《まりよく》の輝《かがや》きの失せぬ|大 剣《グレートソード》を肩《かた》にかけたまま地面に片膝《かたひざ》を落としていたジーニが男に答えた。
「ジーニ……なのか」
ネフラという男の表情が驚愕《きようがく》のそれに変わり、背後にいる戦士たちの間にも動揺《どうよう》が走った。
「どうして、おまえが……」
「あたしが、ジーニ姉さんに頼《たの》んだのよ。荒《あら》ぶる精霊《せいれい》たちを鎮《しず》めるため、力を貸して欲しいって」
ネフラの言葉を遮《さえぎ》るように、ルダが声をあげた。
「なぜ、ジーニなどに頼む。こいつは部族の掟《おきて》を破って、集落から追放《ついほう》された女なんだぞ!」
「長老から、すべて聞いてるわ。ジーニ姉さんは追放されたんじゃない。自分から集落を出ていっただけよ。若長《わかおさ》のような卑劣《ひれつ》な男たちに嫌気《いやけ》がさしてね」
ルダは、ネフラとその周りにいる男たちを憎《にく》しみの目で見つめる。
彼女の言葉に、若い戦士たちのうちの何人かはうなだれたり、精霊使いの少女から目を背《そむ》けたりする。
それを見て、
(心にやましいことがあるんだな)
と、リウイは思った。
ネフラという男は、ジーニが部族の掟を破ったと言ったが、どうやら何か事情があるようだ。
だが、その当人は怒気《どき》をはらんだ目で、自分を罵倒《ばとう》した精霊使いの少女を凝視《ぎようし》している。剣《けん》を握《にぎ》ったままの手はわなわなと震《ふる》え、今にも斬《き》りかかってゆきそうな様子だった。
しかし、ルダはまったく動じた様子もなく、胸をそらして挑戦的《ちようせんてき》な態度を変えようとしない。小柄《こがら》ではあるが、ふたつの胸は十分に発達している。衣服を押《お》し上げて、その存在を誇《ほこ》っているようにも見えた。
「昔話はもういい」
ジーニは、ルダの肩に手をかけて言った。
「わたしはもう部族の人間ではない。ただの冒険者として雇《やと》われただけだ。依頼された仕事を果たしたら、すぐに集落を去《さ》る」
「ジーニ姉さん……」
不服そうな顔で、ルダはジーニを見上げる。
「彼らも集落を守るために戦っている。わたしたちの役割は精霊たちを鎮《しず》めることだ」
ジーニはそう言って、分かったなと、少女にうなずきかけた。
「一刻《いつこく》も早くだ!」
ネフラは不機嫌《ふきげん》に言い放《はな》つと、ジーニたちに背を向けた。
他の戦士たちも、彼に従うように後に続いた。そして、それぞれの家に戻《もど》ってゆく。
しかし、一人だけ、その場に残っている者がいた。
何者だろうと、リウイはその男を見つめた。戦士にしては、気の弱そうな印象のする若者だった。
「ジーニ……」
その戦士はためらいながら、赤毛の女戦士の名を呼んだ。
そして彼女の方に歩《あゆ》みよってゆく。まるで酒に酔《よ》っているように、その足取りはふらついていた。
「ラディン……」
ジーニがつぶやく。それが若者の名前なのだろう。
「何者なんだ?」
リウイが声に出してつぶやくと、
「何者でしょう?」
「何者なの?」
メリッサとミレルが、同じ疑問を同時に口にしていた。
三人は反射的に顔を見合わせる。だが、メリッサとミレルは露骨《ろこつ》に嫌《いや》そうな表情になって、すぐにそっぽを向く。
リウイはなんだか勝ち誇ったような気分になった。彼女らがどう思っていようと、自分も彼女らの冒険者仲間になりつつあるということだ。
「悪いが、二人だけにしてくれないか?」
ジーニが、リウイたちを振り返って言う。
どうしてだと、リウイは問い返そうとしたが、それよりも先に、
「分かった……」
と、ルダが答えていた。
何か事情がありそうだなと察して、リウイは彼女に従うことにする。メリッサとミレルも、異論は唱《とな》えなかった。
そして、リウイたち三人は精霊使いの少女ルダの家に戻った。
寝ているところを起こされたわけだが、眠気は完全に失せていた。
過去にこの集落で、ジーニに何があったのかを依頼人の少女に聞かなければならない。ジーニとっては触《ふ》れられたくない過去かもしれないが、ここに来ることを承知した時点で、彼女も覚悟《かくご》しているだろう。
リウイたちは依頼人を取り囲んで、彼女が話しはじめるのを待った。
ルダは寂《さび》しそうな表情でうつむきながら、長い時間、沈黙していた。だが、やがて意を決したように顔を上げると、リウイたちに視線を巡《めぐ》らせる。
「ジーニ姉さんは優《すく》れた狩人《かりうど》であり、また戦士だった。姉さんの父親がそうであったように……」
ジーニの父はまた、部族の英雄でもあったとルダは言った。
集落に翼竜《ワイバーン》が襲いかかってきたとき、彼は単身、この恐《おそ》るべき魔獣《まじゆう》と戦い、打ち倒している。だが、そのとき受けた傷《きず》がもとで、半年後にこの世から去った。
ジーニは父の跡《あと》を継《つ》いで、十歳になるかならぬかで、狩人となった。そして父親に劣《おと》らぬほどの腕前《うでまえ》を見せた。
集落の戦士団にも入り、彼女はまたたくまに熟練《じゆくれん》の戦士になってゆく。十六歳になるかならぬかで、彼女は集落でも指折《ゆびお》りの実力の持ち主になっていた。同年代の男たちは、彼女の足下にも及ばなかったのである。
「ジーニ姉さんには、そのとき、恋人がいたの。名前は、ラディン。さっき残っていた男よ……」
「恋人なのかぁ」
ミレルが鼻の頭を指でかきながら、溜息《ためいき》をつくように言った。
メリッサも僅《わず》かに頬《ほお》を赤らめて、困惑《こんわく》したような表情を浮《う》かべる。
(別に、普通《ふつう》じゃないか)
と、リウイは言いたかったが、彼女たちの性格を考えて、口にはしないことにした。
「二人は将来を誓《ちか》いあうほどの仲だった。でも、ラディンはジーニ姉さんを裏切《うらぎ》った」
「裏切った?」
ミレルの眉《まゆ》がぴくりと動いた。
メリッサも表情を強《こわ》ばらせる。
「ジーニ姉さんが族長候補《ぞくちようこうほ》になったことを、ネフラたち同年代の男たちは逆恨《さかうら》みした。そして姉さんを陥《おとしい》れた。恋人であるラディンを巻き込んでね」
ルダの言葉を聞いて、ミレルとメリッサが顔を見合わせる。彼女らの心のなかでは、怒《いか》りの炎《ほのお》が点火されたようだ。
そして、その思いはリウイも同様だった。
最低な奴《やつ》らだと思う。
「わたしたちの部族は、決して貧《まず》しくない。岩山羊《いわやぎ》の毛織物《けおりもの》、ヤスガルン山脈の鉱物資源《こうぶつしげん》。そして、天然の氷といった交易品《こうえきひん》があるから……」
「氷が交易品になるの?」
ミレルが円《つぶ》らな目をぱちぱちさせる。どうしてそんなものが、という顔である。
「冬の氷を夏まで保存しておくんだ。そしたら、貴重品《きちようひん》になるだろ」
リウイが解説をする。
「そんな物を買う奴がいるわけ?」
「それがいるのさ。アイラは夏になると、よく氷柱《つらら》を部屋に運んでもらったとか言っていた。リジャール王は氷を使った菓子《かし》が好物だと、爺《じい》さんから聞いたことがある」
「信じられねぇ……」
ミレルが裏街言葉《スラング》でつぶやいた。
冬になれば、氷など無料《ただ》で手に入れられるのである。そんなものに金を払《はら》う人間の気がしれない。
「部族の長《おさ》になるのは、大変な名誉だし、部族の富も掌握《しようあく》できる。そして族長になれるのは、最高の戦士だけ。各集落は、戦士団のなかから族長候補を族長のもとに送る。その戦士たちのなかから、次の族長が選ばれる。ジーニ姉さんなら、きっと次の族長に選ばれたはず…」
悔《くや》しそうに、ルダは言った。
「ジーニはいったいどんな掟《おきて》を破ったんだ?」
リウイが訊《たず》ねた。
「交易品の氷を盗《ぬす》んだの。ラディンが、ひどい熱病にかかったから」
「それが罠《わな》だったんだな」
リウイの言葉に、ルダは唇《くちびる》を噛《か》みながらうなずいた。
「ラディンは、高熱が出る薬草を飲んでいた。ジーニ姉さんは彼を助けようとして、氷室《ひむろ》に入って交易品の氷を……」
「それが集落の掟に反することなのか?」
リウイは憤慨したように、大声をあげた。
「集落の大切な収入源だから」
ルダがうなだれながら答えた。
「でも、事情が事情だからって、族長は罪《つみ》には問わなかったわ。でも、族長候補からは外された。ネフラが目論《もくろ》んだとおりに。そして真相を知ったジーニ姉さんは、黙《だま》って集落を出ていった」
「恋人に裏切られたんだものねぇ」
ミレルが、うんうんとうなずく。
「それにしても、どうしてラディンという男は恋人を裏切るような真似《まね》を?」
メリッサが憤然としながら言う。
「ネフラたち、戦士仲間にそそのかされたんだと思う。兄さんは気の弱いところがあるから……」
そう言ってから、ルダははっとなって自分の口を塞《ふさ》いた。
「ラディンという男は、あなたの兄さんなのですか?」
メリッサが驚いて訊ねる。
「あんな男、兄だなんて思っていない! 恋人を、ジーニ姉さんを裏切るような真似をする奴《やつ》なんて!!」
ルダは激《はげ》しく首を横に振りながら、叫《さけ》ぶように言った。
「まったくだ。そんな卑怯者《ひきようもの》は、このオレが殴《なぐ》り倒《たお》してやる!」
リウイは勢いよく立ち上がると、拳を握りしめた。
そのときだった。
「勝手に盛《も》り上がるんじゃない」
声がして、家の扉が開いた。
そして、赤毛の女戦士が入ってきた。
「すべて昔《むかし》のことだ……」
ジーニはそう言うと、どっかりと床《ゆか》に腰《こし》を下ろした。
「わたしが掟を破ったのも事実だ。たとえ、どんな事情があったにしてもな」
「ジーニ……」
ミレルとメリッサが彼女に気遣《きづか》うような視線を向ける。
リウイも不満は一杯《いつぱい》だったが、かためた拳《こぶし》を解《と》く。彼女の意志に反してまで、ネフラやラディンといった男を殴るわけにはゆかない。
それにしても、とリウイは思う。
(ジーニは昔の恋人といったいどんな話をしたんだ)
全員の視線が集まっているのに気付いて、ジーニは手を払いのけるような仕草《しぐさ》をしてから、床に転がった。
「そんなことより、早く休め。明日には、雪渓《せつけい》に向かって出発するんだからな」
分かったというようにメリッサはうなずき、ミレルとルダに目で合図《あいず》を送った。
そして、リウイはふたたび家の外へと追い出されることになった。
夜空を見上げながら、改めて眠りにつこうとする。しかし、今度は星の数を百まで数えても眠ることはできなかった……
4
翌日、集落の近くの山頂付近《さんちようふきん》に残る雪渓《せつけい》を目指して、五人は出発した。
集落を流れる川に沿った細く険《けわ》しい道を、依頼人《いらいにん》の少女の道案内で登ってゆく。
さすがにジーニは慣れたもので、まるで羚羊《かもしか》のように軽《かろ》やかな足取りだった。表情も爽《さわ》やかで、久しぶりの故郷《こきよう》を存分に楽しんでいるように見える。
彼女にしては珍《めずら》しいことに、最近の部族の様子などを、自分のほうからルダに訊《たず》ねたりしている。
「あんなジーニ、初めて見たわ……」
ミレルがいかにも意外だという顔をした。
「そうですね」
同感だというように、メリッサがうなずく。
二人がジーニと出会ったのは、彼女がファンの街《まち》に来てからである。それまでの彼女がどういう女性だったかは、ほとんど話に聞いていなかった。
ジーニはもともと口数の少ないほうだし、過去《かこ》にいろいろあったらしいということがそれとなく知れたので、それ以上の詮索《せんさく》はしなかったのだ。
集落を追われた理由なども、ここに来て初めて知ったほどだ。
依頼人の少女と親しげに昔話をしているジーニを見ていると、ミレルには彼女の存在がなんとなく遠く感じられた。
冒険者《ぼうけんしや》仲間とは言っても、ジーニと出会ってから、まだ一年ほどしか経《た》っていない。依頼人のほうが、何倍も彼女との付き合いは長いのである。
(あまり、考えないことにしよ)
ミレルは心のなかで、そっとつぶやいた。
依頼人の話ではジーニは掟破《おきてやぶ》りのために追放《ついほう》されたのではなく、自分を裏切った昔の恋人や戦士仲間に失望して、自《みずか》ら部族を捨てたのだ。
仕事が終われば、これまで通り、ファンの街で冒険者|稼業《かぎよう》を続けることになる。
(それにしても、きついなぁ)
手先の器用さと機敏《きびん》な動きが彼女の身上だが、耐久力《たいきゆうりよく》は実はそれほどでもない。
盗賊《とうぞく》という商売にはさして必要のない能力だからだ。穴熊《あなぐま》――冒険者になってからだいぶ鍛《きた》えられたが、本格的な登山はなにしろこれが初めてである。
メリッサも表情などを見ているかぎり、かなり辛《つら》そうだ。顔には汗《あせ》がびっしりと浮《う》かび、美しい金髪《きんぱつ》が額《ひたい》や頬《ほお》にはりついている。
しかし、魔法戦士《まほうせんし》を自称《じしよう》している巨漢《きよかん》の魔術師《まじゆつし》は、まったく平然とした顔でジーニのすぐ後に続いている。
リウイにしても、山登りは初めてのはずである。
だが、彼は街にいるときと、まったく変わらないように見えた。ときどき、立ち止まっては、山の景色《けしき》を眺《なが》める余裕《よゆう》さえある。珍しい動植物を見つけては、魔術師らしい知識欲を発揮《はつき》して、ジーニに名前を訊《き》いたりしている。
そんなリウイを見ていると、ミレルは不愉快《ふゆかい》な気分になってくる。
盗《ぬす》めるものなら、無意味に余っているその体力を、盗んでやりたいと思うほどだ。
(世のなかには、そんな能力を持った魔獣《まじゆう》だっているのにね……)
その日は結局、太陽が山の向こうに沈《しず》むよりかなり前に、野営《やえい》をすることになった。いかにも山歩きに不慣れなミレルとメリッサに、ジーニが気を遣《つか》ったのだ。
足手まといになったようで、ミレルとしては悔《くや》しかったが、実際に足の痛みは限界まできていた。
翌日は、夜明けとともに出発する。
谷底の道を川の流れに沿って進んでいると、大きな岩の陰《かげ》に残雪が輝《かがや》いているのを、ミレルが目敏《めざと》く見つけた。
昼を過ぎた頃のことである。
「ほら、ここ。雪が残っている」
これで山登りから解放《かいほう》されると思って、ミレルは嬉《うれ》しそうな声で言った。
だが、依頼人は申《もう》し訳《わけ》なさそうな顔をして、首を横に振《ふ》る。
「先日、降った大雪の残りでしょうけど、いくらなんでも小さすぎる。氷《こおり》の精霊《せいれい》たちがさまよいでてくるには、もっと雪や氷が多くないと……」
それを聞いて、ミレルは思わず荷物を落とし、その場でうずくまってしまった。
「そこまで、どれくらいかかるの?」
ミレルの問いに、精霊使いの少女は、明日《あす》か明後日《あさつて》には着くでしょうと答える。
「そうなの……」
ミレルはがっくりとうなだれた。
(やっぱり、あたしは街でしか生きられないな)
と、心のなかでつぶやく。
「精霊力の異常は感じないか?」
ジーニがルダに訊ねた。
「……感じない」
僅《わず》かな時間、残雪に目を凝《こ》らしてから、ルダは答えた。
精霊力感知の能力を使ったのだ。
「だったら、もっと登るしかないな……」
ジーニの言葉を聞いて、ミレルはすぐに立ち上がった。しかし、立ち上がった瞬間《しゆんかん》、足ががくっとなり、小さくよろけてしまった。
「動けないのなら、おぶってやるぜ」
それを見たリウイがミレルに笑いかけてきた。
「余計なお世話だよ」
ミレルは凄《すご》みの利《き》いた声を返す。
「そんな口がきけるなら、大丈夫《だいしようぶ》だな」
リウイはそう言うと、ミレルの荷物をひょいと取り上げた。そして、ついでとばかり、メリッサの荷物にも手を伸《の》ばす。
「だ、大丈夫です」
メリッサはあわてて言った。
しかし、リウイは、
「オレの役割は、荷物持ちだそうだからな」
と答えて、二人の荷物をまとめて肩《かた》に担《かつ》いだ。
今回は重装備《じゆうそうび》をしているので、三人分の荷物ともなるとかなりの重量になる。だが、鍛練《たんれん》だと思えば、どうということはないと自分に言い聞かせる。
そして、一行はふたたび山を登りはじめた。
目的の場所に到着《とうちやく》したのは結局翌日の夕刻《ゆうこく》だった。山の夕日が雪渓の表面を深紅《しんく》に染《そ》め、幻想的《げんそうてき》な光景を浮かびあがらせていた。
ミレルがそれまでの疲《つか》れを忘れたように、雪渓の上に登り、季節はずれの氷の感触《かんしよく》を楽しむ。
「精霊力は?」
ジーニがルダを振り返って訊ねたが、そのときには精霊使いの少女はすでに雪渓の側《そば》に立ち、精神を集中させて、精霊力感知の能力を使っていた。
たが、しばらくして集中を解《と》いた彼女は、ゆっくりと首を横に振った。
「異常はありません……」
「それって、もっと上に登らないといけないってこと?」
ミレルが雪渓の上に立ったまま、精霊使いの少女に訊ねる。
表情には出していないが、内心では勘弁《かんべん》して欲しいと思っているに違《ちが》いない。
「分からない……。精霊力の異常がないのに、狂《くる》った精霊が現れるなんて……」
赤い髪《かみ》を掻《か》きむしりながら、ルダはふたたび首を横に振った。予測していたのが外《はず》れたためか、彼女はかなり混乱している様子だ。
「更《さら》に登れば、異常があると思うか?」
ジーニが訊ねる。
「分からない。それしか考えられないんだけど……」
ルダは夕焼けに染まる雪渓を睨《にら》みつけながら、自信なさそうに言った。
「おかしいと思わないか?」
それを見て、リウイは側にいたメリッサに話しかけた。
メリッサは瞬時《しゆんじ》、戸惑《とまど》ったような表情を見せたが、すぐに姿勢を正して、リウイと向かい合った。
「精霊力に異常がないことですか?」
「いや、オレは精霊使いじゃないから、それがどう問題なのかは分からない。おかしいと言ったのは、依頼人のことだ。彼女は何の下調べもしないで、オレたちに依頼をしてきたような感じがしないか?」
彼女は集落の精霊使いであり、精霊を鎮《しず》める役割を担っていると聞いている。まさに、そのような状況《じようきよう》なのに、彼女はこの雪渓にも初めて来た様子だ。
まるで、自分の義務《ぎむ》を放棄《ほうき》しているとしか思えない行動である。
だが、彼女が無責任であるとは感じられない。むしろ、勇敢《ゆうかん》で責任感の強い女性という気がする。
それなのに、だ。
「まるで自分一人で解決する気がなかったみたいだ」
「わたしたち――というより、ジーニにこの問題を解決させたがっているように思えますね」
「ジーニが集落に帰れるように、な」
リウイの言葉に、メリッサはそんなところでしょうね、と小声で答えた。
「もしも、ジーニが集落に帰ることになったら、どうするつもりだ?」
「そんなこと、考えたこともありませんわ……」
メリッサは表情を曇《くも》らせて、精霊使いの少女と話し込んでいる赤毛の女戦士を振り返った。そして、すぐ側にミレルが立っていることに気がつき、驚《おどろ》きの表情になる。
(さすが、盗賊《とうぞく》だな)
リウイも、彼女がやってきたことに、まったく気付いていなかった。
「何を内緒話《ないしよばなし》しているかと思えば……」
ミレルはじとりとした目でリウイを見ると、甘《あま》えるようにメリッサの腕《うで》を抱《だ》く。
「ジーニが自分で決めることだもの。あたしたちが心配したって仕方がない。彼女の決心が固かったら、止めたって無駄《むだ》だもの」
黒髪の少女はそう言うと、
「まさか、あんた、そうなるのを期待しているんじゃないでしょうね」
と、リウイを睨《にら》みつけた。
「そんなわけないだろう。なんだかんだと言っても、ジーニは戦い方を教えてくれる。目標にもしている。彼女ほどの戦士は、冒険者のなかにもそうはいないだろうからな。替《か》わりを探すのも大変だ」
「ジーニの替わりなんていないわ」
ミレルがつぶやくように言い、メリッサも深くうなずいた。
「オレもそう思うよ」
そう言って、リウイは軽く笑った。
ジーニが集落に帰りたいと思っているかどうかは、リウイには分からない。彼女はとにかく口数が少なく、表情もめったに変えない。その本心を読むのは難《むずか》しいのだ。たが、恋人のために集落の掟《おきて》を破るなど、案外、彼女は情熱家なのではないかという気がした。
(いい女じゃないか)
リウイは思ったが、そんなことを彼女に言おうものなら、どんな目に遭《あ》うか分からない。
ルダとの話は終わったらしく、ジーニがリウイたちのところにやってきた。
「狂《くる》える精霊がどこから現れるか、確かめないことには手の打ちようがないからな。今夜はここで休んで、明日、わたしとルダがもう少し登ってみる」
「あたしたちは、どうするの?」
ミレルが訊《たず》ねる。
「ここで待機してくれ。狂える精霊が現れても、決して無理はするな」
「集落には勇敢《ゆうかん》な男たちが何人もいますものね」
メリッサが皮肉たっぷりに言う。
リウイは内心、不満だったが、話を複雑にしたくないので黙《だま》っておくことにした。
(逃《に》げられないような状況なら、戦うしかないからな)
と思う。
もちろん、そうなることを期待していた。
そして、リウイたちは夜営の準備をはじめた。
ルダが持ってきた天幕《てんまく》を張って、薪《たきぎ》を集めて火を灯《とも》す。夕食は鹿肉《しかにく》の薫製《くんせい》と近くで集めてきた山菜《さんさい》や木の実などだ。
「この辺《あた》りだと、夜は冷えるから」
ルダが言って、果実酒《かじつしゆ》を取りだした。
「ありがたいな」
リウイが木製の杯《さかずき》に酒を注《つ》いで、一気に飲みほした。甘くて軽い酒だが、それでも身体《からだ》は暖《あたた》まる。
どうせ天幕には入れてもらえないし、入るつもりもない。毛皮のマントにくるまって、眠《ねむ》る覚悟《かくご》なのだ。
ルダの言うとおり、日没《にちぼつ》の後はかなり冷え込んできている。酒が入っていれば、眠りに着くのも格段に早い。
集落でも聞いた山鳴りの音が聞こえてきたのは、リウイが果実酒のおかわりを頼《たの》もうとしているときだった。
5
「何よ、この音?」
ミレルが聞き耳を立てながら、気味悪そうに言った。
「冬には、よく聞く音だな。吹雪《ふぶ》いた翌日とか……」
ジーニが記憶《きおく》をたどるようにつぶやく。
「そう……ですね」
精霊使いのルダが小さく相槌《あいづち》を打った。
「集落で泊《と》まった日にも聞いたぜ。まるで、山が泣いているような感じだな」
一人、戸外で寝《ね》ていたので、リウイははっきりとこの音を聞いている。
「今度の事と、何か……」
関係があるのか、とリウイが言おうとした瞬間《しゆんかん》だった。
依頼人《いらいにん》が弾《はじ》かれたように立ち上がると、雪渓《せつけい》の方を指差した。そして、
「雪の女王の娘《むすめ》たちが!」
と、叫《さけ》ぶ。
雪渓が終わっている場所、雪が壁状《かべじよう》になっているところから、氷《こおり》の精霊《せいれい》フラウがまるで染《し》みだしてくるように次々と姿を現す。
その数は合計、五体にもなった。
「狂《くる》える精霊か?」
ジーニが緊張《きんちよう》した声をあげ、脇《わき》に置いてあった|大 剣《グレードソード》の柄《つか》を撞《にぎ》る。
リウイも|魔術師の杖《メイジスタツフ》を握って、精霊たちの襲撃《しゆうげき》に備えた。
ジーニたちの武器に、魔力付与《まりよくふよ》の呪文《じゆもん》をかけた後は、アイラから借り受けた魔法《まほう》の剣《けん》で戦おうとひそかに決心する。
しかし――
氷の精霊たちは、まるでリウイたちを避《さ》けるように、渓谷《けいこく》を降りていった。
「どうしてよ?」
ミレルが目を丸くして、遠ざかってゆく精霊たちの姿を見つめる。
「あの精霊たちは、狂っていない………」
ルダが精霊力感知の能力を使ってから、まるで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「狂っていない? でも、集落に襲いかかってきた精霊たちは、みんな狂ってたわよ」
ミレルは納得《なつとく》できないというように、精霊たちが消えていった闇《やみ》に視線を注《そそ》いだ。
今にもとって返してきて、襲撃してくるかもしれない。狂える精霊ならば、それが当然なのだ。
「精霊っていうのは、異界《いかい》の住人なんだぜ。理由もなく、この世界に現れたりするものなのか?」
リウイが呆然《ぼうぜん》としているルダに訊《たず》ねた。
「精霊力が強く働いている場所では、精霊界の扉《とびら》が自然に開いて、精霊が実体を持つということはある。でも、すぐにまた扉は閉じて、精霊たちの姿は見えなくなる。わたしたち精霊使いには、精霊たちの営《いとな》みは目に見えるけど、さっきの精霊はあなたがたの目にも見えたでしょう。完全に実体化していたということよ」
「それじゃあ、自然に姿を現したんじゃないということだ。誰《だれ》かに召喚《しようかん》されたとかだな。そして、季節が季節だけに、氷の精霊は移動の途中《とちゆう》で狂ってしまった……」
夏は、炎《ほのお》の精霊力がもっとも強い季節である。炎と対立する氷の精霊にとっては、もっとも過酷《かこく》な季節と言える。長時間、この世界に留《とど》まれば、異常をきたしたとしても何の不思議もない。
先日、天候制御《てんこうせいぎよ》の魔法装置《まほうそうち》が暴走《ぼうそう》したときには、森の妖精《ようせい》セレシアの呼びかけに風の精霊さえもが狂って′サれた。
リウイの言葉に、精霊使いの少女は何の反応も見せなかった。聞いていなかったのではなく、何か思いつくことがあって、真剣《しんけん》に考えこんでいる様子だった。
「今日《きよう》は冴《さ》えているじゃない?」
ミレルがリウイに皮肉っぼく言う。
「オレだって、魔術師だからな。本業は知恵《ちえ》を出したり、知識を活かしたりすることだ」
リウイは憮然《ぶぜん》として答えた。
論理的に物事を考えるための方法も、魔術師ギルドで学んでいる。だが、リウイはむしろ閃《ひらめ》きとか直感のほうを重要視《じゆうようし》している。
理屈《りくつ》を積み重ねて結論を導くのではなく、結論から先に考えるのだ。そして、余裕《よゆう》があれば、その結論が理屈に合っているかどうかを検証《けんしよう》する。余裕がなければ、そのまま行動に出る。
これまでの人生で迎《むか》えたいくつかの危機を、彼はこのやり方で切り抜《ぬ》けてきた。不思議なことに、追い詰められると妙案《みようあん》が自然に思い浮かぶのだ。
「勇者《ゆうしや》になるためには、いつも冴えてもらいませんと」
メリッサが澄《す》ました顔で言った。
その言葉に、リウイは力が抜けたようになり、思わず酒杯《しゆはい》を落としそうになった。
「一度、聞こうと思ってたんだが、あんたが理想とする勇者ってのは、いったいどんな人間なんだ?」
「いかなる強敵をも一撃《いちげき》で倒《たお》し、あらゆる難問を即答《そくとう》するのが勇者というものではありませんか。魔術を使うのであれば、それを極《きわ》めるべきですし、様々《さまざま》な技術を身に着ける必要もあるでしょう。そして戦《いくさ》の神《かみ》を篤《あつ》く信仰《しんこう》する」
(それは無理だ)
リウイは心のなかでは答えたが、口には出さないでおく。
そんな勇者は神話や伝説にさえ、登場してこない。神々ですら、そこまで万能であるかどうか疑問《ぎもん》だった。
「あくまで理想ですから」
メリッサは、そこまでは期待していないという目でリウイを見る。
それはそれで腹が立つぞ、とリウイは思ったが、こんなことをまともに議論する気にもなれなかった。
人間、完壁《かんぺき》を追い求めても不幸になるだけである。ひとつひとつの成功を単純に喜んでいるほうが、結局は大きな結果を残せるものなのだ。
その間に、精霊使いの少女は、何かを思いついたらしく雪渓《せつけい》の方に歩《あゆ》み寄っていた。ジーニが火のついた木の枝を手にして、彼女の側《そば》につく。
そして、ルダは雪渓に向かって、何事か囁《ささや》きかけている。
精霊と話しているということは、リウイたちにも分かった。それは彼女の役割であり、見守ることしかできない。
静かな時間が流れて、やがてルダはジーニに向かって二言二言、話しかけた。それからリウイたちを振り返る。
「氷の精霊たちを呼び出しているものの正体が分かりました……」
「何者なんだ?」
リウイが訊ねる。
「|霜の巨人《フロストジヤイアント》です」
「霜の巨人?」
ミレルとメリッサがリウイの顔を見つめる。
「神々の末裔《まつえい》とも言われている巨人族《きよじんぞく》の一種だ。氷の精霊力を体内に宿した巨人で、寒冷地にしか棲息《せいそく》していない。ヤスガルン山脈には彼らの集落があると噂《うわさ》されているが、本当にいたんだな」
「へぇ、ちゃんと知っているんだ」
ミレルが感心したように言った。
「感心されてもな」
リウイは苦笑する。
だが答えられなくて、罵倒《ばとう》されるより百倍もましであることは間違《まちが》いない。
「その巨人を倒《たお》せば、事件は解決ってわけだし」
リウイが得意顔をして言った。
|巨人殺し《ジヤイアントバスター》は、|竜殺し《ドラゴンスレイヤー》に匹敵《ひつてき》するほどの武勇《ぶゆう》なのである。
リウイは握《にぎ》り拳《こぶし》に力を入れた。これまでで、最大最強の敵と言える。
「倒すなんてとんでもない! 霜の巨人は性格は優しく、我々の部族にとって神にも等《ひと》しい存在。倒すのではなく、救《すく》いに行くのよ」
厳《きび》しい口調のルダの言葉に、リウイは狼狽《うろた》えた。
「あれっ、性格が穏《おだ》やかなのは、|森の巨人《フオレストジヤイアント》じゃなかったか? |炎の巨人《フアイアジヤイアント》と|霜の巨人《フロストジヤイアント》は凶暴《きようぼう》だったと……」
巨人に関して記述のあった書物を読んだのは最近のことだが、一読しただけなので、完全には頭に入っていない。
「やっぱ、誉《ほ》めるんじゃなかったわ」
ミレルが呆《あき》れたような顔をする。
メリッサは顔を真《ま》っ赤《か》にして、リウイに背を向けた。
不本意ですと全身で主張している感じだった。
「だから、おまえは素人《しろうと》だって言うんだ。戦いはいいから、魔術師らしく知恵《ちえ》と知識を身につけろ」
とどめをさすように、ジーニも声をかけてきた。
(一度、間違《まちが》えただけでこれかよ)
リウイは内心、不満を覚えたが、間違えたことは事実なので何も言い返すことができなかった。
「霜の巨人は、集落の近くで動けなくなっています。夏の暑《あつ》さは巨人にとって致命的《ちめいてき》だから。巨人は寒冷地《かんれいち》に帰ろうとして、雪の女王の娘たちに助けを求めた。だから、彼女たちは精霊界からやってきた。でも、夏の暑さは彼女らにとっても、致命的だったのでしょう」
「それが事件の真相ってわけだ」
ミレルが感心したように言った。
「それで、霜の巨人は今、どこにいるの?」
「集落の近くで、もっとも涼《すず》しい場所。つまり、氷室《ひむろ》だ」
ミレルの間に答えたのは、ジーニだった。
「もしかして、ジーニが氷を盗《ぬす》んだって場所?」
「そうだ」
ジーニは表情を変えずに答える。
「まさか、こんなところで事件に関《かか》わってくるとはな」
赤毛の女戦士は自嘲《じちよう》するように付け加える。
「偶然《ぐうぜん》って怖《こわ》いわね」
ミレルがうんうんと相槌《あいづち》を打つ。
「運命なんだとわたしには思える」
ルダが表情を輝《かがや》かせて、ジーニを見つめた。
「氷室の氷を盗《ぬす》んで、集落の掟《おきて》を破ったジーニ姉さんが、氷室のなかで動けなくなった霜の巨人を助け、そして集落の危機も救う。それで罪《つみ》はすべて贖《あがな》われるんだと、わたしには思える……」
訴《うつた》えかけるような目で、ルダは同じ髪《かみ》の色をした女戦士を見つめる。
ついに本心《ほんしん》を言ったという感じだった。
「そういう話は、すべてが終わった後にしよう」
ジーニは答えた。
その手が、頬《ほお》に描《えが》かれた呪払《のろいばら》いの紋様《もんよう》をなぞっている。
(微妙《びみよう》な答だな)
と、リウイは思った。
メリッサとミレルに視線を向けると、彼女らは顔を見合わせて、複雑な表情を浮かべている。
(精霊使いの少女にとって、願ってもない状況《じようきよう》というわけだ)
リウイは運命など信じないが、偶然《ぐうぜん》の出来事に運命を感じ、心を動かす者は多い。もしも、ジーニがそう考えたとしても不思議ではない。彼女にとって、このヤスガルン山脈こそが故郷《こきよう》なのだから……
「しかし、巨人を連れて帰ることなんか、わたしたちにできるでしょうか?」
「それなんです」
メリッサの言葉に、ルダが表情を暗くした。
「わたしにできることはと言えば、氷の精霊を狂《くる》わないように連れてゆくことぐらい。衰弱《すいじやく》した巨人をこの辺《あた》りまで運ぶことはとても……」
そう言うと、ルダは肩《かた》を落とし、うなだれてしまった。
「放《ほう》っておけば、巨人は死んでしまうじゃない。それでも、事件は解決よ」
ミレルが背伸《せの》びして、リウイの耳に顔を近づけ、そう囁《ささや》いてきた。
まるで、心のなかに犬頭鬼《コボルド》を棲《す》まわせているような囁きである。
「あの少女にとってはそれじゃあ駄目《だめ》なんだ。霜の巨人を見殺しにしてしまっては、たとえ事件が解決しても、集落の人々はジーニのことを認めないだろう」
「それなら……」
ミレルは言いかけて、思い直したように口を閉ざした。
そのほうがいいと、続けたかったんだろう、とリウイは思った。だが、心のなかの犬頭鬼《コボルド》の声を、今度は押しとどめたようだ。
「ミレルには悪いが……」
リウイはそう言うと、盗賊《とうぞく》少女の黒髪に軽く手を置いた。
「気安く名前で呼ぶんじゃねぇ。それに、あたしに触《ふ》れるな」
ミレルが裏街言葉《スラング》で返し、リウイの手を乱暴《らんばう》に払《はら》いのける。
「それに、いったい何が悪いって言うんだ?」
ミレルが黒い瞳《ひとみ》でリウイを見つめる。
「まさか……」
「ああ、そのまさかだ」
リウイはうなずいた。
「今日のオレは、やっぱり冴《さ》えているのかもしれない。巨人を救う方法を思いついてしまったようだ」
「本当なの……」
その言葉に、語尾こそ違ったがジーニたち三人と、精霊使いのルダの声までが揃《そろ》った。
「もしも、間違っていたら、罵倒《ばとう》してくれていいからな」
リウイは前もって言う。そんなこと言わなくても、罵倒されるのは目に見えているのだが、自分のほうから許しを与《あた》えたということにしておきたかったのだ。
我ながら情けないが、現状ではどうしようもないのである。
(ま、そのうち、なんとかするさ)
と、リウイは気楽に構えている。
今でも、出会った頃《ころ》よりずいぶんましだし、リウイ自身が冒険者として更《さら》に成長してゆけばいいことなのだ。
「聞かせてもらおうか?」
ジーニがわざわざリウイの前までやってきて、凄《すご》みの利《き》いた声で言った。
(これで、さっきみたいに馬鹿《ばか》なことを言ったら、半殺しだな)
リウイは思ったが、自分の考えには自信があった。
「巨人を連れて帰ることは不可能だと思う。だが、それだけが巨人を救う唯一《ゆいいつ》の手段じゃない……」
「他に方法があるということか?」
ジーニの問いかけに、リウイは力強くうなずいた。
「霜の巨人は氷の精霊魔法を使えると聞いている。そして、巨人が避難《ひなん》している場所は、氷室のなかだ。氷はそう簡単には溶《と》けるもんじゃない」
「当たり前だ。簡単に溶けたら、氷室にはならない」
ジーニがそう言って、鼻を鳴らす。
「それに、その氷室は今は使っていない。もっと集落に近い場所にあった石切場《いしきりば》が枯《か》れたから……」
今はそこを氷室に使っています、とルダは言った。
(そんなとこだろうな)
と、リウイはうなずいた。
もしも氷が保管してあれば、霜の巨人のことは今頃《いまごろ》、集落の人々に知られていただろうし、巨人がそれほど衰弱しなくても済《す》んだはずだ。保管してある氷から、氷の精霊を呼びだすことも可能だったろう。
「氷の精霊魔法には|氷の棺《アイスコフイン》と呼ばれている呪文《じゆもん》があると聞いている。文字どおり呪文の対象を氷漬《こおりづ》けにする呪文だそうだ」
「たしかに存在している。|氷雪の魔狼《フエンリル》の力を借りてかける高度な精霊魔法《せいれいまほう》よ。わたしはまた未熟《みじゆく》だからかけられないけど…」
「霜の巨人ならかけられるはずだ。そして、氷の棺《ひつぎ》の呪文の対象は巨人自身」
「巨人を冬まで、氷のなかに閉じこめておこうというのか?」
ジーニが珍《めずら》しく驚《おどろ》いたような声をあげる。
「霜の巨人にとっては、安らかな寝床《ねどこ》だと思わないか? 精霊魔法の眠《ねむ》りの呪文で眠ってもらえば、そのあいだ消耗《しようもう》することはない」
「眠りの呪文なら、わたしにも使える」
ふたたび嬉《うれ》しそうな顔になって、ルダが言う。
「どうかな? 何か間違《まちが》っているかな?」
リウイは女性たちを見回して、反論を待つ。
「巨人が承知するかどうかが問題だがな」
とりあえずという感じで、ジーニが反論めいたことを口にした。だが彼女自身、それが問題になるとは思っていない表情だった。
「魔法のことはよく分からないけど、間違っていないと思う」
ミレルがぽつりと言って、リウイを見上げた。
「だけど、おまえはやっぱり最低な野郎だよ」
リウイはその文句に、何も反論しなかった。
メリッサが黒髪の少女を背後から優《やさ》しく抱《だ》きしめる。
ミレルは吐息《といき》を洩《も》らしながら、甘《あま》えるように戦の神の女性|侍祭《じさい》にもたれかかる。
「ありがとう。これで、きっと事件は解決する!」
ルダは嬉しそうに、リウイの手を取って、礼を言った。
「これが、オレたち冒険者の仕事だからな……」
リウイはにこりともしなかった。
そして、赤毛の女戦士に視線を向けて、選ぶのはあんただと心のなかで呼びかける。
彼の心の声は、確かにジーニに届《とど》いたようで、彼女は余計なお世話だとでも言いたげに、そっぽを向いた。
6
依頼人《いらいにん》である精霊使《せいれいづか》いの少女が言ったとおり、事件はそれで解決した。
心優しき|霜の巨人《フロストジヤイアント》は冬が来るまで眠《ねむ》りに着くことを承知し、集落の長老の許可を得て新しい氷室《ひむろ》から大量に運んでいった氷から精霊界への門を開き、〈|氷の棺《アイスコフイン》〉の呪文《じゆもん》を自《みずか》らにかけて、氷の毛布にくるまった。
そしてルダが巨人に、〈|眠り《スリープ》〉の呪文をかけたのである。
巨人は彼女の呪文を受け入れて、穏《おだ》やかな眠りに落ちた。
これで、山岳民《さんがくみん》の集落を狂《くる》える氷《こおり》の精霊《せいれい》が襲《おそ》うことはなくなるはずだ。
ルダはリウイたちを連れて、意気揚々《いきようよう》と集落に帰った。そして集落の長老は四人の冒険者《ぼうけんしや》を労《ねぎら》い、集落の危機《きき》と霜の巨人を救《すく》ったことに対し感謝を表すため宴《うたげ》を開いたのである。
その宴もすでに終わりに近づいている。
リウイたちは最初こそ主役だったが、しばらくするとほとんど無視された。釈然《しやくぜん》としないものはあったが、所詮《しよせん》は余所者《よそもの》であるし、そのほうが気を遣《つか》わずにすむので、とにかく食べることと飲むことに集中した。
だが、それにも、もう飽《あ》きかけている。そろそろ休もうと、リウイが腰《こし》を浮《う》かしたとき、依頼人の少女が数人の若者を連れて、リウイたちのところにやってきた。
そのなかには、ネフラやラディンたちの姿もあった。
リウイは一瞬《いつしゆん》にして酔《よ》いも覚め、メリッサとミレルの二人と顔を見合わせた。彼女らは、宴が始まったときから、まったくにこりともせず、ただ料理と酒を黙々《もくもく》と口にしていた。
(いよいよか……)
リウイは心のなかでつぶやく。
ルダの意図は分かっている。ネフラやラディンたちに謝罪《しやざい》させ、ジーニを集落に戻《もど》るよう説得するつもりなのだ。
「ジーニ姉さんの過去の罪《つみ》は完全に贖《あがな》われたと長老は仰《おつしや》いました……」
ルダはそう切り出した。
リウイが予想したとおりの言葉であった。
「ジーニ……」
ラディンがいきなり地面に両手を突いて、赤毛の女戦士の名を呼ぶ。
「どうか、集落に帰ってきてくれ。オレはもう、おまえに愛してもらう資格のないことは分かっている。だが、オレの気持ちは、あのときから変わっていない……」
「気持ちは変わっていないだと?」
若者の言葉を聞いて、リウイは黙《だま》っていられなくなった。
「恋人を裏切っておいて、今更、よくそんなことが言えたもんだな!」
「おまえは黙っていろ!」
ジーニがリウイを振《ふ》り返って怒鳴《どな》った。
リウイは不満だらけだったが、とにかく黙った。自分が口出しすることではないのは分かっているのだ。
「ジーニが族長候補《ぞくちようこうほ》に選ばれたとき、オレは不安で一杯《いっぱい》だった。族長になれば、おまえはオレのものではなくなってしまう。あのとき、おまえをこの集落に繋《つな》ぎ止めるには、あの方法しかないと思った。だが、そのために、結局、おまえを失ってしまった……」
今の言葉に嘘《うそ》はないな、とリウイも思った。
だが、認めることはできそうにもない。好きな女を繋ぎ止めるには、相手にとって自分が魅力《みりよく》ある男でいるしかない。
離《はな》れてゆく女は、どうしようもなく離れるものだ。そんなときには、あきらめて新しい女を探せばいい。世のなかにいい女は、いくらだっている。
昔《むかし》の恋人の言葉をどう思っているのだろうとジーニを見ると、彼女はいつものように無表情で、地面に這いつくばっているルダの兄を見つめていた。
だが、その視線はすぐに動いて、自分を罠《わな》にはめた張本人の顔を見つめる。
「……おまえさえいなければ、オレは族長になれると思った」
ジーニの視線に促《うなが》されたように、ネフラは立ったまま苦しそうに話しはじめた。
「だが、それは完全な思い上がりだった。おまえの代わりに族長候補になり、オレは族長のもとに派遣《はけん》された。だが、そこにはオレよりも強く、オレよりも賢《かしこ》い男がいくらでもいた。オレはすぐに集落に返された。おそらく長老には、その結果は分かっていたのだろう……」
そこまでを言うと、ネフラはいかにも悔《くや》しそうな表情になる。
「しかし、おまえなら、族長になれたと思う。いや、今でも遅《おそ》くはない。ふたたび族長候補として大集落に行けば、きっと認められるに違《ちが》いない」
今更《いまさら》、何を言ってやがるとリウイは思ったが、口にはしなかった。
一言でも言おうものなら、ふたたびジーニに黙れと怒鳴られるに決まっている。メリッサもミレルも、文句を言いたいに違いないのに、我慢《がまん》しているのだ。
「……集落の長老も、ジーニ姉さんに戻《もど》ってきてほしいと言っている。集落の者たちも、姉さんのことを誰《だれ》も悪く思っていない。だって、集落の掟《おきて》を破ったのは、恋人を救うためだもの。それに、あの事件があってから、掟そのものが変わったの。集落の誰かが病気になったときには、氷室《ひむろ》の氷を使ってもいいって」
「それは、なによりだな……」
ジーニははじめて口を開き、穏《おだ》やかな笑みを見せた。
決心がついた顔だと、リウイには思えた。彼女のなかで結論は出たのだろう。
「だが、あのときには間違《まちが》いなく掟破りだった。間違った掟だとは思ったが、族長になるような人間は、それでも掟を守るべきなんだ。そんな人間でなければ、部族を治めることはできない……」
「でも、その罪《つみ》はもう償《つぐな》われたんです。集落の危機を救うことで……」
ルダがあわてて反論しようとするのを、ジーニは手で制した。そしてその手を、そのまま彼女の頭に置く。
「償われてなどいない……」
ジーニは大きく一度、呼吸をしてから、ゆっくりと言った。
「わたしの罪は償われてなどいないんだ。なぜなら今度の事件は、ある意味、わたしが招《まね》いたものだからな。正確には、わたしの仲間のこの魔術師《まじゆつし》なんだが……」
そう言って、ジーニはリウイに親指を向けた。
「オレが?」
脈絡《みやくらく》もなく話のなかに引っはり出されたので、リウイは面食《めんく》らってしまい、自分で自分を指差した。
もっとも、心当たりがないわけではない。
そもそもの事件のきっかけは、天候制御《てんこうせいぎよ》の魔法装置《まほうそうち》の暴走《ぼうそう》である。魔術師の仕業《しわざ》であることは事実だ。しかし、四大《しだい》を極めた魔術師バナールとの関係は、魔術師ギルドの同僚《どうりよう》の旧師《きゆうし》というだけである。赤《あか》の他人《たにん》と言っても、誰《だれ》も咎《とが》めはしないはずだ。
しかし、ジーニはその事実だけを伏《ふ》せて、先日の事件のあらましをルダたちに語っていった。
「……事件を起こしたことは責められるほどでもないが、事件を解決しても自慢《じまん》するほどのことではないと、わたしは思っている。つまり、わたしたちは当然のことをしただけだ。掟破りの罪を贖《あがな》うほどではない」
ジーニはそう言うと、頬《ほお》に描《えが》かれている呪払《のろいばら》いの紋様《もんよう》を静かに指でなぞった。
「わたしはもう部族の人間じゃない。本当に、ただの冒険者になったんだ。今の暮らしは気に入っている。信頼《しんらい》できる仲間もいる。もっとも一人だけ、どうしようもない素人《しろうと》がまじっているがな……」
素人で悪かったなと、リウイは心のなかで文句を言ったが、状況《じようきよう》を考えて、それは口にはしないでおく。
それから、ミレルとメリッサの二人を振《ふ》り返る。心のなかでは安堵《あんど》を覚えているのだろうが、それはまったく表情に出ていない。
思えば二人は、一度もジーニを引き留《と》めようとしていない。最初から最後まで、彼女の選択《せんたく》にまかせるつもりでいたようだ。
ジーニのほうも、二人の信頼と友情に応《こた》えた。もしかすると、彼女のなかでは結論は最初から決まっていたのかもしれない。
ただ、精霊使いの少女の気持ちを感じて、どのように伝えたらいいか、迷っていた。そしてリウイを口実に使うことで、その間題を解決したのである。
(まったく友情だよな……)
不満がないわけではないが、三人の関係に敬意《けいい》を表して、今回は汚《よご》れ役《やく》を引き受けてもいいと、リウイは思った。
もっとも、汚れ役を押しつけられるのは今回だけに限ったことではないのだが……
精霊使いの少女は、目に涙《なみだ》を浮《う》かべながら、ジーニに抱《だ》きついた。
「それでもいい。お願い、集落に戻ってきて。ラディン兄さんは、今でもジーニのことが好きなの。そして、わたしもジーニに、本当の姉さんになってほしい……」
ジーニの豊かな胸に顔を埋《う》めながら、ルダは言った。
その言葉こそが彼女の本当の気持ちなのだと、リウイは思った。
表向き憎《にく》んだふりをしていたが、心のなかではやはり兄のことを想《おも》っているということだ。だからこそ、ジーニに集落に戻ってもらおうと、今回の事件の解決を依頼した。
ジーニの性格なら、集落の危機を見捨てるはずがない。そして集落に戻りさえすれば、彼女の心も解《ほぐ》れるのではないかと期待したのだ。
確かに、ジーニの心は解れたように思える。だが、彼女にとって帰るべき場所は、もはや故郷《こきよう》の集落ではなかった、ということだ。
ジーニはルダを軽く抱きしめただけで、すぐに彼女を離《はな》れさせた。
「わたしも、おまえたち兄妹《きようだい》のことが好きだ。昔も今も、それは変わらない。しかし、わたしの心のなかで、何かが欠けたような気がする。男と女が一緒《いつしよ》に暮《く》らすために必要な何かが、な」
ジーニは、分かるなというようにルダにうなずきかけた。
それでも、ルダは二回、首を横に掛ったが、三回目には縦に振って、もう一度、ジーニの胸に飛びこんだ。
「長老には、おまえからお礼を言っておいてくれ。真相を話したからには、一刻《いつこく》も早くここから去ったほうがいいからな……」
「まったくだよ。まだまだ酒はあるし、食事も残っているのにさ」
ミレルがわざとらしく舌打《したう》ちをして、席を立った。
だが、その動作はきびきびとして、表情もさっきまでとは打って変わっていた。
正直なものだな、とリウイは思う。
黒髪《くろかみ》の盗賊《とうぞく》少女に急《せ》かされるように、ジーニもメリッサも、それにリウイもそれぞれの荷物をまとめた。そして今は夜だと言うのに、まるで逃げるように集落を出たのである。
「やれやれ、入るときも出るときも人目をはばかることになるなんてな……」
リウイは魔法《まほう》の明かりを灯《とも》した|魔術師の杖《メイジスタツフ》を掲げながら、わざとらしく溜息をついた。
「あんたの責任だ」という言葉は、メリッサからもミレルからも出なかった。
当然と言えば当然なのだが、二人の心のなかには犬頭鬼《コボルド》だけが棲《す》んでいるわけではないということだ。
「これで、借《か》りはなしということだ」
赤毛の女戦士がいつものように無表情なまま、リウイに声をかけてきた。その口調も普段《ふだん》どおりで、愛想《あいそ》のかけらも感じられない。
その表情や言葉に、リウイはなぜかむっとなった。
今回の事件で、彼女のことがだいぶ分かってきたように思っていたのである。その表情や声とは裏腹《うらはら》に、情熱的な女性であるということを……
そして、それは隠《かく》すようなことではないはずなのだ。
借りはなくなったとジーニは言ったが、リウイの勘定《かんじよう》ではおつりを返す必要があるように思えた。
だから一言だけ、リウイは彼女に言ってやろうと決める。
それを言った後のことを考えると相当な覚悟《かくご》がいるが、言わずにおけるかという気持ちになっていた。
「ジーニ……」
彼女のことを名前で呼んで、リウイはにこやかな顔になる。
「な、なんだ?」
赤毛の女戦士は気味悪《きみわる》そうにして、一歩|後《あと》ずさった。
「おまえって、いい女だよな」
その瞬間《しゆんかん》、ジーニの顔には様々《さまざま》な表情が溢《あふ》れだしていった。
「命知らずねぇ……」
魔法《まほう》の眼鏡《めがね》をかけた女性魔術師《ソーサリス》が呆《あき》れたような顔をした。
「それで、その後、どうなったの?」
「答えなくても分かるだろ」
魔法戦士《ルーンソルジヤー》を自称《じしよう》する巨漢《きよかん》の魔術師《まじゆつし》は、苦笑を浮《う》かべて言った。
アイラとリウイの二人である。彼らは今、ファンの街《まち》の酒場《さかば》にいる。
ヤスガルン山脈から帰ってきたのは、その日の昼頃《ひるごろ》のこと。冒険《ぼうけん》の成功を祝って、アイラが二人だけの酒宴《しゆえん》をもとうと言ったのだ。
もちろん、リウイに異論があるはずはない。
ジーニたち三人も、おそらく別の場所で祝宴をあげていることだろう。今頃は、お互《たが》いの信頼《しんらい》と友情を確認しあっているに違《ちが》いない。
「命知らず」とアイラが言ったのは、もちろんリウイがジーニに「いい女」と言ったことである。
その後、当然、殴《なぐ》りあいの喧嘩《けんか》になり、それが済《す》んだ後も、ジーニだけではなく他《ほか》の二人からも散々《さんざん》に文句《もんく》を言われた。
覚悟はしていたことだが、その凄《すさ》まじさは予想以上だった。
「ジーニたちにとって、いい女というのはどうやら誉め言葉ではないみたいだな」
リウイがそう言うと、アイラは口に手を当てて笑い声をあげた。
「ほんと、ご苦労さま。結局、魔法装置の暴走が、事件に関係していたわけだものね。追加の報酬《ほうしゆう》を払《はら》わないといけないかしら」
「そうしてやってくれ。逃げるように集落を後にしたんで、依頼人《いらいにん》からは約束《やくそく》の報酬《ほうしゆう》はもらっていないんだ」
狂える氷の精霊が襲撃してくるという事態を招《まね》いたのは、間接的ではあるものの天候制御の魔法装置の暴走が原因である。そしてリウイはこの事件の犯人《はんにん》とは言わないまでも、共犯者ぐらいにはされたのだ。
逃げるように集落を出たのはそのためだし、報酬など請求《せいきゆう》できようはずもない。
アイラにとって、バナール導師は恩師《おんし》であるし、彼の研究に出資もしている。また、彼の遺産《いさん》の受取人でもある。彼女が報酬を肩代《かたが》わりしてくれるのなら、問題はすっきりするのだ。
アイラは分かったわ、とうなずいて、
「今度の事件が魔法装置の暴走と関係していたら、そうするつもりだったしね」
と、続けた。
「それにしても、ジーニとっては、故郷《こきよう》に帰れたことでもあるし、気持ちが晴れるような事件だったんじゃないかしら」
「だといいけどな……」
リウイは首をひねりながら答えた。
「メリッサの場合は、嫌《きら》いな相手と婚約《こんやく》させられたってことだけが忌まわしい過去だった。しかし、ジーニの場合は故郷でのことだけじゃなく、傭兵《ようへい》時代にも何かがあったそうだからな……」
問題は、もうすこし複雑だろうという気がした。
「そうかしら?」
「根拠《こんきよ》はないけどな、オレにはそう思える」
リウイはそう言って、自分の言葉に対して、うなずいて見せた。
言葉にしてみると、それは正しいという気がしたのである。
直感のなかにこそ真実はあるというのが、彼の持論だ。すべての答は常に自分の心のなかにあり、それが必要なときに意識の表層に浮かびあがってくるのである。言葉を弄《ろう》して導きだした真実など、彼にとってはたいした価値《かち》はない。
リウイのその言葉が正しかったということは、ある事件があって判明《はんめい》する。
それも、その事件は、アイラと酒を飲んでいるこの夜に起こるのである……
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第V章 復讐《ふくしゆう》の代理人
1
夜の闇《やみ》が、オーファンの王都《おうと》ファンの街《まち》を静かに包んでいる。
真《ま》っ暗《くら》な裏通りを、赤毛の女戦士が一人、ふらふらとした足取りで歩いている。
ジーニである。
ヤスガルンの山岳民《さんがくみん》に生まれただけに、夜目《よめ》は効《き》く。
昔《むかし》は、星々の明かりだけを頼《たよ》りに、細い山道を歩いてきたものだ。一歩、足を踏《ふ》み外《はず》せば崖下《がけした》に転落《てんらく》し、命はなかったわけだが、恐《こわ》いと思ったことさえない。慣れ≠ニは、そういうものなのだ。
ジーニは仲間たちとともに大仕事≠ひとつ成功させて、王都《おうと》へ帰ったばかりだった。その祝《いわ》いとして、彼女はメリッサとミレルの三人で酒宴《しゆえん》を持ったのだ。
もう一人の仲間である魔法戦士《ルーンソルジヤー》を自称《じしよう》する大男は当然、誘《さそ》っていない。
その魔法戦士は、どうせ別の店で、同僚《どうりよう》の女性魔術師《ソーサリス》と二人だけの祝宴《しゆくえん》を開いていただろう。
ジーニたちの酒宴は深夜に終わり、メリッサはマイリー神殿《しんてん》の宿舎《しゆくしや》に、ミレルは下宿先の安宿にそれぞれ帰っていった。
ジーニもねぐらにしている郊外《こうがい》の物置小屋に戻《もど》りはじめたのだが、ふと思い立って、あるいは魔《ま》が差して、リウイがよく行く裏通りの歓楽街《かんらくがい》に立ち寄ったのだ。そして酒場を数軒《すうけん》、はしごして回った。
幸いなことに、リウイとは出会わなかった。
おかげで酒は美味《うま》く飲めたが、肴《さかな》としては物足りなくもあった。もしも顔を合わせていたら、思いきりいたぶってやろうと、ジーニは心に決めていたのだ。
最後の店を出ても、ジーニはまだ酔《よ》い足りない気がした。
だが、足はもつれぎみである。飲んだ酒の質がいつもより悪かったせいかもしれない。頭もずきずきと痛む。
普段《ふだん》、ジーニたちは大通りに近い酒場に行くことが多い。その酒場は高価だが、酒の味も確かだし、料理も美味《うま》い。
そういう店でないと、ジーニやミレルはともかく、メリッサが馴染《なじ》まないのだ。それから、酔っぱらった男にからまれる危険が少ない。
ジーニたちは以前、一度だけ、この歓楽街に足を運んだことがあるが、そのときなどが典型《てんけい》だった。
不味《まず》い酒や料理に、メリッサはいちいち文句をつけて、主人の機嫌《きげん》を損《そこ》ねていたし、そのうち一人の若者が同じテーブルに着いたかと思うと、いきなり彼女を口説《くど》きはじめたのだ。
メリッサは最初、穏《おだ》やかに断《ことわ》っていたのだが、馴《な》れ馴《な》れしく肩《かた》に手を回された途端《とたん》、我慢《がまん》の限度を超《こ》えた。
素早《すばや》い平手打ちが男たちの顔に飛んて、たちまち乱闘《らんとう》が始まった。
そして、あの魔術師《まじゆつし》リウイがしゃしゃり出てきたわけだ。
「まったく、いつまでたっても素人《しろうと》なんだからな……」
ジーニは、声に出して言った。
文句の相手はもちろん、そのお節介《せつかい》な魔術師である。
当人はそこにいないのだから、別に言葉にする必要もなかったのだが、酔っているので、それが不自然だということにも気付かない。
「足手まといにもほどがある」
ジーニは、更《さら》に文句を続けた。
だが、その素人《しろうと》はジーニたちの予想を超えるような知恵《ちえ》や力を発揮《はつき》することがある。初歩的な失策《ミス》を冒《おか》すかと思えば、絶体絶命《ぜったいぜつめい》の状況《じようきよう》で起死回生《きしかいせい》となる離《はな》れ業《わざ》を自作自演するのだ。
ミレルではないが、「いったい何者なのだ」と言いたくなってくる。
とにかく、常識|外《はず》れだった。あんな男は、これまでに一度も見たことがない。
メリッサはそこに、勇者《ゆうしや》の資質を見出《みいだ》そうとしているようだが、今のところ成功しているとはいえない。
そのときだった。
近くの路地《ろじ》の陰《かげ》で人の動く気配《けはい》がした。そして、殺気《さつき》のようなものが伝わってくる。ジーニは素早く反応し、その場で身構《みがま》えた。
いくら酒に酔っていても、戦士としての本能までは麻痺《まひ》してはいない。
予想どおり、次の瞬間《しゆんかん》には、人影《ひとかげ》がひとつ短剣《ダガー》の刃《は》を微《かす》かな明かりに煌《きら》めかせて、ジーニに向かって突進《とつしん》してきた。
だが、ぜんぜん腰《こし》に力が入っていない。
「素人が!」
ジーニは吐き捨て、その突進を易々《やすやす》とかわした。そして暴漢《ぼうかん》を軽く蹴り飛ばす。
暴漢は体勢を崩《くず》し、そのまま近くの建物の壁《かべ》にぶつかり、呻《うめ》き声を洩《も》らした。
「恨《うら》まれる覚えならいくらでもあるからな、どうしてとは聞かない。だが、命が惜《お》しいのなら、このまま黙《だま》って帰ることだ」
ジーニは凄《すご》みを効《き》かした声で恫喝《どうかつ》した。
呂律《ろれつ》が怪《あや》しいので、普段《ふだん》以上に迫力《はくりよく》が増《ま》している。たいていの人間は、それだけで逃げ帰っただろう。
だが、その暴漢はびくりと肩《かた》を震《ふる》わしたものの、その場に留《とど》まった。
そして、
「兄さんの、ヘクターの仇《かたき》!」
と、必死の声で叫《さけ》んだ。
女の声だった。
「ヘクターの!?」
その言葉に、ジーニは一瞬、我《われ》を失った。
彼女は、その名を確かに知っていた。忘れられるはずのない名前だった。
暴漢は短剣を構え直すと、ジーニに向かってふたたび突進してきた。
短剣の刃が、迫《せま》ってくる。
それを避《さ》けることは、もちろん彼女にとって簡単だった。
だが、身体《からだ》が麻痺してしまったように、まったく動かない。
頭も混乱し、まともな考えが浮《う》かばなかった。
「ヘクターの、妹というのか……」
やっと言葉が出た。
その瞬間、腹部に激痛《げきつう》が走った。
ジーニは反射的に腹筋《ふつきん》を硬《かた》くし、同時に暴漢の腹を殴《なぐ》り飛ばした。
暴漢は路地《ろじ》に転《ころ》がり、そのまま路上にうずくまり、動かなくなった。
「わたしとしたことが………」
ジーニは傷口《きずぐち》を手で押《お》さえ、自嘲《じちよう》の笑いを浮かべた。
生温《なまあたたか》い液体が、女戦士の指のあいだから溢《あふ》れ出てくる。
「これはまずいかもな」
傷はたいして深くないが、思ったより出血がひどい。しっかり止血《しけつ》をしないと、血が足りなくなるかもしれない。
戦《いくさ》の神《かみ》の神殿《しんでん》へ行けば、メリッサに治癒呪文《ちゆじゆもん》をかけてもらえるのだが、ジーニが今いる場所からだと、かなり歩かねばならない。ミレルの下宿も、同じくらい遠い。
そのとき、ある人物の名が、彼女の脳裏《のうり》に浮かんだ。
オーファンの近衛《このえ》騎士《きし》バーブである。ジーニがレイドの街で傭兵《ようへい》ギルドに属《ぞく》していた頃《ころ》の傭兵仲間で、同じ隊長のもとにいた。
先日、この街で再会したとき、社交辞令《しやこうじれい》ではあろうが、いつでも館《やかた》に来いと言ってくれていた。
「あいつの館はこの近くだったはずだ……」
一人で暮らしているそうだから、この時間に押《お》し掛《か》けても迷惑《めいわく》にはなるまい、とジーニは思った。
問題は王城警護《おうじようけいご》の役についていて、館を留守《るす》にしているかもしれないということだ。
(そのときには軒下《のきした》でも借りて、一人で傷の手当をするしかないな)
ジーニは自嘲《じちよう》の笑いを浮かべた。
そして、手首に巻いている白布を歯を使って解《と》くと、丸めて傷に当てその上から強く手で押さえた。これだけでも、出血の量はぜんぜん違《ちが》ってくる。
そして赤毛の女戦士は、暗い裏通りをふらつく足で、ふたたび歩きだしたのである。
2
「ま、またなのかよ!」
リウイは思わず、悲鳴《ひめい》をあげた。
彼がいるのは、ファンの街《まち》の一画《いつかく》にある裏通りの歓楽街《かんらくがい》。その路上《ろじよう》だ。
その夜、彼は同僚《どうりよう》の女性魔術師《ソーサリス》アイラに誘《さそ》われ、ヤスガルン山脈を舞台《ぶたい》にした冒険《ぼうけん》の成功を祝《いわ》って、二人だけの酒宴《しゆえん》をひらいた。
しかし、それほど酒に強くない彼女は早々《そうそう》に酔《よ》いつぶれて、リウイが肩《かた》を貸して魔術師《まじゆつし》ギルドの宿舎《しゆくしや》へと連れ帰った。
もちろん、リウイはまったく飲み足らなかった。そこで、常連になっているこの歓楽街に足を運び、心ゆくまで酒を飲んだわけだ。
そして、宿舎に帰ろうと、彼は店を出た。夏の夜は短く、すでに辺《あた》りは薄明《うすあか》るくなっていた。
薄汚《うすぎたな》い路地をぶらぶら歩いていると、道の脇《わき》に人がうずくまっているのに、リウイは気が付いた。
最初は酔っぱらいか、路上生活者だろうと思い、放《ほう》っておこうとしたが、地面に濡《ぬ》れたような跡《あと》が残っているのにも気付いて、考えを変えた。
喧嘩慣《けんかな》れしたリウイであればこその直感が働いたのである。
濡れた地面を調べてみたところ、思ったとおり、それは固まりかけた人間の血であった。
リウイは地面に膝《ひざ》を突《っ》き、倒《たお》れている人間を抱え起こした。
そして、悲鳴を上げたのだ。
別に怖《こわ》いものを見たからではない。
どちらかと言えばその逆だ。倒れていたのが、若くて綺麗《きれい》な女性だったからである。しかも、息がある。怪我《けが》らしい怪我はなく、ただ気を失っているだけのようだ。
ならばこそ、リウイは悲鳴を上げたのである。むしろ死体でいてくれたほうが、心|穏《おだ》やかでいられたはずだ。
リウイは最近、できるかぎり女には関《かか》わるまいと心に誓《ちか》っている。だが、皮肉なもので、そう誓ってからというもの、かえって女に緑《えん》があるような気がする。
先日の冒険の直前にも、この歓楽街でミュリエルという名の少女と出会い、あやうく人生の墓場《はかば》に足を踏《ふ》み込みかけた。
他《ほか》の男なら喜ぶかもしれないが、今のリウイはとてもそんな心境になれない。女だけならいいのだが、かならず一騒動《ひとそうどう》おまけがついてくるのだから……
今度も、そうなりそうな悪い予感がした。
(見なかったことにするか?)
リウイは、心のなかに棲《す》む犬頭鬼《コボルド》に向かって呼びかけてみた。
(そのほうがいい)
と、囁《ささや》く声が返ってきた。
だが、女の顔を改めて見て、考えを変えた。
女は若くて綺麗なだけでなく、化粧《けしよう》もしておらず、清楚《せいそ》で上品な感じがした。とても、この歓楽街の住人とは思えない。
別に、この娘《むすめ》のことが気に入ったわけではないが、このまま放っておけば、この娘がどんな運命をたどるかは容易《ようい》に想像できた。
「しかたがないな……」
リウイはあきらめたようにつぶやくと、娘を荷物のように肩に担《かつ》いだ。
そして近くにある宿屋に運び込む。もちろん、いかがわしい宿屋だが、他に選択《せんたく》の余地はないのだ。ミュリエルのような少女ならともかく、年頃《としごろ》の娘を宿舎に連れ帰って、アイラの部屋《ヘや》に泊《と》めさせるわけにはゆかない。
ベッドがひとつあるだけの狭《せま》くて汚《きたな》い部屋に入って、リウイは娘をベッドの上に放り投げた。
その衝撃《しようげき》で目が覚めたようで、娘は低い呻《うめ》き声をあげた。
そして、上体だけを起こし、周囲の状況《じようきよう》を確かめようとする。当然、リウイの姿が目に入った。
「こ、こんな場所にわたしを運び込んで、いったいどうするつもりですか?」
娘は反射的にリウイから身を遠ざけながら、震《ふる》える声で訊《たず》ねた。
「どうするかって、もうすべて済《す》んだよ」
娘の言葉に少し腹が立って、リウイはわざと誤解《ごかい》させるような言い方をした。
どうなっていてもしかたのない状況《じようきよう》にいたのは、娘のほうなのだ。そのことに、自覚がないというのが許し難《がた》い。
リウイの答に、娘は顔色を変えて自分の身体《からだ》を確かめた。
服は汚《よご》れ、乱れてはいたが、乱暴されたような痕《あと》はない。腹部に鈍《にぶ》い痛みがあるが、それはそこを殴《なぐ》られたからだということは覚えている。
「心配するな。オレはあんたの意識が回復するのを待っていただけさ。だから、オレの役目は終わりってわけだ」
リウイは意地悪《いじわる》く笑った。
「オレはもう帰るからな。宿代は立て替《か》えておいたが、別に返そうなんて思わなくていい。とにかく、昼になるまでこの部屋でじっとしていることだ。もう明るくなっちゃいるが、こんな時間にこんな場所を女一人で歩いていると、どうかされたいと全身で主張しているようなものなんだからな。オレが女に不自由してなかったことに、感謝するんだな」
リウイは無愛想《ぶあいそう》にそう言うと、娘に背を向けた。
「ま、待ってください」
娘が、あわてて彼の背中に声をかけた。
だが、リウイは待つ気もなかったし、返事をする気もなかった。
振《ふ》り返れば、面倒《めんどう》に巻き込まれるに決まっているのだ。
しかし――
「もしかして、あなたは冒険者《ぼうけんしや》なのではありませんか?」
娘のその言葉に、リウイは反射的に振り返ってしまっていた。
冒険者と認められたのが、つい嬉《うれ》しかったのだ。しまったとも思ったが、やってしまったのだから、もはやしかたがない。
「そう見えるか?」
「それ以外には見えません」
女は答えて、そしてあわてて名を名乗った。
アンジェラというのが、娘の名前だった。
リウイも名乗り返して、魔法戦士《ルーンソルジヤー》だと付け加える。
それを聞いて、アンジェラは嬉《うれ》しそうな顔をした。
「あなたが冒険者なら、お願いがあります」
姿勢を正して、娘は言った。
「ああ、なんでも言ってくれ」
リウイは上機嫌《じようきげん》で、答えた。
「どんな仕事でも応じてやるぜ」
こうなったからには、もはや後戻《あともど》りはできない。大仕事ならジーニたちに手伝ってもらえばいいし、半端《はんぱ》な仕事なら自分一人で片付けるつもりだった。
「ありがとうございます」
アンジェラは輝《かがや》くような笑顔を浮《う》かべ、頭を深く下げた。
だが、顔を上げたときには、彼女の表情は厳《きび》しいものになっていた。
その表情を見て、深刻《しんこく》な内容のようだなと、リウイも覚悟《かくご》を決める。
だが、娘の言葉はリウイの想像を退《はる》かに超《こ》えるものであった。
アンジェラは、
「ジーニという名の女戦士を殺してほしいのです」
と、言ったのだ。
「ええっ!」
リウイは驚《おどろ》きのあまり、それ以上、言葉を続けることができなくなった。
まさか、暗殺《あんさつ》を依頼《いらい》されるとは思いもしなかったのである。しかも、相手は冒険仲間である赤毛の女戦士だという。
アンジェラは断《ことわ》られては大変だと思い、リウイが呆然《ぼうぜん》としているうちに、なぜその女戦士を殺したいかの理由を話しはじめる。
そんなもの、リウイは聞きたくもなかった。だが、話を止める機会は、すでに逸《いつ》していた。
結局、リウイは最後まで、アンジェラの話を聞かされるはめになったのである。
3
「迷惑《めいわく》をかけたな」
腹部に巻かれた包帯《ほうたい》を見つめながら、ジーニはそれを巻いてくれた男に向かって言った。
手当《てあて》をしてくれたのは、オーファン王国の近衛騎士《このえきし》バーブだ。裏通りから、それほど離《はな》れていない場所に彼の館《やかた》はある。
「迷惑なんてどうでもいい。それより、いったい誰《だれ》にやられたんだ。人を刃物《はもの》で刺《さ》すなんざ、立派《りつぱ》に犯罪《はんざい》なんだ。オレが捕《つか》まえて、地下牢《ちかろう》に叩《たた》き込んでやる!」
「そう力んでくれるな」
ジーニは苦笑しながら答えた。
「わたしが油断しただけなんだ。普通《ふつう》なら、かわせたんだがな。酒も入っていたし、意外な名前を聞いたから……」
「意外な名前?」
床《ゆか》の上に座《すわ》りながら、バーブは訊《たず》ねる。
ジーニのほうは、長椅子《ながいす》に腰《こし》かけている。
「ヘクターだ。覚えているだろう」
「ヘクターだって?」
ジーニの答に、バーブは驚きの声をあげた。
「忘れられるはずがない。あいつのおかげで、オレたちは……」
「そう、今もこうして生きていられる」
ジーニは遠い目をした。
そして過去の出来事を回想《かいそう》した。それは、彼女がレイドの街《まち》で傭兵《ようへい》ギルドに属《ぞく》していた頃《ころ》の記憶《きおく》だ。
ヘクターは、ジーニやバーブと同じ隊に属していた傭兵だった。まだ若く、腕《うで》のほうもジーニたちに比《くら》べれば、かなり劣ったが、気のいい性格で、誰《だれ》からも好かれていた。もちろん、ジーニたちも例外ではない。仕事のないときは、よく三人で飲み歩いたものだ。
だが、ある仕事で、ヘクターは命を落としたのである。
それが今からほぼ一年前のことで、そのことがきっかけになり、ジーニは傭兵|稼業《かぎよう》から身を引き、ファンの街に流れてきたのだ。
「わたしを刺した犯人は、ヘクターの妹と名乗ったんだ」
「ヘクターの妹だって?」
バーブはまたも驚きの声をあげ、そして考え込むように腕を組んだ。
「心当たりはないか?」
「そう言えば、妹が一人いると奴《やつ》から聞いたことがある。名前は確か、アンジェラだったと……」
ヘクターは、数十年前に滅亡《めつぼう》したレイド王国の貴族《きぞく》の家に生まれたのだ。没落《ぼつらく》し、食うに困って傭兵ギルドに入ったのだ。
妹は働かせたくないんだと、ヘクターが言っていたのを、バーブは思い出す。
「なるほどな……」
バーブの話を聞いて、ジーニはうなずいた。
「その娘にしたら、わたしは確かに仇《かたき》かもしれないな」
「そんなことはない!」
バーブはあわてて言った。
「それを言うなら、オレだって仇だ」
一年前、レイドの辺境《へんきよう》でレイドの元貴族の反乱が起こり、鎮圧《ちんあつ》のためにジーニたちが雇《やと》われたのだ。
そして隊長だった男の無能さのために、ジーニたちは挟撃《きようげき》に遭《あ》い、絶体絶命《ぜつたいぜつめい》の状況《じようきよう》に追い込まれた。
活路はひとつ、誰かが犠牲《ぎせい》になって、背後から迫《せま》ってくる敵を食い止めるしかない。
ジーニは自分がその役を引き受けるつもりだった。しかし、走りだそうとした瞬間《しゆんかん》、バーブに腕を掴《つか》まれた。
「オレが行く」
と、バーブは主張した。
だが、そのとき、ヘクターがいきなり駆《か》けだした。そして狭《せま》い山道の真ん中に立ちはだかり、敵と剣《けん》を交《まじ》えはじめたのである。
ジーニは彼を助けようとしたが、またもバーブに止められた。そして、正面にいた少数の敵を突破《とつぱ》し、危機《きき》から脱出《だつしゆつ》したのである。
しかし、ヘクターは永遠に帰ってはこなかった……
「誰かが犠牲にならなければ、全員、助からなかった。そして奴《やつ》は自《みずか》ら進んでその役になった……」
「何故《なぜ》だ?」
ジーニは厳《きび》しい表情で、バーブに問いかけた。
「わたしたちのなかで、奴はいちばん弱かった。ああいうときには、最強の戦士が行くというのが暗黙《あんもく》の了解《りようかい》だ。だから、あれはわたしの役目だった……」
バーブは、ジーニを静かに見つめた。
口数も少なく、表情の変化も少ない彼女の心を読み取ることは難《むずか》しい。今も彼女が何を考えているのかは分からなかった。
「昔《むかし》の話より、今の話だ。ヘクターの妹を、どうするつもりなんだ。おまえを仇と狙《ねら》っているんだろう?」
「どうすると言われても、向こうの出方しだいだからな……」
「馬鹿《ばか》な考えは起こすんじゃないぞ。ヘクターの妹は、何か誤解《ごかい》をしているに違《ちが》いないんだ。繰り返して言うが、ヘクターが死んだのは、ジーニの責任じゃない。あの場にいた者なら、誰だってそう証言するだろう。それに……」
「それに、なんだ?」
バーブが言葉の最後を濁《にご》したのを聞きとがめて、ジーニが訊《たず》ねた。
「いや、なんでもない」
バーブは苦しそうに言って、首を横に振《ふ》った。
それを見て、ジーニはそれ以上、追及《ついきゆう》するのを止《や》めた。
「……昼になったら、見習いたちに命じて、あんたの仲間を呼びに行かせる。戦《いくさ》の神《かみ》の神官《しんかん》がいるだろう。治癒呪文《ちゆじゆもん》を使えば、傷は簡単に塞《ふさ》がるからな。それまで、ゆっくり休んでいればいい」
「そうさせてもらう」
ジーニはそのまま長椅子に横たって、目を閉じた。
「ベッドを使ってくれ」
バーブは慌《あわ》てて言ったが、ジーニからの返事は戻ってこなかった。
そのときには、赤毛の女戦士はすでに静かな寝息《ねいき》をたてていたからだ。
4
魔術師《まじゆつし》ギルドの宿舎にある女性魔術師《ソーサリス》アイラの部屋《ヘや》で、リウイは頭を抱《かか》えている。
彼はジーニを殺してくれという依頼《いらい》を、アンジェラという娘《むすめ》から受けている。断《ことわ》ってもよかったのだが、そうすれば本物の殺し屋に依頼がゆくかもしれない。
ジーニは殺しても死なないような女性だとは思うが、万が一ということもある。
結局、リウイは依頼を引き受けることにして、この間題をどう解決するか対策《たいさく》を考えることにしたのだ。
そして、最初の相談相手として、アイラの部屋を訪《たず》ねたのである。一寝入《ひとねい》りした後だったので、すでに時刻は昼を回っている。
女性魔術師のアイラもまた、リウイと同じように頭を抱えている。しかし、彼女がそうしているのは、昨晩、飲み過ぎたせいだ。
「どうしたもんかな?」
事情をすべて説明しおえて、リウイはアイラに意見を求めた。
「また、面倒《めんどう》なものを拾ったものね」
アイラは顔をしかめながら言う。
「あれから、一人で飲みになんか行くから、そんなことになるのよ」
昨日《きのう》のような状況《じようきよう》になったら、朝、目覚めたとき、同じベッドに寝ているのが普通《ふつう》ではないかと思う。
しかし、アイラが朝、目覚めたときに抱いていたのは、目の前にいる巨漢《きよかん》の魔術師ではなく、寝ぼけて起動《きどう》させてしまったらしい|木の魔法像《ウツドゴーレム》だった。
そのゴーレムは、すでに元の椅子《いす》に戻《もど》し、今はアイラが腰《こし》かけている。
「飲みたりなかったんだから、しかたがないだろ」
リウイは弁解がましく言った。
「ほどほどという言葉も覚えなさいよ。まったく、限度というものを知らないんだから」
身体《からだ》は立派《りつぱ》だが、精神的にはまだまだ子供みたいなところがこの大男にはある。
それはそれで可愛《かわい》くもあるが、こうも問題を次々と起こされると、考えも変わろうというものだ。
「傭兵《ようへい》に危険はつきものだもの。死んだって、誰《だれ》の責任でもないわ。戦場に立たなければ、死ぬことはないわけだし、ね」
たった一人の肉親の死が衝撃的《しょうげきてき》なことは分かるが、その責任を誰かに押《お》しつけようとするのはどうかと、アイラは思う。
「まったくの正論《せいろん》だけどな」
リウイは、溜息《ためいき》を洩《も》らした。
「思いつめている女に、正論なんて通じるもんじゃない。そうでなければ、あのジーニに短剣《ダガー》一本で向かってゆくものか」
「まったく、命知らずよね。あの女《ひと》も容赦《ようしや》なく返り討《う》ちにしてくれればよかったのに」
「同感だな。そしたら、オレはあの娘を埋葬《まいそう》すればいいだけだった」
しかし、現実には、彼女は生きていたのだ。そして、あんな話を聞いてしまったのだから、もはや後戻《あともど》りはできない。なんとかして、上手《じようず》な解決方法を見つけるしかないのだ。
「何か、いい考えはないかな?」
アイラはまさに魔法でも使ったように、リウイが抱《かか》えた問題をいくつも解決してくれている。今度も、と期待したくなるのが、人情というものだ。
「上手《じようず》な解決法って言ってもねぇ……」
アイラは唇《くちびる》に指を当てて、しばらくのあいだ考え込んだ。
「そのアンジェラって娘に、復讐《ふくしゆう》をあきらめさせるのが一番なんでしょ。ジーニに死んでもらうわけにはゆかないんだから」
「決まっている。一応、仲間だからな」
「ジーニの強さを見せつけて、復讐する気をなくさせるっていうのは、ひとつの方法よね」
アイラはそう言って、意味ありげに笑った。
「つまり、オレがジーニに叩《たた》きのめされればいいってことか?」
「あら、鋭《するど》いじゃない」
「勘弁《かんベん》してくれ。あいつに本気で叩きのめされたら、いくらオレでも命がない」
いくら依頼《いらい》を受けたからと言って、そこまでやる必要はない。
「だったら逆に、娘さんが満足するぐらいにまで、ジーニを叩きのめしたら。一気に殺すんじゃなくって、徹底的《てつていてき》に痛めつけるところを見せれば、普通《ふつう》の女性ならそこまででいいって思うはずだもの」
「今のオレじゃあ、ジーニを叩きのめすなんてとても無理だな」
「彼女に、わざと負けてもらえばいいじゃない。復讐をあきらめさせるためなんだから、彼女だって我慢《がまん》してくれるんじゃないかしら」
「あいつは誇《ほこ》り高い女だからな……」
リウイには、彼女を説得できるとは、思えなかった。
「だったら、処置《しよち》なしじゃない」
アイラは不満そうな表情で言った。
「いっそ、依頼人を始末《しまつ》してしまったら? 彼女が大通りを歩いているときに、わたしが物陰《ものかげ》からそっと見つめる≠セけで……」
「やめてくれ」
リウイは心が寒くなるのを覚えた。
アイラがいつもかけている魔法《まほう》の眼鏡《めがね》には、人を呪殺《じゆさつ》する邪限《イビルアイ》≠フ魔力《まりよく》が付与《ふよ》されているのだ。
「わたしには、これ以上の助言はできないわよ。解決策《かいけつさく》はいくつか示したから、どれでも好きな方法を選んでちょうだい。依頼を無視するっていう最終手段もあるんだからね」
「分かったよ。もう少し、考えてみる……」
リウイがそう言ったときだった。
「大変なのよ!」
扉《とびら》が大きな音を立てて開いたかと思うと、一人の少女が部屋のなかに飛び込んできた。
「ミレルじゃないか?」
その盗賊《とうぞく》の少女は泣きそうな顔をしている。彼女のそんな表情を見たのは、リウイも初めてだった。
「大変って、何かあったの?」
アイラがミレルに訊《たず》ねる。
「ジーニが刺《さ》されたんだ。今は、彼女の知人の館《やかた》で休んでいるって」
「そんな馬鹿《ばか》な!」
リウイは驚《おどろ》き、反射的に立ち上がった。
アンジェラからは、ジーニを刺したなどという話は聞いていない。無我無中《むがむちゆう》で飛び込んでいったら、殴《なぐ》られて意識を失ったということだった。
彼女が嘘《うそ》を言ったとは思えないから、おそらく刺したことに気付かなかったのだろう。
それにしても、あんな娘に刺されるようなジーニではないはずだ。
(どういうことなんだ?)
リウイは疑問に思った。
「傷《きず》は深いのか? メリッサに知らせは行ってるんだろうな」
「メリッサはもうジーニのところへ向かっているよ。あたしは、リウイを迎《むか》えにきたんだ。もし、ジーニが死んじゃうようなことがあったらどうしよう」
ミレルは、完全に取り乱している様子《ようす》だった。また、そうでなければ、自分のところになどこないだろうと、リウイは思った。
それだけ、ジーニのことが心配なのだろう。
「とにかく、オレたちも行こう。案内してくれるな」
ミレルは素直《すなお》にうなずいた。
「あたしも行くわ」
アイラが言って、|魔術師の長衣《メイジローブ》を頭からかぶった。そしてベッドの脇《わき》に置いてあった|魔術師の杖《メイジスタツフ》を掴《つか》む。
そして三人は、大急ぎで魔術師ギルドを後にした。
大通りをそれこそ飛ぶように走って、リウイたちはバーブという騎士《きし》の館に到着《とうちやく》した。
そしてジーニが休んでいるという部屋の扉を開《あ》ける。
室内を見渡すと、長椅子《ながいす》に普通に腰かけている赤毛の女戦士の姿がすぐ日に入った。彼女の傍《かたわ》らには戦《いくさ》の神《かみ》マイリーに仕《つか》える女性|侍祭《じさい》が付き添うように立っている。
「ジーニ!」
彼女の無事な姿を見て、ミレルが顔をくしゃくしゃにさせながら胸に飛び込んでゆく。
「心配するな。こんなことで、くたばったりはしない」
ミレルを抱《だ》きかかえ、ジーニが笑う。
「誰にやられたの? あたしが、そいつの息の根、止めてやるわ!」
ミレルが円《つぶ》らな瞳《ひとみ》に、涙《なみだ》を浮《う》かべながら言った。
愛らしい表情と過激《かげき》な言葉の内容がまったく一致《いつち》していない。
「そんなことはしなくていい。これは、わたしだけの問題なんだから……」
「実は、そうでもないんだな」
リウイが指で頬《ほお》をかきながら、ジーニたちに歩《あゆ》み寄り、会話に割って入った。
ジーニが鋭《するど》い視線で、無言の問いをかけてくる。
「オレは、アンジェラという娘から依頼を受けたんだ」
女戦士の視線を真《ま》っ向《こう》から受け止めながら、リウイは言葉を選ばずに答えた。
「ジーニという名の女戦士を殺してくれってな」
「どういうこと……」
それぞれ語尾《ごび》は違うが、ジーニたち三人が声を揃《そろ》えて訊《たず》ねてきた。いつものことながら、彼女らの息はぴったりと合っている。
リウイは、彼女らに事情を語って聞かせる。
「……信じられませんわ。そんな依頼を引き受けてくるなんて」
メリッサが憤慨《ふんがい》しながら言った。
「いい根性《こんじよう》しているじゃねぇか」
ミレルも裏街言葉《スラング》で凄《すご》みを効《き》かせる。
「とにかく、引き受けておいて、どうすればいいのか、みんなに相談しようと思っていたんだ。それに、ジーニが刺されていたとは思わなかった。アンジェラって娘も、刺したってことに気付いてなかったしな」
今から思えば、アンジェラが倒《たお》れていた路地《ろじ》の地面には、血の痕《あと》があった。彼女には外傷《がいしよう》はなかったのだから、ジーニが怪我《けが》をしたことは、容易《ようい》に予想できたはずだった。
うかつだったと思うが、ジーニがあんな小娘に刺されるなど想像の範囲《はんい》を超《こ》えている。
「気付いていようがいまいが、やったことに変わりはねぇ。あたしがその女、始末《しまつ》してやるから、どこにいるのか教えな」
ミレルの顔は真剣《しんけん》そのものだ。アンジェラの居場所を教えたら、すぐに飛んでゆくだろう。
「落ち着きなって。あんたらの実力なら、あんな娘を始末するなんていつだってできる。それよりオレが知りたいのは、ジーニがどうして、彼女の短剣《ダガー》を避《さ》けきれなかったかってことだ」
「おまえには関係がない」
ジーニはぼそりと答えた。
「酒に酔《よ》っていようが、不意をつかれようが、そのぐらいで刺されるあんたじゃない」
何度か冒険《ぼうけん》をしてきて、戦士としての彼女の実力は、リウイにも十分に分かっているつもりだった。
そんな彼女が刺されたということは……
「あの娘に殺されてもいいって、思ったんじゃないか?」
リウイはずばりと言うと、ジーニの反応を見逃《みのが》すまいと全神経を集中させた。
だが、ジーニはいつもと同様、まったく表情を変えなかった。そして、
「だったら、どうだというんだ?」
と、挑戦的《ちようせんてき》な口調で訊《たず》ねかえしてきた。
「だったらな……」
リウイは大きく息をひとつしてから、その先を続けた。
「冒険者《ぼうけんしや》として、オレはあの娘から依頼された仕事を果たすだけだ」
その瞬間、室内の空気が凍《こお》りついた。
それも、当然だろう。リウイが依頼された仕事とは、目の前にいる赤毛の女戦士を殺すことなのだから……
5
魔法《まほう》の眼鏡《めがね》の水晶硝子《クリスタルガラス》ごしに、オーファン魔術師《まじゆつし》ギルドの女性魔術師《ソーサリス》アイラは、同僚《どうりよう》の魔術師リウイを見つめている。
「いったい、どういうつもりなのよ?」
腕《うで》を組み厳《きび》しい表情で黙《だま》り込んでいるリウイに、アイラは声をかける。
二人がいるのは、魔術師ギルドの宿舎《しゆくしや》にある彼女の私室《ししっ》だ。バーブの屋敷《やしき》を後《あと》にして、宿舎に帰ってきたのは夕刻《ゆうこく》のこと。簡単に食事を済《す》ませた後、アイラは彼を部屋《へや》に誘《さそ》ったのだ。
リウイは彼女の部屋に来ることは来たのだが、心は遠くにあるようで、ほとんど何も喋《しやべ》らない。
「どうもこうも……」
リウイは僅《わず》かに顔を上げて、アイラに視線を向ける。
「オレは冒険者《ぼうけんしや》だからな。受けた依頼《いらい》を果たすだけだ」
犯罪《はんざい》に手を染《そ》めるのは流儀《りゆうぎ》ではないので、リウイはジーニに決闘《けつとう》を申し込んでいる。そして彼女は、それに応じたのだ。
「本気で、彼女を殺すつもりなの?」
「オレがジーニに勝てると思うか?」
「だったら、殺されるつもり?」
「それはオレが決めることじゃないな」
リウイに決闘を申し込まれ、それを承諾《しようだく》したとき、ジーニの全身からは殺気《さつき》が溢《あふ》れていたことを、アイラは思い出す。
「容赦《ようしや》してくれないかもよ」
「あるいはな」
リウイは、平然と答えた。
決闘を申し込んだからには、そのぐらい覚悟《かくご》の上である。
「分からないなぁ」
アイラは茶色がかった金髪《きんばつ》に手をかけ、無意識に撫《な》でつける。
リウイが常識では語れないような男であるのは、端《はな》から承知している。それにしても、今回の彼の決意は、長年、付き合ってきたアイラにも理解不能だった。
「彼女を殺して、何の得があるの?」
あるいは殺されて、とアイラは心のなかで付け加える。
「依頼人が満足する。成功|報酬《ほうしゆう》も入ってくる」
リウイは素《そ》っ気《け》なく答えた。
もっとも、その報酬は僅《わず》かな金額でしかない。それでもアンジェラという娘《むすめ》にとっては全財産のはずだった。
「ごまかさないでよ」
アイラは憮然《ぶぜん》とした表情を浮《う》かべ、リウイの二《に》の腕《うで》を拳《こぶし》でつつく。
「わたしが知りたいのは、あなたの本心よ」
「ジーニにはいつも虐待《ぎやくたい》されてきたからな。その復讐《ふくしゆう》さ」
「そんな嘘《うそ》を、わたしが信じると思う?」
いい加減《かげん》にしないと怒《おこ》るわよ、とアイラは続けた。
魔法の眼鏡が、室内を満たす青白い光を反射してきらりと輝《かがや》く。その眼鏡には、視線で人を呪《のろ》い殺す邪眼《イビルアイ》の魔力《まりよく》が秘められているのだ。
「わ、分かったよ」
アイラが本気で怒《おこ》りかけているのを見て、リウイはあわてて言った。
それまで厳《きび》しい顔をしていたのが、どこかしらのんびりとした普段《ふだん》の顔に戻《もど》る。
本気で怒らせると、この魔法の眼鏡をかけた女性魔術師《ソーサリス》が、ジーニたちより恐《おそ》ろしい相手であることを、身に染《し》みて知っているからだ。
たとえ全世界を敵に回したとしても、彼女だけは敵にしたくないというのが、リウイの本心なのである。実際、彼女のおかげで、リウイは何度、危機を救われたかしれない。それが逆になるかと思うと、背筋《せすじ》が寒くなるほどだった。
「アンジェラとかいう娘は、ジーニのせいで兄が死んだと思っている……」
リウイはばつの悪そうな顔をしながら、話を切り出した。
その兄、ヘクターとジーニとはレイドの街《まち》の傭兵《ようへい》ギルドで同じ隊に所属《しよぞく》していた。そして彼らの隊が絶体絶命《ぜつたいぜつめい》の状況《じようきよう》に陥《おちい》ったとき、ジーニはヘクターを犠牲《ぎせい》にして生きながらえたというのだ。本来なら、犠牲になるのは、仲間のなかでも最強の戦士であったジーニの役目であったにもかかわらず、だ。
どう思うと、リウイはアイラに問いかけた。
「どう思うって……」
突然《とつぜん》、質問をふられて、アイラは反射的に身を引く。
「わたしには、分からないわよ」
「オレもジーニのことを、すべて分かっているわけじゃないが、あいつはいつもいちばん危険な役目を買って出る女だ。たとえ、それが命にかかわるようなものでも、な」
「誰《だれ》かさんと同じね」
アイラが冷やかすように言った。
リウイは苦笑を浮かべ、僅《わず》かに肩《かた》をすくめた。確かに、自分も平気で危険に飛び込んでゆくことがある。
「ジーニは、オレとは違う。悔《くや》しいが、あいつは本物の戦士だ。戦士としての誇《ほこ》りを知り、その義務を承知しているから、危険に立ち向かってゆく」
ジーニはリウイに向かって、よく素人《しろうと》が≠ニ悪態《あくたい》をつく。
腹立たしいが、今のところはその文句を認めるしかない。リウイはまだ戦士を名乗るにはほど遠いし、その誇りもなければ、義務を負っているつもりもない。
リウイが危険に飛び込むのは、得体《えたい》の知れない衝動《しようどう》に突《つ》き動かされてのことである。そしてそのことを、自分自身、異常だとさえ思っている。
実際、命を落としかけたことも何度もある。しかし、本気で死ぬと思ったことはないような気もする。絶体絶命の状況になればなるほど、心が冴《さ》えわたり、全身に力が漲《みなぎ》ってくる。そしてそんなときにこそ、生きているという実感が湧《わ》いてくるのだ。
「とにかく、アンジェラという娘の誤解《ごかい》なんでしょ。ジーニに責任はないって、彼女を助けた近衛騎士《このえきし》も証言していたじゃない」
バーブという名のその近衛騎士もまた、当時、レイドの街で傭兵を生業《なりわい》としており、ジーニやアンジェラの兄ヘクターと同じ隊に属していたのだ。
リウイたちが彼の館《やかた》に駆《か》けつけたときには王城《おうじよう》に出仕《しゆつし》していて、留守《るす》にしていたのだが、リウイがジーニに決闘を申し込み、一触即発《いつしよくそくはつ》の雰囲気《ふんいき》になっているときに、ちょうど帰ってきた。そしてジーニが黙《もく》して語らなかった様々《さまざま》な事情を語ってくれた。
絶体絶命の状況に陥ったのは無能な隊長の責任であること、ジーニが犠牲になろうとしたのをバーブが押《お》し止《とど》めたこと、そしてヘクターが自《みずか》ら進んで犠牲になったこと……
だが、それらの事情を知った後でも、リウイは決意を変えなかったのである。
「アンジェラが誤解しているというのは、間違《まちが》いないと思う」
リウイは自分自身に対する確認の意味も含《ふく》めて、言った。
「そう思うのなら、依頼人に教えてやればいいじゃないの」
アンジェラが事実を誤認《ごにん》しているのなら、彼女に仇《かたき》を討《う》つ資格はないことになる。
「誰から聞かされたのかは知らないが、アンジェラは兄の仇《かたき》を討《う》とうと思い込んでいる。その気持ちは簡単には変えられないだろう」
アイラは一瞬《いつしゆん》、考えて、リウイの言うとおりだという結論に達した。
(こういうところは、不思議に鋭《するど》いのよね……)
魔術師ギルドに入門した頃《ころ》は、二歳年下のリウイは、自分より遥《はる》かに優秀な生徒だった。彼が学問に身を入れなくなったのは、十三歳を過ぎて、身体《からだ》が急激《きゆうげき》に大きくなりはじめてからだと記憶《きおく》している。
「アンジェラは、ジーニを短剣《ダガー》で刺《さ》しているんでしょ。そのことを教えれば、考えも変わるんじゃないかしら?」
殺すつもりで、人を刺したのだ。それだけでも、十分に復讐《ふくしゆう》は果たしたと思える。
「大切《たいせつ》なのは事実よりも、実感だからな。あの娘に刺したという自覚がない以上、教えても無駄《むだ》だろう。もっともオレが問題にしているのは、その事実のほうなんだがな」
「事実のほうって?」
アイラがリウイに訊《たず》ねる。
「たとえ酔《よ》っていても、いや眠《ねむ》っていたとしても、あんな娘に刺されるようなジーニじゃない。それこそ、素人じゃないんだから」
「昔《むかし》の仲間の名前を聞いて、動揺《どうよう》したからじゃないの。ヘクターつて傭兵が犠牲になったおかげで、ジーニたちが助かったのは事実なんだし……」
そして彼の犠牲を無駄《むだ》にしないためにも、バーブやジーニは奮戦《ふんせん》し、危機を乗り切ったというのである。
話の筋は通っているし、あの近衛騎士が嘘《うそ》をついているとも思えない。
だいたい、ジーニが本気でヘクターを犠牲にしたのだとしたら、動揺することもないだろうし、アンジェラを気絶させるだけでなく、息の根を止めていたと思える。
すべての事実は、アンジェラが誤解《ごかい》をしていて、理由なき復讐心を抱《いだ》いていることを示しているのだ。
彼女が誤解を解《と》けば、すべては丸く収《おさ》まるのである。リウイがなすべきは、娘の依頼を引き受けることではなく、彼女を説得することなのではないかと、アイラには思えるのだ。
「分からないなぁ」
この言葉を、アイラは何度、口にしたか分からない。
「ジーニだけじゃなく、あなたはメリッサやミレルも敵に回したのよ。冒険者《ぼうけんしや》の仲間は解散ってことにならない?」
「それは残念だと思うけどな……」
だが、そうなってもかまわないとも、リウイは思っている。
罵倒《ばとう》されようが、虐待《ぎやくたい》されようが、ジーニたちと仲間であろうとしたのは、彼女らの冒険者としての実力と意識の高さを認めることができたからだ。
それができなくなったなら、一緒《いつしよ》にいる意味はない。
「もしかして、アンジェラって娘に一目惚《ひとめぼ》れしたんじゃないでしょうね。報酬《ほうしゆう》には、彼女を自由にできるって条件があるとか?」
「女には苦労させられることはあっても、不自由はしていないんだ。それに、他人の話を鵜呑《うの》みにして勝手に復讐心を抱く思い込みの激《はげ》しさ、しかもそれを冒険者に依頼しようなんて、身勝手《みがつて》にもほどがある。あんな女は願い下げだな。本心を言えば、痛い目に遭《あ》わせたほうがいいと思っているぐらいだ」
しかし、いかにもアンジェラは世間知《せけんし》らずで、打たれ強いようには見えない。一度、痛い目に遭っただけで、確実に再起不能《さいきふのう》になるだろう。
自分の知らない場所でそうなるのは一向《いつこう》に構わないが、リウイは見て見ぬふりのできる性格ではない。ジーニたちからはお節介《せつかい》だのなんだのと罵倒《ばとう》されているが、性格というものは一度、形成されてしまったら、なかなか修正が利《き》くものではないのだ。
「やっぱり、分からないなぁ」
アイラはもう一度、その言葉を繰り返した。
「要するに、オレはジーニを叩《たた》きのめしたくなったってことさ。それが、オレの本音《ほんね》さ」
ジーニを叩きのめす様《さま》を目《ま》の当たりにすれば、アイラが最初に言ったとおり、依頼人の腮も満足するかもしれない。反対に、自分が叩きのめされれば、依頼人は恐れを抱いて復讐などあきらめるかもしれない。だが、そんなことは、実はどうでもよかった。
アイラに言ったとおり、ジーニを叩きのめしてやりたいと、リウイは思っている。
彼女の腐《くさ》った考えを……
6
そして、決闘《けつとう》の朝が来た。
決闘の場所は、戦《いくさ》の神《かみ》の大神殿《だいしんでん》の裏庭。以前、メリッサの婚約者《こんやくしや》であったコンラッドというラムリアースの騎士《きし》と、リウイは決闘を行っている。表向きにはメリッサへの愛ゆえの$いであったが、実際は貧相《ひんそう》な体格の騎士に負けたくなかっただけだ。
今回も同じようなものだ。
表向きは、アンジェラという娘の依頼《むすめいらい》を果たすためだが、真の理由は別のところにある。
(今日のジーニには、負けられない)
リウイは心のなかで、そうつぶやく。
(素人《しろうと》の刃《やいば》さえ避《さ》けられないような戦士にはな……)
彼は例によって、鎧も着けず、剣一本をぶらさげているだけ。その隣に、アイラが不安そうな顔をしながら付き添っている。
しかし、今回は彼女が得意とする|魔法の宝物《マジツクアイテム》は、ひとつも用意していない。いろいろと考えはしたのだが、今回はリウイに任《まか》せるしかないと判断したのだ。
ジーニが、リウイを殺す気はないと信じている。しかし、不安は抑《おさ》えられなかった。
依頼人であるアンジェラは、先に来て、待っていた。唇《くちびる》を噛《か》みしめたまま、赤毛の女戦士の姿を見つめている。なるほど美しく、気品も感じられる。悲壮感《ひそうかん》を漂《ただよ》わせた表情など、男たちが見れば応援《おうえん》したくもなるだろう。
(でも、それだけよ)
と、アイラは娘のことを切って捨てた。
ここにいる誰《だれ》も、彼女のことになど関心は抱《いだ》いていない。問題はもはや、彼女のもとから離《はな》れている。あくまでも、ジーニとリウイとの対決なのである。
赤毛の女戦士は、腕《うで》を組んだまま悠然《ゆうぜん》と立っている。だが、その表情には、僅《わず》かな揺《ゆ》らぎがあるように、アイラには感じられた。
ジーニの側《そば》にはミレルと近衛騎士《このえきし》バーブの姿がある。二人とも複雑な表情を浮《う》かべていた。
メリッサは立会人《たちあいにん》を買って出たマイリー教団の最高司祭《ハイプリーステス》ジェニの傍《かたわ》らにあって、血《ち》の気《け》の失《う》せた顔で何事か祈《いの》っている。
おそらく身を裂《さ》かれるような思いでいることだろう。
ジーニの味方《みかた》をしたいというのが彼女の正直な気持ちだろうが、信仰《しんこう》に従うなら、仕《つか》えるべき勇者《ゆうしや》たるリウイの応援をするしかないのだ。
彼女は心のなかで、不本意《ふほんい》だと繰り返しているに違いない。
リウイにも、もちろん、メリッサが苦しい立場にあることは理解していた。
(悪いことをしたかな)
と、思う。
だが、この決闘は彼女にとっても重要なのだと自分に言い聞かせる。
ジーニと自分が、共に戦士であるための試練《しれん》だとも思う。
リウイはアイラにその場で待っているように言うと、剣《けん》を抜《ぬ》き放《はな》って、まっすぐに進んでいった。
「なんて言っていいか分からないけど、死なないでくれたらそれでいいから……」
アイラがリウイの背中に声をかける。
リウイが動いたのを見て、ジーニも無言のまま足を踏《ふ》み出した。
「遠慮《えんりよ》しないでいいからね」
ミレルがジーニに声援《せいえん》を送る。
そして、その場でしゃがみ込むと、両|膝《ひざ》を抱《かか》えた。リウイとコンラッドの決闘のときのような観客気分はまったくない。好物《こうぶつ》の乾燥肉《ジヤーキー》は持参《じさん》していたが、それを取り出すことさえ忘れていた。円《つぶ》らな黒い瞳《ひとみ》で、ジーニとリウイにじっと視線を送っている。
「始めなさい」
マイリー教団の最高司祭ジェニが、厳《おごそ》かに宣言した。
(今日のウーくんも、いい顔しているわ)
心のなかで、ジェニはそんな感想を抱《いだ》いていた。
戦士としての力量《りきりよう》は、明らかに赤毛の女戦士のほうが上だ。しかし、彼女には迷《まよ》いが感じられる。それでは、実力も半減してしまうものだ。
(面白《おもしろ》い勝負になりそうね)
ジェニは満足そうに微笑《ほほえ》んだ。
最高に楽しそうなジェニ最高司祭の隣《となり》で、メリッサは騒《さわ》ぐ気持ちを鎮《しず》めようと必死になっていた。
しかし、胸の鼓動《こどう》は今にも爆発《ばくはつ》しそうなほどに激《はげ》しく、いくら左手で胸を押《お》さえても鎮《しず》まろうとしない。
(わたしはあの勇者に、試練を望んでいたけれど……)
メリッサは眩暈《めまい》がしそうな困惑《こんわく》のなかで、そんな言葉を心のなかで形にした。
(神よ。このような試練は、不本意です)
だが、彼女の思いとは関係なく、リウイとジーニの決闘は始まった。
「剣を捨てろ!」
リウイとの距離《きより》が五歩のところまで近づいたとき、ジーニが声をかけた。
そして相手の返事を待とうともせず、愛用の|大 剣《グレートソード》を捨てた。
「従おう」
リウイもうなずいて、真新しい長剣を捨てる。
どうせ、最初から使うつもりはなかったのだ。ジーニに勝つためには、喧嘩《けんか》に持ち込むしかないと思っていた。
そして彼女も、それに応じるつもりだったわけだ。
「殺し合いはしないってこと?」
とても一人だけで見る気にはなれず、ミレルの隣《となり》に席を変えていたアイラは、二人が剣を捨てたのを見て、そう質問した。
「あの二人の腕の太さを見てみなよ。拳《こぶし》だけで、十分な凶器《きようき》さ」
無意識に裏街言葉《スラング》を使って、ミレルは答えた。
それほどに、ジーニたちの決闘に集中していたのだ。
「そ、そうね」
凄味《すごみ》のある声に、アイラはたじろぎながらうなずいた。
ミレルの言うとおり、リウイもジーニも本気なら、拳ひとつで相手を殺せるだろう。事実、リウイは数多くの怪物《かいぶつ》をその拳で倒《たお》してきたと聞いている。
リウイとジーニは、ロマールの闘技場《コロセウム》でときどき行われる拳闘士《ボクサー》さながらの体勢で拳を構え、互《たが》いの距離をはかっている。
向かい合っているとはっきり分かるが、体格ではリウイのほうが勝《まさ》っている。
「やっぱり、男と女よね……」
アイラがつぶやいた。
「そりゃあそうさ」
彼女の言葉を聞いて、ミレルがうなずいた。
「だけど、ジーニの前でそのことは言わないほうがいいよ。命が惜《お》しいならね」
「どうしてよ?」
アイラは首を傾《かし》げて、訊《たず》ね返す。
「ジーニは、自分が女であることを呪《のろ》っているのよ。そして世の中の男も、その裏返しで嫌《きら》っている」
ミレルが答え、無言で腕組《うでぐ》みをしていた近衛騎士《このえきし》のバーブが渋《しぶ》い表情でうなずいた。
「分からないなぁ……」
アイラは苦笑《くしよう》した。
今回のことは、彼女にとって分からないことだらけだった。
「性別は変えられないんだもの。それを肯定《こうてい》するしかないと思うけど」
「一般論《いつぱんろん》ではね。だけど、ジーニにはいろいろあったらしいから」
「生まれ故郷《こきよう》の集落のこと?」
アイラの言葉に、ミレルはこくりとうなずいた。
「それから傭兵《ようへい》時代にもな……」
バーブが違い目をして、二人の会話に割って入った。
「彼女は、性別を超《こ》えた存在になりたかったんだと思う。傭兵という稼業《かぎよう》は、それが可能にと……」
「そりゃあ、戦場に立てば、男も女も関係ないでしょうけど」
「表向きは、な」
バーブはそう言って、アイラを見つめた。
「しかしな、お嬢《じよう》さん。傭兵だって、結局、人間なんだよ。そして人間には結局、男と女しかいない。その関係から自由になれるはずがないのさ……」
「始まった!」
どういうこと、問い返そうとしたアイラを遮《さえぎ》るように、ミレルが緊張《きんちよう》した声をあげた。
仕掛《しか》けたのは、リウイのほうだった。
上体を小刻《こきざ》みに左右に揺《ゆ》らしながら、鋭《するど》く踏《ふ》み込んで、左の拳を二度、三度と繰り出してゆく。
その拳を、ジーニは手の平で受け止めるように、防いだ。
そして力の入った右の拳で、反撃《はんげき》を試《こころ》みる。
リウイは間一髪《かんいつぱつ》のところでそれをかわすと、そのまま彼女の腕を捕《と》らえた。そして体《たい》を入れ替《わ》えるように、腕を捻《ひね》り上げる。
「腕を折る気かよ!」
それを見たミレルが、思わず吐き捨てた。
だが、ジーニはリウイの動きに逆らおうとはせず、自分の方から地面に転《ころ》がった。そして転がりながら、リウイの足に重い蹴りを放《はな》つ。
リウイは飛び上がろうとしたが、かわせなかった。
頭から地面に落ちそうになり、抱えていたジーニの腕を放して、受け身を取った。
「ジーニも本気だな」
バーブが感心したように唸《うな》った。
「それと互角《ごかく》に戦っているんだから、あの若者もたいしたもんだ」
「オーファンの宮廷魔術師《きゆうていまじゆつし》の御養子《ごようし》よ。覚えていたほうがいいんじゃない」
バーブをじとりと見上げて、ミレルが言う。
「カーウェス様の?」
それを聞いて、バーブは呆《ほう》けたような顔をした。
「ただの魔術師じゃないとは思っていたが……」
バーブは思わず言葉を失ってしまった。
いくら決闘とはいえ、そんな人物を殺しては問題が起こらないはずがない。
リウイとジーニは地面に転《ころ》がったまま組み合っている。
どちらも有利な体勢を取ろうとしているのだが、相手がそれを許さないのだった。
「知っているか? ジーニはああ見えて、けっこう筋肉が柔軟《じゆうなん》なんだ。それに見てのとおり、胸だって大きい。そしてそこは鍛《きた》えようがないからな」
「何を言ってるんですか?」
滅多《めつた》なことでは動揺《どうよう》しないアイラが、頬《ほお》を赤らめ、バーブを睨《にら》んだ。
だが、彼の表情は真剣《しんけん》そのものだった。
「本人はまったく自覚してはいないが、ジーニは十分に魅力的《みりよくてき》な女性だってことさ」
「否定《ひてい》はしませんけど……」
アイラも彼女が美しい女性だということは分かっている。
ジーニだけではない。戦《いくさ》の神《かみ》の侍祭《じさい》のメリッサには清楚《せいそ》で上品な美しさがあるし、ミレルも言葉|遣《づか》いこそ乱暴だが、その声や容姿《ようし》は愛らしく、屈託《くつたく》のない性格も好感を覚える。
アイラとしては内心、穏《おだ》やかならざるものがあるのだが、リウイの流儀《りゆうぎ》は好意を向けてくる女性のなかから最高の人を選ぶというものだそうだから、今のところ彼女たちは対象外のはずである。
彼女たちにとって、リウイは迫害《はくがい》の対象でしかない。ジーニだけでなく、彼女たちは三人とも男性に嫌悪感《けんおかん》を抱《いだ》いているようなのだ。
(でも、微妙《びみよう》なところよね)
アイラは三人の女性を順に見つめながら思った。
決して好意的な視線ではないものの、彼女たちは全員が、リウイを見つめている。
今は状況《じようきよう》が状況だけに当然なのだが、冒険者《ぼうけんしや》になってからというもの、リウイはただ身体《からだ》が大きいだけの存在ではなくなっているのも確かだ。
魔術師《まじゆつし》ギルドのなかでは、その体格ほどには目立たない存在だったのだが、徐々《じよじよ》にではあるが人々の注目を集めはじめている。
身近で見ていても、冒険者になってからというもの、水を得た魚のように生き生きとしている。それが人々にも分かるのだろう。
エルフ娘《むすめ》のセレシアやロドリゴ商会のミュリエルもそんなリウイだからこそ、興味《きようみ》を抱《いだ》いているのだと思う。
(わたしの目利《めき》きは確かだったってことだけど……)
アイラは苦笑を浮かべ、リウイとジーニとの決闘にふたたび集中した。
二人は立ち上がっていて、手をがっしりと組んで力比《ちからくら》べをしている。
鍛《きた》えられた筋肉が乱《きし》む音が聞こえてきそうなほどに、二人の全身の筋肉が盛《も》り上がっている。
力比べは、リウイのほうがやや優勢に見えた。
しかし――
ジーニは突然《とつぜん》、全身の力を抜《ぬ》いた。
勢いあまったリウイが、前に崩《くず》れそうになるところに、鋭《するど》く膝《ひざ》を蹴《け》り入れる。
「うぐっ」
まともにみぞおちにくらい、リウイは思わず、呻《うめ》き声をあげた。
苦痛のため、前屈《まえかが》みになったところに、今度は背中にジーニの肘《ひじ》が突《っ》き刺《さ》さった。
それからは、ジーニの一方的な攻勢《こうせい》が始まった。防御《ぼうぎよ》の姿勢に入ったリウイに、拳《こぶし》や蹴《け》りを叩《たた》き入れてゆく。
たちまち、リウイの全身が赤く腫《は》れ上がり、額《ひたい》や唇《くちびる》から血が流れ出してゆく。
それを見たアイラは、気が遠くなってゆくのを覚えた。
富豪《ふごう》の家に生まれただけに、あまり血を見るのに慣れていないのだ。魔術師ギルドに入るまで、肉や魚も調理されたものしか知らなかったぐらいなのだ。
「しっかり見ていなよ」
ミレルの声がしたかと思うと、尻《しり》に彼女の平手《ひらて》が飛んできた。
その痛みと音とで、アイラは何とか正気に返った。
「もう、勝負あったんじゃない?」
アイラには、そうとしか思えなかった。
今やリウイは一方的に、ジーニの攻撃《こうげき》を受けている。
このまま続くと、リウイの命が危《あぶ》ないのではと、不安を覚えている。
「ジーニが優勢なのは確かだけど」
ミレルは自信なさそうに、答えた。
「リウイの目が全然、死んでないのよ。むしろ、ジーニのほうに焦《あせ》りがあるかな。さっきの力比べは負けだったし……」
相手がリウイだったからこそ、ジーニはまだ本気になって戦っているんじゃないかとミレルには思える。
それほどに、ここ数日の彼女の様子《ようす》はおかしかった。怒《いか》りや哀《かな》しみといった感情に翻弄《ほんろう》されているように見えた。普段《ふだん》は冷静なだけに、そう見えただけかもしれないが……
しかし、リウイを殴《なぐ》るたび蹴るたびに、ジーニは集中を乱しているような気がする。
「それが、あんたの本気か」
激《はげ》しい攻撃を受けながら、リウイは大声でそう言った。
「素人《しろうと》が吠《ほ》えるんじゃない!」
ジーニが大声で返した。
そして攻撃に更《さら》に激しさを加える。
「さ、最高司祭様……」
それを見て、メリッサが思わず息を飲み込んだ。
「もう止めたほうがいいのではないでしょうか。このままでは……」
「大丈夫《だいじようぶ》よ、あなたの勇者《ゆうしや》はまだ負けてないわ。もし間違《まちが》って死んでも、わたしが蘇生《そせい》の儀式《ぎしき》をしてあげるから」
「そういう問題では……」
「心配しないで。ちゃんとカーウェスに寄進《きしん》はさせる。彼とは友人だけど、公私混同《こうしこんどう》はしないつもりよ」
だから、そういう問題でもないんですと、メリッサはふたたび心のなかで声を上げた。
死者を復活させる蘇生の儀式とて、いつもいつも成功するわけではないのだ。
もしもリウイが命を落とし、復活しなかったら、メリッサの聖職者《せいしよくしや》としての人生も終わりなのだ。
しかし、リウイに勝ってほしいわけでもない。彼が依頼《いらい》を受けたのは、絶対に間違っていると思うから。
メリッサはリウイに復讐《ふくしゆう》を依頼した娘《むすめ》に視線を向けた。
彼女は青ざめた顔をしながら、二人の戦いを見守っている。復讐をしたいなら、自分自身でするべきではないか。しかも、自分が依頼したことだというのに、戦いが激しくなると、目をそらせたりしている。
(戦いに対する冒涜《ぼうとく》ですわ)
メリッサは憤《いきどお》りを覚えていた。
そして怒《いか》りはあんな娘の依頼を受けたリウイに対しても向いてゆくのだ。
(本当に、女好きなのだから……)
悔《くや》しさのあまり、目に涙《なみだ》が浮《う》かんできそうだった。
そのときだった。
「負けないでください! 兄の仇《かたき》を討《う》ってください!」
アンジェラが、初めて声をあげた。
その声に、ジーニが攻撃の手をぴたりと止める。
メリッサは息を止めて、ジーニとリウイの様子《ようす》に注目した。
「どうした?」
流れる血を拳《こぶし》で拭《ぬぐ》いながら、リウイがジーニに声をかける。
「ヘクターはあんたの身代わりで死んだ。事情はどうあれ、その事実は変わらない。あの娘があんたを兄の仇と呼ぶのも、理由がないわけではない」
「ああ、そうだ」
ジーニは力無く答えた。
「だから、あの娘の短剣《ダガー》を避《さ》けなかった。殺されてもしかたがないと思った」
「咄嗟《とつさ》のことだ。そんなことを考えている余裕《よゆう》などあるものか」
「傭兵時代に絶体絶命《ぜつたいぜつめい》の状況《じようきよう》に陥《おちい》ったとき、あんたは自分こそが仲間の犠牲《ぎせい》になって、死ぬべきだったと思ってるんだろう」
「もちろんだ。それが、わたしの役割だったのだから……」
だが、ヘクターはその役割を自《みずか》ら買って出たのだ。そして命を落とした。
ジーニには彼の犠牲を無駄《むだ》にすることはできなかった。正面にもまだ敵はおり、突破《とつぱ》するためには全力を尽くさねばならなかったのだから……
「嘘《うそ》よ! あなたは兄を見殺しにしたのよ。そして命が助かってほっとしているに違いないんだわ……」
「あんたは、黙《だま》ってろ!」
依頼人を振り返って、リウイが怒鳴《どな》った。
その声の迫力《はくりよく》に、アンジェラは呆然《ぼうぜん》とした顔になり、その場でぺたりと尻餅《しりもち》をつく。
「誰《だれ》だって、命が助かればほっとするもんだ。そう思わない奴《やつ》は、ただ気が狂《くる》ってるだけだ」
戦《いくさ》の勝敗は、いつも人の命で購《あがな》われるものだ。人の死なない戦はない。戦死者を出さないためには、戦をなくすしかない。
だが、人の世に、戦は常にあった。それが不可避《ふかひ》なものだからこそ、戦士という職業もなくならない。傭兵《ようへい》であれ、騎士《きし》であれ、兵士であれ、結局は戦士なのである。
そして戦士になった以上、その役割のなかには死ぬことも含《ふく》まれている。
戦場で戦士が命を落とすからこそ、戦は終わるとも言える。そして戦士以外の人間が、戦によって犠牲になるべきではないと、リウイは漠然《ばくぜん》と思っている。
「戦いが神聖《しんせい》なものだなんて、オレは思っていない。だが、戦場でのことを、戦士でない人間がとやかく言うんじゃない。戦場にはそこでだけ通じる常識がある。平和に生きている人間にとっては、非常識に思えるようなことでもな」
「戦いが神聖ではないなどと言ってます」
リウイの言葉に、メリッサが顔を真《ま》っ赤《か》にしてジェニ最高司祭に訴《うつた》えた。
ここは戦を司《つかさど》るマイリー大神殿《だいしんでん》の裏庭なのである。
「まあ、いいではありませんか。彼が戦いをどう思っていようと、そこから逃《に》げようとしないかぎり、勇者《ゆうしや》としての資格は十分でしょう」
「それはそうですが……」
メリッサはリウイを振《ふ》り返った。
依頼人を怒鳴った内容は、彼女には本意であった。
どうやら、リウイはアンジェラとかいう娘の色香《いろか》や、報酬《ほうしゆう》に目が眩《くら》んで依頼を引き受けたわけではなさそうだ。
(では、どうしてなの?)
メリッサは、思わず自問した。
そのときには、リウイはジーニとふたたび向かい合っていた。
「さあ、続けようぜ。オレは、今日のあんたには負けたくないんだ」
「それは、わたしが女だからか?」
リウイの言葉に、ジーニの目が刃《やいば》のように細くなる。
「わたしが女だったから、あいつは身代《みが》わりになったんだ! おまえたち男はいつもそうだ。女だから、族長《ぞくちよう》にはなれない。女だから、守らねばならない。勝手《かつて》な理由をつくるんじゃない。人には与《あた》えられた役割がある。それを果たすときに、男も女も関係ないだろう。ヘクターよりも、わたしのほうが戦士としての力量は上だった。同じ隊の誰《だれ》よりも、わたしは強いつもりだった。だから、わたしは仲間のためにもっとも危険な役割を果たさなければならなかった。だが、果たせなかった。ヘクターの妹がわたしを殺したいというなら、殺されてやってもいい。しかし、おまえに殺されるつもりはない。あの娘の依頼なら、わたしを痛めつけられると思ったのかもしれないが……」
「ああ、もしかしたら、あんたが抵抗《ていこう》しないとも思った。あんな素人娘《しろうとむすめ》の刃《やいば》さえ避《さ》けそこねるぐらいなんだからな。そのときには、もちろん徹底的《てつていてき》に叩《たた》きのめさせてもらうつもりだったさ。あんたが屈辱《くつじよく》に耐《た》えかねて、反撃《はんげき》してくるまでな」
「いい根性《こんじよう》してるわねぇ」
その言葉を聞いて、ミレルが呆《あき》れたようにつぶやいた。
「わたしが助言《じよげん》したのよ。依頼人の目の前で、ジーニを痛めつけてたら彼女だって満足するだろうし、反対にリウイが痛めつけられたら、怖《こわ》くなって復讐をあきらめるんじゃないかって。もっともリウイにとって、それだけが理由じゃなさそうだけど……」
先日、相談を受けたとき、アイラはリウイにそう提案してみたのだ。
「あなたも、かなりのものね……」
ミレルはなんだか馬鹿《ばか》らしくなってきた。
アイラの提案自体は間違っていない。むしろ、妙案《みようあん》と言えるだろう。だが、実際にそれを言える人間はそうそういない。殴《なぐ》られるほうの身になれば、とてもではないが、そんなことは口にできないはずだからだ。
(殴られる痛みとか知っているのかよ)
これだからお嬢様《じようさま》は、と思う。
そしてその提案を真面目《まじめ》に実行しているリウイは正真正銘《しようしんしようめい》の阿呆《あほう》ということになる。
そのリウイは、拳《こぶし》を握《にぎ》りしめながら、ジーニに向かって一歩一歩、距離《きより》を詰《つ》めているところだ。立っているのが不思議なくらい痛めつけられているはずだが、リウイの目からまだ闘志《とうし》が失われていない。
「もうやめろ!」
そのとき、ミレルのすぐ近くで叫《さけ》び声が起こった。
近衛騎士《このえきし》のバーブが耐えかねたように声をあげたのだ。
「それ以上、戦えば本当に死ぬぞ!」
「あいにくだが、そのつもりはない」
リウイは答えた。
「おまえがジーニと戦う理由はないんだ。あのとき、オレもジーニを止めようとしたんだ。それが彼女の戦士の誇《ほこ》りを傷《きず》つけることは分かっていた。女だから守ろうとしたのも事実だ。そして、ヘクターは……」
バーブはそこまでを言うと、唇《くちびる》を噛《か》んだまま下を向いた。
「ヘクターは何なんだ?」
リウイが立ち止まり、バーブにその先を促《うなが》した。
ようやく立ち上がっていたものの茫然自失《ぼうぜんじしつ》といった感じのアンジェラも、バーブのほうを振り向いて、不安そうな表情で彼の言葉を待っている。
ジーニも、無言のまま昔《むかし》の傭兵《ようへい》仲間を見つめている。
「絶対に言わないと、ヘクターとは約束《やくそく》していたんだが……」
こういう事情なら奴《やつ》も許してくれるだろうと、バーブは弁解がましくつぶやいた。
「ヘクターの奴は、ジーニに本気で惚《ほ》れていたんだ。だから、身代わりになった……」
「嘘《うそ》……」
それを聞いて、アンジェラが絶句《ぜつく》した。
立ち上がっていたのが、ふたたび地面にくずおれる。
ジーニも衝撃《しようげき》を受けた様子《ようす》で、思わず目を閉じてしまった。
ミレルとアイラは顔を見合わせたものの、やはり言葉が出ない。
「戦場での愛は純粋《じゆんすい》なものですからね」
ジェニ最高司祭はやけに嬉《うれ》しそうにメリッサに語って聞かせる。
そのメリッサは顔を真っ赤にしながら、力無くうなずく。
「どう足掻《あが》いたって、あんたは女ってことさ。男を信用しないのは、別にいい。男という生き物はあんたが言ったとおりだから。だが、自分のなかの女を信用しないのは大馬鹿《おおばか》だな。あんたは昔、男に不幸にされたかもしれないが、あんただって男を不幸にしているってことだ」
リウイはそう言うと、目を閉じたままのジーニの前に悠然《ゆうぜん》と立った。
「それから、オレはな。あんたが女だから負けたくないんじゃない。男も女も、関係ない。オレは誰にだって負けたくないんだ。そうでなきゃ、最強の戦士にはなれないだろう。しかし、失望したな。あんたは男より自分が勝《まさ》っているところを示したいだけだったんだから……」
その瞬間、ジーニの目が開かれた。
そして、目にも止まらぬ速さで右の拳を繰《こぶしく》り出す。
リウイはその拳を避《さ》けようともしなかった。いや、正確には避けるような体力も残っていなかった。渾身《こんしん》の一撃《いちげき》をまともに顔面に喰らう。一歩、下がっただけで踏《ふ》み止《とど》まったものの、次の瞬間にはゆっくりと地面に仰向《あおむ》けに倒《たお》れる。
立とうとしたが、身体《からだ》はまったく動かなかった。だが、まだ意識は残っている。
「素人が、歌うんじゃない!」
拳を繰り出した姿勢のまま、ジーニが吐き捨てるように言った。
「戦いだって喧嘩《けんか》だって、まだまだおまえには負けるものか。わたしに勝ちたいだって? 上等だな。それが本当かどうか、わたしが見極《みきわ》めてやるさ。だが、わたしの教え方は厳《きび》しいぞ」
「……ああ、望むところさ」
リウイはにやりと笑うと、目を開いたまま意識を失った。
「リウイ!」
アイラが悲鳴《ひめい》にも似《に》た声を上げて、彼の側《そば》に走り寄る。
震《ふる》える手を首筋に当てたが、そこはまだ温《あたた》かく、力強く脈打っていた。
ミレルは地面にしゃがんだまま、思い出したように乾燥肉《ジヤーキー》をしがみだす。
「負けてしまわれましたね……」
気を失ったリウイを見つめながら、メリッサがひとりごとのようにつぶやいた。
今日はジーニの勝利を望んでいたはずだ。だから、この結果は彼女にとって本意なはずだった。しかし、言葉にできない感情が、胸のなかに渦巻《うずま》いている。
「わたしには、あなたの勇者《ゆうしや》が勝利したように思えますけどね」
ジェニが微笑《ほほえ》みながら、メリッサの肩《かた》に手をかける。
「ですが、最高司祭様……」
涙まじりの目で、ジェニを見上げると、剣の姫≠ニ謳《うた》われた女性は、穏《おだ》やかな表情で、首を横に振《ふ》った。
「戦の勝利とは目的を果たすこと。あなたの勇者は、立派《りつぱ》に目的を果たしたではありませんか……」
立派よ、ウーくんと、ジェニは心のなかで付け加えた。
もっとも、本人がそれを自覚していたかどうかは疑問だ。おそらく、彼の動機《どうき》は、もっと単純だったのではないか。
「……なれるでしょうか?」
メリッサは頼《たよ》りなげな表情で、ジェニに訊《たず》ねた。リウイが最強の戦士になれるかどうかを問うたのである。
「さあ、どうでしょうね」
ジェニは瞹味《あいまい》な笑みを浮かべた。
「今の彼と同じことを言った男を、わたしは一人、知っているけれど……」
メリッサは怪訝《けげん》そうな顔をして、最高司祭を見つめた。
それが答になるのかどうかと問いたいのだ。
「それよりも、あなたの勇者を癒《いや》しておあげなさい。眼鏡《めがね》の娘にだけ、任《まか》せていてはいけませんよ」
「かしこまりました……」
メリッサは素直に応じて、リウイのほうに歩《あゆ》み寄ってゆく。
いつの間にか、地面に倒れたままのリウイのもとに、若い娘たちが全員、集まっていた。
(血は争えないものね)
ジェニは心のなかでつぶやいた。
赤毛の女戦士と黒髪の盗賊《とうぞく》少女は、倒れたままのリウイを見下《みお》ろしながら、悪口を並《なら》べはじめている。
そして依頼人の娘と、眼鏡の女性魔術師《ソーサリス》が不安そうに見守るなか、地面にひざまずいた戦《いくさ》の神《かみ》の侍祭《じさい》は、治癒呪文《ちゆじゆもん》の祈《いの》りを静かに響《ひび》かせはじめた。
剣の姫と呼ばれた女性は、神官衣《しんかんい》をひらめかせて彼女らに背を向けた。自分が老《お》いたことを実感する。
あと三十年若ければ、あの輪のなかに入ってゆけただろうにと思う。そして、あの頃《ころ》は誰よりも美しかったという自信が、彼女にはあるのだ。
オーファンの夏は、今が盛《さか》りであった。
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あとがき
え〜と、やっぱり発売が一か月、延びてしまいました。どうも、申し訳ありません。毎度、毎度のことなんですが、なかなか改善できません。
それでも、前作を発表してから、まだ四か月しか経過していない! 第一巻から数えても、八か月が経過しているだけ!! この期間に、第三巻まで発表しているというのは、水野にとって過去最高《かこさいこう》の執筆速度《しつぴつそくど》です。
いつも言っていることですが、これも気分よく、作品を書いているからこそでしょう。
まったく苦労がないわけではありませんが、愛着のあるキャラを書くのは、なんと言っても楽しい作業です。
小説家というのは、そういう意味では皮肉な商売で、苦労したからといってもそれが報《むく》われるとはかぎらない。むしろ楽をして書いたほうが、読者にも気分よく読んでもらえるのかもしれません。
でも、毎回、楽にアイデアが思いつくわけではなく、この苦労から解放されることは生涯《しようがい》ないと覚悟《かくご》はしています。だいたい十年も小説家をやっていると、アイデアのストックが尽《つ》きていて当然で、毎回、ゼロからスタートして作品を完成させるしかないのです。
とはいえ、本書の場合、第T章と第V章は「ドラゴンマガジン」の連載分を加筆修正《かひつしゆうせい》したものなので、その分は苦労が少なくて済《す》みます(雑誌連載のときに苦労しているわけですからね)。
そして、第U章は書き下ろしです。もっとも、作品の基本的なアイデアは『ソードワールドRPG』のシナリオ集『四大魔術師の塔』の「冒険後の展開」のパートで例示していて、またも流用だったりします。
安易《あんい》だと思う読者もおられるかもしれませんが、作者としましては、リウイたちとまったく関係のなかったサンプルを使って、ジーニの過去の事件と結びつけてしまうあたりに、ちょっとした自負を感じていたりします。
しかも、よくできたもので、このサンプルには更なる展開《てんかい》が用意されてあり、それが実に『魔法戦士リウイ』に向いたものなのです。
まるで未来の自分のためにアイデアを用意しておいたようなもので、これほどの偶然《ぐうぜん》なら運命だと勘違《かんちが》いしたくもなります。精霊使いの少女ルダも、書いていてけっこう気に入ったので、ヤスガルン山脈を舞台《ぶたい》にした冒険は、第二幕もあるかもしれません。とりあえず、予告だけはしておきます。
第四巻はまたまた四か月後を目標にして執筆します。まだ未定ですが、完全な書き下ろしになるかもしれません。
どうも、このシリーズは短編、中編、長編なんでもあり、雑誌連載もあれば書き下ろしもありと、混沌《こんとん》としたものになりそうです。
それでも、第一巻から時系列《じけいれつ》にそって進んでいるので、読者のみなさんが混乱することはないと信じています(矛盾《むじゆん》のないようにするため、水野はけっこう混乱しています)。
あえて整理するなら、第一巻は「メリッサ編」、第二巻は「試練編《しれんへん》その一」、この巻は「ジーニ編」となります。そして第四巻はおそらく「試練編その二」となって、第五巻が「ミレル編」になるんじゃないかと思います。
ここまでで『魔法戦士リウイ』のファーストステージは終了となりますが、雑誌の人気も文庫の売れ行きも上々なので、なんとかセカンドステージに突入《とつにゆう》できそうです。『剣の国の魔法戦士』まで時間制限《タイムリミツト》のあるシリーズですが、続けられるだけ続けようという意気込みでいます。
そして、うまく『剣の国――』に繋《つな》げたい。今のところ、その目処《めど》はたっていませんが、昔、別のシリーズ(『ロードス島戦記』と『ロードス島伝説』)でも似たようなことをやって成功しているので、今度もなんとかなるんじゃないかと思っています(でも、ならなかったら、どうしよう……)。
今のところ地獄《じごく》のハーレムにいると言うしかないリウイが、それを本物のハーレムに変えるためには、もっともっと試練が必要のようです。どうか末永く、お付き合いください。
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初出 月刊ドラゴンマガシン
98年10〜11月号 (第T章)
書き下ろし (第U章)
98年12月号〜99年1月号 (第V章)